Diary2012
2012/8/17 
話は少し戻りますが、電児作の書>二河白道<面白いですね。 
二河白道については少し目を通しただけだったのですが、先月、大阪法善寺横町を、酔いを醒ましに散策、お不動様と夫婦善哉の間の石碑?を発見、忘れない内に写真を送ります。お不動様と何か関係有るのですか?
 
法善寺と郷愁を誘う法善寺横丁  
寛永14年(1637)中誉専念により建立された。江戸時代この辺りには、刑場や焼き場、墓地があり、刑に処され人や埋葬された人々の霊を慰めるために千日念仏回向が行われた。この歴史的背景により法善寺や同寺の並びにあり平成20年(2008)12月に天王寺の勝山に移転した竹林寺は通称「千日寺」と呼ばれ、またこの辺り一帯は千日前と呼ばれるようになった。  
刑場は明治維新後に廃止され、墓地と焼き場は明治3年(1870)に阿倍野へ移転し、その跡地は払い下げられた。人々が多く集まる道頓堀の裏にこのようなものがあっては体裁が悪く、また地域の発展を阻害すると考えたためだろう。その後、跡地には見世物小屋や飲食店、露店等が徐々にでき始め、人気を集めるようになる。  
明治45年(1912)、ミナミの大火でこの辺り一帯は焼け野原になるが、大正3年(1914)に総合レジャーランドの「千日前楽天地」ができたことにより、かつてのイメージは払拭され庶民が気軽に楽しめる街として多くの人々で賑わうようになった。  
現在、西の心斎橋筋は千日前に比べて客層年齢が低く、主にショッピングを楽しむのに対し、千日前のほうは客層年齢が少し高めで、主として観劇や飲食を楽しむ人で賑わいをみせている。  
余談になるが大阪人は、(お洒落で高級な?といわれている)キタ派と庶民的なミナミ派に分かれるが、コテコテとしたミナミこそが大阪の顔ではないだろうか。かくいう私もミナミ派である。  
話はひるがえって、法善寺は昭和20年(1945)3月13日の第1次大阪大空襲により焼失し、水かけ不動さんのみを残し、本堂など全てを焼失するという被害を受けた。金比羅堂や庫裡は再建されるが本堂の再建は資金や敷地を確保できず先送りされ、現在法要などは過渡的に、合併した天王寺区の寺院を利用している。  
平成21年(2009)には近い将来再建が予定されている本堂にさきがけ、水かけ不動さんの東側に「二河白道堂」が建立され、同年9月27日に落慶法要が営まれた。  
 
「二河白道堂・極楽門」(にがびゃくどうどうごくらくもん)が水掛不動のお堂の右隣に建立された。「怒り」を表す赤色の石、「貪欲」を表す青色の石、その2つの石畳の間に敷かれたわずか15センチ幅の白の石畳をたどると、釈迦如来、阿弥陀如来の石像が向かい合い、その先の極楽門に至る。人は苦しみながらも極楽往生の白道を歩いていく、という法然上人の弟子、善導大師の教えを形に表した。  
 
不動明王は密教で大日如来の化身、またその教えを広める姿を表現したものである。魔障を除き仏道にあるものを守る守護神。不動尊、無動尊、お不動さんとも呼ばれ五大明王の主尊である。滋賀県園城寺の黄不動、京都青蓮院の青不動、高野山明王院の赤不動は三不動と呼ばれ、先の二つの礼拝画像は国宝に、そして赤不動は重要文化財に指定されている。今も昔も不動明王は観音とならび広く人々の信仰の対象となっている。  
法善寺の水掛不動では両脇に矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)を従えた三尊像となっている。  
法善寺では水掛不動の名のとおり、お不動さんに水をかけるが、元々水は供えるだけのものであったのを、ある女性が縋るおもいで水を掛けた。それが不動尊に水を掛けるきっかけとなったようである。  
不動明王は身にふりかかる災厄や人々を煩わす煩悩を退散させ、迷いの無い正しい道へ導いてくださるといわれている。病気の人はその患部へ「南無不動明王」と唱えながら水をかけてお参りするとご利益が授かるそうである。また、水を掛けることから水商売関係者の参拝も多く、その願いが叶うとされ、そして不動明王両脇の童子を男女にみたてて、縁結びが叶うとされる。  
常連さんらの協力で実現した法善寺横丁の石畳、誕生秘話。  
びっしりと苔に覆われたお不動さんや、しっとりと落ち着いた趣のある石畳の路地。移りゆく繁華街にありながらも、そこだけは懐かしく、温かい。そんな法善寺横丁には、ミナミらしい人情と伝統を守る心がありました。  
織田作之助の『夫婦善哉』の舞台となったことでも有名な法善寺横丁。その歴史は古く、江戸時代に法善寺の参拝者や芝居小屋へ行く客を相手に茶店や露店が境内にできたのが始まりだと言われています。小料理屋やバーなど様々な業態の店が、幅約3m、長さ約100mほどの細い石畳の路地にぎっしりと軒を連ねる情緒ある景観は、今もミナミのシンボル的存在。そしてこの法善寺横丁を象徴する石畳が生まれるきっかけになったのが、29年前の大規模な下水管の工事でした。  
「洗い物をする度に臭いがひどくて。そこで横丁の先輩方が話し合って、巨大な下水管を入れることになったんです。その頃古いお店では、大阪市や大阪を代表する企業のえらいさんも常連さんでした。南海電鉄の当時の社長さんもその1人で、ご厚意から不要になった敷石を安く譲って頂けることになりまして。それでこの石畳の道が1982年の8月10日できたんですよ。これは記念に何かしないといけない、と話し合って始まったの『法善寺横丁まつり』です」。そう教えてくれたのは、割烹[美加佐(みかさ)]のご主人松本明修さん。現在『法善寺横丁まつり』の実行委員長もされています。