お役人 退職すれば無罪放免

新しい法律が生まれました

加藤勝信官房長官
「すでに退任されて、一般の方になっているわけですから、政府側が確認する立場にない」

お役人  在職中の疑惑
退職すれば 疑惑調査放棄 無罪確定 放免

盗人に追い銭になりかねない 退職金
お役所  すばらしい組織になりました
 


山田真貴子-2/283/13/23/33/43/53/63/73/83/93/103/113/123/133/143/153/163/173/183/19・・・
官僚の言い分波取り記者安倍首相「放送法改正」・・・
「マスコミ」諸話 / 現代メディアと法的解釈メディアの使命マスコミの役割マスコミとマスメディアの意味テレビ報道の役割マスコミュニケーション論放送の役割新聞の役割ジャーナリズムの役割マスコミ倫理マスメディアの役割昭和期のメディアと社会教育メディアはなぜあるのかメディアの役割を貫く事実をそのまま伝えるマスメディアが世論形成に果たす役割とその揺らぎマスコミの情報操作と国民主権コロナで不安を煽るワイドショーマスゴミ1ステマに偏向報道マスゴミ2マスコミは反日報道のタブー新聞テレビの既得権東京五輪中止をスルーするマスコミテレビ政治時代ジャーナリズム改革メディア監視ジャーナリズムの役割ジャーナリズムのあり方ネット時代のジャーナリズムデジタル時代の報道戦後ジャーナリズムの思想コロナ緊急事態のジャーナリズム世論市場化女性ジャーナリストの矜持非難轟々の「絶歌」新聞記者の矜持1「調査報道」の社会史「調査報道」の成立新聞記者の矜持2新聞社説に見る「分断」ニューヨークタイムズの独走ジャーナリズム同時代史書かざる記者矜持なき記者たち・・・
 
 
 

 

●政治を語らないマスコミ 死滅の証明
今回も 発端は「文春」
追随報道ばかり
取材力なし
加藤勝信官房長官の発言
「発言」報道はあっても 
「発言内容を問題視」した報道はありません
批判力なし
政治 記者クラブ ムラ社会
抜け駆け スクープはご法度
政権にぶらさがり 気楽なお仕事のようです
正面から見ます 見えたことを報道します
脇から見たりしません
まして 後ろに回り込んで 覗いたりしません
正面以外 文春 新潮 お任せしています
●武田大臣 「NTTとの会食」 報道  
「個別の事案に答えるのは控えるが、
   国民の疑念を招くような会食や会合に応じたことはない」
「個別の事案に答えるのは控える。
   国民の疑念を招くような会食や会合に応じたことはない」
「個別の事案ひとつひとつについて回答は控える。
   国民のみなさんから疑念を招く会食や会合に応じたことはない」
「個別の事案に一つ一つ答えるのは控えたい。国民から疑念を招くような会食や会合に応じたことはないし、引き続き、みずからを律し、職務に専念していきたい」
「個別の事案一つ一つにお答えするのは控えさせていただきたいと思います。しかし、私は国民の皆さんから疑念を招くような会食や会合に応じたことはございません」
「国民から疑念を招くような会食や会合に応じたことはない」
「国民から疑念を抱かれるような会食、会合に応じたことはない」  
こんな大臣発言が まかり通る国になりました
マスコミも だんまり
舐めたらあかん 
文春オンラインが17日報じた。それによると、武田氏は総務相就任後の昨年11月11日、東京都内のホテルの日本料理店で澤田、葛西、遠藤各氏との会食に同席した。
3/18 武田大臣 衆議院総務委員会
「葛西名誉会長との会食に同席したことは事実だ。葛西氏から声がけがあり当日までほかの出席者を知らなかった。別の予定があったためお酒のみいただいて中座し、費用として1万円を支払った」 「出席者から特定の許認可などに関する要望、依頼を受けたことはなく、大臣規範に抵触する会食ではなかったと思っている」
 
 
 

 

●山田真貴子 前内閣広報官の処遇に見る新法律
 

 

●山田真貴子
(やまだまきこ、1960 - ) 日本の元郵政・総務官僚。戸籍名は吉田。内閣総理大臣秘書官、総務省情報通信国際戦略局長、大臣官房長、情報流通行政局長、総務審議官(国際担当)を務めて退官し、内閣広報官を務めた。菅義偉の息子が勤める、東北新社における接待問題により、2021年3月1日に辞職。
菅首相長男からの違法供応接待問題​
菅義偉首相の長男が勤める放送事業会社、東北新社による接待問題で、総務審議官であった山田真貴子・前内閣広報官も2019年11月6日に長男と会食をしており、1人あたりの飲食単価は7万4203円であったと2021年2月22日に総務省が調査結果を報告した。総務省は長男らに接待を受けた13人のうち11人について、国家公務員倫理規定上の「利害関係者からの接待」に該当するか、その可能性が高いと認定し、懲戒処分などとする方針を固めた。山田は特別職の国家公務員のため、処分対象からは外れているが、接待当時は総務審議官(一般職)であった。
菅長男らに接待を受けて20日に事実上更迭された秋本芳徳の後任となった吉田博史総括審議官は、山田の夫であった。
2月24日、山田が受けた7万4203円の供応の内容は、和牛ステーキ、海鮮料理などであると明らかになった。当該会食の費用は、山田氏と総務省幹部ら4人、計5人で37万1,013円であった。
2月25日、山田は初めて参考人招致された衆院予算委員会で野党の追及を受けた。山田は「(菅長男の)菅正剛さまとは、名刺交換はこの会合以前にしていたと思っております」と答えておきながら、立憲民主党の今井雅人議員が「会食に行った時に長男がいると認識していたのか」とただすと、山田は「交流がほとんどない状況だったので、事前にきちんと認識していたかというと、そうではなかったのではないか」と矛盾する答弁をした。5人の会食時の認識は「横並びだったと思うので、お話もしておりませんので。どういう方がいたかも、にわかに思い出せなかったということです」と山田は迷走答弁を続けた。今井が「5人で会食して、そこに首相の息子がいたかどうか分からない、なんてことがあるのか」などとただすと、山田は「私自身、仕事、プライベートでも、お会いする方がどういった方のご子息であるかとかは、あまりお付き合いに関係がないと思っている」「菅さまがいたことについて、こういう言い方は適当かどうか分かりませんが、私にとって大きな事実だったかというと、必ずしもそうではないのではないかと」と答えた。答弁では、6日前に総務省の情報流通行政局長に就任した、山田の夫の吉田博史が助け船を出す場面もあった。山田は月収の6割に相当する70万5000円を自主返納したが、辞任は否定した。しかし、同年3月1日、体調不良による入院を理由に辞職届を提出した。山田の退職金について、加藤勝信官房長官は「回答を控える」との答弁をした。懲戒免職ではなく、自主退職のため退職金は満額支給されるものと見られる。同日の持ち回り閣議により辞職が決定された。
なお、菅は2006年の総務大臣就任時、無名のバンドマンで社会人経験のない無職の菅の長男(当時25歳)を大臣秘書官として抜擢し、2007年まで多数の総務官僚との接点を持たせていた。
NTTによる供応接待問題​
2021年3月3日、総務官僚の谷脇康彦と山田真貴子が、NTTの澤田純社長や、子会社・NTTデータの岩本敏男前社長からも高額な接待を受けていたことを週刊文春が報じた。NTTは総務大臣から事業計画などの認可を受けて経営されており、総務省幹部がNTT側から供応接待を受けることは、国家公務員倫理法に抵触する疑いがある。
2020年6月4日、山田は総務省の巻口英司国際戦略局長とともにNTTグループの関連会社が運営するレストランを訪れていた。接待したのはNTTの澤田純社長と北村亮太執行役員で、4人の飲食代は総額で約33万円(割引前)だった。NTTら会員企業は100万円単位の年会費を店側に支払っており、会員企業の場合、代金が4割引きになる。
当時総務審議官だった山田真貴子が、NTT社長らとも会食をしていたと週刊文春で報じられたことについて、政府は2021年3月4日の参院予算委員会で山田氏に事実確認をしない考えを示した。菅義偉は、山田が3月1日に辞職した際にNTT社長らとの会食を知らなかったのかと日本共産党の田村智子に尋ねられ「承知していませんでした」と答えた。田村が「山田氏への事実確認は当然行いますね」と尋ねると、加藤勝信官房長官は「既に退任されているので、当方から事実確認する立場にはないと思っている」と答弁した。田村が「なぜ事実確認されないのか 」と質問すると、加藤官房長官は「既に退任されて一般の方になっているわけですから、政府側が確認する立場にはない」と説明した。田村が「それでは菅政権は接待問題を究明する立場にないことになる」と追及すると、菅は「そこはルールに基づいてしっかり対応している」と主張した。
3月5日、巻口英司国際戦略局長は、接待に山田も同席していたことを認めた上で、会費としてNTT側から求められた1万円を支払ったと説明した。 
 -2/28

 

●NHKが「総務省接待」問題に戦々恐々 2/23
「菅義偉首相の長男が総務省の高級官僚を接待していた問題が国会で追及されていますが、累が及ぶのではと戦々恐々なのがNHKなんです」(NHK幹部職員)
週刊文春がスクープした菅首相の長男、菅正剛氏の総務官僚4人への接待は少なくとも過去12回が明らかとなった。同氏は、総務省の許認可を受け衛星放送を運営する東北新社の部長職にあり、その子会社の取締役も兼務。総務省ナンバー2の谷脇康彦、吉田真人両総務審議官ら幹部が高額飲食接待とタクシーチケットを受けたことは国家公務員倫理法に基づく倫理規定に抵触する疑いがあり、また東北新社は菅首相の威光を利用して、陰で政界工作していた疑いが持たれている。
東北新社は外国映画の日本語版制作で有名だが、テレビの制作会社としても業界最大手だ。
「東北新社はNHKと結びつきが深く、『SWITCHインタビュー 達人達』や『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』など多数の番組制作を請け負っており、子供番組『オトッペ』の商品化も任されています。衛星ハイビジョン担当局長だった小野直路氏は2005年に理事となり、その後NHKエンタープライズ社長、NHK副会長に就任しましたが、2015年に東北新社の社外取締役・監査等委員になりいまも現職。衛星放送協会の会長も兼務しています」(同前)
NHKの理事は関連会社に天下りするのが常だが、局内で東北新社はその次の“第2の天下り”先としてみられている。
「NHK政治部生え抜きで要職を歴任し、夜のニュース番組のキャスターも務めたことがある著名なOBも現在は東北新社の顧問の肩書だそうです。彼が迎え入れられたのも、監督官庁の総務省と向き合うNHKの人脈や経験、情報を期待されてのこと。あの規模の会社で複数のNHKの元幹部が迎え入れられているのは、異例中の異例といえます」(NHK報道関係者)
要はNHK人脈の情報が結果的に、東北新社と菅正剛氏の対総務省工作に利用されていたということか。
「22日の中間発表で総務省から官僚接待リストが出る予定ですが、4人以外さらに7人増えるといわれている。また東北新社の“政界工作リスト”が存在するらしく、各社はいま必死でそれを追っています。東京地検に告発状が出されるという話もあり、今後目が離せない」(政治部記者)
波紋は広がりそうな勢いだ。 
●「絶対に断れない飲み会」の恐怖 2/26
『ゴチ広報官』(夕刊フジ) いい見出しです。
たしかに「ゴチになります!」の新メンバー発表みたいに総務省ゴチメンバーも次々と発表されて壮観。でも11人も「登場」するなんて反則が過ぎる。菅長男、スターすぎる。
総務省側は「放送行政がゆがめられた事実は確認されていない」という。しかし私はとんでもないコメントを見つけてしまった。
それは2月25日の毎日新聞。処分を受けた総務省の11人は、通信や放送行政の中枢を担う旧郵政省出身の幹部ばかりで、《総務省内からは「放送行政に影響しかねない」(幹部)との懸念や、「処分を受けたのは仕事のできる人ばかりだ」(別の幹部)といった声が漏れる。》  ああ、総務省の仕事に支障が出そうなほど放送行政をゆがめちゃった。やっぱり菅長男スターすぎる。
「総務省総出で接待を受けにいきますね」案件の衝撃
そして新たなスターがあらわれた。山田真貴子内閣広報官。『ゴチ広報官』です。接待額は群を抜いての1人当たり7万4203円。この金額は誰も予想できなかった。逸材である。
山田氏はかつて若者向けのメッセージ動画で「飲み会も絶対に断らない女としてやってきた」と言っていたのでネットも新聞も大盛り上がり。
しかしここは注意しなければいけないと思う。「飲み会を絶対に断らない女」はイジリたくなるが、東北新社の飲み会は「絶対に断れない」からこそヤバいのでは? そこが本質ではないか。“事務所総出でやりますね”ならぬ、総務省総出で接待を受けにいきますね案件の衝撃。その意味。
山田広報官にとってはどれほど苦痛だっただろう。同じ動画では飲み会を断らない理由を「幸運に出合う機会も減っていきます」と若者に説いていた。これでいうと菅長男の接待がある日は山田氏は他の飲み会に出るチャンスが潰れたことになる。幸運に出合う機会が確実に減ったのだ。人脈を増やしたいタイプとしては痛かったはずだ。
それでも出なくてはいけない接待とは何なのか?
これだけでも菅首相と縁が深い東北新社と菅長男の威光を思い知るのである。
菅首相に一本釣りされて今は内閣広報官に
おさらいしておくと、総務省は通信事業者や放送局への許認可権を持つ。衛星放送に使われる周波数には限りがあって政府がその割り当てを決めている。そんな絶対的強者の総務省側がなぜ東北新社の接待は総出で受けるのか。他社の接待は受けていないというのに。総務大臣を務め、現首相である菅氏は長男は「別人格」と言った。だが山田真貴子内閣広報官のキャリアをみると面白いことがわかる。山田氏は第2次安倍内閣で女性初の秘書官となり、総務省では事務方ナンバー2の総務審議官に就いた。
《首相は官房長官時代から山田氏を高く評価し、昨年9月の菅内閣発足に合わせ、内閣広報官に起用した。》(読売新聞2月25日)  総務省(放送業界に対して存在感が大きい)でナンバー2だった人が、菅首相に一本釣りされて今は内閣広報官になっている。同一人物だ。菅首相の歩みや菅長男のキャリア(菅総務大臣当時の秘書官、そのあと放送事業社へ就職)と合わせ鏡のようにもみえる。
せっかくの飲み会だったのに…菅長男を認識していない?
菅首相は長男が東北新社に入社するにあたって「総務省とは距離を置いて付き合うように」と助言したというが自分は山田氏とは距離を置いていない。総務省との絆の深さの象徴。東北新社からすれば他の人よりお金をかけて狙うだろう。
そんな「密」の秘密をゴチ広報官は我々に教えてくれるのだ。その広報、わかりやすい。
山田氏は、25日の衆院予算委員会の参考人招致では菅長男との関係など詳細を問われると「覚えていない」と言葉を濁した(日刊スポーツ)。これはヘンだ。山田氏が飲み会に出る理由は「どれだけ多くの人に出会い、多くのチャレンジをしているか」だったはず。せっかくの飲み会だったのに相手を認識してないなんてチャンスを逸している。それとも菅長男は「幸運に出合う機会」ではなく、苦々しい存在だったのか。
恐るべきは菅長男のスターっぷりである。週刊文春は次々と菅長男の写真を載せている。まるでグラビアだ。接待のあと帰宅する総務官僚に向かって手を合わせている菅長男。何をお願いしてるんだ。フォトジェニックすぎる。
スター菅長男には十八番の芸が存在していた…見たい!
そんななか日刊ゲンダイは「大スクープ」を放った。
『宴会芸でも父の威を借りる菅首相長男 鉄板ネタは「令和おじさん」モノマネ』(2月26日付) 東北新社主催のパーティーに出席した人物によると、菅長男の鉄板ネタは、父親である“令和おじさん”のモノマネだという。 《神妙な顔つきで『令和』と書かれた色紙を掲げ、『新しい元号は令和であります』と口調までコピーしてくれます。》
スター菅長男には十八番の芸が存在していた。見たい!
ちなみにゲンダイ師匠は菅長男が「常に『令和』の色紙を持ち歩いていたかは分かりません」と妙な細部まで証言者に確認していた。
会見をやらないことが菅首相の今の気持ちを伝える「広報」に
陽気な菅長男だが、父親からは陰気なニュースも。『菅首相、急きょ会見見送りへ 山田広報官の問題も影響か』(朝日新聞デジタル2月25日) 26日に予定していた緊急事態宣言の先行解除に伴う記者会見を見送る方針になったという。
コロナ対応を担う政府関係者は「会見をしない理由は広報官だろう」。
首相は宣言を延長した2月2日の会見では「国民の皆さんにきちんと情報発信し、説明責任を果たしたい」と語っていたのに。会見の進行役を務めてきたのは山田真貴子内閣広報官。会見をやらないことが菅首相の今の気持ちを伝える「広報」になっている。とてもわかりやすい。菅長男からの一連の流れは別人格ではなくやはり一心同体の流れだ。
こうなったらスター菅長男に父親のモノマネで会見してほしい。
「説明できることとできないことがある」(昨年10月NHK「ニュースウォッチ9」出演時の言葉)。スターチャンネルで中継してほしいです。 
 3/1

 

●山田真貴子内閣広報官が辞職 3/1
衛星放送関連会社に勤める菅総理大臣の長男などから接待を受けていた山田真貴子・内閣広報官は、28日体調不良を理由に入院し、1日辞職しました。
菅総理大臣は、国会で、今回の接待問題を改めて陳謝しました。
山田真貴子・内閣広報官は、総務審議官当時、衛星放送関連会社「東北新社」に勤める菅総理大臣の長男などから1回で1人あたり7万円を超える飲食の接待を受けていました。
先月25日には、参考人として国会に出席し「公務員の信用を損なうことになり、深く反省している」と陳謝し事業に関する働きかけはなかったなどと説明したうえで、辞職を否定していました。
また、菅総理大臣も先週、「今後とも、頑張って欲しいと思っている」と述べ、続投させる意向を示していました。
しかし、野党側は山田氏の国会での説明は不十分だなどとして内閣広報官を辞職するよう求めていました。
こうした中で、山田氏は、28日体調不良で入院して1日付けで「職務を続けるのは困難だ」として辞表を提出し、持ち回りの閣議で認められました。
この影響で、午前9時から予定されていた衆議院予算委員会の集中審議は、30分遅れて始まり、菅総理大臣は「私の家族が関係して、結果として公務員が倫理法に違反する行為をしたことは、大変申し訳なく、国民に深くおわび申し上げる。行政に対する国民の信頼を大きく損なう事態になったことは、深く反省しなければならない」と陳謝しました。
山田氏は、旧郵政省出身で、第2次安倍政権で、女性として初めての総理大臣秘書官を務めました。
総務省を退官したあと、去年9月に内閣広報官に起用され菅総理大臣の記者会見で進行役を務めていました。
●続投が一転、菅首相も陳謝…山田真貴子広報官が電撃辞職 3/1
菅首相の長男らから高額な接待を受けていた山田真貴子内閣広報官が辞職した。3月1日、記者団の質問に答えた菅首相は対応について問われ「後手後手とは思っていない」と答えた。
続投から一転…渦中の山田真貴子内閣広報官が3月1日、電撃辞職した。3月1日午後5時前、菅首相が取材に応じた。
菅首相:国会審議の極めて重要な時期に、広報官が職を辞す。こうした事態に至り、大変申し訳なく思います。
ーー対応が後手後手との批判もあるが?
菅首相:私はそのようには思っていません。
総務省の幹部時代に、菅首相の長男らから7万4000円の高額接待を受けていた山田広報官。菅首相は先週2月24日、「女性の広報官として期待している」として、続投の方針を打ち出した。26日には、緊急事態宣言の一部解除をめぐる首相会見を見送ったことに“山田隠し”との批判が集中。それでも守る姿勢に変わりはなかった。
ーーなぜ記者会見を行わなかったのか?高額接待受けた山田内閣広報官の問題が影響か?
菅首相:まず山田広報官のことは全く関係がありません。
守られた側の山田氏も、先週までは“続投の意思”を示していた。
山田内閣広報官:今後職務を続けていく中で、自分の身をかえりみて、できる限り自らを改善していきたい。
2月25日の答弁では当初、力のない表情を見せる場面もあったものの、野党の追及にはよどみなく答弁した。しかし、この3日後の28日、山田氏は体調不良で約2週間の入院が必要と診断されたとして辞意を伝達。3月1日、「職務を続けることは難しい」として辞職した。
政府関係者:「入院したからというのは建前で、ご本人が責任を痛感しているというのが最大の理由。メンタルはそれなりにダメージ受けていると思います」
3月1日午後5時前の首相官邸にて、
ーー任命責任についてどう考える?
菅首相:山田広報官については行政経験豊か、期待し任命しました。そういう中でこのような形で辞任されることは大変残念。
3月1日の予算委員会に出席する予定だった山田氏。その直前の辞職に自民党内からもこんな声が上がっている。
自民党議員:「これ以上答えられないから入院なんて、雲隠れの常套手段でしょ」
立憲民主党 枝野代表:先週の段階で辞めてくださいとお願いをするべきだったのではないか。遅きに失したと思いませんか、総理。
菅首相:2週間程度の入院、加療を要すると診断を受け、私自身はそういう状況であれば、やむを得ないと判断をさせていただきました。
立憲民主党 山井和則議員:自分の息子が声をかけたことで大問題になり、体調を壊して辞めざるを得なくなる。自分は関係ないというのか?
菅首相:今の質問に答える立場ではない。結果として、公務員が倫理法に違反する行為に至ったことは、大変申し訳なく心からおわびを申し上げる。
立憲民主党・辻元副代表:結局は総理大臣の身内に振り回されたというか、官僚がまたつぶされたのかしらという側面もあると思う。
山田氏の後任については、現在検討しているという。
●山田真貴子内閣広報官の辞職等についての会見 3/1
(山田真貴子内閣広報官の辞職について)
国会審議の極めて重要な時期に、広報官が職を辞す、こうした事態に至り、国会を始め皆様方に、御迷惑をお掛けしていますことを、大変申し訳なく思います。後任につきましては、現在検討中であります。業務に支障を来さないようにできる限り早く決定をしたい、このように思っております。
(対応が後手に回っていたのではないかという批判について)
私はそのようには思っておりません。
(山田内閣広報官の任命について)
山田広報官については、行政経験豊か、そしてまた、前総理の広報の秘書官もやっていましたので、そういう意味で期待し、任命しました。その中で、このような形で辞任されることは大変残念に思います。
(女性であることを強調した理由について)
正に、女性のきめ細かさとか、あるいは、日本の官僚に女性の数も非常に少ないですし、そうした女性として働いてきた、そういう経験もあります。行政にも長けています。そういう形の中で期待して登用させていただいた、そういうことです。
(総務大臣時代に長男を秘書官に任命したことについて)
12年前の話ですよ。12年間私は長男とこの問題の形の中で、就職、自分の会社のことで話したことがなかったです。いろんなことを見られますけれど、事実はそのようなことだというふうに思っています。  
 3/2

 

●総務省と東北新社の違法接待問題 疑惑の本丸 3/2
菅首相の長男が勤める東北新社による総務官僚への違法接待問題が国会を揺るがしている。疑惑の本丸は、接待によって「行政がゆがめられた」可能性だ。その一端が議事要旨からうかがえるのが、東北新社幹部や接待官僚が参加した総務省の有識者会議。この“癒着会議”に調査のメスを入れるべきだ。
問題の有識者会議は、2018年2月に設置された「衛星放送の未来像に関するワーキンググループ(WG)」だ。4K、8K放送の開始に合わせ、衛星放送の将来的なあり方などについて検討することを目的とした会議体である。東北新社の社外取締役が会長を務める「衛星放送協会」など業界関係者や有識者に加え、東北新社から接待攻勢にあった総務官僚もメンバーに名を連ねる。
「発足を主導したのは当時、総務政務官だった改革派の小林史明・自民党衆院議員です。菅首相の長男と会食した秋本芳徳・前情報流通行政局長に、『一敗地にまみれないと』と揶揄された人物です」(霞が関関係者)
WGは同年5月の第5回会議で報告書案をまとめると、休眠状態になった。休眠中は菅長男ら東北新社による接待攻勢が増加。WGメンバーのうち接待を受けたのは19年7月まで約2年間、放送行政を所管する情報流通行政局長だった山田真貴子氏を含む9人。この間だけで19回もの接待漬けだ。
すると、休眠から2年後の20年4月にWGは突然、再開。途端に方向性が「東北新社寄り」のペースになっていくのだ。
総務省のHPに公開されたWGの議事要旨からは、コスト低減を狙いたい衛星放送協会の「要望」が随所に見て取れる。WG再開後初の会議では、協会が〈投資を行うためには、更なる固定費の削減が必要になる〉と記された資料を配布。同年9月に提出した資料には〈衛星放送の固定費負担は大きい〉〈固定費の低廉化で…○コンテンツに投資を! ○さらなるサービス料金の値下げにフィードバックを!〉と、固定費の低減を強く求める文言が入っている。
同日のWGの議事要旨によると、ある有識者が「(衛星放送関連会社と)衛星放送協会が連携して、固定費問題等を検討することが重要だ」と発言。この人物は協会の理事を務めている。
つまり、WG再開後も東北新社の接待攻勢は過熱し、同社の役員と関連のある有識者、接待官僚の3者で検討が行われていたわけだ。結果的に、同年12月にまとめられた報告書案には協会側の望み通り〈利用料金低減に向けた取り組みを積極的に進める〉〈総務省においても必要な対応を行う〉との文言が入った。18年5月の報告書案にはなかった「事業者コストの低減」が盛り込まれたのである。
やはり、行政はゆがめられたのではないか。電波行政に詳しいジャーナリストの松岡久蔵氏はこう言う。
「今回の一件は、改革派の小林議員が18年5月に一定の方向性をつけた後、休眠状態になったWGが総務官僚や東北新社に“換骨奪胎”とばかりに利用されたように見えます。WGが行われているさなかの接待攻勢ですから、東北新社に有利な結論が導かれた可能性は否定できません。総務省の検証委員会は今後、徹底的に突っ込んだ調査が必要です」
より詳細な「議事録」を公開し、“疑惑の本丸”に切り込むべきだ。 
 3/3

 

●一人10万円超も NTTが山田前広報官と谷脇総務審議官に高額接待 3/3
菅義偉首相の長男・正剛氏が部長職を務める東北新社から接待され、減給の懲戒処分を受けた谷脇康彦・総務省総務審議官と、給与の自主返納と内閣広報官辞職に至った山田真貴子氏。2人が、NTTからも高額な接待を受けていたことが「週刊文春」の取材で分かった。NTTは総務大臣から事業計画などの認可を受けて経営されており、総務省幹部がNTT側から供応接待を受けることは、国家公務員倫理法に抵触する疑いがある。
2人を接待していたのはNTTの澤田純社長や、子会社・NTTデータの岩本敏男前社長(現相談役)ら、NTTグループの幹部。
山田氏が接待を受けたのは、昨年6月4日。当時山田氏は総務審議官(国際担当)の任にあり、総務省国際戦略局長の巻口英司氏とともにNTTグループの関連会社が運営するレストランを訪れていた。接待したのはNTTの澤田純社長と北村亮太執行役員。4人の飲食代は総額で約33万円(割引前)だった。NTTら会員企業は100万円単位の年会費を店側に支払っており、会員企業の場合、代金が4割引きになる。
一方、谷脇氏も昨年7月3日に同じ店で接待を受けていた。接待したのはNTTデータの岩本前社長。当時、外務審議官だった金杉憲治氏(現インドネシア大使)も同席した。計4人の飲食代の合計は約19万3千円。
また谷脇氏は2018年9月4日と9月20日にも同店で接待を受けていた。
9月4日はNTT社長を退任したばかりの鵜浦博夫相談役ら3人で会食し、総額30万2千円と一人10万円を超える接待を受けた。
9月20日はNTTの澤田社長ら3人で会食し、総額8万7千円。
谷脇氏に対するNTT側からの接待は、3回合計の総額で58万円超、谷脇氏が受けた接待額は計17万円を超える計算になる。また総務省に対して、必要な届出を出していないことも分かった。
山田氏には内閣広報室を、谷脇氏には総務省を通じて質問したが、回答は得られなかった。NTT広報室は「回答を差し控えさせて頂きます」とした。
谷脇氏はこれまで「東北新社以外の衛星放送各社、民放やNHK、あるいは通信会社の社長から接待を受けたことはありますか」(3月1日・衆院予算委、森山浩行議員の質問)と問われ、「公務員倫理法に違反する接待を受けたということはございません」などと答えてきた。過去の国会答弁との整合性も問われそうだ。
●山田真貴子氏がNTTからも接待報道に「入院、辞職した理由が分かった」  3/3
山口二郎法政大学教授が3日、ツイッターに新規投稿。菅義偉首相の長男・正剛氏が勤める放送事業会社「東北新社」から約7万4千円の接待を受けたことが問題視され、内閣広報官を辞職した山田真貴子氏らがNTTからも高額な接待を受けていたと報じた文春オンラインの記事を引用し、その報道のタイミングから「入院、辞職した理由が分かった」と推測した。
山口氏は「知り合いからコピーを送ってもらって読んで、びっくり仰天」と切り出し、「山田広報官が入院、辞職した理由が分かった。同じ号では自殺した元財務省、赤木氏の奥さんの手記も」とつづった。その上で、同氏は「行政の腐敗を他人事のように放置する政権幹部には、人間としての良心や品性が欠如している」と苦言を呈した。
「週刊文春」の報道によると、山田氏がNTTの接待を受けたのは昨年6月で、当時、同氏は総務審議官を務めていた。また、東北新社からの接待で減給の懲戒処分を受けた谷脇康彦・総務省総務審議官も昨年7月に同じ店で接待を受けていたと報じられている。 
●「飲み会を絶対に断らない女」 3/3
菅首相は「体調不良ならやむを得ない」と突き放した
山田真貴子さんが3月1日、内閣広報官を辞めた。2月25日の衆院予算委員会では東北新社からの接待は認めた上で、「職務を続けていく中で、自らを改善していきたい」と辞任を否定していた。それなのに、「体調不良→入院→辞表提出→受理」と一転。東北新社に勤務する息子の父である菅義偉首相も「女性の広報官として期待しているので、そのまま専念してほしい」(24日)から一転、「体調不良ならやむを得ないと判断した」(1日、衆院予算委員会)と突き放した。
菅首相が当初「広報官留任」と判断したのは、「自分の息子のせいで、自分の抜擢した広報官が辞める」ということを既成事実化したくなかったからだと思う。26日に予定していた記者会見を取りやめたのは、ほとぼりを冷ますつもりだったろう。が、「山田広報官隠し」と批判され、会見代わりの「ぶら下がり」でも結局、接待問題を聞かれた。どうしても「息子&山田」となるという事態にいら立ち、流れは一気に辞任へ。そんなふうに想像する。
だけど、こんな展開、素人の私だって想像できる。菅首相という人の、読みの甘さ、政治センスのなさに加え、冷たさも見えてしまった。「守らないなら、最初から辞めさせてやれ」と思う。体調が悪くなるほど、追い詰められた山田さん。接待を受けたことは十分に問題だが、もっと別な幕引きができたはずだ。
なぜ「飲み会を断らない女」という話題を出したのか
森喜朗さんをきっかけに広まった言葉でいうなら、山田さんは「わきまえている女」に違いない。だからこそ、内閣広報官にまで上り詰めた。そして、非常に戦略的に上っていった人だ。「飲み会を断らない女」と自らを語って話題になった動画は、現在非公開になっている。が、すべてを見ると、実に奥の深い「山田流戦略解説」になっていた。
改めて説明すると、山田さんが総務審議官だった20年6月、「超教育協会」(会長・小宮山宏元東大総長)の求めに応じて寄せたものだ。これからの若者に3つのメッセージがあると言い、最初の2つを「ニューノーマル」「グローバル社会」と語った。どちらも「ネット社会とネット活用が大切だから、こういうことをしなさい」という内容で、超教育協会の「IT教育推進」という設立趣旨に添ったものだ。
そして3つ目は「幸運を引き寄せる力」で、ここに「飲み会」が出てくる。協会とまるで関係のない内容で、彼女にしてみればサービスというか親切心というか、「最後に、いいこと教えてあーげる」だっただろうと想像する。
で、なぜそれが「幸運を引き寄せる力」だったかといえば、自信があったからに違いない。
私も「飲み会を断らない女」だったからよくわかる
山田さんは、「女性初」のポストを次々ゲットしていった人だ。2013年、安倍晋三内閣で「女性初の内閣総理大臣秘書官」になり、15年に「総務省初の女性局長(情報通信国際戦略局長)」、16年に「全省初の女性大臣官房長(総務省大臣官房長)」になった。総務審議官という同省の女性初の次官級ポストについたのは、この動画の前年。しみじみとわが身を振り返り、「私は幸運を引き寄せてきた」という自己肯定感でいっぱいだったろう。
では、彼女の思う「幸運を引き寄せる力」とはどんなものなのか。最初に言ったのが、「実績をあげられるプロジェクト」「チャンスをくれる人」に巡り会う幸運をみなさん願うと思います、だった。幸運=上へ行かせてくれる「こと」と「人」に出会うこと。そう山田さんは定義する。
少し自分の話をさせていただくと、私は山田さんと同学年だ。山田さんが1960年生まれ、私は早生まれの61年生まれ。私は83年、山田さんは84年に就職した。新聞記者と国家公務員。職種は違うが、86年施行の「雇用機会均等法」以前に仕事を始め、そこから長く働いたという点では同じだ。私も「飲み会を断らない女」だったから、山田さんのメッセージはよくわかる。
「チャンスをくれる人」を見つけにいって努力する
当時、ほとんどの職場には男性しかいなかった。今ではそういう男性同士がうごめいている世界を、「ホモソーシャル社会」と正しく表現するようになった。が、当時はそういう言葉もなく、そこに入っていった女性はとにかく手探りで進むだけだった。
ホモソーシャル社会は、男同士で評価したりされたりするのがデフォルトだ。山田さんのメッセージにならえば、女性に「チャンスをくれる人(=男性)」は非常に珍しい。そして、チャンスをくれる男性がいなくては、「実績をあげられるプロジェクト」にもよばれない。だから、そういう人に出会ったら超ラッキー。女性を評価する男性は、それだけで見る目がある。だから、その人についていくぞ、オー。若い頃の私は、そんなふうに生きてきた。
そして、ここからが山田さんの山田さんたるゆえんになる。山田さんはビデオの中で、こう続けた。「しかし、良いプロジェクトや人に巡り会う確率というのは、人によってそう違うはずはありません」。違いは、「多くの人に出会い、チャレンジしているか」である、と主張していた。
つまり山田さん、「(女性に)チャンスをくれる人」に会うためには、出会いの回数を増やさねばならない、と言っているのだ。「出会えたらラッキーだからついていく」が私なら、「見つけにいって努力する」が山田さん。これはまるで違う。
「断らない」をポリシーとしてきたという生き方
彼女にはその手法で上り詰めたという自負がある。だから、こうアドバイスする。「イベントやプロジェクトに誘われたら絶対に断らない。まあ飲み会も断らない。断る人は二度と誘われません、幸運に巡り会う機会も減っていきます」。そして、例のセリフになる。「まあ私自身、仕事ももちろんなんですけど、飲み会を絶対に断らない女としてやってきました」。
先ほど書いたように、私も飲み会は断らない女だった。余計な話だが、入社して最初に褒められたのが、字の大きさとアルコールの強さだった。単純にうれしかったが、まあ無自覚に飲んだだけのことだ。ただし、これは私だけでなく、同世代で「長」がつく職務についた女性には、案外「飲むことを苦にしない」タイプが多かったように思う。
ところが、山田さんは違う。「飲む」にも戦略性というか、迫力があふれている。何かと言うなら、「絶対に」だ。「絶対に断らない女としてやってきた」とはつまり、「断らない」をポリシーとしてきたということの表明。同学年として、これ、すごいと思う。
なぜ彼女ほどの女性が表舞台から去ることになったのか
「雇用機会均等法」以後の後輩を見て驚いたのが、「均等だったのは、雇用機会だけじゃないか」と怒っていたことだ。
入社後も男女関係なく、メインストリームを歩めると思っていた。それなのに、現実はゴリゴリの男社会。約束と違うじゃないかと怒っていた。彼女たちを見て、自分はメインストリームの手前も手前、「会社に入れていただけただけでありがたい」と思っていたことに気づいた。そして、私ほどではないにしても、均等法以前の女性で、最初からメインストリームを歩く気まんまんというタイプは少なかったように思う。だから、山田さんってすごいなー、と素直に思う。
一方で「飲み会」を語る山田さんを見て、この動画、からかわれてしまうのも無理ないなあ、と思ったりもした。官僚としての慎重かつ賢い言葉遣いの向こうから、自己愛というか全能感というか、そういうものが透けて見えるのだ。「7万円もごちそうされちゃったのねー」という目で見ると、それが役人のおごりのようにも感じられる。
繰り返すが、山田さんはすごい女性だ。自ら地図を描き、堂々と歩いてきた。それなのに、追い詰められる形で表舞台から去ることになった。それが男社会の現実だったとすると、なぜ彼女ほどの女性がそういうことになってしまったのだろうと思う。
彼女は「総務省の常識」に従ったのだろう
彼女にとって、安倍晋三前首相と菅首相は「チャンスをくれる人」だった。今回のことで改めて「官邸による官僚支配」の問題点が浮き彫りにされた。が、彼女個人に目をやれば、2人がもたらした「プロジェクト」でチャレンジし、結果を出しただけとも言えるだろう。
私を複雑な気持ちにさせるのは、山田さんに「過剰適応」を見ることだ。菅首相の長男が所属する、東北新社という利害関係先との会食。届けもせず、代金も支払わず。予算委員会で山田さんは「気の緩み」と反省を語った。
思うに彼女は「総務省の常識」に従ったのだと思う。「首相の息子が出席するのだ、断れない」なのか「行っておいて損はない」なのか「行かなきゃ損」なのか、それはわからない。おそらく何かしらの常識に従った。かなりの高級店とわかっているのに「ま、いいか」と支払わない。そんなことができるのも、それが「常識」と思っていたからだろう。
「王様は裸だ」と言えるはずの立場だったのに
マイノリティーの強みとは、「王様は裸だ」と言えることだ。接待されていい相手ですか? お金払わなくていいですか? 「王様」に対しても、そう言える。ホモソーシャル社会で、女性はその役割を果たせる。それが行き詰まった社会を変える唯一の手段。そんなふうにさえ、思っている。
山田さんは、マイノリティーではなくマジョリティーの論理に適応してしまった。だから抜擢されるのか、抜擢されるからさらに適応するのか。男社会に地図を描き、ぐんぐん歩いた人なのに、それがすごく残念だ。
彼女の辞任が、せめて気の緩みきった菅政権への特大級の警鐘となってほしい。同学年として今、思っていることだ。 
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●山田前広報官の接待、官房長官「既に退任、確認しない」 3/4
4日の参院予算委員会で、共産党の田村智子氏は、総務省の谷脇康彦総務審議官ら複数の同省幹部がNTTグループ側から高額な接待を受けていたと週刊誌に報じられた問題を追及した。
報道によると、NTT側から接待されたのは、谷脇氏と、総務省の巻口英司・国際戦略局長と山田真貴子・前内閣広報官の3人。山田氏は、菅義偉首相の長男が勤める放送関連会社「東北新社」から高額接待を受けていたことが明らかになり、3月1日付で「体調不良」を理由に辞職している。
田村氏は、山田氏が辞職した時に、NTT側からの接待の事実を知っていたか首相に尋ねたが、首相は「承知していません」と答弁。田村氏が重ねて山田氏に事実確認するか問うと、加藤勝信官房長官が「(山田氏が)既に退任されておりますので、当方から事実確認する立場にはない」と答弁した。
委員室から「えーっ」と疑問の声もあがるなか、田村氏は「菅政権は接待問題の究明をする立場にないのか」と政府の対応をただした。だが、首相は「そこはルールに基づいて、しっかり対応しています」と述べるにとどめた。
田村氏は続いて、谷脇氏にNTT側からの接待の事実関係を尋ねた。参考人として出席していた谷脇氏は「まずもって、国民のみなさまにさらなる疑念を抱かせることになった点を深く反省し、おわびを申し上げたい」と陳謝。
その上で、報道されたNTT側との3回の会食について「そのような会合があったと認識している」と認めた。一方、出席者や具体的な金額については確認中とした。
●山田前広報官のNTT会食報道 菅政権「一般の方」事実確認は行わない  3/4
菅義偉首相の長男らから高額接待を受けて辞職した山田真貴子前内閣広報官が、NTT社長らとも会食をしていたと週刊文春で報じられたことについて、政府は4日の参院予算委員会で山田氏に事実確認をしない考えを示した。共産党の田村智子氏の質問に答えた。
菅首相は、山田氏が3月1日に辞職した際にNTT社長らとの会食を知らなかったのかと尋ねられ「承知していませんでした」と答えた。田村氏が「(会食を報じた)週刊文春は内閣広報室や総務省を通じて事実確認の質問をしたが、回答を得られなかったとしている。東北新社による接待が大問題の最中に総理の耳に入っていなかったのか」と確認すると、菅首相は「承知していませんでした」と繰り返した。
さらに田村氏が「山田氏への事実確認は当然行いますね」と尋ねると、加藤勝信官房長官は「既に退任されているので、当方から事実確認する立場にはないと思っている」と答弁。田村氏が「なぜ事実確認されないのか 」と質問すると、加藤官房長官は「既に退任されて一般の方になっているわけですから、政府側が確認する立場にはない」と説明した。
田村氏が「それでは菅政権は接待問題を究明する立場にないことになる」と追及すると、菅首相は「そこはルールに基づいてしっかり対応している」と主張した。
●総務省・谷脇康彦審議官 NTTと会食認める 参院予算委で陳謝 3/4
総務省の谷脇康彦総務審議官は4日の参院予算委員会で、自身がNTT側から計3回にわたり高額接待を受けたとされる週刊誌報道について「そのような会食はあったと認識している」と述べ、会食したと認めた。菅義偉首相は予算委で「総務省において徹底して調査している」と述べ、総務省が事実関係を確認していると明らかにした。
同省は谷脇氏らにとどまらず他の職員も対象に、「利害関係者」にあたる放送、通信事業者から違法性のある接待を受けていなかったか調査する。8日の参院予算委理事懇談会で、中間報告をする見通し。
谷脇氏は予算委で「国民にさらなる疑念を抱かせることになったことを深く反省し、おわびしたい」と陳謝した。会食した目的については「懇親と情報通信関係全般にわたる意見交換だった」と説明したうえで、「先方の提示した金額について負担を行った。(国家公務員)倫理法には抵触していないと認識し、大臣官房に報告しなかった」と述べ、総務省には届け出ていなかったと明らかにした。共産党の田村智子氏への答弁。
4日発売の週刊文春によると、谷脇氏は2020年7月3日と18年9月4、20両日、NTTグループの関連会社が運営する東京都内のレストランで、NTTデータの前社長やNTTの社長らから接待を受けた。計3回の飲食代は総額58万円を超え、谷脇氏は20年7月の接待では5000円を「会費」としてNTT側に手渡したとされる。
また、首相の長男側から接待を受けて内閣広報官を事実上引責辞職した山田真貴子氏と同省の巻口英司国際戦略局長も昨年6月4日、同じレストランでNTTの社長らから飲食代総額33万円の接待を受け、両氏は各1万円を支払ったと報じている。山田氏は当時、総務審議官だった。
総務省は4日の野党合同ヒアリングで、巻口氏も会食の事実を認めたと明らかにした一方で、山田氏に対しては事実確認をしていないと説明した。これに関し加藤勝信官房長官は予算委で「(山田氏は)既に退任して一般の方になっており、政府から確認する立場にない」と述べた。
国家公務員倫理規程は、利害関係者から供応接待を受けることを禁じており、野党は「倫理規程に反する接待だ」として追及を強めている。
●菅首相、NTT接待の調査徹底し対処 谷脇総務審議官、会食認め謝罪 3/4
菅義偉首相は4日の参院予算委員会で、総務省の谷脇康彦総務審議官らがNTT幹部から高額の接待を受けた問題について、同省が着手した調査に触れ、「事実関係の確認を徹底し、ルールにのっとって対応してほしい」と述べた。
参考人として出席した谷脇氏は「3回にわたる会食」を認め、「国民にさらなる疑念を抱かせることになった。深く反省し、おわびしたい」と謝罪した。
谷脇氏の説明によると、会食は2018年に2回、20年に1回で、目的は「懇親と情報通信関係全般にわたる意見交換」だったという。18年はNTT側、20年は共通の知人から案内があったとしたが、NTT側の出席者や飲食代の金額は「大臣官房で確認している」として明かさなかった。
共産党の田村智子氏は「国家公務員倫理規程に反すると言わざるを得ない」と追及。谷脇氏は「提示された金額の負担を行い、抵触しないものと認識していた」と釈明した。
谷脇氏と同様にNTT幹部から接待を受けたとされる山田真貴子前内閣広報官に関し、加藤勝信官房長官は「退任し、一般の方になっている」として、事実確認は行わない考えを示した。首相は一連の接待問題について「ルールをしっかり順守して、公正な職務執行を徹底してほしい」と語った。田村氏、国民民主党の足立信也氏への答弁。 
●谷脇氏がNTTの接待認める 虚偽答弁疑いに釈明 3/4
総務省幹部による新たな接待疑惑が噴出した。4日の参院予算委員会で共産党の田村智子氏は、通信事業大手のNTT沢田純社長らと、3度の会食をしたとされる谷脇康彦総務審議官を追及した。谷脇氏は、「会食では先方が提示した金額を負担した」とした上で事実であることを認めた。
谷脇氏ら総務省幹部は、菅義偉首相の長男が勤務する放送事業者から接待を受け、2月24日に同省職員11人に懲戒処分が下ったばかり。これまでの国会答弁で谷脇氏は、放送事業社以外の接待を否定していた。田村氏が、虚偽答弁の疑いを指摘したが、谷脇氏は「国家公務員倫理法には抵触しないもの、として報告しなかった」と釈明した。
田村氏はNTTグループから高額接待を受けた、と報じられた山田真貴子前内閣広報官について「内閣府も、どうなっているのか」と批判し、事実関係の確認を求めたが、加藤勝信官房長官は「すでに退任されて、一般の方になっているわけですから、政府側が確認する立場にない」とした。 
●NHK会長「お願いは正々堂々と」 総務省接待問題受け 3/4
NHKの前田晃伸会長は4日の定例会見で、総務省幹部が放送事業会社「東北新社」やNTTの接待を受けていた問題に関し、「会長就任以来、接待して何かやってもらうということは一切するなと言っており、お願いするときは正々堂々とお願いする」と述べた。
前田会長は、NHK役員の交際費が昨年度、12人の総計で約1200万円だったとし、「中身を公表するのは、相手方のこともあるので」と詳細な説明は避けた。ただ、第三者であるNHK経営委員会と監査委員会が内容をチェックしており、「不適切との指摘を受けたことはない」とした。
一連の問題では、総務省幹部がNHK役員と会食していたことも明らかになっている。前田会長は、自身が会長になってからはお願いは正々堂々としていると説明し、「今後もそうしていきたい」と話した。
●山田真貴子官邸発表会をボイコット 3/4 
山田真貴子氏が総務省情報流通行政局長の職位にあった時期に、東北新社子会社の衛生放送事業会社が不自然な認可を得た。菅正剛氏が取締役を務める東北新社グループの子会社「(株)囲碁将棋チャンネル」が2018年に総務省から「東経110度CS放送に係る衛星基幹放送の業務認定」を受けた。この認可が極めて不自然である。
当時、総務省はハイビジョン化を進めるために衛星基幹放送の大幅な組み替えを行っていた。認定においてはハイビジョン放送であることが重視された。実際、このとき認定を受けた12社16番組のうち、11社15番組がハイビジョン放送だった。
ところが、「囲碁将棋チャンネル」番組だけ、ハイビジョンではない標準画質放送であるのに基幹放送の業務認定を受けた。この認定を決定した情報流通行政局のトップが山田真貴子氏だった。
その山田氏が総務省職員ナンバー2の総務審議官の職位にあった、疑惑認可の翌年に東北新社から過剰接待を受けた。1人7万4,000円の飲食饗応接待を受けた。東北新社衛生放送事業子会社の役員は利害関係者であり、公務員倫理規定に違反する。しかも、7万4,000円の高額接待は収賄罪が成立する可能性のある金額だ。
国会に招致して説明を求めても、明白な証拠がない限り、口からでまかせの問題にならない答弁を行うことは目に見えている。
TBSの情報番組に出演するコメンテーターが山田真貴子氏の説明を絶賛したが、TBSは工作員まがいの茶坊主のようなコメンテーター起用をやめるべきだ。日曜朝の情報番組でも、司会者や出演者が工作員であることを告白するような政権擁護発言を繰り返す。
電波メディアの生殺与奪の権を総務省情報流通行政局が握っている。その支配下に置かれているから、テレビ局は政権工作員的な人物を番組の要所に配置しなければならないのだろうが、仮にそうであるなら、バッジなどを付けさせて、視聴者にわかるような配慮をすべきだ。
「御用バッジ」のようなものを製作して、御用コメンテーター、御用司会者にはそのバッジを付けさせる。これがあれば、視聴者は御用発言があっても、「これは御用人の発言」と認識して受け止めることができる。
インターネット上のニュースポータルサイトに、ニュース記事を装った広告が散りばめられている。しかし、よく見ると「PR」の表示がついているから一般の記事と区別できる。テレビに登場する「御用人」については、その属性がわかるように「御用バッジ」を付けさせて視聴者に配慮すべきだ。
テレビ局が自主的に対応できなければ、市民がコメンテーター等の属性を評価、判断する格付機関的な第三者機関を立ち上げて、広く市民に情報を周知させる必要もあるだろう。その一方で、政治権力に対しても厳しく批判を展開する良質な識者が画面から遠ざけられている。そのマスメディアににらみを利かせるのが総務省情報流通行政局。
菅義偉氏は菅氏に巨額の資金支援を行う企業に長男を入社させた。親のコネで入社したことは客観的に見て間違いないと思われる。
バンドマンをしてぶらぶらしていた菅正剛氏を、菅氏が総務相に就任した際に大臣秘書官に起用した。菅正剛氏は大臣秘書官を退職した後、東北新社に入社した。
大臣秘書官時代に総務省幹部と面識を得た。東北新社に入社し、衛星放送事業子会社の役員を兼務して、総務省幹部に対する違法接待に邁進したのが菅正剛氏だ。
菅氏ら東北新社幹部による総務省幹部に対する違法接待の場では、衛星放送事業子会社の業務にかかわる会話をしていたことが明らかにされた。
総務省幹部は国会に招致されて追及されてもウソを突き通していた。しかし、音声データという決定的な証拠を突き付けられると、発言内容を変えて事実を認めた。国会に招致しても、決定的な証拠がなければウソを突き通す人物たちなのだ。
総務省情報流通行政局は極めて不透明な認可を行った。その時期の局長に対して翌年過剰接待が行われている。この関係を突き詰めれば、贈収賄事件に発展する可能性もある。
国会でいい加減な答弁を行い、懲戒処分もなし、内閣広報官更迭もなし、で幕引きを図ろうとするなら、主権者国民が黙っていない。この1点を理由に次の世論調査で内閣不支持を広げる国民運動の展開が必要だ。
菅首相は東北新社から政治献金500万円を受領している。菅氏は総務大臣を務めた後、内閣官房長官に就任した。内閣官房長官に就任し、内閣人事局を通じて官僚人事に独裁権を行使した。その独裁人事によって山田真貴子氏を総務省情報流通行政局長に起用したと見て取れる。
その山田氏が東北新社衛星放送事業小会社に対して不自然な認可を付与している。東北新社に対して菅義偉氏が便宜を図り、その見返りに菅氏が東北新社から現金を受領したとの図式を描くことも不自然でない。菅義偉氏と東北新社との関わりが政治献金500万円だけなのか。徹底した捜査が必要である。
首相官邸での首相会見を山田真貴子氏が仕切ることも極めて不適切だ。山田真貴子広報官は総務省在職中に情報流通行政局長の地位にあった。情報流通行政局長は電波産業を支配下に置く。電波産業の生殺与奪の権を握る部局だ。そもそもこの局を創設して、電波産業の支配権を獲得させるうえで主導的役割を担ったのが菅義偉氏だ。
首相官邸での記者会見では記者から事前に質問を提出させる。官邸はあらかじめ質問に対する答弁を官僚に用意させる。質問者である記者の誰を指名するのかもあらかじめ決定されているようだ。首相に対して事前に質問を提出せず、厳しい質問をぶつける記者は指名しない。
首相の日程が空いており、質問が無数に残存しているのに、一方的に会見を打ち切る。こんなものを記者会見と呼んではいけない。「菅首相発表会」とすべきだ。
そもそも記者会見は記者クラブが主催するもの。官邸の側用人が会見を仕切ること自体がおかしい。事前に質問を提出させず、フリーに質問させるべきだ。記者クラブの幹事社が司会を務める方式に会見の方式を変えるべきだ。
あらゆる質問にペーパーなしで回答できる力量が首相に求められる。官僚が用意した原稿を読むだけなら、会見など開かず、記者からの質問と官僚が作成する答弁を官邸HP上に公表するだけでよい。その方式なら、すべての質問に回答を準備することができるはずだ。
官僚が原稿を用意しても、正しく読むことすらできないのだから、官僚が作成した答弁をHPに公開する方が、間違いがなくて良い。
山田氏は「飲み会を絶対に断らない女としてやってきた」と明言している。このこと自体、極めて不適切だ。反社の人物から飲み会に誘われても「絶対に断らない女」でやってきたということになる。
公務員倫理規定も存在する。「絶対に断らない」では、倫理法に違反するケースが出てくる。「絶対に割り勘で参加する」ことを守ってきていないのだから、東北新社と同様に違法接待は無数に存在すると推察される。山田氏に必要なことは「質問を絶対に断らない女としてやってゆくこと」だ。
官邸での首相会見は3流・5流の発表会だ。事前に質問を提出させ、官僚が答弁を作成して行う発表会は、特殊な国家が実施するもの。記者に対してペーパーなしで適切に答弁する能力をもたないなら首相になるべきでない。そうなると、与党では該当者が存在しなくなるのだろうが、その場合は「該当者なし」のほうがまだましだ。
官邸の記者クラブのメンバーは合議のうえ、官邸記者会見の方式変更を政府に申し入れるべきだ。記者クラブ主催の会見であるなら、記者クラブが会見ルールを適切に定めて、記者クラブが会見を仕切るべきだ。菅首相が応じないなら、官邸が独自に「発表会」を設営すべきだ。
現行方式なら良心あるメディアは会見をボイコットすべき。日本政府の前近代性、メディアの癒着体質、双方の刷新が必要不可欠だ。まずは、山田広報官が仕切る「発表会」拒絶から着手すべきだ。 
●総務省接待問題でなぜかおとなしいマスコミ各社が恐れる「特大ブーメラン」 3/4
なぜ追及がトーンダウン? 菅首相の長男も絡む総務省接待問題
菅首相の長男による総務省幹部接待問題を文春がスッパ抜いてからおよそ1カ月、テレビや大新聞が揃いも揃ってトーンダウンしてきた。
総務省幹部、東北新社経営陣の処分に続いて、内閣報道官の山田真貴子氏が入院・辞任をしたことを受けて、「これにて一件落着」という禊ムードを醸し出しているのだ。
たとえば、この問題をそれなりに大きく扱っていた各局の情報番組でも、平時のコロナネタ、電車の運行停止、5歳児の餓死事件などに長い時間を割くようになってきた。また、いつもなら「疑惑は深まった」「納得のいく説明を」という感じで、しつこく食らいつく「朝日新聞」も、『総務省内からも「苦しい言い訳」幹部の釈明、4つの疑問』(3月2日)と、やけにお優しい。「関係者の処分で幕引き」という典型的な火消しを見せつけられても、「疑問」しか浮かばないということは、「もうこれ以上、追及する気はないっす」と白状しているようなものだ。
と聞くと、「当事者たちが否定しているのにネチネチと追及していても不毛なだけだろ」「マスコミには伝えなくてはいけないことが他にもあるのだ」とムキになるマスコミ人もいらっしゃるだろうが、それはあまりにも二枚舌というか、ご都合主義が過ぎる。
疑惑をかけられた人たちがどんなに釈明をしても、「疑惑は深まった」「納得のいく説明を」などという感じで一切取り合わずネチネチと追及し続ける、ということをこれまでマスコミは当たり前のようにやってきたではないか。
ちょっと前も、国民から「世の中にはもっと重要なニュースがあるんだから、この疑惑ばかりを取り上げるな」「進展もないし、しつこいだけ」という不満の声が挙がっても、「これぞジャーナリズムだ」と胸を張りながら、1年以上も疑惑を追及し続けたことがある。
そう、森友学園・加計学園問題だ。
「偏向報道」とまで揶揄された モリカケ問題とは明らかに異なる雰囲気
安倍前首相が逮捕されていないことからもわかるように、これら2つの疑惑には首相の直接的な関与を示す確たる証拠がない。つまり、立件されず、当事者も否定をしたらお手上げなのだ。しかし、マスコミは決して追及の手を緩めなかった。
「朝日新聞」の社説(2017年9月17日)によれば、首相との距離によって、行政が歪められているかもしれないという疑惑は、「民主主義と法治国家の根幹にかかわる、極めて重いテーマ」(朝日新聞2017年9月17日)だからだ。
事実、視聴者や読者の関心が薄れても、テレビや新聞は朝から晩までモリカケ、モリカケと騒ぎ続けた。首相が釈明をすれば「信用できない」「矛盾する」と粗を探した。ワイドショーでは特大パネルで人物相関図を解説し、司会者やコメンテーターが「ますます謎は深まりました」と2時間ドラマのようなセリフを吐いていたのは、皆さんもよく覚えているはずだ。
そのあまりに常軌を逸した疑惑追及キャンペーンに、一部からは「偏向報道」「戦後最大の報道犯罪」などという批判も起きたが、マスコミは「行政が歪められた」と1年半も騒ぎ続けた。それが彼らの考える「社会正義」だったからだ。
しかし、どういうわけか今回の「菅首相の長男による総務省幹部高額接待」は、わずか1ヵ月ぽっちで大人しくなっている。二重人格のような豹変ぶりなのだ。
今回も菅首相の直接的な関与を示す物証はない。しかし「状況」だけを見れば、モリカケ問題よりもはるかに行政が歪められている感が強いのは明らかだ。
まず、総務大臣だったパパの力で総務大臣秘書官に召し上げられた息子が、総務省が許認可する放送事業を手がける企業の部長におさまって、パパに左遷されないかと怯える総務省幹部たちに高額接待をしている、という構図が大問題であることは言うまでもない。モリカケのときにも散々指摘された、人事権を握られた官僚が勝手に首相の希望を慮り、先回りして、特定の事業者を優遇する、という「忖度」が引き起こされるからだ。
実際、総務省の有識者会議「衛星放送の未来像に関するワーキンググループ」の2018年の報告書で、右旋帯域利用枠について「公募するか、新規参入が適当」とあったものが、20年の報告書案では東北新社など既存事業者の要望である「4K事業者に割り当てるべき」に変更されている。これが接待攻勢によるものではないかという疑惑は、2月25日の衆院予算委員会で日本共産党の藤野保史議員も追及した。しかし、モリカケで不確定な情報であれほど大騒ぎをしたマスコミは、なぜか今回は「静観」している。
接待の「数」と「時期」を見れば モリカケ問題よりよほど闇が深い
また、それに加えてモリカケよりも「闇」の深さを感じるのは、行われた接待の数と時期だ。総務省幹部ら13人の接待は、2016年7月から20年12月にかけて、のべ39件。「今回はうちが出すんで」とか「うっかり割り勘にし忘れた」とかいうようなものではなく、「奢る」「奢られる」の関係がビタッと定着していたことがうかがえる。
しかも、モリカケ問題で財務省の佐川宣寿氏が国会で吊るし上げられたおよそ半年後には、菅首相の長男らから総務省総合通信基盤局長(当時)が、飲食単価2万4292円の接待を受けている。マスコミが連日のように「首相の家族・友人に忖度する官僚」を批判していたことが、総務省幹部にも菅首相の長男にもまったく響いていなかったのだ。
さらに、彼らの常習性・悪質性を示すのが「虚偽答弁」だ。ご存知のように、文春砲にスッパ抜かれた際、総務官僚たちは「放送事業に関する話はしていない」と国会で言い張って、金だけ返してシャンシャンと幕引きを図ろうとした。しかし、その嘘に対して「待ってました」と言わんばかりに文春が音声データを明るみに出し、引導を渡されてしまったのである。
そんな見え見えの嘘をつく人たちが、どんなに「許認可に影響はない」と言い張っても、信用できるわけがないではないか。
しかし、どういうわけかテレビや新聞は、このあたりのことにまったく突っ込まない。モリカケ問題のときのように鼻息荒く、「そんな滅茶苦茶な話を信用できませんよ!」と怒っているコメンテーターはほとんどいないし、モリカケ問題のときのように巨大パネルをつくって、総務官僚たちの経歴や素顔を詳細に説明し、菅ファミリーとの親密度を検証したりもしない。
皆さん、モリカケ問題のときに見せた「疑惑を追及する正義のジャーナリスト」とはまるで別人のようで、借りてきた猫のように大人しいのだ。
では、なぜ今回の「行政がゆがめられた」という疑惑をマスコミは揃いも揃ってスルーしているのか。モリカケ問題でさんざん「しつこい」「偏向報道だ」などと叩かれたことを反省して、「本人が疑惑を否定したら、それ以上しつこく追及するのはやめましょう」という取材ガイドラインができた可能性もゼロではない。しかし、個人的には、「特大ブーメラン」を恐れて「報道しない自由」を行使しているのではないか、と考えている。
つまり、「首相の息子」「官僚の接待」という問題を厳しく追及すればするほど、その厳しい追及がブーメランのようにきれいな放物線を描いて、マスコミ各社の後頭部に突き刺さってしまうのだ。
マスコミが自主規制リストの中でも 特に気を遣う「総務省」という存在
今どき、マスコミがなんでもかんでも好きなように報じられると思っている人の方が少ないと思うが、テレビや新聞にはタブーが多く存在する。巨額の広告出稿をする大企業への批判はもちろん、広告代理店、印刷所、新聞販売所など身内への批判も手心を加えるし、記者クラブや軽減税率という既得権益は基本的に「存在しない」ものとして扱う。
そんなマスコミが自主規制リストの中でも特に気を遣うのが、「総務省」だ。
ご存じのように、放送免許が必要なテレビは総務省の監督下にある。それは裏を返せば、総務省の電波・放送行政のお陰で、新規参入に脅かされることなく、電波を独占して商売ができているわけなので、総務省幹部へのロビイングが極めて重要なミッションになるということだ。
それを象徴するのが、「波取り記者」だ。
これは昭和の時代、テレビ記者の中にいた、記事を書かずに電波・放送行政のロビイングをする人たちを指す言葉だが、今も似たようなことをやっている人たちが存在する。つまり、程度は違えど、東北新社の「菅部長」と同じようなことをしていると思しき人たちは、テレビ局などの放送事業者の中にはウジャウジャいるということなのだ。
しかも、このように「権力の監視」を掲げて偉そうにしているテレビが、裏では権力にもみ手で近づいているという事実が、国民に注目されてしまうと、大新聞にとってもよろしくない。大新聞もテレビと同じように権力に擦り寄って、軽減税率やら日刊新聞法やら「既得権益」を守るロビイングをしているからだ。
総務省接待問題から見える マスコミの「ご都合主義的な正義」
わかりやすいのが、首相と新聞幹部の会食が頻繁に開催されていることだ。昨年12月の首相動静を見れば、新型コロナで自粛だなんだと言われ始めていたにもかかわらず、菅首相は日本経済新聞の会長や社長、フジテレビの会長、社長、読売新聞の幹部、日本テレビの執行役員などと会食をしている。
もちろん、これを当事者たちは「取材」「意見交換」だと説明する。しかし、総務官僚が東北新社の事業について話題にのぼっていないと国会で言い張っていながらも、実は裏でちゃっかり衛星放送事業について話し合っていたように、密室会合の中で電波行政や新聞への優遇措置などが話題にのぼっていてもおかしくはない。
東北新社と総務省の関係を叩けば叩くほど、こういうマスコミ業界にとって耳の痛い話にも注目が集まってしまう。この「特大ブーメラン」を恐れるあまり、テレビも新聞も早くこの問題を国民が忘れてくれるように、大人しくしているのではないのか。
いずれにせよ、「菅首相長男接待問題」がモリカケ問題よりも闇が深く、モリカケ問題よりも行政を歪めている可能性が高いことは、誰の目に見ても明らかだ。この問題に対して疑惑を追及しないという偏ったスタンスは、「ご都合主義的な正義」だと謗りを受けてもしょうがない。
「偏向報道」という汚名を返上するためにも、心あるマスコミ人にはぜひ疑惑の徹底追及をお願いしたい。 
 3/5

 

●橋下徹氏、山田真貴子氏めぐる政府対応に失望  3/5
元大阪府知事で弁護士の橋下徹氏(51)が5日、フジテレビ系「バイキングMORE」(月〜金曜前11・55)に生出演し、総務省幹部らがNTTから高額の接待を受けていた問題について言及した。
文春オンラインが報じたところでは、内閣広報官を辞職した山田真貴子氏や、懲戒処分を受けた谷脇康彦総務審議官を含む数人が昨年6月、NTTの澤田純社長らから高額な接待を受けていた。山田氏への事実確認について、加藤勝信官房長官は4日、「もう既に退任されておりますので、当方から事実確認する立場にない」とし、行わない考えを示した。
橋下氏は「政府の言い方というのは国民の信用をどんどん落とす」と失望感をあらわにした。山田氏への事実確認については「法的には確かに公務員じゃないので、政府が事情聴取とかそういうことを法的な強制力を持ってやることはできません。ただ、任意で聞くことはいくらでもできる」と指摘した。
コロナ禍で国民に法的根拠のない要請を続けてきた政府だけに、二枚舌で返したような態度。橋下氏は「昨年の2月から始まるコロナ禍において、お店に休業を要請していたのは、法的な根拠があやふやなお願いベースでやっていたんですよ?」と説明した。さらに「国民にはお願いで、店(の営業)をやめろと。補償金も当時は十分なものはなかったですよ?それでお店をやめせさて、生活に困窮する人たちが出てきた。全部“お願い”でやっていたのに、なんで今回、山田さんに“お願い”しないんですか?それと同じくらいの。法的根拠がないとか、今一般の人だから権限がないとか、それはおかしい」と言い放った。
橋下氏はさらに、山田氏にも国会の場で説明する責任があるとも指摘した。「山田さんは国会でウソついているわけですから。『あれ(東北新社による接待)1回だけ』と言ったでしょう?『他にない』って言ったでしょう?」とし、「NTT(の問題)が出てくる。それで(山田氏への事実確認を)やめてしまった。これを放置していると、国民は政府に対して信用もなくす」と、再び政府に怒りの矛先を向けた。
●“NTT接待” 山田真貴子氏の同席を総務省幹部認める 3/5
総務省幹部への接待問題をめぐって、「NTTから高額の接待を受けた」と報じられた総務省の局長が会合を認め、山田前内閣広報官も同席していたことを明らかにしました。
参議院予算委員会に出席した総務省の巻口国際戦略局長は、「週刊文春」が「去年6月、NTTの澤田社長らから接待を受けていた」と報じたことについて、会合の事実を認めました。
「私が参加した会食にかかる事案により、国民の皆さまの疑念を招く事態となっていることについて、おわび申し上げます。今ご質問のありました同席者ですが、山田、当時の総務審議官でした」(総務省 巻口国際戦略局長)
巻口氏は、山田前内閣広報官が同席していたことも認めた上で、会費としてNTT側から求められた1万円を支払ったと説明しました。 
●NTTも総務官僚接待 根深い癒着構造の解明を 3/5 
総務省幹部らが業界関係者から、またも高額な接待を受けていた疑惑が明らかになった。谷脇康彦総務審議官らが今度は、NTTの社長らと会食し、飲食代を負担してもらっていた。NTTは総務相から事業計画などの認可を受けており、利害関係者からの接待を禁じる国家公務員倫理規程に違反する可能性がある。同省は調査を始めた。谷脇氏は2018年以降に3回会食したことを認めた。巻口英司国際戦略局長は昨年6月に会食したことを、同省の調査に認めているという。
最初に報じた週刊文春によると、飲食代の総額は谷脇氏の3回で計58万円超だったという。昨年6月の会食は33万円で、これには総務審議官だった山田真貴子前内閣広報官も参加していたという。谷脇氏と山田氏は、放送事業会社「東北新社」に勤める菅義偉首相の長男らからも、飲食代などの接待を受けていた。
国会で谷脇氏は、NTTから示された金額を支払っており、倫理規程には抵触しないと認識していたと説明した。このため、東北新社以外の放送や通信の事業者とは倫理規程に違反する会食はしていないと答弁してきたという。だが、利害関係者との会食は、割り勘であっても自己負担分が1万円を超える場合は事前届け出が必要だ。谷脇氏は届け出もしていなかった。倫理規程の趣旨を理解しているのか疑わざるを得ない。
谷脇氏は、総務省に強い影響力を持つ首相に近いことで知られる。政権の看板政策である携帯電話料金引き下げの旗振り役だ。首相は官房長官時代に「携帯料金は4割値下げできる」と発言し、通信事業者に値下げを迫った。一連の接待が始まった時期と重なる。関係はないのだろうか。
NTTは菅政権の発足後、NTTドコモを完全子会社化すると発表し、社長も交代させた。携帯料金値下げに応じる考えも示した。もはや官僚の倫理問題にとどまらない。官業の異様な癒着の構造にメスを入れなければならない。ところが、首相は「総務省が徹底して調査をされると思う」と答弁するだけだ。疑惑の全容解明に努め、国民の政治不信を払拭すべきだ。 
 3/6

 

●総務官僚の接待 身内調査の限界が明白だ 3/6
菅義偉首相の長男正剛氏が勤める「東北新社」から繰り返し接待を受けていた総務省の幹部が、NTTからも高額の接待を受けていたことが分かった。
NTTは事業計画や取締役の選出について、総務省の許認可が必要だ。国家公務員倫理規程が接待を禁止する利害関係者に当たる。
接待を受けていた谷脇康彦総務審議官は、東北新社以外からの違法接待を国会で否定してきた。虚偽答弁の疑念が大きく、看過できない。責任は重い。
総務省は東北新社以外からの違法接待はないとの調査結果を公表したばかりだ。身内による甘い調査だったことは明らかだ。
総務省は今回の問題では、元検事の弁護士も加わった調査を実施して、実態の把握を急ぐとしている。それでも総務省が主導する調査には限界がある。結論を出しても国民の信頼は得られまい。
必要なのは、接待問題全体を対象とする第三者調査委員会をつくり、徹底して事実を解明することだ。手法や対象は委員会に一任して、総務省は調査への協力だけに徹するべきだ。
NTTや東北新社の接待で、行政はゆがめられていないのか。ほかの通信事業者との接待はなかったのか。判明している官僚以外も調べるべきだ。菅首相の長男が東北新社に在籍することの影響も、忖度(そんたく)なく調べる必要がある。
論点は多い。まず携帯電話料金の引き下げへの影響だ。谷脇氏は菅首相が官房長官時代から掲げる携帯電話料金の引き下げを主導してきた。接待の時期はいずれもNTTを所管する立場だった。
政策への影響はなかったのか。聞き取りだけでなく、決定過程などを内部文書などに基づいて詳細に検証するべきだ。
東北新社による接待では、衛星放送の将来像を話し合う有識者会議との関係性だ。
接待の対象は総務省側の出席者に集中している。会議が昨年12月にまとめた報告書は東北新社の要望に沿った形になったとされる。接待と関連があるのか。見過ごせない問題である。
納得できないのは、山田真貴子前内閣広報官を政府が調査対象にしないことだ。山田氏は東北新社だけでなく、NTTからも高額接待を受けており、当時の総務省での役職は放送や通信を所管していた。調べるのは当然である。
「既に退任し、一般の方」(加藤勝信官房長官)という理由を振りかざすようでは、政府の問題解明に対する真剣度が問われる。 
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●総務官僚の接待 癒着構造の解明が必要だ 3/7
新たにNTTによる総務省幹部の高額接待が明るみに出た。国家公務員倫理規程がここまで形骸化していることに驚きを禁じ得ない。
総務省は、菅義偉首相の長男が勤める放送事業会社「東北新社」から高額な接待を受けたとして幹部らの処分を先月下旬、発表したばかりである。「ほかに倫理規程違反はない」としていたにもかかわらず、わずか1週間余りで調査のやり直しを迫られることになった。
総務省はNTTを含む通信事業者との会食の有無など、実態把握を急ぐとしている。元検事の弁護士も調査に加わるという。国民の納得を得るためには透明性が高く、厳格な調査が求められよう。
NTTは民営化前の旧電電公社の電話回線網など公共の資産を受け継いでいることから、国が株式の3分の1超を握る大株主である。事業計画の策定や役員の異動なども総務省の認可が必要となっており、総務省幹部にとって、NTTの幹部が倫理規程の定める「利害関係者」に該当するのは明らかだ。
週刊誌の報道によれば、NTTの澤田純社長らが谷脇康彦総務審議官を含む総務省の幹部数人を接待していた。谷脇氏は2020年7月までに計3回会食し、計17万円以上の接待を受けた。
国会で谷脇氏は会食の事実を認め、「先方が提示した金額」として1回5千円を支払ったとし、倫理規程に抵触しないと考えていたと釈明した。しかし、人事院は接待について、本来の費用に比べて支払いが不十分で、差額を先方が負担した場合は倫理規程に違反するとの見解を示している。完全に割り勘にする場合も、1万円を超える場合は事前の届け出が必要だが、谷脇氏はそうした届け出もしていなかった。そもそも倫理規程の趣旨を理解していなかったのではないかと言わざるを得ない。
NTTからの接待は、20年6月に当時総務審議官だった山田真貴子・前内閣広報官らも受け、代金を一部しか払わなかったと報じられている。体調不良を理由に辞職した山田氏について、政府は辞職済みで一般人になったとして再調査しない方針を示しているが、事実確認もしないとは到底、納得できない。
菅首相はかつて総務相も務め、総務省に強い影響力を持つことで知られる。首相就任後は携帯電話の料金値下げを看板政策の一つに掲げてきた。特に首相の信任が厚いとされていたのが谷脇氏で、首相から直接指示を受け、実務を取り仕切っていたという。
接待が常態化していたとすれば、癒着によって政策判断にゆがみがなかったのかという疑念が生じる。しかし、菅首相は「総務省が調査を始めたと承知している」などと語るだけだ。首相が先頭に立ち、うみを出し切るつもりで徹底調査しなければ、国民の不信は募るばかりである。 
 3/8

 

●菅首相“総務省 谷脇総務審議官らの接待問題 十分な調査必要” 3/8
総務省の谷脇総務審議官らがNTTの社長などから接待を受けていた問題をめぐり、菅総理大臣は参議院予算委員会で、総務省が十分な調査を行う必要があるという認識を示したうえで、政府としても株主の立場で、NTT側にコンプライアンスなどについて必要な対応を求めていく考えを示しました。
この中で、菅総理大臣は「総務省における調査で、NTT側にもヒアリングを行うとともに資料提出の協力を得て事実関係の確認を進めている。十分な調査を行う必要がある」と述べました。
そのうえで、政府がNTTの株式の3分の1以上を保有していることを踏まえ「ガバナンスやコンプライアンスなどについて、株主総会等の機会をとらえ、財務省で必要な対応を求めることになると思う」と述べました。
また、谷脇総務審議官は、野党側が、去年NTTが行ったNTTドコモの完全子会社化が、会食で話題に出たのかとただしたのに対し、3件の会食すべてについて「出なかったと思う」と述べました。
そのうえで「携帯電話料金の引き下げは、10年ほど前から取り組んできた持説で、平成30年の2回の会合では話題に出たと思う」と述べました。
一方、NTTがドコモを完全子会社化する際に公正な競争環境が阻害されるおそれがあるという意見書を出した、KDDIやソフトバンクといったほかの通信事業者と会食したのか問われたのに対し、谷脇氏は「意見書を出した事業者と会食をしたことはないと思う」と述べました。
●NHKやNTTも…相次ぐ総務省官僚「会食問題」 3/8
次々と疑惑が浮上
先週の本コラム「菅首相長男「違法接待問題」で、テレビ・新聞の歯切れが悪すぎる「ウラ事情」」は、多くのマスコミ関係者を驚かせてしまったようだ。いろいろな人から、読んだと聞いた。なにしろ、マスコミのタブーである「波取り記者」を書いてしまったのだ。
いろいろと聞かれるので、ネットでは自分のyoutubeチャンネルを含めて、「長谷川幸洋と高橋洋一のNEWSチャンネル」「文化人放送局」などいくつかの番組で話した。
先週の本コラムで、東北新社以外にも接待をしたところはあるはずなので、総務省全体での接待調査をぜひ実施したらいいと書いた。すると先週、NHKやNTTとの会食の問題まで浮上してきた。(総務省接待問題、NHK役員とも会食判明 前田会長「適切と確信」)(総務省 谷脇総務審議官 NTTとの会食も認め陳謝 参院予算委)。
NTT社長らとの会食については、8日に国会に中間報告されるというが、この際、総務省全体で徹底した調査をした方がいい。
NHKやNTTとくると、大手マスコミだけはまったくないとは言い切れないだろう。マスコミは、自らのところなのだから調べるのも簡単なはずで、自社幹部と総務省官僚との会食、接待を「スクープ」できるだろう。
ちなみに、総務省は、旧自治省、旧郵政省、旧総務庁が合わさった省であるが、今回はもっぱら旧郵政省の利権に関する部分で国家公務員倫理法に反する行為があった。旧自治省、旧総務庁でもしあり得るとすれば、いわゆる「官官接待」である。
国家公務員倫理法上、地方自治体や国の機関も「利害関係者」になり得るので、この際総務省全体で徹底的に調べるのも、国家公務員の信頼確保に必要なことだろう。
内閣人事局批判における奇妙なロジック
1998年に発覚した大蔵省接待汚職事件を経て、1999年国家公務員倫理法が制定され2000年から施行された。
これと同時並行的に、中央省庁再編と公務員制度改革が進行していた。中央省庁再編は2001年からスタートし、公務員制度改革は2007年国家公務員法改正、2008年国家公務員制度改革基本法で制度が作られた。
この国家公務員制度改革基本法の中で、内閣人事局が盛り込まれていた。それを上手く活用したのが、2013年で成立した第二次安倍政権だった。
第二次安倍政権発足直後の2013年に国家公務員法改正案を出し、2014年に内閣人事局をスタートさせた。
内閣人事局は、2008年国家公務員制度改革基本法に盛り込まれており、これには民主党も賛同していた。しかし、再度安倍政権に代わると、野党は反対に回った。一部官僚もこの制度に反対だった。
その過程で、安倍政権批判として、「内閣人事局があるから、官僚が政治家に忖度している」という奇妙なロジックが生み出され、今に至っている。
大蔵省接待汚職事件の後、国家公務員倫理法ができて、国家公務員制度改革基本法を経て、内閣人事局が作られた経緯を述べて、今の内閣人事局による忖度がいかに的外れかを示そう。
なぜ利害関係者が官僚を接待するのかといえば、官僚は許認可、補助金などにおいて裁量権があるからだ。
接待と人事優遇という「アメとアメ」
一般的な図式は以下のとおりだ。利害関係者は現役官僚を(1)接待し、見返り(許認可、補助金など)を期待する。
現役官僚は、利害関係者に(2)見返りを与える際、OB官僚の天下りの受け入れも求めて、利害関係者は、OB官僚の(3)天下りを受け入れる。
一方、OB官僚は(4)現役官僚の人事に介入する。こうして現役官僚は、利害関係者からの接待とOB官僚からの人事優遇というメリットを受ける。
現実にはここまで単純なものではないが、おおよそのメカニズムは似たようなものだ。
そこで、(1)を国家公務員倫理法、(2)を手続きの透明性、(3)を国家公務員法(天下り規制)、(4)を内閣人事局で、それぞれ対応しようとしたものだ。
要するに、内閣人事局は、それまで、官僚人事はOB官僚が事実上牛耳っていた。つまり、官僚人事について、政治家は一切口だしできずに、官僚自らが人事を行っていたといってもいい。その際、現役官僚のトップの事務次官になろうとすれば、OB官僚に「忖度」していたわけだ。
内閣人事局では、法文上の任命権者である政治家に法文通りの役割を果たしてもらうとしただけだ。OB官僚と政治家を比較すれば、政治家のほうが選挙を経ているだけ、まだマシなほうだろう。
マスコミに総務省問題を報じる資格はない
ちなみに、日本の各省事務次官は「官僚生え抜き」ばかりであり、先進国の中では珍しいほど政治家が人事を行えない。日本以外の先進国では、各省事務次官の一定割合は、外部登用・政治任用なので政治家大臣が人事権を行使できるのが一般的だ。
日本は、内閣人事局を創設しても、先進国中、政治家の人事権が最も通りにくい国であることには変わりない。
実は、利害関係者、現役官僚、OB官僚の関係においては、(1)接待の要素はそれほど大した話ではない。(1)なしでも、(2)許認可・補助金に対し、利害関係者が(3)天下り受いれして、OB官僚が現役官僚の(4)人事を行えば、これらの関係は成り立つ。その意味で、官僚サイドにとっては、(1)接待なしでもあまり困らないともいえる。
その意味で、(4)人事は現役官僚によってキモである。このため、内閣人事局の批判をして、(4)人事メリットを受けたいのが官僚の本音だ。情けないことにマスコミは、それを垂れ流している。
なお、(1)接待、(2)許認可、(3)天下り受入、(4)人事という、構造はマスコミでも概ね成り立っている。
もっとも、(3)はそれほど直接的ではなく、あまり見られない。ただし、総務省官僚は金融機関に、財務省官僚はマスコミに天下りするという「クロス現象」があるのは興味深いところだ。
その一方で、(2)許認可について、電波オークションなどで透明性を確保できる手段は残されているのは、先週の本コラムでも言及している。
いずれにしても、マスコミは、自らの波取り記者の存在や接待の実情を報道しないで、電波オークション反対で既得権擁護に汲々しているので、今回の総務省接待をまともに報じる資格はないだろう。 
●辞任した山田元広報官、霞が関に切り捨てられた「被害者」 3/8 
「犠牲者」に見えた山田真貴子氏
「位打ち」という言葉がある。司馬遼太郎の歴史小説に登場し、人物にふさわしくない位階を次々と与え、ついには人格およびバランス感覚を失わせ、自滅させていく手法、とされる。
総務省出身の内閣広報官、山田真貴子氏が東北新社から7万円超の高額接待を受けていたことが発覚し、ついには辞任に至った顛末に、筆者は「位打ち」と重なる印象を持った。
断っておくが、山田氏は女性初の内閣広報官、首相秘書官、総務省局長を歴任した優秀な人材だ。だが、個人の能力の問題ではなく女性をうまく使いこなせなかった組織が悪い、というのが、長年、全国紙の経済記者として霞が関を取材してきた筆者の率直な感想だ。
そもそも「1人あたり7万円超」というのは和牛ステーキ等の食材の単価ではなく、高いワイン等をグループで空けたからではないかと推察される。とはいえ、庶民感覚とはかけ離れた飲食にバッシングが集中した。
本人も、菅首相も職にとどまる意向を示していたが、山田氏は衆議院予算委員会での答弁後に一転して体調不良を理由に入院、辞任を申し出た。同じ会合に同席した総務省官僚は処分されているものの職を辞してはいない。痛々しさを感じさせる顛末に、辞任後は同情する声も出てきたのは、山田氏が組織に翻弄された「犠牲者」に見えるからではないだろうか。
もともとは法曹界志望だった
山田氏は旧郵政省出身で早稲田大学法学部卒。今でこそ私大出身者が増えている霞が関の官僚ながら、1984年入省の山田氏の年代では東大卒が多勢を占め、私大卒は極めて少ない。
山田氏はもともと法曹界志望で、「『司法試験を受けて法曹界で働きたい』という夢があり、法学部に入学しました。元総長の奥島孝康先生のゼミに入り、勉強付の日々でした」と早稲田大学発行の「早稲田ウィークリー」で語っている。
だが在学中に国家公務員だった父が死去。「葬儀で、父の同僚の方や後輩の皆さんとお話させていただく機会があり」「公務員もやりがいのある仕事だな、と進路変更を決断しました」(「早稲田ウィークリー」)。
バツイチで、旧郵政省では3年後輩の吉田博史氏と再婚、息子が1人いる。総務省が2013年度に発行した「先輩からのメッセージ集」では「(息子が)議会答弁の前日など大切な時に限って高熱を出し、夜中におぶって救急に駆け込むことも」あったと振り返っている。
山田氏とは報道関係者や有識者を囲んだ勉強会で何度か顔を合わせており、懇親会ではきちんと一律の会費を払っていたことも覚えている。かつて休日に、山田氏と吉田氏と長男の一家3人に都内の映画館でばったり会ったこともある。親子で一緒に映画を見るという、仲むつまじい様子が伝わってきた。
「女性初」首相秘書官に抜擢されるも…
2013年、山田氏は安倍晋三元首相に抜擢され首相秘書官に就任した。これは女性初であると同時に総務省初の首相秘書官で、当時、大きな話題になった。
霞が関の各省庁から選ばれる事務担当の首相秘書官は、通常は主要官庁とされる外務省、財務省、防衛省、警察庁、経済産業省の5省庁から1人ずつが就任する。だがこの年は新たに総務省が、地方創生と女性活用を旗印に山田氏を強く推薦し、1人増員となった経緯があった。
当時、官房長官だった菅首相がこの人事にどこまで関わったのかはっきりしない。しかし2009年に総務省で情報通信と郵政担当の副大臣に就任している菅首相は、山田氏とはその頃以来の付き合いだったという。
首相秘書官は、所属する官庁の「省益」を最大限実現するために、他省庁や永田町との高い調整能力が求められる。財務省を筆頭に、そうしたノウハウは省内で脈々と受け継がれていく。だが総務省にはそれがなかった。ましてや初の女性、山田氏が首相秘書官の仕事で教えを請える先輩はいなかったはずだ。
当時、財務省のある官僚から「山田氏に怒鳴ってしまった」という話を聞いた。詳細なテーマは割愛するが、首相答弁用の原稿の内容が不十分で「そのまま総理が話したら大騒ぎになっていた」という理由だった。これは本人の資質というより、そういう局面に当たるための教育を入省時から受けている財務官僚と、必ずしもそうではない総務官僚の、環境の違いがそもそもの原因ではないだろうか。
総務省全体の期待を背負い、日本中の注目が集まる中、山田氏の憔悴しきった様子を目にすることが増えた。睡眠は毎日2〜3時間と聞いた。定期的に出席していた勉強会も休みがちになり、山田氏が久しぶりに参加した際は、会食半ばで退席したことを覚えている。安倍首相(当時)の外遊に同行するための準備がある、といった理由だった。
2015年、山田氏は首相秘書官を退任、総務省に戻り情報通信国際戦略局長に就任した。総務省初の女性局長、という華々しい転身だった。ただ総務省から首相秘書官の後任は派遣されず、人選は再び外務、財務、防衛、警察、経済産業の5省庁の体制に戻った。
山田氏の後任の女性秘書官としては、経済産業省から、のちに特許庁長官を務めた宗像直子氏が派遣された。この人事が何を意味するか。つまり総務省派遣の首相秘書官としての山田氏の評価は、必ずしも高くなかったということだろう。
これは首相秘書官としての教育、および支援体制が整っていなかったのにも関わらず押し込んだ総務省の責任、それを知ってか知らずか、女性初の秘書官としてもてはやした政府の責任ではなかったか。
内閣広報官としての力量
山田氏は総務省内で順調に出世し、内閣で言う官房長官に当たる官房長、事務次官と同列の「総務審議官」まで昇進して昨年7月に退官した。ほぼすべての経歴に「女性初」がつく。総務省の女性職員の間で山田氏は「希望の星」であり、事務次官昇格を期待する声が高かったが、実現せず総務省顧問となった。
程なく菅内閣が発足し、内閣広報官に横滑りする。こちらも女性初、副大臣時代から山田氏を知る菅総理直々の抜擢だったのだろう。総務省のある若手女性職員は「事務次官よりある意味で格上、リベンジを果たした」と手放しで喜んだ。
退官した官僚の再就職は意外に難しい。今や天下りに対する国民の目は厳しく、所属した省庁が面倒を見るのも限界があり、自力で探すことが基本となりつつある。
知名度のある事務次官クラスであれば「引く手数多(あまた)」かもしれないが、それ以外は難航するというのが複数の省庁の人事担当者の反応だ。山田氏のように、再就職先を探していたさなかでの内閣広報官就任は、かなりラッキーなケースともいえる。
ただ、内閣広報官の仕事は、記者会見の司会を務めるだけではない。報道機関を含めた利害関係の調整先は多岐に渡る。最大の仕事は危機管理であり、いかに難局を乗り切るかの手腕が問われる。
タブーなのは報道機関に圧力をかけること。山田氏の場合、就任数カ月で職務にまだ慣れていなかったと思われ、総理を守ろうとするあまり、報道側から見てバランスを欠く対応はあったのかもしれない。
「大不祥事」を経験しなかった総務省
そして、批判が集中している東北新社やNTTによる総務省の接待問題。霞が関全体の省庁が「奢られ体質」かというと、複数の省庁に取材経験がある筆者からみれば必ずしもそうではない。大規模な不祥事を経験した省庁と、そうでない省庁で大きな違いがある印象だ。 
例えば財務省・金融庁の官僚との飲み会は、ほぼ例外なく「ワリカン」であった。これは1998年に発覚した旧大蔵省の接待汚職で逮捕者や自殺者を出し、財務省と金融庁に解体された苦い過去を引きずっているため。
この事件を機に2000年施行の国家公務員倫理法に基づく規定ができ、許認可の相手となる利害関係者からの接待を禁じられ、自己負担の会食も1万円をこえる場合は事前の届け出が求められるようになった。
報道機関は許認可とは関係ないが、それゆえ他省庁の取材では、先方が「奢られて当たり前」と考えているらしい局面もないではなかった。
金融庁のある幹部は、監督先である金融機関との情報交換の場は基本的に日中、職場での面談かワリカンでのランチ、と話していた。一方で旧大蔵省級の不祥事を経験していない総務省は、接待が常態化していたことが伺える。そんな組織で問題意識を持ち、国家公務員倫理法に基づき自分だけ不参加、という行動は、たとえ正論だとしても取りにくいのではないだろうか。
NTTの接待問題で、加藤勝信官房長官は山田氏について「すでに退任して一般人である」ことを理由に事実確認をしない意向を示した。退職金の有無や受け取りの可否についても「プライバシーに関すること」として明らかにされていない。
根拠とする規定や法律はあるのだろうが、「国民の税金で雇用されている公務員なのに」という違和感はぬぐい切れない。山田氏の辞任に寄せて、政府が一連の問題を闇に葬り去ろうとしているかにも見える。
「女性初」ともてはやしておきながら、何かあれば真っ先に切り捨てる。そんな山田氏の処遇を見ていると、とてもやるせない。ここまで「悪目立ち」してしまった山田氏の再就職は、総務省退官直後よりもはるかに難しくなってしまっただろう。日本はまだまだ男社会なのである。 
●総務省幹部、NTTからの接待費、回数、相手 3/8
総務省幹部らがNTT側から接待されたと報じられた問題で、総務省は8日、調査の中間報告を公表した。谷脇康彦・総務審議官と巻口英司・国際戦略局長が、少なくとも2018〜20年に4回にわたって計15万円超の接待を受けていた。NTT側からの接待の飲食費と相手、自己負担の有無の一覧は次の通り。
谷脇康彦・総務審議官
18年9月4日:1人分の飲食費6万480円(自己負担なし)、会食相手はNTT相談役ら2人
18年9月20日:1万7431円(自己負担なし)、NTT澤田純社長ら2人
20年7月3日:2万8941円(5千円)、NTTデータ相談役ら2人と外務省幹部
→ 大臣官房付に更迭
巻口英司・国際戦略局長
20年6月4日:4万8165円(自己負担1万円)、NTT澤田社長ら2人と山田真貴子・前内閣広報官(当時総務審議官)、3千円の土産付き
→ 山田氏は退職済みで調査対象外 
 3/9

 

●NTT総務省接待 底なしの癒着を徹底解明せよ 3/9
総務省は、NTTによる同省幹部への接待に関する調査の中間報告を発表し、高額接待を受けていた同省事務方ナンバー2の谷脇康彦総務審議官を事実上更迭しました。谷脇氏は放送関連会社「東北新社」から接待されていたことも発覚しています。業者からの接待は、農林水産省でも明らかになり、事務次官らが処分されています。癒着はいよいよ深刻な様相です。幹部職員に対する異常な接待が相次いでいる問題は、公務員倫理規程に違反するだけでなく、行政をゆがめた贈収賄疑惑としても徹底究明が不可欠です。
NTTによる総務省幹部接待問題は、4日発売の『週刊文春』がスクープしました。谷脇総務審議官が2018年〜20年に3回、NTT関連の会員制高級レストランで、高額の接待を受けていたなどと報じました。総務審議官だった山田真貴子前内閣広報官と巻口英司国際戦略室長も20年6月に1回接待を受けたとされます。谷脇氏の接待には、金杉憲治外務審議官も同席していました。
総務省の8日の中間報告では、谷脇氏の接待総額は約10万7000円で、山田氏と巻口氏の接待金額は約5万1000円だったと記載しました。谷脇氏と巻口氏はそれぞれ5000円から1万円を支払ったといいますが、接待での飲食単価はその額を大きく上回っています。
NTTは取締役の選定などで総務相の認可を受ける総務省の利害関係者です。国家公務員倫理規程に反していたことは明白です。
谷脇氏は先月の国会で、東北新社のほかには規程違反の接待はないと述べ、総務省も同様の説明をしていました。総務省の調査がおざなりだったことは重大です。監督する立場の、武田良太総務相の責任は免れません。
谷脇氏らがNTTから接待を受けたのは、総務省に強い影響がある菅義偉現首相が熱心に推進する携帯電話料金の値下げとの関連が疑われます。谷脇氏は総務審議官に就任する前はNTTを所管する総合通信基盤局長などを歴任しており、さらなる調査が必要です。
菅首相の長男・正剛氏が勤める東北新社による接待も、全体像は不明のままです。衛星放送の周波数割り当てや認定更新などをめぐる疑惑が強まっています。
収賄罪で在宅起訴された菅首相側近の吉川貴盛元農水相とともに鶏卵生産会社「アキタフーズ」に接待され、処分された農水省事務次官らの問題もあいまいにできません。贈収賄に直結します。
各省庁の幹部職員らの企業との癒着が横行しているのは、行政の私物化を常態化させてきた、安倍晋三前首相と菅首相の2代の政権にわたる官邸主導の強権的な“霞が関支配”と無関係ではありません。政権自体の責任が厳しく問われます。
世論調査で東北新社から総務省幹部職員が接待を受けていたことについて「問題がある」という回答は8割を超します。
菅首相は武田総務相任せではなく、相次ぐ接待問題の全容を自ら調査し、国民に明らかにすべきです。NTTや東北新社関係者の国会招致を実現し、真相を解明することが求められます。
●NTTの高額接待、ドコモ「アハモ」が薄汚れて見える! 3/9
NTTグループによる総務省幹部の高額接待で、携帯電話料金値下げを主導してきた総務官僚ナンバー2の谷脇康彦氏(60)が2021年3月9日、総務審議官を更迭された。NTTと総務省の「ズブズブの癒着」が明らかになり、ドコモの新料金プラン「アハモ」(ahamo)も途端に色あせてみえる。携帯電話料金の値下げはこれからどうなるのか――。
「通信行政が10年遅れる」ほどデキる官僚
NTT幹部から高額接待を受けて更迭された谷脇康彦・前総務審議官(60)は、非常にデキる男だったようだ。携帯電話料金の値下げだけでなく、NHKの受信料問題など、菅義偉政権の目玉政策を一手に仕切ってきた。
朝日新聞(3月9日付)「総務官僚接待、見えぬ底 政権、政策の推進役失う」は、総務省幹部のこんな嘆きの声を紹介している。
「谷脇氏は、菅首相にも近いことで知られ、首相肝いりの携帯電話料金値下げの推進役だった。谷脇氏の更迭で政権の通信・放送行政に影響が及ぶのは必至だ。総務省幹部は『痛い。通信ばかりでなく放送行政も含めて10年は遅れるかもしれない』と指摘する」
一人の人物がポストから去ることで、国の大事な行政が10年もの停滞を余儀なくされるほどだというのだ。どれほどデキる男だったのか――。日本経済新聞(3月9日付)「携帯値下げ・6G停滞も 谷脇氏更迭、司令塔不在に」も、こう伝える。
「谷脇康彦氏はNTT分離分割などに関わり、今年夏の次官就任が有力視されていた。谷脇氏はこの20年、固定電話や携帯電話など通信政策に一貫して関わった。菅首相が総務相だった2007年には、課長として携帯電話料金と端末価格の分離プランの導入を主導した。携帯値下げの源流をつくり、当時は業界で『谷脇不況』との言葉まで生まれた。谷脇氏を知る関係者は『行政官としてのビジョンづくりと、永田町への根回しを両方できる人物』と話す」
「谷脇不況」という言葉が生まれるほど、業界には厳しく当たってきた人物だったようだ。日本経済新聞は、こう続ける。
「総務省は携帯料金引き下げをめぐる競争環境の整備や、2030年代の実用化を目指す次世代通信規格『6G』の研究開発などの重要政策を抱える。武田良太総務大臣は、総務審議官は空席にすると説明した。通信政策の司令塔は一時不在になる。接待問題で多くの幹部が処分を受けており、放送・通信行政が停滞する恐れがある」
後任を空席にせざるを得ないのは、まだ総務省内の「接待問題」の調査が続いており、うかつに後任を選び、その人物がまた接待を受けていたなどという失態が起こらないようにするためだった。
谷脇氏は、特に携帯電話料金の値下げ問題では、どんな実績がある人物なのか。朝日新聞(3月9日付)「谷脇氏『首相の懐刀』『ミスター携帯』」が、詳しく紹介している。
「谷脇氏は1984年、旧郵政省(現総務省)に入省。中堅にさしかかる頃から通信畑を歩むようになった。省内では『ミスター携帯』『異能の存在』などと言われ、存在感を放っていた。同省関係者は『携帯電話やインターネット分野の草分け的存在。省内では右に出る者はいなかった』と話す」
谷脇氏の名が携帯電話業界に広く浸透したのは2007年。総務省は市場の競争を促すため、携帯端末の価格と通信料を分ける「分離プラン」の導入を提案した。目的は国際競争力の強化で、その中核を担ったのが携帯政策を担う課長職を務めた谷脇氏だった。このため、端末の販売台数が一時低下し、業界内から「谷脇不況」と非難を浴びたのだ。
このように谷脇氏が制度見直しに取り組んでいたとき、菅義偉氏は総務副大臣、総務相だった。以前から前例踏襲や既得権益の打破を訴えてきた菅氏にとって、谷脇氏は携帯業界にメスを入れる「改革派官僚」に映った。同省幹部は朝日新聞記者に、「谷脇氏はとにかく市場に競争を働かせようとやってきた。それが副大臣、大臣だった菅氏(の心)に刺さったということだ」と話すのだった。
ドコモ子会社化と「アハモ」はギブ&テーク?
朝日新聞がこう続ける。
「『切れ者」で鳴らした谷脇氏だが、省内では『明るく、飾らない性格だった』との評もある。インターネット分野で複数の著書を出版。実名でツイッターやブログを開設した。ツイッターのプロフィル欄には、『役人だけど堅くないっす』と記した。最近では、日本に上陸して間もない音声型SNS『クラブハウス』を試したことを紹介していた」
ちなみに谷脇氏は、愛媛県松山市生まれだ。地元紙・愛媛新聞の経済面に「ビズe愛媛」というコラムを連載していた。2013年6月から今年2月まで2週間ごとに182回も続いた。「インターネットの自由をめぐって」「教育現場に情報通信の光を」「少子高齢化と通信技術」...... と情報社会をテーマにしており、最後の182回のタイトルが「携帯電話値下げに向けたさらなる取り組み」だった。
同紙の経済面の名前は「E4(い〜よん)経済」。谷脇氏は自分のコラムについて、「インターネットの世界というと、すごく難しく、一部の専門家のものと思うかもしれない。だが経済のエンジンでもあり、国の経済成長を支える重要なマーケットでもある。新鮮でわかりやすいテーマでいろいろなことを紹介していきたい。たとえば、大量のデータを解析するビッグデータやオープンデータ、インターネットの進化やスマートフォンの普及で生活がどう変わるのかなど。ソーシャルと連動するE4(い〜よん)は、利用者が意見交換や情報共有できるコミュニティーの場になってほしい」と書いている。
仕事はデキるが、結構くだけた人物のようだ。
●NTT高額接待で更迭の谷脇氏、今月末で定年退職 3/9 
加藤勝信官房長官は9日の記者会見で、NTT側の高額接待を受けて総務審議官を更迭された谷脇康彦氏(60)=官房付=が今月末で定年退職すると明らかにした。退職金については「国家公務員退職手当法にのっとり対応する」と説明した。武田良太総務相は記者会見で、接待問題に関する調査について「可能な限り対象職員を広げる。事実関係の確認を正確に、徹底的に行う必要がある」と強調した。
国家公務員法は一般職員の定年を60歳とする一方で、一部の幹部職員は人事院規則に基づき別途規定している。総務審議官の定年は62歳で、谷脇氏にも適用されるはずだったが、8日付で官房付に異動した。加藤氏は「制度的には月末で定年を迎える」と説明した。
一方、総務省は9日に国会内で開かれた野党合同ヒアリングで、調査は総務省の現役職員だけを対象とし、接待に同席した山田真貴子前内閣広報官(辞職)や外務省の金杉憲治外務審議官(当時)への聞き取りは現時点で実施しないとした。 
●総務省 接待問題調査 通信・放送担当の現場職員など対象拡大へ  3/9
NTTの社長などから幹部が違法な接待を受けていた総務省は、今後、幹部だけにとどまらず、通信や放送を担当する現場の職員などにも対象を広げて調査を進めることにしています。ただ、職員の協力が前提となるため、どこまで実効性のある調査になるかが焦点になります。
衛星放送関連会社からの接待で、懲戒処分を受けた総務省の谷脇・総務審議官は、NTTの澤田純社長らから合わせて3件・総額10万円余りの違法な接待を受けていたことが確認され、8日付けで、大臣官房付に事実上、更迭されました。
武田総務大臣は「谷脇氏には、前回の調査で、ほかに倫理法令に違反する行為がなかったか、再三確認したにもかかわらず、新たな違反が疑われる行為が確認されたことは甚だ遺憾だ」と述べました。
総務省は、今後、谷脇氏ら幹部だけにとどまらず、通信や放送を担当する現場の職員などにも対象を広げて、事業者側から違法な接待を受けたケースがないか調べることにしています。
ただ調査は、あくまで職員の協力が前提となるため、どこまで実効性のあるものになるかが焦点になります。
一方、国会では、来週15日に参議院予算委員会に澤田社長を参考人として招致し、集中審議が行われることになりました。
野党側からは、国会全体で真相を解明すべき問題だとして、衆議院でも澤田社長の招致を求める声が出ていて、今後、調整が行われる見通しです。  
●接待問題の山田前広報官 処罰を免れ、退職金5000万円は満額支給 3/9
「飲み会は断わらない」と“接待上等”を豪語していた山田真貴子・前内閣広報官が病気を理由に辞任した。官邸は後任に小野日子(ひかりこ)・外務副報道官を起用し、“山田隠し”を急いでいるが、国民が怒っているのは彼女に対する“罪と罰”のアンバランスに「上級国民」である官僚の特権、官民格差を感じ取っているからだ。
山田氏は総務省ナンバー2の総務審議官当時、「菅さま」と呼ぶ菅首相の長男・正剛氏ら東北新社幹部から7万円あまりのステーキ接待を受け、あまつさえNTTからも接待されていたことが週刊文春に報じられている。
この東北新社からの接待問題で総務省は、情報流通行政局幹部ら11人を国家公務員倫理法(規程)違反で処分した。山田氏も本来なら処分対象のはずだが、同氏はすでに総務官僚ではないのがポイントとなる。昨年9月に「事務次官級」のポストである特別職の内閣広報官に就任する前、総務省を退官(昨年7月)していたことから、「役所を退職した者を処分できない」という理由で罰を免れた。
民間企業であれば、不祥事で懲戒免職になった社員は退職金が減額されることが多い。もし、民間サラリーマンが不祥事で退職に追い込まれるとどうなるか。人事コンサルタントで社会保険労務士の内海正人氏が語る。
「民間企業は、本人の申し出で退職する場合でも、懲戒処分を受ければ退職金の減額を就業規則に盛り込んでいるケースが多い。ましてや、不祥事で名前を報道されたとなると、退職後の再就職が難しくなると考えられます。
現在のコロナ不況下ではなおさらです。厚労省は解雇や雇い止めが9万人を超えたと発表したが、あれは氷山の一角。職を失って再就職もままならない、住宅ローンが残っているような人だと、自宅を手離さなくてはならない状況に追い込まれることなどが考えられます。老後の人生設計を再構築せざるを得ないでしょう」
一方の山田氏は前述の通り昨年7月に総務省を退官している。次官級の退職金は約5000万円にのぼる。接待問題が発覚すると、内閣広報官の月給の6割に相当する70万5000円を自主返納し、金銭的ペナルティを受けたように見えるが、これは見せかけだ。
菅政権は今回の接待問題で更迭した秋本芳徳・情報流通行政局長の後任に、山田氏の夫である吉田博史・総括審議官を抜擢した。国家公務員指定職の俸給表などから試算すると、吉田氏は月給81.8万円(年収約1500万円)の総括審議官(指定職俸給表3号俸)から月給96.5万円(年収1770万円)の局長(同5号俸)への2階級特進で、年収が250万円アップ。夫婦合算の収入で考えると返納分を取り返せるどころか、お釣りがくる。
ちなみに山田氏の総務審議官時代の月給(俸給表7号俸)は110.7万円(年収約2190万円)で夫と合わせ3500万円を超える世帯年収があった計算だ。夫婦は2005年に千代田区の“億ション”を購入し5年間でローンを返済したと報じられている。不祥事で退職しても、ローン地獄の心配とは無縁だ。国会では、7万円接待の席でのことを問われ、「覚えていない」を連発した山田氏だが、これだけの“役得”があれば、7万円会食程度のことが記憶にないのは無理もないことなのかもしれない。
●「退職金5000万円」トレンド入り 山田真貴子報道めぐり批判の声 3/9
菅義偉首相(72)の長男らからの“接待問題”が浮上し、体調不良を理由に辞任した元総務官僚の山田真貴子前内閣広報官(60)について9日、退職金5000万円が満額支給されるとの一部報道を受け、ツイッターでは「退職金5000万円」がトレンド入りするなど批判の声が相次いだ。
ツイッターでは高額な金額について「こんなに退職金高い理由あるの?」「さすが上級国民」「めっちゃ豪華なもんばっか食べてたからもういいやん」と指摘をする声があがったほか、「退職金5000万円ほしいが、すべての飲み会を断る男なので無理」「私達国民に対して一律給付金を配ってください」とする声もあった。 
●総裁選前に値下げ情報入手か?NTT総務省接待で浮上した菅首相の疑念  3/9
週刊文春が報じた、NTTによる総務省幹部への接待問題。谷脇総務審議官が事実上の更迭処分となりましたが、野党及びマスコミは追求の手を緩めるつもりはないようです。今回のメルマガ『石川温の「スマホ業界新聞」』では著者でケータイ/スマートフォンジャーナリストの石川温さんが、通信業界関係者の間で囁かれていた、NTTと官邸との間を疑う「とある噂」を紹介。さらに当案件が大スキャンダルに発展する可能性も示唆しています。
NTTと総務省幹部による会食報道の波紋――携帯料金値下げ政策に影響を及ぼしていないのか
週刊文春が山田真貴子前内閣広報官と谷脇康彦総務審議官がNTTと会食をしていたと報じた。すでにNTT、谷脇氏ともに事実を認めている。
会食はNTTがNTTドコモを完全子会社化しようしていた時期と重なる。
もうひとつ、疑念の目を向けざるを得ないのが、値下げ競争政策から誕生したNTTドコモの新料金プラン「ahamo」だ。
ahamoは、NTTドコモ社内では昨年1月頃より、今年3月の開始に向けて企画がスタートしたと言われている。
一方、昨年9月に菅政権が発足するのだが、菅氏は総裁選に立候補する段階で「携帯電話料金の値下げ」を政策にすると掲げていた。
ひょっとすると、総裁選の前から、NTTドコモが安価な料金設定をすることを7月の接待に参加した谷脇審議官経由で、菅総理は知っていたのではないか。
NTTドコモが値下げすることをわかった上で、携帯電話料金の値下げを菅総理が重要政策として掲げていたならば、NTTと総務省による壮大な出来レースだった可能性も出てきた。
通信業界関係者の間では、昨年から「NTTドコモの完全子会社化とahamoの投入は、NTTと官邸との交換条件だったのではないか」とささやかれていた。
グループ再編を実行し、国際競争力をつけて、世界に進出したいNTTが、菅総理の携帯料金値下げの政策を実現する代わりに、総務省にNTTグループの独占回帰を認めさせたのではないかというわけだ。
まさに昨年7月から9月にかけての密談は、官邸とNTTにとって渡りに船だったことになる。
そもそも、菅総理が携帯料金について「4割値下げできる余地がある」と発言したのは官房長官であった2018年8月のことである。
谷脇氏が総合通信基盤局長に就任したのは2018年7月であり、週刊文春によれば、2018年9月にもNTT最高幹部と谷脇氏が会食しているとしている。
すでにNTTと総務省で、料金値下げ向けた密約が、この段階で交わされていた可能性もある。
NTTと総務省は会食の場でどんな話をしていたのか。武田良太総務大臣が、やたらとKDDIに対して高圧的な発言をしていたのは、背後でNTTが入れ知恵をしていたのではないか。NTTと総務省の関係が明るみになったことで、いろんな疑念が浮かぶようになってしまった。
総務省とNTTの会食によってNTTドコモが値下げをリードし、ソフトバンクとKDDIを値下げ競争に巻き込みつつ、MVNO市場を潰すようなことにつながれば、それこそ大スキャンダルに発展する。
谷脇氏にとって長年の悲願であった携帯電話料金の値下げが実現される直前で、谷脇氏は自ら泥を塗ってしまったようだ。
総務省・携帯電話ポータルサイトは職員の手作り――アクションプラン「接続料値下げ」は前倒しで達成
3月5日、一般社団法人テレコムサービス協会MVNO委員会による「モバイルフォーラム2021」がオンラインで開催された。
基調講演に総務省総合通信基盤局電気通信事業部長の今川拓郎氏、パネルディスカッションには総務省総合通信基盤局電気通信事業部料金サービス課企画官の大内康次氏が登壇。昨今の競争政策についての取り組みが語られた。
そもそも、総務省として日本の携帯電話料金はどうみているのか。今川氏は「国際的に見て、日本の携帯電話料金が高いという状況ではない。ただ、大容量プランでは欧州の安い料金に対抗できるプランがない状況」とした。小容量プランにおいてはMVNOという選択肢があるが、20GBプラン以上においてはキャリアしか選べないのが問題視されたようだ。
12月以降、3キャリアが相次いで3,000円以下のオンライン専用プランを出した。MVNOからは「採算割れしていないのか、スタックテストを実施すべき」という意見が出された。そこで、総務省が調べたところ「ahamo、povo、LINEについては内部で採算性を確認したが、赤字ではないが、各社、ギリギリのところを攻めている」(大内氏)とのことだった。
2月の段階で赤字スレスレということを考えると、果たして、3月1日に2,980円の1割弱に当たる280円の値下げをしたahamoは大丈夫なのか気になるところだ。また、500円の1回5分までのかけ放題オプションを1年間、無料にするというキャンペーンを仕掛けてきたLINEMOは、やはり採算ギリギリということで、値下げではなくキャンペーンで乗り切ろうとしたのか、など想像は膨らむばかりだ。
3キャリアがオンライン専用プランを出したことで、接続料の算定にも影響を及ぼし、「3年間で接続料を半減させるというアクションプランの目標は1年前倒しで実現する見通し」(今川氏)という。
MVNO各社は、3キャリアのオンライン専用プランを受けて、さらなる値下げプランを投入。経営的にさらに厳しい状況に追い込まれる可能性があったが、接続料が半減される目処が立ったこともあり、なんとか首の皮一枚、つながった感がある。
昨年、アクションプランにも掲げられていた総務省による乗り換えを促すポータルサイトについて、今川氏は「携帯電話ポータルサイトは総務省職員の手作り。センスがいまいちと思われるかも知れないが、これから洗練されたデザインにしていく」としていた。
現場レベルでは、地道に競争政策を進め、成果が出始めようとしている中、幹部の不祥事によって、総務省全体が疑念の目で見られてしまうのは、なんとも不憫でならない。 
●官邸で“令和の2・26事件”勃発! 3/9
最近の不思議な流れをご報告します。
「囲碁将棋チャンネル」取締役・菅長男の活躍のせいで、父親である菅首相のやることなすことも将棋中継みたいにみえるのです。 菅長男が同席し、高額な接待を受けた山田広報官の辞職をめぐる各紙の見出しでは「後手」とか「読み誤り」。まるで菅首相の囲碁・将棋チャンネルだ。
「黒川隠し」が「山田隠し」に変わっただけ
読み誤りだけではない。山田氏が辞職する直前の2月26日にはとんでもない中継もあった。
整理すると、本来ならこの日は緊急事態宣言の一部解除に合わせた記者会見をやる予定だった。しかし「ぶら下がり」に変更したのだ(首相官邸から出るとき途中で立ち止まって話をするというスタイル)。
官邸は内閣記者会の幹事社による会見の申し入れも拒否した。記者会見の司会を務める広報官である「山田隠し」?
官邸側の説明では、昨年の緊急事態宣言での関西三府県を解除した際の安倍前首相の対応が「ぶら下がり」だったことを大きな理由に挙げていた。しかし当時は東京高検検事長の賭けマージャン問題がブレイクしていたときだ。黒川隠しが山田隠しに変わっただけという前例踏襲。
「ぶら下がり」による残酷な生中継
そんなわけで菅首相にすれば帰りがけに立ち止まって発声し、適当なところでお開きという安全な展開なはずだったが…。
ところが菅首相の囲碁・将棋チャンネルは残酷な生中継をしてしまったのである。
記者たちから「今日会見をやらずとも国民の協力を得られると思うか」「高額接待を受けた山田内閣広報官の問題が影響したのか」「なぜきょう記者会見を行わなかったのか?」など質問が次々に浴びせられたのだ。
山田真貴子元広報官 産経新聞社 いつもなら「一人一問」などと言う山田広報官がいない。気がついたら首相は質問と向き合わざるを得ない状態になっていた。まるで詰将棋の生中継。首相の説明の乏しさが晒されるガチな展開になってしまった。
山田隠して菅隠さず。
この日は歴史的な会見もどきになった。私は令和の2・26事件と名付けたい。
乱発される「〜じゃないでしょうか」の意味
さて今回の2・26事件でわかったことがある。菅首相の不思議な口癖だ。
「〜じゃないでしょうか」という言い回しを乱発するのである。
・山田広報官のことは全く関係ありません。現に昨日、国会で答弁されてきたことも事実じゃないでしょうか。
・今日こうして、「ぶら下がり」会見やってるんじゃないでしょうか。
・必要なことには答えてるんじゃないでしょうか。
このことについて上西充子・法政大教授は「言い回しを確認したところ、13回もあった」として「なぜ自分が責任をもって、はっきりと言い切らないのだろうか」と指摘。さらに「これは、いら立ちを抑えながら反論する場合に用いられる言い回しではないだろうか」と考察している。(『ハーバー・ビジネス・オンライン』3月1日)
菅首相の答弁能力は国難「ではないでしょうか」
言い切らないが相手に押し付ける話法。そういえばあの時も使っていた。
「5000円でできないことはないんじゃないでしょうか」(2019年11月14日・官房長官会見)
安倍前首相の桜を見る会前夜祭の「会費5000円」疑惑に対しての菅氏のコメントである。そのあと安倍事務所が補填していたことが判明した。やはり5000円ではできなかったのだ。
このことから考えると政治家・菅義偉の「〜じゃないでしょうか」は何かマズいときや窮地に追い込まれたときに出るようだ。
では2・26をもう一度振り返ってみよう。これまで鉄壁のセコンドに囲まれていた菅首相が、うっかり丸腰で記者に囲まれたら叫んでいた。「じゃないでしょうか」「じゃないでしょうか」「じゃないでしょうか」と13回も。しみじみしてしまう。
私が心配するのはこの話法は国内なら通じても、国益を争う場では他国のリーダーに通用しないであろうことだ。菅首相の答弁能力は国難ではないでしょうか。
「同じような質問ばっかり」と首相は言うが、同じようなことをして、同じようなごまかし方をずっとしてるからではないでしょうか。 
「テレビニュース」(平野次郎・主婦の友社)という本にはアメリカ大統領の記者会見についてこんなくだりがある。
《「なりたくてなった公人には、どのような質問をぶつけてもかまわない」と多くのジャーナリストたちが考えている。双方にとって真剣勝負の場である。》
約30年前の本である。菅首相はなりたくて公人になり、なりたくて首相になった。「同じような質問ばっかり」とキレる立場ではないはずだ。
山田前内閣広報官は「退職した一般の方」
「同じような」といえばギョッとすることが今回もあった。
加藤官房長官は山田真貴子前内閣広報官について政府としてあらためて調査する考えはないことを表明。「退職した一般の方」という理由で。
ツッコミどころはたくさんあるが1点にしぼる。
山田真貴子氏はここ1週間で最も注目された人物だ。そんなさなかでも平然とこのような振る舞いをするのだ。無かったことにしてしまうのだ。では我々が知らなくて気づけない案件ではどれだけあるのだろうか…。
菅首相の「囲碁将棋チャンネル」あらため「詰将棋チャンネル」。見どころが多すぎてヤバいんじゃないでしょうか。
3月7日は赤木さんの命日
最後にちゃんとしたことを書いておく。
『森友改ざん事件、忘れないで 赤木さんの死から3年 妻、毎日新聞に手記』(3月6日)。
《赤木さんは、改ざんの経緯を詳しく記したファイルを残したとされるが、国はファイルの有無を含めて明らかにしていない。「夫が何を誰に指示され、どう抵抗し、何を改ざんし、何に苦しんでいたのかが書いているはずです」。雅子さんは国への開示命令を地裁に申し立てている。》
3月7日は赤木さんの命日だった。政府は忘れようとしているが私は忘れない。 
 3/10

 

●谷脇元総務審議官、高額接待の次は「高額退職金」 3/10 
加藤勝信官房長官は9日の記者会見で、NTT側の高額接待を受けて総務審議官を更迭された谷脇康彦氏(60)=官房付=が今月末で定年退職すると明らかにした。
事務次官級の総務審議官は国家公務員法と人事院規則に基づき、定年を62歳とする特例がある。谷脇氏が職にとどまっていれば、定年を迎えるのは2年後だった。しかし、接待問題で更迭され、8日付で官房付に異動。これによって特例が適用されず、通常の定年となる60歳で年度末に退職することになった。
退職金について加藤氏は「国家公務員退職手当法にのっとり対応する」と説明した。一体、どのくらいになるのか。人事院のモデルケースなどによると、各省庁の事務次官クラスで退職金は約7500万円、審議官では5000万円を超える。谷脇氏は接待問題で総務省から減給10分の2(3カ月)の懲戒処分を受けたが、退職金は勤続年数や役職などで決まる。事務方No・2の総務審議官だった谷脇氏の場合、満額なら6000万円前後の退職金が支給される可能性がある。
ただ定年や辞任で退官した国家公務員に対しては、在任中の行為を「懲戒処分相当」と認定して退職金減額などのペナルティーを科すことができる。総務省幹部は「定年で逃げ切るのは世間が許さないと本人も分かっているはず」と指摘。過去には女性記者へのセクハラ報道を受け財務事務次官を辞任した福田淳一氏に対し、財務省が退職金約5300万円の支払いをいったん保留。その上で「減給の懲戒処分に相当」と認定、減給分(6カ月の減給20%に相当する金額)を差し引いて支払ったケースがある。
東北新社から少なくとも総額11万8000円、NTTから同じく10万円の高額接待を受けた谷脇氏。元経済産業省官僚で慶大大学院教授の岸博幸氏は「退職し公務員でなくなれば国会招致を受ける義務はない。ほとぼりが冷めれば天下りも可能でしょう」とした。果たしてどれだけの退職金を受け取るのか。その額にも注目が集まる。
総務省接待問題 / 谷脇氏が3件で計約10万7000円、巻口英司国際戦略局長も約5万1000円の高額接待をNTTから受けた。谷脇氏は1件分の5000円、巻口氏は1万円しか負担していない。同省を巡っては菅義偉首相の長男正剛氏が勤める放送事業会社「東北新社」から違法接待を受けたことが発覚し、先月、谷脇氏ら9人の懲戒を含め計11人が処分を受けた。11人とは別に、山田真貴子前内閣広報官も総務審議官当時に7万円超の接待を受けた。山田氏は広報官を辞職。NTTは事実関係の解明や原因究明を目的とした特別調査委員会を設置すると発表した。  
●総務省 接待問題 第三者委は山田前内閣広報官も調査対象に 3/10 
総務省幹部らの衛星放送関連会社からの接待問題で、総務省は、第三者委員会による調査では、当時、総務省の担当局長などを務めていた山田前内閣広報官も対象になるという見通しを示しました。
総務省幹部らの接待問題をめぐっては、山田真貴子 前内閣広報官が、総務省の在職時に、衛星放送関連会社「東北新社」に加えて、NTTの澤田社長らからも接待を受けていたことが明らかになっています。
これについて、10日の衆議院内閣委員会で、総務省の担当者は「山田氏は、すでに総務省を退職していて、総務省として、国家公務員倫理法違反の疑いについて調査を行う立場ではない」と述べ、総務省内で進めている、NTT側から違法な接待がなかったかの調査では、山田氏は対象にはならないという認識を重ねて示しました。
一方で、東北新社からの接待問題で、行政がゆがめられたことがなかったかを検証するために省内に設置する予定の第三者委員会について、総務省の担当者は「山田氏の在職期間中のものも含め、過去の衛星基幹放送の認定プロセスなどについて検証が進められると考えている」と述べ、山田氏が、当時、総務省の担当局長などを務めていたことから調査対象になるという見通しを示しました。
東北新社をめぐっては、4年前に外資規制に違反した状態で、子会社に衛星放送事業を継承していたことが明らかになり、総務省は、第三者委員会で当時の経緯を調べることにしています。 
●山田前広報官も調査対象 接待問題の検証委―武田総務相  3/10
武田良太総務相は10日の参院予算委員会で、総務省幹部が利害関係者から受けた接待問題の検証委員会に関し、山田真貴子前内閣広報官が総務省時代に決裁した許認可も調査対象とする方針を示した。検証委は検事経験者ら第三者で構成し、接待が行政に影響したかを調べる。
山田氏は同省時代に放送関連会社「東北新社」から高額接待を受けていた。体調不良を理由に既に辞任しているが、行政に対する国民の不信の高まりを受け、実態解明を進める。
武田氏は「純粋に第三者による委員会が透明性や客観性を発揮できる」と強調。「山田氏の在職期間も含め過去の衛星基幹放送の認定プロセスなどを検証する」と述べた。
一方、谷脇康彦前総務審議官らがNTTから高額な接待を受けた問題をめぐっては、同省は検事経験者を中心に第三者の協力を得ながら調査する方針。今月末で定年を迎える谷脇氏は「退職後も可能な限り協力したい」と述べた。
東北新社は2017年1月、BSチャンネル「ザ・シネマ4K」の事業者として総務省の認定を受けたが、外資比率が同年3月末に21%超に上昇。外資比率を20%未満と定めた放送法に一時違反する状態となった。
東北新社はその後、「ザ・シネマ4K」を子会社に事業承継した。同省が承継を認可した当時の情報流通行政局長が山田氏だった。 
●総務官僚がNTT・東北新社を「接待する側」だったと考えられる納得の理由 3/10 
NTTや東北新社による総務官僚の接待が大問題となっているが、一連の接待問題には大きな謎がある。許認可に影響力を持つ立場でNTTや東北新社から接待を受けることは、総務官僚としてはリスクが大きすぎてメリットに全く見合わない。それなのになぜ接待を受けたのか、という謎だ。しかし、実質的には総務官僚の側が接待したのだと考えると見通しが良くなるのだ。
全ての人が気をつけなければならない 三つの「せ」
立場のある人は、三つの「せ」にくれぐれも気をつけなければならない。
第一の「せ」は、「セクハラ」(セクシュアル・ハラスメント。性的嫌がらせ)の「せ」だ。企業も官庁も世間もセクハラには極めて厳しいし、その厳しさが年々強化されている。加えて、セクハラはどうにも格好が悪い。
セクハラで立場を失った人は政治家、高級官僚、企業人など複数分野で多数思い浮かぶ。本人にその意識がない場合でもセクハラと認定される場合があるし、セクハラを使ってライバルなどを意図的に陥れるケースもある。
筆者がビジネス上で知っている人物でも2人ほど、他人が仕掛けたセクハラの罠に引っ掛かって職業上のポジションを失った。「セクハラを疑われる可能性のある相手とは、決して2人だけで食事に行かない」というくらいの用心深さが、今やビジネスパーソンの常識だ。
第二の「せ」は、政治家だ。政治家との付き合い方を間違えると自分が贈賄などの罪に問われることがあるし、政治家の側に迷惑を掛ける場合もある。政治家との付き合いがある人は、十分な注意をもって適切に付き合わねばならない。
そして、三番目の「せ」が、目下話題の「接待」の「せ」だ。菅義偉首相の長男が関わったとされる衛星放送関連会社の東北新社による総務官僚接待に続いて、NTTによる谷脇康彦総務審議官(現在は更迭されて官房付)への接待が問題になっている。いずれも公務員の倫理規定に反するので、それなりの地位にあった人が処分を受けて、役職を辞任したり出世に影響したりしている。公務員の人生にとっては大変なことだ。
なお、立場のある人が気を付けるべきものは、三つの「せ」に加えてもう一つある。濁点が付くので四つの「せ」にできなかったが、「税金」の「ぜ」に気を付けなければならないことを付け加えておく。
ところで、「立場のある人」とは誰のことか?政治家や組織の幹部、あるいは有名人ではなくても、普通のサラリーマンでもフリーランスでも働いていない人でも、読者のほぼ全てが「立場のある人」だ。というのも、上記のいずれかが問題化すると、経済的な利益だけでなく名誉を失うことになるからだ。
接待をなくすことはできない 理由は「絶大なレバレッジ効果」
さて、目下ホットな話題である「接待」だが、これはなくすことができないのだろうか?
結論を先に述べると、接待をなくすことはできないと思われる。それは、接待には絶大なレバレッジ効果(てこの効果)があるからだ。
レバレッジ効果とは金融の世界でよく使われる言葉だが、この場合「接待の対象である相手側から得られるメリット」が「接待で個人を喜ばせるために必要な費用」の何倍にも及ぶことを指す。
「許認可」にせよ、その時に必要な「情報」にせよ、その経済的価値は莫大だ。一方、接待相手個人をもてなす費用と手間のコストは高が知れている。
すでに時効の他愛のない昔話をしよう。
1980年代の後半から90年代前半くらいの、いわゆるバブルの時期の話だ。当時、日本の多くの生命保険会社、信託銀行、運用会社などのファンドマネージャーの中には、証券会社の接待を恒常的に受けていて、接待に対する返礼として株式や外国債券などの発注を証券会社に回していた者が相当数存在した。
「気ぃ使わんでええから、カネ使うてくれ」 「俺の肝臓は武器なんだ」
当時の筆者の同僚には、月曜日から金曜日まで連日飲食の接待を受けて、土曜日にはゴルフで接待されるような人物もいた。別の会社に転職しても頻繁に接待を受けていて、「気ぃ使わんでええから、カネ(を)使うてくれ」と証券会社に言う癖がある人物がいた。この人物のことを面白おかしく雑誌の原稿に書いたら、「俺のことを書きやがったな」と怒った人物が社内に3人いた、ということがある。
ちなみに、顧客のお金を運用するいわゆる機関投資家の世界はその後、年金基金などのクライアントの目を意識するようになって証券会社からの接待に対して厳しくなった。運用担当者が証券会社の社員と会食する場合、事前に届け出を行って上司の承認を得て会食し、会計は割り勘を原則とする、といったレベルのルールを設けて厳格に守っている会社が多数ある。運用業界の名誉のために付記しておく。
その後、筆者は外資系の証券会社に転職した。以前と逆の立場に回ったわけだ。同僚のセールスマンの仕事ぶりを見ると、確かに接待は発注、すなわち手数料収入に直結する分かりやすい手段だった。接待費の精算を決済する上司の判断基準は、「掛けた費用以上に手数料が入るなら、いくらでも問題なし」だった。
セールスマンの中には、昼はランチで機関投資家Aを接待し、夜は前半に機関投資家Bを、そして後半に機関投資家Aダッシュ(A社の昼とは異なる人選)を接待するような猛者もいた。三食いずれもアルコール付きだ。「俺の肝臓は武器なんだ」という彼のせりふが今も頭に残っている。
さて、「掛けた費用よりも得られる利益の方が大きい」限り、接待をする側に明確な動機がある以上、接待をなくすことは難しい。
会社の費用で接待費を処理されることを警戒する顧客もいたが、こうした顧客には自腹で接待して領収書をもらわずに済ませるセールスマンもいた。顧客から得られるディールが彼にもたらすボーナスが接待費よりも大きいのであれば、彼にとっては合理的なのだ。
接待する側では計算と合理性が働いている。接待費を経費として認めないことにしても接待はなくならないだろうし、飲食を禁止しても別の形態の「接待」が開発されるはずだ(例えばオンラインでできる接待の方法を募集すると、多数のアイデアが集まるだろう)。
一般的に言って接待は、される側よりもする側の方が圧倒的にもうかるものだ。
接待が成立するために必要な 接待される側の合理性とは?
ところで、接待する側にとって合理的であるだけでは、接待は実現しない。接待される側でも合理性があると考えなければ、接待の場に出向かないだけのことだ。「会食は断らない主義だ」と自分に方針を課する必要もない。
かつてのファンドマネージャーと証券会社の接待関係は、「カネ(を)使うてくれ」が口癖の人物の場合、飲食やゴルフの費用を自分で払わずに済むことがメリットで、自分が翌日に証券会社に注文を出す手間だけがコストという簡単な損得勘定だったのかもしれない。
しかし、彼のように単純な人でも、自分があたかも「餌付け」されているがごとき関係には満足していなかっただろう。接待を通じて相手がへりくだることへの精神的満足感があったかもしれないし、接待の席で交わされる会話に「情報」の価値があると心の中で自己弁護していたかもしれない。
ちなみに「情報を得ること」は、官僚や政治家が民間人と会食することの言い訳に使われやすい名目だ。
接待の感情面について追記しておくと、飲食をしたにもかかわらず、自分が費用を負担していないことへの「一抹のやましさ」の感情が接待された側には生じる。通常の民間同士の接待でも、「何らかの形でお返しをしなくては」と接待を受けた側が感情を喚起されるところに、接待の大きな意味がある。
実は総務官僚は「接待する側」だった と考えられる理由
さて、接待を受けることの「一抹のやましさ」に触れたが、この点まで考えると、今回の一連の総務省官僚接待問題の特異性が浮かび上がる。
はっきり言って、許認可に影響力を持つ立場で東北新社の接待を受けたり、携帯電話の通信料金が大きな問題となっているときにNTTの接待を受けたりするのは、官僚にとって「あまりにも、やましすぎる」。食事やワインがいかに高価な物であったとしても、いや、むしろ高価な物であったが故に、通常はリスクが大きすぎて総務官僚としてはメリットに全く見合わない。
幹部に出世するような公務員にこうした計算と認識がなかったとは考えにくい。彼らはルールとリスクには大変敏感だ。
それに、いいワインが飲みたいだけならば、外務省の友達にでも頼むと民間の接待よりももっといいものが飲めたのではないか。
東北新社とNTTの総務官僚に対する接待問題の本質は、単に脇の甘い官僚が「ごっつぁん!」してしまったという問題ではない。
一見、官僚側が豪華な飲食でサービスを受けているかのごとくだ。ところが実態は、会って会食する時間を与え、会食では(たぶん)有益な情報を伝えるなどの「本当のサービス」、つまり実質的な接待を行ったのは官僚の側なのだ。一連の問題は、実質的には総務官僚の側が東北新社やNTTを接待したのだと考えると見通しが良くなる。
彼らが個人的なリスクを冒してまで求めた「レバレッジ効果のあるメリット」が何なのかは、まだ明確にはなっていない。ただ、彼らにはリスクを冒してでも得ようと思っていたメリットないしは守りたかった何かがあったはずだ。
それは何か?彼らは官僚なのだから、最終的には人事だろう。たぶん間違いない。
総務省に影響力があるとされる菅首相に良い印象を持たれて(あるいは「悪い印象を持たれることを回避して」)自分の人事に関するメリットを得たかったのか。将来に備えて超一級の天下り先との人間関係を作っておきたかったのか。政策的な根回しをうまくやりたかったのか。
一方、彼らから見て彼ら個人個人にとって大きなメリットがあるということなら、「接待を断らない」以上のメリットを東北新社側やNTT側に与えていてもおかしくない。「行政がゆがめられた」可能性は大いにある。
業者とその関係者(政治家を含む)と、そして官僚の癒着の実態こそを明らかにしなければならないのだが、政治家や官僚と東北新社やNTTと似た種類の癒着関係を持っているに違いないマスコミは、この問題について果たしてどれだけ力を入れて報道するのだろうか。
総務省の接待問題の教訓 公務員人事には「説明責任」が必要だ
制度の問題として、官僚を巡る今回のような構造の癒着を完全に解消するのは容易ではない。だが、一ついえるのは「権力としての人事」をブラックボックス化させないことが肝心だということだ。
内閣人事局を通じて首相官邸が公務員の人事をコントロールすることは、「政治主導」の手段としてはいいとしよう。しかし、公務員の人事については国民にも影響が大きいのだし、官僚本人の人生にも影響を与えるのだから、その経緯や理由に関して極力情報を公開し、かつ「説明責任」を持たせるべきだ。
日本学術会議の会員候補の任命拒否に関して、菅首相から「人事の問題なので説明を控える」という答弁が頻繁になされたが、こうした言い逃れを許すべきではない。大事な人事の問題だからこそ、本人にも国民にも十分納得のいく説明をオープンに行うことが必要なのだ。個人情報の保護よりもはるかに重要な問題だ。
理由抜きに行使できる権力は腐敗のもとだ。総務官僚接待問題の本質をたどると、おそらく大本はここにある。 
●高市早苗 『週刊文春』の記事は悔し過ぎる! 3/10
今日、明日には書店に並ぶ『週刊文春』の記事が永田町で出回っており、一読しましたが、怒り心頭です。
タイトルは、「NTT接待文書入手 総務大臣、副大臣もズブズブの宴」として、私や野田聖子元大臣の顔写真を掲載。
記事中には、「NTTの総務大臣、副大臣への接待」という表が出ていて、野田聖子大臣2回、高市早苗大臣2回、各大臣とともに働いて下さった副大臣2名が各1回の接待を受けたとされています。
私は、「接待」は受けていない旨、取材者に対して、明確に文書で回答しました。当方の支払の領収証や当該店舗の料理代金が分かる資料も添付して送付しました。
しかも、記事中に「(NTTグループの)通信事業の許認可に直接関わる総務大臣、副大臣、政務官の政務三役、およびその経験者をターゲットに接待を繰り返していたのです」とまで、書かれています。
大臣も副大臣も「通信事業の許認可に直接関わる」ことなど、ありません。そもそも、私達は「決裁」をしていないのですから。
『NTT法』や『電気通信事業法』に基づく認可の中で、事業に係るものの「最終決裁」をするのは大臣や副大臣ではなく、局長です。
上記の所管法令に基づく定常的な認可以外の「個別案件に係る軽微な認可」についても、全て局長以下の職員が最終決裁者であり、大臣や副大臣は決裁者ではなく、案件の説明すら受けていません。
私の在任中に、唯一、大臣に認可権があるものとして決裁したのは、NTT持株会社の株主総会で決定した「取締役・監査役の選解任決議」(人事案件)のみです。
NTTも、関連法制度はよくご存じですから、野田元大臣や私に対して事業認可など業務に係る頼み事をなさるはずもありません。
澤田社長や島田副社長とお会いした時にも、私の個人的な関心事項であるサイバーセキュリティ(主に自動車や医療機関のサイバーセキュリティ強化が私の関心事)について、ペネトレーションテストなど技術面での専門知識を教えていただいていました。
先方から、総務省の認可権に係る頼み事の話題が出たことは皆無です。
以下、『週刊文春』からの問い合わせに対して、3月9日に文書で回答したものを掲載します。
『週刊文春』編集部 神田知子様 3/9
   衆議院議員 高市早苗
≪ご質問1について≫
〇質問1は、総務大臣在任中の2019年12月20日と2020年9月1日にNTTの澤田純社長から接待を受けという情報は事実か、という内容
• 総務大臣在任期間に、総務省関連団体及び事業者(地方公共団体、通信、放送、郵政、行政相談等)から、いわゆる「接待」を受けたことは皆無です。「会食を伴う意見交換の機会」につきましては、「行政の公正性」に疑念を持たれることのないよう、全て「完全割り勘」又は「全額当方負担」で対応することを徹底していました。
• 夕刻まで委員会答弁や省内や官邸の会議などの公務をこなすと、関係団体や事業者のご意見や苦情を伺う機会は夜間になることが多く、退庁時間後に大臣室を使用することは職員の残業に繋がることから、省外で夕食を伴う意見交換を行うことは度々ありました。現場の実情を理解した上で政策を考案したり施策の使い勝手を良くしたりすることは、政務3役として役所に入る政治家の業務であると考えます。
• 会食を伴う場合は、事前に使用店舗の公式サイトで金額を把握するとともに、先方と話し合い、消費税も含む飲食代金が折半になるように会費を決定していただき、支払後は領収証を受け取っています。更に、飲料代金で会費を超えるリスクや先方がお土産を用意するリスクを勘案し、相手方1名あたり5,500円のお土産(私費)を持参していました。
• ご指摘の2019年12月20日と2020年9月1日は、いずれもNTTの澤田社長、島田副社長、秘書室長の3名と会食をしております。「完全割り勘」以外での会食が出来ない旨は先方に伝えた上で、秘書室長に会費を決めていただき、【添付書類1】の通り、指定された10,000円をお支払いするとともに、私費で16,500円(3名分)のお土産を持参致しました。2回とも、当方の負担額は26,500円です。
〇【添付書類1】は、2枚の当方支払い分の領収証のコピー
• 指定された会合場所の店舗につきましては、公式サイトが見付からなかった為、【添付書類2】の料金情報を参照し、適切な金額の会費を支払ったと考えております。
〇【添付書類2】は、ネット上で確認できた当該店舗の料金情報(NTTグループ電友会本部のサイト:フランス料理8,000円⇒会員割引で6,400円)
• 尚、総務省所管の特殊法人であるNTT持株・NTT東西の「業務に係る許認可事項」の最終決裁権は、大臣にはありません(局長決裁で大臣への説明は無し)ので、会食の席でNTTから許認可等に関する依頼を受けたことは皆無です。
≪ご質問2について≫
〇質問2は、飲食代を全額負担したのはNTT だったという情報がある。2019年の収支報告書には当該の記載が無いが、NTT側が負担したのは事実か、という内容
• 2020年分の収支報告書は今年5月が提出日ですが、2019年の収支報告書には、2019年12月20日の会費を計上しております。法律に則り、10,000円超の支出については支出先(店名)を記載しますが、10,000円の場合は「その他支出」の費目に入っています。
• 尚、大臣在職中は、支払の証拠を確実に残すために、「会費」については「自民党奈良県第二選挙区支部」から支出することにしておりました。念の為に付記しますと、税金による「政党助成金」を飲食費に使うことは、自民党で禁止されています。「政党助成金」の使途については、党支部の収支報告書とは別に、「使途等報告書」で1月末までに党本部のチェックを受けた上で2月末までに党本部と選管に提出しておりますので、飲食費の支出が無いことについては、「使途等報告書」を閲覧して頂けると幸いです。

以上が、本会議や議員連盟の会合を控えて超多用だった昨日、早朝の時間を使って作成した回答文です。領収証を探す為に、奈良事務所の会計責任者にも苦労をかけました。
大臣在任中には、総務省関係団体や関係事業者と、会食を伴う意見交換(全て「割り勘」か「全額当方負担」)は度々ありました。
連日のように衆参で委員会答弁が続いて夜間は体を休めたい時期でも、無理をして対応していました。それも、政務3役の仕事だと考えたからです。
通算4年間の大臣在任中は、『大臣規範』を厳格に守る為に「特定パーティー」(大規模な政治資金パーティー)の開催もしませんでしたから政党支部や政治資金団体の残高も乏しく、東日本大震災被災地への支援として給与の国庫返済をすると他の国会議員よりも毎月の手取り額は5万円程少なくなりますからお土産を用意する負担も大きく、「割り勘」や「全額当方負担」を徹底し続けたことは、相当に苦しいものでした。
関連事業者の労働組合との意見交換会にも応じていましたが、割り勘金額が相当に高額で、話題は総務省への不満ばかりで激しく責め立てられ、泣き出したいほどに辛い席でした。それでも、苦情を伺うのも政務3役の仕事だと思って耐えてきました。
NTTに対しては、先方と取り決めた「割り勘」の会費を超えるような食事や飲み物が出されていたとしたら約束違反ですので、早急に明細単価を調べていただき、仮に『週刊文春』の記事にあるように差額が生じるのであれば、今日中にお支払いする旨をお伝えしてあります。
今回の記事を読んで、「行政の公正性」に特に注意を払ってきた者として、悔しくてなりません。 
 3/11

 

●高市前総務相、許認可に「決裁は局長」と主張 総務省「法的名義人は大臣」 3/11 
NTT側からの接待問題で、高市早苗前総務相は自身のホームページ(HP)で、NTT幹部との会食は接待ではなかったとの見解を示した上で「大臣も副大臣も『通信事業の許認可に直接関わる』ことなどない」と主張した。NTTに関わる許認可の多くは総務相ではなく局長決裁であることを強調した形だが、総務省の担当者は本紙の取材に「許認可の法的な名義人は総務相だ」と説明した。
高市氏はHPで「『最終決裁』をするのは、大臣や副大臣ではなく局長だ」と指摘。総務相在任中に自身が決裁したのはNTTの役員人事の1件のみとした。
総務省によると、通信事業に関する許認可の多くは局長が決裁することになっている。一方、電気通信事業法では許認可の多くは総務相が行うと定めている。総務省の担当者は「規則に従って局長が大臣名義で決裁している」と説明する。
高市氏の事務所は、総務相の許認可権に関する本紙の質問に「法的な名義人は総務相であっても『許認可に直接関わること』はない」と回答した。 
●野田氏や高市氏ら、会食認める NTT接待問題  3/11
総務省の政務三役在任中にNTT側から接待を受けたと週刊文春に報じられた自民党の野田聖子幹事長代行ら4氏は、いずれも会食の事実を認めた。その上で、国民の信頼や政治的中立性の確保を目的とする大臣規範には抵触していないという認識を示した。
野田氏は11日、党本部で取材に応じ、総務相だった2017年11月にNTTドコモの立川敬二元社長と、18年3月にNTT西日本の村尾和俊社長(当時)らと会食し、自らは費用を支払わなかったと説明。2回とも自身の選挙区である岐阜県関係者の集まりだったとして「仕事の話はほとんどしていない」と強調した。
相手が現役の経営幹部だった18年の会食に関しては、大臣規範に抵触するという疑念を招きかねないと判断。飲食代に当たる約2万6000円を返金したと明らかにした。
高市氏は10日、自身のホームページで、総務相時代の19年12月と20年9月の2回、NTTの澤田純社長らと会食したと公表。「『完全割り勘』以外での会食はできない旨は先方に伝えた」と記し、提示された会費1万円を支払い、1万6500円分の土産も渡したと主張した。「許認可等に関する依頼を受けたことは皆無だ」とし、事業に関する決裁は局長までで完結しており、自身は関わっていないと指摘した。
総務副大臣だった坂井学官房副長官と寺田稔衆院議員も11日、それぞれの議員事務所を通じ、自己負担なく会食したことを認めた。両氏とも便宜を図るよう依頼されたことはないと説明。寺田氏は飲食代約2万4000円を返金した。 
●“元総務相らもNTTと会食”報道 野田氏ら接待ではないと認識 3/11
総務省の接待問題に関連して「週刊文春」は、総務大臣を務めた自民党の野田聖子幹事長代行や高市元政務調査会長らが、在任当時にNTTの社長らと会食していたなどと報じました。野田氏と高市氏はいずれも会食の事実は認めた一方、接待は受けていないという認識を示しました。
11日、発売された「週刊文春」は、総務省の接待問題に関連して、総務大臣を務めていた自民党の野田聖子幹事長代行と高市早苗元政務調査会長、また総務副大臣を務めていた坂井学官房副長官と寺田稔衆議院議員が、それぞれ在任当時にNTTの澤田純社長らと会食していたなどと報じています。
これについて野田氏は11日午前、党本部で記者団に対し、2017年と2018年の2回、NTTの幹部らと会食したことを認めた一方、「仕事の話はしておらず、政務と切り分けていたので、総務省とは関わらないプライベートの会合という認識だった」と述べ、接待という認識はなかったという考えを示しました。そして、会食費用の一部はNTT側が負担していたことが明らかになったとして、その分の費用を支払ったと説明しました。
また、高市氏は自身のホームページに見解を掲載し、会食があった事実は認める一方、「大臣在任中は関連事業者などとの会食は、割り勘にするか全額を自身が負担する対応を徹底していた」として、指定された会費を支払ったうえ土産も持参しており、接待は受けていないと反論しています。そして、会食の場で、NTTから許認可などに関わる依頼を受けたことはないとしています。
坂井副長官は「2018年6月29日にNTT側と会食したことは事実だ。篠原弘道会長から『知人を紹介する』という誘いを受けて会食した。飲食代は相手側の支払いで、金額は聞いていない。その場では総務省の業務に関する要請や要望は全くなかった」とするコメントを出しました。
寺田氏は自身の事務所を通じて「NTTの関係者と会食したのは事実であり、飲食代は相手側が支払った。すでに副大臣を退任することが決まっていた時期で、その慰労会という認識で参加した。NTT側には『飲食代を支払いたい』と伝えている」とコメントしています。
NTTは「日頃から意見交換のためにさまざまな方との会食は行っているところではあるが、個別の国会議員との会食については回答を差し控える」とコメントしています。また、社長らと政治家との会食を調査するかどうかについては「意見交換を目的としているので、大臣を含めて政治家との会食には法的な問題はないと認識しており、今のところ調査の対象とはならない」としています。
加藤官房長官は、午前の記者会見で「坂井官房副長官からは、NTTの篠原会長から坂井氏の学校の先輩を紹介していただけるという話があり、会食をしたと聞いている。その際には、職務に関連する依頼などの話はなかったとのことだ」と述べました。また記者団が「NTT側が費用を負担したとのことだが『大臣規範』などに照らして適切と言えるのか」と質問したのに対し「『大臣規範』は、公職にあるものとしての清廉さを保持し、政治と行政への国民の信頼を確保する観点から定められたものだ。個々の行為が国民の疑惑を招くような行為にあたるかについては、各国務大臣などが具体の事案に則し、趣旨を踏まえ適切に判断すべきものと考えている」と述べました。また「単純収賄罪にはあたらないのか」という質問に対しては「個々の事案に応じて判断されるべきものと承知している」と述べました。
自民党の岸田前政務調査会長は、記者団に対し「国会議員の会食は、国家公務員倫理法とは別の視点で適切かどうかが大事で、大臣であれば、大臣規範に照らしてどうなのかを見る必要がある。誤解を招かないよう説明責任を果たすことが大事だ」と述べました。
参議院予算委員会の理事会では、野党側が、報じられた内容の事実関係をただす必要があるとして、総務大臣を務めた自民党の野田幹事長代行や高市元政務調査会長らを12日の委員会に参考人として招致するよう求めたのに対し、与党側は持ち帰って対応を検討する考えを示し、引き続き協議することになりました。
また衆議院予算委員会でも、総務省幹部とNTTの澤田社長らによる接待問題をめぐって与野党の筆頭理事が会談し、来週16日の午前中に予算委員会を開き、澤田社長を参考人として招致し質疑を行うことで合意しました。
一方、野党側は、衛星放送関連会社「東北新社」の社長や「東北新社」に勤める菅総理大臣の長男の参考人招致も求めましたが折り合わず、協議が続けられることになりました。
公明党の北側副代表は、記者会見で「職務の執行に疑念をもたれないことが極めて大事だ。行政側の職にある人は大臣も含め、疑いが指摘されたなら、しっかり説明責任を果たしてもらいたい」と述べました。
国民民主党の玉木代表は記者会見で「政治家はいろいろな人と会食するが、違法かどうかについては、職務権限や会食の状況、支払いしたかどうかなどで総合的に判断する必要がある。まずは本人が説明すべきだ。そのうえでNTT側からもどういう意図で誰に対して接待したか、説明を求めたい」と述べました。
●野田氏「プライベートな会合」、高市氏「割り勘」…「接待」は否定 3/11
NTTによる総務省幹部らへの高額接待問題は、歴代の総務相らにも拡大した。週刊文春の報道に対し、自民党の野田聖子幹事長代行と高市早苗衆院議員は総務相在任中にNTT側と会食したことを認める一方、「接待」は受けていないと反論した。
参院予算委員会で答弁する武田総務相(11日、国会で)参院予算委員会で答弁する武田総務相(11日、国会で)記者団の質問に答える自民の野田幹事長代行(11日、党本部で)記者団の質問に答える自民の野田幹事長代行(11日、党本部で)
野田氏は11日、党本部で記者団に対し、2017年に元NTTドコモ社長の立川敬二氏らと、18年に当時NTT西日本社長だった村尾和俊氏らと会食したことを明らかにし、「政務と切り分けていたので、総務省とは関わらないプライベートな会合という認識だった」と説明した。2回の会食のうち、支払ってもらった1回については会食費約2万6000円を返金したという。
高市氏は11日、読売新聞の取材に対し、19年12月と20年9月にNTTの澤田純社長、島田明副社長らと会食したと説明。いずれも、NTT側に指定された会費1万円を支払い、1万6500円分の土産を渡したという。警護官と運転手の弁当代など、実際にNTT側が負担した金額との差額についてはすでに返金したといい、高市氏は「許認可に関する依頼は受けていない。割り勘になるよう対応しており、接待を受けたとは理解していない」と強調した。
このほか、坂井学官房副長官と自民党の寺田稔衆院議員も総務副大臣在任中にNTT側と食事をしたことを認めたうえで、通信行政への働きかけを否定している。
これに対し、野党は11日の参院予算委員会の理事会で、野田、高市両氏らの参考人招致を求めた。
また、野党はこの日の参院予算委で、武田総務相がNTTから接待を受けていたかどうかを問いただした。前日の参院予算委は、武田氏がNTTとの会食の有無を答えなかったことで、審議が中断し、そのまま散会していた。武田氏はこの日も「個別の事案に答えるのは控えるが、国民の疑念を招くような会食や会合に応じたことはない」と明言を避けた。ただ、第三者による検証委員会の調査については「政務三役も含めてしっかり調査する」と述べ、総務相経験者ら歴代政務三役も対象とする考えを示した。
一方、衆院予算委員会の与野党筆頭理事は11日、16日に予算委を開き、NTTの澤田社長を参考人として招致することで合意した。
●総務省 政務三役の会食調査 “第三者委に要望伝える” 総務相 3/11
総務省の接待問題に関連して、参議院予算委員会で、野党側が、総務省の政務三役と、NTT側との会食の有無などを明らかにするよう求めたのに対し、武田総務大臣は、省内に設置する予定の第三者委員会に要望を伝える考えを示しました。
11日開かれた参議院予算委員会で、野党側は、総務省の接待問題に関連して、武田総務大臣がNTT側と会食したことがあるかただしました。
これに対し、武田大臣は「個別の事案に一つ一つ答えるのは控えたい。国民から疑念を招くような会食や会合に応じたことはないし、引き続き、みずからを律し、職務に専念していきたい」と重ねて述べました。
そのうえで、野党側が、総務省の政務三役がNTT側と会食したかや、会食が行われた場合の費用負担などを明らかにするよう求めたのに対し、武田大臣は「第三者のチェック機関である調査委員会に、国会での指摘を伝え、調査範囲を含めて、指導をいただきながら進めていきたい」と述べ、省内に設置する予定の第三者委員会に要望を伝える考えを示しました。
加藤官房長官「つまびらかにするのは適切ではないと判断」
加藤官房長官は午後の記者会見で、武田総務大臣の参議院予算委員会での答弁について「それぞれの政治家がいろいろな活動をしているわけで、それを一つ一つつまびらかにするのは適切ではないという判断だろう」と述べました。
また記者団から「疑念を抱かれることにはならないか」と質問されたのに対し「議論を突き詰めると、全部話をすることにもなりかねないのではないか。一方で、もちろん疑念を持たれないことは大事だ」と述べました。
●野田氏会食認める 総務大臣時代に 接待は否定 3/11
接待ではなく、プライベートな会合だったと強調しました。自民党 野田幹事長代行「当時、政務と切り分けていたので、当然、当時の総務省に全く関わらないプライベートな会合という認識」自民党の野田聖子幹事長代行は、一部週刊誌で総務大臣在任中にNTT側から接待を受けていたと報じられたことについて、2回の会食を認めた上で、接待との認識はなく、費用は返金したと述べました。また、総務副大臣時代にNTTの幹部から接待を受けたと報じられた坂井官房副長官も、会食の事実を認めた上で、「業務に関する要請や要望は全くない」とのコメントを発表しました。こうした一連の接待問題を巡り、武田総務大臣はきょう国会で、官僚だけでなく大臣や副大臣、政務官の政務三役も対象として総務省の検証委員会で調査する考えを示しました。
●武田総務相、NTTと会食答えず 歴代政務三役も検証対象 3/11
武田良太総務相は11日の参院予算委員会で、NTTとの会食があったかどうかを問われ「個別の事案に答えるのは控える。国民の疑念を招くような会食や会合に応じたことはない」と重ねて述べた。総務省幹部への違法接待に関する検証では、総務相経験者ら歴代の政務三役も対象とする意向を表明。第三者による検証で「徹底的に真相究明を進める」として、作業の公正性を強調した。
総務省は違法接待問題を受けて、検事経験のある弁護士ら有識者で構成する第三者委員会を設置する予定。野党は、NTTとの会食報道で名前が挙がった中に、検証委トップ就任予定の副大臣がいると指摘した。 
●総務相、NTTとの会食の有無答えず「疑念招くような会合に応じていない」 3/11 
武田総務大臣は11日の参院予算委員会で、NTT側との会食があったかどうかを問われ、「個別の事案に答えるのは控える。国民の疑念を招くような会食や会合に応じたことはない」と答弁しました。
「なぜ、大臣はNTTとの会食があったかどうかの事実だけでも明言できないのでしょうか」(共産党 岩渕友参院議員)
「個別の事案一つ一つにお答えするのは控えさせていただきたいと思います。しかし、私は国民の皆さんから疑念を招くような会食や会合に応じたことはございません」(武田良太総務相)
武田総務大臣は野党の質問に繰り返しこう答弁し、NTT側との会食の有無については直接の言及を避けました。また、総務省の幹部への違法接待に関する検証では、総務大臣経験者ら歴代の政務三役も調査の対象とするとの考えを示しました。
一方、NTTは11日発売の週刊文春が、NTTが繰り返し、歴代の総務大臣や総務副大臣・政務官らに接待を行っていたと報じたことについて、「日頃から意見交換のためにさまざまな方との会食は行っているところではあるが、個別の国会議員との会食については回答を差し控えさせていただく」とコメントしました。NTTは、「国会議員との会食は法的な問題がないとの認識で、調査が必要だと考えていない」としています。 
●接待問題政務3役も調査 会食有無明言せず、辞任は否定―武田総務相  3/11
武田良太総務相は11日の参院予算委員会で、総務省幹部に対するNTTからの接待問題に関し、閣僚、副大臣、政務官の政務3役も対象として省内の検証委員会で調査する考えを示した。在任中や退任後に接待を受けた政務3役経験者が多数いると週刊文春に報じられたのを踏まえた対応。共産党の岩渕友氏への答弁。
武田氏は自身がNTTの接待を受けたかどうかについて「国民から疑念を招くような会食や会合に応じたことはない」と重ねて答えたが、10日の質疑と同様に有無を明言しなかった。
一連の接待問題をめぐり野党に辞任を求められていることに対しては、「自ら先頭に立ち、省一丸となってコンプライアンス(法令順守)を徹底的に確保し、国民の信頼回復に努める」と強調し、続投に意欲を示した。立憲民主党の白真勲氏への答弁。 
 3/12

 

●NTTとの会食「岐阜県関係者の集まり」「記事に怒り心頭」野田・高市両氏  3/12
野田氏「総務省と関わらないプライベートな会合と認識」
―事実関係は。
「2017年(の会食)は岐阜県人会有志の先輩たちが懇談会をしようということで、NTTドコモ元社長もその1人だった。ただ20年ぐらい前の社長で、当時は既に引退され、NTTの籍もない。支払いも個々人、別々だった。話の内容は県人会の話ばかりだった」
「18年の会食(相手)は初当選以来、30年近く友人として付き合っているNTT西日本社長。(選挙区の)岐阜の支店長が交代するたび、引き合わせくれた。仕事についてはほとんど話していない。社長が年長ということで支払ってもらっていたことが分かり(報道後に)金額を問い合わせ、私の分の2万6150円を振り込んだ」
―18年の会食では、何か便宜を図るよう頼まれたか。
「いえ。常に(岐阜の)支店長が代わるたびに紹介されていた」
―関係業者からの供応接待を禁じる国務大臣規範に違反していなかったという認識か。
「政務と切り分けており、当然、総務省と全く関わらないプライベートな会合という認識だった」
高市氏「大臣も副大臣も許認可に関わることはない」
週刊文春の記事を一読したが怒り心頭だ。私は「接待」は受けていない旨、取材者に明確に文書で回答した。大臣も副大臣も「通信事業の許認可に直接関わる」ことなどない。そもそも「決裁」していないのだから。事業に係るものの「最終決裁」をするのは局長。案件の説明すら受けていない。
NTTの澤田(純)社長らと会った時にも、私の個人的な関心事項であるサイバーセキュリティーについて、専門知識を教えていただいていた。先方から、総務省の認可権に係る頼み事の話題が出たことは皆無だ。
大臣在任中には、総務省関係団体や関係事業者と、会食を伴う意見交換(全て「割り勘」か「全額当方負担」)は度々あった。それも、政務三役の仕事だと考えたからだ。NTTに対しては、先方と取り決めた「割り勘」の会費を超えていたら約束違反なので、早急に単価を調べていただき、差額が生じるのであれば支払う旨を伝えている。今回の記事を読み、「行政の公正性」に特に注意を払ってきた者として悔しくてならない。 
●民放テレビ局とは倫理法違反なし 3/12
政府は12日の閣議で、総務省が幹部接待問題を巡り国家公務員倫理審査会に報告した調査の過程で、民放テレビ局との間では国家公務員倫理法に違反する事実が確認できなかったとする答弁書を決定した。日本維新の会の鈴木宗男参院議員が提出した質問主意書に答えた。
立憲民主党の岡本充功衆院議員の質問主意書に対する答弁書では、辞職した山田真貴子前内閣広報官の退職手当について「支給されるが、額は個人情報のため差し控えたい」とした。 
●NTT接待、自民に拡大 野田・坂井氏ら会食認める  3/12 
NTTによる総務省幹部の高額接待問題で、自民党の野田聖子幹事長代行、坂井学官房副長官、寺田稔衆院議員は11日、総務相や総務副大臣の在任中に同社側から接待されたとの週刊文春の報道を受け、会食は事実とそれぞれ明らかにした。高市早苗前総務相は既に会食を認めている。行政への信頼を揺るがす接待問題は、同党の政務3役経験者にも波及し、底なしの様相を呈している。
閣僚、副大臣、政務官の政務3役の規範は、接待に関し「国民の疑惑を招くような行為をしてはならない」と定めている。野党は野田氏らの国会招致を要求し、行政がゆがめられていないか徹底追及する構えだ。
野田氏は11日、党本部で記者団の取材に応じ、総務相だった2017年に立川敬二NTTドコモ元社長ら、18年に当時の村尾和俊NTT西日本社長らと東京都内のレストランで会食したと明かした。ただ、2回とも「仕事の話はほとんどしていない。総務省が全く関わらないプライベートな会合」と主張。2回目は費用を負担してもらったが、約2万6000円を既に返済したと語った。
総務副大臣を務めていた坂井氏はコメントを出し、18年に篠原弘道NTT会長と会食したと報告。「飲食代は相手側の支払い。業務に関する要請や要望は全くなかった」と説明した。坂井氏は菅義偉首相の側近として知られる。同じく副大臣だった寺田氏の事務所は取材に、20年の澤田純NTT社長からの接待を認めた上で、費用約2万4000円は返済すると説明した。
高市氏は10日、19年と20年の澤田氏との会食を認め、割り勘と認識していたとして不足分を支払う考えをホームページで明らかにしている。
立憲民主党は11日、野田、高市両氏らを参院予算委員会に参考人として招致するよう要求。自民党は即答を避けた。両党は15日の参院予算委に続き、16日の衆院予算委でも澤田氏の参考人質疑を行うことでは合意した。
一方、武田良太総務相は11日の参院予算委で、検察官経験者らを委員に近く発足させる検証委員会に対し、NTTと政務3役の会食も調査するよう求める考えを示した。「政務3役を含めてしっかりと調査するよう(検証委に)報告したい」と述べた。自身の会食の有無に関しては「国民から疑念を招くような会食や会合に応じたことはない」と10日の説明を繰り返し、明言を避けた。  
●山田元内閣広報官が失った「上級国民」生活 3/12
続投方針から一転して辞任へ。菅義偉総理の長男・正剛氏から高額接待を受けていたことが発覚した山田真貴子元内閣広報官の処遇を巡って演じられたドタバタ劇。表舞台から去ることになった彼女が失った、「上級国民」生活と、華麗なる「国会議員転身計画」――。
指導者に求められる重要な資質の一つとして「常に泰然としていること」があげられよう。頻繁に感情を露わにする「上」、例えば会社の上司の言葉に説得力が伴うはずはないし、自身が感じている焦りや不安を隠すことができない上司には誰もついていかないはずである。「上」が焦りや不安を隠せなければ、「下」は混乱するばかりだ。
そうした点から見ると、「ぶら下がり会見」の場でいら立ちを隠すことができなかった菅総理の、指導者としての資質には疑問符を付けざるを得ないのではないか。NHKの中継映像によって「いら立つ総理」の姿をリアルタイムで目撃し、複雑な感情を抱いた方も多かったに違いない。
菅総理が会見の場で思わず感情を露わにしてしまった背景に、総理の長男・正剛氏が勤める放送事業会社「東北新社」による総務省幹部らへの接待問題があるのは間違いない。この問題は「週刊文春」の報道によって発覚し、10人以上の幹部が処分される事態に発展。中でも、総務省の調査によって2019年、総務審議官時代に正剛氏らから接待を受けていたことが分かった山田真貴子元内閣広報官(60)のケースは、いくつかの要素で注目を集めた。
一つは、1人あたり7万4203円もの高額接待だったこと。もう一つは、彼女が「菅銘柄」として知られていたことである。菅総理が強い影響力を誇る総務省で要職を歴任し、13年、第2次安倍内閣で女性初の首相秘書官に抜擢された山田氏。菅政権が誕生すると、内閣の「顔」である内閣広報官に取り立てられた彼女は、接待問題の発覚を受けて2月25日の衆院予算委員会に出席、野党議員から批判の集中砲火を浴びた。その場では、彼女が以前、動画メッセージで「飲み会を絶対に断らない女としてやってきた」と語っていたことまでやり玉に挙げられたのである。
そして迎えた翌26日、緊急事態宣言の一部地域の先行解除に伴い、内閣記者会は総理の記者会見を要望したが、総理はこれを拒否。代わりに行われたのが冒頭で触れた「ぶら下がり会見」である。記者会見を開くとなれば、山田氏が司会を務めざるを得なくなる。それゆえ「ぶら下がり」にして「山田隠し」を図ったのでは、とも言われたが、会見で総理は、「山田広報官のことは全く関係ない」と断言。その後、記者からの質問に答えるうちにいら立ちを隠せなくなり、眉間にしわを寄せ、声を荒らげる場面も。そして最後は「同じような質問ばかりだ」と捨て台詞を吐いて立ち去ったのである。
国民が注視する場で「泰然」とは正反対の態度を晒してしまったわけだが、やはり指導者に求められる資質である「判断力」に関してはどうか。会見では山田氏を続投させる方針に変わりがない旨を述べていた菅総理。しかしその3日後の3月1日、急遽、彼女は内閣広報官の職を辞することとなったのだ。
「前日の2月28日、山田さんは菅総理や加藤勝信官房長官に連絡し、体調を崩して入院したので職責を続けられない、と伝えています。総理は“やむを得ない”として了承したそうです」と、自民党関係者。
「山田さんは過去に大病を患っています。で、体調が万全ではない中、野党からの集中砲火を浴びて強いストレスがかかり、入院しなければならないほど体調を崩した。山田さんとしてはもっと早く辞めたかったようですが、入院前の段階では菅さんが首を縦に振らなかったようですね」
どうやらその「判断力」にも疑問符を付けざるを得なさそうだが、全国紙の政治部デスクによれば、「体調不良が理由だと官邸は言っていますが、世論の反発を受け、週末になって続投は無理だという判断に傾いたのでしょう。体調不良で入院ということにすれば、野党も批判しづらくなりますからね」政治部記者も言う。
「体調不良が本当なのかどうかはさておき、記者たちから同情する声は全くあがっていません。彼女は広報官なのに総理番記者などと積極的にコミュニケーションを取ることはなく、嫌われていました」
山田氏は東京学芸大学附属高校を経て、早稲田大学法学部を卒業。旧郵政省に入ったのは、1984年のことである。
「コミュニケーション能力が高く、気配りができる人物として菅さんなどに引き上げられ、ついに内閣広報官というポストについた人物です。仕事には厳しく、非常に細かいところまで部下を“激詰め”することで知られています」と、総務省関係者。
「総務省の本流である旧自治省出身ではなく、また、私大出身という“ハンデ”を抱えながら、典型的な男社会の中を生き抜き、ナンバー2の総務審議官という頂点に近いところまで出世した。能力が高いだけではなく、上昇志向も強い人だと認識しています」
総務省OBはこう話す。
「彼女は新人の頃から上の人間にも物おじせずに堂々としていて、優秀でした。しかし、いくら優秀だからといって、最終的に情報流通行政局長や総務審議官にまで昇進するとは思ってもみなかったですね」
プライベートでは20代の時に結婚するも、離婚。その後、旧郵政省の3年後輩だった吉田博史氏と再婚し、長男をもうけた。ちなみに夫の吉田氏は、接待問題で官房付に飛ばされた秋本芳徳氏の後ガマとして先ごろ、情報流通行政局長に就任している。
「山田さんは04年に総務省から出向して東京・世田谷区の助役となり、07年には一時、副区長も務めています」(同)
08年に毎日新聞に掲載された、彼女を紹介する記事にはこうある。
〈日曜日は少年野球に出かける息子のため、早起きしておにぎりを握る。母親同士の交流も貴重な情報交換の場。「生活者であることと、世の中に役立つ仕事をすることは密接な関係にある」〉
では、彼女はいかなる「生活者」だったのか。
「彼女は05年に東京のど真ん中、千代田区内に新築された高級マンションを夫と共有で購入しています。販売時価格で8600万円。1250万円のローンを組み、それを5年で完済している。その部屋の現在の価格は1億1千万円を超えています」(不動産業界関係者)
“飲み会を断らない”のは事実だったようで、「ある政治家がセッティングした飲み会に飛び入りで参加しているのを見たことがあります。急に誘われて、“行きます”と応じたようです」(永田町関係者)
また、山田氏が参加した別の飲み会では、「途中で“いいワイン開けちゃおう”という話になって数万円する高級ワインを飲むことになった。普通なら形だけでも“いやいや”と遠慮するところですが、全くそんな素振りも見せずに飲んでいた。彼女はワインに詳しいので、それがどれくらいの値段のものかも分かっていたはずです」(同席者)
なるほど、庶民がうらやむ「上級国民」のような生活を送っていたわけである。
「山田さんはかなり早い段階から菅さんに目をかけられていたようです。第2次安倍政権時代に女性初の首相秘書官として推薦したのも、もちろん菅さんでした」と、先の全国紙デスク。
「ただし、彼女は秘書官就任後、2年もたたずに総務省に戻されている。その理由は、官邸を陰で牛耳っていた今井尚哉(たかや)前首相秘書官に嫌われたからだというのは有名な話。当時、広報のやり方を巡って両者の意見が食い違ったことが発端だったようです」
山田氏自身、菅総理に引き立てられている、との認識は持っていたようで、「(菅総理は)男らしい人。決断したらぶれない、とことんやる」
昨年、親しい知人に対してそんな「菅評」を開陳している。しかし、必ずしも「菅一筋」ではなく、先の永田町関係者によると、「17年から18年にかけて野田聖子さんが総務大臣を務めていた時は、野田さんのことを姉御のように慕っていました」
そんな山田氏が大きな転換点を迎えたのは、野田総務相に忠誠を尽くしていた時期の少し前のこと。
「世田谷区の助役、副区長を務めた経歴から、15年に行われた世田谷区長選の候補に推す声が上がったのです。選挙の相手は、社民党の衆院議員から区長に転じていた保坂展人氏です」と、政府関係者。
「自民党からは“その後の国政進出含み”で打診がなされ、彼女は大いに悩んだようです。しかし、最終的には、自民党から“絶対に勝たせる”との確約が得られなかったことを理由に、出馬を断念しました」
そうした過去があるため、「山田氏は菅政権でしばらく内閣広報官を務めた後、自民党の候補として国政選挙に挑むのではないか、という見方もあった」(同)
しかし、そんな「華麗なる国政転身計画」も、今回の一件で消滅。内閣広報官の月額報酬117万5千円、2千万円は超えると見られる年収を失うなど、「7万4千円接待」の代償はずいぶん高くついたのだ。
「今回の件は、“総務省で人事権を振りかざす菅恐怖政治の歪み”以外の何物でもない。幹部たちに甘さがあったのは間違いありませんが、彼らが菅さんの長男の接待を断れるはずがないのです」(同)
政治アナリストの伊藤惇夫氏も言う。
「総務官僚たちは東北新社の接待を断れないどころか、喜んで応じていたかもしれません。それによって菅総理の覚えがめでたくなる、などと思ったのではないでしょうか」
官僚たちを恐怖で支配し、会見では記者にいら立ち、度々判断を誤る。コロナ禍の世間に充満する「呆れ」にも似た空気は果たして、本格的な「菅おろし」に繋がるのか否か――。  
●「7万円の和牛ステーキ」接待が話題 企業の「交際費」 3/12
総務省を中心とした接待問題が大きな話題になっている。例えば、山田真貴子・元内閣広報官は、総務審議官だった2019年に、東北新社に勤める菅首相の長男らから、1人7万円の和牛ステーキや海鮮料理などの接待を受けていた。
接待された側の話に注目が集まりがちだが、一般論として、接待費は企業内でどう処理されているのか。多くなればなるほど、節税につながるのか。冨田建税理士に聞いた。
接待などの交際費はどのような扱いになるのか。
「企業の支払う取引先との宴会・贈答品等、『今後の売上獲得のための付き合いの負担』等である交際費は、決算上では『稼ぎの獲得のための犠牲』ですから費用として計上すべきです。しかし、交際費を無尽蔵に『税金計算上の経費』、つまり、『損金』として認めると『税金を多く払う位なら、自分達の宴会に好き勝手に使った方がよい』と考える企業も現れます。これでは真面目に頑張っている企業と比べ不公平ですので、交際費は決算上では費用と扱う一方で税金計算上では『損金として計上できるのは一定限度額まで』とされ、限度額を超える部分は、決算上の稼ぎから税務上の稼ぎを計算するための調整項目の一つとされます。実は、『法人の決算上の稼ぎに一定の調整をして税金計算上の稼ぎを算出し、法人税等の税額を計算したもの』こそが法人税申告書なのです。ですので、法人の交際費の調整は法人税申告書上でなされます」
限度額はどう決まるのか。
「『期末の資本金の額又は出資金の額が1億円以下である等の法人』か否かで扱いが異なり、該当する法人の1年分の申告の場合は800万円以下であれば全額損金にできる一方で、該当しない法人は一定の算式で計算された額は損金算入できない等、損金算入できる限度額は企業規模で異なります。また、中には交際費と言えるかが微妙な支出もありますので、迷ったら税理士に相談するとよいでしょう」
今回の接待問題をどう考えているか。
「東北新社が適切に交際費として計上し申告したならば、『税務上の観点』からは問題はありません。また、会社が負担する交際費とするかは内規に基づき処理する事が通常でしょう。もっとも、税法的には適切でも、社会的に許されるかは別問題。このような不祥事は厳しく糾弾されるべきでしょう。ただ、それを政争の具として政治を停滞させる事も問題です。有権者としては、不祥事に目を光らせつつも、存在アピールのために過剰に囃し立て他では何の貢献もできていない一部の議員にも厳しい目を向けるべきでしょう」
●東北新社NTTの次はテレビメディア 3/12
「国民から疑念を抱かれるような会食、会合に応じたことはない」「山田広報官から抗議の電話を受けた事実はない」日本語の言い回しに注意が必要だ。
2012年3月9日に自民党が“The Fax News”で「TPPについての考え方」を発表した。
このなかに、「国の主権を損なうようなISD条項は合意しない。」と明記された。しかし、自民党が推進したTPPにはISD条項が盛り込まれた。
ISD条項とは、外国政府の差別的な政策により何らかの不利益が生じた場合、投資家(Investor)である当該企業が相手国政府(State)に対し、差別によって受けた損害について賠償を求める(Dispute)権利を与えるための条項。
その裁定は世銀傘下の仲裁センターが行い、国家といえども、その決定に服さなければならない。従って、ISD条項は国の主権を損なうものだ。自民党公約はISD条項が国の主権を損なうものだから、合意しないと読み取れる。ところが、自民党はこれを否定した。
「国の主権を損なうようなISD条項」に反対するが、「国の主権を損なわないようなISD条項」には合意すると主張した。結局、TPPにISD条項が持ち込まれた。
「人の命を奪うような殺人を許さない」として、「人の命を奪わないような殺人」は許容するというのと同じ。
総務省官僚が受けた違法接待問題が拡大し続けている。谷脇前総務省総務審議官はNTTなどからの接待を受けたことの有無について、「東北新社以外から違法な接待は受けていない」と答弁していた。
ところが、NTTからも接待を受けていたことが明らかになった。山田真貴子前内閣報道官も同じ。総務省は違法接待問題について調査を行い、その結果を国会に報告してきたが、その調査も虚偽であったことが判明している。
国会は国権の最高機関だ。しかし、国会における発言、答弁に虚偽が散りばめられている。国会審議そのものが冒とくされている。
国会での質疑においては「修飾語を付した事実確認」をやめるべきだ。「今朝、ごはんを食べたか」「今朝、ごはんは食べていない」では事実を確認できない。「今朝、食事をしたか」でもだめ。「食事はしていない」が「パンと牛乳は口にした」というかもしれない。「今朝、何らかのものを口に入れたか」と聞くしかない。
武田総務相は3月10日の参議院予算委員会で「国民から疑念を抱かれるような会食、会合に応じたことはない」と答弁したが、立憲民主党の白真勲氏が「国民に疑念をもたれなくても会食した事実はあるか」と問うと、「どなたと会ったか聞かれてすべて答えるのもいかがなものか」として答弁を拒絶した。
重要なことは事業者と会食または面会の事実があるのかどうかだ。「疑念をもたれる」という修飾語を付ければどうにでも言い逃れできる。武田良太総務省が辞任に追い込まれる日は遠くないだろう。
中央官庁の公務員までもが、国会で虚偽答弁を平然と行うようになっている。永田町の堕落、霞が関の堕落は目を覆うばかり。その背景に安倍内閣の堕落があった。国会で平然と虚偽答弁を繰り返した。桜を見る会前夜祭における飲食は参加者各個人とホテルによって契約が交わされた。安倍事務所は一切関与していない。安倍晋三氏は繰り返した。ところが、実際には安倍事務所がホテルと契約し、支払いを行っていた。前夜祭の費用は参加費で賄いきれず、安倍氏の資金管理団体が不足分を負担していた。政治資金規正法違反、公職選挙法違反事案だ。政治権力と癒着する検察は安倍晋三氏を不起訴にしたが、検察審査会に審査が申し立てられた。
検察審査会は二度の起訴相当議決で安倍晋三氏を起訴すべきだ。安倍氏は「息を吐くように嘘をつく」と言われた。
内閣総理大臣が平気で嘘をつき通す姿を見て、公務員は安心して嘘をつくようになった。佐川宣寿元財務省理財局長も嘘をつき通した。その陰で、何の罪もない前線の職員が死に追い込まれた。
日本の病巣が政治屋と官僚機構の幹部に宿る。NHKに抗議の電話を入れていないかもしれないが、NHK関係者に何らかの連絡を入れた可能性は否定されていない。NHK会長は「抗議の連絡は受けていない」と述べたが、連絡が何もなかったかどうかについて答えていない。
総務省幹部は衛星放送について会話したかどうかについて問われて「記憶にございません」と答えていた。実際には衛星放送に関する生々しい会話がなされていた。音声データという決定的証拠が突き付けられるまで真実を語らない。「記憶にございません」は嘘にならないぎりぎりの逃げ道だ。それでも「息を吐くように嘘をつく」よりははるかにましだ。
国会における発言について、虚偽答弁を容認する現在の法体系を修正すべきだ。国会における虚偽答弁、虚偽発言に罰則を設けるべきだ。そうでなければ、国会は無法地帯になる。
?の上に嘘を塗り固めて答弁がなされる。疑惑は晴れず、野党は追及を続ける。
同じ問題に長時間をかけるのはけしからんと主張する者がいるが、けしからんのは、嘘をつき続ける議員、大臣、公務員だ。法改正に時間がかかるなら、虚偽答弁が許されない証人喚問を多用すべきだ。証人喚問を軽々に用いるべきでないとの主張があるが、国会が嘘まみれになっているのだから、国会浄化のために証人喚問の多用はやむを得ない。公務員も証人喚問で招致すべきだ。
追及をする側も、修飾語なしの質問をし、修飾語なしの答弁を求める必要がある。答弁する側は、修飾語なしで、事実をありのままに述べるべきだ。多くの疑惑は週刊誌が決定的証拠をつかんでいることによって明らかにされている。
週刊誌報道がなければ、何の追及も実現していないという面が強い。重大問題が明らかになり、国会で追及することになっても、テレビ放送が行われないこともある。予算委員会審議はすべてテレビ中継を行うべきだ。与党が首を縦に振らないなら、野党は審議拒否で対抗すべきだ。与党が批判するなら、国民に、「与党がテレビ中継を拒絶している」から審議拒否を行うと説明すべきだ。国民はテレビ中継を拒絶する与党を批判する。東北新社による違法接待問題はNTTに波及したが、次はNHKとテレビ、新聞のマスメディアによる違法接待問題に移る。
テレビ局幹部による違法接待の事実が明るみに出れば影響は甚大だ。
●東北新社子会社の衛星放送事業を認定取り消しへ  3/12
武田総務大臣は12日朝の会見で「東北新社」の衛星放送事業に関し、外資規制違反により認定を取り消す考えを示しました。  武田総務大臣:「当該認定の取り消しに向けて必要な手続きを進めていくことと致しました」  2016年10月に東北新社が認定を申請した際に外資比率が20%以上あり、放送法に違反したことが理由です。  この申請は2017年1月に認定されていて、武田大臣はこの認定を「重大な瑕疵(かし)があった」と認めました。  取り消しの手続きに向けて今月17日に、子会社の東北新社メディアサービスの小坂社長に対する聴聞が総務省で行われる予定です。 
●東北新社の虚偽報告決裁 接待受けた総務省官僚、山田氏ら関与  3/12
菅義偉首相の長男正剛氏が勤める放送事業会社「東北新社」側の外資規制違反問題は、衛星放送事業の認定取り消しに発展した。高額接待を受けた山田真貴子・前内閣広報官ら複数の総務省幹部が、認定の決裁に関わっていたことも判明。不自然な形で手続きが進んだ背景に官僚の「忖度」があったという見方は、与野党に広がる。
東北新社は2016年10月に行った衛星放送事業の申請で、外資比率が規制上限の20%未満だと虚偽報告し、総務省の認定を取り付けた。さらに、違反状態のまま新設子会社の東北新社メディアサービスへの事業承継を申請し、17年10月に認定を受けた。この際の最終決裁をしたのが、安倍晋三前首相の秘書官などを務めた後、情報流通行政局長に就いた山田氏だった。この決裁には、接待問題で懲戒処分になった他の複数の幹部も関与した。
東北新社の外資比率は最初の申請段階で20%を超えていたが、総務省が正確な比率を詳しく確認した形跡はない。その後の事業承継も同様だ。武田良太総務相は12日の記者会見で「チェック、審査が十分でなかった」と釈明したが、与野党とも額面通り受け止めてはいない。
自民党の世耕弘成参院幹事長は「見落とすはずがない」と首をかしげた。別の閣僚経験者は「裏に何かないと、こんなことは絶対に起こらない」と指摘する。
野党は、正剛氏の存在により行政がゆがめられた疑惑を追及する。総務省幹部が東北新社の違法申請を知りながら、目をつぶっていたという見立てだ。
それを推察させる事実も12日の参院予算委員会で判明した。総務省の吉田博史情報流通行政局長は、東北新社が「17年8月に外資規制に抵触する可能性があると認識し、総務省の担当者に口頭で伝えた記憶がある」と説明したことを明らかにした。一方、同省の担当者は「報告を受けた覚えはない」と話していることも補足した。
武田氏は「言った、言わないの話になっている」として、近く始める第三者の検証に委ねる意向を示した。 
●高額接待問題で大ブーイングの野田聖子氏に「離党→復党シナリオ」浮上 3/12 
総務相に在任中、NTT(日本電信電話株式会社)から高額接待を受けたことを認めた自民党の野田聖子幹事長代行(60)が、世論から大ブーイングに見舞われている。
野田氏は16日、党本部で行った会見で「週刊文春」が報じた内容を大筋で認めた上で「(NTT側と)仕事についてはほとんど話していない。接待でなく、プライベートの懇談会との認識だった」と反論した。
1回目の支払いは割り勘だったが、2回目はNTT側が負担。文春報道を受けた後、同社側に返済したという。
ところが野党側によると、野田氏の問題は政務三役が関係業者から供応接待を受けることが禁じられた「大臣規範」に抵触するという。
ネットでは野田氏に対して「自分でお金を払わずに飲み食いすることを接待されたというんじゃないの? 野田氏にいわせると違うらしい」「大臣規範に抵触している。完璧にアウト」と批判の書き込みが殺到している。
世間の批判を受け、自民党内の一部からは野田氏の離党がささやかれている。そうなれば緊急事態宣言下の東京・銀座で深夜までクラブを訪れていたことが発覚し離党した松じゅん≠アと松本純衆院議員(70)と同じパターンを取ることになる。
ある自民党議員は「野田氏は郵政民営化法案に反対などして、時の小泉政権から離党勧告が出されて一度、離党しています。その後、安倍政権で復党し、いまじゃ幹事長代行ポスト。この問題の収束に向けて再び離党し、次の衆院選で当選した後、『みそぎは済ませた』と復党するのではないか」と野田氏の離党→復党シナリオ≠解説する。
もしそうなった場合、自民党支持者は野田氏をすんなりと受け入れるのか。 
●野田聖子・高市早苗両氏がNTT側に返金。ともに「接待」は否定 3/12 
NTT側が当時総務相だった自民党の野田聖子幹事長代行や高市早苗衆院議員らを接待していたと週刊文春が報じたことをめぐり、野田、高市両氏らは11日までに自身の飲食代をNTT側に返金した。ただ、会食については「懇談会」「意見交換」などとして接待には当たらないと説明。野党側は野田、高市両氏らの国会への参考人招致を求めている。
同誌は、NTT側が2017年11月〜20年9月にかけて、野田、高市両氏のほか、当時総務副大臣だった坂井学官房副長官、寺田稔衆院議員の4人を延べ6回接待していたと報道。野田、高市両氏には2回、東京・港区にあるNTT関連の会員制レストランで接待が行われたとしている。
野田氏は11日、党本部で記者団に2回の会食を認めたうえで「プライベートな会合という認識だった」と説明。会食は、野田氏の地元・岐阜県の「県人会有志の懇談会」や、NTT西日本の支店長交代あいさつが目的だったとし、「接待」ではなかったとの認識を示した。一方、2回のうち、1回はNTT側の支払いだったとして11日、自らの飲食代2万6150円を返金したと明らかにした。
また、高市氏の事務所によると、会食の前にNTT側に会費を尋ねたところ1万円と伝えられたという。高市氏は、会費とは別に飲み物代なども想定し、2回とも5500円のお土産を会食相手の3人分持参していた。今回の報道を受けてNTT側に2回の会食の会計額を確認。実際にはコース料金だけで1人2万4千円だったといい、支払った分との差額分として計7万3885円を10日に支払った。
高市氏は10日に自身のホームページで大臣在任中は、総務省の関係団体や関係事業者と会食を伴う意見交換をする際は全て「割り勘」とするか、全額を負担していたとして「『接待』は受けていない」と反論。「先方と取り決めた『割り勘』の会費を超えるような食事や飲み物が出されていたとしたら約束違反だ」として差額が生じていた場合はNTT側に返金する意思を示していた。 
●民放テレビ局とは倫理法違反なし 総務省接待で政府答弁書 3/12
政府は12日の閣議で、総務省が幹部接待問題を巡り国家公務員倫理審査会に報告した調査の過程で、民放テレビ局との間では国家公務員倫理法に違反する事実が確認できなかったとする答弁書を決定した。日本維新の会の鈴木宗男参院議員が提出した質問主意書に答えた。
立憲民主党の岡本充功衆院議員の質問主意書に対する答弁書では、辞職した山田真貴子前内閣広報官の退職手当について「支給されるが、額は個人情報のため差し控えたい」とした。 
 3/13

 

●会食届け出、5年でわずか8件 総務省、「接待隠し」か 3/13
総務省幹部がNTTなど民間業者から高額接待を受けていた問題で、利害関係者と会食する際に必要な同省内の届け出が過去5年間で計8件しかなく、同様に民間業者との接点を持つ他省庁と比較して非常に少ないことが13日、分かった。実際には幹部が会食を繰り返しており、意図的に届け出をせず接待を隠していた可能性も浮かぶ。
総務省は15日の参院予算委員会で、NTTから接待を受け総務審議官を更迭された谷脇康彦氏=官房付=らに関する追加調査の結果を報告する予定。新たな接待事案が発覚すれば、不信の声がさらに高まるのは必至だ。 国家公務員倫理法は、利害関係者からの接待を禁じる。
●プライベートな会合…野田聖子議員に「言い訳がひどい」の声 3/13
3月18日号の『週刊文春』で、総務相時代にNTTから高額接待を受けていたと報じられた自民党の野田聖子幹事長代行(60)。
記事によると、野田氏が接待を受けたのは2回。17年11月にNTTドコモ社長などを歴任した立川敬二氏から受け、18年3月にも当時のNTT西日本社長だった村尾和俊氏から受けたという。
各メディアによると、野田氏は“接待疑惑”を否定。3月11日に報道陣に向けて、「仕事の話はほとんどしていない。総務省が全く関わらないプライベートな会合」と釈明したという。
また野田氏は立川氏との会食について「岐阜県人会有志の会の先輩たちが懇談会をしようということになった」と説明し、「立川氏はすでに引退していた」「支払いも個人払いだった」とコメント。
いっぽう村尾氏との会食については、「30年以上友人としてお付き合いをしてきた」と説明。また村尾氏が退任することなどから「友人として早めに伝えておきたかったという話や、京都の話をした」とコメント。さらに会食費用の26,150円は、最近になって返金したというのだ。
「NTT法に基づいて事業計画や役員の選任などは、総務省の許認可を受けています。国家公務員倫理規程では、許認可などを受けて事業を行っている利害関係者から接待を受けることは禁じられています。
さらに18年といえば、当時の官房長官だった菅義偉首相が携帯電話料金の値下げに言及し始めた時期。ですが、総務相だった野田氏は『長官に言われたから動くのではなく、常日頃から総務省は取り組んできた』と菅氏をけん制する勢いでした。
野田氏はかたくなに“接待”を否定していますが、会食が行われた場所もNTTグループ会社の会員制ゲストハウス『CLUB KNOX 麻布』。総務相という立場であれば、疑われるような行動は慎むべきだったのではないでしょうか……」(全国紙記者)
「会食はしたが接待ではない」「会費は返金した」と押し通す野田氏。だが、NTTグループ会社のゲストハウスでわざわざ“プライベートな会合”を催す必要はあったのだろうか。彼女の釈明に批判の声が殺到している。
《総務省とNTTはプライベートな関係、つまり身内らしい。それでは、何が問題なのかが分からないわな》 《またまた新手の言い訳が! 仕事の話はなにもない、プライベートとしたらNTTは無駄な金を使っているということ?》 《後から返金すればそれで済むのか。万引きして捕まってから、払うからと言っても許してもらえないだろう。国会議員が法を壊している》 《この言い訳があまりにひどい。 これが大人の言うことでしょうか》 
●NTT政治家接待 3/13
NTTによる総務省をめぐる高額接待は、幹部職員にとどまらず総務相や副大臣ら自民党の政治家にまで及んでいたことが11日発売の『週刊文春』の報道で明らかになりました。名前が挙がった総務相経験者らは会食の事実を認めました。疑惑は文字通り底なしです。閣僚などが関係業者から接待されることは大臣規範に反します。接待の席で職務権限にかかわる話が出ていれば、収賄罪につながりかねない問題です。通信行政がゆがめられた疑いは一層深まりました。国会での徹底解明が急務です。
『文春』によれば、総務相在職中に接待されたのは野田聖子・自民党幹事長代行(2017年11月と18年3月の2回)、高市早苗衆院議員(19年12月と20年9月の2回)です。場所はいずれもNTTグループの迎賓館でした。総務副大臣経験者では坂井学内閣官房副長官(18年6月に1回)、寺田稔衆院議員(20年9月に1回)です。
過去7年間では同迎賓館で接待された総務省政務三役(大臣、副大臣、政務官)経験者は十数人にのぼり、1人の費用は酒代込みで3万〜5万円に設定されていたといわれます。通信行政に関係する自民党政治家がNTT接待にどっぷり漬かった実態が浮かびます。
野田氏は「仕事についてはほとんど話していない」と述べ、高市氏は「(許認可などに関する依頼は)皆無です」などと主張します。しかし、関係業者と接触する際、「国民の疑惑を招くような行為をしてはならない」とした大臣規範に照らせば逸脱は明白です。野田氏は1回分の飲食代を支払わず、坂井、寺田の両氏は全額NTT側の負担でした。武田良太総務相は自らのNTT接待の有無さえ答えません。疑念は膨らむばかりです。
見過ごせないのは、18〜20年の3年間の政務三役への接待が26回と、その前の3年間の3倍近いハイペースだと『文春』が報じたことです。菅義偉首相が官房長官当時、携帯電話料金の大幅引き下げを言い出したのが18年です。競争激化で利益率が業界3位に転落したドコモを、NTTが完全子会社にしてテコ入れする動きを強めた時期にも重なります。
NTT接待で更迭された総務省の谷脇康彦前総務審議官は、接待の席で携帯料金値下げが話に出たことを認めています。首相の看板政策と結びついた疑惑をあいまいにできません。
NTTは政府が株式を保有し、取締役の選任などで総務相の認定を受けます。政府と密接な関係にあるNTTの政治家接待の常態化の大本にメスを入れなければなりません。
総務省は、首相の長男・菅正剛氏が勤務する放送関連会社「東北新社」の衛星放送事業の認定を一部取り消す手続きに入りました。申請時に法律違反があったという理由です。総務省はなぜ違反を見抜けなかったのか。同社から繰り返された接待や菅首相への忖度(そんたく)はなかったのか。謎だらけです。認定取り消しでは済まされません。
週明けの国会にはNTTの澤田純社長、東北新社の中島信也社長が招致されます。接待の全体像や狙い、行政に与えた影響などについて余すことなく語る責任があります。菅首相は解明を総務省任せにする姿勢を改める時です。
●総務省接待問題 不信の念が膨らむ一方だ 3/13
高額の費用をかけた会食に、官僚だけでなく、大臣ら政治家も参加していた。接待問題はどこまで広がるのか。国民の不信感は膨らむばかりだろう。
総務省の接待問題が連日のように世間を騒がせている。
NTT側から総務省幹部への高額接待に関する調査の中間報告が8日、公表された。谷脇康彦総務審議官が3件計10万7千円、巻口英司国際戦略局長が1件5万1千円の接待を受けていたと認定された。
いずれも国家公務員倫理規程に違反する疑いが強いとされ、谷脇氏は8日付で官房付に更迭となった。
谷脇氏は先月、菅義偉首相の長男正剛氏が勤める放送事業会社「東北新社」からの違法接待で減給の懲戒処分を受けた。しかも国会などで東北新社以外に違法接待は受けていないと説明していたのに、それが覆った。
放送、通信行政への信頼を失墜させた谷脇氏の責任は極めて重い。更迭は当然だ。
新たな疑惑も判明した。
今週発売の週刊文春は、NTTの澤田純社長らが総務相当時の野田聖子・自民党幹事長代行や高市早苗衆院議員を接待していたと報道した。副大臣だった2氏の接待疑惑も報じられた。
国務大臣規範は、関係業者から供応接待を受けることを「国民の疑惑を招くような行為」として禁じている。
野田氏、高市氏とも会食の事実については認めたが、「懇談会」「意見交換」などとして接待については否定した。
会食の中で要望や頼み事はなかったとした。谷脇氏ら官僚も利益誘導につながる話はなかったなどとしている。
利益誘導などもちろん許されない。一方で、業者側に高額な費用を負担してもらう会食に参加していたという自身の行為そのものが問題視されているとの認識はあるのだろうか。
そうした関係が、見えないところで癒着やなれ合いを生み、行政の公平性や公正性をゆがめ、国民に不利益をもたらすのではないか。問われているのはそこだろう。
いずれにしても不可欠なのは全容の徹底解明だ。
谷脇氏がNTTから接待を受けた2018年9月は政府が求める携帯電話料金引き下げへの対応が焦点となっていた。NTTによる接待があった時期は経営の重要な節目に重なる。
東北新社は放送法の外資規制に違反しながら衛星放送事業の認定を受けていたが、接待問題との関連はないのか。
武田良太総務相が国会でNTT幹部との会食があったかどうかを再三問われ、明言を避け続けているのも気に掛かる。
総務省は違法接待問題について第三者委員会で検証する方針を示しているが、さまざまな疑問について国会も含め解明に当たる必要がある。
週明けの国会にNTTの澤田社長や東北新社の中島信也社長が招致される。接待の狙いや他の総務省接待の有無などを、厳しくたださなければならない。 
 3/14

 

●NTT接待汚染は“天領の主”菅首相に飛び火! 武田総務相と同じ答弁 3/14 
NTTによる総務省接待汚染が歴代の総務大臣に飛び火。高市早苗・前大臣や野田聖子・元大臣らが釈明と返金に追われる中、煮え切らないのが武田良太・現大臣だ。ましてや、大臣経験者として総務省に絶大な影響力を誇る菅首相にも火の粉が及ぶとみるのは自然ではないか。
「個別の事案に答えるのは差し控える」「国民の疑念を抱くような会食や会合に応じたことはない」
参院予算委員会でNTT幹部との会食の有無を繰り返し問われても武田大臣は判で押したような答弁で居丈高にはぐらかす。そのたびに野党が抗議し、審議は中断。武田大臣の国会軽視は甚だしいが、先月16日の衆院総務委では「個別の事案」にきっぱり答弁していた。
菅首相の長男・正剛氏との会食の有無を聞かれ、「ございません」と明言したのだ。ホンの1カ月前の答弁に倣って、武田大臣がNTT幹部との会食の有無をハッキリさせれば、大事な予算審議も紛糾することはない。
その点を12日の参院予算委で、立憲民主党の小西洋之議員に聞かれると、武田大臣は答えない理由を「政治的判断だ」と開き直った。そして再び審議はストップ……。これでは会食の事実を隠しているとみられても仕方がない。
総務大臣はNTTなど通信事業に関する許認可権を握っている。昨年9月29日、NTTがドコモの完全子会社化を発表。同11月11日、通信事業者28社が「公正な競争環境が阻害される恐れがある」と異議を唱える意見書を総務相に提出。しかし、総務省はドコモ子会社化にお墨付きを与え、NTTのTOBは同月17日に成立。その2週間後、ドコモは菅肝いりの携帯電話料金値下げプランを発表と、いずれも武田大臣の在職中の出来事だ。
この間、NTT幹部と会食していれば「手心」を疑われかねない。さらに、武田大臣の頭越しに総理である菅氏がNTT幹部と会食すれば、ますます疑念は深まる。行政倫理に詳しい神戸学院大教授の上脇博之氏が言う。
「菅首相こそ、携帯事業者に『値下げ』圧力を加えた張本人。しかも、第1次安倍政権の総務大臣経験者として、今なお『天領』と呼ばれるほど総務省に強い影響力を持つ。その力があるから、総務省所管の携帯料金値下げを実現できると踏んだわけです。『ドコモ完全子会社化』に『携帯料金値下げ』と2大課題を抱えていたNTTにすれば当然、菅首相の腹を探りたかったに違いありません」
12日の参院予算委は首相抜きで実施。加藤官房長官は菅首相の首相就任後のNTT幹部との会食の有無を聞かれ、「首相に確認したが、国民の疑念を招く会食や会合はないということだった」と説明した。武田大臣の答弁とまるきり一緒だ。
「疑念を招くか否かを判断するのは国民であり、当事者の自己評価は認められません」(上脇博之氏)
日刊ゲンダイは菅事務所に官房長官時代を含め、NTT関係者との会食の有無を書面で質問したが、締め切りまでに回答はなかった。週明けにはNTTの澤田純社長が国会に招致される。野党議員から菅首相と武田大臣本人を前に会食の有無を聞かれたら、どう答えるのか。注目だ。 
 3/15

 

●NTT澤田社長 菅首相や武田総務相との会食の有無答えず 3/15
総務省幹部らへの接待問題で15日、NTTの澤田純社長が参院予算委員会に参考人招致された。澤田氏は、これまでに国会議員ら日常的に懇談をしてきたと認めた上で、「業務上の要請や、便宜を受ける話はしていない」と働き掛けを否定した。
自民党の大家敏志議員から接待問題について問われた澤田社長は冒頭、「関係の皆様に大きなご迷惑と、ご心配をかけた。心よりお詫びを申し上げる」と謝罪。日ごろから、与野党の国会議員ら各界の有識者と懇談を行い、将来の社会や国際情勢について意見交換の場を設けていると述べた。
会食の目的について、「国会議員の先生は、どなたもそうなんですが、非常に見識や知識、幅広い方々です。私どもにとりましては、非常に刺激になる良い勉強になる場を提供して頂いてる」と説明。「業務上の要請であるとか便宜を受けるとか、そういうようなお話はいたしておりません」と強調した。
2018年6月の社長就任以降に、総務省幹部と18年秋に2度、20年6月に1度の計3度会食したとした上で「将来の社会、AIが入ってきた折の社会のプラス面、マイナス面について広く一般の話を意見交換した」と語った。
また立憲民主党の福山哲郎幹事長は、澤田社長に菅義偉首相や武田良太総務相との会食の有無を質問した。澤田社長は「NTTは上場会社で、上場会社の社長が個別にどなたかと会食したか否かを公の場で公開することは事業に影響を与える。個別の会食については、私の方からは控えさせていただきたい」と述べるにとどめた。
福山氏が「週刊誌に出ていたことは事実か」とただすと、澤田社長は「週刊誌に出ていたことで、議員の方々が公表された分は主に事実です。それ以外の個別の案件については控えさせていただきます」と説明。総務省幹部や総務大臣ら政務三役との会食が常態化していたかについては「常態化しているわけではない。基本的にいろんな識者と意見交換している」とした。
澤田社長との会食の有無について、明言していない武田総務相はこの日の答弁でも「個別の事案1つ1つにお答えするのは控えさせていただきたいが、国民から疑念を招く会食や会合に応じることはない」と語った。 
●NTT澤田社長 山田前広報官らとの意見交換、総務省側から持ち掛け 3/15
NTTの澤田純社長は15日の参院予算委員会に参考人として出席し、総務審議官だった山田真貴子前内閣広報官(辞職)との昨年6月の会食について、総務省側から意見交換を持ち掛けられたのに対し、会食形式を提案したと説明した。
立憲民主党の斎藤嘉隆氏は「山田氏らと1人当たり5万円近い会食をされていて、山田氏らは応分の負担として1万円を負担したということだが、金額はNTT側から提示したのか」と質問。澤田社長は「NTT側から提示した」と述べた。
さらに澤田社長は「意見交換をしないかというのは、実は(総務省側から)投げ掛けられまして、私の認識が甘いものですから、では会食を、とお話をさせていただいた」と説明。「意見交換をしたい。私もしたい。その一番の内容は将来のAIが入った折のマイナス面。あるいは私どもが考えているデジタルツインという世界がこれから来るが、その折に社会学的にどうかとお話をさせていただいた。非常に多くの意見をいただけたので、有用だったと考えている」と語った。
●蓮舫氏「国民が疑惑を感じるかは大臣の判断ではありません」 3/15
立憲民主党の蓮舫参議院議員が15日、ツイッターに新規投稿。総務省接待問題を巡り、武田良太総務相がNTTの澤田純社長との会食の有無について「国民の疑念を招く会食はしていない」と国会答弁で明言を避け続けていることに対し、その「疑念」を感じるのは「国民の判断であって大臣の判断ではない」と指摘した。
蓮舫氏は「『国民の疑念を招く会食はしていません』NTT澤田社長との会食の有無に対する武田総務大臣の答弁です」と切り出し、「『国民の疑惑を招かない会食はあったのか』と問われても『国民の疑惑を招く会食はしていません』との繰り返し」と説明。「武田大臣、疑惑を感じるかどうかは国民の判断で、大臣の判断ではありません」と苦言を呈した。
「国民の疑念」はツイッターのトレンドになった。
●NTT社長、菅首相・武田総務相との会食の有無答えず 参院予算委 3/15
総務省接待問題を巡り15日の参院予算委員会に出席したNTTの澤田純社長は、菅義偉首相や武田良太総務相との会食の有無について明言を避けた。武田総務相もこれまでに引き続き明言を控えた。福山哲郎委員(立民)への答弁。
福山氏は澤田社長に対して総務省幹部や大臣ら政務3役との会食は常態化していたのか質問。澤田氏は総務省幹部とは「2018年に2回、20年に1回」と回答。「政務3役との会食は常態化しているわけでない」と回答した。首相や総務相との会食有無に関しては「上場企業の社長として、個別の会食の有無は控える」とした。
武田総務相も「個別の事案ひとつひとつについて回答は控える。国民のみなさんから疑念を招く会食や会合に応じたことはない」と述べた。
澤田氏は委員会冒頭、大家敏志委員(自民)への答弁で、接待問題に関し「大きな心配と迷惑かけた」と陳謝。「日ごろから与野党の国会議員など各界の有識者と懇談する場を設けている。業務上の要請や便宜を受ける話はしていない」と説明した。
●谷脇氏の退職金留保も 接待調査後に減額の可能性―武田総務相 3/15
武田良太総務相は15日、利害関係者からの接待問題で官房付に異動した谷脇康彦前総務審議官の退職金の支払いを、本人の同意を得た上で留保する可能性を示唆した。不祥事を起こした職員が退職後に処分相当と判断された場合、退職金から処分相当分を減額した事例があり、武田氏は同日の参院予算委員会で「同様の取り扱いを行うことができるのではないか」と述べた。公明党の平木大作氏への答弁。
●武田大臣らの「定型句」反復答弁に「しっぽを出さない壊れたレコード」 3/15
脳科学者の茂木健一郎氏が15日、ツイッターに新規投稿。総務省接待問題を巡り、武田良太総務相がNTTの澤田純社長との会食の有無について「国民の疑念を招く会食はしていない」との国会答弁を繰り返していることを受け、「壊れたレコード」と指摘した。
茂木氏は「福山哲郎議員『NTT社長と会食したことはないのですね』(人工知能翻訳)『嘘つくとあとでひどいぞ』」「武田総務大臣『私は国民から疑念を持たれるような会食をすることはありません』(人工知能翻訳)『私は週刊文春にしっぽを掴まれない限り会食をした事実を認めることはありません』」と国会でのやりとりを“人工知能翻訳”付きで皮肉を込めて描写した。
その上で、茂木氏は連続投稿。「国会中継を一部聞いてたけど、政府側の答弁は、定型句を壊れたレコードのように繰り返し、情報量を極小化してとにかくしっぽを出さないようにするというスーパーミニマリズム偽芸術だな」と指摘。「野党ももう一段工夫してハツクしないと。調査が文春頼みじゃ無理ゲーだね」と付け加えた。
●“接待”東北新社とNTT社長が国会で陳謝 3/15
総務省幹部らの違法接待問題で、NTTの社長と衛星放送関連会社・東北新社の社長が15日、国会に出席し、陳謝しました。
接待をした側が、国会で説明するのは初めてです。NTTの澤田社長は違法な接待については陳謝する一方で、個別の会食については答えを避けました。
立憲民主党・福山幹事長「澤田社長は、菅総理が総理になる前、なってから、かかわらず、お食事をされたことがありますか」
NTT・澤田社長「個別の会食については、お控えいただければと」
立憲民主党・福山幹事長「政務三役と、それから、通信関係の官僚と食事をすることが、常態化をしていたのか」
NTT・澤田社長「18年に2回、20年に1回ということで、これは大変申しわけございません。私がちょっと、やっぱり認識が甘いというところがあったということで、おわびを申し上げないといけないんですが、常態化しているわけではございません」
NTTの澤田社長は、武田総務大臣との会食についても「個別の会食は控えさせていただきたい」と述べました。武田大臣も「国民から疑念を招くような会食はない」と繰り返しました。
また、接待で行政が、ゆがめられたことがあったのかについて、澤田社長は「業務上の要請や、逆に便宜を受けるような話はしていない」と述べました。
また、東北新社の中島社長も、接待問題について陳謝しました。その上で、野党側が総理の長男について「接待で重要な役割を担っていたのか」と聞いたのに対して、中島社長は「接待要員のためにいたのではない」と反論しました。
●NTT社長 要請や便宜を否定 総務省 接待問題 3/15
参議院予算委員会で集中審議が行われ、NTTの澤田社長と衛星放送関連会社・東北新社の中島社長が参考人として出席した。
総務省幹部への接待問題や、放送法に違反した状態での事業申請などについて質疑が行われている。
NTT・澤田純社長「(接待問題で)大きなご迷惑とご心配をおかけし、心よりおわび申し上げる」
NTTの澤田社長は、会食では「業務上の要請や便宜をめぐる話はしていない」としたうえで、接待は常態化していないとの認識を示した。
立憲民主党・福山幹事長「澤田社長は武田大臣とお食事されたことは?」
NTT・澤田社長「先ほども申し上げたように、上場企業の社長として、個別の会食の有無については控えさせていただきます」
武田総務相「個別の事案1つ1つに答えるのは控えさせていただきたいと思いますが、国民の皆さんから疑念を招くような会食や会合に応じたことはございません」
一方、東北新社の中島信也社長は、外資規制に違反する状態だったにもかかわらず、衛星放送事業の認定申請を行ったほか、不適切な会食で疑念を持たれるに至ったとして、「深くおわび申し上げる」と陳謝した。
中島社長は、2016年の申請時点で認識していなかった違反状態について、翌年、総務省に報告を行ったとあらためて説明したが、総務省は、当時の担当者は「報告を受けた覚えがない」と話しているとしている。
●NTT社長、接待問題陳謝「業務上の要請はせず」参院委 3/15
NTTの澤田純社長は15日の参院予算委員会に参考人として出席し、総務省幹部らを接待した問題について陳謝した。「関係のみなさまに大きな迷惑と心配をかけた。心よりおわび申し上げる」と述べた。
澤田氏は「日ごろより与野党の国会議員をはじめ各界の有識者と懇談する場を設けている」と話した。国会議員や総務省幹部との会食で「業務上の要請や便宜を受ける話はしていない」と強調した。
民間人の国会招致は異例だ。澤田氏が会食の事実関係や目的について語ったのは初めて。参院予算委は総務省幹部への接待が問題になった放送事業会社「東北新社」の中島信也社長も出席した。いずれも野党が参考人招致を求め、与党が受け入れた。
澤田氏は自身と総務省幹部との会食は2018年に2回、20年に1回の合計3回だったと言明した。18年には既に明らかになっている谷脇康彦前総務審議官に加え、当時総務審議官だった鈴木茂樹前総務次官らとも会食したと説明した。
菅義偉首相や武田良太総務相と会食したかを聞かれると「個別にどなたと会食したか否かを公開すると事業に影響がある」と確認を避けた。首相は「国民の疑念を招くような会食に応じたことはない」と主張した。
澤田氏が谷脇氏らと会食した18年は当時官房長官だった首相が携帯電話料金の引き下げに言及した時期と重なる。谷脇氏はこれまでの国会質疑で、澤田氏との会食中に携帯電話料金の話題が出たと認めた。野党は通信政策の透明性に疑念があると訴えた。
自民党の野田聖子幹事長代行ら複数の議員も総務相や総務副大臣在任中にNTT関係者と会食した。野党はNTTと政府・与党との間に不適切な関係がなかったかと追及した。
東北新社も複数の総務省幹部を接待しており、同社に勤務する首相の長男が関与していた。中島氏は「疑念を持たれるに至ったことを深くおわびする」と頭を下げた。武田氏は接待問題に関して第三者による検証委員会を週内に立ち上げる方針を表明した。
東北新社は17年に総務省から衛星放送の認定を受けた際、放送法の外資規制に違反していたことが判明した。中島氏は「申請段階で外資規制違反を認識していなかった」と述べ、陳謝した。武田氏は「総務省の審査も十分でなかった。事態を重く受け止めている」と言及した。
中島氏は17年8月時点で外資規制違反の可能性に気づき、違反を避けるために衛星放送事業を子会社へ承継する措置を総務省に提案したと明かした。総務省の吉田博史情報流通行政局長は「当時の担当者によると報告を受けた覚えはない」と否定し、説明が食い違った。
武田氏は第三者委員会で双方の意見の相違についても審議すると語った。野党は接待が認定に影響を与えた可能性を指摘する。
15日の参院予算委は通信行政や新型コロナウイルスのワクチンなどをテーマにした集中審議で、首相と関係閣僚らが質問を受けた。NTTの澤田氏と東北新社の中島氏は16日の衆院予算委にも参考人として出席する。
●菅首相と会食したか答えず NTTの澤田社長 3/15
NTTの澤田純社長は15日の参院予算委員会で、菅義偉首相との会食の有無について「上場企業の社長がどなたと会食したか否かを公開することは事業に影響を与える。個別の会食については控えさせてほしい」と述べるにとどめた。立憲民主党の福山哲郎氏への答弁。
首相とNTT幹部の会食をめぐっては、加藤勝信官房長官が12日の予算委で、「首相に確認したところ、国民から疑念を招くような会食や会合などに応じたことはないとのことだった」と明らかにしている。
澤田氏は、武田良太総務相との会食に関しても同様に答弁を避けた。武田氏は「個別の事案一つ一つに答えるのは控えさせてほしい」と語った。
●NTTと東北新社の社長 接待問題で陳謝 参院予算委 集中審議 3/15
参議院予算委員会の集中審議が開かれNTTと東北新社の社長が出席し、総務省幹部らの接待問題などをめぐって質疑が行われました。2人の社長は一連の接待問題を陳謝しました。
集中審議には、NTTの澤田純社長と東北新社の中島信也社長が参考人として出席しました。
この中で、NTTの澤田社長は「日頃からマスコミや与野党の国会議員をはじめ有識者と懇談し、将来の社会や国際情勢について意見交換をする場を設けている」と述べました。
そして、総務省幹部とは3年前の社長就任以降3回会食したことを陳謝し、このうち去年6月に当時総務審議官だった山田・前内閣広報官らとの会食は総務省側から意見交換を持ちかけられ、会食形式を提案したと説明しました。
そのうえで、総務省幹部や国会議員との会食で業務上の要請を行ったり、便宜を図ってもらったりしたことはなく、常態化しているわけではないと述べました。
また、総務省幹部らへの接待でNTTドコモの完全子会社化が話題になったか問われ「検討を始めたのは去年4月で、それ以降、守秘を徹底している。インサイダー情報そのもので、総務省への事務的な確認を除き誰にも話をしていない」と述べました。
そして、接待と前後して完全子会社化や携帯料金の値下げが行われたと指摘され「そういう風に見えるという意見も分かるが全くそういう話も出していない。値下げは事業者の戦略で私から料金の話を出すことはない」と述べました。
さらに、菅総理大臣と会食したことがあるかどうかは「個別に誰と会食したか否かを公開することは事業に影響を与えるものと考えており、控えさせてもらいたい」と述べました。
武田総務大臣は、澤田社長と会食したことがあるか問われ「個別の事案に答えるのは控えたいが国民から疑念を招くような会食や会合に応じることはない」と繰り返しました。
菅総理大臣は「国民の信頼を大きく損なう事態になったことは深く反省するべきで、信頼を回復し期待に応えられるよう努力しなければならない。政治活動としてさまざまな方と意見交換しているが、一つ一つ答えるべきものではない。国民から疑念を抱かれるような会食や会合に応じたことはない」と述べました。
一方、東北新社の中島社長は衛星放送事業の認定を受けるにあたっての外資規制をめぐる放送法の違反と総務省幹部らへの接待で多大な迷惑をかけたとして陳謝しました。
そして、認定の申請段階で違法性は認識していなかったものの、その後、担当者が違反しているおそれに気付き総務省の担当部署に報告したと説明しました。
また「担当者が規制の内容を誤って理解していたという、大変みっともない報告を受けている。本当にどうしようもなく経営が成立している状態ではなかった」と述べました。
さらに「元役員らに直接、なぜそんなにたくさん会食しているのかと聞いたが、顔つなぎだと言っていて目的までは追及しなかった」と述べました。
さらに、菅総理大臣の長男は総務省との会食に同席させる役割だったのではないかと問われ「優秀な若者だが、総務省との接待要員のために会食に呼ばれていたのではなく、会食に出席した元役員が要請したためだ。長男が一定の役割を担っていたとは考えていない」と述べました。
また、武田総務大臣は「東北新社のミスが主たる原因とはいえ総務省側の審査も十分でなく、審査体制の強化も検討したい。また、第三者の検証委員会を今週中に立ち上げる予定だ」と述べました。 
●15日の参院予算委の主なやりとり 3/15
NTT接待問題
大家敏志氏(自民)NTTが国会議員と会食していたのは事実か。
澤田純NTT社長 大きなご迷惑とご心配をお掛けし、心よりおわび申し上げる。日ごろから与野党国会議員をはじめ、各界有識者と懇談する場を設けている。業務上の要請、あるいは便宜を受けるという話はしていない。
大家氏 総務省幹部との会食の事実関係を。
澤田氏 会食は2018年秋に2回、昨年6月に1回あった。広く一般的な意見交換をした。
福山哲郎氏(立民)菅義偉首相や武田良太総務相と食事をしたことがあるか。
澤田氏 個別にどなたと会食したか否かを公開すると事業に影響がある。
福山氏 総務省幹部との会合では、コンプライアンス(法令順守)を丁寧にすべきだ。
澤田氏 業務上の要請、あるいは便宜を図っていただいたことはない。
斎藤嘉隆氏(立民)山田真貴子前内閣広報官ら総務省幹部への接待は事業の進展のためか。
澤田氏 総務省側から意見交換を持ち掛けられ「では会食を」と話した。私の認識が甘かった。
斎藤氏 接待で携帯電話料金引き下げが話題に上ったか。
澤田氏 値下げは事業者の戦略で、私から話をすることはない。
斎藤氏 総務審議官を更迭された総務省の谷脇康彦氏は接待で料金が話題に出たことを認めた。
澤田氏 話は出たかもしれないが、たぶんそこで止めたというか、次の話題に変えたと思う。
斎藤氏 昨年6、7月の会食でNTTドコモの完全子会社化を取り上げたか。
澤田氏 インサイダー情報そのものだ。昨年4月以降は守秘を徹底している。どなたにも話していない。
平木大作氏(公明)会食や接待は社内ルールに照らして適切だったか。
澤田氏 国家公務員倫理法に関する項目のルールが具体的に書かれていないという問題があった。大変反省している。
矢田稚子氏(国民)国家公務員倫理法施行後も官僚の不祥事が続いている。全省庁に総点検を掛けることが必要だ。
首相 総務、農林水産両省で調査する。結果を受けた後にもう一度検証する必要がある。
山添拓氏(共産)携帯電話料金の引き下げを巡り、競争環境をゆがめた可能性があったのではないか。
首相 (総務省幹部らへの接待と、料金の引き下げ政策を)結び付けるのは飛躍し過ぎる。
山添氏 なぜ会食が重ねられたのか。料金値下げを看板に掲げる首相、グループ再編を狙うNTTの思惑が一致したからにほかならない。その表れがNTTドコモの完全子会社化だ。
東北新社問題
進藤金日子氏(自民)東北新社は衛星放送の事業申請段階で、外国資本規制を巡る放送法違反を認識していたのか。
中島信也東北新社社長 総務省関係者との不適切な会食で疑念を持たれるに至ったことを深くおわびする。総務省に衛星放送の事業を申請した16年の時点では、外資規制への抵触を認識していなかった。
進藤氏 申請も審査も、ずさんではないか。
総務相 申請書のミスが主たる原因とはいえ、総務省の審査も十分ではなかった。事態を重く受け止めている。審査体制の強化を検討したい。
進藤氏 どのように問題の決着を図るのか。
総務相 接待問題を検証する第三者委員会を今週中に立ち上げる予定だ。
福山氏 中央官僚が接待を受けていた。首相の子息が関わっている総務省は虚偽答弁ばかりだ。
首相 家族が関係し、結果として国家公務員倫理法違反となったことは大変申し訳なく、おわび申し上げる。
斎藤氏 首相は会費を払わず業者と会食したことはあるか。
首相 国民の疑念を招くような会食、会合に応じたことはない。
平木氏 会食や接待に関する社内ルールに照らして適切だったのか。
中島氏 非常に曖昧な内容で、公務員との会食のルールは存在していなかった。許認可や事業に関する要望はなく、社会情勢や業界一般の話題があったと報告を受けている。
平木氏 外資規制の違反を見逃すよう総務省に働き掛けたのか。
中島氏 働き掛けたことはない。
山添氏 17年8月時点で二宮清隆東北新社前社長も外資規制違反を認識していたのか。
中島氏 認識していた。 
●ドコモ子会社化、携帯料金値下げは「接待と前後して進んだ」 3/15
3月15日の参院予算委員会の集中審議に、NTTの澤田純社長が参考人として出席した。野党側は総務省幹部との接待と前後して、携帯料金の値下げとNTTドコモの完全子会社化が進捗したと指摘。これに対し、NTTの澤田社長は「話は出していない」と否定した。
審議には放送関連会社「東北新社」の中島信也社長も参考人として出席。同社に勤める菅首相の長男・菅正剛氏と総務省幹部との接待問題や同社の外資規制違反に関する質疑もあった。
審議の中ではNTT側・東北新社側と総務省側との答弁の食い違いも目立った。
ズレる会食回数の報告。総務省の調査で「2回」、NTT社長の答弁では「3回」
自民党の大家敏志氏の質疑でNTTの澤田社長は冒頭、総務省幹部への接待問題について「関係の皆様に大変なご迷惑とご心配をかけた。心よりお詫び申し上げさせていただく」と謝罪した。
総務省幹部への接待について「日頃よりマスコミ、あるいは与野党の国会議員の方々はじめ各界の有識者と懇談し、将来や国際情勢全般について意見交換をさせていただくような場を設けている」と述べた。
国会議員との会食理由については「(議員は)見識、知識が幅広い方。非常に刺激になる、勉強になる場を提供していただいている」「業務上の要請や、便宜を受けるような話はしていない」と述べた。
澤田社長はこの日の答弁で、総務省幹部との会食回数が合計3回(2018年:2回、2020年6月:1回)だったと明らかにした。総務省は、3月8日に公表した総務省幹部と澤田社長の会食に関する調査結果では「2回」としていた。
立憲民主党の福山哲郎幹事長は澤田社長に菅首相との会食経験について質疑。澤田氏は個別の会食についての回答は控えた一方、通信行政に関わる官僚や政務三役との会食は「常態化しているわけではない」と述べた。
「NTTは3分の1の株式を政府が保有している特殊会社。同時に上場会社。上場会社の社長が個別にどなたかと会食をしたか否かを公の場で公開することは事業に影響を与える。個別の会食については控えさせて頂きたい」(NTT澤田社長)
総務省は3月15日、秋本芳徳・前情報流通行政局長(現・大臣官房付)と鈴木茂樹・前事務次官も、国家公務員倫理規程に違反する疑いがある会食をNTT側としていたことを公表した。
秋本氏は東北新社から接待を受けたとして事実上更迭。鈴木氏は事務次官だった2019年末にかんぽ生命保険の不正契約問題をめぐろ、行政処分の検討状況を日本郵政側に漏洩したとして更迭されている。
菅氏の料金値下げ提唱、ドコモ子会社化…「節目節目で会食が目立つ」指摘
NTTとの総務官僚の接待で焦点となるのは、国家公務員倫理規定への抵触とともに、通信行政に影響を与えたかどうかだ。
立憲民主党の斎藤嘉隆氏は、菅首相肝いりの携帯料金の値下げとNTTドコモの完全子会社化の経緯について質疑した。
斎藤氏によると、2018年8月に菅義偉官房長官(当時)が4割の携帯料金の値下げを講演で明言。直後に総務省の審議会で料金値下げの議論が始まり、この頃には担当局長だった谷脇康彦・元総務審議官とNTT側が相次いで会食した。また、2020年にはNTTドコモ子会社化の議論が始まったが、当時もNTT側と総務省幹部らが立て続けに会食している。
斎藤氏は「節目節目で会食が目立つ」「谷脇元総務審議官は、会食の場で携帯電話料金の値下げに関する話が出るのは自然なことと答弁している」と指摘。会食でのやりとりの詳細を問うた。
NTTの澤田社長は「安い料金はお客様の普遍的なニーズ。料金を自分の戦略として捉え、値下げする。競争に勝つこととセットと考えている。料金値下げは事業者の戦略。私の方から料金の話を出すことはない」と否定した。
その上で「谷脇さんが『そういう話が出たかもしれない』と仰ったとすれば、出たかもしれないが、私はたぶんそこで(話題にするのを)もう止めたと思う」と述べた。
NTTドコモ子会社化については、澤田社長は「TOBの検討は2020年の4月から。2018年秋の段階での会食では、まだ考えていない。話として出ていない。2020年6月に山田さん(山田真貴子・前内閣広報官[当時総務審議官])と会食している。2020年7月にはNTTデータと谷脇さんが会食している」と証言した。
一方で「2020年4月以降は、徹底的に関係者全員が守秘を徹底している。まさしくインサイダー情報そのもの。どなたにもお話をしていない」と強調した。ただし、「事務的に2020年7月に総務省に確認をしている」とした。
斎藤氏は「緊密に接待する時期と前後して携帯料金値下げ、子会社化がセットで進捗している。(接待が)NTTと総務省が準備、意志疎通、意思確認をする場であったのではないか」と質問した。
澤田社長は「結果的にそういうふうに見えるというご意見もわかるが、私たちとしては全くそういう話は出していないし別物」と否定した。
「規範」に抵触か。NTTと政務三役の会食問題とは?
NTTをめぐっては、監督官庁である総務省の複数幹部のほか、政務三役(大臣・副大臣・政務官)経験者が在任中にNTT側から接待を受けていたと「週刊文春」が報道。
自民党の野田聖子幹事長代行(当時総務相)、高市早苗前総務相、坂井学官房副長官、寺田稔衆院議員(いずれも当時総務副大臣)は、これまでに会食が事実だったと認めている。
政務三役の規範では、「関係業者との接触に当たっては供応接待を受けること、職務に関連して贈物や便宜供与を受けること等であって国民の疑惑を招くような行為をしてはならない」と定められている。
• 野田氏…2回の会食。「私の信条でもあるんですけれども、仕事についてはほとんど話をしていません。当時の総務省の全く関わらない、プライベートな会合という認識でした」。NTT側が負担した2回目の費用約2万6000円を返済したと主張。
• 坂井氏…2018年にNTTの篠原弘道会長と会食。「飲食代は相手側の支払い。業務に関する要請や要望は全くなかった」とコメント。
• 寺田氏…事務所は時事通信の取材に対し、澤田社長からの接待を認めた上で「費用約2万4000円は返済する」と説明。
• 高市氏…3月10日、澤田氏と2019年と2020年に会食した事実を認めた。費用は「割り勘」の認識だったとし、差額が生じる不足分があれば支払うと公式サイトで示した。
外資規制違反、東北新社「違法性報告した」総務省「受けた覚えはない」
東北新社をめぐっては、放送法の外資規制に違反していた問題について質疑があった。
放送法93条などでは、外国法人などが議決権の1/5(20%)以上の株式を保有する場合、基幹放送事業者に認定できないと定めている。
2016年10月、東北新社の100%子会社「東北新社メディアサービス」は4K衛星放送「ザ・シネマ4K」の事業認定を申請。2017年1月に認定を受けた。ところが、申請時の外資比率は20.75%だった。総務省は「ザ・シネマ4K」の認定を取り消す方針だ。
東北新社の中島社長の答弁によると、同社が外資規制の違法性を認識したのは2017年8月4日。4K衛星放送の認定取得から約半年後だった。
中島社長は、同社の違法性について「2017年8月9日ごろに総務省の担当部署と面談、報告した」と答弁。相手は総務省の情報流通行政局総務課長だったと証言した。
東北新社はこの直前の2017年7月、他社からCS放送事業を承継すると発表していたが、のちに撤回。その直後の同年9月、新設した100%子会社に衛星放送の認定を承継させた。
中島社長は「子会社への承継で、(外資規制の)違法状態を治癒できると考えた」「当方からこのアイデアを(総務省側に)出した」と述べた。
ただ、総務省側は中島社長の答弁を否定した。
「当時の担当者によると『外資規制に抵触する可能性ある旨の報告を東北新社から受けた覚えはない。そのような重大な話なら覚えているはず。口頭ですむ話ではないのでは』とのことだった」(総務省の吉田博史・情報流通行政局長)
武田良太総務相は「東北新社のミスが主たる原因とはいえ、総務省の審査も十分ではなかった」として、検察官経験者を含む第三者による検証委員会を今週中に立ち上げるとした。
●「霞が関はブラック職場」…キャリア官僚の人気凋落 3/15 
総務省幹部の接待問題では、辞職した山田真貴子内閣広報官が受けた「1人7万4203円」という高額接待が注目を集めた。和牛ステーキや海鮮料理を振る舞われた山田氏は、2月25日の衆院予算委員会で「心の緩みがあった」と釈明した。ところが、辞職後にNTTからの高額接待も発覚し、「緩みどころか、接待漬けだ」と一層批判を招いた。
官僚接待と言えば、1998年に発覚した「大蔵省接待汚職事件」が思い出される。金融機関から飲食やゴルフなど多額の接待を受け、100人以上の職員が処分された。あれから20年余。「相変わらず官僚は──」とぼやきたくもなるが、若手官僚は「あれは一握りの幹部の話。我々とは別世界です」と反論する。
キャリアと呼ばれる国家公務員総合職の人気は、凋ちょう落らくしている。2020年度の総合職の申込者は、前年度比3.3%減の1万6730人で、4年連続で減少した。総合職試験を導入した12年度以降、過去最少だ。
なぜキャリア人気は低下しているのか。要因の一つは、「霞が関はブラック職場」というイメージが世間に浸透したことだろう。元厚生労働省キャリア・千正康裕氏の「ブラック霞が関」(新潮新書)には、政策作りという官僚の本分からかけ離れ、国会対応や大量のコピーなどに追われる姿が赤裸々に描かれている。深夜残業、長時間労働は当たり前。「7:00仕事開始、27:20退庁」という若手官僚の一日は過酷そのものだ。
内閣人事局によると、19年度に自己都合で退職した20歳代の総合職は87人に上り、13年度の21人から6年間で約4倍に増えた。30歳未満の男性職員の7人に1人が、「3年以内に辞めたい」と回答したというから深刻だ。 ・・・ 
●総務省接待問題、首相の説明「納得できない」7割 政権与党に影 3/15
次期衆院選が秋までに迫る中、東北新社に勤務する菅義偉首相の長男の正剛氏らが総務省幹部への接待を繰り返していた問題が、首相の解散戦略に影響を及ぼす可能性もある。
立憲民主党の福山哲郎幹事長「いくら『自分はあずかり知らない』と言ってもそうはいかない」
菅首相「長男とは家計も別だ。会社のことについて話をすることもない」
首相は15日の参院予算委員会で、長男の問題の責任を負わせようとする福山氏に反論し、長男とは「別人格」だとする従来の答弁に沿う主張を展開した。
とはいえ、産経新聞社とFNNの合同世論調査では首相の説明について「納得できない」との回答が70・3%に達した。「納得できる」との回答はわずか17・4%にとどまり、国民に理解が広がるどころか、疑念が根強いことが浮き彫りになった。
自民党中堅は「内閣支持率は下がっていない」と強調し、長男の問題が解散戦略に与える影響は限定的だとの見方を示す。ただ、国民の疑念がこのまま晴れなければ、政局の主導権を失う可能性も否定できない。 
 3/16

 

●NTT接待問題で答弁拒否を連発、しまいには逆ギレした武田総務大臣。 3/16
注目を集めた3月12日の小西洋之議員の質疑
2021年3月12日 参議院予算委員会の立憲民主党・小西洋之議員による総務省・NTT接待問題の質疑は大きな注目を集めた。NTT澤田社長との会食有無を答弁拒否してきた理由を繰り返し問われた自民党・武田良太総務大臣がまたしても答弁拒否を連発した上、その拒否理由があまりにも支離滅裂だったからだ。
そこで本記事では、武田大臣の拒否理由における矛盾3点を明らかにした上で、当日の約8分間の質疑をノーカットで振り返っていく。
まず、武田大臣は当日の質疑の中で、NTT澤田社長との会食有無を答弁拒否した理由として、大きく以下の3点を挙げていた。
<武田大臣の主張>
1 個別事案の答弁は控える
2 質問通告がされていない
3 (東北新社 菅正剛氏との会食有無は答弁したことに対して)個人名を特定した質問だから菅正剛氏の件は回答した
だが、この3つの主張は全て偽りであり、主張として全く成立していないことが、これから紹介するわずか8分間の質疑の中で露呈している。
<事実>
1 武田大臣は個別事案を答弁している(2月16日の衆議院総務委員会で立憲民主党・岡島一正議員に東北新社との会食の有無を問われ、「ございません」と答弁した事実が議事録に残っている)
2 質問通告はされている(小西議員は「NTT幹部」と明記した上で会食有無についての質問を通告している。そもそも、これまで何度も論点になっていた問題であり、通告の必要性自体が極めて低い)
3 「NTT澤田社長」と個人名を特定して質問しても武田大臣は答弁拒否している(質疑の終盤、小西議員は「NTT澤田社長と会食したことはありますか?」と質問しても、武田大臣は「個別の事案は回答を控える」と答弁した)
つまり、武田大臣はとにかくNTT澤田社長との会食有無を答えず、答弁を拒否する理由としてデタラメな主張を繰り返していた。質疑全体を見ると、さらにその悪質さが見えてくるので、約8分間の質疑をこれからノーカットで振り返っていきたい。
NTT澤田社長との会食の有無を答弁しない理由は?
まず、小西議員はNTT澤田社長との会食有無を答弁しない理由について、武田大臣に問い質していく。その質疑は以下の通り。これ以降、質問者(小西議員)、答弁者(武田大臣)以外の発言、委員会室の様子などは文中の注釈(*)で補足する。また、筆者自身のコメントも合わせて注釈(*)で補足していく。
小西議員: 「武田総務大臣に伺います。散々答弁拒否されていますが、NTTのですね、幹部との会食の有無について、答弁しない理由は何ですか?」
武田大臣: 「答弁ちゃんとしてますよ。国民に疑念を招くような会食・会合を、これに応じたことはないという明確な答弁をずっとしてます。ご理解ください。」
小西議員: 「NTTの幹部と会食したことがあるのかどうかという科学的事実を聞いているだけなので、それを答えて下さい。」
武田大臣: 「毎回、私は答弁させて頂いたんですけど、個別のですね、一つ一つの事案についてコメントは差し控えさせて頂きたいと。その上で国民に疑念を招くような会合や会食に応じることはないと何度も答弁をさせて頂いております。」
*筆者コメント:主張1「個別事案の答弁は控える」1回目
小西議員: 「今おっしゃった、その個別の事案ですね、個別の会食の事案の有無については答弁を控えるっていうのは、国会に対する大臣の説明責任の果たし方としての答弁ということでよろしいですか?」
武田大臣: 「今、これ国会の委員会で答弁してるわけですから。」
小西議員: 「個別の事案に答えないという答弁は国会への、また国民への説明責任の果たし方として非常に重い政治責任を負うということでよろしいですね? 」
武田大臣: 「私は何度も答弁をさせて頂いております。個別の事案一つ一つについては答弁を差し控えさせて頂きたい。その上で国民に疑念を招くような会食会合については応じることは無いと。こういうことであります。」
*筆者コメント:主張1「個別事案の答弁は控える」2回目
小西議員: 「大臣は2月16日の衆議院総務委員会で立憲民主党の岡島一正議員の質問に対して、東北新社との会食の有無について答弁されていませんか?」
*武田大臣の答弁開始までに約40秒かかる。森裕子理事は「自分で答弁したんでしょ。すぐ答えてよ。さっきから個別の事案には答弁しないと言ったじゃないですか。自分で答弁してないと言ってるんだから、答弁してないんでしょ。そう答えればいいじゃないか。3回も4回も個別の事案には答弁しないと言ったんだから」と抗議
武田大臣: 「個別の事案に一つ一つ答弁は致しません。」
*筆者コメント:主張1「個別事案の答弁は控える」3回目
小西議員: 「じゃあ、東北新社の会食の有無で答弁していたら大臣辞職することでよろしいですか?」
武田大臣: 「仮定の話に明確な答弁は、これは無理だと思いますよ。」
小西議員: 「仮定ではなくて、国会会議録上の事実に基いて質問しております。もし東北新社関係者と会食していれば大臣を辞職することでよろしいですか? 」
武田大臣: 「何度も答弁しています。もしの話に答弁はできません。」
*質疑が中断。福島みずほ議員が「自分に都合の悪いことだけ真正面から答えないのはおかしいですよ。」と抗議
突如、「質問通告されていない」と逆ギレする武田大臣
ここまでのやり取りで、主張1「個別事案の答弁は控える」を3回も連発して、答弁を拒否した武田大臣。しかし、2月16日に武田大臣自身がまさに個別事案(=東北新社との会食の有無)について答弁していたという事実を小西議員が仄めかしたことで追い詰められていく。この状況に苛立ったのか、武田大臣は驚くべき行動に出る。
主張の2「質問通告がされていない」と言い出して、小西議員を強い口調で責め始めたのだ。そもそも、NTT澤田社長との接待有無についてはこれまで何度も論点になっていた問題であり、また2月16日の武田大臣の答弁については自分自身のわずか1ヶ月前の答弁である。いずれも通告の必要性自体が極めて低いと考えられる。それにもかかわらず、武田大臣は「逆ギレ」と形容して差し支えない口調で小西議員に対して声を荒げていることが下記の動画でもハッキリと確認できる。
その質疑は以下の通り。
武田大臣: 「委員ね、これ正確さを極めるために通告して下さいよ! 委員、委員、小西委員! 通告、ちゃんとして下さいよ!」
*小西議員は「通告してます!」と即座に抗議
武田大臣: 「じゃあ、ちょっと見せてよ。通告書、見せてよ。」
*森裕子理事が「何が通告ですか。あなたの答弁について聞いてるんです」と抗議。質疑が1分20秒ほど中断。その間、山本順三委員長や武田大臣は2月16日の議事録や本日の質問通告と思われる紙の内容を確認。
武田大臣: 「当時、法人とかじゃない、菅正剛個人の問題・・・、氏個人の問題をぶつけられたんでしょう? そうでしょ?」
*筆者コメント:主張3「個人名を特定した質問だから菅正剛氏の件は答えた」1回目
*森裕子理事が「何を言ってるんですか?個別の問題には答えないと言ったじゃないか」と抗議。質疑が40秒ほど中断。
武田大臣: 「個人を特定されたわけでしょう? 岡島委員は、個人を。」
*筆者コメント:主張3「個人名を特定した質問だから菅正剛氏の件は答えた」2回目
小西議員: 「武田総務大臣は2月16日に立憲民主党・岡島一正議員の質問にですね、『東北新社の、これ関係者と会食したことがありますか』という問いに対して『ございません』と、個別の会食の有無を答弁しています。にもかかわらず何故、私の質問は、NTT幹部というふうに質問通告で日本語で書いてあります。NTT幹部と会食をしたことがあるかの質問に、なぜ答弁拒否をするんでしょうか。なぜ、それが許されるんでしょうか。答えて下さい。」
*筆者コメント:小西議員の上記発言によって、武田大臣の主張1「個別事案の答弁は控える」と2「質問通告はされていない」はいずれも理由として成立しないことが明らかになる
武田大臣: 「当時、具体的な個人名称を挙げられたんですよ。個人の。どこの会社、どこの団体って、個人の、具体的な個人の名称を挙げられたんですよ。」
*筆者コメント:主張3「個人名を特定した質問だから菅正剛氏の件は答えた」3回目
個人名を特定して質問しても答弁拒否するという無限ループ
ここまでのやり取りで、主張1「個別事案の答弁は控える」と主張2「質問通告はされていない」を続けるのはさすがに苦しいと判断したのか、主張3「個人名を特定した質問だから菅正剛氏の件は答えた」を繰り返すようになった武田大臣。
これに対して、小西議員は丁寧に「NTTの澤田社長」と個人名を特定した上で会食の有無を改めて質問する。だが、武田大臣はまたしても驚くべき答弁を行い、一同を唖然とさせる。その質疑は以下の通り。
小西議員: 「じゃあ、武田総務大臣は大臣就任後、NTTの澤田社長と会食したことはありますか?」
武田大臣: 「個別の事案についてはお答えを差し控えさせて頂きます。」
*筆者コメント:主張1「個別事案の答弁は控える」4回目
小西議員: 「東北新社の菅正剛氏との会食に答えて、NTT澤田社長との会食の有無について答えられない理由を答弁して下さい。」
*筆者コメント:個人名を特定して質問しても武田大臣は答弁拒否を続けており、主張3「個人名を特定した質問だから菅正剛氏の件は答えた」についても理由として成立しないことが明らかになった
武田大臣: 「個別の事案については一つ一つお答えは差し控えさせて頂きたいと思います。」
*筆者コメント:主張1「個別事案の答弁は控える」5回目
小西議員: 「委員長。武田大臣の答弁は国権の最高機関である国会に対する審議妨害であり、答弁拒否であり国民を愚弄する行為です。委員長から厳しく答弁するように指導をお願いいたします。」
約8分間に及んだ質疑の内容は以上である。この後、与野党の理事が集まって協議するが、結局、自民党・山本順三委員長は武田大臣に答弁するように指導することはなく、支離滅裂な答弁を容認。その後も小西議員は「NTT澤田社長と会食したことがあるか?」と個人名を特定した上で質問するが、武田大臣は「個別の事案にはお答えを差し控える」と答弁拒否を続けて、質疑は終了した。
これまでも自民党議員が委員長を務める委員会において、中立性を欠く運営は日常茶飯事だったが、ここまで筋が通らない答弁拒否を繰り返す閣僚に対して、委員長が一言も注意しないというのは、さすがに底が抜けてしまった感がある。
●総務省接待問題 深まる疑念さらに解明を 3/16
総務省幹部らへの接待問題に関し、参院予算委が会食を催していたNTTの澤田純社長と放送事業会社「東北新社」の中島信也社長を参考人招致した。なぜ両社は情報通信や放送を所管する同省関係者と会食を重ねていたのか。それによって行政がゆがめられることはなかったのか。国民から見れば当然の疑念だが、この日のやりとりで問題の核心を解明することはできなかった。
約3年前に社長に就任した澤田氏は、自身と総務省幹部との会食がこれまで3回あったと説明。意見交換が目的で、業務上の依頼をしたり、便宜を受けたりしたことはなかったと否定した。菅義偉首相や武田良太総務相との会食についても聞かれたが、「個別にどなたと会食したか否かを公開すると事業に影響がある」として明かさなかった。
国家公務員倫理規程に違反する官僚接待を繰り返していた東北新社の中島社長も、会食目的を「顔つなぎだった。具体的な目的ではなく、いつもお世話になっているから誘った」と答えた。
しかし、NTTは事業計画や取締役選出について、総務省から許認可を受ける立場にある。携帯電話料金引き下げなどを巡っても、行政と緊張関係にあった。
一方、東北新社も衛星放送事業の外資規制に違反していたことが分かっており、その対策を巡って総務省とやりとりをしていたという。
これらの状況と高額な会食接待の関係について、十分に疑念が拭われたとは言えない。
一連の不祥事発覚後、総務省幹部らは報道で表面化した事実だけを認め、その他の接待を受けたことなどを否定した。ところが新たな証拠を示されると前言を翻し認める対応を繰り返している。
総務省は内部調査を始めたが、15日になってもさらに前事務次官と前情報流通行政局長がNTTから接待を受けていたことが判明。次から次に対象者が拡大し、調査の限界をあらわにしている。
今後は幹部144人を対象に、問題の2社に限らず、広く民間業者から接待を受けていないかを改めて調査するとしている。それとは別に、2社の接待によって行政がゆがめられなかったかを検証する第三者委員会も、週内に発足させる。客観性を担保しつつ調査を進め、結果をつまびらかにしてもらいたい。
見過ごせないのは、武田総務相が自身の会食の有無について明言を避けていることだ。この日の質疑でもNTT関係者との会食を問われ、「国民の疑念を招くような会食、会合に応じたことはない」と繰り返した。明快に有無を答えられなければ、疑念を持たれても仕方ない。このままでは国民の信頼は得られないだろう。
16日には衆院が両社長を招き、参考人質疑を続ける。野党は違法接待を受けていた山田真貴子前内閣広報官の証人喚問などを求めており、引き続き国会での徹底した解明が求められる。
●総務省の接待問題 疑念晴らす明確な説明を 3/16
総務省幹部らが放送事業会社「東北新社」とNTTから接待を受けていた問題で、参院予算委員会に両社の社長が参考人として出席した。
東北新社は、放送法の外資規制基準に抵触したまま衛星放送事業の認定を受けており、総務省の審査体制と接待の関係が疑われている。
総務省はすでに認定の取り消しを決め、外部有識者で構成する検証委員会を設けて近く調査を始める方針だが、焦点は接待を通じて行政がゆがめられていなかったかの一点にある。
ところが武田良太総務相は委員会で「申請書のミスが主たる原因とはいえ、総務省の審査も十分ではなかった」と、ミスと杜撰(ずさん)な審査に問題を矮小(わいしょう)化してしまった。そこに「接待」がどう関わったのか。検証委員会が調査すべき最優先課題である。
放送法では衛星放送事業者の外資出資比率を20%未満と定めている。4年前に認定を受けた東北新社は当時の外資比率が20%を超える違法状態だった。同社の中島信也社長は予算委で「認定から約半年後に違法性を認識し、総務省担当部署と面談して報告した」と説明したが、総務省側は報告を受けた事実はないと否定している。真相は闇の中のままだ。
NTTの澤田純社長は総務省官僚に対する接待の回数などは示したが、国会議員に対する接待については明言を避けた。「個別にどなたと会食したか否かを公開すると事業に影響がある」と述べる一方で、「日ごろから与野党国会議員をはじめとして懇談する場を設けている。業務上の要請、便宜を受けるという話はしていない」とも語った。これは矛盾している。問題のない懇談が事業に影響する理由が分からない。
菅義偉首相、武田総務相は「国民の疑念を招くような会食、会合に応じたことはない」と述べ続けている。NTT側の証言と合わせて推し量れば、会食の事実はあったのだろう。それを否定とも肯定ともつかぬ答弁を繰り返すから、疑念がいや増すのだ。
現実的で実効性ある政策を打ち出すには民間事業者との意見交換が必要な場合もある。国家公務員倫理規程の対象外である政治家と官僚を一律に論じることはできない。疑念を招く心配がないなら、まず事実を明確に説明するところから始めてはどうか。 
●武田総務相7回「疑念を招く会食ない」強弁にヤジ「何を言ってるんだ」 3/16
NTTの澤田純社長は15日の参院予算委員会に参考人として出席し、総務省幹部への接待や国会議員との会食を通じて業務上の依頼や便宜について否定した。接待問題について陳謝したが、武田良太総務相との会食の有無には正面から答えなかった。放送事業会社「東北新社」の中島信也社長も出席したが、菅義偉首相の長男正剛氏について答えに窮する場面が目立った。総務省は、幹部ら計144人を対象に接待の実態調査を実施すると発表した。
武田良太総務相は、澤田氏との会食を問われ「国民の疑念を招くような会食に応じたことはない」との答弁を少なくとも7回繰り返した。野党は「要するに会食はあったと受け止めるのが自然。強弁すればするほど国民の信頼は失われる」と批判。武田氏は「疑念を招くような会食」が具体的に何を指すのか問われると「まさに読んで字のごとし、国民の疑念を招くことのない会食」と回答。「何を言ってるんだ」とやじが飛んだ。 
●また首相「口撃」、総務省接待の核心を突けない反権力な人たちへ 3/16 
総務省幹部への接待問題をめぐり、3月15日の参院予算委員会に東北新社の中島信也社長とNTTの澤田純社長が参考人として出席した。
総務省は中央省庁再編で自治省、郵政省、総務庁が統合して2001年に誕生した。総務省の不祥事を伝える報道では、かんぽ生命問題の処分内容を日本郵政の鈴木康雄上級副社長(当時)に漏らしたことで、19年に鈴木茂樹前事務次官が事実上更迭されたことが記憶に新しい。なぜ、処分内容を事務次官がリークしたのか。
小泉政権で郵政民営化が実現したが、民主党政権になって事実上の「再国有化」になってしまった。本来は完全民営化で、国は保有する旧郵政グループの政府保有株を全部売却することを目指していた。しかし、民主党政権時代の法改正で、その株式売却が「義務」から「努力義務」にされたことで、今も国が旧郵政グループの最大の株主のままである。
この経済的な「癒着」は、さらに人事上の癒着を生んだ。先の日本郵政側の鈴木氏は元総務省の事務次官である。つまり、典型的な天下りだ。郵政民営化の再推進と同時に、天下り規制の厳格化が必要だろう。
では、今回の問題はどうだろうか。やはり総務省の裁量権が注目されている。通信・放送に関する許認可の裁量が大きすぎることが問題だ、と評論家の原英史氏や嘉悦大教授の高橋洋一氏らは厳しく指摘している。
特に電波の割り当てが今回の問題の背景にもある。東北新社が放送法の外資規制に違反しているにもかかわらず、衛星放送事業に認定を受けた問題は注目された点だった。なぜなら東北新社側は国会で「総務省の担当部署と面談し、報告した」と発言している。事実であるなら総務省側の瑕疵だが、接待問題以外でも、両者の日ごろからのなれ合いが「見逃し」に至った可能性がある。
日本郵政へのリーク問題を思い出してほしい。総務省は自らの裁量権の大きさに安住し、規制される側は普段からの「交流」で安閑としていたのだろうか。ここはぜひ、事実の解明をしてほしいところだ。また、国家公務員倫理規定違反の疑いのある接待については、もちろん東北新社やNTTは真摯に反省するべきだろう。
国会の論戦では、一貫して野党は菅義偉(すが・よしひで)首相の長男をクローズアップすることに躍起である。3月15日の参院予算委員会で立憲民主党の福山哲郎幹事長は「本当はコロナのことをやりたくていっぱい準備してたんです。東日本大震災から10年だからエネルギーのこともやりたくて、すごい準備してたんです。こんな(接待)問題起こるからできないじゃないですか!…コロナついてお伺いします」と首相への質問で声を荒らげたが、さすがに問題を矮小(わいしょう)化しすぎている。
また、国家公務員倫理規定を破ったとなれば問題だが、両社長への質問を見ていると、お茶や食事をするだけでも「接待」という言葉で疑惑をかきたてるような雰囲気が作られている。
違法性の根拠を示すよりも単に「国民の疑惑」をたきつけるという、森友・加計学園問題などでおなじみの手法である。むしろ、本丸は総務省の許認可の在り方だと思うのだが、なかなかそこにまで議論がいかない。あくまで「政治ショー」だ。
もし、この程度ならば、福山氏が自ら認めているようにエネルギー問題や新型コロナ対策により時間をかけるべきだった。相変わらずのテレビのニュース番組やワイドショーウケを狙う、多くの野党の姿にはあきれるしかない。
ただし、与党、自民党には、より根源的な問題がある。総務省の放送・通信の裁量権を減らすためには、競争入札方式で最も高い価格を提示した事業者に周波数を一定期間与える「周波数オークション(電波オークション)」の導入が望ましい。
実は、民主党政権の時代に周波数オークションの導入が閣議決定された。しかし、自民党政権になってから「資金力のある者が周波数を独占する」という理由で廃案となった。(参照:経済学者の安田洋祐氏のブログ)。国民の利益をよそに、民主党政権は郵政利権を、自民党は放送・通信利権を守ろうとしたわけである。
今回の問題でもそうだが、公務員の不祥事が出てくると、なぜか決まって内閣人事局が批判される。内閣人事局があるせいで官僚が政府に忖度(そんたく)し、問題が起こるというのである。高橋氏が適切に指摘しているようにそもそも内閣人事局が官僚の特権を規制するために存在していることを無視した暴論ではないか。内閣人事局を批判したい官僚側の理屈をマスコミ、野党、それに薄っぺらい反権力志向の人たち(≒ワイドショー民)が無思考で「相乗り」しているのだろう。
できれば官僚組織の利権の温床を明るみに出してほしいが、世論調査を見ると、どうも世論は明後日の方向に関心がいっているようだ。毎日新聞の世論調査では、なんと約半数の人が、菅首相の長男の接待について、首相に責任があると思っているという。これではまるで悪しき連帯責任であり、良識ある意見とはいえない。
ただ、ニュース番組やワイドショーを見ていると、そのような意見を持つように国民が誘導されているのかもしれない。報道のレベルの低さは深刻だろう。報道各局には、総務省などに「接待」をしたことがないか、第三者委員会で調査をすることをおすすめしたい。身近なところで自社のワイドショーネタが発掘できるかもしれないからだ。 
●谷脇前総務審議官が辞職 接待問題で停職3カ月処分受け 3/16
武田良太総務相は16日の記者会見で、同省幹部らへの接待問題を巡り前総務審議官の谷脇康彦氏を同日付で停職3カ月の懲戒処分にしたと発表した。谷脇氏は辞職願を出し、受理された。谷脇氏の同意を得たため退職金の支払いは留保する。同様に接待を受けた巻口英司国際戦略局長は減給10分の1(2カ月)とした。2人が利害関係者からの接待を禁じる国家公務員倫理法の倫理規程に違反したと認定した。
谷脇氏については東北新社による接待を巡る調査の際、NTTからの接待を申告しなかったことが国家公務員法の信用失墜行為などに当たるとも判断した。武田氏は「深くおわび申し上げる」と述べた。 
 3/17

 

●武田氏、NTT幹部と会食か 文春 3/17
武田良太総務相がNTTの澤田純社長らと昨年11月に会食していた可能性が高いことが17日、分かった。JR東海の葛西敬之名誉会長や遠藤典子NTTドコモ独立社外取締役も同席。JR東海は共同通信の取材に対し「会食は事実だ」とのコメントを発表した。武田氏は周辺に「顔を出しただけで会食はしていない」と話しているという。
武田氏は18日の衆院総務委員会に出席する予定で、事実関係を説明するとみられる。NTTは「事実関係を調査中」としている。
武田氏は、これまでの国会答弁で「国民の疑念を招くような会食や会合に応じることはない」と繰り返し、NTT側との会食の有無について明言を避けていた。会食が事実であれば、費用負担や会話の内容などについて説明が求められそうだ。
文春オンラインが17日報じた。それによると、武田氏は総務相就任後の昨年11月11日、東京都内のホテルの日本料理店で澤田、葛西、遠藤各氏との会食に同席した。JR東海は葛西氏が3氏と会食した事実を認めた上で、宇宙関連の意見交換をしたと説明した。
会食当時はNTTがドコモの完全子会社化に向けた株式公開買い付け(TOB)を実施中で、終了後にドコモが打ち出す携帯電話料金引き下げの内容に注目が集まっていた。
武田氏は昨年11月20日、それまで評価していたKDDI、ソフトバンクの格安ブランドでの値下げを批判。ドコモが12月3日、武田氏が求める本体ブランドとしての低価格の新プラン「ahamo(アハモ)」を発表すると、菅義偉首相と武田氏は高く評価した。
NTTは事業計画策定や役員選任に総務省の認可が必要だ。自民党の野田聖子幹事長代行、高市早苗衆院議員が総務相在任中にNTT側と会食していたことも明らかになっている。
●武田総務相とNTT澤田社長が会食していた 3/17 
武田良太総務大臣が、大臣就任後の昨年11月11日に、NTTの澤田純社長と会食していたことが、「週刊文春」の取材で分かった。場所は、東京・パレスホテル内にある日本料理店「和田倉」。澤田社長とNTTドコモ独立社外取締役の遠藤典子氏、武田大臣とJR東海の葛西敬之名誉会長が同席していた。
NTT関係者が証言する。
「2019年12月18日にNTTグループが運営する迎賓館『KNOX』で澤田社長と遠藤氏が、JR東海の葛西氏と小菅俊一副社長らを招き、接待していました。この日の和田倉での会合は、返礼として葛西氏側がセットしてくれたものです」
だが、なぜそこに武田氏が現れたのか。
「武田大臣を連れて行ったのはNTT側です。遠藤氏は週刊ダイヤモンド副編集長を経て、2016年6月にNTTドコモの社外取締役に就任。澤田氏の覚えがめでたい一方で、武田大臣とも以前から関係が深いと聞いています。葛西氏と武田大臣は面識がなかったそうです」(同前)
これまで国会で、武田大臣は「私は国民の皆さんから疑念を招くような会食に応じることはありません」、澤田社長も「上場企業の社長としては、個別の会食の有無については控えさせていただく」と答弁し、会食の事実確認に応じない姿勢を貫いている。中でも、武田大臣は、同様の答弁を再三繰り返し、「では疑念を招かない食事はしたのか?」と問われても「疑念を招くような……」と同じ言葉を述べるなど、度々国会が紛糾してきた経緯がある。今回の会食の有無について、JR東海に尋ねると「事実でございます」(広報部東京広報室)と回答した。
会食の11月11日は、NTTとドコモの命運を左右するTOB(株式公開買い付け)の最中。9月29日に澤田社長はドコモの完全子会社化を発表し、翌日からTOBを推し進めていた。史上最大と言われる4・2兆円規模のTOBが完遂されたのは、会食の6日後、11月17日。NTTのトップ、さらには子会社化の渦中にあったドコモの社外取締役はTOBの最中にNTTの事業計画などを認可する立場の総務大臣を会食に同席させていたのだ。澤田社長が、財界人の会食に武田大臣を連れて行ったことが判明したことで、澤田社長と武田大臣との関係性について説明を求める声が上がりそうだ。 
●続々と辞職で遠のく総務省接待の真相 辞めた「民間人」招致に否定的  3/17
NTTや東北新社から繰り返し高額接待を受け、16日付で辞職した総務省の谷脇康彦前総務審議官について、与党は今後、野党が求める国会招致に応じない方針だ。政府との関係が切れた「民間人」であることを理由にするが、菅義偉首相の長男正剛氏もかかわる不祥事への追及をかわしたい思惑が透ける。先に内閣広報官を辞めた山田真貴子氏や主な東北新社関係者ら、問題の核心を知るキーパーソンについても同様の対応で、真相究明に向けた消極的な姿勢が目立つ。(川田篤志)
谷脇氏は15日まで国会に参考人として出席していたが、自民党幹部は辞職を機に「もう一般人だから、呼ぶ必要はない」と明言。世耕弘成参院幹事長も記者会見で「総務省も踏み込んだ調査をし、谷脇氏自身もかなりの回数、答弁している」と述べ、今後の招致に否定的な見方を示した。
参考人招致は、憲法62条の「国政調査権」に基づく制度。人選や時期は与野党合意で決めるため、数で勝る与党の了承なしには実現しない仕組みだ。
今回の接待問題で、与党が招致拒否のよりどころにするのは、国会の過去の対応だ。衆院事務局などによると、特に不祥事を巡る審議では参考人が「犯人扱い」され、不利益を被る恐れもあるとして、慎重に判断する傾向があるという。これを盾に、与党は接待していた東北新社の三上義之前取締役執行役員や木田由紀夫前執行役員、正剛氏を呼ぶことを拒み続けている。
ただ、民間人の立場を尊重することと引き換えに、真相究明は遠のく。問題の当事者から重要証言を引き出す機会がなくなるからだ。16日の衆院予算委員会では、立憲民主党の後藤祐一氏が谷脇氏について「国会に呼べなくなる。(政権による)口封じではないか」と批判したが、武田良太総務相は「国会で決めることだ」と受け流した。
●総務省接待問題、NTT持ち株に会食ルールなく「なれ合い」温床に 3/17
「(総務省幹部への接待は)国家公務員倫理法上、問題ないと考えていた。大変認識が甘く申し訳なく思っている」――。
2021年3月16日の衆院予算委員会に参考人として出席したNTTの澤田純社長は、前日の参院予算委員会に続き、このような弁明を繰り返した。総務省官僚ナンバー2の更迭・辞職につながった今回の接待問題。2日にわたる国会質疑から見えてきたのは、NTT、総務省の双方でルールを軽視していた実態だ。国民の信頼回復に向けた道のりは遠い。
NTTによる総務省幹部への接待問題の論点は大きく2つある。1つは、なぜ国家公務員倫理法違反が常態化したのか。もう1つは、一連の接待で行政がゆがめられていないかだ。
国家公務員倫理法に基づく国家公務員倫理規程では、許認可の対象となるような利害関係者からの接待を禁じ、自己負担でも1万円を超える会食は事前の届け出を義務づけている。NTTによる総務省幹部への接待では、許認可対象かつ1万円を優に超える高額な会食が相次いだ。にもかかわらず、接待を受けた側の総務省幹部の事前届け出はなかった。
3月16日の質疑では、NTT澤田社長に対し「高額な会食場所を指定したことで国家公務員のルール違反を誘発したのではないか。社内で国家公務員に対する会食ルールはなかったのか」との質問が飛んだ。
NTTの澤田社長は「グループ全体の倫理憲章はあるものの、私が社長を務めるNTTの持ち株会社には、会食に関する具体的なルールがなかった。これが大きな問題であり、これから直していかないといけない」と語った。
NTT持ち株会社は管理会社であり事業も営業もしない。そのため国家公務員を対象とした具体的なルールがなかった。持ち株会社傘下の事業会社では、国家公務員などとの会食に関する具体的なルールを定めているケースが多いという。この点が、NTTと総務省の「なれ合い」の温床になった可能性がある。
高額接待の場所についてもNTTの認識の甘さが出た。一連の接待の場となったのは、NTTグループが経営する会員制レストラン「クラブノックス麻布」だ。澤田社長は「孫会社が経営しており、持ち株会社のコストが孫会社の収入となり、連結決算上打ち消される。例えば2万円のコースだと、3分の1ほどの原価だけかかるという意識になっていた。(ルール違反を)誘発する素地の1つになったと反省している」と弁明した。
NTTと総務省の関係が、1990年代のNTT分割を巡る全面対決から蜜月へと移り変わりつつある点も、ルール軽視を招いた背景にありそうだ。情報通信政策上の課題は、かつての国内市場重視から、現在はGAFAを含めた国際競争へとシフトしつつある。この点についてNTT澤田社長と、2021年3月16日に辞職した谷脇康彦前総務審議官の問題意識は一致していた。
NTT澤田社長と谷脇氏は、旧郵政省とNTTが全面対決していた1990年代から面識があり、古くから意見交換を重ねてきた節がある。市場環境が激変し、互いの問題意識が一致する中で、ルール軽視の構造が生まれていった可能性もある。 ・・・
●NTT社長の老獪答弁と東北新社社長が残した「火種」 3/17
3月16日、武田良太総務相はNTTから接待を受けていた谷脇康彦前総務審議官を停職3カ月の懲戒処分とし、谷脇氏は同日付で辞職した。週刊文春が報じたNTTグループによる接待について、参考人として招致されたNTTの澤田純社長は「おおむね事実である」と国会で認めた。新たな「文春砲」によって、武田総務相がNTT社長と昨年11月11日に会食していた新事実も浮上。NTTグループ内部関係者によるリークが引き起こした炎上は今なお続いており、総務省通信畑(旧郵政省入省組)が誇った「改革の旗手」辞職をもってしても、鎮火となる気配は見えない。
3月15日から16日にかけて参議院と衆議院の予算委員会で行われた参考人質疑で、NTTの澤田社長は「日頃よりマスコミあるいは与野党の国会議員等の有識者と懇談を行っている」とさりげなく述べた。「マスコミ」や「野党」について敢えて言及する必要がない文脈だったが、これを聞いて、電波オークションの導入議論で「既得権益」を批判される放送局など大手メディアや、NTT労組・情報労連出身の議員を抱える野党への「ブーメラン」の可能性を想起した人も多いだろう。一連の接待が総務行政の「歪み」をもたらしたのか、特にNTTドコモの子会社化と関係があるのか――といった疑問をかわす「牽制球」を投げたのだとしたら、相当に老練な答弁術だと言わざるを得ない。
これに対して東北新社の中島信也社長は、「接待の目的は顔つなぎだったということだが、その顔つなぎの目的は何か」と問われ、「顔つなぎの目的は顔つなぎだ」と答弁している。
顔つなぎの目的は顔つなぎ−−。
いったいこれは「一休さんの頓智」か、はたまた「深淵なる禅問答」か。要は贈収賄が疑われるような具体的な請託をしたのではなく、単なる人間関係の維持のために接待をしたと言いたいのだろう。
しかし、顔つなぎが自己目的化して、数珠つなぎのように、監督官庁の特定ポジションの官僚に対する接待が継続されていたとすれば、それがむしろ問題だ。公務員個人との偶発的・個別的な人間関係ではなく、職務権限を有している官僚との関係を常に維持しようとしていたということであれば、職務との関連性は強まる。
<「ザル」だった総務省の審査>
いずれにせよ、国会での参考人質疑は真相解明には程遠いものだったが、注目されるのは、放送事業者に対する「外資規制」の問題だ。
東北新社は2016年10月、洋画専門BSチャンネル「ザ・シネマ4K」の事業認定を総務省に申請したが、その時点で株主の20.75%(議決権ベース)が外資だった。放送法は、「日本の国籍を有しない人」「外国政府又はその代表者」「外国の法人又は団体」が議決権の五分の一(20%)以上を占めないことを、衛星基幹放送の事業者認定を受ける要件としている。違法性は明確だが、2017年1月に東北新社は事業者認定を受けた。総務省側の審査は「ザル」だった。
しかし、本当の問題はその後だ。中島社長によれば、東北新社は2017年8月4日に外資規制に違反していることに気づいた。そこで、「違反を隠す」ためではなく、「正常化」するために、総務省に報告・相談した上で、子会社に事業を承継したという。その会社こそが、東北新社の100%子会社として2017年9月1日に設立された東北新社メディアサービス社であり、当時官房長官だった菅義偉首相の長男が取締役に名を連ねていた会社である。
<東北新社社長の「仰天答弁」>
<「資料を持ってきてないので答えられない」>
外資規制違反を糊塗するための事業承継だったのか否かは、現時点では不明である。東北新社が報告・相談したという事実ですら、総務省の情報流通行政局総務課長(現電波部長)が予算委員会で「記憶にございません」という答弁を繰り返した。総務省が設置した第三者による「情報通信行政検証委員会」が17日から始動したが、どこまで事案の解明に切り込めるだろうか。
放送法の外資規制は、国民的財産である公共電波の有限性や、放送が言論報道を担う役割の重大性から許容されており、わが国では地上波だけでなく、衛星放送についても導入されている。実際には外資による株式保有数が20%を超えている放送局もあるが、株主名簿への記載(名義書換)拒否という手法によって、議決権ベースで20%を超えないというルールが遵守されている(ちなみに日本戦略研究フォーラム政策提言委員の平井宏治氏の指摘によれば、このルールは2017年9月25日付局長通達によって導入されたという。東北新社案件の処理と同じタイミングだが、関連性は不明である)。
近年では、安全保障の観点からも、放送メディアに対する外国の影響力排除は重大な課題になっている。例えば、イギリス放送通信庁は2021年2月4日、中国の国営メディアである中国中央電視台(CCTV)が所有・運営する多言語テレビ「中国環球電視台」(CGTN)が実質的には中国共産党に支配されているとして、放送免許を取り消している。これに対して中国は2月11日、イギリスBBCの中国国内での放映を禁止する報復措置に出た。ウイグルや香港などでの人権問題を巡って、国益の衝突が放送免許の付与に直結する時代だ。
外資による土地取得も問題視されている。政府は今国会で「重要土地等調査法案」を成立させようとしている。これは、自衛隊基地の周辺や国境の離島など、安全保障上重要な土地を外資が取得することに一定の制約をかけるもので、土地取得者の氏名や国籍、利用状況の実態を調査する権限を政府に付与するものだ。広範に及ぶ私権制限だとして反対する意見も根強く、今国会で成立するか不透明なところがあるが、水源地を中国資本が買い占めるのではないかと懸念する声も高まっている中、いずれ成立することになろう。
放送における外資規制も同じように重要な問題だ。総務省情報流通行政局における気の緩み、事務処理上のミスで済む問題ではない。
15日の参議院予算委員会で「どこの国の企業・個人(が株主)なのか」と問われた東北新社・中島社長は「資料を持ってきてないので、お答えできない」と回答した。事の重大性を理解できていない、上場企業の社長として真相解明にハングリーに貢献する責任感が欠けていると言われても仕方がない。どうしても答えたくない、答えられない事情があったのかもしれないが。
●「公務員としてルーズ」総務省の幹部接待 3/17
総務省幹部に対するNTTや放送関連会社「東北新社」の接待が、行政に与えた影響を調べる第三者の検証委員会が17日、総務省で初会合を開いた。関係者からの聴取などを通じ、会食前後に意思決定された政策に公平性が確保されていたかを検証する。再発防止策も提言する方針だ。
第三者委は大学教授ら4人で構成され、座長は元検事の吉野弦太弁護士。総務省職員や接待を行ったNTTなどの民間企業に加え、会食前後に決定された政策の決裁に関与した政務三役(閣僚、副大臣、政務官)も聴取の対象となる見込み。
吉野氏は終了後、記者団に「公平性や透明性を欠いた意思決定プロセスがないか、厳しく徹底的に検証する」と述べた。個人的な見解としたうえで、今回の接待問題について「公務員のあり方としてはルーズだ。接待をする側は、費用負担するだけの思惑はあるはずだ」とも指摘した。
一連の問題を巡っては、行政への影響を調べる今回の第三者委とは別に、総務省が接待の有無を調べる調査も行っている。吉野氏は、この調査の助言役も務めており、連携して全容解明を進める考えを示した。
●東北新社の認定取消と総務省接待は関係があるのか? 3/17
東北新社の子会社が継承した衛星放送事業の認定が取り消されることになりそうだ。この事件では、東北新社(菅義偉総理の息子さんら)が総務省を接待したことと免許認定の取り消しを関連させ印象操作を狙ったような記事や意見が散見される。しかし、これら報道で散見される記事や意見は、放送法の外資規制ルールを知らない、いわゆる陰謀論の類に過ぎない。本稿では、東北新社の認定取り消しの理由を説明し、総務省のクリーンヒットである新外資規制ルールなどについて説明する。
放送業界への外資規制は世界の常識
わが国では、電波法や放送法により放送会社の外国人等議決権割合は5分の1を超えてはならないと定められている(表1)。放送が世論に及ぼす影響を考慮した安全保障上の理由から、放送業者に対する外資規制は、わが国だけでなく、アメリカ合衆国でも欧州でも類似の制限が設けられている。
総務省は、2005年4月14日に情報通信政策局が作成した「放送局に対する外資規制について」の中で、放送業界に外資規制を導入する理由について「地上放送は、国民的財産である公共の電波を使用するものであり、その有限希少性が強い。政治、文化、社会等に大きな影響力を有する言論報道機関として重要な役割を担う。災害情報等をはじめとする国民生活に不可欠な情報を提供。」と述べている。
放送が国民世論に与える影響を考えれば、外資規制を導入することは合理的だ。
放送業界における外国人株主比率の実態
外国人等議決権比率が、全ての議決権の5分の1を超えている企業は、東北新社だけではない。表2に示す通り、本稿執筆時点(2021年3月12日)において、フジ・メディア・ホールディングスと日本テレビホールディングスの外国人等議決権比率は、全議決権の5分の1を超えている。
   表2 上場放送企業の外国人株主が占める割合
名義書換拒否という解決策
なぜ、東北新社は認可が取り消され、フジ・メディア・ホールディングスと日本テレビホールディングスは放送免許が取消にならないのか。
電波法第5条4項二、三は、無線局の免許の欠格事由として、外国人等の議決権割合が全ての議決権の5分の1を超えないこととしている。また、放送法116条では、外国人等の議決権割合が、全議決権の5分の1を超え、欠格事由に該当した場合は、その氏名及び住所を株主名簿に記載し、又は記録することを拒むことができるとしている(以下、無線局では判りにくいので「上場放送企業」と書く)。なお、衛星放送も地上波も外国人等の議決権割合が、全議決権の5分の1を超えると欠格事由に該当することは同じである。
フジ・メディア・ホールディングスと日本テレビホールディングスは、2017年9月25日付の総務省通達(通達自体は非公表)に基づき外国人等の所有株式のうち株主名簿への名義書換を拒否した株式に係る議決権を総議決権数算定の基礎から除外して外国人等の議決権割合を計算している。
この計算の結果、外国人等の所有株式のうち株主名簿への名義書換を行った株主(実際に株主総会で行使される全ての議決権個数の19.99%)だけに議決権を与えている。また、19.99%を超えた部分の外国人等株主には株式の名義書換拒否を行い、前述の放送法及び電波法に定める欠格事由を回避している(詳しい説明は後述する)。
ところが、東北新社は、集計ミスでこの株式の名義書換拒否処理を行わなかった。《総務省が東北新社の認定を最初に行ったのは平成29年1月。当時、外資比率の基準を満たしていると申請したが、実際は20.75%だったという。総務省に対し、東北新社は1%以上を保有する株主を足し合わせて申請したミスだと説明している。》(2021年3月12日『産経新聞』から)
東北新社の免許認定が取り消される理由は明らかだ。外国人等株主の集計を間違えた結果、19.99%を超える外国人等株主へ名義書換拒否をしなかった。この結果、東北新社が欠格事由に該当することになったからだ。東北新社が総務省を接待したこととは無関係であることは明らかだ。「菅総理の子供は接待要員。総務省は外資規制違反を知りながら忖度して認可を取り消さなかったのではないか。接待することで認可取消阻止を目論んだ」という類の記事は想像に過ぎない。与党への印象悪化を目的とするものだ。報道機関は認可取り消しの理由を正確に報道し、この問題を政局に利用するような態度は厳に慎むべきではないか。
法治国家であるわが国では、法律に違反すれば、法に従い免許が取り消される。小西議員の指摘により、東北新社の法的瑕疵が明らかになった結果、法律に従って、認可が取り消される。この事件は、これ以上でもこれ以下でもない。
クリーンヒットだった「総務省通達」
東北新社の認可取り消し事件で、放送会社に対する外資規制ルールに光が当たった。そこで、総務省が外資規制ルールでクリーンヒットを放ったことを紹介する。
2017年9月25日付の総務省通達(通達自体は非公表)により、外国人等の株主に名義書換拒否を行うときに生じていた重大な問題点が解決された。筆者が総務省に確認した通達の内容とは、外国人等の所有株式のうち株主名簿への名義書換を拒否した分を全議決権数算定の基礎から除外するようにするものである。この通達の持つ意味は、経済安全保障の観点からも大きい。総務省が、外資規制のルールを改善したことを評価したい。
2017年9月25日の総務省通達が出る前は、外国人等投資家が株主総会で行使することができる議決権個数は、全議決権個数に19.99%をかけたものとされていた。この結果、株主総会で行使できる外国人等がもつ議決権の個数が、全議決権個数の5分の1を超える異常な状態が生じていた。
株主総会で行使できる外国人等がもつ議決権の個数が、全議決権個数の5分の1を超える理由を、例を用いて説明する。
外国人等投資家が全議決権個数1万個の上場放送企業の議決権を3000個有しているとする。名義書換拒否前の議決権の状態は以下の通りとなる。
   外国人等株主の持つ議決権個数 3000個
   日本人株主の持つ議決権個数 7000個
   全議決権個数        1万個
この状態のままでは、この上場放送企業は、外国人等の議決権割合が全ての議決権の5分の1を超えるので、欠格事由に該当することになる。この上場放送企業は免許の欠格事由を回避するため、前述の規定に従い、外国人等の持つ議決権のうち19.99%のものに議決権を認め、残りの10.01%の外国人等の持つ議決権には株主名簿への名義書換を拒否する。名義書換拒否後の議決権個数は以下の通りとなる。
   外国人等の株主の持つ議決権個数。1999個
   外国人等の株主の持つ議決権のうち名義書換拒否された個数 1001個
   日本人株主の持つ議決権個数。7000個
   全議決権個数        1万個
名義書換拒否された議決権1001個の議決権を持つ外国人等の株主には、上場放送企業から株主総会への招集通知は発送されない。一方、外国人へ株を売却した株主にも、株主総会への招集通知は発送されない。この結果、この上場放送企業の株主総会は以下の状態で開催される。
   外国人等株主の持つ議決権個数 1999個 (22.21%)
   日本人株主の持つ議決権個数 7000個 (77.79%)
   株主総会で全株主が行使可能な議決権個数の合計 8999個 (100.00%)
この上場放送企業の株主総会では、外国人が行使可能な議決権割合が、22.21%という結果になる。外国人議決権割合を計算する際に、外国人の持つ議決権のうち名義書換拒否された個数1001個を計算の分母に加えたことが原因だ。ちなみに、この計算方法では、外国人等株主が持つ議決権個数が8002個以上になると、外国人等の株主が経営権を握ることになる。
   外国人等株主の持つ議決権個数 1999個
   外国人等株主の持つ議決権のうち名義書換拒否された個数 6003個
   日本人株主の持つ議決権個数 1998個
このように、2017年9月25日付の総務省通達前の外資規制ルールでは、上場放送企業の外国人株主の保有比率如何では、外国人が意思を通すことを可能としていた。
●総務省接待問題を検証 座長「おじけず忖度せず」 3/17
行政がゆがめられた事実はなかったのか。総務省幹部が違法な接待を受けていた問題で、第三者委員会による検証が始まりました。
違法な接待には、どんな目的があったのか。総務省幹部らへの一連の接待について検証を行う第三者委員会が初会合を開きました。
元検事の吉野弦太座長は、総務省ではない第三者で構成されたメリットについてこう話しました。
情報通信行政検証委・吉野弦太座長:「おじけず、むろん忖度(そんたく)もせず、しっかりと検証ができることが大きなメリットだと思ってます」
そんななか、接待をしていた東北新社と接待をされる側だった総務省が外資規制違反の報告を巡って今、真っ向対立しています。
東北新社は2017年8月に総務省に報告したと説明。
東北新社・中島信也社長:「(2017年)8月9日ごろでございます。木田由紀夫(元役員)が総務省の鈴木信也総務課長(当時)に面談したと」
一方、報告を受けたとされる本人は今月17日も、これを否定しました。
総務省総合通信基盤局・鈴木信也電波部長:「外資規制に抵触する可能性がある旨の報告を株式会社東北新社から受けた事実に関する記憶はございません」
さらに17日、新たな食い違いが明らかになりました。
東北新社・中島信也社長:「井幡課長が休暇中であったため、対応した鈴木信也総務課長(当時)にお伝えしたと」
総務省の担当課長が休暇中だったため、当時の鈴木総務課長と面会したと説明していましたが。
総務省・原邦彰官房長:「井幡氏の出勤簿、それから本人にも確認しましたところ、東北新社が総務省に対し、口頭で報告したとされる8月9日ごろは、東北新社の説明とは異なり、7日から11日まで井幡は出勤していたと」
武田総務大臣は総務省と東北新社の説明が食い違っていることについても第三者委員会で検証するとしています。 

 

●武田大臣にささやき疑惑…本人否定も映像に残る声は 3/18
会食問題の渦中にある武田総務大臣にささやき疑惑が浮上です。“記憶がない”という音声を巡って今、波紋が広がっています。
「記憶がないと言え」と指示したのではないかという指摘に18日朝、「指示した記憶はございません」と否定した武田大臣。問題となったのは16日の「記憶はございません」。
東北新社の外資規制違反を巡る議論で答弁を求められた総務省の鈴木電波部長が答弁台へ歩き出したところで、どこからか「記憶がない」というささやき声が…。
この音声について、野党側は武田大臣の声だと指摘。この様子はテレビで生放送され、ツイッターでも拡散されました。
武田大臣は発言を一部、認めたうえで…。
武田総務大臣:「どうせいこうせいというような指示をした記憶は全くございません」
その武田大臣は18日、NTTの澤田社長やJR東海の葛西名誉会長との会食について同席したと認めました。
ただ、あくまで許認可に関する要望や依頼は受けておらず、大臣規範に抵触する会食ではなかったとしています。
●武田総務大臣「記憶がないと言え」答弁指示は否定 3/18
武田総務大臣は東北新社の外資規制違反を巡る国会審議で総務省の鈴木電波部長に「記憶がないと言え」と指示したのではないかという野党の指摘に対し、「答弁を指示するような意図は全くなかった」と否定しました。
立憲民主党などの野党は16日の衆議院予算委員会での武田大臣の発言を問題視しています。
武田総務大臣:「記憶がないと…」
18日の衆議院総務委員会で野党側は総務省の鈴木電波部長が答弁をする直前に武田大臣が声を掛け、「記憶がないと言え」と指示をした疑いがあると指摘しました。
立憲民主党・山花衆院議員:「『記憶がないと言え』と言っているようにも聞こえる音声が確認できますが、そういう指示を受けたという認識はございますでしょうか」
総務省・鈴木電波部長:「移動の際の周囲の声などは全く自分自身の耳に入っておりませんでした」
立憲民主党・山花衆院議員:「大臣、こういった発言をされたんでしょうか」
武田総務大臣:「(質疑のなかで)『記憶がない』っていう言葉を巡って繰り返しのやりとりが続いたために、その言葉が私の方から口に出たのかもしれません。答弁を指示するような意図は全くございません」
武田大臣は発言したことは認めましたが、答弁の指示については否定しました。
野党側は「疑念を抱かせるような行為で極めて問題だ」と訴え、引き続き追及する考えです。
●武田総務大臣「大臣規範に抵触する会食ではない」 3/18
武田総務大臣は週刊文春が報じたNTTの澤田社長やJR東海の葛西名誉会長らとの会食について、同席したことを認めたうえで「大臣規範に抵触する会食ではなかった」と強調しました。
武田総務大臣:「会食に同席したことは事実であります。当日まで(JR東海の)葛西名誉会長と私以外の出席者は存じ上げておりませんでした。出席者から特定の許認可等に関する要望・依頼を受けたことはなく、大臣規範に抵触する会食ではなかった」
そのうえで、武田大臣は「短時間の出席でお酒だけを飲み、費用として1万円を支払った」と説明しました。
武田大臣はこれまでの国会答弁でNTT側と会食したのかどうかについて追及を受けても「国民の疑念を招くような会食に応じることはない」と明言を避け、野党が反発していました。
●総務相 NTT社長らとの会食認める “大臣規範には抵触なし” 3/18
武田総務大臣はNTTの澤田社長らと会食していたとする「週刊文春」の報道について、衆議院総務委員会で会食の事実を認めたうえで「特定の許認可などに関する要望を受けたことはなく、大臣規範に抵触する会食ではなかった」と強調しました。
18日発売の「週刊文春」は、武田総務大臣が去年11月、NTTの澤田社長やJR東海の葛西名誉会長と会食していたと報じました。
武田大臣は、衆議院総務委員会で「葛西名誉会長との会食に同席したことは事実だ。葛西氏から声がけがあり当日までほかの出席者を知らなかった。別の予定があったためお酒のみいただいて中座し、費用として1万円を支払った」と説明しました。
そのうえで「出席者から特定の許認可などに関する要望、依頼を受けたことはなく、大臣規範に抵触する会食ではなかったと思っている」と強調しました。
また「会食当時は、NTTがNTTドコモの完全子会社化に向けたTOB=株式の公開買い付けを行っていたタイミングであり、国民に疑念を抱かせる会食だったのではないか」と指摘されたのに対し、武田大臣は「NTTドコモの完全子会社化は法令上、総務省の許認可が必要なものではなく、NTT側の経営判断で実施することが可能なものだ」と述べました。
NTTは澤田社長らが武田総務大臣と会食していたとする「週刊文春」の報道について、会食の事実を認めたうえで、「会食は民間の方が宇宙に関連する議論のために企画されたと承知している。武田大臣も同席していたが、NTT側から武田大臣を呼んだという事実はなく、会食の場でNTT側から業務上の要請をした事実もない」とコメントしています。
岡田官房副長官は記者会見で「政治家が政治活動の一環として、広く企業の方々と意見交換を行うことはありうると承知しており、大臣規範の趣旨を踏まえ、適切に判断することが基本だ。武田総務大臣は、これまでも事実に基づき誠実に答弁され『虚偽答弁をしたことはない』と答弁されていると承知している。引き続き、国民の皆様から疑念を招くことがないようにしていくことが重要だ」と述べました。
一方、記者団が接待と会食の違いを質問したのに対し「接待と会食の違いが法律的に明示されているかは存じないが、広辞苑には接待とは『客をもてなすこと』、会食とは『集まって飲食すること』と記載されているということだ」と述べました。
立憲民主党の泉政務調査会長は、記者会見で「どこでどんな話を、どれぐらいの時間をかけてしたのかについて明確な説明が必要で、それをしないから国民に疑念を抱かれる。国民に疑念を抱かれるような会食をしていないかどうかは本人が決めるものではなく、客観的に説明するよう、改めて求めていきたい」と述べました。
共産党の志位委員長は、記者会見で「週刊誌に書かれたら会食の事実をしぶしぶ認めるというあり方自体が国民の疑念を生んでいる。なぜ最初から言わないのか。総務省の問題を正さなければならない武田総務大臣が、国民の疑念を増幅するような対応をしており、ますます事態は深刻だ」と述べました。 
●総務省接待問題で検証委が初会合 企業の思惑、行政影響を調査  3/18
総務省幹部がNTTと放送事業会社「東北新社」から接待を受けていた問題で、総務省は17日、一連の接待が行政をゆがめたかどうかを点検する第三者による「情報通信行政検証委員会」の初会合を開催した。検証委の座長で元検事の吉野弦太弁護士は「接待をする側は費用負担するので思惑がある」とした上で、それが行政に与えた影響を調べる考えを示した。政務三役の関与も含め、広がっている疑念を払拭するため、事実関係を徹底検証する。
検証委は吉野氏のほか、放送政策や行政学の専門家、企業経営者の計4人で構成する。通信政策に詳しい有識者の追加も検討している。初会合では、武田良太総務相が「国民の疑念を招く事態となり、深くおわび申し上げる。正確に徹底的に検証を進めていただきたい」とあいさつした。
会合はプライバシー保護と透明性の確保を考慮し、原則非公開だが、議事要旨を後日公表する。政務三役や、辞職した山田真貴子前内閣広報官や谷脇康彦前総務審議官を含む退職者に関する聴き取りも行う。接待の全容は未解明な部分が多く、報告書をまとめる時期も未定とした。最終報告には再発防止に向けた提言も盛り込む。
一連の問題では、東北新社の接待に菅義偉首相の長男の正剛氏も参加。東北新社は衛星放送の認定で放送法の外資規制違反が見過ごされたほか、NTTは携帯電話の料金引き下げやNTTドコモの完全子会社化の前後に接待を行っている。
放送・通信行政 / 総務省はNHKや民放などの放送業界や、光回線などの通信や携帯電話といった事業を所管し、政策決定や事業の許認可の権限を持つ。放送局は報道や番組を通じて政治や社会に大きな影響力を持つため、外国資本の出資比率が20%未満でなければならないと放送法で定めている。NTTは民営化前の回線網など公共資産を引き継いでいることから、国が株式の3分の1以上を保有し、役員の選任や事業計画の策定などには総務省の認可が必要とNTT法で定めている。

 

●「NTTが総務省・政務三役とも会食」文春 3/19
今週、週刊文春がNTT幹部と総務省・政務三役とも会食していたと報じた。野田聖子元総務相、高市早苗元総務相、坂井学元副大臣、さらにはNTTドコモ出身の小林史明元政務官の名前もあった。
先週の谷脇康彦総務審議官からの政務三役ということで、来週の文春砲はさらに驚くべき人がターゲットになるのではないかと見られている。
東北新社による総務省への接待報道では、週刊文春の記者が飲食店に潜入し、会話を録音。さらに帰り際に菅総理の長男が総務省幹部にタクシーチケットを渡すシーンが撮影されている。
おそらく、総務省幹部と東北新社が会食するという情報が、事前に週刊文春編集部にリークされ、記者が張り込みをしたのではないか。
一方、NTTによる会食報道を見ると、週刊文春編集部が張り込みをしている記事にはなっていない。現場を克明にリポートした原稿だが、実際はメニューや金額などの羅列となっている。NTT幹部と総務省関係者ならびに政務三役との会食について、クラブノックス麻布での話しか出てこないと考えると、おそらく、NTT迎賓館といわれているクラブノックス麻布の台帳が週刊文春編集部に持ち込まれたのではないか。
澤田純社長によって、NTTドコモはNTTの完全子会社化となった。この動きを面白くないと感じた、ある人物がクラブノックス麻布の関係者から台帳を入手した可能性が高そうだ。クラブノックス麻布は株式会社ノックストゥエンティワンが運営しているが、この会社はNTT都市開発のグループ会社である。もともと、電電公社に入社した人たちが、NTTやNTTドコモ、NTT都市開発に散らばっていることを考えると、台帳のようなものが関係者の間でやりとりされるのは不自然ではないのかもしれない。
今後、気になるのがNTTの経営体制だ。
東北新社の社長はあっさりと辞任に追い込まれた。澤田純社長は、15日に参院予算委員会の集中審議、16日にも衆議院で参考人招致される。谷脇総務審議官のみならず、政務三役を巻き込んでの接待問題と言うことで、NTTの社長を続けられるかはかなり厳しい情勢と言えるだろう。
澤田社長はIOWN構想を掲げ、NTTグループをGAFAに対抗できるよう、国際競争力を高めようと尽力していたはずだ。だからこそ、NTTドコモを4兆円も投じて完全子会社化したのではないか。
ここで澤田社長がNTTグループの陣頭指揮を執れなくなるとすれば、後任は誰になるというのか。
NTTグループの国際競争力を強化するどころか、澤田社長が抜けることでNTTグループのおける求心力がなくなってしまうのではないか。
総務省でも幹部が失脚するなか、「日本の通信業界における未来に向けたビジョン」を描く人が誰もいなくなるという恐ろしい事態に陥りそうだ。
●総務省接待が、大問題にならない理由 3/19
広がり続ける総務省接待問題の波紋 大蔵省接待汚職事件と状況はどう違うか
今、官僚は使い捨ての時代です。山田真貴子内閣広報官に続いて、総務省の次期事務次官候補だったエリート中のエリート、谷脇康彦前総務審議官が辞任しました。文春砲で狙い撃ちされたNTTとの接待問題で、「国民に迷惑をかけ、行政に対する信用を失墜させた」ことが辞任の理由です。
これから先も、総務省接待問題をめぐる騒ぎは続くと思います。ヘタをすると武田良太総務大臣の辞任までいくかもしれませんが、その場合もあくまで一身上の理由であって、詳細は説明されないまま、この問題は幕引きでしょう。
官民の接待問題といえば、1990年代に大問題となった大蔵省の接待汚職事件が思い浮かびます。バブル崩壊後に積み上がった100兆円規模の銀行の不良債権を隠し、最終的に国民の税金を注入してこれを解消する背景に、銀行が大蔵省銀行局幹部をノーパンしゃぶしゃぶなどで接待し「お願い」をしていたことが判明し、国民の怒りが頂点に達しました。最終的にこの事件は、伝統ある大蔵省の名前が消えることで幕引きとなります。
谷脇氏ほどの実力者が、ここで官僚としてのキャリアを終えなければならないということ自体は、総務省にとって実に重い幕引きで、それだけ重大事件であるという認識はあるわけです。一方で国民感情としては、この事件がかつてほど大きな問題になっていないように見える理由は何なのでしょうか。
その違いは、今回の総務省接待問題には、90年代の大蔵省接待事件と比べ、国民にとって大きな不利益がないことです。
より正確に言えば、政治に対する国民感情には2種類あって、1つは「何であろうと不正は許せない」という正義の感情と、もう1つは「政治家なんだから多少の不正はあるのだろうが、それでも私腹を肥やして国民を犠牲にすることは許せないと」いう利害にかかわる感情です。
ちゃんとした数値調査を目にしたわけではないのですが、さまざまな世論調査を背景に捉えてみると、前者の「絶対正義派」はどちらかというと少数派です。コロナ禍のマスク問題でも議論になりましたが、マスク警察のような活動家は国民全体でいえばあくまで少数派。「そういう正義もあるだろうけど、あまり正義を振りかざし過ぎるのはどうだろう」と考える人の方が、実際には多数派です。
一方で、政治の本質は利害調整にあります。何かの目的を達成するために、誰かに我慢を強いることが政治の本質です。道路を造るために住民に立ち退きをお願いするとか、環境汚染を減らすために特定の化学品の製造や使用を禁止するようメーカーに伝えるとか、立法も行政もどちらも、「最大多数の最大幸福」のための利害調整を仕事とします。
しかし、もし「最大幸福のためには仕方ない」と思って立ち退きを強いられた側の国民が、道路を建設することで一部の政治家や官僚が私腹を肥やしていたと知ったら、それは国民の怒りが爆発する原因になります。こういった不正に対して強い怒りを感じる国民は、多数派なのです。
総務省接待問題は国民の利益を損ねてはいない
その観点で事件を捉えると、今回の総務省接待事件は利害の構図で見ると国民にとって不利益があったようには思えない。あくまで国民が感じているのは、スマホの料金の高さに問題を感じた歴代の総務大臣が、総務省の官僚に指示を出して、通信各社にスマホの基本料金を値下げさせるように圧力をかけたことと今回の事件には、何らかの関係があるのだろうという邪推です。
真相はたぶん解明されないと思いますが、もし解明されたとしたら、不利益を被ったのは収益を下げることにつながる大企業の側であって、国民の大多数は得をすることになるはずです。
ちなみに、この構図が当てはまると仮定した場合、「なぜお願いをする側の総務省が接待されているのか?」と疑問を持たれる読者もいらっしゃるかもしれません。実はこれ、「官民接待あるある」で、個室で高級な料理が提供されるその十数万円の食事代欲しさに、双方が会っているわけではないのです。本当は、もっと大きな数千億円の利害を巡って、駆け引きが行われている。双方にとって接待はあくまで交渉の必要経費だというのが実態であり、我々一般人にとっての「接待する・される」という感覚とは、異なる次元の話なのです。
一方で、国民感情として炎上しやすいのは、特定の個人名です。これはメカニズムとしてはSNSの炎上とよく似ています。その観点では、不倫問題の渡部建さんや闇営業問題の宮迫博之さんと同じで、菅首相の長男が絡んだ接待の方が、NTTよりも社会問題としてバズったことは事実でしょう。
政治家の駒として官僚が切り捨てられるという「真の問題点」
さて、この事件がなぜかつての大蔵省接待事件のような大問題にならないのかというメカニズムの話は、ここまで説明した通りだとして、今回の騒動が意味する別の問題点について話をしましょう。
前述のように、「コンプライアンス重視派」にとっては、官僚が関係する企業から接待を受けたにもかかわらず、その事実を隠していたということが問題です。一方で「利益重視派」にとっては、この事件は一見して、国民の利益を損なっているようには見えない。だから多くの国民は、大きな問題に感じないのではないでしょうか。
しかしこの事件、実は大きく国民の利益を損なっている部分があります。それが冒頭で述べた「官僚の切り捨て問題」です。野党は連日国会で問題を追及し、与党はそれを必死でかわす。その攻防戦を乗り切るための「駒」として、官僚が使われるようになり始めた。そうした官僚の権威失墜を一番理解しているのは若者です。
2019年のニュースですが、この年初めて東京大学の入試で、将来の官僚への登竜門である文科I類の合格者の最高点と平均点が、ベンチャー起業家への登竜門である文科II類のそれを下回りました。
これまで、成績のいい若者が法学部を出て官僚を目指し、そこまで成績がよくない者が経済学部を出て民間を目指すというのが、戦後70年間、東大文系における常識となっていました。ところが今、まさに本当に優秀な人材は民間を選び始めているのです。言い換えれば、官僚になるためのハードルが下がっている。そのうち予備校の広告も、「なんで私が総務省に!?」へと変わるかもしれません。
霞が関を目指さないエリート学生 確実視される「官僚の劣化」
この問題の本質は、私が近著『日本経済予言の書』で詳述したとおり、民主党政権の時代に官邸が官僚の人事権を握り、その後の自民党政権もその権力を便利に使っているということです。だから与党も野党も、それを元に戻すとは言い出さない。しかしこれは、日本国民にとっての「2060年問題」といえます。いまから40年後における日本の官僚の劣化が、確実に予言できるのです。
そして私たちが選んだ国会議員が重視するのは、2060年の未来の日本ではなく、2021年の総選挙であるかのように見えます。実際に国会中継はつまらないし、若者はそれを見ないでYouTubeで時間をつぶし、霞が関を選ばずに六本木を目指しています。
行政に対する信用を失墜させたという理由で谷脇氏が辞職した今回の事件、実は日本の未来にとって、とても根が深い大問題なのかもしれません。 

 

 

 

●官僚の言い分
1 本音を話します
私の職業は、某中央官庁の国家公務員です。国家㈵種試験に合格して採用された、いわゆるキャリア官僚です。本当は自己紹介するときには「キャリア官僚です」などとはいいませんが、このコラムでは敢えてそのようにさせて頂きました。なぜなら、それは私がこのコラムを書こうと思った理由と直結するからです。
それは、少しでも多くの方に官僚の実態や思いを知って欲しいからです。官僚という職業のイメージは、残念ながら好意的なものが多くありません。テレビでの討論番組、新聞での批判記事、政治家と官僚の対立を揶揄する雑誌記事。『エンゼルバンク』でも、マスコミとの馴れ合いの中で、自分たちに都合の悪いところは隠してルール作りをする狡賢(ずるがしこ)い奴として官僚は描かれています。
もちろん、官僚批判の一部は正しいと私も思います。様々な社会問題への対応を先送りしたり、官僚の不祥事や天下りに対しては、一国民として憤りを感じます。しかし、中には、官僚批判としては全くの誤解だったり、陰謀論的であまりにも現実とかけ離れているものも少なくありません。「どうやって権限を増やして天下り先を作って金儲けをしようか」、そんなことばかり考えて仕事をしている人がそんなにいるものでしょうか。そもそも金儲けが目的なら、公務員になるよりも高給な企業に就職する方がよほど合理的です。
私は、官僚が批判され続ける理由は、官僚が反論しないからではないかと思っています。自民党や民主党が批判されれば、議員はテレビの討論番組にでて反論します。しかし、官僚はそうもいきません。官僚とは、国を動かすための匿名の黒子であり、意思を持っていないという前提のため、どれだけ理不尽な批判を受けていても、顔と名前を出して反論することはしません。そして、反論しないのは反論できないからと受け止められ、官僚のせいでない出来事までもすべて官僚のせいのようになっています。そのような批判は、官僚になろうという若者を減らしてしまい、日本という国を弱くするだけです。正しい批判は、国の未来のためになりますが、官僚をスケープゴートにした批判は日本を混乱へと陥れます。
理不尽な批判であっても反論すれば、マスコミに面白おかしく書かれる。それよりも、我慢して国民が忘れるのを待つ、というのが今までの官僚のやり方でした。しかし、それでは、官僚への不信感や悪いイメージは払拭されないばかりか、ますます大きくなります。官僚に対する正しい批判のためにも、官僚の実態と本音を明らかにしないといけない。私は、モーニング編集部に連絡をとり、なんとか官僚としての言い分を載せてもらえないかとお願いして、この企画が実現しました。官僚がどんなことを考えて仕事をしているのか?官僚の悪いところはどこか? そして、いいところはどこか? どのようにすれば、国民から信頼される公正で活力ある政府に改革できるか? 私は、このコラムで私の思いを正直に伝えたいと思います。
本来ならば、私の名前、属する省庁、年齢などなどを公表して、堂々と論じたいところなのですが、そうすると普段の仕事ができなくなってしまいます。特に「脱官僚」と言われている中で、政府を批判するようなことは書けません。ですから、匿名のままでいることをお許し下さい。
さて、そもそも官僚とはなんでしょうか? 私は、官僚制度自体には良いも悪いもないと考えています。国家があるとき、そこには必ず官僚がいます。時代と制度によって、呼び名が違うことはありますが、歴史上、全ての国に官僚はいました。たとえ、国王がいて、すべての権限を握っていたとしても、国を動かすための事務作業は官僚が担っていました。そして国家が近代から現代になるにつれ、経済問題や環境問題など国が取り組むべき課題は大きくなり、同時に専門的になっています。官僚とは、時代に求められる課題を解決するため、国を運営するための事務作業(行政)を行うエキスパートなのです。
事務作業は、能力がある人がやる方が効率的だと思います。政府のリーダーである政治家は国民の代表として民主主義的に選ばれるべきですが、その手足となる官僚は能力に基づいて選ばれるべきです。能力がある人を集めるためには、もちろんやりがいのある仕事を与えることが本質ですが、ある程度の給与も必要です。官僚の給与がなにかと問題になりますが、私の年収は諸手当・残業代など含めて額面で600万円です。これを多いと思うか、少ないと思うかは、人によってそれぞれでしょう。
しかし、自信過剰に思われることを覚悟で言いたいことが一つあります。私が民間企業に行っていれば、かなりの確率でもっといい給料で働けたと思います。金融、商社、マスコミにいった大学時代の友人の給料はすでに次の桁に突入しているようです。そんな学生時代の友人たちと、久しぶりに会った時に、日々の生活の話をすると、自分の懐事情に惨めな思いを抱き、官僚の給与水準が低過ぎるのではないかという不満をどうしても感じてしまいます。留学を国費でさせていただいた後、金銭的魅力に惹かれて、外資に転職する同僚もいないわけではありません(もちろん留学費用の償還義務が生じます)。私も留学をした時に外資系企業から誘われました。けれども、私は官僚の仕事を辞めようと思ったことはありません。
なぜなら、仕事が楽しいからです。「国のためになる」仕事にやりがいを感じるからです。一度しかない人生をかけて仕事をするわけですから、壮大なスケールで意義を感じる舞台で活躍したい。官僚として批判されることを承知で霞が関に飛び込む若者は、そして外資からの誘惑にも負けない職員は、こういう志を抱いています。
しかし、だからといって、志があるのならもっと安く働くべきだ、と言われることには憤りを覚えます。官僚の仕事は国家にとって重要です。安かろう、悪かろうでは結局国民が損をします。むしろ、奉仕の精神を持った人間が自己実現のためにやるのではなく、優秀な人間を集めてきっちり成果を出させる、そして成果に応じて民間のトップクラスにも引けをとらない報酬を払う。公務員制度のあり方はこれくらい抜本的に変える必要があります。
マスコミや皆さんの批判の大半は、天下りに向けられているのではないかと思います。官僚である私もみなさんと同じ感情を持った人間です。高い報酬に見合った社会貢献をしていない人たちには憤りを感じます。私は、30年後に大金をもらえるかもしれない、といわれても、頑張る気など起きません。頑張るのは、仕事にやりがいがあるからです。天下りを考慮してローンを組んでしまった年配の官僚は困るでしょうが、私を含めた多くの若手官僚は、自分たちへの的外れな批判がなくなってその分正しいと思う政策を堂々と打ち出せる環境が整うなら、さっさと天下りが廃止されればいいと思っています。
このあと4回にわたって、官僚制度の抱える問題点を、官僚の視点から説明します。
2 官僚だってサラリーマンだ
「同期と比べて自分が出世できるのか気になる」
「納得してなくても上司には従う」
サラリーマンならよくあることだと思います。官僚である私にもよくあることです。官僚といえば絶大な権力をもつエリートを想像するかもしれませんが、世間のサラリーマンとそこまで違いはありません。現実はもっと泥臭くて地味な仕事です。
自分の出世など顧みず、上司や政治家に反抗してでも日本のためを思って行動するのが理想かもしれませんが、家族もいれば毎日の生活もあります。下っ端のくせ にたてつくと、左遷となって結局何もできません。
官僚についての報道や批判は、良くも悪くも官僚を強大な存在として描きます。官僚が何を考えているのか分からないから、一人歩きしたイメージによる官僚批判が出てくるのでしょう。政治家もマスコミも、誰かを悪者にすると話が分かりやすくなるうえに、視聴者や投票者の支持を得られるため、官僚バッシングに乗っかっています。
官僚が何を考えているのか? 官僚の思考回路は、実は世間一般のサラリーマンとほとんど同じです。その実態を今回は伝えます。
なぜ省の利益を優先するのか
そもそも官僚とは誰を指すのでしょう? 実は明確な定義はないのです! 一般的には、国家T種試験に合格して中央省庁に採用された幹部候補の公務員、いわゆるキャリアを指しています。中央省庁には、キャリア官僚だけではなく、大卒でU種試験に合格して採用される職員や、高卒でV種試験に合格して採用される職員もいます。さらに、霞が関の中央省庁には、地方出先機関からの出向者も多数います。こうしたキャリア官僚以外の公務員はノンキャリアと呼ばれています。会社での仕事に例えると、キャリアが総合職で、ノンキャリアが特定専門職あるいは一般職という感じになります。省庁で働いている人は、みんな官僚だと思われていたかもしれませんが、実際には、少数のキャリアと多数のノンキャリアが働いています。
キャリアは、本省の幹部候補としての採用です。しかし、幹部候補といっても、コピーとりから仕事は始まり、課長になるのは40代半ば以降です。世間が想像するようなスピード出世などありません。
民間でも子会社がたくさんある大企業に入社すると、将来的に子会社の役員になる可能性が高くなります。大企業に総合職で入社するときに、そのグループ会社の幹部候補生になっているという認識を持つ人は少ないかもしれませんが、実質的には同じようなものです。実際、私の大学の同級生の多くは、大企業に就職していますが、彼らと私たちの思考法や道徳観にそんなに大きな差はありません。幹部候補という言葉の響きのために、実態を知らない世間の方の中で、若くして大きな権限を持っているかのような誤解がうまれているように思えます。
公務員だから定時には帰っていて仕事が楽だ、と考えている方も多いかもしれません。しかし、それも官僚と市役所の窓口で働く公務員のイメージを混同してしまっています。官僚は、朝から深夜まで働くことが多く、国会の審議中は家に帰れないこともよくあります。
国益のために頑張るといいながら、自分の省の利益の代弁者になる官僚が多いではないか?という反論をする方もいるでしょう。残念ながら、その反論は、正しいと私は思います。省庁間の人事異動は、出向はよくありますが転籍はほとんどありません。つまり、ある省庁に入省することは、ある会社に就職するのと同じです。自分の省庁の利益を考えることは、自分の会社の利益を考えるようなものです。会社員が、自分の会社の利益になるけど、日本全体のためにならないからやめておこうとは考えないのと同じような思考回路で、官僚も自分の省の利益のために行動します。大会社のほうが、小さい会社よりも社会的インパクトのある仕事ができます。同様に、大きい省のほうが、社会的インパクトのある政策を行えるため、官僚は自分の省が大きくなることを望みます。逆に、自分の省の衰退は、自分のキャリアの凋落と等しいのです。ですから、必死に守るのです。
官僚ならば、普通のサラリーマンと違う思考法をするべきだといっても、それは理想論です。それよりも、官僚が自分の省庁の利益を考えず、国益のことだけを考えられるよう、人事制度と組織構造を変えるべきです。そして、官僚には変えられない制度を変えることこそが、真の意味での政治主導です。決して、官僚でもできる仕事を政治家が横取りすることではないはずです。
どんな時に官僚は頑張るのか
官僚がやりがいを持って積極的に頑張る政策とは、何でしょうか? そこにも大きな誤解があります。政策にはそもそも、政治色の強いものと、政治色の弱いものがあります。政治色が強いものでは、専門的な政策論よりも政治的利害調整の面が強くなります。たとえば道路建設でいえば、人口が集中していて物流も盛んな首都中心に整備するほうが、地方の誰も使わないところを整備するよりも経済的には合理的です。しかし、道路があったら便利という有権者の期待にこたえるべく政治家はできるだけ自分の地元に多く工事が発生するよう働きかけます。これが俗に言うバラマキです。このような政治色の強い分野では、実質的な決定権は与党の有力政治家にあります。官僚には、究極の上司である政治家に最後まで抗うことは不可能であり、むしろ受け入れて話をまとめないと仕事が片付かないし、そのほうが出世面でもプラスだという打算もあるのでしょう。世間は、そのような利権の動く仕事を官僚は喜んでやっていると思っているかも知れませんが、正直なところ、官僚は政策のプロとしての無力感を感じながら、仕方なく作業をこなすだけです。
他方、政治色の弱い分野では、強みを発揮できるため官僚は頑張ります。たとえば環境や金融問題の国際交渉です。国際会議では、国内的に声が大きい政治家が登場しても、国際交渉が日本にとって有利に進むわけではありません。官僚の専門性が活きる国際交渉のような分野こそが、官僚にとってやりがいがあるのです。
「官僚が強みを発揮する」と聞くと、「官僚にだまされるのではないか?」と不安に思う人もいるでしょう。私自身もテレビや新聞を見ていて、自分が内情を知らない他省庁の問題で、「本当だとしたらひどい」と思うことがあります。しかし、働いている側の実感からいうと、だまそうとして仕事をしている官僚はほとんどいません。それよりも組織が膠着化して起きている不合理な出来事が、「官僚が利権を守ろうと画策している」といった陰謀論として説明されているように思えます。
そして、多くの官僚の考え方にも問題があります。自分たちは正しいことを国民のためにやっているのだから、きっと分かってくれるはずだという甘えがあります。だから、世間に誤解がはびこっていても、それを正すための努力をほとんどしません。しかし、ここまで官僚への不信感が大きくなってしまうと、どのような改革を行おうとしても、何か腹黒い裏があるのではないかと勘繰られて、うまくいきません。正しい政策を打ち出すだけではダメなのです。国民の不信感は政策の土台にある、顔の見えない官僚組織に対するものなのですから。その不信感を払うべく努力することが、官僚にとっての急務です。
3 官僚には天下りを失くせない
今回は官僚批判の中核である天下り問題について話します。
役所を退職した後に、独立行政法人などに幹部として再就職し、そこで法外な報酬・退職金を得る、というのが天下りの一般的な理解です。そうした天下り団体には巨額の補助金が流れており、そうした血税をもとに官僚が甘い汁を吸っていることに国民の怒りは集中しています。私もさっさと天下りが廃止されればいいと、1回目の連載で言いました。
「それなら、天下り廃止のために、なぜお前自身や他の官僚は頑張らないのか?」という疑問の声が聞こえてきそうです。反発を覚悟で、正直に私の意見を言うと、私たち若手官僚が天下り廃止のために立ち上がって、努力するインセンティブはありません。
無駄な努力はしたくない
そのような努力をしない理由の一つは、前回説明した通り、私たちもサラリーマンのようなものなので、下からそのような反抗をしても成功せず、左遷される可能性のほうが高いからです。また、そもそも、私を含め多くの官僚は、天下りの実態を十分に理解していません。というのも、中央官庁では人事は一元的に人事部の少数の官僚がコントロールしており、しかも天下りの対象となるのは課長以上のクラスです。ですから、ちょっと前まで幹部をしていた人の姿を徐々に本省で見なくなって、後々、退職(天下り)していた、と気づきます。個人的なつきあいがなければ、天下り先さえ分かりません。自分が担当も把握もしていない問題を、しかも幹部の人生設計に関わる話を、下から突き上げて改革するというのは勝ち目のない戦い方です。
天下りは必要悪
もう一つの理由。それは、官僚組織の新陳代謝のための天下りは必要悪だという考え方もあるからです。日本の重要な政策を立案している官僚は、現状、30、40代です。50代では退職勧奨されて、幹部として若干名残るのみです。もしも天下りがなくなったら、状況は一変します。今、民主党で議論されている天下り廃止と定年延長の方針だと、今までなら退職させていた50代の人々が、全員65歳まで現場に残るのです。単純に考えれば自分が幹部になるのが、10年以上遅れます。日本の職場では、若手が主張する正しい意見よりも、年長者の意見が優先されがちなことは、誰もが経験で知っているでしょう。役所が高齢化しそれが起こってしまうよりも、頭が柔軟で体力もある若いうちに出世して、政策立案をリードしたほうが、日本を良くできる。そんな自負を若い官僚は持っているので、天下りが廃止されて欲しいと思っていても、そのためには頑張れないのです。
天下りの仕組みは役所に限りません。早期退職勧奨は、民間でも終身雇用制度・年功序列の制度を持つ大企業ではよくあります。また、官僚の天下りは日本特有と思っているかもしれませんが、欧米諸国でも天下りはあります。欧米の官僚の天下り先は、産業界や金融界のトップ、業界団体やロビイスト、軍事産業や宇宙開発産業といった政府が顧客の産業、法律事務所と多種多様です。どれも政府と仕事上のかかわりがあるため、私企業としても官僚を受け入れることにメリットがあるのです。
こう言うと、「民間企業であれば経済合理性のないことをやっていればいずれ倒産するのに対し、独立行政法人などの政府機関は市場原理が働かないから、官僚の天下りは民間の天下りより厳しくしないといけない。外国も同じだというのは言い訳にならない。」という反論も聞こえてきそうです。
グレーゾーンをどうするか
全くその通りです。そこで、天下りの廃止に向けて動き出すと、次の障害が立ちはだかります。天下り定義問題です。
「全ての天下りは無駄だ」と天下りを全面禁止するのは、乱暴すぎます。社会にとって有意義な天下りもあると僕は思います。例えば、「宇宙兄弟」でお馴染みのJAXAも独立行政法人です。ここに科学技術政策に精通した官僚が再就職すれば、それまでの専門性や経験を活かすことは可能ではないでしょうか。天下りを廃止するときに大切なのは、「無駄な組織」に「不適任な官僚」が天下ることで「無駄な歳出構造が温存」される「悪質な天下り」を無くすことです。しかし、どこからが悪質なのかの線引きは、見る人の立場によっても変わるため大変難しい問題です。
さらに、公益法人や業界団体、民間企業の中には、直接国から補助金を受けているわけではないが、官僚の政府での経験や知識を利用したり、政府とのコネクションを作っておきたいという意図もあって、天下りを受け入れているところが多くあります。そういう天下り先が無駄で悪質なのかの議論は別として、単に公務員をしていたからという理由で、転職自体を封じてしまうことは、憲法がすべての日本人に保障している職業選択の自由に反してしまいます。天下り問題には、山のようにグレーゾーンがあるのです。
天下り問題を解決する時に、そうしたグレーゾーンをきめ細かく整理して、一部の天下りを残しながら他の悪質な天下りを廃止しようとすると、「なぜうちの組織を廃止するのか」や「なぜあそこの天下りは許されるのか」といったやっかみなどが、切り込まれた省庁やその省庁を応援する族議員の中から生まれ、その改革をしようとした人への批判や中傷で、改革自体を邪魔される可能性があります。マスコミは、天下り=悪だと報道するので、一部を残しつつ改革しようとしている人まで天下り擁護者だとバッシングを受け、世間からも見放されかねません。天下り問題を理解している人は、全て廃止という乱暴な理論は振りかざせず、かといって丁寧な議論は理解されず、リスクの前に立ちすくんでいるのが現状です。
私がお決まりの官僚答弁で煙に巻こうとしていると思わないで下さい。私が伝えたいこと。それは、天下り問題は現場の複雑な実態とマスコミの一面的な報道があまりに乖離していて、もはや官僚による現実的な解決では国民の心に届かない。だから、官僚のボトムアップを期待するのではなく、政治からのトップダウンで早く変革しなくていけない、ということなのです!!
4 「8月31日」は目前だ
天下り問題は官僚自身ではなく、政治家がリードして改革することの必要性を前回主張しました。今回は、「政治主導とはどうあるべきか」がテーマです。
2009年9月に民主党は政治主導を標榜して衆院選で大勝し、政権交代を実現しました。しかし、政治主導という言葉は、どういう意味なのでしょうか?
次官会議の廃止や官僚の国会答弁の禁止といった形で政治主導が実現された、あるいは官僚が作成した想定問答を読んだから政治主導ではない、というような報道をしばしば見かけますが、これらにはマスコミで働く人の知識不足による誤解が多く含まれています。たとえば次官会議。次官会議とは、「大臣が集まる閣議の一日前に、各省の官僚トップである事務次官が集まって議論し政策を実質的に決めている場」と言われています。しかし、実際には、次官会議ですら形式的なものです。実質的な議論は、次官会議に上がる前に、担当する省庁同士の折衝を通じて行われます。そして、その議論は節目ごとに担当大臣らに報告されます。したがって、形式的な次官会議の廃止は、真の政治主導の確立にとっては瑣末なことにすぎません。そのようなことを、さも重要なことのようにマスコミが伝えても、政治主導の後押しにならず、国民をミスリードするだけです。
官僚として、私は政治主導が実現することを心底願っています。なので、矮小なレベルでしか政治主導を議論できないマスコミに、正直がっかりしています。もっと踏み込んだ議論を促し、真の政治主導を実現するべきです。政治主導によって官僚が仕事を取り上げられたとやる気をなくすことがない、日本にとって望ましい、真の政治主導とはどのようなものでしょうか?
政治家の役目はおせっかいな学級委員長
政治主導を実現するためには、「国民向け」と「官僚向け」の二パターンの施策が必要になります。理解しやすくなるよう、株式会社に喩えて考えましょう。
まず株主は国民です。会社の経営陣が政治家です。経営陣に選出してもらえるように株主に約束する経営方針が「国民向け」の施策です。社員は官僚です。株主である国民の満足を最大化するために、経営陣である政治家は官僚に指示を出します。それが「官僚向け」の施策です。この二パターンに注目すれば、政治主導のあるべき姿と民主党政権のこれまでの実績が明らかになります。
まず「官僚向け」の施策。これは、悪くない、というのが私の評価です。リストラが、外部から来た経営陣でないと難しいのと同じで、自民党にはできなかったことを民主党はしています。確かに、天下り問題はまだまだですし、事務次官会議の廃止や事務次官を更迭できる制度改革も枝葉末節です。しかし、事業仕分けという舞台を設置し、従来の密室的な予算査定プロセスではどうしても切り込めなかった予算をカットし、第二弾として公益法人の見直しにも着手したことは評価できると思います。ただ、政権の人気取りのための「官僚たたき」の面も見受けられ、社員(官僚)をうまく使うという発想の改革が少ないのが気がかりです。
他方で、「国民向け」の施策は、絶望的な評価となります。民主党は、選挙時のマニフェストで、霞が関埋蔵金や無駄削減で子ども手当や高速道路無料化などの財源が捻出できるというバラ色の虚像を示し、その結果、巨大な財政赤字となりました。民主党は、甘い幻想を抱かせた落とし前をつけねばなりませんが、残念ながら、このツケは、結局は国民に跳ね返ってきます。
今、「国民向け」の施策で最も重要なのは、選挙対策的なバラマキや甘い幻想を囁くことではなく、「正直に国が立ち行かなくなっている現状を明らかにし、国民に理解と協力を求めること」です。その意味で、政治家の役目は、8月31日が来る前に、「夏休みは楽しいことだけじゃなくて、宿題もやらないといけないんだよ」ということを友達に言うおせっかいな学級委員長になることです。8月10日くらいから計画的にやれば間に合うから一緒に頑張ろう!と未来のビジョンを示すことです。「お前、ちょっと真面目すぎるだろー、まだ大丈夫だよ」と冷やかされても、「でも、結局やってなくて大慌てするのは、君だよ。間に合わなかったらどうするの?」といって危機感を持たせることなのです!
それができる政治家は日本に長年いません。だから、族議員と結託して甘い汁を吸ってきた官僚もいましたが、多くの官僚は、自民党がだめだから、せめて自分たちがしっかりしないと、と頑張ってきました。しかし、結局のところ、官僚がどれだけ頑張っても、政治家の代わりはできないのです。つぶれそうな会社を立て直すには、社員の頑張りだけでは絶対に無理で、経営陣が正しい経営方針を示す必要があります。
夏休みの遊びの計画をたてるのは、誰でも喜ぶから政治家でなくてもできます。しかし、夏休みの宿題計画、つまり国民に迫りくる危機を伝え、どうやって解決するか方針を示して説得することは、国民から負託を受けた政治家でなければできない仕事です。
イギリスの政治主導とは
会社を立て直す時、社員の意識改革は絶対に必要です。そういう意味で、イギリスをモデルとして、政と官の関係を変えようとしている民主党の方針は、良さそうだと私は考えています。
イギリスと日本では、官僚の位置付けが異なります。日本の公務員は憲法で「全体の奉仕者」と規定されていて、与野党問わず政治家から呼ばれると駆けつけることが当然とされてきました。そのため、官僚の役目は、国民のためになる政策作りではなく政治的な調整となり、関係する政治家全員の顔を立てる総花的な案で、問題の実質先送りが繰り返されてきました。
他方、イギリスでは、所属する省庁の大臣のためのスタッフという位置付けです。官僚にとって奉仕すべき相手は大臣だけ。指揮命令系統や責務が明確で、官僚の仕事の目的もはっきりしています。イギリスでは、官僚は大臣以外の政治家とは接触をもたず、与野党の政治家との利害調整は大臣の仕事です。
さらにいえば、イギリスの大臣規範には、「官僚の専門性を尊重し、官僚からのアドバイスに耳を傾けなければならない」とまで示されていて、官僚の言うことに耳を傾けようものなら、すぐにマスコミから「官僚の操り人形」と政治家失格の烙印を押される日本の真逆です。
日本社会は、様々な構造問題や財政問題に直面している8月20日です。いまだ経済的に余裕があるものの、8月31日はもうすぐにやってきます。社員の協力がない会社の立て直しなどありえないのですから、官僚を排除するのではなく、官僚をうまく使った政治主導を政治家は実現すべきです。
5 私はセミにはならない
官僚に政治家の代わりはできません。官僚をうまく使ったイギリス型の政治主導を実現すべきだと前回、主張しました。では、なぜ「政治主導」はいつも掛け声だけになるのでしょうか? 政治家を監視するのは国民ですが、実際には新聞やテレビなどのマスコミの報道に頼っています。正しいジャーナリズムの欠如こそが、日本の政治のこれまでの停滞の原因だ、というのが私の意見です。最近、槍玉に挙がる記者クラブが、原因でしょうか? マスコミの役割の考察は、今回の主張の最後にふさわしい、民主主義における重要なテーマです。
政府発表を垂れ流すマスコミ
日本のマスコミは、報道偏重体質です。各社の担当記者は、役所の建物内の一室に記者クラブを設けて、そこに詰めています。彼らは、省内で催される大臣記者会見での質問や、役人からのプレス説明で情報を収集します。記者クラブという排他的な団体に所属する大手マスコミは、政府の公式発表を毎日のニュースとして報道すれば仕事になるので、政府を監視するというよりは政府発表を報道する機関になっていて、ネット系メディアによる記者クラブ批判は、的を射ているというのが正直な実感です。
欧米では、こうした時事発表ものであれば、通信社と呼ばれる時事報道に特化したメディアが対応します。役所など現地取材は通信社に任せて、ジャーナリストは深い調査分析をして記事を練るという役割分担が欧米にはあります。
ところが日本では、時事通信社や共同通信社などの通信社のみならず新聞記者もテレビの報道記者もが役所に詰めていて、調査分析は疎かです。通信社よりも新聞社のほうが人件費が高いのが一般的で、日本の新聞社は人件費面でもジャーナリズムの質の面でも非効率な組織運営と言えます。そうした高コスト構造を、記者クラブという参入障壁を設けることで、カバーしていると批判されても反論できないでしょう。日本にジャーナリズムは不在です。
読者受けするコンテンツ=バッシング
マスコミといっても、テレビ、新聞、雑誌、ネットと様々なメディアがあります。メディアごとの読者層の違いに合わせて、記事の内容やスタイルも様々です。しかし、全てのメディアに共通しているマスコミの命題、それは、「注目されなければならない」です。マスコミも営利企業である以上、収益を上げなければなりません。そのために、ジャーナリズムに徹するよりも、読者受けするコンテンツは何かを追い求めることになります。
読者受けするもの。それは、分かりやすいものです。時間をかけた分析が必要な分かりにくい現実論ではなく、すぐに「こいつが悪者だ」と判断できる分かりやすさ。実際、このコラムの執筆でも、正確な議論よりも分かりやすい議論を要求されました。
マスコミには、「悪者」が必要です。特に悪者扱いしても面倒が少ない悪者が。そして、それは「清く正しいのが当然」な社会的権力者です。だから、公正であることが当然な政治家・官僚、社会的責任をもつ大企業、「聖職者」である医者・教師が、マスコミのターゲットになります。
役人人生とはセミの一生のようなもの
私は疑問に思います。マスコミは政府を批判するのが目的化してはいないか?もちろん、権力に対する批判はジャーナリズムの本質です。しかし、ジャーナリズム不在の日本のマスコミの報道は、単なるバッシングにしかすぎません。
勉強不足な記者が官僚によってコントロールされているという批判も真実ですが、同時にマスコミによる揚げ足取りのバッシングを恐れて、官僚が「ことなかれ主義」に陥っているのも真実です。マスコミにいったん叩かれ始めると制御不能となり、当初の目的を果たせなくなるので、最初から隙無く万全の理論武装しておくことが一番効率的だと考え、非効率的としか思えない完璧な無駄詰め作業に邁進せざるを得ない同僚の姿を深夜の霞が関ではよく見かけます。
「ことなかれ主義」の官僚にできることなど知れています。私は自分が役人を志したときに、某省庁の面接で言われた言葉が忘れられません。「役人人生はセミの一生のようなものだ。若いころから、ずーっと自分を殺して、セミの幼虫のようにひたすら待って頑張るんだ。そして、最後に事務次官として、残り2週間の命で思いっきり鳴くんだ」
この処世術はたしかに事務次官になるのが目的の人には正しいのかもしれません。しかし、ずーっとセミの幼虫としてじっとしていた人が、最後に鳴くことなど本当はできないでしょう。改革を志して官僚になった人間は若いころから鳴く練習をすべきです。目立ってなくても、鳴こうとしている官僚もいます。そして、私も鳴こうと努力しています。
マスコミが、何かをやろうとする人の揚げ足取りではなく、保身に走る人の不作為を追及すれば、鳴こうとする官僚は増えるはずです。
お任せ民主主義との決別を
「官僚たちの夏」のような古き良き時代には、政治家やマスコミではなく、官僚自身が考える国益を信じて行動することが許されていました。しかし官僚に対する信頼が崩壊した今では、政治家の「民意」やマスコミの「世論」に反対する官僚は「抵抗勢力」とみなされます。だから、最近の官僚の多くは、選挙やマスコミ報道に、民意や世論は表明されていると考え、行動の指針としています。
官僚の行動に影響を与える方法。それは、政治家の言動やマスコミの主張が、本当にみなさんの気持ちを代弁しているのかチェックすることです。そして、もし違ったら、ブログやツイッターで、政治家やマスコミに異を唱えるのです。
国民が政治に関心をもち、自らの利益のみならず日本の将来を考える。それを政治家が受け止め、あるいは国民に方針を示して説得し、官僚がそれを具体化する。その政府の活動を、マスコミがジャーナリズムを発揮し、国民の監視に役立つように報道する。それが美しい民主主義国家です。そして、民主主義国家においては、国民の一人一人の意識が要です。今の日本の有り様は、政治家のせいでもなく、官僚のせいでもなく、マスコミのせいでもなく、国民一人一人が決めてきた(あるいはしっかりと考えてこなかった)結果です。
元米財務長官ウィリアム・サイモンは「悪い政治家をワシントンへ送り出すのは、投票しない善良な市民たちだ」という言葉を残しました。よい官僚、よい政治家、よいマスコミ、いずれも与えられるものではありません。みなさん一人一人が、日本の将来のことを考えて行動した分だけしか手に入らないのです。政権交代が起きた今こそ、「お任せ民主主義」と決別し、自覚と責任感をもった市民による「成熟した民主主義」を確立しましょう。それは、国民のみなさん一人一人にかかっています。 

 

●電波利権「波取り記者」の恐るべき政治力 2019/3
政府は2月12日、電波法改正案を閣議決定し、国会に提出した。次世代無線方式「5G」などで、電波の割り当て審査に価格競争の要素を導入するためだ。
全面的な電波オークションの導入ではないが、部分的なオークション化ともいえるので、じわりじわりと一歩前進である。と同時に、電波利用料の引き上げも盛り込まれている。
筆者は、電波オークションがベストと考えている。そうなれば、電波利用料は今より1、2桁増加するだろう。そもそも電波は、希少性のある国民共有財産である。それを不当に安く使っているのが今のテレビ界であり、その是正のためには、これも一歩前進だ。
放送制度改革は急がれているが、今の放送業界が既得権益となってなかなか進んでいない。
筆者は官僚時代の2006年当時、竹中平蔵総務大臣補佐官を務めたことがある。そのとき、筆者はもっぱら郵政民営化と地方財政を担当していたので、放送行政は担当外だった。当時は、通信と放送の融合にあわせた放送制度改革が議論されていたので、ちょっとのぞき見をしていたくらいだ。
当時の門外漢から見れば、放送法で規制されていることが、通信技術の発展によって有名無実化するので、放送制度改革を急がなければならないという「常識的」なもののように感じられた。ところが、実際には放送の既得権が政治を動かし、全く改革は進まなかった。
総務省在籍当時、筆者の仕事部屋は大臣室の隣にある秘書官室だった。筆者とは面識のない多数の方が秘書官室に訪れ、名刺を配っていく。筆者も秘書官室の一員であるので、名刺を頂いた。それを見ると、メディア関係の方々だ。その中には「波取り記者」と呼ばれる人も含まれていた。
「波取り記者」の「波」とは電波のことだ。「波取り記者」とは、記事を書かずに電波利権確保のために電波行政のロビイングをする人たちだ。こうした人は新聞業界にもいた。
彼らの政治パワーは強力であり、その結果として上に述べたように改革が全く進まなかったのだ。これは、日本の電波・放送行政が先進国で最も遅れた原因である。
本来であれば、10年以上前にやっておくべきであった。それができずに、時間を無駄にしてしまった。
ところが、技術の進展は目覚ましく、インターネットを使っての「放送」は安価に誰でもできるようになった。
筆者も私塾をやっている。かつては講義内容をテキストにして配信していたが、今ではビデオ配信だ。その方がコストも安く、速報性にも優れている。いうなれば、今や電波の希少性を超えて、誰でも「放送」ができるようになったわけだ。
しかし、この「放送」は放送法の範囲外である。放送法では、電波に希少性があるので与えられる対象が少なくならざるを得ない。このため与えられた少数の既得権者は公共のために放送法を順守しなければいけない。
ところが、「電波の希少性」という物理的な制約がなければ、放送法の規制は最小必要限度となり、さまざまな主体の参入を認めて、その競争に委ねるという政策が可能になる。
特に日本では先進国の中で唯一の電波オークションを認めず、放送では新規参入がなく「波取り記者」のような人がいたくらいの「後進国」なのだ。
冒頭で「今の放送業者は、電波を『不当に』安く使っている」と書いたのは、今の電波利用料は役人が決めた水準だからだ。本来であれば、電波という国民共有財産は、入札(オークション)という公明正大な方法で価格を決めなければいけない。今の役人が電波を割り当てして、入札で決められたはずの水準より安いから「不当に」安いと書いたのだ。
ようやく機が熟したといえるだろう。少なくとも今の安倍政権はこうした規制改革に、他の政権より熱心である。その背景として、マスコミに左派傾向があるという意見もあるが、日本のメディアが国際的になるのであればそれは国益に資するだろう。
電波利用料は本来入札で決めなければいけない。この常識は、先進国でまさに常識であり、先進国35カ国の状況を見ると、今では電波オークションではないのは、日本だけになっている。
2017年度の電波利用料は646・8億円。その内訳は、携帯電話550・9億円、テレビ業界60・1億円などである。
同じ2017年度の日本テレビホールディングス(HD)の売上高は4237億円、当期純利益374億円であったが、負担した電波利用料は4・5億円にすぎない。テレビ朝日HDも売上高3025億円、当期純利益158億円に対し、電波利用料は4・4億円だ。
もし、電波オークションが導入されていれば、少なくとも電波利用料は1桁以上大きいはずである。この意味では、放送業界は、電波オークションなしでの既得権者である。
テレビ番組で、公共事業について、入札ではなく随意契約しているので工事単価が高くなり、血税が余分に使われるという批判をよく取り上げる。しかし、それは電波利用料でもいえることだ。
今回の電波法改正にも、今国会に提出予定の興味深い法律改正がある。放送法改正である。その内容は、NHKによる放送番組のインターネット常時同時配信を容認することだ。総務省は、NHKに常時同時配信を認める条件として、受信料の引き下げや民放との連携強化、子会社を含めた統治強化、業務の見直しなどを要求している。
民放の方は、制度上既にインターネット常時同時配信が可能であるが、行うことを躊躇(ちゅうちょ)している。スポンサー離れなどを心配しているようだが、実は、インターネット常時同時配信になると、独自コンテンツを持たず、中央のテレビ局からの配信に依存している地方テレビ局が深刻な経営苦境に陥るというところが本音だろう。地方テレビ局には中央のテレビ局からの天下りが多くおり、そうした人たちの死活問題になる。
そうした状況に、インターネット常時同時配信をやりたがっているNHKを利用するという、「毒には毒を」というえげつない戦略を総務省は採ったのだろう。
民放には大きな試練が訪れている。キー局に対しては5割にもなる電波利用料の引き上げ、電波の割り当て審査に価格競争要素導入(一部オークション化)、NHKによるインターネット常時同時配信と、包囲網がじわりと狭まったようだ。筆者が総務省にいたときから10年以上経って、遅ればせながら、動き出したようだ。

 

●偏向テレビにイラつく安倍首相「放送法改正」の本丸はNHKだった! 2018/6
安倍晋三政権がもくろんでいた放送制度の「改悪」が、頓挫しつつある。2018年3月上旬から大手新聞紙がぽつりぽつり報道をはじめ、4月上旬に判明した安倍政権の「放送制度改革案」は、おおむね次の三本柱だった。
1 放送法第4条をはじめとする放送諸規制(番組準則、番組基準の策定、番組審議会の設置、マスメディア集中排除原則、外資規制など)の撤廃
2 放送におけるハード・ソフト(NHK以外の放送設備部門と番組制作部門)分離の徹底
3 NHK以外の放送と通信の一元化(一本化)
以上の意味するところは、NHKと民間放送という「二元体制」の終了である。言い換えれば、NHK以外の民放をインターネットなどの通信と同列化し、事実上「放送」ではなくしてしまう。
この「改悪」が貫徹されれば、1950(昭和25)年の電波三法成立・施行から戦後70年近く続いてきた日本の放送制度は、根本的に変わることになる。つまりこれは、安倍首相の大好きな「戦後レジームからの脱却」の放送版なのである。
安倍首相がしばしば口にする「戦後レジームからの脱却」は、本来であれば、先の大戦後に日本にもたらされた戦後体制のうち、戦前体制よりよいものと戦前体制よりよくないものとを峻別(しゅんべつ)し、よくない戦後体制だけを、現体制よりよいものに変えること、であるはずだ。
ところが、安倍首相は、そうした峻別や腑分け作業なしに、アメリカの押しつけや左派・進歩的文化人の推奨が目立つ戦後体制のうち、自分が変えたいと思うものだけについて「戦後レジームからの脱却」と口走ってしまう。だから説得力がなく、歴史観がおかしな歴史修正主義者と見なされることになる。
もちろん日本の現行の放送制度は、政府の手足となり大本営発表しか流さなかった戦前の悪しき放送制度(ラジオ)を反省し、アメリカ(GHQ)の指導下につくられた、まさに「戦後レジーム」そのものである。しかも、戦前体制よりはるかによい戦後体制だ。
しかし、どうやら安倍首相は、自分が言い出した放送制度の「改悪」が、「NHK民放二元体制の崩壊」や「放送とネットの非現実的な融合」を意味し、戦後レジームを根本的に変えてしまう大ごととは、よくわかっていなかったようである。
その後の各社報道によれば、4月中旬に開かれる内閣府「規制改革推進会議」でこのテーマを取り上げ、安倍首相が方向性を示すとされていた。その後、同会議が5月頃をメドにまとめる答申に放送改革の方針を盛り込み、早ければ18年秋の臨時国会に関連法案を提出。20年以降の施行を目指す、という段取りとみられた。
しかし、68年続いた放送制度を根本的に変えようという大改革にしては、以上のスケジュールは、ばかばかしいほど拙速すぎた。一目、話にならない無理筋である。
民放連(日本民間放送連盟)は3月半ば「放送の価値向上に関する検討会」を立ち上げ、対抗策を練った。同検討会は大久保好男・日本テレビ放送網社長(6月に井上弘・TBSテレビ名誉会長の後を受けて民放連会長に就任予定)が座長、在京キー局役員が主要メンバーとなり、民放挙げて徹底抗戦の構えをとった。
テレビと系列関係の強い大新聞紙も、今度ばかりは受け入れがたいということで、安倍首相いわく「読んどけ新聞」こと読売新聞紙も3月8日に〈安倍「放送」改革に潜む落とし穴〉(政治部からメディア局に移った加藤理一郎記者の署名記事)、17日には〈首相、批判報道に不満か〉という見出し記事を掲載。そのほかの新聞もおおむね「拙速にすぎないか」との論調である。
放送を所管する総務省も依然として半信半疑。野党はもちろん、与党にも反対論が根強い。そんな中4月16日に開かれた「規制改革推進会議」が公表した「通信と放送の融合の下での放送のあり方について」では、冒頭1〜3の中身は、あっさり削られていた。
同会議が具体的な検討課題として示したのは、(1)通信・放送の融合が進展する下でのビジネスモデルの展開の方向性、(2)より多様で良質なコンテンツの提供とグローバル展開、(3)上記の変革を踏まえた、電波の有効活用に向けた制度のあり方、の3項目。会見で放送制度改革について聞かれた大田弘子・同会議議長も「報道にとまどっている。そうした議論はまったくしていない」と、水面下で検討された放送法4条撤廃問題などの火消しにやっきとなった。
安倍首相は、会議で放送法第4条の「ほ」の字も出さず、「放送と通信の垣根はなくなっており、コンテンツの世界はグローバル競争の時代に突入している。日本のコンテンツは世界で通用しないとあきらめてはダメ」などと発言した。1月の施政方針演説や2月の政府「未来投資会議」で、威勢よく放送の「大胆な見直し」を宣言していたのとは大違いだ。各方面からの反対に加えて、内閣支持率の低迷が響き、自らの軽い思いつきを撤回せざるをえなかったわけである。
それにしても、なぜ安倍首相は、ポシャるに違いないこんな無理筋の話を持ち出してきたのだろうか?
今回のような「放送制度改革案」は、特に目新しいものではない。例えば2006年には、当時の竹中平蔵総務大臣の私的懇談会「通信・放送の在り方に関する懇談会」で、NHK・民放・NTTの改革が議論され、「通信・放送の法体系の抜本的見直し」「マスメディア集中排除原則の緩和」といったキーワードも登場している。
アメリカで、放送のいわゆる「フェアネス・ドクトリン」(公平原則)が撤廃されたのは1987年と、30年も前のこと。放送局が政治的な党派性を掲げてもよいのでは、という議論は、日本でも当時からあった。
今回そんな古い話を出してきた最大の理由は、森友問題(財務省の文書改ざん問題)や安倍昭恵問題にイラ立つ安倍首相の「焦り」だろう、と筆者は見る。将棋に「不利なときは戦線拡大」という格言がある。野党の質問攻勢、マスメディアの政府批判、それに影響された(と首相が思っている)内閣支持率の下落などを受けて、新しい争点を掲げて戦線を拡大し、局面を複雑化したかったわけだ。
そのネタが放送改革ならば、テレビはビビって政権批判に二の足を踏むかもしれない。特に安倍首相は、新聞では朝日新聞、テレビではTBSとテレビ朝日を、昔から蛇蝎(だかつ)のごとく嫌っているから、彼らにダメージを与えることになれば好都合。NHKは基本的に意のままだし、日本テレビとフジテレビは賛成してくれるに違いない、といった判断だっただろう。自分の女房すら満足にコントロールできないくせに、民放番組をコントロールしたいというのもふざけた話だ、と筆者は思うが。
もう一つの理由は、総務省の改革の遅れである。2017年6月に出た安倍政権の経済財政政策は「経済財政運営と改革の基本方針 2017〜人材への投資を通じた生産性向上〜」で、目玉は「働き方改革」だった。所管は厚生労働省で、同省の労働時間の実態調査データに疑義が生じるなどぎくしゃくし遅れに遅れたものの、3月には働き方改革関連法案の国会提出にメドがついた(4月6日に提出)。
対して総務省は、これはという改革案を出していない。しかも総務大臣は、9月の自民党総裁選をにらんで、超党派「ママパパ議員連盟」の会長に就任、地元で立ち上げた「岐阜女性政治塾」の全国展開といった動きを見せはじめた野田聖子氏。その総務省に改革案をまとめさせ、6月に出す経済財政政策の目玉にしたかったようだ。
官邸の動向に詳しい放送界の事情通は、こうため息をつく。
「どうやら安倍さんは、放送法第4条の『政治的に公平』規定さえなくせば、自分を応援してくれるテレビ局や番組が増える、と本気で信じ込んでいたようなのです。放送改革によって、政権の意向を代弁し、礼賛する放送局ができると。でも、自分をもっと厳しく批判する局が番組も増えるだろう、とは思っていなかったんですよ」
事情通は、「蚊帳の外だった総務省は『できるはずがない』という立場だし、国会の総務委員会(旧・逓信委員会)委員たちにも『頭越しになんだ』と不評だった。熱心な政治家は安倍首相だけで、安倍─今井尚哉・首相秘書官(経済産業省出身)─原英史・規制改革推進会議委員(2016年9月〜、経済産業省出身、株式会社政策工房社長)のライン以外は、鼻白んでいた」と続けた。
首相本人は、無理筋とは思っていなかったようだが、実現は難しいと思っているスタッフは、大きな花火を打ち上げて国民の耳目を集め、少なからぬ項目のいくつかでも実現に向けて検討が始まればよい、と考えていたのかもしれない。
では、安倍政権が水面下で検討し、結局は引っ込めた放送制度「改悪」の何が問題なのか? まず放送法第4条だが、次のような内容である。
(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
二  政治的に公平であること。
三  報道は事実をまげないですること。
四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
2  放送事業者は、テレビジョン放送による国内放送等の放送番組の編集に当たつては、静止し、又は移動する事物の瞬間的影像を視覚障害者に対して説明するための音声その他の音響を聴くことができる放送番組及び音声その他の音響を聴覚障害者に対して説明するための文字又は図形を見ることができる放送番組をできる限り多く設けるようにしなければならない。
『選択』2018年4月号記事〈安倍が画策「放送法改悪」の真相〉によると、安倍首相は3月9日夜に大久保好男・日テレ社長と会食し(今井秘書官と粕谷賢之・日テレ解説委員長も同席)、「4条は現実には守られていないので、この際撤廃するべきだ」と主張したという。
しかし、「公安及び善良な風俗を害しないこと」が日本の放送で守られていないとは、到底いえない。「政治的に公平であること」については、安倍首相は自分や妻や政権や政府批判ばかりするテレビは「公平でない」と思っているようだが、メディアが権力者や権力を批判するのは当たり前だ、としかいいようがない。
安倍首相は内閣官房副長官だった2001年1月29日、放送前日のETV2001特集『問われる戦時性暴力』に関してNHK幹部らを呼び、内容が明確に偏っているとして番組に注文をつけたことがある。つまり、放送前の番組に政府高官として政治的な介入をし、結果、番組はギリギリドタバタで改変のうえ放送された。
政治家や政府高官が、放送局幹部に会い、放送前で制作中の特定の番組について、明確に偏向した内容と判断したうえで、「〜すべきではないか」と意見を述べることを、日本国はじめ民主主義社会では「放送番組に対する干渉」と呼ぶ。そして、政治家や政府高官が放送番組に干渉することを、日本国はじめ民主主義社会では「政治介入する」「政治的圧力をかける」などと言い習わしている。
だから、当時の安倍晋三氏がやったことは、放送法の第2章(注:当時は第1章)「放送番組の編集等に関する通則」の「(放送番組編集の自由)第3条 放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。」という条文に抵触する放送法違反だ。ついでにいえば、日本国憲法「第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」にも抵触する憲法違反でもある。
私たちの社会は、北朝鮮や中国でも戦前の日本でもない自由な社会だから、放送局がまだ放送すらしていない番組を政府高官が偏向と決めつけ、ああしろこうしろと注文することが許されるはずがない。ところが、安倍首相は平気でそのような注文をしてしまう。
ようするに、言論報道の自由や民主主義の手続きといったことが、全然わかっていないのだ。
なお、筆者は『問われる戦時性暴力』を極めてエグい内容の番組と考えており、よい番組とはまったく思わない。それでも政府高官の事前介入はダメだ、と主張する。安倍首相は、悪い番組だから政府高官が事前介入するのは当然だ、と考えている。当然、間違いである。それを許せば、政府高官が番組のよし悪しを決めることになるからダメなのだ。
テレビが新聞と違って、放送法で特に「政治的に公平」を求められているのは、限られた者たちが従事する放送局が限られた国民の共有財産である電波を独占的に使い、流す放送番組が直接家庭のテレビ受像機に映し出されて大きな影響力を持つから、である。
突き詰めていけば放送法第4条は、憲法第21条が強くうたう「一切の表現の自由は、これを保障する」と矛盾することになりかねない、実は危うい規定である。万万が一、ヒトラー政権のような独裁政権が登場し、第4条「政治的に公平であること」違反として放送電波を止めるようなことがあれば、独裁者が国民を支配するツールと化してしまう。だからこそ、放送法第4条は一種の倫理規範であり、これを根拠として放送電波を止めることは許されない、と考えられている。これが大方の憲法学者の見解だ。
また、ある個別の番組を見ただけで放送法第4条「政治的に公平であること」違反と決めつける人が少なからずいるが、これも間違い。放送の政治的な公平は、一定期間あるチャンネルを継続して見なければ判断できないというのが、何十年も前から政府の公式見解である。
そして、当のテレビは、実は選挙の時期には政府広報CMを断る、討論番組で政治家の露出時間を公平にする、しつこく両論を併記するなど、視聴者が考える以上に公平や中立に気を配っている。公平規定の撤廃で政権批判が収まるといったバカげたことは考えにくく、撤廃してよいことが増えるとも思えない。
「報道は事実をまげないですること」も、世界的にフェイク・ニュースやヘイトスピーチが横行するいま、なくさなければならない規定ではなかろう。「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」は、日本の放送では全然、守られていない。筆者は2011年以前に、地上デジタル放送の進め方はよくないと主張したが、そのような論点を取り上げる放送局は皆無だった。しかし、守られていないから撤廃すべきとは筆者は思わない。守れ、というほかはない。
安倍首相や規制改革推進会議の委員たちは、以上のような事柄もやっぱりわかっていない、と考えるほかはない。
「マスメディア集中排除原則」「外資規制」の緩和といった経済的・産業的側面については、ある程度、検討する余地があるだろう。
日本ではテレビ放送と大手新聞紙の資本系列が存在しており、すでに集中排除原則が骨抜きとなり、形骸化している事実もある。少子高齢化が進み、地方が疲弊して人口減がさらに深刻になれば、地方局やラジオ局の再編は必至で、この点からも集中排除原則の見直しが求められる恐れが強い。
放送局の資本を100%外資が押さえることは、電波が国際的な取り決めで日本国に割り当てられ、それが各産業や企業に割り当てられていることから、そもそも筋が違う。放送局は重要インフラであって、安全保障など危機管理上も問題だ。ただし、外資規制(現在は国内放送局への外国企業の出資割合が20%未満)をある程度緩和することは、グローバル化の進む現在では避けられないように思われる。
放送事業への新規参入ももっとあってよいし、放送におけるハード・ソフト(放送設備部門と番組制作部門)分離も、放送がよくなるものであれば検討すればよい。筆者は、放送は現状維持するのがもっともよい、などとはまったく考えていない。
もっとも、電力が発電と送電で分離したから、同じように放送や通信もハード・ソフトを分離すべき、といった荒っぽい議論は願い下げだ。電気は誰が発電しても送電線に乗せて送ることができる電気だが、番組は誰が制作しても電波に乗せて送ることができる番組という話にはならない。当たり前である。
産業界・財界の経営者や、経済産業省出身の規制改革推進会議委員あたりには、放送の経済的・産業的側面だけに着目し、同じ四角い画面に表示されるのだから放送と通信(インターネット)は垣根をなくして一本化すればよいと思っている人が結構いる。だが、そんな考え方に筆者は、直ちには賛同しかねる。放送と通信を一緒くたにし、さまざまな事業者に自由にやらせて経済効率を追求すれば、現在の放送も通信もどちらもよくなる、という話にはなりそうもないからだ。
第1に、経済効率一辺倒では、放送でも通信でもあまり儲かりそうにない分野が見捨てられていく。例えば、地方に住む少数の視聴者・ユーザー、障害者など絶対数が少ない視聴者・ユーザー、限定的な地域で甚大な災害に見舞われた少数の視聴者・ユーザー、高齢者や若年者・幼児など機械にも情報リテラシーにも弱い視聴者・ユーザーなどを対象とする分野である。放送と通信を一緒くたにすれば、彼らにとって現在よりよい情報が送られるという保証はなく、むしろ切り捨てられる恐れが強い。
例えば、視覚障害者むけの音声放送や聴覚障害者むけの字幕放送はどうなるのか?「AbenoTV」ならぬAbemaTV(2017年の衆院選直前に出演して言いたい放題できたので、安倍首相の大のお気に入り)だのニコ動だのが、どんどん放送事業に入ってくるのはよいとして、彼らはまともな政治報道や災害報道や緊急警報をどこまでやる用意があるのか?
第2に、放送と通信の一元化によって電波からインターネットへの転換が進み、放送に割り当てられた電波に余裕ができ、その利用者をオークション方式で決めるという方向だが、電波からネットへの転換は、一言でいうほど簡単ではない。
そもそも、なぜ放送はラジオを電波で始め、次にテレビを電波で始めたかといえば、電波を使うことが、不特定多数の家庭や事業所に届けるにはもっとも安く、効率的だったからだ。
現在でも、大規模災害などの発生時はネットは(電話も)つながりにくくなる。ある人がネットを使えるということは、その人(の端末)と事業者が有線であれ無線であれ双方向でつながることだが、大部分の人は大部分の時間、一方通行でよい。だから一方通行の放送に満足している。
これを双方向回線にすれば当然、一方向よりもコスト高になる。このコストは、離島や僻地(へきち)など地域によって大きく違う。規制改革推進会議が、通信事業者によって異なるコストを、どこまでまともに計算したのか、現時点ではよくわからない。ユーザーも、民放だけ見るぶんには無料だったのに対して、通信はインターネットに接続するだけで有料となる。いまネットを使っている人びとはさておき、高齢者や貧困層がそう簡単に納得できる話とは思えない。
第3に、放送のとりわけ報道番組は、通常はあまり儲からないが、いったん事が起こると人々が集中的に注目し、時に人の生死に関わるような重大な選択肢を示すことすらある。ところが、当面は何事も起こっていないから、ある場所に特派員なりクラブ記者なり通信員を配置するのはやめておこう、といった融通がきかないのが報道なのだ。つまり報道には、普段から人もカネもかかる。
放送からさまざまな規制を撤廃し、教養・報道・娯楽など番組ジャンルの調和を求める規定も撤廃して自由にやらせ、儲かりそうにない報道部門が縮小していくと、日本の言論報道空間そのものが縮んでいくことになりかねない。
安倍首相あたりは、報道はコントロールの効くNHKだけに任せればよい、と思っていたようである。というのは、改悪が実現すると、放送法はNHK設置法となり、第3章(目的)「第15条 協会は、公共の福祉のために、あまねく日本全国において受信できるように豊かで、かつ、良い放送番組による国内基幹放送を行うとともに、放送及びその受信の進歩発達に必要な業務を行い、あわせて国際放送及び協会国際衛星放送を行うことを目的とする。」の次あたりに、現・第4条の内容が挿入されると思われたからだ。
現在のNHKの報道を見れば、政権に対して忖度(そんたく)を繰り返し、完全に腰が引けた情けないものになっていることは明らかである。そんなNHKの報道だけでよいのか、と思わない国民は、どう見ても少数派に違いない。
NHK内部の声を聞くと、NHKと民放の二元体制が重要と思っているのは、NHK会長と役員(理事)くらい。現場では「民放がなくなるだけならば、うちには関係ない話」と思っているようである。
だが、安倍政権の放送制度「改悪」で、万が一民放がなくなる(大手ネット事業者と区別がつかなくなる)のであれば、民放とバランスを取っている現在のNHKの規模は、見直されて当然だ。すると、毎年の予算規模7000億円といった巨大放送局は必要なくなる。当然、受信料は下がる。月額1000〜1200円でもまだ高い、という話になりかねない。もちろんNHK職員の数も減るだろう。
以上のことにNHK職員の大部分が気づかないまま、安倍政権の「放送制度改革」はいったん頓挫した。しかし、いつまた同じようなプランが浮上しないとも限らない。今回は新聞紙が水面下の動きを伝えたところで、派手な打ち上げ花火が消えてしまったから、NHKや民放は問題があったと報道すらしておらず、現場には危機感も薄い。
しかし、繰り返すが、放送は現状維持がもっともよいわけではない。放送関係者は、今回のような問題をもっと切実に、自分たちに突きつけられた問題ととらえ、対応を考える必要があるだろう。 
  
 

 



2021/3
 
 
 

 

●「マスコミ」諸話


    マスコミ自壊伝
    ニュースキャスターが消える
    マスコミ
 

 

●現代メディアと法的解釈 
はじめに 
現在、国民の間に「マスコミ不信」の空気が強く流れている。この背景には1980年代以降にみられた報道による人権侵害への市民意識の高まりが一つの要因としてあげられている。事件報道における容疑者の人権擁護という形で表れ、マスコミ側が呼び捨てをやめて容疑者呼称を採用した。さらに、90年代に入って、犯罪被害者の人権擁護、マスコミの取材からプライバシーを守ろうという流れへと続いていった。犯罪被害者達の会合で、国による犯罪被害者の救済策が求められると同時に、マスコミによる二次被害からの救済が大きく主張される場面が繰り返されてきた(橋場、2002)。
また、公権力と闘ったり、社会的影響力の強い人に正面からぶつかったりするのではなく、罪を犯したとはいえ弱い立場にいる人物や芸能人のプライバシーを過度に暴くことばかりに表現の自由を利用する一部のメディアの姿勢も市民の反感をかう原因となっている。
さらに、最近の重大事件(「松本サリン事件」、「神戸児童連続殺傷事件」、「和歌山毒物カレー事件」など)においては、捜査機関が強制捜査に乗り出す前の段階で、報道機関が特定の市民に疑惑を向けて取材・報道する傾向があり、問題となった。
こうした問題を背景に、市民が知りたいと考えている、あるいは市民が知っておかなければならないとメディアが考え選んだ報道内容や取材方法が、実際に市民に受け入れられているのか疑問に感じた。そこで、最近の重大事件の中で1998年7月に起こった和歌山のカレー事件について取り上げ、市民が知りたいと思っていることと、メディアが知る権利に応えるためにと考え、取材あるいは報道していることに違いはないのか調査することとした。
この事件に着目したその理由はいくつかある。まず、2002年に12月、林真須美被告に死刑判決が言い渡され、この事件への関心度が高まったことである。そして、先にも述べたように、最近の国民の中にあるマスコミに対する不信感の増大である。近年、国民の味方であるはずのマス・メディアが国民と敵対関係に転じてしまうことが頻繁に起こっている。カレー事件も同様の状況が現れた事件のひとつだろう。なぜこのような事態が起こってしまうのか。
この事件の報道の中で私の目に焼き付いて離れない映像がある。それは、林真須美被告が報道陣に向かってホースで水をかけているものだった。もちろん林被告のその抗議の仕方にも驚いたが、多くの報道陣がはしごに登り、被告宅の様子をのぞいている様子にも同じくらい驚いた。他人の家をはしごを上って堂々とのぞくプライバシー侵害がまかり通っていいのか、真実を知るためにそこまでやらなくてはならないのだろうかと疑問に感じた。マスコミの取材方法や報道内容などに私と同じように疑問を感じた人はいなかったのかと考えたのである。
取材する側の意見として、取材領域の決定は自分たちの良識に任せてほしいというものがある。国民のマスコミへの不信感の増大という事実を考えると、彼らのいう「良識」というのは、はたして国民に受け入れられているのか疑問に思う。もしも、両者の間に意見の相違が見られたなら、メディア側の「良識」というものが、曖昧な側面を持っているということをこの卒業論文は完全ではないにせよ、記すことができるであろう。そして、国民がメディアからの情報をそのまま受け入れてしまわないために、メディア・リテラシーを身につけることの重要性が見えてくるだろう。マスコミの行う取材報道活動を市民はどのように感じているのか、その一端をのぞけたらと考える。 
1.メディアの使命
メディアは現代社会にとって、なくてはならない存在である。 メディアとは「人間社会において、人と人とを結び、人の目となり、耳となって働く情報媒体」のことであり、人々の知識や考えに決定的な影響力をもっている。メディアは、いまや私達の地球的規模の社会観、世界観を根底で支えているといってよいほどの巨大な存在となった(渡辺、1997)。
たとえば、社会を動かしているのは政治や経済の力であるが、その政治や経済の基本となる情報を運び、人々にその都度の判断をさせる基準となっている情報を提供しているのがメディアだ。したがって、メディアが誤った情報を送れば社会は混乱し、民主社会の基本そのものが崩れてしまうことになる。
メディアとは、その使い方ひとつで「社会の凶器」にもなるし、市民主権の原理で運用されるなら、楽しく平和な「社会の運営補助手段」にもなるものだ。
このことを考えると、メディアが市民に提供する情報の内容と特性は、そのまま社会の質と動向、市民主権社会の行方につながるともいえ、また良質のメディアが、より良い市民社会をつくりえるともいえる(渡辺、1997)。
その意味で、メディアは、まず市民の立場に立った、権力と社会悪に対する監視者でなければならない使命と責任を担っている。
権力と社会悪に対する監視者としての使命と責任を果たすためには、正しいデータと社会的真実によって、主権者である市民に基礎資料となる情報を正確に伝えなければならない。 
渡辺(1997)によると、メディアが本来担うべき役割とは以下のように大別できる。
「1正しい情報の提供(報道番組はもちろん教育番組等も含む)はもちろんのこと、2評論と解説(科学的最先端の問題だけでなく、錯綜した社会問題を平易に解説する)、3市民への議論の場(討論と意見交換のためのプラザの提供)、4社会教育機能と生涯教育(全番組を通して社会の改善と改革へのキャンペーンを展開する)、5娯楽提供(今日の疲れを癒し、明日への活力となる「社会の潤滑油」としての楽しみの時間の提供)、6広告媒体機能(優れた商品の社会流通の保障)、7慰安・福祉機能(お年寄りや子ども、外国人や障害者にも理解でき、楽しんでもらえる内容の工夫)」(P73) 
このうちジャーナリズムとしてもっとも大事なのは、1の「報道」、つまり正しい情報の提供だという。だが、それに関係するものとして、2の論評と解説、および社会問題についての市民の意見交換の場としてのメディアの役割は、とても重要である。 
しかし、日本のメディアはそうしたジャーナリズム的側面をいくらか犠牲にして、その分だけ、5娯楽提供や6宣伝媒体としてより大きく利用されているのが実情である。
また、メディアが担うべき役割について門奈(2001)は次のように述べている。
「英国のメディア研究者、ブライアン・マクネアによれば、第一に、メディアは市民の周辺で今何が起こっているかを知らせる機能を持つ(環境監視の機能、ないしは環境 評価の機能)。第二に、メディアは事実の意味と意義について説く(教育機能)。第三に、メディアは公の政治的対話のための論壇を提供していく。これは〈世論〉形成を促進し、公衆に世論をフィードバックする機能をいうが、その機能には反対意見を表明する空間を提供することも含まれる。第四に、ジャーナリズムの番犬的な役割とでも呼ぶべき政治権力や経済権力の行動を明らかにしていく機能である。ミハエル・ゴルバチョフの言葉を借りれば、世論が政策決定に何らかの影響を与えていくには政治権力の行動を明らかにするということで、「公開性」が保たれなければならない。第五に、民主主義社会におけるメディアは政治的見解の主張のための伝達回路としても機能していく。政党は自分たちの政策やプログラムを発表する場としてメディアを活用し、メディアもまた、各々の政党に開かれていなければならない。」(P137)
取材したことを自由に表現できなければ十分な取材報道活動は存在しない。世界で最初に表現と報道の自由を憲法で権利として明確に保障したのは、1791年のアメリカ憲法修正第一条である。日本は、第二次大戦後、連合国の占領下で作られた現行憲法によって、アメリカ憲法と同質の言論の自由を確立することができた。憲法21条はいかなる留保もなしに「一切の表現の自由は、これを保障する」と規定している。しかし、最高裁は、言論・表現の自由が公共の福祉によって制限されるという立場をとっている。社会の幸福や利益を重視すればそれだけ表現の自由は弱まることになる。つまり、メディアの表現の自由より国民の利益が優先されるということだ。 
2.「マスコミ不信」の背景
冒頭で述べたように、市民の中に流れる「マスコミ不信」の空気は1980年代以降に起きた報道による人権侵害への市民意識の高まりがひとつのきっかけだとされている。では、なぜ市民の「マスコミ不信」が大きくなったのか、1980年以降の背景を振り返ってみたい。
1980年代に、報道媒体の増加や、過当競争が目立ち始め、その中でも特に週刊誌の発行部数増加が顕著だといわれる(日本弁護士連合会、1987)。1980年代は写真週刊誌のブームともいわれ、81年10月には新潮社から『FOCUS』が創刊され、一時は200万部に達した。その後も、83年に『フライデー』(講談社)、『フラッシュ』(光文社)、『エンマ』(文藝春秋)、『タッチ』(小学館)などと続いた(山下、2000)。
村上(2001)によると、戦後に判決のあったマス・メディア関連のプライバシー侵害が問題になったと思われる訴訟は137件あり、そのうち100件では原告、つまり被害者側が勝訴したという。年代別で見ると、次のようになる。
      50年代   60年代   70年代   80年代   90年以降 
民事事件  9件    6件     10件    22件    75件
刑事事件  8件    5件     1件     1件     ― 
1980年代のプライバシー侵害に関する訴訟の増加は、写真週刊誌の登場によるものといわれているが、90年代の激増は、これに加えてロス疑惑の被疑者だった三浦和義氏が一人で多くのマス・メディアを相手に訴訟を起こし、その中にプライバシー訴訟も20件含まれていたことが大きく影響しているという。
「ロス疑惑」は、夫妻でロサンゼルスを旅行中に襲われ、自らもけがをした三浦氏が、実は妻に多額の保険金をかけて知人に銃撃させたのではないかと1984年1月の『週刊文春』が連載記事「疑惑の銃弾」で告発したことに端を発している。それにテレビ局が一斉に飛びついて大騒ぎになった事件である。なかでも民放テレビのワイドショーの興奮ぶりが目立ち、一時はどのチャンネルを回しても、「ロス疑惑」をやっているという状況が続いた。「今日はこんな新事実が」と三浦氏の過去やプライバシーが次々と暴かれ、三浦氏の家の前から「ただいま本人がゴミを捨てに出てきました」と中継するほどだったのである(川崎・柴田、1996;川嶋・天野・前田・阿部、1993)。
このように、『FOCUS』や『フライデー』といった写真週刊誌の部数増加が市民のマスコミへの不信感を方向づけた一因としてあげられよう。
また、市民のプライバシー侵害への関心を高めるきっかけとなったであろう出来事もいくつかある。1987年に、日本弁護士連合会主催の第30回人権擁護大会において「人権と報道−報道の自由と人権擁護との調和を求めて−」と題して、人権と報道をめぐるさまざまな問題について検討がなされ、「人権と報道に関する宣言」が採択された。また、1997年には「放送と人権に関する委員会機構(BRO)」という第三者機関が設置され、課題は多いものの、市民からのマスコミへの苦情を受け付ける機関ができたことも要因のひとつではないか。
BROは、「評議委員会」と「放送と人権など権利に関する委員会(BRC)」を内部に設置しており、評議委員は5名以内、BRC委員は8名以内から構成される。BROの設置された目的について規約の3条には、「放送による言論と表現の自由を確保し、かつ、視聴者の基本的人権を擁護するため、放送への苦情に対して、視聴者の立場から迅速かつ有効に対応し、正確な放送と放送倫理の高揚に寄与する」と明記されている(渡邊、2001)。
そして、市民の「マスコミ不信」を背景に、2001年3月27日、「個人情報保護法案」が閣議決定された。個人情報保護法は、個人情報保護法1条の中で、電子計算機処理される個人情報の取り扱いについての基本的なルールを定めることによって、個人の権利利益を保護し、併せて行政の適正・円滑な運営を図ろうとするものだと定められている(池田、1993、P155)。この法案作りの早い段階からメディアが「メディアを規制し、表現・報道の自由を侵しかねない」と批判してきたにもかかわらず、政府が問題点を検討しないまま法案の成立を目指そうとすることを考えると、いかに「マスコミ不信」の後押しが強力であるかがうかがえるであろう(橋場、2002)。
次に、1980年以降に具体的にどのような事件が起きたのかまとめてみたい。
まず、報道被害の注目された事件をいくつか取り上げてみることにするが、1980年代を代表する事件として、「ロス疑惑」がある。この事件は、先にも述べたように、81年に米国ロサンゼルス市で起きた「ロス銃撃事件」で、三浦和義氏が殺人などの罪に問われたもので、報道が捜査に先行する異例の展開をたどり、過熱報道も問題となった(西日本新聞社、2000)。三浦氏がマス・メディア各社に対して起こした名誉毀損民事訴訟の件数は300件以上とも500件以上とも言われている。このうち時効で棄却されたものなどを除くと、裁判の「勝率」は8割近くとなった(村上、2001;人権と報道・連絡会、2003)。
1990年代に入ると、80年代に比べ、報道被害がさらに目立つようになる。
1994年には「松本サリン事件」が起こる。この事件では、「ロス疑惑」と同様に、警察の誤った捜査と、警察情報に頼りきったマスコミの思いこみによって事件に無関係な河野義行氏が「犯人」に仕立て上げられてしまった。マスコミの完全に河野氏を犯人視した報道は、翌年の3月まで続いた(佐藤、2002)。
1997年3月の「東京電力女性社員殺人事件」では、被害者は高学歴で、昼は東京電力の管理職として勤務し、夜は街娼として渋谷の町角に立つという二面性を持っていたとされたことから、その私生活が大きな話題となった。多くのマスコミは、事件そのものと離れた被害者のプライバシーの暴露に集中し、犯罪被害者とその家族の人権を侵害する取材、報道の問題が新たに生じた事件となった(日本弁護士連合会、1999;左同、2000;山陰中央新報社、2000)。
同じく1997年5月に起こった「神戸児童連続殺傷事件」が注目された。この事件は、被害少年の遺体の一部が中学校正門前で発見され、被疑者として逮捕された少年が14歳の中学生という衝撃的な事件で、写真週刊誌がこの事件の被疑者であるとされた少年の写真と家族についての記事を掲載し、少年法の精神を踏みにじったとして問題となった(日本弁護士連合会、1997)。
1998年7月に起こった「和歌山カレー毒物混入事件」では、一部の報道機関の取材および報道は、特定の個人の住居を昼夜にわたり監視し、その子どもの写真を撮影するなど、個人の名誉・プライバシーやその家族および近隣住民の生活の平穏を侵害したばかりか、特定の個人の嫌疑を執拗に探索し、問題となった(日本弁護士連合会、1998)。
このようにマスコミvs市民という対立関係はいっこうに改善されず、プライバシー侵害事件訴訟は増える一方である。そこで、以下ではプライバシーの権利や名誉権とはどのようなものか、報道が許される公的関心の範囲(公人か私人かなど)は法律ではどのように解釈されているのかなど基本的な事柄に触れ、名誉毀損やプライバシー侵害について考えてみたい。 
3.名誉権とプライバシー
(1)名誉権と名誉毀損
「名誉」とは、主観的な名誉感情ではなく、人が社会から受けている客観的な評価をいう。人が社会の中で暮らしていると、周りの人からなんらかの評価を受けることになるが、これが名誉毀損を問題にするときの「名誉」とされている。したがって、「自分はこういう人間だ」といった主観的な評価は、「名誉」とはならない。また、名誉毀損とは、人の社会的な評価を低下させることを意味している(田島、1998;喜田村、1999)。
そこで、まず、刑法の中での名誉毀損の扱いについて述べたい。
マス・メディアが行なう報道が他人の名誉を侵害した場合、名誉毀損の責任が生じる。刑法230条において、以下のように規定されている。
第1項 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以      下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。
第2項 死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合で           なければ、罰しない。
しかし、たとえば、政治家の活動に対する批判などはとても難しくなる。そこで、刑法は第230条の2で次のように定める。
第1項 前条第1項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図る     ことにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったと     きは、これを罰しない。
第2項 前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する     事実は、公共に利害に関する事実とみなす。
第3項 前条第1項の行為が公務員又は公選による公務員の候補者に関する事実に係る場合には、     事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。
つまり、公共の利害に関わり(事実の公共性)、公益を図る目的での表現であれば(目的の公益性)、指摘された事実が真実なら(事実の真実性)、罰せられないという、いわば「免責法理」が定められている(駒村、2001;浜田、1993)。
一方、民事では、名誉毀損は不法行為とみなされ、民法第709・710条により、損害賠償責任の対象となっている。民法においても刑法と同じく、虚名も保護されていると考えられており、そのため、真実を公表することも名誉毀損になると考えられている。ここでいう虚名とは、実質を伴わない表面だけの名声・評判のことである。しかし、刑法上は公然と事実を摘示することが名誉毀損の要件とされているが、民法で名誉毀損が成立するためには、この要件は不可欠とは考えられていない。したがって、意見の公表によって名誉が傷つけられたとしても民事上の名誉毀損は成立する(松井、1994;平松、1999)
なお、民法は名誉毀損に対する救済方法として従来の損害賠償請求(慰謝料請求)に加えて、第723条では「他人ノ名誉ヲ毀損シタル者ニ対シテハ裁判所ハ被害者ノ請求ニ因リ損害賠償ニ代へ又ハ損害賠償ト共ニ名誉ヲ回復スルニ適当ナル処分ヲ命スルコトヲ得」と規定している。この規定をもとに、裁判所は謝罪広告などそれぞれのケースに応じた原状回復処分を命じることが可能である(駒村、2001)。
(2)プライバシーの権利
プライバシーの権利というものは、比較的新しい考え方である。この権利は、19世紀のアメリカで、「ひとりでほっておいてもらう権利(right to be let alone)」として発展してきた。つまり、私生活の中で他人に知られたくないことを、そのまま他人に知らせないでいる権利ということになる。
プライバシーの権利が、日本の裁判所で認められたのは、「宴のあと」事件に関する東京地裁判決(昭39・9・28判時385号12頁)である。事件は、東京都知事選挙の候補者となった人物とその妻の間の愛情問題を描いた、三島由紀夫の小説「宴のあと」をめぐり、小説のモデルとされた元外務省大臣が、三島由紀夫と出版元の新潮社に対して、自己のプライバシーを侵害されたとして慰謝料と謝罪広告を請求したものである。判決は、プライバシー権を「私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利」と定義したうえで、その「不法な侵害に対しては法的救済が与えられるまでに高められた人格的な利益」であるとし、慰謝料の支払いを命じた。
プライバシーの権利侵害の要件として必要なのは、公開された内容が、1私生活上の事実または私生活上の事実らしく受け取られるおそれのあること(一般には夫婦・家族関係、恋愛関係など私生活に関する事実がプライバシーと考えられているがそれらに限定されているわけではなく、前科などもプライバシーと認められている。)、2一般の人々が公開を必要としないであろうと認められること、3一般の人々に未だ知られていない事柄であるということだ。だだし、ある地域では公知の情報でも、全国的にはそうでないといった場合には、プライバシーの侵害になるし、時間が経過することによって、以前は公知の事実だったことがプライバシーとなることもありうる(浜田、1993;田島、1998;喜田村、1999;平松、1999;池田、1993;松井、1994)。
プライバシー侵害には、それを判断する明確な基準はなく、ケース・バイ・ケースで判断するしかないという。公表することが公共の利益に関係することなのか、それとも単に興味本位にすぎないのか、また対象となる人物が公人か私人かなどによって、その結果は違ってくる。政治家や公務員の場合は、プライバシーの及ぶ範囲がそれ以外の人より狭いと考えるべきである(牧野、1991)。
(3)過剰取材とプライバシー
過剰取材とされるのは、相手が拒否しているのに「つきまとい、待ち伏せ、道路に立ちふさがる、見張り、押し掛け、電話を時間帯にかかわらずかける」などの行為を継続的に反復したり、相手の生活の平穏を著しく害したりすることだ(飯室、2002)。これらは、重大事件で記者が取る通常の取材行動と紙一重である。「報道によるプライバシー侵害」も「過剰取材」も報道の必要性、言い換えれば事実の公共性、報道目的の公益性と密接な関係がある。本人にとっては、明らかにしたくない事実、過剰と感じられる取材行為であっても、公共のため、国民のため、国民の知る権利のために受忍すべき場合もあるという(飯室、2002)。 
4.公的関心事
(1)公人
まず、プライバシーが最も狭く、公的関心事の範囲が最も広くとらえられることになるのが、政治家や公務員といった公人である。とくに、国会議員などの政治家においては、議員にふさわしいかを判断する上で、その人の人柄を知ることは重要ことだとされている。どのような生活を送っているかは、人柄や人格を判断する材料になるため、私的な男女関係も正当な関心事になり、むしろ報道されるべきものだとする解釈もある(田島、1998;喜田村、1999)。
また、私人の場合には、その人がどの宗教を信仰しているかということに干渉することはプライバシーを侵害するともいえる。しかし、政治の分野では宗教と政治の関係がどうあるべきかと議論がされているため、政治家がどのような宗教を信仰しているかを報道することは、価値のあることだといえる(喜田村、1999)。
(2)私人
私人の場合には、他者の人生や生活に精神的な影響を与え、ものの考え方に指針を与えるような政治家などの公人とは異なり、多数の市民に影響を与える地位にはないので、権限が乱用されたり、誤って用いられたりということもない。また、自ら進んで公人としての地位を得た政治家とは違い、私人はその立場を選べるわけではない。したがって、私人としての地位にとどまっている限りは、社会的な批判を受けることを予期していたとみなすこともできない。
たとえ、報道される場合があったとしても、それは犯罪の容疑者であったり、犯罪や事故に巻き込まれたりしたときには、本人の氏名や年齢などを報道されるが、このようなことは、犯罪や事故を報じるという社会的に正当な理由からであり、このような事実を報道することは必要だとされている。しかし、場合によってどこまで触れることが許されるかという具体的な基準は曖昧で、問題が生じることもある(喜田村、1999)。
(3)有名人/芸能人 
芸能人や、スポーツ選手などといった有名人のスキャンダルがワイドショーなどで取り上げられた場合に、これが報道被害に当たるかどうかの判断はむずかしい。
アメリカにおいては、映画俳優やスポーツ選手のような社会的に有名な人たちは、一般の人とは別扱いされることが多い。しかし、日本の裁判では、単に芸能界などで活躍していて名が売れているというだけで公的存在であるとされた人はいないという(村上、1996)。公的存在として扱われた人と扱われなかった人との差は、社会的な肩書きと実質的な影響力の有無にあるという。作家や芸能人、スポーツ選手にはいろいろな人がいて、その人たちを活躍度や有名度の違いで分けることは不可能だが、社会的な肩書きがある人ない人の差ははっきりしているからである(村上、1996)。
そもそも「芸能人」とは、「映画、演劇、音楽、歌謡、舞踊などの『大衆的』な芸能を行なう人」(広辞苑)のことを指す。
かつて、芸能人は大衆とは別世界の人で、両者の生活はかけ離れたものだった。そのため、大衆が芸能人のプライバシーに興味を持つことはなく、憧れの対象でしかなかった。しかし、現在芸能人は、テレビや週刊誌を通じて大衆に身近な存在となり、芸能人と一般の人との境界は曖昧となった。芸能人として成功するには、大衆に愛され、話題の対象となることが重要となったのである(1987、弘中)。そのために、芸能人の中には、メディアに取り上げられてもらうことで人気を獲得し、維持する人もおり、普通の人なら嫌がるようなプライバシーを自ら公表することもある。そのようなことを考えると、公的関心事の範囲が一般の人より広くとらえられていいのではないかという意見がある(田島、1998;喜田村、1999)。
(4)犯罪事実
刑法230条の二第二項は公訴提起前の犯罪事実の指摘には公共性があるものとみなしているが、この条文の適用を受けるためには、犯罪として指摘した事実が後に実際に犯罪を構成するか、それに近い状態になることを必要とする。犯罪事実の指摘は、往々にして私的部分に踏み込んでプライバシーを侵害しがちだが、指摘された犯罪事実が実際に犯罪を構成したときは、被害者は犯罪容疑者となってプライバシー侵害が違法とはならない場合が多いのに対して、犯罪を構成しなかった場合は、被害者は私人にとどまり、プライバイシー侵害はほぼ確実に違法となる(村上、1996)。
犯罪情報が公的情報であるべき理由は数多くある。まず、刑事事件・刑事裁判では公権力が行使され、事件あるいは裁判が公的な情報となることが指摘される。このような公的情報としての犯罪情報は、みんなに共有されることによって、公権力に対する批判的監視が有効になされると同時に、捜査に対する国民の協力も可能になる。また、犯罪情報は、社会にとって緊急の社会防衛を考えると必要な情報であって、また、犯罪の原因をつきとめ、場合によっては、社会がその責任の一部を共有し反省する機会をえる、という意味でも公共的関心の対象となるべき情報だという(駒村、2001)。
(5)アメリカと日本における免責法理
アメリカにおいて、メディアは公人や公的人物については名誉毀損の責任を問われることがほとんどない。なぜなら、公人、あるいは公的人物において「現実の悪意」という法理が判例で確立されているという理由からだ。「現実の悪意」とは、報道機関がその報道内容が虚偽であることを知っていたか、あるいは真偽にまったく関心をよせずに報道し、かつその報道が相手に損害を与えることを認識していたことを指す。つまり、公人側は、名誉毀損で勝訴判決を得るためには、「現実の悪意」があったことを明確に立証しなければならない。これは、意図しないでなされた虚偽の報道は、報道の自由全体を守るためには甘受しなければならないという考えからだという(喜田村、1999;飯室、2002)。
しかし、「現実の悪意」があったかどうかは、あくまで報道機関の主観によって判定される。つまり、報道をする場合に、報道機関が通常では考えられないような不注意によってその内容を真実だと誤信したとしても、主観的にはその報道が正しいと考えていたのであるから、「現実の悪意」は存在しないのである(喜田村、1999)。したがって、これを公人側が立証することは大変難しいことだということが分かる。
このようにして、アメリカのマスコミは、公人や公的人物からの名誉毀損訴訟の恐れによって、報道が制約されることはまずないといえる。
これに対して日本はどうか。名誉毀損が成立しないためには、報道した事実に公共性があること、報道は公益目的であること、報道内容に誤りはないこと(誤りだとしても真実と信じてやむを得ない事情があったこと)をすべて報道機関側が立証しなければならない。
喜田村(1999)によると、原告側がどのような人であれ、報道機関が一定の要件を証明するという現状は、すべての人を同等に取り扱うという点で、一見「法の下の平等」に適うかのように見えるが、実際には公人に対する過大な保護と私人に対する過小の保護という結果を生みだしているという。
そして、公人は、各種の権力や権限を有し、多数の市民の生活に影響を与える地位にあり、彼らが与えられた権限を正しく行使しているかどうかチェックすることは報道のもっとも重要な役目である。この役目を十分に果たさせるのが報道の自由であるから、公人に関する報道は、基本的に自由とされなければならない。 
5.犯罪報道
(1)犯罪報道とは
まず典型的な犯罪報道についてまとめてみたい。
犯罪の取材・報道は、警察、検察庁、その他の捜査機関に対する公式、非公式の取材によって始まる。また、被害者の告訴や告発という行為によって、取材が開始される場合もよくある。さらに、新聞の独自取材によって報道が始まり、途中から捜査機関が関係する場合もある。その度合いはいろいろあるが、どの場合も公権力の捜査に依存して犯罪に関する情報をマスコミ側が入手するのである。別のいい方をすれば、本来の犯罪報道は、一番初めの情報を捜査機関に依存し、当局の動きの節目、節目に合わせて犯罪に関するニュースを報道している。捜査当局との密着、癒着という批判は、そのあたりから生まれるものだという(日本新聞協会研究所、1990)。
犯罪報道には、二つの役割がある。ひとつは、事実をありのまま報道することであり、もうひとつは、捜査における公権力の行使を冷静な視点できちんと観察することであるという。いいかえれば、捜査権が正しく行使されているかどうかを監視することである。犯罪の告発者は捜査機関に限らない。事件に巻き込まれた一般人も犯罪を告訴、あるいは告発する。どの場合でも、一方の当事者の言い分や主張、逮捕事実、起訴事実、告訴事実などのみに頼るのは危険である。この点に関して報道側の検証能力、あるいは取材能力が問われている(日本新聞協会研究所、1990)。
(2)実名報道
現在、日本の報道機関では、原則実名、必要に応じて匿名の範囲を拡大するという方針をとっており、匿名報道を採用していない。
犯罪報道における被疑者の原則実名報道の根拠はどこにあるのだろうか。朝日新聞社が1990年8月にまとめた、報道小委員会報告「新しい事件報道をめざして」によると、原則実名とする根拠は次のようなものである(権田、1994)。
1 市民生活を脅かす犯罪の被疑者を特定することは、犯罪事実自体とともに重要な公共  の関心事であり、それを報じることは十分に公益性がある。
2 実名報道の弊害については、人権を侵害しない報道の仕方、記事の書き方によって対 応を考えるべきである。
3 日本における「プレスの自由」は権力機構との関係でまだ十分に保障されておらず、 匿名報道に変更するためには、情報公開制度の実現など前提条件が満たされることが 必要。
4 匿名報道では、「誰が」「誰を」「どうした」「なぜ」などの読者が必要とするデー タ、事件の細かな部分を正確に伝えることが困難になる。
5 匿名報道を前提とすれば、捜査当局が被疑者の氏名を匿名とするおそれがあり、市民 が捜査権行使をチェックすることがよりむずかしくなる。
6 匿名報道は、地域社会や特定の職業の人たちの間で「犯人捜し」騒ぎなどの事態を招 くおそれがある。
7 匿名原則をとった場合、取材は甘くなり、表現が曖昧になるおそれがある。
8 将来はともかく、現時点では、多くの読者が匿名原則への転換を求めているとは考え にくい。
その他にも、実名報道による犯罪抑止力の効果が弱まる、実名報道こそ冤罪を救うことができる、などの意見があげられている(松井、1993)。
(3)匿名報道
匿名報道主義は、1980年代半ばから盛んに主張されるようになり、マスコミの犯罪報道による名誉・プライバシー侵害から個人を守るための有力な方法のひとつだとされた。これは、マスコミが被疑者・被告人・在監者について、氏名・年齢・住所・職業によってその人が本人であると推測できる記事や写真を報道しないことを内容とするものだ。現在、マスコミは、未成年者や精神障害者の犯罪に匿名主義を採用しているが、匿名のおよぶ範囲を広げて匿名を原則とし、実名による報道を例外的なものにしていくのがこの方法である(松井、1993)。
匿名報道主義が主張される理由としては次のようなものがあげられている(増田、1987;松井、1993)。
1 匿名にしたとしても、警察の記者発表の段階での匿名を許すわけではなく、取材も実 名で行なわれるため、即、権力チェック機能が失われるとは思えない。
2 実名報道の犯罪抑止力や冤罪防止について、現在の犯罪・冤罪発生の状況を考えると     疑問視せざるをえない。
3 匿名報道によってこそ、犯罪の核心に迫る取材が可能となり、万が一の誤報にも備え   ることができる。 
4 実名報道における犯罪報道は、被疑者・被告人自身だけでなく、その家族らにも人権    侵害をもたらし、取り返しのつかないものとなる。
5 実名報道では、逮捕、起訴、公判中の段階での「推定無罪」はなされず、市民に被疑   者=真犯人の思い込みを招き、報道された者に対するリンチになるおそれがある。
これまでも、新聞界は、1未成年者の被疑者、2精神障害のある被疑者、3参考人、別件逮捕者、4婦女暴行事件の被害者、5自殺、心中未遂者、6被疑者の家族、7刑期満了者、などについては原則匿名で報道してきた。
このうち、婦女暴行事件の被害者については、その被害者が殺された場合は、従来は実名で報道してきたが、1990年1月に起きた女子高生コンクリート詰め殺人事件の報道で、被害者の女子高校生の氏名、写真が新聞や週刊誌、テレビで報道されたことに関連して、女性弁護士、女性議員、婦人活動家などから同年5月、連名で強い抗議がマスコミ各社に寄せられた。 こういう批判を受けて、朝日新聞は同年8月からレイプ事件では被害者が殺された場合も匿名とする方針を発表した。また、微罪・軽過失事件の被疑者についても、匿名化する社が増加したという。
このように、新聞界は人権侵害を深刻に受け止め、自主的な判断で被疑者や関係者の人権を配慮した匿名範囲の拡大を進めていることも事実である。(権田、1994)。
(4)「容疑者呼称」が生まれるまで
犯罪報道のあり方をめぐって、重要なテーマとしてあげられる問題のひとつとして、容疑者の「敬称、呼称」がある。日本のマスメディアでは、1984年3月まで、犯罪事件で逮捕された容疑者の名前は、ごく一部の例外を除き、すべて呼び捨てだった。容疑者に対する国民感情を配慮して、続けられてきたものである。
この呼び捨てをやめ、「容疑者」という呼称をつけようと言い出したのはNHKである。同年4月からNHK単独でも実施すると発表した。NHKは「犯罪報道と呼称基本方針」を発表し、逮捕者・被告人には原則として「容疑者」または「肩書き」や「被告」の呼称をつけることにした。そして、報道局内に「報道と人に関する委員会」を設置したのである(松井、1993)。
NHKの発表によると、容疑者の人権擁護という観点に立って「呼び捨て廃止」を約1年前から検討してきたという。とくに当時の冤罪事件の多発と、前年9月、大阪府豊中市教育委員会の指導主事がピストル密輸事件にからんで逮捕され、その後、警察の側の間違いだったことがわかったことなどで、一気に実施に踏み切る決断をしたという。
NHKの説明では、活字メディアと違って放送では「呼び捨て」がより強調されるので、NHKだけでも先行して実施しようと考えたこと、裁判になれば「被告」という呼称があるのに、逮捕から起訴されるまでの間には適当な呼称がなく、結局、「被告」に対する「被疑者」という言葉を使うことにし発音がしにくいことから同義語の「容疑者」を呼称とすることにしたという。(川崎・柴田、1996)
NHKに続き、1989年4月にはフジテレビ系列が、1989年11月には毎日新聞が、そして12月からは他の全国紙、地方紙、通信社、放送各社も呼び捨てを廃止し、容疑者呼称がマスコミ界に定着していった(権田、1994)。このように、呼び捨て廃止が定着するようになった背景には、逮捕時に呼び捨てにすることは被疑者を犯人扱いするものだとする人権上の問題を配慮したためだ。 
5.調査と結果
1.調査の目的
第一章では、先行研究として、マス・メディアの使命やマスコミ不信の背景、そしてどのようなことが名誉毀損やプライバシー侵害につながるのかといった法的解釈や犯罪報道といった現状についてみてきた。本章では、グループディスカッションという形をとり、学生の意識調査を行なう。グループディスカッションを行なう上で、その題材として「和歌山カレー毒物混入事件」を取り上げた。序章でも述べたように、この事件を取り上げた理由は、この事件の人権侵害が問題視されたこと、林真須美被告へ死刑判決が言い渡されたこと、市民のマスコミに対する不信感の増大などがあげられる。では、いったい市民は実際に行われているマス・メディアの取材方法やその内容についてどのように感じ、あるいは考えているのだろうか。ここでは、マスメディアが自らの使命だと考え行なった報道が実際に市民に受け入れられているかどうかを明らかにできたらと考える。
2.調査対象
このグループディスカッションは、広島市立大学で2003年11月17日(月)に行なった。時間は、午後1時過ぎから午後4時過ぎまでの約3時間をとった。対象者は広島市立大学国際学部学生で、内訳は女性3名、男性3名の計6名である。当日は、6名に私を加えた計7名でディスカッションを行なった。
3.調査方法
6名には、調査前にディスカッション内容と事件の簡単な概要に目を通してもらい、提示したディスカッション内容について自由に論じてもらった。同時に、状況を想像しやすいように、写真を見てもらいながら進めていった。会話の録音は、MDで行なった。
4.ディスカッション内容の選定方法
まず、朝日新聞と毎日新聞の縮刷版から和歌山カレー事件に関する記事を選び、参考とした。記事は、事件の起きた1998年7月25日から12月31日までの約5ヶ月間のものだ。その中から新聞社自身が人権と報道に関して書いていた記事と、私の主観で問題だと感じた記事や写真を抽出し、質問項目とした。しかし、それだけではディスカッション内容がメディアを否定するものばかりになる恐れがあったため、特に問題だとは感じない記事に関する質問項目も加えた。

ここでは、調査結果の中からいくつか例として取り上げた。質問に関係のない返答や内容の類似したものに関しては省くこととし、内容が類似していたり項目同士が密接に関係していたりする質問項目に関しては、同時に答えてもらう形をとった。また、質問項目15、16、17に関しては、私の選定誤りや時間の関係などにより答えを得られなかった。
質問1.新聞にカレー事件の被害者である谷中孝寿さん(64歳)の遺体が家へと運ばれる写真を載せることに関して。
・この写真はあまり意味がないのではないか。
・見たいとは思わない。
・死体が見たいというわけではないが、見たいと思う。
・見たいという観点でしか見たことがなかった。
・何かを載せないといけないから必要だと思う。家の写真を載せても意味のないことだ。
・この写真に意味がないわけではない。
・写真は、多くの人が被害を受け、短期間に4人の方が亡くなったことや事件の被害の大き さをリアルに伝えている。それを考えると必要だと思う。
・見る側の興味をあおる、あるいは、好奇心を駆り立てるというような悪意は感じられない 。
・この写真は顔が出ているわけでもなく、一応シートに覆われているわけで、この人の尊厳 を傷付けるような撮り方はされていない。
・変に脚色はないから大丈夫ではないか。
・遺体が見えているわけではないから大丈夫だと思う。
・家族のプライバシーがどうなるかということに関してはわからない。
・死体のプライバシーまで考えたことはない。
・現場が騒然としていることがわかる。
・悲惨な事件だということを伝えたかったのではないか。
この項目だけに限ったことではないが、参加者は普段あまり考えないことのため悩み、意見が変わってしまうことも少なからずあった。最終的に遺体が家へと運ばれる写真を必要とした人は3名、不必要とした人が2名、基本的には必要だがその必要性も不必要に近いものだとした人が1名だった。また、写真の内容は別として、写真の存在を重要だとした人が2名いた。参加者らが写真から知りたいと思っているのは、事件の悲惨さや事件の重大さだということだ。つまり、写真は事件をより身近に感じるために必要な要素だとしている。けして、遺体が見たいというような興味からではないようだ。また、「プライバシーとはどういうものか。」という会話から、プライバシーに関する知識が浸透していないことも垣間見えた。
質問2.亡くなった方の顔写真を掲載することに関して。
・亡くなった方の写真を見てもどうにもできない。
・必要ないのではないか。
・家族の承諾なしに、親戚や友人など周りの人が勝手にその写真を提供するのはだめだと思 う。
・遺体を写した写真からは、他のいろいろなメッセージを受け取ることができるが、亡くな った方の顔写真を見ても、メッセージは受け取れない。
・その写真を載せることをプライバシー侵害だといっている家族がいるならば、家族の気持ちをないがしろにしてまで、私達に伝えてもらわなくてもいい気はする。
・現状では掲載されることが当たり前だと感じてしまう。
・写真はあった方がわかりやすい。
・知り合いである可能性があるから載せているのではないか
亡くなった方の顔写真を掲載することに関しては、必要だとした人は2名、必要ないとした人が3名、無回答が1名だった。ただし、必要だとした人に関しても、場合によって必要な時と不必要な時がある、家族から了解を得られないなら、その場合は載せる必要はないという条件付きだった。このことから、どうしても亡くなった方の顔写真が必要というわけではないことがわかる。この項目に関しては、被害者への配慮の気持ちが多く見られた。質
問3.葬儀の写真を掲載したり、映像を流したりすることに関して
・かわいそうだなと思って見たいと思う。
・こんなに悲しんでいるのだと興味をそそられる。
葬儀の写真や映像に関しては見たいという意見のみ出た。葬儀における取材方法については疑問を感じていたが、テレビや新聞で葬儀の風景を流すことには問題を感じていないようだ。
質問4.8月下旬、林夫妻に保険金詐欺疑惑が浮上したとき(この時点ではまだ林被告がこの事件に関わっているかどうかははっきりしていない)、「H夫妻」として目だけを隠した写真を掲載する行為に関して
質問5.林夫妻と特定することを避け、「A氏」という呼称を使ったことに関して。
・だめだと思う。
・逮捕されていないにもかかわれず、イニシャルを出してしまうのはどうだろうか。実際にこの事件では、犯人だったということがわかっているが、もしも冤罪だったとしたら、松 本サリン事件の二の舞になりかねない。
・林被告はメディアに反論を行っている。自ら進んでメディアに出ているので、イニシャルを出したとしても問題はないと思う。
・もし冤罪だった場合は、損害賠償などで償えばいいと思う。
・顔写真や家が出ているから、イニシャルが出ても同じような気がする。
・この事件が起きた時代を考えると、「H」と出すことは別にかまわないのではないか。この事件が現在起こったならば、それは問題だと思う。例えば、現在なら、「H」とインタ ーネットで検索すればある程度の情報は得られてしまう。
・マスコミの容疑者を特定していく行為はだめなことだと思うが、他が同じようなことをやっているなら、やらざるを得なかったと思う。
・週刊誌は見出しで勝負しなければならない。だから「A氏」よりは「H氏」の方が売れると判断してしまうのだと思う。
・週刊誌に「H氏」と出れば、見たいと思う。
・悪いか悪くないかで考えれば、それは悪いと思う。しかし、見たいか見たくないかであれば、やはり見たいと思うのが本音だ。
・普段はそんなことを考えて見たりしない。
・見たいと思って普段から見ている。
「H氏」と掲載することを良しとした人は2名、間違っているとしたのは4名だった。しかし、4名が「H氏」と出ていれば見てみたいと言っている。やはり、ゴシップへの好奇心と道徳的な観念のどちらか一方を取るという極論の結論を出すことは困難なことが再確認できる。
また、この問題に関しても、普段から問題意識を持って接しているわけではないという回答があった。このことから、問題であるかそうでないかと考える機会があまり与えられていないという事実もうかがえる。
また、ここでは週刊誌と新聞への意識の違いがあることが見受けられた。例えば、「新聞に「H氏」とでていたら、それはだめだと思う。」という意見からは、新聞への信頼と期待が込められていることがわかるし、「週刊誌だから許されることもある」という意見からは、双方の役割や彼らの中で双方の扱いを区別していることがわかる。ただし、週刊誌だからといって週刊誌が報じる内容を信じていないというわけではないようだ。
質問6.報道陣が林被告宅付近でビーチパラソルの下でパイプ椅子に座り、話をしながら道をふさいでいる行為に関して。
・いけない行為だ。
・林被告は一般の人であり、近隣住民のことを考えてもやりすぎだ。
・そこまでしてしか情報が得られないくらいなら、取材をしなくてもいい。
・違う取材ルートから、取材するべきだ
この項目に関しては、全員一致で反対意見が出た。やはりこの取材方法は、市民の不信感につながり、信頼をなくす行為だといえる。
質問7.ゴミ出しに現れた林被告の子どもたちをカメラマンが取り囲み、写真を撮る行為に関して。質問8.外出するため家から出てきた林被告を報道陣が囲んで取材をする行為に関して。
質問9.林被告の子どもの通う学校に行って子どもに取材をする行為に関して。
質問10.地域住民対して、電話をかけたり訪問したりして取材をすることに関して。
・過剰ではあるかもしれない。
・取材対象が迷惑をしているという時点で取材をやめるべきだと思う。
・近隣の住民に取材することで、新しい情報は出てくるのか。あまり出てこないのではないか。それを考えると取材は必要ないのではと思う。
・子どもへの取材は必要ないと思う。
・住民側がいやだというメッセージを発している時点で、やりすぎなのではないか。
・大人に囲まれて取材された子どもの情報の信用性に疑問を感じる。
・住民がいやだと言い続けているのにその取材を続けるのは問題だ。
・子どもに関しては、林被告の子どもとして取材するのはだめだと思う。
・だめなことだとは思うが、24時間張り付いても出てこず、やっと出てきたのが子どもで、何か言ってほしいと思って取材するのも無理はない。
・特ダネを取るために、一見関係のないところ、つまりここでいえば子どもへの取材をすることで、特ダネへの手がかりにつながるかもしれないと思ったのではないか。
・24時間張り付いていなければ、こういう取材はできないことを考えると、子どもへの取材を禁止すべきとするなら被告への取材も制限されるべきではないか。
・林被告以外の人への取材はだめだと思う。
・林被告も近隣住民のひとりだから、近隣への取材は許されるのではないか。
・住民の自発的な情報の提供に任せると、その人の主観的な感情に流された情報になってしまうこともあるだろう。
・林被告に焦点が当たっている段階で、周りの人からの情報ばかり手に入れてしまうと、単なる風評になってしまい、林被告本人の反論する機会がなくなってしまう。そう考えると、林被告への取材は必要だと思う。
・結論としては、子どもへの取材はやめるべきだということと、近隣住民への取材はやりすぎない程度にするということだろうか。 
ここでは、林被告への取材を容認するならば、24時間家の前に張り付いていることも許さなければならないというように、質問6の問題とこの問題とは切り離しては考えられないものだとし、大変困惑していた。子どもへの取材に関しても、意見が別れた。また、取材をどこまですればやりすぎなのかという境界線についても意見が別れた。境界線を引くことはできないとしたのは2名、住民が嫌がっているかどうかで境界線は決まるとしたのが2名だった。この問題に関しては、はっきりとした答えを出すことはできなかった。
質問11.カレー事件の現場と夫婦宅の空撮写真を載せることに関して。
・林被告が逮捕された後のことだからよいのではないか。
・この写真が何を言いたいかを考えると、林被告の自宅が事件現場から近いのだなということではないか。特に家の中を撮ったりしているわけではないのでいいのではないか。
・違和感は感じない。
・脚色されているわけではないので問題ないのではないか。
これについては、問題だとした人はいなかった。逮捕された後のことだから問題ないとした意見からは、やはり逮捕された人=犯人という意識があるということがうかがえる。
質問12.警察に逮捕された時点(林真須美が犯人だとまだ決まっていない時点)で、メディアが“林真須美”と容疑者名を実名報道することに関して。
・犯罪者は実名が出る、出ないで犯罪をするわけではない。したがって、見せしめの効果は意味がないのではないか。
・抑止効果に関しては意味がないと思う。マスコミに制裁能力を持たせることはあまりよくないことだと思う。事件をどのくらいの大きさで報じるかはマスコミが判断することだ。しかし、被害者にとっては、どの事件でも同じ苦しみを味わっていると思う。それを考えると、マスコミが制裁の度合を決めていいのかという問題があると思う。
・日本は、裁判で冤罪はほとんどないというイメージがある。それが本当かどうかはわからないが。アメリカでは、冤罪が日本よりは多くて、日本の警察はこれだという証拠が出るまでは動かず、この人だという人を逮捕するというイメージがある。
・詐欺事件などは実名報道することで、自分が詐欺にあっていたことがわかるということもあるのではないか。
・判決が出て犯人と確定して実名報道したとしても、その時点で長い年月経過しているので、意味のないことだと思う。
・私が思うに、もし国民にアンケートを取ったとして、おそらく実名に賛成する人の方が多いのではないか。
・マスコミが実名報道することで、加害者にダメージを与えるべきだと考えている人は世の中には多いのではないか。そういう人からのマスコミへの信頼や期待が薄れてしまうと、マスコミの体力は落ちてしまい、取材能力が低下してしまうかもしれない。したがって、現在の状況を考えると実名報道しないとマスコミはやっていけないのではないか。私はマスコミ側の立場に立ってしまうから、マスコミの体力の低下を考えると実名報道することは仕方がないと思う。
・冤罪だった場合を考えて匿名にするよりも、冤罪だったときに非を認め、謝罪をするなどのマスコミの対応の方を考えればいいのではないか。
・逮捕された時点での実名報道に賛成だ。警察にはより慎重に捜査を進めてもらい、冤罪がなくなるようにがんばってもらいたい。
・冤罪について、事件が起きた時点での取り上げ方の度合に応じて、一面で報じるなどの対策をすればいいのではないか。
・これまで、名前が出ることを当たり前に感じていたが、それがいいことなのかどうかわからなくなってしまった。
やはり、日本の警察や裁判官への信頼感は高いようだ。実名報道に賛成とした人は4名だった。彼らの意見としては、このまま実名報道を続け、冤罪だった場合のアフターケアを考えるべきだというものだった。しかし、実名報道の犯罪抑止効果や制裁能力については反対の意見が多かった。この事実からは、実名報道賛成派の意見との相違が見られた。ここでの意見では、全体としてあまり冤罪の場合や報道被害者へ触れるものはなかった。
質問13.一部の週刊誌が掲載する林被告に関する過去の事実(看護婦であったこと、ピアノが好きだったこと、内気だったこと、など)について。
質問14.新聞が掲載する林被告に関する過去の事実について。
・私はこのような過去があったから、このような犯罪者が現れたという因果関係は信用していない。
・問題なのは、異常な趣味などというその人のマイナスになる事実を報道することで、例えばインターネットを趣味にしていると、暗くてマニアな感じというようなステレオタイプを作ってしまう危険があるということだ。
・自分にどのように活かせるかを考える上で、必要なことだと思う。
・私たちが過去から現在の容疑者を分析することは意味がない気がする。
・林被告が了承しているのであれば、載せてもいいと思う。しかし、自分にとっては必要ない情報だ。
・私は、過去の事実を掲載することは週刊誌にしろ新聞にしろ必要ないと思う。私は、この事実がどのように活きるのかがわからない。
・容疑者の育ちを知ることは必要だと思う。その人が犯罪に結び付くまでに経緯などがわかるのではないか。
・過去の情報が犯罪や人間性にどのように結び付くかということだと思う。
・林被告が保険外交員になったという事実から、余罪があるのではないかと推測できる。
・例えば、タレントでも「知られざる○○」などとあるが、こういうものを週刊誌が出版したとしたら、見たいとは思うだろう。
・このマンションの間取りが出たからといってどうなるわけでもない。
・新聞のリゾートマンションの記述は疑惑の裏付けと、林被告の派出好きさの裏付けではないか。
・マンションの情報を細かく書くことで、ゴージャス感は伝わってくる。
・これを読んだ限りでは林被告の尊厳を侵しているようには感じられない。
・新聞が掲載する過去の事実に関しては、問題はない気がする。
・週刊誌に関しては、見せてもらえるのだったら見ようかなという程度だ。
新聞や週刊誌といった媒体には関係なく、容疑者の過去の事実についての記述を必要としたのは3名、必要ないとしたのは2名、無回答は1名だった。ただし、必要とした人の中のひとりは新聞による過去の事実の掲載についてのみ必要なものだとしている。
そして、週刊誌に過去の事実が出れば知りたい、見たいと思う、あるいはそう思っている人はたくさんいるという意見が2名から出た。しかし、「わざわざ買ってまでは見ない」や「置いてあれば見る」、「見せてもらえるのなら見る」という消極的な意見も多かった。
また、「週刊誌の報道内容でも、お金を出して読むのだから、それは真実だろうという考えが頭にある」という意見から、事実を脚色したり、例えばでたらめなことを書いたとしても、それは読者には事実として受け取られてしまうことがわかる。
新聞によるリゾートマンションの記述について、過剰だとしたのは1名、問題ないとしたのが3名、無回答は2名だった。
質問18.これまでの意見を総括して、どういう報道がなされるべきだっただろうか。
・報道方法が過剰すぎるという点がひとつ問題だと思う。そして、周辺住民などといった第三者が迷惑を被る報道がなされるなら、それはまた問題ではないか。
・今回の事件で行われた報道方法を考えると、もっといい対応ができたかもしれないが、現実問題を考えると他者より早く情報を得るために、家に張り付くなどの行為を行なうことは仕方がなかったのではないか。理想論と現実は違うと思う。
・家の前に張り付いていた事実以外は仕方がなかったのではないか。許せる範囲だ。
・新聞報道は必要な情報が多いと思うが、週刊誌になると興味本位な内容が多い。
この質問においては4名の参加者から回答を得られた。 
6.まとめ
本稿では、グループディスカッションを通して、大学生が和歌山カレー事件で実際に行われた報道機関による取材やその方法についてどのように感じ、あるいは考えているのかを検証してきた。予想として、メディアに批判的な答えが多いのではないかという考えがあったが、その予想に反してマスコミの立場を考えた意見、あるいはあまり報道方法や内容を問題だとは感じないといった意見が多かったように思う。逆にいうと、マスコミを擁護したり、問題ないとする声が多かったりという傾向がある一方、メディアを批判したり、報道被害者の気持ちをくみ取ったりする声はあまり聞こえなかったということだ。この結果を考慮すると、第一章の1で触れた渡辺(1997)のいう社会教育機能と生涯教育(全番組を通して社会の改善と改革へのキャンペーンを展開する)がメディアの本来担うべき役割であるならば、メディアは、報道による人権侵害という問題について市民が考える場を十分に提供できていないということがいえるのではないだろうか。
一方で、実名報道に犯罪抑止効果や犯罪者への制裁能力を求めることには反対の意見が多かった。この結果に限れば、第一章5−(2)で松井(1993)が実名報道を肯定する理由として実名報道による犯罪抑止力の効果をあげているが、これは実名報道を肯定する正当な理由としては受け入れられないことがわかる。
情報媒体として学生が新聞と週刊誌に求めるものが異なっているのは明らかだった。これは、予想通りの結果となった。新聞への信頼と期待は大変大きい。「週刊誌に許される報道でも、同じ報道を新聞がしたならばそれは許されない」という意見からもそのことがうかがえる。学生が新聞に求めるものは、渡辺(1997)のいうところの正しい情報の提供や評論と解説(科学的最先端の問題だけでなく、錯綜した社会問題を平易に解説する)という役割であり、週刊誌に関しては、娯楽提供のための情報媒体であることを望んでいるのだろう。
また、プライバシーという知識が市民に浸透していないこともわかった。これに関しても、メディアが教育機能や解説機能を十分に果たせていない可能性を示しているのではないだろうか。ただし、メディアだけでなく市民側にも問題はある。市民のプライバシーを含めた報道と人権に関する知識の少なさ、あるいは曖昧さを露呈させているともいえる。 
おわりに
本稿では、まずマス・メディアの本来担うべき役割について触れ、次に「マスコミ不信」の背景を探るために、1980年代の写真週刊誌の増加や、市民のプライバシー侵害への関心を高めるきっかけとなったであろう出来事、そして1980年代に実際に起こったいくつかの報道による人権侵害について振り返った。
それらを踏まえ、プライバシーの権利や名誉権、報道が許される公的関心の範囲(公人か私人かなど)は法的にはどのように解釈されているのかといった基本的な事柄を解説した。
そして、典型的な犯罪報道を紹介し、実名・匿名報道それぞれを正当と主張する根拠、そして「容疑者呼称」が生まれた経緯について触れた。
研究の目的として、和歌山カレー事件で実際に行われた取材やその報道内容についてグループディスカッションという方法をとり、学生の意識調査を行なった。この調査を実施したのは、市民が知りたいと思っている、あるいは市民が知っておかなければならないとメディアが考え選んだ報道内容や取材方法が実際に市民に受け入れられているかどうかを調査するためである。この結果、次のようなことが明らかになった。
まず、予想以上に和歌山カレー事件におけるメディアの取材方法や報道内容を肯定する意見が多く、逆に、メディアに対する批判や報道される側への配慮の声は少なかった。
また、メディアと学生との事件報道の取材や取材方法への意見の違った点や、反対に双方の考えが一致した点も見えてきた。まず、両者の意見の相違点についてだが、実名報道に犯罪抑止効果や犯罪者への制裁能を求めることには反対の意見が多かったことである。つまり、実名報道を肯定する理由として、この効果は正当なものではないということになる。そして、メディアと学生の考えの一致した点だが、実名報道を原則とする根拠の中の「実名報道の弊害については、人権を侵害しない報道の仕方、記事の書き方によって対応を考えるべきである」という考えと、「将来はともかく、現時点では、多くの読者が匿名への転換を求めているとは考えにくい」という考えである。
そして、問題点もいくつか見えてきた。まず、先にも述べた報道される側への配慮の声が少なかったということから、メディアは本来担うべき役割である社会教育機能と生涯教育(全番組を通して社会の改善と改革へのキャンペーンを展開する)が果たせていないことがうかがえる。つまり、メディアは市民に報道による人権侵害という問題について市民が考える場を提供できていないということではないか。それを考えると、市民への議論の場(討論と意見交換のためのプラザの提供)としての機能も果たせていない可能性も考えられる。そして、学生にプライバシーに関する知識が浸透していないこともわかった。このプライバシーに関する知識の不浸透は、報道と人権問題を考える上での弊害となっていると思われる。
今回のグループディスカッションでは、項目の選定や前後関係を考えた項目の順番決定を誤ってしまい、意見交換ができない項目も出てしまった。この失敗は、パイロット・スタディを行なうことによって防げたことである。
今後この研究を発展させるとするならば、一組のみのディスカッションではなく、数組からデータを取り、学生だけでなく、年代別にディスカッションを行なえばより良い結果が得られるだろう。
グループディスカッションの参加者は、基本的に現在のマス・メディア活動を支持しており、取材する側の「取材領域の決定は自分たちの良識に任せてほしい」という主張は市民に一応受け入れられているといえるだろう。しかし、いくら人権を侵害しない報道の仕方によって報道被害への対応を考えるべきだと主張しても、報道による人権侵害が行なわれ、それに苦しむ人々がいるのは現実の問題であり、メディアのいう「良識」という定義は曖昧なものであることは否めない。また、市民側の抱える知識不足などといった問題も浮上した。結果として、メディア側の基準で決定された報道内容と市民の知りたいと考える情報は一致したが、この現状に甘んじていてはいけないのではと考える。メディアに公権力を監視する義務があるのと同様に、私たち市民にもメディア活動について考え、議論していく必要がある。そのために、メディアは市民との議論の場を提供し、市民は議論をするための基本的な知識を持ちながら、メディアに厳しい目を向けていかなければならない。 

 

●メディアの使命 2013/6
「時代対応し、国際競争力のある取材ができているか。適切なビジネスモデルを築けているか」(近藤)
関口和一氏(以下、敬称略):今、メディアは色々な課題を抱えている。普段、批判する側に立っている我々だが、今日は敢えて批判を受けようということで、このセッションの企画となった。ソーシャルメディアなどの登場で経済的基盤が揺らぐ一方、相対的な発言力も低下している。私はITを推進する立場で「ソーシャルメディア万歳」というようなことを普段言っているが、カニバリは存在する。ただ、既存マスコミと新しいメディアが協調関係をつくり、そのなかで世論を形成していくのが本来の姿ではないかと思う。従って今日はソーシャルメディアなどとの連携についても議論したい。まずはパネリストの皆さまに所属メディアの特性に基づき、それぞれ今お考えになっているメディアの課題・使命といったものについて伺っていこう。
近藤洋介氏(以下、敬称略):メディアには愛憎相半ばする思いを抱いている。私が社会人になったのは1988年だが、入社した日経新聞では11年間、取材生活をさせて貰った。最初の5年間は産業部で企業の取材を、次の6年間は経済部で日銀や経済政策の取材をした。政治家としてのベースにもその11年間があると思っているし、今も「愛読紙は日経新聞です」と、嘘でも言っている(会場笑)。『日経ビジネス』も『プレジデント』も毎週読んでいる。私自身は活字とメディアが大好きな人間だ。
そして今は議席を預かって今年で11年目。前政権下では経産副大臣の職を含め与党議員を3年間半務めた。取材される側も経験した訳だ。どちらが楽しかったかと言えば、取材をするほうが楽しかったというのが偽らざる心境だが、とにかくメディアの使命というのは非常に大きなテーマだ。メディアと言っても、新聞・雑誌・テレビ・ラジオと幅広い。今はインターネットもある訳で、ひと括りに語るのも難しいが、まずは私が感じている範囲でメディアが現在抱えていると思われる課題をあげたい。
まず、新聞、それなりの発行部数を持つ雑誌、そしてテレビといった、いわゆる大メディアに関して敢えて言えば、現場の取材力に関する課題があると思う。辞めた人間がこんな話をするのもどうかと思うが、時代にマッチした取材が出来ているのかと。「日本のメディアに国際競争力があるか」という表現でも良いと思う。今まで日本語という非関税障壁に守られてきた大メディアだが、今はネット上にさまざまなメディアが登場してきた。誰もが記者といった環境で、動画投稿も出来るようになった訳だ。
大メディアはそうした状況の変化にあっても十分戦えるほど、現場での取材力や深く掘り下げるような分析力を持ち得ているのか。私が現役だった15〜16年前と比べると、現在活躍している記者のほうがむしろ優秀かもしれない。ただ、時代にマッチした体制や取材力という点ではどうか。
正直、特に政治メディアでは旧態依然とした取材等が目立つと感じる。大変熱心で優秀な記者さんはいる。ただ、たとえば「こいつとあいつは仲良い」といった政界裏話ばかりが未だ話題になっている。それはそれで大事かもしれないが、そんな話ばかりに優秀な面々が血道をあげる意味があるのかと思う。その辺で時代のニーズにそぐわなくなっていると、取材を受ける側としては感じる。
それともうひとつ。やはり経営主体としてもビジネスモデルの壁というか、「大メディアは今相当大変なのだな」と、かつての同僚と話をしていても感じる。特に、放送、新聞、そして雑誌業界はそれぞれ規制に守られている。これは日本のメディアぐらいだ。海外に比べて明らかに守られている部分があると思う。
たとえば新聞社は消費税の話になると、「新聞だけは例外にしてくれ。活字は文化だ」と言う。私も文化だと思う。ただ、新聞だけを例外にするのはいかがなものか。それを経営者は分かっている筈なのに、そう言わざるを得ない。それだけ経営が大変なのだろう。現場の取材レベルでも経営レベルでも、大メディアは大きな課題に直面している。特に国際競争力については大変深刻ではないかという提起をしておきたい。
瀬尾傑氏(以下、敬称略):『現代ビジネス』はウェブメディアだ。紙媒体を持たず、デジタルだけで情報を発信している。まず、近藤さんが仰っていた軽減税率の話は象徴的だと思う。これまで多くの新聞社は財政再建のために増税が必要だと言っていた。しかし、雑誌や書籍といった出版を含む領域は文化だから軽減税率を適用して欲しいという要望を出している訳だ。
それを支持する読者がどれほどいるのか。新聞・雑誌が文化あるいはジャーナリズムとして本当に必要であると、社会的に認知されているなら支持されると思う。実際、イギリスではそうなっている。しかし日本では支持されないだろう。会場にいらしている方のほとんども「おかしいのでは?」と感じると思う。
メディアにはジャーナリズムの役割以外にマーケティングツールやコミュニケーションツールとしての役割もあると思う。で、ジャーナリズムに関して言えば、世界的にデジタル化が広がるなか、従来のビジネスモデルが崩れ去っていくという危機がある。そしてもうひとつが、今申しあげたように「国民の信頼を失っているのでは?」という危機だ。社会から求められている役割を果たせていないのではないかと。表裏一体だと思うが、そうした二つの危機があると思う。
そうした問題を突き詰めた結果、『現代ビジネス』で新しいビジネスモデルをつくりたいと考えた。我々は主に政治・経済を扱っているが、たとえば新聞によるこれまでの政治報道は政局報道に偏っていた。先般の消費増税に関する報道は典型的なケースだと思う。小沢一郎さんが党を割るかどうかにばかり焦点が置かれ、「増税が日本に必要なのか」、「増税が世の中にどんな影響を及ぼすのか」といった議論があまり行われていなかったと感じる。
新聞はそうした隘路にはまっているし、雑誌もスキャンダル報道に追われてばかりだ。『文藝春秋』の「赤坂太郎」シリーズのような、「実はこの人とあの人が仲良くて…」といった内輪話ばかりを報じ、肝心の政策議論がなされていない。しかし政策議論を行うメディアは必要だと、私は思う。特に現在のメディアはアジェンダ設定というか、今日本が本当に議論すべき課題を設定出来なくなっていると感じる。
そういった部分を『現代ビジネス』というウェブメディアで補いたいと、これまで2年ほど運営してきた。で、今はウェブの広告収入という事業モデルに一定の手応えを感じている。ただ、今後は有料のモデルもつくりたいということで、新たな課金モデルとして『現在ビジネスブレイブ』という有料メールマガジンもはじめた。
メディア業界にも新規参入が必要だと思う。元気のない産業では、往々にして新規参入が少ない。日本のメディア業界も同様だ。メールマガジンは小さい形ではあるが、これまでにないメディアの形態だと思う。コンテンツに関しても同様の考え方で進めており、今はたとえば『ニューヨーク・タイムズ』の翻訳記事などを紹介している。ポール・クルーグマンやジョセフ・スティグリッツ、あるいはリチャード・ブランソンやハワード・シュルツといった経営者等、海外で一流と思われている人々の話を通して日本以外の価値観もどんどん紹介していきたい。
個人的なお話も少しすると、私は昭和63年、日経マグロウヒルという日経の子会社に入った。現在の日経BP社だが、これは元々、『ビジネスウィーク』を出しているアメリカのマグロウヒルという出版社と日経新聞の合弁で、「日本版ビジネスウィークをつくろう」ということではじめた会社だ。
ただ、私が入社した1988年、アメリカのマグロウヒル経営者は「これからは電子の時代だ」と言って、本家『ビジネスウィーク』以外の株をほぼ売り払ってしまった。日経マグロウヒルは儲かっていたが、それも撤退すると。それで日経新聞がすべての株を引き受け、日経新聞の100%子会社になった。当時はインターネットもなく、『日経MIX』や『ニフティサーブ』といったパソコン通信の時代だ。その時代にそんな決断が出来たアメリカの経営者はすごいと思う。正直、当時はぴんと来なくて「この人はどうかしているのでは?」と思ったほどだ。
実際、その決断自体はあまりにも早過ぎて上手くいかなかったが、それでもアメリカの経営者は決断力を持っていたと、今は思う。アメリカでは新しい形態のメディアが次々とベンチャーでつくりあげられる。既存メディアもM&A等を通して合従連衡し、ネットメディアとも組みながら試行錯誤を繰り返して新しい形をつくる。このダイナミズムが日本に欠けている。その辺をなんとかしたい。ロールモデルをつくって世の中を動かしていきたいという気持ちがあり、今も小さい形ではあるがやっている状態だ。
「国有資産の電波を使う“公共性”と広告主からの資金を使う“商業性”。その二律背反と視聴率のプレッシャー」(丹羽)
丹羽多聞アンドリウ氏(以下、敬称略):G1には初回から参加しているが、メディアは毎回悪者になっていたので今回のようなセッションでぜひ議論したいと思っていた。今日は新聞、ウェブ、放送、雑誌とバランスよくパネリストが並ぶ格好になった。内容面については私自身はどちらかというと、ジャーナリズムでなくエンターテインメントに長く関わっている。報道にいたのはわずか2年程度だ。ちなみにその間、尖閣諸島に上陸したこともある。他局は空からの映像しか持っていないが、私たちの映像は唯一の陸上映像だ。そこに今より20キロ痩せたイケメン時代の私が映っていたりする(会場笑)。
放送業界というのは特殊だ。公共性が求められる。限られた資産である電波を国から割り当てていただき放送事業をやっている以上、某S新聞社のような偏った報道は放送では行えない。ただその一方、広告主さまからいただくお金で運営をしている訳で、公共性と商業性のあいだを行ったり来たりしなければいけない立場にある。
それともうひとつ。放送局には“物差し”が少ない。新聞や雑誌やウェブであれば閲覧数や発行部数といった物差しで経営が成り立つと思うが、放送は違う。地上波では視聴率、私がいるBSSでは接触率、そしてラジオでは聴取率に左右される。それが正しいか否かはさておき、あくまで数字に左右される訳だ。
新入社員の頃、素晴らしい番組制作をしている部が隣にあって、当初はスポンサーも「数字が悪くても支える」と言っていた。ただ、最終的にはやはり数字が悪いという理由で打ち切りになった。物差しがあるため、常に大衆迎合を求められるというジレンマがある訳だ。従って課題は三つ。公共性と商業性のあいだを行ったり来たりしなければならない点、物差し故に大衆迎合が求められる点、そして経営の危機。こういった課題のなかで、どのように放送メディアとしてやっていくかを今は考えている。
面澤淳市氏(以下、敬称略):G1メンバーの1/3前後は取材先としてお世話になっている方々なので、まずは媒体の紹介をしたい。『プレジデント』はビジネス雑誌だ。編集部内に業界担当制はない。全員が記者という訳でもなく、どちらかというと編集によって加工された2次情報で成り立っている。保守本流の一次メディアとは異なりニッチだ。発行は月2回で部数は20万部。大きいと言えば大きいが、新聞やテレビに比べると注目度や影響力は限定的だと思う。
編集上の特徴は大特集主義を採用している点だ。およそ50ページに渡り、内外から大きなテーマを選んで特集を組んでいる。また、特集では経済や経営のお話とともに、生き方や人生観について経営者や部長クラスの方々に語っていただくというのが基本的なスタイルだ。たとえば日本電産の永守重信社長には業界や世界経済の見通しに加え、ご自身のキャラクターや人の育て方といった人間味溢れるお話を伺っている。この辺はほかのメディアと比較してもユニークなところかなと思う。
特集以外はいわゆるジャーナリズム的コンテンツだが、いずれにせよ基本的には企業やビジネスパーソンを応援するような読み物を書いている。弊誌の目的は「日本と日本人を元気にする」だ。また、「面白くてためになる」という点も大事にしている。やはり商業出版だ。メディアは社会の公器かもしれないが、手にとって読んでいただくため、まずは面白いものにしなければいけない。そのうえで「ためになる」という目的がある。読者に正の効果をもたらすよう、やる気を出して貰い、次の行動に繋げていけるような企画を誌面に反映させていきたい。
そうした誌面の企画にあたり、弊誌は3つの原則がある。ひとつは「虚心坦懐、事実ありのままを見ているか?」。意外とありのままには見ていないのが人間だと思う。イデオロギーや世代論で簡単に物事を決め付けてしまいがちだ。それをとりあえず外して、自由に物事を考える。二つ目が「“出る杭を伸ばす”方向であるか?」。出る杭が打たれることの多い社会だが、伸ばすことを意識しなければいけないと思う。どちらかというと商業出版は面白くするため、人々の嫉妬感情に訴えかけ、出る杭の足を引っ張りがちだ。リクルート事件や光通信、あるいはライブドア事件もそうだった。しかし私たちとしては少しやり過ぎではないかと思っている。で、そしてもうひとつが、「子供たちの未来のために良いことか?」。そこもきちんと見ておこうと考えている。
当たり前の話だが、メディアの使命は、社会の健全な発展に貢献出来るよう広く正確に、わかりやすく情報を伝えることだ。情報が増え過ぎて錯綜している現代社会にあって、生の情報ばかりでは大変だ。情報を発掘し、整理し、方向付けを行う牽引者が必要だと考えている。そこで媒介としてのメディアは間接民主主義における重要なツールになると思う。
で、今後のあり方についてだが、ネットに軸足が移るとしてもメディアの中身はあまり変わらないかもしれない。あるいは変わるかもしれないし、その辺はまだ分からないが、今は色々な方が試行錯誤をなさっていると思う。最近は気になっているのは、成毛眞さんが代表を勤めていらっしゃる『HONZ』という書評サイトだ。一般社団法人の運営だが、本好きな方が集まり、「本当に好きだから書いている」というスタンスをとっているので信頼感がある。ビジネスとしてどうなっているかは分からないが、事実、出版社や書店では帯やPOPに同サイトの書評を使うところも出てきた。
書評を書いていらっしゃる方々はお金を貰っている訳ではない筈だが、個人のブランド力があがるインセンティブは出ると思う。実際、成毛さんの本は売れているし、他の書評メンバーも最近は露出が増えている。彼らの本も売れているのかどうかは分からないが、少なくとも個人の発信力とともにご本人たちの価値も上がっているだろう。私としては、こういうことが他の分野でも起きてくるのかなと思っている。
「署名記事やソーシャルメディアでの個人発信により、ジャーナリスト個々人の緊張感を高めるべき」(瀬尾)
関口:お話を伺い、大きくは二つの問題があると感じた。まずは「信頼性が失われている」、「アジェンダ設定が出来ていない」、「取材力が落ちている」といった、メディア自身の体力が減退している問題だ。そしてもうひとつが経営問題。まずは前者について、個人として、そして組織としてどう考えていくべきかを議論したい。既存の、いわゆる大メディアが抱える問題とはどういったものになるのだろう。
瀬尾:先ほど近藤さんが提示した「取材される側から見たメディアの問題」は、読者が感じる問題意識ともそれほど変わらないと思う。新聞記者も雑誌編集者から見た課題もほぼ同じだ。我々としても、「ジェラシーを煽る記事や表層的なものでなく、もっと深い記事をつくることが出来ないか」といった話をいつもしている。
では、どうしてその課題が分かっているのに解決出来ないのか。現場のジャーナリストは、企業および経営論理の範囲でやらなければいけない部分と、ジャーナリストとして自分の判断でやるべきことのあいだを行ったり来たりしている。特に我々のようなサラリーマンジャーナリストは取材を重ねるうちに地位も上がる。すると会社の言うことも聞かなければいけなくなり、言いたいことが言えなくなるケースも増える。
ただ、それを解放する手段はあると思う。今は幸いにしてソーシャルメディアが広がり、個人で情報を発信出来るようになってきた。アメリカの新聞では署名原稿が多い。そういう環境では、たとえば社論と違っていたとしても読者のほうを見て、世の中に評価される記事を書くことが出来ると思う。ジャーナリズムとして本当に評価される記事を書くことが出来たら、たとえば「この会社は居心地が悪かったけれども、次の会社で自分のポジションを取ることが出来る」と考えるかもしれない。
その意味でも個人の名前で行動出来る署名原稿を増やすべきだと思うが、そこは各社の方針によるので、なかなか…、会社が変わるかどうかは分からない。ただ、今はソーシャルメディアで個人が発信を行える。そこで、たとえば取材過程や取材への反応等、記事に出来なかった部分を世の中に問い掛けていく。同時に自分の記事に対する世の中の評価を知ることも出来るだろう。そこで反論も出来る。そのなかで我々はソーシャルメディアと補完的な関係をつくることが出来ると思う。ウェブメディアとソーシャルメディアは敵対関係ではない。
もちろんソーシャルメディアにも問題はある。フェイスブックやツイッターで話題になるのも、どちらかと言えば人の揚げ足を取るような話題、誰かの悪口、あるいはお涙頂戴の感動話だ。その辺はテレビや雑誌と同じ。ただ、良い部分を上手く使えば今のメディアが抱えるような、個人と企業の狭間を行ったり来たりする部分を埋めていくことは出来ると思う。
丹羽:アメリカでは全記者にツイートを認めている新聞もある。そうすると記者にファンがついて、新聞購買にも繋がるという。また、ツイッターで何百万というフォロアーを持った記者が、あるとき「今日大統領を取材する」と、市民に質問を募ったうえで取材を行ったということもあった。
テレビ局には何千倍という倍率を勝ち抜いて入社した結果、上から目線になるような記者もいると感じる。そういう環境に甘んじないためにも、皆が何を思っているかが瞬時に分かるソーシャルメディアを取材に反映させるのは面白いと思う。
関口:最近は画面の下にテロップのような形で、ソーシャルメディアからの声を流す番組も目にする。放送はソーシャルメディアをかなり採り入れているのだろうか。
丹羽:報道に関してもエンターテインメントに関しても、リアルタイムでソーシャルメディアを活用するという考え方は、今は全局で進めていると思う。
瀬尾:上から目線になっているというご指摘は大事だ。日本ではジャーナリズム教育をきちんと行う大学や専門機関がほとんどない。最近は早稲田がJ-Schoolでそういうことを教えるようになったが、アメリカでは多くの大学にジャーナリズムのコースがあり、取材の方法論から「メディアとは何か」という考え方まで教えている。
しかし日本はどちらかというとOJTだ。とりあえず記事を書かせ、先輩が取材をしながら教えている。私は新人時代、「仮に批判記事を書くとしても、相手が納得出来るような記事を書け」と言われていた。それは一面正しいが、ともすると自分の記事に対する反応ばかりを…、たとえば経済記事に対する業界の反応ばかりを気にしてしまうことにもなる。そうではなく、ポピュリズムになるのでも業界の反応を伺うのでもなく、もう少し広いところで自分の記事がどう読まれているかに目を向ける必要がある。その意味でもソーシャルメディアは役立つと思う。
私は『週刊現代』を担当していた時期もあるが、記事に関して編集部に抗議にする方はいたし、場合によっては訴訟を起こす方もいた。それはそれで応える。しかし一番応えるのは名指しで言われることだ。ときには自分も反論しなくてはいけない。その意味でも署名記事を書くときには緊張感が生まれる。それをメディアに持ち込むことで取材者の能力は大変高まると思う。
関口:面澤さんのところはどうだろう。
面澤:ソーシャルメディアに関してはなんの縛りもない。そんなにたくさんやっている訳ではないが。
「頑張っている者を応援すると同時に、ウォッチドッグとしての機能もやはり求められる」(近藤)
関口:日経新聞は個人の発信を禁止にしている。「発信するのなら所属メディアでやるように」と。いくつか理由はあるが、まず読者からの訴えに対して会社として受けて立たなければならないという背景がある。個人が自由意志でやったことに関して会社が受けるというのも変な話だ。それと日経ではコラムを署名で書いているが、それ以外は会社として記事を書いている。従ってそこに書かれていないものを他のソーシャルメディア等で勝手に発信するのはよろしくないだろうという理由もある。近藤さんはこの辺についてどうお考えだろう。
近藤:緊張感は大事だ。政治については先ほどのお話に集約するが、やはり今のテレビや雑誌では「誰と誰の仲が良いか」といった緊張感のない身内話ばかりになっている。そういうのではなく、たとえばひとつの法律に関して背景を調べあげ、「こういった人々が絡み、こんなお金の動きがあった」という記事を書いて欲しい。政治家の私が言うのも変だが、そのほうが政治家としても痛いし、世の中にとっても大事だ。
深く掘り下げていけばもっと楽しくなるというか、意味のある取材になる。話題はたくさんある筈だ。こう言うと政治部の皆さんに怒られてしまうが、今の政治面にはそういうニュースが欠落している。面澤さんが仰っていた元気付ける報道をすることもメディアの大きな役割だと思うが、その一方では…、青臭い言い方だが、権力を持つ者に対するチェック機能も大事にして欲しい。その両方が今の日本では中途半端。それで多くの人々がフラストレーションを溜めているのではないか。
瀬尾:深掘りは大事だ。ビジネスモデルとして考えても、その辺がソーシャルメディアやブログメディアとの差になると思う。「この政策決定の裏に何があったのか」といった問題に関して、時間経過や人間関係を含めたさまざまなことを、多くの人々にあたって取材していく。そういった調査報道的な取材を個人のブログメディアで行うのは難しいが、新聞や雑誌であれば可能だ。
企業メディアはそちらに特化していったほうが良いと思う。もっと言えば、役所で発表するような情報は通信社に任してしまえば良い。共同通信や時事通信ですべて買っても良いと思う。で、日経や産経といった他のメディアは深掘りに特化していくというのが、ビジネスモデルの面で考えてもこれから進むべき道ではないか。
関口:丹羽さんはどうだろう。放送は大衆迎合的にならざるを得ないとのお話もあった。いわゆるお茶の間ジャーナリズムというのは私もどうかと思っていたが。
丹羽:メディアに求められているものとして、権力をチェックする機能、正しい情報を提供する機能に加え、広く解説する機能もあると私は思っている。たしかにお茶の間ジャーナリズムに関して言えば、たとえば「こんなやつに言われたくない」といった批判はあると思う。ただ、広く解説する機能という点で言えばあったほうが良いのではないか。お茶の間ジャーナリズムというのはそういうものだと捉えている。
関口:面澤さんのところは大特集ということでまさに深掘りだと思うが、そのやり方で上手く言っているということだろうか。
面澤:調査報道的なものはチームを組んでやっている。それがどれほどの質や影響力を持ち得ているかというと、まだ分からないところではあるが。
瀬尾:昨日のワークショップで、「日本のメディアはベンチャーを伸ばす気がないのでは?」というご指摘があった。実際、リクルート事件でもライブドア事件でも、メディアがとにかくバッシングに走るという問題がある。その辺は検察と一体でやっているのではないかとも感じるが、しかしそうした検察の逮捕をメディアが覆した例もある。その流れをつくったきっかけのひとつに、佐藤優さんの著書『国家の罠—外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮文庫)があったと思う。「検察というのはこういう構造で、国家に敵対するとこうなる」といった話が書かれた同書は、「検察に逮捕されたこと=悪ではない」という構図を示した。そういう部分で、書籍や雑誌を含めたメディアの役割があと思う。同書に書かれているようなことは表層的な取材をしている限り出てこない。そこを深掘して、世の中に知らせしめるのはメディアの使命だと思う。
「公共性と、さはさりながら金を稼ぎ経営を回すつなぎのところでハレーションが起きている」(関口)
関口:ではこの辺で会場の皆さんからも質問やご意見を受けたい。
会場(北岡伸一・国際大学学長):政治報道が遅れているのは間違いない。55年体制終了後も基本的に同じトーンだ。「現政権が潰れても、どうせ次の政権は自民党。だからどんどん政権を変えろ」と。今はそんな時代でもないのに、同じような報道を続けている。また、今はかつての派閥リーダーほど確固たるシナリオや権力を持っている訳ではないのに、有力者にばかりくっついている点でも同じだ。さらに言えば、たとえば総理が海外へ行くときも国内の政治部記者が付いて行くだけ。海外に対する発信もなければ海外からの受信もしていない。こんなことをいつまで続けるのか。
私は報道ほど面白い仕事も少ないと思う。名刺一枚で誰にでも会えるし、色々な議論が出来る。ただし、ジャーナリストであれば自分で物事を判断しなければならない。そのための勉強をしているのか。私はOJTに反対だ。必要な場面もあるが、大学時代に基礎をしっかり勉強してこなかった人間にジャーナリストは務まらないと思う。福沢諭吉、石橋湛山、馬場恒吾、清沢洌、あるいはウォルター・リップマンやウォルター・クロンカイトの本をきちんと読んでいるのか。歴史を見渡せば色々なことが分かる。既存の構造というものがはっきりしていないときこそ個人の力量が問われるのだと私は思うし、そのためにも歴史を勉強するといった基本に帰ることが大事だ。
また、週刊誌等で行われる請負も問題だと思う。請け負った人間が、「嘘でも良いから面白い話を教えてください」ということで聞きに来る。それでたくさん嘘を書かれた経験が私にもある。普通の人間は「面倒だから」と、抗議もしない訳だが、そういう部分に胡坐をかいてはいまいか。一対一でその人と会って堂々と反論出来るのか。そういう部分でも個人の力量が問われると思う。
それと、最近は新聞記者でもレベルに差が出ていると感じる。私は最近、ある談話向けに元有力新聞の編集委員クラスの方と1時間ほど話をしたことがある。しかし出来上がった1ページの原稿を見てみると20カ所も間違いがあった。「何を聞いていたのか」と。現実にはそのような差が出てきているということも指摘しておきたい。
会場(郷原信郎・郷原総合コンプライアンス法律事務所代表弁護士):『現代ビジネス』と『プレジデント』から何度か取材を受けた私としては、正しい報道を両誌は出来ていると思う。ただ、新聞やテレビはどうしても色々なバイアスがかかる。経営上の問題もあり、記者個人の報道姿勢が歪められる可能性がある。その背景には北岡先生のお話通り、能力や素養の問題があると思う。ただ、それに加えて「こういう観点だ」ということが認識されないまま取材・報道している方も多いのではないだろうか。
私はコンプライアンス研究センターで昨年春までに200回近い定例記者レクを行なっていて、一時期は多くの記者が集まっていた。そこで、たとえば企業のバッシングに関して、「こんな視点で考えてみてはどうか」というような話をずいぶんしていた。で、特に西松建設事件の際は多くの記者が集まってくれたが、当時は皆、検察側の見方を刷り込まれていた。そもそもあの事件にどんな問題があるのかが分からない状態だった訳だ。それで私が色々と話をしたのだが、記者の方々はそれをさまざまな媒体でアウトプットしてくださった。
そういう機会がもっと必要ではないかと思うが、残念ながらその記者レクに集まってくださる方はだんだん少なくなっていった。あるとき、IWJ(Independent Web Journal)の岩上安身さんという方から「定例記者レクを中継したい」とのお話を受け、私も「自分の話を発信出来るのなら」と思ったので来て貰っていた。しかしネットで見ることが出来るようになると記者は来なくなる。で、かえって影響力が落ちてしまったと思う。従って、普段のビヘイビアでは記者の方々がアプローチ出来ないような情報を、どこかでまとめて言うべき人が言えるような場を設けてはどうだろうか。
会場(森浩生・森ビル専務取締役):世の中の人々の多くは、何かが活字になったとき、仮にそれが嘘でも「事実に違いない」という印象を持つ。そうした影響力の大きさを認識して欲しい。署名記事は大事だと思うが、「署名をすると緊張感が出る」ということは、そうでなければ緊張感なく無責任に書けるのかという話にもなってしまうからだ。また、責任ある立場で正しい報道を行うためのジャーナリズム教育も重要だろう。壇上の皆さまは高い志を持っておられると思うが、そうではない記者の方も多いと感じるし、そんな風に受け取られていること自体が大きな問題だと思う。
会場(仮屋薗聡一・グロービス・キャピタル・パートナーズパートナー):日本のメディアが抱える問題は、経営サイドのケイパビリティが低い点ではないかと感じていた。「貧すれば鈍する」で、そちらの能力が低いと腰を落ち着けて調査報道に取り組むといったことも難しくなると思う。今、ネットメディアのほとんどは編集者やジャーナリストの方々に運営されており、経営になかなか手が廻らない。我々はそういうメディアを買収し、営業やシステム運用を引き受けたうえで報道に集中して貰えるような投資を行なっている。その意味でも経営者とジャーナリストが強みを生かし合う必要があると思うが、経営側に対するリクエストが何かあればお伺いしたい。
会場(平野岳史・フルキャストホールディングス取締役相談役):会場にいる方々の多くは大なり小なりメディアに叩かれた経験がおありだと思う。私も日雇い派遣の会社で、かつてグッドウィル・グループ(現テクノプロ・ホールディングス)の折口雅博さんとともにさんざん叩かれた。折口さんはメディアと厚労省に潰されたと今でも思うし、私も4年前は倒産寸前まで行った。裁判でも抗弁する場は与えられるが、一度バッシングがはじまるとそれすら叶わない。何を言っても「反省していない」と言われる。
で、私は当時、「メディアは我々に嫉妬心を抱いて、嫌っているのだな」と思っていたが、実はそうでもないようだ。検察には「可罰的違法性」なる考え方があるという。社会正義に基づいて必要だと思えば立件するということが検察ではあるそうだ。で、メディアの方々もそれと同じように考えていると感じたことがある。「我々はジャーナリストだから社会正義だ。公共性もある」と。ただ、メディアの人間がそれをすると偏向報道に繋がらないだろうか。ただ、本人たちは足を引っ張っているつもりもなくて、正しいことを正しく伝えるつもりで書いている。それが分かったとき、「これは相当に根が深い問題だな」と思った。この辺についてはどのようにお考えだろうか。
会場(國領二郎・慶應義塾大学総合政策学部教授):今はメディアとジャーナリズムの組み合わせがどんどん自由になっている。メディアとして一括りにせず、もっとトータルで考えないといけないのではないかという感想を持った。
関口:記者のレベルが低下しているというお話に加え、経営モデルのまずさというご指摘もあった。経営を廻さなければいけないが、一方で公共性を語っている訳で、今はその“つなぎの悪さ”が色々とハレーションを起こしているように感じる。
「民衆の嫉妬心を煽り、悪方向に導くメディアは厳然とある。そのとき逆側の声を代弁できるか」(面澤)
近藤:平野さんが仰っていた空気というのはあると思う。私が記者だった頃は「社内読者」という言葉があった。典型的な業界用語だ。「あいつはけしからん」と編集局長が言えば、「少し叩いてやれ」という空気が編集局内を支配する。大ニュースであればあるほどそうなっていたと感じる。今は是正されていると信じたいが。
また、普通の企業では営業や経理の人間がトップになっていく一方、大メディアでは編集局出身が社長になっていく。これが果たして健全なのかという疑問もある。アメリカのメディアでは常に経営陣と編集局が対立している。日本はそこが一体であるために緊張感がなく、経営感覚を持ち得なかった面はあると思う。人材育成もそのなかで行われてきた。しかしそういったやり方では、今はもたなくなってきた。署名記事にも大賛成だ。これ以上言うと新聞界から追放されてしまうが(会場笑)、とにかく緊張感のない環境は変えなければいけないと思う。
丹羽:テレビに何か叩かれたとき、一個人は電波を使って反論出来ない。従って平野さんのご指摘は大きな問題として捉えるべきだと私も思う。森さんのご指摘についても同様だ。私はテレビ局に入った当初、研修で「自分たちの影響力の大きさを認識しなさい」と常に言われた。これは当社で実際にあった話と聞いているが、あるアナウンサーが番組内で「小さな勇気を持とう」と言ったそうだ。で、それを聞いた方が後日電車内でルールを破った人を注意したら殴られてしまった。「自分の言葉で被害者が生まれた」と、本人は落ち込んだそうだが、そのときに彼の上司は「それでも貴方はそういうことを言ったほうが良い」と言ったという。その話がすごく心に残っている。自分たちの言葉や番組が視聴者に与える影響について常に自問自答しながらも、それでもなお続けていくのが我々の使命という気がする。
関口:日本のメディアは、ひとつの方向が出来ると皆がその方向で競争をはじめてしまう。この辺は問題だと思う。ロス疑惑の取材となれば皆がカリフォルニアに行って、そして行ってしまったがために「これで何かをつくらなければ」と、放送内容もすべてロス疑惑一色になる訳だ。経済報道でも同様で、IMF・世銀総会がワシントンで開催されるとなると当地には日本から山のように記者が訪れる。しかし、たとえばドイツは数人が来る程度。それを皆でシェアをする仕組みがある。
瀬尾:検察的な正義感について言えば、新聞社の場合はたしかにそうかもしれない。ただ、テレビと週刊誌は「そのほうが売れるから」という気持ちがどこかにあるのではないか。平野さんのご指摘通り、正義というのは一面では危険だ。私たちはジャーナリズムという言葉を偉そうに使うが、基本的にはどの仕事も社会の役に立っている訳であるし、誰もがそのつもりでやっている。ジャーナリズムだけが特別ではないのだから、その辺は私たちが謙虚に受け止めなければいけない。
それと北岡先生の「勉強不足では」というご指摘についてだが、やはり基礎教育が出来ていないのは問題だと思う。今は早稲田のJ-School等、色々な教育システムも出来ている。基礎教育は大いに行うべきだ。また、外の世界の方から、たとえば学識経験者や各分野で専門的に活躍しておられる方をジャーナリストとしてお迎えする、あるいは入ってきていただけるような土壌をつくることも重要だと思う。
当然、我々は勉強しなくてはいけない。たとえば「夜討ち朝駆けで取材をする」「誰かと飲んで仲良くなる」といったことがスクープをとる秘訣と勘違いする方は多いが、実際には違う。大事なのは取材先の方々よりも勉強するぐらいの気持ちで取材対象と向き合うことだ。そして相手の言うこともすべて理解しようとして、「先生はこうおっしゃるけれども本当はこうじゃないですか?」と。そのときに「いや、そう言うけれども、違うんだよ」といったやり取りになって、そこで初めて本音を聞くことが出来る。
繰り返しになるが、やはりメディア業界では新規参入が少ない。アメリカにはNPOメディアやハフィントン・ポスト等、多様な形がある。だから、会場にいらっしゃるような皆さまにもぜひ新規参入をしていただきたい。もちろん日本でも現場からそういった動きを起こそうとしている人間はいる。ただ、逆にこれだけ課題を抱えているということは、ビジネスチャンスもたくさんあるということではないだろうか。そこで国民の不満を解消出来るようなメディアが出来たら、それは大きなビジネスになると思う。
面澤:民衆の嫉妬心を煽り、悪い方向に導くメディアは事実としてあると思う。だからそこでブレーキをかけるメディアがあっても良いと思うし、我々はそれをやっていきたい。リクルート事件では未公開株を貰った民間の方々がたくさんパージされていったが、当時は「そこまで悪くないのでは?」という声を挙げていた人もいた。そのあたりの声をすくい上げるというか、声を大きくしていく必要はあると思う。大メディアにはなかなか出来ないと思うが、そういうニッチな部分を雑誌としてやっていきたい。
関口:特に日本の大メディアは終身雇用を採用している。そこでサラリーマンとしてやっていかなければいけないため、上の人間に迎合してしまう面はあると思う。アメリカではローカル誌からスタートし、署名記事を書きながらその分野のプロとして名を上げることで大きな会社に移っていくといった、キャリアに関するモビリティがある。その辺が日本でも求められているのと感じた。今は“一億総ジャーナリスト”といった時代だが、これは良いことだと私は思うし、そのなかで我々もやるべきことをやっていかなければいけないのだなとも思う。今日はありがとうございました(会場拍手)。 

 

●マスコミの役割
まず、マスメディアとは?
マスメディアとは、「マス=大衆」に対して情報伝達をする「メディア=媒体」のこと。 具体的には、新聞・雑誌・テレビ・ラジオなどの媒体を指します。
マスメディアは不特定多数の生活者を対象に、多様な情報を伝達する「マスコミュニケーション」の役割を担っており、略称でマスコミと呼ばれることも多いです。マスメディアは、報道、解説・啓蒙、教育、娯楽、広告など複数の役割を果たし、社会的影響力が大きいことも特徴です。
マスメディアの種類
一般的にマスメディアとは、新聞・雑誌・テレビ・ラジオの4媒体を指します。本項では4大媒体をそれぞれ解説したうえで、マスメディアに匹敵するほど影響力を拡大させ続けているインターネット上のWebメディアやSNSについても説明します。
4大媒体の特徴を解説
1. 新聞
新聞とは、ニュース、意見、特集など、大衆が関心をもつ情報を提供する日刊や週刊などの定期刊行物です。紙で発行されることが一般的ですが、近年はスマートフォンやタブレットで購読できる電子版や、Web上で読むことができるネット配信も普及しています。
新聞は大きく一般紙と専門紙に分類できます。一般紙の中でも発行されている地域の広さにより全国紙、ブロック紙、地方紙と分類されます。地域により多く読まれている新聞が異なるため、広報担当者はその地域での影響力や読者層などを参考にアプローチすべき媒体を決めていきましょう。専門紙には、経済紙、スポーツ紙、業界紙など、特定の分野に特化した情報を掲載するものが分類されます。その他、機関紙や点字新聞などがあり、新聞は多種多様です。
新聞の特徴の1つ目は、地域密着性です。地方紙は地元で絶大な支持を得ており、県によっては全国紙よりも地元紙を読んでいる人のほうが多いくらいです。全国紙にも数ページの地域面があります。2つ目の特徴は、共有性の高さです。購入した新聞を回し読みしたり、切り抜きを掲示したりと、複数人と共有しやすい性質があります。3つ目の特徴は、安価であることです。前日のニュースを翌朝には詳しく確認することができるうえ価格も安く、コストパフォーマンスの高い媒体と言えるでしょう。
2. 雑誌
雑誌とは、特定の誌名を冠し、種々の記事を掲載した定期刊行物です。週刊、月刊が主流ですが、隔週刊、季刊などもあります。種類も豊富で、総合雑誌、専門雑誌(文芸雑誌、ビジネス誌など)、娯楽雑誌(ファッション雑誌、漫画雑誌、スポーツ雑誌など)、教育雑誌、各種団体の機関誌、個人雑誌、広報誌などの分類があります。購読層によって一般誌、男性誌、女性誌、ティーンズ誌などに分けることもできます。広報担当者は情報伝達したい生活者の志向や関心に合わせて、アプローチすべき雑誌媒体を変えていきましょう。
雑誌は書店やコンビニエンスストアなどで販売していることが多いですが、前述の新聞同様、スマートフォンやタブレットで電子書籍として販売する形態も普及しています。
雑誌の特徴として、紙媒体特有の五感への訴求が挙げられます。編集者は媒体ごとに使用する紙の質感を検討しており、触り心地や印刷技法によって読み手が受けるイメージが異なります。鮮やかなビジュアルで読者の視覚にもより強い印象を与えることができる媒体です。
3. テレビ
テレビとは、電波を用いて、遠隔地に映像を伝送し、受像機にその映像を再現する技術のことです。あるいは、そのために用いられる装置、特にテレビ映像機を指すことも多いです。
テレビの放送局には、公共放送(NHK)と民放放送(日本テレビ放送網、テレビ朝日、TBSテレビ、フジテレビジョン、テレビ東京、日本BS放送などを含む全国独立放送協議会)があります。
テレビ番組の種類には、報道番組(ニュース、天気予報、国会中継など)、娯楽番組(スポーツ、テレビドラマ、音楽番組、トークなどのバラエティ番組、テレビアニメなど)、ドキュメンタリー番組、ワイドショー、教育番組(子ども向け番組、語学番組など)があります。
他の4大媒体と大きく異なるのは、映像と音声で情報を伝えられること、そして多くの視聴者を有するため放映のインパクトが大きいことが挙げられます。速報性も高いうえに動画で情報を得ることができ、かつ民放放送は視聴料もかかりません。またローカル局(地方局)では地元に密着した番組も多いです。
近年は動画配信サービスが台頭しテレビの視聴率低下なども取り沙汰されていますが、TVer(ティーバー)やParavi(パラビ)などのポータルサイトで場所や時間を選ばす番組が視聴できる体制も整えられており、依然としてテレビは大きな影響力を持った媒体であると言えるでしょう。
4. ラジオ
ラジオとは、電波を利用して放送局から送る報道・音楽などの音声放送のことです。音声形式でリアルタイムに情報を得ることができるため、その特性から運転や勉強、料理などの作業と平行して番組を楽しむ聴取者が多いのが特徴です。パーソナリティとリスナーの双方向コミュニケーションがとれることもラジオならではの特徴です。
また速報性が高く、交通情報やニュース全般、災害時の情報発信に優れています。テレビと比較すると送信システムが簡単な構造になっているため災害時にも放送を続けやすいというメリットがあり、停電でテレビが見られない状況でもラジオなら情報発信が可能です。
近年ではインターネット配信サービスradiko(ラジコ)で若年層へのアプローチやSNSでの拡散性の向上を目指しており、ローカル局のコンテンツも全国へ配信する仕組みが構築されています。
インターネットやSNSはマスメディアに含むの?
ここまで新聞・雑誌・テレビ・ラジオという4大媒体について説明してきました。では、急速に発達してきたインターネットやSNSもマスメディアに含まれるのでしょうか。本項では、今や社会のインフラと言っても過言ではないインターネット上のメディアについて説明します。
ネット上のメディアは大きくWebメディアとソーシャルメディアの2つに分類されます。Webメディアとは、インターネット上でなんらかの情報を発信しているWebサイトのことを指し、具体的にはニュースサイト、キュレーションサイト、コーポレートサイトなどが分類されます。ソーシャルメディアとは、個人による情報発信、個人間のつながりなどの社会的な要素を含んだメディアを指します。具体的には、Twitter、Instagram、Facebook、YouTube、TikTok、ニコニコ動画などが該当します。
インターネットを主戦場とするWebメディアやソーシャルメディアは、すでにマスメディアと肩を並べるほどの影響力を持っており、第5のマスメディアになりつつあります。電通が16年2月に発表した『2015年 日本の広告費』によれば、インターネット広告費は1兆1594億円で、新聞の5679億円の倍に達し、テレビの1兆9323億円に次ぐものになっています。米eMarketer社の調査によれば、すでに米国市場では16年中にデジタル広告は720億900万ドルに達し、テレビの712億9000万ドルを上回るとされており、ネット広告が近い将来にテレビを抜いて世界最大の広告媒体になることは確実な状況であると言えます。
インターネット上のWebメディアやソーシャルメディアはその拡散性の高さが特徴です。速報性にも優れており、膨大な情報の中から自分が求めている情報を瞬時に検索できる点も強みです。一方で、個人が容易に情報発信できるため誤情報やフェイクニュースが出回ってしまうというデメリットもあります。
マスメディアの役割とは?
マスメディアの機能について、コミュニケーション学の父とも呼ばれるアメリカの学者ウィルバー・シュラムは、「見張りの機能」「討論の機能」「教師の機能」の3つに分類しています。
まず「見張りの機能」は、社会環境の現状や変化に対し情報を伝え警告を発する役割です。政治や経済の動向をマスメディアが発信することにより、大衆が危機感や自身の考えを持つきっかけになります。企業や団体に世間から見られているという意識を与えることで見張りとして機能します。
次に「討論の機能」です。これは社会環境に関して構成員間の意見を整理し世論を形成させる役割です。従来の4大媒体に加え近年は第5のマスメディアになりつつあるWebメディアやソーシャルメディアで個人が意見を表明することが容易になり、メディアが持つ討論の機能がより活性化しています。
最後の「教師の役割」は、価値観や社会的規範、知識などを次の世代へと繋いでいく役割です。特に新聞は共有性、雑誌は保存性が高いメディアであり、次代への情報伝達に向いているマスメディアです。
またアメリカの学者、ハロルド・ラスウェルもそれぞれを「環境の監視」「構成員の相互作用」「社会的遺産の世代的伝達」として分類しています。役割の名称は異なりますが、内容は前述の「見張りの機能」「討論の機能」「教師の機能」と同様です。
マスメディアが与える影響とは?
不特定多数の大衆に情報伝達をおこなうマスメディア。世間に及ぼす影響にはどのようなものがあるのでしょうか。今回は「政治への影響」「経済への影響」「文化・教養としての影響」の3つの観点で解説します。
1.政治への影響
マスメディアが政治的な事実を報道・解説することにより市民は情報を得て、政治関連のトピックスを何らか判断する際の基準とします。新聞の見出し・ニュースのテロップなどのマスコミ報道が与えるイメージや、ワイドショーに出演するコメンテーターの意見など、ひとつひとつが世論の形成に影響を与えます。その影響力は大きく、立法・司法・行政と並ぶ「第四の権力」と言われることもあります。
2.経済への影響
マスメディアから流れる情報は人々の経済活動に多大な影響を与えています。マスメディアで目にする商品やサービスの情報は、企業が出稿した広告の場合もあれば、広報活動の結果の露出の場合もあります。
広告の具体例は、テレビCM、雑誌の広告ページ、新聞の広告欄、ラジオCMなどです。日常生活で頻繁にかつ繰り返し目にするものであり、強く消費者の印象に残ります。
広報活動の結果であれば、ニュース番組やバラエティ番組で企業や商品が紹介されたり、ドキュメンタリー番組に社長が出演したりといったケースが挙げられます。
マスメディアで特定の事象が複数回取り上げられることで「これが人気なのだ」という共通認識を生み出し、経済効果に繋がります。テレビ・雑誌で紹介されたスポットに人が集まったり、紹介された物が完売することなどが分かりやすい例です。
3.文化・教養としての影響
先述の通りマスメディアには「教師の機能」、つまり価値観や知識などを次の世代へ繋いでいく役割があります。テレビであれば言語学習の番組、子ども向けの教育番組、手話や将棋などの趣味の番組などがあります。雑誌であれば様々なジャンルの専門誌(新聞は専門紙)があり、文化・教養の土壌作りに影響を与えています。
さらにマスメディアには娯楽としても大きな存在意義があります。具体的には、映画やドラマ、スポーツ中継、余暇やレジャーを楽しむための娯楽情報を提供する番組、トークやお笑いなどを中心としたバラエティ番組などがあります。これらの娯楽コンテンツは人々が広く楽しむ大衆文化を成立させ、ある対象に対する人気を確立させることで流行を生み出しています。
広報活動におけるマスコミの役割 
広報活動の目的は企業・組織の存在意義を見出し、経営を持続し、社会に対する価値を高めていくことです。これらを達成するためには自社、商品、サービスの認知拡大が欠かせません。その際、不特定多数への情報発信が可能なマスメディアは広報担当者にとって強力な存在となります。
マスメディアが世間に与える影響は想像以上に大きいため、丁寧かつ慎重、そして迅速なコミュニケーションが求められます。たとえば認知度の高いテレビ番組であれば数分間自社が紹介されるだけでも、ホームページのアクセスが集中したり、問い合わせが激増して電話が鳴りやまない状況になったり、製品の生産が追いつかなくなったりするほどの反響を巻き起こす場合があるのです。
新聞・雑誌・テレビ・ラジオといった4大媒体は広報活動としてメディアリレーションズをおこなう際に必ずアプローチすることになるメディアです。広報担当者は日頃から媒体研究を怠らないようにしましょう。
マスメディアが与える影響力の大きさを理解しておこう
本記事では、4大媒体と呼ばれるマスメディアについてや、急成長し第5のマスメディアになりつつあるWebメディアやソーシャルメディアについて説明しました。
新聞・雑誌・テレビ・ラジオといったマスメディアは人々の暮らしと密接な関係にあり、発する情報が世の中に与える影響も絶大です。世間の信頼も大きいメディアであるため、ポジティブな情報もネガティブな情報も一気に広がります。マスメディアが与える影響の大きさを念頭に、迅速かつ丁寧なコミュニケーションをとり、日頃からきめ細かなメディアリレーションズを心掛けましょう。
また、それぞれの媒体がWeb版や電子版を展開するなど、時代に合わせて少しずつ変化しています。広報担当者は動向を逐一チェックしましょう。 

 

●マスコミとマスメディアの意味 1
マスコミやマスメディアといった言葉を普段からよく耳にするのではないでしょうか。この2つの言葉は同じような使われ方をしているため、言葉の意味の違いがわからないという人も多いかもしれません。では、マスコミとマスメディアは本来どのような意味で、どのような違いがあるのでしょうか?
マスコミとは
マスコミとはマスコミュニケーションの略称で、大衆伝達とも訳されます。主に新聞、テレビ、ラジオ、インターネットなどを用いて、不特定多数の大衆(マス)に大量の情報を伝達することを指します。マスコミの特徴は多くの人に、大量の情報を速くほぼ同時に伝えることができることです。ただし、その情報の流れは発信者側から受信者側への一方通行となります。しかし、情報を発信する上で、即時性、伝達性、双方向性などに優れているインターネットが発達をしたことによって、マスコミも変化したといえます。
マスメディアとは
一方マスメディアとは、情報を伝達するために用いられる新聞、テレビ、ラジオ、インターネットのことです。つまり、マスメディア(媒体)を用いることによって、マスコミという形で、多くの人に情報が伝達されるといえます。マスメディアを用いる代表的なマスコミ機関としては、新聞社やテレビ局などが挙げられます。
また、マスコミ機関を指してマスメディアということもあります。マスメディアは不特定多数の人に情報を伝えることができる媒体であるため、有用な情報を多くの人に伝えられますが、一方で間違った情報も伝えてしまうという危険性もあります。
大量の情報を伝達することであるマスコミは、マスメディアという手段を用いて行われています。また、マスコミとマスメディアは、マスメディアが発信者、マスコミはマスメディアからの情報を受け取る受信者としても考えることができます。
現在では、インターネットなどを通して誰でも情報を発信できるため、マスメディアはマスコミにも成りえるといえるでしょう。
●マスコミとマスメディアの意味 2
マスコミとは、マス・コミュニケーションのことで、新聞・雑誌・テレビなどを通じて一度に大勢の人に情報を伝えることです。
メディアとは「媒介するもの」という意味で、マス・コミュニケーションの媒体としての新聞・雑誌・テレビなどが主な対象です。また、1990年代後半からは、インターネットも主要なマスメディアに加わりました。ちなみに「マルチメディア」とは、文字情報、視覚情報、音声情報など1種類の情報だけでなく、複数の情報を同時にやりとりできるメディアを指します。  

 

●テレビ報道の役割
進歩を続けたニュースの歴史
ご存知の通り、ニュースは世の中の重要な動向を世間に知らせるためのものです。江戸時代には瓦版という新聞の元となるものが刷られ、それを町中で声を上げて読んでは売り歩く「読売」という人がいました。印刷技術が進歩すると、明治時代には新聞が一般的になり時事ニュースは多くの人に知られるようになりました。さらに、大正になるとラジオが普及し、ニュースはより即時性を増しました。そして時代は昭和に進み、映像と音声で伝えるテレビがニュースの中心となりました。こうした時代背景から、テレビ局の中心的な社会的役割は報道にあると言えます。現代ではインターネットが普及し、ニュースはより即時性と多様性が高まり、あらゆる観点からの報道を見聞きできるようになりました。テレビはそのようなメディアの中でも最も活用されるメディアであり、その社会的役割は非常に大きいと言えます。
「知る権利」を知る
テレビの普及に伴うマスメディアの発達に伴い、日本のような国民主権国家では、マスメディアに対して「表現・言論の自由」に関する「報道の自由」という権利が認められているのと同時に、国民は「知る権利」という権利が認められています。2001年に施行された情報公開法はその「知る権利」を保障することを目的とした法律として知られています。
そういった意味でも、テレビ局の報道は国民の知る権利を保障するためにも重要な役割を担っています。例えば、政治に関する報道などは、特に世間一般に知らしめる必要があると考えられ、その報道によって政治家や行政などを監視する第三の目、チェック機関としての役割をも担っており、報道の公平性や客観性が保たれることによって、市民活動の秩序を担保するという役割もあります。
ジャーナリズムの意味
「ジャーナリズム(journalism)」という言葉は日本では「報道の姿勢」「報道の精神」といった意味合いで使われることがありますが、実際の日本語訳としては、取材をしてテレビや新聞、雑誌などで報道する活動、または報道機関のことを指しています。「ism」と付くことで「主義」を指すようなニュアンスがあるように聞こえますが、報道活動や報道プロダクトというのが本来の意味で、単に「報道」と訳される場合もあります。
また、報道の姿勢に必要な世論への客観性について論じたのが、米国のジャーナリストであるウォルター・リップマンです。リップマンは1958年と1962年の2回にわたってピューリッツァ賞を受賞したジャーナリストで、マスメディアの「意義」などをテーマにした著者「世論」は、ジャーナリストのバイブル的な本として学術的にも評価が高い本です。 

 

●マス・コミュニケーション論
現代社会においては、テレビや新聞、インターネットなど多様なメディアと接触する機会が多くあり、多くの論争を含むニュースが消費されている。しかし、それらのニュースが全く公正であり、中立の立場で報道されているとは限らない。むしろ、情報を伝達する立場からは、イデオロギーに関連した主義や主張が多く含まれており、情報発信者にとって好ましい状況となるように、大衆へ影響を及ぼそうとしていると考えられる。マス・子コミュニケーションは身近な存在であり、大きな影響力を与えていると考えられる。
1 イントロダクション
「マス・コミュニケーション」という語は20世紀初頭より用いられ、社会現象や近代社会を記述する目的で使用された。マス・コミュニケーションの「マス」は大量や大衆といった意味であり、一般国民とのコミュニケーションを指す。しかし、マス・コミュニケーションの送り手ではなく、大抵の場合、企業や組織などの集団であり、複数の受け手が存在している。また、マス・コミュニケーションの特徴として、直接対話によって伝えるのではなく、大きく複雑であり、機械的な媒体が介在していることである。機械によって大量のコピーがされる、テレビを通じて放送する、インターネットを用いて情報を伝達する等、特殊な技術が用いられる。さらに、多くの場合、コミュニケーションの流れが送り手から受け手に対して一方通行であり、相互作用がほとんど見られない。
Lasswell (1960)は、マス・メディアの社会的機能について、1環境への監視、2構成員の相互作用、3社会的遺産の伝達の3点を指摘している。1環境への監視とは、社会の変化に対応できるようにメディアが国民に警告を発することである。生活環境への知識がメディアによって与えられることで、国民はどのように行動したら良いかという意思決定をすることが可能となる。2構成員の相互作用とは、世論を意味し、社会の反応を相互作用させることで世論を形成する機能を持つ。社会における重要な争点に関して、人々の具体的な意見を育てていく機能をマス・メディアは持っている。3社会的遺産の伝達とは、社会の根底にある価値観や規範をマス・メディアが伝達していることを指す。
その他、Lazarsfeld and Merton (1957)は、マス・メディアの社会的な機能として、ラスウェルと異なる立場より、1社会的地位の付与機能、2社会的規範の強制、3麻酔的逆機能を提示した。1社会的地位の付与機能は、マス・メディアが取り上げる人や出来事が社会的に重要であるという印象を人々に与えることを指す。2社会的規範の強制は、社会的遺産の伝達に近く、社会の規範を人々に意識させる機能を持つとする。3麻酔的逆機能は、洪水のように情報を与えることがかえって人々を無気力にさせるという説である。
2 コミュニケーションの理論
[伝達モデル・表現モデル]
伝達モデルとは、一定の情報量の伝達過程としてコミュニケーションを理解するものである。伝達されるメッセージは送り手(情報の発信源)によって決定される。このモデルでは「誰が、何を、誰に対して、どのチャンネルを用いて伝達し、その結果どのような効果が生じたか」に着目される。Westley and MacLean (1957)は、コミュニケーションを社会における複数の出来事と複数の声、チャンネル・伝達者の役割、メッセージ、受け手という一連の過程として捉えた。
これに対して、情報伝達を過程として捉えてはメディア機能を矮小化させてしまうことから、Carey (1975)は信念に着目し、表現であると捉えた。つまり、コミュニケーションは共有、参加、提携、仲間意識、共通の信仰の保持といった用語と結びつき、ある時代における社会の維持という側面が存在する。情報が伝達されるだけでなく、共有された信念を表現していることに着目したのである。
[公示モデル・受容モデル]
公示モデルは、マス・メディアの情報伝達や信念の共有ではなく、注目されるという事実が重要であると考えるモデルである。マス・メディアは人々の注目を集め、感情をかき立て、関心を刺激することにあると考える。そのため、メッセージの内容よりも、いかなる手法を用いて提示するかといった形式や手法が優先される。
受容モデルは、伝達されるメッセージの意味は受け手の側で行われると考える。メディアのメッセージが多義的であるため、受け手を取り巻く文脈や文化によって理解される。受け手はメッセージを受容する義務はなく、イデオロギー的な影響に対抗することも可能であるし、実際にそうしている。つまり、受け手の理解は送り手の意図とは異なる過程をたどると考える。
3 マス・メディアの理論
[沈黙の螺旋理論]
Noelle-Neumann(1973)は、メディアがある期間ある問題について一貫した姿勢を示すと、人々の意見もその方向に従う傾向が出てくるという沈黙の螺旋理論を提示した。人は孤立することを恐れるあまり、多数派意見に従うようになる。自分の意見が多数派意見と異なっている場合、自分の意見を声高に言おうとはしない。メディアの意見と違う意見を持つ人は自然に黙り込んでしまう。メディアの意見に賛成であるならば、声高に意見を述べる。そのため、一般の人々が初めは何を考えていたかは関係なく、当初のメディアの立場に向かって意見が強まっていく。人々は他の人々がどういう意見を持っているか知る手段がないため、メディア情報から推測することとなる。これが世論を形成していく際の社会的心理を表している。
[議題設定理論]
McCombs and Show(1972)は人々がどのような話題、問題、テーマについて考えるかについてマス・メディアがおよぼす影響力について議題設定権を提示した。マス・メディアがある問題について取り上げる量が多ければ多いほど、人々はそれが重要なテーマであると考えるようになる。とくに選挙など重要な出来事について、新聞を中心としたマス・メディアの情報量によって形成される。
[その他の理論:モデリング理論・覚醒理論・認知的不協和理論]
モデリング理論は、子供はマス・メディアの中に登場する人物をまねしようとするところがあるとするものである。男の子は男の登場人物を見ることによって男の子なりの動作を真似し、自分を社会に当てはめていこうとする。
覚醒理論は、適度の覚醒は学習を促進させる一方で、過度の覚醒は否定的な影響を及ぼすとするものである。覚醒には、行動が成立する活動レベルに応じて、かろうじて覚醒している状態から極度の興奮の状態まで様々な段階があり、これを覚醒水準と呼ぶ。この覚醒水準が多すぎると、人は情報に疲れ、情報を避けようとする。
認知的不協和理論とは、人は絶えず態度、信念、行動を一貫性のあるものにすることを欲していることを示す。不快なことに直面した場合、それを避けようとするが、避けられない際は、自分の行動を変えようとする。
[フレーミング効果]
フレーミング効果とは、オーディエンスはジャーナリストが提供する準拠枠組みを採用し、ジャーナリストと同じように世界を見ると考えられる。社会問題を扱うニュースのフレーミングの仕方が、オーディエンスに影響を及ぼすか否かという研究もある(Iyenger 1991)。湾岸戦争に関する研究では、ニュースのフレーミングが外交よりも軍事的解決を支持する方向へとオーディエンスを導いたことが示された(Iyenger and Simon 1997)。その他、大統領選挙で、ジョージ・ブッシュに挑戦したアル・ゴアの失敗は、争点のフレーミング手法に原因があると考えられている(Jamison and Waldman 2003)。
[プライミング効果]
プライミング効果の概念は、メディアが自ら注目した対象を評価する価値や基準を提示する行為を指す。プライミングという考えは選挙キャンペーン研究で歴史を持っている。政治家が最も高く評価する争点に関連して行うキャンペーンを対象とする。最も注目を浴びた政治的争点が、政治的行為者の成果に対する一般市民の評価において一層重視されることが示された(Iyenger and Kinder 1987)。それゆえ、政党や政治家に対する全般的評価は最も検出性が高い争点をめぐって彼らの行動がどう認識されるかに左右される。
国家の指導者は内政の失敗から人々の注意をそらすために外交政策の成功、もしくは思い切った軍事行動までも試みるのではないかという疑いを持たれることがある。それはプライミングの極端な例である。
[第三者効果]
第三者効果とは、多くの人が自分はメディアの影響を受けないと考えるものの、他者に対するメディア効果は認識されると考えるものである(Davison 1983)。他者にメディア効果が及ぶと考える傾向については、多くの経験的データによる裏づけがなされている。そうしたデータはメディアの権力に対する広範な信念を説明するのに役立つが、その場合でもメディア効果が裏付けられたわけではない。
5 マス・コミュニケーションの史的発展過程
[メディアの誕生とマス・メディアの発展]
グーテンベルグは15世紀半ばに活版技術を発明した人物として認定されている。マス・メディアの発展は利用目的、技術、社会組織の形態、統治形態によって説明される。閉鎖的な体制のもとではコミュニケーション技術の利用・開発は制限される。印刷技術はロシアでは17世紀初めまで、オスマン帝国では1726年まで導入されなかったとされる。
手書きに代わる文書の複製方法として、印刷技術を応用することは15世紀中頃に生じたメディア制度誕生の第一歩である。印刷は徐々に手工業となり、重要な商業分野となった。1500年までの本の発行部数は1万5000であったが、16世紀になるとルターの翻訳した聖書の発行部数が100万部を超えた。
[印刷メディアとしての新聞]
新聞の原型は16世紀後半や17世紀初めのニューズレターという形で始まったとされる。当時の関心は、国際手駅な商取引に関するニュースであり、現在のニューズレターとは異なるものである。初期の新聞を特徴づけるものとして、定期発行、商業的基盤、公共的性格、多様な目的が挙げられる。新聞がマス・メディアとなったのは20世紀になってからである。新聞の主要形態としては、政党紙、高級紙、大衆紙に分けられるが、あらゆる時代と国に適合する新聞の形態は一つもない。
[放送メディア・ニューメディアとしてのインターネット]
ラジオ、テレビは電話、電信の技術から伝達と受信を目的に設計された。ラジオでは70年以上、テレビでは40年以上の歴史を持つ。ラジオとテレビについては、公的機関による規制や統制、免許付与がなされており、それが放送メディアを特徴付けている。番組の大部分は映画、音楽、小説、ニュース、スポーツで占められている。テレビの特徴は、リアルタイムで生中継がなされること、また聴衆と出演者の関係が親密であり、人々が番組に関与しているかのような感覚が生まれることである。
1990年以降、ニューメディアとしてインターネットが広範に普及してきた。インターネットは対人コミュニケーションの代替手段としての可能性があり、その性格もまだ発展途上であるため定義が難しいが、双方向コミュニケーションを可能とし、私的かつ公的な利用がなされること、地域に関係なく個人が利用できる等の特徴を持つ。
6 ジャーナリズムの特徴
[ジャーナリズムとは]
ジャーナリズムとマス・コミュニケーションは多少意味合いが異なっている。マス・コミュニケーション活動のうち、全てがジャーナリズムとは言い切ることができない。ジャーナリズムも大量にコピーしたものを不特定多数の人々に伝える点ではマス・コミュニケーションの行為ではあるが、その内容が今日的なもの、時事的なものである。ジャーナリズムはラテン語のディウルヌス(diurnus)という言葉から来ており、「1日の」という意味を持つ。これが「毎日付けられる記録」という意味のジャーナルに転じ、18世紀頃からは日刊新聞という意味になり、その活動全体をジャーナリズムと呼ぶようになった。
[ジャーナリストの使命]
ジャーナリストの仕事は大きく取材と記事作成の2つに分けられる。この両方に秀でているジャーナリストは意外に少なく、大抵は、片方は苦手というケースが多い。記者は、人に会うことが仕事の主な領域を占める。知事にも会わなければならないし、殺人事件の容疑者にも会わなければならない。人に会い、その人から話を引き出すのが仕事で、自分で議論を始めてはならず、聞き手になることが必要である。普段から色々な人々とつながりを持ち、情報のアンテナを張らなければならない。また、ジャーナリストは正義感が強くなければならない。複雑な社会を解きほぐすには、綿密な調査や冷静な分析能力が必要となる。
[ジャーナリズムと受け手]
ジャーナリズムの議論においては、受け手が抜け落ちることがある。しかし、ジャーナリズムのレベルを高めるためには、受け手の自覚や参画が必要である。今日の情報化社会において、受け手は情報に対して主体的かつ批判的な姿勢を持つ必要がある。1つの事実であっても、他の新聞、ラジオ、テレビ、雑誌などを通して多角的に見て、報道内容を比較することが見えてくることがある。出来れば、実際に報道されていることを自分の目で確かめることである。報道されたことと自分で確かめたことの間には多少の差が生じる。送り手によってアプローチが異なることを知ることは受け手としての主体性を確立することに役立つ。
7 政治ジャーナリズムとマスコミ
[テレビ政治]
1990年以降、テレビの討論番組で政治が動くというように指摘されるほど、テレビは政治に対して強大な力を有していた(蒲島他, 2007)。それは1990年代においては、日曜日の朝から、フジテレビの「報道2001」、NHKの「日曜討論」、テレビ朝日の「サンデープロジェクト」と政治家がゲストとして呼ばれる討論番組が連続した時間帯に放送され、政治家が政治的コミットメントを示さなければならない状況に問い詰められていたからである。
[政治家のテレビ発言]
1998年7月5日、橋本龍太郎首相はテレビ朝日の「サンデープロジェクト」に出演した。7月3日の熊本市で記者会見の内容が「首相は所得課税の恒久減税実施を検討する方針を表明した」と報じられたことに対して、橋本首相は「私は恒久減税とは一言も言っていない。恒久的な税制改革になるでしょうと申し上げた」とし、恒久減税はマスコミの解釈であったと釈明した 。司会者田原が具体的な見直し策を求めても、「分からない。中立になるかもしれない」とはぐらかす場面も見られた。さらに田原が「下げるか下げないか、はっきりすべきだ」と迫ると、「そういう言い方が税制の議論をおかしくしてしまう」と回答し、明言を避けた。この橋本首相のテレビ出演時のコメントは新聞各紙で取り上げられ(1998年7月6日朝日新聞、1998年7月6日毎日新聞、1998年7月8日読売新聞)、首相が迷走しているイメージが作り出されたといえる。そうして有権者の支持率が低下し、参議院選挙において議席数を減らしたといえる。
[映像情報のインパクト]
テレビ向け話法は国会での議論とは異なり、一般の視聴者を説得できるものでなければならない。難解な言葉やあいまいな発言を捉えて、分かりやすく伝えるのはキャスターの任務である。新聞では与野党決着と書くところを、話し言葉で解きほぐしていくうちに、相互の矛盾点を明らかにする。テレビでは映像が加わるため、話し手の表情から服の色まで、様々な映像情報がトータルとして伝わり、個々人の視聴者がそれをもとに価値判断を下す。
8 情報社会とマスコミ
[情報の意味]
情報を「その時々の直面した状況において、個人が対応するために必要な知識」と規定しておく。それは情報の高度な発達による情報の価値の高まり、それが大多数の人々に強い影響を及ぼしている社会構造に関連しているためである。つまり、複雑な社会状況で人々が的確な判断を行うには、情報が重要であることは当然のことであり、情報そのものは知識を活かすことにも繋がっているからである。
[情報化のステップ]
社会の情報化、その先にある情報社会の成立には、近代化とともに急速に高まってきた情報化のステップにみることができる。そのステップには1郵便、2電信・電話、3マス・コミュニケーション、4コンピュータという一連の流れがある。いまや、ニューメディアの拡大は、コンピュータを使用する人々の増加と、急用や緊急事態、災害用からビジネスや研究、趣味、余暇に関わる広い領域で応用され、かなりの効果をあげている。その反面、こうしたメディアの普及にみられるのは都合の良さであり、人間関係が嫌いな人や人間関係を不得意とする人たちにとっては実に便利な道具として利用範囲を広げることとなった。そこから情報社会の逆機能が指摘されている。
[情報社会の逆機能]
コミュニケーション・メディアを媒体として、送り手と受け手の相互に匿名性のもつ人々の集まりが登場した。その結果、不特定多数の人々の間で、情報だけが社会に浸透することとなった。その情報の発信者の責任は曖昧なものとなっている。匿名性の増大は、個人や集団、組織を攻撃する情報、違法な内容の情報が頻繁にネット上をかけめぐり、考えつかない犯罪を促進させた。これに対して、コミュニケーション・メディアの一部規制までかけようという動きもある。高度な機能を持つ媒体も、情報社会の逆機能によって新たな社会病理現象を生み出してしまった。
9 流言とマスコミ
[流言]
コミュニケーション・ネットワークがもたらした情報環境のなかでも、パーソナルな部分を強調しているのが、くちコミュニケーションというスタイルである。流言は人から聞いて他人に話すという伝達・拡散の形式を持つコミュニケーション過程である。流言はつねに、事実無根、正体不明・出所不詳のニュースでありながら、鮮明なイメージを持ち人々の間を走るように拡散する情報の流れである。流言は、情報の氾濫的拡散現象であり、誤報からデマに発展することもありうる。災害時の流言やデマによって、深刻なパニックが起こることもある。
[流言の分類]
Allport and Postman(1947)は流言を4つに分類している。1憎しみと反感を反映している「分裂・不満流言」、2軍隊関連の残虐行為、敵の秘密行動、スパイ活動を示す「恐怖流言」、3戦争勝利など朗報を聞いて気が緩む「願望流言」、4将来に対する不安の危険や脅威として「不安流言」に分けられる。また聞き伝えによって、どのような歪みが生じるかについては、平均化、強調、同化といった特徴が現れることが指摘されている。話の内容は伝達されていくうちに短くなり、最後は要約され、平易となる。また、ある要素だけが選び出されて強調される。それは大きなものや目立つもの、時事的なトピックが多い。そして伝達者のもっている知的、感情的な条件の影響に同化される。
[流言発生の条件]
流言発生には、社会的条件と心理的条件が存在するとされている。社会的条件として、1社会的危機状況があること、2マス・メディアの報道不足、3意見発表の制限、4人的ネットワークの存在が指摘されている。また、心理的条件として1大多数の人々が持つ一般的な物理的・精神的な欲求不満、2大多数の人々が持つ一般的な不安、3大多数の人々が持つ現実の恐怖が指摘されている。これに対して早川(2002)は災害や社会変動期に流言が生じることもあるが、「非日常的な状況で生じるものだという認識は現実に妥当しない」ことを指摘している。
10 世論とマスコミ
[世論とは]
世論とは、多数の人々がある問題に関して共通して抱いている集団的意見である。これを人々の表明する意見の集合体と捉えても良いが、必ずしも個々人の意見を単に算術的に加算して得られるものではない。むしろ、人々の間の相互作用を通じて新に形成される社会的現象であると考える方が適している。それでは、世論はどのように形成されるのか。大きな流れとして考えると、世論の形成は、ある争点が判断・討論というメカニズムを通じて、まずは個人の次元における意見として成立し、それが個人から集団の次元へ、集団から社会の次元へ移り、次第に明確な形を整え、強力なものとして結晶化していく過程をたどると考えられる。この過程は、再び集団の意見が個人の次元に、社会の意見が集団の次元にフィードバックされ、そこで再び判断・討論され、補強・修正がされていく。
[世論とマス・コミュニケーション]
マスコミは争点に関する情報を人々に伝え、世論を指導してその形成に関与すると同時に、形成された世論を世論調査によって把握し、報道する。そのことによってさらに世論を強化していく役割をマスコミは担っている。世論形成においてマスコミの果たす役割は大きい。このマスコミの影響力の大きさを利用しようとし、世論を操作しようとする試みが現になされている。例えば、政党は、選挙のときに知名度の高いタレント候補を擁立することや政治家がテレビ出演する。それによって世論を自らの都合の良い方向に操作・誘導しようとする。
[民主政治と宣伝]
民主主義的政治権力は宣伝を行い、多くの人々の態度や行動に影響を及ぼそうとする。例えば、アメリカは第一世界大戦のときに広報委員会を、第二次世界大戦のときに戦時情報局を設置したように、戦時においては自国民の士気を高めるとともに、敵陣営の繊維を喪失させるために宣伝活動が強化される。同様に平時においても、対外宣伝はいずれの国でも進められている。自国の正しい姿を他国民に紹介したり、放送対象地域の人々が普段接しないような情報を提供したりする役割を担っている。また、国内向けにも政府の宣伝活動は行われている。政府が国民に対して情報を提供する一方、国民からも意見をくみ上げ、政治に反映させる双方向の行政広報活動が展開されている。
11 新聞
[新聞の存在]
インターネットをはじめとする情報伝達の環境が大きく変貌する中で、新聞が担うべき責務、役割や機能はどこにあるのか。新聞は紙の媒体として存在を続けられるのか。現実に受け手側に、新聞を読まなくてもネットのニュースで十分との意識が広まっている。日本新聞協会は2006年の新聞大会で「新聞は、活字文化の担い手として、きめ細かな取材と分析、冷静で責任ある報道により、人々に確かな指針と展望を示さなければならない」との決議を採択した。
現代の新聞は、読者数についてはほぼ飽和状態にあり、固定されたパイを奪い合う過当競争を強いられ、一方で若者を中心とした新聞離れに悩まされている。
[新聞の価値]
新聞の価値の一つは、独自の取材力で隠された事実を発掘し報道することによって、国民が必要とする情報を的確に伝える役割である。東京佐川急便事件(1992年)では、金丸信自民党副総裁が5億円を受領していた事実を明るみに出した朝日新聞の報道は、日本政治に大きな変革をもたらしたといえる。
新聞の価値の二つ目は、情報過多といわれる今日の社会で、時代の流れを的確につかみ読者に提供する解説力である。一覧性の強みを持つ新聞は、社会が複雑化・国際化するにつれ、必要性を増すといえる。速報性ではインターネットやテレビに一歩譲るとしても、新聞が生きていくうえで、見出しの大小などで読者に分かりやすく提示する機能は重要である。
[新聞の将来像]
朝日新聞は2004年、ホームページを通じて会員に様々なサービスを提供する「アスパラクラブ(朝日新聞デジタルへ統合)」をスタートさせた。毎日新聞では「まいまいクラブ」、読売新聞では「ヨリモ(サービス終了)」を2005年、2006年に開始している。毎日新聞の「まいまいクラブ」を除いて現在はサービスの形態を変えているが、これはインターネットを通じての読者の囲い込みであると考えられる。こうした動きは、紙媒体での新聞を前提としつつ、インターネット社会を意識した戦略といえる。新聞は絶えず技術革新により形態を変更し、ネット社会との共存を意識されているといえる。
12 放送
[NHKと民放]
放送事業の経営形態は、三つのタイプに分けられる。第一は、国家が自らその経営主体となる国営放送、第二は公共的性格を有する企業体によって経営される公営放送、第三は民間の私人、団体、私企業などが営利的な目的で経営を行う民営放送の三つである。日本ではNHKの前身として1925年にラジオの全国普及を目指すために社団法人に本放送協会が設立された。1950年の戦後、特殊法人日本放送協会に改組され、1953年よりNHKよりテレビ放送がされることとなった。民放は、放送法と電波法の制定後、1951年に16社に予備免許が出され、民放ラジオが開始された。1953年8月には日本テレビ放送網(NTV)がテレビ放送を開始した。
[民放]
放送法の条文の大部分はNHKに関する規定であり、民放についてはあまり多くのことを規定していない。それは放送法制定時、民放がどのような形態をとり、どのように活動すべきかについて明確な構想がなかったためである。また、NHKが放送法案の審議過程において、公共放送の犠牲において商業放送を実現させようという企てや、公共放送分割論に反対し、否定的な見解を打ち出したことにもよる。民放は、主として広告放送の収入によってまかなわれる私企業で、ほとんどが株式会社の形態をとっている。NHKが放送法によって全国放送が規定されているのに対して、民放は行政方針として県圏出力を原則とする施設免許によってローカル放送が実施されている。
[衛星放送とケーブルテレビ]
衛星放送は各家庭で衛星受信用のパラボラアンテナを設置することで直接に衛星から送られてくる映像や音声、データを受け取り多様な番組を楽しむことができる。また、ケーブルテレビは有線のサービスであることから、地上波や衛星の無線放送サービスとは趣を異にする。日本初の実用放送衛星として「ゆり2号a」が1984年に打ち上げられ、これを使ってNHK衛星放送が始まった。また1991年「ゆり3号b」が打ち上げられ、日本最初のペイ・テレビとしてJSBがWOWOWの放送が開始された。ケーブルテレビは元々山間地の難視聴地域の解消を目的とした共同アンテナによる共同受信施設、有線によるテレビ放送の再送信施設であった。ケーブルテレビは共同アンテナと各家庭のテレビ受像機とを結ぶケーブルの空きチャンネルを利用して自主番組も送出できることから、大きな注目を集めた。
13 出版
[出版産業か出版業か]
出版業界は、出版社、取次、書店の三者から成り立っており、出版が何を指すかは明確ではない。出版物としては、雑誌、コミックス、文芸書、専門書、教科書、辞典、受験産業にまで広がっている。出版産業と捉えると、いかに利潤を上げるか、売れるものをいかにつくるかという経営的側面が前面に出てくる。出版業と捉えると、文化を広げ時代をつくっていく志であると考えられる。
[出版界]
30年を振り返ったとしても、出版界は絶えず危機を抱えてきた。73年「用紙不足になり、未曾有の危機を迎える」、92年「バブル崩壊で休刊続出、出版社の大型倒産も話題に」、05年「再びマイナス成長、書籍、雑誌ともに前年割れ」といったことが挙げられる。それにも関わらず出版界はジャンルの広さと独自の構造により成長してきた。1956年より『週刊新潮』が創刊され、テレビ時代に対応した雑誌による出版界の高度成長が始まった。1973年より雑誌が多様化し、細分化されてきた。しかし、女性誌を中心に創刊は続いているが、例外を除いて成功しているとはいえない。
[出版とは何か]
出版の特徴としては、1多品種少量生産、2委託販売、3再販制度が挙げられる。本来、この特徴を活かして、文化の伝達を行うことを役割とするべきであったが、現実は質より量、書籍より雑誌による利益優先がなされている。著作物の再販制度は、1953年に独占禁止法が改正されたことより始まり、今日まで見直しの検討が幾度となく行われてきた。2001年に公取委は「再販制度は当面存置が妥当」と決断を下してから、現在に至っている。2001年、出版業界に対しポイントサービス導入や時限再販対象品目の拡大を求める意見が相次ぐも、日本書店商業組合連合会はこれを拒否した。しかし、2004年、日書連はそれまでの姿勢を転換してポイントサービスの受け入れを表明した。アメリカ・イギリスでは自由競争であるが、フランス、イタリア、ドイツなど10カ国は何らかの形で再販制度を実施している。
14 インターネット
[CMC]
Computer mediated communicationは、コンピュータを媒介とするコミュニケーションである。CMCの特徴は物理的に離れた参加者同士の相互作用性、様々な個人情報を秘匿し、匿名でコミュニケーションが行える。コミュニケーションにとって障害となる社会的境界や物理的境界をCMCによって克服することができる。ただし、CMCによって多くの不必要な情報と接することになる。コンピュータを媒介とすることで、個人的行為としての経験が減退する。また、サイバー空間のコミュニティは幻想かもしれず、様々な形態で監視される可能性もある。
[ヴァーチャルコミュニティ]
ヴァーチャルコミュニティはインターネットを活用して誰でも形成できるコミュニティである。一つの定義として「類似した関心を共有する人々が、意図的に築いたコミュニティである」とされる。ただし、そうした関心がCMCとは異なるメディアで生じることもあり、ドラマの登場人物が用いた言葉や言い回しがその中心となることもあると指摘される。インターネット上のコミュニティは人々にとって重要ではないケースが多々あること、経験による成員間の結合が目的を持たず偶発的である事実が存在することが指摘されている。また、CMCによって形成された集団には透明性と信頼性が欠如しているため、コミュニティの意味が壊されてしまったと批判されることもある。一般のコミュニティで必要な責任や義務が、ヴァーチャルコミュニティでは必要とは限らないためである。
[民主政治とインターネット]
インターネットが政治に対して、プラスの影響を与えるか、マイナスの影響を与えるかについては様々な議論がなされている。プラスの影響としては、1インターネットの双方向性、2垂直的コミュニケーションと水平的コミュニケーションの共存、3媒介組織の役割の減退、4情報の発信、受信コストの低下、5情報伝達の早さ、6様々な境界を越えることが挙げられている。それに対して、1情報の供給過剰によって有効利用されていないこと、2真摯な討議を妨げる雑音とも言える意見が存在すること、3少数の偏った意見の人々による利用などが利用者と非利用者間の格差を生むことが指摘されている。
15 その他のメディア
[映画]
映画産業は比較的古い歴史を持つ。もともと映画は、その日の仕事の疲れを癒し、翌日の勤労への活力を与えるのみならず、人々の文化生活を豊かにし、社会的・教育的影響をも与えるものと考えられてきた。しかし、テレビの登場・普及によって、それまで娯楽の王座を占めてきた映画は甚大な影響を被ることとなった。映画産業は、製作、配給、興行の三部門に分かれている他、フィルム工業・映画機械工業など多くの関連産業を抱えている。映画館への入場者数は1958年の11億2700万人をピークに落ち始め、1981年には1億4945万人にまで落ち込んだ。2000年以降は1億6000−7000万人台と1970年代後半水準にまで持ち直している。
[広告]
広告産業それ自体はメディア媒体を有していないため、メディア産業とはいえない。しかし、広告主の委託により、広告計画の立案、制作、実施などの語有無を代行する広告代理行は、広告の作り手として、またメディア産業の収入役としてマスコミ産業の座席を要求する資格を持っているといえる。広告産業、広告代理店はもともと単なるスペース・ブローカーに過ぎなかったが、広告主と広告媒体の間にあって、双方の各種サービスを提供し、そのサービスに対する報酬を手数料として、広告費の一部を受け取ることによって成り立ってきた。広告代理店は、単なる代理業に留まらず、マーケティングやプランニング、広告制作やプロモーション・イベントの企画・実行、コンサルティングやライセンスライツ管理、人材派遣までその業種の広がりを見せている。
[音楽]
音楽の録音と再生は1880年頃に始まり、瞬く間に広まった。その背景には、ポピュラーソングとポピュラー音楽が広範な魅力を備えていたことがあった。マス・メディアが提供する音楽と、聴衆が個人的に楽しむ音楽との差はほとんどなくなった。第二次世界大戦後、トランジスタ革命によって、ラジオは家庭から個人のメディアに変わった。この変化は、若者という市場を開拓し、テープレコーダー、ウォークマン、CDといった発展が見られた。
16 マス・メディアの構造と活動の成果
[マス・メディアの構造]
マス・メディアの構造はシステムに関連する事象をすべて指し、それには組織形態、財政、所有、規制形態、インフラ、情報伝達施設が含まれる。活動は組織レベルでの行動様式を指し、それには情報の選択や生産の方法、編集上の決定、市場での方針、既存の他の機関との関係、責任を有する情報生産者が含まれる。活動の成果は情報を意味する。すなわち、いかなる情報が実際にオーディエンスに伝達されるかが問題となる。
[マス・メディアの報道の客観性]
客観報道に関するオーディエンスの理解は概して高い。客観報道によって情報に対する人々の信頼度は増加する。メディア自信、客観性によって自ら報じるニュースの市場価値を高め、市場が拡大してきたことを知っている。客観性の基準が広く社会に広まった結果、報道の偏向や不平等な扱いに対する異議申し立て、調停を求める声が生じるようになった。客観性は事実に加えて価値の問題も扱う必要があり、事実には価値が含まれている(Westerstahl 1983)。しかし、客観性そのものが不明確であるという問題が指摘されている。客観性に関しては、必要性、倫理的側面、達成可能性に関して共通の見解は存在していない。「我々が世界を理解しようとする場合、客観性の可能性と重要性を放棄すれば、その作業を進めることは不可能になる(Lichtenberg 1991)」という主張には説得力がある。
[社会秩序]
マス・メディアと秩序に関する考え方は、誰の秩序か、そしていかなる種類の秩序かという点に依存する。社会秩序と文化秩序といった大まかな区分は、上からの視点か、下からの視点かによって分類される。
   表.秩序の分類
         上から     下から
   社会秩序   統制・服従   連帯・愛着
   文化秩序   順応・階層化  自律・アイデンティティ
17 メディアの経済と統治
[メディアの経済]
マス・メディアが有する社会文化的な意味を理解するためには、広く働く政治的かつ経済的な力を描写することが不可欠である。そうした力はメディア精度を形成する際に作用する。マス・メディアの活動は財とサービスの生産と関わる。これらの生産活動の多くは、私的な領域と公的な領域の双方にまたがっている。メディアの生産物やサービスは消費者市場と広告市場に分けられる。広告市場では、広告主にサービスが販売される。消費者市場は、書籍、テープ、ビデオ、新聞のように消費者に直接販売される一回限りの市場と、ケーブルテレビ、オンラインメディアのように継続的に提供されるサービスに分けられる。
[メディアのコスト]
メディア経済を左右するコストは、生産に要する固定費と変動費に不均衡が生じている。固定費とは、土地、物的設備、施設、流通ネットワークであり、変動費とは材料、ソフトウェア、労働者を指す。変動費の割合が高いと、市場変化に対して脆弱なビジネスとなる。伝統的なマス・メディアは通常は変動費の方が高いため、販売収入や広告収入によって多額の資本投資を埋め合わせる必要がある。「最初のコピー」のコストが非常に高くつくのが、通常のメディアの生産物に備わる特徴である。日刊新聞や映画の場合、最初の版が膨大なコストとなり、それ以降のコピーのコストは大幅に下がる。こうした理由から新聞などの伝統的メディアは消費者の需要や広告収入の変動の影響を強く受け、規模の経済が重視される。
[所有と支配]
メディア構造を理解するため、メディアの所有とそれに伴う権力がどのように行使されるかをみる。「メディアの内容は、メディアに資金を提供する者の利害を常に反映する」というジャーナリズムの法則がある。メディア所有の主要な形態は営利企業、民間の非営利団体、公共機関である。公共機関が有するメディにしても経済の論理は無視できない。また、民間メディアの大部分も資本主義体制の中で既得権益を有しており、その大部分が明確に保守勢力、保守政党を支持する傾向が強い事実もある。
18 グローバルなマス・コミュニケーション
[グローバリゼーション]
コミュニケーション革命を特徴付けるのはメディアの集中化という新たな現象である。それは国家を越え、様々なメディアで生じている。この現象は少数の人々による巨大なメディア企業の支配を導いてきた。ニュース、人気映画、ポピュラー音楽、シリーズ化されたドラマ、書籍などのコンテンツはメディア所有のグローバリゼーションと生産・流通の支配に寄与している。これらのメディアコンテンツは容易に国際市場向けに計画され、長期的には市場や流通面でかなり柔軟に対応される。ニュースは主要な国際通信社を介して、商品化された最初の生産物である。国内のニュース・メディアにとって自ら海外ニュースを収集するよりも、国際通信社から仕入れる方がはるかに便利で経済的である。
[グローバルなマス・メディア]
新聞や書籍の海外販売、衛星テレビのチャンネル、公的機関が支援する国際ラジオ放送などは、他国のオーディエンスを対象にしたある国のメディアによる直接の配信、出版物の直接の供給である。また、国内メディアコンテンツを補完するために輸入される多様なコンテンツが存在する。グローバルなマス・コミュニケーションは多様な形態をとっている。特にアメリカのコンテンツの制作量は輸入量を圧倒している。アメリカのコンテンツの多くは国際市場を志向していることから、アメリカのメディア文化も間接的にグローバル化されている。しかし、グローバリゼーションに対して、言語や文化といった自然の障壁が存在することが指摘されている(Biltereyst 1992)。
[国際的ニュースの流れ]
初期の海外ニュースはもっぱら政治、戦争、外交、貿易に集中していたが、その範囲は拡大し、特にスポーツが数多く取り上げられるようになってきた。また芸能、金融、観光、有名人のゴシップ、ファッションのニュースも流されるようになった。国際ニュースの選択作業では、強い偏向が今なお存在している。その理由はニュースの流れ、各ニュース・メディアのゲート・キーピングによって偏向は生じる。通信社は自国のオーディエンスが何に興味を持つかといった観点から国外でニュースを収集する。その結果、ドラマ性がなく、ニュース受信国と直接関係がない遠方のニュースのほとんどは削除される。
19 マス・メディア組織
[マス・メディア組織の階層]
マス・メディア組織を考える場合、マス・メディア組織を自律的でなく、他の政治的・経済的権力を保持する組織に強く影響を受けることを前提として考えなければならない。マス・メディアとメディアを取り巻く外との関係は、異なるレベルの階層性を持つと考えられている(Dimmick and Coit 1982)。それは、国家を超えた国際レベル、社会レベル、メディア産業レベル、マス・メディア組織レベル、個人レベルというように順序付けられる。このマス・コミュニケーションの送り手とそれを取り巻く環境の関係は、独立しているというよりも、相互作用的で交渉可能と考えられる。
[マス・メディア組織]
マス・メディアに圧力を与える外部者として、1競合相手、広告主、所有者、労働組合、2法的・政治的統制、圧力団体、他の社会機構、3オーディエンスの利害・要求、4出来事および継続的な情報、文化の供給が指摘される。またマス・メディア組織内には管理職、技術職、専門職という3つの職業文化がある。このマス・メディア組織の捉え方を踏まえて、マス・メディア組織が、社会、圧力団体、所有者、オーディエンス、組織内とどのように関係しているかをみることで、マス・メディアが受けている影響を理解できる。
[マス・メディア組織内部の目標の多様性]
マス・メディア組織には多様な目標が存在する。それは、マス・メディアの活動に対する圧力を理解し、スタッフが採用する仕事の選択肢を見極める際に重要である。新聞・放送をハイブリッド組織と捉える。ハイブリッドとは、製造業・サービス業次元と、生産技術とその利用の多様性の次元のどこにも明確に位置づけられないという意味である。新聞社・放送は製品を作ると同時にサービスも提供する。また、単純なものから複雑なものまで多様な生産技術を利用する。明確な位置づけができないことに加え、マス・メディア組織には異なる労働文化が存在し、異なる目標や職務によって正当化されている。
20 マス・メディア文化の生産
[文化の生産と選択]
ここでは、人々の出来事を理解可能な情報へと効率的に変換するシステム、アイデアを馴染みのある文化的パッケージへと変換するシステムを扱う。つまり、メディア活動において行われる生の素材の選択から完成品の提供に至る一連の過程で下される選択を指す。ある特定のニュースがニュース・メディアの複数のゲートを通過してニュース・チャンネルに到達できるか否かを説明する際にゲート・キーピングという考え方で説明される。
[ニュースバリュー]
ニュースバリューとは、オーディエンスにとって興味深いストーリーへと変換される出来事の特性を指す。ニュースバリューは相対的に判断されるため、今ある出来事が人々の関心を引いていたとしても、より関心が持たれる出来事によってその座を奪われることがある。ニュース制作に作用する主要な要因は、組織的要因、ジャンルに関する要因、社会文化的要因であるとされる(Gultung and Ruge 1965)。組織的要因は何らかのイデオロギー的な影響を及ぼす。ジャンルに関する要因は、オーディエンスの期待に適合する出来事である。また社会文化的要因は価値観に由来し、人間に焦点が当てられる。
[時間と選択]
時間はニュースの選択に大きな影響を及ぼしている。時間軸は予定されたもの、想定外のもの、予定と無関係なものの3つに分けられ、それに応じてニュースはハードニュース、ソフトニュース、スポットニュース、展開中・継続中のニュースに分類される。予定されたニュースは事前に知らされているため、計画的な報道ができる。想定外のニュースは出来事が予想外に生じ直ちに報道する必要があるニュースである。予定と無関係なニュースは時間に束縛されない、保存可能なもので、大部分がソフトニュースとなっている。
21 マス・メディアの内容
[内容を研究する理由]
マス・メディア内容を研究する理由は、マス・コミュニケーション効果の可能性に関する関心、もしくはオーディエンスの興味をひく内容について知りたいという動機から来ている。1ある特定のメディアやチャンネルの内容の特徴を明確にするため、メディアの生産物を説明し、比較する。2内容が社会的現実を反映しているのか、反映しているならば、それはどの現実なのか、誰の現実なのかというメディアと社会的現実を比較する。3ある特定の時代と場所、社会集団の価値や信念に関する資料としてメディア内容を明らかにする。4メディア影響力という観点から、メディアの内容を解釈する。メディア内容だけでは効果研究を行うことはできないが、メディア内容を参照することは効果研究に役立つ。
[内容分析]
内容分析は最も古く、伝統的で分析の中心に位置しており、今なお広く実践されている。内容分析では、内容全般あるいは内容のサンプルを選択し、調査目的にとって有用な指示対象のカテゴリーに関するフレームを設定する。指示対象に関する各項目の出現回数を数えることで行われ、出現頻度によって内容全般ないしは選択した内容のサンプルの全体的な傾向を明らかにする。ただし、内容分析にも限界や落とし穴がある。その一つとして、カテゴリーに関するフレームを設定する際、あらゆるカテゴリーは選択的とならざるを得ず、内容の意味体系を発見するというよりも、あるカテゴリーを押し付けるリスクがある。
[量的分析と質的分析]
量的に明らかにする内容分析と解釈的アプローチの間にはいくつかの違いがある。1構造主義と記号論には量的な問題は含まれない。意味の問題に解答する際に、計算を用いることは反発される。意味は単に数やバランスの問題ではなく、テクスト上の関係、対立、コンテクストから導かれるためである。2明示的な内容よりも黙示的な内容の方に注意が向けられ、黙示的な意味の方が重要であるとみなされる。3質的な構造主義は内容分析とは異なる方法で体系化されており、サンプリングの手順は重視せず、内容の全ての単位を平等に扱うべきという考えを否定する。
22 メディアのジャンルとテクスト
[ジャンルの類型]
ジャンル分析は、内容を明確に区別するカテゴリーだけに適用できると考えられてきた。しかし、それを超えるメタ分析が試みられた。それは、テレビ番組を感情の程度と客観性の程度の2つの次元によって分類する試みである(Berger 1992)。
             客観性の程度が高い  客観性の程度が低い
   感情の程度が強い   競技        ドラマ
   感情の程度が弱い   時事性       説得
競技は、実際に行われる競争であり、スポーツ番組、クイズなどが含まれ、感情を高める番組である。時事性にはニュース、ドキュメンタリー番組が含まれ、客観性の程度は高いが、感情的ではない。ドラマはほとんどがフィクションであり、客観性の程度は低い。説得は説得を行う送り手の意図が反映され、広告、販売促進、宣伝が含まれ、感情・客観性はどちらも低い。
[テクスト]
テクストという用語は2つの意味で用いられてきた。一つは、一般に物理的なメッセージそれ自体を指す。もう一つは、テクストを内容と読み手が出会った結果生じた意味と捉える。例えばテレビ番組がテクストになるのは、それが読まれたときである。テクストと多くのオーディエンスのうち一人との相互作用によって、テクストは幾つかの意味や快楽の活性化を与えうる。フィスクは「番組は業界によって、テクストは読み手によって生産される(Fiske 1987)」と述べた。つまり、マス・コミュニケーションの生産は、送り手とオーディエンスの両者の活動によって生まれることが指摘された。
[開かれたテクストと閉ざされたテクスト]
メディア内容の意味はある程度開かれている、あるいは閉ざされていると考えられる。開かれたテクストとは、テクストの言説が読者をある特定の意味や解釈に拘束しようとしないものである。例えば、連続者のドラマはその意図が明確に表現されることはなく、意図自体が多様な読み手に委ねられる。テクストが開かれる程度は一つのジャンルの中でもかなり多様である。テロリズムに関するテレビの描写に関する議論の中では、開かれた描写が代替的な見解を導く傾向がある一方で、閉ざされた描写が支配的あるいは合意された見解を強化する傾向を持つことが指摘されている(Schlesinger et al 1983)。
23 オーディエンスに関する理論と調査の伝統
[オーディエンスの概念]
オーディエンスという言葉は、マス・コミュニケーション過程の単純な継起的モデルの中では、受け手を総称する用語として広く定着している。オーディエンス自体は何を指示するものか不明瞭であり、曖昧なまま用いられることがある。オーディエンスは多様で、重複する方法で定義づけされる。すなわち、場所、人的な構成、メディアやチャンネルのタイプ、メッセージ内容、時間によってオーディエンスは定義される。
[オーディエンス調査の目的]
オーディエンス調査の目的は多様であり、しばしば一貫性を欠いている。オーディエンスとは一般に形が定まらず、変化し続け、理解しがたい存在である。しかし、オーディエンス調査は、そうした存在を構成し、位置づけ、明確にするのに役立つ。目的として1売り上げや視聴率のために実際の情報到達率を測定する、2新たなオーディエンス市場を探す、3メディアの生産物の検証と有効性の向上を目的とする、4オーディエンスにたいしてサービス提供を行う、5オーディエンスが行う意味解釈を明確にする、6メディア利用のコンテクストの究明等が挙げられる。
[オーディエンスの能動性と選択性]
テレビは大人と同様、子供の受動性を増加させると考えられたことから、オーディエンスの能動性と選択性が重要な関心事となった。オーディエンスはどの程度能動的で、選択的に活動しているのか、5つの類型が提示されている(Biocca 1988)。1メディアとその内容に関連して選択が行われる程度が高い場合、オーディエンスは能動的であるとされる。2オーディエンスは自己の利害関心に基づく消費者の権化であり、何らかの形のニーズがある。3能動的なオーディエンスは、様々な形でメディアへ加入するなど志向性を持つ。4自分が避けたい影響や学習に対してオーディエンスは自ら境界線を設ける。5テレビに対する視聴者参加という形態で、オーディエンスは進行中のメディアに熱中し、没頭するようになると、関与する機会が増加する。
24 オーディエンスの編成と視聴経験
[メディア利用の構造]
オーディエンスのメディア利用を説明するためのモデルとして構造モデルが提示されている(McQuail 1997)。構造モデルによると、社会状況とマス・メディア構造という二つの要因が結びつき、規則的な行動のパターンだけでなく、メディア志向性と呼ばれる持続的な特徴、傾向、姿勢が導かれる。社会状況は、ある個人を位置づける固定化されたものであり、人々はその社会状況の中でニーズを持つ。マス・メディア構造は、ある特定の場所、所与の経済環境、教育環境におけるメディアの利用可能性によって構成される。このモデルはメディア構造と個々のオーディエンスの社会的な立場を結び付けているところが優れている。メディア構造は社会における所与の事実、経済的・文化的条件を反映し、オーディエンスの要求にも対応する。オーディエンスの要求は社会的背景という要因によって決定されるもの、偶発的に生じるものもある。
[メディア利用と満足]
メディア利用は、オーディエンスが知覚する満足、ニーズ、願望、動機に左右されるとする見方がある。この見解は、社会的かつ心理的な要因からニーズが生まれると考えられる。典型的には情報、息抜き、気晴らし、逃避といったニーズである。これに応じて、メディアが提供する利益に関する知覚と、個々のオーディエンスがその利用に対して行う価値付けの組み合わせによってメディア利用が説明される期待価値モデルが提示された(Palmgreen and Rayburn 1985)。このモデルでは、メディア利用はメディアから得られることが期待される充足から説明される。そしてメディアを利用して得られた満足が期待よりも高い場合、オーディエンスは高い充足を得て、評価や注目度を高める。
[オーディエンスの断片化]
一定数のオーディエンスが多様な情報源に一層注意を向けることになることで、その分散化が進むことを断片化という。最終的にはほぼ全ての選択が個人単位で行われ、その結果、社会的集合体としてのオーディエンスは終焉する。ドイツの家庭データでは、典型的な家族視聴が減少している。テレビ視聴は圧倒的に一人ないしは二人で行われている。また、子供や若年層では、頻繁で短い時間のテレビ視聴形態が一般化している。そして多くの視聴者はチャンネル数が増加したにもかかわらず、最後に行き着くホームベースとなるチャンネルを持っている。オーディエンスは限られたチャンネルしか選択肢がなく、全てのオーディエンスにメディア経験が広く共有されていた一元モデルから、多様化が進んだ多元モデルに変化し、オーディエンスの断片化が進んだ解体モデルに変化しつつある。
25 メディア・リテラシー
[メディアリテラシーとは]
メディアリテラシーとは、メディアの提供する情報を正しく読み解き、メディアを使いこなす能力を指す。メディアの構造、特徴、情報送出の仕組みから、その社会的機能や責任、その内包する問題を人々がどれだけ知っているかを含む。市民の側もメディアが権力の圧迫や広告主からの圧力などに直面し、メディア組織内部でいかなる闘いを強いられているか、またメディア倫理と限界や制作過程や番組・紙面の特徴を知らなければ、市民・国民は主権者である社会の建設は簡単ではないことをも意味する。
[メディア検証・批判の困難さ]
メディアの報道内容を検証することは容易ではない。メディアに対して細部にわたる確認を求めると取材源の秘匿を理由にして、ほとんど情報は開示されない。官僚や政治家、企業など取材された側は、メディアとの中長期的な関係を考慮してメディア批判を公には避け、慎重に行動する。取材される側とメディア側の濃密な関係がメディアに対する建設的な批判を抑制してきたことが、メディア側にとって有利に働いてきたといえる。
[メディアリテラシー向上のために]
批判的志向は情報の誤りや矛盾に気づき、合理的に意思決定をし、かつその正しさや自己の推論過程を意識的に吟味しようとする思考のことをいう。この批判的思考には二つの側面があり、一つは認知的な側面である知識やスキルであり、もう一つは情意的側面である態度や傾向性とされている(Ennis 1987)。知識やスキルといった認知能力は長い年月をかけて訓練することによって向上する。他方で、思考・態度は意図レベルの問題であり、教示の仕方によって変容可能なものである。メディアリテラシーを高めるためには、自己のイデオロギーや政策位置を明確に自覚したうえで、批判的にメディアの内容を吟味することになる。
26 プロパガンダ
[プロパガンダ]
プロパガンダとは、多くの人々の生活様式や行動様式、それに態度・意思決定などに多大な影響を与え、送り手の意図するある一定の方向へ、受け手を向かわせる組織的な試みである。送る側は自己の都合のよい部分を表出させ、人々に共鳴させる手段を用いる。また、立場や見解の対立する問題に関して、言葉やその他のシンボルを駆使し、個人あるいは集団の態度と意見に変容を与えるような環境をつくる。そして意図した方向に人々の態度や意見を変化させ、ある種の行動へと誘うことを目的とした活動である。
[商業宣伝] 商業宣伝には二つの側面がある。一つは、企業のマーケティング活動の一環として、商品・サービスに対する需要を喚起することによって販売を促進する経済的な面である。もう一つは商品・サービスに関する十分な情報を潜在的需要者に伝達するコミュニケーションとしての面である。この二つの側面は商品・サービスにかかわる情報の伝達を通してそれへの需要が喚起され、販売促進が実現する反面、商品・サービスの需要の喚起を意図するがゆえにそれらに関する情報が人々に伝達されるという、表裏一体の関係にあり、両者を明確に区別することは難しい。
[政治宣伝]
政治宣伝の目的は、政治・社会問題に関して受け手の人々の行動・態度に対して、送り手が有利な方向に誘導しようとするものである。例えば、選挙活動中において、対立する候補にダメージを与えるために、中傷やデマを流し、マイナスの印象を植え付けることがある。最近では、パソコン・ネットによる巧妙な方法によって中傷やデマを流すことも多く、政治宣伝のスタイルも変化してきている。例えば宣伝者は、弱者や大衆の味方であるといった立場をとり、多くの人に支持されているという演出を行ったりする。
27 大衆説得と世論操作
[大衆説得とは]
大衆説得とは、大多数の人々に論理的・情緒的な手段を用い、大衆の意見・態度・信念に対して大衆を操作する側が有利な状況になるような方向に意図的に定め、大衆にある一定の行動を起こさせる言動である。大衆説得は、理性や知性よりもむしろ情緒や感情に訴えて強制なき同情というスタイルを用いて、巧みに相手を誘導する。強制なき同情は攻撃的なものではなく、相手の感情面に直接的・間接的に入り込むもので、いたるところでその手法が取り入れられている。
[世論操作]
マス・メディアが論説などで都合のいい解釈や誇張した報道、特定の意見を流すことで、ある方向に世論が誘導されることも多い。新聞社のイデオロギーや特定の傾向をもつ編集記者、論説委員、テレビ番組編成、キャスターの発言・誘導、それに加えて特定のタレント使用とプロダクションの関係などによる独占の影響も計り知れない。
[レーニンとヒトラー]
ロシア革命の代表的指導者であるレーニンはアジテーターであるとされる。アジテーターとは、煽動を行うものを指し、大衆心理に対して冷めた態度を持つ。レーニンの煽動は一つの観念を多くの大衆に伝え広めた。その結果、ロシアにプロレタリア革命を実現させ、帝国主義論を代表とするマルクス主義の理論と実践の指針を示すこととなった。
ヒトラーは1919年に国家主義ドイツ労働者党を結成し、1929年の世界恐慌によって生じた社会不安に乗じて勢力を伸ばした。単なる右翼政党にとどまらず、国会の粋を前面に押し出したアジテーションで大衆行動的な政党であることを国民に植え付けた。ヒトラーは権威主義や反ユダヤ主義などを掲げて大衆集会やテロリズムを繰り返した。ナチズムはアジテーションが政治に浸透した歴史的事例であるとされる。
28 マス・コミュニケーションの社会的責任
[マス・コミュニケーションの責任]
マス・メディアには報道の自由があり、知る権利がある。マス・メディアの報道には外部に発表するにあたり、いずれの干渉も受けることなく、検閲も存在していない。また、情報の入手や伝達が妨げられることもない。マスコミには、取材の自由、報道・評論の自由、媒体・流通の自由が確立しているといえる。そこには、送り手自身の自主規制が求められるといえる。Schramm(1949)は、マス・メディアに責任ある行為をさせるために用いうる手段として、行政機関による取り締まり、メディアの公式・非公式団体、一般の公衆を指摘している。「政府、メディア、公衆」の三者のバランスが重要であり、責任は分担されているとされる。
[マス・メディアの報道の自由が生む公共の利益]
マス・メディアの取材、報道の自由は公共の利益にかなうものとなっている。1公衆が権力者を監視し、権力者に関する信頼できる情報が適切に提供される。これはマス・メディアの番犬機能や批判的役割である。2情報が豊富に提供され、活発な民主主義体制や社会生活が促進される。情報をもとに民主主義体制が見直され、人々の社会生活の基盤が形成されるといえる。3表現の自由という権利から、理念や信念、世界観を表明する機会が提供されている。
メディアが自由であることが独創性、創造性、幅広い多様性を生み出している。自由なメディアは同調主義に陥るべきでなく、意見や情報の多様性を持つべきである。また、メディアは公衆に代わって出来事を調査し、番犬機能を担う。だからといってメディアが一方の立場に立つことが妨げられるわけではない。多様性を持つことが開かれた民主主義にとって好ましいといえる。
[メディアのアカウンタビリティ]
メディアは公表した情報の質、ないしは情報を公表した結果に関して、社会に対して直接・間接的に応答しなければならない。アカウンタビリティが生じる場合は、メディアの活動に対して何らかの反応があった場合である。アカウンタビリティはメディアが何らかの問題について誰かにむかって回答することを意味する。アカウンタビリティには二つのモデルが存在し、公的な秩序が脅かされる等社会的な悪影響がある場合、私法や公法の科す罰則が含まれる法的責任モデルと、メディアを批判する人とメディアの間に生まれる差異を埋めるため、対話や討論によって謝罪や訂正、応答がなされる応答モデルがある。
29 マス・コミュニケーションの将来
[マス・コミュニケーションの必要性]
マス・メディアは集団と個人の双方に利益をもたらしてきた。個人にとっては娯楽や気晴らしになるうえ、低コストでアクセスが可能であり、多くの事柄について有用かつ信用に足る基本的な情報を入手する手段となっている。また他者と同じ文化や情報を共有することで、集団の利益につながる。しかし、マス・メディアの提供する情報の質には低いものもあり、情報の見極めが必要である。個々人が情報を取捨選択し、マス・メディアの提供する情報を活用していかなければならない。マス・メディアの欠陥があるとしても、マス・コミュニケーションはより良い社会を目指すうえで必要不可欠であるといえる。
[政治学からみるマス・コミュニケーションの将来]
政治参加とマス・メディアの利用は強く結びついている。しかし、マス・メディアは政治の質を低下させ、一般市民に自ら果たすべき義務から目をそらさせるような報道をしてきたと批判される。それに対して、ニューメディアに大きな期待が寄せられ、政治参加を促す可能性があるとされる。ニューメディアは新たなアクセスチャネルや他者と結びつくための回路を切り開いてきた。しかし、ニューメディアがマス・メディアを完全に代替することはなく、共存していくと考えられる。
[マス・コミュニケーションの将来]
マス・コミュニケーションの必要性を踏まえると、消滅することは考えられない。それならば、マス・コミュニケーションはどのように将来変貌するのか。マス・メディアは根本的に大きく変容することはないと考えられる。マス・メディア権力は責任を負うことがほとんどないため、現在の形態を変容させる必要性はないためである。ただし、新聞やテレビといったオールドメディアの利用は徐々に低下し、新たな消費のタイプが埋め合わせるようになってきた。他方で、インターネットには多くの情報があるものの、その内容は攻撃的であり、差別的であり、無用な情報も多い。マス・コミュニケーションは大きく変化することはないものの、オールドメディアがニューメディアを適切に取り込んだように、連続的に変化していくと考えられる。
30 総括
[テレビ番組]
ここでは実際の政治討論番組を視聴し、その制作の意図、番組の持つ価値観、政治コミュニケーションのあり方について議論を行う。
岡井他(2002)では、政治討論番組である「日曜討論(NHK)」と「サンデープロジェクト(テレビ朝日)」に焦点を当て、2001年参議院選挙の内容分析を行っている。発言比率及びカメラショットの時間を計測し、NHKでは与野党の発言のバランスを考慮している一方で、テレビ朝日では野党の発言比率が高くなっていること、小泉首相出演時はNHK討論番組での自民党の発言比率を増加させることを示している。また、カメラショットの分析においては、NHKでは与野党の公平性が担保されているものの、テレビ朝日では野党に対するショットの方が与党を上回っていることを示している。他方で、複合的なカメラショットに関しては、発言している野党出演者の背後から与党出演者を撮るというカメラアングルが「日曜討論」および「サンデープロジェクト」の両番組に共通して見られたとしており、野党に対して不利な映像構成となっていることを指摘している。
常木(2006)では、2005年5月16日放送の「日曜討論(NHK)」と「サンデープロジェクト(テレビ朝日)」を取り上げ、「他者の発言中への割り込み」、「自分の意見を言う」、「あいづち」に関して、サンデープロジェクトが日曜討論を上回っていることを確認している。その上で、「他者の発言中への割り込み」等に対して、それぞれの印象評定を行っている。因子分析の結果を踏まえ、サンデープロジェクトにおいては、「討論を親しみ易く、楽しい、活発化させるなどの好印象を与えている一方で、攻撃的、感情的、苛立たしさ、迎合的といったやや否定的な印象も与えている」と結論付けられている。 

 

●放送の役割
「放送は、民主主義の精神にのっとり、放送の公共性を重んじ、法と秩序を守り、基本的人権を尊重し、国民の知る権利に応えて、言論・表現の自由を守る。放送は、いまや国民にとって最も身近なメディアであり、その社会的影響力はきわめて大きい。われわれは、このことを自覚し、放送が国民生活、とりわけ児童・青少年および家庭に与える影響を考慮して、新しい世代の育成に貢献するとともに、社会生活に役立つ情報と健全な娯楽を提供し、国民の生活を豊かにするようにつとめる。」
これは、1996年に日本民間放送連盟(民放連)と日本放送協会(NHK)が定めた「放送倫理基本綱領」の一節です。ここに放送局としての使命・役割が凝縮されています。
放送メディアは、映像・音声でさまざまな情報をダイレクトに伝えることができるので、ほかのメディアに比べて、受け手に与えるインパクト(社会的影響力)が強いと言われています。また、放送局は、公共財である「電波」を利用して、番組・CMをご家庭に送り届けています。このため、放送メディアには、きわめて高い“公共性”が求められています。
放送メディアは、番組・CMを通じて“情報”を送り届けることが活動の中心となりますので、憲法で保障された「表現の自由」を正しく行使することが求められています。これは、放送局が表現活動を行うための自由ということだけでなく、受け手側である、視聴者・国民の皆さまの「知る権利」に応えることも含んでいます。
日々の出来事や事件・事故を報道したり、災害が発生した際に、情報をただちに広く伝達するといった取り組みがこれに当たります。また、ドラマやバラエティといった、健全な娯楽をお届けするということも、放送メディアのとても大事な仕事です。
さらに、「表現の自由」を守り、かつ視聴者の皆さまから信頼してもらえるメディアであり続けるためには、放送内容について、放送局が自ら考え、自らを律していくことが求められています。
「あの番組が役に立った」「あのCMを聞いて温かい気持ちになった」といった声をたくさんいただけるよう、民放全体で努力を続けていきます。 

 

●新聞の役割
国民の「知る権利」を守る
新聞の第一の使命は、日常のあらゆる場所で起こった多種多様なニュースを世間一般に伝えることです。さらに「社会の公器」として国民の「知る権利」を守るため、公正中立な立場で正しい報道を行なうことが求められています。テレビ放送や出版などの数あるマスメディアの中で、ことさら新聞にそれが強く求められるのには、いくつか理由があります。
テレビ・ラジオといった放送事業は放送法により規制され、総務省から限りある周波数の割当てを受ける免許事業であり、許認可がなければ電波を発することができません。雑誌は発行サイクルの面から新聞ほど速報性がなく、めまぐるしく変化する事象について伝えるには不利です。出版はいかに内容が優れていても、収益性を重視するため、売れる見込みが立たなければ発行されません。また、昨今めざましい飛躍を遂げているインターネットは、誰でも匿名で簡単に発信が可能なゆえに、流される情報の質と信頼性については課題が多いのが現実です。
これらに対して新聞は、単に事実を報道するだけでなく、深い取材に基づき、その背景や今後の影響についてまでも言及するのが優位性であり、行政からの許認可も不要です。
隠された事実を掘り起こす
「調査報道」とは、記者および新聞社が独自に、さまざまな情報ソースから取材を積み上げていくことによって新たな事実を突き止めていく報道形式です。これに対して「発表報道」は、行政や企業が公開する記者会見やプレスリリースなど、一方から発信された情報をそのままニュースにする報道です。
調査報道は、まさに「社会の公器」である新聞らしいスタイルであり、時には権力を持っている取材対象が表に出したがらない事実を、地道な取材活動により世に発表することもあります。例を挙げると、古くはアメリカの「ウォーターゲート事件」がそうです。ワシントンポストなどの追及により犯罪が明るみに出て、現役大統領が辞任にまで追い込まれました。日本でも「リクルート事件」、「官官接待」問題などが思い起こされます。
キャンペーンを張り、世論を形成する
新聞社における調査報道では、社会に渦巻く矛盾や国民の不安やわだかまりなど、社会に大きな影響を与えるような問題を、一定期間に連続して記事掲載を行なうことがあります。同じ問題について情報ソースや角度を変えて取材をし、新たな事実が浮かび上がる度に繰り返し追求して行きます。これをキャンペーン報道といいます。一社が始めた調査報道に他社が追随し、情報の隠ぺいを認めない気運を高めて、明るみに出た事実の是非を世に問うため、世論形成に大きな役割を果たします。昨今でよく見られるのは「いじめ」「体罰」についての報道や、東日本大震災以降の電力会社への責任追及に関する報道です。このキャンペーン報道は最終的には、その事象を隠してきた側が事実と認めさせるほどの力を持ちます。 

 

●ジャーナリズムの役割
日々発生する世の中の出来事や時事的な問題を報道、解説、論評するのがジャーナリズム(Journalism)です。国内外の政治、経済、社会現象からスポーツ、科学、文化活動に至るまで、さまざまな分野の現代史を記録し続けています。新聞、テレビ、ラジオ、雑誌のほか、最近はインターネットが加わり、一人ひとりの記者やリポーターが現代社会の息吹を伝え、身近な社会に潜んだ問題点や課題を掘り起こしています。
日本で明治以来100年以上の歴史を持つ新聞は、大勢の記者が第一線で取材した国内外の複雑な事柄をわかりやすい記事に、いわば翻訳して読者に伝えます。各新聞社は、豊富な取材網を駆使して入手したニュースの価値を判断し、読者が一目でわかるように大小の見出しをつけて紙面に割り付け、時間に追われて忙しい読者がざっと見ただけでも、内容を大づかみできる工夫が凝らしてあります。
耳目を驚かす大ニュースが発生し、速報のために号外(無料)を発行して各地の街頭で配ると、最新ニュースを求めて大勢が号外に手を伸ばします。
日本新聞協会が54年ぶりに改定した新聞倫理綱領(2000年6月制定)は、新聞の責務と使命について、「おびただしい量の情報が飛びかう社会では、なにが真実か、どれを選ぶべきか、的確で迅速な判断が強く求められている。新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によってこうした要望にこたえ、公共的、文化的使命を果たすことである」と記しています。
優れた報道に贈られる新聞協会賞には、全国に広がっていた「高校必修科目の未履修」の初報(2007年度)、「昭和天皇がA級戦犯の靖国神社合祀に不快感」を記した元宮内庁長官日記・手帳の報道(2006年度)、「自衛官募集のための住民基本台帳情報収集」(2003年度)など、隠されていた、あるいは埋もれていた事実を明らかにして社会に問題提起した報道が多く、世の中の仕組みを改善する結果につながる場合が少なくありません。これこそジャーナリズムの真骨頂でしょう。
21世紀の将来を占う地球温暖化問題に対する各国の取り組みも、世界の研究者と政治家、行政と企業、一般市民まで巻き込んだ幅広い動きを継続的に報道してきたジャーナリズムが正しく機能した結果、共通認識が高まり、事態改善へ動き出したといえるのです。
課題も抱えています。大きな事件や事故の際、当事者や関係者にマスコミが殺到する集団的過熱取材(メディアスクラム)に対して、日本新聞協会は取材陣がとるべき行動規範を提唱し、取材を受けた人たちから苦情を聞いたら早急に事態改善するための協議機関を全都道府県に作り、適切な取材対応に努めています。また、個人情報保護法の施行(2005年4月)をきっかけに、匿名発表が増え、真相究明に迫る実名報道や検証報道を妨げている問題に息長く取り組んでいます。 

 

●マスコミ倫理 / 役割と責任の重さ改めて
「伝えるのは、何のため、誰のため」をメインテーマに、高知市でマスコミ倫理懇談会全国協議会の第63回全国大会が開かれた。
同協議会は新聞や放送、出版など200以上のメディアで構成。年1回の大会で信頼確保に向けた課題や対策を話し合っている。本県では1987年以来2回目で、その際のテーマは「表現の自由と責任」。当時は報道による人権侵害がクローズアップされていた。
「マスコミと国民の関係にさまざまの摩擦が生じ始めている事実は重視されねばならない」「『言論の自由』は、使われ方次第で両刃の剣となる。そうしないための努力が強く求められだしている」
大会を取り上げた32年前の本欄はそう警鐘を鳴らしている。報道と人権を巡る現在の状況にも当てはまる。メディアは重い課題を背負い続けていると言えよう。
今回の高知大会でも、7月に起きた京都アニメーション放火殺人事件の犠牲者の実名報道がテーマの一つとなった。地元紙には「遺族の意向を無視している」といった多数の苦情や抗議が寄せられた。
プライバシー保護を望む遺族の思いや、多数の報道機関が一挙に押し寄せる「集団的過熱取材(メディアスクラム)」などの影響があろう。
半面、氏名は人が個人として尊重される基礎である。実名は匿名に比べて読者、視聴者に強く働き掛ける力を持ち事実の重みを伝える。メディアにとってはすべての始まり、原点である―。私たちはそんな思いから実名発表、実名報道の必要性を訴えてきた。
匿名報道を求める声が高まる中、被害者や遺族の意向を尊重することはもちろんだ。同時に実名報道の重要性も今まで以上に積極的に、丁寧に説明していかなければならないと考える。長年指摘されてきたメディアスクラムの改善に向けても、具体的な行動が問われている。
変わらぬ課題がある一方で、メディアを取り巻く環境は様変わりしてきた。インターネットやSNS(会員制交流サイト)などの台頭によって、人々が情報を入手する手段は多様化した。既存のメディアに接することが少ない人々に、どう情報を届け信頼を得ていくか。難しい課題も新たに生じている。
近年、一部の権力者が自らにとって不都合な報道を「フェイクニュース」と決めつける風潮が強まっている。公文書の改ざんや隠蔽(いんぺい)、街頭演説の場からの聴衆の排除…。表現や言論の自由、知る権利がないがしろにされる事態も起きている。
権力を監視するメディアの使命もまた重要さを増していよう。
〈メディアが果たすべき役割と社会的責任は何か、一人一人が真剣に考え、より高い倫理に基づいた報道を実践していく〉。高知大会での申し合わせを日々想起しながら取材、報道に当たりたい。
言論の自由は、国民の信頼と支持を得て初めて大きな力となる。 

 

●マスメディアの役割
昨日の続きで。昨日世論調査からの考察を書いたわけだが、今もってなお、世論形成にはマスメディアの存在が大きく影響している。テレビ、新聞、ラジオ、週刊誌あたりがマスメディアでくくれる範囲だろうか。
レガシーメディアとかオールドメディアと言われてはいるが、その影響力は依然として絶大なものがある。なにしろ相手にしているのは百万人単位だ。
YouTube で何かの動画が数万回試聴されるのとはわけが違う。それは数時間あるいは数日かけての話だが、テレビ新聞のそれは毎時間毎日やっている。莫大な量の情報を、非常に大きな範囲に提供している。この影響力の差はとてつもなく大きい。
ネットメディアが発達したとは言っても、まとめサイトはもちろん、キュレーションサイトにしろなんにしろ、独自に取材しているところは多くない。多くはマスメディアの報道を一次ソースとし、それに独自に論調を付加したり、複数のソースから新しい視点を提供する手法を取っている。
種々の世論形成にしろ、流行の作り方にしろ、持続力はなくなったようだが、ネットメディアが便乗することで、局地的で瞬間的な風速は強まったかもしれない。
ただ、昨今このマスメディアの在り方が問われ始めている。近年で最初に表面に現れたのは、フランスでテロの標的になった「シャルリー・エブド」誌ではなかったか。
かの雑誌は「風刺」の名のもとにイスラムの聖人を侮辱する漫画を掲載した。個人的にはあんな程度の低い下劣なものを風刺とは呼びたくないが、小なりとはいえ「メディア」が越えてはいけない一線を容易に越えうるということを世に知らしめた。
次の大きな現象はトランプ大統領の誕生だろう。ほとんどのマスメディアはトランプ氏の当選を予想できず、マスメディアが米国民の声を報道できていないことを露呈した。
トランプ大統領はツイッターで多くのことを発信してしまうので、就任当初は記者会見すらろくに開かれず、マスメディアは彼のツイートを追いかけることしかやることがなくなってしまった。情報のイニシアチブを握るということがいかに大切かがよくわかる話だ。
メディアと氏との対峙的な姿勢は今なお続いていおり、巨大メディアをフェイクニュースと呼び、ガチンコで大ゲンカの真っ最中だ。
翻って日本では、朝日新聞がいわゆる「従軍慰安婦問題」を「真実ではなかった」と言って記事の訂正、取り下げをした。これは北朝鮮が拉致を認めたことに続く衝撃的な話だ。
朝日新聞と言えば「クオリティペーパー」と言われ、政治経済は言うに及ばず、言論界、果ては高校野球や大学入試(笑)にまで大きな影響を持つ、発行部数 600 万部を誇る巨大メディアだ。新卒の新入社員は「とりあえず朝日か読売、それと日経読んでおけば間違いない」と言われた時代さえあったのだ。それが真実ではない報道をしていて、かつその訂正に 30 年以上もかかったということは大きい。
そもそも日本では、マスメディアは正しい情報を提供するもの、と思われていた。それが実はそうでもなかったということが近年明らかになって来た。
世に起こる様々な事件や種々の情報を集約して広報するという意味では、マスメディアの役割は非常に大きい。そして彼らは「権力の監視機能」を自任してきたし、一般市民もそう認識してきた。
ところが、司法・行政・立法に続く、第四の権力なのだという声が上がって来た。先の三つはマスメディアによって監視されるが、当のマスメディアが公正中立であるか、あるいは国民が必要な情報を提供しているかを担保あるいは検証する方法がないからだ。
要は、マスメディアの公正性というのは、マスメディアの良心に期待するしかないということだ。しかしマスメディアは「権力の監視機能」を自任しているため、左派、あるいは反権力の方向に傾きやすい。右派的な政策が国民にとって良策であったとき、マスメディアは国民を人質に政府と対峙的になりやすいのだ。
テレビ、新聞などのマスメディアから緊張感が失われた時、全体主義的な方向に陥りやすい。特に現在のテレビは各局共に論調が一緒で、同じ時間帯に同じような番組を放送し、同じ時間帯に CM を流し、同じような時間帯に放送をはじめ、同じような時間帯に放送を終える。
こうした環境に慣れさせられている視聴者は気づかないが、一旦テレビから離れて生活してみると、この同調ぶりはある種奇異にすら思える。
さらに、どんな情報をどういう風に流すかという主導権は放送局側が握っているのだ。個々の視聴者がそれぞれ独自に「こういう情報が欲しい」と要求した場合、テレビには応える機能がない。テレビというのはシャワーのように情報を降らせる機能以外の個別対応はできない仕組みになっている。
なにより、テレビが自任する「権力の監視機能」を国民がお願いしたことはない。選挙による投票もなく、産業としての規模の大きさから他者からの掣肘も受けづらく、民間営利企業としての経済合理性以外には、その正統性を担保するものがない。さらに言えば、経済活動に影響の出ない範囲では何でもできるということになる。
個人的には、マスメディアは情報のハブ機能をやってくれればいいのであって、その取捨選択や検証は国民それぞれが行うべきだと思う。権力の不正や腐敗を暴き出す機能があっても良いかもしれないとは思うが、それが森友・加計「問題」のように、政府に言いがかりをつけてイメージ操作をしたいだけのように使われた場合、マスメディアは国民にとってもはや有害な存在になってしまう。
いつの世も情報の重要性は変わることがないが、マスメディアは余計な斟酌は入れずにクリーンな情報を国民に提供する機能をまずは優先するようにしてもらいたい。解説や論説はその後に必要最低限で構わない。 

 

●昭和期のメディアと社会教育
1.昭和戦前・戦中期におけるメディアと社会教育
【放送メディアの動向】
昭和期は放送メディアの出現とともに始まった。昭和初期、社会教育の普及に大きな影響を与えたメディアとして、ラジオ放送の開始とその動向が注目されよう。大正14(1925)年のラジオの仮放送開始時には東京放送局の後藤新平総裁が放送の中で「教育の社会化」としてのラジオの意義に触れており、社会教育のメディアとしての役割が当初から期待されていたことが窺える。実際、放送開始とほぼ同時に、講演を主内容とする社会教育的内容の番組も始まっている。ラジオにおける社会教育番組はその後急速に体系化され、聴取者一般を対象とした講演番組の他にも、内容(生産技術、芸術、体育、科学、趣味、修養、語学など)・対象者(児童対象、青年対象、家庭婦人対象など)を特定化した講座番組が放送されるようになる。1930年代に入ると、新中間層などの知識階級が聴取者であることを前提とした当初の役割のみならず、中等教育非進学者を対象とした補習教育としての役割をもラジオ放送が次第に担うようになってきた。
【視聴覚メディアの動向】
視聴覚メディアとしての幻灯や映画は既に明治末期・大正期から、各官公庁による国民への啓発、宣伝手段として活用されてきた。昭和期に入ってからも、特に映画は娯楽性・大衆性を備えたメディアとして、社会教育において活用されるようになる。文部省では、社会教育課)が大正末期から映画企画(主に皇室行事を題材)に着手し、教化総動員運動においても映画が活用された。1930年代には文部省の企画する映画は、より個別具体的な内容(衛生、防災、地理など)の社会教育用教材としての役割を拡大させていった。また1930年代には映画は、総力戦体制への国民の結集、戦意昂揚のための手段としても活用される。満州事変以降、時局映画、軍事映画が教育映画会社などによって多数制作され、ラジオ放送とともに、国民の戦意昂揚の役割の一端を担うようになっていった。
【活字メディアの動向】
旧来から人々の学習・余暇活動の下支えとして存在してきた活字メディアについては、この時期に量的のみならず質的な大衆化を見せつつあった。都市新中間層は、円本や文庫本のような廉価版の書籍、総合雑誌、婦人雑誌の主要な読者層を構成するようになった。また労働者・農民層においても、従来から普及していた新聞や講談雑誌だけでなく、総合雑誌などの購読が次第に浸透しつつあったが、労働者・農民層の読書行動は、書物を「購買」することへの障壁が高い分、職場や地域(例えば青年団など)での書物の「貸借」・「共有」を基盤とすることで成立していた側面も大きい。すなわち、読書という行動はこの時期、「読書階級」たる新中間層と、書物へのアクセスに未だ困難を有していた労働者層、農民層との間に、なお大きな偏りを有していたのである。
2.戦後初期・高度成長期におけるメディアと社会教育
【放送メディアの動向】
第二次世界大戦後、社会教育の場に活用しうる放送メディアとして、新たにテレビが登場する。昭和28(1953)年のテレビ放送開始とともに、その存在は個人学習の手段としてだけでなく、集団学習の手段としても注目された。例えば1950年代には、青年学級や婦人学級において、集団視聴をもとにして討論などの共同学習を進めていく形態が試みられている。特に農村部においてテレビ受像機が普及していない時期にあっては、集団視聴を前提とした社会教育の手法は一定の広がりを見せた。しかしその後高度成長期に入ると、急速なテレビ普及、及び地域集団に依拠した学習形態全般の低調化により、むしろテレビ・ラジオなどの放送メディアは、個人学習形態の多様な展開を促すものになってきたといえる。
昭和34(1959)年にはNHK教育テレビが放送を開始し、その後も教育専門局としてのテレビ局の開局が相次ぐ。これらのテレビ局が提供する教育内容は当初、語学講座をのぞけば学校教育主体であったが、その後の高度成長の進展とともに、技能や産業経済を内容とする講座番組も登場するようになる。
【視聴覚メディアの動向】
視聴覚メディア利用に関しては、戦後初期社会教育における大きな画期として、連合軍総司令部による民主化教育政策の一環としてのCIE映画と16ミリトーキー映写機(ナトコ映写機)の全国への貸与が挙げられる。昭和23(1948)年以降、CIE映画の上映は都市・農村を問わず全国各地で行われた。この活動は民主化教育としての役割以上に、視聴覚メディアの社会教育利用の機運を加速させたという点で重要な歴史的役割を担っていた。CIE映画の上映活動を運営するために、この時期、各都道府県に視聴覚ライブラリーが設置され、また各都道府県の社会教育担当課に視聴覚教育係が置かれることとなった。これによって、視聴覚メディアによる社会教育事業推進にむけての教育行財政的な裏付けがある程度なされたといえる。
郡市レベルでの視聴覚ライブラリー設置も特に1960年代に積極的に進められた。ただし、視聴覚ライブラリーの設置数が増大する一方で、その設置場所や予算根拠といった制度的側面においては統一性が欠けており、このことが社会教育施設としての機能の整備を進めていくうえでの問題として議論されるようになった。
【活字メディアの動向】
この時期の活字メディアについての普及状況をみると、読書行動の階層格差、特に農村部における読書環境の悪さが、当時の調査や社会教育関係者の論説などからなお強く窺える。読書行動の階層格差構造は戦前から大きく変わることなく存続していたのであり、またそのような劣悪な読書行動の階層格差を大きな教育問題・社会問題として捉える傾向も、教育学者の間に強く存在した。
3.70年代、80年代のメディアと社会教育
【放送メディアの動向】
70年代、80年代にかけては「生涯教育」「生涯学習」への社会の関心が高まり、政府の各種答申にも生涯教育・生涯学習の概念が盛り込まれるという背景から、放送メディアによって提供される学習機会も、その重心を学校教育から社会教育・生涯学習へとシフトさせてきた。例えばNHK教育テレビではこの時期、生涯学習を意識した番組の比重が従来よりも高まっている。またその内容も職業能力養成から日常生活における趣味・実用へと重心を移すようになる。このような放送による社会教育機会の拡大が進む一方で、集団学習形態の実践への注目が中心となってきた戦後の社会教育研究においては、放送などマスメディアはその商業主義がもたらす悪影響の観点から否定的に捉えられる傾向が従来強かった。
しかし、70年代以降放送利用による個人学習の拡大がさらに進むにつれ、放送メディアや個人学習の多様な展開を前提とした上で、それらの学習をいかに効果的に展開していくか、また、対人的・集団的な学習活動といかに結びつけていくかという課題が、社会教育研究において検討されるようになった。70年代から80年代にかけては、普段のテレビ視聴による個人学習と、定期的に行われる講義の聴講・質問の時間とを組み合わせた「アカデミー方式」が各地で展開されたが、この学習形態は、個人学習と集団学習の新たな結合を求める当時の課題意識に答える一つの試みとして位置づけられよう。
【ニューメディアの出現】
70年代以降いわゆる「ニュー・メディア」(ビデオテープレコーダ、ワードプロセッサ、コンピュータなどの情報機器や、放送や電話・通信回線を利用した様々な新しいメディア形態)の普及とともに、これらの社会教育への活用も試みられるようになる。例えば、80年代までに大衆的に普及したビデオテープレコーダは、放送メディア、視聴覚メディアの活用に飛躍的な変化をもたらした。ただし、ワードプロセッサやコンピュータについては、80年代までの段階ではその普及度や利用の簡便さ、異機種間の互換性等において多くの問題を残していた。従ってこれらの機器が、情報収集・整理・発信の側面において成人の学習形態に広汎で飛躍的な変化をもたらすのは、90年代以降のことになる。
【活字メディアの動向】
活字メディアの社会教育、生涯学習に占める位置について見ると、図書館・書店数の増加や、全ての社会階層における書籍・雑誌購買力の上昇などにみられるように、人々の書物に対するアクセシビリティは大きく向上した。また読書行動の地域(都市−農村)格差も縮小した。これとともに、書物へのアクセスの階層格差を問題視する認識は、教育研究の中では希薄化していった。しかし、職業や学歴による読書行動の格差は高度成長期以降も大きく変わることなく存在している。
高度成長期以降、読書行動をめぐる問題として、テレビの普及にともなう「活字離れ」・「書物離れ」が取り上げられることが多くなったが、読書という自発的学習活動の基盤となる行動において、社会階層がなお少なからぬ影響力を有していたことも指摘されるべきである。  

 

●メディアはなぜあるのか
1.メディアとジャーナリズム
ご紹介にあずかりました、長谷正人と申します。加藤晴明さんに、マスコミ学会のシンポジウムでは毎年のようにジャーナリズムの話ばかりで、メディア研究について論じられることがほとんどないので、そういう話をして欲しいという趣旨で、このシンポへの参加を依頼されました。
そこで今日は最初に、そのジャーナリズムとメディアの違いについて考えてみようと思います。ちょうど良い素材として、昨日ジャーナリズムをめぐって行われたシンポジウム1(メディア政治とジャーナリズム  政権交代前・後)を聞いたばかりなので、これについてお話ししようと思います。そこでは大石裕さんの見事な司会の下に逢坂巌さんと伊藤守さんが、昨年に行われた衆議院選挙のテレビ報道に関して、実際の映像を使いながら詳細な分析を施しておられました。非常に乱暴にまとめてしまうと、テレビメディアの政治報道が、「政権交代」が重要であるという社会的な雰囲気(議題設定)に乗っかってなされたために、例えば有権者の声の拾い方にもバイアスがかかってしまって、生活の不安とか福祉政策への怒りといった、感情的な格差社会論が中心になっていたという批判がされていたわけです。要するに、昨年の選挙前後の政治報道が、理性的な討議の話題を冷静に提供するというジャーナリズムの役割を果たさず、現代の社会的閉塞感を感情的に増幅させるように機能していた。そんな分析だと理解しました(私のまとめにバイアスがあったらすみません。主として伊藤さんの主張だと思います)。
私はそのお二人の報告を会場で拝聴しておりまして、だいたいはその論旨に納得するわけですけれども、と同時に、やはりどこかに違和感が残るわけです。その違和感がジャーナリズム論に対する、メディア研究、メディア文化論の視点の置き方の違いということになろうかと思います。
それを表す象徴的な例として、伊藤守さんが挙げられていた、選挙のときに片山さつきが土下座したシーンの問題を取り上げたいと思います。伊藤さんは、実際にそのテレビニュースの映像を提示されて、「このようなシーンを取る必要が果たしてあったのだろうか。ジェンダー的なバイアスがかかっていて良くない場面ではないか」という疑問を投げかけられました。つまり、女性が土下座することをからかっている感じがするということなんです。しかし私はそういう真面目な分析に疑問を感じるんです。確かに、候補者が投票してもらいたいという一心で土下座する場面というのは見ていて気持ちが良いものではない。そんな下品な場面は見たくないという気持ちが私にもあります。でも同時に、そういう見せ場をテレビで報道しないってことがありうるだろうかとも思うんです。もしテレビでその場面を報道しなければ、報道しないっていうこと自体のテレビ局の意図を勘ぐられて、ネットや週刊誌で大騒ぎになってしまったのではないでしょうか。
むしろ最初から片山さつきは、それを映像に撮ってもらおうと思って土下座したんだという視点が必要だと思います。片山さつきの政治行動に対して、ジェンダー的なバイアスがかかったカメラが向かって行ったんじゃなくて、反対に彼女は、そういう土下座した姿を示すことで、テレビカメラを呼び込もうとしたのは明らかです。低姿勢としての土下座をパフォーマンスとして見せておけば、怖い女という偏見を払拭できるというわけです。ですから土下座が下品だとしたら、それは別にジャーナリズムの問題ではなくて、そういう低姿勢で頑張っている人間を可愛いと思って投票したくなるという日本の政治風土や片山さつきの政治的パフォーマンスの問題なんだと思います(ただし、いま本当に日本は土下座が通用する政治風土のままかというと微妙だと思います。その意味で片山さつきの戦略は、ややずれていたと思います)。少なくともこの場面で、メディアと彼女は共犯関係にあったといえるでしょう。
それは同時に、そもそも選挙っていったい何なのかという根本的な問題に関わっています。タテマエとしての選挙は、候補者の政策に関する主張を聞いて、有権者がどの候補者の政策がよいのかを理性的に判断して投票するという社会的仕組みなのでしょう。でも現実的には、選挙って「お祭り」ですよね。私たちはメディア報道を通して選挙っていうお祭りに参加して楽しむんだと思います。自分の名前の入った襷を肩からかけた候補者が、鉢巻きとか白手袋とか幟とか必勝ダルマといった選挙グッズをそろえて、街宣車に乗って自分の名前を連呼しながら「よろしくお願いしまあす」ってそこら中を走り回る。もうジャーナリズムの視点から考えれば滑稽という以外の何物でもない民俗学的な光景ですよね。街宣車に向かって手を振るとウグイス嬢が「応援ありがとうございます」って応じるのが面白くて、道行く子供たちがからかってやたらと手を振ってみせたりする。これって街全体が非日常的な祝祭空間と化して盛り上がっているので、子供たちも思わず参加したくなるっていうことでしょう。
ですからテレビメディアは、まさにそのお祭りとしての選挙を盛り上げる社会的役割をちゃんと果たしてきたといえる。私自身、子供のときから投票日に放送されるテレビの開票速報を見るのが大好きでした。「千葉一区、開票率何十何パーセント、誰の誰べえ、自民新、十何万何千票、当選確実。では選挙事務所からの中継です。/バンザーイ、バンザーイ」。こういう決まり文句があの獲得投票数と順位を示す単調な画面とともに、選挙区と時間経過によって少しずつ様相を変えながらひたすら反復されるのを夜中まで見るのに麻薬的な快楽を覚えました。むろんそのプロセスで当落のドラマが悲喜こもごもに各地で展開されていくのが見られて面白いですし、選挙全体で負けた党本部の責任者たちの悔しい顔なんかもいいですよね。1989 年の参院選に負けた自民党・橋本龍太郎幹事長のあの苦み走った表情を覚えていない人がいるでしょうか。
こうやって開票速報を娯楽的に見るのは、私が理性的な討議としての民主主義を理解していないからでしょうか。選挙特番を組んで開票の途中経過をサスペンスドラマのように報道してしまうテレビ局は、視聴者におもねって政治報道の本筋を踏み外しているのでしょうか。ジャーナリズム論的な視点からはそうなのかもしれません。しかし、どうしても私にはそうは思えません。政治って「まつりごと」っていうぐらいですから、そもそも原理的にそういう祝祭的な側面があるんだと思います。つまり、人間っていうのは、理性的に討議することによってだけじゃなくて、人間臭い駆け引きや感情的なやり取りを通して政策決定をするわけですから(「政治的」っていう形容詞は、理性では割り切れない人間同士の駆け引きを指して使われることが多いと思います)、そういう情動的側面がメディア報道をも巻き込んでいるだけのことだと思います。だから片山さつきの土下座っていうのも、彼女がメディア空間の中での自分の位置づけ(キャラ)や有権者との駆け引きのなかで自ら選んだ「政治的行動」の一つと考えた方がよいでしょう。つまり、有権者が彼女に政治的な力があるかどうかを判断する材料としても、やはりメディアは報道すべきだったと思うのです。
むろん私は、ジャーナリズム論的な視点が全く間違いだと考えているわけではありません。政策をめぐる理性的な討議をすることは確かに重要だと思います。マス・コミュニケーションは、選挙における祝祭的な雰囲気を醸成するよりも、国民全体の理性的な討議が巻き起こるように報道せよという理想主義的な主張を、私は決して全否定することはできない。ただ、新聞やテレビなどによるマス・コミュニケーションには、そういうジャーナリズム的な側面だけでなく、メディア(文化)的な側面が必ずまとわりついていて、決して無視することはできないという事実を強調したいだけなのです。
実際いま私がここでやっている学会発表も、私が書いてきたレジュメの内容をただ機械的な正確さで読み上げるだけではつまらないでしょう。私がこの壇上に上がって自分の顔をみなさんに晒して、独特の話し方を介して説明しているということも重要なメッセージであるはずです。実際、その余剰のメッセージを通してこそ、私が言いたい内容もより深く伝わるんだと思います。要するに学会発表という生真面目な情報伝達的なコミュニケーションにさえ、メディア的側面の萌芽があるわけです。どんなに純粋に情報を正確に伝えようとしても、人間同士がコミュニケーションをするってときには、必ずメディア的で遊戯的な側面が生じる。
もちろん、私はそういうメディア的側面が嫌だなって思うときが多々あります。たとえば、国会の予算委員会中継で質問者が総理大臣に向かって質問するときに、表やグラフの書いてある大きなフリップをテレビカメラの方向に向けて掲げている場面。あれって変だなあと思います。もちろん、フリップに書かれた内容は予め印刷されて総理に渡されているのでしょう。それでも、彼は総理大臣を本気で説得する気があるのかと疑いたくなるんです。相手を議論で正面から説得しようとすべき人間が、テレビの視聴者をちらちら気にしながら質問している。本当に討議としての民主主義を信じているのであれば、彼はその議論によって総理を説得して、政策を転換させることができるかもしれないと信じていなければいけない。ところがそこには、どうせ総理の考えは変わりっこないというシニシズムと、カメラに向かって「私は一生懸命やっているんです」と宣伝しているかのような媚びた感じが(土下座と同じように)慎みもなく露呈している。そういうとき、確かに私は、政治のメディア的側面が嫌になって、ジャーナリズムが大事だなと思うわけです。それがジャーナリズム論を支えている良識というものでしょう。でも私は、今日はその良識に挑戦しようと思ってやってきました。それを以下で別のかたちで論じてみたいと思います。
2.コミュニケーションという疎外
さて、ようやく本日用意してきたレジュメに沿った話をしたいと思います。
今日の報告は、「メディアはなぜあるのか」という題にしました。このような問いかけでは本シンポジウムの「メディア研究の課題と展望」という題目には正面から答えられないかもしれませんが、あえて私は「課題と展望」なんて分からなくなってしまえばいいと思っているんです。いまや人文系の学問全体が何のためにあるんだか良く分からないような社会状況がありますよね。大学でメディア研究とかジャーナリズム論を教えるときも、できれば現場のジャーナリスト経験や制作経験がある人が教えるほうがいいっていう実学重視の社会的圧力があって、私のような虚学志向の教員は存在価値が問われてしまうわけです。だからこそ一度、メディアとは何かといった原理的な問いを立てて考えてみる必要があるんだと思います。実学志向に対抗するためには、まずこっちの虚学としての足元がちゃんとしてないといけない。だから、まずメディアとかジャーナリズムの現状を論じるより前に、それらを成り立たせている基本的な社会過程としての「コミュニケーション」って何かという問題にまで立ち返って考えてみたいんです。
コミュニケーションという言葉を私たちはいま日常用語として使っていますが、実はそれが日常用語になったのはつい最近のことだと思うんです。例えば私たちは、「親子関係は、もっとコミュニケーションを取ったほうがうまくいく」とか「大学の中のコミュニケーションを活発化しよう」といったように、人間同士の日常的な相互作用や友達同士の会話のことを指して、コミュニケーションと呼んでいます。でも考えてみれば、そういう「コミュニケーション」の使い方は、せいぜい 1990 年代から始まったことだと思うんですね。もともとコミュニケーションといえば、新聞やテレビなどのマス・コミュニケーションのことを呼ぶのが普通でした。つまりこのマス・コミュニケーション学会で研究していたようなマスコミによる「情報伝達」のことが、コミュニケーションのことだったんです。実際、現在の標準的な社会学の教科書を見ても、「日常生活の相互作用」と「情報伝達としてのコミュニケーション」とはまったく違った分野として紹介されています。
じゃあ「コミュニケーション」は、「日常生活の相互作用」とは何が違うかっていうと、情報の伝え手と受け手が誰とでも入れ替え可能だっていうことだと思います。誰が伝えても誰が聞いても理解できるような、一般化された情報や記号を交換することがコミュニケーションです。あまりにも当たり前のことを言っているように聞こえるかもしれませんが、例えば方言や職場の隠語やメールの絵文字のことなどを思い出していただければ、それはちっとも当たり前のことではないことがお分かりいただけるでしょう。人間は日常の付き合いのなかでは、自分たちの間でしか通用しない独特の表現を馴れ合い的に作り出します。それに対して新聞記事には、誰が報道しても誰が読んでも必ずわかるような一般的な表現のフォーマット(言文一致体としての国語)が使われます。そういう一般化された情報をみんなが共有するということが、国民国家における民主主義の基本的な条件でしょう。その代わり、そういう一般的な情報コミュニケーションには、方言や隠語や絵文字のように、身近な生活のリアリティや感情を込めることができない。どこか余所行きでタテマエ的な言葉のやり取りにすぎないわけです。
つまり、コミュニケーションという言葉は、いま私たちが「コミュニケーションをもっと活発にして心を通わせることにしましょう」などと使っているときの情緒的なニュアンスとは正反対の意味を持った、マスメディアを媒介にした正確な情報伝達を意味する言葉だったのです。私たちは、日常生活のなかでは特定の誰かとして(親として、友人として、先輩として)周囲の人びとと付き合い、語りあいます。だからそこでは、私は取り替えることのできない固有の人間です。それに対して、マスメディアを通してコミュニケーションするときには、親とか友人とか先輩としてではなく、そのような私的な立場を超えて、一般的な個人として情報を伝達したり、受容したりしています。
つまりコミュニケーションとは、人間をそれ以前の閉じた共同体的世界からは離脱させ、抽象的な「市民」にするという社会的機能を果たしたわけです。八百屋の八ちゃんと大工の熊さんは、地域共同体のなかでは独特の合言葉を使って気楽に互いの意思疎通を取ることができたわけですが、もし二人がともに政治家や新聞記者となって論戦を交わすことになれば、二人はそういう合言葉を使うことなく、誰にでも分かるような共通語を使って議論しなければなりません。誰とでも入れ替え可能な誰か=「市民」として情報を交換し、議論すること。これが社会のなかのコミュニケーション過程なのです。
だから家族のコミュニケーションをもっと活発にして良い親子関係を作りましょうという物言いはどこか倒錯的なのだと思います。むしろコミュニケーションは、人間がふつうに家族や地域社会のような閉鎖的な関係のなかで生きていたときの歓びを失わせ、バラバラの個人が互いに議論しあい、競争しあう平原のなかに放りだす社会的機能を果たしてきたのですから。親子はコミュニケーションなどしなくても、どんなに嫌いあっていても親子という「縁」に縛られて付き合っているはずです。そのような信念が親子という前近代的な関係の安定性を作り出していた。ところが、コミュニケーションをもっと上手に取ってスムーズな親子関係を作りましょうなどと言いだせば、私たちは親子関係を気遣いによってしか成り立たないような不安定な関係だと思い込んでしまいます。そこから友達親子と呼ばれるような、互いに傷つけあわないようにする親子関係が生じてしまうのは明らかでしょう。つまりコミュニケーションとは、まさに私たちがふつうに生きることから私たち自身を疎外するものなのです。
3.メディアという歓び
つまり、コミュニケーションは基本的に寂しいものだっていうことですね。人間たちがそれぞれに固有の関係のなかで生きていればそれでよかったのに、その閉じてはいるが充実した暮らしを疎外するものとして、国民国家やジャーナリズムが歴史的に現れたわけです。家族の生活のなかに国家によって教育された市民(国民)としての子供が登場して、百姓の父親や母親には理解できない新聞の言葉の世界を生きるようになる。共同体のなかに生きていた人間が国民となることはそういう寂しさを周囲の世界に引き起こすことだったと思います。
でも、なぜそんな寂しいことをしたんでしょう。しばしば学者やメディアはそれを国家権力のせいだって、まるで他人事のように説明するんですが、それはおかしいと思います。やはりそういう国民国家のありようを人びとは欲望したんだと思うのです。つまり、国民として生きることに、共同体のなかでただの百姓として生きる以上の濃密な歓びを感じたからこそ、人びとはそれを選んだのだと思います。
例えば明治期に日露戦争で勝って日本が世界の一等国として認められたと感じたことは、共同体のなかで地べたを這いつくばって生きていた限りでは得られない大きな歓びだったでしょう。だから日露戦争以来、この国の各地の人びとは新聞による戦勝報道に喜んで提灯行列を繰り返してきましたし、少年たちは軍国少年として軍人になることに憧れました。つまりコミュニケーションによる日常生活の疎外とは、その見返りとして戦争とかオリンピックのような、メディアによる国民規模のお祭り騒ぎをもたらすというのが今日の私の主張なんです。
ここでちょっと角度を変えて考えてみるために、あるエピソードを紹介したいと思います。養老孟司さんがある本のなかに書かれているエピソードなのですが、彼が高校三年生のとき(1950 年代半ば)に、地元の鎌倉を歩いていると顔見知りのお婆さんに声をかけられて、「高校出たらどうするの」と聞かれたので、「大学へ行きます」って答えた(東大医学部だったわけですが)。そうしたら、そのお婆さんがしみじみと養老さんの顔を見て「アンタね、大学に行くのはいいけど、大学に行くとバカになるよ」って言ったっていうんです。バカっていう言い方が厳しすぎるとしたら「頭でっかち」ということでしょうか。
つまり、大学に行って学問をして、日本という国家の行く末や人類の平和について考えたり、顕微鏡のなかの細菌に関して異常に詳しくなったりしてしまうことは、ふつうに自分の身の回りの生活を自分で整えることができなくなるっていうことですね。大学に行って本ばかり読んで学問の知識を身につけると、それまでの生活のなかで知恵を働かせて生きていた人びととは違って、地に足がついていない浮ついた人間に変わってしまうということだと思います。それが、さっきから言っている「コミュニケーションによる疎外」ってことです。
メディア報道は、そのように地に足がつかない情報生活をさまざまな人びとに普及させてきました。私たちは、自分の隣近所の人びとがどんな生活をして、何を考えて生きているかをほとんど知らないのに、テレビ報道を通して、自分のいる場所からは遠く離れた場所の駅前商店街がさびれている様子や、過疎化に苦しんでいる人びとの姿を見て現代の格差社会という問題について抽象的に議論します。あるいは私たちはテレビで遠い国で飢えている子供の姿を見て心を痛めて募金したりする。だから世界認識の遠近感が完全に逆転しているわけです。メディア・コミュニケーションが普及するということは、身近な問題がだんだん希薄化していって、遠くの問題に関しての想像力がどんどん高まっていくということでしょう。だから、それって鎌倉のお婆さんの感覚で言えば、まさに私たちがバカになったということなんじゃないでしょうか。
でもコミュニケーションによってバカになればなるだけ、そこから得られる歓びも濃密になったと思うんです。近隣の青年同士の喧嘩騒動や村のお祭りといった「日常生活の相互作用」のなかで得られる祝祭的な歓びよりも、さっき言ったような日露戦争の報道に接した方が、その興奮のスケールが大きく高まるでしょう(講和条約をめぐって日比谷公園で騒動が起きましたね)。
しかもそういう興奮の高まりって、その報道を受け止める側だけではなく、その祝祭を遂行する側にも起きることだと思います。簡単に言ってしまえば、メディアを通してみんなに報じられると思うと、よりいっそう頑張れるっていうことです。片山さつきも、そこにカメラがいて報道してくれると思うから土下座をやれるんでしょう。
そういう意味でいま注目すべきはスポーツのアスリートだと思います。政治家が有権者にお願いしますって頭を下げているのに比べて、アスリートは脇目も振らずにひたむきに勝負しているという理由で輝いているように見えます。でも、そうでしょうか。私は違うと思います。むしろ反対にスポーツ自体が、メディアなくしては生まれなかったと言うべきでしょう。もしメディアが存在していなければ、100 メートルを9秒台で走ろうなどというバカな人間が現れるでしょうか。メディアを通して世界中の人びとが見てくれるからこそ、それだけむきになって頑張れるっていう前提があるはずです。だからこそ膨大な資金が特定の選手に投入されて、少しでも速く走るための科学的研究がなされ、その選手はひたすら9秒台で走るための練習を専門的に繰り返すことができる。そして、9秒台で走るスーパー・プレーが飛び出して、私たちはそれに熱狂するわけです。
しかしもしスポーツを純粋に楽しむというのであれば、運動会のリレーとかフットサルとか草野球のように、自分がやることを楽しんだほうがいいに決まっているわけです。自分自身はそんなに上手くはないけれど、身体感覚的に楽しめればいい。少なくとも、少数のスポーツ・エリートがプレーをして何億人という人間がただテレビでそれを見ているだけというのは、身体を動かす文化としてのスポーツという意味では明らかに不健康だしアンバランスです。ですからいまわれわれの持っている(「見る」ことを中心にした)スポーツ文化は、メディアと共に成長してきたというべきでしょう。
そういう意味で、一見したところスポーツは脇目も振らない本気の争いをしているように見えるわけですが、本当はメディアに中継されているからこそ頑張れるというメディア的構造がある。つまりスポーツでさえ、メディア的側面が最初から組み込まれている。その意味では、政治の場合と同じなんだと思います。政治もスポーツも根源的には、メディアを通して大勢の人びとに見られていると思うから、真剣に討論したりプレーしたりできる。むろんその見られているということをパフォーマーが意識しすぎたとき(フリップを出したときや土下座したとき)、私たち観客はしらけてしまう。つまり、そのようなメディア論的な構造抜きにして、ジャーナリズム論的な理想論だけでマス・コミュニケーションの問題は語ることができないと思います。コミュニケーションとはスポーツにせよ選挙にせよ、誰かが輝いたり、その輝いた誰かに拍手を送ったりする歓びに満ちているからこそ存在しているのだと思います。
むろんそういうメディア化された情報祝祭的な社会にはマイナスの側面もたくさんあります。その最大のものが戦争でしょう。それ以外にも例えば、身の回りの誰かが憎いという具体的な理由からではなく、メディアに向けて行われたとしか思えない犯罪がしばしば起きますよね。一例をあげますと、1997 年に神戸の中学生が起こした連続児童殺傷事件の犯人・自称酒鬼薔薇聖斗は、被害者の少年の首を切って最初校門の上に置こうとしたらしいんですね。校門の前は下り坂になっていて、下から見るとちょうどいいカメラアングルになるような所に置こうとしたんです。つまり殺したいっていう具体的な欲望だけでなく、メディアを通してそれをみんなに見せびらかしたいっていう欲望が彼にはあったんじゃないかと思います。最初から自分の犯罪がメディアで報道されると想像するからこそ、自分を燃え立たせて子供の首を切るなんて飛んでもないことがやれたように思える。これも、スポーツのスーパー・プレーと同じですよね。
2008 年に秋葉原で起きた通り魔殺人事件でもそうでしょう。彼はメディア空間のなかにトラックで飛び込んだとしか思えない。事実メディアはそういう事件をお祭りのように熱狂的に報道しますし、私たちもそれを話題にして日常生活のなかで大いに盛り上がる。そうやってメディア的な感情増幅を想像しつつ犯人たちが殺人を犯したと考えると、伊藤守さんの言うように確かに私も視聴者として不快ではあるんです。そういうメディア的な空間を鋭利に断ち切るジャーナリズムの批評がなければ困ると私も思う。しかしではメディア的な欲望を人間は抑制できるかっていうとそれは無理だし、ただジャーナリズムの正義だけで人間が生きて生けるはずがないってやはり思います。
4.メディアの呪術性
メディアはなぜあるのか。もうこれまでの話で分かっていただけたように、「楽しいから」というのが私のメディア文化論的な視点からの回答です。ジャーナリズム論的な視点からの答えは、おそらく情報を人びとに広く伝達することが、社会的な意義があるからだということでしょうが、それはあまりに表面的な答えにすぎないと私は思います。酒鬼薔薇聖斗の犯行の経緯を、微に入り細にわたって知ったからといって私たちの生活にいったい何の役に立つというのでしょうか。そんな危険な人間が出てこないように、みんなで気を付けるためなのでしょうか。彼のように心の闇を抱えた少年が再び出てこないように教育を改善するためでしょうか。そんなの無理に決まっているでしょう。別の教育の仕方には、それに応じて別の心の闇を持った人間が現れてくるに決まっています。ある固有の犯罪の細部を知っても私たちの生活には何の役にも立たない。でも確かに私たちは犯行の細部を知りたいですし、その犯行の理由を分析した心理学的・社会学的解説も(馬鹿馬鹿しいと思っても)読んだり聞いたりして楽しみたい。
そういう意味でマスメディアの報道は必要です。ただそれは社会的対策を講じるためではなくて、単にドラマを見ているようにみんなで興奮して、自分たちの生を充実させたいからでしょう。中学生が小学生の男の子を殺して首を切って校門に置いた。その事実に驚き、不安になり、興奮せずにはいられない。だから私たちはマスメディアを通して詳しくそれを報道して、みんなで噂話をしてお祭りのように盛り上がらずにはいられないのです。そのメディア的な興奮と歓びの社会的な共振作用はもはや道徳的な善悪などを超えて、むしろ呪術的なメンタリティに近いと私には思えます。
つまりメディアのもたらす歓びは、近代的な民主主義や合理主義を超えたところにあるのだと思います。それは、ポピュラー文化のさまざまな事例を見れば明白でしょう。20 世紀におけるマスメディアの発達とは、ニュース報道の発達であると同時に、ハリウッド映画やポピュラー音楽などの娯楽文化の普及の話でもあったはずです。チャールズ・チャップリンやビートルズやマイケル・ジャクソンへの世界的な熱狂の話を抜きにして、20 世紀のメディア文化を語ることはできないでしょう。メディアを通して世界中の人びとは、チャップリンのギクシャクした歩きやビートルズの純朴な愛の叫び声やマイケル・ジャクソンのビートへの共振を共有してきました。その意味では、マス・コミュニケーションとは、「情報」の伝達というよりは、「情動」の伝達という社会的役割を果してきたとも言えます。
ではそのような前置きをしたうえで、ここで『雨に唄えば』という映画の有名な場面を見てもらいます。
〜『雨に唄えば』上映〜
恋人を家まで送って行って、その玄関の前でキスをしてすっかり舞い上がってしまった主役のジーン・ケリーは、土砂降りの雨のなかで「ジャスト、シンギン、イン、ザ、レイン」と歌いだし、傘を閉じてそれをステッキ代わりにして、ずぶ濡れになって踊りだします。それは生きることの歓びを全身で表現しているかのような素晴らしい場面です。確かに私たちも日常生活の中で、恋人とキスをしたり、ちょっといいことがあったりすると、スキップしてみたり、鼻歌を歌いたくなったりするでしょう。失恋して悲しくなると、自分のことをちょっとだけ美化した悲劇の物語を友人に聞かせたりします。でもそれだけです。ですから私たちは、そうやって日常生活のなかに生まれては消えていく、生きる歓びや悲しみを、私たちはプロの作家に物語として書いてもらい、映画や演劇として役者に演じてもらって、本や映画や DVD としてパッケージ化し、今度はそれを読んだり見たりして歓びを感じるようになります。すると私たちは恋をしてなくても、気が向いたときに DVD を再生してジーン・ケリーを見て歓びの気分を味わい、鼻歌で「ジャスト、シンギン、イン、ザ、レイン」と歌ったりして楽しむのです。
つまり、私たちはパッケージ化されたメディア作品を手に入れることによって、日常生活のなかの生きる歓びからは疎外されてしまうのですが、逆にメディアを通してもっと濃密な生きる歓びを得ることができるということです。その意味で、私たちは少しずるい。雨が降って水たまりができると子供は喜んで、その中に足を入れてバシャバシャとやり始めますが、大人としての私たちはそれに対して、「やめなさい。靴が汚れるでしょ」などと叱りつけてしまうのですから。しかも私たちは『雨に唄えば』を DVD で子供に見せて、すごいだろなどと言うのですから矛盾以外の何物でもありません。でもそうやっていつまでもバシャバシャやっていては大人になれないのも事実です。この映画でも、最後に警官に見られていることに気付いたジーン・ケリーが、我に返って恥ずかしくなって踊りをやめる場面があることがとても大事なんだと思います。それは逆説的に、立派な大人がやらないような馬鹿な振る舞いだからこそ、ジーン・ケリーがやって見せたときに興奮するということを私たちに教えてくれています。
いや、馬鹿な振る舞いだと子供を叱るどころではない。私たち大人は、水たまり自体をなくそうと社会を挙げて取り組んできました。水たまりにうっかりはまって泥だらけになったりするととても不愉快になるので、土の道路をアスファルトで敷き詰め、側溝を掘って水がスムーズに流れるように工夫して、長靴さえ要らないような都市環境を作りあげました。昭和 30 年代の記録映像を見ると、当時の東京という都市の水捌けの悪さにびっくりすることがあります。東京のどこもかしこもちょっと雨が降っただけで川が氾濫してそこら中の道路が冠水してしまっていたんですね。だから住民たちは行政に陳情して、ダム建築や河川工事をしてもらって川の流れを変えてもらったり、側溝やアスファルトを作ってもらったりして、住みやすい住環境を作ってきたのです。するとそこに公共事業の利権が発生して、多くの土建屋さんがそれによって現れて、土建屋国家日本などと呼ばれるような社会システムが出来上がっていった。そのような公共事業のありようを改革しなければならない(行政改革)というのが、ここ 20 年ほどの大きな政治的争点でしたよね。だから水たまりをバシャバシャやる歓びを捨てた代わりに、大人たちは治水をめぐる政治と経済に励んできたのです。
これってある意味では馬鹿馬鹿しいことに聞えるかもしれません。でも必ずしも私は批判したいわけではないんです。そんなことを言ったら、この『雨に唄えば』のこの場面を作り上げること自体が、大きな利権のかかった、そして膨大な労力をかけたビジネスにすぎないからです。撮影所の中に本物の街そっくりのセットを作り、郵便ポストを立てたり自動車を走らせたりして、たくさんの雨を降らせて雨どいから水を噴出させ、道路に水たまりを作り、音楽とジーン・ケリーの踊りがうまくあうように、あるいは警官が出てくるタイミングが合うように何度も繰り返しリハーサルをしたはずです。そういった、もう狂気の沙汰としか思えないような面倒な仕事を繰りかえさなければこんな素晴らしい場面は作れないでしょう。けれど、そもそもみんなそこらの街の水たまりをバシャバシャやれば十分に楽しめるはずじゃないですか。でも人間はそうやって自分で自然に楽しむのではなく、自分ですることをあえて我慢して、スーパー・プレーとしての水たまりバシャバシャを作品として作って、それを商品として売り買いするような資本主義社会を作ってきた。つまり、この社会は決して合理的には動いていないのだと思います。
もう時間がなくなってきたようです。まとめますと、私が今日申し上げたかったのは、マス・コミュニケーションは、いつも私たちの感受性を揺さぶるような情動的な何かを伝えているのだという事です。片山さつきの土下座でも、酒鬼薔薇聖斗の犯罪でも、ジーン・ケリーが踊り狂う姿でもそうでしたね。そういうマス・メディアの非合理性は必ずしも批判されるべきことではない。人間はもともと非合理的なんですから。そして私たちが戦争や犯罪やスポーツや芸能に呪術的に盛り上がりたいという欲望は決して止められないでしょうから。むろんジャーナリズムやアカデミズムが、人間社会の理想を求めてそういう社会の非合理性を批判することは理解できます。ただ理想を追い求めるために、非合理な現実から目をそらしてはならないと私は言いたいのです。人間が呪術的な欲望によって政治や経済や文化やメディアを動かしているという事実を認めたところから、批判の作業は始まるのだと思います。
最後にもう一つだけある挿話を紹介させてください。人間の幼児とチンパンジーの学習行動を相互比較するための実験で、実験者がボタンを押して電灯をつけるという行動を両者がどのように模倣するかを観察したものです。その実験の一つで、実験者がおでこでスイッチを押すという奇妙な行動を取ってみせたところ、チンパンジーは因果関係をちゃんと学習して自らは手でボタンを押して電灯をつけたのに対して、人間の幼児はおでこでボタンを押すと思い込んで、そうしてしまったらしいのです。
何とも素敵な話だと思いませんか。この話は、動物のほうが自然の因果関係を把握して科学者として生きているのに対して、人間は人間を愛しているから、他の人間の行動を模倣することによって非効率的に生きているということを示しています。子供たちは大人たちに憧れ、その行動を模倣することを通して初めて大人になる。おでこでボタンを押すというのは、その幼児にとってはスーパー・プレーに見えたわけですね。その意味ではジャーナリズム論やコミュニケーション論は、人間にチンパンジーであってほしいと願っているのだということです。それに対して私はメディア論的な視点から、人間の非合理で馬鹿な振る舞いを愛することを基本にしながら、自分の研究をしたいと思う次第です。 

 

●歯を食いしばってもメディアの役割を貫く 2015/5
ジャーナリストをめざす学生に向けてなにごとか参考になることを書け、という本誌編集部からの依頼を受け、少なからず狼狽した。私がメディア業界に飛び込んだのはつい先日のような気でいたし、まだ先輩から教えを受けることばかりの身だと思っていたからなのだが、よくよく考えてみれば、この仕事を始めてもう四半世紀の時が過ぎてしまっている。いつのまにやら後輩やジャーナリスト志望者に向けてなにごとかを語ってもおかしくない齢としになってしまった、ということなのだろう。
とはいえ、乏しい頭をいくらひねっても、ここで偉そうに語るべきものを持ち合わせているとは思われない。私の中に辛うじて残されているのは、いずれも尊敬する先輩の記者やジャーナリスト、編集者たちからたたき込まれた教えばかり。つまり、オリジナルではない。身もふたもない言い方をすれば、単なる「受け売り」。
しかし、そう明記した上で、先輩たちからの教えのうち重要だと思うものをひとつ、ここで記しておこうという気持ちになった。どの仕事にも一定程度は共通する話だろうが、一見派手にも感じられるメディアやジャーナリズムにかかわる仕事とは、結局のところ地味な職人仕事の側面が強く、先輩から学んだ技術や教えを次世代に申し送りするのも大切なことだと思うからである。
不利益を甘受しても守らなければならない矜持
私が学校を卒業し、大手通信社に記者としての職を得た直後のこと、数々の修羅場をくぐってきたことで知られる編集幹部に誘われて安酒場に行き、ずいぶんと熱っぽく諭された。おおよそ次のような内容だったと記憶している。
〈記者とかジャーナリストとかいっても、数あまた多ある職業のひとつにすぎない。会社だって、基本的には営利企業だ。名刺を持っていけば誰にでも会えるが、オレたちは単なる会社員だし、偉ぶるなんてもってのほか、常に謙虚じゃなくちゃいけない。
ただ、この仕事にはほかの仕事と違うところがある。会社は、単なる営利企業じゃない。たとえ損をしても、たとえ不利益を甘受しても、意地を張って守らなくてはならない矜持がある。最悪の場合、そのために会社がツブれるかもしれない。その覚悟を常にしておかなくちゃいけないという点で、この仕事はほかの仕事と決定的に違う。お前も、それをいつも頭にたたき込んでおけ〉—。
いまから考えれば若かったのだろう、安酒場のカウンターで薄い水割りを傾けながら編集幹部の話を聞きつつ、わずかに武者震いした。現実にそんな話はキレイゴトであり、多くのメディア企業が自己保身と利益確保に躍起となっていることを間もなく知るのだが、あの武者震いは、組織を離れてフリーランスとなったいまでも決して忘れてはいけない初心だとたびたびかみしめる。

そう、はっきりいえば、真面目にやればやるほど損をしかねない仕事なのである。だが、この仕事に携わる以上、意地を張ってでも損を甘受せねばならない時が確かにある。どういうことか。
強者にこそ徹底した監視の目を
普通の企業や仕事なら、取引先やスポンサーとの関係はどこまでも円満に保ち、常に利益を極大化しようと考え、行動する。新聞社を例にとれば、取材先や広告主などがこれにあたるだろう。
しかし、新聞記者は取材先や広告主との関係を円満にしておくだけではいけない。取材先だろうと広告主だろうと、そこに何らかの問題点や不祥事があれば真正面から批判する。独自の取材や内部告発などによって取材先や広告主の不正をつかんだら、敢然とそれを記事化して問題提起しなくてはならない。
当然ながら、取材先や広告主は怒る。まったく無縁の他人であればまだしも、ふだんは親密にやり取りしている関係なのだから、怒りはさらに増幅しかねない。
しかも、ここが大切なところなのだが、メディアとジャーナリズムの大きな役割は「権力や権威の監視」にある。そんなものは理想論にすぎないと冷笑する輩やからが大手を振っているのが現実とはいえ、理想は理想として常に掲げ続けねばならず、それを貫くならばメディアとジャーナリズムにかかわる者は常に弱者の側に寄り添い、強者=力の強い者にこそ徹底した監視の目を注ぎ込まねばならない。
これも当たり前の話だが、力の強い者は文字どおり力が強く、反撃力も強い。不正を暴き、あるいは批判を加えれば、こちらも打撃を受けるおそれが高い。
ここで「力の強い者」と簡単に記したが、それにはさまざまなものがある。政権や官僚機構、それを構成する政治家や官僚は筆頭格だろうし、巨大資本を擁する大企業などもそれにあたる。私が長年取材した対象組織でいえば、警察や法務・検察などは絶大な権限と権力を保持している。
これ以外にも大手の広告会社や宗教団体、あるいは大手の芸能事務所なども関係業界やメディアに強い影響力を有している。メディアそれ自身が権力装置と化していることだってある。
そうした組織や団体、個人におもねらず、批判すべきは批判し、不正があれば敢然と告発し続けられるか。
言うは易いが、行うは難しい。
たとえば警察や法務・検察組織は、強大な権力機関であると同時に、新聞社の社会部記者にとっては重要な取材先であり情報源でもある。批判を加えたり不正を暴いたりすれば反撃を受けかねないし、取材などの面で不利益を受けるのは必至の状況に陥る。
ひとつだけ具体例を挙げる。
いまから約10年ほど前のこと、北海道の名門紙・北海道新聞(道新)がキャンペーン報道を繰り広げ、大きな関心を集めた。北海道警察本部(道警)が組織的に手を染めていた「裏金づくり」という不正を地道な調査報道で次々と明るみに出したのである。
本題からはずれるのでここで手口などは詳述しないが、警察組織には捜査協力者などに支払う「報償費」というシステムがある。ところが道警は、領収書を偽造するなどして実際には存在しない協力者に「報償費」を支払ったことにして裏金化し、幹部の遊興費や交際費にまわしていた。
理由はどうあれ、これは捜査機関である警察の明白な犯罪行為—たとえば文書偽造、横領など—であり、道新は1年半にもおよぶ地道な取材とキャンペーン的な調査報道でこれを公にした。最終的に道警はしぶしぶながら7億円以上の不正支出を認めて謝罪するところに追い込まれ、道新取材班は新聞協会賞などの栄誉にも輝いた。メディアとジャーナリズムの役割である「権力の監視」役を見事に務めたといっていい。
道新の裏金キャンペーンに北海道警が執拗な反撃
しかし、ことはこれで終わらなかった。おそらく道警は怒り狂ったのだろう、強大な権力を背景とし、間もなく道新に対して陰湿かつ執拗な反撃に出た。
当時の道新取材班メンバーらによれば、事件や事故取材の情報提供で道警は道新を締め上げ、現場記者からは悲鳴があがった。
また、裏金問題をめぐるキャンペーン報道とは直接関係のない記事が事実と異なると抗議を繰り返し、取材班メンバーによる書籍の一部記述が名誉毀損にあたるとして道警OBは訴訟まで起こした。さらには道新内部の不祥事案を口実とし、場合によっては強制捜査もありうると道新を脅しあげたこともあったらしい。
こうした反撃を受け、間もなく道新は膝を屈してしまう。抗議を受けた記事については「おわび社告」を1面にでかでかと掲載し、道警側と裏で内々に手打ちしたというのが定説になっている。事実、裏金問題の取材班メンバーは編集の中枢から次々に外され、幾人もの記者が社を去った。栄光から屈辱への転落、まさに死屍累々だった。
実をいえば、警察の裏金問題はなにも道警に限った話ではなく、各地の警察本部で営々と続けられてきた全国的な悪弊であった。しかし、全国紙をはじめとする他のメディアはこれをうすうす知りながら追及せず、悪弊は長年にわたって放置されたままとなっていた。
他のメディアはほとんど追随せず
これに道新の取材班は果敢に斬り込んだのだが、道新のキャンペーン報道を他のメディアは傍観し、ほとんど追随しなかった。果ては道警にすりより、道新をけなしつつ事件・事故に関する捜査情報を得るのに躍起となる者まで現れる始末だったらしい。
お分かりだろうと思う。メディアとジャーナリズム本来の任務である「権力の監視」役を担おうと真摯に貫けば、時にとてつもない痛手を受ける。もっと直ちょく截せつにいえば、損をする。真面目にやればやるほどしんどい目に遭う。逆に「力の強い者」と適度に折り合い、ねんごろにつきあい、うまく世渡りしていった方が圧倒的に得をする。
メディアとジャーナリズムが民主主義社会を支える
だが、そのような者はメディアとジャーナリズムの仕事にかかわるべきではない。少なくとも私は、絶対にかかわってほしくないと痛切に思う。それが前述した先輩の教え—たとえ損をしても、たとえ不利益を甘受しても、 ・・・  

 

●メディアの役割は「事実をそのまま伝える」こと 2018/6
メディアの役割は「権力を監視すること」だと勘違いしている、新聞やテレビの関係者や、ジャーナリストが日本には多いようだ。
国政選挙で誰に投票するかなどの重要な判断を下すとき、メディア情報を参考にしない人はいない。だから、「メディアも監視すべき権力の1つ」というのが現代人の常識である。
そんな常識すらない人々がジャーナリストを自称して、メディアの強大な権力を使える現状は、日本社会の不安要素の1つといえる。
日本や米国のような民主主義国のメディアに課せられた役割は、「取材した事実をそのまま国民に伝えること」だけである。事実に対する善悪や正誤、許せる許せないなどの判断を下すのは、主権者たる国民の役割だからだ。
従って、メディアは国民に伝える事実を政治的目的で選別したり、バイアス入りの脚色を付けて伝えるべきではない。そのような「印象操作」や「世論誘導」は、メディアが「活動家」として行ったプロパガンダと見なされる。
テレビ局の歴史番組制作スタッフに「反日組織の活動家」がいるという情報がネット上では話題だ。実名と顔写真も出ている。今後の展開に注目したい。
メディア関係者は、その事実が国民の視点から見て重要か否かを、編集権行使時の最大の基準にすべきだ。権力に好都合か不都合かを基準に入れると、必ず政治的なバイアスが出る。新聞は倫理上の問題だけだが、テレビなどの放送局がやれば放送法違反である。
北朝鮮や中華人民共和国(PRC)のような独裁国の場合、権力に不都合な事実を、メディアが国民に伝えるのは困難だ。北朝鮮の女性アナウンサーがそれをやれば、最悪の場合は死刑になる。これが本物の「報道の自由の侵害」であり、「国民の知る権利」が不満足な状態である。
日本のメディア状況は、独裁国家の真逆ともいえる。
安倍晋三政権にとって不都合な情報は針小棒大に報じるが、好都合な事実は可能な限り国民に伝えない。加えて、外国政府やスポンサー、組織的クレーマーに対しては、異常に気を使って「自己検閲」を行う。その結果、「国民の知る権利」が不満足という点でいうと、日本のメディア状況は北朝鮮やPRCと大差ない。
例えば、沖縄の「米軍基地運動」や「琉球独立運動」の背後に、大陸や半島の影が見えている事実は、産経新聞など一部のメディアしか報じない。自民党の杉田水脈衆院議員が提起した「科学研究費」(科研費)の問題もある。審査が適正だったか疑問が指摘されているのだ。
私は日本国民ではないが納税者だ。メディアによる「取材と報道」を実施してほしい。 

 

●マスメディアが世論形成に果たす役割とその揺らぎ 2015/12
言うまでもなく、日本のメディア環境は大きく変わりつつある。本稿ではまず、社会的リアリティの共有という視点からこれまでマスメディアが世論形成過程において果たしてきた役割をレビューする。次に、メディア環境の変化を選択性の増大という視点から捉え、社会的リアリティの共有を支えるマスメディアの力が揺らぎつつある現状を描く。さらに、こうした揺らぎにもかかわらず日本の政党や政治家が有権者とのコミュニケーションのためにマスメディアに依存せざるを得ない現状をふまえ、政治家によるマスメディアに対する批判がマスメディアに対する信頼を低下させる可能性について論じる。最後に、今後の世論形成過程と社会的リアリティの共有においてマスメディアが果たす役割について考察する。
1 社会的リアリティの共有を支えるマスメディア
マスメディアが世論形成において果たしてきた最も重要な役割の1つは、社会的リアリティの共有である。池田(2000)は、社会的リアリティを「私たちがふだんの生活や日常の行動の中で、これが本当だ、こうするのがふさわしい、これがもっともらしい、と受け止めうる現実感」(p.18)として定義したうえで、マスメディアという社会的情報環境の持つコミュニケーション論的な意味を検討した。その中で、池田はコミュニケーションが説得達成の相、リアリティ形成の相、情報環境形成の相の3相から構成されるとし、これら3相をまたぐマイクロ−マクロ・ダイナミクスの延長線上に世論形成を位置付けている。特に、マスメディアは信憑性のあるインパーソナルな情報源であり、社会的リアリティの共有を制度的に支える仕組みとして捉えられている。実際、新聞やテレビが人々の「擬似環境」を強力に形作っていた時代には、マスメディアは世論の主流を形成し(Gerbner et al. 1980)、異質で多様な情報への接触を通して人々に熟考の機会を与えてきた(Mutz & Martin 2001)。こうした社会的リアリティを支える性質を前提として、マスメディアの種々の「新強力効果論」は実証されてきた。いくつか例を見ていこう。
最も根本的なレベルで社会的リアリティの共有を支えるのは、知識の共有である。特に、政治的知識は民主主義社会において政治家のアカウンタビリティを保つために決定的に重要である。現政権の任期中に失業率は減ったのか、国家債務は増えたのか。こうした基本的な事実が共有されることで、業績評価に基づく投票行動を通して有権者が政治家をコントロールできる可能性が高まる。テレビ放送、特に公共放送はこうした政治的知識の共有に大きな役割を果たしてきた。公共放送の視聴は政治的知識量と正相関しており(Bennett et al. 1996;Holtz-Bacha & Norris 2001)、NHKもその例外ではない(Collet & Kato 2014)。また、北欧など公共放送によるハードニュースの供給量が多い国では政治的知識量のベースラインが高いだけでなく、政治的関心の高い人と低い人の間での知識ギャップが小さい(Iyengar et al. 2010)。つまり、公共放送を中心とするテレビが、政治的知識の共有に重要な役割を果たしている。
また、知識だけでなく、何が現在重要な問題であるかという、より主観的なリアリティや、何によって政権が判断されるべきかという基準の共有においてもマスメディアは大きな力を発揮してきた。議題設定効果研究は、報道量の多い争点ほど人々の争点重要度認知が高くなることを示し、その効果は争点自体に内在する重要性よりも報道量そのものに起因していることが示唆されている(Pingree & Stoycheff 2013)。さらに、議題設定効果研究から発展的に見出されたメディアプライミング効果は、報道量の多い争点ほど人々の認知的アクセシビリティが高まるため、大統領や政権を評価する際の基準として用いられやすくなることを示している(Iyengar、 Peters、 & Kinder 1982;Iyengar、 Kinder、 Peters、 & Krosnick 1984)1)。 いずれも社会に広く行きわたるマスメディアの報道量が人々の認知過程に影響することで、争点重要度認知や業績評価基準が共有されることを示している。
さらに、マスメディアは沈黙の螺旋理論が仮定した「準統計器官」の1つとして機能し、世論調査や街角インタビューなどのエグゼンプラーの提示を通して意見分布の認知の共有も支えてきた(Noelle-Neumann 1984;Brosius & Bathelt 1994)。ある争点に関して現在多数派を占めているのは賛成意見なのか、それとも反対意見なのか。そうした意見分布の認知の共有が世論の変化のきっかけとなるのである。同時に、自分とは異なる意見を持つ人がどのような論拠に基づいてそうした意見を表明しているのかという熟考型民主主義の土台となる認知においても、マスメディアが果たしてきた役割は大きい。Mutz & Martin(2001)によれば、マスメディア(特に新聞)はパーソナルコミュニケーションよりもはるかに異質な情報への接触を促進している。この効果は、そもそもマスメディアの報道には異質で多様な情報が多く含まれており、さらに日常生活における政治的会話と比較して選択的接触が生じる余地が少ないことに起因している。
こうしたいわばマスメディアの黄金期に見出されてきた効果の多くは、多くの人々がマスメディアの提供する比較的同質な社会的情報環境に埋め込まれていることを前提としていた。たとえば議題設定効果は、争点ごとの報道量の順位が各新聞、テレビ局の間で一貫していることを前提としている。マスメディアの説得効果はそれほど大きくないとされてきたが(Klapper 1960)、マスメディアによって提供される情報は「会話の通貨」となり、対人コミュニケーションを介した2段階の流れによって社会的影響力を発揮してきた(Katz & Lazarsfeld 1955)。重要なのは、オピニオンリーダーによって咀嚼され評価的な解釈が加えられる会話の「元ネタ」自体はマスメディアから発信される比較的同質な情報であり、かつオピニオンリーダーとフォロワーがそのトピックについて会話が可能である程度には情報共有されていることが前提となっている点である。このように、マスメディアをめぐる諸効果は、それが限定効果であれ新強力効果であれ、誰もが同質な社会的情報環境に囲まれているからこそ社会的に有意なものとして実証的に見出されてきたのである。
しかし、このマスメディアが提供する同質な社会的情報環境という前提は、メディア環境の多様化によって揺らぎつつある。1980年代以降ケーブルテレビが普及し、1990年代後半になるとインターネットの普及が始まる。もちろん、ケーブルテレビを通して従来のキー局の放送を視聴することもできるし、ネットを通じて新聞記事を読むこともできる。その意味では全く新しいメディアによって不連続な変化が生じたわけではない(橋元 2011)。しかし、どのようなメディアを選ぶか、そしてどのようなコンテンツを選択するかという点において、人々が手にする選択肢は過去20年間に爆発的に増大してきた。
このことをNHK放送文化研究所による「日本人とテレビ」調査のデータから見てみよう。「日本人とテレビ」調査では、2000年から2010年にかけて3回にわたって視聴可能な民放テレビ局数をUHFや衛星放送も含めて問うている2)。その変化は図1のとおりである。
   図 1 視聴可能な民放テレビチャンネル数の推移
2000年からの10年間において、5チャンネル以下の選択肢しかない人は35%から22%に減少した。一方、10チャンネル以上の選択肢がある人は21%から47%に増えている。民放キー局の数がほぼ不変であることを考えると、BS放送やCS放送の視聴によってチャンネルの選択肢が増えていると考えられる。さらに、視聴の文脈も多様化し、録画したテレビ番組を「毎日のように」見る人は2010年で8%であったが2015年には16%に倍増している。ハードディスクレコーダーの普及により、見たい番組を見たい時に視聴するスタイルが広がっている。言うまでもなく、選択肢の増大はネットの普及によってさらに加速している。ネットで接触可能なコンテンツは事実上無限大であり、人々は何らかの選好をベースに閲覧するものを選びとらざるを得ない。多様な選好を持つ人々がそれぞれ好みの番組やコンテンツを選び取ることができるようになったため、マスメディアが提供する情報環境の同質性に陰りが見られるようになってきたのである。
選択肢の数が増えただけでなく、人々はそもそもマスメディアに接触しなくなりつつある。2015年の「日本人とテレビ」調査は、日本人のテレビ視聴時間は調査開始の1985年以降初めて減少に転じたことを報告している。高齢者を中心とした長時間視聴に大きな変化はないが、若年層を中心に「ほとんど、全く見ない」人が2010年以来ほぼ倍増している。新聞を読む人も減少している。2010年NHK国民生活時間調査では、成人全体における新聞接触の行為者率(1日の中で該当の行動を少しでも(15分以上)した人が全体に占める割合)は平日で46%であり、過半数を割り込んでいる。もちろん、依然としてマスメディアは最も広範なオーディエンスにリーチできるメディアであり、社会的リアリティの共有を支え続けている。しかし、社会的リアリティが共有される「マス」の規模は確実に小さくなっている。このことは、マスメディアのリーチの縮小だけでなく、マスメディアが提供する情報の「会話の通貨」としての価値の減少も生み出している。再び2015年「日本人とテレビ」調査の結果によれば、「話題になっている番組は見たいと思う」に「あてはまる」という人やテレビから「人とつきあう時の話のタネが得られる」に「そう思う」と答えた人、テレビが「人とのつきあいを深めたり、広げたりするうえで最も役に立つ」と考える人はいずれも2010年以来有意に減少している。Gamson(1992)は、フォーカスグループ研究で、マスメディアから得られた情報をベースとした会話によって政治的意味世界が広い範囲で共有されるようなプロセスの存在を見出したが、こうしたプロセスが徐々にではあるが成り立たなくなりつつある。
人々が各自の選好に基づいて見たいもの、読みたいものだけを選び取ると、接触パターンが多様化し、オーディエンスの異質性が増大する。こうした新しい情報環境の中では、受け取る情報の同質性を前提としてきたマスメディアの効果は弱まる可能性がある。次節では、こうした情報環境の変化が世論形成過程にどのような影響を与えているのかを詳しく見てみよう。
2 選択肢の増加が何をもたらすか
人々が多様な関心や選好に基づいて見たいものだけを見ることが可能になると、マスメディアの議題設定効果やそれに伴うプライミング効果が弱くなる可能性がある。マスメディアは巨大な装置産業でもあり、取材網や印刷・伝送設備など大規模な設備を維持しながら利益を上げるために必然的にマスをターゲットとする必要がある。一方、ネットメディアの立ち上げに必要な初期投資はマスメディアと比較すると著しく少なく、その結果ニッチなオーディエンスを対象とすることで利益を上げることが可能になる。したがって、マスメディアとは異なる議題を設定してもそれに関心を持つ人々が一定程度存在すれば、ビジネスとして成立する。むしろ、オルタナティブメディアとしてマスメディアとは異なる議題を設定することで、市場のロングテールを狙う戦略が有効となる場合もあるだろう。こうしたマスメディアの設定する「主流議題」とは異なるトピックに関心を持つ人々の間で選択的接触が一般的になると、マスメディアが広い範囲で議題の優先順位を設定することが難しくなるだろう。
Nie et al.(2010)は、週に3回以上ネットニュースを閲覧する人は、それ以下の人々と比較すると、重要であると考える争点を尋ねる調査項目で「その他」の選択肢や、重要度認知の全体順位が低い争点を選ぶ傾向が強いことを報告している。このことは、ネットニュース利用者はニッチな争点を重要であると認知する傾向が強いことを示唆しており、マスメディアの議題設定効果が及びにくくなりつつあるという予測と整合的である。Tewksbury(2005)は、NetRatings社のネット閲覧ログデータを分析し、居住地などのデモグラフィックな要因やトピックによってニュースオーディエンスが分断化され始めていることを示している3)。つまり、個々人が関心を持つトピックや議題に選択的に接触することができるようになったことで、分断化したオーディエンスがそれぞれ異なる社会的リアリティの中に生きるようになりつつある。詳しく見ていこう。
ケーブルテレビやネットの普及によって可能になる選択的接触にはいくつかのレベルが考えられる。まず、コンテンツの選好レベルでの選択的接触がある。たとえば、エンターテインメントを好む人はエンターテインメントに選択的に接触し、ニュースを好む人はニュースに選択的に接触する。こうしたコンテンツベースの選択的接触が進むと、ニュースに対する関心の低い人が意図せずにニュースに接触することで副産物的に政治的知識を獲得する機会が低下し、投票参加が低下する。一方、政治的関心や党派性が強い人はニュース専門チャンネルやオンラインニュースに選択的に接触するなどしてさらに政治的知識が増え、投票参加も促進される。その結果、米国ではこうした関心や党派性の強い投票者にアピールすることのできる党派性の強い議員ほど当選する確率が高まり、連邦議会の極性化の一因となっている(Prior 2007)。
次に、関心のある争点に関する情報に選択的に接触する、争点ベースの選択的接触が考えられる。個人的重要度の高い特定の争点に強い関心を持つ人々はイシューパブリックと呼ばれ(Converse 1964)、社会保障に関心を持つ高齢者などが典型的である。ネットの普及によってマスメディアでは報道されないような詳細な情報やニュースバリューの低い資料などにもアクセスできるようになったため、今やイシューパブリックはネットを使ってより深い知識を得ることができる。このことは、スキャンダルなど非政策情報に偏りがちなテレビニュースからは得られない深い情報を得られるという点で、有権者の政治参加と政治的学習を促進するかもしれない(Iyengar et al. 2008)。一方で、イシューパブリックには議題設定効果が及びにくく、政党や政治家といった政治的エリートが発信する説得的なメッセージにも反応しにくいので(Zaller 2012)、世論のダイナミクスを抑制する可能性も考えられる。
さらに、明確な党派性やイデオロギー的傾向を持つメディアが存在する場合、有権者が自身の党派性と一致するメディアに選択的に接触する傾向がある(Stroud 2011)。たとえば、米国では保守的なイデオロギーを持つ人ほどFOX Newsを視聴する4)。こうした党派的な選択的接触が強まると、党派間での感情的極性化が強まったり、事実の共有が阻害される可能性がある。たとえば、2010年の米国中間選挙前には、約25%の人がオバマ大統領はイスラム教徒であると信じ、約半数の有権者がキリスト教徒であることに疑いを持っていたという(Hartman & Newmark 2012)。また、2003年にイラク戦争に関する調査を行ったKull et al.(2003)によると、かなり多くの人が「イラク戦争で大量破壊兵器が発見された」などといった誤った認識をもっており、FOXニュースの視聴者は最も誤認識の割合が高かったという。こうした党派的選択的接触はケーブルニュースだけではなく、ブログ(Adamic & Glance 2005)、フェイスブック(Bakshy、 Messing & Adamic 2015)、ツイッター(Conover et al. 2011)などでも見られる。ただし、党派的な選択的接触は政治参加を促進するというポジティブな効果も見られることは注目に値する(Stroud 2011)。
また、正確な意見分布認知の共有はマスメディアによって支えられてきたが、この点についても変化が見られる可能性がある。沈黙の螺旋の実証研究は、少数派は必ずしも常に多数派に駆逐されるわけではないことを示している。少数派は時に局所的な多数派を形成することでハードコア化し、多数派からの社会的影響に抵抗を示す(安野 2006)。ここでは意見分布の認知とハードコア化という観点から、ソーシャルメディアの影響について触れておこう。
近年ますます多くの人々がソーシャルメディアを通してニュースに接触するようになりつつあるが、そこで重要となるのは「友達」によって共有される情報である。フェイスブックでは比較的リアルな人間関係に基づいたネットワークが形成されるが、リアルな人間関係は同類原理から政治的意見の同質性が高い(Huckfeldt & Sprague 1995)。こうした政治的に同質な他者が「シェア」する情報は自分の先有態度と一致している確率が高いため(Bakshy et al. 2015)、社会全体の中では少数派であっても、ソーシャルメディア上ではあたかも自分と同じ意見を持つ人が多数派を占めているように見える可能性がある。一方、ツイッターでは見知らぬ相手やニュースアカウントであっても気軽にフォローできるが、自分と意見を同じくする人を選択的にフォローすることができる。したがって、同質な人々のツイートやリツイートに繰り返し接触することで、オフラインも含めた母集団における自分と同じ意見の割合が過大推定される可能性がある。このように選択的接触によって意見分布認知がゆがむことは、社会的リアリティの共有を阻害するかもしれない。一方、少数派であってもソーシャルメディアを用いてクラスタを形成することが容易になったことで、少数派がハードコア化しやすくなっている可能性がある(志村・小林・村上 2005)。グローバルな意見分布情報を提供するマスメディアの世論調査は、「世論を調べるための方法であると同時に、合意を作り出すための政治的装置(佐藤 2008;96)」であった。意見分布認知が共有されにくくなると、多様な意見が残存する一方で世論のダイナミズムが失われ、合意形成が困難になる可能性がある。
以上に論じてきたように、メディア接触における選択肢の増加は従来のマスメディア効果論に対して再考を迫っている。従来のマスメディア効果論はマスメディアへの接触を独立変数とし、人々の態度や認知を従属変数とするフレームワークを用いてきた。しかし、先有態度や選好に基づいた選択的接触が強くなると、もはやメディア接触は独立変数ではなく、意見や態度によって選び取られる従属変数として捉える方が適切になるかもしれない。仮に、保守的なイデオロギーを持つ人が保守的なメディアに選択的に接触するようになれば、その人は先有態度と一致する情報ばかりに接触することとなり、態度変化のきっかけは失われるだろう。Bennett & Iyengar(2008)はこうした新しいメディア効果論のモデルをメディアの最小効果論と名付けている(図2)。このような状況では、政党や政治家がマスメディアを通じたコミュニケーションによって有権者を説得することは著しく難しくなり、世論が過度に硬直化する危険性を伴う。さらに、経済指標など客観的な事実さえ共有されにくくなれば、業績評価に基づいた政党・政治家のアカウンタビリティ確保はますます難しくなるかもしれない。
   図 2 伝統的なメディア効果論とメディアの最小効果論
しかし、仮に社会的リアリティを支えるマスメディアの力が弱まったとしても、次節で論じるように政党や政治家といった政治的エリートは依然としてマスメディアを通じて有権者とコミュニケーションを取らざるを得ない。政治的エリートから広く発信される説得的メッセージこそが世論のダイナミズムを生み出すというZaller(1992)の議論に依拠すれば、ソーシャルメディアを通じた有権者との新たなコミュニケーションチャンネルが生まれたとしても、政治的エリートが世論形成過程へのインプット手段としてマスメディアを無視することはできないだろう。特に、過去数十年の間に日本では政党と有権者のリンケージが弱まり、政治的エリートが有権者とコミュニケーションをとる手段としてのマスメディアの役割はむしろ大きくなっている5)。次節では、世論形成に果たすマスメディアの力の揺らぎと、にもかかわらずマスメディアにさらに依存せざるを得ない政治的エリートとのせめぎ合いが何をもたらすのかについて見ていこう。
3 メディアポリティクスの台頭とマスメディアに対する信頼の低下
社会情報環境を形作るマスメディアの独占的な地位に変化が生じつつあった1990年代以降、日本では選挙制度改革と政治資金制度改革を両輪とする政治改革によって政党が有権者との直接的な接点を徐々に失うにつれ、マスメディアを媒介にして有権者と関係を持つ傾向が高まった(菅原 2012;中北 2012)。中選挙区制の下では党内ライバルと競争するために強固な後援会や支持団体が必要とされたが、新たな小選挙区制の下ではこうした政党と有権者を直接結びつけた組織が弱体化し、政党は選挙による政権獲得を至上命題とする議員政党へと変容しつつある(中北 2012)。また、平成の大合併による地方議員数の減少によって、政党が地方で有権者を動員する力は弱まっている。同時に無党派層の拡大が進み、「そのつど支持」(松本 2006)とも呼ばれる流動的な政党支持態度を持つ有権者が選挙の趨勢を決定する傾向が強まった。こうした無党派層は選挙のたびにマスメディアを通して伝えられる党首のイメージやスキャンダルに強く反応するため、政党側は「選挙の顔」としての党首のイメージを重視する傾向を強めた。さらに、マスメディアの側もソフトニュースやインフォテインメントなど娯楽的要素の強い政治ニュースによって視聴率を稼ぐ傾向を強め、小泉純一郎内閣で見られたように政党・政治家側の広報戦略とマスメディアの報道スタイルが相互依存的な変化を示しつつある。こうした1990年代以降の変化は、政治改革が二大政党を中心とするパーティーポリティクス (政党政治)を目指したのとは裏腹に、むしろ日本政治はメディアポリティクス(メディア政治)ないしテレポリティクス(テレビ政治)の性格を強めているようにも見える(大嶽 2003)。たとえば、Jou & Endo(2015)は、政党リーダーに対する評価と投票の相関が近年強まっており、この相関は視聴ニュース番組数の多い人ほど強いことを見出している。パーソナライズされた政治報道が投票行動に与えるインパクトが増していることを示唆する知見といえよう。
一方、前節まで概観してきたように、世論形成過程におけるマスメディアの果たす役割は徐々にではあるが揺らぎつつある。期日前投票や不在者投票の制度的変化によって選挙における比重を増した都市部有権者は、情報源としてネットを重視する傾向が強く、マスメディアを通した説得効果が比較的生じにくい有権者セグメントでもある。また、前述のメディアの最小効果論が論じるように、ネットにおける選択的接触はマスメディアの説得効果を無効化する可能性を持っている。しかし、政党や政治家がメディアポリティクスの中で有権者にリーチするためには、依然としてマスメディアに依存せざるを得ない。そこで、選挙における当選や有権者の説得を目指す政治的エリートは、できるだけ自分の利益にかなうようにマスメディアをコントロールしたいという誘因を持つ。しかし、マスメディアは必ずしも政治的エリートの意のままにふるまうわけではない(Zaller1999)。政治的エリートが有権者に届けようとするメッセージはマスメディアによって編集され、短いサウンドバイトのみが有権者に届けられる。ここに政治家がマスメディアに対して不満を抱く素地が生まれ、政治家によるマスメディア批判が生じる。失言を報じられた政治家が「メディアに発言の一部を切り取られた」と不満を表明するのは珍しいことではない。まとめると、世論形成過程におけるマスメディアの役割は揺らぎつつある一方で、政党や政治家は有権者とのコミュニケーションにおいてマスメディアに依存する傾向をむしろ強めている。しかし、マスメディアを意のままにコントロールすることはできないため、政治家がマスメディアに対して批判的な言動を繰り返す素地が生まれる。このことはどのような帰結をもたらすだろうか。ここでは米国での研究例を紹介しよう。
Ladd(2012)は、1970年代以降に米国で見られたマスメディアに対する信頼の大幅な低下に注目し、その原因として政治家によるメディア批判とメディア産業における競争の激化を指摘している。多くのすぐれたジャーナリストを輩出した1950 〜 60年代のマスメディアはプロフェッショナルなジャーナリズムによって人々から高い信頼を獲得していたが、Laddによればこれは歴史的には例外的な時期であったという。まず、この時期はメディア産業に対する規制が強く競争のレベルが低く保たれていたため、オーディエンス獲得のためにセンセーショナリズムに走る必要性が低かった。さらに、当時の米国の政党システムは現在と比べて極性化しておらず、政治家が自身に対して批判的なメディアを攻撃することが比較的まれであった。しかし、こうした条件が成り立たなくなると、マスメディアに対する信頼は1990年代にかけて大きく低下していった。まず、Party Sorting と呼ばれる党派性とイデオロギーの相関の上昇によって共和党と民主党のイデオロギー的極性化が1970年代以降進んでいった(Fiorina & Abrams 2008;Hetherington 2009)。さらに、1980年代以降の新自由主義的改革によってメディアの規制緩和が進み、メディア産業における競争が激化していった。その結果、現在ではしばしば民主党の政治家がFOXニュースなど保守派メディアを批判し、共和党の政治家がメインストリームメディアの報道内容がリベラルに偏向していると批判している。また、競争の激化はニュースの質の低下を招き、特にローカルニュースは犯罪やスキャンダルなど低コストで視聴率の稼ぐことのできるコンテンツに集中し、いわゆる「底辺への競争」が生じている(Hamilton 2004)。
こうした政治家によるマスメディア批判と競争の激化、それに伴うニュースの質の低下によって人々のマスメディアに対する信頼(以下、メディア信頼)が低下するという米国における知見は、現在の日本にどの程度当てはまるだろうか。NHKによる「日本人とテレビ」調査で「いちばん 信頼できる」メディアとしてテレビを挙げた人は、2010年の37%から2015年の39%へとほとんど変化がない6)。また、世界価値観調査で見ても、日本人のテレビや新聞に対する信頼は世界各国と比較してかなり高く7)、また新聞を信頼する人の割合は75%弱、テレビを信頼する人の割合は70%弱で1995年以来安定している。したがって、ここ数十年の間にマスメディアに対する信頼が急激に低下したとする直接的な証拠はない8)。しかし、全体的な信頼性の評価ではなく、より個別的な評価を見ていくと無視できない変化が見られる。「日本人とテレビ」調査で2010年まで測定されていた「マスコミが伝えていることは、ほぼ事実どおりだと思う」という見方に対する賛否では、「そう思う」とする人の割合は1985年の37%から2010年の26%までゆるやかではあるが一貫して低下している(諸藤・平田・荒牧 2010)。また、同調査で2010年と2015年にかけて測定されたNHKに対する評価のうち、「報道番組が中立・公正である」と考える人は24%から20%に低下している9)。政治家によるマスメディア批判が増加傾向にあるかどうかについてはデータが整っていないため明らかではないが、たとえば近年では朝日新聞の過去の慰安婦関連報道に対して安倍首相が批判を行ったことは記憶に新しい。実際、朝日新聞は誤報騒動の後に「信頼回復と再生のための委員会」を立ち上げており、読者の信頼が失われたことを認めている。このように、マスメディア全体では大幅な信頼低下は見られないが、報道内容の正確性や中立性に対しては徐々にネガティブな評価が増えており、背景には個々のメディアの誤報問題やそれに関連した政治家の批判など様々な原因が想定される10)。日本におけるメディアポリティクスの現状と多様化するメディア市場での競争の激化を考えれば11)、長期的には日本においてもマスメディアに対する信頼は徐々に低下していく可能性が高いと思われる。では、メディア信頼が低下するとどのようなことが生じるのだろうか。
4 マスメディアに対する不信がもたらすもの
前述のLadd(2012)は、政治家によるメディア批判と競争の激化によってメディア信頼が低下したことによって、議題設定効果やプライミング効果、フレーミング効果が効きにくくなる可能性を指摘している。これらのメディア効果論はマスメディアが信憑性の高い情報を広く社会に提供することで社会的リアリティの共有を支えていることを意味していた。たとえば議題設定効果が示すように、人々はマスメディアが提供する情報に一定の信頼を置いているからこそ、その報道量に従って争点重要度認知を調整していたわけである。しかし、メディアに対する信頼が低下すると、もはやマスメディアは社会的リアリティを制度的に担保するものとしてみなされなくなってしまう。メディアに対する信頼が低い人ほど、党派的なケーブルニュースやブログなどのオルタナティブメディアへの接触が増え、こうした党派的なオルタナティブメディアはマスメディアを激しく批判するがゆえにさらにメディア信頼が低下するという悪循環が存在する。また、メディア信頼の低い人はマスメディアが提供する経済状況などの客観的な指標に基づいて投票する傾向が弱く、自身の党派性や先有態度に基づいて投票する傾向が強まる。つまり、マスメディアが提供する情報が信頼できないがゆえに、自分の元々持っている意見や態度が情報によってアップデートされず、先有傾向がそのまま投票に直結してしまうのである。
このように、マスメディアに対する信頼が低下し、「どうせどんなメディアも嘘ばかりだ」と思う人が増えるのは危険である。Zaller(1992)は、政治的洗練性の高い人ほど自らのイデオロギー的傾向と一致しない説得的メッセージに抵抗を示すことを公理として理論を組み立てている。しかし、イデオロギー的に対立するメッセージだけでなく、そもそもマスメディアの提供する情報自体を信頼できないとすれば、政治的洗練性が比較的低い人々でも態度変容に抵抗を示すようになるだろう。Zaller(1992)のモデルでは政治的洗練性が中程度である人が最も説得的メッセージに反応しやすく、世論のダイナミズムを生み出す核となると考えられたが、こうした人々も態度変容に抵抗を示すようになると、世論形成過程が硬直化することにつながりかねない。
日本ではメディア信頼の内容を詳細に分析可能な代表性の高いデータはほとんど存在していないが、筆者らが2014年に実施したオンライン調査では興味深い結果が得られている12)。この調査は全国の20歳以上59歳以下を対象に性別(男女)と年代(20代・30代・40代・50代)を組み合わせた8セルの人数が均等になるように回収された(N=1、032)。その中で、マスメディアに対する猜疑心と主観的メディアリテラシーを測定する項目を新たに作成し、データを収集した。図3の上から3項目がマスメディアに対する猜疑心を、下の5項目が主観的メディアリテラシーを測定することを意図している。図から明らかなように、マスメディアに対する猜疑心、すなわち不信はかなり高く、いずれの項目でも肯定的回答(「そう思う」と「ややそう思う」の合計)は過半数を超えている。一方、主観的メディアリテラシーはマスメディアに対する猜疑心と比較すると肯定的回答が少ない。つまり、このサンプルに限定して言えば、メディアに対する不信のレベルは高いが意図的な操作や信憑性の低さを見抜けるほどのリテラシーを備えているとは考えられていない。さらに、図3の上から3項目を用いてマスメディアに対する猜疑心(α=0.83)の尺度を単純加算によって作成して他の変数との関連を調べると、政治関心の高い人ほどマスメディアに対する猜疑心が強く(r=0.18、 p<0.01)、さらに新聞を読んでいるかどうかとは相関していないことが明らかとなった(r=0.03、 n.s.)。政治関心の高い人ほどメディアに対する政治家による批判的メッセージにも接触しやすく、さらにソーシャルメディアやまとめサイトなどのオルタナティブメディアの利用率も高いため、マスメディアに対する不信をかき立てるような情報への接触も促進されるのかもしれない13)。しかも、こうした猜疑心は新聞を読むことによって解消されていない。猜疑心が低い人ほど新聞を読むという関係も見られず、マスメディアに接触している人であっても不信を抱きつつその情報を吟味している姿がうかがえる。
   図 3 マスメディアに対する猜疑心と主観的メディアリテラシー
5 これからのマスメディアと世論形成
メディア環境における選択肢の増加は、コンテンツ選好や争点重要度認知、党派性といった様々な要因による選択的接触を促進し、マスメディア発の情報をベースとした社会的リアリティの共有を困難にする可能性がある。人々が「いま何が重要な争点であるのか」という認知や「どのような争点を基準に現政権を評価すべきか」という基準、「いまこの争点で多数派なのは賛成意見なのか反対意見なのか」という俯瞰的情報を共有できなくなるとすれば、マスメディアが社会の合意形成をサポートしていく力は弱まっていくことが予想される。一方で、逆説的ではあるが日本政治はメディアポリティクスの性格を強めつつあり、政党や政治家は有権者とのコミュニケーションにおいてマスメディアへの依存を強めるがゆえに、マスメディアに対する批判やコントロールを強める誘因が高まっている。こうした中でマスメディアに対する信頼が低下すると、外的環境の変化に適応した世論の変化や合意形成が困難になりかねない。
もちろん、こうした未来がすぐに訪れるわけではない。2015年の「日本人とテレビ」調査で「世の中の出来事や動きを知るうえでいちばん役に立つメディア」としてテレビを選択した人は65%であるが、ネットは17%に過ぎない(新聞は14%)。また、「政治や社会の問題について考えるうえでいちばん役に立つメディア」としてテレビを選択した人は55%であるが、ネットは未だ9%程度である(新聞は28%)。依然として社会的リアリティを制度的に支えているのはテレビを中心とするマスメディアであり、世論形成におけるマスメディアの役割が目に見えて縮小しているわけではない。しかし、メディア環境の変化をふまえて既存の理論の修正が必要となっていることは確かだろう。Bennett & Manheim(2006)は、選択的接触によってオーディエンスが分断化され、パーソナライズされた政治マーケティングのターゲットとなるメディア環境では、オピニオンリーダーが影響力を発揮できる余地は少なく、「コミュニケーションの1段階の流れ」が生じる可能性を指摘している。従前どおりの「コミュニケーションの2段階の流れ」が維持されるとしても、前述のように政治的関心の高いオピニオンリーダーはむしろマスメディアに対する信頼が低いため、ソーシャルメディアやまとめサイトなどのオルタナティブメディアにも接触するだろう。オルタナティブメディアの情報は必ずしも信憑性が高くはないため、オピニオンリーダーの社会的影響を受けるフォロワーの社会的リアリティにも一定のバイアスがかかる可能性がある。
一方、Holbert、 Garrett、 & Gleason(2010)は、将来的にマスメディア発の情報は、ソーシャルメディアを介した新しい形の「2段階の流れ」を介して社会に行きわたると主張している。ソーシャルメディアで語られるトピックの多くはマスメディア発の情報であるが(Kwak et al. 2010;Leccese 2009)、そこではフォロワーとの直接の面識を持たないソーシャルメディア内のオピニオンリーダーたちが議論をリードしている(Himelboim、 Gleave & Smith 2009)。すなわち、現実の人間関係をベースとした従来型のオピニオンリーダーによる対人的影響ではなく、ソーシャルメディアを介してつながったより大きな集団が政治的メッセージのフィルタリング機能を果たしつつある。このようなネットを介した大規模で集合的なコミュニケーションが、マスメディア発の情報をベースに社会的リアリティの共有にどのような役割を担うのかが、今後の世論形成過程において重要な論点となるだろう。

1)ただし、Lenz(2009)やMiller & Krosnick(2000)がアクセシビリティヒューリスティクスに基づくメディアプライミング効果の説明に疑問を投げかけていることに注意する必要がある。
2)このデータは、2010年までの個人面接法調査のデータである。2015年調査には本項目は含まれていない。
3)この主張に対する反論として、Webster & Ksiazek(2012)を参照。ニュースオーディエンスの分断化に関するレビューとして、Owen(2012)を参照。
4) FOX Newsは保守的なバイアスを持つと言われている。また、選択的接触とは逆に、FOX Newsに接触することで保守的なイデオロギーが強まるという説得効果についてはDellaVigna & Kaplan(2007)を参照。
5)もちろん、今後はネットを介した政治コミュニケーションが活発化するだろうが、現在のところ政治的エリートと有権者の間のコミュニケーション手段としてネットが大きな役割を果たしている証拠はない。
6)テレビ局および新聞社に対する信頼については、本号の稲増(2016)も参照。
7)測定は、「非常に信頼する」「やや信頼する」「あまり信頼しない」「全く信頼しない」「わからない」の選択肢が用いられた。
8)なお、このことは米国や韓国でも当てはまる。米国では1970年から90年代にかけてメディア信頼は低下したが、その後は低いレベルで安定している。韓国も、日本よりは信頼のレベルは低いものの、60%程度の人がマスメディアを信頼している。
9)一方でNHKに対する評価で「娯楽番組に面白いものがある」は11%から14%に上昇している。逆に、民放に対する評価では「報道番組が中立・公正である」という評価は4%から5%に上昇、「娯楽番組に面白いものがある」は60%から56%に低下している。
10)ただし稲増(2016)は、政党支持がメディア信頼とほぼ無関係であることから、「政治家がメディアを批判することはあっても、そのことが支持者たちにも共有されてはいない」としている。
11)たとえば、日本のオンラインニュース利用で圧倒的視聴率シェアを誇るYahoo!ニュースは、既存のニュースメディアと競争関係にあるだけでなく、近年ではスマートフォン経由での閲覧が急増していることからソーシャルメディアなど他のスマートフォンアプリとも競争関係にある。このようにメディア市場における競争は、ニュースメディア間での競争から、他業種のアプリも含めたより広いプラットフォームで消費者の注意を奪い合う「異種格闘技戦」に移行しているといえよう。
12)この調査は確率抽出ではないオンライン調査であるため、いかなる明確に定義可能な母集団も代表していない点に注意する必要がある。将来的にランダムサンプリング調査にこれらの項目が含まれることが望ましい。本調査は、小林哲郎(国立情報学研究所)、高史明(神奈川大学)、鈴木貴久(総合研究大学院大学)によって実施された。
13)政治関心の高い人ほどメディア信頼が低いことは、ランダムサンプリング調査データを用いた本号の稲増(2016)でも一貫して示されている。 

 

●マスコミの情報操作と国民主権 2010/3
1.はじめに
筆者は、これまで主として憲法学的な観点から、いわゆるマスコミ(テレビ、新聞、ラジオなど)がもたらす種々の社会的弊害を除去するためには、どのようにマスコミを規制したらいいのかを考察してきた。本稿では、自らの保有する膨大な情報を恣意的に操作したり、虚偽の情報を作出したりすることにより、自らが望む世論や政治状況を形成したり、国民を欺き騙したりする等といったマスコミの弊害に焦点をあて、その問題点を検証していく。すなわち、後述するように、マスコミは現代社会において様ざまな機能を果たしているが、その機能の中で最も基本的かつ重要なのは、言うまでもなく報道の機能である。国民がマスコミの報道機関としての役割に大きな期待を寄せていることは、否定すべくもない事実なのである。しかし、マスコミの報道、とりわけ政治に関する報道において、このような情報操作が行われるならば、憲法の基本原理たる国民主権(憲法前文、1条)さえも侵害されかねない結果となる。すなわち、国民の意思に基づく政治という理念は形骸化し、実質上は“マスコミの意思に基づく政治”となってしまうのである。筆者は、近時のマスコミによる情報操作が問題となった事例(詳細は後述)を見るにつけ、その危険性を痛感している。このような観点からして、最も慎重な配慮が要請されるのが選挙報道であるが、現在の日本においては選挙報道につき明確な画一的ルールが設定されているとは言い難い状況にある。その危険性すら十分に認識されていないのではなかろうか。確かに、マスコミには国民の知る権利(憲法21条1項)を充足するという使命があり、最大限に取材の自由や報道の自由(憲法21条1項)等が保障される必要がある。しかし、同時に、マスコミには国民主権を実現するという使命もあるのであり、政治的な報道、特に選挙報道については、野放図に認めるわけにはいかず、真の民意が表出されるべく一定のルールが必要であろう。かかる問題意識に立って本稿では、具体的には、まず国民主権の意義を確認した上で、国民主権を侵害しかねないマスコミの情報操作の実例を見ていく。そして、その問題点を明確にした上で、国民主権実現のためにあるべき報道ルールを考えてみたい。“マスコミの情報操作が憲法の統治における大原則たる国民主権を侵害しているのではないか?”という問題は、憲法学の分野においてもこれまであまり明確に論じられてこなかった論点であると言え、本稿が深い学問的議論の端緒となることが出来たなら望外の幸せである。なお、筆者の前回の論文「マスコミ報道と人権」が人権に対するマスコミの弊害をテーマとしたものであったのに対して、本稿は統治に対するマスコミの弊害をテーマとしており、両者は、憲法に対するマスコミの弊害という点で、一体のものと考えている。
2.国民主権の意義
国民主権(憲法前文、1条)とは、政治のあり方は最終的には一人ひとりの国民が主権者として決定するという原理のことであり、換言すれば、国民こそが国政における主役であるという原理のことである。この点、大日本帝国憲法(1889[明治22]年発布)においては、神勅(神の意思)を根拠に天皇主権(同法1条)がとられ、天皇が統治権の総覧者(全ての国家権力の帰属者)(同法4条)として神聖不可侵(同法3条)とされ、我われは「臣民」(君主の被支配者)(同法18条以下)とされていたのと対照的である。国民主権の具体的意義を考えるにあたっては、フランス革命期(1789年〜)のフランスで提唱された二つの国民主権概念が注目に値する。すなわち、ナシオン(nation)主権とプープル(peuple)主権とがそれである。前者のナシオン主権とは、国民主権の「国民」を抽象的・観念的統一体としての全国民と考え、それ自体として具体的な意思・活動能力を備えた存在とは見ない。よって、政治制度としては間接(代表)民主制が帰結され、国民主権は単に国家統治の正当性の根拠に過ぎないことになる。例としては、フランスの1791年憲法が挙げられる。これに対して、後者のプープル主権とは、国民主権の「国民」を人民(具体的には、有権者団)と考え、それ自体として活動能力を備えた具象的に把握できる存在と見る。よって、政治制度としては直接民主制が帰結され、国民主権は国民による直接統治をも是認することになる。例としては、フランス人権宣言(1789年)やフランスの1793年憲法が挙げられる。この点、日本国憲法における「国民主権」については、学説により多少の表現上の差異はあるものの、1国家の権力行使を正当づける究極的な権威は国民に存するという意味(いわゆる正当性の契機。これはナシオン主権的発想)と2国の政治のあり方を最終的に決定する権力を国民自身が行使するという意味(いわゆる権力的契機。これはプープル主権的発想)との両要素が含まれていると理解するのが、憲法学における通説といえる。その上で、通説的見解は、日本国憲法においてはプープル主権的な直接民主制の規定として79条(最高裁判所裁判官の国民審査)・95条(地方自治特別法の住民投票)・96条(憲法改正の国民投票)の三条を定めるのみであり、国民の直接的主権行使をこの三つの場面に限っている一方で、ナシオン主権的な間接民主制(議会制民主主義)を原則的政治制度として採用していることから(前文・43条)、憲法は正当性の契機、すなわちナシオン主権的発想を国民主権の基本に置いているものと考えている。ただし、そのことにより国民主権の概念が形骸化するのを危惧し、権力行使者が国民の信託に反した場合には、国民は、その権力行使者を批判できるだけでなく、さらにこれに抵抗し倒すことができる権利、すなわち抵抗権が、書かれざる憲法上の権利として保障されていると考えている。
かかる国民主権概念を前提にするならば、間接民主制(議会制民主主義)において代表者たる議員を選出する選挙が極めて重要な意義を有することになる。そして、その選挙がマスコミの情報操作によって支配され、歪められるならば、国民主権の実現は著しく困難になってしまうのである。また、選挙は、憲法学上、公務員を選出する公務であると同時に自らの意思を政治に反映させる人権(選挙権、憲法15条1項)とも考えられており[佐藤 1995: 108]、選挙におけるマスコミの情報操作は選挙権侵害として人権問題にもなりかねないのである。さらに、国民の政治的意思が直接的に政治に反映される数少ない機会である最高裁判所裁判官の国民審査(79条)や地方自治特別法の住民投票(95条)、憲法改正の国民投票(96条)におけるマスコミの情報操作にも、国民主権を侵害する危険性があり、注意が必要となる。例えば、特定の最高裁判所裁判官を罷免に持ち込むことを企図し、衆議院議員選挙の直前に虚偽の情報を流すとか、あるいは、世論を憲法9条改正賛成の方向へ誘導するために、故意に北朝鮮の脅威を誇張するなどが考えられる。しかし、国民主権にとって最も危険が高いのは言うまでもなく選挙の過程におけるマスコミの情報操作であるから、本稿ではこの問題を中心に検討していく。
この点、マスコミの情報操作にも、大別してつぎの三類型があることには注意が必要である。すなわち、1マスコミが自ら意図して主体的に情報操作をする場合。また、2マスコミが気付かないうちに権力によって情報操作の一翼を担わされている場合。さらに、3マスコミが権力によって情報操作を強要されている場合である。そして、その各場合で検討すべき点は全く異なる。まず、類型1の場合には、まさにマスコミが不当な情報操作をしないようにマスコミの報道に何らかのルールを設定すべきではないのか。設定するとしたら、そのルールはいかにあるべきかが問題となる。つぎに、類型2の場合には、むしろ国家機関のマスコミに対する情報操作が問題となる。この場合には、国家機関の十全な情報公開を実現することや、国家秘密の取り扱いの適正化等が課題となろう。そして、類型3の場合には、マスコミ報道が自由かつ十分に行われるように、国家機関のマスコミ報道に対する不当な干渉を排除することが必要となる。このように、類型1の場合にはマスコミの表現の自由、具体的には報道の自由(憲法21条1項)の制限が要請されるのに対して、類型2・3の場合には逆にその保障の強化が要請されることになる。このような二律背反な要請に対して、どのようにバランスを取って妥当な結論を導くかが、マスコミの情報操作を考える場合の困難な問題となる。本稿では、類型1の問題を中心に論じていくが、その際には類型2・3の問題の存在を常に念頭に置き、マスコミの報道の自由に十分に配慮していきたいと考える。
3.マスコミの情報操作の実例と問題点
そもそもマスコミが果たしている具体的機能としては、1歴史や文学等、雑多な知識を私たちに教えてくれる教育の機能、2どれが良い商品かを伝えてくれる宣伝の機能、3芸能、スポーツ等、私たちを楽しませてくれる娯楽の機能、4様ざまなニュースを私たちに届けてくれる報道の機能など、色々な機能が挙げられる[春原・武市 2006: 119]。それらの各場面で、広い意味での情報操作(いわゆる、“やらせ”)が隠密裏に平然と行われている。例えば、1カメラが初めて入るという秘境の地のドキュメンタリー教育番組で、元気なスタッフに高山病の演技をさせたり、崖から岩が転げ落ちる「流砂」現象をわざと起こさせる[春原・武市 2006: 156]。また、2ラーメンのテレビ・コマーシャルのために撮影、放送される“おいしそうなラーメン”には、実際には様ざまな薬品が入れられ、「色とつや」が強調される。“こんなに簡単にこんなにおいしそうなラーメンが作れます”とコメントされるが、それは実際にはありえないラーメンであり、もし食べれば確実に死ぬのである[渡辺 2001: 114-115]。さらに、3破綻寸前の夫婦を個性的な司会者やコメンテーターが叱ったり慰めたりする娯楽番組では、生々しい愛憎劇を遺憾なく見せつけた夫婦が、実はセミプロの俳優であったという[春原・武市 2006: 156]。しかし、マスコミの機能の中で最も基本的かつ重要なのは、前述したごとく4報道の機能であり、そこで情報操作が行われるならば、憲法の基本原理たる国民主権(憲法前文、1条)さえも侵害されかねない。この点、以下、マスコミの情報操作の具体例を前述の三類型について見ていく。
まず、マスコミが権力によって情報操作を強要されていた事例としては、戦時体制下の日本においてマスコミが戦争遂行の道具として政府の言論機関に組み入れられていたことが挙げられる。すなわち、出版法、新聞紙法、治安維持法、国家総動員法等の軍国主義的戦時法制や、言論統制を一元的に行う内閣情報局などによって、マスコミは厳しく統制され、政府の戦争遂行という目的のため、強制的に情報操作の一翼を担わされた[松井 2003: 5-8]。マスコミは、政府と軍部の支配下におかれ、報道内容には事前検閲によるチェックが行われ、戦況自体も「大本営発表」以外は報道することが許されなかった[春原・武市 2006: 27]。
また、マスコミが気付かないうちに権力によって情報操作の一翼を担わされた事例としては、1990(平成2)年、イラク軍のクウェート侵攻で勃発したいわゆる湾岸戦争の際、イラクの環境テロ行為の象徴とされた“油まみれの水鳥”の映像が挙げられる。油まみれで真っ黒になった水鳥の映像は全世界を駆け巡り、その原油はイラクが流出させたものとされ、当該戦争を起したイラクの行為がいかに環境を破壊しているかを訴える場面で度々使われた。それを見た人々は、イラクの非人道的行為に憤慨し、アメリカを中心とする多国籍軍が早期に戦争終結せんことを願った。しかし、戦後、その原油の流出はアメリカ軍の爆撃によるものであり、アメリカ国防総省はそれを知りつつ当該映像を戦意高揚に利用していたことが明らかとなった。すなわち、この映像は、アメリカ政府のメディア・イベント、換言すれば、やらせであったのである。日本でもかかるアメリカ政府の恣意的な情報操作は大きな問題となった[保岡 2002:149-151]。結局、アメリカや日本を始め各国のマスコミは、知ってか知らずか、アメリカ政府の情報操作の一翼を担ったのである。戦後、アメリカにおいては、主要なマスコミが政府に抗議したり、戦争報道を改善するための原則案を政府に提案したりすることがなされ、また、日本においても、マスコミがアメリカ側の情報を細かな情報収集や情報分析による検証なく無批判にそのまま流したことが問題点として指摘された[木村 1992: 27-62]。
さらに、マスコミが自ら意図して主体的に情報操作をした事例としては、いわゆる椿発言問題が挙げられる。この問題は、選挙におけるマスコミの情報操作の危険性を広く国民に知らしめることとなった。この問題とは具体的には、1993(平成5)年9月21日に開催された民放連の放送番組調査会にゲスト・スピーカーとして招待されたテレビ朝日の椿貞良報道局長(当時)が、その夏の衆議院議員選挙の報道をふりかえり、選挙活動期間中に報道局長としてニュース報道を通じて、「連立政権の発足を目指して非自民政権をバック・アップするように指示した」という趣旨の発言をしたものである。この衆議院議員選挙は、具体的には、1993(平成5)年7月4日に公示され、同年同月18日に投開票された第40回衆議院議員総選挙のことであり、この選挙で自由民主党は第一党ながら、結党以来初めて野党に転落し、非自民連立政権である細川護煕内閣(当時日本新党党首)が誕生した。この問題は国会でも取り上げられ、ついには自民党からの提案により、椿局長の国会における証人喚問(10月25日)にまで発展することになった[春原・武市 2006: 157]。これが中立・公平を謳う大マスコミの報道局長の発言とはにわかに信じ難く、マスコミによる恣意的な情報操作の危険性を痛感させられる出来事である。かかるマスコミの情報操作を防止する制度的な手立てが現行ではほとんど存在していない点は大きな問題であろう。
4.マスコミの情報操作の手法
それではマスコミは、現実的にはどのような手法で情報操作を行うのであろうか。この点、世論操作につながる情報操作の手法は、大要、つぎのように分類することが可能である。まず、1虚偽・歪曲(いわゆる捏造)がある。これは故意に事実を歪曲して情報を流したり、あるいは虚偽の宣伝をすることによって情報操作が行われる場合である。また、2隠蔽・統制がある。これは特定の事実を隠すことによって情報操作が行われる場合である。つぎに、3誇張・演出(いわゆるメディア・イベント)がある。これはイベントを造出することによって情報操作が行われる場合である。具体的には、マスコミの集団的過熱報道により、社会的に大規模なセレモニーがイベントとして演出され、それについての情報が社会に充満していく。それに呼応して、他の情報は相対的に社会から減少していき、ついには排除されたりする。このようにして、国民の関心を造出されたイベントに向けさせることにより、特定の争点から国民の目をそらさせることが可能となる。例えば、現政権擁護の目的で現首相の収賄事件から国民の目をそらさせるために、ささいな有名芸能人の恋愛話を大々的にスクープする場合が挙げられる。また、これとは逆に、造出されたイベントにより人心をあおり、国民の関心を特定の方向へ誘導することも可能となる。例えば、ことさらに北朝鮮の脅威をあおり、北朝鮮への制裁容認へと国民の意思を誘導する場合が挙げられる。さらに、4選択・管理がある。これはマスコミにより情報が出口のところで選択され管理されている場合である。例えば、情報の発表時期を故意にずらしたり、情報を故意に分割し小出しに発表すること等が挙げられる。加えて、5感情訴求・印象形成がある。例えば、「 〜しないと大変なことになりますよ」と恐怖心をあおったり、また、「こんなことでよいのだろうか」と不安感をあおるフレーズを連発する。かかる言語のみならず、写真や映像、音楽などを駆使し、さらにそれらに作為を加え、芸術的でさえある見事な描写を行う。確かに、それらは決して嘘ではないかもしれない。しかし、それらは過剰なまでに見る者の感情に働きかけ、実態を反映していない印象を視聴者に形成し、国民の中に特定の心象を作出する[柳井 1993:222-232]。この点、選挙報道における虚偽や捏造は論外であり、それらについてはマスコミ自体に特別のペナルティを科することも検討されてよい。しかし、それ以外には効果的な報道を行うためのマスコミの報道テクニックの範囲内として一般的には許容しうるものも多い。よって、これらの手法の一切を一律に禁止することは妥当性を欠くし、また、それは実際上不可能であろう。しかし、国民主権に直結する選挙報道については、“どのように報道するか”よりも、“何を報道するか”に意を払うべきであり、余計な創意工夫は不要である。国民にとって必要な事実をただ冷静に淡々と報道するという姿勢が肝要なのではないか。その意味で、選挙報道番組において各テレビ局が視聴率競争をすることは、どうしても演出過多に走ってしまうことから、妥当ではなかろう。少なくとも投票日前後の選挙報道番組の視聴率は出来うる限り非公表とし、視聴率競争を回避するような取り扱いも検討すべきと考える。まずは、各マスコミ間の紳士協定として選挙報道については、“競争し合う”のではなく、国民のために“協力し合う”ことを取り決めるべきであろう。
マスコミが使用する情報操作の手法として、選挙のたびに問題視されているのが、いわゆるアナウンスメント効果である。アナウンスメント効果とは、マスコミによる選挙結果の予測報道が、実際の投票結果に影響を与える現象をいう。具体的には、1有利と報道された候補者がさらに支持を集める現象たるバンドワゴン効果と2不利と報道された候補者がかえって同情票を集める現象たるアンダードッグ効果とがある。さらに、3楽勝と報道された候補者陣営や支持者の気が緩み、票を減らす現象たる楽勝ムード効果もあろう。通常、選挙情報の中で候補者に最も深刻な影響を与えていると考えられているのが選挙予測報道であるが、アナウンスメント効果の実在性や影響力については、現在のところ、学問的に完全に実証されている訳ではない。この点、フランスではアナウンスメント効果が生じるとして、投票日とその前1週間は選挙予測報道を禁止している[高瀬 2005:96]。日本では、以前、東京大学新聞研究所が「『選挙報道と投票行動』プロジェクト研究」を行い、その有無を確認している。この研究によれば、「マスコミ報道は、有権者による候補者の当落や議席数の予測には影響を与えるが、この予測は投票意図の変更や投票行動そのものの変更には結びつかない」と結論している。よって、選挙予測報道それ自体は、情報操作にはならないことになる。しかし、選挙予測報道は、たとえ有権者自身には影響を与えていないとしても、実際上、候補者の陣営には大きな影響を与えているという。例えば、かかる影響について川上和久は、自らの取材をもとに「ある陣営の幹部は、序盤は『当落線上』と書かれた方が、かえってありがたい、中盤から終盤にかけて、『浸透進む』、『当選圏内』と書いてもらえればベストだと述べていた。・・・選対は、楽勝ムードが一番恐い。陣営の運動員やシンパが、楽勝ムードで、五人に声をかけるところを二人にしか声をかけなければ、それだけで大きな痛手だ。楽勝ムードが報じられると、それを打ち消して回るのに必死になる。苦しい戦いと報じられれば、それをネタに運動員にハッパをかける。つまり、マス・メディアによって報じられた内容は報じられた内容として受け入れ、それをもとにいかに効果的な情報操作を、特に自陣営に対してできるかが、選対の腕の見せ所というわけだ」と述べている[川上 1994: 134-135]
また、マスコミが使用する情報操作の手法として、いわゆるサブリミナル効果も問題視されている。サブリミナル効果とは、意識されないレベルで呈示された刺激(サブリミナル刺激)の知覚(サブリミナル知覚)によって生体に何らかの影響を生じさせることをいう。これとは逆に、意識されるレベルで呈示された刺激の知覚は、スプラリミナル知覚と呼ばれる。 例えば、1995(平成7)年、TBSのオウム真理教関連番組の中で、サブリミナル効果を狙った手法が使われたことは記憶に新しいところである。この番組においては、挿入時間はほんの一瞬であり、意識していない限りはほとんど気が付かない程度のカットではあったが、オウム真理教代表の麻原彰光被告の顔等のカットが、番組内容とは全く無関係な場面で何度も挿入されていた。この行為は、社会的に厳しい批判を浴びることとなった。その際、TBSは、かかる手法を「番組のテーマを際立たせるための1つの映像表現として用いた」と釈明したが、当時の郵政省(現在の総務省)は妥当性を欠くとしてTBSに対して厳重注意処分という行政指導を行った。それに対して、TBSの側も「視聴者が感知できない映像の使用はアンフェアであった」と謝罪した。この事件は、サブリミナル効果の存在を広く世間に知らしめる結果となった。この事件の後、1995(平成7)年に日本放送協会(NHK)が、1999(平成11)年には日本民間放送連盟が、それぞれの番組放送基準でサブリミナル的表現方法を禁止することを明文化している。サブリミナル効果の実在性や影響力についても、現在のところ、学問的に完全に実証されてはいない。この点、かかるサブリミナル効果について、坂元章は、これまでの実証研究の知見によってその効果は確実にあると言えるものではあるが、どのような条件の下でその効果が強くなるかという問題については現在のところ十分に明らかにされていないとする。そして、サブリミナル効果は、人・物の見え方やそれに対する好悪・評価などの感情・認知面に対して一定の効果があることは多くの研究によって実証されているものの、実際の反応・行動面に対しての効果を示した研究は少ないとする。よって、例えば、ある新商品につきサブリミナル効果を狙った手法で宣伝したとしても、視聴者に対して当該商品についての好印象を植え付けることはできても、実際に当該商品を買わせることまではできないということになる。とするならば、マスコミがサブリミナル効果を狙った手法で選挙報道をしたとしても、有権者が無意識のうちに特定の候補者に投票してしまうという危険性はないことになる。ただし、サブリミナル効果は、有権者の感情・認知面に多少なりとも影響を与えることができさえすれば十分と考えるのであれば、マスコミの情報操作の手段として、それなりに活用できる手法ということになろう[坂元 1999: 171-181]。
さらに、近時、マスコミが使用する情報操作の手法として、いわゆるプライミング効果も問題とされている。プライミングとは、準備する・下地を作るという意味である。プライミング効果とは、本来、心理学の専門用語で、先に与えられた情報(先行刺激)が、後に続く情報(後続刺激)の処理に無意識に影響を及ぼすことをいう。例えば、悪名高い凶悪殺人犯の顔写真の後に、その犯人と似ている別人の顔写真を見せると、見た人はその別人に悪印象を持つと言われている。この点、2006(平成18)年、旧731部隊を取り扱ったTBSのニュース番組のなかで、安倍晋三官房長官(当時)の容姿が約3秒にわたって明瞭にテレビ画面に映っていたことが、何らかのプライミング効果を狙ったものではないかが問題となり、TBSが不適切であったと謝罪したことが記憶に新しいところである。そして、このようなプライミング効果は、選挙時の情報操作にも活用しうるとされている。すなわち、マスコミの報道は、「いま何が重要な社会問題か」「どの社会問題が公に議論されるべきか」といった人々の認識に強い影響を及ぼしている(いわゆるアジェンダ・セッティング[議題設定効果])。よって、マスコミが選挙前の選挙報道で強調した選挙の争点と有権者が重要と考える選挙の争点とは、一致する傾向がある。そして、特定の争点がマスコミで強調されるにつれて、プライミング効果により、その争点は、有権者が自己の投票する候補者や政党を評価・選択する際の基準として比重を増してくる。候補者や政党が得意とする政策はそれぞれ異なっているが(例えば、年金問題に非常に詳しい候補者)、マスコミが強調した選挙の争点を得意とし、それについて優れた政策を有する候補者や政党は選挙戦を極めて有利に戦うことができる。このようなことから、自らが得意な争点をどのように働きかけてマスコミに取り上げさせるかが、候補者や政党の選挙戦略・メディア対策においても重要になっているという。このことは、2005(平成17)年のいわゆる「郵政改革選挙」において、小泉純一郎首相(当時)が自らの最も得意な郵政民営化を選挙の一大争点としてマスコミに取り上げさせることに成功した結果、衆議院選挙で自民党が圧勝した事例からも明らかであろう[井上2004: 194-209]。
アナウンスメント効果やサブリミナル効果、プライミング効果等は、前述したように、いまだ学問上、科学的な実証が完全になされている訳ではなく、その効果も推測の域を出ない。しかし、それらの手法が単独では効果が乏しいとしても、それらの手法を一体的に駆使しマスコミが情報操作をしようとした場合には、一定の効果が生じうる可能性は十分にありうるのであり、その危険性は決して軽視することは出来ないであろう。また、たとえその効果が皆無であったとしても、かかる手法を隠密裏に使用すること自体が国民に対する信義誠実に反するといえよう。やはり“疑わしきは使用せず”の原則で行くべきである。少なくとも、国民主権に直結する選挙報道については、法律という形式を採るか否かは格別、これらの手法を明確に禁止する統一的ルールを策定すべきであろう。前述したごとくフランスでは、アナウンスメント効果を避けるため、投票日とその前1週間は世論調査の公表や評論が禁止されており、大いに参考となろう。さらに、かかる手法の存在と危険性を十分に認識して報道に接している国民は決して多くはないであろうから、国民に対してかかる手法の存在と危険性とを周知徹底する、いわゆるメディア・リテラシー教育も必要となろう。この点、むしろマスコミ自身が選挙報道の読み解き方を含めた国民に対するメディア・リテラシー教育を実践することが理想であろう。今後ますます日進月歩する科学技術により、マスコミの情報操作の手法は、より巧妙化、高度化するに違いない。よって、かかる点の学問的研究は今後とも鋭意、持続されるべきであるし、また、国民自身の目による監視も怠ってはならないと考える。
通常あまり指摘されてはいないが、筆者はマスコミが定期的に発表している世論調査結果を利用して、情報操作をする可能性もありうるのではないかと考えている。すなわち、マスコミが世論調査結果を発表する場合、結果とともに公表されるのは、1調査時期(例・2009年7月3日から5日)、2調査方法(例・電話法)、3調査相手(例・東京都の有権者)、4調査回答数あるいは率(例・1、042人)程度である[田中・河野他 2009: 94-206]。当該調査の存在や内容の真正を確認しうる情報はその程度しか与えられていない。それにもかかわらず、大半の国民は調査の手法にはほとんど意を払わず、調査結果にばかり目を向け、名前の知られた大手マスコミの調査であるというだけで何の疑いもなく信じ込んでしまう。それは非常に危険なことではないであろうか。もしかしたらその世論調査自体が全くのでっち上げなのかもしれないし、そこまではいかなくとも過誤や操作が介在していることは絶無ではなかろう。大手マスコミがその気になれば、道義上の問題は別にして、自社の選挙世論調査のデータを隠密裏に改ざんする程度のことは技術的には容易であろう。典型的な世論調査方法には、1個人面接法、2配付回収法、3郵送法、4電話法等があるとされ、選挙世論調査では通常、電話法の手法、具体的には、電話番号を無作為に発生させてその番号に電話をかけ、かけた世帯の対象者から調査相手を等確率で選ぶRDD(Random Digit Dialing)方式という手法が採られることが多い。しかし、この方法は、厳密には等確率抽出(調査相手に選ばれる確率が全ての調査対象者で等しい抽出)ではなく、サンプリング誤差を正確に見積もることは難しいとの指摘もある[酒井 2009: 19]。マスコミの世論調査を適正化する何らかの手立てが必要であろう。とりわけそれが選挙世論調査の場合には、国民主権にも関わることであるから、少なくともその調査の適正性を事後的に検証できるようにすることが是非とも必要である。この点、選挙世論調査の方法についてはマスコミの統一的基準を定め、原則としてそれに従って選挙世論調査を行うものとすることも検討に値しよう。また、適正な世論調査がなされたとしても、その調査結果を恣意的に利用することによるマスコミの情報操作にも注意が必要である。例えば、適正な世論調査で「現憲法を改正すべきである」という結果が出たとしても、この場合に、「だから現憲法は時代の要請にそぐわなくなった」とか、「国民は現憲法に満足していない」など、現憲法に否定的な結論を直ちに導くことは明確に誤りである。なぜならば、現憲法の理念をさらに推進し、実現させる憲法改正も十分にありうるからである。世論調査結果の恣意的利用による情報操作の危険性を回避するためには、客観的な調査結果データとマスコミ自身の主観的な意見・主張とを、形式上明確に分離する取り扱いを徹底させる必要があろう。
5.現行法および判例の立場
(1)現行法の立場
選挙時のマスコミ報道については、選挙の“自由”を強調するのか、あるいは選挙の“公正”を強調するのかにより、その取り扱いの基本的なスタンスが異なってくる。すなわち、自由な選挙を重視するならば、選挙時においてもマスコミ報道を特別に規制すべきではなく、むしろ国民の政治的意思が表明される最大の機会として、国民に対する自由な情報提供をより積極的に行うべきということになろう。これに対して、公正な選挙を重視するならば、選挙は国民の政治的意思が表明される最大の機会なのだからマスコミの恣意的、濫用的な報道は決して許されるべきではなく、平時とは異なり公正確保のためにマスコミに対する特別な積極的規制が要請されることになろう。この点、現行法において、選挙時のマスコミ報道に対して規制的に働きうる条文として、以下のものが挙げられる。まず、電波法によると以下のように明文化されている。すなわち、目的としてその第1条においては「この法律は、電波の公平且つ能率的な利用を確保することによって、公共の福祉を増進することを目的とする」、そして、罰則としてその第106条には「自己若しくは他人に利益を与え、又は他人に損害を加える目的で、無線設備又は第100条第1項第1号の通信設備によって虚偽の通信を発した者は、3年以下の懲役又は150万円以下の罰金に処する」とある。また、公職選挙法にも以下のような罰則規定がある。すなわち、虚偽事項の公表罪(第235条)として、その第1項には「当選を得又は得させる目的をもって公職の候補者若しくは公職の候補者となろうとする者の身分、職業若しくは経歴、・・・に関し虚偽の事項を公にした者は、2年以下の禁錮又は30万円以下の罰金に処する」、そして、その第2項には「当選を得させない目的をもって公職の候補者又は公職の候補者となろうとする者に関し虚偽の事項を公にし、又は事項をゆがめて公にした者は、4年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金に処する」とある。しかし、電波法の罰則にしろ、公職選挙法の罰則にしろ、目的犯であり(「損害を加える目的」、「当選を得又は得させる[得させない]目的」)、かつ、故意犯である(「虚偽の通信を発した」、「虚偽の事項を公にした」、「事項をゆがめて公にした」)。よって、犯罪立証上の困難が存するのみならず、原則的には当該記事を書いた自然人たる記者個人に対して適用し、責任を問うしかない。マスコミという組織体にかかる虚偽通信罪や虚偽公表罪を直接に適用するには、刑法上、法人処罰の可否という難問をクリアーしなければならない。つぎに、選挙時のみならず一般的に適用される条文ではあるが、放送法3条の2第1項が定める番組準則も注目に値する。同条項は、番組編集にあたって遵守すべき事項として、公安および善良な風俗を害しないこと(1号)、政治的に公平であること(2号)、報道は事実をまげないですること(3号)、意見が対立している問題についてはできるだけ多くの角度から論点を明らかにすること(4号)を掲げている。この2号と4号の2つの要請は、いわゆる「公平原則(公正原則)」と呼ばれているものである[松井 2007: 465]。しかし、この条項は、法規範ではあるものの通常あくまで倫理的・道徳的規定と解されており、また、不遵守の場合のペナルティが特別に定められている訳でもなく、よって強い規制的効力はほとんど期待しえない。さらに、選挙時のマスコミ報道に対して特に規制的に働きうる条文として注目に値するのが、公職選挙法148条の規定である。同条1項は、「この法律・・・は、新聞紙又は雑誌が、選挙に関し、報道及び評論を掲載するの自由を妨げるものではない。但し、虚偽の事項を記載し又は事実を歪曲して記載する等表現の自由を濫用して選挙の公正を害してはならない」と規定し、そして、同条2項及び3項は、両項相俟って、選挙運動期間中及び選挙の当日においては一定の要件(1新聞紙は毎月3回以上、雑誌は毎月1回以上、号を逐って定期に有償頒布するもの、2第三種郵便物の承認のあるもの、3選挙期日の公示又は告示の日前1年[時事に関する事項を掲載する日刊新聞にあっては6カ月]以来、1及び2に該当し、引き続き発行するものであること)を備える新聞・雑誌に限り、当該選挙に関する報道・評論の自由が認められ、そうした要件を具備しない新聞・雑誌で、頒布・掲示するものは、この期間中、選挙に関して報道・評論できないとしている。公選法は、現代社会においてマスコミ報道が国民の政治情報を知る権利(憲法21条1項)の実現に果たしている意義の重大性に鑑みて、マスコミが選挙に関する報道及び評論を掲載する自由を有することを原則的に認めた上で(同条1項)、選挙目当ての新聞・雑誌が乱発されて、特定候補者・特定政党と結びついて選挙宣伝に用いられる危険性を除去し、選挙の公正を確保するために、一定の要件を満たしたマスコミのみに選挙期間中の選挙に関する報道及び評論の掲載を認めたのである(同条2・3項)[糠塚 2008: 621]。しかし、国民主権を侵害するような情報操作を国民に対して行いうるような巨大マスコミは、ほとんどこの要件を満たしているであろうから、かかるマスコミには何らの規制とはならない。以上、概観してきたように、現行法は選挙報道を特別視する立場にはなく、選挙時の巨大マスコミの情報操作により国民主権が侵害される危険性に対しては、ほとんど配慮していない。現行法は、選挙時のマスコミ報道については選挙の公正よりも選挙の自由を強調しているものと評しえよう。
(2)判例の立場
それでは、判例は選挙時のマスコミ報道について、選挙の自由と公正のいずれを重視しているのだろうか。この点、選挙時のマスコミ報道についてではないが、最高裁は選挙運動一般について、1事前運動の禁止(公職選挙法129条)、2戸別訪問の禁止(公職選挙法138条)、3法定外文書図画の頒布・掲示の禁止(公職選挙法142条)等をいずれも合憲としており、その際、選挙の公正を強調している。すなわち、現在でもなおリーディング・ケースとして命脈を保っている1969(昭和44)年4月23日の最高裁大法廷判決は、事前運動の禁止規定の合憲性につき、「公職の選挙につき、常時選挙運動を行なうことを許容するときは、その間、不当、無用な競争を招き、これが規制困難による不正行為の発生等により選挙の公正を害するにいたるおそれがあるのみならず、徒らに経費や労力がかさみ、経済力の差による不公平が生ずる結果となり、ひいては選挙の腐敗をも招来するおそれがある。このような弊害を防止して、選挙の公正を確保するためには、・・・各候補者が能うかぎり同一の条件の下に選挙運動に従事し得ることとする必要がある。公職選挙法129条・・・は、まさに、右の要請に応えようとする趣旨に出たものであって、選挙が公正に行なわれることを保障することは、公共の福祉を維持する所以であるから、・・・事前運動を禁止することは、憲法の保障する表現の自由に対し許された必要かつ合理的な制限であるということができる」と判示し、選挙の公正を確保するために選挙運動という表現の自由(憲法21条1項)を制限することを認めている。
また、選挙の公正とともに選挙の自由を特別に考慮した判決も存在する。すなわち、前述したマスコミの選挙期間中における選挙に関する報道及び評論の掲載を制限する公職選挙法148条3項の規定の合憲性が争われた1979(昭和54)年12月20日の最高裁判決は、「148条3項は、いわゆる選挙目当ての新聞紙・雑誌が選挙の公正を害し特定の候補者と結びつく幣害を除去するためやむをえず設けられた規定であって、公正な選挙を確保するために脱法行為を防止する趣旨のものである。右のような立法の趣旨・目的からすると、同項に関する罰則規定である同法235条の2第2号のいう選挙に関する『報道又は評論』とは、当該選挙に関する一切の報道・評論を指すのではなく、特定の候補者の得票について有利又は不利に働くおそれがある報道・評論をいうものと解するのが相当である。さらに、右規定の構成要件に形式的に該当する場合であっても、もしその新聞紙・雑誌が真に公正な報道・評論を掲載したものであれば、その行為の違法性が阻却されるものと解すべきである(刑法35条)」と判示し、公職選挙法148条3項が選挙の公正を確保するための規定であるとしつつ、選挙の自由の観点からいわゆる合憲限定解釈を採用し、刑法上の違法性阻却の可能性を肯定する。
これに対して、選挙の自由を強く主張する判決もある。すなわち、公職選挙の候補者に対する悪評価や批判等を掲載した雑誌に対する出版の事前差止めの許否が争われた、いわゆる北方ジャーナル事件において1986(昭和61)年6月11日の最高裁大法廷判決は、「主権が国民に属する民主制国家は、その構成員である国民がおよそ一切の主義主張等を表明するとともにこれらの情報を相互に受領することができ、その中から自由な意思をもって自己が正当と信ずるものを採用することにより多数意見が形成され、かかる過程を通じて国政が決定されることをその存立の基礎としているのであるから、表現の自由、とりわけ、公共的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならないもの」とし、さらに「その対象が公務員又は公職選挙の候補者に対する評価、批判等の表現行為に関するものである場合には、そのこと自体から、一般にそれが公共の利害に関する事項であるということができ、・・・憲法21条1項の趣旨に照らし、その表現が私人の名誉権に優先する社会的価値を含み憲法上特に保護されるべきであることにかんがみると、当該表現行為に対する事前差止めは、原則として許されないものといわなければならない」と判示し、選挙の候補者に関する表現行為は、国民主権の実現に奉仕するものであり公共的なものとし、選挙時における表現の自由(憲法21条1項)を最大限に認め、選挙の自由を確保せんとしている。このように判例が選挙時のマスコミ報道について、選挙の自由と公正のいずれを重視しているのかは、容易に決し難く、ケース・バイ・ケースの個別的判断によっていると結論付ける以外にはなかろう。
6.おわりに
日本のマスコミは、法的には営利社団法人(会社法3条等)であり、私人の立場にある。よって、表現の自由や政治活動の自由(憲法21条)等の憲法上の権利を基本的には享有するとされている。かかるマスコミの私人としての立場を強調するならば、マスコミが自然人同様に自らの意見や主張を持つのはむしろ当然であり、また、自然人同様に自らの意見や主張を実現するために活動することも(例えば、選挙で特定候補を応援すること)、許容されることになる。とするならば、もちろん違法性や不当性の限界はあるが、マスコミの情報操作も決して否定されるべきものではないことになろう。例えば、アメリカのニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストなどの大新聞は、あくまで“independent(独立)”の立場にたつ。そのため、アメリカでは、それらの大新聞が大統領選挙になると民主党候補を応援、支持するのは常識視されている。すなわち、アメリカ市民は、マスコミに“中立・公正や不偏不党の立場”を期待するのではなく、“自主・独立の立場”にたったマスコミが自らの意見や主張を明確に表明することを期待するのである。このように、欧米では、独立の看板を掲げる新聞が選挙で特定候補を支持することは、むしろ当然な事として社会的に認知されている[原 1999: 100]。日本においては、マスコミ報道は中立・公正や不偏不党でなければならないし、実際そうであるに違いないという考えが根強い。そのことが、日本においてマスコミ報道が過信されてしまう原因ともなっている。もちろん虚偽報道は決して許されないが、あくまでマスコミは私人であり、本来、自主・独立の立場にあることを再確認すべきである。ただし、ある一定規模以上の巨大マスコミについては、別個の考察が必要となる。すなわち、一部の権力化した巨大マスコミは、自然人とは比較にならないほどの、国家権力にさえ比肩しうる強大な社会的影響力を持ち(いわゆるマスコミの第四権力化)、好むと好まざるとにかかわらず公共性を帯びるからである(いわゆるマスコミの公的性格)。また、前述のマスコミ報道を過信してしまうという日本の文化的風土に鑑みても、かかるマスコミには中立・公正性や不偏不党性を一定限度で要求せざるをえず、よってある程度の規制もやむを得ないこととなろう。かかる観点に立ってマスコミの情報操作の問題を考えるならば、一部の権力化した巨大マスコミの報道は、少なくとも国民主権にとって最も重要な選挙報道については不当な情報操作を防止して、中立・公正や不偏不党を実現するため、一定の規制を行うべきである。
このようにマスコミの表現の自由を制限しようとする主張については、マスコミの持つ社会的有用性を軽視するものであるとして、厳しい批判が予想されよう。確かに、この場合、私人たるマスコミの有する憲法上の権利を不当に侵害しないように最大限の配慮をすべきことは言うまでもない。しかし、マスコミが発達して情報が流通すれば、情報から疎外されていた問題についても人びとが情報を入手できるようになり、政治参加を促進して民主主義的な決定による社会が築かれていくという、いわゆるマスコミの発達が民主主義社会の成熟を促すという理想は、18世紀の革命の世紀だけでなく、20世紀においても繰り返し語られてきた。しかし、この見方は、国家権力や巨大マスコミによる情報操作が横行し、また、情報化が進展すればするほどむしろ政治参加が減退しているかに見える現代の現状を考え合わせても、少し楽観的に過ぎる見方と言わざるを得ないであろう[川上 1997: 173]。確かに、選挙の自由は十二分に確保される必要がある。しかし、それは一定のルールに従っていることが大前提であり、選挙の公正を確保するためのルールを事前に明確に策定しておくことはむしろ当然である。この点で、前述した諸点、すなわち1選挙報道における虚偽や捏造につきマスコミ自体に特別のペナルティを科す。2選挙報道番組の視聴率競争を回避させ、選挙報道については“競争し合う”のではなく国民のために“協力し合う”ことを原則とする。3選挙報道において、アナウンスメント効果やサブリミナル効果、プライミング効果等の手法は禁止する。4マスコミ自身が選挙報道の読み解き方を含めた国民に対するメディア・リテラシー教育を実践する。5選挙世論調査の実在性や内容の真正性を確認しうる情報を保存させ、調査の適正性を事後的に検証できるようにする。また、世論調査結果の恣意的利用を防止すべく、客観的な調査結果データとマスコミ自身の主観的な意見・主張とを、形式上明確に分離する取り扱いを徹底させる。さらに、選挙世論調査の方法についてはマスコミの統一的基準を定め、それに従って選挙世論調査を行わせる等を含め、マスコミの選挙報道を公正なものとするための統一的なルール策定が必要であると考える。 

 

●新型コロナで視聴者の不安を煽るワイドショー 2020/3
確たる証拠も示さず
報道番組もワイドショーも新型コロナウイルス感染症に関するニュース一色だ。「対応が後手だった」「なぜ検査しない」などと、政府を徹底批判し続けている番組もいくつかある。とはいえ、ここで素朴な疑問が湧く。正義の味方のごとく振る舞う報道番組とワイドショーは、正しかったのだろうか?
報道番組のコメンテーターの中には、危機感が高まるばかりだった3月8日(日)の時点で、「致死率はインフルエンザより少し上くらいでしょう」と、語る人がいた。それまでにも「インフルエンザ並み(の怖さ)」との発言をしていた人が少なくない。
同じ8日、別の報道番組では、「ライブハウス(での感染)が報道されているが、これは経路が辿りやすかっただけ」と、断じるコメンテーターもいた。政府の専門家会議、在野の専門家たちとは明らかに異なる意見だった。
視聴者を怖がらせないための発言とは思えなかった。専門医や研究者ではないコメンテーターたちが、確たる根拠も示さず、分からないことだらけの新型コロナウイルス感染症について論じるのは危うい行為だろう。
新型コロナウイルス感染症を楽観視するようなコメンテーターの声もある中、3月9日(月)から東京株式市場の大暴落が始まった。3月13日(金)までの僅か5日間で日経平均株価は3300円も下落。コメンテーターたちの言葉に油断し、株を売り損ねた人もいただろう。
「私は株をやらないから関係ない」と言う人も多いだろうが、株価は老後資金の確定拠出年金にも影響をおよぼす。コメンテーターの言葉によって警戒心が緩み、確定拠出年金のスイッチング(株から金などへ運用商品を切り替えたり、割合を変更したりすること)が遅れた人もいたのではないか。
想像力の欠如
専門家の意見は早い時期から違ったのだ。WHO重症インフルエンザガイドライン委員で慶應義塾大学医学部客員教授、神奈川県警友会けいゆう病院感染制御センターセンター長の菅谷憲夫氏は、2月18日更新の『Web医事新報』(日本医事新報社)にこう書いている。菅谷氏は感染学の権威であり、同ウエブは医学関係者の信頼が厚い。
「【識者の眼】「新型コロナウイルス感染症はSARSに類似(2)インフルエンザに比べはるかに重い疾患」菅谷憲夫 / 新型コロナウイルス感染症(以下、COVID-19)は国内での流行も危惧される状況になった。国内での人から人への感染が進行しているにもかかわらず、日本政府が中国からの入国を禁止しなかったことは、COVID-19の感染性、重症度を過小評価した重大な失策と考えられる。すでに水際対策の段階は越えて、日本各地にウイルスが蔓延している可能性がある。日本のマスコミが一貫して、重症度は低いと報道してきたことも、わが国の対策の遅れに影響したと考えられる。国内初のCOVID-19死亡例が報告された2月13日以後も、依然としてマスコミで流れているのは、COVID-19は季節性インフルエンザ程度の感染症であり、恐れることはないという論調である。これは明らかな誤りである。常識で考えても、季節性インフルエンザ程度の死亡率、重症度の疾患であれば、世界保健機関(WHO)が非常事態宣言をすることはないし、中国が莫大な経済的損失にもかかわらず、大規模な都市封鎖を実施するわけがない=以下略= (2月18日更新『Web医事新報』より) 」
「インフルエンザ並み」と論じていたコメンテーターは想像力すら欠いていたことになってしまう。いまだインフルエンザ並みという口ぶりの人もいるが、それなら、どうして世界同時株安が起こり、東京五輪の中止や延期が取りざたされているのか? 視聴者に向かって分かりやすく筋道を立てて解説すべきだろう。それこそコメンテーターの役割に違いない。
言いっ放しは許されない
そもそもコメンテーターの発言の最終責任は局側にある。コメンテーターたちの一連の発言に誤りが見つかったら、局側は放送法に基づき、訂正放送を行うべきだ。言いっ放しは許されない。
後出しジャンケンでコメンテーター制度への疑問を書いているつもりはない。筆者は2014年11日19日更新の『現代ビジネス』に「視聴率重視で起用されるテレビコメンテーターたちの危うさ」を書き、放送批評懇談会発行の月刊誌『GALAC』の2015年3月号には「コメントに専門性は必要ないのか」と題した文章を寄稿した。テーマはどちらも一緒。「門外漢が解説することの危険性」だった。
コメンテーターが自分の専門分野を語るのは分かる。コメンテーターが視聴者代表として番組内で専門家に質問をするという形式も理解できる。衝撃映像や愉快な映像について、さまざまな立場のコメンテーターたちが賑やかに語り合うのもうなずける。
反面、1人のコメンテーターが何から何まで語り、そして未知の新ウイルスまで論じるとなると、誰がどう考えても無理がある。大胆にも程がある。古今東西、知の巨人と呼ばれた先人たちですら、そんな無茶なことはしなった。
まして新ウイルスについての情報は健康や生命、暮らしに直結する。不確かな情報を軽々に口にするコメンテーターは「危険」どころの騒ぎではない。それを許している局側も無責任の誹りは免れない。
まさしく視聴者不在だった
次のようなタイトルの特集記事が『文藝春秋』2014年11月号に載った。「ワイドショー『いかがわしさの正体』/社会が悪い、政治が悪い---。テレビコメンテーターの化けの皮を剥ぐ」
書いたのは京大名誉教授の竹内洋氏。戦後思想史をまとめた『革新幻想の戦後史』によって2012年に読売・吉野作造賞を受賞した、日本を代表する知識人の一人だ。竹内氏はワイドショーや情報番組をよく見るほうだと書いた。社会ネタから芸能ネタまで揃っており、今を知るのに格好だからだ。
もっとも、竹内氏はコメンテーターの言葉に耳を貸さない。その理由を、「そもそも情報番組のコメントは井戸端会議として作られているものだからだ」(文藝春秋2014年11月号より)と、評した。
確かに井戸端会議的である。今の時期は報道番組、ワイドショーの真価が問われているにもかかわらず、コメンテーター同士のケンカまであるのだから。
3月12日放送のあるワイドショー内で、新型コロナウイルス感染症問題を扱っている際、2人のコメンテーターがお互いに相手の言葉を疑い、激しく衝突した。相手への人格批判とも受け取れる場面もあり、少なくとも議論と言えるものでは決っしてなかった。
番組終了後の反省会でぶつかるのならいいだろうが、視聴者に向けて放送している番組内で衝突するのは非常識極まりない。コメンテーターの一部は専門性が乏しい上、プロ意識すらないのだろうか。2人がやり合った後、招かれていた専門家である感染学者は失笑していた。まさしく視聴者不在だった。
コメンテーター制度がある先進国は…
書くまでもないことだが、コメンテーター制度なるものが存在する先進国は日本だけ。多くの視聴者が疑問を抱き続けている。新型コロナウイルス感染症問題を契機に、在り方を考え直してもいいのではないか――。
さて、『真相報道 バンキシャ!』の初代コメンテーターは元東京地検特捜部長の故・河上和雄さんだった。法律はもちろん、行政にも精通していた。実兄は庶民派作家の三好徹さん。河上さんもまた温かい人だった。
『バンキシャ!』での河上さんは難解な法律や行政の仕組みを分かりやすく解説する一方、不正を働いた政治家ら権力者には厳しかった。印象的だったのは、超が付くほどの博識家だったにもかかわらず、「それは分かりません」と繰り返し言っていたこと。
コメンテーターは専門外のことについては、「分からない」と躊躇なく言うべきではないか。それによって視聴者は不利益を免れる。少なくとも新型コロナウイルス感染症は門外漢のコメンテーターには手強すぎるのだから。 

 

●「マスゴミ」という蔑称まで浸透 人はメディアの報道に偏りを感じる 2020/10
「マスゴミ」なんて言葉が使われて久しくなった
「マスゴミ」とは、テレビや新聞・雑誌などを中心とするマスコミを批判的に表現する際に用いる蔑称で、ネットスラングの一種です。マスコミとゴミの混成語で、つまり、ゴミ同然と侮蔑しているのです。
特に、特定の新聞社やテレビ局(番組)が定期的に槍玉に上げられています。SNS上では、2週間に1回は「マスゴミ」ネタで炎上しているのではないでしょうか。
そして、最近では「マスゴミ」なんて言わない人からも、「いかがなものか」と批判されているのが、メディアの今までにない傾向であると筆者は考えています。マイルドなメディア批判が市民権を得たと言っていいでしょうか。メディアは、どんな批判をしても良い対象として認知されたとも言えます。
その最たる例として挙げられるのは、「メディアは偏っている」「マスコミには報道しない自由がある」といった偏向報道批判です。米国では大統領がSNSを駆使して率先して、マスメディアの報道をフェイクニュースと連呼しています。日本でも個別具体的な事例への言及は避けますが、政治や社会ニュースで偏向報道という批判が巻き起こりました。
私が報道ベンチャーでもあるJX通信社に入社して一番驚いたのは、「偏向報道をやめろ」といったメールや電話が定期的に来ることです。アルゴリズムで記事を配信するニュースキュレーションアプリであっても「記事のチョイスに恣意性を感じる」という理由で批判されます。その発想はなかったな、と驚きました。
そもそも、なぜ人は「メディアは偏っている」と感じるのでしょうか。そして、その心がどんどん進化すると、何が起こるかについて考えてみました。
そもそも「偏っている」とは何か?
実際に「メディアと政治が結びついている」というニュースを見かけますが、ここでは、その詳細について趣旨と違うため触れません。まずは、そもそも偏っているとは何かから考えていきましょう。
当たり前ですが、「ファクト(事実)」と「オピニオン(意見)」は違います。ファクトは本当にあった出来事ですが、オピニオンは個人の意見です。ファクトは真偽を証明できますが、オピニオンは得てして真偽を証明できません。突き詰めればファクトは実態があり、オピニオンは実態がないことも多いです。
では、マスコミ(メディア)が「偏っている」という指摘は、ファクトでしょうか、オピニオンでしょうか。
例えば、Agenda noteの常連として「PGマフィア」と評される方々をよくお見かけしますし、NewsPicksなら落合陽一さんがよく登場しますが、それをもって各メディアが「偏向メディア」「公平性に欠ける」と言えるでしょうか。そもそも「よく見る」「よく登場する」はファクトではなく、個人の主観です。偏っていると言うなら、誰に登場してもらうべきでしょうか。
Agenda noteを例にあげれば、九州の単品通販の雄と言える方々、ファンベースマーケティングのグル(師)とも言える方々も登場されています。「○○さんが出ていないからおかしい」と批判すると、○○さんの持つ党派性が現れる分だけ、結局は「偏っている」と評されるのです。それはつまり、「偏っている」というのが個人のオピニオンの域を出ないことの証明でもあります。
これらと同じで、虚偽報道をしているわけでも無いのに「偏っている」と批判される場合の多くは、ファクトとオピニオンが混同されているのです。その理由として、敵対的メディア認知と呼ばれる「メディアが自分とは反対側の陣営にとって、有利な方向に歪んでいる」という認知の歪みに陥っているからだと思われます。
ここで、ある事例をご紹介したいと思います。Valloneら(1985)は、1982 年にレバノンのパレスチナ人難民キャンプで起きたイスラエル系民兵組織によるパレスチナ人虐殺事件報道を題材に、ある実験を行いました。
全く同じ内容をイスラエル寄りの人と、パレスチナ寄りの人に見せて、その反応を調べたのです。その結果、イスラエル寄りの人たちは「報道がイスラエルに対して批判的である」と認知し、パレスチナ寄りの人たちは「報道がパレスチナに対して批判的である」と認知していました。
具体的な数字で言えば、報道の内容について、イスラエル寄りの人はイスラエルに関する言及の16%がイスラエルに友好的で57%は非友好的であったと回答し、アラブ寄りの参加者は平均してイスラエルに関する言及の 42%がイスラエルに友好的で26%が非友好的であったと回答しました。読む側が何を支持するかで、同じ内容がまるで別物のように受け止められたのです。
このように認知が歪む原因として、「1 客観的で公平性が担保された報道の具体的な内容が、自陣営に有利な形を想定している」、「2 報道された内容について、自陣営に対してネガティブな情報を優先的に知覚してしまう」という二つのメカニズムが作用していると言われています。
Valloneらの実験以降もPerloff(1989)、Giner-Sorolla & Chaiken(1994)、Arpan & Raney(2003)など、さまざまな後続研究でこの「敵対的メディア認知」が確認できます。
すなわち、メディアに向けて「偏っている」と言っている私たちも同様に「偏っている」のです。
「認知の歪み」に気付けるか?
敵対的メディア認知の話をすると、決まって「私は歪んでいない!真っ直ぐだ!」と反発される方が大勢います。「偏り」という言葉がネガティブに聞こえているようですが、即座に物事を判断できるヒューリスティクスな思考も偏りのひとつですから、全てが悪とは言い切れません。むしろ「偏り」とは人間らしさ、いや人間そのものとすら言えます。
私は偏見が少ないと主張する思考を「バイアスの盲点」と表現します。「大声を出すな!と大声で注意する人」や、「人を批判する奴は許さない!と批判する人」を思い浮かべると良いかもしれません。言動と行動が相反する人たちは「バイアスの盲点」に囚われているのです。
ファクトはひとつですが、オピニオンはいくつあっても良いでしょう。「バイアスの盲点」に囚われてしまうと、オピニオンが違うだけで「あの人はウソを言っている」と批判しがちです。また、オピニオンを言う側も、それがあたかもファクトのように振る舞うので、誤解を招きがちです。
余談ですが、ファクトとオピニオンの区分は報道に限らず、あらゆる分野で必要な“スキル”です。毎日のように繰り返して「ファクトか、オピニオンか」を分けて考えると、自分自身がいかに偏見と思い込みに囚われていたかを思い知らされるので、良い訓練にもなります。
私たちマーケターは「マスコミ不信時代」に何ができるか
メディアの根幹は、「信頼」だと筆者は考えます。新聞にしろ、テレビにしろWeb媒体にしろ、その媒体に対する信頼がなければ、いくら真実に迫る報道であったとしても単なる冗談や与太話で済まされてしまいます。
ところがマイルドなメディア批判が長らく続いたおかげで、この信頼が少しずつ毀損され始めています。SNSの強い拡散力も相まって、敵対的メディア認知によりメディアに対する不信が強くなってしまいました。
最近では、特定の新聞社やテレビ局の番組に広告を出稿していると「同じ思想の持ち主だ」とレッテル張りをされて、場合によってはお客さま相談センターに「電凸(電話をかけて抗議・批判すること)」される始末です。この状況は、果たして健全でしょうか。
メディア論を語れるほど、知識と経験が豊富にあるわけではありませんが、こうした状況をマーケティングに携わる人間として傍観しても良いのか、さすがに疑問に感じ始めています。
信頼できるメディアに広告を出稿するからこそ「信頼できるサービスだ」と認知されるのであり、信頼が無くなれば、人がどれだけ集まろうと同じように信頼は得られないのではないでしょうか。
緩やかに蝕まれていくメディアというブランドを、企業として、業界として、どのように信頼回復に努めていくのかは大きな課題であり、その意味において例えば、先日公開された静岡新聞のイノベーションレポートは非常に読み応えがあります。
「当事者(メディア)がなんとかするべきだ」というのはその通りなのですが、今起きている地殻変動は、当事者だけで何とかなる話でしょうか。
私がお会いするのは、どちらかと言えば記者の方が多いのですが、「諦め」「放置」「無視」という意見が非常に多い印象です。既にメディア批判は党派性を超えているのに、今までと一緒で良いワケがないと思うのですが…。
今から4年後、5年後に、この記事を見直して「そんなこともあったね」と笑い話にできるような事態になれば良いのですが、信頼回復の端緒は今のところよく分からない、といったところです。 

 

●モーリー・ロバートソンさんの「テレビ業界への意見表明」で考えたこと 2020/9
 「ステマに偏向報道」衰退が止まらないテレビ局に巣食う3つの問題
フジテレビ系朝の情報番組『とくダネ!』に足かけ5年、コメンテーターとして出演させていただいていた私が、実父の体調不良で私ら家族の介護が必要になりまして、どうしても朝の時間をびっちり取られる番組の出演がむつかしいということで、MCの小倉智昭さんや関係者の皆さんに「すみません、介護もあって番組はもう出られなくなりそうなので、降ろさせてください」と相談に行きました。ちょうど小倉さんもご体調が芳しくないという時期でもあり、相談にいった私が恐縮するほど丁寧に「長い間、ありがとうございました。また出られそうになったら是非呼びますので、遠慮なく連絡ください」とご対応くださって、非常にありがたかったです。
番組ごとに、作り手の考え方が大きく影響している
『とくダネ!』というのは不思議な番組で、ブラウン管や液晶越しには「小倉一家」のように見える統制の取れた雰囲気とは別に、朝の番組打ち合わせで「これを喋ってください」とか「台本通りにやってほしい」と言われることは一回もありませんでした。一回も、です。
おそらくはテレビ局・番組の方針や、ご担当のプロデューサーやディレクター以下制作陣のお考え、あるいは小倉さんなど出演している方々の情報提供に対する姿勢なども大きく寄与するところはあるのではないかと思うんですよね。
一方で、テレビ朝日系列で放送していた『橋下×羽鳥の番組』という番組に呼ばれていったところ、事前の打ち合わせではそこまでテーマとして告げられていなかった「ネットでの橋下批判の代表者・山本一郎」みたいな取り上げられ方で突然収録が始まり、まあ普段言えないことを言ってよいのなら頑張って喋るかと対応していたものの、実際の放送では私が喋った内容はほとんどカットされ、まるで橋下徹さんが一方的に私を論破しているかのような内容になっていてビックリしたわけですよ。
さすがにそれはないだろうと、テレビ朝日にいた局の友人にも相談話をしているうちに、肝心の『橋下×羽鳥の番組』が視聴率の低迷とともに少し早く打ち切りになってしまい、有耶無耶になってしまったのは残念です。一方で、テレビ朝日の制作陣の方々からは社会問題についてのお問い合わせやリサーチでのお電話を戴くことも多く、テレビ局単位というよりは、本当にその番組ごとの作り手の考え方が、起用する有識者やジャーナリスト、政治家、タレントなどの起用法に大きく影響するものなのだと思うんですよね。
モーリー・ロバートソン氏がツイートで興味深い意見表明
で、9月1日にミュージシャンとしても著名なモーリー・ロバートソンさんがSNS上でテレビ局での使われ方に対して宣言をしておられて興味深かったわけです。
長いですが、モーリーさんの論考を是非読んでみていただければと思います。いわば、長らく公共の電波を使って独占的に番組を無料で提供し、圧倒的なメディアパワーを誇ってきたテレビ局が、ネット時代の興隆とともに輝きを失っていく過程で番組の品質でも魅力でも他の媒体に負け始め、程度の良くない中高年の安価な娯楽レベルになってしまったことを明確に示唆しています。
不動産屋がテレビ局を兼ねている経営
その結果として、スポンサー離れも進んでいき、テレビ局の収益は大きく低迷。そればかりか、テレビを観て育った若い世代の減少とともに、就活で人気の企業ランキングでは上位50社からテレビ局の名前が消えたとまで報じられるようになりました。もちろん、現下の収益性の問題や、人気企業ランキングのような水物だけでテレビ局を論じるべきではないとも思います。そもそも、テレビ局は番組を作りスポンサーをつけて放送するという事業よりは、高度成長とともに長年押さえてきた不動産の収益のほうが安定しており、テレビ局が放送事業で云々というよりも不動産屋がテレビ局を兼ねているというような朝日新聞社メソッドのほうが経営を見る場合正確なんじゃないかとすら思います。
モーリー・ロバートソンさんの話に敷衍する形で論ずるならば、私は主に3つの論点でテレビ産業考を喫緊にやらなければならんと思っております。
論点1. ワイドショーのような情報制作で世の中を無理に動かそうとするな
一連のコロナウイルス対策でもテレビ報道はさまざまな形で国民に情報提供をしてきて、もちろんそれが役に立った面はあるのですが、一方で、明らかにコロナウイルスのような感染症の専門家ではない、また、公衆衛生の知見もない人が単に「医師」や「研究者」という肩書一丁で出演して、非常に偏ったコメントをしている例が散見されます。
代表的なのは白鷗大学教授で公衆衛生の専門家として多くの番組に出演してきた岡田晴恵さんで、中でも「コロナウイルス、高温多湿と紫外線が大嫌いですから、下火にはなって来ると思うんですね」と与太を飛ばし、医療界隈で大変な騒ぎになったのは記憶に新しいところです。放送にはファクトチェックが大事とか言っている場合ですらない。そもそもガセネタですから。
さらに、テレビで稼げると思ったのかは分かりませんが、今度は大手芸能事務所のワタナベエンターテインメントが岡田晴恵さんのマネジメントまで進出しています。タレントとしての面白味があると思ってのことかも知れませんが、無理に煽らず正しい情報が必要とされるコロナ関連の話題において、テレビ局が正確性よりも話題性を重視して起用し続けるのであるとすればそれはヤバいわけです。
知識のないタレント・芸人の不確かな感想で番組作り
そして、ワイドショーなど情報制作の番組でありがちなのは、時事問題を取り扱っているにも関わらずバラエティ的に放送することで視聴者に情報を届けることが「あたりまえ」になってしまっている傾向です。一般人の気持ちを代弁するとの建前の元、知識のないタレントや芸人が不確かな感想ばかりを流して話題を消化しているだけであるという。
コロナウイルス関連の報道がようやくお茶の間で飽きられたと知るや、自民党総裁選が行われることが決まってからはこのニュース一色になっていきます。 岸田文雄さん、菅義偉さん、石破茂さんら、立候補する3人のプロフィールやエピソードなどを順繰りに流し、それについて出演者が感想を述べるだけで番組が成立してしまうという程度の低さで、さすがに「この品質の情報しか流れていなくても良しとする視聴者しかテレビを観なくなるだろう」というモーリーさんの危惧は当たってしまいかねません。
一事が万事そのような番組の作り方で各局横並びで、どこより数字を取った、取られた、と競っているため、テレビ以外の娯楽に視聴者が流れ、視聴習慣を失ったらもう終わりです。その危機感はテレビ局にもあるのでしょうが、ネット放送も含めて別のゲームチェンジャーが若い視聴者をテレビの前から根こそぎ奪ってしまった後でどうにかしようと言ってもなかなか無理です。
論点2. 「番組で取り上げられました」を誘発するステルスマーケティングをやめろ
さらには、露骨に商品やサービスを番組で取り上げることで、安易に尺を埋めるロケをやる機会が増えているように思います。というのも、最近は戦略PR会社がかなり積極的に「この番組で御社の商品を紹介しませんか」ともちかけ、資金が動いているにもかかわらず番組内では広告と銘打たないという明確なステルスマーケティングが横行しています。
実際、リサーチの仕事をやっているときに戦略PR会社や広告代理店など複数の会社から「番組で御社の商品を取り上げてもらうための広告予算を出しませんか」という提案は頻繁にやってきます。これ、明らかに広告営業ですよね。しかも、広告とは銘打たないタイプの。
番組制作費が厳しくなり、出演している人たちのギャラが削られるという話題がよく出る一方で、こういうところで番組がおカネを作り、制作費を捻出しているのだとすれば涙ぐましい努力だとも言えます。が、しかし、これらは単純に景品表示法違反、放送法違反であって、割り当てられた営業枠を超えて通販をやってはならないという縛りすらも逃れるアプローチになっていて問題ではないかと思うんですよね。「あの番組のコーナーは800万円のスポンサー料で枠が買える」という話がいまだに出るのは都市伝説ばかりとは感じられず、さすがに襟を正すべき状況にあるのではないでしょうか。
偏った政治報道も同様
翻って、放送の中立性という観点からもテレビ局が積極的に特定の政党を応援したり、政治的に誘導するのは許されることではありません。しかしながら、私も石破茂さんとは政策勉強会をしたり対談などもやらせていただいていて親しいと思われているのか、番組で石破茂さんをどんどん取り上げたいので石破茂さんのエピソードを教えてくださいと取材されます。
そして、実際に放送された番組を観ていると石破茂さんが自民党の改革者であり野党政治家や左翼系活動家とも渡り合える人物だという形で報じられており、客観的に見ても「党員投票などが行われない公平ではない自民党総裁選で落選させられる石破茂は可哀想だし、菅義偉さんが仮に総裁選に勝っても正統性はない」とでも言いたそうな内容に仕上がっています。あまりにもダイレクトすぎてびっくりするわけですが、ステルスマーケティングであれ偏った政治報道であれ問題は同根で、作り手の意志が不公平な形で反映され過ぎていたり、不適切な収益に直結するような番組作りはよろしくなかろうと思うわけです。
別にすべての情報バラエティをNHKスペシャルや海外ニュースメディアのように仕上げろと言いたいわけではないのですが、作り手のモラルと番組の品質の問題はもっとしっかり考えなければなりません。
論点3. 業界の構造が変わっているのに同じ仕組みで作り続けるのをやめろ
ある予測では、2020年を通じてNetflixはコンテンツ制作のための予算だけで173億ドル(約1兆8,400億円)を投資すると見込まれていて、恐らく着地のコンセンサスでは150億ドル(約1兆5,800億円)ぐらいだろうとされています。
けたが大きすぎてイマイチすぐにはピンときませんが、我が国のテレビ局という意味では私たちの大正義・NHK様の放送経費全体が3,460億円(2018年)ほど、うち、真水のコンテンツ制作費は年間2,770億円(同)ほどです。民放はと言えば、日本テレビ放送網が977億円、テレビ朝日が874億円であって、それでも定常放送枠の制作経費が削減されるってことで出演しているタレントギャラを減らそうとか言っているわけですから、まあ太刀打ちできないよねという話でもあります。相手は1兆円ですよ、1兆。
つまりは、地上波という公共の電波で日本国内津々浦々にテレビ番組を無料で届けて収益を得るというビジネスモデルは凄く優れていたのでずっと伸びてきたけれど、ついに人口減少が始まった、インターネットで気軽に動画も観られるようになったという構造の変化で視聴者をどんどん失っていきました。多くの視聴者に見てもらえる前提で割高な値段で広告を打ってくれていた広告主も、さすがにカネのない中高年男女の娯楽にすぎなくなったテレビ番組にダラダラと商品やブランドの広告を出し続けるほどのお人よしではなくなった、というのが実際ではないかと思います。
海外に進出しなければ
ただし、それ以上に問題となるのはこういう「日本の制度下で、電波村によって規制された業界が、日本人に向けてスポンサードベースのコンテンツ提供体制を続けていく」ことの是非は、ダイレクトに「世界にいる非日本語話者に対するマーケットをまったく取りにいけていない、後進的で閉鎖的なテレビ局の駄目すぎる経営」を浮き彫りにしたとも言えます。いままで儲かっていたから無理に海外に目を向ける必要がなかったのが、ネット時代全盛の到来とともに自身の収益性が激しく細り始めてから慌てて「海外にも売れるコンテンツを」と言っても、制作資金の調達から品質担保、世界的なコンテンツブランド確立の手段にいたるまで何も手付かずで気づかぬ間に負け組になっていたのだと思うのです。
かろうじて、日本テレビが早い段階から気づいてディズニーとの取り組みでHuluをサービス開始したものの、結局はすったもんだありなかなか大変なことになっています。フジテレビも独自でFODをやり、各社頑張っているものの結局は自前でやっているテレビ番組の見逃し視聴をネットで再配信できるレベルのビジネスにとどまり、ジャパンブランドのコンテンツを海外配信できるようにしようとか、海外のプラットフォームとの連動を高めて世界的に楽しめるコンテンツブランドを立ち上げようという話にはまったくと言っていいほどなりません。日本語を話す日本人による日本市場で十分な収益を得てきたことが、仇になるというのはこういうことなんだろうと思います。
結果として、海外市場でのコンテンツ配信においては、むしろいままでさんざん馬鹿にしていた韓国のエンタメ業界に負けて後塵を拝することになってしまいました。当たり前のことですが、韓国の人口はざっくり日本の半分。海外に出ていかなければやっていけない規模の経済であり、かたや日本のテレビ局はいままでずっと日本市場だけでも十分に稼げる優良企業であると同時に不動産収入も各社大きいので危機感を抱かぬうちに海外にボロ負けしてきた経緯があります。
モーリー・ロバートソンさんがテレビ局の体たらくを説明している内容で、読んでいる私が「ああ……」と膝打ちしたのはこういう議論を出演者に過ぎないモーリーさんが書いて、しかもそれがSNSではそこそこ評判になって多くの人に読まれていてもなおテレビ局は変わらないのだろうなあと感じるわけでして、なかなかシビれます。
軌道修正できない日本の護送船団方式
本稿については蛇足ながら、そもそも我が国のメディアの構造においては、かねて指摘される新聞社系列としてテレビ局・ラジオ局が経営をされていて、戦後経済体制の病理でもある護送船団方式がいまなお色濃く生き残っています。
テレビの番組制作に造詣のない新聞社のお偉いさんがテレビ局の経営中枢に天下ってきて専横したり、番組の中身に直接介入するなどの問題を引き起こして各メディアの独立性や独自性が毀損しています。クロスオーナーシップが認められていて、メディア産業がコングロマリット化しているのは日本のメディア界隈の特徴とも言えますが、うっかり経営が安定してしまっているので変革が求められているところでちっとも軌道修正が効かないのですよ。
もしも、テレビ局が資本でも人事でも独立した存在であったならば、消費税引き上げの際に新聞購読に「知る権利を担保する」などとして軽減税率を適用しようという政策議論が出たら秒殺でみんなで批判しておったと思います。でも、「新聞に軽減税率なんておかしい」って論陣を張ったテレビ局はゼロでしょゼロ。そんなもんです。
そりゃ衰退しますって。
産業の問題と才能の問題は分けて考える必要がある
なもんで、テレビもまた年寄りとともに衰退するメディアなのでしょうが、しかしテレビ局が経営的に行き詰まることと、テレビ的なるものの寿命が来ることとは違います。
テレビ局とは単なる装置産業であり、電波というインフラによって支えられた事業者に過ぎないので栄枯盛衰はあるでしょうが、テレビ的なるものというのは日本社会を支える動画づくりの在り方であって人が作るものです。テレビ業界はなくなっても、番組を作る人はYouTubeだろうがNetflixだろうがAmazon Prime Videoだろうがどこででも才能を発揮し、収益を上げることが可能になります。産業の問題と才能の問題は分けて考える必要があると思うんですよね。テレビ局にも、映像づくりの上手い人がたくさん残っているはずです。
新聞業界が新聞を各家庭に配るという仕組みを失って迷走しているけど、きちんと取材のできる新聞記者は記事を書いて生き残る。文春だって通勤客が駅売りの雑誌を買わなくなる中で発行部数は苦戦することもあるけど、優れた記事はネットでも激しく読まれて支持を受けて存続する。同様に、テレビもやっすい制作費で有識者でもないタレントに時事問題を語らせる質の低い番組を垂れ流すよりは、もっと広く視聴者を国内海外に求めて打って出られるコンテンツ作りと資金調達ができるようになるといいなと強く思います。
そして、これらの議論はテレビ局に勤め、自分たちの仕事の未来を考えている諸氏からすれば、みんな当たり前のように考え、どうにかしなければならないと思って日々業務をし、番組を制作しておられるだろうと思うと、そういう業界の改革に一歩を踏み出すことのむつかしさを強く感じます。本来なら、一番活気のある産業の一つであるべきなのですが。 

 

●やらせ、実名報道、メディアスクラム マスコミは「マスゴミ」と呼ばれる?
新型コロナウイルスに感染しても「ざまあみろ」
日本テレビの社員2名と同社に常駐する制作会社社員が新型コロナウイルスに感染したことが明らかになったが、ネットではこの件について「ざまあみろ」的な書き込みもみられる。5ちゃんねるにはこんな書き込みがあった。
「さんざん叩いた封じ込めの見本を見せてもらおう」
「これは朗報 マスゴミ関係者を全員隔離施設に放り込めばいい」
「自宅待機の家に押しかけて『今どんな気持ちですかぁ?』『一言お願いします!』やれよ」
「実名で役職も報道してくれるんでしょ 自宅や実家や病院や職場に、取材していいよね 玄関ピンポン鳴らして取材していいよね」
一般的にネットが普及してから約25年が経過したが、「マスゴミ」叩きの25年とも言える。マスコミは偏向報道をし、強い者を守り弱者をいじめる卑劣な存在で、人の日常に不躾に入ってくることを厭わない。しかもテレビの場合は枕営業で仕事が決まっていき、人身売買がまかり通っている――。こんなイメージがあり、さらには旧来型のマスコミがネット及びネットユーザーを見下し続けてきた、といった感覚も抱いている。
だからこそ、ネットが好きな人々はマスコミを敵視してきたし、彼らにネットにズカズカと土足で入ってほしいとは思っていない。いちいちネット上の話題をテレビで紹介して欲しくもないし、ネット特有の用語をマスコミが使ったりすると反発を覚えるもの。最近でこそネットはメディアの王者になりつつあるが、オールドメディアからは見下され続けた歴史がある。
私自身も2006年にネットニュースの編集者の仕事を開始したが、当時の紙メディアと電波メディアの人からは「えっ? ネットなんかでニュースの編集してるの? 新しいことやっていらっしゃいます(笑)」みたいな扱われ方をされてきた。ところが2010年以後、「活路はネットにあり!」とばかりにオールドメディアはこぞってネットに参入してきたため、時代は変わったものだとつくづく感じる。
こうした歴史的経緯も踏まえて、マスコミがなぜ「マスゴミ」と呼ばれているのかを考えてみたいのだが、人々の実体験も含め、さまざまな嫌われ要素が存在する。まず、自分が好きなものをけなしたりすることが多いというのがあるだろう。古い話になるが、某夕刊紙は逆張りをすることで知られている。例えば野茂英雄がMLBに挑戦する時は「成功するわけがない」的な論調で叩いた。ところが野茂が大活躍するとその批判は「なかったことに」された。イチローが挑戦する時も「投手は通用するけど野手は通用しない」といった報道をした。野茂ファン、イチローファンからすればたまったものではない。怒りは湧くだろう。
これは2016年のSMAP解散報道の時にも見られた。スポーツ紙をはじめとした多くのメディアは、ジャニーズ事務所の側につき「キムタク以外全員退所!」などと、木村拓哉以外の4人が恩義ある事務所に対してワガママをしている、といった論調で書いた。一方、ジャニーズ事務所から出入り禁止を食らっている某誌は「いつまでSMAPいじめは続くか」といった論調で書いた。
木村以外の4人を悪者にするような論調が多いことにSMAPファンは傷ついた。そして、解散を阻止すべくファンそれぞれの思いを新聞の個人広告欄に出すなどした。この時使われたのが東京新聞をはじめとした地方紙だ。これにより、東京新聞は「私たちに寄り添ってくれる新聞」といった評価を得ることになる。これはファンからすれば「マスゴミ」ではなく「まっとうな報道機関」といった扱いになる。朝日新聞も読者からのSMAPを擁護するような投稿を掲載し、同様の評価を得た。
けなしけなされ25年。ネット上に広がる「マスゴミ」叩きを振り返る
影響力のあるメディアが「自分にとって不快な報道をする」というのが「マスゴミ」扱いの理由の一つだが、他にも多数ある。列挙しよう。いずれもネット上での批判であり、一部思い込みやマスコミの真意が伝わっていない部分もあるが、とにかく辟易されている事柄である。
被害者やその家族に容赦なく突撃し、取材をする
→いわゆる「メディアスクラム」だが、「被害者の気持ちを考えろ」と批判される
災害時などにヘリコプターで爆音を鳴らし、救助の邪魔をする
→メディアは必要だと思いやっているものの、自衛隊をはじめとした救助隊より必要性は低いと解釈されている(当然そうだが)
「知る権利」「報道の自由」を盾に被害者の実名報道をする
→被害者本人や遺族感情を考慮していないと解釈される
都合の良い時だけは「報道しない自由」を行使する
→政治系の話題で多いのだが、「もっと多く報道すべきだろう」というものの報道量が少ないとこの言葉が登場し、何らかの忖度が働いていると推測される
芸能人の熱愛やすでに引退した芸能人の「いま」の写真を報じる
→「そっとしておいてやれ」と必ず書かれる
身内に甘い
→メディア業界人の不祥事で実名報道がされなかった場合こうした反応になる
給料が高くてチャラチャラしているというイメージがある
→チャラチャラはどうだかは分からないが、給料の高さについては大手の正社員に限ることではあるが……。あとは大手テレビ局のプロデューサーが「枕営業」を受けているといったイメージもある
別になくても困らない仕事なのにエラソーにしている
→電気、水道、ガス、公共交通機関、農家、スーパーなど人々の生活に「本当に必要な仕事」ではないのに、どこか特権階級に属しているように見られている
テレビのロケの時、急いでいるのに通行を妨げられ、突破しようとすると怒られる
→「影響力あるテレビ様には協力するもの」という態度をしていると捉えられる
やらせを時々する
→朝日新聞の「サンゴ事件」や『あるある大事典』の「納豆でやせる」等が代表的
思想的に偏っていると反対派からは捉えられる
→前出の「ファンを傷つける」に似ているが、新聞でいえば朝日・東京vs産経といったところか。だからこそ思想的に“どちらかに優しくどちらかに批判的”なメディアをソースとする5ちゃんねるのスレッドには【朝日】【産経】【ゲンダイ】【リテラ】などと注釈がつき、「これのソースはこのメディアだからそのつもりで開けよ」といったバイアスを事前にかけてくる
安田純平さんのように、戦場で拘束される人が登場すると「自己責任だ」「税金を払って助けてやる必要はない」と批判されるのも、上記の流れの一つだ。他にも色々あるが、多くは「自分がやられたらイヤなことを平気でする血も涙もない連中」や「自分達を特権階級だと思っている」といったところにあるだろう。
異例ずくめ「佐世保小6女児同級生殺害事件」の記者会見
そういった意味では、2004年に発生した「佐世保小6女児同級生殺害事件」での被害女児の父親は称賛された。父親は毎日新聞の佐世保支局長だったが、事件発生の当日に前代未聞の被害者遺族による会見を開いた。理由は「新聞記者である以上、書かなければいけない」という先輩の言葉をこれまで守っていたから。それだけに、自分が被害者遺族の立場に立ったとしても、他の記者は自分の話を聞きたいだろうと思ったことだ。また、自分自身も辛い状況にいる人々の取材をした経験もあり、「ダブルスタンダードはいけない」と考えたのだろう。同氏の部下が父親への取材も含めて執筆した『謝るなら、いつでもおいで』(川名壮志/集英社)にはその逡巡が描かれている。
あと、ライターも叩かれがちだ。渾身の戦場リポートや面白い実験系の記事、ほっこりエピソード等を除くと大抵はこう書かれる。
「こんな文章でよくライターやってられるな。オレの方が文章はうまい」
「貧困女子」や「借金まみれ男」などの取材をしてもこう書かれる。
「はい、嘘松。単なる創作」
これについては、気持ちは分かる。モノカキという仕事はなんとなくラクな仕事に感じてしまうのだ。自分だって小学校時代から作文を書いたりしていたし、レポートや卒論に加え、日々の仕事でも文章は書いている。仕事で文章を書いたら給料は支払われるかもしれないが、それは文章そのものに対して支払われるわけではなく、仕事全体にカネが支払われている。しかも、別に自分が進んで書きたい文章ではなく、上司から書くよう押し付けられた文章である。
そんな中、「チラシの裏に書いておけ」「ブログでやっておけ」的な文章をウェブメディアで見た場合は「こいつはこの程度でカネを稼ぎやがって」といった感情になってしまうのだろう。文章も「表現」の一種ではあるが、イラスト、漫画、音楽のように天賦の才が必要なものとは別で「どんなバカにでも書けるもの」といった捉えられ方をされる。だからこそ、「オレの方が優れている」と感じてしまうのだ。
だからこそ、我々のようなウェブメディアに従事する者はそうした厳しい声を真摯に受け止め、より役に立つ情報を出し続けなくてはならないのである。 

 

●日本のマスコミはなぜ「反日」なのか? 2013/12
( インタビュー『反日メディアの正体』著者・ 古谷経衡 )
Q.本書『反日メディアの正体』を執筆しようと思った動機をお聞かせください。
古谷 これまでにも、「反日メディア」をテーマにした書籍やムックが出版されていますが、それらに書かれていること以外に、何か違う原因が隠されているのではないかと、僕は感じていました―。
本書の中では、マスメディアの「反日」を、「確信的反日」と「無自覚な反日」に分けて論じています。「確信的反日」は、故意の反日のことです。自動車の運転にたとえるなら、飲酒運転のような、悪意がある行為ですね。
これまで出版された類書は、主にその故意の反日を分析していました。先ほどの飲酒運転の例で言えば、「なぜ、この人はお酒を飲んでいるのに、運転するか」を追及していたのです。 
もちろん、それはそれで大変意義のあることですが、僕は「確信的反日」ではなく、「良かれと思ってやっている」「やっている本人にもぜんぜん自覚がない」という「無自覚な反日」ほうが、テレビや新聞を見るかぎり、多いとのではないかと思うのです。
「こんな道路標識は知らなかった。ここ、一時停止だったんですか?」というような。
Q.確かに、いままでは「確信的反日」が問題視されてきました。
古谷 当然、「確信的反日」は、重罪ですよ。例えば、安倍首相が官房長官だった時代に起きた「安倍晋三印象操作事件」。これは731部隊の極秘計画を報道したTBSの番組内に、関係のない安倍さんの顔写真が映しだされるという前代未聞の珍事でしたが、サブミリナルの疑いで、TBSは総務庁から注意を受けました。これはもう確信犯。
「毎日新聞変態記事事件」は、日本人(とくに日本女性)のでたらめな情報を世界に発信していたとんでもないものでした。この事件は、ライアン・コネルというオーストラリア出身の記者が、たぶん反日と言うか、日本人女性を見下していたことで起こった。
あるいは、1989年の「朝日新聞サンゴ礁捏造事件」。この事件は有名ですので、みなさんもご存知だと思いますが、これは本田というカメラマンがあきらかに自作自演した、日本を貶める捏造事件でした。
このようなひどい反日的な事件もあって、現在でもたびたび行われているのですが、それだけでは説明できない「異常性」がマスメディアの中にある。それが「無自覚な反日」だと、私は思うのです。
Q.その「無自覚な反日」について、もう少しお話しいただけますか?
古谷 「無自覚な反日」とは、一言でいうと、感覚のズレなんです。一般の日本国民からは決して出てこないような感覚が、マスコミ人にはある。または、国民が普通に持っている感覚が、マスコミ人にはない。この市井の日本人と遊離した「ズレた感覚」が、マスメディアの奇妙な報道につながっていると思います。
Q.最近、保守系雑誌やインターネット上で、「反日メディア」について、盛んに論争されていますが、この現状をどうお考えですか?
古谷 「反日メディア」は、実は単独で存在しているわけではない。この本にも書きましたが、「反日メディア」は「戦後体制」そのもの。それは、戦後民主的な価値観である「反権力」「反体制」です。ところが、我が国のマスメディアは、「反権力という権力」「反体制という体制」になっている。それが、問題なのです。 
先ほど「反日メディア」は単独で存在しているわけではないと言いましたが、それは戦後民主主義な考え方を、これまで我々国民が支持とまでいかなくとも、少なくともあまり疑問に思ってこなかった。それがここ10年くらいで、戦後民主主義そのものに対して、国民が距離をとるようになってきた。だから結果的に、その傍らにあったテレビや新聞が、「反日メディア」に「思えてきた」というだけだと思うのです。
このような状況下で、「反日メディア」を扱った雑誌が人気を博していることは理にかなっています。つまり、体制を愛せなくなってしまった国民の受け皿として、その種の雑誌やWEBサイトが出てきたのです。
ですから、いままでのマスメディアが突然「反日メディア」になったわけではなく、国民の感覚が変ったことによって、「反日メディア」になってしまったのです。
Q.それでは、日本国民が「戦後民主主義的な感覚」から変化した理由は何でしょう?
古谷 正確には変化しつつあるですが。それは世界情勢の変化、「冷戦が終わった」ということでしょうね。
戦後民主主義というのは、矛盾なんですね。「平和が大事」と言っていましたが、その平和は、米軍や自衛隊の防衛力、さらには核の傘によって守られていたものです。「憲法を守りましょう」も、米軍の軍事力に支えられたもの。
その矛盾を、矛盾と知りながら愛してきたのが、まさに戦後体制だと思うのですが、それが世界のパワーバランスの変化とともに、変ってしまった。端的に言えば、きれいごとだけでは、生きていけなくなってきた。きれいごとを言って、ナアナアに済ませていたことが、もうできなくなった。ちょっとシビアな状況になってきたのです。
もうひとつは、制度疲労というか、耐用年数が過ぎてしまったのかもしれません。
戦後体制は、もう70年あまり続いていますよね。よく言われることですが、歴史は60年から80年周期で変化します。これには、明確な理由はなく、ひとつの時代が終わって、新しい時代になっていくという歴史の必然だと思います。
Q.もうひとつ、最近「嫌韓」の感情が、国内に広がっているように感じるのですが?
古谷 これまでの戦後民主義のマスメディアの中で、もっとも黙殺されてきたのが韓国のニュースです。
戦後長らく、韓国と自民党はずっと親密でした。そして、近年まで、韓国は自民党―朴正煕の時代がそうでしたが、日本の子分みたいなものでした。
日本の保守層も、「戦時中、韓国が日本の一部として戦争を戦ったこと」「北朝鮮の防波堤として韓国には頑張ってもらいたいという気持ち」があり、韓国へのバッシングをタブーとしてきた。その思いがいちばん強かったのが、フジサンケイグループです。
しかし、ソ連が崩壊したことによって、韓国が北朝鮮に対して「太陽政策」をはじめるようになった。北朝鮮は同じ民族だということで、韓国はどんどん宥和的になっていく。そして韓国は、とうとう「反共国家」から「反日国家」に変ってしまったのです。
その韓国側の「反日」問題がどんどん噴出してくるのですが、日本のマスメディア体制はまったく変っていないので、韓国バッシングがタブーのままなのです。この日本国民とマスメディアの意識のズレが、フジテレビデモを引き起こしたのだと思います。
Q.テレビや新聞などでは、「最近、若者が右傾化している」と言われていますが?
古谷 何をもって「右傾化」とするのかはわかりませんが、僕は「若者は右傾化していない」と思います。
左翼の人が言う「若者が右傾化している」は、事実誤認です。本当に若者が右傾化しているのであれば、今夏の参院選で、山本太郎議員がなぜ66万票も取ったのか。もし彼が全国比例で出馬していたら、いったい何万票獲得したのか。山本議員に投票した人がすべて若者だとは言いませんが、かなりの割合で若者が投票したことは容易に想像できます。
一方、保守層のほうは、願望です。確かに近年、保守陣営のシンポジウムに、20代の若者も混じるようになってきていますが、それはあくまでもマイノリティであって、それが珍しくて目立つから、さも増えているように感じるだけです。
Q.ここで話しを変えましょう。古谷さんが、いまいちばん気になるニュースは?
古谷 それは、特定秘密保護法(12月6日に成立)です。
驚いたのは、マスメディアは強行採決などと言っていますが、よく通ったな、と。僕は、案外すんなり通った印象を受けました。
衆議院は与党が圧倒的多数なので通りますね。それで朝日新聞は、「参議院に期待する」と書くわけですが、スッと通ってしまった。たぶん、20〜30年前であれば、こういった法案は上程さえされないと思います。自民党内で少し議論して、立ち消えになるだけだったでしょう。
それがいまでは立派な法案となり、衆議院でスッと通って、参議院では少し揉めたけれどもすぐ通った。ひと昔前だったら、ひとつの内閣がふっとぶ案件だったはずです。
今回、朝日新聞はこの法案可決を受け、「安倍政権の支持率が下がった!」と書きましたが、よくよく本文を読んでみると、成立前の支持率(朝日新聞調べ)が49%で、成立後の支持率が46%なんです。たった3%って、誤差の範囲じゃないですか。結局、あまり下がっていないんですね。
ほとんどの国民が、国会の前で「法案反対!」を叫んでいた人たちを見ても、彼らは頓狂な人たちで、左翼の一部だとわかっているんです。
そして理由はともかく、皮膚感覚で「この法案って、必要なんじゃないの」と、多くの国民が思っていたからこそ、内閣支持率もほとんど変らなかったのです。この法案が、スッと通るということは、日本人の意識がかなり変ってきた証左だと思います。
Q.やはり日本人の危機感が根底にあるのでしょうか?
古谷 そうですね。中国がこれだけ軍事大国化しましたし……。最近も「防空識別圏」を新たに設定したことが問題になりましたね。
冷戦時代は、なんだかんだ言っても、親方「アメリカ」がいた。日本はエコノミック・アニマルになって好き勝手やっても、最後は親方にケツを拭いてもらっていたのです。
そして、基本的にあの時代の日本は、アジアの中で圧倒的に強かった。中国は「文化大革命」などでめちゃくちゃ。韓国も超貧乏国でした。アジアで日本に対抗できる国はなく、正直ほとんどザコでした。だから日本は好きなことが言えた。理想論だけでもやっていけた環境だったのです。
それがいまでは、一方では中国が力をつけ、韓国も力はないかもしれないがうるさくなってきた。このような国際状況の変化を、日本人が敏感に感じとっているのでしょう。
Q.今回の作品『反日メディアの正体』で、苦労したされた点は?
古谷 それは、原稿を書く場所ですね! 普段、雑誌などに寄稿するときは自宅で執筆しますが、本書のように250ページもの書き下ろしの場合は、別の場所で執筆することが多いんです。僕は自宅で猫を飼っているのですが、どうしても猫が気になって、気になって、集中できないんです(笑)。
今回は、クルマで夜中1時間以内に行けて、昼間は渋滞で帰りづらい場所を探しました。それは、茨城県しかないだろう、と。僕の自宅から茨城県の某市までが、ちょうどいい距離間だったので。
夜10時に自宅を出ると11時に茨城に着くので、マンガ喫茶に入って翌朝の8時まで書く。朝になるとクタクタで、自宅に帰れないので、そこから近いラブホテルにフリータイムで入って、夕方4時くらいまで寝るんです。
Q.ラブホホテルはお一人で?
古谷 もちろん、一人です! 最近のラブホは、お一人様大歓迎なんです(笑)。それもお徳な値段(4000円前後)で、入れます(笑)。
そしてまた、夜になるとマン喫に行って朝まで書く。そしてまた、ラブホで寝る。そういう昼夜逆転の生活をして書き上げたことが、いちばんの苦労というか、思い出です。
Q.古谷さんは、マンガやアニメなどサブカル系にもお詳しいですが、日本のマスメディアを題材にした、おすすめの作品はありますか?
古谷 本書の中でも書きましたが、『国民クイズ』加藤伸吉(画)と杉元伶一(物語)(大田出版)ですね。これは、バブル時代に書かれた作品ですが、とても面白い。
どういう話かと言いますと、この作品世界では、資本主義の次にくるのは、「国民クイズ体制」というイデオロギーだとしています。『国民クイズ』はテレビ番組なんですが、国民(視聴者)はミリオネアみたいにその番組に出場するわけです。そこで確か全問正解すると、その人の願いごとが何でも叶う。『国民クイズ』によって、大衆のエゴが実現する。
その世界の日本は、『国民クイズ』をつくっているテレビ局が支配する「洗脳空間」なんです。国会議員も高級官僚もテレビ局より下の存在でしかない。
そして、「国民クイズ体制」が大成功している日本が、世界の盟主になっている。国連の常任理事国になり、国連議長も日本人。アメリカをアゴで使い、第七艦隊もレンタルしている。当時の世相を反映した話も入っています。
最後は、主人公を含めた「国民クイズ体制」を打倒しようとする勢力が、革命を起こそうとします。
20年以上まえの作品なので、ネタバレしてもいいですよね。 (以下、ネタバレ)
古谷 結局、革命は起こせないんです。なぜかと言うと、国民(視聴者)が、「国民クイズ体制」を倒すことを許さなかった。主人公たちが、国民に問いかけるシーンがあるのですが、「国民クイズをやめるなー」と大衆の反発を受ける。熱烈というか、無意識的な支持を受けて、『国民クイズ』は終わらなかった……。
この作品は、マスメディアを信仰している、ある種の日本人を皮肉っていると思うんです。バブルの時代でしたし、マスメディアが体制になっていた。まあ、いまもそうですが。それを全力で支持しているのは、テレビ局の中の人だけじゃなくて、実はレベルの低い国民大衆だったというオチでもあるのです。
「反日メディア」は、もちろん悪い、確かに悪いですが、一方で我々がそれを支持してきたわけじゃないですか。いまは気づきましたけど……。
その現実の日本社会と「国民クイズ体制」は非常に似ているんですね。それを示唆的にあらわしているのがこの『国民クイズ』です。だから、とても面白い。かなりカルト的な人気のあるマンガですが、僕も大好きな作品です。
Q.最後に、一言お願いします。
古谷 本書『反日メディアの正体』のように、「反日メディア」の無自覚さを分析した本は、いままでなかったと思います。良かれと思って、番組や紙面をつくっているマスコミ人こそが、反日メディアの正体ではないでしょうか。
そして、僕らの中にもある、なんとなく平和主義、なんとなく左翼、なんとなくリベラルな感覚も、同様に問題なのだと思います。

 

●報道におけるタブー
マスコミが不祥事などの否定的な報道を行うことを控えていることを指す。
日本では、キー局や全国紙など広範囲に影響を与えるメディアほど報道を自主的に控える傾向が著しく、こうした姿勢に対する批判も多数存在する。そのため、日本にも他社が報道しないことを報じていることを売り物にするマスコミもある。例えば、日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』はタブーを打ち破る報道で世論を動かしてきたとアピールしている。
メディアタブー​
メディアの権益に関わる問題、報道機関や従業員の犯罪や不正・不祥事(特に自社や系列傘下のもの)等、メディアに批判的な報道はされにくい傾向にある(ただし雑誌やテレビなど業界違いや同業でも他社を扱うことはある)。 TBSビデオ問題はその最たるものであった。新聞特殊指定廃止や新聞の軽減税率など新聞業界の権益に関わることは新聞や系列下にあるテレビ局では深く報じられることはなく、場合によってはそれに対して批判した政治家の発言をスルーした例も見られる。また、報道機関が権力の監視を掲げながら権力に阿った報道姿勢になっているとの声もある。
記者クラブタブー​
記者クラブは、日本の報道における最大のタブーといわれる。閉鎖性が堅固になったのは1969年の博多駅テレビフィルム提出命令事件最高裁判決以降である。海外の報道機関も日本の特殊性をKisha Kurabuと称して批判している。
スポンサー・広告代理店タブー​
スポンサーから番組の制作費や広告収入を提供されることで事業が成立している民放(特に東京キー局において)では、広告媒体として視聴者のレスポンス、消費意欲を損ねうる番組内容は実現しにくいのが通例である。
2008年6月1日、テレビ東京で放送された『新ニッポン人』において司会者の久米宏は「民放というのは、物が売れない、人々が物を買わない、という番組は非常に難しい。よくこの番組ができたと思う」と皮肉を交えて述べた。また、CMを軽視する発言をした乱一世が一時的に番組から外された例がある。
このため、民放(特に県域放送、衛星放送局)で昼夜を問わず連日通販番組が多く放送されている。とりわけ一日の多くをテレビショッピングで占められている局が問題視されることはほとんどない(この批判は従来からあり、2011年には各局が量を明確に削減するよう求められた)。
近年はネットの使用率の増加とともに、テレビやラジオの視聴率や聴取率が減少しており、この手のタブーには広告代理店は以前よりも敏感になってきている。
例えば、2013年にホテルや百貨店の食品偽装が相次いで発覚し、それを最初に公表した新阪急ホテルはマスコミから大バッシングを受けたのに対し、それよりも前に食品偽装が発覚した東京ディズニーリゾート系のホテルに対してはマスコミはほとんど報じなかった。
また、旧グッドウィルなどの日雇い派遣会社で相次いだ違法行為が、旧グッドウィルが廃業する前年の2007年までマスコミに見過ごされてきた事例もある。
ただし中小企業や、大企業であっても民間放送への影響の小さい企業はこの限りではない。
大手広告代理店のタブーについては2016年の電通女子社員の過労自殺をめぐる集中報道をきっかけに破られつつあるが、広告代理店体質そのもののタブーは未だ根強く存在する。
芸能プロダクションタブー​
芸能関係者が犯罪加害者として報道される場合において、本来「容疑者」や「被告(人)」、「書類送検」と表記される部分を、「(元)メンバー」、「(所属)タレント」、「司会者」、「(狂言・歌舞伎)俳優」、「ボーカル」、「ギタリスト」、「落語家」、「書類送付」などと本人の芸能界での肩書きによる不自然な呼称表現で済まされることがある。
これらはおもに、逮捕後処分保留で釈放された直後や、略式起訴・在宅起訴で済まされた事例で多く、後述のように逮捕→起訴→有罪の場合はこの限りではない。
しかし、読売テレビアナウンサーの道浦俊彦は、「『メンバー』などの不自然な呼称を付けるのは、実名に肩書きを付けて報道するのが原則の在宅捜査に切り替わるにあたり、適当な呼称が存在しないからであり、芸能プロの圧力ではない」としている。
過去に吉本興業と松竹芸能事務所間で所属芸人の引き抜き合戦があったことに端を発したことから、両事務所のタレントが同じ場所に出演する場合同時に他事務所のタレントを起用しなければならないといった慣例が続いている。一方、事務所から独立した個人事務所タレントである場合は制約も緩くなり、柔軟なバーター営業が可能となっている。2014年にはプロ野球パブリックビューイング企画で松竹芸能所属の森脇健児が吉本の劇場であるなんばグランド花月の舞台に立つという異例も起きた(森脇以外全て吉本所属)。
それとは逆に退社したアイドルグループのメンバーを、事務所の意向で報道しないケースもある。
また、劇団四季において、所属俳優がパワーハラスメントを受け自殺未遂事件を起こした際も、報じたのは週刊文春と毎日新聞のみであった。
財政タブー​
国家の財政については様々な議論が行われているが、マスメディアはこのうち一方のみの視点に基づく報道を行っているのではないかという指摘がある。
例えば消費税増税について。日本の債務額が対GDP比で200%になっていることを受け、新古典派経済学は緊縮財政を行うべきであるとの主張を行ったが、これに対して現代貨幣理論は緊縮財政が寧ろ景気の悪化を招き財政や経済を逼迫させるとし、消費税増税に反対の立場を取った。
しかし大手マスメディアはこのうち新古典派経済学のみの視点からニュースや情報・トーク番組の内容を編成することがそうでない場合と比較して圧倒的に多く、反対派からは中立性に欠けると強く批判されている。実際に、読売新聞、朝日新聞、日経新聞等の大手新聞社は総論で消費増税に賛成しており、増税が実施された際もそれを評価する社説を掲げている。
また、財務省は1990年代から新古典派経済学を基に緊縮財政を積極的に取り入れてきたが、これについて国税庁を配下に置く財務省が税制を利用してマスメディアに圧力をかけている可能性も指摘されている。
桜タブー​
桜は日本の警察紋章つまり旭日章に由来する。
桜タブーを破った事例として、最近では『北海道新聞』(以下「道新」。地元ではこの愛称で知られる)が2004年1月より行った北海道警裏金事件追及が挙げられる。2年間で1,400件の記事が掲載された一連のキャンペーンで北海道警察(道警)は組織的な裏金作りを認め、使途不明金約9億6千万円の返還に追い込まれた。また道新は日本ジャーナリスト会議大賞・日本新聞協会賞・菊池寛賞・新聞労連ジャーナリスト大賞など、各賞を受賞した。
また、テレビ朝日の『ザ・スクープ』は桶川ストーカー殺人事件の検証報道において埼玉県警察の怠慢捜査が殺人に至った最大の原因であると暴き、徹底追及した結果、ついに警察に非を認めさせることに成功した。
さらに、メインキャスターの鳥越俊太郎が『サンデー毎日』の記者時代にイエスの方舟事件で主宰の千石剛賢を匿っていたという過去からか、警察庁が総務省を介して番組打ち切りの圧力をかけるようになり、ついには製作元がこれに抗することができず、ローカル枠格下げを経て放送打ち切りに追いやられたとされている。ただし現在は不定期スペシャルとして継続している。
また、人権上問題である痴漢冤罪や、多くのドライバーが不満に感じている「ネズミ捕り」に代表される警察の別件逮捕のやり方の問題についてはメディアではほとんど報じられることはない。冤罪に関しては定例記者会見での質問を一切受け付けないといった例もある。
さらに学校現場で生徒のいじめ自殺事件が起こると大津市中2いじめ自殺事件など報道機関は競ってその事柄を報道するが、警察内で起こったいじめ自殺事件は地方紙以外で大きく報じられることはまずない。
なお、マスコミは警察24時などの警察活動に密着したドキュメンタリー番組を頻繁に制作しているが、マスコミ・警察双方が利益を享受しているとの指摘がある(同記事にて詳述)。
菊タブー​
天皇、皇室に対する批判や毒のある風刺に対する社会的圧力などによるタブー。
2019年に開催された「あいちトリエンナーレ2019」では「表現の不自由展・その後」という企画展において、昭和天皇の写真をガスバーナーで燃やす動画が展示され、ネットを中心に物議をかもした。その件に関して、報道が菊タブーを重視するどころか、民間人がそれ以上に菊タブーを重視し自重を求める例が出現しているという意見があるが、一方で、国や地方自治体が公金を使って主催する芸術祭に、憲法で国の象徴と定められている天皇の写真を燃やす作品を展示したことが問題であり、菊タブーの問題とは本質的に異なるという意見もある。
荊タブー​
荊(いばら)は部落解放同盟の団体旗である荊冠旗に由来する。部落解放同盟をはじめとする一部の同和団体が政府の同和政策に癒着し、同和利権を構成していることについてマスコミが批判できない。また、一般的な事件の犯人や関係者が同和関係者であり、事件の本質的な原因として同和問題が関わっている場合であっても同和問題には一切触れず、一般的な事件であったかのような報道をする傾向がある。
万が一、部落解放同盟をはじめとする同和団体を批判すると部落解放同盟から確認・糾弾などを受け強要や暴力行為の被害に発展する可能性もあるため、各社ともこうした問題には及び腰となっている。
しかし21世紀に入ってから、同和対策事業が終わり、部落解放同盟をはじめとする同和団体に関する問題点が徐々に指摘されるようになってきている。中でも毎日放送の関西ローカルのニュース番組『VOICE』による追及シリーズは群を抜き、スクープを連発し、大阪市など行政当局による不正な補助金支出をたびたび暴露した。
アーレフタブー​
Alephに改称したオウム真理教に関するこのタブーは、呼称と報道内容に対するものに分けられる。
呼称に対するタブーとしては、アーレフを報道する際、「オウム真理教(アーレフに改称)」などと必ず旧名称「オウム真理教」を中心にして報道され(単に「オウム」とだけ省略されることもよくある)、「アーレフ」のみまたは「アーレフ(旧オウム真理教)」のように「アーレフ」を中心にして報道することがまずない現象がみられる。アーレフから分派したひかりの輪に対しても「オウム真理教上祐派」のように報道されることがある。
報道内容に対するタブーとしては、マスコミが視聴者・読者からアーレフを擁護していると非難されることを恐れるあまり、教団を排斥する運動や、信者への微罪逮捕や別件逮捕を問題視した報道が避けられる傾向があると森は指摘している。また、麻原の出演した番組やTBSビデオ問題を取り上げる報道は2018年現在まで行われておらず、「今後も同じことが起こってしまうのではないか」との声もある。
鶴タブー​
日本における多くのマスメディアが報道や出版において、宗教法人である創価学会に対する批判を控えることを指す。鶴タブーという名称は創価学会がかつて講として属していた日蓮正宗の紋が鶴であることに由来している。日蓮正宗と関係を断った創価学会は1977年(昭和52年)以降、シンボルマークとして八葉蓮華を用いているため「鶴」という単語で総称せず、現在は単に「創価タブー」と呼称することが多い。
鶴タブーという言葉は1970年代にはすでにマスコミ界、言論界で広く流れていたという。創価学会、公明党およびそれに関する団体・信者からの抗議や訴訟などを懸念する。1970年代に創価学会批判本を出版した著者、出版社、取次店、書店などにさまざまな圧力がかけられた。これは「言論出版妨害事件」として社会の強い批判を浴び、池田大作会長(当時)が公式に謝罪している。
また、2000年代においても、創価学会を批判した『週刊新潮』などは、機関紙『聖教新聞』や関連企業である第三文明社が出版する雑誌などで激しく批判されたり、裁判で訴えられたりしている。
1999年10月に公明党が与党入りしてから、出版社等は同党の政治的影響力を恐れ、各誌における創価学会批判は野党時代より減ったと言われている。
映画業界に絶大な影響力を持つスタジオジブリの後継者争いにおいても、創価学会員のどの派閥であるかが重視された選考であったため、各報道機関においても深くは報道されなかった。
鶴タブーのごくわずかな例外として、1970年代の「言論出版妨害事件」を『しんぶん赤旗』がさきがけてスクープ報道し、他の大手マスメディアもそれに追随したことが挙げられる。また21世紀に入って『週刊新潮』が山田直樹による「新『創価学会』を斬る」という連載を行いはじめた。
在日韓国・朝鮮人タブー​
太平洋戦争後、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)、在日本大韓民国民団、および在日韓国・朝鮮人の犯罪事件に関して積極的に報道することは、朝鮮総連が組織的な示威行為などを起こしたことからタブーとされてきた。しかし朝鮮総連に関しては北朝鮮による日本人拉致問題が露呈して以降、比較的タブー視されることなく報道されるようになった。
なお、現在でも在日韓国・朝鮮人の犯罪行為に関して、本名ではない通名報道を行う報道機関もある。おもに朝日新聞・毎日新聞・テレビ朝日、TBSテレビ、NHK、まれに読売新聞などがあげられる(詳細は聖神中央教会事件を参照)。またこれと同様に、かつては在日朝鮮人、在日韓国人の著名人の出自を報じることも1980年代あたりまではなかばタブーであった(詳細は黒シール事件を参照)。 力道山は日本復興の英雄とされてきたが、彼が朝鮮民主主義人民共和国出身であると伝えることは生涯タブーとされてきた。
ただし近年では、在日の世代交代や時流などで孫正義や李忠成などは日本への帰化後も通名を使わず、またマスコミも在日であったことを大々的に報じるなど出自を伝えること自体のタブーは以前と比較し薄れてきてはいる。
中華人民共和国タブー​
現在においても、日本内外に関わらず「新聞社やテレビ局は日中双方の新聞記者交換に関するメモのせいで中国に不利な報道が出来ない」「日本のマスメディアは中国にマイナスになる情報、真実を伝えない」という事実がある。
実際に、1972年の日中国交正常化までは、日本の大手マスメディア(新聞・テレビ放送)は1964年のLT貿易で結ばれた「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」の効力により、中国共産党政府の意向にそぐわない内容は報道できなかった。しかし、「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」は日中国交正常化後の1973年に廃止されており、その後に結ばれた「日中両国政府間の記者交換に関する交換公文」は報道を規制するような条項は含まれておらず、この公文をもって報道機関の国外退去を求めることはできない。
そもそも「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」およびその後の「日中両国政府間の記者交換に関する交換公文」は国家間での取りきめであり特定社が協定を結んだり結ばなかったりできるものではなく、実際に先述の産経新聞社も「日中両国政府間の記者交換に関する交換公文」に基づいて1998年に北京に中国総局を開設している。ちなみに(諜報活動等の明確な敵対行為の発覚以外ではほとんど実行されたことはないが)、協定の有無に限らず、すべての主権国家は記者の滞在許可を取り消し国外に追放することが可能である。
このため、中華人民共和国と対立する中華民国が実効支配している台湾や香港を含む自治区の実態が正確に報道されない事態が続いている。
ユダヤタブー​
イスラエル、そしてユダヤ人に対するタブーが、イスラエルとは比較的縁の薄い国である日本においても若干存在した(詳細は1995年に発生したマルコポーロ事件を参照)。ただし、ツンデル裁判の勝訴他、ホロコーストの歴史修正主義的研究および訴訟が日本でも深く知られるようになり、以前ほどではなくなってきている。
核タブー​
戦後、日本国憲法施行後の国会で民主的に決定された(とされる)「国策」を批判することは、民間放送局、NHKともにその放送基準で規制対象とすることを公開している。原子力の平和利用、特に原子力発電は1950年代より国策とされ、国(自民党政権による55年体制下、および東日本大震災発生までの民主党政権)の原子力発電推奨、および原子力発電所を運営する各電力会社の運営方針、あるいはたとえ事故が起こっても日本における原子力利用を積極的に批判することは避けられる傾向にある。
市民運動が盛んであった1970年代においてでさえ、朝日新聞などの左派系マスコミも原子力発電の存在自体は肯定的に報道している。電力会社がスポンサーについている民間放送局などにとってはスポンサータブーの一種と言えなくもないが、各放送局ともに国策批判を規制対象にすることを相当具体的に公開していることから、必ずしもこれは「タブー」に分類されるものだとは言えない。また民間放送局でも、スポンサーについている電力会社の原子力発電所で深刻な事態が発生した場合などで、当該電力会社がスポンサーであるからという理由でその報道を控えることは視聴者からの信頼を失い、他のスポンサーとの契約に影響を生じて経営悪化に直結することになる。そのため、通常実施される、問題を起こしたスポンサーに対する処置と同じく速やかに契約解除を行うという前提がある。
核タブーの一例としては、BARAKAN MORNINGの2014年1月20日放送で、出演者のピーター・バラカンが、複数の放送局から「都知事選終了まで原発の話題に触れるな」と言われたことを暴露している。
菱タブー​
菱は山口組の代紋である山菱に由来する。山口組を含む暴力団に対し、報復を恐れてマスコミは大々的に出版や報道することができないことを指す。ただし、山口組の分裂にともなう事件は随時報道され、抗争は常に報道されるなど、昭和期ほどの制約ではない。
作家タブー​
『週刊新潮』や『週刊文春』などの出版社系週刊誌が小説家などの作家のスキャンダルを報道することができないことを指す。元木昌彦によれば、噂の真相が休刊したからだとしている。ただし、群像新人文学賞受賞作「美しい顔」における盗用嫌疑などは深く報じられており、作家の実力に関するスキャンダルは報道されるようになってきている。
野球タブー​
ファン増加する傍らメディアにおいてスポーツ界を支配し続けている野球に対する、批判や不祥事などの報道することができないことを指す。
2015年ごろから発覚した読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題の際には、読売巨人軍の親会社である読売新聞グループ(読売新聞社・報知新聞社・日本テレビ)でこの問題を取り上げることが少なかったという声が多い。
このようなタブーは巨人に限らず他球団でも存在するとされており、広島県のマスコミ(主に中国新聞や中国放送など)がマツダスタジアムのビジターパフォーマンス席のカープファンによる買い占め問題や分割縮小、緒方孝市の監督時代の野間峻祥への暴力行為など、広島東洋カープに関する批判や問題点を、事例によっては事実を簡潔に伝える程度にするなど、県外メディアと比較して詳細に報道することを避けている面がある。特に球団の成績と業績が復調した2010年代半ば以降こうした傾向がある。
一方で中日ドラゴンズの場合は、親会社である中日新聞社の関係者による落合博満の采配に対する批判が監督退任後に公式ファンクラブ会報に公然と掲載されるなど、グループ内でのタブーが薄い面がある。
近年ではプロ野球選手のドーピング違反や献金が即座に報じられるなど、かつてほどのタブーではなくなってきている。
地方と都市の格差に関するタブー​
地方と都市の学力格差・経済格差・文化格差については、多くのキー局は報道を避ける傾向にある。
2010年代に入ると、地方から都市へ逃れることのできた団塊ジュニア以降世代の人間の手によって、地方と都市の格差タブーが指摘されるようになってきた。
諸外国の報道におけるタブー​
欧米を中心とした諸外国、特に米国では理論化された「明白かつ現在の危険」基準(表現行為が重大な害悪を発生させ、明白かつ現在の危険をもたらさない限り表現の規制を認めないとするもの)がよく用いられる。表現の責任の所在は原則、個人であるため、タブーは表現者個人(被取材者のみならず、各マスコミや個別案件ごとの担当者)の中にそれぞれある。また、過去の歴史的経緯などから特定の内容の報道について、法律による一定の規制を課しているところもある。一方で「いちいち規制するものという概念」そのものがないことも多く、結果、日本以上に無数に存在している。
ナチス・ヒトラー礼賛タブー​
ナチス・ドイツ当時のユダヤ人へのヘイトクライムにより、世界、特に欧米ではナチスやヒトラーを礼賛することが徹底的にタブー視され、特にドイツでは民衆扇動罪(刑法第130条)により禁止、違反者は処罰対象とされている。フランスやドイツなどではユダヤ人を罵倒・差別することは法律で禁じられている。
戦時大統領タブー​
政治学者の砂田一郎は、『アメリカ大統領の権力…変質するリーダーシップ』にて、“アメリカ合衆国では「戦時大統領制」という常時に対する制度が存在する”と主張している。また、“戦時大統領(戦争を遂行する大統領)を報道にて批判してはならない”というタブーも存在する。これを利用したのがアメリカ同時多発テロ事件およびイラク戦争当時のジョージ・W・ブッシュであるという。  

 

●新聞テレビが絶対に報道しない「自分たちのスーパー既得権」 2016/10
「日刊新聞紙法」をご存じか?
「左巻き」の人々は、どうしてウソのニュースを報道したり、間違った知識で議論をしてしまうのだろうか。
メディア関係者や、公務員、教員、大学教授などはそれぞれマスコミ、役所、学校、大学という既得権にまみれた環境に安住している。日々厳しいビジネスの世界で緊張感ある働き方をしていれば、どうやって儲けて、いかに生きていこうか必死になるはずだが、そういった切迫した危機感がない状況だから、左巻きの考え方をしていても平気でいられるのだ。
マスコミの中でも、新聞はとくに左巻きがのさばっているメディアだ。そうして的はずれな記事を平然と報道している。
新聞の報道が嘘八百になる原因が4つある。まずは、日刊新聞紙法という法律だ。もう1つは再販規制。そして3番目は最近新たに生まれた軽減税率だ。この3つで新聞はすべて守られている。
それにプラスして、これは実体の話だが、新聞社屋のための国有地の売却という問題が絡んでくる。日本の新聞社の多くが、総務省から国有地を安く払い下げてもらって、社屋をそこに建設している。ある種の優遇措置を受けてきたと言っていい。大手町や築地、竹橋などの一等地に新聞社が立ち並んでいるのには、そのような理由があるのだ。
ここから、新聞を既得権まみれとしている法律について見ていこう。
まず日刊新聞紙法というのはどういう法律か。すごく変わっている法律で、実は世界にこんな法律は日本にしかない。ポイントは、新聞社は全国紙のすべてが株式会社で、地方紙も株式会社が多いのだが、その「株主が誰か」ということだ。
商法の大原則だが、株式というのは譲渡制限がない。これは株式会社の株式会社たるゆえんと言える。譲渡制限がないからどんな時にもオーナーが代わり得る。この「オーナーが代わり得る」ということが重要だ。
要するにオーナーはのうのうと安住できないということだ。そうすることで会社の緊張感が保たれ、きちんとした経営をするということになる。
しかし新聞社の株式は、日刊新聞紙法によってなんと譲渡制限が設けられているのだ。
制限があるとどうなるか。
たとえば朝日新聞を例にとってみよう。朝日新聞は、村山家と上野家が代々ずっとオーナーとして存在する企業だ。株式の譲渡が制限されているのだからオーナーが代わることがない。このように完全に経営者が代わらないと、オーナーがどんな意見を言うか言わないかで、経営方針をはじめとする会社のすべてのことが決まってしまう。
ただし、新聞社のオーナーは現場に意見を言わないケースがほとんどだ。するとどうなるかというと、現場の社長が経営のすべてを握ってしまう。そうして、絶対にクビにならない社長になるというわけだ。
もう1つの例として、読売新聞を見てみよう。渡邉恒雄代表取締役兼主筆がなぜ、あれだけの権力を持ち続けられるか考えてみて欲しい。読売は従業員持ち株会もあるのだが、結局会社はオーナーのものだ。
そして新聞社が「既得権益集団」になる
株式が譲渡されない安泰な経営のなかで、オーナーが口出しをすることがないので経営陣にはなんのプレッシャーもかからない。そうして経営トップが大きな顔し続けることになる。
日経新聞などは企業の不祥事を追求する記事で「コーポレートガバナンスが重要」とよく書いているが、自分の会社が一番コーポレートガバナンスが利かないのだ。なぜなら、株式の譲渡制限があるからだ。それではガバナンスなど効きようがない。
新聞社の株式が譲渡されないということは、つまり絶対に買収されない仕組みになっているということだ。さらに、その新聞社がテレビ局の株を持つ。朝日新聞ならテレビ朝日、読売新聞は日本テレビといった具合だ。そうすると、テレビも新聞社と同じようにまったくガバナンスが利かなくなる。
そうして新聞社を頂点として構成されたメディアは、既得権の塊になってしまう。
以上のような仕組みになっているため、一度新聞社の経営陣に加わってしまえば絶対安泰だ。クビになることはまずない。これは、他の業界では絶対にあり得ない既得権を守る規制なのだ。
一番ガバナンスがないのは、新聞社だった
世界基準で見てもこの日本のメディア構造は異常である。普通の国ではメディアも普通に買収される。経営者が代わることもあるので、これが会社としてメディアとしての緊張感につながるのだ。
たとえば2015年の11月に、日経新聞が米フィナンシャル・タイムズを買収したことは記憶に新しい。日経新聞が、米フィナンシャル・タイムズの親会社だった英ピアソンから株式を買収して自らのグループに組み込んだのだが、これはごく普通の企業買収と言える。しかし、日経新聞のほうは株式が譲渡できないから、決して買収されない仕組みになっている。
そんなものは商法違反でないか、と憤る人もいるかもしれない。この状態を商法の適用除外にしているのが「日刊新聞紙法」なのだ。
日刊新聞紙法はすごく短い法律で、正式には「日刊新聞紙の発行を目的とする株式会社の株式の譲渡の制限等に関する法律」という。名前に書いてあることがこの法律のすべてで、「株式は譲渡されない」ということしか書いていない。新聞の既得権の最大のものと言っていい。
普通に働いている人たちには馴染みがないが、新聞社に務める人間ならみんな知っている法律だ。
しかし、新聞社の人間でこのことを堂々と記事で書く人間はいない。新聞は企業の不祥事があった時に「コーポレートガバナンスができていない」「社内制度が悪い」などと書き連ねるが、一番ガバナンスができていないはその新聞社なのだ。記者も、それが分かっているから日刊新聞紙法について恥ずかしくて書けないのだろう。
この法律が、新聞社を堕落させていることに、記者も早く気がつくべきだ。自分だけ安泰な身分では、他者に厳しいことがいえるはずない。自分には甘く他者に厳しいのはありえない。言論で勝負する人は、やせ我慢が必要なのだ。
テレビ局も既得権の塊
ここでテレビ局に話題を移したい。新聞社が子会社のテレビ局を支配しているという構造的な問題は、前段で触れたとおり。さらに、そのテレビ局が既得権化している理由は、地上波放送事業への新規参入が実質的に不可能になっていることにある。
総務省の認可を受けた場合にしかテレビ放送事業はできない。「放送法」によって免許制度になっているわけだが、このことがテレビ局を既得権まみれにしている最大の原因だ。
はっきり言おう。「電波オークション」をやらないことが、テレビの問題なのだ。電波オークションとは、電波の周波数帯の利用権を競争入札にかけることだ。
日本では電波オークションが行われないために、電波の権利のほとんどを、既存のメディアが取ってしまっている。たとえば、地上波のテレビ局が、CS放送でもBS放送でも3つも4つチャンネルを持ってしまっているのもそのためだ。
電波オークションをしないために利権がそのままになり、テレビ局はその恩典に与っている。テレビ局は「電波利用料を取られている」と主張するのだが、その額は数十億円程度といったところだ。もしオークションにかければ、現在のテレビ局が支払うべき電波利用料は2000億円から3000億円は下らないだろう。現在のテレビ局は、100分の1、数十分の1の費用で特権を手にしているのだ。
つまり、テレビ局からすると、絶対に電波オークションは避けたいわけだ。そのために、放送法・放送政策を管轄する総務省に働きかけることになる。
その総務省も、実際は電波オークションを実施したら、その分収入があるのは分かっているはずだ。それをしないのは、テレビ局は新規参入を防いで既得権を守るため、総務省は「ある目的」のために、互いに協力関係を結んでいるからだ。
放送法の大問題
そこで出てくるのが「放送法」だ。昨今、政治によるメディアへの介入を問題視するニュースがよく流れているので、ご存じの方も多いだろう。話題の中心になるのが、放送法の4条。放送法4条とは以下の様な条文だ。
放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
 一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
 二  政治的に公平であること。
 三  報道は事実をまげないですること。
 四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
これを根拠に、政府側は「放送法を守り、政治的に公平な報道を心がけよ」と言い、さらに電波法76条に基づく「停波」もあり得るというわけだ。
一方で左巻きの人々は、放送法4条は「倫理規範だ」とする。つまり、単なる道徳上の努力義務しかない、と反論をしている。
しかし、筆者から見ればなんともつまらない議論だ。
そもそも、世界ではそんな議論をしている国はない。「放送法を守れ」「これは倫理規範だ」なんてつまらない議論をするのではなく、「市場原理に任せ、自由競争をすればいい」だけの話なのだ。
電波オークションによって放送局が自由に参入して競争が起これば、質の高い報道や番組が生まれるはずなのだ。おかしなことを言っていたら人気がなくなるし、人気があれば視聴者を獲得しスポンサーも付く。そうやって放送局が淘汰されれば、放送法など必要ないはずだ。
繰り返すが、電波オークションをやると一番困るのは既存の放送局だ。だから、必死になって電波オークションが行われないように世論を誘導している。
総務省はその事情を知っているから、「放送法」をチラつかせる。「テレビの利権を守ってやっているのだから、放送法を守れよ」というわけだ。それはテレビ局も重々承知。言ってしまえば、マスコミは役所と持ちつ持たれつの関係になっている。
マスコミをダメにする「悪魔の一手」
最近では右派の人たちが、左巻きのメディアに対して「放送法を守れ」と息巻いている。筆者からするとそれはつまらないやり方だ。言葉は悪いが、もしマスコミを「潰したい」のなら、電波オークションで新規参入させるよう促せばいい。
「放送法は守らなくてもいいから、電波オークションにして誰でも意見を発信できるようにしろ」と言えばいいのだ。そうなるのが、テレビ局にとっては一番痛い。
この電波オークションの問題は、当然ながらテレビ界ではタブーとされている。電波オークションについて必要性を語る論者は、テレビ局にとっては要注意人物。筆者もそのひとりだ。
もし地上波で「実は電波利用料は数十億しか払ってないけど、本当は3000億円払わなければいけないですよね」などと言おうものなら、テレビ局の人間はみんな真っ青になって、番組はその場で終わってしまうだろう。テレビでコメンテーターをしているジャーナリストも、その利権の恩恵に与っているので大きな声で指摘しない。
電波オークションをすれば、もちろん巨大な資本が参入してくるだろう。ソフトバンクなどの国内企業をはじめ、外国資本にも新規参入したいという企業はたくさんある。
既存のテレビ局は巨大な社屋やスタジオを所有しているが、これだけ映像技術が進歩している現在では、放送のための費用はそこまでかからない。今では、インターネット上で自由に放送しているメディアがたくさんあるのだからそれは明らかだ。
既存の放送局の権利を電波オークションで競り落とすと考えれば費用は膨大に思えるが、電波だけではなくインターネットを含めて考えれば、放送局そのものは何百局あってもかまわないのだから、新規参入するのに費用は数百億円もかかるものではない。
資本力がある企業が有利ではあるかもしれないが、技術が進歩しているために放送をする費用そのものはたいしたものでなないのだから、誰にでも門は開かれている。
多様な放送が可能になれば、どんな局が入ってきても関係がない。今は地上波キー局の数局だけが支配しているから、それぞれのテレビ局が異常なまでに影響力を強めている。影響力が強いから放送法を守れという議論にもなる。しかし放送局が何百もの数になれば影響力も分散され、全体で公平になる。そのほうが、健全な報道が期待できるだろう。
しかし、筆者などが「既得権をぶち壊そう」と提言すると、いつも激しい反発を食らう。マスコミや、教員、公務員の既得権を批判すると、すぐに左派の学者が出てきて共闘を始める。
経済問題への無知さ加減はもちろんだが、それにも増して、こういった既得権にまみれながら厚顔でいるところも、筆者が「左巻きはバカばかり」と言いたくなる理由だ。 

 

●「東京五輪中止」の現実味をスルーする日本マスコミの病理 2021/1
新型コロナウイルスの感染拡大が止まらない。連日、新聞もテレビもコロナ禍報道一色である。今夏の東京オリンピック・パラリンピック開催も相当難しそうだ。世論調査でも8割ほどの国民が今夏の開催に否定的な態度や疑問を示している。
そうした中、ここに来てようやく、主要全国紙にも開催に懐疑的な視点からの取材記事が出始めた。「そろり、そろり」を地でゆく実に慎重な動きだが、読者の疑問や関心に応えるのが報道の役割であると自任するのなら、報道機関はこの問題を避け続けるのではなく、早急に徹底取材し、報道せねばならないはずだ。
折しも米紙ニューヨーク・タイムズは1月15日の電子版で、今夏の開催は中止になる可能性があると伝えた。日本の国家的催しの行方についても、報道は「外圧」頼みなのか。
東京五輪の開催機運を盛り上げ続けるメディア
今夏の東京オリンピック・パラリンピック開催について、国民はどのように考えているのか。
共同通信社が今年1月9、10の両日に実施した世論調査によると、東京オリンピック・パラリンピックの今夏の開催を「中止するべきだ」は35.3%になった。「再延期するべきだ」の44.8%を含めると、80.1%が見直しを求めたことになる。調査はコロナに関する緊急事態宣言が1都3県に出た直後に実施されており、コロナに関する国民の危機意識を的確に映し出したものと思われる。
2度目の緊急事態宣言が出る前の世論調査でも、東京オリンピック・パラリンピックの開催には、多くの国民が疑問符を付けていた。
朝日新聞が昨年12月19、20日実施した調査では、「東京オリンピック・パラリンピックをどのようにするのがよいと思いますか」という問いに対し、予定通り2021年夏に開催するとの回答は30%だった。これに対し、「再び延期する」が33%、「中止する」は32%。実に65%が見直しを求めている。
読売新聞は昨年10月〜11月、早稲田大学と共同し、質問票を郵送する方式で世論調査を実施した。その中には発足直後の菅義偉内閣に対して「優先的に取り組んでほしい政策や課題を、いくつでも選んでください」との質問がある。「その他」を除いて選択肢は17項目。最多の回答は「医療や年金、介護など社会保障」の69%で、「景気や雇用」65%、「新型コロナウイルス対策」59%などが続く。複数回答可だったにもかかわらず、「東京五輪・パラリンピックの開催準備」は8%しかなかった。同じ数字の「憲法改正」と並んで17項目中の最下位である。
テレビなども含めた他の世論調査もほぼ同じ傾向にある。
しかしながら各紙は、東京オリンピック・パラリンピックの開催を前提とした連載企画や特集を続けている。相当以前から準備していたのだとしても、このコロナ禍で機運を盛り上げようとする報道には、一種異様な感じがある。多くの人がこの点には同意するのではないか。
国民の8割が開催に否定的なのに……
他方、ごくわずかではあるが、「このままでは開催できないのではないか」という視点に立った取材記事が年明けからようやく現われてきた。そのいくつかを拾ってみよう。
比較的ストレートな見出しで目立ったのは、朝日新聞の1月8日朝刊第2社会面の「東京五輪 開催危ぶむ声も『3月までに解除されなければ…』」である。コロナに関する緊急事態が再宣言された直後の朝刊。記事は社会面を見開いて状況を伝えていた。この記事はその1つで、見出しは3段。決して大きな扱いではないものの、紙の上では目につきやすい扱いでもあった。「ある大会関係者は『日々の暮らしに苦しむ人や医療従事者のことを想像すると、大会どころではない』と吐露する。組織委は当初、年明けから職員全員が原則出勤する計画だった」などと記されている。
東京新聞は1月13日の「こちら特報部」で見開き紙面を使って大展開した。主見出しは「東京五輪『やれる』根拠はあるのか」。そのほかにも「世論は『中止・再延期』8割」「それでも…組織委・首相・与党『必ずやる』」「対策アイデアも効果は?」といった見出しが並んだ。筆者の見るところ、独自取材に基づいて開催に疑問を投げかける記事としては、今までのところ、この記事が一番大きい。
読売新聞は1月9日のスポーツ面に「五輪へ強化ピンチ」「合宿縮小や中止 NTC利用制限」という記事を載せた。緊急事態の再宣言に伴う各競技団体の動向などを伝える内容で、日本ソフトボール協会幹部の「五輪メンバー15人を決める最終選考の場だが、どうするか近日中に決めなくてはいけない。対応に四苦八苦している」というコメントも紹介されている。4段見出しの大きな扱い。アスリートたちの苦悩が伝わる記事であり、普通に読めば、もう開催は無理だろうと思える内容だ。
ただし、目立った記事はこの程度しかない。この他には、過去の大会で4個の金メダルを格闘した英国の元ボート選手が延期したほうがいいと発言したことを伝える記事、国際オリンピック委員会の最古参委員のディック・パウンド氏(カナダ)が「私は(東京での開催に)確信が持てない。誰も語りたがらないがウイルスの急増は進行中だ」との見解を表明したという記事などが通信社の外電として流れた程度である。
もちろん、社説でこの問題を真正面から取り上げたものはない。本来なら世論調査によって8割もの国民が開催に否定的な見方を示していることが分かった段階で、即座にこうした肉声を集め、分析し、それに関する政府や組織委、東京都などの姿勢に疑問をぶつけていく記事があってしかるべきだろう。
五輪スポンサーに名を連ねる大手マスコミ
先述したように、ニューヨーク・タイムズは1月15日の電子版で東京開催に対する懐疑的な長文記事を掲載した。上掲のバウンド発言などを引用した記事であり、コロナ禍の収束が見えてない以上、「第2次世界大戦後、初の五輪開催中止に追い込まれる可能性がある」としている。これまでの流れや現状からすれば、至極当然の記事である。しかも、記された事実自体には新規性も乏しい。
ただ、ニューヨーク・タイムズのこの報道を紹介する形で、共同通信は即座に速報を流した。他の日本メディアも「ニューヨーク・タイムズが報じた」とネットで報じている。問題は「開催は困難」との指摘が、外電を紹介する形でしか報道されないことにある。開催地は日本なのだ。それなのに、先述したように「本当に開催できるのか」をきちんと問うた取材記事は日本の主要紙には見当たらない。それもまた、日本のマスコミの病理を示している。
全国紙で東京都や組織委を取材している記者は「今夏の開催が難しいことは記者の誰もが分かっているでしょう。でも、それを積極的に記事にしよう、社会に投げかけようという機運はありません。どのメディアも自分が先陣を切るのが怖いのだと思います」と言う。
東京オリンピック・パラリンピックのオフィシャルパートナーには読売新聞社と朝日新聞社、日本経済新聞社、毎日新聞社が名を連ねている。オフィシャルサポーターには産業経済新聞社と北海道新聞社が加わっている。メディア委員会にはテレビ局や通信社、新聞社などが揃い踏みだ。
新聞社やテレビ局も営利企業であり、オリンピックを大きなビジネス・チャンスとして捉えること自体は否定しない。しかし、営利目的が「報道の論理」を食い尽くし、国民が疑問に思う大きなテーマを取材・報道しないのであれば、報道機関としては役割放棄と言えよう。報道をしない期間にも開催に向けて湯水のごとく税金は使われている。
東京オリンピック・パラリンピックが今夏、本当に開催できるのか、開催すべきなのか。国民の8割が抱く疑問をこれ以上放置すべきではない。  

 

●テレビ政治時代のメディア接触と政治観・マスメディア観 2008
はじめに
近年、日本でも、ワイドショー番組やインフォテインメント番組などで政治の話題が多くとりあげられるようになり、テレビでの政治の伝え方が大きく変わってきている。テレビ政治の先進国アメリカでは 、「政治を面白く伝えることは、視聴者の政治に対する信頼感を損ない、シニシズムを助長する」という批判論がある一方、「政治知識を高め、参加を促す」という賛成論もあり 、研究者の間で活発な議論が行われている。
ワイドショー番組などでの政治関連情報が増えている日本では、どうなのであろうか。盛んに議論は行われている。しかし、日本では残念ながら、それを検討するための実証的データがアメリカに比べてたいへん少なく 、また客観的な研究も十分とは言い難い。
そこで本研究では、まずは「選挙・政治に関する意識についての世論調査」を実施して基礎的データを収集し、日本での「テレビと政治」に関する研究が可能であるのかどうか検討したい。
この研究は、NHK放送文化研究所の「平成18・19年度新研究領域創成のための共同研究」として、研究領域としての可能性を検討するために行った。つまりトライアル研究である。
研究チームには、筆者らのほかに、共同研究者として、立教大学社会学部の是永論教授、一橋大学大学院の稲葉哲郎准教授、NHK放送文化研究所世論調査部(社会調査)から塩田幸司 、原美和子、西久美子が参加した。
さて、こうした研究が可能であるかどうか検討するためには、2つのことを明らかにする必要がある。第1点は、日本においてはかつてアメリカで起きたような「テレビ政治」状況がどのくらい起きているのか。第2点は 、そうした状況を客観的に捕捉する仮説や設問を設定できるのか。これらを明らかにすることがこの研究の目的である。本稿では次のとおり紹介したい。
1.日米における先行研究の動向 / まず、政治とテレビの関係に関する、日米の先行研究をレビューする。これにより1980年代以降のアメリカでの「テレビ政治」状況を特徴づけるとともに、先行研究の知見を確認する。
2.調査研究の設計 / 続いて、先行研究の知見をもとに構成した仮説を、図式で簡単に紹介する。
3.調査結果のおもなポイント / 調査の実施結果についておもなポイントを中心に紹介する。それにより、日本における「テレビ政治」状況が、アメリカに比べてどのくらいすすんできているのか、日本の現状を明らかにする。あわせて 、今回採用した設問、概念がどこまで研究として有効なのか、その有効性を検討する。
4.研究の可能性と今後の課題 / 最後に当初の目的である、日本でのこの分野における調査研究の可能性について考える。
1. 日米における先行研究の動向
1-1 選挙報道のプラス・マイナス
1980年代初頭、アメリカでは、メディアと政治、特にテレビの研究が続出したが、日本では皆無であった。1984年から飽戸、佐藤、竹内、竹下らとスーザン・ファー 、エリス・ クラウスらによる日米共同研究がはじまった1)(Akuto, 1996)。また、飽戸はそれまでのアメリカの研究をレビューしたのち2)(Akuto, 1988)、コロンビア大学において1988年のブッシュ対デュカキスの大統領選挙に関して 、イベントの観察調査、各種世論調査の結果の分析を行った3)4)(飽戸、1989、2001)。
これによれば、アメリカにおいて、1960年代以降、政治の民主化、予備選挙の普及、テレビ討論の実施により、テレビによる政治報道が飛躍的に増加した。その結果 、政治報道の大衆化、娯楽化がすすみ、プラス、マイナスの影響が現れた。
プラス面としては、テレビ報道によって政治教育機能が高まるとともに、候補者の情緒・印象を伝え投票の判断基準を広げた。ネガティブ広告キャンペーンも判断材料を豊かにすることに貢献した。
他方、マイナス面としては、ゴシップ報道による政治不信、テレビ向きニュースへの偏重、娯楽志向への対処として過剰演出・センセーショナリズムが広がった。まじめで本質的な報道(substance reporting)から 、勝ち負けを中心とする競馬型報道(horse−race reporting)が中心になった。
1-2 テーマの伝え方、娯楽志向による影響
1990年代に入って、アメリカではテレビの伝え方の特徴に注目した実証的な研究が多く登場した。代表的なものとして一例をあげると、J.N.カペラ、K.H.ジェイミソンらは 、1993年から94年にかけて、テレビの「テーマの伝え方(フレーム)」によっては、政治不信・メディア不信を助長することを明らかにするための調査を実施した5)(J. Cappella and K. H. Jamieson, 1997)。2000年に入ると 、テレビジャンルや娯楽的演出に注目した研究が発展した。M. A.バウムは、候補者が娯楽的なトークショーに出演することによる影響を分析した6)Matthew. A. Baum, 2005)。また 、M. プライアーは、多メディア状況下での娯楽志向の影響を分析した7)(Markus Prior, 2005)。これらの研究によれば、いずれも無視できない影響があることが明らかになってきた。
2. 調査研究の設計
2-1 調査の仮説
先行研究を受けて、研究仮説を設定したのが、図 1の図式である。この図式は将来行われるであろう、研究を想定して作成されており、そのうち今回、基礎的に調査したのは図の真ん中の四角で囲んだ部分である。
この今回の基礎調査の構成要素は、大きくは「メディア接触」「認知と態度」「情報コミュニケーションネットワーク」「メディアリテラシー」の4つの大きな要素よりなっている。
これらの4つの要素の間の関係を明らかにすることがこの基礎調査のゴールである。図式上に描かれた矢印の向きは、想定される因果関係を表しており、根元が原因で、矢先が結果を意味している。○で囲んだ数字のついている矢印は 、メディア接触からの影響を示している。
2-2 調査の概要
基礎調査は次の通り実施した。
   調査時期:2007年5月10日(木)〜 20日(日)
   調査相手:全国20歳以上の男女 1,800人
   調査方法:訪問留置回収法
   回答数(率):1,225人(68.1%)
基礎調査の設問は37問で、先行研究および、NHK放送文化研究所による「日本人の意識調査」、「くらしと政治」調査、「転換期の政治意識」調査、「日本人のマスメディアに関する意識」調査 、「日本人とテレビ・2005」を参考にして作成した。
   図 1 情報・報道番組と世論形成・メディアリテラシー総合研究(研究仮説)
2-3 基礎調査の構成要素
それでは、4つの大きな要素ごとに若干説明をしたい。
   2-3-1「メディア接触」
情報一般から政治に関する情報まで、人々はどのメディアからどのように得ているのか、明らかにするために12の設問を設定した。メディアの影響を考える上で、どの変数がきいているのか分析する必要がある。おもなものは以下の通りである。
○情報入手メディア、テレビ視聴時間、報道・情報番組視聴頻度、ニュース・報道番組の見方
○政治関連番組を見る理由
○好きなテレビジャンル(娯楽志向)、好きなニュース・報道番組のタイプ、興味のあるニュース・報道番組の内容
   2-3-2「認知と態度」
政治に関する認知と態度として14の設問を用意した。メディア接触との関係でいうと、メディア接触の結果でもあり、メディア接触の原因にもなりうる部分である。投票行動との関係でいえば 、原因となる重要な部分である。ここの尺度をうまく構成できるかが、今後の研究の可能性を大きく左右することとなる。
○政治知識、関心、政治的志向性(保守・革新傾向)
○政治システムへの評価、政治的有効性感覚、政治的シニシズム
○日本の政治課題、日本人が考えるべき課題
○日常生活でのリスク感覚
○テレビ・新聞報道に対する評価
   2-3-3「情報コミュニケーションネットワーク」
古典的著書『ピープルズ・チョイス』(ラザースフェルドほか、1944)による指摘以来、政治行動や投票行動に影響を与えるものとして、所属団体やパーソナルコミュニケーションが深く関っていることがひろく知られている。また 、他者や社会に対する信頼感、互報性に代表されるソーシャルキャピタル(社会関係資本)も現在では重要な要素として考えられている。今回は7つの設問を考えた。
○コミュニケーション相手、所属団体、友人数
○頼れる組織、他者への信頼感、社会への信頼感
   2-3-4 「メディアリテラシー」
テレビ接触の影響を検討する上で、視聴者がテレビに対してどのようなリテラシーをもっているのか考慮することは、たいへん重要である。そこで4つの設問を作成した。
○テレビに対する親近感
○テレビリテラシー(テレビの見方・態度)
○情報処理能力・情報発信欲求
飽戸・酒井・菅原(2006)によれば、視聴者のテレビに対する態度は「過度に批判・攻撃」する態度、「過度に信頼・没入」する態度、など大きく分かれることが分かっている8)。態度の違いによって 、メディア接触による政治態度への影響に違いが出てくると考えられる。
そこで、「テレビについてその功罪・特徴などをよく理解しており、過度に信頼・没入するでもなく過度な批判・攻撃をするでもなく、適度にテレビの特徴を理解し、テレビを有効に適切に利用・活用する人たち」を 、“テレビリテラシーの高い人たち”と定義して、分析を試みたい。そうすることで、テレビ政治時代に望ましいテレビへの態度を今後検討することも可能となろう。
3. 調査結果のおもなポイント
ここでは調査結果から、日本の「テレビ政治」状況を明らかにするとともに、研究領域の可能性についても検討する。本稿では、誌面の都合から「メディア接触」「認知と態度」「メディアリテラシー」の領域のポイントについてのみ報告する。「情報コミュニケーションネットワーク」の部分については 、単純集計だけではなくて、尺度構成などの分析を行ってはじめて、実態をみていくというような設問が多いので、ここでは紙面の都合から割愛する。
3-1 「メディア接触」の現状
まず、メディア接触の側面で、日本の「テレビ政治」状況はどのくらいすすんでいるのであろうか。結論からさきに言えば、日本においてもアメリカ同様、政治報道の大衆化 、娯楽化がすすんでいた。それではポイントについて具体的にみてみよう。
   3-1-1 政治情報の情報入手ルート
結果 1 おもな情報源(channel)
政治に関するおもな情報として、NHKニュース・報道番組をあげる人が多かったが、変化する兆しも見られた。〈政治についてのおもな情報源 (n=1,225)〉
第 1 位 NHKニュース・報道番組 38%
第 2 位 民放のニュース・報道番組 26%
第 3 位 新聞 25%

テレビからの影響を考えるために、どのメディアから政治に関する情報を得ているのか、そのルートをまず知らなければならない。利用するマスメディアによって影響の与え方は大きく異なるからである。
ここでは、政治、経済、事件、地域、文化のそれぞれについて、どのメディアから情報を入手していることがもっとも多いのか、選択肢から1つ選んでもらった。選択肢は「新聞」 、「NHKニュース・情報番組」、「民放のニュース・報道番組」、「民放のワイドショー・情報番組」、「雑誌」、「インターネット」、「その他」の7つであった。
なお、年齢、性別によって大きく異なっていることも分かった。全体としては、政治のおもな情報源として「NHKニュース・報道番組」をあげる人が 38%と一番多かったが 、20歳〜39歳の男性(n=115)になると、18%と少なくなり、「民放のニュース・報道番組」(38%)、「新聞」(20%)についで、3位となっている。政治に関する情報の入手ルートが大きく変わっていくことを窺わせる結果となった。このことから 、テレビの影響も大きく変わってくると思われる。
   3-1-2 政治関連番組を見る理由
結果 2 政治関連番組を見る理由 (欲求充足)
政治関連番組を見る理由は、「政策の良し悪し判断に役立つ」が45%、「暮らしや生活に役立つ」が41%、「世間で受けている話題がわかる」が35%と多かった。大きくみると 、娯楽志向が高まっていることが分かった。 (n=1,225)
「政治問題や政界の動きをとりあげる番組」を見る理由を聞いてみた。政治関連番組を見ることによって、視聴者はどのような欲求を充足しているのか、知るためである。具体的には 、図 2にある理由について、あてはまるものをすべてあげてもらった。
   図 2 政治関連番組を見る理由
「見る理由」についても、年齢による差が大きい。「政策の良し悪し判断に役立つ」、「暮らしや生活に役立つ」は高齢層に多く、「世間で受けている話題がわかる」は若年層に多かった。また 、「素顔や裏話を知りたい」という理由は世代差があまりない。
こうしたことから、今後は「世間で受けている話題がわかる」「素顔や裏話を知りたい」といった、おもに興味関心を充たすために、政治関連番組を見る人が増えることも考えられる。こうした傾向は 、他の設問の分析結果からもみられている。
本稿冒頭の研究動向のところで紹介したが、多メディア状況下での娯楽志向の影響を分析したM. プライアーによれば、娯楽志向の強い視聴者ほど、テレビによる影響を受けやすいと指摘している(Markus Prior, 2005)。こうした視聴者のニーズにどのように対応していくのか 、テレビに問われていると思われる。
研究としても、こうした娯楽志向つまりバラエティー番組やお笑い番組志向と、報道への批判的態度および政治観との、関連について検討することが重要であろう。
   3-1-3 好きなニュース・報道番組タイプ
結果 3 好きなニュース・報道番組タイプ
1 内容の伝え方については、解説タイプが好きと答える人が 50%と多かった。
2 演出については、客観タイプ、感性タイプ、意外性タイプで、ほぼ三分されている。全体として娯楽志向を持つ人が多数であった。
3 選挙の伝え方については、政策タイプが好きと答える人が、71%と多かった。 (n=1,225)
ニュース・報道番組における内容の伝え方や切り口や演出、つまり「番組のフレーム」のありかたそのものが、政治観やメディア観にどのような影響を与えていくのか検討するための設問である。ここでは 、内容の伝え方、演出、選挙の伝え方について、それぞれ 3つのタイプを選択肢として用意して、もっとも好きなタイプを1つ選んでもらった(図 3)。
   3-1-3-1 好きな内容の伝え方
まず、内容については、事件や事実の伝え方として次の3つのタイプから選んでもらった。
解説タイプ :問題や背景を解説する
事実タイプ :事実や動きを中心に伝える
意見タイプ :出演者の意見(批判・支持)を伝える
その結果、解説タイプをあげる人が半数と事実タイプ(substance reporting)をあげる人より多かった。1980 年代後半のアメリカのテレビ政治状況に似た状況になりつつある。
   図 3 好きなニュース・報道番組タイプ
〇内容の伝え方
解説タイプ 50% / 事実タイプ 41% / 意見タイプ 8% / その他 1%
<事件・事実について>
解説タイプ:問題や背景など解説する
事実タイプ:事実や動きを中心に伝える
意見タイプ:出演者の意見(批判・支持)を伝える
〇演出
客観タイプ 38% / 感性タイプ 31% / 意外性タイプ 30% / その他 1%
<キャスターやゲストが>
客観タイプ:淡々と伝える
感性タイプ:面白く伝えたり、感情に訴えたりする
意外性タイプ:討論・生中継などハプニングがある
〇選挙の伝え方
政策タイプ 71% / 勝敗タイプ 9% / 戦略タイプ 18% / その他 2%
<選挙選の報道では>
政策タイプ:候補者の政策・人柄、政党の立場という観点
戦略タイプ:候補者の思惑・かけひき、戦略という観点
勝敗タイプ:どちらが勝ちそうか、追いつ追われつという観点
   3-1-3-2 好きな演出
次に、演出については、キャスターやゲストの伝え方として、3つのタイプを設定した。
客観タイプ :淡々と伝える
感性タイプ :面白く伝えたり、感情に訴えたりする
意外性タイプ :討論や生中継などハプニングがある
3つのタイプが同じぐらい選ばれ、客観報道を好む人が少数派になりつつあることがわかる。面白く伝えたり、ハプニングを求めたりする人たち、ニュース・報道番組への娯楽志向を持つ人が日本でも多い実態が見えてきた。
   3-1-3-3 好きな選挙戦の報道の仕方
今回の調査では、さらに選挙戦の報道の仕方についても、同じような形式で尋ねている。
政策タイプ :候補者の政策・人柄、政党の立場という観点から伝える
戦略タイプ :候補者の思惑・かけひき、戦略という観点から伝える
勝敗タイプ :どちらが勝ちそうか、追いつ追われつという観点から伝える
これは研究動向のところで言及したように、アメリカのJ.N.カペラ、K.H.ジェイミソンらは、テレビの「テーマの伝え方(フレーム)」によっては、政治不信・メディア不信を助長することを主張していた。彼らはここでいうところの 、選挙戦報道での「戦略タイプ」の増加が、視聴者の政治不信を高めるという仮説を提起している。日本ではこの戦略タイプが好きだという人は、まだ18%と少なく、喫緊の研究課題とはまだなっていない。しかし 、若年層ほどこの割合は高く、20歳〜 39歳の層では31%と多くなっている。また、こうした傾向が続けば、将来は大きな研究課題となることも予想される。今後、後述する「報道への批判的態度」などとの関連の検討が必要になるであろう。
これまでみてきたように、メディア接触の面での「テレビ政治」状況が、日本でもある程度すすんでいることが分かった。また、メディア接触の設問(変数)については 、日本のテレビ政治状況を十分に捕捉していると結論づけることができる。
3-2 「認知と態度」について
   3-2-1 政治に対する評価
   3-2-1-1 政治に対する評価の現状
政治に対する評価としてまず、政治への信頼感をみてみよう。
結果 4 政治への批判的態度
政治そのもの全般に対して批判的態度の強い人の割合は、57%であった。 (n=1,225)
   図 4 政治への批判的態度
あなたは今回のホワイトカラー・エグゼンプション制度導入について、どのように感じていますか。次にあげるAとBのうち、あなたの気持ちに近いものを1つずつ選んで○をつけてください。
政府や与党が伝えたこと 「有権者が知りたがるようなこと」34% / 「自らの利益のため」49% / 「有権者が知らなければならないこと」42%
与党の目的 「自らの利益のため」49% / 「国の問題を解決するため」27% / 無回答 25%
撤回の理由 「法案の撤回が有権者にアピールすると政府は考えたので」42% / 「この政策は今後の日本にとって有効でないから」34% / 無回答 25%
図 4のような形式で回答者に尋ねている。これも、尺度を構成するために考案されたものである。これは、調査当時に話題になっていたホワイトカラー・エグゼンプション制度導入を例題にして 、回答者の意識を尋ねたものである。回答の背景にある、政治全体への信頼感を探るためのものであり、そのためそれぞれの項目について単純集計はあくまで参考であり、それ自体はあまり意味を持たない。
(A)と答えた場合1点、(B)と答えた場合0点、無回答は分析から除外して、スコアを計算して、「政治への批判的態度」を測定する尺度を構成する。分布(n=923)をみるとスコア3、20% 、スコア2、37%、スコア1、32%、スコア0、12%となっている。その結果、政治そのもの全般に対して批判的態度を持っている人、つまり、スコア2以上の人の割合は全体の57%であった。40歳から59歳の年齢層が他の年齢層に比べて批判的態度が強かった。
3-2-1-2「政治への批判的態度」尺度の可能性「政治への批判的態度」尺度のスコアについて、前述の分布の様子をみてみよう。どこかのスコアに回答者が集中することもなく 、中央値部分がやや高くなり、きれいに分布している。年齢差や男女差もみられ、分析のための尺度として十分に使えることが分かった。この設問から構成した「政治への批判的態度」尺度は 、研究に十分有効であるといえる。
   3-2-2 テレビ・新聞報道に対する評価
   3-2-2-1 テレビ・新聞報道に対する評価の現状
アメリカの研究において、テレビ政治時代になるとテレビ・新聞報道に対する批判やシニシズムが高まると報告されている。日本の現状はどうなっているのだろうか。まずテレビ局 、新聞社への信頼感から現状をみてみよう。
結果5 テレビ局・新聞社に対する評価 (n=1,225)
<テレビ局> 信頼している 5% / まあ信頼している 41% / あまり信頼していない 41% / 信頼していない 12%
<新聞社> 信頼している 9% / まあ信頼している 57% / あまり信頼していない 27% / 信頼していない 7%
テレビ局についていえば、信頼していない人の方が、信頼している人に比べて多くなっていた。今回の基礎調査では、報道そのものの評価について尋ねている。
結果6 テレビ・新聞報道に対する評価
どちらかといえば「報道が世論操作をしようとしている」と思っている人は全体の45%に、「テレビニュースは視聴率がとれるように作られている」と思っている人は全体の44%に達している。 (n=1,225)
評価は4つの側面から聞いてみた。
問 1 報道は、(A)社会問題の解決を助けているか、それとも、(B)より悪化させているか。
問2 報道は、(A)公平で客観的か、それとも、(B)世論を操作しようとしているか。
問3 新聞報道は、(A)読者が知らなければならないことを伝えているか、それとも、(B)読者の好奇心にそうようなことを伝えているか。
問4 テレビニュースは、(A)視聴者の多様なニーズにあわせて作られているか、それとも、(B)視聴率がとれるように作られているか。
それぞれの設問について、(A)、(B)のうちどちらが、「あなたの気持ちに近い」のか、回答者に選んでもらった。各設問とも(A)は報道に対して肯定的評価で、(B)は否定的評価となっている。尺度を構成するための設問として考案された。
それぞれの設問の結果は、図 5のとおりであった。報道の役割については、問1のように、「社会問題の解決を助けている」と答えた人の割合が60%と、「社会問題をより悪化させている」と答えた人の割合24%に比べてずっと多く 、評価は高かった。
しかし他方で、気になる結果もみられた。報道のあり方については、問2で「世論を操作しようとしている」と答えている人の割合が45%に達して、厳しい評価となっている。また 、テレビニュースのあり方についても、問4のように、テレビニュースが「視聴率がとれるように作られている」と答えている人の割合が44%にもなっている。
テレビ・新聞報道全体への傾向を知るために4つの設問から尺度を作り検討した。本研究の共同研究者である稲葉哲郎による分析結果から、以下紹介する。
まず、尺度構成するために、各問について(A)と答えたら0点、(B)と答えたら1点として「報道への批判的態度」尺度のスコアを作成した。スコア4点から0点になり 、スコアの高い人ほど報道への批判的態度が高いというわけである。結果は次の通りである。
報道への批判的態度スコア分布 (n=1,028)
スコア 4点 3点 2点 1点 0点
割合 11% 16% 24% 25% 24%
4問すべてにおいて報道に肯定的な見方をしている人々(0点の人)が24%とほぼ4分の1を占める一方で、1割ほどの人々がすべての問で批判的な態度を示していた。
   3-2-2-2「報道への批判的態度」尺度の可能性
「報道への批判的態度」尺度のスコアについて、分布の様子をみてみよう。どこかのスコアに回答者が集中することもなく、分布している。分析のための尺度として十分に使えることが分かった。図5の設問から構成した「報道への批判的態度」尺度は 、研究に十分有効であるといえる。
   図 5 テレビ・新聞報道に対する評価
社会問題の解決を助けてる 60% 1報道は 社会問題をより悪化させる 24%
公平で客観的 39% 2報道は 世論を操作しようとしている 45%
読者が知らなければならないことを伝えている 57% 3新聞報道は 読者の好奇心にそうようなことを伝えている 28%
視聴率の多様なニーズにあわせて作られている 41% 4テレビニュースは 視聴率がとれるように作られている 44%
   3-2-3“社会・政治全般に対する信頼=懐疑尺度”の可能性
さらに、「報道への批判的態度」「政治への批判的態度」を含めた高次の尺度が形成されないか、その可能性についても検討してみた。具体的には「報道への批判的態度」「政治への批判的態度」に 、「公共機関への信頼」「マスメディアへの信頼感」「政治的有効性感覚」「政治、生活面での保守=革新傾向」「政治関心」の変数、ならびに「テレビ接触頻度」「テレビニュース志向」「ワイドショー志向」の変数を追加して 、因子分析を行った(因子抽出法:主因子法、回転法:Kaiserの正規化をともなうバリマックス法)。
その結果、「社会メディア信頼」因子、「リベラル」因子、「政治関心」因子、「ワイドショー」因子、「政治有効・TV選択」因子の5つの因子を抽出することができた。それぞれ因子得点を算出することによって 、回答者を、個別にまたは集団として、位置づけることができる。いいかえれば、5つの因子を基準にして、回答者または回答者グループ(例えば、あるニュース番組の視聴者など)の政治観・メディア観を評価することができるわけである。
いくつかの興味深い知見が得られた。以下、それぞれの因子についてみていこう。
   3-2-3-1 政治観・メディア観の 5 因子構造
「社会メディア信頼」因子:
まず、第1因子は、「信頼感公共機関」「信頼感マスメディア」「政治への批判的態度(マイナス)」「報道への批判的態度(マイナス)」が一つにまとまり、公共機関やマスメディアへの信頼感が高いものは 、政治や報道へ批判的態度は弱いことが分かる。「政治的有効性」との関連も高く、政治への期待も高いようで、興味深い。『社会やメディアへの信頼』を表現している因子で、いわば「社会メディア信頼」因子と解釈できる。
この因子の得点の高い人ほど、社会、メディアへの信頼が高く、また政治が有効であると考えている。一方、因子得点が低い人(マイナス)は、いわゆる政治やメディアへの不信も強く 、政治に対してあきらめているといえ、政治に対してはシニカルである人といえよう。
「リベラル」因子:
次いで、第2因子は、保守―リベラルの軸で「リベラル」因子。政治にリベラルな人は生活全般でもリベラル、ということで、これは予想通りである。他の変数との関連はみられず 、政治観・政治意識の領域特有の因子であるといえる。
「政治関心」因子:
第3因子は、「政治関心」因子。「政治関心」が高い人は「ニュース志向」も強い。そしてそういう人は、政治有効性感覚も高い。政治に感心のある人たちのようだ。
「ワイドショー」因子:
第4因子は、「ワイドショー志向」の強い人たちで、「テレビ接触」も多い。いわゆる「ワイドショー」因子。政治観との変数との関連はみられず、メディア観の領域特有の因子であるといえる。
「政治有効・TV 選択」因子:
第5因子はたいへん特徴的な因子である。「政治有効・TV選択」因子。この因子の強い人は、「政治は有効である」と強く考えると同時に、マスメディアへの不信観が強い人たちである。そのためか 、テレビに対しても依存することなく自覚的に、選択的に行動をする。第1因子の強い人と同じように政治に期待はよせているが、第1因子が強い人とは違いメディアには厳しいのである。
このことは、この「政治有効・TV選択」因子の強い人は、「社会メディア信頼」因子の強い人とは違って、メディアへの批判的態度が強くなっても、そのまま政治的シニシズムにはならないことを意味している。こうした人々が 、現代日本に存在していることは、興味深い。
   3-2-3-2 政治観・メディア観とメディア接触
これら5因子と朝・夜のテレビニュース番組への接触との関連や、休日のテレビ・報道情報番組への接触との関連も、十分にみられた。今後の分析では、有力な尺度として期待できる。
3-3 メディアリテラシーについて 
最後に、メディアリテラシーのうち特に、本研究にとって重要な概念として提案した、“テレビリテラシー”概念について検討したい。前述したように筆者らは、“テレビリテラシーの高い人たち”を 、「テレビについてその功罪・特徴などをよく理解しており、過度に信頼・没入するでもなく過度な批判・攻撃をするでもなく、適度にテレビの特徴を理解し、テレビを有効に適切に利用・活用する人たち」と定義した。ここでは 、このテレビリテラシーを計測する尺度が可能なのか検討してみよう。
   3-3-1“テレビの見方”の現状
まず、人々のテレビへの関り方を調べるために、普段のテレビの見方について聞いてみた。「テレビへの理解」「テレビの活用」「テレビへの期待」について、18の設問を作成してみた。以下の枠線で囲った18の項目について 、それぞれ「あなたは日ごろテレビを見ていて次のようなことを感じるか」と尋ねている(4検法)。それぞれについて「感じることがよくある」「感じることがたまにある」と答えた人の割合は以下の通りであった(n=1,129、割合の多い順)。
a. 演出ややらせがある 89%
b. タレントによるドキュメントに演出ある 89%
c. 約束事の中で演出されている 86%
d. 視聴率重視 87%
e. 制作者の立場を反映している 81%
f. 知りたいことを伝える 76%
g. 絵柄が最優先される 68%
h. 感情を煽る 61%
i. 展開を予想してみる 60%
j. 見ることで元気をもらう 55%
k. 何ごとも単純化する 52%
l. 不正にたちむかう 52%
m.面白ければよい 51%
n. しかけや裏話に興味がある 50%
o. 気楽な番組がよい 49%
p. 見ていてツッコミを入れる 42%
q. 見ることでストレスを発散できる 34%
r. テレビのことを知っている  12%

   3-3-2“テレビリテラシー”概念の可能性
この回答結果(n=1,129)を因子分析したところ、予想どおり第1因子として「批判的リテラシー」因子が、第2因子として「番組積極関与」因子が抽出された(因子抽出法:主因子法 、回転法:Kaiserの正規化をともなうバリマックス法)。
   3-3-2-1「 批判的リテラシー」因子
第1因子で、効いている設問(因子負荷量0.5以上)をみてみると「e.テレビの情報はかならずしも中立でなく、制作者の立場が反映されている(因子負荷量 0.61)」「a.テレビには演出ややらせがある(0.61)」「b.リポーターやタレントが出演するドキュメントは 、実は用意周到に演出されている(0.60)」「d.番組が視聴率重視で演出されている(0.51)」などである。これらは、テレビを批判的に理解する態度のもので、視聴者を評価する尺度といえる。いわば「批判的リテラシー」といえる。この尺度は 、前述した“テレビリテラシー”概念のうち、前半部分である「テレビについてその功罪・特徴などをよく理解しており、過度に信頼・没入するでもなく過度な批判・攻撃をするでもなく 、適度にテレビの特徴を理解し」に対応したものとなっている。この部分の測定に適していると考えられる。
   3-3-2-2「番組積極関与」因子
第2因子で負荷量が高いものは、「q.テレビを見ていて、たまっているストレスを発散させる(0.52)」「o.友達と雑談しているような気楽な番組がよい(0.51)」など 、気晴らしとして活用している要素と、「j.テレビを見ていて、元気をもらったような気になる(0.50)」など、自己活性化に利用している要素とからなっていることが分かる。日常生活の「快適化装置」として利用・活用するわけで 、ここでは「番組積極関与」因子と名づけておこう。この尺度は、前述した“テレビリテラシー”概念のうち、後半部分である「テレビを有効に適切に利用・活用する」に対応し 、その部分の計測に利用することができる。
以上のことから、これらの2つの因子によって、“テレビリテラシー”概念を構成することが可能であることが判明した。
   3-3-2-3“テレビリテラシー”とメディア接触
この因子と、テレビニュース、報道情報番組の視聴との関連を検証したところ、いくつかの番組において視聴との関連がみられた。例えば、「日曜討論」「ザ・サンデー」「サンデー・ジャポン」「報道 2001」「サンデープロジェクト」など日曜日に放送されている報道・情報番組をよく見る人の「番組積極関与」因子 、「批判的リテラシー」因子の得点を計算してみた。その結果番組を見る人によって、その因子得点に大きな差がみられ、番組によって見る人のテレビリテラシーが異なることが分かった。このように“テレビリテラシー”尺度が 、番組接触を説明する要因となる可能性が明らかになった。
4. 研究の可能性と今後の課題
ここまで、基礎調査の結果から日本における「テレビ政治」状況を回答者のメディア接触実態、意識の側面から見てみた。その限りではあるが、日本でもアメリカにみられたような「テレビ政治」状況がすすんでいることが確認された。また 、「政治関連番組を見る理由」「好きなニュース・報道番組タイプ」「報道への批判的態度」「政治への批判的態度」「社会・政治全般に対する信頼=懐疑尺度」「テレビリテラシー」などの設問・尺度・概念の有効性が 、確認された。
これらの結果から、この研究領域における実証的研究の可能性はおおいに高いといえよう。 
今後、内容分析・投票行動分析などの研究をあわせて行うことで、より豊かな知見が得られると思われる。本稿が、この研究領域の発展の契機となることができれば、誠に幸いである。
参考文献
1)Akuto. H., Media in Electoral Campaigning in Japan and the United States, Media and Politics in Japan, Univ. of Hawaii Press, (Pharr, S. & Krauss, E. Eds.), 1996, pp.313-338.
2)Akuto, H., Media and Politics in the United States, Studies of Broadcasting, 24, NHKBCRI, 1988, pp.25-28.
3)飽戸 弘、『メディア政治時代の選挙』、筑摩書房、1989.
4)飽戸 弘、「アメリカ大統領選挙と国民の政治参加−メディアの功罪」、『マス・コミュニケーション研究』、2001、pp107-123.
5)J. Cappella and K. H. Jamieson, Spiral of Cynicism, Oxford Univ. Press, 1997.
6)Matthew. A. Baum, Talking the Vote: Presidential Candidates Hit the Talk Show Circuit, 2005.
7)Markus Prior, News vs. Entertainment: How Increasing Media Choice Widens Gaps in Political nowledge and Turnout, 2005.
8)飽戸 弘、酒井 厚、菅原 ますみ、「親の『テレビリテラシー』と乳児のメディアライフ」、『“子どもに良い”放送プロジェクト 第 3 回調査報告書』、2006、pp89-96  

 

●改革を求められるジャーナリズム 2006/1
はじめに
最近、筆者も会員になっているある私的な勉強会で、誰言うとなくメディア、というよりもジャーナリズムが直面している問題点を集中的に取り上げようということになった。「小泉劇場が政治を変えた」といわれるほどメディアの影響が大きくなっているとき、とりわけ改革が日本の国民的課題としたときメディアは現状のままでよいのか、という問題意識からである。会員には、メディア関係者が多いこともあり様々な問題提起があったが、ただ書くことにのみ追われてきた筆者にとっても、わがことを振り返る良い機会となった。大げさかも知れないが、結論は改革なくしてジャーナリズムに未来なし、である。
T.安易ではないのか言論人
いまメディアの経営者は、かなり深刻な問題意識にとらわれているはずである。世間から、順風満帆げにみえる好業績の大手テレビ界の経営者とて、例外ではあるまい。例えば、いわゆるホリエモン騒動が提起した、通信と放送の融合の問題は規制緩和、競争促進などの視点で新しく行政の課題になろうとしている。新聞に代わりメディアの王者になった観のするテレビ界だが、中期的視野に立つと存亡に関わる難題に直面している。
放送と通信の融合の問題については門外漢であり、筆者には語る資格や能力もない。しかし、この問題がいずれ活字メディアの分野にも大きな影響をもたらすだろうことは、疑いなく確かである。活字離れということがいわれて久しいし、しかも少子・高齢化に伴う働き手の減少の影響も大きい中での難題だけに、新聞経営も容易ではあるまい。
ここで、一言論人でしかない筆者が考えるのは活字ジャーナリズムというか、新聞のありようについてである。毎日、五千万部を上回る途方もなく大きい部数を発行し全国津々浦々に配付している新聞もあるほど巨大な日本の新聞システムが一夜にして崩れる事態は、たぶん起きないだろう。ただし、部数が漸減し続け、メディアとしての影響力も低下し続けることは十分に考えられる。活字メディアの担い手としては、その事態の進行を停止させる責任があり、その関連でも、新聞のありようを考えざるをえないのである。
その点で新聞製作の現場を離れたいま、筆者が思うのは、時とともにジャーナリストはいささか安易に記事を書きすぎるようになったのではないか、ということである。つまり、取材をし、情報を集めて確かな事実であると判断した事柄だけではなく、不確実なことまでも書いてしまう事例が以前と比べ格段に増えている、との思いである。
メディアには、社会的な影響度が大きな事柄ほど迅速に読者や視聴者に伝える、という役割がある。そのための激しく厳しい競争は、メディア関係者の生き甲斐でもある。その意思と努力とを失ったジャーナリストは、もはや言論人とはいえまい。しかし、功を焦り誤報どころか虚報まで行う人が現れるにいたっては、これはメディアの自殺行為である。もちろん虚報となると極めて異例ではあるが、決まってもいない事実を曖昧な表現、例えば消息通の話などと表現する形で報道し、読者に誤解を与えている例は多い。
メディア、それも一般的には社会的な信用が高いとされている新聞等にも、そうした事例が多くみられるのは、メディアへの信頼を低下させている意味で残念である。この状況を生んだ理由はさまざまであり、こうであると短絡的にはいえない。筆者などは、記者らが書かざるをえないスペースが広がりすぎたのではないか、と思ったりしている。
仮にそうだとすれば、ひとつの解決法として、報道すべき対象を大胆に広げてはどうか、と考える。すでに大なり小なり取り組んでいることだろうが、例えば、経済関係でいえば企業製品に関する報道を思い切って増やしてはどうか。また、地域に関するニュースを拡充することは、新聞と読者の関係を親密なものとするに違いない。
このようなニュース報道を増やす場合、終身雇用での身分保障をしている社員を頼っていたのでは経費倒れとなるだろう。そこで、これまた改革が必要になる。すなわち、例えば、より大胆に読者の参加を募り読者の情報をもとにした編集を進めるべきだろう。新聞づくりも昔と比較すると格段に工夫や改善が行われているが、読者に連日、改革の意義を訴えている割には、自らの改革は余りにも遅々としていると筆者は思う。この点では、通信分野での野心的な挑戦を素直に参考にすべきである。
U.曖昧すぎる報道と解説・主張
新聞報道にしてもテレビ放送にしても、今のニュース報道で気になるのは、事実の報道と、その事実の解説とが極めて曖昧な形で読者や視聴者に伝えられていることである。言い換えれば、どこまでが事実を伝えている客観的な内容なのか、そして、どこからが伝える側の主観的な意見なのか、が極めて不透明である、ということである。そして往々、事実の報道の形をとって記者らの考えを読者や視聴者に押し付けてしまう例があるということである。そうした事例が以前と比べ現在は非常に増えている、と少なくとも筆者は考えている。
一般的に読者や視聴者は、新聞やテレビが伝えるニュースの内容は事実であり、伝える側の思想や価値判断が入る報道は社説や署名入りの解説で報道されている、と理解している。実際に先に行われた総選挙での各党の獲得議席数を伝える報道と、その選挙結果に関する記者らの論評を思い出せば、このようなメディアの報道に関する筆者の思いは、ひとつの事実として容易に理解していただけるだろう。
要するに、ここ数年来、メディアでは、この報道と評価・論評との境界が極めて曖昧になってきているのではないか、ということである。しかも、評価・論評、つまり、意見を述べる部分が増えているように思う。実は強制力を持った視聴料で番組制作その他の経営をしているNHKは別としても、新聞などのメディアが思想性を持って、政治や行政や教育や海外事情その他について論評することは、決して悪いことではない。むしろ、より党派性を鮮明にすることは、読者らに誤ったメッセージを防ぐ上で役立つという働きもある。
筆者がいいたいのは、事実の報道と解説・評価・主張とを可能な限り透明にせよ、ということである。そして読者や視聴者らに誤解を与えかねない情報の発信を極力、抑制せよということである。それは、政治や行政に関わる事柄だけではない。私企業が生産し販売している日用品、IT 機器その他の商品等に関する報道に関しても同様である。しばしば、新商品についての情報を知らせるのは企業の PR であり、報道の対象にすべきではない、などといった意見を聞くが、読者や視聴者にとって価値ある情報を伝えることは、報道機関の大事な仕事なのである。
この問題で、ひとつ提案がある。いわゆる社説・主張はともかく解説・評価は厳格に事実の報道と区別して、いわゆるコラムにし必ず署名記事とすべきである。また、筆者の略歴を明記すべきだろう。例えば、政府の財政政策や日銀の金融政策に関する論評について、その評者の略歴が多少でもわかれば、読者の側からすると論評への信頼度が変わってくるのではないか。要は記者や批評家らの透明度を強める企業努力である。
V.存亡の核心は信頼の回復
最近は余り聞かれなくなったが、いつごろからか、新聞を中心とするメディアが「第四の権力」と呼ばれるようになった。立法・行政・司法に並ぶ権力機関として言論機関が位置づけられる、ということだろう。それだけに、ひところはメディアへの注文も多く出され、言論人の側からの自省も出ていた。しかし、いまはそれも少なくなっているように思う。その原因はメディアが多様化し、放送と通信の融合が騒がれるほど変化が激しいためだろう。しかし、メディアそれも既存のメディアへの信頼が低下していることも、ひとつの原因ではないか、との思いが筆者にはある。
社会的な信頼が低下しつつある事業が将来にわたり存在し続けることはありえず、メディアとて例外ではない。すでに述べたように、メディアといっても多様であり、筆者の関心はいわゆるジャーナリズムの世界である。より具体的にいえば活字ジャーナリズムの世界ということになるが、そのジャーナリズムの世界が国民の信頼を得て健全性を維持できるならば人間社会の未来を悲観することはない、とも思っている。もちろん、それは、個々の企業体の盛衰の話ではない。
従って、問題の焦点は、いかにしてジャーナリズムが信頼を回復し高めるかである。そのためには、ジャーナリズムが伝える情報の価値を高めることが先決である。ジャーナリストは、書きたいという本能的な欲望を抑えてでも安易に書くべきではないだろう。事実の報道と解説・論評・主張とを読者や視聴者に透明な形で伝えよう、と書いたのは、そのための筆者の提案であるが、この点で多くの仲間や友人らからの考えを聞きたい。
いずれにしても、改革の実なきものは、疑いなくすべてが崩壊する。IT を核とした技術革新とグローバル化が、そのことを加速している。また、誤解を恐れずに述べるが、ただ学歴の高さだけを自慢する人、報酬の多さに価値を求める人、自分は偉いので良き待遇を受ける権利があると思いこんでいる人、などが中軸になっている企業は早晩、とりわけジャーナリズムの世界での脱落を速めるだろう。
●最後に
活字メディアの中核を占めている新聞ジャーナリズムは、いまなお当事者が考えている以上に広く大きな信頼を得ている。ただし、報道のための取材を受け、かつ報道の対象となった人たちのあいだでは、かなり多くの人たちが新聞への不満を持っている。その理由は、ひとことでいうと事実を正しく伝えていない、という不満である。なかでも、不適切な行為を行ったとして、批判的な報道の対象にされた人たちからの批判が厳しい。
ジャーナリズムの役割とは、割り切っていってしまえば、いわゆる勧善懲悪ではないか、と筆者は思っている。したがって懲悪の対象とされた人たちからメディアの批判がでるのは、これ避けられないことである。しかし、メディアの影響力が強まることに比例する形で、いやそれ以上の勢いで広くメディア全体への視聴者らの批判も高まっている事実が示す意味を、当のメディア関係者はよくよく考えてみる必要がある。そして少なくとも、自らが人権侵害の加害者になることがないよう、節度ある行動をすべきであると考える。 

 

●メディアを監視する社会的な必要─米国 NGOの理念と方法論から学ぶ─ 2008/3
ニュースが社会から信頼されなくなっている。取材の手法の強引さ、演出や構成の正確さや節度などがしばしば問題となるばかりか、政治との常軌を逸した接近ぶりも露見している。しかし報道機関は経営の維持に汲々としており、民主主義社会での「使命」を自覚し、責任をもって果たすという「自助努力」に多くは期待できない状況になっているのが現状である。まずメディアの何が問題なのかをより多くの一般の市民が具体的に、理解する必要があるのだが、その役割を誰が担えばいいのだろうか。小論では米国の「卓越したジャーナリズムのためのプロジェクト」というメディア監視NGOに焦点を当て、彼らの理念と活動を概観して市民がメディアを変革するために働きかけるためのヒントを探る。特にメディア企業の経営側の事情がニュースの現場にどのような構造的影響を及ぼすのかという分析の重要性と、従来はむしろ専門家に委ねられていたニュースの内容分析と検証を一般大衆にも理解しやすい形で行うことの必要性と方法論について議論する。
はじめに(問題の所在)
メディアは「第4の権力」と言われている。筆者もニュースやジャーナリズムの基本を教えるにあたり「報道機関の使命は『権力の監視』です」などと発言している。しかし、そのメディアに対する「監視」については何ら社会的な仕組みがなく、メディアが「表現の自由」や人々の「知る権利」に奉仕する姿勢を誠実に守っているはずだという「信頼感」に支えられてきた。実はその「信頼感」には根拠がないにもかかわらず、「新聞記者は常識と教養を兼ね備えていて、『社会の木鐸』としての役割を担う責任を果たす立派な人たちに違いない」とか「私たちのよく知らない高価なテレビ放送の機材を使いこなし番組を送り届ける人たちは、その社会的な影響力の大きさと責任を自覚した節度ある取材や制作を行っているはずだ」という「気分」に長らく支えられてきたというのが実情ではないのだろうか。
しかし、そのような漠然とした「信頼感」はもはや地に墜ちてしまった。人々は「表現の自由などの大義名分にあぐらをかいて、メディアは堕落してしまったのではないか」という不信感を募らせている。我が国でも TBS(東京放送)がオウム真理教の幹部に坂本堤弁護士が批判しているインタビューのビデオを見せて結果的に一家の殺害を招いたという、「報道の常識」を大きく逸脱した事件(1989年)、松本サリン事件(1994年)や兵庫県尼崎市で起きたJR福知山線の脱線事故(2005年)などに見られるメディア・スクラムの被害や無辜の人を容疑者扱いしてしまうがごとき報道の洪水の問題、NHK教育テレビの番組が自民党の一部有力議員の意向を「斟酌」して改変されたり(2001年)、福田康夫首相と小沢一郎代表の間で話し合われた「大連立」の「陰の仕掛け人」が読売新聞の渡辺恒雄主筆であったり(2007年)という出来事に見られるような、政治とメディア幹部の「行きすぎた接近ぶり」など枚挙にいとまがない。
危機的状況に直面しているにもかかわらず、メディアの側が失われた信頼を全力で回復する努力を行っているとは言い難い。それは長年右肩上がりで推移してきた経営がすでに曲がり角を迎え、経営の維持の方が NHKを含むメディア企業についてはむしろ喫緊の課題となってしまい、収益を度外視して一定の期間を社会的信用を取り戻すことに充てるというようなことは考えられないことになってしまった。新聞は「再販価格維持制度」に守られた宅配制度による経営スタイルがすでに破綻しかけているといっても過言ではない。また民放キー局は全局が東証1部に株式を上場しており、株主対策のために至るところで「数値目標」を要求され、結局は放送を評価するにあたり現在では唯一の「客観的」基準である視聴率を上げることが至上命題になり、これはニュースの分野も例外ではない。
このような状況下で我々はメディアで伝えられているニュースの内容が真実なのかどうか確かめることができないし、ニュースが偏っているなら、どこが偏っているのかを発見する手がかりすら満足に得られない。メディアの不誠実や失敗が明らかになるのは、週刊誌などが絡んだメディア同士の「足の引っ張り合い」による暴露合戦や、ネットの掲示板で流布されるような、どこまでが本当かわからない「悪口」が辛うじて目に入るからであるという非常に心許ない状況だと言わざるを得ない。しかし、せめて我々がメディアの現状を正確に理解し、健全な社会的役割を回復するにはどうしたらいいのかという「働きかけ」を行える機会を確保しなければ、失われたメディアの社会的機能は回復しないし、ひいてはその根拠となっている民主主義も危機的状況に陥ってしまう。それでは、そもそもメディアに関する情報収集やその分析、提言は誰が行えばいいのだろうか。
専門家、特にメディアでコンテンツの制作業務を一定期間経験した人材が不可欠である。昨今「メディア・リテラシー」という用語が流行しており、「市民がメディアを読み解く」ということの重要さが喧伝されているが、筆者はそれだけでは不十分であると考えている。メディアの置かれている社会的位置づけや経営基盤を踏まえ、ニュースを含むコンテンツ制作にどのような影響を及ぼしているのかという構造的な分析はもとより、実際の制作現場で発生する締切時間のプレッシャーや大量のスタッフが共同作業を行う環境で起こる摩擦がどのようなインパクトをもたらすのかという現実的な理解を進めなければ、メディアに対し効果的な改善を要求するのは不可能だからである。しかし、我が国ではメディア企業といえども終身雇用制の伝統は根強く残っていて人材の流動性は低く、メディアを客観的に分析する役割は、主に新聞社で実績を積んだベテラン記者が大学教授などに転身して担うのが大部分であり、その絶対数は充分とはいえないのが現状である。
例えば日本と政治制度やメディア企業のおかれた状況が似ているアメリカ合衆国では「回転ドア(リボルビング・ドア)」というシステムがあり、優秀な数多くの人材がメディア企業から学界だけでなく、政界やシンクタンクなどと行き来するようになっている。その中の一部の人間は NGOを組織し、記者やテレビ・ディレクター出身者やメディア研究者などが積極的なメディアの内容分析や提言を行う文化がある。「メディア・ウォッチ(監視)」の NGOは大統領選挙など大きな政治的イベントの際にライバル側を攻撃するために、報道を非難したり圧力をかけたりするという政治的キャンペーンの一環として成立したものも数多くある一方、中には「政治的中立の(nonpartisan)NGO」として実績を重ね、社会的な信用を獲得しているものも数多く存在する。小論においては、その中でも「卓越したジャーナリズムのためのプロジェクト(ProjectforExcellenceinJournalism:以下「PEJ」と表記)」とその実質的な前身となった「危惧するジャーナリストたちThe CommitteeofConcernedJournalists:以下「CCJ」と表記)」に焦点をあて、その理念とともに実際に行っているメディア分析活動の内容と意義について議論したい。このような潮流の分析がメディアに働きかけ、変えていくという社会的な機能を果たす人材や団体を日本でも育てるヒントになると期待するからである。
1.メディアが置かれた現状の認識 ── CCJと PEJ成立の経緯
2008年で創設11年目を迎える PEJはその目的として「ニュースを生産するジャーナリストやそのニュースを『消費する』(かぎ括弧は筆者)市民の両方に対して、報道機関が何を届けているのかを理解してもらう」ことを掲げている。また、「2つの使命」として、1ニュース(報道の仕方)を評価する、2ジャーナリスト の「プロフェッショナルとしての原則(principles)」を定義することを挙げている。1を達成するためには、単に伝えられたひとつのニュースについて批判や分析を加えるにとどまらず、報道機関全体(あるいはニュース「業界」全体)で何が起こっているのかという実態を「わかりやすく数値化して」見せるという「(特別な方法による)内容分析」の重要性を強調している。そして2の問題、すなわちジャーナリストが「ジャーナリズムが何をするべきで、何をすべきでないか」という「原理原則」を実践できるように具体的なアイディアとして提示する必要があるという問題意識こそがこの活動の端緒といえる。PEJの前身 CCJの活動は1997年6月の雨もようの土曜日にハーバード大学の教職員クラブに集まった25人のジャーナリストたちから始まったと言われている。集まったのは国内の有力紙の編集者、有名なテレビやラジオの番組のプロデューサーや、ジャーナリズム教育の第一人者やコラムニストなどで、彼らは「ジャーナリズムがより大きな大衆(パブリック)の利益に役立っておらず、これを損なっていると危惧していた」。すなわち報道機関が社会からの信用を著しく落としていることが問題であった。この時期(1999年3月)にCCJは「人々と報道機関のためのピュー研究所(The Pew Research Center for the People and the Press)」と共同でメディアの信頼度などの調査を発表しているが、例えばジャーナリズムが一般大衆から信用を失っていると答えた人の割合が1989年には17%だったものが、1999年には米国全土にニュースを送るメディアで30%、地方のメディアでは34%と倍増してしまっている。民主主義の根幹を揺るがしかねないこの事態に「今何をすべきか」について彼らがまとめたのが「危惧の声明(AStatementofConcern)」である。1999年夏にこの声明がまとめられてから約10年が経過したが、事態はいささかも改善したとは言い難く、それ故にこの声明は現在において、そして遠く離れた日本のジャーナリズムについても強力な説得力をもつものであるといえるだろう。いささか長くなるがその冒頭部分を紹介する。現代のニュースの世界が歪んでしまう「構造」を明快に言い当てている。
アメリカのジャーナリズムは危機の時代である。さまざまな点で技巧を尽くそうとするものの、どのような方法で情報を(大衆に)効果的に提供するかとか、記者の習熟度を上げようかなどの問題は全く考慮されないというのはこれほどコミュニケーションが発達した時代のパラドックスである。メディア産業の経済構造とメディアと大衆の関係を考えると、テクノロジーの革命的な発達が伝統的なジャーナリズムの位置づけを根本的に変えてしまった。ニュースの受け手の嗜好は細分化し、それに合わせてメディア企業の側もそれに合わせて多角経営に乗り出そうとする中で、報道機関の中でビジネス(企業あるいは会社員)としての責務とジャーナリストとしての責務との間で論争が拡大している。多くのジャーナリストが目的意識の喪失に悩んでいる。その結果、従来信頼されてきた真面目な報道機関が、ニュースに対するバランスを欠き、意見やエンターテインメント的情報やセンセーショナルな出来事の報道に押し流されてしまい、ニュースの社会的価値に対する懐疑的な見方まで広がっている。
ニュースが経済的な価値を持ち、商品として「流通」するにつれて、メディア企業は「売れる商品(=ニュース)」を前提にビジネスモデルを作り、その結果ニュースそのものが社会的な弱者にスポットを当て問題提起するとか、権力を監視するなどの「従来期待されていた社会的な役割」を逸脱し、単に人目を引くものを追い求めてしまうという構造的な変化を的確に批判している。この文章はさらに、ジャーナリストが本来持つべき価値やプロフェッショナルとしての行動基準などというものがこれまであいまいにしか規定されておらず、また一貫して尊重されてこなかったとして、その「原則」を明確化してニュースが社会に適切な機能を果たすよう取り戻す「改革」が必要だと主張している。
メディアは改革されなければならないが、ジャーナリズムの根幹をなす原則は普遍的である。ジャーナリズムは人々が自治を行うにあたって主要な役割を果たす「公共的な任務」があるからである。それらの原則により、ジャーナリストの仕事は単なるコミュニケーションではなく、一連の社会的責務として規定される。ジャーナリズムは時に人を楽しませ、人を喜ばせ、また精神を高揚させたりもするが、報道機関はますます多様化する私たちの生きている社会にとって重大だと思われる問題は必ず伝えなければならないし、民主主義を体現するものとしてその問題についての討論を促進しなければならない。米憲法修正第一条は表現の自由と共にそれを守るための責務をも意味している。
この「危惧の声明」の執筆に参加した、PEJのディレクターであるトム・ローゼンスティール(Tom Rosenstiel)氏は、この行動は何か特別の出来事に触発されたわけではなく、長年蓄積した不満や批判があったからだと述懐している。この声明が出された1990年代の後半までには、三大ネットワーク(NBC、CBS、ABC)のニュース番組がビジネスとして行き詰まって利益を生まなくなり、また新聞業界では約10年にわたる不況が続いていた。その結果多くのメディア企業ではニュース部門に働く記者やディレクター、カメラマンなどの人員削減が行われ、またニュース部門に対してより厳しい「ビジネス・スタンダード」が適用されることが経営側から一方的に宣言され、利益を生む責任を押しつけられる事態が相次ぎ、米国のニュース業界は「敗北感と将来の存続に対する危機感が蔓延していた」とローゼンスティール氏は背景を説明している。
またローゼンスティール氏は新聞業界が従来とってきた戦略がそもそも誤っており、その結果招いた決定的な経営危機のため、その後新聞の編集現場にビジネスの影響が急激に侵入してしまったと分析する。すなわち1980年代まで米国の新聞は比較的高所得者層をターゲットにする販売方針をとり、編集側もその方針に沿って大学を卒業した人以上が関心を持つような話題を記事として掲載してきたため、その後進行した購読部数の低下を食い止めるために購読者の裾野を広げ、より低所得者や学歴の低い人にも読んでもらおうとは経営側も編集側もどちらも考えなかった。しかし1990年代に入って新聞社の経営サイドが販売戦略の大転換を図り購読層の拡大のため、人々の目を引く、あるいは売れる「俗っぽい」記事を要求してきたこともこの問題の発端であるとローゼンスティール氏は分析している。
わずか30人足らずの署名でスタートした「声明」であったが、その後わずか2週間あまりのうちに賛同して署名に加わった人は400人以上にふくれあがったという。折しも英国ダイアナ元皇太子妃がパリでパパラッチに追いかけ回された末に交通事故死するという出来事が起きたためである。CCJは金曜日にこの声明に賛同を呼びかける郵便を発送したが、その翌日にダイアナ元妃の悲劇が起きた。週末から米国内でも主要メディアの報道はダイアナ一色になってしまい、そのあまりに極端な偏りぶりが奇しくも、この「危惧の声明」の内容を示す格好の実例を示すことになってしまった。この「偶然の一致」によって生じた事態に驚き呆れたジャーナリストが週明けから続々と支持を表明していったのである。
CCJはその後、声明で宣言した「ジャーナリズムの根幹をなす原則」を明示的な形にするための作業を始めた。調査として300人以上のジャーナリストにインタビューするとともに、「ジャーナリストの価値観」について3時間以上にわたるインタビューを100回以上行った大学の研究者チームとも協力し、彼らがどんな原則を意識して日頃の取材活動を行っているのか、具体的なヒアリングを行ったのである。さらに2年間に21回にも及ぶフォーラム(公開討論会)を行い、地方で活動するジャーナリストや広く市民からも意見を募った。参加者は合わせて3000人にも上った。その結果は2001年、『ジャーナリズムの原則(The Elements of Journalism)』という著書にまとめられた。副題には「ニュースで働く人たちが当然知るべき、そして大衆(パブリック)が報道機関に当然期待すべき」と記されている。我が国におけるニュース・ジャーナリズムの議論では、しばしば「報道機関はこうあるべき」式の議論に限定されてしまうことが多いが、この副題は民主主義の体制における大衆(あるいは一般の市民)もメディアの情報を単に享受するだけでなく、絶えず監視し、必要な情報を提供していないのであれば是正を要求するという「相互協力を前提とした緊張関係」があってこそ健全なジャーナリズムが成立するという構造を明確に指摘しており、この本の意義を象徴しているものだと言えよう。この本の位置づけとして調査・研究に参加したメンバーらは、こうして示された原則が「ニュースをめぐる環境の変化にも耐えうるジャーナリズムの究極の目的や、それに伴う原則・責務・熱意を目標とする」ことを確認し、その位置づけについて以下のように説明している。
我々はこの本を単なる始まりだと思う。これをきっかけに新たなアイディアが生まれ、さらにジャーナリズムの信念も新たにされることを目指す。(中略)我々は単に現在の問題に対する「解決策」を提示しようとしているのではない。ジャーナリズムに対して必要な共通認識を明確にすることを目指すのである。また、詳細な行動規程(「あれはするな、これはするな」)を作ろうとしているのでもない。もしジャーナリズムが目的を持った活動であるならば、今変化する時代の中で変革を実行するそれぞれの報道機関の自主的な判断にゆだねられるべき問題であるからだ。しかし同時にもしジャーナリズムが将来にわたって健全に生きながらえるとすれば、それは世代を超えて個々のジャーナリストがその意味を理解して実践していくことにこそかかっている。
『ジャーナリズムの原則』では9つの原則を列記している。それらの表現は平易で、むしろ使い古された言葉しか使われていないが、まさに「ジャーナリズムの理念のエッセンス」である。この本では実際に起こった事件や出来事を報道するにあたって、その原則はどのように応用されるのかを詳細に解説するとともに、実際に行われたインタビューの抜粋も紹介して、ジャーナリズムを実践するための思考法の道筋を解説している。9つの原則とは以下の通りである。
1.ジャーナリズムの第一の責務は真実である。
2.まず市民に忠実であるべきである。
3.その本質とは検証を実行できる能力である。
4.それに携わる者は取材対象からの独立を維持しなければならない。
5.独立して権力を監視する機能を果たさなければならない。
6.公共の問題に関する批判や歩み寄りを行う討論の場を提供しなくてはならない。
7.重大な出来事を興味深く、社会的に意味があるものにするよう努めなければならない。
8.ニュースをわかりやすく、偏らないものに保たなくてはならない。
9.それに携わる者は自らの良心を行うことを許されなくてはならない。
これらの原則に「公正」とか「バランス」とか「客観的」など、ジャーナリズムを議論する時には半ば「常套句」として使われる語句が含まれていないことには注目すべきである。筆者のローゼンスティール氏はこれらのコンセプトは「あいまいで正確に評価することが困難である」と説明している。『ジャーナリズムの原則』では、「ジャーナリズムの原則に関する考えは多くが神話的な通念や誤った認識に取り巻かれている」として、例えば「ジャーナリストが独立を保つには中立であることが必要」という認識などがその例だとして、それらの原則に含まれなかったコンセプト自体が「是正すべき問題そのものを示す言葉として使われている」と注意を促している。
また、「原則」の中に、ジャーナリスト個人の「良心」というコンセプトが提示されたことも、従来の日本的なジャーナリズムの解釈では考えられなかったことではないだろうか。これは一見上記の「客観性」などのように「あいまい」な概念のように見えるが、キリスト教的価値観に基づいた人間の良心に対する信頼に根拠を置くものであって、決して良心という大義名分の下でジャーナリスト一人一人の勝手な行動を容認するものではない。
こうして、これまで「あいまいにしか表現されてこなかった」もので、かつ「時には尊重されないものでもあった」ジャーナリストの尊重すべき価値観が具体的な形で、しかもジャーナリストでない人たちが理解できるような平易な表現で一般化された。しかしこれはあくまでも「始まりにすぎない」ということを我々は心に留めておく必要がある。この原則に述べられた表現は現状では最善のものであることは間違いないだろうが、それを現実の変化に伴って、誰でも理解しやすい表現に改め、できるだけ包括的で今後起こるであろう複雑な事態に対応できるように、そしてその原則を守ることが著しく困難ではない(例えば締切りに追われている瞬間に難しい手続きが必要になることを強制する「原則」は現実的ではない)ような形で発展させていく必要がある。CCJのメンバーは、このような必要性を充分に認識して、その活動を将来的に展開できるように PEJを結成したのである。
CCJの「3つのゴール」には以下のように書いてある。
1.ジャーナリズムを社会で実際に機能させる根本原則としてのジャーナリストの信条(よりどころ)を明らかにし、更新していくこと。
2.大衆(パブリック)がそれらの原則を理解できるようにすること。
3.メディア企業のオーナーや経営陣に対しても、それらの原則が経済的かつ社会的な価値があるのだということを理解させ、参加を促すこと。
これに対して PEJは「ゴール」を「ニュースを生産するジャーナリストだけでなくそれを消費する市民のどちらもが報道機関から何がもたらされているのか、よりよく理解してもらう」ことと規定している。そのためには原理原則の議論よりも「内容の分析(contentanalysis)」に重点を置き、さらに単に一本の記事やひとつの番組で放送されたニュースに対する批判や分析を加えるよりも、メディア全体で起きていることについて定量化(quantify)して分析する」ことがより正確な理解を提供できるとしている。つまり、「ジャーナリストは何をしなければならないのか」という問題は CCJが担い、「実際のニュースはその原則にどのくらい従っているといえるのか、あるいはかけ離れているのか」「それはどうしてなのか」「その乖離を解消するにはどうしたらいいのか」という現実に即した提言を重ねていくのがPEJという、いわば「相互補完」の関係にあるといえるのである。
2.新しいニュースの分析とは何か ── PEJの理念と活動
本章では創設9年目の2006年夏に「新しいフェーズ」を迎えたという PEJが実際にどのような理念に基づいて、どのような方法でニュース分析を行っているのかその内容について議論していきたい。PEJによるニュースの分析は大きく3つに分類できる。それぞれの目的(特にジャーナリストでない人々に何を知らせようとしているのか)、と手法について紹介していく。
1ニュースの「内容分析(contentanalysis)」
従来からも新聞記事やニュースのテキストや映像を逐次記録し、それがもたらす「印象」について主に批判を展開するような伝統的な形式での「内容分析」は存在した。しかし、それらの多くは「単発的で感覚的」であるため時に説得力に欠けるものであったことは否めない。PEJは従来のニュース内容分析の「弱点」を克服するために従来の手法に2点の改良を加えてより正確な分析を目指す試みに取り組んでいる。その2点の「工夫」の1点目は、まず分析の内容を単純化し、特に大衆に理解しやすくなるように極力「数値化」することである。ディレクターのローゼンスティール氏は次のように述べている。
「我々が目指しているのは、メディア学者と言われている人たちに理解してもらうような専門的な研究ではありません。我々が提供しようと努力しているのは、そのような「学のある人たち」ではなく、研究者でもない人たちでも『直感的に理解できる』ものです。そのような人たちは多分『ニュースの内容分析』なんてものについては何も知らないでしょう。社会学科学的な分析手法の知識も何一つないかも知れない。そういう彼らは多分我々に『すぐに(よく考えなくても)納得できるもの』を要求してくるでしょう。そんな人たちに「これはおかしいんじゃないか」と言われて「もしニュース内容分析について理解していればそんなことはないんですけどねぇ」と説明しても全く意味のないことです。むしろ社会科学的な知識が全くない人でも『なるほど、そういうことか』と指をパチンと鳴らして納得するような分析結果が必要なのです。平均的な一般大衆が直感的に理解できるものでなくてはならないのです」
PEJは学術的な議論に耐えうるデータを集めて分析をするが、同時にそれが一般のニュースの受け手にも理解できる形式で提供されることをも目指しているのである。
それではそのような「一般的なニュースの受け手」とはどのような人たちをイメージすればいいのだろうか。ローゼンスティール氏は「相互に連結した大衆(interlockingpublic)」という説明をしている。ニュースの受け手は「知的エリートとそうでない人々」というような単純な構図ではすでになくなってしまっているからである。今日では多様なメディアが発達した結果、人々はそれぞれのライフスタイルの中でいろいろな手段で情報を入手する。テレビからの情報はかなりの比率を占めているとはいえ、単純に「新聞から何パーセント、テレビからはいくつ、インターネットからは・・」などとは割り切れず、特定の問題やトピックによってバラバラで複雑に絡まり合っているイメージだといえよう。さらに学歴の高くない人でも自分の出身地の犯罪率の増加の問題とか、贔屓のプロ野球選手のドーピングスキャンダルについてなど、特定の問題については専門家並みに知識があったりする。メディアが大衆に提供しようとしている情報の量がそのまま「平均的な大衆」の知識に直結するわけではないというのが現実という認識である。しかしそのような複雑な実態は把握しようがないため、将来それに接近する可能性を探りつつ現在は「メディアから何がどれだけ送り出されているのか」という側面からの分析を進めるというアプローチである。
もう1点の新しい分析の観点は「意思決定プロセス」の重視である。メディア企業で実際に仕事をした人物を分析に動員し、ニュースルームの中で、ニュースバリューの軽重、ニュースソースの選択と評価、記事のトーンや演出などが、どのような方針や指向、制約条件などで決定されたのか、「他の選択肢もあるのに、どうしてその選択がなされたのか」現実的な分析を試みようとするものである。さらに特定の取材や情報伝達のスタイルを選択した時に、ニュースの受け手の情報はどのように偏るのか−特に何が伝わりにくくなるのか−という問題についても考察を進めている。
上記の分析について象徴的な好例を紹介する。2003年のイラク戦争で始めて採用された「埋め込み型ジャーナリスト(embedded journalist)」の取材手法はこれまで多方面の検証がなされてきたが、その多くは実際に取材を経験した記者らによる体験談に基づいて考察や推測を展開した「断片的」なものであった。PEJでは戦争が起きた直後の2003年4月3日に早くも「埋め込み型ジャーナリスト」のテレビ・レポートの内容分析についての報告を公表している。PEJは戦争開始から3日間(2003年3月21、22、23日)にわたり、3大ネットワーク(ABC、CBS、NBC)とケーブルテレビ(CNN、FoxNews)合わせて5局を午前7時から午後9時までモニターし、ニュース番組や特別番組の合計40時間半の中で放送された「埋め込み型ジャーナリスト」によるレポート108本を分析している。それは単なるテキストや映像の内容分析の他に、「ジャーナリズム関係者でなくてもわかるように」特定の指標を数値化して考察を加えている。すなわち「トピック(レポートの題材)」「編集が施されているかどうか(中継レポートか一度録画されて VTRに編集されて放送されたものか)」「テレビ用のビデオ素材かラジオ用のレポートをテレビ用に体裁を整えるように編集したものか」」などのデータを記録した。例えば「中継か VTRか」という問題は、テレビ局は通常、重大なニュースについてはニュースルームのデスクや編集長など複数のスタッフのチェックを受けて「万全を期して」放送するが、中継あるいは伝送されてきたレポートを「録って出し(録画してその直後に編集を加えずに放送)」するというのは、それらのチェックをすべて「省略する」ことに他ならないことを指摘し、テレビ局がこの期間いかに無責任に現地からのレポートをただ「従軍して戦闘の最前線にいる(はず)」ということのみを「価値」として放送したかということを明らかにしたのである。分析の結果 PEJが発見した「埋め込み型ジャーナリスト」のレポートの問題点は以下の通りである。
・104本のレポートのうち、93.5パーセントは「事実(fact)」に関する報告であった。「分析(analysis)」はわずか1.9パーセント、「論評(commentary)」も3.7パーセントしかなかった。
・約6割のレポートは中継か編集されていないメディアを監視する社会的な必要(奥村信幸) 77VTRであった。
・送られてきたレポートの約8割は現地の記者の報告で、兵士やその他の取材先(イラクの住民など)の声はほとんど届けられなかった。
・47パーセントのレポートは軍事作戦やその結果についての情報であった。これはまさに「戦闘のレポート」であった。
・映像はドラマティックではあったが、戦争のどぎつさは全く感じられなかった。分析された108本中104のレポートには1回も攻撃で負傷した人が登場しなかった。
以上のようなデータを踏まえた分析でこの報告は「埋め込み型ジャーナリストのレポートは総じて『逸話的(anecdotal)』であった」と結論づけている。また「戦闘だけに焦点を当てた(周辺の住民などには全く注意を払わない)、大部分が中継と編集が加えられていないテープによる放送であった。内容(content)には乏しかったが、細部(detail)の描写が非常に多かった」ため「面白くもあり(exciting)、退屈でもあった(dull)」し、テレビのレポートの「ほとんどの長所と短所が含まれていた」と指摘している。
さらにその報告ではテレビの報道がその期間、上記のような偏向を犯してしまった原因として「とにかく早く情報を放送したい」という意向が過度に働いたことを挙げている。その背景として「テクノロジーの発達」を挙げている。これにより現地のレポートが即時に送信でき、編集の技術も発達したためラジオのレポートをテレビ用に体裁良く放送することも可能になる。しかし、そのようにとにかくスピードを求める取材・放送体制はニュースルームに「混乱や間違いを多発させ、ジャーナリストが単なる『伝言ゲーム』をする事態を誘発してしまっており、非常に部分的な情報が報道されていく過程で歪曲されたり、過度に強調されたりしてしまった」と批判している。
2ニュース企業の経営的側面がニュースに及ぼす影響
ニュースの内容に影響を及ぼす要因の分析は長らく有名なキャスターや花形記者、デスクや編集責任者などの個人的な指向や信条のような「属人的な特徴」に注目する業績に偏ってきたともいえるであろう。PEJはそのような点とは別にメディア企業の経営がニュースの内容に及ぼす影響についての大規模な調査を開始した。2004年から毎年、「ニュースメディアの状況(TheStateoftheNewsMedia)」という16万語にも及ぶ長文の報告書を発行している。非常に大規模な報告書であり、その詳細は将来別の論文で議論したいと思っているが、概観してみるだけで、新聞社やテレビ局、そしてその親会社である巨大コングロマリットの経営方針がニュースの現場に深刻な影を落としていることがわかる。
2007年の報告書の冒頭には「我々はニュース・ビジネスが2007年から新しい局面に入った、それは『向上心』が減退したことである」と述べている。より広く情報を集めようと取材網を拡げるには非常にコストがかかる。今までメディア企業は右肩上がりの成長をなんとか維持してきたので、そのような取材網の縮小を考慮せずに済んできたが、現在は多様なメディアの複雑な競争と絶え間ない技術革新による投資の必要に直面し、メディア企業は「縮小する能力の中でどうやって大衆にアピールできるのか自らを再定義する『衰退をどのように食い止めるか』に能力を傾注しなくてはならない状態」であると指摘している。いくつか例をあげると、「過度な地元優先主義(hyperlocalism)」により、海外支局を閉鎖して(アメリカ)国内のニュースを優先したり、アメリカ国内でも特定の地域(特に自州から離れた地域)のニュース拠点を放棄するような現象が起きている。
報告書ではメディア企業を新聞、雑誌、地上波テレビ、ケーブルテレビ、地方のテレビ、雑誌、ラジオ、エスニックメディア(ヒスパニックや黒人向けメディア)、以上のメディアのオンライン化の状況と新たなデジタルメディアなどのカテゴリーに分けて、その年ごとの経営状況や動向などをデータやヒアリングをもとに詳細に記録している。2007年の報告で特に深刻だと指摘されているのは「報道部門に対する投資に陰りが見られ」ており、記者やカメラマンなどが人員削減の危機に瀕しているという事実である。報告では2000年から2005年の間に、日刊紙やテレビ・ラジオでは全体で5パーセント、全米でおよそ3000人の人員削減が行われたが、2006年の1年間でさらに1000人規模の急激な削減が行われたことが明らかになった。サブプライムローンの問題が露見した2007年はさらに事態は深刻になる見通しである。
そのような事態の中報告では、大資本が多数のメディアを傘下に置くような「業際保有(クロスオーナシップ crossownership)」が成熟したメディア環境においては「そのような大資本がニュース・ビジネスを衰退していくと見るか、それとも新しい成長のための過渡期と見るかという見方こそがカギを握る」と指摘し、もはやニュースの内容の議論以前に、その報道機関が存続するかどうかという究極の判断を経営陣が握っている逼迫した状況を強調している。そのような中でニュース企業はより短期的なサイクルで「なりふり構わず新しいビジネスモデルを確立する必要」に直面している。すなわち「商売になる=売れるモデル」が必要なのであり、例えばそのために、年々深刻になっている「論争文化(TheArgumentCulture):多面的な情報提供や評論よりも、決めつけや罵倒を含めた激しい非難を重視するような編集や番組制作の姿勢」がさらに進行して「解答文化(TheAnswerCulture):種々の情報を吟味検討したり、議論を経ることなく単純な結論を急ぎたがったりする」にまで変質してしまったと分析している。「メディアの責任者はなぜ、そのような選択をしたのか」という原因を追及していくと、現在の米国ではスタッフや制作体制の先に、「資本の論理」に根ざす、構造的な問題であることが認識されてきたのである。
3社会全体でのニュースの総体を把握しようとする試み
上述のように現在のアメリカ社会では(日本社会もそうだが)メディア企業が存続を掛けて「ニュースを売る」ことに全力を傾けることが当然となっている。その帰結としてニュースの「多様性(diversity)」が失われてしまう。ニュースの社会的な意義として「実はこんな問題もありますよ」と少数の人しか認識していない論点を紹介するというものがあるが、より多くの人の関心を呼ぶニュースを提供することで購読者数を増やしたり視聴率を上げたりするということが至上命題になると、ニュースの画一化が深刻化してしまうのである。トップニュースはどの報道機関も同じで、切り口も似通ったものになってしまう。そもそもPEJの前身CCJの活動が大きな賛同を呼んだのも、世界的にダイアナ元皇太子妃の事故死の集中豪雨的な報道であったし、その後も特にセレブ(有名人)報道などでその好ましくない傾向が顕著になる現象が数多く起きている。2004年から2005年にかけてのマイケル・ジャクソン裁判や2007年のパリス・ヒルトンの収監騒動やその後の顛末など報道がヒステリックに特定のニュース一色になってしまう事例は枚挙にいとまがない。その陰で他の大事なニュースが伝えられなかったり、扱いが非常に目立たないものになってしまったりした事例はなかなか伝えられないのが実情であるが、イラク戦争に至るフセイン政権の大量破壊兵器をめぐる報道については比較的詳細に検証と反省がなされている。例えば「コロンビア・ジャーナリズム・レビュー」誌の元編集長マイケル・マッシグ(MichaelMassig)氏が2004年2月、一連の大量破壊兵器報道を批判する論文を「NewYorkReviewofBooks」に掲載した。その中で「ワシントン・ポスト」紙の軍事・防衛担当のベテラン記者、ウォルター・ピンカス(WalterPincus)記者は当時ブッシュ政権が盛んに喧伝していたイラクの大量破壊兵器に疑問を呈する記事を同僚と共に精緻な取材でまとめ上げたが、その記事は理由もなく数日間差し止められ、ボブ・ウッドワード編集局次長の進言でやっと掲載にこぎ着けたが、その扱いは「A13」という紙面ではかなり後ろの方だったというエピソードを紹介し、ウッドワード氏の「われわれは仕事をしたが、決して十分ではなかった。私はもっと強く言うべきだった。われわれはその根拠が危ないものであることをもっと読者に伝えるべきだった」というコメントを紹介している。
筆者が PEJのローゼンスティール氏とディスカッションした時に問題意識を共有したのは、お互いメディア企業で働いた経験をもつ者としてニュースを生産する記者や編集者、テレビのディレクターなどは自分の新聞社やテレビ・ネットワークなどが伝える特定のニュースの占めるボリュームや他のニュースとのバランスには一応気を配るが、同業他社や他のメディアも合わせたメディアの総体が社会に提供しているニュースの総量やインパクトに関しては責任を持てないし、コントロールも不可能であり、実は現在それが大きな社会問題であるという現状認識である。ローゼンスティール氏はこの問題を明らかにするデータがないと、報道機関の関係者にインタビューする際「あなたのところは○○のニュースについてあまりに多くの時間や紙面を割いていませんか」と指摘しようとすると、「そんなことありません」と反論されてしまい、「この問題についてさらに議論する基盤をつくることができない」と何らかの形でデータを作る必要性を痛感したと話している。
PEJはこの問題についても果敢に挑戦を開始している。「ニュース報道指標(NewsCoverageIndex)」と称して、サンプルに選んだメディアの報道を記号・数値化して週に1回定期的にデータと分析を発表する他、大統領選挙や北朝鮮の核問題など特定のイシューについての分析も行っている。データ化には以下の2点を分類しやすい形でデータ化することが求められる。その2点とは1)記事のスペースやテレビの放送時間(newshole)にあるニュースがどのくらいの割合を占めているのか、と2)そのニュースはどのように取材され、演出され、整理されて記事やニュースになったのか(その結果「受け手がどのような印象を持つか」という分析を感覚的でなく、ある程度客観的にすることが可能になる)である。PEJはこの分析プロジェクトを開始するまでに2年以上の準備期間を要したという。ニュースの内容をデータ化するために「コード(code)」という指標を用いるが(詳細は後述)、特にそれらを確定するための作業に時間を要したという。コードや方法論をまとめるのに1年余、それからそのコードを現実的に適用できるように調整しマニュアル化する作業に約1年かかったという。現在でも方法論が完全に確立されたわけではなく、「走りながら考え、修正する」段階だとローゼンスティール氏は語っているがこの枠組みは我々が日本のメディアを分析するうえでも貴重な視座を提供してくれると思われるため、その一端を紹介したい。
このような分析プロジェクトを継続的に行う効果と意義についてローゼンスティール氏は、「基本的な変数(primaryvariable)」はニュースの「話題あるいは題材(topic)」であるとし、長期にわたり分析することにより、特定の話題が爆発的に取り上げられ、流通するニュースの大部分を占めてしまう期間があったり、それが急激に退潮したりという現象が「手に取るようにわかる」としている。現在「トピック」は4つのレベルに分けられており、例えば気候変動(地球温暖化)や HIVウィルスの流行などのような「大きなテーマ」から細分化、具体化されていく。例えば「米大統領選挙のキャンペーンのニュース」は、「候補者の政策」「経歴」「背景(支持団体など)」「選挙運動の手法」などに枝分かれしていくのである。それらの「トピック」について、どのテーマがどのような形で取り上げられているのか(例えばどこの地域や人物や団体に焦点が当てられているのか)などのニュースの「流行」の推移なども概観することができると指摘している。また内容は詳細に「コード」で分類され、「論調(narrative)」がいかに変化していくかという観察も可能になる。
PEJでは以下のメディアをサンプルとして継続的に観察する。
1 新聞(合計13紙):土曜日以外は毎日チェックする。
・「ニューヨークタイムズ(TheNew York Times)」だけは毎日チェックする。
・他の12紙は購読部数と国内での定評(prominence)によって3つのランクに分けられ、その上位グループには「ワシントン・ポスト(TheWashingtonPost)」「ロサンゼルス・タイムス(TheLosAngelsTimes)」「ウォールストリート・ジャーナル(The Wall Street Journal)」「USAトゥデー(USA Today)」が含まれている。その4紙の中から毎日2紙を選びサンプルとする。
・中位、下位のグループも地理的な偏りを避けて選ばれた地方紙4紙ずつのグループであり、上記と同様に毎日2紙ずつ記事の「コード」化の作業を行う。
・新聞は1面に掲載されている記事を分析対象とする。米国の新聞記事は通常、記事の冒頭だけ1面に掲載し、続きを後ろの頁に載せており、後頁の記事も含めすべてを分析対象とする。
・1日に扱われる記事は平均25本である。
2 ウェブサイト(5サイト):月曜日〜金曜日の分をチェックする。
・扱うのは CNN、Yahoo!、MSNBC、Google、AOL(AmericaOnline)のニュースサイトである。これらはニールセン社が測定している1日のユニークユーザー数で上位にランクされたものを10サイト抽出し、その中から掲載されているニュースの形態(ケーブルテレビのニュースサイト= CNN、MSNBC、新聞からの転載= Yahoo!、Google、主に通信社の記事を掲載= AOL)とバランスを考慮して抽出されたものである。
・米国で1日に平均約3000万人が何らかの形でオンライン・ニュースに接触している。
・米東部時間で午前9時から10時までの1時間の間にそれぞれのウェブサイトに掲載された5本のニュース、合計25本を分析対象とする。
3 ネットワーク・テレビ(3大ネットワークとPBS公共放送):月曜日〜金曜日の分をチェックする。
・午前8時から始まる3大ネットワークのモーニングショーの冒頭30分に扱われたニュース計90分を抽出する。モーニングショーは2時間以上の番組だが、後半は繰り返しなどが多いために省略する。
・午後6時30分から始まる3大ネットワークのニュース(30分)をすべて扱う。
・午後7時から始まる PBSの“Newshour with Jim Lehrer”(1時間番組)の冒頭30分を扱う。
・上記の合計3時間30分を分析対象とする。
・3大ネットワークの視聴者は1日平均約2700万人、PBSは約240万人と言われている。
・ABCで月曜日から金曜日の午後11時から1時間放送している“Nightline”の他、「ニュースマガジン」と呼ばれる番組は、そのほとんどが毎日放送されないため、サンプルに入れていない。
4 ケーブルテレビ:月曜日〜金曜日の番組を選択して分析する。
・3つのケーブルニュース局、CNN、MSNBC、FoxNewsすべてを対象とする。
・モーニングショーは東部と西部の時差が4時間もあるので除外する。
・日中は現在継続中の政治イベント(大統領の議会での演説など)を生中継するような形式の番組が大部分を占めるので、3局のうち2局の放送を30分間(午後2時〜午後2時30分)抽出する。
・夜はメインのキャスターを配した分析や評論、政治討論番組などが編成されているため、各3局の午後6時から午後10時(いわゆるプライムタイム)に開始する4番組(大部分が1時間)のうち CNNと Foxは3番組、MSNBCは2番組を抽出して記録する。
・上記の合計1日5時間の放送を対象とする。全米の視聴者は日中で約160万人、プライムタイムで約270万人である。
5 ラジオ:月曜日〜金曜日の番組を選択して分析する。
・ラジオ放送のニュースはヘッドライン(見出しと短い要約)だけを伝えるものが多いため、ABCと CBSラジオの午前9時と午後5時のニュース(各約10分)、公共放送(National PublicRadio)の朝のニュース(“Morning Edition”30分)をサンプルとする。
・ラジオ放送はかなり極端な政治的主張を展開する「トークショー(talkradio)」に特徴があり、多くの聴取者がいるため、保守派(conservative)のホストが出演するものから2番組、リベラルのホストの番組から1つを選ぶ。
こうして PEJはウィークデーで合計35のメディアをカバーし、その総体の中で大部分を占めるニュースがどのように推移していっているのか、継続的な観察と分析を続けている。
それぞれのニュースで「コード」化される変数は現在18ある。それらは以下の通りである。
1 コード化する人の認識番号(ID)
2 コード化した日付
3 記事の認識番号 ※1〜3はコンピューターが自動的に記録するように設計されている。
4 記事のトピックが発生した日付
5 テレビ・ラジオの番組名
6 テレビ・ラジオの番組の開始時刻
7 特定のニュースの開始された時刻(タイムコード:秒単位で記録)
8 見出しの表現
9 記事の語数
10 記事が紙面のどこに配置されているか
11 テレビ・ラジオの特定のニュースの形式(キャスターが読むだけか、記者による VTRのレポートか、中継でキャスターと現地の記者のクロストークがあるか、など)
12 記事やニュースの内容
13 メインで取り上げられているトピック
14 併せて取り上げられているトピック
15 どこの地点(国、地方など)が取り上げられているか
16 その記事の背景となる「大きなテーマ」
17 そのニュースの放送が終了した時刻(タイムコード)
18 政治的な影響(大統領選挙との関係)
現在、PEJには11人の「コード」記録を専門に行う職員がおり、毎日3人から5人程度が上記のサンプルをすべて記録している。ワシントン D.C.中心部の近代的なオフィスにある事務所には「コーディング・ルーム」があり、コード化担当のスタッフはこの部屋に詰めて、それぞれウォッチしているメディアで現れたニュースをホワイトボードに書き出していき、「今何のニュースが注目を集めているのか」という情報を共有できるようにしている。その次の瞬間にそのニュースが他のメディアの報道で大きなウェイトを占める可能性も高いからである。最大で8人のスタッフがチームで仕事をするという。だいたいどのくらいの分量のニュースを分析することになるのか、イメージをつかむために以下の数字を紹介しておく。PEJによると、2007年4月から6月の2ヶ月間に行った分析では、合計180、10本のニュースを取り上げた。テレビとラジオを合わせた番組の放送時間の合計は459時間にものぼり、記事に使われた語数は新聞で約216万語、ウェブサイトでは約110万語にもなる。
3.むすびにかえて:日本への導入を視野に
ローゼンスティール氏によると、このプロジェクトの目下の課題は大きく分けて2点あるとのことである。それらは、(a)変数(コード)の内容の検証と内容の充実と、(b)コード化を行うスタッフの評価の仕方を平均化する(能力を平準化する)ことである。
変数の内容の充実の問題であるが、まず現在の分析の枠組みに含まれないメディアがある。PEJが将来的に何らかの形でリストに加えていかなければならないと考えているのは、ニュース週刊誌とブログ、それからテレビのトークショーなどニュース以外の番組である。米国には「Time」や「Newsweek」「US News and World Report」というニュースを扱う週刊誌があり、大規模な購読者を抱えている。また現在特に若年層を中心にニュースを新聞記事や報道番組から得ずに、主にウェブサイト、特にブログを通じて知るというメディア・ライフスタイルが拡大している。ブロガーの中にはジャーナリストでない人のほうが圧倒的に多く、特に情報源が二次的、三次的とニュース業界で言うところの「ウラ取り」が出来ていない不確実な情報に基づいた評論や意見も多い。しかし一部のブロガーは新聞の購読者よりも多くのユニークユーザーを獲得しているとも見られ何らかの形で分析の枠組みに加えていくことが必要になるであろう。現時点で PEJは「構造が異なるため」分析に加えていないが、およそ1000人のブロガーが所属する「メディア・ブロガー協会(Media Bloggers Association)」と協議中で将来何らかの形でコードに加えていく予定を明らかにしている。
人々のニュースを得るルートはテレビやラジオだけをとっても多様化しており、特に3大ネットワークが月曜日から金曜日に真夜中の0時から放送するトークショーでは政治家のゲストも頻繁に登場するなど、かなり有力な情報源となっているという事実もある。サンプルとしてどのように加えていくかという課題もある。さらにニュースのコード化自体にも、特にニュースの演出によるイメージの差異や情報源の精査を綿密に行っている(形跡が確認されるか)などの要素も現状では分析に加味されていないという「欠陥」が存在する。トークショーなどの番組がサンプルに加えられた場合にはこのような問題も考慮されていかなければならないであろう。
現在 PEJが一番力を注いでいるのが上記2番目の課題である、コード化を行うスタッフの感覚と能力の平準化である。「どのスタッフがコード化の作業を行っても変数の数値に差が生じないようにする」というのが究極の目標である。現在複数のスタッフが同じニュースをコード化してその差を縮める方法を模索している最中であるが、主なコードについて約85パーセントが一致する水準まで確実さが増したということである。未だ発展途上のプロジェクトではあるが期待をもって注目して行きたいと考えている。
小論の冒頭でも触れたが、筆者がこの分析手法に注目するのは、日本のメディアのニュースを生産する形態や、大衆の信用が揺らいでいるという、背景も米国と酷似しているため、こうして分析され抽出された特徴が問題を解決に導く糸口になると考えるからである。少なくともニュースの利用者の大多数である大衆(パブリック)が単なる印象論だけでなく「何が問題なのか」具体的に認識することが重要である。
先の話になるが日本での導入を構想するにあたっては、分析を担当するスタッフの育成が大きな課題となるであろう。PEJではメディア・ジャーナリズムなどの分野で修士号を有するか、メディア企業で記者かニュースの制作に関わった職務経験をもとにスタッフを採用し、適性を判断して2週間から3週間の基礎的トレーニングを経てコード化の作業に正式に従事するという育成プログラムをとっているが、日本ではそもそもジャーナリズム専攻の大学院修了者の絶対数が著しく少なく、終身雇用の伝統がまだまだ抜けない雇用環境下ではメディア企業を退職する者を当てにすることもままならない恐れがあるため、根本から構想の練り直しを余儀なくされる恐れもある。
小論では方法論の実際にまでは踏み込めなかったが、今後継続的に PEJ側と意見交換を重ね、ケーススタディやジャーナリズムに対する理念をどのように分析プロジェクトに反映させるのかという問題について理解を深めていきたいと考えている。 

 

●ジャーナリズムの果たすべき役割 2013/12
日本がもう一度輝くために日本のジャーナリズムが果たすべき役割について考えてみたいと思います。
まず、ジャーナリズムという言葉を事典で引いてみました。曰く、「日々に生起する社会的な事件や問題についてその様相と本質を速くまた深く公衆に伝える作業。また、その作業をおこなう表現媒体をさしていう」。
この定義に照らして現在のマスコミをどう評価すれば良いのでしょう? 多くのメディアがありますが、ここでは主として新聞とテレビのニュース・報道番組を対象とします。
上記の定義に照らして気になるのは、「本質を深く」公衆に伝えているかという点ではないでしょうか。そもそもジャーナリストを志す人たちは何を達成したくてその職業を選んでいるのでしょう? 権力へのお目付け役、国民の知る権利の擁護、隠された真実の発掘などその動機は様々でしょう。
でも視点の違いはあっても、究極はフェアで住みよい社会づくりへの貢献を目指しているはずです。想像するに、ジャーナリストは当初は理想に燃えて、そもそもの問題意識に基づいて職務に取り組んでいたはずです。しかしながら、時が経つうちに組織の要求や世の中のニーズと思しき事柄に反応していくなかで、初心から遠く離れた活動になってしまっているということはないでしょうか。
確かにすばらしい活動をしているジャーナリストもいますが、総体としてみたメディアが、本来メディアに期待されている役割を果たしているかと問われれば、首をかしげたくなる人が多いような気がします。チープな正義感、現象の表面だけをなぞった報道、一貫しない主張、もしくは偏向した言説。多くの場合、「本質を深く」からは遠いように感じます。
とりわけテレビのニュース・報道番組のレベルの低さには、ただただ驚かされます。私は、メディアは一度原点に返って自分たちの活動の目的を確認すべきだと思っています。訳知り顔で無責任な評論しかできない人たちがその場限りの勝手な発言を繰り返しているのを見るにつけ、がっかりします。
最初に述べたように、メディアの究極の目的はフェアで住みよい社会づくりに貢献することにあるはずです。高い志に根ざさない言動は説得力を持ちえません。テレビは、速報性の求められる新聞と違って、テーマを選定しそれを掘り下げて伝えることに向いたメディアです。この国にとって大切なテーマをじっくりと多面的に分析し、国民に結論ではなく考える材料を与えることができるはずです。
テレビのニュースや報道番組を見ていて気になるのは、大衆に迎合し、劣情を刺激することを目的としているかのような浅薄な切り口の報道が多いことです。もちろん、視聴率を気にして大衆の求めているものを提供しようとした結果であるならば、聴衆そのものに問題があるのかも知れません。しかしながら聴衆の問題意識が低いのであれば、その持つべき問題意識を喚起することもメディアの責務なのではないでしょうか?
目的意識を持った批判、様相と本質を速く深く
最近のメディアを見ていると、往々にして時の権力者や成功者を批判することが自己目的化してしまい、何かを築き上げようとの視点が希薄になっているように感じられます。
批判精神を否定する気は毛頭ありませんし、権力はその乱用が監視されるべきだと思っています。大切なことは、何のための批判なのかを十分考え抜いた上で目的意識をしっかりと持つことだと思います。間違っても、悪平等を助長したり、妬(ねた)みや嫉(そね)みといった低劣な感情におもねったりするような報道であってはならないと思います。
私たち報道を受ける側からの希望を言えば、メディアの広いネットワークを通じて聴衆や読者の知らないことを広く知らしめ、啓蒙してくれること。今をそして将来を考えるにあたって知っておくべき世界の動きについて広く深く報道してくれること。日本が輝き続けるために取り組むべき課題の指摘と、それらの課題について考えるための材料を提供してくれること。日々の生活の中で忘れがちなマクロ的な視点を補ってくれることなどです。それこそ、日々に生起する社会的な事件や問題について、その様相と本質を速くまた深く伝えてほしいのです。
日本の新聞を読んでいて思うのは、扱う世界(視野)の狭さと変化の少なさです。世界は大きく変容しようとしています。G7(8) からG20、そして今やGゼロの世界と評されています。2050年には人口大国トップ10には先進国では米国だけが残り、その他はアジアが4カ国、アフリカが5カ国を占める見込みです。
当然物事は決まらなくなります。世界を動かす枠組みが大きく変容してきているのに、私たちの常識はいまだG7の世界にとどまっているかのようです。
新聞は、今の時代にふさわしく、新たなグローバル視点で世界と対峙(たいじ)し、新しい切り口で報道することが求められています。また、報道は客観的かつフェアであるべきだと思います。
中国報道などは格好の事例です。この大国に関する報道には大きなばらつきがあります。中国べったりの報道があるかと思えば、明らかに毛嫌いしていることが底意に見える報道もあります。
国益を意識し、事実を多面的に伝える
大切なことは事実を多面的に伝えることです。この国は確かに世界第二の経済大国になりました。その一方で一人当たりの国民所得は約6000ドル(世界88位)で、トルクメニスタンとナミビアに挟まれています。
ところが1億円以上の資産を持つ人たちが既に5000万人を超えます。人口比にするとたいしたことはありませんが、絶対数では日本の人口の約半分の人たちが既にそのような資産レベルにあるということです。
また、20年も前から米国の大学院に毎年500人以上留学しているようです。この蓄積は徐々に中国企業の経営力強化に結びついていくことでしょう。このように社会のありようは、さまざまな視点から光を照らさないことには全体像が把握できません。
欧米のメディアを見ていると、時の権力や権力者には絶えず監視の目を向けながらも、論説のベースには国益が据えられているように思えます。いやしくも日本のジャーナリズムである限り、日本の国益を意識しないことはありえないと思っています。
私は、「健全な危機意識」という言葉が好きです。われわれは、人間社会の将来について危機意識を持つべきです。ただし、その危機意識は広く集められた事実に基づく健全なものでなければなりません。
一国の時々のムード(気質)に与えるメディアの影響力は甚大です。社会が健全であるためにはそもそも、社会の気質がポジティブであることが重要です。どんな時も否定から入るのではなく、築き上げる精神が必要です。
日本はグローバルな繋がりなくしては生存し得ない宿命を背負っています。日本が再び輝くためにメディアの果たすべき役割は言葉に表せないほど大きいのではないでしょうか。 

 

●これから求められるジャーナリズムのあり方と新しい可能性 2015/1
今日、防災について考えるにあたって、欠かすことのできないものが「情報」です。編集者、ジャーナリストでNPO法人スタンバイ理事でもある江口晋太朗さんに、防災とジャーナリズムについて改めてお話をいただきたい、というのが今回の原稿です。阪神淡路大震災から20年、東日本大震災から5年が経とうとしている今、ジャーナリズムの先端は、未来に何を見据えているのか。僕らもまた、情報を扱う「市民」として、きちんと考えておきたいお話です。
時代の変化とともに、ジャーナリズムに求められてくる役割も変化してきています。東日本大震災を通じて、その流れはより実感をもつようになってきています。いま改めて、ジャーナリズムが世の中にできることはなにか。震災など、未曾有の出来事をきっかけに、これからの未来とジャーナリズムのあり方について考えてみたいと思います。
ジャーナリズムに求められる迅速さや正確さ
地震、津波、台風など、これまで日本を襲ってきたさまざまな災害があります。その中でも、震災は突発的に起きる現象のため、台風のように予測をして対応することができない出来事だということは、みなさんも理解していることだと思います。ジャーナリズムがこれまで行ってきた取り組み、そして多くの人たちが期待することとして、阪神淡路大震災や東日本大震災に代表されるような大規模な震災から、各地を襲う洪水や土砂災害などのように、さまざまな被災の現場において、現地の様子を迅速で正確な情報を発信することが求められてきたかと思います。現地の様子をつぶさに把握することで、それらの情報をもとにした対応策を講じることができ、そのため、ジャーナリストは現地に真っ先に入り、時に危険な現地の貴重な情報を届ける役割を担ってきました。
まだテレビや新聞が主な情報源だった時代においては、現場に入って情報を収集し、発信する役割を担う人たちは少なく、ジャーナリストたちの活躍の場は広く存在していました。しかし、近年ではSNSの浸透などによって、あらゆる人が情報を発信することができ(もちろん、反面デマなどが広がる可能性も高い)、情報網と迅速さといった点においては、現場の当事者による発信が重要になってきます。そのため、個人の情報リテラシーやソーシャルメディア活用といったことに注目を浴び、個人の情報発信を通じた新しい情報のあり方が起き始めています。
また、正確さという点においては、オープンデータと呼ばれる情報の透明化と自由なデータ利用を推進する動きが世界で起きており、日本でも自治体や民間企業が協働しながら、データの公開やデータ活用を模索する動きが起きています。その根底には、オープンガバメントの考え方にあるように、オープン化の推進と市民と行政側とのコミュニケーションを行い、正確な情報を自ら発信し、市民による能動的な政治参加やまちづくりへの意識の向上を行うことが目的とされています。
そうした時代の変化において、だからといってジャーナリストたちの居場所がなくなったというわけでもなく、やはりそれでも迅速な情報の発信といっても、情報をどのように伝わるように発信するか、また現地の協力者や取材を行う上でのネットワークという目に見えない価値を抱えているメディアやジャーナリストたちの活躍とその影響力は大きいといえます。
情報のアーカイブの重要性と情報設計
しかし、迅速さや正確さといった速報性の高い情報だけがジャーナリズムではありません。災害は、起きた直後も重要ですが、起きた出来事に対してどのように対処し、その後どのように立ち直していくかを明らかにしていく継続性や、時にその対応策について批判をする監視的機能を講じることが重要です。また、その多くが何年や何十年もかかるようなものが多く、地道な作業の積み重ねを行わなければいけません。
特に、継続性はこれからのジャーナリズムにとっても必要不可欠なものと言えるでしょう。例えば、東日本大震災で被災した人たちの証言を中心に、NHKがもつ震災に関わる映像をもとにあの時何が起き、人々がどう行動したか、復興のためにどう取り組んできたか、といった活動をまとめた「NHK東日本大震災アーカイブス証言Webドキュメント」があります。このサイトは、いまでも証言映像や復興映像をアップデートし続けており、ときに震災から時間がたつほどに、私たちはその記憶から忘れてしまいがちになってしまうものを、日々丁寧に取材し、形にしていっている一つの取り組みと言えます。
普通の人にとって、やはり震災が起きた直後は、その現場がどうなっているのか、どう復興していくのか、ということを意識します。しかし、喉元過ぎれば熱さを忘れるではないですが、誰もが普段の日常に次第に戻っていくにつれて、しまいにそうした現場の様子は忘れ去られていくのも事実。しかし、ジャーナリストにとってそうした過去の出来事を放置したままにしておくことはできません。過去に起きた出来事をきちんと継続して取材することは、客観的な事実を積み重ね、未来の時点で過去を振り返った時にその場でどういったことが行われていったのか調査をするときに必要な材料を揃えておくことでもあり、その客観的な出来事を冷静に分析する場を用意することでもあるのです。つまり、ジャーナリズムがもつ性質の本質は迅速さや正確さだけではなく、その継続性によって起きるアーカイブにこそ意味があるのではないか、と私は考えます。
例えば、首都大学東京准教授で情報アーキテクトの渡邉英徳氏は、東日本大震災で起きた震災の被害情報を被災地の写真やパノラマ画像、被災者の証言などをもとに可視化し、災害の様子を世界に伝えるデジタルアーカイブ「東日本大震災アーカイブ」を開発されています。他にも、「広島アーカイブ」や「長崎アーカイブ」など、原爆の被害にあった人たちの証言などをもとに、あの時何がおきたのかを丁寧に紐解き、形にする作業を行っています。こうした技術をもとにした取り組みも、一つのジャーナリズムとしてみることができます。
これまでアーカイブが紙面の情報でしかできなかったものが、デジタル技術によってあらゆるものをデータ化することができ、それによって検索性や参照可能性が増し、かつネットを通じて世界のあらゆる情報を収集し、それらを統合しやすくなったと言えます。また、集まったデータをただそのまま見せるのではなく、どのように伝わるような形にするかという流れから、データビジュアライゼーションや、データを通じてこれまで気付かなかった事実を掘り起こすデータジャーナリズムといった動きが出てきているのも、データやアーカイブによって新しい情報の価値を見出そうとする動きの一つと言えます。
あのとき何が起きたのか、そのとき誰がどんな行動を行ったか。行った行為がどういった影響を及ぼしたのかといったことを丁寧に紐解いていくこと。ことが起きるときだけではなく、ことが起きる前の様子、そしてことが起きた後の様子を、長い時間軸をもとに一連のコンテキストを踏まえた情報の集積を行っていくこと。そして、それらの情報を少しでも多くの人たちに伝えための情報発信のデザインを行うことが、今後ますます求められてくるでしょう。新聞や雑誌などの紙のメディア、ブログなどのウエブ媒体、さらには、講演やワークショップ、トークといったリアルな場を通じた発信など、さまざまな現代にはさまざまなメディアが存在します。多種多様なメディアを通じて、現場の情報、現場で体験したさまざまな情報を分かりやすく伝えるために、インターフェイスなどの情報発信のデザインや、情報設計そのものを考えることも求められてきます。そこに、ジャーナリズムができること、ジャーナリズムにしかできない次なる役割があるといえます。
ジャーナリズムが担う次なる可能性
これまでは、情報を届ける主体としてのジャーナリズムであったものが、時代の移り変わりとともに迅速さや正確さだけではなく、継続性とそれにおけるアーカイブ、さらに蓄積された情報を伝えるための情報設計が重要だとまとめてきました。
これまで、メディアを通じて事実を伝えるということが求められていたものから、事実を知る手段はSNSなど多岐にわたるものがでてきているからこそ、ジャーナリズムは情報を伝え形にすることがいま求められています。しかし、それだけではなくその次のあり方も、同時に見据えていかなければいけません。つまり、現場から見えてきた課題に対して、課題を課題だと伝えるだけではなく、解決に向けた道筋を報じていくことが求められてきています。ただ情報を伝えるだけではなく、その情報を得た人たち自身が課題に気づき、行動し、そして課題解決へと向かうためのアクションを促す存在としての可能性がそこにはあります。
どんな情報も、誰にも知られなければ意味がないように、その情報をもとに心を動かされたり、何かのアクションのヒントにしてもらったりしなければ意味はありません。災害が来た際に、来たものに対処するだけではなく、次に来た時に大丈夫なよう過去から学び、次への教訓とするための提案が求められます。そのためにも、ジャーナリストは情報の把握や事実の蓄積のみならず、最も情報に触れている立場から、次にどうしたら対策できるか、いまできること、これからすべきことといったものを発信していくことが求められてきます。
ただの問題への批判や提案だけではなく、課題解決をしている人たちを支援し、情報というツールを使って多くの人を巻き込んだり、人をつないだりする役割がそこにはあるでしょう。ただし、批判や提案の際に必要なことして、人を批判するのではなくシステムや仕組みに対して批判をすることが私は重要だと考えています。ジャーナリズムが個人を責めるのは簡単ですが、人は環境や仕組みによって成長もするし、よくも悪くも影響をうけ変化していくもの。本質的な解決策を示すためには、システムや仕組みに対して批判し、改善を提示するべきだと考えます。
こうした、問題提起や課題に向けた解決策の提案など、より一歩を踏み込んだジャーナリズムの形は、海外ではソリューションジャーナリズムと呼ばれています。ソリューションジャーナリズムという分野自体は議論が始まったばかりですが、情報を伝え、形にし、蓄積していくだけではなく、多くの人たちの課題解決に向けたアクションを促すといった、その先にある課題解決に対してジャーナリストの立場からできることはまだまだたくさんあると言えます。
問題解決へのアクションという意味では、地域の課題を自分たちで解決する団体であり、私自身も活動に携わっているCode for Japanなどがあります。ITやテクノロジーを通じて、市民の力で地域の課題解決を促進するシビックテックという考え方を提唱し、さらに市民と行政の橋渡しを行おうというもので、現代さまざまな自治体や地域コミュニティのリーダーたちとコミュニケーションを行いながら活動を行っています。彼らのようなローカルな活動をジャーナリストたちも注視し、ときにさまざまな情報を彼らに提供し、協働しながら課題解決に取り組むアクションを行うことも求められてくるでしょう。
シビックテックのように、市民発で地域の課題を解決するのと同様に、市民の力でジャーナリズムを育て、自分たち自身で情報を発信していくシビックジャーナリズムを育てることも求められてくるかもしれません。SNSの浸透によって誰もが情報発信に携われる時代だからこそ、情報発信のためのいろはや、情報リテラシーの醸成、ジャーナリストたちでも知ることができないローカルな情報を市民自身で届けるハイパーローカルメディアの活動など、さまざまな取り組みを私たち個人個人が行うことがこれからは求められてきます。
さらに言えば、いま改めて考えるべきは、ジャーナリズムを育てるのは私たち市民の意識だと言うことです。どんなにジャーナリストたちが志を高く活動をしていても、彼らの時間や体力が無限にあるわけではありません。最近ではメディアビジネスそのものの転換についても業界において熱い議論が交わされており、ジャーナリストたち自身もどのように社会と向き合い、どう生活をし、そして社会のために活動していくのか、そしてビジネスとして日々の生活の糧を支えるための土台づくりそのものも考えなければいけない時代でもあります。情報が可視化され、つながりができやすい時代だからこそ、これまで私たちにとって当たり前だと思っていた情報というものそれ自体を丁寧に紡ぎ、届けてくれるジャーナリストたちを私たち市民が評価し、応援し、サポートしていく協働関係を築くことが必要です。そうした環境は、例えばクラウドファンディングのような資金援助のプラットフォームを通じた活動支援など、さまざまな方法が考えられます。
ジャーナリストの人たちにとっても、誰かが自分たちが発信した情報によって有意義だと感じてもらえることが大切だからこそ、多くの人たちの評価や応援が彼らの活動の大きな糧にもなるのです。同時に、ジャーナリズムという存在は、これまで知ることがなかった現実、ときに隠蔽されがちな問題を問題だと可視化し、社会に訴える活動であり、私たち市民が社会のなかでもっている一つの手段でもあります。その手段を講じながら、社会のさまざまな問題を可視化し、課題を提案し、解決に向けたアクションを促す重要な存在としてジャーナリストたちがいるということを認識する必要があるのです。
震災をきっかけに、そして時代の変化とともにジャーナリズムという存在そのもの自体が問い直されている現代において、私たち個人ひとりひとりがジャーナリズムを理解し、ジャーナリズムが社会にとってどのように機能し、どのような役割を担っているのか。いま改めて考えることが必要となってきているのです。
最後に。
以前、とある仕事で東京の墨田区を取材する機会がありました。墨田区は普段なかなか足を運ばない人にとっては縁がない場所かもしれませんが、墨田区という場所は、東京でも数少ない、いまだかつての昭和の形を残している木造密集市街地を抱えるエリアです。しかしそこは、現代においては延焼や震災における倒壊の危険性などから、危険な街ランキングにランクインする街なのです。その半面、街が危険ということを区民自らが自覚していることから、皮肉なことに都内で最も防災意識が高い地域として、独自の防災訓練や街のあらゆる場所で防災対策を行っている街でもあります。
ではなぜそんな木造密集市街地が残っているのか。それは、かつての関東大震災の名残だからです。関東大震災の被災後、東京を立て直そうと当時の内務大臣である後藤新平氏は帝都復興院を設置し、震災に強い近代のまちづくりの都市計画を立ち上げました。しかし、反対派に押し切られ、さらに内閣解散とともにその計画は頓挫。帝都復興院は解体されてしまったのです。
その後、帝都復興院の後を継いだ復興局によって後藤氏の計画の一部は推進され、表参道ヒルズ(かつての同潤会アパートは、当時の不燃鉄筋筋集合住宅計画の一つ)や浜町公園や清澄公園といった近代的な公園緑地による避難場所、昭和通りや靖国通り、明治通りといった延焼防止のための広い道路建設など、かつての復興事業の産物の一部がいまも残っています。しかし、計画は一部しか実行されず山の手沿線の内部しか区画整理がされなかったことから、山の手沿線外には無計画にバラックが建てられたまま都市開発が行われ、その結果木造密集市街地として今もその様子を形作っているのです。
では、改めて後藤新平が掲げた復興計画、都市計画とはなんだったのか。それらを今一度紐解くことで、東京の震災に対する新たなまちづくりのヒントになるかもしれない、ということを最近考えたりしています。他にも、歴史を紐解くことで、さまざまな防災、震災対策の過去の取り組みがあるかもしれません。また、分野が変われば防災に対する視点も変わってきます。さまざまな分野の人たちが知恵を絞り、アイデアをだし、そして行動する。メディアは、その様子をつぶさに発信し、時にサポートしていく。それぞれの役割をもとに、ともに考え、ともにつくるまちづくりを目指し、取り組んでいくことが、これからの社会にとって大きな意味をもってきます。
それはつまり、これからのまちづくりや都市づくりの一つのきっかけであり、ひいてはそれが防災や減災につながる取り組みでもあります。今という時代に生きる私たちだからこそ、まちや都市に対してできることを考え、行動し、自分たちで作り上げていく新しい文化を築き上げていくことが大切なのです。 

 

●ネット時代における「ジャーナリズム」の役割とは 2015/10
英国の国営放送BBCの傘下で、ニュースサイト「BBC.com」の運営と、世界各国へのニュース映像「BBCワールドニュース」の配信をしているBBCグローバルニュースリミテッドは、10月から日本語版ニュースサイト「BBC.jp」を開始した。10月15日にサービス開始にあわせた発表会が開催され、同社のCEOであるジム・イーガン氏が来日した。
日本語版ウェブサイト開設の背景に、国際情勢への関心の高まり
BBC.jpは、国際問題、ビジネス、エンタメ、テクノロジなどの話題に加え、世界100カ国に展開している記者・特派員が執筆するニュースやレポート、話題性の高いトピックスなど、BBC.comに掲載される記事の中から、日本国内において関心の高い話題を東京のエディターが選定し、翻訳・編集した記事やビデオコンテンツを掲載する。編集長には、朝日新聞記者、国連本部職員、CNN日本語版ウェブサイト編集者、gooニュース編集長などを歴任した加藤祐子氏が就任する。
これまでBBCは、日本に特派員を展開して日本の政治経済をはじめとするニュースを世界に発信してきたほか、20年以上にわたりBBCワールドニュースを日本の視聴者向けに放送してきた。このタイミングで日本語版ウェブサイトを開始するのはなぜか。イーガン氏は、発表会の挨拶で、日本における国際情勢に対する関心の高まりを挙げた。同社が日本人を対象に実施した世界情勢への関心についての調査によると、「興味がない」と答えた日本人はわずか3%で、4分の3が「関心は強くなっている」と答えたという。
「国際問題は国内問題としてもかつてなく重要性を増している。日本の政治や産業、そして世界との関係が、世界の視聴者・ユーザーにとって意味のあるものになると同じように、日本では健康や経済、テロリズム、移民などの世界的な問題への関心が高まっている。その結果、毎日の国内ニュースや地域ニュースとあわせて、国際ニュースも見られるようになってきた」とイーガン氏は語る。
すでに英語サイトであるBBC.comへの日本からのアクセスは月間800万PVを記録している。また日本人にとってのニュースソースがテレビ・ラジオからウェブへと大きくシフトしていること、特にモバイルを活用したニュース視聴が拡大していることなどを背景に、年初の日本版YouTubeチャンネル、日本語版公式Twitterの開設に続き、日本語版ウェブサイトの開設へと至ったという。
今後は、BBCの既存チャンネルを通じたプロモーション、ソーシャルメディアの活用、そして大手ニュースプラットフォームとの協業なども視野に入れて読者の獲得を進めるとしている。ウェブ動画などを活用してニュースの背景を掘り下げるなど、ネットならではの付加価値あるニュースを提供していきたい考えだ。
“誰でも記者になれる時代”にプロのジャーナリズムが担う役割
近年、ニュースを取り巻く環境はめまぐるしく変化している。インターネットが人々にとって重要な情報取得の手段になり、SNSやスマートデバイスの発展によって誰でも即時性の高い情報を発信できるようになった。イーガン氏は「デジタル技術を使えば誰でも“記者”になることができ、誰でもニュースをいち早く発信することができる。目の前の出来事をあっという間に世界中に伝えられるようになった」と表現する。
そうした環境において、93年という歴史ある報道機関であるBBCは、報道機関の存在意義についてどのように考えているのだろうか。イーガン氏は、こうしたニュースを取り巻くさまざまな環境の変化の中で、「それでもプロのニュース企業の存在価値はあると、強く感じている。BBCはニュース速報において信頼に足りるリーダー的な地位を維持できる」と自信をもって語った。
「BBC は1922年から、優れた報道に尽くしてきた。いかなる国家や政府からも独立して、世の中で起きたことを公平かつ正確に伝えることに尽力してきた。新しい技術によって誰もが自分の意見を表明できるようになり、『プロパガンダ』と『事実』の境界があいまいになっている。その中で、視聴者にとって本当に中立・公正であり、それぞれが判断できるように手助けするニュースを得られる機会というのは、今まで以上に重要性を増している。BBCを設立以来支えてきた価値観は、デジタルの世界においてこれまでと同様、あるいはこれまで以上に大事なのだ」(イーガン氏)。
ニュースとは「事実」であり、メディアの役割はそれを理解して伝えること
インターネットとスマートデバイスの普及は、「ニュース」「メディア」という概念を多様化させた。イーガン氏のこの発言は、時代が変わってもニュースが担うべき役割は変わらないという示唆であると受け取れるが、改めてこの点を含めて、“ネット時代のメディアの役割”というテーマでイーガン氏の意見を聞いた。
--ネット時代におけるニュースの存在意義や役割について、意見を聞かせて下さい。日本では総合ニュースや専門的なニュースとともに、ネットの情報をただ並べただけのものや、SNSで個人が公開した投稿を貼り付けただけのもの、ゴシップや下世話な話題も「ニュース」として混在しています。社会的な価値のあるニュース、人々が知っておくべきニュースと、ただの「情報・話題」の垣根がなくなってきているのではないでしょうか。
イーガン氏:まず大前提として、「ニュース=ジャーナリズム」というのは非常に重要な社会的役割を担っています。ジャーナリズムがきちんとしているということは、そこで民主主義が機能しているということ。確かに、今の時代はネットに溢れるさまざまなテーマのニュースの中から読者が読みたいものを読むという利用シーンですが、その中でそのニュースが信頼される価値があるものかどうかは、社会の判断に委ねられているのです。
BBCの記者をはじめ伝統的なメディアにいるジャーナリストは、(こういった理由で)社会に対する責任感を強く感じています。そして、社会の信頼を獲得するため、BBCグローバルニュースリミテッドはオリジナルのニュースを配信するために大きな投資をしています。ただ単にBBCが作ったニュースを配信するだけでなく、BBCワールドニュースとしてオリジナルで製作したニュースを配信しているのです。加えて、「メディアは社会に対して独立、公正、正確でなければならない」という伝統的な編集方針も、ニュースが社会から信頼されるために非常に重要なことです。
こうした価値観は“古い”と思われるかもしれませんが、これは未だにメディアにとって重要なことだと考えています。ネットには、さまざまな立場のオピニオン、ノイズ、ゴシップ、プロパガンダなどの情報がありますが、実はこうした情報にはあまりはっきりとした“事実”が入っていません。ですが、私たちの仕事とは“事実を理解して、それを伝えること”であり、そこで意見を述べたり偏見を持ったりすることが仕事ではありません。
ネットが民主主義にどのような影響を与えたのか、その答えは出ていない
日本では、ネットに公開されるニュースに対して、氏名や身分を明かさずに匿名性の高い状態でさまざまな意見が飛び交い、一部のイデオロギーを呼んで「ネット右翼」という言葉も生み出された。ネットニュースの以前、以後で世論の形成プロセスにどのような変化が生まれたと感じているのだろうか。
--ネット時代の民意形成や世論形成の変化について。テレビや新聞・雑誌の時代は、ニュースを読んで感じたことは自分の中に留めておくか知人との会話で共有する程度でしたが、インターネットの登場によって不特定多数の人がニュースに集まり、意見を交わせるようになりました。こうした変化が世論形成にどのような影響を与えていると考えますか。
イーガン氏:確かに、インターネットの台頭によって情報へのアクセスが容易になり、(ネットで起きる)いろいろな機会に参加できるようになりました。しかし、それと同時に人々はインターネットの登場によって(以前よりも情報に対して)懐疑的になったのではないでしょうか。
私たちは、人々にニュースを届けることによって、そのニュースが民主的な合意形成の役に立つことを願い、活動してきました。しかし一方で、まだ答えが出ていないのが、「インターネットは、これまで民主主義のために何をしてきたのか」という命題です。
たとえば、インターネットの登場によって、人々は民主主義により懐疑的になってしまったのか、民主主義に参加することをやめてしまったのか、熱意を失ってしまったのか。あるいは、社会の利益のために民主主義に深く関わり知識を蓄え、さまざまなイベントに参加するようになったのか。もし、私がこの仕事をリタイアしたら、このテーマについて研究してみたいと思います。 

 

●デジタル時代、報道の役割は 2018/2
日本経済新聞社と米コロンビア大学ジャーナリズム大学院、東京大学大学院情報学環は1月29日、学生応援プロジェクトとして、デジタル時代の報道をテーマにしたシンポジウム「これからのジャーナリズムを考えよう」を東大・安田講堂で共同開催した。交流サイト(SNS)が台頭する中での既存メディアの役割、人工知能(AI)の影響などについて日米英の研究者やジャーナリストが議論。大学生ら約580人が参加した。
パネル討論は2部構成。第1部は「デジタル時代におけるジャーナリズムの役割」をテーマに、コロンビア大ジャーナリズム大学院のスティーブ・コル院長、フィナンシャル・タイムズ(FT)のライオネル・バーバー編集長、日本経済新聞社の長谷部剛・専務取締役編集局長が話し合った。司会は東大情報学環の林香里教授。
「正しく伝える」根幹変わらず
林 デジタル化などジャーナリズムは様々な課題に直面している。
長谷部 日本ではまだ7割の家庭が紙の新聞を読んでいるが、デジタルの世界に打って出る必要がある。日経電子版は2010年3月に創刊し、若者や女性の読者層を開拓してきた。紙の読者が減っているだけでなく、真偽不明の情報が流れるネット空間でメディアとしての役割を果たす責任がある。それは事実に基づく正確で洞察に富んだ情報を、分かりやすく読者目線できちんと流すことだ。
コル デジタル化で情報の構造が世界中で大きく変わってきた。ビッグデータが台頭し、AIも駆使される。そのような状況で、ジャーナリズムもコンピューターを生かそうという動きが出てきている。
林 デジタルジャーナリズムが進むと映像を作るなど仕事も増える。ジャーナリズムの世界も変わるのだろうか。
バーバー もっとマルチメディアに対応できるようにとジャーナリストたちに伝えている。データやビジュアルな画像を念頭に置くようにと。仕事を上乗せするわけではない。大切なのは、どんな題材で何を作り、時代に合ったものとして価値ある情報を出すかだ。
長谷部 マルチな記者になり、映像も撮るよう現場には説明している。仕事が増えると思われるかもしれないが、「何でも追いかける必要があるのか」とも伝えており、過重労働にはならないようにしている。
林 メディアへの信頼が低下している状況をどう捉えているか。社会から離れてしまったと感じないか。
バーバー 私たちは人気投票で勝とうとしているわけではない。ただ、読者の気持ちをきちんと読んでいかなくてはならない。色々な変化が起きている世界で、ある程度は厚かましくないといけないが、一方で敏感な耳も持つ必要がある。
長谷部 欧米も同様かもしれないが、上から目線だと受け止められている気がする。人々の気持ちに寄り添い、目線を下げていく必要がある。
林 フェイク(偽)ニュースへの対策は。
バーバー FTでは2つの独立した情報源がなければ記事にしない。これは重要な基準だ。人々に対してより正しい情報を提供できなければ、民主主義が機能しなくなってしまうからだ。
林 SNSで情報を得られるようになり、ニュースが切り売りされるように感じる。ソーシャルメディアとジャーナリズムの相性はどうか。
長谷部 日経はSNSでも情報を発信している。前回の衆院選では誰が「インフルエンサー」だったかを調べた。安倍晋三首相よりもリツイートが多い一般の人がたくさんいて、彼らが投票に行こうと呼びかけていた。ソーシャルメディアは上手に活用することで、一緒にやっていける可能性がある。
バーバー 情報源を検証し、正確な情報を提供するというジャーナリズムの根幹は変わらない。FTでは記者が「個人の意見」としてSNSで情報を発信するが、個人だからといって無責任なツイートは許されない。ルールを徹底する必要がある。
林 どんなジャーナリズムがデジタル時代に繁栄すべきだろうか。
長谷部 まずはプロとして取材し、事実を正確に掘り下げて報道していくことが重要。記者として問題意識も常に持たないといけない。これはデジタルの時代も紙の時代も変わらない。
バーバー FTは今でも基本的なジャーナリズムの姿勢に従っている。購読者のニーズに沿って、グローバル経済がどう動いて機能しているのかをしっかり伝える。
コル 私たちはジャーナリズムの大学院としては米国でも世界でも最も古く、責任のあるジャーナリズムを担ってきた。事実や証拠を中心としたジャーナリズムはこれからも重要であることに変わりはない。ただ、一方で教育をビッグデータやAIの時代に合わせたものにしないといけない。コンピューターはジャーナリズムの一部になるからだ。
AI活用、倫理こそ要
第2部では「AI/デジタル技術とジャーナリズムの未来」を主題にコル、林両氏と苗村健・情報学環教授、渡辺洋之・日本経済新聞社常務執行役員が佐倉統・同学環長の司会で話し合った。
佐倉 デジタル技術は社会をどう変え、ジャーナリズムはいかに役割を果たしていくのか。日経の取り組みは。
渡辺 企業決算の要点を自動で作成・配信する「決算サマリー」、金融に関する質問に自動応答する「日経ディープオーシャン」などAIを活用したサービスを既に提供している。今後は取材テーマの発見や仮説の提示に応用したい。AIにはデータの異常値や人が見つけにくい関連性を発見する力がある。
コル 米国でも調査報道への活用が研究されている。例えばAIが政治家を過去の発言や関係を持つ団体などの情報を基にパターン分けし記者がその政治家を論じる。こうした作業が5〜10年後の記者の仕事の一部になるだろう。
渡辺 脅威もある。企業の意思決定がAIで自動化されると、経済情報を必要とするのもAIになる。AIとAIが直接対話し、新聞記事が読まれなくなるかもしれない。
苗村 人々が大量の情報を受け止めるだけで精いっぱいになり、能動的に考えることの放棄が起きている。対面で議論する機会も減っている。これからのデジタル技術には人間に自ら考え、対話するよう促すようなものが必要だ。
コル AIの将来を考える際に一番大切なのは倫理では。例えば顔認識技術。抗議運動の写真から参加者や警官の情報をメディアが把握してしまったら大問題になる。AIをどこで使い、どこで使わないのかを区別しなければ。AIの使い方自体を問う報道も増えていくのではないか。
佐倉 「顔認識を使えば特ダネが手に入る」と考える記者も出てくるかもしれない。
渡辺 AIは未整理の情報をまとめてくれるが、問題意識に基づいて活用すべきだという意識を持って記者が自ら取材しなくてはならない。
林 日経の編集部門の中で、AIやビッグデータなどの技術と既存の取材活動が融合する動きは。
渡辺 技術部門の研究やサンプルを使い、編集部門と協業するためのエンジニアと記者の合同チームを今春つくる。研究をどのように生かせるか、編集側がどんなデータが欲しいのかといった情報をつなぐ場をつくりたい。
コル 人間的な経験値や読者が何を求めているかを理解する力、そしてエンジニアリングの特殊な知識がジャーナリズムに必要だ。大学でもデジタルジャーナリズムの存在が大きくなっている。
林 米国では大学でのジャーナリズム教育が重視される。日本でも採用の際に「AIやビッグデータを学んだ人が欲しい」というメッセージを明確に打ち出してほしい。
苗村 技術を使いこなせる人材は必要だが、AIがないと何もできないような過保護はいけない。最新技術に触れながら人間の力も育てる必要があり、バランスが大切だ。
佐倉 全体を見渡す力が要る。AIとジャーナリズムの関係、旧来の取材手法とデジタル技術の関係など大きな文脈を読み取った上で、記者や大学は具体的に何をすべきか考えなければいけない。
コル グーグルやフェイスブックの方がメディアより多くの情報を持っている問題を指摘したい。AI時代にはデータを多く持つ者が有利になる。ひっくり返すには無料で提供している情報に課金するなど、データを使う側との関係を変えないといけない。
苗村 実は、若者のツイッターやフェイスブック離れが目立ち始めている。やはり強いのはコンテンツを生み出す方。情報を卸売りするだけのプラットフォーム側は変化を迫られるのではないか。
林 日本のネット空間は真剣な政治の場ではないと見下されてきた。技術をうまく利用し、ネット空間を民主主義や政治の議論がより活発になるように変え、ジャーナリズムに興味のある若者が集う構造にしていきたい。 

 

●[書評] 戦後日本ジャーナリズムの思想 2019
私たち日本人は今なお「戦後」を生きている。1956 年に当時の『経済白書』が「もはや戦後ではない」と宣言して以来、幾度となく「戦後の終焉」がいわれてきたことは周知のとおりである。そして諸外国と比較して日本の「戦後」は例外的に長いと指摘されることも少なくない(例えば、グラック、2001;橋本、2017)。それでも日本が今なお「戦後」のままであることに疑問の余地はない。本書を通読すると、ジャーナリズムの現場において積み重ねられてきた営為もまた「戦後」という枠組みのなかで展開されてきたということ、従ってその意義や問題点も「戦後」というパースペクティブにおいてこそ適正に理解できるのだということを納得させられる。もちろん、その際の「戦後」とは、終戦=敗戦とともに始まった新たな時代としての「戦後」であると同時に、ある意味において戦前〜戦中から連続的に捉えられるべき「戦後」でもある。
本書は、日本の「戦後」に関する重層的な理解に基づきながら、その中に日本のジャーナリズム史を位置づけて多様な角度から分析し、論じた労作である。本書の第一章は、明治期にルーツを持つ「不偏不党」の形成史の検討に当てられているが、このことは著者の基本的な問題意識をよく表わしているように思われる。著者はまず、日本のジャーナリズムにおける「不偏不党」という理念が「偏らない独立した姿勢を示すものではなく、政府に批判を向けないという商業上のイデオロギー」であることを明らかにする。それは「独立した言論」ではなく、ジャーナリズムの自主規制を正当化し、固定化する役割を担ってきたのであり、日本における言論の自由と自主規制の相剋を象徴する。そしてジャーナリズムが「独立した言論」たろうとすると、必ず権力の側が作動させてきたのが「偏向」攻撃にほかならない。この「偏向」攻撃が実際にどのようなものであったか、そしてジャーナリズムがその前にいかに敗北を続けてきたかについて、第二章「一九六〇年代という報道空間」では詳細に検討されている。こうしてみると、戦前における大阪朝日新聞白虹事件(1918年)と、戦後の風流夢譚事件(1961 年)とは 40 年以上の時間を隔てながら確かに連続的である。そしてそうした戦前からの連続性のうえにおいて、戦後日本のジャーナリズムは撤退戦と敗北戦を続けてきたのだということが了解される。
現在、日本における言論・報道の自由をめぐる状況は厳しい。国際 NGO「国境なき記者団」が毎年発表している「報道の自由度」ランキングでは、日本は先進諸国の中で最低レベルの 67 位(2019年)である。報道の現場からは、閉塞感や息苦しさを訴える声がしばしば聞えてくる。こうした事態が、必ずしも現政権のもとで生じた一過性のものなのではなく、戦後のジャーナリズム史のある種の帰結なのではないかという可能性について、現場のジャーナリストも研究者も、本書と共に改めて考えてみる必要があるだろう。
第三章以下では、多様なジャーナリストや思想家が取り上げられていくが、そこにおいても「戦争」「戦後」がキーワードとなっている。例えば、荒瀬豊を対象とした初めてのまとまった研究である第四章「荒瀬豊が果たした戦後のジャーナリズム論」では、ジャーナリズムを「状況に批判的に向き合うことで自由と主体性の獲得を目指す活動であり、現実を変えようとする言論活動」(131 頁)と捉えていた荒瀬が、ジャーナリズムはマスメディア/マスコミュニケーションの部分概念なのではなく、むしろマスメディア/マスコミュニケーションとのあいだに緊張関係を孕む概念と考えていたことに注目する。そして、そうした荒瀬のジャーナリズム思想の出発点に、戦前期に商業化した新聞が「不偏不党」を掲げながら戦時体制に抗しきれず「一貫性のある言論を放棄」していったという「新聞の戦争責任」に対する鋭い問題意識があったことを明らかにしている。
また、本書を構成する十一の章のなかでも白眉をなす第六章「『戦中派』以降のジャーナリスト群像」においては、戦後日本を代表するジャーナリスト達(大森実、田英夫、原寿雄、新井直之、斉藤茂男、吉永春子、本多勝一など)の活動および彼らのジャーナリズム思想が検討されている。そこでは彼らの多くが 1920 〜 30 年代生まれであり、1945 年の敗戦直後に記者生活をスタートさせていることが焦点化されている。そして彼らが、朝鮮戦争、レッドパージ(1950 年)、安保闘争(1959〜 60 年)、沖縄基地問題、ベトナム戦争、さらに従軍慰安婦をはじめとするアジアにおける日本の戦争責任問題などとの濃厚な関わりを通じてキャリア形成していった諸相が分析される。言うまでもなくこれらの出来事は、いずれも「戦争」に起源を有し、「戦後日本」において大きな意味を持ったものばかりである。見方を変えれば、彼ら自身がさまざまな制約を抱えながらも、「戦争」や「戦後」との関係性において、荒瀬豊が言うところの「マスメディア/マスコミュニケーションとのあいだの緊張関係」を孕むジャーナリズムのあり方を体現した存在だったと言えるかもしれない。彼らはまた、同時代の読者・視聴者に固有名で認識されていたジャーナリスト達でもあった。今やごく一部の例外を除いて、そうしたジャーナリストは存在しなくなっている。その彼らが、上述のように「戦争」および「戦後」と深く切り結んでいたことの意味についての、著者の次のような指摘は説得的である。
戦争という国家の暴力性が極大化した状況の体験は、戦後にそれをとらえ返す中で、権力監視と個性的な問題意識を育んでいく。加えて敗戦後に現出した言論の自由を曲りなりにも報道機関が享受したことと相乗して、現実に鋭く対峙する記事を発表できた結果、かれらの仕事が注目されていく。(351 頁)
それにしても、「戦後日本」というパースペクティブに立った本書のようなジャーナリズム史研究が、これまで殆んど蓄積されてこなかったことが今更ながら不思議に思われる。今日、メディア史を専門分野とする研究者は少なくないし、映画、広告、ラジオ、雑誌、テレビ、サブカルチャーなどを扱うメディア史研究は近年盛んになっているものの、著者も指摘する通り、「硬派な内容を追うジャーナリズム史は研究者が圧倒的に」少なく、戦後日本の「言論・報道やその思想性を主対象とするジャーナリズム史」のまとまった研究成果としては本書がほぼ唯一である。
歴史学者の成田龍一は、戦後の日本人を戦争との関連において三つの世代に分類している。戦争経験者(A)と、親の戦争体験を一次情報として聞かされた「戦後第一世代」(B)、学校教育やメディアを通して再編された戦争しか知らない「戦後第二世代」(C)である(成田、2015)。成田のこの整理に従えば、戦後日本のジャーナリズムにおけるキーマンとして知られるジャーナリストの多くは、(A)と(B)に該当する。そして現在、ジャーナリズムの第一線で活動しているジャーナリスト達は、戦後第二世代(C)、あるいは更にその子の世代に当たる人達である。戦後 70 年の節目の年にあたった 2015 年に、戦後生まれ世代の割合が人口の 8 割を超え、逆に敗戦時に 10 歳以上だった人の割合は 8% 以下になったことが話題となったが、時間の経過とともに今後ますます「戦争」は遠くなっていく。そして「戦後」が仮に枠組みとしては維持されたとしても、「戦争」や「戦後」に人々はますますリアリティを感じにくくなっていくだろう。必然的に、現場のジャーナリスト達と「戦争」「戦後」の関係性も、変容せざるを得ないし、その結果、ジャーナリズムのあり方自体も次第に変わっていくだろう。そう考えると、「戦後」についての複層的な理解のうえに立って戦後日本ジャーナリズムの活動および思想の歴史的展開を跡づけた本書の意義は極めて大きい。
本書のようなジャーナリズム史研究は、(著者も意図している通り)現場と研究の世界を架橋する役割を果たし得る。現場のジャーナリストは、本書に記述された「戦後日本」という枠組みとその中でのジャーナリズム史の延長上に自らを位置づけることによって、自身の仕事の意味や可能性、課題等を再確認することができるはずだ。また同時に、著者がジャーナリズム文化の発展にとって大学が果たす役割に言及していることにも注目したい。大学は、ジャーナリズム教育を通じて現場で働く人材を送り出すという重要な機能を持つ。実際、本書「あとがき」によれば、著者のゼミナールはマスメディア(新聞社、テレビ局、テレビ番組制作会社、ラジオ局)の現場で働く人材をすでに多数輩出しているという。他方で、もちろん大学の役割はそうした人材育成にとどまらない。著者も言うとおり、「ジャーナリズムを支えるのは最終的に読者(視聴者)」である。大学は読者(視聴者)の育成やすそ野の拡大にも深くコミットしている。
本書が、研究者はもとより、ジャーナリズム、メディアの現場で働く人々、報道の仕事に関心を持つ学生、そしてジャーナリズムに直接関わるわけではないが読者(視聴者)としてジャーナリズム文化を支える幅広い人々に読まれることを通じて、日本のジャーナリズム文化が再活性化されることを期待したい。 

 

●コロナ禍で未曽有の緊急事態!ジャーナリズムの役割 2020/4
「緊急事態」が日常的に呼号されるという未曽有の危機的状況が続いている。商店街もシャッターが下ろされているし、裁判所も公判を延期、拘置所も一般面会禁止と、今まで想定しえなかった異様な事態だ。これがへたをすると1カ月続くとあって、いったいこの社会はそれに持ちこたえられるのだろうかと不安になってしまう。まさに「非常時」だ。
緊急事態を理由に批判が封殺された過去の歴史も
感染拡大という危機的事態に市民が理解を示し、拡大防止に力をあわせるのは当然だ。ただ気になるのは、そのことをもって同調圧力が加速し、こんな時に国家のやることを批判するのは非国民だ、といった風潮が強まることだ。考えてみればファシズムや戦争へと国家が方向を誤るのは常に社会が大きな危機にさらされた時だ。こんな時こそ、国家が方向を誤らないよう監視する機能がマスメディアに求められるのだが、過去の歴史を見ると、マスメディアが権力監視どころか大政翼賛になってしまうことも少なくなかった。
それは太平洋戦争にまでさかのぼらなくても、3・11東日本大震災と原発事故の時もそうだった。パニックになるのを恐れて政府はメルトダウンの事実も押し隠し、それを監視すべきマスメディアも発表されることを流すだけになった。後にそれに対する市民からのマスコミ不信が大きく噴き出した。
そのことへの反省から、脱原発方針へ舵を切り、権力監視を鮮明に掲げるようになったのが東京新聞で、今回も同紙は他紙と一味違う紙面づくりを行っている。こういう時にこそ、メディアがどんな報道を行うのか、きちんとチェックする必要がある。
ということで緊急事態宣言をめぐるマスコミ報道を検証してみたい。
何と言ってもすごいのが東京新聞だ。同紙には特報部というゲリラ部隊があって、特報面という常設のページがある。特報面に突出した記事を載せつつ、全体としてはバランスをとるという同紙ならではの紙面展開が、こういう非常時には大きな機能を発揮している。
4月7日から8日にかけて、政府の緊急事態宣言を、そのまま見出しで伝えつつも、一方的な危機あおりでよいのかと、各紙いろいろな思いを交錯させながら紙面を作ったと思うのだが、東京新聞の場合は、4月7日の特報面で「『緊急事態』もう一度考えよう 恣意的運用に懸念」と見出しを打った。
「批判は自粛しちゃだめ」と斎藤美奈子さん
緊急事態宣言を報じた4月8日の紙面も、3面に「強い『副作用』認識したい」という山田健太・専修大教授のコメントを大きく掲げ、特報面では「新型コロナ『緊急事態宣言』肯定する心理なぜ 不安感絶対的力待望か 危機による思考放棄か」と大見出し。中見出しに「首相 今の空気改憲に利用か 対策失敗の結果なのに『やってる感』演出」「非常時の今 人権守る監視必要」などという文言が躍る。
大きな話題になったのは、その同じ特報面で文芸評論家の斎藤美奈子さんが書いていた「マジか!の効用」というコラムだ。末尾がこう結ばれている。
「行動は自粛しても批判は自粛しちゃだめだ。緊急事態宣言の発令を歓迎している場合じゃない。ひるまず『マジか!』を続けよう」
いやあ、すごい。正論だが、このタイミングでそれを言うのがすごい。
他紙はどうなのか見てみると、目についたのが8日付日刊スポーツ。「安倍首相『皆で力合わせ』『闘い打ち勝つ』」という見出しにかぶせるように大きく「精神論だけ」という大見出しが躍り、「結局『国民の皆さま』頼み」と書かれている。
毎日新聞は4月8日付夕刊の「特集ワイド」で専門編集委員の与良正男さんが、コラムで緊急事態宣言と経済対策について論評し、最後をこう締めている。「こんな危機だからこそ従うだけでなく、もっと注文をつけていい」。その記事の見出しがすごい。
「なぜこんな愚策を」
新聞においては見出しの印象はとても大きい。この見出しは与良さんでなく別の人がつけたのだろうが、見出しの付け方に「意志」が感じられる。
テレビ報道を検証した朝日新聞の記事は…
影響力の大きい朝日新聞はどうかといえば、全体として客観報道を心がけているような紙面だ。やや朝日らしいと思ったのは4月10日付の「会見、TVはどう伝えた 7日夜、首相の緊急事態宣言」。テレビ東京も含めてテレビが各局横並びで首相の会見を報じたことを紹介し、最後に作家・監督の森達也さんの「同調圧力や社会の雰囲気にのまれてはいけない」というコメントを載せているから、現状に警鐘を鳴らそうという企画意図は感じられる。
でも記事全体のトーンを抑えているから、何となくぬるい感じで印象に残らない。見出しも腰が引けて曖昧だ。朝日新聞は、例の慰安婦問題の激しいバッシングの後、それがトラウマになっている感がある。
もちろん、森加計報道でのスクープに見られるごとく、強い言葉でなく取材力を駆使したファクトで勝負しようという姿勢は間違っていないのだが、今回のような大事な局面にある種のメッセージを発信できないという印象は、あまり良いことではないような気がする。
一方、安倍政権支持の産経新聞がどうかというと、4月8日の紙面は比較的冷静なトーンだ。緊急事態に便乗して自民党の中に、憲法を改定して緊急事態条項を盛り込むべきだという危ない主張が出ているのだが、8日付産経はそれを報じながら見出しは「憲法条項化 野党は反対」とやや引いたスタンスだ。でもそれが4月11日付では見出しが「緊急事態対応の改憲 与党意欲」と少し踏み込んだものになっている。
今後、緊急事態が長期化するにつれて世論がどう変わっていくのかが問題だが、新聞やテレビのトーンはその世論形成に大きな意味を持つから注視していかなければならない。
日本ペンクラブ「緊急事態だからこそ、自由を」 
マスメディアの論調とともに言論・表現団体などの見解ももっと表明されて議論がなされるべきだと思うが、4月7日に日本ペンクラブが以下のような声明を出している。少し長いが全文引用しよう。
《日本ペンクラブ声明「緊急事態だからこそ、自由を」
感染拡大する新型コロナウイルスと政府による緊急事態宣言。日本社会はいま、厳しい現実に直面している。
私たちは、命のかけがえのなさを改めて噛みしめたい。各分野の医療関係者が蓄積してきた技術と知見を信頼し、それらが十二分に発揮されるよう期待する。また、私たち自身が感染しない冷静さと、他者に感染させない配慮とを併せ持つ人間でありたいと思う。
そして、私たちは、こうした信頼・期待・冷静・配慮が、人と人が自由に発言し、議論し、合意を築いてきた民主主義社会の営為そのものであり、成果でもあることを何度でも確認しておきたい。
緊急事態宣言の下では、移動の自由や職業の自由はもとより、教育機関・図書館・書店等の閉鎖によって学問の自由や知る権利も、公共的施設の使用制限や公共放送の動員等によって集会や言論・表現の自由も一定の制約を受けることが懸念される。
これらの自由や権利はどれも、非常時に置かれた国内外の先人たちの犠牲の上に、戦後の日本社会が獲得してきた民主主義の基盤である。今日、私たちはこうした歴史から、どんな危機にあっても、結局は、自由な言論や表現こそが社会を健全にしてきたことを知っている。
私たちの目の前にあるのは、命か自由かの選択ではない。命を守るために他者から自由に学び、みずから自由に表現し、互いに協力し合う道筋をつくっていくこと。それこそが、この緊急事態を乗り越えていくために必要なのだ、と私たちは考える。
いつの日か、ウイルス禍は克服したが、民主主義も壊れていたというのでは、危機を乗り越えたことにはならない。いま試されているのは、私たちの社会と民主主義の強靱さである。》
私は日本ペンクラブ言論表現委員会の副委員長だから、あまりほめると自画自賛になってしまうが、現時点で貴重な声明だ。前半で危機に対峙することの必要性を訴えつつ、後半で言論表現などの市民的自由を制限することに危惧を表明している。
ただ、この声明を報じた新聞の扱いはいまいちだ。短く引用するなら後半を紹介してほしいのに、前半の文言を引用している記事もあった。マスメディアの姿勢自体がまだ定まっていないゆえにこうした声明も曖昧に報じられてしまう。
新聞労連も4月7日に2つの声明を出した。これもなかなかいい。
「新型コロナ」を理由にした批評の封殺に抗議する
緊急事態宣言下での市民の「知る権利」を守るために
ジャーナリズムの責務は本当に重い
緊急事態を理由に、政府や地方自治体の権限を強化しようというのが今の流れだが、政権が原則通り、国民・市民の意志を代弁してくれる存在だったら心配はいらない。でも多くの市民が心配しているのは、「安倍一強」のもとで政権が「主権在民」と反対の行動に突っ走っている状況を目のあたりにしてきたからだ。森加計問題しかり、「桜を見る会」問題しかり。議会での圧倒的多数という数の力を背景に、公私混同で無理を通して道理を引っ込めてきたのが安倍政権だ。今のような危機的事態に直面して、こういう政権に権限を集中させなければならないというのは、この国の市民の大きな不幸と言わねばならない。
そもそも憲法を平然と否定するような政治家を総理大臣に、しかも長期にわたって据えているということ自体、本来ならありえないことなのに、今はその政権にさらなる権力をという、極めて危ない状況だ。それを監視するのがジャーナリズムの役割だから、その責務は本当に重いと言わざるをえない。
今のところ、想定外の緊急事態が次々と現出して、それに目を奪われている状況で、緊急事態のあり方をめぐる議論もほとんどなされていない。
「行動は自粛しても批判は自粛しちゃだめだ」という斎藤美奈子さんの言葉を肝に銘じたいと思う。 

 

●「世論市場化」に敗れた米国伝統メディアの危機 2019/5
「メディアの危機」の一般的なパターン
『現代アメリカ政治とメディア』の編著者としての私の役割は、全体の見取り図を示すことだったが、その第1章を「アメリカのメディアは、いま、かつてない危機に瀕している」という書き出しで始めた。
なぜ、“かつてない危機”なのか。当然ながらアメリカのことに重点を置いて書いたが、同書では省略したその前提となる部分も含めて少し論じてみたい。
一般的に「メディアの危機」といえば、お決まりのパターンがある。それは軍事政権や経済エリートなどの支配階級が情報を独占し、メディアは権力の一部となってしまっている状況だ。
近くの例の国を想像してみればいい。権威主義的国家(独裁国家)のメディア情報は、上から徹底的に統制される。画一的で規格化された内容になるのは言うまでもない。そんな国のニュースは社会のほんの一部しか映し出さないのは当然だ。また、既存の社会秩序を追認する内容となる。受け手は情報を選ぶことはできず、少ない情報を拡大解釈するしか方法はない。どうしても受動的になる。
そして、支配階級がメディアの情報をコントルールする以外にも、「メディアの危機」はある。例えば、国や地域によってはギャングなどの集団が警察より力を持ち、自分たちに都合が悪い報道を暴力的に阻害することもある。
毎年、さまざまな国からの留学生がいる授業を担当している。先日、メキシコからの女性の留学生が「将来ジャーナリストになりたいが、身の危険を感じるので戸惑ってしまう」と切実な様子でコメントした。この発言にほかの日本人やアメリカ人の学生の顔が一気にこわばったのは言うまでもない。
それぞれの国・地域の報道の度合いは、ほぼ2年ごとにアメリカのシンクタンクのフリーダム・ハウスが発表している「報道の自由度」のランキングで知ることができる。最新版は2017年のもので、199の国と地域のうち、31%の61が「自由」であり、当然かもしれないが日本やアメリカ、西欧諸国、台湾はほぼ毎回、ここに分類されている。
72(36%)が「部分的に自由」とされ、ここには南米などの国が多い(かつては「自由」と位置付けられたこともある韓国も2017年調査では「部分的に自由」に分類されている)。そして「不自由」とされた66(33%)の国と地域にはロシア、中国のほか、中東やアフリカ諸国が多い(くだんのメキシコもここに位置する)。
「最も自由」とされたのがノルウェー、「最も不自由」とされたのは予想どおり北朝鮮だった。国の数ではなくて、その人口から考えてみれば「自由」な国に住んでいるのは、わずか13%にすぎない。「部分的に自由」が42%、「不自由」が45%と圧倒的な割合となる。
世界の大多数の国のメディアは社会を正確に映し出せない「ゆがんだ鏡」でしかない。
アメリカ型「メディアの危機」
アメリカに話を戻そう。このカテゴリーで言えば、そもそも「報道の自由」がある少数派の国・地域の1つがアメリカである。メディアは政治的から独立しており、本来は「メディアの危機」とは遠い存在であるはずである。
『現代アメリカ政治とメディア』で伝えたかった、アメリカの場合の「メディアの危機」は、この一般的なパターンとは少し異なる。それは、むしろ政府から「自由」であるがために、起こってしまった悲劇とすら言えるかもしれない。
少し説明したい。アメリカの場合、過去30年の間で世論が大きく保守とリベラルの左右に分かれる分極化現象が極めて深刻になっている。国民世論が左右に分かれているこの現象は近年、そのペースが極めて速くなってきた。現在はアメリカ政治がかつて経験したことがないレベルの政党間の対立激化が深刻化している。
左右で政治的な価値観が異なる国民の分断がどれほど深刻なのかは、日本でもおなじみのトランプ大統領の支持・不支持の傾向をみれば明らかである。世論調査会社のギャラップが2019年4月17日から30日にかけて行った調査の場合、トランプ大統領の支持率は46%で、不支持率は半数の50%となっており、不支持のほうが多い。
しかし、党派別にみると、状況はまったく異なってみえる。同じ調査で「共和党支持者である」とする人の場合、「トランプ氏を支持する」としたのは91%と、これ以上にないレベルの高さである。これに対し「民主党支持者である」とする層の中で「トランプ氏を支持する」と答えた人は12%しかなく、両者の差はなんと79ポイントも差がある。無党派が37%で、ちょうど両者の中間に位置している形だ。
そもそも共和党と民主党の支持者の数はやや民主党のほうが多いが、国民のほぼ3分の1ずつであり、均衡状況を保っている。残りの3分の1は「無党派」だが、その中はほぼ均等に「共和党寄り」「民主党寄り」「(本当の)無党派」と分かれている。共和・民主いずれかの政党の支持ではない国民はほんの少ししかいない。
アメリカのメディアはこの世論の分断という変化に合わせながら、左右の政治的イデオロギーにその報道を呼応させるようにしていった。真実は1つであるはずなのに、メディア自身も分極化し、保守向けの政治情報、リベラル派向けの政治情報が提供されるようになってしまっている上述のように権威主義的国家なら、政府が報道の内容に介入する。
しかし、アメリカのメディアの場合、世論という「市場」に合わせて、政治情報をマーケティングしていった。これがアメリカ型の「メディアの危機」である。
「メディアの分極化」の背景には、放送の「政治的公平性」をめぐる規制緩和が1980年代に進んだ影響もある。規制緩和は、つまり「政府からの自由」である。
その結果、世論という「市場」の変化の風向きを読みながら、1990年代以降、ラジオや、CATVや衛星の24時間ニュースチャンネル(ケーブルニュース)がとくに「メディアの分極化」が目立っていき、現在に至る。
この「メディアの分極化」で、支配階級がメディアの内容をコントロールする状況と同じように、アメリカでもメディアが「ゆがんだ鏡」となりつつある。「信じられない」という意味でまったく同じであろう。自由な分、その意味でたちが悪いかもしれない。
「メディアの分極化」の構造
かつては、アメリカの世論は現在よりもやや左寄りだった。公民権運動を含め、多様性を認めていく動きはアメリカという国の進歩そのものだった。新聞だけでなく、テレビでの報道もどちらかといえばリベラル寄りの情報が多かった。
一方で、南部や中西部を中心に保守層も存在していた。この層をめぐって、かなり保守に偏ったラッシュ・リンボーのトークラジオ(聴取者参加型のラジオでの政治情報提供番組)が規制緩和をきっかけに、ラジオが保守派の情報基盤として一気に注目されるようになった。
トークラジオは通常のストレートニュースではなく、政治、社会の争点に対してホスト(司会者)が意見を述べる。エンターテインメント性も高く、かなり感情的なものもあり、政治ショー的な要素が強い。
リンボーだけでなく、保守層向けのトークラジオ番組が多くの聴取者を獲得していった。これに対抗するように、リベラル派のトークショーも次々に登場し、2000年代にはAM放送だけでなく、FM放送や衛星ラジオでも政治トークラジオ番組が全米のラジオ番組編成の中核になっていった。
テレビも、かつてはなかったような政治的な偏りのある番組が1990年代以降、生まれていく。代表的なものが保守色の強い番組構成が「市場」をつかんでいったことで知られる、1996年に発足したケーブルニュースのFOX NEWSである。現在の看板ホストのショーン・ハニティがまさにそうだが、各番組のホストはそもそもトークラジオ出身者も数多い。
一方でリベラル層向けの偏ったテレビ放送も登場していく。代表的なものがMSNBCである。MSNBCはFOX NEWSと同じ1996年に発足したが、保守色が強い時代もあったが、2004年の大統領選挙あたりにリベラル市場に注目することで、その内容を一気に左旋回させている。CNNもここ数年、リベラル色が非常に目立っている。
国民を二分する政策である妊娠中絶や銃規制などについては、FOX NEWS とMSNBCは真逆に立場をとる。共和党支持者は保守メディアを信じ、リベラルメディアを「フェイク」とののしる。民主党支持者はその逆だ。ゲートキーパーとなるべきメディアが左右どちらかの応援団となってしまっている。
「メディアの分極化」の当然の帰結かもしれないが、偏った「政治ショー」がすでにアメリカ国民にかなり浸透し、政治の情報源になっている点は注意しないといけない。
2016年はじめのピューリサーチの調査によると、「選挙についての最も有用な情報源」(複数回答可)は「ケーブルニュース」が24%で1位を占め、2位以下には「ソーシャルメディア」(14%)、「地方局」(14%)、「ニュースウエブサイト・アプリ」(13%)、「ラジオ」(11%)と続き、その次に「地上波ネットワークのイブニングニュース」(10%)となる。その次が「深夜コメディ番組」(3%)、「地方紙」(3%)、「全国紙」(2%)となる。
ラジオが入っているのは、政治を話題にする聴取者参加型の「トークラジオ」がとくに保守を中心に広く聴かれているためだ。
ただ、相対的に言えば、まだ保守メディアの情報源は多くはない。保守の方はFOX NEWS、トークラジオ、さらには保守系ネットサイトに限られる。新聞の多く、そして、アメリカの放送の基準となる地上波の3大ネットワークのイブニングニュースもどちらかといえば、リベラル色が強いかもしれない。
それもあるのか、一般的な「メディア」という言葉には保守層には拒否反応がある。例えば、2018年のギャラップの「メディアを信頼するか」という調査では共和党支持者の21%だけが「信頼する」とし、民主党支持者の76%とは大きな差となっている。
「メディアの分極化」の病理
「メディアの分極化」について「多様なメディアがあることはいいこと」という見方もある。私自身も大学の教員として「私たちは複数のメディアを比べながら、メディア・リテラシーを養う必要がある」といつも言っている。
メディアを読み解く能力は確かに重要だ。ただ、それを大多数の人に課すのは、誤解を恐れずに言えば、一種のエリート主義である気すらする。
なぜなら、爆発的なソーシャルメディアの普及の中、多くの人々にとっては、逆に情報を読み解きにくい環境になりつつあるためである。アメリカではすでに、「テレビ対新聞対ネット」といった情報ではなく、ソーシャルメディアを通じてテレビや新聞の情報も広く伝播するような複合メディアの時代となりつつある。
ソーシャルメディアの利用で、政治報道は瞬時に広く伝播するようになったが、ソーシャルメディアでは自分の支持する情報を好んで伝える「選択的接触」「フィルターバブル」の傾向がある。
保守なら保守の情報、リベラルならリベラル派向けの情報ばかりが押し寄せてくる。情報過多の中、それぞれの情報は自分と同じ政治的な価値観を持つ層だけで共有されていく。情報は画一化するタコツボと化しつつある。
アメリカのリベラル派の友人たちが、フェイスブック上で連日MSNBCなどのリベラルメディアのからの情報をポストし、極めて乱暴な言葉でトランプ大統領批判を続けている。保守派の友人は保守サイトからの情報で民主党叩きを続ける。長年の友人たちだが、SNS上で飛び交う議論には、はっきりいってうんざりではある。
日本のメディアで起こること
最後に日本の状況についても書いておきたい。「アメリカと日本の状況はまったく同じ」という指摘も頻繁に受けるが、やや違和感がある。アメリカの政治的分極化やメディアの分極化に比べると、日本のほうはまだそれほどではない。
アメリカほど日本の世論はまだ割れていない。各種調査では既存のメディアへの信頼も極めて高いほか、自主規制を含めて放送上の規制も残っている。
ただ、それでも日本では少しずつ「メディアの分極化」の兆しが見えつつある。言うまでもないが、保守系のネット情報が近年かなり先鋭化している。保守系の書籍販売が好調なのは、日本の既存のメディアに対する反発があるといえる。この保守の動きを見て、リベラル派のネット言説もかなり厳しいものになりつつある。
アメリカが「いつか来た道」をいずれは日本も通るのかもしれない。

 

●「継承か革新か」 正義を前に揺れた女性ジャーナリストの矜持 2019/8  
共同通信によれば、4日、戦後日本の重要な民事裁判の記録の多くを、全国の裁判所が廃棄処分していたことが判明した。
判決文は概ね残されていたものの、審理過程の文書が失われており、重要裁判記録の保存義務違反の疑いがあるという。いずれにしてもこれで、合憲か違憲かを巡って争われた歴史的な憲法裁判の検証が不可能になってしまった。
先月22日には、日本年金機構の東京広域事務センターが、個人情報を含む年金関連データを収載したDVDを紛失していたとして、批判を集めたばかりである。厚生省はこの事態を把握していたが、選挙後まで公表しなかった。
「権力の監視」というメディアの役割
近年相次ぐ、重要な公文書の紛失や改ざん。2007年には社会保険庁のオンライン化したデータに誤りや不備が多いことが判明し、年金記録のずさんな管理が批判されているし、2017年には財務省が森友学園交渉記録を、陸上自衛隊が南スーダンPKO派遣日報を廃棄したとして、大問題になっている。
こうした状況に斬り込んでいくべきは、国会と報道機関だ。為政者と官僚の不祥事が続く中、特に後者に期待したいところだが……どうだろうか。
今回取り上げるのは、スティーブン・スピルバーグ監督の2017年の話題作『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』。ベトナム戦争が泥沼化する中で、米政府が国民に隠し通してきた戦争の実態を明らかにしようと奔走する、新聞社の人々の闘いを描いている。第90回アカデミー賞で作品賞と主演女優賞にノミネートされた他、数々の映画賞を受賞した。
「時の権力に対する監視」というメディアの役割と報道の自由を謳い上げる、非常にストレートなメッセージが託された本作では、特ダネを巡って社運を賭けた新聞社同士のつばぜり合い、記者たちの裏の駆け引きなどがスリリングに描かれる。
中でも、ワシントン・ポストの社主キャサリン・グラハムが、人間関係と利害関係の桎梏に悩みつつ、進むべき道を見出していく過程が興味深い。
「我々がやらなくて誰がやる」
ニクソン大統領政権下の71年、一貫して戦況は米国側に有利と伝えられてきたベトナム戦争だが、その内実は違っていた。マクナマラ国防長官の元で、ベトナム戦争の分析・記録の作成に関わった軍事アナリスト、エルズバーグは、その国防省の最高機密文書、通称「ペンタゴン・ペーパーズ」を勤務先の研究所から持ち出し複写、一部をニューヨーク・タイムズの記者に流す。
タイムズ紙のスクープが社会を震撼させる中、ワシントン・ポストの編集主幹ベン・ブラッドレー(トム・ハンクス)は、何とか残りの文書を入手しようと手を回しつつ、マクナマラ長官と友人関係にある社主のキャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)に、長官から文書を入手するよう進言するも、キャサリンは犯罪行為だとして拒否。
そんな中、匿名者からデスクに文書の一部が届けられて記事作成のチャンスとなったのも束の間、またもニューヨーク・タイムズに先を越されてしまうのだが、政権の30年にもわたる隠蔽工作を二度もスクープしたことで、ニューヨーク・タイムズは政府から記事の差し止めを要請される。
ベンは部下にリークした人物との接触を命じる一方、今がチャンスだと再びキャサリンを説得。「我々がやらなくて誰がやる」という言葉が、慎重だった彼女の心に小さな火を付ける。
やがて、ある筋を通じて大量の文書が運び込まれ、ポストの社内は、機密保護法違反を冒してでも掲載か、社を守るために中止かで大揺れに揺れる。
キャサリンはワシントンポストの社主だった父を持ち、父亡き後は夫フィリップが跡を継いだため、ずっと補佐に徹して来た女性である。もしフィリップが急逝していなかったら、政界に知古の多いセレブリティとして、華やかな社交と家庭を中心に生きていたであろう。今は社主として経営を引き継ぎ真剣に取り組んでいるが、役員会ではまだ全面的な信用を得ていない。
信頼できる「父」と手のかかる「息子」と
女性が社長になることが、珍しい時代である。要人夫妻が集うホームパーティでも、食事の後、妻達は別室に移動してプライベートな話、テーブルに残った夫達は政治の話。ジェンダー規範はくっきりしている。キャサリンのように、いきなりトップの男性の後釜に座った女性は、前からその周囲にいた男性達に厳しい目で見られるのだ。
そのことをキャサリンも十分意識して慎重に振る舞っているが、強い緊張に晒されていることが伝わってくる。ベンとの朝食会ではアタフタして椅子を倒したり、銀行家との会合では分厚い資料を出したり引っ込めたりと落ち着かない。
しかしどんな場面でも大きく取り乱すことなく、どんな人にも笑顔で穏やかに対応しようとする態度には、年齢と経験なりのものが感じられる。メリル・ストリープの抑え気味の演技によって、「女性社長」という強めのイメージよりも、キャサリンの真面目で優しい人柄が浮かび上がってくる。
そんな彼女を陰に支えてきたのは、取締役会長のフリッツだ。重鎮らしい落ち着いた佇まいと親身なサポートぶりは、いかにも信頼のおける指南役といった感じ。キャサリンにとっては何でも相談できる「父」のような存在に見える。
一方、ベンは、手はかかるが頼もしい「息子」といったところ。キャサリンがニューズウィークから引き抜いた遣り手の彼は、取材に経費を惜しまないため役員会からは評判が悪い。しかし、強引な面はあるが部下をしっかり掌握し権力に屈しない姿勢が、キャサリンの真面目さと響き合う。軽口を叩き合うところは同志といった雰囲気だ。
「ペンタゴン・ペーパーズ」の掲載を巡り、社とキャサリンをあくまで守りたいフリッツら役員、顧問弁護士と、「報道の自由」を主張するベンが激しく対立する中で、キャサリンは苦しむ。
ワシントン・ポストはホワイトハウスのお膝元であり、キャサリンの一族は歴代の大統領との親交があり、渦中の人であるマクナマラ長官は彼女の長年の友人なのだ。
ここでフリッツの助言に従うことは、父や夫が成してきたことの継承を意味する。それは古いが安全な世界だ。ベンの主張への同意は、危険を顧みず自らの姿勢を示すこと。失敗すれば「これだから女は」という目で古参達から見られるだろう。「保身か正義か」の裏には「継承か革新か」という、彼女にとって重い選択があったのだ。
決断をしたキャサリンが、早口で何度も繰返す「Let’s go!」の勢いと熱には、内に秘めたジャーナリストとしての強い矜持が宿っている。 

 

●非難轟々の元少年Aの手記『絶歌』 2015/6
軽視される「言論の自由」と出版の意義
神戸の児童連続殺傷事件の加害者である「元少年A」(32)=事件当時14歳=が出した手記『絶歌』(太田出版)に、轟々たる非難が起きている。本に対する評価は人それぞれだし、「こんなものは読みたくない」という人がいても当たり前。私が気になるのは、「遺族の許可なく出版すべきでない」「印税収入はすべて被害者に渡すための法律を作れ」などと出版に対する規制を求める動きや、行政が本の販売や購入の自粛を求めたり、貸し出し制限をする図書館も出るなど、表現の自由にもかかわる動きが出ていることだ。
置き去りにされた「表現の自由」
被害者の1人である土師淳君(当時11)の父親、守さんは、手記の出版に強く反発し、報道を通じて憤りのコメントを発表。出版社にも回収を求める書面を送った。土師さんは、出版によって「重篤な二次被害」を受けているとし、加害者による手記などの出版は「被害者の承諾を得るべきである」と主張している。
以前、Aの両親が手記『「少年A」この子を生んで』(文藝春秋社)を出版した時も、土師さんは事前に了解を得なかったことなどを強く批判している。今年4月、月刊誌「文藝春秋」5月号に、医療少年院送致にした神戸家裁の決定全文が掲載された時にも、土師さんは抗議の声を上げた。むごい事件だったこともあり、自身がコントロールできない形で愛息の殺害にかかわる情報が発せられることに、強い警戒心を抱いているのだろう。
そういう被害者の心情を考えれば、遺族が報道機関から出版を知らされて驚くことがないよう、少し前には本の概要などを伝えておいたほうがよかった。Aがやらないなら、出版社がやるべきだったろう。それは、遺族への配慮であると同時に、出版社が著者の立場を守るためにも必要だったと思う。
ただ、事前に伝えたとしても、土師さんは出版に納得しなかっただろう。その心情や自身の見解を、土師さんが述べるのは自由だ。だが、「加害者の出版には被害者の承諾を得るべき」との見解を、「表現の自由」に敏感であるべきメディアの多くが、きちんとした解説や論評もないまま報じたことには疑問を感じる。
もちろん、「表現の自由」とて、絶対ではない。名誉毀損やプライバシーの侵害に当たるとして出版が差し止められたり、法律で禁じられたわいせつ図画に当たるなどとされた場合には刑罰まで科せられる。その判断を下すのは裁判所、最終的には最高裁だ。
罪を犯した者といえども人間であり、その人から「表現の自由」という基本的人権を取り上げるか否かという最高裁裁判官のような重い役割を、遺族に担わせることが果たして適切なのだろうか。こういう理性的な問いを、メディアはもっと発するべきだろう。
一口に「被害者」「遺族」といっても、考え方や感じ方は一様ではない。メディアでは、土師さんの発言が盛んに伝えられているが、やはりAによって殺害された山下彩花ちゃん(当時10)の母親、京子さんもコメントを出している。京子さんは、突然の出版に戸惑いながら、「なんのために手記を出版したのかという彼の本当の動機が知りたいです」と述べていて、土師さんとは違った思いがあるように受け取れる。
同じ被害者でも異なる受け止め方
これまでも、加害者が手記を書いた事件はいくつもある。連続ピストル射殺事件の永山則夫は、手記『無知の涙』(合同出版、のち河出文庫)を発表して注目され、以後、死刑が執行されるまで獄中作家として執筆を続けた。文学賞も受けている。遺族が出版を批判したという報道に接したことはないが、永山は日本文藝家協会への入会を拒否された。そのことに抗議して、柄谷行人、中上健次、筒井康隆、井口時男らが同会を脱会している。
オウム真理教の地下鉄サリン事件では、最初に事件への関与を告白し、裁判では自首が認められて無期懲役となった林郁夫が、手記『オウムと私』(文藝春秋社)を執筆している。
林がまいたサリンによって夫を殺害された高橋シズヱさんは、その出版を報道で知った。林本人からはもちろん、弁護人や出版社などから、事前に連絡はなく、事後に手紙や献本もなかった。
「裁判を傍聴した人はわずかだし、後になってから事件を知りたい人もいるだろうから、こういう記録を残すことは必要だと思ったので、別に腹も立たなかった」と高橋さん。
高橋さんは裁判を傍聴し、林の供述や証言を聞いており、何が書かれているかは察しがついたので、すぐに読みたいとは思わなかった。
「でも、後から読みたくなるかもしれないと思って、本屋さんで一冊買いました」
高橋さんは、後世に事件の記録を残すためには、被害者サイドの記録も必要だと考え、その後、自身の手記を出版している。
秋葉原無差別殺傷事件を起こした加藤智大死刑囚も、手記『解』(批評社)を出した。被害者や遺族からは、その内容に「子どもの言い訳」などと批判の声が上がっているが、出版そのものをとりやめろという動きにはなっていないようだ。
このように、犯罪の被害者でも受け止め方はいろいろだ。土師さんの見解は、土師さん個人の見解であって、被害者を代表する見解というわけではないだろう。それに、死者13人、重軽傷者が6300人もいる地下鉄サリン事件のようなケースでは、被害者一人ひとりの承諾を得ることなど不可能な話だ。「加害者は被害者の了解がなければ出版してはいけない」などと、一般化して議論できる話ではない。もっと冷静な受け止めが必要だ。
『絶歌』出版は無意味ではない
『絶歌』については、明石市が書店や市民に「配慮」を求め、泉房穂市長が「遺族の同意なく出版されること自体許されない行為で、加担してほしくない。私個人の思いとしては売らないでほしいし、買わないでほしい」と発言。いくら被害者感情に対する配慮といっても、自治体の長が出版物の販売や購入の自粛を要請する趣旨の発言をするのは尋常ではない。
図書館にも閲覧制限の動きが出ている。明石市図書館では本を購入せず、兵庫県立図書館では貸し出し制限として、「研究目的」に限り館内限定で閲覧を認め、複写は一切認めない、という。
いずれも被害者感情に配慮するあまり、人々の知る権利が過小に扱われてはいないだろうか。図書館関係者は、日本図書館協会が採択した「図書館の自由に関する宣言」を読み直してもらいたい。
また、印税収入の扱いをめぐって、多くのメディアに「サムの息子法」なる米国の法律が紹介されている。犯罪の加害者が犯罪行為に関わる手記の出版などで得た収入を、被害者の申立によって取り上げることができるようにする法律と説明されている。こうした法律の制定を求める声が高まっているという報道もあり、ネットでのアンケートでも同様の結果が出ているようだ。
しかし、少なくとも今回のケースでは、現行制度で対応ができるはずだ。土師さんが約1億円の損害賠償を求めた民事裁判は、A側が争わなかったため請求通りの金額で判決が確定している。「週刊文春」(文藝春秋社/6月25日号)によると、Aと両親は、他の被害者2人の分も含めて総額約2億円の賠償責任を負った。両親の手記の印税やAの父親の退職金に加え、毎月A自身が1万円、両親が6万円ほどの支払いを続けているが、現在でも1億数千万円の負債が残っているという。
この場合、土師さんは、Aの印税支払い請求権を差し押さえるなどの法的措置をとることができる。前述したオウム事件の林郁夫の本については、遺族ではない被害者が印税を差し押さえる手続きをしたと聞く。表現の自由や財産権のうえで問題になりそうな新たな法を作って規制しなくても、すでに法的手段は用意されている。メディアは、そこをきちんと伝える必要があるのではないか。
また『絶歌』の編集者は、ネットメディアの取材に対して、「著者本人は、被害者への賠償金の支払いにも充てると話しています。これまで著者自身としては微々たる額しか、支払えていなかったということですので」(弁護士ドットコムより)と述べており、わざわざ土師さんが法的措置をとる必要もないかもしれない。
先の「週刊文春」によれば、Aは執筆している間の生活費を出版社から借りているらしい。また、これだけの騒ぎになれば、しばらくアルバイトをすることも難しいだろう。それを考えると、全額召し上げろというのは酷に過ぎるような気がする。生活すらままらない状況に追い込めば、社会に対する恨みや疎外感を募らせるだけはないか。罪を犯し、裁判所が定めた矯正措置を終えた者を社会が受け入れなければ、受け入れてくれる所は刑務所しかなくなる。
冒頭に書いたように、ひとたび出版された本に対する評価は自由である。この本に対するどんな酷評もあってよい。ただ、本の出版の意味がまったくないかのような論評は、言い過ぎのような気がしている。
彼の更生のために、少年院を仮退院してからも、多くの人が彼に関わったことを、私はこの本で初めて知った。里親となって彼を受け入れた夫婦もいる。そうした人たちとの関わりの中で、彼が少しずつ「命」を実感していった経緯が見て取れて、犯罪者の更生という点でいろいろ考えさせられるところがあった。
Aが起こした事件が与えた影響は大きい。「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いが若い人から発せられたり、殺人を犯した者が「誰でもいいから人を殺してみたかった」と供述する事件がいくつも起きている。Aは一部の人たちに「神」扱いされ、名古屋で女性を惨殺した女子大生なども、「Aを尊敬している」と伝えられている。
そのAも、この本を読む限り、罪の大きさにおののく「ただの人間」だ。「なぜ人を殺してはいけないのか」の問いに、彼なりの答えも出している。この本が、彼への歪んだ「尊敬」や「憧れ」が色あせるきっかけになればと願う。 (文=江川紹子)
ジャーナリストの矜持  2015/6
「絶歌」の出版の是非は元より、ジャーナリストたちの軽薄な議論についても問題に思えた。そして、その軽薄さが、昨今の報道の劣化に繋がっている気がしてならない。
ジャーナリスト江川紹子氏の記事を引用しながら、紐解いていきたい。以下、引用文は「」内に示します。
「私が気になるのは、「遺族の許可なく出版すべきでない」「印税収入はすべて被害者に渡すための法律を作れ」などと出版に対する規制を求める動きや、行政が本の販売や購入の自粛を求めたり、貸し出し制限をする図書館も出るなど、表現の自由にもかかわる動きが出ていることだ。」
江川氏の主張としては、上記のような「表現の自由」を規制する動きはけしからんということです。続きます。
「土師さんは抗議の声を上げた。むごい事件だったこともあり、自身がコントロールできない形で愛息の殺害にかかわる情報が発せられることに、強い警戒心を抱いているのだろう。そういう被害者の心情を考えれば、遺族が報道機関から出版を知らされて驚くことがないよう少し前には本の概要などを伝えておいたほうがよかった。」
僕はこの一文を読んでため息しかでなかった。これがこの一連の事件に関する「出版する側の所感」なのだ。
土師氏の抗議文は読ませていただいたが、遺族の主張は「情報をコントロールできないことへの警戒心」から来たものではない。 これ以上傷を広げないでくれ、という悲痛な叫びだ。
客観的に見れば「情報をコントロールできないことへの警戒心」を持っているのは、どう考えても江川氏をはじめとする「表現の自由」を声高に叫ぶジャーナリストのほうではないだろうか。人が自分たちと同じように考えると思うな、と言いたい。
土師氏自身が発言された「事前に了解が必要だ」という主張を論点に話は進むが、「遺族が受けた心の傷への配慮」は、この江川氏の文章からスポッと抜け落ちている。
この文章全体を通して、論点にもされていないのである。
そして江川氏も事前通知はすべきだとは言うが、それは遺族を「驚かさない」為です。開いた口がふさがらない。
江川氏の文章全体に底流しているのは『表現の自由』という公のために個人は犠牲になるべきだという思想であるように思えてならない。
被害者家族は、取り返しのつかないような、大きな心の傷を負っている。僕も一人娘がいるが、想像するだけでも耐え難い。
僕個人の主張は、「表現の自由」は個人の多大な犠牲に優先されてまで守られるべきではない、という話だ。
残念ながら、この問いに正面から取り組んでいるジャーナリストの言説にはまだお目にかかってはいない。
そして、遺族より何より、一番大事な子供たちへの弔いの念が語られない。命を奪われた子供たちへ、なんと言うのでしょうか?「表現の自由」だから許してね?とでも言うのでしょうか。
『公』だけを武器にする人は、信用できない。
江川氏自身が、この事件において、なぜ「表現の自由」が、被害者の心理的負担に優先されるべきなのかという個別的な見解は述べられていない。
「表現の自由」があるから「表現の自由」を保証すべきであるという同意復唱しかないのだから、幻滅してしまった。
「その判断を下すのは裁判所、最終的には最高裁だ。罪を犯した者といえども人間であり、その人から「表現の自由」という基本的人権を取り上げるか否かという最高裁裁判官のような重い役割を、遺族に担わせることが果たして適切なのだろうか。こういう理性的な問いを、メディアはもっと発するべきだろう。」
論理の飛躍も甚だしい。理性的とはどういうことだと考えているのでしょう。 (しかも、メディア側であるという自覚はないらしい。)
それにしても、この論理はおかしい。遺族の方は、元少年Aの「表現の自由を取り上げる」などとは一言も言っていない。これ以上、傷口を広げるなと言っているだけだ。
遺族は遺族として、同じ「基本的人権」を主張されている。ここを捻じ曲げてはならない。
そして、江川氏は『最高裁』という権威を論拠に持ち出す。(どこかの国の政府と似た言説であることは言わずもがな、ですね。)
この論理を展開すると、名誉毀損かは、最高裁が出すべきであるので、出版業界は判断する必要がない、という実に無責任な考えに行き着く。
こうやって「表現の自由」という大義名分と「出版業界の職権の話」をすり替えてはいけない。
「表現の自由」が保証されているのであれば、「表現の自由の危機」という言説一本槍ではなく、ジャーナリストとしてなぜ「絶歌」の出版に正当性があるのか、この件に関しては「表現の自由」が、なぜ遺族への配慮よりも優先的に保証されるべきかを、正々堂々と述べるべきではないのか?
「表現の自由」という公理だけを使って、済ませた気になっているのは、ジャーナリストの怠慢だ。
(MR.サンデーに出演した「ジャーナリスト」竹田圭吾氏も「表現の自由」を繰り返すだけでした。)
「「加害者は被害者の了解がなければ出版してはいけない」などと、一般化して議論できる話ではない。もっと冷静な受け止めが必要だ。」
そして後半は「遺族側にも色々な意見がある」という言説が続く。腹が立たなかった遺族もいる、ということだが、もちろん今問題にしているのは「腹が立った遺族がいる」ということだ。
ここでは何がいいたいのか、まったくわからない。
「いいって言ってる人もいるじゃん」という小学生レベルの言説なのか?
「一般化は避けろ」という氏の言葉に従い、被害者によって個別的に判断しなければならないというのであれば「出版によって被害を被る」と思っている被害者に配慮すべきなのは当然である。
明らかに論理的に倒錯しており、何がいいたいのかまったく不明である。
別に色々な被害者がいることを紹介するのは悪いとは言わない。ただ、そこからも「表現の自由」が被害者の人権に優先される、という結論は導き出されない。
そして実は、出版を不快と思わない被害者もいると、問題を一般化しようと読者に仕向けているのは江川氏の方である。
(この一般化に関する発言の中で、なんらかの結論が論理的に導かれたわけではないし、結局「文句を言わない被害者もいる」ということを揶揄しているだけなのは、原文を読んでいただければ分かるかと思いますが、実に卑怯なやり口です。)
さらに、重大なのは「表現の自由」を隠れ蓑に使って、「表現の自由が保証されているからといって、出版社が被害者の心理的負担を考えずに何でも出版していいとは限らない」という言説を、実は規制しているということだ。
自分の発言が「表現の自由」を奪っているという倒錯には気付いていない。
僕のような「表現の自由が保証されているからといって、出版社が被害者の心理的負担を考えずに何でも出版していいとは限らない」という発言自体も自由を保証されてしかるべきだ。江川氏が言う原理的にそうであるからしかたない。
「本の出版の意味がまったくないかのような論評は、言い過ぎのような気がしている。」
こういう言葉の端々には、江川氏の主体性が感じられない。「言い過ぎのような気がしている」のであって、言い過ぎであるという断定は避けている。
「表現の自由」を真っ当に、自分の言葉を尽くして語ってほしいものである。
次に図書館の閲覧制限に話は移る。
「図書館にも閲覧制限の動きが出ている。明石市図書館では本を購入せず、兵庫県立図書館では貸し出し制限として、「研究目的」に限り館内限定で閲覧を認め、複写は一切認めない、という。」
「いずれも被害者感情に配慮するあまり、人々の知る権利が過小に扱われてはいないだろうか。図書館関係者は、日本図書館協会が採択した「図書館の自由に関する宣言」を読み直してもらいたい。」
これは「表現の自由」だけではなく、「憲法」を遵守すべき公的機関として、書籍へのアクセスを「制限する(禁止するわけではない)」という被害者側の「基本的人権」にたった意思表明である。
苦肉の策といってもいいだろう。
実際問題、読みたいのであれば、売ってる店を探して買って読むなり、他の図書館で読むなり、研究するからと言ってこの図書館で借りればいい。
「知る権利」を軽んじていると言うが、もちろん上記の通り一般市民は「知る権利」は失ってはいないのだし、むしろこの程度の制限で読まないというのは、読む動機がないだけである。実に非論理的だ。
「図書館関係者は、日本図書館協会が採択した「図書館の自由に関する宣言」を読み直してもらいたい。」
再三使われるこういった表現に僕は嫌悪感を感じる。「ルールを守れ」ということなのかもしれないが、「自由に関する宣言」についての中身を、具体的に述べないのが肝です。字数制限により書けないのであればその旨を明記するなり、リンクを貼るなりすればいい。
ここにもある種の「権威」を論拠に据えている。権威を論拠に「表現の自由」や「知る権利」を被害者に押し付けるジャーナリストたちに、この図書館の決断を非難することはできないと思う。
また最後に、江川氏は触れていないが、遺族の抗議文にもあるように、これが貴重なサンプルだという意見について。
僕は全く与しない。
これだけ「特異な事件」が、他の事件へのサンプルとして機能するのであろうか?市場に流通した本を読んだ一般人たちが、実生活にどう活かすというのか?
おそらく人々のその小さな好奇心を満たすだけだろう。具体的にどう貴重なのか、どう利用されるべきなのかについても、 この主張をする人には言葉を尽くしてほしい。
まぁそれも「ヒョーゲンのジユウ」だとか言うのでしょうが。
江川氏は「表現の自由」「憲法」を論拠に持ち出すが、江川氏自身がどう思うのか、という意見は語られていない。
この主体不在の言説にこそ、メディア劣化の原因があると思っている。
そして、ここまで見てきたようにこのいちジャーナリストの文章の中で「権威」こそが最大の論拠であるのだから、その「権威」を強化しようとするのは必然の帰着である。
このことが「総理大臣」であることを論拠に議論を進める総理大臣や、「行政執行権」を武器にして、自身の属する自治体自体をぶっ潰そうといた市長を生み出したカラクリである、というのが僕の考えです。
実は権利の暴走を飯のタネにしていたジャーナリストたちを果たしてジャーナリストとして認めていいのか、、
ジャーナリストたちの矜持とは?  

 

●新聞記者の矜持 福永先生をお送りするにあたって
いま、「マスコミ」という。報道関係のみならず、およそ電波や活字を媒体にする組織的な集団は十把一絡げで「マスコミ」の称号が与えられてしまう。そして、その称号はいささか批判的な要素を含み込んでいるとも言える。
考えてみれば、この「マスコミ」には、それぞれ時期や性質上固有の成り立ちがある。新聞の走り瓦版は江戸時代だし、政治的な論調を著わしたいわゆる全国紙は明治。その後、ラジオ、テレビと続いていくのである。中でも特に「マスコミ」という語ともっとも密接な関係があるのはテレビであると言って差し支えあるまい。あるいは、その流布範囲を度外視すれば、初期の瓦版も「マスコミ」なのかも知れない。そのメルクマールはどこにあるのか。もとより、瓦版からテレビに至るまでそれらが購読者や視聴者の「数」を生業(なりわい)の基本に置いていることに違いはない。しかし、新聞は他の三者とは大きな違いがあるように思う。それは、新聞が購読者を自ら「選ぶ」という点にある。瓦版は売上げがすべてである。テレビは視聴率が生命線である。そのためなら、個人のゴシップも扱うし、見る側の興味をそそるものを重点に据えることもある。まさしく「不特定多数」の見る側への働きかけと言える。その点、新聞は伝えるべき内容に厳しさがある。あるいは、厳しさがあるから新聞だと言える。より多くの人に伝えねばならないことに違いはない。しかし、一部の識者にさえ伝わればそれでよい、という潔さも持ち合わせねばならない。「わかってくれる読者」を獲得すること、常に彼らの信頼に答える記事を掲載することは、5新聞の大きな使命である。「不特定多数」が相手ではなく、そこには明らかなターゲットがある。読者を選ぶのである。
福永先生は長く新聞社の学芸部や国際部で健筆を振るわれ、その集大成である書のひとつに『衰退するジャーナリズム』(2010)がある。ここにその一節を引いてみよう。
民主主義の根幹を支え、社会の地平を切り拓いてきた(中略)メディアのジャーナリズム機能が、確固たる座標軸を喪失して急速に衰退の兆しを見せているように思える
「確固たる座標軸の喪失」、この原因として先生は、メディアが「なりふり構わず“禁断”のコマーシャリズム(商業主義)に傾倒し始めた」ことを指摘されたうえで、その事態が、本来、 「ジャーナリズムが死守すべき言論動機」がいつしか「利潤動機に浸食され」たとまでの深い洞察を加えられた。
これは、現在の新聞記者のみならず、我々一般の研究者にも重く響く言葉である。論文であれ著作であれ、我々は本当に純粋な「言論動機」を以て文をしたためているだろうか。ややもすれば、業績の数稼ぎや昇任のためだけに、すなわち「利潤動機」によって徒に紙を汚してはいまいか。そして、それは、ひとり研究者の問題ではなく、我が国に於ける大学行政全体に通底することではないのだろうか。
先生は同書を「ジャーナリズムとアカデミズムは提携できるか」という章で終えられている。そこでは、ジャーナリズムの衰退と歩を共にするアカデミズムの現状が痛烈に批判されている。同書は2010年発刊であり、2004年度の国立大学独立行政法人化から始まり、2015年度の学校教育法改訂に至る我が国の教育行政の移り変わりを、時代的には side by side で、しかし、内容では常に一歩先んじた形で時世を捉え、警鐘を鳴らしている。これが、「言論動機」に他なるまい。
この、ややもすれば激しいコマーシャリズムの流れに流されてしまいかねない時代にあって、それに抗う度量を持った指導者を失うことは、本学にとって慙愧に堪えない。定年なる取り決めを恨むしかない。だが、定年がすべてを消し去るわけでもない。長年に渡って示された「新聞記者の矜持」は静かに、けれど脈々と受け継がれているに違いない。
危なっかしい身の上を恥じながらも、拙文を以て、今後ますます日本のジャーナリズムの発展に貢献される、また、して頂かねばならぬ先生へのはなむけの言葉としたい。 

福永勝也 (1947- ) 日本のジャーナリスト。兵庫県出身。慶應義塾大学経済学部卒業後に毎日新聞社へ入社。学芸部や経済部の編集委員を経て大阪本社編集部長、現在は廃刊となっている毎日デイリーニューズ編集長を務め、2002年3月に退社。同年4月より京都学園大学人間文化学部文化コミュニケーション学科(2004年4月より学科名変更に伴いメディア文化学科となっている)の教授に就任。2008年4月より人間文化学部の再編に伴いメディア社会学科教授となる。教授としてはジャーナリズム、マスコミ、メディア、アメリカ社会を専門分野としている。2018年定年退職。  

 

●「調査報道」の社会史 2009/6
〜第5回「調査報道」がジャーナリズムを活性化させる〜
前回は、「調査報道」が成就するまでの困難や障壁について10項目にわたって考察し、あわせて「調査報道」が訴訟になった事例等を検証した。本連載の最終回となる今号では、近年の新聞や放送の報道現場で、「調査報道」をめぐって生まれている新たな動きについて取り上げる。ここで紹介する4つの事例はいずれも、社の経営状況や人手不足など様々な制約の中で、「調査報道」を拠り所にしながらジャーナリズムを活性化させようとする現場の記者たちによる地道な取り組みである。
筆者は、こうした潮流にこそ今後のジャーナリズムの可能性を展望するうえでの重要な手掛かりがあると考えている。
第6章「調査報道」をめぐる新たな取り組み
本稿第4回で紹介した朝日新聞社長の秋山耿太郎の発言は、経営危機になると萎縮してしまうのではないかと、とかく懸念されがちな「調査報道」について積極的な内容だった。
「新聞の生命線は、手間暇かけた調査報道ではないか。調査報道は、金も、労力・人手もかかるわけですが、読み応えのある記事は、やはり新聞でなければ取材できない。ここで勝負していこうと思っています」
東京新聞は2008年1月から高速道路をめぐる巨額施設資産の継承問題に端を発し、天下り問題など1年余りにわたって「調査報道」を続けている。
毎日新聞は、社会部長に新しく就任した小泉敬太が就任の挨拶で、「毎日新聞社会部は、調査報道で行く」と述べ、部員を鼓舞したという。
NHKも「調査報道」を駆使したNHKスペシャル「ヤクザマネー」を放送したほか、2009年からは「あすの日本」プロジェクトを編成し、「調査報道」を織り込みながら新たな報道の境地を模索する。
このように、各社が「調査報道」に着目する背景は、そこに「自立した報道」を見出すからにほかならない。
そこで「調査報道」に力を注ぐ各社の体制やシステムを考察していく。
a. 朝日新聞の「調査報道」チーム
朝日新聞の「調査報道」は、これまで毎号のように取り上げてきたが、マス・メディアの中で、とりわけ朝日新聞が「調査報道」に熱心で、研修にも力を入れてきたことは、1997年12月と98年1月に東京本社と大阪本社で一泊二日の「調査報道の基礎研修」を行っていることなどからも窺える2)。
2008年11月現在での「調査報道」チームについて、2006年の「偽装請負」で早稲田ジャーナリズム大賞を受賞した特別報道チームの市川誠一の講演から紹介する。
朝日新聞は、2006年4月に「調査報道」を専門的に行う取材チームを発足させた。編集局長直属のチームで10人前後の記者を擁している。
「どんな分野でも制約なく、きわめて自由に取材することが許されていますが、ひとつだけ条件が課されています。それは、調査報道という手法で記事を書く、ということです」3)
前出の秋山が NHK「番組改変」報道で、確認取材が不十分だった4)と第三者機関から指摘されたことを受けて、次のように述べている。
「ジャーナリズムの基本である『調査報道』を、より一層、充実させて、読者の皆さまに信頼していただけるよう努力していく決意です」5)
これを受ける形で再び「調査報道」に力を注ぐ新体制を整備したとも受け取れる。とはいえ、市川は講演の中で、「調査報道」をこう捉えている。
「ジャーナリストという仕事がある限り、必然的に生まれてくる分野といってもよい」
そのうえで、従来「調査報道」は、社会部の中に「調査報道班」があったが、朝日新聞の今回の取り組みは、それらとは違うと位置づけている。
「社会部と同じものをつくっても意味はない。新しい組織をつくったからには、そこでしかできないことをやりたい。記者たちは新しいジャーナリズムを目指して奮い立ちました」6)
その結果、チームで合宿などを行い、1国民がわれわれに期待しているのはどんな役割だろうか。2ジャーナリズムがいま取り上げるべきテーマは何なのか、を中心に論議を繰り返した。
ここで注目すべきは、テーマ設定に当たって、徹底した議論をする点にある。
「多くのメンバーが納得するまで議論を尽くし、最優先テーマを見つける。ある意味ではとても民主的な手続きだと思っています」7)
つまり市川が目指す「調査報道」は、従来の社会部型のように、誰かが情報を摑んできたら、それをデスクやキャップを中心にした司令塔の下で、「調査報道」を展開する形と違うことを示唆している。リクルート事件のとき、横浜支局の記者が端緒を摑み、県警が事件を断念して記者たちも諦めかけていたときに、デスクの山本博の鶴の一声で「調査報道」に乗り出してきたケースとは明らかに違うことを意味している。
市川は「調査報道」が生まれる端緒を、1当局発、2内部告発の2つを挙げたうえで、そのいずれとも違う手法で「調査報道」を模索したと述べている。
「あそこの省庁に疑惑がありそうだとか、この業界に巨悪が隠されているなどと、自らの問題意識や取材経験を頼りに、調査報道の対象をひねり出す議論をしたのです」8)
これを市川は、「アジェンダ・セッティング型調査報道」と呼んでいる。つまり情報源に依拠しないで、「記者たちが主体的能動的に『いま調査すべきこと』を決められる」長所があるとしている。
この方法で成功した「調査報道」が2006年7月からの「偽装請負」報道である。
市川は講演の締めくくりに「調査報道」の最終的な目標は、社会の利益に貢献することだとしたうえで、こう述べている。
「アジェンダを決める時、まず自問自答します。調査報道で掘り下げていくことが結果的に大きな社会的な利益につながるかどうかと」9)
市川の指摘は、筆者の私見と同様である。「調査報道」の中で重要な要素は、「自己満足」「自社満足」的な報道ではなくて、社会に波及力のある、影響をもたらす報道である。これは、取材対象が権力や権威であり、その報道によって各社が追随し、その結果社会的変化をもたらす、つまり「特別調査報道」を意味している。
ただ市川のように豊富な経験を持つ記者にとっては、自らアジェンダを設定することはそう難しいことではないかもしれないが、なかなか簡単にできることではないし、同時に問題意識の高さも求められる。
b. 東京新聞の「調査報道」チーム
朝日新聞のように社長の肝いりで、10人前後の、しかも社会部とは別枠で「調査報道」チームを編成して取り組んだ例を筆者は、1977年の毎日新聞大阪本社報道局遊軍班10)以外には、寡聞にして知らない。多くの社は、市川の講演にあるような「社会部という部署があり、そこには調査報道班があります」11)というのが主流ではなかろうか。
そこで少人数を駆使しながら「調査報道」に積極的に取り組んできた東京新聞の例を見ていく。
東京新聞には「こちら特報部」という独自の視点から時のニュースを追う紙面がある。本稿第3回で取り上げた「商工ローン不当」追及の「調査報道」なども掲載している。しかし一般紙面でも「調査報道」がたびたび掲載されている。注目される「調査報道」は、1999年12月に連載がスタートした「破たん国家の内幕」であった。この連載のテーマは、政治経済改革を阻んでいる「政・官・業」の利権構造を抉り出し、明らかにすることだった。
この「調査報道」チームのキャップだった杉谷剛は、その主旨を次のように記している。
「利権構造とは政治家や官僚たちによる巧妙な“税金横領システム”であり、政治家は『票とカネ』、官僚は『天下り』、業界は『利益』を手にしている。それぞれ、政治家としての地位や官僚だけに与えられている権限を悪用し、納税者が納めた税金を自分達の利益にすり替えているのである」12)
この連載は、当初5人でスタートし、のちに社会部と埼玉支局の記者9人が担当した。しかし最初から2002年5月までの2年半近い歳月をかけて終始この取材に携わっていたのは、杉谷と榎本哲也の2人だけである。
この取材の責任者だった社会部長の山田哲夫は次のように言及して「調査報道」の抱える問題点も提示している。
「メディア多様化のなかで、この調査報道は新聞がその存在理由を示すことのできる数少ない分野だが、費用対効果、リスクという点からは、これほど割に合わない取材・報道はないというのが内実だ」「取材班が日々の紙面に貢献することはない」「内部告発的情報を得るまでの信頼関係を築き上げるには時間がかかる。取材費用は膨れるばかりだが、提供された情報が読者を納得させ、報道に値するものだという保証はない」13)
また、こうした障壁を克服したところに「調査報道」の意義がある。
それについて山田は次のように述べている。
「新聞が調査報道にこだわるのは、やはり、われわれの日々の業務が国民に負託されたものであり、公益のためだからだ。やや気恥ずかしくもあるが、われわれには、世のため人のため、国民の知る権利にこたえる義務がある」14)
理解のある社内文化に支えられて東京新聞の調査報道はその後も続く。その典型的な例が2008年1月から2009年2月まで続いた高速道路に関する調査報道である15)。取材チームは遊軍キャップの杉谷を中心に、多いときで5人が担当している。
杉谷によると、常時3人が直面しているテーマを取材、執筆して紙面に反映させ、残りの2人が次の展開を見込んで取材に専念する2 段階方式を取っているという。
「東京新聞の場合は調査報道に割ける人数が限られているので、効率よく使い回していくためには、この方式しかない」16)
とはいえ、何か別の事件や緊急のテーマがあればそちらにシフトしなければならないというのが実情で、それは各社同様と推察される。
ではどういう視点でテーマを設定しているのだろうか。
最近の省庁などの発表ものは、役所のホームページに公開されていて、大臣会見や記者会見の内容も掲載されている。これを新聞で読まなくてもインターネットを利用すれば詳細まで知ることができる時代である。新聞やテレビなどのメディアの存在意義は、インターネットで読むことができない内容ということになる。これを杉谷は、「生活感覚に根ざした『調査報道』を展開することで、違いを明確にしていくことが必要だ」と指摘する。
そのうえで「事件取材のマインドも大切で、その視点がないとより深い取材に行き着かない」とも述べている。
こうした「調査報道」を続けることで、各社との紙面の違いが読者を惹きつけ、信頼を得ることにつながると見ている。この点について杉谷は、「新聞への信頼感がなくなると自然と情報が集まらなくなる」と現場記者の実感を吐露している。つまり記事を読んだ読者から、「こういうおかしなことがある」「自分の周囲ではこうした疑惑がある」といった情報が寄せられるのも、「紙面化してこそありうる」と指摘している。
c. 毎日新聞の「調査報道」チーム
これまでにも数々の「調査報道」の実績がある毎日新聞で、あえて小泉敬太新社会部長が「調査報道」宣言をした背景には何があるのか。
「インターネット時代を迎え、いよいよ新聞が生き残る術を見出そうとするとき、そこには『調査報道』しかないのではないかと感じているからです」17)
小泉は社会部副部長、論説委員時代からも「調査報道」の重要性をずっと考えてきた。
実際に2007年と2008年の新聞週間には、調査報道の意義を社説に掲載している18)。そこには、若い記者時代、目の当たりにした自社の「薬害エイズ」報道があるという。
「薬害エイズを先輩記者が横でやっているのを見て、いつか自分も社会に影響を与えるような報道をしたいと考えた」
社会部長就任に当たって小泉は改めて、「調査報道」の重要性を強調している。
「半日経てば明らかになるような事実を血眼になって取材する特ダネ報道の必要性は否定しないが、それとは違った毎日新聞独自の調査報道こそ、新聞の存在意義を見出せる」19)
2000年代以降でも「片山隼君事故」「旧石器ねつ造疑惑」「防衛庁情報公開請求者リスト問題」「自衛官募集に伴う住民基本台帳情報収集問題」「戸籍300日問題」をはじめ「アスベスト禍問題」など、それぞれの記者が「調査報道」を手がけ紙面化している。そのたびに社内では、「俺たちもがんばらなくっちゃ」という全社的な盛り上がりを見せる。
「これが毎日新聞の社風でしょう」20)と語る。
毎日新聞東京本社の場合は、もともと社会部遊軍の中に、「調査報道」班が常設されている。ロッキード事件の取材班の名残りで、その後も「ロッキード部屋」と呼ばれる個室を確保していたが、1992年に当時の社会部長の意向で、「調査報道」班を拡充させた。「A班」「B班」の2班体制で、それぞれ3 〜 4人の記者を割り振っていた。前者は政治家の疑惑を追及、後者は特捜事件をカバーしながら独自の「調査報道」を目指すもので、A班が手がけた結果が、「不信の明細書」21)企画だったという。
「A班の担当デスクが、いまの社長(朝比奈豊)で、自分も実際にやってきているので調査報道には理解がある」22)
その後、「B班」だけが残り、「防衛装備品調達不正問題」などを手がけてきた。この問題は、その後東京地検特捜部が元防衛施設庁長官や元調達実施副本部長を背任や収賄で逮捕する事件に発展した。一連の報道は、1999年度の日本ジャーナリスト会議賞の奨励賞を受賞した。
小泉が描く新しい「調査報道」チームは、
「遊軍の中で、3 チームくらいに分けて、それぞれのチームが当たり、その中から、ものになると思えるものを掘り当ててきたところに、他のチームのメンバーもシフトしていく形になるだろう」
小泉は、社会部全体を俯瞰しながら、「調査報道」へのこだわりを見せる。
「事件(担当)クラブや省庁などでも端緒はある。それぞれの記者が“調査報道マインド”をもって取材に当たることが重要です。それに調査報道とあわせて、キャンペーンとして展開していくことも大切だと思っています」
また「調査報道」に対するリスクについては、次のように述べている。
「裁判に訴えられることを怖れていては『調査報道』はできません。要は裁判に負けなければいいのですから」
さらに費用対効果の面で厳しい現実については、結果はすぐに出るわけでないことは十分承知しているとして、こう言及している。
「登記などの資料の購入や出張に経費がかかって台所が苦しくても、上がどこまで我慢するかで、そんなことは折込み済みです」
小泉の最後の言葉が印象的だ。
「何のために自分たちは記者になったのか、その理由を考えれば『調査報道』しかないのです」23)
d. NHK の「調査報道」チーム
NHKの「調査報道」の歴史は古い。こう書くと意外な感じを受ける読者は少なくないかもしれない。報道現場に露骨な介入があった「ロッキード事件5周年報道」24)以前には、NHKもいくつかの「調査報道」を手がけている。「調査報道」が認識されるようになってからは、『埋もれた報告』25)をもって嚆矢とする。この作品は水俣病を扱ったドキュメンタリーで社会部記者大治浩之輔が中心となって取材、制作した。記者、ディレクター、カメラマン、音声マンの4人チームである。1977年度の芸術祭で、テレビ・ドキュメンタリー部門の大賞を受賞している。
水俣病が確認されたのが、1956年5月1日で、20年後の12月に放送された。
大治は取材意図をこう述べている。
「水俣病の底知れぬ被害拡大を防げる手立ては、あの時に本当になかったのか、その一点に絞って取材しようとしたのが、このドキュメンタリーです。きっかけは熊本県庁に眠っていた公文書“水俣ファイル”の入手。患者確認から1959 年 12 月に見舞金契約で被害を封印するにいたる数年間、水俣・県・国を往復した行政文書です」
そのうえで大治は、「調査報道のスタイルをとりましたが、それはテーマが取材手法を必然的に決定するのです」26)と断言する。
被害の惨状を目前にしながら漁獲禁止もせず工場廃水も止めず汚染拡大を放置したのはなぜだ、だれだ。大治は、20年という歳月を経て、当時の関係者の冷静な証言を引き出そうとするが、水俣の保健所長も県知事、チッソ水俣工場長、通産省軽工業局長…もカメラの前を逃げ回ってインタビューに応じない。それを夜討ち朝駆けで追いかけて取材するが、なかなか真相を語ろうとしない。それでもねばってねばって取材するディテールが映像に現れてくる。
その一方で有機水銀に冒された患者が、「自分がどんなになっていくのかと思うと、本当に恐ろしい」という聞き取りづらい言葉で語るのを、大治は字幕スーパーを使わず、あえて音を生かしていくことで、視聴者に訴える。
この作品は、国の責任を問うはじめてのドキュメンタリーで、テレビ放映された後、いろいろな反響を生んで、水俣病の行政責任を問う裁判が次々に起きた。
しかし大治は、報道したからといってそれで社会や政治がすぐに変わるかといえば、それほど単純ではなく、ジャーナリズムの仕事は、賽の河原に石を積むというようなところが沢山あると言い、「それでもいいんだ、やり続けるぞという覚悟がないと出来ない」としたうえで、ジャーナリストの仕事をこう捉えている。
「私たちは学者じゃありませんから、志をもって事を問い、事を論証するためには、どうしたって地べたを這いずり回って、虫のように(小さい事実を)一つひとつ集めていかざるをえない」「証言を取りたい、証拠で論理を作りたい、そう思って行くけれど(中略)全貌が取れなくても『それじゃあ、もういっぺんやってみるか』と思い直すのです。自分を駆り立て駆り立てやっていく、それを支えるのはジャーナリストとしての志、私たちの取材の一番奥にある原点だと思います」27)
こうした大治スピリットが生かされる報道が、2005年以降顕在化してきた。本稿第3回で掲載した『NHKスペシャル;ワーキング・プア』もその一例である。続いて、同じ社会部副部長中嶋太一の下で制作された「調査報道」が、『NHKスペシャル;ヤクザマネー』28)であった。
取材のきっかけは、警察幹部の嘆きからだったという。
「市場の背後で巨額の資金を得ていると見られる暴力団を摘発したいが、どのように関わっているのか、その実態がいっこうにつかめないんだ」29)
この言葉から中嶋は、警察の捜査も届いていない誰も知らない暴力団の資金獲得現場を明らかにできないか、と「調査報道」を決意する。2007年1月のことだ。
中嶋は、記者歴22年のうち15年を社会部で過ごし、警視庁キャップも務めた事件記者だが、実は中嶋が「調査報道」を志した原点が、20年前に見た大治浩之輔の『埋もれた報告』だったという。
中嶋は、「暴力団」「マネー」「株」「ベンチャー投資」といったキーワードから5人の記者を投入する。いずれも当時警視庁、警察庁、国税庁の担当記者だった。10か月かけた「調査報道」の結果、捜査当局が立件を諦めた架空増資事件で、数々の内部経理資料や主犯格の男の独白テープを入手する。また関係する暴力団員らの証言を積み重ねて、ヤクザマネーが企業を食いつぶしていった経緯を摑む。さらに暴力団がマンションの一室に大がかりなディーリングルームを設置したり、ベンチャー投資で80 億円を運用したりする現状を暴力団員への密着取材から、その実態を明らかにしていった。
中嶋はいま「あすの日本」プロジェクトのデスクをしている。今年1月に発足し、報道局長冷水仁彦直轄のチームで、経済部長だった森永公紀ら専従の記者、デスクは11人である。このプロジェクトの特徴は、政治部、経済部、社会部、科学文化部、テレビニュース部といった部を越えて構成されている点だ。
中嶋によると、「あらゆる面の調査報道を目的にニュースや大型番組を発信するとともに、10年後、20年後の日本社会のあり方も提言する」という。
一方、社会部デスクの熊田安伸も「調査報道」に熱心なデスクの一人である。熊田が「調査報道」を意識したのは、NHKスペシャル『調査報告 日本道路公団』30)を取材したのがきっかけだった。元道路公団総裁ら幹部たちのインタビューから、いかに道路行政が捻じ曲げられてきたかが見えてきたという。熊田はこれまでの取材経験の中から、証言集めや資料分析を駆使する「調査報道」の中で、特に資料分析に着目した。
「調査報道のきっかけを資料分析、とりわけ国税局資料調査課の調査手法を報道に取り込めないかと考えました」31)
国税局資料調査課の調査は、申告書などの税務関係・行政関係の公文書だけでなく、新聞やあらゆる種類の雑誌、書籍、広告、それにテレビのワイドショーやインターネットのHPに至るまで、すべての文字・映像資料を読み込んで、評価・分類している。
そこで熊田は、自らの経験を多くの後輩記者たちに知ってもらうため、2007年秋からスタートした「調査報道研修」の講師を務めた。そこでは、官報、公報の読み方や情報公開室の使い方にはじまって、政治資金、省庁、自治体、企業、経営者、公益法人、事件、事故、災害さらには歴史的、国際的な問題も資料を使って読み解いていく。研修の対象となるのは、地方で事件取材を終えた、あるいはまもなく終了する2年目の記者である。
「この時期は、日々の取材に追われて目標を見失いがちだったり、警察、検察取材をやって記者として向いていないのではないかと諦めたり、悩み始める時期にさしかかっているからです。そんな時、新しい取材のきっかけになればと思ってはじめました」32)
熊田はいま、新たな「調査報道」に取り組み始めている。「国会」「国税」「証券等監視委員会」「会計検査院」担当の4人の記者によるチームを編成して、件の「資料調査」を駆使した「調査報道」を目指すという。
以上見てきた例は、現在進行中のものや今後の展開を見据えた「調査報道」である。今回の連載では取り上げ切れなかった各社の「調査報道」も多々あるが、概ね新聞、放送、出版各社は、“自立した報道”を確立する意味でも「調査報道」を取り組むべき目標として重視していると推察できる。
第7章「調査報道」がジャーナリズムを活性化させる
筆者が本稿5回の連載で提示したかったポイントは3つある。1つは、「発表報道」からの脱却のための「調査報道」の活用。「調査報道」と「特別調査報道」を二分することで、「調査報道」のハードルを低くし、「発表報道」に頼らない取材に積極的に取り組むという意味で、従来の独自取材もこの中に包括する。2つめは、ジャーナリズム本来が持つ権力監視機能(ウオッチ・ドッグ)としての「特別調査報道」の意義である。そして前章で3つめのポイントとして、「調査報道」がジャーナリズムを活性化させるという筆者の仮説を、現場の取り組みの中から考察してきた。これらの点を踏まえて、最終章ではジャーナリズムの今後に向けた可能性を展望するために必要と思われる課題や論点の整理をして稿を閉じたい。
今日、政治の閉塞感に経済の行き詰まりが相乗作用となって国民の政治への信頼は失墜し、「政治不信」を通り越して、国民の「冷笑的反応」(シニシズム)を生み、政治への無関心が拡大している。こうした状況の中でマス・メディアに対する読者、視聴者の不信、不満も大きく、マスコミ=「不遜」の謗りは免れない。
かつてマスコミは、「人権の砦」と言われ、1950年代の朝日訴訟33)や60年代から70年代のポリオ、売血キャンペーン、公害報道など国政や行政の問題点を追及してきた34)。しかし、80年代以降マス・メディア不信が日増しに高まるようになった。その具体的な現れは、朝日新聞の「サンゴ事件」35)、日経社長、讀賣副社長、毎日編集局長といったメディア関係者への未公開株譲渡が発覚したリクルート事件に見られた。以後マス・メディアが社会正義を貫く組織でなく、特ダネのためにねつ造をしたり、政治権力や組織権力と癒着したりする組織でもあると国民が明確に認識するようになった。加えてメディアスクラムや犯罪報道による人権侵害、報道の自主規制等、読者、視聴者の批判は、報道そのものにも向けられるようになった。
2009年の現在でも、日本テレビの報道番組『真相報道バンキシャ!』が放送した岐阜県の裏金問題の証言者が偽者であったり、『週刊新潮』の「朝日新聞阪神支局襲撃事件」の記事が、完璧な“騙り”であったことなど、次々に問題が発生している。いずれも裏づけ取材が放置され、証言者の言うがままに放送、掲載したためである。
なぜこのような事態が引き起こされるのか。その問題点を一つひとつ掘り下げてみると、日本のマス・メディア、とりわけジャーナリズムが抱える「発表報道」に通じる。「相手の言うことを鵜呑みにする」危険性をはらむ無批判な報道に慣らされてしまうと、独自の裏づけ取材を怠り、手間隙をかけない安易な報道に流されてしまいがちになる。しかも日本テレビのケースは、インターネットによって情報提供を呼びかけている点が注目される。
一方『週刊新潮』も、自ら「実行行為者」と名乗り出た男の裏づけも取らず、その言動に振り回された結果である。特に『週刊新潮』は、これまでも裏づけを取らずに、誌面に都合のいい部分だけを掲載する手法を繰り返してきた経緯もあり、起こるべくして起こった“事件”ともいえる。
『週刊現代』編集長の乾智之は、編集後記の中で『週刊新潮』を批判して、次のように述べている。
「人物や事象にかかわる『疑惑』を報じるのは、週刊誌の役割のひとつだと考えます。ただ、だからといって、記事をつくるうえで間違いを犯した責任をまぬかれるわけではないことは、いうまでもありません」36)
しかし、2009年に入ってから明らかになった一連の誤報は、一部テレビ、一部週刊誌の問題ではなく、すべてのマス・メディアが認識しなければならない事案といえる。
というのも、これらのケースは2つの問題を提示している。その1つは、「内部告発者」の扱いをどうするかである。食品偽装事件で内部告発者が果たした役割は大きかったが、「善意の内部告発」と違って、「虚偽の告発者」の存在が浮き彫りになったからだ。つまり安易に「告発者」や「証言者」に乗ってしまうと煮え湯を飲まされる虞があることは、他山の石とする必要がある。
もう一点は、今回の事態を、視聴者、読者は、「マス・メディア全体の行為」と見なして批判し、マスコミ不信が増幅されがちであることだ。
「発表報道」あるいは「発表ジャーナリズム」は、政治、行政、企業等が、「議題設定(アジェンダ・セッティング)」のイニシアチブを握っている以上、不都合なことが積極的に明らかにされることは少ない。また意図をもって発表されても、無批判に受け入れてしまう可能性も否定できない。こうした“発表漬け”が常態化してくることによって、アジェンダをコントロールされたジャーナリストたちは、批判精神の芽を摘まれてしまう。
マス・メディアの存在意義は、権力を監視する「番犬(ウオッチ・ドッグ)」としてあることは過去の事例から見ても明らかである。ところがいまや権力を守るための「番犬」と化しているジャーナリストも少なくない。国民の知る権利を負託されているマス・メディアが、本来の「自立」を取り戻さなくては、「不信」「不満」は、「メディア離れ」となって、その存在自体を危うくする。
そこで改めて「調査報道」の重要性が見直されてくる。
「調査報道」は、取材し尽くすという意味で、「報道」の原点とも捉えることができる。ここをしっかり認識し、実行すればいま起きているジャーナリズム批判の多くは避けられる可能性が高いのではないか。
繰り返される不祥事のたびに語られるのは、「ジャーナリスト教育」の必要性である。
とりわけ、現役のジャーナリストたちが、社を越えて議論、研究するシステムの構築が求められる。その中心テーマをなすものは、「調査報道」ではないだろうか。ここには、取材者として単なる「手法」だけではなく、記者の志や矜持を含めて、いまジャーナリズムが抱える問題の根源が内在している。
ジャーナリズムが、読者や視聴者の支持を得ていた時代があったことを考えるならば、信頼回復の糸口を得るためにも「調査報道」の重要性を現場の記者たちが認識する必要がある。社を越えてというのも、社員研修ではなく、学者、研究者による「ジャーナリズム原論」と現役ジャーナリストや経験者による「ジャーナリズム現(場)論」の双方を学ぶこと、あわせて「企業主義」でなく、報道の「公共性」という視点を身につけることが望まれる。
ところで、メディアの危機が叫ばれる中、「新聞再生の糸口」として、1996年にすでに筑波大学教授の天野勝文が1「脱発表ジャーナリズム」と2「調査報道の強化」を挙げている点に注目したい。
「今後、新聞が他のニュースメディアと比べ、その“得意技”を発揮する最適の場として調査報道を位置づけ、それを実現するためのシフトを敷くことが、効率はよくないけれど長い目でみれば最良の方策であろう」37)
13年前と今日とでは、新聞、テレビを取り巻く環境は様変わりしている。毎日新聞出身の天野は「新聞」にこだわりを持つが、新聞=ジャーナリズムと捉えなおしてみれば、天野の指摘の本質は何ら変わってはいない。
さらに2009年の現状を直視して、元共同通信編集主幹の原寿雄は、ジャーナリズムの危機と「調査報道」の関係に言及している。
「権力監視、社会正義の追求を軸とした調査報道の取材力を持つジャーナリスト集団は、高度情報社会の核としての期待を担う。『ジャーナリズムの危機』とは、調査報道を敬遠し発表ジャーナリズムに侵食されている『現状のジャーナリズムの危機』を指すものである」38)
天野や原と同様の指摘は、前出の朝日新聞の秋山発言や本稿前章の中にも随所に見られる。
このことからも、「調査報道がジャーナリズムを活性化させる」という展望を強調しておきたい。
5回にわたる連載では、「調査報道とは何か」を1970年代以降の言説史を通して見てきた。さらに「調査報道」というカテゴリーをあえて、独自取材による「調査報道」と権力追及を目的とした「特別調査報道」に差別化し、その事例を提示すると共に社会に与えた影響について考察してきた。また、「調査報道」を実行するうえでの障壁や問題点についても論考した。その結果、「調査報道」の成就は、社会に影響を与えることとあわせて、会社全体を活気づけること、今後のマス・メディアの存在を賭けても重要な報道スタイルであることが関係者によって提示された。
これまで「発表報道」に頼るマス・メディア批判が読者、視聴者から繰り返されてきたが、いままさにジャーナリズムの活性化のために「調査報道」の原点に立ち返り、その重要性、可能性を再認識、再評価していくことが求められている。

1)第 61 回新聞大会・研究座談会<パネルディスカッション>「新『創業』時代を迎えた新聞界」『新聞研究』2008 年 12 月号
2)朝日新聞社人材センター編『別冊研修季報 調査報道の基礎』朝日新聞社人材研修センター、1998 年 5 月
3)市川誠一「アジェンダ・セッティング型の調査報道」花田達朗コーディネート『「個」としてのジャーナリスト』2008 年 11 月
4)筆者は、結果的に誤報の部分があったが、内容全般としては「特別調査報道」と捉えている。
5)朝日新聞 2005 年 10 月 1 日朝刊
6)前掲、市川
7)同上、市川
8)同上、市川
9)同上、市川
10)本稿第 1 回(2 月号)の P8 参照
11)前掲、市川
12)東京新聞取材班『破綻国家の内幕』角川書店、2002 年
13)同上、『破綻国家の内幕』
14)同上、『破綻国家の内幕』
15)現在は休止中
16)杉谷剛、ヒヤリング 2009 年 4 月 10 日
17)小泉敬太、ヒヤリング 2009 年 4 月 14 日
18)毎日新聞「あすを開く使命果たしたい」2007 年 10月14 日社説、同、「情報閉ざす扉をこじ開けたい」2008 年 10 月15 日社説
19)前掲、小泉敬太
20)同上、小泉敬太
21)毎日新聞 1993 年 1 月1日から6 月22日朝刊にパート3まで掲載、日本ジャーナリスト会議賞受賞
22)前掲、小泉敬太
23)同上、小泉敬太
24)1981 年 2 月 4 日の「ニュースセンター 9 時」で放送予定だったが、当時の坂本会長からの指示で中止となったという。島桂次『シマゲジ風雲録 放送と権力・40 年』文藝春秋、1995 年
25)NHK『埋もれた報告』1976 年 12 月 18 日放送
26)大治浩之輔、ヒヤリング 2008 年 10 月 6 日
27)大治浩之輔講演『埋もれさせてはならない埋もれた報告』NHK 盛岡放送局 1992 年 5 月 29 日
28)NHK『NHK スペシャル・ヤクザマネー〜社会を蝕む闇の資金』2007 年 11 月 11 日放送
29)NHK「ヤクザマネー」取材班『ヤクザマネー』講談社、2008 年
30)NHK『NHK スペシャル 調査報告 日本道路公団 借金 30 兆円・膨張の軌跡』2004 年 8月1日放送
31)熊田安伸、ヒアリング 2009 年 4 月 8 日
32)同上、熊田安伸
33)1957 年国立療養所に入院中の朝日茂が、生活保護者に与えられる日用品費月額 600 円は低すぎるとして、憲法 25 条の「健康で文化的な最低限度の生活」(生存権)の実現を求めて起こした訴訟。1 審勝訴、2 審、最高裁敗訴。新聞報道などで国民的な社会保障運動に発展。
34)早稲田大学客員教授・森治郎、ヒヤリング2009 年 3 月 17 日
35)本稿第 2 回
36)乾智之『週刊現代』講談社、2009 年 5 月 2 日号
37)天野勝文「新聞再生の糸口」天野、村上孝止編『現場からみた新聞学』学文社、1996 年
38)原寿雄『ジャーナリズムの可能性』岩波新書、2009  

 

●「調査報道」の成立と社会的展開
 〜ジャーナリズムにおける対権力・権威型「調査報道」の意義を中心に〜
要旨
日本において「調査報道」が成立したのは1970年代である。その嚆矢と言える立花隆の「田中角栄研究−その金脈と人脈」(『文藝春秋』)が端的に示すように、「調査報道」は、自らが書かなければ公にならない事実を、独自の取材と自らの責任において報道することを指す。当初、「調査報道」を巡っては多様な議論が展開され、様々な定義が試みられた。こうした「調査報道」に関する見方を辿っていくと、広い意味での「調査報道」の中に、特に政治・社会的な権力や権威を報道の対象とした、狭義の「調査報道」(=「特別調査報道」)が存在することが分かる。「特別調査報道」が対象とする権力・権威には、1「政治権力」(=政治エリート、官僚や警察などの行政権力、司法権力な)、2「組織権力」(=狭義の政治権力には含まれない、企業などの経済権力、学術・文化、教育機関などによる権力)、3「複合権力」(1と2の両者にまたがり、両者が複合的に作用する権力)の三種類がある。それらを過去の具体的事例に即して分析した結果、「特別調査報道」の結果・効果が社会へと波及していく過程や、それに要する時間などは事例によって多種多様である一方で、政権崩壊や法改正といった政治的・社会的意思決定過程への影響や市民の世論形成過程に極めて大きな影響力を持っていることが明らかになった。さらに「特別調査報道」には、メディア相互の競争を喚起し、報道現場の活性化に繋がる好循環を生み出している可能性も示唆される。このようにして「特別調査報道」が、今後のジャーナリズムの在り方を考えるうえで鍵を握るものであることを提示する。
1. 問題意識と研究目的
本稿は、ジャーナリズム研究において、しばしばその弊害が指摘されてきた、記者クラブ制度に依拠した「発表報道」の対極に、「調査報道」を位置づけつつ、「調査報道」が日本においてどのように定着してきたか、またその社会的影響力はどのようなものかについて分析することを通じて、「調査報道」の意義や可能性について考察するものである。
日本で「調査報道」と認識される最初の報道は、1974年10月に雑誌『文藝春秋』に掲載された立花隆の「田中角栄研究――その金脈と人脈」である。以後日本のジャーナリズムは、従来の捜査機関や官庁、企業、学会等の「発表報道」とは一線を画し、「自前のネタ」で「独自に取材」し、「自社の責任」で報道する「調査報道」に目覚める。「自立した報道」こそが「調査報道」であり、今日に至ってもその意義は失われていない。日本のマス・メディアがいま直面している大きな課題の一つに「メディア不信」「ジャーナリズム不信」がある。国民のマスコミ不信の具体的な現れは、日本経済新聞社長、読売新聞副社長、毎日新聞編集局長といったメディア関係者への値上がり確実な未公開株の譲渡が発覚したリクルート事件の影響が大きい。以後マス・メディアが「社会正義」を貫くだけの組織でなく、政治権力や組織権力と癒着する組織体であることを国民が明確に認識するようになった。加えてメディアスクラムや犯罪報道による人権侵害、報道の自主規制等、報道そのものにも向けられるようになった。その問題点を一つひとつ掘り下げてみると、日本のマス・メディア、とりわけジャーナリズムが抱える「発表報道」に到達する。「発表報道」あるいは「発表ジャーナリズム」は、政治、行政、企業等がマス・メディアに対して行う報道だが、「議題設定(アジェンダ・セッティング)」のイニシアチブが発表する側にある以上、不都合なことが積極的に明らかにされることは少ない。こうした発表漬けが常態化してきたことによって、アジェンダをコントロールされたジャーナリストたちは、批判精神の芽を摘まれてしまう。マス・メディアの存在意義は、「権力」に対する「番犬(ウオッチ・ドッグ)」としてあることは過去の事例から見ても明らかである。ところがいまや権力を守るための「番犬」と化しているジャーナリストも少なくない。国民の知る権利を付託されているマス・メディアが、本来の「自立」を取り戻さなくては、「不信」は、「メディア離れ」を加速させ、その存在そのものを危うくするのではないか。竹内謙は、「記者クラブから飛び出して独自の取材をする自立型記者」しか、滅び行く運命をたどるマスコミ・ジャーナリズムを救えるものはなく、社のしがらみをふりほどく記者個人の自覚を求めている。本稿が発表報道の対極にあるものとして「調査報道」を位置づけ、その役割や使命について考えようとする目的は、まさにこの点にある。
2. 「調査報道」の定義と分類 〜先行的議論・研究から〜
2−1 「調査報道」観の多様性
「調査報道」が注目されるようになったのは1970年代に入ってからで、用語としても、アメリカの「ニューヨーク・タイムズ」が連載した『国防総省秘密文書』(ベトナム秘密報告)を紹介した新聞記事中に見えるのが最初である。「調査報道」は、インベスティゲーティブ・リポーテイング(Investigative Reporting)を直訳したもので、当初は「調査的報道」とか「特別取材活動」「捜査的取材活動」といった訳語も用いられていた。
日本で「調査報道」がよく知られるようになるのは1972年から「ワシントン・ポスト」の2人の記者が追及した「ウォーターゲート事件」であり、ニクソン大統領辞任によって脚光を浴びた。この時点で「調査報道」は、次のように定義づけられている。
「長期間にわたる取材を要求される。その代わり、書く記事のほとんどが特ダネになる。お役所の発表記事ではない。困難ではあるが、もっともやりがいのある仕事」。
そこで日本の 「調査報道 」に関して、国会図書館所蔵の雑誌をインターネット検索してみると1967年以降85件ヒットした。この中には、記事そのものが「調査報道」であったり、「世論調査報道」といったりしたものを除き、「調査報道」そのものを論じた雑誌記事に絞ると55件を数えた。このうち日本新聞協会が発行している『新聞研究』掲載のものが30件を占めている。ただしこれらはいずれも表題に「調査報道」を冠しているものばかりで、ジャーナリズム関係の雑誌や学術論文を一つひとつ読んでいくと「ジャーナリズムのあり方」や「報道姿勢」を説いた中に、小見出しやキーワードとして「調査報道」が出てくる。またマス・メディアやジャーナリズムを論じた書籍で、章を立て「調査報道」を論じているものは意外に少なく、小見出しやキーワードで取り上げているものが多数である。
ここで注目すべきなのは、「調査報道」を取り上げた論文や雑誌記事、書籍をみるとその発表年代に特徴が見られることである。雑誌55件中の分類中、1970年代は0で、1980年代15本、90年代15本、2000年代25本となっていって、年を追って増えている。日本の調査報道史を振り返ると「これが調査報道」という具体例が示されたのは、1974年10月に発売された立花隆の「田中角栄研究――その金脈と人脈」が最初で、植田康夫が、「調査報道の先駆」と位置づけているように、「調査報道」そのものの認識も、この報道以降である。さらに立花に触発されて新聞やテレビが「調査報道」を意識した時期は1976年のロッキード事件が契機となっている。それを裏付けるように以後の「ダグラス・グラマン事件」「KDD事件」などで自社の独自調査で報道するスタイルが出来上がってきたことが影響していると推察できる。
1980年、最初に「調査報道」を論じた座談会では、その捉え方が懐疑的であるのが特徴的である。青木彰はこう指摘する。
「インベスティゲイティブ・レポーティング―これを直訳すれば調査報道となり、他にも告発報道、特別報道、捜査報道など、さまざまな呼称が日本では用いられている。しかし、報道スタイルとして見た場合、とくに目新しいものとはいえないように思われます」
同じ『新聞研究』に元朝日新聞論説主幹の森恭三も、「造語としては非常にまずい」と書いた上で、記者にとっては、記事を書くのは調査したうえでなすべきことだと指摘し、「調査ということをわざわざ謳うのもヘンなものだ」と釘を刺している。ただ森は、「調査報道」が新鮮な印象を与えているのは、どの社の記事も同じようだという読者の不満の「アンチテーゼとしての価値ではないか」と指摘し、発表に頼るマス・メディアの体質を批判している。まだこの時点では、 「調査報道 」の事例が少なく、印象でしか語れてない。ただサンケイ新聞の樋口正紀が、ダグラス・グラマン事件の半谷恭一裁判長の判決文を引用して「調査報道」の目的や精神について述べているのが注目される。
「裁判で審理されるのは検察側が選んだ切り口だけだ。根の深い事件ではウミをだしている切り口だけでなく背後にある腐敗の実態をえぐり出すことが必要だ」
つまり樋口は、捜査の対象以外のもの、背景にあるものこそ新聞社でやっていくのが「調査報道」だと分析している。
日本での典型的な「調査報道」は、80年代前半に相次いで出現した。最初は、1982年の朝日新聞の「三越ペルシャ・ニセ秘宝展」疑惑、続いて毎日新聞の「ミドリ十字」疑惑、そして1983年朝日新聞の「東京医科歯科大学医学部教授選考」疑惑である。しかし歴史に刻まれる「調査報道」は、1988年に朝日新聞横浜支局がスクープした「リクルート疑惑」であることは言を俟たない。当時この事件は、神奈川県警が内偵捜査し、断念した経緯があり、朝日新聞が書かなければ、決して世の中の人が知ることのない封印された、あるいは隠蔽されたまま終わるケースだった。1989年度のワークショップで、福井惇は、朝日新聞横浜支局の「リクルート報道」を取り上げ、「市民も取材に協力的で、取材に対する苦情も少ない。そうした市民の反応の面からも、リクルート事件は画期的な調査報道だろう」と高く評価している。
90年代に入って、日本経済新聞編集委員の田勢康弘は、「政府が作ったペーパーを半日か一日前に報道することに躍起になっている」ジャーナリストが多いのは、「みせかけのスクープ競争がはびこり、十分な時間と労力を注ぎ込んだ『調査報道』が少ないことの理由のひとつに記者クラブの存在がある」として、「調査報道」の重要性を提示し、記者クラブと発表報道に依存する日本の企業ジャーナリズムを批判した。
天野勝文は、『新版 マスメディアへの視点』の中で、「調査報道」のポイントを3つ掲げている。
「1永久に陽の目を見ない出あろう事実(不正)を発掘する 2刑事責任だけでなく、政治的、社会的、道義的責任を追及する 3捜査当局に対して捜査権の発動をうながす」このうち3については、筆者は首肯できない。というのも「調査報道」の取材対象によっては、捜査当局が動かないものも数々あるためだ。1990年1月、朝日新聞の「中曽根元首相側近に1億2000万円」の記事は、わずか1ヵ月で同じ株が、同じ人物との間でキャッチボールされただけで、元首相側近の女性秘書が1億2000万円の利益を挙げたという「調査報道」だが、捜査当局は動いていない。天野が定義したのは、(出版年次が)1993年であることを考えれば、上記のケースは検討されてしかるべきだ。その後も同様のケースは続き、後に述べる毎日新聞の「旧石器捏造」のスクープも、典型的な「調査報道」だが、捜査当局は動いていない。
ただ「調査報道」の定義については、1995年の時点でもまだ、「これといった明確な定義があるわけではない」と新聞報道研究会編の『いま新聞を考える』は述べている。
「大まかには、組織や団体、公人に『表に出したくない事実』があり、しかも隠された 事実が著しく社会の正義や公平の原則、公共の福祉に反する場合にマスコミが自己の責任において、事実を調査、公表すること、とでもいえるだろうか」。
先行研究の中で、経営的理由と対権力との関係から、「調査報道」の消極論に言及したのが、駒村圭吾である。その理由として「悠長かつ危険な活動に経営資源を割くことは躊躇せざるを得ない」と経営的合理性を挙げ、対権力については、本多勝一と原寿雄の対談から引用しながら、現場記者の風潮としての「権力との衝突回避」を上げている。その結果として、「調査報道」は苦境に立たされていると見ている。
「批判精神・真相究明などジャーナリズムのエトスに直結する営みだけに、以上のよう な苦境から調査報道を救出することは、ジャーナリズムそのものの再建に関わる」
前記の天野も『新 現代マスコミ論のポイント』の中で同様の見方を示している。
「バブル経済がはじけ、新聞業界が長い不況期に入ってからは、時間や経費のかかる調査報道はすっかり停滞、むしろ発表ジャーナリズムが幅をきかせているのが現状だ」。
果たしてそうであろうか。1990年代は、異常な事件が続いた10年だった。特にバブル崩壊後の1992年以降は、金融機関の不祥事と摘発、共和汚職、佐川急便、ゼネコン汚職、4大証券特別背任、大蔵汚職・・・と、東京地検特捜部が最後の輝きを発した時期と重なり、毎年のように大型事件や政治家の摘発が行なわれた。またオウム真理教の事件、捜査、公判、雲仙普賢岳、奥尻、阪神大震災などの天災にもマス・メディア各社は、総がかりで当たった。とても人と時間が掛かる「調査報道」に参入する余裕はなかった。それでも1998年から99年にかけて毎日新聞が報道した「片山隼君事故」では、「事件事故被害者の権利と支援策の確立を追求し続けた」として2000年に新聞協会賞を受賞している。このケースは、ダンプカーによる交通事故死として検察が運転手を不起訴にしたものを、母親からの投書に注目した記者が、その背景を掘り下げてキャンペーンを展開するうちに新たな事故目撃者が見つかり、運転手の過失が裏付けられ、検察が再捜査を余儀なくされ有罪となった。このキャンペーンなどがきっかけに、犯罪被害者支援関連法が成立した。「調査報道」と「キャンペーン報道」が一体化したケースである。
さらに2000年代にはいると駒村や天野の「悲観的予想」に反して、「調査報道」は、確実に広がりを見せてきた。まず毎日新聞がスクープした「旧石器発掘捏造」(2000年11月)だ。経営状態が苦しいとされる毎日新聞にとって本来なら経費も時間も、労力もかかる「調査報道」を控えるはずのところが、逆に「調査報道」に力を注いでいる。このことは極めて重要な意味を持つ。つまり「調査報道」こそが、新聞の価値を高める重要な報道であるとの認識が現場は言うに及ばず、経営陣にも明確に認識されているからに他ならない。この他にも時事通信社の「神奈川県警察の暴行事件」、高知新聞の「県庁闇融資」、毎日新聞の「防衛庁情報公開請求者一覧の回覧」、「自衛官募集のための住民基本台帳情報収集」、「アスベスト禍」、北海道新聞の「道警裏金疑惑」等々、全国的に展開されている。さらに2005年と06年に『新聞研究』が、「調査報道の力」を2回に分けて特集し、新聞記者に積極的に発信しているのは、「調査報道」の重要性が再認識されているからと推測できる。
2−2 「調査報道」の定義
このように、「調査報道」は、1970年代に注目されるようになった後、ジャーナリズムの現場で着実に根を下ろしつつある。そして当初多義的だった「調査報道」の意味内容を明確に定義しようとする試みも展開されるようになってきた。
ロバート・グリーンは、『記者ハンドブック』で「調査報道とは何か?」として「それは記者の間でさえ、なお議論を呼んでいる問いである」と述べている。グリーンは、調査報道は、頑固に旧来のやり方を守る、古き良き時代の報道についての今風の呼び方に過ぎないというかもしれないが、分類され定義されうるとして、次のように述べている。
「調査報道とは、特定の個人や組織が秘密にしておきたいと考えている成果や決定、重要な事柄を報道することである。調査報道には三つの基本的要素がある。すなわち、他の者ではなく記者自身によって調査されるということ、そして調査対象に読者や視聴者にとって明らかに重要な意味を持つ何かが含まれていること、また誰かがその調査対象について公にさせないよう意図していること、という要件である」
日本においては、1980年代初めの「ペルシャ秘宝展疑惑」、「ミドリ十字疑惑」「東京医科歯科大学疑惑」の3つの報道によって「調査報道」が、具体的にどういうものを指すかが次第に明確になっていった。
東京医科歯科大学の取材を担当した朝日新聞の橘弘道によると、取材プロジェクトチームの間では、「調査報道」は以下の3つの条件を満たすものと定義されていたという。
1外部の機関、捜査当局などの支えがない自主的な独立取材である。
2その報道姿勢が、なんらかの意味で社会的に告発的な、あるいは問題提起的な要素を含んでいるものである。
3限定要素としては、取材対象としては権力悪、構造腐敗である。
そして新聞が、「社会構造、政治構造、経済構造の中に隠された部分について、その内部に不正があればそれを明るみに出す」ためには、「報道の正確さ」「報道する理由」が不可欠であり、プロジェクトは、「紙面化して大丈夫というだけの慎重な裏付け」取材をし、「報道すること自体が社会の公益に合致し、報道内容自体が公共の利益に合致する」ことを、紙面を通して読者に説明していったと述べている。
こうした認識は、ただ単に「調査して報道」するという意味での<行為としての「調査報道」>から、社会の公益性を取材・報道の支えにするという点で、<目的意識のある「調査報道」>として、より踏み込んだ報道を想定している。その結果、他社は無視できず追随しなければならなくなり、捜査機関や行政機関もなんらかの対応を迫られることになる。
リクルート疑惑の取材指揮をした朝日新聞の山本博が著した『追及―体験的調査報道論』は、表題どおり、自らが実践してきた具体的事例を挙げながら社内でのやり取りを含めて詳細に記述している。山本は、その後も「新聞記者を考える」「調査報道とは何か――リクルート事件報道から得た教訓」「朝日新聞の『調査報道』」「ジャーナリズムとは何か」といった論考で「調査報道」の重要性を説いている。山本はこれらの著書や論文のなかで、将来にわたっても明らかにされないだろう当局側にとって都合の悪い事実を、報道機関が独自の調査取材で報道する方式であり、その必須条件として確認、裏付け、関係者の証言、内部資料、さらには内部の協力者からの決定的情報の入手が決め手となるケースが多いとしている。山本の議論のポイントを整理すると4つある。
1自分(あるいはチーム)が書かなければ、日の目を見ない事実。
2発表に頼らず自らの調査能力で発掘する事実。
3新聞掲載によって暴露し、社会に知らしめる。
4その掲載内容が、権力、権威ある部署、企業などが隠したがる事実。
このように報道現場における実践の中でのさまざまな試行錯誤の過程で、「調査報道」の定義は次第に確定されていったと言える。
2−3 「独自報道」と「調査報道」
報道には、大きく分けて「発表報道」と「独自報道」に二分できる。「発表報道」については、すでに述べた。「独自報道」には、「検証報道」「提言報道」「論説・解説報道」「選挙報道」「世論調査報道」「キャンペーン報道」などがあり、「調査報道」もこれに含まれる。また「検証報道」や「キャンペーン報道」には、「調査報道」と連動したものもある。
では現場の記者たちは、「調査報道」をどう認識しているのであろうか。2007年にNHK放送文化研究所が、NHK記者・カメラマン1123人を対象に行なった「調査報道」のアンケートで、それぞれ自らが行なった「調査報道」の事例を挙げている。
「熊に襲われた死亡事故で、所持品の分析から何が熊に襲われるか調べて放送した」「病院再編の影響で困っている人が急増している実態」「医師不足問題」「北海道大規模倒木被害実態調査」「病院内で看護婦が患者に暴力をふるっていた実態のインタビュー」「空港建設に伴う海洋生物の環境への影響調査」「闇サイトに巻き込まれた若者の実態」「耐震偽装事件で強制捜査に入るまでの2か月間の調査報道」「介護施設で入居者が鍵を閉められる実態」「災害対策について自治体にアンケート調査を行なって不備や課題を報道」「生活保護医療扶助制度悪用の実態」「新しい手口の詐欺について被害者の実態調査」「公共事業の談合と入札改革について調査報道」「墜落したB -29の搭乗員を集団で襲撃した住民証言」
以上のようにテーマも内容も様々である。これらはいずれも公的機関や企業などの発表を受けて書いたものではない。独自の情報を元に取材し、自社の責任、つまり「NHKの調べによりますと・・・」のクレジットで報道したものばかりである。
だが、はたしてこれらの報道は、「調査報道」と言えるのであろうか。なぜなら、熊による死亡事故自体は、公になった事故であり、闇サイト問題もすでにこれまでも数々の摘発事例がある。上記のひとつひとつを見てみれば分かるように、すでにそのこと自体は、「公知の事実」が多いと言っていい。しかし公になっている情報を元に、これを掘り起こして新たなニュースとして報道するケースがある。例えば、1976年のロッキード事件報道などは、東京地検特捜部の発表によらずに独自のルートで調査し、報じて行ったことから、これを「調査報道」と捉える向きがあることはすでに「調査報道」観の中で述べた。
また1960年代にNHKの「ポリオ撲滅」キャンペーンや読売新聞が行なった「黄色い血」(売血廃止)キャンペーンなども、社会の現象をさらに踏み込んで取材し、報道を展開して行った独自取材による報道であった。先に山本が述べているように、「自分(またはチーム)が書かなければ日の目を見ない事実」を精査すると、ロッキード事件はすでに内偵捜査に着手しているし、「ポリオ」や「黄色い血」も、そのもの自体は公知の事実であった。しかし独自の取材、調査によって、ロッキード事件報道では、児玉誉士夫の人脈や金脈、航空業界との関わりが浮き彫りになったり、「ポリオ撲滅」キャンペーンでは、全国的に急激な拡大を日々テレビで明らかにすることによって被害実態を知らしめたり、「黄色い血」をめぐっては、本田靖春が、山谷のドヤ街に潜伏して実態をルポしたりした「調査報道」である。そこには、「調査報道」4原則のひとつ、「日の目を見ない事実」が新たに明らかになっている。上記のNHKの「調査報道」についても、筆者は、公になっている事案を掘り下げることによって、まだ明らかになっていない新たな事実を独自に取材・調査し、社の責任において報道したものであれば、これら全てを「調査報道」と捉える。
これまで、マス・メディアの現場では、「権力や権威などの不正を独自の取材で暴く」ことが、「調査報道」の条件の一つと捉えられてきた。しかし、権力や権威が取材対象でなくても様々な「独自取材」によって、新たな事実が判明してくるケースは、上記の「熊による死亡事故」や「新しい詐欺被害の実態調査」などから明らかである。これらも「調査報道」と捉えれば、先に青木彰や森恭三が述べた「取材活動で調査して記事にしていくのは当然」という認識に合致する。「独自取材」によって新事実が判明したものを、「調査報道」と捉えなおせば明快になる。こうした「調査報道」を毎日新聞の福井逸治は、「広義の調査報道」と名付け、こう分析している。
「『警察の調べによると』という根拠表現で一括されている記事の中にも、少なくとも 端緒は記者の調べ(取材)による事柄が少なくない。従来の『取材報道』にも『調査報道』的な要素は多く含まれて来たのである。また、警察などに対する取材活動も『調査』の一種と言えなくはない。とすれば、ここで取材報道と名付けた従来の記事も結局は調査報道の一種であり、ひいては新聞記事はすべて調査報道だ、との主張も成立する。(中略)このような認識は広義の調査報道として、狭義のそれとは区別した方がわかりやすい」
福井は毎日新聞大阪本社編集局遊軍が、記者クラブに依拠せず、発表に寄らない独自の情報源や取材手法によって報道したものを「狭義の調査報道」と提示している。
この「狭義の調査報道」の妥当性について考える際、朝日新聞・山本博が掲げる「調査報道4条件」は示唆的である。
山本は、「調査報道」の条件として、
1自分(あるいはチーム)が書かなければ、日の目を見ない事実。
2発表に頼らず自らの調査能力で発掘する事実。
3新聞(テレビ、ラジオ、雑誌)によって暴露し、社会に知らしめる。
4その報道内容が、権力、権威ある部署、企業などが隠したがる事実。
を挙げている。そこで、発表によらない独自の取材、調査によって発掘した報道を「広義の調査報道」と考えると、「狭義の調査報道 」との違いは、山本が提示する「4権力、権威ある部署、企業(あるいは、その個人)などが隠したがる事実」が含まれるか否かであることが分かる。
山本の示す4条件のうち、1、2、3を包括するものを「広義の調査報道」とし、さらに4の権力、権威を報道の対象とする、という条件を満たした「調査報道」を、「狭義の調査報道」と定義づければ、「広義」と「狭義」の違いが明確になってくるのではないだろうか。しかし、マス・メディアが報道形態を説明する場合に、「広義調査報道」「狭義調査報道」と呼ぶのは、言葉から実態をイメージしづらく、報道現場の日常語としても馴染まない。そこで、ここでは取材対象が、「権力や権威ある組織や人物」である調査報道を「特別調査報道」と名づけて、従来の「調査報道」(つまり「広義の調査報道」)との差別化を試みてみる。
3.「特別調査報道」とその社会的影響
「調査報道」と「特別調査報道」の違いで重要な点は、取材対象が「権力」や「権威」であるかどうかである。ジャーナリズムが、日々起きる社会事象について、第3者に伝える目的に新聞、テレビ、ラジオ、雑誌などのマス・メディアを介して発表することと捉えるならば、「特別調査報道 」は、特に「権力」や「権威」を対象とし、ジャーナリズム本来の権力監視の役割を果たすと位置づけられる。そこで、「特別調査報道」の意味内容をより、明確にするため、そもそも「権力」「権威」とは何かについて、その概略を確認したうえで、「特別調査報道」が対象とする「権力」「権威」の違いに即して「特別調査報道」をいくつかのカテゴリーに類型化してみたい。
3−1 権力、権威の捉え方
「権力」については、日本でもさまざまな学者、研究者が研究対象としており、議論の水準やアプローチは極めて多岐に亘っている。
「特別調査報道」で取り上げる対象としての「権力」「権威」は、どのように位置づけられるだろうか。最も広く知られたマックス・ヴェーバーの定義では、「或る社会関係の内部で抵抗を排してまで自己の意思を貫徹するすべての可能性を意味し、この可能性が何に基づくかは問うところではない」と述べている。この定義について市野川容孝は、「どんな形であれ、『みずからの意志を貫徹しうること』であり、他者の明白な抵抗や他者への強制が不在のときも、みずからの意志は貫徹しうる、つまり『権力』は発生しうるのである」と解説している。
また大谷博愛は、「ある者が他者をその意志に反してまでもある行為に向かわせることができる力を、一般的に権力という」と定義した上で、「社会の諸領域でそれぞれの権力が存在しているが、特定の地域内において究極的優位性を有し、不服従に対しては合法的に物理的強制力を行使しうるものを政治権力という」と提示している。
一方、大嶽秀夫は、政治権力とは区別されるべき形態の権力として「組織権力」を挙げ、1970年代の欠陥自動車問題を素材に、大企業の権力とその政治的地位とについて論じているが、この中で、報道機関に対する影響力に言及している。そして朝日新聞記者が、欠陥車キャンペーンを始める前の苦悩として、三大スポンサーの一つ自動車会社の反撃がこわいと吐露していることに注目して、次のように指摘している。
「ここで明らかにされているのは自動車会社が、対抗手段の保有によって、新聞社を慎 重にならしめているという事情である。この段階ではメーカーは明示的には影響力を行使しておらず、新聞社内の対応は、影響力の黙示的な行使をうけている結果である」。
これと同様の状況は、2000年代の今日でも見られる。トヨタ自動車相談役の奥田碩が、テレビ番組の厚労省叩きに不満を爆発させ「報復でもしてやろうか」と発言したことは、奥田が大スポンサーとして自社と関わりがない厚労省の問題においてすら、「組織権力」を振りかざしてくることと相通じている。この発言に対して、ほとんどのメディアが奥田発言に触れず、大スポンサー(=大権力)の前に、寂として声なしである。こうした反応を見ても、「組織権力」とマス・メディアの力関係を窺い知ることが出来る。
一方、大石裕は権力を構成する要素、側面について、「権力行使主体」「権力資源」「影響力としての権力」という概念を用いて説明している。
「権力行使主体」は、社会に対して影響力を行使できる個人や組織で、一般の人々に対して影響力を行使する可能性が高い政治エリート(政治家や官僚)や組織。「権力資源」は、権力主体が所有する「資源」、すなわち政治エリートが一般の人々に影響が行使できる一連の政策過程や制度的な権限、社会的地位、またそれに関する専門的な能力や情報。「影響力としての権力」は、一定の社会関係の中で他者に対して行使され、政治エリートが一般の人々に対して行使する影響力そのものをさすとしている。さらに大石は、「権力資源」について、「経済権力」「政治権力」「強制権力」「象徴権力」の4つの形態に分類されうると指摘する。そして、「国家権力」は、「経済権力」(予算配分など)、「政治権力」(政治制度・組織など)、「強制権力」(警察、軍隊など)、「象徴権力」(メディア、情報など)といった権力資源の面で他の組織よりも優位な立場にあり、そのことが制度化され、正当化されていると説明している。
こうした議論を踏まえるならば、権力とは狭い意味での政治権力に限定されるべきではないことは明らかである。諸権力を有する組織や人物であり、大小にかかわらず、それぞれの場所や部署、土地々々のボス的存在も含め、権力は広く社会の諸領域で作用している。従って、ジャーナリストが「特別調査報道」を行う対象として捉えるのは、政治、経済、社会の広範囲に存在する様々な形態の権力である。
また、「権威」について、谷藤悦史は、次のように定義している。
「特定の分野における優れた人物や事物をさしたり、社会的信用や資格を意味したりす るが、共通していることは、『社会的に承認を受けた』ということである。社会関係においては、制度、地位、人物などが優越的な価値を有するものと認められ、それらの遂行する社会的機能が社会によって承認される場合、それらの制度、地位、人物は権威を有している、という」。
こうして見てみると「特別調査報道」の取材対象は、権力を掌握する「政・官・財」にとどまらず、学界や教育界、文化団体やマス・メディアなど、社会的影響力を保持する全ての「権威」ある組織や個人も当然含まれる。リクルート疑惑報道の時、政治家や官界、経済界の主要人物に混じって、未公開株を得ていた日経、読売、毎日の幹部が同じメディアによって指弾された事実は、取材対象として日本を代表する大新聞の幹部という「権威」を有するが故であることを物語っている。先の大石の「権力概念」からするとジャーナリズムは、1情報伝達手段、2特有の社会的地位、3入手情報を社会に向けて発信するてめの専門的な技能や技術を有し、こうした「権力資源を用いて社会的な影響力、すなわち社会に対して権力を行使している」のだから、そのメディアの最高幹部たち自身も、「権力者」の範疇に含まれることになる。
3−2 「特別調査報道」の展開と社会的影響
以上のような点を踏まえながら「特別調査報道」の社会的影響を考える際、当該の「報道」が、どのような種類の「権力」「権威」を対象とするのかによって、社会的影響力の拡大の様相やその範囲は自ずと異なってくる。従って、「特別調査報道」の対象となる「権力」を区別したうえで、それぞれに応じた「特別調査報道」の事例を検討する必要がある。
本稿では「権力」を、1「政治権力」(=政治エリート、官僚や警察などの行政権力、司法権力など)、2「組織権力」(=企業などの経済権力、医療、学術・文化、教育機関などによる権力)、3「複合権力」(1と2両者にまたがり、両者が複合的に作用する権力)の三種類に分類し、これらを対象とする「特別調査報道」に過去どのような事例があったか、そしてそれがどのように社会的影響力を及ぼしていったかを見ていくこととする。
その一方で、「報道」が社会に影響を与えるという場合、それをどのような尺度でどのように測定し得るかという問題もある。この問題は、社会的影響力の拡大過程をどのようなタイムスパン(時間的範囲)において観測するかという問題にも関わっており、これまでにも何人かの論者によって指摘されてきた。
例えば、伊藤高史は、米ノースウェスタン大学のD.プロテスらの調査結果などを参照しつつ、「調査報道」の社会的影響力の拡大過程は、「報道→世論→政策変化」といった単線的なモデル(=「動員型モデル」)で把握することは困難であり、また現実にもそうした事例は少ないと指摘する。伊藤は、有名な「ウォーターゲート」事件においても、当初のワシントン・ポストの報道は、その5か月後に行われた大統領選挙では大きな争点にならず、むしろ国民の関心が高まっていったのは裁判や議会の公聴会など政治権力内部での疑惑追及が活発化した結果であったと指摘する。つまり、報道が直接的に社会的影響力を拡大していくというよりも、その過程に複雑な政治過程が介在しているというのであ。こうした点についても、個々の事例に即して考察していく。
(@)政治権力追及型
政治エリートを対象とした「特別調査報道」では、立花隆の「田中角栄研究―その金脈と人脈」が嚆矢である。 「田中角栄研究」は、読者から見れば1「知らされていない事実」の暴露だった。朝日新聞の社説は、「かつて取り上げられたり、事件としては一応処理ずみであるかもしれない」としているが、立花は、「相当の部分は、新しく取材されはじめて世に公表されたことでもあった」と反論している。
また「田中角栄研究」は、2独自に掘り起こし、裏付け取材で新たな事実をつかむという要件も満たしている。「あの記事の一行一行、図版の一枚一枚が、誰が聞いてもビックリするほどの資料に裏打ちされ、厳密な確認作業がなされている。その資料の厚みは、ゆうに数冊の書物を書くに足るものだ」と立花は記している。さらに3文藝春秋社の責任で『文藝春秋』誌上に発表されているが、ターゲットは、4権力者の金権政治の暴露であった。報道された記事の内容を、マスコミ各社が追いかける中で、国民の誰もが知るところとなった。各社の追随、報道の連鎖の結果、田中は首相を辞職し、三木内閣が発足した。
ここで特に注目したいのは、マスコミ各社の追随である。もしそれがなかった場合どうなっていただろうか。前出の植田は、『Newsweek』1974年10月21日号に掲載された朝日新聞論説委員の深代惇郎の興味深い意見を紹介している。
「これほどの暴露がヨーロッパやアメリカで行われたならば、政府を転覆させるような衝撃を与えるだろうが、われわれの国は特別な国で、この記事は間もなく忘れられるだろう」
筆者も深代同様、各社が追随しなければ、田中角栄は66万部の『文藝春秋』を無視し、田中にお追従する政治記者によってガードされ、当面は同僚政治家には金力を持って批判をねじ伏せていたのではないかと推測する。しかし各社がそれぞれ立ち上がれば政権崩壊もなし得る実例と言える。こうしてみると、報道が直接的に社会的影響力を拡大していくというよりも、その過程に複雑な政治過程が介在しているという先の伊藤の指摘は、このケースでは当てはまらない。
「政治権力追及型」の報道には、この他にも政治エリートである元労相で参議院議員会長の村上正邦の逮捕まで発展した「KSD疑惑」報道(週刊朝日)がある。また行政権力を対象とした「特別調査報道」には、警察によるでっち上げ、冤罪を晴らす切掛けとなった「菅生事件」報道(大分新聞)、「志布志県議選冤罪事件」報道(テレビ朝日『ザ・スクープ』)がある。
(A)組織権力追及型
「組織権力追及型」の代表的事例としては、アマチュアとはいえ「神の手」「ゴッド・ハンド」と呼ばれた人物、あわせて「学会」の権威性、あるいは権力性を完膚なきまでに失墜させた「特別調査報道 」である毎日新聞北海道支社の「旧石器発掘ねつ造疑惑」報道を挙げることができる。“事件”と呼べるほどの衝撃を社会に与えたのは、2000年11月5日日曜日朝刊の記事だった。歴史に残るスクープのひとつである、そのリードの一部分を再現する。
「日本に70万年以上前の前期旧石器文化が存在したことを証明したとして、世界的に注目を集めている宮城県築館町の上高森遺跡で、第6次発掘調査中の10月22日早朝、調査団長である東北旧石器文化研究所の藤村新一副理事長(50)が一人で誰もいない現場で穴を掘り、石器を埋めているところを毎日新聞はビデオ撮影し、確認した」
この時点で、藤村が認めた「旧石器発掘ねつ造」は、上記上高森遺跡と北海道新十津川町の総進不動坂遺跡の2ヵ所だった。ところが、毎日新聞は、1年近く後の2001年9月29日朝刊でも再度スクープを掲載する。「ねつ造二十数遺跡も 東北旧石器研 前副理事長が告白」がそれだ。結局2003年5月24日の日本考古学協会総会での報告によると、前副理事長が関与した旧石器遺跡は東・北日本を中心に9都道県186ヵ所で、うち162ヵ所でねつ造が確認された。3万年以前とされた前・中期旧石器時代の遺跡が否定された。この報道で、毎日新聞北海道支社の取材チームは新聞協会賞(編集部門)や菊池寛賞、石橋湛山早稲田ジャーナリズム大賞を受賞するのだが、当時の報道部長真田和義の早稲田大学での講演から 「特別調査報道」として、この報道を見てみる。
1毎日新聞がスクープしなければ、誰も知らなかった事実である。2根室通信部の記者が東京の友人から聞いた「発掘遺跡」の奇妙なうわさ話。「一人の研究者が、次々と記録を塗り替える発見をするのは普通じゃない」(独自の情報)3動かぬ証拠を押さえるために赤外線式ビデオ・カメラを購入し、リモートコントロールを習熟した(独自の取材)。
4アマチュアとはいえ、藤村新一は東北旧石器文化研究所副理事長として、1981年に宮城県馬場壇Aを発見し、「前期旧石器時代論争」に終止符を打つ証明をした。
「東北大学名誉教授、こういう権威を持った人たちが、一民間の研究者である前副理事長の数々の発見、彼の『業績』に評価を与えてきた」(取材対象は学会の権威者)このスクープは当然のことながら、全社追随したことで、国民があまねく知るところとなり、驚愕した。その結果、教科書の書き換え(社会的影響)が行われた。
同様に組織権力追及型では、罰則のない利息制限法と年利40.004%を超えない限り刑罰を科されない出資法との間のグレーゾーンを悪用して高金利で中小零細企業に金を貸していた代金業者の実態を暴いた「商工ローン不当金利」報道(東京新聞)がある。この報道によって、1999年12月の臨時国会で法律が改正された。
(B)複合権力追及型
政治エリートや行政機関、あるいは企業や学会といった組織権力のように、それぞれが個別に権力や権威を振り回すのと違って、「経済権力」や「行政権力」などの腐敗や怠慢、歪みが絡み合った複合的な権力によって問題が生じている実態を世に知らしめることも「調査報道」の重要な役割のひとつである。マス・メディアの社会的機能について、ラスウェルが指摘した3つの要素の内の1つに、「環境監視」がある。
「社会において、コミュニケーションの過程は三つの機能を遂行する。(A)環境の監視、これによって地域社会の価値の所在ならびにその構成要素の価値の所在に影響を与える脅威およびチャンスを明らかにする」
このラスウェルの環境監視について、武市英雄は次のように説明している。
「環境への監視(査察)とは、社会が変化に対応して適応できるようにメディアがわれ われに早期に警告を発するという意味である。監視、査察によって、われわれはどうしたらよいかという意志決定に必要な知識を与えられる」。
複合権力追及型には、こうした環境監視という要素も含まれる。国や自治体、企業の過失や怠慢によって引き起こされる公害や薬害、災害、事故、環境破壊などをメディアが「特別調査報道」によって明らかにしていく。その典型的な事例が、毎日新聞の「薬害エイズ」報道である。
薬害エイズ事件は、1978年頃から80年代にかけて、血友病患者への治療に使われた米国製の非加熱製剤にエイズウイルスが混入していたことが原因で、多数の患者が感染した。1983年にはアメリカで加熱製剤が承認され、製薬会社では全ての非加熱製剤が回収されていた。日本では、業界大手のミドリ十字の加熱製剤の治験に遅れていたため、それに歩調を合わせるかのように承認が遅れ、非加熱製剤が使われ続けた。その結果、エイズウイルス感染者が拡大した。89年に患者とその家族が製薬会社と厚生省を相手取って損害賠償請求の民事訴訟を起こし、1996年3月国との和解が成立した。
毎日新聞が一面トップに「血友病治療の加熱製剤」「学会権威『治験』遅らす」「エイズ感染者増やした 患者ら追及」「“後発会社”に配慮」「先行組を待たせ、一括認可」の見出しで事態の重大さを訴えたのは、1988年2月5日のことだ。以後5月25日まで徹底した「調査報道」が続く。その5月25日の「記者の目」で、取材に当たった2人の記者が、厚生省を批判している。
「血友病患者の“エイズ禍”」「厚生省は『薬害』責任認めよ」「隠されていた犠牲者 3年間何をしていた」の見出しと「厚生省が謙虚に責任を認めない限り、第二、第三のエイズ禍は必ず起きる」の記事。
前出の「ウォーターゲート事件再考」を書いた伊藤高史は、毎日新聞の「薬害エイズ事件報道」についても、他の新聞や各雑誌、テレビドキュメンタリーを詳細に分析したうえで、こう指摘している。
「月刊誌『文藝春秋』での立花隆の田中角栄金脈の報道や『朝日新聞』のリクルート報道と異なり、この『毎日新聞』の報道が、日本ジャーナリズムの歴史的金字塔として言及されることは稀であるように思える」。「その大きな要因は、『毎日新聞』の報道は、現実の社会を動かしたようには見えない点であろう」。
また伊藤は論文の最終段で、次のようにも言及している。
「薬害エイズ事件は、やがて少しずつジャーナリズムの関心を集めはじめ、一九九五年の後半から一九九六年の和解前後にかけて、各報道機関が一斉にこの問題を報じるようになった」。
伊藤の指摘は、現象面から見ると説得力がある。確かに和解交渉前後になって大きく取り上げられたことは事実である。しかし毎日新聞の「特別調査報道」は、スクープの直後から各社に大きな影響を与えている。筆者は司法記者クラブに17年間在籍していた際、毎日新聞のスクープも、その後の報道も長くスクラップしてきた。この関連のスクラップ帳が不要になったのは、業務上過失致死で逮捕、起訴された厚生省局長が2001年に有罪判決を言い渡されて以後であり、各社の記者もおおむね同様と推察される。
『NHKスペシャル・埋もれたエイズ報告』を制作した桜井均は、「当然毎日新聞の記事を意識した。追いかけるというより、毎日新聞と違う視点で薬害エイズを捉えようとした」と語り、毎日新聞の記事の存在が大きかったことを認めている。新たな「調査報道 」を目指すにせよ、やはり先鞭をつけた毎日新聞の記事は見逃せないのである。ジャーナリストにとって、“どの時点まで”が追随(取材)の期限かを一応なりとも設けるなら、捜査本部が解散して事件が終焉を迎えるまでとか、薬害エイズ事件の場合は途中で和解が成立した時点と刑事訴追された事件の最高裁判決までであろう。毎日新聞の「特別調査報道」は、各社に十分影響を与えつつ、時間をかけて結実していったケースである。
これまで見てきたように、「特別調査報道」が、「調査報道」と大きく異なる点は、その「特ダネ」性にある。「特ダネ」は、他社が知らない、あるいは知っていても書いていないニュースを他者に先駆けて報道することである。そのニュース価値は、他社の後追いによって決まるといっても過言ではない。「調査報道」の中には、他社が追随しない自己満足、自社満足のニュースも含まれる。
一方、「特別調査報道」は、その結果、影響、効果において特筆されるものが多い。つまり「特別調査報道」の場合、他社がその重要性を認識し、遅かれ早かれ追随せざるをえない状況を引き起こす。また各社の追随によって起こる波状的な報道が、読者、視聴者や国民全般に関心を呼び起こす作用をする。その結果、権力や権威ある者や組織が何らかの対応を迫られ、そのことが社会に影響を与える。
4. 結論と今後の課題
「調査報道」、とりわけ「特別調査報道」は、政治権力に留まらず、組織権力、複合型の権力など、社会に存在する様々な権力や権威を対象とし、それらの権力・権威が持つ問題性や不正等を告発することを通じて、政権の崩壊から法案の改正、冤罪事件や薬害問題の追及など、様々な形で社会的影響力を及ぼしてきた。「特別調査報道」は、方法論においても、また現場で働くジャーナリストの意識においても、1970年代以降、徐々にその輪郭が明確化してきたものである。そして今や、現代社会における政治的・社会的意思決定過程や、人々の世論形成過程にも極めて大きな意味や役割を持つに至っていると言える。
また、取材の着手から報道への一連のプロセスを、個々の事例に即して詳細に検討してみると、「特別調査報道」が他社による「報道」の連鎖を引き起こし、社会的なアジェンダを設定していく中で、メディア相互の競争状況が活発化され、報道現場の活性化をもたらすという好循環が作りだされている可能性も示唆された。そこにおける「競争」は、「発表報道」を前提とし、発表のタイミングのみを競い合うような「見せかけのスクープ競争(田勢康弘)」ではなく、社会の木鐸としてのジャーナリズムそれ自体の活性化に繋がり得るような、建設的で生産的な「競争」であるように思われる。
無論、現時点では「特別調査報道」がジャーナリズムを活性化させ得る、という見方は仮説の域を出ない。「特別調査報道」と「ジャーナリズムの活性化」との相関関係をどのように説得的に論証し得るか、またそもそも「ジャーナリズムの活性化」を、どのような基準、観点、方法論によって検証するか、といった問題が残されている。「特別調査報道」の社会的役割や使命を明確化し、その有効性や可能性を見定めていくためにも、これらの諸点の分析・検討を今後の研究課題としたい。 
 
●上り坂への郷愁、今なお 立花隆「田中角栄研究」 2015/2
1970年代の政治とカネをめぐる話をしても、今の若い人には信じてもらえないかもしれません。サントリーウイスキー「オールド」の空き箱に1千万円を入れて届けたとか、自民党総裁選で「数十億円動いた」とか、まことしやかに語られたものです。
金権政治が行き着くところまで行った時代、その中心にいたのが田中角栄でした。
自民党総裁だった田中が指揮した74年の参院選は「企業ぐるみ選挙」と呼ばれました。大企業に自民党候補への支援を要請、巨額のカネが選挙運動に注ぎ込まれました。当時でも「いくら何でも、そこまでやるか」と思った人は多かった。「田中角栄研究」の取材を始めた背景には、金権政治への疑問が世間に広がっていたことがあったと思います。
「田中の数々の金脈事件を暴いた作品」と言われることがありますが、正確ではありません。個々の金脈事件のほとんどは既に知られているものでした。私の興味は、それらの疑惑の一つひとつを適切に並べて、金脈の全体構図をあぶり出し、その背後にある仕掛けを描き出すことにあったのです。
74年10月に発表しましたが、新聞は当初、追随しませんでした。当時は、新聞が書かないとニュースとして認められないような時代。新聞記者は雑誌ジャーナリズムを一段下に見ていたと思います。米紙が報じたことで、日本の新聞もようやく追いかけました。
首相を退陣に追い込んだと言われても、私の論文だけの力とは思いませんでした。金権政治はもう長く続きようがない状態だったのです。「荷物を目いっぱい背負ったロバが、ワラをもう一本のせられただけで倒れた」とでも言いましょうか。戦後政治の一つの曲がり角に、立ち会ったのだと思います。
票と絡めた利益分配のシステムを確立したのが、田中政治です。それは都会と比べてインフラの整わない、まだ貧しかった地方に、高度成長の恩恵を分け与えようとしたという分析もあります。しかし、その政治姿勢の基本は、あくなき政治権力の拡大にありました。
派閥のドンとしての田中の特徴は「恩義の配給」にあります。目先の損得にとらわれず、他派閥の議員にまで気前よくカネを配ってシンパを広げる。しかし『君主論』のマキャベリはカネで人心をつかもうとする金権政治を強く戒めています。自らの影響力を保ち続けるために、表に出せないカネに頼るようになってしまうからです。
田中という人物は本から学んだ理屈ではなく、経験から学んだ人生の知恵が蓄積された人物だったと思います。会って話せば、懐が深くて実に魅力的だったでしょう。戦後の代表的日本人といえば、美空ひばりと田中が真っ先に浮かびます。いわば「原日本人」と呼びたくなるような存在です。
田中内閣の退陣後、政治資金規正法の幾度かの改正を経て、政治とカネをめぐる風景はだいぶ変わりました。田中が亡くなって20年以上たちますが、彼について語る本が新たに刊行され続けています。我々は今なお、田中角栄という政治家と、彼が生きた上り坂の時代への郷愁を断ち切れずにいるのかもしれません。 

 

●新聞記者の矜持 2013/9
10月1日とも言われる消費税率引き上げの判断をめぐり、世間の関心が高まっています。メディアでもいろんな報道が増えてきました。元新聞記者として新聞の軽減税率について思うところがありペンを取りました。
まず消費増税に関して私の立場を明らかにしたいと思います。私は参院選前から一貫して主張していますが、2014年4月に8%への増税をすべきだと考えています。自分の財布からお金を吸い取られる増税を望む人はいないでしょう。誰もが増税は嫌だと思います。しかし、現在の日本は収入に見合わない支出を続けています。借金という形で子や孫の世代に負担をつけ回して毎年、毎年凌いでいます。まだ生まれてもいない世代や投票権もない若い世代にこれ以上、借金を負わせてはならないと考えます。
そのためには、社会保障を含む歳出を相当削減するか(政治改革という程度ではなく大幅に)、増税で全国民に割り勘代を払ってもらうか、ハイパーインフレを起こして借金の価値を目減りさせるしかありません。(劇的な経済成長による増収で収支を均衡させるという「青い鳥」を追い求めるのは、結局、赤字財政の継続に他なりません)
万人に私の考えを支持してもらえるとは思っていませんが、私は苦しくとも増税で将来世代への負担を減らす第一歩を踏み出さなければならないと信じています。増税項目としては薄く広く全国民に負担してもらう消費税が最も妥当だと考えています。もちろん、大恐慌の時に増税して日本の経済を崩壊させてはなりません。ただ、現下の経済状況を考えれば、このタイミングで政治・政府は何とか増税をお願いしなければならないと信じています。合わせて政府は景気を腰折れさせないよう経済対策も検討しています。
多くの新聞メディアも消費増税を主張しています。加えて、ほとんどの新聞が訴えているのが新聞への軽減税率の適用です。「欧州では食品や新聞の税率をゼロや数%に抑えている国が大半だ」「新聞はコメなどの食料品と同じような必需品」などとして、新聞購読料の負担軽減が必要だと書いています。
消費税の逆進性を考えれば、低所得者への対策は考えなければなりません。「健康で文化的な最低限度の生活」を保障するためにどう対処するか、軽減税率を導入するとすればどの分野を対象にするかは大きな課題です。新聞への対応を頭ごなしに否定するつもりはありませんが、新聞業界に長らく身を置いた者として、紙面で自身の業界の話を声高に主張する姿勢には眉をひそめざるを得ません。
政策にはいろんな見方があり、賛否は常にあります。時にメディアは業界団体の主張を「利益誘導」と指弾します。公共事業でも、診療報酬でも、農業の補助金でも。どういった政策にも社会的な効用はありますが、度が過ぎれば我田引水との批判を受けるでしょう。
仮に軽減税率を導入する場合、どの分野に適応するかは意見の分かれるテーマで、ともすればそこに利権が生まれかねません。そうした極めてナイーブな問題に関して、「自分の業界を配慮しろ」と紙面上で訴えるのは新聞報道自体の信頼性に疑義をもたらす結果になりはしないでしょうか。各紙の論調が「新聞も所詮、自分の利益になる主張しかしないんだな」という印象を読者に与えていると思います。もし、自分の業界の「正当な」主張をするのであれば、社説や記事ではなく広告で行うべきだと考えます。 

 

●新聞社説から見える「分断」が進んだ令和元年 2019/12
2019年が暮れようとしている。今年の特大ニュースの一つは「平成」から「令和」へと時代が移り、新たな天皇陛下が5月1日に即位されたことだろう。天皇の生前退位は江戸時代の光格天皇以来202年ぶりという歴史的なことだった。
政治の世界に目を転じると、安倍晋三首相の通算在職日数が11月20日で計2887日となり、明治・大正期に3度首相を務めた桂太郎氏を抜いて最長となった。記録更新は106年ぶりだ。
一方、国は原発再稼働を着実に進め、原子力規制委員会は11月の定例会で、宮城県にある東北電力女川原発2号機の再稼働に向け、安全対策をまとめた審査書案を了承した。11年の東日本大震災で大きな被害を受けた岩手、宮城、福島県の3県では初めてとなる。
国の姿を形づくる天皇制や安倍政権による安全保障、エネルギー・原発政策などをめぐり、「国民の分断」がいっそう進んだ1年でもあった。この分断の背景には、主要各紙の二極化があり、分断・対決型の安倍政治の手法に拍車をかけた。主要な新聞社説を手掛かりに、この1年を振り返るとともに、来る年を展望したい。
最初に昨今の日本の言論状況について述べる。東京を拠点として発行する在京紙は6紙ある。保守系が読売、産経、日経新聞で、リベラル系が朝日、毎日、東京新聞だ。この両者の対立がかつてなく激しい。多様な意見があるのはいいことだが、お互いが言いっ放しで聞く耳をもたない不毛な状況がある。
いつからこのような状況になったのか。短いタームで考えると、2011年の東日本大震災が一つの契機だろう。
1千年に一度といわれる大津波が発生、福島第1原発が爆発事故を起こし、あわや東日本壊滅といった深刻な事態に発展したのは記憶に新しい。このとき、国論は原発維持と脱原発に二分された。
保守系は原発存続を唱え、対するリベラル系メディアは原発廃止を訴え、激しい応酬があった。民主党政権時代に事故が発生したが、その後の安倍政権になってからは原発維持が明確に打ち出され、保守系メディアは政権に寄り添った。
12年12月に発足した第2次安倍政権は、憲法9条の解釈改憲を行い、安全保障政策を180度転換、専守防衛を棄てて集団的自衛権を認めた。ここでも保守系とリベラル系が一歩も譲らずに対立した。14年には朝日新聞が慰安婦関連の記事を一部取り消したことを受け、歴史問題をめぐって保守系が朝日を激しくバッシングした。
このように、エネルギー・原子力政策、安全保障政策、歴史認識といった国の根幹を形づくる部分での激しい対立が、極端な二極化を促進していったと考えられる。
「安倍一強」のもと、安倍政権は国会において意見が異なる野党とまともな議論をせずに突き放し、最終的には「数の論理」に頼って強行採決で重要法案を成立させていった。ここに分断・対決型といわれる安倍政治の本質がみられる。対話を拒絶する今日の言論状況と政治状況はまるで双子のように相似形をなし、メディア不信と政治不信が同居することになった。
天皇陛下が即位を国内外に宣言する「即位礼正殿(せいでん)の儀」が10月22日、皇居・宮殿「松の間」でおこなわれた。この模様を在京紙は10月23日朝刊で報道。6紙ともに1面トップの特大記事で伝え、各紙の社説は21日から23日にかけて掲載された。
読売社説(10月23日)は「一連の皇位継承の中心をなす伝統儀式が挙行されたことを心よりお祝いしたい」、産経社説(10月22日)は「心からのお祝いと感謝を、改めて申し上げたい」、日経社説(同)は「即位を心からお祝いするとともに、海外から寄せられた祝意に深く感謝したい」と、いずれも祝意を強調した。
一方、朝日社説(10月23日)は「正殿の儀をめぐっても、天孫降臨神話に由来する高御座に陛下が立ち、国民の代表である三権の長を見おろす形をとることや、いわゆる三種の神器のうち剣と璽(勾玉)が脇に置かれることに、以前から『国民主権や政教分離原則にそぐわない』との指摘があった」と問題視した。
毎日社説(同)も同様に「即位の儀式をめぐっては、宗教色を伴うとして憲法の政教分離原則との整合性を問う声もある。政府が十分な議論を避け、合計わずか1時間あまりの会合で前例踏襲を決めたことには問題が残る」とし、東京社説(10月21日)は「皇位継承に伴う重要儀式と位置付けられるが、『憲法にそぐわない』との声も。伝統儀式であれ、憲法との整合性に配慮が求められる」と訴えた。
このように保守系メディアとリベラル系メディアとでは、ずいぶんと温度差のある社説を構えることになった。これ以外にも、朝日は実施された恩赦について「司法の判断を行政が一方的に覆す措置に反対論が根強かった」とし、さらに秋篠宮さまが昨秋の会見で「宗教色の強い儀式を国費で賄うことが適当か」と訴えた点を紹介、公費をあてることに疑問を呈した。
安倍氏は51歳だった2006年9月、初の戦後生まれの首相として組閣。しかし、第1次政権は体調不良などで、わずか1年の短命に終わった。その後、12年12月の衆院選に勝利して民主党から政権を奪取。第2次以降の政権は7年におよぶこととなった。自民党総裁として任期は21年9月まであり、このままいけば歴代最長を更新し続けることになる。 ・・・  

 

●米紙デジタル市場はニューヨーク・タイムズの独走か  2020/2
衰えないタイムズの伸び
2007年12月、ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)の編集局を訪れたニューズ・コーポレーション会長のルパート・マードック氏=AP。WSJはこの年、発行元のダウ・ジョーンズが買収されたことに伴ってニューズ社の傘下に入った2007年12月、ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)の編集局を訪れたニューズ・コーポレーション会長のルパート・マードック氏=AP。WSJはこの年、発行元のダウ・ジョーンズが買収されたことに伴ってニューズ社の傘下に入った
2月6日、ニューヨーク・タイムズ(以下タイムズ)は次のような景気のいい数字を発表した。紙とデジタル版の合計契約数は525万1000件、そのうちデジタル版の契約総数(料理とクロスワードパズルを含む)は439万5000件、そしてデジタル版ニュースの契約は342万9000件――。
最も印象的なのは、デジタル版ニュース契約の潜在的顧客ベースが頭打ちになったことを示す証拠がほとんど見られなかったことだ。2019年末の342万9000件という数字は、前年同時期の271万3000件から実に26%の伸びだ。
翌7日はニューズ・コーポレーションの番だった。傘下のウォールストリート・ジャーナル(以下ジャーナル)のデジタル契約数が初めて200万件を突破したことを発表した。ロバート・トムソン最高経営責任者(CEO)はタイムズとの競争にやる気満々と見え、決算報告の最初の6段落で5回もライバル社に言及していた。
ここで指摘したいのは、タイムズの方が依然、デジタル契約の伸び率でジャーナルを上回っていることだ。ニューズ・コーポレーションによると19年の1年間でジャーナルのデジタル契約数は22万件増えて伸び率は12.8%だった。タイムズは71万6000件増で伸び率は26.4%だった。
ポストは数字を明かさない
ジャーナルがタイムズに戦いを挑むという構図の中、タイムズとのこの種の競争で、いつも2番手に名前の挙がる全国紙が無視されているという点に注目せざるを得ない。ワシントン・ポスト(以下ポスト)のことだ。ジャーナルとタイムズはニューヨークという同じ都市で争うが、ポストとタイムズには、経済専門でない一般紙同士という共通点がある。両紙は首都ワシントンの政治報道に日々しのぎを削る。一方、ジャーナルはその専門性から独自色が見られることがしばしばだ。
では、ポストのデジタル契約獲得はどうなっているのか。
何とも言えない。判断するのが難しい理由はたった一つ。同社と米インターネット通販大手アマゾン・ドット・コムの間の独特な関係である。
ポストは契約件数を出し渋る。アマゾンCEOのジェフ・ベゾス氏がポストのオーナーであるため、株式が公開されておらず、四半期ごとにすばらしい数字を公表し、ウォール街の関係者たちをうならせてやる義務も負わない。発行部数監査機関AAM(旧ABC)にもデジタル契約者数を報告していない。アマゾンの電子書籍キンドルと同じで、自社にとって都合の良い時にしか発表しないのだ。
17年9月には社内連絡メモ(社外にリークされることが期待されていたのは疑いないものだが)で、ポストのデジタル契約件数は同年に100万を超え、前年から「3倍以上」の伸びだったと記されていた。
その時点では、ジャーナルの直近の契約数は127万、タイムズは230万だった。
18年12月には別の社内向けメモでポストのデジタル契約が150万件を超えたとされた。この時はジャーナルが約170万件、タイムズは約270万件だった。
では今はどうなのだろう。ポストの広報に最新の数字がないか照会し続けているものの、自分たちが出したい時にしか数字は出さないようである。
大衆向けのデジタル戦略
アマゾン・ドット・コムCEOのジェフ・ベゾス氏(2018年9月、AP)。2013年にワシントン・ポストの経営権を買い取ったアマゾン・ドット・コムCEOのジェフ・ベゾス氏(2018年9月、AP)。2013年にワシントン・ポストの経営権を買い取った
ポストのデジタル戦略は元来、どちらかというとエリート層向けのタイムズや、企業を対象に高めの購読料を設定するジャーナルと比べると、一般大衆指向であった。ジャーナルのデジタル購読料は現在月額39ドルで、タイムズは月18ドル強。ポストは月額11ドルで、年間契約ならいつでも100ドルに割り引きされる。
ワシントン・ポストを貫く遺伝子は「地元紙である」ということで、その傾向は目標をより広めに構えていた他の全国紙よりずっと強いものがある。紙の新聞が全盛の時代、ポストは全米の大都市のどの新聞よりも地元のワシントンに浸透していた。1980〜90年代にはタイムズに追随することなく、全国規模での印刷や配達も行わなかった。
ポストはオンライン版の編集方針でも、より中程度の教養の人々を意識している。高度の調査報道や海外ニュースと並び、ブログ風記事や軽めの話題を進んで扱っている。
これらを勘案すれば、デジタル契約の獲得もうまくいっているだろうと思えるが、ポストが数字を出さないために、結論が出せない。100万件と150万件という数字が表に出たのだから、次は200万を超えた時だろうと思うが、まだ動きはない。
17年9月時点でポストのデジタル契約件数はタイムズより130万、ジャーナルより27万件下回っていた。18年12月ではタイムズとの差は120万、ジャーナルとも20万件の開きがあった。
その後、ポストから発表がない間、前述のようにタイムズは70万件以上積み上げ、ジャーナルも30万件を増やしている。
タイムズの壁
数年前に、2020年初頭の予測を聞かれていたら、ポストがデジタル契約数で相当にタイムズを追い上げ、最も楽観的なシナリオ通りに進めば追い越していることもある、と答えていただろう。低めの価格設定と親しみやすいコンテンツ、さらには人類史上有数の成功した製品や企業との独自の関係があれば、別に「ベゾス流マジック」をあてにしなくても、ポストがタイムズの強力な競争相手になり得ると思った。
ポストが有利な条件を生かし、良い数字を出すことを引き続き期待するが、少なくとも同社が最も楽観的なシナリオをたどっているとは言えないようである。
15年には、ポストがオンラインのユーザー数でタイムズを上回ったと吹聴した。だが、タイムズはすぐ抜き返し、以後もほとんど優位を保っている。
英ガーディアン紙が最近論じたように、タイムズの成功は無論、歓迎され称賛されるべきだが、情報市場の健全性を示すものとは必ずしも言えない。
メディア業界でまだ明らかになっていないのは、2番手であることが経営的に魅力あるものかどうか、ということがある。米国で地元紙が発達していく中で、2番手であることはほとんどの都市で悲惨なことだった。1番手の新聞は規模の経済によって広告も読者も雪だるま式に大きくなり、だからこそ比較的早いうちに多くの都市で地元紙は一紙に絞り込まれた。
ここに衝撃的な数字がある。今日の米国で、新聞記者の実に10人のうち1人はニューヨーク・タイムズの記者だ。その数は1700人以上で、10年前に1200人ほどに低迷していたのと比べるとはるかに増えている。全米の新聞編集部門で働く記者の合計は2万人を下回ると見られている。
デジタル版ニュース契約で2番手にいることは厳しい。ただ、(経済ニュースという)特化した分野を持つジャーナルには、差別化された製品というカギがあり、この競争からうまく抜け出すかもしれない。
「勝者総取り」の意味するところは、数えるほどの全国紙だけが繁栄し、1000以上ある地元紙がひどく苦しむという状態なのか。あるいは文字通り一般紙の部門ではただ、一つの勝者としてニューヨーク・タイムズだけが残るという意味なのか。
私にはわからない。私が望むのは、ポストが明日にでもすばらしいデジタル契約数を発表して私の気を楽にしてくれることだ。だが、タイムズは地元の競争相手だけでなく、(ニューヨークやワシントンを含む米東海岸主要都市を結ぶ特急列車の)アセラ・エクスプレス沿線上の相手を突き放し、独走状態に入ったように見える。 

 

●令和のジャーナリズム同時代史 2020/3
(1)はじめに 岐路に立たされた令和のジャーナリズム
昨年1月から4月まで、平成の最後に15回にわたって「平成の事件ジャーナリズム史」を連載しました。平成はジャーナリズムの姿が劇的に変わった時代でした。記者が執筆する姿をみても、手書きの原稿がワープロ通信、パソコン通信へと変わり、写真もフィルム現像からデジタルへ、そして、スマートフォンが登場し、動画発信も当たり前になりました。そんな平成のジャーナリズムの変遷を事件を通してたどろうとしたのが、この連載でした。おかげさまで約50万人のユーザーに読んでもらうことができました。令和に入っても、ジャーナリズムの変化は止まりません。さらに大きく加速さえしています。今回は、令和に起きたジャーナリズムをめぐるさまざまな事象について、平成や昭和の教訓を振り返りながら、現状の課題と、あるべきジャーナリズムの姿を展望したいと思います。原則毎週日曜日に発信していきます。
令和に起きた事件で、私が最も衝撃を受けたのは昨年7月18日に「京都アニメーション」第1スタジオで起きた放火殺人事件でした。アニメーターら36人が死亡、33人が重軽傷を負うという犯罪史上最悪と言える事件です。私が受けた衝撃は、その被害の大きさと悲惨さだけではありません、被害者の実名公表をめぐって、これまでにはなかった警察の対応がありました。遺族の了承がとれないことを理由に警察の公表が先送りされました。被害者のすべての実名が警察から明らかにされたのは、事件から1カ月以上がたった8月27日でした。そして、その実名を報道することをめぐって、激しいメディア批判が起きたのです。
事件報道において、被害者の実名を報じることは、これまでは議論の余地のない自明のことでした。「誰が犠牲になったのか」は公共の最大の関心事であり、後世に伝えるべき歴史の記録だとする認識が、広く社会に共有されていたと思います。「氏名を公表されたくないのに」という問いかけには、「たとえば飛行機事故が起きた時、家族や知人が乗っていたかどうかがすぐに分からない社会でいいのですか」「実名で報じることで事件事故の悲しみがより深く人々の心に刻まれ、再発の抑止力や教訓にもなるはずです」と返せば、ほとんどの人が納得してくれました。少なくとも、被害者の実名を報じたメディアに批判が相次ぐといった事態は想定できませんでした。昭和の終盤に新聞記者になり、平成を報道の現場で過ごしてきた私のよう…
(2)氏名公表求める投稿にネットの批判が殺到
そのツイートを投稿したのは、「2013年1月21日23時44分33秒」と記録されています。「亡くなった方のお名前は発表すべきだ。それが何よりの弔いになる。人が人として生きた証しは、その名前にある。人生の重さとプライバシーを勘違いしてはいけない」。菅義偉官房長官の深夜の記者会見をテレビで見て、その感想を述べたものでした。菅官房長官は「殺害された日本人の氏名は公表しない」との方針を明らかにしたのでした。
イスラム過激派の武装勢力が、アルジェリア東部の天然ガス精製プラントを襲撃したのは、菅官房長官の会見の5日ほど前、1月16日の未明でした。プラントで働いていた日本人10人をはじめ外国人ら約800人が人質になったのです。そして、日本人10人のうち7人が殺害されたことを日本政府が確認し(後に人質は17人でうち10人が殺害されたと判明)、深夜の官房長官会見が開かれたのでした。しかし、氏名については、遺族の了解がとれず、プライバシーも配慮して公表しないというのです。それまで事件の被害者、とりわけ死亡した人の氏名が公表されるのは、自明のことであり、極めて当然の対応でした。私は政府の判断に驚き、「亡くなった方のお名前は発表すべきだ。それが何よりの弔いになる……」という投稿をしたのです。私としてはどこまでも真っ当で常識的な提起だと信じていました。
翌朝、スマートフォンでツイッターアカウントを開いた私は、別の意味で大いに驚くことになります。一晩でフォロワーが数百人も増えていて、どうしたのだろうとリプライを見ると、私の投稿への罵詈(ばり)雑言であふれていました。「ゲスの極み」「お前が決めることじゃねえわ」「発表したらお前らマスコミがたかるからなんだろうが」……。すぐに私の投稿への反発を集めたまとめサイトが作られ、いわゆる「炎上」になりました。
私の投稿の「炎上」と並行して、朝日新聞にも被害者の実名報道について反発の矛先が向いていました。政府は氏名を公表しませんでしたが、報道各社は独自の取材で一部の被害者の氏名を割り出し報じていました。朝日新聞が実名を報じた被害者の親族にあたる人物が「実名報道をしないという約束をしていたのにそれを破った」「朝日新聞の報道によって報道各社が遺族宅に押し寄せ大変な迷惑」と抗議し、取材に集まった記者たちを撮影した動画とともにインターネットに投稿したのでした。朝日新聞は別の遺族から了解を取って報道したようですが、「実名報道=悪」「マスコミ=悪」という構図の中で反発は止まりませんでした。
私は、説明を重ねれば実名報道の意義を理解してもらえると信じていました。ツイッターに連続投稿して、私の考えを伝えようとしました。その時の投稿は次のようなものでした。「私のつぶやきに多くの意見をいただきました。実名匿名の問題は実に奥深くすべてを言い表すのは難しいのですが、折に触れ、私の考えをお話ししたいと思います。きょうは新聞協会賞受賞の岩手日報の報道を紹介しながら、私ももう一度考えてみます」「東日本大震災の時、岩手日報は避難所に張り出された被災者の名簿をそのまま記事にしま…
(3)メディアスクラムは、なぜ起きたのか
「メディアスクラム」という言葉が広く使われるようになったのは、1990年代に入った頃でした。もともとは、イギリスやカナダなどで政治家などを囲んで行われる即席の記者会見を指す言葉だとされています。このため、海外ではメディアが団結して権力と対峙(たいじ)する意味が込められ、ジャーナリズムにとっては肯定的な意味で使われることが多かったようです。
しかし、日本ではそれとは逆に、メディア各社の集中取材による報道被害を指すことになりました。日本新聞協会が「メディアスクラム」を「集団的過熱取材」と定義し、防止に向けた決意と見解を表明したのは2001年12月のことでした。その中で1いやがる当事者や関係者を集団で強引に包囲した状態での取材は行うべきではない2通夜葬儀、遺体搬送などを取材する場合、遺族や関係者の心情を踏みにじらないよう十分配慮するとともに、服装や態度にも留意する3取材車の駐車方法を含め、近隣の交通や静穏を阻害しないように留意する−−と表明しました。
メディアスクラムの原形は、昭和の終盤の1980年代から散見されていました。その背景には、テレビのワイドショーが事件を積極的に取り上げるようになったことがあります。同じテレビ局から、報道記者だけでなく情報番組のスタッフも取材に加わり、何台ものカメラが現場に出されることになりました。また、80年代は写真週刊誌の創刊が相次ぎました。今は「フライデー」「フラッシュ」の2誌しか残っていませんが、最盛期は、この分野を切り開いた「フォーカス」をはじめ5誌を数えていました。より刺激的な写真を競い合う中、同じ出版社からも雑誌ごとに記者やカメラマンが投入されました。このため、取材する人数がかつての何倍にも膨れ上がったのでした。
日本のメディアスクラムの原形ができあがったのは、1984年の「ロス疑惑」報道だったと私は認識しています。「ロス疑惑」は、週刊文春の特集「疑惑の銃弾」から始まりました。貿易会社社長の三浦和義氏が妻に保険金をかけて殺害したと、週刊文春が実名を挙げて告発したのです。三浦氏は85年、知人の女性に指示して妻を殴打させたとする殺人未遂容疑で逮捕されて有罪判決を受けます。88年には知人の男性に指示して妻を殺害した容疑で再逮捕されますが、最高裁まで争われ、無罪となりました。しかし、2008年にサイパンに観光に出かけたところ、ロサンゼルス市警察に殺人容疑で逮捕されます。ロス市警は、妻が殺害された現場を管轄し、日本の警察とは別にずっと捜査を継続していたのでした。三浦氏はサイパンで勾留された後、ロサンゼルスに移送されますが、留置場の中で自殺します。
このように「ロス疑惑」は、発覚当初から推理小説のような展開をみせていました。疑惑をかけられた三浦氏をはじめ登場する人物のゴシップやスキャンダルなど事件とは別の話題も広がり、テレビとしては高い視聴率を稼げる格好の素材だったわけです。テレビ局はこぞって連日のように特集番組を組みました。テレビの取材は、記者やカメラマンだけでなく音声などを担当するスタッフらが必要で、カメラ1台あたり数人のチームで動きます。そのため、男性の家の周りを大勢のメディアが取り囲むという異様な事態になりました。
翌85年8月の日航ジャンボ機墜落事故でもメディアスクラムは起きました。私も日航機が行方不明との一報が入ると同時に、現場に向かいましたが、キー局だけでなく全国の地方テレビ局が続々と現場に集まってくるのを見て驚きました。放送の現場でも技術革新が進み、テレビ局の記者やスタッフが自由に取材し動き回り、現場中継…
(4)桶川ストーカー殺人事件の重い教訓
桶川ストーカー殺人事件は、メディア、警察、司法行政に深い自省と大きな転換を迫った衝撃の事件でした。メディアは警察取材や被害者報道のあり方に猛省を迫られるとともに、被害者報道の意義も改めて学ぶことになりました。警察はその無気力捜査と隠蔽(いんぺい)体質を厳しく問われ、3人の警官が懲戒免職、書類送検され有罪判決を受けました。他に埼玉県警本部長以下12人が大量処分されました。そして、この事件を機に「ストーカー規制法」という新しい法律が生まれ、ストーカー事案に司法・行政が向き合う体制がやっと動き始めたのです。
1999年10月26日、埼玉県桶川市のJR桶川駅前で、女子大生の猪野詩織さん(当時21歳)が殺害されました。詩織さんは実業家を名乗る男に執拗(しつよう)につきまとわれ、事実無根の誹謗(ひぼう)中傷のビラや手紙を自宅周辺だけでなく父親の憲一さんの勤務先にまでまかれました。「大人の男性募集中」と詩織さんの氏名、顔写真、電話番号が書かれたカードが郵便受けに大量に投函(とうかん)されました。自宅の前に車2台を止められ、大音量の音楽、エンジンの空ぶかしを繰り返されました。詩織さんは友人たちに「もうだめ、殺される」と告げ、両親にあてて「殺されたら犯人はこの男」と実名をあげて遺書をしたためていました。そして、男の手下たちに刃物で襲われたのです。この事件の深刻さは、何の落ち度もない女性が殺害されたというだけではありません。詩織さんと家族は再三にわたって地元の上尾署に身の危険を訴え、告訴しようとしました。しかし、警察は「民事事件だ」「告訴すると面倒だよ」「あんたもいい思いをしたんじゃないの」などと失礼な言葉を投げて受理を渋り、受理後も取り下げるよう要請し、揚げ句には調書を「被害届」に改ざんしました。告訴を受理すると、検察庁に報告しなければならず、それを嫌ったことが理由と後に判明します。一方で、メディアに対しても詩織さんの事実とは違う人物像を非公式の形で流しました。一部の新聞やテレビのワイドショー、週刊誌などは、こうした警察情報をもとに誤った詩織さんの姿を報道しました。詩織さんは、命を奪われた後も、まったくいわれのない名誉毀損(きそん)を受けることになったのです。
この由々しき事態を正すことに敢然と挑んだジャーナリストがいました。写真週刊誌「FOCUS」の記者だった清水潔さんです(清水さんはその後、日本テレビの記者に転身しています)。清水さんの著書「桶川ストーカー殺人事件−遺言」(新潮社)は、行間から血がにじみ汗がしたたるような迫真のドキュメントです。日本ジャーナリスト会議大賞を受賞しました。清水さんは、つきまとっていた男が裏で性風俗店を経営していたことをつかみ、その周辺の人物を洗い出します。そして、尾行や張り込みを続け、ついに殺害の実行役を突き止めます。私も長く事件取材をしていますが、一人の記者が独力で警察よりも早く容疑者を割り出し、逮捕へとつなげた例は見たことがありません。その取材力にはただ脱帽します。
清水さんの仕事のさらにすごいところは、警察の怠慢と隠蔽をあぶりだすとともに、亡くなった詩織さんの名誉回復に努めたことです。警察は、自らの怠慢や隠蔽工作に関心が集まらないようにさまざまな画策をしたとみられます。清水さんの著書は、その形跡を丹念に追っています。殺害された時の記者会見では、「黒いミニスカート」「厚底ブーツ」「プラダのリュック」「グッチの時計」といった所持品をあえて語り、「派手な女子大生」というイメージをふりまこうとしたようです。これらの所持品は、ストー…
(5)匿名発表で隠されるもの
匿名発表の波は、警察だけでなく他の官庁や地方自治体へと広がり続けています。氏名は、取材の起点であり、真実を解明するための最初の入り口です。危機感を抱いた日本新聞協会は、2003年度から在京社会部長会が主体になって、匿名発表の現状把握とその背景について調査を始めました。08年度からは各社の編集局長で構成する編集委員会の下に小委員会を設けて調査を続けています。その取り組みは前回の連載でも紹介した06年12月の「実名と報道」(前編)、さらに16年3月に「実名報道――事実を伝えるために」(続編)を冊子にまとめています。この二つの冊子とそれ以降に新たに調査された事例をみながら、安易な匿名化の弊害について考えてみます。
05年5月、氏名を発表しない合理的な理由のないまま匿名で発表された例を全国調査しました。それによると、過去1年間に1件以上、被害者を匿名で発表した警察は28都道府県、同様に容疑者を匿名で発表したのは20都道府県、社会的に重要な意味を持つ事件・事故にもかかわらず、発生そのものを発表しなかったのは27都道府県にのぼっていました。「前編」では、これを驚きの数字ととらえていますが、今読み返すと、そのこと自体に驚きを覚えずにはいられません。調査方式が変わったために比較することはできませんが、当時と同じ形でいま調査をすれば、すべての警察が何らかの形で匿名発表しているのは確実です。匿名化への危機感に大騒ぎした時代がはるかに牧歌的に映るほどに、匿名化は加速度的に進んできました。
匿名発表の怖さは、氏名が伏せられるだけでなく、事実を加工して発表される事例をも生んでしまうことです。熊本県では、04年に息子が父親を監禁し暴力をふるった事件で、警察は被害者を匿名で発表し、息子を父親の知人だと説明しました。親子という事実をあえて曲げて発表していたのです。山梨県では05年、恐喝未遂事件で被害女性を匿名にしたうえ、実際は30歳代であったにもかかわらず46歳であると虚偽の発表をしました。プライバシーの保護が理由と釈明しましたが、これは許されないことです。
また、「権力は腐敗する」の言葉通り、身内に甘い対応が続出します。19年1月、埼玉県警川越署の女性警官が無免許運転していた疑いがもたれた事案では、警察は発表せず、メディアの独自取材で明るみに出ました。しかし、報道後も、県警は警官の性別も階級も明らかにしませんでした。各社が執拗(しつよう)に質問したために、やっと「女性」であることを認めました。18年6月、さいたま市で教師がひき逃げ事件を起こし、停職3カ月の懲戒処分を受けました。しかし、教師のひき逃げ事件での摘発は、本来は発表されるべき事案であったと考えられるのに、発表されませんでした。その後、ひき逃げをした教師の兄は元埼玉県警幹部で、教師から相談を受けていたことがわかりました。兄が県警…
(6)実名報道を考える解体的な議論を
京都アニメーション(京アニ)放火殺人事件の報道のあり方をめぐっては、昨年9月に高知市で行われたマスコミ倫理懇談会全国協議会の全国大会で、京都新聞と毎日放送の記者から詳しい報告が行われました。事件の報道の経緯について、その報告を中心にたどってみます。
京アニが社長名で被害者の実名公表を控えるよう京都府警に要請したのは、事件発生から4日後の昨年7月22日でした。その理由として「とりわけ、インターネットにより、誰もが容易に個人情報や時には誤った情報等を容易に又は恣意(しい)的に発信できる現代社会において、ひとたび被害者の実名が発表され、報道機関により報道された場合、被害者やご遺族のプライバシーが侵害され、ご遺族が甚大な被害を受ける可能性」を指摘しました。京都府警は要請の3日後の25日、犠牲者全員の身元を特定しますが、この要請を受けて、遺族の意向調査をします。その結果、これまでなら身元特定とともに行われていた氏名の公表が先送りされたのでした。8月2日になって、当時、遺族に了承を得た10人についてのみ氏名が発表されました。20日には報道12社でつくる「在洛新聞放送編集責任者会議」が府警に対して全員の実名公表を要請し、27日になって残り25人の氏名が公表されました。警察内部にも意見の違いがあり、いったん公表を決めた府警に、警察庁が慎重に対応するよう求める動きもあったとされています。
公表にあたって報道各社は、メディアスクラムが起きないように自主的な取材の取り決めをしました。少し細かくなりますが、その内容をみてみます。1新たに氏名が公表された25人について、取材を受ける受けないの意向確認を行う担当社を決める。自宅から少し離れた場所に集合場所と時間を設定し、自宅の下見は控える2取材者はペン1人、放送1人の計2人を代表にする32人が遺族の自宅の呼び鈴を押して意向を確認する。2人は各社の代表であることを明確に伝える4取材に応じてもらえる場合は、取材場所や取材時間を交渉し、場所と時間を決める5代表取材の場合は代表の2人が取材し、音源や写真データを各社と共有する――などとしました。
こうして犠牲者の氏名は、取材に応じた遺族の声とともに報道されました。メディアとしてはできる限りの配慮を重ねた取材であり、報道でした。しかし、メディアと社会の意識の乖離(かいり)がさらに進んでいることに私ががくぜんとしたのは、連載1回目に書いた通りです。
実は、報道の意義を深く理解している学者、専門家からも、メディアの従来の主張は多くの人に受け入れられないのではないかという危惧の声が出ていました。曽我部真裕・京都大学大学院法学研究科教授は、現在公判が続いている相模原障害者殺傷事件の被害者匿名発表について、雑誌「Journalism」2016年10月号に注目すべき論文を著しました。曽我部教授は、メディアが実名報道にこだわる意義を十分に理解したうえで、重要な指摘をしました。私なりの言葉で総括すると「現在は、メディアの取材によって受ける被害だけでなく、周囲の人の偏見やネット上での誹謗(ひぼう)中傷も『報道…
(7)巨大プラットホーム・ヤフーとメディア
ヤフージャパン(ヤフー)は、日本の中では群を抜く巨大なプラットフォームです。そして、その柱であるヤフーニュースは月間ページビュー(PV)数150億(2016年8月に過去最多を記録)という日本最大のニュースサイトです。1996年7月にサービスが始まりました。現在の配信パートナーは約350社、500媒体に上り、1日に記事約5000本の配信を受け、それを掲載しています。大まかな認識としては、日本経済新聞を除くほぼすべての大手の新聞、通信、放送、雑誌、ネットメディアのニュースを掲載しています。そして、新聞の1面トップよりも影響力があると指摘されているのが、トップページの最も目立つところに掲載される「ヤフートピックス」(ヤフトピ)です。ヤフーニュースでは8本が選ばれます。
余談ですが、新聞業界の中でよく耳にするのは、「新聞の1面に署名記事が出ても知人や友人の反応はなかったのに、ヤフトピに載ると一斉にLINEやメールで反応が届いた」という若い記者たちの体験です。確かに、ヤフトピに入ると、その記事のPVは飛躍的に伸びました。その伸び方は今、以前ほどではなくなってはいます。私は非常勤講師を務める成城大学をはじめ、いくつかの大学の教壇に立つ機会がありますが、今の大学生の多くは「ヤフトピ」という言葉も知りません。その環境の変容については別の機会に改めて触れることにします。ただ、ネット配信する際、今も各メディアは、ヤフトピに入ることを狙い、採用されやすくなるよう速報態勢を強化し、記事の内容も工夫していることに変わりはありません。
このヤフトピの選定にあたっているのが、約25人からなるトピックス編集部です。大手メディアの記者をはじめエンジニア、デザイナー、企画職、営業職、アナリストなど多職種の経験を持つ人材で構成されています。30歳代が中心で、中途採用者だけでなく新卒者も配属されているといいます。東京だけでなく福岡、大阪にも拠点を持ち、24時間365日態勢で稼働しています。
2019年9月に高知市で開かれたマスコミ倫理懇談会全国協議会には、ヤフーの編集本部の苅田伸宏・編集1部長(肩書は当時)も招かれ、編集方針を説明しました。苅田氏は毎日新聞記者からヤフーに転職しました。01年に毎日新聞社に入り、盛岡支局、東京と大阪の社会部で公正取引委員会や裁判所を担当した敏腕の事件記者でした。13年10月に毎日新聞社を辞め、ヤフーに移りました。私が社会部長時代の直属の部下であり、私が編集編成局長の時に退社しました。毎日新聞としても絶対に失いたくない人材で、翻意するよう自ら説得にあたりました。
苅田氏の説明によると、ヤフトピに掲載する記事の判断基軸は「公共性」と「社会的関心」だといいます。「公共性」は、災害、政治、経済などのジャンルに該当するもので、「たとえ読まれにくい内容であっても社会的に重要な…
(8)ヤフーと新聞
ヤフーと新聞業界の売り上げの推移を比べると、新聞業界が受けた影響の大きさがわかります。今から約20年前の1998年、新聞業界の売り上げは2兆4900億円ありました。それが2018年は1兆6619億円となり、8000億円以上も減らしています。これに対し、ヤフー(現在の社名はZホールディングス)は1998年の12億円から8971億円へと大きく売り上げを伸ばしました。あくまで数字だけで単純に比較すると、ヤフーが伸ばした数字は、20年間で新聞業界が失った分をそっくり上積みしたものと同じになります。
こうしたこともあって、新聞の凋落(ちょうらく)は、ヤフーにニュースを提供したためだとする指摘が根強くあります。それについて私の考えは、当たっている部分もあるものの、当たらない部分も相当にあるというものです。これについては、また機会を改めて述べたいと思います。それではなぜ、新聞はヤフーにニュースを提供するようになったのかを振り返ってみます。
ヤフーへ最初にニュースを提供した新聞は、毎日新聞です。それは、1996年7月からでした。毎日新聞は、インターネットの登場によってメディアは激変期を迎えるとみて、マルチメディア戦略を積極的に進めていました。その頃、脚光を浴びていたキャプテンシステムにもいち早くニュースを配信しました。
当時の毎日新聞は、パソコン通信の「ニフティサーブ」や「PC-VAN」へのニュース配信を主要事業として位置づけていました。ニフティサーブやPC-VANは、電話回線を使ったインターネット接続をもとにサービスを展開していました。ウィンドウズ95を使っていた経験のある人は「ピーヒャララ」という電話回線独特の接続音を覚えていると思います。電話回線の利点は、その使用状況から毎日新聞のニュースを見た時間が正確に記録され、電話料金と一緒に記事閲覧料金を請求できることでした。いわば完璧な課金モデルです。当時のパソコンユーザーは「ニュースは有料」の意識が明確だったと思います。
そこに、アメリカで脚光を浴びていた本家ヤフーの日本版としてヤフー・ジャパンが設立され、新たなニュース配信を求めてきました。当時のヤフーは、みんなが「ヤッホー」と誤読したという本当に小さな存在でした。毎日新聞は、マルチメディア戦略の一環としてニュースの配信先を増やす選択をしました。ただし、基幹事業はあくまでニフティサーブやPC-VANです。記事ごとに料金を支払ってくれているユーザーが不利益を被らないように配慮しました。ヤフーのサイトで見せるのは、各ジャンル最新のニュースのうち7本に限定する▽アーカイブにはしない−−などの制限を設けたのです。毎日新聞はシャープの「ザウルス」などにもニュースを配信していましたが、ここでも本数などの制限をしていました。
この頃から、次々とニュースサイトが誕生します。大きな影響力のあったNTT系の「グー」をはじめ、住友商事系の「ライコス」、伊藤忠商事系の「エキサイト」、デジタルガレージの「インフォシーク」、東芝系の「駅前探険倶楽部」などです。さらに毎日新聞をはじめ各新聞社がニ…
(9)「ポスト・ヤフーの時代」とメディア
2019年11月18日、ヤフーとLINEの経営統合が正式に発表されました。ヤフーを展開するZホールディングスの川辺健太郎社長はLINEのシンボルカラーの緑色のネクタイ、LINEの出沢剛社長はヤフーのシンボルカラーの赤色のネクタイをそれぞれ締めて、がっちりと握手をしました。この経営統合を私は日本経済新聞のスクープで知りました。プラットフォームの両雄が突然、手を結んだことに驚き、そして困惑もしました。私は、「ポスト・ヤフーの時代」は既に始まりつつあり、新しい時代を担う有力候補の一つはLINEかもしれないとみていました。その二つが統合するというのです。「ポスト・ヤフーの時代」はさらに見えにくくなりました。
これまで見てきたように、日本のほとんどのメディアは、ヤフーにニュースを配信し、そこから自社サイトにユーザーを流入させてページビュー(PV)を上げていました。毎日新聞の場合、現在の計測方法になった13年以降で、その流入PVが最も多かったのは15年ごろでした。50%以上がヤフー経由だった時期もあります。
しかし、この数年は、明らかにヤフーからの流入が減ってきました。最近は1割未満の月もあります。その要因の一つに、スマートフォン(スマホ)シフトが進み、ユーザーがさまざまなニュースアプリを使うようになったことがあります。毎日新聞ニュースサイトへのアクセスをみると、1日のアクセス数で初めてスマホがパソコンを抜いたのは、15年5月に歌手のASKAさんが逮捕された時でした。月ごとのアクセス数でスマホがパソコンを逆転したのは15年11月です。以来、スマホがどんどん伸びて、現在はスマホ7:パソコン3の割合で、さらにスマホの割合は8に近づきつつあります。ヤフーニュースもスマホ対…
(10)記者とSNS
プラットフォームの登場は、ジャーナリズムにも大きな変化をもたらしました。もうひとつ、別の角度からジャーナリズムを激変させたものがあります。それが、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の広がりでした。
私がツイッターにアカウント(@pinpinkiri)をつくったのは2010年2月のことです。当初は匿名で「記者とかしています」と名乗りました。何をつぶやいていいのかわからず、たまにつぶやいてもまったく反応はありませんでした。朝日新聞の記事を批判的につぶやいたら、朝日新聞の公式アカウントからフォローが入ったりはしましたが、フォロワーはなかなか増えず、1年以上たっても20人を数えるだけでした。
ところが、11年4月下旬に投稿したひとつのツィートで様相が変わりました。ユーザーの間で行われていた「リーク」をめぐる議論に飛び入りで加わったのでした。<誤解を恐れずに言えば「リーク」させるのが記者の仕事。「リーク」に罪があるとすれば、記者が「リークする側」におもねりその意向に沿った文脈で報道してしまうことだ。記者は「リーク」で得た情報を真実と信じる文脈に置き換えればよい。それが報道。>。投稿してすぐに20人だったフォロワーは39人に倍増し、翌朝には204人になりました。「マスゴミ」と斬って捨てられることの多いネットの世界ですが、多くのユーザーが報道の問題を真摯(しんし)に受け止めてくれたことに私は高揚しました。
その後、大型連休に入り、私は東日本大震災の被災地・三陸で復興ボランティアをしました。震災で、ツイッターは被災者の切実な声をさまざまなところへ瞬時に伝え、世界から励ましの声を被災地に続々と届けました。それは、メディアの歴史を刻む大きな出来事でした。私もボランティアを通じて知った被災地の様子を投稿したところ、フォロワーは300人になりました。さらに報道についての意見をつぶやき続けると、その年の8月末には1000人を超えました。私は、ユーザーと直接つながり対話できるSNSの可能性を肌で感じました。
全国の多くの記者たちの思いも同じだったと思います。河北新報は、被災地からの発信にツイッターの三つのアカウントを使い、「〇〇町のスーパーが午前中に開店しました」などきめ細かな生活情報の投稿を続けました。フォロワーは震災前の4000人から11年5月には約7倍の2万7000人になりました。河北新報は12年2月の毎日新聞の取材に「日本でツイッターが普及して初めての大規模災害であり、ある意味、歴史をつくるという意識があった」と振り返っています。
これが契機にもなって、ツイッターを活用する報道機関の取り組みが広がっていきました。毎日新聞は、12年の正月企画「リアル30’s」で30歳代の日常を描きましたが、その際、ツイッターで読者と対話しながら記事にするという新しい手法を取り入れました。また社内に「ソーシャルメディア研究会」を設け、12年上半期だけで十数回の勉強会を連続開催しました。
朝日新聞は12年1月、「つぶやく」記者制度をつくり、記者個人のツイッターを報道の一環と位置づけました。35人の記者が選ばれ、積極的な発信を始めました。取材部署や取材班、地方機関もアカウントをつくり、その数は短期間に100を超えました。4月には記者のSNSを統括する職制「ソーシャルエディター」をつくり、社内向けにつくったツイッター活用のガイドラインを公開しました。その中で、アカウントのプロフィールは1投稿内容が朝日新聞を代表するものではないことを記す2リンクやリツイートは必ずしも内容に賛意…
(11)「動画革命」がもたらしたもの
スマートフォンと「4G」という新しい通信環境がもたらした大きな果実が「動画」です。今、通勤電車の中でスマホで映画を見る姿が当たり前になり、スマホで撮影した動画は瞬時にソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)に投稿できます。しかし、こうした手軽さは、ほんの数年前には考えられないことでした。動画の再生に必要なストリーミングサーバーはまだ特別な存在であり、動画のアップロードには長い時間がかかりました。急速に実現した「動画革命」はジャーナリズムにも大きな影響を与えました。
2019年6月、愛媛県砥部町の「県立とべ動物園」で行われた一見とりとめもない訓練の動画が世界中を駆け巡りました。訓練は、ライオンがおりから逃げ出した事態を想定し、ライオンの着ぐるみに身を包んだ職員を取り押さえるというものでした。その様子を動物園の本物のライオンが半ば白けたような表情で見ていました。クスッと笑えるおかしさとちょっぴり哀切も漂うこの動画は、毎日新聞松山支局の入社4年目の木島諒子記者が撮影しました。動画はツイッターで500万回、ユーチューブで670万回、毎日新聞のサイトの中でも5万回再生されました。そして、英紙ガーディアンが注目の話題として転電しました。以前なら新聞の地域面の片隅に載るだけだったはずの記事が、世界のニュースとなったのです。
「日本語」という、世界でも会得が難しいとされる言語が参入障壁となって、日本のマスメディアはある意味で世界の競争から守られてきました。しかし、インターネット時代になって、この参入障壁はむしろ発展の足かせになることが多くなっています。世界の15億人が使う英語で発信するニューヨーク・タイムズ紙と日本の新聞では、そもそも読まれる規模も範囲も違います。しかし、愛媛県の動物園のニュースが世界で読まれたように、「動画」の力は国境を軽々と超えていくことを教えました。
動画は、報道の可能性も広げつつあります。15年に紛糾の末に成立した安保法制をめぐっては、国会前で反対運動を繰り広げる学生たちの団体「SEALDs(シールズ)」の活動が注目を集めました。スローガンをラップに乗せて訴える手法は新鮮で、若い世代のメッセージは多くの人々のもとに届きました。
ただ、従来の報道スタイルでは、彼らの斬新さを伝えるのは難しかったと思います。新聞紙面はスペースが限られ、放送は時間が厳しく制約されています。その結果、こうした抗議集会やデモ行進などは、定型的な事象としてしか描けない現実がありました。しかし、動画はそうした定型を打ち破る力があります。撮影してネットで発信することにより、注目されにくかった事象を伝えられるようになったのです。
スマホと4Gは、もうひとつ大きな革命を起こします。ライブ動画の発信を可能にしたのです。これまでライブ放送は、テレビ局にとっても簡単な仕事ではありませんでした。中継専門の車両や専門のスタッフが同行して初めて行えるものでした。ところが、15年ごろからフェイスブックやツイッターなどがライブ動画の機能を実装し、スマホひとつでライブ配信ができるようになったのです。そして、世界中でライブ動画を報道に取り入れる試みが始まりました。私は14年秋から16年春にかけて、毎日新聞と提携している米国のウォール・ストリート・ジャーナル紙、インドネシアのコンパス紙、ベトナムのトイチェ紙の本社を訪れました。そこで驚いたのは、どの社も動画編集の専門スタジオを持ち、編集局の真ん中にもいつでも発信できるスタジオを置いていることでした。かつての記者は取材した内容を記事に「書く…
(12)記者が「見られる」時代に
2020年3月14日午後6時、私は自宅のテレビの前で緊張していました。安倍晋三首相の記者会見が中継されていました−−。
2020年3月14日午後6時、私は自宅のテレビの前で緊張していました。安倍晋三首相の記者会見が中継されていました−−。
2020年3月14日午後6時、私は自宅のテレビの前で緊張していました。改正された新型インフルエンザ等対策特別措置法について、安倍晋三首相の記者会見が中継されていました。新型コロナウイルス対策をめぐる安倍首相の会見は2月29日に続くものでしたが、この時の会見に対し、「記者会見ではなく政府発表だ」との
この日の会見は、打ち切ろうとした官邸側に対し、多くの記者が反対の声を上げました。その結果、会見時間は2月29日の36分から52分に延び、質問の数も5から12へと増えました。「一歩前進」だったと私は思い、少しだけ緊張が解けました。記者会見での記者の言動が厳しく問われる時代です。私が最初にその思いを強くしたのは05年5月、JR福知山線の事故を受けたJR西日本の記者会見でした。107人の死者を出したこの事故は、JRが安全より効率や収益を優先したことが背景にあると指摘されました。一方で、記者会見では、JR側を追及する読売新聞の男性記者が批判される事態になりました。その記者の言動は、確かに行儀のいいものではありませんでした。「あんたら、もうええわ、社長を呼んで」などと声を荒らげたり、感情的発言もありました。当時はソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)やネット動画は普及していませんでしたが、テレビの中継を受けて批判が高まり、読売新聞は「使命感や熱心さのあまりとはいえ、常に心がけるべき冷静さを欠いたと言わざるを得ません。日ごろの指導が生かされなかったことに恥じ入るばかりです」という異例のおわびを掲載しました。
その記者の行状をかばうつもりは全くありませんが、大事故の責任を追及する記者の側に批判が集まったことに私は衝撃を受けました。記者の矜持(きょうじ)は、「知る権利」の代行者として国民から負託を受けているという使命感に由来します。しかし、その関係の土台が危うくなっていると感じたからです。最近では、19年5月に大津市で保育園児の列に軽乗用車が突っ込んだ事故で、保育園側が開いた記者会見のやりとりが批判されました。事故に至る過程を確認しようとする記者たちに「何の意味がある」「保育園側には何も落ち度はない」などの批判が集まりました。記者たちは聞くべきことを礼を失せずに聞いていたと私は思いました。しかし、園長が憔悴(しょうすい)しきっていたこともあり、記者が質問する意味への理解は広がりませんでした。
現在の記者は、自分たちが「見られる存在」であることを強く意識しなければなりません。その意識が報道の信頼醸成にも必要な時代になりました。日本のジャーナリズムの特徴あるいは欠点として指摘されることに、記者会見が形式的になりがちだというものがありました。日本の記者たちは、特ダネを追い求めるあまり、記者会見で事実を聞き出すことより、会見後の非公式取材や単独取材を重視する傾向がありました。私も駆け出しの頃、記者会見で多くの質問をする記者は無能だと教えられ、今もその感覚が抜けきらないと…
ジャーナリズムを探す旅路
この連載は、事件や災害時の実名報道のあり方を入り口に、令和という時代を手がかりにして、インターネット時代のジャーナリズムの現状と課題について考えてきました。最終回となる今回は、将来のジャーナリズムの姿を展望します。
英「エコノミスト」誌2011年7月9日号は、「未来のニュース」をテーマに特集しました。その中で、ジャーナリズムに求められる新しい倫理基準は、「客観性」ではなく「透明性」だと結論づけました。この特集は、東洋経済オンラインの編集長やニューズピックスの初代編集長を務めた佐々木紀彦さんの著書「5年後、メディアは稼げるか――Monetize or Die?」(東洋経済新報社、13年8月)に教えてもらいました。著書で佐々木さんはこう指摘しています。「筆者のバックグラウンド、経歴、そして、政治的なスタンスまで披露した上で、その人間が『私はこう思う』と述べるのは一向に構いませんし、議論を活性化させるはずです。客観を装いつつ自分の思想を紛れ込ませた記事より、自分の立場を明確にして意見を堂々と述べた記事の方が、読む方もすっきりします」。私も強く同意します。
私の世代の記者は、「客観性」を担保する記事の書き方を訓練されてきました。「……とみられる」「批判を浴びそうだ」といった表現や、悪評が立って今はほとんど使われない「成り行きが注目される」などは、「客観性」を見せようとした苦肉の知恵だったとも言えます。しかし、文章でも映像でもすべての著作物は、主観を排除しては成立しません。20世紀のジャーナリズムは、その自己矛盾を抱えながら試行錯誤を続けてきたとも言えます。長くマスメディアが発信手段を独占していたことも影響していたと思います。
しかし、インターネットやソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の登場で、誰もが発信できる時代になった今、状況は一変しました。極論になりますが、記者も無数の発信者の一人として、信頼を獲得していかなければなりません。インターネットの時代は、「誰が言っているのか」が強く問われます。どんな経歴の記者が、どんな取材プロセスを経て、その記事を書くに至ったのか。「透明性」がジャーナリズムの信頼の礎になると思います。
そんな時代の境界線を考える時、米紙ニューヨーク・タイムズの二つの報道が参考になります。03年のイラク戦争は、実際には存在していなかったイラクの大量破壊兵器が開戦の理由になりました。この時、ブッシュ政権からの情報を次々と特報し、開戦を後押ししたと批判されたのがニューヨーク・タイムズでした。05年に編集局長が総括していますが、イラクに関連する12本の記事に問題があり、うち10本はジュディス・ミラー記者が報じていました。ミラー記者はピュリツァー賞受賞の花形女性記者で、政権内部に深く入りこんで情報を得ていました。しかし、政権との距離が近すぎたことで、情報のチェックがおろそかになり、報道をゆがめる結果になりました。
権力への密着取材は「アクセス・ジャーナリズム」と呼ばれます。日本の「番記者」や「記者クラブ」の取材に近い意味があります。ミラー記者の報道は「アクセス・ジャーナリズム」のあり方そのものを問うことになりました。ミラー記者はその後、イラク戦争をめぐって起きた米中央情報局(CIA)工作員身元漏えい事件に関係して収監されることになります。
このイラク報道と対極にあるのが、ハリウッドの大物プロデューサー、ハーベイ・ワインスタイン氏のセクハラを告発した17年10月の報道でした。ミーガン・トゥーヒー、ジョディ・カンターの2人の女性記者が担当し、ピュリツァー賞を受賞しました。彼女たちは「アクセス・ジャーナリズム」の手法ではなく、むしろ業界から距離があったために、業界内のゆがみに気づき、業界のドンの行状を暴くことができました。
イラク報道のミラー記者は、男性と互角に渡り合って取材競争を続け、政権内部に食い込んでいきました。一方、セクハラ報道は、女性記者ならではの視点によるものでした。報道後、世界の女性たちに共感と連帯の輪が広がり、SNS時代ならではの#MeToo(ミートゥー)運動へと発展し、ジャーナリズムの新たな可能性を示しました。
「アクセス・ジャーナリズム」はもちろん今も大切であり、ジャーナリズムの土台でもあります。しかし、「アクセス・ジャーナリズム」だけを誇りにする時代ではもはやありません。それは、米政府が秘密裏に膨大な個人情報を違法収集している実態を暴いたエドワード・スノーデン氏の告発報道にも見て取れます。
米国家安全保障局(NSA)などに所属していたスノーデン氏が告発先として選んだのは、ブラジル在住のジャーナリスト、グレン・グリーンウォルド氏でした。その経緯は「暴露 スノーデンが私に託したファイル」(新潮社、…  

 

●「書かざる記者」は沈黙の共犯者だ! 2020/7
後輩が読売新聞記者を辞めて、新しい名刺を作った。肩書に「独立記者」と印字されている。これからはどこにも身を売らずに、自由に物を書いていくというのだろう。そんなに肩ひじ張らなくても、と思ったが、ただフリー記者と記さないところに、彼の矜持があるような気がした。
いつまでもその気持ちで書き続けてほしい、と私は願った。
数年前の名刺のことを思い出したのは、東京高検の黒川弘務検事長の賭けマージャン問題で、 「書かざる記者」の存在を突き付けられたからである。黒川検事長と雀卓を囲んでいた産経新聞の二人の司法クラブ記者と、朝日新聞の元司法記者のことだけを言っているのではない。大組織の中に居て、読者が求めている時に、求められていることを書かない、記者の群れのことを記している。
週刊文春の報道で驚いたことはたくさんあるが、その一つは出版社を含む、意外に多くの記者たちが黒川検事長と交遊していて、「秘密主義の権化みたいな検察庁」(検察記者だった魚住昭氏)の世界を描かなかったことである。
法務・検察という最強の権力組織は絶えずチェックされ続けなければならない聖域である。その2だった黒川検事長は、以前から安倍政権に近いと言われてきた。それは具体的にどういうことなのか。対する検事総長や検事たちは何を考えているのか。そもそも検察はなぜ近年、疑獄事件を摘発できなくなったのか――。
検察庁という組織の全体像と検察人脈を伝える長期連載やルポルタージュが、これほど求められた時期はなかったのではないか。だが、今年1月に黒川検事長の定年延長が閣議決定されても、検察官の定年を延長する「検察庁法改正案」が強い批判を浴びても、SNS上に「#検察庁法改正案に抗議します」という投稿があふれても、なお断片情報以外は書かれなかった。
書くことは、検察幹部や検事たちと日常的に接しているクラブ記者には、(気概さえあれば)可能なことである。文春報道の後、「実は俺も黒川を知っていた」というマスコミ人が次々に現れて、(なあんだ)と私は呆れてしまった。聖域の実態を伝えるのが仕事なのに、同化して「沈黙の共犯関係」に陥った人が実に多い。政治記者もその誹りを免れない。
警視庁記者クラブに、「それ、書いちゃいなよ」と口癖のように言うキャップがいた。捜査途上で書いたり内幕に触れたりすると、圧力をかけられるだけでなく、取材源をつぶされかねない。私はこの先輩が苦手だったが、熱意に引っ張られて記事の量は格段に増えた。対照的に司法記者クラブには「引き付けて書け」と一瞬の特ダネに賭けるキャップがいた。こちらは当然のように記事の総量は減る。取材源にも上司にも配慮する人だったが、読者の「知りたい」という欲求に応えたのは、書きにくいことでもこねくり回して書いた前者だった。
記者は掲載された記事が全てだ。そして、その記者がいなければ明らかにならなかっただろう記事のために存在している。明日になれば当局や企業が発表するような記事は本当の特ダネではない。当局との信頼関係や幹部と秘密を共有したことよりも、現れた記事によって記者は評価されなければならないはずだ。今回、袋叩きにあっている3人も口を拭ったりせずに、ぜひ再びペンを執ってほしい。痛みや反省とともに、黒川問題と検察の裏面を書けるのは彼らだし、産経新聞社によると、記者たちの行為は仕事らしいから、いつか活字になるのだろう。
私はかつて、ルポルタージュ『ベトナム戦記』(朝日文庫)を読んで、口拭う記者だけにはなるまいと誓った。ベトナムには、太平洋戦争終結の後も様々な事情から現地に残留して戦った元日本人兵士たちがいた。作家の開高健は彼ら日本人残留兵士の悲運と怒りを、こんな言葉で代弁している。
<“欧米列強の桎梏よりアジア同胞を解放する”という日本のスローガンは当間(元俊)氏ら無名の日本兵士によってのみ真に信じられ、遂行された。(中略)スローガンを美しく壮大な言葉で書きまくり、しゃべりまくった将軍たちや、高級将校や、新聞記者、従軍文士どもはいちはやく日本へ逃げ帰って、ちゃっと口ぬぐい、知らん顔して新しい言葉、昨日白いといったことを今日黒いといってふたたび書きまくり、しゃべりまくって暮しはじめたのである>
それにしても、文春の記者たちには、新聞記者が失いつつある調査報道への情熱を感じる。この1年の政界絡みのスクープだけをとっても次のようになる。
▽<厚労政務官(上野宏史衆院議員)口利き&暴言音声を公開する>昨年8月29日号の発売当日に政務官辞任▽<菅原一秀経産相「秘書給与ピンハネ」「有権者買収」を告発する>同10月17日号から三連発で経産相辞任▽<法務大臣夫婦のウグイス嬢「違法買収」>同11月7日号の発売日朝に河井法相が辞任▽<森友自殺財務省職員遺書全文公開「すべて佐川局長の指示です」>今年3月26日号▽<黒川検事長は接待賭けマージャン常習犯>5月28日号――。
新聞社でこれだけ抜かれれば編集局長はクビだ。これ以外にも<森田健作 台風被害の最中に「公用車で別荘」疑惑>や、<安倍首相補佐官と美人官僚が山中教授を「恫喝」した京都不倫出張>もあった。
甘利明経済再生相を金銭授受疑惑で辞任に追い込んだのも文春である。その時は文春よりも先に新聞社に情報提供が行われていたというのだから、長い間、新聞社で調査報道に携わった身としては歯ぎしりする思いだ。
文春は河井事件や黒川問題を報じるとき、現場に12人の記者、カメラマンを動員したという。「文春にはタレコミがあったからできる」という人たちがいるが、ここまで立て続けにスクープされると、そうではないことがわかってくる。つまり、タレコミや断片情報を五つのチーム(計三十数人)が手間をかけて裏付け、写真を撮り、一つ成功させることによって、「あそこなら受け止めてくれる」という信頼感につなげているように見える。それが新たな情報を呼び寄せている。それだけの手間と熱意を新聞社も投じてほしい。
ここまで書くと、「じゃあ、お前やってみろよ」という新聞社幹部や検察記者もいるかもしれないが、私はこう答えます。「いいですよ。仕事を棚上げしてでも、お手伝いしましょう」――。 

 

●望月衣塑子、怒る…官邸にしっぽを振る「矜持なき記者たち」 2020/7
「安倍一強」が叫ばれて久しい。東京新聞記者の望月衣塑子氏と評論家の佐高信氏による新刊『なぜ日本のジャーナリズムは崩壊したのか』は、この政権の恐るべき権力基盤を「メディアとの関係」から描き出す。政権はいかにメディアをコントロールし、メディアはいかに権力に追従しているのか。この国の中枢の真実。
記者の凋落を示すダメ会見
いまの記者は、みな揃っておとなしく、サラリーマン化が進んでいる。型にはまったこと以上の行動をするのを極端に恐れるあまり、取材相手を追及し、本音を吐き出させようとする気迫が感じられない。
六月一八日の午後六時から開かれた首相会見では、わずか会見の三時間前に河井克行前法相と妻の案里議員が公選法違反容疑で逮捕されたのにもかかわらず、事件についての質問は、事前に質問を投げていた幹事社・フジテレビだけ。
しかも、「自民党から振り込まれた一億五〇〇〇万円の一部が買収資金に使われたことはないということでいいのか」と、「ない」を前提にした誘導的な質問で、首相は「任命した者として責任を痛感している」と答えただけだった。
当然、記者は「どう責任を果たすつもりなのか」「買収資金に交付金が使われたか、調査するのか」など追及を重ねなければならないが、だれも続かない。産経新聞は憲法改正についての首相の意気込みを、NHKは北朝鮮対応を、日本テレビはポスト安倍について。その質問に答えるかたちで、首相は自分の支持者向けのメッセージとも聞こえる話を続けた。
質疑を見ていてめまいがした。国会議員二人による大規模な買収疑惑は、憲政史上まれにみる大事件。しかも一人は前法相だ。その質問がわずか一つしか出ないとは……。会見にいる政治部記者は疑惑の重大さを理解していないのだろうか。「黙って挙手して」など、官邸が勝手に決めたルールにおとなしく従っている場合ではない。制止を振り切ってでも追及すべき場面だった。記者の凋落ぶりを示すダメ会見で、これは後世に語り継がれるだろう。
しっぽを振る記者たち
なぜ、内閣記者会は国民と乖離した質疑しかできなくなったのだろう。かつて首相会見の司会進行役は、幹事社の記者が努めていたという。現在は、実質的な司会進行を内閣府広報官の長谷川栄一首相補佐官に委ねており、「内閣記者会主催」はかたちばかりだ。結果、会見を官邸の“宣伝(プロパガンダ)”に利用されている。
さらに長谷川氏の指名を見ていると、NHKやテレビ朝日、日経新聞などが毎度のように指される一方で、朝日新聞や東京新聞、中国新聞などが指されることはまれだ(これらの社が幹事社の場合は除く)。
長谷川氏が政治部の記者を指名すると、首相は毎度、官僚が用意した手元の資料を読みながら答えている。差し障りのない質問を事前に官邸に通告した社ばかり指名されるのであれば、それは権力による選別と事前校閲であり、メディアが官邸に支配されているということに他ならない。
SNSが発達し、首相のプロンプターや資料の読み上げがバレ、国内外の市民やネットメディア、フリーランス、識者から疑問や改善を促されている。にもかかわらず内閣記者会は、事前通告を続け、首相の「猿芝居」の片棒を担ぎ、意識が変わる気配はなかなか見えない。
今年一月、官房長官会見で、私が挙手しても当てられないことが続いた。私が会見場で「まだ(質問が)あります」と声を出したとき、ある社の記者は「指されなくても、声は出さずおとなしくして」と言ってきた。別の社の官邸キャップは「うまく聞かないと引き出せない。(あなたのは)“負け犬の遠吠え”だ」とわざわざ言いにきた。
政治取材に長けたみなさんは、この首相会見でいったい、何をうまく引き出したのだろうか。しっぽをふっているのに餌がもらえなかった犬に見えるが、あとで「路地裏」で残飯でももらえれば「勝ち犬」なのだろう。
政権のメディアコントロール
付記しておくと、「この後、外交日程がありますので」と一時間で終えようとする長谷川氏に対し、フリーランスや何人かの政治部記者たちは抗議の声を上げている。長谷川氏は「紙でお答えしますので、後で私宛に質問を出して欲しい」として打ち切った。
その後、朝日新聞と中国新聞、日刊ゲンダイは、河井夫妻の逮捕と首相の任命責任について官邸報道室に質問を出していたが、官邸報道室の回答は「国民の皆様にお詫び」「責任を痛感」「真摯に受け止め政権運営に当たりたい」など、中身のない官僚作文だった。会見の場で安倍首相が同じように答えていたならば、到底納得されない内容だ。「舐めるのもいい加減にしろ」と怒りに震えた記者もいるだろう。
ただ、それも長年、安倍政権のメディアコントロールを許してきたせいだ。首相会見も官房長官会見も、時間制限や指名の偏りに抗議の声を上げず、司会進行の主導権を奪われても抵抗せず、会見のあり方を改革しようとしてこなかった。
内閣記者会は世間からも見放されつつある。オフレコ取材を重視し、会見が形骸化すれば、会見も記者クラブも存在の意義がなくなるばかりか、今回の首相会見のように権力に利用されてしまう。
このままでは日本のジャーナリズムは完全に崩壊することになる。政治部記者はもっと危機感をもつべきだろう。
そんななか、既存のTVメディアの報道に限界を感じたディレクターたちが中心となって立ち上げたネットTV「Choose Life Project」が検察庁法改正案の議論が沸騰する最中、野党各党の幹部を呼んで連日、活発な議論を行い、ネット上で盛り上がったのは光明だった。どういう思いで議論やニュースを発信していくのか。そんな報道人としての根本的な姿勢がジャーナリズムとして大事であることを再確認できた出来事だった。 

政治部記者 / 新聞社、テレビ局などで政治を専門に担当する記者のことである。政治記者、政治ジャーナリストとも呼ばれる。政治部は国政(国会、首相官邸、政党、中央省庁)を担当し、地方政治は社会部や各支局が担当する。政治部は記者の中でも出世コースとみなされ、政界とのコネクションも身につけられることもあり、後に政治家に転身したり、政治評論家になったりするケースが顕著である。政治部の新人記者はほとんどが首相官邸の記者クラブに配属され、首相の番記者(首相番)として政治部記者のスタートを切る。首相番になることで政治の動きや政界の人脈を学んでいく。首相番を1-2年経験すると次は省庁を1-2年担当し、その後は政党担当になりキャリアを積んでいく。