金沢城
   5/17 金沢城―兼六園―観光物産館―白鳥路ホテル山楽  





 


 




 
 
 

 



 
 
 


 
 


 
 
 
 
 


金沢駅集合 兼六園

金沢城

金沢城1
石川県金沢市丸の内にあった城である。加賀藩主前田氏の居城だった。
金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川とに挟まれた小立野台地の先端に築かれた、戦国時代から江戸時代にかけての梯郭式の平山城である(かつて「尾山」と呼ばれたのもこの地形に因む)。櫓や門に見られる、白漆喰の壁にせん瓦を施した海鼠(なまこ)壁と屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、櫓1重目や塀に付けられた唐破風や入母屋破風の出窓は、金沢城の建築の特徴である。
この地は加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院である「尾山御坊(おやまごぼう、または御山御坊)」であった。寺とはいうものの大坂の石山本願寺(大坂御坊)と同じく石垣を廻らした城ともよべる要塞でもあった。織田信長が一揆を攻め落とし、跡地に金沢城を築いて佐久間盛政を置いた。後に盛政が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉により滅ぼされ、秀吉は金沢城を前田利家に与えた。利家は文禄元年(1592)から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重の天守や櫓を建て並べた。兼六園は、加賀藩4代藩主前田綱紀が金沢城に付属してつくらせた大名庭園である。
明治以降は、存城とされて軍施設が置かれたため建物の一部を残して撤去され、第二次世界大戦後には金沢大学が平成7年(1995)まで置かれていた。

典型的な平山城で、櫓を多用した構造になっている。また、瓦には冬の積雪に耐えられるように、軽量であり、また、有事には鉄砲弾にもなる鉛瓦が用いられた。本丸・二の丸・三の丸があったが、天守や三階櫓の焼失後は二の丸を藩主の居所とした。天守は再建されなかった。
あまり堅固な城とは言えず、有事の際は城下町にて敵を迎え撃つため軍事拠点として多くの寺が建立された。そのうちのひとつ、妙立寺(通称忍者寺)の井戸には金沢城に通じる抜け穴があるとされる。
城の周囲には、大手堀、いもり堀、百間堀(ひゃっけんぼり)、白鳥堀(はくちょうぼり)が存在した。現存するのは大手堀のみで、他の3つの堀は明治時代末から大正時代にかけて埋め立てられ道路などになった。このうち、いもり堀は復元作業が行われ、2010年4月に再び水が張られた。
白鳥堀は、歩行者・自転車専用の白鳥路(はくちょうろ)として、市民の散策路に利用されている。百間堀は、広坂交差点と兼六園下交差点を結ぶ百間堀通り(百万石通りの一部)となっており、明治44年幹線道路に転用された。これを渡るように兼六園から石川門にかかる石川橋は、この際鉄筋コンクリート橋として架橋されたもので、藩政期は百間堀と白鳥堀を分ける土橋であった。
このほか、城内には内堀が、城外には東西の内外計4本の惣構堀(そうがまえぼり)が掘られていた。惣構堀は後に用水路として転用されている部分が多い。
歴史
天文15年(1546):空堀や柵などを備える城造りの寺院のであった尾山御坊(金沢御堂)が建立され、加賀一向一揆で加賀の支配権を得た本願寺の拠点となった。
天正8年(1580):佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、金沢城と改称して用いた。
天正11年(1583):賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)から加増を受けた前田利家が4月28日(新暦6月14日)に入城し、尾山城と改称した。
天正15年(1587)バテレン追放令により除封されたキリシタン大名高山右近が利家に呼ばれ、尾山城の大改造を行った(再び金沢城に改称されたのはこの頃といわれている)。
文禄元年(1592):利家の子、前田利長が再び改造を行った。
慶長7年(1602):天守が落雷によって焼失、代わりに三階櫓が建造された。また、この頃から金沢城という名称が定着した。
寛永9年(1632):辰巳用水が城内に引かれた。
宝暦9年(1759):宝暦の大火に見舞われる。
明治6年(1873):全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方により存城処分となり、陸軍省の財産となる。
明治8年(1875):陸軍第7連隊が金沢城址に置かれた。
明治14年(1881):火災で石川門と三十間長屋と鶴丸倉庫を残して焼失。
明治31年(1898):陸軍第9師団司令部が金沢城址に置かれ、第二次世界大戦が終わるまで存続した。 
 
金沢城2
金沢城の前身である金沢御堂(尾山御坊)は天文14年(1545)に一向宗徒によって建立されました。寺院とはいえ当時の加賀国では一向宗徒によって実質的な支配が行われていた為、金沢御堂はその拠点として大規模な城砦として整備されました。天正8年(1580)、加賀侵攻と一向宗の弾劾を行った織田信長が家臣である柴田勝家を派遣し、勝家の武将である佐久間盛政が金沢御堂を攻略、盛政は石川郡と河北郡の領主となり金沢御堂跡を改修し尾山城を築城します。天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に付いた前田利家が加増を受け尾山城主になると城の改修が始まり、天正15年(1587)キリシタン大名だった高山右近が前田家の客将として城の普請を任せられると大手、搦手付近を大改修し城名も金沢城に改められました。文禄元年(1592)には後の2代藩主前田利長が2の丸、3の丸、4の丸、北の丸などを増築し、防衛的にも百間堀や高石垣を整備しています。当初、金沢城本丸には5重天守閣が建てられていましたが、慶長7年(1602)、落雷により焼失、その後代用として3重櫓としましたが、その櫓も宝暦9年(1759)の大火により焼失しています。明治時代以降、金沢城は廃城となり破却、または払い下げで城内の建物が次々に失われ、明治14年(1881)の火災で2の丸御殿を中心に多くの建物が焼失しました。その後、金沢城跡には第六旅団司令部や第九師団司令部などが置かれ、第二次世界大戦後は金沢大学の敷地となり一般人からは遠い存在になりました。平成7年に金沢大学が郊外に移転すると金沢城跡は国から石川県に移管され、城内の整備が開始、菱櫓、五十間長屋、橋爪門、続櫓、河北門などが次々と再建され平成18年に日本100名城に選定、平成20年には金沢城跡として国の史跡に指定されています。金沢城の遺構としては石川門と三十間長屋、鶴丸倉庫(金沢城土蔵)が城内に残る遺構として国指定重要文化財に指定され、再度移築されてきた無指定の切手門があります。移築されたものは金沢城の2の丸御殿の唐門が尾山神社の東神門に、金沢城2の丸能舞台が中村神社拝殿へ、金沢城内に建立された東照三所大権現社の社殿が尾崎神社社殿へそれぞれ移築されています。現在は金沢城公園として一般市民に開放され市民の憩い場になっていると共に観光名所の1つにもなっています。