浄土三部経

浄土三部経阿弥陀経仏説無量寿経(上)仏説無量寿経(下)観無量寿仏経
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雑学の世界・補考   

浄土三部経1

印度で前一二世紀頃に発達した大乗仏教は、四五世紀に入ると急速に変貌します。菩薩の荷うべき六波羅蜜が、理想的ではあるが非現実的であるととらえられて、もっと手軽に仏に成る方法が模索されたのです。般若波羅蜜という智慧は、遥か遠くに忘れ去られてしまい、大乗はかつての小乗のごとく、またしても空理空論にとらえられてしまいました。そこでは、もはや六波羅蜜を実践することなど誰も顧みようとは致しません。
小乗の時代から仏教は、婆羅門教の哲学に強く影響を与えてきましたが、今では行き詰まりの打開を急ぐ仏教が、逆に婆羅門教の影響を受けることになりました。
「一切は心が造りだす」と考える唯識派は、もともと婆羅門教のサーンキヤ学派の影響を強く受けていただけに、ここにまたしてもヨーガ学派の影響を受けることになり、瑜伽行唯識派と変質して仏教界を主導するようになります。
この二つの教えが出会えば、当然起こりうることが、そのまま起こりました。
「心を鍛錬すれば、神通力を得ることができ、仏あるいは大力の菩薩に成ることができる」と考えるに至ったのです。
婆羅門教の影響を強く受けた結果は、実践面に於いて、ヨーガの行法を取り入れます。智慧を磨くことを止め、心を鍛えることが中心になったということです。
次のような事が日課となりました。
(1)心を鍛錬して、超人的な力を得る。
(2)神に帰依して、礼拝し讃歎する。
(3)真言(呪文)によって、神に働きかける。
このようなものが修行法の中心的役割を荷うようになり、大乗から、浄土宗、禅宗、真言宗等の日本の諸宗派が生まれる下地ができました。
印度で五世紀に活躍した瑜伽行唯識派の世親は、
「往生論」の中で、
一礼拝/阿弥陀仏の形像を身にて礼拝する、
二讃歎/阿弥陀仏の名を口にて称える、
三作願/極楽に生まれたいと願う、
四観察/彼の国の荘厳の功徳を観察する、
五廻向/一切衆生を捨てず、皆共に仏と成るようにと願う。と言い、
この五念門にて畢竟、
極楽に往生し阿弥陀仏にまみえると言っています。
また、唐で七世紀に活躍した善導は
「観経疏」の中で、
ひたすら
阿弥陀経、無量寿経、観無量寿経等の浄土の、経典を読誦し、
彼の浄土を観察し、
彼の仏を礼拝し、
彼の仏の名を口で称え、讃歎供養して、
彼の国に往生する。と言っています。
わが国では、
法然が、この二人の教えをほぼそのまま引きついで、浄土宗を立てました。
このような中、浄土諸家は仏教全体を二分して、極楽往生を旨とする教えを往生浄土門、その他の雑多な教えを皆ひっくるめて聖道門といいならわし、また浄土門は船に乗った旅のように安楽であるということから易行道、聖道門は茨の道を気の遠くなる程の時間をかけて行かなくてはならないので難行道と呼んで区別してきたのです。
以上、大乗から浄土教に至る過程を略してたどって見ました。このように一見、大乗の教理からは遠く離れてしまったかにみえる浄土門ではありますが、しかし完全に離れてしまったかというと、あながちそうとばかりも言えません。
浄土門は、そのまたの名を他力門ともいいます。
「他力である阿弥陀仏の本願に、完全に身をまかせる」という教えであり、
それによって、かろうじて
「往生浄土門は大乗である。」と言えるだけの面目を保っているのです。
ある浄土宗の高僧は、「他力の信仰とは、自らを他力にゆだね、まかせきるということである。赤子が母親の腕の中で、まったく安心するように、親様である阿弥陀仏の腕の中に一切をゆだね、それでもって安心を得るということである。そのような安心を得たとき、人はただ他の人の為に働くよりしようがないではないか。他に何をすることがある。もし、そうでなければ、他力は大乗であると、どうして言うことができよう。」と言っています。
或はこの言葉は、大乗の本義を取り戻す、鍵であるやも知れません。
では、そのあたりを念頭に掛けて、経文を読んでみましょう。
数ある浄土教関連の経典の中から、特に「仏説無量寿経(康僧鎧訳)」、「仏説阿弥陀経(鳩摩羅什訳)」、「仏説観無量寿経(畺良耶舎訳)」を選び浄土三部経と名づけたのは、法然上人です。
法然上人は、この時代も異なり、目的も異なる三部の経典を、敢て一つの経典の如くにして、浄土宗の所依の経典であるとされました。  
浄土三部経2

浄土真宗は浄土三部経を依りどころとします。
仏教には八万四千の法門(法の説き方)があるといわれるように、多数の経典があります。けれども、そのうちのある経典・ある教えを最も依りどころとすべきものとして中心にすえるとき、「宗派」というあり方が開かれてきます。
親鸞聖人の師匠である法然上人は、仏教にはさまざまな経典があり、それぞれに尊重すべきではあるけれども、自分にとって本当に依りどころとなるものは、阿弥陀仏の本願による極楽往生・成仏を説く、「浄土三部経」であると選び取られたのでした。浄土三部経とは、次の三つの経典をいいます。
無量寿経(むりょうじゅきょう、大経だいきょう)
観無量寿経(かんむりょうじゅきょう、観経かんぎょう)
阿弥陀経(あみだきょう、小経しょうきょう)
法然上人の教えをうけ、同様に浄土教に救いを見出された親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗においても、やはり浄土三部経が依りどころの経典とみなされます。浄土真宗の教えは浄土三部経という経典にもとづいているのです。
浄土真宗の教えが浄土三部経にもとづいているのであれば、この宗派のさまざまな法要で読誦されるお経も、浄土三部経であることになります。お経を声を出して読むとは、お経に説かれている教え(法)をいただくことにほかならないのですから、浄土真宗では浄土三部経以外のお経を読誦することはありません。
なお浄土真宗の法要・儀礼では、浄土三部経以外に、七高僧と呼ばれる浄土教の祖師たちの著作や、あるいは正信偈などの親鸞聖人の著作を読誦することがあります。それは、これらの著作がお経に準ずる重要なものとみなされているからです。しかし厳密に言うと、これらはお経ではありません。お経(経典、スートラ)といえるのは、ただ仏陀の説法を伝え記したもののみに限るのです。
 
仏説阿弥陀経

姚秦(ようしん)亀茲(きじ)の三蔵鳩摩羅什(くまらじゅう)訳す
阿弥陀仏の浄土の荘厳を説く。
序分/聴聞の大衆
かくの如く、我聞けり。一時、仏、舎衛国(しゃえいこく、大国名)の祇樹給孤獨園(ぎじゅぎっこどくおん、精舎名)に在(ましま)して、大比丘僧千二百五十人と倶(とも)なりき。
皆、これ大阿羅漢にして、衆に知識(ちしき、知る)せられたり。長老(ちょうろう、先輩比丘に対する尊称)の舎利弗(しゃりほつ)、摩訶目乾連(まかもっけんれん)、摩訶迦葉(まかかしょう)、摩訶迦栴延(まかかせんねん)、摩訶拘郗羅(まかくちら)、離婆多(りばた)、周梨槃陀迦(しゅりはんだか)、難陀(なんだ)、阿難陀(あなんだ)、羅[目*侯]羅(らごら)、憍梵波提(きょうぼんはだい)、賓頭廬頗羅堕(びんずるはらだ)、迦留陀夷(かるだい)、摩訶劫賓那(まかこうひんな)、薄倶羅(はくら)、阿[少/兔]楼駄(あぬるだ)、かくの如き等の諸の大弟子、并びに諸の菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ、大菩薩)の文殊尸利(もんじゅしり)法王子、阿逸多(あいった)菩薩、乾陀訶提(けんだかだい)菩薩、常精進(じょうしょうじん)菩薩、かくの如き等の諸の大菩薩、および釈提桓因(しゃくだいかんいん、帝釈天)等の、無量の諸の天の大衆と倶なりき。
その時、仏、長老の舎利弗に告げたまわく、
これより西の方、十万億の仏土を過ぎて、世界有り、名を極楽という。
その土に、仏有り。阿弥陀(あみだ、無量)と号し、今、現に在りて、法を説く。
正宗分/極楽の荘厳

舎利弗、彼の土は、何んが故に名づけて極楽と為す。その国の衆生には、衆の苦の有ること無く、ただ諸の楽のみを受くるが故に、極楽と名づくるなり。
また舎利弗、極楽の国土の、七重の欄楯(らんじゅん、欄干)、七重の羅網(らもう、宝石を空中に飾るための網)、七重の行樹(ぎょうじゅ、並木)、皆、これ四宝(しほう、金、銀、琉璃、頗梨)が、周匝(しゅうそう、取り巻く)して、囲遶(いにょう、囲み巡る)せり。この故に、彼の国を名づけて極楽という。
また舎利弗、極楽の国土には、七宝の池有り、八功徳の水、その中に充満す。池底に純(もっぱ)ら金沙を以って地に布き、四辺の階道(かいどう、池を取り囲む階段状の道)は、金、銀、琉璃、頗梨、合わせ成る。上には、楼閣有り、また金、銀、琉璃、頗梨、車磲(しゃこ、シャコ貝)、赤珠(しゃくしゅ、赤い真珠)、瑪瑙を以って、これを厳かに飾れり。池中の蓮華は大なること車輪の如く、青き色は青く光り、黄の色は黄に光り、赤き色は赤く光り、白き色は白く光り、微妙の香りは潔(いさぎよ)し。舎利弗、極楽の国土は、かくの如き功徳の荘厳せるを成就せり。
また舎利弗、彼の仏の国土は、常に天の楽を作す。黄金は地を為して、昼夜六時に、天は曼陀羅華(まんだらけ、天に咲く華の一)を雨ふらす。その国の衆生は、常に清旦(しょうたん、清らかな早朝)を以って、各、衣[袖−由+戒](えこく、肩掛け)を以って、衆の妙華を盛り、他方の十万億の仏を供養し、即ち食時(じきじ、食事時、正午)を以って還りて本国に到り、食を飯(くら)い、経行(きょうぎょう、歩く禅)す。舎利弗、極楽の国土は、かくの如き功徳の荘厳せるを成就す。
また次ぎに、舎利弗、彼の国には、常に、種種の奇妙(きみょう、珍しく美しい)にして雑色(ざっしき、種種の色を雑えた)の鳥有り。白鵠(びゃっこう、白鶴)、孔雀、鸚鵡、舎利(しゃり、鳥の名)、迦陵頻伽(かりょうびんが、声の好い天の鳥)、共命の鳥(ぐみょうのとり、両首一身の天の鳥)、この諸衆の鳥は、昼夜六時に、和雅の音を出し、その音は、五根(ごこん、信根、精進根、念根、定根、慧根)、五力(ごりき、信力、精進力、念力、定力、慧力)、七菩提分(しちぼだいぶん、択法覚分、精進覚分、喜覚分、軽安覚分、念覚分、定覚分、行捨覚分)、八聖道分(はっしょうどうぶん、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)、かくの如き等の法を演暢(えんちょう、演説の声が通ってゆきわたる)す。その土の衆生は、この音を聞きおわれば、皆悉く、仏を念い、法を念い、僧を念う。
舎利弗、汝は、この鳥を実に、これ罪報の生ずる所なりと謂うなかれ。所以(ゆえ)は何(いか)んとなれば、彼の仏の国土には、三悪趣(さんあくしゅ、地獄、餓鬼、畜生)の無ければなり。
舎利弗、その仏の国土には、なお三悪道の名すら無し、何をか況や実の有るをや。
この諸衆の鳥は、皆、これ阿弥陀仏、法音をして宣流(せんる、宣伝流布)せしめんと欲し、変化して作る所なり。
舎利弗、彼の仏の国土には、微かな風、諸の宝の行樹、および宝の羅網を吹き動かして、微妙の音を出すこと、譬えば百千種の楽、時を同じうして倶に作すが如し。この音を聞かば、皆、自然に仏を念い、法を念い、僧を念うの心を生ず。舎利弗、その仏の国土は、かくの如き功徳の荘厳せるを成就せり。
舎利弗、汝が意に於いて云何ん。彼の仏は、何なる故にか、阿弥陀と号する。
舎利弗、彼の仏の光明は無量なり。十方の国を照らして障礙する所無し。この故に号して阿弥陀と為す。
また舎利弗、彼の仏の寿命は、その人民に及んで、無量無辺阿僧祇(あそうぎ、無数)劫(こう、無限の時間)なり。故に阿弥陀と名づく。
舎利弗、阿弥陀仏は、仏と成りしより已来(いらい、以来)、今に於いて十劫なり。
また舎利弗、彼の仏には、無量無辺の声聞(しょうもん、仏の直弟子)の弟子有り。皆、阿羅漢(あらかん、覚りを開いた聖者)なれども、これを算数(さんじゅ、数える)してよく知る所に非ず。
諸の菩薩も、またまたかくの如し。
舎利弗、彼の仏の国土は、かくの如きの功徳の荘厳せるを成就せり。
極楽の上善人に会う
また舎利弗、極楽の国土に、衆生生まるれば、皆、これ阿鞞跋致(あびばっち、不退の菩薩)なり。
その中には、多く一生補処(いっしょうふしょ、次の生で仏と作る菩薩)有り。その数は甚だ多く、算数してよくこれを知る所に非ず、ただ無量無辺阿僧祇劫を以って説くべし。
舎利弗、衆生にして聞かば、まさに願を発(おこ)して、彼の国に生まれんことを願うべし。所以は何んとなれば、かくの如き、諸の上善の人と倶に、一処に会うことを得ればなり。
舎利弗、少しばかりの善根の福徳の因縁を以って、彼の国に生まるることを得るべからず。
舎利弗、もし善男子(ぜんなんし、男子)善女人(ぜんにょにん、女子)有りて、阿弥陀仏を説くを聞き、名号を執持すること、若(も)しは一日、若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日、一心不乱なれば、その人の命の終る時に臨んで、阿弥陀仏は、諸の聖衆(しょうじゅ、声聞と菩薩)を与(とも)にして、現じてその前に在し、この人は、終わりの時にも、心顛倒(てんどう、邪念する)せず、即ち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得るなり。
舎利弗、我は、この利を見るが故に、この言(ごん、言葉)を説くなり。もしある衆生、この説を聞かば、まさに願を発して、彼の国土に生まるべしと。
六方の如来、称賛する
舎利弗、我、今、阿弥陀仏の不可思議の功徳を讃歎するが如く、東方にも、また阿閦鞞(あしゅくび)仏、須弥相(しゅみそう)仏、大須弥(だいしゅみ)仏、須弥光(しゅみこう)仏、妙音(みょうおん)仏、かくの如き等の恒河沙(ごうがしゃ、ガンジズ河の川底の砂)の数の諸仏有りて、各、その国に於いて、広長の舌相(ぜっそう、舌)を出して、遍く三千大千世界を覆い、誠実の言を説かく、「汝等衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃して、一切の諸仏に護念せらるる経を信ずべし。」と。
舎利弗、南方の世界にも、日月灯(にちがつとう)仏、名聞光(みょうもんこう)仏、大焔肩(だいえんけん)仏、須弥灯(しゅみとう)仏、無量精進(むりょうしょうじん)仏、かくの如き等の恒河沙の数の諸仏有りて、各、その国に於いて、広長の舌相を出して、遍く三千大千世界を覆い、誠実の言を説かく、「汝等衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃して、一切の諸仏に護念せらるる経を信ずべし。」と。
舎利弗、西方の世界にも、無量寿(むりょうじゅ)仏、無量相(むりょうそう)仏、無量幢(むりょうどう)仏、大光(だいこう)仏、大明(だいみょう)仏、宝相(ほうそう)仏、浄光(じょうこう)仏、かくの如き等の恒河沙の数の諸仏有りて、各、その国に於いて、広長の舌相を出して、遍く三千大千世界を覆い、誠実の言を説かく、「汝等衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃して、一切の諸仏に護念せらるる経を信ずべし。」と。
舎利弗、北方の世界にも、焔肩(えんけん)仏、最勝音(さいしょうおん)仏、難沮(なんそ)仏、日生(にっしょう)仏、網明(もうみょう)仏、かくの如き等の恒河沙の数の諸仏有りて、各、その国に於いて、広長の舌相を出して、遍く三千大千世界を覆い、誠実の言を説かく、「汝等衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃して、一切の諸仏に護念せらるる経を信ずべし。」と。
舎利弗、下方の世界にも、師子(しし)仏、名聞(みょうもん)仏、名光(みょうこう)仏、達摩(だつま)仏、法幢(ほうどう)仏、持法(じほう)仏、かくの如き等の恒河沙の数の諸仏有りて、各、その国に於いて、広長の舌相を出して、遍く三千大千世界を覆い、誠実の言を説かく、「汝等衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃して、一切の諸仏に護念せらるる経を信ずべし。」と。
舎利弗、上方の世界にも、梵音(ぼんのん)仏、宿王(しゅくおう)仏、香上(こうじょう)仏、香光(こうこう)仏、大焔肩(だいえんけん)仏、雑色宝華厳身(ざっしきほうけごんしん)仏、娑羅樹王(しゃらじゅおう)仏、宝華徳(ほうけとく)仏、見一切義(けんいっさいぎ)仏、如須弥山(にょしゅみせん)仏、かくの如き等の恒河沙の数の諸仏有りて、各、その国に於いて、広長の舌相を出して、遍く三千大千世界を覆い、誠実の言を説かく、「汝等衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃して、一切の諸仏に護念せらるる経を信ずべし。」と。
流通得益分/願を発して往生する

舎利弗、汝が意に於いて云何ん。何なる故にか名づけて一切の諸仏に護念せらるる経と為す。
舎利弗、若し、善男子善女人にして、この経を聞きて受持せば、諸仏の名を聞くのみの者に及ぶまで、この諸の善男子善女人は、皆、一切の諸仏に共に護念せられて、皆、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏の成って理想の国土を造ること)に於いて、不退転を得ん。この故に、舎利弗、汝等は、皆、まさに我が語、および諸仏の説く所を信じて受くるべし。
舎利弗、もしある人、已に願を発し、今願を発し、まさに願を発さんとして、阿弥陀仏の国に生まれんことを欲せば、この諸の人等は、皆、阿耨多羅三藐三菩提に於いて退転せず、彼の国土に於いて、若しは已に生まれ、若しは今生まれ、若しはまさに生まるべきことを得ん。この故に舎利弗、諸の善男子善女人にして、もし信ずる者有らば、まさに願を発して彼の国土に生まるべし。
舎利弗、我、今、諸仏の不可思議の功徳を称讃するが如く、彼の諸仏等も、また我が不可思議の功徳を称え説いて、この言を作さく、「釈迦牟尼仏は、よく甚だ難く、希有の事を為せり。よく娑婆(しゃば、忍苦)国土の五濁(ごじょく、次ぎに挙げる五つの世の汚れ)の悪世、劫濁(こうじょく、戦争天災による世の汚れ)、見濁(けんじょく、邪見による世の汚れ)、煩悩濁(ぼんのうじょく、悪徳による世の汚れ)、衆生濁(しゅじょうじょく、人の質が弱劣化する世の汚れ)、命濁(みょうじょく、人の寿命が短くなる世の汚れ)の中に於いて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、諸の衆生の為に、この一切の世間の信じ難き法を説く。」と。
舎利弗、まさに知るべし。我は、五濁の悪世に於いて、この難き事を行えり。阿耨多羅三藐三菩提を得、一切の世間の為に、この信じ難き法を説きたり。これは甚だ難きことと為す。
仏、この経を説きおえたまえば、舎利弗、および諸の比丘、一切の世間の天人、阿修羅等は、仏の説きたもう所を聞いて、歓喜し信じ受けて、礼を作して去れり。
仏説阿弥陀経
 
仏説無量寿経/巻上

大経のあらすじ
この経は親鸞がその当時、日本の神道、中国の儒教、道教、インドの仏教の中から、唯一つ「真の宗教」と選び取った書です(もちろん親鸞はキリスト教も西洋哲学も、科学も知らなかったが)。この経は人生地図であり、羅針盤であると思っています。しかし悲しい哉、この経は今日まで誰にも解読されることなく、公開の秘経として経机の上に置かれたままです。
【経の名】「大無量寿経」また「大経」は呼び名で、経には「仏説無量寿経」と名づけています。一切経の中でこれほど簡単で意を尽くした名は外にはないと、金子先生はいっている。その眼で見れば「華厳経」も「涅槃経」も、「法華経」も「般若経」も、説かれている法だけで、誰が説いたか、説いた人の名がない。同じ人生読本でも、説く人によって内容も違えば、値打も違います。「維摩経」は維摩が説いたというだけで、何を説いた経か解りません。この経は「仏が説いた無量寿の経」と、説いた人と説かれた法とそれを記録した経の三つ調うた名です。
【仏説】多くの経典の中で「仏説」と断っているのは、浄土教の経典だけだといっても過言ではないでしょう。何故殊更に仏説と断ってあるのでしょうか。昔から仏とは釈迦のこと、経は釈迦が説いたものという先入観が、重大なこの事実を見落とさせて来たのです。常識では釈迦を仏といっていますが、事実はアラカンです。「迷いを転じて悟りを開いた」のはアラカンです。仏とはさらに客観的な正しい人生観を確立した「覚者」のことです。この経が特に仏説と断った背景に隠された秘密は、何でしょうか。
【無量寿】とは、「いつまでも死なぬ」というような、「迷い」といわれている常識人の空想している寿ではない。覚者の寿です。寿は産み出す命、生きようとする意志、人間自らが人間より以上のものに進化し、真実の文化を創り出そうとする創造精神のことです。内に無限の可能性を宿している青春の、「春秋に富む」寿のことです。
経には「無量寿仏」と「無量寿国」の二つに分析しています。西田哲学のいう「創造的世界の創造的主体」です。しかも、さらに創造的主体を、「根源的主体のアミダ仏と、「前衛的主体」の不退転の菩薩を分けています。
【大経】親鸞が特にこの経を「大無量寿経」といったのは、単に大部な経ということだけではなく、「大方広仏華厳経」の「大方広」でしょう。「大」は優れている勝っていることで、特殊な地域の低俗な民族宗教ではなく、万人に通ずる世界宗教という意でしょう。それも今日の常識となっているキリスト教、イスラム教、仏教ということではない。それらの中にも迷信や低俗な信仰が幾らもある。正しい人生観に立った真実の宗教ということに違いありません。
【経】とは、「常なり法なり」といって、単なる書物のことではなく、「これを古今に通じて誤らず、これを中外に施してもとらない」永遠にして真実の、人間の生きる道を説いた「聖者の書」のことです。
【仏教の経典】には、仏教が生まれて、「大経」が説かれるまでには、何遍も自己脱皮しています。釈迦のさとりの根本仏教と、弟子の説いた部派仏教は、共に真如法性をさとりとするものですが、現実自覚に立った華厳経系統の、人間自らの進化を説くものは、後期の大乗仏教と呼んでいます。
浄土経典の中でも特にこの「大経」は、人間からの進化はもちろん社会的歴史的自覚さえ遂げています。「大経」だけが正しい人生観に立った「了義経」で、その他の経は全て人生観に認識不足のある「不了義経」と貶されています。しかしこの心の眼の開けた覚者によって説かれた立派な経典が、悲しいことには「迷い」の常識の眼で読まれたものですから、今日ではまるで「虹の橋を渡って雲の世界へ連れて行く」ような、幼児のおとぎ話に化けてしまっているのです。
【「大経」のあらすじ】私はこの「仏説無量寿経」の名を、「覚者のさとった、歴史を創造する、永遠に新たな命を説いた、人生読本」と翻訳しています。
【我聞くかくの如し】この言葉から経は始まっている。これをどう読むかによって、経の死活が決まります。この「我」と名告る覆面の「覚者」こそ、釈迦の名に隠れていた正本人で、この経を創作した著書その人です。この経全体がこの「我」の一字から展開したものです。
【序説】は、この経が説かれる会場の光景ですが、これは肉眼で見える光景ではなく、この著者のさとりの内景です。
「華厳経」の「奇なる哉、我心の眼を開けば、山川草木皆さとっており、一切衆生に悉く仏性が有った」という、あの心境をさらに深め、詳しく説いたものです。
【仏仏想念の世界】従来発起序と呼ばれていた文は、実はここからがこの経の正説で、親鸞が「仏の名号を以て経の体とする」といった所で、三世の諸仏が互いに念じ合う「仏仏想念の世界」の開顕が、この経の内容なのです。
【人類の精神史】覚りの世界の開顕は「昔々まだ昔、もう一つ昔のその昔、錠光如来がこの世に出て、無数の衆生を育てて逝った。次に光遠、次に月光・・・・・・次に処世」と五十三の仏が過ぎたことを説く。これは法蔵菩薩がこの世に生まれて来るまでの、人類の精神史です。驚く勿れ、精神史という見方は最近のもので、「日本精神史」は國學院大學の村岡典嗣が初めてでしょう。それが二千年昔ですよ。この経の著者がいかに天才か、このこと一つでも解るでしょう。五十三仏の一々は、時代精神のめざめです。
【法王と国王】第五十四番目が世自在王仏で、「時に国王あり、仏の説法を聞いて弟子となる」。いよいよ法蔵菩薩の誕生です。どこの国の王でしょうか。地球上に国王が現われたのは、中国の伝説の尭舜でも、紀元前五千年の昔です。結論だけ申しておきます。インドでは昔は国と国の争いが絶えなかった。全世界が一つの国であったらという悲願から、描き出されたのが、四天下の王の転輪聖王です。それが夢ではなく、現に足元にその理想の国が実現されていたのを、この経の著者が発見したのです。その国の王こそ法蔵菩薩その人なのです。
【理想と現実】この世自在王仏と法蔵菩薩の出遇いは、国王の理想と現実の照らし合いによって、人類の深い願いを発見した様子を説いているのですが、親鸞もそのことを「愚禿鈔」にメモしています。経には「仏国土を摂取し、その中の無量の妙土を清浄にし、荘厳したい」と表白し、その実現の設計図が四十八願です。その第一願から第十七願までは、法蔵の即自的願と対自的願と即自対自的願ですが、驚くべきことにはこれも極最近のドイツ哲学の言葉です。第十八願は、覚りとは人間本能の理性が刺激して、内なる生命本能の脳幹が働き出すことを説き、あとの全ての願は、自分自らを身体的に世界的に形成し、客観化する種々相です。次の「三誓の偈」(重誓偈)は、願いの内に成就は自証せられる「永遠の今」を現し、永劫の修行は、歴史は今の構造の内的展開です。宇宙は現に自己完結していながら、無限に拡大しているのと同じく、内外一如の歴史的構造を説いているのです。そのあと法蔵の深い願いは虐げられた庶民の闇の中だけに生まれるが、願いの成就は「長者、国王」などの有力者でなければ実現しないことを説く。
【浄土の成就】浄土はすでに「十劫の昔」に成就されている。どんな形で。「浄土には山も川もない。見ようと思えば現われる」。どこに。この「十万億の宿業の世界」を「去った」彼方に。去るとは?
【無量寿仏】法蔵菩薩が成就した仏の第一の徳は光明です。「或いは仏の光あり、百仏の世界を照らす、千仏の世界、要を取っていえば無数の仏国を照らす」。「或いは仏の光あり、七尺を照らす、一里二里三里かくの如く転た倍して、乃至一仏の世界を照らす」。これは超越と内在の徳ですが、西洋哲学とは比較にならぬほど具体的です。これを踏まえて「故に無量寿仏をば、無量光仏、無辺光仏・・・・・・超日月光仏と号す」と十二の光明を説き、さらにその光明に照らされたものは、どんな変化が起こるのか、念仏者の徳を説いています。曇鸞は一々の光明の徳を一々の念仏者の上に説いています。
第二は、仏の寿命の徳。(1)は長久、しかし長生きのことではなく、歴史的時間のこと。(2)無数の命を産み出す唯だ一つの寿。(3)唯だ一つの寿から産み出された無数の命。(4)さらにその命によって一切の世界が支えられていること。
第三に、弥陀が初めてさとりを開いた時の初転法輪の会座に、雲の如く多くの聴衆が集まったという。その人たちはどうして弥陀のさとりを知ったのか、またどうやって来たのか。これが解れば私たちが救われる原理が解ります。
【浄土の功徳】は、樹と池と高殿で象徴しています。これは「華厳経」に習ったので、樹は行為的世界を、池は感情で柔軟心を、高殿は智慧と音楽で楽しみを現しています。
【浄土の人】は、浄土の土徳によって育つのですが、その人の美しいこと生活の楽しいこと、またその人間像を、虚無の身、無極の体と説いています。「虚無の身」とは、居っても邪魔にならぬ。居らなくなると淋しくなる人。自分自身は八畳に座れば八畳一ぱい、十畳に座れば十畳一ぱい。退職して六畳に座っても六畳一ぱいに住める人のこと。「無極の体」は、自分では自慢せんが、人が聞けば何でも教えてくれる人生経験豊かな人。
【華の中から仏が出る】上巻の最後は心踊り血が高鳴る格調高い文章で、「またそよ風吹いて華を散らすに普く仏土に満ち、色の次第に順って乱れず、足その上を踏むに下がること四寸、足を挙げればまた元の如し。・・・・・・衆の蓮華は世界に満ち、一々の華の中より三十六百千億の光を放ち、一々の光の中より三十六百千億の仏を出す。一々の諸仏は十方のために微妙の法を説き、各々の無量の衆生を仏の正道に安立せしめたもう」と、その一々の仏と私の関係は?どう思いますか。
【信心と往生】上巻にはアミダ仏に関する始終の問題、これから下巻は信心の問題の全てが説かれていて、上巻と下巻でアミダ仏とナムのいわれが明らかにされているのです。
下巻の最初の文は成就文と呼ばれていますが、ここでは「生彼国者」をどう読むか、「彼の国に生まれた者」か、「彼の国に生まれんとする者」かが大きな問題です。次の「諸仏が弥陀の功徳を讃嘆する」、それを受けて「その名号を聞いて信心歓喜する」、讃める功徳と聞く名号の問題、仏の名号を聞いて感動できる人の問題、また「彼の国に生まれようと願えば即ち往生を得る」。それにくっついて「唯だ五逆と法を謗るものを除く」という問題、ここには真宗信心の死活問題が幾つもあります。
【願生の願意】もっと重要な問題は次の次に出ている「往覲の偈」です。浄土に生まれるのは、一生厄介物になるためでもなく、お手伝いでもない、視察旅行です。「彼の浄土を見て、私の国も同じようにしたい」と述べれば、仏は喜んで「必ず成就しますよ。(どこで)夢の如く幻の如き(この世)に、滅びない真実の国を創ること」といっています。
そして次に不退転の菩薩(念仏者)の日常生活を説き、反転して弥勒菩薩の名を呼んで、その信心の智慧によって見える現実生活のいかに悲惨で傷ましいかを説いて、懇ろに浄土を願わねばならぬことを勧めています。ここは一名所で、三毒段、五悪段と呼ばれています。
それが終わってまた阿難の名を呼んで、阿弥陀仏を見、浄土を見ることを説いています。この「大経」だけではない、「観無量寿経」には愚かな罪の深いイダイケ夫人にも浄土が見えたことを説いています。浄土は私たちにも見える世界です。しかしそれは信心の智慧によってです。
その阿難尊者の見た浄土に蓮華の開いたものと蕾のもののことを、弥勒が横合いから口を挟んで、「何の因、何の縁で華の開合の違いがるか」を尋ねています。これが胎生化生の問題で、浄土に生まれた信の中にも純と不純があることです。
最後の流通文と呼ばれている中に「仏教が滅びる中に、この経だけは百年遺るようにする」とある「止終百歳」の文です。一般の学者はどうして千年も万年も遺すといってくれんのかという。金子先生一人「百年で結構、百歳は人の一生で、仏法は滅びるが、金子お前の一生は大丈夫、私は最後の一人として間に合った。最後の一人は廻れ右すれば最初の一人。新しい仏法は両手合わされたこの手から始まる」と。何と素晴らしい領解でしょう。親鸞のいう「補処の弥勒に同じ」とはこの信境でしょうか。

この経は「大無量寿経」ともいい、略して「大経」とも称される。浄土真宗の根本所依の経典であり、阿弥陀仏の本願が説かれる。
おおよそ、経典は序分、正宗分、流通分に分けられるが、この経の序分には、それが王舎城の耆闍崛山において、すぐれた比丘や菩薩たちに対して、釈尊が五徳の瑞相をあらわして説かれたものであり、如来が世間に出現されるのは、苦悩の衆生に真実の利益を与えて救うためであるといわれている。
正宗分にはいって、第一に法蔵菩薩が発願し修行して阿弥陀仏となられた仏願の始終が説かれる。まず「讃仏偈」において師の世自在王仏を讃嘆し、続いてみずからの願を述べる。次いで諸仏中における選択と、それによってたてられた四十八願が説かれるが、なかでも、すべての衆生に名号を与えて救おうと誓う第十八願が根本である。次に四十八願の要点を重ねて誓う「重誓偈」が、さらに兆載永劫にわたる修行のさまが説かれ、この願と行が成就して阿弥陀仏となりたもうてから十劫を経ているといい、その仏徳と浄土のさまがあらわされている。下巻にいたると第十八願が成就しえ、衆生は阿弥陀仏の名号を聞信する一念に往生が定まると述べ、さらに浄土に往生した聖衆の徳が広く説かれる。こうして第二に釈尊は弥勒菩薩に対して、三毒、五悪を誡め、胎生と化生の得失を判定し、仏智を信じて浄土往生を願うべき旨が勧められる。
最後に流通分にいたって、無上功徳の名号を受持せよとすすめ、将来聖道の法が滅尽しても、この経だけは留めおいて人々を救いつづけると説いて終っている。

大経は上下二巻に分かれ、上巻において弥陀成仏の因果が説かれる。弥陀成仏の因果とは阿弥陀仏もと法蔵菩薩であった時、衆生救済の悲願止みがたく、世自在王仏のみもとにおいて、二百一十億の諸仏を覩見し、その中より善美なるものを選取して理想の浄土を建立し、その浄土に衆生を往生させたいと念じた。その願いを具体的に示したものが四十八願である。この願を完成するために、法蔵は永劫の修行をした。これが弥陀成仏の因である。弥陀成仏の果とは、先の因位の願行が成就して、自ら阿弥陀仏となり、西方に浄土を建立して衆生救済の法を名号として成就されたことをいうのである。
下巻においては衆生往生の因果を説く。衆生往生の因とは、仏の名号を聞信する一つで救済されるという他力易行の大道であり、衆生往生の果とは、衆生が浄土に往生して得る仏果である。次に下巻には釈尊の勧誡が説かれる。即ちこの世は三毒に沈み、五常にそむく五悪が満ちている。この悪世を厭い、浄土を欣求せよとすすめ、さらに五善を守って念仏行者としての行為をつつしむべきことが説かれている。
「大無量寿経」のあらまし
「大無量寿経」は、上下二巻にわかれ、上巻は、阿弥陀如来の浄土がどのようにしてできあがったかを明らかにし、下巻は、その浄土に私たちがどのようにして生まれるのかを教えられている。如来の眼(本願)が生まれるまで[上巻]
<序分について>
証信序
釈尊のお弟子たちが、釈尊の教えを、学校の授業のように教養として聞いていることができなくなって、教えが聞く人の全身に生き生きと響く、生きた教えとなってよみがえったことを宣言されている。そして真剣に耳を傾ける釈尊のお弟子たちの姿を明らかにすることによって、なぜこの教えが真実なのか、という問いに応えられている。
発起序
・・・いつも釈尊の前で優等生のように、無欠席で教えを聞いていた阿難尊者が、初めて「今日の釈尊はいつもと違ってキラキラ輝いておられる。これは一体どういうわけですか」と尋ねる。釈尊は「阿難よ、よく気がついてくれた。そなたが気がついてくれたお陰で真実が世に出るのだ」と、微笑まれた。釈尊がどんな素晴らしい教えを説かれても、本当に「教えが聞こえる人」が現われなければ、真実は働かない。親鸞さまは、この一点に注目されて、「大無量寿経」は真実の教なんだ、と受けとめられたのである。
<正宗分について>
法蔵菩薩の出現
・・・私たちにわかるように、この世の人の姿を現した法蔵菩薩の物語を説かれ、私たちの考えてもみなかった広大な明るい阿弥陀如来の眼(本願)に会わせてくださるのである。
明るい眼の始動
法蔵菩薩が建てられた四十八の明るい眼(本願)。それは私たちが狭い迷いの心で創り出した願いではない。五劫思惟(気の遠くなるような長い時間をかけて吟味された)と表現される目覚めた眼なのだ。その眼に出会うと、日頃、狭い自分中心の眼に振りまわされて悩み苦しむ、私たちの愚かな姿が浮き掘りにされてくる。
永遠のいのちの世界
私たちは、欲望の狭い眼で見た世界しか知らない。そこで阿弥陀如来の明るい眼で見た世界を余すところなく教えられる。見たことも聞いたこともなかった阿弥陀如来の浄土とは、こういう世界なのだ、と、いのちの躍動する世界がくり広げられている。
常識の世界を超えよう(願成就の文)
まず明るい眼との出会いとは何か、と説かれ、できのよい人が救われるという私たちの常識の世界を破って、ひらすら「目を覚ませ」と呼びかけられている。
目覚めた世界の人びと(一生補処)
迷いの世界で幸せを追い続ける私たちに、目覚めた世界に生きる人びとの躍動する姿を、見せてくださる。その姿にめぐり会うと、誰でもこの世界で居眠りしていることができなくなる。
自分の心を見よ(三毒の段)
阿弥陀さまの世界を、楽しいところだから努力して行きたい、というように、私たちの常識の世界では考える。だがそういう姿勢では、どれだけがんばっても、阿弥陀如来の世界にたどり着くことはできない。まず、私たちは、自分本位の狭い煩悩の世界(貪欲、瞋恚、愚癡)から、一生離れることができないことを知らねばならないと、きびしく問いかけられている。
阿弥陀如来の世界しかない(弥勒菩薩との対話)
この世の救われない人びとの姿を嘆き、未来の民衆ととに救われたいと願う弥勒菩薩に対して、釈尊は、この道しかない、と勧められる。
見えてくる迷いの生活(五悪の段)
阿弥陀如来の世界へは誰でも行ける。みんなが救われる世界なのだ。だが誰も行こうとしない。・・・・・・そこで釈尊は、この世の愚かな私たちの生きざまを、わかりやすく説かれ、どのように生きるべきか、というこの世の道徳を説かれる。宗教はわからないが、道徳なら誰にもわかる。その誰にもわかる道徳から出発して、深い南無阿弥陀仏の世界に導いてくださるのである。
明るい心をいただけ(智慧の段)
やっと人びとは阿弥陀如来の世界に気がつき始めた。教えが私たちの胸に響く。だがこの世には教えを聞いて、ただちに浄土に生まれる人もいるが、そうでない人もいる。この世で恵まれている人は、どうしても遠回りしてしまう。遠回りして仮の浄土(胎生)に腰を下ろしてしまう人は多い。といっても仮の浄土へ行った者が救われないのではない。人はみな、人生が異なるのだ。しかし最後にはみんな阿弥陀如来の世界に導かれる御同朋、御同行なのだ。
<流通分について>
未来世にこの教えを伝えよ
煩悩具足の私たちの生きる道は、この南無阿弥陀仏の教えとともに歩むしかない。しかし、人は、知識ある者を尊び、道徳を実践する者を理想とする。だから「みんなが救われなければ、私も救われない」という阿弥陀如来の本願を、いただくことほど難しいことはないのだ、と念を押されたのである。 
仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)巻の上
曹魏の天竺の三蔵康僧鎧(こうそうがい)訳す
序、菩薩功徳分/聴聞する声聞と菩薩

我はかくの如きを聞けり。
ある時、仏は王舎城の耆闍崛山(ぎじゃくっせん)中に住(とど)まりたまい、大比丘(びく、出家の弟子)の衆、(一)万二千人と倶(とも)なりき。
一切の大聖(だいしょう、阿羅漢(あらかん)、覚りを得た者)は神通(神通力)すでに達せり。
その名を尊者(そんじゃ、阿羅漢の尊称)了本際(りょうほんざい)、尊者正願(しょうがん)、尊者正語(しょうご)、尊者大号(だいごう)、尊者仁賢(にんけん)、尊者離垢(りく)、尊者名聞(みょうもん)、尊者善実(ぜんじつ)、尊者具足(ぐそく)、尊者牛王(ごおう)、尊者優楼頻螺迦葉(うるびらかしょう)、尊者伽耶迦葉(がやかしょう)、尊者那提迦葉(なだいかしょう)、尊者摩訶迦葉(まかかしょう)、尊者舎利弗(しゃりほつ)、尊者大目ノ連(だいもっけんれん)、尊者劫賓那(こうひんな)、尊者大住(だいじゅう)、尊者大浄志(だいじょうし)、尊者摩訶周那(まかしゅうな)、尊者満願子(まんがんし)、尊者離障(りしょう)、尊者流灌(るかん)、尊者堅伏(けんぶく)、尊者面王(めんおう)、尊者異乗(いじょう)、尊者仁性(にんしょう)、尊者喜楽(きらく)、尊者善来(ぜんらい)、尊者羅云(らうん)、尊者阿難、皆かくの如き等は上首の者なり。
また大乗の衆(もろもろ)の菩薩と倶なりき。普賢菩薩(ふげんぼさつ)、妙徳菩薩(みょうとくぼさつ、文殊師利)、慈氏菩薩(じしぼさつ、弥勒)等のこの賢劫(けんごう、現在の劫(こう、世界の生滅の時間の単位)の名)の中の一切の菩薩、また賢護(けんご、菩薩名)等の十六の正士(しょうじ、菩薩)、善思議菩薩(ぜんしぎ)、信慧菩薩(しんえ)、空無菩薩(くうむ)、神通華菩薩(じんつうけ)、光英菩薩(こうよう)、慧上菩薩(えじょう)、智幢菩薩(ちどう)、寂根菩薩(じゃくこん)、願慧菩薩(がんえ)、香象菩薩(こうぞう)、宝英菩薩(ほうよう)、中住菩薩(ちゅうじゅう)、制行菩薩(せいぎょう)、解脱菩薩(げだつ)なり。
わたしが聞かせていただいたところは、次のようである。あるとき、釈尊は王舎城の耆闍崛山においでになって、一万二千人のすぐれた弟子たちとご一緒であった。みな神通力をそなえたすぐれた聖者たちで、そのおもなものの名を、了本際・正願・正語・大号・仁賢・離垢・名聞・善実・具足・牛王・優楼頻贏迦葉・伽耶伽葉・那提伽葉・摩訶伽葉・舎利弗・大目ケン連・劫賓那・大住・大浄志・摩訶周那・満願子・離障・流灌・堅伏・面王・異乗・仁性・嘉楽・善来・羅云・阿難といい、教団における中心的な人たちばかりであった。また、大乗の菩薩たちともご一緒であった。すなわち、普賢・文殊・弥勒など賢劫の時代のすべての菩薩と、さらに賢護などの十六名の菩薩、および、善思議・信慧・空無・神通華・光英・慧上・智憧・寂根・願慧・香象・宝英・中住・制行・解脱などの菩薩たちとである。 
皆普賢大士(だいじ、大菩薩)の徳(慈悲行)に遵(したが)い、諸の菩薩の無量の行いと願いを具(そな)え、一切の功徳の法に安住す。
十方(の世界)に遊び歩いて、権方便(ごんほうべん、方便、手段)を行い、仏の法蔵に入りて彼岸を究竟し(平等を究め尽くす)、無量の世界に於いて等覚(仏の位)を成ずることを現したもう。
(即ち)兜卒天(とそつてん)に処して弘く正法(大乗の法)を宣べ、彼の天宮を捨てて神(じん、魂あるいは心)を母胎に降し、(母の)右脇より生まれて七歩行くことを現し、光明顕(あきら)かに曜(かがや)いて普(あまね)く十方を照らせば、無量の仏土(ぶつど、世界)は六種に振動す。
声を挙げて自ら「われはまさに世に於いて無上の尊(そん、尊き者)となるべし」と称うれば、釈(帝釈天)と梵(梵天王)とは奉って侍り、天(てん、天上の衆生)と人(人間)とは帰(き、帰命、逆らわない)して仰ぐ。
(世間に)示すには、算計、文芸、射御(しゃぎょ、戦車を駆馳して弓射する)、博く道(道法)と術(技術)とを綜(あつ)め、群(もろもろ)の籍(書物)を貫練(かんれん、習練)し、後園(ごおん、裏庭)に遊び、武を講じ藝を試す。
現すには、宮中の色と味の間(色声香味触の五欲)に処して、老病死を見て世の非常を悟り、国と財と位を棄てて山に入り道を学ぶ。
服し乗りたる白馬と宝冠と瓔珞とを、これを遣わして還さしめ、珍妙の衣を捨てて法服(ほうぶく、糞掃衣)を著け、鬚と髪とを剃り除き、樹下に端坐し、苦(苦行)を勤むること六年、行うこと所応の如し。
五濁(ごじょく、世の汚れ)の刹(くに)に現れて群生(ぐんしょう、衆生)に隨順し、塵垢あることを示して金流(清流)に沐浴し、天は樹の枝を按(おさ)えて池より攀(よ)じ出づることを得、霊禽(れいきん、霊妙なる鳥)は翼のごとく(広く左右に)従いて道場に往詣(いた)る。吉祥(きちじょう、刈草人の名)は徴(きざし)を感じて功祚(こうそ、仏果、功徳)を表章す。(菩薩は)哀れんで(吉祥の)施せる草を受け仏樹の下に敷きて加趺(かふ、足を組む)して坐す。
大光明を奮い魔をして知らしめば、魔は官属を率いて来たりて逼(せ)め試むれど、制するに智力を以ってし皆降伏せしむ。
微妙の法を得て最正覚(かく、仏)と成る。釈梵は祈りて法輪を転ぜんことを勧請(かんじょう)す。
仏の遊歩を以(もち)い、仏吼(ぶつく、師子吼)にて吼し、法鼓(ほうく)を扣(う)ち、法螺(ほうら)を吹き、法剣を執り、法幢を建て、法雷を震わせ、法電を曜(かがや)かし、法雨を澍(うるお)し、法施を演(の)べ、常に法音を以って諸の世間を覚(めざ)ます。
光明は普く無量の仏土を照らし、一切の世界は六種に震動す。総て魔界を摂(つか)んで魔の宮殿を動かしめば、衆魔は懾怖(しょうふ、胆をつぶす)して帰伏せざるなし。
邪網(じゃもう、邪見の網)を掴み裂いて諸見(邪見)を消滅せしめ、諸の塵労(じんろう、心を汚し疲労するもの、煩悩)を散らして諸欲(五欲、色声香味触)の塹(ほり、塹壕)を壊し、厳しく法の城を護って法門を開闡(かいせん、開く)し、垢汚を洗濯して顕かに清白を明(あきら)む。
光は仏法を融かして宣べ流れ正しく化(け、導く)し、国に入りては分衛(ぶんえ、乞食)して諸の豊かな膳を獲(え)て、功徳を貯め、福田(ふくでん、施しの種を蒔いて将来の福を刈る田、仏または比丘)を示し、法を宣べんと欲して欣笑(ごんしょう、大笑い)す。諸の法の薬を以って三苦(さんく、苦苦、壊苦、行苦)を救い療(いや)し、顕かに道意(菩提心、衆生救済の決意)の無量の功徳を現す。
菩薩に記(き、将来の成仏の記録)を授けて等正覚(仏)を成ぜしめ、示すに滅度(めつど、涅槃)を現して拯済(じょうさい、救う)すること極まりなし。諸の漏(ろ、煩悩の残り香)を消除して衆の徳本(とくほん、善根、善い行い)を殖(う)え、功徳を具足して微妙なること量り難し。
諸仏の国に遊んで普く道の教えを現し、その修め行う所は清浄にして穢れなし。
譬えば幻師の衆の異像を現して男となり女となるに変わらざる所のものなきが如く、本学(この学問)明了なれば意を為す所に在(お)く。
この諸の菩薩もまたまたかくの如し。一切の法を学んで貫綜縷練(かんそうるれん、徹底して学び鍛錬する)し、所住(しょじゅう、心の置き所)は安諦(あんたい、安穏と諦念)にて感化(感応と化導)せざるなく、無数の仏土は皆悉く普く現れ、未だかつて慢恣(まんし、慢心と恣行)せずして衆生を愍(あわれ)み傷(いた)む。かくの如きの法は一切を具足す。
菩薩の経典は要妙を究暢(くちょう、通達)して名称(名誉と称賛)遍く至り、十方を導御(どうご、化導と制御)して無量の諸仏は咸(みな)共に護念したもう。仏の所住(心の置き所)は皆すでに住することを得て大聖(仏)の所立(しょりゅう、教法)は皆すでに立つ。
如来、導化したまえば各々よく宣べ布(し)いて、諸の菩薩の為に大師となりて、甚だ深き禅(禅定)と慧(智慧)とを以って衆人を開導す。
諸法(あらゆる物事)の性(本性)に通じて衆生の相に達し、諸国を明了して諸仏を供養し、化してその身を現すこと猶し電光の如し。
善く学んで畏れなく、暁(あきら)かに幻法(諸法、有為法)を了(あか)して魔の網を壊(やぶ)り裂き、諸の纏縛(てんばく、煩悩)を解き、声聞(しょうもん、仏に従って覚る者)と縁覚(えんがく、仏に従らず独り覚る者)との地(境地)を超越して、空無相無願三昧(くうむそうむがんさんまい、我と我が身心とは空であり心の働きも空であるとする境地)を得。
善く方便を立てて顕かに三乗(さんじょう、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗)を示し、この中の中(縁覚乗)と下(声聞乗)とに於いて滅度(死)を現せども、また所作(滅度)なく、所有(身心)なく、不起(不生)不滅にして平等(自他彼此の差別なし)の法を得。
具足して無量の総持(そうじ、忘れないこと)と百千の三昧(さんまい、一心に仏道を行うこと)を成就し、
諸根(善行の根本となる力)と智慧は広く普く寂定(じゃくじょう、正法に順じて定まる)して深く菩薩の法蔵に入り、仏の華厳三昧(けごんさんまい)を得て一切の経典を宣揚(宣伝と掲揚)演説し、深き定(禅定)の門に住して悉く現在の無量の諸仏を睹(み)、一念の頃(あいだ)に周遍せざるなし。
諸の劇難(地獄、餓鬼、畜生)と、諸の閑(げん、修行に閑のある者)と不閑(ふげん、苦が逼っている者)とを済(すく)い、分別して顕かに真実の際(真実)を示す。
諸の如来の辯才の智(智慧)を得て、衆の言音(ごんおん、種々の言葉)に入り、一切を開化(開発と教化)す。
世間の諸のあらゆる法を超過して、心は常に諦かに度世(衆生済度)の道に住す。
一切の万物に於いて意の随(まま)にして自在なり、
衆生の類の為に請われざる友となりて群生(ぐんしょう、衆生)荷負(かふ、荷う)し、これを重任(じゅうにん、重き任務)と為す。
如来の甚だ深き法蔵を受持して仏の種性を護り常に絶えざらしむ。
大悲を興して衆生を愍(あわ)れみ、慈辯を演じて法眼(ほうげん、衆生を観察して諸道を究める)を授け、
三趣(地獄、餓鬼、畜生)を杜(とざ)して善門(人間、天上)を開き、
請われざるの法(大乗)を以って、諸の黎庶(れいしょ、庶民)に施すこと、なお孝子の父母を愛敬するが如く、諸の衆生に於いてはこれを視ること己のごとし。
一切の善本(善行)は皆彼岸に度(わた)し、悉く諸仏の無量の功徳(他の為になる力)と、智慧の聖(すぐ、傑出)れて明らかなること不可思議なるを獲(う)。
かくの如き菩薩、無量の大士(大菩薩)は称(あ)げて計(かぞ)うべからず。(かくの如き等みな)一時に来たり会(え)す。
これらの菩薩たちは、みな普賢菩薩の尊い徳にしたがい、はかり知れない願と行をそなえて、すべての功徳を身に得ていた。そしてさまざまな場所におもむいて、巧みな手だてで人々を導き、すべての仏の教えを知り、さとりの世界をきわめ尽し、はかり知れないほどの多くの世界で仏になる姿を示すのである。
まず、兜率天において正しい教えをひろめ、次に、その宮殿から降りてきて母の胎内にやどる。やがて、右の脇から生れて七歩歩き、その身は光明に輝いて、ひろくすべての世界を照らし、数限りない仏の国土はさまざまに振動する。そこで、菩薩自身が声高らかに、「わたしこそは、この世においてこの上なく尊いものとなるであろう」と述べるのである。梵天や帝釈天は菩薩にうやうやしく仕え、天人や人々はみな敬う。そして菩薩は、算数・文芸・弓矢・乗馬などを学び、ひろく仙人の術をきわめ、また、数多くの書籍にも精通し、さらに、広場に出ては武芸の腕をみがき、宮中にあっては欲望の中に身をおく生活をするのである。
やがて、老・病・死のありさまを見て世の無常をさとり、国や財宝や王位を捨てて、さとりへの道を学ぶために山に入る。そこで乗ってきた白馬と身につけていた宝冠や胸飾りを御者に託して王宮に帰らせ、美しい服を脱ぎ捨てて修行者の身なりとなり、髪をそって樹の下に姿勢を正して座り、六年の間、他の修行者と同じように苦行に励む、五濁の世に生れ、人々にならって煩悩に汚れた姿を示し、清らかな流れに身をきよめるのである。すると天人が樹の枝をさしのべて岸にあがらせる。美しい鳥は左右に取りまいてさとりの場までつきしたがい、天の童子は菩薩がさとりを開くめでたい前兆を感じて草をささげる。菩薩はその心を汲んで草を受け取り、菩提樹の下に敷き、その上に姿勢を正して座る。そして体から大いなる光りを放つ。それを見て、今まさに菩薩がさとりを開こうとすることを悪魔は知るのである。悪魔は一族を率いてきて、そのさとりの完成をさまたげようとする。しかし菩薩は智慧の力でみな打ち負かし、ついにすばらしい真理を得て、この上ないさとりを成しとげるのである。
そのとき梵天や帝釈天が現れて、すべてのもののために説法するように願うので、仏となったこの菩薩はあちらこちらに足を運び、説法を始める。それはあたかも、太鼓をたたき、法螺貝を吹き、剣を執り、旗を立てて勇ましく進むように、また雷鳴がとどろき、稲妻が走り、雨が降りそそいで草木を潤すように、教えを説き、常に尊い声で世の人々の迷いの夢を覚すのである。
その光明は数限りない仏の国々をくまなく照らし、すべての世界はさまざまに振動する。この光明は魔界にまで及び、魔王の宮殿をも揺り動かすのである。そこで悪魔どもはみな恐れをなして、降伏してしたがわないものはない。このようにして世間の誤った教えをひき裂き、悪い考えを除き去り、さまざまな煩悩を打ち払い、貪りの堀を取り壊すのである。正しい法の城を固く守って広く人々に法の門を開き、煩悩の汚れを洗いきよめ、ひろく仏の教えを説き述べて、人々を正しいさとりの道へ導き入れるのである。また、人里に入って食を乞い、さまざまな供養を受け、施しの相手となって人々に功徳を積ませ、教えを説くにあたっては笑みをたたえ、人々の悩みに応じてさまざまな教えの薬を与え、その苦しみを除く。さらにさとりを求める心を起こさせてはかり知れない功徳を与え、菩薩には仏となることを約束してさとりを得させるのである。
菩薩は最後に世を去る姿を示すのであるが、その後も教えは人々を限りなく救うのである。さまざまな煩悩を除き、多くの善根を与え、余すことなく功徳をそなえていることは実にすぐれており、はかり知ることができない。
菩薩はまた、多くの国々をめぐってまことの教えをひろめる。それは清らかで少しも汚れがない。幻を見せる術にたけたものが、男の姿や女の姿、その他さまざまな姿を思いのままに現すように、この菩薩たちも、すべての法に通じて尊い境地に達しているから、その教化は自由自在で、数限りない仏の国土に現れて、少しもおこたることなく、人々を哀れみいたわるのである。このようにすべての手だてを菩薩は余すことなくそなえている。
また、仏の説かれた教えのかなみをきわめ尽しており、その名はすべての世界に至りとどいて人々を巧みに導く。数限りない仏がたは、みなともにこの菩薩をお守りになる。菩薩は仏のそなえておいでになる功徳をすべてそなえ、仏の清らかな行いをすべて行う。仏と同じように、その導きはよく行きとどいて、他の菩薩たちのためにすぐれた師となり、奥深い禅定と智慧で人々を導く。すべてのものの本質をきわめ、すべての人々のありさまを知り尽し、すべての世界のすがたを見とおしており、いたるところに身を現してさまざまな仏がたを供養するが、その速やかなことはちょうど稲妻のようである。
教えを説くにあたり、何ものも恐れない智慧をそなえ、すべてのものは幻のようで、決して執着するべきでないとう道理をさとり、さとりの道をさまたげる悪魔の網をひき裂き、さまざまな煩悩を断ち切っている。そして声聞や縁覚などの位を超えて、空・無相・無願三昧を得て、また人々を救う手だてを施して、声聞・縁覚・菩薩の三種の教えを説く。声聞や縁覚を導くためにひとまず世を去る姿を示すのであるが、菩薩自身としては、すでに修めるべき行もなければ求めるべきさとりもなく、起こすべき善もなければ滅ぼすべき悪もなく、みな平等であるという智慧を得て、すべての教えを記憶する力と数限りない三昧と、すべてを知り尽す智慧を欠けることなくそなえている。そこで説法のよりどころとなる禅定に入って、深く大乗の教えを知り、尊い華厳三昧を得て、すべての経典を説き述べるのである。
また、菩薩自身は深い禅定に入り、今おいでになる数限りない仏がたをまたたく間にすべて見たてまつることができる。そして苦難に深く沈んでいるものも、仏道修行のできるものもできないものも、それらをみな救って、まことの道理を説き示す。しかも如来の自由自在な弁舌の智慧を得ており、またあらゆる言葉に通じていて、どのようなものをも教え導くのである。すでに世間の迷いを超え出て、その心は常にさとりの世界にあって、すべてのことがらについて自由自在である。さまざまな人々のためにすすんで友となり、これらの人々の苦しみを背負い引き受け、導いていく。さらに、如来の奥深い教えをすべて身にそなえ、人々の仏種性を常に絶やさないように守り、大いなる慈悲の心を起して人々を哀れみ、その慈愛に満ちた弁舌によって智慧の眼を授け、地獄や餓鬼や畜生への道を閉ざして人間や天人の世界への門を開く。すすんで人々に尊い教えを説き与えることは、親孝行な子が父母を敬愛するようである。まるで自分自身を見るように、さまざまな人々を見るのである。
菩薩たちは、このようなすべての善根によって人々をさとりの世界に至らせ、仏がたのはかり知れない功徳をみな人々に与えるのである。その智慧の清く明らかなことは、とうてい思いはかることができない。
このようなすぐれた菩薩たちが数限りなく集まり、この経を説かれた集いに臨んだわけである。  
我聞くかくの如し
一と時、仏は王舎城の霊鷲山の中に住して、大比丘衆一万二千人と倶であった。一切は大聖で神通はすでに達していた。その名は尊者了本際、尊者正願……尊者阿難という。皆このような上首ばかりであった。また大乗の菩薩と倶であった。普賢菩薩、文殊菩薩、……このような菩薩が数えられぬほど一時に来会していた。
【古来の解釈】これから「大経」の意を尋ねて行くのですが、この経が中国に翻訳されて二千年、誤まった解釈が染みついていてその根が深いので、序文だけでも先入観念の雑草を、鍬ではなく、ブルドーザーで根こそぎ起こして、この経本来の新鮮な命に触れて生きたいと思います。
この経を解釈した人は、インドでは唯だ一人、天親菩薩だけで、それも経の精神を説いているだけです。中国においてはこの経が翻訳されると、各宗の学者達が競って解釈を試みていますが、その中で唐の時代の法相宗の憬興(生まれは新羅、晩年国老となる)の「無量寿経述文讃」が、真宗の教科書になっています。
それには経の初めの我聞如是から一時来会までを「証信序」といっています。「証信序」とは、釈迦の説いたものを弟子の阿難が、後日口述した、その事が間違いでないことを証明する文だという意味です。
この解釈が誤りであることを論破する。第一まことの信心というものは、外から証明する必要のないもので、自分の命となった信を説きさえすれば、聞く人の魂の琴線に触れて直ちに聞く人の命となるものです。第二に、この「我聞く」とは阿難のことといっているが、この文章は又聞きの、二番煎じのものではない。活き活きした新鮮な格調の高い命の迸[ほとばし]りである。またこの経は阿難の口述であるというが、その席にいた自分の名を尊者と敬称で名告る例を私は聞いたことがない。
またこの席に集まった弟子は一万二千人おったと、経に説いているが、釈迦の弟子は皆集めても千二百五十人です。それも「一切は大聖にして、神通すでに達せり」とあるが、そこに列挙している弟子の中には、阿難のようにまだ悟っていない者も、それどころか「六群の比丘」と汚名を着せられた、頭はよくても人間が賢くない者、気が短くて友とけんかをする者、物欲が深く心の穢い者、手癖が悪く人の物を盗む者、色気が強く女に手を出す者、怠けて修行を怠る者など、度々釈迦から叱られた、六人の連中もいます。
またこの経は「霊鷲山」で説かれたとありますが、現地へ行った人は暁烏先生だけではなく皆、霊鷲山は一万二千人はおろか三十人が座れる所が一番広く、あとは五人か十人しか座れる所はないといっています。伝説には霊鷲山は説法した場所ではなく、釈迦が静かに念仏せられた所とあります。指摘すればまだ幾らもありますが、これで従来の解釈が誤りであることが、理解して頂けたと思いますから、これから経文に入ります。
【我聞くかくの如く】は、経文の外に独立している言葉で、「一時、仏」からがこの経の本文です。昔から経は如是から始まるといわれているように、他の経は全て「如是我聞」ですが、この経だけが「我聞如是」です。その違いを今までの学者は皆訳者の好みによるといっているのを、金子先生はこの経は「聞く」ことを主としているので、殊更に我聞を初めにしたという。しかし私はこの経の著者は、この経は誰から聞いたのでもない。私の独自のさとりであると、「我」がこの経の全てであることが言いたかったのだと思います。
それでは何故「我聞く」といったのか。これは誰から聞いたのでもない。「わが魂の底深く名告り続けるみ仏の」声なき久遠の声、言葉以前の言葉、幾万の祖先から受け継いだ血の叫びを聞いたのです。この経の全てはこの「我」の内に開けた光景を説き明かしたものに外なりません。
【一時】は、暦や時計の日時ではない。中国の曇鸞も聖徳太子も、「函蓋相称の一時」という。名工の造った茶入れのように、函[はこ]と蓋[ふた]が寸分の隙もなくぴったり合うように、説こうとする師の一心と、聞こうとする弟子の一心の波長がぴったり合った、説聴一如、感応道交の一時です。もう一つ言えば、常住真実の法が今現に生きている人間の全身全霊に受け取られた「自覚の一念」、「永遠の今」の実証です。
【仏】とは、名は誰とも書いてないが、釈迦であることはすぐ解る。しかし歴史上のシッタルタのことではない。「我」と名告るこの経の著者の信仰眼に応現した、理想の釈迦です。
【王舎城の霊鷲山】は、鷲の峰と親しまれている、王舎城の町外れにある小高い丘です。この山は狭くて大衆を集めて説法できる所ではない。ここは釈迦が独り静かに念仏三昧に入った所です。ここで説かれたということは、この経が相手があって説いたのではない。「華厳経」と同じように、釈迦のさとりを開顕することを現している。故佐伯定胤が法隆寺の管長であった時、「わしの一代で眼に留った弟子が二人いる。一人は藤井、一人は臼杵」といわれた。その臼杵祖山が「経の王舎城ギシャクッ山とは、弥陀願王の王舎城ギシャクッ山である」と言い放っている。親鸞のいう大寂静弥陀三昧の無言の説法です。ここに「山中に住す」といって、「観無量寿経」では「在って」という。在はやがてその場を離れて、王宮へ移動するから、「住」はその場を動かぬ三昧を表すからです。
【大比丘衆万二千人】とは、「比丘」は法を乞い、食を乞うといって、欲を離れてひとえに聞法を命とする人のことです。「大比丘」は大聖のことで、釈迦と同格です。それで「一切は大聖にして神通すでに達せり」という。しかし「その名は尊者了本際、尊者正願」と三十一人の名を挙げていますが、それらは皆釈迦の弟子で、実際はまだ悟っていないものもいます。これは眼に見える事実でないことは明らかです。それにしてもこの一万二千という数はどこから引っ張って来たのでしょうか。
【数字の謎】私の青春時代には、女子は十五になると、「三五の齢[よわい]」といって、頬が桃色に色づいて髪を桃割れに結い、娘盛りになると「鬼も十八、番茶も出花」といっていた。母の若い頃は「年は二八か二九からず」(何と綺麗な娘さんか、歳は十六だろうか、いやもっと行っているだろう。しかしまだ十八にはなってはいまい)。(中略)話が脱線しましたが、昔は数を約数で表す習慣があった。仏教でも四十八願を「六八弘願」とか、「観無量寿経」には「無量寿仏の身相と光明(姿と徳)」を数字で表している。たとえば「仏身の高さは六十万億ナユタ恒河沙由洵、仏の眼は四大海水の如し」。これを昔の学者は、背丈に比べて眼が小さ過ぎるといっているが、これは「三界はわが有なり。一切衆生は皆吾が子なり」ということを数字で象徴しているのです。初めの六は六道(迷いの世界)を、十万億は一切衆生を。その全てを抱きとった仏の身ということです。十万億は全人類の頭数で、「大経」や「アミダ経」では諸仏の数ですが、これは衆生の一人一人に宿った仏の数です。「観経」では、比丘は実数の千二百五十人ですが、菩薩は3万2千です。これは菩薩の徳を表しているのでしょう。文殊や普賢はこれから仏になろうとする往相の菩薩ではなく、仏が仏の行をする還相の菩薩であることを示していると思われる。三万二千は四と八の倍数です。四は仏の四徳、八は八正道を象徴しています。こう見て来ると「大経」の一万二千は、三と四の倍数で、三は三毒の煩悩、四は涅槃の四徳を象徴して、煩悩即菩提とか、不断煩悩得涅槃で、ここに集まった大比丘衆は皆、煩悩のあるままで涅槃の悟りを開いた大アラカンであることをいっているのでしょう。一万二千人の中には未来世の私たちもその中に加えてあるようです。
因みに尊者の順序は入門の次第です。
【大乗の菩薩】が雲の如くに集まったといって、その名と徳と、釈迦一代記と菩薩の行を説いている。これらの菩薩は、どこかから来たのではない。この会座の光景は肉眼で見える光景ではなく、全て著者のさとりの世界を説いているのです。「華厳経」の釈迦がさとりを開いた時、「奇なる哉、我開眼すれは、山川草木皆仏となり、一切衆生には悉く仏性が有った」といっている。これをさらに深めさらに分析して、具体的に説いているのです。華厳では「仏性」を法と見ているのを、ここでは擬人化して菩提心で現し、その菩提心の徳を聞法心と求道心に分析し、その聞法心を比丘とし、求道心を菩薩と象徴しているのです。こは一人の菩提心の徳の二面です。聞法心は求道者の態度であり、求道心はその精神です。
【菩薩の名と徳】ここに挙げている菩薩は、龍樹や天親のような人のことではなく、菩提心の徳を名で現しているのです。その中に出家と在家の二種があるという。出家の菩薩とは、宗教家とか哲学者とか布教師などの専門家のこと、在家の菩薩とは、政治家、教育者、医師、芸術家、職人、農家、その他直接社会生活に関わっている人のことでしょう。
菩薩の徳を説く所に「法蔵得仏華厳三昧」という語が出ていますが、これが経典誌学から見ても、この経が「華厳経」を踏まえて説かれていることが解ります。釈迦の誕生とか仏や浄土の見方に、華厳の延長線上にあることが現われています。
【釈迦の一代記】聴衆の菩薩の記事に釈迦の一代記が説かれています。昔の学者は翻訳の誤りであろうといっていますが、「人間の一生に人類の歴史を繰り返す」。生命の誕生から水中生活の三十七億年、陸に上がって爬虫類から人間まで三億年、それを胎内十ヶ月から成人するまでに、一人ひとりがそれを繰り返す。精神の進化も同じように、法蔵菩薩が歩いた道を釈迦だけでなく、私たち一人ひとりが通らなければならぬことでしょう。
釈迦一代の事件を、大きく分けて八相と数えており、その捉え方も区々[まちまち]です。私は(一)在天、(二)托胎、(三)誕生、(四)修学、(五)結婚、(六)出家、(七)修行、(八)開眼、(九)形成、(十)入滅と見ています。しかしこれは生から死までの常識の眼ではなく、さとりの眼で見た一生です。(一)在天。前生でトソツ天で修行していた。「仏拝めば祖[おや]拝め」で、今の自分があることの歴史的血の自覚。(二)托胎。父の精子と母の卵子の結合によって自分が生まれた。天地も感動する大事件。(三)誕生。無事に誕生して七歩歩いて「自ら声を挙げて称す、我れ無上尊とならん」。おぎゃあの産ぶ声に、わしの一生に人生の謎を解くぞという逞しい響。(四)修学。人生を知り自分を知って、自分を完成するために、先祖の築いた文化の遺産を学修する人生大学入門。(五)結婚。人間自覚と社会的誕生。人生の醍醐味は結婚の完成。(六)出家。自分は何のために生まれて来たのか。自分を問い人生を問う。問題意識の誕生。(七)修行。自分の主体性の確立と正しい人生観を身に即ける。(八)開眼。歴史を命とし世界を身体とする行為的世界への誕生。(九)形成。自分と自分の国と歴史的世界の形成行。(十)入滅。生まれてよかった。思い残すことは何一つない。完全に涅槃する永遠の死につくこと。
【菩薩の行】聞法といい求道というが畢竟何のためか。一般仏教では涅槃とか、色も形もない法性真如をさとることといい、浄土教系統では死後お不思議という仏になるといっているが、真実の仏教といわれる「華厳経」や「大経」では全く眼の着け所が違う。そこに生きている人間が自分を完成することである。それを「浄仏国土、成就衆生」という。仏とは梵語で自覚と覚行と訳す。自覚とはわしは人間であったと眼がさめること。眼が開けると自分は未完成であることが解り、人間らしい人間になりたいという願いが発こる。これを覚行というのです。それを菩薩行といい、ここには「諸仏の国に遊んで菩薩の行を修し、諸仏を供養して衆生を開化する」と説いている。これは釈迦のように家庭を捨てて、山に入って樹下石上に座ることではない。日常の人間関係、社会環境の中において、人間として自分を育てることです。「諸仏の国に遊ぶ」とは、どこかの国のことではない。遇う人毎に相手の世界を学ぶことです。諸仏とは相手を人格として尊敬することです。ともすると私たちはあが子をペット視したり、相手を道具扱いしがちです。それを誡めているのです。「菩薩の行」とは、広大無辺な諸善万行のことではありません。「わが子を育てると思うなよ。子を育てることによって親が育つ」。その自分と相手が共に育つこと。その方法を「諸仏を供養し、衆生を開化する」というのです。「供養」とは恭敬供養といって、自分は謙[へりくだ]り、相手を尊敬して、相手から学ぶことです。「供養」は本来は自分が持っていては物の値打ちが小さいから、尊い人に差出して、そのものを公けに使うとか、その物の値打ちを高めて貰うことですが、物でなく相手の親切を快く受け取ることも、また一番大きな供養は相手が一生懸けて造り出したり、発明したものを、承け継いで行くこと。相手の人生経験を聞かせて頂き、自分の生きる指針とすることをいっています。相手を育てることは、俗にいう教育ママでなく、相手の良さを見つけてそれを喜んで讃めることです。(中略)相手の欠点を直そうとして、それを言えば大きなふくれ面をし、相手の長所を讃めれば必ず笑顔になります。ある人が「相手に言うことを聞いて貰いたければ、先ず自分が先に相手の言うことを聞くことです。相手は素直ですから、自分の言うことを聞いてくれます。これは絶対間違いないことです」といっていました。

経典は、序文・正宗分・流通分の三分科より成ることは既に述べた。序文は更に、証信序・発起序とに分けられる。証信序とはその経典の内容が誤りなきことを証明して未来の衆生に信を起こさしむる序文をいう。かかる序文は一般経典に殆んどすべてに通ずるものであるから、これを通序とも称する。発起序とはそれぞれの経典が起筆される因縁・動機を示す序文である。これはその経典に限って、特殊の事情を述べたものであるから通序に対して別序ともいわれる。
大経の序文は「我聞如是」より「願楽欲聞」に到る部分であって、この中、初めより「一時来会」までは証信序であり、以下は発起序である。
証信序において普通六つのことを説くを常とする。これを六事成就と呼ぶ。六事とは聞・信・時・主・処・衆で、これを今経に配当して見ると次のごとくである。
1、聞成就――「我聞」の二字で大経の会座に連なりし阿難が、仏入滅の後、経典編纂の時自らの聞きし処を誦出するに当たり、自己が仏の説法を聞いたことを告白するを示す。
2、信成就――「如是」の二字で仏より聞いた内容は「かくの如くであった」と述べて、これより述べることは、阿難が仏より聞いたことを毫も相違なきことを述べて、信を生ぜしむるをいう。
3、時成就――「一時」の二字である時という意味である。大経の説かれた時を指す。
4、主成就――「仏」の一字で大経の説法は釈尊によることを示す。
5、処成就――「住王舎城耆闍崛山中」で大経の説法を聞いた場所を表す。
6、衆成就――「与大比丘衆」より「一時来会までを指し、大経は阿難一人が聞いたものではなく、数多の人々と共に聞いたことを述べるものである。
以上、六事成就は相依って経説が誤りなきことを証明し、未来世の衆生をして、信を起こさしむるものである。

わたしは、このように聞きました。あるとき仏は、王舎城の東北にある耆闍崛という山にいました。王舎城はマガダ国の首都です。耆闍崛山はグリドラクータというサンスクリット語を音写したもので、原語は「鷲の峰」という意味です。その辺りに鷲がいたとも、あるいは頂きが鷲の形をしているからだともいわれています。
そこには、修行僧の仲間が一万二千人いました。これらのすぐれた聖者たちは、みな神通力を得ていました。
次に、この経典では、そこに集まったすぐれた仏弟子の名前をあげていきますが、ここではそのいちいちの名前は省きます。
こういう方々は上首(指導者)であった、すぐれた人たちであった、というのです。
それからまた、大乗仏教のもろもろの求道者たちもそこにいました。そこで菩薩の名前がずっと出ています。普賢菩薩、これは慈悲の実践者です。それから妙徳菩薩、これは文殊菩薩、智慧をつかさどる菩薩です。それから慈氏菩薩。この菩薩は、もとのことばでマイトレーヤといって弥勒菩薩のことです。人々が現在住んでいるこの長い時期に世に現れるこれらの千人の仏たちのほかに、また菩薩の名前がたくさんあげられているのですが、これらの人々はみな普賢大士つまり普賢菩薩の徳にしたがって、もろもろの菩薩の無量の行願を身にそなえていて、一切のすぐれた特徴を自分で実践していました。「行」は実際の行いです。それから「願」というのは、修養を完成し、人々を救いたいという願いです。
それらの菩薩は、やがて仏となる人々ですから、結局、釈尊と同じような経歴をたどります。
ですから、十方に歩いて行き、経巡って、衆生を教化し救うための手だてを行います。そして仏の教えの蔵に入って、さとりにいたりつき、体得します。そして数多くの世界において完全なさとりを実現する、そういう経緯を示すというのです。  
正宗立願分/阿難、世尊の悦びの理由を問う

その時、世尊は、諸根(二十二根、根本的な力)悦予(えつよ、心より楽しむ)したまい、姿色(ししき、姿形)は清浄にて、光顔(こうげん、光溢れる顔)は巍巍(ぎぎ、秀でる)たり。
尊者阿難は仏の聖旨(しょうし、意向)を受けて、即ち座より起ちて、ひとえに右の肩を袒(はだぬ)ぎ、長く跪いて掌を合わせ、仏に白(もう)して言(もう)さく、「今日の世尊は、諸根悦予したまい、姿色は清浄にて、光顔は巍巍たること、明鏡の浄き影の表裏を暢(とお)すが如く、威容は顕かに耀いて超絶なること無量なり。未だかつて殊妙なること今の如きを瞻覩(せんと、仰ぎ見る)したてまつらず。
唯(ゆい、敬って頷く)然り、大聖(だいしょう、仏に対する敬語)、我が心に念(おも)いて言わく、
「今日の世尊は、奇特の法に住しまい、
今日の世雄(せおう、英雄)は、仏の住したもう所に住したまい、
今日の世眼(せげん、眼目、目指す所)は、導師の行に住したまい、
今日の世英(せよう、英雄)は、最勝の道に住したまい、
今日の天尊(天人の中の尊者)は、如来の徳を行じたもう。
去来(こらい、過去と未来)現在は、仏と仏相い念じたもうに、
今の仏、諸仏を念じたもうこと無きを得んや。
何の故にか、威神の光、光ること乃(すなわ)ちしかる。」と。
そのとき釈尊は喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、輝かしいお顔がひときわ気高く見受けられた。そこで阿難は釈尊のお心を受けて座から立ち、衣の右肩を脱いで地にひざまずき、うやうやしく合掌して釈尊にお尋ねした。
「世尊、今日は喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、そして輝かしいお顔がひときわ気高く見受けられます。まるでくもりのない鏡に映る姿が透きとおっているかのようでございます。そして、その神々しいお姿がこの上なく超えすぐれて輝いておいでになります。わたしは今日までこのような尊いお姿を見たてまつったことがございません。そうです、世尊、わたしが思いますには、世尊は、今日、世の中でもっとも尊いものとして、特にすぐれた禅定に入っておいでになります。また、煩悩を絶ち悪魔を打ち負かす雄々しいものとして、仏のさとりの世界そのものに入っておいでになります。また、迷いの世界を照らす智慧の眼として、人々を導く徳をそなえておいでになります。また、世の中でもっとも秀でたものとして、何よりもすぐれた智慧の境地に入っておいでになります。そしてまた、すべての世界でもっとも尊いものとして、如来の徳を行じておいでになります。過去・現在・未来の仏がたは、互いに念じあわれるということでありますが、今、世尊もまた、仏がたを念じておいでになるに違いありません。そうでなければ、なぜ世尊のお姿がこのように神々しく輝いておいでになるのでしょうか」  
仏仏相念の世界
【尓の時】(爾の時)昔はその時とは、時は一時[あるとき]、所は霊鷲山、説く人は仏、聴衆は大比丘と菩薩、それらが整うたことといっているが、それは写真でも撮れる道具建てが整ったことで、それなら「其の時」です。「尓時」はしかる時で、その場の雰囲気を言っているのです。常随の阿難が今まで見たこともない、今初めてと驚いた、釈迦の神々しい姿が何故であろうか、その由って来る原因を抑えて尓の時といったのです。そのことは次の「世尊」にも現われている。序文には「一時仏」といっているのを、何故ここで世尊といったのか。仏は三人称で第三者が何ら感情を交えずに、覚った人を指す語ですが、世尊は二人称の敬語です。その秘密が序文の中に隠れているのです。それは覚った法だけでなく、聴衆への信からの喜びです。
【釈迦の信】「大経」以前の経では、原始仏教の「阿含経」でも、大乗仏教の「華厳経」でも、説法の始まる前に「三止三請」といって、会場が整ったので案内すると、釈迦は会場へ出て見て、黙ってそのまま帰られた。三度び請うて三度び止められた。それは聴衆の中に今日の話をよう聞かぬ者があると見られたからです。また「法華経」では、聴衆の中に程度が低く、たとい火の中をかき分けてでも聞かずにおれぬという真剣さがないからと、道は遠いのを道は近いと方便に嘘を言っているのは、皆聴衆を疑っているからです。
「大経」の釈迦は、表はどうあれ、全ての人に悉く仏性があり、永い地上生活を通して真実を求めて来た先祖の精神的遺産を承けて、この事一つに腹一ぱい説けるぞという信が全身に表れているのです。それを序文に一万二千の聴衆を「一切は大聖にして神通すでに達せり」と説いたのです。
【説聴一如の経】これは「大経」だけではなく、浄土の三経は皆仏仏相念の法です。昔は「阿弥陀経」は舎利弗よ、舎利弗よと三十六遍呼ばれたが、説法が解らぬので、呆れて聞いたといっていましたが、これは間違いで、舎利弗は解ったから唯だ頷いて聞いていたのです。それで序文に聴衆は「皆、大アラカンである」といっているのです。
また「観経」でも、釈迦がイダイケ夫人に対して「汝今知不」とっているのを、お東では「汝今知れりやいなや」と訓み、お西では「汝今知るやいなや」と訓んでいるが、どちらも「お前には今解るまいがや」と解釈して、だから教えてやると、釈迦の態度を高飛車に説いているのですが、これは全く経の意を読み違えているのです。金子先生も「あなたにも今は解るでしょう」と解釈して、イダイケも「解ります、解ります」と頷いて聞いたといっておられます。
【師と弟子との感応】釈迦の気高い姿を見た従者の阿難が姿勢を正して、見たままを「今日世尊は目鼻は悦びに満ち溢れ、肌の色は清らかで、お顔は気高く光り輝いています。これは磨かれた鏡が姿を映すように、心のさとりが姿に映っているのでしょう。私が心に言うてみますのに」といって、今日世尊、今日世雄、と五遍徳を称えて、「過去未来現在の三世の仏は、仏と仏と互いに念じ合うておられます。今のあなたも諸仏を念じておられぬ筈はありません。何が故にこのようにお徳が気高く光り輝いておられるのでしょうか」と問うています。
これはこの阿難の問いと次の釈迦の答えによって、著者のさとりの内容を明らかにしようとしているのですが、前にも述べましたように、これは歴史上に曽てあった事実をいっているのではありません。ヘルマン・ヘッセがその著「シッダルタ」に、一釈迦の人格を反抗精神と随順精神の二つに分けて、反抗精神を擬人化してシッダルタと名づけ、随順精神をゴービンダと名づけて、仏教とはどういうものかを説くために、小説として創作しているのと同じ手法です。「大経」では「我」と名告る著者が自分の覚りを説くために、師と弟子との問答という形で明らかにしようとしているのです。
【五つの徳相】阿難が釈迦の気高い姿を見て、心に感じたままを念言して、今日世尊、今日世雄と五度び言葉として表現したのですが、ここにいる一万二千の聴衆には感じとしては、今日の釈迦の姿が気高いことは解っていたのでしょうが、お徳の内容が言葉にはならなかったのでしょう。したがって阿難が言えば聴衆は皆、その通りその通りと、自分の自覚になったに違いない。金子先生が「世自在王仏の徳でなければ法蔵菩薩は誕生せず、法蔵菩薩の眼でなければ世自在王仏の徳は見えない」といっているが、今の釈迦と阿難の関係も同じことです。まさに時機純熟です。良寛は「花無心にして蝶を招く、蝶無心にして花を尋ぬ。花開く時蝶来たるか、蝶来たる時花開くか。我亦知らず人亦知らず、知らずして帝の則に順う」と嘆じています。
「今日」は生れて初めてという阿難の感動であり開眼でしょう。「世尊」はこの世の尊い宝という釈迦に捧げた尊称です。「奇特の法」は珍しい特別な法を覚っておられるということか。「世雄」は姿が勇ましく男らしいこと。「仏の住する所」は菩提の座ですが、それは座りこんでいる座ではなく、獅子の座に乗っている求道の相でしょう。「世眼」は世間の眼で、人生行路の難局を切り拓く智慧者の相。「導師の行」はたんに仏になる道だけでなく、「三界の大導師」ですから、人生に悩んでいる「時の人」を問題の解決に導くことでしょう。「世英」はこの世の英雄で、誰よりも勝れて秀でている相。「最勝の道」は仏道の無上道であると共に、どんな教えよりも勝れていること。「天尊」は尊さがこの世の人でないこと。初めは世尊と思ったのが徳を讃めている中に阿難の眼が高まって、遂に天尊と仰がれるようになったのです。「如来の行を行じたもう」、前の四徳は全て「住」であったのに、天尊だけが「行」になっています。住は身に具わった徳でしょうが、「内にあるを徳といい、外に施すを行という」、行は徳が形をとって外に現われることです。
【五徳と大寂定】この五徳を異訳の「如来会」には大寂定といい、また「真宗新辞典」には大寂定弥陀三昧といって、それを「大涅槃の根元である弥陀三昧」と解釈してあるが、五徳と大寂定は別であり、また大寂定の根本が弥陀三昧ではない。これは真実のさとりは涅槃とか法性真如という腹と、法相宗のさとりの方法である。煩悩を断ち無明を払い除いてゆく「五重唯識」と同じであるという誤った先入観念からの発想に違いありません。五徳は阿難が言っているように、修行によって成就した人格であり、弥陀三昧は三世の諸仏の仏仏相念の世界です。
涅槃とか法性真如は自然の世界で、法身ですが、五徳とか弥陀三昧は、色も形もない法性真如が自ら色を取り形を取って現実に具体化するために、願いを発こし行を修して成就した、本願成就の報身であり報土である行為的世界です。同じく真実といっても、法身の真実と報身の真実は違います。たとえば子どもの真心は天真爛漫で無邪気です。大人の真心は生活経験によって造られたものです。経には本来の自然の真心のことを清浄心といい、生活を通して徳となった真心を荘厳心といっています。漢字ではこれを区別して、淳心と真実心といい、親鸞は至心は「真実誠種の心」といい、信楽は「真実誠満の心」といい、信楽は「真実誠の満足した心」といっています。
【仏仏相念】念仏は法然や「歎異抄」では、文字の上では罪の深い凡夫が仏を念ずることになっていますが、いわれに適うた念仏は凡夫にはできません。才市同行は「ナムの仏がアミダの仏に拝まれて、アミダの仏がナムの仏に拝まれて、これが機法一体のナムアミダ仏」。また「ナムの二字もナムアミダ仏、アミダの四文字もナムアミダ仏、ナムの仏が私で、アミダの仏が親さまで、これが機法一体のナムアミダ仏」といっています。
しかし「大経」では過去未来現在の三世の仏と仏が拝み合うことであり、「観無量寿経」には「諸仏の前に生まれる」ことです。龍樹はこれを般舟三昧といって、「諸仏が眼の前に現れる」ことといっています。三世の諸仏とは、過去の仏は先祖に宿った仏、未来の仏は子孫に宿った仏、現在の仏は今生きている私とあなた、嫁と姑に宿った仏のことです。念仏はそれが見えることです。
仏仏相念の世界はたんに心と心の触れ合いという心の世界ではなく、浄土そのものです。「華厳経」では浄土は諸仏が集まった世界といっています。これは第三者が見た世界で、写真に撮った光景です。何のために集まったのか。これでは行為的世界は解りません。このことは釈迦の誕生でも、「華厳」では「唯我独尊」といっていて、動きがありません。これは覚りの一念です。「大経」では「我無上尊とならん」と意志的に願いとして現しています。浄土も仏仏相念と行為的世界として説いている。これは主客一如の境地で、芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」は、蝉の声が静かなのか芭蕉の心が静かなのか、叙景詩のままが叙情詩です。「古池や蛙飛びこむ水の音」も、深山の古池も唯見ただけではそれだけですが、蛙が飛びこむ水の音によって静けさが破れる。それによって何と静かだなあと、静けさが自覚になる。これと同じです。
【諸仏と衆生の数】仏とか菩薩と聞けば、私たちとは違った雲の上の人と思いなされていますが、皆私たちを行為的世界でいっているのです。「華厳経」では諸仏と衆生は同じ数といっています。皆さんに身近いことでいいますと、奈良の大仏です。これは「華厳経」の姉妹経の「梵網経」によって、国家の理想像を形に表わしているのですが、大仏の名はビルシャナ仏で、千の光明を放つ、一一の光明に大釈迦がおって、一一の大釈迦が百億の光明を放つ、その一一の光明に小釈迦がおる。その小釈迦が一人ひとりの衆生に宿るというのです。百億に千を掛けると十万億です。浄土の三経に十万億の仏とか、十万億の衆生世界とは皆ここから来ているのです。

証信序に次いで発起序が説かれてある。発起序とは正しく大経の説かれた特殊の因縁を示すもので、「爾時世尊」より「願楽欲聞」までをいうのである。然らば大経はいかなる特殊の因縁があって説かれたかといえば、証信序において示されたごとく、耆闍崛山の会座全く整うや、釈尊はその身に五徳の瑞相を現ぜられた。五徳の瑞相とは1住奇特法2住仏所住3住導師行4住最勝道5行如来徳の五相であって、その意を表示すれば次の通りである。
大経五徳
住奇特法――身の上に現たる奇特の相――身徳(入大寂定)
住仏所住――仏の住したもう証りの徳――心徳(入大寂定)
住導師行――衆生を導き涅槃に入らしむる徳行――利他(別・行如来行)
住最勝道――最も勝れたる智慧の道―――――――自利(別・行如来行)
行如来徳――二利円満の如来の徳――――――二利円満(総・行如来行)
(編集註:「入大寂定」と「行如来行」を合わせ「如来会二徳」となる、と説明してあるが・・・)
このような瑞相を未だ釈尊は現ぜられたことがなかったので、聴衆の一人えある阿難は怪しみて釈尊にその理由を問い奉った。  
ここに於いて世尊、阿難に告げて曰(のたま)わく、「云何が阿難、諸の天、汝に来りて仏に問えと教えしや。自らの慧(智慧)を以って(仏の)威顔(いげん)見て問いしや。」
阿難の仏に白さく、「諸の天の来たりて我に教うる者あることなし。自らの見し所を以ってこの義を問いたてまつるのみ。」
仏言たまわく、「善きかな、阿難。問う所は甚だ快し。深き智慧と真妙の辯才を発(おこ)して衆生を愍(あわれ)みこの慧義(智慧ある疑問)を問う。
如来は無尽の大悲を以って三界(さんがい、欲界、色界、無色界、六道の衆生世間)を矜哀(こうあい、哀れむ)す。世に出興(しゅっこう、出現)する所以(ゆえ)は、道教を光(てら)し闡(ひら)いて、普く群萌(ぐんもう、衆生)をして真法の利(利益)を獲(え)しめんがためなり。
無量億劫にも値(あ)い難く見難きことは、なお霊瑞(りょうずい、霊妙なる瑞兆)の華の時々に乃(わずか)に出づるがごとし。今問う所は多く饒益(にょうやく、利益)する所にて、一切の諸の天人(天上と人間)の民を開化せん。
阿難、まさに知るべし。如来正覚(しょうがく、仏)は、その智(智慧)量り難く多くを導御(どうぎょ、化導と制御)し、慧見(智慧でもって観察する)は無礙(むげ、自由自在)にして遏(とど)め絶つこと能わず。一食の力はよく(仏の)寿命を住(とど)むること億百千劫無数無量なりとするとも、またこれを過ぎたり。諸根は悦予して以って毀損せず、姿色は不変にして光顔に異なりなし。
所以は何んとなれば、如来の定慧(禅定と智慧)は究めて暢(のびやか)なること極まりなく、一切の法(あらゆる事物)に於いて自在を得。
阿難諦かに聴け、今汝が為に説かん。」
対(こた)えて曰(もう)さく、「唯然り、願わくは楽しんで聞かんと欲す。」
・・・そこで釈尊は阿難に対して仰せになった。
「阿難よ、天人がそなたにそのような質問をさせたのか、それともそなた自身のすぐれた考えから尋ねたのか」
阿難が答えていう。
「天人が来てわたしにそうさせたのではなく、まったく自分の考えからこのことをお尋ねしたのでございます。
そこで釈尊は仰せになった。
「よろしい、阿難よ、そなたの問いはたいへん結構である。そなたは深い智慧と巧みな弁舌の力で、人々を哀れむ心からこのすぐれた質問をしたのである。如来はこの上ない慈悲の心で迷いの世界をお哀れみになる。世にお出ましになるわけは、仏の教えを説き述べて人々を救い、まことの利益を恵みたいとお考えになるからである。このような仏のお出ましに会うことは、はかり知れない長い時を経てもなかなか難しいのであって、ちょうど優曇華の咲くことがきわめてまれであるようなものである。だから、今のそなたの問いは大きな利益をもたらすもので、すべての天人や人々をみな真実の道に入らせることができるのである。
阿難よ、知るがよい、如来のさとりは、はかり知れない尊い智慧をそなえ、人々を限りなく導くのである。その智慧は実は自在であり、何ものにもさまたげられない。わずか一度の食事によって限りない寿命をおたもちになり、しかも喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、輝かしいお顔も気高く、少しもお変わりにならない。なぜなら如来は禅定と智慧をどこまでもきわめ尽し、すべてを思いのままにする力を得ておいでになるからである。阿難よ、わたしはこれからそなたのために詳しく説くから、よく聞くがよい」
阿難はお答えした。
「はい、喜んで聞かせていただきます」 
法は永遠、機は常に今
世尊は「阿難、お前はへつらいやお愛想に問うたのか、それとも自分で見たままを問うたのか」。
阿難は「滅相もございません。私に他意や不純な雑念があってお尋ねしたのではございません。唯私の見たまま思うたままをお尋ねしたのでございます」。
仏は「よう問うてくれた。わしは大変嬉しいぞ。これは心の眼が開いていなければ見えず、深い智慧がなければ言葉にはならない。お前の問いはここにいる全ての聴衆の心の眼を開いて、自覚にまで高めることになるのであろう。
わしがこの世に出たのは、多くの人々が自分が見えず人生も解らず、徒に迷い悩んでいるのを見て、じっとしておれぬ無蓋の大悲から、人間として生きるまことの道を明らかに教えて群萌を救い、真実の幸せを得させたいからである。如来の出世に値[あ]うことは無量億劫にも難く、また如来に見[まみ]えて法を聞くことはなお難い。あたかも霊瑞華が時たま咲くようなものである。阿難、今お前が問うたことは、富める者も貧しい者も、閑のある人も閑のない人も、智者も愚者も、一切の人々が救われる新しい歴史の扉を開く、画期的な事件になるであろう。
阿難、よく聞いて忘れるなよ。如来のさとりはその智慧は深くして量りなく、どんな人をも導くことができる。また慧見は明らかで碍りなく、どんな事件も解決できぬことはない。そして唯一食の力で寿命を保つことは億百千劫それよりも遙かに超えている。全身は常に悦びに満ちて衰えることはなく、肌の色が変わることも、顔の輝きが異なることもない。それは如来の三昧と智慧は透徹して極まりなく、この世の一切のことに自在であるからである。
阿難、諦らかに聞け。今お前の問いの中にある一大事因縁を説くであろう」。
阿難は「どうぞお願いします。楽しんでお聞かせ頂きます」。
【科段】ここと前月号の一段は、どうしてこの経が説かれることになったのか、また今日の私たちとどう関係するのかという大事なところですが、経文が解り難いので、私は大胆に訳しましたから、お経を目の前に置いて経文と見合わせながら読んで下さい。これから後も私の解説を離れて経文に重きをおいて下さい。
今の所は二段に分かれていて、初めの釈迦が阿難に問うている所から「一切の諸天人民を開化する」という所までが、阿難と聴衆の気がついていない無意識の心を喚び醒まして、釈迦がこの世に出たのはこの経を説くためであることを説き、「阿難まさに知るべし」から後の文は、阿難が今日初めてと驚いたことを押さえて、如来のさとりはどういうものかを説くのです。
【諸天の教え】経文の「諸天の教え」ということに解説者は皆困っているのですが、釈迦が、阿難の問いが阿難が見たまま思うたままであることを確かめ、それによって、一万二千の聴衆の一人ひとりに、阿難の問いは自分の感じていることを判[はっ]きり言葉として言い現わしてくれたことを自覚させるためですから、私は「諸天の教え」ということを「へつらい」とか「お愛想」と訳したのです。そのことは、親鸞が「阿難とは聞法歓喜と訳す」といい、「観経」の「アジャセとは一切衆生に名づける」といって、「経に阿難とあるのは、三千年昔の阿難ではない。法を聞くことを喜びとしているもののことであり、阿闍世とは後の世の私たちのことである」といっていることでも解るでしょう。
【出世の本懐】ここに「如来無蓋の大悲を以て世に出る」とあるのを、今までは皆「如来」を普通名詞の三人称と解釈して、仏一般として「したもう」と敬語を使っているのですが、ここは釈迦が自らのことを如来といったので、釈迦自身がこの世に出たことをいっているのです。「三界を矜哀する」を徳川時代では全ての学者が、「私たちが迷いを迷いと知らず生きているので、「そこは迷いの娑婆であるぞ」と教えて、どこかの世界へ連れてていくこと」といってきたのですが、それは現実の人生からの逃避で、世捨て人の悪魔外道の教えです。それは問題の解決ではありません。
仏教は内道といって、与えられた環境や境遇はそのまま受けて、自分が、光明のお育てによって心の眼を開き、仏の智慧が自分の智慧となって生きることで、今までとは違った人間になることです。親鸞も「信心開発した人は凡夫ではない菩薩である。それも上位の正定聚不退転の菩薩である」といっています。ここに「道教を光闡し」とあるのを、ほとんどの学者が「聖道自力の教えを説いた」といっていますが、これも人間としてこの世に生きる人の道のことです。
また「群萌」は衆生と同じ意味で、私たち人間のことですが、今までは群がり萌え出る者と訓んで、雑草のことといって、「雑草は、梅や桜のように人から讃められもせず、むしろ踏みにじられる存在である。けれども踏まれても蹴られても、いよいよ深く根を張って逞しく生きる、われら民草のことである」といってきましたが、それは僻み根性か、それとも人間をよく知らぬ学者の眼です。それを存覚上人唯一人、「人間は外観はどうあれ、どんな人も法の雨に遇えば、必ず仏道の芽を生ずるから、われわれ人間のことを群萌と説かれたのである。経に一切衆生に悉く仏性があると説いているのもこのことである」といっています。
「群萌を救う」とは、死後にどこかの世界へ生まれさせることではありません。「真実の利を恵ま」れることです。真実の利とは本当の幸せのことです。全ての人は、意識無意識の違いはあっても、皆幸せを求めている存在です。しかし幸せとは何かを知っている人は極めて稀です。「アラビアンナイト」も、メーテルリンクの「青い鳥」のチルチル、ミチルも、幸せを探し求めてさまようて、「明日になったら、あの山を越えたら」と、幸せを未来に尋ねたり、「昔はよかった、戦争以前はよかった」と過去の憶い出に浸っても、目醒めてみればみなぬか喜び、「幸せの光はわが家にあった」といっています。
中国人は「旬日春を尋ねて春を得ず。春は枝頭にあってすでに十分」(幸せは求めるから逃げ水のように逃げる。春は向こうから野にも山にもわが家にもやってくる)と。日本の古代では「紅葉の錦神のまにまに」(我々が願わんでも「天然の美」か神の仕業か、幸せは与えられている)と満足しているが、ほとんどの人々は「山の彼方の空遠く、幸い住むと人のいう。ああ我ひと共に求め行きて、涙さしぐみ帰り来ぬ。山の彼方になお遠く、幸い住むと人のいう」と、大きな溜め息をついている。この世に絶望した多くの人は「不老不死の水」を死後に求めて、仏にすがっていた。
近世になってポチを連れていた「花咲爺」さんは、「幸せは天からは降っては来ぬ。いつも自分の立っている足元を掘れば、幸せは大地から湧いて出る」といい、「越後の獅子」は「体当たりで一所不在の旅に出よ。自分自身こそ幸せの花である」と教えているが、さて手に入った幸せとは、果たしてどんなものであったのだろうか。私たちが幸せと掴んだものは、悉く幸せに似ている幸せの隣のもので、仮の宝です。心から満足できるものは一つもありません。それどころか、気がついてみれば副作用に毒されたり、却って大切なものを失っています。ここにいう真実の幸せとは、それさえあれば決して不幸せに陥ることのないもので、親鸞も「苦しみを転じて楽しみとなし、悪を転じて徳を成す打出の小槌である」といっています。それだけではない、「人間の求めたものより遥かに大きなものが与えられる、真実の宝である」といっています。
「無量億劫にも値い難く、見[まみ]えることも難い」とは、「如来の出世に遇うことも難いが、たとい出世に遇えたとしても、如来ということが解らず過ごし、たとい法を聞いても、自分の心の眼が開くことがまことに難い」それは「霊瑞華」のようなものである。霊瑞華とは優曇華のことで、一般では三千年に一度開くといわれていますが、華が開くのではない、華を見る眼が開くのです。優曇華は無花果科の華で、私たちが実と思って食べている、あれが花です。皮を被っているから花と気がつかぬのです。それは「値い難し」という値の字がそれを現しているのでしょう。値は人の値打が解ることで、たとえば親の値打は親が生きている時は解らぬが、親が死んで初めて親の尊さがわかる。お金も有る時は湯水のように使うが、無くなって初めてお金の有難さが解ると同じことです。
自分の眼が開けぬば仏も浄土も見えません。しかし後白河法皇撰の「梁塵秘抄」に「ほとけは常にいませども、現つならぬが哀れなる。人の音せぬ暁に、仄かに夢に見えたもう」というのとは違います。先月号の「仏仏想念の世界」の世自在王仏の徳でなければ法蔵菩薩は誕生せず、法蔵菩薩の眼でなければ世自在王仏の徳は見えない」という、徳と眼の関係です。
【如来の覚り】ここからは仏に値うことが難しいことを受けて、阿難が今日初めてということに対して、仏の覚りとはどういうものかを説くのです。ここの「如来」も仏一般のことに違いありませんが、釈迦自身が「わしのさとりは」という意です。智慧そのものは深くして底なく、多くの人を教え導き、自分自身日常の生活に生きることに行き詰まることはない。
【一食の力】を以てよくいつまでも生きることが出来、姿形も常に生き生きとしていて、気力も衰えることはない。肌の色もいつも艶つやしていて、顔も光り輝いている。何故かといえば、如来は常に三昧に住していて、心は寂かで、何ものにも動揺されることはない。その智慧はどんなことをも見極めることができ、一切の事件に自在であるからである。ここに「一食の力」というのは、体の食べ物のことではない、心の食べ物でさとりのことです。覚りは一遍心の眼を開けば、浄土の歴史的寿が自分の今を生きる生きる命となるから、永遠に迷いに転落することはない。それどころか、日常生活に当面する一つ一つの事柄によって、日々新たに、三昧と智慧をより深めて行くことができることです。ここは「法は永遠、機はいつも今」ということをいっているのです。
【阿難よ、諦かに聴け】ここまで説いて、釈迦は改めて阿難の名を呼んで「諦かに聴け。これからお前のために説くぞ」といっています。一万二千の聴衆は釈迦の念頭から消えたのでしょうか。違います。恐らくこれは法の伝授は、一対一の師資相伝のものであることを現しているのでしょう。昔から法を聞くのに「お相伴」に聞くことを「盗み聞き」といって、「悪銭は身につかず」と誡めています。このことは経の終わった時、この経が聴衆にどのように受けとられているかを、必ず「得益文」として説いています。
また法を説く者の心得として、「説法は空から灰を播くような説き方をしたのでは説いた効がない。必ず一対一のつもりで説け。そのためには、演台に立った時、素早く正面と右と左に一人ずつ、よく聞く熱心な同行を見定めて、その人と対話するような心持ちで法は説かねばならぬ」と教えています。
阿難は釈迦のこの言葉を聞いて「願楽欲聞」といっています。何故願うということを三つも重ねて言わせたのでしょうか。「願」は行願で、ただ聞くのではない、はっきりした目的があって願うこと。「楽」は前に聞いたことを重ねてもう一度楽しんで願うこと。「欲」は飢えたものが食を求めるように貪るように欲しがることです。
私は母から「仏法は初めて聞いたのでは解るものではない。たとい前の生で祇園精舎の軒下に巣をかけていた雀であってもよい、お釈迦さまの説法を言葉は解らんでも、声だけでも聞いたものが、この世で重ねて法を聞けば解る」と教えられました。経にはそのことを「前の生で何千何万という仏から法を聞いたものが重ねて聞いた時だけ、心の眼が開ける」と説いています。
いよいよこれから法蔵菩薩の誕生です。

そこで釈尊はその理由を説明して、次のごとく述べられたのである。
如来以無蓋大悲矜哀三界所以出興於世光闡道教欲拯群萌恵以真実之利
されば釈尊の返答によれば、釈尊がこの世に出現されたのは余他の仏法を説くのが目的ではなく、それはみな弘願の教法を説くための方便階梯であって、釈尊の此土出現の目的は一つ、この弘願法たる大経を説くためであることを知り得るのである。ここにおいて阿難は、釈尊出世の目的である勝法を聞かせて頂きたいと願い、ここにいよいよ大経正宗分の説法が開かれるのである。
宗祖は「本典」教巻に、「如来無蓋大悲」等の文及び、五徳瑞現の文を引用して、大経の出世本懐なることを示しているが、五徳瑞現の文をもって、本懐論の証明とするのは、この文によって大経説法の釈尊が余他の経典を説法せられた釈尊とその資格が異なり、本地仏たる阿弥陀仏と不二一体の格位にあることを表さんとするのである。 
世尊、喜んで阿難のために説く
仏は阿難に告げたまわく、乃往(むかし、既往)の過去の久遠にして無量不可思議無央数(むおうしゅ、無尽数)劫に、錠光如来(じょうこうにょらい)世に興出(い)でたまいて、無量の衆生を教化し度脱して皆道を得しめ、乃ち(自ら)滅度を取りたまえり。
次にも如来あり、名を光遠(こうおん)と曰う。次を月光(がっこう)と名づけ、次を栴檀香(せんだんこう)と名づけ、次を善山王(ぜんせんおう)と名づけ、次を須弥天冠(しゅみてんかん)と名づけ、次を須弥等曜(しゅみとうよう)と名づけ、次を月色(がっしき)と名づけ、次を正念(しょうねん)と名づけ、次を離垢(りく)と名づけ、次を無著(むじゃく)と名づけ、次を龍天(りゅうてん)と名づけ、次を夜光(やこう)と名づけ、次を安明頂(あんみょうちょう)と名づけ、次を不動地(ふどうち)と名づけ、次を琉璃妙華(るりみょうけ)と名づけ、次を琉璃金色(るりこんじき)と名づけ、次を金蔵(こんぞう)と名づけ、次を炎光(えんこう)と名づけ、次を炎根(えんこん)と名づけ、次を地種(じしゅ)と名づけ、次を月像(がつぞう)と名づけ、次を日音(にちおん)と名づけ、次を解脱華(げだつけ)と名づけ、次を荘厳光明(しょうごんこうみょう)と名づけ、次を海覚神通(かいかくじんつう)と名づけ、次を水光(すいこう)と名づけ、次を大香(だいこう)と名づけ、
次を離塵垢(りじんく)と名づけ、 次を捨厭意(しゃえんに)と名づけ、次を宝炎(ほうえん)と名づけ、次を妙頂(みょうちょう)と名づけ、次を勇立(ゆうりゅう)と名づけ、次を功徳持慧(くどくじえ)と名づけ、次を蔽日月光(へいにちがつこう)と名づけ、次を日月琉璃光(にちがつるりこう)と名づけ、次を無上琉璃光(むじょうるりこう)と名づけ、次を最上首(さいじょうしゅ)と名づけ、次を菩提華(ぼだいけ)と名づけ、次を月明(がつみょう)と名づけ、次を日光(にっこう)と名づけ、次を華色王(けしきおう)と名づけ、次を水月光(すいがっこう)と名づけ、次を除癡冥(じょちみょう)と名づけ、次を度蓋行(どがいぎょう)と名づけ、次を浄信(じょうしん)と名づけ、次を善宿(ぜんしゅく)と名づけ、次を威神(いじん)と名づけ、次を法慧(ほうえ)と名づけ、次を鸞音(らんおん)と名づけ、次を師子音(ししおん)と名づけ、次を龍音(りゅうおん)と名づけ、次を処世(しょせ)と名づく。かくの如き諸の仏は皆悉くすでに過ぎたり。
釈尊は阿難に仰せになった。
「今よりはかり知ることのできないはるか昔に、錠光という名の仏が世にお出ましになり、数限りない人々を教え導いて、そのすべてのものにさとりを得させ、やがて世を去られた。次に光遠という名の仏がお出ましになった。その次に月光[がっこう]・栴檀香[せんだんこう]・善山王[ぜんせんのう]・須弥天冠[しゅみてんがん]・須弥等曜[しゅみとうよう]・月色[がっしき]・正念[しょうねん]・離垢[りく]・無著[むじゃく]・龍天[りゅうてん]・夜光[やこう]・安明頂[あんみょうちょう]・不動地[ふどうじ]・瑠璃妙華[るりみょうけ]・瑠璃金色[るりこんじき]・金蔵[こんぞう]・焔光[えんこう]・焔根[えんこん]・地動[じどう]・月像[がつぞう]・日音[にっとん]・解脱華[げだっげ]・荘厳光明[しょうごんこうみょう]・海覚神通[かいかくじんずう]・水光[すいこう]・大香[だいこう]・離塵垢[りじんく]・捨厭意[しゃえんに]・宝焔[ほうえん]・妙頂[みょうちょう]・勇立[ゆうりゅう]・功徳持慧[くどくじえ]・蔽日月光[へいにちがっこう]・日月瑠璃光[にちがつるりこう]・無上瑠璃光[むじょうるりこう]・最上首[さいじょうしゅ]・菩提華[ぼだいけ]・月明[がつみょう]・日光[にっこう]・華色王[けしきおう]・水月光[すいがっこう]・除痴瞑[じょちみょう]・度蓋行[どがいぎょう]・浄信[じょうしん]・善宿[ぜんしゅく]・威神[いじん]・法慧[ほうえ]・鸞音[らんのん]・師子音[ししおん]・龍音[りゅうおん]・処世[しょせ]という名の仏がたが相次いでお出ましになって、みなすでに世を去られた。 
過去の五十三仏
仏は阿難に告げた。「昔、昔、まだ昔、もう一つ昔のその昔。錠光如来がこの世に出て、数限りない衆生を教え育てて、自我愛を離れて道を覚らせ、この世を去った。次の如来を光遠と名づける。次を月光と名づけ、次を栴檀香と名づけ・・・(この間四十五仏)次を鸞音と名づけ、次を獅子音と名づけ、次を龍音と名づけ、次を処世と名づける。このような諸仏が皆悉くすでに過ぎ去った。
【科文】いよいよこれから釈迦の説法です。説かれることは釈迦の自覚内容ですが、経の説き方が今までの原始経典や大乗経典のような、大衆に向かっての大説法とは全く違って、あたかも自分の子か孫に語りかけるように、しみじみと過去の憶い出話をする口調で説き出されています。この段は師の世自在王仏と、この経の主人公法蔵菩薩が現れる前段階。
【五十三仏の順序】ここに先ず過去に次々に五十三の仏がこの世に出て、数限りない衆生を教え育てて、この世を去ったことが説かれているのですが、その仏たちの出た順序が二様に伝えられています。この「大無量寿経」が中国語に翻訳されたのは、北魏の時代(紀元二五〇年頃)ですが、それより前に(1)後漢の時代と(2)呉の時代、そして(3)「大経」のあと(4)唐の時代と(5)宋の時代と、合わせて五種の経が翻訳されています。「大経」を正訳としてその他の四本を異訳といっています。その中で、(1)(2)(3)は、最初に錠光如来が出て、その次その次と最後が処世如来になっていて、五十四番目に世自在王如来が出たことになっているのですが、(4)と(5)の二本が初めに燃灯仏の名を挙げてその前その前と過去に逆上って、世自在王仏が一番大昔にこの世に出たことになっているのです。
考証は止めて結論だけ。私は「大経」が正しいと思っています。親鸞が「真実の教えは大無量寿経これなり」といったのも、アミダ仏のことを説いた五本の経は皆真実といったのではなく、「大経」だけを真実といったと思っています。
【五十三仏の見方】ここに説かれている五十三仏をどういう仏と見るかについて、今までに三通りの説があります。一は、釈迦と同じような人間仏と見る説。これは明治時代に出た人の説が有名ですが、これは昔々と説き出されている経文の感じとしっくりせぬだけでなく、釈迦が一番初めの仏で、釈迦以前に仏は出ていません。第二は、ある一つの真理とか道理を解り易く物語りとして説いたもので、たとえば仏性というものを物語風に説いたという見方です。これは徳川時代の学者が言っているのですが、この経の趣意とは全く違います。第三は金子先生の説ですが、これは一つの物語である。経が昔々と説き出している感じから言ってもそれが自然である。しかし「桃太郎」や「浦島太郎」のような、何か言いたいことがあって、それを寓話として、説いた物語ではない。これは真理とか道理よりももっと近いもっと深いもので、物語として説くより外に現してみようのない、人生を経験した人の実感を説いたものであるといっています。これは経文に最も適わしい受け取り方と思いますが、何かもう一つこれだという実体がはっきりしていないので、靴の上から掻くようなもどかしさが残ります。
【事実を語るな。真実を語れ】この五十三仏は過去の人間の歴史を物語っているに違いない。しかし今までは「旧約聖書」の「創世記」にしても、「古事記」や「日本書紀」にしても、先祖の系図であり、また個人の回想録にしても皆、こういうことがあったとい、その人の歩いた足跡の事実です。経には「事実を語るな、真実を語れ」といい、金子先生は「自分を語るな、法を語れ」といっています。事実は結果であってそれは情報に過ぎません。またたんに自分を語る時には、自慢話か、何かの恨みの鬱憤晴らしか、それともぐちかであって、胸に一物を抱いて「初めに魂胆あり」といわれる不純のものが多いからでしょう。一般社会の常識の世界ではほとんどの対話が、その範囲のようです。
もっと問題を掘り下げて、どうしてそういう事実が生まれたのか、何故そういう事件が起こったのか、その由って来る因縁とか、その背景にある事情とか、また生活環境の慣習とか、もっと深く人生とは何か、人間とはどういうものかという、私たちの生きる指針になるものを見出そうという願いのことを、経には「真実を語れ」といい、金子先生は「法を語れ」といっているのではないでしょうか。
私の旅先で、一人の婦人が訪ねて来て「私の一生は言葉通りの波瀾万丈でした。私に字が書けるのなら小説にしたいと思います。ベストセラー間違いなしです」。見るからに賢そうでしたから、「あなたの書きたい小説は、あなたが歩いて来た足跡でしょう。私はあなたのような人に聞いてみたいことがあるのです。それはあなたの一生の総決算を一口で聞かせて貰いたいことです」。
「へえ、私の一生を一口で言えと仰るのですか。こんな難しい問題は生まれて初めてです」。
しばらく考えて「そうです。深い深い誰も居らぬ山奥へ入って、腹の底から泣いてみたい。これが私の一生の総決算です」。
「どう言って泣くのですか」
「それが言えんのです」
「私が言ってみましょうか。ナモアミダ仏と言いたいのと違いますか」
「ご名答」。
これです。
ここに説かれている五十三仏は、系図でもなく、またたんなる経歴でもない。悠久の大自然を背景として、幾山河を越えて来た、永い人生の一足一足の道みちに教えられ育てられてきた、これは命の叫び、血の記憶、その回想だと思います。それはそのまま人間が進化してきた精神史であります。精神が成長する進化の過程では、時には右に揺れ左に揺れ、時には行きつ戻りつしたことでしょうが、回想はそれを一本の道に系統立てることができるでしょう。
「また一つ、三十五億の血の年輪」。
私は十七、八の頃、海岸の岩の上に腰を掛けて、夜半の一時二時まで、空を見海を見て、星のまたたきや波の音に耳を澄ませて、私の父も私の母も、また遠い先祖も私と同じように、もの思いに耽り、また死を考えたことであろうと思いました。
【五十三仏の正体】この五十三仏がどういう仏であるか。それを金子先生は克明調べておられる。先生は仏の名を一つ一つ書き出してみて、そこに驚くべきことを発見したと。光という名のついた仏が十三、光に関係のある名が十五もあった。光の中でも月に関係のある名が殊に目につく。月の光、月の色、夜の光、月の像、水の光、水に映った月の光。また華の名のついた仏、また香[にお]いとか音とかで仏の徳を現している。それらの名を通して一つの基調がある。それは五十三仏の名は全体として、私たちを世の汚れのない静かな天地に導く。人間は何のために生まれて来たのであろうかと、深い人間の願いを憶い起こさせる静寂な世界へ導かれるものがあるといっています。
ここに如来とか仏といっていますが、これは釈迦のような人間仏でもなく、またアミダのような法仏でもない。これは仏の四身の中の化仏です。化仏とは仏でないものを信仰眼によって仏と見たもののことです。たとえば越後の貞心が、椿の花が落ちたのを見て無常をさとった。それを仏の説法といい、親鸞が王舎城の悲劇を読んで、ダイバもアジャセも皆仏の仮の姿というようなもののこと。ここでは月や星によって教えられたので、月や星を仏といっているのです。
【錠光如来】この世始まって初めて出たという錠光如来とは、どんなことを多勢の人に教えた仏であろうか。「錠」は「字源」にも「大漢和辞典」にも「たかつき、なべ、神に煮物を供える脚のついた器」とある。それに昔から燃灯仏と説いています。それは異訳の(4)唐訳に燃灯仏とあるのによったのでしょうが、何故だろうか。
私独り思うのに、これは、釈迦がこの世で初めて仏になったのは前世で仏に供養した功徳によってであると説いた「本生経」が元であろうと思います。それはある国を燃灯仏がお通りになった。それをお迎えするのに、雨降りあげくで道が泥沼になっていたので、多勢が土を運んで道ぶしんをしていた。ところが、予定より早くお着きになったので、皆当惑していた。その時一人の青年が飛び出して、燃灯仏の前に行って、「どうぞ私を橋にしてお渡りください」と言って、泥沼に俯[うつぶ]せになった。仏は背中を踏んで難なく渡ることができた。その青年の名はシュメーダという。この功徳によって、生まれ変わって釈迦となって仏となった、という話です。
これは仏のために身を捧げたシュメーダの徳を讃えている物語です。今まで自分のことしか頭になかった人間が初めて、尊い仏のために身を捨てる心になった。そのことを人間に教えた最初の光を、錠光如来といったのであろうと思います。
そのことは初期の仏教が、飢えた七匹の乕[とら]を助けるために、わが身を与えた王子の「捨身飼乕[しゃしんしこ]」の物語や、また半偈の法を聞くために、羅刹にわが身を与えた「捨身聞偈」の雪山童子の物語からでもいえるのではないでしょうか。
【五十三仏の名】錠光如来の次は光遠如来です。これらの仏の名は、中国の天子や日本の天皇の名のように、生きている時の名ではなく、亡くなって後の「おくり名」です。「初めに名あり」ではなく、その教えを受けたものか、この経の著者があとからつけた名です。
(中略)
住職は向かいの病院で二度目の大手術。取り敢えず私が講師の代講。話しの途中で「講義を止めてくれ。手術が始まる」と。私の血を輸血することになっていたので、病院へ駆けつけたら、もうすんだと。どこで聞いたのか一人の青年が来て、「私はO型です。私の血で間に合うなら」と言ってくださった。医者も若い人の血がよいということで、貰いました。すんだ時「お名前を」と言いますけど「私は今日ほど感激したのは生まれて初めてです。こんな尊い方のご用に立ったと思ったら、生きていてよかったと思いました。私は名を名告るほどの者ではありません。電話番号を書いておきますからいつでもお電話ください。喜んで参ります」と名も告げずに出て行ったということでした。
シュメーダも自分が仏のためになったことがどんなに嬉しかったか。燃灯仏とは微かな小さな灯の光ということですが、シュメーダの胸に私もこういう尊い仏になりたいという希望の光が灯ったのでしょう。しかも消えることのない願いが。錠光如来とはシュメーダが燃灯仏に捧げた名ではないでしょうか。
次の「光遠如来」は遥かに遠い、気も遠くなるような彼方に輝く光であったのでしょうか。
「片足を富士を踏まえて鳴く蛙」(長笹)。
【月光如来】人間の情感の深まりに一番関わってきたのは、恐らく月の光ではなかったでしょうか。八代将軍吉宗の次男田安宗武は「青雲の白肩の津は知らねども、今宵の月に憶ほゆるかも」と、遠い昔神武天皇の東征の際、紀の国の敵前上陸の苦戦に憶いを巡らしているし、天皇の命によって中国に留学したまま、彼の地に骨を埋めた阿倍仲麻呂は「天の原ふりさけ見れば春日なる、三笠の山に出でし月かも」と故郷に思いを致しています。
徳川時代に「切り捨て御免」と人間扱いされなかった町人の子として生まれた井原西鶴は、「内裏さまのとて外になし今日の月」と、民衆のめざめを小説に託しています。
また西本願寺の奥深くに生まれた「絶世の美女」と歌われ、九条良致と結婚した薄幸の武子夫人は、昔から「親と月夜はいつもよい」といわれた月を見て、「何事も人間の子の迷いかや、月は冷たき久遠の光」と、わが身をそして孤独を深めています。
月と孤独は人間全ての感懐であろうか。人生そのものがすでにそうできているようです。年若い父を失った幼い女の子が夕闇迫る広い本堂の縁に独り座って、誰に教わったのか「おっ月さーん、いくつなの。わたしは七つの親なし子。おっ月さーん、一人なの。わたしもやっぱり一人なの。おっ月さーん、空の上、わたしは並木の草の上。おっ月さーん、もう帰る。私もそろそろねむたいの。おっ月さーん、さようなら。あしたの晩までさようなら」と月に語りかけていました。
親鸞は「観音菩薩は日天子と現れ、勢至菩薩は月天子と現れる」と、日と月によって仏の徳をさとっており、金子先生は月の光は「闇いよいよ深く、光いよいよ清い。光と闇が同居している」といい、「真昼の光には富める家は輝き、貧しい家は哀れであり、勝者は大道を闊歩[かっぽ]し、敗者は身をすくめるが、夜の光は大きいものは大きいままに、小さいものは小さいままに夜の景色を描き、善人は善の誇りを忘れ、罪人は罪の僻[ひが]みを捨てて、人間本来の座に帰らせる光である」と説いています。
【五十三の数】仏教が進化発展したたびに、原始仏教は世間道を越えた出世間道といい、大乗仏教は出世間道を越えた出出世間道といったのと同じ論法で、大乗仏教の五十二段を越えた五十三段を処世といい、さらに世自在王仏を五十四段の仏としたのでしょう。
はじめに光ありき
釈尊は阿難尊者に教えられた。私たちの精神の歴史をたどると、私たちの常識では考えられないほどのはるか昔に、錠光如来という目覚めたお方が出現された。それはあたかも真っ暗の人生にポッと明かりが灯されたかのように、悩める人の姿をごまかすことなく映し出し、その光に会えた者はみんな生きる喜びを噛みしめて、悔いのない道を歩み、目覚めた一生を送ることができたのである。以後その伝統は脈々と受け継がれ、有限の人生に生きる意味を与える永遠の光の如来、自己の無力を教える月の光の如来、欲望に汚染されない生き方を教える栴檀香の如来・・・というように、人びとの心の灯火となって、五十三人の如来がこの世に出現し、真実の人生とは何か、ということを、私たちに教えてくださったのである。 
国王、沙門となり、法蔵と号す
その時、次に仏あり。世自在王如来(せじざいおうにょらい)、応供(おうぐ)、等正覚(とうしょうがく)、明行足(みょうぎょうそく)、善逝(ぜんせい)、世間解(せけんげ)、無上士(むじょうし)、調御丈夫(ちょうごじょうぶ)、天人師(てんにんし)、仏(ほとけ)、世尊(せそん)と名づく。
時に国王あり。仏の説法を聞いて、心に悦予を懐きついで無上に正しく真の道意を発せり。国を棄て王(王位)を捐(す)てて(仏の所に)行き沙門(しゃもん、出家)となり、号して法蔵(ほうぞう)という。高才と勇哲(勇気と智慧)とは世に超えて異にせり。世自在王如来の所に詣で仏の足を稽首(けいしゅ、頭を垂れて拝す)して右に三匝(さんそう、三周)遶(めぐ)り、長く跪いて合掌し、頌(じゅ、歌)を以って讃じていわく、
その次にお出ましになった仏の名を世自在王といい、如来・応供[おうぐ]・等正覚[とうしょうがく]・明行足[みょうぎょうそく]・善逝[ぜんぜい]・世間解[せけんげ]・無上士[むじょうじ]・調御丈夫[じょうごじょうぶ]・天人師[てんにんし]・仏・世尊と仰がれた。そのときひとりの国王がいた。世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、そこでこの上ないさとりを求める心を起し、国も王位も捨て、出家して修行者となり、法蔵と名乗った。才能にあふれ志は固く、世の人に超えすぐれていた。この法蔵菩薩が、世自在王仏のおそばへ行って仏足をおしいただき、三度右まわりにめぐり、地にひざまずいてうやうやしく合掌し、次のように世自在王仏のお徳をほめたたえた」 
法蔵菩薩の出現
その時次に仏があって世自在王仏という。如来とか応供[おうぐ]とか等正覚という、仏としての全ての徳を具えていた。時に国王があって仏の説法を聞いて、深く心に感動して道を求める意を発こし、国を捨て位を捨てて弟子となり、名を法蔵と名告った。智能は高く意志は堅く、遥かに世の人を超えていた。
【科文】ここは法蔵菩薩の出現と師の世自在王仏との出遇いである。
【世自在王仏の説法】私が数えの二十三の春でした。「大経」のこの文を読んで、その場に釘づけになりました。人は皆「末は博士か大臣か」といって、幸せを求めているのだが、法蔵菩薩はその頂点である国王であるのに、唯一席の説法を聞いて、国を捨て位をすて、身と命と財を捨てて悔いない。ど偉い説法だ。私もそんな説法が聞きたい。経のどこを探して見ても、説法の内容は説かれていない。おかしいぞ。昔の人はこの大説法を聞きたいとは思わなかったのだろうか。私は探した。世自在王仏の説法は解らぬが、これほど大きな感動を受けた法蔵菩薩は、お礼の言葉をどう言ったのだろうか。経には「長く跪[ひざまづ]き合掌して、歌を以て讃めて<光顔魏々として威神極まりなし・・・>」とある。これは口の説法ではない。目の前に現れた世自在王仏の姿そのもの、人格そのものが無言の説法である。その眼をもって経を見れば、五十三仏は唯名だけであるが、世自在王仏にはこれもあるこれもあると、仏の徳の全てを挙げている。これは法蔵菩薩の眼に映った世自在王仏の姿に違いない。法蔵菩薩は世自在王仏を一目見ただけで、私の求めていたのはこの人であったと、全身を挙げて惚れたのである。金子先生が「世自在王仏の徳でなければ法蔵菩薩は誕生せず、法蔵菩薩の眼でなければ世自在王仏の徳は見えない」と言ったのはこのことかと思いました。
【法蔵菩薩とは何者か】この経の主人公である無量寿仏(アミダ仏)の前身の法蔵菩薩とは何者であろうか。経には突然「時に国王あり、世自在王仏の説法を聞いて弟子となり、名を法蔵という」といっているだけで、それ以上は国王の時の名は何といい、どこの国の王であったか、一切触れていません。この謎を解く鍵は唯一つ、世自在王仏の外にはない。世自在王仏はその前に現れた五十三の化仏に次いで説かれているのだから、これは釈迦のような人仏でもなく、またアミダ仏のような法仏でもない。前の五十三仏と同じ化仏でしょう。そうすれば世自在王仏という名は、その説法を聞いた法蔵菩薩自身が捧げた名であり、そこに挙げられている仏の徳は、この経の序分に、阿難が釈迦の光顔魏々とした姿を見て、五徳を念言したと同じように、法蔵菩薩の眼に映った世自在王仏の姿と、智慧によって念言せられた徳に違いないでしょう。
先月号に五十三仏は、人間が自分が人間であることにめざめて来る、その時その時の時代精神を象徴したものであることを述べましたが、経典には人々が自分自身にめざめ、人生がどんなに広く深いかを覚ったり、また私たちが今住んでいる世界の外に、大小様々な世界があることをさとったのは、生命感覚の新鮮な幼児期に、雄大な自然の姿に触れたからであることを説いています。しかしそれは一人ひとりが生活を通して経験することですが、それが自分の属している集団の知識となり、やがてその社会の慣習となって、そこに住んでいる個々の人を同化してゆく精神的働きをするようになります。環境が人を育てるのはこの力です。人が便利のために道具を造り、機械を造る。それを使っておれば、いつの間にか道具や機械が人間の体も心も造り変えていく、その社会の底流れとなったその時代その時代の精神を、時代精神というのです。
【日本の精神史】私は世界史はもちろん東洋史も知りませんが、知りかじりの日本史を例として、私たちの先祖が現実にめざめて来た足跡をたどって見ます。今日では「人間は自覚存在である」といって、年齢に関係なく、自分が自覚されていない人を未成人としています。
「古事記」などを見ると、神代といわれている時代は、まだ人間自覚ができていないようです。群婚時代はすでに過ぎていたのでしょうが、近親結婚は常です。日本の神代は何年位前か解りませんが、あの絶世の美女といわれたクレオパトラ女王は、紀元前五十年頃ですが、実の父親から王家の血統を守るために、自分の子を産むように迫られたと伝えられています。日本では聖徳太子の頃までも、母が違えば兄妹が結婚しています。
また神武天皇の時代には、自分の勢力を拡張するためには、人を殺しても罪とも悪とも思わなかったようです。それが第十代の崇神天皇の時初めて天照大神を宮中から外へ移していますが、それは今までは自分は神の子であると思っていたが、自分は穢れている、神と同居することは畏れ多いと、罪の意識が生まれたからであるといわれています。その名を崇神と贈ったのも、また「初めて日本の国を治めた大王」といったのも、「この人こそ王として慕うことのできる人」ということからではないでしょうか。それは天皇一人ではない、その時代がすでに罪の意識が芽生えていたからでしょう。そのことは第十二代の景行天皇の子の日本武尊の記事を見れば明らかでしょう。
聖徳太子の頃は、生命年齢はまだ若く新鮮で人は淳朴であったのでしょう。太子は仏教を学んだことにもよりましょうが、「倭国[わこく]」(小人[しょうじん]の国)とか、「倭奴国」は他国から軽蔑して付けられた国名ですが、それを改めて日本人本来の願い、それは全人類共通の願いでもある、国の在るべき理想である「和」を高く掲げて、国名を「和国」と改めたことは、新憲法の第九条と共に寸時も私たちの忘れてはならない大切なことでしょう。
その頃は日本はまだ夜明け前で、中国や朝鮮からの渡来人は集団で、しかも文化人として国政の首脳部にあって、中国の政治学や兵法の影響か、血で血を洗う悲惨な殺戮は、大化改新の後までも続いています。奈良朝時代には聖武天皇は、仏教精神によって理想国家を実現しようとして東大寺の大仏を造り、光明皇后は身を以て仏の慈悲を国民に施し、平和の華が開いたかに見えましたが、日本古来の迷信の死霊生霊の呪いやたたりの風習はいよいよ盛んになり、その醜さは平安朝に、紫式部が「源氏物語」に遺憾なく書き遺しています。それに加えて、一と度源信の「往生要集」が世に出るや、それまで死んでもまた生まれて来るという幼稚な心で、楽天家といわれていた日本民族の魂を震え上がらせて、千年百年という永い間、日本列島の津々浦々まで「地獄恐怖症」のウィルスを播き散らして来ました。
平安時代も末期になれば、公家階級から一般庶民は農奴百姓として道具扱いにされ、武士は「侍の分際で生意気だ」とか、「武士は殺さず活かさず」と軽蔑されていたのですが、その昔の平将門が新皇と称していたのに刺激されたのか、「わしも世が世であれば天皇になれたのか」と、平清盛は時の天皇を幽閉して、自ら太政大臣となって天下をほしいままにしました。そのことが地方に眠っていた武士の魂に火を点けたのです。これによって、主権が武士によって握られた封建時代が七百年も続きました。
その間も人心は大きく変わっています。室町末期に出た北条早雲は、一介の浪人が大名となって関東に威を震いましたが、それはそれまでの風習は源平藤橘[とうきつ]という名門や、家柄などの名に縛られてひたすらこれに服従していたものが、自分たちの生活基盤の死活問題に眼がさめて、年貢の少ない方に傾いたからだといわれています。それは関ケ原の合戦にも現れています。石田三成は太閤殿下の恩義を旗印に掲げて兵を募ったのに対して、徳川家康は手柄を立てた者には国を与えると、恩賞で兵を誘うています。ここにも民心はすでに名門より実利に目が移っています。
明治維新はその発端は、外国の黒船が開国通商を求めて来たことによるのでしょうが、内実は井原西鶴が「内裏さまのとて外になし今日の月」と、民衆のめざめを叫び続けて来たように、時はすでに士農工商の人間差別に不満が時代の底流れとなって、若者の血は爆発寸前になっていたからでしょう。下級武士の西郷吉之助が藩政を動かし、郷士の坂本龍馬が主家を脱藩し、高杉晋作が農民を動かして騎兵隊を組織したように、改革維新の火は日本中に漲[みなぎ]っていたのです。
大正に入っては、デモクラシーの掛け声で民主主義の思想は公然と叫ばれ、一農民の子原敬は一国の宰相になりました。また大正十一年には、被差別部落の人々は自らの手によって水平社を結成して、解放運動の旗を挙げて起ち上がりました。昭和には昭和の気風があり、戦後には戦後思潮があります。その中でも世襲であった華族が廃止されて、国民平等、人格同権、それに有史以来の男尊女卑の差別も撤廃され、女性に参政権が与えられて、一人ひとりが人間である自覚が芽生えました。
今や全世界を挙げて人権の差別も、宗教の争い、戦争のない世界が願われ、世界国家とか世界政府の声も聞こえるようになっています。
【理想の國は足元に】しかしこの願いは今世紀になって初めて興ったのではありません。インドでは遠く紀元前釈迦の生まれた頃には、既に世界国家、世界政府の夢をみています。四天下の偉大な王その名転輪聖王これです。転輪聖王とはその「車の行く所草木も靡く」と歌われた、智徳兼ね備えた名君のことです。しかもそれはたんなる夢ではなかったのです。紀元前百年頃か、「人間の求める最後のもの」といわれる理想の世界国家、偉大なる国王が、すでにこの地上に成就されていることが発見されたのです。その浄土といわれている偉大な世界を発見した、讃めても讃め尽くせず、謝しても謝し足らぬ「不世出の天才」(今まで釈迦の名で呼ばれていた)、どこで生まれてどこで死んだのか、その名さえ知れぬ、この「大無量寿経」の初めに「我」と名告ったその人によってです。
その著者が「我説く」といわず、「我聞く」とあたかも釈迦が説いたかのように述べているのは、さとりの世界はそういう説き方より外に説くことのできぬ性質のものでもありますが、筆者が先師釈迦の上に自分のさとりを見出したのでしょう。そのことは経の序文に釈迦の一生を説いて、それをそのままそこに集まった聴衆の一生と説いていることでもいえるでしょう。また「人間は誰でもその一生に、人類の歴史をくり返す」といわれているように、この著者が心の眼が開けたとたんに、法蔵菩薩の求道の歴史の跡が自証されたのです。
法蔵菩薩が世自在王仏の説法を聞いて誕生したとは、永い地上の幾山河の旅に、自分の在るべき真実の道を求めて手探りに、月に照らされ日に照らされ、雨の音にまた風の音に育てられて来て、自分の在るべき理想が見えたとたんに、この世の闇の中から法蔵菩薩は名告り出たのです。あたかもアンデルセンの「醜いあひる」が、美しい白鳥の姿を見た時、全身の血が躍動して思わず羽ばたいたら、身は空中になって自分は美しい白鳥になっていたように。
【世自在王仏の徳】は、(1)如来。色も形もない真如法性そのものが、形をとってこの世に現れたこと。この世のものでないという讃辞。
(2)応供[おうぐ]。供養を受ける資格があること。
(3)等正覚[とうしょうがく]。また正遍知とも訳されていて、どんな人も皆仏性を具えていることが見え、どんな人をも平等に尊敬できること。
(4)明行足[みょうぎょうそく]。「明」は三明のことで智慧のこと。(A)宿命智。宿命が解ること。(B)天眼智[てんげんち]。どんな人をも仏として尊敬できること。(C)漏尽智[ろじんち]。自分の損得を離れて、何事も法のため全人類のためにだけ手を動かし足を動かすこと。「行」はこの三明智によって生活すること。「足」はその徳を満足成就していること。
(5)善逝[ぜんぜい]。尊い一生であったと、満足して死に切れること。
(6)世間解[せけんげ]。この世のことを知り尽くすこと。
(7)無上士。この上ない尊い人のこと。
(8)調御丈夫[じょうごじょうぶ]。自分の煩悩や僻を制御でき、世の諸の悪を正すこと。
(9)天人師。知識人も一般の庶民も導いて、真実の生き方に育てること。
(10)仏。心の眼を開いて人生の謎を解き、人間としての徳を身に即けた人のこと。
(11)世尊。世の人から家の宝、国の宝と尊敬され愛される人のこと。
【世自在王仏と法蔵菩薩と著者の関係】経には五十三仏もまた世自在王仏も、あたかも私たちが人間として存在しているように、どこかに生きていたかのように説かれていますが、そうではなく、いわばそれは色も形もない精神的光として受けとられたもので、その名はこの経の著者が付けたものです。私たち人間は初めどこから来てどこへ行くのか、存在の自覚もなければ理想もない、唯生きているという盲目的存在であったものが、人間としての自分にめざめ育てられて来た、それを法として名づけたものです。それも「無量の衆生を教化した」とありますが、実は一人ひとりがめざめ、それが時代の流れとなったのでしょう。それによって形成された歴史的社会的現実が創造的世界とか創造的主体と呼ばれている弥陀の浄土であり法蔵の願心です。
その世界を初めて自分の根源的主体としてさとった人がこの経の著者であり、この著者こそ浄土の人天として誕生した、創造的世界の創造的前衛主体としての正定聚不退転の菩薩と呼ばれている人です。随って事実として現実に存在するものは、弥陀の浄土と、法蔵の願心であって、世自在王仏は、法蔵菩薩によって発見された理想の人間像です。さらにそれらを自分の根源的主体としてさとることのできるものは、浄土の菩薩の不退転の菩薩だけです。
法蔵菩薩の出現
その次にまた目覚めたお方が出現された。この世を何の障害もなしに自由に生きるお方(世自在王仏)であり、真実の世界から身を現されたお方(如来)、衣食住を身に受けるにふさわしいお方(応供)、私(釈尊)と同じ心の世界に目覚めたお方(等正覚)、いつも明るい足どりで歩むお方(明行足)、何も思い残すことのない充実した生涯を歩まれたお方(善逝)、世の中を正しく見通すことができるお方(世間解)、このうえない人格を備えたお方(無上士)、道を求める素晴らしい人を育てる力を備えたお方(調御丈夫)、順境、逆境を問わず、人びとをすべて導かれるお方(天人師)、目覚めたお方(仏)、この世で一番尊いお方(世尊)、とお呼びしよう。(如来の十号)
その世自在王如来の前に、この世の幸せの代表ともいうべき国王が現れ、ご縁あって目覚めた人とめぐりあい、教えを受けることになった。そこで今まで味わったことのない喜びを体験し、人と生まれた本当の意味を尋ねて行こうと、心に誓うのだった。そして今まで幸せの根源だと思い込んでいた財産(国)と、名誉、権力(王位)を捨てて、本当の幸せを求める人となり、真実を内に蓄えた人、法蔵菩薩と呼ばれるようになった。法蔵菩薩はこの世においても、とくに優れた才能と行動力とを身に備えていたにもかかわらず、この世の見せかけの幸せに見切りをつけ、先生の世自在王如来に傾倒し、その心の世界に一歩一歩まわりから近づき、ついに私の進むべき道はこの人の歩んだ道だ、と合掌礼拝し、思わず師をたたえ、歌わずにはいられなかった。 
光顔(こうげん)巍巍(ぎぎ)として、威神極まりなし。
かくの如き炎明(えんみょう)は、与(とも)に等しき者なく、日も月も摩尼(まに、宝珠)の珠光(じゅこう)の炎耀(えんよう、耀き)も、皆悉く隠蔽(おんぺい)せられて、なお聚墨(じゅぼく、墨汁)の如し。
如来の容顔(ようげん)は、世を超えて倫(たぐい)なく、正覚の大音(の説法)は、響十方に流れ、戒(持戒)と聞(多聞)と精進と、三昧と智慧との威徳は侶(とも)もなく、殊勝にして希有なり。
深く諦かに、善く諸の仏法の海を念(おも)いて、深く尽奥(じんおう)を窮め、その崖底(がいてい)を究む。
無明の欲と怒りとは、世尊において永く無く、 人雄(にんおう、人の英雄)の師子の、神徳は無量なり。
功徳は広大、智慧は深妙、光明の威相は、大千(三千大千世界)を震動す。
願わくは我も仏となりて、聖法王(世自在王仏)に斉(ひと)しく、生死を過ぎ度(わた)りて、解脱せざることなからん。
布施と調意(禅定)と、戒(持戒)と忍(忍辱)と精進と、かくの如き(波羅蜜)の三昧と、智慧とを上と為さん。
吾(われ)誓って仏を得たらんに、普くこの願を行い、 一切の恐懼(くく)せんものの為に大安をなさん。
たとい仏ましまして、百千億万の 無量の大聖(仏)、数えて恒沙(ごうじゃ、恒河の川底の砂)の如きに、 一切のこれ等の諸仏を供養せんとも、 道を求めて堅く正に卻(しりぞ)かざらんには如かじ。
譬えば恒沙の如き諸仏の世界の、 また計(かぞ)うべからざる、無数の刹土(せつど、国土)に、 (我が)光明悉く照らして、この諸国に遍ねからんには、 かくの如き精進と、威神は量り難し。
もし我、仏となりたらんに、国土は第一にして、 その衆(衆生)は奇妙(珍奇霊妙)に、道場は超絶し、 国は泥洹(ないおん、涅槃)の如く、等しく双(なら)ぶものなからん。
我はまさに(衆生を)愍哀して、一切を度脱すべし。
十方より来たり生ぜんものは、心悦んで清浄に、 我が国に到りおわらば、快楽(けらく)にして安穏たらん。
幸(ねが)わくは仏信じ明したまえ、これ我が真証(真実の証拠)なりと、 彼(かしこ)に願を発(おこ)して、欲する所を力(つと)め精(はげ)まん。
十方の世尊、智慧は無礙(むげ、自在)なり、 常にこの尊(世自在王仏)をして我が心の行いを知らしめたまえ。
たとい(我が)身を諸の苦毒の中に止めんとも、 我は精進を行いて、忍んでついに悔やまじ。と。
世尊のお顔は気高く輝き、その神々しいお姿は何よりも尊い。
その光明には何ものも及ぶことなく、太陽や月の光も宝玉の輝きも、その前にすべて失われ、まるで墨のかたまりのようである。
まことにみ仏のお顔は、世に超えすぐれてくらべようもなく、さとりの声は高らかに、すべての世界に響きわたる。
持戒と多聞と精進と禅定と智慧、これらのお徳は並ぶものがなく、とりわけすぐれて世にまれである。
さまざまな仏がたの教えの海に深く明らかに思いをこらし、その奥底を限りなく深くきわめ尽しておいでになる。
愚かさや貪りや怒りなど世尊にはまったくなく、人の世にあって獅子のように雄々しい方であり、はかり知れないすぐれた功徳をそなえておいでになる。
その功徳はとても広大であり、智慧もまた深くすぐれ、輝く光のお力は、世界中を震わせる。
願わくは、わたしも仏となリ、この世自在王仏のように迷いの人々をすべて救い、さとりの世界に至らせたい。
布施と調意と持戒と忍辱と精進、このような禅定と智慧を修めて、この上なくすぐれたものとしよう。
わたしは誓う、仏となるときは、必ずこの願を果しとげ、生死の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう。
たとえ多くの仏がたがおいでになり、その数はガンジス河の砂のように数限りないとしても、それらすべての仏がたを残らず供養したてまつるより、固い決意でさとりを求め、ひるまずひたすら励む方が、功徳はさらにまさるであろう。
ガンジス河の砂の数ほどの仏たがの世界があり、はかり知れないほどの数限りない国々があるとしても、わたしの光明はそのすべてを照らして、至らないところがないように、おこたることなく努め励んで、すぐれた光明をそなえたい。
わたしが仏になるときは、国土をもっとも尊いものにしよう。
住む人々は徳が高く、さとりの場も超えすぐれて、涅槃の世界そのもののように、並ぶものなくすぐれた国としよう。
わたしは哀れみの心をもって、すべての人々を救いたい。
さまざまな国からわたしの国に生れたいと思うものは、みな喜びに満ちた清らかな心となリ、わたしの国に生れたなら、みな快く安らかにさせよう。
願わくは、師の仏よ、この志を認めたまえ。それこそわたしにとってまことの証である。
わたしはこのように願をたて、必ず果しとげないではおかない。
さまざまな仏がたはみな、完全な智慧をそなえておいでになる。
いつもこの仏がたに、わたしの志を心にとどめていただこう。
たとえどんな苦難にこの身を沈めても、さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。
発願のうた
法蔵比丘は世自在王仏に遇うた喜びの感動を、うたを以て称[たた]えた。
一讃仏(総讃)/光輝くお顔は気高く、お姿の放つみいつは極まりない。日も月もはた珠もみな、み光の前には光を失って炭団[たどん]の如[ごと]。
<別讃(1)容[すがた]の徳>如来の尊いお姿は世に越えて、さとりのみ声は十方に響き渡る。
<(2)行の徳>戒と聞と精進と三昧と智慧、その徳は勝れて並ぶものはない。
<(3)住徳>深く諦[あきら]かに諸仏の法海を念じて、奥を究め底を尽くして極まりない。
<(4)断徳>無明と欲と怒は世尊にはなく、雄々しいお姿は獅子王の如。
<(5)仏徳>お徳は高く智慧は深く、みいつは広く大千を振動する。
二発願[ほつがん](総願)/願わくは我れ仏となって、聖法の王と斉[ひと]しくならん。
<別願(1)願心(A)自利>生死を離脱し、布施して意を調え、持戒し忍辱し精進して、三昧と智慧を主眼とせん。
<(B)利他>吾れ仏となって普[あまね]くこの願いを行じ、一切の恐懼の為に大安とならん。
<(2)道心>たとい百千億万無量の仏があろうとも、これら一切の仏を供養するよりも、ひらすらわが道を求めて止まぬに如[し]くはない。
<(3)願事(A)光明無量>たとえば恒沙の数の諸仏の世界、また数限りない宿業の社会、これらの世界の悉くを照らして、光明量りなからん。
<(B)国土第一>我れ仏となって国土は第一に、住民はりっぱで、道場としてこの上なく、国は涅槃の如くで、並ぶものなからしめん。
<(C)衆生愛愍>一切の迷える者を哀れんで心の眼を開かしめ、十方より我が国に来たり生まれるものは、心の喜びは清らかに、真実の楽しみを知らしめん。
三決誓
<(1)師仏請証>幸[ねが]わくは世尊よ、これが私の心からの願いであり、しかもこれは万人の共感を得られるものと思います。ご証誠下さらんことを。
<(2)諸仏護念>十方の世尊は、智慧に碍りがない。常に私の心行を見護り賜らんことを。
<(3)決誓>たといこの身はどんな苦難に遇おうとも、私は精進して決して悔いは致しません。
【科文】
この段は、法蔵菩薩が師の世自在王仏に遇うたその感動を、頌[うた]を以て称[たた]えているのですが、その頌は初めに師の徳を讃め、次にそれによって自分の胸に発こった願いを表白し、最後に必ずその願いを成し遂げる決意を述べています。
【頌[うた]の名】
この頌は今まで「讃仏偈[さんぶつげ]」とか「嘆仏偈[たんぶつげ]」と呼ばれて来ましたが、この頌はこの経の要であり命である、四十八願を産み出す重要な総願ですから、「発願[ほつがん]の偈[げ]」と呼ぶのが適当であると思います。今までこのことに気がついていた人はいなかったのか、四十八願の総願に「四弘誓願」を当てていますが、これは菩薩一般の総願であって、特殊な法蔵菩薩のものではありません。したがって今まで四十八願が理解できなかった原因の一つはここにもあります。
【世自在王仏の名】
仏教ではものの名の意味を大切にしています。私たち日本人には聖徳太子、最澄、親鸞、西田幾多郎などのような優秀な哲学者を産み出す素質を有[も]っているのですが、また韓国の学者から「縮み志向の日本人」と評されたように、何でも縮め略し簡略化して便利にする習性があって、ものの名でも記号化・符号化しています。
たとえばテレビジョンをテレビに、情報技術をITに、アミダをミダに、アラカンをラカンになど、名を記号に変えて全く意味が失われています。それが悪循環して日本人自身の理解力が常識的に低下しています。たとえば神仏のお陰と、神と仏が混同されたり、仏といえば死んだ人とか、祖先のこととか、その他言葉の履き違えは限りがありません。本論に帰ります。
世自在王仏は人の名ではありません。理想の人間像のことです。この世において何事に対しても、無碍自在に生きる人間としての覚者であり、自分の国の王のことです。経の序文に釈迦の徳を「一切の法において自在を得たり」という、その人格者のことです。
常識では自由自在といって何でも自分の思いのままになること、わがままと混同されていますが、「自由」は自らに由るで、「自分の足で自分が歩くことのできる人」のことといわれていて、他人の命令や金の力また名誉心など、欲のために使われず、自分の意志で判断して責任以て行う自覚者のことです。したがって政治家が自由民主主義といっている多数決とは違います。
「自在」とは(1)我れここに在りと、(2)自[おの]ずからここに在るとの二義があります。(1)は自覚のことですが、哲学でいっているたんなる眼覚めのことではなく、場所的自覚のことで、わしは人間であった、わしは親であった、わしは王であったと、自分が置かれている場所からの呼び覚ましによる自覚のことです。仏教ではそれを蓮華の座で現しています。
また(1)の我ここにありは自分を名告ることですが自分表現で、われはこういうものであると、自分の全存在を挙げて、自分の有っている全ての徳を一つ一つの言行に表現することです。禅にいう全機現[ぜんきげん]です。外に向かっては「一切の法において自在であり」、主体的には自分の内なる全ての徳が一言一行に働くことです。
「王」は、人間は自覚によって自分が誕生すると同時に、自分の国が見つかり、自分がその国の責任者の王として眼覚めること。
「仏」は覚者と翻訳されていますが、それは道教からの借用語で、自覚と同時に自己形成といわれる、卒業のない永劫の修行によって王としての徳を実現することです。
【法蔵菩薩は国王である】
法蔵の名はどこから付けられたのか。今までは「時に国王あり、仏の説法を聞いて心に悦びを懐き、無上正真の道意を発こし、国を捨て位を捨てて沙門となり、法蔵と号す」という。法を聞いて心に悦びを懐くそれによって師の徳が法蔵の徳となった、そこから法蔵の名が付けられたといっています。それは世自在王仏に遇うたことによって今まで眠っていた仏性が眼を醒ましたことですから、私は法蔵の名の由って来た元は、「華厳経」の善財童子からであろうと思っています。善財は善い宝の持主ということですが、善い宝とは誰にでも本来生まれながらに具わっている仏性のことで、それをさらに法蔵にまで高めた名と思っています。
さらに今までは「国を捨て位を捨てて沙門となった」を、言葉通りに、釈迦のように実際に出家して一介の修行者となったといわれていますが、その答礼の「発願の偈」にも「我が国」といっているのは、国王を辞職したのではなく、世自在王仏の徳に打たれて、わしは国王でありながら国王としての徳がなかった。名ばかりの恥ずかしい国王であったと自ら懺悔して、まことの国王らしい国王に成りたいと、国王が国王として眼覚めたことをいっているのです。今日までアミダ仏のことを「親さま」と呼び慣らして来たのは、今までの日本浄土教は観経宗であったのと、日本人の精神年齢が幼稚であったからでしょう。
因みに「大経」では、本願を選択する間は法蔵比丘といい、本願を成就する永劫の修行の間は法蔵菩薩と使い分けしていますが、比丘とは食を乞い法を乞う人という意味で、ひたすら聞法に専念して自身の智慧を深めることを現し、菩薩は人間関係の社会生活を通して、人間としての徳を身に即[つ]けることを区別しているのでしょう。
【師の徳を讃める心】
初めの師の徳を称[たた]えている言葉を、今までは師の徳を身口意の三業に配したり、「浄土論」の五念門の行に当てはめたりしていますが、皆言葉に囚われて称えている法蔵菩薩の心を忘れています。虚心に読んでみますと、初めの「光り輝くお顔は気高く・・・・」は、出遇いの感動の端的な表現、そこに出て来る日の光月の光は徳の光と比べていますが、そんなことは問題ではありません。これは自分のして来たこと、自分の生き方が空しく無価値であることに気がついた時、「世の中が真っ暗になった」というあれです。
法蔵菩薩が師の前に立った時、自分のみすぼらしさ徳のなさを照らし出されて、心に懺悔し涙しているのです。世の中が暗くなったのではない、法蔵の胸の内が真っ暗になったのです。讃嘆は懺悔の鏡であり、懺悔の涙に光る輝きです。
これから下は師の徳を一つ一つ称えながら自分を内観しているのです。
<別讃(1)容[すがた]の徳>如来のお容が世に超えているのではない、法蔵の心をぺちゃんこにしているのです。「さとりの大音」はお口から出る声ではない。お姿から受けるみいつのの威圧に、法蔵の全身が圧倒されて唸っているのです。
<(2)行の徳>仏は修行しなくてもよいと思いがちですが、仏としての行を行じているのです。「水鳥の休む暇なき鳥の足」。そうかといって仏は自分は卒業して、衆生救済に忙しいということではない。曽我先生が「アミダの胸に法蔵菩薩が生きて働いている時だけ、アミダは仏として光り輝いているのである。もしアミダの胸に法蔵が働かなくなったら、アミダは忽ち抜け殻となって、頑固親父になってしまう」と。
「戒」とは身を慎むこと。ある浪曲師が「私は公演に出る時は、たばこはもちろん酒も女も一週間前から慎みます。それは声が濁[にご]るからです。お客様に芸はもちろん最高のきれいな声で、皆さんに楽しんで頂きたいからです」と。
「聞」は仏の法と大地の声を聞くこと。空吹く風の声も弥陀の説法、道行く人からも無心に遊んでいる幼子からも、「人は人によって初めて人になる」、見るもの、聞くものから、浄土の法と大地の叫びを聞くことです。
「精進」は西洋の哲学者が「不断の智的快活」と訳しているように、そうせずにおれぬ内なる真心[まごころ]に押し出されて、常に自ら喜んで励み行うこと。やせ馬の尻を叩くような奮闘努力とは桁[けた]が違います。
「三昧」は常識では読書三昧とかぜいたく三昧といって、その事一つに熱中することをいっています。精神が集中することは、人間として大切なことで、その道の名人達人は皆集中力が深いことが条件です。反対に気が散る人はチンパンジーに近いそうです。しかし仏教でいう三昧は空とか禅といわれているように、対象に向かって熱中するのではなく、一切の雑念が消えて、もっといえば理性が働く大脳が停止して、生命本能が歴史的に進化した脳幹が働き出す邪魔をしないことです。
「智慧」は三昧によって得た空智といわれる慧が現実に働いて、形をとった森羅万象や、形を超えた行為的世界の社会や浄土が見える仏智のことです。それは、山を見ても川を見てもそこに歴史的先祖の遺産が見え、空吹く風の音にも鳥の鳴く声にも、そこに仏の説法を聞くことの出来る、無生法忍といわれる信心の智慧のことです。
<(3)住の徳>仏はどんな世界に住んでいて、どんな立場からものを見たり行動しているのか。仏は常に深い三昧に住して明らかな智慧を以て、十方一切の諸仏を念じて、その奥を究めている。
私は終戦後間もない時、仏教婦人会の花祭に招かれて、小学校の一年から六年までの子ども三十人ばかりに、お釈迦さまの話を頼まれたことがあった。ちょっと困ったが承諾して、「今日はお釈迦さまのお誕生日。世の中に偉い人賢い人はたくさんおられるが、お釈迦さまは世界中で一番尊い人です」。
ここまで話した時、六年生の男の子が「尊いとはどういう人ですか」。
「皆さんはどういう人と思う?」
五六人の声が一緒に「みんなから拝まれている人です」
「どうして皆から拝まれていると思いますか」
「……」
「お釈迦さまはどんな人をも拝んでおられたから、どんな人からも拝まれたのです」と言ったら、六年生の子が「解った解った」。仏仏相念の念仏とはそういう世界です。
「光顔魏々[こうげんぎぎ]」とは、仏のお顔がちょうど富士山のように高くそびえて神々しいことですが、それは富士山が裾野を広く踏まえて高いからです。仏はいつも心に一切の人を念じているから、一切の人から念じられていて、その心境が姿に現れているから、「山王の如し」と説かれているのです。
<(4)断徳>仏の姿が尊く見えるのは、心に無明と欲と怒りがないからです。それは心の眼が開いていて全てのことが解るから、人からよく見てもらおうという邪心もなく、何かにあり着こうとする野心もないから、人の顔色を窺うたり、必要以上にぺこぺこ頭を下げることもいらない。「獅子王の如し」と称えています。
<(5)仏の徳>仏は心の眼が開いて智慧に限りがないから、生きることに自在であり、徳が備わっているから、人から尊敬されて、言うこと行うことに随喜して、妨げるものがない。世の人々から人の宝、世の宝とかしずかれることを、三千大千世界が六種に震動すると称えているのです。ここから後が法蔵の発願です。 
法蔵菩薩の願い
【科分】法蔵菩薩は師の世自在王仏の徳を讃めている間に、自分の胸に発こって来た願いを表白している段です。
【法蔵菩薩の願い】今日までの日本浄土教は法然が、アミダ仏はひとえに衆生を救いたい願いから、ナモアミダブツと称えるだけで浄土に生まれる、たやすい法を考え出したといっているので、真宗学者はその腹で経を読んでいるから、常識的では考えられない誤った読み方をしているのです。それは「歎異抄」に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなり」とある、その言葉だけに執われて、願いを発こした法蔵菩薩その人の立場が全く忘れられていたからです。今ではそれを一々問題にする余裕はありませんが、大切な点だけ指摘しておきます。
法蔵菩薩は世自在王仏に出遇った時、一目見て何とりっぱな王様だろうか、それに引き換え私は何とみすぼらしい、国王とは名ばかりの誠に恥ずかしい姿である。私もあなたのようになりたいと、経にはそれを「私も覚って聖法の王に斉しくなりたい」と説いているのです。これは自分の願いの全体を一口で言い現しているので、「総願」と名づけています。
【覚る道】それではどうしたらりっぱな王になれるか。世自在王仏とはどういうお方か。その一つ一つを分析し具体的に明らかに自分のものにしたい。それがさきに讃め称えた五つの徳です。それがためにはこの世に対する執着と我が身を愛する我執を離れて、その上に常に三昧に住して自己を失わず、深い仏の智慧を身に即けてあるがままの人生を知らねばならぬ。それを経には「生死を解脱し、布施をして意を調え、身を持[たも]ち(持戒)、辱[はずかし]めを忍び、常に内なる願いに催されて励み(精進)、かくして三昧と智慧を主眼としよう」といっている。前の生死解脱は身についた欲を離れることであり、後の六度の行は菩提心の成長と正しい人生観の確立を眼指しているのです。この二つが覚る道の内容です。
ここに問題があります。従来の聖典ではほとんどが「聖法の王に斉しく生死を解脱せん」とここで切って読んでいます。これは仏とは生死を解脱したものという考えからですが、それは原始仏教の考えで、大乗仏教はそれをアラカンの悟りといって、仏はさらに六度の菩薩行を修せねばならぬとしています。それは欲を離れて生死を解脱するだけでは、自灯明の自己確立はできるか知れませんが、法灯明の人生観がなければ、それは真実なものではありません。主体の智慧も、空とか無我をさとる「慧」だけであって、形のある世界が見える「智」のない個人的なもので、それは悟で現す出家者のさとりです。六度の行は人生を生きて行くのに、自然環境の厳しさや、夫婦関係、親子関係、兄弟関係の家庭環境や、隣近所の人間関係、また会社と個人、組織と個性などの社会環境や、団体と団体、国と国などの国際関係や、その矛盾的環境を身証体解して、人生を生きる主体性の確立と、正しい人生観を身につけることです。
また、経の六度の文も皆名詞に訓[よ]んでいるのですが、それでは意味が通じません。金子先生も指摘しているように、「三昧」が死んでしまいます。六度の行は初めの布施だけが他に対するもので、後の五つは皆自分に対する問題です。それで、経に「布施して意を調える」といっているのは、他に施すことが目的ではなく、それによって自分の心を浄めることが本意です。それは「七仏通誡の偈」の「諸[もろもろ]の悪は作すことなかれ、衆[もろもろ]の善はこれを行え。それによって自らその意を浄めよ」と、悪をすれば悪に僻[ひが]み、善をすれば善を誇ることを誡めているのと同じように、施せば施したという恩着せがましい心が起きるそれ誡めたのでしょう。また「忍辱[にんにく]」を忍耐と解釈していますが、辱ははずかしめるという字ですから、人が見てはいないか、何か言いはしないか、人の心を気にしたり、人の顔色を窺ったりすることを誡めたのだと思います。
【一切の恐懼[くく]】は、一切の衆生のことですが、何と私たちの日暮らしを的確にいい当てていることでしょう。恐懼とは恐れ戦[おのの]くことで、ちょうど雀が餌をついばむ時のように、びくびくしている姿のことです。「為作[いさ]大安」を大安を作さんと訓んでいますが、これは仏像が右手に施無畏印[せむいいん]を結んでいるあれで、親が側にいるだけで子は安らいでいるように、王がしっかりしておれば国民のために大安となることで、「大安とならん」と訓むのでしょう。
【わが道を行く】諸仏を供養するよりも私は私の道を求めて行くという経の文。諸仏を供養することは大乗仏教を貫く重要なことであり、今日でいう社会奉仕もその一つですから、ここの文は問題になって、中には翻訳の間違いだろうという人もありました。今日は口を開けば人のため世のためとか、社会奉仕といっていますが、私は、ここの文は法蔵菩薩の根本精神であり、全ての人の生活態度でなければならぬと思います。
だいぶん前のことですが、女の人が「私は嫁に来て舅姑のお世話をし、子供の世話をし、ようやく手が離れたと思ったら、夫が中風になりました。これでは一生人の世話で終わってしまいますが、私の世話ができるのはいつでしょうか」と。人の世話を止めて自分の世話をするのではなく、人の世話をするそのことがそのまま、私の人生修行であったと心の向きを変えることでしょう。法蔵菩薩は国王ですから、国がどうしたらりっぱになるだろうか、国民がどうしたらもっと賢くなるだろうかと、国のこと民のことだけに目が向いて、自分のことを忘れていたものが、世自在王仏に出遇って初めて、問題は国よりも民よりもまず自分だと気がついたことです。
私はこの法蔵菩薩の思想は「地蔵本願経」の、智慧の勝れている国王が一切智成如来となり、慈悲の勝れている国王が永遠に仏になることができぬ地蔵菩薩となったとある、この経を踏まえているのではないだろうかと思っています。
親鸞が「浄土の大菩提心は願作仏心(まことの人になりたいと願う心)をすすめしむ。願作仏の心はこれ度衆生心と名づけたり」といっている。国を思う心全体が、自分がりっぱな王にならねばならぬという心に昇華したことです。
【光明無量】これからいよいよ国王としての具体的な願いですが、その第一が光明が量りないようにということです。これは、国や国民に対して目が向いている即時的な願いに対し、国王自らに対する願いとなったので、対自的願いといいます。
光明とは何か。目に見えない働きを光明とたとえたのです。龍樹はその光明を智慧の光明と身放の光明とに分け、賢首はこれを智光と身光といっています。
身光のことを俗に後光が射すという。照らすとは、智慧の光明は相手を見て理解する働きで、生きるために自分が使うもの、身放の光明は、相手に自分が信頼され尊敬される徳の働きのこと。これを経には「光明悉く照らす」と「威神量り難い」と分けています。
光明は何を照らすのか。無数の諸仏の世界と、無数の衆生の世界です。今日まではただ諸仏の世界を照らすとだけ解釈していましたが、刹土[せつど]は宿業の世界のことです。
【国土と住民】国は勝れて第一に、住民は智徳兼ね備えて相好は美しく、修道としての環境はこの上ない。また国は清らかで執われることなく涅槃の如くであって、どこの国よりも超え勝れた国にしたい。
【衆生救済】一切の迷えるもの、また悩めるもの悉くを哀れんで、心の眼を開かしめ、十方よりわが国に来て生まれるものは皆心は安らかに喜びは清らかであり、真実の楽しみを知らせたい。
【決誓】師の世自在王仏よ。これは私があなたにお遇いしてさとりを得た真実の願いであります。これはまた全ての人皆が願い求めているものであると思います。幸[ねが]わくば師よ。この願いの真実であることをご証明下さい。私は一層自信を深めてこの願いを成就するために、命をかけて精進いたします。
また私を取り巻いている人は皆、賢い人々である。私は私の宿業で、時にはつい腹を立てたり、気に入らぬことを言うかも知れませんが、それは私の本心からではありませんから、どうぞ皆様の真心の智慧をもって、この私を内から動かしている止むに止まれぬ深い願いを知って、証誠護念下さるようお願いします。
経に「十方の世尊」と呼んでいるのは、どこか遠くにいる仏たちのことではありません。人間一人ひとりに宿っている仏性(諸仏)のことです。私が六つの時、家の二銭銅貨を一つ盗んだことがあります。その時母から「誰も見ておらんと思っても<天知る地知る、人知る我知る>といって、天も地も皆知っているのだよ。それだけではない。<盲人千人、眼あき千人>といって、誰も知らんと思っていても、人は皆知っているのだよ」といわれました。その時私は目の見えない人と目の見える人と合わせて二千人と思っていました。後に仏法を聞いて、人は千人だが一人ひとりに諸仏が宿っていることだと解りました。意識的には言えないが、深層意識では皆解っていることをいっているのです。
この経の初めに一万二千の弟子たちは気がつきませんでしたが、阿難が今日のお釈迦様は何とお顔が美わしいといいますと、弟子たちは一様にまことその通りと頷いた、そのことです。「心行」は口で言ったり身で行ったりしたことではなく、心の底から常に一貫してその人を動かしている生活精神の深い願心のことです。ここの文はまことに厳粛な私たちの生活の事実をいっているのです。
法蔵菩薩は最後に、「たといこの身はどんな苦難に遇おうとも、この願いが成就するまでは堪え忍んで、決して悔いは致しません」とその決意の堅いことを表白しています。 
仏、阿難に告げたまわく、法蔵比丘はこの頌を説きおわりて、仏に白して言さく、「唯、然り世尊。われは無上正覚の心(菩提心)を発せり。願わくは、仏、我が為に広く経法を宣べたまえ。われはまさに修行して仏国を摂取し、無量の妙土を清浄に荘厳すべし。われをして、世に於いて速やかに正覚を成ぜしめ、諸の生死と苦を勤むるの本とを抜かしめたまえ。」と。
仏、阿難に語りたまわく、時に世自在王仏は法蔵比丘に告げたまわく、「修行して荘厳する所の如き仏土を、汝自らまさに知るべし。」
比丘は仏に白さく、「この義は弘く深くして我が境界(知る所)には非ず。ただ願わくは世尊、広く(我が)為に諸仏如来の浄土の行を敷演(ふえん、延べ説く)したまえ。われこれを聞きおわらば、まさに説の如くに修行して願う所を成満(成就)せん。」と。
その時、世自在王仏は、その高く明らかなる志と願いの深く広きことを知り、即ち法蔵比丘の為に経を説きて言わく、「譬えば大海を、一人にて斗量(とりょう、枡で量る)すること劫数(幾劫)を経歴(きょうりゃく、経過)して、なお底を窮めてその妙宝を得べきが如く、
人、至心(ししん、心より)に精進して道を求めて止まざれば、かならずまさに剋果(こくか、得果)すべし。何ぞ願うて得ざらん。」と。
ここに於いて世自在王仏は、即ち為に広く二百一十億の諸の仏の刹土(せつど、国土)と、天人の善悪と、国土の粗妙とを説き、その(法蔵比丘の)心の願いに応じて悉く現してこれを与えたまえり。
時にかの比丘は、仏の説く所の厳浄の国土を聞き、皆悉く睹見(とけん、見る)して、超(すぐ)れて無上殊勝の願を発せり。その心は寂静として、志には著する所なく、一切世間によく及ぶ者なし。五劫を具足して思惟し、仏国を荘厳する清浄の行を摂取せり。
阿難、仏に白さく、かの仏の国土の(世自在王仏の)寿量はいくばくなりやと。
仏言たまわく、その仏の寿命は四十二劫なりと。
法蔵、世自在王仏の前に願を立てる
時に法蔵比丘、二百一十億の諸仏の妙土と清浄の行とを摂取せり。かくの如きを修めおわりて彼の仏の所に詣で、稽首(けいしゅ、頭を垂れる)して足を礼し、仏を遶(めぐ)ること三匝(さんそう、三周)し、合掌して住まり白して言さく、「世尊、我はすでに荘厳なる仏土と清浄の行とを摂取せり。」と。
仏、比丘に告げたまわく、「汝、今は説くべし。宜しく知るべし、これは時なり、一切の大衆を発起(ほっき、発奮励起)悦可(えっか、悦喜)せしめよ。菩薩聞きおわりて、この(汝の)法を修行し、縁じて無量の大願を満足することを致(いた、挑む)さん。」と。
比丘、仏に白さく、「唯(ゆい、敬った返事)、聴察(聴受察知)を垂れたまえ。我が願う所の如く、まさに具(つぶさ)にこれを説くべし。
釈尊が阿難に仰せになった。
「法蔵菩薩は、このように述べおわってから、世自在王仏に、
<この通りです。世尊、わたしはこの上ないさとりを求める心を起しました。どうぞ、わたしのためにひろく教えをお説きください。わたしはそれにしたがって修行し、仏がたの国のすぐれたところを選び取り、この上なくうるわしい国土を清らかにととのえたいのです。どうぞわたしに、この世で速やかにさとりを開かせ、人々の迷いと苦しみのもとを除かせてください>と申しあげた」
釈尊はさらに言葉をお続けになる。
「そのとき世自在王仏は法蔵菩薩に対して、<どのような修行をして国土を清らかにととのえるかは、そなた自身で知るべきであろう>といわれた。すると法蔵菩薩は、<いいえ、それは広く深く、とてもわたしなどの知ることができるものではありません。世尊、どうぞわたしのために、ひろくさまざまな仏がたの浄土の成り立ちをお説きください。わたしはそれを承った上で、お説きになった通りに修行して、自分の願を満たしたいと思います>と申しあげた。
そこで世自在王仏は、法蔵菩薩の志が実に尊く、とても深く広いものであることをお知りになり、この菩薩のために教えを説いて、<たとえばたったひとりで大海の水を升で汲み取ろうとして、果てしない時をかけてそれを続けるなら、ついには底まで汲み干して、海底の珍しい宝を手に入れることができるように、人がまごころをこめて努め励み、さとりを求め続けるなら、必ずその目的を成しとげ、どのような願でも満たされないことはないであろう>と仰せになった。そして法蔵菩薩のために、ひろく二百一十億のさまざまな仏がたの国々に住んでいる人々の善悪と、国土の優劣を説き、菩薩の願いのままに、それらをすべてまのあたりにお見せになったのである。
そのとき法蔵菩薩は、世自在王仏の教えを聞き、それらの清らかな国土のようすを詳しく拝見して、ここに、この上なくすぐれた願を起したのである。その心はきわめて静かであり、その志は少しのとらわれもなく、すべての世界の中でこれに及ぶものがなかった。そして五劫の長い間、思いをめぐらして、浄土をうるわしくととのえるための清らかな行を選び取ったのである」
ここで阿難が釈尊にお尋ねした。
「ところで世自在王仏の国土での寿命は、いったいどれほどなのですか」
釈尊が仰せになった。
「その仏の寿命は、四十二劫であった。さて法蔵菩薩は、こうして二百一十億のさまざまな仏がたが浄土をととのえるために修めた清らかな行を選び取ったのである。このようにして願と行を選び取りおえて、世自在王仏のおそばへ行き、仏足をおしいただいて、三度その仏のまわりをめぐり、合掌してひざまずき、<世尊、わたしはすでに、浄土をうるわしくととのえる清らかな行を選び取りました>と申しあげた。世自在王仏は法蔵菩薩に対して、<そなたはその願をここで述べるがよい。今はそれを説くのにちょうどよい時である。すべての人々にそれを聞かせてさとりを求める心を起させ、喜びを与えるがよい。それを聞いた菩薩たちは、この教えを修行し、それによってはかり知れない大いなる願を満たすことができるであろう>と仰せになった。そこで法蔵菩薩は、世自在王仏に向かって、<では、どうぞお聞きください。わたしの願を詳しく申し述べます>といって、次のような願を述べたのである」 
国王の願いを明らかに
法蔵比丘は発願の歌を説き終わって、「唯世尊よ、私は無上正覚の心を発こしました。どうか私の為に法をお説きください。私は修行して仏国を摂取し、無量の妙土を清浄にし荘厳しようと思います。私にこの世において速やかに覚りを開き、諸の迷いと苦しみの本を抜かせて下さい。」と。
世饒王仏は法蔵比丘に「自分で造りたいという仏土はあなた自身で考えたらどうですか」
「この問題は弘く深く私の境界ではありません。どうかお願いです。私の為に広く諸仏如来が浄土を造ったやり方を詳しくお説きください、私はそれに順って修行して願いを成就致します」
その時世自在王仏はその高くしかも確かな志願の深く広いことを知って、「たとえば果てしもない大きな海があって、その底に妙なる宝が沈んでいるとする。唯一人小さな枡を以て何年かかってもその水を汲み干そうとすれば、いつかはその宝を取ることができるように、人あって至心に精進して道を求めて止まなかったならば、必ず果たし遂げることができるであろう。何の願いが成就せぬことがあろうか」と励まして、世自在王仏は広く二百一十億の諸仏の刹土、そこに住んでいる人々の善し悪しと国土の粗末なものも立派なものも、法蔵比丘の心の願いに応じて悉く現して見せられた。時に比丘はぶつの説く所の厳浄の国土を悉く見て、無上殊勝の願を超発した。
【科分】法蔵比丘は世自在王仏の人格に触れて国王としてあるべき願いに眼覚めたが、全ての住民が悉く幸せである国とはどんな国であろうか、それを師仏に教えを請う段です。
【無上殊勝の願】とは、どんな願いであろうか。初めに国王が世自在王仏の説法を聞いた時には「無上正真道の意を発こした」といっているのは、法蔵比丘本人ではなく、第三者の「我」と名告るこの経の著者が説明しているのです。それは法蔵比丘本人には即自的でまだ漠然として自覚になっていないからでしょう。それが「発願の歌」を述べ終わって初めて法蔵自身の自覚になったのでしょう。「我無上正覚の心を発した」と言わせています。
そのことは初めには「正真道の意」といい、後には「正覚の心」といっているのは、「正真道の意」は真の道を求める心が発こったことですが、意は思い立った心で、その時点では眼が師仏に付いていてまだ自分の心が見えていません。「正覚の心」は正しく自覚になったことで、心は理性が破れて深層意識の仏性が自覚になり、憶念の心となって、相続することです。この二つは共に国王としての在るべき願いです。
その次に二百一十億の諸仏の国を見て「無上殊勝の願を超発した」というのは著者の説明ですが、さらに五劫の思惟によって選んだ「四十八願」は、法蔵比丘本人に表白させています。この無上殊勝願と四十八願の二つは、明らかに王も住民も共に満足できる理想の国の在るべき願いですが、無上殊勝の願はその総願であり、四十八願はその具体的な実践綱目です。
【修行して仏国を摂取する】とは、どういうことであろうか。「維摩経」の「仏国品」には「仏と菩薩にはもと国がない。あるのは衆生の国だけ。もし仏や菩薩が国が欲しければ空中に建てることはできぬ。現に有る衆生の国を取る外はない。仏や菩薩は衆生のある所至らざる所なく自分の国とした。衆生の類これ菩薩の仏土である」といい、「法華経」には「三界は我が有なり、一切衆生は皆我が子なり」といっています。しかし「大経」の法蔵菩薩は初めから国王である。昔の国王は皆武力や権力を以て国を取っているが、法蔵は「修行して」といっている。この謎を解くのに私はどれだけ時間を掛けたことか。それを解く鍵は「摂取」に有りました。
摂も取もどちらもとることですが、摂は手偏に耳が三つ、手は手当てで慈悲現し、耳が三つは誰の言うことも聞き取ること。それによって相手がその人を尊敬し懐[なつ]き親しむことで、相手の心をとること。取は耳偏に手ですが、耳を手でもぎ取ること。昔中国では敵の捕虜の耳をもぎ取って奴隷にしていたという。摂取はその人に心から懐[なつ]いて、その人のためなら身を粉にしてもと、相手が自分を尊敬し心服することです。「仏国」は土地のことではなく「衆生の類これ菩薩の仏土」で、人が懐いて多く集まれば集まるだけ、国が広くなる。それを「浄土は人が多く生まれれば生まれるほど広くなる」というのです。
【無量の妙土を清浄にし荘厳する】無量の妙土とは、「華厳経」では人間が信心開発、心の眼を開けば、自分が誕生すると同時に自分には国があることが見えると説く。法蔵菩薩の国は一切衆生の国を内含していること。「妙土」とは衆生の国は法蔵比丘の現時点では穢土とも浄土とも、迷いの世界とも覚りの世界ともいえぬから、妙土といったのでしょう。
「清浄にする」とはクリーニングで、煩悩に汚れているからそれを無くすること。「荘厳する」とはさらに功徳を以て厳[かざ]ること。たとえば環境を綺麗にする時、吸い殻を捨てぬようにとか、捨てているあき缶を拾うとかは清浄にすること。その上緑化運動とか花植え運動は荘厳すること。女性が美しいとは昔は垢抜けした顔とか、鴨川の水で顔を洗ったようなとは清浄。今はお黄いやらお青いで満艦飾、それが荘厳。仏教学者は皆浄土は煩悩がなくなった清らかな世界といっているが、それは涅槃や真如と浄土を混同しているからです。

【科文】世自在王仏は法蔵菩薩の志願の深広なることを確かめて、大海の底に沈んでいる妙なる宝を探し出すことを説いて、二百一十億の諸仏の世界から真実の浄土を選択することを説く段階です。
【大海の底の妙宝】とは、一切衆生の無明の大海の底に沈んでいる仏性のことです。一切衆生が満足できる浄土とは、一人ひとりの欲望が満足できる世界ではありません。一人ひとりが正しい人生観に立って、一人ひとりが真実の生き方に依るより他に道はありません。そのことを押さえて世自在王仏は、この世に真実の世界を建設する方法を見つけ出したのです。
【二百一十億の諸仏の世界】とは、二百一十億の数は一番下から蓮華こづみにして六段階重ねた総数です。これは六から桟[さん]こづみにした二百十と同じ数です。六は六道を象徴したもので、迷いの世界のことです。この世の在り方が重々無尽に交錯していることを表しているのです。
【世自在王仏が法蔵菩薩の為に二百一十億の諸仏刹土の人天の善悪と国土の轟妙[そみょう]を見せしめた】とは、各々自分の欲望に順って築き上げた、その人その人の世界のことです。例えば一も金、二も金といって立派な家庭を作ったり、或いは学閥に依ったり、或いは企業に依ったりしてできた家庭のそこに住んでいる人が満足しているかどうか、それを欲望の眼によって見ず、醒めた世自在王仏の眼を通して見せたことです。
戦時中でしたが、あるひとつの道具を発明して、その発明した道具を軍部が買い取って、忽ち御殿のような大きな家が出来ました。近所の人が「奥さん、今頃あなたは幸せですね。持ち物を見れば蝙蝠傘から着物から履物に至るまで、みな娘さんのように若返って、皆のものが村一番の幸せ者だといっていますよ」といいましたら、「幸せと思っていたのは、ただ三ヶ月でした。気が付いてみたら、郊外に立派な別荘が建って、二号さんが住んでいて、お腹さえおおきゅうなっておるそうです。私は腹が立って腹が立って夜も落ち着いて寝る晩もありません。貧乏の時の方がどんなによかったでしょう。子ども達も勉強部屋が出来たといって喜んでおりましたが、日々が面白うない、昔の方がよっぽどよかったといっておりますよ」。
また或る大学の教授は学問学問によって一代の財産を築き上げましたが、四十になった夫人が四人の子どもを残して、年取った歌人のところに走りました。足利先生の所へ一人の紳士が訪ねて、「先生、宿業とはどういうことですか」
「宿業という文字の意味が知りたいのですか、それとも宿業といわずにおれぬ事件があるからですか」
「私のことは既に新聞に出ましたから何もかも申し上げます。妻は私より書物が可愛いといって不満を申しています。私はこういう不倫な女は絶対に許さないと思いますが、子ども達は、お母さんは私達にとっては世界中にたった一人しかいない母ですから、どうぞ帰してあげて下さいといって泣きますよ。私はこの年になってどうしてよいか分からず人生に迷うております。こういうことを宿業というのでしょうか。」
その他、これが良ければ、あれが悪い。あれが良ければ、これが悪い。この世は矛盾に満ち満ちている世界ですから、本当に満足いく世界は何処にもありません。こういう人生全般を世自在王仏の眼をもって見直して、人間に生まれた喜びと、日々の生き甲斐を生きることのできる国を見出されたのです。
そこで法蔵菩薩は世自在王仏のもとに行って、「世自在王仏よ、私は一切衆生の人びとが本当に生きられる国を発見いたしました」と申し上げると、世自在王仏は「丁度よい時です。今ここに人生を手探りで訪ねているたくさんな大衆が居ります。あなたの願いをここで述べてみなさい。これらの一切の大衆は、そうだ!、それが我々も望んでいる国であると発起悦可せしめて、新たに自分の願いを見つけて、菩薩として誕生し、無量の大願を成就するでしょう」。
そこで法蔵菩薩は「私の願いの如く申し上げます。お聞き下さい」。

「五劫」とは「五悪趣」のことで、迷いの世界のことです。
「仏国を荘厳する清浄の行を摂取した」とは、この世界を仏の国として立派にしていく本願を見つけたということです。だから五劫の思惟をへて本願を見つけたということは、この迷いの世界(地獄、餓鬼、畜生、人、天)を超えたところに本願を見つけたということです。
たとい我、仏を得たらんに、国に地獄、餓鬼、畜生あらば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の人天、寿(いのち)終りての後、また三悪道に更(かえ)らば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の人天、悉く真金色たらずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の人天、形色同じからず好醜あらば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の人天、悉く宿命(宿命通)の、下は百千億那由他(なゆた、十億)の諸の劫(世界の寿命に等しい時間)の事を知るに至るまで識らずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の人天、天眼(天眼通)の、下は百千億那由他の諸仏の国を見るに至ることを得ずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の人天、天耳(天耳通)の、下は百千億那由他の諸仏の所説を聞くに至ることを得ずして、悉く受持せずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の人天、他心を見る智(他心通)の、下は百千億那由他の諸仏の国中の衆生の心の念(おもい)を知るに至ることを得ずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の人天、神足(神足通)を得ずして、一念の頃(一瞬の間)に於いて、下は百千億那由他の諸仏の国を超過すること能わざるに至らば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の人天、もし想念(妄想)を起こして身に貪計(とんげ、執著)せば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の人天、定聚(じょうじゅ、正定聚)に住まりて必ず滅度(涅槃)に至らずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、光明は、よく限量するもの有りて、下は百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、寿命は、よく限量するもの有りて、下は百千億那由他の劫に至らば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の声聞は、よく計量するもの有りて、乃ち三千大千世界の衆生と縁覚、百千劫に於いて悉く計挍(けきょう、数える)するに至りて、その数を知らば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の人天の寿命は、その本願にて脩短(しゅうたん、長短)自在なるを除いてよく限量するもの無し。もし爾らずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の人天、乃ち不善(十不善業、殺生、偸盗、邪婬、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、瞋恚、邪見)の名さえ聞くに至らば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、十方の世界の無量の諸仏、悉く咨嗟(しさ、ああという嘆声)して我が名を称えずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信じ楽しみて我が国に生まれんと欲すること、乃ち十念(十瞬間)に至らんに、もし生まれずんば、正覚を取らじ。ただ五逆(殺父、殺母、殺阿羅漢、仏身より血を出だす、和合僧を破壊する)と正法を誹謗するとを除く。
たとい我、仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心(ぼだいしん、世界を浄めて仏に成ろうとする心)を発して諸の功徳を修め、至心に発願して我が国に生まれんと欲し、寿(いのち)の終る時に臨んで、たとえば大衆に囲繞(いにょう、取り囲む)されて、その人の前に現れずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号(な)を聞いて、我が国に念を係(か、繋)け、諸の徳本(善根)を植えて、至心に廻向(えこう)して我が国に生まれんと欲せんに、果遂(かすい、成就)せずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の人天、悉く三十二大人相(三十二相、仏の勝れた容貌)を満すことを成さずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、他方の仏土の諸の菩薩衆、来たりて我が国に生まれんには、究竟じて必ず一生補処(いっしょうふしょ、次の生に仏となる位)に至らん。その本願の、自ら化(化導)する所に在りて、衆生の為の故に、弘き誓の鎧を被(き)て徳本を積み累(かさ)ね、一切を度脱(済度解脱)せんとして諸仏の国に遊び、菩薩の行を修めて十方の諸仏如来を供養し、恒沙の無量の衆生を開化(開発化導)して無上正真の道に立たしめ、常の倫(ともがら)の諸地(十地、菩薩の修行の十段階)の行を超え出でて普賢の徳(慈悲行)を現前し修習せんものを除いて、もし爾らずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の菩薩、仏の神力を承けて諸仏を供養せんに、一食の頃(あいだ)に遍く無量無数億那由他の諸仏の国に至ること能わずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の菩薩、諸仏の前に在りてその徳本を現さんに、諸の求め欲する所の(香華、灯明、飲食、衣服、臥具等の)供養の具、もし意の如くならずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の菩薩、一切智(一切を知る仏の智慧)を演説すること能わずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の菩薩、金剛那羅延(ならえん、力士神名)の身を得ずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の人天と一切の万物、厳かにして浄く、光りて麗しく、形色(形と色)は殊特(超絶)にして微(精妙)を窮め妙(神秘)を極め、その諸の衆生をよく称量(計量)するものなからん。乃至(少なくとも)天眼を逮得(たいとく、追求獲得)せんもの、よく明了してその名数(人数)を辨(わきま)う者あらば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の菩薩の、乃ち功徳の少なき者に至るまで、その道場樹(菩提樹)の無量の光色(光明と形色)と高さ四百万里なるを知見(見て知覚する)すること能わずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の菩薩、もし経法を受けて読み、諷誦(ふじゅ、節を付けて暗誦する)し、説(経説)を持(保持)して、しかも辯才と智慧(四無礙智)とを得ずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の菩薩の智慧と辯才とを、もし限量(計量)すべくんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国土清浄にして、皆悉く十方の一切の無量無数不可思議の諸仏の世界を照らし見て、なお明鏡にその面像を睹(み)るが如くあらん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、地より以上は虚空に至るまで、宮殿、楼観、池流、華樹(等の)、国土の所有(あらゆる)一切の万物は、皆無量の雑宝と百千種の香とを以って共に合成し、厳かに飾りて奇妙なることは諸の人天に超え、その香は普く十方の世界に薫(かお)りて、菩薩聞かば皆仏の行を修めん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、十方の無量不可思議の諸仏の世界の衆生の類、我が光明を蒙りてその体に触れなば、身心は柔軟になりて人天を超過せん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、十方の無量不可思議の諸仏の世界の衆生の類、我が名字を聞いて菩薩の無生法忍(むしょうほうにん、空平等を覚ること)と諸の深き総持(そうじ、憶持して不忘失なること)を得ずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、十方の無量不可思議の諸仏の世界、そこのある女人、我が名字を聞きて歓喜し、信じ楽しんで菩提心を発し、女身を厭い悪(にく)んで寿(いのち)終りての後に、また女像とならば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、十方の無量不可思議の諸仏の世界の諸天、人民、我が名字を聞いて五体を地に投げ、稽首(けいしゅ)し礼を作して歓喜し、信じ楽しんで菩薩の行を修めんに、諸天、世人に敬いを致さざるもの無からん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の人天、衣服を得んと欲せば念(おもい)のままに即ち至りて、仏に讃ぜらるる法に応じたる所の妙服、自然に身に在らん。もし裁縫(さいふ、裁断縫製)、染治(せんち、染色)、浣濯(かんたく、洗濯)すること有らば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の人天の受くる所の快楽は、漏(ろ、煩悩)の尽きたる比丘の如くあらずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の菩薩、意のままに十方の無量の厳かに浄らかなる浄土を見んと欲せば、応時(即時)に願の如く宝樹の中に於いて皆悉く照らし見え、なお明鏡にその面像を睹るが如くあらん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、他方の国土の諸の菩薩衆、我が名字を聞かば、仏を得るに至るまで諸根(眼等の二十二根)欠陋(けつる、欠損粗悪)して具足せずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、他方の国土の諸の菩薩衆、我が名字を聞かば皆悉く清浄なる解脱三昧(空無相無作の三三昧)を逮得し、この三昧に住して一たび意を発す頃(あいだ)に無量不可思議の諸仏世尊を供養して定意(禅定)を失わざらん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、他方の国土の諸の菩薩衆、我が名字を聞かば、寿の終りての後には尊貴の家に生まれん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、他方の国土の諸の菩薩衆、我が名字を聞かば、歓喜し踊躍して菩薩の行を修め徳本を具足せん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、他方の国土の諸の菩薩衆、我が名字を聞かば、皆悉く普等三昧(ふとうさんまい、一切を平等に見る三昧)を逮得し、この三昧に住して仏と成るに至るまで、常に無量不可思議の一切の如来に見(まみ)えん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、国中の菩薩、その志願のままに聞かんと欲する所の法を自然に聞くことを得ん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、他方の国土の諸の菩薩衆、我が名字を聞かば、即ち不退転(の位)に至ることを得ずんば、正覚を取らじ。
たとい我、仏を得たらんに、他方の国土の諸の菩薩衆、我が名字を聞かば、即ち第一第二第三の法忍(法の認可、覚り)を得ず、諸仏の法(菩薩法)に於いても即ち不退転を得ること能わずんば、正覚を取らじ。
正宗立願分の余/重ねて偈を説く

仏、阿難に告げたまわく、「その時、法蔵比丘、この願を説きおわりて、頌(じゅ、徳を称える歌)を説いて曰く、
「我超世の願を建て、必ず無上道に至らん、
この願満足せずんば、誓って等覚(仏の位)を成ぜじ。
我無量劫に於いて、大施主と為りて、
普く諸の貧苦を済わずんば、誓って等覚を成ぜじ。
我仏道を成ずるに至り、名声十方に超え、
究竟じて聞く所靡(な、無)くんば、誓って等覚を成ぜじ。
欲を離れ正念を深うして、浄慧にて梵行を修め、
無上道を志求(しぐ)して、諸の天人の師と為らん。
神力は大光を演(の、布)べて、普く無際の土を照らし、
三垢(さんく、貪瞋癡)の冥(やみ)を消除して、衆の厄難を広済す。
かの智慧の眼を開きて、この昏盲の闇を滅し、
諸の悪道を閉塞して、善趣の門を通達せん。
功祚(こうそ、仏果)成じて満足し、威曜は十方を朗らかに、
日月は重暉(じゅうき、光)を戢(おさ)めて、天光は隠れて現れず。
衆の為に法蔵を開いて、広く功徳を宝を施し、
常に大衆の中に於いて、法を説いて師子吼(ししく)せん。
一切の仏を供養して、衆の徳本を具足し、
願と慧とは悉く満を成じて、三界の雄たることを得ん。
仏の如き無量の智は、通達して照らさざることなからん。
願わくは我が功徳力、この最勝の尊と等しからん。
この願もし剋果(こくか、成就)すべくんば、大千はまさに感動し、
虚空の諸天人は、まさに珍妙の華を雨ふらすべし。」
釈尊が阿難に仰せになる。
「そのとき法蔵菩薩は、この願を述べおわってから、次のように説いた」
わたしは世に超えすぐれた願をたてた。必ずこの上ないさとりを得よう。
この願を果しとげないようなら、誓って仏にはならない。
わたしは限りなくいつまでも、大いなる恵みの主となり、力もなく苦しんでいるものをひろく救うことができないようなら、誓って仏にはならない。
わたしが仏のさとりを得たとき、その名はすべての世界に超えすぐれ、そのすみずみにまで届かないようなら、誓って仏にはならない。
欲を離れて心静かに、清らかな智慧をそなえて菩薩の修行に励み、この上ないさとりを求めて、天人や人々の師となろう。
不可思議な力で大いなる光りを放ち、果てしのない世界をくまなく照らして、煩悩の闇を除き去り、多くの苦しむものをひろく救いたい。
智慧の眼を開いて無明の闇をなくし、迷いの世界の門を閉じて、さとりの世界の門を開こう。
すべての功徳をそなえた仏となって、そのすぐれた輝きはすべての世界に行きわたり、太陽も月もその光りを奪われ、天人も輝きを隠すであろう。
人々のためにすべての教えを説き明かし、ひろく功徳の宝を与えよう。
常に人々の中にあって、獅子が吼えるように教えを説こう。
すべての仏がたを供養し、さまざまな功徳をそなえ、願も智慧もそのすべてを満たし、世界中でもっともすぐれたものとなろう。
師の仏の何ものにもさまたげられない智慧がすべてを照らし尽すように、願わくは、わたしの功徳や智慧の力も、このもっともすぐれた仏のようでありたい。
この願いが果しとげられるなら、天も地もそれにこたえて打ち震え、空からはさまざまな天人が美しい花を降らすであろう。 
法蔵菩薩は世自在王仏に四十八願を述べ終わりますと、重ねてこの「重誓偈」を誓われます。これは経典ではよく用いられる手法で、多くの教説を散文で述べ終えた後、すぐに要点を韻文(偈)にまとめて誦するのです。ですからこの「重誓偈」は先の四十八願を凝縮した内容なのであり、また「願い」からさらに進んで、「誓い」という重い責任を負う形をとって説かれるのです。日本語でも「願う」は「音ぐ」で「本音の発露」であり、「誓う」は「血交う」という意味ですから、「重誓偈」は短い偈文であっても、仏の万感を込めた内容と言えるでしょう。
「重誓偈」は別名「三誓偈」とも言われていますが、その理由は――
われ超世の願を建つ、かならず無上道に至らん。
この願満足せずは、誓ひて正覚を成らじ。
われ無量劫において、大施主となりて、あまねくもろもろの貧苦を済はずは、誓ひて正覚を成らじ。
われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。
究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。
と、最初に三つの誓いが発せられることから名がつきました。今回はこの三つの誓いを味わってみましょう。
必ず無上道に至らん
我建超世願必至無上道:われ超世の願を建つ、かならず無上道に至らん。
斯願不満足誓不成正覚:この願満足せずは、誓ひて正覚を成らじ。
最初の「我」は、四十八願全てを説き終えた段階の「我」ですから、求道の前衛主体である念仏者の「我」と、その根本主体である阿弥陀仏の「我」が一体(機法一体)となった「我」、つまり南無阿弥陀仏と成り切った「我」です。これは大乗仏教に戻して言えば「常楽我浄」の性根の生まれた「我」であり、全人類を内に宿しながら求道の全主体として万感の思いを込めて叫ばれた「我」でありましょう。この機法一体の「我」が覚りを得れば、阿弥陀仏も正覚を取った甲斐があり、同時に一切衆生も覚りを開いておられる≠ニ見抜くことができる訳です。すなわち「我」が浄土往生を願えば一切衆生も往生を願う、この仏と衆生の願いが一体となったところの「我」が浄土を建立し、建立した浄土が衆生に働く(回向する)のです。
「我建超世願」の「超世願」は、申し述べる師が「世自在王仏」でありますから、世を超え出てしまったままの願いではありません。「出世」ではなく「出出世」。法蔵菩薩はかつて「世において自在なる智徳を得た主体(王)」である師と等しくならん(斉聖法王)と願いを建てたのです。「自在」とは「自ずから在る」という意味ですから、本来在るもの全てが成就せんと働き出した仏であり、生命の内に宿っているあらゆる可能性が発揮され、自らと環境を障りなく創造してゆく理想王でしょう。この理想が理想に留まらず、現実の成就を目指す機法一体の「我」が目覚めた。それが法蔵菩薩と世自在王仏の出遇いであり、「超世願」が建てられた歴史的な意義だったのです。
また仏教全体で言えば、大衆とともに「大道を体解して無上意をおこさん」「ふかく経蔵に入りて智慧海のごとくならん」「大衆を統理して一切無碍ならん」と、真実そのものが回向して建てた願いであり、さらに他の諸仏に超え勝れんと建てた願い、それが「超世願」なのでしょう。いわば本願全体の満足、四十八願の総合的な成就を誓います。
「必至無上道」の「無上道」は、我は既に真実信心を得た≠ニか既に無上道を得た≠ニ生悟りして過去の境地に留まるのではなく、かといってまだまだ道は遠くにある≠ニか死んで後に覚る≠ニ先ばかり見つめるものでもありません。現在ただ今の人類全てが「無上道に至らん」と歩を進める、その歩みを尊んでいるのです。いわば人間讃歌でしょう。島田幸昭師は<「無上道に至らん」というそれが「無上道」>と仰いましたが、まことに言い得て妙なる表現です。仏の寿命は無上菩提心であり、無上菩提心の道程が無上道であります。そして「無上道に至らん」とする寿命が尽きることがない仏、という意味で阿弥陀仏を「無量寿仏」と尊み意訳したのでしょう。
極論ではありますが、仏教とはこの「必至無上道」の展開である、と言えるでしょう。それは同時に、人類の歩みは「必至無上道」の展開である≠ニいう意味でもあるのです。
「斯願不満足誓不成正覚」は、四十八願全体で願われた「設我得仏……不取正覚」(たとひわれ仏を得たらんに、……正覚を取らじ)と同じ表現ですが、やはり「誓い」の方が責任が重い表現です。願いも誓いもどちらも完全に完成した≠ニ言いきれるものではなく、かといって成就なんて無理だ≠ニ放棄することもできない内容です。なぜならそれは、「人間だからこそ人間になりたい」、「親だからこそ親になりたい」と、つねに存在それ自体の成就を誓う内容だからです。ですから、仏道・無上道はいつも道の途中ではありますが、同時に歩みを進める一歩一歩それ自体が無上道が成就した姿そのもの。誓願の中に無上道が完成されているのであります。
法蔵菩薩にとってはこの第一の誓願の成就が全てであり、後はその具体化であり展開なのでしょう。
大施主となり諸貧苦を済う
我於無量劫不為大施主:われ無量劫において、大施主となりて、普済諸貧苦誓不成正覚:あまねくもろもろの貧苦を済はずは、誓ひて正覚を成らじ。
これは前の「必至無上道」が展開する要めの第一歩で、具体的には第十二願と第十八願の内容を誓い直しています。
ではどういう道程を通って現実の力と成るのかというと、阿弥陀仏の寿[いのち]である歴史を貫きつつ一切を創造する無上菩提心(一心)≠ェ衆生の心身に及んで信心と成りきるため、悠久の歴史(無量劫)を通して大施主となり、阿弥陀仏一心を三心に開いて人民に及ぼさせ、菩薩となった人民を通して一心が無量無辺に展開するのです。
具体的には、心ある人間に生まれてさせて頂きながら性根のない私たち衆生(諸貧苦もしくは諸貧窮)に、心を至す心(至心)≠回向し、自己のめざめを経験させるとともに、深くして底のない無明を見出させ、歴史的・全人間的自覚(信楽)へと深め、人類共通の場と精神と創造の方向性を示してゆく(欲生)のです。これらの道行きが見えてこそ、行き詰った人々への大施主となることができ、人生の展開を示すことも可能なのです。逆にこうした道程が見えない人がする親切やアドバイスは、時として大きなお世話になったり仇になってしまうものです。
なおこれは単なる空想でも机上の空論でもありません。現実の歴史はこの大施主が為す創造の方向に進みつつあるのであり、これが人類歴史の大法則であります。この法則を見出し、法則の要点に名を付け、物語りに仕上げていただいたものが「仏説無量寿経」上巻であり、この法則に遵って具体的な働きや国家・社会像を語り、各種の活動や生活の留意点を説いていただいたものが「仏説無量寿経」下巻なのです。
ちなみにこの法則は、現実においては一方向にのみ進むわけではありません。一進一退、迷走を繰り返して人類の歴史は紡[つむ]がれていきます。しかし歴史のどの一こまをとっても経典の内容は生きているのであり、必須として進む歴史は「仏説無量寿経」の通りであることが解るでしょう。またこれは自分自身の人生において確認できるものですが、これこそが「我於無量劫不為大施主」が真実である証しなのです。
私は大施主に成れるのか成れないのか。今はとても大施主に成っているとは言えません。大施主となる性根も実力も実績もないからです。しかし同時に私はいつか大施主に成りたい≠ニも思っています。身の程知らずな思いですが、全ての人間の心底で響いていますので、耳を澄ませば聞こえてくるはずです。人々の嘆き声を聞くたびに、弱きものが不条理な圧制に苦しむ姿を見るたびに、精神弱く自己実現できず行き詰っている人々を見るたびに、いつか大施主に成りたい≠ニ誰しも思うのです。成れるかどうかは別として、誰しも成りたいと思う、この思いの深さが「無量劫」でありましょう。同時に「無量劫」は現在の大施主になれない性根なしの我の懺悔でもあります。
金や権力があるだけでは人間は救えません。そのことを身に染みて懺悔でき、人間の道行きが示せてこそ本当の大施主なのです。これこそ如来が私に成り切った「我」のはたらきでありましょう。
名声十方に超え聞こえん
我至成仏道名声超十方:われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。
究竟靡所聞誓不成正覚:究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。
「正信偈」には「重誓名声聞十方」とあります通り、親鸞聖人はここを「重誓偈」の肝心要めと見てみえるようです。「名声」は「ミョウショウ」と読みますが、意味は「メイセイ」と同じです。
地位も名声も要らん≠ニいうのが出家仏教であるのに対し、在家仏教は人間関係や国や組織や家庭などが問題となってきますので、地位も名声も大事な要素として扱っているのです。ただしこの地位や名声は、虚栄心の満足として求めるものではありません。足元を見つめつつ、道心の内容を問う最後の段階が地位と名声なのです。時間の問題はありますが、名声が獲得できない限りその内容は本物ではありません。
具体的には、その人の置かれた状況である地位(座)が人間をつくり、その人間の真心こもった業績により信頼の徳が生まれ、この徳が名声となって世界を駆け回り、やがて信頼の徳が増す形で座に戻ってくるのです。現に世にある座の徳はすべて、先人たちの実績や徳の積み重ねでできたものでありますが、仏徳はその中でも最高の名声を博しているのです。
逆に、その人がその地位にふさわしくない悪行を重ねればその座は脅かされるのであり、信頼は損なわれ、悪徳は不善の名となって世に知れ渡ります。するとその座も汚されてしまうわけですが、仏が仏の座を汚すわけにはまいりません。これは僧侶や念仏者も同様でしょう。僧侶が僧侶の座に相応しくない悪行を重ねれば結果として仏教の評判は下がり、僧侶が僧侶の座に相応しい行跡を重ねれば名声が生まれます。
聖徳太子も「人はよく法をひろむ、法は人によってひろまる」と仰ってみえます。「名声十方に超えん」との誓願には、仏も仏教徒もそうした仏の座を尊んでゆこう≠ニいう誓いが込められているのです。
これは四十八願で言えば、名声は諸仏称名の願、不善の名を無くす誓願は離諸不善の願の成就を誓っているのです。先の「必ず無上道に至らん」「大施主となり諸貧苦を済う」という南无阿弥陀仏の展開は、仏が仏の座を全うせんとの誓願が名に集約されたものに他ならず、仏は十方の衆生に、その名に込められた信頼・徳を褒め称えてほしいわけです。そして十方の衆生は、南无阿弥陀仏の名を褒め称えているうちに、自ずと名に込められた徳を誉めることになり、この仏徳讃嘆によって仏の浄行が我が身に回向され、日々新たに信心を獲得せしめてゆくのです。
重誓偈(漢文)
我建超世願必至無上道
斯願不満足誓不成正覚
我於無量劫不為大施主
普済諸貧苦誓不成正覚
我至成仏道名声超十方
究竟靡所聞誓不成正覚
離欲深正念浄慧修梵行
志求無上道為諸天人師
神力演大光普照無際土
消除三垢冥広済衆厄難
開彼智慧眼滅此昏盲闇
閉塞諸悪道通達善趣門
功祚成満足威曜朗十方
日月&M011617;重暉天光隠不現
為衆開法蔵広施功徳宝
常於大衆中説法師子吼
供養一切仏具足衆徳本
願慧悉成満得為三界雄
如仏無礙智通達靡不照
願我功慧力等此最勝尊
斯願若剋果大千応感動
虚空諸天人当雨珍妙華
「我、超世の願を建つ」と言う。これ誰が言うのか。これは、静かに目を閉じてお念仏する。お念仏の中に、そこに「我、超世の願の願を建つ」と、私が言うのではない。私の魂のもっと深いところから、「我、超世の願を建つ」という地響きが、そういう地響きが私に聞こえてくる。そういうものを説かれたものが、「我、超世の願を建つ」という。それを聞いた。このお経を書いた人は、それ魂の叫びを聞いたのだろうか。
それを、だから、法蔵菩薩の四十八願ということは、どこか西方十万億の向こうの話ではなしに、皆手が合わされてみたら、このお経を説いた人。誰か分かりませんよ。このお経を説いた我。この我も、魂の底から聞こえてくる。そうすると、その人だけではない。私たちも、南無といわれにかなった手が合わされてみたら、「我が魂の底深く名告り続けるみ仏の久遠の願い」で、どんな人も手が合わされてみたら、南無の中から阿弥陀が働いておる。その阿弥陀のご説法。阿弥陀のご説法を聞いてでありますから、したがって、説いても説いてもこれちゃんと、南無の中に聞こえてくるご説法でありますから、そこに、私は、「我。超世の願を建つ」という。これ非常に大事なんだと思うんでありますよ。
(中略)
ところが、親鸞聖人。これから前に前進。前へ向いて行くのだから。したがって、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏という一歩一歩日暮らしの中に、右の足は宿業の大地を踏まえた足。右も左の足がお浄土に大地踏まえた足に。同時に、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏の前に向かって行くのだから。こうだと横向きでしょう。
(中略)
もう一つだけ、それならば、この願という「建てる」という。この建てるということは、建国の精神というように、今までなかったもの初めて建てる。そういう意味。だから、建国とか、建国祭言いましょう。建国、国が建つ。あれは、学校を出て建学精神と言って、学校を建てた精神という。
(中略)
だから、私らは結果ばかり求めておる。諸仏の道は、諸仏のさとりは結果ばっかり。そうです。お金が貯まったらいいのです。今度、家が建ったらいいの、いい婿さんが見つかったらいいのです。そうでない、本当は「でかそう、でかそう、でかそう」という道中に本当のものがあるのです。そういう道。世を超えるのに、世の中にありながら、しかも、普通の人の常識と違った道。それを「無上道」。だから、「無上道」そのもの、道そのものが結果、モットー。そういう信心はそういうもの。それを「信心は菩提心だ」と親鸞聖人おっしゃいましょう。菩提心。だから、無上菩提心でしょう。それが大事なのです。「我、超世の願を建つ、必ず無上道に至らん」ということは、法蔵菩薩その人がいつでも気が付いてみたら、無上道から「これから」と呼び返され呼び返されて、これでいつでも無上道に立ち返るのです。「これから、これから、これから」という。いつでも信の第一歩に立つという。そういうことを「必ず無上道に至らん」と、こうおっしゃったのだろう。実は「無上道に至らん」というそれが「無上道」。裏から言えば、無上道に立った人が無上道に至らんと、こう願うのです。そうではありませんか。
(中略)
あれが欲しい、これが欲しいという財産が欲しい。そういうお金が欲しいということと。今度はそれが財産も要らんぞ。今度は、あれはしとうない、これはしとうないという身を惜しむ、横着者。たとえ身を粉にしても構わんぞ、骨を砕いても構わんぞ。今度は死にとうない、死にとうないということは、たとえ、死んでも構わんぞ。こういう「身と名と財」とを投げ捨ててさえも、それがまことそのものでしょう。まことそのものが私を動かす。そういう純粋なものが出てきた。そういう道を「無上道」という。
それなら、いつもそうかと言うと、ただ捨てるのではありません。そこに出てくる。そういう同じ出ても世を超えるのではない。世においてお金も欲しい、財産も欲しい、命も欲しいのです。あれもしとうない、これもしとうないとあるのです。あったその中でそういうのが働くのです。そこに矛盾の世界があるわけ。そういう道を「無上道」とおっしゃったのではないだろうかと思うわけであります。
根本精神が歴史や社会を導く師となる
「究竟靡所聞誓不成正覚」までの三誓は前回詳説しましたので、今回は重誓偈の後半を味わってみます。
離欲深正念浄慧修梵行:離欲と深正念と、浄慧とをもつて梵行を修して、志求無上道為諸天人師:無上道を志求して、諸天人の師とならん。
この箇所は本来、前回の三誓の流れの中で語るべきものかも知れません。と申しますのは、<かならず{卒業なしの}無上道に至らん>、<大施主となり全ての貧苦(窮)を済う>、<名声が十方に超え聞こえん>という三大誓願は仏の最終目標でありますが、その誓願が実現されるために、自らはどうあれねばならないか≠ニ、ここでは仏自身の成仏の道程を語っているのです。四十八願では、国土と国民がどうあらねばならないか≠ェ十一願までに説かれて、十二願から仏自身はどうあれねばならないかという願が出ましたが、重誓偈ではまず自らの誓願が建てられます。
この理由は前にも語りましたが、重誓偈では<求道の前衛主体である正定聚の菩薩(信心獲得者)の「我」と、その根本主体である阿弥陀仏の「我」が一体となった「我」、つまり機法一体の南無阿弥陀仏と成り切った「我」>の誓いですから、仏と衆生、さらには身土不二の国土が総合的に誓いを発しているので、自身の誓願が最初に述べられるのでしょう。
<離欲>とは、欲を離れることです。なぜ「欲」を離れる必要があるかと申しますと、「欲」とは「無いものねだり」の苦しみを生み、不要となっても執着の苦しみが残る心だからです。そして、「無いものねだり」の苦しみや執着の苦しみは、自分自身の主体性を失わせ、他者による誘導を容易にする危険性があります。また「欲」は気まぐれであり、叶って叶わなくても構わないものが含まれるので人生に迷いを生んでしまいます。比べて「願」や「誓」は、今ある存在そのものを発揮し実現させてゆくことを求めますので迷いがなく、常に必要な心ですから誓願を保っても執着とは呼ばないのです。執着とは不要なものを保とうとすることをいいます。
<深正念>とは、「深」は仏の深い≠ニいう意味で、「正念」は邪念を離れ真実を思念する≠ニいうことです。「正念」は「八正道」の一つに数えられていますが、ここでは「如来回向の正念」ということでしょう。「深正念」は衆生の側からの念ではありません。我と成り切られた<我ならぬ清らの我>の念であり、その正念が如来より回向される。これが「深」の意味なのです。
<浄慧>はけがれた欲望のない清浄なる仏の智慧≠ニいう意味です。智慧の「慧」は、泰然自若とした態度で我執や先入観念を離れ、客観の世界が平等にあるがままに見える智慧です。「智」は慧の立場に立った上で、明らかに分別し、白黒の決断を下してゆく智慧です。これも衆生の側からの智慧ではありません。如来回向の「浄慧」です。
<修梵行>とはけがれた欲望を断じた、清く正しく美しい仏の修行≠ニいう意味です。これも衆生の側から行った修行ではなく、如来回向の梵行です。四十八願で言えば「36・聞名梵行の願」に当たりますが、出家主義ではなく在家の立場を重んじるこの「仏説無量寿経」の経意から言えば、「修梵行」は「禁欲道」ばかりでなく、むしろ「愛欲即是道」が主となります。
ところで、「離欲」「深正念」「浄慧」「修梵行」の四つはどのような関係にあるのでしょうか。一番単純に言えば、<無上道を志求して、諸天人の師とならん>との誓いを実現するための四要素≠ニも考えられます。また、「離欲」の裏づけのある「深正念」≠ニ「浄慧」に基づいた「修梵行」≠フ二要素に絞ることもできます。さらには、「深正念」によって生み出される「浄慧」≠ニ考えれば「修梵行」のみに絞ることもできます。註釈版は「修梵行」の一要素と解される読みになっていますが、それはあまりに極端ですから、二要素と理解するのが勝義だと思われます。
<志求無上道為諸天人師>で、はやり「無上道」が出てきます。最初は「必至無上道」でしたが、「志求無上道」も同じです。仏教とはこの「必至無上道」「志求無上道」の展開である、と言えるでしょう。そしてそれは同時に、人類の歩みは「無上道を求め至らん」とする展開である≠ニいう意味でもあるのです。この根本精神が人々の師となり歴史や社会を導いてゆくのです。
高々と誓願を宣告し実行する
神力演大光普照無際土:神力、大光を演べて、あまねく無際の土を照らし、消除三垢冥広済衆厄難:三垢の冥を消除して、広くもろもろの厄難を済はん。
<神力演大光普照無際土>は、いよいよ阿弥陀仏が衆生一人ひとりの国土(世界)を「照らす」ということですが、「照らす」と言っても太陽や電灯のように光源をどこかに設置して光を当てるのではありません。正確に言えば「見出して輝かせる」のです。光明は「はたらき」です。一人ひとりの持っている世界が本質を現わすように仕向け、一人ひとりの個性で輝くように導くのが仏の光明です。個人的な悪い癖が転じられ、個性となって輝くのです。では具体的にどういう道程を経て一人ひとりの世界が輝くのでしょう。
時として、「俺には確固とした信念がある。俺の生き方に文句を言うな」と自分の生き方を貫く人がいます。独覚で覚ることができないわけではありません。しかしその道程は余りに長く、覚るまでに命が持ちません。尊い先人たちや同朋から道を聞けば、千年かかることも十年や一年、それどころか一瞬で適うことさえあります。
物理や数学も、先人たちが発見した法則をまず学んで、その上で自らが応用するようになりますが、人生にも法則があるのです。仏教は、覚った人が発見した人生の法則(仏法)を、相手の人間性や時代に合わせて教え(仏教)にしたものなのです。機と法が遇えば、闇の長さには関係なく、一瞬で輝きを現わすことになります。
<消除三垢冥広済衆厄難>は、衆生の厄難(災厄/わざわい)の原因が三垢冥[サンクミョウ]にあることを見抜き、解決方法を示しています。迷った人間や他宗教者の中には、厄難は日柄や方角や運勢や悪霊が原因だと思い込んでいる人もいます。しかし、すべての厄難は人間の心身言動に潜む欠陥のせいなのであり、特に貪瞋癡の三垢冥は、人生を闇に陥らせる根本原因なのです。三垢冥とは、貪欲[トンヨク](むさぼり)、瞋恚[シンニ](いかり)、愚癡[グチ](おろか)をいいます。
貪欲は、欲望に自分の主体が奪われ、執着し、むさぼり尽くすこと。瞋恚は、怒りに自分の主体が奪われ心身の平安を乱すこと。愚癡は、愚かで智慧がない上に物事を問わないことをいいます。根本煩悩は「貪、瞋、癡、慢、疑、見」の六煩悩なのですが、その中でも最も解決を迫られる三毒煩悩なのです。
この中でも注意したいのは「愚癡」で、一般的には「愚痴」と書きますが、「癡」と「痴」は似て非なる文字でありますし、現代では「愚痴」は不平不満を言う意味になってしまいました。しかし本当は「問題意識の欠如」という意味なのです。
「愚」は「おろか」であり、仏教では消除(克服)すべきものなのですが、たとえば「愚禿釈の親鸞」とか「大愚良寛」と、自らの名のりに「愚」を当てる高僧もみえます。これは仏教の良き伝統でもあるのですが、自らを省みればかえりみるほと「私は何と愚かなのだろう」との慚愧に駆られるのです。すると「問い」が生まれるのは必定でしょう。愚かであることが自覚できたのだから、敬虔な気持ちで何事も聞き開いてゆく態度が定まるのです。この「問い」が生まれれば、「愚」ではあっても既に「癡」ではありません。「癡」とは「問いが病んでいる」という意味なのです。
「ウダーナヴァルガ」25・23には、<愚者が「私は愚かだ」と知れば賢者である>とありますが、これは「問い」によって「癡」が破れ、「愚」が生かされてくる。渋柿の渋みが甘みに転じられるように、「愚」の欠点がそのまま長所となることを言います。
比べて「私は愚かではない」「このままで問題はない」「私は解脱した」などと主張する人間こそ信用はできません、邪見驕慢の悪衆生の有様でしょう。「愚」が自覚できないので、「問い」が発生しない「癡」の状態が続くのです。人生の問題は、「問い」が無ければ答えは見つからないものなのです。
開彼智慧眼滅此昏盲闇:かの智慧の眼を開きて、この昏盲の闇を滅し、
閉塞諸悪道通達善趣門:もろもろの悪道を閉塞して、善趣の門を通達せん。
<開彼智慧眼滅此昏盲闇>は、衆生の「昏盲闇」、つまり心の眼が開かず物事の本質が見えない状態≠解決するため「彼の智慧眼を開く」とあります。ここに「彼の」とありますが、「彼」とは衆生一人ひとりのことを指すのか、それとも「彼岸の」という意味なのか、が問題となってきます。一般的には前者で訳されているようですが、迷っている彼の眼≠ヘ「此の岸」の眼であり、この眼をいくら見開いてもそれは仏智とは言えません。しかし誰の眼を開くのかと言えば、衆生一人ひとりの眼を開くのでなければ解決にはなりません。するとやはり、この智慧眼も「回向」されるものでしょう。衆生一人ひとりに仏より覚りの眼が回向され、その智慧の眼が開く。本質それ自体が働いて私の眼となり「よく見よ」と促される。それによって衆生の「昏盲闇」が滅するのです。
<閉塞諸悪道通達善趣門>は、諸々の悪道を閉じ、善趣門を通達するということです。「諸々の悪道」とは、地獄・餓鬼・畜生の三悪道をはじめ、人生を破滅に追いやる様々な道であり、これを閉ざすのです。真っ当な道から外れた道を塞ぐ、そのためには善趣門を通達するということですが、善趣門とは浄土入出無碍の門であり、これが見つかることが浄土門の要めなので、それを通達する、知らしめるのです。
浄土の門に入るというのは、歴史的に明らかとなった人生の法則を尊び、真心の本質に感動し、よくよく見定めてゆくことであり、浄土の門から出るというのは、この世の歴史的法則に背いて真心を殺す有様を悲しみ、よくよく自他を監視し、同時に自分自身を作り変え、新たな環境を創造してゆくことです。このように仏は、性根の無い私の性根となってはたらいて下さいます。
なおこの二つの世界は別々にあるのではなく、浄土は娑婆を娑婆と映し、娑婆は浄土を浄土と映している。表裏一体の世界であることも解るでしょう。その要めとなる入出無碍の門が「善趣門」なのです。
功祚成満足威曜朗十方:功祚、成満足して、威曜十方に朗らかならん。
日月シュウ重暉天光隠不現:日月、重暉をオサめて、天の光も隠れて現ぜじ。
<功祚成満足威曜朗十方>は、「功」は「工夫をこらした仕事とできばえ。手がら」であり、「祚」は「初代の人が切り開いて後世に伝えた国の福運。先祖から伝わる王朝の君主の位。さいわい。天がさずける幸福」ですから、これまで述べてきた歴史を貫く大事業が満足し、仏の威光がほがらかに全世界に及んでゆくことを誓ってみえます。
<日月シュウ重暉天光隠不現>は、日や月も並び輝くことをおさめ、天光(星)も隠れて現れない、ということです。これは{讃仏偈}の<日月・摩尼珠光の焔耀も、みなことごとく隠蔽せられて、なほ聚墨のごとし>と同じ表現ですが、讃仏偈では理想王である世自在王仏に出遇った法蔵の心境だったのに比べ、この重誓偈では法蔵菩薩のかくあらん≠ニの誓いになっています。法蔵菩薩には世自在王仏と等しく成らん≠ニの誓いが貫かれているのです。
ところで、日や月や星が輝きを隠す、とはどういう状態を言うのでしょう。一般的には仏の輝きと太陽や天体の輝きとを比べ、そこに雲泥の差があることを言い、仏の輝きの無上なるを表現したもの、と理解されているようです。
ただこの理解では、単に仏と天体を比較しただけで、私自身の人生は反映されていません。島田師はこの点においても見事な領解を示されています。法蔵が<みなことごとく隠蔽せられて、なほ聚墨のごとし>と言うのは、輝かしい師の前に出ると、今のみじめな自分が情け無い。今までの私の人生は一体何だったのか。こんなに輝く道があったのか≠ニ驚き、世の中が真っ暗闇になる。今まで価値があると思い込んでいたものが全く無価値になってしまった懺悔の心境、と仰いました。
そうであるとすれば、阿弥陀仏の威光を目の当たりにした私たちも、かつての法蔵と同様、仏徳讃嘆とともに価値観が転換し、自らの懺悔が出てこなければ嘘になります。逆に、仏を讃嘆した口で俺の教えを聞け≠ニばかり人々を教化対象として見下げるのは邪見驕慢の極みと言わねばなりません。よくよく慎まねばならないでしょう。
苦悩の現場において
為衆開法蔵広施功徳宝:衆のために法蔵を開きて、広く功徳の宝を施せん。
常於大衆中説法師子吼:つねに大衆のなかにして、法を説きて獅子吼せん。
<為衆開法蔵広施功徳宝>は、衆生のために法蔵を開いて、広く功徳の宝を施す。ここからは、あまねくもろもろの貧苦を救済することの具体策です。
「法蔵」とは、法蔵菩薩と同じ漢字が当てられていますが、両者は同じではなく、ここは「念仏」とする解釈が勝義とされています。しかし全く違うかと言うとそうではなく、充分に関係はあるはずです。法蔵菩薩は人類の歴史に自ら働きを示し社会に乗り出た仏性であり、この「為衆開法蔵」の法蔵は、名はあっても内容が隠れている仏性や、逆に内容はあっても名として現れ出てこなかった仏性のことでしょう。ですから、歴史の軸となった仏性が、具体的な名の由来を開示して仏性を掘り起こし、人類に示してゆく、これが為衆開法蔵の意味なのではないでしょうか。ものみな名のる世界≠ェ浄土であります。
「広施功徳宝」の「功徳宝」も南无阿弥陀仏の名号とされています。するとこの一文は、衆生のために南无阿弥陀仏を開示し、広く南无阿弥陀仏の名号を施す≠ニなります。しかしこれだけでは何を言いたいのか意味か解りません。
法位は<諸仏はみな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり>と仰り、親鸞聖人は<「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり>と著されました。この導きによって先の「為衆開法蔵広施功徳宝」を味わってみると、衆生のために、南无阿弥陀仏の名号となった仏性の歴史的展開の内容を開示し、仏徳を褒め称えて聞き開いてゆく念仏を広く人々に施す≠ニいう意味になります。念仏は単に口を動かして唱えるのではなく、内容を知って全身・全生活で仏徳を褒め称えることなのです。
<常於大衆中説法師子吼>は、常に人々の中において、法を説くことが獅子のほえるように、ということです。「常於大衆中」は文字通りですが、「説法師子吼」が問題です。ライオンの咆哮のように説法する、というのですが、基本的に説法師子吼の内容は名号です。すると大声で念仏する意味にも取れますが、それでは唱名になってしまいます。本当は称名であり、それは先の説明どおり、南无阿弥陀仏の名の由来を訊ねてゆくうちに、名号に込められた浄土建立の歴史的仏徳が、まるでライオンの咆哮のように響き出てくる。そんな素晴らしい名号を成就したいという仏の誓願なのでしょう。実際私たちは、人類の歴史の上に如来の血を吐くような苦労や悲嘆や救済の浄業を見出すことができるのであり、それは絶叫のような咆哮であることは、この自分の浅ましい生き様を懺悔する中から見出されるのであります。
供養一切仏具足衆徳本:一切の仏を供養したてまつりて、もろもろの徳本を具足し、
願慧悉成満得為三界雄:願と慧ことごとく成満して、三界の雄たることを得ん。
<供養一切仏具足衆徳本>は、もう一度法蔵菩薩自身の誓願に戻り、一切の仏を供養し、あらゆる徳をそなえた仏になろうと誓います。供養とは、自らは敬虔な態度を取り、相手を理解し尊敬し、相手の深い人生観を聞き開いてゆくことを言います。ところで「一切仏」とは誰のことを指すのでしょう。特別に功績のあった人々でしょうか。功績はなくとも一定水準以上の覚りを開いた人のことでしょうか。実は大乗仏教では一切衆生悉有仏性が原則でありますから、一切衆生に本質として具わる仏性をさらに明確に一切仏と拝み、そのはたらきの展開を尊敬してゆくのです。東井義男師は「拝まない者もおがまれている拝まない時もおがまれている」と仰いましたが、仏の方が私たちより先んじて私を拝む。仏が私を信頼してくれていた、それを申し訳ない≠ニ懺悔して、私が仏を信頼して拝む。これが「供養一切仏具足衆徳本」の内容です。
人は自分を否定したり批判する言葉には反発し、素直に道を聞くことができませんが、自分を本当に褒めて下さる方の言葉は真摯に耳を傾けるものです。もし現在、仏教の伝道布教が行き詰っているとしたら、それは時代や環境のせいばかりではなく、相手を供養することを忘れて教説を押し付けようとする態度に原因があるのかも知れません。
<願慧悉成満得為三界雄>は、以上の本願と智慧が全て成就して、三界の雄たることを得ん、ということです。三界とは欲界・色界・無色界の迷いの世界。この娑婆世界の雄(王・世尊)となることを法蔵菩薩は誓っているのです。つまり阿弥陀仏は浄土の王というだけではなく、娑婆世界の王仏と成ろうと誓願してもいるのです。これによって、私たちは浄土に往って後に浄土の功徳を受けるのではなく、迷い悩み苦しむ娑婆の現場で浄土の功徳を得ることができる、ということが明らかになるのです。
如仏無礙智通達靡不照:仏(世自在王仏)の無碍智のごとく、通達して照らさざることなけん。
願我功慧力等此最勝尊:願はくはわが功慧の力、この最勝尊(世自在王仏)に等しからん。
世自在王仏と法蔵菩薩の関係は、久遠の師と弟子の関係でありながら、やがて弟子は師と同じ智慧と徳を得て独立を果たしてゆく平等の関係であります。また、弟子は自らのしびれるような、絞り出すような、震えるような心地で誓願を発する、それに応じて師はただ一人、その高邁な精神に同感し、肯いてくれるのです。誰がこのような誓願をたった一人で建てられましょうか。肯いて頂ける師が居ればこそ、現実とは気の遠くなるような隔たりがある誓願を発することができるのです。
斯願若剋果大千応感動:この願もし剋果せば、大千まさに感動すべし。
虚空諸天人当雨珍妙華:虚空の諸天人、まさに珍妙の華を雨らすべし〉」と。
法蔵菩薩が以上のように四十八願と重誓偈を建て終わると、いよいよ世界全体(大千)や天人たちに向かって披露し、内容の判断を仰ぎます。結果として世界全体が感動の嵐に包まれ、また天人たちが集まって来て美しい華の雨を降らせます。
ただし、法蔵菩薩は他の誰かに確かめて欲しかったのではありません。自ら発した誓願に自ら感動し、人生が美しい荘厳に飾られることを確信をもって宣言しているのです。内容の素晴らしさは既に決しているのですが、それを全世界に披露せざるを得ない感動がここでこみ上げてきたのでしょう。
阿弥陀仏はこれにより、いよいよ自らの精神を因果を持って説く地固めができたのであり、現実の人々に浄土建立の誓願と名号に込めた徳を通して歴史的精神に触れる方法を確立したのです。

生まれたときと、本当に自己が誕生したとき。我々から信心決定でも、正定聚不退転菩薩として私が誕生したときに、大地が六種に震動して天から華が降ると。死んだときであります。
この場合には生まれた私に関係なしに、今、赤ちゃんね。赤ちゃんは知らない。赤ちゃんは知らんでも、誰は喜ばんでも天地が喜ぶ。それと同じように私が誕生したときも私が知らんでも天地が喜ぶ。それは何か。それによって本当の人間に生まれた値打ちが見つかったから。私は悲しまなくても、誰は悲しまなくても、天地が悲しむ。でしょう。
ところが、ここでは、今の法蔵菩薩は違うのです、これは。これは天地ではないのです。私の思いが私から始まるのです。私が自分の中に見つかったこの四十八の願いが、いかに広大無辺なものであって、まことであることが証明されるというと、だからこの願いを天地が証明するのです。時に応じて、法蔵菩薩の胸に応じて天地が動いている。これだけちょっと違いましょう。だから、同じ大地が六種に震動して天から華が降ると言いましても、今の三つの場合とこの法蔵菩薩の場合は場合が違う。
それならば今度はどうか。私はどうだろう。信心決定して、私が本当の本願を信ずる私の胸にこの四十八の願いが見つかった途端に、法蔵菩薩と同じこの喜びが出てくる。これが大事なんですよ。そういうもの。
だから、もう一つ申しますと、親鸞聖人は、法蔵菩薩が「ここをもって如来」、「菩薩の行を行じたまいしとき」、「一念一刹那も清浄ならざることなき」、「真実ならざることなき」この清浄真実のまごころをもって、衆生に回施(えせ)したもの。私、施すという。与えるという。
そうすると、もらったらどうなるのでしょうかな。私だったら受け取るだけありがとうございます。今まで受け取る信仰だから。だから、いつ死んでもお浄土に参る。約束ぐらいでしょう。そうではないのです。仏の信が生まれてきたら、これは私の信になるのです。信心は私のもの。南無は私のものですよ。そうすると、仏の信が私の信にならねばいけないのです。如来廻向の信です。そうすると、私の仏の信は、お浄土を背中にして泥田の中にお浄土の花を咲かせていくということが仏の信でありますから、私もお浄土に向かうのではないのです。今までお浄土に向いておったかもしれないが、お浄土を背中にして、仏が泥田の中にお浄土の花を咲かせていくのと同じように、私も家庭の泥田の中にお浄土の花を咲かせていこうと、同じ方向になるのです。これを逆対応というのです。
(中略)
そこで、大地が六種に震動して天から妙なる華が降ったと。そうすると次にはどうなるかというと、この華が大地に満遍なく華が降ったというのであります。これはやがて、「大無量寿経」の一番最後に出てきますから。これは菩薩が、今では法蔵菩薩でありますが、今度は私がお浄土に生まれた菩薩が、信心決定をした人は正定聚不退転菩薩と言いましょう。そうすると、これが菩薩の日暮らしになってくれば、今度は私の一足一足に全部華が降るのです。「青色青光、白色白光」の皆、色とりどりの華が降ってきて、私がその華の上を歩くのです。こういうものになってくるのです。
だから見なさいね。これはただ法蔵菩薩だけではない。やがてそれが法蔵菩薩のお徳が全部、私のものになるのです。それを言うなら、信心のことですね。
法蔵比丘、国土を荘厳する
仏、阿難に語りたまわく、「法蔵比丘、この頌を説きおわるや、時に応じて普く地は六種に震動し、天は妙華を雨ふらし以ってその上に散らす。
自然に音楽あり、空中より讃じて言わく、「決定して必ず無上正覚と成らん。」と。
ここに於いて法蔵比丘、具足して、かくの如きの大願を修め満ずること、誠に諦かにして虚(むな)しからず。超えて世間を出で深く寂滅を楽しめり。
阿難、法蔵比丘は彼の仏の所に於いて、諸天と魔と梵の龍神八部の大衆の中に、この弘誓を発し、この願を建ておわり、一向に志を専らにして妙土を荘厳せり。
修めし所の仏国は、開廓広大(かいかくこうだい、広々したさま)なること超え勝りて独り妙なり。常然(じょうねん、変わらないさま)たるを建立して、無衰無変なり。
不可思議兆載(さい、兆の億倍)の永劫に於いて、菩薩の無量の徳行を積んで植え、欲覚(欲望の知覚)、瞋覚(瞋恚の知覚)、害覚(加害の欲心)を生ぜず、欲想(貪欲を起こす思想)、瞋想(瞋恚を起こす思想)、害想(加害の心を起こす思想)を起こさず、色声香味触の法に著せず、忍力(忍辱の力)成就して衆の苦を計らず、少欲知足にて染恚癡(せんいち、貪瞋癡)なし。
三昧(さんまい、不動なる心)常に寂(じゃく、清寂)して、智慧は無礙(むげ、無滞)なり。
虚偽(こぎ、うそいつわり)と諂曲(てんごく、へつらい)の心なく、和顔(わがん)軟語(なんご)して、先に意(い、相手の意志)を承(う)けて問う。勇猛精進して志願に倦むことなく、専ら清白の法(清廉潔白の法)を求め、慧を以って群生(ぐんしょう、衆生)を利す。
三宝(仏法僧)を恭敬し、師長に奉事(ぶじ)す。
大いに荘厳し、衆行を具足するを以って、諸の衆生をして功徳を成就せしむ。
空無相無願の法(我と我が身心と我が行為は空なり)に住し、 作すことなく起こすことなく、法を観ること化の如し。
粗言(そごん、粗雑の言葉)の自ら害し、彼を害し、彼と此とを倶に害するを遠離して、善語の自ら利し、人を利し、彼と我とを兼ねて利するを修め習う。
国を棄て、王を捐(す)て、財と色とを絶ち去って、自ら六波羅蜜を行い、人に教えて行わしむ。
無央数劫(むおうしゅこう、無数劫)に功を積み徳を累(かさ)ぬ。
その生処に随うて、意を欲する所(衆生済度)に在(お)き、無量の宝の蔵は自然に発り応えて、無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道(大乗)に於いて住せしむ。
或は長者、居士、豪姓、尊貴と為り、或は刹利(せつり、王族)、国君、転輪聖帝と為り、或は六欲天主、ないし梵王と為り、常に四事(衣服、飲食、臥具、湯薬)を以って一切の諸仏を供養恭敬す。
かくの如きの功徳は説いて称(たた)うべからず。
口気は香潔なること優鉢羅華(うはつらけ、青蓮華)の如く、身の諸の毛孔は栴檀の香を出し、その香は普く無量世界に薫る。
容色は端正にして相好(そうごう、身体の微妙な相状)は殊妙なり。
その手は常に無尽の宝と衣服、飲食、珍妙の華香、諸の蓋(かさ、天蓋)と幢幡(どうばん、はた)と荘厳の具を出す。
かくの如き等の事は諸の人と天とを超え、一切の法に於いて自在を得。
釈尊が阿難に仰せになる。
「法蔵菩薩が、このように述べおわると、そのとき大地はさまざまに打ち震え、天人は美しい花をその上に降らせた。そしてうるわしい音楽が流れ、空中に声が聞こえ、<必ずこの上ないさとりを開くであろう>とほめたたえた。ここに法蔵菩薩はこのような大いなる願をすべて身にそなえ、その心はまことにして偽りなく、世に超えすぐれて深くさとりを願い求めたのである。
阿難よ、そのとき法蔵菩薩は世自在王仏のおそばにあり、さまざまな天人・魔王・梵天・竜などの八部衆、その他大勢のものの前で、この誓いをたてたのである。そしてこの願をたておわって、国土をうるわしくととのえることにひたすら励んだ。その国土は限りなく広大で、何ものも及ぶことなくすぐれ、永遠の世界であって衰えることも変わることもない。このため、はかり知ることのできない長い年月をかけて、限りない修行に励み菩薩の功徳を積んだのである。
貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起こさず、また、そういう想いを持ってさえいなかった。すべてのものに執着せず、どのようなことにも耐え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、貪り・怒り・愚かさを離れていた。そしていつも三昧に心を落ちつけて、何ものにもさまたげられない智慧を持ち、偽りの心やこびへつらう心はまったくなかったのである。表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受け入れ、雄々しく努め励んで少しもおこたることがなかった。ひたすら清らかな善いことを求めて、すべての人々に利益を与え、仏・法・僧の三宝を敬い、師や年長のものに仕えたのである。その功徳と智慧のもとにさまざまな修行をして、すべての人々に功徳を与えたのである。
空・無相・無願の道理をさとり、はからいを持たず、すべては幻のようだと見とおしていた。また自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになリ、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いた。国を捨て王位を捨て、財宝や妻子などもすべて捨て去って、すすんで六波羅蜜を修行し、他の人にもこれを修行させた。このようにしてはかり知れない長い年月の間、功徳を積み重ねたのである。
その間、法蔵菩薩はどこに生れても思いのままであり、はかり知れない宝がおのずからわき出て数限りない人々を教え導き、この上ないさとりの世界に安住させた。あるときは富豪となり在家信者となり、またバラモンとなり大臣となり、あるときは国王や転輪聖王となり、あるときは六欲天や梵天などの王となリ、常に衣食住の品々や薬などですべての仏を供養し、あつく敬った。それらの功徳は、とても説き尽すことができないほどである。その口は青い蓮の花のように清らかな香りを出し、全身の毛穴からは栴檀の香りを放ち、その香りは数限りない世界に広がり、お姿は気高く、表情はうるわしい。またその手から、いつも、尽きることのない宝・衣服・飲みものや食べもの・美しく香り高い花・天蓋・幡などの飾りの品々を出した。これらのことは、さまざまな天人にはるかにすぐれていて、すべてを思いのままに行えたのである」  
法蔵菩薩の華々しい旅立ち
法蔵菩薩は四十八願と重誓偈を起こした後、いよいよ永劫の修行に入りますが、その前に、誓願に呼応して天地が感動に震え、賞賛の声が鳴り響きます。
註釈版
仏、阿難に告げたまはく、「法蔵比丘、この頌を説きをはるに、時に応じてあまねく地、六種に震動す。天より妙華を雨らして、もつてその上に散ず。自然の音楽、空中に讃めていはく、〈決定してかならず無上正覚を成るべし〉と。ここに法蔵比丘、かくのごときの大願を具足し修満して、誠諦にして虚しからず。世間に超出して深く寂滅を楽ふ。
現代語版
釈尊が阿難に仰せになる。
「法蔵菩薩が、このように述べおわると、そのとき大地はさまざまに打ち震え、天人は美しい花をその上に降らせた。そしてうるわしい音楽が流れ、空中に声が聞こえ、<必ずこの上ないさとりを開くであろう>とほめたたえた。ここに法蔵菩薩はこのような大いなる願をすべて身にそなえ、その心はまことにして偽りなく、世に超えすぐれて深くさとりを願い求めたのである。
ここは先の重誓偈の最後「斯願若剋果大千応感動虚空諸天人当雨珍妙華」(この願もし剋果せば、大千まさに感動すべし。虚空の諸天人、まさに珍妙の華を雨らすべし)という誓願が成就した姿です。
この麗しき感動は一見、法蔵菩薩ひとりに恵まれたもののように思われますが、法蔵菩薩は一切衆生の胸(本心・精神)に宿って修行され、やがて修行を成就し、功徳は衆生の身心に入り満ちて下さる(つまり、そうした人類の歴史を浄め貫く精神や、真実の精神が報いた身に「法蔵菩薩」・「阿弥陀仏」と名がついた)わけですから、本来これは全ての衆生に開かれた感動なのです。ですから誰でも仏縁に遇い、きっかけが整えば、法蔵菩薩の感動は全て私たちの経験ともなっていきます。つまり私の足元の大地は打ち震え、日常生活に華が咲き、<この人生は必ず成就する>という確信に満ちた歌声が「全ての私」に聞こえてくるのです。
こうしたことは、たとえば私自身も子どもの頃から同様の感動に包まれた経験が何度もあることから知ることができます。やがて死ぬのに何故生きるのか?≠ネどと生死の問題で深い悩みを抱えていた頃、突然、悩んでいても仕方がない。とにかく今のこの一生を懸命に生き切ろう。どこまでも自分の可能性を開き、名は残せなくとも、わが生涯を歴史に刻んでいこう≠ニ私の腹が定まったことがありました。そしてその成就を誓うと、海が私を励まし、山が私に迫り、大丈夫だからこのまま努力を続けなさい。必ず適うから、いつまでも見守り続けているよ≠ニ語りかけて下さった。そうした経験が私にはありますが、おそらく、本気で大きな誓いを立てた人たちには、同様の経験があるのではないでしょうか。
ただし、もしこの経験によって、海を依りどころとし、山を拝んでいれば自然宗教になってしまいます。幸いなことに私は、これは海や山が語っているのではなく、私に託された人類の血が叫んでいるのだ≠ニ直感しました。後にこの経験は、島田幸昭師の
「大身を現して虚空に満ち小身を現わして性根と成る」
というお言葉を読む機会に恵まれて経緯を知ることができたのですが、自分自身がどういう願いを持つかによって全く異なった世界に住むことになる、ということをこの時身をもって知りました。
つまり今現在自分を取りまく状況は、自分自身の願いに応じて動いているのです。大地が感動し歴史的功徳の華の上を歩むのか、虚しく寂しい世界に閉じて生活するのかは、ひとえに自身の願いが決定するのです。したがって、現在の状況に問題があるとすれば、私の持っている願いに根本的な問題がある、と言えましょう。私的な願いに固執するのではなく、清浄・荘厳の歴史を創造し続けている「真実の願い」が「私の願い」となることが肝心なのです。
先の子どもの頃の感動はまだ幼いものでしたが、後に仏願の生起本末を聞き開いて得た感動は、この身は罪悪深重なれど、正定聚・不退転の華が回向され、日々の生活に彩りが具わった感動です。これは、物心がゆたかになる感動ではなく、貧しいながらもあらゆる物心が意味を持ち、輝き、活かされることを意味します。すると恨みや憎しみなどの貧しい心さえ捨てられず、活かされ、人生成就の華と化すのです。
「大千まさに感動すべし」と誓願をかけ、「大願を具足し修満」してゆく法蔵菩薩の修行は、こうした世界中の華が降り注ぎ、世界中一切の声援を受けて始まった華々しい修行なのです。
理想と現実の真ん中で修行
註釈版
阿難、ときにかの比丘、その仏の所、諸天・魔・梵・竜神八部・大衆のなかにして、この弘誓を発す。この願を建てをはりて、一向に専志して妙土を荘厳す。所修の仏国、恢廓広大にして超勝独妙なり。建立〔せられし仏国は〕常然にして、衰なく変なし。
現代語版
阿難よ、そのとき法蔵菩薩は世自在王仏のおそばにあり、さまざまな天人・魔王・梵天・竜などの八部衆、その他大勢のものの前で、この誓いをたてたのである。そしてこの願をたておわって、国土をうるわしくととのえることにひたすら励んだ。その国土は限りなく広大で、何ものも及ぶことなくすぐれ、永遠の世界であって衰えることも変わることもない。
<かの比丘、その仏の所:そのとき法蔵菩薩は世自在王仏のおそばにあり>とありますが、世自在王仏は法蔵菩薩によって発見された理想の人間像であり、法蔵菩薩は現実を背負った求道精神です(つまり理想と現実が照らしあって仏性の歴史が展開する)から、菩薩が誓願を発した時に身近にみえるのは当然でしょう。
では、<諸天・魔・梵・竜神八部・大衆のなかにして、この弘誓を発す:さまざまな天人・魔王・梵天・竜などの八部衆、その他大勢のものの前で、この誓いをたてたのである>とはどういうことでしょう。
総じて言えば「諸天・魔・梵・竜神八部・大衆」は、我執・無明に迷う衆生・大衆のありさまを言います。法蔵菩薩はそうした大衆の中心で世自在王仏に見守られながら誓願を起こしているのです。
たとえば「諸天」とは迷いの六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を代表した天であり、「魔」とは悪魔であり、「梵」とは梵天であり、「竜神」とはたたりの神であり、「八部」とは仏法を守護する八種の鬼神ですが、元来は迷うた存在です。日々我執と無明に穢された浅ましい日々を送っている大衆の真ん中で、法蔵菩薩は誓願を建てられたのです。
次に、<この願を建てをはりて、一向に専志して妙土を荘厳す>とありますが、「妙土」・「仏国」はどこにあるのでしょう。
これは次の章で明らかになることですが、無量寿仏の国は特定の場所にあるのではありません。<もろもろの衆生、功徳善力をもつて行業の地に住す>とありますように、「行業の地:仏の行い(本願浄業)を原因としてもたらされたところ」が阿弥陀仏の国土であり、その地に生まれる者も「功徳善力をもつて」住むのです。これは衆生から言えば「境地」でありますが、個人的な境地ではなく、一切衆生に本願力が恵まれ(本願力回向)成就した境地です。
元来、衆生の国土は浅ましい穢土でありますが、この一切衆生の穢土が法蔵菩薩によって摂取され、清浄・荘厳のはたらきによって妙土に生まれ変わるのです。これが「仏願の生起本末」と言われる内容であり、このいわれ・経緯を「聞きて疑心あることなし」という信心が「功徳善力」の内容なのです。
<所修の仏国、恢廓広大にして超勝独妙なり>について、
「所修の仏国」とは、法蔵菩薩が「一向に専志して妙土を荘厳」した国土であり、「恢廓広大:その国土は限りなく広大」であるとは、仏の誓願は一切衆生を抱き取った誓願だから広大なのです。「超勝独妙:何ものも及ぶことなくすぐれ」とは、阿弥陀仏の誓願が諸仏に超え優れているため、その果報も超勝独妙なのです。
<建立〔せられし仏国は〕常然にして、衰なく変なし>
これは仏国に生まれた衆生は決して流転せず不退転であることを言います。
諸行は無常でありますから、万物は常に変化して少しの間もとどまりません。しかし変化し続ける≠ニいう法は常なるものです。また法蔵菩薩の願力と阿弥陀仏の仏力は衰えることも変わることもありませんから、浄土(安楽国)も同様に「常然にして、衰なく変なし」なのです。浄土は願土であり報土であります。そこで仏は、無常なる万物への執着をなくさしめ、常住の法を勧めるのです。勧められた法と浄土の徳により、私たちは菩薩の道をきわめ尽し、さまざまな功徳を積んで、必ず仏になる≠ニいう道を得ることができるのです。
永劫の修行は、歴史は今の構造の内的展開です。宇宙は現に自己完結していながら、無限に拡大しているのと同じく、内外一如の歴史的構造を説いているのです。
私は聖徳太子の佛国品を読んで、これだと思った。聖徳太子の「維摩経義疏」であります。というのは、阿弥陀の浄土はどこにあるのかと言うと、あるものは衆生の世界だけ、この世だけですよ。あるものは我々の世界だけ。そうすると、仏には元、国がないのです。菩薩には元、国がないのです。そうすると、どこかを「私の国」と取らねばいけない。どこを取ったか、仏国を摂取する。どこを取ったかと言うと、「衆生のあるところ至らざるところなし」で、一切衆生がこれが私の国と抱き取ったのです。この世界が阿弥陀の国だから。
そうすると、現在の阿弥陀の国は汚れ果てておるでしょう。五濁悪世、穢土だから。そこで、これを浄めるのです。浄めただけでいいかと言うと、なんぼ掃除をしただけではいけない。さらに今度、それを荘厳しないといけない。きれいにしないといけない。そういうこと。これはちょっと考えればすぐ解るのであります。
修行の実際
註釈版
不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし。三昧常寂にして智慧無礙なり。虚偽・諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして志願倦むことなし。もつぱら清白の法を求めて、もつて群生を恵利す。三宝を恭敬し、師長に奉事す。大荘厳をもつて衆行を具足し、もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ。空・無相・無願の法に住して作なく起なく、法は化のごとしと観じて、粗言の自害と害彼と、彼此ともに害するを遠離し、善語の自利と利人と、人我兼ねて利するを修習す。国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け、みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ。無央数劫に功を積み徳を累ぬるに、その生処に随ひて意の所欲にあり。
現代語版
このため、はかり知ることのできない長い年月をかけて、限りない修行に励み菩薩の功徳を積んだのである。
貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起こさず、また、そういう想いを持ってさえいなかった。すべてのものに執着せず、どのようなことにも耐え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、貪り・怒り・愚かさを離れていた。そしていつも三昧に心を落ちつけて、何ものにもさまたげられない智慧を持ち、偽りの心やこびへつらう心はまったくなかったのである。表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受け入れ、雄々しく努め励んで少しもおこたることがなかった。ひたすら清らかな善いことを求めて、すべての人々に利益を与え、仏・法・僧の三宝を敬い、師や年長のものに仕えたのである。その功徳と智慧のもとにさまざまな修行をして、すべての人々に功徳を与えたのである。
空・無相・無願の道理をさとり、はからいを持たず、すべては幻のようだと見とおしていた。また自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになリ、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いた。国を捨て王位を捨て、財宝や妻子などもすべて捨て去って、すすんで六波羅蜜を修行し、他の人にもこれを修行させた。このようにしてはかり知れない長い年月の間、功徳を積み重ねたのである。
<不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して>
一切衆生を胸に抱き取って歩むのが本願の精神ですから、衆生の数においても、衆生の内容においても、菩薩は「はかり知ることのできない長い年月をかけて、限りない修行に励み菩薩の功徳を積」む必要があります。この永劫にわたる歴史的功徳が私たち一人ひとりに宿り、満ち満ちて、私の人生の上で華と開くよう仕向ける。これこそが、法蔵菩薩が五劫の間考えて四十八願を見つけ、不可思議兆載永劫にわたって修行し、清浄荘厳成就の浄土を創造された、唯一の目的なのです。
<欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず>
欲は欲望執着、瞋は瞋恚いかり、害は害を与えようとすることです。欲・瞋・害の順ですから、欲をおこすことで、様々なことに腹が立ち、結果として害を与える≠ニいう流れになっています。これはまさに私たちがたどる因縁果の悪い流れ、基本的な迷妄の順でしょう。まずこれを断ち切らねば成仏はとてもおぼつきません。
ところでここに「覚」と「想」がありますが、「覚」は「分別起」でありはっきり意識されて起こる心=A「想」は「具生起」であり意識されにくいが深層に染みた心≠ナす。因果の順で言えば「想」が因で「覚」が果。また「想」の方が根深いので断つことが難しいのですが、「覚」を断つことによって長年の蓄積で「想」も断つことができる。卑近な例で言えば、酒や煙草を断つ際、本気で断とうと決意した「覚」の段階と、深層の癖まで断った「想」の段階があることでも解るでしょう。
ただ、法蔵菩薩は人里離れた場所で一人修行するのではありません。そういう存在に名がついた菩薩ではないのです。先に<その仏の所、諸天・魔・梵・竜神八部・大衆のなかにして、この弘誓を発す>とありましたように、一切衆生のど真ん中で誓願は発せられています。ですから、修行も一切衆生のど真ん中、人類の歩みとともに修行されてみえるのです。
法蔵とは
どこに修行の場所があるか
みんな私の胸のうち
なむあみだぶつ
では法蔵菩薩は私の胸のうち≠ナ、具体的にどのように修行なさってみえるのでしょう。
これは至心・信楽・欲生の三心の展開を見てみれば解るでしょう。
衆生は欲覚・瞋覚・害覚を生じ続け、欲想・瞋想・害想を起し続けています。衆生は劫初より今に至るまで一瞬たりとも清浄の心なく、煩悩に汚染され、偽りばかりで真実の心がありません。この衆生の迷い続けているありさまを内側から嘆くことによって仏性は目覚め、仏性は現実の歴史を歩む中でみずから法蔵菩薩と名のり出、衆生済度の誓願を起こし、仏の一心を三心に割って衆生に具体的にふり向け恵むのです。
親鸞聖人はこのことを「顕浄土真実教行証文類」(信文類三(本)三一問答法義釈至心釈)において以下のように述べてみえます。
注釈版
また問ふ。字訓のごとき、論主(天親)の意、三をもつて一とせる義、その理しかるべしといへども、愚悪の衆生のために阿弥陀如来すでに三心の願を発したまへり。いかんが思念せんや。
答ふ。仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無礙不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
現代語版
また問う。字の意味によれば、愚かな衆生に容易にわからせるためには本願の三心を一心と示した天親菩薩のおこころは、道理にかなったものである。しかし、もとより阿弥陀仏は愚かな衆生のために、三心の願をおこされたのである。このことはどう考えたらよいのであろうか。
答えていう。如来のおこころは、はかり知ることができない。しかしながら、わたしなりにこのおこころを推しはかってみると、すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。
この至心は、如来より与えられた真実心をあらわすのである。だからそこに疑いのまじることはない。この至心はすなわちこの上ない功徳をおさめた如来の名号をその体とするのである。
そして、<利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり>、<真実の信楽をもつて欲生の体とするなり>と、衆生の信を脱皮せしむるため一心のはたらきが三心となって<欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず>ということが具体的に成就してゆくのです。
つまり法蔵菩薩は決して衆生を責めず、衆生と共に迷いから立ち上がる姿を見せ、誓願を起こして成就の修行を続けることで、衆生に目覚めをふり向け、修行の成果である無上の功徳を回施されるのです。これは、生命一切を清浄・荘厳せしむる仏性の全歴史が、一一の衆生にその成果の全てを与えてみえることを意味しています。私たちは、全ての先祖に宿った法蔵菩薩の浄らかな業全てをふり向けられているのですが、仏教に遇わなければ気づかず、その本質の扉が開かれることは稀[まれ]であります。これが称名念仏によって、仏の一心が三心に開かれて願いが回向され、私の人生の上で成就してくるのです。
ただしこれは、ある日ある時この願いが成就しました≠ニ完成を誇り役割を終えるものではありません。仏は常に菩薩の願いを胸にはたらき続けてみえるのです。その願いが一時一刹那も弛まない。先に<建立〔せられし仏国は〕常然にして、衰なく変なし>とあるのは、そうした願いの大地、願土の性質やはたらきが常であることを「衰なく変なし」と表しているのです。
そうすると、仏さまに「欲覚・害覚起さず」と言うが、一体どういうわけだろうか。私になった、私と一緒に私になった仏です。法蔵菩薩でしょう。そうすると実は、「欲覚・害覚起さずに」私を起こすこと。私を起こす。衆生を起こすんだが、仏は起こさん。「おいおい、おいおい、またこういう根性おこっとるよ」と、そういう衆生になり切って。
もっと言うなら、衆生が迷えば仏も迷うの。一瞬、迷うんだけれども、迷うても迷うても巻き込まれんのです。
<色・声・香・味・触・法に着せず>
欲・瞋・害についての説明が長くなりましたが、「色・声・香・味・触・法に着せず」以下の修行も同じような道程によって衆生に回施されるのです。したがって「色・声・香・味・触・法に着せず」や「無上正真の道に住せしむ」といっても、法蔵菩薩ひとりの修行ではなく、また衆生の煩悩を責めて刻苦する修行でもなく、衆生と共に自らと法を見つめ続けて歩む楽しき同行≠ネのです。「色・声・香・味・触・法」とは眼耳鼻舌身意のもたらしたもので、これに「着せず」、つまり執着しないということです。
<忍力成就して衆苦を計らず>
「忍力」とは耐え忍んでゆくことです。この忍力を成就して「衆苦を計らず」ですから、苦しみが苦にならない。「讃仏偈」の最後に<たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ>とありますが、これが成就されてくるのです。私たちは通常、耐え忍んで努力することは嫌いなはずなのですが、すべきことが見つかり本気になれば、他人からみたら辛苦しているようでも、本人は辛苦とは思わない。努力が楽しいのです。嫌々やるから辛苦が辛苦のまま溜まってしまうのです。
<少欲知足にして染・恚・痴なし>
よく「足るを知らざれば餓鬼、足らざるを知らざれば畜生」と申します。「少欲知足」は前者の餓鬼性・我執を転じた徳です。「唯吾足知:ただわれ足るを知る」という言葉もよく知られた徳です。求めるがゆえに苦悩が生じる、そこで、ただわれ足るを知る。もちろん少欲知足で留まらず、次には、求めるべきを求めなければなりませんが、まずは欲望の奴隷状態から脱することが基本です。
染[ゼン]とは貪[むさぼ]りで、とらわれのある不純なけがれた心、執着・我執を言います。恚[イ]とは「瞋恚[シンニ]」で、怒り腹立ち、うらみ憎しみの心を言います。痴[チ]は本来「癡」で、ものの道理がわからぬ愚かな心、問題意識のない暗さ、無知・無明を言います。「染・恚・痴」は「貪瞋癡[トンジンチ]」のことであり、これは「三惑」「三毒」「三煩悩」と呼ばれ、一切の煩悩の中でも根本的な迷いを言いますが、この貪瞋癡の煩悩を生み出す根源は我執と無明にあります。
<三昧常寂にして智慧無礙なり>
三昧[ザンマイ]とは、心を一つに定めて動かさないことで「定」と漢訳されたり、正しく受容するので「受」「正受」、平等心を保つので「等持」とも訳されます。常寂[ジョウジャク]は、三昧によって常に心静かに統一されていることを言います。心が散漫では何事も為せません。暴力的な気持ちを調え、捻じ曲がった心を直し、静かな集中心をもって物事を為せば、智慧は妨げなく発揮できますので「智慧無礙[ムゲ]なり」となります。
<虚偽・諂曲の心あることなし>
虚偽[コギ]とは、うそ偽り、諂曲[テンゴク]とは、媚[コ]びへつらうことです。場を収めたり利益を得るため、自分の心を偽り相手にこびを売り、時には嘘をつくこともあるでしょう。これを毎日やっていますと、言動に誠意が無くなるのです。多くの人はこうしたことも世渡りのためには止むを得ない≠ニ誤魔化している有様です。ところが素晴らしいことに、一生のうち、本当に真っ正直な人間に遇う機会が必ず訪れる。誠意の塊のような人が世の中にはいるものです。すると、とてもそういう人にはかなわない。自分は何と無駄に人生を歩んできたのだろうか、と心が翻[ひるがえ]るのです。
ここまでは○○しない≠ニ煩悩を断つ「清浄」の方向でしたが、以後は積極的に何かをする「荘厳」の方向で法蔵菩薩の修行が進みます。
<和顔愛語にして、意を先にして承問す>
和顔愛語[ワゲンアイゴ]は文字通り和やかな顔と愛情のこもった優しい言葉≠ナす。これも表面を繕った顔や言葉ではなく、本当に愛情のこもった、虚偽・諂曲の心のない和顔愛語です。ちなみに、愛情といっても、それが菩提心に随順する内容で語られる場合は、梵語で「プレーマ」と言い、欲望や執着・貪り・煩悩などに向いたときは、梵語で「トゥリシュナー」といいます。勿論この和顔愛語の場合は「プレーマ」の内容を持った愛情です。
「意[こころ]を先にして承問[ジョウモン]す」は、<相手の意思を先んじて知り、よく受け入れて教え導くこと>です。日本語に「先繰[さきぐ]り機転[キテン]」という言葉がありますがこれに近い意味になります。ただし近いといっても同じではありません。先意承問[センイジョウモン]は、単に先に先に頭が働くのではなく、真心から身心が動く。自らの計算で計らうのではなく、相手の身になって、<相手の心を汲み取ってよく受け入れ>てはたらく菩薩行を言います。
宗教者の中には、これ見よがしに功績を誇り、自慢し、自説を相手に押し付ける人がいますが、これは最も避けねばならない法執でしょう。こうした法執があるから宗教が民衆から離れ、本来の力を発揮できず、時として人を傷つけることになるのです。
かつて徳永サノさんが「本当の優しさとは、人に気づかれずにやること」(「佐賀のがばいばあちゃん」より)と仰いましたが、全くその通りで、自分の手柄が残るようでは相手を恐縮させてしまいます。「先意承問」は宗教活動のかなめと言っても過言ではないでしょう。
<勇猛精進にして志願倦むことなし>
勇猛[ユウミョウ]とは文字通り勇ましく強いことで、精進[ショウジン]は努力を継続して行うことです。先の四十八願に顕された内容を何とかして成就したい、成就せずにはおれない≠ニ、法蔵菩薩の志願は倦[う]むことがありません。倦むとは、あきて疲れる、嫌になる、退屈する等の意味ですから、成就に向かって一瞬たりとも滞ることなく法蔵菩薩は修行してみえる。衆生とともに歩みを留めることはないのです。
<もつぱら清白の法を求めて、もつて群生を恵利す>
清白[ショウビャク]の法とは<清浄潔白な無漏(煩悩のない状態)の善法>で、こうした素晴らしい法を求め保って菩薩は修行し、その功徳によって群生[グンジョウ]を恵利[エリ]する。衆生に成果をふり向け、利益を恵んでゆくのです。
<三宝を恭敬し、師長に奉事す>
「三宝」とは仏法僧。これを恭敬[クギョウ]する、つまり恭[うやうや]しく丁寧に、身心を引き締めて敬[うやま]う。そして、師長[シチョウ](先生や年長者)に身心を捧げてよく仕えてゆく。
<大荘厳をもつて衆行を具足し、もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ>
法蔵菩薩は大変困難な修行を一時の怠りもなく修して浄土を創造してみえのですが、その根源的理由は他でもない、修行の成果・功徳を一切衆生の人生の上に「成就せしむ」ためであり、私たち一人ひとりの人生の本質に施しを与えるためであります。そして実際、一瞬の停滞もなく、刻々と、誓願を胸に抱いた修行の成果が私たちに施されているのであり、このことは現実に私の人生の上で証明されてくるのです。
ですから、本願を信じて念仏すれば、「功徳を成就せしむ」との法蔵菩薩の精神が我が背を貫いていることがわかるでしょう。この背にある本質が身に満ちて現れ出てくること、これが真実信心の要めなのです。
<空・無相・無願の法に住して作なく起なく>
「空・無相・無願」は三解脱門とも三三昧[サンザンマイ]などとも言います。「空」は、一切の存在や事象は因縁によって生じたもので固定的実体はない、つまり空であると観察すること。「無相」は、一切は空であるから差別の相はないと観察すること。「無願」は、差別の相はないのだから願い求めるものは何もないと観察すること。こうした三三昧の人生観(法)を身に即[つ]けて(住して)、どっしりと腰の据わった、落ち着いた精神で生活すれば、「作なく起なく」、つまり、浅はかな夢を追って右往左往することなく≠ニいうことでしょう。「作」とははたらきや作用、「起」とは現れ出ることです。
ところで、ここで疑問を持たれた方もみえるでしょう、「無願の法に住して」というが、法蔵菩薩は四十八願を起こしているではないか≠ニ。
実は、「無願の法」と言った場合の「願」は、歴史や人生の本質ではないことに執着した願いで、この願いは確かに捨てなくてはなりません。つまり我執や法執といった欲望・煩悩を捨てることを「無願」と言ったのです。しかし四十八願(本願)は、歴史や人生の本質が発揮されることを願うものです。欲望のような執着ではなく、絶対に捨てられない真心の願いが本願です。
たとえば、私は人間として生まれたのだから本物の人間に成りたい≠ニか親になったのだから、今までの自堕落な生活は捨て、真っ当な親になりたい≠ニいうように、足元から照らされて起きた願い、これが本願です。こうした本物の願いが生まれてくれば、人道を踏み外してでも欲望を叶えたい≠ニか親の役割なんて捨てて遊び呆けたい≠ネどという執着・煩悩の願いはおのずと力を失います。
またたとえば、尊い法を学ぶにあたり仏法を聞き開こう≠ニ願うのは本質的な願いでありますが、勉強の途中で怠け癖がでてきたり、要らん欲望が出てくる。これは執着的な願いです。真に道を求める者は、腹が減ろうが、雑音があろうが、惑わずに聞き開きます。本当の願いがあるから、邪念の願いは力を失うのです。
法蔵菩薩も、本願を起こしたがゆえに無願となったのです。逆に、無願の法に住そう≠ニ励んでも本願は成就できません。
ここで重要なのは、無願の法に住すために本願を起こしたのではない、ということです。本願を起こせば、無願の法に住することは副次的に成就します。本物が登場した、だから偽者が去った。大事なのは偽者が去ったことではなく、本物が現れたことです。
ところが中には、空・無相・無願の法に住むことが本意だが、できない衆生のために本願が建てられた≠ニ云う人もいます。しかしこれは間違いです。あくまで本願成就が主なのであり、空・無相・無願は結果の一つに過ぎません。本願がなければ歴史社会が成就しないのです。特に、浄土の清浄・荘厳のうち、清浄は空・無相・無願でも成就しますが、荘厳は本願が建てられねば成就しません。
<法は化のごとしと観じて>
この「法は化のごとしと観じて」も前と同じで、すべては仮のもの、幻のような人生だと見とおすのですが、これが目的ではありません。幻のような人生に気づく≠ニいうことは、幻ではない本物の人生に気づく≠ニいうことでもあります。尊い願いに貫かれている人生≠ノ気づくことにより、今までの浅はかな夢幻のような人生≠ェ見えてくる。大事なのは前者の、尊い願いに貫かれている人生に気づくことです。
こうしたことは「無常・苦・無我・不浄」についても同じことが言えます。
<粗言の自害と害彼と、彼此ともに害するを遠離し、善語の自利と利人と、人我兼ねて利するを修習す>
(自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになリ、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いた)
言葉は社会生活・家庭生活の基本でしょう。言葉を丁寧に扱うか粗略に使うかで人生が決まると言っても過言ではありません。汚い言葉で人をののしると、相手は見た目以上に傷つきます。言った本人は平気な顔をして忘れてしまいますが、言われた相手には凄まじい怨念が湧きます。そのため、いつかその報いで相手から罵倒されたり復讐される。こうした繰り返しが娑婆のありさまでしょう。僧侶でも、本当のことだからという理由で相手の心情を無視して厳しい言葉を投げかける人がいますが、控えていただきたい。いまこの言葉を言って相手のためになるだろうか≠ニ問うてから発言すべきでしょう。
「入菩提行論」に――
もしも自分の心が愛着に傾き、あるいは憎悪に傾くのを知ったならば、その時は、行動に移るべきではなく、言葉を口にすべきでなく、森のように平静な態度をとるべきである。
もしも心がそわそわとし、他人を嘲笑し、傲慢と執着を伴い、きわめて残忍となり、邪となり、狡猾となり、自慢に傾き、他人の欠点をあげつらい、軽蔑し、論争に陥ろうとするならば、その時は、森のように平静な態度をとるべきである。
とある通りです。
そして自分と相手を利する言葉、「善語」を語る。それも先に<虚偽・諂曲の心あることなし>とありましたから、媚[こ]びへつらってお世辞を言うのではありません。
「アングッタラ・ニカーヤ」に――
五つの要素を完備した言葉は、善い言葉であり、悪い言葉とならず、誤りなく、智者に非難されないものとなる。
何が五つであるか。語るにふさわしい時に語られ、事実が語られ、柔和に語られ、ためになることが語られ、慈悲心によって語られる言葉である。
とあります通り、真心を込めて本当のことを語る、ということでしょう。「たくさんの言葉よりもただ一言でよい真に味のある言葉が聞きたい」という法語も頷けます。
<国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け>
国を捨て王位を捨て、財宝や妻子などもすべて捨て去って、ということですが、この経典の最初にも<国と財と位を棄てて山に入りて道を学す>とあります。同様の意味かとも思われますが、その後の展開が違います。
結論から言いますと、「国と財と位を棄てて山に入りて道を学す」云々は、釈尊のご一生が表現されていて、この功徳が一切衆生に回施されている。「人間の一生に人類の歴史を繰り返す」中の一要素と言えるでしょう。比べて「国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け」には「山に入りて」がありません。ここが大きな違いで、法蔵菩薩は、国王としての立場はそのままなのですが、気位[きぐらい]や慢心[マンシン]が捨て去られたのです。
国王として権力を誇示し、財力や色欲を誇っていた法蔵が、世自在王仏に遇って、国王でありながら国王としての値打ちが無い自分に気づき、世自在王仏のような立派な王になりたい≠ニ願いを建てたことを「国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け」と顕すのでしょう。もっとはっきり言えば、これは「国」の成り立ちや性質が変ったことを言います。権力や財力の強制で成り立っていた国が、真心によって皆が集う国になった、つまり徳によって治まる国≠ノ変革されたことを表しているのです。
法蔵菩薩は、仏国土を摂取し、その中の無量の妙土を清浄にし、荘厳したい≠ニの願いで貫かれていて、しかも菩薩の師は「世自在王仏」です。王としていかに自在に生きるべきか、という大問題を解決する中で「国を棄て王を捐て」たのです。ちなみにこれは、人類の国家観が変革された歴史そのものも示しています。
<みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ>
すすんで六波羅蜜[ロクハラミツ]を修行し、他の人にもこれを修行させた、ということですが、「波羅蜜」は彼岸に至る=E願いを成就する≠ニいう意味で、「六波羅蜜」は大乗仏教の菩薩の実践すべき六つの徳目(六度万行)をあらわしています。具体的には、「布施:私財を惜しげなく与える(財施)、真理を語り教える(法施)、恐怖をとりのぞき安心をあたえる(無畏施)」、「持戒:自省し戒律を守る」、「忍辱:苦難や迫害を耐え忍ぶ」、「精進:徳目をたゆまず実践し続ける」、「禅定:精神を統一し、安定させる」、「智慧:命そのものを把握し、真実の智慧を得る」という六つをいいます。
これは大乗仏教の実践というのみならず、社会において人間として生きる基本であることが解るでしょう。ですから、社会人として生きるためには、できてもできなくても、どうしても身に即けなければならない徳目なのです。
しかし同時に、「私は六波羅蜜を完成しました」と言ったら嘘になる。自省すればするほど「今の私はとても六波羅蜜を完成できておりません」と懺悔が出ます。これが大事で、「大乗起信論」には、「本覚によるがゆえに不覚あり。不覚によるがゆえに始覚あり。始覚にきわまって本覚に同ずる。これを成就という」という道程を踏んで成就するのです。もちろん、完成を願いつつも完成は永遠の彼方。しかし願いの中に成就あり≠ナ、この願いのこもった法蔵菩薩の修行が「人を教へて行ぜしむ」と回向されて我が身に至ります。
<無央数劫に功を積み徳を累ぬるに、その生処に随ひて意の所欲にあり>
最初の「無央数劫に功を積み徳を累ぬるに」とは、以上のような法蔵菩薩の修行が、はかり知れない長い年月にも関わらず一瞬の休みなく続けられ、功徳が積み重ねられたことをいいます。これは単なる空想ではありません。私に回向された法蔵菩薩の功徳が、無限とも思えるほど長い歴史的困難を突破せずには得られない内容である、という今現在の驚きを言っているのです。
(注釈版と現代語版の区切りが違っていますが)「その生処に随ひて意の所欲にあり」は、「法蔵菩薩はどこに生れても思いのままであり」と現代語訳してあります。これは世自在王仏の徳が法蔵菩薩に反映されてきた証しでしょう。「讃仏偈」でも「願はくは、われ仏とならんに、聖法王に斉しく」云々と、理想仏である世自在王仏の智徳を褒めつつ、現実を背負って歩む法蔵菩薩自身もその功徳を得ようと願っています。私たちは生まれを自由に選ぶことはできません。しかし法蔵菩薩の願いは、どんな時代でもどこで生まれようとも、必ずその人の人生の上に成就の華を咲かせしめるものです。それが如来であり仏性であり本願であり、信心の内容なのです。
法蔵菩薩が修行して、皆それ私に廻向する。私に与えていくの。それ、仏の智慧をもらって日暮らしをせないけない。仏のこういう徳をもらって日暮らしをせないけない。そのことを親鸞聖人が、仏のなさったことを用いよとおっしゃるのです。(中略)そういうことで、六度万行して、それによっていよいよ今度私が無上正真の道を求める心を発こさせる。「そうだ、いたずらにあかしいたずらに暮らしておったが、私は何のためかというと、私が私になる道を生きていかないといけない」。立派な人間になることを、そういう立ち上がる心を与えてくるの。それを、信心決定した人、正定聚不退転の菩薩になるの。
だから、ここまでが菩薩の私を立ち上がらせるまで。さあ、立ち上がったらこれから何をするのか。この問題が、また不可思議兆載永劫のご修行の第三段階に移ってくるわけであります。
(中略)
このように、私らはそういう親鸞聖人の「三心釈」という。この三心釈によって、初めて私たちがこういう法蔵菩薩の不可思議兆載永劫のご修行が、現在ただいまの私と離れておらん、ご修行だということが解るわけであります。
無尽蔵の宝を衆生に恵む
註釈版
無量の宝蔵、自然に発応し、無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道に住せしむ。あるいは長者・居士・豪姓・尊貴となり、あるいは刹利国君・転輪聖帝となり、あるいは六欲天主、乃至梵王となりて、つねに四事をもつて一切の諸仏を供養し恭敬したてまつる。かくのごときの功徳、称説すべからず。口気は香潔にして、優鉢羅華のごとし。身のもろもろの毛孔より栴檀香を出す。その香は、あまねく無量の世界に熏ず。容色端正にして相好殊妙なり。その手よりつねに無尽の宝・衣服・飲食・珍妙の華香・ゾウ蓋・幢幡、荘厳の具を出す。かくのごときらの事もろもろの天人に超えたり。一切の法において自在を得たりき」と。
現代語版
はかり知れない宝がおのずからわき出て数限りない人々を教え導き、この上ないさとりの世界に安住させた。あるときは富豪となり在家信者となり、またバラモンとなり大臣となり、あるときは国王や転輪聖王となり、あるときは六欲天や梵天などの王となリ、常に衣食住の品々や薬などですべての仏を供養し、あつく敬った。それらの功徳は、とても説き尽すことができないほどである。その口は青い蓮の花のように清らかな香りを出し、全身の毛穴からは栴檀の香りを放ち、その香りは数限りない世界に広がり、お姿は気高く、表情はうるわしい。またその手から、いつも、尽きることのない宝・衣服・飲みものや食べもの・美しく香り高い花・天蓋・幡などの飾りの品々を出した。これらのことは、さまざまな天人にはるかにすぐれていて、すべてを思いのままに行えたのである」
<無量の宝蔵、自然に発応し、無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道に住せしむ>
(はかり知れない宝がおのずからわき出て数限りない人々を教え導き、この上ないさとりの世界に安住させた)ということですが、前節で<無央数劫に功を積み徳を累ぬるに、その生処に随ひて意の所欲にあり>とありますように、法蔵菩薩の精神は、世間で言う生まれのよしあし≠竍時代差≠超えて一人ひとりの人生に華を咲かせる願いであることを受けての言葉です。
「無量の宝蔵」とは法蔵菩薩の歴史的功徳の宝は無限であること。「自然に発応し」とは、法蔵菩薩の功徳はあらゆる生命にとって必然的なものであり本質でもありますから、その功徳は一人残らず必ず回施され発揮されることを言います。
「無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道に住せしむ」とは、どんな人間でも心の底では人間として真に輝く道≠求めていますので、本願の精神を示せば必ず同感し、安心し、自堕落な生活を転じて、必ず成就に向けて立ち上がることができる、ということを示しています。私たちは「無上正真の道」を知らないから立ち上がることができない。知れば必ず立ち上がる。なぜなら、本願は私たちの本音の中の本音であり、先祖代々にわたって貫かれた血の叫びであり、輝くべき生命の呼び声だからです。この教化によって、正定聚不退転の菩薩が次々と誕生することになります。
<あるいは長者・居士・豪姓[ゴウショウ]・尊貴[ソンキ]となり、あるいは刹利国君[セツリクククン]・転輪聖帝[テンリンジョウタイ]となり、あるいは六欲天主、乃至梵王となりて、つねに四事をもつて一切の諸仏を供養し恭敬したてまつる>
(あるときは富豪となり在家信者となり、またバラモンとなり大臣となり、あるときは国王や転輪聖王となり、あるときは六欲天や梵天などの王となリ、常に衣食住の品々や薬などですべての仏を供養し、あつく敬った)
前節で<その生処に随ひて意の所欲にあり>とあり、法蔵菩薩はどこに生れても思いのままであることが示されましたが、ここでは長者・居士・豪姓・尊貴・刹利国君・転輪聖帝・六欲天主・梵王と、世間的にいう実力者・有力者≠ホかりが登場します。これは、法蔵菩薩の本願は一切衆生の無明・煩悩に応じ清浄・荘厳のはたらきとして喚起されたのですが、いざ本願が生起し成就に向かうためには、必ず各界実力者の生涯においての修行が欠かせないことを言います。つまり、社会的な責任を負わない中での修行には限界があり、人間としての本懐を遂げるためにはどうしても重責を担う立場を経験する必要があることを示しているのです。このあたりが、部派仏教と大乗仏教の大きな違いと言えるでしょう。
「四事」とは飲食・衣服・臥具(寝具)・医薬の四つで、日常生活で使用・消費される全ての物。これをもって<一切の諸仏を供養し恭敬したてまつる>。「恭」は自分がへりくだること。「供」は相手を尊敬すること≠ナすから、出遇う人ごと諸仏としてつつしみ敬い物心を奉げる、ということです。
するとここには、私は教えを学んで解ったから周囲の人たちを教化してやる≠ニか私の修行の成果を皆に分け与えてやる≠ニいう慢心はありません。もちろん、結果として法蔵菩薩の功徳は回施されるのですが、常に法蔵菩薩の方から、御自らが身を屈[かが]めて功徳が回施されるのです。一部の僧侶は、こんな大事なことも忘れて俺が人々を導いてやる=A俺が教えてやる≠ニ、傲慢な態度で説教しているのではないでしょうか。全く獅子身中の虫とも言える恥ずべきありさまです。
<かくのごときの功徳、称説すべからず。口気は香潔にして、優鉢羅華のごとし。身のもろもろの毛孔より栴檀香を出す。その香は、あまねく無量の世界に熏ず>
(それらの功徳は、とても説き尽すことができないほどである。その口は青い蓮の花のように清らかな香りを出し、全身の毛穴からは栴檀の香りを放ち、その香りは数限りない世界に広がり)
ここでは法蔵菩薩の功徳を香りに譬[たと]えて表現しています。
「口気は香潔にして、優鉢羅華のごとし」の口気[コウキ]は、しゃべり方、くちぶり、語気を指し、これが香り高く潔[いさぎよ]いことを言います。人柄はまず話しぶりから現れます。どんな立派な肩書きを持つ人でも、口ぶりや内容が下劣では皆から信用されません。法蔵菩薩は話しぶりが香潔で、それを優鉢羅華[ウハラケ]で譬えています。優鉢羅華は青蓮華[ショウレンゲ]という睡蓮[スイレン]の一種です。その葉は長く、かつ広く、青と白がはっきり分かれているため、偉大な人の眼の特徴に譬[たと]えられます。
「身のもろもろの毛孔より栴檀香を出す」の毛孔[コウモウ]は、仏の三十二相に一一孔一毛生相[イチイチクイチモウソウ]とあるように、菩提心に無理がなく無碍であり、常に道の第一歩に立っていることを言います。ですから「身のもろもろの毛孔」とは人生の一歩一歩が新鮮であることを指し、しかも一歩一歩において香りの優れた栴檀香[センダンコウ]を出す。栴檀香は香木の一種で「栴檀は双葉より芳[かんば]し」という諺でもわかるように、幼少より優れた素質が現れてくることをいいます。法蔵菩薩は不可思議の兆載永劫にわたる修行の最初から、既に優れた性質を現していたことをいうのでしょう。
「その香は、あまねく無量の世界に熏ず」は、まさにその香り高い性質が、ありとあらゆる世界に漂い渡っていったことを表しています。
<容色端正にして相好殊妙なり>
お姿は気高く、表情はうるわしい、ということですが、菩薩といえども相好(声と姿)が整わねば仏とは成れません。智慧が智慧のみで留まっていては本物ではないのです。最後は身が問題。身を整えることが最後の最後までの課題となります。なぜなら、相好の功徳は衆生済度には必須だからです。どんなに法を理解していても、それを衆生に伝えるためには、まず自身が信用されなければなりません。「言葉は、それを発した人間の生き方によって、重くもなれば、軽くもなる」と言いますが、「生き方」の積み重ねが相好を整えるのです。軽薄な生き方をしている人は、声も姿も軽薄でしょう。嘘で固めた生き方をしている人は、理屈はどうあれ、最後は人から信用されません。
真心で歩んだ一生には、真心のこもった相好が与えられます。「若い者は美しい。しかし老いた者は若い者よりもっと美しい」とホイットマンが言うように、法蔵菩薩は永い年月をかけて相好殊妙[ソウゴウシュミョウ]の功徳を積み重ねているのです。
<その手よりつねに無尽の宝・衣服・飲食・珍妙の華香・ゾウ蓋・幢幡、荘厳の具を出す>
(またその手から、いつも、尽きることのない宝・衣服・飲みものや食べもの・美しく香り高い花・天蓋・幡などの飾りの品々を出した)
法蔵菩薩の手より「無尽の宝」が出現するというのですが、「無尽の宝」とは、どこか別の場所に宝が埋まっているという訳ではありません。いつも宝は足元にあり。真の友人は「ここ掘れワンワン」と教えてくれます。本願が衆生に至り、真実信心となり身に満ちることで、人生における経験一つひとつが宝に成ることを言います。真実信心は万物を宝に変える打ち出の小槌。人間には、一見価値のなさそうなものからも偉大な発明を生むような才能が隠れています。この才能が発揮されるのは、あらゆるものや事柄・経験を宝と見た法蔵菩薩の眼が私に至り届き、実際に無尽蔵に宝が生み出されてくる時です。
「衣服」は懺悔の象徴です。
「飲食」は<「経」のなかに命を説きて食とす>とある通り、仏の命である菩提心を象徴しています。
「珍妙の華香」はすぐ前の<口気は香潔にして>云々で述べた通り、功徳が心地よく衆生に回施されることを象徴しています。
「ゾウ蓋」は仏殿にかける絹の天蓋[テンガイ]のことで、相手の真心と供養の善根が感応して、辺り一面に仏の功徳が咲き広がることを象徴しています。
「幢幡[ドウバン]」は、<はたぼこ、長旗、仏堂を飾る旗、また幡竿から垂れた幡。色のついた布に字や模様をかいてたらしたはた。ひらひらとひるがえるのぼり>を言いますが、これも仏・菩薩の威徳をあらわす荘厳具です。幡(旗)は、国旗や五輪旗・社旗・校旗などのように、国や学校や理念などの象徴図であり、それらの存在を現わすものですから、法蔵菩薩が幢幡を出すということは、本願と本願によって建設する浄土を象徴する図も常に作られていることを言うのでしょう。具体的には、私たちは法蔵菩薩から回向された幢幡として、恒にそうした象徴となるものを創造し続けているのです。
<かくのごときらの事もろもろの天人に超えたり。一切の法において自在を得たりき>
(これらのことは、さまざまな天人にはるかにすぐれていて、すべてを思いのままに行えたのである)
「かくのごときらの事」とは、<無量の宝蔵、自然に発応し、無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道に住せしむ>(はかり知れない宝がおのずからわき出て数限りない人々を教え導き、この上ないさとりの世界に安住させた)以降の事柄を言います。そうした素晴らしい功徳をあらゆる時・場面において「自在を得たり」ですから、障害なく行うことができたのです。
これも既に「讃仏偈」において<願我作仏斉聖法王:願はくは、われ仏とならんに、聖法王に斉しく>とありましたように、理想仏である世自在王仏の威徳を追いつつ現実を背負って歩む法蔵菩薩の修行が成就した結果なのです。仏性の歴史は、理想と現実が照らしあって展開してゆく道程であり功徳であります。
私たちは、この本願の自在なる展開を受け、日々懺悔、恭敬供養、転法輪≠フ菩薩の法式に随って、真実信心を獲得し、人生を本当に成就させてゆく歩みを進めるのです。  
正宗極楽分/安楽世界

阿難、仏に白さく、「法蔵菩薩、すでに仏と成りて滅度を取りたまえりと為すや、未だ仏と成りたまわずと為すや、今現に在(ま)しますと為すや。」と。
仏、阿難に告げたもう、「法蔵菩薩、今すでに仏と成りて現に西方に、ここを去ること十万億刹(せつ、国)に在り。その仏の世界を名づけて安楽と曰う。」
阿難、また問わく、「その仏、道を成したまいしより已来(このかた)、幾時を経ると為すや。」と。
仏言(の)たまわく、「仏と成りしより已来、凡そ十劫を歴(へ)たり。」
その仏の国土は自然の七宝、金、銀、琉璃、珊瑚、琥珀、車渠、瑪瑙、合わせ成りて地を為し、恢廓曠蕩(かいかくこうとう、限りなく広々したさま)として限り極むべからず。(その七宝)悉く雑廁(ざっし、まじりあうこと)して、転(うたた)相い間(なか)に入り、光は赫(かがや、かっと耀くさま)き、焜耀(こんよう、耀き照らすさま)として微妙、綺麗にして清浄なり。荘厳は十方の一切世界を超え踰(こ)せり。衆宝の中の精にして、その宝はなお第六天の宝の如し。
またその国土には須弥山および金剛囲(こんごうい、鉄囲山)、一切の諸山なく、また大海、小海、渓渠(けいこ、谷と溝)、井谷(しょうこく、井戸と谷)もなし。
仏の神力の故に見んと欲せば則ち見ゆ。
また地獄、餓鬼、畜生、諸難の趣(みち、道)なし。
また四時、春、秋、冬、夏もなく、寒からず熱からず常に和らぎ調い適す。
その時、阿難、仏に白して言さく、「世尊、もし彼の国土に須弥山なくば、その(国土の須弥山に住する)四天王および忉利天は、何に依りてか住する。」と。
仏、阿難に語りたまわく、「第三炎天(欲界の第三天)ないし色究竟天(色界の最上天)は皆何に依りてか住する。」
阿難、仏に白さく、「行業の果報は不可思議なり。」
仏、阿難に語りたまわく、「行業の果報は不可思議なり。諸仏の世界もまた不可思議なり。その諸の衆生は、功徳の善力により行業の地に住するが故によく爾るのみ。」
阿難、仏に白さく、「我、この法を疑わず、ただ将来の衆生の為に、その疑惑を除かんと欲するが故に、この義を問うのみ。」
阿難が釈尊にお尋ねした。
「法蔵菩薩は、仏となって、すでに世を去られたのでしょうか。あるいはまだ仏となっておられないのでしょうか。それとも仏となって、今現においでになるのでしょうか」
釈尊が阿難に仰せになる。
「法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる。その仏の国はここから十万億の国々を過ぎたとことにあって、名を安楽という」
阿難がさらにお尋ねした。
「その仏がさとりを開かれてから、どれくらいの時が経っているのでしょうか」
釈尊が仰せになる。
「さとりを開かれてから、およそ十劫の時が経っている。その仏の国土は金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・シャコ・瑪瑙などの七つの宝でできており、実にひろびろとして限りがない。そしてそれらの宝は、互いに入りまじってまばゆく光り輝き、たいへん美しい。そのうるわしく清らかなようすは、すべての世界に超えすぐれている。さまざまな宝の中でもっともすぐれたものであり、ちょうど他化自在天の宝のようである。またその国には須弥山や鉄囲山などの山はなく、また大小の海や谷や窪地などもない。しかしそれらを見たいと思えば、仏の不思議な力によってただちに現れる。また、地獄や餓鬼や畜生などのさまざまな苦しみの世界もなく、春夏秋冬の四季の別もない。いつも寒からず暑からず、調和のとれた快い世界である」
ここで阿難が釈尊にお尋ねした。
「世尊、もしその国土に須弥山がなければ、その中腹や頂上にあるはずの四天王の世界やトウ刀利天などは、何によってたもたれ、そこに住むことができるのでしょうか」
すると釈尊が阿難に仰せになった。
「では、夜摩天をはじめ色究竟天までの空中にある世界は、何によってたもたれ、そこに住むことができると思うか」
阿難が釈尊にお答えする。
「それらの天界は、それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてそうあるのでございます」
釈尊が仰せになる。
「それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてあるというなら、仏がたの世界もまたそのようにしてたもたれているのであり、無量寿仏の国のものたちはみな、功徳の力により、その行いを原因としてもたらされたところに住んでいるのである。そこで須弥山がなくても差し支えないのである」
阿難が申しあげる。
「世尊、わたしもそのことを疑いませんが、ただ将来の人々のために、このような疑いを除きたいと思ってお尋ねしたのでございます」 
浄土は無窮なる願土であり報土
仏教は問いが大事であります。どういう問いを発することができたか≠ニいうことが人生の内容を決定づけていきます。前節までに阿難はじめ一万二千人の弟子や菩薩たちは、法蔵菩薩は誓願を因として不可思議兆載永劫の修行を完遂した、ということを学びましたが、その内容の素晴らしさに皆胸を躍らせたことでしょう。
しかしこれだけでは話は済みません。最も重要なことが抜けています。それは、法蔵菩薩の修行が今現在を生きる自分にとってどういう意味を持つのか、という点です。他人事ではない、いよいよ自分の問題として仏性の歴史を問う時がきました。
註釈版
阿難、仏にまうさく、「法蔵菩薩、すでに成仏して滅度を取りたまへりとやせん、いまだ成仏したまはずとやせん、いま現にましますとやせん」と。仏、阿難に告げたまはく、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」と。阿難、また問ひたてまつる、「その仏、成道したまひしよりこのかた、いくばくの時を経たまへりとやせん」と。仏のたまはく、「成仏よりこのかた、おほよそ十劫を歴たまへり。
現代語版
阿難が釈尊にお尋ねした。
「法蔵菩薩は、仏となって、すでに世を去られたのでしょうか。あるいはまだ仏となっておられないのでしょうか。それとも仏となって、今現においでになるのでしょうか」
釈尊が阿難に仰せになる。
「法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる。その仏の国はここから十万億の国々を過ぎたとことにあって、名を安楽という」
阿難がさらにお尋ねした。
「その仏がさとりを開かれてから、どれくらいの時が経っているのでしょうか」
釈尊が仰せになる。
「さとりを開かれてから、およそ十劫の時が経っている。
<法蔵菩薩、すでに成仏して滅度を取りたまへりとやせん>
(法蔵菩薩は、仏となって、すでに世を去られたのでしょうか)
不可思議兆載永劫の修行を行った法蔵菩薩ですから、既に成仏されているのではないか、との期待がある一方、誓願は適ったが既に直接には現代社会に力を発揮できない過去仏となられたのではないか、との懸念が生じています。もし懸念通りだとすると、現代とちがって昔は良い時代だった≠ニいうことになってしまいます。
<いまだ成仏したまはずとやせん>
(あるいはまだ仏となっておられないのでしょうか)
さらには、いくら法蔵菩薩が不可思議兆載永劫の修行を行ったとしても、誓願で打ち出された内容が余りに高度で広範囲に及ぶゆえ、法蔵菩薩はまだ成仏していないのではないか。つまり弥勒菩薩のように未来仏なのではないか、との懸念も生じています。
自分と直接関わりの無い過去仏の修行であれば、これらは単なる歴史の記録に過ぎません。また修行が未完成であるとすれば、以上のことは未来に希望を託すだけの夢物語に過ぎなくなります。
<いま現にましますとやせん>
(それとも仏となって、今現においでになるのでしょうか)
法蔵菩薩が誓願を成就し既に成仏されていて、しかも今も直接現代社会に力を発揮している――もしこの通りであれば一番素晴らしいことです。しかし、一切衆生を済度する誓願が成就し、今現在もそのはたらきが発揮されているとすれば、今のこの社会や世界の有様がこれほど醜いはずはないでしょう。あきらかに矛盾していると思われるのですが……
<仏、阿難に告げたまはく、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」と>
(釈尊が阿難に仰せになる。「法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる。その仏の国はここから十万億の国々を過ぎたとことにあって、名を安楽という」)
釈尊の答えは、最後の<いま現にまします>が正解ということです。一番素晴らしい結果ですが、このことを素直に信じて良いのでしょうか。本当に誓願は適ったと言えるのでしょうか。
ここはこの経典を解釈する上で最重要点の一つですから、先の矛盾点についてもう一度検証し、改めて如来の真実義を解していきましょう。
たとえば法蔵菩薩の建てた四十八願のうち第一願「無三悪趣の願」では自分の国に三悪道が無いように≠ニ願われています。そして第十四願「声聞無量の願」ではその国中の声聞の数に限りが無いように≠ニ願い、さらに第十八願においてはすべての人々に至心・信楽・欲生の一心を与え、その信心が一生相続してゆくように≠ニ願われています。
このように四十八願を一つひとつ見ていきますと全体的に――わが国土(法蔵菩薩が打ち建てようとする世界)は遍在無辺で、極めて清浄であり、評判が良く、輝かしく荘厳されるように≠ニ「国土の内容」を願い、十方全ての人々がわが国土に生まれるように≠ニ「一切衆生の往生」を願い、国中の人天や菩薩や入出無碍の自立した菩薩たちが、わが国土に具わっている徳を様々に発揮するように≠ニ「念仏行者の内容」を願う。つまり、国土と念仏者の内容が素晴らしいことと同時に、一切衆生の往生まで願われているのです。しかも、こうした三点が完遂されなければ法蔵菩薩は「私は正覚を取ることができない」(正覚を取ったことが成就しない)と何度も明言されています。
すると、今現在のこの世の有様はどうだ。戦争は止まず、差別と侮蔑に人々はおののき苦しんでいるではないか。あらゆる世界で三悪道は去らず、阿弥陀仏の浄土に往生しようと願うものは少なく、浄土真宗の門徒や僧侶のうちにも内容や評判の悪い者は大勢いるではないか。これでも法蔵菩薩の誓願は成就したと言えるのか≠ニの疑問が湧いてくるでしょう。
いや、それより何より、今現在、自分自身の内容≠ェ願意に適っていません。他人はいざ知らず、自分自身の迷いや無明が解決していないことは、紛れもない事実です。
こうした事実があるにも関わらず、経典には「法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる」と説かれている。理屈で言えば矛盾していますが、経典は真心で説かれたものですから、その真意を探らなければなりません。
この難問に、たとえば曇鸞大師は以下のように答えを導いてみえます。
おほよそ「回向」の名義を釈せば、いはく、おのが集むるところの一切の功徳をもつて一切衆生に施与して、ともに仏道に向かふなり。「巧方便」とは、いはく、菩薩願ずらく、おのが智慧の火をもつて一切衆生の煩悩の草木を焼かんに、もし一衆生として成仏せざることあらば、われ作仏せじと。しかるに、かの衆生いまだことごとく成仏せざるに、菩薩すでにみづから成仏す。たとへば火テンをして一切の草木を摘みて焼きて尽さしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに、火テンすでに尽くるがごとし。その身を後にして、しかも身先だつをもつてのゆゑに巧方便と名づく。このなかに「方便」といふは、いはく、一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜんと作願す。かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。
意訳
およそ、「回向」ということばの意味を解釈するならば、菩薩が自身で集めたところのあらゆる功徳を他のすべての衆生に施して、みなともに仏果[ぶっか]に向かわせることである。
「巧方便」というのは、菩薩が自分の智慧の火をもって一切衆生の煩悩の草木を焼こうとして、もし一人の衆生でも成仏しなかったならば、自分は仏になるまいと願う。ところが、衆生のすべてがまだ成仏しないのに、菩薩はさきにみずからが成仏することである。たとえば木の火ばしをもって、草木を摘[つ]んで焼き尽くそうとするのに、その草木がまだ焼けきらないうちに、火ばしがさきに焼けきるようなものである。自分の身を後にして、しかもその身が他の衆生よりもさきに成仏するから巧方便[ぎょうほうべん]と名づける。
いまここに方便というのは、すべての衆生を摂めとって、ともどもに弥陀の浄土に生まれようと願うことである。それはかの仏国はすなわち、ついに仏になるところの道であり、最もすぐれた方法だからである。
<その身を後にして、しかも身先だつ>(自分の身を後にして、しかもその身が他の衆生よりもさきに成仏する)というたとえは素晴らしい表現なのですが、少し補足しますと――国土と念仏者の内容と、一切衆生の往生≠自らの問題としてひたすら願う。すると、願いそのものは理想ですから事相(事実)の成就は永遠の彼方なのですが、真に願いをもって立ち上がり一歩を踏み出せば、踏み出す現実において願いそのものは成就する。「願いの中に成就あり」と聞かせて頂いている通りです。
それは、現実のどの瞬間瞬間をとってみえても、「求道の途中」という面においては法蔵菩薩の願力が生き、「この瞬間瞬間にこそ全ての願力と永劫の修行が報いている」という面においては無量寿仏の仏力が報いて成就している。こうした浄土の「願土」としての面と「報土」としての面の両方が成就していることを示しているのです。つまり浄土は、法蔵菩薩の願力と阿弥陀仏の仏力によって支えられてはじめて本当に生き生きとした活動が適うのです。
逆に言えば、ある日ある時、願いが事実として成就してしまった。もう願う必要はない。後は願いが成就した国に人々を導くだけだ≠ニ解釈してしまえば、その国土に願いは無く、はたらきは押し付けと化し、仏の寿命も枯れてしまいます。時として宗教団体が人々に強制を強い、洗脳とも言える方法で布教しているさまを見ると、まさにこの固執した国土への導きが横行していると言えるでしょう。さらにもし阿弥陀仏の本願はまだ成就していない≠ニいうことであれば、本願は単なる理想論であり、未来に希望を託すだけのあやふやな夢に過ぎません。現に今を生きる自分の力とはならないのです。
「浄土は無窮なる願土であり報土である」という活動面が解ればこうした法執や疑念は消え去り、常に環境を浄化し新たな創造力を発揮し続けてゆく道が開かれていることが領解できるでしょう。
浄土の場所
さて、それでは浄土はどこにあるのでしょう。今住んでいる社会が浄土でしょうか。それとも遥か彼方にあるのでしょうか。
ここで再度同じ箇所を引いてみます。
<仏、阿難に告げたまはく、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」と>
この中で、<法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に>までは前節で明らかにしました。次の<西方にまします。ここを去ること十万億刹なり>とはどういうことでしょうか。実は以前、{地獄・極楽の食事風景「#極楽はどこにあるのか?」}において極楽浄土の在り処[ありか]について述べたことがありますが、重要な問題ですので、内容はほぼ重複しますが今一度詳説させていただきます。
極楽浄土の場所について述べる際、多くの書では西方十万億土彼方にある≠ニ中途半端な説明に留まっています。しかし丁寧に経典を読み解けば極楽の在り処は明確に示されているのです。特に浄土三部経においては、それぞれ表現を変えて全く一つの地が示されています。以下それを明らかにしましょう。
阿難、仏にまうさく、「法蔵菩薩、すでに成仏して滅度を取りたまへりとやせん、いまだ成仏したまはずとやせん、いま現にましますとやせん」と。
仏、阿難に告げたまはく、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」と。
「仏説無量寿経」10・巻上・正宗分・弥陀果徳・十劫成道より
意訳
阿難が釈尊にお尋ねした。
「法蔵菩薩は、仏となって、すでに世を去られたのでしょうか。あるいはまだ仏となっておられないのでしょうか。それとも仏となって、今現においでになるのでしょうか」
釈尊が阿難に仰せになる。
「法蔵菩薩はすでに無量寿仏という仏となって、現に西方においでになる。その仏の国はここから十万億の国々を過ぎたとことにあって、名を安楽という」
そのとき世尊、韋提希に告げたまはく、「なんぢ、いま知れりやいなや。阿弥陀仏、ここを去ること遠からず。なんぢ、まさに繋念して、あきらかにかの国の浄業成じたまへるひとを観ずべし。われいまなんぢがために広くもろもろの譬へを説き、また未来世の一切凡夫の、浄業を修せんと欲はんものをして西方極楽国土に生ずることを得しめん。
「仏説観無量寿経」7・序分・発起序・散善顕行縁より
意訳
そこで釈尊は韋提希に仰せになった。
「そなたは知っているだろうか。阿弥陀仏はこの世界からそれほど遠くないところにおいでになるのである。だからそなたは思いを極楽世界にかけ、清らかな行を完成して仏になられた阿弥陀仏をはっきりと想い描くがよい。わたしは今、そなたのために極楽世界のすがたを想い描くためのいろいろな方法を説き、また清らかな行を修めたいと願う未来のすべての人々を西方の極楽世界に生れさせよう。
そのとき、仏、長老舎利弗に告げたまはく。「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。
「仏説阿弥陀経」2・正宗分・依正段より
意訳
そのとき釈尊は長老の舎利弗に仰せになった。
「ここから西の方へ十万億もの仏がたの国々を過ぎたところに、極楽と名づけられる世界がある。そこには阿弥陀仏と申しあげる仏がおられて、今現に教えを説いておいでになる。
ここで問題なのは「現代語版」の不正確な意訳です。書き下し文と比べてみればいかにあやふやな訳であるか解るでしょう。こうした勝手な訳が行われるために経典の真意が理解できなくなるのです。
「仏説無量寿経」10では、書き下し文は<ここを去ること十万億刹なり>とありますが、現代語訳では「ここから十万億の国々を過ぎたとことにあって……」と原文と異なった訳をしています。後に申しますが、「去る」と「過ぎる」は正反対の意味なのです。漢文経典では丁寧に解りやすく別の漢字で訳してあるのに、わざわざその意図を外す必要はないはずです。
次に「仏説観無量寿経」7では<阿弥陀仏、ここを去ること遠からず>(阿弥陀仏はこの世界からそれほど遠くないところにおいでになるのである)とあります。「この世界」がどういう意味かはっきり意識された訳とは言えませんが、解釈次第で何とか正法を維持できるようです。
最後の「仏説阿弥陀経」2、<これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり>(ここから西の方へ十万億もの仏がたの国々を過ぎたところに、極楽と名づけられる世界がある)とあります。ここの現代語訳には問題はなさそうです。
このように、浄土三部経に記された極楽の場所ですが、要点としては――
十万億≠ノついて
過ぎる≠ニ去る≠フ差は何か
ここを去る≠ニかこれより≠ニ言われるここ≠ヘ一体どこか
西方≠ニは何を意味しているのか
ということになるでしょう。これらが解れば浄土の場所が解るはずです。
1)十万億≠ノついて。
十万億は全人類の頭数≠ナあり衆生の総数≠ナあり、衆生世界の総数と同時に諸仏世界の総数≠ニ理解して頂けばよいでしょう。
「十万億」とは、生きとし生けるものの数を十万億と数えたのである。つまり全人類の数が十万億あるということである。この十万億という数は、浄土教の経典だけではなく、「華厳経」系統の経は、みなこの思想の上に立ってゐるのである。「梵網経」には十万億という数の内容を次のように説いている。中央にビルシャナ仏があって、千の光明を放つ。一一の光明に一体づつの大釈迦仏がある。その千の大釈迦仏は、おのおの百億の光明を放つ。一一の光明にまた一体づつの小釈迦仏がある。その十万億の小釈迦仏は、十万億の衆生の世界に至って法を説くという。即ち一人の衆生に一つの世界があり、その一一の世界に一体づつの仏がある。この外に衆生も世界もなく、また仏もない。十万億の数を以て十方世界のことごとくを摂めつくすのである。
この「梵網経」の思想にもとずいて、仏教国日本を建設しようとして、その理想を現わして作られたのが、奈良の大仏である。日本が仏教を受け入れた当時に於ては、経説は経意のままに正しく領解せられてゐたのであるが、時代を経るに随って、その真意を見失われて来たことは、まことに悲しいことである。
2)過ぎる≠ニ去る≠フ差は何か
「過ぎる」は「仏説阿弥陀経」に<これより西方に、十万億の仏土を過ぎて>とありますが、重要なのは法を直接説いている対象、相手の境地・境涯を見なければなりません。
「仏説阿弥陀経」では、仏は幾度も「舎利弗よ」と呼びかけてみえます。教えの内容は全人類・一切衆生を念じていますが、経典は基本的に対機説法であり、この時の直接の相手は、既に出家の悟りを開き「智慧第一」と賞賛されていた長老舎利弗です。迷いは既に滅し、智慧勝れ、信心を得ている相手に対しては、その境地を翻[ひるがえ]す必要はありません。そこでそのままの境地を伸ばして一切衆生・一切諸仏を供養し極楽に行くことを願いなさい≠ニ言う意味で、<これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ>と勧められたのでしょう。
過ぎる≠ノついては、島田師が丁寧に内容を明かされてみえます。
「過ぎる」とは、素通りではありません。出会う人を敬い拝み、出会う人毎から教えを受け、お育てに預かってゆくことです。しかしそれはたんに人間だけではありません。山を見ても川を見ても、鳥の鳴き声、雨の音を聞いても、日々降りかかって来る一つ一つの出来事の上に、仏の姿を見、仏の声を聞いて、人生を学び、自己を知って、自分の道を見出だしてゆくのです。
これは十万億の一つ一つの仏を供養し、それによって一一の仏からお育てに預かってゆくことですから、ここでも「百千万億ナユタの諸仏の国」を過ぎて、諸仏を供養し、相手から自分も教えられてゆく、自利利他の菩薩行を行じながら、しかも自己を超え、相手を超えて、弥陀の国への旅を続けてゆく、いわば諸仏の国の視察旅行ではないでしょうか。
この過ぎる≠ノ対して去る≠ヘ「人の相違」を表しています。
「大経」に「ここを去る」という「去」の字は、「説文」に「人の相違なり」とある。人の相違とは世界が違うということである。たとい体は隣あって坐っていても、世界が違えば千里の距りである。暗の世界と光の世界、迷いと悟りは、その場所は隣あっていても、二つの世界には無限の距りがある。しかし「去る」と「距たる」とは違う。またある「説文」には「ともに来って相対するなり」という説明がしてある。距たるは二つのものは間隔をおいて離れ離れにあるのであるが、去るは二つのものがたがいに照らし合うて、相手を明らかにすると同時に、それによって却って自らを現わすという関係にあることである。この世をこの世と照らしてあの世があり、あの世をあの世と現わしてこの世がある。濁悪の世を照らし浄めて浄土があり、浄土のはたらく場所として濁悪の世があるのである。浄土を離れて穢土もなく、穢土を離れて浄土もない。もし穢土の自覚なくして浄土が語られ、浄土の信証なくして穢土が論ぜられるならば、それらはすべて机上の戯論であり、観念の遊戯に過ぎぬ。仏教とは自覚の教ということであり、そこに説かれてるものはすべて自覚の内容である。随ってその説は唯だ自覚を通して、自覚の内容としてうなずいて聞く外に領解の道はない。
「仏説無量寿経」は全人類・一切衆生に呼びかけて説いているのであり、直接の説教相手も、まだ迷いの去っていない阿難です。「観無量寿経」も同様に、自業自得の苦に悩みながら、責任転嫁して釈尊に不平不満をぶつけた韋提希[イダイケ]夫人に対して説いています。したがって共に相手の迷いを翻す必要がありますから、どちらも過ぎる≠ナはなく去る≠ニ言わざるを得ません。
経典で言えば、<十万億の仏土>は「一切衆生悉有仏性」と覚った菩薩が、一切衆生の仏性を供養して巡ることですから過ぎる≠ナすが、「一切衆生悉有仏性」を覚っていない衆生に対して説く場合は、あなたが今見ている迷いの世界を翻していきなさい≠ニいう意味で去る≠アとを勧める。つまり無明・我執に閉じた衆生と極楽の住民との「人の相違」や「境地の相違」を見ていくことが重要となるのです。
<十万億刹>の「刹」は業によってできた世界を表し、ここでは衆生の宿業世界であり、無明・我執が絡み合った迷いの世界を言います。ただし「刹」の字が用いられていても「仏刹」という浄らかな業の報いでできた仏土をいう場合もあります。
ちなみに「刹土」や「国土」は、ある存在(人や主体)の身心態度の内容と、その存在を中心として創られた周囲の人々との関係性全体をいいます。衆生の内面や境遇を含め、衆生の置かれている客観的事実全体を「国土・刹土」と言うのです。
衆生の国土はそのままでは我執・無明・社会悪の三途に穢れた荒野ですが、荒野は同時に耕地ともなります。衆生の国土は仏の教化対象であり仏性の働き場なのです。これは「維摩経義疏」に詳説されているのですが、仏はもともと自分の国を持っていません。ではどこに仏の国を造るのかといいますと、衆生の荒れ果てた国土を耕し、清浄なる各種の荘厳によって麗しい仏の国を造るのです。仏の教化対象として「衆生の国土」を「仏国土」と呼びますから、仏国土と言っても、浄と穢に通じて存在しているのです。ですから仏土は、仏性によって開拓した浄土面と未開拓の穢土面が矛盾的に混在しているのですが、「煩悩即菩提」であるのと同様「穢土即浄土」ということも言えるのです。
つまり仏にとって衆生の国土は「仏の教化対象」という面もあるのですが、むしろ「仏の修行場」として手が合わされた面が重要となるのです。ですから、衆生こそ法蔵精神の正統な継承者であり、衆生国土こそ阿弥陀浄土の最前衛出張所であることを裏づけています。
さらに「人の相違」を譬えてみれば、同じ碁や将棋の盤面を見ていても、名人の眼に映る世界と素人の眼に映る世界は違うでしょう。同じ芸術作品を見ていても、芸術を深く理解している人と金銭ばかりに眼がいく人とでは、結局見ている世界が違うのです。
人生も同じで、仏と衆生の住む世界は、空間的な意味の場所に違いはありませんが、見ている人自身の内容が違うので、結局住む世界が全く異なるのです。「人の相違」を「去る」で表すのはそうした意味があります。先の「過ぎる」と「去る」を混同した誤訳が、いかに真意を外した訳であるか解るでしょう。
3)ここを去る≠ニかこれより≠ニ言われるここ≠ヘ一体どこか
過ぎる≠ニ去る≠ナも述べましたが、ここ≠ニは空間的な場所や住所をいうのではありません。<行業の果報>、つまり<それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてそうある>「地」がここ≠ナす。一般語で言えば、相手の「境涯」や「境地」をここ≠ニ指し、真実極楽との隔たりを述べてみえるのです。
このことは先の経文で明かされていますので、順序が変りますがここに引いてみます。
注釈版
そのときに阿難、仏にまうしてまうさく、「世尊、もしかの国土に須弥山なくは、その四天王およびトウ利天、なにによりてか住する」と。仏、阿難に語りたまはく、「第三の焔天、乃至、色究竟天、みななにによりてか住する」と。阿難、仏にまうさく、「行業の果報、不可思議なればなり」と。仏、阿難に語りたまはく、「行業の果報不可思議ならば、諸仏世界もまた不可思議なり。そのもろもろの衆生、功徳善力をもつて行業の地に住す。ゆゑによくしかるのみ」と。阿難、仏にまうさく、「われこの法を疑はず。ただ将来の衆生のためにその疑惑を除かんと欲するがゆゑに、この義を問ひたてまつる」と。
現代語版
ここで阿難が釈尊にお尋ねした。
「世尊、もしその国土に須弥山がなければ、その中腹や頂上にあるはずの四天王の世界やトウ利天などは、何によってたもたれ、そこに住むことができるのでしょうか」
すると釈尊が阿難に仰せになった。
「では、夜摩天をはじめ色究竟天までの空中にある世界は、何によってたもたれ、そこに住むことができると思うか」
阿難が釈尊にお答えする。
「それらの天界は、それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてそうあるのでございます」
釈尊が仰せになる。
「それぞれの行いを原因としてもたらされた不可思議なはたらきとしてあるというなら、仏がたの世界もまたそのようにしてたもたれているのであり、無量寿仏の国のものたちはみな、功徳の力により、その行いを原因としてもたらされたところに住んでいるのである。そこで須弥山がなくても差し支えないのである」
阿難が申しあげる。
「世尊、わたしもそのことを疑いませんが、ただ将来の人々のために、このような疑いを除きたいと思ってお尋ねしたのでございます」
浄土の住民は、<功徳善力をもつて行業の地に住す>(功徳の力により、その行いを原因としてもたらされたところに住んでいる)のです。この功徳は、個人的な功徳ではとても適いませんが、衆生の本性である真如・仏性が本願を見出し、兆歳永劫の修行によって円成した功徳が私に回向されることによって適うのです。いわば細胞の一つひとつに宿る歴史的本性が真心の環境を得て名のりをあげ、諸仏を通じて四十八願と成り、私に至り届いた功徳なのです。
しかし釈尊が説かれる対象は、浄土三部経とも<功徳善力をもつて行業の地に住す>ことが適った相手ではありません。
「仏説無量寿経」の「ここ」は一切衆生の迷いの場です。「仏説阿弥陀経」の「ここ」は、悟りを開き信心を得た智慧第一の場ですが、十万億の諸仏供養はまだ果たしていません。では「仏説観無量寿経」に説かれた<ここを去ること遠からず>の「ここ」は一体どこでしょうか。
これが解れば私たちにも極楽の場が目前に開けてきます。なぜならイダイケ夫人は、私たち凡夫・一般人の代表だからです。
「大経」に「ここ」といわれた場所は、迷いの世界のことであり、「小経」に「これより」と説かれたのは、「念仏申さんと思い立つ心のおこる」そこからである。そのことは「大経」では十万億の「刹」を去ってであり、「小経」では十万億の「仏土」を過ぎてであることにも現れている。
また「観経」に「ここ」といわれたのは、「大経」の「ここ」のように、ただ迷うているのでもない。そうかといって「小経」の「ここ」のように、念仏の信心もまだ起こってはおらぬ。今までひとをとがめ世をせめていた身が、相手の身になり、相手の立場がわかるようになって見れば、誰をとがめて見ようもない。していることはみんな無理のないことである。せめている自分自身もまたその中の一人である。それにしても何と浅ましいことであり、何と悲しい悪業因縁に結ばれていることであろうか。不幸せなものは私一人と思っていたが、みんな気の毒な人間である。問題の渦中にあるわれわれだけではない。これが人生だ。ようやく人間の在り方そのもの根底に根ざす、生けるものみな底に共通する人間業がわかり、同時にそれを照らし出している真実大悲の世界がうすうす解りかけて来た。この心に向って「阿弥陀仏ここを去ること遠からず」と説かれたのである。
三経がそれぞれ異なった三つの立場に立っての説法であることは、その序説にも明らかである。即ち「大経」は釈尊の念仏三昧の場所である「王舎城の耆闍崛山の中」で説かれ、「観経」は苦悩の牢獄と変わった王舎城の一室での説法であり、「小経」の説かれた場所は、仏弟子の修行の道場である舎衛国の祇園精舎である。また昔から「大経」は法の真実を説き、「観経」は機の真実を説き、「小経」は念仏の行を説くといわれていることにも、三経の立場の相違を知ることができるであろう。
これだけ懇切丁寧に諭していただけば私のような愚かな人間にも解りますが、少し注釈を加えますと、「仏説観無量寿経」(観経)のこの時点でのイダイケ夫人の状態は――提婆達多[ダイバダッタ]の企みと自業自得の罪で夫の頻婆娑羅[ビンバシャラ]王が幽閉され、それを助けようとした彼女も実の息子の阿闍世[アジャセ]に殺されかけ、幽閉されて嘆き悲み、遠く釈尊に向って礼拝し、招待を願った。願いに応じて釈尊がイダイケ夫人の前に現れると、「自分にどんな罪があってこんな悪い子を産んだのか、世尊もどうしてダイバダッタとの親族なのか」と怒りをぶつけていたが、釈尊の様々な法施によって心落ち着き、やっと極楽世界に生まれたい≠ニ願いを起こすことができた……という今の彼女の状況・立場・心情・境涯に向かっての「ここ」なのです。
それは、人間共通の宿業が見え、不幸は自分だけではないと気づき、社会の地獄性・餓鬼性・畜生性の三悪道が見え、同時に地獄・餓鬼・畜生の三悪道を見せしめている真実清浄荘厳の世界の正体がうっすらと見えかけた「ここ」です。
イダイケ夫人の世界と極楽の内容は十万億刹の開きがあるが、極楽・安楽国の名を聞き、内容を教えられ、極楽往生を願うことによって、極楽の方がイダイケ夫人に近づいて来る。足元の浄土が歴史をくぐり個人の苦悩を通って、この場に現れ出ようとしているのです。
すると極楽浄土は真近にあります。ここを尊び、釈尊は<ここを去ること遠からず>と極楽の在り処をイダイケ夫人に示しました。まさに時を逃さず機を得た釈尊の名指導でしょう。
では、うっすらと極楽が見えかけたイダイケ夫人と、はっきりと極楽を見ている釈尊の違いはどこにあるのでしょう。それは、「天眼を得ていない」ことが理由として示されます。
仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「あきらかに聴け、あきらかに聴け、よくこれを思念せよ。如来、いま未来世の一切衆生の、煩悩の賊のために害せらるるもののために、清浄の業を説かん。善いかな韋提希、快くこの事を問へり。阿難、なんぢまさに受持して、広く多衆のために仏語を宣説すべし。如来、いま韋提希および未来世の一切衆生を教へて西方極楽世界を観ぜしむ。仏力をもつてのゆゑに、まさにかの清浄の国土を見ること、明鏡を執りてみづから面像を見るがごとくなるを得べし。かの国土の極妙の楽事を見て、心歓喜するがゆゑに、時に応じてすなはち無生法忍を得ん」と。仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣にして、いまだ天眼を得ざれば、遠く観ることあたはず。諸仏如来に異の方便ましまして、なんぢをして見ることを得しむ」と。
阿難よ、そなたはこれからわたしが説く教えを忘れずに心にとどめ、多くの人々に説きひろめるがよい。わたしは今、韋提希と未来のすべての人々が西方の極楽世界を想い描くことのできるようにしよう。仏の力によって、ちょうどくもりのない鏡に自分の顔かたちを映し出すように、その清らかな国土を見ることができるのである。そしてその国土のきわめてすぐれたすがたを見て、心は喜びに満ちあふれ、そこでただちに無生法忍を得るであろう」
さらに釈尊は韋提希に仰せになった。
「そなたは愚かな人間で、力が劣っており、まだ天眼通を得ていないから、はるか遠くを見とおすことができない。しかし仏には特別な手だてがあって、そなたにも極楽世界を見させることができるのである」
「凡夫」とは、人間本来の尊さを覚らず、人間本来の尊い行動を実行せず、人間本来の尊い徳(信頼)を得ていない状態をいいます。
「天眼」は天眼智[てんげんち]とも天眼通[てんげんつう]ともいうが、<どんな人をも仏として尊敬できること>をいいます。
<遠く観ることあたはず>は、特別な人や身近な人は尊敬するが自分と状況が離れた人や身近に居ない人は軽蔑する、という狭い見識・差別・邪見がこびりついていることです。決して未来を予知したり遠方を透視する超能力ではありません。
これらを総じて言えば、「一切衆生悉有仏性」、「衆生即仏性」ということが本当に解ることが、天眼を得て遠く観ることが適う、という内容です。人間は本来的にいえば凡夫では断じてありません。ところが「悉有仏性」が見えず、自他の本質を凡夫だと誤って卑めることこそが凡夫の行状なのです。
仏法を説いているふりをしながら、経典の意を曲げ、衆生の本性を凡夫だと卑しめる「五姓各別」等の差別・邪見こそが、「邪見驕慢悪衆生」、「獅子身中の虫」の姿に他ならないのです。
4)西方≠ニは何を意味しているのか
以上のように、安楽国・極楽は本来無辺際であって、「西方」と説く必要はありません。覚ってみればあらゆる場が極楽浄土です。娑婆といえど穢土といえども、このどこを取っても安楽国を映しています。娑婆を娑婆と照らしているのが浄土、そして浄土を浄土と示すのが娑婆です。娑婆と浄土は正反対の内容でありながら、互いを映し出すことにおいては表裏一体になっているのです。
しかし、まだ覚っていない衆生に「ここを離れて極楽はない、今この場こそ浄土」と説いても、迷っている衆生が見る「ここ」は極楽ではありません。前に述べたように、衆生の考える「ここ」は仏の示したい「ここ」とは違います。相手の機(世界観)の相違が浄土を指す方向を決定するのです。仏の「ここ」は、衆生にとっては「彼の地」となります。
すると、衆生に極楽を説く場合は「ここ」ではなく、別の方向を向いて「彼の地」に願いをかけさせねばなりません。そこで選ばれたのが「西方」です。
では東西南北上下の六方の中で何故「西方」が選ばれたのでしょう?
実はこれはかなりの難問です。覚りを得て、衆生の心根を見据えた上で「西方」と決められたのですから、情緒的なことも考慮して答えを導かねばならないでしょう。
以下、諸師のお示しを列挙し、味わいを深めてみたいと思います。
天地はじめて開くる時、いまだ日・月・星辰あらず。たとひ天人来下することあれども、ただ項の光をもつて照用す。その時人民多く苦悩を生ず。ここにおいて阿弥陀仏、二菩薩を遣はす。一は宝応声と名づけ、二は宝吉祥と名づく。すなはち伏羲・女窒アれなり。この二菩薩ともにあひ籌議して第七の梵天の上に向かひて、その七宝を取りてこの界に来至して、日・月・星辰二十八宿を造り、もつて天下を照らしてその四時春秋冬夏を定む。時に二菩薩ともにあひいひていはく、〈日・月・星辰二十八宿の西に行く所以は、一切の諸天・人民ことごとくともに阿弥陀仏を稽首したてまつれ〉となり。ここをもつて日・月・星辰みなことごとく心を傾けてかしこに向かふ。ゆゑに西に流る。
【聖典意訳】:天地が初めてできた時、まだ日月や星がなかった。たとい天人が下ってくることがあっても、ただ項[うなじ]の光を用いて照らしていた。その頃の人々は多く苦しみ悩んだ。そこで阿弥陀仏が二菩薩をおつかわしになった。その一人は宝応声[ほうおうしょう]といい、他の一人は宝吉祥[ほうきっしょう]という。すなわち支那の伏羲と女禍とがこれである。この二菩薩は共に相談して第七の梵天に行き、その七宝を取って此の世界に持ってきて、日・月・星辰・二十八宿を造って、天下を照らし、春秋冬夏の四季を定めた。ときに二菩薩が共にいうには、「日・月・星辰・二十八宿がみな西に行くわけは、すべての諸天人民にことごとく共に阿弥陀仏を礼拝させるためである」と、こういうわけであるから、日・月・星辰はみな悉く心を傾けて西に向かう。ゆゑに西へ運行するのである。
太陽も月も星々も全ては西に向かって動きます。これは一切万物が往く処≠ニ同じ西方に畢竟依[ひっきょうえ]≠ェあることを示しています。ですから西方にある浄土こそ最終的・究極的に全ての生命の依りどころとなる場である、と明かされるのでしょう。
また先師は――東方は若い血をたぎらせ、団結して現実を浄土に変革する≠ニいう革命的行動を誘発することを覚りとするのに対し、西方はあくまで組織を離れ一人になり現実の喧騒から一歩身を引いてみた時、「わが魂の底深く」(●註:魂と霊魂は違う)より呼び覚まされることを真の覚りとした、という違いも明かされます。
阿弥陀の浄土が西にあるということは、アシュクの浄土が東にあるということを念頭に入れておかねばならぬ。(中略)アシュクの浄土が東にあり、アミダの浄土が西にあるということは間違いない。東と西の違いは、今日では理性の発達でたんに方向の違いと理解されているようですが、二千年昔の人々には感覚の相違で、阿弥陀の浄土は西にあると聞けば、生活感情を以て文句なしに頷けたのでしょう。
朝露を踏んで野良に行く。東の空が明け初める頃、真紅に燃えてあかあかと耀く曉の光の下では、八十の老翁も手を振り足を伸ばして、力の限り羽ばたいてみたい若い血潮が全身に漲[みなぎ]るでしょう。「見よ、東海の空明けて、旭日高く輝けば、天地の精気溌剌と希望は躍る」、それが東の感覚です。地上に浄土を打ち建てんとするアシュクの妙喜国が東にあるとは、この感覚で説かれたのでしょう。
一日の疲れを覚えて鍬を杖に立ちながら、あのやわらかな夕日の光を仰ぐ時、誰がわが来し方、世界の行く末を思わぬ者があるでしょうか。(中略)眼の前のことのみに心奪われている私たちを駆って、この孤独の中に立たしめる、それが西の感覚です。
西の光によって呼び醒まされた魂、これこそ無始よりこの方見失っていた本来の自己であり真実の我です。この今新たに目覚めた心に聞こえて来る「おいおい」という声なき声、今初めて聞く声ではあるが、久遠の昔より「わが魂の底深く名告り続け」呼び続けていた声です。全人類、生きとし生けるものみなの魂の底に響き渡っているこの声、私たちが今まであくせくと追い求めていたものを全てを否定して、「世間虚仮」、「よろずのこと皆もって空ごとたわごとまことあることなし」と、投げ出さしめて止まぬ光、この声なく声、光なき光、微かなれど力強い、その真実であることを疑うことのできぬ至高の権威。これこそ「わが魂の底深く名告り続ける久遠の」如来の声であり、魂の故郷、浄土の光です。
(中略)
人間の煩悩によごされていない自然も美しいが、人間の真心の染み着いた行為的世界はもっと美しい。美しいものは景色や花だけではない、見ている自分の眼も顔も、昔の猿のままではなく、これらは皆先祖が永い歴史を通して造り上げた、青い色には青い光、赤い色には赤い光の蓮華蔵荘厳世界と称えられた行為的世界の「本願成就の報土」です。「人声やこの道帰る秋の暮」。
朝からずっと汗を流して働いて、日が暮れかけてふと西方を見ると、厳かな夕日が私を照らしています。そこには組織を離れて一人になった私の本音や人々の心象風景が映し出されているのではないでしょうか。十方世界の中心であり、あらゆる生命が往き願う「安楽」の場をあえて「西方」と定められた仏意は、心ある者ならば各自の胸に響いているのではないでしょうか。
<仏のたまはく、「成仏よりこのかた、おほよそ十劫を歴たまへり>
(釈尊が仰せになる。「さとりを開かれてから、およそ十劫の時が経っている)
「ここ」が空間的な場所でないのと同様、「十劫」も物理的時間を指すのではありません。本願成就の功徳が私に至り届いた「今・今・今」を自覚し、仏徳讃嘆で「念仏申さん」心が起きたその時、久遠の歴史が具体的に足元から働いてくるのです。「今」の内容の中に「劫」(久遠の歴史)が全て宿っていることが自覚できた。「十」は満数ですから、この自覚の円満成就を「十劫」と称えるのでしょう。
浄土の基本的な内容
註釈版
その仏国土は、自然の七宝、金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・シャコH碼碯、合成して地とせり。恢廓曠蕩にして限極すべからず。ことごとくあひ雑廁し、うたたあひ入間せり。光赫焜耀にして微妙奇麗なり。清浄に荘厳して十方一切の世界に超踰せり。衆宝のなかの精なり。その宝、なほ第六天の宝のごとし。またその国土には、須弥山および金剛鉄囲、一切の諸山なし。また大海・小海・谿渠・井谷なし。仏神力のゆゑに、見んと欲へばすなはち現ず。また地獄・餓鬼・畜生、諸難の趣なし。また四時の春・秋・冬・夏なし。寒からず、熱からず。つねに和らかにして調適なり」と。
現代語版
その仏の国土は金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・シャコ・瑪瑙などの七つの宝でできており、実にひろびろとして限りがない。そしてそれらの宝は、互いに入りまじってまばゆく光り輝き、たいへん美しい。そのうるわしく清らかなようすは、すべての世界に超えすぐれている。さまざまな宝の中でもっともすぐれたものであり、ちょうど他化自在天の宝のようである。またその国には須弥山や鉄囲山などの山はなく、また大小の海や谷や窪地などもない。しかしそれらを見たいと思えば、仏の不思議な力によってただちに現れる。また、地獄や餓鬼や畜生などのさまざまな苦しみの世界もなく、春夏秋冬の四季の別もない。いつも寒からず暑からず、調和のとれた快い世界である」
<その仏国土は、自然の七宝、金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・シャコH碼碯、合成して地とせり>
(その仏の国土は金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・シャコ・瑪瑙などの七つの宝でできており)
浄土の七宝は具体的に何かといいますと、七財(七聖財[シチショウザイ]・七法)や七菩提分[シチボダイブン](七覚分[シチカクブン]・七覚支[シチカクシ])などの果報だと言われています。「自然」とは「必然」ということであり、宝を持ち込んで飾ろうとする人がいるわけではないのに宝が生まれる。ものや物事を生かす智慧によって宝と成る。浄土の菩提心が個々の人間に至って信心となり、打ち出の小槌のように宝が生まれることをいいます。
七財は「信・戒・慚・愧・聞・捨・慧」を言います。
「信」とは、尊信で、自分を信じ、相手を信じ、この世を信ずること。私のようなものでも、まことの法に遇えば、心の眼が開け、相手の尊さが解り、この世に浄土の華が開くに違いないことを信ずること。
「戒」とは、信の花がわが身に咲くように、身を大切にし、行いを慎しむこと。
「慚[ザン]」とは、常に「わが魂の底深く名告り続ける久遠の願い」である四十八願に呼びさまされて、人間としてまた社会人として、絶えずわが身の生き方を反省させられること。
「愧[キ]」は、絶えず自分の本心の声に耳を傾け、自分の本心を偽らぬように生きること。
「聞」は、先覚者から正しい道を聞き、またどんな人からも、どんな出来事からも、常に自分の生きる道を聞き、正しい人生観を身につけようとすること。
「捨」は「施」ともいわれて、自分の全てを挙げて、全人類の幸せ、全世界の平和を念じて、人間の成就と社会の荘厳と歴史創造に生き、自分のすることには私心を挟まず、したことには誇らず、また恩着せがましい心を離れること。
「慧[エ]」は空っぽの智慧といわれていますが、ただ我執がなく、色眼鏡がとれて、あるがままの相が見えるという鏡のような慧ではなく、自分が置かれている歴史的現実において、歴史的に形成されて来た社会的宿業と浄土が見え、魂の底深くに名告り続けて止まぬ久遠の願いに動かされて、主体的に自分の全身に宿された三十五億年の歴史の華を咲かせ、新しい歴史を創造する智を産み出すまごころの慧です。
七財はまた「信・戒・施・聞・慧・慙愧・不放逸」、「信・戒・施・聞・慧・慚・愧、かくのごとき七法を聖財と名づく」との説明もあります。
さらに「七宝」を「七菩提分(七覚支)」と解すれば、これは以下の覚りを得るために役立つ七つの事柄≠ナあり、覚りに導く七項目・行法≠宝とします。
(1)択法覚支[チャクホウカクシ]:
教えの中から真実なるものを選びとり、偽りのものを捨てる。
(2)精進覚支[ショウジンカクシ]:
真の正法を択び取ったらそれに専念し精進する。一心に努力する。
(3)喜覚支[キカクシ]:
真実の教えを実行する喜びに住する。
(4)軽安覚支[キョウアンカクシ]:
身心を常にかろやかで快適な状態に保つ。
(5)捨覚支[シャカクシ]:
対象へのとらわれを捨てる。なにごとにも執着しない。
(6)定覚支[ジョウカクシ]:
心を集中して乱さない。
(7)念覚支[ネンカクシ]:
常に禅定と智慧を念じ、おもいを平らかに偏見をもたない。
しかし因位における願文{妙香合成の願}には「みな無量の雑宝」によって浄土の依報荘厳が成立することが願われています。これを鑑みれば、七宝の七はあくまで満数を超える無量の意≠宿した数字として象徴的に用いられると領解できるでしょう。
<恢廓曠蕩にして限極すべからず>
(実にひろびろとして限りがない)
これは、迷いの娑婆世界では自然環境や社会環境や国境等の問題によって、人的・文化的交流が偏狭なものに閉じ、心の隔たりが生み出されているので、浄土の開かれた環境の徳によって、浄土往生を願う衆生の心を大きく開くことをいいます。狭小な環境や境涯を打ち破ってゆこうとする力が浄土から振り向けられるのです。
<ことごとくあひ雑廁し、うたたあひ入間せり。光赫焜耀にして微妙奇麗なり>
(そしてそれらの宝は、互いに入りまじってまばゆく光り輝き、たいへん美しい)
宝はその宝のみを美しく輝かすばかりではありません。互いにはえ合い映しあってより輝きを増すのです。人生は、たった一つの宝が多方面に影響を現すことがよくあります。これを一人の人間に譬えれば、一つの物事に通じることができれば多方面に通じるようになることを言うのでしょう。語学の世界に堪能になればその成果は語学に留まらず、歴史の理解や科学の理解にも役立つでしょう。芸術を学べば哲学の理解にも反映されますし、政治が解れば宗教の理解も深まるものです。こうした才能が生かされるのも真心の智慧によるもので、これが浄土の功徳の一つなのです。
またこれを組織で譬えれば、一人の人の成果が他の人にも力となり、一つの部署の成功が他の部署にも好影響を与えるということもあるでしょう。互いの智慧や才能がコラボレーションし、協和した際の効果は絶大です。しかも協和するのは才能ばかりではありません。互いの欠点も補完され長所同様に生かされ、個性が引き出され、互いに飾られ映えあうのです。そのためには、笑いたい時には思い切り笑うことができ、泣きたい時には思い切り泣ける、浄土はそうした環境でもあります。さらには、和して同ぜずの自主性が保たれつつ、互いに尊敬しあい、影響を与え合うことが適う環境でもありましょう。このように浄土の功徳は清らに映えつつ重なりあって美妙なはたらきをみせるのです。
<清浄に荘厳して十方一切の世界に超踰せり>
(そのうるわしく清らかなようすは、すべての世界に超えすぐれている)
浄土のはたらきを総合的に言えば清浄と荘厳の二つで、清浄とは煩悩に汚されず心をよくコントロールすること、荘厳とは人生を飾って自分と社会環境を創造していくことで、この内容が欲界・色界・無色界の三界や諸仏の世界に超え優れていることを言います。ただし清浄といっても、「維摩経」に「高原の陸地には蓮を生ぜず。卑湿の淤泥に蓮華を生ず」とある通り、煩悩の泥田に根を張ってそれを養分としながら、泥田に染まらぬ美しい人生の華を咲かせることを勧めるのです。「出三蔵記集」(鳩摩羅什伝)には「たとえば臭泥[しゅうでい]の中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華を採りて、臭泥を取ることなかれ」とある通りです。
<衆宝のなかの精なり。その宝、なほ第六天の宝のごとし>
(さまざまな宝の中でもっともすぐれたものであり、ちょうど他化自在天の宝のようである)
第六天とは他化自在天[タケジザイテン]のことであり、欲界の最高処で、他の天界の神々がつくり出した欲境(欲望の対象)を自在に受けることができる境涯です。しかし第六天は魔王の住処でもあるため魔天ともいいます。浄土の宝を譬えるのに魔天である第六天を持ち出したのは、私たち衆生は欲界にどっぷりと浸かっているため第六天を超える宝は宝として認識することができない、という理由からでしょう。
その証拠に同経には、「第六天上の万種の楽音、無量寿国のもろもろの七宝樹の一種の音声にしかざること、千億倍なり」(「仏説無量寿経」15巻上正宗分弥陀果徳道樹楽音荘厳)、「たとひ第六天王を無量寿仏国の菩薩・声聞に比ぶるに、光顔・容色あひおよばざること百千万億不可計倍なり」(「仏説無量寿経」19巻上正宗分弥陀果徳講堂宝池荘厳)ともあり、浄土の宝は第六天の宝とは比べ物にならないほど優れていることが真意なのです。
具体的に浄土と第六天と違いを述べてみますと、世俗の世間では、先入観で固まった頑迷な優劣がはびこり、この優劣に従って上下が固定化・実体化され、評価が下されることになります。しかも評価する側の「ものさし」に合った事柄が評価され、そうでないものは排除されるのが社会の実態でしょう。
比べて浄土の衆生は全身が喜びに輝く「不断の智的快活」として真金色の姿であり、また「青色青光、黄色黄光」の個性が輝き照らしあう世界です。差異が上下の評価で固定化されず、互いの特徴が生かされ、映えあって響く社会になってほしい、という願いが成就した環境が浄土です。こうした浄土の伝統が土徳(環境の徳)となって、優劣に悩む人々の問題を高度に解決し、人々を社会的・歴史的視野に立った覚りに導くのでしょう。
何度も言いますが、浄土と娑婆に物や場所の違いがある訳ではないのです。ただ、目の前に存在する人や物や物事を見る眼が違うのです。物の深みを見る眼がなければ、どんな尊い宝も色や特徴が現われません。深い音を聞く耳がなければ、どんな尊い言葉も心に響きません。欲望に駆られた眼には、浄土の妙なる色は見ることが難しいのです。自分の都合や好き嫌いを募らせていては、本当の満足は得られないのです。ただ一つ、浄土回向の菩提心のみが、浄土の深い妙色を見さしめ、本当の満足を得る果報を生むのです
<またその国土には、須弥山および金剛鉄囲、一切の諸山なし。また大海・小海・谿渠・井谷なし。仏神力のゆゑに、見んと欲へばすなはち現ず>
(またその国には須弥山や鉄囲山などの山はなく、また大小の海や谷や窪地などもない。しかしそれらを見たいと思えば、仏の不思議な力によってただちに現れる)
このことについては二段階に見る必要があるでしょう。
まずは、後にでてきます「そのもろもろの衆生、功徳善力をもつて行業の地に住す」という内容に素直に添えば、阿弥陀仏の浄土は、山や海や谷やくぼ地などのような地図上の場所や自然環境を指すのではなく、あくまで清浄・荘厳なる「行為的世界」であり、仏性の歴史が報いた文化文明世界を述べている、と読み取ることができます。しかも社会をよく観察すれば、そうした「行為的世界」「歴史的世界」の中にも地形的環境の影響を読み取ることができる。山で暮らしてきた人々の歴史と海での歴史は違います。それを<見んと欲へばすなはち現ず>と説いたのでしょう。
しかし同時に、山や谷を地形としてのみとらえるのではなく、人々の境涯や人生に影響を与え続けるものとして理解することもできます。すると、山あり谷ありの人生に振り回されたり、お山の大将的な生き方になりがちなところを批判し、矮小な世界観を翻していくのが浄土のはたらきの一つである≠ニ理解することも可能でしょう。
<また地獄・餓鬼・畜生、諸難の趣なし>
(また、地獄や餓鬼や畜生などのさまざまな苦しみの世界もなく)
これは本願の中でも総願として第一に「たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」と{無三悪趣の願}が述べられているように、浄土のはたらきの肝心要がこの三悪道の解決にあります。ちなみに地獄とは、様々な社会苦や社会悪であり、餓鬼は、我欲に執われ特定の思想や領解に固執した頑迷者、畜生は、奴隷根性が抜けず問題意識の無い愚か者を指し、またそうした問題点がはびこる環境を言います。
<また四時の春・秋・冬・夏なし。寒からず、熱からず。つねに和らかにして調適なり>
(春夏秋冬の四季の別もない。いつも寒からず暑からず、調和のとれた快い世界である)
このことについても先の須弥山同様、二段階に見る必要があるでしょう。
まずは、四季や風といっても、暑さ寒さや地面を吹きぬける風のことを言っているのではなく、人生の波風を譬えているのであり、それに対して「和らかにして調適なり」は、浄土の功徳善力を説いているのです。
さらには、自分がどんな境地に達していたとしても、人生には順風満帆な時もあれば、逆風や暴風が吹き荒れる時もあります。最悪は「地獄の業風」までも吹き荒れるのが人生でしょう。しかし、こうした荒れた風を受けたとしても、受ける側がそれをどう受け止めるか、ということで全く趣が異なってしまいます。浄土の功徳が回向されれば、地獄の猛火さえ「風と変じて涼し」で、恐ろしい人生顛倒の熱風・寒風・暴風さえ涼風に転じられていきます。
なお、<そのときに阿難、仏にまうしてまうさく、「世尊、もしかの国土に須弥山なくは、その四天王およびJ利天、なにによりてか住する>以下は、順を変えて↑{ここを去る≠ニかこれより≠ニ言われるここ≠ヘ一体どこか}で詳説させていただきましたのでここでは略します。 
無量寿仏の光明と寿命
仏、阿難に告げたまわく、無量寿仏の威神の光明は最も尊く第一にて、諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり。
或いは、ある仏の光は百仏世界を、或いは千仏世界を照らし、要を取りてこれを言えば、乃(すなわ)ち東方の恒河沙の仏刹(ぶっせつ、仏国土)を照らす。南西北方四維上下もまたかくの如し。
或いは、ある仏の光は七尺を照らし、或いは一由旬(ゆじゅん、凡そ十キロメートル)、二三四五由旬を照らすなり。かくの如く転(うた)た倍して乃ち一仏刹を照らすに至る。
さて、釈尊が阿難に仰せになる。
「無量寿仏の神々しい光明はもっとも尊いものであって、他の仏がたの光明のとうてい及ぶところではない。
無量寿仏の光明は、百の世界を照らし、千の世界を照らし、ガンジス河の砂の数ほどもある東の国々をすべて照らし尽し、南・西・北・東北・東南・西南・西北・上・下のそれぞれにある国々をもすべて照らし尽すのである。
その光明は七尺を照らし、あるいは二・三・四・五由旬を照らし、しだいにその範囲を広げて、ついには一つの仏の世界をすべて照らし尽す。 
限りない智慧と徳
阿弥陀仏(無量寿仏)とはどんな存在かと問われますと、<一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたちなり>(「唯信鈔文意」2)、<すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり>(「御文章」二帖9)、<一時に円かに三身を証す。万徳すべて四字に彰る>(「弥陀経義」)と様々な領解が示され、近年においても「創造的世界の創造的根本主体」等と教えて頂いておりますが、大経に述べられている光寿無量を明らかにすることによってさらに詳細を讃ずることができるでしょう。そして讃ずることにより讃ぜられた如来の徳が能所不二となって我が身に回向され満ちることになるのです。この「光寿無量」の中で、まずは「光明無量」を明らかにすれば、無量寿仏の「はたらき」を知ることができます。今回はこの「光明無量・限りないはたらき」の総合的な面を見ることにしましょう。
光明無量は、「たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ」という光明無量の願が報い成就した果徳で、総合的には「威神光明」として表されています。
註釈版
仏、阿難に告げたまはく、「無量寿仏の威神光明は、最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり。
現代語版
さて、釈尊が阿難に仰せになる。
「無量寿仏の神々しい光明はもっとも尊いものであって、他の仏がたの光明のとうてい及ぶところではない。
<無量寿仏の威神光明>
経典に「光明」や「光」と書かれてあるのは、仏・菩薩の「はたらき」(用き・働き)を意味します。仏や仏性の「はたらき」を「光明」で譬[たと]えるのです。仏の光明には大きく分けて二種あります。
一つは「智慧」のはたらき、「智慧の光明」(自受用・心光)です。これは一般的な形としては、あみだくじの名の由来ともなった放射状の線で表現されています。一言で言えば、智慧とは覚ること。見ること、解ることです。智慧がなければ自分自身も相手も社会や歴史も解りません。まずは智慧のはたらきをもって人々の聞法心と求道心を見出し、穢土と浄土の歴史と、一切衆生が成道する道ゆきを覚るのです。この智慧は、準備としては永劫の時間が必要ですが、開く時は一瞬です。しかし智慧だけで仏と成ることはできません。
もう一つは「徳」のはたらき、「身放の光明」(他受用・色光)です。これは仏身をつつむ舟形後光などで表現されています。先の智慧のはたらきを実際に発揮し、行動に移し、実績を積むことで徳が生まれます。「威神光明」の「威神」はこの仏の徳をあらわします。智慧を得ても徳が働かなければ人々から信頼されませんので、せっかくの智慧を生かすことができないのです。
このことは、たとえば{諸仏称名の願}を見れば解るでしょう。称名念仏とは衆生が仏の名を褒め称えることなのですが、仏は自らの徳を名に込めますので、仏名を讃嘆することは仏の徳を褒めることになるのです。そして仏徳を褒め称えることがかなえば、褒めた仏の内容が私にふり向けられ、内容の無い私の内容と成ってはたらくのです。念仏する心を場所として浄土がはたらくのです。このように仏と衆生をつなぐものは徳なので、仏は智慧をもち真心を尽くして永劫に修行し、無量の徳を積むのです。
以上のように光明無量・威神光明の果報を得れば、仏の智慧と徳が遍[あまね]く十方に至り尽くすことになるのですが、これが次に述べられている内容です。
<最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり>
(無量寿仏の威神光明/徳と智慧のはたらき)が最尊第一であるということはどいうことでしょう。阿弥陀仏のはたらきや尊さは諸仏の中で第一位であり、第二位は○○仏≠ニいう順位や等級づけの意味で言うのではありません。比べるものがない、比べるものではない、という意味で最尊第一なのです。
比べるのは相対の世界であり、比べることにより限界も生まれます。これが他方の世界や諸仏の世界です。実際、現在まであらゆる国や組織や人々は覇権を競い、敵対を繰り返し、互いに相手をなじり、押さえつけ屈服させようと争ってきました。これは宗教でさえ例外ではありません。信者獲得や宗教論争に現をぬかしてきた宗教者も多いのではないでしょうか。どの仏が最尊第一なのか≠ニ争うこと自体虚しい所業でしょう。諸仏と対比しない仏、対比する必要がない仏、という意味で無量寿仏は最尊第一なのです。
さらに敵対は、他人や他組織に対してばかりではありません。自分に対して敵対することもあるのです。理想を求めるがゆえに、欠点を恐れ今の自分が受け入れられない。そのため生きる場を失い、悩み、時として生きることさえ拒絶してきました。また宿業や煩悩を憎んで消し去ろうと頑張り、命がけの修行に励むこともあるのですが、それは土台無理な話。修行に励む力そのものが宿業と密接に関わっているのですから、いずれ袋小路に入ってしまいます。
しかし阿弥陀仏のはたらきは絶対であります。相対世界のように他と比べる必要がないので無対・無相なのです。この功徳が回施されるのですから、阿弥陀仏を念ずる行者は他に対して敵対しないし、自らにも敵対する必要がない。しかも諸仏の願いを成就することができる。こうした内容を、「諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり」、諸仏の光明は阿弥陀仏のはたらきに追いつかない、と褒め称えるのです。阿弥陀仏は諸仏に超え、世に超えているというのはこうした理由からです。
親鸞聖人は、「摂取の心光は常に照護し給う」ということは、私ががけから落ちようと思うたのを助けるのでない。私が腹を立てて欲を起こしてむらむらとなると「おいおい」、月も照らさぬ日も照らさぬ心の暗がりを照らし、腹が立たないようにそれを守るのです。だから見なさいね。ちゃんと親鸞聖人はそうなっておるではありませんか。何かというと、いい悪い、損だ得だというそういう煩悩も「弥陀智願の広海に、凡夫善悪の心水に帰入しぬればすなはちに大悲心とぞ転ずなる」煩悩が慈悲心に転ずるのだから。腹が立たない。腹を立てることがばかくさいのでしょう。何でか。相手が加害者と思うから腹が立つ。相手が被害者になってみれば、かわいそうなもんでしょう。慈悲に変わるんです。「大悲心とぞ転ずる」私が慈悲心に変わるのです。相手の見方が違ってくるのだから。解りましょう。こっちは腹が立っておる。「おいおい、もっと大きな眼をしろ。もっと大きな眼をして見よ。大きな眼をしてみれば、相手が私に対して加害者に、相手が知らずにしておるのだから相手も気の毒な被害者。煩悩に踊らされておるのだから」こういうことをおっしゃいます。これは皆、心光ですよ。
十方恒沙の仏刹を照らす超越のはたらき
前節で、無量寿仏の智慧と徳のはたらきは最尊第一であり、諸仏のはたらきの及ぶところではないことについて詳説しましたが、以下はその諸仏の及ばない姿が説かれます。
註釈版
あるいは仏光ありて、百仏世界あるいは千仏世界を照らす。要を取りてこれをいはば、すなはち東方恒沙の仏刹を照らす。南西北方・四維・上下もまたまたかくのごとし。
現代語版
無量寿仏の光明は、百の世界を照らし、千の世界を照らし、ガンジス河の砂の数ほどもある東の国々をすべて照らし尽し、南・西・北・東北・東南・西南・西北・上・下のそれぞれにある国々をもすべて照らし尽すのである。
「あるいは仏光ありて」の「仏光」は何を指すのでしょう。これには二説あり、一つは「諸仏の劣った光明」、一つは「無量寿仏の光明」です。
「諸仏の劣った光明」とする説の論拠は、「百仏世界あるいは千仏世界を照らす」・「東方恒沙の仏刹を照らす」、後には「七尺を照らし」等と限定があるので無量光仏の名徳と一致しない、というのです。この説は過去長く支持されてきたのですが、経典の流れや内容からいけば不自然で、この現代語訳のように「無量寿仏の光明」と釈す方が勝義でしょう。
したがって、「無量寿仏の光明」が、まず「百仏世界あるいは千仏世界を照らす」。無量寿仏のはたらきは無限であっても、はたらく場である現実は有限です。この有限の環境に閉じている私の因循姑息[いんじゅんこそく]な価値観を破ってゆくのが無量寿仏の超越のはたらきです。しかも一旦狭い価値観を破ったら、破いて得た広い価値観に落ち着くのではなく、さらにその広い価値観を破いて次々と世界を超越してゆく。これが<他の仏がたの光明のとうてい及ぶところではない>という無量寿仏の超越のはたらきの特徴です。
しかし多くの宗教においては、一旦自己の世界が破られると、破られて得た境地に執着してしまい、教えの奴隷状態と化す人が絶えません。これを法執と呼ぶのですが、法執は我執以上に頑迷で危険な執着となります。
無量寿仏の超越の光明は、有限の環境において有限のまま無限のはらたきを展開する光明なのです。決して無限の中に有限を埋没させてしまうはたらきではありません。もし無限の中に私が埋没してしまえば、私は生きる屍と化してしまうのですが、信者を精神的奴隷状態に置くため、あえて多くの宗教教団でこの思想を説く現状は実に嘆かわしい限りであります。
無量寿仏は、百仏世界という限定された場に無限のはたらきを展開する。すると百仏世界が破れて千仏世界に無限のはたらきを展開する。さらに拡大すれば数百千億・百万もの仏国土を照らして無限に展開する。要約して言えば、東方恒沙の仏刹はじめ四方・八方・十方世界それぞれにおいて無限を展開する、これが無量寿仏の「超越のはたらき」の内容です。
無量寿仏の超越のはたらきに遭遇すれば、最初に持っていた私の小さい価値観は打ち砕かれ、新たな価値観を得ることができるのですが、如来はそうして得た境地や領解に執着する暇を与えず次々と打ち砕いてゆき、日々新たな超越の浄業を限りなく展開してみせるのです。
ではこの超越の光明は、具体的に私にどのようにはたらくのでしょう。
たとえば、ある集団の中で何か不祥事[ふしょうじ]が起こったとします。もちろん不祥事まではいかなくとも現実にはつねに何か問題が起こってきます。ところが、その集団内の論理や価値観だけでは解決できない問題となっているにも関わらず、過去の因習にこだわって解決しようとしたため全く問題が解決できない、といったことが現実にはよくあるでしょう。
こうした事態に陥った時、大体三つの選択肢が用意されています。
一つ目は、事態がいくら悪化しても過去の古い習慣に執われ、一時しのぎの姑息なやり方を人々に押し付けてゆく≠ニいう選択肢で、これでは問題が全く解決されず、結局人間の側が次々に犠牲となってしまいます。そしてこうした場合は特に弱者にしわ寄せが押し付けられてしまうのですが、古今東西、人類はほぼこの選択肢を選んできてしまった、と言えるでしょう。このため今現在のような五濁悪世が形成されてしまったのです。
二つ目は、自分たちの価値観では問題解決できないのだから、全てを何らかの超越的存在に委ねてゆく、そして自分たちはその超越的存在に従ってゆく≠ニいう方法です。自分たちとは別次元の無限・絶対的な価値観を信仰してゆくわけで、これは神がかり宗教や啓示宗教などもこの範疇に入るでしょう。こうした宗教の場合、どうしても人間と超越的存在との間に特別な存在が必要となってきます。また、一度与えられた無限・絶対的な価値観はどんなことがあっても崩すことはできませんので、宗教対立が起こった時は双方が悲惨な状態になってしまいます。
三つ目は、自分たちの有限・相対的な価値観を「有限・相対的な価値観である」とそのまま見抜いてゆく&法です。与えられた無限・絶対的な価値観を頑なに信仰するのではなく、今ある論理や価値観は絶対的なものではなく相対的なものだから、解決できない問題が起こった時は新たな道行きを模索して解決しましょう≠ニいう姿勢を取るのです。しかも小手先の方策で解決するのではなく、むしろ自分の生き方や価値観の頑迷な殻を破ること≠フ方が問題の解決そのものより重要となってきます。
「これだ!」と感激してつかんだ価値観は、どんな素晴らしい価値観でも執着があります。仏教ではこれを法執といって誡めているのです。そうではなく、有限・相対的な場所に立ったまま、これをそのまま有限・相対的な場所≠ニ認める、これが「十方恒沙の仏刹を照らす超越のはたらき」なのです。
このような無量寿仏の超越のはたらきに出遇った人々は、問題が起これば起こっただけ因循姑息[いんじゅんこそく]な価値観が破られていきます。こうしたありさまが「百仏世界あるいは千仏世界を照らす」という内容で、こうした姿勢があらゆる世界に波及することを「東方恒沙の仏刹を照らす。南西北方・四維・上下もまたまたかくのごとし」と説いているのでしょう。
拡大して照らす内在のはらたき
註釈版
あるいは仏光ありて七尺を照らし、あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす。かくのごとくうたた倍して、乃至、一仏刹土を照らす。
現代語版
その光明は七尺を照らし、あるいは二・三・四・五由旬を照らし、しだいにその範囲を広げて、ついには一つの仏の世界をすべて照らし尽す。
<あるいは仏光ありて>
再度「仏光ありて」とあります。これはもちろん「無量寿仏の光明(はたらき)」ですが、厳密に言えばこちらの仏光は、無量寿仏と身土不二の関係である浄土(安楽国)のはたらきを主として述べています。つまり「浄土の光明」。そして今度照らすのは、まず「七尺」。やがて「しだいにその範囲を広げて」いくのですが、最後は「一仏刹土を照らす」で終わりです。先の「百仏世界あるいは千仏世界を照らす」や「(十方の)恒沙の仏刹を照らす」という表現からすると随分規模が小さくなってしまいました。
これはどういうことかと言いますと、千仏世界・十方恒沙の仏刹を照らすということが即ち、自らの世界(一国土)の成就の証しということなのです。超越のはたらきを向こう側に見て拝んでいた無量寿仏がいつの間にか私に成り切っておられる、ということを言います。先の「十方恒沙の仏刹を照らす」ということが「超越」ならば、「一仏刹土を照らす」は「内在」ということです。
ここで言う内在とはどういうことかというと、たとえば私が他人の相談にのったり、社会に役立つことをする、国家や世界全体に貢献するとします。しかしそうした奉仕が奉仕だけで終わってしまえば、肝心な自分自身の人生が痩せてしまい、私の願いは本当には成就しません。「誰かのために生きる」、「何かのために生きる」と言えば美しく聞こえますが、肝心の自分が抜けては自分自身が生きる意味は見出せません。私は機械やロボットではないのです。
「人間は一生を通して誰になるのでもない。自分になるのだ」と仲野良俊師も仰られるように、「無量寿仏の光明」は「超越の徳」により諸仏世界を無限に照らすとともに、「内在の徳」により、足元に戻ってさあ自分自身はどう生きるのか=A自分自身の国(世界)をどう輝かせるのか≠ニいう課題に真摯に向き合うよう勧めるのです。どこまで世界が拡大しても、私自身の問題から離れてはいません。
このことは、たとえば「讃仏偈」にも――
たとひ仏ましまして、百千億万の無量の大聖、数恒沙のごとくならんに、一切のこれらの諸仏を供養せんよりは、道を求めて、堅正にして却かざらんにはしかじ。
とある通り、諸仏供養以上に自らの道を求めることの重要性が説かれています。
<七尺を照らし>
七尺は人間の背の高さを現わします。日本の尺度で七尺は高すぎますが単位が違うのでしょう。ちなみに左右に広げた両手先の距離を一尋[ひろ]と言いますが、この「一尋の光」と訳す場合もあります。
では「七尺を照らす光明」とは具体的に何を指すかと言うと、「私」が一個人としてどう生きるか≠ニいう問題を、私に成り切った阿弥陀仏とともに模索し行動してゆくはたらきを言います。
どんな大きな事業を為さんとするときでも、まずは私個人の生き方が問われてくるのです。足元を固めないまま突き進んだため手痛い失敗をする、という事例は枚挙にいとまがありません。まず自分の足元をしっかり固めること。これが念仏が私の身に満ちるということであり、この身に満ちた念仏の功徳によって生活するということです。これが「七尺を照らし」という意味です。
<あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす>
私個人の問題は個人で留まっているわけではありません。人間は社会生活を営んでおりますので、個人の問題が社会環境に波及するのです。たとえば、荒れた心を落ち着かせる≠ニいうことは、最初は自分の身の丈の問題でありますが、やがてこれが家庭という場においての問題となり、やがて社会や国家や世界全体を踏まえた問題に波及してゆくのです。さらに言えば、社会に波及する問題として個人の問題を解決しなければ、個人の問題も本当に解決したことにはなりません。
これを「立場」という視点で言えば――同じ問題が起こっていても一個人としてこの問題をどう見るか、どう解決するか≠ニ考えるのと、親の立場として考える、校長の立場で考える、市長や県知事の立場で考える、首相の立場で考える、というのとは内容が異なることでも解るでしょう。
親の立場に立てば家庭に対して責任がありますから、一個人の問題も家族の同意や協力の上で家庭教育的な解決をめざします。これが立場が大きくなれば教育環境全体の問題として解決をめざす必要が生じますし、またそうでなければ立場が生かされません。広く責任を負っている立場の人間が自分の保身ばかり考えていては、親の立場は我執の汚泥に没し、責任ある立場も穢されてしまいます。
無量寿仏は無量寿仏国の国王で一切衆生の王≠ニしての立場に立っていますから、単に「一仏刹土を照らす」だけでも良さそうですが、この大きな立場からふり向けられるはたらきは、衆生にとっては、小さな立場から順に大きな立場に拡大するので「あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす」と説かれるのでしょう。
無量寿仏の内在のはたらきについて言えば、念仏が私の身に満ちる。身に満ちた念仏の功徳によって生活する。すると当然、念仏によって自分の身の丈が照らされてきます。やがてそれが家庭環境を照らし、「親としてこんな態度で良いのか?」等と知らしめられる。そして次第に拡大して、「責任者としてこんな態度で良いのか?」「念仏者としてこんな性根の無い生き方で良いのか?」と背後から声がかかるようになります。この声こそ、我が身に満ちた念仏の声です。信心は個人の問題としてとらえられがちですがそれは第一段階で、やがて社会性をおびた問題として自らの生き方が問われてきます。これが「あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす」という内容でしょう。家庭や社会生活の中で念仏の功徳が発揮されなければ、その念仏はまだ利己の限界に閉じた念仏に過ぎません。念仏は実際の歴史的環境の中で練り上げられた功徳ですから、当然、私が当面する環境においてこそ無限にはたらきを展開しなければ嘘でしょう。こうしたはたらきにより自力の殻が破かれてゆくのです。
「由旬」とは梵語「ヨージャナ」の音写で、一由旬は「帝王一日の行軍の距離」、または「牛車の一日の旅程」とされています。実際の距離はというと、約11.2km、約14.4km、約21km、約28kmなど諸説あります。いずれにしろ、自分の生き方全体が念仏になってゆくということが、そのまま家庭や地域や国や世界全体を照らすことになる。逆に言えば、家庭や地域を照らさぬような念仏は、真に回向された念仏とは言えないのです。自分勝手に解釈し早合点した自力の念仏にはこうした広がりはありません。
では具体的にどのように照らすのかと言いますと、私の身に満ちた念仏は私の身の丈にありながら私の身の丈を破り家庭に及びます。さらに家庭に満ちた念仏は家庭内に留まらず地域や国家に及びます。そして地域や国家に満ちた念仏はその殻を破り世界全体に波及します。そして世界全体に念仏が満ちれば、心の壁や民族や境遇や思想信条の壁を破ってゆくのです。無量寿仏の内在のはたらきは、無我となってそれぞれの殻を破る。しかも同時に、私は私であり、家庭人であり、地域や国に育まれた人間であることを証明してゆくのです。これが「あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす」の内容でしょう。それぞれの立場を超えながらそれぞれの立場を照らしてゆく、これが無量寿仏の内在のはたらきです。
しかし諸仏のはたらきはそうではありません。それぞれの立場に閉じて広がりが持てなかったり、逆に拡大するあまり各自の場が崩壊してしまったりします。たとえば宗教活動に熱心なあまり家庭が崩壊したり、自らの国や民族を滅亡させてしまったり、世界全体の問題に取り組むあまり身近な問題に無関心になったりします。大事の中の小事無し≠ニばかり捨てられた地域や人間は数多いますが、粗雑で傲慢な仕打ちは深くして拭いがたい恨みを生むものです。
無量寿仏の光明が「七尺を照らし」から段々に広がるのは、こうした一々の課題を無視しない≠ニいう意味を含んでいるのでしょう。
すると、「あの人は、言ってることは立派だが、言ってる本人はどうなのか。言ってることが身についていないではないか」と批判される私の有様が、「七尺を照らす光明」によって私の身と一致してくる。「あの人は仕事や社会活動では活躍しているようだが、家庭は崩壊しているではないか。周辺住民とのトラブルも絶えないではないか」と批判されていた人の有様が、「あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす光明」によって変革され、地に足の着いた活動が展開されていきます。どんな大きな活躍も、大きさに関わらず、それは自分自身の内容の展開に過ぎません。そうであるならば逆に、自身の内容が希薄なままどんなに事業を拡大しても元の空虚な内容が充足するわけではない、ということも言えるでしょう。実際そうした空虚で巨大な活動が世界を覆いつつある≠ニいうことが現代社会の諸問題の根にあるのではないでしょうか。
<かくのごとくうたた倍して、乃至、一仏刹土を照らす>
「かくのごとくうたた倍して」は、先の七尺から段階を経て広がる無量寿仏のはたらきですが、「乃至、一仏刹土を照らす」が問題となります。
乃至[ないし]は、上下の限界を示して中間を略す語≠ナすから、七尺から始まって五由旬〜「乃至」〜一仏刹土、を照らすということです。七尺から段階を経て広がるはたらき、これは解りましたが、一仏刹土が限界であるというのはどういう意味でしょう。
これは、無量寿仏のはたらきによってどこまでも世界が拡大していったとしても、みな私に内在する世界が展開したものであることを言うのです。無量寿仏は私に成りきって、成り切った私を通して功徳が拡大してゆくのです。ですからこれは一個人がしたのではない。しかし、一個人の念仏を通じてのみ無量寿仏ははたらきを示せるのです。
ちなみに、「超越と内在」については、多くの哲学・思想によっても論じられていますが、一々との比較は煩雑になりますのでここでは省略したいと思います。 
この故に無量寿仏は、無量光仏、無辺光仏、無礙光仏、無対光仏、炎王光仏、清浄光仏、歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏、難思光仏、無称光仏、超日月光仏と号す。
このため無量寿仏[ムリョウジュブツ]を、無量光仏[ムリョウコウブツ]・無辺光仏[ムヘンコウブツ]・無碍光仏[ムゲコウブツ]・無対光仏[ムタイコウブツ]・焔王光仏[エンノウコウブツ]・清浄光仏[ショウジョウコウブツ]・歓喜光仏[カンギコウブツ]・智慧光仏[チエコウブツ]・不断光仏[フダンコウブツ]・難思光仏[ナンジコウブツ]・無称光仏[ムショウコウブツ]・超日月光仏[チョウニチガッコウブツ]と名づけるのである。 
十二光の構造
前回は「阿弥陀仏の光明無量の徳」を「十方恒沙の仏刹を照らす超越のはたらき」と「拡大して照らす内在のはらたき」に分けて内容を明らかにしましたが、ここでは同じく「阿弥陀仏の光明無量の徳」を、十二の特徴に分けてさらに内容を明らかにします。光明は「はたらき」ですから、「光明無量」を説くこの第十一節は、「阿弥陀仏の限りないはたらき」を明らかにする箇所です。その中でまず、光明を十二種の名に分けた理由から尋ね、次に一々について諸師の領解を味わってみたいと思います。
<このゆゑに無量寿仏をば、無量光仏・無辺光仏・……>
まずは「無量寿仏」、これが漢訳されたアミダブツの本名です。なぜなら阿弥陀仏の主体を表すには「寿」をもってしなければ適わない、寿命は主体を現わし、光明はその働きを現わす≠ゥらです。ちなみに康僧鎧訳のこの「仏説無量寿経」には「阿弥陀仏」の名は一切登場しません。これは完全な漢訳を目指された康僧鎧の深意と完成度の高みからくる特徴でしょう。
次に十二光全体の構造ですが、まず「はたらき」である光明を仏名で表現してある理由は、「諸仏はみな徳を名に施す」(大経義疏)ためであり、衆生にはとっては「名を称するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし」(同)と利益をもたらし、それが「よく善を生じ悪を滅すること決定して疑なし」(同)と真実信心に成りきることができるからです。逆に、阿弥陀仏のはたらきは限りがない≠ニいうことだけを見て限りがないのだから有限の私には理解不可能だ≠ニ断念するのでは、徳光を名で表現してある経の精神に添うことはできません。
弥陀成仏の光徳1,無量光「個性自覚」
相別/(弥陀の躰相)/2,無辺光「身意柔軟」
性/3,無碍光「生活轉成」(生活転成)
躰(体)/4,無対光「生活浄化」
観音力/5,焔王光「智見開覚」
勢至/6,清浄光「業性浄化」―至心因作/7,歓喜光「所与満足」―信楽/8,智慧光「存在意義」―欲生/9,不断光「聞法不退」
縁/10,難思光「浄土往生」
果/11,無称光「涅槃証得」(修徳成仏)報/12,超日月光「光徳無尽」
本末究竟等
惣(総)
十二光の義相を分別すれば、十二光惣じて弥陀成仏の光徳を顕はす。その中に二あり、本末究竟等は惣にして、超日月光仏を顕はす。他は別にして、相性躰力作、以て弥陀の躰相を示す。無量光は相徳、無辺光は性徳、無碍光は正しく弥陀の躰徳を顕はす。弥陀の力用に観音勢至の二徳あるが故に、無対光炎王光を放ち、弥陀の作徳は衆生往生の因果を成ずる外なければ、之を開きて因縁果報となす。而して衆生往生の因として、至心信楽欲生の三心を誓ふが故に、之に対応して清浄歓喜智慧の三光を顕はす。不断光を縁として、難思光を以て浄土往生の果を得しめ、無称光を以て成仏の報を証せしめらるるのである。
島田幸昭師の示された十二光全体の構造図には無理がなく完全であり、何より四十八願の生起本末の因縁果報の流れに適っています。この中の、「相・性・躰(体)・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等」は「十如是」といって諸法実相の意義を現わすもので、天台教義に組織されるものです。
「相」は形相(外的相状)
「性」は特性(内的本体)
「体」は本体(相や性を属性とする主体的体質)
「力」は能力(体が具えている潜在的能力)
「作」は作用(力が顕現して動作となったもの)
「因」は原因(果をまねく直接原因)
「縁」は条件(因を助ける補助的原因)
「果」は結果(因から生じた結果)
「報」は果報(因縁果に報われた報果)
「本末究竟等」は総合(本体と現象)が究極して平等一如。相から報までがおちつく処で、帰趣するところは結局同一の実相にほかならない。
なおこの「十如是」は、「大智度論」に見える「九種法」(体・法・力・因・縁・果・性・限礙・開通方便)を鳩摩羅什が「法華経」翻訳の際に転用したものだと推定されています。つまり、仏・菩薩等を覚る手順として、「大智度論」では「九種法」を、「法華経」では「十如是」を、「仏説無量寿経」では「十二光」を用い開いて領解するわけです。
「仏説無量寿経」は一切経を土台にしつつ、新たに歴史的現実に立って、みずからと歴史を創造し続ける新たな人間を生み出す経典であります。ですからこの経典の解釈には諸経に説かれる基本的な教学を学ぶ必要があるのであり、特に「涅槃経」「法華経」「華厳経」に説かれる内容は一通り心得ておかねばならないでしょう。その上で、「仏説無量寿経」はどんな視点で再編成されたのか、諸経の何を不足として編纂されたのか、ということを明らかにしなければなりません。
親鸞聖人もこうした立場で「教行信証」を著されたため諸経の引用が多いのです。ゆえに御同行として拝みあう立場の私たちも、「如来の真実義を解したてまつらん」との願いの中で、師の求めんとしたものを求めていかねばならないのでしょう。
諸師の十二光解釈
十二光それぞれの内容ですが、古来より諸菩薩・諸師が懇切丁寧に解釈されてみえますので、ひとまず説明は抑え、心ひそかにその導きを味わってみたいと思います。
ただし一つだけ、十二光の味わい方として知っておいてほしいことがあります。それは、阿弥陀仏のはたらきを本当に理解するためには、自分自身と歴史的現実のありさまの中に、法蔵菩薩が四十八願を建立せしめた理由があり、その果報として光明無量の十二光徳を成就せしめた理由がある≠ニいうことです。
阿弥陀仏の光明は決して山の彼方や宇宙の果てを照らすものではありません。全くこの歴史的現実、日々私たちが生活している現場現場を照らすのであり、同時に新たな道程を創造する根源となり、死を悔やまず、生き甲斐を得るはたらきを回向し続けている、これが阿弥陀仏の光明無量のありさまなのです。
無量光無辺光無碍光無対光焔王光清浄光歓喜光智慧光不断光難思光無称光超日月光
◎無量光(個性自覚/相)
「讃阿弥陀仏偈」(曇鸞)
智慧光明不可量故仏又号無量光
有量諸相蒙光暁是故稽首真実明
智慧の光明量るべからず。ゆゑに仏をまた無量光と号けたてまつる。
有量の諸相光暁を蒙る。このゆゑに真実明を稽首したてまつる。
「讃阿弥陀仏偈和讃」(親鸞)
智慧の光明はかりなし
有量の諸相ことごとく
光暁かぶらぬものはなし
真実明に帰命せよ
「弥陀如来名号徳」(親鸞)
無量光といふは、「経」(観経)にのたまはく、「無量寿仏に八万四千の相まします。一々の相におのおの八万四千の随形好まします。一々の好にまた八万四千の光明まします。一々の光明あまねく十方世界を照らしたまふ。念仏の衆生をば摂取して捨てたまはず」といへり。恵心院の僧都(源信)、このひかりを勘へてのたまはく(往生要集・中意九五三)、「一々の相におのおの七百五倶胝六百万の光明あり、熾然赫奕たり」といへり。一相より出づるところの光明かくのごとし。いはんや八万四千の相より出でんひかりのおほきことをおしはかりたまふべし。この光明の数のおほきによりて、無量光と申すなり。
「述文賛」(憬興)
無量光仏[算数にあらざるがゆゑに。]
<無量光仏>とあるのは、はかり知ることができないからである。
「正信偈大意」(蓮如)
「無量光仏」といふは利益の長遠なることをあらはす、過現未来にわたりてその限量なし、数としてさらにひとしき数なきがゆゑなり。
「十二光の名義」(島田幸昭)
即ち無量光は、智慧の光明もって有量の諸相を悉く光暁して、衆生各々をしてその個性を自覚せしめ、
◎無辺光(身意柔軟/性)
「讃阿弥陀仏偈」(曇鸞)
解脱光輪無限斉故仏又号無辺光
蒙光触者離有無是故稽首平等覚
解脱の光輪限斉なし。ゆゑに仏をまた無辺光と号けたてまつる。
光触を蒙るもの有無を離る。このゆゑに平等覚を稽首したてまつる。
「讃阿弥陀仏偈和讃」(親鸞)
解脱の光輪きはもなし
光触かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまふ
平等覚に帰命せよ
「弥陀如来名号徳」(親鸞)
無辺光といふは、かくのごとく無量のひかり十方を照らすこと、きはほとりなきによりて、無辺光と申すなり。
「述文賛」(憬興)
無辺光仏[縁として照らさざることなきがゆゑに。]
<無辺光仏>とあるのは、照らさないところがないからである。
「正信偈大意」(蓮如)
「無辺光仏」といふは、照用の広大なる徳をあらはす、十方世界を尽してさらに辺際なし、縁として照らさずといふことなきがゆゑなり。
「十二光の名義」(島田幸昭)
無辺光は、解脱の光輪きはもなく、衆生の身に光触して有無を離れしむ。これ内に平等感情を成就し、外に身意柔軟を得るからである。
◎無碍光(生活転成/体)
「讃阿弥陀仏偈」(曇鸞)
光雲無礙如虚空故仏又号無礙光
一切有礙蒙光沢是故頂礼難思議
光雲無礙にして虚空のごとし。ゆゑに仏をまた無礙光と号けたてまつる。
一切の有礙光沢を蒙る。このゆゑに難思議を頂礼したてまつる。
「讃阿弥陀仏偈和讃」(親鸞)
光雲無礙如虚空
一切の有礙にさはりなし
光沢かぶらぬものぞなき
難思議を帰命せよ
「弥陀如来名号徳」(親鸞)
無礙光といふは、この日月のひかりは、ものをへだてつれば、そのひかりかよはず。この弥陀の御ひかりは、ものにさへられずしてよろづの有情を照らしたまふゆゑに、無礙光仏と申すなり。有情の煩悩悪業のこころにさへられずましますによりて、無礙光仏と申すなり。無礙光の徳ましまさざらましかば、いかがし候はまし。かの極楽世界とこの娑婆世界とのあひだに、十万億の三千大千世界をへだてたりと説けり。その一々の三千大千世界におのおの四重の鉄囲山あり。高さ須弥山とひとし。つぎに小千界をめぐれる鉄囲山あり、高さ第六天にいたる。つぎに中千界をめぐれる鉄囲山あり、高さ色界の初禅にいたる。つぎに大千界をめぐれる鉄囲山あり、高さ第二禅にいたれり。しかればすなはち、もし無礙光仏にてましまさずは一世界をすらとほるべからず。いかにいはんや十万億の世界をや。かの無礙光仏の光明、かかる不可思議の山を徹照して、この念仏衆生を摂取したまふにさはることましまさぬゆゑに、無礙光と申すなり。
阿弥陀仏は智慧のひかりにておはしますなり。このひかりを無礙光仏と申すなり。無礙光と申すゆゑは、十方一切有情の悪業煩悩のこころにさへられずへだてなきゆゑに、無礙とは申すなり。弥陀の光の不可思議にましますことをあらはししらせんとて、帰命尽十方無礙光如来とは申すなり。無礙光仏をつねにこころにかけ、となへたてまつれば、十方一切諸仏の徳をひとつに具したまふによりて、弥陀を称すれば功徳善根きはまりましまさぬゆゑに、龍樹菩薩は、「我説彼尊功徳事衆善無辺如海水」(十二礼六八一)とをしへたまへり。かるがゆゑに不可思議光仏と申すとみえたり。不可思議光仏のゆゑに「尽十方無礙光仏と申す」と、世親菩薩(天親)は「往生論」(浄土論)にあらはせり。阿弥陀仏に十二のひかりの名まし……
……「浄土論」にあらはしたまへり。いふ、諸仏咨嗟の願(第十七願)に大行あり。大行といふは、無礙光仏の御名を称するなり。この行あまねく一切の行を摂す。極速円満せり。かるがゆゑに大行となづく。このゆゑによく衆生の一切の無明を破す。また煩悩を具足せるわれら、無礙光仏の御ちかひをふたごころなく信ずるゆゑに、無量光明土にいたるなり。光明土にいたれば、自然に無量の徳を得しめ、広大のひかりを具足す。広大の光を得るゆゑに、さまざまのさとりをひらくなり。
「述文賛」(憬興)
無礙光仏[人法としてよく障ふることあることなきがゆゑに。]
<無礙光仏>とあるのは、何ものにもさえぎられることがないからである。
「正信偈大意」(蓮如)
「無碍光仏」といふは、神光の障碍なき相をあらはす、人法としてよくさふることなきがゆゑなり。碍において内外の二障あり。外障といふは、山河大地・雲霧煙霞等なり。内障といふは、貪・瞋・痴・慢等なり。「光雲無碍如虚空」(讃阿弥陀仏偈)の徳あれば、よろづの外障にさへられず、「諸邪業繋無能碍者」(定善義)のちからあれば、もろもろの内障にさへられず。かるがゆゑに天親菩薩は「尽十方無碍光如来」(浄土論)とほめたまへり。
「十二光の名義」(島田幸昭)
無碍光は、光雲無碍なること虚空の如く、一切の有碍に碍りなからしむ。これその光澤によりて、内に柔軟心を成就し、外に生活を轉成(転成)せしむるが故である。
◎無対光(生活浄化/観音・力)
「讃阿弥陀仏偈」(曇鸞)
清浄光明無有対故仏又号無対光
遇斯光者業繋除是故稽首畢竟依
清浄の光明対ぶものあることなし。ゆゑに仏をまた無対光と号けたてまつる。
この光に遇ふもの業繋除こる。このゆゑに畢竟依を稽首したてまつる。
「讃阿弥陀仏偈和讃」(親鸞)
清浄光明ならびなし
遇斯光のゆゑなれば
一切の業繋ものぞこりぬ
畢竟依を帰命せよ
「弥陀如来名号徳」(親鸞)
無対光といふは、弥陀のひかりにひとしきひかりましまさぬゆゑに、無対と申すなり。
「述文賛」(憬興)
無対光仏[もろもろの菩薩の及ぶところにあらざるがゆゑに。]
<無対光仏>とあるのは、どのような菩薩も及ぶことができないからである。
「正信偈大意」(蓮如)
「無対光仏」といふは、ひかりとしてこれに相対すべきものなし、もろもろの菩薩のおよぶところにあらざるがゆゑなり。
「十二光の名義」(島田幸昭)
無対光は、対びなき清浄の光明をもって一切の業繋を除く。これ生活を浄化するものである。
◎焔王光(智見開覚/勢至・力)
「讃阿弥陀仏偈」(曇鸞)
仏光照曜最第一故仏又号光炎王
三塗黒闇蒙光啓是故頂礼大応供
仏光照曜すること最第一なり。ゆゑに仏をまた光炎王と号けたてまつる。
三塗の黒闇光啓を蒙る。このゆゑに大応供を頂礼したてまつる。 「讃阿弥陀仏偈和讃」(親鸞)
仏光照曜最第一
光炎王仏となづけたり
三塗の黒闇ひらくなり
大応供を帰命せよ
「弥陀如来名号徳」(親鸞)
炎王光と申すは、ひかりのさかりにして、火のさかりにもえたるにたとへまゐらするなり。火の炎の煙なきがさかりなるがごとしとなり。
「述文賛」(憬興)
光炎王仏[光明自在にしてさらに上となすことなきがゆゑに。]
<光炎王仏>とあるのは、光明の自由自在なはたらきはこれを超えるものがないからである。
「正信偈大意」(蓮如)
「炎王光仏」といふは、または光炎王仏と号す。光明自在にして無上なるがゆゑなり。「大経」(下)に「猶如火王焼滅一切煩悩薪故」と説けるは、このひかりの徳を嘆ずるなり。火をもつて薪を焼くに、尽さずといふことなきがごとく、光明の智火をもつて煩悩の薪を焼くに、さらに滅せずといふことなし。三途黒闇の衆生も光照をかうぶり解脱を得るは、このひかりの益なり。
「十二光の名義」(島田幸昭)
炎王光は、最第一の佛光して照曜して三塗の黒闇を啓かしむ。これ衆生の智見を開覚することに依りてである。
◎清浄光(業性浄化/至心・因・作)
「讃阿弥陀仏偈」(曇鸞)
道光明朗色超絶故仏又号清浄光
一蒙光照罪垢除皆得解脱故頂礼
道光明朗にして、色超絶したまへり。ゆゑに仏をまた清浄光と号けたてまつる。
一たび光照を蒙れば、罪垢除こりてみな解脱を得。ゆゑに頂礼したてまつる。
「讃阿弥陀仏偈和讃」(親鸞)
道光明朗超絶せり
清浄光仏とまうすなり
ひとたび光照かぶるもの
業垢をのぞき解脱をう
「弥陀如来名号徳」(親鸞)
清浄光と申すは、法蔵菩薩、貪欲のこころなくして得たまへるひかりなり。貪欲といふに二つあり。一つには婬貪、二つには財貪なり。この二つの貪欲のこころなくして得たまへるひかりなり。よろづの有情の汚穢不浄を除かんための御ひかりなり。婬欲・財欲の罪を除きはらはんがためなり。このゆゑに清浄光と申すなり。
「述文賛」(憬興)
清浄光仏[無貪の善根よりして現ずるがゆゑに、また衆生の貪濁の心を除くなり。貪濁の心なきがゆゑに清浄といふ。]
<清浄光仏>とあるのは、貪りを離れた善根より現れるからであり、また衆生の汚れた貪りの心を除くのであり、汚れた貪りの心がないから清浄という。
「正信偈大意」(蓮如)
「清浄光仏」といふは、無貪の善根より生ず。かるがゆゑにこのひかりをもつて衆生の貪欲を治するなり。
「十二光の名義」(島田幸昭)
清浄光は、明朗超絶せる道光もて衆生の業垢を除き解脱を得しむ。これ無始久遠の業性を浄化することに依りてである。
◎歓喜光(所与満足/信楽・因・作)
「讃阿弥陀仏偈」(曇鸞)
慈光遐被施安楽故仏又号歓喜光
光所至処得法喜稽首頂礼大安慰
慈光はるかに被らしめ、安楽を施したまふ。ゆゑに仏をまた歓喜光と号けたてまつる。
光の至るところの処法喜を得。大安慰を稽首し頂礼したてまつる。
「讃阿弥陀仏偈和讃」(親鸞)
慈光はるかにかぶらしめ
ひかりのいたるところには
法喜をうとぞのべたまふ
大安慰を帰命せよ
「弥陀如来名号徳」(親鸞)
歓喜光といふは、無瞋の善根をもつて得たまへるひかりなり。無瞋といふは、おもてにいかりはらだつかたちもなく、心のうちにそねみねたむこころもなきを無瞋といふなり。このこころをもつて得たまへるひかりにて、よろづの有情の瞋恚・憎嫉の罪を除きはらはんために得たまへるひかりなるがゆゑに、歓喜光と申すなり。
「述文賛」(憬興)
歓喜光仏[無瞋の善根よりして生ずるがゆゑに、よく衆生の瞋恚盛心を除くがゆゑに。]
<歓喜光仏>とあるのは、怒りを離れた善根より生じるから、また衆生の怒りに満ちた心を除くからである。
「正信偈大意」(蓮如)
「歓喜光仏」といふは、無瞋の善根より生ず、かるがゆゑにこのひかりをもつて衆生の瞋恚を滅するなり。
「十二光の名義」(島田幸昭)
歓喜光は、慈光はるかに蒙らしめ、光の至る所に法喜を得しむ。これ宿業に休んじ所与の境遇に満足を見出さしむるが故である。
◎智慧光(存在意義/欲生・因・作)
「讃阿弥陀仏偈」(曇鸞)
仏光能破無明闇故仏又号智恵光
一切諸仏三乗衆咸共歎誉故稽首
仏光よく無明の闇を破す。ゆゑに仏をまた智慧光と号けたてまつる。
一切諸仏・三乗衆、ことごとくともに歎誉したまへり。ゆゑに稽首したてまつる。
「讃阿弥陀仏偈和讃」(親鸞)
無明の闇を破するゆゑ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏・三乗衆
ともに嘆誉したまへり
「弥陀如来名号徳」(親鸞)
智慧光と申すは、これは無痴の善根をもつて得たまへるひかりなり。無痴の善根といふは、一切有情、智慧をならひ学びて無上菩提にいたらんとおもふこころをおこさしめんがために得たまへるなり。念仏を信ずるこころを得しむるなり。念仏を信ずるは、すなはちすでに智慧を得て仏に成るべき身となるは、これを愚痴をはなるることとしるべきなり。このゆゑに智慧光仏と申すなり。
「述文賛」(憬興)
智慧光仏[無痴の善根の心より起れり。また衆生の無明品心を除くがゆゑに。]
<智慧光仏>とあるのは、愚かさを離れた善根よりおこるのであり、また衆生の愚かな迷いの心を除くからである。
「正信偈大意」(蓮如)
「智慧光仏」といふは、無痴の善根より生ず、かるがゆゑにこのひかりをもつて無明の闇を破するなり。
「十二光の名義」(島田幸昭)
智慧光は、佛光能く無明の闇を破して、存在の意義を明らかならしめ、以て生活に光あらしむる。
◎不断光(聞法不退/縁・作)
「讃阿弥陀仏偈」(曇鸞)
光明一切時普照故仏又号不断光
聞光力故心不断皆得往生故頂礼
光明一切の時にあまねく照らす。ゆゑに仏をまた不断光と号けたてまつる。
光力を聞くがゆゑに、心断えずしてみな往生を得。ゆゑに頂礼したてまつる。
「讃阿弥陀仏偈和讃」(親鸞)
光明てらしてたえざれば
不断光仏となづけたり
聞光力のゆゑなれば
心不断にて往生す
「弥陀如来名号徳」(親鸞)
つぎに不断光と申すは、この光のときとしてたえずやまず照らし……
「述文賛」(憬興)
不断光仏[仏の常光つねに照益をなすがゆゑに。]
<不断光仏>とあるのは、常に絶えることなく衆生を照らし導くからである。
「正信偈大意」(蓮如)
「不断光仏」といふは、一切のときに、ときとして照らさずといふことなし。三世常恒にして照益をなすがゆゑなり。
「十二光の名義」(島田幸昭)
不断光は、断えざる光明の照育もて、聞法不退ならしめる。
◎難思光(浄土往生/果・作)
「讃阿弥陀仏偈」(曇鸞)
其光除仏莫能測故仏又号難思議
十方諸仏歎往生称其功徳故稽首
その光仏を除きてはよく測るものなし。ゆゑに仏をまた難思議と号けたてまつる。
十方諸仏往生を歎じ、その功徳を称したまへり。ゆゑに稽首したてまつる。
「讃阿弥陀仏偈和讃」(親鸞)
仏光測量なきゆゑに
難思光仏となづけたり
諸仏は往生嘆じつつ
弥陀の功徳を称せしむ
「弥陀如来名号徳」(親鸞)
難思光仏と申すは、この弥陀如来のひかりの徳をば、釈迦如来も御こころおよばずと説きたまへり。こころのおよばぬゆゑに難思光仏といふなり。
「述文賛」(憬興)
難思光仏[もろもろの二乗の測度するところにあらざるがゆゑに。]
<難思光仏>とあるのは、声聞や縁覚には推しはかることができないからである。
「正信偈大意」(蓮如)
「難思光仏」といふは、神光の相をはなれてなづくべきところなし、はるかに言語の境界にこえたるがゆゑなり。こころをもつてはかるべからざれば「難思光仏」といひ、……難思光仏をば「不可思議光」となづけ
「十二光の名義」(島田幸昭)
難思光は、測量なき佛光もて、無有出縁の衆生を浄土に往生せしめ、
◎無称光(涅槃証得・修徳成仏/報・作)
「讃阿弥陀仏偈」(曇鸞)
神光離相不可名故仏又号無称光
因光成仏光赫然諸仏所歎故頂礼
神光、相を離れたれば、名づくべからず。ゆゑに仏をまた無称光と号けたてまつる。
光によりて成仏したまへば、光赫然たり。諸仏の歎じたまふところなり。ゆゑに頂礼したてまつる。
「讃阿弥陀仏偈和讃」(親鸞)
神光の離相をとかざれば
無称光仏となづけたり
因光成仏のひかりをば
諸仏の嘆ずるところなり
「弥陀如来名号徳」(親鸞)
無称光と申すは、これも、「この不可思議光仏の功徳は説き尽しがたし」と釈尊のたまへり。ことばもおよばずとなり。このゆゑに無称光と申すとのたまへり。しかれば、曇鸞和尚の「讃阿弥陀仏の偈」には、難思光仏と無称光仏とを合して、「南無不可思議光仏」とのたまへり。この不可思議光仏のあらはれたまふべきところを、かねて世親菩薩(天親)の……
「述文賛」(憬興)
無称光仏[また余乗等説くこと堪ふるところにあらざるがゆゑに。]
<無称光仏>とあるのは、仏を除いては説くことができないからである。
「正信偈大意」(蓮如)
はるかに言語の境界にこえたるがゆゑなり。こころをもつてはかるべからざれば「難思光仏」といひ、ことばをもつて説くべからざれば「無称光仏」と号す。「無量寿如来会」(上)には難思光仏をば「不可思議光」となづけ、無称光仏をば「不可称量光」といへり。
「十二光の名義」(島田幸昭)
無称光は、離相の神光もて、無上涅槃を証得せしめ普賢の徳を修せしめらるる。
◎超日月光(光徳無尽/本末究竟等・総)
「讃阿弥陀仏偈」(曇鸞)
光明照曜過日月故仏号超日月光
釈迦仏歎尚不尽故我稽首無等等
光明照曜すること日月に過ぎたり。ゆゑに仏を超日月光と号けたてまつる。
釈迦仏歎じたまふもなほ尽きず。ゆゑにわれ無等等を稽首したてまつる。
「讃阿弥陀仏偈和讃」(親鸞)
光明月日に勝過して
超日月光となづけたり
釈迦嘆じてなほつきず
無等等を帰命せよ
「弥陀如来名号徳」(親鸞)
超といふは、この弥陀の光明は、日月の光にすぐれたまふゆゑに、超と申すなり。超は余のひかりにすぐれこえたまへりとしらせんとて、超日月光と申すなり。十二光のやう、おろおろ書きしるして候ふなり。くはしく申し尽しがたく、書きあらはしがたし。
「述文賛」(憬興)
超日月光仏[日応じてつねに照らすこと周からず、娑婆一耀の光なるがゆゑに。]みなこれ光触を身に蒙るものは身心柔軟の願(第三十三願)の致すところなり
<超日月光仏>とあるのは、日夜常にすべてを照らし、この世界の日や月と異なるからである。
この光明に照らされるものはみな、身も心も和らぐという願の利益を受けるのである」
「正信偈大意」(蓮如)
「超日月光仏」といふは、日月はただ四天下を照らして、かみ上天におよばず、しも地獄にいたらず。仏光はあまねく八方上下を照らして障碍するところなし、かるがゆゑに日月に超えたり。さればこの十二光を放ちて十方微塵世界を照らして衆生を利益したまふなり
「十二光の名義」(島田幸昭)
超日月光は、日月の光に勝過せることを以て、光徳の無尽を嘆ぜらるるのである。
この十二光の徳用の領解は、本願の成就として、如何に吾等に四十八願を想起せしむることであらう。而もそれは全四十八願の根幹を成すものを惣括せるものである。 
それある衆生、この光に遇わば、三垢(貪瞋癡、三毒)消滅して、身意柔軟なり。歓喜踊躍して、善心生ず。
もし三塗(地獄、餓鬼、畜生、三悪道)勤苦の処(の衆生)、この光明を見れば皆休息を得て、また苦悩することなく、寿(いのち)終わりての後に皆解脱を蒙る。
無量寿仏の光明、顕(あき)らかに赫(かがや)きて、十方の諸仏の国土を照曜(しょうよう)するに、聞知せざるものなし。
ただ我のみ、今、その光明を称うるにあらず、一切の諸仏、声聞縁覚、諸の菩薩衆、みな共に歎誉することも、またまたかくの如し。
もし、ある衆生、その光明の威神と功徳を聞いて、日夜に称え説くこと至心にして断たざれば、意に願う所の随(まま)に、その国に生まるることを得て、諸の菩薩、声聞の大衆、共に、その功徳を歎誉し、称う所と為る。その然る後の仏道を得る時に至りて、普く十方の諸の菩薩、その光明を歎ずる(所)と為ることも、また今の如し。
仏言たまわく、「我、無量寿仏の光明の威神、巍巍として殊妙なることを説かんとするも、昼夜一劫してもなお尽くすこと能わず。」
この光明に照らされるものは、煩悩が消え去って身も心も和らぎ、喜びに満ちあふれて善い心が生れる。もし地獄や餓鬼や畜生の苦悩の世界にあってこの光明に出会うなら、みな安らぎを得て、ふたたび苦しみ悩むことはなく、命を終えて後に迷いを離れることができる。
無量寿仏の光明は明るく輝いて、すべての仏がたの国々を照らし尽し、その名の聞こえないところはない。わたしだけがその光明をたたえるばかりでなく、すべての仏がたや声聞や縁覚や菩薩たちも、みな同じくたたえておいでになるのである。もし人々がその光明のすぐれた功徳を聞いて、日夜それをほめたたえ、まごころをこめて絶えることがなければ、願いのままに無量寿仏の国に往生することができ、菩薩や声聞などのさまざまな聖者たちにその功徳をほめたたえられる。その後、仏のさとりを開いたときには、今わたしが無量寿仏の光明をたたえたように、すべての世界のさまざまな仏がたや菩薩たちにその光明をたたえられるであろう」釈尊が仰せになる。
「無量寿仏の光明の気高く尊いことは、わたしが一劫の間、昼となく夜となく説き続けても、なお説き尽すことができない」 
宿業を背負って浄土に樹ち、浄土を背に宿業の大地を歩む
前々回は阿弥陀仏の十方恒沙の仏刹を照らす「超越」のはたらきと、拡大して照らす「内在」のはらたきを、そして前回は十二光の構造を明らかにしましたが、今回は「阿弥陀仏のはたらきに出遇った私たちに実際どのような功徳が施されるのか」を明らかにしてゆきます。
註釈版
それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず。もし三塗の勤苦の処にありて、この光明を見たてまつれば、みな休息を得てまた苦悩なし。寿終りてののちに、みな解脱を蒙る。
現代語版
この光明に照らされるものは、煩悩が消え去って身も心も和らぎ、喜びに満ちあふれて善い心が生れる。もし地獄や餓鬼や畜生の苦悩の世界にあってこの光明に出会うなら、みな安らぎを得て、ふたたび苦しみ悩むことはなく、命を終えて後に迷いを離れることができる。
<それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり>
三垢[サンク]とは貪瞋癡[トン・ジン・チ]の三毒煩悩[サンドクボンノウ]をいいます。貪とは貪欲[トンヨク]・むさぼり、瞋は瞋恚[シンニ]・いかり、癡は愚癡[グチ]・おろか(問いがない状態)で、三垢は煩悩の中でも根本的な迷いであるため「三惑」とも言い、衆生の身心をけがすため垢[あか]の字が用いられています。総じて言えば煩悩とは、仏性・まごころに背いて自他を裏切り、混乱と停滞・退化をもたらす頑[かたく]なな閉じた心を言い、これを浄化し自分と歴史を創造し続ける心を菩提心と言います。菩提心は仏性・まごころに順じて自他を生かし、落ち着き、集中し、覚りに向かって卒業なき求道を進める心です。
そうした根本の煩悩である三垢が、(本願成就のいわれを聞き開く念仏者においては)阿弥陀仏のはたらきに出遇うと「消滅し」とあります。しかし、本当に私たちの煩悩は消滅するのでしょうか。念仏者の中で煩悩を消滅させた人が果たして何人居るのでしょう。いや他人事ではない、「そもそも自分自身はどうなのか」と問うと、誠にお恥ずかしい、「煩悩具足の凡夫」としか言いようの無い自分の姿が見えてきます。これはどうしたことでしょう。
本願力回向の菩提心を尊み、如来回向の念仏を称えさせて頂いているにも関わらず、それでも裏切りや煩悩の止まない我が身のあさましさ。しかし経典には「三垢消滅し」と書いてある。すると、経典は嘘を言っているのでしょうか。それとも三垢消滅する人と消滅しない人の別があるのでしょうか。ここは大事なところですが、皆様はどう思われますか。
ここは三つの観点を経て領解せねばならないでしょう。
まず一点目は、三垢消滅は阿弥陀仏の智徳の内容≠ニして説かれているということ。
二点目は、阿弥陀仏のはたらきは、本願力を至り届けることにより、煩悩具足の私のありさまを私に見さしめ、清浄荘厳の願いを起こさせしめていくということ。
三点目は、第十八願の三心(至心・信楽・欲生)を経て実際に三垢消滅が成就してゆくということです。
「仏説無量寿経」は上巻と下巻に分かれていますが、この上巻は阿弥陀仏の内容、つまり本願成就の経緯を説いた巻で、浄土の場に立ち、仏性の歴史が願いとなり浄土として報い一切衆生に回施されている内容を説いています。そして下巻は南無の内容、つまり穢土[エド]に立って、浄土の功徳が宿業の現場に働き出てひとり一人の信心となっている内容を説いています。この上巻の阿弥陀仏(法)と下巻の南無(機)が合わせ鏡のように照らしあって一体(機法一体)となっている、つまり全く同じ歴史的現実を、浄土と穢土の裏表で説かれている大経の内容が南無阿弥陀仏のいわれの内容なのです。
ですから上巻において「三垢消滅し」と言うのは浄土の功徳の内容であり、願いの広大さ深さの徳分から「消滅」と断言できるのですが、穢土の現実に現れ出た内容としては三垢消滅し難し≠ニいう慚愧・懺悔となります。つまり「三垢消滅し」と「三垢消滅し難し」は一つ現実の裏表。このように矛盾したまま一体となっているのが真実であり、どちらか一方だけ存在しているという見方は真実ではありません。
このことを第十八願の三心で言えば、「至心」において仏性の本来性である真実誠が第十七願までの理想内容となって我が身に迫って自覚(霊性的自覚)となります。この自覚は仏道の要めであり、ここを経ねば人生成就もありえないのですが、この自覚を得た途端、法と我と社会が極めて矛盾した状態に置かれてしまいます。ここに留まると理想主義の非常に危険な状態となってしまうのですが、至心が種(きっかけ・引出仏性)となり、慚愧・懺悔を経て生命一切の宿業(業の歴史)が背に引き受けられると、「信楽(了因仏性)」として如来回向の真実誠が足元から華開き身に満ちてゆきます(場所的自覚)。
すると法と我が「絶対矛盾の自己同一」という場を得ることが適い、そこであらためて仏の本願が我が願いと定まり、個別的・客観的世界に歩み出て「欲生・願生(生因仏性)」が発揮される。つまり浄土の功徳が宿業の現場に展開され、<もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹を成ぜん>との仏の励ましを胸に私の国土(環境)を創造してゆくことになるのです。これが南無阿弥陀仏のいわれであり、現実に私たちが機法一体の南無阿弥陀仏・真実信心を獲得する(「した」ではない)経緯なのです。
「秋の空は美しいですね。私も、ああいう秋の空のような美しい心になりたい」
こう娘さんが言われたわけ。そしたら、御院家さんが、
「それはいいことです。ああいうきれいな心になりたい。願いは尊いのだが、なったらいけませんよ」。
こう言われたから、今度娘さんが「どうしてですか」言うたら、
「先生に聞いてみなさい」。こう言うて、私に跳ねかけてきましたから、
「今度来るまでの宿題にしておきましょう。やっぱり、親が宿題を解いてあげたんでは、これは値打ちがないから。そこで考えるということが大事なんだから、宿題にしておきましょう」。言うたところが、
「今度来るまで待てません」と言われたら、今度は御院家さんがどう言われたかというと、
「きれいな心になったら、足元があんまり汚いから生きられない」
こういうことを言われました。これでしょう。ほとんどそうです。
(中略)
だから、私たちは、あまりに自分が理想主義だから。あまりきれいなこと思っておると、現実が汚いから。そこで、本当はそういう潔癖性言いましょう。乙女心は潔癖なんですから。それを、「女は弱し、されど強きの母なり」で、ただ単に母は強いのではない。昔は強いと思っていたんでしょう。強いではなしにたくましいのであって。本当は、そういう泥田の中でも、どんな「清濁併せのむ」という。そういう汚い中に生きていける。そういうものが、本当の人間で大人でしょう。親ですから。そういうように、成長しなくてはいけない。
これを浄土と宿業の関係で言えば、人間は大きく分けて次の四つの状態にあることが解ります。
第一に、宿業を背負って宿業の世渡りをする。
第二に、浄土を背に浄土に立つ。
第三に、宿業を背負って浄土に立つ。
第四に、浄土を背に宿業の世渡りをする。
この四つの中で、第一は不定聚、第二は邪定聚、第三は正定聚(往相)、第四は正定聚(還相)の状態であります。
宿業とは、行き当たりばったりでその場しのぎの身口意の業、つまり先の三垢(貪瞋癡)を根本とした様々な煩悩が今ここに報いていることを言いますが、第一の「宿業を背負って宿業の世渡りをする」ということは、そうした穢れた宿業に対して開き直り、「毒を食らわば皿まで」とか「どうせこの世は汚い世界だから汚く生きよう」と、宿業の毒に飲み込まれてしまうことを言います。これでは仏性や仏法のはたらき場は見出せず、虚しく苦悩を重ねる人生が転じられることはありませんので、「避けるべき道」と言うほかありません。
問題は第二の「浄土を背に浄土に立つ」ということ、実はこれが極めて危険な状態なのです。周囲から宗教の熱心な信者≠ニ見られているような人が、ある時急に常識外れで奇怪な行動をしたり、浮世離れした生活や、神秘主義に陥ったり、時として破壊的な行動に出てしまうのは、皆「浄土を背に浄土に立つ」という邪[よこし]まな生き方の弊害なのです。ここでは「浄土」と書きましたが、「天国」や「絶対的世界」・「理想世界」等と言葉を変えても(内容は違いますが)受け取り方は同じことです。これは「理想主義」であり「法執」。講話で言えば、秋の空のような美しい心に「なった」、「ならねば許されない」という強い思い込みがこれです。法執は我執よりさらに煩悩性が強く、ここから抜け出せなければいずれ自他に破壊をもたらしてしまいます。
確かに阿弥陀仏の光(かぎりないはたらき)に出遇えば、その徳分から言えば「三垢消滅」がもたらされるのは当然です。ここにはもはや一点の疑念もありません。ところがこの信念に執われ「与えられた宝が尊いのなら、受けた私が三垢消滅できなければ道理に合わないではないか」と自分を責めることが問題なのです。また「三垢消滅できないというのは、お前の信心が足りないからだ」と他人を責め、さらには「こんな尊い教えを受け入れない腐れ切った社会が悪いのだ」と焦れば、「一度この穢れた世界を破壊して、自分たちの理想世界を新たに築くのだ」と、血走った極端な行動に走る人々も出てきます。
これは「きれいな心になったら、足元があんまり汚いから生きられない」ということの延長。こうなれば詩人金子みすヾのように自ら死を選ぶか、汚れきった社会を否定して世直しののろしを上げるしかありませんが、これはみな足元の宿業が見えていない結果なのです。そのため教団によっては「信者は汚い社会とは関係を切れ」とか「汚いこの社会はいずれ大いなる力によって破壊される」、もしくは「我々の手で破壊しよう」と焦ってしまうのです。こうした終末思想は歴史上数多[あまた]出現し、世間を騒がせ、人々を惑わしてきたのですが、これは総じて理想主義から抜け出せない中途半端な教学のせいなのです。「仏説無量寿経」ではこの状態を辺地七宝の宮殿に胎生する≠ニ言い、邪まな信心としてこれを廃していくのです。
例えば、蓮華が清らかな高原や陸地に生えず、かえって汚い泥の中に咲くように、迷いを離れてさとりがあるのではなく、誤った見方や迷いから仏の種が生まれる。
たとえば臭泥の中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華をとりて、臭泥を取ることなかれ。(鳩摩羅什)
続いて第三の「宿業を背負って浄土に立つ」ということ。これが如来の願心に適った正定聚の信心です。「三垢消滅し」という阿弥陀仏のはたらきを尊み頷[うなず]きつつも、背に「三垢消滅し難し」という宿業の悲しみを引き受けている姿こそ、往相の正定聚・不退転の菩薩の姿なのです。
人々は生き抜くために様々な裏切りや嘘を重ねてきました。人々は一時も無明・煩悩を離れて生きてはいないのです。この宿業を他人事として糾弾せず、自らにも見出し、全てを引き受けて浄土をいただく。すると、浄土に片足が乗り、同時にもう一方の足が踏みしめている穢土の内容が解る。今までは汚いとばかり思っていた宿業に意味が与えられるのです。
私事で言えば、自分は実にだらしない人間なのですが、仏の「だらしある」不断のはたらきに出遇えば、だらしないという煩悩がそのまま自分を理解し活かす才能であったことに気づき、やがて自ずと時々恒に&s断の活動が足元から湧き上がってきます。自力で叱咤激励[シッタゲキレイ]するのではなく、自分のだらしなさを許しながら、同時に不断の活動に転じられるわけです。同様に、自分の心の弱さを許しながら、同時にその弱さが本当に強い心を見出す種となる。狭量な心が許されつつ広い心に転じられる。三垢の煩悩がそのまま浄土の徳に転じられるのです。いや、自覚の面では今ようやく徳に転じられたのですが、本質は煩悩即菩提で、煩悩はもともと菩提心発揮の裏返しであったことが信知されてきます。
そうすると、仏のはたらきは常に継続し、一瞬も滞[とどこお]ることが無いことが解るでしょう。これにより、仏心が私の心に成り切り、仏の智慧が私の智慧と成り切ってはたらくのです。これが光明成就。しかも仏は決して焦ることもありません。不可思議兆載永劫の修行を十劫の昔から今・今・今と成就しながら一切衆生と遥かな求道の旅を続けているのです。ただしこれは「へえ、そうなんだ」などと頭で理解する事柄ではありません。「言われるまでは気づかなかったが、言われてみれば、そのはたらきを既に知っている自分に気づいた」と領解する内容なのです。
最後に第四の「浄土を背に宿業の世渡りをする」ということ。これも如来の願心に適った正定聚の信心ですが、こちらは還相回向の姿です。仏本来から言えば往相と還相は対面通行、表裏一体で時間的な差は無いのですが、信心を分析して語る際には「往還二回向」と一時的に時間差・内容差を設けて語ります。つまり同じ菩薩の身の上に往相と還相の二種の回向が同時にはたらくのですが、分析する際は分けて論じるのです。
具体的にはどういうことかと申しますと、如来のはたらきにより「宿業を背負って浄土に立つ」ことが適った。すると宿業を宝と見る仏の目が回施され、宿業に意味が与えられ、宿業を見さしめている浄土が見えてくる。これが往相ですが、如来のはたらきはここに留まらず、「南無阿弥陀仏の回向の恩徳広大不思議にて往相回向の利益には還相回向に回入せり」(正像末和讃51)で、行者は必然的に宿業の場に還って世渡りに勤[いそ]しむことになるのです。しかもその際は、以前のように宿業を背負うのではなく、浄土を背に、浄土を支えとして日暮しができるのですが、宿業の場に浄土の背景を念じ信じて生きていけるということは、何とありがたいことでしょう。世俗の生活と宗教活動が分離することなく、我が為す浅ましき煩悩の業の一々に浄土のはたらきが確かめられ、世渡りがそのまま仏道と化すのです。
「三垢消滅し」の真実は以上のように、如来本来のはたらきが広大であるということだけでなく、我が身の中では「三垢消滅し難し」と映じ、慚愧を通して宿業を見、懺悔を通して宿業に意味が与えられ、同時に浄土を背に宿業の世渡りができる。よって三垢の煩悩は消えなくともそのまま徳に転じられ、実質的に煩悩の役割はあってなきが如し¥態になってしまうので「三垢消滅し」と言い得るのです。
聖徳太子は「世間虚仮唯仏是真」と仰いましたが、虚仮である世間がそのまま「唯仏是真」の現場に転じられたことが、仏教者・念仏者の大いなる手柄なのです。
ダイナミックな柔軟心の発露
「身意柔軟なり」以降も同様の領解をすることで自らの生活に定まるのですが、ここからは阿弥陀仏のはたらき分のみを顕していきます。宿業の現実がどうであるかということと、至心・信楽・欲生の本願三心を通して実際に我が身にどう受領されるのかは、前節の「三垢消滅し」の例にならって下さい。
<身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず>は{触光柔軟の願}成就の果報をいいます。この第三十三願は第十八願と同じくらい重要な願で、第十八願は信心や智慧の成就でありますが、第三十三願は身や生活の成就を願っています。
仏のはたらきに出遇えばみな頑[かたく]なな身心はほぐれ、浅ましい自分の生活が暴かれることによって邪見の角[つの]が折れ、自ずと念仏生活に転じられます。すると心は静まり、宿業が見え、浄土が観察できるので、おのずと身心が柔軟となるのです。
ただし柔軟といっても金剛心と一味になった柔軟心ですから、上司の命令にただ従うような腑抜けた風見鶏のような心ではなく、腹の据わった人生観を持ちながら、それを活かすため自由無碍に活動し、生活を変え、自分を変化させていく、ダイナミックな柔軟心が「身意柔軟なり」の実態です。
<三塗の勤苦の処にありて、この光明を見たてまつれば、みな休息を得てまた苦悩なし>は{無三悪趣の願}と{不更悪趣の願}成就の果報をいいます。
三塗[サンズ]は三途[サンズ]とも書き、「塗」は「途」と同じで「道」または「塗炭」の意があります。これは三悪道[サンマクドウ]や三悪趣[サンマクシュ]と同意であり、ここでは「地獄や餓鬼や畜生の苦悩の世界」と意訳されています。詳細を言うと「地獄」は様々な社会苦や社会悪、「餓鬼」は我欲に執われ特定の思想や領解に固執した頑迷者、「畜生」は奴隷根性が抜けず問題意識の無い愚か者の世界を言います。一説には、猛火に焼かれる「火塗[カズ]」・刀杖で責められる「刀塗[トウズ]」・互いに食いあう「血塗[ケツズ]」を三塗とし、火塗を地獄、刀塗を餓鬼、血塗を畜生にあてる解釈もありますが、浄土経典は国土成就を課題とするのですから、ここでは先の解釈を勝義とすべきでしょう。
このような悪環境・悪境遇に陥った人々も、「報仏弥陀の大悲の願行は、もとより迷ひの衆生の心想のうちに入りたまへり」(安心決定鈔7)ですから、本願成就のいわれを聞き開き、真実法雨に潤[うるお]えば、衆生の身口意すべてが阿弥陀仏の正覚の華のお育てにあずかり、蓮台の徳がおよんで安らかに信心者の人生を成就させ(場所的自覚)、ふたたび三悪道に戻ることはない、ということが浄土のはたらきであり、この法則については一点の疑いもありません。
<寿終りてののちに、みな解脱を蒙る>は、そのまま常識的に読めば、生きているうちは解脱できないが、死んだ後ならば迷いを離れることができる≠ニなってしまいますが、経典は「いかにこの苦悩の人生を生き切るか」を説いたものであって、後生願いのろくでなし≠つくるために説いたものではありません。「まごころで受け取ってくれよ」と願い説かれた教えですから、常識的な文字通りの解釈では真意を外します。書かれた文字である「指」を見るのではなく、月を指差す指の「方向」に目を向けねばならないでしょう。
するとどう受け取れば良いか。
「解脱を蒙る」ということは煩悩の縛りから完全に解き放たれて自由になる≠アとですが、実は人間は一生かかっても解脱を成就することは適いません。三悪道に戻ることはなくとも、解脱が達成されることは難しいし、もし解脱したとしても習気[ジッケ]という習慣性が癖として残っていますので、完全に解脱した≠ネどと言うことは一生適わないのです。それなのにもし私は最終解脱者だ≠ネどと言う人間が登場したら、あなたはそれを信ずるでしょうか。それとも「驕慢な態度だ」と批判するでしょうか。
しかし「完全に解脱したい」ということは生命本来の願いですから、いつか解脱を達成したいという願いが切なるものであることは確かです。この願いの深さと自らの煩悩性を鑑みれば、「寿終りてののちに」と言わざるを得ない。「せめて死後には解脱したい」という敬虔で深い願いの表明となるのです。
信心の社会性
註釈版
無量寿仏の光明は顕赫にして、十方諸仏の国土を照耀したまふに、聞えざることなし。ただ、われのみいまその光明を称するにあらず。一切の諸仏・声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆、ことごとくともに歎誉すること、またまたかくのごとし。
現代語版
無量寿仏の光明は明るく輝いて、すべての仏がたの国々を照らし尽し、その名の聞こえないところはない。わたしだけがその光明をたたえるばかりでなく、すべての仏がたや声聞や縁覚や菩薩たちも、みな同じくたたえておいでになるのである。
ここからは阿弥陀仏と念仏者の評判が十方にはたらくということですから、信心の社会性が問題となってきます。
<無量寿仏の光明は顕赫にして、十方諸仏の国土を照耀したまふに、聞えざることなし>について。
ここで「光明」が「はたらき」をあらわす言葉であることが再認識できるでしょう。光明が文字通りの光明であれば「聞えざることなし」ではなく「見えざることなし」と表現しなくてはなりません。しかし「聞こえる」とありますから、「光明」とは「はたらき」であることが証明できます。そして「十方諸仏の国土を照耀」するこの箇所で言えば、光明は「阿弥陀仏の徳のはたらき(身放の光明/色光)」であり、具体的に言えば「阿弥陀仏の智慧と不可思議兆載永劫の修行の成果が評判となり、名声となって世界中に広がり、すべての仏がたの国々に聞こえ渡る」という内容を表しています。信心はひとり一人の個人的問題として認識されがちですが、これでは自己満足で終わってしまう可能性がありますので、つねに一切諸仏・一切衆生に開いて評判を聞かねばなりません。そしてこの成就は主として{諸仏称名の願}が因となって報いた果報であることも解るでしょう。
<ただ、われのみいまその光明を称するにあらず。一切の諸仏・声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆、ことごとくともに歎誉すること、またまたかくのごとし>について。
「諸仏称名の願」では「十方世界の無量の諸仏」が我が名(阿弥陀仏の名声)をたたえることが願われていますが、願成就のこの箇所では釈尊や諸仏のみならず、「声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆」までも、みな同じく阿弥陀仏をたたえておいでになることが果報として述べられています。つまり「諸仏称名の願」では「諸仏」としか述べられていませんでしたが、この箇所の諸仏は修行を成就した諸仏だけではなく、「一切衆生悉有仏性」という「法の真実」をふまえた本質としての諸仏≠ナあったことがここで証明されるのです。すると「諸仏称名の願」は他人ごとではなく、私たちも含めた称名であることが解ります。そしてここにある「声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆」は「機の真実」をふまえた実践者としての声聞・縁覚・菩薩衆≠ナすから、念仏者すべて、仏教徒すべての称名念仏であることがより明確になって述べられています。
一切諸仏・菩薩・声聞・大衆の賛同を得る
註釈版
もし衆生ありて、その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説して至心不断なれば、意の所願に随ひて、その国に生ずることを得て、もろもろの菩薩・声聞・大衆のために、ともに歎誉してその功徳を称せられん。それしかうしてのち、仏道を得るときに至りて、あまねく十方の諸仏・菩薩のために、その光明を歎められんこと、またいまのごとくならん」と。仏のたまはく、「われ、無量寿仏の光明の威神、巍巍殊妙なるを説かんに、昼夜一劫すとも、なほいまだ尽すことあたはじ」と。
現代語版
もし人々がその光明のすぐれた功徳を聞いて、日夜それをほめたたえ、まごころをこめて絶えることがなければ、願いのままに無量寿仏の国に往生することができ、菩薩や声聞などのさまざまな聖者たちにその功徳をほめたたえられる。その後、仏のさとりを開いたときには、今わたしが無量寿仏の光明をたたえたように、すべての世界のさまざまな仏がたや菩薩たちにその光明をたたえられるであろう」
釈尊が仰せになる。
「無量寿仏の光明の気高く尊いことは、わたしが一劫の間、昼となく夜となく説き続けても、なお説き尽すことができない」
<もし衆生ありて、その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説して至心不断なれば、意の所願に随ひて、その国に生ずることを得て>について。
衆生に仏徳として名を褒め称えられれば、阿弥陀仏自身は光明無量の願が一応成就し満足でしょうが、仏徳を褒め称えている私たち自身は満足できるのでしょうか。その答えがここにあります。「意の所願に随ひて、その国に生ずることを得」る。願いのままに無量寿仏の国に往生することができるのです。親鸞聖人も法位の言葉を引いて、「もし仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること決定して疑なし」と勧めてみえます。それではなぜ称名念仏にそうしたはたらきがあるのかと申しますと、称名念仏が聞法につながり、聞法によって仏願の生起本末を尊ぶことが本当に適い、これを真に讃ずることにより、讃ぜられた如来の真の徳が能所不二となって我が身に回向され満ちることになるのです。称えれば称えた中身がそのまま我が身に回施されることは、道理の上からも、生活の中からも頷けることでしょう。
<もろもろの菩薩・声聞・大衆のために、ともに歎誉してその功徳を称せられん>
その上今度は「菩薩や声聞などのさまざまな聖者たちにその功徳をほめたたえられる」とあるのですが、ここには二つの留意点があります。一つは、ここでは「菩薩・声聞・大衆」のために(菩薩・声聞・大衆が)褒めるのですが、「諸仏」は抜けています。なぜ諸仏はここでは褒めないのか、という点。もう一つは、「その功徳を称せられん」の「その功徳」とはどの功徳のことか、という点です。
まずは「諸仏」が抜けている理由ですが、すぐ後に「仏道を得るときに至りて」からは諸仏も歎じられるとありますから、二つ目の留意点である「その功徳」は阿弥陀仏の功徳だけではなく、信心獲得者の願往生の功徳も含まれていることが解ります。つまり、「仏の功徳」により念仏者は阿弥陀仏の本願成就のいわれを聞き開いて仏の功徳を忘れず褒める、これが「念仏者の功徳」で、この「仏の功徳」と「念仏者の功徳」を一体に観て、諸菩薩・声聞・大衆がこれを褒めるのです。しかもこれを褒めることが、諸菩薩・声聞・大衆の人生成就のためにもなってきます。
ところで、菩薩・声聞・大衆はそれぞれ自分の道を成就するために、仏と念仏者一体の功徳を褒めるのですが、まだこの段階では念仏者は完全に仏道を得ていません。「往生即成仏」は浄土の徳分から言えば間違いではないのですが、背負った宿業の問題と自らの国土建設の歩みの面からは「即成仏」とは言えないのです。これが「諸仏」が抜けている理由なのですが、次の文章を読むとこの別がよりはっきりしてきます。
<それしかうしてのち、仏道を得るときに至りて、あまねく十方の諸仏・菩薩のために、その光明を歎められんこと、またいまのごとくならん>
安楽国に往生することを得た正定聚の菩薩、つまり信心獲得の念仏者は、往相の菩薩のまま還相回向のはたらきに乗じて宿業の場(時代や環境に限定のある個別の現場)に戻り、自らの国土を成就させ、「仏道を得るときに至りて」からは、つまり自分が実際に仏の智慧と徳を成就したならば、釈尊が無量寿仏の光明をたたえたように、すべての世界のさまざまな仏がたや菩薩たちにその光明(念仏者の上に華開いた仏性のはたらき)をたたえられるであろう≠ニいうわけです。これは{必至滅度の願}成就の果報ですから、「今の私がそうだ」と言うことはできませんが、最初にあるように、せめて「寿終りてののちに」みな解脱を蒙りたいという願いの深さをもってこの功徳の成就とするのです。
諸仏はみな既に独立を果たし、自らの国土を建設しているわけですから、いくら阿弥陀仏の浄土の住民といえどもまだ諸仏が称える対象ではありません。しかし安楽国の道場で念仏者は楽しくお育てにあずかり、「もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹を成ぜん」との仏のお墨付きを得て独立を果たし、自らの国土を創造し整えていく過程においては、「あまねく十方の諸仏・菩薩」も大いに参考になるのであり、その功徳が褒め称えられるのです。
光明が成就することは、現在ただいま、私の上に成就するだけではない。今度、私を通して十方の諸仏が私を讃め称える。それが、初めて弥陀が成就するのです。
ということは、分かりやすく言うならば、親はどこで成就するかといいますと、親は自分の子供に親の徳が伝わって、息子がどこへ行こうと、娘がどこへ嫁に行こうと、今度は自分の息子や娘が行ったところの周囲の人が、「なんと、今度来た嫁さんは立派な嫁さんだ」と嫁さんを讃め称えるときに、親が親として成就する。こういうものでしょう。
だから、阿弥陀にお浄土へ来い来いではない。皆、阿弥陀の浄土へ生まれていくことばかり考えておる。そうではない。阿弥陀が成就するということは、ちょうど親が成就すると同じように、親の手元へ戻ってこいではなしに、親の徳が子供の上に届いて、どこへ行っても「まことこれは島田の子だ。立派な子だ。親が親だから子供も立派な」と言うて、嫁に行った娘を周囲の人までが、それを讃め称えてくれるような。そこまで来なかったら、本当の親が親として成就しないのです。子供が助かったまんまが親が助かるの。こういうことを運命共同体という。
たとえ我、仏になったときに、衆生がこれこれのことがなかったならば、私も正覚取らんという。運命共同ということは、こういうことなんです。仏と御約束(おんやくそく)言いましょう。そういうことが、ちゃんとこれで分かるわけ。
<仏のたまはく、「われ、無量寿仏の光明の威神、巍巍殊妙なるを説かんに、昼夜一劫すとも、なほいまだ尽すことあたはじ」と>
これは現代語版の訳でほぼ解るでしょう。
「無量寿仏の光明の気高く尊いことは、わたしが一劫の間、昼となく夜となく説き続けても、なお説き尽すことができない」ということですが、「巍」とは「讃仏偈」の「光顔巍巍」と同じで、無量寿仏の功徳のはたらきを盛んに強調しているわけです。 
仏、阿難に語りたまわく、無量寿仏の寿命の長久なることは称(はか)り計(かぞ)うべからず。汝、むしろ知らんか。たとい十方の世界の衆生、皆人身を得て、悉く声聞縁覚たることを成就せしめ、すべて共に集会して、禅思し一心にその智力を竭(つく)して、百千万劫に於いて悉く共に推し算え、その(無量寿仏の)寿命の長遠なる劫数を計えんも、その限りと極みを窮尽して知ること能わず。
声聞と菩薩と天人の衆の寿命の長短もまた、またかくの如く算数譬喩して知ることの能わざる所なり。
また声聞菩薩は、その数を量り難く、称説(説明)すべからず。
神智(神通と智慧)は洞達(どうたつ、通達)し、威力は自在にして、よく掌中に於いて、一切の世界を持(たも)つ。
釈尊がさらに阿難に仰せになる。
「無量寿仏の寿命は実に長くて、とてもはかり知ることができない。そなたもそれを知ることはできないだろう。たとえ、すべての世界のものがみな人間に生れて、残らず声聞や縁覚となり、それらの聖者がすべて集まって、思いを静め、心を一つにしてさまざまな智慧をしぼり、百千万劫の長い間、力をあわせて数えても、その寿命の長さを知り尽すことはできない。その国の声聞・菩薩・天人・人々の寿命の長さもまた同様であり、数え知ることもたとえで表すこともできない。また声聞や菩薩たちの数もはかり知れず、説き尽すことができない。それらの聖者たちは智慧が深く明らかで、自由自在な力を持ち、その手の中にすべての世界をたもつことができるのである」  
絶えることのない無上菩提心
前回までは阿弥陀仏の光明(はたらき)の実際を見てきましたが、今回は「阿弥陀仏と念仏者の寿命(主体)が長く久しい」という事実を見ていきます。ここで阿弥陀仏の本質と衆生の本質が明らかになっていきます。
註釈版
仏、阿難に語りたまはく、「無量寿仏は寿命長久にして称計すべからず。なんぢむしろ知れりや。たとひ十方世界の無量の衆生、みな人身を得て、ことごとく声聞・縁覚を成就せしめて、すべてともに集会し、禅思一心にその智力を竭して、百千万劫においてことごとくともに推算してその寿命の長遠の数を計らんに、窮尽してその限極を知ることあたはじ。
現代語版
釈尊がさらに阿難に仰せになる。
「無量寿仏の寿命は実に長くて、とてもはかり知ることができない。そなたもそれを知ることはできないだろう。たとえ、すべての世界のものがみな人間に生れて、残らず声聞や縁覚となり、それらの聖者がすべて集まって、思いを静め、心を一つにしてさまざまな智慧をしぼり、百千万劫の長い間、力をあわせて数えても、その寿命の長さを知り尽すことはできない。
これは<たとひわれ仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下、百千億那由他劫に至らば、正覚を取らじ>(わたしが仏になるとき、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません)という第十三願{寿命無量の願}が成就した果報です。
ここで重要なのが、「無量寿仏は寿命長久」であるということと、「称計すべからず」ということです。
「無量寿仏は寿命長久」であるとは、一体どういう事実を言うのでしょう。
結論から先に申します。まず「無量寿仏」とは、一切諸仏の智慧と徳の総体であり、仏性の歴史的主体であり、求道の王(中心)であり、一切衆生と共に環境と歴史を創造する「創造的根本主体」であります。こう聞いても何のことか解らない方もみえるでしょうが、一度最後まで目を通して下されば、大まかには解って頂けると思います。
この無量寿仏の「寿命」は、単に心臓が動いていることを言うのではありません。仏が仏としての本分を尽くし続けている期間を寿命というのです。
衆生はただ単に生きているだけではありません。何かを求めて生きている。生きよう、生きよう、より良く生きようと願って生きている、これが生命の本質であり仏性なのですから、この何か≠明らかにし、自らの内に見出し、実現させていくことにより本当に満足する人生を成就できるのです。
仏の本分は「自覚覚他覚行円満」と言いまして、智慧と徳が円熟することにあります。もっと言いますと、円熟しようと願い続け、行じ続け、徳を得、徳を名に込めて衆生にはたらき続けている、その期間を寿命と言うのです。ですから「これで完成した」と座り込んだ途端に寿命は尽きてしまうのです。どこまでも道の途中でありながら、今、今、今と願いを成就させてゆく卒業なしの求道心が仏の寿命です。特に阿弥陀は一切衆生を胸に抱いている仏です(一切衆生を胸に抱いている存在に阿弥陀と名がつけられた)から、実際に一切衆生が覚りを開くまで阿弥陀の寿命が尽きることはありません。
仏の命は上記等のことを総じて無上菩提心[ムジョウボダイシン]と顕します(「寿」は仏の胸に宿る本願であり、「命」は無上菩提心)。「無上菩提心」は願作仏心[ガンサブッシン]と度衆生心[ドシュジョウシン]の両面を持ちます。
「願作仏心」は、理想仏である世自在王仏に成ろうと願いをかけ続けること。一つの覚りに満足して法に執着するのではなく、真心をもって常に新たな地平を目指し、常に覚り、常に新たに覚り、衆生とともに本当に人生を成就させ続けてゆく卒業なしの道心が「願作仏心」です。
「度衆生心」は「願作仏心」の必然的展開です。それは一切衆生の往生と正定聚の位を得さしめるはたらきの源泉であり、「願作仏心」と不二の関係を持つ心です。「往生論註1」には<仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る>とありますように、往生を願う衆生には仏徳の報いである智慧と徳すべてが一人ひとりに施され、その環境のはたらきによって衆生が目覚め、ひとり一人の国土が阿弥陀仏の浄土のように素晴らしい環境になることを約束するのです。阿弥陀仏の浄土は、正定聚不退転の菩薩を無限に生み出してゆく環境でありますから、その根本主体である阿弥陀仏もまた限りない寿命を得ていることが解るでしょう。
次に「称計すべからず」について。
<たとひ十方世界の無量の衆生、みな人身を得て>ということですから、全ての生命がもし人間となって、しかも<ことごとく声聞・縁覚を成就せしめて>とあります。声聞[ショウモン]とは仏法を聞くだけに留まっている人、縁覚[エンガク]は独覚[ドッカク]とも言って、師につかず法統に依らず、天然自然に触れて独り覚る者を言います。この「声聞・縁覚」が「無量寿仏は寿命長久」の譬えとしてが引き合いに出されているのですが、ここに大乗仏教の大乗仏教たる所以がありますので、もう少し深くこの意図を探ってみたいと思います。
仏教では、その境涯・境地により「地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人」という三界(凡夫の迷いの世界)と、「声聞・縁覚・菩薩・仏」という聖者の悟りの世界に分け、あわせて「十界」「六凡四聖」といい、さらにこの十界各々に十界を有する(十界互具)と説きます。すると「声聞・縁覚」の二乗は既に六道を脱していますので、迷いを重ねるだけの人生ではなく、仏道を歩む聖者の仲間なのですが、「助道法」(菩提資糧論)には以下のような徹底した批判が記され、龍樹菩薩や天親菩薩もこれを自らの著書で引かれています。
もし声聞の地位や縁覚の地位に堕ちるならば
これを菩薩の死と名づけるそうなれば一切の利益を失う
たとい地獄に堕ちてもかような畏[おそ]れは生じないが
もし二乗の地位に堕ちるならばすなはち大きな畏れとなる
なんとなれば地獄の中に堕ちてもついには仏果に至ることはできるが
もし二乗の地位に堕ちるならばついに仏になる道をさまたげるからである
仏みずから経の中にこういうことを説かれてある
寿命を惜しむような人は首を斬られることを大いに畏れる
菩薩もまたこの通りもし声聞の地位や
縁覚の地位に堕ちるならば大きな畏れを生じるであろう
このように、地獄に堕ちるより二乗(声聞・縁覚)に堕ちる方が悪い≠ニいうことですが、どうして大乗仏教では二乗にこのような激しい批判が加えられたのでしょう
それは、たとえば地獄は迷いと苦難の最たる世界ですが、それゆえ自らが迷っていることには気づきやすく、何らかの変革を求めざるを得ない心境にあることは確かでしょう。ただ変革の方法と依りどころを知らないだけですから、仏法に出遇って道を求めればやがて仏に成ることができるのです。
しかし「声聞」は、「自分は尊い仏法を知っている」という思い込みがあり、下手に知識ばかりが増えてしまっていますので、仏教の基本である自己変革を為そうという発心が起きず、言い訳と議論ばかりが上手になってしまいがちです。「心を直さぬ学問して何の詮かある」と叡尊は言われましたが、現代においても仏教の研究が単なる教養や思索的な面白さに偏りがちな傾向にあり、憂慮すべき状態であることは否めません。
ただし、本来の「声聞」は決して悪い意味ではありません。菩薩としての私も常に一人の人間として立ち返り、一生涯仏法を聞いてお育ていただきます≠ニわが身を振り返った時に出てくる言葉が「声聞」なのです。この本来の声聞が浄土の声聞なのであり、その聞法精神を親鸞聖人は「五劫の思惟も兆載の修行も、ただ親鸞一人がためなり」(歎異抄7)と領解されてみえるのです。
またこの「光明無量」の章の最初には「あるいは仏光ありて七尺を照らし」とあり、「仏説無量寿経」28(下巻)には「かの仏国のなかのもろもろの声聞衆の身光は一尋なり」とありますように、聞法の際にはつねに一個人の立場に立ち返らねばなりません。この念仏者自身の聞法精神を名づけて「声聞」といい、念仏者の環境全体を背負った求道精神を名づけて「菩薩」というのですが、「ただ親鸞一人がためなり」に留まってしまうことが悪いのです。経典では「菩薩の光明は百由旬を照らす」と説かれていますし、親鸞聖人は「如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命」と、菩薩としての領解に展開してみえます。「菩薩の死」と批判された「声聞」は、こうした菩薩としての展開ができない「声聞根性」が抜けない人のことを言うのでしょう。
それではひとたび声聞になってしまったら絶対に仏果に至ることは無いのでしょうか。阿弥陀仏のはたらきは、声聞には及ばないのでしょうか。
実は、「仏説観無量寿経」を読むとそうではないことが解ります。美人で頭が良く大国の王妃として栄華を極めた上に仏法を聞く機会に恵まれていたイダイケ夫人も、ダイバダッタと息子の裏切りに遭うまでは批判的な意味の声聞でしかありませんでした。ところが絶望の淵で釈尊の勧めによって浄土往生を願うことができましたので、途端に本願一乗海に入ることができ、息子や国民共々菩提心を発こすことが適ったのです。ですから二乗地に堕すれば、畢竟じて仏道を遮す≠ヘ、二乗に堕す危険性を強調して説いているのですが、もし念仏に遇う機会がなければ「仏道を遮す」まま朽ちてしまうところでした。
また「縁覚」は先に述べたように「独覚」であり、師につかず法統に依らず、天然自然に触れて独り覚る者≠ネのですが、これでは歴史的現実に立つことができず、人類共通の課題にも無頓着になってしまいます。私たちが生きている場は常に歴史的現実なのであり、人類共通の課題を担って生活しているのです。共に覚ろうと願い行じ、共に生きる環境を整えていくことが「菩薩」として生きる道であり、この自覚を得て歩む者を正定聚・不退転の菩薩≠ニ言うのです。
さらに言えば、独立独歩では偏狭な人生観を打ち破ることができず、師を得なければ仏果を得ることは適いません。経典においても、世自在王仏が荘厳(創造)すべき仏土について、<そなた自身で知るべきであろう>と独立独歩を勧めたにも関わらず、阿弥陀仏は<いいえ、それは広く深く、とてもわたしなどの知ることができるものではありません。世尊、どうぞわたしのために、ひろくさまざまな仏がたの浄土の成り立ちをお説きください。わたしはそれを承った上で、お説きになった通りに修行して、自分の願を満たしたいと思います>と申しあげた、とあります。親鸞聖人も曇鸞大師の導きのおかげで浄土論が領解でき、教学を確立することが適いました。あらゆる高僧も、師の無い人はいません。
なぜなら、師がいなければ人はいつも第一歩から始めなければならなくなるからです。誰しも覚りを開く可能性はあると言っても、何万年もかければ適いますが、覚るまでに命が尽きてしまいます。しかし善き師(善知識)に出遇えば、独りでは何万年もかかるところが本当に短い期間で仏果を得ることが適います。これは仏道のみならず、あらゆる道に通じます。たとえば科学や医学を極めようとした時、独立独歩ではどこまで学べるか覚束[おぼつ]ないでしょう。専門の先生に就いて人類全体の歴史的成果を学び、実習を通して身につけていけば、苦労はしますが自分一人で一から研究するよりは早く学べます。仏教には諸仏諸菩薩の智慧と功徳が満載されていますが、これを単なる言葉の羅列[ラレツ]にしないためにも師の導きは必須となります。道綽禅師は――
真言を採り集めて助けて往益を修せしむ。なんとなれば、前に生ずるものは後を導き、後に去かんものは前を訪ひ、連続無窮にして願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり。
と仰いましたが、「真言」は密教の言葉という意味ではなく真心そのもの≠言います。先人たちから受け継がれてきた尊い智慧と徳を<連続無窮にして願はくは休止せざらしめんと欲す>と言わしめた道綽禅師の胸の中には、無量寿仏の寿命長久が宿っていたことが解るでしょう。これによって言葉が単なる情報ではなく輝きを放ついのちになるのです。
このことが次の――
<すべてともに集会し、禅思一心にその智力を竭して、百千万劫においてことごとくともに推算してその寿命の長遠の数を計らんに、窮尽してその限極を知ることあたはじ>(それらの聖者がすべて集まって、思いを静め、心を一つにしてさまざまな智慧をしぼり、百千万劫の長い間、力をあわせて数えても、その寿命の長さを知り尽すことはできない)に表れています。
歴史の重みを知らない縁覚や、自己変革を願わない声聞には、たとえ経典はあっても文字の羅列でしかありません。「寿命長久」と聞いてもそこに驚きや感動がありませんから、寿命長久が時間的なものとしてしか受け取れません。声聞・縁覚の二乗は結局、自力の頭で数えたり勝手な想像を出ませんから「知り尽すことはできない」のです。
しかし仏・菩薩であれば、如来回向の信心により「寿命長久」を感動をもって受け取ることができるのです。ただしこれは、仏・菩薩は実際に阿弥陀仏の寿命の長さを知り尽すことができた≠ニいう意味で言うはありませせん。「阿弥陀仏の寿命の長さを知り尽すことはとてもできないなあ」と嘆じる経典の真意が「骨身にしみて領解できる」ということが「寿命無量」の真意なのです。仏・菩薩は常日頃、人類や生命全般に尊崇の念を抱いて生きていますので、「寿命長久」と聞けばその言葉の真意が解り同感できるので、寿命長久の譬えには声聞・縁覚のみで、仏・菩薩は入っていないのでしょう。
阿弥陀仏の寿[いのち]が念仏者の命[いのち]と成る
註釈版
声聞・菩薩・天・人の衆の寿命の長短も、またまたかくのごとし。算数譬喩のよく知るところにあらざるなり。また声聞・菩薩、その数量りがたし。称説すべからず。神智洞達して、威力自在なり。よく掌のうちにおいて、一切世界を持せり」と。
現代語版
その国の声聞・菩薩・天人・人々の寿命の長さもまた同様であり、数え知ることもたとえで表すこともできない。また声聞や菩薩たちの数もはかり知れず、説き尽すことができない。それらの聖者たちは智慧が深く明らかで、自由自在な力を持ち、その手の中にすべての世界をたもつことができるのである
これは――
<たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、寿命よく限量なからん。その本願の修短自在ならんをば除く。もししからずは、正覚を取らじ>(わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の寿命には限りがないでしょう。ただし、願によってその長さを自由にしたいものは、その限りではありません。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません)という第十五願{眷属長寿の願}が成就した果報で、これによって創造的根本主体≠ナある阿弥陀仏の寿命が創造的前衛主体≠ナある眷属(念仏者)の寿命と成ります。阿弥陀のいのちが阿弥陀の方からはたらいて私のいのちと成り切る。根本と前衛のいのちが一体となることで、現実社会にはたらき出ることが可能となります。これは、「最も前衛なるものだけが真に根源なるものを具する」という現象面の真実を、原理として示している箇所でもあります。
ここでまず注目すべきは、「声聞・菩薩・天・人」はいますが「縁覚」がいないことです。このあたりが阿弥陀仏の浄土の特徴でしょう。縁覚は独覚で、師につかず法統に依らず天然自然に触れて独り覚る者を言いますが、この縁覚がいないと言うことは取りも直さず、阿弥陀仏の浄土は人類の歴史や文明と密接な関係にある環境だ、ということが証明されているのです。ですから極楽は山の彼方にある≠ニ逃避的に仰いだ国土は、少なくとも阿弥陀仏の浄土の本質をあらわすものとは言えないのです。
では「声聞・菩薩・天・人」がいるのはどういうわけでしょう。また「地獄・餓鬼・畜生・修羅」界の住民がいないのはどういうわけでしょう。
まず「地獄・餓鬼・畜生」は、第一願{無三悪趣の願}に、三悪道を浄める願いが建てられ、この願が成就した果報の浄土ですから、地獄・餓鬼・畜生の悪環境は浄化されています。修羅は四十八願においては特に触れていませんが、正義を振りかざして争いを好む性質上、浄土においてはその癖が浄化されているのでしょう。つまり、これらの課題を克服した環境が我々人類の歴史や文明に存在し、悪世界を浄化しようと働き出てくださっている、この尊いはたらきと徳を持った世界が安楽国土(阿弥陀仏の浄土)とみずから名のったのです。
つぎに「声聞」がなぜ浄土にいるのかという問題は、先に説明した通り、菩薩がまず一個人として、一生涯にわたって仏法を聞き開こう≠ニいう聞法精神が盛んであることを示しています。「浄土の声聞」はこの個人の問題を踏まえながら社会的な立場に展開するのですが、一般に言う「声聞」は、「自分は尊い仏法を知っている」という思い込みがあり、下手に知識ばかりが増えてしまっていますので、大抵は仏教の基本である自己変革を為そうという発心が起きず、言い訳と議論ばかりが上手になってしまいがちです。
親鸞聖人は――
しかるに「経」(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
と、法を聞き開くことによって阿弥陀仏の歴史と浄土の本質が覚れることを示しています。阿弥陀仏の浄土では、聞法がそのまま仏徳讃嘆となり、本願力回向の菩提心を発こすことが可能となるのです。本願の法を聞くことによって、いつのまにか浄土往生を願わずにはおれなくなり、結果として正定聚の菩薩となり、やがて仏果を得ることが適うのです。
これは諸仏の浄土とは異なり、阿弥陀仏の浄土は全ての衆生それぞれの場に応じ、常に楽しく修する道場を提供することができることをあらわしています。なぜなら、本願成就の歴史を聞き開くだけで、自分の本来の姿を見出し、今の自分の有様を懺悔し、一切衆生とともに広大会に立って、本願成就があらためて自分の身の上の成就となってはたらく、そうした一切の道程が浄土の土徳に含まれているからです。つまり、阿弥陀国土の声聞は諸仏国土の声聞と異なり、声聞であっても菩薩の内容を持った聞法であり、仏道を遮すことなく、声聞から菩薩・仏の立場に直ぐに開き、また立ち戻ることができる身なのです。
これは天・人も同様で、ともに迷いの世界の癖を残しながら、浄土の土徳によってそのまま浄土の眷属となることができるのです。島田幸昭師は仏の願心が受けとれて、その人の信心となったことを「人天」と現わしたものでしょう≠ニ示されています。
なお、聖典では<天・人>(天人・人々)と別に解釈されていますが、天と人は別ではなく「天人」だけであるという解釈も成り立ちます。人々の状態が声聞界・縁覚界・天人界などの境地境涯であることを示しているのに、ここにわざわざ「人々」が入るのは蛇足だというわけです。このことは後にも触れてみます。
さて、そうした浄土の眷属(念仏者)について、<寿命の長短も、またまたかくのごとし。算数譬喩のよく知るところにあらざるなり>(寿命の長さもまた同様であり、数え知ることもたとえで表すこともできない)とはどういう意味でしょう。阿弥陀仏が寿命長久なのは解りますが、ひとり一人の寿命まで<またまたかくのごとし>(また同様であり)であるはずはありません。仏性の歴史は継承されますが、個人個人の寿命は諸行無常であり有限のはずです。それが阿弥陀仏と同様の寿命とはどういうことでしょう。
このことは{「人民〔の寿命〕も、無量無辺」の疑問}にも書きましたが、阿弥陀仏の寿命は浄土の住民に及ぶことによって本当に無量となるのであり、本当に一切衆生に無辺に広がり、無限に展開することが可能となるのです。法は人を待って広がる。阿弥陀仏は、現実に生きている人々を通してのみ存在し働くことができるのであり、衆生は、阿弥陀仏が存在するがゆえに有限の命が有限に閉じず、「計り知れない寿命」という歴史の重みを持つことができるのです。島田幸昭師は「阿弥陀仏のいのちが衆生のいのちとなる」と仰られましたが、阿弥陀仏の寿命と念仏者の寿命は不一不二で、一(全く同じ)とは言えませんが二(別)とも言えず、<寿命の長短も、またまたかくのごとし>と説かれるのです。
さらに注視すべきは<寿命の長短>とあることです。<寿命長久>だけなら解るのですが<長短>の「短」とはどういう意味でしょう。わざわざ寿命を短くする必要があるのでしょうか。
これは、念仏者は有限の命に<寿命長久>と普遍的な内容で生きることも可能なのですが、有縁を度す≠スめにあえて時空を限定した生き方をすることがある、ということでしょう。その時代特有の課題に即した生き方をすることを「短」と言うのです。
たとえば親鸞聖人は、「顕浄土真実教行証文類」を著された時は普遍的課題を背負って<寿命長久>の面を発揮されましたが、身近な方々と親身に接せられて時代特有の問題もないがしろにされませんでした。現代においても親鸞聖人の生き様が共感されるのは、如来回向の<寿命長久>が実現していることに他ならないのですが、中には当時の時代的特徴を感じる部分もあるでしょう。これが「短」ということです。
さらにいえば、蓮如上人は特に時代とともに生きられた方でした。ですから現代人にとって「御文章」は古い印象を与え、学者から無視されがちなのですが、<寿命長久>が背景にあることを見逃してはなりません。
<また声聞・菩薩、その数量りがたし。称説すべからず>
(また声聞や菩薩たちの数もはかり知れず、説き尽すことができない)
ここで問題なのは、直前に寿命を言う時は<声聞・菩薩・天・人の衆の寿命>とあったものが、数量を言う時は<声聞・菩薩、その数量りがたし>と天・人が抜けていることです。先に天と人は別ではなく「天人」だけであるという解釈も成り立ちます≠ニ書きましたが、もし「天・人」が「天人・人々」の別であれば、数量を言う時に「人々」が抜けるはずはありません。これを見ても「天人」だけとする解釈の方が正しいことが解るでしょう。
では寿命においては「声聞・菩薩・天人」であったものが、どうして数においては「声聞・菩薩」のみなのでしょうか。これは、阿弥陀仏より回向された寿命≠フ中には、可能性や種や徳として宿っているもの全てを含んでいるため天人も含まれているが、いよいよ現実に阿弥陀仏の寿命が回向された存在として数える時には天人は外される、ということでしょう。なお「その数量りがたし」については次章で詳説しますが、{声聞無量の願}が成就した上で、実際に仏法が転じられている果報を言います。
<神智洞達して、威力自在なり。よく掌のうちにおいて、一切世界を持せり>
(それらの聖者たちは智慧が深く明らかで、自由自在な力を持ち、その手の中にすべての世界をたもつことができるのである)
この「一切世界を持せり」の主語は誰でしょう。阿弥陀仏でしょうか、声聞・菩薩でしょうか。
現代語版では「それらの聖者たち」、つまり「声聞・菩薩」が主語となっていますが、いくら浄土の声聞・菩薩でも「一切世界を持せり」は言い過ぎではないかと思われます。阿弥陀仏より回向された無量のいのちを身に満たしている≠ニいっても、ひとり一人が実際に「その手の中にすべての世界をたもつことができるのである」と断言できるのでしょうか。
もちろん、浄土の徳分としては断言できるので「それらの聖者たち」という訳が間違いとは言い切れませんが、念仏者がそこまで責任を持つというのは少し飛躍があるようにも思えます。
この点、島田幸昭師も以下のように訂正を促してみえます。
今まで私が見た範囲では、皆これがお浄土の声聞・菩薩の徳だとこう書いてあるんであります。ところが、どうも読んでみますとそうではなしに、これは「また声聞・菩薩、その数量り難く、称説すべからず」とこう書いて、切れて元へ戻って、阿弥陀仏の徳が寿命の徳が阿弥陀の仏のいのちの徳が「神智洞達し威力自在なり」と。そして、掌(たなごころ)の中に掌に、一切世界を持っておるんだとこう読んでいったら自然ではないかとこう思うんであります。これもまた、そういうことを言った人があるかどうかは分かりませんけれども、どうもこれでは、今までの人の読み方をしておったのでは、どうもこの文章が無理があるような感じがしますから。
そうすると、これは何が言いたいのかというと、実はいのちと言うてもただ単に息をするといういのちではないのです。だから、一切世界を持っておるという。ただお浄土だけではない。阿弥陀仏は、お浄土を持っておるだけではないのです。一切世界を掌に持っておるということは、実は迷いの世界だろうが、迷うておる人間だろうが、「三界は我が有(う)なり」。「三界」とは、「欲界・・色界・無色界」で、ほかの言葉で言うなら迷いの世界。五道、六道、全部それが私の世界だと抱き。だから「三界は我が有なり」、その中の衆生は一人残らず私の子だと一切衆生を皆、抱き取ったと言う。それが仏のいのちが仏のいのちに支えられて、掌(てのひら)でこう支えておるのです。だから、私たちが気がついてみるとみんな現在、仏のいのちの中にみんな支えられておるんだということを、まず言っておられるのだと思うんであります。
(中略)だから、私が知らざるときのいのちも仏のいのちと、こうおっしゃったように、この場合、息をするのではないのです。これは私たちが気がついてみたら、「一切衆生、悉有仏性」でしょう。子供のときから「いい子になりたい、いい子になりたい」というこの心さえも、「幸せになりたい、幸せになりたい」というこの心さえも、皆これが仏のいのちに支えられておる姿だということをおっしゃっておられるのだと思うんであります。
そういうわけで、まず仏のいのちとは、そういうように私の気がつかないところまでもちゃんと仏のいのちが染み通ってきておるのだということをここで念を入れておっしゃっておるんだ。しかも、それが、ただ支えておるのではないのです。「神智洞達」でありますから、ちゃんとかゆいも痛いも知り尽くして、その上でこの人はこの人、あの人はあの人、皆「青色青光、白色白光」の宿業、一人一人の宿業を見極めた上で一切衆生皆、支えておられるのだとこういうことを言おうとして、こういう言葉が出てきておるのではないだろうかと思うわけであります。
おそらくこの通りなのでしょう。「三界は我が有なり」は、たとえ浄土といえども声聞には荷が重過ぎます。ただし、阿弥陀仏の<一切世界を持せり>の徳を回向された私たちにとっては、有縁の中では「我が有なり」の心がけを持ちたいものです。自分の関わっている人間関係の中で他人のことは興味なし≠ナ、自分の利益確保ばかりに動くのでは往生を願う意味がありません。子どもにとっての親心は、やがて親にとっての親心となるように、阿弥陀仏の寿命無量が回向された念仏者は実際、狭量な価値観を破って、広く人々を認め持する境地になる願いを発こしてゆくものなのです。
聖典等資料
もし声聞地、および辟支仏地に堕するは、これを菩薩の死と名づく。すなはち一切の利を失す。
もし地獄に堕するも、かくのごとき畏れを生ぜず。
もし二乗地に堕すれば、すなはち大怖畏となす。
地獄のなかに堕するも、畢竟じて仏に至ることを得。
もし二乗地に堕すれば、畢竟じて仏道を遮す。
仏みづから「経」(清浄毘尼方広経)のなかにおいて、かくのごとき事を解説したまふ。
人の寿を貪るもの、首を斬らんとすればすなはち大きに畏るるがごとく、菩薩もまたかくのごとし。もし声聞地、
および辟支仏地においては、大怖畏を生ずべし  
無量の声聞と菩薩
仏、阿難に語りたまわく、彼の仏の初会(しょえ、仏として初の説法)の声聞衆の数も称計(しょうけ、計量)すべからず。菩薩もまた然り。よく大目ノ連(だいもっけんれん、神通第一)の如きもの百千万億無量無数なるが、阿僧祇(あそうぎ、無数)那由他(なゆた、十億)劫に於いて、乃ち滅度に至るまで、悉く共に計校(けきょう、計算)すれども、多少の数を究了(くりょう、究明)すること能わず。
譬えば、大海の深広にして無量なるが如し。もしある人、その(頭髪の)一毛を析(さ)いて、以って百分と為し、一分の毛を以って、一H(しずく、滴)を沾(ひた)し取らば、(汝が)意に於いて云何ん、そのH(した)たる所のものは、彼の大海に於いて、何所(いくばく)をか多しと為す。
阿難、仏に白さく、「彼のHたる所の水を大海に比ぶるに、多少の量は巧暦(きょうりゃく、巧みに算える)、算数、言辞、譬類(ひるい、譬喩)のよく知る所に非ず。」
仏、阿難に語りたまわく、「目連等の如き、百千万億那由他劫に於いて、彼の初会の声聞菩薩を計えれど、知る所の数はなお一Hの如く、それ知らざる所は大海水の如し。」
釈尊が続けて仰せになる。
「無量寿仏がさとりを開かれて、最初の説法の座に集まった声聞たちの数は、数え尽すことができない。菩薩たちの数もまた同様である。目連のように神通力のすぐれたものが数限りなく集まり、はかり知れない長い時をかけて、命が尽きるまで力をあわせて数えても、その数を知り尽くすことはできない。それはたとえば、限りなく深く広い大海の水に対して、人が、一本の毛を百ほどに細かく裂き、その裂いた一すじの毛で一滴の水をひたし取るようなものである。そなたは、その一滴の水と大海の水とをくらべてどちらが多いと思うか」阿難がお答えする。
「その一滴の水と大海の水とをくらべようにも、量の多い少ないの違いは、測量や計算や説明や比喩などでは、とうていはかり知ることができません」釈尊が阿難に仰せになる。
「目連のようなものたちが、はかり知れない長い時をかけて、その最初の説法の座に集まった声聞や菩薩たちの数を数えても、知ることができるのはわずか一滴の水ほどであり、知ることができないのは実に大海の水ほどもあるのである。  
悉有仏性の初動
前回は、「阿弥陀仏と念仏者の寿命(主体)が長く久しい」という経意を、創造的世界の創造的根本主体≠ナある阿弥陀仏の寿命が、創造的前衛主体である念仏者(正定聚[ショウジョウジュ]の菩薩・声聞)の寿命と成って無限に展開している事実から確認しましたが、今回は弥陀成仏の際に集まった「初会[ショエ]の声聞衆[ショウモンシュ]と菩薩衆の数」が称計[ショウゲ]すべからず(数え切れない)という内容を事実として明らかにしていきます。
註釈版
仏、阿難に語りたまはく、「かの仏の初会の声聞衆の数、称計すべからず。菩薩もまたしかなり。
現代語版
無量寿仏がさとりを開かれて、最初の説法の座に集まった声聞たちの数は、数え尽すことができない。菩薩たちの数もまた同様である。
阿弥陀浄土に集う声聞・菩薩の数が量り知れないということは、前回も<また声聞・菩薩、その数量りがたし>とありましたが、今回は「初会」の声聞・菩薩衆の数ですからまた意味合いが違います。前回は、今現在の阿弥陀仏浄土に集う声聞・菩薩衆の数ですが、今回は、阿弥陀仏が十劫成道を果たしたその瞬間、既に声聞・菩薩衆の数が計り知れないほど集っていたというのです。これは実に驚嘆すべき内容、そして有り難い内容なのですが、何が驚くべき有り難い内容であるのか解りますでしょうか。
阿弥陀仏の初会の衆は、声聞・菩薩の数無量なり。
神通巧妙にして算ふることあたはず。このゆゑに広大会を稽首したてまつる。
「讃阿弥陀仏偈」15
弥陀初会の聖衆は算数のおよぶことぞなき
浄土をねがはんひとはみな広大会を帰命せよ
このように曇鸞大師や親鸞聖人は、阿弥陀仏の初会(初めての説法)に集まった声聞・菩薩の数が無量であることを褒めてみえますが、この果報を生んだ因は{声聞無量の願}:<たとひわれ仏を得たらんに、国中の声聞、よく計量ありて、下、三千大千世界の声聞・縁覚、百千劫において、ことごとくともに計校して、その数を知るに至らば、正覚を取らじ>にあります。願文では「国中の声聞」のみですが、その背景として「国中の菩薩」も隠れています。このことは後にも触れます。
初会の衆の数が無量であるといっても、大勢の人たちが寄り集まって阿弥陀仏の教えを聞きに行った≠ニいう意味ではありません。逆に、阿弥陀の側から一切衆生には全て聞法精神・求道精神が宿っている≠ニ見抜かれたのです。仏教徒であるなしに関わらず、またどんな悪人でも、心の奥底では真実の法を聞きたい≠ニか真にこの人生を成就させたい≠ニいう願いがあるのですが、阿弥陀仏は衆生に先んじてこれを覚り、衆生は阿弥陀仏より回向される形で聞法精神・求道精神を身に受けることになります。
自分の不甲斐[フガイ]なさを嘆き自暴自棄になりそうな私たちに、阿弥陀仏から褒められる形で不断なる聞法求道の精神を頂くのです。そして同時に阿弥陀仏は、成就の方法(方便)も確立しているために<弥陀初会の聖衆は算数のおよぶことぞなき>と自信を持って言い切れたのです。
いくら「一切衆生悉有仏性」と見抜けても、結果として仏性が身に満ち生活として展開しなければ有っても無きが如しであり、有っても無きが如し≠烽フであれば仏教では評価することはできません。阿弥陀仏は既に「五劫思惟」によって五悪趣の迷いの世界を超えたところに本願を見つけ、清らかな行を選び取って浄土を荘厳(創造)するため永劫の修行を成就された、こうした裏づけ・果徳を得ている阿弥陀仏だからこそ聖衆無量と言い切れるのです。逆に言えば、せっかく集まった声聞に縁・無縁の優劣をつける経典は、その経家の覚りがまだ狭く碍[さわ]りがあり、現実に一切衆生を導く内容に成り切っていないことの裏返しでもあるのです。
前回の声聞・菩薩衆の数が無量≠ネのは、実際に仏法が転じられている今現在の果報を言いますが、初会の衆の数が無量≠ナ解るのは、法を語る最初から、既に阿弥陀仏は一切衆生の願往生と入正定聚を確信してみえた、ということです。この阿弥陀仏の確信があるゆえに、願成就の報土である阿弥陀の浄土は広大会[コウダイエ]として、何者をも拒むことなく、皆が皆を尊敬し、全ての衆生が心ゆくまで本音を語り合い、仏法を聞き開き、楽しく仏道を修することが適う場となるのです。
しかし諸仏の場合は、相手が一定の条件を満たしていなければ入門を断わらざるを得ません。これは諸仏に悪差別があるせいではなく、諸仏の宗教的動機が特殊であったり、時代性や地域性が完全には抜けず、方便にも限界があるせいなのです。そのため諸仏は一切衆生悉有仏性[イッサイシュジョウシツウブッショウ]と覚ってはいても、所謂[いわゆる]キャパシティーには限界があり、そのため受容人数が限られてしまい、聖衆無量と言い切ることができないのです。
たとえば大乗の「涅槃経」では「一切衆生悉有仏性」とも「衆生即仏性」とも言いまして、生きとし生ける者全てに仏性が有る≠ニ発見し、皆が仏に成れることを可能性として説いていますが、この可能性が本当に実現してゆく道程までは説かれていません。また中には「彼等のような者たちは退出した方がよかった」と、説くべき対象が一切衆生ではないことを理由に最高級・真実の裏づけとしている経典もありますが、これは全ての機に応じ切れていない結果でもありましょう。しかし「仏説無量寿経」では、悉有仏性の前提・理念・初動・展開・結末まで全てをこと細かに開いてみせています。
初会の衆無量は初動の段階ですが、ここにおいて既に結末までの展開が充分予想されていますので頼もしい限りと言えましょう。なぜなら、一切衆生を抱いて仏国土を創造し続ける根本主体(阿弥陀仏)にとって、負担とも見えていたであろう私たち悪衆生が、負担どころか、仏の願いを聞き開き、仏行展開の担い手とさえなってくれる存在であることを確信したのですから。
可能性としてだけ念じられていた悉有仏性が、仏性の側から一切衆生に聞法精神(声聞)・求道精神(菩薩)を見出した。これは具体的な一歩、それでいて確実に願成就の方向性を見出した一歩でしょう。諸経においては去る者は追わず≠ニ捨て置かれた悪衆生も、阿弥陀仏の「わが声聞よ」との呼びかけには頷[うなづ]かざるを得なくなるのです。どこまでも追いかけて法を説く浄土経典によって、衆生に見出した仏性の萌芽を阿弥陀仏の側から衆生に呼びかけ、衆生に成りきり、五劫思惟と永劫の修行によって、今ようやく真実の法を聞いてみようという心がけができた、という道程が明らかになります。
いくたびかお手間かかりしきくの花(加賀千代)
ところで浄土においては、声聞の数と菩薩の数はどちらが多いでしょうか。
「大智度論」には「弥陀仏の国には、菩薩僧は多く声聞僧は少なし」とあります。どうして菩薩の数が多いかと言うと、<「声聞」は、法を聞こうとする聞法の態度を現わし、「菩薩」は、人間関係において、また社会人として、どう生きるかという求道精神を象徴している>わけですから、阿弥陀仏の浄土においては、人々に聞法精神が回向されると、自[おの]ずとこの聞法精神が深められ求道精神に展開し、自己変革と環境創造に勤しむ生活(菩薩の法式)が身につく、ということでしょう。またこれは声聞衆と菩薩衆が別に存在して数の多少を言っている≠ニいう意味もあるでしょうが、むしろ同じ聖衆の意識が聞法精神より求道精神に深められている事実を数の多少でたとえているのかも知れません。
なおこの「大智度論」の説は現在の阿弥陀仏の国土のありさまを言います。では初会においては声聞衆と菩薩衆はどちらの方が多い(比重が大きい)のでしょうか。一度皆様方でお考え下さり語り合って頂けると、思わぬ真実が明らかになるのではないでしょうか。
本願一乗を領解して
註釈版
いまの大目ケン連のごとき、百千万億無量無数にして、阿僧祇那由他劫において、乃至滅度までことごとくともに計校すとも、多少の数を究了することあたはじ。たとへば大海の深広にして無量なるを、たとひ人ありて、その一毛を析きてもつて百分となして、一分の毛をもつて一タイを沾取せんがごとし。意においていかん、そのシタダるところのものは、かの大海においていづれをか多しとする」と。阿難、仏にまうさく、「かのシタダるところの水を大海に比するに、多少の量、巧暦・算数・言辞・譬類のよく知るところにあらざるなり」と。仏、阿難に語りたまはく、「目連等のごとき、百千万億那由他劫において、かの初会の声聞・菩薩を計へて、知らんところの数はなほ一タイのごとし。その知らざるところは大海の水のごとし。
現代語版
目連のように神通力のすぐれたものが数限りなく集まり、はかり知れない長い時をかけて、命が尽きるまで力をあわせて数えても、その数を知り尽くすことはできない。それはたとえば、限りなく深く広い大海の水に対して、人が、一本の毛を百ほどに細かく裂き、その裂いた一すじの毛で一滴の水をひたし取るようなものである。そなたは、その一滴の水と大海の水とをくらべてどちらが多いと思うか」
阿難がお答えする。
「その一滴の水と大海の水とをくらべようにも、量の多い少ないの違いは、測量や計算や説明や比喩などでは、とうていはかり知ることができません」
釈尊が阿難に仰せになる。
「目連のようなものたちが、はかり知れない長い時をかけて、その最初の説法の座に集まった声聞や菩薩たちの数を数えても、知ることができるのはわずか一滴の水ほどであり、知ることができないのは実に大海の水ほどもあるのである。
ここでは聖衆無量ということを具体的に示していることは解るのですが、受け取り方として、上座部との対比で説かれている≠ニいう見方と、一乗仏教の立場で説かれている≠ニいう見方ができるでしょう。
まずは上座部との対比で説かれている≠ニいう見方で受け取りますと――
目連はご存知の通り釈迦十大弟子の一人であり、神通第一の弟子と伝えられています。その神通第一の目連でさえ阿弥陀仏初会の聖衆の数を知ることができるのは全体のごくわずかである、というのですが、これを単純に理解すればそれほど初会の聖衆は数が多いのだ≠ニ受け取れます。しかしこのままでは、どこまで多いのか=Aどの範囲までを初会の聖衆と言うのか=Aまたそもそもどの時代の聖衆を指すのか%凾フ問題が残っています。また、目連の持つ「神通」は「勝れた智慧」「不可思議で自在な威力」「超人的な能力」等を言いますが、この経で説かれている六神通と同じなのか異なるのか、という問題もでてきます。と言いますのも、もし目連が本願として願われた六神通を成就していながら初会の聖衆の数を知ることができないとすれば、六神通の成就が無意味になってしまうからです。
宿命通によって現在只今の歴史的事実を覚り、天眼通によって一切衆生の仏性世界を拝み見て自利利他円満の菩薩道を歩み、天耳通によって一切衆生の本心の叫び声を聞いて心身深く刻んで憶え、他心通によって相手の悩みや本心を理解する真心を得、神足通によって相手の身になり立場に立って自他を超えてゆく心を得、漏尽通によって自利利他の菩薩行を行じる際に妄念・我執をおこさず偽善や執着がない、こうした本願に適った六神通を成就していれば、初会の聖衆の数を知ることは可能なはずです。では、どうして神通第一の目連が数を知り得ないのかというと、まずは目連の神通力は大乗や浄土の神通力とは異なる≠ニ考えることができます。
目連は神通第一の弟子として上座部仏教では尊敬されていますが、大乗仏教では事情が違い、時として批判対象になることもあります。たとえば「維摩経」では、舎利弗や摩訶迦葉と同じく目連も大乗の信者である維摩長者に説法で負けてしまうのです。
「……そもそも法を説く者には実は説くこともなく、示すこともない。その法を聴く者にも聞くこともなく、得ることもない。譬えば、幻術使いが幻の人のために法を説くようなものである。このような心がまえをして、法を説くべきである。衆生の能力・素質に利鈍があるのを了解して、知見についてさわりなくとどこおることなく、大悲心をもって大乗を讃じ、仏恩を報じようとして、三宝を断じないように念じて、そうして後に法を説くべきである」と。
維摩がこの法を説いたときに、八百人の家主は無上のさとりをもとめる心をおこしました。ところがわたくし(目連)にはこの弁がありません。だから、わたくしはかれのところに行って見舞を言うことができないのです。
このように「維摩経」は初期大乗仏教独特の気迫がこもり、上座部仏教への批判が辛辣ですが、やがて大乗仏教が優位な立場となると、一度は捨てた上座部はじめ部派仏教の修行の成果も全て取り込み、一切の仏教はじめ全ての宗教や文化・文明を網羅する経典(一乗仏教)の編纂が試みられるようになりました。この最盛期に編纂された経典が「仏説無量寿経」なのですが、やはりこの経典も大乗仏教の優位性を含んで聖衆無量を述べている気配はあるのです。といいますのも、前章では二乗(声聞・縁覚)批判を含んで寿命無量を明らかにしていますので、聖衆無量についても上座部への批判が含まれている可能性があるのです。
つまり、「目連のようなものたちが(中略)知ることができるのはわずか一滴の水ほどであり、知ることができないのは実に大海の水ほどもあるのである」と比較して説いている、さらには大乗の功徳は大宝海、上座部の功徳は一滴の水≠譬えていると見ることもできるのです。これは「維摩経」ほど露骨ではありませんが、「仏説無量寿経」も大乗仏教の広がりを経た上で新たな地平を目指して編纂された経典ですから、上座部の聖者は限定的な譬えに登場する傾向があるのではないか≠ニの推測も拭いきれないのです。
しかし、あくまでも一乗仏教として成熟した経典≠ニ領解し直してみると別の見方も生まれます。たとえば親鸞聖人はこの一乗の法を「本願一乗円融無礙真実功徳大宝海[ホンガンイチジョウエンニュウムゲシンジツダイホウカイ]」と勧められました。
いま一乗と申すは、本願なり。円融と申すは、よろづの功徳善根みちみちて、かくることなし、自在なるこころなり。無礙と申すは、煩悩悪業にさへられず、やぶられぬをいふなり。真実功徳と申すは名号なり。一実真如の妙理、円満せるがゆゑに、大宝海にたとへたまふなり。
意訳
ここで「一乗」というのは、阿弥陀仏の本願のことである。「円融[エンニュウ]」というのは、すべての功徳や善が満ちみちて、欠けているものがなく、そのはたらきが自在であるという意味である。「無礙[ムゲ]」というのは、衆生の煩悩や悪い行いに少しもさまたげられず、そこなわれないことをいうのである。「真実功徳」というのは、名号のことである。この名号には、一実真如[イチジツシンショ]のすぐれた理[ことわり]が欠けることなくそなわっているから、世親菩薩は大宝海[ダイホウカイ]にたとえておられるのである。
するとこうした一乗仏教の立場で目連が登場し、聖衆無量の譬えとされたのはどういうわけでしょう。島田幸昭師は、現在の衆生を代表する存在として目連を登場させたと見ておられます。
……一体これは何のためにおっしゃったのか。こういいますと、実は阿弥陀の、浄土の聖衆というのは、声聞や菩薩というのは、実は私たちの姿である。今日ただいまの私たちの姿である。こういうことが言いたいために、この目連を引き合いに出してきたんだと思うのであります。
そして、後のもう一つの譬え、例えば大海の……
(中略)
これは何かと言いますと、ただ単に十効の昔という、そういうことだけではなしに、これは永遠に人類のあらん限り、ちゃんと阿弥陀の聖衆に十効の昔にさとられた、そういう中に皆おるのである。こういうことが言いたいのだと思うのであります。
締めくくって、「仏、阿難に語りたまわく、目連等のごとき、百千万億那由他劫において、かの初会の声聞と菩薩を計えんに、知一たいのごとし。その知らざるところは大海の水のごとし」と、こういうことでもって、全部私たちのそういう空間的にもほとりがない。そして、時間的にも、いつでも時間を超えて私たちは弥陀初会の聖衆の一人であると、こういうことを言おうとしておられるのだと思うのであります。
それならば一体これは、今日のわれわれにとって何になるかと言いますと、実はこれは私が救われる言、私が救われる原理だと、こう思います。と言いますのは、私たちは大体、いままで真宗では罪悪深重泥凡夫と、こう三千の諸仏が見放されたものを阿弥陀仏が助けてくれると、こういうように言われておったのでありますが、全くこれは間違いであります。何かと言いますと、三千の諸仏では、私たちは罪の深いものと、こう見えたんだろう。ところが、阿弥陀仏はそうではなしに、表は迷っておるかもしれないが、心底はさとっておるのだと。「一切衆生、悉有仏性」と、こう私たちを見抜かれた。それが、私が救われる原理だと、こういうことであります。
こうした領解こそ、仏教本来の穏やかで無限の辺を持つ経意を汲んだ勝義といえるでしょう。特に<いつでも時間を超えて私たちは弥陀初会の聖衆の一人である>とは、何と清々しい、それでいて深い領解でしょう。先師の眼はどこまでも善意に満ち、一切衆生の躍動と歴史の深さをともに見据えています。  
七宝の諸樹
また、その国土は、七宝の諸樹、世界に周満し、金樹、銀樹、瑠璃樹、頗梨樹、珊瑚樹、瑪瑙樹、車磲樹、或いは二宝、三宝、乃ち七宝に至るまで転た共に合い成るなり。
或いは金樹に、銀の葉と華果有り。
或いは銀樹に、金の葉と華果有り。
或いは瑠璃樹に、頗梨が葉と為り、華果もまた然り。
或いは水精樹に、瑠璃が葉と為り、華果もまた然り。
或いは珊瑚樹に、瑪瑙が葉と為り、華果もまた然り。
或いは瑪瑙樹に、瑠璃が葉と為り、華果もまた然り。
或いは車磲樹に、衆宝が葉と為り、華果もまた然り。
或いはある宝樹は、紫金を本と為し、白銀を茎と為し、瑠璃を枝と為し、水精を條(こえだ)と為し、珊瑚を葉と為し、瑪瑙を華と為し、車磲を実と為す。
或いはある宝樹は、白銀を本と為し、瑠璃を茎と為し、水精を枝と為し、珊瑚を條と為し、瑪瑙を葉と為し、車磲を華と為し、紫金を実と為す。
或いはある宝樹は、瑠璃を本と為し、水精を茎と為し、珊瑚を枝と為し、瑪瑙を條と為し、車磲を葉と為し、紫金を華と為し、白銀を実と為す。
或いはある宝樹は、水精を本と為し、珊瑚を茎と為し、瑪瑙を枝と為し、車磲を條と為し、紫金を葉と為し、白銀を華と為し、瑠璃を実と為す。
或いはある宝樹は、珊瑚を本と為し、瑪瑙を茎と為し、車磲を枝と為し、紫金を條と為し、白銀を葉と為し、瑠璃を華と為し、水精を実と為す。
或いはある宝樹は、瑪瑙を本と為し、車磲を茎と為し、紫金を枝と為し、白銀を條と為し、瑠璃を葉と為し、水精を華と為し、珊瑚を実と為す。
或いはある宝樹は、車磲を本と為し、紫金を茎と為し、白銀を枝と為し、瑠璃を條と為し、水精を葉と為し、珊瑚を華と為し、瑪瑙を実と為す。
行(並木)と行と相い値(あ、向かい合う)い、茎と茎と相い望み、枝と枝と相い準(なら、釣り合う)い、葉と葉とは相い向かい、華と華と相い順い、実と実と相い当たり、栄(はえ)たる色は光り曜(かがや)き、視るに勝(た)うるべからず。
清風、時に発りて五音の声を出し、微妙なる宮商(きゅうしょう、中国の音階)は自然に相い和す。
またその国土には、七つの宝でできたさまざまな樹々が一面に立ち並んでいる。金の樹・銀の樹・瑠璃[ルリ]の樹・水晶の樹・珊瑚[サンゴ]の樹・瑪瑙[メノウ]の樹・シャコの樹というように一つの宝だけでできた樹もあり、二つの宝や三つの宝から七つの宝までいろいろにまじりあってできた樹もある。
金の樹で銀の葉・花・実をつけたものもあり、銀の樹で金の葉・花・実をつけたものもある。また、瑠璃の樹で水晶の葉・花・実をつけたもの、水晶の樹で瑠璃の葉・花・実をつけたもの、珊瑚の樹で瑪瑙の葉・花・実をつけたもの、瑪瑙の樹で瑠璃の葉・花・実をつけたものもある。
あるいは、シャコの樹でいろいろな宝の葉・花・実をつけたものなどもある。さらにまた、ある宝樹は金の根・銀の幹、瑠璃の枝、水晶の小枝、珊瑚の葉、瑪瑙の花、シャコの実でできている。ある宝樹は銀の根、瑠璃の幹、水晶の枝、珊瑚の小枝、瑪瑙の葉、シャコの花、金の実でできている。ある宝樹は瑠璃の根、水晶の幹、珊瑚の枝、瑪瑙の小枝、シャコの葉、金の花、銀の実でできている。ある宝樹は水晶の根、珊瑚の幹、瑪瑙の枝、シャコの小枝、金の葉、銀の花、瑠璃の実でできている。ある宝樹は珊瑚の根、瑪瑙の幹、シャコの枝、金の小枝、銀の葉、瑠璃の花、水晶の実でできている。ある宝樹は瑪瑙の根、シャコの幹、金の枝、銀の小枝、瑠璃の葉、水晶の花、珊瑚の実でできている。ある宝樹はシャコの根、金の幹、銀の枝、瑠璃の小枝、水晶の葉、珊瑚の花、瑪瑙の実でできている。
これらの宝樹が整然と並び、幹も枝も葉も花も実も、すべてつりあいよくそろっており、はなやかに輝いているようすは、まことにまばゆいばかりである。ときおり清らかな風がゆるやかに吹いてくると、それらの宝樹はいろいろな音を出して、その音色はみごとに調和している。 
七宝の諸樹
今回「宝樹荘厳」について学ぶのですが、これは全体として言えば、人と人が真心で触れ合って、個性と個性が映えあい、また対立が生まれながらも浄土の土徳によって協和に転じてゆく≠ニいう内容です。
註釈版
また、その国土に七宝のもろもろの樹、世界に周満せり。金樹・銀樹・瑠璃樹・玻リ樹・珊瑚樹・碼碯樹・シャコ樹なり。
現代語版
またその国土には、七つの宝でできたさまざまな樹々が一面に立ち並んでいる。金の樹・銀の樹・瑠璃[ルリ]の樹・水晶の樹・珊瑚[サンゴ]の樹・瑪瑙[メノウ]の樹・シャコの樹というように一つの宝だけでできた樹もあり
ここで解かなければならない問題は、「七宝」とは何か≠ニいうことと、「もろもろの樹」とは何か≠ニいうことです。
「七宝」はここでは、金・銀・瑠璃[ルリ](青色の玉の類)・玻リ[ハリ](赤・白などの水晶やガラス)・珊瑚[サンゴ](赤珠[シャクシュ])・瑪瑙[メノウ](深緑色の玉)・シャコ(大蛤などの貝や白珊瑚)の貴重な玉石が数えられています。その他適宜、金剛・如意珠・琥珀[コハク]・真珠[シンジュ]・摩尼珠[マニシュ]・明月珠・摩羅迦陀[マラガタ](緑色宝)・甄叔迦[ケンシュクカ](赤宝)・釈迦毘陵迦[シャカビリョウガ](能勝)などを組み合わせて「七宝」としていますが、組み合わせが多数あることからみても、浄土における「七宝」は宝石そのものをいうのではなく、「仏法は仏宝」で、仏法上の宝を宝石で象徴していることが解るでしょう。
仏法上の宝ということで「七宝」を探れば、七財(七聖財[シチショウザイ]・七法)もしくは七菩提分[シチボダイブン](七覚分[シチカクブン]・七覚支[シチカクシ])の果報が浮かび上がってきます。
「七財」は、「信(自他や人生を信じる)・戒(身を慎む)・慚[ザン](天に恥じ久遠に恥じる)・愧[キ](己に恥じる)・聞(法を聞き開く)・捨(執着を離れる)・慧[エ](まごころの智慧)」、
「七菩提分」は、「択法覚支[チャクホウカクシ](教えの中から真実なるものを選びとり、偽りのものを捨てる)・精進覚支[ショウジンカクシ](真の正法を択び取ったらそれに専念し精進する。一心に努力する)、喜覚支[キカクシ](真実の教えを実行する喜びに住する)・軽安覚支[キョウアンカクシ](身心を常にかろやかで快適な状態に保つ)・捨覚支[シャカクシ](対象へのとらわれを捨てる。なにごとにも執着しない)・定覚支[ジョウカクシ](心を集中して乱さない)・念覚支[ネンカクシ](常に禅定と智慧を念じ、おもいを平らかに偏見をもたない)、を言います。
ところで、この「宝樹荘厳」を成就せしめた願いは何かというと、{妙香合成の願}:<たとひわれ仏を得たらんに、地より以上、虚空に至るまで、宮殿・楼観・池流・華樹・国中のあらゆる一切万物、みな無量の雑宝、百千種の香をもつてともに合成し、厳飾奇妙にしてもろもろの人・天に超えん。その香あまねく十方世界に熏じて、菩薩聞かんもの、みな仏行を修せん。もしかくのごとくならずは、正覚を取らじ>という第三十二願にあります。
因位において本願を建て永劫の修行を経て成就した報土が安楽浄土ですから、浄土の依報荘厳はみな「無量の雑宝」によって成立しているわけです。すると「華樹」も「無量の雑宝」で飾られているのですから、「七宝」の「七」は単なる数字ではなく「無量」を宿した内容であると領解できるでしょう。
するとあらためて、なぜここでは「無量宝」ではなく「七宝」なのか≠ニいう問いがでてきます。ちなみにこの「仏説無量寿経」では、因位においては一度も「七宝」という表現は使われていません。先の「弥陀果徳十劫成道」において初めて「七宝」とあり、以後は頻繁に使用されます。
この問いに真心をもって経意を領解せん≠ニ願えば、いくつかの理由が胸に至ります。
まず、本願は因位においてでありますから、万感の思いを込めて「無量の雑宝」と限定をつけずに願えるのですが、実際の成就を説く果位においては少しでも具体相を示す必要がありますから、「七宝」と限定をつける数字が入ったのでしょう。
さらに、なぜ限定的な数字として「7」が選ばれたかというと、七財や七菩提分を念頭に置いて選んでいる可能性もあるのですが、古代インドでは「6」を満数とする習慣があったため、満数を超える無量の意を宿した数字として「7」が使われたと考えられます。もちろん七財や七菩提分も、無量の意を宿して七つの徳目が選ばれたのかも知れません。
次に「もろもろの樹」(諸樹)について。
これは「宝樹」であり「行樹」を言います。「行」は迷いの業とは違い、真心から願いをもって行うことで、解りやすく言えば修行の「行」です。「樹」は<慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す>と聖人が仰る通り「たてる」や「うえる」意ですから、浄土の宝樹・行樹は「正定聚の菩薩・念仏生活を行う行者」という意味であり、また如来回向の信心行・確立された念仏生活という意味でもあるでしょう。行と行者は分けて考えないのです。これは、釈尊がピッパラー樹のもとで覚りを開かれ、以来この木が菩提樹と呼ばれるようになった故事も影響しているのでしょう。ゆえに浄土の七宝諸樹とは、念仏者もしくは念仏の行が七宝に象徴される無量の雑宝によって成っていて、浄土全体に満ち溢れていることを顕しているのでしょう。
さらに言えば、「正定聚の菩薩・念仏生活・念仏生活を行う行者」は、仏教徒という限定された中での菩薩を言うだけではなく、世界全体に目を向けて、人間そのものが生きてはたらく無量の宝である≠ニ、一切衆生を御同朋・御同行と見開いたところで七宝の諸樹と称えていると見ることもできます。
七宝のコラボレーション
註釈版
あるいは二宝・三宝、乃至七宝、うたたともに合成せるあり。あるいは金樹に銀の葉・華・果なるあり。あるいは銀樹に金の葉・華・果なるあり。あるいは瑠璃樹に玻リを葉とす、華・果またしかなり。あるいは水精樹に瑠璃を葉とす、華・果またしかなり。あるいは珊瑚樹に碼碯を葉とす、華・果またしかなり。あるいは碼碯樹に瑠璃を葉とす、華・果またしかなり。あるいはシャコ樹に衆宝を葉とす、華・果またしかなり。あるいは宝樹あり、紫金を本とし、白銀を茎とし、瑠璃を枝とし、水精を条とし、珊瑚を葉とし、碼碯を華とし、シャコを実とす。あるいは宝樹あり、白銀を本とし、瑠璃を茎とし、水精を枝とし、珊瑚を条とし、碼碯を葉とし、シャコを華とし、紫金を実とす。あるいは宝樹あり、瑠璃を本とし、水精を茎とし、珊瑚を枝とし、碼碯を条とし、シャコを葉とし、紫金を華とし、白銀を実とす。あるいは宝樹あり、水精を本とし、珊瑚を茎とし、碼碯を枝とし、シャコを条とし、紫金を葉とし、白銀を華とし、瑠璃を実とす。あるいは宝樹あり、珊瑚を本とし、碼碯を茎とし、シャコを枝とし、紫金を条とし、白銀を葉とし、瑠璃を華とし、水精を実とす。あるいは宝樹あり、碼碯を本とし、シャコを茎とし、紫金を枝とし、白銀を条とし、瑠璃を葉とし、水精を華とし、珊瑚を実とす。あるいは宝樹あり、シャコを本とし、紫金を茎とし、白銀を枝とし、瑠璃を条とし、水精を葉とし、珊瑚を華とし、碼碯を実とす。このもろもろの宝樹、行々あひ値ひ、茎々あひ望み、枝々あひ準ひ、葉々あひ向かひ、華々あひ順ひ、実々あひ当れり。栄色の光耀たること、勝げて視るべからず。
現代語版
二つの宝や三つの宝から七つの宝までいろいろにまじりあってできた樹もある。
金の樹で銀の葉・花・実をつけたものもあり、銀の樹で金の葉・花・実をつけたものもある。また、瑠璃の樹で水晶の葉・花・実をつけたもの、水晶の樹で瑠璃の葉・花・実をつけたもの、珊瑚の樹で瑪瑙の葉・花・実をつけたもの、瑪瑙の樹で瑠璃の葉・花・実をつけたものもある。
あるいは、シャコの樹でいろいろな宝の葉・花・実をつけたものなどもある。さらにまた、ある宝樹は金の根・銀の幹、瑠璃の枝、水晶の小枝、珊瑚の葉、瑪瑙の花、シャコの実でできている。ある宝樹は銀の根、瑠璃の幹、水晶の枝、珊瑚の小枝、瑪瑙の葉、シャコの花、金の実でできている。ある宝樹は瑠璃の根、水晶の幹、珊瑚の枝、瑪瑙の小枝、シャコの葉、金の花、銀の実でできている。ある宝樹は水晶の根、珊瑚の幹、瑪瑙の枝、シャコの小枝、金の葉、銀の花、瑠璃の実でできている。ある宝樹は珊瑚の根、瑪瑙の幹、シャコの枝、金の小枝、銀の葉、瑠璃の花、水晶の実でできている。ある宝樹は瑪瑙の根、シャコの幹、金の枝、銀の小枝、瑠璃の葉、水晶の花、珊瑚の実でできている。ある宝樹はシャコの根、金の幹、銀の枝、瑠璃の小枝、水晶の葉、珊瑚の花、瑪瑙の実でできている。
これらの宝樹が整然と並び、幹も枝も葉も花も実も、すべてつりあいよくそろっており、はなやかに輝いているようすは、まことにまばゆいばかりである。
ここで問われるのは、<二つの宝や三つの宝から七つの宝までいろいろにまじりあってできた樹>や<ある宝樹は金の根・銀の幹、瑠璃の枝、水晶の小枝、珊瑚の葉、瑪瑙の花、シャコの実でできている>とはどういう内容かということです。
これには様々な領解が可能でしょうが、大きく分けて二種の解釈を見出すことができるでしょう。
まずは、一つの樹が一人の行者、もしくは一人の求道全体の内容≠ニ解釈することができます。
さらには、一つの樹が一つの集い=Aたとえば家族や家系、教団や会社などの組織、様々なムーブメント等に込められた内容、と解釈することも可能です。
「一つの樹が一人の行者、もしくは一人の求道全体の内容」との解釈で<あるいは宝樹あり、紫金を本とし、白銀を茎とし、瑠璃を枝とし、水精を条とし、珊瑚を葉とし、碼碯を華とし、シャコを実とす>の内容を具体化すると――
自分の人生をかけた求道全体の内容を「宝樹」とし、「本」(根)はその求道の見えざる部分、たとえば文明環境の土徳や陰に隠れた基礎部分、さらには幼少期の体験や教育∞伝統や血脈などの土壌≠ニいう見方もできるでしょう。つまり求道を支える根本を「紫金を本とし」(金の根)と譬えてたたえていると味わうことができます。世間では「産業基盤の社会資本」のことを「インフラストラクチャー(インフラ)」と言いますが、これになぞらえれば求道基盤の身心資本≠フことを「宝樹の根」と言うことができるでしょう。
次に「茎」(幹)ですが、これは「年輪を重ねて得た求道の主柱」を表します。「根」が「陰に隠れた基礎部分」であれば、「幹」は「一生をかけて積み重ねる人生の聞法求道の柱」であり、「存在の本筋」であり、「本業」とも言うべき宝でしょう。初対面の相手に「自分はこういう者です」と自己紹介をする際、真っ先に名のる内容が「茎」(幹)の部分です。この表現の一例として「白銀を茎とし」(銀の幹)と譬えてたたえるのです。
次に「枝」ですが、これは「茎」(幹)の本筋・本業が様々に展開した部分を表します。たとえば、私は僧侶という本業が幹でありますが、それが社会活動に展開したり、人生相談に展開したり、布教伝道に展開したり、文芸に展開したり、学問的に展開する場合があります。他の職業も様々に展開する可能性があるでしょう。そうした展開部分を「瑠璃を枝とし」と譬えてたたえるのです。
さらには、大まかな展開が「枝」ならば、さらなる具体的展開が「条」(小枝)で、この表現の一例として「水精を条とし」(水晶の小枝)と譬えてたたえるのです。
次に「葉」ですが、これは日々刻々と現場現場に展開した求道の成果を表し、この表現の一例として「珊瑚を葉とし」と譬えてたたえるのです。
次に「華」(花)ですが、これは大きく人生の華がはなやかに開くことを表しています。現場の成果が「葉」であれば、「華」(花)は人生の成果であり、この表現の一例として「碼碯を華とし」(瑪瑙の花)と譬えてたたえるのです。ちなみに「華」と「花」では、「花」は一年草のものですから、仏教で用いる場合は「華」の方が法に順じた表現と言えるでしょう。
最後に「実」ですが、「華」が人生を彩るはなやかな宝ならば、次の時代につながる歴史的成果が「実」であり、人生全体の成果をここでは「シャコを実とす」と譬えてたたえるのです。
なお先に<一つの宝だけでできた樹もあり、二つの宝や三つの宝から七つの宝までいろいろにまじりあってできた樹もある>とありましたが、「人生これ一つ」と貫いた人生が<一つの宝だけでできた樹>であり、本業を様々に展開した人生を<二つの宝や三つの宝から七つの宝までいろいろにまじりあってできた樹>に譬えているのでしょう。「人生色々」で、人生これ一つと貫き通す人もあれば様々に展開させる人もいます。そのどちらも如来は浄土の宝樹として称えているのです。なお梵文では、根から実まですべて「七種の宝石でできている」木々も記されています。
次に、「一つの樹が一つの集い」と解釈した場合は、どのような具体例が挙げられるでしょうか。たとえば島田幸昭師は<家庭のことをそういう一つの樹に譬えた>と解釈されてみえます。もちろんこれは集いですから、あえて家庭に限定する必要はなく、教団や会社などの組織、様々なムーブメント等に込められた内容、と解釈することも可能ですが、「家庭のこと」とした方が在家仏教としての性質をより強く汲んだ解釈となるでしょう。
数え歌で、「三つとせ。幹は一つの枝と枝。仲良く暮らせよ、兄弟(あにおとと)姉妹(あねいもと)」、こういう。幹は一つで、親はご先祖は一つであるから、兄弟だと言うて妹だと言うて、お互いが心を合わせていけよとこういうことがあります。そうすると、一本の樹に家族を譬えた。そういうことがあるのであります。
(中略)
そうすると、ここはそういうように、昔から一軒の家、家庭のことをそういう一つの樹に例えた。だから、兄弟は枝と枝である。「幹は一つの枝と枝。仲良く暮らせよ、兄弟姉妹」とかこういうことがありましたから、恐らくこれもこういうことではないかと思うんであります。
といいますのが、ここで「あるいは樹あって金の樹・銀の樹・瑠璃の樹・玻の樹・珊瑚の樹・碼碯の樹・シャコの樹」とこうあります。一つの宝からできておるがとこう言われる。樹は宝ですね。
ということは何かというと、一軒の家にたった一人、ひとり住まい。そうすると、金とか銀とかいうのは皆、例えばお父さん一人、男一人、女一人。こういう家庭がある。同じ男一人女一人であっても、おじいさん一人、おばあさん一人とこういうのがあります。また今度は子ども一人。もうお父さんお母さんが皆死んで男の子が一人、女の子が一人残ったとこういうこともあります。そういうように、一つの家庭に一人ずつ、そういうことを譬えたのではないだろうか。
今度は、「あるいは樹あって、二つの宝からできておる」ということは、この家庭は二人からできておる。おじいさんとおばあさん。私のうちも、今ではおじいさんとおばあさんが二人であります。同じ二人でも、私みたいに年寄り夫婦というものがありますけれども、中には親一人子一人という二人もあります。若夫婦で二人という。結婚したばかりの二人があります。今度は兄弟二人というものもあります。だから、いろいろ組み合わせがある。そこを、「あるいは金の宝からできたものある」という。それに今度は、葉っぱが銀である。こういうふうに説いてあります。また、葉っぱもそうであるけれども、華とか葉も皆、銀である。こういうように金と銀とがありますが、これはちょっとまた問題が別になりますけれどもそういうようにできておる。
そうすると、その次には三つの宝、四つの宝、五つの宝、六つの宝、七つの宝とこういうようにできたものがあるとこういうことを説いておられます。そして、いろいろ組み合わせがあるんであります。これでは順序に書いてありますけれども、こういういちいちは必要ないと思いますけれども、大体、金のあるいは樹があって、本と茎と、枝と条と、葉っぱと、それから華と実とこれだけあります。これが七つになっておりますから組み合わせてあります。樹がこういうようにできております。そうすると、これで金の樹があれば、この瑠璃は本が瑠璃で、これが碼碯で、これが玻とこう組み合わせてあります。あるいは、銀の樹があればこう組み合わせてあります。こう順々に送っております。金の樹と書いて本が銀であるという。これが碼碯である。今度、銀ではその次にこう書いてある。ずっと書いてあります。このぐらいにしておきましょう。
今度、池のところではまた違いまして、二つずつ組み合わせております。そういうことがちょっと問題でありますけれども、簡単にこれだけ申します。そうすると、これが七つの宝からできておったといういろんな組み合わせがあるように書いてあります。
そうすると、最後にそういう樹があって、その樹がどうかといいますと、「このもろもろの宝の樹は、行と行と相値う」。「行」というのはこれは真宗では西本願寺では「ごう」と読んでおりますけれども「並ぶ」という。だから、行列であります。一行列、二行列、並木のことを皆「阿弥陀経」でも「七重行樹(しちじゅうごうじゅ)」と、並びの七重(ななえ)の行樹とあります。これは行列の行ですけれども、漢音で読めば「ぎょう」でありますが、呉音で言えば「こう」であります。親孝行という。だから、これが一行でこれが一行で、この行と行とが相並んでおるとこう言うのであります。
今度は、行と行とが相並び、茎と茎とが合うておる。互いに向き合っておる。「行と行とが相値い、茎と茎とが相望み、枝と枝が相準え、葉と葉が相向かい、華と華とが相順っておる。実と実が相当たっておる」こう言って、とにかくお互いが行儀よく向かい合っておるとこう言って、「栄色光耀にして」そういう盛んな色が照らし合って、何とも言えない美しい眺めをしておる。はっきり見ることができない。こう言うのであります。
(中略)
これは何かと言いますと、これは本当の念仏の境地。念仏の境地はお互いが顔も違い、根性も違うけれども、お念仏によって皆まごころとまごころが触れ合ってくる。そうすると、触れ合ってくればそこに第三の世界が出てくる。ただ単に二人を見ただけでは、ただ金と銀だけなら二つでありますけれども、お互いが照らし合えば無限の色が出てくる。こういうことを言っておるのであります。
一即一切といいますが、一つの中に一切のものが映ってくるのです。今度これに合えるものが、一が一切に向かって照らし映えていく。今度は一切がただ一つの中に皆収まっていくと。お互いが向き合って何ともいえない光景が出てくると。こういうことを仏仏想念の念仏三昧といっておるのでありますから、まごころの世界はそういう世界だということであります。
このことは先の一つの樹が一人の行者、もしくは一人の求道全体の内容≠ニの解釈と併せて味わっていただき、それぞれが自らの人生の糧となる領解をしていただければ幸いです。
対立を協和に転じる
註釈版
清風、時に発りて五つの音声を出す。微妙にして宮商、自然にあひ和す。
現代語版
ときおり清らかな風がゆるやかに吹いてくると、それらの宝樹はいろいろな音を出して、その音色はみごとに調和している。
浄土は<功徳の力により、その(清浄荘厳の)行いを原因としてもたらされたところ>ですから、「風」と言っても空気の動きを言うのではありません。人生に吹く風を言います。多くの人は「順風満帆」の風なら心地よく感じますが、「無常の風」や「逆風」「地獄の業風」「熱風」など吹き荒れれば苦痛を感じます。経論には――「業風の吹くに随ひて苦のなかに落つ」、「熱風に吹かるるに、利き刀の割くがごとし」、「悪風暴に吹きて、その身に交絡して、肉を焼き、骨を焦して、楚毒極まりなし」、「冷熱の風触るるに、大苦悩を受くること、牛を生剥ぎにして、墻壁に触れしむるがごとし」、「寒熱・飢渇・風雨ならびに至りて、種々の苦悩、その身に逼切す」等と記される通り、人生の暴風に引きずられ右往左往しているのが衆生の有様でしょう。
しかしたとえ人生の暴風を受けても念仏行や正定聚の菩薩を通せば、全ては浄土の清風に転じられ、<暑からず寒からず、とてもやわらかくおだやかで、強すぎることも弱すぎることもない>というように人生成就には丁度良い風≠ニ受け入れることができるのです。人間は業風の苦難に襲われつつも、仏法に出遇えば、先祖や縁ある人々の優しさに心動かされ、不平不満の声が転じて仏徳讃嘆の念仏の声が出、生活の全てが念仏の香り高い優しさと強さに満たされ、この苦難を乗り越えた幸せが周囲にも広がってゆきます。
宝林[ホウリン]・宝樹微妙音[ホウジュミミョウオン]自然清和[ジネンショウワ]の伎楽[ギガク]にて哀婉雅亮[アイエンガリョウ]すぐれたり清浄楽[ショウジョウガク]を帰命[キミョウ]せよ
七宝樹林[シッポウジュリン]くににみつ光耀[コウヨウ]たがひにかがやけり華菓枝葉[ケカシヨウ]またおなじ本願功徳聚[ジュ]を帰命せよ
清風宝樹[ショウフウホウジュ]をふくときはいつつの音声[オンジョウ]いだしつつ宮商和[キュウショウワ]して自然[ジネン]なり清浄勲[ショウジョウクン]を礼すべし
<五つの音声>とは「宮[キュウ]・商[ショウ]・角[カク]・徴[チ]・羽[ウ]」の5音を言います。西洋音階では「ドレミファソラシ」の7音ですが、中国では5音です。なお梵文では「美しい快い音が流れ出て、魅惑的であり、聞いて不快の思いを抱かせない」とありますから音の数は重要ではありません。<微妙にして宮商、自然にあひ和す>が具体的にどういう事柄を象徴しているのか、ということが問題なのです。
まずこの音声は「法の音」であり、自分の生き様を知らせてくれる音でありましょう。苦難の風を、菩提心や念仏を通した清らかな風に転じ、その清らかな風が「我が機」と「仏法」を知らしめる音となって響き出てくださるのです。
さらに<宮商、自然にあひ和す>(その音色はみごとに調和している)とありますが、本来、宮と商は調和している音ではありません。ドとレと同じように不協音なのです。人間関係で言えば、仲の良い友人や気のあった仲間ではなく、対立したり反対意見を持つ者、反抗心でかかって来る者、気心が知れない者や異質の存在との関係を宮と商で表しているのです。
この対立し反駁する不協音の関係が浄土では和音となって響いていることを<宮商、自然にあひ和す>と言うのでしょう。浄土は単なる仲良しグループの集まりではなく、対立を協和に転じ、互いに映えあってゆく場なのです。さらに具体的に言えば、異質な存在とぶつかり合うことも厭[いと]わず、積極的に自我を破り、日々新たな自分を確立してゆく楽しき道場が、今この現場において私のものと成る≠ニいう体験が浄土の真実なのです。 
無量寿仏の道場樹
また無量寿仏のその道場樹は、高さ四百万里、その本の周囲は五千由旬(ゆじゅん、一由旬は凡そ十キロメートル)、枝葉は四(よも、四方)に布くこと二十万里なり。
一切の衆宝は自然に合い成り、月光摩尼(がっこうまに、宝珠名)、持海輪宝(じかいりんぽう、宝珠名)の衆宝の王を以ってこれを荘厳す。
條の間を周匝(しゅうそう、周回)して宝の瓔珞(ようらく、垂れ飾り)垂れ、百千万の色は種々に異変し、無量の光炎は照曜すること極まりなし。
珍妙の宝の網は、その上を羅覆(らふ、網をかけて覆う)し、
一切の荘厳は、随うて応じ現る。
微風は徐(おもむ)ろに動いて妙法(みょうほう、大乗)の音を出し、普く十方の一切の仏国に流る。それ音を聞く者は深法(じんぽう、不生の理)の忍(忍許)を得て不退転に住し、仏道を成ずるに至るまで苦患(くげん、苦しみと患い)に遭わず。
目にその色を睹(み)、耳にその音を聞き、鼻にその香を知り、舌にその味を嘗め、身にその光を触るれば、心は法(妙法)を以って縁じ、一切は皆、甚だ深き法忍を得て、不退転に住して仏道を成ずるに至り、六根(ろっこん、眼耳鼻舌身意)は清徹(しょうてつ)して諸の悩患なし。
阿難、もし彼の国の人と天とがこの樹を見れば、三法忍を得。一は音響忍(おんごうにん)、二は柔順忍(にゅうじゅんにん)、三は無生法忍(むしょうほうにん)なり。
これは皆、無量寿仏の威神力の故に、本願力の故に、満足せる願の故に、明了なる願の故に、堅固なる願の故に、究竟の願の故になり。
仏、阿難に告げたまわく、――世間の帝王に百千の音楽あり。転輪聖王(てんりんじょうおう、世界を統べる王)より、乃ち第六天(欲界の最上天)上に至るまで、伎楽音声は展転(てんでん、次第に増大)して相い勝ること千億万倍なり。第六天上の万種の楽音も、無量寿国の諸の七宝樹の一種の音声に如かざること千億倍なり。また自然の万種の伎楽(ぎがく、音楽)あり。またその楽声は法音に非ざるものなく、清暢(しょうちょう、清らかでよく通る)哀亮(あいりょう、悲哀と明朗)にして微妙和雅なり、十方の世界の音声の中の最も第一と為す。
また、無量寿仏の国の菩提樹[ぼだいじゅ]は高さが四百万里で、根もとの周囲が五十由旬[ゆじゅん]であり、枝や葉は二十万里にわたり四方に広がっている。それはすべての宝が集まって美しくできており、しかも宝の王ともいわれる月光摩尼[がっこうまに]や持海輪宝[じかいりんぽう]で飾られている。枝と枝の間には、いたるところに宝玉の飾りが垂[た]れ、その色は数限りなくさまざまに変化し、はかり知れないほどの光となってこの上なく美しく照り輝いている。そして美しい宝をつないだ網がその上におおいめぐらされている。このようにすべての飾りが望みのままに現れるのである。
そよ風がゆるやかに吹くと、その枝や葉がそよいで、尽きることなくすぐれた教えを説き述べる。その教えの声が流れ広がって、さまざまな仏がたの世界に響きわたる。その声を聞くものは、無生法忍[むしょうぽうにん]を得て不退転の位に入り、仏になるまで耳が清らかになり、決して苦しみわずらうことがない。このように、目にその姿を見、耳にその音を聞き、鼻にその香りをかぎ、舌にその味をなめ、身にその光を受け、心にその樹を想[おも]い浮べるものは、すべて無生法忍を得て不退転[ふたいてん]の位に入り、仏になるまで身も心も清らかになリ、何一つ悩みわずらうことがないのである。
阿難[あなん]よ、もしその国の人々がこの樹を見るなら、音響忍[おんこうにん]・柔順忍[にゅうじゅんにん]・無生法忍[むしょうぽうにん]が得られる。それはすべて無量寿仏の不可思議な力と、満足願[がんまんぞく]・明了願[みょうりょうがん]・堅固願[けんごがん]・究竟願[くっきょうがん]と呼ばれる本願の力とによるのである」
続けて釈尊が阿難に仰せになる。
「世間の帝王は、実にさまざまな音楽を聞くことができるが、これをはじめとして、転輪聖王[てんりんじょうおう]の聞く音楽から他化自在天[たけじざいてん]までの各世界の音楽を次々にくらべていくと、後の方がそれぞれ千億万倍もすぐれている。そのもっともすぐれた他化自在天の数限りない音楽よりも、無量寿仏の国の宝樹[ほうじゅ]から出るわずか一つの音の方が、千億倍もすぐれているのである。そしてその国には数限りなくうるわしい音楽があり、それらの音楽はすべて教えを説き述べている。それは清く冴[さ]えわたり、よく調和してすばらしく、すべての世界の中でもっともすぐれているのである。 
浄土の道場樹の詳細
註釈版
また、無量寿仏のその道場樹[どうじょうじゅ]は、高さ四百万里、その本の周囲五十由旬なり。枝葉四に布けること二十万里なり。一切の衆宝自然に合成せり。月光摩尼・持海輪宝の衆宝の王たるをもつて、これを荘厳せり。条のあひだに周匝して、宝の瓔珞を垂れたり。百千万色にして種々に異変す。無量の光焔、照耀極まりなし。珍妙の宝網その上に羅覆せり。一切の荘厳、応に随ひて現ず。
現代語版
また、無量寿仏の国の菩提樹[ぼだいじゅ]は高さが四百万里で、根もとの周囲が五十由旬[ゆじゅん]であり、枝や葉は二十万里にわたり四方に広がっている。それはすべての宝が集まって美しくできており、しかも宝の王ともいわれる月光摩尼[がっこうまに]や持海輪宝[じかいりんぽう]で飾られている。枝と枝の間には、いたるところに宝玉の飾りが垂[た]れ、その色は数限りなくさまざまに変化し、はかり知れないほどの光となってこの上なく美しく照り輝いている。そして美しい宝をつないだ網がその上におおいめぐらされている。このようにすべての飾りが望みのままに現れるのである。
前章は宝樹荘厳について、人と人が真心で触れ合って、個性と個性が映えあい、また対立が生まれながらも浄土の土徳によって協和に転じてゆく≠ニいう功徳を学びましたが、この道樹楽音荘厳では、自分自身の修行が法蔵菩薩の修行回向によって成就する≠ニいう内容を学びます。
まずはこの数行の中に数多くの謎が隠されていますので、箇条書きにして一つづつひも解いていきたいと思います。
親鸞聖人の和讃で、七宝講堂道場樹は「方便化身の浄土なり」とあること。
道場樹の意味と、高さが四百万里である理由。
道場樹の根もとの周囲が五十由旬である理由。
枝や葉が二十万里にわたり四方に広がっている理由。
月光摩尼と持海輪宝の内容。
美しい宝をつないだ網の内容
これらのことを問題として読み解いてゆくのですが、以前は数字の謎まで解いた人は皆無に近く、それどころか解いてみよう≠ニいう問題意識さえ無い人がほとんどでした。しかし近年は島田幸昭師をはじめとして、経典の謎を解く先生も現れ、いよいよ現代は「仏説無量寿経」の真意が読み解かれる時代に入った言えるでしょう。
ではまず、親鸞聖人の和讃で、七宝講堂道場樹は「方便化身の浄土なり」とあること≠ノついて――
「七宝講堂道場樹方便化身の浄土なり」こういうふうにありますが、二十八の願も、これは方便の願だと、こう親鸞聖人がいっておいでるのであります。
ところが、その方便ということが、どういう意味なのか。この方便という言葉がどうも私は親鸞聖人が使っておいでる方便という言葉と、今日の学者の使っておる言葉がどうも私は、ずれがあるように思うのであります。
例えば、方便いうこともいろんな意味があります。「嘘も方便」とこういうものもありますし、また今度、真実を知らせる、本当のものを知らせる手がかりとしての方便、こういうものもあります。いろんな意味に使われておりますが。この親鸞聖人では、方便というものは、真実を目指すもの、そういう意味で使っておいでるのだと思うのであります。
「道場樹」はその名の通り修行の場所≠象徴していますので、浄土に道場樹があるのは必須のことでしょう。ただし浄土の修行は、仏でない者が仏に成る修行をするのではありません。仏が仏としての修行をする場であります。仏だからこそ真の仏と成るために菩薩の修行をする。阿弥陀仏も、菩薩が修行をして仏に成ったのではありません。親鸞聖人が見抜かれた通り、阿弥陀仏が真の阿弥陀仏と成るために法蔵となり、誓願を建て、菩薩の修行を重ねて成就した≠フです。するとこの「真実を目指すもの」として、道場樹の高さが四百万里であるとはどういう内容なのでしょう。
まずは因位において建てられた{道場樹の願}を見てみます。
注釈版
たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩乃至少功徳のもの、その道場樹の無量の光色ありて、高さ四百万里なるを知見することあたはずは、正覚を取らじ。
現代語版
わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩で、たとえ功徳の少ないものでも、わたしの国の菩提樹が限りなく光り輝き、四百万里の高さであることを知ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
「知見する」内容というのは、<自己の置かれた場所が、いつでもそこが修行の道場であったとさとること>と師は仰いましたが、これこそ浄土の本質を良く言い表しています。
浄土は彼方にあるのではなく常に足元にあり、人生の本質を顕現せしめ、煩悩具足の私に菩提心を起こさしめ、性根の無い自分の性根となり、未熟な自分を成熟せしめてゆくのです。それと同時に、自分とは何者か、自分を育ててくれた歴史や文明の尊さ、社会や家族や血に込められた純粋本能の尊さ、生命の尊さを知らしめるのも浄土のはたらきです。
<高さ四百万里>
「四」は、浄土の四つの徳(常・楽・我・浄)を象徴しています。
「常」とは、外道や声聞・縁覚の無常を越えた如来常住の報身(行為的世界の根本主体)が回施されることであり、「楽」とは、外道の苦を捨て正定聚に住するがゆえに必ず滅土に至る≠ニ、生きて甲斐あり死んで悔いの残らぬ人生が回施されることであり、「我」とは、欲望や生死に迷う穢悪の我を捨てて真の主体を立ち上げることが回施されるということであり、「浄」とは、娑婆の苦を捨てて仏菩薩の正法に帰依するということです。
このように、大乗経典で「四」という数字があって別段の注釈がなければそれは覚り≠竍浄土の四徳≠象徴していると見て間違いないでしょう。後の章(第21章)には浄土の華の上を歩む場面が出てきますが、「足その上を履むに、陥み下ること四寸」とある四寸も浄土の四徳を表しています。
ちなみに梵語経典の願文には<高さが千六百ヨージャナある彩りすぐれた菩提樹>とありますがこれは4×4=16で、浄土の四徳が重々無尽となっていることを象徴しているのでしょう。
<その本の周囲五十由旬[ゆじゅん]なり>
「五」は五悪趣(地獄・餓鬼・畜生・人間・天上)で、覚りの「四」とは逆に迷いの世界≠象徴します。ちなみに「六」も六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)迷いの世界を象徴します。
{法蔵発願思惟摂取}には、「五劫を具足し、思惟して荘厳仏国の清浄の行を摂取す」とありますが、これは五悪趣を超えたところに本願を見つけた≠アとをあらわしています。
すると、浄土の菩提樹の根もとの周囲が五十由旬[ゆじゅん]である、ということは何を象徴しているのでしょう。
〈淤泥華〉とは、「経」(維摩経)にのたまはく、〈高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にいまし蓮華を生ず〉と。これは凡夫、煩悩の泥のなかにありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩ふ。まことにそれ三宝を紹隆して、つねに絶えざらしむと。
「淤泥華[おでいけ]」とは、経《維摩経》に「高原の陸地には蓮華は生じないが、湿った泥の中に蓮華が生ずる」と説かれている。これは、この土の凡夫が煩悩の泥の中にあって、浄土から出られた菩薩に導かれて、よく仏の正覚をひらく華、すなわち信心を生ずるのにたとえたのである。まことに仏法僧の三宝を十方世界にひろめて、つねに絶えないようにするのである。
このように、浄土の蓮華が菩薩の場所的自覚を象徴しているのと同様、道場樹も「この迷いの世界を踏まえて、根を張って、そこからさとりの世界に届いておる」ことを示しています。
<枝葉四に布けること二十万里なり>
(枝や葉は二十万里にわたり四方に広がっている)
「二十」という数字が出てきましたが、4×5=20という簡単な掛け算に気づいた人は過去何人いたのでしょうか。二十は「煩悩即菩提[ぼんのうそくぼだい]」であり「穢土即浄土[えどそくじょうど]」ということを表しています。
浄土の四徳と五悪趣は、内容には十万億刹土の隔たりがありますが、相対[あいたい]せば互いに照らし合って相手を明らかにします。善と悪もそう、白と黒もそうでしょう。悪がないまま独立して善が存在することはないし、黒がなく白だけが存在する世界はあり得ません。黒と白が相照らしあうことによって、黒も白も相手を明らかにしつつ、自らの存在を明らかにするのです。
浄土の四徳と五悪趣も、独立して存在するのではありません。互いに相手を明らかにすると同時に、それによって却[かえ]って自らを現わすという関係にあるのです。矛盾したまま一体となっているのが真実であり、どちらか一方だけ存在しているという見方は真実ではありません。全ての存在や行為は矛盾的であることに気づかねば、自らの尾を追う犬のように無駄に疲れてしまいます。浄土と穢土が矛盾しながら一体となった場が修行の場、これを「二十万里の枝葉」と表しているのでしょう。
それゆえ私たちは、浄土と穢土[えど]の両土に足をつけ、穢土を穢土と照らして浄土があり、浄土を浄土と知らしめて穢土があることを覚るのです。穢土において苦悩すれば無明・我執の咎[とが]を照らす浄土がはたらき、浄土の快楽安穏[けらくあんのん]の荘厳を喜べば浄土建立のきっかけが穢土の苦悩にあることが骨身にしみて解るのです。またこの浄土と穢土の入出無礙[にゅうしゅつむげ]の門を見つけることが信心の要めなのです
この他にも、数字の謎を読み解けば経典の内容がよりはっきり解る箇所は多く存在します。
たとえば先にも挙げました{法蔵発願思惟摂取}で、世自在王仏が法蔵菩薩に「広く二百一十億の諸仏の刹土の天人の善悪、国土の粗妙を説きて」とある二百一十億ですが、これは迷いの六道を基底に蓮華こづみにして六段階重ねた総数(6+5+4+3+2+1)であり、「この世の在り方が重々無尽に交錯していることを表している」と解釈できます。
また「観無量寿経」には「菩薩三万二千ありき」と説いてありますが、島田幸昭師はこれを浄土の四徳と八正道(4×8=32)の重なりと読み、王舎城[おうしゃじょう]耆闍崛山[ぎしゃくつせん]に参集した菩薩は往相の菩薩ではなく、既に覚った仏のままで菩薩の修行をする還相の菩薩であることを明らかにしています。
また同経典で「仏身の高さ六十万億那由他恒河沙由旬なり」とありますが、これは「分限をあかせる真実の身にあらざる義」などではなく、「三界は我が有なり」という仏の本質として読み解くことができます。つまり六十万億は、人間の頭数の十万億と六道を掛けたもので、迷いの世界全体を阿弥陀の国と定めた数になります。あらゆる仏は、もともと自分の国を持っていません。ではどこに仏の国を造るのかといいますと、衆生の荒れ果てた国土を耕し、清浄なる各種の荘厳によって麗しい仏土(浄土)を造るのです。阿弥陀仏は「衆生のあるところ至らざるところなし」で、一切衆生の国土を自らの国土と抱き取った存在です。一切衆生を我が子・我が国民と抱き摂って、摂取した国土を浄め、各種仏宝によって荘厳し成就させ浄土につくりかえる、この活動の継続こそが阿弥陀仏の存在意義なのです。
<一切の衆宝自然に合成せり。月光摩尼・持海輪宝の衆宝の王たるをもつて、これを荘厳せり>
(それはすべての宝が集まって美しくできており、しかも宝の王ともいわれる月光摩尼[がっこうまに]や持海輪宝[じかいりんぽう]で飾られている)
月光摩尼の摩尼は如意宝珠[にょいほうしゅ]で、心の如く、心のままに宝を生み出す宝玉です。これを読まれた方の中にはそんな迷信じみた玉など現実には存在しない≠ニ反論する人もいるかも知れませんが、仏教はこうした迷信じみた話さえ換骨奪胎[かんこつだったい]して利用し、迷信性を排除しつつ正信の譬[たと]えとすることがよくあるのです。
心の如く、心のままに宝を生み出す=Aその宝は総じて言えば仏法僧の三宝です。三宝を敬うところに人生のあらゆる宝が生み出されてきます。また三宝は、あらゆるものを宝にする宝であり、順境も逆境もどんな苦難も人生成就の宝に転じます。
では「月光」とは何でしょう。月はよく覚りに譬[たと]えられますが、これは月の光は太陽の光と違い高い精神性を感じせしめるもので、常に孤独を写し出す厳しく冷たい光だからです。ただし、月が太陽よりも高い精神性を持っている≠ニ言っているのではありません。求道の過程で月を見ることによって、人間の側が高い精神性を感じるのです。
今までの宗教は全部、大日如来とかあるいは天照大神というような、そういう光明主義というのは大抵温かい、そういう太陽のようなどんなものをもみんな安らわしてくれる。帯ひも解いてくつろぐことができる。そういうものが、大体宗教だと思うておったのです。
ところが、仏教は違うの。例えば九条武子さんみたいに「何事も人間の子の迷いかや、月は冷たき久遠の光」というておりますが、本当の宗教というものは、我々を絶対抱いてくれんもの。そういう「一人だぞ」「人間は一人だぞ」と。お月さまの光というものはなんぼすがっていこうと思うても、太陽のように抱いてくれんの。人生は独りぼっちということで突き放すの。それならば、突き放すという、ただ残酷なのか。「何事も人間の子の迷いかや、月は冷たき久遠の光」というが、本当に冷たいのかというと、そうでないのです。突き放すと同時に、その突き放した孤独の中に立たせて、そこから抱き取ってくれるの。
なれなれしい♀ヨ係も、個々の孤独を無視して触れ合っていると、突然、相手の存在が重く鬱陶[うっとう]しくなることがあります。仲違いも大半こうした無遠慮な触れあいによる嫌悪感が原因でしょう。馴[な]れ合いの関係は仏法の本意ではありません。相手に直接触れるのではなく、孤高の関係の中で相手を認め、普遍の法によって平等の救いがもたらされるのです。この譬えとして月光が用いられたのでしょう。このように仏法には、個と個が尊厳を保ちつつ触れあう厳しさがあります。
持海輪宝もやはり摩尼(如意宝珠)であり、海のように偉大な徳を有する宝玉であり、衆宝の王とも言われています。大海の水を保ち支えるところから持海の名があり、生命の育みに順じて地や人を潤[うるお]す。そして<衆宝の王たるをもつて、これを荘厳せり>ですから、このようなはたらきをもって道場樹を荘厳しているのです。
以上を総合的に言えば、道場樹は「浄土の修行」を象徴し、仏だからこそ真の仏と成るために菩薩の修行をする≠ニいう、欲を脱した「願いの修行」なのですが、これは自堕落な馴れ合いの関係からは生まれません。互いの尊厳を認めつつ普遍の法によって平等の救いがもたらされるもので、これは海のように偉大な徳を有し、生命の育みに順じて地や人を潤[うるお]してゆくのです。
<条のあひだに周匝して、宝の瓔珞を垂れたり。百千万色にして種々に異変す。無量の光焔、照耀極まりなし。珍妙の宝網その上に羅覆せり。一切の荘厳、応に随ひて現ず>
(枝と枝の間には、いたるところに宝玉の飾りが垂[た]れ、その色は数限りなくさまざまに変化し、はかり知れないほどの光となってこの上なく美しく照り輝いている。そして美しい宝をつないだ網がその上におおいめぐらされている。このようにすべての飾りが望みのままに現れるのである)
宝網については{荘厳虚空功徳成就}に詳説しましたので参照していただきたいのですが、簡単にまとめてみますと――
「羅網」は、諸仏・諸菩薩や有縁の人々が大悲護念のまごころによって自分を見守っていて下さることを象徴しています。また大悲護念はただ見守るだけではなく映えあって互いを認め褒めあう、これが空中にひろがる飾りあみ≠ノよって表現されています。
また、宝玉の飾りの色が数限りなくさまざまに変化し、はかり知れないほどの光となってこの上なく美しく照り輝いている≠アれは何故かというと、苦悩に千差万別あるがゆえで、これによって浄土の<百千万色にして種々に異変す>という荘厳があるのです。穢土[えど]の苦悩を苦悩と映して浄土があり、浄土の楽を楽と映して穢土があります。苦難の現実と安穏の浄土は真反対の内容でありながら、互いに内包し、互いを映し出しています。ですから、現実に起こる苦難のどの一つをとってもそこに浄土が映し出され、浄土のはたらきである功徳のどの一つをとってみてもそこには現実の苦悩が映し出されているのです。
これによって私たちは、娑婆[しゃば]の苦を苦悩としてのみ味わうのではなく、私の苦悩の中において衆生一切が苦悩を乗り越えてきた歴史的修行≠味わうことになり、ここにおいて諸仏の智慧が私に回施され、諸仏の徳のはたらきを我が生きる力とする術を得ることになるのです。
三法忍を得て不退転に住す
註釈版
微風やうやく動きてもろもろの枝葉を吹くに、無量の妙法の音声を演出す。その声流布して諸仏の国に遍す。その音を聞くものは、深法忍を得て不退転に住す。仏道を成るに至るまで、耳根清徹にして苦患に遭はず。目にその色を覩、耳にその音を聞き、鼻にその香を知り、舌にその味はひを嘗め、身にその光を触れ、心に法をもつて縁ずるに、一切みな甚深の法忍を得て不退転に住す。仏道を成るに至るまで、六根は清徹にしてもろもろの悩患なし。阿難、もしかの国の人天、この樹を見るものは三法忍を得。一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍なり。これみな無量寿仏の威神力のゆゑに、本願力のゆゑに、満足願のゆゑに、明了願のゆゑに、堅固願のゆゑに、究竟願のゆゑなり」と。
現代語版
そよ風がゆるやかに吹くと、その枝や葉がそよいで、尽きることなくすぐれた教えを説き述べる。その教えの声が流れ広がって、さまざまな仏がたの世界に響きわたる。その声を聞くものは、無生法忍[むしょうぽうにん]を得て不退転の位に入り、仏になるまで耳が清らかになり、決して苦しみわずらうことがない。このように、目にその姿を見、耳にその音を聞き、鼻にその香りをかぎ、舌にその味をなめ、身にその光を受け、心にその樹を想[おも]い浮べるものは、すべて無生法忍を得て不退転[ふたいてん]の位に入り、仏になるまで身も心も清らかになリ、何一つ悩みわずらうことがないのである。
阿難[あなん]よ、もしその国の人々がこの樹を見るなら、音響忍[おんこうにん]・柔順忍[にゅうじゅんにん]・無生法忍[むしょうぽうにん]が得られる。それはすべて無量寿仏の不可思議な力と、満足願[がんまんぞく]・明了願[みょうりょうがん]・堅固願[けんごがん]・究竟願[くっきょうがん]と呼ばれる本願の力とによるのである」
<微風やうやく動きてもろもろの枝葉を吹くに、無量の妙法の音声を演出す>
(そよ風がゆるやかに吹くと、その枝や葉がそよいで、尽きることなくすぐれた教えを説き述べる)
「微風」は{「極楽の余り風」の本当の意味}にも書きましたが、気象の風ではなく人生に吹く風です。また人生に吹く風はそよ風ばかりではなく、熱風も寒風・暴風もあるでしょう。ところが浄土では「地獄の猛火風と変じて涼し」で、恐ろしい人生顛倒[てんとう]の熱風・寒風・暴風が涼風に転じられていきます。なぜなら浄土は真実願土であり真実報土でありますから、あらゆる苦難が真実人生成就の大切な縁に転じられてゆくのです。
「枝や葉がそよいで、尽きることなくすぐれた教えを説き述べる」というのは、仏教は論理の積み重ねで成り立っているのではない、ということを言います。苦悩の現実を歩む中で教えが語られているのです。「無量の妙法の音声」は名号・念仏の徳によることは言うまでもありませんが、ただ南無阿弥陀仏という六字だけではなく、南無阿弥陀仏の内容が様々な言葉や行動を生み出して教えとなることを言います。
<その声流布して諸仏の国に遍す>
(その教えの声が流れ広がって、さまざまな仏がたの世界に響きわたる)
阿弥陀仏は一切諸仏・諸菩薩を生み出す根本主体でありますから、阿弥陀仏が永劫の修行をしたことが展開して一切諸仏の国に遍満[へんまん]することは当然のことです。
しかしこれを私の側から申しますと、私は自らの国を成就する修行≠ノ勤めている、この過程一々において、私が直面する苦難は古今東西誰も遭遇したことのない苦難であります。しかも自分自身で乗り越えることが不可能な苦難ばかりが襲い掛かってきます。
そこで阿弥陀仏の修行は諸仏の修行に超えて浄土の四徳をあらわし、なおかつ現実の五悪趣の真っ只中で修行をしてこれを成就する。この阿弥陀仏の修行の成果が全て私一人に回向されてくる。もちろん功徳は一切衆生に回施されるのですが、私はその中の一部を得るのではありません。一切衆生ひとり一人に阿弥陀仏の功徳全てが回施されるのです。こうした仏の一切の徳を宿した内容が「名号」なのでありますが、受領[じゅりょう]する衆生の側から言えば「念仏」となります。名号と念仏は本質は同じですが、仏と衆生の立場の違いから言葉を変えるのです。
<その音を聞くものは、深法忍[じんぽうにん]を得て不退転に住す。仏道を成るに至るまで、耳根清徹にして苦患に遭はず。目にその色を覩、耳にその音を聞き、鼻にその香を知り、舌にその味はひを嘗め、身にその光を触れ、心に法をもつて縁ずるに、一切みな甚深の法忍を得て不退転に住す。仏道を成るに至るまで、六根は清徹にしてもろもろの悩患なし。阿難、もしかの国の人天、この樹を見るものは三法忍を得。一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍なり>
(その声を聞くものは、無生法忍[むしょうぽうにん]を得て不退転の位に入り、仏になるまで耳が清らかになり、決して苦しみわずらうことがない。このように、目にその姿を見、耳にその音を聞き、鼻にその香りをかぎ、舌にその味をなめ、身にその光を受け、心にその樹を想[おも]い浮べるものは、すべて無生法忍を得て不退転[ふたいてん]の位に入り、仏になるまで身も心も清らかになリ、何一つ悩みわずらうことがないのである。
阿難[あなん]よ、もしその国の人々がこの樹を見るなら、音響忍[おんこうにん]・柔順忍[にゅうじゅんにん]・無生法忍[むしょうぽうにん]が得られる。)
要約すれば、浄土の道場樹より発せられた念仏は、念仏者に「深法忍[じんぽうにん]を得て不退転に住す」功徳を与え、六根清浄[ろっこんしょうじょう]をかなえて、やがて仏道を完全に成就せしめてゆく≠ニいうのですが、まずは一つひとつ言葉の解釈をします。
深法忍[じんぽうにん]は、三法忍(音響忍[おんこうにん]・柔順忍[にゅうじゅんにん]・無生法忍[むしょうぽうにん])を代表してた無生法忍と解釈されています。四十八願で言えば、{得三法忍の願}の成就であります。
注釈版
たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち第一、第二、第三法忍に至ることを得ず、もろもろの仏法において、すなはち不退転を得ることあたはずは、正覚を取らじ。
現代語版
わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、ただちに音響忍・柔順忍・無生法忍を得ることができず、さまざまな仏がたの教えにおいて不退転の位に至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
「忍」は智慧とほぼ同じ内容ですが、経験智とか体験智という実生活に即した内容となっています。私たちは日々人生を積み重ねつつ今を生きるのですが、この人生は限りない宝を宿すがゆえに、限りなくその宝を尋ねてゆくことになります。
「智」は「あれはあれ、これはこれと分別すること、また決断に名づく」ですから、青蓮華のように分明で物事の千差万別を見分けることができ、また善悪を決して行動することをかなえます。
「慧」は、「空、無我に名づく、不動に名づく」と解説されていますから、「智」に先立ち、先入観や我執を離れ、なおかつ衆生の本心や真心を見ることができ、甘言や脅しに崩されず、腹が据わって困難に耐えてゆくことをかなえます。
「忍」は「推求に名づく」ですから、先の「智慧」が体験智となり、自分の生き方はこれで良いのだろうか≠ニ、常に問いを持って人生を歩むことを言います。問いを持つことは、迷いの人生から抜け出す第一歩であり、人生成就の要めであります。仏道は問いに始まり問いに終わる。問いを無くした仏道はもはや仏道ではありません。ジャン・エラクル師は「人の究極的真実への真摯な求道はその人を必然的に目的へと運んでゆくのです」(十字架から芬陀利華へ)と仰いましたが、人の究極的真実への真摯な求道≠ヘ必然的に真心の問いを生むことになり、真心の問いがあるからこそ覚りに至る門も開かれるのです。
「音響忍[おんこうにん]」は、音と響きを聞き分けてその矛盾と同一を知ること、と言われています。たとえば「諸行は無常である」と聞いて肯く、しかしそう私に肯かせたのは無常ならざる世界からの呼びさましです。穢土を穢土と知らしめて浄土があり、浄土を浄土と願わしめて穢土があります。先に申しました「浄土の四つの徳」は全て矛盾と同一の両面がある内容ですし、人生に関する課題は全てこの矛盾と同一を含んだ内容です。
身近な例で言えば、「これは問題だ」と指摘される事があった時、つい問題を指摘されること自体を無くすことを考えがちですが、道場樹の念仏は問題があるから良いのだ=A問題を指摘されることが良いのだ≠ニ私を導きます。
また自分自身を「罪悪深重[ざいあくじんじゅう]・煩悩熾盛[ぼんのうしじょう]の衆生」と内省し懺悔する、しかしこのことによって自分に絶望するのではなく、むしろこれが「一切衆生悉有仏性[いっさいしゅじょうしつうぶっしょう]」の歴史を自らの身心で証明していることになる。懺悔せしめるはたらきが自分のバックボーンとして身に満ちていることを証明するのです。
さらには、音としての言葉や意識の奥に、響きとして言葉や意識を超えた内容が受け取れるのも音響忍のはたらきでしょう。これによって、個々の人間の存在や言動の奥に、その人間や言動を成り立たせている無限の歴史や環境が解るのです。
「柔順忍[にゅうじゅんにん]」は、物事や人生の流れに身も心も柔らかく順じてゆく智慧のことです。先の「音響忍」で心が静まり、宿業と浄土の矛盾と同一が見えることによって日常生活や行動が素直になるのです。頑[かたく]なに自説に執着し、様々な苦難から逃避し宿命に反抗ばかりしていた私が、受けねばならぬ宿命は引き受けてゆこう≠ニ現実に根を張り、結果を柔らかく受け入れて苦難を乗り越えてゆく、こうした智慧を柔順忍といいます。三十二大人相(仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴)の一つに手足柔軟相[しゅそくにゅうなんそう]が数えられていますが、これは柔順忍の果報を言うのでしょう。
こうした柔順な智慧に対して、「これだ」とつかんでしまったもの、これは信心であれ覚りであれ抜け殻であり、かたくなな執着に過ぎません。人間が陥りやすいのはこうした「つかんだもの」への執着であり、特に「思想」は総じて執着性を持っているので危険なのです。本当は、昨日「これだ」と讃じたとしても、今日ここで私に間に合わなければ捨てても構わないのです。ただし、こうしてあっさり捨てながらも、単に思想を使い捨てにするのではありません。思想や方向を取捨選択せしめた柔軟な智慧が浄土の道場樹より回施されてくるのです。
「無生法忍[むしょうぽうにん]」は三法忍を代表し、しかも「菩薩の無生法忍、もろもろの深総持[じんそうじ]を得」た智慧ですから、一切諸仏の音響忍・柔順忍を内包した智慧であり、人生や社会現実の根底にあって全てを支えている智慧であり、虚ろで渾然[こんぜん]と見える現象の背後にあって虚ろではない厳然とした法則の裏づけを得た智慧、ということです。また深総持[じんそうじ]とは陀羅尼[だらに]のことであり、「一語の中に無量の義を有っている」言葉ですから、「諸の深総持」を得た智慧というのは、一語一語の中に込められた数多くの本音や本質を聞き分ける智慧であり、さらには言葉だけではなく、現実に起こる一々の体験や見聞きしたことをきっかけに、その背後に潜んでいる文化や文明の本質を知ってゆく。小さな人生の機微[きび]を知ると同時に、そこに全世界を支え保つ基軸を見出してゆく智慧が菩薩の無生法忍でしょう。
「不退転[ふたいてん]に住す」ということは、浄土の仏地に足がついて迷いの世界に退転しないことをいい、覚りの側から言えば、必ず仏に成る位ということで「正定聚[しょうじょうじゅ]」ともいいます。これは道心が定まって退転しない位、という意味です。正定聚に住していない人は、道を求めながらもまだ暗中模索状態で、迷いの中にいて、きっかけがあると一気に底に沈む可能性があるので「退転の菩薩」といい、覚りの側から言えばまだ「不定聚・邪定聚」で、成仏が定まっていない段階なのです。
不退転の菩薩の特徴は、阿弥陀仏の浄土に往生したいと願う(既に即得往生した菩薩がその真価を発揮したいと願う)だけではなく、菩薩が自らの国を発見し、往覲偈にあるように「自分の国も阿弥陀仏の浄土のような素晴らしい国土にしたい」と願いを起こしていることです。この願いがあるからこそ次の六根清浄も適うのです。
「六根清浄[ろっこんしょうじょう]」というのは、目耳鼻舌身意の感覚・認識作用が清らかなことを言います。しかし正定聚に達していない衆生の眼には依怙贔屓[えこひいき]の色眼鏡がかかっていたり、先入観から物事をあるがまま見ることができず、耳も、口さがない人びとの虚言[きょげん]に汚され、相手の真意を聞き逃したり、歪曲[わいきょく]して聞いてしまいます。このような邪見や曲解などのない六根清浄を得るには、どうしても浄土の道場樹より発せられる念仏に遇わなければ適いません。
なぜならば、阿弥陀仏の浄土にあこがれ、真意を回向され、自らの国もかくあらん≠ニ願うことによってのみ浄土の存在意義を認めることができるのであり、これによって本心一途な願いが私の身心に満ちるとともに、これを阻害[そがい]している宿業の頑迷[がんめい]さを同時に領解することができからです。南無阿弥陀仏の名号は単なる文字ではありません。因位における本願と永劫にわたる修行一切の徳がその名に込められていますので、これを信じ名号を褒め称えれば、その道場樹一切の徳が私にはたらき、清浄なる六根を通した念仏となって私の人生一切に顕現[けんげん]してくるのです。
<これみな無量寿仏の威神力のゆゑに、本願力のゆゑに、満足願のゆゑに、明了願のゆゑに、堅固願のゆゑに、究竟願のゆゑなり」と>
(それはすべて無量寿仏の不可思議な力と、満足願[がんまんぞく]・明了願[みょうりょうがん]・堅固願[けんごがん]・究竟願[くっきょうがん]と呼ばれる本願の力とによるのである)
念仏者はみな三法忍を得、不退転を得、仏道成就まで六根清浄の功徳を身に満たしていくのですが、これらは念仏者ひとりの力に依るものではありません。すべて法蔵菩薩の願力と阿弥陀仏の仏力のおかげであり、この根本主体の寿命を自らの寿命と引き受け展開した先人たちの遺徳のたまものでしょう。
「威神力[いじんりき]」については「仏説無量寿経」の後半に――
世間かくのごとし。仏みなこれを哀れみたまひて、威神力をもつて衆悪を摧滅してことごとく善に就かしめたまふ。所思を棄捐し、経戒を奉持し、道法を受行して違失するところなくは、つひに度世・泥オンの道を得ん。
「仏説無量寿経」40(巻下・正宗分・釈迦指勧・五善五悪)
世の人々がこういうありさまであるから、仏がたはみなこれを哀れみ、すぐれた神通力によりさまざまな悪を砕き、すべてのものを善い行いに向かわせてくださるのである。誤った思いを捨てて仏の戒めを守り、教えを受けて修行し、途中で教えに背いたりやめたりしないなら、必ず迷いの世界を離れてさとりを得ることができるであろう。
と説明があります。また本願力以下については「述文讃」に――
〈本願力故〉といふは、[すなはち往くこと誓願の力なり。]〈満足願故〉といふは、[願として欠くることなきがゆゑに。]〈明了願故〉といふは、[これを求むるに虚しからざるがゆゑに。]〈堅固願故〉といふは、[縁として壊ることあたはざるがゆゑに。]〈究竟願故〉といふは、[かならず果し遂ぐるがゆゑに]
〈本願力の故[ゆえ]に〉とあるのは、わたしたちが往生するのは阿弥陀仏の本願のはたらきによるということである。〈満足願の故に〉とあるのは、衆生を救う願いが欠けることなく成就されているということである。〈明了願[みょうりょうがん]の故に〉とあるのは、阿弥陀仏の願い求められることには決して間違いがないということである。〈堅固願の故に〉とあるのは、本願はどのような縁にも破られることがないということである。〈究竟願[くきょうがん]の故に〉とあるのは、阿弥陀仏の願いは必ず果しとげられるということである。
法楽楽[ほうがくらく]は億千の外楽[げらく]や内楽[ないらく]を超える
註釈版
仏、阿難に告げたまはく、「世間の帝王に百千の音楽あり。転輪聖王より、乃至第六天上の伎楽の音声、展転してあひ勝れたること、千億万倍なり。第六天上の万種の楽音、無量寿国のもろもろの七宝樹の一種の音声にしかざること、千億倍なり。また自然の万種の伎楽あり。またその楽の声、法音にあらざることなし。清揚哀亮にして微妙和雅なり。十方世界の音声のなかに、もつとも第一とす。
現代語版
続けて釈尊が阿難に仰せになる。
「世間の帝王は、実にさまざまな音楽を聞くことができるが、これをはじめとして、転輪聖王[てんりんじょうおう]の聞く音楽から他化自在天[たけじざいてん]までの各世界の音楽を次々にくらべていくと、後の方がそれぞれ千億万倍もすぐれている。そのもっともすぐれた他化自在天の数限りない音楽よりも、無量寿仏の国の宝樹[ほうじゅ]から出るわずか一つの音の方が、千億倍もすぐれているのである。そしてその国には数限りなくうるわしい音楽があり、それらの音楽はすべて教えを説き述べている。それは清く冴[さ]えわたり、よく調和してすばらしく、すべての世界の中でもっともすぐれているのである。
前章に「清風、時に発りて五つの音声を出す。微妙にして宮商、自然にあひ和す」とありましたが、音楽は総じて快楽を象徴しています。衆生が様々な苦悩を味わいながらも力強く生きていけるのは、ひとえに苦悩以上の快楽を得ることができるからです。人生は本来楽しむためにあるのであり、決して苦悩するためではありません。
しかし智慧の浅い衆生は苦を楽と思い込み、楽を苦と思い込んで嫌ってしまいます。煩悩性の高い快楽は副作用の苦悩が永く身心を襲うにも関わらず人々が群がり、覚りに至る修行は副作用の苦悩がない純粋の快楽であるにも関わらず求める者は少ないのです。
そこで経典では、他化自在天という一切衆生が求める欲界の最高峰を譬えに用い、それを上回る快楽を示して覚りに至る修行を人々に回施します。
「無量寿国のもろもろの七宝樹の一種の音声」は、この章の道場樹はもちろん、前章の七宝樹(人と人が真心で触れ合って、個性と個性が映えあい、また対立が生まれながらも浄土の土徳によって協和に転じてゆく)から生まれる快楽は、たった一音であっても、他化自在天の数限りない音楽よりも勝れていることを示しています。
なぜなら浄土の道場樹や七宝樹から発せられる音楽は法楽楽[ほうがくらく]といって仏法の下地があり、求道の快楽は副作用もないので、これこそが末通った真の快楽なのです。これは智慧によって生ずる楽しみであり、この智慧によっておこる楽しみは、阿弥陀仏の功徳を愛楽することで生じるのです。比べて他の音楽は内容的に外楽[げらく]や内楽[ないらく]でありますから副作用があり、楽と苦の混同もありますので末通った真の快楽とは言えません。 
諸の浴池
また講堂、精舎、宮殿、楼観は、皆七宝の荘厳、自然に化して成る。また真珠、明月摩尼(みょうがつまに、摩尼珠)、衆宝、以って交露(きょうろ、珠にて織りなした幔幕)と為り、その上を覆蓋(ふがい)す。
内外左右に諸の浴池あり。或いは十由旬、或いは二十三十、乃ち百千由旬に至り、縦横、深浅、各皆一等なり(縦横深さが同じ)。八功徳水、湛然(たんねん、水が一杯まで満ちたさま)として盈満(ようまん、満ち溢れる)し、清浄にして香は潔く、味は甘露の如し。
黄金の池には底に白銀の沙、白銀の池には底に黄金の沙、
水精の池には底に瑠璃の沙、瑠璃の池には底に水精の沙、
珊瑚の池には底に琥珀の沙、琥珀の池には底に珊瑚の沙、
車磲の池には底に瑪瑙の沙、瑪瑙の池には底に車磲の沙、
白玉の池には底に紫金の沙、紫金の池には底に白玉の沙、
或いは二宝、三宝、乃ち七宝に至るまで転(うた)た共に合い成る。
その池の岸の上には栴檀樹あり。華と葉と垂れ布きて香気普く薫る。
天の優鉢羅華(うはらけ、青蓮華)、鉢曇摩華(はどんまけ、紅蓮華)、拘物頭華(くもつづけ、黄蓮華)、分陀利華(ふんだりけ、白蓮華)、色を雑(まじ)えて光り茂(さか)んに、弥(あまね)く水上を覆う。
彼の諸の菩薩および声聞衆、もし宝池に入らば、
意(こころ)に水をして足を没せしめんと欲せば、水は即ち足を没し、
膝に至らしめんと欲せば、即ち膝に至り、
腰に至らしめんと欲せば、水は即ち腰に至り、
頸に至らしめんと欲せば、水は即ち頸に至り、
身に潅(そそ)がしめんと欲せば、自然に身に潅ぎ、
還(ふたた)び復(もど)さしめんと欲せば、水は輒(たちま)ち還び復り、
冷暖を調和して自然に意に随い、
神(精神)を開き体を悦ばせ、心の垢を蕩除(とうじょ、洗い除く)し、
清明にして澄潔、浄らかなることは形の無きが若し。
宝の沙は映え徹って、深くとも照らさざること無し。
微かに瀾(なみだ、波立)ちて回流し、転た相い潅注す。
安詳(あんじょう、静かに)として徐に逝き、遅からず疾(はや)からず。
波は無量の自然の妙声を揚げ、その応ずる所に随って聞かざる者なし。
或いは仏の声を聞き、或いは法の声を聞き、或いは僧の声を聞き、
或いは寂静の声、空無我の声、大慈悲の声、波羅蜜の声を。
或いは十力、無畏(むい、無所畏)、不共法(ふぐうほう)の声、
諸の通慧(神通と智慧)の声、無所作の声、不起滅(不生不滅)の声、無生忍の声、乃ち甘露潅頂に至るまでの衆(もろもろ)の妙法の声なり。
かくの如き等の声、その聞く所に称(かな)いて、歓喜すること無量、
清浄、離欲、寂滅、真実の義に随順し、
三宝力、無所畏、不共の法に随順し、
通慧、菩薩、声聞の所行の道に随順す。
三塗(さんず、地獄餓鬼畜生)と苦難の名は有ること無く、ただ自然の快楽の音のみ有り。この故にその国を名づけて極楽と曰う。
[ 三塗苦難の名あることなく、ただ自然快楽の音のみあり。このゆゑに、その国を名づけて安楽といふ。]
また、その国の講堂[こうどう]・精舎[しょうじゃ]・宮殿・楼閣[ろうかく]などは、みな七つの宝で美しくできていて、真珠や月光摩尼[がっこうまに]のようないろいろな宝で飾られた幕が張りめぐらされている。
その内側にも外側にもいたるところに多くの水浴する池があり、大きさは十由旬[ゆじゅん]から、二十・三十由旬、さらに百千由旬というようにさまざまで、その縦横の長さは等しく深さは一定である。それらの池には、不可思議な力を持った水がなみなみとたたえられ、その水は実に清らかでさわやかな香りがし、まるで甘露[かんろ]のような味をしている。
金の池には底に銀の砂があり、銀の池には底に金の砂がある。
水晶の池には底に瑠璃[るり]の砂があり、瑠璃の池には底に水晶の砂がある。
珊瑚[さんご]の池には底に琥珀[こはく]の砂があり、琥珀の池には底に珊瑚の砂がある。
シャコの池には底に瑪瑙[めのう]の砂があり、瑪瑙の池には底にシャコの砂がある。
白玉[はくぎょく]の池には底に紫金[しこん]の砂があり、紫金の池には底に白玉の砂がある。
また、二つの宝や三つの宝、そして七つの宝によってできたものもある。池の岸には栴檀[せんだん]の樹々があって、花や葉を垂れてよい香りをあたり一面に漂わせ、青や赤や黄や白の美しい蓮の花が色とりどりに咲いて、その水面をおおっている。
もしその国の菩薩や声聞たちが宝の池に入り、足をひたしたいと思えば水はすぐさま足をひたし、膝[ひざ]までつかりたいと思えば膝までその水かさを増し、腰までと思えば腰まで、さらに首までと思えば首まで増してくる。身にそそぎたいと思えばおのずから身にそそがれ、水をもとにもどそうと思えばたちまちもと通りになる。その冷たさ暖かさはよく調和して望みにかない、身も心もさわやかになって心の汚れも除かれる。その水は清く澄みきって、あるのかどうか分からないほどであり、底にある宝の砂の輝きは、どれほど水が深くても透きとおって見える。水はさざ波を立て、めぐり流れてそそぎあい、ゆったりとして遅すぎることも速すぎることもない。
その数限りないさざ波は美しくすぐれた音を出し、聞くものの望みのままにどのような調べをも奏でてくれる。あるいは仏・法・僧の三宝を説く声を聞き、あるいは寂静[じゃくじょう]の声、空・無我の声、大慈悲の声、波羅蜜[はらみつ]の声、あるいは十力[じゅうりき]・無畏[むい]・不共法[ふぐほう]の声、さまざまな神通智慧[じんずうちえ]の声、無所作[むしょさ]の声、不起滅[ふきめつ]の声、さらに無生法忍[むしょうぽうにん]の声から甘露灌頂[かんろかんじょう]の声というふうに、さまざまなすばらしい教えを説く声を聞くのである。そしてこれらの声は、聞くものの望みに応じてはかり知れない喜びを与える。つまりそれらの声を聞けば、清浄[しょうじょう]・離欲[りよく]・寂滅[じゃくめつ]・真実の義にかない、仏・法・僧の三宝や十力・無畏・不共法の徳にかない、神通智慧や菩薩・声聞の修行の道にかなってはずれることがないのである。
このように苦しみの世界である地獄や餓鬼や畜生の名さえなく、ただ美しく快い音だけがあるから、その国の名を安楽というのである。 
講堂・精舎・宮殿・楼観・浴池の内容
前章{道樹楽音荘厳}では道場樹(菩提樹)を行の象徴とし、自分自身の修行が法蔵菩薩の修行回向によって成就する≠ニいう内容を学びましたが、この章では、講堂宝池を法話・浄化の象徴とし、今生きて生活する場を清浄なる法話の現場と定めてゆく≠ニいう浄土の功徳を学びます。
註釈版
また講堂・精舎・宮殿・楼観、みな七宝荘厳して自然に化成す。また真珠・明月摩尼の衆宝をもつて、もつて交露としてその上に覆蓋せり。内外左右にもろもろの浴池あり。〔大きさ〕あるいは十由旬、あるいは二十・三十、乃至百千由旬なり。縦広深浅、おのおのみな一等なり。八功徳水、湛然として盈満せり。清浄香潔にして、味はひ甘露のごとし。黄金の池には、底に白銀の沙あり。白銀の池には、底に黄金の沙あり。水精の池には、底に瑠璃の沙あり。瑠璃の池には、底に水精の沙あり。珊瑚の池には、底に琥珀の沙あり。琥珀の池には、底に珊瑚の沙あり。シャコの池には、底に碼碯の沙あり。碼碯の池には、底にシャコの沙あり。白玉の池には、底に紫金の沙あり。紫金の池には、底に白玉の沙あり。あるいは二宝・三宝、乃至七宝、うたたともに合成せり。その池の岸の上に栴檀樹あり。華葉垂れ布きて、香気あまねく熏ず。天の優鉢羅華・鉢曇摩華・拘物頭華・分陀利華、雑色光茂にして、弥く水の上に覆へり。
現代語版
また、その国の講堂[こうどう]・精舎[しょうじゃ]・宮殿・楼閣[ろうかく]などは、みな七つの宝で美しくできていて、真珠や月光摩尼[がっこうまに]のようないろいろな宝で飾られた幕が張りめぐらされている。
その内側にも外側にもいたるところに多くの水浴する池があり、大きさは十由旬[ゆじゅん]から、二十・三十由旬、さらに百千由旬というようにさまざまで、その縦横の長さは等しく深さは一定である。それらの池には、不可思議な力を持った水がなみなみとたたえられ、その水は実に清らかでさわやかな香りがし、まるで甘露[かんろ]のような味をしている。
金の池には底に銀の砂があり、銀の池には底に金の砂がある。
水晶の池には底に瑠璃[るり]の砂があり、瑠璃の池には底に水晶の砂がある。
珊瑚[さんご]の池には底に琥珀[こはく]の砂があり、琥珀の池には底に珊瑚の砂がある。
シャコの池には底に瑪瑙[めのう]の砂があり、瑪瑙の池には底にシャコの砂がある。
白玉[はくぎょく]の池には底に紫金[しこん]の砂があり、紫金の池には底に白玉の砂がある。
また、二つの宝や三つの宝、そして七つの宝によってできたものもある。池の岸には栴檀[せんだん]の樹々があって、花や葉を垂れてよい香りをあたり一面に漂わせ、青や赤や黄や白の美しい蓮の花が色とりどりに咲いて、その水面をおおっている。
阿弥陀仏の浄土には、<講堂[こうどう]・精舎[しょうじゃ]・宮殿[くでん]・楼閣[ろうかく]>、そして<浴池[よくち]>があるというのですが、これらは具体的に何を表しているのでしょう。またこれらが自分自身の現実とどのように関わってくるのでしょうか。
「講堂[こうどう]」には二種の意味があり、ひとつは「都市の公会堂」、もう一つは「経典を講じたり、法を説いたりする建物」で、ここでは主に後者を指します。ただし広義で「都市の公会堂」と理解しても良いでしょう。公会堂は常に開かれていて、いつでも誰でも中に入って休息することができ、宗教行事も行われる場所で、釈尊も各地の公会堂で説法したことがありました。ですからこの「講堂」は、法が講じられる場≠ナあると同時に法を広く論じる場≠表していると言えるでしょう。
「精舎[しょうじゃ]」は、有名な祇園精舎[ぎおんしょうじゃ]もそうですが、修行者の住居・僧院という意味です。仏を安置し、仏法を念じ、僧たちが修行に励みながら共同生活する場所ですから、いわゆる寺院ということです。
この「講堂精舎」を合わせれば、広く法を学び、論じ、修行する場≠ニいう意味になります。阿弥陀仏の浄土は{讃仏偈}に「われ仏とならんに、国土をして第一ならしめん。その衆、奇妙にして道場超絶ならん」とありますように、浄土は道場であり、身心の修行場という面を持ちます。それも山深い難行苦行の修行場ではなく、日々の生活が道場となった楽しい修行場です。
「宮殿[くでん]」は浄土の果報[かほう]として居場所や落ち着き場所が与えられることを言います。与謝野晶子が「劫初[ごうしょ]よりつくりいとなむ殿堂[でんどう]にわれも黄金[こがね]の釘一つ打つ」と歌った「殿堂」が「宮殿」です。具体的には人々の生活環境や文化文明や人生観の果報ですが、浄土の宮殿ですから、物体としての果報ではなく、「仏性」や「信心」といわれる真心の果報を言います。ただし「かの辺地[へんじ]の七宝の宮殿に生れて、五百歳のうちにもろもろの厄[わざわい]を受くることを得ることなかれ」(「仏説無量寿経」33巻下正宗分釈迦指勧弥勒領解)と警告されているように、宮殿にあまり長く留まることは災厄につながる、ということは肝に銘じておかねばなりません。具体的には、浄土の果報を誇って安逸[あんいつ]を貪[むさぼ]る愚[ぐ]を嗜[たしな]めているのです。
「楼観[ろうかん]」は見晴らしの良い高殿[たかどの]で、天親菩薩は「浄土論」願生偈に「宮殿諸楼閣[くでんしょろうかく]にして十方を観[み]ること無碍[むげ]なり」と示されています。浄土の詳細を学ばせていただいているうちに、浄土の功徳によっていつのまにか浄土全体が見えてくることを言います。いわば高殿に登って浄土を俯瞰[ふかん]できるようになる、浄土全体として何を願いどう報いているのか解るようになる、このことを「楼観」と一言で言い表しているのです。
この「宮殿楼観」は総じて仏宝の様々な楽しみを象徴しているのですが、願生偈では、そうした仏宝の徳や楽しみと、世界中の学問や芸術や世俗のあらゆる分野の本質とが無碍の関係にあることを教えます。それゆえ、法に生きる者はあらゆる分野の本質と問題点を見抜く智慧が与えられるのであり、逆に言えば、世俗や他分野の問題とからみあわないような仏法は本物の仏法ではないということでもありましょう。先の「辺地の七宝の宮殿」はこのことを言っているのです。
「浴池[よくち]」は沐浴[もくよく]のための池で、鑑賞のための池ではありません。古代よりインド人は、聖なるガンジス川の水で沐浴すれば汚れや罪が払われる≠ニ考え、連綿と現代にも続く儀式となっています。日本では禊[みそぎ]に当たるでしょう。ただし釈尊はこの考え方に対し、「水によりては清浄ならず。何人も真実と法とだにあらば清浄なり」と批判的で、暑さ対策や身を洗うための沐浴に限定し、また水浴法を設けて放逸に流れないよう規制を設けていました。
では浄土に浴池があるのは何のためかというと、たとえば禅宗寺院では入浴の際、「洗身身体当願衆生身心無垢内外共浄」(旧華厳経巻十四)と唱えるように、沐浴によって直接的に清浄になるのではないが、沐浴を縁として自分や衆生が清浄になることを願い行じるのです。精神が汚れ、恩着せがましい根性が起こってくるのを、真実と法によって、真心の水で洗い流すことを念じるのです。さらには、広く法を学び論じて修行したり、仏宝の様々な楽しみを享受しているうちに熱くなってきた精神を冷静に保つ役割もあるでしょう。様々な宗教や思想が恐ろしいのは、教えを学び行じるうちに熱狂的に酔いしれてしまい、冷静さや客観性を失ってしまうところにあります。宗教的熱狂ほど傍迷惑[はためいわく]で傲慢[ごうまん]で破壊的な行為はありません。浴池はこれを内外から冷ます役割も持っているのです。総じて言えば「浴池」は、精神の浄化装置であり冷却装置を象徴しているのでしょう。
釈尊は形骸化[けいがいか]した宗教儀礼を廃したのですが、浄土経典は全ての形骸を拾い集めて洗い直し、そこに本来の宗教精神を復活させ、あらゆる宗教の功徳を汲[く]み取り、全人類が新たな地平を目指して歩めるよう導いてゆくのです。
以上のようにこの章に登場する講堂[こうどう]・精舎[しょうじゃ]・宮殿[くでん]・楼閣[ろうかく]・浴池[よくち]の内容が具体的に解りましたから、これらが実際にどう絡まり、どのように自分に関わってくるのかを明らかにしていきます。
また講堂・精舎・宮殿・楼観、みな七宝荘厳[しっぽうしょうごん]して自然[じねん]に化成[けじょう]す。
(また、その国の講堂[こうどう]・精舎[しょうじゃ]・宮殿・楼閣[ろうかく]などは、みな七つの宝で美しくできていて)
「講堂・精舎・宮殿・楼観」は先に解説した通りですが、略して言えば、浄土には、広く法を学び、論じ、修行する場があり、仏性の果報として様々な楽しみを得ることができる≠ニ読めます。ではこれらが「みな七宝荘厳[しっぽうしょうごん]して自然[じねん]に化成[けじょう]す」とはどういう意味でしょう。
「七宝」は、七財(七聖財[シチショウザイ]・七法)や七菩提分[シチボダイブン](七覚分[シチカクブン]・七覚支[シチカクシ])などの果報だと言われています。
「荘厳」は創造し飾ることをいいます。それも虚飾で飾るのではなく、また身や空間を飾る以上に人生荘厳が大事。人生を真心で飾ることを荘厳と言います。
「自然」とは「必然」ということであり、宝を持ち込んで飾ろうとする人がいるわけではないのに宝が生まれる。ものや物事を生かす智慧によって宝と成る。浄土の菩提心が個々の人間に至って信心となり、打ち出の小槌のように宝が生まれることをいいます
「化成[けじょう]」は、同じく{弥陀果徳十劫成道}に、<またその国土には、須弥山および金剛鉄囲、一切の諸山なし。また大海・小海・谿渠・井谷なし。仏神力のゆゑに、見んと欲へばすなはち現ず>とありますが、「見んと欲へばすなはち現ず」ということと同様の意味です。
自然に化城するということは、「化城」はあるかと思えばない、ないのかと思うと独りでに出てくるの、そういう御殿。ということは、何がいいたいのかといいますと、実はこんな宮殿があるんじゃないの、御殿があるんじゃない。ないんじゃが、お念仏が出てくると、こういうちゃんと日々が修行になるのです。講堂精舎。しかも、現在ただいまが、「ここは嫌いここは嫌い」と思うておったところが、今、現在私が置かれておる場所が「世界一の尊い場所でございました」と安住することができる。だから、自分のおる場所が、今まで私ほど不幸せ者はないと思うておったものが、今、現在おる所が私にとって一番ありがたい所と落ち着くことができる。だから、ちゃんとないかと思えば出てくるでしょうが。そういうことをいおうとしてから、自然に化城するんじゃと、こうおっしゃっておるのであろうと思うんであります。だから、実際にそういう御殿があるんじゃない。けれども、その御殿があると同じ徳が出てくるということをいいたいんだと思う。
(中略)
お念仏の中には無限の徳があって、ちゃんとこのように六講堂の徳も、精舎の徳も、宮殿の徳も、楼閣の徳もお念仏のあるところに独りでに出てくる。しかももそれがまごころです。まごころに裏付けられて飾られておるというのであります。
ただし、十劫成道の方は「須弥山および金剛鉄囲、一切の諸山なし」が基本で「見んと欲へばすなはち現ず」が副次的なものとなっていますが、化成は「講堂・精舎・宮殿・楼観、みな七宝荘厳して」が基本で「化」は副次的な表現です。
また真珠[しんじゅ]・明月摩尼[みょうがつまに]の衆宝[しゅぼう]をもつて、もつて交露[きょうろ]としてその上に覆蓋[ふがい]せり。
(真珠や月光摩尼のようないろいろな宝で飾られた幕が張りめぐらされている)
仏教では「真珠」はまごころにたとえられます。「明月摩尼」は前章{道樹楽音荘厳}の「月光摩尼[がっこうまに]」と同じで、心の如く、心のままに宝を生み出す宝玉です。月の光は、孤高の精神性の中で雑多な罪を消し、人々を許し抱きとめるはたらきをを感じせしめるものです。これは究極的には仏法僧の三宝や念仏を象徴していて、三宝を敬うところに人生のあらゆる宝が生み出されてきます。また念仏は、あらゆるものを宝にする宝の王であり、順境も逆境もどんな苦難も人生成就の宝に転じます。
「交露[きょうろ]」は宝玉をつらねた幔幕[まんまく](式場・会場などに張りめぐらす幕)で、玉の光が露の光を交えたようになるため交露といいます。これが「講堂・精舎・宮殿・楼観」の上に「覆蓋[ふがい]」している、覆[おお]いかぶさるように張りめぐらされているのです。これは、諸仏・諸菩薩や有縁の人々が、大悲護念のまごころによって私や衆生見守っていて下さることを象徴しています。
内外左右[ないげさう]にもろもろの浴池[よくち]あり。〔大きさ〕あるいは十由旬[ゆじゅん]、あるいは二十・三十、乃至[ないし]百千由旬なり。縦広深浅[じゅうこうじんせん]、おのおのみな一等[いっとう]なり。八功徳水[はっくどくすい]、湛然[たんねん]として盈満[ようまん]せり。清浄香潔[しょうじょうこうけつ]にして、味はひ甘露[かんろ]のごとし。
(その内側にも外側にもいたるところに多くの水浴する池があり、大きさは十由旬から、二十・三十由旬、さらに百千由旬というようにさまざまで、その縦横の長さは等しく深さは一定である。それらの池には、不可思議な力を持った水がなみなみとたたえられ、その水は実に清らかでさわやかな香りがし、まるで甘露のような味をしている)
「浴池[よくち]」は先ほども説明しましたが、精神が汚れ、恩着せがましい根性が起こってくるのを、真実と法によって、真心の水で洗い流す。さらには、広く法を学び論じて修行したり、仏宝の様々な楽しみを享受しているうちに熱くなってきた精神を冷静に保つ≠ニいう浄土の徳をあらわしたものです。これが内外左右[ないげさう]にあるということは、内面も外面もどんな状況でも、精神を浄化し冷静さを保つ念仏の徳に恵まれていることを示しています。
この浴池の大きさが、十由旬から、二十・三十由旬、さらに百千由旬というようにさまざまであるというのはどういう意味でしょう。
まず「由旬[ゆじゅん]」とは梵語「ヨージャナ」の音写で、一由旬は「帝王一日の行軍の距離」、または「牛車の一日の旅程」とされています。実際の距離はというと、約14.4km、約30km、約60kmなど諸説ありますが、いずれにしろ「十由旬」でさえ最低でも約144kmですから実に巨大で、百千由旬ともなると地球上に収まらないほどの大きさになります。これは浄土の浴池は個人的な池ではなく、地域や国や世界中の人々全てが、共に浄土の功徳に浴[よく]することが適う池であることを示しています。
次に「縦広深浅[じゅうこうじんせん]、おのおのみな一等[いっとう]なり」は具体的に何を示そうとしたのでしょうか。
「現代語版」では「その縦横の長さは等しく深さは一定である」と訳しています。確かに「一等」には「一様平等。差別の心なく、の意。無別・無異と同様」という解釈もありますから、この意を汲めば、世界中の人々がみな差別なく浄土の功徳に浴することができる≠ニ解釈できるでしょう。
ただし「一等」は「一定」という意味だけではなく、文字通りの一等、「最上・最高」という意味もあり、むしろこちらの解釈が一般的です。この意を汲めば――浴池の縦横の長さや深さ浅さは最も勝れている=Aつまり浴池のこの長さが丁度良い、この深さが丁度良い≠ニ訳せます。さらにもっと具体的に言えば――浄土では世界中の人々がみな今のこの状況に不平不満を持たず、自分は世界一の果報者である≠ニ喜んでいる。浄土の功徳を身一杯に満たし、ひがみ根性や、恩着せがましい根性を真心の水で洗い流すことができ、さらには熱狂的法執を冷静に保つことができる。こうした今現在自分の境遇に感謝し、さらには、衆生ひとり一人が皆知らぬうちにそうした場に立っている≠ニ、こうしたことが見抜かれているのでしょう。
次に八功徳水[はっくどくすい]についてですが、これは八正道の功徳を水にたとえているのですが、具体的には、日常生活がみな仏道修行に変わってゆくことを言います。先にも申しましたように「講堂・精舎・宮殿・楼観」は仏性展開の果報であり、水はこの殿堂を生み出し清らかに関わってゆく心根を表していますが、これが仏道の基本である八正道の功徳で満ちているのです。浄土では、行動を起こす時の感情や心根が、結果として生み出されたモノとよく調和し、願いと浄土が寸分も違わず相応し、人々は満足しています。また「清浄香潔[しょうじょうこうけつ]にして、味はひ甘露[かんろ]のごとし」と称えられる心根が、七宝(七財・七法もしくは七菩提分)に飾られた「講堂・精舎・宮殿・楼観」に寄り添い流れています。
「甘露[かんろ]」は不老不死の水のことですが、これは肉体が死なないようになるのではありません。諸行は無常ですから死はまぬがれません。しかし、生死に迷わないようになることは可能です。今、今、今、「今こそ永遠」と新たに充実し切って生きることはできます。今生きる自分自身の内に、無限に生きる内容を持っていること、これを甘露にたとえたのです。先師は「春秋に富む」とも「日々永遠に新たないのち。それを無量寿というんだ」とも領解されてみえます。
真心の複雑で華麗な道程
註釈版
黄金[おうごん]の池には、底に白銀[びゃくごん]の沙[いさご]あり。白銀の池には、底に黄金の沙あり。水精[すいしょう]の池には、底に瑠璃[るり]の沙あり。瑠璃の池には、底に水精の沙あり。珊瑚[さんご]の池には、底に琥珀[こはく]の沙あり。琥珀の池には、底に珊瑚の沙あり。シャコの池には、底に碼碯[めのう]の沙あり。碼碯の池には、底にシャコの沙あり。白玉[びゃくごく]の池には、底に紫金[しこん]の沙あり。紫金の池には、底に白玉の沙あり。あるいは二宝・三宝、乃至七宝、うたたともに合成[ごうじょう]せり。その池の岸の上に栴檀樹[せんだんじゅ]あり。華葉[けよう]垂[た]れ布[し]きて、香気[こうけ]あまねく熏[くん]ず。天の優鉢羅華[うはらけ]・鉢曇摩華[はどんまけ]・拘物頭華[くもずけ]・分陀利華[ふんだりけ]、雑色光茂[ざっしきこうも]にして、弥[ひろ]く水の上に覆[おお]へり。
現代語版
金の池には底に銀の砂があり、銀の池には底に金の砂がある。水晶の池には底に瑠璃[るり]の砂があり、瑠璃の池には底に水晶の砂がある。珊瑚[さんご]の池には底に琥珀[こはく]の砂があり、琥珀の池には底に珊瑚の砂がある。シャコの池には底に瑪瑙[めのう]の砂があり、瑪瑙の池には底にシャコの砂がある。白玉[はくぎょく]の池には底に紫金[しこん]の砂があり、紫金の池には底に白玉の砂がある。また、二つの宝や三つの宝、そして七つの宝によってできたものもある。池の岸には栴檀[せんだん]の樹々があって、花や葉を垂れてよい香りをあたり一面に漂わせ、青や赤や黄や白の美しい蓮の花が色とりどりに咲いて、その水面をおおっている。
様々な宝の池のたとえが出ています。ここは({弥陀果徳宝樹荘厳「#七宝のコラボレーション」})と表現が似ているのですが重要な点が違っています。それは、先のは一つの宝だけででいた樹≠烽りますが、池は必ず二つ以上の宝で表現されています。また先のは一つの樹が一人の求道全体の内容、もしくは一つの樹が一つの集い≠ニ解釈することができましたが、池は精神を浄化し冷却する浄土の功徳をたとえています。
黄金の池や白銀の池は、仏道の基本である八正道の功徳で満ちていて、衆生を清浄冷静ならしめるはたらきがあり、特に柔軟心によって素直な心で仏道に楽しみ励むことが適ってきます。ところがこの素直な心≠ヘ決して単純な心を言うのではありません。浄土は、命令通り動けば良いという世界ではないのです。「黄金[おうごん]の池には、底に白銀[びゃくごん]の沙[いさご]あり」で、表は黄金であっても腹底には白銀がある。こうした複雑さが顕現[けんげん]する世界が浄土です。
さらには、表に現れた言葉や行動も美しいが、美しい表面を支える金剛の腹底もまた宝であることも重要です。「外面似菩薩[げめんじぼさつ]内面如夜叉[ないめんにょやしゃ]」というように、建前は良いが本音が悪い、と逆転するような表現がありますが、浄土では腹底に必ず宝を発見することができます。美しく柔軟な言動の腹底にさらに深い金剛心の宝があることが垣間見られる。さらには「二つの宝や三つの宝、そして七つの宝によってできたものもある」と、真心の複雑で華麗な道程を見わけることができるのも念仏の功徳です。これは浄土の果報なのですが、娑婆においては、表面の言動に違和感や異論をおぼえても、念仏の功徳により、相手の腹底に宝を見出すことが適うのです。
次に、栴檀樹[せんだんじゅ]が浴池の岸の上に咲いて、花や葉を垂[た]れてよい香りをあたり一面に漂わせている、とあります。栴檀については、「栴檀は双葉より芳[かんば]し」という諺[ことわざ]があるほど香木として名高く、芽を出すだけで周辺の伊蘭[いらん](臭木)の林の臭気を消してしまうと言われています。また高熱や風腫などの病に利く薬としても有名です。これももちろん人生のたとえで、煩悩の臭気紛々[しゅうきふんぷん]ただよう私たちの日暮しから、念仏の芳[かぐわ]しい香りによって臭気を消し去り、煩悩の病に冒された衆生の身心を浄土の徳によって治していただくのです。
「優鉢羅華[うはらけ]」は、青蓮華[しょうれんげ]のことで、たとえば{法蔵修行}には「口気は香潔にして、優鉢羅華のごとし」と、菩薩の功徳を香りに譬えて表現しています。また「鉢曇摩華[はどんまけ]」は紅蓮華[ぐれんげ]のこと、「拘物頭華[くもずけ]」は黄蓮華[おうれんげ]、分陀利華[ふんだりけ]は白蓮華[びゃくれんげ]を言います。これらが雑色光茂[ざっしきこうも]、(青や赤や黄や白の美しい蓮の花が色とりどりに咲いて、その水面をおおっている)ということですが、「仏説阿弥陀経」には「池のなかの蓮華は、大きさ車輪のごとし。青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて、微妙香潔[みみょうこうけつ]なり」(現代語版:また池の中には車輪のように大きな蓮の花があって、青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放ち、いずれも美しく、その香りは気高く清らかである)とあるのと同じです。
蓮華は泥田の中に咲く美しい華ですがこの様子に譬[たと]え、経典では、泥田によって五濁悪世[ごじょくあくせ](穢土[えど]・娑婆[しゃば])を象徴し、蓮華によって浄土を象徴するのです。そして色とりどりの蓮華は、穢土に生きながら穢土の泥に埋没せず、個性豊かな仏性の華を咲かせる功徳を表しています。
浄土教は、まず「主体性の確立」を第一とし、次に「正しい人生観」をもって「自らの人生と環境を創造」してゆくことを教えますが、ここに個性の発揮があるのだと島田幸昭師は仰いました。私は、蓮華が登場する際は常にこのことを思い出し味わいを深くしています。
願い通り身心が浄まり快楽を得る
註釈版
かの諸菩薩[しょぼさつ]および声聞衆[しょうもんしゅ]、もし宝池[ほうち]に入りて、意[こころ]に水をして足を没[ひた]さしめんと欲[おも]へば、水すなはち足を没す。膝[ひざ]に至らしめんと欲へば、すなはち膝に至る。腰に至らしめんと欲へば、水すなはち腰に至る。頸[くび]に至らしめんと欲へば、水すなはち頸に至る。身に灌[そそ]がしめんと欲へば、自然[じねん]に身に灌ぐ。還復[げんぷく]せしめんと欲へば、水すなはち還復す。冷煖[りょうなん]を調和[じょうわ]するに、自然に意に随[したが]ふ。〔水浴せば〕神[たましい]を開き、体を悦[よろこ]ばしめて、心垢[しんく]を蕩除[とうじょ]す。〔水は〕清明澄潔[しょうみょうちょうけつ]にして、浄[きよ]きこと形なきがごとし。〔池底の〕宝沙[ほうしゃ]、映徹[ようてつ]して、深きをも照らさざることなし。微瀾回流[みらんえる]してうたたあひ灌注[かんちゅう]す。安詳[あんじょう]としてやうやく逝[ゆ]きて、遅からず、疾[と]からず。波揚[あ]りて無量なり。自然の妙声[みょうしょう]、その所応[しょおう]に随ひて聞えざるものなし。あるいは仏声[ぶっしょう]を聞き、あるいは法声[ほうしょう]を聞き、あるいは僧声[そうしょう]を聞く。あるいは寂静[じゃくじょう]の声、空無我の声、大慈悲の声、波羅蜜[はらみつ]の声、あるいは十力・無畏[むい]・不共法[ふぐほう]の声、もろもろの通慧[つうえ]の声、無所作[むしょさ]の声、不起滅[ふきめつ]の声、無生忍[むしょうにん]の声、乃至[ないし]、甘露灌頂[かんろかんじょう]、もろもろの妙法[みょうほう]の声、かくのごときらの声、その聞くところに称[かな]ひて、歓喜すること無量なり。〔聞くひとは〕清浄[しょうじょう]・離欲[りよく]・寂滅[じゃくめつ]・真実の義に随順[ずいじゅん]し、三宝・〔十〕力・無所畏[むしょい]・不共[ふぐ]の法に随順し、通慧[つうえ]、菩薩・声聞の所行[しょぎょう]の道に随順す。三塗苦難[さんずくなん]の名あることなく、ただ自然快楽[じねんけらく]の音のみあり。このゆゑに、その国を名づけて安楽[あんらく]といふ。
現代語版
もしその国の菩薩や声聞たちが宝の池に入り、足をひたしたいと思えば水はすぐさま足をひたし、膝[ひざ]までつかりたいと思えば膝までその水かさを増し、腰までと思えば腰まで、さらに首までと思えば首まで増してくる。身にそそぎたいと思えばおのずから身にそそがれ、水をもとにもどそうと思えばたちまちもと通りになる。その冷たさ暖かさはよく調和して望みにかない、身も心もさわやかになって心の汚れも除かれる。その水は清く澄みきって、あるのかどうか分からないほどであり、底にある宝の砂の輝きは、どれほど水が深くても透きとおって見える。水はさざ波を立て、めぐり流れてそそぎあい、ゆったりとして遅すぎることも速すぎることもない。
その数限りないさざ波は美しくすぐれた音を出し、聞くものの望みのままにどのような調べをも奏でてくれる。あるいは仏・法・僧の三宝を説く声を聞き、あるいは寂静[じゃくじょう]の声、空・無我の声、大慈悲の声、波羅蜜[はらみつ]の声、あるいは十力[じゅうりき]・無畏[むい]・不共法[ふぐほう]の声、さまざまな神通智慧[じんずうちえ]の声、無所作[むしょさ]の声、不起滅[ふきめつ]の声、さらに無生法忍[むしょうぽうにん]の声から甘露灌頂[かんろかんじょう]の声というふうに、さまざまなすばらしい教えを説く声を聞くのである。そしてこれらの声は、聞くものの望みに応じてはかり知れない喜びを与える。つまりそれらの声を聞けば、清浄[しょうじょう]・離欲[りよく]・寂滅[じゃくめつ]・真実の義にかない、仏・法・僧の三宝や十力・無畏・不共法の徳にかない、神通智慧や菩薩・声聞の修行の道にかなってはずれることがないのである。
このように苦しみの世界である地獄や餓鬼や畜生の名さえなく、ただ美しく快い音だけがあるから、その国の名を安楽というのである。
「足をひたしたいと思えば水はすぐさま足をひたし……身にそそぎたいと思えばおのずから身にそそがれ」ということですが、先に申しましたように浴池[よくち]は、精神の浄化装置であり冷却装置≠ニいう面と浄土建設の心根≠ニいう面を持っています。こうしたことを総合的に鑑み真実義を解したてまつらん≠ニの思いで、これを大まかに意訳してみますと――
浄土建設の心根に触れ、精神を浄化し冷静さを取り戻そうと願う者は全て、願いに応じて(足から全身まで)その真心の精神に触れることができ、触れた者は心身がさわやかで清らかになる。この真心は澄みきって押し付けがましくなく、その底には深い仏宝の輝きを宿している。この真心は自然に念仏の声となって響き渡り、あらゆる苦難の叫び声が念仏の声に呼応し、生命讃歌の響きとなって聞こえてくる。これらはあらゆる仏法の教えと相応した響きであり、この響きを聞くと皆歓喜にわき、皆大乗の教えに喜び随うこととなる。そこには地獄・餓鬼・畜生の三悪道は名前さえなく、ただ道を求める法の快楽を聞くのみである。それゆえ阿弥陀仏の浄土を「安楽国」というのである。
と、まずはこのように領解できるかと思います。以下は文字解釈と気になる点を述べてみます。
〔水浴せば〕神[たましい]を開き、体を悦[よろこ]ばしめて、心垢[しんく]を蕩除[とうじょ]す
神[たましい]は霊魂[れいこん]のことではなく、人間の性根[しょうね]のことです。浄土は性根の無い私の性根となってはたらきます。この性根がどうはたらくかと言いますと、まず「体を悦[よろこ]ばしめ」る。生き生きと、若々しく、体中に快楽を得、次に「心垢[しんく]を蕩除[とうじょ]す」。心の汚れも除かれるのです。
〔水は〕清明澄潔[しょうみょうちょうけつ]にして、浄[きよ]きこと形なきがごとし。
「清明澄潔」は、浴池の水が清く澄[す]みきって清潔なことで、その浄[きよ]き様子は「形なきがごとし」というのですが、これは現代語版では「あるのかどうか分からないほど」と訳されています。これは、浄土の功徳は形に残して誇るような恩着せがましさがないことを言います。日本的に言えば、真実功徳は深夜に降り積もる雪のように静かである≠ニいう表現が当てはまるかもしれません。
〔池底の〕宝沙[ほうしゃ]、映徹[ようてつ]して、深きをも照らさざることなし。
現代語版は「底にある宝の砂の輝きは、どれほど水が深くても透きとおって見える」と訳してあります。これは前節で申しましたように人間の真心そのものの内容で、表の内容を通して腹底に持っている深い内容を宝沙[ほうしゃ]と見抜いたのです。上はさらさらと「形なきがごとし」ですが、腹底には金剛の宝の砂が敷いてある。これ見よがしの功徳ではないが、性根の座った、真心のこもった腹底が輝いているのを見ることができる、これが念仏のはたらきなのです。
微瀾回流[みらんえる]してうたたあひ灌注[かんちゅう]す。安詳[あんじょう]としてやうやく逝[ゆ]きて、遅からず、疾[と]からず。波揚[あ]りて無量なり。自然の妙声[みょうしょう]、その所応[しょおう]に随ひて聞えざるものなし。
現代語版は「水はさざ波を立て、めぐり流れてそそぎあい、ゆったりとして遅すぎることも速すぎることもない。その数限りないさざ波は美しくすぐれた音を出し、聞くものの望みのままにどのような調べをも奏でてくれる」と訳してあります。
「微瀾[みらん]」はさざなみ≠ナすが、これは私たちの苦悩と浄土の功徳が出会うことによって起こるさざ波です。ただし浄土ではさざ波ですが、穢土では大波であり濁流です。このさざ波と濁流こそ仏教そのものなのです。つまり仏教は寺院の奥深くに積みあがっているものではなく、苦悩の現場において浄土の功徳が障りなく当たり、私に生きる力を与えてくれる。このさり気なくも力強い「さざ波」の一つひとつ、回向された功徳の一つひとつの波紋[はもん]が仏教となるのですから、仏教は無限に創造されるものであるとも言えましょう。さらには、「あるいは仏声[ぶっしょう]を聞き〜通慧[つうえ]、菩薩・声聞の所行[しょぎょう]の道に随順す」までは仏書や辞書に書いてある通りなのですが、書物に記されてあることと、念仏を通して自分の人生そのものから聞こえた「さざ波の」内容が一致している、という素晴らしさが述べられているのです。
三塗苦難[さんずくなん]の名あることなく、ただ自然快楽[じねんけらく]の音のみあり。このゆゑに、その国を名づけて安楽[あんらく]といふ。
現代語版は「このように苦しみの世界である地獄や餓鬼や畜生の名さえなく、ただ美しく快い音だけがあるから、その国の名を安楽というのである」と訳してあります。
「三塗苦難[さんずくなん]」は{無三悪趣の願}に<たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄[じごく]・餓鬼[がき]・畜生[ちくしょう]あらば、正覚[しょうがく]を取らじ>と願われているように、人生で最も警戒しなくてはならないものが我執[がしゅうビ](餓鬼)と無明[むみょう](畜生)であり、その結果としての「地獄」ですが、これらの苦難が浄土には無いということです。
「我執」は、自分の欲望や主義・思想に固執して自己変革を起こさないこと。「無明」は、世の道理に暗く、愚かで無自覚。それによって奴隷根性が染み着いてしまったこと。「地獄」は、「我執」と「無明」が原因となってできた「環境悪」や「社会悪」のことです。一説には、猛火に焼かれる「火塗[かず]」・刀杖で責められる「刀塗[とうず]」・互いに食いあう「血塗[けつず]」を三塗とし、火塗を地獄、刀塗を餓鬼、血塗を畜生にあてる解釈もありますが、浄土経典は国土成就を課題とするのですから、ここでは「環境悪」や「社会悪」を地獄とする先の解釈を勝義とすべきでしょう。
浄土ではこうした三途苦難の「名」さえない。ということは、{離諸不善の願}にもありますように、不善の名が無くなるほど内容が良い、ということでもありますし、名によって不善が誘発されるのを防ぐ意味もあるでしょう。
「自然快楽[じねんけらく]の音のみあり」ということですが、快楽には、外楽[げらく](五官の快楽)・内楽[ないらく](心の快楽)、法楽楽[ほうがくらく](人生成就・求道の快楽)の三種があります。浄土はもちろん法楽楽に満ちているのですが、阿弥陀仏の浄土は法楽楽を主としながらも、同時に外楽と内楽の毒を浄めて生かす功徳もありますので、丸ごと全部の快楽を有している浄土で、後に「無量寿仏国に生れて快楽極まりなし」との記述さえあります。こうでなければ一切衆生の済度は適うはずがありません。
「このゆゑに、その国を名づけて安楽[あんらく]といふ」と結んでいますが、「安楽」という国土名が初めて出るのは{十劫成道}で、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」とあります。仏教では「浄土」は諸仏も用いる普通名詞であり、「安楽」や「極楽」は阿弥陀仏のみ用いる固有名詞です。
ちなみにこれは「維摩経義疏」に詳説されているのですが、仏はもともと自分の国を持っていないのです。ではどこに仏の国を造るのかといいますと、衆生の荒れ果てた国土を摂取し、耕し、清浄なる各種の荘厳によって麗しい仏の国を造るのです。仏の教化対象として「衆生の国土」を「仏国土・仏土」と呼びますから、仏国土と言っても、浄と穢に通じて存在しているので注意が必要です。つまり「仏国土」や「仏土」は、仏性によって開拓した浄土面と未開拓の穢土面が矛盾的に混在しているのですが、「浄土」は、清浄なる各種の荘厳によって麗しい国土となった世界を言います。
阿弥陀仏の浄土はこの他、経に――「安楽国」「安楽国土」「安養国」「無量寿仏国」「極楽」「極楽世界」「極楽国土」「極楽国地」等とあり、論釋には――「安楽浄土」「安楽仏土」「安楽仏国」「安楽仏国土」「安楽世界」「安楽浄刹」「安楽土」「安楽世界」「安楽宝土」「安楽刹」「極楽国」「極楽宝国」「極楽浄土」「極楽宝荘厳国」「極楽荘厳安養国」「極楽界」「安養浄刹」「安養界」「安養浄土」「安養世界」「西方国」「西方阿弥陀国」「西方浄土」「西方世界」「無量寿国」「阿弥陀仏国」等の名で顕されていますが、大まかに分けますと「安楽[あんらく]」「極楽[ごくらく]」「安養[あんにょう]」「西方[さいほう]」の名で阿弥陀仏の浄土の特徴を表しています。またその名で表す理由もこの「三塗苦難[さんずくなん]の名あることなく、ただ自然快楽[じねんけらく]の音のみあり」からきているのです。快楽が人生成就にいかに大事な要素かが解るでしょう。 
彼の国土の飲食
阿難、彼の仏の国土の諸の往生する者は、かくの如きの清浄の色身(しきしん、肉身)、諸の妙なる音声、神通の功徳(くどく、力)、処する所の宮殿、衣服、飲食、衆の妙なる華と香との荘厳の具を具足すること、なお第六天の自然の物のごとし。
もし食せんと欲する時には、七宝の応器(おうき、鉄鉢)、自然に前に在り。金銀、瑠璃、車磲、瑪瑙、珊瑚、琥珀、明月真珠、かくの如き衆の鉢は意に随って至る。
百味の飲食、自然に盈満す。
この食ありといえども、実には食する者なし。
ただ色を見、香を聞くのみにて、意は以って食と為し、自然に飽足す。
身心は柔軟にして、味に著する者なく、 事おわれば化して去り、時至ればまた現る。
彼の仏の国土の清浄、安穏、微妙にして快楽なることは、無為(むい、因縁によって作られない)の泥洹(ないおん、涅槃)の道に次ぐ。  
その諸の声聞菩薩と人天との智慧は、高明にして神通は洞達し、 みな同一の類形にて、異状なし。
ただ余方に順ずるに因るが故に、人と天との名有り。
顔貌は端正にして、世に超えて希有なり。
容色の微妙なること、天に非ず、人に非ず、皆自然の虚無の身、無極の体を受けたり。
阿難[あなん]よ、無量寿仏[むりょうじゅぶつ]の国に往生したものたちは、これから述べるような清らかな体とすぐれた声と神通力[じんずうりき]の徳をそなえているのであり、その身をおく宮殿をはじめ、衣服、食べものや飲みもの、多くの美しく香り高い花、飾りの品々などは、ちょうど他化自在天[たけじざいてん]のようにおのずから得ることができるのである。
もし食事をしたいと思えば、七つの宝でできた器がおのずから目の前に現れる。その金・銀・瑠璃[るり]・シャコ・瑪瑙[めのう]・珊瑚[さんご]・琥珀[こはく]・明月真珠[みょうがつしんじゅ]などのいろいろな器が思いのままに現れて、それにはおのずからさまざまなすばらしい食べものや飲みものがあふれるほどに盛られている。しかしこのような食べものがあっても、実際に食べるものはいない。ただそれを見、香りをかぐだけで、食べおえたと感じ、おのずから満ち足りて身も心も和らぎ、決してその味に執着することはない。思いが満たされればそれらのものは消え去り、望むときにはまた現れる。
まことに無量寿仏の国は清く安らかであり、美しく快く、そこでは涅槃[ねはん]のさとりに至るのである。その国の声聞・菩薩・天人・人々は、すぐれた智慧と自由自在な神通力をそなえ、姿かたちもみな同じで、何の違いもない。ただ他の世界の習慣にしたがって天人とか人間とかいうだけで、顔かたちの端正なことは世に超えすぐれており、その姿は美しく、いわゆる天人や人々のたぐいではない。すべてのものが、かたちを超えたすぐれたさとりの身を得ているのである」 
仏もその衆生もいのち輝く
前章までは本願成就の果報を浄土荘厳の内容によって学び歎じましたが、本章からしばらくは、浄土に往生した眷属(御同朋)の荘厳によって浄土の功徳を学びたいと思います。これによって念仏者本来の人生とはどのようなものかが具体的に示されます。
なお曇鸞大師も「往生論註」「論註」観察門器世間「荘厳眷属功徳成就」において眷属功徳を解釈し、天親菩薩が「如来浄華[にょらいじょうけ]の衆は正覚の華より化生[けしょう]す」と肝心要を論じられている訳を明かしてみえます。
註釈版
阿難[あなん]、かの仏国土にもろもろの往生するものは、かくのごときの清浄の色身[しきしん]、もろもろの妙音声[みょうおんじょう]、神通功徳[じんずうくどく]を具足[ぐそく]す。処[しょ]するところの宮殿[くでん]・衣服[えぶく]・飲食[おんじき]・衆妙華香[しゅみょうけこう]・荘厳[しょうごん]の具は、なほ第六天[だいろくてん]の自然[じねん]の物のごとし。
現代語版
阿難[あなん]よ、無量寿仏[むりょうじゅぶつ]の国に往生したものたちは、これから述べるような清らかな体とすぐれた声と神通力[じんずうりき]の徳をそなえているのであり、その身をおく宮殿をはじめ、衣服、食べものや飲みもの、多くの美しく香り高い花、飾りの品々などは、ちょうど他化自在天[たけじざいてん]のようにおのずから得ることができるのである。
<かの仏国土にもろもろの往生するものは、かくのごときの清浄の色身[しきしん]>の「色身」は「物質的な身体」ですから、誰もが良く知っている「肉体」、生きて活動する血肉や骨や皮や内臓や神経などでできている身体のことです。浄土に往生した者たちは清らかな肉体をもっている、ということですから、浄土に往生する者はみな生きて活動する者たちに他なりません。死んだ後に浄土に往生する訳ではない、ということがこの一文でも証明されるでしょう。
ただし「私は既に往生している」とか「私は信心獲得者だ」と誇った者は邪[よこしま]な邪定聚[じゃじょうじゅ]です。なぜなら邪見驕慢の悪衆生は往生を願う願心が朽ちてしまっているからです。そうではなく「願いの中にこそ成就あり」で、真に浄土往生を願い続けることそのものが往生(願往生・願生)なのです。この願いの深さを経典では臨終の名において語るのですが、言葉を理屈で解釈し「往生は死後である」と断定してしまえば願いが切実さを失ってしまいます。
浄土を浄土と願わしめて穢土があり、穢土を穢土と知らしめて浄土あり≠ナすから、私たちは願いの中で往生は成就しているのですが、それは穢土の苦悩あればこその願いですから、丸々浄土でもなければ丸々穢土でもないのです。
願往生心の定まった正定聚[しょうじょうじゅ]の信心者は「清浄の色身[しきしん]」がそなわるということですが、これは{具足諸相の願}の果報により念仏者が「三十二大人相」を得ることを言います。実際、真実信心者は確実に素晴らしい形相を得ることが適います。私事になりますが、学生の頃、教えの問題で様々不信を抱いて悩んでいた頃、本山で出遇った一人の老人のお顔が素晴らしく柔和な深みを湛えてみえることに驚き、このような素晴らしいお姿の信徒を生み出す宗旨ならば教えを真剣に学ぶべきだ≠ニ翻[ひるがえ]ったことがあります。
思い返せば、「仏説無量寿経」が説かれた経緯も、釈尊の「姿色清浄[ししきしょうじょう]光顔巍巍[こうげんぎぎ]」たるお姿に阿難が驚き問うたことから始まるのであり、法蔵が世自在王仏に出会ってまず驚いたのはそのお姿が「光顔巍々[こうげんぎぎ]威神無極[いじんむごく]」であることでした。
<もろもろの妙音声[みょうおんじょう]>は、先の三十二大人相のうち「梵声相[ぼんじょうそう]]を言うのでしょう。これはすばらしく良く通る声≠ナあることを称えるのですが、オペラ歌手のような美声や大声というより、発する声も言葉もまごころから出て深みがある≠ニいうことを言い、そのために広く伝わり人々を安穏ならしめるのでしょう。そういう意味では{得弁才智の願}や{弁才無尽の願}も関連する功徳です。
<神通功徳[じんずうくどく]を具足[ぐそく]す>
「神通」とは「六神通」で――宿命通[しゅくみょうつう]/天眼通[てんげんつう]/天耳通[てんにつう]/他心通[たしんつう]/神足通[じんそくつう]/漏尽通[ろじんつう]を言います。こうした六神通が念仏者にそなわるということですが、全体として言えば「すぐれた智慧に基礎づけられた自由自在な活動能力」であり、具体的には一切衆生の立場と本音が御同朋として共感され、一切衆生を御同行と仰ぎ褒めあいながら共に歩むことができる≠ニいうことでしょう。こうした敬虔な能力が、浄土の功徳として念仏者にふり向けられて具わるのです。
<処[しょ]するところの宮殿[くでん]・衣服[えぶく]・飲食[おんじき]・衆妙華香[しゅみょうけこう]・荘厳[しょうごん]の具は、なほ第六天[だいろくてん]の自然[じねん]の物のごとし>
第六天は欲界の最高処で、他の天界の神々がつくり出した欲境(欲望の対象)を自在に受けることができる境涯や環境をいいます。ただし第六天は魔王の住処でもあるため魔天ともいい、本来は充分注意をして過ごさねばならない危険な状態なのです。ではなぜこのような第六天を浄土功徳の譬えに持ち出されてあるかと言いますと、浄土の功徳は迷った人間には理解し難く、真実のみを述べれば衆生はそっぽを向いてしまいますので、似て非なる功徳として第六天を譬えに出し、身を乗り出してたところに浄土功徳の真相を説くのでしょう。
物や精神が豊富に整うことが第六天であるとすれば、あらゆる物や精神を最高の宝として活かすことができるのが浄土です。私にとって本当に必要なものは金品や知識ではありません。私を本当に導く言葉は饒舌からは生まれません。たった一つのものでも、たった一言でも、真心が通う中では人生を変えるほどの宝となります。曇鸞大師は<他化自在天の金を安楽国中の光明に比するにすなはち現ぜず>と解釈されてみえます。
「宮殿[くでん]」は前章にありましたように、浄土の果報として居場所や落ち着き場所が与えられることを言いますが、講堂[こうどう]・精舎[しょうじゃ]・宮殿[くでん]・楼閣[ろうかく]・浴池[よくち]全てを「宮殿」が代表しているのでしょう。すると、広く法を学び、論じ、修行する場があり、仏性の果報として様々な楽しみを得ることができる≠ニいうことを「宮殿」ひとつで表していることになります。
「衣服[えぶく]・飲食[おんじき]・衆妙華香[しゅみょうけこう]」については、{正宗分法蔵修行#無尽蔵の宝を衆生に恵む}に法蔵菩薩の修行として行じられていたものが、いよいよ一切衆生に開かれた環境の徳として成就したことを告げています。仏の功徳が環境の徳として成就してこそ、私たちは安心してこれを頼りにすることができるのです。内容が重なりますが、この中で「衣服」は懺悔を象徴し、「飲食」は<「経」のなかに命を説きて食とす>とある通り、仏の命である菩提心を象徴し、「衆妙華香」は(言動等により)功徳が心地よく衆生に回施されることを象徴しています。
真心をいただき衆生に捧げる
註釈版
もし食[じき]せんと欲[おも]ふ時は、七宝の鉢器[はつき]、自然[じねん]に前にあり。金[こん]・銀[ごん]・瑠璃[るり]・シャコ・碼碯[めのう]・珊瑚[さんご]・琥珀[こはく]・明月真珠[みょうがつしんじゅ]、かくのごときの諸鉢[しょはつ]、意[こころ]に随[したが]ひて至る。百味[ひゃくみ]の飲食[おんじき]、自然に盈満[ようまん]す。この食ありといへども、実[じつ]に食するものなし。ただ色を見、香[か]を聞[か]ぐに、意に食をなすと以[おも]へり。自然に飽足[ほうそく]して身心柔軟なり。味着[みじゃく]するところなし。事已[ことおわ]れば化して去り、時至ればまた現[げん]ず。
現代語版
もし食事をしたいと思えば、七つの宝でできた器がおのずから目の前に現れる。その金・銀・瑠璃[るり]・シャコ・瑪瑙[めのう]・珊瑚[さんご]・琥珀[こはく]・明月真珠[みょうがつしんじゅ]などのいろいろな器が思いのままに現れて、それにはおのずからさまざまなすばらしい食べものや飲みものがあふれるほどに盛られている。しかしこのような食べものがあっても、実際に食べるものはいない。ただそれを見、香りをかぐだけで、食べおえたと感じ、おのずから満ち足りて身も心も和らぎ、決してその味に執着することはない。思いが満たされればそれらのものは消え去り、望むときにはまた現れる。
このことは以前、{地獄・極楽の食事風景}に詳説しましたので参照していただきたいと思いますが、再掲載しますと――
ここでは食事をしたいと思えば、最高級の器も、最高級の食事や飲み物も思いのままに得ることができる。しかし実際にはご馳走を食するものはいない。ただ食事を見て香りをかぐだけで満足し、身も心も和らぎ、味に執着することはない。すると食事は消え去り、望めばまた現れる≠ニ説いてあります。これは仙人のように霞[かすみ]を食べていることを言うのではありません。「極楽」が「真実願土」であり同時に「真実報土」であるゆえに、住民は食事を見て香りをかぐだけで満足するのです。
また「涅槃経」迦葉品には、<「経」のなかに命を説きて食とす>とあり、因果の差はありますが、「食」は「仏の命」の意味を持ちます。
さらに言えば、極楽のご馳走を口にしてしまう者は真実信心のない不定聚・邪定聚の退転の菩薩で、極楽の辺地にある閉じた蓮の莟[つぼみ]の中に胎生し、五百年間のあいだ七宝の宮殿が牢獄ともなり、仏・菩薩を見ることなく、如来の教えを聞くことも適わず、諸仏を供養できず、功徳を積むことができません。「実[じつ]に食する」とは「法執」を意味するのでありましょう。宗教の中で最も頑迷で恐ろしいのがこの「法執」で、教義を盾に他人の迷惑や痛みを省みない宗教者は実に多いものです。
このことは曇鸞大師も、<浄土では絶え間なく楽しみを受けるとだけ聞いて、楽しみを貪[むさぼ]るために往生を願うのであれば、往生できないのである>と忠告され、如来回向の無上菩提心を起こさねばならぬ道理が説かれています。ちなみにこの「無上菩提心」は「願作仏心」であり、同時に「度衆生心」でもあります。
この「無上菩提心」を起こした菩薩こそ正定聚の菩薩であり、極楽の池に咲いた蓮の華の上に化生し、ただちに仏・菩薩と遇い、阿弥陀如来より直接教えを聞き、諸仏を供養し、功徳を積むことができるのです。
正定聚の菩薩が食事を口に運ばないということは、仏法や学びに関しても貪[むさぼ]りを嗜[たしな]める意があるのでしょう。また、仏法を個人や組織で独占しないことも意味します。仏法を学んでも自分だけの利益として貪り求めることなく、浄土の様々な功徳を得ても執着することなく、一切衆生とともに「みなまさに往生すべし」との願いを受けているため口に運ばないのでしょう。
<百味[ひゃくみ]の飲食[おんじき]、自然に盈満[ようまん]す>につきましては、島田幸昭師の講話に詳しくあります。
本当のご馳走というものは、ただ単に食べる中の品物がご馳走でなしに、器もご馳走、今度はそのお膳もご馳走、今度はその周囲もご馳走、家もご馳走。出してくださる人のお気持ちもご馳走。何もかもが整わなければ、本当のご馳走にならない。こういう意味で百味の飲食というものが、そこにもてなしてくださる相手のほうもでありますけれども、またこっちの受け取るほうも両方が心と心が肝胆相照らすか、感応道交しなかったならば、本当のご馳走にならない。そういう意味のことをここでおっしゃっておるんだなと思うのでありますが。私たちの実際の生活において、それでよかろうと思うております。
(中略)
したがって、これ全部、これは私の日常生活がお金があっても本当の幸せにならない。なんぼ学問があっても器量がようても、それだけでは決して幸せになれない。そういうように皆、仮の幸せだから。それを本当の幸せにする打ち出の小槌というものが、それがお念仏であるという、そのお念仏もただ口で南無阿弥陀仏と唱えるんじゃない。お浄土の徳の働くお念仏。だから、本当のお念仏は親鸞聖人がおっしゃるように「この行はもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海」とおっしゃっておるように、これはお浄土が働く姿だから。大行ですから。お浄土の不可称不可説不可思議の功徳の働く姿がお念仏でありますから、あらゆるものを転じて本当に幸せにすること。そういう、ただ幸せじゃありません。道なら道。道というものを道徳とか、あるいはいろんな道があります。人間の道がありますけれども、そういう道を本当の道にするものが、お念仏であるというお経の説き方でありますから、そこで一つの例として、それが出てきておるわけであります。
このように、「七宝の鉢器[はつき]」や「百味[ひゃくみ]の飲食[おんじき]」といえども、大金をかけて集めたもの≠ニいうより心尽くしと手間をかけて用意されされたもの≠ナありましょう。佐賀のがばいばあちゃん≠ナおなじみの徳永サノさんは、「貴重品は、物だけじゃないよ。笑顔・親切・やさしさ・人の心もだよ」と仰ってみえます。
またこうした心尽くしを受け取る側も、それを充分感じ入ることができるかどうかが問われます。「たったこれだけか」などと不満を感じたり、せっかくの内容を未消化に終わらせてしまっては、宝が活きてきません。この心尽くしをもって我が人生と糧とし、一切衆生に頂いた真心を捧げます≠ニ手を合わせ、「済みません」の気持ちで受け取ることで全てが適うのです。
また、真心を頂いたということで何かお返しをなければ≠ニ重荷に感じることも執着のひとつです。互いにこうした恩着せがましい気持ちがないことを<味着[みじゃく]するところなし。事已[ことおわ]れば化して去り>というのでしょう。
ただし、執着がないから真心が消えてしまうのではありません。<時至ればまた現[げん]ず>で、必要な時になれば、ああ、あの時頂いた心尽くしを、ここで発揮させてもらおう≠ニいう形で真心が蘇るのです。
苦悩に縛られず境遇を生かす
註釈版
かの仏国土は、清浄安穏[しょうじょうあんのん]にして微妙快楽[みみょうけらく]なり。無為泥オン[むいないおん]の道[どう]に次[ちか]し。そのもろもろの声聞[しょうもん]・菩薩[ぼさつ]・天・人[にん]は、智慧高明[ちえこうみょう]にして神通洞達[じんずうどうだつ]せり。ことごとく同じく一類[いちるい]にして、形に異状[いじょう]なし。ただ余方[よほう]に因順[いんじゅん]するがゆゑに、天・人の名あり。顔貌端正[げんみょうたんじょう]にして超世希有[ちょうせけう]なり。容色微妙[ようしきみみょう]にして、天にあらず人にあらず。みな自然虚無[じねんこむ]の身、無極[むごく]の体[たい]を受けたり」と。
現代語版
まことに無量寿仏の国は清く安らかであり、美しく快く、そこでは涅槃[ねはん]のさとりに至るのである。その国の声聞・菩薩・天人・人々は、すぐれた智慧と自由自在な神通力をそなえ、姿かたちもみな同じで、何の違いもない。ただ他の世界の習慣にしたがって天人とか人間とかいうだけで、顔かたちの端正なことは世に超えすぐれており、その姿は美しく、いわゆる天人や人々のたぐいではない。すべてのものが、かたちを超えたすぐれたさとりの身を得ているのである」
<かの仏国土は、清浄安穏[しょうじょうあんのん]にして微妙快楽[みみょうけらく]なり。無為泥オン[むいないおん]の道[どう]に次[ちか]し>
「清浄安穏」はそのままの意味で、清らかであり安らかな環境であることを言います。「微妙快楽」は{「論註」観察門器世間「荘厳無諸難功徳成就」}にも書きましたが、「法楽楽[ほうがくらく]」という求道の楽しみを中心とした快楽であり、そこには五官や名誉心などを充足する「外楽[げらく]」や、内面や精神面の楽しみを充足する「内楽[ないらく]」のような執着性はありません。浄土には法楽楽も外楽や内楽もあるのですが、外楽を本当に活かして執着がなく、内楽を本当に活かして執着がない。全ての本質を活かすのが浄土であり、同時に清浄のはたらきで執着をなくすのです。こうした煩悩が無いことを<無為泥オン[むいないおん]の道[どう]に次[ちか]し>と示し、真実念仏者である浄土の住民は涅槃に至った阿羅漢と同様に煩悩がほとんど無いことを説いています。ただしこれは、現実の念仏者に煩悩がなくなることを言うのではありません。我が煩悩を煩悩と知らしめる念仏の功徳を言うのです。煩悩は隠蔽され放置されると巨悪となります。煩悩を煩悩と知らしめる、ということがいかに大切かが解るでしょう。

安楽声聞[あんらくしょうもん]・菩薩衆[ぼさつしゅ]人天智慧[にんでんちえ]ほがらかに
身相荘厳[しんそうしょうごん]みなおなじ他方に順じて名をつらぬ (浄土和讃22)
顔容端正[げんようたんじょう]たぐひなし精微妙躯非人天[しょうみみょうくひにんでん]
虚無之身無極体[こむししんむごくたい]平等力を帰命せよ (浄土和讃23)

<そのもろもろの声聞[しょうもん]・菩薩[ぼさつ]・天・人[にん]は、智慧高明[ちえこうみょう]にして神通洞達[じんずうどうだつ]せり。ことごとく同じく一類[いちるい]にして、形に異状[いじょう]なし。ただ余方[よほう]に因順[いんじゅん]するがゆゑに、天・人の名あり>
「智慧高明[ちえこうみょう]にして神通洞達[じんずうどうだつ]せり」はそのままの意味で、浄土の住民は智慧や神通力(前節の六神通)も優れていることを言います。ここで問題なのは、声聞[しょうもん]・菩薩[ぼさつ]・天・人[にん]はどうして区別があるのか、ということです。
「ことごとく同じく一類[いちるい]にして、形に異状[いじょう]なし」とありますから、外側から見ても声聞や菩薩といった差は解らないが、「ただ余方[よほう]に因順[いんじゅん]するがゆゑに、天・人の名あり」ということですから、極楽浄土に往生する以前の一般的な言い慣わしで仮に分けることも可能である≠ニいうのです。
ここは具体的には二通りの解釈があり、浄土と余方(他方)に時間的な差があり、余方の影響が残っている時間において菩薩・声聞・人・天と分ける≠ニする解釈、もう一つは同じ浄土の住民でも立場の違いから菩薩・声聞・人・天と分ける≠ニする解釈があります。
浄土は往生したらみな一様になって誰が誰だか解らなくなる≠ニいうところではありません。尊さはみな同じで最上に尊く輝く、ここに上下の差別はないのですが、「青色に青光、白色に白光あり、玄・黄・朱・紫の光色もまたしかなり」(「大経」21)と、各人の個性が最大限に発揮される環境です。
ですから最初の時間的な差≠ニする解釈では、表面的には解らないが、往生以前の内容が名として残留している≠ニいう意味になりますし、後の立場の差≠ニする解釈では浄土の住民が聞法精神を発揮すれば声聞と名がつき、求道精神が発揮されれば菩薩と名がつき、人道として浄土の功徳を発揮すれば人と名がつき、浄土の土徳を楽しめば天と名がつく≠ニいうように、各人の立場に仮に名がついているという解釈になります。
<顔貌端正[げんみょうたんじょう]にして超世希有[ちょうせけう]なり。容色微妙[ようしきみみょう]にして、天にあらず人にあらず>
これはこの章の初めにありましたように、{具足諸相の願}の果報により念仏者が「三十二大人相」を得ることを言います。
<みな自然虚無[じねんこむ]の身、無極[むごく]の体[たい]を受けたり>
「自然」や「虚無」「無極」というのは、古来より「涅槃」と解釈されてきましたが、わざわざ「身」や「体」とあるのは、肉体的・精神的なものを背負い生きている「この身体」の問題でありましょう。親鸞聖人も心だけではなく身の問題を大事にされてみえました。生きて活動し労働する人々と歩まれた聖人ゆえでしょうが、これは浄土経典も同じです。
穢土においては様々苦悩が多く、人々は濁流に飲み込まれ、迷いに迷った挙句、浮かび上がることが適わないまま命を終えてしまいがちです。浄土の住民であっても、身体的・精神的苦痛はつねに降りかかってきます。しかしこうした苦痛を苦痛として留めないのが浄土の住人で、念仏とともに「お育てにあずかります」とつねに頭が下がり、苦悩や障害があってもそれが人生を歩む上では邪魔にはならないのです。
これが他人との関係においての「身」であればどうでしょう。たとえば世間一般では「他人に迷惑をかけないように生きろ」と言います。しかし誰でも、どう生きても、必ず他人に迷惑はかけるものです。ならばどうすれば良いのかというと、一見迷惑をかけているようでありながら、周囲の人たちは喜んでその迷惑を引き受けてくれる、そうした生き方ができることを「自然虚無[じねんこむ]の身」と言うのでしょう。先師はこれを「あっても邪魔にならん。しかも、おらんことになれば、寂しくなるという、こういう人間になること。なかなかこれは修行が要りますよ」と仰いました。
最後の「無極[むごく]の体[たい]」というのは、行く先々、その場その場一杯に人間としての華が咲く≠ニいうことです。人生には様々な浮沈がありますが、浮いた時は浮いた場にしっかり応じて人間としての華を咲かせ、沈んだ時は沈んだことを悲嘆せず沈んだ場に応じて人間としての華を咲かせる。また働きに出れば働き先で、家庭に帰れば家庭の中で、地域の活動に入れば地域活動の中で、国や世界を動かす問題に関わればそうした大きな場において、どんな場においても人間としての華を咲かせることができる。こうした柔軟で自在な身になることを「無極の体」と言うのでしょう。浮いて華々しくしていてこそ自分が発揮できる≠ニか、逆に目立たず隠れていた方が自分が発揮できる≠ニ固執する人も多いのですが、外側の条件が整わないと幸せに生きられないようでは、つねに自分の境遇に戦々恐々としていなければならず、本当の安心は得られません。
念仏者は自分から出しゃばるようなことはしませんが、浄土の土徳によって限りない智慧と徳を宿しておりますから、もし人から頼まれたりして必要が生じれば、どんな場でも、どんな境遇においても、浄土の智慧や徳を無限に発揮することが適うのです。
念仏者は本来、以上のような功徳を浄土の土徳として受け取ることが適うのでありますが、本来的にそうで「ある」ことが本当にそう「成る」≠フは、事実としてではなく、願いの成就によるものでありますから、極楽浄土は「真実報土」であるとともに「願土」とも言えるのです。 
声聞菩薩の形貌と容状は比類なし
仏、阿難に告げたまわく、「譬えば、世間の貧窮(びんぐ)の乞人、帝王の辺に在らば、形貌と容状とは、むしろ類(くら、比)ぶべきや。」
阿難、仏に白さく、「もしこの人にして、帝王の辺に在らば、羸陋(るいる、弱小)醜悪にして、以って喩(たとえ)と為すこと無し。百千万億しても倍を計(かぞ)うべからず。
然る所以(ゆえ)は、貧窮の乞人と、底極(ていごく、最低の)の廝下(しげ、賎しい召使い)とは、衣は形(肉体)を蔽わず、食は趣(わずか)に命を支え、飢えと寒さの困苦に、人理(にんり、人間らしさ)は殆ど尽く。
皆、前世に坐して徳本を植えず、財を積めども施さず、富有(ふゆう、富裕)なれば益々慳(おし)み、ただ唐(ひろ)く得んと欲し、貪り求めて厭くこと無し。
善を修むることを信ぜず、悪を犯すこと山積す。
かくの如きが寿(いのち)終われば、財宝は消散し、苦は身に積聚(しゃくじゅう、蓄積)して、これが為に憂悩す。己に於いて益無く、いたずらに他の為に有り。善の怙(たの)むべき無く、徳の恃(たの)むべき無し。
この故に、死せば悪趣に堕して、この長苦を受け、罪畢(おわ)りて(悪趣を)出づることを得ば、生まれて下賎、愚鄙(ぐひ、愚かで無教養)、斯極(しごく、極めて賎しい召使い)と為りて、人類に同じからず。
世間の帝王の人中に独り尊き所以(ゆえ)は、皆宿世(前世)に積みし徳の致す所に由る。
慈と恵とにて博く施し、仁と愛とにて兼ねて(自他共に)済(すく、救)う。
信を履(ふ)み、善を修めて違い諍う所なし。
ここを以って寿終われば、福は応じて善道に昇ることを得、上りて天上に生まれ、この福と楽とを享(う)く。
善を積みし余の慶びは、今、人と為ることを得て、偶(たまた)ま王家に生まるれば自然に尊貴せられ、儀(行儀)容(容貌)端正にして衆に敬い事(つか)えられ、妙衣珍膳は心のままに服御(ふくぎょ、使用)す。
宿福(宿世の福)の追う所なるが故によくこれを致すなり。」と。
釈尊が阿難に仰せになる。
「さて、たとえば世の中の貧しい乞人[こつにん]を王のそばに並べるとしたら、その姿かたちがはたしてくらべものになるだろうか」
阿難が申しあげる。
「いいえ、そのものを王のそばに並べたときには、その弱々しく醜[みにく]いことはまったく話にならないほどであります。そのわけは、貧しい乞人は最低の暮しをしているものであり、服は身を包むのに十分でなく、食べものは何とか命をささえる程度しかなく、飢えと寒さに苦しんでおり、ほとんど人間らしい生活をしていないからであリます。すべては、過去の世に功徳を積まなかったからです。財をたくわえて人に施さず、裕福になるほどますます惜しみ、ただ欲深いばかりで、むさぼり求めて満足することを知らず、少しも善い行いをしようとしないで、山のように悪い行いを積み重ねていたのです。こうしてたくわえた財産も、命が終わればはかなく消え失せ、生前にせっかく苦労して集め、あれこれと思い悩んだにもかかわらず、自分のためには何の役にも立たないで、むなしく他人のものとなります。たのみとなる善い行いはしておらず、たよりとなる功徳もありません。そのため、死んだ後には地獄や餓鬼や畜生などの悪い世界に生れて長い間苦しみ、それが終ってやっと人間の世界に生れても、身分が低く、最低の生活を営み、どうにか人間として暮らしているようなことです。
それに対して世の中の王が人々の中でもっとも尊ばれるわけは、すべて過去の世に功徳を積んだからであります。慈悲の心でひろく施し、哀れみの心で人々を救い、まごころをこめて善い行いに努め、人と逆らい争うようなことがなかったのです。そこで、命が終ればその徳によって善い世界にのぼることができ、天人の中に生れて安らぎや楽しみを受けるのであります。さらに、過去の世に積んだ善い行いの徳は尽きないので、こんどは人間となって王家に生れ、そのためおのずから尊ばれる身となるのです。その行いは正しく、姿かたちは美しくととのい、多くの人々に敬[うやま]い仕[つか]えられ、美しい衣服やすばらしい食事が思いのままに得られるのであり、それはまったく過去の世に積んだ功徳によるのであります」 
見た目の醜さ
この章は仏の真意を探って読まねば実に差別的な内容となってしまいますので注意してください。
註釈版
仏、阿難に告げたまはく、「たとへば世間の貧窮[びんぐ]・乞人[こつにん]の、帝王の辺[ほとり]にあらんがごとし。形貌[ぎょうみょう]・容状[ようじょう]、むしろ類[るい]すべけんや」と。阿難、仏にまうさく、「たとひこの人、帝王の辺にあらんに、羸陋醜悪[るいるしゅうあく]にして、もつて喩[たと]へとすることなきこと、百千万億不可計倍[ひゃくせんまんおくふかけばい]なり。しかるゆゑは、貧窮・乞人は底極廝下[ていごくしげ]にして、衣形を蔽[かく]さず。食趣[じきわず]かに命を支ふ。飢寒困苦[きかんこんく]して人理[にんり]ほとほと尽きなんとす。みな前世に徳本[とくほん]を植ゑず、財を積みて施さず、富有[ふう]にしてますます慳[お]しみ、ただいたづらに得んと欲ひて、貪求[とんぐ]して厭[いと]ふことなく、あへて善を修せず、悪を犯すこと山のごとくに積るによりてなり。かくのごとくして、寿終りて、財宝消散[しょうさん]す。身を苦しめ、聚積[じゅしゃく]してこれがために憂悩[うのう]すれども、おのれにおいて益なし。いたづらに他の有となる。善として怙[たの]むべきなし、徳として恃[たの]むべきなし。このゆゑに、死して悪趣[あくしゅ]に堕[だ]してこの長苦[じょうく]を受く。罪畢[おわ]り出づることを得て、生れて下賤[げせん]となり、愚鄙廝極[ぐひしごく]にして人類[にんるい]に示同[じどう]す。
現代語版
釈尊が阿難に仰せになる。
「さて、たとえば世の中の貧しい乞人[こつにん]を王のそばに並べるとしたら、その姿かたちがはたしてくらべものになるだろうか」
阿難が申しあげる。
「いいえ、そのものを王のそばに並べたときには、その弱々しく醜[みにく]いことはまったく話にならないほどであります。そのわけは、貧しい乞人は最低の暮しをしているものであり、服は身を包むのに十分でなく、食べものは何とか命をささえる程度しかなく、飢えと寒さに苦しんでおり、ほとんど人間らしい生活をしていないからであリます。すべては、過去の世に功徳を積まなかったからです。財をたくわえて人に施さず、裕福になるほどますます惜しみ、ただ欲深いばかりで、むさぼり求めて満足することを知らず、少しも善い行いをしようとしないで、山のように悪い行いを積み重ねていたのです。こうしてたくわえた財産も、命が終わればはかなく消え失せ、生前にせっかく苦労して集め、あれこれと思い悩んだにもかかわらず、自分のためには何の役にも立たないで、むなしく他人のものとなります。たのみとなる善い行いはしておらず、たよりとなる功徳もありません。そのため、死んだ後には地獄や餓鬼や畜生などの悪い世界に生れて長い間苦しみ、それが終ってやっと人間の世界に生れても、身分が低く、最低の生活を営み、どうにか人間として暮らしているようなことです。
前章までは主に釈尊が、弥陀成仏のいわれや真実浄土の内容を明らかにされてきましたが、この章だけは阿難が語る内容となっています。これは何を意味するのでしょう。
阿難は長く釈尊の侍者をしておりましたので説法を聞く機会は誰よりも多く、また記憶力が抜群に良いので「多聞第一」と称えられています。しかし彼は肝心の覚りを得ておりません。少なくとも釈尊在世中は覚っておりませんので、阿難の語る内容は当時のインド文化の常識の範疇[はんちゅう]にあり、私たち凡夫の代表として登場しているのです。
つまり、わざわざ阿難に代わって語らせるというのは、経典を読む私たちの常識的な価値観を表明しているのであり、決してこの内容は真実ではない≠ニいうことは前提に読まねばなりません。ではなぜわざわざこのような常識を語らせたのかと言うと、浄土と私たちとの縁を取り持つためなのなのです。
釈尊は頭ごなしに「お前は間違っている」とは仰いません。特に浄土経典においては相手を指弾することが一切なく、聴衆の立場に立って、相手が常識的にそう思っているのならばそれを一旦引き受けて、引き受けた内容を元に覚りの世界を語られるのです。
そうすると、これを大抵の人が問題にするの。「ちゃんとこのようにお経にも前の生と書いておるじゃないか」とこういうの。ところが、これが問題で、これは阿難尊者にいわせておるんでしょうが。(中略)阿難尊者は、その当時の常識というものをいうておるのであって、本当はお釈迦さまはそれを逆らわんの。だから、簡単に「あ、そうじゃ、お前がいうとおりじゃ」とこういうたわけ。いいたいことは、ほかのことをいうとんじゃから。
だから、前の生でそういうことがあったいうんじゃないの。いまだにそれが問題になるから……。だから、今、人間の差別問題。「差別問題は前の生の業だ」ということをいまだにいうとるんだから。そうでないの、前の生の業ではない。いいですか、これと別ですから。
釈尊はここまで阿弥陀仏や浄土の成り立ちを説いてきて、阿難はじめここに集う弟子たちがどこまで領解できているのかお知りになりたかったのでしょう。というのも、前章の最後で浄土の住民について――<顔貌端正にして超世希有なり。容色微妙にして、天にあらず人にあらず>(顔かたちの端正なことは世に超えすぐれており、その姿は美しく、いわゆる天人や人々のたぐいではない)と説いてはみたものの、もしかしたら聴衆は常識の範囲で「容色」を理解しているかも知れない≠ニ懸念されたのです。
弟子たちが真意を受け取っているかどうかを確認するため、釈尊は阿難に「たとへば世間の貧窮[びんぐ]・乞人[こつにん]の、帝王の辺[ほとり]にあらんがごとし。形貌[ぎょうみょう]・容状[ようじょう]、むしろ類[るい]すべけんや」(さて、たとえば世の中の貧しい乞人[こつにん]を王のそばに並べるとしたら、その姿かたちがはたしてくらべものになるだろうか)と問います。
もしこの時点で阿難が正しく領解できていれば、この問いにどう答えたでしょう。たとえば真の容姿は乞人か帝王かなど問題ではありません。信心の有無が問題であります%凾ニ答えれば、釈尊は次章では別の譬えを説いたでしょう。しかし阿難は当時の常識であるヴェーダにとらわれ、カーストを容認するような差別的な返答をします。
阿難はまず乞人の見た目の醜[みにく]さをあげつらい、衣食住が貧しいという事実によって差別します。さらには、この醜さは前世の悪業の報いだと決め付けます。功徳を積まず、我執にまみれ、悪業を積み重ねたあげく悪趣におもむき、やっと人間界に生まれたが身分が低く、最低限の生活に明け暮れているのが乞人だ≠ニ。 こうした指摘が真実でないことは明らかでしょう。現実社会の貧富や差別は多分に歴史的・社会的につくられてきたものであり、個人的な過去世の報いであるはずがありません。これは仏教の基本中の基本です。
帝王を褒める
註釈版
世間の帝王、人中に独尊なるゆゑは、みな宿世に徳を積めるによりて致すところなり。慈恵博く施し、仁愛兼ねて済ふ。信を履み善を修して、違諍するところなし。ここをもつて寿終れば、福応じて善道に昇ることを得、天上に上生してこの福楽を享く。積善の余慶に、いま人となることを得て、たまたま王家に生れて、自然に尊貴なり。儀容端正にして衆の敬事するところなり。妙衣・珍膳、心に随ひて服御す。宿福の追ふところなるがゆゑに、よくこれを致す」と。
現代語版
それに対して世の中の王が人々の中でもっとも尊ばれるわけは、すべて過去の世に功徳を積んだからであります。慈悲の心でひろく施し、哀れみの心で人々を救い、まごころをこめて善い行いに努め、人と逆らい争うようなことがなかったのです。そこで、命が終ればその徳によって善い世界にのぼることができ、天人の中に生れて安らぎや楽しみを受けるのであります。さらに、過去の世に積んだ善い行いの徳は尽きないので、こんどは人間となって王家に生れ、そのためおのずから尊ばれる身となるのです。その行いは正しく、姿かたちは美しくととのい、多くの人々に敬[うやま]い仕[つか]えられ、美しい衣服やすばらしい食事が思いのままに得られるのであり、それはまったく過去の世に積んだ功徳によるのであります」
さらに阿難はカースト制度を追認するような間違った業論を述べて王を褒めます。王が尊ばれるのは前世で功徳を積み、慈悲を施し、善行を行い、他人と争わなかったので天人となり、今は人間界で王となっている。姿形が美しいのは過去世に積んだ功徳のおかげである≠ニ。これも完全なる道理ではないことは明らかです。
元来仏教の業は、仏教以前に用いられていた宿命論的な因果一貫の業論ではなく、縁起の立場にたつ業論である。それは衆縁によってなりたつ自己を、縁起的存在であるとみ、固定的な実体観を否定する無我の立場であるとともに、主体的な行為によって真実の自己を形成すべきことを強調する立場であった。
ところが今でもこの「宿命論的な因果一貫の業論」に苦しむ人たちは後を絶ちません。現実の差別を改めるべきが真の宗教の役割なのに、「輪廻転生」の説明によりむしろ差別を正当化する側に回ってしまったのです。阿難の語る内容は、当時のインドのみならず、今の日本においても常識化しつつある間違った業論であり、油断すれば自分もこの差別的業論に巻き込まれる可能性がある≠ニ、ここはよくよく批判眼をもって読まねばならない箇所でしょう。
さらに言えば、仏教は物事の因縁果を教えるのが目的ではありません。過去の因縁にとらわれた生き方から解脱し、因縁にとらわれない自由自在な生き方を勧めるのです。 
仏、阿難に告げたまわく、「汝が言は是(ただ、正)し。たとい帝王は人中の尊貴にて形色は端正なりといえども、これを転輪聖王に比すれば甚だ鄙陋(ひる、無教養で賎し)たること、なお彼の乞人の帝王の辺に在るがごとし。
転輪聖王の威相は殊妙にして天下第一なれど、忉利天(とうりてん)王に比せば、またまた醜悪にして相い喩えて万億倍とすることを得ず。
もし天帝を第六天王に比すれば、百千億倍なりとも相い類(るい、比)せず。
もし第六天王を無量寿国の菩薩、声聞に比すれば、光顔容色の相い及逮(およ)ばざること百千万億と倍(倍数)を計うべからず。」と。
釈尊が阿難に仰せになった。
「まことにそなたのいう通りである。しかし、王は人の中でも尊ばれる身の上で姿かたちが美しくととのっているといっても、転輪聖王にくらべると、とても卑しくて見劣りがする。それはちょうど今乞人を王のそばに並べたようなものである。転輪聖王はそれほどに威厳にあふれ、この世でもっともすぐれているが、帝釈天[たいしゃくてん]にくらべるとまた万億倍も醜く劣っている。その帝釈天であっても、他化自在天[たけじざいてん]の王にくらべるとまたまた百千億倍も見劣りがする。そしてその他化自在天の王でさえ、無量寿仏の国の菩薩や声聞にくらべると、その輝かしい容姿に及ばないことは、百千万億倍ともはかり知ることができないほどである」 
帝王と転輪聖王
註釈版
仏、阿難に告げたまはく、「なんぢが言是[ことばぜ]なり。たとひ帝王のごとき、人中[にんちゅう]の尊貴[そんき]にして形色端正[ぎょうしきたんじょう]なりといへども、これを転輪聖王[てんりんじょうおう]に比ぶるに、はなはだ鄙陋[ひる]なりとす。なほかの乞人[こつにん]の帝王の辺[ほとり]にあらんがごときなり。
現代語版
釈尊が阿難に仰せになった。
「まことにそなたのいう通りである。しかし、王は人の中でも尊ばれる身の上で姿かたちが美しくととのっているといっても、転輪聖王にくらべると、とても卑しくて見劣りがする。それはちょうど今乞人を王のそばに並べたようなものである。
浄土の住民の容姿について釈尊は、<顔貌端正にして超世希有なり。容色微妙にして、天にあらず人にあらず>(顔かたちの端正なことは世に超えすぐれており、その姿は美しく、いわゆる天人や人々のたぐいではない)と説かれたのですが、前章では、古来の業論解釈が入ることで内容が凝り固まってしまいました。もちろん阿難の述べた宿命論的な因果一貫の業論≠竄サの他の因果論も、一から十まで全て間違っているわけではありません。物事の一面は示しているのですが、仏教以外の因果論は部分的な解釈に留まり、物事一切を完全に解き明かし人々を覚りに導く道理とはなっておりません。
そこで釈尊は、あえて阿難の解釈を「なんぢが言是[ことばぜ]なり」と一旦認めた上で、徐々にそうした次元ではない浄土の住民の容姿≠明らかにします。それというのも、釈尊は常に安穏な言葉を語られるのであり、後に阿難もその心遣いに感銘を受けてみえる様子がうかがえるのです。
アーナンダは語った。
「自己を苦しめることにならない言葉をこそ、人は語るべきである。また、自己の語った言葉によって、他人を傷つけるべきではない。そうした言葉こそ、よく語られた言葉である。
他人が聞いて喜ぶ言葉、すなわち好ましい言葉こそ、人は語るべきである。他人の悪を取りあげないで語るのが、好ましい言葉である。
不滅の言葉こそ、真実である。これは、いにしえからの真実である。心の静まった人は、真実と道理と真理の上に安立するといわれる。
安らぎに達するために、そして苦しみを終滅させるために、ブッダの語られた安穏な言葉、これこそが、言葉のうちの最上のものである」
「安穏な言葉」は全経典に共通しているのですが、特に浄土経典ではそれが顕著にあらわれています。大衆会の場で披露した阿難の解釈を一旦は是とし、ここを足がかりとして真実を明らかにするのです。
釈尊はまず、帝王と転輪聖王を比較し、乞人と帝王の違いと同じくらいの差があることを説きます。転輪聖王は古代インドの理想的国王で、正義や徳をもって世界を治める仁王のことです。身に三十二相をそなえ、即位の時、天から輪宝を感得し、これを転じて天下を威伏治化するのです。
【転輪聖王】てんりんじょうおう/統治の輪を転ずる聖王の意。インド神話において世界を統一支配する帝王の理想像。世界の政治的支配者。転輪王とも輪王ともいう。全世界の皇帝。武力を用いず、ただ正義のみによって全世界を統治する理想的帝王。ジャイナ教徒やヒンズー教徒の間でも考えられていたし、また古碑文の中にも出てくるが、仏教では特に重要な意味をもつ。仏教では三十二相・七宝を具え、武力・刀剣によらず、正義によって征服し、支配するといわれる。これには金輪・銀輪・銅輪・鉄輪の四王がある。一説によると、人間の寿命が二万歳に達した時に、まず鉄輪王が出現して一天下の王となり、八万歳に達した時に金輪王が出て四天下に君臨し、四方を順化するという。その輪とは輪宝(これらの王が感得した神聖な車輪)が王を先導して、一切の障害を破砕、降伏する力のあるものである。
【転輪聖王】てんりんじょうおう/ 遮加越などと音写し,転輪王,転輪聖帝,輪王となどともいう.輪宝をもつ王の意.輪宝は輪形の武器で金・銀・銅・鉄の4種があり,仏の説法を象徴する法輪はこれにもとづく.転輪聖王は,輪・象・馬・珠・女・居士・主兵臣の七宝を有し,長寿と無病と相好と宝にめぐまれる四徳があり,正法によって世界を統治するといわれる.
【転輪聖王】てんりんじょうおう/(梵)チャクラ・バルティ・ラージャンの訳。輪・象・馬・珠・女・居士・主兵臣[しゅびょうしん]の七宝を有し、長寿・無患・顔貌端正・宝蔵盈満の四徳をそなえ、正法をもって世を治めると考えられた神話的な王。政治的な意味での国王の理想化であって、阿含経典などの中では法の王としての仏陀とよく対比される。仏陀の誕生と時、阿私陀[あしだ](アシタ)仙人が、家に在れば転輪聖王となり、出家すてば仏陀になるであろうと占ったという有名な伝説がある。須弥四州[しゅみししゅう]の四州の王であるか三州の王であるかなどによって、その輪宝は金輪宝であるとか銀輪宝・銅輪宝・鉄輪宝であるとかいい、また過去には大善見王・頂生王など、未来にはジョウ伽王・無量浄王などの転輪聖王があるという。
帝王が武力や権力によって国を治めるのに対し、転輪聖王は人徳によって全世界を治めます。
また帝王は自分の欲望に従って国を治めますが、転輪聖王は正義に随って全世界を治めます。
帝王の治める国の人々はいつも不安にかられ争い反発しますが、転輪聖王の治める国々では人々は心配がなく平和になり聖王に喜び随います。
王としての内容がこの通りですから自ずと容姿にも表れ、<四海に光宅してもつて風を垂るるものは仁王なり>「広く世界を治め、徳をもって人々を導くものは仁王である」(最澄著「末法灯明記」)と、仏と同じ三十二相を具える仁王として称えられるようになります。
ちなみに「帝王」や「帝国」といった表現は、前近代においては尊崇の念がこもった表現でしたが、現代においては強権政治的な傲慢さや頑迷さを批判する意味で用いられます。武力や強権を発動して人々を支配する政治は劣った政治であり、人々から推挙された者が政治を行うべきである≠ニいう考え方が全世界のすう勢であり、実際に今は国民の支持がなければ政治は動きません。そういう意味から言えば、「転輪聖王」という古代インドにおける理想王は現代においても生き続ける政治的理想像なのでしょう。
なお「往生論註」では、浄土における阿弥陀仏の存在意義を明らかにするため、転輪聖王の治世を譬えに引いて、<宝輪、殿に駐馬を立むまればすなはち四域虞ひなし。これを風の靡くに譬ふ>(転輪王が車を宮殿に駐め、そこにいて国を治めると、四方の人々は心配がなくなる。これを、風が吹いてすべてのものがそれに靡くにたとえる)とたたえています。
天王と浄土の菩薩・声聞
註釈版
転輪聖王は、威相殊妙[いそうしゅみょう]にして天下第一なれども、これをトウ利天王[とうりてんのう]に比ぶるに、また醜悪[しゅうあく]にしてあひ喩[たと]ふるを得ざること万億倍なり。たとひ天帝[てんてい]を第六天王[だいろくてんのう]に比ぶるに、百千億倍あひ類せざるなり。たとひ第六天王を無量寿仏国[むりょうじゅぶつこく]の菩薩[ぼさつ]・声聞[しょうもん]に比[なら]ぶるに、光顔[こうげん]・容色[ようしき]あひ及逮[およ]ばざること百千万億不可計倍[ひゃくせんまんおくふかけばい]なり」と。
現代語版
転輪聖王はそれほどに威厳にあふれ、この世でもっともすぐれているが、帝釈天[たいしゃくてん]にくらべるとまた万億倍も醜く劣っている。その帝釈天であっても、他化自在天[たけじざいてん]の王にくらべるとまたまた百千億倍も見劣りがする。そしてその他化自在天の王でさえ、無量寿仏の国の菩薩や声聞にくらべると、その輝かしい容姿に及ばないことは、百千万億倍ともはかり知ることができないほどである」
前節では、武力や権力による統治者である帝王と、仁徳によって推挙された転輪聖王を比べると雲泥の差があることが説かれましたが、その転輪聖王でさえ帝釈天や他化自在天の王には遠く及ばないと説かれます。では「帝釈天」や「他化自在天」とはどんな存在なのでしょう。
【帝釋】たいしゃく/インドラ神。ヴェーダ神話における最も有力な神であったが、後、仏教にとり入れられて梵天とともに仏法を守護する神とされた。彼の名は俗語でSakkaとよばれるので、「釈」と音写され、また神々の帝王とみなされるので、「帝」という。仏教神話においては、トウ利天の主で、須弥山頂の喜見城に住む。
【帝釈天】たいしゃくてん/仏教守護の神。インド神話の神インドラIndra(因陀羅)がその起源で、別名をシャクラSakra(釈迦羅)という。帝釈の帝はインドラの訳、釈はシャクラの音写の略である。詳しくはシャクラ・デーヴァーナーム・インドラSakradevanamindra(諸天の中の王の意)ともいい、釈迦提桓因陀羅と音写し、略して釈提桓因[しゃくだいかんいん]という。インドラはリグ・ヴェーダの神々の中でもっとも崇敬を集めた神で、武勇神・英雄神の性格をもっており、本来の起源は雷神とされている。
仏教には梵天とともに早くからとり入れられて護法の善神とされ、仏陀説法の会座にもしばしば名を列ねている。地居天[じごてん]の主で天帝ともいい、須弥山[しゅみせん]((梵)スメールSumeru)頂上のトウ利天の善見城に住し、四天王を配下とする。また十二天の筆頭で東方を守護する。梵天とあわせて釈梵とよばれ、図像にも梵天・帝釈天を一対としたものが多い。東大寺法華堂蔵・唐招提寺蔵・東寺蔵(以上いずれも国宝)のものがその代表例である。なお図像に金剛杵[こんごうしょ]を持つもの、千眼を持つものがあるのは、いずれもリグ・ヴェーダのインドラ神の伝説に起源をもつ。
【第六天の魔王】だいろくてんのまおう/欲界の第六天である他化自在天のこと。この天は常に多くの眷属を率いて人間界において仏道にさまがげをなすという。またの名を波旬ともいう。
【他化自在天】たけじざいてん/他化天・第六天ともいう。六欲天の第六。この天に生まれたものは、他の天の化作した欲境(欲望の対象)を自在に受容して楽を受けるという。欲界天の最高の場所である。
【他化自在天】たけじざいてん/(梵)パラニルミタ・ヴァシャヴァルティンParanirmita-vasa-vartinの訳。波羅維摩婆奢などと音写し、波羅尼蜜天[はらにみつてん]・婆舎跋提天[ばしゃばつだいてん]と略称し、他化楽天・化応声天ともいう。欲界六天(六欲天)の一つ。他のものがこしらえた楽境を奪って、それを自在に享受するのでこの名がある。欲界六天の最高に位するので第六天ともいい、魔王の住所であるため魔天という。密教では胎蔵曼荼羅の外金剛部院に安置し、帝釈天の眷属とする。
ちなみに帝釈天の住みかである欲界六天の第二「三十三天/トウ利天」は須弥山の頂上にあるのですが、山頂の四方に峰があって、峰ごとに八天ありますので合わせて三十三天となります。
このように、帝釈天も他化自在天も「天」の世界に住む存在なのですが、天全体の構造はどうなっているのでしょう。
【天】てん/デーバdebaの訳で、提婆[だいば]と音写する。天上、天有[てんぬ]、天趣、天道、天界、天上界というのも同じ意味である。
迷界である五趣や六趣(六道)のうちで最高最勝な有情[うじょう]の生存、或いはその有情、或いはその有情の生存する世界のこと。
有情自体を指すときは天人、天部(複数)、天衆[てんじゅ]ともいい、ほぼ「神」の語に当たる。
死後、天に生まれるための因である勝れた十善、四禅八定[はちじょう]を説く教えを天乗という。
@天の世界はこの地上から遥か上方にあると考えられ、下から順次に、四大王衆天(四王天ともいい、持国天・増長[ぞうじょう]天・広目天・多聞[たもん]天の四天王およびその眷属が住む)・三十三天(トウ利天ともいう。この天の主を釈提桓因[しゃくだいかんにん]即ち帝釈天[たいしゃくてん]という)・夜魔天[やまてん](焔摩天、第三焔天)・覩史多天[としたてん](兜率天[とそつてん])・楽変化天[らくへんげてん](化楽天)・他化自在天[たけじざいてん](第六天・魔天)があって、六欲天と称する。六欲天とは「欲界に属する六つの天」の意である。
次いで色界に属する天があるが、それは四禅天に大別され、全部で十七天(或いは十六天、十八天)から成る。即ち初禅天に梵衆天[ぼんしゅてん]・梵輔天[ぼんぽてん]・大梵天の三天があり、第二禅天に少光天・無量光天・極光浄天の三天、第三禅天に少浄天・無量浄天・遍浄天の三天、第四禅天に無雲天・福生天[ふくしょうてん]・広果天・無煩天[むぼんてん]・無熱天・善現天・善見天・色究竟天[しきくきょうてん](阿迦尼タ天[あかにたてん])の八天がある。十六天説では大梵天を梵輔天の中へ含め、十八天説では広果天の上に別に夢想天を立てる。初禅天、第二禅天、第三禅天に属する九天は、いずれも楽を受ける天であるから楽生天[らくしょうてん]といわれる。大梵天は梵天、大梵天王ともいわれ、帝釈天とあわせて釈梵と称される。これにさらに四天王を加えて釈梵四王といい、仏法守護の善神の中に数えられる。また四天王や帝釈天や梵天のように多くの天衆を率いている天を天王[てんのう]という。以上諸天のうちで四大王衆天と三十三天とは須弥山[しゅみせん]の上部に住むから地居天[じごてん]といい、夜魔天以上は空中に層をなして住むから空居天[くうごてん]という。それらが住む宮殿を天宮[てんぐう]、天堂という。これらの諸天は上方になるに従ってその天衆の身体の大きさも寿命も次第に増大し、肉体的な条件もすぐれたものとなる。
さらに無色界[むしきかい]に属する諸天があって、空無辺処天・識無辺処天・無所有処天[むしょうしょてん]・非想非非想処天(有頂天)の四無色天から成る。これらはすべて無色(物質を超えている)の天であるから住処をもたない。
四大王衆天または三十三天にある者(異説もある)で、いきどりの心を起こすことによって、および遊戯の楽しみに耽って正念[しょうねん]を失うことによって、自ら天界より去る者があり、前者を意憤天[いふんてん]といい、後者を戯忘天[けもうてん](戯忘念天[けもうねんてん])という。
A天人の命が終ろうとするとき身体に五つの衰えがあらわれる。これを五衰(天人の五衰)という。異説もあるが代表的なものは(1)衣服が垢でよごれる、(2)頭にかむっている花の冠がしおれる、(3)身体が臭くなる、(4)わきの下から汗が流れる、(5)自らの位置を楽しまなくなる、の五である。
また六欲天が婬事をなすのには、四大王衆天と三十三天とでは人間と等しく肉体を交え、夜魔天ではただ相抱くのみ、覩史多天では手をとり、楽変化天ではあい笑み、他化自在天ではあい視るのみであるという。これを欲天の五婬と名づける。
B天でない者をも仮に天と称して諸天を分類することがある。即ち名天[みょうてん](世間天、世天ともいい、国王をかりに天となづけたもの、人中の天の意)・生天[しょうてん](有情の生ずべきいわゆる天)・浄天(煩悩を断った清浄な者のことで、阿羅漢[あらかん]・独覚・仏をいう)の三種天、名天の代わりに挙天[こてん](転輪聖王は衆に推挙された帝王であるから挙天という)を加えた三種天、世間天・生天・浄天(預流果[よるか]から独覚まで)・義天(十住の菩薩)を四(種)天などに分け、四天に第一義天即ち仏を加えて五(種)天ともいう。
仏は浄天中の尊とされ、天中天、天中の最勝尊、天人師とも称される。また地天・水天・火天・風天・伊舎那天・帝釈天・焔摩天・梵天・毘沙門天・羅刹天[らせつてん]・日天・月天[がってん]を十二天(世界を護世の天部)といい、密教では金剛面天などを二十天という。
【天】てん/……化身土文類末には諸天が念仏者を護持することを挙げているが,「天を拝し神を祠祀することを得ざれ」とする.
現世利益和讃には梵王帝釈などの諸天善神,四天大王,他化天の大魔王が念仏の人を守ると説く.
他化天とは,他の天が化作した楽を仮りて自分の楽しみとするから名づけられたもので,詳しくは他化自在天といい,第六天,魔天(大魔王がつかさどる)とも称し,浄土の荘厳の快楽自在であるのが第六天のようであるとも,また浄土の聖衆のすぐれていることは第六天の百千万億不可計倍であるともいう〔大経〕.
兜率天((梵)Tusita都史多天)は上足,喜足とも訳し,その内院は一生補処の菩薩が住する所で,現に弥勒が修行しているとする.
(中略) 仏を第一義天というのは仏性不空の義によるとし〔術文賛―教〕,浄土の聖衆に人・天の名があるのは他の国土に順じて仮りに名をつらねたとする〔大経,論,浄讃〕.
なお天の神を天神,地の神を地祇といい,天神地祇を鬼神と名づける〔浄讃〕.
天道〔大経〕は業道を指し,天道自然,天道施張(網のように張りめぐらされ逃れることができない)と説く.
なお古代インドの宇宙論では、諸天の住む須弥山は、一辺が80,000由旬[ゆじゅん]、高さ160,000由旬(このうち半分の80,000由旬は水面下で残り半分は水面上)、周囲320,000由旬の正方形(四角柱)の山で、北面は黄金、東面は白銀、南面は瑠璃、西面は玻リの四宝でできていると考えられていました。
「由旬」とは梵語「ヨージャナ」の音写で、一由旬は「帝王一日の行軍の距離」、または「牛車の一日の旅程」とされています。実際の距離はといいますと、約11.2km、約14.4km、約21km、約28kmなど諸説ありますが、試みに1由旬15kmで計算しますと、須弥山の一辺は1,200,000kmとなります。ちなみに地球と月の平均距離は384,400kmですから、須弥山の一辺はこの3倍以上ということになります。
この須弥山を中心にして七つの金山(内側から持双山、持軸山、檐木山[えんぼくざん]、善見山、馬耳山、象耳山、尼民達羅山[にみんだつらざん]の順)が同心方形状にとりまき、各方山の間には深さ80,000由旬の深さをもつ七つの内海があり、いずれも八功徳水をたたえています。そして尼民達羅山から外は塩水の海となり、人間の住む三角形の南贍部[せんぶ]洲(梵:ジャンブ・ドヴィーパ/閻浮提[えんぶだい]とも音写)は尼民達羅山の南に位置しています。また尼民達羅山の東には半月形の東勝身洲(プールヴァ・ヴィデーハ/弗婆提[ほつばだい])、西には円形の西牛貨[ごげ]洲(アパラ・ゴーダニーヤ/瞿陀尼[くだに])、北には正方形の北倶盧[くる]洲(ウッタラクル/鬱単越[うったんおつ])があり、以上全てを直径1,203,450由旬の円柱状になった鉄囲山[てっちせん]が囲い、またこれら全てを金輪・水輪・風輪が支えている、という構造が考えられていました。ちなみに「物事の極限」を表す「金輪際[こんりんざい]」という用語はこの古代インドの宇宙論に由来しています。
「天」の説明が長くなりましたが、これはあくまで古代インドの宇宙論であって仏教のオリジナルではありません。経家・論家たちは当時の宇宙論を利用して法を説かれたのです。法は本来「形」がありませんから、形あるものを拝借して法の内容を明らかにされたのです。ですから、もしも(「もしも」ということは本来論じないのですが)釈尊が古代日本で仏教を説かれたのであれば、日本の神話や世界観に乗じて教えを説かれたでしょう。もしも現代であれば、現代の宇宙論を利用して教えを説かれるでしょう。須弥山を中心とした宇宙論は現代の天文学とは相容れませんが、これは重要な問題ではありません。当時の宇宙論に乗せて説かれた「法の真実」が重要なのであり、そこから「仏の真実意」を今汲み取ることが肝心なのです。
諸々の学問は外界を明らかにし、仏教は自分自身と人生を明らかにする≠ニいいます。どちらも重要なのですが、仏教は諸学問の成果を形として受け入れ、それらを人生として活かし、主体的に自分自身と環境を創造するのです。
「仏説無量寿経」のこの箇所で重要なのは、「無量寿仏国の菩薩・声聞の容姿が優れている」という真意で、迷いの世界で持て囃[はや]されている内容とは質がちがう≠ニいうことです。
人々が「素晴らしい容姿」と聞いて思い浮かぶのは、行いが折り目正しく、目鼻立ちが調和して美しく整い、多くの人々に敬[うやま]い侍[かしず]かれ、美しい衣服を着て、いつも豪華な食事が食べられる、といった特別な才能や氏素性・境遇に基づいた容姿でしょう。しかし釈尊の真意はそこにはありません。
螺髪を結っているからバラモンなのではない。氏族によってバラモンなのでもない。真実と理法とをまもる人は安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。
名利の執着をはなれ得ない地上の営みは、いかに麗しく飾られても、畢竟、ほろびゆく玩具にすぎない。
女の心を象徴するものは黒髪である。胸のおもひの乱れたる朝の鏡には、千筋の髪のひとつ/\が、泣きぬれてゐるかのやうである。よろこびに迎へた嬉しき朝は、艶やかなふくらみをもつて、むすぼれさへも容易に梳づられてゆく。
元結のしまらぬあさは日一日黒髪さへもそむくかとおもふ
黒髪は如何にうつくしく飾られても、みづからの心のむすぼれてゐる日は、かぎりなき寂しさを感ぜずにはをられない。私たちは、つねにいつはりのない内面をもつて、爽やかに外面の美を荘厳したい。
若い者は美しい。しかし老いた者は若い者よりもっと美しい。
この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ。
本当に優れた容姿は、特別な才能や氏素性・境遇に限定されたものではなく、全ての衆生に回施されうるものにあるのです。私の思い込みを超えたいのちのはたらきが、根源より創造的に顕現[けんげん]されることが本当に優れた容姿なのです。
経典の意を汲めば――浄土の真心が念仏の功徳となって人々に回施され、そのお陰で人々は生き甲斐をもって生きることが適う。特別な才能がなくても、特別な氏素性や境遇を経ていなくても、泥田に蓮華が咲くように、私が今在る苦悩の現場において信心歓喜の美しい華が咲くのです。念仏生活そのものが最上の容姿ではないか≠ニ信心の徳を褒め、最後に第六天王といえどもこの信心歓喜の生活に勝る内容のものではない≠ニ、人間が本当に真心で生きていくことの容姿を称えみえるのでしょう。
そうすると、何がいいたいのかというと、これは本当のべっぴんさんは、これはそういう血筋とか、境遇からできたというべっぴんさんもおるんだが、またほかに人柄のべっぴんさん。人柄。しかも、教養という、そういう学問をすれば学問をしたようなべっぴんさんになるの、充実してくるから。
ところが今度、同じ教養というても、まごころ。本当のお浄土の徳が出てきたべっぴんさんはもっと違ったべっぴんさん。まごころから。まごころというても、ただまごころじゃない、お浄土の徳はまごころと智慧と、賢いんだから。だから、顔そのものが一目見て、なんと賢い人だなあといいましょうが。
経典では、「帝王」より「転輪聖王」、「転輪聖王」より「帝釈天」、「帝釈天」より「他化自在天」、「他化自在天」より「無量寿仏国の菩薩・声聞」≠ニ次々比較し、前者より後者の容姿の方が格段に勝れている≠ニ勧めるのですが、本当は比較するものではないのです。しかし衆生はつねに物事を比較して判断しますので、衆生の癖に合わせてこうした説き方をされたのでしょう。そして「百千万億不可計倍」と想像を絶する数値を出して、比較を超えた信心の内容を容姿として褒め称えてみえるのです。 
その他の荘厳
仏、阿難に告げたまわく、無量寿国のその諸の天、人、衣服、飲食、華香、瓔珞と、諸の蓋、幢、幡、微妙の音声、居る所の舎宅、宮殿、楼閣は、その形色に称(かな)いて、高下、大小す。
或いは、一宝、二宝、乃ち無量の衆の宝に至るまで、
意に欲する所の随(まま)に念に応じて至る。
また、衆の宝の妙衣を以って、その地に布き、
一切の人天は、これを践みて行く。
無量の宝の網、仏土を弥覆(みふ、覆う)し、
皆、金縷(こんる、金糸)と真珠、百千の雑宝の奇妙、珍異なるを以って、荘厳し校飾(きょうじき、装飾)して、四面に周匝(しゅうそう、周回)す。垂らすには宝の鈴を以ってし、光色の晃曜(こうよう、光輝く)たることは、尽く厳麗(ごんれい、厳かに綺麗)を極む。
自然の徳風、徐(しずか)に起こりて微かに動く。その風は調和して、寒からず暑からず温涼、柔軟にして、遅からず疾からず、諸の羅網(らもう、あみ)、および諸の宝樹を吹き、演(ひろ)く無量の微妙なる法音を発し、万種の温雅なる徳の香を流布す。
そのある者、(これを)聞かば、塵労(じんろう、煩悩)と垢習(くじゅう、煩悩)、自然に起らず。風、その身に触れなば、皆、快楽を得ること、譬えば、比丘の滅尽三昧を得るが如し。
また風吹かば、華を散らして遍く仏土を満たし、色に随い次第して雑乱(ぞうらん、入り乱れる)せず、柔軟なる光沢ありて、馨香(きょうこう、好い香り)は芬烈(ふんれつ、強く香る)なり。
足、その上を履まば、陥下(かんげ、くぼむ)すること四寸、足を挙げおわるに随い、復して故(もと)の如し。
華の用、すでに訖(おわ)らば、地は、すなわち開け裂きて、次を以って(次第に)化没すれば、清浄にして遺るものなし。
その時節に随い、風吹きて華を散らす。かくの如く、(日に)六反す。
また衆の宝の蓮華、周(あまね)く世界を満たす。
一々の宝の華は、百千億の葉(よう、花弁)あり。その葉の光明に無量種の色あり、青色は青光、白色は白光、玄(くろ)、黄、朱、紫の光と色も、また然り。煒Y(いよう、輝くさま)煥爛(かんらん、光り輝くさま)にして、明るく日月を曜(てら、照)す。
一々の華の中から、三十六百千億の光りが出で、
一々の光の中から、三十六百千億の仏が出でて、身色は紫金、相好は殊特なり。
一々の諸仏は、また百千の光明を放ちて、普く十方(の衆生)の為に、微妙の法を説きたもう。
かくの如きの諸仏は、各々、無量の衆生を、仏の正道に於いて安立(あんりゅう、落ち着いて立たせる)す。
無量寿経巻上

仏説無量寿経/巻下

正宗極楽分の余/往生者の三輩
仏、阿難に告げたまわく、それ、ある衆生、彼の国に生まれなば、皆、悉く正定の聚(しょうじょうのじゅ、必定して仏と成る位)に住す。所以(ゆえ)は何(いか)に。
彼の仏国中に、衆の邪聚(じゃじゅ、畢竟じて仏と成らない位)、および不定の聚(定まらない位)、無ければなり。
十方の恒沙(ごうじゃ、恒河沙)の諸仏如来も、皆、共に無量寿仏の威神の功徳の不可思議を讃歎せり。
諸の、ある衆生、その名号を聞き、信心歓喜して、乃(すなわ)ち一念に至るまで、至心(ししん、心から)に廻向(えこう、善行を振り向ける)して、彼の国に生まれんと願わば、即ち往生(おうじょう、極楽国に生まれること)して、不退転(ふたいてん、仏道を中断しないこと)に住す。ただ五逆(ごぎゃく、父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、仏身より血を出だし、和合僧を破壊する重罪)と正法(大乗)を誹謗するを除く。
仏、阿難に告げたまわく、十方の世界の諸天と人民、それ至心に彼の国に生まれんと願うこと有らんに、凡そ三輩(さんぱい、三類)あり。
その上輩とは、家を捨て、欲を棄てて、沙門(しゃもん、出家)と作り、菩提心(ぼだいしん、仏と成ろうとする菩薩の心)を発して、一向に専ら無量寿仏を念(おも)い、諸の功徳を修めて、彼の国に生まれんと願う。
これ等の衆生は、寿(いのち)終る時に臨んで、無量寿仏と諸の大衆と(共に)、その人の前に現れ、即ち彼の仏に随うて、その国に往生す。
便(すなわ)ち、七宝の華の中に於いて、自然に化生(けしょう、母胎に依らず生まれる)し、不退転に住して、智慧勇猛にして、神通自在なり。
この故に、阿難。それ、ある衆生、今の世に於いて、無量寿仏に見(まみ)えんと欲せば、まさに無上の菩提心を発(おこ)して、功徳を修行し、彼の国に生まれんと願うべし。
仏、阿難に語りたまわく、その中輩とは、十方の世界の諸天と人民、それ至心に彼の国に生まれんと願うこと有らんに、行きて沙門と作りて、大いに功徳を修むること能わずといえども、まさに無上の菩提心を発して、一向に専ら無量寿仏を念いて、多少に善を修め、斎戒(さいかい、五戒、八戒斎等、心の不浄を清めること)を奉持(ぶじ)し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、(きぬ、絹織物)を懸け、灯を然(もや)し、華を散らし、香を焼(た)くべし。
これを以って廻向(えこう、善行の功徳を他に振り向けること)して、彼の国に生まれんと願え。その人の(寿の)終わりに臨んで、無量寿仏は化して、その身を現す。光明と相好(そうごう、仏の容貌と姿形)とは、具(つぶさ)に真仏の如くして、諸の大衆と(共に)、その人の前に現れんに、即ち化仏に随いて、その国に往生し、不退転に住して、功徳と智慧とは、上輩の者の如きに次ぐ。
仏、阿難に語りたまわく、その下輩とは、十方の世界の諸天と人民、それ至心に彼の国に生まれんと欲すること有らんに、たとい諸の功徳を作すこと能わずとも、まさに無上の菩提心を発し、一向に意を専らにして、乃ち十念に至るまでも、無量寿仏を念(おも)いて、その国に生まれんと願うべし。
もし深き法を聞いて、歓喜し、信じ、楽しんで、疑惑を生ぜず、乃ち一念に至るまでも、彼の仏を念い、至誠心(しじょうしん、真心)を以って、その国に生まれんと願え。この人、終わりに臨みて、夢に彼の仏に見えて、また往生を得、功徳と智慧とは、中輩の者の如きに次ぐ。
頌を説いて無量寿仏を称える
仏、阿難に告げたまわく、無量寿仏の威神は極まりなく、
十方の世界の無量無辺不可思議の諸仏如来も、称歎せざるなし。
彼の東方の恒沙の仏国に於いて、無量無数の諸の菩薩衆も、皆、悉く往きて、無量寿仏の所に詣で、恭敬供養すること、諸の菩薩、声聞の大衆に及ぼし、経法を聴受して、(十方の国の衆生に)宣べ布き、道化(化導)す。南西北方四維上下もまた、またかくの如し。
その時、世尊、しかも頌(じゅ、徳を称える歌)を説いて曰(のたま)わく、
「◎東方の諸仏の国、
その数、恒沙の如く、
彼の土の諸の菩薩、
往きて無量覚(無量寿仏)に覲(まみ)ゆ。
南と西と北と四維、
上下もまた、また然り、
彼の土の菩薩衆、
往きて無量覚に覲ゆ。
◎一切の諸の菩薩、
各、天の妙華を齎(もたら)し、
宝の香と無価(むげ、無限の価値)の衣を、
無量覚に供養す。
咸然(げんねん、皆、一緒に)として天の楽を奏して、
暢びやかに和雅の音を発し、
歌に最勝の尊を歎じて、
無量覚を供養す
◎「究めて神通と慧に達し、
遊んで深き法門に入り、
功徳(衆生済度の力)の蔵を具足して、
妙智は等倫(とうりん、比類)なく、
慧日は世間を照らし、
生死の雲を消し除く。」と。
恭敬して遶ること三匝(さんそう、三回)、
無上の尊に稽首(けいしゅ、頭を地に着けて礼する)す。
◎彼の厳浄の土を見れば、
微妙にして思議し難く、
因って無量心を発すらく、
願わくは我が国もまた然らんと。
時に応じて無量尊(無量寿仏)、
容(かんばせ)を動かし、欣びを発して笑えば、
口より無数の光を出して、
遍く十方の国を照らす。
◎光を迴らして身を囲遶(いにょう、周回)し、
三匝して頂より入れば、
一切の天人の衆は、
踊躍して、皆、歓喜す。
大士(だいじ、大菩薩)観世音、
服を整え稽首して問うて、
仏に白(もう)さく、「何に縁りてか笑いたもう、
唯(ゆい、はい)然り、願わくは意を説きたまえ。」と。
◎梵声はなお雷震のごとく、
八音(はっとん、如来の声)、妙響(みょうごう)を暢びやかに、
「まさに菩薩に記(き、記別、成仏の保証)を授くべし。
今、仁(汝)に説かん、諦らかに聴け。
十方より来たる正士(しょうじ、菩薩)、
吾は悉く彼の願を知る。
厳浄の土を志求せんものは、注/我が国もかくの如くと志求する
決(けつ、記別)を受けよ、まさに仏と作るべし。
◎一切の法(事物)は、なお
夢か幻か響の如しと覚了して、
諸の妙願を満足せよ。
必ず、かくの如き刹(国)と成らん。
法は電影の如しと知り、
菩薩の道を究竟して、
諸の功徳の本を具(そな)えんものは、
決を受けよ、まさに仏と作るべし。
◎諸の法門に通達せよ。
一切は空にして無我なり。
専ら求めて仏土を浄めよ。
必ず、かくの如き刹(くに)と成らん。」と。
諸仏、菩薩に告げて、
安養仏(あんにょうぶつ、無量寿仏)に覲(まみ)えしむ、
「法を聞いて楽しんで行を受け、
疾(と)く清浄の処(心)を得よ。
◎彼の厳浄の土に至らば、
便(すなわ)ち速やかに神通を得て、
必ず無量尊に於いて、
記を受けて等覚(とうがく、仏)と成らん。
その仏の本願力により、
名を聞いて往生せんと欲せば、
皆、悉く彼の国に到りて、
自ずから不退転を致さん(極めん)。」と。
◎菩薩、志願を興して、
己が国も異なりなからんと願い、
普く一切を度せんと念ずれば、
名は顕らかに十方に達して、
億の如来に奉(つつし)んで事(つか)え、
飛んで化(化導)すること、諸の刹に遍くし、
恭敬して、歓喜して去り、
還って安養国に到らん。
◎もし人に善本(善行)なくば、
この経を聞くを得ず。
清浄の有戒の者なれば、
乃ち正法を聞くを獲(う)。
かつて、更(はじ)めて、世尊に見(まみ)え、
則ち、よくこの事を信じ、
謙敬(けんきょう)して聞き、奉(つつ)しんで行い、
踊躍して、大いに歓喜せり。
◎憍慢と弊(たお、邪見に入る)れたると懈怠のものは、
以ってこの法を信じ難し。
宿世に諸仏に見(まみ)えしものは、
楽しんでかくの如き教えを聴く。
声聞、或いは菩薩、
聖心を究むること能わず、
譬えば、生るるより盲(めしい)なるもの、
行きて人を開導するが如し。
◎如来の智慧海は、
深広にして崖底(がいてい)なく、
二乗(にじょう、声聞と菩薩)の測る所に非ず、
ただ仏のみ、独り明了す。
たとい、一切の人をして、
具足して、皆に道を得しめ、
浄慧、本空の如くならしめ、
億劫に仏智を思い、
◎力を窮め、講説を極め、
寿(よわい)を尽くさんとも、なお知らず。
仏慧に辺際なく、
かくの如く清浄を致す。
寿命は甚だ得難く、
仏世にも、また値い難し。
人に、信と慧と有ること難く、
もし、聞かば精進して求めよ。
◎法を聞いて、よく忘れずんば、
(無量寿仏に)見(まみ)え敬いて、大いなる慶びを得ん。
則ち、我が善き親友なり。
この故に、まさに意(菩提心)を発すべし。
たとい、世界に火の満てらんとも、
必ず過ごして、要(もと)めて法を聞けば、
会(かなら)ず、まさに仏道を成じて、
広く生死の流れを済わん。」と。
観世音、大勢至の光明を称える
仏、阿難に告げたまわく、彼の国の菩薩は、皆、まさに一生補処(いっしょうふしょ、この生が終れば仏と成る位)を究竟すべし。(ただし)その本願により、衆生の為の故に、弘誓(ぐぜい、衆生の願いを弘く取り上げる)の功徳を以って、自ら荘厳し、普く一切の衆生を度脱(済度と解脱)せんと欲するを除く。
阿難、彼の仏国中に、諸の声聞衆の身光は一尋(じん、八尺)なり。菩薩の光明は、百由旬(ゆじゅん、十キロメートル)を照らす。
二菩薩有り、最も尊く第一にして、威神の光明は、普く三千大千世界を照らせり。
阿難、仏に白さく、「彼の二菩薩の、その号はいかに。」
仏言(の)たまわく、――
一は観世音と名づけ、二は大勢至と名づく。この二菩薩は、この国土(釈迦仏の化導するこの娑婆世界)に於いて、菩薩の行を修め、命終わりて転(うつ)り化し、彼の仏国に生まれぬ。
阿難、それある衆生、彼の国に生まれなば、皆、悉く三十二相(仏の形相)を具足して、智慧は成満(じょうまん、満足)し、深く諸法に入りて、(諸法の)要と妙とに究暢(くちょう、通達)し、神通は無礙(むげ、自在)にして、諸根(眼耳鼻舌身意等の修行に必要な根本要因)明利なり。
その鈍根の者すら、二忍(音響忍と柔順忍)を成就し、その利根の者なれば、阿僧祇(あそうぎ、無数)の無生法忍を得るなり。
また彼の菩薩は、乃ち仏と成るに至るまで、悪趣に更(かえ)らず、神通は自在にして、常に宿命を識る。(ただし)他方の五濁(ごじょく)の悪世に生まれ示現して彼に同ずる、我が国の如きをば除く。
仏、阿難に語りたまわく、――彼の国の菩薩は、仏の威神(神通力)を承けて、一食の頃(あいだ)に、十方の無量の世界に往き詣でて、諸仏世尊を恭敬し供養す。
心に念ずるままに、華、香、伎楽、(きぬ)、蓋、幢、幡の、無数無量の供養の具は、自然に化生し、念に応じて即ち至り、珍妙殊特にして世に有る所に非ず。
輒(すなわ)ち、以って奉(ささ)げ、諸の仏、菩薩、声聞の大衆に散けば、虚空中に在りて化し、華の蓋と成り、光の色は晃(あきら)かに耀き、香気は普く薫る。その華(の蓋)は、周円(周囲)四百里なる者あり。かくの如きが転(うた)た倍して、乃ち三千大千世界を覆い、その前後に随って、次を以って化して没す。
その諸の菩薩は、僉然(せんねん、皆)として欣悦(ごんえつ、悦ぶ)して、虚空中に於いて、共に、天の楽を奏(かな)で、微妙の音と歌を以って、仏の徳を歎じ、経法を聴受して、歓喜すること無量なり。仏を供養しおえて、未だ食せざるの前に、忽然(こつねん、たちまち)として軽く挙りて、その本国に還る。
彼の国の菩薩を称える
仏、阿難に語らく、無量寿仏は、諸の声聞、菩薩の大衆の為に、法を頒宣(はんせん、頒賜宣下)したもう時、都(すべ)ては悉く、七宝の講堂に集会(しゅうえ)す。広く道の教えを宣べ妙法を演暢(えんちょう、伸びやかに演説する)したまうに、歓喜して心より解し、道を得ざるものなし。
即ち時に、四方より自然の風起りて、普く、宝樹を吹き、五音(ごおん、五つの音階)の声を出せば、無量の妙華を雨ふらして、風に随うて、周遍(しゅうへん)す。自然の供養も、かくの如くに絶えず。
一切の諸天も、皆、天上の百千の華香、万種の伎楽を齎(もたら)して、その仏、および諸の菩薩、声聞の大衆を供養す。
普く、華香を散らし、諸の音楽を奏で、前後して来往し、更(こもごも)相い開き避(よ)く。この時に当たりて、熙然(きねん、なごやか)として快楽し言うに勝(た)うべからず。
仏、阿難に告げたまわく、彼の仏国に生じて、諸の菩薩等は、講説すべき所は、常に正法を宣べ、智慧に随順して、違うこと無く、失うこと無し。
その国土に於いて、所有(あらゆる)万物に、我所(がしょ、我が物、身心)の心無く、染著の心無し。去来進止(こらいしんし、行動)は情に係る所無く、意に随って自在、適莫(ちゃくまく、好悪)する所無く、彼無く、我無く、競う無く、訟(うった)うる無し。
諸の衆生に於いては、大慈悲と饒益(にょうやく、利益)の心を得、柔軟に調伏して忿恨(ふんこん、忿怒遺恨)の心無く、蓋(がい、煩悩)を離れて清浄、厭(いと)い怠ける心無く、等心、勝心、深心、定心と、法を愛し、法を楽しみ、法を喜ぶの心あり。
諸の煩悩を滅して、悪趣(に趣く)の心を離れ、一切の菩薩の行う所を究竟し、具足して無量の功徳を成就し、深き禅定と、諸の通明(つうみょう、六通三明)の慧を得て、遊んで七覚(しちかく、七覚支)を志し、心に仏の法を修む。
肉眼は清徹(しょうてつ)して分了せざるなく、天眼は通達して無量無限、法眼は観察して諸道を究竟し、慧眼は真を見てよく彼岸に度し、仏眼は具足して法性を覚了す。
無礙(むげ、自由自在)の智を以って人の為に演説す。
等しく三界は空にして所有(しょう、物)無きを観て、志して仏法を求め諸の辯才を具(そな)え、衆生の煩悩の患いを除滅(じょめつ)す。
如(にょ、真如、世界の真実)従り来生して、法の如如(にょにょ、事物の本性)を解し、
善く習と滅を知って、音声(おんじょう)の方便すれども、世語を欣ばず、楽しんで正論に在り。
諸の善本(ぜんぽん、善根)を修め、志して仏の道を崇む。
一切法(いっさいほう、一切の事物)は、皆、悉く寂滅なりと知りて、生身と煩悩の二余(によ、二つの残り香)は倶に尽く。
甚だ深き法を聞いて、心に疑懼(ぎく、疑いと怖れ)せずして、常によく修行す。
その大悲とは、深く遠くして微妙にして、覆載(ふくさい)せざることなし。
一乗(大乗)を究竟して彼岸に至り、疑網を決断して、慧は心より出づ。仏の教法に於いて該羅(がいら、広く覆う)して外(ほか)無し。
智慧は大海の如く、
三昧(さんまい、心の動かないこと)は山王(せんおう、須弥山)の如く、
慧の光は明らかに浄く、日月を超踰(ちょうゆ)し、
清白(しょうびゃく、清浄潔白)の法は具足して円満に、なお雪山の照らすが如し、諸の功徳は、等しく一に浄きが故に。
なお大地の如し、浄と穢と好と悪と心に異なり無きが故に。
なお浄水の如し、塵労(じんろう、煩悩)の諸の垢と染みとを、洗い除くが故に。
なお火王の如し、一切の煩悩の薪を焼いて滅するが故に。
なお大風の如し、諸の世界を行って障閡(しょうがい、障碍)無きが故に。
なお虚空の如し、一切の有(う、事物)に於いて著する所無きが故に。
なお蓮華の如し、諸の世間に於いて染汚無きが故に。
なお大乗の如し、群萌(ぐんもう、衆生)を運載して生死を出づるが故に。
なお重雲の如し、大法の雷を震わして未だ覚めざるを覚ますが故に。
なお大雨の如し、甘露の法を雨ふらして衆生を潤(うるお)すが故に。
金剛山の如し、衆魔、外道の動かすこと能わざるが故に。
梵天王の如し、諸の善法に於いて、最上首なるが故に。
尼拘類樹(にくるいじゅ、大樹の名)の如し、普く一切を覆うが故に。
優曇鉢(うどんはつ、樹名)の華の如し、希有にして遇い難きが故に。
金翅鳥(こんじちょう、巨大鳥の名)の如し、外道を威伏するが故に。
衆(もろもろ)の遊禽(ゆうきん、小鳥)の如し、蔵積する所無きが故に。
なお牛王(ごおう)の如し、よく勝つもの無きが故に。
なお象王の如し、善く調伏せらるるが故に。
師子王の如し、畏るる所無きが故に。
曠(ひろ)きこと虚空の若(ごと)し、大慈等しきが故に、
嫉心を摧滅(さいめつ、挫く)す、勝ちを望まざるが故に。
専ら、楽しんで法を求め、心に厭足(えんそく)する無く、常に広く説かんと欲して、志しに疲倦(ひけん)する無く、法の鼓を撃ち、法の幢を建て、慧の日を曜(かがや)かし、癡の闇を除く。
六和敬(ろくわぎょう、衆生を敬うこと)を修め、常に法施を行って、志は勇(勇敢)にして精進し、心は退弱(たいにゃく、退却と怯弱)ならず。
世の為の灯明、最勝の福田たり。
常に師と為って導き、等しく憎愛なし。
ただ正道を楽しんで、余の欣慼(ごんせき、喜びと愁い)無し。
諸の欲の刺を抜いて、以って群生(ぐんしょう、衆生)を安んず。
功徳は殊勝にして、尊敬せざるなし。
三垢(さんく、三毒、貪瞋癡)の障りを滅して、諸の神通に遊ぶ。
因の力、縁の力、意の力、願の力、方便の力、常の力、善の力、定の力、慧の力、多聞の力、施、戒、忍辱、精進、禅定、智慧の力、正念、止観、諸の通と明の力、如法に諸の衆生を調伏する力、かくの如き等の力は、一切を具足す。
身色(しんしき、肉体)と相好(そうごう、好ましい形相と容貌)と功徳(くどく、衆生を導く力)と辯才(べんざい、弁舌の才能)とは具足して、荘厳するに与(とも)に等しき者無し。
無量の諸仏を恭敬供養して、常に諸仏の共に称歎する所たり。
菩薩の諸の波羅蜜を究竟して、空、無相、無願の三昧、不生不滅の諸の三昧の門を修めて、声聞と縁覚の地を遠離す。
阿難、彼の(国の)諸の菩薩は、かくの如き無量の功徳を成就せり。我は、ただ汝が為に、略してこれを言うのみ。もし広く説かば、百千万劫しても窮(きわ)め尽くすこと能わず。
弥勒受勅分/三毒、その一、貪りの毒

仏は、弥勒(みろく)菩薩と諸の天人等に告げたまわく、「無量寿国の声聞菩薩の功徳と智慧は称え説くべからず。またその国土の微妙にして安楽、清浄なることは、かくの若(ごと)し。
何ぞ、力(つと)めて善を為し、道の自然なるを念じ、上下無きに著して、辺際無きに洞達せざる。宜しく、各、勤めて精進し、努力して、自らこれを求むべし。必ず、超絶して去るを得、安養国に往生すべし。横に五悪趣を截れば、悪趣は自然に閉じ、道を昇ること窮極(ぐごく、行き止まり)無からん。
行き易けれど(行く)人無し。
その国は逆違せずして、自然の牽(ひ)く所なり。
何ぞ、世事を棄て、勤め行うて、道の徳を求めざる。(行けば)極めて長く寿を生くるを獲(え)て、楽しみは極まり有ること無かるべし。
然るに世人は薄俗(はくぞく、軽薄にして俗悪)にして、共に不急の事を諍(あらそ)い、この劇悪の極苦の中に於いて、身を勤め、務めを営み、以って自ら給済(きゅうさい、あてがいおぎなう)す。
尊きも無く卑しきも無く、貧しきも無く富めるも無く、少長男女、共に銭財を憂う。
(銭財の)有るも無きも同じく然りして、憂いの思いは、まさに等し。屏営(びょうよう、不安でうろうろする)として愁い苦しみ、念(おもい)を累(かさ)ね慮(おもんぱかり)を積んで、心の走り使いと為り、安らぐ時の有ること無し。
田有れば田を憂い、宅有れば宅を憂い、牛馬六畜(ごめろくちく、牛、馬、犬、羊、豚、鶏)、奴婢、銭財、衣食、什物(じゅうもつ、日用道具)も、また共にこれを憂う。思いを重ね息(ためいき)を累ねて、憂いの念は愁い怖る。
横(おう、非例)に、非常の水火、盗賊、怨家(おんけ、敵)、債主(さいしゅ、貸し主)は、焚(や)き漂(ただよ)わせ劫(かす)め奪い消し散らして、磨滅すれば、憂いの毒に忪忪(しゅじゅ、びくつく)として、解ける時の有ること無し。
憤(いきどおり)を心中に結んで、憂いの悩みを離れず、心は堅く、意は固(かたくな)に、まさに縦(ほしいまま)に捨てること無し。
或は、坐して摧砕(ざいさい、砕ける)し、身亡びて命終れば、これを棄捐(きえん、棄てる)して去り、誰も随う者なし。
尊貴、豪富なるも、またこの患い有り。憂いと懼れは万端(ばんたん、完全にそろう)して、勤苦(ごんく、勤めを果たす)することかくの若し。衆(もろもろ)の寒熱と痛みと共に結んで、倶にあり。
貧窮なると下劣なるとは困乏して、常に無し。
田無きも、また憂いて田有らんことを欲し、宅無きも、また憂いて宅有らんことを欲し、牛馬六畜、奴婢、銭財、衣食、什物も、また憂いてこれ有らんことを欲す。
たまたま、一有れば、また一を少(か)き、これ有ればこれを少いて、斉等(さいとう、等しくそろう)に有らんことを思う。欲に適(かな)いて具(つぶさ、完全)に有れば、便ちまた糜散(みさん、粉々になって飛び散る)す。かくの如き憂いと苦しみに、まさにまた求索(ぐさく、求める)すれども、時にも得ること能わず。
思想(しそう、思い巡らす)すれど益無く、身心は倶に労(つか)れて、坐起に安からず。憂いと念は相い随って勤苦(ごんく、勤労)することかくの若く、また衆の寒熱は痛みと共に結んで倶にあり。
或る時は、ここに坐して身を終え命を夭(ほろぼ)せども、あえて善を為して道を行き、徳を進めず。
寿(いのち)終り、身は死して、独り遠くに去らんとするに当り、趣き向う所の善悪の道の有るを、よく知る者はなし。
三毒、その二、怒りの毒
世間の人民の、父子、兄弟、夫婦、家室(けしつ、家族)、中外の親族(ちゅうげのしんぞく、父方母方の親族)は、まさに相い敬愛すべく、相い憎嫉すること無く、有るも無きも相い通じて貪惜を得ること無く、言色(ごんしき、言葉と顔色)常に和して、相い違戻(いれい、もとる、背く)することなかれ。
或は時に、心に諍いて、恚怒(いぬ、怒る)する所有れば、今世の恨意(こんい、恨みの気持ち)微かに相い憎嫉するも、後世には転(うたた、どんどん)劇(はげ)しく、大怨と成るに至る。
所以は何んとなれば、世間の事は、更(こもご)も、相い患害(げんがい、傷つける)し、即時、応急に相い破らざるといえども、然るに毒を含み、怒を蓄え、憤りを精神(こころ)に結び、自然に識(しき、事物を分別する心の部分)に剋(きざ)みて、相い離るることを得ず、皆、まさに対生(たいしょう、二人が同時同所に生まれる)して、更も相い報復すべし。
人は、世間の愛欲の中に在りて、独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来たり、行(ぎょう、行業)に当りて苦楽の地に至り趣き、身は自らこれに当りて、代わる者の有ること無し。
善悪は変じて殃福(おうふく、罪福)の異処と化し、宿は予(あらかじ)め厳かに待てば、まさに独り趣き入るべし。
遠く他所に到れども、よく見る者なし。善悪は自然に追うて生まるる所に行き、窈窈(ようよう、かすか)冥冥(みょうみょう、暗い)として別離すること久長(くちょう、長い時間)なり。道路は同じからざれば合い見るに期(ご、期限)無し。また相い値うことを得ること甚だ難く甚だ難し。
何ぞ衆事を棄てざる。
各、強健の時に遇えば、努力し勤めて善を修め、精進して世を度(わた、渡る)ることを願い、極めて長き生を得べし。
三毒、その三、愚癡の毒
如何(いかん)が道を求めざる。いづくにか須待(ま)つ所ありて、何の楽しみをか欲する。
かくの如きの世人は、善を作して善を得、道を為して道を得ることを信ぜず。人死せば更に生じ、恵み施して福を得ることを信ぜず。善悪の事は、すべてこれを信ぜずして、これを然らずと謂い、終(つい)に、これ有ること無し。
ただ、ここに坐すが故に、且(しばら、なんとなく)く自らこれを見て、更(こもご)も相い瞻視(せんし、見習う)す。先後も同じく然り。転た相い父の余(のこ)せし教令(きょうりょう、教え)を承受(しょうじゅ、受ける)す。
先人、祖父、もとより善を為さず、道の徳を識らざれば、身は愚かに神(じん、精神)は闇く、心は塞がり意は閉ざす。死生の趣(みち)、善悪の道は、自ずから見ること能わずして、語る者も有ること無し。吉凶禍福は競いて、各これを作せども、一として怪しむこと無し。
生死の常道は、転た相い嗣(つ)ぎて立つ。
或は父は子を哭(なげ)き、或は子は父を哭き、兄弟、夫婦、更も相い哭泣(こくきゅう、なげく)す。上下を顛倒するは、無常の根本なり。皆、まさに過ぎ去るべく、常に保つべからず。
教え語りて、開き導けども、これを信ずる者は少なし。これを以って、生死に流転して休止有ること無し。
かくの如きの人は、曚冥(もうみょう、ぼんやりと闇い)し抵突(たいとつ、ぶつかる)して、経法を信ぜず。心に遠き慮(おもんぱかり)無くて、各、意を快くせんと欲す。
癡(おろ)かにも愛欲に惑いて、道の徳に達せず。迷いて瞋怒に没し、財色に貪狼(ろんろう、欲深く貪る)す。
ここに坐して、道を得ざれば、まさに悪趣の苦しみを更(あらた)にして、生死は窮まり已(や)むこと無かるべし。哀れなるかな、甚だ傷(いた)むべし。
或は時に、室家(しつけ、いえ)の父子、兄弟、夫婦が、一り死に一り生まれ、更に相い哀愍(あいみん、嘆き悲しむ)し、恩愛(おんない、いつくしむ)し、思慕して、憂いの念に結縛(けつばく、苦に結びつける)す。心意は痛く著して、迭(たがい)に相い顧恋(これん、恋い慕う)し、日を窮め歳を卒(お、終)うれども解け已むことの有ること無し。
道の徳を教え語れども、心は開明せず、恩好(おんこう、いつくしみ)を思想(しそう、思い巡らす)して、情欲を離れず。
惛矇(こんもう、闇い)し、閉塞して、愚惑に覆われ、深く思い、熟(つぶさ)に計って、心自ずから端政(たんじょう、端正)に専精(せんしょう、もっぱら)に道を行い、世事を決断すること能わず。
便旋(べんせん、うろつく)して竟(おわり)に至り、年寿終(つい)に尽くれども道を得ること能わず。奈何(いかん)ともすべきこと無し。
猥(みだり)に憒憂(けう、心が乱れ憂う)を総(あつ)むれば、皆、愛欲を貪り、道に惑う者は衆(おお)く、これを悟る者は寡(すくな)し。
世間は匆匆(そうそう、慌ただしい)として、聊ョ(りょうらい、頼りにする)すべきもの無し。
尊卑、上下、貧富、貴賎、勤苦(ごんく、ほねおり苦しむ)し、匆務(そうむ、慌ただしく務める)して、各、殺毒(せつどく、心の毒、瞋り)を懐き、悪氣(あくけ、悪意)は窈冥(ようみょう、薄暗い)として、為に妄りに事を興し、天地に違逆して人心に従わず。
自然の悪ならざるものも、先づ、随いてこれに与(くみ)し、恣(ほしいまま)に為す所を聴(ゆる)して、その罪の極まるを待つ。
その寿、未だ尽きざれども、便ち頓(とみ)に、これを奪いて、悪道に下(くだ)し入れて、世を累ねて苦を懟(うら)み、その中に展転して、数千億劫にも、出づる期の有ること無し。痛ましいこと言うべからず、甚だ哀愍すべし。
生死を厭うて、安楽国を願え
仏、弥勒菩薩と諸の天人等に告げたまわく、「我、今、汝に世間の事を語らん。人、これを用いるが故に、坐して道を得ず。まさに熟(つぶさ)に思い計らって衆の悪を遠離し、その善なる者を択び、勤めてこれを行うべし。
愛欲、栄華は、常に保つべからず。皆、まさに別離すべく、楽しむべき者無し。仏の在世に遇わば、まさに勤めて精進すべし。
それ、安楽国に生まれんと願うに至ること有らば、智慧明達し功徳の殊勝なるを得べし。心の欲する所に随うを得て、経戒を虧負(きふ、背く)して人の後に在るを得ることなかれ。
儻(も)し疑いの意有りて経を解せざれば、具(つぶさ)に仏に問うべし。まさに為にこれを説くべし。」と。
弥勒菩薩、長跪(ちょうき、両肘両膝を地に着ける)して白して言さく、「仏の威神は尊重にして、説く所は快善(かいぜん、痛快にして立派)なり。仏の経を聴く者、心を貫いてこれを思うに、世人は実に爾(しか)り、仏の言わるる所の如し。
今、仏、慈愍して大道を顕示したもうに、耳目開明なれば長く度脱(どだつ、済度解脱)を得ん。仏の所説を聞いて歓喜せざるものなく、諸天、人民、蠕動(ねんどう、地をはってうごめく)の類、皆、慈恩を蒙りて憂苦を解脱せん。
仏、教誡を語りたまえるに、甚だ深く甚だ善なり。智慧は明らかに八方上下去来今(こらいこん、過去未来現在)の事を見て、究暢(くちょう、究めて伸びやか)せざるものなし。
今、我が衆等、度脱を得ることを蒙る所以(ゆえ)は、皆、仏の前世の道を求めたまえる時に謙苦(けんく、謙譲勤苦)の致す所にして、恩徳は普く覆い福録(ふくろく、福徳)は巍巍たり。光明は徹照して空に達すること極まり無し。
泥洹(ないおん、涅槃)に入る(道)を開き、(経戒を)教授し、典攬(てんらん、典籍を集める)し、(邪見を)威制(いせい、威をもって制す)し、消化(しょうけ、化導)し、十方を感動せしめて窮まり無く、極まり無し。
仏は法王たりて、尊きこと衆聖を超え、普く一切の天人の師と為り、心に願う所に随うて、皆、道を得せしむ。今仏に値うことを得て、また無量寿の声を聞き、歓喜せざるものなく、心に開明を得たり。」と。
仏、弥勒に告げたまわく、「汝が言は是(ぜ)なり。もし仏に於いて慈しみ敬う者あらば、実に大善と為す。
天下は久久(くく)として、乃ちまた仏有り。
今、我、この世に於いて仏と作り、経法を演説して道の教えを宣べ布き、諸の疑いの網を断じて、愛欲の本を抜き、衆悪の源を杜(と)ぢたり。
遊んで三界を歩き、拘礙(くげ、妨げる)する所無く、典攬せし智慧は、衆の道の要なり、綱維(こうゆい、大綱)を執持すれば昭然(しょうねん、明らか)として分明(ふんみょう、明らか)なり。五趣を開示して未だ度せざる者を度し、生死と泥洹の道とを決め正せり。
弥勒、まさに知るべし、汝は、無数劫より来(このかた)、菩薩の行を修めて、衆生を度せんと欲して、それすでに久しく遠し。汝に従って道を得、泥洹に至れる者は称(はか)り数(かぞ)うるべからず。
汝、および十方の諸天、人民、一切の四衆(ししゅ、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷)、永劫よりこのかた、五道を展転して、憂い畏れて勤苦(ごんく、勤労)すること具には言うべからず、乃ち今世に至るまで生死絶えず。仏と相い値うて、経法を聴受し、またまた無量寿仏を聞くを得る。快きかな、甚だ善し。吾、爾(なんじ)を助けて喜ばせん。
汝は、今また、自ら生死老病の痛苦、悪露(あくろ、悪が露出する)不浄にして楽しむべき者の無きを厭うべし。宜しく自ら決断して、身を端(ただ)し行いを正して、益(ますます)諸の善を作し、己を修め体を潔くして、心の垢を洗い除き、言行忠信にして表裏相応すべし。
人、よく自ら度して転(うた)た相い拯済(じょうさい、救う)し、精(もっぱ)ら明らめ求め願うて善本を積み累ねよ。
一世に勤苦(ごんく、勤労)すといえども、須臾(しゅゆ、暫く)の間なり、後に無量寿国に生まるれば快楽は極まり無し。
長く道の徳と合して明らかに、永く生死の根本を抜いて、また貪恚愚癡の苦悩の患い無く、寿は一劫、百劫、千億万劫ならんと欲せば、自在に意の随(まま)に皆、これを得べし。無為は自然にして泥洹の道に次ぐ。
汝等、宜しく各、精進して心に願う所を求むべし。疑惑を得て中悔(ちゅうけ、途中で悔い止まる)し、自ら過咎(かく、過失)を為し、彼の辺地の七宝の宮殿に生まれて、五百歳の中に諸の厄を受くること無かれ。」と。
弥勒、仏に白さく、「仏の重ねての誨(おし)えを受け、専精に学を修め、教えの如くに奉って行い、敢て疑うこと有らじ。」と。  
弥勒受勅分の余/五悪五痛五焼

仏、弥勒に告げたまわく、「汝等、よくこの世に於いて、心を端(ただ)し意を正して、衆の悪を作さざるは、甚だ徳の至りにして、十方の世界の最も倫匹(りんぴつ、並ぶ者)無きなり。所以(ゆえ)は何(いか)んとなれば、諸仏の国土の天人の類は、自然に善を作し、悪を為すこと大ならざれば、開化すべきこと易し。
今、我この世間に於いて仏と作り、五悪(ごあく、殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒)、五痛(ごつう、五悪を犯して受ける刑罰)、五焼(ごしょう、五悪を犯して受ける地獄の罰)の中に於いて処すること、最も劇苦(ぎゃくく、五悪の衆生を救う劇務)と為す。群生(ぐんしょう、衆生)に教えて五悪を捨てしめ、五痛を去らしめ、五焼を離れしめ、その意を降し化して、五善を持(たも)たしめて、その福徳、度世(どせ、苦の世界を渡る)、長寿、泥洹の道を獲(え)せしめたり。」
仏言わく、 何等をか五悪と為し、何等をか五痛、何等をか五焼、何等をか五悪を消化して、五善を持たしめ、その福徳、度世、長寿、泥洹の道を獲しむと為す。
その一悪、殺生
その一の悪とは、諸天、人民、蠕動(ねんどう、地をはうもの)の類、衆の悪を為さんと欲すること、皆然らざるはなし。
強き者は、弱きを伏して、転(うた)た相い剋賊(こくぞく、切り刻んで殺し盗む)し、残害(ざんがい、傷つけ殺す)し、殺戮(さつりく、むごたらしく殺す)し、迭(たがい)に相い呑噬(どんぜい、呑んで噛む)して、善を修むることを知らず。
悪逆無道にして、後に殃罰(おうばつ、天罰)を受くるは、自然の趣向(しゅこう、意向)なり、神明(じんみょう、天神)は犯せる者を記識(きしき、書きとどめる)して赦さず。
故に、貧窮(びんぐ)、下賎、乞丐(こつがい、乞食)、孤独、聾盲、瘖唖、愚癡、憋悪(へいあく、悪心)有りて、尪(おう、足なえ)、狂、逮ばざるの属(たぐい)有るに至る。
また、尊貴、豪富、高才、明達有るは、皆、宿世の慈孝、修善、積徳の致す所に由るなり。
世に、常道(じょうどう、正道)、王法(おうほう、世間の法律)、牢獄有れども、肯(あえ)て畏れ慎まずに、悪を為して罪に入り、その殃罰を受け、解脱を求め望めども、免れ出づることは得難し。世間にはこの目前の現事有れども、寿終りての後の世は、尤も深く尤も劇し。その幽冥(ゆうみょう、薄暗い世界)に入り、転じて生まれ身を受くるは、譬えば、王法の痛苦、極刑の如し。
故に、自然の三塗(さんづ、地獄、餓鬼、畜生)に無量の苦悩有り、転(うた)たその身を貿(か)え、形を改め、道を易(か)え、受くる所の寿命も、或は長く或は短く、魂神(こんじん、魂魄)と精識(しょうしき、精神)は、自然にここに趣く。まさに独り値向(じきこう、直面)すべし。
(怨みと)相い従いて共に生まれて、更に相い報復し、止みおわることの有ること無し。
殃悪(おうあく、罪罰)、未だ尽きざれば相い離るることを得ず。その中に展転として出づるの期(ご、時)有ること無く、解脱も得難く、痛みは言うべからず。
天地の間には、自然にこれ有り。即時、卒暴(そつぼう、にわか)に、まさに善悪の道に至るべきにはあらねど、会(かなら)ず、まさにここに帰すべし。これを一の大悪、一の痛、一の焼と為し、勤苦(ごんく、苦労)することかくの如く、譬えば大火に人身を焚焼(ぼんしょう)するが如し。
人、よく(世界の)中に於いて、一心に意を制し、身を端し行いを正して、独り諸の善を作し、衆の悪を為さざれば、身は独り度脱(どだつ、済度解脱)して、その福徳、度世(どせ、世を渡る)、上天(じょうてん、天に上る)、泥洹の道を獲(え)ん。これを一の大善と為す。  
その二悪、偸盗
仏言わく、その二の悪とは、世間の人民、父子、兄弟、室家、夫婦、都(すべ)て義理(ぎり、正義と道理)無く、法度(ほうど、法律と制度)に順ぜずして、奢り、婬(むさ)ぼり、憍(たかぶ)り、縦(ほしいまま)にして、各、意を快くし、心に任せて自ら恣(ほしいまま)にし、更(こもご)も相い欺(あざむ)き惑わす。心と口と、各、異なり、言と念とに実無し。佞(おもね)り諂(へつら)いて忠ならず。巧みに言いて諛(へつら)い媚(こ)び、賢を嫉み善を謗り、怨枉(おんおう、無実の罪に陥れられる)に陥(おと)し入る。
主上不明なれば臣下に任用し、臣下自在になして機偽(きぎ、はかりごとをして偽る)多端(たたん、多くの手口)なり。践(ふ)み度(わた)り、よく行いてその形勢を知り、位に在れども正しからざれば、(主上、)それに欺かれ、妄(みだ)りに忠良(の臣)を損(そこな)い、天の心に当らず。
臣はその君を欺き、子はその父を欺き、兄弟夫婦、中外の知識(ちしき、知人)、更(こもご)も相い欺き誑かす。
各、貪欲、瞋恚、愚癡を懐いて、自ら己に厚からんことを欲し、貪りて多く有らんことを欲す。尊卑上下、心は倶に同じく然り。
家を破り身を亡ぼしても前後を顧みず。親属の内外、ここに坐して族(うから)を滅ぼす。
或は時に、室家(しつけ、家族)、知識、郷党、市里の愚民、野人、転た共に事に従い、更も相い剥害(はくがい)し、忿(いきどお)りは成りて怨みを結ぶ。
富み有るものは、慳惜(けんじゃく、物惜しみする)して肯て施し与えず、愛し保ち貪って、心労と身苦を重ぬれど、かくの如くして竟(おわ)りに至れば、恃(たの)み怙(たの)む所無く、独り来たり独り去り、一として随う者無し。
善悪と禍福とは、命を生まるる所にまで追い、或は楽処に在り、或は苦毒に入る。然る後に、乃ち悔んでも、まさにまた何んが及ぶべき。
世間の人民は、心愚かにして智少なく、善を見ても憎み謗って、慕い及ばんことを思わず、ただ悪を為さんと欲して、妄りに非法を作し、常に盗心を懐いて、他の利を悕望(けもう、希望)し、消散磨滅しては、また求索(ぐさく、求める)す。
邪心不正は、人の色有るを懼(おそ)れ、あらかじめ思い計らず、事至れば乃ち悔ゆ。今世には、現に王法と牢獄と有り、罪に随いて趣向し、その殃罰(おうばつ、刑罰)を受く。
その前世に道の徳を信ぜず、善本を修めざるに因って、今また、悪を為せば、天神、それを別して名籍(みょうじゃく、名簿)に剋識(こくしき、刻みつけて記す)し、寿終れば神(じん、魂)逝き下りて、悪道に入る。
故に、自然に三塗の無量の苦悩有り、その中に展転して、世世に劫を累ぬれど出づるの期有ること無く、解脱得難ければ痛み言うべからず。これを二の大悪、二の痛、二の焼と為す。勤苦(ごんく、苦労)することかくの如く、譬えば大火に人身を焚焼するが如し。
人、よく中に於いて、一心に意を制し、身を端し行いを正して、独り諸の善を作し、衆の悪を為さざれば、身は独り度脱して、その福徳、度世、上天、泥洹の道を獲ん。これを二の大善と為す。  
その三悪、邪淫
仏言わく、その三の悪とは、世間の人民は、相い因り寄って生まれ、共に天地の間に居り、処(お)る年の寿命は、よく幾何(いくばく)も無し。上には賢明、長者、尊貴、豪富有り、下には貧窮、廝賎(しせん、下賎)、尪劣(おうれつ、弱劣)、愚夫有り、中に不善の人有りて、常に邪悪を懐く。ただ、婬劮(いんいつ、みだら)を念(おも)い、煩(ぼん、煩悩)は胸中を満たし、愛欲は交(ま)じり乱れて、坐起は安からず。
貪意は守り惜しんで、ただ唐(ひろ)く得んことを欲し、細色(さいしき、きめ細やかな肌)を眄睞(めんらい、横目に見る)して、邪態(じゃたい、邪な態度)は外に逸(ほしいまま)なり。自らの妻を厭い憎んで、私(ひそか)に妄りに(娼家に)出入し、家財を費え損じて、事(こと、職)に非法を為す。
交わって聚会(じゅえ、徒党)を結び、師(し、いくさ)を興して相い伐ち、攻め劫(おびや)かして殺戮(さつりく)し、強いて奪ういて道をせず。
悪心、外に在らば、自ら業を修めず、盗窃(とうせつ)して趣(すみやか)に得、撃って事を成さんと欲し、恐勢(くせい、恐れながら)も迫脅(はくきょう、脅迫)し、帰って妻子に給し、心を恣(ほしいまま)にして意を快くし、身を極めて楽を作す。
或は、親属に於いて尊卑を避けず。家室(けしつ、家婦)と中外(の親属)、患(うれい)てこれを苦しむ。またまた王法と禁令を畏れず。かくの如きの悪、人鬼(人間鬼神)に著(あらわ)るれば、日月は照らし見、神明は記識(きしき、記憶し記載する)す。
故に、自然に三塗の無量の苦悩有り。その中に展転して、世世に劫を累ね、出づる期の有ること無く、解脱を得難く、痛みは言うべからず。これを三の大悪、三の痛、三の焼と為す。勤苦することかくの如く、譬えば大火に人身を焚焼するが如し。
人、よく中に於いて、一心に意を制して、身を端し行いを正して、独り諸の善を作し、衆の悪を為さざれば、身は独り度脱して、その福徳、度世、上天、泥洹の道を獲ん。これを三の大善と為す。  
その四悪、妄語
仏言わく、その四の悪とは、世間の人民、善を修めることを念わず、転た相い教えて共に衆の悪を為さしむ。
両舌(りょうぜつ、二人に別の事を言う)、悪口(あっく)、妄言(もうごん、嘘)、綺語(きご、卑猥語)して、讒賊(ざんぞく、人を陥れる)し闘乱す。
善人を憎み嫉み、賢明を敗壊(はいえ、だめにする)して、傍らに於いて快く喜ぶ。
二親に孝せず、師長に軽慢し、朋友に信無く、誠実は得難し。尊貴は自大にして、己に道有りと謂い、横に威勢を行い、人に於いて侵し易(かろん)ず。自ら知ること能わざれば、悪を為せども恥ずること無く、自ら強健なるを以って、人の敬難(きょうなん、敬い畏れ憚る)せんことを欲す。
天地、神明、日月を畏れず、肯(あえ)て善を作さざれば降化(ごうけ、化導)すべきこと難し。自ら用(もっ)て偃蹇(えんそく、たたずんで何もしない)し、常に爾(しか)るべしと謂い、憂い懼(おそ)るる所無く、常に憍慢を懐く。
かくの如きの衆の悪を、天神は記識す。その前世に、頗(すこぶ、少しばかり)る福徳を作して、小善の扶接(ふしょう、助けもてなす)し営護(ようご、衛護)して、これを助くることを頼れども、今世に悪を為せば福徳は尽く滅して、諸の善の神鬼も、各去りてこれを離る。身は独り空しく立ちて、また依る所無し。
寿命は終(つい)に尽き、諸の悪の帰する所は、自然に迫り促して、共に趣きこれを奪う。
また、その名籍(みょうじゃく、名簿)の記は神明に在り、殃咎(おうく、罪咎)牽引すれば、まさに往き趣き向うべし。罪報は自然に従って捨て離るること無く、ただ前に行くことのみを得て、火鑊(かかく、燃えさかる鉄鍋)に入り、身心は摧け砕けて、精神は痛み苦しむ。
この時に当り悔めども、また何ぞ及ばん。天道(てんどう、道理)は自然にて蹉跌(さてつ、践み間違い)するを得ず。
故に、自然に三塗の無量の苦悩有り、その中に展転して、世世に劫を累ね出づる期の有ること無く、解脱するを得難く、痛み言うべからず。これを四の大悪、四の痛、四の焼と為す。勤苦することかくの如く、譬えば大火に人身を焚焼するが如し。
人、よく中に於いて、一心に意を制し、身を端し行いを正して、独り諸の善を作し、諸の悪を為さざれば、身は独り度脱して、その福徳、度世、上天、泥洹の道を獲ん。これを四の大善と為す。  
その五悪、飲酒
仏言わく、その五の悪とは、世間の人民、徒(いたづら)に倚(よ)りて、懈(なま)け惰(おこた)り、肯て善を作し、身を治め、業を修むることをせざるにより、家室、眷属は飢え寒(こご)え困り苦しむ。
父母、教え誨(さと)せども、目を瞋らせ怒り譍(こた)えて、言令(ごんりょう、言いつけ)に和せず、違戻(いれい、逆らう)し反逆すること、譬えば怨家(おんけ、敵)の如く、子は無きに如(し)かず。
取ると与うるとに節(せつ、節度)無ければ、衆は共に患い厭う。恩に負(そむ)き義に違(そむ)いて、報償の心有ること無ければ、貧窮困乏しても、また得ること能わず。
辜較(こかく、権力で独占する)し縦(ほしいまま)に奪い、放恣(ほうし、気まま)に遊び散じて、数(しばし)ば唐(いたづ)らに得るを串(ならい、習慣)として、用(もっ)て自ら賑給(しんきゅう、施し与える)し、酒に耽り美(味)を嗜み、飲食に度(ど、節度)無く、心を肆(ほしいまま)にして蕩逸(とういつ、しまりがない)し、魯扈(ろこ、愚かな顔で人に付従う)し抵突(たいとつ、ぶつかり合う)す。
人情を識らずして強いて抑制せんと欲し、人に善有るを見て憎み嫉んでこれを悪(にく)む。義無く、礼無く、顧難(こなん、顧み畏れ憚る)せらるること無し。自ら用(もっ)て職当(しきとう、職掌)して諫(いさ)め暁(さと)すべからず。六親(ろくしん、父母兄弟妻子)眷属を資(たす)くる所の有無は、憂い念(おも)うこと能わず。
父母の恩を惟(おも)わず、師友の義を存ぜず、心に常に悪を念い、口に常に悪を言い、身に常に悪を行い、曾(かつ)て一の善も無し。
先聖、諸仏の経法を信ぜず、道を行いて度世を得るべきことを信ぜず、死後に、神明(じんみょう、霊魂)更に生まるることを信ぜず、善を作せば善を得、悪を為せば悪を得ることを信ぜず。真人(しんにん、阿羅漢)を殺し、衆僧(しゅそう、教団)と闘乱し、父母、兄弟、眷属を害せんことを欲すれば、六親も憎悪して、それをして死せしむることを願う。
かくの如く、世人の心意は、倶に然り、愚癡蒙昧なれば、自ら智慧を以って、生まれては従って来る所、死しては趣き向う所を知らず。
(下に)仁(にん、慈しみ)ならず、(上に)順(じゅん、従順)ならず、天地に逆悪(ぎゃくあく、道理にもとる)し、その中に於いて、僥倖(ぎょうこう、思いがけない幸い)を悕望(けもう、希望)し、長く生きんことを求めんと欲すれども、会(かなら)ず、まさに死に帰すべし。
慈心は教え誨(さと)して、それをして善を念わしめんとし、生死と善悪の趣(みち)は自然にこれ有りと開き示せども、これを信ぜず。
苦心(ねんごろ、心をくだいて)に与(とも)に語れども、その人に益無く、心中は閉塞して、意は開き解けず。
大(おお、盛んな)いなる命、まさに終らんとして、悔いと懼(おそ)れ交(こもご)も至り、予(あらかじ)め善を修めざれば、窮するに臨んで、まさに悔ゆ。後に於いてこれを悔ゆとも、将(もっ)て何ぞ及ばん。
天地の間には、五道分明(ふんみょう、はっきり区別する)なり。恢廓(かいかく、広大)窈冥(ようみょう、薄暗い)、浩浩(こうこう、広大)茫茫(もうもう、果てしなく広い)として、善悪の報は応(こた)え、禍福は相い承く。身は自らこれに当りて、誰も代る者無し。数(すう、理)の自然なり。
殃咎(おうく、罪咎)は命を追って、縦(ほしいまま)に捨てることを得ること無し。善人は善を行い、楽より楽に入り、明より明に入る。悪人は悪を行い、苦より苦に入り、冥より冥に入る。
誰かよく知る者あらん、独り仏知るのみなり。教え語り開き示せど、信じ用うる者は少なし。生死は休まず、悪道も絶えず。かくの如き世人は具に(説き)尽くすべきこと難し。
故に、自然に三塗の無量の苦悩有りて、その中に展転し、世世に劫を累ねて出づる期の有ること無く、解脱を得難く、痛みは言うべからず。これを五の大悪、五の痛、五の焼と為す。勤苦することかくの如く、譬えば、大火に人身を焚焼するが如し。
人、よく中に於いて、一心に意を制して、身を端し念いを正して、言うことと行いと相い副(そ)い、作す所は誠(まこと、真心のままに実現する)に至り、語る所は語るが如く、心と口と転じず、独り諸の善を作し、衆の悪を為さずんば、身は独り度脱して、その福徳、度世、上天、泥洹の道を獲ん。これを五の大善と為す。
仏、弥勒に告げたまわく、吾、汝等に、この世の五悪を語りぬ。(人々)勤苦することかくの如し、五痛五焼は展転して相い生じ、ただ衆の悪を作して、善本を修めず、皆悉く、自然に諸の悪趣に入るなり。
或は、その今世には、先ず、殃(つみ、天罰)の病を被り、死を求めて得ず、生を求めて得ざるは、罪悪の招く所にして衆に示して、これを見(あらわ)す。
身死して行いに随うて三悪道に入らば、苦の毒、無量にして、自ら相い燋然(しょうねん、燃え焦げる)す。その久しき後に至りて(人間に生じ)、共に怨みと作りて結ぶ。
小さく微かなるより起りて、遂に大悪と成るは、皆、財色を貪り著して、施し恵むこと能わざるに由る。
癡と欲とに迫られて、心の随(まま)に思想し、煩悩は結縛して、解けおわることの有ること無し。
己に厚く、利を諍いて、省録(しょうろく、反省して記録する)する所無く、富貴栄華は、時に当りて意を快くし、忍辱(にんにく、忍耐)すること能わず、務めて善を修めざれば、威勢は幾(いくばく)も無く、随って以って磨滅す。身は労苦に坐して、久しき後には大いに劇(はげ)し。
天道は施張(せちょう、網を張る)して、自然に糾挙(きゅうこ、糾弾)し、綱紀(こうき、大小の綱)羅網(らもう、あみ)は上下相い応じ、煢煢(けいけい、ひとりぼっちで)忪忪(しゅしゅ、びくびくする)として、まさにその中に入るべし。古今にこれ有り、痛ましいかな、傷むべし。
仏の勅令
仏、弥勒に語りたまわく、「世間は、かくの如し。仏は、皆、これを哀れみ、威神力を以って衆の悪を摧き滅ぼして、悉く善に就かしめ、思う所を棄て捐(さ)らしむ。教戒を奉持し、道の法を受け行い、違い失う所無くんば、終(つい)に世を度り泥洹の道を得ん。
仏言わく、「汝、今の諸天、人民、および後世の人、仏の経語を得て、まさに熟(つぶさ)に、これを思い、よくその中に於いて、心を端し行いを正すべし。
主上は善を為して、その下を率い化(け、教化)して、転た相い勅令(ちょくりょう、誡める)し、各、自ら端しく守り、聖を尊び善を敬い、仁慈(にんじ、慈しみ恵む)し博愛(はくあい、広く慈しむ)して、仏語教誨を敢て虧負(きふ、損ない背く)すること無かれ。
まさに度世を求めて、生死、衆の悪の本を抜き断ち、永く三塗の無量の憂い畏れ、苦痛の道を離るべし。
汝等、ここに於いて、広く徳本(とくほん、徳の本、六波羅蜜)を殖えよ。恩を布き慧を施して、道禁(どうきん、禁戒)を犯すことなく、忍辱、精進、一心、智慧をもって、転た相い教化し、徳の為に善を立てよ。
心を正し意を正し、斎戒(さいかい、八戒斎)して清浄なること一日一夜なれば、無量寿国に在りて善を為すこと百歳に勝る。
所以は何んとなれば、彼の仏の国土は、無為(むい、人の妄念によらない真実界)の自然にして、皆、衆の善を積み、毛髪ばかりの悪も無ければなり。ここに於いて、善を修むること十日十夜なるは、他方の諸仏の国の中に於いて、善を為すこと千歳に勝る。
所以は何んとなれば、他方の仏国には善を為す者多く、悪を為す者は少なく、福徳は自然にして、悪を造ること無きの地なればなり。
ただ、この間のみ、多悪にして自然有ること無く、勤苦して求め欲して、転た相い欺殆(ごたい、あざむく)し、心は労(つか)れ形(かたち、肉体)は困(くる)しみ、苦を飲み毒を食う、かくの如く匆務(そうむ、慌ただしく世事を務める)して、未だかつて寧息(にょうそく、休息)せず。
吾、汝等天人の類を哀れみ、苦心(ねんごろ)に誨喩(けゆ、教え諭す)して教え、善を修めしむ。器に随いて開導し、経法を授与すれば、承け用いざることなかれ。意に在りて願う所は、皆、道を得しめん。
仏の遊履(ゆり、遊び歩く)する所の、国、邑(むら)、丘聚(くじゅ)は、化を蒙らざることなく、天下は和順(わじゅん、太平)し、日月は清明、風雨は時を以ってし、災(さいれい、天災と疫病)起らず、国は豊かに民は安んじ、兵戈(ひょうが、兵隊と武器)用無く、徳を崇めて仁を興し、務めて礼譲(らいじょう、礼儀)を修む。
仏言わく、「我、汝等、諸天、人民を哀愍すること、父母の子を念うより甚だし。今、吾、この世に於いて、仏と作り、五悪を降化して、五痛を消除し、五焼を絶滅し、善を以って悪を攻め、生死の苦を抜いて、五徳を獲さしめ、無為の安きに昇らしめたり。
吾、世を去りての後、経道ようやく滅び、人民、諂い偽りて、また衆の悪を為し、五焼五痛もまた前の法の如く、久しき後に、転た劇しきこと、悉くは説くべからず。我は、ただ汝が為に、略してこれを言うのみ。
仏、弥勒に告げたまわく、「汝等、各、善くこれを思いて、転た相い教誨し、仏の経法の如きは、犯し得ること無かれ。」と。
ここに於いて、弥勒菩薩は合掌し、白して言さく、「仏の説きたもう所は、甚だ善く、世人は実に爾り。如来は、普く慈しみ哀愍して、悉く度脱せしめたまえり。仏の重ねての誨(おしえ)を受け、敢て違失せじ。」と。  
阿難、無量寿仏とその国土を見る
仏、阿難に告げたまわく、「汝、起(た)ちて、更に衣服を整え、合掌し恭敬して、無量寿仏を礼せよ。十方の国土の諸仏如来も、常に共に、彼の仏の著すること無く、礙ること無きを称揚し讃歎すればなり。」と。
ここに於いて、阿難、起ちて衣服を整え、身を正して西に向け、恭敬し合掌して、五体を地に投げ、無量寿仏を礼して、白して言さく、「世尊、願わくは、彼の仏の安楽国土、および諸の菩薩声聞の大衆に見(まみ)えん。」と。
この語を説きおわるや、即時に、無量寿仏は、大光明を放ちて、普く一切の諸仏の世界を照らしたまえば、金剛囲山(こんごういせん)、須弥山王、大小の諸山、一切の所有(あらゆ)る、皆、同じく一色となり、譬えば、劫水(こうすい、劫の滅ぶときに出る大水)、世界を弥満(みまん、大水で一面が満たされる)して、その中に万物は沈没して現れず、滉瀁(こうよう、水の深く広いさま)、浩汗(こうかん、広々としたさま)として、ただ大水を見るのみなるが如し。彼の仏の光明も、またまたかくの如し。声聞菩薩の一切の光明も、皆、悉く隠蔽され、ただ仏の光のみ、明らかに耀いて顕赫(けんかく、明らかに耀く)たるを見る。
その時、阿難、即ち無量寿仏を見るに、威徳は巍巍として、須弥山王の高くして、一切の諸の世界の上に出づるが如く、相好と光明は照耀(しょうよう、照らし耀かす)せざるなく、この会の四衆も、一時に、悉く見ゆ。彼の、この土を見ることも、またまたかくの如し。
その時、仏、阿難、および慈氏(じし、弥勒)菩薩に告げたまわく、「汝、彼の国の、地より已上(いじょう、以上)、淨居(じょうご、色界の最上天)天に至るまで、その中の所有(あらゆ)る微妙の厳浄と、自然の物を見て、悉く見たりと為すや不や。」と。
阿難、対(こた)えて曰く、「唯(ゆい、はい)然り、すでに見たり。」
「汝は、寧(むし)ろ、また無量寿仏の大音、一切の世界に宣べ布いて、衆生を化するを聞くや不や。」。阿難、対えて曰く、「唯然り、已に聞きたり。」
「彼の国の人民、百千由旬(ゆじゅん、凡そ10キロメートル)の七宝の宮殿に乗りて、障碍する所無く、遍く十方に至りて諸仏を供養するを、汝はまた見しや不や。」。阿難、対えて曰く、「すでに見たり。」
彼の国の人民に、胎生の者の有り。汝は、また見しや不や。」。対えて曰く、「すでに見たり。」と。  
弥勒、胎生の因縁を訊ねる
それ、胎生者の処する所の宮殿は、或は百由旬、或は五百由旬、各、その中に於いて、諸の快楽を受けて、忉利天の如く、また皆、自然なり。
その時、慈氏菩薩、仏に白して言さく、「世尊、何なる因、何なる縁にて、彼の国の人民、胎生し化生する?」
仏、慈氏に告げたまわく、「もし、ある衆生、疑惑の心を以って、諸の功徳を修め、彼の国に生まれんと願うならば、仏智、不思議智、不可称智、大乗広智、無等無倫最上勝智を了(さと)らず、この諸の智に於いて疑惑し信ぜざれども、然も、なお罪福を信じて善本を修習し、その国に生まれんことを願うならば、
この諸の衆生は、彼の宮殿に生まれ、寿(よわい)五百歳になるまでは、常に、仏に見えず、経法を聞かず、菩薩声聞の聖衆に見えざるなり。この故に、彼の国土に於いて、これを胎生と謂う。
もし、ある衆生、仏智、乃ち勝智に至るまでを明らかに信じて、諸の功徳を作し、信心を廻向(えこう、振り向ける)すれば、この諸の衆生、七宝の華中に於いて、自然に化生し、跏趺(かふ、足を組む)して坐し、須臾(しゅゆ、少しの時間)の頃に、身相、光明、智慧、功徳は、諸の菩薩の如くに具足して成就す。
また次ぎに、慈氏、他方の諸の大菩薩、心を発して無量寿仏に見え、恭敬し供養すること諸の菩薩声聞の衆にまで及ばんと欲せば、彼の菩薩等、命終りて、無量寿国に生まるるを得、七宝の華中に於いて自然に化生す。弥勒、まさに知るべし、彼の化生の者の、智慧勝るるが故なり。
それ、胎生の者は、皆、智慧無く、五百歳の中に於いて、常に仏に見えず、経法を聞かず、菩薩と諸の声聞衆に見えず、仏に供養せんに由無く、菩薩の法式(ほっしき、作法儀式)を知らず、功徳を修習するを得ず。まさに知るべし、この人は、宿世の時に、智慧有ること無く、疑惑の致す所なり。
仏、弥勒に告げたまわく、譬えば、転輪聖王の如きは、別に宮室有りて、七宝荘厳し、床と帳とを張り設けて、諸の(きぬ)の幡(はた)を懸く。もし、諸の小王子有りて、王に於いて罪を得て、輒(すなわ、ただちに)ち、彼の宮中に、金鎖を以って繋いで、飲食、衣服、床、褥(しとね)、華香、伎楽を供給し、転輪王の如く乏少(ぼうしょう、欠乏)する所無ければ、意に於いて云何(いかん)、この諸の王子は、寧(むし)ろ彼の処を楽しむや不や。」と。
対えて曰く、「不なり。ただ種種に方便して、諸の大力を求め、自ら勉めて出でんと欲するなり。」と。
仏、弥勒に告げたまわく、「この諸の衆生も、またまたかくの如し。仏智を疑惑するを以って、彼の宮殿に生まれ、形罰(ぎょうばつ、刑罰)は、乃ち一念(ねん、瞬間)の悪事に至るまで、有ることは無けれども、ただ五百歳の中に三宝に見えず、供養して諸の善本を修めることを得ざるなり。これを以って苦と為し、余の楽有りといえども、なお彼の処を楽しまず。
もし、この衆生、その本の罪を識りて、深く自ら悔い責め、彼の処を離れんことを求むれば、即ち意の如くなることを得て、往きて無量寿仏の所に詣で、恭敬し供養して、また遍く無量無数の諸の如来の所に至り、諸の功徳を修むることを得ん。
弥勒、まさに知るべし。それ、ある菩薩、疑惑を生ずれば、為に、大利を失わん。この故に、まさに明らかに諸仏の無上の智慧を信ずべし。」と。  
菩薩往生分/他方世界の菩薩、往生す

弥勒菩薩、仏に白して言さく、「世尊、この世界に於いて、幾所(いくばく)の不退(ふたい、菩薩の修業を退かない)の菩薩有りてか、彼の仏国に生まれたる。」と。
仏、弥勒に告げたまわく、「この世界に於いては、六十七億の不退の菩薩有りて彼の国に往生す。一一の菩薩は、すでにかつて無数の諸仏を供養して、弥勒の如きに次ぐ者なり。諸の小行の菩薩、および少しの功徳を修習せる者は、称計(しょうけ、計り数える)すべからず。皆、まさに往生すべし。
仏、弥勒に告げたまわく、「ただ我が刹(くに)の諸の菩薩等のみ、彼の国に往生するにはあらず。他方の仏土も、またまたかくの如し。
その第一の仏を名づけて、遠照(おんしょう)と曰う。彼に百八十億の菩薩有り、皆、まさに往生すべし。
その第二の仏を名づけて、宝蔵(ほうぞう)と曰う。彼に九十億の菩薩有り、皆、まさに往生すべし。
その第三の仏を名づけて、無量音(むりょうおん)と曰う。彼に二百二十億の菩薩有り、皆、まさに往生すべし。
その第四の仏を名づけて、甘露味(かんろみ)と曰う。彼に二百五十億の菩薩有り、皆、まさに往生すべし。
その第五の仏を名づけて、龍勝(りゅうしょう)と曰う。彼に十四億の菩薩有り、皆、まさに往生すべし。
その第六の仏を名づけて、勝力(しょうりき)と曰う。彼に万四千の菩薩有りて、皆、まさに往生すべし。
その第七の仏を名づけて、師子(しし)と曰う。彼に五百億の菩薩有り、皆、まさに往生すべし。
その第八の仏を名づけて、離垢光(りくこう)と曰う。彼に八十億の菩薩有り、皆、まさに往生すべし。
その第九の仏を名づけて、徳首(とくしゅ)と曰う。彼に六十億の菩薩有り、皆、まさに往生すべし。
その第十の仏を名づけて、妙徳山(みょうとくせん)と曰う。彼に六十億の菩薩有り、皆、まさに往生すべし。
その第十一の仏を名づけて、人王(にんおう)と曰う。彼に十億の菩薩有り、皆、まさに往生すべし。
その第十二の仏を名づけて、無上華(むじょうけ)と曰う。彼に無数、称計すべからざる諸の菩薩衆有り、皆、不退転にして、智慧あり、勇猛にして、すでにかつて無量の諸仏を供養し、七日の中に於いて、即ちよく百千億劫の大士(だいじ、大菩薩)の修むる所の堅固の法を摂取せり。これ等の菩薩は、皆、まさに往生すべし。
その第十三の仏を名づけて、無畏(むい)と曰う。彼に七百九十億の大菩薩衆有り、諸の小菩薩、および比丘等は称計すべからず、皆、まさに往生すべし。
仏、弥勒に語りたまわく、「ただこの十四の仏国中の諸の菩薩等のみ、まさに往生すべきにはあらず。十方の世界の無量の仏国の、その往生せん者も、またまたかくの如く、甚だ多く無数なり。我、ただ十方の諸仏の名号、および菩薩比丘の彼の国に生まれん者のみを説かんに、昼夜一劫すれども、なお未だ竟(お)うること能わず。我、今は汝が為に、略してこれを説くのみ。  
流通得益分/弥勒に経を付属する

仏、弥勒に語りたまわく、「それ、彼の仏の名号を聞くを得て、歓喜し踊躍すること有りて、乃ち一たび念うに至るまで、まさに知るべし、この人は、大利を得、則ちこれ無上の功徳を具足すと為す。
この故に、弥勒、設(たと)い大火有りて、三千大千世界に充満すれども、要(かなら)ず、まさにこれを過ぎて、この経法を聞かば、歓喜し信じ楽しんで、受持し読誦し、説の如くに修行すべし。
所以は何んとなれば、多く菩薩有りて、この経を聞かんと欲すれども、得ること能わず。もし、ある衆生、この経を聞かば、無上の道に於いて、終に退転せず。この故に、まさに心を専らにして、信じ、受持し、誦し、説いて行うべし。
吾は、今、諸の衆生の為に、この経法を説いて、無量寿仏、およびその国土の一切の所有(あらゆるもの)を見せしむ。まさに為すべき所は、皆、これを求むべきなり。我が滅度の後を以って、また疑惑を生ずることを得ること無かれ。
当来の世に、経道は滅び尽くさん。我、慈悲を以って哀愍し、特にこの経を留め、止住(しじゅう、留まる)すること百歳せん。それに衆生有りて、この経に値わば、意の願う所に随うて、皆、度を得べし。
仏、弥勒に語りたまわく、「如来、世に興れども、値い難く見え難し。諸仏の経道は、得難く聞き難し。菩薩の勝法、諸の波羅蜜は、聞くを得ることも、また難し。善知識に遇うて、法を聞きよく行うは、これも、また難しと為す。
もし、この経を聞き、信じ楽しんで、受持するは、難きが中の難きにして、これに過ぐる難きは無し。
この故に、我が法を、かくの如く作し、かくの如く説き、かくの如く教えたり。まさに信じ順(したが)うて、法の如くに修行すべし。  
聞法の衆生、歓喜す
その時、世尊、この経法を説き、無量の衆生は、皆、無上正覚の心を発し、万二千那由他(なゆた、億)の人、清浄の法眼(ほうげん、一切の法門を見る智慧の眼)を得、二十二億の諸天、人民は、阿那含(あなごん、欲界に再び生まれない位)を得、八十万の比丘は、漏(ろ、煩悩)尽き、意解けたり。
四十億の菩薩は、不退転を得て、弘誓(ぐぜい、諸仏菩薩の広大な誓)の功徳を以って、自ら荘厳し、将来の世に於いて、まさに正覚を成すべし。
その時、三千大千世界は六種に震動し、大光は、普く十方の国土を照らし、百千の音楽は、自然に作し、無量の妙華は芬芬(ふんぷん、好い香りが漂う)として降れり。
仏、経を説きおわりたもう。弥勒菩薩、および十方より来る諸の菩薩衆、長老阿難、諸の大声聞、一切の大衆、仏の説きたもう所を聞いて、歓喜せざるはなし。
無量寿経巻下
 
観無量寿仏経

仏説観無量寿仏経(ぶっせつかんむりょうじゅぶつきょう)
宋西域三蔵畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)訳す
序分/阿闍世太子、父の王を幽閉して母の韋提希は世尊に救いを求む
かくの如く我(われ、阿難)聞けり。一時、仏、王舎城(おうしゃじょう、城名)の耆闍崛山(ぎじゃくっせん、王舎城外の精舎名)に在(ましま)して、大比丘の衆千二百五十人、菩薩三万二千と倶(とも)なり。文殊尸利(もんじゅしり、菩薩名)法王子(ほうおうじ、仏の法を嗣ぐ王子)、上首為(た)りき。
その時、王舎大城に一太子有り、名を阿闍世(あじゃせ、太子名)という。調達(ちょうだつ、悪友名)悪友の教えに随順して、父王の頻婆娑羅(びんばしゃら、王名)を収執(しゅうしゅう、捕らえる)し、七重の室内に於いて幽閉して置き、諸の群臣を制して、一も往くを得ざらしむ。
国の大夫人(だいぶにん、王妃)は、名を韋提希(いだいけ、王妃名)といいて、大王を恭敬(くぎょう、敬う)せり。澡浴(そうよく、身体を洗う)して清浄になり、酥(そ、バター)と蜜とを以って糗(きゅう、煎り米)に和(あ)え、用いてその身に塗り、諸の瓔珞(ようらく、胸飾り)の中には、葡萄の漿(しょう、しる)を盛って、密(ひそか)に以って王に上(ささ)ぐ。
その時、大王は、糗を食い漿を飲み、水を求めて口を漱ぎぬ。口を漱ぎおわりて、合掌恭敬し、耆闍崛山に向かいて、遥かに世尊を礼し、この言(ごん、言葉)を作さく、「大目乾連(だいもっけんれん、釈迦十大弟子の中の神通第一)はこれ吾が親友なり。願わくは慈悲を興して我に八戒(はっかい、不殺生、不盗、不婬、不妄語、不飲酒、不坐高大床上、不著華瓔珞、不香油塗身、不自歌舞作楽、不往観聴、不過中食)を授けたまえ。
時に目乾連、鷹隼の飛ぶが如く疾く王所に至り、日日かくの如く王に八戒を授く。
世尊も、また尊者(そんじゃ、先輩比丘の敬称)富楼那(ふるな、十大弟子の中の説法第一)を遣わして、王の為に法を説かしむ。
かくの如く時の間、三七日を経て、王は糗と蜜とを食し、法を聞くことを得しが故に顔色和悦せり。
時に阿闍世、守門人に問わく、「父の王は、今なお存在するや。」と。
時に守門者白(もう)して言(もう)さく、「大王。国の大夫人、身に糗と蜜とを塗り、瓔珞に漿を盛って持し、用って王に上ぐ。沙門(しゃもん、出家)目連および富楼那は、空より来たりて王の為に法を説き、禁制すべからず。」と。
時に阿闍世、この語を聞きおわり、その母に怒りて曰く、「我が母は、これ賊なり、賊と伴を為す。沙門は悪人なり、幻惑し呪術して、この悪王をして多日に死せしめず。」と、即ち、利剣を執りてその母を害せんと欲す。
時に、一臣有り、名を月光と曰い、聡明にして多智なり、耆婆(ぎば、王舎城の良医名)と及(とも)に王に礼を作し、白して言さく、「大王。臣聞く、毘陀(びだ、婆羅門の経典)論経に説かく、劫(こう、世界の生滅の周期)の初め已来、諸の悪王有りて国の位を貪るが故に、その父を殺害せしは一万八千ありしかども、未だかつて道無くも母を害せしもの有るを聞かず。
王、今この殺逆の事を為したまわば、刹利(せつり、王族)種を汚さん。臣聞くを忍びず、これ栴陀羅(せんだら、屠殺人)なり。我等、宜しくまたここに住(とど)まるべからず。」と。
時に二大臣、この語を説きおわりて、手を以って剣を按(おさ)え、却行(きゃくぎょう、前を向いたまま後ろへ退く)して退(しりぞ)けり。
時に阿闍世は驚き怖れて惶懼(おうく、おそれおじける)し、耆婆に告げて言わく、「汝は、我が為にせざるや。」と。
耆婆白して言さく、「大王。慎みて母を害すること莫かれ。」と。
王、この語を聞いて懺悔し救いを求めて、即ち剣を捨て、止まりて母を害せず、内官に勅語して、深き宮に閉ざし置き、また出さしめず。
時に韋提希、幽閉を被りおわりて愁憂憔悴し、遥かに耆闍崛山に向かい、仏に礼を作して、この言を作さく、「如来世尊は、在昔(ざいしゃく、むかし)の時、恒に阿難を遣わして来たらしめ、我を慰問したまいき。我は今愁憂す。世尊の威重うして見ることを得んに由無し。願わくは目連と尊者阿難とを遣わして、我に相い見(まみ)えしめたまえ。」と。
この語を作しおわりて悲しんで泣き、涙を雨ふらして遥かに仏に向かいて礼せり。未だ頭を挙げざる頃のその時、世尊、耆闍崛山に在して、韋提希の心の念(おも)う所を知りたまい、即ち大目乾連および阿難に勅して空より来たらしむ。仏も、耆闍崛山より没して王宮に出でたもう。
時に韋提希、礼しおわりて頭を挙げ、世尊釈迦牟尼仏を見れば、身は紫金色にして百宝の蓮華に坐したまい、目連は左に侍り、阿難は右に在り、釈梵(しゃくぼん、帝釈天と梵天)護世(ごせ、四天王天)の諸天は虚空中に在りて、普く天の華を雨ふらし(天華を)持ち用って供養せり。
時に韋提希は、仏世尊を見て自ら瓔珞(ようらく、胸飾り)を絶ち、身を挙げて地に投げ、号泣して仏に向かい白して言さく、「世尊。我は何なる罪を宿してや、この悪子を生める。
世尊も、また何等の因縁有りてか、提婆達多(だいばだった、調達)と共に眷属為(た)る。
唯(ゆい、敬って呼びかける、もうし)世尊。我が為に広く憂悩の無き処を説きたまえ。我、まさに往きて生まるべし。閻浮提の濁悪(じょくあく)の世を楽しまず。
この濁悪の処には、地獄、餓鬼、畜生盈(み)ち満(み)ちて、不善の聚(じゅ、集まり)多し。願わくは、我未来には悪の声を聞かず悪人を見ざらん。
今、世尊に向かいて五体(ごたい、両膝両手頭)を地に投げて、哀れみを求めて懺悔す。ただ、願わくは仏の日、我に教えて清浄業(しょうじょうごう、行いが清浄)の処に於いて、観しめたまえ。」と。
世尊、諸仏の国土を現して韋提希に選ばしむ
その時、世尊は、眉間より光を放ちたまえば、その光は金色にして、遍く十方の無量の世界を照らし、還(ふたた)び仏の頂に住(とど)まりて、化して須弥山の如き金台と為り、十方の諸仏の浄妙の国土は、皆、中に現れぬ。
或はある国土は七宝合わせ成し、またある国土は純(もっぱ)らこれ蓮花なり。またある国土は自在天の宮の如し。またある国土は頗梨(はり、水晶)の鏡の如くして、十方の国土が、皆、中に現る。
かくの如き等の無量の諸仏の国土の厳かに観るべきものを顕すこと有りて、韋提希をして見せしむ。
時に韋提希、仏に白して言さく、「世尊。この諸の仏土は、また清浄にして、皆、光明有りといえども、我は、今、楽しんで極楽世界の阿弥陀仏の所に生れん。唯、願わくは、世尊、我に教えて思惟せしめ、我に教えて正受せしめたまえ。」と。
その時、世尊は、即便(すなわ)ち微笑したまえば、五色の光有りて仏の口より出で、一一の光は、頻婆娑羅王の頂を照らせり。
その時、大王は幽閉に在りといえども、心眼障(さわり)無く、遥かに世尊を見て、頭面にて礼を作し、自然に増進して阿那含(あなごん、煩悩を尽くし再び欲界にて身を受けない位)を成せり。
正宗分/極楽に生れる三福業

その時、世尊は、韋提希に告げたまわく、
汝、今、知るや不(いな)や、阿弥陀仏はここを去ること遠からずと。汝、まさに念いを繋(か)け、諦(あき)らかに彼の国の浄業(じょうごう、浄い行い)の成るをば観るべし。我は、今、汝が為に広く衆の譬えを説き、また未来世の一切の凡夫をして浄業の者を修めんと欲せしめ、西方の極楽国土に生まるることを得せしめん。
彼の国に生れんと欲せば、まさに三福(ふく、来世の福を願う行い)を修むべし。一は父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業(じゅうぜんごう、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不貪欲、不瞋恚、不邪見)を修む。二は三帰(さんき、仏法僧の三宝に帰依する)を受持し、衆の戒(かい、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒等)を具足し、威儀(いぎ、行住坐臥の作法)を犯さず。三は菩提心(ぼだいしん、理想の国土を造ろうと思う心)を発(おこ)して深く因果を信じ、大乗を読誦して行者を勧進(かんじん、人の善根を増進するよう勧める)す。かくの如き三事を名づけて浄業と為す。
仏、韋提希に告げたまわく、
汝、今は知るや不や。この三種の業は、乃ちこれ過去未来現在の三世の諸仏の浄業(じょうごう、浄い行い)の正因なるを。
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、
諦らかに聴け、諦らかに聴け。善く思いこれを念え。如来は、今、未来世の一切の衆生、煩悩の賊に害せらるる者の為に、清浄の業を説かん。善きかな、韋提希、快くこの事を問えり。
阿難。汝は、まさに受持して広く、多くの衆の為に宣べて、仏の語を説くべし。
如来は、今、韋提希および未来世の一切の衆生に教えて、西方の極楽世界に於いて観せしめん。
仏の力を以ってするが故に、まさに彼の清浄の国土を、明鏡を執りて自ら面像を見るが如くに、見ることを得べし。
彼の国土の極妙の楽事を見て、心に歓喜するが故に、時に応じて即ち無生法忍(むしょうほうにん、生滅を超越した境地)を得ん。
仏、韋提希に告げたまわく、
汝は、これ凡夫なり。心の想いは羸劣(るいれつ、貧弱)にして、未だ天眼を得ず。遠く観ること能わざれども、諸仏如来は、異(い、勝れた)方便(ほうべん、勝れた手段)有り、汝をして見ることを得せしめん。
時に、韋提希、仏に白して言さく、「世尊、我が今の如きは、仏の力を以ってするが故に、彼の国土を見るも、仏の滅したもう後の諸の衆生等の若(ごと)きは、濁悪(じょくあく)の(世の中に)に不善を(作し)、五苦(ごく、生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦)に逼(せま)られんに、云何がまさに阿弥陀仏の極楽世界を見るべき。」と。
第一観、日想
仏、韋提希に告げたまわく、
汝、および衆生は、まさに心を専らにし、念いを一処に繋けて西方を想え。
云何が想を作さん。凡そ想を作すとは、一切の衆生、自ら生盲(しょうもう、生れながらの盲目)に非ずして、目を有(も)つ徒(ともがら)は、皆、日没(にちもつ)を見て、まさに想念を起すべし。
正しく西に向いて坐し、諦らかに日を観て、心をして堅く住め、専ら想を移さざらしめ、日の没せんと欲するときの状は鼓を(天に)懸けたるが如しと見よ。
既に日を見おわりなば、目を閉づるも目を開くも、皆、明了ならしめよ。これを日想(にっそう)と為し、名づけて初観と曰う。この観を作すをば名づけて正観と為す。他の観の若きを名づけて邪観と為す。  
第二観、水想
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、
初観を成しおわりなば、次ぎに水想(すいそう)を作せ。想に西方の一切はこれ大水なりと見、水は澄みて清しと見、また明了ならしめて、意を分散すること無かれ。
既に水を見おわりなば、まさに氷想(ひょうそう)を起すべし。氷の映徹(ようてつ、透き通って輝く)を見て琉璃(るり、サファイア)想を作せ。
この想成りおわりなば、琉璃の地の内外に映徹し、(地の)下に金剛(こんごう、ダイヤモンド)と七宝(しっぽう、金、銀、琉璃、頗梨、車磲、赤珠、瑪瑙)の金幢(こんどう、金の旗竿)有りて琉璃の地をフ(かか、挙)ぐ。
その幢は八方に八楞(りょう、柱の角)具足し、一一の方面(ほうめん、柱の面)は百宝の成す所なり。一一の宝珠に千の光明有り、一一の光明に八万四千の色有り、琉璃の地に映りて、億千の日の具(つぶさ)に見るべからざるが如し。
琉璃の地の上には、黄金の縄を以って雑廁(ざっし、入交じる)間錯(けんさく、入交じる)し、七宝を以って界(かぎ)り、分斉(ぶんさい、整然)分明(ぶんみょう、明了)なり。
一一の宝の中には、五百の色の光有り、その光は花の如く、また星月の虚空に懸かり処(お)りて、光明の台を成すにも似たり。
楼閣は、千万の百宝合わせ成し、台の両辺には各百億の花の幢(どう、旗竿)、無量の楽器有りて、以って荘厳を為せり。八種の清風、光明より出でて、この楽器を鼓(うちなら)し、演べて苦、空、無常、無我の音を説く。
これを水想と為し、第二観と名づく。この想成る時には、一一にこれを観て、極めて了了ならしめ、目を閉づるも目を開くも散失せしめず、ただ食時を除いては、恒にこの事を憶ゆ。この観を作すをば名づけて正観と為し、他の観の若きをば、名づけて邪観と為す。  
第三観、地想
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、
水想の成りおわりなば、(それを)名づけて粗く極楽国の地を見ると為す。もし三昧(さんまい、観察して心が散失しないこと)を得て、彼の国の地の了了分明にして具には説くべからざるを見れば、これを地想と為し、第三観と名づく。
仏、阿難に告げたまわく、
汝は仏の語を持(たも)ちて、未来世の一切の大衆の苦を脱(のが)れんと欲する者の為に、この観地の法を説け。もしこの地を観るならば、八十億劫(こう、世界の生滅の周期)の生死の罪を除いて、身を捨てなば、他の世には必ず浄国に生れて、心に疑いの無きを得ん。この観を作すをば名づけて正観と為し、他の観の若きをば名づけて邪観と為す。
第四観、樹想
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、
地想の成りおわりなば、次ぎに宝樹を観よ。宝樹を観るとは、一一にこれを観て七重の行樹(ぎょうじゅ、並木)の想を作せ。
一一の樹高は八千由旬(ゆじゅん、凡そ10キロメートル)なり。その諸の宝樹には、七宝の花葉(けよう、花弁)の具足せざる無し。
一一の華葉は異宝の色を作し、琉璃の色中に金色の光を出し、頗梨の色中に紅色の光を出し、瑪瑙の色中に車磲の光を出し、車磲の色中に緑真珠の光を出して、珊瑚、琥珀、一切の衆の宝を以って映飾(ようじき、耀いて飾る)を為す。
妙なる真珠の網は、弥(ひろ)く樹上を覆い、一一の樹上には七重の網有り。
一一の網の間には、五百億の妙華の宮殿有りて、梵王の宮の如く、諸の天の童子、自然に中に在り。
一一の童子に、五百億の釈迦毘楞伽摩尼(しゃかびりょうがまに、如意宝珠)宝有りて以って瓔珞と為す。
その摩尼の光は、百由旬を照らして、なお百億の日月を和合するが如く、具(つぶさ)には名づくべからず。
衆の宝、色を間錯(けんさく、雑える)する中に上(じょう、優れる)なるは、この諸の宝樹の行行に相い当たり、葉葉に相い次(やど、宿)り、諸の葉間に於いて、諸の妙花を生じ、花の上には自然に七宝の果有り。
一一の樹葉は、縦広正等(じゅうこうしょうとう、真円状)にして二十五由旬、その葉は千色にして百種の画(が、文様、しわ)有り、天の瓔珞の如し。
ある衆の妙華は、閻浮檀金(えんぶだんこん、紫金)の色を作し、旋火輪(せんかりん、暗闇で火を旋回させて見える輪)の如く、葉間を宛転(えんてん、ゆるやかに舞う)し、諸の果を涌生(ゆうしょう、湧き出すように生む)すること帝釈の瓶の如し。
ある大光明は、化して幢幡(どうばん、旗と旗竿)、無量の宝蓋(ほうがい、宝の日除け)と成る。この宝蓋の中には、三千大千世界の一切の仏事(ぶつじ、仏の教化)を映し現せり。十方の仏国も、また中に於いて現る。
この樹を見おりなば、またまさに次第に一一にこれを観るべし。樹、茎、枝、葉、華、果を観見して、皆、分明ならしむる、これを樹想と為し、第四観と名づく。この観を作すをば名づけて正観と為し、他の観の若きをば名づけて邪観と為す。  
第五観、八功徳水想
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、
樹想成りおわりなば、次いでまさに水を想うべし。水を想うことを欲するとは、極楽の国土に八池水有り。
一一の池水は七宝の成す所なり。その宝は柔軟に如意珠王より生じ、分かちて十四支を為す。
一一の支は七宝の色を作し、黄金、渠(みぞ、運河の堤)を為す。渠の下は、皆、色を雑えたる金剛(こんごう、ダイヤモンド)を以って、以って底の沙を為す。
一一の水中には、六十億の七宝の蓮花有り。一一の蓮花は、団円正等(だんえんしょうとう、真球状)にして十二由旬なり。
その摩尼の水は、流れて華の間に注ぎ、樹上を尋ねて下る。その声は、微妙に演べて、苦、空、無常、無我、諸の波羅蜜を説き、また諸仏の相好(そうごう、仏の特徴ある容姿)を讃歎する者も有り。
如意珠王より、金色の微妙の光明涌出せり。その光は、化して百宝の色の鳥と為り、和して鳴くこと哀雅(あいげ、雅に胸にせまる)にして、常に、仏を念い法を念い僧を念うことを讃う。
これを八功徳水想と為し、第五観と名づく。この観を作すをば名づけて正観と為し、他の観の若きをば名づけて邪観と為す。  
第六観、総観想
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、
衆の宝の国土の一一の界上に、五百億の宝楼有り。
その楼閣中には、無量の諸天、天の伎楽(ぎがく、歌舞音曲)を作せり。また楽器の虚空に懸かり処(お)るもの有りて、天の宝幢の如く鼓(うちなら)さざるに自ら鳴る。この衆の音の中に、皆、仏を念い法を念い比丘僧を念うことを説く。
この想成りおわりなば、名づけて粗く極楽世界の宝樹宝地宝池を見ると為す。
これを総観想と為し、第六観と名づく。これを見る者の若きは、無量億劫の極重の悪業を除いて、命の終りし後には、必ず彼の国に生まる。この観を作すをば名づけて正観と為し、他の観の若きをば名づけて邪観と為す。  
第七観、花座想
仏、阿難および韋提希に告げたまわく「諦らかに聴け諦らかに聴け、善く思いこれを念え。吾、まさに汝が為に、分別して苦悩を除く法を解説(げせつ)せり。汝等、憶えて持(たも)ち、広く大衆の為に分別して解説せよ。」と。
この語を説きたまいし時、無量寿仏、空中に住まりて立ちたまい、観世音と大勢至、この二大士は侍りて左右に立ちたもう。光明、熾盛(しじょう、勢いが盛ん)にして具には見るべからず。百千の閻浮檀金の色も比と為すことを得ず。
時に、韋提希、無量寿仏を見おわりて、足に接して礼を作し、仏に白して言さく、「世尊、我、今は仏の力に因っての故に、無量寿仏および二菩薩に見ゆることを得れども、未来の衆生は、まさに云何が無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべき。」と。
仏、韋提希に告げたまわく、
彼の仏を観んと欲せば、まさに想念を起して、七宝の地の上に蓮花の想を作すべし。
その蓮花の一一の葉をして、百宝の色を作さしめよ。八万四千の脈有りて、なお天の画(えが)くが如し。
一一の脈には、八万四千の光有り、了了分明に、皆、見ることを得しめよ。
華葉(けよう、花弁)の小なる者も、縦広二百五十由旬なり。
かくの如き蓮華には、八万四千の大葉有り。一一の葉間には、百億の摩尼珠王有り、以って映飾を為す。
一一の摩尼珠、千の光明を放ち、その光は蓋の如くに、七宝合わせ成して、遍く地上を覆えり。
釈迦毘楞伽摩尼(しゃかびりょうがまに、摩尼)宝は、以ってその台(うてな)を為す。この蓮花の台に、八万の金剛(こんごう、ダイヤモンド)、甄叔迦宝(けんしゅくがほう、ルビー)、梵摩尼宝(ぼんまにほう、如意珠)、妙真珠の網、以って交飾(きょうじき、交差する垂れ飾り)を為す。
その台上に於いて、自然に四柱の宝幢有り。一一の宝幢は百千万億の須弥山の如し。
幢の上の宝の縵(まん、垂れ幕)は、夜摩天(やまてん、欲界の第三天)の宮の如く、また五百億の微妙なる宝珠有りて、以って映飾を為す。
一一の宝珠には、八万四千の光有り、一一の光は、八万四千の異種の金色を作す。
一一の金色は、その宝土に遍くし、処処に変化して異相を作す。或は金剛の台と為り、或は真珠の網と作り、或は雑花の雲と作りて、十方の面に於いて、意の随(まま)に変現して仏事を施作(せさ)す。
これを花座想と為し、第七観と名づく。
仏、阿難に告げたまわく、
かくの如き妙花、これ本は、法蔵比丘(ほうぞうびく、阿弥陀仏の修行中の名)の願力の成す所なり。
もし彼の仏を念わんと欲せば、まさに先にこの妙なる花座想を作すべし。
この想を作す時、観を雑うることを得ず、皆、まさに一一にこれを観るべし。一一の葉、一一の珠、一一の光、一一の台、一一の幢をば、皆、鏡中に自らの面像を見るが如くに分明ならしめよ。
この想を成さば、五百億劫の生死の罪を滅除して、必定してまさに極楽世界に生まるべし。この観を作すをば名づけて正観と為し、他の観の若きをば名づけて邪観と為す。  
第八観、想像
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、
この事を見おわりなば、次ぎにまさに仏を想うべし。所以(ゆえ)は何んとなれば、諸仏如来は、これ法界身(ほっかいしん、法の本体、法身)、遍く、一切の衆生の心想中に入れるものなり。
この故に、汝等が心にて、仏を想う時、この心が、即ちこれ三十二相(さんじゅうにそう、仏の優れた容姿の中の顕著なもの)、八十随形好(はちじゅうずいぎょうこう、仏の容姿の中の微細のもの)なり。この心が、仏と作り、この心が、これ仏なり。
諸仏の正遍知海(しょうへんちかい、正に遍く一切を知る海の如く底の測りがたい智慧)も、心想より生ず。この故に、まさに一心に念いを繋けて、諦らかに彼の仏、多陀阿伽度(ただあかど、如来)、阿羅呵(あらか、応供)、三藐三仏陀(さんみゃくさんぶっだ、正遍知)を観るべし。
彼の仏を想わば、先にまさに像を想うべし。目を閉じ目を開いて一の宝像の閻浮檀金の色にて彼の華の上に坐すを見よ。
像、すでに坐しおわりなば、心眼の開くを得たり。了了分明に、極楽国の七宝の荘厳、宝地、宝池、宝樹の行列、諸の天の宝縵の弥(ひろ)く樹上を覆い、衆宝の羅網(らもう、網)の虚空中に満てるを見よ。かくの如き事を極めて明了ならしめて掌中に観るが如くに見よ。
この事を見おわりなば、またまさに更に一大蓮華の仏の左の辺に在るを作すべし。前の蓮華の如きと等しく異なり有ること無し。また一大蓮華の仏の右辺に在るを作せ。
一観世音菩薩の像の左の華座に坐するを想え。また金光を放つことも前の如きと異なり無し。
一大勢至菩薩の像の右の華座に坐するを想え。
この想の成る時、仏菩薩の像は、皆、妙光を放たん。その光は金色にして、諸の宝樹を照らす。
一一の樹下にも、また三の蓮華有り。諸の蓮華上にも、各、一仏と二菩薩の像有りて、遍く彼の国を満たす。
この想の成る時、行者は、まさに水の流れ、光明および諸の宝樹、鳧鴈(ふがん、かもの類)、鴛鴦(えんおう、おしどり)、皆、妙法を説くを聞くべし。
定を出で定に入り、恒に妙法を聞け。行者の聞く所は、定を出づる時には、憶え持ちて捨てず、修多羅(しゅたら、経)と合わせしめよ。
もし合わずんば名づけて妄想と為し、もし与(とも)に合わんをば名づけて麤(そ、粗雑)の想にて極楽世界を見ると為す。
これを想像と為し、第八観と名づく。この観を作さば、無量億劫の生死の罪を除いて、現身の中に於いて念仏三昧を得。この観を作すをば名づけて正観と為し、他の観の若きをば名づけて邪観と為す。  
第九観、一切色身想
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、
この想成りなりおわりなば、次ぎにまさに更に無量寿仏の身相と光明とを観るべし。
阿難、まさに知るべし。無量寿仏の身は、百千万億の夜摩天の閻浮檀金の色なり。
仏の身の高(たけ)は、六十万億那由他(なゆた、億)恒河沙(ごうがしゃ、ガンジズ河の川底の砂の数)由旬(ゆじゅん、10キロメートル)なり。
眉間の白毫(びゃくごう、仏の眉間に生える渦を巻いた一本の長い毛)は右に旋(めぐ)りて宛転(えんてん、ゆるやかに渦巻く)し、五須弥山(しゅみせん、世界の中央にそびえる非常に高い山)の如し。
仏の眼は、清浄にして四大海の水の如く、青と白とが分明(ぶんみょう、はっきり)す。
身の諸の毛孔は、光明を演べ出すこと須弥山の如し。
彼の仏の円光(えんこう、頭から出る光)は、百億の三千大千世界(さんぜんだいせんせかい、10億の世界)の如く、円光中には、百万億那由他恒河沙の化仏(けぶつ、神通力で化作した仏)有り。
一一の化仏も、また衆多無数の化菩薩有りて、以って侍者と為す。
無量寿仏には、八万四千の相(そう、姿形)有り。一一の相中には、各、八万四千の随形好(ずいぎょうこう、好ましい様子)有り。一一の好中には、また八万四千の光明有り。
一一の光明は、遍く、十方の世界の仏を念う衆生を照らし、摂取(せっしゅ、収め取る)して捨てず。
その光と相好(そうごう、仏の勝れた姿形)は、化仏にも及んで具には説くべからず、ただまさに憶え想うて、心をして明らかならしめて見よ。
この事を見るとは、即ち十方の一切の諸仏を見るなり。諸仏を見るを以っての故に、念仏三昧と名づく。
この観を作すをば、一切の仏の身を観ると名づけ、仏の身を観るを以っての故に、また仏の心を見るなり。
諸の仏の心とは、大慈悲これなり。無縁の慈を以って、諸の衆生を摂(おさ)む。
この観を作さば、他の世に身を捨てて、諸仏の前に生れ、無生忍(むしょうにん、無生無滅の理に安住して不動)を得ん。
この故に、智者(ちしゃ、智慧の有る者)は、まさに心を繋けて、諦らかに無量寿仏を観るべし。
無量寿仏を観んには、一の相好より入りて、ただ眉間の白毫を観、極めて明了ならしめよ。眉間の白毫相を見れば、八万四千の相好も、自然にまさに見るべし。
無量寿仏を見るとは、即ち十方の無量の諸仏を見るなり。無量の諸仏を見ることを得るが故に、諸仏、前に現れて記(き、未来世に仏に成ることを記す、成仏の予言)を受(さず)くなり。
これを、遍く一切の色身(しきしん、仏の肉身)を観る想と為し、第九観と名づく。この観を作すをば名づけて正観と為し、他の観をば名づけて邪観と為す。  
第十観、観世音菩薩真実色身想
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、
無量寿仏を了了分明に見おわりなば、次には、またまさに観世音(かんぜおん、阿弥陀仏の慈悲行を現す菩薩)菩薩を観るべし。
この菩薩の身の長(たけ)は、八十億那由他恒河沙由旬なり。身は紫金の色にして、頂に肉髻(にっけい、仏の頭頂に有る肉の隆起)有り。項(うなじ)には、円光有りて、面は各、百千由旬なり。
その円光の中に、五百の化仏有り。
釈迦牟尼の如き、一一の化仏には、五百の菩薩、無量の諸天有りて、以って侍者と為す。
身を挙げての光の中に、五道(ごどう、地獄、餓鬼、畜生、人間、天上)の衆生と、一切の色相(しきそう、見られ得る物、物)は、皆、中に現る。
頂上には、毘楞伽摩尼(びりょうがまに、如意珠)妙宝を以って、天冠(てんかん、天の冠)と為し、その天冠の中にも、一の立ちたる化仏有り、高(たけ)は二十五由旬なり。
観世音菩薩の面は、閻浮檀金の如き色にて、眉間の毫相は七宝の色を備え、八万四千種の光明を流し出す。
一一の光明には、無量無数百千の化仏有り。
一一の化仏は、無数の化菩薩を以って侍者と為し、変現自在に十方の界(かい、世界)に満つること、譬えば紅蓮花(ぐれんげ、赤色の睡蓮)の色の如し。
八十億の微妙の光明有りて、以って瓔珞と為し、その瓔珞の中には、普く、一切の諸の荘厳事(しょうごんじ、国土を荘厳する慈悲行)を現す。
手の掌(たなごころ)は五百億の雑(ぞう、さまざまな)蓮華の色を作し、手の十指の端の、一一の指の端には八万四千の画(が、文様)有りて、なお印文の如し。
一一の画に八万四千の色有り、一一の色に八万四千の光有り、その光は柔軟に、普く一切を照らす。この宝の手を以って、接(つな)いで衆生を引く。
足を挙ぐる時には、足下に千輻輪相(せんぷくりんそう、足裏の千の矢を持つ車輪の文様)、自然に化して五百億の光明の台と成る。
足を下ろす時には、金剛(ごんごう、ダイヤモンド)と摩尼(まに、宝石)の花有りて、一切に布き散らして弥満(みまん、満ちわたる)せざることなし。
その余の身相は、衆好(しゅこう、多くの好ましい様子)具足すること、仏の如きと異なり無し、ただ頂上の肉髻および無見頂相(むけんちょうそう、仏の肉髻、頂上の見えない所)とは、世尊に及ばず。
これを観世音菩薩の真実の色身を観る想と為し、第十観と名づく。
仏、阿難に告げたまわく、
もし、観世音菩薩を観んと欲せば、まさにこの観を作すべし。この観を作さば、諸の禍に遇わず、浄く業障(ごっしょう、行いによる障碍)を除いて、無数劫の生死の罪を除かん。
この菩薩の如きは、ただその名を聞くすら無量の福を獲(う)、何に況や諦らかに観るをや。
もし、観世音菩薩を観んと欲せば、まさに先に頂上の肉髻を観、次いで天冠を観、その余の衆の相も、また次第にこれを観て、悉く明了ならしめ、掌中を観るが如くすべし。この観を作すをば名づけて正観と為し、他の観をば名づけて邪観と為す。  
第十一観、大勢至菩薩真実色身想
仏、阿難および韋提希に告げたもう、
次いで大勢至(だいせいし、阿弥陀仏の智慧を現す)菩薩を観よ。
この菩薩の身の量の大小も、また観世音の如し。円光は面の各に二百二十五由旬にして、二百五十由旬を照らす。
身を挙げての光明、十方の国を照して、紫金色と作し、有縁の衆生は、皆、悉く見ることを得。
ただ、この菩薩の一毛孔の光を見れば、即ち十方の無量の諸仏の浄妙の光明を見るなり。この故にこの菩薩を号(よ)びて無辺光と名づく。
智慧の光を以って、普く一切を照らし、三塗(さんづ、地獄、餓鬼、畜生)を離れしむるに、無上の力を得たり。この故にこの菩薩を号びて大勢至と名づく。
この菩薩の天冠には、五百の宝の蓮華有り。一一の宝の華には、五百の宝の台有り。
一一の台の中には、十方の諸仏の浄妙の国土の広長の相、皆、中に現る。
頂上の肉髻は、鉢頭摩花(はづまけ、赤い蓮の花)の如し。肉髻上には一の宝の瓶有りて、諸の光明を盛り、普く仏事を現す。余の諸の身相は、観世音の如きと等しくして異なり有ること無し。
この菩薩の行く時、十方の世界は、一切震動し、地の動く処に当たり、各、五百億の宝の花有り。一一の宝の花の荘厳し高く顕(あらわ)すこと、極楽世界の如し。
この菩薩の坐る時、七宝の国土は、一時に動揺し、下方の金光仏の刹(くに、国)より、乃(すなわ)ち上方の光明王仏の刹に至る、その中間に於いて、無量の塵数の分身の無量寿仏、分身の観世音、大勢至、皆、悉く極楽国土に雲集(うんじゅう、雲のように集まる)し、側らに空中を塞ぎて、蓮華の座に坐り、演べて妙法を説き、苦の衆生を度(ど、導く)す。
この観を作すをば名づけて大勢至菩薩を観見すと為し、これを大勢至の色身の相を観ると為す。
この菩薩を観るをば第十一観と名づけ、無数劫、阿僧祇(あそうぎ、無数)の生死の罪を除く。
この観を作さば、胞胎(ほうたい、母胎)に処せずして、常に諸仏の浄妙の国土に遊ばん。
この観の成りおわるをば、名づけて具足して観世音および大勢至を観ると為す。
この観を作すをば名づけて正観と為し、他の観の若きをば名づけて邪観と為す。  
第十二観、普観想
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、
この事を見る時には、まさに想を起して心を作し、自ら西方の極楽世界に生れ、蓮華の中に結跏趺坐(けっかふざ、足を組んで坐る)するを見て、蓮華の合う想を作し、蓮華の開く想を作すべし。
蓮華の開く時には、五百色の光の来りて身を照らす想を有(も)て。
眼目の開く想には、仏菩薩の虚空中に満てるを見よ。
水鳥、樹林、および諸仏の出す所の音声は、皆、妙法を演べて、十二部経(じゅうにぶきょう、一切の経を十二種に分類する)と合わん。
もし定を出づる時には、憶え持ちて失わざれ。この事を見おわるをば、無量寿仏の極楽世界を見ると名づけ、これを普観想と為し、第十二観と名づく。
無量寿仏の化身は無数にて、観世音および大勢至と、常に来たりてこの行人の所に至る。この観を作すをば名づけて正観と為し、他の観の若きをば名づけて邪観と為す。  
第十三観、雑想
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、
もし、至心(ししん、真心)に西方に生まれんと欲せば、先にまさに一の丈六(じょうろく、一丈六尺)の像に於いて、池の水の上に在りと観るべし。
先に説く所の如く、無量寿仏の身の量は無辺にして、これ凡夫(ぼんぶ、覚りを得ていない凡人)の心力の及ぶ所に非ず。
然れども、彼の如来の宿願の力の故に、憶想すること有らば、必ず成就することを得。ただ仏の像を想うことすら無量の福を得、況やまた仏の身相を具足するを観るをや。
阿弥陀仏は、神通意の如く、十方の国に於いて、変現自在なり。或は大身の虚空中に満てるを現し、或は小身の丈六八尺を現し、現す所の形は、皆、真の金色にして、円光、化仏、および宝の蓮華は、上に説く所の如し。
観世音菩薩、および大勢至は、一切の処に於いて身は同じなり。衆生は、ただ首相を観て、これ観世音と知り、これ大勢至と知るなり。
この二菩薩は、阿弥陀仏を助けて、普く一切を化す。
これを雑想観と為し、第十三観と名づく。この観を作すをば名づけて正観と為し、他の観の若きをば名づけて邪観と為す。  
第十四観、上輩生想
仏、阿難および韋提希(いだいけ、王妃名)に告げたまわく、
凡そ、西方に生るるには、九品(くほん、九段の品位)の人有り。
上品上生(じょうぼんじょうしょう、上品の上の者が生まれること)とは、もし、ある衆生、彼の国に生まれんと願わば、三種の心を発せ、即ち便ち往生(おうじょう、此の国から他の国に往き生まれること)せん。何等をか三と為す。一は至誠心(しじょうしん、真心の極み)、二は深心(じんしん、深い信心)、三は迴向発願心(えこうほつがんしん、一切の善業を振り向けて願う心)なり。三心を具うれば、必ず彼の国に生まれん。
また、三種の衆生有りて、まさに往生を得べし。何等をか三と為す。一は慈心にて殺さず、諸の戒行(かいぎょう、戒に随順する行い)を具う。二は大乗の方等(ほうとう、広大平等の大乗)経典を読誦す。三は六念(ろくねん、仏法僧戒捨天を念ずる)を修行して、彼の国に生まれんことを廻向発願(えこうほつがん、一切の善業を振り向けて願う)す。この功徳(くどく、善行の徳)を具うること、一日より乃ち七日に至るまで、即ち往生を得。
彼の国に生るる時、この人は精進して勇猛なれば、故(すなわ)ち、阿弥陀如来は、観世音および大勢至、無数の化仏、百千の比丘、声聞の大衆、無量の諸天、七宝の宮殿を与(ともな)わん。
観世音菩薩は金剛(こんごう、ダイヤモンド)の台(うてな)を執り、大勢至菩薩と与(とも)に行者の前に至り、阿弥陀仏は、大光明を放ちて行者の身を照らし、諸の菩薩と与に、手を授けて迎接(ぎょうしょう、迎え入れる)す。
観世音と大勢至、無数の菩薩と与に、行者を讃歎し、その心を勧進(かんじん、勧め励ます)す。
行者、(それを)見おわりて、歓喜し踊躍して、自らその身を見れば、金剛の台に乗れり。仏の後ろに随従して、弾指(だんし、指を弾いて合図する)の頃に彼の国に往きて生る。
彼の国に生まれおわりて、仏の色身を見れば、衆相具足し、諸の菩薩を見れば色相具足せり。
光明と宝林とは、妙法を演説し、聞きおわれば、即ち無生法忍(むしょうほうにん、生滅を離れた真理を覚ること)を悟る。
須臾(しゅゆ、暫くの間)を経る間に、歴(ことごと)く諸仏に事(つか)え、十方の界(かい、世界)を遍くし、諸仏の前に於いて次第に記(き、成仏の記録)を受け、還りて本国に至り、無量百千の陀羅尼(だらに、実相に安住すること)の門を得。これを上品上生の者と名づく。
上品中生とは、必ずしも方等経典を受持読誦せざれども、よく義趣(ぎしゅ、意義)を解し、第一義(だいいちぎ、諸法は一相にして空なることの真理)に於いて、心驚動せず。深く因果を信じて、大乗を謗らず。この功徳を以って廻向して、極楽国に生まれんことを願い求む。
この行を行わば、命の終らんと欲する時、阿弥陀仏は、観世音および大勢至、無量の大衆、眷属に囲遶(いにょう、取り囲む)され、紫金(しこん、紫色をした最上の金)の台を持ちて行者の前に至り、讃じて言わく、「法子(ほうし、法の上の子)、汝大乗を行うて第一義を解せり。
この故に、我は今来たりて汝を迎接せん。」と、千の化仏と与(とも)に一時に手を授く。 行者、自ら見れば、紫金の台に坐れり、合掌叉手(がっしょうさしゅ、両手を合せ十指を伸ばして交差させる)して諸仏を讃歎すること、一念(いちねん、一瞬の間)の頃の如きに、即ち彼の国の七宝の池の中に生る。
この紫金の台は大宝花の如く、宿(しゅく、一夜)を経て、即ち開くに、行者の身は、紫磨金色(しまこんじき、紫金色)と作り、足下にも、また七宝の蓮華有り。
仏および菩薩は、倶に光明を放ちて行者の身を照らせば、目即ち開明し、前の宿習(しゅくじゅう、前世の習学)に因り、普く衆の声を聞けば、純(もっぱ)ら、甚だ深き第一義諦(だいいちぎたい、真如実相、万物は平等にして空であること)を説く。
即ち、金の台を下りて、仏に礼し、合掌して世尊を讃歎し、経ること七日に於いて、時に応じて阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、理想の国土建設、仏の境地)に於いて不退転を得。
時に応じて、即ち、よく飛んで十方に至り、歴(ことごと)く諸仏に事え、諸仏の所に於いて、諸の三昧を修め、一小劫を経て無法法忍を得、現前に記を受く。これを上品中生の者と名づく。
上品下生とは、また因果を信じて大乗を謗らず、ただ無上道(むじょうどう、阿耨多羅三藐三菩提)の心を発し、この功徳を以って迴向して、極楽国に生るることを願い求む。
彼の行者、命の終らんと欲する時、阿弥陀仏および観世音、并(なら)びに大勢至、諸の眷属と与に金の蓮華を持ち、化して五百の化仏と作り、来たりてこの人を迎う。
五百の化仏、一時に手を授けて讃じて言わく、「法子、汝は、今、清浄に無上道の心を発せり。我、来たりて汝を迎う。」と。
この事を見る時、即ち自ら身を見れば金の蓮花に坐れり。坐りおわりて華合い、世尊の後ろに随いて七宝の池の中に往きて生るることを得。
一日一夜にて蓮花は乃ち開き、七日の中に乃ち仏に見(まみ)ゆることを得。仏の身を見るといえども、衆の相好に於いては心明了ならず。三七日の後に於いて乃ち了了に見る。衆の音声を聞くに、皆、妙法を演(の)ぶ。
十方に遊び歴(めぐ)りて諸仏を供養し、諸仏の前に於いて甚だ深き法を聞き、三小劫を経て百法明門(ひゃっぽうみょうもん、菩薩の初地)を得て、歓喜地(かんぎち、菩薩の初地)に住まる。これを上品下生の者と名づく。
これを、上輩生想と名づけ、第十四観と名づく。この観を作すをば名づけて正観と為し、他の観の若きをば名づけて邪観と為す。  
第十五観、中輩生想
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、
中品上生とは、もし、ある衆生五戒(ごかい、基本的な戒)を受持し、八戒斎(はっかいさい、俗人が日限を決めて守る戒)を持ち、諸の戒を修行して、五逆(ごぎゃく、五つの重罪)を造らずに、衆の過悪無し。この善根(ぜんこん、善行)を以って廻向して、西方の極楽世界に於いて生まれんと願い求む。
行者、命の終りに臨む時、阿弥陀仏、諸の比丘の眷属に囲遶され、金色の光を放ちてその人の所に至り、苦、空、無常、無我を演べ説いて、出家の衆の苦を離れ得ることを讃ず。
行者見おわりて心大いに歓喜し、自ら己が身を見れば蓮花の台に坐れり。長く跪(ひざまづ)いて合掌し、仏に礼を作せば、未だ頭を挙げざるの頃に、即ち極楽世界に往き生るるを得。
蓮花、尋(つ、間もなく)いで開く。華の敷(ひら)く時に当りて、衆の音声、四諦(したい、苦諦、苦集諦、苦滅諦、苦道諦)を讃歎するを聞き、時に応じて、即ち阿羅漢道の三明(さんみょう、宿命明、天眼明、漏尽明)と六通(ろくつう、天眼通、天耳通、他心知通、宿命通、身如意通、漏尽通)得て、八解脱(はちげだつ、貪著を捨てる八種の定力)を具う。これを中品上生の者と名づく。
中品中生とは、もし、ある衆生が、若しは一日一夜、八戒斎を持ち、もしは一日一夜、沙彌戒(しゃみかい、見習い比丘の戒、不殺生、不偸盗、不婬、不妄語、不飲酒、不著華鬘好香塗身、不歌舞倡伎亦不往観聴、不得坐高広大床上、不得非時食、不得捉銭金銀宝物)を持ち、もしは一日一夜、具足戒(ぐそくかい、比丘の二百五十戒、比丘尼の五百戒)を持ち、威儀(いぎ、立ち居振る舞い)欠くること無く、この功徳を以って廻向して極楽国に生るることを願い求む。
戒香(かいこう、戒を好香に譬える)の薫修(くんしゅう、香が香るごとく戒を修める)する、かくの如き行者、命の終らんと欲する時、阿弥陀仏、諸の眷属と与(とも)に金色の光を放ち、七宝の蓮華を持ちて行者の前に至るを見る。
行者、自ら空中に声有るを聞くに、讃じて言わく、「善男子(ぜんなんし、男子に対する呼称)、汝が如き善人は、三世の諸仏の教えに随順するが故に、我来たりて汝を迎う。」と。
行者、自らを見れば、蓮花の上に坐れり。蓮花、即ち合い、西方の極楽世界に於いて生る。
宝池の中に在りて、経ること七日に於いて蓮花、乃ち敷(ひら)かん。花、すでに敷きおわれば、目を開き合掌して世尊を讃歎す。法を聞き歓喜して須陀洹(しゅだおん、煩悩を断ち聖者の位の第一段階に入る)を得、半劫を経おわりて阿羅漢と成る。これを中品中生の者と名づく。
中品下生とは、もし、ある善男子(ぜんなんし、男子)善女人(ぜんにょにん、女子)、父母に孝養して世の仁義(にんぎ、慈悲と正義)を行う。
この人、命の終らんと欲する時、善知識(ぜんちしき、善い友)、その(人の)為に広く阿弥陀仏の国土の楽しき事を説き、また宝蔵比丘(ほうぞうびく、修行中の阿弥陀仏の名)の四十八の大願を説くに遇う。この事を聞きおわりて、尋(つ)いで即ち命終るに、譬えば、壮士(そうし、壮年の男子)、臂を屈伸する頃の如きに、即ち西方の極楽世界に生る。
生まれて七日を経るに、観世音および大勢至に遇い、法を聞いて歓喜して須陀洹を得、一小劫を過ぎて阿羅漢と成る。こえを中品下生の者と名づく。
これを中輩生想と名づけ、第十五観と名づく。この観を作すをば名づけて正観と為し、他の観の若きをば名づけて邪観と為す。  
第十六観、下輩生想
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、
下品上生とは、或は、ある衆生、衆の悪業を作し、方等経典を誹謗せずといえども、かくの如き愚人は多く悪法(あくほう、悪事)を造りて、慚愧(ざんき、恥ずかしく思うこと)有ること無し。
命の終らんと欲する時、善知識、(その人の)為に大乗の十二部経(じゅうにぶきょう、仏経の総称、十二部に分ける)の首題の名字を讃うに遇う。かくの如き諸の経の名を聞くを以っての故に、千劫の極重の悪業を除き却(さ)る。智者(ちしゃ、善知識)は、また合掌叉手することを教えて、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ、阿弥陀仏に帰依する)と称えしめ、仏の名を称うるが故に五十億劫の生死の罪を除く。
その時、彼の仏、即ち化仏、化観世音、化大勢至を遣わして、行者の前に至らしめ、讃じて言わしむ、「善きかな、善男子、汝、仏の名を称うるが故に、諸罪消滅し、我来たりて汝を迎う。」と。
この語を作しおわるに、行者、即ち化仏を見れば、光明その室に遍満す。見おわりて歓喜し、即ち便ち命終り、宝の蓮花に乗りて、化仏の後に随い宝池の中に生る。
七七日を経て蓮花乃ち敷き、花の敷く時に当りて、大悲観世音菩薩、および大勢至菩薩、大光明を放ちてその人の前に住まり、為に甚だ深き十二部の経を説く。聞きおわりて信じ解して無上道の心を発し、十小劫を経て、百法明門を具え、初地に入ることを得。これを下品上生の者と名づく。
仏の名と法の名とを聞くを得て、僧(そう、観世音等)の名を聞くに及ぶ。三宝(さんぽう、仏法僧)の名を聞かば、即ち往生することを得るなり。
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、
下品中生とは、或は、ある衆生、五戒八戒および具足戒を毀犯(きぼん、犯す)す。
かくの如き愚人は、僧祇(そうぎ、教団)の物を偸(ぬす)み、現前僧物(げんぜんそうもつ、地域ごとの一一の僧団に属する物)を盗み、不浄に法を説いて慚愧すること有ること無く、諸の悪法を以って自ら荘厳す。かくの如き罪人、悪業を以っての故にまさに地獄に堕つべし。
命の終らんと欲する時、地獄の衆の火、一時に倶に至れるに、善知識、大慈悲を以って、即ち為に阿弥陀仏の十力(じゅうりき、仏の十の智慧)の威徳を讃じて説き、広く彼の仏の光明の神力を讃え、また戒定慧解脱解脱知見(かいじょうえげだつげだつちけん、法身仏の五分)を讃うに遇う。
この人、聞きおわりて八十億劫の生死の罪を除けば、地獄の猛火は化して涼風と為り、諸の天華を吹く。華上には、皆、化仏菩薩有りて、この人を迎接(ぎょうしょう、迎え入れる)す。一念(いちねん、一瞬)の頃の如きに、即ち往きて七宝の池の中の蓮花の内に生るることを得。
経ること六劫に於いて、蓮花乃ち敷き、華の敷く時に当りて、観世音と大勢至、梵音声(ぼんおんじょう、浄い声)を以って彼の人を安んじ慰めて、為に大乗の甚だ深き経典を説く。この法を聞きおわるに、時に応じて、即ち無上道の心を発す。これを下品中生の者と名づく。
仏、阿難および韋提希に告げたまわく、
下品下生とは、或は、ある衆生、不善の業の五逆、十悪(じゅうあく、殺生、偸盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、邪見)を作し、諸の不善を具う。
かくの如き愚人は、悪業を以っての故に、まさに悪道(あくどう、地獄、餓鬼、畜生)に堕ちて、経歴すること多劫に苦を受けて窮まり無かるべし。
かくの如き愚人、命の終る時に臨んで、善知識、種種に安んじ慰めて為に妙法を説き、教えて仏を念ぜしむれども、彼の人は、苦逼(せま)りて仏を念ずるに遑(いとま)あらず。
善き友の告げて言わく、「汝、もし彼の仏を念ずること能わずば、まさに「無量寿仏に帰命す。」と称(とな)うべし。」と。かくの如くに、至心(ししん、真心から)に声をして絶えざらしめ、十たび念じて「南無阿弥陀仏」と称えしむるに、仏の名を称うるが故に、念念の中に於いて、八十億劫の生死の罪を除く。
命の終わりの時、金の蓮花を見れば、なお日輪のその人の前に住まるが如し。一念の頃の如きに、即ち極楽世界に往きて生るることを得。
蓮花の中に於いて十二大劫に満ち、蓮花、まさに開くべし。花の敷く時に当りて、観世音と大勢至、大悲の音声を以って、即ちその人の為に、広く実相と罪を除滅する法を説けば、聞きおわりて歓喜し、時に応じて、即ち菩提(ぼだい、仏の境地を得んとすること)の心を発す。これを下品下生と名づく。
これを下輩生想と名づけ、第十六観と名づく。  
流通得益分/阿難、経と阿弥陀仏の名を付属される

その時、世尊この語を説きたまいし時、韋提希、五百の侍女と与に、仏の説きたまいし所を聞き、時に応じて即ち極楽世界の広長の相を見、仏の身および二菩薩を見ることを得て、心に歓喜を生じて未曾有なるを歎じ、豁然(かつねん、目の前がぱっと開ける)として大悟し、無生忍(むしょうにん、万物は空にして生滅無しと悟ること)を得。五百の侍女は阿耨多羅三藐三菩提心を発して、彼の国に生まれんことを願えり。
世尊は、悉く、「皆、まさに往生すべし。彼の国に生まれおわりて、諸仏現前三昧(しょぶつげんぜんさんまい、諸仏を目の当たりに見る三昧)を獲得せん。」と記したまい、無量の諸天は無上道の心を発しぬ。
その時、阿難、即ち座より起ちて前(すす)み、仏に白して言さく、「世尊、まさに何んがこの経を名づけん。この法の要(よう、要旨)は、まさに云何が受持すべし。」と。
仏、阿難に告げたまわく、「この経は、「極楽国土の無量寿仏、観世音菩薩、大勢至菩薩を観る」と名づけ、「浄く業障(ごっしょう、悪業の障り)を除いて諸仏の前に生る」と名づく。
汝等、受持して忘失せしむること無かれ。この三昧を行わば、現身(げんしん、生身)にて無量寿仏および二大士(だいじ、大菩薩)を見ることを得ん。
もし、善男子および善女人、ただ仏の名と二菩薩の名を聞くにさえ、無量劫の生死の罪を除く、何をか況や憶念(おくねん、記憶して常に心にかけること)せんをや。
念仏する者の若きは、まさに知るべし、この人は即ちこれ人中の芬陀利花(ふんだりけ、白蓮華)なり。観世音菩薩、大勢至菩薩が、その勝れた友と為り、まさに道場に坐して諸仏の家に生るべし。」と。
仏、阿難に告げたまわく、「汝、好くこの語を持(たも)て、この語を持てとは、即ちこれ無量寿仏の名を持つなり。」と。
仏、この語を説きたまいし時、尊者目連、尊者阿難、および韋提希等、仏の説きたまいし所を聞き、皆、大いに歓喜せり。
その時、世尊、足にて虚空を歩み、耆闍崛山に還りたもう。
その時、阿難は、広く大衆の為に上の如き事を説き、無量の人天、龍神、夜叉は、仏の説きたまいし所を聞き、大いに歓喜して仏に礼して退けり。
仏説観無量寿仏経  
 
浄土三部経の説明
 
阿弥陀経1

序分「如是我聞‥‥無量諸天大眾俱」
「如是我聞」/「このように、わたくしは聞いております。」と、釈尊の侍従阿難尊者は、常にこの言葉によって経を紡ぎ出されます。ここで「このようなことが有りました。」と言わずに、「このように聞いております。」と言うには意味があります。それは自らの勝手な見聞に由るのではなく、「世尊より、このように聞いた、以下に話す事柄はすべて世尊による。」と言っているのです。
「一時仏在」/ある時、仏は某所に居られた。「一時」とは、ある特定の時を指していて、不特定な「いつか」ではありません。特に「いつ」とは言いませんが、特定の時を指しています。次の「仏は某所に居られた」と併せて、これから話すことが真実に起ったことであることを証明しています。
「舎衛国祇樹給孤獨園」/舎衛国(しゃえいこく)は国の名前、祇樹給孤獨園(ぎじゅぎっこどくおん)は精舎の名前です。舎衛国は王舎城(おうしゃじょう)と共に、当時の二大大国です。釈尊はそのほとんどの時間をこの二国の間を往ききして過ごされました。祇(ぎ)は舎衛国の太子祇陀(ぎだ)、祇陀が園林の樹木を寄進したために祇樹といいます。また、祇陀は精舎の土地の所有者でした。給孤獨(ぎっこどく)は祇陀よりその土地を購入して仏に供養しましたので祇樹給孤獨園といいます。また、給孤獨の本名は須達多(すだった)といいますが、常に身寄りの無い者に食を給していたので給孤獨と呼ばれます。精舎(しょうじゃ)は比丘が住む寺院です。比丘は、常に乞食行脚しながら、精舎から精舎を渡り歩きます。仏も同じようにされました。
「与大比丘僧千二百五十人倶皆是大阿羅漢衆所知識」/大比丘僧、千二百五十人が一緒にいた。皆、阿羅漢であり、人々に知られていた。この経が説かれた時、誰々が一緒にいたと証人を挙げます。阿羅漢は、釈尊と同じように覚りを開いた聖者です。
この後、大比丘の名前を挙げ、若干の大菩薩と諸天の名前を挙げます。大比丘は実在の人ですが、大菩薩と諸天は架空の人です。
正宗分
極楽の荘厳「爾時佛告‥‥功コ莊嚴」
「爾時仏告長老舎利弗」/その時、仏は長老の舎利弗に教えられた。「その時」は、今、上のことがあった、ちょうどその時です。舎利弗(しゃりほつ)は般若心経に出る舎利子と同じです。大般若経、大品、小品等の主だった般若経で、常に聞き役として出ます。舎利(しゃり)という名の母から生まれたので、舎利の子という意味で、舎利弗(ほつ、子)、舎利子と呼ばれます。母は舎利という名の鳥に、眼が似ていたために、そう名づけられました。長老は先輩の比丘にたいする敬語です。舎利弗はまた智慧が勝れ、仏の弟子の中でも智慧第一として、十大弟子の中でも筆頭格に挙げられています。
「従是西方過十万億仏土有世界名曰極楽」/これより西方に十万億の仏土を過ぎて一つの世界があり極楽という。我々のこの世界を千集めて一千小千世界、それを千集めて二千中千世界、それを千集めて三千大千世界、または大千世界といい、この大千世界を一仏土とします。ここでいう十万億の仏土とは、考えられないほどの遠さを表しています。
「其土有仏号阿弥陀今現在説法」/その土に仏有り、阿弥陀と号して、今現在法を説く。この「極楽」には「仏」が有って、その仏は「阿弥陀」と呼ばれています。「阿弥陀」とは「無量」という意味です。この仏は今現在も法を説いています。
「彼土何故名為極楽、其国衆生無有衆苦但受諸楽故名極楽」/彼の土は何故に極楽というのだろうか。その国の衆生には種種の苦がなく、ただ多くの楽しみを受けるから極楽というのである。
「極楽国土、七重欄楯、七重羅網、七重行樹、皆是四宝周匝囲遶、是故彼国名曰極楽」/極楽の国土の七重の欄干、天を覆う七重の真珠の網、七重の並木、これ等は、皆、四つの宝で取り巻かれ囲み巡らされている。四宝とは、金、銀、琉璃(るり、青色の宝石)、頗梨(はり、水晶)です。欄楯(らんじゅん)とは、欄干のことです。羅網(らもう)とは、金銀の鈴や種種の宝がレースのように付けられた網です。行樹(ぎょうじゅ)とは、並木のことです。周匝(しゅうそう)は取り巻くこと、囲遶は回りを取り囲むことです。
「極楽国土有七宝池、八功徳水充満其中、池底純以金沙布地、四辺階道、金銀琉璃頗梨合成、上有楼閣亦以金銀琉璃頗梨車磲赤珠瑪瑙而厳飾之」/極楽国土には七宝の池が有り、八の功徳ある水が中に充満している。池底は金の砂子が地を覆い、四辺の回廊を、金、銀、琉璃、頗梨が合わせ成している。上にある楼閣もまた金、銀、琉璃、頗梨、車磲(しゃこ、シャコ貝)、赤珠(せきしゅ、桃色真珠)、瑪瑙が厳かに飾っている。金銀琉璃頗梨車磲赤珠瑪瑙の七種の宝を、七宝といいます。八功徳水(はっくどくすい)は、「称讃浄土経」によれば、浄澄、清冷、甘美、軽軟、潤沢、安和、渇きを止めて病を除く、飲めば元気がでる、この八の功徳をもつ水のことであるとします。
「池中蓮花大如車輪、青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光、微妙香潔」/池の中の蓮花(れんげ、睡蓮)は、車輪のように大きく、青色の花からは青い光が、黄色の花からは黄の光が、赤色の花からは赤い光が、白色の花からは白い光が出ており、微妙な香がすがすがしい。
「舎利弗、極楽国土成就如是功徳荘厳」/舎利弗よ、極楽の国土とは、このような功徳が荘厳するのを成就しているのである。功徳(くどく)とは、衆生を利する力をいいます。荘厳(しょうごん)とは、きちんと飾り立てることです。
極楽の荘厳「彼佛國土常作天樂‥‥飯食經行」
「彼仏国土常作天楽、黄金為地、昼夜六時天雨曼陀羅華」/彼の国土には常に天の音楽があり、黄金の池には昼夜六時に天人が曼陀羅華の花を雨のようにふらす。昼夜六時とは、昼に三回、夜に三回、時を決めての意です。曼陀羅華(まんだらけ)は、天にある花の名です。
「其国衆生常以清旦、各以衣[袖−由+戒]盛衆妙華、供養他方十万億仏、即以食時還到本国飯食経行」/その国の衆生は、毎日、朝のすがすがしい中に、その天の妙華を肩掛けに盛って、他方の十万億の仏に供養する。そして食時になると本国に還って、食事をして経行する。食時(じきじ)は、凡そ正午です。経行(きょうぎょう)とは歩く禅のことです。坐禅で心を統一し、次は歩く禅で心をゆったりさせます。清旦(しょうたん)とは、すがすがしい朝の内の意味です。衣[袖−由+戒](えこく)とは、花を盛る風呂敷のようなものです。
極楽の荘厳「彼國常有種種奇妙雜色之鳥‥‥念佛念法念僧」
「彼国常有種種奇妙雑色之鳥白鵠孔雀鸚鵡舎利迦陵頻伽共命之鳥」/彼の国には、常に種種の奇妙にして色とりどりの鳥がいる。白鵠、孔雀、鸚鵡、舎利、迦陵頻伽、共命の鳥などである。白鵠(びゃっこう)は白鶴のことです。孔雀、鸚鵡は見ることができます。舎利は印度にいる鳥です。迦陵頻伽(かりょうびんが)、共命(ぐみょう)の鳥、は共に想像上のみの鳥です。
「是諸衆鳥昼夜六時出和雅音、其音演暢五根五力七菩提分八聖道分」/これ等の鳥たちは、昼夜六時に鳴き交わし、自然の音楽を演じる。そしてただ音楽が美しいだけではなく、五根、五力、七菩提分、八聖道分などの人々が為さねばならない徳目を教えている。五根(ごこん)とは、修行に必要な根本的な能力です、(1)信根/三宝と四諦を信じる、(2)精進根/勇猛に善法(ぜんぽう、善い行い)を修める、(3)念根/正法を憶念する、(4)定根/心を一境に止めて散失させない、(5)慧根/真理を思惟する。五力(ごりき)とは五根を増長せしめて力を得ることです、(1)信力/信根を増長して、諸の邪信の者を破る、(2)精進力/精進根を増長して、身の懈怠するを破る、(3)念力/念根を増長して、諸の邪念を破る、(4)定力/定根を増長して、諸の乱想を破る、(5)慧力/慧根を増長して、諸の惑いを破る。七菩提分(しちぼだいぶん)とは、覚りに至る智慧です、(1)択法覚分/智慧で法の真偽を択ぶ、(2)精進覚分/勇猛心で邪行を離れ真法を行う、(3)喜覚分/心に善法を得れば、即ち歓喜する、(4)軽安覚分/身心の粗重なるを除く、(5)念覚分/常に定と慧とを均等ならしめ、明記して忘れない、(6)定覚分/心を一境に止めて、散乱せしめない、(7)行捨覚分/諸々の妄謬を捨て、一切法を捨てて、心を平等に保つ。八聖道分(はっしょうどうぶん)とは八の善い行い、無漏の戒を以って体と為すことです、
(1)正見/苦集滅道の四諦の理を見て、明らかにする、(2)正思惟/四諦の理を明らめたならば、更に思惟して真智を増長する、(3)正語/真智を以って口業を修め、一切の非理の語を作さない、(4)正業/真智を以って身の一切の邪業を除き、清浄の身業に住まる、(5)正命/身口意の三業を清浄にして、正法に順じて活命す、(6)正精進/真智を発用して、強いて涅槃の道を修める、(7)正念/真智を以って、正道を憶念し邪念を無くす、(8)正定/真智を以って、無漏清浄の禅定に入る。
「其土衆生聞是音已、皆悉念仏念法念僧」/その土の衆生はこの音を聞くと、皆悉く、仏を念い、法を念い、僧を念う。「仏を念う」とは仏の功徳を念うこと、「法を念う」とは持戒して悪を作さず善を為すこと、「僧を念う」とは教団が和合して仏法の永続を願うことです。僧とは、仏教教団のことです。
極楽の荘厳「舍利弗。汝勿謂此鳥實‥‥變化所作」
「舎利弗汝勿謂此鳥実是罪報所生、所以者何彼仏国土無三悪趣」/舎利弗よ、お前は思ってはいけない、この鳥たちは、実に罪の報いによって、この鳥に生まれたのであると。何故ならば彼の国土には地獄、餓鬼、畜生の三悪趣が無いのであるから。仏教では前世の悪業によって、畜生道に生を受けると教えています。しかし極楽の鳥はそうではありません。
「其仏国土尚無三悪道之名、何況有実、是諸衆鳥皆是阿弥陀仏欲令法音宣流変化所作」/その仏の国土には、三悪道の名さえない、どうして実の三悪道があるであろうか。この種種の多くの鳥たちは、皆、阿弥陀仏が法音を宣流せんがために変化した姿なのである。歌を歌っている鳥たちは、皆、阿弥陀仏が変化した姿であり、皆、法音を宣流(せんる、のべながす)しているのです。極楽で法を説くことは、不確実でどのようにでも取れる言葉によるのではありません、心に直接響く種種の音によっています。
極楽の荘厳「舍利弗。彼佛國土‥‥功コ莊嚴」
「彼仏国土微風吹動諸宝行樹及宝羅網出微妙音、譬如百千種楽同時倶作、聞是音者皆自然生念仏念法念僧之心」/彼の仏の国土では、微風によって諸の並木を吹き動かすと、宝の網から微妙な音が出る。譬えば百千種の音楽が同時に鳴るようなものである。この音を聞けば、皆は自然に仏を念い、法を念い、僧を念う心が生まれる。並木に懸けられた七重の網に付けられた金銀の鈴と種種の宝石が風に吹かれて動き音を出します。
極楽の荘厳「舍利弗。於汝意云何‥‥功コ莊嚴」
「彼仏何故号阿弥陀」/彼の仏は、何故に阿弥陀と号するのか。阿弥陀(あみだ)とは無量という意味です。「舎利弗よ、お前はこれを何う思うか」と、極楽の無量をここで列挙します。(1)光明無量、光明とは日の光のことです、明るさは智慧を、温かさは慈悲を表します。また光は遠くまで、また隅々まで照らして、照らす物を差別しません、法の譬えでもあります。(2)彼の仏の寿命無量、世界は大変広いものです、法を隅々まで届かせるには長い寿命が必要です。(3)彼の国の人民の寿命無量、人民の願いの第一は長い寿命です。(4)声聞の弟子無量、一人の力で法を隅々まで届かせるのは不可能です。極楽の世界が成就したのは、法の力によります、法の力を届かせるのは弟子の力です。(5)菩薩無量、菩薩は法を弘めることのみを使命としています。
極楽に生まれる「又舍利弗。極樂國土眾生生者‥願生彼國土」
「又舎利弗、極楽国土衆生生者皆是阿鞞跋致、其中多有一生補処、其数甚多、非是算数所能知之、但可以無量無辺阿僧祇劫説」/また、舎利弗よ、極楽国土の衆生は生まれたならば、皆、阿鞞跋致である。その中の多くは一生補処であり、その数は甚だ多く、算数してこれを知ることはできない。ただ無量無辺阿僧祇劫の間、説けばできるというのみである。阿僧祇劫(あそうぎこう)とは無限に近い有限の時間ということです。
不退の菩薩を阿鞞跋致(あびばっち)と言います。菩薩は六波羅蜜を行って法を弘めます。
六波羅蜜(ろくはらみつ)/(1)布施波羅蜜/与えること、財産は言うにおよばず、自身、妻子、眷属、すべてを与えることです、(2)持戒波羅蜜/取らないこと、与えられないものは何一つ取らないことです。特に他の命は決して取らないことです、(3)忍辱波羅蜜/怒らないこと、自身は取られても、怒らないことです、(4)精進波羅蜜/怠けないこと、上のことに休みはありません、(5)禅定波羅蜜/心が乱れないこと、環境が何のようであれ、決して心が乱れないことです、(6)智慧波羅蜜/以上を行うのは、極めて自然のことであると知ることです。この六波羅蜜から逃げないことを不退といいます。
一生補処(いっしょうふしょ)/法が十分弘まり、次ぎに生まれる時は、仏であることをいいます。仏とは、阿弥陀仏のように理想の国土を建設した人のことです。そこでは、皆が与えあって、決して取ろうとしないので、争いが有りません。菩薩は、非常に長い間、何度も生まれ変わって、理想の国土を建設します。さて、理想の国土が建設しあがって、次ぎに生まれる時には、菩薩としては何もすることがない。これを一生補処(いっしょうふしょ)、この一生で仏の処を補うというのです。
「衆生聞者応当発願願生彼国、所以者何、得与如是諸上善人倶会一処」/この国の事を聞いたならば、必ず彼の国に生まれたいと願え、何故ならば、このような上善の人と一処にともに会うことができるからである。上善の人とは、阿鞞跋致と一生補処の菩薩を言います。
倶会一処(くえいっしょ)/「倶(とも)に一処に会う」、これは何という楽しい想像でしょうか。先に亡くなった親しい人に会うと考えると、それはまた非常に楽しいものです。極楽であれば、またそれも可能です。
「不可以少善根福徳因縁得生彼国」/少しばかりの善根の福徳の因縁では、彼の国に生まれることはできない。善根とは善い行いのこと、福徳は善い行いの報いです。少しばかり善いことをして、それで極楽に生まれることができるかと言えば、そうではありません。少しばかりの善いこととは、偶然たまたま行った善いことという意味です。
「若有善男子善女人聞説阿弥陀仏執持名号、若一日若二日若三日若四日若五日若六日若七日、一心不乱、其人臨命終時、阿弥陀仏与諸聖衆現在其前、是人終時心不顛倒、即得往生阿弥陀仏極楽国土」/もしある善男子、善女人が、阿弥陀仏のことを聞き、名号を執持して、一日なり、二日なり、もしくは七日なり、一心不乱であれば、その人の命が終る時、阿弥陀仏は諸の聖衆とともに、その人の前に現れ、この人は心が顛倒することなく、すぐに阿弥陀仏の極楽国土に往生する。善男子(ぜんなんし)とは男子、善女人(ぜんにょにん)とは女子のことです。その男子女子が、阿弥陀仏のことを聞いて、その名前を忘れずに、もしは一日、もしは二日、‥もしは七日の間、阿弥陀仏の極楽国土に生まれたいと、一心不乱に念うのであれば、その人の命が終るときには、阿弥陀仏が大勢の菩薩、或は声聞の弟子と一緒に、その人の前に現れ、その人は、その証拠を見て安心して、迷ったり疑ったりすることなく、阿弥陀仏の国土に往って生まれることができます。

執持名号(しゅうじみょうごう)/執持は記憶して忘れない事です。阿弥陀仏の名を記憶して忘れるな。ここで何故名号と言うかといいますと、前に阿弥陀仏が何故そう呼ばれるのか、何々が無量、何々が無量と出ました。これがあるから名号を忘れるなと言うのです。実の所は、阿弥陀仏の事を記憶せよと言うのと同じです。名号自体に不思議な力が有るというのではありません。この阿弥陀仏の事、一切を忘れるな。人の心は容量が決まっています、善事を入れて悪事を駆逐する。浄土とはこれを言うのです。
若一日若二日/一心不乱というのですから、七日ぐらいが限度ということです。一心不乱に阿弥陀仏の事を思い、自らも彼の仏のように成りたいとこう思います。ただ声に出して念仏しろというのではありません。それには短すぎます。
臨命終時/このようにしたことのある人の所には、命の終りに当って、阿弥陀仏が大勢の聖者と一処に迎えに来ます。ただし、これはその人が一心不乱であったかどうかの尺度とするものではありません。
心不顛倒/死を恐れず、一切平等の真理に驚かないことです。
即得往生/これは大事なことです。次ぎに目を覚ませば、そこはもう極楽であるというのです。
「我見是利故説此言、若有衆生聞是説者応当発願生彼仏国土」/わたしは、この利を見るが故に、この言葉を説くのである。もし誰であろうと、この説を聞いたならば、必ず彼の国に生まれたいと願え。
東方の諸仏が称讃する「舍利弗。如我今者‥‥諸佛所護念經」
「如我今者讃歎阿弥陀仏不可思議功徳」/わたしが今、阿弥陀仏の不可思議の功徳を称讃しているように、東方の諸仏も、また称讃している。功徳とは衆生を救うための力です。ここで経には東方の諸仏の名が挙げられます。このように、東方の諸仏の名を挙げた後、次々と南方、西方、北方、上方、下方と諸仏の名を挙げて、あらゆる世界で、諸仏が称讃していることを証します。
「如是等恒河沙数諸仏各於其国出広長舌相、遍覆三千大千世界、説誠実言、汝等衆生当信是称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経」/このようなガンジズ河の川底の砂の数ほどの諸仏が、各その本国において出す幅広く長い舌で、遍く三千大千世界を覆い、誠実なる言葉を説いている、お前たち衆生よ、必ずこの不可思議の功徳を称讃する、一切の諸仏に護られた経を信じよと。
恒河沙数(ごうがしゃすう)/ガンジズ河の川底の砂の数という意味で、無限に近い有限の数をいいます。
出広長舌相遍覆三千大千世界/幅広く長い舌を出して世界を覆って真実の言葉を説くとは、印度で古くから人々に信じられてきた婆羅門(ばらもん)の法に、舌を延ばして額の生え際に届く人は嘘を言わないと有ります。「観無量寿経」に仏の身量は高さが六十万億那由他(なゆた、億)恒河沙由旬(ゆじゅん、10キロメートル)と有ります。恒河沙が有るので実際には見当もつきません。
三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)/十億の世界をいいます。一世界には一須弥山と四大洲と四大海と七重の連山が有り、ある人が計算したところでは、ほぼ太陽系ほどの量があるそうです。通常、仏は一三千大千世界に一人と言われます。
諸仏所護念経/諸仏に護念される経とは、この阿弥陀経のことです。護ってやろうと念うことが護念であり、諸仏はただ極楽を称讃するのみではなく、その極楽を説くこの経をも護念しています。諸仏は舌を延ばして、「お前たち衆生は、この不可思議の功徳を称讃し、一切の諸仏に護念される経を信じよ。」と、このように嘘でない真実の言葉を説かれたのです。
諸仏に護念される経「舍利弗。於汝意云何‥‥諸佛所說」
「何故名為一切諸仏所護念経」/何故この経は一切の諸仏に護念された経というのであろうか。
「若有善男子善女人聞是経受持者、及聞諸仏名者、是諸善男子善女人皆為一切諸仏共所護念、皆得不退転於阿耨多羅三藐三菩提」/もしある善男子善女人が、この経を聞いて受持するか、少なくとも諸仏の名なりと聞いたならば、この善男子善女人は、皆、諸仏に護念され、阿耨多羅三藐三菩提に於いて不退転を得るからである。

不退転於阿耨多羅三藐三菩提/阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)とは、仏の境地ということです。争いの無い理想の国土を建設する揺るぎない決意と、建設が成ったときの大いなる安心をいいます。その決意に対して不退転となるのです。前に出た阿鞞跋致と同じです。
「是故舎利弗汝等皆当信受我語及諸仏所説」/この故に、舎利弗よ、お前たちは、わたしの語る言葉と諸仏の所説を、必ず信じなければならない。わたしの語る言葉とは、この阿弥陀仏の国をということです。理想の国土とは単なる理想にすぎないのではない、必ず現実に存在しているのだということです。
願を発せ「若有人已發願。今發願‥‥發願生彼國土」
「若有人已発願今発願当発願、欲生阿弥陀仏国者、是諸人等皆得不退転於阿耨多羅三藐三菩提、於彼国土若已生若今生若当生」/もしある人が、過去であろうと、未来であろうと、今であろうと、願を発して阿弥陀仏の国に生まれたいと欲するならば、この人は皆、阿耨多羅三藐三菩提に於いて不退転を得て、彼の国土に、過去であろうと、未来であろうと、今であろうと生まれるであろう。
生阿弥陀仏国/ここで阿弥陀仏の国とことわってあるからには、阿弥陀仏の国に限定されると思ってはなりません。理想の国であるならば、そこが何処であれ仏の国であり、阿弥陀仏の国であるからです。今現在生きているこの国が将来の阿弥陀仏の国でもあるのです。
「是故舎利弗、諸善男子善女人応当発願生彼国土」/この故に舎利弗よ、諸の善男子、善女人は必ず彼の国土に生まれたいと願わなければならないのである。これを聞いたからには、誰でも当然彼の国に生まれたいと思うはずです。まず、願を発すことから始めなくてはなりません。聞いて信じ、その上で願います。願わなくては何も始まらないのです。
この難信の法を説く「如我今者稱讚諸佛‥‥是為甚難」
「如我今者称讃諸仏不可思議功徳、彼諸仏等亦称説我不可思議功徳而作是言」/わたしが今、諸仏の不可思議の功徳を称讃するように、諸仏もまたわたしの不可思議の功徳を称讃してこう言っている。
「釈迦牟尼仏能為甚難希有之事、能於娑婆国土五濁悪世、劫濁見濁煩悩濁衆生濁命濁中、得阿耨多羅三藐三菩提、為諸衆生説是一切世間難信之法」/釈迦牟尼仏はよく甚だ困難な希有の事を成し遂げた。この娑婆国土の五濁(ごじょく)の悪世に於いて、劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁の中で、よく阿耨多羅三藐三菩提を得て、諸の衆生の為に、一切の世間の人の信じ難い法を、よく説くことができたと。信じ難い法とは、阿弥陀仏の国土の事です。また、阿弥陀仏の国土に於いて生まれたいと願え、そうすれば阿耨多羅三藐三菩提に於いて不退転を得て、彼の国に生まれるであろうという事です。
娑婆国土/我々が現実に住んでいるこの世界を娑婆(しゃば)といいます。娑婆は訳して忍土(にんど)といいます。耐え忍んで活きるという意味です。
五濁悪世/この娑婆は五つの濁りによって耐え難いものとなっています。(1)劫濁(こうじょく)/世界もまた生滅を繰り返します。そして汚れのない澄んだ世界から、穢れに濁った世界に向かいます。(2)見濁(けんじょく)/世界が濁れば、間違った見解が幅をきかせます。因果の道理が信じられなくなるのです。(3)煩悩濁(ぼんのうじょく)/因果を信じず、代りに貪欲、瞋恚、嫉妬が人の心の中に住み着きます。(4)衆生濁(しゅじょうじょく)/その結果、人としての能力が弱まり、福は少なく苦が多くなります。(5)命濁(みょうじょく)/寿命も短くなります。
此難信之法/何が信じ難いのか。極楽国土が信じ難い、それを成し遂げたことが信じ難い、即ち因果の理法が信じ難い。信じ難くても信じなければなりません。
「舎利弗、当知我於五濁悪世行此難事、得阿耨多羅三藐三菩提、為一切世間説此難信之法、是為甚難」/舎利弗よ、これを知っているか、五濁の悪世に生まれて、この難事を行い、阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切の世間のためにこの信じ難い法を説くということは、甚だ困難なことであるということを。
仏は、この経を説きおわられた。舎利弗と諸の比丘たちと、一切の世間の天人阿修羅等は、仏の所説を聞いて歓喜し、信じ受入れて礼をして去った。
簡単にまとめてみますと、ここより西方に十万億土を過ぎた所に、阿弥陀仏の極楽国土があり、そこでは、まさに一切の理想が成し遂げられている。それは実に一切の諸仏の称讃する所であり、人は皆、そこに生まれようと願わなくてはならない。
さて、そこに生まれる方法であるが、ある善男子善女人が、阿弥陀仏の事を聞いて、その名号を、一日でも、二日でも、‥七日でも、一心不乱に執持(しゅうじ)して忘れなければ、その人の命が終るとき、阿弥陀仏が迎えに来てくれるだろう。
そこに生まれることができれば、諸の上善の人に出会うことができるのであるから、是非それを願わなくてはならない。これが、この経の要旨です。
更に要約すれば、理想の国土は現実に存在する、それを信じよ。これがこの経の主旨です。しかしただそれだけでしょうか。理想の国土が現実に存在しているものならば、われわれは、当然、この娑婆国土も理想の国土にしたいと願わなくてはなりません。その為には何をすればよいか。次ぎに解説する無量寿経では、むしろその事に重点が置かれています。 この経は無量寿経の主旨を要約したとも言えるものです。
 
阿弥陀経2

阿弥陀経(小経)
極楽浄土のありさまや極楽にまします阿弥陀仏などを説き、生ある者たち(衆生しゅじょう)は極楽への往生を願うべきこと、さらに宇宙の全方向の諸仏もお念仏のみ教えを勧めていることを説く経典です。
同経には、サンスクリット語(梵語)原典が伝えられており、またそれからの二つの漢訳(中国語訳)やチベット語訳などがあります。このうち私たちが日ごろ読誦し、親しんでいるのは、中央アジア出身の鳩摩羅什くまらじゅう(クマーラジーヴァ)という人が西暦402年ごろに漢訳された 「仏説阿弥陀経」です。
仏説阿弥陀経
私はこのように聞きました。あるとき仏(釈尊)はインドの舎衛国(シュラーヴァスティー)という国にある祇園精舎ぎおんしょうじゃに千二百五十人の修行者とともにおられた。
仏は修行者の一人である舎利弗しゃりほつ(シャーリプトラ)に向かい、こう言われた。−
「ここから西方、十万億の諸仏の国土を過ぎたところに「極楽」と名づけられる世界がある。そこには阿弥陀仏という仏がおられ、いま現在も法を説かれている。この世界は、一切の苦がなく楽のみであるから、極楽と言われる。
極楽にはさまざまなみごとな光景で飾られている。
阿弥陀仏というのは、その仏の光明が無量であり、十方の国を照らすのに障碍となるものがないから、「限りなき光明(無量光、アミターバ)」と言われる。またこの仏と、この仏の国土にいる人民の寿命が無量であるから、 「限りなきいのち(無量寿、アミターユス)」とも言われる。
また、極楽国土には無量無数の菩薩たちがおられる。生ある者たち(衆生)は、その極楽国土に生まれたいと願いをおこすべきである。なぜなら、その国に生まれるならば、そのような善き人々とともに一所に会うことができるからである(倶会一処)。
その国へは、わずかばかりの善行によってでは、往生することはできない。阿弥陀仏の名号をしっかりと取り保って(執持名号)、あるいは一日、あるいはないし七日、一心不乱であれば、やがて人は臨終において心が顛倒せず、阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得るであろう。だから人はかの仏国土に生まれたいとの願いを起こすべきである。
さて、このように、いま私(釈尊)が阿弥陀仏の徳をほめたたえているように、東方・南方・西方・北方・下方・上方という六方の世界にまします、ガンジス河の砂の数(恒河沙数)ほどに多数の諸仏も同様に、 「あなたたち生ある者たち(衆生)はこの一切諸仏に護念された経を信じなさい」とほめたたえておられる。
あなたたちはみな、このような私(釈尊)の語および諸仏の所説を信じ受け入れるべきである。
もし人が、かの阿弥陀仏の国に生まれたいとの願いを既に起こしたならば、あるいはいま起こしつつあるならば、あるいは将来起こすであろうならば、その人はみな、この上ない正しいさとりを得ることからもはや退くことがなくなり、かの国土に既に生まれ、あるいは今生まれつつあり、あるいは将来生まれることであろう(若有人、已発願、今発願、当発願、欲生阿弥陀仏国者、是諸人等、皆得不退転、於阿耨多羅三藐三菩提、於彼国土、若已生、若今生、若当生)。だから人はかの仏国土に生まれたいとの願いを起こすべきである。
時代の濁り・生けるものの濁り・偏見の濁り・命の濁り・煩悩の濁りという五濁あるこの娑婆世界の中にあって、この上ないさとりを得て、世間の人々のためにこのような信じ難い法を説くということは、私(釈尊)にとっても、甚だ困難なことである」−
このように仏がこの経を説き終わられると、舎利弗以下の聴衆は歓喜・信受し、礼をなしてその席を去った。

この阿弥陀経について、親鸞聖人は五首の和讃(大和言葉でつづられた讃嘆のうた)でその大意を以下のようにまとめておられます。これらの和讃を見ると、親鸞聖人は、阿弥陀経から、ガンジス河の砂や塵の数ほどもの無数の諸仏が宇宙の全方向から南無阿弥陀仏の名号を称え信ずることを勧めている点を、特に汲み取っておられることが知られます。
なお、阿弥陀経には、上のように、極楽往生の行として、阿弥陀仏の名号を執持して一日ないし七日一心不乱であることを説いており、したがって阿弥陀経は表面的には自力の念仏を説いているように見られます。しかし親鸞聖人は 「無量寿経」の所説と比べて、阿弥陀経にも他力念仏の法が流れていると見られました。つまり阿弥陀経においても、お釈迦さまの本意は他力の念仏を説くことにあると親鸞聖人は理解されています。
阿弥陀経/親鸞聖人の和讃

十方微塵じっぽうみじん世界の 念仏の衆生をみそなわし
摂取せっしゅして捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる
全宇宙の無数の世界の中で、念仏している数かぎりない衆生をごらんになっていて、彼らのすべてを収めとり、捨てられることがない。それゆえ阿弥陀仏、すなわち「一切衆生を、妨害されることなく収めとりたもうみ仏」と名づけたてまつる。

恒河塵数ごうじゃじんじゅの如来は 万行まんぎょうの少善きらいつつ
名号みょうごう不思議の信心を ひとしくひとえにすすめたり
ガンジス河の砂や、塵の数ほどにもおわしますみ仏たちはすべて、自力の修行を、善の少ないものとして嫌われる。阿弥陀仏の徳のすべてが含まれる不思議なる念仏をのみ信じよと、こぞって勧めておられる。

十方恒沙ごうじゃの諸仏は 極難信ごくなんしんののりをとき
五濁ごじょく悪世のためにとて 証成護念しょうじょうごねんせしめたり
全宇宙に数多おわしますみ仏たちは、きわめて信じ難い阿弥陀仏の他力念仏の教えを説かれた。五つの濁りに汚れた悪世界には、この教えを疑い謗る者のみが多い。み仏たちはそれゆえに、この教えの正しさを証明し、念仏する者を護られる。

諸仏の護念証成ごねんしょうじょうは 悲願成就のゆえなれば
金剛心をえんひとは 弥陀の大恩報ずべし
すべてのみ仏が念仏する者を護りたまい、かならず往生できると証明されるのは、阿弥陀仏の第十七の、大悲の願が成就したことの現れである。それゆえに、金剛のように堅い信心を得たならば阿弥陀仏の大いなる恩を報謝せよ。

五濁悪時悪世界 濁悪じょくあく邪見の衆生には
弥陀の名号みょうごうあたえてぞ 恒沙ごうじゃの諸仏すすめたる
五つの濁りに汚される悪時・悪世界に住む、よこしまな考えをいだく濁悪の人びとのために、だれにもできる「南無阿弥陀仏」という念仏を、往生の行として与えられた。数多のみ仏たちも、念仏往生をすすめられる。
 
無量寿経上巻

序分
聴聞の声聞比丘「我聞如是。一時佛住王舍城耆闍崛山中‥‥上首者也」
わたくしは、このように聞いております。仏は、ある時、王舎城の耆闍崛山の中に住まっておられ、大比丘たちが一万二千人、一緒であった。王舎城(おうしゃじょう)は摩竭陀国(まがだこく)の王都、耆闍崛山(ぎじゃくっせん)は王舎城近郊の山頂にある精舎(しょうじゃ、寺院)です。
「一切大聖神通已達」/この大比丘たちは、一切が皆大聖であり、神通はすでに達していた。
この時、釈尊と一緒に王舎城の耆闍崛山に住していた比丘たちは、一切が大聖(だいしょう)であり、神通に達していました。この人たちのことを声聞(しょうもん)、仏の声を聞いた者と呼び、大乗の者から見れば軽蔑されるべき者たちでした。何故ならば、自らの心を安心させることのみを目的として、釈尊に従っていたからです。
しかし、皆、煩悩を滅して苦を離れ生死を離れていましたので、大聖、或は阿羅漢(あらかん、覚った者)と呼ばれて尊敬の対象でもあります。なお、大聖も阿羅漢も、仏の称号であって、仏と、ある意味では同等と見られていました。
「尊者了本際‥」/尊者(そんじゃ)は阿羅漢を呼ぶときの尊称です。以下、阿羅漢の名前を挙げて、これらは、皆、上首の者たちであるとしています。これ等は、皆、かつて実在した人たちで、その多くは事績まで分っています。
聴聞の菩薩「又與大乘眾菩薩俱‥‥現成等覺」
また、大乗の菩薩たちも、一緒であった。ここでは、若干の菩薩の名と共に、長々と、その功徳が挙げられます。これ等の菩薩は、皆、実在する人たちではありませんし、何のような人であるかも、僅かの例外を除いて分っておりません。
以下が、その菩薩の功徳です。
「皆遵普賢大士之徳」/皆、普賢大士の徳に遵(したが)う。普賢大士とは、通常、普賢(ふげん)菩薩と呼び、文殊菩薩とともに釈迦牟尼仏の脇士として仕えていますが、文殊が智慧を表すのに対し、普賢は慈悲を表しています。ここに集まった無数の菩薩は、皆、慈悲行の実践を遵守しているということです。
「具諸菩薩無量行願」/諸の菩薩の無量の行と願とを具える。菩薩の願とは、世界を浄めて一切の人々が平和に暮すことです。菩薩は、その為に無量の六波羅蜜を修めなくてはなりません。これ等の菩薩は、その一切を具えています。
「安住一切功徳之法」/一切の功徳の法に安住する。安住するとは、心をそこに落ち着けることです。功徳とは生き物すべてに楽を与えて苦を抜く力をいいます。この菩薩たちは、衆生すべての為の一切の功徳を身に着けて、その地位に安住しています。
「遊歩十方行権方便」/十方の世界に遊び歩いて、権謀と方便を行う。一つの世界を浄めおわれば、また次の世界に行って浄めます。楽々と行うので遊び歩くといいます。権方便は権謀(はかりごと)と方便(てだて)を自在に駆使することです。
「入仏法蔵究竟彼岸」/仏の法蔵に入って彼岸を究竟する。彼岸は仏の境地、究竟(くきょう)するは極める。仏法に於いてすでに仏と同じ境地を極めていることをいいます。
「於無量世界現成等覚」/すでに、無量の世界に於いて仏と等しい覚りを成した。またしても、仏と同等であるといいます。
聴聞の菩薩「處兜率天‥‥成最正覺」
ここからは、釈尊の事績を顕して、この菩薩たちも、皆、同じであるといい、ふたたび菩薩とは仏と同等であり、同体であることを重ねて強調しています。大乗に於ける菩薩とは、仏の働きそのものをいうのです。
それではその内容を見てみましょう、
「処兜率天‥」/兜率天で正法を説いていたが、天から降り母の胎内に入る。
「従右脇生‥」/右脇から生まれて七歩歩き、光明を耀かして、十方の無量の仏土を照らし、世界を六種に震動させる。
「挙声自称‥」/声を挙げて、自ら「吾は世の無上の尊となるであろう。」と称えれば、帝釈天と梵天は侍り、天人は皆敬って仰ぐ。
「示現算計‥」/算術、文芸、武術、乗馬に優れることを現し、仙術、医術等を習い、多くの書籍に通じ、後園に遊び、武芸を楽しむ。
「現処宮中‥」/世間の楽しみ、女色と美食を盛んに楽しんでいたが、老人病人死人を見て、世の無常を悟った。
「棄国財位‥」/国と財と位を棄て、山に入って道を学ぶために、衣服、白馬、宝冠と瓔珞を還し、法服を着て、鬚と髪を剃り除く。
「端坐樹下‥」/樹下に端座して六年の間、世間の修行者と同じように、断食などの苦行をした。
「現五濁刹‥」/このように、五濁の世間に姿を現わし、群生(ぐんしょう、衆生)と同じようにして、煩悩の塵垢が自らにも有ることを示したのであるが、その塵と垢とを黄金の流れの中で洗い落とせば、天は喜んで樹の枝を押えて下に垂らし、菩薩はそれを掴んで水から出る。六年の苦行により身体の消耗した菩薩は、消耗した身で覚りを得るのは困難であると知り、苦行を捨てて清流の中に沐浴します。さて六年の苦行の垢を洗い落としてさっぱりし、水から出ようと思いますが、力が尽きて出られません。それを見た天は、河の岸辺に生える樹木の枝を押して垂し、菩薩はそれを掴んで河を出ることができました。
五濁(ごじょく)/この娑婆は五つの濁りによって耐え難いものとなっています。(1)劫濁(こうじょく)/世界もまた生滅を繰り返します。そして汚れのない澄んだ世界から、穢れに濁った世界に向かいます。(2)見濁(けんじょく)/世界が濁れば、間違った見解が幅をきかせます。因果の道理が信じられなくなるのです。(3)煩悩濁(ぼんのうじょく)/因果を信じず、代りに貪欲、瞋恚、嫉妬が人の心の中に住み着きます。(4)衆生濁(しゅじょうじょく)/その結果、人としての能力が弱まり、福は少なく苦が多くなります。(5)命濁(みょうじょく)/寿命も短くなります。
「霊禽翼従‥」/鳥たちも、両の翼のようにぴったりと菩薩により添い、道場まで後を逐う。
「吉祥感徴‥」/吉祥(きっしょう、人名)は予兆を感じて草を刈って敷き、菩薩はそれを哀れんで受けると、菩提樹の下に坐る。
「奮大光明‥」/大光明が放たれると、魔はそれを知って、官属を引連れて試すが、菩薩は智慧の力で、これを制し降伏させる。
「得微妙法‥」/菩薩は、ついに微妙の法を得て最正覚を成しとげ、仏と成る。
聴聞の菩薩「釋梵祈勸請轉法輪‥‥在意所為」
菩薩は、帝釈天と梵天に請われ、いよいよ法輪を転じ初めます。
「以仏遊歩仏吼而吼扣法鼓吹法螺執法剣建法幢震法雷澍法雨演法施」/仏の遊歩と仏吼とをもって、法の太鼓を打ち、法の貝を吹き、法の剣を執り、法の幢(どう、標柱)を建て、法の雷を震わせ、法の雨でうるおし、法の施しを演べます。皆、説法の様子を譬えています。仏の遊歩(ゆぶ)、仏の遊行、諸方に旅をして説法することです、仏吼(ぶっく)、仏の獅子吼(ししく)、仏の説法する声は獅子の吼え声のように、人々の心底に届きます。
「常以法音覚諸世間‥」/常に、法音を以って諸の世間を覚まし、光明は普く無量の仏土を照らし、一切の世界は六種に震動し、魔界を掴んで魔の宮殿を揺すり動かしますと、衆魔は、恐れ戦いて帰服しない者はいません。邪見の網を掴み裂いて煩悩の苦しみを散らし、厳かに法の城を護って法門を広く開き、世間の汚れを洗い濯いでまっ白にし、光に仏法を溶融して世間に流れ出させ、正しく化導し、諸国に托鉢して豊かな膳部を獲得し、功徳を貯えて福田を示し、福田とは布施の種子を蒔いて将来に福の稲を刈り取る田をいいます、笑って悦び、諸の法の薬で三つの苦を治療する。三つの苦とは、(1)苦苦(くく)、肉体的な苦、(2)壊苦(えく)、肉体等の楽しむ所が壊れる苦、(3)行苦(ぎょうく)、万物の無常を感ずる苦をいいます。
「顕現道意無量功徳」/道意と無量の功徳を顕現する。道意とは菩提心、世間を浄めたいという心です、功徳は衆生を救う力をいいます。道意と無量の功徳とを世間に明らかに現わします。
「授菩薩記成等正覚」/菩薩に、将来必ず等正覚と成ると記を授けます。等正覚は仏、記は記録することで、確実であることを予言することです。
「示現滅度拯済無極‥」/滅度を示現して拯済(じょうさい)すること極まり無し。滅度は涅槃に入ることです、自ら涅槃に入って、人々に無常を教えることをいいます。拯済は救済です。このように菩薩は、諸の煩悩を消し除いて多くの功徳の本を植え、一切の功徳を具足して、その功徳の微妙なることは量りがたい。諸仏の国に遊んで、普く道の教えを現し、修行の内容は清浄で穢れが無い。その教えとは、譬えば幻術師が変身して男となり、女となり、変身できない物が無いように、本となる学問は明了であって、意は為すべき所に在る。為すべき所とは衆生済度をいいます。
聴聞の菩薩「此諸菩薩亦復如是‥‥一時來會」
ここまで普賢大士の徳を述べてきたのであるが、ここに集まった諸の菩薩についても、まったく同様である。
「学一切法‥」/一切の法を学んで練達し、覚りの世界に安住し、感化しない者は無く、無数の仏土に悉く普く現れ、未だかつて慢心することも放恣であることもなく、衆生を哀れみ、このようなことの一切を具足している。この一連の文章は、皆悉くこれらの菩薩はかつて仏であった、或は仏と同等であったと言っています。仏は、自ら行動するときに菩薩と呼ばれます。
「菩薩経典究暢要妙‥」/菩薩の経典は、その要妙を究暢する。菩薩の経典とは大乗の経典をいいます、その微妙な要旨を究めて達している。究暢(くちょう)とは究め尽くして差し障りがなく伸びやかであるということです。名称は十方にとどろき、無量の諸仏は、皆共に護念し、仏の住する所は、皆すでに住し、大聖の立てる所は、皆すでに立てた。住する所は、心の在りよう、立てる所は、教法、大聖は仏をいいます。如来の導化は、皆、広く宣べ布く。導化(どうけ)とは教えのことです。諸の菩薩の為に大師と作り、甚だ深い禅定と智慧で衆生を開導する。禅定(ぜんじょう)は心を定めて散乱させないこと、開導(かいどう)は真理の扉を開いて導き入れることです。諸法の本性と衆生の相に通達する。諸法(しょほう)は万物、衆生の相は、大きくは地獄、餓鬼、畜生、人間、天上をいい、細かく言えば、個々の衆生の相の一一を言います。諸国の衆生の智慧を明了にして諸仏を供養する。諸仏を供養するとは、単に衣服、飲食、臥具、湯薬に限りません、諸仏を助けて衆生を化導し、智慧を開くことも供養です。善く学んで畏れること無く、万物は幻のようなものであると明らかにして、魔の網を引き破り、諸の纏縛を解く。纏縛(てんばく)は煩悩のことです、人に纏い付いて苦しめ、生死の苦しみに縛りつけます。
「超越声聞縁覚之地」/声聞縁覚の地を超越する。声聞(しょうもん)は仏の声を聞いて覚る者、縁覚(えんがく)は花が飛んだり葉が散ったりする外縁に因り、無常を覚り、煩悩の迷いを断って道理を証す者、また十二因縁の理を覚って迷いを断つ者も縁覚といいます。共に自らの覚りのみを求めるので小乗と貶められます。
「得空無相無願三昧」/空、無相、無願三昧を得ている。空三昧、無相三昧、無願三昧は三三昧といい、菩薩の心の状態を表します。(1)空三昧(くうさんまい)とは、我が身心はない、(2)無相三昧(むそうさんまい)とは、万物は固有の相なく、彼我も此我もなく、一切は一相である。(3)無願三昧(むがんさんまい)とは、一切の行為は願ってするのではなく、自然に行う。菩薩は、このように我も彼も無いと自然に信じて一切の善行を行います。
「善立方便顕示三乗」/善く方便を立て、三乗を顕示する。方便(ほうべん)とは衆生を救う手だて、三乗とは声聞乗、縁覚乗、大乗をいいます。乗とは乗り物のことです。仏は衆生を救う手だてとして、三乗を現されました。仏は、最初に声聞の乗り物である四諦(したい)を顕し、次いで縁覚の乗り物である十二因縁を顕し、最後に一切の衆生を乗せる大乗を顕されたのです。四諦とは、(1)この世は苦である、(2)苦の原因は愛著することにある、(3)苦の原因を断てば苦はなくなる、(4)その方法は正しい生活をすることである。十二因縁とは、人が我が身心は存在すると盲信するのは、すべて無明という根本煩悩のせいであると、十二段階の因縁を示したものです。無明とは、生に執著することをいいます。
「於此中下而現滅度亦無所作亦無所有、不起不滅」/この中と下とに於いては滅度を現わすが作す所はなく、有する所も無く、不起不滅である。この中と下に於いて、中は縁覚、下は声聞を指します、この中と下の為に涅槃を現したのであるが、実は何も作さず、何も起らなかったのです。要するに不生不滅なのです。
「得平等法‥」/平等の法を得て、無量の総持と百千の三昧を具足して成就している。何故、不生不滅かというと、一切は平等であり彼も此も無く、我も彼も無いと知り、無量の総持と百千の三昧とを具足して成就しているからである。総持(そうじ)は忘れないこと、三昧は一心に種種の衆生を救う行いをすること、衆生を救うことを忘れることなく一心になって他事を考えないということです。総持も三昧も不可思議な超常体験をいうのではありません。
「諸根智慧広普寂定深入菩薩法蔵得仏華厳三昧‥」/諸根と智慧とは広く普く寂定し、深く菩薩の法蔵に入って仏の華厳三昧を得る。諸根(しょこん)、即ち肉体的能力と智慧とは広く普く寂定する。寂定とは心が波立たないこと、人は自己、或は自己に関連することに対すると心が波立ちます。平等の法の中では心は波立ちません。深く菩薩の法蔵に入る。菩薩の法蔵とは大乗の経典をいいます。仏の華厳三昧を得た。華厳三昧とは、一切の善行は一一世界の隅々にまで行き渡るとする三昧です。一つの善行はそこに働くだけでなく、世界の隅々にまで因縁することをいいます。一切の経典を演説し、深い禅定に入り、現在する無量の諸仏を目の当たりに見て、一念の間に世界を周遍し、劇しく苦しむ者、苦が逼って修行できない者、苦が未だ逼っていない者、これ等の者たちを救い、世間の実際を分別して顕示します。
「得諸如来辯才之智入衆言音開化一切‥」/諸の如来の辯才の智慧を得て、衆の言語を知り、一切の衆生を開化します。この方法は世間のあらゆる法に勝り、心は常に明らかで世を救う道に迷いなく、一切の万物に於いて意のままに自在です。
「作不請之友荷負群生‥」/不請の友と作り、群生を荷いこれを重任となす。不請(ふしょう)の友とは、請われなくても親切にすることです。群生(ぐんしょう)は衆生、群がって生きるので群生といいます。重任(じゅうにん)は重荷です。呼ばれなくても衆生の近くに寄り、それに代って重荷を荷うということです。
「受持如来甚深法蔵護仏種性常使不絶」/如来の甚だ深い法蔵を受持して、仏の種性を護り、常に絶えさせない。仏法を護り伝えることは菩薩の大使命です。
「興大悲愍衆生演慈辯授法眼」/大悲を興して衆生を哀れみ、慈の辯を演べて法眼を授ける。法眼(ほうげん)とは、衆生を救う為の一切の法門を見つける菩薩の眼をいいます。
「杜三趣開善門‥」/地獄、餓鬼、畜生への趣(みち)を閉ざし、善い門を開きます。請われなくても法を衆生に施すが、それは孝子が父母を敬愛するように畏る畏る行います。
「悉獲諸仏無量功徳」/このような諸仏の無量の功徳を悉く獲得した無量の菩薩は、一時にこの場に来て会う。
正宗立願分
世尊に阿難が問う「爾時世尊。諸根ス豫‥‥願樂欲聞」
ある日、阿難にはことさらに世尊の顔色と姿勢が勝れて見えました。阿難は世尊に、何うしてそのようでございましょうか?と申し上げますと、世尊はその阿難の問いを悦ばれました。
阿難は心の中でこのように念っていましたと、世尊に言います。
「今日世尊住奇特法、今日世雄住仏所住、今日世眼住導師行、今日世英住最勝道、今日天尊行如来徳、去来現在仏仏相念、得無今仏念諸仏耶、何故威神光光乃爾」/今日、世の尊き方は素晴らしい法の中に住(とど)まっていられます。今日、世の雄々しき方は仏の住まられる所に住まっていられます。今日、世の人の眼である方は導師の行の中に住まっていられます。今日、世の勝れた方は最勝の道に住まっていられます。今日、天の尊き方は如来の徳を行っていられます。過去未来現在の仏と仏は相い念じていられます。今の仏も諸仏を念じずにいられましょうか。そうでなければ、何故に威神が、かくも光輝いているのでしょう。
「今の仏も諸仏を念じずにいられましょうか。」、まさしく世尊は他の仏のことを念じていられました。この一言によって、世尊は、無量寿仏のことを説くことにされたのです。
「善哉阿難‥」/大変結構である、阿難よ、お前のその問いは深い智慧で衆生を哀れむことから出たものである。如来は尽きることのない大悲で三界を哀れみ、世に出て法を説くのであるが、それに出会うことは、甚だ難しく無量億劫にも値い難く見難い。今お前が問うて如来の答える所は、甚だ多く一切の諸天人民を饒益(にょうやく、利益)し開化するであろう。阿難よ、まさに知るがよい、如来は、その智慧が量りがたく、導御(どうぎょ、教導)する所も多い、如来が智慧でもって観察すれば、何事も隠すことができず、また一食にて無量無数の劫に命を住めることもできる。如来は常に諸根が悦予(えつよ、ゆったりと楽しむ)して、姿形が変ることもなく、顔の色が異なることもない。何故ならば、如来の禅定と智慧はのびのびとして極まりなく、一切の事物において自在であるからである。
「阿難諦聴今為汝説、対曰唯然願楽欲聞」/阿難よ、よく聴け、今お前の為に説いてやろう。答えていう、どうかお説きください、願わくは楽しんで聞こうと思います。世尊は、阿難の如来に対する純真な気持ちに報えて、この無量寿経をお説きになります。阿難の問いが無ければ、この無量寿経は存在しません。仏は何かのきっかけが無くては法をお説きにならないからです。仏には値い難く、法もまた聞難いということです。
久遠の過去の無数の仏「佛告阿難。乃往過去‥‥諸佛皆悉已過」
昔々のその昔、無量不可思議無数劫に、錠光(じょうこう)如来が世に出て、無量の衆生を教化し度脱された。そしてその如来が滅度されると、次々と仏が現れて、そして滅度された。ここで五十二名の仏の名が列挙されますが割愛します。
法蔵、道の心を発す「爾時次有佛。名世自在王‥‥忍終不悔」
そして世自在王仏が世に出られたとき、一人の王が仏の説法を聞いて心を発し、国、財、位を捨てて出家し、法蔵と号した。そして仏の所に詣でて仏に恭敬して、仏の素晴らしいこと、自分も是非仏に成って衆生の為に尽くしたいと誓って説きます。
「光顔巍巍威神無極‥」/仏の顔は神々しいばかりに威神極まりなく、日月摩尼珠もその光を隠してしまいます。
「正覚大音響流十方‥」/仏の説法は十方にとどろき、持戒、多聞、精進、三昧、智慧、威徳は並ぶ者もおりません。
「深諦善念諸仏法海‥」/諸仏の法海を深く諦め善く念い、深奥を窮めて、無明、貪欲、瞋恚は永く有りません。
「願我作仏斉聖法王‥」/願わくは、わたくしも仏と作って、世尊と等しく、生死を渡り、解脱して、布施、禅定、持戒、忍辱、精進、このような三昧と智慧とは、世尊の上と為らんことを。
「吾誓得仏普行此願‥」/わたしは誓って仏と成り、この願にあるように行い、一切の恐怖にふるえる衆生を安らかにし、諸仏の数がどれほどであろうと、すべて供養して道を求め、退くことはありません。
「譬如恒沙諸仏世界‥」/諸仏の世界が恒沙(ごうじゃ、ガンジズ河の川底の砂の数)ほどあろうとも、悉くをわたしの光明で照らしてみせましょう。
「令我作仏国土第一‥」/もしわたくしが仏と作ったならば、国土の美しさは第一で、衆生も絶妙に美しく、道場は超絶して悟りやすい。国は涅槃のように並ぶ者も無く、わたしは必ず一切の衆生を度脱することでしょう。国土と衆生と道場について誓います。ここで言う涅槃は煩雑でない清浄なという意味です。
「十方来生心悦清浄‥」/十方から来て生まれる者は、心が悦びで清浄となり、わたしの国に来ればすぐに快楽安穏となります。
「幸仏信明是我真証‥」/幸(ねが)わくは、仏、信じ明かしたまえ、これは私の真の証しです。願を発して彼の国に於いて欲する所を努力し精進いたします。
「十方世尊智慧無礙‥」/十方にまします智慧無礙の世尊よ、どうかこの世尊に私の心の中を知らしめたまえ。たとい、私の身は諸の苦の毒の中に止まってても、わたくしは精進して忍耐し、ついに悔むことはありません。
仏、法蔵の為に二百十億の仏国を説く「佛告阿難‥‥如我所願當具說之」
「願仏為我広宣経法我当修行摂取仏国清浄荘厳無量妙土‥」/上のように法蔵は誓った後に、仏に、「仏国を建設して清浄に荘厳したい」ので、その方法を宣べたまえと願います。これに対し仏が、「それには何のように荘厳したいのか、先ずそれから知らねばならない」と説きますと、法蔵は、「それは余りにも深い問題で、わたしにできることではございません。何うか世尊、諸仏如来が浄土を造られたその行をお説きください。」と申します。その時、世自在王仏は、法蔵に、「譬えば、大海を枡で量るのにかかる劫数を経ても、なお底を窮めて宝を得ようとするほどの決心と精進とが有れば、求めて得られないことがあろうか。」と教えて、
「二百一十億諸仏刹土天人之善悪国土之粗妙‥」/ただちに二百一十億の諸仏の国土、天人の善悪、国土の粗妙を説き、法蔵の願いのままに、それを現わして見せられた。
「時彼比丘聞仏所説厳浄国土皆悉覩見‥」/法蔵比丘は、仏の説かれた諸仏の国土の厳浄を聞き、すっかり観察して、無上殊勝の願を発した。その心は寂静として、心は何にも著せず、一切の世間にも及ぶ者が無く、きっちり五劫の間、思惟して仏国を荘厳することと、その為の清浄の行を摂取し続けた。これを五劫思惟(ごこうしゆい)といいます。何のように我が仏国を荘厳しようか、その国土は何うであるか、その衆生は何うであるか、その道場は何のようであれば良いのかを、非常に長い間、思惟されたのです。
「阿難白仏‥」/この時、阿難に疑問が起こりました。五劫も考えられたとは、一体世自在王仏の世界では人の寿命は何ほどであろうかと。仏は答えられます、その仏の寿命は四十二劫であったと。
「時法蔵比丘摂取二百一十億諸仏妙土清浄之行‥」/その時、法蔵比丘は二百一十億の諸仏の妙土を造るための清浄の行をすっかり摂取しおえて、仏に申した、「わたしは、すでに仏土を荘厳する清浄の行を摂取してしまいました。」と。仏は法蔵に教えられます、「それならば、今すぐにそれを宣べて、一切の大衆を悦ばせよ。多くの菩薩がそれを聞いて、無量の大願を満足させることに挑むことだろう。」と。比丘は仏に言います、「どうか聴いて察したまえ。わたしの願う所を具に説いてみましょう。」と。
法蔵の四十八の願「設我得佛。國有地獄餓鬼畜生者。不取正覺‥‥於諸佛法不能即得不退轉者。不取正覺」
以下が、有名な法蔵菩薩の四十八願というものです。これらの願は、皆、「もし、わたしが仏に成ることができたとき、‥でなければ、仏に成ったとは思いません。」という形を取っています。
その第一の願は、その国には地獄等が無いことを誓います。
「設我得仏、国有地獄餓鬼畜生者、不取正覚」/もし、わたしが仏に成ることができたとき、国に地獄餓鬼畜生が有ったならば、仏と成ったとは思いません。
「設我得仏、国中人天寿終之後、復更三悪道者、不取正覚」/もし、わたしが仏に成ることができたとき、わたしの国の人天が命終った後に、再び三悪道に還るようならば、仏と成ったとは思いません。三悪道が無いのですから、還りようもありません。
「設我得仏、国中人天不悉真金色者、不取正覚」/もし、わたしが仏に成ることができたとき、国中の人天が、悉く真金色の肌の色をしていなければ、仏と成ったとは思いません。今でもそうですが、印度では肌の色が白いほど尊いと思われています。その故にこの国では、一人残らず、皆、真金色ということになりました。
「設我得仏、国中人天形色不同有好醜者、不取正覚」/もし、わたしが仏に成ることができたとき、もし国中の人天に容貌等に好醜が有ったならば、仏であるとは思いません。肌の色と併せて好醜も人の思い通りにならない不公平です。
「設我得佛。國中人天。不悉識宿命。下至知百千億那由他諸劫事者。不取正覺」/もし、わたしが仏に成ることができたとき、国中の人天の悉くが宿命を識らなければ、それがたとえ百千億那由他の諸劫以前の事を識らないのであったとしても、仏に成ったとは思いません。宿命通、自他の過去世を知る能力です。阿弥陀経に「倶に一処に会うことを得る。」とありますが、過去親しんだ者に会うことができたならば、どんなにか嬉しいことでしょう。しかし折角会えたのに互いに全然憶えていなければ、意味がありません。また、宿命を知るということは、因果の道理を明らかに知るということにも関連してきます。この事が天眼通、天耳通などよりも上位にある理由です。因果の道理は仏教そのものと言ってよいほどに、非常に重要な真理なのです。
〜(9)/以下は天眼通、天耳通、他心智通、神足通の五通を具えることを誓います。身心の能力を極限まで自由にできれば、人の不満は相当減ります、また菩薩が他国の衆生を済度するにも有用です。
「設我得仏、国中人天、若起想念貪計身者、不取正覚」/国中の衆生が妄想を起して、身心の安楽を計り、貪るようであれば、仏であるとは思いません。と、煩悩を滅することを誓い、(11)国中の衆生は必ず涅槃に至ることを誓います。
「設我得仏、光明有能限量、下至不照百千億那由他諸仏国者、不取正覚」/自らの光明には限量が無く、少なくとも百千億那由他(なゆた、10億)の諸仏を照らすことを誓い、(13)自らの寿命も限量が無く、少なくとも百千億那由他劫を超えることを誓い、(14)声聞の数に限量が無いことを誓い、(15)国中の人天の寿命に限量の無いことを誓います。
「設我得仏、国中人天、乃至聞有不善名者、不取正覚」/国中の人天は、不善(ふぜん)という言葉さえ聞いたことが無いと誓います。不善とは悪ということで、一般に殺生、偸盗、邪淫、妄語、両舌、悪口、綺語、貪欲、瞋恚、邪見に集約されます。
「設我得仏、十方世界無量諸仏、不悉諮嗟称我名者、不取正覚」/諮嗟は通常咨嗟と作り褒め讃えることです。十方の世界の無量の諸仏が我が名を称(とな)えて褒め讃えるであろう、もしそうでなければ仏であるとは思わない。五劫の間、研究に研究を重ねたからには、我が国が十方の世界に勝れること必定である。その功徳を人々が知ったとき、驚いて我が名を呼ばないことがあろうか。もしアインシュタインにでも道でばったり出会えばどうでしょうか。驚いて「あっ、アインシュタインだ!」と言いませんか?これを言っているのです。
「設我得仏、十方衆生至心信楽欲生我国、乃至十念若不生者、不取正覚、唯除五逆誹謗正法」/十方の衆生が真心から信じ楽しんで我が国に生まれたいと欲するならば、それが僅か十たびの念いであろうとも、必ず生まれることができます。もしそうでなければ仏であるとは思いません。ただ五逆の者と正法を誹謗する者とを除きます。これは我が国では王本願と呼んで特に珍重されているものです。ここで言う「十念」が十回声に出して言う念仏かどうか、文脈からは「至心信楽欲生我国」を指しているようですが、ただそれが称名念仏に通じないとまでは言えません。
「設我得仏、十方衆生発菩提心修諸功徳、至心発願欲生我国、臨寿終時、仮令不与大衆囲遶現其人前者、不取正覚」/十方の衆生が菩提心を発し、菩提心とは一切の衆生を救おうという堅い決心です、諸の功徳を修め、功徳とは衆生を救うための力、その力を修行して、心から願を発して、我が国に生まれたいと欲するならば、その人の臨終に当って、わたしは大衆に囲遶され、必ずその人の前に現れて迎え入れよう。もしそうでなければ、仏であるとは思わない。前の願では凡人が我が国に生まれたいと欲し、この願では菩薩が生まれたいと欲します。このような菩薩であれば、大喜びで迎え入れようが、大衆に囲遶されてです。眷属を大勢引連れて迎えに往きますの意です。
「設我得仏、十方衆生聞我名号、係念我国殖諸徳本、至心迴向欲生我国、不果遂者不取正覚」/十方の衆生が我が名を聞き、念いを我が国に懸けて、諸の徳本を植え、真心からその善行を振り向けて、我が国に生まれることを欲するならば、その思いは必ず叶う。もしそうでなければ仏であるとは思わない。徳本は人の為になる善い行い、これをしてその因縁で我が国に生まれようと思うならば、その願いは必ず叶うことをいいます。
「設我得仏、国中人天、不悉成満三十二大人相者、不取正覚」/国中の人天は、三十二の大人相を成し遂げます。いつかは必ず仏に成ることをいいます。
「設我得仏、他方仏土諸菩薩衆来生我国、究竟必至一生補処」/他方の仏土で修行している諸菩薩であっても、我が国に来て生まれたならば、いつかは必ず一生補処に成ります。一生補処(いしょうふしょ)とは次の時には仏に成る菩薩です。ただしこの文はそのままは受け取れません、菩薩はその本国に於いて衆生を救う所にその存在理由があり、一生補処とはその本国に於ける化導がすでに完成間近であることを意味するからです。ここでは他方の国土の菩薩が、衆生を救うための力をこの国土にて得たいと思っているのです。この菩薩たちは、この国で力を得たならば、本国に於いて衆生を化導し、いづれ理想の国土を建設した後には、仏と成りますが、更に本国以外の国を浄めたいと欲する菩薩は、仏と成って安閑とするわけにはまいりません。これ等の菩薩は、次の文によって除かれます。
「除其本願自在所化為衆生故、被弘誓鎧積累徳本度脱一切、遊諸仏国修菩薩行供養十方諸仏如来、開化恒沙無量衆生使立無上正真之道、超出常倫諸地之行現前修習普賢之徳、若不爾者不取正覚」/ただし次の場合は除きます。「その本願が自ら化する所に在り、衆生の為の故に、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱して、諸仏の国に遊び、菩薩の行を修めて十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道に立たしめ、常の倫(ともがら)の諸地の行を超出して、現前に普賢の徳を修習す。」その本願が自ら化する所に在り、本願とは菩薩が衆生を救って理想の国土を建設しようと願うことです。化する所とは衆生をいいます。以下、弘く誓って、徳本を積み、徳本とは善行であり衆生を救うことです、一切を度脱し、度脱は導き救うこと、諸仏の国に遊んで菩薩の行を修め、十方の諸仏如来を供養して、諸仏如来を供養するとは、衆生を救って如来の手助けをすること、無量無数の衆生に真実の目を開かしめて悪から善に変化させ、無上正真の道に立たしめ、常の倫(ともがら)の諸地の行を遥かに超えて、衆生の前に現れて普賢の徳を修習する。諸地とは謂わゆる十地、菩薩の修行の階梯です、通常であればすでに仏に成っているほどの修行を過ぎてもなお、衆生の前に現れて普賢の徳、すなわち慈悲の行を行う。このような菩薩は、一生補処と成ることはありません。
「設我得仏、国中菩薩承仏神力供養諸仏、一食之頃不能遍至無量無数那由他諸仏国者、不取正覚」/我が国の菩薩は、仏の神力の助けを承けて、諸仏を供養します。一食の間に無数の諸仏の国に遍く至ることができなければ、仏であるとは思わない。極楽国には敢て救わなければならない衆生は非常に少ない、そこで無量無数那由他の諸仏の国に往き、その国の仏を助けます。この菩薩たちは力が勝れているが故に、それが一食の間の事であるのです。那由他は無数を意味します。
「設我得仏、国中菩薩在諸仏前現其徳本、諸所求欲供養之具、若不如意者不取正覚」/我が国の菩薩が諸仏の前に在るときは、その徳本を現わして、諸の必要な供養の具を持参します。供養の具とは、飲食、衣服、臥具、湯薬をいいます。
我が国の菩薩は、仏と同じ智慧でもって法を説くことができる。(26)我が国の菩薩は金剛力士の強い身体を持つ。(27)我が国の人天および一切の万物は厳かで浄く光りがあり言いようもなく美しい。その諸の衆生の数は誰にも分らない。(28)道場樹は無量の光と色があり高さは四百万里あることを、我が国の菩薩の最も力の少ない者であっても知見しない者はない。(29)我が国の菩薩が経法を受持し読誦すれば、辯才と智慧を得ないことはない。(30)我が国の菩薩の智慧と辯才とは限量が無い。(31)国土は鏡のように清浄であり、十方の一切の無量の諸仏の世界を映しだすことができる。
「設我得仏、自地以上至于虚空、宮殿楼観池流華樹国土所有一切万物、皆以無量雑宝百千種香而共合成、厳飾奇妙超諸人天、其香普薫十方世界菩薩聞者皆修仏行、若不爾者不取正覚」/地より虚空に至るまでの宮殿、楼観、池流、華樹、国土のあらゆる一切万物は、皆、無量の雑宝と百千種の香が合成したもので、厳かに飾り立てられ絶妙で、諸の人天の造った物を超えている。一切の万物は自然に合成したもので、人天の所造ではない。その香は、普く十方の世界に薫り、菩薩が聞けば、皆、仏の行を修める。香を聞いて心が浄まることをいいます。
十方の無量の諸仏の世界の衆生の類が、我が光明に触れるならば、その身心は柔軟になり人天を超える。
「設我得仏、十方無量不可思議諸仏世界衆生之類、聞我名字、不得菩薩無生法忍諸深総持者、不取正覚」/十方無量の諸仏の世界の衆生の類が、わたしの名前を聞いたならば、菩薩の無生法忍と諸の深い総持(そうじ)とを得る。菩薩の無生法忍とは生滅の法を遠離したという確信、総持は菩薩の願行を忘れないこと。以下、我が名字を聞いてが続くが、名字を聞くことによって因縁が起り、このように為るをいう。
「設我得仏、十方無量不可思議諸仏世界、其有女人聞我名字、歓喜信楽発菩提心、厭悪女身、寿終之後復為女像者、不取正覚」/十方の無量の諸仏の世界で、ある女人がわたしの名前を聞いて、歓喜し信じ楽しんで、菩提心を発し、女身を厭い憎んでいるのに、命が終った後に再び女身であるようであれば、仏であるとは思わない。菩提心を発すとは、仏に成ろうという心を発すこと、一般に女は仏に成れないと言われていたことによります。命の終わりの後に何処に生まれようと、女身を得ないのであって、敢て我が国に生まれてとするのは誤り。菩提心は劣悪の世界にこそ必要なものであり、清浄の世界に於いては無用です。
「設我得仏、十方無量不可思議諸仏世界諸菩薩衆、聞我名字、寿終之後常修梵行至成仏道、若不爾者不取正覚」/諸仏世界の菩薩たちが、我が名を聞けば、命終っての後に常に梵行を修めて仏道を成すに至る。一般に梵行とは清浄の行、淫欲を断つことをいいます。ここでは持戒することです。菩薩たちが、我が名字を聞けば持戒することによっても仏道を成ずるに至ることをいいます。菩薩が人を化導しようとすれば、人に尊敬されなければなりません。持戒の人は、誰にも尊敬されるのです。
「設我得仏、十方無量不可思議諸仏世界諸天人民、聞我名字、五体投地稽首作礼、歓喜信楽修菩薩行、諸天世人莫不致敬、若不爾者不取正覚」/諸仏の世界の諸天人民が、我が名を聞いて五体を地に投げて礼をし、歓喜し信じ楽しんで菩薩の行を修めるならば、諸天、世人で敬いを致さない者はいない。もしそうでなければ仏であるとは思わない。
「設我得仏、国中人天欲得衣服随念即至、如仏所讃応法妙服自然在身、若有裁縫染治浣濯者、不取正覚」/我が国の人天は自然に衣服をまとい、仏に称讃されるような妙服は、誰も縫ったり染めたり洗ったりしない。(31)の宮殿楼観池流華樹と同様に衣服についても自然の物で、人の所造ではない。
我が国の人天の受ける快楽は煩悩を尽くした比丘のようである。(40)我が国の菩薩は、宝樹の中に、十方の無量の厳浄の仏土を鏡のように映して見ることができる。(41)他方の国土の菩薩衆が、我が名を聞けば、仏に成るまで諸根が欠けることはない。
「設我得仏、他方国土諸菩薩衆、聞我名字、皆悉逮得清浄解脱三昧、住是三昧一発意頃、供養無量不可思議諸仏世尊、而不失定意、若不爾者不取正覚」/他方の国土の諸の菩薩衆が、我が名を聞いたならば、皆、清浄の解脱三昧を得ることができ、この三昧に入ったままで、無量の諸仏世尊を供養することができる。もし途中で三昧から出るようなことがあれば、仏であるとは思わない。清浄解脱三昧とは菩薩が衆生済度の為に発す、我が身心と行為は空であり煩悩が起ることはないとする心境のことです。
「設我得仏、他方国土諸菩薩衆、聞我名字、寿終之後生尊貴家、若不爾者不取正覚」/他方の国土の諸菩薩たちが、我が名を聞いたならば、命の終わりの後には尊貴の家に生まれるであろう。尊貴の家に生まれて、貧窮の者に施すことをいいます。
「設我得仏、他方国土諸菩薩衆、聞我名字、歓喜踊躍、修菩薩行具足徳本、若不爾者不取正覚」/他方の国土の菩薩たちが、我が名を聞くことがあれば、命が終っての後に、尊貴の家に生まれて歓喜踊躍し、菩薩行を修めて徳本を具足する。
「設我得仏、他方国土諸菩薩衆、聞我名字、皆悉逮得普等三昧、住是三昧至于成仏、常見無量不可思議一切如来、若不爾者不取正覚」/他方の国土の菩薩たちが、我が名を聞けば、皆悉く普等三昧(ふとうさんまい)を得て、その三昧に入ったまま仏と成るに至るまで、常に無量の如来を見るだろう。普等三昧とは、一切の衆生を平等に見て、その中に如来を見ることをいいます。
我が国の菩薩は聞きたい法は自然に聞くことができる。(47)他方の国土の菩薩たちが、我が名を聞けば、即座に不退転を得る。
「設我得仏、他方国土諸菩薩衆、聞我名字、不即得至第一第二第三法忍、於諸仏法不能即得不退転者、不取正覚」/他方の国土の菩薩たちが、我が名を聞けば、即座に第一第二第三法忍を得て、不退転を得る。第一第二第三法忍とは、第一音響忍とは、樹木等の立てる音響によって真理を覚る。第二柔順忍とは、智慧により心が柔軟になり真理に随順する。第三無生法忍とは、万物は平等無差別にして不生不滅なりとの真理を覚る。
偈にて重ねて誓う「我建超世願‥‥當雨珍妙華」
法蔵菩薩は世自在王如来の前で四十八の願を立てて仏と成ることを誓った後、重ねて偈を以って仏と成ることを誓います。この部分は甚だ重要です、まず最初に通常の仏に超えることを誓い、次いで仏に成るには何をするかを説き、次いで仏と成ったときには何うであるかを説くからです。
「我建超世願‥」/最初に三つのことが満足されない中は決して仏に成ったとは思わないと誓います。謂わく、(1)仏に成るまでに上で立てた四十八の願が満足すること、(2)無量劫の間、大施主と為って諸の貧窮を救うこと、(3)名声が十方の世界に超えること。
「離欲深正念‥」/次ぎに仏と成るには何うするかを説きます。謂わく、(1)欲を離れて正念を深め、浄き智慧にて清浄の行を修め、無上道を求めて諸天、人民の師となること、(2)神力にて大光明を演べ世界の隅々まで照らし、貪瞋癡の三垢の闇を除いて衆の厄難を救う、(3)世間に智慧の眼を開かしめて愚癡の闇を滅し、諸の悪道を閉ざして善趣の門を開く。
「功祚成満足‥」/次ぎに、仏と成ったならば、威神の輝きは十方を朗らかにし、日月も光を隠して天も光を現わさず、衆生の為に法蔵を開いて広く功徳の宝を施し、常に大衆の中で法を説いて獅子吼し、一切の仏を供養して衆の徳本を具足し、願と智慧とは悉く満足して三界の英雄と為り、仏の無量の智慧は一切に通達して遍からざることは無いと誓います。
「願我功徳力‥」/次いで願います。願わくは、我が功徳の力が、この世自在王如来と等しからんことを。この願を、もし果たし得たならば、大千世界はまさに感動して、虚空の諸の天人もまさに珍妙の華を雨ふらすべし。
国土の建設「佛語阿難。法藏比丘說此頌已‥‥建立常然無衰無變」
仏は阿難に語られた。
「法蔵比丘説此頌已‥」/法蔵比丘が上のように大願を立てて誓ったその時、地は六種に震動し、天は妙なる華を雨ふらし、自然の音楽が空中にて讃えて言った、「必ず仏と成るだろう。」と。このようにして法蔵比丘は、このような大願を完全に成就させ、少しも欠けたところがなく、世間を超え出でて深く寂滅(じゃくめつ、静かな無心の境地)を楽しんでいるのである。阿難よ、法蔵比丘は、彼の仏の所で、諸天、魔梵、龍神、八部の大衆の中で、この広い誓いを発し、この願を建ておわると、ひたすら志を専らにして、妙土を荘厳した。
「所修仏国‥」/出来上がった仏国は広々として広大であり、他に超えて勝り独特にして妙であった。建立してからは常に変らず衰えることも変化することも無い。
国土の建設「於不可思議兆載永劫。積殖菩薩無量コ行‥‥自行六波羅蜜。教人令行」
その国はこのようにして造られた。それは無限にも思える永い劫の間、意外にも地味な徳本を植え続けることであったのだ。その徳本とは謂わく、
「不生欲覚瞋覚害覚」/欲覚、瞋覚、害覚を生じないこと。
「不起欲想瞋想害想」/欲想、瞋想、害想を起さないこと。
「不著色声香味触之法」/色声香味触に著さないこと。
「忍力成就不計衆苦」/忍んで衆の苦を考えないこと。
「小欲知足無染恚癡」/欲を少なく足るを知って、欲望、瞋恚、愚癡が無いこと。
「三昧常寂智慧無礙」/常に衆生を救うことのみを思って他の事を考えず、衆生を救う智慧に礙(とどこお)りが無いこと。
「無有虚偽諂曲之心」/嘘、偽り、諂(へつら)い、本心を曲げる、このような心が無いこと。
「和顔軟語先意承問」/和やかな顔、軟らかい言葉、先に相手の意を承けて問いかけること。
「勇猛精進志願無倦」/勇猛精進して願を果たして倦むことが無いこと。
「専求清白之法」/専ら清廉潔白な大乗の法を求めること。
「以慧利群生」/智慧でもって衆生を利すること。
「恭敬三宝奉事師長」/三宝を恭敬して師長に仕えること。
「以大荘厳具足衆行、令諸衆生功徳成就」/このようにして大いに国土を荘厳して衆の行を修め、諸の衆生をして功徳を成就せしむ、即ち他の為に尽くす力を付けさせること。
「住空無相無願之法」/空無相無願の法、即ち我も、我が身心も、我が行いも一切は空であると、固く信じること。
「無作無起観法如化」/我が作すのではない、我が因縁するのでもない、一切は幻の如しと思うこと。
「遠離麤言自害害彼彼此倶害」/粗雑な言葉によって、自らを害し他を害し、彼と此とを共に害することから遠く離れること。
「修習善語自利利人彼我兼利」/善い言葉を習い覚えて自らを利し、他を利し、彼と我とを共に利すること。
「棄国捐王絶去財色」/国を捨て王位を捨て財を捨て去って色欲を絶つこと。
「自行六波羅蜜教人令行」/自ら六波羅蜜を行い、人にも教えて行わせたのである。
国土の建設「無央數劫積功累コ‥‥常以四事供養恭敬一切諸佛」
このような無数の劫の間、徳を積み力を蓄える努力の結果、何処に生まれようと意志が変ることもなく、無量の宝の蔵が自然に現れて無数の衆生を教化し、安らかに無上正真の道、即ち大乗の法に立たしめた。或は長者、居士、豪姓、尊貴と為り、或は王族、国王、転輪聖王と為り、或は六欲天の主、梵天の王と為って、常に飲食、衣服、臥具、湯薬を一切の諸仏に供養して恭敬した。
国土の建設「如是功コ不可稱說‥‥而得自在」
このような功徳は称えて説くことができないが、(1)口気は清潔で青蓮華のようであり、(2)身の毛孔からは栴檀の香が出て、無量の世界に薫り、(3)容色は端正で相好(そうごう)、即ち仏の形色容貌は殊に妙であり、(4)その手からは常に無尽の宝、衣服、飲食、珍妙の華香、諸の天蓋、幢幡などの荘厳の具が出る。このような事は諸の人天を超え、一切の事物に於いて自在であった。
正宗極楽分
極楽の荘厳「阿難白佛。法藏菩薩。為已成佛‥成佛已來凡歷十劫」
「阿難白仏、法蔵菩薩為已成仏而取滅度‥」/阿難が仏に問います、「法蔵菩薩はすでに仏と成って滅度を取られたのですか、未だ仏と成られてはいず、今現に世にいらっしゃるのですか?」と。滅度を取るとは死んでいなくなるということです。仏は答えられます、「法蔵菩薩は、今すでに仏と成って、現に西方にここを去ること十万億刹(せつ、国)にいる。その仏の世界を安楽という。」と。安楽、安養、極楽は皆同じ国を表しています。極めて安らかで楽しい国という意味です。阿難は、次はその仏の歳が気になって仏に問います、「その方は仏と成って以来、何れほどの時を経ていられますか?」、仏は答えられます、「およそ十劫を経られた。」と。
極楽の荘厳「其佛國土‥‥不寒不熱常和調適」
次いで仏は極楽の国土の荘厳を語られます。(1)金銀琉璃等の七宝が自然に合成して地を為している。自然にとは人為でないことをしめします。この極楽は不思議なことにすべて自然に成っているのであって人為に由る物は何もありません。(2)広さに際限が無い。(3)世界中に七宝から出る光が交雑して輝かしく微妙にして綺麗である。(4)清浄であり十方の一切の世界を超える。(5)国土は平坦で須弥山および他の山々が無く、大海小海渓谷等もない。(6)ただし仏の神力で見たければ見ることができる。(7)地獄、餓鬼、畜生等の諸難の処が無い。(8)春秋冬夏が無く、寒くも熱くもなく、常に快適である。次いで阿難が須弥山が無いのであれば四天王天や忉利天は、何のようにして空中に浮いていられるのだろうと不思議に思いますが、割愛して次ぎに進みましょう。
極楽の荘厳「佛告阿難。無量壽佛威神光明‥‥晝夜一劫尚不能盡」
次ぎに無量寿仏の光明を説きます。(1)一切の諸仏の光明も及ばない。或はある仏は百仏世界を照らし、或はある仏は千仏世界、或はある仏は東方に恒沙の仏世界、南西北方四維上下にも同じく照らすのであるが、それを遥かに超えている。(2)その故に無量寿仏は無量光仏、無辺光仏、無礙光仏、無対光仏、炎王光仏、清浄光仏、歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏、難思光仏、無称光仏、超日月光仏など、光に関連した多くの呼び名がある。(3)ある衆生がその光に遇えば、貪瞋癡の三垢が生滅して身心が柔軟になり、歓喜踊躍して善心が生じる。(4)地獄、餓鬼、畜生の三塗(さんづ、三悪道)に苦しむ衆生が、この光明を見れば、皆、休息することができて、再び苦悩することが無く、命が終ってからは三塗を解脱できる。(5)無量寿仏の光明は明々と十方の諸仏の国土を照らすので、知らない者は無く、一切の諸仏、声聞、縁覚、諸菩薩の衆が、悉く讃歎している。(6)ある衆生がその光明の威神と功徳を聞き、日夜不断に称えて説くならば、願いのままにその国に生まれて、諸の菩薩、声聞の大衆に、その功徳を称えたことを讃歎され、やがて自らも仏と成って、十方の諸仏菩薩に、その自らの光明を今の無量寿仏の光明のように讃えられるだろう。
極楽の荘厳「無量壽佛。壽命長久‥‥不知如大海水」
また、無量寿仏および極楽世界の声聞、菩薩、天人の衆の寿命は永く、誰が何れだけかけて計算しても、誰にも計ることができない。また声聞、菩薩も無量でありその数を知ることができない。ここは実際は長い説明ですが、一部省略します。
極楽の荘厳「又其國土。七寶諸樹‥‥微妙宮商自然相和」
また、その国土には七宝の諸樹が世界を周満している。金樹、銀樹、琉璃樹、頗梨樹など、或は二宝、三宝、乃ち七宝に至るまで、互いに相手を替えながら合成している。或は金樹には銀の葉、華、果が有り、或は銀樹には金の葉、華、果が有り、或は琉璃樹には頗梨の葉、華、果が有り、或は紫金が根本、白銀が幹、琉璃が枝、水晶が小枝、珊瑚が葉、瑪瑙が華、車磲が実であり、或は白銀が根本、琉璃が幹、水晶が枝、珊瑚が小枝、瑪瑙が葉、車磲が華、紫金が実であり、それ等の組み合わせは限りない。ここも一部省略します。
「行行相値」/並木は正しく並んで相い向かい合い、幹と幹とは相い望み、枝と枝とは相い準(なら、左右に釣り合う)い、葉と葉とは相い向かい、華と華とは相い順(したが、秩序だって並ぶ)い、実と実とは相い当る。
「栄色光曜不可勝視」/美しい色が種種に輝いて見つめることができない。
「清風時発出五音声微妙宮商自然相和」/清風は時に微妙な音階を出させ、諸樹は自然に相い和している。小枝が相い扣(う)ち、葉が相い触れ、実が相い当たり、これらは自然に和音を成し、自然の音楽を奏でる。
極楽の荘厳「又無量壽佛。其道場樹‥‥究竟願故」
次ぎに道場樹を説きます。道場樹とは仏がその下で覚りを開く樹のことをいいます。(1)高さは四百万里、根本の周囲は五千由旬(ゆじゅん、凡そ十キロメートル)、枝葉は四方に布くこと二十万里、(2)一切の衆宝が自然に合成する、(3)月光摩尼、持海輪宝などの衆宝の王が、この樹を荘厳する、(4)周囲の小枝の間からは瓔珞が垂れ下がり、百千万の色が種種に異変し、無量の光炎が照らし耀いて極まり無し、(5)珍妙の宝の網がその樹の上を覆う。
「一切荘厳随応而現」/一切の荘厳の事は見る者の心に応じて現れる。
「微風徐動出妙法音‥」/そよ風がゆるやかにその樹を動かすと妙法(みょうほう、大乗)の音を出し、その音を聞く者は深い法忍を得る。深い法忍とは信じ難い無生無滅の理をいいます。深法忍を得たならば不退転に住します。不退転とは菩薩が修行を辛い苦しいと思わないことであり、やがて仏と成るのです。
「目睹其色耳聞其音鼻知其香舌賞其味身触其光心以法縁‥」/目でその樹の色を見、耳でその音を聞き、鼻でその香を聞き、舌でその味を知り、身でその光に触れ、心で妙法に感化を受ける、このような一切の事は、皆、甚だ深く信じ難い法を覚る手助けとなり、不退転に住して仏と成るに至るまで、六根は清く澄み渡って諸の悩みは無くなります。
「阿難、若彼国人天見此樹者得三法忍‥」/阿難よ、もし彼の国の人天がこの樹を見れば三法忍を得るだろう。三法忍とは三つの方法で法を覚るということです。一は音響忍(おんごうにん)、この樹の立てる音を聞いて深法を覚り、二は柔順忍(にゅうじゅんにん)、六根にこの樹を感じて心が柔軟になり深法を覚り、三は無生法忍(むしょうほうにん)、万物は平等無差別にして不生不滅なりと確信することです。
「此皆無量寿仏威神力故‥」/この樹の功徳は、皆、無量寿仏の威神の力の故であり、本願の力の故であり、満足な願の故であり、明了な願の故であり、堅固な願の故であり、究竟の願の故である。無量寿仏の威神も含めて一切は、満足、明了、堅固なる究竟の本願に由来することをいいます。
極楽の荘厳「佛告阿難。世間帝王有百千音樂‥‥最為第一」
無量寿国の諸の七宝樹の一種の音声は一切の天上の音楽の千億倍も勝れている。またその他にも自然の万種の伎楽が有り、これ等は、皆、妙法を奏でている。その音調は清く暢(の)びやかで哀調をおびて明朗であり、十方の世界に並ぶ者がない。
極楽の荘厳「又講堂精舍宮殿樓觀皆七寶莊嚴自然化成‥‥名曰極樂」
次は宮殿楼観等の建造物を説きます。
「講堂精舎宮殿楼観‥」/仏菩薩が法を説く講堂も精舎も人民の宮殿も楼観も、皆、七宝が荘厳して自然に化成したものであり、真珠、明月摩尼などの衆宝が光の露を交えて、その上を蓋のように覆っている。
「内外左右有諸浴池‥」/講堂等の内外左右には諸の浴池が有る。その浴池は、(1)正方形の一辺が、或は十由旬、或は二十三十由旬、乃ち百千由旬に至るまで有り、縦横深が皆等しい。(2)八功徳の水が豊かに湛えられている。ここで言う八功徳とは、一は澄みて浄く、二は清く冷たく、三は甘美で、四は味は軽く軟らかく、五は満ち溢れ、六は安心和楽して、七は飲めば渇きを癒し、八は飲みおわって肉体を増強し諸根を養う。(3)要するに清浄香潔にして味は甘露の如し。(4)七宝が化成しているとは、黄金の池の底には白銀の沙が有り、白銀の池の底には水晶の砂が有り、水晶の池の底には琉璃の沙が有り、このように種種の宝が池を自然に合成している。(5)その池の岸の上には栴檀樹が有り、華葉を垂らして香気を漂わせ、あたり一面に薫っている。(6)青、紅、黄、白の蓮花が咲いて種種の色の光を放ち、広く池の水の上を覆っている。(7)彼の土の諸の菩薩および声聞衆が、この宝の池に入る時には、池の水は深さを自由に変化させて、人が欲するままに、或は足を没し、或は膝にとどき、或は腰まで、或は首まで、或は自然に身に潅ぐ。(8)身に潅ぐ水は自然に水面上と虚空とを上下する。(9)冷暖は自然に調和して意のままである。(10)神経を開かせ体を悦ばせ、うっとりさせて心の垢を取り除く。(11)清く明るく澄みきって無いようである。(12)宝の沙は水を徹して見え深くとも照らさないということがない。(13)池の表面にはさざ波が立ち回流して互いに潅ぎ合う。(14)静かにゆっくり流れて遅すぎも速すぎもない。
「波揚無量自然妙声‥」/波が無量の自然の妙声を揚げると、それを聞く者は、何なる音でも聞こえないことはない。(1)或は仏の声を聞き、(2)或は法の声を聞き、(3)或は僧の声を聞き、(4)或は寂静の声を、空無我の声を、大慈悲の声を、波羅蜜の声を聞き、(5)或は十力(じゅうりき、仏の智慧)、無畏(むい、菩薩が畏れずに法を説くこと)、不共法(ふぐうほう、仏のみの力)の声を、諸の神通と智慧の声を、作す所の無き(空なる自己による行い)の声を、不生不滅の声を、無生を覚る声を、乃ち甘露潅頂(かんろかんちょう、仏に成って天に祝福を受けること)に至るまでの、衆の妙法の声を聞く。
「如是等声‥」/これ等の声は、聞く者の意に適って無量に歓喜させ、清浄、離欲、寂滅、真実の義に随順し、三宝の力、無所畏、不共法に随順し、神通、智慧、菩薩声聞の行う道に随順する。
「無有三塗苦難之名‥」/地獄餓鬼畜生の三塗(さんづ)の苦難は、その名さえ無く、ただ自然の快楽の音が有るのみであるが故に、その国の名を極楽という。
極楽の荘厳「阿難。彼佛國土諸往生者‥‥無極之體」
「阿難、彼仏国土諸往生者具足如是清浄色身」/阿難よ、彼の国に往生した者は、このように肉体が清浄である。では何のように清浄であるか、見てゆきましょう。
「諸妙音声神通功徳所処宮殿衣服飲食衆妙華香荘厳之具‥」/諸種の妙なる音声、鳴き声、話し声、奏でる楽器の声等を諸の音声といいます。神通力は不思議な超能力、功徳は他の為になる力、住むための宮殿、衣服、飲食、多くの妙華、身の回りを荘厳する具、これ等は、皆、第六天の自然の物にも劣りません。第六天は欲界の頂天、魔王の天であり、一切は思うがままという世界です。ここの自然の物であるとは、この天の不思議な力は場所に属するもので、魔王等の諸天に属するものではないことをいいます。
「若欲食時七宝鉢器自然在前‥」/往生者が何かを食べたいと思えば七宝の鉢が自然に前に現れます。これ等の鉢には意のままに百味の飲食が自然に満たされています。
「雖有此食実無食者‥」/このように素晴らしい食が有るにもかかわらず、実は誰も食う者がいないのです。ただ色を見、香を聞(か)ぎ、心で食べるのです。自然に満腹になれば身心は柔軟になり、もっと食べたいなどとは誰も思いません。
「事已化去時至復現」/時が至れば現れ、事がおわれば自然に去ります。
「彼仏国土清浄安穏微妙快楽次於無為泥洹之道」/このように彼の仏の国土は、清浄、安穏、微妙、快楽であり、無為の涅槃の道に次ぐものです。無為とは因縁によって生住異滅することがなく、常に変らないことを言いますが、ただまれに人為が無いことを言うこともあります。涅槃の道とは無為と同義です。ただ普通は道と言いません、何故ならば道とは何処か別の場所に通じるものであり、涅槃は終着点だからです。次のことが考えられます、(1)涅槃に通じる道、(2)涅槃とはただ一点ではなく、その中でもやはり動きがある、(3)言葉の調子を整えた。
「其諸声聞菩薩人天‥」/その極楽の諸の衆生、声聞、菩薩、人天は、(1)智慧は高明、(2)神通に洞達、(3)悉く皆が同類の形容で異なる容状の者はいない、ただ他の世界に順じて人、天、と呼び習わすのみである、(4)顔貌は端正であり、容色は微妙である、(5)天でもなく人でもない、皆、自然の虚無の身、無極の体を受けている。身は五感に感じるが虚無であり、自他彼我此我の境界が無い。
極楽の荘厳「佛告阿難。譬如世間貧窮乞人在帝王邊。形貌容狀寧可類乎‥‥百千萬億不可計倍」
次ぎに、仏は阿難に教えられます、「世間の貧窮の乞人が帝王の近くにいたならば、形貌容状は比較になるだろうか?」と。阿難は、正しく答えます、「いえ、まったく比較にはなりません。何故ならば、貧窮の乞人は、着る物はボロボロで命を支える食事さえ満足に取ることはできず、飢えと寒さに苦しんで人らしさは微塵もないからです。それと言うのも、この人たちは、前世に於いて徳本を植えず、財を積んでも施さず、富んでも益々慳んで、貪るばかりです。善を修めることを信じずに山のように悪を犯しました。頼むべき善の徳が無いのですから、仕方ありません、死んで再び生まれた時には、このようになるのです。それに反して、世間の帝王は人々に尊ばれていますが、それも前世に徳を積み、慈しんで恵み多く施したからです。善を修めることを信じて、道理に背いたり争ったりすることがなく、福を修めてきたので、このようになりました。上の人は天上に生れ、人として生まれても、かつて善を積んだせいで王家に生れて自然に尊ばれ、端正であり、衆に敬って仕えられ、珍妙の衣服、美味な飲食もすべて思いのままです。
これも前世の福がこの世にこの人を追ってきたからです。」と。仏は阿難の答えをお喜びになり、更に教えられます、「貧窮の乞人が世間の帝王のそばにいるように、この帝王も転輪聖王のそばに寄れば何万倍も劣り、転輪聖王も忉利天王には更に何百万倍も劣り、忉利天王も第六天王に比べれば百千万倍も劣り、第六天王も無量寿国の菩薩、声聞の光顔、容色には百千億倍どころか数えることもできないほど劣るのだ。」と。
極楽の荘厳「佛告阿難。無量壽國其諸天人。衣服飲食‥‥各各安立無量眾生於佛正道」
次いで仏は阿難に、無量寿国の雑多なことを語られます。
「無量寿国其諸天人衣服飲食‥」/無量寿国の諸の天人の衣服、飲食、華香、瓔珞、諸蓋、幢幡、微妙な音声、舎宅、宮殿、楼観などは、その形、色、高下、大小が適当であり、或は一二の宝、乃ち無量の衆宝に至るまで、意のままに現れる。
「又以衆宝妙衣遍布其地‥」/また多くの宝、妙衣などが、地を覆っていて、一切の天人はそれを踏んで行く。
「無量宝網弥覆仏上‥」/無量の宝の網が仏の上を広く覆っている。その網は、皆、金の糸で綴った真珠、百千の雑宝でできており、奇妙にして珍異である。その網の周囲には無数の宝の鈴が垂れている。これらの光と色は耀いて極めて厳かで麗しい。
「自然徳風徐起微動‥」/自然に風が吹いてゆっくりかすかに網と鈴とをゆり動かす。その風は調和して寒くもなく暑くもなく、温かさも涼しさも柔軟であり遅からず速からず、諸の宝の網、宝の樹を吹いて、無量の微妙の法音を演べ発し、万種の温雅な徳の香を流布し、その香を聞けば、煩悩の垢の名残は自然に洗い流されて再び起らない。
「風触其身皆得快楽‥」/風がその身に触れれば快楽を得て、譬えば比丘が滅尽三昧に入ったようである。滅尽三昧とは一切の感覚と意識を収めて、仮の涅槃に入ることです。
「又風吹散華遍満仏土‥」/また風は華を吹き散らして仏土に遍満させますが、色の順に並んで乱れることはなく、柔軟な光沢があり強烈な香がする。足で吹き積もった華の上を蹈むと四寸ばかり沈みこむが、足を挙げれば元に戻る。華は用がおわれば地が裂けて呑込み、清浄に何も遺さない。このように日に六遍、時を決めて、風が吹き華を散らす。
「又衆宝蓮花周満世界‥」/また多くの宝の蓮花が世界に周満している。一一の宝の華には百千億の花弁があり、その花びらの光明には無量種の色がある。青い色には青い光、白い色には白い光があり、黒、黄、朱、紫の色と光も同じく、あかあかと耀いて日月を照らすばかりである。一一の華の中からは三十六百千億の光を出し、一一の光の中からは三十六百千億の仏を出し、仏の身色は紫金で、相好は殊に素晴らしい。一一の諸仏は、また百千の光明を放って、普く十方の世界の為に微妙の法を説く。このように諸仏は、各各、無量の衆生を仏の正道に安んじて立たせている。
以上、極楽の凡その事を説明しました。極楽ははたして有るのでしょうか、無いのでしょうか、答えは有無を超えるのです。有るよりも更に確固として有り、無いよりも更に確実に無い。要するに空、無為、涅槃の世界なのですが、釈迦は阿難の問いに答え、あえてあたかもこの世界に実在するかのように説かれました。阿難は劣った小乗の人です、その小乗の人に一人の菩薩の活躍がいかに素晴らしい結果を生むか、大乗を捨てて小乗に走るいわれは少しもないのだと教えるのが、この無量寿経上巻の主旨です。
 
無量寿経下巻  

極楽の往生者
正定の聚「佛告阿難。其有眾生生彼國者‥‥唯除五逆誹謗正法」
仏は阿難に教えられました。
「其有衆生生彼国者、皆悉、住於正定之聚‥」/極楽に生まれた者は、皆、悉く正定の聚(じゅ、衆)である。何故ならば、極楽には決して仏に成れない者と、成るか成らぬか決定していない者とはいないからである。十方の恒沙の諸仏如来は、皆共に、この無量寿仏の不思議な力を讃歎している。正定之聚とは、正しく仏に成ると定った者という意味です。
「諸有衆生聞其名号‥」/他の国の諸の衆生は、その仏の名号を聞いて、信心歓喜して、少なくとも一念、至心に善業を廻向(えこう)して、極楽に生まれようと願え。そうすれば、必ず往生して不退転に住することができる。
信心歓喜/信心(しんじん)とは信ずる心、心から喜ぶことをいいます。先ず聞き、次いで知り、次ぎに信じ、そして喜ぶ、事はこの順で起こります。しかし、聞くのみで信じることは、これこそ難中の難、甚だ難しいことです。人は、自らの目で見たものは何でも信じてしまいます。それに反して耳で聞くものは、初めから疑ってかかります。自分の経験には自信をもち、他人の経験を疑う、極めて当然の道理が働いているのです。この無量寿経は、そこまでは考慮していません。後に観無量寿経が出る道理はここにあります。
乃至一念/少なくとも一たび心に念じることをいいます。また「念」は「となえる」とも読みますので、その名号を少なくとも一度、称えることとする解釈もあります。しかし、心に念じれば口に出る道理もありますので、あえて狭く解釈して、口に称えることのみを言う必要はありません。むしろ、前の「信心歓喜」と併せて、心に著いて離れないと理解した方がよいでしょう。
至心廻向/自ら積んだ善業を心から極楽に生まれることに振り向けることをいいます。迴向(えこう)とは、かつて為した善い行いが、ある特定の結果を生じますようにと願うことです。至心(ししん)とは、「心から願うこと」です。ここでは善業の多寡を問うことはありませんが、「信心歓喜」、「乃至一念」と併せて、心から願うことに重点があります。
住不退転/正定之聚と同じ。
仏の出現は、三千大千世界にただ一人、あるいは恒沙の劫にただ一人などと言われ、あるいは優曇華の花は多いが実と成るものは希有である、魚の卵は多いが魚に成るものは少ないなどと、非常に困難かつ希なことであるといいます。しかし、この極楽に一たび生まれれば、誰でも必ず仏に成り、しかも、極楽に生まれることは、甚だ容易な事であるというのが、この段の要旨ですが、そこにも相応の困難があるのです。
往生者の三輩「佛告阿難。十方世界諸天人民‥‥凡有三輩」
「仏告阿難、十方世界諸天人民、其有至心願生彼国、凡有三輩」/仏は阿難に教えられます。十方の世界の諸天人民の中で、心から彼の国に生まれたいと願う者には、およそ三輩がある。三輩(さんぱい)とは、三種の人という意味です。
上輩「其上輩者‥‥智慧勇猛神通自在」
「其上輩者、捨家棄欲、而作沙門、発菩提心、一向専念無量寿仏、修諸功徳願生彼国」/その上輩の者は、家を捨てて欲を棄て、沙門(しゃもん、出家)となって菩提心を発し、ひたすら専ら無量寿仏を念じて諸の功徳を修め、極楽に生まれたいと願え。
捨家棄欲而作沙門/上輩者とは、比丘となった大乗の菩薩です。ここで言う沙門とは、形ばかりの沙門ではありません、心から沙門であることを願い、行住坐臥に戒律を持つ生活をしている者のことです。このような沙門は、人に尊敬されるので、菩薩としての働きも大きいのです。
発菩提心/仏果を得ようと思う心、仏に成りたいと思う心を菩提心といいます。大乗では、「仏と成って自らの浄土を得ようとする心」が菩提心なのです。浄土とは理想の世界をいいます。菩薩は無上の心を発して、仏と成り世界を理想のありさまにしたいと願い、無量の時間をかけて、無限の施しをします。その初めから、仏に成るに至るまでの心を菩提心というのです。決して、極楽に生まれて楽がしたいという心ではありませんが、その大きさは問いません。
一向専念無量寿仏/ひたすら専ら無量寿仏を念う。無量寿仏を念うとは、無量寿仏の事績を念うのであり、無量寿仏の成しとげた極楽の世界を念うことです。これは菩薩の励みとなります。
修諸功徳願生彼国/功徳(くどく)とは衆生を救う力をいいます。修行してその力を身に着けることです。しかし、またその大きさは問いません。諸の功徳を修行して、次ぎに生まれた時には彼の国に生まれたいと願うことです、また次ぎに生まれた世界は彼の国のようでありたいと願うことでもあります。
「此等衆生臨寿終時、無量寿仏与諸大衆、現其人前」/これ等の衆生は、その命の終りの時にあたって、無量寿仏が諸の大衆と共にその人の前に現れる。
「即随彼仏往生其国、便於七宝華中自然化生住不退転、智慧勇猛神通自在」/この人は、彼の仏の後に随って、その国に往生し、すぐに七宝の華の中に、自然に化生して不退転に住し、智慧は勇猛であり、神通は自在である。
便於七宝華中自然化生/「便」は「すなわち」と読んで、するりと滞ることがないことをいいます。するりと七宝の華の中で化生します。化生(けしょう)とは、いきなり生まれることです、要するに成人して生まれることです。この故に、この人は、いきなり不退転でもあれば、智慧勇猛神通自在でもあるのです。さて、この人は七宝の華の中に、すでに成人して生まれるわけですが、この事は、人のように母胎に由って生まれることは、煩悩によるものと考えるからです。また、赤子の母に対する執着は生まれて覚える最初の煩悩であるとも考えられます。
住不退転/仏と成るまで、菩薩の位を退かないことをいいます。
智慧勇猛神通自在/菩薩の菩提心は、「こうでなければならぬ」を知る智慧に裏付けられています。「勇猛」とは勇敢なことです、菩薩の行動は勇猛の心に支えられています。「神通」は衆生を救う上での不思議な力をいいます、これは「菩提心を本とした智慧と勇猛」であると定義しても良いと思います。
今世に無量寿仏を見る「是故阿難‥‥修行功コ。願生彼國」
「是故阿難、其有衆生欲於今世見無量寿仏、応発無上菩提之心、修行功徳願生彼国」/この故に、阿難よ、ある人が、今世に無量寿仏を見ようと思えば、無上菩提の心を発して、功徳を修行し、極楽に生まれたいと願え。
欲於今世見無量寿仏/「於今世」は特に時と場所をさして、今のこの世界で、無量寿仏にお会いしたいことをいいます。極楽に生まれたいと願えば、今のこの世に於いて会うことができる。この一文は意味が深いように感じられます。本当に無量寿仏に会えるのでしょうか、それとも自らが無上の菩提心を発して功徳を修め、仏と成ることを言っているのでしょうか。二通りに取れる疑問が残ります。
中輩「其中輩者‥‥功コ智慧次如上輩者也」
「其中輩者、十方世界諸天人民、其有至心願生彼国、雖不能行作沙門、大修功徳、当発無上菩提之心、一向専念無量寿仏、多少修善、奉持斎戒、起立塔像、飯食沙門、懸書R灯、散華焼香」/その中輩の者は、十方の世界の諸天人民が、もし心から彼の国に生まれたいと思うならば、たとえ沙門と作って、大いに功徳を修めることができずとも、無上菩提の心を発せ。ひたすら専ら阿弥陀仏を念い、多少の善を修めて斎戒を奉持し、塔像を起立して沙門に飯食し、(きぬ)を懸けて灯を燃やし、華を散(ま)いて香を焼(た)け。これによれば中輩とは、沙門以外の大乗を信ずる人です。
多少修善/多少の善を修める。多少とは世間的な善をいいます。気の向いた時に貧乏人に施したりすることをいいます。常にするわけではありませんが、しないよりはましです。
奉持斎戒/斎戒(さいかい)とは、毎月八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日の六日間、(1)不殺/生き物を殺さない。(2)不盗/与えられない物を取らない。(3)不婬/婬事をしない。(4)不妄語/嘘をつかない。他の生き物を脅す粗暴の言葉を吐かない。(5)不飲酒/酒を飲まない。(6)身不塗飾香鬘/身に香を塗ったり、飾りを着けたりしない。(7)不自歌舞、又不観聴歌舞/歌舞音曲を慎む。(8)於高広之床座不眠坐/高広の大床に坐らない。(9)不過中食/昼過ぎに食事をしない。これらを堅く守ることをいいます。
起立塔像/仏法は布教されなければ意味がありません。布教の拠り処は非常に重要です。別に建物にも仏像にも直接的な価値を認めるのではないのですが。
飯食沙門/沙門に食事の布施をすることです。沙門は仏法を布教する人です。その為に種種の制約を受けています。例えば、不殺生を説く者が、生業として鍬を振るい、地中に住む虫などを殺すことはできません。その沙門の世話をすることは、非常に重要です。
懸書R灯/「(きぬ)」は絹織物のことです。寺院の内部に懸けて装飾します。灯明をともすというのは、寺院の内部の暗がりを無くすことです、人は暗がりでは疑いが起りやすいものなのです。
散華焼香/悪臭の立ち籠める中で説教はできません。寺院の内部に華を散(ま)き香を焼(た)いて悪臭を除きます。「其人臨終、無量寿仏化現其身、光明相好具如真仏、与諸大衆現其人前」/この人の命の終りにあたり、無量寿仏は化してその身を現わす。光明も相好も真の仏と同じようにみえ、諸の大衆と共に、その人の前に現れる。
化現其身/無量寿仏は化身を遣わして、行者の前に立つことをいいます。見た目は変りませんので、行者には分別がつきません。ただ分る人に分るというのみです。要するに、これは何かといいますと、行者の信心に差があるということで、無量寿仏の身を見た時の心の動きが異なることを言っているのであって、無量寿仏の功徳に違いがあると言っているのではないのです。
「即随化仏往生其国住不退転、功徳智慧次如上輩者也」/すぐに、化仏の後に随ってその国に往生し、不退転に住す。功徳と智慧は上輩の者に次ぐ。上輩の者に次ぐというのも、与えられる功徳の量が違うわけではありません。ただ信心に差があるのです。
下輩「其下輩者‥‥功コ智慧次如中輩者也」
「其下輩者、十方世界諸天人民、其有至心欲生彼国、仮使不能作諸功徳、当発無上菩提之心、一向専意乃至十念、念無量寿仏願生彼国、若聞深法歓喜信楽不生疑惑、乃至一念、念於彼仏、以至誠心願生其国」/その下輩の者は、十方の世界の諸天人民は、もし心から彼の国に生まれたいと思えば、たとえ諸の功徳を作すことができなくとも、無上菩提の心を発せ。ひたすら意を専らにして、ただの十度彼の仏の名を呼ぶほどでも無量寿仏を念って彼の国に生まれたいと願え。もし深い法を聞いて歓喜し信じ楽しんで疑惑を生じなければ、たとえただの一度でも、彼の仏を念って、心からその国に生まれたいと願え。これによれば、この人は善行をする力の無い人です。しかし、無上の菩提心を発すことは誰にもできます。
不能作諸功徳当発無上菩提之心/功徳とは他の人に善行を施すことです。地位が低い、財産が無い、暮らしが逼迫している。種種の因縁で善行ができない人でも、この世界を良くしたいとは思えるはずです。
乃至十念念無量寿仏/この菩提心でもって、わずかに十たび無量寿仏の名を呼ぶほどにせよ、無量寿仏のことを心に念じよ。「念念」のように同じ字が重なるときは意味は同じはずですが、心に念じれば声に出るという心から、このように訳します。本当は十たび心に思うことです。「十たび心に思う」と「十たび仏の名を呼ぶ」との違いは、ほとんど無いに等しいのです。また、「念」を「刹那(せつな)」、すなわち非常に短い時間と訳すこともありますが、これもまた意味の違いは認められません。これはぜひ注意したい所ですが、心にかけずに仏の名を呼ぶことは、これに相当しません。
若聞深法歓喜信楽不生疑惑/深法(じんぽう)とは、大乗のことをいいます。大乗とは、「他の為を願うことが自己の為になる」という教えであり、理解しがたくとも、深い意味のある教えです。深く幾重にも蔵されていますが大乗の利はその奥にあるのです。この深い法を聞いて、喜び、信じ、楽しんで、疑惑を生じない。このような人であれば、わずかに一念、彼の仏を念じるのみでも、夢の中に仏を見て、往生できる。すべてはこの心が有りさえすれば、往生できるのですから、力の無い善人であっても往生できるというのがこの段の要旨です。
乃至一念念於彼仏/少なくともわずか一念(いちねん)、これは前の十念を受けて、更に条件をゆるめたものです。わずか一念、彼の仏に心をかける。前の「若聞深法」を受けての当然の帰結です。このような事が有るのか、大乗とは実にこの功徳が有ったのか、と歓喜し、信じて、このような仏ならば、ぜひ会って話を聞いてみたい。これを「彼の仏に於いて念じる」というのです。
以至誠心/この一句は「至心」とまったく同じです。心から願うことです。「此人臨終、夢見彼仏亦得往生、功徳智慧次如中輩者也」/この人の終りに臨んで、夢の中で彼の仏を見て往生することができる。功徳と智慧とは中輩の者に次ぐ。
以上、上輩は大乗の菩薩、中輩は世間の善人で力の有る人、下輩は善人ながらも力の無い人のことでした。
十方の諸仏称讃する「無量壽佛威神無極‥‥廣濟生死流」
この無量寿仏の威神の極まり無いことは、十方の世界の無量無辺不可思議の諸仏如来にも聞こえ、皆の称歎する所です。また十方の世界の無量無数の諸菩薩たちも、皆悉く、無量寿仏の所に詣で、経法を聴いて自国に還り、広く法を布いて導き救っています。
「聴受経法宣布道化‥」/無量寿仏は何のようにしてこの素晴らしい世界を造ったのか、その話が経法です。これを聴いて自国に還り、人々に道を教えて、化します。「化す」とは変化させることです、今まで自分の利益のみを計っていた人に、他を利することが自己の利になるのだと教えて、その人を変化するのです。
世尊は、そのありさまを歌にして説かれます。
「東方諸仏国‥」/東方の諸の仏国を初め、十方の無数の仏国の無数の諸菩薩が、この極楽国に往き、無量寿仏に会っている。
「一切諸菩薩‥」/これ等の一切の諸菩薩は、妙華、宝香、無価衣を無量寿仏に供養し、天楽を奏して讃歎する。
「究達神通慧‥」/この菩薩たちは、「神通と智慧とに通達して深法の門に入り、功徳の蔵を具足して智慧の光で世間を照らし、生死の雲を消し去っていらっしゃいます。」と無量寿仏を歌って称え、仏の回りを三度迴って地に頭をつけて礼をする。
「見彼厳浄土‥」/この菩薩たちは、この厳かな浄土が微妙にして思議しがたいのを見て、無量に歓喜して、「願わくは我が国もこのようであるように。」と思うと、無量寿仏は悦んでお笑いになり、口より無数の光を出して十方の国を照らす。無量心は無量に心が動かされることです。
「迴光囲遶身‥」/光は無量寿仏の身の回りを三度迴って、仏の頭頂より入る。それを見た一切の天人衆は、皆、歓喜する。観世音菩薩は、衣服を整えて礼をし仏に問う、「何故、お笑いになったのですか?」と。観世音は大勢至と共に、常に無量寿仏の辺に在り、仕えています。
「梵音猶雷震‥」/仏の声は雷の如くよくとどろき、多くの功徳が有る。その声でこう仰った、「菩薩たちよ、未来のことを教えてやろう。よく耳をすまして聴くがよい。十方の世界より来たる菩薩たちよ、お前たちの願いは悉く知っておる。「我が国もかくの如く」と厳かなる浄土を求める者たちよ。必ず願いは叶って、お前たちは仏と成るだろう。」と。
「覚了一切法‥」/「万物は、なお夢か幻の如し。このように明らかに覚って、諸の妙なる願いを満足せよ。必ず、このような国と成るであろう。万物は電影の如しと覚って、菩薩の道を究め尽くせ。必ず、力を得て仏と成るだろう。」菩薩は自らの身心は空であり、無我であると覚って、衆生を導き、仏土を浄めます。
「通達諸法門‥」/「諸の法門に通達せよ、一切は空にして無我である。専ら、浄き仏土を求めよ、必ず、このような国と成るだろう。」、このように諸仏は菩薩たちに教えて、無量寿仏に会いに行かせた。「法を聞いて、何のようにすればよいか、教えを受けてこい。速やかに、心の清浄を得よ。」極楽に往って安楽に暮せと菩薩たちに教えたのではありません。菩薩の願いはただ一つ、自らの国土を浄めることです。「諸法門」とは、諸法すなわち万物の実際の門、万物の真実相のことです、万物は一切が空であり無我である、このことです。万物は空であるから浄める必要が無いとすれば、それは間違いです。本末転倒、手段と目的とを取り違えています。菩薩は自らの身心が空であると覚って、智慧と神力とを得るのです。その神力と智慧とを使って衆生を導き、国を浄める。あくまでも目的あっての手段、どこまでもこれを忘れてはなりません。
「至彼厳浄土‥」/更に諸仏は菩薩たちに教えられる、「彼の厳かな浄土に至って、すみやかに神通を得、無量寿仏より、「お前たちは必ず仏に成るだろう」と記を受けよ。速く往け、彼の仏の本願の力は、その仏の名を聞いて往生したいと思った者が、皆悉く、彼の国に到って、不退転と成ることを誓っているのだから。」と。「記(き)」とは仏より受ける予言のようなものです、お前は将来必ず仏に成るというのがそれです。「不退転」とは、菩薩が仏に必ず成る位をいいます。極楽に往って無量寿仏の教えを受けた者は必ず不退転を得るのです。
「菩薩興志願‥」/菩薩たちは、極楽に於いて志と願をおこし「自らの国もこれと異なりがないように。」と願い、一切の世界の一切の衆生を導こうと念じる。この菩薩の名声はたちどころに十方に達し、何億の如来に事(つか)えることになり、諸の国を遍く飛び回って恭しく事え、歓喜して極楽国に還りつく。菩薩たちは本国に於いてすることと同じことをするのですが、極楽の衆生となった今は、肉体的能力が極度に発達していますので、瞬時に無数の国の衆生を教化することができます。
「若人無善本‥」/もし人に善本が無ければ、この経を聞くことはできない。お前たちは、皆、戒を守って清浄であればこそ、ようやく正法を聞くことができた。これを聞いた大衆は、かつて世尊に初めて会ってから、世尊の話をよく聞いてよく信じ、つらい修行をのりこえて、ようやく聞けた嬉しさに、踊り回って大歓喜した。「経」とはこの無量寿経のことです。ここで世尊は現実に話をうつして、この経を聞くことは、皆が戒を守って清浄であるからだと説かれます。「善本(ぜんぽん)」は善の本、すなわち善い行いをさします。
「憍慢弊懈怠‥」/憍慢(きょうまん)、弊悪(へいあく)、懈怠(けたい)、すなわち知らぬことは無いと驕り高ぶった者、矯正不可能の何うしようもない者、怠け者は、その悪のためにこの法を信じることができない。お前たちは、過去に於いて世世に仏に会ってきて、ここでようやくこの教えを聴くことができた。声聞、菩薩には仏の心を究めることができない。譬えば、生れながらの盲人が人を導くようなものである。今聞いた経は、実にそれを説く者は仏のみである。
「如来智慧海‥」/如来の智慧は海のように深さ広さに果てしがない。声聞菩薩はこのような経を決して説くことができないだろう。たとえ、一切の人に完全な道を得させ、浄い智慧を大空のようにして仏の智慧を思わせ、力を窮めて講説しても、如来の智慧を知ることはできないのだから。
「仏慧無辺際‥」/仏の智慧は無辺際である。しかもこのように清浄を究めている。
「寿命甚難得‥」/人の寿命は甚だ得難く、仏の世にも値い難く、人に信心と智慧が有ることも難しい。もしこの経を聞いたならば、精進して仏と成ることを求めよ。
「聞法能不忘‥」/法を聞いて忘れることがなければ、やがて人に敬われ大きな慶びを得るだろう。このような人はわたしの善き親友である。
「是故当発意‥」/この故に、菩提心を発せ。たとえ世界が火に満たされても、それが過ぎれば要は法を聞くことである。法を聞きさえすれば、必ず仏と成って、広く衆生を救うことだろう。
彼の国の菩薩
彼の国の菩薩「佛告阿難。彼國菩薩。皆當究竟一生補處‥‥化生彼佛國」
仏は阿難に教えられました。
「彼国菩薩皆当究竟一生補処‥」/彼の国の菩薩は、皆、必ずいつかは一生補処となる。ただし、その本願によって衆生の為に、雄々しくも一切の衆生を救い導く者を除く。「一生補処(いっしょうふしょ)」とは、次ぎの生で仏となることをいいます。「本願(ほんがん)」とは、菩薩の立てる願をいいます。一切の衆生を救い導く為に、菩薩は地獄、餓鬼、畜生、人間、天上に於いて無数の生を得ますが、常に変らない願を持っています。これが本願です。
「彼仏国中諸声聞衆身光一尋菩薩光明照百由旬」/彼の国の声聞衆の身光は一尋、菩薩の光明は百由旬を照らします。「一尋」は約1.8メートル、「百由旬」は約千キロメートルです。
「有二菩薩最尊第一威神光明‥」/彼の国には特に尊い菩薩が二人いる。一人を観世音、一人を大勢至という。この二人の光明は、普く三千大千世界を照らす。この二菩薩は、この国に於いて修行していたが、命が終った時、彼の国に化生した。観世音(かんぜおん)と大勢至(だいせいし)とは無量寿仏の両脇士として有名です。
彼の国の菩薩「其有眾生生彼國者。皆悉具足三十二相‥‥示現同彼如我國也」
彼の国に生まれれば誰であろうと、ほぼ仏に近い能力を持つ。
具足三十二相/仏と同じ様相を持つ。
智慧成満/智慧は仏のように円満である。
深入諸法究暢要妙/諸法に深く入り要妙を究めて暢(の)びやかである。「諸法」は万物という意味ではなく、種種の衆生に即した道法、「要妙」は微妙な要旨をいいます。
神通無礙/仏と同じ不思議な力を持つ。「神通(じんつう)」は不思議な力、「無礙(むげ)」は障りが無く自由自在をいいます。
「諸根明利‥」/仏と同じように、眼耳鼻舌身意の修行に必要な根本的能力は明利である。その鈍根の者でも、自然の音を聞いて覚る音響忍(おんごうにん)と、心が真理に対し柔軟な柔順忍(にゅうじゅんにん)を成就しており、その利根の者ならば、万物は一切が平等であると覚る無数の種類の無生法忍(むしょうほうにん)を得ている。阿僧祇(あそうぎ)は無数と訳します、ここでは万物は平等であることの証拠を無数に覚っていることです。
「又彼菩薩‥」/また、彼の国の菩薩は、仏と成るまで、地獄、餓鬼、畜生の悪趣(あくしゅ)に生まれることはないが、自ら進んで他方の濁り汚れた悪世に生れ、その国の衆生と同じ様相を示現する、この国のわたし(釈迦)のような者を除く。極楽国は、無量寿仏というただ一人の偉大な人によって造られたのではなく、無数の菩薩の非常なる努力のたまものであることは言うまでもないでしょう。その菩薩たちは、皆悉く、自らの国を浄めおわった仏であるのですが、その多くは更に汚れた国を求めて他国に去って行きます。
彼の国の菩薩「彼國菩薩承佛威神。一食之頃‥‥忽然輕舉還其本國」
彼の国の菩薩は、ただ一回の食事の間に、十方の無量の世界に詣でて、諸仏を心のままに供養する。華香、伎楽(ぎがく、音楽)、所W(そうがい、絹傘)、幢幡(どうばん、のぼり、吹き流し)、このような供養の具は自然に化生して思いのままに現れ、珍妙であり世にも希なこれらの供養の具を諸仏、菩薩、声聞の大衆の上に散く。散かれた物は、皆、虚空中に大きな周囲が四百里もある華の蓋と化して成り、種種の色に光り輝き、香気は普く薫る。その蓋はどんどん大きくなって三千大千世界を覆い、現れた順に消えてゆく。菩薩たちは、皆、喜び楽しんで虚空中にて天の音楽を奏する。その音楽は微妙に仏の徳を歎じている。そして、その国の仏より経法を聴受して、食事の前に軽やかに飛び上がって本国に還りつく。
彼の国の菩薩「無量壽佛。為諸聲聞菩薩大眾頒宣法時‥‥熙然快樂不可勝言」
「無量寿仏‥」/無量寿仏は、七宝の講堂にて、諸の声聞、菩薩の大衆の為に、その行くべき道について教えられる。それを聞いて、歓喜し、道を理解しない者はいない。
「即時四方自然風起‥」/四方からは自然に風が起り、宝の樹を吹いて、自然の音楽を奏で、無量の花びらが風に乗って舞い散る。このような自然の供養も絶えることがない。
「一切諸天‥」/彼の国の一切の諸天は、皆、天上の百千の華香、万種の音楽をもたらして、無量寿仏、および諸の菩薩、声聞の大衆を供養し、普く華を散らして、諸の音楽を奏で、行ったり来たりしながら、互いに道を譲り合っている。
「当斯之時‥」/このような時は、本当に和らぎ楽しんで、そのありさまを言葉にできないほどである。
彼の国の菩薩「生彼佛國諸菩薩等。所可講說常宣正法‥‥於佛教法該羅無外」
「生彼仏国諸菩薩等所可講説‥」/彼の国に生まれたならば、諸の菩薩たちに、無量寿仏より講説される法は、常に正法であり智慧に随順して違い失う所が無い。
「於其国土所有万物‥」/彼の国の諸の菩薩たちは、その国土のあらゆる万物に執著する心は無く、意のままに自在であり好き嫌いは無い。彼も無く我も無く、競うことも無く諍うことも無い。
「於諸衆生‥」/彼の国の諸の菩薩たちは、諸の衆生に対しては、大慈悲でもってただ饒益(にょうやく、利益)したいのみであり、柔軟に調伏(ちょうぶく、教え導く)して、怒りの心も無く、恨みの心も無い。一切の煩悩も無く、清浄であり、厭い怠ける心も無く、等しい心、勝れた心、深い心、定った心、法を愛し、法を楽しみ、法を喜ぶ心で接する。
「滅諸煩悩‥」/彼の国の諸の菩薩たちは、諸の煩悩を滅して、悪趣の心を離れ、一切の菩薩の行うべきことは究め尽くし、無量の功徳を具足して成就し、深い禅定、諸の神通、明らかな智慧を得て、覚りの完全な力に遊び、心に仏法を修める。
「肉眼清徹‥」/彼の国の諸の菩薩たちの肉眼は清く透き徹して明らかならざるはなく、天眼は無量無限の空間に通達し、法眼は一切を観察して諸の道法を究め、慧眼は真実を見すえて彼岸に渡すことができ、仏眼は法性を具足して明らかに覚る。法性(ほっしょう)とは万物の実の性、空のことです。
「以無礙智為人演説」/彼の国の諸の菩薩たちは、礙(とどこお)ることのない智慧で人の為に演説する。
「等観三界‥」/彼の国の諸の菩薩たちは、三界は等しく空であり何もないと観察して仏法を求め、諸の弁舌の才能を具えて衆生の煩悩の苦しみを除く。
「従如来生‥」/彼の国の諸の菩薩たちは、仏のように真実より来て生れ、法の如如を理解する。法の如如(にょにょ)とは万物に共通する本性をいいます。
「善知習滅‥」/彼の国の諸の菩薩たちは、習うべき善と滅するべき悪とを善く知って声を出して方便するが、世間の談話を喜ばず、正論のみを楽しむ。方便(ほうべん)とは衆生を救い導く行いをいいます。
「修諸善本‥」/彼の国の諸の菩薩たちは、諸の善本を修めて仏道を崇める。善本(ぜんぽん)とは善い行い、仏となる善い行いをいいます。
「知一切法‥」/彼の国の諸の菩薩たちは、万物は皆悉く寂滅であると知って、生身と煩悩との二つの残り香を尽くす。「寂滅(じゃくめつ)」とは存在しないこと、一切は存在せず空であると知って、身体と煩悩との二つを尽くすよう努力する。
「聞甚深法‥」/彼の国の諸の菩薩たちは、甚だ深い法を聞いても、疑うことをせず、畏れもせずに、常によく修行する。前の句と関係があります、一切法が空である、存在しないと聞いても、それで摧けてしまわずに修行することをいいます。
「其大悲者‥」/彼の国の菩薩の大悲は、深遠にして微妙であり、一切の衆生を覆い、一切の衆生を載せる。
「究竟一乗‥」/彼の国の諸の菩薩たちは、ただ一つの乗り物を究めて、彼岸に至り、疑いの網を決断して智慧が心より出る。仏の教法に一切の衆生を覆って、余す所が無い。ここで言う一乗(いちじょう)とは大乗のことです。
彼の国の菩薩「智慧如大海‥‥摧滅嫉心不望勝故」
「智慧如大海‥」/彼の国の菩薩の智慧は大海のようにはてしなく、菩薩の三昧(さんまい、一心に行うこと)は須弥山のように揺るぎなく、菩薩の智慧の光明は日月を超え、菩薩の清い法は具足して円満である。
以下、彼の国の菩薩の行い、または菩薩の智慧の譬喩が続きます。
「猶如雪山照‥」/雪山よりもなお世間を照らす。諸の功徳は一切を等しく一に見て浄きが故に。
「猶如大地‥」/大地よりもなお一切を載せる。浄穢好悪を心に差別しないが故に。
「猶如浄水‥」/浄水よりもなおよく洗う。塵労(じんろう、煩悩)を除き、諸の垢の染みを除くが故に。
「猶如火王‥」/火よりもなお焼き尽くす。一切の煩悩の薪を燃やし尽くすが故に。
「猶如大風‥」/大風よりもなお行く。諸の世界に障碍が無いが故に。
「猶如虚空‥」/虚空よりもなお何も無い。一切のあらゆる物に執著しないが故に。
「猶如蓮花‥」/蓮花よりもなお汚れが無い。諸の世間に汚染されないが故に。
「猶如大乗‥」/大きな乗り物よりもなお載せる。衆生を載せて生死の苦しみより出すが故に。
「猶如重雲‥」/雷雲よりもなお震わす。大法の雷は未だ覚めない者を覚ますが故に。
「猶如大雨‥」/大雨よりもなお潤(うるお)す。甘露の法を雨ふらして衆生を潤すが故に。
「如金剛山‥」/金剛山よりもなお動かない。衆魔、外道も動かすことのないが故に。
「如梵天王‥」/梵天王よりもなお上である。諸の善法(ぜんぽう、善行)を行って、最上首であるが故に。
「如尼拘類樹‥」/尼拘類樹(にくるいじゅ、巨木)よりもなお大きい。普く一切の衆生を覆うが故に。
「如優曇鉢華‥」/優曇鉢樹(うどんばじゅ、華樹)の華よりもなお希有である。遇い難いが故に。
「如金翅鳥‥」/金翅鳥(こんじちょう、龍を常食する天上の巨鳥)よりもなお恐ろしい。外道を威伏するが故に。
「如衆遊禽‥」/小鳥よりもなお無邪気である。蔵(かく)して積む物が無いが故に。
「猶如牛王‥」/牛の王よりもなお強い。誰も勝つことができないが故に。
「猶如象王‥」/象の王よりもなお大人しい。善く調伏されているが故に。
「如師子王‥」/獅子の王よりもなお畏れが無い。畏れる物が何も無いが故に。
「曠若虚空‥」/虚空のように広い。大慈が等しく行き渡るが故に、嫉妬心を滅して、勝ちを望まないが故に。
彼の国の菩薩「專樂求法心無厭足。常欲廣說志無疲倦‥‥具足莊嚴無與等者」
「専楽求法‥」/彼の国の菩薩は、専ら楽しんで法を求め、心に倦み厭きることがなく、常に広く説くことを欲して疲れ倦むことがない。法の太鼓を打ちならし、法の旗印を建て、智慧の日を耀かし、疑いの闇を除く。
「修六和敬‥」/彼の国の菩薩は、六和敬(ろくわぎょう、和み敬う六項目)を修め、常に法を施し、志は勇ましく精進して弱く退くことをせず、世の灯明、最も勝れた福田(ふくでん)と為り、常に道の師と為って衆生を等しく見て憎愛することがない。六和敬とは、身で敬う、口で敬う、意で敬う、同じ戒を持って和み、同じ見解で和み、同じ修行をして和むことです。精進とは休んだり怠けたりしないこと。福田とは善の種籾を植えて福の穂を刈り取る田、仏法僧の三宝をいいます。
「唯楽正道‥」/ただ正しい道のみを楽しんでその他の喜びや憂いは無く、諸の欲の刺を抜くことを教えて衆生を安んずる。
「功徳殊勝‥」/功徳は殊に勝れて尊び敬わない者は無い。
以下に、その殊勝なる功徳を説きます。
「滅三垢障遊諸神通」/貪瞋癡を滅して諸の神通に遊ぶ。
「因力縁力」/因(いん、今菩薩たることの因)の力と縁(えん、今菩薩たることの縁)の力。
「意力願力」/意(い、衆生済度の意志)の力と願(がん、衆生済度の願)の力。
「方便之力」/方便(ほうべん、衆生済度の種種の方策)の力。
「常力善力」/常(じょう、常に変わらぬ志)の力と善(ぜん、一切の悪行を断つ)の力。
「定力慧力」/定(じょう、一切の乱心を除く)の力と慧(え、一切の惑心を除く)の力。
「多聞之力」/多聞(たもん、善事を多く聞く)の力。
「施戒忍辱精進禅定智慧之力」/施(せ、布施)、戒(かい、持戒)、忍辱、精進、禅定、智慧の力。
「正念止観諸通明力」/正念(しょうねん、常に衆生済度を心に思う)と止観(しかん、妄念を止め正観する)と諸の通(つう、神足、天眼、天耳、他心智、宿命、漏尽)と明(みょう、宿命、天眼、漏尽)の力。
「如法調伏諸衆生力」/如法(にょほう、正しく)に諸の衆生を調伏する力。
このような力の一切を具足して、身色、相好、功徳、辯才で自らを荘厳して並ぶ者が無い。身色(しんしき)は肉体、相好(そうごう)は好ましい容貌、功徳は衆生を導く力、辯才(べんざい)は弁舌の才能をいいます。
彼の国の菩薩「恭敬供養無量諸佛‥‥百千萬劫不能窮盡」
「恭敬供養無量諸仏‥」/無量の諸仏を恭敬し供養して、諸仏には称歎される。恭敬(くぎょう)は敬って仕えること、供養(くよう)は衣服、飲食、臥具、湯薬を供給して生活を支えることです。
「究竟菩薩諸波羅蜜」/菩薩の諸波羅蜜を究める。六波羅蜜(ろくはらみつ)を究めることです。
六波羅蜜(はらみつ)/波羅蜜は彼岸に至ると訳し、仏の浄土を建設することです。その方法は限りない布施をすることによって実現します。それは苦行にも似ていますが、それを苦行に感じないことが波羅蜜なのです。菩薩は六波羅蜜により心を調へ智慧を得て布施をするのです。(1)布施波羅蜜/乞われるままに一切を布施します、もともと菩薩に一切の所有は無いのですから当然のことをするのみです。(2)持戒波羅蜜/殺生を一切しないことにより、一切の衆生に無数の命を施します。(3)忍辱(にんにく)波羅蜜/命の危険を感じても決して怒らないことです。(4)精進波羅蜜/上の三波羅蜜をして一時も休まないことです。(5)禅定波羅蜜/上の四波羅蜜をして心は少しも乱れません。(6)智慧波羅蜜/上の五波羅蜜は何故しなくてはならないか、何のようにすればよいかを知る智慧です。
「修空無相無願三昧不生不滅諸三昧門」/空、無相、無願三昧、不生不滅の諸の三昧門を修める。空無相無願の諸三昧を総称して三三昧といいます。
空三昧(くうさんまい)/無我の境地をいいます。
無相三昧(むそうさんまい)/わが心と肉体とは存在しないとする境地のことです。
無願三昧(むがんさんまい)/われは何もしていないとする境地をいいます。
三昧(さんまい)/一心不乱であることをいいます。
不生不滅(ふしょうふめつ)/生きるも無く死ぬも無いことです。一切は平等、我も無く彼も無い、此も無く彼も無いと確信することで、この確信の本に衆生を救い導いて一心不乱であることを不生不滅の諸三昧門といいます。
「遠離声聞縁覚之地」/このような、六波羅蜜と三三昧、不生不滅の諸三昧は声聞、縁覚の境地を遠く離れたものである。
声聞(しょうもん)/仏の声を直接聞いて覚った聖者です。
縁覚(えんがく)/仏に従らず自ら覚った聖者をいいます。
小乗(しょうじょう)/声聞と縁覚とは共に菩薩とは異なり、自ら安楽の境地に住することを目的としていますので一人乗りの小さな乗り物、小乗と呼ばれます。これに反し、菩薩は自ら安楽の境地を衆生済度の中に求めますので、一切の衆生を乗せる大きな乗り物、大乗と呼ばれます。
弥勒に教え託す
弥勒菩薩(みろくぼさつ)は釈迦の後を継いで未来に仏と成る菩薩です。この弥勒に釈迦は何故無量寿仏と極楽を説いたのかを説明し、後のことを託します。
何故往かないのか「佛告彌勒菩薩諸天人等‥‥壽樂無有極」
仏は、弥勒菩薩と諸の天と人等に教えられた。無量寿国の声聞と菩薩との功徳と智慧とを一一挙げて説くことはとてもできない。またその国土は微妙にして安楽、清浄なることも今言ったとおりである。
それなのに、お前たちは、
「何不力為善」/何故、力を尽くして善を為さないのか。
「念道之自然」/善の道は自然に極楽に通じることを念え。
「著於無上下」/極楽には上下の差別が無いことに執著せよ。
「洞達無辺際」/無辺際の力に洞達せよ。
「宜各勤精進」/できるかぎり勤めて精進せよ。
「努力自求之」/努力して極楽国の安楽を求めよ。
「必得超絶去往生安養国」/必ずこの世界を超絶して去り、安養の国に往生を得よ。
「横截五悪趣悪趣自然閉昇道無窮極」/地獄、餓鬼、畜生、人間、天上の五悪趣を横ざまに断ち切れ。悪趣は自然に閉ざされて極楽に昇る道が開かれよう。生滅に随順しなければ極楽に往く道が開かれるということです。自らの身心、家族、財産を惜しむことは生滅を繰り返す道です。これらを横ざまに断ち切ることが五悪趣を切ることになるのです。
「易往而無人其国不逆違自然之所牽」/このように往きやすいのに、往く人がいないのは何故か。その国は自然に逆らっているのではない。自然はその国へ往くように牽いているのだ。
「何不棄世事勤行求道徳‥」/何故、世事を棄て、勤めて善を行い、道の徳を求めないのか。極めて長い生を獲得し、寿の極まりの無いことを楽しめ。道徳とは善行の果報をいいます。
この国のありさま三毒
人の苦しみには原因があります。この国の世間ではそれを脱れることが甚だ困難です。我々が普段から何気なくしていることの中にこの苦しみの原因が隠されているのです。貪欲(とんよく)は貪って飽きないことです、瞋恚(しんに)は思うにまかせずいらいらすることです、愚癡(ぐち)は道に迷って正道につかないことです。この貪欲、瞋恚、愚癡は、最も劇しい苦しみをもたらすものとして三毒と呼びます。
三毒、貪欲「然世人薄俗‥‥有所趣向善惡之道莫能知者」
ここでは人の欲望について説きます。
「然世人薄俗‥」/しかし、世間の人の薄俗は何うだろうか。皆、一緒になって不急の事を諍い、この劇しい苦痛の中で身を粉にして働き自らに給済している。尊も無く卑も無く、貧も無く富も無く、少長男女共に銭財を憂い、有ろうが無かろうが同じように、等しく思いわずらって、不安げに、うろつき、愁い苦しんで、過去を思い、未来を考えるのである。このように、心を走り使って、片時も安まる時が無い。
「有田憂田‥」/田が有れば田を憂い、宅が有れば宅を憂い、牛馬、奴婢、銭財、衣食、什物(じゅうもつ、日用品)に至るまで、皆悉く憂うのである。水火の災難は何うか、盗賊に取られはせぬか、怨家の襲撃はないだろうか、債主は催促せぬか、焼け焦げて水に流され、奪われ、消散磨滅することはないだろうか。憂いは毒となり身中に回って解ける時が無い。憤りは心の中に結ばれて憂いの悩みを離れず、心にかたくなにこびりついて捨てることもできない。或は為すこともなく命が終る、これ等を捨てて去らなくてはならないのに、誰も随っては来ない。尊貴、豪富とて同じこと、憂いの怖れは万端とどこおりなく、苦労することはこれと同じである。衆の寒熱の病を結び、痛みと共に在る。
「貧窮下劣困乏常無‥」/貧に窮する者、身分が下劣の者たちは、貧困欠乏して常に無い。田が無ければ憂いて田が有ればよいがと欲し、宅が無ければ憂いて宅が有ればよいがと欲し、牛馬、奴婢、銭財、衣食、什物に至るまで無ければ憂いて有ればよいがと欲するのである。たまたま一つ有れば一つを欠き、これが有ればこれを欠く。すべてが有ればよいがと思っているのだが、欲が適(かな)いすべてが有るとおもえば、たちどころに霧散してしまう。このように憂い苦しみながらも、またまた求めてしまう。時には得ることもできず、無益に思い悩む。心身は共に疲労し、起きても寝ても安らぐことがない。憂いと念いとは心の中に居座って、このように苦労させる。また衆の寒熱の病が痛みを伴って現れる。或いは、時に何も為すことなく若死にして、善行を為すことも、正道を行くことも、功徳を積むこともできず、命が終れば独り遠くに去らなければならない。善悪の行いによって趣く所が異なるのを誰も知ろうとしないのである。
三毒、瞋恚「世間人民父子兄弟夫婦家室中外親屬‥‥可得極長生」
ここでは人の怒りについて説きます。
「世間人民‥」/世間の人民、父子、兄弟、夫婦、家族、親属は、互いに敬い愛しあい、憎み嫉むことなく、富を分け合って貪ることも惜しむこともなく、言葉と態度を常に和らげて、互いに背き合わないようにすべきである。
「或時心諍‥」/もし、時に心に諍いを懐き怒りを懐けば、今世の恨み憎み嫉みは極めて微かであっても、後世にはどんどん増してやがてはひどい怨みと成る。何故ならば、世間の事で互いに傷つけあえば、その場その時に争いあわなくても、毒を含み、怒を蓄え、憤りを心に結んで、自然に、意識の中に刻み込まれて、敵どうしは離れなくなり、皆同時、同所に生まれて、再び報復しあうのである。
「人在世間愛欲之中独生独死独去独来‥」/人は世間の愛欲の中にあって、独り生れ独り死に、独り去って独り来たる、やがて善悪の行いによって苦楽の地に趣くが、自ら往かなくてはならない、誰も代ってはくれない。善悪は変化して罪福の処となる。宿はあらかじめ厳正に用意され、独りで趣くのである。遠く誰も知らない他所に到り、善悪は自然に後を追って生まれる所に行く。暗くぼんやりした道を親しい者と別れて行くが、それぞれの道は同じではないので、ふたたび相いまみえることはないであろう。実に難しいことである。何故、皆は雑事を棄てて、各各強健の時に当って、努力して善を修めようとしないのか。精進して世を渡ろうと願えば極めて長い命を得ることができるというのに。
三毒、愚癡「如何不求道。安所須待欲何樂乎‥‥痛不可言甚可哀愍」
「如何不求道‥」/何故、道を求めようとしないのか、何を待ち、何を楽しもうと思っているのか。このような世間の人は、善を作して善を得ることも、道を為して道を得ることも信じず、人が死ねばまた生まれ、恵み施せばまた福を得ることを信じようとしない。善悪の道理をすべて信じようとせずに、そうではない、決してそのようなことは無いのだと言う。
「但坐此故且自見之‥」/ただ何もせず、なんとなく確信して、互いに見習い、先の者を後の者が見習い、父から子へと受け継がれて行く。先人も、祖父も、もとより善を為さず、道の徳を識らないので、愚かで暗く、闇に閉ざされている。生死の趣きも、善悪の道も、自ら理解することができず、これを語る者も無い。吉凶禍福が競い来たっても、一つとして怪しまないのである。
「生死常道‥」/生死は常の道となり、次から次ぎに立て続く。ある時は父が子を泣き、ある時は子が父を泣く、兄弟も夫婦も互いに泣きかわすのである。上下老若が顛倒することは無常の根本である。皆、過ぎ去って常を保つことはできない。教えを語り、道を開いて導こうとしても、これを信ずる者は少ない。この故に生死に流転して、しばしも休むことが無いのである。
「如此之人‥」/このような人は、暗闇の中でぶつかり合いながらも、経法を信じようとせず、心には遠くを思いはかる力が無いので、皆、快楽のみを願うのである。愚かにも愛欲に惑って道の徳に達しようとしない。色と欲とを貪って道を得ようとしない。地獄に堕ちるわけであり、生死が窮まるわけがないのである。哀れであり痛ましいことである。
「或時室家父子兄弟夫婦‥」/ある時は、家族の父子、兄弟、夫婦が、一人が死に、一人が生まれる。互いに、歎き、哀しみ、慈しみ、慕い、憂い、この念いで結びつき、苦に縛りつける。心は死者に痛切に執著し、恋い慕い、年月を経ても苦が解けることがない。
「教語道徳心不開明‥」/道の徳を教え語っても、心は開かれず明るくならない。慈しんだ過去に思いを巡らして情欲を離れない。暗く、塞がったままの心は、愚かさと、惑いとに、覆われて、深く、思うことも、隅々まで、考えることも、心が、自ら正しくなることも、専ら、道を行うことも、世事を、捨て去ることもできないのである。あてどなくさまよって、命が尽きる時になってもまだ道を得ることがない。どうしようもないのだ。みだりに心を乱すことを集めて、皆、愛欲を貪り、道に惑う者は多く、道を悟る者は少ない。
「世間匆匆無可聊ョ‥」/世間は慌ただしく頼みになる者も無い。尊卑、上下、貧富、貴賎、皆、苦労して慌ただしく務めながら、各各殺毒を懐き、悪しき気分が心中にわだかまって、みだりに事を興し、天地の道理に逆らって、人の心に従わない。自然に悪人でない者までが、率先してこの悪人に随い仲間になり、心の欲するままに何でも行い、そしてその罪が極まるのを待つのである。その寿命が、未だ尽きていなくても、突然、命を奪われて悪道に落ち入り、世世に苦を怨むことになり、数千億劫の間その中を展転として、出ることはまったく期待できない。痛ましいかな言うべき言葉も無い、甚だ哀れむべきことである。
精進して安楽国を願え「佛告彌勒菩薩諸天人等‥‥心得開明」
仏は、更に言葉をついで弥勒菩薩、諸の天人等に教えられます。
「人用是故坐不得道‥」/人は、このようにしているが故に道を得られないのである。よく考えなくてはならない。悪なるものを離れ遠ざけ、善を択んで勤めて行わなければならない。愛欲も栄華も常に保つことはできないのであるから、皆、別離すべきものであり、楽しむべきものは無い。
「曼仏在世当勤精進‥」/ようやく仏が世に在るのである、勤めて精進せよ。もし、心から安楽国に生まれようと願うに至ったならば、智慧が明らかに達し、殊に勝れた功徳(くどく、衆生を救う力)を、必ず、得るだろう。心の欲するままに経と戒とに背き、人に遅れを取ってはならない。
「儻有疑意不解経者可具問仏当為説之‥」/「もし疑いが有り、心に解けないことがあれば、具に仏に問え、仏は必ずこれに答えて説くであろう。」と、このように仏が言いますと、弥勒菩薩は、まったく仏の仰るとおりでございます。と答えます。以下ここの詳細は割愛します。
善本を積み重ねよ「佛告彌勒。汝言是也‥‥如教奉行不敢有疑」
更に、仏は弥勒菩薩に教えられます。
「若有慈敬於仏者実為大善‥」/もし仏を慈しみ敬うならば、実に大善を為す者である、何となれば、天下にはようやく仏が現れたのである。教法を演説して道の教えを布き延べ、疑いの網を断じて愛欲の本を抜き、悪の源を閉ざした。三界を自在に遊び歩いて、智慧を顕し道の要を示した。諸の法を説いて道理を明らかにし、地獄、餓鬼、畜生、人間、天上の別を開き示して未だ導かれない者たちを導いた。生死と涅槃とを決断して正したのである。
「弥勒当知‥」/弥勒よ、知るがよい。お前は無数劫の昔よりこのかた、菩薩の行を修めて、衆生を度すことを欲した。すでに久遠の時間が過ぎ、お前によって道を得て涅槃に至った者は、無数である。お前、および十方の諸天、人民、一切の四衆(ししゅ、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷)は、永劫よりこのかた、五道(ごどう、地獄、餓鬼、畜生、人間、天人)を展転とし、憂い畏れ、勤苦(ごんく、勤労)して、ようやく今世に至り、それでも、なお生死を、絶つことができなかった。しかし今ようやく仏に値うことができて、経法を聴受し、その上、無量寿仏を聞くことができたのである。快いかな、甚だ立派である。私は、今お前を助けて喜ばせよう。
「汝今亦可自厭生死‥」/お前は、今また生死と老病の痛苦、悪が露出して不浄であり、楽しむべきでないものを厭え。よろしく自ら不浄を決断して身を正し、行いを正してますます善を作し、己の身体を潔く修めて心の垢を洗い除き、言葉と行いとに偽りを無くして表裏を相応させよ。
「人能自度転相拯済精明求願積累善本‥」/人は、自らを度(ど、救う)すことができれば、やがて互いに救いあうことができる。ひたすら道理を明らめ、安楽国を求め願うて、善本(ぜんぽん、善の根本)を積み累ねよ。一世の間、懸命に勤めても、僅かの間のことである、後世は、無量寿国に生まれてその快楽は極まり無い。
「長与道徳合明‥」/その積みかさねた善本は、とこしえに道の徳(修行で得た力)と合して、智慧は明らかになり、永く、生死の根本を抜いて、貪欲、瞋恚、愚癡の苦悩の患いに還ることは無く、長い寿命を欲すれば、一劫でも、百劫でも、千億万劫でも、自在に、意のままに、皆、得ることができる。
「無為自然次於泥洹之道‥」/無為(むい、人の妄想によらない事物)は自然であり、泥洹の道に次ぐのである。お前たちは、よろしく各精進して心の願う所を求めよ。疑惑して途中で悔い止まり、自らの過失により、彼(か、安楽国)の辺地の、七宝の宮殿に生まれ、五百歳の間、諸の厄難を受けないように。「彼辺地七宝宮殿」とは後に、この経に於いて具に明かされるのであるが、疑惑して安楽国に往生する者は、辺地の七宝の宮殿に生まれて、五百歳の間、仏、および諸菩薩に会わず、法を聞くこともないことをいう。
五悪「佛告彌勒。汝等能於此世‥‥度世長壽泥洹之道」
ここでは仏は弥勒に、五戒に相当する五つの悪を説きます。
「汝等能於此世」/お前たちが、この世に於いて心を正し、悪を作さないのは甚だ立派なことである。何故ならば諸仏の国土の天人の類は、自然に善を作して悪を為さないからである。今、私は、この世間に於いて、仏と作り、五悪(ごあく、殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒)、五痛(ごつう、五悪を犯して受ける刑罰)、五焼(ごしょう、五悪を犯して受ける地獄の罰)の中に居ることは、最も劇(はげ)しい苦しみであるとした。そして今、群生(ぐんしょう、衆生)に教えて、五悪を捨てさせ、五痛を避けさせ、五焼を離れさせ、悪から善に化して、五善を行わせ、福徳(ふくとく、来世に受ける善い果報)、度世(どせ、巧くこの世を渡ること)、長寿、泥洹(ないおん、苦しみの無い世界、涅槃)への道を獲得させよう。
五悪殺生「其一惡者‥‥是為一大善也」
その一の悪とは、殺生に関する悪です。
「其一悪者、諸天人民蠕動之類‥」/その一の悪とは、この世間の諸天、人民からみみずの類に至るまで、皆、衆悪を為している。
「強者伏弱‥」/強い者は弱い者をねじ伏せて、次々と殺し合い傷つけ合っている。
「不知修善‥」/善を修めることを知らず、道が無いかのようにほしいままに悪を為せば、後に天罰を受けるのは自然の趣きである。天は罪を犯す者を名簿に記して、決して赦すことはない。
「故有貧窮下賎‥」/故に、貧窮下賎、乞食孤独、聾盲瘖唖、愚癡弊悪から、あるいは尪狂などに至るまで、人に及ばない属が有る。
「又有尊貴‥」/一方では尊貴豪富、高才明達が有るが、皆、過去世に慈悲が有ったり、孝行であったりして、善を修めて徳を積んだが為に、こうなったのだ。
「世有常道‥」/世間にも常道として、王法もあれば牢獄もあるが、あえて悪を為して罪を受ければ、捕らえられて脱れることも免れることも難しい。世間には目前にこの事が有り、命が終って後の世では、もっと深くもっと劇しい。その人が薄暗い世界に入って生れ、身を受ければ、譬えば王法のように痛苦と極刑が待っている。
「故有自然三塗‥」/故に、自然に三塗(さんづ、三悪道)の無量の苦悩が有る。次々と肉体を取り替えながら、ある時は地獄に入り、ある時は餓鬼道に入り、ある時は畜生道に入って、或は長く、或は短く寿命を受ける。
「魂神精識自然趣之‥」/肉体に伴って、心も三塗に入り、独り苦悩に立ち向かわなければならない。
「相従共生更相報復‥」/人に生まれても、敵同士は常に一緒に生まれて、互いに報復を繰り返す。罪が尽きていなければ互いに離れることもできない。
「天地之間自然有是‥」/天地の間には、自然にこれが有る。善悪の道が別れるのは、即時に、にわかにではないが、必ずここに帰るのである。これを一の大悪、一の痛、一の焼という。このように、譬えば、大火に身を焼くように苦しまなくてはならない。
「人能於中一心制意‥」/人がよくその中で、一心に心を調えて身の行いを正し、独り善を作して悪を為さなければ、身は独り脱れ出て福徳を得、天に上って涅槃の道に至るであろう。これを一の大善という。
五悪偸盗「其二惡者‥‥是為二大善也」
その二の悪とは、偸盗に関する悪です。
「其二悪者、世間人民‥」/その二の悪とは、世間の人民、父子、兄弟、家族、夫婦は、すべて正義も道理も無く、法律を無視し、驕り高ぶって縦横に快楽を貪っている。心にまかせて互いに欺し惑わせ、心と口とは異なって言うことに信用がおけず、媚び諂って心に誠がない。
「嫉賢謗善‥」/賢者を嫉んで善人を落とし入れる。主上は愚かにも重く用いて臣下にする。
「臣下自在‥」/臣下は自在に偽りの計りごとをし、慎重に行動して形勢を読み、位に在れば不正をして欺き、主上は善良の忠臣を損なって天の心に背く。
「臣欺其君‥」/臣下は主上を欺き、子は父を欺き、兄弟夫婦、中と外の親戚知人、皆、互いに欺く。
「各懐貪欲‥」/各各、心に貪欲、瞋恚、愚癡を懐いて、自ら己に厚く多くを貪ろうと欲し、尊卑上下、皆、同じ心である。
「破家亡身‥」/家を破って身を亡ぼし、これを為せば何うなるかと前後を顧みることもなく、親戚一同坐して滅ぶのを待つ。
「或時室家‥」/或は時に、家族知人、郷党市里の愚人野人も手伝って互いに剥ぎ取り殺害し、忿りを成して怨を結ぶ。
「富有慳惜‥」/富が有っても惜しんで施そうとせず、愛し保ち、貪り重ねて、心は疲れ身は苦しむ。
「如是至竟‥」/このようにして命の終りに至れば、頼みとする所は無く、独り来たのであるから独り去らなければならず、一人として随う者は無い。善悪の行いに応じた禍福は命を追い、生まれる所も、或は楽処に在り、或は苦毒に入る。そうなった後に悔んでも及ばないのである。
「世間人民‥」/世間の人民は、心が愚かで智慧が少なく、善人を見ても憎んで落とし入れ、思慕し及ぼうとしない。ただ悪を為して法を犯すことのみを欲している。
「常懐盗心‥」/常に盗心を懐いて、他の利を望み、盗んだ財が消散磨滅すれば、また求める。
「邪心不正‥」/心が邪で正しくなければ、人の顔色を怖れる。あらかじめ思い計ることをしないので、事が至ってようやく悔む。今世には王法と牢獄とが有り、罪に随って受ける刑罰が決まり、前世に道の徳を信じず、善本を修めず、今また悪を為せば、天はその名を記して、命が終れば悪道に入るのである。
「故有自然三塗無量苦悩‥」/故に、自然に三塗の無量の苦悩が有る。次々と肉体を取り替えながら、世世にある時は地獄に入り、ある時は餓鬼道に入り、ある時は畜生道に入り、いつ出られるとも知れず、その痛みは言いようもない。これを二の大悪、二の痛、二の焼という。このように、譬えば、大火に身を焼くように苦しまなくてはならない。
「人能於中一心制意‥」/人がよくその中で、一心に心を調えて身の行いを正し、独り善を作して悪を為さなければ、身は独り脱れ出て福徳を得、天に上って涅槃の道に至るであろう。これを二の大善という。
五悪邪婬「其三惡者‥‥是為三大善也」
その三の悪とは、邪婬に関する悪です。
「其三悪者、世間人民相因寄生‥」/その三の悪とは、世間の人民は相い因り寄って生まれ、共に天地の間に居り、寿命はいくばくでもない。上には賢明、長者、尊貴、豪富の者が有り、下には貧窮、廝賎(しせん、身分が賎しい)、尪劣(おうれつ、弱く劣る)、愚夫が有る。
「中有不善之人‥」/その中に不善の人が有り、常に邪悪を心に懐いて、ただ酒色におぼれている。わずらわしさは胸中に満ち、愛欲に乱れて寝ても覚めても安らげない。
「貪意守惜但欲唐得‥」/貪りの心はただ財を守り惜しんでむやみに得ることのみを欲する。女の肌がきめ細やかであるのを横目に見て、自らの妻を厭い憎み、秘かに娼家に出入して家財を損じ、職場で非法を為す。悪い仲間と交わって徒党を組み、戦いを興して相い伐(う)って強いて奪い、正しい道を行わない。
「悪心在外不自修業‥」/悪心は外に向けられ自ら正業を修めず、盗んで得ることを好み、他人を襲って事を成そうとする。びくびくしながら得た物を妻子にあてがい、好き放題にして快く思い、身の快楽を尽くす。
「或於親属不避尊卑‥」/或は親属に対する礼儀を忘れ、皆の患いとなり、王法も牢獄も怖れない。これを日月が見ないはずがなく、その名は名簿に記される。
「故有自然三塗無量苦悩‥」/故に、自然に三塗の無量の苦悩が有る。次々と肉体を取り替えながら、世世にある時は地獄に入り、ある時は餓鬼道に入り、ある時は畜生道に入り、いつ出られるとも知れず、その痛みは言いようもない。これを三の大悪、三の痛、三の焼という。このように、譬えば、大火に身を焼くように苦しまなくてはならない。
「人能於中一心制意‥」/人がよくその中で、一心に心を調えて身の行いを正し、独り善を作して悪を為さなければ、身は独り脱れ出て福徳を得、天に上って涅槃の道に至るであろう。これを三の大善という。
五悪妄語「其四惡者‥‥是為四大善也」
「其四悪者、世間人民不念修善‥」/その四の悪とは、世間の人民は善を修めることを思わず、互いに教え合って衆悪を為す。二枚舌を使って仲違いをさせて悪口を言い、嘘を言って卑猥な言葉を並べ立て、人を陥れて乱闘する。
「憎嫉善人敗壊賢明‥」/善人を憎み嫉み賢明をだめにして、傍らでそれを喜ぶ。二親には不孝、師長には憍って軽んじ、朋友には信じられず、誠実な友を得ることができない。
「尊貴自大謂己有道‥」/尊貴の者ならば自ら大物ぶって道を得ていると言い、威勢を振るって横行し、人を侵してあなどっているが、自らは知らないのである。
「為悪無恥‥」/悪を為して恥じること無く、自らが強健であるからといって人に敬わせ憚らせて天地を畏れず、善を作そうともせず、教え導こうとしても受け付けない。自らこれでよいと思って何もせず、憂いも畏れも無く、常に驕り高ぶっている。
「如是衆悪天神記識‥」/このような衆悪を天が放っておくだろうか。たとえ前世に僅かばかりの善を作していたとしても、今世にこれだけの悪を為していては福は滅尽してしまうだろう。これを助けていた善い鬼神も離れ去ってしまい、独り空しく立って、誰も助けてはくれない。
「寿命終尽諸悪所帰‥」/寿命が尽きれば、諸悪の帰する所は、自然にこの人をせき立てて地獄へ連れていってしまうのである。またその名はすでに記されているので、罪のままに何処へでも趣かなくてはならない。罪報は自然であり捨て去ったりはしない。ただまっすぐ進んで熱く焼けた火の鍋に入るのみである。身心は砕け散り精神は痛み苦しむ。この時に当って悔んだとて何になろう。天の道は自然であり蹈み違えることはありえない。
「故有自然三塗無量苦悩‥」/故に、自然に三塗の無量の苦悩が有る。次々と肉体を取り替えながら、世世にある時は地獄に入り、ある時は餓鬼道に入り、ある時は畜生道に入り、いつ出られるとも知れず、その痛みは言いようもない。これを四の大悪、四の痛、四の焼という。このように、譬えば、大火に身を焼くように苦しまなくてはならない。
「人能於中一心制意‥」/人がよくその中で、一心に心を調えて身の行いを正し、独り善を作して悪を為さなければ、身は独り脱れ出て福徳を得、天に上って涅槃の道に至るであろう。これを四の大善という。
五悪飲酒「其五惡者‥‥是為五大善也」
「其五悪者、世間人民徒倚懈惰‥」/その五の悪とは、世間の人民は、他に寄りかかって怠け、善を作そうとも、身を治めようとも、正業を修めようともしない。家族、眷属が飢えと寒さに苦しんでも、父母が教え諭しても、目を瞋らせて口答えし、言いつけは守らず敵のように逆らって、子などは無いほうが善いぐらいである。
「取与無節衆共患厭‥」/取ることも与えることも節度が無く、人に嫌われて恩義に背き、貰っても返す心が無いので、一たび貧乏し困窮すれば二度と得ることは望みえない。権力で奪えば、ほしいままに遊び散じ、大きく得れば自らの酒色に給してしまう。美酒美食にきりがなく、心が大きくなって、意味もなく人に従い、むやみに人とぶつかり合う。
「不識人情強欲抑制‥」/人の心を読むことができず、強いてこれを抑えつけようとし、善人を見れば、これを憎んで嫉む。礼儀知らずであるから、人に軽んぜられて顧みられず、自ら職についても人を諫めることができない。家族を養うことができないのに、憂うこともできない。
「不惟父母之恩‥」/父母の恩を思わず、師友の義理も知らず、心には常に悪を思い、口には常に悪を言い、身には常に悪を行い、かつて一つの善も為したことが無い。
「不信先聖諸仏経法‥」/諸仏の経法を信じず、道を行って世を渡ることを信じず、死後に再び生まれることを信じず、善を作せば善を得、悪を為せば悪を得ることを信じず、聖者を殺して衆僧と乱闘しようとし、父母兄弟を殺そうとして、親属に憎悪されて死を願われる。
「如是世人心意倶然‥」/このように世人の心は皆同じである。愚癡蒙昧であり、自らの智慧では何処から来て生まれたのかも、死んで何処へ往くのかも知らない。下を慈しまず上に従わずに天地に逆らい、その中で、あてどなく幸を求め、長く生きたいと思うが、いつかは死ななくてはならない。
「慈心教誨令其念善‥」/親切な人が、教えさとして善を思わせようとし、生死の意味を開き示して、善悪の道は自然に有ることを知らしめようとするが信じようともせず、苦心の言葉もこの人には無益である。
「心中閉塞意不開解‥」/心は塞がれて開かず、盛んであった命が終る時になって初めて悔やみと怖れとが交も至るのである。あらかじめ善を修めていなければ、その場になって悔んでももう遅い、何の役に立つというのだろう。
「天地之間五道分明‥」/天地の間には、地獄、餓鬼、畜生、人間、天上の五つの道がはっきりと通っている。薄暗く果てしないその道を善悪の行いに応じて行かなければならない。誰が代ってくれるというのか。理の当然のことである、その行いに応じて刑罰は後を追い、決して放してはくれない。
「善人行善従楽入楽‥」/善人が善を行えば楽より楽に入り、明より明に入る。悪人が悪を行えば苦より苦に入り、冥より冥に入る。この理を誰がよく知ろう、ただ仏のみが知っているのである。教えを言葉にして開き示しても信ずる者は少ない。
「生死不休悪道不絶‥」/生死に休みはなく、悪道も絶えることがない。このような世人は具に説き尽くせない。
「故有自然三塗無量苦悩‥」/故に、自然に三塗の無量の苦悩が有る。次々と肉体を取り替えながら、世世にある時は地獄に入り、ある時は餓鬼道に入り、ある時は畜生道に入り、いつ出られるとも知れず、その痛みは言いようもない。これを五の大悪、五の痛、五の焼という。このように、譬えば、大火に身を焼くように苦しまなくてはならない。
「人能於中一心制意‥」/人がよくその中で、一心に心を調えて身の行いを正し、独り善を作して悪を為さなければ、身は独り脱れ出て福徳を得、天に上って涅槃の道に至るであろう。これを五の大善という。
五悪総説「佛告彌勒。吾語汝等是世五惡勤苦若此‥‥古今有是痛哉可傷」
「仏告弥勒吾語汝等是‥」/仏は弥勒に語られた、わたしは、お前たちにすでに語った。この世での五つの悪とはこれである。このように五つの悪を為しておれば、五つの苦しみと五つの罰が次々と生じる。ただ悪を作すのみで善を修めなければ、皆、悉く自然に悪趣に入るのである。或るものは、今世に先に業病を被り、死を求めても得られず生を求めても得られない。わたしは、罪悪の招く所とはこのようであると言って衆に示した。死ねば悪道に入って大変な苦しみを受け、無限の時間が過ぎて人として生まれても、或は敵同士と為るのである。
「従小微起遂成大悪」/非常に小さなことから始まって、ついに大悪と成るのである。
「皆由貪著財色不能施恵‥」/皆、財物を貪って、それに執著し、施し恵むことのできないことから起るのだ。愚かさと欲とに迫られて、心のままに煩悩に結びつけられ縛られていれば、いつ解ける時が来るというのだろう。
「厚己諍利無所省録‥」/おのれにのみ厚くして利を諍い、反省することが無く、富貴栄華の時には快く思い、善を修めることに耐え忍ぶことができない。このような者の威勢がいつまで続くと思っているのだろう、いずれ磨滅して身に苦労を生じるようになるのだ。それもどんどん劇しくなるだろう。天は罪人を捕らえる網を張り、自然はこれを糾弾する。ひとりぼっちでびくびくしながら、その中に入らなくてはならない。古今に変らないとは言え痛々しくも哀れなことである。
弥勒、勅を受ける「佛語彌勒。世間如是佛皆哀之‥‥不敢違失」
仏は弥勒に語られた。
「世間如是仏皆哀之‥」/世間はこのようであり、仏は皆これを哀れみ、威神の力で悪を滅ぼし、人々にその思いを捨てさせて善に就かせようとしている。仏の経と戒とを持ち、道を行く法を受けて過ち失う無かれ。ついには世間を渡って涅槃の道を得るであろう。
「汝今諸天人民‥」/お前たち、今時の諸天、人民、および後世の人よ。仏の経を得たならばよくよくこれを思え。そしてそれぞれの生活の中で、心を正して行いを正しくせよ。主上は率先して善を為して下の者に範を示し、互いに過ちを指摘しあって自らを正しく守るのだ。
「尊聖敬善仁慈博愛‥」/聖人を尊び善人を敬い、恵み深く慈しみ、広く愛して仏の教えにあえて背くこと無かれ。世間を渡ることのみを求めて、生死衆悪の根本を断つのだ。そうすれば、三塗の無量の苦悩、苦痛の道を永く離れることができよう。
「汝等於是広殖徳本‥」/お前たちは、この世間に於いて広く徳の本を植えよ。布施をし、持戒をし、忍辱をし、精進をし、禅定をし、智慧を増やし、互いに教えあい導きあえ。
「為徳立善正心正意‥」/徳の為に善を立て、心を正して斎戒(さいかい、不殺、不盗、不婬、不妄語、不飲酒、身不塗香、不観聴歌舞、於高広床座不眠坐、不過中食)して清浄なること一日一夜であれば、無量寿国で百年の間、善を為すことにも勝る。
「彼仏国土無為自然‥」/何故ならば、彼の国土は無為(むい、自らの為にせず)であり自然だからであり、皆、善を積んで、髪の毛ばかりの悪さえ犯すことはない。この世で修める十日十夜の善は、他方の諸仏の国で為す千年間の善にも勝るのである。
無為とは因縁に因って生じないことをいいます。自然は人為に由らないということです。人というものは生きたいという本能、言い換えれば無明に起因する諸煩悩に迫られて行動するものです、他の為を思うことは少なく、自らの為を思うことは多い、この意味で自然ならざる物は不浄であります。この故に人為物は清浄な極楽には存在しません。
「他方仏国為善者多造悪者少‥」/何故ならば、他方の国には善を為す者は多く、悪を造る者は少ないからである。福徳は自然に有り、悪を造るような地は無い、ただ、この世間にのみ多くの悪が有って自然が無いのである。
「勤苦求欲転相欺殆‥」/この世間は苦労して欲するものを求め、心は疲れて身は苦しみ、日日の務めに忙しくて休む暇もない。
「吾哀汝等天人之類‥」/わたしは、お前たち天人の類を哀れむが故に、ねんごろに教え諭して善を修めさせ、器に随って道を開き、導いて経法を授けるのである。
「莫不承用‥」/その経法を用いざること無かれ。願う所は、皆、道を得さえよう。
「仏所遊履‥」/仏の踏み歩く国や村は、教えを蒙らない者は無い。天下は和順し、日月は清明、風はよい時に吹き、雨はふさわしい時に降り、災害は起らず、国は豊かに民は安んじ、兵戈(ひょうが、兵と武器)に用なく、徳を崇めて仁(にん、慈しむ心)を興し、務めを修めて礼儀正しい。
「我哀愍汝等諸天人民‥」/わたしは、お前たち諸天人民を哀れんで父母が子を思うようであるが故に、今この世に於いて仏と作り、五つの悪を降して、苦しみと罪を絶滅しようとしている。
「以善攻悪‥」/善で悪を攻めて生死の苦しみ抜き、五つの善を教えて五つの徳を獲得させ、無為の安きに昇らせた。
「吾去世後経道漸滅‥」/わたしが世を去れば、経道もだんだんと滅びるだろう。人民は諂い偽って、また悪を為すことだろう。苦しみも罪を以前のようになることだろう。後にはどんどん劇しくなるが、その悉くを説くことはできない。ただお前の為には、略して説くのみである。
「汝等各善思念之‥」/お前たちは、善く思って考え、互いに教え誡めあいながら、仏の経法を犯してはならない。
この時、弥勒菩薩は合掌して仏に申した、仏の仰るとおりです。如来は、普く慈しみ哀れんで、世間の衆生を極楽に導き苦しみと罪から脱れさせられました。仏の重ねての誨(おしえ)にあえて逆らうようなことは致しませんと。
阿難、無量寿仏を拝す「佛告阿難。汝起更整衣服‥‥彼見此土亦復如是」
この経の、クライマックスがいよいよ始まります。
仏は教えられた、阿難よ、起って衣服を整え、合掌して無量寿仏を礼せよ。十方の諸仏も常に口をそろえて無量寿仏の執著が無く、自在であることを称揚し讃歎している。こう教えられて阿難は、起って衣服を整え、正しく西に向って合掌し、両手両膝と頭を地に着けて無量寿仏を礼し、世尊に申した。
「願見彼仏安楽国土及諸菩薩声聞大衆」/どうか彼の仏の安楽の国土、および諸の菩薩と声聞の大衆をお見せください。
「説是語已即時無量寿仏放大光明」/この阿難の願いに応えるかのように、即時に無量寿仏は大光明を放たれた。ここは非常に大切な部分です、阿難が世尊に彼の仏の国土と大衆とを見せて欲しいと願うと、あたかもそれが聞こえたかのように無量寿仏は大光明を放たれたのです。阿難は小乗の人です、大乗の教えによってそのような国土を造ることができるなどとは、聞いただけではだめで、どうしても見る必要がありました。これはやがて観無量寿経にと発展してゆきます。誰でも仏の力を借りずに安楽の国土を見ることができるようになるのです。
「普照一切諸仏世界」/その光明は普く一切の諸仏の世界を照らした。須弥山も、その周囲を取り囲む七重の連山も、大小の諸山も、一切が皆一色になってしまいました。譬えば、劫水が世界に満ちて、その中に一切万物が沈没してしまい、広々とした水の他には、何も見えなくなってしまったように、彼の仏の光明は世界を満たしたのです。「劫水(こうすい)」とは、世界が終る時、大雨が降って世界を水浸しにしてしまうことをいいます。声聞、菩薩の一切の光明は仏の光明の前では耀くことができません。
「爾時阿難即見無量寿仏」/ここに至って阿難は初めて無量寿仏を見ることができました。威徳は巍巍として須弥山のようです、高く一切の世界の上にそびえ立っていました。相好の光明も明らかに照らし耀かせないものは世界の何一つありません。彼の国の四部の衆、いわゆる比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷も一時に悉く見ることができました。彼の国土の荘厳も見ることができました。
彼の国の胎生者「爾時佛告阿難及慈氏菩薩‥‥宿世之時。無有智慧疑惑所致」
仏は、阿難および弥勒菩薩に教えられます。慈氏菩薩は弥勒菩薩と同じです。
「汝見彼国‥」/お前は、彼の国の地上から天に至るまで、悉くを見てしまったと思うかどうか。はい、よく見ました。
「汝寧復聞‥」/では無量寿仏の大音声は一切の世界に届いて衆生を導くのを聞いたかどうか。はい、そのように聞こえました。
「彼国人民‥」/彼の国の人民が、百千由旬(ゆじゅん、10キロメートル)の七宝の宮殿に乗って、一切の障害物も無しで十方に至り、諸仏に遍く供養しておるのを見たかどうか。はい、見ました。
「其胎生者‥」/その胎生の者の住まいとする宮殿は、或は百由旬、或は五百由旬あり、その中で皆は、忉利天のように諸の快楽を受けておる。皆また自然であり人為ではない。
「爾時慈氏菩薩白仏言‥」/その時、弥勒菩薩が仏に申した、世尊、何の因縁が有って、彼の国の人民は、或は胎生し、或は化生するのですか?
「仏告慈氏若有衆生以疑惑心‥」/仏は弥勒菩薩に教えられた、もしある衆生が疑惑の心で諸の功徳を修め、彼の国に生まれたいと願いながらも仏の智慧を理解しない。不思議な智慧、称えることさえできない智慧、大乗の広い智慧、並ぶ者の無い最上の智慧、このような智慧を疑惑して信じず、しかしそれでもなお罪福を信じ、善本を修めて彼の国に生まれたいと願うならば、この諸の衆生は彼の宮殿に生れ、五百歳に成るまで常に仏を見ず、経法を聞かず、菩薩声聞の聖衆に会うこともできない。この故に彼の国土に於いては、これを胎生と謂うのである。
(重要)胎生の者は母胎ともいうべき宮殿の中で神力と智慧との生長を待たなくてはなりません。これに反して化生の者はいきなり成人して生れます。しかしながら胎生とはいうものの実際に母胎から生まれるわけではありません、この二つは共に化生というべきものであり、忽然として彼の世界に現れるのです。
「若有衆生明信仏智‥」/もしある衆生が仏智を理解して信じ、諸の功徳を作して信心を彼の国に生まれることに廻向するならば、この諸の衆生は七宝の華の中にて自然に足を組み坐って化生する。そしてしばらく後には、もう身相も光明も智慧も功徳も、諸菩薩のように具足して成就している。
「復次慈氏他方諸大菩薩‥」/またその他にも、弥勒よ、他方の国土の諸大菩薩が心を発して、無量寿仏を見、諸の菩薩と声聞の衆に供養したいと欲するならば、彼の菩薩たちの命が終ると無量寿国に生まれることができ、自然に七宝の華の中にて化生する。
「弥勒当知‥」/弥勒よ、こういうことを知っているか。彼の化生の者は智慧が勝れたるが故に化生するのであり、彼の胎生の者は、皆、智慧が無いが故に、五百歳に成るまで常に仏を見ることも、経法を聞くことも、菩薩と声聞の衆に会うこともできない。仏に供養する手だても無く、菩薩の行いも知らず、功徳を修めることもできない。
「当知此人‥」/お前はこのことを知っているか、この人は前世の時に智慧も無く疑惑したがために、こうなったのである。
胎生者の罪「佛告彌勒。譬如轉輪聖王‥‥應當明信諸佛無上智慧」
転輪聖王には特別の室があり、罪を犯した王子はそこに閉じこめられる。その室は七宝で荘厳されており、軟らかい床も帳もあり、飲食も衣服も華香も伎楽も供給されて何の不自由も無い。しかしこの王子たちは何とかしてここから出してもらいたいと願っている。
「此諸衆生亦復如是」/同じように胎生の者も、仏の智慧を疑ったばかりに彼の宮殿に閉じこめられて、何の不自由が有るのではないが、ただ五百歳に成るまで、三宝に会うことができず、仏を供養して諸の善本を修めることができない。しかしこれを苦しみと思い、その他にも多くの楽しみが有るというのに、それは楽しみとは思えないのである。
「若此衆生識其本罪」/もしこの衆生がその本の罪を識り、深く自ら悔んで彼の宮殿を離れたいと思うならば、即座に思うがままに無量寿仏の所に往き供養することができる。また遍く無量無数の諸如来の所に至って諸の功徳を修めることもできる。
「弥勒当知」/弥勒よ、お前はこれを知っているか、ある菩薩に疑惑が生じれば、このように大利を失ってしまうのである。まさに諸仏の無上の智慧を理解して信じなくてはならないのだ。
他方より来て生まれた菩薩「彌勒菩薩白佛言。世尊。於此世界有幾所不退菩薩‥‥我今為汝略說之耳」
弥勒が仏にもうします。
「世尊於此世界有幾所不退菩薩生彼仏国」/世尊、この世界から彼の国に生まれた不退の菩薩は何人おりましょうか?この弥勒の問いに答えて世尊は言います、この世界からは六十七億の不退の菩薩が彼の国に往生した。一一の菩薩はすでにかつて無数の菩薩を供養しており、弥勒のような者に次ぐ者である。諸の小行の菩薩、および少しばかりの功徳を修めた者ならば、数え切れないほどの者が皆往生している。
「仏告弥勒不但我刹」/仏は弥勒に教えられた、ただ我が国のみではない、他方の仏土からも彼の国に往生しているのである。その第一は仏の名を遠照といい、彼には百八十億の菩薩が有る、皆往生している。その第二は仏の名を宝蔵といい、彼には九十億の菩薩が有るが、皆往生している。‥‥、このように仏は十三の仏の名と往生した菩薩の数を説き、ただこの十四の仏国中の菩薩たちのみが往生したというのではない。十方の世界の無量の仏国の往生した者はその数は甚だ多く無数である。わたしがただ十方の諸仏の名と菩薩比丘の彼の国に往生した者の数を説くだけで、昼夜一劫を尽くしてもなお終らせることはできない。今お前には略して説いているのみであると語られたのです。
(重要)(1)これらの菩薩は皆彼の国に「化生」する。(2)化生には「心に生じたものであり実体が無い」という意味もある。これ等のことを想起する必要があります。
弥勒に経を付属する「佛語彌勒。其有得聞彼佛名號‥‥應當信順如法修行」
「其有得聞彼仏名号歓喜踊躍乃至一念当知此人為得大利則是具足無上功徳」/仏は弥勒に語られました、もし彼の仏の名号を聞くことができて歓喜踊躍するならば、それがたとえただの一念であったとしても、この人は大利を得たというべきである。大利とは、すなわちこれは無上の功徳を具足するということである。
「是故弥勒設有大火充満三千大千世界要当過此聞是経法歓喜信楽受持読誦如説修行」/この故に、弥勒よ、お前は、もし三千大千世界に大火が充満したとしても、必ずこれが過ぎたならば、この経法を聞くようにし、歓喜して信じ、楽しんで受持し、読誦して説かれた如くに修行しなければならない。何故ならば、多くの菩薩がこの経を聞こうとしてもできないでいるからなのだ。仏は弥勒に経を付属されました。弥勒は、例え世界の終りに大火を迎えても、それを過ごしたならば、この経を拾い集めて人々に弘めなくてはなりません。
「若有衆生聞此経者於無上道終不退転」/もしある衆生がこの経を聞けば、無上道に於いてついに不退転となるであろう。この故に、まさに心を専らにして信じ受持し読誦し、この経に説くように修行しなくてはならない。
「吾今為諸衆生説此経法令見無量寿仏及其国土一切所有」/わたしは今、諸の衆生のためにこの経法を説いて、無量寿仏およびその国土の一切の物を見せた。問うべきことが有れば皆すぐに問え。わたしが滅度したのちに疑惑を生じてはならない。
「当来之世経道滅尽我以慈悲哀愍特留此経止住百歳」/来るべき世に仏経と仏道とが滅尽しても、わたしは慈悲と哀愍とを以って、ただこの経のみを百歳留めよう。
「其有衆生値斯経者随意所願皆可得度」/その時のある衆生が、この経に値うことができたならば、心の願いのままに皆導きを得ることができるだろう。
「如来興世難値難見」/如来が世に出るということは値い難く見難い。諸の仏の経道も得難く聞難い。菩薩の勝れた法である諸の波羅蜜を聞き得ることもまた難しい。善知識に遇って法を聞き修行することもまた難しいことなのである。
「若聞斯経信楽受持難中之難無過此難」/この経を聞いて信じ楽しんで受持するようなことは、実に難中の難であり、これに過ぎる難は無いのである。
「是故我法如是作如是説如是教」/この故に、わたしはこの法を、このように作り、このように説き、このように教えたのである。必ず、信じ順じて法に説くように修行しなければならない。
得益分「爾時世尊說此經法無量眾生皆發無上正覺之心‥‥一切大眾聞佛所說靡不歡喜」
「無量衆生皆発無上正覚之心」/世尊が、この経を説いた時、無量の衆生が皆無上正覚の心を発した。皆菩提心を発して自ら仏と成り仏の世界を造ろうと思ったのです。また一万二千那由他(なゆた、億)の人が清浄の法眼を得た。法眼とは衆生を救うために一切の法門を照らし見る智慧をいいます。また二十二億の諸天人民は阿那含(あなごん、欲界の煩悩を断ち尽くした聖者の位)を得た。また八十万の比丘は煩悩が尽きて意が解けた。また四十億の菩薩は不退転を得て、一切の衆生を救うという誓願の功徳で自らを荘厳した、この菩薩たちは来たるべき世には必ず仏となることであろう。
「爾時三千大千世界六種震動」/その時、三千大千世界は六種に震動し、大光は普く十方の国土を照らした。百千の音楽は自然に起こり、無量の妙華はふんぷんと香りながら降りかかった。
「仏説経已」/仏は経を説きおえられた。弥勒菩薩および十方より来た菩薩たち、長老の阿難、諸の大衆の声聞、一切の大衆は、仏の所説を聞いて、一人として歓喜しない者は無かった。
無量寿経上巻下巻を通して、ごく概略を見てみますと、主に上巻では極楽浄土の成り立ちとその荘厳を説き、下巻では釈迦は何故この極楽を説かなくてはならなかったかを説いています。
先ず序分として菩薩についての長い記述があり、次いで正宗分に入ります。何劫という遠い過去に一人の王が有り、法蔵と名のって世自在王仏の所で修行しました。そして世自在王仏に自分はこれまでに無いほどの清浄の世界を造ろうと思う、しかし何のような世界にすれば良いのか分らないので、世尊の力でもってわたくしに諸仏の世界を見せて欲しいと願った。世自在王仏はその願いを聞き入れて法蔵のために無数の仏の世界をまた何劫という時間をかけて見せてやります。
法蔵は命がけで諸仏の世界を取り込みつづけ、また何劫という時間をかけて考えつづけて、ついに理想の世界はこれだと確信しました。そしてそれを世自在王仏の前で披露したのが謂わゆる四十八願です。ここには法蔵ばかりではなく、人間すべての願いが表現されています。
世自在王仏の前で四十八願を披露した法蔵は、その後は猛烈に菩薩の修行、謂わゆる六波羅蜜を行ってついに無量寿という名の仏と成り、極楽という名の世界を獲得しました。
上巻の最後のほうでは、この極楽世界の荘厳の様子が語られます。七宝の地、七宝の並木、七宝の池、七宝の宮殿、皆、ここに有ればいいなと思えば、その心を知ってすでにそこに有る。心のままに在るのです。またその世界のあらゆるものはすべて無量寿仏の化身であって、常に法音を宣流します。中の衆生も同じです、皆菩薩として通力を使い自在に十方の世界に遊んでその世界の衆生を導いています。
下巻は、この素晴らしい極楽に往き生まれる三種の人を説くことから始まります。次いで十方の諸仏がこの極楽を称讃して、弟子の菩薩たちに是非行って見てくるようにと勧めます。次いで極楽の菩薩たちの縦横無尽の活躍を説き、更に釈迦は弥勒を相手に、何故この経を説かなくてはならないかを説きます。彼の世界が在るという反面、此の世界も在るのです。この世界では、貪欲、瞋恚、愚癡という三毒がすでに全身に回り、殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒などの悪徳がはびこっています。その結果は何うであるか、人々は地獄、餓鬼、畜生、人間、天上をぐるぐるぐるぐると永遠に経巡っていなくてはなりません。そこから出る方法すら無いのです。
しかし出る方法は本当に無いのだろうか、極楽が有るではないか、極楽の成り立ちを考えてみれば、その方法も自ずから明らかになるであろう。殺生せず、偸盗せず、邪淫せず、妄語せず、飲酒せず、これを守って、常に私せず、人の為に尽くせば極楽は現実のものとなるのだということです。
しかし極楽などというものが本当に在るのだろうか。いや疑ってはならない、極楽は遠くともそこに在る。往くことさえできるのです。善い行いをして、その果報として極楽に生まれたいと思えばよいのです。その証拠にこの世界からもまた十方の無数の世界からも多くの菩薩が彼の国に往生している。
 
観無量寿経1

序分
時と所「如是我聞。一時佛在‥‥而為上首」
はなしは仏在世中の事です。王舎城の阿闍世(あじゃせ)太子は、仏の大施主であった父王の頻婆娑羅(びんばしゃら)を幽閉し自らが王となりました。
「如是我聞」/このようにわたしは聞きました。「わたし」とは釈尊の侍者阿難(あなん)を指します。侍者である阿難は最も仏の身近に在り、見聞が多いために、仏の滅後には経文を集める主導的役割を果たしました。「このように」とは、以下に述べることは、すべて仏に聞いて確かめたもので、少しも私見は雑じっていませんということです。
「王舎城」/釈迦は悟りを開いて以来、生涯を遊行して過ごしましたが、その基盤は王舎城と舎衛城という互いに400キロほど離れた当時の二大都市を往き来されていたのです。大都市は、乞食が得やすく、布教が容易です。また流行は大都市から始まりますので、仏教の自然の布教が期待できるからでした。
「耆闍崛山中」/耆闍崛山(ぎじゃくっせん)というのは、王舎城近くの山で、山頂に精舎(しょうじゃ、寺院)が在りました。釈迦とその弟子たちは、一処に住まらず、常に遊行して乞食するというような生活でしたが、雨季の三四ヶ月のみは、網の目のようになったガンジズ河の支流が溢れて往来できません。修行者たちはその期間を夏安居(げあんご)と呼んで、理論を極めることに使いました。しかし食物を蓄えることは禁じられていましたので、世俗から距離をおき、かつ乞食に容易なよう、精舎は大都市近郊に作られたのです。かつては山中の自然の洞窟などを利用していましたが、後には建造物が建てられました。
「与大比丘衆千二百五十人倶、菩薩三万二千、文殊尸利法王子、而為上首」/大比丘衆千二百五十人が一緒におり、菩薩は三万二千、文殊尸利法王子が上首であった。大比丘とは覚りを開いた阿羅漢をいいます。菩薩も三万二千いて、この経が大乗に属することを主張しています。菩薩の上首は文殊尸利(もんじゅしり)、謂わゆる智慧の文殊菩薩です。文殊菩薩は釈尊の法を受け継ぐ者という意味で、法王子と呼ばれています。
阿闍世、父王を幽閉する「爾時王舍大城有一太子‥‥得聞法故。顏色和ス」
「阿闍世、随順調達悪友之教、収執父王」/阿闍世は調達(ちょうだつ)という悪友にそそのかされ、父王を七重の室内に幽閉し飢え死にさせようと計ります、群臣を制して一人も旧王に近づくことを許しません。調達は一般には提婆達多(だいばだった)として知られています。釈尊の父浄飯(じょうぼん)王の弟である斛飯王(こくぼんおう)の子で侍者阿難の兄です。一旦は仏の弟子でありましたが、自らが教団を主宰するべく仏に迫り、それが果たされないと知ると、自らの五百の弟子を引連れて教団を割ってしまいました。
「国大夫人名韋提希」/韋提希(いだいけ)は阿闍世の母です。王を恭敬して、飢え死にさせるに忍びなく、湯浴みして身を清め、酥(そ、バター)と蜜と糗(きゅう、煎り米の粉)とを和えて身体に塗り、瓔珞(ようらく、胸飾り)には葡萄の汁を盛って、ひそかに王にささげました。
「爾時大王食糗飲漿」/大王は煎り米を食べ葡萄汁を飲むと、水を求めて口を漱ぎ、合掌して遥かに耆闍崛山中の世尊を伏し拝んで言います、「世尊、どうか親友の大目乾連(だいもっけんれん)を遣わして、わたくしに八戒をお授けください。」と。大目乾連は釈尊の弟子の中でも神通第一といわれています。ここでは鷹か隼のように空を飛んで王の所に来ます。世尊はまた富楼那(ふるな)という説法第一の弟子をも遣わして王に説法します。八戒は一日戒ともいわれ、在家の信者が特定の日に一日だけ守る戒で、常に守る五戒よりやや重いものです。(1)不殺/生き物を殺さない。(2)不盗/与えられない物を取らない。(3)不婬/婬事をしない。(4)不妄語/嘘をつかない。(5)不飲酒/酒を飲まない。(6)身不塗飾香鬘/身に香を塗ったり、飾りを着けたりしない。(7)不自歌舞、又不観聴歌舞/歌舞音曲を慎む。(8)於高広之床座不眠坐/高広の大床に坐らない。
「如是時間経三七日」/このようにして二十一日が過ぎました。王は糗と蜜を食べ、法を聞くことができたので、顔色も和やかに悦びに耀いています。
阿闍世、母韋提希を幽閉する「時阿闍世問守門人。父王今者猶存在耶‥‥不令復出」
この王を幽閉した時から二十一日が過ぎました。阿闍世は王はもう死んだのであろうかと思い、牢の番人に問います、「王は、今もまだ生きているのか?」と。番人は、かくかくしかじか、国の大夫人が食物を運び、大目乾連が八戒を授け、富楼那が法を説きますので、まだご存命でございますと答えます。
「時阿闍世聞此語已」/阿闍世はこれを聞き、怒ってその母に、「お前は悪人である。いつも悪人の味方をばかりしている。沙門(しゃもん、出家)も悪人である。呪術で幻惑して悪王を多日にわたり死なせない。」と言い、剣を抜いてその母を殺そうとします。
「時有一臣名曰月光、聡明多智、及与耆婆」/ここに月光と耆婆(ぎば)という二人の大臣が現れます。王に礼をしてこのように言いました、「わたくしは、毘陀論(びだろん、印度の歴史神話)の経説を聞いたところでは、世界が始まって以来、多くの悪王が出て、国王の位欲しさに、その父を殺害した例は一万八千ありました。しかし、いまだかつてその母を無道にも殺した例を聞いたことがありません。王が今ここで母を殺すような悪逆の事をなされば、それは刹利(せつり、王族)種を汚すものであり、われ等は、それを忍ぶことができません。これぞ、まさに栴陀羅(せんだら、最底の屠殺人種)、われ等の同席できない所ですぞ。」と。これを言いおえると手を剣の柄に置きながら後じさります。
「時阿闍世驚怖惶懼」/阿闍世は驚き怖れあわてふためいて耆婆に問い訊ねます、「お前は、わたしの為にはしないのか?」と。耆婆が言います、「母を殺してはなりません。」と。王はこれを聞いて懺悔し、剣を捨てて母を殺すのを止め、人を呼んで宮殿の奥深くに幽閉し、二度と出さないように命令しました。これも飢え死にさせようと計ったのです。耆婆は、一説には阿闍世王の異母弟であるといわれています。
韋提希、仏に救いを求める「時韋提希被幽閉已‥‥悲泣雨淚遙向佛禮」
この時、韋提希は幽閉されて愁憂憔悴して、遥かに耆闍崛山に向って仏に礼を作し、涙にくれながら、「世尊は昔、わたくしの盛んな時には、阿難を遣わして、わたくしを慰問なさいました。わたくしは、今、愁い哀しんでおりますのに、世尊はお偉くて、お会いすることもできません。どうか目連か、阿難をお遣わしになり、お慰めください。」とかき口説き、頭を下げてまた涙にくれます。
世尊、韋提希のために姿を現わす「未舉頭頃。爾時世尊‥‥普雨天華持用供養」
韋提希がいまだ頭を挙げないうちに、世尊は耆闍崛山にて韋提希の心の内を知り、大目乾連と阿難とを従えて王宮の中に現れます。
「時韋提希礼已挙頭見世尊」/韋提希が頭を挙げて世尊を見上げますと、世尊は紫金色の光を身から放ち、百宝の蓮華の中にお坐りになっています。目連は左に侍り、阿難は右に侍って、帝釈天、梵天、四天王天の諸天は虚空の中より、天の華を雨降らして供養しています。
韋提希、憂悩の無い処を求む「時韋提希見佛世尊。自絕瓔珞舉身投地‥‥唯願佛日教我觀於清淨業處」
この時、韋提希は自ら瓔珞(ようらく、胸飾り)を引きちぎり、ばったりと地に身体を投げ出し、号泣しながらこう言います。
「世尊、我宿何罪生此悪子」/世尊、わたくしは、過去世に何のような罪を犯して、今、このような悪子を生んだのでしょう。
「世尊復有何等因縁与提婆達多共為眷属」/世尊もまた何のような因縁が有って提婆達多とご親戚なのでしょう。
「唯願世尊、為我広説無憂悩処、我当往生」/ただ、お願いでございます。世尊、わたくしの為に憂悩の無い処を広くお説きください。わたくしは、そこに行き生れようと思います。
「不楽閻浮提濁悪世也、此濁悪処、地獄餓鬼畜生盈満、多不善聚」/この閻浮提(えんぶだい、この世界)は濁りきった悪世です。この濁りきった悪処には、地獄餓鬼畜生どもが満ち溢れ、不善の輩が多すぎます。
「願我未来不聞悪声不見悪人」/どうかお願いです。わたくしが、未来に悪人の声を聞くこともなく、悪人を見ることもないようになさってくださいませ。
「今向世尊、五体投地、求哀懺悔」/今、世尊に向って五体(ごたい、全身)を地に投げ、哀れみを求めて懺悔します。
「唯願仏日教我観於清浄業処」/ただお願いでございます。仏の日の光で、わたくしに清浄の業の処を観ることをお教えください。
ここまでがこの経の因縁です。ここで韋提希は言っています、こんな世界は見たくもない、どうか清らかで濁りの無い世界を教えて見せてください。わたくしはそこへ往って生まれようと思いますと。
しかし、これは甚だ自分勝手な言い分です、このように濁った世界にしたのは、過去と現在の自分であることには、少しも気づいてはおりません。また望めば必ずそこに生まれることができるとも思っています。
世尊、金台の上に諸仏の国土を現わす「爾時世尊放眉間光‥‥令韋提希見」
この韋提希の請いを受けて、世尊は諸仏の清浄の妙土を現わしてみせます。
「爾時世尊放眉間光、其光金色遍照十方世界還住仏頂、化為金台」/その時、世尊が眉間より光を放ちますと、その金色の光は、十方の世界を遍く照らし、また仏の頭頂に還って住まり、化して須弥山のような大きな金台と為ります。十方の諸仏の浄妙の国土は、皆、その中に現れます。
「或有国土七宝合成」/ある国土は七宝が合成しています。
「復有国土純是蓮花」/ある国土は蓮の花で成っています。
「復有国土自在天宮」/ある国土は自在天の宮のようです。
「復有国土如頗梨鏡」/ある国土は水晶の鏡のようです。
このような、無量の諸仏の国土を、皆、金台の中に現わして、韋提希に見せました。
韋提希、極楽世界を願う「時韋提希白佛言‥‥唯願世尊。教我思惟教我正受」
この時、韋提希は仏に申します、世尊、この諸の仏の国土は、皆、清浄であり、皆、光明が有りますが、わたくしは、阿弥陀仏の極楽世界に楽しんで生まれたいと思います。
「唯願世尊、教我思惟、教我正受」/ただ願わくは世尊、われに教えて思惟せしめ、我に教えて正受せしめたまえ。「思惟」とは、一心によく考えること、心を定めて無想無思となることの対語です。「正受」とは、鏡に物が映るように無念無想であることをいいます。正しく観察した対象物と一体になることで、三昧(さんまい)ともいいます。
頻婆娑羅王、阿那含と成る「爾時世尊即便微笑‥‥成阿那含」
この時、世尊は、にっこり微笑された。五色の光が仏の口から出、幽閉されている頻婆娑羅王の頭頂を照らします。大王は幽閉されていながらも、心眼が開いて世尊を見ることができ、頭を下げて礼をすると、自然に覚りが増進して諸の煩悩が尽き、阿那含(あなごん、聖者の初位)に成りました。
正宗分往生者の三福
正宗分三福序「爾時世尊告韋提希‥‥得生西方極樂國土」
その時、世尊は韋提希に教えられました。
「汝今知不、阿弥陀仏去此不遠」/「お前は知っているかどうか?阿弥陀仏はここを去ることの遠からざるを。」これは甚だ意味の深い言葉です。「阿弥陀仏は、お前のすぐそこにおられるのだよ。それが分らないのか。」
「汝当繋念諦観彼国浄業成者」/お前は、一心に彼の国の浄業の成れるを観察しなければならない。浄業とは、浄い行いとその結果のことです。人が自らを顧みず、ただ他の為に尽くすことを、浄い行いといいます。ただ自己の繁栄のみを願ってするのは不浄です。
「我今為汝広説衆譬、亦令未来世一切凡夫欲修浄業者、得生西方極楽国土」/わたしは、今お前のために、広く多くの譬えを説こう。また未来世の一切の凡夫で浄業を修めようと思う者には、西方の極楽国土に生まれさせてやろう。
正宗分三福「欲生彼國者。當修三福‥‥三世諸佛淨業正因」
「欲生彼国当修三福」/彼の国に生まれようと思えば、必ず、次の三つの福を修めなくてはならない。以下三種の人のために、往生の因となるべき福を修めることを説きます。福とは福業、来世に福報を得る行いのことです。
「一者孝養父母、奉事師長、慈心不殺、修十善業」/一は、父母に孝養し、師長に仕え、慈悲心を起して生き物を殺さない、そして十善業(じゅうぜんごう)を修めること。「十善業」とは、十悪業を為さないこと。「十悪業(じゅうあくごう)」とは、(1)殺生(せっしょう)/生き物を殺すこと、(2)偸盗(ちゅうとう)/与えられないものを取ること、(3)邪婬(じゃいん)/他人の女房を取ること、(4)妄語(もうご)/嘘をつくこと、(5)両舌(りょうぜつ)/二枚舌。相手によって言うことを変えること、(6)悪口(あっく)/粗暴な言葉使いをすること、(7)綺語(きご)/猥雑、猥褻の語。戯れ言(ざれこと)、冗談を言うこと、(8)貪欲(とんよく)/貪ること、(9)瞋恚(しんに)/怒ること、(10)邪見(じゃけん)/正しい因果を信ぜずに偏った福を信ずることです。
これは、世間の俗人の為に説かれました。
「二者受持三帰、具足衆戒、不犯威儀」/二は、三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さないこと。「三帰(さんき)」とは仏法僧の三宝に帰依すること。「衆戒(しゅかい)」とは比丘の二百五十戒、比丘尼の五百戒のことです。「威儀(いぎ)」とは比丘比丘尼の行儀作法をいいます。
これは比丘と比丘尼の為に説かれました。
「三者発菩提心、深信因果、読誦大乗、勧進行者」/三は、菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗の経を読誦し、行者を勧進すること。「発菩提心」とは、この世を極楽のような理想の世界にしようとする志を起すこと。「深信因果」とは、善い行いは善い結果を招くと深く信ずること。「読誦大乗」とは、大乗経典を読んで菩提心を堅固ならしむること。「勧進行者」とは、他の為に尽くす大乗の行者を勧め励ますこと。
これは大乗の行者の為に説かれました。
「如此三事名為浄業」/この三事を浄い行いというのである。以上、俗人、比丘比丘尼、大乗の行者の修めるべき福業を説きました。
「仏告韋提希、汝今知不、此三種業乃是過去未来現在三世諸仏、浄業正因」/お前は知っているかどうか?この三種の行いは、要するにこれは過去現在未来、三世一切の諸仏の浄い行いとその結果の正しい因(もと)であることを。
正宗分観想序「佛告阿難及韋提希‥‥云何當見阿彌陀佛極樂世界」
「諦聴諦聴善思念之」/「聞き漏らすことがないようによく聴け、これを善く思い考えよ。」、これは仏が自説を演べられる時の決まり言葉です。これから仏が重大な事を演べられることを意味します。
「如来今者為未来世一切衆生為煩悩賊之所害者説清浄業」/如来は今、未来世の煩悩に害されている一切の衆生の為に清浄の業(ごう、行い)を説こう。業とは身口意の三業、人の行いをいいます。ただし、ここでいう清浄の業は、一般の清浄業ではなく、極楽に往生するための特別の業をいいます。
「善哉韋提希快問此事」/善いかな韋提希、快くもこの事を問えり。韋提希よ、この問いを如来は快く思うぞ。上でいう特別の業を説く、これが快いのです。
「阿難、汝当受持広為多衆宣説仏語」/仏は阿難に託されます。お前は、この仏の言葉を受持して多くの衆に宣べ説けと。
「如来今者教韋提希及未来世一切衆生観於西方極楽世界」/如来は今、韋提希および未来世の一切の衆生に西方の極楽世界を観ることを教えよう。観ることができれば、次第に因縁して無生法忍を得るに至ります。
「以仏力故当得見彼清浄国土如執明鏡自見面像」/仏の力の故に、彼の清浄の国土は、明鏡に自らの顔を映すが如くに見えてくる。
「見彼国土極妙楽事、心歓喜故、応時即得無生法忍」/彼の国土の極妙の楽しい事を見れば、心が歓喜する。心が歓喜する時に応じて、たちどころに無生法忍を得る。これが観る因縁です。無生法忍を得るために極楽の楽事を観察します。「無生法忍(むしょうほうにん)」とは、生滅を遠離したと確信することをいいます。言い換えると生滅を畏れないということです。
「若仏滅後諸衆生等、濁悪不善五苦所逼、云何当見阿弥陀仏極楽世界」/仏が韋提希に、「お前たちは凡夫であり、心に想う力が弱劣である。未だ天眼を得ていないので遠くを観察する力はない。今、お前が観ることができたのも、諸仏如来の持つ異方便(いほうべん、特別の力)によるのだ。」と水を向けますと、韋提希は、「世尊、わたくしが、今、彼の国土を観たのも、仏の力によります。もし、仏がお亡くなりになったその後には、諸の衆生たちは、濁りきった悪の世界に住まったままで、何のようにして阿弥陀仏の極楽世界を見ればよいのでしょうか?」と答えます。
この韋提希の答えには、極楽の国土を観察した因縁を見て取ることができます。韋提希は無生法忍を得たおかげで、それまではまるで目に入らなかった諸の衆生たちの苦しみが見えるようになったのです。
第一観日想「佛告韋提希‥‥名為邪觀」
「応当専心繋念一処想於西方」/極楽を観想するには、まづ最初に西方に想いを繋けることから始めよ。正しく西に向って坐り、日没を見て想念を起こせ。今にも没まんとして地平のかなたに太鼓を懸けたような赤い日を見、閉目しても開目しても想念すれば常に見えるようにせよ。これが第一観日想です。極楽は西方十万億の国土を過ぎた所に在るのですから、正しい方角は地平に没む日によって知らなくてはなりません。正しくこの方向に極楽は在るのだと確信することから始めるのです。
第二観水想「佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀」
初めの観が成りおわったならば、次は水の想を作せ。
「想見西方一切皆是大水」/西方の一切は大水であると想え。大水とは、雨季になると印度では川の水位が上がり、徐々に平地は水で覆われ、一面の水原と化してしまいます。東西南北ただ水の他は何も見ることができません。水は清く澄みきっています。
「既見水已当起氷想、見氷映徹作琉璃想」/西方は一面が大水であると見おえたならば、氷だと想え、氷は光を反射して透き通り琉璃(るり、青い宝石)のようである。
「見琉璃地内外映徹、下有金剛七宝金幢フ琉璃地」/大水だと思って見れば、実は氷、氷だと思って見れば実は琉璃の地なのです。サファイアのように光をキラキラと反射して透き通った地面の下には、ダイヤモンドと七宝の金幢が地を支えています。金幢とは金の柱だと思えばよいでしょう。その八角の柱は一一の面が百宝によって成り、一一の宝の珠は千の光明があります。一一の光明には八万四千の色があって琉璃の地に反射しています。まるで一億の日の光が輝くようで目を開いてまともに見ることはできません。
「琉璃地上、以黄金縄雑廁間錯、以七宝界分斉分明」/琉璃の地の上には、黄金の縄が縦横に張られ、七宝を敷き詰めて整然と区分されている。
「一一宝中有五百色光、其光如花又似星月、懸処虚空成光明台」/敷き詰めた七宝からは、五百の色の光が放ち出されている。その光は花のようでもあり、また星月のようでもあり、空中に集まって光の台を成している。
「楼閣千万百宝合成、於台両辺各有百億花幢無量楽器、以為荘厳」/この台の上には、楼閣があり、千万の百宝が合成している。台の両辺には、各百億の花の幢(どう、柱)と無量の楽器が有り、楼閣を荘厳(しょうごん、飾ること)している。楼閣は琉璃の地より離れて、光の台の中に虚空に浮かんでいるのです。
「八種清風従光明出、鼓此楽器演説苦空無常無我之音」/八種の清風が台を成している光明より出ると、この楽器を打ち鳴らして、苦空無常無我を演説します。世間に生死することは苦であり、万物は空であり、一切は無常であり、我は無我であるという仏教の真理を演説しているのです。
これが水想であり、第二観です。この想を成す時は、一一を極めて明了に観察するようにして、目を閉じようと目を開こうと、想が散失しないようにしなければなりません。ただ食事の時を除けば、常にこれを憶えていなければならないのです。
第三観地想「佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀」
水想ができるようになったならば、もっともっと多くの物を極楽の地上に観察しなければなりません。
「若得三昧、見彼国地了了分明不可具説、是為地想」/彼の国土を観想して、実に観察しているように観想できたならば、それが地想であり、第三観なのです。
「仏告阿難、汝持仏語、為未来世一切大衆欲脱苦者説是観地法」/ここで仏は阿難に向って教えられます。お前はこれを忘れてはならない。未来の世の一切の大衆で苦を脱れようと欲する者のために、この観地の法を説けと。
「若観是地者、除八十億劫生死之罪、捨身他世必生浄国」/この地を観る者は、八十億劫の生死の罪が除かれて、他世に身を捨てれば、必ず浄国に生れよう。ここで捨身他世とは、単に死ぬことではなく、他の衆生のために身を施すことをいいます。八十億劫は、他にも無量億劫、五百億劫、無数劫の生死の罪を除くなどと後になって出てきますが、この量の意味を云々しても無意味でしょう。即ち、極楽の国土を正しく観察できれば、常に生まれることができるのですから。
第四観樹想「佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀」
地想の次には宝樹の観想をします。宝樹とは七宝で成る樹の意味です
「観宝樹者、一一観之、作七重行樹想」/宝樹を観る者は、一一の宝樹を観たならば、次は七重の並木の想を作せ。
「一一樹高八千由旬」/一一の樹は、高さが八千由旬である。由旬(ゆじゅん)は、王の軍隊の一日の行程、凡そ十キロメートルです。一本の樹の高さが八万キロメートルあるといっています。前の水想では、楼閣は光の台の上で空中に浮かんでいましたし、今また高さ八万キロメートルの樹を観想しなくてはなりません。
「其諸宝樹」/その諸の宝樹は、皆七宝の花びらを持ち、一一の花びらは、瑠璃色(青)であれば金色の光を放ち、頗梨色(白)であれば紅色の光を放ち、瑪瑙色であれば真珠色の光を放ち、真珠色であれば、緑真珠色の光を放ち、珊瑚、琥珀など一切の衆宝も光を反映して飾り立てている。赤いつばきの花を想像してください。
つばきには先端に黄色い花粉がついた白い花芯があります。そのように、極楽の青い花からは、すすきの穂の形をした花火のように、金色の光が飛び出しています。白い花からは紅色の光が飛び出し、瑪瑙色からは真珠色の光が出ています。 「妙真珠網弥覆樹上」/素晴らしい真珠の網が樹上を覆っている。一一の樹上には七重の網が懸かり、一一の網の間には五百億の素晴らしい華の宮殿が有り、梵天王の宮のようである。
「諸天童子自然在中」/諸の天の童子は、自然に中にいる。この自然にという言葉は若干注意すべきでしょう。自然とは因縁に因らない、無為ということを言い表わしています。諸天が生んだのではない、自然にそこにいるというのが、その意味です。仏教は父母の因縁を嫌います。無量寿経下巻にも胎生という言葉は有りますが、実は父母から生まれたのではなく、ある宮殿の中に於いて精神が生長するということを表わしていました。この一一の童子は五百億の摩尼宝珠の瓔珞で身を飾っています。その宝珠は百由旬を照らし、百億の日と月とを和合したようであり、言いようもありません。
「衆宝間錯、色中上者、此諸宝樹行行相当、葉葉相次、於衆葉間生諸妙花」/それら多くの宝は入り雑じり、色の中でも上の者は、この諸の宝樹の並木と並木とを交互に当たりながら、葉から葉に交互に飛び交い、多くの葉の間からは、諸の妙花が生まれます。光に触発されて花が生じるのです。花の上には自然に七宝の果があります。
「一一樹葉」/一一の樹葉は、縦横が等しく二十五由旬あります。樹高が八千由旬でしたから、こんなもんでしょうか。その葉は千の色が有り、百種の文様が有って、天の瓔珞のようです。
「有衆妙華作閻浮檀金色、如旋火輪、宛転葉間踊生諸果」/ある種の素晴らしい華は、紫色に耀く金色であり、旋火輪のように、葉の間をくるくると踊りまわって諸の果を生じます。旋火輪とは、暗闇で火を廻すと輪になって見えるあれです。
「有大光明化成幢幡無量宝蓋、是宝蓋中映現三千大千世界一切仏事」/或は摩尼珠から出る大光明は、幢幡(どうばん、柱と飾り)や宝の天蓋と成って、その中に三千大千世界の一切の仏事を映し現わします。仏事とは仏の現わす、慈悲行を言う言葉です。飢えた虎に身を施したり、半偈の文を聞くために、鬼神に身を施したりすることです。現在寺院等で行われている単なる儀式でしかない行事を言うのではありません。
「十方仏国亦於中現」/十方の仏国の仏事もまた一切がこの中に現れます。これを観なければなりません。この樹について見おわったならば、次々と一一の樹について観察します。中で何のような仏事が現れるでしょうか。樹を見、幹を見、枝葉華果、皆を明了に観ることができたならば、これを樹想といい、第四観といいます。
第五観八功徳水想「佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀」
樹想ができれば、次は水を想わなくてはなりません。
「欲想水者、極楽国土有八池水、一一池水七宝所成、其宝柔軟」/水を想わんとすれば、極楽の国土には八の池水が有る。その一一の池水は七宝によって成る。しかしその七宝は堅くはなく、柔軟である。水のように柔らかい宝石!宝石のような水!
「従如意珠王生、分為十四支」/一一の池水は巨大な如意珠より生みだされ、十四の支流に別れる。
「一一支作七宝色、黄金為渠、渠下皆雑色金剛以為底沙」/その一一は七宝の色を作して流れ、黄金の堤があり、堤の底は色を雑えた金剛(こんごう、ダイヤモンド)の沙である。
「一一水中有六十億七宝蓮花、一一蓮華団円正等十二由旬」/一一の水中には六十億の七宝の蓮花が有り、一一の蓮華はまん丸く、大きさは十二由旬である。
「其摩尼水流注華間尋樹上下」/その摩尼珠より生まれた水は華の間を流れ注いで、樹を尋ねて上下する。水が樹を上るさまを想像してください。
「其声微妙演説、苦空無常無我、諸波羅蜜、復有讃歎諸仏相好者」/その流れはさらさらと音を立てていますが、それはまた苦空無常無我を演説し、布施、持戒、忍辱、精進、禅定および般若波羅蜜を演説しているのです。またある流れは諸仏の好ましい容貌を讃歎しています。
「従如意珠王踊出金色微妙光明、其光化為百宝色鳥、和鳴哀雅、常讃念仏念法念比丘僧」/如意珠からは水ばかりではなく、光も踊りながら出ています。その光は百宝の鳥と化して為り、哀れにも雅な鳴き声をそろえて、常に仏の功徳を念い、法の利益を念い、戒を持つ比丘僧の清らかさを念うことを讃えています。
「是為八功徳水想、名第五観」/これが八の功徳水の想であり、第五観という。八功徳水(はっくどくすい)という水の八つの功徳、渇きを鎮める等をいうのではありません。功徳とは、衆生を救う力、ここでは苦空等を演説することをいいます。
第六観総観想「佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀」
「衆宝国土、一一界上有五百億宝楼」/先に水想で説明しました、黄金の縄で区分された、青い宝石の地はそれぞれの区画に応じて、別々の宝が敷き詰められています。その宝石から出る光は空中にて台を作し、その上に宝の楼閣が五百億あります。
「其楼閣中有無量諸天作天伎楽」/この楼閣の中では、無量の諸天が音楽をしています。
「又有楽器懸処虚空、如天宝幢不鼓自鳴、此衆音中皆説念仏念法念比丘僧」/そればかりではありません、虚空に懸かった楽器は、天の宝幢のように打たなくても自ら鳴っています。この衆の音の中にも、皆、仏を念い、法を念い、比丘僧を念えと説いているのです。
「此想成已、名為粗見極楽世界宝樹宝地宝池、是為総観想名第六観」/ここまでの観想ができたならば、それを粗く極楽世界の宝樹、宝地、宝池を見るという。これが総観想であり、第六観という。
第七観花座想「佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀」
「諦聴諦聴善思念之、吾当為汝分別解説除苦悩法」/「気を散らさずに聴き、よく心に留めて考えよ。お前のために苦悩を除く法をかみ砕いて解説しよう。お前たちは、よく記憶して広く大衆の為にかみ砕いて解説せよ。」と、仏が阿難および韋提希に教えられたちょうどその時、無量寿仏が目にもまばゆい金色の光を放って空中に立たれました。左右には観世音と大勢至の二菩薩も侍っています。これを見て韋提希は仏の足に手を接し、礼を作して申します、「世尊、わたくしは、今、仏の力により無量寿仏および二菩薩を見ることができました。未来の衆生は、何うすれば無量寿仏および二菩薩を観ることができましょうか?」
「仏告韋提希欲観彼仏者当起想念於七宝地上作蓮花想」/仏は韋提希に教えられます。彼の仏を観ようとする者は、まず七宝の地の上に想念を起して、蓮花の想を作さなくてはならない。これは極楽に咲く蓮花を想いえがくことをいいます。その蓮花の花びらは、一一に百宝の色があり、一一に八万四千のすじがあり、天の文様のようである。一一の筋からは八万四千の光が放たれている。このように、皆、明了に見なければならない。この華は、小さな者でさえ、縦横に二百五十由旬あり、各蓮華には、大きな葉が八万四千ある。
「一一葉間有百億摩尼珠王、以為映飾」/一一の葉の上には、水玉のように百億の巨大な摩尼珠あり、光を反射して耀いている。
「一一摩尼珠放千光明、其光如蓋七宝合成遍覆地上、釈迦毘楞伽摩尼宝以為其台」/一一の摩尼珠は千の光明を放ち、その光は七宝が合成して天蓋のようになり、地上を一面に覆い、釈迦毘楞伽摩尼(しゃかびりょうがまに、摩尼)がその天蓋の下の台となっている。
「此蓮花台、八万金剛、甄叔迦宝、梵摩尼宝、妙真珠網以為交飾」/この蓮花の台は八万の金剛(こんごう、ダイヤモンド)と甄叔迦(けんしゅくが、ルビー)と浄らかな摩尼と妙なる真珠などの網が、こもごも垂れて飾っている。真珠の首飾りを、いくつも机から垂したように、たがいに交差しながら垂れています。
「於其台上、自然而有四柱宝幢」/その台上には自然に四柱の宝幢が立って天蓋を支えている。一一の宝幢は、百千万億の須弥山を積んだようであり、幢の上には宝の幔幕が懸かって夜摩天(やまてん、欲界の第三天)のようである。また五百億の微妙なる宝珠で飾られている。一一の宝珠は八万四千の異なる金色をなす。幢とは、八角形をした柱のようなもので、周囲の八面にはさまざまな飾りがあります。寺院の内陣中の左右に天上より垂れ下がっている金色、或は五色の飾りがそれです。
「一一金色遍其宝土、処処変化各作異相、或為金剛台、或作真珠網、或作雑花雲、於十方面随意変現施作仏事」/一一の金色は、その宝土を覆い処処に変化して、異なった物に見える。或は金剛の台となり、或は真珠の網となり、或はさまざまな花の雲となり、十の方面にて意のままに変じて現れ、いたるところに仏事を作している。
「是為花座想名第七観」/これが花座想であり、第七観という。
「仏告阿難、如此妙花是本法蔵比丘願力所成」/仏は阿難に教えられた、この妙花は本より法蔵(ほうぞう、無量寿仏の修行中の名)比丘の願う力によって成されたのである。もちろん花ばかりではありません、極楽の荘厳の一切は悉く法蔵比丘の願力の所成なのです。
第八観想像「佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀」
前の花座想で、地上に咲く巨大な蓮花の花の上に、摩尼珠の造りだした巨大な天蓋と台とを観てきました。今は、この上に坐す仏を観なければなりませんが、もう観ることができるはずです。
「所以者何、諸仏如来是法界身遍入一切衆生心想中」/何故できるかといえば、諸仏如来とは、法界身が、遍く一切の衆生の心想中に入ったものをいうからである。法界身(ほっかいしん)とは、法身(ほっしん)ともいい、一切の世界に遍満した、慈悲に代表される仏教的真理をいいます。人は元来教えられなくても、慈悲を感じることができるはずというのが、この考えの本です。
「是故汝等心想仏時、是心即是三十二相八十随形好、是心作仏、是心是仏」/この故に、お前たちの心に仏を想う時、この心が三十二相、八十随形好に他ならず、この心が仏と作るのであり、この心が仏なのである。三十二相、八十随形好(ずいぎょうこう)は、仏の好ましい姿形を三十二と八十挙げたものです。要するに自ら好もしいと思うその姿が三十二相であり、八十随形好であるのです。人でも、赤もあれば、黒もあり、黄もあれば、白もあります。その全てに自ら好もしいと思う姿があり、それが仏の姿であるといっているのです。この心が仏に作るのであり、この心がとりもなおさず仏であるのです。
「諸仏正遍知海従心想生、是故応当一心繋念諦観彼仏」/海のように深い諸仏の智慧も、心想より生ずるのである。この故に一心に心に念いを懸けて諦らかに彼の仏を観なければならない。彼の仏を観れば、諸仏の智慧を得ることをいっています。
「想彼仏者、先当想像」/彼の仏を想うには、先に像を想わなければならない。像とは形像、かたちのことです。目を閉じても目を開いても、常に一つの宝の像が金色に耀いて彼の華の上に坐っているのを見よ。像が坐っていると見ることができたならば、心眼が開いた証拠である。極楽国の七宝の荘厳も、宝の地も宝の池も宝の樹の並木も、諸の宝の幔幕がその樹上を覆って張られているのも、宝の網が虚空を満たすのも明了に見えるはずである。
「復当更作一大蓮華在仏左辺」/この事が、掌の中を見るように明了に見えたならば、またさらに一つの大蓮華が仏の左辺に在ると想え。前の仏の蓮華とほとんど同じである。また仏の右辺にも一つの大蓮華が在ると想え。左の蓮華には一つの観世音菩薩の像が坐ると想い、右の華には一つの大勢至の像が坐ると想え。菩薩の放つ光などは仏と同じである。
「此想成時、仏菩薩像皆放妙光」/この想いが成ったならば、仏と菩薩の像は、皆、妙光を放つだろう。その光は、金色で諸の宝樹を照らし、一一の樹下にはまた三の蓮華があり、諸の蓮華の上には、各一仏と二菩薩とが坐っている。このようにして次々と彼の国には遍く仏と菩薩とが充満していると見るのである。
「此想成時、行者当聞水流光明及諸宝樹鳧鴈鴛鴦皆説妙法」/この想が成った時には、行者は水流と、光明および諸の宝樹、鳧鴈(ふがん、水鳥の類)鴛鴦(えんおう、おしどり)たちが、皆、妙法を説くのが聞こえるだろう。
「出定入定恒聞妙法、行者所聞出定之時憶持不捨、令与修多羅合、若不合者名為妄想、若与合者名為粗想見極楽世界、是為想像名第八観」/定を出ても定に入っても恒に妙法を聞き、行者が定を出る時、憶えていて忘れ去らずに、修多羅(しゅたら、経文)と合わせよ。もし合わなければ、それは妄想であり、もし合っていれば、粗く極楽世界を想い見るという。これが想像であり、第八観という。定とは心が世事に散乱せず、深く想念に入ることをいいます。定に入って妙法を聞いたならば、大乗の経典と照らし合わせなくてはなりません。もし経と合っていなければ、それは妄想だからです。もし合っていれば、そこで初めて極楽の世界をざっと見たことになります。
第九観一切色身想「佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀」
すでに花座想では仏の坐る巨大な花の台を観、想像ではその上に坐す仏と二菩薩を観ましたが、いまだおぼろであり、明了ではありません。次は仏の姿を明了に見ることが求められます。
「無量寿仏身、如百千万億夜摩天閻浮檀金色」/無量寿仏の身は金色に耀いています。それはこの世の金色ではありません。百千万億の夜摩天(やまてん、欲界の第三天)の閻浮檀金(えんぶだんこん、紫色をなす純金)の色をなしているのです。
「仏身高六十万億那由他恒河沙由旬」/仏の身のたけは、六十万を億倍し那由他(なゆた、10憶)倍し、更に恒河沙(ごうがしゃ、ガンジズ河の川底の砂の数)倍した由旬(ゆじゅん、およそ10キロメートル)あります。想像を絶する大きさです、何しろ恒河沙というのが、ほぼ無数というに近い有限の数だからです。限りは有るが量ることはできないということです。ひょっとしたら、われわれの宇宙さえ超えているのではないでしょうか。
「眉間白毫右旋宛転如五須弥山」/眉間の白毫は右回りに旋回して、須弥山を五つ積み重ねたようである。白毫(びゃくごう)とは、仏の眉間に生える一本の白く長い毛で、渦をまいて山のようになっています。須弥山は世界の中心にそびえる山で四天王天、忉利天(とうりてん)の住処であり、一説によると高さと直径は共に五十六万キロメートルということです。
「仏眼如四大海水清白分明」/仏の眼は四大海の水のようであり、青と白とがはっきり分れている。四大海は須弥山の回りの四つの大海です。
「身諸毛孔演出光明如須弥山」/身の諸の毛孔からは光明がほとばしり出て須弥山のようである。須弥山のようであるとは、ヒマラヤの峰峰が朝日に耀くようすから想像されました。ここだけ見れば仏の身体はでこぼこのようですが、全体から見ると鏡のようになめらかです。
「彼仏円光如百億三千大千世界」/彼の仏の円光は百億の三千大千世界のようである。ここもまた大きさの譬喩です。円光は頭の回りにある光。三千大千世界とは千の三乗、10憶の世界をいいます。即ち10憶の須弥山、10憶の日月星宿、10億の七金山、10憶の四大洲、10億の四大海‥です。
「於円光中有百万億那由他恒河沙化仏」/円光の中には百万億那由他恒河沙の化仏がおられます。化仏とは仏菩薩の神通力で化作された仏であり、さまざまな形態を取り、さまざまな仏事を作します。
「一一化仏亦有衆多無数化菩薩以為侍者」/一一の化仏にもまたいろいろな無数の化菩薩が侍者と為っている。衆多は観世音、大勢至のような菩薩を表わし、無数は化菩薩全体の数をいいます。
「無量寿仏有八万四千相、一一相中各有八万四千随形好、一一好復有八万四千光明」/無量寿仏は八万四千の相があり、一一の相中には各八万四千の好があり、一一の好にはまた八万四千の光明がある。仏の好ましい容貌行相のうち、顕著なものを相といい、相に随う微細なものを好(こう)、随形好(ずいぎょうこう)といいます。
「一一光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」/一一の光明は十方の世界を遍く照らし、仏を念う衆生を捕らえて見すてない。摂取(せっしゅ)とは捕らえ取り込むことです。
「其光相好及与化仏不可具説、但当憶想令心明見、見此事者即見十方一切諸仏」/その光、相好および化仏は、その詳細を説くことはできない。ただ憶想して心に明らかに見るようにせよ。この事を見れば、それはとりもなおさず十方の一切の諸仏を見ることになる。仏というものは、本来、おのおの自らの心の中にあるものであるから、言葉で説明できなくても憶想することはできる。それ故に、憶想して心に明らかに見るようにせよと言います。また、十方の一切の仏も、皆、心の中にあるのです。
「以見諸仏故名念仏三昧」/諸仏を見ることができれば、それを念仏三昧という。念仏三昧とは心が散乱せず、仏の境地、仏の世界に一体化することです。仏と同じ心地になることをいいます。
「作是観者名観一切仏身、以観仏身故亦見仏心、諸仏心者大慈悲是、以無縁慈摂諸衆生」/この観を作すを、一切の仏身を観るという。仏の身を観ることができれば、また仏の心を見ることができる。諸仏の心とは、大慈悲のことである。無縁の慈悲で諸の衆生を捕らえて捨てないことなのだ。無縁の慈悲とは、まったく関係ない他人にたいする慈悲をいいます。
「作此観者、捨身他世生諸仏前得無生忍」/この観を作せば、他世に捨身したとき、諸仏の前に生まれて無生忍を得るであろう。捨身は第三観地想で説明したとおり、他の衆生に身を施して他世に生まれることです。無生忍は生滅を離れたという確信をいいます。言い換えれば生死を受容して畏れないということです。
「是故智者応当繋心諦観無量寿仏」/このような利があるから、智者は心を繋けて明らかに無量寿仏を観るのである。賢い人であるならば、当然常より心がけて無量寿仏を観るのである。
「観無量寿仏者従一相好入、但観眉間白毫極令明了、見眉間白毫相者八万四千相好自然当見」/無量寿仏を観るには一つの相好より入れ、ただ眉間の白毫を極めて明了に観るのだ。眉間の白毫相を見ることができれば、八万四千の相好は自然に見えてこよう。眉間の巨大な白毫を見、左右の眉を見、左右の眼を見、随時見る範囲を広げてゆきます。
「見無量寿仏者即見十方無量諸仏、得見無量諸仏故諸仏現前受記」/無量寿仏を見ることは、とりもなおさず十方の無量の諸仏を見ることである。無量の諸仏を見ることができるが故に、諸仏の現前にて記を受けるのである。記を受ける、或は記を授けるとは、記とは記帳することです。未来に予定された仏の名が名簿に記されることを表わします。仏から、「お前は、将来必ず仏に成るであろう。」と予告されることが受記、或は授記なのです。無量寿仏を見ることができたならば、必ず将来仏になる、仏の世界が建設されるということです。
「是為遍観一切色身想、名第九観」/これが一切の色身を遍く観ることであり、第九観という。色身(しきしん)とは、五感に感じられる身、肉身のことです。
第十観観世音菩薩色身想「佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀」
無量寿仏を明了に観たならば、次は観世音菩薩です。
「菩薩身長八十億那由他恒河沙由旬、身紫金色、頂有肉髻、頂有円光面各百千由旬」/この菩薩は、身長が八十億那由他恒河沙由旬、身は紫金色であり、頂上には肉髻があり、また円光はどの方面から見ても百千由旬ある。仏の身長は六十万億、菩薩は八十億、万が抜けています。仏の身色は百千億の夜摩天の閻浮檀金色、菩薩はただの紫金色です。仏の円光は百億の三千大千世界ほど、菩薩は百千由旬です。このように仏と菩薩とは比べようもありませんが、それにしても想像を絶する大きさであることには変りはありません。
「其円光中有五百化仏」/その円光の中には五百の化仏がある。菩薩の円光の中になぜ化仏があるのかとは、一人の仏によって無数の菩薩が生まれ、また多くの菩薩から一人の仏が生みだされるからです。菩薩の働きの中の最も重要なものが仏を生みだすことです。
「如釈迦牟尼一一化仏有五百菩薩無量諸天以為侍者」/釈迦牟尼のような一一の化仏には、五百の菩薩と無量の諸天が侍者となって仕えている。
「挙身光中五道衆生一切色相皆於中現」/身光の中には、五道の衆生の一切の色相が、皆、中に現れている。五道は人のたどる五つの道、地獄、餓鬼、畜生、人間、天上をいいます。一切の色相とは、一切の衆生の一切の様相をいいます。楽しむ者、苦しむ者などのことをいいます。
「頂上毘楞伽摩尼妙宝以為天冠、其天冠中有一立化仏高二十五由旬」/頂上には摩尼宝珠の冠があり、その冠の中に、一人の化仏が立っている。これはこの菩薩の威光は仏による、言い換えれば仏教的真理によっていることを表わしています。
「観世音菩薩面如閻浮檀金色、眉間毫相備七宝色、流出八万四千種光明」/観世音菩薩の顔は紫色の金色に輝き、眉間の毫相は七宝の色である。この毫相からは八万四千種の光明が流れ出ている。ここで仏の毫相は白色でした。白は一切の色のスペクトルを含む、これは古代印度でもすでに証知のことだったようです。
「一一光明有無量無数百千化仏、一一化仏無数化菩薩以為侍者、変現自在満十方界、譬如紅蓮華色」/眉間の毫相から流れ出る一一の光明の中にも無量無数百千の化仏がいる。一一の化仏には無数の化菩薩が侍者となり、自在に変現して、十方の世界を、池を睡蓮が満たすように満たしている。変現自在とは、あらゆる世界の一切の衆生となってということです。あらゆるものに姿を変えて苦しむ衆生を救うのが菩薩の役目です。
「有八十憶微妙光明以為瓔珞、其瓔珞中普現一切諸荘厳事」/八十億の微妙な光明が瓔珞となって菩薩を飾り、その瓔珞の中でも、一切の荘厳事が現わされている。荘厳事とは、仏事というのと同じです。仏世界を荘厳するから荘厳事といいます。
「手掌作五百憶雑蓮華色、手十指端、一一指端有八万四千画猶如印文、一一画有八万四千光、其光柔軟普照一切、以此宝手接引衆生」/掌には五百億のさまざまな蓮華の色がある。十本の指の先には八万四千の印文のような文様があり、一一の文様からは八万四千の光が放たれ、その光は柔軟に一切を照らしている。この宝の手が衆生に接して引くのである。光が柔軟であり、人を驚かせる類のものではないことに注目しましょう。
「挙足時、足下有千輻輪相自然化成五百億光明台」/足を挙げれば、足裏の千輻輪相は、自然に五百億の光明の台を化成する。千輻輪相(せんぷくりんそう)とは、仏の足裏にある千本のやを持った車輪の文様です。そこからは光が出て輝く台と成ります。
「下足時、有金剛摩尼花布散一切莫不弥満」/足を下ろせば、金剛(こんごう、ダイヤモンド)と摩尼珠の花が地面中に布き散らされて、びっしりと覆われない所はない。
「其余身相衆好具足如仏無異、唯頂上肉髻及無見頂相不及世尊」/その他の身相と、衆好とは仏に異ならない。ただ頂上の肉髻と無見頂相とは仏に及ばない。肉髻(にっけい)は頭頂部の肉の隆起、無見頂相(むけんちょうそう)は肉髻と同じものです。肉髻の働きは分りません、或はただ人と異なるだけかも知れません。
「是為観観世音菩薩真実色身想名第十観」/これが観世音菩薩の真実の色身を観る想であり、第十観という。
「若有欲観観世音菩薩者、当先観頂上肉髻、次観天冠、其余衆相亦次第観之」/もし観世音菩薩を観ようと思えば、先に頂上の肉髻を観よ、次ぎに天冠を観よ、その他の衆相もまた次々とこれを観よ。
第十一観大勢至菩薩色身想「佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀」
次は大勢至菩薩です。
「此菩薩身量大小亦如観世音」/大勢至菩薩の身量の大小は観世音と同じである。
「円光面各二百二十五由旬、照二百五十由旬、挙身光明照十方国作紫金色、有縁衆生皆悉得見、但見此菩薩一毛孔光即見十方無量諸仏浄妙光明、是故号此菩薩名無辺光」/円光はどの方面から見ても二百二十五由旬あり、二百五十由旬を照らす。身を挙げての光明は十方の国を紫金色に照らしている。衆生に縁があれば皆悉く見ることができる。ただこの菩薩の一毛孔の光を見ただけで、それはとりもなおさず十方の無量の諸仏の浄妙の光明を見たことになる。この故に、この菩薩を無辺光という。観世音は仏の慈悲、言い換えれば仏教的真理の慈悲行を表わし、大勢至は同じく慈悲行を起すための智慧を表わします。
「以智慧光普照一切令離三塗得無上力、是故号此菩薩名大勢至」/大勢至の智慧の光は、一切の衆生をして三塗(さんづ、地獄餓鬼畜生)を離れさせ無上の力を得させる。この故にこの菩薩を呼んで大勢至という。智慧は力のみなもとです。
「此菩薩天冠有五百宝蓮華、一一宝華有五百宝台、一一台中十方諸仏浄妙国土広長之相皆於中現」/この菩薩の天冠には、五百の宝蓮華が有る。一一の宝華には五百の宝台が有る。一一の台の上には十方の諸仏の浄妙の国土が、その広長の相を皆、その中に現わしている。大勢至菩薩の頭中には、常に十方の諸仏の浄妙の相が展開しています。数多くの見本の中から一つを選り分けるように、一人の衆生の為には、何をどのようにすればよいのか、ぴったり適応する方便を見出だします。
「頂上肉髻如鉢頭摩花、於肉髻上有一宝瓶盛諸光明普現仏事」/頂上の肉髻は鉢頭摩花(はづまけ、蓮の花)のようである。肉髻の上には一つの宝瓶があり、諸の光明を盛って、普く仏事を現わしている。仏事は仏の事績、仏の行うかずかずの慈悲行をいいます。
「諸余身相如観世音等無有異」/その他の身相は観世音と等しくまったく異なりが無い。慈悲行と智慧とは車の両輪です。大きさ等が異なっては車の用をなしません。
「此菩薩行時、十方世界一切震動、当地動処各有五百憶花、一一宝花荘厳高顕如極楽世界」/この菩薩が行けば、十方の世界の一切が震動し、地の動いた処には、各五百億の花が咲く、一一の宝花はその国を高く輝かしく荘厳して極楽世界のようにする。智慧の力はそれが真実であるだけに、感動しないものはありません。その智慧が働いた跡はまるで極楽世界のようになるのです。
「此菩薩坐時、七宝国土一時動揺、従下方金光仏刹乃至上方光明王仏刹、於其中間、無量無塵数分身無量寿仏、分身観世音大勢至、皆悉雲集極楽国土、側塞空中坐蓮華座演説妙法度苦衆生」/この菩薩が坐る時には、極楽の七宝の国土は一時に動揺する。そうすると、下方の金光仏の国から上方の光明王仏の国に至るまでの、その中間に、無量無数の分身の無量寿仏、分身の観世音大勢至が、皆悉く極楽国土に雲のように集まり、空中の片側を塞いで蓮華座に坐り、妙法を演説して苦の衆生を救う。下方の国から上方の国までが普く極楽国土になります。無塵数は世界を臼で挽いて粉みじんにして、その粉の粒と同じぐらいの数をいいます。分身(ふんじん)とは、諸仏が神通力で化して身を分けることをいいます。大勢至が極楽世界に於いて坐せば、それは十方の無数の国で説法している、無塵数の仏菩薩の説法に相当します。
「作此観者名為観大勢至菩薩、是為観大勢至色身想、観此菩薩者名第十一観」/この観を作すを大勢至菩薩を観るという。これが大勢至の色身を観る想であり、この菩薩を観ることを第十一観という。
「作是観者不処胞胎常遊諸仏浄妙国土」/この観を作せば、胎内に処することはなく、常に諸仏の浄妙の国土に遊ぶであろう。母胎から生まれることが、苦の始まりです。
第十二観普観想「佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀」
「見此事時当起想作心自見生於西方極楽世界」/極楽の様相を見おわったならば、次は自ら極楽に生まれるさまを心に想え。
「於蓮華中結跏趺坐、作蓮華合想、作蓮華開想」/蓮華の中に結跏趺坐(けっかふざ、足を組んで坐ること)していると想え。そして、まづ蓮華が閉じていると想え、次ぎに蓮華が開くさまを想え。
「蓮華開時、有五百色光来照心想、眼目開想、見仏菩薩満虚空中」/蓮華が開く時には、五百の色の光が来て照らすと心で想え。眼が開いたと想え。仏と菩薩が虚空中を満たしているのが見えるだろう。
「水鳥樹林及与諸仏所出音声皆演妙法与十二部経合」/水鳥と樹林、および諸仏の出す音声は、皆妙法を説き十二部の経と合っている。十二部の経とは、仏教の経典を十二に分類したもので、(1)修多羅(しゅたら)/契経(けいきょう)、仏の直接の説法で長文のもの。(2)祇夜(ぎや)/応頌(おうじゅ)、長行(ちょうごう)という散文の説法に同じ意の韻文を重ねたもの。(3)伽陀(かだ)/諷頌(ふじゅ)、長行がなく韻文だけのもの。(4)尼陀那(にだな)/因縁、説法の因縁、諸経の序品。(5)伊帝曰多伽(いていわつたか)/本事、如是語ともいい、弟子の前世の因縁。(6)闍多伽(じゃたか)/本生、仏の過去世の因縁。(7)阿浮達摩(あぶだつま)/未曽有、仏の種々の神力等、不思議の事。(8)阿波陀那(あばだな)/譬喩、経中に譬喩を説く部分。(9)優婆提舎(うばだいしゃ)/論議、法理について論議問答。(10)優陀那(うだな)/自説、問われずに仏が自ら説きだされたもの。例えば阿弥陀経。(11)毘仏略(びぶつりゃく)/方広、方正広大なる真理。(12)和伽羅(わから)/授記、仏が弟子に将来の成仏を告げることです。
「若出定時、憶持不失見此事已、名見無量寿仏極楽世界、是為普観想、名第十二観」/もし定から出てもなお憶えていて失わずに、この事を見ることができれば、無量寿仏の極楽世界を見るという。これが普く観る想であり、第十二観という。
「無量寿仏化身無数与観世音及大勢至、常来此行人之所、作是観者名為正観、若他観者名為邪観」/無量寿仏の無数の化身と観世音および大勢至が、常にこの行者の所に来るであろう。これを観ることができれば、それを正観といい、そうでなければ邪観である。
第十三観雑想「佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀」
「若欲至心生西方者、先当観於一丈六尺像在池水上」/もし心から西方に生まれたいと思えば、先に一丈六尺(凡そ5メートル)の像を池水の上に在ると観よ。何故ならば、先に説いたように、無量寿仏の身量は無辺であり、凡夫の心の及ぶ所ではないからである。
「然彼如来宿願力故、有憶想者必得成就、但想仏像得無量福、況復観仏具足身相、阿弥陀仏神通如意於十方国変現自在、或現大身満虚空中、或現小身丈六八尺、所現之形皆真金色、円光化仏及宝蓮花如上所説」/しかし、彼の如来は前世の願力の故に、憶想しようとすれば、必ず成就するのである。ただ仏の像(木像、金像)を想うだけでも無量の福を得る。また仏の完全な身相を観るのであればなおさらであろう。阿弥陀仏は意のままに神通が使え、十方の国に自在に変現している。或は虚空中を満たすほどの大身を現わし、或は一丈六尺、八尺の小身を現わすのであるが、現わす所の形は、皆真金色であり、円光も化仏も宝の蓮花も上に説いたようである。
「観世音菩薩及大勢至於一切処身同、衆生但観首相知是観世音知是大勢至、此二菩薩助阿弥陀仏普化一切」/観世音菩薩と大勢至とは、身体の一切の部分が同じである。衆生は、ただ首の相を観てこれが観世音と知り、これが大勢至と知るのである。この二菩薩は、阿弥陀仏を助けて普く一切を導く。
第十四観上輩生想「佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀」
ここまでの十三観は、主に極楽の荘厳、極楽の衆生、無量寿仏と二菩薩について観想しましたが、これ以後の三観は極楽に往生する者を観想します。唐の善導は前十三観を定善、後三観を散善と呼んでいます。定善とは定心にて修める善業、散善とは散心にて修める善業という意味です。ただこの善導の説によりますと、後の三観は観想ではないことになり、経の主旨からは外れますので、今は取りません。
「凡生西方有九品人」/およそ西方に生まれるには、九品の人がある。品とは品位による分類を指します。
以下、最初の上輩の者とは、皆大乗の行者です。
迴向発願心である。この三心を具えた者は必ず彼の国に生まれる。至誠心(しじょうしん)とは、嘘偽りのない誠の心をいいます。深心(じんしん)とは、深く思う心です。他事を思って天秤にかけるなどをしないことです。迴向発願心(えこうほつがんしん)とは、過去現在未来に作す善行の果報は、すべてこの往生に振り向けたいと願う心です。善いことを行って天に生まれたい、金持ちになりたいと思うかわりに極楽に往生したいと願うことです。
「復有三種衆生、何等為三、一者慈心不殺具諸戒行、二者読誦大乗方等経典、三者修行六念廻向発願生彼仏国、具此功徳一日乃至七日即得往生」/また極楽に往生する三種の衆生がいる。一は慈悲心にて殺生をしないなど、諸の戒行を具える者、二は大乗の経典を読誦する者、三は六念を修行し、それを廻向して願を発し彼の国に生まれたいと思う者である。この功徳を具えること一日より七日に過ぎない者まで、すべて往生できるであろう。方等(ほうとう)は大乗の異名です。六念(ろくねん)とは、(1)念仏/仏の大慈悲を念うこと、(2)念法/法の大利益を念うこと、(3)念僧/僧の大功徳を念うこと、(4)念戒/戒は遮悪の根本であると念うこと、(5)念捨/施しは善行の根本であると念うこと、(6)念天/天は常に護念すると念うことです。
「生彼国時、此人精進勇猛故、阿弥陀如来与観世音及大勢至無数化仏百千比丘声聞大衆無量諸天、七宝宮殿」/彼の国に生まれる時は、この人は精進であり勇猛であるが故に、阿弥陀如来は観世音および大勢至、無数の化仏、百千の比丘声聞の大衆、無量の諸天、七宝の宮殿をともなうであろう。
「観世音菩薩執金剛台、与大勢至菩薩至行者前、阿弥陀仏放大光明照行者身、与諸菩薩授手迎接、観世音大勢至与無数菩薩讃歎行者勧進其心」/観世音菩薩は金剛(こんごう、ダイヤモンド)の台を手に持ち、大勢至菩薩と共に行者の前に進みでる。阿弥陀仏は大光明で行者の身を照らし、諸の菩薩と共に手を授けて行者を迎え入れる。観世音、大勢至および無数の菩薩は行者を讃歎してその心を勇気づける。
「行者見已、歓喜踊躍自見其身乗金剛台随従仏後、如弾指頃往生彼国」/行者はそれを見て歓喜踊躍し、自らの身を見れば、すでに金剛の台に乗り仏の後ろに随従している。指を弾くほどの時間で彼の国に往生する。
「生彼国已、見仏色身衆相具足、見諸菩薩色相具足、光明宝林演説妙法、聞已即悟無生法忍」/彼の国に生まれてみれば、仏の色身の衆相が具足しているのが見え、諸の菩薩の色相が具足しているのが見え、光明と宝林は妙法を演説している。それを聞きおわれば、ただちに無生法忍を悟る。無生法忍(むしょうほうにん)とは無生無滅の真理をいいます。
「経須臾間歴事諸仏、遍十方界於諸仏前次第受記、還至本国得無量百千陀羅尼門、是名上品上生者」/須臾(しゅゆ、しばらく)の間を経て、諸仏を巡って事(つか、仕)え、遍く十方の世界の諸仏の前において、次々と記を受け、本国に還りつけば、無量百千の陀羅尼門を得ている。これを上品上生の者という。この人は生まれてすぐに、十方の世界の諸仏に事えて、種種無量の慈悲行を行います。陀羅尼門(だらにもん)とは、種種の教え、種種の慈悲行の法をいいます。
「上品中生者、不必受持読誦方等経典、善解義趣於第一義心不驚動、深信因果不謗大乗、以此功徳廻向願求生極楽国」/上品中生(じょうぼんちゅうしょう)とは、必ずしも大乗の経典を受持し読誦するものではないが、善くその意味を理解して、第一義である空を聞いても心が驚動しない。深く因果を信じて大乗を謗らない。この功徳を廻向して極楽国に生まれたいと願い求める者である。人の身心は空であり存在しないと聞いても善く理解して驚かず、深く因果を信じる者が、この上品中生の者に当たります。深信因果とは、世を超えた善因善果悪因悪果の理法をいいます。
「行此行者、命欲終時、阿弥陀仏与観世音及大勢至無量大衆眷属囲遶、持紫金台至行者前讃言、法子汝行大乗解第一義、是故我今来迎接汝、与千化仏一時授手」/この行を行う者は、命の終りの時、阿弥陀仏は、観世音および大勢至、無量の大衆眷属に取囲まれて、紫金の台を持ちながら、行者の前に進んで讃えて、法子(ほうし、弟子)よ、お前は大乗を行い第一義を理解している。この故に、わたしは、今来てお前を迎え入れようと言い千の化仏と共に一時に手を授ける。
「行者自見坐紫金台、合掌叉手讃歎諸仏、如一念頃即生彼国七宝池中」/行者は自らの身を見てみれば、すでに紫金の台に坐している。合掌叉手して諸仏を讃歎すれば、一瞬の後には彼の国の七宝の池の中に生まれる。合掌叉手(がっしょうさしゅ)とは、左右十指を交差させて掌を合わせる合掌のしかたです。この合掌は左手を衆生界、右手を仏界に擬し、衆生が仏に帰依するすがたとも、衆生と仏とは不二であることを表すとも言われていますが、たんに掌を強く押しつけた形で通常よりもさらに心のこもった合掌と取るのがよいでしょう。
「此紫金台如大宝花経宿即開、行者身作紫磨金色、足下亦有七宝蓮華、仏及菩薩倶放光明照行者身目即開明、因前宿習普聞衆声純説甚深第一義諦」/この紫金の台は大宝花のように一夜を過ぎれば開き、行者の身は紫磨金(しまこん、紫金)色となり、足下には七宝の蓮華がある。仏および菩薩はともに光明を放って行者の身を照らすと、行者は目が開いて見ることができるようになり、前世の習いにより、あたりに飛び交う声を聞いてみれば、ただ甚だ深い第一義諦を説いている。第一義諦(だいいちぎたい)とは、万物は平等にして空であるという真理をいいます。
「即下金台礼仏合掌讃歎世尊経於七日、応時即於阿耨多羅三藐三菩提得不退転、応時即能飛至十方歴事諸仏、於諸仏所修諸三昧経一小劫得無生法忍現前受記、是名上品中生者」/金台より下りて仏を拝礼し、合掌讃歎すること七日、阿耨多羅三藐三菩提に於いて不退転となる。十方の世界に遊飛して諸仏に事(つか)え、諸仏の修めている諸の三昧を修めること一小劫、無生法忍を得て諸仏の現前にて記を受ける。これを上品中生の者という。阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)は菩薩の行を行って仏国土を建設する意志、不退転(ふたいてん)は仏国土を建設するまで退転しないこと。諸仏所修諸三昧とは、仏のように一心に種種の慈悲行を行うこと。一小劫(いちしょうこう)とは、人寿八万歳より百年ごとに一歳を減じて十歳になり、また百年ごとに一歳を増して八万歳になるまでの期間をいい、およそ千六百万年をいいます。無生法忍は、生滅を遠離すること、言い換えると生滅を畏れないことです。
「上品下生者、亦信因果不謗大乗但発無上道心、以此功徳廻向願求生極楽国」/上品下生(じょうぼんげしょう)とは、また因果を信じて大乗を謗らず、ただ無上道の心を発し、この功徳を廻向して極楽国に生まれたいと願うことである。無上道心(むじょうどうしん)とは、阿耨多羅三藐三菩提心、あるいは単に菩提心といい、この世を浄めて仏の国にしようと願う心です。この無上道心は、亦信因果不謗大乗とほぼ同じ意味です。
「彼行者命欲終時、阿弥陀仏及観世音併大勢至与諸眷属持金蓮華化作五百化仏来迎此人、五百化仏一時授手讃言、法子汝今清浄発無上道心、我来迎汝」/この行者の命が終ろうとする時、阿弥陀仏および観世音と大勢至は諸の眷属を引連れて金蓮華を持ち、五百の化仏を化して作り、一緒に来てこの人を迎える。五百の化仏は、皆、一時に手を授け讃えて、法子、お前は今清浄であり無上道の心を発したにより、わたしはお前を迎えに来たと言う。
「見此事時、即自見身坐金蓮花、坐已華合随世尊後即得往生、七宝池中一日一夜蓮花乃開、七日之中乃得見仏」/これを見た時、自らの身を見てみると金蓮花の上に坐っている。華は自然に閉じて世尊の後にしたがい、すぐ往生することができる。七宝の池の中で一日一夜、蓮花がようやく開き、七日の後、ようやく仏を見ることができる。
「雖見仏身於衆相好心不明了、於三七日後乃了了見、聞衆音声皆演妙法、遊歴十方供養諸仏、於諸仏前聞甚深法経三小劫得百法明門住歓喜地、是名上品下生者」/仏の身を見たとはいえ、衆の相好は心にいまだ明了ではない。三七日の後、ようやく明了に見えてくる。衆の音声を聞けば、皆妙法を演べている。十方に遊歴し諸仏を供養し、諸仏の前にては甚だ深い法を聞き、三小劫が過ぎたころには百法が明るくなって、歓喜地に住す。これを上品下生の者という。百法明門(ひゃっぽうみょうもん)とは、衆生済度の法は種種無数にあるが、やっと百ほどの初門に入ることをいいます。歓喜地(かんぎち)とは、菩薩の位階十地の中の初地、ようやく惑いを断ち切って歓喜する位をいいます。
「是名上輩生想、名第十四観」/これが上輩の生まれる想であり、第十四観という。これがいわゆる上輩といわれる人たちです。この三人は、皆、大乗の行者でありますが、その心の定り方によって上中下と分れています。
第十五観中輩生想「佛告阿難及韋提希‥‥名為邪觀」
次は中輩の者です。この者たちは皆善人です。
「中品上生者、若有衆生受持五戒、持八戒斎、修行諸戒、不造五逆、無衆過悪、以此善根廻向願求生於西方極楽世界」/中品上生(ちゅうぼんじょうしょう)とは、もしある衆生が、五戒を受持し、八戒斎を持ち、諸戒を修行して、五逆を造らず、衆の過悪が無ければ、この善根を廻向して、西方の極楽世界に生まれることを願うことである。八戒斎(はっかいさい)とは、(1)不殺/生き物を殺さない、(2)不盗/与えられない物を取らない、(3)不婬/婬事をしない、(4)不妄語/嘘をつかない、(5)不飲酒/酒を飲まない、(6)身不塗飾香鬘/身に香を塗ったり、飾りを着けたりしない、(7)不自歌舞、又不観聴歌舞/歌舞音曲を慎む、(8)於高広之床座不眠坐/高広の大床に坐らない、(9)正午過ぎて食事をしない。この八戒と一齊をいいます。五戒はこの(1)から(5)をいいますが、(3)は邪婬をしないことに代ります。諸戒とは、比丘の守る二百五十戒、比丘尼の守る五百戒をいいます。五逆(ごぎゃく)とは、(1)父を殺す、(2)母を殺す、(3)阿羅漢を殺す、(4)仏身より血を出す、(5)和合僧を破るの重罪をいいます。
「行者臨命終時、阿弥陀仏与諸比丘眷属囲遶、放金色光至其人所、演説苦空無常無我、讃歎出家得離衆苦」/行者の命が終ろうとする時、阿弥陀仏は大勢の比丘と眷属とに取囲まれ、金色の光を放ちながらその人の所に来て、苦、空、無常、無我を演説し、出家して衆苦を離れることを讃歎する。苦空無常無我とは、この世に生死することは苦であり、万物は空であり、一切は移り変わって常なるものは無く、身心は存在せず霊魂もまた無いということ、これ等は仏教的真理です。
「行者見已心大歓喜自見己身坐蓮花台、長跪合掌為仏作礼、未挙頭頃即得往生極楽世界」/行者はこれを見て大いに歓喜し自らの身を見てみればすでに蓮花の台に坐っている。両肘両膝を地につけて合掌し仏に礼をなせば、頭を挙げないうちに極楽世界に往生する。
「蓮花尋開、当華敷時聞衆音声讃歎四諦、応時即得阿羅漢道三明六通具八解脱、是名中品上生者」/蓮花はやがて開く。華の開く時にあたって、あまたの音声が四諦を讃歎するのが聞こえる。その時、阿羅漢道と三明と六通を得て、八解脱が具わる。これを中品上生の者という。四諦(したい)とは、先の苦空無常無我に対する回答であり四項目よりなっています、(1)苦諦/この世は苦であると確信すること、(2)集諦/苦の原因は愛著することにあると確信すること、(3)滅諦/愛著する心を滅すれば苦もまた滅すると確信すること、(4)道諦/愛著する心を滅するには正しい道によらなくてはならない。その正しい道とは八正道である。八正道(はっしょうどう)とは、正しい修行と生活の方法である、(1)正見/苦集滅道の四諦の理を認めることをいい、八正道の基本となるものである。(2)正思/既に四諦の理を認め、なお考えて智慧を増長させること。(3)正語/正しい智慧で口業を修め、理ならざる言葉を吐かないこと。(4)正業/正しい智慧で身業を修め、清浄ならざる行為をしないこと。(5)正命/身口意の三業を修め、正法に順じて生活すること。(6)正精進/正しい智慧でもって、涅槃の道を精進すること。(7)正念/正しい智慧でもって、常に正道を心にかけること。
(8)正定/正しい智慧でもって、心を統一すること。三明(さんみょう)とは、智慧の力で過去現在未来三世の闇を照らす三種の神通力です、羅漢の場合には三明といい、仏菩薩の場合には三達といいます、(1)宿命明/自他の過去世の生死の相を知る。(2)天眼明/自他の未来世に於ける生死の相を知る。(3)漏尽明/現在の苦の相を知り、一切の煩悩を尽くす智慧。六通(ろくつう)とは、阿羅漢の持つ六種の神通力です、(1)天眼通/障害物を通して見ることができる。(2)天耳通/障害物を通して聞くことができる。(3)他心知通/他人の心を知ることができる。(4)宿命通/自他の過去世を知ることができる。(5)身如意通/即時に何処にでも行ける等の極限的な身体の能力。(6)漏尽通/諸漏(ろ、煩悩)を断ち、無礙自在であること。八解脱(はちげだつ)とは、八種の定力により貪著の心を捨てるための八段階です、(1)色や形に対する想い(色想)が内心にあることを除くために、不淨観を修める。(2)内心の色想が無くなっても、なお不浄観を修める。(3)前の不淨観を捨て、外境の清らかな面を観じ、貪著の心を起こさないようにする。(4)物質的な想いをすべて滅して、空無辺処定に入る。(5)空無辺の心を捨てて、識無辺処定に入る。(6)識無辺の心を捨てて、無所有処定に入る。(7)無所有の心を捨てて、非想非非想処定に入る。(8)受想等を捨て、心と心所(しんじょ、心の働き)を滅する滅尽定(めつじんじょう)に入る。
「中品中生者、若有衆生若一日一夜持八戒斎、若一日一夜持沙彌戒、若一日一夜持具足戒威儀無欠、以此功徳廻向願求生極楽国」/中品中生とは、もしある衆生が、もしくは一日一夜八戒斎を持ち、もしくは一日一夜沙彌戒を持ち、もしくは一日一夜具足戒を持って行儀作法に欠けるところが無ければ、この功徳を廻向して極楽国に生まれることを願い求めることである。八戒斎は前に説明しました。沙彌戒(しゃみかい)とは、二十歳未満の少年僧の受ける十戒をいいます。(1)生き物を殺さない。(2)他の物を取らない。(3)婬事をしない。(4)嘘を言わない。(5)酒を飲まない。(6)身に装身具を着けたり、香を塗ったりしない。(7)歌舞をせず、それを観聴することもしない。(8)高広な大床に坐臥しない。(9)午前中に一回のみ食する。(10)金銭、宝物を持ち込まない。具足戒(ぐそくかい)とは、比丘の二百五十戒、比丘尼の五百戒をいいます。
「戒香薫修如此行者命欲終時、見阿弥陀仏与諸眷属放金色光、持七宝蓮花至行者前」/戒を守るこのようは行者は香のように素晴らしい香があたりにただよう。この行者は、命が終ろうとする時、阿弥陀仏が大勢の眷属に取囲まれ金色の光を放ち、七宝の蓮花を持って行者の前に来るのを見る。
「行者自聞、空中有声讃言善男子如汝善人随順三世諸仏教故、我来迎汝」/行者は、空中の声を聞く、「善男子、お前のようにする者は善人である。三世の諸仏の教えに随順しているので、わたしはお前を迎えに来た。」と。善男子(ぜんなんし)とは、在家出家の信者にたいする呼びかけの言葉です。
「行者自見坐蓮花上、蓮花即合生於西方極楽世界」/行者は、自らの身を見てみればすでに蓮花の上に坐っている。蓮花はすぐに閉じ、西方の極楽世界に生まれる。
「在宝池中経於七日蓮花乃敷、花既敷已開目合掌讃歎世尊、聞法歓喜得須陀洹、経半劫已成阿羅漢、是名中品中生者」/宝池の中にて七日がたてば、蓮花はようやく開く。花が開けば、目を開けて合掌し世尊を讃歎して法を聞き、歓喜して須陀洹を得、半劫たてば阿羅漢と成る。これを中品中生の者という。須陀洹(しゅだおん)とは、煩悩をようやく断ちおわって聖者の流れに入った位をいいます。
「中品下生者、若有善男子善女人孝養父母行世仁義、此人命欲終時遇善知識、為其広説阿弥陀仏国土楽事、亦説法蔵比丘四十八大願」/中品下生とは、もしある善男子善女人が父母に孝養し、世の仁義(にんぎ、慈悲と正義)とを行えば、この人の命が終ろうとする時、たまたま善知識に会い、善知識はこの人のために、阿弥陀仏国の楽しい事と、また法蔵比丘の四十八の大願とを説くというようなことである。善知識とは、善い知識をもった人の意です。
「聞此事已尋即命終、譬如壮士屈伸臂頃、即生西方極楽世界、生経七日遇観世音及大勢至、聞法歓喜得須陀洹、過一小劫成阿羅漢、是名中品下生者」/この事を聞きおわってやがて命が終れば、壮年の人が臂を屈伸するほどの間に、西方の極楽世界に生まれる。生まれて七日たつと観世音および大勢至に会い、法を聞いて歓喜し須陀洹を得、一小劫を過ぎて阿羅漢に成る。これを中品下生の者という。
「是名中輩生想、名第十五観」/これが中輩の生まれる想であり、第十五観という。これが謂わゆる中輩といわれる人たちです。皆、戒を守ろうとする気持ちのある善人です。上は常に戒を守り、中は一日一夜戒を守りますが、戒の大小は問題になっていません。下の者は、父母に孝養するなど世間の善を行うひとです。ただこの人は阿弥陀仏の事を聞いたことが無いので願求できません。たまたま善知識が阿弥陀仏のことを説くのを待たなければならない故です。
第十六観下輩生想「佛告阿難及韋提希‥‥名第十六觀」
次は下輩の者です。この者たちは、皆、謂わゆる悪人です。
「下品上生者、或有衆生作衆悪業、雖不誹謗方等経典、如此愚人多造悪法無有慚愧、」/下品上生とは、或はある衆生は多くの悪業をなしている。たとえ大乗の経典を誹謗するようなことが無いとはいえ、このような愚人は多くの悪事をなしながら、それを恥じることがない。悪法とは悪事をいいます。
この下輩の三人は、皆、それを強く意識するモデルがあります。この下品上生の者とは大乗の守護者です。皆、自分は善をなしていると思い、善人であると思っていますが、その実、多くの悪を知らず知らずの中に作っているのです。ここでそのモデルになったのは、この経の因縁を作った仏教の大庇護者である頻婆娑羅王と韋提希夫人です。以下、その理由を説明しますが、その所を善導の「観経疏序分義(かんぎょうそじょぶんぎ)」には、次のようにまとめられています。
頻婆娑羅と韋提希の悪業/もとこの王には子息がなかった。処処の神に祈ったが、ついに得ることができなかったのである。そこで王は相師に占わすと、その相師はこう言った、「山の中にひとりの仙人がいます。近く寿命がおわり、その後に王の子息となるでしょう。」と。王は喜んで、「いつその仙人の寿命はおわるのだ?」と訊ねますと、「もう三年ほどたちますと寿命がおわりましょう。」と答えた。王は、「おれは、すでに年老いたが、国を継ぐものがない。さらに三年を待てとは、何を信じて待てばよいのか。」と言い、山の仙人に使いを出し、「王は、国を継ぐ者がなく、困って処処の神に祈りましたが子を得ることができません。相師に占わせたところ、あなたが近く寿命がおわり、王の子息となるということでした。どうか恩をたれて早くお亡くなりください。」と請わせた。仙人は使者にこう言った、「わたしは、まだ三年の寿命が残っている。王は、このわたしに早く死ねとおおせられるが、それはできないことです。」と。使いが王にこれを伝えると、王は、「おれは、一国の主である。あらゆる人と物は、皆、おれの物だ。今、礼をつくして頼んでいるのに、なぜおれの心が分らないのか?」と言い、もういちど使者に命じた、「もういちど重ねて請え。もし承知しないようなら殺してしまえ。
そうなればいやでもおれの子にならずばなるまい。」と。使者は王の言葉を仙人につたえ、仙人が承知しないので、これを殺そうとした。仙人は、「お前は、王にこう語れ。おれの寿命がまだ尽きていないのに、王は心と口でもって、人におれを殺させた。おれがもし王の子になって生まれたならば、また心と口でもって、人に王を殺させてやるぞ。」と言ってついに殺された。この仙人は、死ぬとすぐに王宮の夫人の胎内に生を受けた。その日の夜、夫人は胎内に子ができたことを知った。王は、それを聞いて歓喜し、相師を呼んで夫人を観せた。「これは男か、それとも女か?」、相師はしばらく観て王に報えた、「これは男の子です、女ではありません。しかしこの子は、王を害するでしょう。」と。王は、「おれの国土は、皆、この子のものだ。たとえ害せられても、おれは少しもかまわない。」と言ったが、悲喜こもごも懐いた。とうとう夫人に打ち明けた、「おれとお前とで、内密になんとかしよう。相師は、この子がおれを害するという。お前は、生まれそうになったら高楼に上り、天井から下に産み落とせ。下で人に受け取らせるではないぞ。地に堕ちてしまえば死なないということもなかろう。こうすれば、心配することもなく、また露見することもない。」と。夫人は、王のはかりごともやむを得ないと思い、言われたとおりにしたが、この子は生まれて地に堕ちたというのに、死ぬこともなく、ただ小指を折ったために、人々がこの子を「折指太子」と呼んだだけであった。
「命欲終時遇善知識、為讃大乗十二部経首題名字、以聞如是諸経名故、除却千劫極重悪業」/この人は、命が終ろうとする時、たまたま善知識に会い、この善知識はこの人のために大乗の十二部の経の首題の名を讃える。このような諸経の名を聞くが故に、この人は千劫の極重の悪業も除かれる。今にも死のうとする時、経の深い意味を聞いている暇はありません。とりあえず、経の名だけでも聞くということで、十二部経を全部という意味はないのです。十二部経(じゅうにぶきょう)とは、仏教の経典を十二に分類したものです、(1)修多羅(しゅたら)/契経(けいきょう)、仏の直接の説法で長文のもの、(2)祇夜(ぎや)/応頌(おうじゅ)、長行(ちょうごう)という散文の説法に同じ意味の韻文を重ねたもの、(3)伽陀(かだ)/諷頌(ふじゅ)、長行がなく韻文だけのもの、(4)尼陀那(にだな)/因縁、説法の因縁、諸経の序品、(5)伊帝曰多伽(いていわつたか)/本事、如是語ともいい、弟子の前世の因縁、(6)闍多伽(じゃたか)/本生、仏の過去世の因縁、(7)阿浮達摩(あぶだつま)/未曽有、仏の種々の神力等、不思議の事、(8)阿波陀那(あばだな)/譬喩、経中に譬喩を説く部分、(9)優婆提舎(うばだいしゃ)/論議、法理について論議問答、(10)優陀那(うだな)/自説、問われずに仏が自ら説きだされたもの。例えば阿弥陀経、(11)毘仏略(びぶつりゃく)/方広、方正広大なる真理、(12)和伽羅(わから)/授記、仏が弟子に将来の成仏を告げること。
「智者復教合掌叉手称南無阿弥陀仏、称仏名故除五十億劫生死之罪」/智者はまた合掌叉手させて南無阿弥陀仏と称えることを教え、仏の名を称えるが故に五十億劫の生死の罪を脱れさせる。これも前と同じです、極楽の楽事も、阿弥陀仏の四十八願も説いている暇はとてもないので、せめて仏の名を称えさせるということです。
「爾時彼仏、即遣化仏化観世音化大勢至、至行者前讃言、善哉善男子、汝称仏名故諸罪消滅、我来迎汝」/その時、彼の仏は、化仏、化観世音、化大勢至を遣わし、行者の前で讃えて言わせる、「善いぞ善男子、お前は仏の名を称えるが故に、諸罪は生滅し、わたしはお前を迎えに来た。」と。
「作是語已、行者即見化仏光明遍満其室、見已歓喜即便命終乗宝蓮花随化仏後生宝池中」/これを聞いて、行者はすぐに化仏の光明がその室をすみずみまで満たすのを見る。これを見て、歓喜したところで命が終り、宝の蓮花に乗って化仏の後にしたがい、宝の池の中に生まれる。
「経七七日、蓮花乃敷、当花敷時、大悲観世音菩薩及大勢至菩薩放大光明住其人前、為説甚深十二部経」/七七日が過ぎ、蓮花はようやく開く、花の開く時にあたり、大悲観世音菩薩および大勢至菩薩が大光明を放って、その人の前に立ち、その人のために甚だ深い十二部の経を説く。
「聞已信解発無上道心、経十小劫具百法明門得入初地、是名下品上生者」/行者はそれを聞いて、無上道の心を発し、十小劫を過ぎれば百法明門を具えて初地に入る。これを下品上生という。百法明門(ひゃっぽうみょうもん)の説明は上品下生の項にあります。初地(しょじ)とは、歓喜地(かんぎち)ともいい菩薩が初めて平等の真理を悟り歓喜する位をいい、この位にある菩薩は布施波羅蜜を満たすといいます。
「得聞仏名法名及聞僧名、聞三宝名即得往生」/仏名、法名および僧名を聞くことができ、三宝の名を聞いたが故にたちどころに往生できたのである。
「下品中生者、或有衆生毀犯五戒八戒及具足戒、如此愚人偸僧祇物盗現前僧物、不浄説法無有慚愧、以諸悪法而自荘厳、如此罪人以悪業故応堕地獄」/下品中生とは、或はある衆生は、五戒、八戒および具足戒を犯すことがある。このような愚人は、僧祇の物を盗み、現前僧の物を盗み、不浄な説法をして恥じることなく、数々の悪事で身を飾っている。このような罪人はその悪業の故に地獄に堕ちずにはいられない。僧祇物(そうぎもつ)とは、すべての比丘と比丘尼の共有物をいい、現前僧物(げんぜんそうもつ)とは、一寺院内の比丘と比丘尼の共有物をいいます。不浄説法(ふじょうせっぽう)とは、提婆達多(だいばだった)が世尊に採用するようせまり、それを説いて五百の弟子を連れ、教団を割った五法を指します。
この中の者とは破戒の比丘と比丘尼のことですが、このモデルは、阿闍世太子をそそのかし父を殺させた提婆達多です。
提婆達多の悪業/提婆達多は釈尊の父浄飯王の弟斛飯王の子で釈尊からは従兄弟にあたります。後に釈尊の弟子となりましたが、やがて慢心増長して老齢を理由に釈尊に引退をせまり、自らが主宰しようと要求しましたが聞き届けられず、更に上の五法の採用を強くせまり、またそれが容れられないとなると五百の弟子を連れて教団を割ってしまいました。後に頻婆娑羅王が釈尊の大施主であることに対抗し、阿闍世太子に取り入って父王を殺させ自らの大施主とならしめました。その他、種種の経典にさまざまな悪業が書かれています。
提婆五法(だいばごほう)/(1)比丘は終生糞掃衣(ふんぞうえ、糞を掃除するような粗末な衣)を着けるべし。(1)比丘は終生乞食すべし。(3)比丘は終生一日一食を守るべし。(4)比丘は終生露地に坐すべし。(5)比丘は終生肉を食わざるべし。
「命欲終時、地獄衆火一時倶至、遇善知識以大慈悲、即説讃説阿弥陀仏十力威徳、広讃彼仏光明神力、亦讃戒定慧解脱解脱知見」/この人の命が終ろうとする時、地獄の衆火は一時に襲いかかる。たまたま善知識に会い、善知識は大慈悲で、阿弥陀仏の智慧の力を讃じて説き、仏の光明の不思議な力を讃え、また戒定慧解脱解脱知見を讃える。十力(じゅうりき)は仏の智慧です、(1)処非処智力(しょひしょちりき)/物ごとの道理と非道理を知る智力。処は道理のこと。(2)業異熟智力(ごういじゅくちりき)/一切の衆生の三世の因果と業報を知る智力。異熟(いじゅく)とは果報のことであるが、まだその果報の善悪が決定していないことをいう。(3)静慮解脱等持等至智力(じょうりょげだつとうじとうちちりき)/諸の禅定と八解脱と三三昧を知る智力。(4)根上下智力(こんじょうげちりき)/衆生の根力の優劣と得るところの果報の大小を知る智力。根とは能く生ずることをいい、何かを生み出す能力のこと。(5)種々勝解智力(しゅじゅちょうげちりき)/一切衆生の理解の程度を知る智力。(6)種々界智力(しゅじゅかいちりき)/世間の衆生の境界の不同を如実に知る智力。(7)遍趣行智力(へんしゅぎょうちりき)/五戒などの行によりゥ々の世界に趣く因果を知る智力。(8)宿住隨念智力(しゅくじゅうずいねんちりき)/過去世の事を如実に知る智力。(9)死生智力(ししょうちりき)/天眼を以って衆生の生死と善悪の業縁を見通す智力。(10)漏尽智力(ろじんちりき)/煩悩をすべて断ち永く生まれないことを知る智力。戒定慧解脱解脱知見は、仏の法身は、常に五種の功徳が集まることをいいます、(1)戒/如来の身口意の三業は、一切の過を離れる。(2)定/如来の心は寂静にして、一切の妄念を離れる。(3)慧/如来の真智は、一切の本性を観達する。(4)解脱/如来の身心は、一切の繫縛を解脱する。(5)解脱知見/如来は、すでに一切の繫縛を解脱したことを知る。
「此人聞已、除八十億劫生死之罪、地獄猛火化為涼風吹諸天華」/これを聞いてこの人は八十億劫の罪が除かれ、地獄の猛火も化して涼風となり、諸の天華を吹きよせる。
「華上皆有化仏菩薩迎接此人、如一念頃即得往生七宝池中蓮花之内」/華の上には、皆、化仏菩薩がいて、この人を迎え入れると、一瞬の間に七宝の池の中の蓮花の内に往生することができる。
「経於六劫蓮花乃敷、当敷華時、観世音大勢至以梵音声安慰彼人、為説大乗甚深経典」/蓮花の内での六劫の後に花は開き、観世音と大勢至が清らかな声で、この人を慰め、この人のために大乗の甚だ深い経典を説く。
「聞此法已、応時即発無上道心、是名下品中生者」/この法をきくと、ただちに無上道の心を発す。これを下品中生という。
「下品下生者、或有衆生作不善業五逆十悪具諸不善、如此愚人以悪業故応堕悪道経歴多劫受苦無窮」/下品下生とは、或はある衆生は不善業、五逆、十悪をなして諸の不善を具える。このような愚人は悪業の故に、悪道に堕ちて、多劫に極まりない苦しみを受けなくてはならない。不善業(ふぜんごう)、十悪(じゅうあく)とは、(1)殺生、(2)偸盗、(3)邪婬、(4)妄語、(5)両舌、(6)悪口、(7)綺語、(8)貪欲、(9)瞋恚、(10)邪見です、三福の項で説明しました。五逆とは、(1)父を殺す、(2)母を殺す、(3)阿羅漢を殺す、(4)仏身より血を出す、(5)和合僧を破るで、非常なる重罪です。
この下の者とは、大乗の信者でも、小乗の信者でもない俗人の悪人です。ここでは阿闍世がモデルです。
阿闍世の罪/阿闍世は頻婆娑羅王の太子でありながら、父を殺して王位を奪います。まさに五逆の罪人で、初め提婆達多の教団に帰依していましたが、後に父王の後を継いで釈尊の教団の大施主となりました。
「如此愚人臨命終時、遇善知識種種安慰、為説妙法令念仏、彼人苦逼不遑念仏」/このような愚人は命の終る時に臨んで、たまたま善知識に会い、善知識は種種に慰めて、この人のために妙法を説き、仏を念えと説くが、この人は苦に逼迫せられて仏を念ういとまがない。
「善友告言、汝若不能念彼仏者、応称帰命無量寿仏」/この善き友はこう教える、「もし彼の仏を念うことができなければ、無量寿仏に帰命しますと称えなさい。」と。帰命(きみょう)とは、仏の教えに帰順することです。
「如是至心令声不絶具足十念称南無阿弥陀仏、称仏名故、於念念中除八十億劫生死之罪、命終之時、見金蓮花猶如日輪住其人前、如一念頃即得往生極楽世界」/この人は、善知識の教えのままに、心から十度声に出して「南無阿弥陀仏」と称える。仏の名を称えるが故に、一声一声の中に八十億劫の生死の罪が除かれ、命が終る時には、日輪のような金の蓮花がその人の前に現れ、一瞬の間に極楽世界に往生することができる。
「於蓮花中満十二大劫、蓮花方開、当花敷時、観世音大勢至以大悲音声、即為其人、広説実相除滅罪法」/蓮花の中にて十二大劫を満たすと、蓮花は開くであろう。花の開く時にあたり、観世音と大勢至は大悲の声を出して、その人のために万物の実相と、罪を除滅する法とを説く。大劫とは成劫、住劫、壊劫、空劫の四劫をいいます。
「聞已歓喜、応時即発菩提之心、是名下品下生者」/この人は、これを聞いて歓喜し、すぐさま菩提の心を発す。これを下品下生という。
「是名下輩生想」/これが下輩の生まれる想である。この下輩の三人は、一人は大乗を守護しながら悪事をなし、一人は比丘でありながら悪事をなし、一人は仏教を信じずに悪事をなしていますが、総じて、皆、因果を信じずに他人にたいして悪をなすというような人たちです。この人たちは、極楽に往生するためには臨終に奇跡が起こらなくてはなりません。ただ善知識に会えばよいのですが、それがいかに難しいことであるか、経の中で説く八十億劫の罪というのは、まさにその困難を言っているのです。
得益分「爾時世尊說是語時‥‥無量諸天發無上道心」
ここまでで、仏の説法は終ります。以下、韋提希は五百の侍女とともに仏の所説を聞き、極楽の世界の広長の相を見、仏身と二菩薩の身を見ることができて、心に歓喜を生じるが故に、目からうろこが落ちるように大いに悟る所があって無生忍を得ます。五百の侍女も阿耨多羅三藐三菩提心を発して彼の国に生まれたいと願います。世尊は、皆に悉く、「必ず往生して、彼の国に生まれたならば、諸仏現前三昧を獲得するだろう。」と記を授けます。無量の諸天も無上道の心を発しました。諸仏現前三昧とは、諸仏を目の当たりにする三昧をさしますが、その意味する所は、何の世界に生まれても、必ず諸仏に会うことができるということです。
流通分「爾時阿難。即從座起前白佛言。世尊。當何名此經‥‥禮佛而退」
「爾時阿難、即従座起前白仏言、世尊、当何名此経、此法之要当云何受持」/阿難は、座より立ちあがって、仏に申します、「世尊、この経は、何と名づければよいのでしょうか?この法の要は、どのようにして受持すればよいのでしょうか?」と。
「仏告阿難、此経名観極楽国土無量寿仏観世音菩薩大勢至菩薩、亦名浄除業障生諸仏前、汝等受持無令忘失、行此三昧者、現身得見無量寿仏及二大士、若善男子及善女人、但聞仏名二菩薩名除無量劫生死之罪、何況憶念、若念仏者、当知此人即是人中芬陀利花、観世音菩薩大勢至菩薩、為其勝友、当坐道場生諸仏家」/仏は次のように阿難に教えられます、「この経は、極楽の国土と無量寿仏と観世音菩薩と大勢至菩薩とを観ると名づけよ。また業障を浄めて除き諸仏の前に生まれると名づけよ。お前たちは、この経を受け持って忘失してはならない。この三昧を行えば、その現在の身にて、無量寿仏および二菩薩を見ることができる。もし善男子および善女人が、ただ仏名と二菩薩の名を聞くことでさえ無量劫の生死の罪を除く、憶えていて常に念うならばなおさらであろう。もし仏を念えば、この人は人中の芬陀利花(ふんだりけ、白蓮華)であると知れ。観世音菩薩と大勢至菩薩とが、その人の勝れた友となり、必ずこの二菩薩の道場に坐ることができ、諸仏の家に生まれることができるであろう。」と。業障(ごっしょう)とは、悪業の障りをいいます。
「仏告阿難、汝好持是語、持是語者即是持無量寿仏名」/仏は阿難に教えられます、「お前は、よくこの語を持て、この語を持つとは、無量寿仏の名を持つことである。」と。
仏がこう言われると、尊者目連、尊者阿難および韋提希たちは、皆、仏の所説を聞いて大いに歓喜した。
そして、世尊は虚空を足で蹈みながら耆闍崛山に帰った。阿難は、耆闍崛山の大衆の為に上のような事を説き、無量の人天、龍神、夜叉たちも、仏の所説を聞いて、皆、大いに歓喜し、仏に礼をして退いた。
阿闍世太子の父殺しに始まる、長い経もここで終ります。わたくしは、この経に二つのテーマを読み取ります。(1)悪人は救われるか、(2)極楽を観想することにいかなる意味があるのか。この二つのテーマです。
まず悪人は救われるか、これは仏教では悪人はおろか、善人もありません、たんに空の人がいるだけなのです。ただその人の罪業、善業だけが存在し因縁するのです。この故に、悪人だとて改心すれば善人に生れかわります。
また次ぎに、極楽を観想して何が得られるか、これは甚だ理解しがたい所ですが、空である人は、常に因縁にさらされて生きていることを忘れてはなりません。善い因縁に触れれば善人になり、悪い因縁に触れれば悪人になる、恐らくこういうことではないでしょうか。人の行いは身口意の三業といわれています。極楽を観想する善い意業が、善い口業と善い身業とを呼び起こし、やがて理想の世界が実現する。この因縁のあるが故に、この経はつくられました。
観無量寿経2

仏説観無量寿経
序分
私はこのように聞きました。あるとき仏(釈尊)はインドの王舎城(ラージャグリハ)という国にある「鷲の峰」(耆闍崛山ぎしゃくっせん、霊鷲山りょうじゅせん)に千二百五十人の修行者たち、三万二千人の諸菩薩とともにおられた。
ときに王舎城ではマガダ国王の親子の間に、一つの悲劇が起こっていた。マガダ国の太子である阿闍世あじゃせ(アジャータシャトル)が、調達じょうだつ(デーヴァダッタ、提婆達多)にそそのかされて、父である頻婆娑羅(ビンビサーラ)国王を牢獄に閉じこめたのである。王の身を案じた妃の韋提希いだいけ(ヴァイデーヒー)は、自分のからだに食物を塗るなどして牢獄内に食物を持ち込み、ひそかに王に食を与えていた。しかしそれもわが子阿闍世に発覚するところとなる。阿闍世は怒りのあまり、韋提希を殺そうとするが、家臣に説得されて、この母親を宮廷にとじこめてしまう。わが子に背かれて囚われの身となった韋提希は憂い憔悴して、耆闍崛山におられる仏に向かって教えを請う。
この願いに応じて自分の前に仏が現れると、韋提希は地面に身を投げ、号泣しながら仏に訴える−「私は過去になんの罪を犯したことによってこのような悪い子を生んだのでしょうか。また世尊せそん(釈尊のこと)はどのような因縁があって、提婆達多という悪人と従兄弟なのでしょうか。世尊よ、私のために憂い悩むことなき処をお説き下さい。もはや私はこの濁悪の世をねがいません」−と。
 そこで釈尊が眉間から光を放って諸仏の浄らかな国土(浄土)を現出されると、韋提希はその中から特に阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと訴え、そこに行く方法を説き示されるように仏に懇願する。
本論
[定善の観法] そこで仏(釈尊)はまず、精神を統一し、心を西方に専念して阿弥陀仏とその極楽浄土を観想する方法(定善じょうぜんの観法)を説き始められる。まずは太陽が西の空に沈みゆく映像を頭の中に焼き付くようになるまで観想する「日想観」にはじまり、ないし極楽世界のありさまや阿弥陀仏の姿やその徳などを観想し、あるいは自分が極楽浄土に往生しているありさまを観想するといった、十三の観想の段階を説かれる。
[散善の行] つぎに仏は、ひとしく極楽浄土に往生する者といっても、そこには九種の分類(九品くぼん)があることを説き始められる。九種の分類とは、極楽に往生しようとする者を、その資質や能力から上品・中品・下品の三つに分類し、さらにそれぞれの品を上・中・下の三種に分類するものである。
すなわち上品の者には上品上生じょうぼんじょうしょう・上品中生・上品下生の三者があり、それぞれに資質や能力の上下はあれども、いづれも大乗の教えにしたがい、深く因果を信じて極楽往生を願う人々である。これを第十四の観想という。
さらに中品上生と中品中生は小乗の戒律を守ることによって極楽往生を願う人々、中品下生は父母を孝養するなどの世間的な福徳を行うことによって極楽往生を願う人々である。これを第十五の観想という。
これに対して下品に属する三種の人々(下品上生・下品中生・下品下生)は、上品や中品の人々が行うような福徳を行うことが出来ないどころか、かえってさまざまな悪行を犯してしまう罪悪の凡夫であるが、このような人々でも善き人(善知識ぜんじしき)の教えに出会い、南無阿弥陀仏の念仏を称えるならば極楽往生することができる。これを第十六の観想という。
このように仏が説かれたとき、韋提希とその侍女たちは極楽世界のすがたや、阿弥陀仏および観音菩薩・勢至菩薩を見て、歓喜の心が起こり、からりと迷いがはれて大悟し(廓然大悟)、さとりを得ようとする心(菩提心)を起こして、極楽往生を願った。
結語
仏(釈尊)は、弟子の阿難あなんからの、この経の「かなめ」は何なのですかとの問いに対して、念仏すべきことを強調される。すなわち、「念仏をする人は、人々の中の分陀利華ふんだりけ(プンダリーカ、白蓮華、汚泥の中から咲く白蓮華の花のような希有な尊き人)である(若念仏者、当知此人、是人中分陀利華)」と説かれ、そして最後に「あなたはよくこの語をたもちなさい。この語をたもてとは、すなわち無量寿仏のみ名をたもちなさいということである(汝好持是語。持是語者、即是持無量寿仏名)」、つまり念仏せよ、と言って、説法を終えられる。
その後、釈尊は耆闍崛山に戻り、広く大衆に対して上と同じ説法をされた。すると、これを聞いた大衆はみな歓喜し、礼をなして釈尊のもとを退いた。
観無量寿経(観経)
「いづれの行もおよびがたき」罪悪の凡夫でも、南無阿弥陀仏のお念仏を称えることによって救われ、極楽に往生できることを説く経典です。その経典の序分には、「王舎城の悲劇」と称される、親子の間で繰り広げられた悲劇の物語が説かれています。
この経典のサンスクリット原典は伝えられておらず、〓良耶沙きょうりょうやしゃ(西暦424-453年)という西域の人による漢訳『仏説観無量寿経』のみが現存しています。
このように、観無量寿経は極楽浄土に往生するてだてとして、十六の観想を順々に説く経典です。そのなかで、初めの十三の観想は、禅定において阿弥陀仏や極楽浄土を観想するという善行(定善の観法)による極楽往生を説くものです。これに対して第十四から第十六の観想は、観想とは称されるものの、実際には禅定の善行を説いているわけではありません。これらは、禅定もできないような、心が常に散乱しているような人々でも出来るような極楽往生の善行(散善の行)を、順次、上品・中品・下品の人々の資質に応じて説いているのです。
さて、中国に観経が伝えられると、学僧たちは、この経典を「定善の観法」を説くものとして理解し、「散善の行」を説く部分はいわば付け足し的なものとみなして、重視しませんでした。釈尊は、極楽へ往生し、そこで仏とならせていただく行として「定善の観法」を勧められたが、それができない愚か者にも往生の道があることを「散善の行」と説くことによって示された、というのが、この経典に対する一般的な理解だったのです。しかし経の結語は、これに反して、本経のかなめは「念仏」にあると説いているように見えます。これはどうしたことでしょうか。
[善導独明仏正意] 浄土真宗では、浄土教を伝え広めた七人の祖師を「七高僧」として仰ぎたたえるのですが、その中の一人に中国の善導大師ぜんどうだいし(西暦613年-681年)という方がおられます。善導大師は、それまでのこういった観経の理解を正されました。どんな人でも救い取るぞという阿弥陀仏のご本願のこころからすれば、観経の主題は、下品に説かれるような、「定善」もできないような罪悪の凡夫のために念仏による極楽往生を説くことにある、と明かされたのです。
しかし、それならば、一体なぜ仏は韋提希に対して「定善の観法」や念仏以外の「散善の行」を順々に詳しく説かれたのか。それは、かつてはわが子を殺そうとたくらんだ過去があるにもかかわらず、自分が罪悪凡夫であるという意識をまったくもたず、善人の行う「定善の観法」を教授してもらうことのみを請い、「散善の行」を請い求めない韋提希に自分の犯した罪を自覚させ、他力念仏の教えに導き入れるためである。善導大師は、このように仏の意図を汲み取られたのでした。
このようにして、善導大師によって、観無量寿経という経典が、「罪悪の凡夫が念仏を称えることによって極楽往生し、智慧と慈悲をそなえた仏とならせていただく」ことを説くものであることが明らかにされたのです。この卓見によってこそ、後に我が国で法然上人(西暦1133年-1212年)は浄土教に救いを見出されたのであり、法然上人は「ひとえに善導一師に依る」とその著書に明言しておられます。また親鸞聖人も、「正信偈」の中にも「善導ただひとり、仏の正意を明らかにされた(善導独明仏正意)」と讃嘆されています。仏の説かれた観経は、こうして中国・日本の浄土教の諸師たちによって読み深められていったのです。
見落としてならないことは、善導大師にせよ、法然上人にせよ、親鸞聖人にせよ、これらの諸師がたはみな、観経に説かれる罪悪の凡夫、念仏によってしか救われない下品下生の者とは、ほかならぬ自分のことであると受け取られたという点でしょう。『歎異抄』(第二条)に引かれた親鸞聖人の言葉でいえば、
いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし
(いずれの修行にもたえられない愚悪の身には、しょせん、地獄こそ定まれる住み家であるといわねばなりますまい。(梯実円訳))
と自覚されるとき、観無量寿経の言葉がわが身を救う依りどころとして意味を持ってくるのではないでしょうか。親鸞聖人は、以下のご和讃にみられるように、観経は私という凡夫を救うために説かれた経であるという理解をさらにおしすすめられて、韋提希が極楽往生を願い、阿闍世・提婆達多が悪行をなしたのも、ひとえに「凡愚底下のつみびと」である私を他力の念仏に導き入れるためのことであったと味わっておられます。
観無量寿経/親鸞聖人の和讃

恩徳おんどく広大釈迦如来 韋提希夫人ぶにんに勅ちょくしてぞ 
光台現国げんごくのそのなかに 安楽世界をえらばしむ
慈悲の徳が広大であって、弥陀の本願を説くために世に出たもうた釈尊は、韋提希夫人のために、あらゆるみ仏が造りたもうた国土を、み光の中に示された。夫人は弥陀の浄土への往生を望み、釈尊はそのための教えを説き出された。

頻婆娑羅びんばしゃら王勅せしめ 宿因しゅういんその期ごをまたずして
仙人殺害のむくいには 七重のむろにとじられき
頻婆娑羅王は性急に嗣子を望み、部下に命じて、わが子に生まれ変わるべき仙人を、寿命の尽きるのを待たず殺させた。その悪業の報いとして、後に当の子供の阿闍世によって、七重の囲いのある室に閉じこめられた。

阿闍世王は瞋怒しんぬして 我母是賊がもぜぞくとしめしてぞ
無道に母を害せんと つるぎをぬきてむかいける
阿闍世王は、餓死させようとした父王に、秘かに食事を与えていた韋提希に激怒した。わが母も父と同様に賊であると宣言し、無道にも、実の母を殺そうと剣を抜いておそいかかった。

耆婆ぎば大臣おさえてぞ 却行而退きゃくぎょうにたいせしめつつ
闍しゃ王つるぎをすてしめて 韋提いだいをみやに禁じける
耆婆大臣は手で阿闍世王の剣を押さえ、後退させてついに剣を捨てさせた。王は韋提希夫人を、宮殿の奥に閉じ込めるだけにした。

大聖だいしょうおのおのもろともに 凡愚底下ぼんぐていげのつみびとを
逆悪もらさぬ誓願せいがんに 方便引入いんにゅうせしめけり
『観無量寿経』には、聖者が悪人の姿となって現れている。彼らが悪行をはたらくことによって、愚かで下劣な罪人である私たちを、善人も悪人も等しくお救いくださる阿弥陀仏の誓願に、たくみに導き入れようとされた。

定散じょうさん諸機しょき格別の 自力じりきの三心さんじんひるがえし
如来利他りたの信心に 通入せんとねがうべし
心を静めての修行(定善)や、日常での善行(散善)など、人それぞれの分にあった修行をして往生しようとする自力の心を捨てよ。一切衆生を区別せず、念仏一つで往生せしめられる阿弥陀仏の他力の本願を、信じる心の中に入ろうと願え。
 
本願・四十八願

四十八願 (しじゅうはちがん)
浄土教の根本経典である「仏説無量寿経」(康僧鎧訳)「正宗分」に説かれる、法蔵菩薩が仏に成るための修行に先立って立てた48の願のこと。「仏説無量寿経」のサンスクリット原典である「スカーバティービューハ」には異訳があり、願の数に相違がある。二十四願系統と四十八願系統とに大別できる。前者は初期の浄土教思想、後者は後期の発展した浄土教思想を示すとされる。浄土宗、浄土真宗などの浄土教系仏教諸宗では、特に「第十八願」を重要視する。
如来の本願を説きて経の宗致とす(親鸞)
それ真実の教を顕さば、すなはち「大無量寿経」これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。
[ その(往相回向の)真実の教を顕さば、「無量寿経」である。この経の大意は、阿弥陀仏はすぐれた誓いをおこされて、広くすべての人々のために法門の蔵を開き、愚かな凡夫を哀れんで功徳の宝を選び施され、釈尊はこの世にお出ましになり、仏の教えを説いて、人々を救い、まことの利益を恵みたいとお思いになったというものである。そこで、阿弥陀仏の本願を説くことをこの経のかなめとし、仏の名号をこの経の本質とするのである。]

上記の親鸞聖人のお言葉にあるように、真実の教は「無量寿経」であり、「この経のかなめ」は「阿弥陀仏の本願を説くこと」です。仏教の本質が凝縮され、なお新たな創造性をもって編纂されたものが「大無量寿経」であり、それは阿弥陀如来の本願に集約されているのです。

たとえば自分の浅ましいことが知れるのは、仏の力であるということを説明するのに、昔はよく「松影の暗きは、月の光かな」という譬が引かれていました。「松の影」とは人間の浅ましい相、「月の光」とは仏の光明のことといわれているのですが、ここには一つの盲点がありましょう。もちろん月が出なかったら、松の影は地上には映りませんが、その影を見ているのは月ではなく、自分ではありませんか。龍樹菩薩が「刀は相手を斬ることはできても、刀自身を斬ることはできない。眼は他のものを見ることはできるが、眼自身を見ることはできない」と言っているように、この譬では影を見ている自分自身が見えていないでしょう。見ている眼は愚かではありません。救済の宗教は、すべて人間を愚かで罪の深いものと、否定的に見ているのですが、そこに問題があります。松には松の影は見えんでしょう。このたとえそのものに、欠陥があります。(中略)
仏教では煩悩のことを、垢とか毒といっていますが、これはくせのことです。どんなに垢にまみれていても、私は垢ではありません。くせはくせ、私は私です。愚かな自分を悲しみ、浅ましい自分に泣いている、その悲しみ泣いている、それが本当の自分です。腹が立ち、欲が起こるのはくせで、腹を立てたくない、欲を起こしたくない、そう願っているのが自分です。この泣いている心、願っている心を仏性というのです。

仏教ではこのまことの人間らしい人間になりたいという仏性の働く心のことを、菩提心とも信心ともいうのです。光明とは自己が生れて来ると、自己に背くものが、自己の内に見えてくることですが、本願とは本当の人間になりたいという願いのことです。だからよく私にはまことがあるとか、わしはいついつご信心をもらったという人がありますが、そういうものはみな光明も本願も働かない、中身のからっぽの自己免許のまことや信心で、本当のものではありません。

大体、今日までは真宗に限らず、どの宗教でも、宗教と学問とは違うという立場をとっていて、学問を宗教の世界からボイコットして来ました。それにはいろんな事情がありますが、結論から言って、そういう宗教は、真実の宗教ではありません。学問とは何かということも問題ですが、本当の学問、生きた学問は、宗教以前の問題で、人間にとってはなくてはならぬ、それこそ必要にして欠くべからざるものです。学問とは、学び問うということでしょう。人生はそこから始まるとさえ言われているほどです。学問は正しく生きるためのもので、正しい人生観の確立をめざしているのです。正しい人生観は、生きてゆくための大切な基礎工事です。どんな立派な家を建てても、基礎工事を忘れたのでは、いざという時倒れてしまいます。今までの宗教は、この大事な正しい人生観の確立という問題を忘れていたように思われます。

仏教はお釈迦さまから始まるのですが、お釈迦さまが説かれた教えは、今日原始仏教といわれているものだといわれています。その教えは、「人生は苦である」ということを大前提として、その理由を「無常であるから」といっています。それは無常の世の中にあって、老いたくない、病みたくない、死にたくないと、若さに対し、健康に対し、生に対して執着するからである。「苦の本は欲にある」と、一切の執着を断ち、一切の欲を捨てて、何ものにも心乱されない、毅然とした自己を確立するために、出家して静かな涅槃の境地におることを教えています。
こういう教えが、インドでは仏教教団の実権を握っていた上座部といわれる人々によって、七百年という永い間続いていたようです。ところが仏滅、釈尊が亡くなっておよそ二百年頃でしょうか、若い仏教徒の中に、それは正しくなお釈迦さまの教えを伝えたものではない。形や言葉にとらわれて、精神を見失ったものであると、批判的な立場をとるものが出て来たのです。中には権威主義に落ち入って、形骸化した当時の死んだ仏教に対して、真っ向から反対して、われわれこそ釈尊の真精神を伝えるものであると、改革運動を起こしたものもありましたが、それらは皆教団から弾圧されて、成功しませんでした。それらの堕落した教団を憂え、真実の仏教を唱えたまじめな人々は、教団を去って地下にもぐったのでしょう。あのたくさんな大乗経典は、そういう虐げられながらも、真実の仏教を後の世に伝えたいという悲壮な願いから、書き遺されたもののようです。それは永い間世に現れることなく、地下に眠りつづけていました。それが釈尊が死なれて七百年の後、南インドに龍樹菩薩という人が出て、初めてそれらの大乗経典が、日の目を見ることになったのです。親鸞聖人が「龍樹大士世に出でて」、初めて「大乗無上の法を説いた」と、感動を以て龍樹菩薩の徳を称えておられるのは、そのことです。それで後世龍樹菩薩を「第二の釈迦」と呼ぶようになったのです。

この五十二段の内容が解れば、今日真宗で問題になっているいろんな問題の大半は、ひとりでに解けると思いますから、話は何かうわすべりして進むようですが、できるだけかんたんにお話して見ましょう。
五十二段というのは、仏になっていく順序を示したものですが、それはそのまま仏とはどういうものかという、仏の内容を明らかに教えようとしているのです。(中略)
菩薩の初めの十段を「信位」というのは、自己を信じて、自己を人間として成就してゆこうと、人生に希望を持って、願いに生きる位であるからです。信とは愛とか希望とか、真実とか徳とか願いのことといわれています。信に十段を分けるのは、自覚の程度に浅い深いがあるからです。たとえば初めから自分は尊いものであると、対自的自覚にはなりません。初めは尊敬することのできる人に遇うて、私もあの人のようにないたいという形で、仏性に火がつくのです。りっぱな人間になりたいという願いの中には、無意識ではあっても、即自的に自分を信じているのです。自分はだめだと思ったら、願いは発こって見ようがないでしょう。その信心のことを菩提心といい、この心の発った人を菩薩というのです。
それではその菩提心がどうしたならば育ち、花を開かすことができるか、それには肥しが要ります。人間はたとい人間として生れても、人間としての教育を受けなかったら、人間にはなれません。その証拠は「狼少女」です。その肥しは解と行と廻向の三つとされています。
第一の「解」とは、解ること、学問することです。(中略)
この位を住というのは、人生が解ることによって今までいたずらに明かし、いたずらに暮していたり、自分の置かれた場所から逃げたい、自己を嫌悪して自己から抜け出したいという心が薄らいで、私であてよかった。ここを外にして私の生きる場所はどこにもなかった。ここが私にとっては一番尊い、有難い場所であったと、生活の大地に足がつくからでしょう。
第二の「行」とは、やって見ることです。習った知識も、自分でやって見なければ、自分のものになりません。(中略)
第三の「廻向」は、私とあなたという自他の人間関係のことです。それもたんに上下の関係ではありません。教えてやるという態度では、知識的なものでも相手はついて来ません。まして人間であることの人格はなおさらでしょう。相手を育てることによって、相手から自分が育てられる、自利利他の菩薩行とはこのことです。(中略)こうして智慧と徳を、一生かけて身につけ、人間としての花を咲かせてゆくのです。これを加行位といっています。(中略)
四十一段からが不退転の菩薩です。この位を「地」といっていますが、それは生活の大地に足がつくだけでなく、自己の立っている大地、菩提心そのものを根源から支えている浄土が自覚され、浄土そのものが信・解・行・廻向の菩提心となって、自己を現わし証明していたことに眼ざめた位をいうのです。今まで理想として彼方に、背伸びをして求めていたものは、すべて自らの魂の根源にあって、自らを動かしていた根源的主体であったことをさとるからです。(中略)これを見道位といっていますが、それは人生の真実が解ったからです。
この初地から五十一段までを十地といっていますが、その修行は「さとった後の修行」です。「信は道の元、功徳の母」といわれて、日々出会う人毎、出会う一つ一つの事件を縁として、内に宿っている無限の功徳を、外に花と開かすことです。桜が桜の花を咲かし、すみれがすみれの花を咲かすように、私が私の血の中に宿っている、命の花を咲かす道行きを明らかにしたもので、これを修道位といっています。その花が咲き、実となった人のことを、「仏」といって、これを究竟位としているのですが、私は仏とは、人間が人間としての本当のおとなとなることだと思っています。(中略)
しかし、この大乗仏教が理想とした人間像を、まだ不完全なものである。それは人生観の認識不足からくる誤りである、という仏弟子が現われて来ました。その人たちによって説かれた経典が、私たちが育てられてきた浄土の三部経です。(中略)
その足らん所を補い、仏教の伝統精神を身につけて、生まな歴史現実に立って、それらの原始仏教、大乗仏教を根本的に見直し、批判し分析して、さらにそれを再構成して生まれたものが、浄土の三部経であり、特に「大無量寿経」であります。そこに説かれている「四十八願」は、大乗仏教が理想とした五十二段の仏を踏まえて、さらにそれを浄土教の立場で、人間の理想像と、その生きる道を、具体的に明らかにしたものです。

皆さまといっしょに、「如来の願い」について学ばせて頂きたいと思います。
申すまでもなく「如来の願い」とは、親鸞聖人が、真実の教えであるといわれます「大無量寿経」にあかされた四十八の願であります。この四十八の願を一願ずつ味わわせて頂こうと思っておりますが、その前に、「如来の願い」が、また仏教が、私たちの人生にどういう意味をもつかを考えておきたいと思います。(中略)
釈尊は、人間に生れることの難しさを、何度も何度も、いろんな譬[たとえ]をもって話されます。そこには、せっかくの生命なんだから、この人生を大切にしてくださいという願いがこめられています。もうすでに何度も繰返しましたが、仏教では、「死」ということをよくいいます。これも「生命ある今を、本当に大切にしてください」という願いをこめていわれるのです。
では「私は、この人生をどう生きたらよい」のでしょうか。(中略)
親鸞聖人も、「どう生きたらよいか」という問いに対して、いろいろな答え方をしておられますが、私は「必ず最勝の直道に帰せ」といわれるお言葉が、最も端的なお答えであると味わわさせて頂いております。

一体、釈尊は何を「確かなよりどころ」といわれたのでしょうか。
それは釈尊最晩年のことであります。病の床にある釈尊に、「もしあなたがおなくなりになられたら、あとに残る私たちは一体誰をたよりに、何をよりどころとして生きればいいのでしょうか」と、涙ながらにたずねた一人の弟子がありました。
釈尊は、この問いに、
汝自らを灯明とし自らを依り処として、他人を依処とせず。
法を灯明とし法を依処として、他を依処とすることなくして住するがよい。
と答えられました。
この自灯明、法灯明の教えは、三十五歳でおさとりを開かれた釈尊の四十五年間の伝道の結論であります。
自灯明とは、自分の人生、自分の足でたちなさいということであります。いくらまわりに、自分にとって都合のいい、大きな強い足があっても、他人の足は、あくまで他人の足です。最後まで、自分の人生をささえてはくれません。たとえ、小さい弱い足でありましても、自分の足でたたなければ、自分の人生にはならないと教えてくださるのです。
では自分の足で、どこにたてばいいのでしょう。それに答えてくださるのが、法灯明の教えであります。すなわち、どんなことがあっても滅することのない常住なる法の上に自分の足でたちなさいと教えてくださるのです。
法の上に自分の足でたつとき、人生は本当に自分の人生となり、生命のありだけを燃やして生きる人生が開けるのです。

阿弥陀如来は、四十八の願いにおいて、どのようなことを誓われたのでしょうか。中国の浄影という人は、四十八の願いを、
(一)私たちが親になるとき、どういう親になるべきかを考えるように、如来は、どういう如来になるべきかを考え誓ってくださった願(摂法身の願)と、
(二)私たちが子どものためにどういう家庭を築くべきかを考えるように、如来は、私たちのためにどいう世界(浄土)を建立すべきかを考え誓ってくださった願(摂浄土の願)と、
(三)私たちがどうすれば子どもが本当に幸福になるかを考えるように、如来は、私たちの真の幸福と、その実現の道を考え誓ってくださった願(摂衆生の願)に分類して味わわれています。
この分類は何でもないようですが、非常に大切なことを教えてくださっています。
現代は、子捨て、親捨ての時代であり、父親はかげろうのような小動物になり、母親は教育ママゴンと怪獣あつかいされる時代であります。また、これほど子どもの非行や自殺が問題となった時代もありません。これら一連の問題を考えますとき、それらを時代のせいにしたり、子ども自身の問題にすることは簡単なようですが、どうしても見おとせないのは「親の問題」であります。(中略)
することもせずに、親だ親だでは、子に捨てられたり、怪獣あつかいされるのは当然のことでしょう。また、子ども自身も、非行や自殺にはしるのは当たり前でしょう。
何か教育論のようになってしまいましたが、「如来の願い」は、あくまで生命のありだけを燃やし生きる人生のささえであり、根元であります。しかし、私たちの身近な問題をも、このように教えてくださるのです。
それでは、親鸞聖人は、この四十八の「如来の願い」をどのように味わわれたのでしょうか。
親鸞聖人は、「然つに願海(本願)に就て真あり、仮あり」(教行信証・真仏土巻)といわれて、四十八の願いを、「真実の願」と「権仮(方便)の願」に分けられました。
すなわち、真実の願として、第十一の願・第十二の願・第十三の願・第十七の願・第十八の願・第二十二の願をあげ、方便の願として、第十九の願・第二十の願をあげておられます。
方便といいますと、すぐに「ウソも方便」という言葉を思いだし、「方便とはウソ」と単純に思い込んでおられるかも知れませんが、方便のもとの言葉は「ウパーヤ」といい、「近づく」「到達する」という意味です。また曇鸞大師(七高僧の第三祖・中国魏の時代の高僧)は、「正直を方といい、己を外にするを便という」(浄土論註・下巻)といわれ、「方」とは智慧、「便」とは他を先とする慈悲であることを教えてくださいます。

「大経」に「光顔巍巍」という偈文がありまして、それを御本願をお立てになります総願といいます。四十八願を別願と申して、それを細かに別けて「三誓偈」(重誓偈)という偈文が終わりにあります。その三つを照らし合わして味わって行くとよいと思います。
ところで願の手前にある文をちょっと申します。
仏、比丘につげたまはく、なんぢ、いまとくべし、よろしくしるべし。これときなり。一切大衆を発起悦可せしめよ。
話をして皆を悦ばせよ、とおっしゃると、
菩薩ききおはりて、この法を修行して、よて無量の大願を満足することをいたさん。
聞いておる菩薩方が皆それを御縁として、また外の菩薩も願をお発しになろうから、結構なことだ。だから自分の思っておることを皆言えとおっしゃるので、法蔵比丘は、
比丘、仏にまふさく、やや聴察をたれたまへ。わが所願のごとく、まさにつぶさにこれをとくべし。
と言って、練りに練った四十八の本願を述べていかれるのであります。そのうち、第一願は国ということを申しておられるのですが、第二願から第十一願までは、それぞれ願文に「国中人天」とあります。つまり、その国の中の人々にかくかくの幸せにさせてやりたいということが願われているのです。従って、これだけが、ひとまとめになるのであります。

私自身の経験を申しますと、ずっと前のことでありますが、学生時代に、この「大無量寿経」を読んで四十八願にいたりましたとき、今申しましたようなことを少しく感じたことがあります。それは仏があるかないか、浄土というものがあるかないか、というような問題が非常に自分を悩ましまして、これがわからなければいったいどうなるであろうか、これがわからなければ信仰というものはどうなるのであろう、ということについて随分困らされた時代であります。
その自分に、今から考えればきわめて漠然とした感じでありますけれども、第一の願から第四十八の願まで静かに読んでいくと、ここにまことがある。まことということをわれわれはいうけれども、しかしそのまことというものをはっきりとわれわれの目の前に出し、われわれの耳に響くようにここへうち出されたものが四十八願である。もしこれがまことでないならば、いったいわれわれはどういうものをまことと呼んでよいであろうか、というように思ったことがあります。
その感じが京都へくるようになりましてから、つい四、五年前に学校で親鸞聖人の降誕会をしましたときにもう一遍出てきまして、まことということは四十八願から出発しなければならない。この四十八願は本願真実であって、本願そのものがすでに真実のものをもっている。しかしその本願をわれわれが真実と感じるのはどうしてであろうか。そのときに出てきましたのは、「教行信証」の「信の巻」に出てきます業障深重という感じであります。自分を反省して自分の弱さ愚かさ、、またこの業障の強さというものを深く感じながら、胸を開いてこの四十八願を読むというと、一願々々自分の胸に響いてくる。だから前後の経文はどうあっても、この四十八願そのものがまことであるということが、またそのときに出てきたのであります。
今夜はここでそれが三度私の胸に出てきたのであります。この四十八願は今申しましたように、法蔵菩薩が四十八願を建てられたのではない。法蔵菩薩が四十八願を建てられたと考えると、この法蔵菩薩があるかないかということを考えなければならない。そうではなくて、この四十八願を読んでいくときに、この四十八願は何であるか。あるいはまたもっと近く申せば、われわれが四十八願を読んで深く感銘する。その心そのものはいったい何ものであるか。つまり四十八願を離れて四十八願を建てた法蔵菩薩ということを、われわれは考えることはできない。また四十八願を離れて、その願を成就して阿弥陀如来となられたというその阿弥陀如来というものも、われわれは求めることはできない。この四十八願を皆さんとともに読んでいき、四十八願の言音を聞いていく間にそれだけの意味を諒解させていただかなければならないと思っているのであります。

始めの十一の本願をわれわれが読みますならば、その十一の中の順序はどういうふうになっているか。それは国中人天ということを心において、しだいしだいにその生活を高め、純化していきます。これは私があえていうのではなく、昔の人も随分注意しているのでありまして、四十八願を読むとはっきりそうなっています。第一の願は地獄・餓鬼・畜生がないように、そのつぎは生命終ってから三悪道へ帰らぬように、そのつぎはみな金色になるように、そのつぎは形に好醜がないように、宿命通を備えるように、だんだんいって最後に漏尽通即ち煩悩妄念が起こらぬようにと、自然に涅槃の証[さと]りを聞くようにと、一願は一願より高く、一願は一願より深く、だんだん国中人天に対しての仏の願いが、高められ純化されていくのであります。私は本願というものの性質がそこにあると思う。願いというものはちょうど金を練るがごとく、鉄を鎔かすがごとく、初め鉱であるのがだんだん練れてますます純になっていくというのが、本願というものの性質ではないでしょうか。

そういうふうにだんだん高められて必至滅度までいきましたときに、一転して「光明無量・寿命無量の願」というものが出てきたのであります。それより以後第二十一の願にいたるまでは、すべて一切衆生の方に向き直って、その理想の高みからまたふたたび摂化十方の方向に向かう。だからまず光かぎりなからん寿命かぎりなからん、光明無量・寿命無量という仏自身の大悲の本をあきらかにし、力の本をあきらかにして、そのつぎに「声聞無数の願」が出ている。そのつぎに何があるかというと「眷属長寿の願」である。国中人天がみな長生きをするようにという願であります。それから今度は国中人天に不善の名あらば正覚をとらじ、「離譏嫌名の願」であります。そのつぎが「諸仏称名の願」、私はこのように願を読んでいきますと、だんだん十方摂化していかれる順序が感じられる。(中略)
国中人天が褒められる資格をもって初めて諸仏に褒められる。ここに「諸仏称揚の願」が出てくるのであります。ここにおいて純粋に霊の上における準備が整ったのでありますから、いよいよ衆生の世界へすなわち現実の世界へきて、第十八、第十九、第二十という三願をもってどこまでも十方衆生を救っていかれる。そういう点からいきますと、仏のほんとうの要求は、「至心信楽して我が国に生れんと欲して乃至十念せよ」というところにあるのですけれども、定散自力の心がとれないものですから、第十九願で追いかけ、第二十願でもう一遍方向転換して真実の願心へ帰入せしめる。すなわち光明無量・寿命無量の本願から第十八、第十九、第二十の本願に進んでいく。それが十方摂化の本願、仏の心が現実の中に入っていかれる一つの願いであります。

それからはさきほど申しましたように、無窮菩提についての願である。本願の智慧と慈悲とによって、無限無窮の道が展開されてくる。それが第二十一願の国中人天の三十二大人の相にはじまる。同じ国中人天でありますけれども、これは前の国中人天とちがうと思うのであります。前の中人天は対内的に出てきた国中人天であり、今の国中人天は十方摂化の上での国中人天である。菩薩とか衆生とかいうものも、みな前の人天とか衆生とかいうものと意味を異にして、みな仏の無窮菩提の上に現われてくるものである。だからその無窮菩提を一括して申しますと、親鸞聖人のおおせられる環相廻向である。すべて環相の徳である。ほんとうの仏の本願が、無限に人から人へ、菩薩から菩薩へと伝わっていくのが、あとの二十八願であります。

真実というものはその願を練りに練って出てきた純なるものである。竜の眼である。四十八願の竜に対して、眼を点ずるものを真実の願というのである。だから「必至滅度の願」が真実であるというのは、第一の願を練りに練って出てきた願であるから真実の願であって、「必至滅度の願」のみならば真実とはいえない。第一の願があればこそ「必至滅度の願」が真実といわれ得るのである。そういう点がら申しますと、「必至滅度の願」、「光明無量・寿命無量の願」、第十八願が真実であるのは、四十八願の要所要所の眼にあたるところに、真実という名前をつけておいでになるのであります。だから親鸞聖人の真あり仮ありということは、こちらはまことの本願であちらは方便だから、あってもなくてもよいという意味ではなくして、真実の願は眼であって、その眼を開いてみれば、すべて真実の願、すべて大悲の願である。
第一願 無三悪趣の願

設我得仏国有地獄餓鬼畜生者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国に地獄や餓鬼や畜生のものがいるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に、地獄や畜生(動物界)や、餓鬼の境遇におちいる者や、アスラ(阿修羅)の群れがあるようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、自分の都合の悪いことはすべてまわりのせいにして苦しむ地獄、何を手に入れても満足せずに幻の夢を追い続ける餓鬼、自分の権利だけを主張し、他への思いやりがない畜生などの迷いの姿はない。もしそのような姿が現れるならば誓って私は目覚めたなどとは言えない。

如来にはもともと自分の国土というものはないのである。ただ教化されることになる衆生の類をとりあげて、かれらのことを仏国土と呼んでいるのである。だから仏国土は浄と穢とを通じてあるのである。如来はいかなる者どもに対しても同じように教化を行なうのである。ゆえに浄と穢とに通じてすべて衆生のことを仏国土としているのである。

人類がまだ動物的に、食べては寝、寝ては食べて、その日その日を過ごしていた。それが生きることに疑問を抱き始めて、自分はこれでよいのか、何のために生きているのであろうか、自分とは何だろうか、人生とは何だろうかと、心の眼を輝かしながら、山に問い川に問い、ある時は星に語りかけ、ある時は花の声に耳をすましている中に、次第に心の眼が開けて、ついにそうだ、人間の求める最後のものはこれだと、自己の魂の根源から動かしている深い願いを発見した。それは一人ひとりが人間として成就し、この煩悩濁世の世を浄めて、りっぱな社会を造る外には、人間の救いはないとさとって、その道として四十八願を見出だし、自己を成就し浄土を造った。その歴史の底を貫いて、人間の魂の根源から動かしている、根源的主体を法蔵菩薩とといているのです。(中略)
法蔵菩薩という名は、宿業に宿った仏とか、また宿業を背負うた仏という意味で、地蔵菩薩も同じことです。ここでちょっと解り難いのは、法蔵菩薩とは、一人ひとりに宿った仏のことか、一切衆生を背負うた仏かという問題です。ここでもこの二つの概念が重なっているようです。五十四の光を感得したのは、経験的事実としては一個人であったに違いないのですから。この経典はお釈迦さまが、ご自身の信心の内容を説いておられるのですから、この五十四仏を直接感得したのは、お釈迦さまに違いない。しかし経典はそれを釈迦個人の体験としてではなく、釈迦を超えて、釈迦をして仏たらしめている、より根源的なる阿弥陀仏のこととして説いているのですから、説かれている法からいえば、一切衆生を背負うた、つまり浄土の王としての仏のことですが、説く人に立っていえば、一人ひとりに宿った仏といってもよいでしょう。だから私は法蔵菩薩という名によって現わされているものは、人類を根源から動かしている歴史的精神だと思っています。
これは南無阿弥陀仏という法の有っている二面でしょう。南無阿弥陀仏という名は、南無と阿弥陀仏という二つの概念が一つになっているのですが、南無は、一人ひとりの上に働く仏であり、阿弥陀仏は、一切衆生全体を包んでいる仏のことです。南無の仏は、阿弥陀の仏によって支えられ生かされ、阿弥陀の仏は、南無の仏となって初めて、その徳を現実に現わすことができるのです。(中略)
法蔵菩薩は仏土として取ったこの穢土を浄める行として、四十八願を建てられたのです。さきに「清浄に無量の妙土を荘厳すべし」とあったのは、一人の衆生に一つの国がありますから、数限りない衆生の一つ一つの国をりっぱに成就して行くことです。阿弥陀仏の国は、衆生によって成り立っていますから、その中に住んでいる衆生の生活がりっぱになり、一人ひとりの国がりっぱにならねば、阿弥陀の浄土はりっぱになりません。阿弥陀の浄土は、死後の世界ではありません。皆この世です。経には法蔵菩薩は「我れ世において速かに正覚を成就したい」といっており、親鸞聖人も「法蔵菩薩はシャバの世界の王なり」といっておられます。ただこの世という意味が、私たちの使っているのと違っています。(中略)
一般にいわれている世界は、その人その人の、ものの見方とか、ものの感じ方という、主観的なものですが、私がいう世界は、そこにある客観的な事実です。具体的に申しますと、私が二十二の時、腸出血六回という、重い腸チフスをしたことがあります。その回復期に、私は第一の宗教体験をしたのですが、それから一週間位たって、この世は重々無尽の世界であることをさとりました。
たとえば私を中心とすれば、そこに父があり、兄があり妹がある。父を中心とすれば、世界ががらっと変る。私が母と呼ぶ人は妻となり、私は八男となり、兄も妹も皆息子や娘となる。在り方の関係が変るだけではない。言葉使いから、生活態度から、すべてが変る。十人おれば十の世界があり、千人おれば千の世界がある。私を中心とする私の世界は、私が王で、他の人は皆私の国の住人である。父を中心とする世界は、父が王で、他はすべて父の国の住民である。私の国が清らかであれば、王である私の存在は安らかであり、その行動も無碍である。もし私の国が濁っておれば、私の存在は常におびやかされていて、私の行動は絶えず妨げられ、その道はいばらである。その人の世界が清らかであるか、濁っているかは、その人とその人を取りまく人々との関係によるのであるが、それはその人が、周囲の人の胸にどう映っているかという所に現われている。何とこの世は不思議な世界だなあ。しかし何と厳粛な世界であろうか。ははあ、仏教で一仏一土、一つの国に二仏並び出ずというがこのことか。この世はお釈迦さまの世界で、無勝国土という。このシャバ世界には、仏はお釈迦さまだけであるというが、解釈の間違いである。お釈迦さまを中心とすれば、この世はお釈迦さまの世界であるが、私を中心とすれば、この世は私の世界である。これは責任重大だぞと思いました。病気は奇跡的に治りました。これからの命は貰いものである。粗末にしてはならん。さあどう生きたらよいか。その時から私の求道は地についたものになったのです。私が一人の人には一つの世界があるというのは、そういうことです。この発見があったから、後にこの「修行して仏土を摂取し、清浄に無量の妙土を荘厳すべし」という経が読めたのです。(中略)
我執は自分が可愛いという、自我愛のことです。私たちの生活は、善であれ悪であれ、すべて我執に汚されています。行動はすべて自己中心です。自分は横着に坐りこんでいて、何ものといえども、決して他人は自分の城には入れない、立ち入り禁止。私の家内はこれを不可侵条約と呼んでいます。自分の欠点を指摘されたり、自分の領分が犯されると、忽ち戦闘開始です。一切のことは自分から始める。自分はそのままおいて、自分の都合がよいように、自分の便利がよいように、周囲のものを動かして、自分の思うようにしようとする。周囲のものはすべて道具か、奴隷に見えるんでしょう。思うようになれば可愛がり、思うようにならぬと腹を立て、相手を憎む。たてまえは、世のため人のためと、自分では思っているのでしょうが、本音はわが身のためです。(中略)「我見」は、一つの自分の考えを有って、それに固執することです。一つの主義を有つことが、なぜいけないのか。それは人生そのものは多種多様で、一面だけからはとらえなれないものです。それを一方的に、資本主義とか共産主義とか、個人主義、社会主義と決めるから、無理が出てくるのです。最近では人間主義という考えも出てきましたが、これも我執でしょう。(中略)
畜生は家畜のことです。世間では「鳥やとんぼが畜生だ」と、動物のことを畜生といっていますが、これは誤りです。鳥やとんぼは野生で、自由の生き方をしていますが、家畜は自由を奪われています。馬は口輪をはめられているし、牛は鼻ぐるを通されて、共に畜舎につながれています。生れたままの人間は、本能的に無自覚に生きているので、畜生にたとえたのでしょう。家畜は自由を奪われていても、そのことに気がつかない。まるで世の中とはこんなもんだと、そのことを悲しいとも思わない。その愚かさをたとえたのでしょう。(中略)
地獄は人間悪とか社会悪を象徴的に言い現したものである。その地獄はどうしてできたか。その由って来たる原因は何か。我執と無明である。原因の我執と無明がなくなれば、結果である地獄はおのずからなくなる。その我執と無明を象徴したものが、ガキと畜生である。私はこのことを発見した時、何ともいえぬ喜びと、この「大無量寿経」の著者が、心の眼を開いていることはもちろんですが、いかに勝れた仏教学者であるか、仏教の根本精神を把握していて、その宗眼を以て、それまでの永い仏教の歴史の、原始仏教、大乗仏教の全仏教を完全に消化しマスターして、さらにそれを歴史的現実に立って、再構成、再組織した、何と驚くべき天才であろうかと、思わず感嘆の声をあげました。古人の中に第一願を「五劫の宿欝を晴らす」、法蔵菩薩はこの願を見つけて初めて、五劫の間のもやもやが解けたというのですが、まことそうでしょう。

私たちは、人間に生まれ、人間の世界に住み、人間として生きているということに何の疑問ももっていません。しかし、本当に私たちは人間なのでしょうか。本当に私たちは人間の世界に住んでいるのでしょうか。
急に、おかしなことをいいだしたと思われるかも知れませんが、縁起をとく仏教では、地獄・餓鬼・畜生にしましても、そして人間にしましても不変のもの、固定したものとは考えないのです。それらは生き方によりいつでも変ると考えているのです。
ですから、人間に生れても、鬼のような生き方をすれば、姿は人間のままであっても、その人は間違いなく鬼なのです。普通はそういう場合、「人間が鬼のようなことをしている」といって、人間であるという前提は変らないように思っています。しかし、仏教では「鬼が人間の姿をしているだけのこと」と受けとるのです。
他人を責めつづけるとき、その人は、姿は人間であっても間違いなく鬼であり、自己をかえりみることのないものはすでに地獄の亡者であり、共に人間の世界に住んでいるつもりであっても、本当は地獄に住んでいるのです。(中略)
「如来の願い」が第一の願で、地獄・餓鬼・畜生を問題にしてくださるのは、せっかく人間の姿をしてこの世に生まれながら、人間でなくなっていく私たちを名実ともに本当の人間にしてやりたいということではないでしょうか。

天台の学問なんかでは、十界といいますが、十界は、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人・声聞・縁覚・菩薩・仏でありますが、地獄にも十界あり、餓鬼にも十界あり、したがって人間にもその十界があるということを教えられますから、人間以外にそういうものがあるのでなくして、われわれ人間の中にも地獄もあり餓鬼もあり畜生もあり、天人のような人間以上の幸せな人もあり仏のような人もあり、菩薩のような人もあって、これを十界互具というのですが、阿弥陀如来の御本願は十方衆生ですから犬、畜生にも皆慈悲が及んでおるのですけれども、われわれとしては人間中心、凡夫中心で、悩んでおる私共を助けたいというのが御本願です。

・・・そうしてこの前にも一言申したように、この十一願文を順に見ていきますと、直接出てくるところの願を、しだいに高め純化していくという形になっている。その純化された最後は必至滅度で、涅槃というところまで極まるのであります。しかし必至滅度にいたってふたたび降り返って前の十の本願を見ると、それはすべて第十一願の内容となり、第十一願の功徳を現わすような形になってくるのである。(中略)
この本願が一番先に出てくるということは、すなわち弥陀の本願というものは、地獄・餓鬼・畜生ある国を大悲矜哀して現れたものである、ということを意味するのである。浄土の経にはないことですが、他の経典の中には、法蔵菩薩というお方はもとわれわれと同じこの娑婆世界におられたものだ、ということがいわれているのであります。そういう物語があるということによっても、この地獄・餓鬼・畜生ある国ということは、すなわちわれわれのこの世界でなくてはならないのであります。(中略)
だから瞋恚の炎を燃やす怒りは地獄を作り、欲は餓鬼であり、愚痴は畜生である。三毒の煩悩それ自体ではありません。三毒の煩悩によって構成されているこの世界の相を地獄・餓鬼・畜生と、こういうにちがいないのであります。それゆえこの第一願では、われわれ現実にさまざまに悩み苦しんでいる人間が、大悲の本願のほんとうの出発点であるということを、まず第一に知るのであります。
第二願 不更悪趣の願
設我得仏国中人天寿終之後復更三悪道者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、寿終りてののちに、また三悪道に更らば、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が命を終えた後、ふたたび地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもの中で、さらにそこから死没して地獄に堕ちる者や、畜生(動物界)に生まれる者や、餓鬼の境遇に陥る者や、アスラの群れとなる者があるようであったら、その間は、わたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた世界では、人びとがその一生を終えて、あの人は地獄、餓鬼、畜生などの迷いの世界へ行く人だなどと言われる姿はない。もしそのような姿が現れるならば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

住んでいる環境は「五濁悪世」であり、人間は我執にあやつられ、無明におおわれている。迷いの衆生である。この悪循環をどうして断ち切ることができるか。そこに住んでいる一人ひとりの人間が目覚める外に、この地獄から抜け出る道はない。そこで「国中人天」への呼びかけが始まったのです。個人の責任まことに重大です。吹けば飛ぶような、この私たち一人ひとりのことを言っているのですよ。それで私はこの願を「個人発見の願」と呼んでいます。
「寿終わって後」というのは、浄土の人天が、浄土の命が終わって、この世に生まれた時ということです。しかしこれも前に申しましたように、中世の人たちが考えたような、死んで魂が浄土へ生まれて、一晩泊まりでまたこの世に戻って来るという、おとぎ話ではありません。このことは、さっきの三世間の話を憶い出して頂けばよいのですが、別の言葉でいえば浄土はさとりの世界、如来世間のことですから、私たちからいえば三昧の世界と思えばいいでしょう。ただし三昧といっても、冥想のことではありませんよ。心の眼が開けた、そこに見えてくる世界のことです。お釈迦さまが「奇なるかな奇なるかな、我れ心の眼を開けば、山川草木悉くすでに成仏し、一切の衆生は皆仏性を有っていた」といわれた。そういう世界だと思っておって下さい。迷いの世界とは、この眼を開けた現実の五濁悪世のことです。お経の中によく「閉目開目」という言葉が出てくるでしょう。(中略)この姿は仏は、三昧の世界の浄土を見る閉じた目と、現実の迷いの世界を見る開いた目の、二つの眼を併せ有っていることを象徴しているのです。ですから、浄土の「寿終って後」というのは、目を閉じた三昧の世界から立って、目を開いた現実の生活に戻った時ということです。もっと解りやすくいえば、仏壇の前に坐っていたものが、茶の間へ来た時ということです。(中略)
どんなに社会の改造を叫んでも、どんなに相手を育てようとしても、自分の手が我執と無明に汚れていたのでは、絶対にそれは不可能です。かえって事態を深刻にするだけのことでしょう。そこで「地獄・ガキ・畜生の満ちみちているこの世」を浄めるためには、どうしても「地獄・ガキ・畜生のない」浄土に生まれて自らを浄め、浄土の徳を身につけた人でなければ、できぬことです。それがためにはまず何よりも、「朱に交わっても赤くならん」人間にならねばならんでしょう。それが第二願の意です。

私はどうだろうか。わかったような顔をし、わかったようなことを話していながら、常に鬼に、亡者に逆もどりし、また餓鬼に畜生に逆もどりしながら、それを環境のせいにし、他人のせいにして、何とかかんとか自分を正当化しながら日を送っています。
「悪性さらにやめがたい」私の底の底まで見抜いてくださった阿弥陀如来だからこそ、第一の願に重ねて、第二の願を誓い、念を入れてくださったのです。
また、逆もどりしないという誓いにおいて、阿弥陀如来の救いが、一時しのぎの救いでなく、永遠の救いであるということをお示しくださったのです。私は、そのことをなによりもありがたく頂くのです。

不退転に住するということも死んでからのことではない、と本願をいただかれたのが、親鸞聖人の見方である。というところから見ますと、この十願の中に、国中人天とおっしゃることが、死んでから如来の国に生れてからの話ではなくして、此の世のことであり、信心の上のことであるということを推し測ることが十分できるわけであります。死んでから極楽へまいって、寿が終って三悪道へ更わるということはないと味わって喜んでおってもよいけれども、本当は信心の人ということでありまして、国の中の人天、これは後に国中声聞、国中菩薩という言葉も出ますけれども、それは此の世で言うておる、人間、天人、声聞、菩薩という言葉になぞらえてお使いになった御文であると見られたものであります。それは曇鸞大師以後、そういうことがはっきり言って下さっておるのです。

なるほどわれわれは一遍浄土に生れたら命にかぎりがないからして、いつまでも浄土にあるということは、願わしいことにはちがいないけれども、しかしそれよりもその浄土の命が終っても、永遠に道を求めて仏になるまで三悪道に更らない。たとい浄土の命が終ってよそへ行っても、三悪道に更らないという、それだけの力をその浄土がもっているとすれば、そこに浄土というものの非常な価値があるのではないでしょうか。(中略)この浄土へ一度足を入れた以上は、どんなことがあっても、どんな世界へ入っても、われわれはもはや三悪道へ更ることはないのだということによって、かえってそこに力強い浄土の徳というものが現れていると思うのであります。それでなければ、浄土はたとい三悪道なしということを誓われても、また悪趣に更るということがあるならば、一時の休憩所であって、永遠に価値をもった世界ということはできないのであります。
第三願 悉皆金色の願
設我得仏国中人天不悉真金色者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、ことごとく真金色ならずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々がすべて金色に輝く身となるということがないようならわたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしもかのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが、すべて一色、すなわち金色でないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた世界では、人びとはすべて光り輝いている、もしそういう姿に見えなければ誓って私は目覚めたなどとは言えない。

第一願と第二願が一対になっていましたが、この第三願と第四願も一対になっています。(中略)
この二つの願が発こされた事情について、昔の人は、この経が説かれたのがインドであったから、こういう願いが設けられたのである。インドは白色人種や黒色人種、それに黄色人種が入り混じっていて、いつも人種差別の争いが絶えなかった。そこで人種が一つであったらという願いが、当然おこる。(中略)
発生動機はそうであったかも知れません。しかし動機には必ず事情と同時に理由というものがあります。そういう見方は、表面的な事情であって、常識的な世界に生きている政治家の考えることでしょう。少なくとも仏教的ではありません。(中略)
仏の身はすべて金色と説かれています。金は仏教ではいつも真心を象徴する色ですから、仏は「まことのかたまり」ということを現わしているのでしょう。そう思うて見れば、ここにも「真金色」といっています。法蔵菩薩が世自在王仏の説法を聞いた、その感動の第一声は「光顔巍々として威神極まりなし」ということでした。この「光顔巍々」として、全身が喜びに輝いている姿を「真金色」と表現したのではないでしょうか。西洋の哲学者が、仏教の精神を「不断の智的快活」と訳しているそうですが、この「不断の智的快活」の人格こそ、まさに真金色の姿ではありませんか。

私は「思いうちにあれば、色そとにあらわれる」という言葉もありますように、内面に「よろこび」がないから、顔が暗くなるのではないかと思います。
ある先生は、「現代はたのしみのみあり、よろこびのない時代である」といわれています。私もその通りだと思います。主体的、自主的、個性的等の生き方を願いながら、管理社会、情報社会、消費社会等といわれる社会の中で、しめつけられ、追いかけられ、流されながら苦悩しているのが現代の私たちではないでしょうか。思いに反してしか生きられない現代の私たちの苦悩が、朝夕の暗い顔となっているのではないでしょうか。(中略)
「生れてきてよかったのか」と言わずにおれないほど悲しいことはありません。
「「生れてきてよかった」と、顔が輝やき、身が輝やく生き方、そんな生き方をさせてやりたい」というところに、第三の願に誓われる「如来の願い」があるのです。
この願いを聞くとき、私たちは、この現実を改めようという行動になるのです。そのことを親鸞聖人は「世を厭ふしるし」という言葉であきらかにしてくださいます。(中略)
念仏者であると自認しながら、差別を平気で許しているようなら、その人は、にせ念仏者であり、「如来の願い」を全く聞いていない人といわなければなりません。

悉皆金色の願成就は、上巻に、阿難、かの仏国に、もろもろの往生するものは、かくのごときの清浄色身、諸妙音声、神通功徳を具足す
とありまして、必ずしも金の色ということは書いてないのです。その国に往生し、その国の者となったものは、清浄の色身、清らかな非常に美しい身となる。声もきれいだ、そして神通ですから心のはたらき、功徳をちゃんと身に具えるようになっておるということが、悉皆金色の願の御成就の御文になっておりますから、必ずしも黄い金色ということではないことは、これでもわかるのです。唯清らかに感ずる、喋っておってもその声も美しく感ずる、その人の心の動きというものも非常に立派になる。そういう功徳をいただくようになることが、これが金色の願の成就した有様であると釈尊が解釈をしておられるのであります。

始めの二つの願いによって、国土の禍が除かれたのであります。三悪道ということはくどいようでありますが、いろいろの状態でたがいに害し合う浅ましいところであります。そういう擾乱、禍が除かれたのでありますから、今度はそれにかわるべき幸福が与えられるのであります。
第四願 無有好醜の願
設我得仏国中人天形色不同有好醜者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、形色不同にして、好醜あらば、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の姿かたちがまちまちで、美醜があるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。かのわたくしの仏国土において、ただ世俗の言いならわしで神々とか人間とかいう名称で呼んで仮に表示する場合を除いて、もしも神々たちと人間たちとを区別するようなことがあるならば、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、どんな境遇の人も同じようにキラキラ輝いている。もし美しい、醜いの違いがあるようでは、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

この第三と第四の願は、浄土に生まれたものの、果と報を現しているのではないかと思います。果は共通の報いのことですが、報は個別的な報いのことです。たとえば私とあなた方とは、人間という共通の報いを受けています。これを果というのです。しかし一人ひとり、顔も違えば性格も違います。それを報というのです。浄土に生まれれば、皆一様に心の眼が開け、真実の自己が誕生して、生きる喜びは全身に輝くようになる。それが第三願ですが、第四願は、浄土に生まれた人は、皆同じになって、弥陀も菩薩も、男も女も見分けがつかなくなるのではなく、その人その人の個性の美しさに輝くようになるということでしょう。

どうにかなることならば、本人の責任ですが、どうにもならないことで悩み、苦しまなければならないことほど悲しいことはありません。
姿形・美醜に悩む人に「心のもちようですよ」とつっぱねるのではなく、その人の悲しみを悲しみとしてくださる大悲の方が阿弥陀如来であります。それ故に、わざわざ第四の願において「姿形がまちまちで、美醜のちがいがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません」と誓ってくださったのです。

「教行信証」にも出て来ます。往生してどんな身の上になるのだ、といえば、虚無の身無極の体になるのだ、とおっしゃることですが、涅槃といっておきましょうか。醜い見よいというものがなくなって、みんな同様に涅槃から出た人、本当に涅槃から現われておるものであるというならば、長かろうが短かろうが、円かろうが四角かろうが、みんな立派であって好醜というものはないはずであります。長いなり短いなり皆立派である。(中略)
これは死んでから、極楽に行ったらしてやるというように話されておりますけれども、親鸞聖人がじっとお味わいになると、それは信ずるということによって、如来の光明の国に生れる身の上になれば、そういう功徳をいただかせていただくことになるのだ、とお喜びになるのであります。

人天は人民である。「形色不同にして好醜あらば」ということは、形の上や相好の上において、好しあしがないというのでありますが、それをさらに内容から申しますと、みな天人のような立派な相好をそなえていなければ正覚を取らない、こういうのであります。(中略)
ここは禍は除かれ幸せを与えられたのであります。しかしその幸福はまだ外的なものである。まず外的なものを与えて、だんだん内面的幸福へと入っていくのである。それがそのつぎの宿命通から漏尽通までのいわゆる六神通であります。
第五願 令識宿命の願
設我得仏国中人天不識宿命下至不知百千億那由他諸劫事者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、宿命を識らずして、下、百千億那由他の諸劫の事を知らざるに至らば、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が宿命通を得ず、限りない過去のことまで知り尽くすことができないようなら、私は決してさとりをひらきません。

世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、少なくとも百千億・百万劫の過去の生涯を思い出すほどの前世の記憶(宿命通)がないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた世界では、人びとがこの世に生まれた意味を知らず、自分の歩むべき方向がわからないなどということはない。もしそのような姿が現れれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

仏教でいう「宿命」とは、前世があるかないか、そういうこととは一切関係なしに、頭で考えるのではない。まごころの智慧をもって、現在只今の事実をさとるのです。あきらめるのではない。引き受けるのです。(中略)今までの一切は、今の自分を産み出す用意であった。これからどう生きるかと、明るい自由な立場に立って、新たに自分の運命を切り開いてゆく、前向きの態度のことをいうのです。(中略)
私たちは三世ということを聞きなれていまして、過去と現在と未来と、三つの世界があるということが、常識になっていますが、仏教ではそういう考えは、正しい世界観ではないというのです。たとえば「時に別体なし。法に依って立つ」といって、時というものが別にあるのではない。有るのは現にそこに在る「もの」だけである。ものの過ぎてきた足跡を過去といい、これから行こうとする前途を未来というのであるというのです。(中略)
今というものは、無限の過去と無限の未来をはらんでいるものです。現在というものの構造を分析して、過去から形成された面と、これから将来へと展開してゆく、二面性を有つものであるということをいっているのです。過去的なものとは、現に今そうなっているという事実をいったものです。(中略)
ひとりの人の一挙手一投足が、全世界を動かすとか、三千大千世界が、わずか芥子粒の中に宿っているといっています。個々の人の言動によって社会は創られ、社会の土壌によって個人は造られるのです。阿弥陀仏の印が、右手の指は、母指と人さし指で、円を造り、あとの三指を立てています。これは自分と相手と国を現わしていると思われるのですが、浄土教は常にこの三つを問題にしています。この願は「宿命を識る」とは、たんに自分一人の宿命だけでなく、相手の宿命と、さらに自己が置かれているわが家とか、わが故郷とか、わが国とか、世界全体の宿命が識られるように、ということだと思われます。(中略)
もう一つ。六神通の順序ですが、普通ではこの宿命願は後ろの方へ並べられているのですが、この経では、それが六神通の最初に出されていることです。このことがいかに大事なことか。これはこの経を一貫してる「宗眼」の一つの現われだと思っていますが、これは何をするにしても、まず足元をしっかり固めなければならんということでしょう。

自分の過去があらいざらい知られたら、自分自身から逃げようという卑屈な根性もなくなるでしょうし、また、うぬぼれるというような高慢さもなくなるでしょうし、自意識に閉じこもるような窮屈さもなくなるでしょう。そして、そこに本当のやすらぎが与えられるでしょう。
ではどのようにして私を、過去を知る身にしてくださるのでしょうか。それは、阿弥陀如来の本願を聞くことによって開けてくる信心の智慧によってあきらかにしてくださるのです。(中略)
ややもすると、とりかえしのつかない過去にしばられ、後悔し、苦しみ悩む私たちです。しかし、過去はもうやり直しがききません。その意味では、私たちは過去から逃げることができません。その過去から逃げ回っていてはいつまでたっても苦悩の解決はつきません。過去から救われる道はただ一つです。自分の過去を明らかに知り、反省すべきは反省し、どうにもならないことはどうにもならないと如来におまかせすることです。私たちは、如来におまかせすることによって、はじめて過去から本当に自由になるのです。(中略)
過去にしばられやすい私たちのあり方を見抜いて、「かぎりない過去世のことまで、自在に知りつくすことができぬようなら、わたしは決してさとりを開きません」と、阿弥陀如来は第五の願を誓っておってくださるのです。

まずこの成就の文と申しますところのお経の下巻に、釈尊が示されておるのを見ますと、
神通自在にしてつねに宿命をさとる。他方の五濁悪世に生じて、示現してかれに同ずること、わがくにのごとくなるをばのぞく
これだけの御文が宿命通という願の成就しておる有様を知らして下さっておるのだと、こういうように申されておるのであります。即ち彼の国に生まれた菩薩は、心の働きの勝れた、神通自在になって、常に昔の生活というものをああだった、こうだったとはっきりと識らしめよう。そのあとがちょっとわかりにくいようです。けれども、その菩薩が五濁悪世に生れて、そうして悪世の人間と同じようなことをして、その人間を救うためにいっしょに暮して如来の国のようにしようと、こういうことでそういうところに出張しているのは除外例である。即ち自分の自然のなりゆきでないところの、すなわち人を救うために、その生活が変った生活になっておる場合、それは除外例である。自分の本来持っている性質なり行いの結果、経てきたその生活は一切知られるようになる。これが宿命通の御成就の御文になっておるのであります。(中略)
本当に分かって来るのは、信心を喜ぶようになり、本願に帰命するようになってからでありまして、いよいよそれをわからしてもらうというのは、これは信心の人のいただく一つの通力でありまして、これを宿命通というのであります。それは仏からいただくのだから無限である。

宿命とは過去世のことを知るということであります。つまり自分の生の約束を知るということであろうと思います。自分が今日こういうふうになってきているいわれを知るのである。われわれのさまざまな煩悩はどこからくるかといえば、自分の本当の生の約束を知らないところからくる。しかるべき因があってしかるべき果が生じてこうなったのである。(中略)
われわれはただ、自分はこういう目に遭うわけはない、と目の前のことで考えるから、煩悩が起こるのであります。こういうふうにならなければならないいわれがあってこうなったのである、と、内感することができるようになれば、われわれは煩悩を除くことができるのであります。
第六願 令得天眼の願

設我得仏国中人天不得天眼下至不見百千億那由他諸仏国者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、天眼を得ずして、下、百千億那由他の諸仏の国を見ざるに至らば、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が天眼通を得ず、限りない仏がたの国々を見とおすことができないようなら、私は決してさとりをひらきません。

世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、少なくとも百千億・百万の諸世界を見るだけの超人的な透視力(天眼通)を持っていないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、人びとがこの世の幸不幸の向こう側に広がる世界が見えず、永遠に見せかけの世界に止まるようであったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

「百千億ナユタ」は、全ての人間の数ですが、「諸仏」とは、一人ひとりに宿っている仏のことです。大乗仏教では「一切衆生は悉く仏性を有っている」といっていますが、浄土教では、仏性といわずに、仏が宿っているといって、その一人ひとりに宿っている仏のことを諸仏というのです。「華厳経」には、衆生と同じ数ほど諸仏があると説いています。今日の言葉でいえば、相手を人間とし、人格として見ることといえばよいでしょうか。「百千億ナユタの諸仏の国が見える」とは、どの人の上にも仏を見出だし、どんな人をも尊敬して、どの人の世界をも理解することができるようにということでしょう。相手を軽蔑し相手を気嫌いしていたのでは、相手の世界が見え、相手の世界が理解できるはずがありません。(中略)
頭が下がったその眼で、向こうを見れば、十劫の昔から仏は自分に宿っていたと同じように、どの人の上にも、拝まずにおれぬ尊い仏が見えてくる。そこを「観無量寿経」には「無量寿仏を見るものは、十方の諸仏を見る」と説かれています。相手を尊敬すれば、また相手から尊敬される。相手を理解することによって、自己が成長し、自分の世界が広くなります。「諸仏の国を見る」のは、相手を知ることによって、自分が育つためです。「自利利他円満の菩薩道」が、そこから開けるのです。心の眼が開けたら、それで卒業ではありません。新たな求道がそこから始まるのです。「阿弥陀経」には、それを「これより西方、十万億の仏土を過ぎて」と説いています。「過ぎる」とは、素通りではありません。出会う人を敬い拝み、出会う人毎から教えを受け、お育てに預かってゆくことです。しかしそれはたんに人間だけではありません。山を見ても川を見ても、鳥の鳴き声、雨の音を聞いても、日々降りかかって来る一つ一つの出来事の上に、仏の姿を見、仏の声を聞いて、人生を学び、自己を知って、自分の道を見出だしてゆくのです。

私たちは先入観や固定概念、いわゆる「思いこんだら生命がけ」という言葉もありますように、「思いこみ」が非常に強い生きものです。ですから、いろいろなものをみても、それらをなんの「思いこみ」もなく自由に見ることは、なかなか難しいことです。
自からの「思い」を通してすべてのものを見ますから、何を見ても結局自分の「思い」から一歩も出ていません。
私たちは自からの「思い」にしばられて、本当に見ることのない日々を送っているのです。
如来が第六の願で誓ってくださる「天眼通」とは、すべてのものを自からの「思い」にしばられずに自由に見る、本当に見ることのできる能力であります。
(中略)
ややもすると、自分の小さな「思い」にしばられて、だんだん視野を狭くしていく私たちの為に、如来は「天眼通」を誓ってくださるのです。
阿弥陀如来をよりどころに生きる信心において、無用の力みやきばりはなくなりますし、小さな「思い」にしばられることもなくなります。信心によって「天眼通」はあたえられるのです。

どこのどういう国でも見えるようになる。天眼というものを得させねばおかないとあるのです。そんなになれたら千里眼のようで、はなはだ便利でしょう。けれどもその眼玉のことを言っておられるのではなしに、心の眼玉のことを言っておられるのだ、ということを知っておかねばなりません。願成就の文は、下巻にありますが、仏の国の菩薩方になるというと禅定を修して通力を得られるようになる、ということが書かれてあるところに、
肉眼清徹にして分了せざることなし。天眼通達して無量無限なり。法眼観察して諸道を究竟し、慧眼真を見てよく彼岸に度す。仏眼具足して法性を覚了す。
とある。これだけが願成就の御文であると、こう示されておるのであります。肉眼、天眼、法眼、慧眼、仏眼、これを仏の五眼というのである。五眼円かにしてということがありますが、仏のみならず、仏の国に生まれた者もそうであります。往生即成仏でありまして、仏になったら五眼円かになる、それは理屈として申すまでもないことであります。極楽へ行って仏と同じ覚証悟を開かしてもらえば五眼円かになる。有難いことだと言っておれば矛盾はないのですが、それは、そんなことはなかろう、と言って見ても、あるかも知れないし、あると言って見ても、ないかも知れないのです。証明者は誰もないのですから。そういうことではなくして、仏、菩薩が持たれるところの五眼が円かであるということは、信心の人は、此の世におる間からそういう幸せを得さしめてやろう、糸口だけでも得させてやって、遂には完全にそういうことができるようにならしめよう、ということを喜ばしていただくわけであります。だから、国中人天ということが死んでからのことである、と言っておる人もあるけれども、そういうことではないということを知らして下された親鸞聖人の思召しは非常に有難いことであると思うのです。経典は、一応はわれわれの知ることのできないものであって、彼の国に至って得ることだ、というように書いてありますが、それは信心も何もない人に教えるには、そういうより仕様がありませんが、実は信心の人にこういう幸せを得させたいということが、御本願のお心である、ということを知るべきであると思うのです。

・・・ここでは天眼通とは「諸仏の国を見る」ことになっています。しかれば広く知識を求め自覚を深めることも天眼通でありましょう。われわれがお経を読みお聖教を読み、学問するのは何のためにするかというと、自分の出離生死の要求、自分がほんとうに救われていきたいという願いを訓練するためである。その願いははじめは不純なものでありますから、それを教えによって訓練してもらわねばならない。だから教えによって訓練され、ほんとうにその願いが純粋なものになれば、そこでわれわれは救われるのであります。
そういうふうに見ていきますと、天眼通というのは人間の知識の満足でありましょう。天眼ということは、つまり肉の眼で見えないものを見るのであります。今日の科学とか哲学とかいうものは、肉の眼で見えないものを見るのであります。すなわち諸仏の国を見るのである。科学には科学の仏あり、哲学には哲学の仏あり、それぞれのものにはみな仏がある。それぞれに智慧の天眼を開いて、そうしてどこまでも知識の要求を満たすのであります。
第七願 天耳遙聞の願
設我得仏国中人天不得天耳下至聞百千億那由他諸仏所説不悉受持者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、天耳を得ずして、下、百千億那由他の諸仏の説くところを聞きて、ことごとく受持せざるに至らば、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が天耳通を得ず、数限りない仏がたの説法を聞きとり、すべて記憶することができないようなら、私は決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、少なくとも百千億・百万の諸々の仏国土からでも同時に正しいい理法を聞くだけの超人的な聴覚(天耳通)を持っていないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、人びとが見せかけの言葉の快不快にとらわれて、目覚めた人の言葉が聞こえてこないなどということはない。もしそのようなことがあれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

「悉く受持する」とは、相手の本心の無言の訴えが聞こえるだけでなく、それを心に刻んで、「法を聞いて能く忘れず」、いつも心に憶念して、身に受けて、いつかは、実行できるようになることです。その時は憶えていても、「のど元過ぎれば、熱さを忘れ」たでは困ります。相手の本心といっても、それは個人的なわがままの心ではありませんよ。だだをこねているその心の奥にある、本心の無言の訴えが聞こえることです。それはもちろん自分の中に、宿業の自分と、宿業を背負うている諸仏といわれる自分が、生まれていなければ、天眼も天耳も開けません。(中略)
「百千億ナユタの諸仏の説く所」が聞こえる耳です。それは個人を超えた全人類の深い魂の訴えが聞こえる耳でしょう。それは唯だ世界史を背負うた人生創造の菩薩にして初めて聞こえる声です。

結局、私たちは疑いによって心を閉じ、耳を塞いでいるのです。即ち、疑いによって闇の世界に住むのです。
しかし、長く闇の世界に住んでいると、自分が闇の世界にいることがわからなくなり、どうせこの世は食うか食われるか、騙すか騙されるしかない世界だと割り切り、その中で一喜一憂しながら疲れ果てて淋しく生命終っていくのです。
どうしたら闇の世界からでることができるかということが、闇の世界に住むものの一番大事な課題、即ち一大事なのです。(中略)
では、どうすれば疑いが晴れるでしょうか。疑いようのない真実に遇わない限り、疑いは晴れません。どんなことがあっても裏切ることも、あざむくこともない真実に遇う以外、疑いの晴れる道はありません。(中略)
今まで、私たちは自分をとりまく人々が諸仏であるなどと思ったことはありません。諸仏と思うどころか、皆敵だと思って、油断はできない、気は許せない、とかたくなって生きてきました。そうでなかったのです。わたしをとりまく一切が諸仏であったのです。やさしい諸仏も、厳しい諸仏も、あたたかく見護ってくださる諸仏も、重い試練をあたえてくださる諸仏もいてくださいます。

自然の妙声、その所応にしたがひて、きこえざるものなし。あるひは仏声をきき、あるひは法声をきき、あるいは僧声をきく。あるひは寂静のこゑ、空無我のこゑ、大慈悲のこゑ、波羅蜜のこゑ、あるいは十力・無畏・不共法のこゑ、諸通慧のこゑ、無所作のこゑ、不起滅のこゑ、無生忍のこゑ、乃至、甘露潅頂、もろもろの妙法のこゑ、かくのごときらのこゑ、その所聞にかなひて。
そこまでが願成就の文で、あとには、歓喜無量なり。
と書いてあります。そういう願成就の文のお指図からこの願文をいただくというと、国中人天は天耳智通を得る、勝れたる耳に関する心の通力を得る。(中略)
例えば水の声でも風の声でも又人の声でも、いろいろの境遇からでも、いろいろ尊い法を聞く力をいただくということになるのであります。この成就の文から見ますと、「自然の妙声、その所応にしたがひて、きこえざるものなし」国中の人天は、皆水のみならず風のみならずそのいろいろのものから尊い仏の声を聞き、法の声を聞き、僧の声を聞き、三宝の声を聞く。仏法者の喜びというものはそういうものだろうと思うのです。(中略)
法を聞いてわかるようになるからして、すべてのところから涅槃寂静の声が聞こえて来る。あるいは空無我、世界は空であり、無我であるという声が聞こえるようになったり、あるいは水の声を聞き、人の声を聞き、風の声を聞いておるところに、仏の大慈悲の声が聞こえて来たり、布施・持戒・忍辱・精進。禅定・智慧という六波羅蜜の声が来たりするのです。あるいは仏の十力、無畏というようなこと、不共法というような尊い法の声が聞こえて来る。(中略)
「かくのごときらのこゑ、その所聞にかなひて。歓喜無量なり」聞けば聞くほどそうなれるのが信心の徳、それは自分がえらいのでなしに、願力の徳として此の世におる間から、風なり水なり人の声なり、いろいろの境遇の者からいろいろの声がして、それを仏の声を聞かしてもらえ、味わわせて貰えるような幸せをいただくようにしてやらねばおかん。こういうことであるということに味わわせていただいておるのであります。

ここではとくに「諸仏の所説を聞いて、悉く受持せざるに」とありますから天耳通はとくに聞法せしめんとの願と申すべきでしょうか。これをもって推すに、六神通の願は六神通をすべて仏法の智慧を増進することのために誓われてあるもののようであります。これは別して意をとどめるべきことでなければなりません。
第八願 他心悉知の願
設我得仏国中人天不得見他心智下至不知百千億那由他諸仏国中衆生心念者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、他心を見る智を得ずして、下、百千億那由他の諸仏国中の衆生の心念を知らざるに至らば、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が他心通を得ず、数限りない仏がたの国々の人の心を知り尽くすことができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、少なくとも百千億・百万の諸々の仏国土に属する生ける者どもの心の動きをすっかり知る超人的な読心力(他心通通)を持っていないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、人びとがまわりの人びとの本心がわからず、いつも誤解し偏見に苦しむなどということはない。もしそのようなことがあれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

たとい本人は自覚はなくても、心の中で、自分の欠点に気がついて、何とかして直したいと、心で泣いておりながら、身についた悪いくせがなかなか直らない。そういう我とわが根性を持て余して、泣いている相手の心が解るということだろうと思います。(中略)
これも単に特定の人のことではなく、「百千億ナユタ」ですから、どんな人でも、人間としてこの地上に生を受けている限りは、表を見れば幸せげに見える人でも、その人の身になり、その人の肩を叩いて見れば、「唯聞こえるものは、愁歎の声のみ」で、皆んな一荷に背負いきれぬ苦しみ悩みを有っておらん人は、一人もありません。あの人はよいことよ、この人は幸せよと、人をうらやんでいた心が、他心智が開けて来れば、その心がひとりでにとれて、私もこのまんま生きて行きましょうと、素直な心が出て来ます。一人ひとりの上において、一切の人の心の底を流れている、人間としての悩み、人間としての共通のまごころの願いが知れて来るということだろうと思います。

自分の思いだけを相手に押し付けて、他の人を正しく理解しようともしなかった私が、こんな悲しい自分に少しずつ気付きはじめたのは、如来のみ教えを聞きはじめてからのことであります。
自からの悲しみが本当に明らかになった人だけが、他の人の悲しみを受けとることができるのです。
他の人の心がわかるということは、自からの心がわからない人には不可能なことです。
如来が、他心通、即ち他の人の心が理解できる能力を与えてやろうと誓ってくださるのも、ただ超能力のようなものを与えて、他の気持ちが手にとるようにわかるようにしてやろうということではないのです。
自らの悲しみを知って、他の人の悲しみのわかるような人間にしてやろうということであります。自からを知ることなしに、他の人の心だけがわかるということは恐ろしいことです。そんな恐ろしい能力を与えようというのではありません。
「あなたも悲しみを背負って、一生懸命生きておられるのですね。私もそうなんです。」と、まわりの人と手をとりあって生きる人にしてやろう。誰も自分を理解してくれない、とまわりの人に当り散らし、皆んなつまらない人間ばかりだとまわりの人を責めながら生きる人にだけはなってほしくない。
こういうところに、第八の願で他心通を誓われる阿弥陀如来のお心があるのではないでしょうか。(中略)
小さな自分の殻に閉じこもっているから、自からもわからなくなり、他もわからなくなるのです。如来の本願に遇って、この小さな殻が破られる時、自からが明らかになり、数限りない世界の人の心がわかるのです。すべての人が御同朋であったとわかるのです。

人の心がわかればこそ、その人に適当な行いの話をして、その人を救うというようなことでもできるのでありますし、それがわからないものだから、私らはいつでも失敗ばかりして、わからんわからんと言っておるのです。それはおかしなことであって、段々わかってくればそういう利他の方面も便利になるのです。それも一つの味わいですが、これがまた願成就の御文は、下巻に、「大経」の流通分として、釈尊が弥勒菩薩に言われる言葉がありますが、初めの方は仏が御説法の終わりに臨んで、弥勒菩薩にお話なさる。初めには三難というものをお話になり、第二番目には四難というものをお話になる。
仏、弥勒にかたりたまはく、如来の興世まうあひがたく、みたてまつることかたし。諸仏の経道、えがたくききがたし。菩薩の勝法・諸波羅蜜、きくことをうることまたかたし。善知識にあひ、法をきき、よく行ずること、これまたかたしとす。もしこの経をききて信楽受持すること、難のなかの難、これにすぎたる難はなし。
これを昔から三難四難というのであります。弥勒におっしゃるのには、難であるから喜べよということなんですな。難いということは有難いとか喜べということに心得てよいと昔の人が言われますが、難しい難いことが得られたらそれこそ喜ばねばなりません。有難いというのは有難いことなんだ、あり得べからざるというか、ありにくいことがあったのだからして、喜べ、喜ばなければならん、「たまたま行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」(「教行信証」総序)と申されます。難中之難無過此難のこの法を得さしてもらったということは慶びにたえないことです。(中略)
この他心通という願をお立て下さったのは、よくよく考えるというと、自分が善知識に遇うて法を聞いて能く行ずるということができるようになるのが、他心通を得たというのであるということです。善知識が何ぼ自分のために一生懸命に話をして下さっても、その善知識の心がどうもわからない、法を聞いてもどうも行ずる気になれない。行ずるというのは真宗で言えば信心の上から念仏を申すということです。けれども昔から、そうでなしに、禅宗とか天台とか真言とかいうような自力の教えで仏法の話をして下さるという、そういう一般的な意味だといわれますが、本当の話をして下さっても、その人の心が得られないものです。だからしてその教えの如く行ずるということがどうしてもできない。その人の心をいただいて、そうして行ずるようになれるということはなかなか難しいことだからして、そういうことがわかるように、その教えて下さるお方が話がわかるようにさせてやりたいというのが、他心通という本願の真義であります。ただ人の心がわかって、どんな国の人の心も皆わかるということも否定しないでしょうが、それを押し詰めていけば、善知識に遇うて法を聞いて行ずるということが難しいのだが、なるほどと、わかるようにさせて下さるのであって、難を難とせずにできるようにさせて下さるということが、お誓いの願力というものだと、こういう具合に味わわれてく来るのであります。私は真宗の味わいから行きますと、能く行ずるというのは、自力聖道門の人の行ずるということでなしに、念仏を申すということではないのか、と思うのです。

これはわれわれ社会の機微に徹するということではないでしょうか。(中略)
われわれの感情をどこまでも高めていくものが天耳通である。そうして、また他人の心を知るということは、我と人との交渉をどうしたらよいかというような、道徳的要求を満たすものである。
第九願 神足如意の願
設我得仏国中人天不得神足於一念頃下至不能超過百千億那由他諸仏国者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、神足を得ずして、一念のあひだにおいて、下、百千億那由他の諸仏の国を超過することあたはざるに至らば、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が神足通を得ず、またたく間に数限りない仏がたの国々を飛びめぐることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、たとえ心のほんの一刹那の中にでも、百千億・百万の仏国土を飛び越えて行く(神足通)ということによってでも神通自在の最高の完成に達しないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、人びとが住む境遇をえらんで、都合の良い場所にしか住まないなどということはない。もしそういうことがあれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

成就文には「一食の間に、十方の無量の世界に至って、諸仏世尊を恭敬し供養する」といい、「阿弥陀経」には「食時を以て、他方の十万億の仏を供養する」とありますから、諸仏を供養するための足のようです。・・・天親菩薩は「一念に遍く至る」。それも「動かずして至る」と、ご自分の領解を述べておられます。ですからこれは、体が実際に行くのではなく、心に一切の諸仏を念ずることでしょう。大体「神通」ということが、精神が通う、まごころが通ずることをいうのですが、「神通応化」といわれているように、相手の身になる、相手と一つになる、西田幾太郎博士のいわれる「ものになりきる」ことですから、ここでは相手の身になって、相手と自分が一つになり、そして相手を超え、自分を超え、相手と自分を大きく包み込んで立ち上がって行く、そういう足のことでしょう。(中略)
仏教では相手の人格を無視することを「殺生」といいますが、地獄行きと極楽行きの分かれ道は、殺生すれば地獄行き、供養すれば極楽へ行くといわれています。「百千億ナユタの諸仏を供養する」とは、私たちが平生使っている言葉でいえば、「ご先祖さま、私のすることを見ておって下さい」ということでしょう。(中略)
「阿弥陀経」には「これより西方、十万億の仏土を過ぎて」弥陀の浄土があると説いています。これは十万億の一つ一つの仏を供養し、それによって一一の仏からお育てに預かってゆくことですから、ここでも「百千万億ナユタの諸仏の国」を過ぎて、諸仏を供養し、相手から自分も教えられてゆく、自利利他の菩薩行を行じながら、しかも自己を超え、相手を超えて、弥陀の国への旅を続けてゆく、いわば諸仏の国の視察旅行ではないでしょうか。(中略)
自分の立場からものを見、また相手の立場から見、自分と相手を超えて、より高次な共通の広場に立って、世界史の立場、さらにそれを超え、弥陀の浄土に立ってものが見えるような、そういう無碍自在な足のことだろうと思います。

「数かぎりない国国を飛びめぐる」ようにという「如来の願い」は、精神の活動範囲の広がりによって実現するのです。私はこの第九の「神足通」の願は、小さなことに固執したり、一つのことに執わてて足を失い、動かなくなる精神に足をつけて、精神の活動範囲を広げ、文字通り「数かぎりない国々を飛びめぐる」ようにしてやろうという願いであると頂くのです。
私たちの精神の足は、他人の態度や言葉を気にしすぎることによって縮んでしまいます。失敗を恐れ、間違いを恐れ、常にいい人だといわれるような人間でいたい。他人からとやかく言われたくない。他人に冷たくされたくない。あれやこれや考えるうちに精神の足は萎え、他人の態度や言葉に引きずりまわされて、忙しい忙しいで人生を終ってしまうのが私たちです。そんな私たちに、精神の足を与え、この天地を本当の意味で飛びめぐる生き方を与えてやろうというのが、この第九の願であります。

一念の間にとありますから、一念の信というものを起こして、信楽受持するにいたるということは、念即生といいますか、凡夫念じてさとるなりで、一念帰命するというだけで凡夫が一躍して仏になる、どんな境遇をも飛び越えて仏になるということはなかなか難儀なことでありますが、その難儀なことをたとえて言うならば沢山な国も、数限りのない国も一念の間に飛び越えることができるように、一念帰命の信ということによって成仏し、助かる身の上になるようにさせてやりたい、例えて言えば神足通を得たようなものである、ということが第九の神足通の願というものです。丁度身が神足を得たように、心があらゆる国を飛び越えて一念帰命するようにならしめたいということであります。難儀もそれほど難儀なことはない、ということであるが、信楽受持するにいたるという幸せをえさせねばおかんということでありますが、信の人はそういう神足通をいただいたことになるのだ。その力をいただいたということは喜ぶべきことであるということが、この願でわかると思うのであります。

神通は智慧でありますから、前の四つの知識によって、今度は自分の行動を自由にすることができる。心にはわかっていても、わかった通りの行動をとることができなければ、これほど不自由なことはない。だから神足通は天眼・天耳・他心という通力より得たその知識によって行動をとることである。自分がおこないをとるにおいてきわめて自由であるということが、この神足通というものではないでしょうか。
こういうふうに見ていきますと、この五つの通力の本願は、第三・第四の本願が外から与えられる幸福であるのに対して、内部に満たされる幸福を与える本願であろう。こういうふうに思われるのであります。
第十願 不貪計心の願
設我得仏国中人天若起想念貪計身者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、もし想念を起して、身を貪計せば、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が、いろいろと思いはからい、その身に執着することがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、少なくとも自分の身体についてでも少しでも執着する想いを起こすようであったなら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、人びとが見せかけの幸不幸にとらわれて欲望のとりこになり、自分のことしか考えられない、などという姿はない。もしそのようなことがあれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

「漏尽」とは煩悩が尽きるということですが、どうもこの名は、この願にはしっくりしない、気がするのです。というのがこの願では、たんに執着がないとか、煩悩がないという消極的なものでなく、積極的に進んで何かする、その行為につきまとう我執がないようにということのようですから。(中略)
前の五つの神通は、迷うている人にも修得できて、ひとをだますのに悪用することができる。しかしこの第六の漏尽通だけは、さとった聖者だけに開けるものといわれています。五神通が悪に使われるか、仏法のために使われるか、その鍵となるものが、この漏尽通です。お釈迦様は六神通をすべて身につけておられたが、ダイバダッタは前の五つは修得していたが、最後の漏尽通が開けていなかったから、自己の欲望を遂げるために、五神通を悪用して、アジャセ太子を誘惑して、王舎城の悲劇を巻き起こしたと伝えられています。
「想念を起こす」とは、妄念を起こすとか、欲心を起こすことでしょう。「身を貪計する」とは、わが身可愛いことで、自分の都合や、自分のためにすることですから、浄土の人にもそういうことがあるようなら、自分は正覚をとらないというのです。この「大無量寿経」は、出家仏教と違って、積極的に自己を完成し、社会をりっぱにしてゆく、人生を創造し歴史を創造してゆく、建設的立場に立った宗教ですから、建設的行為にはとかく、ひとのため世のためといいながら、知らず識らず、わが身のためになっていることが往々です。そのための願だと思います。

詳細にいえば、きりがありませんが、これらの数かぎりないいやなものをもらしているあり方が「漏」ということです。これらの「漏」は自己中心の考えが強くて、ありのままにものが見えないこと(愚痴)によっておこるのです。
「漏れる」ことも問題ですが、もれたことに気づき、もれたものを素直に反省すれば、「漏」はそれ以上に広がりません。しかし、私たちは、たとえもれたことに気づいても、それを正当化したり、上手に始末しようと、いろいろと思いはならい、ますます「漏」を広げ、もらしたものの中に身を沈め、身を滅ぼしていくのです。また「漏」に気づいたら、それから遠ざかるようにすればいいのですが、面子があるとか、意地がどうのといって、もらしたことに執着するものですから、ぬきさしできないところに自らをおいこんでいくのです。(中略)
私たちは、自分のうらみをうらみと認めたがりません。あきらかにうらみの心であっても、なんだかんだと理屈づけして正当化し、その正当化した理屈に執着して、知らず知らずのうちに道をふみあやまっていきます。嫉妬にしても同じことです。他の人からみればあきらかに嫉妬とわかることでも、自身は嫉妬と認めず、正当化して執着し、人生を狂わせていきます。
このように、自ら墓穴を掘る私たちに、阿弥陀如来は第十の願を誓わずにはおれなかったのでしょう。
漏尽通、すなわち煩悩をすべて滅尽する力をあたえてやりたいと願い、さらに煩悩によって思いはからい、煩悩の身に執着しないようにしてやりたいと誓ってくださったのです。

例によって成就の文を見ますというと、下巻ですが、「大経」では極楽とおっしゃらず、安楽とあるのですが、
その国土の所有の万物にをいて我所の心なく染着の心なし。去来進止に情にかくるところなし。随意自在にして、
これだけがこの願成就の文であると示されてあります。それは無論、浄土を構成された仏のこと、この国土のあらゆる物柄に対して我所の心なし、所有欲と翻訳すればよくわかるのです。所有欲というものがない、我、我所といいまして、我及び我所なしということです。染着心なし、染は染まる、着は引っ着くのですから、執着が深い、それを持って離さないという、そういう心がない。去来進止、去るも来るも歩むも止るも、つねに心に係る所なし、自分の貪心に引っかからない。意に随いて自在なり、あってもよしなくてもよし。といっても何も持たんでよいわけでない。持ってもよろしいが、そういう心が一つないといけないのです。(中略)
人が貪欲の煩悩そのままならば、自分を大事に、自身の身だけ供養して、自分は尊いものでえらいものであるという、そういう心をやめて、一切衆生を愍[あわれ]む心が起こって来る。こういう心になると申されておりますが、聖人の御一生九十年の御生活というものが、自楽を求めず、又我が身に貪着するということを離れられたればこそ、一生涯は勝れた素質を持ちながら、いわゆる名誉・利益を得る者にならずして、どうか衆生を救いたい、末代の衆生まで救いたいという御心で一貫された、それが尊い所以であります。自分は貪欲のやまない人間であり、自身の欲張りがやまん人間である、身が可愛いばかりだ。と言ってござるけれども、いつの間にか、それが仏力である漏尽通力を与えていただき、その本願力によって自ら自分の身を供養する、自分を救うて、俺はえらいものであるとか、天下を救うというような、自惚れた根性から離れて、一生涯謙虚なお心でおられました。そういうことが、この漏尽通の願力が信のある聖人の上に現れてござった相だと思うのであります。

人の心の機微もわかるし知識感情が発達していても、根本に自我愛というものが強いときは、その自我愛に利用されるということも考えられるのであります。そこで今度はもうひとつ高めて、自我愛や自分勝手でない、世間というものを超えて自我を否定するところの道へ進んでいくのであります。(中略)
宿命通・天眼通は自他の運命を知り、天耳通・他心通は環境の機微に徹し、神足通はそれによって行動の自由を得る。それからさらにもうすこし道徳的に高められ、世間を越えて出世間に入り得るまでになったものが「漏尽通の願」である。こういうふうに本願が展開しているのであります。その展開の順序は、さきほど申しましたように、「観無量寿経」では、韋提希夫人が一番はじめに、地獄・餓鬼・畜生なきところを願うといっておられるのでありますから、そうすれば韋提希夫人の要求は、無三悪趣ということが出発点であります。したがってわれわれの要求もしだいに純化していけば、こういうふうにいくべきはずでありましょう。そのいくべきはずのものをいかしめるものが如来の願力である。
第十一願 必至滅度の願

設我得仏国中人天不住定聚必至滅度者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が正定聚に入り、必ずさとりを得ることがないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、大いなる心の平安(パリニルヴァーナ)に至るまでの間、いつかは正しく目ざめ(仏となる)るに決まっている状態にいないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、人びとがもう二度とこの世の見せかけの幸不幸に振りまわされる姿はなくなる。そして必ず明るい生き生きとした人生を全うし、完全燃焼するであろう。もしそうでなかったら誓って私は目覚めたなどとは言えない。

これは大乗仏教も後期の人が設定したもので、菩薩の位を信、住、行、廻向、地と、五つの位に分け、各々の位を十段づつにして、最後の第十地の位を満位を一段開いて、五十一段にしているのです。その中の第四十一段の地の位から上を、正定聚といい、四十段までを不定聚、邪定聚といっています。それは地位に入れば必ず五十二段の仏になれるという自信がつくからです。またこの位に入れば、再び迷うことがない。あと戻りしないということで、不退転ともいうのです。それに対して、四十段以下は退転の菩薩と呼んでいます。正定聚は上の仏に対し、不退転は下の迷いに対してつけられた名です。(中略)
それでは何ぜ正定聚が憧れの的であったか。それは十地の位に入って、「歓喜地」を得られるからです。どんな歓喜か。その内容を龍樹菩薩は、ご自分の体験から、百ほど数えあげています。親鸞聖人は「行の巻」に、その中からあらあらしたものを選んで挙げておられますが、要するに一つは不退転地を得たこと、一つは諸仏の家に生まれたことのようです。この利益は心の眼が開けたことによるのです。心の眼とは、仏の智慧のことです。信心決定した人は、正定聚に住すといわれるのは、仏の智慧が開けるからです。親鸞聖人も「無上の妙果成じ難きにあらず。真実の信楽まことに獲ること難し」といっておられます。仏智が開ければ、何が見えるのか。仏智の内容がさきの六神通ですが、それは身に開けた徳ですが、それが外に向っては、人生が解り自己が解る。存在するものは皆矛盾であることが解るのです。「無慚無愧の宿業のこの身」の中に、「不可称不可説不可思議の功徳は、行者の身に満て」ることが見え、「シャバの世界というも、ここのこと。極楽の世界も、ここのこと。これは目の幕切りをいう」(才市同行)。これを天親菩薩は「大会衆の数に入る」、浄土の菩薩になったと感激しておられます。これは自己の上に浄土の花が開く位です。
ところが今日でも真宗の学者は、正定聚を「必ず浄土に生まれる身に定まったこと」と説いています。その浄土は死後にあるものとして。これはお経を読み誤って、勝手にそう受けとっているので、今申しましたように、正定聚は浄土に生まれた人のことで、浄土の土徳によって、必ず仏に成る自信がついた、初地以上の菩薩のことです。したがって親鸞聖人も、異訳の経によって、「等覚を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願の成就なり」と、正定聚の菩薩お最高の、等正覚を成就できるといっておられるでしょう。等正覚とは五十一段の弥勒のさとりのことです。これでも真宗の学者たちは、親鸞聖人が「補処の弥勒に同じ」とか、「如来とひとし」といわれていることを、この世でそういう人格になるのではない。信心決定しても、日暮らしは浅ましい凡夫のままであるが、この一生終ったら、浄土に生まれて仏にさせて頂く、それを「弥勒に同じ」といわれたのであると、解釈しているのです。この人たちの説く浄土も仏も、皆空想の産物ではないんでしょうか。浄土もこの世であり、五十二段の仏も、この肉体を有っている人間の理想の人格をいうているのです。(中略)
涅槃への道は、これがなければ、これがないと、すべてを空じてゆく還滅の道で、その究極の目的は「灰身滅智」であると、「十二縁起」は説いているのです。しかし大乗仏教では、そういうさとりは個人的であり、完全な人間の救いにはならない。人間は人と人との関係の中に生きているものである。その人間としての人格を完成することこそ大切なことであると、自らの人格を高め、人生を創造するその人を正定聚といい、その理想的人間像を、五十二段の仏としたのです。(中略)
涅槃は小乗の理想であり、正定聚は大乗の理想であって、この二つは全く逆の方向であると思われます。一つは存在を迷いとして、自己を滅し、生死を離れてゆく、自己を脱却し、世間を出てゆく方向ですが、一つは存在の中にこそ真実があると、この五尺の体の上に、人間としての人格を完成し、社会を浄め、歴史を創造してゆく方向だと思います・・・(中略)滅度は自己を否定し、歴史を否定するものであり、正定聚は人生を肯定し、歴史を創るものです。(中略)
「正定聚」は、これから仏になってゆく菩薩のことといわれていますが、それは大乗仏教のいう正定聚です。浄土教でいう正定聚は、親鸞聖人がいっておられるように、「浄土の菩提心」の働く人のことであって、これから仏になるという往相の菩薩のまま、浄土の徳を身につけて、これを現実に具体化してゆく還相の菩薩のことです。還相の菩薩とは、これから出てきますが、死後のことではなく、人生創造の行者のことです。仏とは菩薩の内面の徳であって、表は菩薩、内は仏です。これを第二十二願には、「諸仏の行、現前する」といっています。それで正定聚に住することが、一切なのです。その外に私たちが考えているような、死んで仏になるということが別にあるのではありません。内にある徳が身につくことを成仏というのです。それで曇鸞大師が「正定聚に住するが故に」と、正定聚に千貫の重みを置かれていられるのでしょう。「必ず滅度に至る」とあるから、滅度というものがあって、そこに行くように思いますが、涅槃に入ると同じように、死に切る、死んでも悔いがないとさとることです。経にはそれを「善逝」と説いて、仏の十の徳の一つに数えています。善逝とは善く逝くということで、思い残しなく死ぬことができるということです。(中略)
この第一願から第十一願までは、願いという形で現わしていますが、すべて成就した浄土の徳であります。浄土は常にその徳を現わすために、願いという形をとるのです。それで天親菩薩は浄土のことを「願土」といっておられます。親鸞聖人も、安楽浄土の土徳であるといっておられるのです。それも「法は独り弘まらず、必ず人を待って弘まる」。浄土は必ず正定聚不退転の菩薩を産み出し、その菩薩を通して、浄土はその徳を現実のものにするのです。第十八願に「我が国に生まれんと欲え」とある「我が国」とは、この第一願から第十一願までの徳が与えられるのです。親鸞聖人はこの第十一願を、また「往相証果の願」と呼んでおられますが、これは第一願から第十一願のすべてを、ひっくるめて仰しやったのかも知れません。

私たちは、いつ崩されるかわからないものをふまえ、いつ消えさるかわからないものをかかえて日暮らししています。そして、このような現実が私たちの毎日の中でときどき顔をだします。私たちはその度ごとに不安にかられ、背すじを冷やしますが、すぐにこの現実から目をそらせて生きています。目をそらしても、不安が全くなくなるわけではありません。不安は潜在化し、心の底に生きつづけます。そのようなことで、全力を出しきる生き方ができません。常に中途半端な生き方になります。(中略)
最近、来迎については、あまりとやかくいう人はいないようですが、親鸞聖人当時は、来迎が大問題であったようです。そのような時代にあっても、親鸞聖人は「臨終のあり方、来迎の有無は一切問題ではない」といいきられているのです。これだけのことをいいきられる根拠は、「信心定まるとき往生また定まる」というところにあります。(中略)
仏法をよく聞いたはずの同行の中にも、知らず知らずのうちに世の中の間違った常識が身につき、「あれだけ素晴らしいお話をしてくださった先生だから、臨終も普通の人とは違って、どれほど苦しくても、じっと我慢して、念仏申しながら息をひきとられるだろう」という思いがあり、その思いが「一声でいいからお念仏を」という哀願になったのでしょう。その心を見抜いて、真田先生は、
信心定まるとき往生また定まる。最後のお念仏の有無が問題ではない、臨終が問題ではない。往生の定、不定はとうに済んでおる。苦しみの中で、苦しみをこらえてお念仏しなければ往生できない、というようなたよりない如来の本願ではない。信心定まった時、もうすべてが済んでいるのだ。
といわれたのです。
「そんなことは、もうとうに済んでおる」と、いいきれるような確かな人生、それが「正定聚の位に住す」るものの人生です。

御本典の「教行信証」の四法といいまして、教は「大無量寿経」全体を言うのですが、行は十七願、信は十八願、証は十一願、即ち経によって教行信証が出て来るのですが、助かりたいという願いには、何か行が具わらなければならないものです。どういう行動で助かるのか、ということを示されまして、それは、南無阿弥陀仏という仏名を称えることによって助かるのだという、浄土の行を示されました。それは十七願のおこころであります。信は第十八願でありまして、行だけで助かるように思うが、その行に信がぬけておってはいけない、信というものが最も大事である、というので、第十八願が即ち信の願であります。それから行信ともに揃えば、それは助かる原因であって、助かるという結果、これを証果といいます。証は証果の略であります。行信によってどうなるのか、助かるということはどうなることか、こういうことを示されたのが「証の巻」一巻でありまして、それが第十一願であります。(中略)
即ち信心を獲た者は、その時から正定聚の身の上となさしめられるということであり、それが証果であります。正定聚というのは、正しく定まるあつまりですから、そういう階級ということです。そういうものにならしめるだけではなくして、それはそのまま必ず滅度に至らしめる、即ち「正定聚に住し必ず滅度に至ら」しめねばおかんという御本願であります。これを必至滅度の願というのは、最後の一番大事な涅槃にまで必ず至らしめんという御本願であるからです。私どもが、本当に助かるということは、言い換えれば涅槃に達するということだからして、仏は必ず滅度、涅槃にあるけれども、その結果よりも原因の正定聚ということが一番大事であると仰せられるのです。そいして親鸞聖人は、これを正定聚ともいい、不退転ともいい、即得往生ともいうとおっしゃってあります。証果はまず正定聚に住せしむるということが大事なんでありますが、正定聚に住せしめて滅度に至らしめねばおかんというのが御本願であります。(中略)
真宗は行信の結果、言い換えれば信心の結果どうなるかといえば、生きておる間に正定聚にさしていただくということである。一生の間正定聚でずっと進んで行って、死んでからとも、死にぎわともおっしゃらず、とにかく滅度に至らしめて下さるのだと。こういう原因をことに重く知らして下さったことが親鸞聖人の卓見と申しますが、お経を読んで読んで考えて考えて、しかも正依の「三部経」だけでなしに、異訳の「如来会」という御本も精読なされて、そうしてどうしてもこれは此の世、現世において正定聚にならしめねばおかんという御本願であると感得され、そうしてその必然の結果として滅度に至らしめて下さるのだ、だから現生正定聚にして下さったのが全く聖人のお陰であります。(中略)
現生に正定聚にして下さるということだから、国中人天ということも死んでからのことではない、信心を獲た者が即ち如来の光明の国に生まれたものを国中人天と称されるものである、こういうように教えて下さるわけであります。したがって、第二願から第十願まで国中人天とありましたことも信心の上に得させられる幸せである、ということも自然にうかがわれるわけであります。

この国中人天というのは、さきほど申しましたように、他の翻訳では、「わが国に来生するものは」と書いてある。どうして来生するかというと、念仏で来生するのであります。ですから国中人天ということは念仏者の果相である。だから国中人天というのは、彼岸の世界の人にちがいありませんけれども、彼岸の世界の人ということは、どういうことであるかというと、直接には念仏行者ということである。だからいいかえれば、念仏行者の上にこの十一の徳が与えられる。いかに与えられるかというと、念仏行者は如来の願心において、この十一の徳を内観していくのである。(中略)
如来の願心に帰るとき、そこには地獄もなければ餓鬼も畜生もないのである。如来の大悲の胸へ帰るとき、そこにはふたたび三悪道へ更るということはないのである。そこではすべれのものがみな金色にかがやき、形色不同もなければ好醜差別もないのである。われわれは如来の大悲の本願に帰るとき、本当に自分の宿世の運命を知り、天眼・天耳を得て、他心・神足ということがそこに現われてくるのであります。(中略)
必至滅度はさきほど申しましたように、生もなく死もない所である。必至滅度は涙もなければ笑いもない所である。めそめそ泣くようなこともなければ、またからから笑うようなことも超えた所である。そうして非常に落ちついたところである。この涅槃寂静の天地を経験したものは、世を憎むこともなければ世を呪うこともない。憎むとか呪うとかいうようなことを超えているところの一つの天地であります。涅槃は無尽なり、尽きない所である。涅槃は一如なり、涅槃は真実なり、ほんとうの所である。何でもほんとうの所である。眠るというえばほんとうに眠る所である。醒めるといえばほんとうに醒めるところである。死ぬといえばほんとうに死ぬところである。生きるといえばほんとうに生きる所であります。(中略)
ほんとうに諸仏の国を照らさずんば正覚を取らじという光明無量の智慧は、涅槃寂静の天地から出てくるのであります。だから「光明寿命の誓願を、大悲の本としたまえり」、仏というのは光寿無量が一番本だといいます。けれども光寿無量のもう一つ本がある。それは滅度である。涅槃界である。それでなければ光明があっても、その光明に限量があるのであります。それでなければ寿命があっても、寿命に限量があるのであります。だから必至滅度まで本願が高められ、必死滅度まで純化されたところで、本願は一転して「光明無量の願」、「寿命無量の願」へ出なければならないのである。
第十二願 光明無量の願
設我得仏光明有能限量下至不照百千億那由他諸仏国者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、光明に限りがあって、数限りない仏がたの国々を照らさないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが<この上ない正しい覚り>を覚った後に、この(わたくしの)仏国土において、わたくしの光の量が限られたものであるようであったら、たとえ百千億・百万もある諸々の仏国土の量(というような無限に近い量)によって限られているのであったとしても、(とにかく、量で限られているようであったら)、その間はわたくしは、この上ない正しい覚りを現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、必ずきびしく自分の姿を明らかにする光が備わるであろう。その光が届かないということがあれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない

第一願から第十一願までは、即自的な願いですが、この第十二願と第十三願は、対自的な願いです。即自的とか対自的という言葉が解りますか。これは哲学用語ですが、眼がさめた時、まず向こうが見える。それを即自、自分に即してといい、向こうのものに照らされて自分が見える、それを対自というのです。(中略)
第一願から第十一願までは、法蔵菩薩が心の目がさめて、これがわしの国か、何と荒れ果てた濁悪に満ちみちた国であろうか。国が乱れているのは、そこに住んでいる国民が無自覚であるからである。濁悪のない国にするためには、国民が自覚するより外に道はない。それはどんな人間でなければならぬか。これこれの徳を有つ人間でなければ、国はりっぱにはならない。これが第十一願までの意です。それに国が乱れているが、国民も無自覚である。さあどうすればよいか。国を責め民を咎めていても始まらない。問題は王である自分である。王としての自分はどう在らねばならぬか。法蔵菩薩はここで初めて自分が問題となったのです。これを対自的というのです。(中略)
お前は何ものか。わたしは人間です。それで人間といえるか。人間らしい人間になれ。お前は何か。私は親です。それで親といえるか。親らしいまことの親になれ。法蔵菩薩は国の王です。王としての自分に眼がさめたのです。国に照らされ、民に照らされて、王としての自分が問われることになったのです。王としての自分は、どう在らねばならぬか。その対自的願いが、第十二願と第十三の願です。(中略)
龍樹菩薩は、光明に二つある。一つは「智慧の光明」、一つは「身放の光明」といっています。この二つはまた「心光」と「色光」ともいわれています。
「光明」とは、光はぴかっと光ること、明は明るいことですが、仏の光明とは、月の光や日の光のように、肉眼に見えるもののことではありません。はたらきのことです。仏とは智慧と徳を現わす言葉で、私はまごころと智慧と言い現わしています。心光はその用きをいい、色光はまごころが徳となった、人格の用きのことです。仏像でいえば、頭の後ろに、円形か傘の骨のように放射されている、あれが智慧の光明で、肩から下にかけて、大きい円形かかっぱの甲羅の形の後光をつけています。あれが身放の光明で、人格の徳を象徴しているのです。智慧は自分自身が使用するものですから、自受用のものといい、徳は相手をして尊敬させ信頼させるものですから、他受用といっています。この智慧と徳は、人格を形成している大切な要素です。智慧がなければ、人生はもちろん、自分も相手も解りません。また徳がなければ、相手が信頼も尊敬もせず、こちらの言うことを受け入れてくれません。したがって「光明無量」ということは、この智慧と徳が至らぬ所のないようにということです。(中略)
親鸞聖人は、泥田に蓮花が咲くように、この世が大事という在家の仏教です。その信は、仏を自己の内に見る、一切衆生悉有仏性という信心です。太陽でも向き合って、仰いで見れば唯だ一つの真紅の色ですが、三角のプリズムを通して見れば、虹のように、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七色に分析されます。唯だ一つの仏の光も、生活のプリズムを通せば、それが十二の色の光に分析され、四十八の功徳となって、日常生活に働くのです。第十二願には、「百千億ナユタの諸仏の国を照らす」ための光明が願われているのです。「百千億ナユタ」は、さっきも申しましたように、人間の頭数ですが、「諸仏」は、一人ひとりに宿っている仏のことであり、「国」とは、一人ひとりの世界のことです。(中略)
どこかに諸仏の国があるのではない。あるものはわれわれ衆生の世界だけです。一人ひとりの衆生の上に、仏を見出だし、一人ひとりの世界を理解することです。「讃仏偈」には「ガンジス河の砂の数ほどの諸仏の世界と、無数の衆生の世界を遍く照らす」光明を成就したいとありますから、泥田の中に蓮の花の咲くように、宿業の世界と諸仏の世界を明らかに照らすことでしょう。
こう見てきますと「照らす」とは、智慧の光明では、一切衆生の上に諸仏を見出して、一人ひとりの世界を理解し、身放の光明では、一切衆生に働きかけて、その徳に帰依させ、その徳に感化することでしょう。これこそ王者が王者としての自らの在るべき相を自覚した願いでしょう。

私が、今ここに生きているということは、地球上の、いや全宇宙のすべてのものに、直接、間接にささえられていきているということです。これだけの人ともののおかげと限定することはできません。すなわち、「無辺際」、ほとりがわからないぐらいの人と、もののおかげを蒙って生きているのです。それらの、私たちを生かし、育て、はぐくんでくださるものをひかりと仰ぐとき、私が今、ここに生きているのは、「かぎりない光明」によって生かされているといってもいいでしょう。
このように味わっていきますと、私が、今ここに生きている因縁は、「かぎりない寿命」とかぎりない光明」であるとあきらかになります。(中略)
広い広い「阿弥陀」の世界の中に生かされていながら、小さな殻にとじこもり、すこし人生が思うようになると、うぬぼれて自己を忘れ、思うようにいかないと腹を立て、まわりにあたり散らして自己を見失い、一人できばり、一人で力んで自からを一人ぼっちの孤独の世界に追い込んで苦しみ、悲しんでいるのが私たちです。
そんな私たちに、広い広い「阿弥陀」の世界を知らせんがために、はたらきつづけてくださる方が、阿弥陀如来なのです。
阿弥陀如来は第十二の願で、自から「かぎりない光明」となって、私たちを照し、はぐくみ、私たちに「阿弥陀」の世界を知らせて「小さな殻」からすくいだしてやろうと誓ってくださったのです。

「正像末和讃」の十八番目でありますが、超世無上に摂取し選択五劫思惟して光明寿命の誓願を大悲の本としたまへり(中略)
光明無量寿命無量という誓願を立てた、これが衆生を救うという大慈悲の救済の根本であり本源である。光明無量の願、寿命無量の願を起こされたばこそ、われわれのようなものが、どこにおってもまたいつの世に生まれても、十方衆生漏れなく助かるということになったのだからして、この大悲救済の根本は光寿二無量の御誓願にあるのです。この御誓願をお立て下されて、こういう光寿二無量の仏になられるということは、こういう五劫思惟の結果である。これでこそわれわれは助かるのである。したがってこれでこそこの親鸞が助かるのであるとお喜びになったのがこの御和讃であります。
さて、これは因縁でありますが、この願成就の御文というものを見ると、因縁のおこころがもう一つ明らかになって来ます。
仏、阿難につげたまはく、無量寿仏は、威神光明、最尊第一なり。諸仏の光明、をよぶことあたはざるところなり。
こういうお言葉が願成就の御文であります。それに引き続いて、光明のことがずっと出ておるのであります。
あるひは仏光の百仏世界をてらすあり。あるひは千仏世界なり。要をとりてこれをいはば、すなはち東方恒沙の仏刹をてらす。南西北方・四維・上下、またまたかくのごとし。
如来光明の無量なることをお説きになっておるのであります。(中略)
この御光に触れた者は、これは話だけのように思うかもしれんが、そうではない。その功徳としてこの世において三垢が消滅し、貪欲、瞋恚、愚癡という三つの煩悩が消えて、そうして身も意も柔らかくなる、苦しむ者は硬ばっておる。腹痛が起こると硬くなる、歓喜踊躍し、身も心も踊るほどに喜ぶ、そういう幸せになる。そうしてこういう凡夫の中からでも善心が出るようになって身も安楽になるし世も安楽になる。若し三途勤苦の処、地獄・餓鬼・畜生というような三途の苦しみのひどいところにおっても一たびこの光明にあいたてまつれば苦しみはやんでしまう。腹痛がやむようにやんでしまって再び苦しむようことがない。それは持病のある人がおっても、持薬を持っておれば、病が起こってもすぐ直る、こういうことで安心と喜びを持つようなものであります。そうして寿終ってのち皆解脱を蒙る、仏になるということであります。この光に接すれば、十二の光明の徳を受けるがために、この光明の御利益というものに生きながら遇わしれもらうということができるようになるのです。これは釈尊自らもそう味わい、本願は立てっぱなしでなしに、この本願が現に成就して、現にその用きをなしてござるのであるということを知らして下さっておるのがこの成就の御文というものであります。

「法界の準備」と申しますのは、如来が十方を摂化するために、まずもって十分にご自身の上にその力を成就されることであります。光明寿命の誓願は大悲の本で、衆生を救うためには仏御自身が光寿無量でなくてはならないのであります。「諸仏称名の願」も十方衆生を救わんとの仏のご用意であります。そこへ着眼してますと、第十二の本願から第十七の本願まで、みなこれ十方摂化のご用意ではなかろうかと思うのであります。(中略)
生の意味を見つけさせるために死が我々に恵まれている。そういってさしつかえないのであります。だから人間世界に死ということがないならば、真の意味において生ということもないにちがいない。いかに死が来て脅そうとしても、死んでもさしつかえないという生を見つけさえすれば、死は生に征服されたわけであります。だから人間は死というものに当面して、ますます意義ある生を発見しようとするのであります。そこに生死の問題があるのであります。ところが死の方もまた生に負けない。しかして生の意味をなくそうとする。そこに生死の問題があるのであります。そういうふうに死が来て、われわれが得意になっている生を、そんなものはないというふうに消そうとする。生の方もその死にうち消されないように、その意味を見つけ出そうとする。その問題は、結局生死を越えた境地を見い出さなければ解決されない。しかし生死を越えた境地を発見するときに、死と生と手を取り合うとでもいいましょうか、死と生とはほんとうの仲よしになって、生死一如というようなところが出てくるのであります。その生死を越えた境地は、すなわち生死の彼岸なる涅槃である。しかるにその涅槃界からこそ、命というものが滾々として湧き出るのではないだろうか。まことに生死を越えての一如の涅槃界からのみ、かぎりない命というものは出てくるのである。そこに「光明無量の願」、「寿命無量の願」というものが、涅槃の本願のつぎに出てきた意味があるのでしょう。(中略)
世間では自分はあの人の存在を認めないとか、あるいは存在を認められない人とかいう言葉があります。これに対して仏の智慧はいかなるものの存在をも認め、またその存在の意味を認められるものであります。されば空間無限なるがゆえに仏の光無限ではなくして、仏の光無限なるがゆえに空間無限である。だから仏の光がどこかへ行って薄くなるということを案じないでもよいのであります。時間もやはりその通りである。いったい、木や石には時間というものはない。これは今日の学者がみなゆるすところである。(中略)
内感することのできるものだけ、意識の生活をして、自分というものを内にみずから感じることのできるものだけが現在をもっている。われわれの意識はいつも現在である。しかるにそのわれわれの意識の現在に、ちゃんと過去をふくみ、未来を孕んで、そうして過去と未来とをもっている。だから過去と未来とがあって、そこへずっと命が伸びているのではなくして、ほんとうの生命観はかぎりない過去とかぎりない未来とを内感していくのである。だから人間においてはじめて時間というものがあるのであります。されば自覚の究極である仏において、はじめて無限の命というものが出てくるのであるということも当然でありましょう。そうしますと、光明のないもの智慧のないものには空間がない、内感のないものには時間はないのである。その覚醒した自覚の極にある仏においては、光かぎりなく生命かぎりないものである。(中略)
それがどういう意味をもつかと申しますと、これはすでに申しましたように、光明無量ということはどこまでもものを尊敬していく働きである。第十二の願を読んでみれば、「諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚をとらじ」とあります。「諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚をとらじ」ということは諸仏の国を見出さずんば正覚を取らないということである。それはすなわち十方衆生のあるところを諸仏の国として観照するということであります。さればこの光明こそは、やがて衆生の存在を認められる智慧であります。いかなる衆生をも、存在の価値なしとして見捨てられるようなことがなく、究極において御自身と同一味の証を開くべきものとして、尊重されるものであります。まことに十方衆生を助けたいという本願は、一方からいえば十方衆生の存在を認め、それを尊重されることに根拠するのでありましょう。ただやみくもに十方衆生を気の毒だというだけでなしに、その裏には十方衆生のほんとうの存在を認めて、その存在を認めている以上は、どこまでもほんとうの存在にしてやらなければならない。そういうことがそこにあるにちがいないのであります。
第十三願 寿命無量の願
設我得仏寿命有能限量下至百千億那由他劫者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下、百千億那由他劫に至らば、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、わたくしの寿命の量が、たとえ百千億・百万劫(というような無限に近い数まで)数えたとしても、(とにかく)限界のあるものとされるようであったら、その間はわたくしは、この上ない正しい覚りを現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、どんな境遇にある人も、必ず素晴らしいいのちを生きる喜びに包まれる。もしそのいのちを感じられない人がいれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

さてこの光明と寿命をどう見るか。今までの学者の説は、大体四通りに分けられます。第一は、光明は智慧であり、寿命は慈悲である。阿弥陀仏は、智慧限りない、慈悲限りない仏であるといっています。第二は、仏は光明である。寿命は、その光明が時間的にいつまでも連続してゆくことで、寿命という実体があるのではないという。これは「光明主義」といわれる、ほとんどの宗教が、こういう考え方です。第三は、光明は宇宙の大真理を象徴し、寿命は宇宙の大生命のことであるという。これは最近のインテリがよくいっているでしょう。植物も動物も、人間も、その根元は一つで、万物同根であるという思想ですが、こういう考えの人は、真言宗の大日如来も、キリスト教の神も、真宗の阿弥陀如来も、皆同じものである。民族感情が違うので、表現の仕方が異なっているだけであるといっています。しかしこれらの考え方は、「大無量寿経」が読めず、親鸞聖人の言われることを無視して、自分勝手なことをいっているのです。宇宙の大真理とか、宇宙の大生命といわれるものは、誰が造ったものでもありません。始めからあるものです。「まず、神ありき」で、神を造ったものはありません。しかし阿弥陀如来は、始めなかったものが、新たに仏になったものです。また弥陀の浄土も、新たに成就された世界です。親鸞聖人は「色もない形もない、一如の世界から、色を現わし形を示して、法蔵菩薩と名告って、不可思議の四十八の大誓願を発こしましまして」、今から十劫の昔に新たに仏になった、「本願成就の報仏」であり、弥陀の浄土は「真実報土」であり、「青色青光、白色白光」に輝く「無量光明土」であり、「蓮華蔵世界」であるといっておられるのです。第四は、寿命は主体を現わし、光明はその働き、仏教では用といっています。寿命が体で、光明は寿命の用きを現わしているというのです。私はこれが「大無量寿経」の正しい見方だと思います。この経の名も「無量寿経」でしょう。(中略)
ここでいう「寿命」とは、仏のいのちのことで、まことそのもののことです。まとことはどういうもののことでしょうか。「まこととは、まことよ」と、日本人はとかく「こと挙げせぬ国」といわれているように、直観力は勝れているのですが、「理屈をいうな」「文句はいらぬ」と、どうも言葉に対する反省や理解に欠けていて、分析力が足りないようです。その点中国人は非常に分析力が発達しています。まことを真とか実とか誠とか、いろいろに使い分けて、その意味をはっきりさせています。仏教では、まことはそこにじっとしてあるものではなく、常に自己を現わし、自己を創造して止まぬものであるといっています。仏が仏であることの意義をあらしめるものは、常に仏らしいまことの仏でありたい、仏らしいまことの仏になりたいという菩提心です。この菩提心こそ仏のいのちです。(中略)
真宗ではよく「生きる生きると思っていたが、生きるのではない。生かされているのである。勿体ない」といっていますが、それは偉大な力に遇うた一念の感情で、間違いではありませんが、そこに止まることが悪いのです。事実の凝視が足りません。生かされるだけで、生きているものは、何一つありません。「自然は親しまねばなりませんが、自然は恐ろしいものでもあります」といって聞かせた、篤農家がありました。「そして大地はあらゆるものを育てますが、またあらゆるものを腐らすのも大地です」とつけ加えました。自ら生きようとする生命力のないものは、皆滅ぼされてしまいます。(中略)
自己が誕生して、我ありと自覚したとたんに、自己に背くものが見える。それは我なしという悲しみです。その悲しみの涙の底から、我とならんと、本来の自己が起ち上がる。その心を仏性とも菩提心ともいうのです。菩提心の外に自己はありません。天親菩薩は、人とはどういうものをいうのか。手足があれば人間か。たとい手足があっても、仏性がなければ人間とはいわぬといっておられます。この願はまさに、弥陀が弥陀自身を発見した、喜びの願であると同時に、自己に背いている自己を見出した悲しみの願でもあります。私は四十八願中の絶唱だと思っています。(中略)
この願の成就の文を読んで見ると、無量寿仏の寿命が長いことと、浄土の聖衆の寿命の長いことと、聖衆が無数であることと、無量寿仏のいのちが一切の世界を持っていると説いています。結論から先に、かんたんに申しますと、「無量寿国」とは創造的世界ということであり、「無量寿仏」とは、創造的世界の創造的主体のことであると、私は思っています。したがって「無量寿」とは、第一の寿命が長いとは、弥陀の浄土は歴史的世界であり、しかもそれは真実そのものが、歴史となって限りなく自己を具体化するものであることを現わしているのだと思います。このことについても説明が要りますが、今は結論だけに止めておきます。第二は、無数の命。これは歴史を創造する正定聚不退転の菩薩が、数限りがないこと。第三は、無数の菩薩を産み出す唯だ一つの寿という、三つの意味があるようです。

釈尊が問題にされたのは、過去でも、未来でもなく、正[まさ]しく現在です。過去・未来の存在の有無を議論しても、それは議論のための議論であり、今、ここにいる私の苦悩の解決には何の力にもなりません。力にならないだけではなく、そのような議論をしている間にも苦悩は深まるばかりです。そのような、議論のための議論を戯論といい、釈尊の一番遠ざけられたことです。
このように、釈尊の基本姿勢を学びますと、前生・後生をさかんにいう浄土真宗のみ教えは、一体どうなっているのかと思われる人もあるでしょう。
確かに、浄土真宗のお話の中には、「後生の一大事」という言葉がよくでてきますし、時には、前生がどうのこうのという話もあります。
今生しか語られなかった釈尊の教えと、前生・後生を語る浄土真宗は違う教えなのでしょうか。決して、そうではありません。釈尊がいわれた今生は、決して一過性の今ではありません。前生・後生をつつんだ今生なのです。逆にいいますと、今生は前生・後生にまでひろがることによって、完結するのです。
今生しか説かなかった釈尊に本生話(ジャータカ)があります。本生話とは、釈尊がこの世にお生まれいなる以前のことが語られた物語です。
なにかおかしいような気もしますが、釈尊の素晴らしさを語るためには、今生だけでは語りつくせないのです。すなわち釈尊の素晴らしさの奥底まで語ろうとするとき、どうしても前生から語らねば語りつくせないのです。釈尊の本生話は、ただ物語として前生でこんなことをした人が、この世にお生まれになって釈尊という素晴らしい人になったという物語ではなく、今生の釈尊の素晴らしさを語るためのものであります。
ですから、前生があって今生があるというのではなく、今生の内容として前生が語られるのです。後生についても同じことです。今生があって後生があるというのではなく、今生の内容として後生が語られるのです。
私たちは単純に、前生があって、今生があって、後生があると考えたり、あるのは近視眼的に今生だけで、前生や後生はないと考えています。本当は、前生と後生を内容としてつつんだ今生を行きつづけているのです。(中略)
今生の私を本当に知るためには、前生・後生をぬきにしては考えられません。いつのころからか身についたかわからないほど深い深い根をもった私の罪悪、いつ尽きるかもわからないほど、自分ではどうにもならない私。どこまでさかのぼればいいのかわからない私の罪悪、どこまでいけば尽きるかわからない私の執念。これらを、いやな顔一つせずに担ってやろうといってくださる方があります。いつはじまったかもわからない前生から、いつ果てるかもわからない後生まで一貫して私を見護り、抱きしめつづけてくださる方、それが阿弥陀如来であります。

寿命無量の願、その成就の文をみてみましょう
仏、阿難にかたりたまはく、また無量寿仏は、寿命長久にして、称計すべからず。なんぢ、むしろしれりや。たとひ十方世界の無量の衆生、みな人身をえて、ことごとく声聞・縁覚を成就せしめて、すべてともに集会し、おもひをもはらにし、心をひとつにし、その智力をつくして、百千万劫にをいて、ことごとくともに推算して、その寿命長遠のかずをはからん。窮尽してその限極をしることあたはじ。
釈尊は寿命無量の本願の通りに成就して、寿命無量の仏になられておるということを紹介せられるのに、こういったたとえを出して、お前わかるかどうか、たとえて言うならば、十方世界の無量の衆生ですから、一つの世界でない、あらゆる衆生が、衆生でありますから凡夫でしょう。あるいはもっと広くあるいはもっともっと広く、蚤でも虱でも、馬でも牛でもといいましょうか、そういうまあ生きとし生けるもの、それがみんな人生の身になり、それが悉く声聞、縁覚のような智慧を得て、それが又一緒に集まって――大分話しが大きい――ぼんやりしておるのでない、思を禅かにし、あれを思い、これを思う心をやめて、心を一つにして、熱心にその智力をつくして、智慧の一切を尽くして百千万劫という長い間、悉く皆が一緒にこの如来の御寿命を計算しようとしても、その御寿命の長さの限りというものを知ることができない。このように言えば無量寿の無量ということの意味がわかるのですね。

・・・人間の純粋の精神は生まれたときは何の働きもないから、何も一向にわからない。人間の精神がだんだん覚醒してだんだん歳月がたつにしたがって若くなってくる。若くなっていかないのはそれが寿命でないからであります。体は生きていても寿命はない。死んでいるのであります。あの人は寿命があるというのは、つまり歳をとればとるほど若くなるということだと、こういうふうに考えたらどうでしょう。つまり精神が発達するのである。敏感になり物の感じがよくなれば、それだけ歳がたつにしたがってだんだん若くなるのだ。こういうふうにますます若くなっていくことを寿命無量というのだ。こういったらはっきりわかるのであります。そうしますと、すべての人の悩みを見てわが悩みと感じるということは、子供にはできないことでしょう。人間の精神がほんとうに伸びていきますと、他の悩みはわが悩みである。他の喜びはわが喜びである、という若々しい生命が出てくる。その若々しい精神になって、それがいつまでたっても退転しないことを寿命無量というのである。(中略)
・・・事実としてあるものは現在の刹那よりほかないのでありますが、その刹那の現在の生命は際の知らない底から湧き出ている。泉のように湧き出ています。その泉の湧き出ているときはいつでも現在でありましょう。されどその泉は、常に未来から過去へと流れ流れて止まらないものであります。それゆえに過去と未来とをもたない現在というものはないのであります。私共の意識はそれを知っています。すなわち現在の意識は、常に現在の意識内容として過去と未来とをもっているのであります。この意識があってわれわれは生命があるといわれるのであります。
だから過去といっても未来といっても、いつでも現在の感じである。その現在が無限の過去をもち無限の未来をもっている。それがすなわち寿命無量なのであります。まことにそうであってほしい。そうでなければ寿命無量は張合いがない。ただ無暗に長く生きていて、私は長生きをしましたというのは、単なる過去の時間の生命であって、自証の命ではない。そういうようにいいますと、幾分わかったように思うのであります。つまりわれわれが内にみずから感じるところにほんとうの命というものがある。その命のあるところに過去があって未来がある。そうしてまたそこに同体の大慈悲というものがある。そこにほんとうにすべての人がみな命を感じ、一つとなっていうところの寿命無量というものがあるのであります。その光とその命とは、さきほど申しましたように、われわれがついに帰すべきところ、最後の魂の郷里であるべき涅槃界から現れたものであります。
第十四願 声聞無量の願
設我得仏国中声聞有能計量下至三千大千世界声聞縁覚於百千劫悉共計校知其数者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の声聞、よく計量ありて、下、三千大千世界の声聞・縁覚、百千劫において、ことごとくともに計校して、その数を知るに至らば、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の声聞の数に限りがあって、世界中のすべての声聞や縁覚が、長い間、力をあわせて計算して、その数を知ることができるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしがこの上ない正しい覚りを覚った後に、生ける者の誰かが、この(わたくしの)仏国土における<教えを聞くのみの修行者>の数を数えて知るようなことがあったら、たとえ、三千大千(の世界)に属する生ける者どもすべてが<独居する修行者>となって百千億・百万劫の間数えたのであったとしても、(とにかく、わたくしの仏国土における教えを聞くのみの修行者の数が知られるようであったら)その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、私の教えを聞く人びとが大勢いて、あらゆる世界の求道者たちが、常識では考えられないほどの時間をかけて、教えを聞く人の数を数えて、もしすべて教え終えるなどということがあったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

この願の成就文には、弥陀がさとりを開いて、初めての説法の座に集まった声聞の数は限りなく、また菩薩の数も限りないことを、願文と同じような手法で、もっとていねいに説いています。ここに説かれている声聞と菩薩は、いつも申しますように、二種類の人が居るのではなく、「声聞」は、法を聞こうとする聞法の態度を現わし、「菩薩」は、人間関係において、また社会人として、どう生きるかという求道精神を象徴しているのです。このことは親鸞聖人も、よほど感銘向かったのでしょう。「弥陀初会の聖衆は、算数の及ぶことぞなき、浄土を願わん人はみな、広大会を帰命せよ」と、和讃しておられます。
このことは第一に、自分の生きる道を、誰か師を求めて聞こうとする人もあり、また自分の道は自分で考えるという人もあろうが、そういう人たちはみな、「国中の声聞」に生れ変るように、それも現在の人だけでなく、この世のあらん限りの人々が、そうなってもらいたいということではないでしょうか。(中略)
お釈迦さまが、十二月八日の夜明けの明星輝く頃にさとられた時には、誰一人いなかったし、鹿野苑での初転法輪には、わずか五人であったということです。弥陀がさとったことを、聴衆はどうして知って、集まったのでしょうか。ラジオもテレビもなければ、ジェット機もロケットもない時代に、行くことも問題です。実は聴衆が動いたのではなく、弥陀が衆生を見る眼が変ったのです。お釈迦さまがさとりを開かれた時、「奇なるかな、奇なるかな。われ成仏せば、一切衆生に悉く仏性が有った」といわれたのと同じことです。弥陀が心の眼を開いた時、どんな人も皆心の深い所では、真実の声を聞きたがっていることが見えたのです。弥陀の眼によって、一切衆生が「国中の声聞」として、見開かれたのです。この時法蔵菩薩は、恐らく喜びの余り、飛びあがったに違いない。衆生の自覚と浄土の建設を願いながらも、その可能性も見つからず、めどさえたたなかったものが、今一切衆生に仏性のあることを発見したのです。渾身の血はここに凝集され、願いはこれによって具体化されて誓いとなり、勇気は百倍したことでしょう。これが一切衆生が救われる根本原理です。(中略)
仏教とは、自己本来の仏性に眼ざめる教えです。この第十四の願力が、やがて第十八願に誓われている、衆生の至心を呼び起こすことになるのだと思います。

一つ一つの小さな事柄では、人間はそれぞれもち味がちがいますから選別されることはありましても、人生という大きな場では、みんながそれぞれのもっているいいところをだしあい、たすけあって生きていかなければ生きられません。そんな世界がなければ、人間が本当に人間として生きることができないことを、如来は私たちに教えてくださるのです。
同じような悲しみや淋しさを味わいながら、互いに手をとり合って、阿弥陀如来の真実の世界に歩みをすすめるところに、御同朋・御同行の世界があるのです。
たった一つの能力や経験だけで、人間を選別することのない世界、みんなが一つ場で、如来のみ教えを聞くことのできる世界がなければ、人間は人間にならないままで一生を終ってしまいます。
声聞とは、如来の声を聞く人です。「国内の声聞の数に限りがない」ということは、すべての人を選別することなしに受け入れる世界を実現しようという誓いなのです。
生まれてから死ぬまで、色々な形で選別されて苦悩する私たちのために、選別されることなく、すべてのものが一つ場で、み教えを聞ける世界をあたえてやりたいというのが、「如来の願い」なのです。
選別されることなく、一人ひとりがそのよさを認められる世界において、人間は、それぞれが、それぞれの光を精一ぱい放つことができるのです。

この願成就の文は、次のように述べられています。
仏、阿難にかたりたまはく、かの仏の初会の声聞衆のかず、称計すべからず。菩薩もまたしかなり。いまの大目ケン連のごとく、百千万億無量無数にして、阿僧祇那由他劫にをいて、乃至滅度まで、ことごとくともに計校すとも、多少のかずを究了することあたはじ。
この意味は、仏が阿難にお話になるのには、かの仏の初会の声聞衆の数は計ることができぬ、たくさんある。声聞だけではない。菩薩の数も知ることができないほどたくさんある。それを譬をもって言われまして、今ここにおる大木ケン蓮、釈迦のお弟子大木ケン蓮は神通第一という、非常に、智慧の力の強い方です。このような方が百千万億無量無数にして、数えられないたくさんあって、そうして阿僧祇那由他劫という、非常に数えきれないほどの長い時間、そして、乃至滅度まで、その人が死ぬまで、命のあらん限り悉く一緒に計り数えても、そのお弟子の数をはっきりと究めつくすことができぬ。これが釈尊の説明であります。そこまでを願成就の文と申されます。(中略)
尽十方無碍光如来といいますように、東西南北、四維上下、十方を尽くして、はてしない光明無量の仏になりたいと仰せられたのでありますから、また絶対無限であるという仏になり寿命無量の仏になりたいということでありますから、その如来のお話を聞いて救われるものも、数限りないことであります。

四十八願の中で国中声聞という字を使ってある本願は、ただこれ一つしかないのであります。国の中に声聞がある。そうしてその声聞というのは数が無量無辺にあって、三千大千世界の智者達が百千劫という長い間かかって阿弥陀仏国の声聞の数を数えても、数え尽すことができないというほどにあらしめたいという願いであります。(中略)
仏の光明はさきほど申しましたように、おのおのの存在を認められるのであります。さればこそまたその仏の説法を聞かんとする声聞がかぎりないのではありませんか。あんあものは駄目というふうにはねのける人間には、聞く人間が少ないにちがいない。だから阿弥陀如来の光明が無量であって、そのおのおのの人の生活に意味を認める。みな一人も軽んじないで、みなを生かしていこうというその仏の光明が、まず浄土において無数の声聞を感得されたのではないでしょうか。だから光明無量ということと声聞無数ということとの関係は、仏の光明無量なる第一の報いとして、かぎりない声聞を感得さえるのであるということであると思われます。
まだわれわれ衆生が一人も往生しないうちに、すでに無数の声聞が浄土にあるということは、ほんとうにわれわれが彼の世へ行けるゆえんである。彼の浄土を願うものは、彼の浄土の人となることができるという暗示を、「声聞無数の願」がもっているようであります。
第十五願 眷属長寿の願
設我得仏国中人天寿命無能限量除其本願修短自在若不爾者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、寿命よく限量なからん。その本願の修短自在ならんをば除く。もししからずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の寿命には限りがないでしょう。ただし、願によってその長さを自由にしたいものは、その限りではありません。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしがこの上ない正しい覚りを覚った後に、このわたくしの仏国土において、誓願の力によって〔寿命を短縮する〕ものは別として、(とにかく)生ける者どもの寿命の量が、量り得られるようなものであるようであったら、その間はわたくしは、この上ない正しい覚りを現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、永遠のいのちを生きる人しかいない。ただしその人が、迷いに沈む人に永遠のいのちを自覚させるために、私のいのちは短命であってもいい、と誓う場合は除くことにする。もしそうでなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

「眷属」とは、身うちとか、一族ということで、「国の中の人天」のことをいったのです。「寿命」とは、第十三願でも申しましたように、呼吸をするという生理的命のことではなく、菩提心のことですから、法蔵菩薩の願心が、国中の人天の一人ひとりの菩提心となって、その人を生かすようにということです。この願では、第十四願の「声聞」が、「人天」に変っていますが、これは法を聞きたいと願っていたものが、だんだん育って、仏の願心が受けとれて、その人の信心となったことを「人天」と現わしたものでしょう。成就文に信心決定したものは、「即ち往生を得て、不退転に住する」ということも、皆この願の力によるのでしょう。これからさきも、その願によって、呼びかけられる相手の名が、あるいは諸仏とか、衆生とか、菩薩とか、いろいろに変りますが、これは相手の人が変るのでなく、相手の在り方が変るのです。それと同時に呼びかけている法蔵菩薩の立場も変って、その見方が変ってくるのです。たとえば今もありました「声聞」は、聞法者として。「人天」は、その人の果報を現わす場合。「諸仏」は、独立した一人格者として。「衆生」は、道に迷うている場合。「菩薩」は求道者としての場合ですが、それは人間関係において、また社会人としての場合です。また「国中菩薩」は、自己自身の道を内に深め明らかにしようとする場合。「他方菩薩」は、自らの徳を形をとって外に成就しようとする場合と、使い分けています。(中略)
第十三願の時、寿はいのち長し、命は今生きているということであると、申しましたが、弥陀の場合は、弥陀自身のいのちは寿ですが、それが現実に働く時には、命という形をとるといた方がよいのではないかと思います。ネハンとか、真如とか、法性とかは、永遠的存在で、時間を超えた超時間的存在ですから、いのちとはいえません。いのちは常に死とか衰えるという、危機にさらされているもののことです。弥陀はたんなる真如ではない。歴史的存在ですから、弥陀自身は無量寿仏と寿であらわします。それが現実に働く時には、いつでも今、今、今と、非連続の点として、自らを現わします。しかし同じ今において働くといいましても、永遠は時間に対して、直角に時間を破って、一瞬その相を現わすといいますが、浄土はいつも時間と共にあって、過去から、背後から呼びさますという形で働きます。親鸞聖人は「弥陀成仏のこのかたは、今に十劫をへたまえり、法身の光輪きわもなく、世の盲冥を照らすなり」といっておられるでしょう。
それが衆生の場合では、「寿」は衆生に宿った法蔵菩薩の願心をいい、「命」は衆生の菩提心を現わしているようです。親鸞聖人は「憶念の心つねにして」のつねを、「常」と「恒」とに分けて解釈して、「常はいつもたえず、恒はときどきたえず」といい、「行巻」では「不退転の菩薩と、不退転の菩薩を念ずる菩薩が不退転である」といっておられます。不退転の菩薩とは法蔵菩薩のことですが、念ずる菩薩とは衆生のことです。それをさらに「卑しい男も、転輪聖王の伴をすれば、四天下に遊ぶことができるようなものである」とたとえられておられます。(中略)
浄土のいのちが、長い短いが自在であるということは、宿業の世界へ還って来て、そこで菩薩行を修したいと願う人は、いつでも自在であるということのようです。

死ほど悲しいことはありません。しかし、生もまた、時によっては死と同じぐらい悲しいものです。この世には「なんとしても生きていたい」と願いながら死を迎えなければならない人もいれば、「こんなに苦しく、また、まわりの人にこんなにつらい思いをさせるのなら、早く死を迎えたい」と願いながら生き続けなければならない人もいます。どちらの願いがよくて、どちらの願いが悪いと簡単にきめつけることはできません。どちらの願いも、それを願わずにはおれない人にとっては、何よりも真剣な願いなのです。(中略)
阿弥陀如来にすべてをまかせて生きるものは、この世の生命が終る瞬間にお浄土に生まれ、何ものにもさまたげられることのない新しい生命が始まるのです。この新しい生命は、悩む人々のために生きつづける生命なのです。

・・・長生不死の神方という文字を見てもわかりますように、信心の人は如来の国に生れたものでありますから、国中の人天寿命量ることのないことにさせてやりたいという御本願に相応して、信心ということは信心そのものが長生の法であり、不死の法であるということをお示し下されたのです。わかりよく言えば、如来の御国に生まれて、その眷属となれば寿命の限りないものとしていただくことができる。ということは、信心の人が只今からそういう身の上にされるのであるということで、信心の人の徳ということをお示し下さったのであるというように身近く我身の上に味わしていただくということが大事なことでありましょう。無論、死んで如来の国に生れてそうなると思って喜んでもよいのでありましょう。けれどももう一つ身に引き寄せていただくものであるということを喜ぶことができる。そういうことは、天親菩薩でも曇鸞大師でもお喜びになったのであって、特に御開山聖人は、臨終の沙汰無用なりとおっしゃって、真実信心を喜ぶ身の上になろうと、自分の年や此の世の命ということに頓着なくなって、自分の心持ちは、長生不死の身の上になったと喜ぶことができるのであります。
これは要するに、からだの問題ではなくして心の問題であります。実は「教行信証」に「涅槃経」を引いてありますが、阿闍世大王が、耆婆大臣よ、
われ、いま、いまだ死せずしてすでに天の身をえたり。短命をすてて長命をえ、無常の身をすてて常身をえたり。
といって信心の喜びを述べておられますが、死というものが問題でなくなった、ということが如来の光に遇わしていただいた信心の徳というものであります。はじめは、死んでからそういう身の上になるのだと聞かされて、だんだん信を喜びますというと、死んでからでなくして今からもう死なないものにさせていただいたという喜びが、あの阿闍世王が飛び上るような喜びを持たれたように、命が切れるという「死」ということが問題でなくなってくる。「短命をすてて長命をえ、無常の身をすてて常身をえたり」(二六九)と言って喜ばれた、そういうものと致したいということが、この本願のお心であろうと思うのであります。
最後に本文とほとんど違うところはありませんが、願成就の御文を挙げておきましょう。
声聞・菩薩・天・人の衆の寿命の長短も、またまたかくのごとし。算数譬喩のよくしるところにあらず。

阿弥陀仏は自分の命だけが無量なのではなくして、国中の人天、すなわち彼岸の人間はみな自分と同じように命かぎりなからん、こういうのですから、「声聞無量の願」が「光明無量の願」の一つの顕現であるとするならば、「寿命無量の願」がもうひとつ具体的になったのが、この「眷属長寿の願」であります。本当の生命は波及するのである。だから仏だけが寿命無量ということはない。仏の世界にあるものはみな命かぎりないようにならねばならない。ということはその大悲がもうひとつ具体的になったということであります。(中略)
・・・第十二・第十三の「光明無量・寿命の願」が、彼の土において具体的になって第十四・第十五願となったのでありましょう。一如法界から光明無量・寿命無量の御身が現われ、それがさらに声聞無数・眷属長寿という彼土の荘厳となったのであります。
第十六願 離諸不善の願

設我得仏国中人天乃至聞有不善名者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、乃至不善の名ありと聞かば、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が、悪を表す言葉があるとでも耳にするようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土の生ける者どもの間に、<悪い者>という名称だけでもあるようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、すべての人びとがこの世に悪者はいないことを自覚するであろう。もしそうならなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

・・・肉眼では見えないが、永年によって造ってきた人間関係、社会関係の世界を行為的世界といいます。仏教では業異熟といっています。これを無視しては、私たちは生きられないのです。
「華厳経」には、「文殊菩薩の行く所、いばらからたちの野原が、たちまち花咲き匂う花園に変り、石ころ路や、木の根のわだかまっている坂路が、たちまち坦々たる大道に変って行く」、菩提心の有っている転成の徳を説いていますが、それでなければ、私たちの生活の事実は救われません。「大無量寿経」には、「風が吹いて華を散らすに、華は遍く仏土に満ち、色の次第に随って乱れず、足がその華の上を履んで行くに、くぼみ下がること四寸、足を挙げればまたもとの如し」、浄土の菩薩が行こうとして、風が起こると、真心の華が散って、その人の喜びをもって迎えてくれる。しかも恩に着せることもなく、着ることもないことを象徴的に説いています。さっき第十四願は聞の成就、第十五願は信の成就を誓われたものであろうと、申しましたが、この第十六願は証の成就を誓っておられるのでしょう。「証」は、仏教ではさとりと読んでいますが、本来はあかしという字です。その人がりっぱであるかどうかを証明するのは誰か。それはその人の生活が無碍になる。周囲の人が喜んで順うてくれることです。それが第十六願の意だろうと思います。この願力によって、第十八願の「欲生心」を発こすのだと思います。したがって「欲生」とは、たんに弥陀の浄土へ生れようと願う心だけではなく、親鸞聖人もいっておられるように、浄土の徳が念仏者の上に事実として廻向されることでしょう。

善をなさねばと思いながら、気がつくと不善しかしていない私、不善を行い、あとで後悔しながらまた同じことをくり返して、身を焼きつづけて苦しんでいる私。
こんな悲しい私の姿を見たとき、阿弥陀如来は「不善の者」をなくそうと誓わずにはおれなかったのではないかと味わわせて頂くのです。
さらに「その名さえあるようなら」、と誓ってくださるお心を頂くとき、私は、いいようのないお慈悲の深さを感じるのです。
私たちの世界では、「不善の者」という名前によって、どれだけ、悲しい思いをし、また、他人を苦しめていることでしょうか、いや、苦しめるだけではすまず、まわりの人を文字通り「不善の者」にしてしまっているのです。
大阪大学の大村英昭先生は、「現代の社会と宗教」という文の中で、
算数ができない(あるいは算数教師と馬が合わなかったといってもいい)といった、ささいな出来事で、「落ちこぼれ」のレッテルを貼られたために、多くの生徒は本当に“駄目な人間”であるかのように自ら思い込み、周囲のものもそういう目でかれを扱ったことが、例えばかれを非行にはしらせる最大の原因ではあるまいかと、述べられています。すなわち、私たちは「落ちこぼれ」という名によって、「落ちこぼれ」をつくっているのです。
それと同じことで、「不善の者」という名によって「不善の者」をつくっていくのが私たちなのです。そんな私たちのあり方を見抜いてくださった如来だからこそ、「不善の者は勿論のこと、その名さえあるようなら、わたしは決してさとりを開きません」と、第十六の願で誓ってくださったのだと、私はうなずかせて頂いているのです。

乃至ということがちょっとわからなかったのですが、願成就の文から見ると、人間だけではなし、その国の中の一切の国土というものも、ということでしょうね。
この願の成就の文は次のように記されています。
三塗苦難の名、あることなし。ただただ自然快楽のこゑあり。このゆへにその国をなづけて安楽といふ。
これだけが釈尊がご説明になった願成就の文というものだと教えられております。「三途」というのは、地獄・餓鬼・畜生の三悪道であります。無論、三悪道の名など極楽にあるわけはない。そのほか苦しいとか困難とかいうような名前はあることがない。人の上にも物の上にもそういう名前はなくして、あるものは但「自然快楽の音」、「自然」は他力自然、「快楽」は快く楽しいという、これは名の代わりに音ですな。そういう名や音ばかりがあるからして、その国を安楽と名づけるのであると説かれています。(中略)
信心が得られて落着くことができ、喜びの身の上となられた、というのであって、その結果としての安楽な所へちっとでも早く行きたいとは申されず、此処が嫌いだ、と言っておられた韋提希夫人が、自分の足元から、広々とした世界が開けて、そこへ、遠いと思っておった阿弥陀仏と観音勢至のお働きを身近に見られて大いに喜ぶ身の上になられたのであります。(中略)
親鸞聖人のみ教えは、方便から真実に達することを忠実にお示し下さっておるように、信心の人になれば、死んでからあの世においていただけるという幸せが、只今から開かれて来るということを知らせたい、得させたいというお心であります。如来御本願もそういうおぼしめしにほかならぬのです。こういうことをお知らせ下さっておるのでありますから、国中人天、国中声聞とあれば、死んでから極楽に行って得ることだと一応お聞きになっても差支えはないのです。けれども、聖人が、そうではなくして、信心のところから、そういう幸せが開くのであるということをお教えくださっているのです・・・

阿弥陀仏の国土の名前において不善の名なからんということは、「浄土論」で申せば、妙声功徳といって、阿弥陀仏の国は評判がよいということである。その妙声功徳にも、この第十六願が相当するのであろうと思います。それはこのつぎに第十七願へいくと、十方の諸仏にわが名を称えられたいということが出てきますが、阿弥陀仏が十方の諸仏に称えられる前に、阿弥陀仏の国がよい名前をもっているということは自然のことではないかと思うからであります。いったい、国家の評判が悪いのに、その国家に住んでいる人間の評判がよいということは非常に恥ずべきことであります。(中略)
そこへいきますと、個人よりはまず個人の背景たる全体の評判がよい方がよい。それで阿弥陀仏は自分の名を称される前に、「国中人天、乃至不善の名ありと聞かば、正覚を取らじ」と願われたのである。こういうふうに見てはじめて私は、第十七願の前に第十六願がどうしても要るのではないかと思うのであります。まず国の名を立てて、しかして後自分の名が立つのであります。そうでなければいくら十方諸仏が阿弥陀仏の名を称揚されても、衆生を往生せしめることができないかもしれません。われわれは第十七願のおかげでお浄土へ行くというけれども、その第十七願の背景に第十六願がある。
第十七願 諸仏称名の願
設我得仏十方世界無量諸仏不悉咨嗟称我名者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、無量の諸仏国土における無量・無数の世尊・目ざめた人たち(=諸仏)が、わたくしの名を称えたり、ほめ讃えたりせず、賞讃もせず、ほめことばを宣揚したり弘めたりもしないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、あらゆる世界の無数の目覚めた人びとが、みんな心から喜び、私の心の世界をほめたたえ、南無阿弥陀仏と称えるに違いない。もし称えないなどということがあれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

咨嗟とは讃めることですが、今までの学者は皆、「わが名」を称え讃えるようにと読んで、「わが名」を称えよということであると解釈しているようですが、第十七願の成就文を見ると、この願いに応えて、「十方の諸仏は無量寿仏の功徳を讃嘆する」と説かれています。そうすると仏の「名」を讃めるのではなく、仏の「徳」を讃める気持ちで、仏の名を称えることでしょう。親鸞聖人は「仏の六字を称えるは、即ち仏を讃めることになるなり」といっておられます。(中略)お母ちゃんは幼児言葉で、親を呼ぶのですが、お母さんはおとな言葉で、親を呼ぶのでなく、親の徳を讃めるのです。(中略)
法然上人の「一枚起請文」を見ても、「念の心をさとって申す念仏でもなく、南無阿弥陀仏と申せば、疑いなく往生するぞと思いとって念仏せよ」とあります。これでは称名ではなく唱名でしょう。親鸞聖人は唯だ称えるだけではなく、いわれを聞き開けといっておられます。「わが名を称えよ」が仏の本願だから、すなおに本願に順って、念仏します。これでは幼児ですよ。わが名を称えよといわずにおられない、仏の胸の中に何があるのか、そこに眼がつかねばおとなではありませんよ。(中略)
それでは何ぜここに、わが徳を讃めたたえてくれと願わなかったのか。それは第一に、徳はいくら尊いとか賢いといっても、一部分でしょう。名の中には、その人の全人格、すべての徳が、皆含まれています。名をいえば、その人のすべてが現われるからでしょう。ここで大事なことは、南無阿弥陀仏という名の中には、すべての徳がこもっているといっても、どんな徳がこもっているのか、その徳の内容を私たち衆生に、具体的に教えておかなかったら、衆生は自分勝手に、自分の都合のよいように受けとるでしょう。しかしそれは予め南無阿弥陀仏について、何らかの知識を有っていた人ですが、もし南無阿弥陀仏について、何らの知識も有たない人ならどうでしょうか。たとい南無阿弥陀仏という名を聞いても、何の感激も起こらないでしょう。(中略)
予め南無阿弥陀仏について、正しい知識を有ち、知識だけでなく、南無阿弥陀仏と私とが血につながる、ぢぢと私とが、血につながり命につながっているような関係がなかったら、いくら南無阿弥陀仏という名を聞いても、空吹く風でしょう。
それどころか今日では、念仏に悪い垢がついて、念仏を聞けば胸くそ悪いとか、念仏を聞けば気が滅入るとかいう声を聞き、病院や結婚式場では念仏を忌み嫌うという社会現象は、念仏そのものが悪いのではなく、念仏者そのものが、永い歴史を通して、こんな泣いても泣ききれぬ、仏祖に対して申しわけない、まことに悲しいことにしてしまったのです。(中略)
たとえば私は親ですが、名は親ですが、私自身は、お粗末で、親という値打がない。まことにお恥ずかしい、名ばかりの親です。村の人たちが、先生になったばかりの若い娘さんに対して、「先生、お早ようございます」と挨拶をする。村の人は、娘さんに対して頭を下げているのでしょうが、先生自身は、私はまだ先生になったばかりで、先生といわれる資格はない。村の人たちは、先生という名に対して頭を下げて下さるのである。先生という名に対して恥かしゅうない、りっぱな先生になりたいと願わずにおれぬ、それがまごころというものでしょう。
こういう時の名は、たんなる名前ではないでしょう。名前であると同時に、その人をして、名にふさわしい人になりたいという道心を発こさせるものです。(中略)
「大無量寿経」には、法蔵菩薩は世自在王仏のような仏になりたい。自分の国を立派にしたいといっています。それがさっきの第十二の光明無量、第十三の寿命無量の願として現わされているのです。そこで親鸞聖人も「超世無上に摂取し、選択五劫思惟して、光明無量の誓願を、大悲の本としたまえり」といわれ、さっきも申しましたように、「正信偈」には、弥陀の徳を「帰命無量寿如来、南無不可思議光」と二つに分けて、帰命無量寿如来とはどういうことか、その内容を「法蔵菩薩の因位の時」から「重誓名声聞十方」までに説き、南無不可思議光の内容を「普く無量無辺光」と、十二の光を放って「塵刹を照らす。一切の群生は光照を蒙る」と現わし、その寿命無量、光明無量の徳を受けて、「本願の名号は正定の業なり」といっておられるのですが、これは第十二、第十三の願を本願といっておられるに違いありません。
・・・第十七願の「わが名」とは、第十二、第十三の願の成就した名であることを言いたかったのでしょう。これが解れば、親鸞聖人が「名はなのる、号はさけぶ」とか、「因位の時のなを名という、果位の時のなを号という」といわれるお意も頷けるでしょう。「なのる、さけぶ」とは、弥陀が自己を現わす働きのことです。弥陀の名号は、名詞であると同時に動詞である。動詞と名詞が一つになっているのが、南無阿弥陀仏であるということでしょう。(中略)
弥陀の名号は、十方の世界の諸仏が、弥陀を称め讃えて、その名を称える時、初めて成就するのですが、弥陀を讃めるとは、どういう事実をいうのでしょうか。(中略)
仏を讃めるのは、身を以て讃めるのです。口先で念仏するのはまだ本真ものではない。本当の念仏は、ものの見方、考え方、することなすこと、生活全体が念仏になっていることです。口の称名は、生活の一つの現われです。親鸞聖人も、「仏の六字を称えるは、仏を讃めるになるなり。一切の善根あって、浄土を荘厳するになるなり」といっておられましょう。光明無量、寿命無量の仏の徳は、唯だ、念仏の衆生の上に現われるのです。裏からいえば、念仏の衆生を通してだけ、仏の徳は知られるのです。この第十二、第十三の光明無量、寿命無量の願から、第十七の名号成就の願までの流れで、弥陀の徳がどうして名号として成就するか、また名号の中に弥陀の徳が宿っているとは、どういうことかが、解るでしょう。

どこのお医者さんが信用できるかどうかを一番よく知っているのは、仲間の医師でしょう。お店にしましても、信用できる店、信用できない店を一番よく知っているのは、同業者でしょう。同じ立場にいるものが、一番きびしい目で仲間を見ていますから、いいも、悪いも、一番よく知っているのです。「私の店の製品は、どこのものより安くていい」といわれても、私たちは信用できません。しかし、同業の人から「あの店の製品は優秀で安い」とすすめられれば信用するものです。
こんな私たちの性根を見抜いて、阿弥陀如来は自ら名のらず、諸仏を通して名のらせるのです。
私たちならば、疑うのは疑う方が悪いのだから、ほっておけばいいと考えます。しかし、阿弥陀如来はそんな冷たい方ではないのです。どうしても、私たちを見捨てることができないという大悲の心が、諸仏を総動員して、南無阿弥陀仏を私たちに受けとらせようとしてくださるのです。私たちのことを思ってくださる阿弥陀如来の大悲の深さがしみじみと知らされます。(中略)
あれもあった方がいい、これもあった法がいい、というのが私たちです。
腹の底から信頼できるものをもたない私たちは、もしかの時のことを考えると、あれも離すことができない、これも捨てることができないということになります。しかし、私たちが離すことも、捨てることもできなくてにぎっているものは、本当に最後の最後まであてたよりになるものでしょうか。(中略)
何がなくても、これがあるから、私はこの人生を精一ぱい生きることができる。どのような苦難にであっても、これがあるから私はへこたれずに、この人生をのり超えていける。ただ、これ一つあれば、私の人生は大丈夫といえるもの、それが南無阿弥陀仏なのです。

昔から、芝居でも役者が何ともかともいえず上手にやると、「成田家」とか何とか言うより讃めようがない、ということを聞いております。われわれが讃めるときにも、最後に名を呼ぶということであるから、終いに称名ということになるのでありましょう。とにかく、我が名が讃められ、そうして称えられるようにならずばおかんという願であります。かかる大自信をもたれておるのです。(中略)
十方に世界があるが、その世界の諸仏が、皆一人残らず如来の御名を讃めるようになり、そうして遂に名を称えるようにならずばおかん、という願であります。願成就の文を見ますと、
十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃歎したまふ。
とあります。十方世界、ガンジス河の砂の如くたくさんありますから、十方恒沙の諸仏なり如来といわれる方は、みんな一緒に、一人残らず無量寿仏の威神功徳不可思議なることを讃歎しておられる、と釈尊が申されておられます。如来の願は立てっぱなしではなくして、それが成就して、願の如く皆如来の威神功徳の不可思議なることを讃めておられると、こう申しておられるのであります。
これは何でもないことのようでありますが、親鸞聖人は衆生救済のために、大悲のお心からこの願を立てて下されたとたいへん喜んでおられるのです。これを名号成就の願ともいいます。一般に南無阿弥陀仏という名号がこのときに願としてできあがっておる、これは御自身の名を誓われた願であります。(中略)
親鸞聖人のお言葉で、「正信偈」には、「重誓名声聞十方」とあります。即ち、重ねて誓うらくは、名声十方に聞えん、自分の名前が十方に聞えるようになって、その御名に接するようになることによって衆生を救おうという御本願なのであります。それでこの願を、大悲の願と仰せられ、諸仏称名の願とも申されておるわけであります。しかし親鸞聖人の思召しはもう一つ進んで、十方世界の無量の諸仏ということは、お互い信心の行者というものである。信を得たる念仏者というものを無量の諸仏と申されておるようであります。だから悉く讃めて我名を称えられるようになりたいということは、御名によって、すべての人を救わねばおかぬということでありますから、救われたすべての人が十方世界の無量の諸仏であって、それが我名を称えるようにならねば、ということでありますから、信心を得た人を指しておられるのであると、こういうようにお味わいになっておるようであります。このように味わいますと非常に意義深いのであります。諸仏といって、代表的に言えば釈尊のような方が十方にましまして讃めたり称えておられることだけでなしに、信を得て喜んだもの、即ち、すべての人が諸仏と称せられるものとなって我名を称えるようにせずばおかぬ、こういう意味にお味わいになっておるようであります。(中略)
第十七の本願の十方世界の無量の諸仏悉くに称名されるようにならずば、ということは、十方衆生を悉く助けずばおかんということであって、これは信心喜ぶ人のことであります。十方衆生を諸仏とならしめて、ほめられ、称えられんということを知らさんとして下さったのが、親鸞聖人の晩年の御味わいだということです。このことを思いますと、この十七願が非常に尊い意味をもつものであると考えられるのであります。

光明無量のゆえに阿弥陀と名づけ、寿命無量のゆえに阿弥陀と名づくというときに、弥陀の名は成就されてありますが、しかしそれは弥陀の徳についた名であって、名それ自体の徳ではありません。それゆえにこそそこではわれらは弥陀の徳を仰ぐことはできても、弥陀の名によって救われるということを知ることはできないのであります。されば弥陀の名号の功徳は、ただこの「諸仏称名の願」によって彰われるのであります。このことをさらに進めて申しますと、われらが弥陀の名号を称して救われるということは、これすなわち、「諸仏称名の願」によってその名号をわれらに廻向されるのであります。これによって親鸞聖人は、この諸仏称名をもって、ただちにこれ「往相廻向の願」であると領受されました。(中略)
われわれの称名は真実心でなくても、諸仏の称名に護念されて真実ならしめられるということもできるでしょう。これによって、念仏して歓喜信心するものは諸仏と等しいとも申されるのであります。
第十八願 至心信楽の願
設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、無量・無数の仏国土にいる生ける者どもが、わたくしの名を聞き、その仏国土に生まれたいという心をおこし、いろいろな善根がそのために熟するようにふり向けたとして、そのかれらが、――無間業の罪を犯した者どもと、正法(正しい教え)を誹謗するという(煩悩の)障碍に蔽われている者どもを除いて――たとえ、心をおこすことが十返に過ぎなかったとしても、〔それによって〕その仏国土に生まれないようなことがあるようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、誰でも、素直な心となり(至心)、私の世界を信じ喜び(信楽)、私の国に生まれようと願う(欲生)三つのまことの心が与えられ、南無阿弥陀仏と称えずにはいられなくなるであろう。もしそれでも私の国に生まれることができなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。このことはただひとえに、親を殺すような非人間的な生活、目覚めた人に背を向けるような非人間的な精神では、本当に人として生まれた喜びを味わえないことを、はっきりさせるためなのだ。

法然上人では、選びとられたものは念仏ですが、選び捨てられたものは、諸善万行といわれる自力の行です。親鸞聖人では、選び取られたものは、限りなく真実を求めてゆく、主体的な自己自身であり、真実の菩提心です。選び捨てられたものは、たんに自力の行だけではなく、財産とか名誉とか、煩悩や我執、不純な信仰や念仏、不純な道徳や宗教、真実でないすべてのものです。(中略)
親鸞聖人が第十八願に転入されたのは、越後に流罪になって、そこで名を「親鸞」と改められました。改名された時は、いつも大きな心境の変化があった時ですから、恐らくその時点であろうと思っています。それは流罪という苦しい現実に遇って、今までの法然上人の京都時代の、有難い勿体ないという、法悦の念仏が打ち砕かれたのでしょう。それによって改めて仏法を聞き直さねばおれぬことになり、そこで改めて曇鸞大師の「論註」を読み直して、初めて天親菩薩の「浄土論」に遇われたのでしょう。そのことを「天親菩薩のみことをも、鸞師説き述べたまわずば、他力広大威徳の、心行いかでかさとらまし」と讃えておられます。「親鸞」という名も、そのことを現わしているのでしょう。また法然上人が要らぬといわれた菩提心こそ、第十八願の信心であると見開かれたのは、天親菩薩によってであります。また法然上人が捨てられた学問を拾って来て、膨大な哲学書である「教行信証」を著わされたのは、曇鸞大師の教えによるものです。親鸞聖人は、天親・曇鸞に遇うことによって、失っていた自己を取り戻し、それによって初めて法然・善導を超えることができたのです。(中略)
・・・三願転入の順序が、本願の順序と違うことです。転入は第十九、第二十、第十八と、後戻るのですが、本願では第十八、第十九、第二十と、直線的に進行方向に並べられています。虚心に本願の文を見ると、それは転入の三願というよりは、むしろ展開の三願のように思われるのです。三願転入は、不純な信が次第に深められて、純粋になってゆく、迷いからさとりへという方向ですが、これは信の有っている半面の働きです。信は内に向かって、限りなく自己そのものを純化してゆくと同時に、「信は道の元、功徳の母」といわれているように、信の内に有っている徳を、外に向って形をとって、現実に具体化する働きを有つものです。三願転入は信心の問題ですが、三願展開は生活の問題です。四十八願ではむしろ三願展開の問題が重要とされているようです。
それでは親鸞聖人には、三願展開の思想はなかったかと申しますと、三願展開という言葉はありませんが、そういう思想は有っておられたように思います。今引きました「信は道の元、功徳の母」という「華厳経」の言葉に目を著けられたり、信心獲得の獲得を「因位の時うるを獲という。果位の時に至ってうるを得という」と註釈しておられますが、これは心に獲ることと、身に即くことで、哲学用語でいえば、自覚と自己形成に当るのでしょう。自己形成の思想はあったことはあったと思いますが、あの時代ですから、まだはっきりしたものではなかったのではないでしょうか。あの時代ばかりではありません、これは日本仏教の伝統のようです。今日でもほとんどの学者が、自覚で止まっています。私は自己形成を説く人に会ったことがありません。東大の有名な教授でしたが、仏とはどういうものかという、仏の定義を「自覚覚他、覚行円満」といわれています。その覚行を、自覚に至るまでに永い修行が要る。また他をさとらしめるにも、永い間の修行が要る、それを覚行というといっています。この覚行は、自覚のあとの自己形成のことなんです。(中略)
この転入と展開、自覚と自己形成は、人間が人間として成就してゆくためには、重大な二つの要素ですから、そういう人間を成就してゆくという、ここにいるこの私の救いという角度から、改めて四十八願を見てゆきたいと思います。(中略)
・・・存覚上人が、親鸞聖人が衆生のことを「群萌」と仰ったのは、私たちは法の潤いを受ければ、必ず仏道の芽を生ずるからであるといっておられます。このことは迷うという事実を見ても解るでしょう。(中略)
親鸞聖人は、それまでこれを「至心に信楽して我が国に生まれんと欲え」と、一連の言葉として読んでおられたのを、至心と信楽と欲生心と、三つの心を領解して、これを「浄土の菩提心」と読んでおられます。・・・小乗仏教は「そこから」の解脱でありますが、大乗仏教は人間であることの自覚です。それに対して浄土教は、仏教に違いありませんが、自分からさとるのではなく、浄土からの呼びさましによる菩提心だと思っています。(中略)
至心は真実心に違いありませんが、まだその内に不純なものをはらんでいて、その在り方は理想主義から抜けきれません。理想主義というのは、その描いている理想は、現実を否定内容とした現実の投影で、夢であり、その眼は常にかなたをにらんでいて、足もとは「やせ馬の尻を叩く」奮闘努力型です。したがっていつも緊張していなければなりませんが、それは生き方に無理があるからです。仏教ではこれを自力というのです。しかし至心そのものは矛盾をはらんでいて不純ですが、この心は仏性の開発に重要な役割を持っているのです。そこでこの至心のことを引出仏性と呼んでいるのです。それは至心は仏性には違いないが、まだ純粋な仏性ではない。我執の殻をかむっている。その殻を破って中の仏性を開花させる、仏性を引き出す仏性であるというのです。私は仏性とか如来とか、本願とか浄土といわれるものは、魂の地下水だと思っています。地下水は地球のどこにも行き渡っていますが、そのままでは自分のものになりません。「わが魂の底深く名告り続けるみ仏の久遠の」四十八願の願いを開発する作業が、聞法であり求道です。・・・至心は地下水の信楽を働き出させる大切な役割を有っているのです。(中略)
後悔は起こった意識の波に眼がついているのですが、慚愧はその根底の性格に目がついた段階です。「思うも思わざるもこれ妄念、造るも造らざるもこれ罪のかたまり」。思うたから悪いのでもなく、思わぬから善いのでもない。したからせんからではなく、その根本の性格そのものの悪に対する慚愧です。
ところが懺悔は性格をもっと深めて、その由って来たる根源の、無始よりこのかたの宿業に眼がついたことです。一般には悪の行為に対する反省を懺悔といっていますが、それは意味が転化したので、仏教本来の意味ではありません。(中略)
信心は一般に信仰と同じ意味に使われて、神信心などといわれていますが、信心の「心」は主体性を意味する字です。よく心はころころが詰まってこころになったのだといわれていますが、あれは「意」のことです。信心は今では「もう一人の自分」とか、根源的主体といわれています。性根のない私に性根が生まれたことです。「この世は」何しに来たところ。「自分を探しに来たところ」と、陶芸家の河井寛次郎先生もいっておられましょう。お釈迦さまの最後の遺誡が、「自灯明・法灯明」ですが、その本当の我れが生まれたことを信心というのです。今日ではそれを主体性の確立といっています。
聖徳太子は、深い心といわれる信は、自己の中に矛盾を見出す心といっておられます。信は真心ですから、自分で信じようとして信じられるものではなく、気がついて見れば、今までなかった新しい深い心が生まれているのです。そうなろうと思うて、そうなるのではなく、気がついて見るとそうなっている心です。それを親鸞聖人が「廻向の信」といわれたのではないでしょうか。これは信ずるという、こちらから働きかける信ではなく、疑いないという、向こうからこちらへ働きかけてくる信だともいっておられます。(中略)
・・・信は衆生の任かすか任かさぬかというような、決断によるのではなく、はっと気がついて見れば、今までなかった新しい深い心が開けているのです。仏の方が先手です。ここにもそのさとりがじっと待っている静的な涅槃か、われわれに直接働きかけてくる動的な浄土かの違いが現れているのだと思います。
それでは信楽はどこに立って開ける心か。親鸞聖人は本願を信ずるといっておられますが、私はそれは至心が自己のめざめなら、信楽は歴史的自覚であろうと思っています。・・・信楽は血の中に宿っている四十八の功徳を現実に具体化して、自己を成就し、自己の浄土を建設することです。それがそのまま弥陀の浄土を荘厳することになるのです。(中略)
浄土教は、自分が置かれている場所から呼びさまされるという、場所的自覚がはっきりしています。仏教ではそれを、蓮台が菩薩を育てるといっています。浄土に生まれると蓮台に坐る。蓮の座が与えられる。蓮台に坐った菩薩は、生まれたままで、何も知らない。蓮の花びらから光が出て、上に坐っている菩薩を育てると、象徴的にそれを説いています。(中略)
至心は自己の真実の在り方を求める心ですが、まだ即自的で、自己が何ものか、自己の置かれている場所が自覚されていません。それが信楽になりますと、自己が場所的に自覚されて、わしは人間である。先祖によって産み出され、先祖の歴史を背負い、人間として深い願いを血の中に宿している自分であると、自己が置かれている歴史的世界が見えてきます。また欲生心はさらに、全人類がそこに置かれている運命共同体としての世界が、自己の内に自覚され、世界が自己を呼びさますという形で、菩提心が働いてくるのです。(中略)
至心から信楽への脱皮は「二河白道のたとえ」にあるように、自己の内にあって、自己を裏切る煩悩とか、あるいは性格とかが問題となっています。自己が問題となって、自己の内にある自己に背くものが、脱皮の媒介となります。また信楽から欲生へは、また改めて客観的な相手とか環境社会が媒介となってです。それは初めの本能から至心への脱皮の媒介と材料は同じですが、捉え方が、本能の場合は対立的に、それらを自己と切り離して見ているのですが、信楽の場合は、自己がそこに置かれている場所としてですから、どうしても自己を超え、社会を超えた立場、つまり浄土が生れてこなければ救われぬ道理です。・・・・・もちろん努力せずに自然にそうなるのではないですよ。努力せねばなりませんが、努力したことによって直接進化するのでなく、それが縁となって、内から新しい心が生まれてくるのです。(中略)
さっき申しましたことをまとめて申しますと、人間は自覚存在といわれているように、至心の心の起こった、そこから人間は始まるのですが、至心の心は、自分のした行為の反省によって、自分と自分の生きている環境を知って行くのですが、それは試行錯誤によるのです。それを仏教では後悔といっています。
至心がさらに進化すると、した行為を通して自分の性格が解り、起こった現象において、ものの原理とか法則を知ってゆくようになる。また自分の習慣とか、社会の慣習などの行為的世界をです。これを自己反省の立場から慚愧といっています。それらを自己を苦しめ悩ますもの、自己を束縛するものとして、それを自己に対するものとして見れば、第二反抗期の心で、自殺か革命か、どちらかに走るのでしょうが、それを人間としての共通の運命、人間であることの宿命、人間の歴史的宿命、もっと深い所に地上の宿命、それらを自己の生きている場所として捉える。外の言葉でいえば、我執と愚かによって動かされ、形成されてきた行為的世界が見えてくる。この世の宿命が見えてくる。これを懺悔といい、この心はすでに至心を超えて、深い心といわれる信楽に転入しているのです。
それらがさらに信楽によって見出された浄土を、この五濁の世に、また自分の世界に、浄土を実現しようとする願いが発こってくる。これを欲生心というのです。(中略)
この「乃至十念」も、今日まではお西もお東も皆、十声の念仏と解釈しているのですが、これは信心の相続してゆく相を誓っているのです。私が中央仏教学院の高等科に入学して間もない頃でしたが、「宗義要論」の時間に、この乃至十念について、先生に質問したことがあります。これは至心信楽欲生を一念と見て、乃至十念は、十は満数で、その一念が一生相続して行く相を誓われたもののように思われるのですが、どうでしょうかと、お尋ねしたら、その先生は龍谷大学の教授でしたが、真っ赤な顔をして、いきなり大きな声で、「相承にない」と叱りつけられました。それから二十年のちに、加藤仏眼という龍大の教授が、梵語から乃至十念は、称名のことではなく、信心の相続することという論文をかいて、博士論文か学階論文か忘れましたが、パスしたのですが、真宗学者は未だに、その垢のついた伝統とか相承という掟を守って、十声の称名といっています。(中略)
親鸞聖人に「即得往生」と「便得往生」という思想があります。即も便もどちらもすなわちと訓みますが、即は即時のことですが、便は時間をかけて、徐々にという意味です。また親鸞聖人は仏教を超と出に分けて、超は頓みにさとる道、出は漸々にさとる道といっておられます。これは智慧を以てさとる教えが頓教で、修行によって身につける教えを漸教というのでしょう。これはさっきの了因と生因のことです。了因は智慧の眼を開くことによって、頓にさとることであり、生因は日常の行為を通して、血の中に宿っている功徳を、花と咲かせて身につけてゆくことです。したがって浄土に生まれるという中に、信楽の智慧によっては、即の時に往生し、これは精神的往生です。生活を通して身に即くのは、徐々であって、これは身体的往生です。これを二度の往生といいます。これは仏教一般も皆こういうことを説いています。華厳ではこれを「円融と行布」といい、天台では「六即位次」といっています。親鸞聖人は、「因位の時の名を名といい、果位の時の名を号という」とか、また「因位の時うるを獲といい、果位に至ってうるを得という」と、そのことをいい現わしておられます。・・・解りやすくいえば、「心にうるを獲といい、身につくを得という」ということです。何の取り柄もないと思っていた私が、「不可称不可説不可思議の功徳」が身に宿っていたわいと、自覚することが因位の獲です。その功徳が行為を通して、徐々に身につくそれが果位の得です。(中略)
至心信楽欲生の菩提心が発こった人が、自己の中に自己を裏切り、自己に背く心を見出だした。それが逆謗闡提と現わされたのではないかと思います。それは性根が生まれた人が、自分は性根なしじゃと悲しむように、菩提心が自己の中に、本気にならん、徒らに明かし徒に暮らして、けろんとしているそれは、逆謗闡提といわずにおれぬ心でしょう。親からかけられている願いを踏みつけ、法を聞こうともしない、性根なし、それが親を殺し、法を謗って姿ではないですか。親鸞聖人は自己自身に対して「難治の三病、難化の三機」と泣かれたのでありましょう。

一般的に最も得意とするものを十八番といいます。十番でも十五番でもいいように思いますが、なぜ十八番かということになりますと、この第十八の願に関係しているようです。
第十八の願は、四十八の願の中でも、最も大切な願です。(中略)
阿弥陀如来の大慈悲の対象は、こういう人に限るとか、こういうものだけという限定はありません。そこには国の違いも、民族の違いも、言葉の違いも、性別も、いかなる違いも問題にはなりません。また、そのような悩みは、そのような問題はという、悩みや問題によって選別されることもありません。色々の悩みをもち、それぞれの問題をかかえているあらゆる世界の、生命あるすべてのものが、阿弥陀如来の「どんなことがあっても見捨てることができない」という本願の目当てなのです。(中略)
あやまちをおかさないように、他人から白い目でみられないように、冷たい言葉をあびせないようにと気をつけ、努力していながらも気づいてみると、その逆の道を歩んでいる私たちを、如来は「見捨てることができない」と誓ってくださるのです。
決して、如来は、何をしでかそうが、「よしよし」と許して救ってくださるのではないのです。許せないようなことばかりするものをほっておけないと、救いの手をさしのべてくださるのです。
許して救うのではなく、許せないから、救わずにはおれないというところに、如来の変ることのない真実があります。(中略)
長年、阿弥陀如来の本願の真実を聞いても、この「自分」だけは信用できるという思いから抜け出すことは容易ではありません。ですから、阿弥陀如来の本願を聞きながら、いざとなると「自分が」という思いが頭をもたげてきます。そこに、どうしても阿弥陀如来の本願一つにまかすという「一心」になれず、本願をたよりにするが、自分もたよりにせずにはいられないという「二心」になってしまうのです。
この最後まで残る「自分が」という思いが「自力の執心」なのです。本願を聞く求道者にとって、最後にして最大の難関がこの「自力の執心」であります。(中略)
「深く信じて」とは、「信じた方が得だから信じる」・「よくわからないが信じた方が楽だから信じる」というようなうわついた「浅い信」ではないのです。どこまでいっても、「自分が」と自らをふりまわさずにはおれない私たちのことを見抜いた上で、「私にまかせよ」といってくださる阿弥陀如来の本願に、唯、専ら、まかす以外にないと決した相であります。
それは疑えといっても疑いようのなくなったよろこびなのです。このような相・よろこびを「信楽」というのです。(中略)
沢山称えることのできる人は沢山称えればいいのです。一遍しか称えられない人は一遍でもいいから、「南無阿弥陀仏」と如来の誓の名号を称えなさいと勧めてくださるお心が「乃至十念」ということなのです。
迷う前に称えるのもいいでしょう。迷いはじめてから称えるのもいいでしょう。迷ったあとから称えてもいいでしょう。どの時点でもいいから「南無阿弥陀仏」と如来の誓の名号を称えなさいと勧めてくださるお心が「乃至十念」ということなのです。(中略)
なぜ、世の多くの親は、子どもが嫌がるのを承知の上で、口やかましくいうのでしょう。それは、子どものことを真底案じているらにほかなりません。
本当に子どもがどうなってもいいのなら、見て見ぬふりをしてすますでしょう。見て見ぬふりができないところに親の愛があるのです。それはただ、子どもを見捨てることができないという思い一つであります。
「十方衆生」の呼びかけを、まだ他人事のように聞いているような私たちのために、わざわざ「ただし書」をつけて「五逆の罪を犯したり、正法を謗ったりするお前をほっておくことができない」と、名指ししてくださるのが、第十八の願の「ただし書」のお言葉であります。

第十八願の本願成就文というのがあります。
あらゆる衆生その名号をききて、信心歓喜し、乃至一念せん、至心回向したまへり。かのくにに生れんと願ずれば、すなはち往生をえ、不退転に住す。ただし五逆と誹謗正法とをば除く。
その名号というのは、前の十七願の名号を指すと昔からいわれております。十七願は諸仏称名の願であって、諸仏に讃められ称えられようという御本願であります。それはどういうことかといったら、我が名によって助けようという御本願でありますから、正信偈には「重誓名声聞十方」と仰せられて、「重ねて誓うらくは名声十方に聞えん」と、我が名を十方に聞かしめてそれによって助けようということです。だから一声でも南無阿弥陀仏と聞いたら我が助かる道があると知るべきであり、助けたまう親様があると知るべきであります。これは全く他力の救済の御本願であります。親鸞聖人はこの願成就の文というものによって、本願のおこころを知られたのであります。(中略)
この本願を見ていると自分が起こして行かねばならんように見えるけれども、やってみたけれども親鸞聖人はできぬと知られて、「至心に廻向したまへり」とある通り、これは如来よりの至心廻向によると知られたのです。これは他の浄土宗では、至心に廻向してと読んでおられるそうでありますが、親鸞聖人は「至心に廻向しためへり」と訓点を付けかえられました。・・・至心に回向したまい、この三信を与えたいがために一心を御廻向下さるのであり、帰命する心をどんなにでもして起こさせようとしておられるのが如来の御心であるということです。(中略)
真実信心の行人は現在において摂取不捨の身の上になる、これが助かるということであり、それが往生すということである。弥陀釈迦二尊の御心を見ておるというと、即得往生といっておられるのは、死んでからと思うなということです。「正定聚の位に定まるを不退転に住すとのたまふなり」親鸞聖人は皆現生不退、現生正定聚と申されているのであります。それでなければ本当に有難いとも助かったとも言えぬのであります。真宗よりほかの浄土門では、死んでから極楽へ参って、それからぽちぽちいろんな御説教を聞いて、聾桟敷から本桟敷へ出てそれから段々進んでいくのだというように言ったり思っておる人がございます。けれども、親鸞聖人や蓮如上人は現生不退といわれます。退転もしなければ横へもころばぬし、後ろへもころばぬと、それゆえ向うへ行くより仕方がない。この現生不退ということが親鸞聖人の喜びであります。それが本当の宗教というものだと思います。(中略)
五逆のつみびとをきらい、好きじゃないのであります。しかるに、何ぼ幸福なものでも安楽なものでも、そういう五逆をしておる自分であります。それをきろうておられるのです。なおそれ以上に重い罪は、法を謗ること、謗法のおもきとがを知らせんとなり、非常に重いとがをもって助からない自分であるということを知ってこそ、十方衆生を救わんとの本願を信ずる心が起こるのであり、又助かるのであります。だからこの唯除五逆誹謗正法といわれたことは、いくら悪いことをしても助けて下さるのだというように思っては大変だから、それを防ぐためにお知らせ下さったのであります。

阿弥陀如来が法蔵菩薩となられた、それは「設我得仏、十方衆生」という願文において直感されることであります。それは設我得仏の願において、十方衆生を見出されたことを顕わすものであります。そこに十方衆生がいる。迷える衆生がいるということは、もう仏をして仏であるということに安んじさせないのであります。そこで衆生の心とわが心とを一つにし、衆生の運命とわが運命とを一つにせんとする菩薩として出現されることになったのであります。したがってこの第十八願の言葉は、当面は衆生に対して発せられているが、その願の声を聞くものは衆生であるとともに法蔵菩薩でなければなりません。(中略)
それでこの本願の文は、卒爾にこれを見れば、いかにも衆生の心において至心信楽欲生の心をおこすべきものであって、そこには如来の至心信楽欲生というような意味がないように思われます。しかるに親鸞聖人では、この至心信楽欲生をもって如来の三心とされました。「教行信証」の「信の巻」は、正しくこの三心が如来廻向のものであることを開顕せんがために作られたものであります。そこには至心をもって如来の真実心となし、信楽をもって如来の大悲心となし、欲生をもって如来の廻向心とされてあります。されば三心ことごとくこれ如来利他廻向の心であって、凡夫自力の心ではないのであります。それゆえに十方衆生に対して、「至心に信楽して我が国に生まれんと欲えよ」とおおせられるのは、その本願の御言においえ、如来の三心を衆生に賜わるのであります。すなわちこの至心信楽欲生我国の御言において、如来御自身の真実大悲廻向の心を表現されるのであります。(中略)
御身において光寿無量である如来は、十方衆生を見い出された。それは大悲の御胸において永遠に捨離することのできないものである。したがっていかようにもしてその衆生を救済しようということが、如来の願いとなったのであります。願いといえばまことにそれこそ真実の願いであります。それでその願いを衆生に対して表現されるのであります。もちろん経文から申しますならば、法蔵菩薩の願いは世自在王仏の前で建言しておられるのであります。しかしこの本願の文を見れば、仏の願意が衆生に対しておられることはあきらかであります。その衆生に対してのお言葉は、衆生に要求するという形で御自身の真実心を現わしておられるのであります。(中略)
この願の乃至十念の称名は、先の第十七願に諸仏称名としては願われてあるということであります。この一事をもって念仏は「大行」であるということを顕わすに十分なものでありましょう。大行とはいわば「公の行」ともいうべきものであります。諸仏によって咨嗟され、諸仏によって勧信された行であるがゆえに、それは正しく弥陀の願によって、衆生の行として廻向されたものでなければなりません。第十九願の修諸功徳は、元来これが凡夫自力の行であるがゆえに、如来はとくに諸仏の勧励を要求されなかったのであります。第二十願の植諸徳本のごときは、かえって諸仏称名の真意に徹せずして、凡夫自力の心にとらわれているものであります。されば第十九の願・第二十の願の三心が凡夫自力の心であるにもかかわらず、第十八願の三心のみが如来利他の心であるゆえんは、この願の行である念仏が「諸仏称名の願」より出るものであるからであります。信といっても行についてあるものであるから、廻向の行についての信は、信もまた廻向のものでなければなりません。ここに善導は「就行立信」といい、親鸞は三心の体を求めて、名号に帰せられたゆえんがあるのです。
このことについて意をとどめるべきことは、この十八願には、何ら特別のものがないということであります。「至心に信楽して我が国に生れんと欲うて乃至十念せん」という御言を、何遍繰り返してみても、何ら特別のことは衆生に向って要求されていません。それはまことに衆生界一般に対しての願いであります。これに対すれば、第十九願の修諸功徳というようなことは、特殊の修道者というものに対しての願いであるということが顕われています。それはけっして衆生一般に要求されることではありません。・・・・・その真実報土とはすなわち光寿無量の世界であります。如来の悲願成就の世界であります。この世界は恢廓広大にして何人をも拒まない境地であります。それゆえにそこは、修諸功徳というような特殊の行でいくべきことろではなくして、ただ如来廻向の念仏によってのみ生れしめられるのであります。この点に着眼すれば、この第十八願には何ら特殊の心行が要求されていないということが、もっておの心行ともに如来回向のものであるということを直感せしめるものでなければなりません。(中略)
もしこの抑止の文(ただ五逆と誹謗正法とをば除く)がなければ、われわれはともすれば、自分は如来の本願によって、浄土に往生する資格のある者と思うことでありましょう。さればその資格とは何であるか、すなわち「至心に信楽して我が国に生れんと欲して乃至十念せよ」の御言に応ずることである。そうすればその三心十念というのは、自然、凡夫自力の発起するものと思われることとなるのであります。これに反して真に自身の力をもって往生する資格のないことを知る者の胸には、三心十念の御言は、ただ切実なる大悲の声として響きくるのみであります。
第十九願 至心発願の願
設我得仏十方衆生発菩提心修諸功徳至心発願欲生我国臨寿終時仮令不与大衆囲繞現其人前者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、すべての人々がさとりを求める心を起して、さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、わたしが多くの聖者たちとともにその人の前に現れましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、他の諸々の世界にいる生ける者どもが、<この上ない正しい覚り>を得たいという心をおこし、わたくしの名を聞いて、きよく澄んだ心(信ずる心)を以てわたくしを念いつづけていたとしよう。ところでもしも、かれらの臨終の時節がやって来たときに、その心が散乱しないように、わたくしが修行僧たちの集いに囲まれて尊敬され、かれらの前に立つということがないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、誰でも道を求める心を発し、一生懸命善い行いを積み、その力によって、素直な心で目覚めた私の世界に生まれようと願うに違いない。その人は生涯の終わりに阿弥陀如来が多くの目覚めた人びとと共に、そなたの人生は素晴らしい一生だったと、温かく見守られる世界に導かれるであろう。もしそうでなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

「三恒河沙の諸仏の、出世のみもとに在りし時、大菩提心おこせども、自力かなわで流転せり」、いずれの行も及びませんと、甲を抜いで、初めて他力にまかすことができる。その方便の願として、この願が建てられたのであるというのが、今日までのすべての人の見方であります。
もちろんそういう見方も成り立ちますが、昨日も申しましたように、それでは願の順序から言っても、また四十八願全体から見ても、妥当ではないように思われます。これは念仏一つとか、三願転入という立場から解釈されているのですが、私は三願展開の順序で見ることが、妥当だと思いますから、その立場で読んで行きます。(中略)
この「菩提心を発こし」とは、はい発こしましょうという、自力の菩提心のことではなく、ほっと気がついて見ると、自然に発こっているという、本願力廻向の菩提心のことでしょう。親鸞聖人は第十八願の信は、「浄土の菩提心」であるといっておられる。その浄土の菩提心のことだと思われます。それはどこまでも自己の真実の在り方を求めてゆく、しかもそれは自己の置かれている場所を通して、浄土が呼び覚ますという菩提心です。(中略)
成就する可能性があれば、発願とはいいません。親鸞聖人は第十九願を「大悲の願」と呼んでおられます。欲は外に求めるもので、実現の可能性を予想しますが、願はまごころに裏づけられたもので、自己自身に求めるもので、絶対に成就する可能性がないと解っておりながら、なお求めずにおれぬという願いのことです。たとえば親であるものが、親らしい親になりたいとか、先生であるものが、先生らしい先生になりたいということは、永遠に成り切ることはできませんが、親であり、先生であるものにとっては、その願いを捨てるわけに行きません。永遠に卒業のない、限りない道を歩き続けるより外に、その人の救いはありません。それと同じように、私たちは人間ですから、人間らしいまことの人間になるより外に救いはありません。それで経には常にその道のことを「無上菩提」といっています。(中略)
せめて一生の終わる時には、りっぱな人間になって、「年寄りは家の宝、村の宝」といわれるようになりたい。しかしそれもできぬかも知れん。その時には、たといりっぱな人間にはなれんでも、一生の間よくも法を聞き道を求めて来たなあと、一言讃めてもらいたい。誰は讃めんでも、せめて死んだ父や祖父、死んだ母や祖母には、私の気持ちが解ってもらえるだろうという心が、誰にでもあるはずです。優等賞はもらえんでも、私は私なりの努力賞をもらいたいということです。私たちのその気持ちを見抜いて、仏の立場から、一生の命終る時、ようやったと、その人の前に現れるであろうということでしょう。これは臨終に仏が現われるか現われんかが問題ではない。現在の願いの深さ、願いの真実さを、こういう形で表現しているのだと思います。(中略)
それで「修諸功徳」とは、自分の人格を高め、徳を身につけるために、菩提心から、いろいろのことをすることと思えばよいでしょう。仏教では、人間の人格はどのようにして形成されるのかということを「種子生現行、現行薫種子」、「種子が現行を生じ、現行が種子を薫ず」、展開して、その人の性格が形成されるといっています。たとえば書を習うのに、初段の力のある人が書をかくと、初段の字が書ける。すると書いたという行為が、初段の力に薫じて、二段の力になる。また二段の力を以て書くと、書いたという行為によって、二段の力を三段の力に変えてゆく。このようにして自己は形成されるというのです。人格もこのようにして段々と高められ深められてゆくことを、「修諸功徳」といったのだと思います。

自らの「まごころ」を信じて、生きている人が、自らの「まごころ」が受けとられない。すなわち、自らの「まごころ」だけではどうにもならない事態にたちいたれば、生きていけなくなりますから、自らが死ぬか、「まごころ」を受けとらない相手を殺すしかないのです。
そんな事件あ新聞の三面を毎日のように、にぎわわせています。どうしてこうなるのでしょうか。問題は、自らの「まごころ」を信じ、自らの「愛」をかいかぶりすぎるところにあるのです。
私たちは、本当に「まごころ」なるものがあるのでしょうか。自分はどうなっても、相手さえよくなればというような「真実の愛」が私たちの中にあるのでしょうか。
私たちは、私には「まごころ」があるというところから何ごとも出発していますが、この私たちに「まごころ」があるという出発点が、本当は間違っているのではないでしょうか。(中略)
エゴに美しい「まごころ」というオブラートをかぶせて押しつけるから、押しつけられた方はたまりません。それで、暴力をふるうということになったり、なるべくおそく家に帰るということになったり、できるだけ避けるという行動になっているのではないでしょうか。
私たちの相手を思う「愛」の中味も、よくよく考えてみますと、自我愛(エゴ)そのものであったり、私たちの仏や神を信じるという「信心」の中味も、よくよく考えてみますと、我欲(エゴ)そのものであったりするのです。
結局、私たちに「まごころ」があるということは、一種の幻想でしかないのではないでしょうか。(中略)
・・・わかっていることが、わかっている通りに行えないところに、私たちの悲しい現実があるのです。しかし、実際に実践しようとしないものは、やろうと思えばいつでもできると思っています。
実践をせずに、やればできるという思いに胡座[あぐら]をかき、如来の真実信をも受つけない私たちを、阿弥陀如来は見捨てることなく、「その方がいいのなら善を行い、正しく生きて幸せになりなさい」とすすめて、私たちが如来の真実心を受けとるのを、待ちつづけてくださるのです。
この、私たちが、如来の真実心を受けとるのを待ちつづけてくださるお心が、第十九の願となったのであります。それも、「修諸功徳」という、一番、私たちが受け入れやすい願を建て、私たちの目覚めを待ってくださるのです。
「既にして悲願有[いま]す」とよろこばれた親鸞聖人のお心に、私は深くうなずくばかりであります。

聖人は、第十九願を修諸功徳の願と言っておられます。そのほかたくさん願名を挙げて、至心発願の願とも、臨終現前の願とも、来迎引接の願とも、現前導生の願ともいっておられます。その成就の文が非常に長いのでありますが、下巻のはじめの、第十八願の願成就文の次に、
仏、阿難につげたまはく、「十方世界の諸天人民、それ心をいたしてかのくにに生ぜんと願ずることあらん。おほよそ三輩あり。それ上輩といふは捨家棄欲して沙門となり、菩提心をおこして一向にもはら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修してかのくにに生ぜんと願ず。これらの衆生、臨終終時に、無量寿仏、もろもろの大衆とそのひとのまへに現ず。すなはちかの仏にしたがひてそのくにに往生す。すなはち七宝華中より自然に化生して不退転に住す。智慧勇猛、神通自在なり。このゆへに、阿難、それ衆生ありて今世にをいて無量寿仏をみたてまつらんとおもはば、無上菩提の心をおこし功徳を修行してかのくにに生ぜんと願ずべし。
という言葉があります。
この願の御文の意味は、私が仏になった暁には、十方世界のあらゆる衆生、菩提心を起こし、諸諸の功徳を修するとある。菩提心とは、上求菩提、下化衆生といいまして、仏教では、道を求めるということは、本当に幸せになりたいということでありますが、自利と利他、自分が幸せになりたいということと、他の者が悩んでおるのを助けたいという、此の二つの願いを持つということが本当に自分を幸せにするということでありまして、それが菩提心という仏たらんとする心です。(中略)
それでも来迎によって、臨終正念を得て、安心して死んでゆきたいと、こういうように願うものは、真実信心という本当に助かったものがない。つまり救いを将来に求めている故に、平生も不安だけども、臨終の時に、非常に不安に陥るのであります。だから来迎ということは、諸行によって往生しようと思う人には、非常に重大問題となるのである。それは何故かというと、自力の行者なるが故に、自分がいいことをして、そのいいことをしたことによって助かろうと思っている。その為に、その自力というものは不確定でありますから、遂には不安といい、不確実ということになるから、臨終というものに困って、来迎ということを願うようになる。だから臨終ということは、諸行往生の人にいうべし。言葉は簡単ですけれども、非常に意味の深い言葉であります。その人はまだ真実の信心を得ておられないから、来迎を願い、臨終を大切にするようになるのだ。自力であるから平生に於て助かっておらないから不安になるのである。不安になるから来迎を願い、臨終正念を祈るということになるのである。けれどもそういうものは駄目だと言ってお棄てになるかというと、お棄てになるのじゃなくて、こういうことを知らせたいのが、十九の願であります。(中略)
この第十九願の菩提心を起こすまでにいたり、諸々の功徳を修するというまでにいたった人は助かるとありますが、これは方便の願でありますから、助かる道に出たものであります。十方衆生を助けたいというのが仏の願いでありますから、ここに入った者は助かる筋のものということですが、まだここまで来ない人がたくさんあるわけであります。十方衆生の中で菩提心を起こさないし、自分の便宜になり楽になることならば、方法も手段もえらばず妄語、綺語、良舌、悪口というようなことも平気でやっておる。殺生、偸盗、邪淫ということも平気でやっておる。仏とも法とも思わない、我儘な生活をしておる人がたくさんあるのです。そういう人も十方衆生の中ですから、この十九の願でお誓いになったということの中には、菩提心を起こし、功徳を修する者は助かるとありますが、菩提心も起こさず功徳も修せずというものを、ここまで持ってきたいというお心があるわけであります。如来の願い、如来の光明は十方衆生の上にいたり届き、そういう者も菩提心を起こし、功徳を修するということをするまでにさせたい、というおこころが一つあるということを、この十九願を拝読するときに思うのであります。(中略)
期待の必要なのは、現在救われておらないから、危ないから臨終を期待するのであるからして、助かっておられないのです。それは真実信心がないからであります。だからそういう善を修して臨終の来迎を期待するというようなものをも、第十八願のお心をいただいてそういうことを期待しないことにならしめたい。現在助かって常来迎にあずかって、仏名を讃歎して、念仏を称え喜ぶということのできるようになる身の上にならしめたいということが、十方衆生救済の第十八願のお心と申すものであります。こういうことにならぬ者をなさしめずばおかないということが方便の願として第十八願意の真実から流れ出て十九の願となったのである。信じないものは助からぬということでは、十方衆生の本願は成就あいないのであるが、第十九願となり第二十願となると、どうでもこうでも十方衆生を救って第十八願をいただくような身の上にさせねばおかぬ、ということがこの三願を如来がお立て下さったやるせない思召しであります。

それでは、まず第一に、仏道修行を志す人々が、第十八願より第十九願を重んじた心持ちから申してみましょう。そういう人達も、第十八願を無用としたのではありません。第十八願なしには弥陀の浄土に往生する縁がないことは、十分に承知しておられたのであります。それらの人達の考えでは、第十八願は浄土往生についての基礎的な本願であります。したがってその対象が十方衆生一般であることも申すまでもありませんが。しかしそれらの人達には至心信楽欲生ということが如来の願心であるということは思われませんでした。それゆえに十方衆生というも、衆生の意識している衆生一般でありまして、仏のお胸にある衆生一般というようなものではなかったのであります。まあ何人でも弥陀の浄土へ生れようとするならば、至心信楽欲生の心を起こして念仏しなければならないことは、当然である、というような心持ちでありましょう。それはいわば浄土往生の基礎条件で、そうしますと、唯除逆謗は基礎条件の上に「この限りにあらず」と除外されたもの、したがって逆謗でないかぎりは、至心信楽欲生して念仏するものは、みな浄土往生の有資格者となるわけであります。さればその有資格者はどんなことをしたらよいのであろうか。それを定められたものが第十九願であるということになりましょう。(中略)
人間にはおのおの善をたのむ心ははなはだ深いのであります。智ある人は智によって行なうことを善とたのみ、財ある人は財によって行うことを善とたのみ、それを内に誇る心によってわれわれは生きているようであります。それもまあ悪いことではないでしょう。この世の中というものは、そういうことで成り立っているようでもあります。しかし実を申しますと、そのためにほんとうの如来の大悲の願心が届かないのであります。それは子は子で自分をたのむために、真に親の心がわからないようなものであります。しかるに如来大悲の願心は、そのおのおのの善をたのむ者をもお見捨てなく、かえってとくにそれを哀れみたまうのがすなわち第十九願であります。(中略)
すなわち修諸功徳の往生人は、臨終の来迎によってはじめてほんとうに安心するということになるのでありましょう。したかってこの場合の仮令は「たとひ」とか「もし」とかいう意味で、来迎する必要があるならば来迎もしようということになるのであります。これを反面から申しますと、第十八願の念仏往生人には、臨終来迎の必要はない。なぜならば若不生者の誓いにおいて、三心十念の衆生はすでに如来の光明に摂取されているからであります。この点から、念仏往生の行者は現生不退の益を得るとも説かれました。
それで修諸功徳ということは、いかにもたのみにならないものではあるが、しかしわれわれがいかにそれをたのみにしようとしている者であるかということが思われるのであります。
第二十願 至心廻向の願
設我得仏十方衆生聞我名号係念我国植諸徳本至心回向欲生我国不果遂者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、すべての人々がわたしの名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもってわたしの国に生れたいと願うなら、その願いをきっと果しとげさせましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、無量・無数の仏国土にいる生ける者どもが、わたくしの名を聞き、その仏国土に生まれたいという心をおこし、いろいろな善根がそのために熟するようにふり向けたとして、そのかれらが、――無間業の罪を犯した者どもと、正法(正しい教え)を誹謗するという(煩悩の)障碍に蔽われている者どもを除いて――たとえ、心をおこすことが十返に過ぎなかったとしても、〔それによって〕その仏国土に生まれないようなことがあるようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、誰でも私の名を聞いて、いつも心を私の世界に向けて一生懸命、南無阿弥陀仏と称えて、その力によって、素直な心で私の世界に生まれようと願うであろう。その人はいろいろ回り道をしても、最後には私の国に導かれるであろう。もしそうならなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

それでこの願は、その行から「植諸徳本の願」、その信から「至心回向の願」、その利益から「不果遂者の願」と名づけられています。
ここに「聞我名号」とあるのを、従来は「我が名号を聞いて」と読んでいますが、これは「我が名号を聞けば」でなければ、力がないと思います。わが名号とは、もちろん阿弥陀仏が自分のことをいわれるのですが、衆生はどうやって弥陀の名号を聞くのでしょうか。多くの学者は、善知識の教えか、念仏者が称える念仏を聞くことといっているのですが、これには疑問があります。
ここでは「わが名号」とありますが、第三十四願以下では「わが名字」となっています。この違いは、呼びかけられた相手が、ここでは「十方衆生」、迷うている人々であり、第三十四願以下は「諸仏の国の中の衆生」や「他方国土の菩薩」で、心の眼が開けた人々です。その相違ですが、それにしても「名号」と「名字」は、どう違うのだろうか。漢文の学者に尋ねて見ましたら、「号」は雅号とか俳号というように、自分から名告ることだが、「字」はあざなで、他から呼ぶ時の名であるということです。親鸞聖人も「名はなのる。号はさけぶ」と、左訓しておられますね。そうすると、この「わが名号を聞く」は、一人ひとりに宿った仏の念仏のことでしょう。もちろんこれは念仏以前の念仏、声のない念仏、言葉にならない以前の念仏のことでしょうか。(中略)
「念いを我が国に係ける」も、どこか死後にあるという夢のような世界へ、思いを馳せることではなく、「大無量寿経」の「往覲の偈」にいうように、「彼の阿弥陀如来の浄土の、微妙にして難思議なるを見て、因って無上心を発こして、我が国もまた阿弥陀仏の国のようにしたい」という願いを発こすことをいうのでしょう。第二十願も第十九願と同じように、第十八願を了因として、そこから展開する生因の願、形成の願であることを忘れてはならんでしょう。
「諸の徳本を植える」とは、従来は皆念仏することと解釈しているのですが、私はすべての人の人格を高め、すべての人が幸福になるために、あらゆる行為を挙げて、環境づくりをすることだと思います。もしこれを念仏することというなら、金子先生のいわれるように、「人生生活は、念仏の心において仏道となる」。この場合の念仏は、口に称える念仏ではなく、念仏の心根においてであることはもちろんでしょう。
「至心に回向して、我が国に生まれようと欲う」とは、どこかにある浄土のことではない。「浄土はどこにありますか。死んで向こうではありませんよ。あなた方一人ひとりの魂の根源にあります」。その全人類の魂の底深くに地下水のように行き渡っている浄土を自証し、自分の血の中に宿っている「不可称不可説不可思議の功徳」を、自分のあらゆる行為を挙げて、自分の国の浄土づくりに向けることでしょう。
「果し遂げずば」とは、衆生一人ひとりが、弥陀の浄土を自証し、自分じぶんの浄土を創造することができるようにということだと思います。

これで受けとれなかったらこれを、これが行なえなかったらこれをと、私たちが自らに目覚め、如来の「まこと」の受けとれるまで、願を重ねてくださる阿弥陀如来のお心の深さと広さを、親鸞聖人は、
阿弥陀如来、本果遂之願[もとかすいのがん]二十の願なりを発して諸有の群生海[ぐんじょうかい]を悲引したまへり。(教行信証・化土巻)
と、よろこばれるのです。そして、つづいて、
既にして悲願有[いま]す。「植諸徳本之願[じきしょとくほんのがん]」と名く、復「係念定生之願[けねんじょうしょうのがん]」と名く、復「不果遂者之願[ふかすいしゃのがん]」と名く、亦「至心廻向之願[ししんえこうのがん]」と名く可き也。
と、四つの名前をあげて第二十の願をたたえられます。(中略)
まず「最高のお徳とは何か」といいますと、徳とは、私たちを涅槃に向かわしめるもののことです。すなわち、私たちに本当のことを教え、真実の人生を歩ましめるものこそが、最高のお徳であります。(中略)
いつまでも、自分の進んでいく人生の方向が決まらず、ただ日々の生活に追われて走りまわっただけで一生を終るならば、あまりにもむなしい人生であります。
念を係けるとことが定まらない人生は、結局、この世を何年間かさまよっただけの放浪の人生でしかありません。
つらいことがあり、苦しいことにあうたびに、他人をうらやましいと思い、念を他人の上に係けながら、一生よそ見をして終る人生であります。
念を阿弥陀如来の世界に係けるということは、つらいときも、苦しいときも、常に私を案じてくださる阿弥陀如来のあたたかい心を念い、やがて帰らせていただく浄土を念って生きることであります。
阿弥陀如来のお心を念い、浄土を念うとき、くじけそうな心がなぐさめられ、勇気づけられ、苦難の人生にぶつかっていく力がわいてきます。(中略)
ここでどうしても注意しておかなければならないことがあります。それは、念仏申すことによって、必ず浄土に往生するといいましても、念仏そのもののはたらきによるのでありまして、私の念仏「申した」力によるのではないということであります。念仏申すとは、阿弥陀如来の「どんなことがあっても私がいます。勇気をだして力一ぱい生きなさい」と、はげましてくださる声を聞きながら生きるということであります。この阿弥陀如来の声に導かれ、ささえられ、勇気づけられて精一ぱい、この人生を生きるままが、浄土への人生となるのです。私の念仏「申す」力によって浄土への人生が開けてくるのではないのです。(中略)
また、廻向ということについて考えてみましても、曇鸞大師が、
凡[およ]そ「廻向」の名義を釈せば、謂[いわ]く己が所集[しょじゅう]の一切の功徳を以って、一切衆生に施与して、共に仏道に向かわしめたまふなり。(教行信証・証巻)
と、あきらかにしてくださいますように「己が所集の功徳」をもたないものが廻向することなど、本当はできないのです。
南無阿弥陀仏の名号は「阿弥陀如来所集の一切の功徳」であって、私の功徳ではありません。(中略)
親鸞聖人は、「大無量寿経」の「至心廻向[ししんえこう]」というお言葉を、先輩の人たちが「至心に廻向する」(まごころをもって私が廻向する)と読んだのを、「至心に廻向したまへり」(まごころをもって如来が廻向してくださる)と読み変えずにはおれなかったのです。ですから、親鸞聖人は「至心廻向」というお言葉を、
「至心廻向」といふは「至心」は真実という言葉なり真実は阿弥陀如来の御心なり「廻向」は本願の名号をもて十方の衆生に与えたまふ御法[みのり]なり。(一念多念証文)
とよろこばれているのです。
「至心に廻向する」第二十願は、「至心に廻向したまへる」第十八の願に、必ず至らせるという願でありました。
「至心信楽」・「至心発願」・「至心廻向」と誓われた第十八・第十九・第二十の願は、最後には必ず「至心信楽」の第十八願の世界に至るようにと誓われていたのです。

一般的教化だけでなくして、最後には韋提希夫人は牢屋において阿弥陀如来の救済を説かれたことを、聖人は「正信偈」に「如来世に興出したまふゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり」(一九〇)と申されております。仏たる方は、釈尊のみならず諸仏の心のドン底は、弥陀の本願を説き知らそうとさられるにほかならぬ、と仰せられてあります。諸仏の本意は、諸仏の道を知らされるのでなしに、念仏によって助かる道、この道一つを知らそうとしたのであることが釈尊一生涯の本意である。それで釈尊の自力の教えで助かろうとする往生を、雙樹林下往生という名を付けられたのでありましょう。
「阿弥陀経」は、ちょっと付け加えますが、親鸞聖人は「観経」と「阿弥陀経」と別けられますけれども、「観経」と「阿弥陀経」は方便の経として一つの流れのお経です。相手は韋提希と舎利弗と変っておりますけれども、「観経」下々品において韋提希にお話になった、若し心に念ずること能わずば口に南無阿弥陀仏を称すべし、仏の願力なるが故に必ず助かるぞと教えられて、韋提希夫人はよくよくそれをきいて、未曾有なりと喜び廓然大悟して無生忍を得るとありますが、そこに仏になるべき信心の智慧が開けた。韋提希夫人のように純粋に、信の眼が開くということもあるけれども多くは開かないということです。自分のことはさておきまして、人様のお話を聞いておると、助かるような善いことも随分しておるのだけれども、どうも少々たよりないからして念仏を申しておこうというのは、先ほど申しました助正間雑の心で、いろいろの不純粋な思いがはいっておるのであります。また私共は助かるようなことはできないからといっても、さて名号を聞いて助かる道をそこに見極めるということもなかなかできないのであります。二十の願の念仏を申しておる人々というのは、そのもとは自力心からでありまして、その自力心というものはなかなかなくならないものです。
親鸞聖人は「阿弥陀経」という釈尊が舎利弗を相手としてお説きになったのは、一切の善というものは小善根小福徳であって、自分が真に助かるというような立派なことができるものじゃない。小善根小福徳の因縁によっては弥陀の国に生まれること能わずといわれたのです。(中略)
現在に正定聚の身とならしめらるる、ということが本願を信ずるという御利益であって、第十八の本願によって助かったということは、現在において正定聚の身の上にならしめられることで、これを難思議往生とお示しになっておるようであります。そこまでにして育てていただけばこそ根機相応であります。何も助かるような能力のないものが、念仏を利用する、あるいは善根を利用するということは、本願に対する侮辱でありまして、煩悩のやまないありのまま、助かるようなことの何にもできないという私を、あなたのお力ばかりで助けてやろうということは、根機と本願とがここに相応して、正定聚の身の上にしていただくのです。正定聚にしていただいてこそ涅槃の、成仏の幸せというものにも、あなたのお力によってして下さるという、安心と喜びを、現在にさせていただくことができる。それが如来の本願の正意というものであります。その第十八願のおこころを、あくまでも知らせたいということが、「大無量寿経」上、下巻の説かれている所以であります。その人は現在に正定聚となって助かるのであって難思議往生という身の上になる。そこで十八が真実であって、十九、二十が方便である。その御方便は、第十八願のおこころから流れ出た方便であって、十九、二十の御方便の願があればこそ私どもが今日まで養われてお育てにあずかって、第十八の真実の願の根機とならしめられ、正定聚の身にならしめられるのである。

「観無量寿経」を開いてみても、修諸功徳の往生人は、華に包まれて多くの時を経ると説いてありますから、浄土へ往生しても、ただちに如来の願心荘厳の世界を見ることはできません。すなわちこれは真実の報土へ往生していないのであります。それで修諸功徳では、如来はじっと衆生の心のとけてくるのを待っておいでになるよりほかないのであります。そてはしばらく子の心のままにまかせて、時期を待つ親の心であります。されど植諸徳本の根機に対しては、じっと待つというよりも、果遂の願力を加えて、真実広大の報土を知らしめようという思召しが見えています。念仏するものは、「教えざれども自然に、真如の門に転入する」とはこのことであります。
これによってわれわれは、第十八願では、如来の智慧によってただちに衆生の眼を開き、第十九願では、如来の慈悲によって静かに衆生の自覚を育て、第二十願では、如来の念力によってすみやかに衆生の無明を破らんとされることを思わしめられます。これすなわち、はじめには如来の御胸にある十方衆生を呼び、中では衆生のおのがじしの心に順い、後にはついに三願があることも、ときに明瞭となったわけであります。如来の願心においては、ただ第十八願よりほかに何ものもありません。しかし第十八願のみであっては、十方衆生にその願意はおそらく永遠に徹らないでありましょう。如来はここをもって大悲方便して第十九願を建て、さらに第二十願を建てられたのであります。しかしてそれによって初めて第十八願の願意が真実に衆生に正受されることとなるのであります。
それゆえに第十九願も、第二十願も、その本願を如実に領受すれば、そこに止まっていることができず、必ず第十八願に入らねばなりません。したがって第十九願というも、第二十願というも、畢竟これ第十八願心より流れ出たものであり、第十八願より展開されたものであるがゆえに、第十八願の動的内容といってよいでありましょう。すなわち十方衆生に対して如来の願いは、ただ一つ念仏往生あるのみであります。
第二十一願 具足諸相の願

設我得仏国中人天不悉成満三十二大人相者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、ことごとく三十二大人相を成満せずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々がすべて、仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴を欠けることなくそなえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、その仏国土に生まれるであろう菩薩たちが皆、偉大な人物に具わる三十二の特徴を身に具えるようにならないのであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、どんな人でも、みんな目覚めた人と同じ尊い意味を持つ人生を送るであろう。もしそうでなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

今の十方衆生を呼んでの自覚の三願で、心の眼が開けましたから、いよいよこれから何をするのか、念仏生活とはどんなことをするのか、経の言葉でいえば、正定聚不退転の菩薩の生活です。今日求められている宗教的人間像とは、どんな人かということが明らかにされるのです。今日までは何宗に限らず、この問題が不明瞭なままに終っています。・・・だからさとったあとは、何をしようと勝手だということになり勝ちでしょう。(中略)
人生は一寸先も解らぬ闇夜でしょう。どうなってもよいというのは、やけくそか、歴史的現実に目をつぶった世捨て人です。この真っ暗な闇夜の人生を過ちなく旅するのには、灯がなければならぬ。それも一つではいけない。二つ必要です。一つは行く手を照らす灯台、一つは足元を照らす提灯。提灯が古くさければ懐中電灯でも、ヘッド・ライトでもよいでしょう。提灯がなければ、足元が見えぬから、何につまづくか、どんな所へ転げ落ちるか解りません。しかし行く手を照らす理想の光がなければ、方角を見失い、道に迷うてしまいます。第二十一願から第三十二願までは、願の有っている目標、つまり理想を明らかにしています。ここまで来いよと。第三十三願からあとの願は、自分の立っているここからの一歩の歩み出し、日々の生活の具体的内容を明らかにしています。その中第二十一願と第二十二願は、総願といって、一口で念仏生活はこれだと、輪廓を示したのです。第二十三願からあとは、その具体的内容です。その中で第二十一願から第三十願までが、第十九願の人間成就とは、こういう人間になることだと、その内容を、また第三十一願と第三十二願が、第二十願の自分じぶんの国を創造するというが、どんな国を造ったらよいのか。それに答えた願なのです。(中略)
仏教も初めの頃は、人相は問題になりませんでした。出家仏教ですから。妻を捨て、世間を捨てて、一人山の中で修行している人には、人相が良かろうが悪かろうが問題ではありません。(中略)
私たちの生活は、この顔と声でほとんど占められているのと違いますか。そこで大乗仏教では、三大アソーギ劫という永い間修行して、善根功徳を積まねばならぬが、最後の仏になる一歩手前で、百大劫の間かかって、相好を成就するといわれているのです。・・・それをこの「大無量寿経」では、さとった立場から自覚的に、大局観に立って、一生何をしてもよろしいが、自分の顔と声が美しく、人から親しまれるような人間になるように生きなさいと、一番あとにあった相好成就ということを最初に持って来て、人生生活の羅針盤にしておるのです。何をしてもよいといいましても、朝から晩まで、この婆が、この爺がと、心でにらんでおれば、どんな美しい人でも、いつの間にか恐ろしい鬼のような人相になっており、声や言葉もとげとげして来ますよ。どんな難解な仏教哲学も、どんな難しい仏道の修行も、この相好成就というかんたん明瞭なことにこもっていることを見出だしたのです。どうですか、素晴らしい発見、素晴らしいさとりでしょう。これは絶対間違いのない事実でしょう。

如来のお心に遇ったよろこびは、内面にとどまらず、顔をはじめ全身にあらわれるのです。逆にいいますと、内面にとどまらず全身にあらわれて、はじめて、本当のよろこびであるということです。
親鸞聖人は、「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」は心によろこばしむるなり(一念多念証文)
と、阿弥陀如来のお心に遇った「信心」のよろこびをあきらかにしてくださっています。「信心」のよろこびが姿の上には、「三十二相の仏のすがた」となってあらわれるのです。「もし、そのようにならなかったら、わたしは決してさとりを開きません」とまで、阿弥陀如来はいいきられているのです。(中略)
眼は紺碧にして眼睫は牝牛の如し(目紺青相・牛王睫相)
といわれる相を味わってみますと、これは、如来の眼は紺碧の海のように澄み、まつ毛は牝牛のように長し、そして乱れていないということです。・・・阿弥陀如来のあたたかい心をよろこんで生きるものは、常に、自らのあり方を恥じ、ご恩をよろこんで生きますから、眼も紺碧の海のように澄み、まつ毛も乱れないのです。また、眼が澄むことによって、ものごとが素直に見ることができるようになり、他人のことを思いやる心も自然にでてきます。(中略)
最良の味感を有すること(得最上味相)
というのがあります。如来は舌相が清浄で、それぞれのものの味を最高に味わうことができるというのです。私たちの場合はそれぞれのものの味を素直に味わうというよりも、それぞれの好みや、その時の気分で、うまいとか、まずいとかと、文句をいいながら頂きますから、結局、そのものの味をよく味わわないままでいることが多いのです。・・・どのようなものを頂いても、それらの一つ一つの味を味わっていくとき、人生は豊かにふくらみます。信心よろこぶ人は、「最良の味感を有する」人となるのです。(中略)
肩先が甚だ円いこと(肩膊円満相)
というのがあります。如来の肩先は大変円いということです。・・・私たちが、すぐに目をつり上げたり、腹を立てるのは、弱さをかくそうとする姿です。阿弥陀如来の大きなお心にであうとき、畏れるものがなくなり、私たちの肩先も円くなるのです。肩をいからせてつかれる人生が、肩先の円いやさしい人生に転じられるのです。(中略)
半身獅子の如し(獅子上身相)
というのがあります。これは獅子が何ものをも畏れないように、如来に畏れるものがないので、如来の上半身は獅子の如く威風堂々としているというのです。私たちは自ら敵をつくり、うしろめたいものをつくって身を縮めて生きています。(中略)
皮膚は細滑にして黄金の如し(身真金色相・皮膚細滑相)
という相について味わってみますと、如来の身体は金色に輝き、膚はきわめて細やかであり滑らかであるといわれるのです。・・・膚の細やかさは、感覚の繊細さをあらわし、膚の滑らかさは、人あたりのよさをあらわしているのでしょう。共に、信心よろこぶ人のあり方であります。

おおよそ、二十願までで衆生が如来の御国に往生する因、即ち原因をお誓いになったのでありますが、二十一の三十二相を具えるという願からは、その生まれたものの利益、即ち原因に対しての結果をお述べになるのでありまして、三十二相を具える利益、次に環相廻向をたまわるという利益、そうして供養諸仏、諸仏を供養することが自由にできるようにさせてやりたい、こういう願であります。(中略)
これその人のたうときにあらず、仏智をえらるるが故なれば、いよいよ仏智のありがたきほどを存ずべきことなり。
信心の人を見ると、誰でもとおっしゃるのですから、鬼瓦のような顔をした人でも、非常に不別嬪で顔がゆがんでおるような人であっても、まず見ればすなわちとうとくなり候、蓮如上人は、又それに自惚れぬように、誰が見てもそう見えるのは、これはその人が尊いのではないのだ、仏智を得られるが故なればそうなるのであって、仏智の尊さというものを知らねばならぬ。人を見ずしてそのもとの仏智を尊べよ、本願のお力を尊ばねばならんぞ、ということをおっしゃったのであります。又非常に、可愛がられないようなものが可愛がられたり、尊ばれないようなものが尊ばれるようになれば、それは自分がえらくなったからだと思うなよ。仏智がお働き下さったがためだから、自惚れてはならぬ。即ち三十二大人相を具せずんばおかんとおっしゃったが、それは仏智、願力のお力であるということを忘れるな。こういうようなことを暗示しておられるのではないかと思うのであります。
・・・土のついたようなお婆さんであっても、お念仏を喜ぶ信心の人を見ると、それは非常な美人を見ているよりももっと立派ですな。是人名分陀利華で、善導大師が上々人、希有人、最勝人、好人、妙好人とおっしゃるように、非常にうるわしい立派な人であるとおっしゃることは、この三十二大人相を具せねばおかぬとおっしゃる願力のおかげであろうと思うのであります。

だから念仏往生ということは、われわれの人生においてもっとも正しい生活態度であるということになりましょう。その正しい生活態度から造られた肉体相好は、すなわち三十二大人相でなくてはならないのであります。もう一つほかの言葉で申しますと、われわれの心が救われたならば、たとい蒼い顔をしている人でも、だんだん法の話がわかってきて、魂が救われてきますと、その蒼い顔に色が出てきて美しい顔色になってくるのであります。どういう関係が精神と肉体の間にあるか、学問上のことにはいろいろ千差万別の説があってわかりませんけれども、とにかくわれわれの精神が救われますと、それがすぐ肉体に影響して、そうして色艶のない者にも色艶が出てくる。こういうことであります。ほんとうに仏の道がわかるならば相好が変るということは、当然すぎるほど当然なことであろうと思うのであります。人相の悪い人でも人相がよくなり、貧相な人でも福々した人になるのであります。申すまでもなく肉体にも運命があって、弱い人が強くなるとか、やせた者が肥えるとかいうことにはならないでしょうが、しかしやせたなりで、何かしら肥えたように見える、病んでいても病んだなりに、どこかしら健康が恢復したようになるということは、これは当然なことであります。そこで十方衆生を呼んでの三つの本願についで、相好の本願が出てきたということは、そこに自然の移りゆきが見られるのであります。
三十二大人相
三十二相を「大智度論」より列挙し、諸師の領解も同時に示します。
足下安平立相[そくげあんびょうりゅうそう]:偏平足で、立つと大地に足が密着する。/どっしりと大地に足が着き、落着いている/大きな足跡を残す。
足下二輪相[そくげにりんそう](千輻輪相[せんぷくりんそう]):足の裏に、転輪聖王が乗る車の輪のような紋がある。/皆がなびき、生活にさまたげがなくなる。
長指相[ちょうしそう]:手の指が、美しく細く長い。(手は慈悲をあらわす)
足跟広平相[そくこんこうびょうそう]:円く長いかかと。
手足指縵網相[しゅそくしまんもうそう]:手足の指に水かきのような膜がある。/苦悩に満ちた世界を泳ぎ渡りきる。/人々を慈悲のはたらきで漏れなく救う。/どんな小さなことでも、見のがさない。
手足柔軟相[しゅそくにゅうなんそう]:手足が柔軟である。/愛情が行動に現われる。
足趺高満相[そくふこうまんそう]:高い足の甲。
伊泥延膊相[いにえんせんそう]:腿が鹿王のように円く発達。/行動が敏捷で、心が軽快。
正立手摩膝相[しょうりゅうしゅましつ相]:直立した時、手が膝をなでるくらいの長さがある。/慈悲のはたらきが遠く確実におよぶ。
(馬)陰蔵相[めおんぞうそう]:(馬のように)平常は陰部が体内に隠されている。/智慧により性欲がコントロールされている。
身広長等相[しんこうちょうとうそう]:身長と広げた両手幅が同等。/バランスのとれた人格。/全てが満遍に調っている。
毛上向相[もうじょうこうそう]:身体の毛がすべて上向きに生えている。/菩提心・向上心に満ちている。
一一孔一毛生相[いちいちくいちもうそう]:菩提心に無理がなく無碍である。/常に道の第一歩に立っている。
金色相[こんじきそう]:全身が微妙金色に輝いている。/全身が真心のかたまりで輝いている。
丈光相[じょうこうそう]:身体の周囲に一丈の長さの光が輝いている。/徳が周囲におよぶ。/その時その時の足元を照らし、自分の居る所を幸せにする。
細薄皮相[さいはくひそう]:膚が細やかであり滑らか。感覚が繊細で人あたりがよい。/人間関係が滑らか。
七処隆満相[しちしょりゅうまんそう]:両手・両足・両肩・頭の肉が隆起。/人格がふくよか。
両腋下隆満相[りょうえきげりゅまんそう]:脇の下の豊富な肉。/人格がふくよか。
上身如獅子相[じょうしんにょししそう]:獅子のように堂々とした上半身。/畏れるものがないので、獅子の如く威風堂々としている。/王者の風格を具えている。
大直身相[だいじきしんそう]:端正な身体。/正直で偽りなく、信頼感を与える。
肩円満相[けんえんまんそう]:豊かな肩の肉。/心豊かでおのずと貫禄が出る。
四十歯相[しじゅうしそう]:四十本の歯。/物事の深い意味をよく噛みしめる。/「四」は浄土の常楽我浄の四徳をたとえている。
歯斉相[しせいそう]:よい歯並び。/人生をよく咀嚼できる。
牙白相[げびゃくそう]:白く美しい犬歯。/私ごとの憤りが、公の憤りに高められる。
獅子頬相[ししきょうそう]:頬が獅子のように隆起。/厳しい人生を生き抜くたくましさがあり、人に安心感を与える。
味中得上味相[みちゅうとくじょうみそう]:すぐれた味覚。/最良の味感を有する。/経験を真底味わうことができる。
大舌相[だいぜっそう]:耳に達し、顔を覆うほどの長い舌。/一言ひとことが、永遠真実に契っている。
梵声相[ぼんじょうそう]:すばらしい声。/声も言葉も、まごころから出て深みがある。
真青眼相[しんしょうげんそう]:紺碧の海のように澄んだ青い瞳。/見る目が底光りして、見方に無限の深みがある。
牛眼睫相[ごげんせいそう]:牛のようなりっぱ乱れのないまつげ。/ものごとを素直に見ることができる。
頂髻相[ちょうけいそう]:髻[もとどり]のように頭の頂上の肉が隆起している。/どこまで測っても、如来の尊さや智慧の頂上は見えない。/智慧の高さは、測っただけは自分のものになっているが、測っても測っても先がある。
白毫相[びゃくもうそう]:眉間に白毛が右旋していて、常に光を発している。/白毛は老いの徳、右旋は順境を現わす。/智慧が自然[ジネン]で、常に人々を照らしている。/人生経験を通った具体的な智慧と慈悲がはたらく。/この相が三十二相の中心。
第二十二願 還相回向の願
設我得仏他方仏土諸菩薩衆来生我国究竟必至一生補処除其本願自在所化為衆生故被弘誓鎧積累徳本度脱一切遊諸仏国修菩薩行供養十方諸仏如来開化恒沙無量衆生使立無上正真之道超出常倫諸地之行現前修習普賢之徳若不爾者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。ただし、その菩薩の願によってはその限りではありません。すなわち、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏がたの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させようとするものは別であって、菩薩の通常の各段階の行を超え出て、その場で限りない慈悲行を実践することもできるのです。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
[ 別訳 / わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちがわたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至るでしょう。ただし、願に応じて、人々を自由自在に導くため、固い決意に身を包んで多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏がたの国に行って菩薩として修行し、それらすべての仏がたを供養し、ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させることもできます。すなわち、通常の菩薩ではなく還相の菩薩として、諸地の徳をすべてそなえ、限りない慈悲行を実践することができるのです。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。]

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生まれるであろう生ける者どもが皆、<この上もない正しい覚り>に向かうものであり、それを得るために<もう一生だけこの世に縛られているだけの身>とならないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。ただし、(それは)大いなる(誓願の)鎧を身にまとい、すべての世間の利益のために鎧を身にまとい、一切の世間のために努力し、一切の世間を永遠の平安(ニルヴァーナ)に入らせるために努力し、一切の世界で求道者(菩薩)の行ないを実行しようと願い、一切の目ざめた人々に恭しく仕えようと願い、ガンジス河の砂(の数)に等しい(無数に多くの)生ける者どもを<この上ない正しい覚り>に向って安定させ、さらにその上の行の実践に向かい、サマンタ・バドラ(普賢)の行を実現することに定まっている求道者たち・すぐれた人々のたもつかの特別な誓願を除いてのことである。

私の目覚めた眼の世界では、どんな世界にあっても道を求める人でも、私の国に生まれるならば、必ず目覚めた人になることが約束され、明るい人生を送ることができる。だがどうしても心の底から突き上げられる願いによって、人びとを迷いの世界から救おうと、目覚めた心を身にまとい、一歩一歩努力を積み重ね、この世の見せかけの幸せには目もくれず、目覚めた人の心の世界を尋ね、道を求める生活に徹し、目覚めた人の教えによって人びとを導き、この上ない心の世界へ共に手を携えて行こうと思う者には、その道を開いてあげよう。その人びとは、世間の見せかけの幸不幸に振りまわされることなく、目覚めた世界への道を着実に歩み、一切の人びとを救う働きを身につけるに違いない。もしそうならなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

三十二相といわれるような、深みのある立体的な人相は、一筋縄では追えんでしょうね。表は素直であっても、内心は逞しい。柔軟でやさしゅうなければならんが、また毅然として何ものにも譲らぬというしっかりしたものがなければ、こんな人相にはなれんでしょう。そこでこういう二重の事が一つの願に願われるという、複雑な願ができたのでしょう。一つの願の中に、二つの事柄が願われているのは、第十五願とこの第二十二願だけです。(中略)「補処」とは、仏処を補うといういうことで、仏の候補者ということですが、これは死んで仏になるというのではなく、この世に出て来たお釈迦さまの跡継ぎのことです。大体は弥勒菩薩のことを「補処の弥勒」というのです。弥勒菩薩は、現在五十一段の等正覚の位で、トソッ天で修行していますが、その一生が終って、今から五十六億七千万年後に、この世に生まれて仏となって、第二の釈迦になるといわれています。親鸞聖人は、念仏の衆生はその弥勒と同じく、一生補処の等正覚の位になることができるといっておられるのです。
「一生補処の願い」とは、聞いても聞いても性根に入らん、聞いた値打のさらにない、一生お育てに預かるより外に道のない私でございます。せめて命終った時になりとでも、お釈迦さまのような尊い身になりたいという願いのことです。それでは死んだらなれますか。そう受けとるから間違いになるので、なれるかなれんかでなく、なれてもなれんでも、一生お育てに預かろうという、現在の願いの深さをいうのです。願いが真実であればあるほど、宿業の底をくぐって、せめて一生終った時になりとでもという、敬虔な形をとって現われるのです。こういう敬虔な態度なら、柔軟な相が現われること請け合いでしょう。その態度のことを「往相」というのではないでしょうか。
第二十二願の後半は、親鸞聖人は「還相廻向の願」と呼んでおられます。しかしこれも昔の人が言っているような、死んで浄土に生まれて、一晩泊りでこの世へ戻って来て、衆生済度する、という夢のようなことではありません。心の眼の開けた後の、念仏生活のことです。それも信心決定したから、これから衆生済度という、高飛車に出る剛慢な態度のことではありません。そのことは浄土に生れたものは、一生補処の徳が与えられるが、これこれの願いのあるものは「除く」という形で、還相廻向の徳が誓われていることにも現われています。これは一生補処という敬虔な願いに生きるものだけに、与えられる徳であることを現われています。(中略)しかも一生補処の願いはこの願だけでなく、これからあとの願全体が皆、一生補処の菩薩の徳を開いたものだと思います。(中略)
ここで還相廻向は、「弘誓の鎧」を着て行われるとあります。弘誓は「本願力に乗ずる」ことでしょうが、鎧を着ねばならねのは、還相廻向の修行の容易ならん、命がけということを現わしているのではないかと思われます。その後の願文は、そのやり方の有様を明らかにしているのです。
「諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修する」とは、菩薩の行は唯だ諸仏の国に遊ぶことによってだけ行われることですが、「菩薩の行」とは、相手と自分が共に育つことです。(中略)「諸仏」とは、どこかにそんな人がおるのえはない。出遭う相手を人格として尊敬することです。(中略)「遊ぶ」とは、無心に行動することですが、「諸仏の国に遊ぶ」とは自分の我執や先入観のものさしで、相手を見るのでなく、無心に相手になり切ることであり、正しく相手を知ることです。(中略)
「十方の諸仏を供養し、無量の衆生を開化する」とは、「供養」は、恭敬供養ということで、「恭敬」は、自分の至らぬことを懺悔して、相手を敬うことです。(中略)供養は、それがそのまま、相手が自分で自重して、ますますその尊敬される心に応えようとする心が、自然に発こることです。「開化衆生」とは、本人が自分の欠点に気がついて、自発的に、自分で改めようとする心が発こることです。(中略)「無上正真の道に立たしめる」とは、自分の至らぬことに気がついて、人間らしいまことの人間になりたいという願いを発こさせることです。
「常倫に超出して、諸地の行現前し、普賢の徳を習する」とは、常識の道は一段一段、十地の階段を昇って行くのですが、念仏の道は常識の世界を超えて、十地の行のすべてが一歩一歩に顕現して、自ら普賢菩薩の徳といわれる、八地以上の徳が身につくことです。(中略)
「初地」というのは、きのう申しましたね。菩薩の修行の段階のこと。信、住、行、廻向、地と五つに分けて、その中の地はさとりの位ですが、それを十段に分けているので、初地というのです。十地は、初めの三地は、仏の眼が開けた時見える徳ですから、智地といい、中の四地は、徳を身につけてゆく段階ですから、行地といい、最後の三地は、徳が見について、自然に行われてゆく位ですから、徳地といっています。十地の行は、詳しいことは、今は言えませんが、かんたんに輪郭だけ話して見ましょう。
初地を「歓喜地」といいます。それは喜びが多いからといわれていて、龍樹菩薩は百ほど数えています。親鸞聖人も、その中からあらあらしたものを挙げておられますが、第一は主体性の確立です。今までとかく自己を見失い勝ちであった自分が、初めてしっかりと、大地を踏みしめて立った自己が誕生したことです。そして戸惑いしながら、手探りに歩いて来た人生が解った。人生観の確立です。孔子が「三十にして立ち、四十にして惑わず」といっていますが、そういうことでしょうか。仏教ではそれを、不退転地を得たといっていますが、その気持ちを親鸞聖人は、大きく二つにまとめておられるようです。一つはどんな苦難にも堪えて行く力を得たことです。(中略)もう一つは「諸仏の家に生まれる」ことを挙げておられます。(中略)「大無量寿経」では、自己の誕生と共に、さらに弥陀の浄土に生まれたことと、自己の世界が発見された喜びを説いています。
第二地は「離垢地」ですが、これは煩悩を離れることです。出家仏教では、欲を捨てよ、手を離せと教えていましたが、これは認識不足のために教えを誤まったのです。ラッキョは皮をはげば、中はからっぽですが、竹の子は皮をはげば、中に竹の芯があります。皮をはげば竹は枯れてしまいます。無理に皮ははがんでも、中の芯が成長すれば、用事はなくなれば、皮はひとりでにはげます。無我になれ、欲を捨てよと言わんでも、本当の我よ生まれて来い。本当の我が生まれて来れば、我執や欲はひとりでに離れることができるでしょう。歓喜地において、本当の我が誕生して来れば、人生観も価値観も、自から変って来るでしょう。(中略)
第三地は「発光地」です。これはこの世の存在するすべてのものの上に、そのものそのものの有っている、存在価値が見出せることです。(中略)
第四地は「炎慧地」です。これから行地ですが、これは炎の如く智慧が燃えるというのです。(中略)この世の尊さが解れば、いよいよ現実の人生がいやになる。そこでこの三昧の世界の浄土と、現実の世界の穢土との葛藤が始まって、内なる不可称不可説不可思議の浄土の功徳が、現実に形をとって現われようと、まごころの智慧が炎となって燃えることです。この地は意識される粗ましな我執を破るといっています。
第五は「難勝地」です。どんな苦難にも堪えて行くことのできる修行です。(中略)これはすべて人生大学の高い授業料だと、受けて行くことではないでしょうか。この地では意識にのぼらない細やかな我執を砕いて行くといっています。
第六は「現前地」です。この現前は諸仏現前です。そしてこの地は粗い法執を破って、浄土の徳が現われるといっていますから、わしはいついつご信心もらったとか、わしはもうさとったとかいっていても、いやな相手に出遭うと、今までの信心もさとりも砕けてしまって、改めて聞き直さねばならなくなる。常に自己の運命を開拓し、新しい人生を創造してゆく、道の第一歩に立って、これからこれからと、出遭う人ごとから、教えを受けてゆこうとすることではないかと思います。
第七地は「遠行地」です。今までの解釈は、これまで一大アソーギ劫、二大アソーギ劫と、永い修行に耐えて、ようやくここまで来たものであると、ほっと一息ついた境地であるというのです。しかしそれでは遠来地といわねばならぬでしょう。私はこういう受け取り方を龍樹菩薩が「七地沈空の難」といって、「菩薩の死と名づく。地獄に落ちたよりももっと悪い」といっているのではないかと思って、(中略)「この五十二段を最初に説かれた人は、将来に向かって、目指す目的の仏までやるぞという、希望的に説かれていたものを、後から出てきた菩薩方は、そこまで信が深くなかったから、こんな解釈をしたのでしょうか」と申しましたら、「そうかも知れん」といわれましたが、これは仏教徒にとって重大な問題だと思います。(中略)
第八地は「不動地」です。この第八地から第十地までは、徳地といわれて、徳が身について、そうしようと意識しなくても、ひとりでに生活の上に徳が現われる位といわれています。聖徳太子は、七地までは自分で、自分の意識によって行動するのであるが、これからは自分で、自分がしようとしてできないが、自分の意志を超えて、自然に行われる位であるといっておられます。(中略)この地の人は「身土自在」の身となるといっていますから、常に相手と一つになり、相手の気持ちが解り、相手の世界が理解できる。それによって相手も自分を信頼し、自分の世界も理解できる徳が具わることでしょう。(中略)
第九は「善慧地」です。この地の人は「説法自在」といわれていますから、相手を教えるのにその時その時に善い智慧が生まれることでしょう。どうでしょうか。あなた方、朝から晩までの間で、生きた言葉が多いですか、死んだ言葉が多いですか。生きた言葉とは、池に石を投げるように、すうっすうっと相手に受け入れられます。(中略)言葉が生きて相手に通じるか、死んで撥ね返されるかは、第一に言葉以前に、自分の姿が相手にどう映っているかによって決まるのです。(中略)第二に、たとい相手に好感を持たれて、自分の姿が相手の胸によい感じで映っていても、「ものも言いようで角が立」ったり、その時の相手の気持ちが解らぬと、言った言葉が撥ね返されます。(中略)
第十地は「法雲地」です。これは「三業自在」の徳といっていますから、内にある不可称不可説不可思議の功徳が、全身の毛孔から、入道雲の湧き立つように現われることでしょうか。これは徳が身について、意識しなくても、自然に生活に現われて、言うことなすことが悉く法にかのうて、周囲の人に感化を与えることだと思います。ここまでくれば、五十二段の仏の徳と等しいというので、その最後位を「等正覚」ともいっています。
「諸地の行現前す」とは、これだけの徳が、念仏の中に自然に与えられることです。それを「普賢の徳を修習する」といっていますから、私はこの願を「修普賢の願」と呼んでいます。

すなわち、浄土真宗とは、どういう教えか、言葉を変えれば、本願の名号にはどのようなはたらきがあるのかということを、親鸞聖人は、往相(浄土に向かう相)と、還相(この世にかかわる相)にわけて明らかにしてくださったのです。そして、私たちを浄土に生まれさせるはたらき(往相廻向)の中味がどうなっているかというと、真実の教・真実の行・真実の信・真実の証になっていることと、それらがすべて阿弥陀如来の大悲心よりあたえたもうものであることを明かし、さらに、苦しみ悩む人びとを浄土に導く力をあたえるというはたらき(還相廻向)は、一生補処という最上位(利他教化地)の菩薩の上に具現するものであり、それは、第二十二の願(必至補処之願)からでてくるはたらきであることを教えてくださるのです。
この往相廻向と還相廻向のはたらきを有する本願の名号に帰順する相[すがた]が信心であります。その信心の中味は、浄土に向って、この人生を力ぱいあゆもうという心(願作仏心)と、苦しみ悩む人びとを浄土に導こうという心、すなわち衆生を済度しようという心(度衆生心)です。
さらに、この人生を浄土に向って力一ぱいあゆもうという心(願作仏心)は、
一、目に見えぬ方々から護られる生活(冥衆護持の益)
二、この上もなく尊い功徳が身にそなわる生活(至徳具足の益)
三、罪悪を転じて念仏の善と一味となる生活(転悪成善の益)
四、諸仏に護られる生活(諸仏護念の益)
五、諸仏にほめたたえられる生活(諸仏称讃の益)
六、阿弥陀如来の光明につつまれて、つねに護られる生活(心光常護の益)
七、心が真のよろこびに満たされる生活(心多歓喜の益)
八、如来のご恩を知らされ、報謝の生活をする(知恩報徳の益)
となって具現し、苦しみ悩む人びとを浄土に導こうという心(度衆生心)は、
九、如来の大悲を人に伝えることができる生活(常行大悲の益)
となって実践されるのです。このような信心(願作仏心・度衆生心)の生活が、そのまま、
十、やがて仏になると定まった正定聚の位に入る生活(入正定聚の益)
なのです。すなわち、一生補処という最上位の菩薩の生活なのです。(中略)
普賢の「普」は、普く十方世界に、教化がおよぶということであり、「賢」は相手の身に順応して善に導くということです。親鸞聖人は、普賢に左訓して「だいじだいひをまうすなり」とお示しくださっています。ですから、「普賢の徳」とは大慈悲心をもって十方衆生に真実の利益をあたえることであります
南無阿弥陀仏の廻向(はたらき)によって、菩薩の最上位(一生補処)に至らせて頂いたものは、本願に護られ、ささえられて、十地の菩薩の行を行じる身、すなわち「普賢の徳を修める」身にして頂くのです。
このことを誓ってくださったのが、「還相廻向之願」、すなわち第二十二の願であります。親鸞聖人は、この願の意をよろこばれ、
安楽無量の大菩薩
一生補処にいたるなり
普賢の徳に帰してこそ
穢国にかならず化するなれ(浄土和讃)
還相の廻向ととくことは
利他教化の果をえしめ
すなわち諸有に廻入して
普賢の徳を修すなり(高僧和讃)
と、嘆じておられます。
ところでこの願成就の文は、
仏、阿難につげたまはく、かのくにの菩薩、みなさまさに一生補処を究竟すべし。その本願、衆生のためのゆへに、弘誓の功徳をもてみづから荘厳して、あまねく一切衆生を度脱せんとおもふをばのぞく。
となっております。浄土に生まるべき信心の人を菩薩衆と呼ばれまして、他方仏土の諸の菩薩衆、我が国に生まれた者は究竟して必ず一生補処に至らん。一生補処ということは、もう一転すれば、仏処を補うということでありますから、そういう菩薩にならしめようという御本願です。「除く」ということがわからぬとよく言われますが、これから下はいわゆる還相廻向の願文であります。昔からの見方は、この願は必至滅度の願というのであります。聖人は「また一生補処の願ともなづく」とありますが、最後に「また還相廻向の願ともなづくなり」とあります。これは全く親鸞聖人が名づけられた願文でありまして、つまり菩薩の極位の一生補処ということよりは、そのあとの「除」以下の還相廻向ということが、この願の主な目的であるとみられたのが、親鸞聖人が還相廻向の願となづくなりとおっしゃった意味であります。(中略)
そのほか「正像末和讃」をお開きになると、一生補処の菩薩にならしめていただいたということを信心の喜びとして喜んでおられるのが聖人でありまして、一生補処に至らしめられることは当益ではなく、この世においていただく現益であると知らされているのです。真宗で六波羅蜜の行というものは自力の修行であるから関係ないもののようによく言いますが、そうではなくして、信心をいただけば自ずから、布施の行ができてきたり、持戒・忍辱・精進・禅定・智慧というものが自分に行なえるようになってくるのであって、そうならしめねばおかぬということが菩薩の行を修するということであるようであります。

人がある考えを持っているのに対して、そんな馬鹿なことがあるものかと、その人の考えを打ち壊し、俺だけが賢いとする、それは普賢ではなく殊賢になるわけであります。また自分に対して害を加えるのは怪しからんというのは、自分だけよい者になっているのであり、独善ということになってくるのであります。何でもないことでありますが、これだけのことがわかってくると、普賢ということが非常に親しく考えられてくるのであります。誰に対しても、どんな考えを持っておいでになる人に対しても、どんなふうに自分にぶつかってくる人に対しても、自分の胸を開いてそうしてその人の考えを聞き、その人が怒るならばその怒る所以を聞き、その人が害を加えるならばその害を加える所以を考えてみる、そこに広々としたやわらかい一つの胸が開けてくるのであります。そこに普賢という文字の味があるのであります。
だから普賢の行というのは何であるかといえば、すなわち供養諸仏・開化衆生であります。第一に普賢であるから供養諸仏にちがいない。たとえばさびしがっている人があるならば、そのさびしがっている人を尊敬するのであります。(中略)すなわち寂光如来が見出される。それがすなわち普賢であります。しかし殊賢の人には、そのさびしい心持ちは諒解されません。それで、さびしいなどというのは信仰がないからであると片づける。それでは普賢でなく殊賢になってしまうのであります。(中略)
そういうふうに、人生に随順していくということはどうしてできるか。それははじめから人生というものに引き廻されている者には、おそらくできることではないでしょう。それからまたいたずらに理想を追って、どこまでも悪を離れ善に進まなければならないというような、理想主義的な立場でも、おそらくほんとうのことはわからないでしょう。ここに理想の返照ということを思うのであります。(中略)善に誇らず、悪にも染まらず、すべての人が、悪人は悪人ながら頭が下がり、善人は善の誇るに足らないことを懺悔するところに、善悪すべてがそのままに照らされ、差別のまま平等の光に照らされる。そういうような一つの天地に出て、はじめて人生随順ということが出てくるのであります。(中略)
苦しいから助かりたいというならば、ただ仏の御慈悲を仰ぐということでよいかもしれない。また苦しいから助かりたいというのであれば、どうして浄土へ往生するということが出てくるか。われわれが助かりたいと思う心をひとつ反省してみると、われわれのこの助かりたいという心の底に、もうひとつ裏を返せば、そこに助けたいという深いものがあるのではないだろうか。(中略)助かりたいという心の起るときに、助けたいという如来の本願をわれわれが感じていくのである。したがってその如来の本願を領受し、本願の浄土に生じて見れば、われわれもまた助けたいという如来の本願に参加しその如来の本願と一味になるのである。それがすなわち還相であります。(中略)
自分が高い所へ立って多くの人を見下して、法を説いて聞かせるということが、一切衆生を助ける願いを満足する方法であるかというと、そうではない。その方法は「供養諸仏」ということである。さきほど申しましたように、十人あれば十人の仏が在します。百人あれば百人の仏が在します。その諸仏の国に遊んで菩薩の行を修して、十方の諸仏如来を供養するのでありますが、(中略)供養諸仏こそほんとうに衆生を救うところの方法である。こういうことはわれわれのような僧侶とか、ことにみずからある信を得たと信じている信者というような人にとって、もっとも意味の多い教訓であると思うのであります。われわれは人にものを教えるということは到底できないのである。ただそこに供養諸仏という一つの道があるのであります。(中略)
善をしていかれる人には善をして行かれる人の心持ちになる。欲のある人には欲のある人の心持ちになる。そうしておのおのの道、おのおのの問題を開いていくのであるから、開化衆生は己の道に入らしめるものではなくして、その人その人の道を開いていくものである。そういうところにほんとうに広大な天地が出てくるでありましょう。(中略)
だから初めに法の発見、つぎに人の訓練、最後の三つは人法合一、または人法融一でありまして、自然の大道に合して、意の欲するとことに従って矩を踰えずという自然の大道が現われてくるのであります。(中略)以下すなわち第二十三願以下の本願は、ある意味において、「必至補処の本願」を開いたものでありまして、もうすこしくわしく展開することで、第二十二の願が徹底するように、と誓われたのであります。
第二十三願 供養諸仏の願
設我得仏国中菩薩承仏神力供養諸仏一食之頃不能遍至無数無量那由他諸仏国者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、仏の神力を承けて、諸仏を供養し、一食のあひだにあまねく無数無量那由他の諸仏の国に至ることあたはずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が、わたしの不可思議な力を受けてさまざまな仏がたを供養するにあたり、一度食事をするほどの短い時間のうちに、それらの数限りない国々に至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生まれるであろう求道者(菩薩)たちが皆、朝飯前の(僅から)時間に他の諸々の仏国土に行って、数百の多くの仏たち(諸仏)、数千の目ざめた人たち、数百千の多くの目ざめた人たち、数億の多くの目ざめた人たち、さらに、数百千億・百万の多くの目ざめた人たちに至るまで、楽しみを生ずるために必要なあらゆる種類のものを以て供養すること――それはすなわち仏の威力によってそうするのであるが――ができないようであったなら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、道を求めようとする者はみな、目覚めた心とのめぐりあいによって、目覚めた世界に生きようと願い、食事をするような短い時間にも、あらゆる目覚めた世界を味わえなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

同じ短い間にということを現わすのに、精神的な菩提心とか信心という時には、必ず「一念」とか「一発意」といい、生活を現わす時には「一食」といっていますから、ここでは日常生活のことをいっているのでしょう。天親菩薩はこれを「一念に遍く至る」とか、しかも「動かずして至る」と解釈しておられます。したがってこれは一人ひとりの前に行って供養することではなく、心に念ずることでしょう。「無数無量ナユタ」とは、「阿弥陀経」には、「十万億」とあり、前の願には「百千億ナユタ」とありましたが、これは全人類ということでしょうから、自分の日常の生活が、全人類を念じて行なわれることだろうと思われます。龍樹菩薩は、浄土の菩薩は、「衆生のために、手を動かし足を動かさず。十衆生のためにせず、千衆生のためにせず、唯だ一切衆生のためにだけ、手を動かし足を動かす」といっています。それで私はこれを「行心普遍の願」と呼んでいます。(中略)
「三界はわが有なり。その中の衆生は皆わが子なり」という、仏の心を念じて生活をすれば、いつの間にか、顔が仏の人相に似てくるに違いないでしょう。反対に坐っているポストは大臣や市長であっても、その心根がわが身のためにしているのなら、顔もそういう顔になるに違いありません。法蔵菩薩は「十方の世尊は智慧碍りましまさず。常に我が心行を知ろしめして下さい」といっておられます。
この願は、生活の心根は、常に全人類を念じ、歴史を背負うことでしょうが、一人ひとりの人に対しては、誰に対してもえこひいきがない。どんな人をも尊敬できるようにということでしょうか。そうすればこの願は、「人格平等の願」とか、「歴史荷負の願」ということにもなります。

阿弥陀如来のみ教えに遇って、ものの見方が正されてくるとき、私たちは、自らの周りに「何と多くの仏さまがおってくださったことよ」と驚かずにはおれません。
親鸞聖人は、信心の行者が、この世で頂くご利益(現生十種の益)の四番目に「諸仏に護られる生活」(諸仏護念の益)をあげてくださっています。聖人がよろこばれた、この「諸仏に護られる生活」の具体的なあり方が、この第二十三の願に誓われた諸仏のご恩をよろこび、諸仏をおうやまいする諸仏供養の日暮らしであります。
周りの人に、不平不満・不足の思いで交り、周りの人に、ややもすると馬鹿にしたような態度で接してきた私たちが、阿弥陀如来の威神力、すなわち、私たちの悪業煩悩をこっぱみじんに打ち砕いてくださる南無阿弥陀仏のおはたらきによって、周りの人を諸仏とあがめ、尊敬して日暮ししていく身に仕上げられるのです。それも、きわめて短時間のうちに、無数の国国の人たちのご恩をよろこび、おうやまいする諸仏供養の生活のできる身にしてやりたいと、この第二十三の願は誓ってくださっているのです。(中略)
「きわめて短時間のうちに」は、漢文で、「一食之頃[いちじきしきょう]」と書かれています。「一食之頃」とは、食事をする間にということです。日本では、いとも簡単なことを「朝飯前[あさめしまえ]」といいますが、「一食之頃」とは、この「朝飯前」ということです。諸仏のご恩をよろこび、諸仏をおうやまいするという至難のことが、仏の威神力、すなわち南無阿弥陀仏のおはたらきによって、いとも簡単に、文字通り「朝飯前」にできるといわれるのです。また、すぐに人を選別したり、好き嫌いのはげしい私たちが、仏の威神力によって、すべての人びとを平等に尊敬する身になるといわれるのです。すなわち、人間を差別しない人間、一人ひとりの生命の尊さに目ざめる人間にしてあげようと誓ってくださったのが、第二十三願なのです。

供仏(供養諸仏)は度生(済度衆生)のためであり、度生することはまた供仏することになるのです。この供養諸仏の願成就の文は「大経」の下巻にあるのですが、
仏、阿難につげたまはく、かのくにの菩薩、仏の威神をうけて一食のあひだに、十方無量の世界に往詣して、諸仏世尊を供養したてまつらん。
と書いてあります。御飯を食べる暫くの間に、あらゆる諸仏の世界へ行ってその仏を敬うて供養することができる。(中略)
少なくとも六十年間親鸞聖人は知らず識らずに諸仏供養をすることが自由にできて聞法しておられるのです。諸仏といっても、絵に書いてあるような仏でなくして、七高僧の教えを蒙られるということも、さらに、あらゆる見たり聞いたりすることもはいるだろうと思うのです。聖人が六十年間、仏の神力によって諸仏を供養してますます聞法をし、だんだん自分というものの徳をふやしておいでになったのは、気張られたのではありません。信心の者には、それを自由にやらせずばおかぬという願力によって、御信心の喜びが深まり、供仏の心から法がだんだんわかってきて、それが深くなり広くなって自分の徳がいよいよ向上してゆかれたのでしょう。これが死んでからでなくして、親鸞聖人でも蓮如上人でもその御一生の上にみることができるのであります。

供養諸仏という心持ちが、私にはかなりわかってはきました。こうやって皆さんにお話しするのも供養諸仏でありますが、しかしその一念偏至すなわち一念の間に平等に尊敬することができるかできないか、こういうことになると、これまた問題である。どうも私は真面目な人は尊敬することができるけれども、不真面目な人は尊敬することができないというような癖がある。ちょうど学校の先生にしても、優等生は敬意を払って導くけれども、低能児は放って置くというような心持ちと同じようなことが、われわれの上にいつでも働く。どんな人にも、どんな人の心の中にも真面目なものがある。どんな人の心にも仏が在しますということはわかっていながら、実際その人に接すると、つい軽蔑するというような心持ちが出てくる。すなわちこの供養諸仏の精神が平等であるということは、事実上容易なことでない。それが仏の神力を承けて、われわれはその人の差別を見ないで、ただ一心に仏を念ずることによって、一念の間に十方無量無辺の諸仏を供養する。われわれは仏を念じ合掌念仏することによってのみ、ほんとうに平等に諸仏を供養することができるのである。
第二十四願 供養如意の願
設我得仏国中菩薩在諸仏前現其徳本諸所欲求供養之具若不如意者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、諸仏の前にありて、その徳本を現じ、もろもろの欲求せんところの供養の具、もし意のごとくならずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩がさまざまな仏がたの前で功徳を積むにあたり、供養のための望みの品を思いのままに得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土にいる求道者(菩薩)たちが、黄金や、銀や、宝石や、真珠や、瑠璃や、螺貝や、石や、珊瑚や、水晶や、琥珀や、赤真珠や、瑪瑙[めのう]などのうちどれか一つを以てでも、あるいはあらゆる宝をもってでも、あるいはまた一切の花や、薫香や、花かずらや、塗香[ずこう]や、抹香や、衣服や、傘や、幢や、幡や、燈明や、あるいはまた、あらゆる踊りや、花や、音楽などの、どのような形のものを以てしてでも、(仏を供養して)善根を植えようと願った時に、このような形のものが、かれらがその心をおこすと同時にあらわれて来ないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた世界では、道を求めようとする者はみな、目覚めた人の導きを受けて、その素晴らしい働きを身につけ、その日常生活がすべて目覚めた人と同じにならなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

問題はものではなく、まごころです。「搗[つ]いた餅より心持」というでしょう。要は相手に喜んでもらい、相手が満足することです。
有名な話ですから、皆さん聞いておいでるでしょうが、ツルゲネーフが散歩に出た時、年老いた乞食が、寒い風に吹かれながら、道端に坐って、ものを乞うていた。ツルゲネーフはポケットをさぐったが、生憎お金を持っていなかった。つかつかっと歩み寄って、老乞食の手を執って、「おい兄弟よ、生憎お金を持っていないんだ。気の毒だな。風邪を引かぬように」といったら、老乞食は「旦那、何よりの施しを頂きました」と、涙を流して喜んだということです。お金をくれても、まるで犬や猫に投げ与えるようにしてくれたのでは、心は救われません。人はまごころに飢えているのです。「おい兄弟よ」と、人間として扱い、温かい言葉をかけてくれたことが、老乞食を満足させたのでしょう。
そのことは裏からいえば、いつも私たちは生活を通して問われているのです。「さあ、この問題をどう答えるのか」、「さあ、ここでお前はどう生きるのか」。私たちの生活の場は、いつも試験場です。高校や大学の試験は、再試験が効きますが、人生の試験はまったなしです。子供が怪我をした。さあどうするか。夫が外へ女をこしらえた。さあどうするか。そこはいつも、私の一生ではない。過去幾千万年の祖先より承けついだ全ゆるものが問われる場所です。私はこれを「今ここに生きる、久遠のいのち」といっています。ここではそれを「その徳本を現わさんに」といっているのではないかと思います。それでまた私は「行為創現の願」とも呼んでいます。

諸仏(私を生かし、育んでくださる人びと)をおうやまいすることにおいて、自らの身心はより豊かに育てられていくのです。
周りの人を馬鹿にしたり、見下すことによって、自らの心はやせ細り、身は荒れはてていきます。(中略)
周りの人を差別することなく平等に尊敬し、ほめたたえるといっても、周りの人にすべて同じことをし、同じ言葉をかけることではありません。私たち一人ひとり、顔が違うように、思いも違います。また、同じ人でも、若い時と年老いてからは、その思いも変ってきます。差別することなく平等にといっても、同じようにして接すればということではありません。おうやまいの心をあらわす品にしても、相手の人によって変ってくるのが当然でしょう。また、ほめたたえる言葉にしましても、相手によって、自[おのずか]ら違ってくるでしょう。
相手の思いを無視して、自分の思いのおしつけでは、それがどれほど高価な品であろうと、また丁重な言葉であろうと、供養、すなわちおうやまいにはなりません。
供養は、相手の思いを大切にすることによって成り立つのです。
ですから、供養をしようとするとき、私たちは、相手の思いをしっかり受けとめ、相手の望む品をささげて、おうやまいの心をあらわすことが本当の供養です。
「望みの品を意のままに得」させてやりたいと誓ってくださった阿弥陀如来のお心は、私たちに、相手の心を無視したやり方でなく、相手の心にそうような供養のできる身にしてやりたいというところにあるのです。
相手の心を精一杯くみとり、相手の心にそうように、精一杯努力するとき、どれほど粗末な品でも、相手をおうやまいするに最もふさわしい品となって現前することでしょう。
もし、たとえ何一つとして供養の品がなくとも、南無阿弥陀仏を称えることによって、どのような品をささげるよりも素晴らしい供養ができるのです。
すなわち、「望みの品」以上の素晴らしいものが、南無阿弥陀仏によってあたえられるのです。親鸞聖人は、
阿弥陀の三字に一切善根をおさめためへる故に、名号を称ふれば浄土を荘厳するになると知るべしとなり(尊号真像銘文)
と、南無阿弥陀仏を称えることをたたえられています。すなわち、名号を称えることは、一人ひとりを尊敬し、ほめたたえるだけにとどまらず、諸仏の住む世界(浄土)を最高に飾りたてることになるといわれるのです。
第二十四の願において、阿弥陀如来は、一人ひとりの心を大切にしていくことによってのみ、本当の供養のできることを明らかにし、念仏申すものを、その実践者にしてやりたいと誓ってくださったのです。

今何もないけれども死んだらある。こういってそれで済むようなら非常に簡単ですけれども、それでは全く何の意味もない。それが現在の上からあるのだ。ありがたいということで、現在においてそうなるのだから、進んで行けば進んで行くほどそうなるに違いないのであります。
それから前にもお話したことがありますように、真宗は不二の法門です。これは「証の巻」にありますように、生死即涅槃という。涅槃というは死んでから仏の国へ至って煩悩がなくなって涅槃の月を見る。こういうけれども、死んでからばかり喜んでおるのでなくして、結果というものと原因というものとが不二、二つでありますけれどもそれは一つであるというのを、因果不二というのであります。不二の徳にいろいろありますが、因果不二、染浄不二、生死即涅槃・煩悩即菩提というようなことで、そういう不二という味わいを得させてもらうということが、仏の御教えであり、法の徳というものであります。そういうことを聖人がちゃんと味わわれているのであります。(中略)
そこで、経文の上をみますと、下巻に、
心の所念にしたがひて、華香・伎楽・ゾウ蓋・幢幡、無数無量の供養の具、自然化生して念に応じてすなはちいたる。
欲しいと思うと直ぐにそこへ出てくる。こういうことを書いてあるのですが、どうもこの意味もはっきり言うことが難しいのですが、梵本にはもう少し詳しく出ています。
是の如き華、焼香、燈、香(沈香、白檀等)、鬘(髪飾り)、塗油(仏を供養するときに用いるもの)、香粉(香ばしい粉)、衣服、傘蓋[さんがい](華傘[けさい])、幢[どう](はたぼこ)、旛[ばん]、旗、楽器、合奏、音楽を以て、供養せんと発念[ほつねん]せば、其[それ]発念と倶[とも]に、其一切供養の諸具は手中に出現し(手の中に現われてきて)彼等は其華乃至音楽を以て其諸覚者世尊を供養し無量無数の善根を集むるなり。
仏を敬って御供養申し上げることが善根でありますから、その善根によって自分の心に法が聞えてきて、だんだん自分がふとっていくというわけです。

前のはすべての人を平等に尊敬するということでありましたが、この第二十四願では平等に尊敬すると同時に、感情としては一人一人ちがう。十把一束ではない。女の人に対しては女の人、若い人に対しては若い人、お年寄りに対してはお年寄り、一人一人みんなちがう。言葉だけでははっきり言い現わせないけれども、それだけ申せば、私の心持ちを受け取ってくださると思うのであります。さきほど申しましたように、自分でちゃんと型を造って、みな自分のところへ手繰りよせというのでは、十把一束になってしまう。われわれは体を別にしてこの世の中に生れている。だから一人一人の人の心持ちは同じではない。甲の人は、死ぬと思うとどうも切ないという。乙の人も、死ぬと思うと切ないという。けれども甲の人が切ないというのと、乙の人が切ないというのとでは、あきらかに内容がちがうにちがいない。それはけっして同じものではない。その同じものでないところに相応していく、そこに供具如意の意味があるのであります。
第二十五願 説一切智の願
設我得仏国中菩薩不能演説一切智者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、一切智を演説することあたはずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩がこの上ない智慧について自由に説法することができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生まれるであろう生ける者どもが皆、<一切を知る智>(=仏の智)をともなった法話を話し得ないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、道を求めようとする者はみな、自分の迷う姿を明らかに映し出す目覚めた眼によって、人びとを教え導くということがなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

第二十二願からの流れを見ると、ずっと「諸仏を供養する」ことが貫かれています。それは「衆生を開化する」ことと、同時に自己を完成する道です。(中略)
経には「一切智」のことを、「一切種智」ともいっています。私はこれは血の中に宿された、過去幾千万年の一歩一歩の日暮しの経験を通して、人生そのものをさとった、体験としての智慧のことではないかと思っています。(中略)
ここに「演説する」とありますが、これは覚えたり知っておることを、口の先、頭の先でしゃべるのではなく、身業説法、体当たりの身を以ての説法、いわゆる捨て身の体当たりで事に当ってゆく。自己の全人格を生きることではないでしょうか。(中略)
禅宗に「全機現」という言葉がありますが、まさにこのことと思います。
しかも自己は虚心で、「我生きるにあらず、如来、我れに来たって、我れを生きるなり」。「仏の神力を承けて」の菩薩行です。この生活態度が出てくれば、出遇う人ごとから法を聞くことができるでしょう。大工さんに遇えば、大工の道を、画家に遇えば、絵の道を、碁打ちに遇えば、碁の道を、学者に遇えば、学問の道を。相手はこちらの命がけの求道精神に打たれて、その道の奥義を何でも、惜しみなく説いてくれるでしょう。もちろん、絵描きになるのでも、碁打ちになるのでもない。人生を聞くのです。「全ゆる道はローマに通ずる」で、どんな道でも、その根底は皆仏道につながっているのです。「説くは聞くなり」で、全身全霊を打ちこんで生きれば、山も説法し、川も説法し、日々人生勉強ができます。私はこの願を「人格全現の願」と呼んでいます。

「無上の智慧」は、自らの思いや都合、すなわち、自分の色を全くつけないことによって恵まれるのです。すべての人も、ものも、自らの生命を精一ぱい表現し、私たちに語りかけています。それをそのまま受けとめることによって「無上の智慧」は開かれるのです。(中略)
上手に話そう、偉い人だと思われたい、何が何でもウンといわせてみせよう等の思いに執われているようでは「自在の説法」など、出来るはずがありません。
自らの経験や学習したことを絶対視して、相手に御しつける知識の世界では、「自在の説法」は成立しません。
相手が目で、態度で語りかけてくるところを、そのまま受けとめ、自らが法に遇ったよろこびを、自らの人生を通し、自らの言葉で語っていくとき、「自在の説法」が実現するのです。
「無上の智慧」が「自在の説法」を開くのです。この「無上の智慧」をあたえ、「自在の説法」をする身にしてやろうと誓ってくださったのが第二十五の願です。

仏の思召しを、仏の心の智慧を得て他の者に演説をして、他の者を教化してそうして他の者を助けるということをする。だからこれも死後の問題ではなくして、ここへくると大分わかってくるのです。一切智という仏の智慧を自分にいただいて、そうしてそれを説くことができなかったら我は仏にはならぬ。必ず一切智を持ちながら、仏の心を十分に話すことができるようにさせてやりたい。即ち下化衆生の念願が自在に果たせるようにならしめたいということであります。それを願成就の文には、
仏、阿難にかたりたまはく、かの仏国に生ずる諸菩薩等、講説すべきところにはつねに正法をのべ、智慧に随順して違[い]なく失[しつ]なし。
とあります。ただ物質的に幸せになるというだけで喜んでおるのは人間でありますが、他の者を化することを目的にするのは菩薩であります。それは話さなければならぬときには常に正しき法を宣べ、こういうときにはこういう話をしたらよい、こういうときには話はしない方がよいということがわかって、自分の智慧に随ってしかも違うことがなく失錯[しっさく]がない。仏が人間の根機相応にお説きになるように、仏のなされ方に順じてこの菩薩方も一切智を話していかれる。

われわれは外国からきた物理学や数学を学んでいるのですが、そういう自然科学というものにも、仏教精神をもって見開いていくべき点があるはずであります。(中略)
行学解学ということは善導大師の言葉ですが、往相の行学、すなわちわれわれは願往生のためには、「本願を信じ念仏申せば仏になる」その道理を学ぶ。念仏申すほか何もいらないのであります。けれども、環相の解学としては、花を活ける人の話を聞けばその花を活ける道があります。茶の湯をする人の話を聞けばその道があります。そこに一切智があるのでありまして、そうすれば茶の湯をする人には茶の湯の道から願往生の道が開けてくるにちがいない。そういうことで、われわれはもうすこし胸をひろくして考えることはできないでしょうか。一切智は何でも知っているというけれども、そうではない。おのずからそこへ何でも現われてくるのである。何でも領解されてくるのである。つまり聞くのです。
第二十六願 得金剛身の願

設我得仏国中菩薩不得金剛那羅延身者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、金剛那羅延の身を得ずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が金剛力士のような強靭な体を得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
金剛那羅延の身:金剛とは堅固なこと、那羅延とは力強い天界の力士の名。すなわち、何事にも破られぬ、堅く力強い身体をいう。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生まれるであろう求道者たちが皆、ナーラーヤナ神が金剛で打つような強固な体や力を得るようにならないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、道を求めようとする者はみな、どんな狭い心の持ち主をも、投げ飛ばし、目覚めさせる巨人のような力が発揮されなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

この願は、「自信成就の願」といってよいでしょう。しかしその自信は、常に諸仏を供養し、全人格を挙げて事に当って行く、絶えざる求道精神の外にはありませんから、その内面の徳からまた「道心堅固」とか、「道心不退の願」といってもよかろうと思います。
私が若い頃、広島の郊外の寺で、院代を勤めていたことがあります。門徒の人がなかなか寺へ参って法を聞きませんから、文書伝道を思い立ち、毎月ガリを切ってリーフレットを発行し、四百五十戸の全門徒へ配っていました。(中略)寺を出る時、門徒から何の報酬も受けなかったですが、その間よい人生勉強をさせていただきました。したことは何も残らなかったか知れませんが、私はしたことによってかけ代えのない尊い宝を身に得ました。どこへ投げ出されても、裸一貫、どこででも生きてゆけるという、力強い自信がつきました。ちょうど書や絵を習うのと同じようなものです。書いた紙は破れてなくなっても、書いたことによって、身についたものが残る。人生はすべてこの通りだと、さとりました。

国内の菩薩とは、先の第二十二の願のところでも述べましたが、お浄土に籍を置く信心の人のことであります。それは正[まさ]しく阿弥陀如来の変ることのない「まこと」をよりどころに生きるもののことであります。(中略)
意志が弱く、見通しもきかず、自分中心にしか生きることのできない私たちは、本当の意味での自信をもつことができません。それで、どうしても、権威に弱く、権力に頭が上がらず、他人の目におびえ、迷信、俗信にさえビクビクせざるをえないのです。
本当の自信は、確固たるよりどころをもつことによってはじめてあたえられます。

どんなものにも負けないような力を、ここにはわかりよいように身体力で顕してありますが、これは身だけのことではなしに、心のことでしょう。正しく大事なところは心でありまして、一切智を演説することが自由であるのみならず、それが他のいろいろの思想や説によって動揺をするということがなく、即ち傷つけられるということがなく、むしろ他の間違った思想というものをぶち砕いていって、その人を済度するということです。ちょうど力士の身に金剛力があるように、非常に強い精神力をもってやっていけるようにさせてやりたいということであります。親鸞聖人のあの深い広い思想といい、蓮如上人のあの活動といい、他のどんな間違った思想をも打ち破ってゆかれたればこその一宗が繁昌して、今日の人々までも化益されることができていると思うのでありますが、そういう力を与えずばおかぬ。これによって供仏の願いを果たさせたいがために、また度生の願いを果たさせたいがためにその二つの願をお誓いなされて、この四つの願で、菩薩のお仕事としての供仏度生ということを成就したのです。本人に力がなくても、願力としてこういう生活と、こういう能力を得させずんばおかぬということで、二十二願の普賢菩薩のように利他の念願をもって自分の喜びとされたわけです。

自分で考えていること、学問で得たことを自信と申しますけれども、私はそういうものは自信ではないと思う。自信というものはすべての人に同感し、そうしてすべての人に道を開いていくところにある。そこにはじめて自信力というものが出てくる。すなわちそれは不退転の精神であります。自分の心の中にある煩悩、外から誘惑される障害、そういうものをすべて征服して、内外の誘惑というものにわれわれが動かされない。そういう一つの心の力というものを感じるのであります。(中略)
普賢の精神は一面において非常に柔らかである。何物をも受け入れて、誰にもやさしく、先刻申しましたように、瞋[いか]らない心であります。けれどもその柔らかい心というのは柔弱な心ではない。その心は柔らかいと同時に金剛那羅延身である。そこには深い自信力がありまして、何物にもけっして征服されない。自分で行くところの道をあきらかにして、しっかりと踏みしめて一歩も退転しないところの金剛那羅延身というのが、往生人には与えられるのである。
第二十七願 万物厳浄の願
設我得仏国中人天一切万物厳浄光麗形色殊特窮微極妙無能称量其諸衆生乃至逮得天眼有能明了弁其名数者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、一切万物、厳浄光麗にして、形色、殊特にして窮微極妙なること、よく称量することなけん。そのもろもろの衆生、乃至天眼を逮得せん。よく明了にその名数を弁ふることあらば、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の用いるものがすべて清らかで美しく、形も色も並ぶものがなく、きわめてすぐれていることは、とうていはかり知れないほどでしょう。かりに多くの人々が天眼通を得たとして、そのありさまを明らかに知り尽すことができるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生ける者どもの誰かが、飾りの美しさの限界をとらえていて、たとえ超人的な透視力(天眼)によってであったとしても、「この仏国土はこのような美しさである、このような壮麗さである。」と、種々の美しさを〔知ることはできないはずであるのに、〕もしもその美しさを知っているようなことがあるようであったら、そのはわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、世界中の人びとや物が、すべて美しく輝き、形や色も個性的で素晴らしく見え、とても常識では考えられないものに変身するであろう。もし人びとがたとい千里眼を得たとしても、そのすべてを見通すことは不可能であろう。もしすべてが見通せるようであったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

使用する品物が、りっぱであるかないかは、本人の受け取り方の問題でしょう。いくら高級な品でも、本人が好かねば、本人にとってはりっぱなものではないでしょう。あれが足らんとか、これが気に入らん、不足不満をいっていたものが、菩提心が生まれてくると、そこらにあるものが、皆尊いものに変ってくるということをいっているのではないかと思います。(中略)
「維摩経」には、「無限大悲の薫習した食べ物である。限意を以て不消化に終らせてはならぬ」と誡めています。「限意」とは、たったこれだけかとか、こういうものだと、自分が勝手に決めることですから、病気だ不幸だと歎いていたが、よくよく噛みしめて見たら、ここにも尊いお育ての大悲があったと、すべてのものが、心の糧として受けとることができるというのです。ここの願文の後の半分に、諸の衆生がたとい天眼を得ても、その品がどんなものであるか、その数がどれほどであるかを、計り知ることができないとあるのは、そういうことをいっているのではないかと思います。

人間は、自己主張なり、反抗することによって、相手のものの見方に抗議することはできますが、ものは人間のように自己主張や反抗をしませんから、私たちのものを見る目が開けないかぎり、そのもののもつ本当のよさを語りかけてくれません。
比べたり、好みによってしかものを見ることのできない私たちの目が、もの自身の語りかけてくるところをきくことができる目に変えられないかぎり、沢山のものにかこまれていても貧しい生活しかできません。
私たちに、もの自身が語りかけてくるところをきくことのできる目が開けたら、私のまわりにあるものが、それぞれ、他のものにはない、固有の色を輝かせ、独自の形をあらわしていることがあきらかになります。私たちが、他のものと比べたり、己の好みによって見るという色メガネをはずせば、それぞれのものがみな浄らかでうるわしい色や形をあらわし、他のものにない、そのもの自身の微妙な色や形を示します。

この因願を願成就の文に合わせてみるとよくわかります。
その仏国土は、自然の七宝、金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・シャコ・碼碯、合成して地とせり。
とありまして、自然というのは、われわれの作り出したものでえないというほどの意味で、仏のお力でできあがったということを知らされるのであります。そういう金・銀等の七宝というものが組み合い、一緒になってそうして浄土の一切万物になっておる。いわゆる七宝荘厳であります。(中略)
信の人は、そういう一切の万物が、厳浄光麗であり、形色殊特であって、何ともかとも言えない、かかるものが数限りなく存在するということに味わい喜べるような生活をさせねばおかぬというのが、この二十七の所須厳浄の願であろうと味わわれるのであります。聖人が国中人天という言葉は、死んで極楽にまいってからということではなしに、国中人天とあるのは信の上から生まれ変わった一つの境地であるということを味わい知らせて下さったということに、非常に意味があるのであります。

私はこの本願から、普賢というものの人格が、日常に用いるものの上に現われているということを味わうことができると思うのであります。普賢という一つの人格ができてきますと、その人格というものはただ三十二相という身相に現われるだけでなく、この普賢の徳がここへも映りあそこへも映る。普賢の徳はどこにでも現われるのであります。私に普賢の徳が与えられるとするならば、私の普賢の徳はいずれにあるか、普賢の徳はけっして体だけにあるのでない。コップにもあり、水差しの上にもある。(中略)
たとえばこの水にしても、コップに感謝を捧げて一杯の水を飲むと、窮微極妙であります。十分に満足しているのであって、やむを得ず満足するのではありません。ここに十分意義を認め敬意を払って満足する時に、「厳浄光麗にして、形色殊特ならん」であります。一つ一つ自分の用いるものに敬意を払って、自分の用いるものに満足していくという、そういうところに還相の生活がある。われわれの還相の精神が所有物の上に見出されていくのであります。
第二十八願 道場樹の願
設我得仏国中菩薩乃至少功徳者不能知見其道場樹無量光色高四百万里者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩乃至少功徳のもの、その道場樹の無量の光色ありて、高さ四百万里なるを知見することあたはずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩で、たとえ功徳の少ないものでも、わたしの国の菩提樹が限りなく光り輝き、四百万里の高さであることを知ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土において善根を積むこと極めて少ないいかなる求道者であっても、少なくとも高さが千六百ヨージャナある彩りすぐれた菩提樹を認め知るようなことがないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、道を求めようとする者や、人びとのために尽くそうとする者が、眼の前に高さ四百万里もある無限の輝きを放つ真実の樹が見えないなどということがあれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

この願と次の第二十九、第三十の三願は、一つのまとまったグループであることは解るのですが、これをどう見るかが、昔から問題になっています。(中略)
また金子先生は、この三つの願は法師のための願であるといっておられます。それは次の第二十九の願に、お経を読むということがあり、この願に少功徳者とあることからでしょう。(中略)
確かにそういう受け取り方もできますが、どうもそれだけではないように思われるものがあります。というのは、第二十八願は「国中の菩薩乃至少功徳の者」とあります。これは「国の中の菩薩は誰でも、たとい少功徳の者でも」という意のように思われます。一体この少功徳の者とは、誰がいうのでしょうか。第三者があれは大功徳者であるが、これは少功徳者であると、品定めをするのであるか、それとも本人が、何と私は取り柄のない、何の役にも立たない、微々たる存在であろうかと、自分自身に悲しみを持っての、慚愧の言葉ではないであろうか。
「その道場樹を見る」とは、自己の置かれた場所が、いつでもそこが修行の道場であったとさとることでしょう。「道場樹」というのは、修行の場所を象徴しているのです。(中略)お釈迦さまの菩提樹はピッパラ樹であり、さとりの座は、妻を捨て子を捨てて坐った、山の中の石の上ですが、私たちのさとりの座は、逃げようにも逃げられぬ、家庭や社会の、自己の置かれている宿業の真っ只中です。
これは出家仏教を打ち破って、在家仏教を強調した「維摩経」からきているのだと思います。(中略)
その道場樹に「無量の光色あって」とは、私たちの生きている、この歴史的現実こそ、無量の問題をはらみ、尽きることのない深い光を放って、いろんな教を説いているのです。維摩居士のいうように、「無限大悲の薫じている」心の食べ物である。「限意を以て不消化に終らせてはならぬ」でしょう。
「高さ四百万里」という、数字の「四」は、浄土の四つの徳(常・楽・我・浄)を象徴しているので、自己の置かれている歴史的現実の、宿業のそこが、そのまま浄土のさとりへまで、お育てが可能であることでしょう。そこを離れて、山の中に入ったり、社会から隔離された修道院へ行く必要はさらにない。「そこから」逃げた所には、解放もなければ自由もない。私たちに与えられている唯だ一つの道は、いつも「そこにおいて」です。(中略)
こう見てきますと、第二十三願から第二十七願までは、私的生活における心根であるのに対して、この第二十八願、第二十九願、第三十願の三願は、社会人としての自己に課せられている仕事に対する心根を誓っているのではないかと思われます。(中略)「讃仏偈」に法蔵菩薩が、その浄土は「道場として超絶し」、そこに生まれるものは、「心の悦び清らかにして」、「快楽安穏である」ようにと願われていますが、それがここに具体的になっているのだと思います。(中略)
親鸞聖人が、この願を方便の願といわれたのは、社会的に制約された自己の生きる場所が、自己の人格を完成する場所と見られたからかも知れません。真宗学者のいっている方便という意味と、親鸞聖人のいわれる意味と違っているのでしょうか。親鸞聖人のは、天親菩薩のいう方便かも知れません。

仏教の寺院は、本来、全世界に開かれ、すべての人にわけへだてなく光をあたえる場所。すなわち、真実に遇う場であったのです。
ですから、「高さ四百万里の光かがやく菩提樹」とは、仏教寺院を指すのです。(中略)
心閉ざしている人にもはたらきかけ、門戸を開く寺院であってこそ、阿弥陀如来の願に生きる寺といえるでしょう。寺院の門を閉じ、真実に目覚めることを目指す仏教とほど遠い、慰霊のために経を読んで世を過す生活になっているならば、阿弥陀如来の願に背くものであり、正[まさ]しく謗法[ほうぼう]のものといわなければなりません。
阿弥陀如来の願に生きようとするならば、私たちの寺院を、常に門を開き、すべての人にわけへだてなく光をあたえる場所にしていかなければなりません。それは、寺院に住むものの責任であることはいうまでもありませんが、み教えをよろこぶ門信徒一人ひとりの責任でもあります。寺院に住むものも門信徒の人も、ひとつになって、寺院を本来の寺院にもどしていくことこそ、第二十八の願に遇ったものの責務だと思います。
話が、現在の寺院のあり方ということにそれてしまいましたが、親鸞聖人は、
七宝講堂道場樹[しっぽうこうどうどうじょうじゅ]
方便化身の浄土なり
十方来生きはもなし
講堂道場礼すべし(浄土和讃)
と、讃じておられます。すなわち、道場樹、すなわち菩提樹で象徴される寺院は、方便の世界であり、真実ではないといわれながら、その「道場を礼すべし」といわれるのです。
一体これはどういうことでしょうか。(中略)
本来なら、寺院がなくとも、道場がなくとも、法はすべての場に遍満[へんまん]しているのですから、遇おうと思えばどこででも遇えるはずであります。しかし、悲しい哉、わたしたちは、遍満しているはずの法に、よほどのことがないかぎり遇えません。いや、阿弥陀如来のお姿を拝し、私たちにわかる言葉で、例話まで入れて話して頂いても、法に遇い難い私たちです。(中略)
仕事に、レジャーにと、毎日を「忙しい忙しい」と過している私たちは、心静かに聴聞する場がなければ、一生を空しく過してしまうことでしょう。菩提樹で象徴される寺院や道場が、たとえ方便の世界(真実の世界まで誘引する世界)のことでありましても、大切にしなければなりません。そこのところのお気持ちを、親鸞聖人は「講堂道場礼すべし」とうたわれたのでしょう。

仏が仏となるというと、おかしいのですけれども、菩薩が願を起こして仏になられるときには必ず道場樹のもとにおいて仏になられるというのがきまりだそうであります。これは釈尊がそうなされたからそういうことがきまりということになったのだろうと思いますが、必ずあることになっておる、それを道場樹というのです。道場は道を修める場所です。阿弥陀如来にも道場樹があるわけでありますが、今は阿弥陀仏になられたときの道場樹を見ることができるように必ずさせてやろうという願いであります。
ちょっと聞きますと、そんなことはいらぬように思いますけれども、そこに約束があって、その道場樹を拝んだ者は、一つには音響忍という智慧が開け――これは後にお経に書いてあるのですが、忍は智慧であります――二つには柔順忍という智慧が開ける。三つには無生法忍という智慧が開ける。無生法忍は涅槃の智慧であります。道場に風があたると、その風にあたった枝なり葉の音を聞き、それが縁となって音響忍という一つの智慧が開けるのです。それからもう少し進んだ人になると柔順忍で、真理に柔順する智慧が開ける。それからもっと進んだ人は無生法忍という涅槃の智慧が開ける。ここでは言われないけれどもその極楽の道場を見ることができるかできないかということが一つの大事なことになるのであります。(中略)
成就の文を申しておきますが、
また、無量寿仏のその道場、たかさ四百万里なり。そのもと、周囲五十由旬なり。枝葉よもにしきて、二十万里。(三二)
とあるのです。一由旬[ゆじゅん]は四里ほどとも言いますが、よほど太い木です。
一切の衆宝、自然に合成す。(三二)
これは道場機が七宝でできあがっておるということです。七宝というのはわれわれ凡夫に一番よいものだからそういう言葉で顕わしてあるのです。
これは梵本を見てみますと、道場樹というものは、このわれわれの世界における人天が見ておる植木よりも非常に勝れておって、そしてこの極楽の道場樹は、
一切の荘厳を以って飾り及び随意に有情の願の如くに荘厳せらるるなり。
とありまして、有情ですから、われわれ人間が、自分で願っておるようなあんばいに、思う存分、心のままに立派に荘厳せられておるということを願わしてあります。だからわれわれが考え、われわれが見ておるこの世のものでない立派さをつくしておって、一切の宝をもってできあがっておるのがこの道場樹である、と書いてあります。親鸞聖人はこの願を「化の巻」に引いておられまして、これを浄土の真実の荘厳、即ち真実報土の荘厳といわないで、これは方便化土の相であるということを知れといわれているのであります。

それでここでは、道場樹を知見したいという要求はどこからくるかということを吟味しなければなりません。私が思いますに、その要求というものは、おそらく発菩提心修諸功徳からきているのでしょう。すなわち特別なる仏道修行の志が道場樹を知見しようとするのであります。すでに第十九願のとことでも申しましたように、念仏往生という大功徳に対すれば、修諸功徳は少功徳であります。ですから念仏往生による普賢の菩薩は、申すまでもなく道場樹を知見するのでありますが、今はその念仏往生の菩薩と同様に、諸行往生の少功徳者にも道場樹を知見せしめようということでありましょう。しかるに親鸞聖人がとくにこれを方便の願とされたのは、道場樹の知見を要求するものは、聖道の行人だからであります。(中略)
そうしますとこの道場樹の願というものは、普賢の行の特殊化されたものであるということができると思います。普賢の行というのは、浄土の徳として自然に現われるものである。還相廻向で自由自在に衆生を済度するといっても、必ずしもあそこここへと説法し廻ることではない。あそこここと説法し廻るということがごときは、むしろ少功徳であると申さねばなりません。ところがその少功徳というものも、また要求されるのであります。少功徳の説法者、すなわち法師になりたいということもあるのであります。われわれ僧侶はこの少功徳者であるといって、あえて卑下するのではありません。少功徳も少功徳者であることを自覚すれば、つねに大功徳を念じずにはおれず、大功徳を念ずれば少功徳というのは、かえって大功徳を具体化したものとなるのでありましょう。そこに親鸞聖人が「小慈小悲もなき身にて、有情利益は思うまじ」と反省されながら、依然として非僧非俗をもっておられた意味があるのでしょう。(中略)
一般信者としては、言葉に現わすよりは生活に現わすべきである。すなわち僧侶は言葉であり、信者は生活である。その有難さかたじけなさの感じを言葉に現わさないで、だまってその生活に現わす。その台所の仕事において、そのお座敷の仕事において、その家庭における親子兄弟の接触において、だまって沈黙の間に生活の上に現わす。生活の上に現わすというと非常にむずかしくなりますが、生活の上からなにか味わっていく。自分の生活の上に受け取っていく。自分の子供を眺めて受け取っていき、台所の仕事をしながら何か受け取っていく。こういうふうに生活の上から何か受け取っていく。裏から申しますと、生活の上に現わしていく。そういうふうに生活に現わすのが、大功徳であります。これに対しまして言葉に現わす方を少功徳であるということができましょう。それはすなわち特殊なものであるからです。生活に現わしていくということは一般的であり、普遍的ですから、大功徳である。しかし言葉に現わすということは一般的なものではなくして、特殊な人の願いであるから少功徳であります。しかるにその少功徳の要求に応ずるものが、すなわち知見道場樹であります。道場樹を知見して、見仏聞法し法師の徳を増進せんとするのであります。それゆえに真実の少功徳は大功徳の上に立つものでなければなりません。信者は必ずしも説法者でなくても説法者は必ず信者でなければならないでしょう。ほんとうの説法者ならば、生活体験の大功徳をもたねばならないのであります。しかしてまたその大功徳を知るものならば、いつでも自分の説法くらいは少功徳に過ぎないということを感知し得るのでありましょう。そうならば少功徳も大功徳も無碍一如であります。
第二十九願 得弁才智の願
設我得仏国中菩薩若受読経法諷誦持説而不得弁才智慧者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、もし経法を受読し諷誦持説して、弁才智慧を得ずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が教えを受け、口にとなえて心にたもち、人々に説き聞かせて、心のままに弁舌をふるう智慧を得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土にいる或る生ける者が、(法を)説示したり、(経文を)誦えたりせねばならぬことがあったとして、(そのときに)かれらすべてが、とどこおりの無い理解表現力を得ないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、道を求めようとする者が、教えをひもとき、その教えに親しみ、広大な目覚めた心とめぐりあうことがなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

こう見てくると、願の当面は法師に対する願のように見えます。仏法を正しく伝えねばならぬ僧侶が、経典は読んでいても、経の意は今日なお解読されていない現状を見ても、この願を誓わねばおれなかった悲痛さも解ります。仏とは世間解のことであり、経は人生とは何かを説き明かしたものですから、経典を読むことによって、心の眼を開き、その開けた新しい眼を以て、人生を見直すことが大切なのですが、今日の仏教学者のほとんどが、経典のための学問に終って、大学の教室や寺院の本堂の中の仏教に閉じこめられて、生まな食うか食われるかの歴史的現実に立って、自己と人生を新しく開拓してゆく道を仏典に問う人がいない。たかだか「一切経の中の浄土の三部経を読むのではなく、浄土三部経の中の一切経を読まねばならぬ」という、象牙の塔の観念遊戯にふけっているのです。人類が滅びるか生き残るかという、今日の社会的危機を一身に背負うて、そこに生きる新しい道を創造しようとする、歴史的課題をひっさげて、経典の中から「時代教学」を学んで行こうとする「浄土の菩薩」は、一人もいないのでしょうか。
しかし私はこの願は、法師といわれる僧侶とか大学教授だけのものではなく、人生道場の菩薩たちのことだろうと思います。ここにある「経法」は、出家仏教の原始経典のことではなく、大乗経典を指しているに違いありません。特にこの「大無量寿経」でしょう。大乗経典は正しい人生観を明らかにしようとし、そこに生きる人間の真実の道を説いたものです。今日でいう人生読本です。それは寺院の経蔵や大学の図書館に山と積まれた、文字化された書物だけのことではありません。三千大千世界の至る所に、「今現に説かれている」、声のない「無字の経」、「無説の法」でしょう。「論語読みの論語知らず」は、たんに机の前に坐って、経典の「お取次ぎ」をするもの知りだけではなく、生きた人生を旅しながら、人生を知らず、自己の孤独と虚しさをかこつ、人生大学の落第生の何と多いことでしょうか。(中略)
嫁がこう言うたああ言うた。昔はこうじゃったああじゃったと、世間の噂さ話や小言なら、壁の向こうに蟻がほうたことも知っており、何十年昔に誰それが屁をひったことも憶えているのに、肝心な人生とは何か、自分はどういうものか、一向に解ってはいません。そういう「人生歩きの人生知らず」にならぬように、どんな事件が降りかかって来ようが、どんな相手にぶち当ろうが、人生の一番土俵の上で、堂々と相撲が取れる身になってくれということだろうと思います。

頭で受けとめたのを理解といいます。上手に説明をしてもらいますと、私たちは教法を理解することができます。しかし、理解はどこまでも知の問題であり、頭だけの問題です。教法を頭のみで受けとめた人を、「もの知り同行」といいます。知識も大切ですから、必要がないとはいいませんが、本当に教法をいただくということにはなりません。
心で受けとめたのを共感といいます。感情を交えた上手なお話にあいますと、私たちはお話に共感することができます。共感は、どちらかといいますと、教法をいただくというよりもお話に酔うという面が強いようです。それは情の問題であり、心だけの問題です。(中略)
身体で受けとめてこそ領解[りょうげ]であり、教法をいただいたということになるのです。領解とは領受解了[りょうじゅげりょう]ということで、全身で受けとめこの身がうなづくということです。それは、決して上手なお話によってあたえられるものではありません。それは、教法に遇った人のよろこびに遇うことによってのみ、実現するのです。すなわち、「聞くところを慶び、獲るところを嘆ずる」人に遇うことによって、この身がうなづくのです。(中略)
教法をいただいて経典を読誦させて頂く、経典を幾度も読誦することによって、教法をこの身にいただくのです。そこに領解があり、信心があるのです。
信心という言葉には、心という字が使われていますから、心の問題のように思っておられる人が多いようですが、信心はこの身の問題なのです。親鸞聖人は「愚身が信心」といわれ、蓮如上人は「わが身の一心」と、この身があきらかになることを信心といわれたのです。
第二十九の願は、前半において、教法をしっかりと受けとめる人間にしてやりたいと誓い、後半において、身で受けとめた教法を自在に他の人に話す力をあたえてやろうと誓ってくださったのです。
この第二十九の願によって、「自信教人信」が私のものとなるのです。(中略)
「聞いた所を、精いっぱい話してごらん。獲た所を力いっぱい身体で表現してごらん。誰が何といおうと、どんな結果が出ようが、私がここにいます何の心配もありません」と呼びかけてくださる阿弥陀如来の声にはげまされ、精いっぱい、力いっぱい生きる時、法を説くことに於ても、「自在の弁才智恵が得られ」るのです。
聞いていないことを、獲ていないことを話そうと思えば、自在にとはいきませんし、また背のびしたり、体裁にとらわれては、自在にとはいきません。

この成就の文は、無礙智をもて人のために演説す。ひとしく三界の空無所有なるを観じて。(五〇)
とあります。三界というのは欲界・色界・無色界でありますが、我々の住むこの世界です。この世界の人々の悩んでおり助かりたいと思っておる者に対して、自由に話せる無礙智を与えてやりたいのであり、そうしてその無礙智で自由自在にそれを演説するようにならしめたいのであり、しかも空にして所有なし。その人の心を見て話をするけれども、自分の手柄にするとか欲とかいうものがないということでありましょう。所有は所有欲で、これだけやったという自分の手柄、あるいは執着する欲というようなものがないようにならしめたい、ということであります。次には、
仏法を志求し、もろもろの弁才を具して衆生の煩悩のうれへを除滅す。
とあります。だから信ずるということはそういうことにならしめて下さるということであります。
弁才智慧ということについて、四無礙ということがあります。法無礙弁・義無礙弁・辞無礙弁・楽説無礙弁・でありますが、この弁才と智慧というものを与えてやりたいのです。
一つには法無礙弁というのは、経法を読誦してそれがわかるようにならしめたいということ。無礙は行きあたることなしに自由にわかる。話すべき法というものが自在に自分のものになり、その法を自由に言い顕わすようになる。これから考えますと、わかってはいるが言えないとよくいうことだけれども、それは信がないあら言えないということになります。(中略)
それから義無礙弁は、そこに顕わされておるその意味、その義理、その筋合というものを自由に話せるようにさせてやりたいというのであります。義に関する無礙弁を与えてやりたいということであります。
第三は辞無礙弁といいまして、昔の人はどこの国の言葉でも知っているといって、外国語でも知っているように説明しておったのでありますが、蓮如上人が、信心安心といっても愚かな人にわからぬから、「弥陀たのめ」といったら誰にでもわかると申されて、あんなにわかり易く法を説かれたのはこの願力から出てくる智慧でありましょう。どういう人にもわかる言葉で自由に話しうるように、ことばが自由につかえるようになるということが辞無礙弁であります。しかるにそれがうまくいかないんで私どもも困るのです。けれども、学者なら学者、婦人なら婦人、子供なら子供、寒いところなら寒いところ、暑いところなら暑いところの人々にわかりやすい言葉をもって話をすることが自由にできるようにならしめたいということが辞無礙弁というのであります。
第四番目は、楽説無礙弁、「楽」は「至心信楽」の「楽」で「願う」とか「欲する」tかいう言葉であります。その人がどんな苦しみを持ち、どういう願いをもっておるかということが自分にわかって、その人の願いに即応するように弁才を働かすというような智慧にさせてやりたいということであります。だから自分が無理から勉強しなくても信心を得れば、必ず如来の願力によって、信心の智慧によってそういう身にならしめてくださるところであります。

これはすなわち聞経であります。あるいは読経でもよろしい。さいほど申しましたように、法師はことに聖典を聞き、お聖教を開いてその中に流れているところの何かを感じ受け取っていかねばならない。仏を見ると同時に、経法を読誦し、お経を開きお経を読んで、そうしてそれを諷誦持説、すなわち人に説いていく、その弁才智慧を得られなかったならば正覚は取らないといってあるのであります。
第三十願 弁才無尽の願
設我得仏国中菩薩智慧弁才若可限量者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、智慧弁才もし限量すべくは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が心のままに弁舌をふるう智慧に限りがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、限りなくすぐれた智慧と限りない表現力(弁説)とを得ないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、道を求めようとする者はみな、物事を正しく見る眼を身につけるに違いない。もし狭いものの見方しかできないなら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

二つの願はどちらも、法を説くことを主眼としているのですが、二つの願では、弁才と智慧が上下に入れ替っています。これは第二十九願は智慧に重きをおき、第三十願は弁才が主になっているようです。(中略)
ここに「智慧弁才が限りない」というのですが、その源泉はどこにあるのでしょう。第二十九願には「経法を読んで」とありますが、経法は月を指さす指で、経に説いているものは、人生そのものです。ともすると指さしている指にとらわれて、月の人生そのものを見ることを忘れていることが多いのですが、いくら記憶力がよくて、万巻の書を読破してそれを憶えていても、説かれていることには限りがあります。しかし私たちの生きている歴史的現実はそれこそ「無尽の宝庫」で、限りがありません。経には三千大千世界が、山が説法し川が説法する。無尽の経蔵であり、こちらの眼が開きさえすれば、「一塵を開いて大千の経巻を出だす」ことができると説いています。(中略)
金子先生も「相手の問いに答えてはいけない。問いの中に答はある。相手の問いを深めてゆけ」といわれる。相手の問うたことに対して、問いの起こった動機を確かめずに、早合点して、長々と悦に入って、独り言をしゃべって見たり、また問う人の気持ちに入り、相手の身になって見たり、相手の反応を見ながら話すこともせず、くせになった指導者意識で、高飛車に相手を叩いて見たり、失敗のケースが多いです。相手の気持ちと一つになり、的確に問うていることに的を当てて、相手を開導することは、至難の芸です。それがどんな問題でも、どんな人にでも無碍に、限りなく説くことができるようにということではないかと思います。

阿弥陀如来は、この第三十願で、念仏に生きる人たちが話すことがなくなったり、話に詰まることがあったら、「わたしは決してさとりを開きません」といいきられるのです。自分で学んだ知識をもとに話すのならば、自分の知っていることをひと通り話せば、話は尽きてしまいます。また、なにがなんでも自分の思いを通そうというような気持ちで話すのならば、相手に横を向かれて、話に詰まってしまうでしょう。しかし、自らが聞かせていただいたところを話すのなら、み教えを聞きつづける限り、話がなくなることはありませんし、自らが獲たよろこびを語るのなら、よろこびのある限り、話に詰まることもありません。念仏に生きた私たちの先輩の生き方を学ぶとき、どうしてあんなに次々と素晴らしい言葉がでてくるのだろうと思うのは私だけでしょうか。(中略)
念仏申すとき、すなわち南無阿弥陀仏の呼び声が聞えてくるとき、弁才は限りなく広がり、話は自在に展開していきます。

信心を獲たら、植木を大地に培う如く、周囲の人々なり世界の人々を助ける弁才智慧というものが無限に生れてきて、働いてきて、限りなくそれができるということであるから利他の念願は必ず成就するという自信も得られてくるのだと思うのです。
例によって願成就の文を開きますと、下巻にはたくさんのたとえが書いてありますが、
なをし重雲のごとし、大法の雷をふるふて未覚を覚せしむるがゆへに。
弁才智慧限りないということを得させてもらうおかげには重なった雲のようなものであって、大きな雷のように法を話すことができて、未だ覚らざる者を覚らしめる、とい力が出てくる。
なほ大雨のごとし、甘露の法を雨らして、衆生を潤すがゆゑに。
甘露の法雨を降らして衆生を潤してみんなが助かっていくというようになる。限りなくその働きができるようになる。こういうのが智弁無窮の願の成就したる相というのであります。事柄は味わいよい願だと思います。

今度は説法になります。見仏・聞経・説法という三つの願は、三つとも方便化身の願である、つまり法師の徳であると見ていったらよかろうかと思うのであります。まず仏を拝みお経を読んで、はじめて弁才智慧無窮の法師道というものが、そこへ現われてくるのであります。かくのごとくして一般的なる普賢道と特殊の法師の徳をそこへうち出し、一般と特殊と相まって浄土を荘厳されるのであります。
第三十一願 国土清浄の願

設我得仏国土清浄皆悉照見十方一切無量無数不可思議諸仏世界猶如明鏡覩其面像若不爾者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国土清浄にして、みなことごとく十方一切の無量無数不可思議の諸仏世界を照見すること、なほ明鏡にその面像を覩るがごとくならん。もししからずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、国土は清らかであり、ちょうどくもりのない鏡に顔を映すように、すべての数限りない仏がたの世界を照らし出して見ることができるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしもわたくしが覚りを得た後に、かの仏国土が、たとえばよく磨かれて清らかな円鏡の中に映った顔面のように、その中であまねく無量・無数・不可思議・無比・無限の諸仏国土が見られ得るような、輝かしい光あるものとならないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に得ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、この世界はすべて清らかに澄みわたり、数限りない目ざめた人の世界が映し出されるであろう。それはちょうど、曇りのない鏡に自分の顔がはっきりと映し出されるのと同じである。もしそうならなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

この前の第二十一願から第三十願までの十願は、浄土に生まれた人に対しての願いでしたが、この第三十一願と次の第三十二願の二つの願は、国土に対する願です。前の十願は、第十九の人間完成の願の内容を明らかにしたものでしょうが、この二願は、第二十の世界形成の願に答えて、それではどんな世界を造るのか、その内容を明らかにしたものだと思います。
今日までは、この二つの願を共に、弥陀の浄土のこととしているのですが、もちろんそれもあるでしょうが、それだけでなく、弥陀の浄土に生まれた念仏者の一人ひとりの浄土が、弥陀の浄土と同じように、こうあって欲しいということです。これは四十八願の前に法蔵菩薩が、「我まさに修行して仏国を摂取し、清浄に無量の妙土を荘厳すべし」とあった、あの「無量の妙土」です。それでなければ、この願がここに誓われた必然性がないことになります。きのうも申しましたように、ひとりの人には一つの国がある。その一人ひとりの国は、未だかつて一度も鎌を入れたこともなければ、鍬を打ちこんだこともない。荒れるがままに委かせた原始林です。それどころか私は、今日までの宗教家の中で、一人として自分の国を見つけたという人を、大乗経典の著者の外には知りません。皆さんの中に、自分の国を浄めねばならんと説いた人を、見たり聞いたりしたことがありますか。私は経典を読む前に、二十二の年に、自分の国を見つけたのです。私だけではない、亀田さんには亀田さんの、橋場さんには橋場さんの、どなたにも自分の国があるのです。自分の国が浄まらなかったら、自分は助かりません。その自分じぶんの国に対する願いです。一人ひとりの自分の国とはどういうことか。きのう申しましたから、今は略します。解り難くかったら、国という言葉をとりあえず、家庭とか教団とか、村とか国家と置き換えて頂けば、理解ができるでしょう。(中略)
国土の何かを、また地上を清浄にするのではなく、国土そのものが、清浄であるようにということです。
それは何のためかといえば、「十方の一切の無量無数の諸仏の世界が見えるように」ということです。とかく私たちは一つ自分のものができると、すぐそれに堅く閉じ篭りたがる。たとえば立志伝に載るような、世のいわゆる成功者は、わしの若い時はこうじゃった。今頃の若い者はと、時代遅れ古くさい城の中に閉じこもりがちです。(中略)そういう人の世界を辺地懈慢とか、疑城胎宮ときらっています。そういうことのないように、先ず自分の心の我執を離れ、さらに進んで、絶えず周囲の人から、他の世界から学んで行くようにということでしょう。
金子先生が広島の文理大で講師をしておいでた時、平野町のお宅で、月一回、夜でしたが、学生が寄って、仏典の講義をして頂いていました。その時私もその中へ加えてもらっていました。道元禅師の「正法眼蔵」のお話の時でしたが、「後世に名を残す人は、皆自分の専門の学問以外に、他の何かを、ある一定の域を抜いた人である。何ぜかといえば、それが自分の行く道を、照らす合わせ鏡になるから」といわれました。(中略)
私は今まで先人が言わなかった、新しいことをたくさん発見していますが、その中の半数は、碁からヒントを得たものです。たとえば碁には段級があります。この問題が十分間で解ければ、一級の力がある。こちらの問題が十分間で解ければ、三段の力がある。それと同じように人間にもあろう。この嫁と姑の問題が解けたら、初段の力がある。この社会問題が解ければ、高段者の力がある。(中略)それなら宗教の世界にもあるに違いない。キリストは何段だろうか。法然上人は何段だろうか。親鸞聖人は、蓮如さんは?お釈迦さんは何段だろうか。「阿含経」は?「般若経」は?「法華経」は何段の人が書いたのだろうかと、疑問が出て来ました。そこで菩薩と大師の違いが解り、小乗仏教と大乗仏教の次元の相違が解って来たのです。その他いろんな問題を碁から教えられました。私に文学や音楽が解れば、まだまだ未知の世界が開かれて来るに違いないでしょう。
こういうことを「十方の一切の諸仏の世界」が、自分の国に映って、まるで「鏡の中に自分の顔形を見るように」見えるといわれたのではないでしょうか。自分の国そのものが鏡です。自分の国に十方の世界の相が映っている。それも「借りもの」ではない。自分の顔形を見るように映っているというのです。

「仏説阿弥陀経」の中に、諸仏が釈尊を、
釈迦牟尼仏は、世にもまれなむつかしいことをなしとげ、この娑婆世界の劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁という五濁に満ちた悪世界の中にありながら、よく無上のさとりを開いて、多くの人人のために、あらゆる世に超えすぐれた難信の法を説かれたことである
と、ほめたたえられる一段があります。
この一段においてあきらかにされていることは、この世が五濁の世であり、この五濁を越える道として、釈尊は難信の法を説いてくださったということです。(中略)
物の生命を粗末にすることによって、国と国が争うことによって、環境を汚染し、自然を破壊し(劫濁)、自分さえよければよいというものの見方、考え方がはびこって、自らの世界を住みにくいものにし(見濁)、名利を求める心にふり回され、欲望をつのり、怒りをぶちまけて、自らも苦しみ、他をも苦しめ(煩悩濁)、世の中の風紀を乱し、心身ともに自らの資質を下げて、自らの首をしめ(衆生濁)、外のいろいろなものや、内なる煩悩に引きずり回されて、自らの生命を、自らが本当に生きるということを自らちぢめている(命濁)世界です。
こんな五濁の世にありながら、この五濁の世をつきぬけて、浄らかな世界にむかって生きていく道、難信の法を説いてくださったのが釈尊であります。(中略)
五濁の世であることを知らされれば知らされるほど、国土を浄らかにすることの重要さが身にしみますし、私たち一人ひとりの心が濁り、お互いの世界が理解できなくなっていることを知らされれば知らされるほど、明鏡のごとく澄んだ心の回復が願われます。そしてさらにお互いの世界を照らしあうことの大切さがこの身に受けとれます。

これを国土清浄の願と名づけてあります。この成就の文は、
かの仏国土は清浄安穏、微妙快楽なり。無為泥オンの道にちかし。
という御文であります。要するにこの願文は、如来の御国が清浄でありたい、あらしめねばおかんという御文であります。もし我が仏になったならば、わしの国は清らかでこの宇宙にたくさんの世界がある。そのあらゆる十方一切の無量無数不可思議の諸仏世界を皆悉く照らし見ることができるという願であります。それはたとえて言うと、ここの明らかにきれいな鏡がある。その鏡に映った自分の顔を見るように、あらゆる世界が、如来の御国が清浄であるからそこへみんな映ってくるようなものであります。(中略)
こちらが貪慾に閉ざされておると、人の心も見えないのでありますが、自分が如来の清浄光にあわされて、そういう生活をし出すというとあらゆる人々の心の世界が自分に見えるようになってくる、こういうことじゃなかろうかと思うのです。これが親鸞聖人や蓮如上人のお徳となって現われておるのでないかと思うのであります。親鸞聖人は自分が清浄になったとは申されませんが、如来の清浄なるお徳を喜ぶという世界に入ると、あらゆる人々の心の世界というものが自分の内にもあるとわかってくるようになる。人々の心がわかるから人々を済度したくもなり、またよく済度することがたやすくなるのだと昔の人が言っておられますが、ただ自分が幸せになるのみならず、他の人をも幸せにすることができるというのです。

わが国が鏡のようになって、そこへ十方世界のことがすっかりわかる。私はこの第三十一の願と第三十二の願とをもって教団の理想と見るのであります。(中略)
あらゆる思想界のなりゆき、あらゆる社会の移りゆきがみなすっかりわかる。それがつまり道場といい教団というものの理想ではないでしょうか。象牙の塔の中へ閉じこもってしまって、その窓の所で、社会へ通じないようなひとりよがりをいっている。それでは浄土は荘厳されていないのであります。世間のことは知らないと、鉄の扉をして、自分だけ都合のよいことをいっている教団がありますが、そういうのは国土清浄ではないのであります。それは菩薩の徳がなく、普賢道がおこなわれないからである。普賢道がおこなわれ、菩薩の徳が成就するならば、そこの道場、狭くいえば道場、広くいえば教団、宗門というものは、つまり国土清浄であって、十方のことがみなそこにいながらにわかってくる。社会の移りゆき、社会の変遷、人心の動き方が、手に取るようにわかっていくというところに、一つの道場すなわち教団の理想があるのです。それは外のことを内に摂める徳であります。それに対して「宝香合成の願」というのは内なるものを外に現わす徳であります。
第三十二願 妙香合成の願
設我得仏自地以上至于虚空宮殿楼観池流華樹国中所有一切万物皆以無量雑宝百千種香而共合成厳飾奇妙超諸人天其香普熏十方世界菩薩聞者皆修仏行若不如是者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、地より以上、虚空に至るまで、宮殿・楼観・池流・華樹・国中のあらゆる一切万物、みな無量の雑宝、百千種の香をもつてともに合成し、厳飾奇妙にしてもろもろの人・天に超えん。その香あまねく十方世界に熏じて、菩薩聞かんもの、みな仏行を修せん。もしかくのごとくならずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、大地から天空に至るまで宮殿・楼閣・水の流れ・樹々や美しい花など、わたしの国のすべてのものが、みな数限りない、いろいろな宝とさまざまな香りでできていて、その美しく飾られたようすは天人や人々の世界に超えすぐれ、その香りはすべての世界に広がり、これをかいだ菩薩たちは、みな仏道に励むでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしもわたくしが覚りを得た後に、かの仏国土において、地面から天空に至るまで、神々と人間の境域を超えて香り高い薫香、如来と求道者(菩薩)とを供養するにふさわしい薫香が、あらゆる宝石からできていて種々の芳香ある百千の香炉に常に焚かれて薫っているようでなかったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に得ることがありませんように。
世尊よ。もしもわたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に芳香ある種々の宝石の花の雨が常に降りそそぐことが無く、また妙なる音声を出す楽器の雲が常に(音楽を)奏でているということがないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に得ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、この広い大地から天に至るまで、宮殿、回廊、池や水の流れ、草木や樹々、その他この世のすべてのものが、数限りない何百種類もの香りを放つ宝石でできているかのように輝くであろう。その素晴らしさは、この世では体験できないものであり、その素晴らしい香りは全世界に広がるであろう。道を求めるものがその教えに耳を傾けると、誰でも目覚めた世界に向かわずにはいられなくなるであろう。もしそうならなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

この願は前の第三十一願と同じように、阿弥陀如来が自分の国をこのように願うと同時に、衆生の一人ひとりの国も、こうなるようにということでしょう。誓っていることは、大地より虚空に至るまでの間にあるすべてのもの、たとえば宮殿であるとは高殿であるとか、池とか橋とか、国中のありとあらゆる、一切の一つひつのものが、皆数限りない色いろの宝と、百千種の香りでできていて、その美しく妙なることは、この世のものではない。そしてその香りが十方の世界に流れ薫って行くと、その香りをかいだものは、皆仏道を修行するようにということです。
本当の宝は、ルビーとかダイアモンドというものではありません。そういうものには必ず副作用がつきます。ある時は幸せの材料にもなりますが、ある時には苦しみの道具にもなるでしょう。また茶碗や茶釜でも、どんな名工が造ったものでも、それだけでは値打ちがない。使うことによって時代がつき、使う人の、人格が名器に染みついて、光を添えるというでしょう。「安心決定抄」には、「三千大千世界のどこをおさえて見ても、仏の功徳のそみつかぬ所は、一寸の土地もない」といっています。そういう世界が本当に美しい香り高い世界です。(中略)
そして存在するすべてのものが芳ばしい香りを放って、「その香りが遍く十方の世界に薫ずる」。存在するすべてのものが、尊い歴史を宿し、懐かしい想い出をもつものは、必ず辺りによい雰囲気が漂います。その雰囲気に触れ、美しい評判を聞くものは、私もあのようなりっぱな国を造り、あのような満ち足りた生活がしたいと、自分じぶんの願いに奮い起つようにということでしょう。
ここに「菩薩聞くものは」とありますが、これはたといそんなよい香りに触れても、その気のない人には、「馬の耳に念仏」であったり、「猫に小判」で、何の感動もないでしょう。この世界は「その気にならねば、見ても見えず、聞いても聞えぬ」ものです。(中略)ここでいう「菩薩」とは、浄土の菩薩で、自分じぶんの国を浄土にしたい、という願いに動かされている人のことです。
第三十一の国土清浄の願は、自分の国が限りなく、世界に開かれた国であるようにという、国の普遍性を願うことで、「二百一十億の諸仏の世界を見る」ことに対応しており、この第三十二願は、自分の国の客観性を願っておるのでしょう。周囲の人が自分の国の在り方に随喜してくれる所に、いよいよその真実性が証明されるので、この願は第十七願の諸仏称讃の願に対応しているのでしょう。

人と環境は別のものではありません。人が環境をつくり、環境が人を育てるのです。「ゆかしいかおり」の人が、「ゆかしいかおり」の環境をつくり、「ゆかしいかおり」の環境が、「ゆかしいかおり」の人を育てるのです。
阿弥陀如来は、この第三十二の願いにおいて、私たちを、「ゆかしいかおり」のする環境に住まわせ、「ゆかしいかおり」のする人間に育ててやりたいと誓ってくださったのです。(中略)
念仏申すことによって、わが身が知らされ、如来の大悲にふれる時、煩悩に執着したくとも執着できなくなります。なぜならば、念仏申すことによって、私たちは欲望に引きずりまわされている悲しい自分の相がわかり、怒りに身をこがしている愚かな自分の相が見え、嫉妬にのたうちまわっている粗末な自分の心があきらかになるとともに、そんな私を悲しみ、慈しんでくださる阿弥陀如来の心にであうからです。
念仏申すことによって、「いやなにおい」を発する「煩悩」に執着する心がたち切られ煩悩を縁として、自らの相をかみしめ、如来の大悲をよろこんで生きる生活に変えられます。(中略)
親鸞聖人は、「念仏のこころをもてる染香人(こうはしきかみにそめたるがごとしといふ)にたとえまふす也」(尊号真像銘文)と、念仏よろこぶ人を染香人、すなわち、素晴らしいかおりに染まった人とたたえられ、
染香人[せんこうにん]のその身には
香気[こうき]あるがごとくなり
これをすなわちなづけてぞ
香光荘厳[こうこうしょうごん]とまをすなり(浄土和讃)
と詠われています。

ちょっと願成就の文がわかりにくいようでありますが、上巻には次のように説かれています。
百味の飲食、自然に盈満す。この食ありといへども、実に食するものなし。ただ、いろをみ香をかぐに、こころに食をなすとおもへり。自然に飽足して、身心柔軟なり。味著するところなし。ことをはれば化してさる。ときにいたればまた現ず。
百味の飲食、御馳走が自然に盈満するのですから、八百屋で買うてきたり、料理屋で取ってきたり、そういうことなくして自然に盈[み]ち満ちて目の前にちゃんとそれが具わっていくのです。この食有りと雖[いえど]も実に食する者無し、食べ物は目の前にあるけれども、実際に食べる方は一人もない。欲しいと思ったら前へ出てくるだけである。ただし色を見、香りを聞く、おいしそうだなと思い、いい香りがするなと感じて、こころに食を為すと思うだけである。(中略)
この宝香成就の願が信心の人のうちに成就した有様はこういうようなすがたで顕わされているのです。それは極楽はけっこうなところじゃと思って喜ぶのもけっこうですけれども、やはり信というもののうちに、そういう幸せをこの世から得させてやろうというのがこの願の本当の目的であろうと思うのであります。(中略)
たくさん金を持っておるとか、たくさん学問もしたというけれども一向香りもせず光もなし、青い顔をしたり萎びこんでおるような人も世の中にたくさんいます。その人の住んでおる家、その人の持っておる物、いろいろの宝、財産があって、立派な香水をつけるようなことがあっても、それは一向本当の香りでもなければ本当の光でもない。信心の人の喜びの境地は、一切の物柄が、諸々の人間界の生活を飛び越えたような人格の香りの高い光のある者にならしめようというのであります。(中略)
蓮如上人の生活なんか全くその通りだと思います。その香りが自分のみならず他の者にまでおのずから影響していって、人が助かるようになっていくのです。自分は愚かな者であっても、知らず知らずそういうお徳を得さしめられるから文字も知らぬ者が喜んでおるのを見たり聞いたりしても、人が信を得るとおっしゃるのも、その香りがそとへ薫じていくからであります。だから自分個人の幸せも、利他的な幸せも皆この願力の力であるということを喜ぶべきであると思うのであります。

一つの教団なら教団、宗門なら宗門の中が充実してきて、ただいまの大谷派、本願寺派という真宗教団から、ほんとうに香りが出てくるときには、真言宗・天台宗・基督教・回教、そういう諸仏の国までみなその香りが薫じてくる。たといその浄土に行かず、教団に入らないでも、その教団の香りを聞いておのおのの仏道修行をしようということになるであろう。こういうことですから、これは内なるものが外へ及ぶところのいわゆる普薫の徳であります。前のは外のものを内に摂めるのである。後のは内なるものが外へ向かう。仏の国すなわち浄土の荘厳というものは、そういう意味をもったものにしたいのである。仏国においてはあらゆる世界はみな仏国へ映る、それが国土清浄である。その仏国の香りはあらゆる世界に及ぶ。それがすなわち宝香合成であります。それを今申しましたように、私は狭くすれば一つの道場、広くすれば宗門乃至教団というものの理念がここに誓われているように思うのであります。
第三十三願 触光柔軟の願
設我得仏十方無量不可思議諸仏世界衆生之類蒙我光明触其身者身心柔軟超過人天若不爾者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙りてその身に触れんもの、身心柔軟にして人・天に超過せん。もししからずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界のものたちが、わたしの光明に照らされて、それを身に受けたなら身も心も和らいで、そのようすは天人や人々に超えすぐれるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、無量・無数・不可思議・無比の諸世界にいる生ける者どもが(わたしくしの)光に照らされてはっきりと明らかに見えるようになったとして、かれらすべてが、神々と人間とを超えた幸せをそなえるようにならないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に得ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、あらゆる世界の悩み苦しむ人びとが私の智慧の光に照らされ、私とめぐりあうならば、見も心も固さがほぐれ、この世の悩み苦しみから解放されるであろう。もしそうならなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

今までは仏法は「空無相無願の法」であるとか、「仏道に限りなし」といわれていましたが、私は若い頃、迷うている私たちからいえば、仏道に限りはないかも知れぬが、さとった仏からいえば、ここまで来いよという「ここ」があるはずだと思いましたが、小乗仏教ではアラカンがそれであり、大乗仏教では五十二段の仏が究竟位であり、浄土教では、世自在王仏になることが理想目的で、その内容を明らかにしたものが、今までお話ししました、第二十一の願から第三十二の願までです。これから終りの四十八願までが、その目的に向かって行く、一歩一歩の足元を照らす現実の光です。前申しました灯台と提灯です。その中、第三十三の願と第三十四の願は、総願で、念仏生活の大体の輪郭を誓っているのです。(中略)
「十方衆生」は、そこらにいるという無自覚の衆生のことですが、「諸仏の世界の衆生の類」は、自覚している衆生で、「正定聚不退転の菩薩」のことですから、ことさら衆生の「類」といわれているのでしょう。
「わが光明」とは、言うまでもなく、弥陀の光明のことですが、成就文にはその内容を、無量光、無辺光、無碍光、無対光、炎王光、清浄光、歓喜光、智慧光、不断光、難思光、無称光、超日月光の十二に分析されています。この一一の光明の働きが大切なのですが、今は略します。「わが光明を蒙って、その身に触れる」とは、心の眼が開いて、念仏する身になることです。「歎異抄」では「念仏申さんと思い立つ心の起こる時、即ち摂取不捨の利益に預けしめたもう」というのですが、それは反対です。光明のお照らしが先で、念仏する身になるのです。金子先生も「念仏は自我崩壊の音」といっておられるでしょう。これは光明のお照らしによって、邪見の角を振り立てている自分の浅ましい相が見えると、おのずと念仏が出ることです。足利先生は「光が闇につき当る音が南無阿弥陀仏」といっておられます。
心の眼を開く光明なら、心を照らすと言えばよかろうに、何ぜここに「その身に触れる」とあるのかといいますと、経に心とある時は、いつでも自覚や覚醒に関する時で、日常の生活に関する時には、必ず身といっています。弥陀に心光といわれる「智慧の光明」と、色光といわれる「身放の光明」があります。第十八願の「十方衆生」の心を呼びさますのは、智慧の光明、この第三十三願は生活を照らすのですから、身光の光明です。この願以下はすべて生活に関する願ですから、「その身に触れる」といったのでしょう。(中略)
「身心柔軟」とは、身も心も素直になることです。柔軟心は信心の有っている一つの徳ですが、仏教ではこの柔軟心は非常に大切なものとして、八地以上の菩薩の普賢の徳といわれて、天親菩薩も「止観相順して柔軟心を生ず」といわれています。「止観」とは、心が静まって、宿業が見え浄土が見えることです。光明のお照らしによって、私たちの足元の現実が見えると同時に、それを照らしている浄土が見える。「前と後が同時に見える眼」のことを、信心の智慧というのです。柔軟心は素直な心ですが、あっち向け、はい。こっち向け、はいという、そういう素直さではありません。腹底に何ものが来てもびくともせぬ、金剛心と一味になった心です。「観無量寿経」には、それを浄土の池の徳を説く時、上を流れる水は柔軟で、さらさら流れるが、底に色とりどりの金剛の砂が敷かれていると説かれています。表は柔軟ですが、腹底はしっかりした金剛心があることを譬えたのでしょう。

お念仏申すとは、周りの人の中に仏さまを見い出すことのできる目を頂くということです。「どんな時でも私がいるよ。力まず、きばらず、素直な目で周りの人を見てごらん」と、私の肩をもみほぐし、私の心を開いてくださる呼び声が「南無阿弥陀仏」です。自ら申すお念仏が、如来のお呼び声となってわが耳にとどくとき、私たちは周りの人を素直に見ることができます。素直に見ると、今まで周りの人は私に意地悪ばかりすると思いこんでいたが、そうでなかった。すぐに有頂天になる危ない私を心配して、「押さえてくださっていたのだな」。私の邪魔ばかりすると思っていた人も、ほっておいたらどこに行くやらわからない私を案じて、「規制していてくださったのだな」。あの人も、この人も、この私を案じて、いろんな形で私を護っておってくださったのだなということが見えてきます。「周りの人は鬼ではなく、諸仏であった」と、念仏申す中で、しみじみと受けとれるのです。念仏の声となって、この身にふりそそいでくださる阿弥陀如来の光明によって、頑[かたくな]な私の心が開き、固い固い私の身が和らぐのです。「親鸞」という小説を書いてくださった吉川英治氏は、「我れ以外、皆な我が師なり」といわれました。念仏申すものは、「我れ以外、皆な我が諸仏なり」という世界の中で日暮しさせて頂くのです。(中略)
さらに第三十三の成就文には、地獄や餓鬼・畜生の世界で苦しみ悩むものも、阿弥陀如来の光明、すなわち「南無阿弥陀仏」のお念仏に遇うことによって、やすらぎを得、二度と地獄・餓鬼・畜生という三途の世界にもどることなく、必ず、迷いの世界を離れることができるとあかしてくださっています。

十方無量不可思議の諸仏世界とは、あらゆる世界ということです。そのあらゆる世界における衆生の類ですから、一切の菩薩より下である人間、さらに犬や猫という畜生の類まであらゆる生きとし生けるもの皆が幸せを受けるように致したいということであります。そんならそれが何によって幸せを得るのかといったら、極楽に生まれたらとおっしゃらないのです。信心を得たならばとおっしゃるのであります。そこに立ってはっきり眺めないと、この御本願の長い願文が子供だましの紙芝居を見ておるような感じになってくるのでありますが、極楽に生まれた衆生でなく、現在のわれわれということであります。十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類いとおっしゃるから、今のお前を除きはせぬ、ということであります。それをはっきり知っておかねばなりません。死んでからのことだと思うてはなりません。その衆生の類、我が光明を蒙りて、その身に触れん者、人はみな光明を蒙っておることはあってもその身に触れておらないのです。(中略)身に触れるということは心だけの幸せでなくして、身の幸せということであります。(中略)
そこで例の如くこの願成就の文ですが、この願成就の文はよく知られておる御文であって、またかと思われるほど毎度お話する御文でありますが、上巻にあります。
それ衆生ありて、このひかりにまふあふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍して、善心生ず。もし三塗勤苦のところにありても、この光明をみれば、みな休息するをえて、また苦悩無し。寿終之後に、みな解脱をかうぶる。
こういう御文でありますが、これはこの願はたて放しでなしに、この本願が成就して実際人々の上に現われて、こうなっておるということを示されたのであります。ここに衆生があって、この光に遇えば(一)三垢消滅し、(二)身意柔軟にして。(三)歓喜踊躍し、(四)善心生ず、私はこの四つの事柄があると思う。これは嘘と思うなら、信心を得てみればよくわかることである。信ずる身の上になるならば必ずそうなる、釈尊が証明しておられるところであります。この光に遇えばということは、信じた人はこの御光に遇うということであるからして、願文でいえばその身に触れん者ということです。(中略)
自分の幸せを喜び如来のお徳を喜んで、手の舞い足の踏むところを知らずという。そうしてその信の結果は善心が生ずると申されているのです。ところが真宗のお話を聞いて、皆都合のよいようにばかり解釈して、悪逆の凡夫は死ぬまで悪逆の凡夫だから、善心なんて起こそうと思うのが間違いである。しようと思ってもなりはせぬ。それが信の幸せである、法の幸せである、というたりして喜んでおる人が多くありますけれども、現に「善心生ず」とあります。(中略)
何も念仏を申してさえおれば、人が可愛がってくれて幸せになる。そういう簡単なことではなくて、幸せは天から降ってくるものでも地から涌いてくるものでもない。身意柔軟にして歓喜踊躍し善心生ずというようなことになってくるからして、やはり人も憎まない、可愛がる。喜んでおる顔を見て憎む者はない。この貪欲瞋恚に反対したことを善と思っておったらよろしいが、どれだけずつでも善意がそこから出てくる。草が生えてくるように思わぬところから善心が出てくる。(中略)
かつては板敷山に親鸞聖人を殺害せんとまで企てた弁円が御弟子となった後、
山は山川は川とてかはらねど
かはりはてたるわが心かな
我が身を振りかえって喜んだと申しつたえられています。これは善心が生じてきたことに驚いて自分が喜んだ歌だろうと思うのですが、如来の願によって三垢を消滅させて下さるし、その結果として身意が柔軟になるし、歓喜踊躍するようになるし、善心が生ずるようになる。この世において、信心のそのときから一生涯、そういう幸せをいただかsねばおかぬということが三十三の願力というものである。(中略)
昔から摂取不捨ということをいうが、摂取不捨の御利益はどの願から出てくるのであろうか。こういうことが問題で、私どもも大学におる時分から書物を見たり人の議論で問題があるのですが、摂取不捨ということは光明だから十二の御本願であるとか、あるいは、摂取さられるのは、信ずる身の上になればこそであるから第十八願であるとか、また摂取せられて正定聚の位になるから十一願であろうというような説もある。もっと早くからわかっておる方もあったかも知らんが、私自身はわからないでおったのですが、「四十八誓願」というお書き物の中で三十三願は摂取不捨の願であるぞとお示し下されています。このことは、聖人独特の見方であり、いかにもと初めて落ち着くことができたのであります。(中略)
聖徳太子の憲法の第一条に「和を以て貴しとす」とあります。「和」ということは何でもないことのように思っておりますが、口では和らぐとか平和とかいいますけれども、平和が得たいといって喧嘩をしておるのです。(中略)仏教の所詮は、我身一身の和を得、一家互いの和を得るということであります。われわれの心は、慈悲を起こすという心と欲を起こすという心と二つある。この二つが一つに融けあわないということから煩悶苦悩というものが起こってくるのです。しかし和ということは、二つもしくは二つ以上のものが融けて一つになってしまうことではなく、二つありながら戦いにならず、不和にならずということが和ということであります。和を以て貴しとするということは、本当に貴い宝とすべきものは「和」一つであるということを示しておるのです。しかもこれは自力努力によってできるものではないのですから、ちゃんとそれを御存知になって、憲法の第二条には、篤敬三宝章というものがあって、篤く三宝を敬え、仏と法と僧を敬え。この三宝というものを篤く敬うということによってのみ、この和というものが得られるのであると知らして下さっているのが憲法第二条であります。(中略)
非常に怒りっぽかった人がだんだん怒らんようになる。欲深かった人が欲深くないようになる。慈悲心のなかったものが自分にも驚くように慈悲心が起こってくる。こういうように信心は仏心でありますから、知らず識らずの間に善心が起こる、変らぬ変らぬといっておるけれどもいつの間にか変わる。蓮如上人が、「別に仔御仕立候ことはなく候」とおっしゃる。お茶でも入れて濁った水が、信心喜ぶようになったら、ポンと心が真水のようにきれいになるというのではない。真水をぽちぽち注いで下さるように知らん間にその番茶の色が白くなってしまうというような風に、善き心に変えて下さるのである。

柔軟ということについて、インドの論家は水を喩えに出しています。水というものはいかなるものでも受け容れて、それを融解するものである。(中略)
剛直の意志は必ず論理にしたがい筋にしたがっていかなければならない。善を容れ悪を弾くところの意志、それがすなわち剛直であります。それに対して柔軟の方は善悪あわせ容れて、それを純一にする感情である。感情というと悪く聞こえるかもしれませんが、いわゆる感情的なのではなくして、われわれの内面的なるやさしい感情が柔軟という心であります。それではわれわれの上に剛直の心というのはどうして出るか、ちょっとでも一分でも不正なことはしないという、その剛直の精神はどこから出てくるかといえば、道を念ずる道念が高く、そうして利害を忘れていくという、そういう修行の力で剛直ということが出てくる。利害に支配されるようでは、けっしてまっすぐにいくことはできない。利害を忘れてはじめて筋の正しいところの道を行くことができるのであります。ところが柔軟の心はどうも少しおもむきが違うようであります。柔軟の心は道を念じて利害を忘れるということよりも、むしろ自分の我慢の心を砕くのであります。道を念じて進むというところには、それは、まっすぐなところはありますけれども、柔軟というのはそのまっすぐなところにある一つの我慢の心が砕けて敬虔な感情が出てくる。
「止観相順、柔軟の心を成ず」と曇鸞の「論註」に出ていますが、「止」はすなわち浄土を念じ、「観」はすなわちこの世を見るといってよいでしょう。「論註」をこまかく申すといろいろのことがありますが、旨意はそういうことになります。平等を見るのが「止」であり、差別を見るのが「観」である。であるから、われわれが心を彼岸の浄土において、種々にこの世の相をあきらかに見ていく、そういうところに柔軟の心を成ずるといってあります。ですからわれわれは浄土を念ずるおちうことによって、ほんとうに人の世というものを見ていく。人間の生活というものをほんとうに眼を開いて見ていく。そうするとそこに柔軟の心を成ずる。我慢というものが砕けて、そこに柔らかなつつましい謙遜な感情というものが出てくるのであります。(中略)
自分は正しい、人は間違っている、そういうことは人間としてどうしてもまぬがれぬようであります。しかし、柔軟心というのはそれが譲れて、そうではない、この世にはいろいろの人がありますから、いろいろの人のあるかぎり、虚偽の相を見ればその虚偽の中に自分を発見し、自分が真理であるならば、その真理を人の中にも見ていくというところに、さきほど申しました水のような心が出てくる。
第三十四願 聞名得忍の願
設我得仏十方無量不可思議諸仏世界衆生之類聞我名字不得菩薩無生法忍諸深総持者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持を得ずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界のものたちが、わたしの名を聞いて菩薩の無生法忍と、教えを記憶して決して忘れない力を得られないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、あまねく無量・無数・不可思議・無比・無限量の諸仏国土にいる求道者たちがわたくしの名を聞いて、それを聞いたことにともなう善根によって、迷いの生存を除いているから、以後、覚りの座に至るまで、神秘な保持能力(記憶して忘れない力)を得ないようであったら、その間はわたくしは<この上ない正しい覚り>を現に得ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、あらゆる世界の迷いに沈む人びとが、私の名、南無阿弥陀仏の声を聞いて、道を求める心を発し、その人生を実り豊かなものにできなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

ここに「わが名字」が初めて出て来ました。第十七願では「わが名」とあり、第二十願では「わが名号」となっていました。名号と名字はどう違うか。「号」は泣くとか、叫ぶという字で、自分で名告る名のことですが、「字」はあざなとか呼び名という字で、他人が呼ぶ名のことです。ここでは一人ひとりの衆生に宿っている、諸仏となった仏が、衆生を「おいおい眼をさませ。念仏せよ。弥陀の浄土を願えよ」と呼びさます、声のない声のことでしょう。これは第十七願に誓われている「諸仏称讃」の「わが名」であろうと思います。
名号が成就するとは、その名を聞いただけで、聞いた人の上に「菩薩の無生法忍、諸の深総持が得られる」ということです。きのうも申しましたように、いくら人の徳が名の上に成就し、名の中に徳が成就していても、それを聞く人が、その人や名に就いて何一つ知っておらなければ、それこそ「馬の耳に念仏」に終ってしまうでしょう。名を聞いただけで、それだけの智慧が開けるということは、すでに聞く人の機が熟しておらなければならんでしょう。それが第十八願において、第一願から第十七願までの弥陀の願意に触れ、法蔵の願いがその人の信心となっているから、弥陀の名を聞いただけで、仏の徳が自分のものとなるのです。これから後の願は、念仏者に対しては、「わが名字」を聞いただけで、これこれのことを得ることができるようにということですが、弥陀自身にとっては、聞いただけで、これこれのことを得ることができるような徳を有った「わが名」を成就したいということです。(中略)
ここに「無生法忍」というのは、表に表れた事象ではないが、そうかといって、不生不滅という涅槃のことでもない。一つのこの世で形造られたものではあるが、形のないもの、つまり世とか性格とか、歴史とか社会とか、慣習とか国柄とか、また法則とか原理というものではないかと思っています。そのことは次ぎの「諸の深総持」でもいえると思うのです。「深総持」は、ダラニの訳ですが、それは一つの言葉の中にたくさんな意味を有っている言葉のことで、南無阿弥陀仏というのも、一つのダラニです。一語の中に無量の義を有っているダラニは、無数にあります。それで「諸の深総持」といっているのでしょう。
私は「無生法忍」とは、今の言葉でいえば「勘」ではないかと思っています。仏教では智慧は無分別智であるといって、無分別といっても、それは分別がないのではない、「無分別の分別」であるといわれています。鈴木大拙博士は、それは「妙なもの」といっておられますが、先生は禅宗で、さとったものが「霊性的自覚」だからでしょう。念仏の智慧は、第三十三の触光柔軟の願によって、人生のいろんな経験を通してさとった「世間解」で、しかもそれが「無分別智」というのですから、私は熟練者の「勘」であろうと思うのです。勘は直観の働きで、それ自体は無分別のものですが、その中には無数の分別が内容となっています。
たとえば碁打の勘ですが、プロの高段者は、一と眼ぱっと見ただけで、五十手先、七十手先が見えるそうです。「アマの人は三手先を考えて打ちなさい」といわれます。私たちは二手先が見えません。相手が打った段になって、やれしまったです。私は子供の時、先生から、二手先が見えないものは、碁をやめなさい、と叱られたことがあります。しかしプロの高段者でも、初めから何十手先が読めていたのではないでしょう。何遍も失敗して失敗して、鼻血が出るほど試行錯誤を重ねて、漸く見えるようになったのでしょう。正宗の名刀やりっぱな名刀は、何ぜ刃こぼれしないのか。その秘密は、一枚の鋼鉄のように見える刀は、実は鍛える時、折っては重ね、伸しては重ねて、何十枚何百枚に重ねられているからだと、聞きましたが、無分別智の中には、無数の分別が含まれている。それを無分別の分別といったのではないでしょうか。その人生そのものから学んだ無分別の分別を、無生法忍といったのだと思います。
その無生法忍の智慧を身につけた人は、まさに人生修行の達人でしょう。「一を聞いて十を知る」、「表を見て裏が解る」、この無分別智こそ、日々を生きる智慧でしょう。向こうから自動車が暴走して来た。さあどうするか。子供がけがをした。さあどうするか。そこに役立つものは突差の智慧、勘の外はありません。それは唯だその時その折りに出遇った事件に対処するだけではない。日々新たに自己の運命を開拓し、新しい時代を創造するものも、また新しい機械を発明し、新しい技術を開発するのも、皆人生そのものから得た勝れた勘によるのでしょう。日々の人間関係や、家庭の在り方、社会の在り方、そこに働く智慧こそ、「菩薩の無生法忍諸の深総持を得る」ことに外ならないでしょう。

まず「涅槃」ということですが、涅槃とは、迷いの火を吹き消した状態ということで、迷いのなくなった境地、すなわち、さとりの境地のことであり、何ものにも束縛されない完全な自由の境地、すなわち解脱を得たすがたであります。
ですから「涅槃を得る」とは、涅槃の境地である浄土に生まれるということであり、完全な自由の境地に生きる仏になるということであります。それで、先ほどから「涅槃を得る」ということを、「浄土に生まれる」とか、「仏になる」という言葉に置き変えて使ってきたのです。
次に「無生法忍」とは、中村元先生の「仏教語大辞典」に、
無生の法理の意。空であり、実相であるという真理を認め、安住すること。一切のものが不生不滅であると認めること。ものはすべて不生であるという確信。忍は忍可、認知の意で、確かにそうだと認めること。真実の理をさとった心の安らぎ。不生不滅の理に徹底したさとり。無生忍ともいう
と解説されていますが、これを読んで、すぐにわかる人は少ないでしょう。そこで、私の味わいをも含めて「無生法忍」ということについて述べさせて頂きます。すなわち、私たちの苦しみや悩みは、一つ一つのものや事柄に執着することから起こります。これは私のもの、これは私がやったことと一つ一つのものや事柄に執着しますから、自分のものだと思っているものを失うことは何よりもつらく悲しいことであり、自分がなしとげたと思う事柄が消えていくことは何よりもさびしく耐えられないことなのであります。私たちの苦しみ悩みは、このように私のもの、私のしたことが消えていく、滅していくと思うところから起ってくるのです。
本当は、すべてのものは、その時その時の因と縁の組み合わせによって成り立っているのであって、私のものと執着すべきものでもなければ、私のしたことと執着できるものでもないのです。また逆に、私のものが消えていく、私のしたことが滅していくということもないのです。それはただ、因と縁の組み合わせが変わっただけのことなのです。
すべてのものや事柄は因と縁の組み合わせによってできているのに、一つ一つのものや事柄を実体のあるものと誤認して、生じた、滅したと一喜一憂して苦しみ、悩んでいるのが私たちなのです。
ですから、すべてのものが因と縁の組み合わせで成り立っていて、一つ一つのものや事柄に実体があるのでもなければ(実体がないということが空ということ)いわゆる、生じた滅したと執着するようなものは何もありません。そのことがあきらかになれば、私のものが消えていく、私のしたことが滅していくと苦しみ悩むことがなくなります。このように、この世の中の本当のあり方を認知し、さとるとき、本当の安らぎを得るのです。
すべてのものは不生不滅であるという真実の理をさとった境地が「無生法忍」なのです。
このように素晴らしい境地を「わたしの名を聞く」ものにあたえてやろうというのが、第三十四の願であり、そのことを身にかけて証明してくださったのがイダイケ夫人です。(中略)
三忍とは、喜忍・悟忍・信忍のことで、中国の善導大師が「無生法忍」の内容を三つにわけてお示しくださったのです。
喜忍とは、阿弥陀如来の金剛心(どんなことがあっても変わることのない心)に遇った信心によって与えられる、消えることのないよろこびであります。
悟忍とは、阿弥陀如来の、どんなことがあっても間違うことのない確かなお心があきらかになることです。この確かなお心ひとつをよりどころに、精いっぱい生きるだけで、私たちはお浄土に生まれることができるのです。
信忍とは、阿弥陀如来の確かな本願に、露塵ほどの疑いもなくなることです。私たちはお浄土に生まれさせて頂く身に安んじて、再び動転することのない日暮らしをさせて頂くのです。
南無阿弥陀仏のみ名を聞くことによって、私たちも、イダイケ夫人と同じように、三忍、すなわち無生法忍を得ることを、親鸞聖人はあきらかにお示しくださったのです。

念仏によって往生ができるということを聞いて、自力では何一つ駄目であった。自分にも他力によって助かる道があったということがわかりまして、「観無量寿経」ではどうなっておるのかといいますと、
韋提希[いだいけ]、五百の侍女と仏の所説[しょせつ]を聞く。ときにに応じて、すなはち極楽世界の広長[こうちょう]の相をみたてまつる。仏身および二菩薩をみたてまつることをえて心に歓喜を生じて未曾有[みぞう]なりと歎[たん]ず。廓然[かくねん]として大悟して無生忍[むしょうにん]をう。
と書いてあります。これが「観経」の最後の注意すべき言葉でありまして、仏の所説を聞いて、これはただぽやっと聞いたのでなくして、念仏申せば助かるぞという他力至極の言葉を聞いてそうして信ぜられたのである。私のようなものでも助けて下さるべき道があったのか、こういうことを知って、早速に、即ち極楽世界の広々として尊い相が見えたというのであります。これは定善十三観に説かれた極楽のすぐれた相を心にありありと見ることができたというのです。そうすると同時に一番大事な阿弥陀仏の御身及び観音・勢至という二菩薩を心に見たてまつることができたのです。これはありがたいことであります。阿弥陀如来の御本願によって私のようなものが助けていただけるのだ。それが定善十三観に説かれておった観世音菩薩、大勢至菩薩、阿弥陀仏もこの私の上に働いておって下さったということが見えるようになったのです。目の前に拝むことができるようになったものですから、ああ嬉しやと心に歓喜が生じた。獄中にあって今晩殺されるかも知れない悩みの中にありながら心に歓喜が生じたのです。びっくりして、「未曾有なりと歎ず」まだ生まれてからこんなしあわせなことは一度も知らなかったと喜ばれたのです。ただ掛物の仏像でなく木や金でつくった仏でなくして、本当に弥陀・観音・大勢至が私の上に来て下さっておるのだな、と心に歓喜を生じて、これは今日までに私には一生涯知らなかったことであった。未曾有なりと歎じて、廓然として大いに悟って無生忍という涅槃の入口といいますか、涅槃の智慧が開けたとあるのです。(中略)
「文類正信偈」には、
信を発[ほっ]して称名すれば、ひかり摂護[しょうご]したまふ。また現生無量[げんしょうむりょう]の徳をう。
死んでからでなしにこの世から無量の徳を得ると申しておられますが、そういうことが信の徳だということであります。
仏の本願力を観ずるに、まうあふてむなしくすぐるものなし、よくすみやかに、功徳の大宝海を満足せしむ。(観仏本願力、遇無空過者、能令速満足、功徳大宝海)
と数えられぬ程の幸せというものが充ち満ちて、そうせずばおかんという御本願であると天親菩薩が喜んでござる。あの偈文を親鸞聖人御自身の絵像にはいるでも銘文として書いておられるのであります。海のようなたくさんの宝があるということになっておりますが、それはこの身が死んでからではなく、この世において満足せしめて下さるのであると申しておられます。それは無生法忍を得、諸深総持を得させずばおかんというこの願のお力であります。親鸞聖人は付け加えて、「知らず、求めざるに、功徳の大宝この身に充ち満つるなり」と喜んでござるのでありまして、死んでからでない、現在に諸々の幸せが得られて、しかもその幸せがずっと未来につづいて涅槃に達するまでということが信力であり本願力と申すものであります。

だいたい、無生法忍というのは涅槃のことであります。そして忍は「しのび」「たえる」ということでありますから、ほんとうの涅槃寂静の境地を認め、涅槃寂静の境地に随順し涅槃と相応する。それが無生法忍であります。その無生法忍を説くのに、「菩薩の」といったのはどういうわけであるか。無生法忍には、菩薩の無生法忍と声聞の無生法忍がある。声聞の無生法忍というのは、生死すなわち現実の世界を超え、動乱の世をのがれて涅槃の境地に安住する。それがすなわち声聞の無生法忍であります。菩薩の無生法忍はそうではなくして、生死の世界にありながら、煩悩のこの世にありながら、善悪・苦楽・是非の動乱の中にありながら、そこにある無生法忍であります。だから菩薩の無生法忍は、ほんとうの意味において自然にしたがう。あるいは運命に対する親しみというようなことではないかと思うのであります。(中略)それは柔軟心が光を放ち、柔軟な感情が知識になってきたもので、それが菩薩の無生法忍というものではないでしょうか。だからその菩薩の無生法忍というものは、深甚無量の意味をもっている。その相においてはただ白い一筋の流れのようであります。きわめて単純である。自然に流れている。運命に親しんでいるから非常に単純である。単純ではあるけれどもその単純さはさらに無量無辺の意味をもっている。(中略)
「深総持」ということは深い総持ということで、「総持」というのは陀羅尼ということであります。すなわち陀羅尼ということの翻訳を総持というのでありますが、陀羅尼といいますと、呪文ということであります。その呪ということはどういう意味であるか。呪ということの元来の意味は、意味多含にして、一つや二つの言葉をもって、その言葉の意味を言い現わすことのできないことをいうのでありましょう。だから呪というのは、多くの意味をもっている一つの言葉ということであります。(中略)だからここでいいますと、弥陀の名号念仏というものは総持陀羅尼のもとなのでしょう。多くの意味をもっている一つの言葉であります。多くの経験を統一した一つの行である。ただ一つの南無阿弥陀仏であるけれども、その南無阿弥陀仏は、人間のあらゆる経験を総持したあらゆる経験を陀羅尼したところの一つの言葉である、一つの行である。(中略)
今「仏座」の方では、曇鸞大師のところを読んでいるのでありますが、そこにこういうことがいってあります。
「彼の無碍光如来の名号は、能く衆生一切の無明を破し、能く衆生一切の志願を満たす。」
この「一切」という言葉はいったいどういう言葉であるか。(中略)
すこしあかりがさしてそのあかりによって、さらに一層暗い方面に着眼するのである。だから一切の無明を破るという言葉は、無明を破られていよいよ切に無明を知るのである。志願を満たすということはその志願を満たすところの名号を聞いて、志願がいよいよ身につくということである。志願があきらかになるということであります。そういうふうにいつでもわれわれが気のついていることはわずかの部分であります。大なる円の小なる弧に過ぎません。その気のついたところだけに着眼したときに、普通の道徳とか修養ということが出てくるのであります。それだけのことに気がつくことによって、そのいまだ知られないものに恐れを抱く。その知られない方面に恐れおののき、その深淵に感動していくところに宗教の生活がある。そこに触光柔軟が出てくる。諸の深総持、無生法忍という気持ちがそこへ出てくるのであります。
第三十五願 女人往生の願
設我得仏十方無量不可思議諸仏世界其有女人聞我名字歓喜信楽発菩提心厭悪女身寿終之後復為女像者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人ありて、わが名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。寿終りてののちに、また女像とならば、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界の女性が、わたしの名を聞いて喜び信じ、さとりを求める心を起し、女性であることをきらったとして、命を終えて後にふたたび女性の身となるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。わたくしが覚りを得た後に、あまねく無量・無数・不可思議・無比・無限量の諸仏国土にいる女人たちがわたくしの名を聞いて、きよく澄んだ心を生じ、覚りに向かう心をおこし、女人の身を厭うたとして、(その女人たちが)(この世での)生を脱してからふたたび女人の身をうけるようなことがあったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、あらゆる世界の女性たちが、私の名、南無阿弥陀仏の声を聞いて、心から喜び、道を求める心を発し、女性としての自分を乗り越えようとするに違いない。その人のいのち終わるとき、自分が女性であったことを心から感謝できないようであったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

今の第三十三の願と第三十四の願は、念仏生活の総願です。親鸞聖人もそう見ておられらのでしょう。この二つの願を「信の巻」に引いておられます。これから以下の願はすべて別願で、その具体的内容です。その中、第三十五願から第三十九願までは、私は私生活の願であり、第四十願から四十四願までは、社会生活に対する願だろうと思っています。(中略)
男だけが仏になるのではない。女でも仏になるものもあると、八才の龍女の成仏を説く「法華経」のような経典も現われています。しかしこれはいわゆる男女同権を主張しているのですが、どう見てもこれは女の負け惜しみというものでしょう。戦後、男がたばこを喫むのなら、女でも喫むぞと、いったのと同じで、言うても言うても男が標準でしょう。こういう所には本当の女の救いがあるはずはありません。足元を忘れて背のびをしているのですから。男には男の世界があるように、女には女の世界があります。桜が桜の花を咲かしたからといって、何も梅が桜の真似をしなくてもよいでしょう。(中略)
女人禁制は、男が山に入って、禁欲して修行しているのに、そこへ女が来ると、心が乱れて、女に触れてはならぬという戒律を破ることになるからです。(中略)それは「女は魔物である」というのと同じで、女そのものを魔物というのではなく、修行している男にとって魔物になるのではないですか。(中略)
昔は「女人非器」といって、女は仏になる器ではないといわれていましたが、どうもこれもわけが違うように思われます。といいますのは、これは同じように仏といっていますが、原始仏教でいう仏で、煩悩を断ち切ったアラカンのことを、仏といっていたのですから、女はこの世の執着が深いから、命終るまで欲を離れられませんから、原始仏教のものさしで計れば、女は落第です。また大乗仏教になりますと、人間関係が問題になったために、さとりの概念が変って、煩悩を断った出家ぼとけのアラカンから、自利と利他を成就した五十二段の在家ぼとけに変りました。それは人生観が全く変ったからです。(中略)
それに対して浄土教の説く仏は、あるがままの存在の自覚に立って、男は男の有っている徳を成就して、男仏となり、女は女の有っている徳を成就して、女仏となる。青色青光赤色赤光の、各々の有っている花を咲かしてゆくさとりですから、女も仏になることができるのです。それは女が女を辞職することではなく、逆に女が女になることです。(中略)
ここに「寿終って後」とあるのは、第三者が頭で、死んだら男になれますか、と受けとるから経典の言葉が死んでしまうのです。これは女自身のまごころから出る、深い懺悔の言葉です。現在只今、りっぱな女になりたい、賢い母になりたいと願っているのですが、女性本能にひきずられて、菩提心をわすれがちである。その涙がせめて「寿終って後」になりとでも、りっぱな女になりたいと、現に今心の深い所に動いているまごころの菩提心が、重い宿業の底を潜って出てきた、涙の言葉です。現在の心の深みにある願いが真実であれば、真実であるほど、こういう形をとって現われてくるのです。こういう筆法は経典の至る所に出ています。精神的な問題は、即座に解決できますが、感情的、行為的な問題は、その場で即決というわけには行きません。論にも「見道は石を割るが如く、修道は蓮糸を切るが如し」といっています。
ここで一つ私の問題を提起します。女に対しては「変成男子の願」がありますが、男に対して「変成女子の願」はなくてもよいものでしょうか。結論から申しますと。私は男には「変成母親の願」がなくてはならんと思っています。(中略)
母親が子にそそいでいる愛情を見て、父親たるものは、唯だ感心して傍観していてよいものでしょうか。自分も母親のように、もっとわが子に対して、父としての愛情を有たねばうそである。私も母親のようになりたいと、「変成母親の願」を発こさねばならぬのではないか。
それでは父がわが子に対する、母親とは違った役割とは何か。私はそれは社会性と歴史性ではないかと思っています。(中略)
第三十五の願をしめくくります、この女人成仏の願が、念仏生活の一番初めに誓われたことは、この経典を説かれた時代が、男尊女卑の思想が強くて、すべてが男中心の社会であって、女も唯だその社会の慣習のままに従って生きているだけで、本気で自己を取り戻して、女性の個性を活かそう、という意識も低かったからではないかと思います。そうすればこの願は、たんに女性に対して、その自覚を促すだけでなく、男性に対しても、女性をたんなる享楽の道具や雑用婦としてではなく、一個の人間として、女性の有っているよさをもう一遍見直して、男性の足らん所を反省し、男の長所と女の長所を出し合って、男女協同して第三社会を創造するように、ということではないかと思います。

男性が男性自身のあり方を単純に肯定するとき、困った問題をすべて女性に御しつけてしまうのです。釈尊は、女性を通して男性である自らの問題に出会われたのです。女性を隷属するものという見方からは、自らの問題に出会うというようなことはなかったでしょう。釈尊には女性を男性より下位に置くような見方はなかったのです。だからこそ、自らのもつ体質に気づき、そこからの脱却なしに、自らの救いのないことを確信されたのです。
男性が男性のもつ体質に目覚めることなしに救いはないでしょう。また女性においても自らのもつ体質に気づかなければ、現状から抜けだすことはできないでしょう。さらにいいますと、一人ひとりが、自らのあり方に目覚めない限り救いの道はないでしょう。
男性は女性を通して、女性は男性を通してそれぞれ自らのあり方に気づかされ、その自らのあり方を超える努力によって、人間的成長をとげるでしょう。このように考えていきますと、正に、女性は男性によって尊ばれるべき存在であり、男性は女性によって敬われるべき存在であるはずです。このようなことを思うにつけても、私は、互いに観世音菩薩と拝まれていた親鸞聖人と恵信尼さまご夫妻の中に信の男女のあり方を見るのです。(中略)
立派なことやきれいなことはいくらでも言えます。しかし、その立派な、きれいな言葉が、ドロドロした現実社会の中で呻吟[しんぎん]する人間のどれほどのすくいになるでしょうか。阿弥陀如来の本願は、ただの理想論ではないのです。人間のドロドロした得体の知れない胸底を見抜いて誓ってくださった願いなのです。

願文には死んでから後再び女子となることはないと書いてあるのですけれども、女身を厭悪することはこの世とも死んでからとも書いていない。往生しては仏になってしまうのですから、往生即成仏と親鸞聖人はおっしゃるのです。往生して直ぐ仏になるならばそれは変成男子という名を付ける必要はないのです。(中略)
それで梵本を調べてみますと、三十五の願がこういう願になっております。
世尊若し我れ覚を得たる後、普[あまね]く無量無数不可思議無比不可量の諸覚者国の諸女人は、我が名号を聞きて、信心歓喜を生じ、覚念を発起せず、又女性を厭はず、生を脱して若し第二の女性を得ることあらば、我は無上なる正等覚を証得るせざるべし。
信を得、信心歓喜という身になって、今まで厭うた我身の女性ということを厭わないようになるのです。私はそうならねばいけないと思います。却って女性に生まれたということが本当に幸せであり尊いことであり、ありがたいことであったということがわかって、我が身の女性なることを厭わないようにならないことには男より別に苦しみが多いわけであります。女に生まれたことの悔しさというが、変に男と比べて対等にいこうとか、それ以上にいこうとかいうことを思うから一層苦しむのであります。自分は自分の悪さを知り、自分の能力を知っておるというところに、本願を信ずるようになり、そこにおいて自分の尊さを知り、自分の幸せというものがわかったならば、今まで呪うたことがあやまりで、我が身の女性なることを厭わないようになるはずです。喜となるということが真の幸せとなったことであり、そうして信ということは、そうさせたいという本願であります。

哲学には合理派の哲学と不合理派の哲学とがある。合理派の者は道理にかなったものをえらいと考え、不合理派の哲学者は、そうでなくして不合理のもの、すなわち道理に合わないものから道理というものは生まれてくるのである。不合理がなければ道理はない、不合理性は合理性の母である、こういうふうに考えるのである。そこで私は男女ということを考えていきたいのであります。どうも女性というものは不合理性の代表でありまして、道理を尊ばない。「それはそうだけれども」と、けれどもが無限に続いていくところに女性がある。男性は「それはそうだ」とすんでしまい、割りきれてしまう。ですから割りきれるところに男性がある。女性は割り切れない。「それはそうおおせられるけれども」と、けれどもが無限についていくところに不合理性の女性というものがある。そこで合理性を尊ぶ仏教では、当然男尊女卑である。そうして女人は仏になることはできない。けれどもその不合理性というものに、何かの意味を認める一つの宗教があるならば、女人は成仏するわけであります。不合理性がどこまでも合理性にならなければ、どうしても人間は救われないというならば、女子は一度男にならなければ到底仏になることはできない。一遍変成男子しなければ女人成仏することはできない。けれども不合理性がそのままある意味をもつならば、女のままにして成仏する、すなわち女人成仏であります。(中略)
もしこの世の中に合理性というものだけしかないならば、この人間の道はただ剛直だけになります。こちらにぶつかりあちらにぶつかる、ただそれだけであります。そこに不合理性の内省があって、どれだけ合理化してもまだそこに無限の不合理性があるということの自覚があって、はじめて平和が現われてくるのであります。さきほど申しましたように、我は真実である。汝は虚偽であるという、そういうことのいえないところが、ほんとうに女性の目をさましたところではないでしょうか。だから「男になりせば」と理屈なしにやさしく不合理性を内省する心が、厭悪女身ではないかと私はいいたいのであります。理屈をいわないで、どこまでも理屈にともなうところの我慢[わがまま]をなだめて、つねにやわらかくしていくところに、女性が目をさました不合理性の働きがあります。で、私はそこで触光柔軟ということが、「歓喜信楽して菩提心を発し女身を厭悪する」というところへ行ってほんとうの女人成仏があり、女人は女人として仏になるのである。男になって仏になるのでなくして、女人は女人としてほんとうに女人仏になるのである。たとい変成男子といっても、女性が男性となるのではなく、女性は女性のままにして男性と平等になる。不合理性がそのまま合理性と一味の光を持つことになるのであると思います。(中略)
いわゆる聖道自力の方では女性が妨げになるかもしれませんけれども、この他力真宗、親鸞聖人の念仏一路においては、男子と女子、男性と女性というものが、ほんとうに友達になる。法の友達になるという天地が現われてくるのではないでしょうか。釈尊のような人でも、比丘の教団と比丘尼の教団とを別々にして、それでも非常にお困りになったのでありますけれども、本願の信楽という境地まできますというと、それは困らないでよいわけである。男性という合理一点でいこうとするような人間だけでは、真宗の法はあきらかにならない。それで真宗教団には、女性というものがとくに意味をもっているように思うのであります。他の宗旨は男だけでも教団ができるかもしれませんけれど、親鸞聖人の宗旨は、弥陀の本願の宗旨は、やはり女性というものがあって一つの教団ができてくる。女性があって教団ができるということは、不合理性というものが不合理性のままで法を喜んでいくところに、ほんとうに法の尊さというものが感じられてくる。そういうことで私はまたつぎの「常修梵行の願」と見ていきたいのであります。
第三十六願 聞名梵行の願

設我得仏十方無量不可思議諸仏世界諸菩薩衆聞我名字寿終之後常修梵行至成仏道若不爾者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、寿終りてののちに、つねに梵行を修して仏道を成るに至らん。もししからずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界の菩薩たちが、わたしの名を聞いて、命を終えて後に常に清らかな修行をして仏道を成しとげるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、無量・無数・不可思議・無比・無限量の諸仏国土の生ける者どもが、わたくしの名を聞いて、名を聞いただけで、覚りの本質の究極に至るまでの間、浄らかな行いを実行するようにならないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、私たちの思いも及ばない世界中の人びとが私の名、南無阿弥陀仏を聞いて、いのち終るとき、その人は一生涯正しい道を歩んで目覚めた人になったと、称賛されるに違いない。もしそうでなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

この願は対告衆(呼びかけられた相手のこと)は、「諸仏の世界の諸の菩薩衆」です。「菩薩」とは、自己が置かれている歴史的現実を踏まえて、そこにおいての自己の生きる真実の道を求める求道者で、つまり自覚した正定聚不退転の菩薩のことです。「梵行」とは、清浄の行ということですが、それに二つの意味があって、一つは、我執のない、まごころから出る行為のことですが、もう一つは、男女間の性行為をしないことをいいます。ここでは前の女人成仏の願からの一連の流れで、性行為をしないことだろうと思います。(中略)
仏教でも、妻を持たない宗派はたくさんあります。日本でも昔は神に仕えるものは、生娘でした。今日でも田植えをする女のことを早乙女といいますが、皆セックスはけがれたものという思想から来ているのです。
それでは何ぜここで、この世で常に梵行を修するようにといわずに、「わが名字を聞けば、寿終って後、常に梵行を修する」と誓っておるのでしょうか。出家者は性行為は禁じられていますが、「菩薩」は、家庭にあって、人間としての真実の生き方を求める、在家の求道者ですから、妻との性行為は当然であります。性行為をしなければ、子供も生まれず、子孫は絶えてしまいます。出家仏教と在家仏教では、価値観が変って来たのです。(中略)
この「寿終って後」も、前の第三十五の願の時申しましたように、死んで後のことではなく、生きている間の深い懺悔の言葉です。性行為は人間にとって、大切なものです。それは唯だ種族保存の本能からだけでなく、夫婦和合の秘訣でもあるのです。「夫婦げんかは一晩寝れば治る」というでしょう。性行為はスキンシップの最大のもので、肌を許すことは、最も親しさをあらわすことです。「華厳経」にも、バスミッタ女が善財童子に、そのことを教えています。私の側に坐ってみなさい。こういうさとりが開けますよ。私の手に触ってみなさい。こういうさとりが開けますよ。私とキッスしてみなさい。私を抱いてみなさい。こういうさとりが開けますよと、次第に善財童子を導いて、性の有っている意味を教えています。それはまた「この世は酒と女」といわれているように、人間に与えられた最大の楽しみでもあります。
しかし動物や小児族ならいざ知らず、理性を有つ人間には、性行為には、満足と同時に、何ともいえぬ淋しさがあります。一体この淋しさは何でしょう。(中略)それは人間に与えられた貴重な楽しみではあるが、心からすべてを挙げて、それに耽溺することを許さぬものが、内心深くにあります。それは仏性の声です。(中略)
「寿終って後」には、「常に梵行を修し」たいという悲痛は、そのまま現在の願いの深さですが、それによって修せぬままに修している、「不断煩悩得涅槃」の徳が与えられるのでしょう。「愛欲即是道」ともいわれていますが、こういう境地をいうのでしょうか。(中略)
貝原益軒は「養生訓」の中に、自分はりっぱな子供を産むために、夜は疲れているから、元気な昼の日なかに、玄関に「面会謝絶」の札を下げて、妻と一しょに寝るといっています。
「仏道を成ずるに至る」とは、仏になったら、性行為は用事がなくなるということではなく、常にその遊戯性を自覚すれば、「寿終って後」でなく、常にその時性行為において、仏道が現成することをいうのでしょう。「愛欲即是道」ということをいうのではないでしょうか。

信心とは、私が阿弥陀如来を信じた心ではなく、阿弥陀如来の「いつでもあなたを案じている私がいます」と、私たちのために名のりつづけてくださるみ名を聞いて、阿弥陀如来に遇った相です。言葉をかえれば、阿弥陀如来のお心に目が覚めたということです。信心とは目覚めであり、正しく智慧なのです。(中略)
次に「命終って」ということですが、私たちは、命終るというと、すぐにこの身が亡んでいくこと、すなわち死を考えますが、親鸞聖人は、ただこの身の終わる死だけを命終とは考えられませんでした。親鸞聖人は本願信受の時、すなわち「わたし(阿弥陀如来)の名を聞いた」時こそ、命終であると、「愚禿鈔」に、
本願を信受するは、前念命終なり
即得往生は、後念即生なり
とあかしてくださいました。ここでいう命終とは、この身の終わりということではなく、この心の命の終わりということなのです。この心とは、どういう心かといいますと「我が身をたのみ我が心をたのみ、我が力をはげみ我がさまざまな善根をたのむ」(一念多念証文)心なのです。すなわち、「儂[わし]が儂[わし]がの自力心です。
確かな阿弥陀如来のお心、本願との出遇いは、私たちの自力心の終わるときなのです。そのことを、親鸞聖人は、「命終なり」といわれたのです。(中略)
浄の反対は不浄であり、穢です。日本にはこの浄・不浄といいますか、浄・穢というものの見方が古来より強く根づいているようです。しかし、三十六の願に誓われている「浄らか」という概念は仏教でいう浄で、日本の古来からの考え方である不浄や穢に対する浄ではありません。どういうことかといいますと、日本古来から考えられてきた代表的な不浄・穢の考え方は、女性の生理である血が不浄である(赤不浄・血穢)とか、「いのち」の誕生であるお産が不浄である(白不浄・産不浄)とか、死が不浄である(黒不浄・死穢)という三不浄・三穢という考え方です。このような三不浄・三穢という考え方が部落差別・女性差別を温存し、助長する基盤になってきました。日本古来のこのような考え方からいいますと、浄は、不浄の状態にあるものが喪に服し、喪がはれた状態のことですし、また大祓[おおはらい]、禊[みそぎ]、清め等をして穢から浄に帰るという考え方です。この不浄なり、穢から浄にもどる儀式が、儀礼の中心にすえられているのが日本古来からの宗教です。
仏教でも、浄・穢ということはいいます。浄土・穢土というのがそれですが、仏教でいう穢は決して三不浄でもなければ、三穢でもありません。ですから、御祓いをし、禊をし、清めをして浄になるというようなことでは決してないのです。(中略)
朋と、共に、倶に、同じくということが、仏教でいう浄なのです。ですから「浄らかな行を修めて」とは、「名を聞いた」信心の人は「自分さえよければいい」という行動ではなく、つねに、朋と、共に、倶に、同じというところに立って行動していくということなのです。
そのような行動といいますか、生き方が正しく「仏道を成しとげる」という人生なのです。仏とは、縁起の法に目覚めた人ということです。(中略)
仏教ではそのような生き方を自利利他円満というのです。それは「つねに浄らかな行を修め」るということと別にある道ではありません。
「つねに浄らかな行を修め」るままが、「仏道を成しとげる」ことなのです。

梵という字はインドの字を訳したのですが、清浄ということでありまして、梵行は清浄の行ということであります。そこで二十二願の別益であるとしますと、梵行というのはあの普賢の行であります。自ら仏を供養してますます自分の法徳増長してゆく。そうして同時に他の者に本願を信ぜしめて助けるということに力をつくすということが普賢の行ということであります。言い換えれば自利の行をいよいよ勉強するようになり、人を助けるという化他の行を修めて行くようにならしめたい、そうならしねばおかぬということであります。信を得た者は、埒[らち]あいたというので左団扇[ひだりうちわ]で遊んでおるかというと、決してそうでない。本当の「聞我名字」の人ならば、いよいよ自利のために尽し、利他のために尽してあの普賢の行願を一生懸命に行うように、是非ともならしめたいというのです。信心の御利益としてそういうようにならしめたいという願であります。(中略)
・・・この願成就の文は、下巻に、
つねによくその大悲を修行するものなり。深遠微妙[じんおんみみょう]にして覆載[ふさい]せずということなし。一乗を究竟[くきょう]して彼岸にいたり。
とある所であります。それでなおよくはっきりします。信の人は常にこの願力によって、よく大悲を行ずるものとなり、利他の大悲心を実行していく人である。その心の愚というものが深遠微妙にして覆載せざることなし、ほかの人の上にその慈悲が至り届いておる。覆載は人の上を覆いまた乗せるという字ですから、こういうようにしてその人を助けようとせられる心持ちです。一乗を究竟して彼岸に至る。自分も人もただ助かる道はこれ一つ、こういうことがはっきりして、そうして仏果涅槃に至るまで、そういうことを仕事としていく。そういうようになられるということは、この願の力というものであることを示しておられるのであります。

「梵行」というのは清浄の行でありまして、男女の間の美しいことであります。つまりそこにいわゆる汚らわしいものが入ってこない。それが常修梵行であります。なぜここでとくに断ってあるかというと、どうも私は第三十五の願に「女人成仏の願」が出たものですから、それについてきている自然の順序ではなかろうかと思うのであります。(中略)
むろん必ずしもそういうふうに解釈しないでも「常修梵行」ということとは、単に常に純粋の行をするというだけでよいのでありますけれども、この願の聨絡[れんみゃく]というものを考えますというと、女子求道者もあり、男子求道者もあって、しかもともに法を愛楽し法をたのしんで、そうしてその間に何らの穢れがないのである。それで常修梵行ということがここへ現われてきたように思われるのであります。かくのごとくして男性は自己の内部にある女性を自覚し、女性は自分の中に男性の光を見出していくのであります。
第三十七願 作礼致敬の願
設我得仏十方無量不可思議諸仏世界諸天人民聞我名字五体投地稽首作礼歓喜信楽修菩薩行諸天世人莫不致敬若不爾者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の諸天・人民、わが名字を聞きて、五体を地に投げて、稽首作礼し、歓喜信楽して、菩薩の行を修せんに、諸天・世人、敬ひを致さずといふことなけん。もししからずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界の天人や人々が、わたしの名を聞いて、地に伏してうやうやしく礼拝し、喜び信じて菩薩の修行に励むなら、天の神々や世の人々は残らずみな敬うでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、あまねく十方の無量・無数・不可思議・無比・無限量の諸仏国土の生ける者どもが、わたくしの名を聞いて、五体投地の礼によってわたくしに敬礼し、求道者の行いを実行しているのに、神々と人間との世間から敬礼されないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、私たちの思いも及ばない世界中の人びとが、恵まれた人も貧しい人もみな、私の名南無阿弥陀仏の声を聞いてその全身を挙げて私を信頼し、喜びのあまり、脇目も振らず道を求めるようになるであろう。その姿を見る者はみな、あの素晴らしい人だとほめたたえるに違いない。もしそうならなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

「五体を地に投げて、稽首し礼を作す」とは、深い懺悔、大懺悔をいうのです。「五体を投げる」とは、大地に跪くというのと同じ気持ちで、次の「稽首」と共に、インドの最敬礼です。稽首は、自分の頭を相手の足につける礼のことです。それでは何に対して懺悔し、何に向かって敬礼するのでしょうか。天に向かって懺悔するのでもなく、西方に向かって敬礼するのでもない。「わが魂の底深く」に、聞こえた「わが名字」に対してです。「わが名字」は、光明と本願の成就した相ですから、念仏において聞こえる名字の内に働く、光明のお照らしに遇うて、わが身の浅ましい相を知らされた時、おのずから懺悔となるのです。親鸞聖人は、「仏の六字を称うるは、即ち懺悔になるなり」といっておられます。しかもそれは念々に起こる煩悩を懺悔するのではない。念々に起こる煩悩において、煩悩を起こさせている、深くして底のない、無始以来の宿業の懺悔です。人間であることの懺悔です。
しかもそれは懺悔に止まらない。懺悔が懺悔に止まるなら、それは真実の懺悔ではありません。光明と共にある本願力に催されて、重い宿業を背負うて、人生創造に起ち上がる。それを「歓喜信楽して、菩薩の行を修する」といっているのでしょう。

慚愧は、確かなものに遇って、自らの相があきらかになったときに、湧き出してくる心であり、行動であります。この慚愧の心は、つねに「うやうやしく礼拝し、喜び信じて菩薩の行にいそしむ」行動となるのです。この慚愧について、親鸞聖人は「涅槃経」を引用してあきらかにしてくださいます。すなわち、
二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慚、二つには愧なり。慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。
と慚愧とはどういうものかをあきらかにし、つづいてこの慚愧によって開ける「いのち」の世界があきらかにされます。すなわち、慚愧あるがゆゑに、すなはちよく父母・師長を恭敬す。慚愧あるがゆゑに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。
とあきされています。この「能く父母・師長を恭敬す」という行動が「うやうやしく礼拝し」ということであり、「父母・兄弟・姉妹ある」というところに立っての行動が、「喜び信じて菩薩の行にいそしむ」ということなのです。(中略)
ここで注意しておかなければならないことは、慚愧は、「私に慚愧の心あり」というところにあるのではなくて、「無慚・無愧のこの身」という悲しみの中にあるのです。すなわち慚愧は、「無慚・無愧のこの身」を生きる生活者に、その本当のあり方を見ることができるのです。ですから、
無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ
小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもふまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき(正像末和讃)
と、生きられた親鸞聖人の生き方こそ、慚愧の生活であり、言葉にかえれば信心の生活であります。この「法に遇った歓喜」「自らに遇った慚愧」の上に、信心の行者の日暮しがあります。

この成就の願文は、
功慧殊勝にして尊敬せざることなし。三垢障を滅しもろもろの神通にあそぶ。因力、縁力、意力、願力、方便之力。
こうあるところが成就の文であると古人が言っておられます。(中略)
信心歓喜してその人はどうなるかといったら、先に挙げましたように、菩薩の行を修せんであって、歓喜信楽の身の上になるということ、自分の喜びをすぐ人に伝えて人をも喜ばさんという心が起こって、これを仕事にするのが菩薩の行というので、講義の本を開いてみましたが、昔の学者はこれを五念門といっておられるのであります。
礼拝門(自利)
讃嘆門(自利)
作願門(自利)
観察門(自利)
廻向門(利他)
この自利利他の行を菩薩の行というのであります。信の人は天であっても人であっても、あらゆる世界の衆生は菩薩の行を修するようになり、もっとおしつめて言ったら利他の行を主としてやるようになる。そうさせたいという願でありますから、もしそうならないならば、聞我名字ということがないからであるということを知らねばならぬ。(中略)
妻は夫に敬われたい、夫は妻に敬われたい、兄は弟に、弟は兄に敬われたい、嫁も姑も金持ちも貧乏人も各自に皆敬われたいのであります。けれども実際はといったら、いつでも敬われずに憎まれたり嫌われたりしておって、なかなか人から敬ってもらえないのがすべての人間の苦痛というものであります。敬われたいけれども敬われない。こういうものをどうすればよいかといえば、それは聞我名字ということであります。ここに自分の助かる道があるというのです。五体を地に投げて稽首作礼して歓喜信楽するというほどに、自分の幸せを喜びながら、そうして他のものを助けたいというような、いたわる心の持ち主とならしめたい。そして一切の人天に敬われるようにしたいという願です。その人は何もほかに善いことはない。欲も深い、腹立ちも変わらぬ、日常の行為も、もともと変わらぬけれども聞我名字ということが本当に一つできると、この我身と変わったしあわせ者とならしむるというのです。聞我名字の信ということによってそういうことになさしめねばおかぬというのが他力本願であります。(中略)
信を喜ぶ人になれたからこそ敬われる人になれたのであります。それゆえ私どもは本当に人格完成といいますか、家庭から敬われ、世間の人から敬われ、多くの人々からも敬われたいと思うならば、名号を聞き開いて信を得るということただ一つが大事であります。信の人は心をゆるしてつきあうことができます。

不合理性とことをだんだんおしてくると、不合理性に目をさました状態は、さきほど申しましたようにわれわれの自覚している罪悪感ではなくして、自覚の光の及ばない底知れない罪悪の無限の暗黒面というものに気がついたということで、その気のついたわれわれの状態が五体投地稽首作礼であります。大地にひざまずいて合掌念仏するという、そういう境地ではありませんか。だからこういう言葉は、みな「女人成仏の願」ということからおしてきている本願でありまして、「歓喜信楽して菩薩の行を修せん」仏の名号を聞いて信心歓喜して道を求めていくのであります。「諸天世人敬ひを致さずといふことなけん」、そうなってきますというと、自分が不合理性を自覚して、自分が自分に目をさまし、自分の浅ましさを知れば知るほど、かえって人は尊敬する。けっして軽蔑しない。それが如来の願いであります。
第三十八願 衣服随念の願
設我得仏国中人天欲得衣服随念即至如仏所讃応法妙服自然在身若有裁縫擣染浣濯者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、衣服を得んと欲はば、念に随ひてすなはち至らん。仏の所讃の応法の妙服のごとく、自然に身にあらん。もし裁縫・擣染・浣濯することあらば、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が衣服を欲しいと思えば、思いのままにすぐ現れ、仏のお心にかなった尊い衣服をおのずから身につけているでしょう。裁縫や染め直しや洗濯などをしなければならないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土にいる求道者の中の誰かが、衣服の洗濯や乾燥や裁縫や染色をしようと思い立つと同時に如来が許された宝のような立派な新調の衣服を自分の身につけていることも気がつかないで、衣服の洗濯や乾燥や裁縫や染色の仕事をしなければならないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、人びとが素晴らしい心の装いをしたいと思うならば、みな思い通りになるであろう。それはみんなにほめたたえられる目覚めた人の教えの衣服となって、自然に身につくに違いない。もしその衣服を修理したり、染め直したり、汚れて洗濯しなければならない、などということがあれば、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

この願もまた大変に重宝な願です。この願の相手は「国の中の人天」ですが、これは前にもありましたように、念仏者の果報を現わす時に、いつも人天と呼ばれています。(中略)
さて「応法の妙服」とは、一体、何を象徴しているのでしょうか。「衣服」は、仏教では「慚愧の服は諸の荘厳の中で、最も第一とする」とか、「慚愧の衣」を着るといわれていて、衣服は慚愧の象徴とされているものです。これは前の第三十七願の「五体投地」の大懺悔を受けての願ですから、ここでも慚愧の心を象徴しておるのでしょう。けさも申しましたように、懺悔は慚愧の心のもっと深い心をいうのですから。
「衣服を得んと欲う」とは、日々の生活において、あれが欲しい、これが欲しいと、不足や不満が出て来ることでしょう。衣服を以て生活用具を代表させたのだと思います。そういう不足の心が起こった時、念仏の徳によって、わが身の愚かさと能なしが知らされると、自然に慚愧の心が生まれて来て、「親鸞におきては」、「私にとっては」、何一つ不足のいえるものはない。これでちょうどよかったのだ。それどころか、私にとっては過ぎた果報である。勿体ないと、いつでも現在に満足を見出だして、落ちつくことができる。不足不満の心が起これば、その度びにお念仏が出て、「慚愧の衣」を身に着れば、いつでもそこが幸せの真っ只中であります。
「裁縫」するとは、生活に不足不満が出た時、これから事新しく、着物を新調する必要のないことでしょう。「擣染」とは、さらしたり、染め直すことでしょうから、人生が色あせて、生活に倦怠を感ずることでしょうか。また「洗濯」するとは、生活に疲れると、いろんな心の垢がつくことをいうのでしょうか。もちろん生活に不満がないとか、倦怠を感じないとか、また疲れを知らないといいましても、唯だないのではありません。さっき申しましたように、生活に疲れ、倦怠を覚え、不満が出て来るのですが、そのたびに念仏に呼びさまされて、自己に立ち帰れば、いつでもあるがままで、生活が満たされることをいっているのでしょう。

キリスト教の説話にも、アダムとイブが神の禁を破って知恵の木の実を食べて、羞恥心を起こしてイチジクの葉で恥部をかくしたという話がありますが、仏教には、
慚恥の服は諸の荘厳に於て最も第一となす(遺教経)
というお言葉があります。すなわち、恥かしいという慚愧の心持ちによって身にまとうものが「衣」であり、この「慚愧の衣」こそが、身を飾るに最もふさわしいものであり、第一であるといわれるのです。(中略)
特に最近は、ファッション性が強く、自らをより強く、またより美しく見せる傾向が強くなり、他を圧倒するような衣服や、自己主張だけの衣服になっているように思います。本当に自らを身を飾るとは、他を圧倒することでも、自己主張でもないと思います。文字通り「慚愧の服」こそが、身を飾る「最も第一となす」のです。時と処によって衣服はこれからもどんどん変わっていくでしょうが、「慚恥の服」こそ「最も第一」であり、「仏のおぼしめしにかのうた尊い服」であることは変わらないでしょう。

この願成就の文は上巻と申されますが、そこには極楽の話をしてあるのです。
処するところの宮殿・衣服・飲食・衆妙華香・荘厳の具、第六天の自然のもののごとし。
これは生活の一つの飾りというのですか、主として仏を供養する道具ということです。それが一番大事なことであるからというので、こういう字も出てくるのであります。第六天の自然の物の如しというのは、第六天という天に行くと、自然に欲しいものがととのえられておるということでありますから、そのように自然に身に在らんです。こういう極楽のけっこうなようすを書いてあります。しかしそれは死後の極楽のことではないと思うのです。本願の文は衣服随念の願でありますが、願成就は、宮殿・衣服・飲食とあります。ですから私は住の問題も食の問題もその他一般の道具、使用するもの皆かくの如しということで、自分の生活に最も必要なものだけは、思うように自ら身にあるようにして下さるということでしょう。今の言葉で言えば必需の生活というのでしょう。荘厳の具といいますから、衣食住、生きてゆかなければならぬだけのものはちゃんと自然に身にくるようにさせねばおかぬというのが衣服随念の願であります。
これは親鸞聖人をみるにつけ、もっと近く蓮如上人をみるにつけ、みんなの仏物のお与えの暮し、信を喜ぶ者になればなおさらそういうようにさせねばおかぬ、という本願のすがたがみえることであります。もし我儘をいうならば、もっとたくさんお金がほしいし、もっと道具もいろいろ欲しいのであります。金持ちの家へ行ったらあれもこれも皆欲しくなってきますし、どんな貧乏な家へ行っても私の欲しいものが一つや二つはきっとあるものです。しかし欲張らなくても妙なもので、高貴なものはともかく、私になくてはならぬものだけはちゃんと具えて下さるものです。これは不思議不思議のほかはありません。皆さんにもなくてはならぬものだけはきっと具えて下さるものです。

今までの十方の衆生が国中の人天となり、彼岸の世界へ姿を映すのであります。国中の人天という言葉でありますが、やはり私はこの不合理性を自覚したところ他方の衆生がその姿を彼岸の世界へ映す、それが第三十八・第三十九の二つの願であると思うのであります。(中略)
その身の荘厳が「念に随って即ち至ること、仏の所讃の応法の妙服の如く」懺悔荘厳の服でありますから、法に適った衣であります。この前にわれわれの所有物はわれわれの人格を現わすということを申しましたが、もっと直接的にいえば着物というのは人格を現わす。どういう着物を着ているかということは、その人がどういう人であるかということを現わすのであって、美しい着物というのは、その人の人格に適った着物が一番美しい着物なんでしょう。(中略)
この衣服随念、応法妙服ということは、この世における慚愧の姿が彼の世に現われた姿というものを象徴されたものではなかろうかと思うのであります。すなわち信仰生活の美しさというものを、衣服随念というものに現わされたのではなかろうかと思うのであります。
第三十九願 常受快楽の願
設我得仏国中人天所受快楽不如漏尽比丘者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、受けんところの快楽、漏尽比丘のごとくならずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の受ける楽しみが、すべての煩悩を断ち切った修行僧と同じようでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土にいる生ける者どもが、生れると同時に、あたかも第三の心の安定(第三禅)を得て燃えさかる苦悩のなくなった敬われる人・修行僧のような安楽さを得ないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、人びとが本物だと思い込んでいる見せかけの楽しみに疑いを持ち、永遠の幸せを求め、汚染された欲望がすべて漏れ尽くした求道者になれなかったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

楽しみというものは、人間にとって重要なもので、楽しみのない人生は、それこそ生きる甲斐のないものです。(中略)しかしその楽しみにも、いろいろの種類があり、けたの違った楽しみがあって、どんな楽しみを求めているかということによって、その人の教養も違い、品格も違って来るのです。仏教でも「華厳経」では善財童子に、人生の出発点に当って、「可楽国」を求めることを教えていますし、阿弥陀仏の国は「極楽」と呼ばれています。「極楽」は、最も勝れた楽しみ、最も純粋な楽しみ、人間の求める究極の楽しみということです。今日では極楽という言葉に垢がついて、その言葉を聞いただけで、一種の嫌悪感を感ずるようになっていますが、快楽と同じように、本来はよい言葉であったのです。
少し寄り道ですが、楽という言葉の意味から話して見ましょうか。楽(樂)という字は、白という字の両側に糸を書いて、その下に木が書いてあります。白のノは笛で、曰は太鼓だそうです。糸は琴を現わしているということです。つまり笛と太鼓と琴を、木の台の上に載せた形の、象形文字です。それで本は楽器からきているのです。楽器を鳴らすと音が出る、「歌」を「ガク」といったのです。音楽を聞くことは「楽しい」、それで「ラク」ともいい、もう一度聞きたいと「願う」ので、それを「ギョウ」といったのです。(中略)
第三は法楽楽。これは「ほうがくらく」と読んで、法の音楽の楽しみということです。山を見れば、山が法を説き、川を見れば、川が法を説く。鳥のさえずりも、道行く人も、見るもの聞くもの法音でないものは一つとしてない。これは「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれは、ひとえに親鸞一人がためなりけり」、求道心の受信機があれば、すべてのものが、私一人のお育てと受けとれ、行住坐臥に、法の声を聞くことができる。求道の楽しみです。世にこの求道の楽しみ、人間成就という自己の花を咲かす楽しみに勝る楽しみは、外にはないでしょう。
第三十五の女人成仏の願から、この第三十九の受楽無染の願までは、清らかな楽しみと求道が、綾の如くに見えつ隠れつ説かれています。これは「讃仏偈」が、理想とする第一の国は、「道場」であることと、「快楽安穏」であることが願われていますが、それを具体的に事実として現したものでしょう。

親鸞聖人が、最も尊敬しておられた中のお一人であります中国の曇鸞大師は、楽に三種あり」といわれて、
一つには外楽、いはく五識所生の楽なり
二つには内楽、いはく初禅、二禅、三禅の意識所生の楽なり
三つには法楽楽、いはく智慧所生の楽なり(往生論註)
とあかしてくださいました。
まず、外楽とは、五識所生の楽だと教えてくださったのです。五識とは、眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官のことです。これらを楽しませるのを外楽といわれるのです。(中略)
眼・耳・鼻・舌・身を楽しませることは、私たちが生きていく上で大切なことですが、この外楽にのみ執着すると、かえって私たちの人生は外楽によって苦しめられます。(中略)
それで次に、内楽が説かれるのです。内楽とは、禅定によって精神を整え、いといろのとらわれの心から解放された楽しみです。私たちを苦しめるのは、「もの」ではありません。「もの」にとらわれる心が苦の種になるのです。ですから、とらわれの心(執着)から解放されることによって、私たちは大きな楽しみを得ることができるのです。(中略)
なぜ「もの」があっても苦しみ、なくても苦しむのでしょうか。その理由は外にあるのではなく、私たちの内面にあるのです。とらわれの心(執着)こそ「もの」があってもなくても、私たちを苦しめる原因なのです。ですから、とらわれの心から解放されれば、あればあるで楽しみ、なければないで楽しむことができるのです。このように禅定によって、自らののとらわれの心から解放されたことによって味わうことのできる楽しみが、内楽なのです。
この内楽は、外楽のように健康でなければ楽しめない、人生が順境でなければ楽しめないというような楽しみではありませんから、外の条件にあまり左右されることのない楽しみです。しかし、何かさとりすまして、一人悦に入っているようなところがあります。一人悦に入って楽しみ、内楽を知らない人を、どこか冷ややかに見ているようなところが、そこにはあります。
確かに内楽はとらわれの心から解放され、「もの」のあるなしに左右されない素晴らしい楽しみには違いないのですが、何かそこには物足りないものがあります。私はその物足りなさが、「もの」のあるなしに左右されて苦しむ人のことが、視野に入っていないところからきていると思います。みんなの人と共に楽しむということがなければ、本当の楽しみとはいえないのではないかと思います。
そこには、どうしても三つ目の法楽楽がとかれねばならないのです。
法楽楽は、「智慧所生の楽なり」とありますが、智慧とは「不二をさとる」ことなのです。
「不二」とは、すべての「いのち」は決して分断されることなく一つにつながっているという「いのち」の本当のあり方をいうのです。私の「いのち」に関係ない「いのち」など過去にも、現在にも、未来にも、また宇宙のどこにも存在しないというのが「不二」なのです。(中略)
曇鸞大師は、阿弥陀如来のお心に遇う「南無阿弥陀仏」の聞こえること(信心)によって、私たちの身に芽ばえてくる心を「遠離我心[おんりがしん]」「遠離無安衆生心[おんりむあんしゅじょうしん]」「遠離自供養心[おんりじくようしん]」と、三種の心をあげてお示しくださいます。
「遠離我心」とは、「儂が、俺が」という「我」にとらわれている心から離れるということです。これは他の「いのち」によって、自分の「いのち」があったという「不二をさとる」(智慧)ことによって開けてくる心です。
「遠離無安衆生心」とは、「衆生を安[やす]んじない心を離れる」ということです。「衆生を安んじない心を離れる」とは、他の「いのち」の苦悩をやわらげ、他の「いのち」に生きる「よろこび」を味わってもらおうという心です。(中略)この心は「不二をさとる」(智慧)ことによって起ってくる「不二の実践」なのです。(中略)
「遠離自供養心」とは、他の「いのち」を大切にすることを忘れて、自分だけを大切にする心を離れるということです。自分を粗末にすることはいけないことですが、他の「いのち」を粗末にして、自分だけを大切にするあり方も間違っています。自分のことは少し後になっても、他の「いのち」を大切にすることを先にしようということです。この心は「不二をさとる」智慧と、「不二の実践」である慈悲によって開ける「方便」の生き方なのです。(中略)
「遠離我心」・「遠離無安衆生心」・「遠離自供養心」によってなされる楽しみが、法楽楽です。この法楽楽こそ、第三十九の願で誓ってくださった「煩悩のけがれを除き尽くした聖者のよう」な「楽しみ」なのです。
お念仏をよろこぶものに、このような素晴らしい「楽しみ」を与えてやろうと誓ってくださったのが第三十九の願なのです。
これが第三十九の願についての私の味わいでありますが、実は、この法楽楽は、還相の菩薩の「智慧・慈悲・方便」による「遠離我心」・「遠離無安衆生心」・「遠離自供養心」によって実現する楽なのです。ですから、還相の菩薩を、この身終ってお浄土に生まれ、仏になってから、復びこの世に還って衆生利益のおはたらきをしてくださる方と受けとりますと、この第三十九の願は、この身終ってから「受ける楽しみ」ということになります。
これまで本書を続けて読んでくださっている方は、すでにお気付きのことと思いますが、私は阿弥陀如来のお誓を、「この身終ったら、こんな素晴らしいことにしてやろう」と、未来の楽しみを約束してくださったものとはいただいていません。それはすべて、今、ここに生きている私たちの、今のあり方を問題にして誓ってくださったものだとありがたく頂戴しています。
ですから、この第三十九の願においても、そのように頂きました。ということは、私は今、阿弥陀如来のご本願をよりどころに、この世を力いっぱい生きる人、すなわち、「心を弘誓の仏地に樹て」(顕浄土真実教行証文類)この世を精いっぱい生きる信心の行者の上に、必定の菩薩、還相の菩薩を仰いでいるのです。
確かに、私たちはこの身のある限り、どこどこまでも煩悩具足の凡夫でしかありませんが、その私たちが、南無阿弥陀仏のおはたらきにより、本当の楽しみを知らせていただくのです。そこに、私は「誓願の不思議」を感佩し、本願他力の確かさをよろこばせていただいているのです。

楽しみはいつまでも引っ着いてくれたらよいように考えて、離れたら大騒動だと思うかもしれないのですが、実はそうあってはならぬのであって、それでは幸福ではないからそういう執着をしないということが漏尽比丘の徳であります。願成就の御文は上巻に、
かぜ、その身にふるるに、みな快楽をう。たとへば、比丘の滅尽三昧をうるがごとし。
如来の御国に風が吹くと、その風にあたればみんな苦しみがなくなって快楽を得るようになるのが浄土の幸せというものである。その模様はたとえば比丘の滅尽三昧を得たるが如く、煩悩がすっかりなくなった三昧ですから、心が寂かであって、すべてのものにとらわれない。そのとらわれない楽しみというものを受けるようになるのだ、ということであります。
(中略)
「国中人天」とありますが、それはずっと前からお話しますように、死んでから極楽へ参って、というように一応みえます。またそうしておいても差支えありませぬけれども、親鸞聖人の心をうかがっていくと、国中人天ということは信心を得た人である、こういうように味わうべきであると思うのであります。

快楽という字は非常に悪く使われていますけれども、本来はよい字でありましょう。「こころよい」という字ですから、ほんとうに快く、ほんとうに楽しい。そうしてそこに煩悩の穢れがない。そういうことをなぜいってきたか。その根本はみな触光柔軟、柔軟心ということがもとである。具体的な例としては女といものが出てきて、本願の中に流れているように思うのであります。だから漏尽比丘の快楽は、すなわち触光柔軟の楽しみであります。われわれの心が柔らかくなるという、そこから来たところの楽しみがすなわち漏尽比丘の楽しみてある。乃至女人がほんとうに成仏したとき、不合理性がそのまま救われたときの快楽が漏尽比丘の快楽であります。そうすれば今夜読みました七つの本願は、すべて他方国土の衆生というものに集注する。その内容としては柔軟心というものでつらぬいて読んでいくことができようかと思うのであります。
第四十願 見諸仏土の願
設我得仏国中菩薩随意欲見十方無量厳浄仏土応時如願於宝樹中皆悉照見猶如明鏡覩其面像若不爾者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、意に随ひて十方無量の厳浄の仏土を見んと欲はん。時に応じて願のごとく、宝樹のなかにして、みなことごとく照見せんこと、なほ明鏡にその面像を覩るがごとくならん。もししからずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩が思いのままにすべの数限りない清らかな仏の国々を見たいと思うなら、いつでも願い通り、くもりのない鏡に顔を映すように、宝の樹々の中にそれらをすべて照らし出してはっきりと見ることができるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生まれた求道者たちが、希望する通りの仏国土のみごとな特徴や装飾や配置を、さまざまな宝石のあいだから気づき認めることができないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚るようなことがありませんように。

私の目覚めた眼の世界では、道を求める人が、無数の目覚めた人の心の世界を体験したいと思うであろう。そしてちょうど澄み切った鏡の中に自分の姿を映し出すように、整然と輝く教えの林の中で、思い通りに目覚めた世界を見ることができるであろう。もしそうならなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

第三十五願から第三十九願までは、私生活の願でしたが、この第四十願から第四十四願までは、社会生活の願だと思います。この願は、国の中の菩薩が、十方のりっぱな世界を見たいと思えば、意に随っていつでも見ることができるということですが、それは弥陀の浄土に生まれたものは、浄土の土徳によって、自然に自分の小さな殻の中に閉じこもらず、常に自己と自己の世界の成就を志し、絶えず広く知識を世界に求めるようにということですから、次の願の用意でしょう。
とかく宗教の世界では、自分の信じている宗教だけが真実であって、他の宗教は皆迷信か低級な宗教だと、軽べつしたり、また一つの信が開けると、その信が果して真実であるかどうかの、自己反省する謙虚な心を失っている人が多いようです。過去の有名な宗教家を見ても、片寄った信や独善のさとりに止まっている人がたくさんあります。「大無量寿経」には、そういう片寄った独善のさとりのことを、辺地懈慢とか、疑城胎宮といって、莟がまだ花と開かず、莟の中に包まれて、客観的世界が見えない、気の毒な人であるといっています。その人に開けた信やさとりは、その人がどういう動機で道を求めたかによって決まるものですから、自分の宗教を求める動機が特殊なものであるか、普遍的なものであるかを反省する必要があります。私の知っている範囲では、自分の信はこれでよいかと、自己に開けた信を反省して、引き破り引き破って、徹底的に真実の救いを尋ねて行かれた人は、恐らく親鸞聖人一人ではないかと思います。私は二十歳過ぎでしたが、一つの信境が開けると嬉しくて、「有難い、勿体ない」と、踊り上がるように喜んだものです。しかしその瞬間いつも「それが何になるか」と、それを根底からくつ返す心がありました。小学校五年生の時の例の自我のめざめからずっとです。「天才は永遠に救われない」と聞いていたが、自分は天才ではないが、この事だろうかと思いました。(中略)
人生は問いを有たない人には、人だけではなく、社会も自然も、何一つ語りかけてはくれず、その深い心を打ち明けてはくれません。人生は果てしなく広く、限りなく深い世界です。
しかもこの願には、その十方の世界を見るのに、「宝樹の中において、皆悉く照らし見る」といい、それも「明らかな鏡にその顔かたちを見るように」見るといっています。「宝樹」とは、「宝とは道心をいう」。樹は前にも申しましたように、行為を象徴しているのですから、宝樹とは菩提樹のことでしょう。十方の無数のりっぱな世界は、菩提心の念仏生活を通さねば見えぬということでしょうか。それはこの世界は、「行為的世界」であり、「歴史的世界」ですから、行為を通さねば、やって見ねば見えぬ世界です。「厳浄の仏土」とは、行為的世界を現わしているのでしょう。坐わりこんで、理屈ばかり言うている人には、この世は見えません。その人たちの眼に見え、耳に聞こえるものは、唯だ容れものの形ばかりで、中身は全然解りません。だから宿業と聞いても、中身が解らぬものですから、前の生のこと位に考えて、この世は仮の世と、生活態度も逃げ腰です。宿業とは行為的世界とか、歴史的世界ということを現わしているのです。
行為的世界は、行為を通さねば見えない世界です。(中略)
途々の田も畑も、道路も橋も、初めからあったものは一つもない。皆先祖が一くわ一くわ開拓し、こつこつと造りあげたものばかりです。山のだんだん畑の、積みあげた一つ一つの小石には、皆先祖の手垢がついている。昔むかしの永い歴史を物語っていないものは一つもない。今までも毎日それを見、その上を歩いていたのですが、問題意識がなかったから、すべてが閉ざされた世界であったのです。「感あれば、応きわまりなし」(聖徳太子)。半日シャベルを持って見て、初めてその行為的世界が見えてきたのです。私のした小さな行為が鏡となって、広い深い世界が見えてきたのです。

阿弥陀如来のお心に遇うということは、他の一切の教えに耳を塞ぎ、目を閉じるということではありません。それどころか、阿弥陀如来のお心に遇うことによって、他の教えも独断や偏見なしに耳にし、目にすることができるようになるのです。(中略)
個性と個性がぶつかって、お互いの個性を殺しあっている世界、もっといいますと、均一、画一でないと安心できず、個性そのものを許さない世界、それが私たちの住む世界です。個性豊かな人がどうにも住みづらいのがこの世です。また、お互いの色や輝きを認めるよりも、非難しあう方に力が入いるのがこの世です。
個性が本当に生かされ、それぞれの色や輝きが最大限に許容され、いや許容されるだけでなく、他の色や輝きを増すはたらきをする世界がお浄土です。自らの個性、また自らの色や輝きを増すはたらきをする世界がお浄土です。自らの個性、また自らの色や輝きが他のお役に立つ、これほどのよろこびが他にあるでしょうか。このような「いのち」の本当のあり方が実現している世界がお浄土です。そのことが「宝樹」において語られているのです。

まず成就の文というところをみましょう。
よくたなごころのうちにをいて、一切世界を持せり。
掌の中においてというのは、明らかに見るというような意味もあるのでしょう。おいてというのは自分の手のひらのうちに一切の世界というものを乗せて持っておる、そういう説明がしてあるのであります。(中略)
「よく掌の中において一切世界を持せり」人生すべては、何が幸せ、これが幸せ、ああなったらよい、こうなったらよいと言っておるけれども、どんなそういうけっこうな世界というものを持ってきてもそれが皆自分の掌の中に見える。お経では、極楽の中で風が吹くと、その風で宝樹がゆれて音楽が出る。その音楽を聞いて自分が幸せを感ずる。感ずるというと一切の世界がずっと見えてくる。こういうことではありますまいか。だから信仰の喜びというものにはいると、ほかの人の世界というものが見えてくる。どんな世界というものもみんな法の中に見えてきて、それよりも自分が幸せ者で、一切の世界を持ちあげてたもっておるというのです。これがあらゆる諸仏国土を見せてやるということであります。

この国中の菩薩は他方の菩薩を出す一つの手ほどきといいますか、着手であると思うのであります。まず他方菩薩というものを出すためには、国中の菩薩が他方菩薩を諒解しなければならない。国中の菩薩がどこまでも他方菩薩を侮辱したり、軽蔑したり、他方菩薩は駄目だという心持ちであっては、弥陀の精神はとどかない。そこで他方菩薩ということをいうために、まず国中の菩薩を出してきて、そうしてその国中の菩薩が他方菩薩を諒解するようにと願われる、それが第四十願の意であると、ひとつひとつこう見ていきましょう。(中略)
前の「国土清浄の願」は教界の理想、教団の理想というものを現わすということをこの前申しました。ここではそうではなくて、国中の菩薩だけが、すなわち真実の念仏往生人ならば、道徳というものはどういうものだということがわかる。哲学はどういうものだということもわかる。したがって哲学は駄目だ、道徳は駄目だ、というようなことはいわない。天台宗はどういうものであるか、華厳宗はどういうものであるか、自力の修行はどういうものであるか、それぞれの道に敬意を払い尊敬をすることができる。それが「見諸仏土の願」の心ではないかと思うのであります。だからまず国中菩薩、すなわち念仏者、願往生の人が、願往生以外の人を諒解せよということを出発点としているのです。
第四十一願 聞名具根の願

設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字至于得仏諸根闕陋不具足者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、仏を得るに至るまで、諸根闕陋して具足せずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、仏になるまでの間、その身に不自由なところがあるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、他の仏国土に生まれた求道者たちがわたしの名を聞いて、しかも、いずれかの感官の能力を欠いているようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚るようなことがありませんように。

いよいよ「他方国土の諸菩薩衆」が登場しますが、この「他の国の菩薩」を「迷いの求道者」や「他宗旨の求道者」と理解するのか、「阿弥陀の浄土から還り、自立して、自らの国を造り始めた正定聚・不退転の求道者」と理解するのかによって、意味が大きく異なります。この点について、ご紹介させていただく諸師がたの理解も異なっていていますが、四十願までの方向性と、これから説かれる願や、大無量寿経の後半部との関係を見ていけば、皆さま方には自ずと答えがみつかるでしょう。「大無量寿経」は仏教の総決算であり、個々のいのちに新たな道程を創造する力を与えるお経なのですから。

十人おれば十人の国があり、百人おれは百の国があります。一人ひとりの国に一切の人が住み、この世は互いに入り交じって、重々無尽の国からできあがっているのです。(中略)阿弥陀仏の国へ生れようと願うのは、命のあらん限り、阿弥陀さまの厄介ものになるためではなく、自分じぶんの国を成就するためです。そのことは、この経の「下巻」に出てくる「往覲の偈」に、阿弥陀仏の浄土へ生まれた菩薩は、彼のりっぱな浄土の、すばらしく美しい荘厳を見て、無上心を発こして、自分の国もこのように、りっぱにしたいと願うことを説いています。今までこの重要な経文が見えなかったのは、まだ自分の国が見つからず、したがって国を成就しようという願いがなかったからでしょう。願いがものを見さすのです。ここでいう「菩薩」とは、信心決定した正定聚不退転の菩薩のことです。不退転の菩薩は弥陀の浄土を踏まえて、自分の国を成就するのです。それを天親菩薩は、弥陀の浄土を「動かずして至る」といっておられます。
これからあとの「他方国土の菩薩」に対しては、前の「十方世界」の人々を呼んでの願と同じように、すべて「我が名字を聞けば」と誓われています。「国の中」の人々は、人天も菩薩も、皆浄土の土徳によって、自然に身につくのですが、「十方世界」や「他方国土」の人々は、すべて弥陀の名字が働きをするのです。それを曇鸞大師は「国土と名字が仏事を作す」といっておられます。弥陀の浄土では、浄土が人を育て、他方世界では、弥陀の名字が人を育てるのです。今まではみな、「国土の名字が仏事を作す」と読んでいましたが、それは浄土が人を育てるとか、浄土が働くということが解らなかったからでしょう。(中略)
「我が名字を聞けば」、その人の上に浄土の徳が働き出すとは、どういうことと思われますか。近頃は真宗の学者の中に「無限の仏は、われわれ有限のものには受けとれない。そこで色も形もない仏が、色をとり形をとって、われわれに解るようになったのが六字の名号である。名号はこの世に現われた生きた仏で、これを方便法身という」という人がいますが、どうでしょうか。南無阿弥陀仏という名前が、仏でしょうか。私はそういう学者たちは、どうかしているのではないかと思います。
名前は象徴であって、名前そのものが仏ではありません。だからきのうも申しましたように、南無阿弥陀仏とはどういうものか、南無阿弥陀仏とは何を現わす言葉か、そういう名号のいわれの解らん人には、何の値打ちもありません。「我が名字」を聞いただけで、浄土の徳がその人の上に働き出すのは、すでにその人の上に感動するだけのものが、熟しているからです。不退転の菩薩とは、すでに浄土に生まれて、浄土がどんな世界か、浄土の徳がどんなものか、弥陀の願いがどういうものかが解っている人のことです。(中略)
とかく私たちは、あんなものは見るのも嫌いとか、そういうことは聞きたくないと、眼をそむけ、耳をふさいで、狭い世界に独り閉じこもり勝ちです。しかしそれでは、食事の好き嫌いと同じように、精神的な栄養失調になるのは、請け合いでしょう。(中略)空吹く風の声を聞いても、苔むした庭石の相を見ても、仏の説法が聞こえ、病気の中にも、貧乏の中にも、自己を育てる尊い教えを見だしてゆくことができる眼や耳を具えるようにという願でしょう。

「他方の国の菩薩たち」とは、道(宗教)を求めながらも、まだお念仏のご縁がないくて、お浄土に生まれることを願うということがない人たちのことです。それは、浄土を「いのち」のよりどころとし、浄土に還ることをよろこんでこの世を生きる人を「国内の菩薩」というのに対して言われるよび名です。
ですから、「他方の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、仏になるまで、からだが不完全で、十分そろわぬようなら」とは、今まで道(宗教)を求めながら、お念仏にご縁がなかった人も、このたび、「南無阿弥陀仏」のよび声に遇って、小さな「儂が、俺が」の「我」の世界に生きてきたことの間違いに目覚め、自分と他の人という垣根を越えて生きながら、「からだが不完全で、十分そろわぬなら」ということです。(中略)
私が、「ああ、そういうことだったな」と、特にうなづかせていただいたのは、釈尊は、「人間の個性をそのまま見抜いて」というところと、「仏弟子には智慧第一、多聞第一などという方はおられるが、第二、第三、という弟子はない」という言葉です
多くの「いのち」によって恵まれた「からだ」であり、この世に二つとない「からだ」を、他の「からだ」とくらべて、とやかくいうのはお門違いもはなはだしいのです。私は私であり、この「からだ」は、この「からだ」の個性を活かして力いっぱい生きるしかないのです。自らが自らの個性を活かして精いっぱいいきるとき、私のこの「からだ」は、はからずして他の「いのち」のお役に立つのです。

「他方国土の諸菩薩衆」という言葉がその次にも出てきます。それが出てこぬのが四十六番目に一つあるだけであります。それは如来の浄土以外の他方ですから、古来この願は兼為聖人の願である、と申されます。こういうように弥陀仏の国でなしに他の国の諸々の勝れた菩薩方、兼ねては聖人の為という願をなさったのがこれから以後であるというのも一応御尤もであります。しかし、私はやはり他方国土の諸々の菩薩衆ということも、信心の人のことであると思います。この人が名字を聞いてあり、聞という文字は信心をあらわす言葉なりと聖人は申されますから名号を聞いて信ずる身の上になるならば、諸根闕陋して具足せずば、仏とならない。(中略)
上巻に、成就の文がありますが、
成仏道にいたるまで、六根清徹にしてもろもろの悩患なし。
と書いてあります。成仏道にいたるまで、成仏は成道であります。願文には諸根とありますが、そのを六根とあげて、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が、清らかさに徹して、一生涯、六根の諸々の悩みなり患いがないようにしてやりたいという願であります。
それでもわかりますが、もう一つ梵本を拝見しますと、すべて極楽の幸せとして書いてありますが、
又次に阿難陀、彼の覚樹の風に吹き動かさるる時、出づるとことの音声は無量の世界に達す。
極楽はすべて風が吹いても木が動いてもその雑音が皆音楽になり、何が故に極楽というかといったら音も声も、みな音楽ばかりとなって、悪い音がないと、書いてあります。

先の願では国中の菩薩が他方菩薩の道を諒解された。それでこの願では他方の菩薩が浄土の法を諒解することによって、さらにひろくすべての道を諒解するにいたるのであります。これを反面から申しますと、念仏こそ十方衆生の道であり普遍の法である、ということを知ることができないようでは、諸根闕陋であることをまぬがれないということであります。それで私は四十八願に引きずられていくのであります。私の一面の心では哲学も道徳もみな駄目である。念仏でないと駄目だといいたいのでありますが、四十八願に引きずられ、ここまできますと、他方仏国の菩薩の道も諒解されて、同時にまた他方の菩薩からも諒解されるようになるのであります。我はどうしても罪悪深重にて煩悩興盛なるがゆえに念仏往生する。そこにゆるぎもなければ僻みもない。ちゃんと落ちついて我は念仏の大道を行っている。それと同時に聖道の修行者も念仏往生の道の大なることを知りつつ、しかも自分の道を徹底せしめようとするのであります。弥陀の名号を聞き仏の大道を聞いて、そういう広い道があることを念じ、その道に励まされて、それぞれの道を徹底するとき、それぞれの道がまた一切の他の道を諒解する基となる。それはこの第四十一願の誓いによるのではないでしょうか。
第四十二願 聞名得定の願
設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字皆悉逮得清浄解脱三昧住是三昧一発意頃供養無量不可思議諸仏世尊而不失定意若不爾者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、みなことごとく清浄解脱三昧を逮得せん。この三昧に住して、ひとたび意を発さんあひだに、無量不可思議の諸仏世尊を供養したてまつりて定意を失せじ。もししからずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞けば、残らずみな清浄解脱三昧を得るでしょう。そしてこの三昧に入って、またたく間に数限りない仏がたを供養し、しかも三昧のこころを乱さないでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、〔かの(仏国土以外の)他の仏国土にいる〕生き者どもがわたくしの名を聞いて、聞くと同時に<よく言葉を分別する>と名づける心の安定――その心の安定に住してながら求道者たちが、一刹那の間に無量・無数・不可思議・無比・無際限の目ざめた人たち・世尊たちを見ることができるのであるが、――を得ることができず、また、その心の安定が中間で消えてしまうようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚るようなことがありませんように。

ここに「一発意の間」とありますが、これは何か心に思い立つ、その僅かな短い時間にということですが、さっきも申しましたように、仏教の約束で、菩提心に関係のある時には、いつも「一発意の間」といい、生活に関係する時には、「一食の間」といっています。ですから第二十三の供養諸仏の願では供養することが主ですから、「一食の間」といっていますが、ここでは三昧が主ですから「一発意の間」といっているのでしょう。
「無量不可思議の諸仏世尊」とは、「阿弥陀経」には「他方の十万億の仏」とありますから、これは一切衆生の一人ひとりに宿っている仏のことでしょう。「供養」とは、供え養うという字ですが、一般では、死んだ人にものを供えたり、お経を読んでもらったり、また死んだ人の命日などに、有縁の人々にものを施したり、法供養することなどをいっていますが、本来の意味は、自分の真心を相手に供えて、相手から喜んでもらい、それによって相手の真心と自分の真心が触れ合い、共に人間として成長することをいうのです。ですからこちらが相手に真心を尽すだけが供養ではなく、相手の真心を喜んで受けとることも、供養になるのです。
しかしここでは前の諸根具足の願の、精神的な不具者でないようにということを承けての、諸仏を供養することですから、浄土に生まれた菩薩の法式といわれる、菩薩のしなければならぬおきてのことではないかと思われます。それは供養はくわしくは恭敬供養といわれていて、「恭敬」は、恭は自らをへりくだり、敬は相手を敬うことで、「供養」は相手から教えを請うことです。供養の最も大きいものは、相手にものを施すことではなく、その人の人生体験を、謙虚な心を以て聞かせてもらうことでしょう。「無量不可思議の諸仏世尊を供養する」とは、出会うどんな人からも、その人の人格を通し、言葉を通し、生活を通して、教えを受けることではないかと思われます。(中略)
ここに「一発意の間に、無量の諸仏を供養して、定意を失わぬように」とは、世のため人のためという、社会奉仕の精神も大切ですが、それがために肝心な自己を失い、自己の立場を忘れて、自己犠牲に走ることのないように、ということではないかと思います。

内と外のあらゆる束縛から、阿弥陀如来のよび声を聞くことによって、離れさせていただくと、そこに自から「浄らかなる三昧を得」とのです。「浄らかな」ということは、他の「いのち」を大切にし、他の「いのち」と共にあるということです。それは、多くの「いのち」に生かされ、多くの「いのち」と共にありながら、自分中心にものを見、考え、語り、行動することを「穢」というのに対します。
ですから、「浄らかな三昧を得」とは、他の「いのち」を大切に、他の「いのち」と共に生きるという身心の状況が実現するということです。
この生き方は、同時に「無数の諸仏がたを供養」する生き方になります。諸仏とは、私を私として今、ここに生かしてくださる方のことであります。作家の吉川栄治氏は、「我れ以外、皆な我が師なり」といわれたそうですが、阿弥陀如来のお心に遇って、自分の「いのち」に目覚めたら、「我れ以外、皆な我が諸仏なり」ということになるのではないでしょうか。このように味わえば、「無数の諸仏がたを供養」するとは、私以外の数限りない「いのち」を敬い、大切にするということです。
供養といいますと、現代では、亡くなった人にお経をあげたり、ものを供えることのようになっていますが、供養の本来の意味は、相手を敬い、大切にすることなのです。
「あらゆる束縛から離れ」ることは、同時に「浄らかな三昧を得」ることであり、それはまた「無数の諸仏がたを供養」するという素晴らしい生き方が、実現することでもあります。
第四十二の願で阿弥陀如来は、今までお念仏にご縁がなかった方も、ひとたび「わたしの名を聞けば」、こんな素晴らしい「いのち」のあり方を実現してあげましょう、と誓ってくださったのです。

この成就の文は下巻にあります。
深禅定・諸通明慧をえて、こころざしを七覚にあそばしめ、心に仏法を修す。
深禅定は三昧です。禅定を得るから諸通は明慧です。智慧が明らかになる。智慧は心の働きです。諸通は天眼通・天耳通・神足通・他心通・宿命通・漏尽通であって、四十八願の初めの方にありましたが、六神通を得させねばおかぬというのです。深禅定を得るから六神通といって、明らかなる智慧を得るようになって、志を七覚に遊ばしめ、七覚というのは、「阿弥陀経」に「七菩提分・八聖道分」とあります。その七菩提分ということです。七菩提分とは、拓法・精神・軽安・念・捨・定・喜ということです。
「拓法」というのは、法を聞き法を修行するときには法の善悪を択ぶということを誤らないことです。「精進」は仏道に向かって道を怠らないことです。それから「軽安」、これは軽く安らかなる、自分の身も心も丈夫になること。丈夫でなくては仏法を求めてゆくことができないし、人も救うことができませんから軽々とした身と心になるようにすることです。それから、「念」は聞いた道理を忘れないこと。「捨」は八纏の七番目ですが、掉挙という煩悩を捨てること、浮々した心にならない、のぼせた心にならない、それでは自分の身も救えず人を助けることもできないのです。六番目が「定」定は心を散らさざること。七番目が「喜」喜は喜びで法を喜び善を行なってゆく。こういうことが仏道を修行するときの大事なことですから、これを七覚といいます。志を七覚にあそばしめですから、断えず択法ということを誤らず、精進をし、軽安に気をつけ、道理を知り覚えて忘れず、煩悩で心が浮々して上調子にならず、心は静かであって法を喜び、善を修してゆくということを習う、ということです。こういうことを終始心に思っておるということが志を七覚にあそなしめということであります。そうして、そういうことに常に注意して心に仏法を修してゆく、これが成就の文であるということであります。
だからこの願の願力によってどうなるかというと、禅定を得る心になり、六神通の心の働きがだんだん盛んになる。そうして志は七覚に遊んで、心に仏法を修していくようにする。こういうことになさずんばあかぬということであります。

ここに「清浄解脱三昧」というものが出てきています。いやしくも仏教であるかぎりにおいては、みな解脱を願わない者はない。広く申しますならば、人間の形而上の学問、人間の精神的学問はすべて清浄解脱を求めている。それはほんとうに純粋な救いの道であります。ただ三昧といってあり、ただ解脱といってある。そこに願生の道と違う点がある。国中の菩薩はどこまでも彼岸の世界、安養の浄土というものを願って、そこを清浄解脱三昧の境地とするのであります。すなわち弥陀の仏国というものでなければ、ほんとうに安んずることができないのでありますけれども、一般の求道者、一般の仏教者は必ずしも浄土だの彼岸の世界だのというものは望まない。ただ清浄解脱三昧ということをいっています。そこで名号の感化、念仏の感化が、どこにどういうふうに及ぶのかというと、それらの人も「清浄解脱三昧を逮得せん」みな純粋なる解脱を得るであろう、それぞれの宗旨におけるそれぞれの道に到達することができるであろうというのであります。そうしてそれぞれの立場において、十方の「無量不可思議の諸仏世尊を供養して定意を失は」ないであろう。こういうふうに諸根闕陋せずという基礎の上から、さらに定慧自在の供養諸仏もできるという仏道修行の満足へと進んでいくのではないでしょうか。
第四十三願 聞名生貴の願
設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字寿終之後生尊貴家若不爾者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、寿終りてののちに尊貴の家に生ぜん。もししからずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちが私の名を聞けば、命を終えて後、人々に尊ばれる家に生れることができるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、〔かの(仏国土以外の)他の仏国土にいる〕生き者どもがわたくしの名を聞いて、それを聞くと同時に、(聞くことによって積まれたことになる)善根によって、(その時から)覚りの座を究めるに至るまでの間、高貴の家柄に生まれることができないようであったならば、その間はわたくしは<この上ない正しい覚り>を現に覚るようなことがありませんように。

昔から果報負けすることを、「肥やしが多すぎて、根ぐされになる」といっていますが、それだけではなく、「金がたまれば、たまるほど、心がきたなくなる」ともいいます。
お経ではそれらの財産も地位もすべてが、人格を荘厳する材料となっています。
(中略)
「寿終って後」とあるのは、精神的な智慧や徳によって、そういう人格を成就することも、また社会的にそういう地位を築きあげることも、なかなか容易ではありません。けれどもこの二つは、人間としての永遠の理想ですから、その深い願いを「寿終って後」という形で表現したのでしょう。
第二十四願の供具の如意は、真心の智慧による生活の無碍自在であることを誓っているのでしょうが、この願は、そういう生活に報われる果報としての、人格の高貴性と、境遇の豊かさを誓っておるのだろうと思われます。
この願を見ても、今まで仏教が出世間の道とか、貧道といわれて、欲を離れるとか、この世の執着を断つことのように、消極的なものと思われていたのですが、それは出家仏教であって、大乗仏教ことに浄土教は、地上に浄土を建設してゆく積極的なもので、四十八願の一つ一つはすべて、人間の本来の願いが純化されたものであることが解るでしょう。(中略)
まして地上に「仏教王国」を――真実の意味においての仏教王国ですが――建設しようと思えば、どうしても「高貴の家に生まれる」ことが、必須条件となります。自分自身が「王者の精神」を身につけ、「人相」にまでその高貴性が現われてこなければ、決して人はついて来ません。

・・・家ということですが、釈尊は、生れた家を捨てた人です。そして、生まれた家が亡びていくのを外から見ていた人です。では釈尊には家がなかったのでしょうか。釈尊の家は、み教えをよろこぶ人が集まっているところが家であったようです。み教えをよろこぶ人の集りを、サンガ(和合僧)といいます。このみ教えをよろこぶ仲間こそ、釈尊の家であったと思います。
ですから、「尊い家柄」とは、み教えに遇い、自他の「いのち」を大切に生きている仲間ということです。それを言葉を変えれば、間違いなく仏になる人たちの集まり、正定聚ということでありましょう。
「尊い家柄に生れる」とは、正定聚に入る、入正定聚ということであります。(中略)
この第四十三の願は、文字通り誤解を恐れず、これまで阿弥陀如来のみ教えに縁のなかった他方の国の人も、み名を聞けば正定聚に入るということを、「尊い家柄に生まれることができましょう」と説き、誓ってくださったのです。
「命終って」とは、第三十六の願の中でお話しましたように、死後ということでなく、心命終、「儂が、俺が」の自力心が終ってということで、阿弥陀如来のお心に遇ったとき、すなわち、み名が聞こえたときをいうのです。

・・・願成就の文をみてみますと、
法をききてねがひて受行して、疾く清浄処をえよ。
とあります。「東方偈」という下巻の初めの偈文の言葉であります。これによると別に金持ちの家や位の高い家に生まれさせてやるということではなしに、この願の成就は、法を聞いて楽しんでその法を受けいただいてそれを行ずるようになるということであります。だから法を聞いて喜ぶ身の上になるということであります。(中略)
心が高貴になる、つまり気高くなるということが信心の幸せの徳ということです。名誉が高くて、大変お金があって、地位や位があっても、念仏の貴さを知らず信心のありがたさを知らない人よりは、信心を喜ぶ身の上になって落ち着いて満ち足りた心であるならば、この世界の中で最も幸せな者は私であります。(中略)
ただここに寿終之後と書いてあります。けれども、親鸞聖人の思召しでは、寿終って後ということは、前念命終後念即生ということです。つまり信心の人を寿終わった人といわれるのです。自力の根性で日暮らしをしておった人が他力信心の人となって、そうして仏の御光の中に生まれて、仏と相遇うて幸せとなる。そういう人が寿終わった後の人であるということです。

思想的なものでも何でもそうであります。自分がこういうふうに考えたことを人に教えた、そこにわが弟子、人の弟子という間違いがおこってくるのであります。しかしここで話すことは皆さんの公有物である。少なくとも私が皆さんに話して、皆さんが感激されるときは公有物であります。つまり皆さんのものであるべき思想を私が代弁するのである。公有思想である。その公有思想をあきらかにするとき、わが弟子、人の弟子ということはないのである。だから思想も公有である。財産も公有である。おのおのに与えられた天分をまっとうするということが、そのまますべての公有物であるという考えは、この私有財産主義、共有財産主義というものを、もう一つより高い立場にもっていくものではないだろうか。(中略)
だから必ずしも尊貴の者のみにかぎらない。貧しい者尊くない者でも、尊貴の家に生れることができる。尊貴の家に生れるということは、尊貴の心をもち豊かな心を持つことである。いかにも伸び伸びとした心をもち、そうして万事みな公である。大菩薩は大きい理想を持っているのでありますから、その理想を実現するためには、どうしても貴族的精神を持ち、貴族的な家に生れなければ、ものはわからないのであります。
第四十四願 聞名具徳の願
設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字歓喜踊躍修菩薩行具足徳本若不爾者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、歓喜踊躍して菩薩の行を修し徳本を具足せん。もししからずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞けば、喜びいさんで菩薩の修行に励み、さまざまな功徳を欠けることなく身にそなえるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの(仏国土以外の)他の仏国土の生ける者どもがわたくしの名を聞いて、それを聞くと同時に(聞くことによって積まれたことになる)善根によって、ついに(その時から)覚りを究めるに至るまでの間、皆、求道者の行ないを喜び、歓喜する善根に会い合する(=身につける)ことができないようであったならば、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

この願は、社会生活に対する最後の願ですが、「わが名を聞いただけで」、「他方国土の諸の菩薩たちが、喜び勇んで、菩薩の行を修して、徳本を具足する」という願です。弥陀からいえば、それだけ徳のある「わが名」を成就しようということでしょう。
「歓喜」を親鸞聖人は、「歓は身をよろこばしめ、喜は心をよろこばしめる」ことであるといっておられます。これは身も心も救われることでしょう。この解釈を文字だけ読んだのでは、別にどうということもないでしょうが、親鸞聖人がこう解釈なされたのは、胸に大きな感動があったからでしょう。といいますのは、親鸞聖人までの仏教は、即身成仏をとなえた弘法大師は別として、すべて体は借りもの、心が尊い、魂が大事といって、心の救い魂の救いだけを問題にしていたのです。それが親鸞聖人によって初めて、体が大事、この世が大事ということに気がつき、体の救い、そこに生きている自己の存在をあげての救い、ということに目覚められたからだと思います。このことは「無慚無愧のこの身にて」とか、「功徳は行者の身に満てり」と、身という言葉がたびたび出て来ます。これは矛盾が自覚されたからに違いありません。浅ましいのも自分だが、尊いのも自分です。魂の救いには個性は問題になりません。人間は皆つっこみで、番号か符牒で呼ぶより外に道がありません。それこそ記号的人間です。青色青光、白色白光とか、蓮華蔵世界はみな個性的自覚の世界です。(中略)
「菩薩の行を修する」は、金子先生が「人生生活は、念仏の心において、仏道となる」といっておられることで十分でしょう。(中略)他宗の人が「時に真宗には行がありますか」と聞かれたので、「真宗にも行はありますよ。行のない仏教はないでしょう」。
他の僧侶の人が「真宗には行はないと聞いていましたが」といわれたので、「他宗のように、座禅するとか、寒行するとか、そういう特別な行はありません。日常生活が行です。洗濯するのも、ご飯炊くのも、商売するのも、仕事するのも、念仏において行になるのです」。
すると前の僧が、「禅のような公案のようなものはありますか」。
「はい、あります。日常生活すべてが公案です。子供が怪我をした。さあどうするか。夫が外へ女をこしらえた。さあどうするか」。これは待ったも、やり直しも効かぬ厳粛な公案です」と、答えられたそうです。(中略)
先生が生徒を教える場合、自分の知っている知識を、生徒に教えるだけなら、菩薩行とはいいません。それは授業です。先生の行は、生徒を育てることにおいて、先生自身が人間として成長することです。世間でも「子供を育てると思うなよ。子供を育てることによって、親自身が育てられる」というでしょう。(中略)
最後に「徳本」は、善本徳本とか、また「善根を植える」「徳本を植える」といわれています。善は悪に対する言葉で、相手に対して善い行為をすることですが、徳は人格を形づくるもののことでしょう。親鸞聖人は「徳本」を名号と解釈しておられる所もあります。「具足」は、鎧甲のことを具足といい、煩悩具足などといわれていますから、身につけることでしょう。「徳本を具足する」とは、種として身に満ちている「不可称不可説不可思議の功徳」が、菩薩行を修することによって、それが形をとって、身について、その人の人格となり、人相となり、家庭や環境の上に、後光となって花と開くことでしょう。(中略)
この第四十四の具足徳本の願で、私生活と社会生活の、それぞれの生活態度が終りましたから、あとの四願は、念仏生活の底を流れる、根本的態度を誓われているのでしょう。それで適当な言葉が見つかりませんが、私はこの願を「人格成就の願」とか、また「天職満足の願」と呼んでいます。

波羅蜜は、到彼岸、または、度と訳され、まわりの「いのち」を見失い、自分のことだけで、頭がいっぱいになっている人間の住む迷いの此岸から、自分を生かしてくださる他の「いのち」に目覚め、他の「いのち」を大切にして生きる悟りの彼岸に渡る実践法で、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つです。(中略)
私たちのように二言目には「私が」、「私のもの」という人間が、布施の行などできるはずがありません。ところが、「わたしの名を聞けば」、布施の行のできるはずのない人間が、布施の行にいそしむようになると、第四十四の願には誓われているのです。「わたしの名を聞けば」、不可能が可能になるのです。(中略)
持戒などというと、戒律でがんじがらめに縛られた窮屈なあり方を、想像される方もあるかも知れませんが、その精神は、自らの「いのち」を大切にすることによって、他の「いのち」を本当に生かそうということなのです。(中略)
私たちは自分の思いが通らないとき、また人生が思いに反した展開をするとき、自分をおさえることができなくなります。すなわち、瞋恚[しんに](いかり)の心が大火となって燃えあがります。この瞋恚の炎はそのままにしておくと、我が身だけでなく、あたりにあるものすべてを焼き尽くします。他の「いのち」を思うことによって、この瞋恚の心をおさえていくのが忍辱なのです。(中略)
四番目の精進ですが、一つのことをコツコツとやりぬいていくことです。(中略)どうして私たちは懈怠になるのかということを、利井鮮明という明治の高僧は、「法の深信かけたるが故に懈怠となる」(正信偈補影記)と教えてくださいました。(中略)
五番目の禅定とは、動揺・散乱する心を平静にすることです。(中略)
私たちのように、何かにつけて「儂が、俺が」、「アイツが、こいつが」という人間には、自他不二をさとる智慧など無縁のものであります。ところが、その智慧に無縁の私たちに智慧がめぐまれるのです。

徳本というのは、本は因なりとありまして、根本のたねになるのであります。こういうことをすることが自分の徳を積む種になって、そういう種が悉く具わるようになってくるということであります。それは聖道門ですることで、他力真宗ではせぬことだときめてはならないのであります。「教行信証」の上からでも、信心を獲てからは、菩薩の行を修めるようになると仰せられてありますから、今でもそうであります。本来の自分の持ち前から言うならば、布施行どころでない。貪欲充満の凡夫であります。貪欲一まきでありますから今まででも苦しみはなくならないのです。幸福にならぬのでありますが、信心の結果としては菩薩の行を修めるようにならしめられるのです。そうして自分に徳、則ち幸せがくる本、因というものが具わるようにならしめてやりたい、ということが具足徳本という願いであります。(中略)
なおまた、菩薩の行には、六波羅蜜の上に十波羅蜜ということがあります。それは六波羅蜜に、方便・願・力・智という四つが加わります。六波羅蜜は自分の自利として、自己を幸せにする根本行であります。あとの四つは利他であります。方便というのは幸せを自分だけにとどめずして他を幸せにしようという心が起こり、そういう願いをだんだん強くして、もってそこから他を救う方法が考えられてくるのです。それから他の者をどうしたら救われるようになるであろうかというようなことをいろいろ考えていくことがあとの智でありまして、自利に対して化他といいいます。菩薩としては自分が修めてこういうことをやってゆけるようになって、その結果他の者に対して働きかけていくようになるとそういう四つの行をまたつとめてゆくようになる。だから死んでからのことでなしに、この幸せがこの世から始まって徳本が具わるようになってくるからますます協同生活をしておっても幸せになっていくのであります。これは人柄にもより本性にもよるのでしょう。

・・・聞其名号が菩薩の行となるのであります。そなわち念仏と菩薩行との関係が、四十八願において三通りになっているのであります。それはどういうことであるかといえば、第一には、十方衆生に対して、菩薩行というのは念仏に入る方便道であると示されているもので、それはすなわち第十九願に現われているものであります。(中略)
第二は、第二十二の願に現われるもので、それは国中の菩薩に対して、菩薩行というものは念仏の生活であると示されるものであります。(中略)
ところが第三に、いまや四十四願においては逆に念仏が菩薩行のためになっている。仏の御名を聞くがゆえに、他方国土の菩薩達はその菩薩行を励むのである。念仏しながら道徳家は道徳ということを念じ、念仏しながら学者は学問を念じ、念仏しながらその念仏を縁としておのおの菩薩行を修行していこうというのであります。そういうように、菩薩行と念仏の関係が三つになっているということは、意をとどめるべきことであると思うのであります。これは念仏に励まされて、そうして、菩薩行を修行していくのであります。
第四十五願 聞名見仏の願
設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字皆悉逮得普等三昧住是三昧至于成仏常見無量不可思議一切諸仏若不爾者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、みなことごとく普等三昧を逮得せん。この三昧に住して成仏に至るまで、つねに無量不可思議の一切の諸仏を見たてまつらん。もししからずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞けば、残らずみな普等三昧を得るでしょう。そしてこの三昧に入って、仏になるまでの間、常に数限りないすべての仏がたを見たてまつることができるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの(仏国土以外の)他の諸々の世界にいる求道者たちが、(わたくしの)名を聞くと同時に、<あまねく至る>と名づけられる心の安定――求道者たちがその心の安定に住して、一刹那の経過の間に無量・無数・不可思議・無比・無際限なる(多くの)目ざめた人たち・世尊たちを恭敬することができるのであるが、――を得ることができなくて、また、かれらのその心の安定が、覚りを究めるに至るまでの間に中間で消えてしまうようであったならば、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

人格平等とか、人権尊重ということは、法律上や教室の中でいうことではなく、日常の生活で、誰に対しても、あなたもそうですか、私もそうですよといえることです。それは世間的なことだけではなく、宗教の世界においても同じことです。ところが肝心な宗教の世界では、なかなかそれが行われていないのです。キリスト教でも、神に対してはすなおな羊であるものが、一たび隣人に向かえば、たちまち「神の使途」に早変わりし、真宗でも、仏に向かえば愚かな凡夫が、一変して「如来のご代官」になったり、いついつご信心をもらったとか、わしは独立者になったとかいって、「自信」を以て「人に教えて信ぜしめる」という、高飛車な態度になる。これらは昔「虎の居を借りる狐」の類で、宗教の世界に入ったすぐそこにある、法執という大きな深い落とし穴に落ちているのです。親鸞聖人はこれを「邪見驕慢の悪衆生」と誡めておられます。これは上に対してはぺこぺこし、下に対しては威張る、役人根性と一つも変らんでしょう。
こういう、自分はさとったから、これからは衆生済度とか、わしはご信心もらったから、あとはご恩報謝という、我執の破れた心の底に巣くうている法執を見つけたのです。ここまで自己を掘り下げた人は、世界の歴史においても、数少ないのですが、親鸞聖人は、その数少ない宗教家の一人なんです。名利の心の強い弁円に向かっても、あなたもそうですか、私もそうですよ。「さるべき業縁がもよおせば」、どんな振舞いをし出かすか解らん自分です。お釈迦さまに向かっても、あなたも如来廻向の南無阿弥陀仏ですか、私も如来廻向の南無阿弥陀仏ですよ。だから「他力の信心うる人を、敬い大きに喜べば、すなわちわが親友ぞと、教主世尊はほめたもう」。お釈迦さまが手を差し出して下されば、お釈迦さまと握手ができる。どうです。あなた方、お釈迦さまと握手ができますか。(中略)
同じ親鸞の教えを聞きながら、何ぜこんなに一人ひとり違うのだろうか。ははあ、その人の宗教的動機が違うからだ。「世界の体は願いである」。その人の求道的動機が違うから、そこに開けた世界が違うのである。真実の宗教は、求道の動機が純粋でなければならぬことをさとったのです。
そういうことが解って見ると、その人その人に皆違った世界があり、その人でなければ有っていない尊いものが見えて来ます。長所はそのまま欠点であり、欠点は裏返せば、そのまま長所です。青い泥田には青い花、赤い泥田には赤い花と、この世界は、泣いても泣き切れぬ悲しい宿業の中に、美しい蓮華蔵世界が宿っている、矛盾の世界であることが知られて来ました。「観無量寿経」には、「無量の諸仏を見ることができるから、諸仏は現前に、あなたは必ず仏になることができます」と、予言をして力づけてくれると説かれています。これは諸仏が口でそう言うのではないでしょう。「華厳経」の善財童子が、どんな人からも自分の道を聞いて行ったように、出遇う人から道を聞いて行こうとする態度ができれば、態度そのものが、相手の中から、無言の予言を聞き当て、また自分の信心そのものが、そのことを自証できるのです。形をかえてそのことを「阿弥陀経」には、「これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり。名づけて極楽という」と説いています。生活態度の方向が決定すれば、その一歩一歩の生活の中に、浄土を自証し、成仏の自信が得られるのです。

「わたしの名を聞けば」とは、今までに何度もお話しましたが、阿弥陀如来の広く大きなお心に遇うことです。み名となって私をつつみ、いだきしめてくださる阿弥陀如来のお心に遇って、自らの一人よがりのというか、自分勝手な小さな「我」の姿が思い知らされることによって、私たちの人を見る目、ものを見る目が変えられるのです。
今まで「鬼」だと思っていた人が、本当は私の身を案じてくださっている「仏」であったということがあきらかになるのです。私の身を案じて、厳しい言葉を投げかけ、身をもって私をいさめてくださった「仏」を、「鬼」と思い込んでいたことが恥かしく、悲しくなるのです。この恥しさ、悲しさは、今、はじめて諸仏に遇えた「よろいこび」と、表裏するものです。
普等三昧の普は、普遍ということ、あまねくということです。等は斉等、ひとしいということです。ですから、普等三昧とは、すべての人を、ひとしく諸仏と見ることのできる精神の境地ということです。
私たちは、「そういわれてみるとそうだけれども、あの人だけはどうしても仏と思えない」ということになりがちです。「みんないい人だけれど、あの人は鬼だ」というのでは、普等三昧ではありません。
すべての人が、いろんな言葉で、いろんな行為で私の身を案じてくださる。その言葉も行為も、全部違うけれども、その時その時、何をいうか、何をやるかわからない私のために「いろんな仏」がいてくださって、いろんな形で私を護っていてくださるのです。

阿弥陀仏、阿弥陀仏と言ってあるけれども、その阿弥陀仏の御光があらゆる物の上に、また人の上に輝いて見える。本身の阿弥陀仏を拝むということは同時に、一切の物となり一切の人となってそこにもここにも一切のところにまします諸仏を拝みたてまつるという、そういう喜びに入ることができる。そういうことが信仰生活ということであります。不幸なことがあっても、そこに阿弥陀仏の恵みを知ることができる。そこにもおっこにも仏を見ることができる。こういうことを無辺光、無碍光と聖人がいつも喜ばれたのであります。(中略)
諸仏は、諸仏阿弥陀といいまして、一つに言えば阿弥陀、わけて言えば諸仏、諸仏ということは阿弥陀の変え名だと申されますが、「仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経」というお経もあります。どこにも仏がありますけれども、それは皆阿弥陀如来のお心を心として、諸仏が到る処にこの人を護らしめたまうということでありますから、こういうことを心の奥で見ることができる。それを普等三昧と呼ぶのであります。

ここに「普等三昧」ということが出てきました。「普」はあまねく、「等」は平等であります。あまねく平等に一切の仏を見るということであります。たしかに菩薩は、みなあまねく十方三世の仏を見て、あまねく十方三世の仏を念ずるところのそういう天地にいたるであろう。つまり一即一切でありまして、一つの道に徹底さえするならば、それによって一切の道を知ることができるのである。われわれ念仏者は念仏の道に徹底すれば、全仏教の精神に到達するであろう。真言の人ならばほんとうに真言の修行をしたならば、全仏教の精神に到達するであろう。こういうのが普等三昧でありますから、あまねく一切の諸仏をみなそれぞれの道において見るようにならなければ正覚は取らないというのであります。(中略)
他のお経には本願も説いてあるけれども、ついでに説いてある。ついでに説いてあるのでは、真実の教にならない。本願を説くをもって経の宗到となす。中心であり、眼である。それよりほかにないというところに、この四十八願を説いた「大無量寿経」が真実の教という意味をもつのであります。如来の本願名号を説くがゆえに真実の教である。真実の教なるがゆえに如来の本願を宗到として説くのである。それを中心にして説くということであって、四十八願を説いてあればこそ真実の経典である。それによってわれわれは仏の願いを聞き、自分の願いを満足し、われわれの人生に光を投じられていくのであります。
第四十六願 随意聞法の願

設我得仏国中菩薩随其志願所欲聞法自然得聞若不爾者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、その志願に随ひて、聞かんと欲はんところの法、自然に聞くことを得ん。もししからずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、わたしの国の菩薩は、その願いのままに聞きたいと思う教えをおのずから聞くことができるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生れたであろう求道者たちが、説法を聞きたいと願ってそういう心をおこすと同時に、期待するとおりの説法を聞くことができないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

ここで気がついたのですが、「他方国土」の時は、いつでも「諸の菩薩衆」と複数ですが、「国の中」の時は、必ず「菩薩」と単数になっています。これにも何か願う気持ちの中に、違いがあるのでしょう。もちろん他方の菩薩と国中の菩薩は、一念仏者の二面です。「国の中の菩薩」に対しての願いは、いつでも理想とか道が解るという、智的なもので、弥陀対衆生という関係ですが、「他方国土の諸の菩薩衆」に対する願いは、生活するとか修行するという、行為的なもので、私対あなたという対人関係のものか、私対社会という社会関係のもののようです。智的な解るということは、内面的なことで、一人ひとりですから、単数であらわし、菩薩行とか、生活するという行為的なものは、おのおのが自分の個性によるものですから、複数であらわしているのだろうと思います。(中略)
学ぶことは皆同じことであっても、実践はその人の個性と、実践する場が問題になって来ますから、一人ひとり別です。「国の中の菩薩」は、人生を生きてゆく定石を学ぶものであり、「他方国土の諸の菩薩衆」は、その人その人の個性にしたがって、青色青光、白色白光の、異なった色と光に輝く世界を造って行かねばならぬ。(中略)
「華厳経」には「世界の体は願いである」といっています。その人がどんな世界に住んでいるかは、その人がどんな願いを有っているかで決まります。その人に何が見えるか、何が聞こえるかは、その人がどんな願いを有っているかが決めます。花が好きな人には、花が向こうから目の中へ飛びこんで来、鳥の好きな人には、どんな小さな鳥の声でも聞こえて来ます。
ここでは「その志願に随って」とあります。それはもの好きに、「ちょっと聞いて見ようか」というような、ひやかし客には聞こえぬということでしょう。「志願」とは私が願うという願いのことではなく、志は志向でしょうから、自分の生きる方向を決定して、自分を動かしている願いということでしょうか。(中略)
今日までのほとんどの宗教家の問題は、「死の解決」であり、「苦悩からの解脱」ですが、これらはすべて人生の半面の問題で、しかも大切なもう一つの半面の、与えられた人生そのものをどう生きるかという問題を忘れているのです。求道の動機が、特殊なものであれば、そこに開けたさとりの世界が、特殊なものに片寄るのは、当然のことでしょう。私は私の求道の問題が、誰もが解決しなければならぬ天下の公道であることを自覚して、一層自信を深めました。(中略)
私は「蓮如上人の仰しゃるのは、いつもお寺参りをしておれということではなく、山を見ても川を見ても、畑を耕やしても、何をしても、そこからお育ての法が聞こえて来る、受信機を身につけることが大切だと、仰しゃっておられるのでしょう」と、答えました。さっきも申しましたように、「阿弥陀経」には、出遇う人ごとから、日々出遇う出来事から、法を聞いて、日々の生活の中から、人生を学び、自己を知って、人生創造の道を見出して行くことと説いています。

「信心の行者は、望みのままに聞きたい法を聞くことができる」とは、信心の行者には、聞いてはいけない法は、一つとしてないということです。他の宗教の話も聞きたいと思えば聞かせてもらえばいいでしょう。他の宗教の教えを聞くにつけても、阿弥陀如来の真実が、いよいよありがたく味わえることでしょう。
また宗教のお話だけでなく、哲学のお話もいい、芸術のお話もいい、科学のお話もいい、また一つ仕事に打ち込んだ人の体験談もいいでしょう。聞きたいと思う話を聞かせてもらえばいいのです。それらのお話は、すべて阿弥陀如来のおすくいに間違いないことを、いよいよあきらかにしてくださるはずです。(中略)
どの本の中にも、その本を書いてくださった人の人生があり、教えられえるところが多くあります。私はそのことを何よりも有難いと思っているのです。小説を読みながら、念仏申さずにおれないこともあります。いろんな本を読ませていただきながら、阿弥陀如来のみ教えの確かさをかみしめさせていただくのです。

「その志願にしたがひて」志願は志し願うですから、その人の願いに随うということです。「きかんとおもはんところの方」とは、こういうことが知りたい、ああいうことが解りたいと思う時に、「みのり」が自然に、自分からこうしてああしてと細工をしたり、努力をしたりしなくても、彼方からおのずから知らしめられるということです。自然とは自力の働かぬことであります。働かしてわるいのじゃありませんよ。聞きたければ人に聞いてもよい、書物を調べてもよい。それはやれるだけやるのだが、本当の法というものは、いかに本を一生懸命読みましても、わかる所だけはわかっても、わからぬところはわからぬものであります。その文字の意味はわかりましてもその真精神がわかりかねるものであります。わかったと思っておってもわかっておらないものです。知りたいと思っておるのにどれほど探しても知れぬ。その文字をつかまえておってはわからんが、これがひょっと何か知らぬ自分以外の力によって、耳の中、腹の中へ天来的に降りて下さるようなことがなければわからぬものであります。他力廻向とおっしゃるのがそういうものだろうと思うのです。(中略)
宿善のある人は聞いておるとおのずから信を得ると申されます。それが自然です。己れがいかに気張っても疑い晴れぬのも当たり前だし、人が如何に聞かせてもわからないのに、聞いておるとおのずから信を取るようになるということが、法を聞こえてくると申すことです。このように信心の人にあっては、是非とも深く、広く聞きたいと思い、ほしいと思っている聞き難い法がわかるようにならしめたいという願です。国中菩薩となった人には、聞きたい、知りたいと思っておった法が、だんだんわかってくる。またそれが豊富になる、信心増長というのです。信心の根がだんだん深くなって、ふえていくようになり、いよいよ幸せが向上することです。法を得た幸せがだんだんふえてくる。そういうようにさせてやらねばおかぬとおっしゃるのです。

この「随意聞法の願」というのは、仏法を聴聞したいと思えばいくらでも聞くがよいという願いでありましょう。とくに「国中の菩薩」としてあるところは留意すべきであります。国中の菩薩であるからして、国の法だけしか聞いてはならないというのではない。その志願のままに他方仏国の方を聞くのもよいということでしょう。どんな法でも、聞きたいと思うならば自由に聞くがよい。真宗を信ずる者は他宗のお説教を聞くべからず、そういう頑冥なことはいえない。他宗の説教を聞くとせっかく決定した信心がくつがえるというようなあぶなげなことはいわないで、ほんとうに聞きたいと思ったならば他宗の教えも聞くべし、余教の教えも聞くべし、道徳経済の話も聞くべし、何でも聞くべし、聞けば聞くほど自分の道があきらかになるわけであります。聞けば聞くほどまどわされるというのは、要するに本当の弥陀の道ではないのである。無執無着の仏教精神というものは、こういうところにも現われているのではないかと思うのであります。聞けば聞くほど自分の道というものがあきらかになるからして、随意聞法せよ。こういう非常にひろい道を出して、国中菩薩に対して策励を与えている。
第四十七願 聞名不退の願
設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字不即得至不退転者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち不退転に至ることを得ずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、ただちに不退転の位にいたることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの(仏国土以外の)他の諸々の仏国土においてわたしの名を聞くであろう求道者たちが、名を聞くと同時に(この上ない正しい覚り>から退かない者になれないようであったならば、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

「不退転に至る」とは、大乗仏教の理想であります。原始仏教の目的は、転迷開悟といって、内なる一切の執着を断ち切って、外からのどんな誘惑にもまけず、またどんな事件に出遇うても、泰然自若としてびくともしない、そういう生死を解脱した自己をさとることでしたが、大乗仏教では、人間としてりっぱな人格を成就することを目的として、それを仏といったのですが、仏は永遠の理想ですから、結果としての仏になるよりも、必ず仏になれるという自信がつく位を、不退転地といって、どうしたならば、その不退転地に至ることができるか、これが最大の関心事であったのです。それは菩薩の位でいえば、四十一段以上の「地」の位の菩薩のことです。それは今まで十信、十住、十行、十廻向と、人間成就を願って、仏を理想として彼方に見て、背のびをしながら求めて来たのですが、仏智が開けて、自己の内に仏と、自己を支えている浄土を見出だすことができた位です。
それがこの願では、聖道の修行によって開けるのでなく、「わが名を聞いた」だけで、「不退転に至ることができる」のです。曽我先生はその感動を「仏さまはどこにおられますか。仏さまは私になり切っておられます。けれども私は仏ではございません」といい、浅原才市同行は、「才市が仏になるじゃない。阿弥陀の方からわしになる」といっています。親鸞聖人はこの境地を、「五濁悪世の衆生の、選択本願信ずれば、不可称不可説不可思議の、功徳は行者の身に満てり」とも歌っておられます。退転の位の時には、心を引きしめ引きしめて、油断ができなかったのですが、もう大丈夫、光明摂取のご利益によって、呼びさまされ呼びさまされてゆくからです。昔の妙好人は「私は居眠りしていても、眠って下さらん仏さまが見つかった」といい、親鸞聖人は「睡眠懶堕なれども、二十九有に至らず」と、その感激を聖者の第一の位である預流果にたとえておられます。
不退転というのは、退転せずで、退転がないことではありません。不の字はいつでも、矛盾を現わす言葉で、退転しながら退転しないということです。退転するとは、煩悩に巻きこまれたり、言うたから言い返した、叩いたから叩き返したというように、衝動的な生活になることをいうのです。そういう時いつでも、「おいおい」と、魂の底から、声のない声で、呼びさまして下さることを、不退転というのでしょう。「才市がうっかりぼんやりしていると、ナンマンダ仏が、向こうさまから、才市の心につき当る」。不退転は、今までの衝動的な生活に巻きこまれないことですが、それを前向きにいえば、正定聚です。正定聚は、必ず仏になれるという自信が生まれたことです。第十一願の正定聚は、「わが名を聞く」ことによって、この世で与えられるのです。私はこの願を「人格不退の願」と呼んでいます。

すべての人が、阿弥陀如来のみ名を聞くひとつで、「ただちに不退の位に至ること」を誓ってくださった願は、第十八の願であります。第十八の願が成就したことをあかしてくださる本願成就の文をいただきますと、そのことがあきらかです。本願成就文は「仏説無量寿経」の下巻のはじめに、
すべての人人は、その名号のいわれを聞いて信心歓喜する一念のとき、それは、仏の至心から与えられたものであるから、浄土を願うたちどころに往生すべき身に定まり、不退の位に入るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、正法を謗ったりするものだけは除かれる。
とあります。この第十八の願が、成就したことをあきらかにされたご文に間違いのないことが、この第四十七の願をいただくことによって、より一層あきらかになります。また、「名を聞いてただちに不退の位に至る」ことをあかしてくださるご文は、本願成就文、第四十七の願、そしてつぎの第四十八の願以外にも、「仏説無量寿経」には八文あります。その二・三文を紹介しますと、
その声が流れ流れて、あまねくもろもろの世界に響きわたる。その音声を聞くものは、深い法忍を得て不退転の位に入る。(道樹楽音荘厳)
かのみ仏の本願力は
名号を聞いて往生を願うもの
みなことごとくかの国に至らせ
おのずから不退の位に入らしめる(往観偈)
もし人人の中で、この経(本願の名号をあきらかにしてくださった無量寿経)を聞くものがあれば、無上のさとりを開くまで、決して退くことがないであろう。それゆえおんみらは、一心に信受してこれを読誦し、人にも説いて行ずるがよい(弥勒付属)
とあります。これらのご文からもあきらかなように「仏説無量寿経」をお説きくださった釈尊のお心といいますか、阿弥陀如来のお心は「本願のみ名を聞くひとつで、すべての人を不退の位に至らしめ仏に成す」ということなのです。

仏国と書いてあってもなくても同じことでありますが、他方の国土の菩薩衆、この前にも一二度お断りをしたように古来の学者は、これは凡夫でない。聖道門の菩薩と称せられる人々を誘引するために立てられた願じゃと言っておられます。けれども何べん読んでみてもどうも私には納得がいきにくいので、やはり諸々の菩薩衆ということは、まさに信心を得て幸せになるべき人々をさして菩薩衆と呼ばれたものであると思うのであります。
「わが名字をききて」則ち南無阿弥陀仏という仏の御名を聞いて、聖人のお指示に従いますと、「聞く」というは信心を顕わす言葉なりときめてあります。ただ普通の音のように聞いただけでそんな効果があるわけではありませんから、如来の名号の由来を聞き開いて信じた人ということに違いないと思うのですが、是非そうさせたいとい願であります。
成就の文は上巻の浄土の荘厳を説いてありますところに、浄土の尊さは、木に風があたったり音がする、その響きを聞くと、その衆生は深法忍を得ると、こういうことが書いてあります。そしてその次に「不退転に住す。成仏道にいたるまで、耳根清徹にして、苦患にあはず。」(三三)とあります。これが願成就の文であると指示をいただいているのであります。(中略)
別願としてのこの願があってこそ、この願の結果が第十八の本願成就の文のように、その名号を聞いて信心歓喜するようになったものは即得往生して不退転に住せしめられることであると、わかるのであります。つまり十八願の成就として説いておられるその不退転が、この四十七願の結果であるということがここでわかるのであります。だからこの四十七の本願というものは、なくてはならぬ本願であるとこう思われるのであります。

また他方菩薩に対して願うところはすなわち不退転である。道を聞く人はおのおのの道において退転しないようにと、第四十七「得不退転の願」がそこに出ているのであります。
第四十八の願には、この願の内容をより具体的に示してあります。
第四十八願 得三法忍の願
設我得仏他方国土諸菩薩衆聞我名字不即得至第一第二第三法忍於諸仏法不能即得不退転者不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち第一、第二、第三法忍に至ることを得ず、もろもろの仏法において、すなはち不退転を得ることあたはずは、正覚を取らじ。
わたしが仏になるとき、他の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、ただちに音響忍・柔順忍・無生法忍を得ることができず、さまざまな仏がたの教えにおいて不退転の位に至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土にいる求道者たちがわたくしの名を聞くであろうが、名を聞くと同時に第一、第二、第三の認知(忍)を得ることができず、目ざめた人の法から退かない者になれないようであったならば、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

昔から「得三法忍の願」と呼ばれています。
そう呼んだのは、この願を前の「聞名不退の願」の内容を開いたものと見たからでしょうが、どうもそういう見方は、この願の意と違うように思われるのです。第一、第三十四願の時にもちょっと申しましたように、無生法忍の意味の解釈が違うこと、第二に、「諸仏の法において不退転を得る」とあるのを、見落しているからです。
「第一、第二、第三法忍」とは、「大無量寿経」の四十八願の成就文に「一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍」と説かれている。そのことと言われています。もう一度繰り返しましが、「忍」は智慧のことですが、経験智とか体験智といわれるものだと思います。
「慧」は、「空、無我に名づく、不動に名づく」といわれていますから、からっぽの智慧です。見えた向こうの客観がからっぽではなく、見ている主観が、先入観念の色眼鏡や、自己本位の我執を離れたことで、主観の眼が澄んで鏡のようになって、客観の世界があるがままに見える智慧のことであり、またどんなことに出遇っても泰然自若として、何ものにも執われない、何ものをも超えることのできるまごころの智慧のことです。
「智」は、「あれはあれ、これはこれと分別すること、また決断に名づく」とありますから、先の智慧に立って、客観の相をあるがままに見分けて、これは白、これは黒と、決めることができる智慧のことです。
それに対して「忍」は、「推求に名づく」といわれていますから、こうでもあろうか、ああでもあろうかと、人生を学び自分を知ってゆく智慧であり、またそれによって得た、人生経験を通して得た経験智、またこれが人生かこれが自分というものかと、人生そのもの自己そこものを達観することのできる体験智のことでしょうか。忍はどこまでも真実の人生を追究して行こうとする智慧のことだろうと思います。
第一の「音響忍」は、昔の人は、人生は音の如く響きの如く、何一つとして、これと執えることのできるものはないと、さとる智慧のことだるといっています。しかしそれは「人生は無常である」という、人生観に立った原始仏教の見方です。人生は無常である、夢であると見ている智慧も、無常でしょうか。人生を夢と照らしている、それは人生を超えた永遠の世界からの呼びさましであります。夢の世に夢でない、永遠の世界が働く、それを知る智慧を音響忍といったのではないかと、私は思います。
それは今日の言葉では矛盾智でしょう。そうすれば、それが具体的に現実に働けば、音と響を聞き分ける智慧ではないかと思います。(中略)人の挨拶でも、「こんにちは」という言葉は同じでも、口先だけの言葉と、真心のこもった言葉では、響が違います。それだけではない。「こんにちは」という、唯だ一ことの言葉の上に、その人の生い立ちや、人となりの教養や性格のすべてが、響となって現われています。(中略)とかく私たちは現われた結果にだけ目をつけて、そう言わずにおれなかった心に、なかなか目がつきません。そういう人生の矛盾、人間の心の複雑さを、見分け聞き分ける智慧のことではないかと思います。
第二の「柔順忍」は、音響忍から出て来る人生随順の智慧でしょう。それでは何のために与えられた自分の運命に順うのか。昔は「前の生の業で仕方がない」と、借った覚えのない借金を払うようなつもりで、自分に言い聞かせては、あきらめていたようですが、「阿弥陀経」には、「舎利弗よ実にこれ罪の報いと思うなよ」と念を押しています。柔順忍は第三十三願の柔軟心ですから、降りかかって来るどんな運命にも順い、どんな苦難にも耐えてゆく金剛心を内に有っている心で、どこまでも人生の深みを知り、真実の人生を知るための智慧でしょう。
第三の「無生法忍」は、第三十四願の時申しましたように、今までは不生不滅の涅槃法をさとる智慧と解釈していますが、「菩薩の無生法忍、諸の深総持」ですから、一の中に無量の意味を有つ、それぞれの原理とか法則とか、また人の性格とか国柄とか、歴史とか社会という、行為的世界を知る智慧であろうと思います。
「諸仏の法において不退転を得る」。この「諸仏の法」とは、科学とか哲学とか、音楽とか芸能という、それぞれの文化のことではないかと思います。人間は誰でも、人間としてのりっぱな人格を高めて行かねばなりませんが、また私たちは社会人ですから、何か社会的に職業を有たねばなりません。そういう自分自分の職業の道に不退転であるように、ということではないかと思います。
しかしこの願は、自分の職業以外のことでも、いろんな文化的教養を身につけることかも知れません。(中略)
前の第四十七願が人間としての人格不退であれば、この願は、社会人として、自分じぶんの職業に不退転であるようにということのようですが、それだけでなく、もっと広く一般教養を、その人の許す限りにおいて、身につけてゆくようにということではないかと思います。それで私は「諸法不退の願」とか、「各道不退の願」、または「教養不退の願」と呼んではどうだろうかと思っています。

ただ今、この身に「名号のいわれを聞」くことの大切さ、この身が、ただ今、「不退転の位に入る」、すなわち、「すくい」の身にしていただくことの大切さは、どれほど強調しても、強調しすぎることはないのです。それが、本願の最後の二願に、「不退転の位に至ること」を誓ってくださった阿弥陀如来のお心なのです。ややもすると、阿弥陀如来の「すくい」の中心が未来にあるように説く人や、そう思い込んでいる人が多い私たちの教団においては、特に、この第四十七の願・第四十八の願は、第十一の願・第十八の願のお心を、間違いなく信受させていただくためにも、大切に味あわせていただきたいものです。このことを繰り返し強調しておきたいと思います。(中略)
「智慧の念仏」をいただき、「信心の智慧」に生きられた源左同行のお言葉に、「確かにそうだと認めること」、すなわち、「忍」とはこういうことというの、はっきり教えてくださるものがあります。それは、御法義を聞かせて貰らやあ、たった一つ変ることがあるがやあ。世界中のことが皆本当になっただいなあというお言葉です。「世界中のことが皆本当になっただいなあ」というのが、「確かにそうだと認めること」、すなわち、「智慧の目」をいただき、「信心の智慧」に生きる相です。

極楽の風の音を聞いて法の徳として第一は音なり響なりを聞くというと一つの智慧が開けてくる。菩薩には初地、二地、三地という位がありまして、これは菩薩初地の位、あるいは二地、三地という位の智慧が開いてくるというのが音響忍というのだそうであります。第二の柔順忍とは、だんだん矛盾がなくなって真如の道理と一つになってくるというようなすがたが柔順忍という智慧で、菩薩の四地、五地、六地の人の得るところの智慧であるというのです。第三の無生法忍というのは、それがだんだん進んで、七地、八地、九地、十地の位に入った人の智慧でありまして、それが本当の智慧というわけであります。(中略)
第四十八の本願は、あの尊い音響忍というようあ智慧が開け、柔順忍というような智慧がいただけ、進んでは無生法忍を得るというような智慧までひらかせていただけるようになさしめてやらずんばおかぬとあるのです。そうして無上覚という仏の智慧にまで進むばかりという、不退転というものにさせねばおかぬというのであります。我が名号を聞いて信を起こすということになれば、そういう徳を得させたいのです。「十地の願行自然に彰はる」と善導大師は言われまして、ただ信ずるということは何でもないことのように思っておるけれども、それは仏の御廻向によるのであるから、初地から十地までの願行というものが、死後極楽にまいってからでなく、信のところに自然に彰われるとおっしゃっている。このように、この信の味わいの喜を得るということは全く第四十八願の願力のはたらきと申すものである、ということを知るべきであります。

一切の法は音響のごとし、みな言葉である。固持すべきものは何ものもない。聞けば流れるがごとく、万法みな言葉にすぎない、それが音響忍であります。忍は理解知識である。おのおの道においてその音を聞き、響お聞いて理解する。まだ第一に理解の知識を得よ。そしてその理解した言葉にしたがっていく、それが柔順忍であります。つまりそれを実行して随順していくところの実行の智慧を得る。それから無生法忍はそれによって体験の証りを得ることである。だから音響忍の解、柔順忍の行、無生法忍の証という知識を得て、諸仏の法において、おのおのの道において不退転を得ずんば正覚を取らない。わが名字を聞けば聞くほどおのおのの道にいそしんでいくようにならずば正覚を取らない。これが第四十八願であります。
 

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