男尊女卑は日本の文化

森会長の世代 育った時代は男尊女卑であたりまえ
日本の文化 粗末に扱いました

女性蔑視発言で おたおたした森会長
世の中の価値観 自分の価値観
世の中に迎合

みえみえ うわべだけの謝罪会見
 


男尊女卑文化の説明女性差別日本のジェンダーギャップ男女平等度121位国際語「CHIKAN」男尊女卑女性差別の現状と未来韓国の男尊女卑に立ち向かう女性韓国社会は「男性至上主義」日本の性差別禁止法律・・・
日本の男女不平等問題史日本女性の社会地位史女性の社会的環境史ジェンダーの日本近現代史・・・
男女平等諸話謝罪のマナー美辞麗句うわべだけの謝罪会見・・・
 
 
 

 

●日本の男尊女卑文化をどう外国人に説明するべきなのか 
歌舞伎をグローバルな視点から考えてみたい。歌舞伎といえば、男性しか演じることができない。日本の伝統芸能である。(歌舞伎を最初に踊ったのは出雲の女性。)
男女平等(Gender equality)が叫ばれるこのご時世(特に外国人、西洋人は男女平等に敏感な人が多い)、外国人に歌舞伎を説明する際には、少しその辺を考慮してしながらうまく説明できるといいなと思う。日本でも賛否両論が分かれそうな男女平等と日本の伝統文化の関わり、変な誤解を与えてしまわないようにしたい。
しかし男性しか踊れないのにはなにかきっと理由があるはずだと、調べた。
どうやら以下の通りだったので順に書いていく。
1 阿国は出雲大社で巫女をしていた少女が踊りながらお金を集めた。(歌舞伎のはじまり)
2 その頃(江戸時代/1603年)、男性の間で女物の衣装を着るのが流行る。彼らは「かぶき者」と呼ばれた。少女のいる阿国では「かぶき者」が遊ぶ様子を踊りで表現する(かぶきおどり)のが流行った。
3 少女達の噂が広まり、かぶきおどりを真似る男女が増えた。女性達が踊るかぶきおどりは「女歌舞伎」と呼ばれた。
ここから現在の歌舞伎へと変わっていく
4 1629年、風紀が乱れるということで、女歌舞伎が禁止される。
5 少年がかぶきおどりをするのが流行る。若衆歌舞伎と呼ばれた。
6 しかし1652年にこれも禁止。歌舞伎が完全に男のものとなる。(野郎歌舞伎のはじまり)
「風紀が乱れるから、女性はかぶきおどりを辞めなくてはならない。」というのは西洋人から反感を買ってしまいそうな理由だ。
日本は女性の天皇が認められていない。
伝統を守るという声が多く聞こえるが、伝統とはなんであろう。昔には女性の天皇がいたわけである。歌舞伎にしたって、女性がはじめ、女性が踊った時期もあったわけである。誰がどう、ある時点の出来事を伝統と括って、変えられないようてしまうのだろうか。まあこれは日本に限ったことではないが。
日本の伝統に隠れる男女差別は言い訳しようとしても、なかなか難しい。結局やはり日本は男尊女卑の国なのかなと思ってしまう。
日本は好きだ。世界一好きな国だ。全て西洋化するべきだとは全く思わない。西洋人のいいなりにはなってほしくない。日本は日本らしくいてほしい。日本は日本にもっと誇りをもってほしい。
しかしそう思うと同時に、日本は日々変化しつつ、しかしなぜか差別的な部分だけ伝統という型に嵌めて守る国なのか、とも思ってしまう。
グローバル化。国際化。西洋の価値観が中心となって世界の基準が作られていく面もある。外国人と関わる機会が増えると、日本の抱えるこういった問題をどう理解しどう説明するかを考えていく必要がどうしても出てくる。
旅行で海外に数日滞在する程度なら、気にしていなくても問題ないだろう。しかし、長く外国人と接したり、外国で暮らすとなると、そういうところで障害が出てくる。
そういう時に、嘘は言いたくないし、間違ったことを言いたくもないし、誤解を与えて日本を嫌いになってほしくもない。
最近話題になっている、東京医科大学の女子生徒の受験問題。 女子の入学人数を一定数に抑えるため、入試で女子受験生に対してのみ一律に減点していたという。女医の西川史子はしょうがないことだと言い放った。重たい人を、女子は抱えられない。手術で硬い骨を切らなくてはならなくなった場合、女子にはできない。だから男性医師の数が多い方がいいという。
しかし彼女だけの意見ではなさそうだ。ある調査では、医師の「6割」がこの恣意的な男女比率を「理解できる・ある程度理解できる」と回答したという。
ちなみに私の母親(普通の主婦)も理解できると言っていた。
日本社会で、理解できる人が多いのなら、まあそれでいいのかと思う反面、外国人にどう説明すれば理解してもらえるのだろうか。
「女の人は重い人が抱えられないし、手術で硬い骨が切れないから、しょうがないんだー。」
と言えば理解してもらえるだろうか?
私が大学で留学生と接する中で、友人になった外国人と接する中で、教師の外国人と接する中で、こういった日本の価値観をどう説明すればいいのかと戸惑うことが何度もあった。私は口下手で、大抵話し相手の外国人は議論上手なので、いつもモヤモヤが残る会話になる。
9月から一年間交換留学生としてイギリスで勉強する。
イギリスというと、最近BBCが、「Japan’s Secret Shame(日本の秘められた恥)」というタイトルで、レイプ被害者伊藤詩織氏が日本で受けた男尊女卑を感じる経験をついて語るドキュメンタリーを放送した。
この事件についても思うことがいろいろある。最初に彼女の話をちゃんと聞いたのがこのドキュメンタリーだった。このドキュメンタリーは、男尊女卑社会日本に立ち向かう正義の女性として彼女を写しているため、私は彼女に同情し、日本社会に対する怒りが湧いた。しかしいくつか日本語の記事を読んでいるうちに、彼女が真っ白ではないのかもしれないと思うようになり、今度は彼女に対して怒りの感情を持つようになった。しかしこの一連の問題に関しては、私の意見がまだうまくまとまらないので、あまり深くは書かない。しかし、外国でこのことに対して意見を求められた場合、私は日本側に立つべきなのだろうか。西側の機嫌を伺って、相手を満足させるような回答をするのは嫌だ。しかし日本側の言い分の根本には結局男尊女卑の価値観が隠れている。私は全てを上手く説明するほど、説明上手ではない。むしろコンプレックスになるほど口下手なのだ。
日本人は良くも悪くも寛容だと思う。だから外国人と話すと日本人とのギャップにたじろぎ、そしていつも頭がパンクしそうになり、自己嫌悪に陥る。 
 
 

 

●女性差別
女性に対する性差別である。男尊女卑(だんそんじょひ)と呼ぶ人もいる。対義語は男性差別という。
日本​
日本は、男女格差が世界で最も大きい国の一つとされ、世界経済フォーラムが世界男女格差レポートにて公表している世界男女格差指数ではG7で最下位、G20でサウジアラビア、トルコに次いでワースト3位である。
日本の女性労働者の待遇改善問題は、裁判所による政策形成の歴史とも重なる。すなわち、行政府が男女の雇用機会均等に向けて動かない中で、裁判所が判例を通じて性差別を是正していった事例として挙げられる。
司法による格差是正の動きは、1950年代後半から1960年代に始まった。当時、労働に関する法令としては労働基準法があったが、労働基準法は賃金について女性を理由とした差別を禁止していたのみであり、採用や解雇(例えば、当時は女性の早期退職は社会では当然の慣行となっていた)といった、その他の労働面における差別を訴える法律が存在しなかった。そして、賃金についても、企業は女性を男性と異なる職に就けることによって、差別化を行っていた。
こうした状況の中、まず日本国憲法第14条(法の下の平等)を理由とした格差是正が試みられた。しかし、私人間効力がない(私人間には憲法が直接は適用されない)ことを理由にこの動きは失敗した。ところが、裁判所は1966年の住友セメント事件で民法90条(公序良俗違反)(私人間効力の間接効力を参照)を利用することによってこの状況を打破した。この動きは全国に広がり、各地の裁判所で民法90条を使用して女性の早期退職、結婚退職、出産退職が是正されていった。国会で男女雇用機会均等法を制定したのは、1985年のことであった。
女性労働問題については、パート労働者の待遇改善の歴史とも重なる。
以下では、日本における事例を挙げる。なお、戦前においては、参政権や教育を受ける権利も議論となっていた。戦後においても、差別を助長する服装指導、頭髪指導を実施している中学校や高等学校も存在する。
最高裁が男女別定年制を無効とした判例
   伊豆シャボテン公園事件昭和50年8月29日
   日産自動車事件昭和56年3月24日
   放射線影響研究所事件平成2年5月28日
1981年(昭和56年)3月24日、那覇地裁においてトートーメー継承問題(女性に財産相続権が認められない慣習)を違憲とする判決が下る。
1985年(昭和60年)6月第102回国会外務委員会において、外務政務次官森山眞弓が小金井カントリー倶楽部でのコンペ参加を女性であるという理由で断られた件について、大変に遺憾である旨の答弁を行った。また、当時の外務大臣安倍晋太郎はこの事実を直前に知り、強い遺憾の意を示すために同コンペの参加を見送ったと述べている。また、この年の第102回国会において女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約締結を承認している。
1995年(平成7年)8月、住友金属工業の女性社員4人が昇給・昇進で差別されたとして訴訟を起こす。やがて訴訟は他の住友グループ各社にも広がる。内訳は住友電気工業(2人)住友化学(3人)住友生命(12人)。10年以上続いた一連の裁判は、2006年4月の住友金属工業と原告との和解をもって終止符が打たれた。
日本では、夫婦は婚姻時に同姓とする民法の規定があり選択的夫婦別姓制度は導入されていないが、これは男女平等に反するとの議論がある。民法の規定は、夫又は妻の氏のいずれを称するかを夫婦の選択にゆだねているものの、実際には妻の側が改氏する割合が全体の96.1% であり、これは女性の間接差別に当たり、男女平等に反する、との主張である。また、日本を含む130カ国の賛成で国連で1979年に採択された「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」では選択的夫婦別氏の導入が要求されている。
韓国​
祖先祭祀の方法などが女性差別的であるという意見がある。また、未亡人や離婚した女性への差別は、先進国(日本を除く)やアラブ諸国と比べても、韓国はひどいという調査がある。
中国​
米ニューヨーク・タイムズは、中国女性の社会的地位についての記事を掲載し、中国における職場や家庭内での性差別、愛人などの横行が、女性の選択余地のなさを反映していると指摘した。 ChinaHR.comが行ったアンケートによると、6割近い女性が求職中に企業側から性差別を受けたことがあり、この割合は男性求職者をはるかに超えるという。そのほか、求職者が女性の場合は婚姻の有無や年齢、外見などへの要求が厳しいとされている。求人の際に女性は「未婚のみ」と条件が付けられることが行われている。また、「隠婚族」という言葉がある。
ロシア​
ロシア連邦では労働法により、船長、列車やトラックの運転手、大工、潜水士など38業界、456種類の専門職に女性が就くことを禁止している。旧ソビエト連邦以来、こうした職業に伴う危険や健康リスクから女性を保護するための規制とされているが、不満を抱いて訴訟を起こす女性もいる。
ヨーロッパ​
イスラム教信者の移民が増えた結果、「処女でないことを理由とした結婚の無効」など「(従来の欧州の価値観からみて)これは女性差別だ」と指摘する状況が起きている。  
 
 

 

●NYに住んでた私が思う、日本のジェンダーギャップ問題 
今、この日経×Terraceでも話題になっている 「ジェンダーギャップ121位 過去最低の日本」
今回はジェンダーギャップについて、2年以上海外生活の経験がある私が実体験を元に、ジェンダーギャップの原因と解決策を私の意見としてお伝えしたいと思います。
まず、日本の男尊女卑の時代は1,000年以上あり、その風潮がかなり濃く刻まれています。
昔は・・・
・女性から離婚ではできない
・学校に行けない
・選挙へ行けない
・仕事はできても、雑用ばかり
こんな状態でした。
アメリカとカナダは男尊女卑の歴史が浅い分、根深い風習や文化を拭い去るのも日本に比べたら簡単です。ですが、日本の男尊女卑の歴史は深く、さらに!多数決で物事が決まりやすい、周りに合わせる文化も重なりに重なり、さらにさらに年功序列の習慣も相まって男尊女卑の考え方が根強く語り継がれ、受け継がれていきます。こんな事が理由となり、ジェンダーギャップの黒歴史は長く浸透し続けています。
あなたが身近に感じるジェンダーギャップは以下のようなものではないでしょうか?
・お茶くみや掃除などの雑用が女性だけの仕事になっている事。
・大きな決定権は男性がすることが多い。
・重役に女性が少ない、またはいない
・飲み会の席でサラダを取り分けたり気を利かせるのは女性の仕事
こんなことでしょう。
ちなみに私は、バンクーバーで働いていましたが、面接などで必要なお茶出しは、男性も女性も行っていました。掃除も同じく、当番制で男女両方役職も関係なくやっていました。もちろん、私の職場には、上司や重役にも平気で女性がいました。日本と大きく違い「女性だから」という理由で、働き方で嫌な思いをしたことはありませんでした。
では、海外ではジェンダーギャップが減っていく中、日本はどうしたらこのジェンダーギャップ問題を解決できるのでしょうか? 簡単に言うと・・・国全体の考え方を変えることです。非常に難しく感じますよね? でも、頑張ればできる問題なんです。私たちにもできる!その解決策を具体的にいうと・・・
・SNSで自分の意見を拡散する
・内閣の男女比を法律で制定する
・選挙へ行き、女性議員に投票する
こんなことが解決策としてあげられます。
≪SNSで自分の意見を拡散する≫
SNSは、自分の意見を大きなものにするのに素晴らしいツールです。最近だとKutoo運動が話題になりましたよね?このように、「これはおかしい!」と広めることがジェンダーギャップの認知に繋がります。それがやがて、マスコミなどに取り上げられて大きくなっていきます。ぜひ、あなたの意見をSNSなどで拡散してください。今、私たちが選挙に行けたり、離婚出来たり、学校に行けたりするのは未来に住むこの私たちの為に、世の中を変えようとしてくれた方たちが、過去にいるからです。その時代にはSNSなんてものはないので、男性に「女のくせに」なんて罵声を浴びられる中、座り込んだり、抗議デモをしてくれた女性たちがいるからです。SNSでの投稿はそれよりも簡単です。ぜひ、思ったことは主張していきましょう!私もTwitterでかましてますよ(笑)。
≪内閣の男女比を法律で制定する≫
参照ブログ記事でもあるように、欧米では、政治家の男女比は重要視されています。この世界には男性女性(厳密にはここにLGBTQ+の方たちが入ります)が存在して互いに共存しています。共存というのは、お互いが尊重しあわない限り崩壊されるもの。互いが納得できる状態に持っていく事で、争いなく共存できます。そんな中で互いが働きやすい、住みやすい環境を作っていく為に、ルールを設ける。これが法律や政治制度です。これらを決める人の中の中心のバランスの男女比が男性ばかりであれば多数決で決めるこの日本で女性はとても不利です。日本は政治家同士のコネなどで内閣が決まりやすいので、法律で制定することが大事です。そうすれば、女性に向けた制度が今より、たくさん執行されるでしょう。
≪選挙へ行くこと≫
内閣に女性を入れたくても、その議員がいなければ話になりません。選挙へ行く事は国民の義務です。たった1票ですが、あなたの人生を左右します。あなたが選挙で女性議員に投票する事も、ジェンダーギャップ問題解決の一歩です。内閣や政治は遠いようであなたの身近にある近いモノです。選挙へ行き、意識して生活していきましょう。
「女だから」という理由でくくられるのって本当に不快ですよね?
いつか、サラダを取り分けなくてもいい日が来ることを祈っています。 
 
 

 

●男女平等度121位の日本がうんだ岡村隆史氏発言 
岡村隆史氏の発言が問題となっている。
・この原稿では、個々の事象ではなくて、大原則に立ち返って考えたい。
・岡村隆史氏の発言が厳しく批判されるのは、人々の意識が健全な証拠である。
・彼の発言は、男女平等度が世界で121位という、後進国日本の社会がうんだものである。
・社会の問題を無視して、彼個人の人格の問題だけに落とし込んで幕引きを図るのはおかしい。
・性風俗当たり前の環境で仕事があり、個人をいじって視聴率をとっておいて、個人の人格のせいだけにするのは、卑怯な感じがするし、いくらなんでも岡村氏が気の毒である。
・現在の日本は、性産業という女性の「苦界」の入り口を<広く明るくする>という狂った現象に、公共放送までもが加担する、腐った社会である。
・女性が幸せではない社会は、男性も幸せではない。男性も女性も、一つの社会を共に生きる仲間である。
・男尊女卑の社会を変えるには、政治家を男女半々にすることだ。日本の女性議員比率は世界で161位である。一気に変える方法は、フランスが既に実施している。
まともな国なら一発でアウト
ああ、また女性蔑視発言・・・。
これがもし男女平等が進んでいる国での発言だったら、その人の社会生命は絶たれるだろう。もう一発アウトである。芸人だろうと政治家だろうと。
政治家は完全に政治生命が絶たれ、どのような職業の人であっても、二度とメディアに出られないだろう。そして法によって罰せられるために、裁判になるだろう。
例えば、筆者が住むフランスでは「男女が平等である原則に反する発言」は、法律で禁止されている。ユダヤ人に対する差別発言を禁じるのと同ステージの禁止である。
「女性は家にいて子育てしてればいいんだ」という発言でさえ、法律違反になるとして、問題視されるだろう。
以前、テレビで24時間ニュース局をつけっぱなしにしていたら、女には何かの仕事はできやしない、みたいな発言をした男性がいた。何かの専門家だったように記憶している。すかさず司会者の男性が「それはどういう意味か」と厳しく突っ込んだら、あわてふためいて弁解していた。自分の社会生命の危機を感じたのだろう。
岡村氏に限らず、政治家でも実業家でも、日本は差別発言が言いたい放題の、たいへんレベルの低い国である。この日本社会が、岡村氏の発言をうんだ。以下に示す世界の統計を見れば明らかだ。
男女平等度121位の悲惨
世界における日本のレベルの低さをご存知だろうか。
ダボス・フォーラムの主催者で有名な「世界経済フォーラム」は、「世界各国の男女平等の度合い」(ジェンダー・ギャップ指数)を発表している。
2019年、調査対象153カ国のうち、日本は121位だった。最低クラスである。
106位の中国より低いのだ。意外かもしれないが、旧東側の国は、共産主義の「平等」思想のため、男女の平等は結構進んでいる国がある。
経済大国でG7に属する国なのに、ありえないほどの男尊女卑社会である。
筆者は日本に帰るたびに、一番強く感じるのが「男、男、男で気持ち悪い」である。
もはや疑問に感じるとか怒るとかいうレベルではなく、心身が気持ち悪いと感じるレベルなのだ。「これが世界121位の光景だ」と強く思う。
どう説明すれば、わかってもらえるだろうか。
昭和の復興期のころは、中年男が「パンパン」と呼ばれる女性の体をなでまわしながら、昼間でも平気で天下の公道を歩いていることがあった。これが現代にあったら、批判以前に「うわ、ありえない、おぞましい・・・」と思うだろう。それと同じ感覚、と言えば伝わるだろうか。
日本の会社の飛行機に乗って帰ってくる。フライトアテンダントは、若い女、女、女・・・。西欧のエアーなら男女半々くらい(やや女性が多いくらい)だし、年齢の幅がある。これは旅行でご存知の人も多いのではないか。
テレビを見て、ニュースで政治の場面、経済の場面が映る。男、男、男。日本人の半分は女性なのに。たまに映っている女性は、秘書か通訳。西欧ではもう失われてきている、珍しい光景だ。
有名大企業や有名大団体の受付に行く。必ず若い女性が、制服を着て数人座っている。男を見たことがない。しかも全部若い女性である。日本に帰ってこれを見ると、体が反応してギョッとする(知っているはずなのに)。
確かに受付業務は、西欧でも今でも女性が多い職業ではある。でも、三人もいれば必ず一人くらいは男性だし、年齢ももっと幅がある。
以前東京で、超有名な場所の受付で働いている女性(26歳)に言われたことがある。「最近、恐怖を感じています。『お前はもう年だから、そろそろ辞めろ』っていう圧力を感じるんです。私は働き続けたいのに。お願いです、私は言えないから、年齢差別を訴えていただけませんか」と。
なぜ女性が、年齢だの容姿だの、こんな基準に縛られて、さらされなければならないのか。女性はモノではない。
女性が幸せではないのなら、男性も幸せなわけがない。こうして両方にとって不幸なのが、現代である。特に若者はかわいそうだと思う。
繰り返すが、これは異常である。世界で121位という、後進国の光景である。
日常レベルの侮辱
岡村氏の発言に、我ながら細かい批判をするのなら。
「コロナが明けたら、なかなかの可愛い人が、美人さんがお嬢(風俗嬢)やります」「3カ月位でパッと辞めます」と言った。
「可愛い人」「美人さん」って何だろうか。日頃から風俗で働いているような女は、かわいくもないし美人でもないと言いたげである。散々風俗を利用しておいて、この侮辱は何だ。二重の女性蔑視が隠されている、と思わずにはいられない。
でも、この程度の侮辱は、日本では日常で起こっている。まじめな顔で平気で差別発言をする政治家から、「お笑い」という免罪符をつければ何を言ってもいいと思っているバラエティまで。日本は公の場で堂々と言われている。メディアで問題なく流されている。腐っている。これらが職場で、大量のセクハラ上司を生む。
日本人の一部の男性は(女性も)「そんなの、男なら誰でも思っていることだ」と言うかもしれない。違う。社会が変われば、人は考えることが根本から変わる。これは、超後進国の日本の「常識」である。海外が長い筆者が断言する。日本の常識は、世界の非常識である。
インドで、ヒンズー教の活動家数十人が、新型ウイルスから身を守るために「牛の尿を飲むパーティー」を開いた。
ヒンズー教では、牛は神聖な動物。彼らは心から「牛の尿は万能薬」と信じている。「これが体に良いのは常識だろう。なぜ批判するんだ」と言うだろう。彼らの常識は、世界の常識だろうか。
胸なんてシリコン入れて大きくする必要ない。目をぱっちりと整形する必要は全くない。女性はみんな一人ひとり違い、みんなそれぞれに美しい。男性が、収入や地位に関係なく、みんなそれぞれの良さがあるのと同じように。
個人の問題?
ナインティナインの相方である矢部浩之氏の説教も、全部聞いた。
危惧しているのは、「この発言は、岡村さん個人の問題」にして、収束してしまうことだ。
世の中には大変頭の良い人達がいるので、彼個人の人格問題に落とし込んで、自分に火の粉がかからないように、自分の会社や業界に類が及ばないように、上手に巧妙にシナリオを描いているのではないかと疑っている。
ニッポン放送の問題発言の回で、あの発言をした岡村氏の後ろで、大笑いで笑っているスタッフがいた。ツイッターでも多くの人から「不快だ」「同類」とやり玉にあがっていた。芸能界では、新人が入ったとか打ち上げだとか言って、風俗に繰り出す風習が普通に行われているのは有名な話だ。
そういう環境で仕事をさせておいて、問題が起きたら、すべて岡村氏個人の人格のせいなのか。
確かに彼の発言は、芸能界の中でも一線を越えてしまったのだろう。「バブルのネタだ。コロナで使ってはいけない。バブル時代は50万円でケツを触って怒られて、バブルがはじけたら1万円で云々」だの、「公の場でそういうこと言っちゃいけない」だの、みなさん批判しながらも仲良くかばっていらっしゃるようですが。
一人のせいにしておけば、みんな安心できる。責めを負うのも、彼一人。だから「このへんでやめておいてやれ」という力も働く。やりすぎると、真っ黒の人も潔白の人も、自分に波及してくると困るから(完全に麻痺している人、何が問題かすらわからない人も、大勢いることだろう)。会社や業界にまで非難が及ぶと、どこまでも真っ黒だから。業界側からのネット工作があると言われているが、あっても全然驚かない。
これは一般社会でも同じだ。さすがに東京地方では(特に大企業では)、そういう風習はほぼ消滅している。しかし「接待」は別問題、地方と東京地方の格差、業界や職種による格差もある。
こういう古い男たちが跋扈して、セクハラが蔓延している社会だから岡村発言はうまれたのに、「あいつは黙っていればいいものを、口に出して言うからダメなんだ」とばかりに、個人の人格問題で幕引きをはかろうとするメディア界。
まるで子供に「悪いことをしてはいけません」ではなくて、「周りに怒られるからいけません」「あの人達がうるさいから気をつけなさい」と教える親のような、圧倒的なおかしさを覚える。
このまま終わっていいのだろうか。
NHK
個人的な意見を言うのなら、「チコちゃん」にはもう出るべきではない。あるいは、残念だけど番組そのものを一旦終わらせる。
チコちゃんは子供が見ている番組である。そしてNHKだ。
もう個人の問題ではない。NHKは公共放送なので、「日本を代表するメディア」「日本人の考え」「日本人の良識レベル」と外国は見る。
もし彼が「チコちゃん」に出続けるのなら、NHKは彼の発言を許容した、公共放送NHKを支えている組織も政治家も総務省も、「女性の風俗接待が当たり前の人たち、当たり前の組織だから、甘いのだろう」と、判断されてしかるべきだろう。男女平等度がもっと高い国(日本は121位だから、120カ国ある)の人なら、誰もがそう思うだろう。
「犯罪ではない」というかもしれないが、それは日本の中の話。例えば前述したように、フランスならヘイトスピーチと同様に法律違反。「法律違反の差別発言をしても許容されて、公共放送に登場できる国、それが日本」と思うだろう。
それから、このことを英語かフランス語でニュースにするのなら、風俗は「性行為産業」や「売春産業」、そういう所で働くキャバ嬢は「売春婦」以外、今や適当な訳が見当たらないことは言っておく(「違いなんてありはしない、同じである」という考えに基づいていると思われる。政治的に正しい表現なら「性行為産業の労働者」だろうか。)。
さらに言うのなら、岡村氏に「嫁」を探して、「ムーリー!」と両手で大きくバツを作らせるあのコーナー、あれも笑えない。あれはNHKで行うギャグなのか。民放の夜遅くにやるような内容ではないのか。
NHKでは外注が増えすぎて、コントロールがちゃんとなされていないのではないか。外注の中には大変優れた方々がいて、役所体質のNHKに新しい息吹を吹き込んだ。でも、外注の中には害毒も混ざっているのではないか。
なんせ「いいね!光源氏くん」というドラマ(面白い)では、女性主人公の妹は、「ごく普通の大学生でキャバ嬢(=英語で「売春婦」)」という設定なのだ。原作がそうだとしても、キャバ嬢の部分は削るのがNHKではないのか。麻痺している。これがNHKのすることか。
(その後、読者の指摘で、NHKの公式ホームページに以下のように書かれていると知った・・・これを小中高生が見ると思うとゾッとする。おぞましい。親が「NHKならまあ大丈夫でしょ」と思える時代は、とっくに終わっているのだろう。これじゃあ「NHKをぶっこわす」が出現するのも無理はない・・・)
いじめ?
岡村氏が「結婚できない」といじって笑いをとる背景には、結婚したくてもできない男性が日本社会に大勢いることが背景にあるのではないか。
男性の未婚率は、収入や雇用の形態(非正規雇用)と、見事にリンクしていることは、省庁の調査で明らかになっている。
あまりにも悲しい現実である。女性は賃金が低く、仕事も家事も育児もやらされるから、高収入の男性を望むのは無理もないのだが・・・(日本は男女の賃金格差は、OECDの37加盟国の中で3番目に最悪である)。
女性が不幸だと男性も不幸という、見本のような社会現象だ。若い人が特に気の毒である。
そんな中、岡村氏は「結婚できない俺」をさらして笑いをとることで、社会のカタルシス的役割を果たしていたのではないか。強い男だ。誰にでも出来ることではない。
周りは岡村氏の「結婚できない個人」を笑わせるコーナーをつくって視聴率をとっておいて、事件が起きたら起きたで、またしても彼の個人の人格のせいにする。いくらなんでも、岡村氏が気の毒である。まるでいじめである。おかしすぎる。
矢部氏の説教は別問題
誤解しないで頂きたいが、「個人の人格批判」をしたからといって、矢部浩之氏の説教が悪いと言っているのではない。
実際、岡村氏の人間分析という話になっていて、文学的な意味で大変興味深かった。こういうのがあってもいいと思う。
でも、それと、岡村氏の発言を社会的に糾弾するのは、まったくの別問題である。岡村氏は批判されなくてはいけないのだ。その根底にあるのは「道理・筋」であり、「道徳・倫理・モラル」である。
筆者はパリで、様々な国籍の人、大変裕福な人から難民認定の移民まで、いろいろな方に会う機会がある。価値観も様々、常識も様々だ。そういう中で生きていて、「同じ人間だからわかりあいたい」と思うと、「決してぶれない自分の芯」というものが必要になってくる。それが、「道理・筋」であり、「道徳・倫理・モラル」である。
これは、人生にも社会にも、人間として必要なものだ。これがないと、社会は腐るばかりで改革できない。
もちろん、岡村氏だけではない。女性の尊厳と人権を守らない人物は、容赦するべきではない。たとえ権力者であっても。
女性が風俗で働くのが当たり前のような発言は、法律で取り締まって禁止するべきである。風俗とは、本当に女性がたった一人で、誰にも管理されず、自分の意志のみで自由に営業している場合のみ、「職業の自由」として許可されるのなら理解できる。実際、西欧ではこのような方向に進んでいる。女衒(ぜげん)は必要ない。
女性にとって、このような性産業は、昔から「苦界」と言われきた。女衒を蔑む一方で、苦界に身を落とす女性には、優しい視線もあった。人としてだけではなく、社会制度的にもそうだった。
それなのに今では、「苦界」の入り口は明るく大っぴらに、NHKですら平気で放送して加担するようになっている。女性の人生を根本から変えてしまう、隠れた罠なのに。ああ腐っている。
今回は長くなるから書かないが、今から思うと、若い女性を食い物にして、性の相手にしたい汚い男たちが、大人の女性から成年ぎりぎりへ、そしてついに高校生まで触手を延ばした時代が確かにあったと思う。彼らは「女性たちは好きでやっているのだ」という自分たちに都合のよい話を、社会に納得させるのに成功した。
そして、負のスパイラルは今でも続いている。女性はからめとられ続けている。
日本人男が自分たちに都合よくつくった女性像のアダルトビデオ。氾濫しているので、それを日本人の女性が「そうしなければ、いけないものなのかしら」と思って、なぞってしまう。そして「女性が好きでやっているんだ」と世の中に思わせる、男尊女卑のメディア。そして若い男性も「女性は好きでやっている」と信じてしまう――負のスパイラルである。
これと同じ仕組みが、すべての領域で起こって女性蔑視社会を支えている。
社会をどうやって変えるか
どうすれば、こういう社会を変えることができるのか。どうすれば女性を商品化する風潮は無くなるのか。
答えは、極めて簡単だ。
政治家の半分を女性にするのだ。
企業の幹部や管理職もそうしなければならないが、政治を変えれば会社は変わる。
前述の「世界各国の男女平等の度合い」は、経済、政治、教育、健康の4分野で女性の地位を分析し、総合順位を決めている。
日本の順位が極めて低いのは、国会議員に占める女性の割合が日本は約10%と世界で最低水準となっているのが、大きな理由だ。
ここに、もう一つのデータがある。
世界各国の議会で構成する、「万国議会同盟」という組織がある。1889年にジュネーブで設立された。3月8日の国際女性デーを前に、女性の議会進出に関するレポートを公表する。
最新の2019年(2月1日)版によると、日本は全193カ国中、164位だった。女性国会議員の比率(衆議院)は、たったの10.2%だ。
ああ、嘆かわしい。リストを下から探すと、すぐにみつかるのだから。
ちなみに1位はルワンダで61.3%、2位 キューバ(53.2%)、3位 ボリヴィア(53.1%)と続く。
G7の国では、17位 フランス(39.7%)、31位 イタリア(35.7%)、39位 イギリス(32.0%)、47位 ドイツ(30.9%)、61位 カナダ(26.9%)、76位 アメリカ合衆国(23.6%)となっている。日本が先進国とあがめるアメリカは、低い方である。
欧州の国々は、軒並み高い方である。これは、欧州連合(EU)の政策のおかげである。EUは、女性の地位向上と労働者の保護には、ものすごく熱心なのだ。もしEUがなかったら、欧州の女性の地位向上はここまで進まなかっただろうと言われている。「隣人の仲間の国と一緒に切磋琢磨」というのは、たいへん重要なのだ。
欧州では一番優秀なのが、5位 スウェーデン(47.3%)。続くのは12位 フィンランド(41.5%)、13位 スペイン(41.1%)、14位 ノルウェー(40.8%)と続く。北欧が強い。
男女半々にするには
「でも、日本はEU加盟国じゃないし、政治家を男女半々なんて無理」「日本じゃ、あと100年かかりそう」と思うかもしれない。
そんなことはない。政策一つで、一気に変わる。
例えば、フランスの県議会議員選挙では、2015年から必ず男女がペアで立候補する仕組みになった(各党が男女ペアで候補者を立てるということ)。
どの党が勝利しようと、男性一人女性一人が当選する。こうして一気に男女の比率は半々になった。
当時、男女が並んで映っている選挙ポスターがずらっと並ぶのを見て「なんて面白い方法なんだろう。誰が考えたんだろ。すごいアイディアだ・・・!!」と、感心しきりだったのを覚えている。
このことは、2000年に「候補者男女同数法」(パリテ法)ができたからである。日本でも、2018年に党派を越えた議員連盟が提案して、「候補者男女均等法」ができた。でも、フランスと異なり義務ではなく、努力を求めるだけである。
日本の政党がどれほど古臭いか、ご存知だろうか。以下は、各党の女性議員の割合である。
    ーーー 表 会派名と会派別の所属議員数 ーーー
女性なんていないのと同じである。ここが諸悪の根源なのだ。社会を変えるには、ここを変えないといけない。
EU加盟国では、政治が女性議員を増やそうと努力する意識は、環境のためにゴミを減らそうとするのと同じくらい、当たり前になっている。理由は簡単だ。「人口は男女半々だから、政治も男女平等に担おう」である。
会社は自分一人の力では変えられなくても、上司は選べなくても、政治家は私たちが選ぶことができる。
岡村氏の発言は、氷山の一角である。一角も氷山そのものも、なくさなければならない。世界121位という極めて遅れた日本の現状を、正していかなくてはならないのだ。
繰り返すが、女性が幸せではない社会は、男性も幸せではない。女性と男性は敵同士ではない。共に一つの社会に生きる仲間である。  
 
 

 

●ついに「CHIKAN」を国際語にした日本の男尊女卑文化 
「証拠あんのかよ」 浮気を疑われ、30代の夫は、開き直った。
子どもができるまでは、優しい夫だった。仕事が終わると、真っすぐ帰宅し、夫婦仲はよかった。週末は、一緒に買い物に出かけ、掃除や洗濯も手伝ってくれた。
それが、子どもができてから変わった。残業や休日出勤が多くなり、時折、地方出張もある。
取引先の接待も増えてきた。接待中は、自宅への電話もできないという…………
女性蔑視は、他のハラスメント、性加害に通じる
モラハラ、セクハラ、痴漢、風俗その他の性加害は、同根だろう。女性を蔑視し、消費、所有の対象と考えるが故に、性加害に至ると考えられる。
さて、斉藤章佳氏の著書「男が痴漢になる理由」(イーストプレス)によると、痴漢常習者は、痴漢してもいい理由の一つとして、痴漢冤罪の存在を挙げるという。また、自分のしたことを悪いと思っていない。
斉藤氏の知見は、私の数少ない痴漢刑事弁護の経験とも一致する。日本では、7割程度の女性に痴漢被害、1割程度の男性に痴漢加害の経験があるとの調査も存在する。外国人女性の多くが、日本の最も残念な点として、痴漢問題を指摘する。カナダ政府は、日本への観光客に対し、痴漢に対する注意を喚起している。<参照:カナダ政府>
日本居住歴が長い外国人男性も、痴漢に走るようになる
ところで、痴漢加害者の治療に携わっている斉藤氏や、刑事弁護を担当する弁護士の経験、知見からは、痴漢の原因は、性欲というよりも、女性を支配することにより得られる満足と考えられる。
また、日本在住が長くなると、一部の外国人男性は、電車で痴漢するようになる。私も、欧米出身者、アジア全域など、多様な出身国の外国人男性の痴漢弁護の経験がある。なぜ、日本で痴漢が多発するのか。それは、日本の社会的文化的規範に問題があるからではないか。痴漢経験のない外国人男性が日本で痴漢を覚えるのも、それが、日本の「文化」だからではないか。
以上、痴漢には、支配欲や認知の歪みがみられる。痴漢擁護者/応援団も、痴漢を被害者の問題(例えば、短いスカートが原因など)と捉えるなど認知が歪んでいる。
モラ夫にも支配欲、認知の歪みがみられる。モラ文化擁護者/応援団も、モラハラを被害妻の問題(例えば、妻が夫を尊重しない、立てないから夫が怒るなど)と捉えるなど認知が歪んでいる。つまり、モラハラと痴漢には通底するものがある。
より広く、DV、モラハラ、セクハラ、痴漢、不貞、風俗等性加害には、共通性があり、同根と考えられる。その根とは、男性を支配者、女性を従属者と捉えるモラ文化である。
モラ夫ほど、不貞が多い
さて、冒頭の男性に戻ろう。「証拠あんのかよ」は、やましいことを自白しているに等しい。
不貞しているかどうかは、夫自身が知っているので、わざわざ証拠の有無を聞く必要はない。それを確かめようとする意味は2つ。1、証拠の有無を確かめ、シラを切れるかどうか考える。2、決定的証拠もないのに疑うなと妻をけん制するためである。
冒頭の夫は、飲み会や取引先の接待のはずなのに、しばしばシラフで帰宅する。「地方出張」の場合、尋ねても、誤魔化して、宿泊先を教えない。以前は忘れなかった帰るコールをして来ない上に、電話をかけても出ない。夜遅くや朝早く、「上司」から電話があり、突然の「休日出勤」を言い渡されて出かける。
ここまで怪しいと、妻がスマホを点検するのも当然だろう。夫のスマホからは、女性と二人きりで仲良さそうに映っている写真データが数点出てきた。観光地に遊びに行ったらしい。妻が、ツーショットについて問い質すと、「お前、俺のスマホを勝手に見たのか。プライバシー侵害だ」と怒り出す。
挫けずに追及すると、高校の同窓会で、2人切りではなかったという。同窓会の他の出席者の写真を見せてというと、夫は、妻の肩を掴み、真直ぐに妻の顔を見ながら、「俺の目を見ろ、信用しろ」と言った。
この夫は潔白か? 同窓会は本当か?
離婚や不貞の事例を30年間扱ってきた経験から、私は、断言できる。100%に近い確率で、同窓会は嘘であり、ここまでの嘘をつくのは、その女性と不貞しているからである。
この男性は、妻に君臨するモラ夫であった。多くのモラ夫は、チャンスがあれば、不貞し、風俗に通う。それは、女性を消費対象とみるからであろう。
「何度謝ればいいんだ」モラ夫は必ず逆ギレをする
そして、不貞が否定しきれなくなると、モラ夫は、怒り、妻に責任転嫁する。
「俺の苦労も知らないくせに」と怒り、はぐらかそうとする。「俺が浮気したとしたら、お前に魅力がないからだろ」と自らの不貞の責任を妻に転嫁する。
モラ夫の一部は、「悪かった」と謝り、「二度としない」と約束することもある。しかし、多くの場合、この謝罪は、表面的、形式的なもので、心からの反省ではない。謝罪した後に、不貞問題にまた触れると、「何度、謝らせるんだ!」と逆切れするのは、心からの反省がないからに外ならない。そして、遅かれ早かれ、浮気は再発する。
世界に悪名とどろく、日本のモラ夫
現在、先進国において、結婚・恋愛相手として、日本男性の評判は悲惨らしい。確かに国際結婚の相手国は、日本男性は、東アジア、東南アジアが断トツに多いが、日本女性は世界中の国の男性と結婚している。
「Chikan」が国際語になり、日本における性加害が広く世界に知られ始めている。観光客が増えているので、さらに周知のこととなろう。強姦犯人が捕まらなかったり、無罪が相次いだのも記憶に新しい。そして、日本男性が、驚くほどの男尊女卑(モラ夫)であることも、世界に知られている。
日本が、モラ文化を断ち切り、悪評を返上しない限り、日本に将来はない。 
 
 

 

●男尊女卑 
男性を重くみて、女性を軽んじること。また、そのような考え方や風習。
男女平等を否定し、女性を独立した人格とは認めない思想。女性の人間的な劣性を前提に、経済的、政治的、社会的、文化的な差別の存在を容認する。奴隷制社会、封建制社会の段階のみならず、近代ブルジョア革命を支えた人権思想をその基本にもつ資本主義社会においても根強く存在する。
男性を尊重し女性を軽視すること。また、そのような社会慣習。 ※修身要領講演(1900)〈福沢諭吉〉「第八条 男尊女卑は野蛮の陋習なり」
男性を尊重し女性を軽視すること。また、そのような社会慣習。[使用例] これは徳川時代の「男女七歳にして席を同じうすべからず」という男尊女卑の思想が明治新政府の教育基本方針におり込まれたものであり・・・
男を尊び、女を卑しめる(男を重んじ、女を軽んじる)思想や態度のこと。男性側が女性に慎ましさや従順さを求める場合と、女性側から男性に対して引け目や負い目などを感じる場合の両方があり、セクシャルハラスメント、マタニティハラスメント、ジェンダーハラスメントなどの一因となっている場合がある。歴史的には、人類は古代より争いが絶えなかったため、体力や腕力に優れ、戦闘要員としての適性があった男性を中心に社会が営まれてきたこと、狩猟文化から農耕文化に移行する中、力仕事を行う男性が働き手として重宝されたこと、キリスト教やイスラム教の宗教的な価値観などが、男性重視や女性軽視の大きな要因となっている。したがって、このような文化や文明の発展史とは離れたところで生活を営んできた一部の地域では、女性優位の社会が形成されている。また、日本においても、必ずしも男尊女卑が古くから根づいているわけではなく、上記のような戦乱の歴史や、大陸から渡来した儒教の教えが広く普及したことが影響している。
男尊女卑の奥にある心 / 武家社会は、徹底した男尊女卑の社会であったといわれています。しかしそれは、決して女性を軽んじめていたというわけではないように、私には思われます。武家社会にあっては、男性は生命を賭けて戦い、家を、部族を、国を守る存在であり、女性はその家を守り、育む存在でありました。その故に、男性は家を 象徴する存在となり、女性はその家に仕えて、未来を育む存在となっていったのです。父は子供にその背中を見せて生きる存在であり、母はその生命を生み育む存在であることは、今も変わりません。生き方を無言のうちに示して生きる、そんな父親像が再び求められているように、私には思えます。父の大きな背中は、何よりも安心感を与え、子供を健全に真っ直ぐに育てて行くことでしょう。また一方、母の愛は「海よりも深い」といわれるが如く、子供にとっては永遠なる存在です。そう考えてみると、武家社会の男女に対する考え方は、簡単に否定されるものではなく、その精神の大切な部分が現在もなお求められている、つまり未来を生きる人々にも大切な何かを教えてくれるものであるといえるのではないでしょうか。 
 
 

 

●世界の女性差別の現状と未来 
世界の女性差別の現状と未来〜SDGsジェンダー平等を実現しよう〜
男女平等が叫ばれて久しいですが、いまだに女性の身分が低い地域は世界各地に存在します。
持続可能な開発目標(SDGs)では、ジェンダー平等も大きな目標の一つに取り上げています。すべての人が平等に暮らせる世界を目指して、女性差別の現状や解決への課題などをご紹介します。
1.SDGsゴール5、「ジェンダーの平等を実現しよう」とは
2015年に国連で採択された持続可能な開発目標(SDGs)では、「ジェンダーの平等を達成し、すべての女性と女児のエンパワーメントを図る」ことが第5の目標に掲げられています。
エンパワーメントとは、権限や自信を与えるといった英単語であり、抑圧されることなく個人の重要性を認めるという意味合いで使われています。
この目標の中で、人身売買や性暴力の排除、児童婚や女性器切除などの有害な慣習の撤廃など、女性と女児に対するあらゆる差別を撤廃し、基本的人権を守ることが定められました。
これは女性だけのために設定された目標ではありません。女性差別がある社会では経済がうまく発展しないという事実があり、ジェンダーを超えた世界共通の課題といえるでしょう。
2.世界各地で起きている女性差別
世界では、どのような女性差別が行われているのでしょうか。まずは、特に影響が大きいとされる4つの差別をご紹介します。
1.性暴力・虐待
男性に比べて非力な女性は、暴力を受けることが少なくありません。ユニセフによると、女性の3人に1人が性暴力の被害者であるというデータも発表されています。この性暴力の被害者は貧困地域、未成年での結婚が多い地域など、女性の身分が低い場所で多い傾向にあります。 性暴力は多くの女性を傷つけていますが、中でも女児を対象にした女性器切除という性的虐待が国際的に深刻な問題となっています。これは、成人儀礼の割礼にあたるもので、アフリカを中心に多くの社会で行われており、2億人以上の女性が経験していると言われています。 女性器切除を受けると感染症や出血により死亡する可能性があり20カ国以上で廃止宣言が出されていますが、このままいくと2030年までに新たに約1億5,000万人の被害者が見込まれています。しかし、2500年以上続く宗教上の伝統であり、完全な解決にはまだまだ時間のかかる問題です。
2.未成年の早期結婚
18歳未満での結婚を「児童婚」と呼びますが、ユニセフの調査では約7億5,000万人の女性が児童婚をしており、そのうち3人に1人が15歳未満で結婚しています。 児童婚は、就学・就労の機会が奪われる、若年出産で死亡する、パートナーから暴力を受ける可能性があるなどさまざまなリスクを含んでいます。 児童婚の割合はこの10年間で15%減少していますが、アフリカなどの地域では人口増加に減少率が追い付かず、ユニセフの調査によると、2015年時点と比べ2050年までに児童婚経験者は2.5倍に膨れ上がる見通しです。
3.雇用機会・賃金の不平等
女性は雇用の機会を与えられないことも多く、世界中の労働人口のうち、女性の数は3分の1に留まっています。例えば、世界における女性の農地所有割合は13%、女性国会議員の割合は23.7%であり、あらゆる数字から女性の参画が進んでいないことがわかります。また、女性の賃金は男性に比べて低いことも明らかになっています。国際労働機関(ILO)の調査によると、世界的に見ても女性の収入は男性の8割程度にとどまっており、賃金の完全平等を達成した国はいまだありません。
4.教育格差
教育環境においても女性差別は存在し、この傾向は高等教育になるほど拡大します。例えば、世界の初等教育の就学率は男女に大きな違いはありませんが、中等教育では男子の就学率が65%なのに対し、女子は55%と差が開いています。
国や地域によって教育格差が生まれる要因は異なりますが、次のような事例が挙げられます。
・慣習的に女の子に教育は必要ないと考えられている
・女子トイレがないなど教育施設の設備が不十分である
・児童婚のために中等教育以上のことは無駄だと考えられている
この他にも、貧困により女子に教育を受けさせる余裕がない、通学経路に危険な地域があり女子を通わせられないなど、貧困や地域問題によるあらゆる背景があります。次章で詳しくみていきましょう。
3.女性差別の主な原因は文化的背景
世界にはさまざまな女性差別が起こっていますが、宗教や文化的要因が強く影響しています。
宗教的な問題
まずは、女性が不当な扱いを受ける宗教的背景について、イスラム教とインドのダウリー制度の事例をご紹介します。世界経済フォーラムから毎年公表されるジェンダーギャップ指数(男女平等ランキング)では、イスラム教の国々が下位を占めています。イスラム教では女性は男性より身分が低いとされており、女性への暴力や経済的自立を妨げる要因の1つになっています。また、ヒンドゥー教のダウリーという慣習もインドの女性差別において問題となっています。ダウリーは花嫁の実家が花婿に持参金や家財道具を送る慣習ですが、その金額は莫大なものであり、花嫁の家族が払えない場合は、自殺につながるような冷酷な扱いを受けることも珍しくありません。現在ダウリーは法律で禁じられていますが、それにも関わらずインド北部では風習に今も色濃く残り、女の胎児の大量中絶など、大きな影を落としています。
家事は女性や少女が担うものという習慣
多くの国々で「家事は女性がするもの」という考えがあり、こうした習慣も女性の社会進出を妨げる要因になっています。特に、男女の役割分担がはっきりしている貧しい国々では、女性や女の子が薪や水の運搬、食事作り、子どもの世話などを一手に担うため、家事をするだけで一日が終わります。こうした地域では、家事に多くの時間が割かれることで、女性は学校教育や職業訓練を受けられず、雇用の機会があっても就労時間が確保できないなどの問題が生じています。これは女性差別の強い地域に限ったことだけでなく、先進国で共働きをしている場合でも、女性は男性の2.5倍の時間を家事にあてています。
4.女性差別の撲滅に向けて
宗教や風習的な背景もあり、女性差別の意識を変えることは簡単ではありませんが、SDGsで女性差別が取り上げられるなど、世界ではさまざまな取り組みが始まっています。
例えば、国連のUN Women(ジェンダー平等と女性のエンパワーメントのための国際機関)が2014年から行っているHeForSheキャンペーンでは、ジェンダー平等達成に向けた支持を呼びかけています。
HeForSheキャンペーンではSNSでのシェアを通して200万人以上が参加しており、男性をはじめとした多くの人々に、ジェンダー平等に関する活動参加を促す一助となっています。
5.まとめ
世界には女性というだけで差別される人が大勢います。そのたびに女性は何かを諦め、時には命を危険にさらすこともあります。
SDGsの目標「ジェンダー平等」を達成するために、世界にある女性差別の現状や背景を知り、状況を改善するために、すべての人が協力して問題解決に向けて取り組みむことが求められています。 
 
 

 

●韓国の男尊女卑に立ち向かう女性たちの歴史 
ダイバーシティ時代を読み解くヒントを一冊の書に探る「VOGUE BOOK CLUB」最新回は、ジャーナリスト、治部れんげによる『女たちの韓流──韓国ドラマを読み解く』評。世界を席巻中の韓国ドラマを入り口に、同国のジェンダーギャップや格差社会といった社会問題の背景を女性視点で紐解いていく。
韓国ドラマの人気が止まらない。多くの人を惹きつける理由のひとつが、恋愛、ミステリー、ファンタジーといったワクワクするエンタメの中に社会問題を織り込んでいることだ。3月に「愛の不時着」のレビュー記事で書いたように、ジェンダーの観点から見て斬新な作品も多い。楽しく見ながら「同じ問題は日本にもあるな」とか「韓国の母親の息子への執着はどこから来るんだろう」と考えていた。
山下英愛『女たちの韓流―韓国ドラマを読み解く』(岩波新書)は、韓国ドラマが描く社会問題やその背景に関心を持つ人にぜひ読んでほしい本だ。1990年代後半から2011年までに韓国で放送されたドラマ25本を、女性学と韓国文化論を専門とする研究者が分析し、楽しく分かりやすく解説する。
全7章で、貧困や暴力といった構造問題、日本にも通じる男女の性別役割、少子化、そしてリーダーとして活躍する女性たちというテーマに分けて作品自体の面白さと、そこで描かれる社会問題について、歴史を遡って記している。出版は2013年だが、今、なお読むべき普遍的な内容だ。
例えば、母の再婚を許せない息子の様子を描いたドラマ「波濤」について、著者は次のように記す。
「こうした考えを理解するためには、その歴史的背景として、朝鮮王朝時代に制定された『再婚女子孫禁錮法』(1485年)まで遡る必要があるだろう」(P24)。
この法律は、再婚した女性の子孫が官吏登用試験を受けられない、という差別的な規定だ。夫が死んだら妻は後を追い、性暴力を受けたら女性は自殺することを是とする価値観について解説している。
家父長制と母親たち。
映画『四月の雪』(2005年)で共演した、韓流ドラマブームの火付け役「冬のソナタ」のペ・ヨンジュンと、「愛の不時着」のソン・イェジン。Photo: Tatsuyuki TAYAMA/Gamma-Rapho via Getty Images
2002年に韓国で、翌年日本でも放送されて社会現象になったドラマ「冬のソナタ」も、著者独自の視点で分析している。泣ける純愛に着目した記事は多数あったが、あえてメインストーリーではなく「未婚の母」と「私生児」の物語という角度から読み解いており、深い理解を得られる。かつて未婚女性には親権がないも同然であり、離婚に際して女性は子どもを置いて出ていくのが当然だったそうだ。こうした社会事情を知ると、チュンサン(ぺ・ヨンジュン)の母が、子どもの父親に関する情報を隠す理由を理解できるのである。
女性にとって厳しい韓国の歴史的社会的背景を知ると、2010年代以降の華やかな映像が当たり前となったドラマの中に、依然として強い家父長制が残っているのも頷ける。例えば『愛の不時着』でヒロインのユン・セリは母親から疎まれ、愛情を得られず苦しんできた。それはセリが愛人の子どもであり、生まれたての彼女を父親が勝手に連れてきて正妻に育てさせた経緯が影響している。なぜそんなことが起きたのか、ドラマを見ているだけでは分からなかったことが、私は本書を読んで初めて納得した。
また、子どもの恋愛に過剰に介入する母親たちという、韓国ドラマお決まりのモチーフを理解する手がかりもある。財閥と貧困層といったような格差恋愛に限らず、中流家庭の母親も子どもの恋愛相手の家柄を厳しく値踏みし、時に人権侵害のような酷いセリフを口にする。背景にあるのは、男性の経済力、学歴、家柄が家族の社会的地位を規定する仕組みだ。本書には、この点において韓国社会が大きく変わる際、ドラマが果たした役割も記している。
特に、家族の姓を受け継ぐ長男を優遇する戸主制度は、家庭内では娘に対する差別的な取り扱いを、そして社会ではシングルマザー家庭に対する差別など、さまざまな社会問題を引き起こしてきた。当然のことながら、女性団体や市民団体は長年、関連法の改正を求めてきた。
本書によれば、日本が「冬ソナ」ブームに沸いた2003年、韓国では「戸主制度の廃止」が大統領選挙で話題になるほど注目を集めていたという。そして、社会の関心を反映するドラマは、戸主制度の問題を正面から扱った。
エンタメ性と社会問題提起の融合。
第3章「母親の権利を求めて」では、「冬のソナタ」「あなたはまだ夢見ているのか」「黄色いハンカチ」「がんばれ!クムスン」という4本のドラマを分析することで、男尊女卑撤廃に向けて大きく舵を切る韓国社会をドラマがいかに牽引ないし伴走したか描いている。
コンテンツが社会を反映するだけでなく、公共部門が良きコンテンツを表彰する取り組みもある。1999年、金大中政権下で作られた「男女平等放送賞」は、いくつものドラマを表彰してきた(P68)。
つまり、私たちが今、楽しんでいる韓国ドラマの高度なエンタメ性と社会問題提起の自然な融合は、四半世紀以上かけた蓄積ゆえの成果なのである。本のもとになった原稿は、2010年から2016年まで、フェミニズム推進NPOウィメンズ・アクション・ネットワーク(WAN)のウェブサイトに72回にわたり連載された記事がベースになっている。本書未収録の記事も読みごたえがあり、他のメディアには書かれていない新発見に満ちている。
著者は朝鮮半島南部出身の父と日本人の母を持ち、日本で生まれ育ち、日本と韓国で高等教育を受けている。本書の面白さは、日韓両方の社会文化に対する深い理解に根ざしている。両国に共通する男尊女卑文化、それが体制により異なる形で制度として現れ、女性をいかに苦しめているのか。そして女性たちがいかに立ち向かっているのか。経済格差は男女にどう違う影響を与えているのか。
読むうちに日本のドラマに対する期待も生まれてくる。例えば、現在、議論が進んでいる刑法の性暴力規定における「暴行・脅迫要件」の見直しについて、問いかけるドラマが日本には必要ではないか。また、長年の懸案だが実現していない「選択的夫婦別姓」の制度導入を後押しするようなドラマを作ってほしい、といった具合に。ドラマ視聴者だけでなく制作者にも是非、読んでほしい1冊だ。 
 
 

 

●韓国社会は「男性至上主義」に染まっている 
米国芸能界で2017年末から相次いだセクシャルハラスメント(セクハラ)告発の「#MeToo」運動は、2018年1月には韓国にも飛び火し、3月上旬の時点でも拡大が続いている。セクハラにかかわった有名人や大物政治家が相次いで失脚し、自殺者も出た。
韓国人はこの事態の展開に唖然としている。この運動は今後もさらに広がりを見せ、より多くのドラマが展開すると予測される。実のところ、韓国社会でセクハラが昔から広く行われてきたというのは、決して不思議なことではない。「セクシャルハラスメント」を韓国語で言う場合、二つの翻訳がある。
韓国に存在するセクハラ「性戯弄」と「性醜行」
比較的に軽いのは「性戯弄」(言語でひやかしたり体に触ったりするケース)、重いものは「性醜行」(胸や尻を触ったり、スカートに手を入れて太ももを触ったりするケース)。男尊女卑の社会文化や父権主義が強い点で、韓国はアジアでもセクハラの先進国だと言える。「男性至上主義」「ショーヴィニズム」が大手を振ってまかり通る国だ。
1980年代、筆者が台湾紙の韓国駐在特派員だった時、なぜ韓国に外で働く女性が少ないのか、なぜ女性は結婚すると職場を離れて家に入って夫と子どもに仕え、外の社会に顔を出すことが非常に少ないのかについて疑問を持っていた。
これに対し、ある華僑が次のように分析したことがある。それは、韓国では職場でのセクハラが非常に深刻であり、若い部下にセクハラをする男は、自分の妻が他人からセクハラを受けるようなところには絶対に行かせないからだ、と。これは確かに道理にかなっているように思える。この分析は、筆者が聞いた中で、さらに筆者の経験に照らし合わせても最も本質を突いた、しかし特異なものだった。
韓国では女性の地位が低く、長期にわたって「男は外、女は内」という社会文化が形成されてきた。たとえば1980年代中期になっても、韓国ではタバコを吸う主婦に対し、夫は離婚を求めることができた。夫が外で働いてお金を稼いで帰っているのに、妻は外で遊びまわり、悪い友達と付き合ってタバコを吸うようになる場合、タバコを吸うこと自体が「良家の女性」ではないというわけだ。
主婦がタバコを吸うことが離婚される理由になることを聞いて、私は不思議に思ったものだ。もちろん、1980年代後半からの民主化と社会の開放に伴って、現在の韓国ではタバコを吸う女性も増えたため、タバコが原因の離婚訴訟は、すでに存在しないだろう。
男尊女卑の韓国社会で、女性の地位が低いことがわかるもう一つの事例がある。韓国の男の子は、小さいころから「男子厨房に入らず」の観念を教え込まれる。韓国のことわざに、「男が厨房に入れば、『唐辛子』が落ちる」というのがある。
「唐辛子」とは、男子の性器のこと。男の子は、子どものころから父母や祖父母からこうした観念を叩き込まれた。それがいつから始まったことなのか、すでに起源をたどることはできない。しかし、それが韓国の男が持つ「尊大」な性格をはぐくんでいることは否定できない。厨房に入って妻の家事を手伝うような男は職場で同僚から軽蔑され、「女々しい」と見られるのだ。
韓国司法界にも存在する性醜行
とはいえ、このような観念は残っているものの、それもすでに変化している。現在の若い世代の間では働く既婚女性の比率が高まっており、共働きの夫婦が増えている。そのため、帰宅すれば夫婦が一緒に台所で食事を作ったり、あるいは他の家事をすることがすでに普通になっている。そうした男が笑われることはもうない。
しかし、それが普遍的なレベルに達しているかと言えば、そうではない。35歳以上の男性では、家事をしない人がやはり大部分を占めている。このため、韓国で旧世代の陳腐な「男尊女卑」の観念を取り除くには、少なくともさらに1、2世代ぶんの時間が必要だろう。
韓国のこのような男尊女卑の社会文化を知った上で、「#MeToo」運動がもたらした騒ぎを見ると、なぜ韓国が現状のようになったかがわかるだろう。これまで韓国女性は、男性の「玩具」にすぎなかったと言っても過言ではない。そのため今年1月末、ある女性検察官が先輩の男性検察官にお尻を触られたという8年前の「性醜行」をテレビで暴露すると、韓国全土が大騒ぎとなった。
この事件で多くの人たちが不思議に思ったのが、司法は社会正義の最後の防衛線だと考えられているのに、司法関係者でさえ人間の尊厳と性別の平等を無視し、社会の古い風習に囚われて女性の同僚をいじめているということだ。そのような司法が、公正に法を執行するのは難しいだろう。
女性検察官の告発は、韓国社会で論議を巻き起こした。韓国法務省は世論からの圧力を受けて「性戯弄/性犯罪対策委員会」を設置した。この委員長として、文在寅(ムン・ジェイン)大統領は「女性政策研究院」院長に任命されたばかりの権仁淑(クォン・インスク)氏を指名した。
権仁淑氏は学生だった1986年、民主化活動中に警察に拘束され、取り調べ中に警察官から性的拷問を受けた被害者だ。当時、この事件が明るみに出ると、韓国人全体の憤激を引き起こした。全斗煥(チョン・ドファン)元大統領の軍事独裁政権の下で、警察が公権力を乱用して暴力をふるったことに世論は激怒し、このような悪質な人権蹂躙の不法行為は、翌1987年に軍政という暴政を倒す最後のエンジンとなった。
権仁淑氏は一生の名誉と不幸な婚姻を犠牲にし、性的拷問事件によって女性たちの意識を啓発したのだ。
だからこそ、権仁淑氏が女性政策とその対策組織のトップとして起用されたことは象徴的な意義がある。「女性学」の教育に一生をささげてきた同氏の経験は、韓国女性の自立意識の向上をさらに強化することになった。
ところが、それでも有名人に対する告発はやまなかった。著名な詩人であり、何度もノーベル文学賞候補に挙げられたことがある高銀(コ・ウン)氏が「性醜行」していたことを相次いで告発され、公開の場での謝罪に追い込まれた。
ノーベル賞候補者もセクハラで告発
さらに3月5日には忠清(チュンチョン)南道知事の安熙正(アン・ヒジョン)氏が、女性秘書から「8カ月内に4回もレイプされた」とテレビで告発された。その8回のうちの最後の1回は、「#MeToo」運動が韓国でも広がりを見せ、女性検察官がセクハラを告発した時期だったというのだ。
安熙正氏は「韓国政界の希望の星」とされ、文大統領の唯一の後継者だと考えられていた。
この女性秘書の告発によって彼はただちに謝罪の声明を発表し、知事の職を辞任した。この事件は、韓国での「#MeToo」運動の火にさらに油を注ぐことになり、その火の勢いはますます激しさを増している。
安熙正氏は、その後も別の女性から被害を告発されている。政界の希望の星は隕石のように一瞬にして地に落ち、跡形もなく消え去った。さらにその3日後、今度は有名俳優の趙敏基(チョ・ミンギ)氏が多数の女子学生をレイプしたと告発され、勤務先の大学を解雇された。あげく、本人は3月9日に自殺した。
この事件に、韓国全土はさらなる衝撃を受けた。有名人は、知名度が高まることで束縛がなくなり、自己抑制が効かなくなる。保守的な社会的雰囲気の中で、彼らは告発されることはないだろうと考え、行動をますますエスカレートさせる。
実際には、セクハラやレイプなどの事件は、加害者が有名人かどうかにかかわらず、世界のどの国でも起きうることだ。しかし有名人らは、自分の知名度におごり、権勢をふるって自分勝手なことをやりがちだ。
韓国の「#MeToo」運動によって有名人が一夜のうちに失墜し、さらには命まで落としているのを見て、台湾でもおそらく多くの好色漢たちが不安に駆られていることだろう。
しかし、台湾のそうした輩は韓国と比べるとまだ幸運だ。例えば、映画監督の張作驥氏や政客の馮滬祥氏、文化人の許博允氏など台湾の有名人が告発されて起訴されても刑は軽く、有罪判決を受けても罰金を払って終わりというケースがある。
馮滬祥氏は3年4カ月の実刑判決が確定したが、刑務所に85日間入っただけで病気治療を理由に保釈されている。それなのに、夜中に男女の友人たちを招いて宴会を開いていたというのだ。
台湾にも残る有名人によるセクハラ文化
台湾の女性は、レイプ被害を受けても自分の名誉を守るためとの理由で声を上げたがらない。事が静まるのを待つという態度を示す。そのため、こうした事件が社会に出てくることは少ない。さらに、台湾マスコミの未熟な報道にゆえに、事件が公になると被害者が二次被害を受けたり、あるいは事件の焦点が曖昧にされてしまうことが多い。結果として、加害者は法による裁きを受けることなく、さらにより多くの被害者を出すこともある。
実は、筆者もこのような事件に巻き込まれた。2017年6月初旬、私が講義をしている国立政治大学韓国語学科の非常勤准教授である韓国人・朴在慶(パク・ジェギョン)氏が、3カ月間に多数の女子学生に「性醜行」を行ったとして立法委員(国会議員)が記者会見を開いて告発した。
もともと事なかれ的な態度だった大学側も、これを受けて仕方なく被害を受けた9人の女子学生を引き連れて大学の学校性別平等教育委員会に出向き、被害状況を説明した。実は、この事件が明るみに出る前に、すでにこの事件の解明を求める202人の学生が署名を行い、朴在慶氏が教師として不適任であることを訴えていた。韓国学科の学生だけでなく、朴在慶氏の授業を受けたことがある他学科の学生たちのほとんどが、彼が教師として不適任だと指摘していた。
署名の際に、彼が不適任な理由を書いた学生もいたし、朴在慶氏が授業中に公然と学生の身体やお尻に触ったと指弾した。これは、韓国で言う「性戯弄」よりさらに深刻な「性醜行」に当たる。9人の女子学生のうち彼を告訴したのは、最もひどい被害を受けた2人の学生だけだった。
ところが朴氏は、学生が告訴する前に、被害を受けたこの2人の女子学生を支援していた筆者を、名誉棄損で告訴したのである。筆者は学生が受けた被害の証拠を持っていたため、彼に対して虚偽告訴罪で反訴した。しかも朴氏は、かつて東洋経済オンラインに掲載された慰安婦問題に関する筆者の記事をも取り上げ、「もともと親日反韓な態度で韓国人を攻撃した教授」ということを韓国メディアに流布した。
筆者に対する朴在慶氏の告訴は、検察官から「証拠不十分」と認定され、不起訴処分で終わった。一方、女子学生が彼に対して起こした「セクハラ防止法」に関する告訴は、検察官の捜査を経て正式に公訴となった。3月6日に台北地裁で1回目の公判が行われ、4月中旬に2回目の公判が予定されている。
朴在慶氏はさらに2017年8月、韓国の台北駐在代表部(韓国の台湾における大使館)に「自分は国立政治大学と台湾の司法機関から不当な迫害を受けている」と訴え、同代表部に支援を求めたのである。しかも韓国代表部は、なんと楊昌洙(ヤン・チャンス)代表(大使)の正式な署名入りで外交書簡を台北地検と台北市警察局に送り、朴氏の後期の授業に影響が出ないよう司法当局が「迅速かつ公正な処理を行う」よう要求したのである。
韓国代表部が出したこの外交文書は、実際には台湾の内政と司法に対する干渉であり、台湾司法当局の反感を買うだけだ。しかも、朴在慶氏の「性醜行」事件が発生してから国立政治大学韓国語学科では、すでに彼のすべての授業を停止し、裁判で無罪にならない限り授業は再開させないことになっている。ところが、韓国代表部は朴氏の一方的なウソを聞いただけで外交文書を地検と警察局に送った。これは完全に誤った行為だ。代表部が外交文書を送った後、朴氏は9月初旬に検察から罪状が重大だとして、出国禁止処分となっている。
実は、「#MeToo」運動の火が燃え広がる前の2014年7月、韓国ではすでに重大な「性醜行」事件が発生して全国を驚かせた。ソウル大学数学科教授として有名な教育者とされていた姜錫真(カン・ソクチン)氏が、研究助手兼修士課程生から「何度も性醜行を受けた」と告発されたのだ。
この女子学生は「すべてを失ってもかまわない」という覚悟で告発したのである。ソウル大学は当初は消極的な態度を取り、問題を穏便に済ませようとした。しかし事件がマスコミで報道されると、収拾がつかなくなった。それは、姜錫真氏から「性醜行」を受けた女性たちはこの10年間で22人にも上り、この女性が告発した後にその22人全員が相次いで告発したためだ。ソウル大学は結局、彼を解雇した。2016年1月末、彼は2年半の懲役刑が確定したが、このときには「#MeToo」運動のような広がりは伴わなかった。
教育界に根深いセクハラ
この姜錫真氏による「性醜行」事件は、韓国人なら周知の事実だ。国立政治大学のセクハラ教師である朴在慶氏も、台湾に来る前にこの事件を知っていたはずだ。しかし、それでも彼は、台湾の女子学生に手を出した。彼は台湾の多元的な社会文化を知らなかったばかりか、台湾ではすでに女性意識が高まり、女性の地位がアジアでも最も高い国であることをまったく知らなかったようだ。
ただ、男性が自らの父権主義的な優越性によって女性に対して行うセクハラは、台湾ではその多くが隠されてしまい、決して少ないわけではない。大学の学校性別平等教育委員会で最終的に告訴した国立政治大学の女子学生は、9人のうち2人だけだったことを見てもわかるだろう。これには、面倒が降りかかることを嫌がるという台湾女性の態度が見て取れる。実際のところ、自分を守ろうとするこうした女性の心情が、男性の好色文化を助長する温床となっている。
「#MeToo」運動が台湾でも広がることが期待される。特に台湾芸能界では多くの好色漢がいて、セクハラ常習犯も多い。このような変質的な人格は、社会正義の力で制裁しなければ、全面的に撲滅することはできない。台湾人は普遍的に正義感に欠ける。だからこそ、より多くの勇気のある女性が出てくる必要がある。それによって起きる騒動は一時的なものかもしれないが、社会文化を救い矯正する意義は永遠のものになるだろう。これは台湾だけではないはずだ。 
 
 

 

●日本の性差別を禁止する法律 
男尊女卑は、広くいえば「性差別」に関する問題である。日本では、次のような法律が性差別の禁止に関係する。
日本国憲法 第14条(法の下の平等)
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
教育基本法 第4条(教育の機会均等)
すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
男女雇用機会均等法 第5条
事業主は、労働者の募集及び採用について、その性別にかかわりなく均等な機会を与えなければならない。
男女雇用機会均等法 第6条
事業主は、次に掲げる事項について、労働者の性別を理由として、差別的取扱いをしてはならない。
一 労働者の配置(業務の配分及び権限の付与を含む。)、昇進、降格及び教育訓練
二 住宅資金の貸付けその他これに準ずる福利厚生の措置であつて厚生労働省令で定めるもの
三 労働者の職種及び雇用形態の変更
四 退職の勧奨、定年及び解雇並びに労働契約の更新 
 
 

 

●日本での男女不平等問題の歴史、現状、そして今後の展望 
1.はじめに
「ね、日本の男ってさ、女に変なところで要求高すぎじゃない?」気まぐれなのか、放課後の帰り道に、夏休みに東京大学の研究所で働いた女性友達がこう呟いた。
「え、なぜ?」
「だってさ、食事の時ちょっと服を汚したら、ラボのメンバー達にだらしないって言われたし、座る時も足を少しだけ開いたのに指摘されたもんね。」
「そりゃそうだろ、日本人のそういう何事にも気を配るとこって惹くよな。実験や勉強だってそうだろう?どう、厳しかった?」
「いいえ、これが一番不思議なのよ。仕事があまりうまく進んでないのに、教授がちっとも怒らなかったもん。ラボの男全員が叱られて罰を受けたのに、私だけが何もされなかったよね。」ちょっと困惑した顔の友達は語り続けた「実験が捗らないことは許してくれるのに、マナーと女らしさには随分厳しいよね …」
「へ…」これはびっくりした。だが、あの時の私はこの状況を「女性に対して有利だ」
としか認識しなかったのだ。
「私、絶対日本の会社で就職しないもん。」希望の就職先を尋ねられたら、高校時代のクラスメートは一瞬の躊躇もなく、はっきり日本をリストから外した「どれだけ仕事を続けたいとしても、結婚したら育児のために会社を辞めるしかないの。そんなの嫌だ。」
「日本の女の子ってかわいそうだわ。なんと、不本意ながらも、夫と一緒に暮らさねばならないのよ。子供のために家庭を維持するしかないんだもん。しかし、一旦子供が自立して、夫が廿職したら、すぐでも離婚して自由になる奥さん達もよくいると聞いたわ。」
小学校から大学まで、昼休みの時間によく聞く話題の一つだ。
「うわっ、なにそれ、怖っ!」
「そんなの嘘って決まってんだろう。」
「でもうちの親もそう言ってたわ…」
何歳になっても、この話題に引きつけられる若者達はたくさんいる。決して絶えることもなく、この噂はいつも誰かに流され、みんなに討論され、批判され、そして最後さらに世間に広まる。
そう、よく聞くのだ、こういう話。日本での性差別は友達や家族からだけではなく、いろんな国のテレビのニュースでも多く言われていて、もはやまるで特別な社会文化現象になったみたいだ。最初は根拠のない伝説だと思った幾つの流言も、ネットで調べたら実際存在していると確認した。それとともに、私の友達が違和感を感じた理由もついに明らかになった。まず、日本では、無意識のうちに、性差別意識が形作られるような教育をしていることが多い。女の子は幼少期から女らしさ、男の子は男らしさを身に付けるべきだと教えられる。学校でも職場でも男性と比べて、女性は自分の能力や知識より、女としてのアイデンティティが社会で重視されている。結果として、男性と女性を評価する標準は非常に異なっているため、男性でも女性でも不満が生じやすいことになる。次に、現状では働く女性の約 6 割が第一子出産を機に離職している。女性の育児への会社側の配慮が足りていなさそうだ。最後に、 仕事一筋、無趣味だった夫が定年廿職したら、自分が 1日中こき使われる可能性が高いと判断した妻は、大変なストレスを感じるようになることが多い。廿職後に離婚するのは、妻が主人在宅ストレス症候群を避ける方法でもあるが、子供の自立と結婚をきっかけに、「自分も第二の人生を体験したい」、「自分の人生をようやく楽しめる」という考えを元に離婚する男性と女性も多いらしい。
さらに、FORBES 調査によると、日本では 67%の女性が「自分の夢や望みを完全に達成するための自由や、男性に対する完全な平等を得ていない」と答えた。 不満を抱く女性の予想以上の割合とこの前の調査から得た資料はとても興味深いと思ったので、日本の男女差別問題をもっと深く探ることにした。すると、私の考え方がいかにも浅はかで、無意識に女性としての偏見を持っていることに気ついた。実際のところ、女性だけではなく、男性側にも性別による不公平な扱いが多いことが分かった。さらに、男女不平等の裏に歴史、教育、社会環境、民族価値観など様々な要因が隠れているため、客観的な結論に辿り着くには、男性側の意見と考えを含めて、多様な視点で全面的に調査する必要がある。では、日本での男女不平等問題の原因、歴史、そして今後の展望はどうか、詳しい調査の結果をご覧下さい。

 

2.日本での男女不平等問題
2.1.男女の地位の平等感はどうか
初めに、男性と女性が性差別の現状をどうかを覗こう。男女の不公平感の実態を調べるために、オウチーノ総研は2015年7月17日から7月22日まで、20〜69歳の男女864名を対象に、インターネットによるアンケート調査を行った。調査によると、男性といい女性といい、各々の性別による「生きやすさ」と「生きにくさ」を実感することが多い。
まず、男性と女性それぞれに「世の中で、(男性回答者の場合)男性 /(女性回答者の場合)女性に対して不公平と思うことはありますか?」という質問をした。結果、53.1%の男性が「男性が不公平な扱いをされている」と思っており、56.1%の女性が「世の中が女性に対して不公平」と思っていることが分かった(図1−1)。異性と比べて不公平だと感じている人の割合は、男女で大差がないことはかなり予想外だ。
次に、「特にどういった面で不公平と感じますか?」という質問に対して、男性の答えが最も多かったのが「仕事」の 28.4%、「サービス面」の 27.5%、そして「社会的役割」の 16.2%だった。一方女性の場合、最も不公平と思ったのは「家事」の 43.2%、「仕事」の 36.6%、そして「育児」と「収入面」の 30%だった(図1−2)。面白いことに、観点が異なるが、男性も女性も「仕事」上の性差別に不満がある。男性側は「きつい仕事を任されるから」や、「要求される責任が重いから」などで不平を感じた。一方女性は、「能力ややる気があっても認めてもらえず、昇進の機会が少ないから」や、「同じ仕事をしていても、男性の方が給料がいいから」や、そして「女性だとなめられるから」などの理由を述べた。興味深いことに、例え女性が出産と育児のせいで仕事のブランクが発生して、それによって男性が管理職になる機会が増えたとしても、それは女性から見れば昇進の機会減少と映り、反対に男性から見れば重労働と映ることになる。いずれにしても、男女ともに異性と比べて仕事上の不公平を感じてしまう。「働く環境を整えるべきではないだろうか」という提案がありながら、具体的にどんな方針を採用するかは難題だと思う。職場の性差別については、またセクション2.3で詳しく説明する。
続いては、「(男性回答者の場合)男性で /(女性回答者の場合)女性で得をしたと思うことはありませんか?」と質問した。自分が得をしていると思う女性が 64.3%を占めているが、男として得をしたと思う男性の割合は僅か 33.4%だった(図1−3)。さらに「特にどういった面で得をしたと感じますか」の回答によると、男性が最も多く選択したのは「仕事」で 31.9%、次に「身体面」が 22.9%、そして「収入面」が 21.5%だった。一方女性が多く選んだのは「サービス面」の 32.4%、「衣装、髪型、ケア、メイク」の 22.7%、そして「支出面」の 12.2%だった(図1−4)。前にも示されたように、「家事」と「育児」は女性の間に不公平だと感じている人が多い一方で(図1−2)、男性は得をしていると自覚している人が少ない。逆に、多くの男性が不満を表した「サービス面」だが、女性は自分が得をしていることをよく意識している。または女性が不平と感じた「収入面」について、男性は自分が女性より有利なことを察知している。そうして見ると、家事や育児に関して、『女性がやるのが当然だ』という考え方を持つ男性が多いのだろうか。それとも、男性は手伝いをしたけど、女性からは量が十分でないと判断されてしまっているのだろうか。家庭内での男女差別については、またセクション2.3で詳しく分析する。
2.2.歴史上の性差別はどうか
では、日本における男女の社会地位差異はいつに遡れるのだろうか 、その長い歴史を見てみよう。奈良・平安時代には、女性の家族内の地位は男性より高かった。当時の日本社会は母系制社会であるため、子供の養育といい、結婚といい、女性は大きな発言権を持っていた。 若い女性が結婚を決める時にも、自分の意思だけではなく、母親の了承も得ざるを得ないが、その一方父親はその決定権を持つことすらなかったようだ。その上、結婚した後、男性の方が女性の家に通うことになったので、家庭の中心にあるのは女性ということが明らかだ。おまけに、女性は家の名目と財産の全てを受け継ぐ権利があったらしい。面白いことに、古代の家庭観念は至って薄いだと考えられるのだろう。男性は同時に複数の女性と結婚することができるが、昼間に女性も男性もそれぞれの家で農業やその他の仕事をしていたため、一つ屋根の下に暮らせるのが夜僅かな数時間だけだった。その生活の独立性と当時の農業社会を基にして、女性の家庭内の地位は決して夫より劣らなかった。さらに、古代において巫女は神の声を聞くことができると思われていたため、女性の宗教的な地位も随分高かったらしい。しかし、社会的地位について、女性はやはり男性に敵わなかった。大臣や朝廷の役職を務めていたのは全て男性だったし、社会的地位も父親から息子へと受け継がる形になったようだ。これにより、古代から女性の社会進出は男性より少なかったのだろう。
続く鎌倉時代から室町時代までの女性は、依然と宗教的に神に近い神格を持っていると思われていたが、武士という戦闘集団の成立により、女性が男性の家に入るという結婚形式が成立した。従って、家を守り、領地を管理し、使用人をまとめることなどは妻の役割となった。要するに、男性ではなく女性の方が結婚相手の家に入ることで、家庭内における女性の力が弱まった。けれどそれと同時に、女性の社会進出が増えたらしい。この時期には武士の鎌倉幕府でも、朝廷の貴族の間でも、女性が政治の実権を握る姿が見られるようになった。加えて、商売での女性の役割も重要だったらしい。例としては、中国から輸入した蚕を育て、絹糸をとり、絹織物を作り、そして街の市場へ持って行き、売って儲けることは、女性だけの仕事であり、また権利でもあった。社会の中で活躍する女性の姿は、いろんな絵などにも描き残されているようだ。男に対しても女に対しても、この時期はまさしく古代から現代への架け橋だった。
その後訪れたのは、「男尊女卑の風が強い」と言われる江戸時代だった。江戸と言えば、「吉原|遊女」、「三下り半」、「女性が虐げられている」などの印象が強い。大河ドラマによく出る「三下り半」という 3 行半に書く離縁状、女性はそのたった一枚の紙切れで簡単に離縁されると言う 。おまけに、この「三下り半」は離婚届けであって女性への再婚許可でもあった。「貞女二夫に見えず」という貞操観念が強まった江戸時代には、夫から差し出した「三下り半」がないと女性は自らの意志に関わらず、離婚を申し出ることすらできなかった。極端な場合は、戦争未亡人が再婚することも出来ず、子供を抱えて辛抱するという話もあった。以上の家制度から見ると、女性が与えられた選択肢は極めて限られていた上に、家庭内の地位も低かったらしい。
ところが、堅苦しい結婚・離婚制度は確実に存在していたとは言え、女性全員が惨めな生活を开っていたのだろうか?ドラマやメデイヤが放开したのは紛れもなく当時の社会の実態なんだろうか?資料を調べたら、これについての反論もあったようだ 。まず、江戸時代の男性は自分の女房が気に入らなくなったとしても、軽々しく追い出すことが出来ないのだ。男性が三下り半を突き付けても、それに対して女性の方が「返り一札」と言う受領書を書かなければ離婚は成立しなかったのだ。もし男性がこの返り一札を受け取らずに別の女性と結婚したりしたら、重婚の罪で追放刑となるのだった。しかも、結婚の際女性は男性のために持参金を用意したから、もし夫が離婚を申し込んだら、法律によると持参金は全部妻に返すべきだったのだ。と見ると、確かに江戸時代の女性は家族内の主導権を握っていないが、それでも社会は最低限、女性の意思を尊重したわけだ。
おまけに、「三くだり半と縁切寺」を書いた高木さんによると、武士階級にあっては、妻は持参金を背景に強い発言力を持って、離婚を厭わなかった。江戸時代の武士階級の離婚率は10パーセントという高率で、しかも女性の再婚率は50パーセントを超えていた。江戸時代の離縁状は妻にとっても夫にとっても法律上の要件に過ぎないから、建前として使われていただけで、家庭内の実態とは全く無関係だ。夫から追い出されたより、夫婦双方での協議離婚の方が主流だった、と高木さんは述べる。さらに、「武士の娘」を書いた杉本さんによると、妻は家族全体の幸福に責任を持つように教育されていたため、自ら判断して一家の支出を司っている。夫の働きにより、妻は銀行家または財務大臣で、財布を握っているということは強い権力を持っているということだ。江戸時代の頃の女性は前の時代と比べて相続権は無くなったが、独自の財産を持って、加えて家を守るという責任または誇りを持つ以上、女性の地位が低いはずがない、と杉本さんは言う。いずれにしろ、女性の家庭内の地位は確かに前の時代と比べて随分下がったが、メヂイヤに宣伝されたものとは違うようだ。
お次は、江戸時代の女性の社会地位をまとめよう。ご存知の通り、江戸時代には身分制度があり、大きな格差が存在した。幕府が日本を統治し、武士に大きな力を与えた。それ故に、武士は頂点に立っていて、商業従事者がその次で、最後にあるのは農業従事者と工業従事者、という様な順番で身分が固定されていた。各階級が望んだ役割分担はかなり違った為、江戸時代の男女関係を一概に論じるのは不適切と思う。前にも述べたように、武士階級での男女の役割は三つの階級の中でも一番異なっているとも言える。なぜなら、武士も家柄によって決まる身分制度の一つだったが、たとえ武士の家系に生まれても女性は武士となることは出来ず、生まれた時点で男性より地位が劣っているからだ。そもそも女性の体力と武力は男性に劣る為、武士としての役目を果たせるわけがなかった。 それによって武士階級では、男性は一門の誇りと国の威信をかけて 外で戦って、それと同時に、女性は主人の武士道精神を貫くために家の中で家族の誇りを守ることになった。武士階級の女性はほとんど社会進出しなくて、読み書きの能力を身に付け、琴や茶道を学び、優雅で誠実な奥さんになることを目指した。
次に、商家では誇りや規定より、社会資源を最大限に活用し、商売を成功させることが重要だった。商家の女性は、武家ほど重い家族責任を負わなくて済むが、一族におけるそれなりの期待を背負うこともあった。男性はいかに努力しても商人から武士への昇進は不可能に近いが、女性はそういう機会があった。武家の使用人になれば社会地位が上ることになる、それを狙って、もし商家に美しい娘がいたら、両親はその娘に昇進の希望を託すことが多かった。経済力のある商人は学費を払って自分の娘に書法や三味線の授業を受けさせて、将来武家に仕えられるように育てた。もちろん、全ての商人に美貌を持つ娘がいるわけではないので、昇進を目指したのはほんの一部の商人でしかなかった。普通の商家では、男女に関わらず多くの子供が寺子屋に通って、読み書きと算数を身に付けた。ある程度まともな教育を受けた為、成人した女性は家での管理役であり、夫の補助役でもあった。家で留守番するだけではなく、夫や父の側で働いて家族企業を支えることも多かったらしい。
最後に、独立性が高い農家では、努力して農業を営むことが重要だった。奈良時代と似たように、家庭内でも仕事上でも男女はともに力を合わせた 。女性は絹織物の生産と販売に集中して、一方で男性は柴狩りと木炭販売に励んだ。
三つの身分を比較すると面白いことに気づいた。江戸時代では、家族の身分が高ければ高いほど、男女間での分担と権限がはっきりしていた。つまり、農家の男女関係は奈良・平安時代と、商人家の男女関係は鎌倉時代と似ている。他方、武家は男女の社会的地位の違いといい家族内での躾といい、江戸時代は昔のどの時代とも大きく違っていた。体力と武力を使う侍の世界は男の世界とも言える。武力を優先したことによって、世の中での女性の活動と進路は限られていた。言い換えると、国と社会が重視しているものは男によってしか与えられないので、たとえ女性がいかなる能力と魅力を持っていても、時代の求めに応じないならば社会地位は自然と下がってしまうということだ。
これからは私なりの考えだが、時代とともに男女役割が変化した原因を述べたいと思う。まず、古代史から始めると、女性が家族の世話を焼き育児をするのは生物としての本能だと思う。女性が男性より家事と育児に向いているのは事実だ。動物の世界では、極めて少ない一部の動物を除き(ペンギンやその他)、子供を育てるのはほぼ全部雌の方だ。日本だけではなく、古代の世界の全ての文化と地域で人間は動物におけるこの原始的な生活パターンに従っていた。女性は果物収集と洗濯、男性は魚狩りと柴刈り、分野は少し違っていても男女はともに働いた。どっちが欠けてももう片方は生きられない、だからこそ両方の仕事は平等だった。さらに動物と同じように、家族の中心にあったのは育児に対して経験豊富な女性であって、その一方村や地方を導いて統治するのは領地意識が高い男性だった。どっちかが偉いとかどっちかが劣っているではなく、両方が背負った責任は表と裏みたいにお互いを補完していた。これにより、奈良・平安時代では、家族内と社会での男女の地位はほぼ平等だった。しかし、時代とともに経済の多様化が進んで、この原始的な社会を変えてしまった。生活の範囲が広がり、情報量が増え、より多くの新しい知識と技術が日常生活に溶け込んだ。家にこもって家計を管理する女性といろんなところを頻繁に出入りする男性、両方を比べたらやはり男性の方が社会での最新情報に詳しいのではないか、と私は思う。もちろん、良好な隣人関係を築けた女性もいろんな情報交換をしたかもしれないが、家庭を守るには時間と精力がかかるので、最初からもう男性に負けていると思う。中世にも優れた女性は何人もいたが、一般的に言えば、結局男性の方が知識も技術も圧倒的に多いので、社会進出も女性より多かった。昔は夫と妻、どっちの力が欠けても経済的に苦しくなるが 、中世の幕開けの鎌倉時代には、この対等な関係は崩れていた。
夫の稼ぎは時折妻の何倍でもあった以上、妻の仕事は重要とされていなかったのではないだろうか。当然先にも書いたように、鎌倉時代では女性の参加によって商売が盛んでいたが、男性と比べたら当てにもならないと私は思う。経済力があることは主導権を握ることとも言える、従って社会的にも家庭内でも女性の地位は確かに古代と比べて下がっていた。この現象は江戸時代の武士階級に一番明らかだと思う。武士の社会が求めるものは男性しか与えられないので、女性が表舞台で活躍する例は少ない。武家の女性の特徴は「家庭的なこと」と「勇敢さ」だった。家庭的と言えば、武士が主人を守るのと同じように、女性は自己否定しながら、 自分の全てをかけて家族を守った。武家の女性が受けた教育は決して少ないわけではなかったが、それらは社会に役立つための教えではなく、女性が客を接待する側の担当者として一家の恥を晒さないように教われていた。音楽、和歌、踊り、茶道、文学、それらを全部身につけるには女性の一生もかかるのだった。さらに、武士階級の女性たちは儒教と仏教に男尊女卑の価値観を押し付けられていて 、男の命令ならなんでも従うべきというように教えられていた。武家女性の「勇敢さ」というのは、成人した女性は女性用の武芸を学び、短刀を使えるように訓練されたことだ。いざとなったら、汚れないように自分を守る、または自殺する為に武芸を身に付けた。それらによって、武士の妻の存在意義は、自己を犠牲にしても家の誇りを守ることだったらしい。逆に、商業階級と農業階級の女性の役割はそこまで極端的ではなかったし、夫とともに外で働くことも普通だった。それは、社会がそれぞれの階級に期待しているものが違う からではないだろうか。武士階級では、女性は武力と体力を使う仕事を果たさないからこそ、家の中に閉じこめられる形になったのではだろうか。
私から見ると、男女の役割分担は大きく社会の期待に左右されている。農業社会から商業または工業社会への転換によって、女性への期待は下がっていた。最初は大きな差がなかったかもしれないが、社会が女性に期待していないため、男性に比べ女性に与える情報や知識、そして社会資源なども減り続けた。女性はこの不平等によって、無論仕事では男性に敵わなかった。それが「 女性は社会に向いていない」という世間の偏見を生み出し、女性への投資と支持はさらに減った。この悪循環が長く続き 、やがて女性と男性の間には社会での大きな差が出てしまったのだ。 
 
 

 

●日本女性の社会地位に関する歴史
はじめに
日本に来る前に面白い意見を聞いた。一番いいと言われているのはアメリカの給料をもい、イギリス風の家を持ち、中国人の調理師を雇い、日本人の奥さんがいるということである。つまり、この四つの条件を満たすと、成功した生活が送れるようになるという意味だ。そういう視点をよく考えてみると、どうして日本女性はいい奥さんというイメージを持つか、日本女性の生きがいは家族だけなのか、現在の女性の社会地位は昔と比べると、うか、という質問に答えたくなった。それで、『日本女性の社会地位』というテーマ、研究したいと思う。
本論ではこの三つの特徴を中心にして考えるつもりだ。
1 古代~中世の女性
2 現在の女性の社会地位
3 他国と比較して、ジェンダー問題
まず、古代日本の女性たちはどのような社会的な立場に置かれて毎日の生活を送っていだろうか。家族的、社会的、宗教的、それぞれの面に興味がある。
そして、現代の状況を調べるつもりだ。現在の日本には、男性と女性は法律上、平等だ。男性と女性の家族的、社会的権利を決めているのは、日本国憲法であり、また民法だ。いずれも、男性、女性、両性の平等を宣言している。しかし、今までの生活習慣や社会の変化などによって、男女の関係は様々な面でいろいろに変化する。
それ以外に、アメリカや、ヨーロッパなどと比べて、女性たちは男性と同じ社会地位を占めるための難問を克服しなければならないという問題を表わすと思う。
このように、本、インタネット、マスコミなどを使用して、データを集めて、『日本女性の社会地位』について書くつもりだ。

 

1 女性の社会地位の歴史
1.1 日本古代の女性 (奈良平安時代の女性)
初めに日本古代において男女の社会地位はどうだったかを観察してみよう。その時の家族は女性中心に動いていた。男性は 15−16 歳になると結婚相手の女性を探した。自分で探すこともあるし、親や知人が探してくれることもあった。相手の女性が賛成すると、生活は女性の家で行うようになった。それも、男性が夜に通ってきて朝には帰った。昼間は、男性女性ともに、それぞれの家で働き、農業その他の仕事を行うのが普通だった。
結婚したことを公表したいときは、次のような儀式もあった。男性が3日間連続して女性の家に通い、3日目の夜に餅を食べ、朝妻の両親や家族に正式に顔を見せるのだった。
男性は女性の家に通っていても、やがては同居した。疲れるとか、年をとって体が弱っきたとか、いろいろな理由があった。途中で相手の女性が嫌いになる、逆に相手の女性がもう来ないでくれ、ということになれば結婚生活は終わった。男性は新しい女性のもとに通うこともあった。
そのことから判断すると地位的には女性の方が高かったと考えられる。以下の子供の養育、娘の結婚、宗教上の地位からすると、その時の日本社会は母系制社会だったということが明らかになる。
子供の養育
生まれた子供は女性とその親や兄弟が育てった。従って子供は母親の家族のなかで育ついうことになった。母系制社会ということになった。男性は複数の女性の家に通うこともあった。しかしそこで生まれた子供たちは、母親が異なり一緒に生活して育つわけではないので、兄弟としての意識が育たなかった。そのためだと考えられるが、父親が同じでも母親が異なれば結婚の対象となった。
娘の結婚についての発言権
また若い女性の結婚については、完全に自分の意志だけで決めるというわけにはいかなかった。相談相手がいた。それは母親だった。父親は娘の結婚に口を出せなかったようだった。しかし時代が進み、8世紀、奈良時代の途中から、父親が娘の結婚相手について決定権を持つようになってきたといわれている。家族生活において、それだけ夫あるいは父親の権限が強くなってきたということだ。
女性は家屋を受け継ぐ
この他、家は女性が受け継いだと考えられている。名目、所有とともに、女性が親からの家屋をもらった。男性ではなかった。そして極端にいえば、女性は一生その家から動かなかった。結婚して家を動くのは男性だ。そのようなことについて平安時代の貴族たちの様子を詳しくみると、男性は入り込んだ女性の家で衣食住の世話をしてもらった。
女性の宗教的地位の高さ
古代において、女性は宗教的に高く評価されていた。巫女は神の声を聞くことができ、また人間の希望を神に伝えることができるのは女性だった。仏教が入ってきてもそれは同じだった。仏教は男尊女卑の世界であるが、日本の仏教ではそうではなかった。仏に神の役割を期待し、尼に巫女としての役割を期待した。だから、中国や朝鮮半島では尼は少ないが、日本古代において尼の人数は非常に多かった。
では、母系制社会の中での男性地位はどうだったかを見てみよう。それは昼間の仕事をしていた。また貴族の例を見ると、大臣や朝廷の役職はすべて男性だった。そして社会的地位は父親から息子へと受け継がれていたのだった。その子供は成長して大人になったら家を出て、どこか女性を探してその家に入り込んだ。
従って、母親と娘はずっと一緒に生活するが、父親と息子は生活が別々だった。しかしもちろん、誰が自分の息子かということは知っていた。そして社会的地位は息子に受け継がせるのだった。
このような情況で、女性が社会的な活動をする、社会的に高い地位について活動するということは殆どなかった。ただ、天皇については、時々、女性の天皇がいた。これは男性の天皇が決められないときに、女性が天皇になったということだった。
1.2 古代末期から中世初期の女性たち (鎌倉室町時代の女性)
古代末期から中世初期というのは 10 世紀から 12 世紀のことだった。日本の歴史の時代区分についていえば、平安時代後期から鎌倉時代初期だった。この時代には興味深い情況がみられる。
第1に、女性は依然として宗教的に神仏に近い神聖な性格を持つと思われていたことだった。第2は、武士の進出によって、女性が男性の家に入るという結婚形式が目立ってきたということだった。武士というのは戦闘集団だったので、男性はふだんから軍隊のように同じ所に集まっていて、すぐ連絡が取れるような態勢でなければならなかった。加えて、男性が戦争にいっているとき、家を守り、領地を管理し、使用人等もまとめる人が必要だった。それはやはり妻であるということになった。それで結婚した夫は、妻に自分の家に入ってもらって、普段から家のなかの管理を夫と妻が協力して行うようになっていた。
夫の家に入るようになると、当然、家庭内における女性の力は弱まった。しかし女性はまだ親から財産を男性と同じように譲られるのが普通だった。だから、夫の家に入っても、自分の親から譲られた財産があったので、夫の家でも大切にされた。それに、夫の家の面倒をみるという役割が加わって、女性の社会的進出も見られるようになった。この時期には武士の鎌倉幕府でも、朝廷の貴族の間でも、女性が政治の実権を握る姿が見られるようになった。
商売での女性の役割について少し調べてみた。中世後期になると商業が盛んになって物を売る商売は男性女性ともに行った。特に女性が行ったようだった。とても興味深いのは、絹と絹織物についてだった。日本在来の蚕、それから中国から輸入した蚕がいて、それを育て、絹糸をとり、絹糸から絹織物を作り、そして町の市場へ持っていって売って儲けるのは、女性の仕事であり、また権利であった。社会のなかで活躍する女性の姿は、いろいろな絵などに描き残されている。
鎌倉幕府を開いた初代の将軍源頼朝の妻を北条政子の活躍をみるとその時代女性の社会地位がまだまだ高かったということが明らかになる。
頼朝は1199年に亡くなるが、そのあと若い息子たちや鎌倉幕府の重臣たちを指揮して、立派に幕府を発展させたのだった。大きな騒動になったが、気に入らない息子の第2代将軍を止めさせ、その第を第3代将軍にしたりしていた。
政子は 15 年にわたって鎌倉幕府を指揮した。夫の亡き後、出家して尼の姿となっていたので、当時の人も後世の人も、彼女のことを尼将軍と呼んだ。
1.3 江戸時代での女性の社会地位
教科書には江戸時代は「男尊女卑の風も強まり、女子には三従の教えが説かれ、これらの傾向は、武士だけでなく、社会一般にもおよんだ」と記述されている。
ましてや『三下半』というと、江戸時代の女性は、落ち度もないのに男の勝手で離縁され、泣く泣く家を追い出される姿がイメージされてきた。(三行半というのは江戸時代のとき男女関係で一つの特徴だった。簡略に離婚事由と再婚許可文言とを3行半で書いたからという、夫から妻に出す離縁状の俗称だ)。
しかし実際の江戸時代の女性の中には、現在の松坂屋百貨店となる松坂屋の 10 代当主ウタのように、20 代前半で当主となって、江戸進出の原動力となるなど、大いに活躍した女性もいた。
「貞女二夫にまみえず」という貞操観念から、日露戦争などの戦争未亡人が再婚も出来ず、子どもを抱えて苦労したという話を聞く。しかし、1799 年までの大名百家、旗本百家での女性の離婚率は約 11%。再婚率も 59%である。現在、日本では離婚が増えたと言われているが、離婚率は平成 14 年でも約 2.3%である。これはいかに江戸時代、離婚、再婚に抵抗がなかったかを示している。離婚そのものについても、夫の一方的な恣意ではなく、今と同じ協議離婚がほとんどであった。
『三下半』がなければ女は再婚出来ないとはよく言われるが、逆に言えばこれを受け取ってもらえなければ、男も再婚出来なかった。元妻が「私は『三下半』を渡されてない」とごねれば、夫には証拠がないので、『三下半』の受け取り証文(離縁状返り一札)を妻に書いてもらう者もあった。反対に、次に自分(夫)に不祥事があったら離婚を認めると、先に『三行半』を書かされた(先渡し離縁状)夫もいる。
もちろん、「江戸時代の女性の地位は高かった」と、手放しで言えない部分もある。例えば先述の松坂屋ウタについても、松坂屋自身にさえ、ほとんど資料が残されていない。地方の企業に過ぎなかった会社が、東京へのメジャー進出を果たして成功したとあっては、普通なら社史を彩る英雄のはずだ。その記録がほとんどないというのは、やはり女性であったためであろうか。
しかし、江戸時代の女性が、みんな虐げられていたのではなかったことは確かである。
1.4 明治時代の日本における女性解放運動
日本では明治政府成立後の 1872 年に発令された芸娼妓解放令や福澤諭吉の唱えた男女同権論、あるいは 1880 年代の事由民権運動における景山英子、岸田俊子らによる婦人解放運動などが、女性解放運動の前史とされるが、反発も起こり十年ほどで急速にしぼんでしまう。
1878 年 (明治 11 年)、区会議員選挙で楠瀬喜多という一人の婦人が、戸主として納税しているのに、女だから選挙権がないことに対し高知県に対して抗議した。しかし県には受け入れてもらえず、喜多は内務省に訴えた。そして 1880 年(明治 13 年)9 月 20 日、日本で初めて(戸主に限定されていたが)女性参政権が認められた。その後、隣の小高坂村でも同様の条項が実現した。
この当時、世界で女性参政権を認められていた地域はアメリカのワイオミング準州や英領サウスオーストラリアやピトケアン諸島といったごく一部であったので、この動きは女性参政権を実現したものとしては世界で数例目となった。しかし 4 年後の 1884 年(明治14 年)、日本政府は「区町村会法」を改訂し、規則制定権を区町村会から取り上げたため、町村会議員選挙から女性は排除された。
政府の反発政策に対して平塚雷鳥ら女性解放運動家が誕生し、政治的要求を正面に掲げた最初の婦人団体である「新婦人協会」もできる。女性に不利な法律の削除運動、女性の参政権獲得運動などがさかんになる。完全な女性参政権の獲得と言う大目標の達成には至らなかったが、女性の集会の自由を阻んでいた治安警察法第 5 条 2 項の改正(1922 年・大正 11)や、女性が弁護士になる事を可能とする、婦人弁護士制度制定(弁護士法改正、1933 年・昭和 8)等、女性の政治的・社会的権利獲得の面でいくつかの重要な成果をあげた。
当時の優秀な女性についていえば、津田梅子に触れざるを得ない。
1871 年 11 月 12 日、岩倉具視という明治政府の有力者の一人に率いられる使節団百余名が欧米に向けて出発した。彼らは、明治政府が欧米に送った最初の使節団だった。日本が欧米の植民地になるのを防ぐためには、近代国家になって経済力・軍事力・文化力などの国力を増強しなければならない。そして近代国家になるためには、欧米に学ぶはずだ。使節団は総勢 107 人という大集団だった。そのなかに欧米各国への留学生が43人入っていた。その留学生のうちに、日本最初の5人の女子留学生のなかで津田梅子が含まれていた。
こうして、明治政府は女性留学生を派遣することにした。そして留学希望者を募集したが、一人も現れなかった。現代とは異なり、幼年の女性が個人の意志で応募できる社会ではなかった(現在でもそうだが)。お父さんあるいは兄さんが応募するのだ。でも、誰も恐ろしげな異国へ幼い娘を一人で送ろうなどとはおもわなかった。
1882 年、日本に帰国した梅子にとって特に衝撃的だったのは、女性の地位の低さだった。当時の日本にはまた妾制度が残っていた。男尊女卑もごく自然なことだった。このことについて梅子の手紙のなかで次のように訳している。
女性は男性より遥かに人生の辛い部分を背負っている。気の毒な、可哀そうな女性!あなた方の地位を引き上げてあげたい!でも、みんな満足して、何も気づいていないのに、私に何ができるというのでしょう。これでも十年前に比べれば、日本人は女性を尊敬するようになったのだそうだ。
この生活の中で、あまりにも日本の女性がことの実感した梅子は、しだいに女子教育に生涯の目標を定めるようになった。梅子は念願の女性の高等教育をめざす学校を東京に開くことができた。これが女子英学塾で、今日の津田塾大学だ。1900 年のことだった。梅子は36歳になっていた。最初の入学生は 10 人だったが、梅子の理想に燃えた教育のもとで、入学者はしだいに増加していた。
一生を女子教育に尽くした梅子は、1929 年に 65 歳で亡くなった。

 

2.現代の状況
戦後の日本社会は、経済的にも社会的にも大きな変動を経験しているが、男性と女性を取り巻く状況も大きく変化してきた。戦後の日本は女性が男性より差別させている家父長制的な社会だったが、戦後、男女平等の精神が憲法でうたわれるようになり、女性差別の問題に取り組む運動が展開してきた(フェミニズム運動)。女性が職場で不利益をこうむることがなく、自分の能力を発揮できるようになること、政治や意思決定に女性が参画すること、家族やカップルの中で男女が対等であること、愛情や性について個人としての選択が重視されることなどが目指された。他方で、女性の社会進出はすすみ、1980 年代には、『女性の時代』ということがうたわれるようになった。85 年には、雇用に関して男女の差別的な処遇を禁止する法律、男女雇用機会均等法が制定され、また、同年、国連の女子差別撤廃条約(The Convention on the Elimination of all forms of Discrimination against Women)が批准された。1979 年、第 34 回国連総会で採択された条約だ。政治、経済、社会、文化、その他あらゆる分野にあける性差別の撤廃を目指し、固定的な性別役割分担の見直しを理念とする。日本も署名したが、批准するためには条約の基準に達していない国内法の改正が必要で、1984 年の国籍法改正、1985 年の男女雇用機会均等法の制定などを経て、1985 年に批准した。
しかし、このような情勢の変化にもかかわらず、日本人の多くが、男女平等の 社会が実現していないと感じる状況は現在でも続いている。たとえば、2004 年に内閣府が行った『男女共同参画社会に関する世論調査』によると、社会全体で『男性の方が優遇されている』と考える人は7割を超え、『平等』と回答した人は2割にとどまっている。つまり、戦後、男女の生き方は大きく変わってきた反面、依然として男女の差別は相変わらず根強く存在しているといえる。女性として男性としてどのように生きるか、差別問題にどう対処するのか、その取り組みは今後も変わらず必要となっている。
「男女共同参画社会に関する国際調査」によると、男性優遇社会とみる女性の割合は、韓国 92.3%、日本 84.8%、スウェーデン 82.7%の順に高く、各国で男性も 6 割を超える。スウェーデンの高さは、性差別への問題意識が深まり格差に敏感だということだろうか。平等社会とみる割合は大半の国で男性に多く、女性とギャップがある。家庭生活、法制度、学校教育を含む 6 領域ごとにみると、「政治」「職場」の順に男性優遇だとみる国が多い中で、韓国と日本は「職場」より「社会通念・習慣・しきたり」の割合が高いのではないだろうか(韓国: 女性 95.8%、男性 88.5%、日本: 女性 79.4%、男性 73.3%)。
かつては第一次産業に従事し、夫も妻も働く家族が多かった日本社会だけど、高度経済成長期に産業構造の転換がおき、都市部に存在して第二次・第三次産業に従事する労働者が多数をしめるようになった。職場と家庭が分離し、妻が生産労働に従事することなく、家庭で家事育児に専念する、いわゆる専業主婦家庭がもっとも多かったのもこの時期だ。ところが 80 年代以降、働く女性が増加し、90 年代半ばには女性の労働力人口は、人口全体の過半数をしめるようになった。この女性労働の増加傾向は現在も続いている。
妻は家庭に専念すべき、という性別分業権を否定する人は年々増加しているが、他方で、子供が小さい間は家庭で育児に専念すべきという、いわゆる『3歳児神話』は、依然根強く支持されている。したがって、女性は未婚の間は外で労働に従事し、結婚・出産を機に仕事をやめて家庭に入り、その後再び働きに出る『中断・再就職型』のコースを選ぶ人が多く、中央が凹む M 字型の労働力率曲線をとるのが日本の女性労働の特徴となっていた。日本では再就職の際の雇用環境が整備されておらず、家庭と仕事の両立のために、正規雇用でなくパートや派遣を選ぶ女性が増えるなど、就職形態の多様化がみられる。短期間雇用者のしめる割合は、女性労働者全体の4割に及んでいる。
子育て期の女性の就労率は低いが、就労希望者はむしろ多く、女性の生き方でも『子供ができても、ずっと職業を続ける方がいい』という意見が急速に増加し、子育て権に変化がみられる。
日本の女性の役職者比率は欧米諸国と比べると、韓国と並んできわだって低い。これに対し、アメリカで女性の就業者割合と管理職割合がほぼ同率であるのは 1960 年代からアファーマティ・アクション施策が実施されてきたことが大きい。日本でも 98 年改正法を機に大企業中心にポジディブ・アクションが進み始めた。大企業中心にではあるが女性の積極的採用や登用が広がっている。年功的要素よりも成果主義的要素を強めた人事考課制度が男女を問わず推進されることは、女性の処遇や賃金水準を確実に変えていくだろう。
このように、女性が家庭責任を担い、仕事と家庭の両立が求められていることから、多くの問題が生じている。
1. まず、退職する女性が多い事を理由に、男性は基幹労働者、女性を周辺的補助な労働者とする雇用慣行が定着している。女性は社内での研修や配置転換、昇進などで差別され、管理職についている女性は1割に満たない状況が続いている。
2. 女性を昇進的労働者と位置づけることは、主な稼ぎ手となる男性を扶養者、女性と子供を被扶養者とする傾向につながる。これは家族単位を前提に成立している雇用慣行であり、男性扶養者のいない女性、寡婦や離婚者、独身者が、経済上、大きな不利益を被ることになる。
大学教員についても、その職位にはジェンダー・バイアスがみられる。大学及び短期大学に勤務する女性教員は、大学教員の 15.3%、短期大学教員の 46.1%である。しかし、その内訳をみると、表に示すように大学・短期大学共に男性は教授が4割以上であるのに対し、女性は講師・助教授・教授の割合がほぼ等しく、それぞれ約2−3割を占めている。また、助手は男性よりも女性の方が多く、特に短期大学では女性助手 16.2%であるのに対し、男性助手は 2.2%にすぎない。大学院担当の女性教員は 33.3%で、男性の大学院担当者の約2分の1ほどである。女性の研究者育成という観点から、女子の院生にとってのロール・モデルとなるような女性研究者が院生指導に当たる体制の充実が求められる。
小学校から高校で女性教員の占める割合は、子供の学校階段の上昇に伴い低くなっている。中学校以上の学校階段では、女性教員率が 50%に満たさないものの、それでも少しずつ女性教員は増加してきている。その反面、一貫して9割以上を女性教員が占めていた幼稚園での女性教育率は、ほぼ横ばいである。
女性管理職も増加してはいるものの、小学校長が 17.7%、小学校教頭が 22%にすぎず、中学、高学では1割にも満たない。学校のマネージメントの側面については、依然として男性優位の構造が残っている。
3. パートタイム労働には、低賃金、昇進がない、社会保険加入率が低いなど、労働条件での差別がある。国際労働機関(ILO)の『同一価値労働同一賃金の原則』に違反することから、パート労働者の公正な処遇が求められる。同一価値労働同一賃金の原則というのは同じ価値の労働に対しては同じ賃金を支払うべき、という原則だ。ILO100 号条約では、男女の同一価値労働同一賃金の原則を定めている。同一価値労働とは、同一労働よりも広い概念で、異なる職種であっても、技能や労働条件など労働の価値が同一であれば、同じ賃金が支払われるべきということを意味しているが、価値の判定に関して明確でないという問題がある。
性差別の解消のためには、性別役割分業とそれを支える規範意識を変えることが重要であると繰り返し指摘されている。性別役割分業意識を持つ人の比率を下げることを男女共同参画推進プランに政策目的として組み込む他方自治体もある。性別役割分業意識には近年どのような変化がみられるだろう。
『夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである』という固定的な性別役割分業規範に賛成するひとの割合は次第に減り、2002 年の世論調査では、この考え方に同意しない人は全体で47%(『反対』20%、『どちらかといえば反対』27%)と、ほぼ半数まで増えた。1970 年代末と比べるとはっきりと『賛成』を表明するひとが半減し、『どちらかと言えば』というやや曖昧な態度で賛成する人も減って、明確な『反対』が5倍ぐらい増えたのが特徴だ。女性の 20・30 代は反対する人が6割を超えている。一方、男性は女性と比べ分業賛成の人が相変わらず多いが、30 代では『反対』が半数を超える。性差より年代差が大きく、女性も 60 代以上では分業規範に同意する人の方が多い。
若い世代にも男女差があり、分業賛成は男子に多く(男子 22%、女子 15%)、反対は女子に多い(男子 54%、女子 69%)。国際比較では、フィリピン、タイは性別分業『賛成』が6割前後と多く、イギリス、フランス、スウェーデンでは『賛成』は1割弱で『反対』が9割前後に達ししている。各国と比べ、日本の若者には『分からない』という答えの多さがめだつ。
4. 女性全体の賃金の平等は、男性の7割弱にとどまっている。スウエーデン(91.2%)、イギリス(80.9%)、フランス(79.8%)、アメリカ(76.5%)など欧米諸国にくらべ男女の賃金格差が大きく、女性の地位の不安定さの一因となっている。
男女の賃金格差のりゆうは、女性は勤続年数が短く、年功賃金体系が適用される職務や正規雇用に就いていなかったことが大きい。また女性はたとえ正規雇用であっても入職時点から不熟練職種・補助的職務に配置され、低賃金職種の格付けに長年固定されやすい。そして転職、再就職の場合もパートや派遣労働となることが多い。つまり、男性のように昇進・昇格できないポジションや職務であるため、それに伴う賃金上昇が生じないのである。男性はパートやアルバイター等非正規雇用でない限り、産業分野や企業規模を問わず昇進・昇格の際に勤続年数が考慮された。また人事考課による個人差があったとしても、総体としてほとんどの組織が、男性には年齢別差生活保障型の賃金上昇カーブが形成される人事制度運用と賃金制度を採用してきた。女性の家族的責任は家事・育児・介護であるのに対し、男性は『妻子を養う』責任があるという社会的コンセンサスは長年企業社会では根付いてきた。
5. 男女の家事・育児参加はほとんどすすんでおらず、平日での男女の家事時間は30 分程にとどまっている。女性は、家事育児労働の殆どを担わなければならないのが現状だ。家庭での労働は賃金が支払われないアンペイド・ワークであり、仕事をもつ女性は総合すると男性より長時間労働し、男性より少なく稼ぐ結果となっている。
多くの女性学生たちは、どのような将来のキャリアを考えているのだろうか。
首都圏の大学生を対象とした調査によると、『結婚、出産に関わりなく職業を続ける』という回答が最も高率で 45%をしめている。結婚、出産を機に一時退職し、後にパートをするという典型に基づくキャリアを想定しているのは 20.5%で、仕事を継続させようと考えている割合の半分にも満たさない。この調査結果から、女子大学生の約半数は、継続して『職業を持って働くこと』を視野に入れたライフコースを考えていると類推できる。
現代の女性は、仕事を通じて自分の人生を追求したい、同時に家庭での子育てや家族生活も大事にしたい、という欲求をもっている。男性もまた、仕事一筋というだけでなく、家庭にもより関わりたいという意識が、若い世代にみられるようになってきた。しかし、現実には、女性も男性も仕事と家庭を不満なく両立できるような環境が整備されていない。現在、未婚化晩婚化傾向がすすみ、出生率が低下する少子化社会となっているが、この要因として仕事と家庭がうみだす矛盾の存在が指摘されている。年功序列・終身雇用など日本型雇用の変化、高度情報化や経済のグローバル化、人口構造の変動など、労働と就業を取り巻く環境は大きく変化しつつあり、女性も男性も働きながら充実した家庭生活をおくることを、今後も目指すべきだろう。

 

まとめ
日本女性のことを調べてきたところ、日本女性の社会地位がそれぞれの時代で変化していたことが分かってきた。例えば、奈良時代、平安時代に女性の地位はあまりにも高かったと言えるだろう。その時代の女性は家事、子供の養育とかという家庭の仕事以外商売にも参加していたし、家屋も受け継いでいた。結婚後新婚の夫婦は女の家に住むことになっていた。神様につとめる巫女の地位が特に高かった。その時代は日本社会が母権制社会だったと言える。
でも時間の流れともに社会構造も変わり、女性の立場にも影響があった。鎌倉—室町時代に政権が将軍に移ってから、男性の地位が女性の地位より高くなってくる。これから夫婦の女は男の家に入ることになってきた。男が遠征に行っていた時、女は家を守ることになっていた。ということで戦の時だけ女性は家主になっていた。
明治維新まで、日本女性の社会地位がだんだん下がってきたので、日本社会も父権制社会の新しい時代に入ってきた。その時代、政財の分野は男性だけに管理されていた。日本女性の方から西洋での男女平等運動のような運動の試みもあったが、成功しなかった。
戦後時代の日本社会について言えば、70 年代から現代にかけて日本女性の地位はどんどん高くなってきている。今の日本女性は家事とか子供の養育などの役割だけを持っている女性ではなくなってきた。現代の日本女性は、政治、社会などの分野で活発しながら、女性の社会地位をもっと高めようとしている。でも、スウェーデンとかアメリカなどの国と比較してみると日本女性の社会地位はまだ低い。だからこの問題は社会学で大きな問題の一つともなっている。しかし、世論調査の結果とか女性の社会地位がもっと進化するという仮説の上では日本の男女平等運動は成功すると期待されるし、20~30 年後は、日本社会は父権制社会ではなく男女平等の社会だとも言えるようになるだろう。  
 
 

 

●女性をめぐる社会的環境の歴史的展開 
●1 はじめに
1955 年、石垣綾子が『婦人公論』に「主婦という第二職業論」を発表したことによって、いわゆる主婦論争が展開されたことはよく知られている。主婦論争の歴史的展開とそれにかかわった論者などについての研究は上野千鶴子の『主婦論争を読むT 全記録』、『主婦論争を読むU 全記録』において詳細に論じられているので、改めて主婦論争を概観することは避けることにする。
上野は『主婦論争を読むT 全記録』においては、石垣綾子の先にあげた論文から 1956 年の梅棹忠夫の論文「母という名の切り札」を挙げ、『主婦論争を読むU 全記録』では 1960 年の磯野富士子の「婦人解放論の混迷──婦人週間にあたっての提言」から 1976 年の駒野陽子の『「主婦論争」再考──性別役割分業意識の克服のために』までを検討の対象として挙げている。
本論では、上野とは多少異なる視点から主婦論争の整理を試みてみたい。わが国における主婦論争が石垣の論文から始まったことは論を俟たないと思う。本論ではその後の展開を論争の焦点に注目して以下の四つの時期に分けてみたい2。
第 1 期:1950 年代
石垣綾子の主張する主婦=第二職業論を受けて、主婦の自立を達成するためには第一職業つまり賃金の支払われる賃労働に進出することが必要と主張する立場と、主婦の社会的地位は家事労働の遂行を通して家庭を維持し、社会的再生産に寄与することによって向上するとし、主婦の賃労働への就労は家庭から主婦を引き離すため家庭崩壊の恐れがあると主張する立場をめぐっての論争の時期。
第 2 期:1960 年代
第 1 期は前述のように主婦の自立と賃労働への進出の是非をめぐって論争が展開された。ある意味でこの時期には主婦の賃労働領域への進出と自立の形を問うといった論点が中心であったが、第 2 期は、同じく自立に注目しながらも、論争の焦点は、賃労働領域つまり社会的進出という視点から主婦労働の有償化へとやや矮小化されたといえる。第 2 期の対立点は、一方で、主婦労働を有償化することによって主婦の地位を職業婦人の地位と同等にしえると主張し、それが主婦の自立の契機になると考える立場と有償化はそのことによって主婦の社会進出を抑制し、かえって主婦を主婦の地位にとどめる結果となり女性解放へは結び付かないとする意見の対立であった。
2 / 4 期にわたるいわゆる主婦論争への参加者には、石垣綾子、田中寿美子、坂西志保、磯野富士子、島津千利代、武田京子、林郁子、長谷川三千子、佐藤欣子、などがいる。
第 3 期:1970 年代
第 3 期においては、第 1 期と第 2 期の論点が、男性的価値つまり賃労働領域への女性の参加に置かれていたのに対して、女性(主婦)という存在の独自の価値を主張し、賃労働を中心とする男性的価値を象徴する存在としての「生産人間」と、女性的価値を象徴する存在としての「生活人間」を対置し、資本主義の搾取構造の中にある労働疎外状況下の「生産人間」的価値から、主婦労働時間を極限まで縮減して、大幅な自由時間の獲得と共生と再生産を中心とする「生活人間」的価値への転換が主張された。
第 4 期:1980 年代
すでに 1967 年に採択されていた「女性に対する差別撤廃宣言」が 1979 年に「女性に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」と改定され、この宣言を 1980 年にわが国が批准した。さらに 1985 年には「男女雇用機会均等法」が施行された。
このような時代背景を受けて、この時期においては第 1 期に見られた論争における論点と同じような問題をめぐる論争が展開された。法的整備が進行し、女性が社会へ進出する条件が整備されつつあったことに連動して、第 1 期と同様にここでもまた、女性に対する雇用機会の均等の保障が、女性(主婦)が家庭を放棄する危険を招来するとの見解が主張された。最もラディカルな意見としては男女の性別役割分業には何の根拠もないとするものもあった。
アメリカ社会において主婦という存在の在り方が注目されたのが、1963年の B. フリーダンによる『新しい女性の創造』での問題提起を契機とするのに比較すれば、比較的早期に展開されたわが国の主婦論争であったが、木本喜美子が「主婦の経済的自立の必要性を説く石垣綾子の問題提起をきっかけに起こった主婦論争が、『一般の専業主婦にとってはピンとこない無縁の論争のままで終わった』のは、『主婦こそが女性の幸せ』と信じて疑わなかった女性たちが、マジョリティを形成していたからにほかならない。その意味ではこの論争に参加した人々は、時代を先取り的にとらえたパイオニアとして位置づけられよう」 3と指摘しているように、『主婦こそが女性の幸せ』神話が崩壊するまで、一般化し得なかった。
しかし、「厚生白書」 平成 10 年版は三浦展の「『家族と郊外』の社会学」からの引用として「1950 年代のアメリカと 1970 年代半ばの日本の相似」と題するコラムを掲載し、「アメリカでは戦後直ぐに「豊かな社会」が訪れた。豊かな生活の舞台は郊外である。そこで、毎朝、都心へ通勤する夫を笑顔で送り出し、子どもを車で学校まで送り、皿を洗い、洗濯をし、掃除をし、そして夕方には夫を暖かい雰囲気と食事で迎え入れる、こうした主婦の生活が、アメリカの若い女性の夢のイメージであり、世界中の女性の羨望の的であるといわれた。
しかし、一見何の不満もない 1950 年代の豊かなアメリカ郊外中流家庭の主婦の中に、実は正体不明の不満が膨らんでいた。そして、この不満が1960 年代のウーマンリブの火種となったのである。B・フリーダンは、「女性の神話」の中で、この不満を数多く紹介し、分析している。(中略)日本人がかつて「パパは何でも知っている」「うちのママは世界一」などのアメリカン・ホームドラマを通じて見たのは、この時代のアメリカの郊外生活であった。日本人はその生活に憧れ、1960 年代以降、高度経済成長によって急速に豊かさを増した社会の中で、それを手に入れようとした。そして日本人がその生活を曲がりなりにも手にした 1970 年代後半から、日本でも急速に主婦の不満と子ども達の問題が増加していった。
3 / 『シティライフの社会学』 大久保武・大澤善信・木本喜美子・橋本和孝・藤原眞砂・和田清美 時潮社 PP61-62
日米の経済的豊かさのタイムラグは、そのまま、郊外の幸福な家族イメージが膨らんでしぼんだ時代の変化のタイムラグでもあった4。」ことを指摘して、1970 年代以降わが国でも主婦の「憂鬱」に対する認識が一般化したことを認めている。
アメリカにおいては、前述のように B. フリーダンが 1960 年代のウーマンリブの先導者となったのであるが、彼女の主張の要点は小林富久子によれば「長年の間、アメリカの女性にとって垂涎の的とされてきた郊外住宅地に住む裕福な妻達、即ち、若くて美しく、夫や子供に愛され、健康で教養があり、お金と暇にも恵まれ、何不自由なく、8消費の女王として君臨する満ち足りた女性というイメージが、実はいつわりの神話にすぎないと主張する。これらの妻達の多くが、絶えずわけのわからない無力感や絶望感にさいなまれていることを指摘し、その理由として、彼女達が夫によって管理される「幸福な家庭」という収容所内に閉じこめられた個性と人間性をもたない飾り人形、あるいは愛玩動物的存在にすぎないからであることを示唆している。」というものである。このような B. フリーダンの問題提起を受けて、古田睦美によると「1970 年前後に第二派のフェミニズム運動が起こった。こうした時代の流れの中で、M. ベンストン Benston)が1969 年の論文で、女性の家庭内における労働は搾取されているとしたのを皮切りにさまざまな論客が女性の家事労働に言及することとなった。」 5とされ、第二派フェミニズムにおける中心的論点がここでもまた家事労働の評価、価値をめぐるものだったということがわかる。
4 / 「厚生白書」 平成 10 年版 第1編 第1部 少子社会を考える─子どもを産み育てることに「夢」を持てる社会を─ / 第 1 章 人口減少社会の到来と少子化への対応 / 第 2 節 少子化の要因とそれを巡る社会状況 / 4 昭和 30 年代生まれの晩婚化− 1970 年代後半〜1980 年代前半(昭和 50 年代)
5 / 「アメリカ史における女性像の変遷と新しいフェミニズムの意義」小林富久子『早稲田商学』1979 

 

●2 女性史年表と女性をめぐる社会環境
前節で概観したように主婦と家事労働をめぐる議論がフェミニズムにおける女性の社会的在り方に関する検討における一つの大きなイシューとなっていた。家事労働をめぐる議論は現在でもしばしば取り上げられており、一定の蓄積と成果を上げている。確かに、特定のイシューに関連して女性の社会的在り方を問い続けることの意義は大きいといえる。しかし、先にあげた「厚生白書」のコラムの指摘や、木本喜美子の指摘にもあるように、わが国の女性(主婦)の社会的在り方がアメリカの主婦の在り方の変容を 20 年から 30 年のタイムラグで追いかけているのではないかとの認識が妥当であるとするなら、女性の(主婦)の社会的在り方をめぐる問題には、家事労働といった単一のイシューを超えたより広い社会的背景との関連が想定できるのではないだろうか。
私は 2004 年に慶應義塾大学三田哲学会誌「哲学」において『家族とその社会的生活世界の探求』という特集を組んだことがある。そこにおける意図は家族にかかわる様々な問題をできるかぎり生活という全体的文脈の中で検討してみたいという試みにあった。
社会的世界、生活世界という概念はすでに社会学の中で一定の位置を占めている。たとえば、大雑把にいえば、社会的世界は H. ブルーマーにおいては象徴的相互作用と、生活世界はシュッツにおいては間主観性と、ハバマスにおいてはコミュニケーション的合理性というそれぞれ独自の概念と関連して独自の意味内容を付与されている。
しかし私が「哲学」の特集で意図した社会的生活世界という概念は、ブルーマー、シュッツ、ハバマスの概念を背景にしながらも、家族生活の様々な側面に影響を与えている生活の全体性、といった緩やかな意味であった。
こうした視点から見たとき、アメリカと日本の主婦をめぐるあり方が 20年から 30 年のタイムラグがあるとみられるのであれば、そのタイムラグを生起させている何らかの生活の全体性が背景として存在していると考えられないだろうか。
2004 年の特集での作業の中では、女性のあり方を社会的生活世界の中で捉え直そうという試みは、残念ながらほとんど展開できなかった。わずかに、当時大学院研究生であった平井一麥によって、明治から平成にかけての女性史年表作成が試みられたにとどまった。その際平井が依拠したのは「近代日本総合年表 第四版」、「昭和・平成家庭史年表」、「昭和・二万日の全記録」などの既刊の年表であった。年表項目の選択に当たっては、女性をめぐる生活世界の全体性と社会の変動との関連ということを強く意識したため、かなり広範囲にわたって項目を選択せざるを得なかった。そのため年表の女性史年表としての焦点が明確ではなくなってしまった。今回本論文を作成するに当たって平井との議論においては、「哲学」の年表の再検討を行い、女性の社会生活をめぐる全体性を女性の在り方と社会的環境との関連として捉え直すことにした。その第一の手続きが年表項目を女性関連の事項の限定してみることであった。その結果が次にあげる年表であり、それに基づく考察である。
2 − 1 私案 女性史年(抜粋)

 

女性をめぐる社会的環境の歴史的展開
戦前
1868 大阪府、政府に市中に男女共学の学校設置申入れ / 商法司・商法大意で職業の自由を布告
1871 新律綱領成る(刑法の前身・妾を公認) / 華族・士族・平民相互の結婚を許可
1872 黒沢登幾、茨城県岩船村の小学校女教員になる / 神社仏閣参拝・富士登山の女人禁制廃止
1875 東京に官立の女子師範学校開校 / 森有礼と広瀬阿常、福沢諭吉を証人に結婚 / 大蔵省紙幣寮、初の女工採用 / 産婆免許規則発布、公的な産婆制度のはじめ
1876 各地に女子師範学校設立され、次第に全国に広がる
1879 群馬県会、貸座敷業改正を提出(廃娼運動のはじめ) / 東京基督教婦人矯風会設立、廃娼・禁酒・禁煙・一夫一婦制の確立運動を展開
1880 刑法布告、姦通罪・堕胎罪を定める山下りん、絵の修行でロシアへ、女性留学の第1号
1882 植木枝盛「男女同権ニ就イテノ事」発表
1884 初の女性誌、女学新誌創刊
1885 荻野吟子、医術開業試験に合格、初の女医になる / 幸田延ら音楽取締所卒業生、同所教員になる
1886 矢島楫子・佐々城豊寿ら、婦人矯風会創立
1887 仏和辞林に amour の訳語として恋愛登場
1890 集会及び結社法公布(女子の政治活動を禁圧) / 全国廃娼同盟結成(婦人団体が大同団結)
1892 新聞紙条例=女子の発行人・編集人等を禁止
1894 厳本善治、女学雑誌で良妻賢母思想を批判
1896 民法親族編・相続編公布、家制度を法規範にする
1900 津田梅子麹町に女子英学塾、吉岡弥生夫妻、本郷元町に東京女医学校を創立
1901 成瀬仁蔵ら日本女子大学校開校 / 婦女新聞「わが婚せざる理由」掲載、不婚論争起る / 奥村五百子ら愛国婦人会創立、日露戦争より組織拡大、最大の官製団体になる
1905 都会で指輪を嫁入りに用いることがはじまる
1906 逓信省貯金管理所和久井みねら判任官待遇に / 丙午のため出産届出数減少
1907 長野県、女子教員の有給出産休暇の規定制定(40 日) / 義務教育 6 年に延長 / 堕胎に関する法律公布
1909 コンドーム「ハート美人」として発売
1911 平塚らいてうら「青鞜社」設立
1913 宮崎光子ら青鞜社運動に対抗して新真婦人会結成
1914 生田花世「食べることと貞操」で貞操論争はじまる
1915 大審院、内縁の妻に婚姻不履行の賠償請求承認 / ご大典で矢島楫子らキリスト教徒に初の叙位叙勲 / 青鞜、原田皐月の堕胎肯定論掲載、堕胎論争おこる
1916 黒田チカ(化学科)、牧田らく(数学科)初の理学士に友愛会婦人部設置(最初の労働組合婦人部) / 与謝野晶子・平塚らいてうらの母性保護論争はじまる
1918 文部・内務省、地方の処女会等の処女中央部設立 / 河合兼子、英語教師として岡山県高梁中学に赴任 / キリスト教系の東京女子大学開校 / 地方の好景気のため女工の結婚退社増加
1919 山脇玄、貴族院本会議で初の婦人参政権を主張
1920 慶應・早稲田、大学令で私立大学として設立認可 / 東京女子医専、初の女子専門学校として認可 / 日活・深山の乙女封切、花柳はるみ初の映画女優に / 新婦人協会、花柳病男子の結婚制限の請願提出
1921 石本恵吉・阿部磯雄ら日本産児調節研究会設立 / 久布白落実ら日本婦人参政権協会設立
1922 高良とみ、コロンビア大学院で博士号取得 / 東京女高師教授喜多見さき子、勅任官に就任
1924 中富てる、女性初の工場監督官補に就任 / 河田嗣郎「家族制度と婦人問題」刊
1925 細井和喜蔵・女工哀史刊行
1926 昭和天皇、お局の女官制度廃止 / 保井コノ日本初の女性理学博士号を受ける
1927 主婦之友に荻野式避妊法紹介される / 全国の処女会統一して大日本連合 / 女子青年団創立 / 大審院、男子貞操に関する判決(貞操義務違反) / 労働婦人連盟結成 / 日本タイピスト協会設立
1928 初めての男子普通選挙実施 / 婦選獲得共同委員会設立 / 婦人消費組合協会設立 / 御大典叙勲、鳩山春子ら女性教育者初の叙勲 / 婦人公論で高群逸枝・山川菊枝「恋愛論争」展開
1929 日本看護婦協会設立 / 女学雑誌創刊 / 改正工場法施行され女性の深夜業廃止 / 東京で共働き増加し、託児所増設の要望高まる
1930 大審院離婚訴訟で、子供ができないのを理由に夫が妾を囲うのを認められないと判決 / 第1回全日本婦人連合大会開催 / 第1回婦選大会開催 / 文部省・家庭教育ニ関スル件を訓令し、家庭教育の必要を強調し大日本連合婦人会創立
1931 大阪控訴院、未亡人にある程度の性の自由を認める / 日本産児調節連盟設立 / 東京女医学会創立
1932 日本主義を標榜する婦人団体・日本家庭協会結成 / 大審院、妻の持ち物は夫でも自由にならないと判決 / 結婚相手の人気職業はサラリマーンがトップ / 大阪で国防婦人会発足、白エプロンで出征兵士送る
1933 弁護士法改正公布、女性に弁護士の道を開く
1934 衆議院で良妻賢母問題、松田文相、日本婦人は夫を援けるもので解放すべきものではないと発言
1935 大日本連合婦人会、職業婦人に短期花嫁学校開催 / 東京市教育局、男女教員の同僚結婚不可を通達
1936 女子の結婚退職、内務省、やむを得ざる退職と結論
1937 国民精神総動員中央連盟調査委員会、家庭報国三綱領・実践十三要目制定
1938 内妻にも軍人遺族扶助 / 産業報国連盟創立、産業報国精神の普及徹底 / 産児制限相談所、警察命令で閉鎖
1939 国民職業能力申告令制定(女医・看護婦等) / 勧銀、婦人職員に結婚を奨励し28歳定年制を実施
1940 新体制運動協力で婦人参政権獲得運動同盟解散
1942 高女の外国語科目は週3時間以内の随意科目に / 賃金統制令施行規則改正し、女子日傭労務者の賃金、男子の7〜8割と決定 / 大政翼賛会、女子皆働運動を展開婦人3団体統合し大日本婦人会発足、会員2千万人
1943 高等女学校規程制定、修業年限を4年に短縮 / 閣議、17業種に男子就業の制限・禁止
1944 丸の内の出勤男女比 1:3 に逆転、
1945 敗戦時の女子挺身隊員 47 万人、女性労働者 313 万人
戦後
1945 市川房枝ら戦後対策婦人委員会結成 / GHQ、五大改革指令(婦人の解放、労働組合結成奨励、学校教育の自由主義化、秘密審問司法制度廃止・治安維持法・国防保安法など弾圧法相次いで廃止、経済機構民主化) / 市川房枝、新日本婦人同盟結成 / 治安警察法廃止、婦人の政治活動自由になる
1946 GHQ の指示で、婦人民主クラブ結成 / 戦後初の衆議院選挙で女性 39 人当選
1947 教育基本法・学校教育法公布、6・3・3・4 制、男女共学 / 文部省、津田塾・日本・東京・聖心・神戸女学院など 5 女子大学を含む12 の新制大学を認可 / 第1 回参議院議員選挙、女性 10 人当選 / 労働基準法制定、男女同一賃金、女子の時間外労働制限、産前産後・育児休暇など母性保護規定含む / 東京都庁、初めて職場結婚を公認、継続勤務を認める / 労働省発足、山川菊枝局長に、課長2 名も女性が就任 / 刑法改正、不敬罪・姦通罪廃止 / 民法改正、結婚及び離婚の自由と平等確保、家族制度廃止、妻の相続権を認める / 改正戸籍法公布、家・戸主を廃止
1948 主食の遅・欠配、物価高、ヤミに反対して主婦連結成 / 上村松園(画家)、女性初の文化勲章受賞 / 女性の職場進出盛ん 329 万人、60年 695 万人、70 年 1095 万人、80 年1500 万人、2000 年 2310 万人
1949 44 婦人団体集まり、婦人団体協議会結成 / ガリオア留学生 283 人、うち女性54 人渡米 / 東京地裁に初の女性判事、女性検事誕生 / 避妊薬サンプーン発売、新薬の語生まれる / 結婚相談所の男性の理想像は、自宅を持っている人
1950 短大制度創設 / 山根敏子、外交官試験に合格
1951 久布白落実ら公娼制度復活反対協議会結成
1952 再軍備反対婦人委員会、米国上院にアピール / 全国地域婦人連絡協議会(地婦連)結成
1953 総評婦人協議会、平和憲法擁護・徴兵反対署名決議
1954 田辺繁子ら民法改正に反対して家族法研究会結成 / 近江絹糸争議/働く母の会結成 / 電気洗濯機・冷蔵庫・掃除機 3 種の神器と呼ばれる
1955 石垣綾子・主婦という第 2 職業論発表、主婦論盛んに / 経口避妊薬(ピル)発表 / 森下仁丹、婦人用体温計発売
1956 産休補助教員設置法施行全国消団連結成 / 経済白書、もはや戦後ではないと宣言、流行語に / 冷害不漁で北海道で娘身売り続出 / 清瀬文相、男女共学は弊害があるので考慮すべき段階と発言
1957 女子定年制と結婚退職金問題に関する争議各地に発生
1958 黒田チカら日本婦人科学者の会結成/一万円札発行
1959 売春防止法施行 / 建設白書、住宅はまだ戦後と発表 / 家付き・カー付き・ババ抜きの語流行/最低賃金法公布
1960 池田内閣成立、中山マサ初の女性閣僚に就任
1961 アンネナプキン発売、漏れない・水に流せる
1962 女子学生亡国論おこる / 川崎でかぎっ子を事故から守る、小学生託児制度始まる
1963 高校で女子の家庭科必修 / NHK、BG を放送禁止用語に
1964 保育所要求全国婦人大会開催 / 東京オリンピック開催 / 出稼ぎ労働者、100 万人を超え「半年後家」の語うまれる
1966 思想の科学、共働きの語つかいはじめる / 丙午で出産数 136 万人で今世紀最少、前年比 25%減 / 恋愛結婚が見合い結婚を上回る / 3C(カラー TV、カー、クーラー)が新三種の神器に
1967 分譲住宅の夫婦共有制が認められる
1969 乳児保育制度化される / 世田谷にベビーホテル誕生
1970 ウーマンリブ第一回大会開催 / 全国消費実態調査、洗濯機・冷蔵庫ほぼ全世帯に一台 / 女性誌・anan・non・no 創刊、アンノン族誕生 / 中根千枝・東大、柳島静枝・京都大学初の女性教授に
1971 市川房枝、理想選挙推進会結成未婚の母問題化
1972 中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する中ピ連結成 / 男女賃金格差・結婚・出産解雇・配転等差別訴訟さかん
1974 市川房枝ら家庭科の男女共修をすすめる会発足 / 最高裁、妻の家事労働の財産的評価を認める
1975 国際婦人年をきっかけに行動をおこす女たちの会結成 / 秋田相互銀行の女性、男女賃金差別訴訟で地裁で勝訴 / 伊豆サボテン公園の女子差別定年制無効判決、最高裁で確定
1976 ベビー用紙おむつの生産量 3352t、79 年には 37973t / 各企業で給料の銀行振込みが始まる
1977 女性史総合研究会結成 / 北海道で花嫁誘致
1978 日本女性学会発足 / 郊外レストラン盛況
1979 民法改正・配偶者の遺産相続を 1/2に / 高島屋の石原一子、東証一部上場会社で初の重役に
1980 コペンハーゲンで国際婦人の10年中間世界会議開催 / 猿橋勝子、女性初の日本学術会議の会員に選出される / 初の女性大使、高橋展子デンマークに赴任
1981 最高裁、日産自動車の定年差別・男55歳、女50歳訴訟、性別定年差別は公序良俗に反し無効と判決
1983 厚生省、世界初の人工流産剤の製造認可
1985 ナイロビで国連婦人の10年、世界婦人会議開催 / 家庭内離婚の新語広がる
1986 男女雇用機会均等法施行 / 厚生省のピル研究班、ようやく製造を認める
1987 野田愛子、女性初の高等裁判所長官(札幌)となる / 警視庁で初の女性警部誕生、90年に女性初の警視に
1989 福岡セクハラ訴訟で原告勝訴
1991 太平洋戦争中の従軍慰安婦ら、日本政府を提訴 / 厚生省、避妊検査薬を大衆薬として認可
1992 育児休業法施行、労働組合の34%が休業取得
1993 男女の産み分け希望者増加、女の子の希望が増える
1994 高橋久子、最高裁判事に就任
1995 三木睦子ら、女性のためのアジア平和国民基金創設 / 介護休業法成立
1996 総理府調査で成人男女の半数以上が夫婦別姓を容認
1999 男女雇用機会均等法、改正労働法施行で性別求人禁止 / セクハラ防止措置の義務化、女性の深夜勤務可能
2000 大阪府に初の女性知事・太田房江当選 / 食洗機・生ごみ処理機・IH 調理器が新御三家に / 男女共同参画法施行
2 − 2 歴史的概観

 

はじめに
江戸から明治に時代がシフトし、士農工商という身分制が廃止されるとともに、職業の自由、学制の頒布による教育の普及、女人禁制だった社寺や山岳登山も解禁された。
一方で、新律綱領は、妻と妾を同等の二等身と規定し、刑法には姦通罪、堕胎罪などを設けた。こうしたなかで、一夫一婦運動や女性の参政権獲得、廃娼、自由結婚、教育の機会均等、産児制限廃止、有給出産休暇等を求める婦人運動が展開された。
「家」制度の問題では、民法典論争が展開された。
大正期に入ると、平塚らいてうらによる「青鞜社」設立、新しい女を目指す動きもあり、婦人の社会進出も盛んになり、労働運動に加わる女性も出現した。与謝野晶子と平塚の間では「母性保護」論争が展開された。戦前の女性にとって大きなカセとなった「良妻賢母」思想についてもさまざまな論議が交わされた。
しかし、1931 年(昭和 6 年)の満州事変から、いわゆる 15 年戦争に入り、矢継ぎ早に、国民精神総動員法、国家総動員法、改正治安維持法などが施行され、「産めよ殖やせよ」運動がヒステリックなまでに展開され、婦人参政権運動などを掲げていた婦人団体も「大日本婦人会」に統一され、戦前の婦人運動は終焉した。
敗戦後、1945 年(昭和 20 年)9 月 2 日わが国は降伏文書に調印。4 日後に米国は、降伏後における米国の初期対日方針を承認。GHQ のマッカサー元帥は、10 月 11 日に、憲法の自由主義化および人権確保のいわゆる五大改革指令(婦人解放・労働組合結成奨励・学校民主化・秘密審問司法制度撤廃・経済機構民主化)を口頭で要求した。
これにより、戦前から女性たちが求めてきた、婦人参政権が確保され、「家」制度、姦通罪、不敬罪なども廃止され、結婚は両性の合意によるとなった。労働法では男女同一賃金、女子の時間外労働制限、産前・産後・生理・育児休暇など母性保護を規定したが、男女格差はつづき、1986 年(昭和 61年)の男女雇用機会均等法が施行されるまでに 30 年を要した。しかし、戦前の婦人運動が求めていた廃娼運動を除いて、ほぼ、運動の目的は達成された。
これに先立ち、既に平野が述べたように第一次「主婦論争」が展開されたが、1960 年(昭和 35 年)の安保闘争後、池田内閣が提唱した「所得倍増計画」により、わが国経済は未曾有の発展をとげ、1960 年と 1980 年(昭和 55 年)の所得の5分位階層をみると、1960 年においてはいわゆる富裕層である第X階層の所得平均額が所得が最も低い第T階層の所得の平均額の 4.8 倍であったのに、1980 年には、2.7 倍となり、第T階層と第X階層との所得格差は大きく縮小され、その結果いわゆる「一億総中流」意識がみられるようになった。労働運動の最大の課題は経済格差の是正であり、この目標が達成されるとともに、労働・女性運動も一部のウーマンリブ運動、男女賃金格差、結婚・出産を理由とする解雇・配転闘争や、二次三次にわたる「主婦論争」はあったものの、1980 年以降、「国際婦人の 10 年中間世界会議」など、世界とのつながりを求める運動はあるが、目立った運動はみられなくなった。小泉内閣によって引起された「格差」拡大のなかで、女性たちがどう生き、どう運動していくかを、AGIL の順とは異なるが、戦前、戦後の教育、職業、結婚・家庭生活、婦人運動のの項目で詳細にみていく。
@ 教育
   戦前
わが国の教育は、明治以前に藩校や寺子屋などが普及していて、識字率の高さなどは世界的にも高い位置にあった。明治期の教育問題は、1868(明治元)年、大阪府が、政府に和漢の学を原則とし、市中に男女共学の学校設置を申入れたことにはじまる。1969(明治 2)年、京都上京二十七番組小学校が最初の小学校として開校。
1871(明治 4)年、文部大丞田中不二麿は、欧米教育制度調査のため岩倉大使に随行、津田うめ、永井繁(共に 9 歳)ら 5 人の少女が同船し最初の女子留学生として米国へ留学した。
1872(明治 5)年、「学制」が頒布された。総則は極めて長いが、文部省の『学制百年史』によるさわりの部分は「今般文部省に於て学制を定め追々教則をも改正し布告に及ぶべきにつき自今以後一般の人民華士族農工商及婦女子必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す人の父兄たるもの宜しく此意を体認し其愛育の情を厚くし其子弟をして必ず学に従事せしめざるべからざるものなり高上の学に至ては其人の材能に任かすといへども幼童の子弟は男女の別なく小学に従事せしめざるものは其父兄の越度たるべき事」として、新政府の意気込みが感じられる。全国に小学校を普及させるために急がれたのが、教員の養成で、1874(明治 7)年 3 月、東京に官立の女子師範学校の設立を決め、1875(明治 8)年 8 月に開校。1879(明治 12)年、学制を教育令に変え、地方官の監督を緩め民度に適した教育の普及を目指したが男女別学だった。
初等教育の就学率は、男女差が大きく、女子の就学率が 50%を超えたのは 1895 年から 1900(明 33)年のあいだとみられる。1905(明治 38)年には男女ともに 90%を超えた。しかし、1878(明治 11)年の記録によれば「小学校の全科修了生、芝の鞆絵小学校の梅田みち(15 歳)ら 4 人と浅草育英小の嵯峨公勝(16 歳)の 5 人」とあって、就学率と卒業者数には大きな差異があるようだ。
孫引きになるが、天野郁夫『学歴の社会史』によれば、1893(明治 26)年生れで、半農半工の家で、綿つくりと糸よりの仕事をしていた女性の述懐「わたしはもうしょっちゅう、学校休んで子守りしてました。・・・・・わたしらのお友だちで、まあ十人のうち三人か四人よか学校に行ってませんでした。(略)学校へ行っているのは金持ちの人ばっかりですネン。(略)三年になったから学校止める言うたら、校長先生が来てくれはりまして『そんなこと言わんと、三年にするから来なさい・・・・・』ちゅうて。お父さんも、『まあ四年まで行って仮名字でも覚えといたら、遠くに行っても何でも知らせられるから』ちゅうて言いましたワ」(P180)とある。これが当時の女子の実態だったようである。中退の理由が、当時の小学校が月謝制度だったことも否めない。
わが国の中等・高等教育は男子中心で、1887(明治 20)年、師範学校令、小学校令(義務教育を初めて標榜)、中学校令により、第二次大戦直後までの学校制度の基礎ができたが、女子の中学・大学への道は一旦閉鎖されたが、1891(明治 24)年、中学校令が改正され、第 14 条「高等女学校ハ女子ニ須要ナル高等普通教育ヲ施ス所ニシテ尋常中学校ノ種類トス」とし、女子の中等教育の道が開かれた。1895(明治 28)年の「高等女学校規定」第 6 条「高等女学校ノ学科目ノ程度ハ左ノ如シ/一.修身/教育ニ関スル 勅語ノ趣旨ニ基キテ人道実践ノ方法ヲ授ケ兼ネテ作法ヲ授ク/修身ヲ授クルニハ躬行実践ヲ旨トシ務メテ貞淑ノ徳ヲ養ヒ起居言語其ノ宜キニ適セシメンコトヲ要ス」としている。斎藤美奈子『モダンガール論』では、1899(明治32)年、女子教育の流れを決める大きな決定が下された。(略)女子教育に関する法令を発令した。「高等女学校令」とし、(略)女子の教育目的として、そこには力強い一文が含まれていた。「良妻賢母たらしむるの素養を為す」と述べているが、「貞淑ノ徳ヲ養ヒ起居言語其ノ宜キニ適セシメンコトヲ要ス」とは記されているが「良妻賢母」の語はない。斎藤がいう 1899 年には「高等女学校ノ学科及其程度ニ関スル規則」が施行されているが、「科目の程度」の条文は、上記と変わっていない。
忘れてならないのは、女子の初等教育でさえままならぬ時期に、多くのミッション・スクールで中等教育が行われた事実で、1870(明治 3)年には、ミス=キダーが、横浜のヘボン施療所で女子教育をはじめている(フェリス女子校の前身)。
女子の高等教育は、1880(明治 13)年音楽取調掛、音楽伝習のため 18 人の入学許可(うち女子 13 人)、同年、山下りん、1882(明治 15)年清原タマ留学。1885(明治 18)年、荻野吟子、後期医術開業試験に合格し、初の女医に。同年大村秀子は、東大総長に入学出願するが却下、翌年文相宛に出願し、ようやく選科に入学を許可された。1889(明治 22)年には、幸田延が米国を経て欧州に、以後、女医の高橋瑞子ドイツに留学など枚挙にいとまいがない。しかし、水沼なみが、東京市養育院小児科で医師として入局できなかったため、看護婦として研究活動を開始しているように、男尊女卑の傾向はつづいた。
1889(明治 22)年、文部省は、天皇・皇后の御真影を高等小学校へも下賜する旨府県へ通知、1890(明治 23)年に教育勅語を発布、1891(明治 24)年、御真影・教育勅語のため奉安庫・奉安殿の設置がはじまった。
高等女学校では斎藤が言うように、次第に「良妻賢母」教育がおこなわれるようになった。「良妻賢母」の語は、1891(明治 24)年に創刊された『女鑑』発刊の趣旨の一節に「女子教育の本旨は其の淑徳を啓発して、男子の功業を扶くるに足るべき、良妻たらしむるにあり。健全忠勇なる児孫を養成すへき、賢母たらしむるに在り。(略)女鑑は貞操節義なる日本女子の特性を啓発し、以て世の良妻賢母たるものを養成するを主旨とす」としたのが最初だと私はみている。
高等教育を熱望した女子学生に対し、1900(明治 33)年、津田梅子(元うめ)が麹町に女子英学塾、吉岡弥生夫妻が本郷元町に東京女医学校を創立、1901(明治 34)年には、私立女子美術学校、成瀬仁蔵らによる日本女子大学校、1918(大正 7)年には東京女子大学が開校。この間、1908(明治 41)年、小学校令を改正し義務教育年限を 4 年から 6年に延長。
1913(大正 2)年、黒田チカら三人(当時、日本女子大教授)が、さらに高みを目指し、東北帝大に合格、1916 年理学士号を取得。
1920(大正 9)年、慶應義塾・早稲田大学が、大学令による初の私立大学として設立認可され、東京女子医専が初の女子専門学校として認可され、以後、多くの大学や女子専門学校が設立された。
1922(大正 11)年、高良とみが日本人女性としてはじめてコロンビア大学大学院で博士号を取得、この5年後の 1927(昭和 2)年、保井コノが日本初の女性理学博士号を取得。以後、1930 年代には、医学・法学・理学・農学・工学・医化学・薬学分野で博士号が取得された。
女子の進学意慾が増加し、1923(大正 12)年頃には中等教育への進学率が高まり、東京府は進学緩和のため府立中・女学校の定員を 200 人増の 1000人にした。1924(大正 13)年、日大・早大などの女子聴講生が女子学生連盟を結成し、大学・高等学校の門戸開放を文部省に陳情。1923(大正 12)年、日本女子大英文学部卒業生に、中等教員試験検定の特典が付与された(従来は家政科のみ)。
大正後期から、社会主義運動は中・高等学校にも波及し、1924(大正 13)年、高等学校長会議は、社研解散措置を申しあわせ、1926(大正 15)年、岡田文相は、学生・生徒の社会科学研究禁止を高校・高専に通達。1931(昭和6)年、津田塾生、左翼活動で数名検挙など、学生の左傾思想事件は頂点に達し 395 件、991 人にのぼった。翌 1932(昭和 7)年、文部省は、学生のマルキシズムに対抗して国民精神文化研究所を設立、1934(昭和 9)年、学生部を拡充し思想局を新設。
前後するが、1929(昭和 4)年、東工大、大阪工大、東京文理大など設立、初めて男女平等の入学資格を認められ東京文理大に女子5人入学、明大法科・商科は女子部を新設し 160 人が入学。
1935(昭和 10)年頃から高等女学校で英語廃止・減少が始まり、1937(昭和 12)年、皇国史観徹底のため国体の本義を編纂、1939(昭和 14)年、学生思想の健全化のため高校・大学の語学教科書から恋愛論を一掃し、大学で軍事教練を必須科目化、天皇、青少年学徒に賜りたる勅語を下賜。国民精神総動員委員会は、学生の長髪・パーマネント・口紅・白粉・頬紅禁止を決定、1942(昭和 17)年、学徒出動命令が下り、修業年数の削減がおこなわれ、学徒戦時動員体制確立要綱を決定し、学業を休止し軍需生産に従事させ、戦争末期から終戦まで 300 万人の学徒を動員した。
   戦後
敗戦直後の 1945 年、文部省は、国体護持・平和国家建設・科学的思考を強調した「新日本の建設教育方針」を公表したが、GHQ の五大改革指令の学校教育の自由主義化により、1946 年、大学入学選抜要綱を通達し、女子及び専門学校卒業者の大学入学を認可。
1947 年、教育基本法・学校教育法を公布、6・3・3・4 制、男女共学を規定、津田塾・日本女子大など 5 女子大学を含む 12 の新制大学を認可。新制高校発足、関西では男女共学でスタート(東京は一年遅れ)、永畑道子らは、旧制 5 高に入学した。新旧制度の並行は 1950 年までつづいた。
***エピソード*** 1947 年、6・3・3・4 制の新学制制度がはじまった。この年、小学校一年生の国語の教科書はひらがなだったが、前年まではカタカナで、私も、家庭で直線で表現できるカタカナを学んでいたが、曲線の多いひらがな教育には戸惑った。***
1949 年、新制国立大学 69 校各都道府県に設置、1950 年、短大を暫定的に設置。
1956 年、清瀬文相、男女共学は弊害があるので考慮すべき段階と時代錯誤発言。
経済復興とともに女子の大学進学率が高まり、1962 年、池田弥三郎慶大教授らが、女子学生亡国論をとなえた。1963 年、高校で女子の家庭科必修になり、1994 年に共修が実現。
1965 年、教育の機会均等を訴え、学費値上げに反対して慶大で初の全学スト、東北大などに広がり、1968 年、東大からはじまった大学紛争は全国に拡大、12 月、東大・東京教育大学は 1969 年の入試を中止。高校進学率は76.7% に伸び、男女ほぼ同率になり、東京では初めて 90% 突破の 91.6%になった。
1970 年、中根千枝が東大、柳島静枝が京大初の女性教授に就任。このころから、老人問題が表出し生涯教育が浮上、女性史の見直しもはじまり、女性史総合研究会や日本女性学会が発足。
1979(昭和 54)年にスタートした共通一次試験(後センター試験)は、私立大学にも広がった。男子のみしか受入れなかった東京商船大学が女子受験を認め、海上保安学校、航空管制官・気象大学校等 12 種の国家公務員採用試験女性に開放と、次第に女性への門戸は広がってきている。
A 職業・社会進出
   戦前
1868(明治元)年、商法司が商法大意で「職業の自由」を布告したが、「武家の商法」と揶揄されるように武士の立場は様変りした。文明開化、富国強兵のなかで、資本主義化による近代産業の発達とともに、女性の社会進出がはじまったが、戦前期の女性の職業の根幹に存在するのは「低賃金」だった。男子は戸主として、一家を支えるという大義名分があったが、女性の職業は、戸主の補助・内助にすぎないと位置づけられたためである。
江戸時代からつづいた女性の職業は、芸・娼妓、歌舞音曲師匠、画家、内職(縫物・仕立など)、行商、出稼ぎ(茶摘・養蚕・杜氏など)、賃機、土方(地固め・砂利運びなど)、港湾人夫、立ん坊(坂道の重い荷車押し)、農業、髪結、女中、乳母、旧産婆、鉱山労働者、針子など。
明治初期には、乗合馬車の駆者、人力車夫、荷車曳き、停車場人夫、新産婆(正式資格を取得した者)、小学校教員・校長、看護婦、写真師、マッチ工場女工、貴族院女給仕、看護婦、女囚取締など。中期には、英語教師、音楽家、活版印刷・活字拾い、大蔵省印刷局・煙草・製糸・紡績・織物・西洋煉瓦・印刷・ガラス・製靴・鉄鋼・黒鉛坩堝・紙函・団扇・時計・染色・洋傘・帽子・ブラシ・製油工場女工、電信技手、電話交換手・監督、女医、歯科医、保母、作家、速記者、勧工場・展示会監視人、婦人記者、事務員、鉄道局旅客調査員、東海道線急行の食堂車女給、国鉄駅出札係、店員など。後期にはじまった職業は、電報調査員、モデル、タイピスト、美容師、通訳、薬剤師、研究所勤務、郵便局員、監獄教誨師、官営煙草工場女工・監督、ゴザ製造、製紐、和紙製造、マッチ・セメント工場女工、外国航路汽船スチュワーデス、花売り娘、女優、英文速記者、カフェ女ボーイなど。一部ではあるが肉体労働から、頭脳労働への変化がみられる。
大正期には、英文タイピスト、中等学校教員、バス車掌、ガソリンスタンド売子、映画館切符売・案内嬢、派出看護婦、派出婦、雑誌・新聞記者、電車車掌、トラック・バス運転手、船舶機関士、アナウンサー、外国人ガイド、弁士、保険勧誘員、郵便集配人、列車清掃婦、保護司、医学部助手など。1926(大正 15)年に内務省社会局が発表した、「全国職業婦人調査」では、農家傭婦 600 万人・女工 100 万人、これ以外に職業婦人 110 万人、(うち医務 9 万 8000 人・教育 7 万 8000 人・官庁事務 4 万 5000 人・商業 60 万7000 人・売子・タイピスト 9 万 3000 人・工場鉱山職員 1 万 1000 人、その他女中・女給など)で、大正後期の女子就労者数の概要がみえる。
昭和恐慌で、紡績女工 4 万 6000 人が解雇され、労働争議は前年の 2 倍になり、飢饉などで芸娼妓・酌婦が増加し全国で 20 万 7000 人、カフェ、バーの女給 6 万 7000 人、男に声をかけキスをするキッスガール、男と腕を組むステッキガールも登場。昭和に入り、乗馬服スタイルの婦人車掌、上野松坂屋にエレベーターガール、東京空輸送会社エアガール、京都で円タク運転手、警視庁は家出人保護担当の保健婦、万国婦人子供博女子看守(コンパニオン)、レコード・たばこ・公衆電話サービスガールなどが登場。大阪YWCA は、オフィス・ワイフ(女性秘書)養成科を設置した。
明治時代に新職業として、需要が発生したのは小学校教員養成で、師範学校卒業後の任地は任命制で、給与も男子教員の 2/3 だったので、就業義務の 2 年間を終ると、結婚していく者が少なくなかった。師範学校進学に対し、親はショックをうけ、幸福の断念ととり、周囲も師範に入る娘は容貌が醜いから、縁遠いからなどとの評判を立てた。極例だが、「学問好きな女子は家名を傷つけるというので親族会議を開いた」ケースもあった。教員だけではないだろうが、共稼ぎの場合「親戚からまだ共稼ぎを止めないのかと再三言われた」という。共稼ぎとは卑しみと同義語だった。未婚女性の場合は、親の経済的補助、兄弟の学資を稼ぐものが少なくなかったが、社会勉強のため勤めるケースも散見されるが、侮蔑的な目があったことは否定できない。
明治の労働環境は、官吏に対する官制を改正し、勅任・奏任・判任官を定めるとともに、従来の年俸制から月給制に変え、官庁の公休日を、1 月1-3 日、6 月 28-30 日、12 月 29-31 日と定め、紀元節などの 8 日を祝祭日とし日曜全休、土曜半休とした。一部の企業では、退職金制度、休暇・制服などを定めた近代的就業規則を制定。海軍火薬製造所などで定年制を施行。
炭鉱規正法で 8 時間労働制を規定。工場法を公布したが、貴族院の反対で1916(大正 5)年まで延期して施行。
***エピソード***新政府は、1873(明治 6)年太陽暦を採用したが、大陰暦では閏月があるため、13ヵ月分給与を支給しなければならないため、太陽暦を採用したという説がある。***
女性の地位向上は、1906(明治 39)年、逓信省貯金管理所雇員和久井みね他 16 人を判任官待遇に、1920(大正 9)年、東京市、水野やす子を女性視学に任命、1922(大正 11)年、東京女高師教授喜多見さき子、女性教育者初の勅任官に。1928(昭和 3)年、谷野せつ工場監督官に就任。1935(昭和 10)年、金子しげり東京市清掃課の行政機関嘱託に。民間では、三越が女店員を主任待遇に昇進させた。大阪大丸は服飾研究生の女店員をパリに派遣、坂根田鶴子=女性映画監督「初姿」でデビュー。
1912(大正元)年、鈴木文治らが友愛会を設立、1916(大正 5)年婦人部を創設。同年、工場法施行に備え警視庁などが工場監督官設置を公布し弾圧。1919(大正 8)年、第 1 回 ILO は女子・少年の深夜業禁止、8 時間労働、労働者最低年齢等の条約を成立したが、日本は後進国を理由に欧米との同一行動を拒否。労働・小作争議も頻発し、1920(大正 9)年、全国教員組合は発会式で、男女教員俸給差別撤廃を決議、これに対抗して警視庁は特別高等課に労働係を新設。
1925(大正 14)年細井和喜蔵の『女工哀史』は、前借金にしばられた紡績女工などの過酷な労働条件を書いた。工場から逃亡して自殺する者もあり、ストなど労働争議が頻発した。
1927(昭和 2)の金融恐慌が、1930(昭和 5)年に、わが国にも波及し、大学卒業生の就職も厳しく「大学はでたものの」という流行語が生まれた。だが、1927 年の記録によれば、社長の平均年収は 15 万 1000 円(税引き後)で、大卒新入社員の 1500 円とは 100 倍の差があった。
1929(昭和 4)年、改正工場法が施行され女性の深夜業廃止。日中戦争時代になり、国家の規制は厳しさを増していくが、労働婦人連盟・日本タイピスト協会・婦人俸給者組合・日本看護婦協会設立、全日本労働総同盟結成大会開催などがみられる。
1928(昭和 3)年、全国鉄道女子従業員(8000 人)、産前産後の賜暇期間 40日を産前 28 日、産後 42 日に延長、1931(昭和 6)年、労働者災害扶助法公布、鉱山での女子・年少者の深夜業・坑内労働禁止、退職積立金および退職手当法公布などの施策もとられた。
共稼ぎも普及しはじめ、託児所増設の要望も高まった。一部では、6 時間労働制を採用したため、家庭婦人の勤労が可能になった。一方、1935(昭和 10)年、小作争議は、6824 件とピークを記録。
1938(昭和 13)年、国家総動員法公布、職業紹介所国営化、産業報国連盟創立、1939(昭和 14)年、国民職業能力申告令を制定(女医・看護婦等)、国民徴用令公布、女子の坑内作業禁止を緩和、1940(昭和 15)年。大政翼賛会結成、大日本産業報国会創立、太平洋戦争開戦以降、応召者増加で銀行は女子事務員採用を本格化した。1938(昭和 13)年、全日本労働総同盟幹部、明治神宮に参拝し皇軍の武運長久を祈願で、戦前の労働運動は終焉。東京市の女工は 16 万人を突破し重工業化へシフトしたが、1940 年、大日本農民組合解散、軍需産業の労働力需要増で農業・商業からの転職者急増、軍需景気で女工の希望が増えデパートガールの希望は減少した。
国策として「産めよ殖やせよ」時代に入り、1936(昭和 11)年、女子労働者の結婚退職が、自己都合か否かで内務省と全国産業団体連合会が対立、内務省は、やむを得ざる退職と結論、退職手当の支給を認めたが、6ヶ月以内に婚姻証明書提出を義務化した。1939(昭和 14)年、日本勧業銀行は、婦人職員 1200 人に結婚を奨励し 28 歳定年制を実施、東京交通労組婦人部、結婚による退職反対懇談会開催など、戦後もつづいた結婚退職問題がおこった。
1942(昭和 17)年、賃金統制令施行規則を改正し、女子日傭労務者の賃金を男子の 7〜8 割と決定、1943(昭和 18)年、工場法戦時特例を施行し、女子・年少者の深夜業と坑内作業を認可、17 業種に男子就業の制限・禁止(一般事務補助、販売店員、外交員、受付、電話交換手、車掌、出改札掛、理髪師など)に関する件と女子挺身隊制度強化方策要綱を決定し 12-39 歳を強制加入させ、学校工場化実施要綱を発表し、女子校の工場化を促進。小学校の女性教員は男子教員数を上回った。1944 年の勤労風俗は、丸の内の出勤男女比 1:3 に逆転、男はゲートルに戦闘帽、女はモンペ姿だった。1945 年、国民勤労動員令公布、国民徴用令等を廃止・統合し労働力を根こそぎ動員し、敗戦時における女子挺身隊員 47 万 2000 人、女性労働者は313 万人におよんだ。
   戦後
1945 年、GHQ は、労働組合結成の奨励などを含んだ五大改革指令を発令。敗戦による海外からの引揚者 440 万人に加え、軍隊からの復員者があったため、同年、厚生省は離職者 1324 万人と発表。労働組合法が公布され、団結権・団交権・争議権が確保され、全日本教員組合、日本農民組合・日本労働組合総同盟など組合結成が相次いだ。二次にわたる農地改革で、不在地主の土地 80%が解放され、多数の農民が小作から解放された。
1946 年の失業者は 600 万人、完全失業者は 159 万人、男性の職場確保のため国鉄は、婦人・年少者を中心に 7 万 5 千人の解雇通告、追随する企業が続出し、多くの女性が職場を失った。
1947 年、労働基準法を制定、男女同一賃金、女子の時間外労働制限、産前産後・生理・育児休暇など母性保護を規定した。1948 年、国家公務員法改正公布、人事院を設置し争議行為など禁止。1949 年ごろから、レッドパージが教員・新聞社員・公務員に広まった。
ごく一部の現象だが、東京都教組婦人部は、初任給 3120 円の男女同一賃金を獲得した。
1950 年、朝鮮戦争により経済復興の糸口をつかみ、1951 年、ILO に加盟。女性改造で BG という新語が紹介されたが、1963 年、NHK は放送禁止用語にしたため、OL の語が使われるようになった。名称の変更は、1961 年の日本観光旅館連盟が「女中」から「お手伝いさん」に、1966 年、「思想の科学」は「共稼ぎ」を「共働き」とした。
***エピソード***『週刊女性自身』のライター長尾三郎は『週刊誌血風録』で「僅差でオフィス・ガールが 1 位だったが、BG から OG では代わり映えがない」、文化放送で「百万人の英語」の講師をしている鬼頭イツ子が、「ガールは子ども扱いだが、レディなら教養のある女性らしさを感じさせる」という理由で、実際は 2 位だったオフィス・レディの略称 OL を採用した」と記している。***
結婚退職・出産退職・女性の若年定年制などが問題提起され、1966 年、東京地裁、女子の結婚を理由とする解雇は違憲と判決、1981 年、最高裁は、日産自動車の定年差別歳訴訟で「性別定年差別は公序良俗に反し無効」と判決し、定年差別問題は決着した。
1956 年、産休補助教員設置法施行、ILO 女子の坑内作業の禁止に関する条約批准、経済白書は「もはや戦後ではないと」宣言したが、5 月、厚生省の推定では、「今月だけで売られた子、前年の 3 倍の 644 人、この一年で 5000人、ほとんど特殊飲食店へ」という現実もあった。
内職・パート労働をふくめた女性労働の増加に対応して、1959 年、最低賃金法公布。「金の卵」と呼ばれた中卒就業者は、1963 年、就職列車がピークの 7 万 8000 人を記録。
1960 年代に入ると、夫婦共働き、女性パートタイマー増加で「カギっ子」問題が発生し、保育施設・保育時間の延長の要望が急増。地方からの出稼ぎ、工場の地方進出により、農村でもパート労働が広まり、三ちゃん農業時代を経て、1967 年、農業就業人口は 20% を割った。
女性の家事労働の評価問題で、1966 年、大阪地裁は、女子労働者の平均賃金を算定基準と判決、1974 年、最高裁は、妻の家事労働の財産的評価を認め、逸失利益で新判断を示した。
1962 年、下関市のウニ加工工場、日本初の完全週休二日制を実施、キャノンなどの大企業で完全週休 2 日制を実施、1992 年国家公務員の完全土休が実施された。一方、1970 年、八幡・富士製鉄が大合併し、新日本製鐵になり、資本の集中も進行し、転勤による単身赴任も問題化した。
男女の賃金格差問題は、1975 年、秋田相互銀行の女性 7 人が、男女賃金差別訴訟で秋田地裁で勝訴したが、現在も男女格差は継続している。
1984 年、働く主婦が 50% を超え、0 歳児保育、夜間保育、ベビーホテルも設立され、1992 年、育児休業法が施行されたが、未だに男性の育児休暇取得率は 1%に満たない。1980 年代半ばには JT、NTT、JR などが民営化され、1980 年代半ばから、セクハラや過労死が問題化した。
コンピュータの発達による銀行相互間のオンライ化と、1972 年の金融史上初の大晦日一斉休業実施は、労働環境を大きく変え、企業は機械化、合理化を推進。1973 年、希望退職、1977 年には、窓際族の語が登場した。
男性の職業とみなされてきた、消防官・海上保安官・航空管制官などが女性に開放され、清水焼のロクロ師、航空機パイロット、競馬の騎手、新幹線の駅長・車掌・運転手、大阪府の知事に太田房江が当選し、現在では、女性の進出がない職場はほとんどみられなくなっている。
戦後の女性の地位の向上は、1946 年の逓信院、特定郵便局長に女子任用にはじまり、労働省発足で山川菊枝が局長に、湯槇ます東大医学部衛生看護学科助教授、中山マサ厚生大臣就任。1970 年以降、国立大学教授、都民生局長、政令都市議長、国連代表部公使、デンマーク大使、警視庁で警視、海上保安庁船長、最高裁判事、労働省事務次官に就任。民間では、高島屋の石原一子が東証一部上場会社で重役のち経団連幹事に就任などがみられるが、男女共同参画法の趣旨ほど、女性の地位は向上していない。
B 結婚・家庭生活
   戦前
戦前の女性の結婚といえば、「家」制度と戸主権に支配されたものであり、妾をもつことは、男の甲斐性ともいわれたが、1870(明治 3)年、新律綱領で妾を公認し、妻と同等の二等親においた。1871(明治 4)年、華族・士族・平民相互の結婚を許可、1874(明治 8)年には養子縁組も自由になった。1873(明治 6)年、尼僧に肉食、夫をもつ・蓄髪などの権利が付与された。
福沢諭吉は 1870(明治 3)年『中津留別之書』で、「人倫の大本は夫婦なり」「男といい女といい、等しく天地間の一人にて軽重の別あるべき理なし」として、一夫一婦や男女平等を説いた。1874(明治 7)年、富田鉄之助と杉田縫が、福沢諭吉を媒酌人、森有礼を証人とした、契約書を交換して結婚。山口県で保証人証明による祝婚姻、岩手県で約定書交換の自由結婚、1876(明治 9)年、福島県で男女平等の結びつきを謳う誓約書交換の結婚式が行われた。
森有礼は、『明六雑誌』に「妻妾論」を発表した。これに呼応するように、1879(明治 12)年、東京基督教婦人矯風会が設立され、一夫一婦制・廃娼の確立などの運動を展開した。
穂積八束と梅謙次郎らによる民法典論争の結果、新たに制定された民法では、「家」制度で、戸主権、家督相続、親族会議などを規定した。
この後「良妻賢母」主義が女子教育の中心になるが、良妻賢母主義と「家」制度は多くの論議をおこしたが、1893(明治 26)年、厳本善治は、『女学雑誌』に「女子教育体勢一転の期」を掲載し、良妻賢母思想を批判した、1934(昭和 10)年、衆議院で松田文相が、日本婦人は夫を援ける教育をするもので解放すべきものではないと発言し、議論に終止符を打った。
新たな結婚式形態として、1900(明治 33)年、現東京大神宮で神前結婚式挙行、1905(明治 38)年、都会で指輪を嫁入りに使用、1934(昭和 9)年ころからウェディングドレス着用が増加、1944(昭和 19)年、三越に結婚式場が開設されたが、結婚式は 15 分程度に簡素化され、戦時下の結婚式の花嫁はモンペに、束ねた髪に白い羽毛の髪飾りのみだった。
***エピソード***勤倹節約時代の 1943 年、花嫁装束の「ツノ隠し」論争がおきた。商工省と婦人団体が論争を展開した。存続派のリーダーは岸信介商工相(1960 年の安保闘争時代の総理大臣)、反対派は大妻技芸学校設立者の大妻コタカだったと伝えられている。***
1906(明治 39)年、丙午吉凶論盛んになり、1922(大正 11)年の関東大震災で戸籍簿焼失の為、19 歳の丙午生まれの娘を 18 歳として届け出る親が激増。60 年後の 1966 年、丙午で出産数 136 万人で今世紀最少、出生率前年比 25%減がおこった。
戦前期の大きな問題として産児制限があった。1907(明治 40)年、堕胎に関する法律公布。1908(明治 41)年、榊順次郎が妊娠暦速算器を工夫、コンドームを「ハート美人」として発売、1921(大正 10)年、サンガー夫人が来日したが、内務省は産児制限公開講演禁止を条件に入国を許可。石本恵吉・阿部磯雄らがこれにつづき、1927(昭和 2)年、『主婦之友』に荻野式避妊法が紹介された。1928(昭和 3)年、東京市は、多産に苦しむ細民のため多産制限を指導したが、翌年、警視庁は、産児制限、妊娠調節を禁止、1938(昭和 13)年には、産児制限相談所を、警察命令で閉鎖。この間、1914(大正 3)年、生田花世は、『婦人公論』に「食べることと貞操」を掲載し、貞操論争がはじまり、1915(大正 4)年、『青鞜』に原田皐月の堕胎肯定論が掲載され堕胎論争がおこった。
恋愛という言葉は、1887(明治 20)年、仏和辞林に amour の訳語として登場。1906(明治 39)年以後、大杉栄、厨川白村らが近代の恋愛観などを発表。1928(昭和 3)年、『婦人公論』で高群逸枝と山川菊枝が「恋愛論争」を展開した。
この間、1916(大正 5)年、与謝野晶子・平塚らいてうらによる母性保護論争がはじまった。与謝野は、『婦人公論』に「女性の徹底した独立」を発表し、生殖や子育ては夫婦の責任で、女性の経済的・精神的な独立を主張、平塚は「母性保護の主張は依頼主義か」を発表し、母は生命の源泉であり、婦人は母であることにより、個人的存在を脱して社会的、国家的な存在者になると述べ、子育ては社会的国家的な重要な事業なので、母性保護は女性の当然な社会的権利であると主張、山川菊枝は、婦人の経済的独立と母性保護の双方の必要を認めたうえで、母性である女性の根本的解放は社会主義社会においてのみ可能になると主張した。
この当時、男性の悪所通いは当然のこととみなされ、いわゆる性病にかかる者が多かったため、1919(大正 8)年、新婦人協会が、花柳病男子の結婚制限の請願を提出、1921(大正 10)年、平塚らいてう・市川房枝らは『婦人公論』に、花柳病者に対する結婚制限並に離婚請求に関する請願書を発表したが事態は動かず、戦後の 1948 年、性病予防法が公布された。
移民問題では、1920(大正 9)年、アメリカが米国人と東洋人との結婚禁止法を可決したが、駈込みで写真結婚した花嫁の入国も盛んだった。また、1924(大正 13)年、新潟県下の農村で女子の出稼ぎ増加がおこり、地元の青年の結婚難などで反対運動がおこった。
1927(昭和 2)年、女性の就学年齢が高くなり、働く女性も増えて婚期が遅れる傾向になり、高等女学校卒業後すぐ結婚する女性は、1924(大正 13)年 78 人中 63 人だったが、1929(昭和 4)年は 100 人中わずか5人だった。第一高女などでの調査結果では、結婚相手の人気職業は銀行員、官吏などのサラリマーンが 1 位で、女性の高学歴化は結婚年齢高齢化を引きおこした。
1935(昭和 10)年以降、大日本連合婦人会等々が次々に花嫁学校を開設。国策として大陸の花嫁募集・養成が増加。1939(昭和 14)年、厚生省は、産めよ殖やせよなどの結婚十訓を発表、人口問題研究所も女子に 20 歳前後での結婚を奨励するなどの人口政策を発表し、ヒステリックなまでに、官庁も婦人団体も結婚を奨励した。同年、東京市教育局、小学校教員の風紀問題頻発に男女教員の同僚結婚不可を通達。時代は遡るが、1901(明治 34)年、『婦女新聞』読者欄に枯葉女史なる人物が「わが婚せざる理由」を投書し不婚論争がおきている。
厚生省は、1939(昭和 14)年戦争未亡人の相談相手に女性指導員を置いた、指導方針は、再婚は 35、36 歳までなら可、ただし、極力国家に身命を捧げた主人の英霊を守ることが日本婦人の理想とした。1943(昭和 18)年、『婦人公論』は戦争未亡人特集で、再婚できるものはするのがよいを掲載して、陸軍省の怒りを買い、同誌は謝罪文掲載と始末書・用紙割当削除処分を受けた。
女性の結婚・離婚に対する権利は戸主がにぎっていたが、大正デモクラシー期に入ったころから、注目すべき判決がではじめ、1915(大正 4)年、大審院【以下、ことわりがないのは大審院判決】、初めて(内縁の妻に)婚姻不履行に基づく賠償請求を認める、同年、婚約の予約有効の判決、1926(大正15)年、男子貞操に関する判決。1930(昭和 5)年、離婚訴訟で、子供ができないのを理由に夫が妾を囲うのを認められない、という妻の言い分を認め、夫に 1 万円の慰謝料支払いを命じた。同年、身持ちの悪い夫には妻の財産管理権なし。1931(昭和 6)年、大阪控訴院、未亡人の貞操に関しある程度の性の自由を認める、1932(昭和 7)年、妻の持ち物は夫でも自由にならないと判決。1937(昭和 12)年、内妻にも軍人遺族扶助。1939(昭和 14)年、内縁の妻が懐妊し婚姻届を出した後 300 日以内に出生した子供は嫡出子と判決、これは、現在でも論議続行中。
   戦後
1945 年 11 月の全国人口調査では、総人口 7199 万 8104 人、女性が男性を 420 万人上回り、15-49 歳の女性は配偶対象の男性より 647 万人多いことが判明。戦争未亡人は約 28 万人に達した。従来職場結婚はタブーだったが、1947 年に東京都庁は、初めて職場結婚を公認、継続勤務を認めた。同年、刑法を改正し姦通罪は廃止。1948 年、京都の戦争未亡人が再婚のため、未復員の夫を相手に離婚訴訟起こした。
わが国は、占領軍に支配されたが圧倒的に米兵が多く、1988 年、ワシントン州で戦争花嫁渡米 40 周年記念大会開催されたが、戦争花嫁は米国だけで 10 万人におよんでいた。
1949 年に施行された新民法と戸籍法で、「家」、戸主、家督相続、親族会議が廃止され、成人の結婚は両性の合意で成立、姓・住居も夫婦協議で決定、戸籍は夫婦単位で編成されることになり、妻の無能力規定も廃止され離婚も自由になった。財産分与請求規定ができたが、子のない妻の相続権はいまだに認められないという問題は残っている。
1962 年、建物の所有区分所有法改正で、夫婦で住んでいる家屋の半分は妻の所有権になる。1949 年、結婚相談所にくる女性の男性の理想像は、自宅を持っている人が圧倒的だった。1955 年になると、30 代女性の結婚が深刻化。1959 年、結婚する女性に、家付き、カー付き、ババ抜きの語が流行。1970 年、北海道で花嫁誘致を発端に、結婚難・未婚率減少を図る結婚推進課新設など、農村の嫁不足は社会問題化している。一方で、できちゃった結婚が増加、1987 年、独身女性の間に三高の語(身長・学歴・年収が高いほど良い)が広がった。この間、結婚クリスマスケーキ説、年越しそば説などの言葉も流布された。
戦後の夫婦間に関する判例は、離婚問題が多く、1951 年、最高裁は、情婦を持ち婚姻を破綻させた夫からの離婚請求を認めず。1980 年、結婚後にできた財産の半分は妻の貢献によるとして、妻が夫を提訴した離婚訴訟で、横浜地裁は夫に現金 1 億円と土地の移転登記を命じた。1983 年、最高裁は、夫の事業倒産後に協議離婚した妻への財産分与は、不当とする債権者の訴に妻の優先権を認めた。1984 年、大阪高裁、浮気亭主は妻が浮気してもその相手から慰謝料を取れないと判決。
住宅状況は、米軍の無差別爆撃もあり、住宅不足が全国で 420 万戸におよんだため、勧銀・現みずほ銀行は、住宅が当る住宅定期預金を開始、赤玉ポートワインの懸賞の 1 等商品は住宅だった。1955 年、四谷にわが国初の分譲マンションが完成し販売された、価格は一戸 400-700 万円だった。1958 年、団地族が流行語になったが、翌年の建設白書は、「住宅はまだ戦後」と発表し、1973 年ようやく、総理府統計局住宅統計調査中間報告で、1世帯 1 住宅一応達成と発表。
1949 年、戦中「産めよ殖やせよ」といっていた政府は、一転して、人口問題審議会を設置し、産児制限の強力推進を答申し、1948 年、優生保護法公布、人工妊娠中絶の条件を緩和、厚生省は、避妊薬製造を許可し、翌年、エーザイが避妊薬サンプーンを発売して新薬の語が生まれた。1955 年、ピル発表、婦人用体温計発売され、1974 年厚生省は、避妊リングの製造を許可。1984 年、世界初の人工流産剤の製造認可。1986 年、ピル研究班がようやく製造を認めた。
主婦に利便性をもたらした 1952 年の即席カレー発売以後、インスタントラーメン、インスタント食品やレトルト食品が次々に開発された。1954年、電気洗濯機・冷蔵庫・掃除機が三種の神器と呼ばれ、1957 年、主婦の店ダイエー開店、1960 年、東京ガスは料金銀行振込みを開始、スーパーマーケットも急増。1966 年には、3C(カラー TV、カー、クーラー)が新三種の神器になった。1974 年、コンビニが台東区で開業された。1976 年、宅急便開始、1983 年、ベビー用紙おむつの生産量 3352 トン。以後、郊外レストラン、少量パックの惣菜・カット野菜急増、宅配ピザ、オンライン・スーパー、ネット専業銀行、携帯電話が普及し、近年は食洗機・生ごみ処理機・IH 調理器が家電品の新御三家と呼ばれる時代になっている。
次第に働く女性が増加し、1955 年、石垣綾子は「主婦という第二職業論」を『婦人公論』に発表し主婦論争がおきた。これは、すでに平野が述べているので省略する。
1964 年、労働省の女子労働者の職業と家庭責任調査では、共働きが半数になり、カギっ子問題が発生し保育園の拡充・保育時間延長が問題化した。また、転勤問題も発生し、1969 年、大阪地裁は、日本生命の配転拒否事件で、別居を強いる転勤は人事権の不当乱用と判決。
1976 年、企業で給料の銀行振込みが始まった。これによって、夫の収入がオープンになったことと、単身赴任の増加により、主婦に管理される夫が増加した。
高齢化問題は、意外に思えるほど早くから問題として意識され、1959 年、日本老年学会設立。1963 年、老人福祉法公布。1970 年、厚生白書に高齢者問題が登場。以後、安楽死協会設立、老人対象の公立結婚相談所・有料老人ホーム開設、寝たきり老人家族のショートステイ、中教審・生涯教育を答申。1986 年、厚生省は、痴呆性老人対策本部を設置。1987 年、文部省は生涯学習局を設置。1994 年、介護休業法が成立したが、現在、老老介護、認認介護が問題になっている。
女性の意識調査をみると、1980 年の婦人・世論調査、1 人立ちできれば結婚しなくてもよい、子供ができても仕事を続ける女性合計 23%。1990 年、総理府女性に関する世論調査では、男は仕事、女は家庭に同感しない女性39.1%、男性 34.7%。1996 年、総理府調査で成人男女の半数以上が夫婦別姓を容認。だが、1991 年、育児休業法がスタートしたが男性の育児休業は今もって 1%に満たない。2000 年に施行された男女共同参画法もあまり機能しているようにはみえない。
W 婦人運動
   戦前
既に各章で述べてきたことが多いので、簡略化して述べる。1879 年、群馬県会が、貸座敷業改正の建議を提出、これに呼応するように、東京基督教婦人矯風会が設立され、廃娼・禁酒・禁煙・一夫一婦制の確立運動を展開。
1882(明治 15)年、岸田俊子が男女同権の演説をし、「同胞姉妹に告ぐ」を『自由燈』に連載。
一時的にせよ、1880(明治 13)年、高知県上街小高村、1885(明治 18)年、宮城県仙台区役所が、25 歳以上の女戸主に各区・各町の選挙権を認めたことは見逃せない。
1885(明治 18)年、甲府の製糸工場の女工たちが、支配人の待遇不公平(顔の美醜)を不満として怠業をし、労働運動が芽をふきはじめた。
こうしたなか、婦人矯風会、大日本婦人教育会、女子教育奨励会、婦人白標倶楽部などが結成され、これは地方にもおよび、廃娼・一夫一婦制・禁酒・禁煙・参政権獲得などの運動を展開した。これに対抗して、1901(明治 34)年、愛国婦人会が創設され、兵士・家族救護活動を行い、日露戦争を契機に組織が拡大し、わが国最大の官製団体になった。
1890 年代半ばから労働運動も激化し、普通選挙獲得運動もおこったが、集会及び結社法公布、新聞紙条例改正で女子が発行人・編集人・印刷人になることを禁止。
1902(明治 35)年以降、職能団体として日本女医会、帝国通弁協会、大日本実業婦人会などが結成され、1904(明治 37)年、日露戦争が勃発したが、社会主義協会は社会主義婦人演説会を開催し、女性の改良・自由結婚・教育などを論じた。愛国婦人会は、日露戦争の檄文を全会員に配布。1909(明治 42)年、女子教育懇話会が、良妻賢母教育の立場から、若い婦人の男子に対する心得〈べからず〉十訓を作成。
1919(大正 8)年、山脇玄は、貴族院本会議ではじめて婦人参政権の必要を主張。全国 43 団体が集結して全国普選期成連合会結成で、普選運動は激しさを増した。これに対抗して、警視庁特別高等課に労働係を新設。久布白落実・市川房江・吉岡弥生らに先導され、婦人参政権獲得運動は大正後半から、一部に離合集散はあるが運動を激化した。
1922(大正 11)年、文部省は、女教員・保母に初めて産前産後休暇を認めるよう訓令(産前 2 週間、産後 6 週間)。
閣議で国産品愛用運動を決定。勤倹奨励婦人団体委員会は同調した運動を起こし、文部省は、「家庭教育ニ関スル件」を訓令し、家庭教育の必要を強調し大日本連合婦人会を創立。
15 年戦争時代に入り、婦人報国運動組織として日本連合婦人会結成、愛国婦人会は慰問活動を開始、時局認識・生活改善推進のため婦人報国運動を開始し活動をエスカレートした。
1934(昭和 9)年、婦人参政同盟は、有妻男子の姦通罪制定を法相に陳情。市川房枝らは、母子心中の防止を目的に母子保護法制定のための最終準備委員会を開催。1935(昭和 10)年、廃娼同盟は国民純潔同盟に改組。婦人矯風会・日本女医会など 8 団体が、非常時局打破克服を目的に日本婦人団体連盟を設立。
1937(昭和 12)年、愛国婦人会・大日本国防婦人会・大日本連合婦人会・同女子青年団、国民精神総動員中央連盟に包含。国民精神総動員中央連盟は、非常時国民生活様式改善委員会設置、委員 35 人中吉岡弥生、市川房枝ら女性委員 11 人が参加し、労働・婦人運動は実質的に終焉。1940(昭和 15)年、新体制運動協力のため婦人参政権獲得運動同盟は解散した。
***エピソード*** 1940 年 7 月 7 日に、奢侈品等製造販売禁止され「7.7 禁止令」と呼ばれた。国民精神総動員本部は「ぜいたくは敵だ!」の看板を設置したが、一部の人々は「ぜいたくはステキだ」とだじゃれていたという。1943 年には、デザインを凝らしたモンペが流行した。大日本婦人会は、「決戦です!すぐ、お袖を切って下さい」というカードを配布した。***
   戦後
GHQ の五大改革指令により、治安維持法・国防保安法・治安警察法など各種弾圧法も廃止され、女性の政治活動も自由に行えるようにになった。1946 年の第一回衆議院議員選挙で女性 39 名、1947 年の参議院選挙で 10名当選。労働組合も次々に結成され、1946 年には、日本労働組合総同盟を結成。1947 年には、労働基準法が制定されたが、男女差別はつづいた。
1947 年 5 月 3 日、男女同権などを盛込んだ日本国憲法が施行され、民法・戸籍法も改正され、結婚及び離婚の自由と平等を確保、「家」制度も廃止され、妻の相続権を認め、戸主制度も廃止され、刑法の姦通罪・不敬罪廃止。1948 年、主食の遅・欠配・物価高・ヤミに反対して主婦連結成。
1950 年、マッカーサー元帥は日本の自衛権を認めると発言、これに対し、平塚らいてう、ガントレット恒子らが、平和への要望書をダレス国務顧問に手渡したが、マ元帥は、警察予備隊創設、海上保安庁の増員を指示し、教員・新聞社員・公務員などのレッドパージを行った。
1952 年、再軍備反対婦人委員会、米国上院にアピール。全国地域婦人連絡協議会結成。1953 年、総評婦人協議会は、平和憲法擁護・徴兵反対署名運動を決議。米軍の内灘試射場接収反対運動で主婦を中心に座込み闘争をおこなうなど、平和運動も高まりをみせた。
1954 年、23 の婦人団体が売春禁止法成立を期す全国婦人大会を開催。1956 年、明治以来、婦人運動の大きな課題だった、売春禁止法が公布された。1950 年代初頭からはじまった、「逆コース」化のなかで、民法を旧に復す動きがあり、家族制度復活反対総決起大会が開催された。
1954 年の近江絹糸争議は、組合承認、外出・宗教・結婚・通信の自由など人権を要求し無期限ストに突入、近代化・現代化のなかで、まだこのような事態がつづいていた。同年、日本婦人平和集会を開催し、原水爆禁止を決議、原水禁署名運動協議会を結成、翌年、第一回原水禁世界大会広島大会開催。
1960 年の安保闘争は、講和条約締結と同時に結ばれた日米安保条約改定の是非をめぐって、前年から各種団体が組織され、戦後最大の政治闘争になったが、時間切れで自然成立した。
1965 年、母子保健法公布。1970 年代には中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する「中ピ連」や「闘うおんな」グループが結成された。1975 年、「国際婦人年」前後から、次第に婦人運動は国際化し、環境問題・高齢者問題などにシフトする一方、働く主婦が増加したことによる保育園確保運動、夫婦別姓シンポジウムが開催され、夫婦別姓は承認されつつある。
60 年安保闘争以降、婦人運動は目立った動きがみえない。小泉改革で格差が拡大しているなかで、婦人運動は、今後、どう展開されるのだろう。 

 

●3 女性をめぐる社会環境の歴史的変容
われわれの項目選択による女性史年表(私案)は前掲のとおりである。この年表には若干の問題点が含まれている。それは年表作成の項目選択が既刊の年表に依存している点にある。既刊の年表はいうまでもなく、年表製作者ならびに編集者の年表作成の意図に基づいて作成されており、そこには制作者及び編集者たちの意図による選択というバイアスがかかっている。さらにわれわれの選択にもわれわれの意図によるバイアスがかかっている。
こうしたバイアスはある意味では年表制作などの場合においては不可抗の事態である。バイアスの問題を十分に念頭において、年表項目からどのようにして時代的な社会環境を構築すればいいのだろうか。
ひとつ参考になる資料に平成 17 年 9 月に男女共同参画会議、少子化と男女共同参画に関する専門調査会が出した「少子化と男女共同参画に関する社会環境の国際比較報告書」がある。この報告書では社会環境を以下に示す 5 領域 10 項目の指標でとらえている 6。
T . 仕事と生活の両立可能性
適正な労働時間
働き方の柔軟性
U . 子育て支援の充実度
地域の子育て環境
子育て費用の軽減
家族による支援
V . ライフスタイル選択の多様性
家庭内役割分担の柔軟性
社会の多様性寛容度
雇用機会の均等度
W . 若者の自立可能性
X . 社会の安全・安心度
以上の 10 項目である(T〜Vまでの各項目=8+W、X合せて 10 項目)。
報告書に見られるのは以上の 10 項目の指標それぞれに特定の下位指標項目を定め、その項目のデータをスコア化し社会的環境をレーダーチャートに示すという試みであった。
この調査専門委員会の設定した環境指標は社会環境の項目的再構築には優れた試みである。また国際比較などの目的にも非常に有効な方法であるといえる。多少の手直しをすればそのまま女性をめぐる社会環境の構築にも十分に妥当するといえる。ただ残念ながら報告書においては、指標項目の標準化、スコア化とそのためのデータの説明はなされているが、スコアの計算式が示されていないので、これを参考に独自のスコアの算出が困難となっている。
6 / 「少子化と男女共同参画に関する社会環境の国内分析報告書」男女共同参画会議 少子化と男女共同参画に関する専門調査会 平成 17 年 pp17-25
そこでわれわれは、専門委員会が設定したTからXの 5 項目に注目してみた。5 項目の内容の検討を通してわれわれが到達した結論は、専門委員会のこの環境指標は T, パーソンズの AGIL 図式の内容と似ていないかというものであった。つまり、AGIL の 4 項目を環境指標として援用し、年表上に時系列的に羅列されている女性史にかかわる項目をこの指標に関連づけて整理することによって、女性をめぐる社会的環境を再構築できるのではないかと考えたのである。
そこで、本論ではこの推論の妥当性は措くとして、一つの思考実験として、年表項目から社会的環境の再構築を試み、女性をめぐる社会的環境の変化を考察ししてみたいと思うのである。
3 − 1 AGIL 図式の援用

 

AGIL 図式のこのような援用が果たして妥当かどうかについては大いに議論や疑義のあるところであろう。しかしここでは先に述べたように思考実験ということで、手続きを進めることとしたい。歴史年表項目に AGIL図式を援用するのであればまず最初に問題になるのが年表項目のどのような内容を AGIL に振り分けるかということであろう。
これについてわれわれは以下のように振り分け区分の基準を作ってみた。
われわれの意図はこのように区分された 4 領域に一定の時間間隔を設定した期間(本論では 10 年をとってみた)における項目数をカウントし、4 領域のこの数値のバランスをとりあえずこの期間の社会的環境構造を示すものと理解しようというものである。項目のカウントに当たっては、一つの項目が AGIL のどれか一つとのみ対応してカウントされるというものではない。年表項目の中には複数の AGIL 領域においてカウントされるものもあることに注意する必要がある。またカウントされる個々の項目についていえば、どの項目もが社会的環境に同じ重要性を持つとはいえないところがあると考えられるが、本論においては重要さの対する重みづけは行っていないことをつけ加えておきたい。
さらに本論において年表項目のカウントの対象となっている年表が、紙数の関係もあって女性関連事項に限定した本論第 2 節にある年表ではなく、「哲学」特集号に発表した年表を基礎に追加・補正したものであることも注意しておきたい。(補)
AGIL 区分基準
A:資源獲得に関する項目、原則的には経済事項
A1:労働環境 職業、賃金、雇用、就業人口、労働環境、移民、年季奉公、企業内地位獲得
A2:生活環境 保育施設、住宅事情、買出し、貧困・救済、貯蓄、医療、栄養改善、食料事情、物価、裁縫
A3:身体環境 産児制限、新食材・料理、栄養状態、高齢化、病気、伝染病、衛生、身体状態
L:文化、価値観、世界観
L1:伝統的価値
L2:風俗的価値
L3:流行的価値(一過性・一時的)
妊娠、出産、育児 / 服装、流行、風俗 / 小説、映画、演劇、レジャー / 教育、学位取得、ライセンス取得 / 啓蒙、家庭生活改善(衣食住) / 就職・結婚などの意識調査 / スポーツ分野への進出 / 事件・事故・非行 / 食生活、やせ願望
G:女性の存在意義、人生の目標、目標設定
G1:公的・法的目標 法的権利獲得、天皇制推進、政治活動、参政権
G2:市民的目標 婦人運動、市民運動、廃娼運動、各種争議、学術活動、各賞授賞、人生観
G3:私的目標 学術活動、叙位・叙勲、各賞受賞、人生観
I:社会関係、組織、家族関係
I1:制度的・公共的統合 社会組織の変更、社会変動の起因、地位向上、人口
I2:公共的統合 身分制、男女差別・差別、女人禁制からの解放
I3:個人的統合 家族制度、良妻賢母、恋愛、結婚、離婚、親族、近隣・嫁姑関係
3 − 2 グラフで見る社会的環境構造の変化

 

本論の思考実験の趣旨が年表に取り上げられている項目に注目し、そこから女性をめぐる社会的環境を構築し、その歴史的変化をみようとするものであることは先に述べておいた通りである。
明治時代から平成にかけての女性をめぐる社会的環境の歴史的変化をみるために、われわれは二つの操作を設定した。一つは 10 年の時間幅をとり、その中の年表項目を AGIL の 4 領域に振り分け、さらにその数をAGIL 各領域でカウントした。二つ目は、女性をめぐる社会的環境に大きな変化をもたらすと推論されるような画期的事態が生起した時点を変動観察のための基準年と設定し、基準年の AGIL 領域の項目数を 1 として、各10 年ごとの AGIL 項目数を指数化した。
われわれは基準年を、1918(大正 7)年=大正デモクラシー期、1928(昭和3)年=第一回男子普通選挙実施、1956(昭和 31)年=国連加盟・経済白書「もはや戦後ではない」と発表、1964(昭和 39)年=東京オリンピック開催の四時点に設定した。 前の二つはいわゆる太平洋戦争敗戦前、後の二つは戦後である。
1928(S3)年基準
これらの操作の具体的事例は以下のとおりである。例えば前掲の 1928年を例にとれば、同年の場合、落としこんだ A 項目は 17、G 項目は 17、I項目は 20、L 項目は 37 で、これを各々指数 1 としている。
以下、各年度の項目をカウントし、前後 10 年間の合計の平均値を出し、基準年の指数 1 を基準にして指数化した結果が前掲表で、他の基準年も同様の手続で処理されている。
同様の手続きを各基準年に対して実施しそれを表示したものが以下のグラフである。
下掲のグラフは基準年の値を 1 とした指数をとったものであるので、各期間ごとの AGIL 指標の変化が一定の数値の範囲に収斂しているか、それぞれが平行な関係で推移している場合は、環境状況に大きな変化があったとみることはできない。それに対して、基準年を境にしてグラフの各線が大きく交差したり、急激に指数値を上げたりするような場合は環境状況に大きな変化があったとみてよいだろう。
このような視点から前掲のグラフを見てみると、戦前と戦後に大きな違いを発見することができる。戦前の二つのグラフにおいては、基準年以前には AGIL の指数値は一定の範囲内に収斂しており、比較的に安定した推移を見せている。それに対して基準年以降はグラフの線の交錯がみられたり、急激に指数値を上げる領域がみられるのである。さらに、戦前のグラフでは I と G 領域の変動が大きいことが分かる。
戦後のグラフにおいては戦前とは反対に基準年以降 AGIL の指数値が一定範囲内に収斂して、比較的に安定した状況になるのに対して、基準年以前は AGIL の指数値が大きくばらけている。しかも戦後のグラフにおいては G 領域の変動が特に目につく変化を見せている。
これらの事実を我々が設定した基準年に重ね合わせて解釈すると、戦前の二つの基準年、つまり大正デモクラシー期と第一回男子普通選挙実施は女性をめぐる社会的環境を大きく揺るがす効果を持ったのに対して、戦後の二つの基準年、つまり国連加盟・経済白書「もはや戦後ではない」と東京オリンピックの開催は女性をめぐる社会的環境を安定化させる効果を持ったと解釈できるのではないだろうか。
グラフからはまた、戦前の社会的環境変動においては、A と I 領域が大きく変動したのに対して、戦後ではつねに G 領域が大きく変動していることがみてとれる。これらの事実の解釈はより慎重な考察が必要とされると思うが、変動領域が戦前と戦後においてこのように変化したことは戦前と戦後における女性をめぐる社会的環境構造がかなり質的に変化したことを予想させる。
われわれは前述の基準年を、女性をめぐる社会的環境に影響を与えたと考えられる社会変動の時期として設定したのであるが、基準年設定の意味が意図どおりであるかどうか確認する必要がある。そこでわれわれは基準年以外に 1934 年と 1978 年のデータをとってみた。
言うまでもないが 1934 年は戦前の、1978 年は戦後のグラフである。戦前のグラフでは G 領域を除いて後の三領域が基準年をはさんで右肩上がりに推移していることが分かる。1934 年を基準とした場合には AGIL 領域間の大きな変化は見られず、指数値の上昇がみられるのである。その意味では戦前の基準年はある意味で、環境構造の変化と対応するものであったといえるのではないだろうか。
これに対して戦後のグラフでは 1956 年、1964 年、1978 年のグラフをみれば明らかなように、AGIL 領域の指数値がほとんど同じ形であることが分かる。三つのグラフともに G 領域の変動が最も激しく、基準年以前は環境構造を示す AGIL 領域の指数値が大きく分裂しているのに対して、基準年以降はそれが一定領域に収斂している。これは戦後における基準年の設定の意味が否定されたものと解釈できる。
たしかに、戦後の基準年の設定はあまり有効なものではなかったが、三つの時期のグラフが同じ形であることは興味あるところである。
本論の冒頭でも触れたように、1956 年、1964 年、1978 年といえばわが国では石垣綾子によっていわゆる「主婦論争」が展開されたころであり、1964年前後にはアメリカで B. フリーダンが「新しい女性の創造」で郊外主婦の憂鬱を暴きだし、1970 年代はわが国でも主婦の憂鬱が一般化したころとされていて、この間、主婦(女性)の在り方をめぐる議論がフェミニズムをはじめとして盛んに論じられ、さまざまな運動も展開された時期に当たる。
それにもかかわらず、女性をめぐる社会的環境構造を示すものと我々が考えた三つのグラフが一貫して同じ形を保ち続けたことは、この間の議論や運動にもかかわらず、わが国の女性をめぐる環境構造はここ 40 年近くほとんど変化していなかったということを意味している。
もしこの結論が妥当なものであるとするならば、われわれはどのような要因がこのような持続性を保持させているのかを問わなければならない。
主要参考文献
・『近現代日本総合年表 第四版』岩波書店編 岩波書店 2001.11
・『明治・大正家庭史年表』家庭総合研究所編 河出書房新社 2002.7
・『増補版 昭和・平成家庭史年表』家庭総合研究会編 河出書房新社 2002.9
・『日本婦人問題資料集成・第十巻 近代日本婦人問題年表』丸岡秀子他編ドメス出版 1970.5
・『昭和二万日の全記録』講談社編 講談社 1989-1991.8
・『現代日本女性史』鹿野政直 有斐閣 2004.6
・『現代風俗史年表』世俗風俗観察会編 河出書房新社 1999.1
・『「モノと女」の戦後史』天野正子・桜井厚著 平凡ライブラリー 2003.3
・『女の戦後史T』朝日ジャーナル編 朝日選書 1984.3
・『学歴の社会史』天野郁夫 平凡社ライブラリー 2005.
・『戦後日本の大衆文化史』─ 1945〜1980年鶴見俊輔 岩波現代文庫2001.4
・『暮らしの世相史』─かわるもの、かわらないもの 加藤秀俊 中公新書2002.11
・『週刊誌血風録』長尾三郎 講談社文庫 2004.12
・『岩波女性学事典』井上輝子他編 2002.6
・『女性誌の源流』浜崎廣 出版ニュース 2004.4
・『モダンガール論』斎藤美奈子 マガジンハウス 2000.12.
・『日本近現代史シリーズ 1〜9』岩波新書 2006.11〜2009.8 ほか女性をめぐる社会的環境の歴史的展開 
 
 

 

●ジェンダーの日本近現代史
第1章 自由民権運動には平和を創るジェンダー理論があった
はじめに
現代日本で男尊女卑を口にする人は、少なくなった。しかし、1945年に日本が第2次世界大戦に敗北し、民主化するまで、日本では男尊女卑が制度化されていた。私の母は、私が幼い頃「あなたは男女同権の時代に生まれてきたのだから、」と自分の育った大正・昭和戦前期との違いをのべていた。私の育った時代が実は男女同権ではなく、近代家父長制の差別こ彩られていたことはだいぶ後になって認識できたことであったが、少なくとも、建前としての男女同権が憲法によって謳われてはいたからであった。
すばらしい伝統は大切にしたいが、差別の伝統はひきつぎたくないと思う。男尊女卑の伝統は私にとっては引き継ぎたくない伝統である。私は戦前の家父長制の伝統も、戦後の家父長鱗の伝統も、ともに引き継ぎたくないと考えている。そして男尊女卑の現れ方は、戦前の家父長鱗と戦後の家父長鰯では、異なっているとも考えている。
そこで、本章では、大日本帝国の形が明らかになってくるとともに戦前期の男尊女卑が再構築される以前には、平和を創るジェンダー理論に連なる伝統が見いだされるのではないか、ということを述べてみたい。ジェンダーの視点からいうと、生まれ出でた人は、感知できるまわりの情報・知識・思想・文化や雰囲気を学びつつ、自分を形成していくことになる。私たちにとって、伝統のどこをとるか、そこはとらずここをとるという、個人としての判断軸をもつことが、必要となるであろう。
開国によってもたらされた情報・知識・思想・文化は、ボディーブローのような影響力をもつことになったと思われる。「戦争を起すエリート同盟」が、圧倒的な財力知力により、何をとり何を排除するかを決定し、支配イデオロギーを創出した。だが、政府によって奨励されず、禁止されたとしても、抹殺されつくされはしない新しい思想、発想も、解放を求める人々と解放の理論を必要とする日本の構造とが存在したかぎり、日本に及ぶことになった。その時代の世界最先端の「平和を割るジェンダー理論」の萌芽も当時の日本に生きる多くの人々が実は欲している論理であった。
福沢論吉も植木枝盛も、男女同権論者であった。男尊女卑は、近世までの過去のものであり、文明開化によってそれは消滅すべきものである考えていた。もちろん、私たちが、フェミニズムやジェンダー理論によって気づかされた近代家父長制の男女不平等の問題についての解決策がそこで論じられていたわけでにない。したがって、男も女も自由に恋愛によって結婚をし、お互いに愛し合っている状態が消滅したり、別の人を愛した場合、結婚を解消して、自立できる男と女でありうる条件が、問題にされた訳ではない。しかしながら、夫は妻がいても、妾を持つことはでき、娼婦を買うのも自由であるのに、妻は夫に対して貞操義務があるといった不平等が、あたりまえとした民法体制への疑義は、その制度が構築される前には存在していたのであった。男尊女卑はなくすべきものであり、男女同権の姿は不明瞭とはいえ、男女同権を求めることが必要だ、という議論は存在したのであった。自由民権運動のなかで突出した仕事を残した植木枝盛は1886(明治19〉年に、武力・腕力・戦争と、儒教・仏教と専制が男女差別を支えた実態と思想だと指摘していた。植木は男尊女卑の残存する理由について、智識が醗けず文明が進まず、野蛮故だと批判している。
ここでは、植木の議論を当時の彼のテキストによって確認しておこう。男尊女卑の風習の所以を、封建制、戦国時代、腕力重視、儒教、仏教,専制主義等の要因から、次のように分析、説明している。
第1に、男尊女卑は封建制の産物だという。封建制下の武家では、男子のみが家を継ぐことができたからである。
封建時世は何故なれば男尊女卑を産出したるや。抑も封建の時世に於ては主として尚ぶ所のものは武に在り。斯かる場合に在り世間なによりも武が第一であるゆえ凡そ武略に達し武術に長じ、都べて武事武力の優れる者に非らざれば勢力を得ることも叶い難く、功名を博することも出来べからず。封建の時分に当りては平民よりも殊に士大夫の家に於て婦女を軽賎することの甚しかりしが如きは更に故ある。凡そ士大夫の家たる孰れも君侯より知行を貰ひ扶持米を頂戴し其れにて暮し行く訳なるに扨て其の家を立つるには封建の様として必ず男子に限ることと為し婦女にては叶ひ難きことなりしかば男子は自然に価値を生じ権勢を得たれども女子は畏縮して居るより外いた仕方なかりしなり。日本などにて婦女を軽賎するの習俗は、第一に封建時代の産出する所なりとは唱導するなり。噫我が婦女の為めに最も讐敵たりし者は彼の封建時代にあらずや。今日の婦女たる者其れ何んぞ之を追想し以て大いに憤然たらざるを得んや。
第2に、男尊女卑は戦国時代によるものだと述べている。戦国時代は武事軍事ばかり重視し、文事が衰退した時代であった。そのことにより婦女が価値をさげ、地位を落とし、勢力を失ったとも指摘している。
渾べて戦国時代は何故なれば婦女を軽賎するの習俗を起たる乎。夫れ戦国時代の有様たるや兵猷絶ゆることなく殺伐是れ事とし復た其勉あるに非らざるなり。左れば此の場合に於ては最も主として尊ぶ所のもの強勇に在り5。
右等の盤紅中(戦国の時代のこと)文事の凋落退縮すること欺くまでに甚だしきを極め而して唯り武事軍事にのみ馳せたることなれば其の長き年間に婦女たる者が価値を減じ地位を落とし勢力を失ひしこと推謝するに足るべし6。
第3に男尊女卑の風習をもたらしたものとして指摘しているのは、腕力重視である。未開、野蛮の社会では、禽獣社会の弱肉強食が支醗的であり、その業務は多く腕力を要するものに傾きがちなため、婦女の真成の極値が顕われないとしている、
封建と云ふにあらず戦国と云ふにあらざるも都べて其の仕事向きが荒々しき境遇にては平常業務を執るに主ばら購力(単に手の力を云うにあらず広く形体の力を指す)を要するなリマ。
野蛮糧界に発生したる勝の(脇方重視による)男尊女卑は建て其後の戦国聴代に及び之れが戦国時代に流れ来りて更らに愈々其の慣習を置結せしめ加ふるに其間適ま人心を感化したる所の学問及び宗旨に於ても亦自から男尊女卑を撫勢を為したるにぞ其の習俗は甚だ牢ふして抜くべからざるに至りしなり巷。
第4に、男尊女卑の風習にも地域や階級による違いがあるという指摘がある。夫婦の不同等は、武士が最も激しいと指摘している。
男女の問、夫婦の問に不同等をきわむるは則士大夫にして農民は之に次ぎ商人に至っては左程に甚しからず9。
第5に、男尊女卑を正当化するイデオロギーとして儒教をあげている。小学、女論語、女小学のテキストにより、次のように、婦女を軽蔑する儒教の教義を説萌し、挺の婦女よ、彼の儒学を穰斥せよと呼びかけている。
男尊女卑の風習が儒教の為めに益増長したりとは如何。軈て鑓の儒門の書には男女の理、夫婦の道に就て何らの譲書を載するや。吾輩は書て幼少の時に当り先づ小学の一書を学ひしが其申に於て左の一項あるを記憶せり。孔子の曰く、婦人は人に伏す、是故に専に離するの義無し。三従の道あり、家に在っては父に従ひ、人に適ては夫に従ひ、夫死しては子に従ふ。敢て自ら遂くる所なし。教令閉門より出でず、事餓食の問に在て而已奏。是故に女は目を閨門の内に及ふ(及費は猶ほ終欝と云ふがごとし〉、百里にして喪に轟らす事、檀に為ること無く行、独り成すこと無し。参は弩知て而して後動き験すべくして而して後に云ふ。昼も庭に遊ばす、夜行くときは火を以てす、以て婦徳を正ふする所抱。婦に七去あり、父母に顯ならざれば去る、子無ければ去る、淫すれば去る、嬉なれば去る、悪疾あれば去る、多書なれば去る、霧益すれば去る。吾輩は又曾て女論語てふ書を閲するに左の如き譏言あるを見たりき。女は閨門に嬢り戸を墨さしむることを少なくし来れと喚へは便ち来り、去れと喚へば便ち去る。稽従はざることあらは当さに陀怒を撫ふべし。朝暮講講各事務を勤め、地を掃ひ香を焼き麻を細き苧を緯ぐ。若し人の前に在らば勉の礼数を教へ茶湯を逓献し従容として退歩す。又量に女小学てふ一書あり。夫婦の事に就き講講して曰く夫は天にたとへ女は地にたとふ、されば夫の貴きこと天の高きが如し。妻たる者の心得ある、夫婦とおもふゆえになるるにしたがひて、うやまひにおこたるなり、心さしにも違ふぞかし、始より終まで主君と思ひつつしみつかふまつらば過すくなくなからん。此教をよくよく守りなば常に傍に居て杭をあふぎふすまをあたためんよりまされる孝行なるべし。何んぞ其の婦女を軽賎するの甚だしきや。擁も孔子などが右やうの立言を為したるは敢て法律上に就き男女の権利義務を論定したる所以にはあらざれども、其れとて本来に男女を以て同等と為るの精神思想は決して之れあらず。而して婦女は則男子に隷属するものなりと認むること自から文面に顕見して掩はんと欲するも能はざるなり。儒教の婦女を軽賎すること其れ此の嫁く。而して我が田本ならびに支那朝鮮等に於ては其の社会人民が古来該教の為めに感化を与へられしこと浅少ならず、随って男尊女卑の風習を増長したること霧しかりしなるべし。臆僅の婦女よ、彼の儒学を撲斥せよ、彼の露書五経及び小学等を破砕せよ、是れ汝が為めの讐敵にあらずや灘。
第6に、男尊女卑を支えるイデオロギーとして仏教も機能してきたと指摘している。仏教は女は罪深いとか、不浄とか主張していた。
仏教も亦男尊女卑の風習をして益増長せしめたり。該教が男女の事に関して説く所を問へば或は曰く、ギ女には五障三従と称へ男にまさりて深き罪ありまと。或は曰く ヂ不浄の女身蓬云々と。蓋し仏法に於て欺の如く婦女を賎しむものは畢寛如何なる仔綴ありて然ることなるや、吾輩は未だ詳知せざれども擁にしても仏法に於ては最初其始穣の釈遷が大に女色の弊に慰し自から之を戒め且つ人をして之を戒めしむる切なるより随って婦女を賎しむに至りしこともあるべし。将た仏教は釈遮がブラモンの悪弊を見るに忍びずとて別に創立したるものなりとは云へ、深く吟味をすれば矢張ブラモンに承けたる所あるを免かれざる訳なれば、本来ブラモン人間に種類を分ち強く躇級を付けることの余習が延いて婦女を賎しむの陋風を生じたるやも知るべからず、豊に厭ふべきことにあらずや。其れ此の如くなるがゆえに吾輩は仏法も亦男尊女卑の醜俗を養成したる一部分なりと考察せざるを得ざるなり。臆毯の女子達よ、希くは之を思へよ。
植木が男尊女卑の理由として第7に指摘しているのが、専制主義である。
男尊女卑の風習は大に専制主義と相ひ牽連する所あるべし。抑も専制主義に於きては元来が其名の通りに専鰯なるがゆえに之を達するが為めには一方をは葬常に尊きものとし、一方をは非常に卑しきものと為し魑めて階級を作らざるを得ざるなり。何となれば彼れも此れも同等と為したるときには、専嗣は甚だ将ひ難ければなり。
以上のように、植木枝盛にとって、男尊女卑の風習は、古い克服すべき時代の産物であった。すなわち時系列的にさかのぼって、武士業士大夫の家を媒介にした秩序維持を至上命題とした江戸時代の封建制、兵乱が絶えなかった戦国時代の武力と軍事による秩序形成、それより以前からの野蛮な協力による支醗の存在を指摘し、男尊女卑の風習は、かかる支醗構造に由来するものであることを萌らかにしたのであった。更にそうした支醗構造を支えた男尊女卑を内包するイデオロギーとして、儒教と仏教について論じている。儒教は女性を専ら父、夫、子に隷属すべき存在と教えるものであったし、仏教は女を男より罪深い存在と説くものであったことを指摘している。そして当時自由民権運動が撹利しようとしていた専制という支配のあり方を、格差・階級をつくり、・男尊女卑を固定化するシステムとしたのであった。植木枝盛にとって、これらは溶来の克服すべき古い時代の遺物であった。したがって、文事、言論、民主主義による合意形成が目指されるなら、すなわち文明化が進むならば男女同権になるはずであるという展望を述べていた。なお、上記第4の階級と地域差による男尊女卑の現れ方の差異についての指摘については、第i節2の武士、農民、職人、商人による家族制度の違いに関する森鶴通夫の指摘(錘5ページ)に譲りたい。
しかしその後の戦前の時代、自由民権運動の時代に論議された、女性差別はおかしい、封建的な古い考え方だという思想は、鰹度的には抹殺された。むしろ、女性差別はよりひどくなっていたのかも知れない。戦後民主化の時代に至り、田辺繁子’3は、i898(明治3i)年に鱗定されig47(昭籍22〉年に廃止された民法親族編を貫いていた男尊女卑の精神について、植木と同様に儒教、仏教の影響を指摘しつつ、次のように解説している玉4。
男尊女卑の精神を支えた第iの柱は、女性に教えられた服従の道徳であった。女大学とその由来の儒教による女性に奴隷的服従を強いる道徳が、明治民法の紅妻の無能力規定」や、ゼ夫婦の財産の規定遷「母に親権のない規定』「妻に相続権のない規定謹r親族会議を重要視して、未亡人を無視したような規定」の根拠となって作用していたと指摘している。
我が国女大学に新三従の譲まと言われるものがあります。この畷従というのは、まったく理屈ぬきの巖従で、たとえ父や夫の方がまちがっていても、反薄することは許されないのです。また、これは嗣時に女性の「独立否定まの精神を含んでいます。封建的な女性観率のもっとも根幹をなすもの。女大学は、「総じて女の道は人に従うにあり塞として、女性の人格の独立、尊厳を否定し、ギ女子は幼にしては父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う」として、終縫、その時々の家長である男性に従属して、自己を主張することを禁止しています。又、ギ婦人は別に主君なし、夫を主人とおもい、敬い謹みて事うべしまとかr女は夫をもって天とす」等といっています。この奴隷的服従の道徳はアリアン人にも共通の道徳でした。ですからアリアン人の文明、ギリシャにもローマにも又、震度にも同様の思想がみられます。わが女大学は、儒教から来たといいます。即ち匿小学毒には、眺子日く、婦人は人に臆するにあり。故に専麟の義なく、三従の道あり。家にありては父に従い、人に適いでは夫に従い、夫死しては子に従う。あえて自ら遂ぐるところなきなり達と記してあります。印度でも、アリアン人が印度に入って来た初めの頃には、女子の地位が高かったらしく、有名なリダ・ヴェ一夕の賛歌の中に「夫の姑に対して主権者たれ、夫の晃弟に難し主権者たれ、夫に対し主権者たれ」と妻の地位の高いことを歌ったものが見られるのですが、漸次かわってゆき、父権的家族鰹度を確立するマヌ法典の項には、「少女、あるいは若き婦人、あるいは老いたる嬌人は、たとえ、家庭の弔事といえどもなにごとも独立にてなすべからず。女子は幼にしてその父に、若きときはその夫に、夫死したるときはその子息に従うべし。女子は決して独立を享受すべからず。達「貞節なる妻は、夫を絶えず神として崇むべし達等と規定しています。こうした服従、独立否定の思想が、今度廃止された民法の女性の人格を無撹した、「妻の無能力」規定や、ゼ夫婦の財産の規定」「母に親権のない規定」「妻に相続権のない規定」夢親族会議を重要祝して、未亡人を無視したような規定凄の根撫となって作濡していたものだと思います。
男尊女卑を支えた第2の柱は、女の心はよこしまとし、女を邪悪祝する思想であった。仏教に由来すると指摘している。
女の心はよこしまなものだとするのが、又、この男子中心の社会に共通な女性観。仏教の経文には、ゼ女は邪悪にして、蛇以上に邪悪なり」等という、ふらちな文句も見え、鶴教のさかんな裏8本の方面などには、この佛教の思想は相当女性の地位に悪い影響を及ぼしているよう。心のまがった女、目には見えな雛が頭に角形ある。だから、角かくしをしてお嫁入りをするとか、女はなかなか心が悪いから、極楽へはいかれないが、ただ南無薩弥陀仏を唱えれば、すくっていただけるとかいうことを、幼いときに信仰の深いおばあさんなどから聞かされた方も多いことと思います。性質の邪悪であることは、うっかり信矯できない、不信な存在と思われることであり、万事、女性が単独に決定できないような法律に仕緩む根底になったものと思いまず6。
男尊女卑を支えた第3の柱は、女は物であるという思想である。女を男の所有物とみなし、物扱いにしていることがゼ嫁にやる強ギ嫁をもらう燦「娘を片づける淫という言い方に現れている。
古代法でも恥つも婦人はギ物豊でした。古代法などとわざわざ数千年も昔にさかのぼる必要はありません。目本でも女は物扱いにされて、最近まで売買されていました。又、現に、ギ嫁にやる雲とかr嫁をもらう達とかヂ娘を片づける雄とかいっているではありませんか。結婚の形式は、略奪婚、売買婚、贈与婚と進んできますが、そのどれを見ても女性は物。瞬約全書の中では、婦人は牛馬と一緒に戦利品だといっているところがあります。印度の法律には、「すべて市場価値ある物品」というものが列挙してある申に、婦人は弩傘などと壷べて書かれています。獣と一緒に壷べたり、宝石と溝様に擾って雛るところもあります。r物懸ちr人格なきもの」の思想は、又、わが霞民法の女性無視の規定の根撫にしらずしらずなっていたと思うのでず7。
男尊女卑を支えた第4の柱は、女は卑しいもの、不浄なものとする考え方である。
女は卑しいものだ、不浄なものだ、と考えられることも、又、この男子の権力の確立した社会に共通な女性観です。わが國の男女不平等の悪習慣の中には、この懸想から来るものが極めて多いのです。男風呂、女風呂と尉の風呂をたてる地方、おなじ風呂でも、男は、下男に至るまで全部が入ってから女が入る地方、食事などでも男ばかりが先に食べて、女はその残りをたべる地方、疑蒔にたべても、男はたたみの上、女は土間で腰かけて食べる地方等と、みんなこの思想のためです、なぜ、女を卑しく考えたか。不浄とするのは、女性特有の生理的な現象から来るものが多いように思われますが、卑しいとみるのは、r家」の長が男子であること、及びその継続が男系家督相続制度であるということと密接な関係があります。一つの家庭の中で男子家長が威張り、又、男児、特に相続人が非常に大切なものとして特別扱いにされていること。そのことのために、家庭内における女性の屈従的地位があたりまえのように行われ、男よりも卑しめられているのです、男の人はあたたかい御飯をたべ、女の子はおひや御飯をたべるとか、男の子には特にいいもの、大きいものを与えるとか、すべてはぜ家」或いは「家の存続ま「家名を挙げる諜というような思想に深い繋がりを持つ現象です。この思想は発展して、父鰭の親族の尊重、母綴の親族の軽視、無視等ともなり、あらゆる法律の男女不平等の規定には、こうした考え方のあることを無視することは出来ません。
男尊女卑を支えてきた第5の支柱として植木が指摘するのは、女は愚かである、あるいは女は愚かな方がいい、という見方であった。
これも随分根強い思想です。ゼ女子と小人は養いがたしまとか、新女さかしゅうして牛売りそこなう」などと言われています。白梅楽翁等も、ゼ女子に才あるは、かえって害をなす窪というようなことを言っています。女子に学問はいらぬ、ボンヤリしている方がよいというまちがった思想は、どれぐらい女性の向上を隆んで来たことでしょうか。男子家長が専鰹を続けるた玲には、女性の盲目が必要だったのです。女は愚かだと思い込んでいる男子のつくった法律です。そこには、妻がひとりできめた事を取り消す夫の権利がきめてあったり、妻の財産も夫がめんどうを見るように定めてあったり、子供に対して監護教育の権利のない母の規定があったりしたのは、また、当然だったと患われます、以上述べたような女性観が、総法には作用していたということを頭に置いていただければ、そんな女性無視の法律が鐵来ていた事、又、それが長らく当然のように思われていたこともわかっていただけると思います。
戦後、憲法が鰯定され男女同権が宣言される以前の女性たちは、男に服従すべきもの、邪悪なもの、といわれ、物扱いされ、卑しいものとされ、愚かであるとされてきたという。男女同権の日本国憲法を麟定してから62年、女性差別撤廃条約を批准して塾生を経過している現在ではあるが、読んでみると、どこかにその名残のようなものを潜めている言説は、今もあるような気もする。
1886(明治19〉年の植木枝盛は封建時代の産物だった男尊女卑は文明化によってなくなるはずだと考えていた。ところがそれから62年後のig48(昭憩23〉年、田辺繁子は前年の民法改正まで存在していた瞬治民法が男尊女卑を支えていたと述べていた。植木と田辺の男尊女卑についての現状指摘を簡単に薄比してみただけで、覗治憲法・民法体凝によってこれまでの偏見を打破するどころかそれに依挺しつつ、より固い男女差別が構築され、差別はむしろ維持強化されたように思われる。男女差別が立憲主義のもとで定式化され、封建麟下の武家の制度を下敷きに家制度が作られ民法が制定されていくまで、さまざまな議論があった。そうした制度設計に反対する声もあった。だが、大日本帝霞憲法が欽定され、民法が制定され、教育が儒教で彩られることによって、以後実現したとされる戦前の文明化とは、植木や福沢が構想していたような男尊女卑を解消するものではない、特殊目木的文瞬化だったということだろうか。男女差別は1948年段階には、自由浸権の時代よりもより厳しい差別的傾向を顕在化させつつ,社会のなかに存在しつづけていたのであった。もちろん、その間にはたくさんのやってられないとか、批判とか、変だという声は存在し続けたとはいえ、言論の自由のないところでは、表瞬化できない灘面が多く見られた。
取り入れられたものがさまざまな影響をおよぼして、強者にとって都合のよい伝統と近代的な制度とのミックスによる瞬治憲法・民法の体制が形成されていく。この体鰹こそ、第2章で明らかにするように、戦争を起すエリート同盟の論理が戦前日本的な形で、支醗の論理として姿を明らかにしたものであった。戦争すなわち富国強兵を第一義とする支配層の専鰯論理に規定され、必ずしも、意図的であったのかどうかは別にしても、結果的に、女性をモノとみなす切り捨てに象徴される家舗度を基底とする身分鰹度が再構築され、契約の名の下で生存権の危機を内包する経済鰹度を補完しつづけたのであった。そこでは、女は自立する条件を奪われ、男に依存して生きるしかない存在として縛られ、妻役割と娼婦役割に分断されることとなった。
本章では、この戦前的な戦争を起すエリート同盟の制度が成立するまでの過程では、もう少しさまざまな試行錯誤があったところを、見ておきたい。
第1節 個人と家をめぐる揺らぎ
 (生活(家族)の視点)
1.身分制の解体と家族をもたない女性
福沢諭吉の冨学問のすすめ誰がでたのは、鰺72(明治5〉年だった。「天は人の上に人を造ちず、人の下に人を造らずと云えり」は、誰でも学んで智識をつければいい仕事につけるという、希望を与えるすばらしい言葉だった鱗。実際、智識だけではなく、武力を背景にしていたとはいえ、身分の低い武士が萌治維新によって権力を握っていた。このような受け盤のもとに、開港とともにペリーの来航により強要された近代的倫理黛董は、すでに帝国主義に達していた近代の様々な論理や批判を、偶然にも導かれながら、資本にもたらすことになった。
明治新政府は鰺70(明治3〉年9月ゼ今より平民苗氏差許され候事達とし、7i年には賎民身分廃止の布告を出した。鰺質年の廃藩置県は沿大名を、鰺75−76年の秩禄延分は、旧武士階級を、鱈来の意味の盤襲から解放した。平民にたいする、鰺72年の土地永代売買禁止の解禁と地券の公布は、一方からみて土地所有権の確認であったが、縫方からみての土地延分自由の公認であった。この意味で、大名にとっての廃藩置県、士族にとっての秩禄処分、平民にとっての土地永代売買解禁、地券の交付は、幕藩体制下の家による世襲鷺の基盤を揺るがすものとなった。ただ皇室の琶襲は強調された盤。
しかし、身分麟の廃止の限界も瞬らかだった。芸娼妓解放令の場合を見よう。鰺72(明治5〉年7月、ペルー船野マリー・ルース号」が清国人奴隷をのせ本国への帰途横浜に寄港中、清蟹人が海に飛び込んで逃れようとし、停泊中のイギリス軍艦に救われた。英国公使はその処分を日本政府に要求してきた。日本政府は擁留し、清国人230人を解放した。日本、ペルー両国間の国際紛争となり、ロシア皇帝による仲裁裁判で日本の勝訴となった事件であった。このときに、ペルーから、日本は芸娼妓の人身売買をみとめているではないか、という辛辣な反論があった。司法騨江藤新平はこれに心痛し、日本が文明国であろうとする手前、人身売買の禁止を明らかにすることにした。こうして鰺73(醗治6〉年鳩目2日、太政官第295号[娼妓・芸妓等年期奉公人一切解放可到、右に付ての貸借訴訟凡て不取上候事逢。鎗月9欝、司法省第22号「娼妓芸妓は人身の権利を失ふ者にして牛馬に異ならず。人より牛馬に物の返弁を求むるの理なし」と貸金の徴殺を禁じ、解放を厳命した。r人の子女を金談上より養女の名目を為し、娼妓芸妓の所業を為さしむる者は、其の実際上則ち人身売買に翰前借金を棒引きとして解放すべし、と命じた。
しかし、帰るところのない女たちは、生計に困って私娼になる。風紀がみだれるとする遊廓業者のまきかえし運動がおこる。地方長官は地元の実椿に応じ、娼妓の自営業を認めた。これは人身売買的な年季奉公ではなく、各娼妓の自営業と、娼妓に座敷を貸す貸座敷業とを、墨願者に免許鑑札を与え、税金を納めさせて認可する方法だった。これで芸娼妓解放令は空文化した箆。
妾制度の廃止と姦通罪の妻のみへの適用についても、建前としての一夫一婦麟の採用と、実質としての妾の公認との共存であった。その過程を見よう。まず鰺70(明治3)年の新律綱領は、妾に醗偶者としての地位を公認していた艶。しかし、鰺8G(明治i3)年に公布された旧飛法では、ギ万国と併立するために一夫一婦の正道にならい、駈然妾を廃すべしまが多数をしめ、妾の存在は否定され、法律上は消滅した蟹。文面の上から妾の文字が消えたことに伴い、姦通罪の条項には妻の文字だけが残った。こうして姦通罪は結婚した女が醗偶者以外の男と通じた罪として、妻に通馬されることになった。珊は6ケ月以上2年以下の重禁固。夫には、姦通の罪はない。夫の姦通にたいしては、相手の女が結婚しており、その夫が告訴した場合にのみ、姦通罪として珊に闘われることとした。また、夫は姦通した妻の離縁は自由だが、妻は夫の姦通を理由に離縁を求めることはできないと定めた。重婚にたいしては、罰金と重禁闥の鋼を決めた。森綺藤江はヂこうして近代に入った薮本人の性観念は、女は嫁となって夫と性生活を行ない、男は結婚に拘束されることなく女一般を性の対象とする、という飛法上のきまりを生んだ」と説明している黙。
嫁となる女は姦通罪で規鰯され、男には拘束がなかったため、男は家の外での性交相手を、噴春まによって得る便宜を作りだす、鰺76年の地方長官公認の貸座敷制度は、性交に関するどのような責任も問われない、簡便な調度を社会的に公許したものであった。日本の近代では、まず贋春」意識が男たちに姦通罪の偏向を定めさせ、妾やより責任のともなわぬ女買いの舗度を求めさせた、女の売春業の自営(貸座敷に依撫しない私娼)は、貸座敷制下では犯罪となった。「売春達軒売春婦』などの語法には、性観念の偏晦が置着している鱒。
近代公娼制度の特質は第iに、その機軸たる強制性病検診舗度である。これは開蟹と同時に欧州からもたらされている。第2は、人身売買否定の名目によって、娼妓の自由意志による「賎業諜を、国家から救貧のためにとくに許容するという欺瞞的偽善的なコンセプトである。瞬治新政府は、欧州の売春統鰹を学び、これをモデルとして公娼鱗度を、近代的に再編成した。ここに誕生した劇度は前近代の公娼制度とは異質であった。
2.家というゼ変痴奇遷な制度
戸籍舗度の本来的な機能は、縦に継承される家を戸籍上に表示したこと、戸主の地位を明確にしたことという。戸=家という場を通じて、国家は人びとを把握しようとした3i。戸籍制度によって、全人民を戸=家を単位として国家に登録する調度をつくりあげた。幕藩体餐下の家は、武士・町人・百姓で異なっていた。前述した植木枝盛の男尊女卑についての議論が、第4にとして指摘していたように、特に武士と町人・百姓では、婚姻形態や相続形態でかなり様相が違っていた。
森島通夫は、徳辮期の4つの穫襲の身分一武士、農民、職人、商人一に規定された生活の型は各々異なっており、家の構造や性格も違っていたとし、それぞれの特徴を次のように説明している鎗。
武家においては門があり、家来と女中が中に住み、そのような人々と家族のメンバーとの問には厳格な分離があった。これら2つの集団の間に現れた関係は厳しい命令と従属の関係であって、暖かさと親切さの関係とは殆ど考えることができない。家の長を嗣いだ子供だけが武士階級のメンバーの地位を嗣ぐことができた。飽の男の子供たちは、もし彼らが自分の息子をもたない武士の家族の養子になった場合のみ武士の地位を保持しえたが、家族内でさえ厳格な階層があらわれ、ほとんど感傷の余地はなかった。そのうえ、これらの環境の故に、武士家族は一般的に大家族にならない傾向があった。
反対に農業は多くの人々の集団的努力を必要とした経営体だった。その理由のため、家族はより大きく、講じ家か近所に住まい、必要なときはいつも相互援助を行った。
階屡秩序の第3位に位置づいていた職人の場合は、親方の職人の持つ技術を得たいと望む職人は年季奉公人になり、親方の家に住んで学んだ。しかしながら、彼らがそこで学んでいたものは実際的技術であるが故に、これらが得られた時点が訪れ、更に学ぶべきものがなくなる。こうなった時、彼らは卒業し、親方の家を離れなければならなかった。以前の年季奉公人は普通自分の家をたて、別の町か講じ町で仕事を始めるが、そうすることで彼は前の親方の競争者になった。こうして、年季奉公割は、同じ家に住むことを許されたとしても、親方と奉公人は将来競争者になることをさまたげられず、父と息子の問に見られる愛情のようなものに結果することはありそうもなく、多分今の教授が今彼や彼女の学生に持つかもしれない、特に自分の技術の後継者に傾けるような、愛情以上のモノではなかった。学生は独立して自分自身の仕事をはじめても、彼らは親方を忘れず、誕生日にはあつまり、かつてを思いだし、彼の技術や人柄を讃える。
4つの主要集団のなかで商人は最低の地位であり、商人の家も、年期奉公人制度を持っていた。しかし奉公人は特別の技術を得るためにその位置にいたのではない。さらに商人の家の長は奉公人が将来自分の仕事の幾分かを分けることができる大人になることを期待した。その理由のため、商家の長と奉公人との関係は時間の舗限はなく、生涯を通じて続いた。家の長は自分自身の子供のように奉公人をあつかった。食事の際、親方は奉公人、子供たち、妻と一緒に食べた。奉公人たちと子供たちとの問の感情は兄弟のそれにより近く、その上奉公人は家の長の娘としばしば結婚した。飽の奉公人が成長し自身の家にすむため去ったときでも、彼らは親方の保護のもとに働き続けた。商人の家族は実際終身羅馬の制度であって、親子のような愛情が雇用主と雇用者との問に存在した。
これが饗本が徳獅期から引き継いだ種類の社会だった。全人口の内部で、武士家族はほぼ6%、農民は72%、職人階級は鶏%、商人家族は鴛%だった。しかしながら窮治体麟は、典型的な日本の家族を武士階級のそれとして公認した露。
政府は、i898(明治3i〉年のいわゆる霧治民法にいたる過程で戸‡家の内実の規鋼を漸次つよめた。戸籍制度を整備し鞭従来の慣習への公権力の介入蕊の頻度を増加していった。
民法舗定の遍程で、武士の家のしきたりが中心となり、儒教道徳にいろどられた男尊女卑の家族法が形作られていくことになるが、その問題は2章で詳しく論じたい。ここでは、家制度を変痴奇な一種特別な思想と喝破した植木枝盛のi886(瞬治ig〉年の議論を取り上げておきたい泌。
まず、なぜ特殊な家の思想ができたのか、分析している。第iに、封建制のもとにおける、士族の家禄の相続鮒度のためだと指摘する。
元来家と云ふは人が風雨寒暑を避け心身を安全にし、叉は所有晶を蔵置し・叉は来客に接し、叉は諸種の事業を為すの場所として建築する所たるに相違なけれども、後置に至っては家筋、家柄、家法、家風など唱ふること起り、第i家の字に伸々重みができたるなり。殊にβ本に在っては近く十五六年前まで封建の制度を以ってし、士族たる者は君より知行とか扶持とか称へ、石禄を頂戴し居りたるに、此の家禄たるものは純然たる私有品にあらず、又一代切りの俸給にもあらず、一種其の家に属したるものにて、甲一代の当主は藪に終るとも、次の継嗣者別条なく跡目相続被檸付れは、右の家禄は矢張之を賜はり、若しも相続人なく、若しくは其飽の事故ありて、一家懸絶と云ふことになれば彼の家禄も政府へ召し上げられ、余程の損を為す鶴定合なりしゅえ、是が為めに、先づ一つ別段なる家の思想が墨来たるなり鵠。
第2に中国から輸入した道徳の影響。
日本は中吉以来支部の道徳を輸入し披のゼ不孝に三あり、後なきを大なりとす輩など云へる教戒が深く行はれ、文目本流の学者と難も講じく之を籍し、広く人心に感化を与へたるにぞ、若しも子孫なくして後を絶つことあれば最も大なる不孝と攻め鳴らし、之を賎しむこと甚しかりしなり。則ち曇れが為めにも一種特別に家の思想を惹き起したることなるべし縛。
第3に、多神教と祖先信揮の習慣。
田本は多神教国にして其の人々は且つ手厚く裡先を祭るの習慣あり。祖先を祭らざる者あれば称して不孝と為し、人に非らざるが如く叱罵するを常とす。藏して引続き祖先を祭らんとすれば必らず後を延ばし、嗣を広くせざるべからず。是れ彼の上段の不孝に三あり、後なきを大なりとするとの趣旨と一致したることにして、雨して事実斯の如きことあれば勢必ず一種特別に家を思ふの次第なきを得ざるものなるべし鈴。
第4に、古を尊ひ今を賎しむの風習の影響。
今は日本にては少しく変じたれども其の旧来若くは現今と錐も、東洋一般を概して論ずるときは、頗る古を尊ひ今を賎しむの風習あり。且つ後世の者に至っては太平に驕れ、気力衰弱し、自から一機軸を思し、一発明を為し、以って其の名を顕はし、其家を興す能はず。是に於て乎躍って卑劣にも家柄家筋を重んじ、己れの家は誰々の統を承けて居る、我が家の橿先は侮某である、吾が家は誰の子孫である、誰の壷脈であると、故々系図書を作る者あり、其の家宝なりとて、訳も分らぬ晶物を先糧代々の伝え物とし珍蔵する者あり、甚だしきに至ってはその系図を金を啓して佑ふ者あり。通常の者にても源氏にも車氏にも橘にも藤原にもあらずと云っては不格合と愚ふたるものと見え鶴って根元の分りもせぬものまで源姓を称せざれば平姓を称し否らざれば橘否らざれば藤原、梅とか由緒ある者の如く装錨弁髪せざるはあらざるなり。爾して此の如きものも亦一種特警鐘に家の懇懇を惹き起したりることなるべぴi。
そして、この特殊な家の思想のせいで、現在のその人の晶牲よりも家柄が重視されるような卑屈陋劣な風潮が存在していることを批判している。
斯の如き次第にて日本人などには一種変痴奇なる家の思想あるが故に今羅にては家と云ふ者が部って人の上に出で、家の人と云う思想あること、人の家と云ふ思想あるより厚く、全く事理を傾倒するに至れり。豊に笑ふべきことにあらずや。擁も人間は元来が生物たるゆえに、其の子孫を繁殖さするは人情の存する所なるべし。一家の断絶するに至ることは木精の喜ぶべき事とは謂ふべからず。然れども後なきを不孝の大なる者なりとし、兎にも角にも子孫は必無かるべからざる義と為し、甚だしきは女房に子が無ければ、妾を置いて子を取るも妨げずと為して、誠に人倫の大本を乱るにまで至るが如きは実にや片腹痛きことと謂ふべし。孟朝老爺も亦何の為めにして此の讒言をは吐きたるぞ。生物は随分盗統を引くものなれば、系図を重んずるも全く故なきことにはあらざれども、其の現在の人品をは問ふを須ひず、単に祖先の如何を以って家柄とし、家筋が善いとし、其家を尊重するが如きは卑屈陋劣の至りと謂へざるべからざるなり42。
以上のように、変痴奇な家の思想とは、家禄相続により存続した封建鯛における士族のあり方によって作られたものであった。それは、子孫のないのを最大の不孝とする道徳、祖先を祭ることを特に重視する習慣、古を尊び今を賎しみ竈脈を重視する風習、子孫を残すためには妾も是認する考え方などによって支えられた思想である。その思想の変痴奇さにより、現在の生身の人としての人贔よりも、その人の生まれた家の家柄を重視するといった、転弱した結果がもたらされていると植木枝盛は分析していた。
それでは暇本人は是の如き有様にて一種可笑しき家の思想が盛んなるに因り4、どうなっているのか。
第iに、人を家に属する者と看做すことで、人の自主独立を妨げるという弊害である。
人を以って家に属するものの如く敏し、髄って人の自主独立を遮碍すること からざるなり。今若し人の子たる者にして嬬を娶り、父母と家屋を別にせんとすることなどありても、斯く為すときは何にか其の家を軽んずることの如く、自分からも愚ひ、外からも評する有様なり。建とに歎かはしき次第ならずや。或は其の人にして橿先を祭らんとする者ならば、家は則るるとも時々親の家に往きて之れを祭拝さるも可なり。親が亡くなりたらば祠癩を我が家に移すも可なり。親子の別居豊に是れ等の辺に差閂あらんや43。
第2は、社会を愛する道に妨げを為すとして撹判した。これは、現代の世襲や相続の問題に連なる視点であろう。
社会を愛するの道に妨げを為すなり。倒へば其家を愛すると云ふは悪きことにあらざれども、一種特劉なる家の思想あるに付きては、随って又格懸に其の子孫を慮るに遇甚と為り、彼の吝樫の風習と相ひ伴ふて只だ一概に財を積み、子孫に胎さんとし、義心を以って社会に損資せんとするの精神気風甚だ乏しく、若し又子孫なければ必ず養子を為し、之をして家を継がしめんとし、其れも亦欧米人己れ死に臨んで家を継ぐ者なければ、動もすれば遣合して其の財を社会に撚つが如こと能はず、欝本にては髭の如き有様なるが故に祇会の事業甚だ振ふこと能はざるなり麟。
以上のように、自分のやりたい仕事のために父母と別に暮らすと、家を軽視しているとされるなど、人が家に属するものとみなすことは、人の自主独立を妨げるものであると植木枝盛は主張している。また家を存続するために子孫に財産を残すことが重視されるため、社会のために働くことや社会のために財を縫うことなどが振わないと指摘している。騒人の自立と社会の連帯のさまたげになる家鰹度の本質を鋭く突く議論である。そして駐本人よ汝らが変痴奇なる家の思想を抜き去てよ。吾輩は汝の為めに之れを希望するな鞠と呼びかけていたのであった。
徴兵麟は戸籍で国民が掘握できたことにより鰺73(明治6〉年徴兵令によって男を兵士にした。軍隊自身が文明開化の推進力となり、洋服が農村に普及するきっかけにもなった難。「国民皆兵3の理念を掲げていたが、このときの徴兵令は、戸主及びその相続人、官吏及び所定学校の生徒・卒業生、大人料270円を上納する者などに、常備兵役を免除する広範囲な免役条項があった鐙。
3.儒教批判・男女同権論
大日本帝国の体鰯が整備されていく、開国から30年位の文明開化の時代には、男尊女卑の風習は、改められるべきだし、そうなるだろうと信じた人びとが多く見られた。身分鱗の廃止と職業選択の自由、営業の自由が作り鐡され、醸人の自助が称揚された。中村正直47の窪西国立志編壌は、r文瞬は魔法とはちがう。人間によって合理的に作り上げられたもの。身分の差など、なにかをやる障害にはならない。努力と勉学と忍耐によって、だれでも成功をかちとることができるし、生活も高まり、それが国をゆたかにするもとでもある。』盤とのべていた。福沢諭吉は儒教主義の教育についてゼ彼の儒教主義の余流を汲んで緩織したる女大学風の教育を以てし、益これを教えて益これを萎縮せしむるが如きは置より沙汰の限りにして、先ずその精神を圧迫して結局はその形体を破壊する者より外ならず」臆などと批判を展開していた。福沢にとって西洋文明を受け入れるには、旧体舗を支えるイデオロギーであった儒教は桎梏であった。明治懲年政変以後顕在化してきた政府の儒教主義への傾斜を、福澤は当初あまり深刻に捉えていなかった。福澤一太郎・捨次郎宛書簡の中で喧本之教育は近来益儒教主義とて、頻に支那学を勉め、可笑しき次第なれ共、固より永久に持続可致にもあらず窪[給83(明治i6)年9月然目付書簡]と述べ、翌年になってもε(儒教主義は〉握問之風潮も之を許さず」[鰺84(明治i7)年8月i3日付ESモース宛書簡1と楽饒していた。しかしながら、男尊女卑の伝統は、2章で述べるように、家制度と儒教思想の教育への採用により一層強化された形で、戦前の社会を縛る大きな枠緩みとなったのであった。
第2節 資本主義化と高利貸・地主のメジャー化の試行錯誤過程 
 (仕事(職場)の視点)
1.私有財産制擁護の形成過程
瞬治政府は営業の自由、身分舗度め廃止、職業選択の自由を求める経済行為に対する直接的制限の除去を進めた5’。地租改正は、私的土地所有権の設定と土地にかかる税金の金納化を実現した大改革だった。家鱗度を基軸にしたため、鰯人としての自立の確保に不明瞭な部分がある私的権利であった52。政府は、富国強兵のための資金源を地租に期待せざるをえなかったため、江戸時代の農村からの穣税と同程度の負担を地租にもとめた。ぎりぎり高額の農業課税負担水準は、インフレ期にはいいかも知れないがデフレ期には耐えられない制度であった。
市場原理と適正な親潮との関係が、鱗度設計の過程で問題となる。幕藩体制期から継承した利息鰹限立法の廃止過程[i869(明治2)年4月一1873(明治6)年2月]蕊を見よう。利子率は市場で決まるべきものとする利息制限法規判がどのように主張されたのか、見ておこう。
ペリー(A.L.Pe登y〉の主張は、次の4点であった。
1) 商業が自由であるのに貨幣の貸借についてのみ法定とするのは不当。2) 定利率を決めた場合に、それが市場利子よりも高利ならば僊人者が、低利ならば貸付け者が不利益を被る。3〉この法律は、次の理由から結局遵守されないであろう。無頼の徒は、負債を免れるために利息麟隈法を無実として好訴を逞しくするが、逆に貸付け者は法定舞子率よりも低利であれば貸付けを渋り、両者の差を飽の有利な投資に振り向けたり、あるいは貸付けるにしても利息外の不当利益をえようとする。4〉この法律は、潜入者の保護を目的としているが、政府が倦入者のみを助けて貸付け者を顧みないのは偏齪4、また、ウェーランド(F.W3郵餓d)も、以下のように批判していた。
1) 利息制限法は私有権の侵害。2〉諸商品の無格が法定としえないのと同様に、利子も法定できない。3〉貨幣の鶴値薫利子は、ほかの商品よりも高低が激しい。なぜなら、商品は使罵されるだけだが、貨幣の場合には危険と僅矯の2要因によって影響されるから。またこの要国は、時期、罵途、人物によっても変動するから、法律ではどうすることもできない。4)利子を法定すれば、貨幣優値の変動を防ぐどころか、かえってこれを大きくする55。
こうした論理が日本の近代化を急ぐ開明的な新政府の指導者に無批判にとりいれられ、利子の自由放任主義が実現することになった。
しかし利息制限法は、まもなく再び舗定されることになる。その再現過程li875(萌治8)年i2月一i877(明治io〉年9月1蕊では何が問題とされたのか。利息制限法の再現の直接の契機となったのは、娼75年から77年当時の深刻な政治・経済的危機であった。大隈重信は、わが国産業の未発達が貿易収支の入超すなわち正貨の海外流出をもたらし、その結果金融梗塞状態を引き起こしたと説窮している。この金融梗塞をひき起こした直接の理由として、i)廃藩置県が一挙に行われたこと、2〉小野紐の破産、島田緯、三井緯、国立銀行などの危殆、諸会社の衰退、3)諸問屋の株の廃止、4〉民間に散布した官金の収拾、5〉民間慣用の貸借方法の禁止、などの要因があった。1976(覇治9〉年には米緬下落、金融梗塞が生じ、身代限りが激増、下級士族と小農民は大きな打撃をうけた。各地に地租改正反対の農民騒擾が起きていた。利息鰯限法は、こうした事態に対する政策として、第iに人民保護救済政策の健面と第2に金利引下げ政策の側面が指摘できる。
人民保護救済政策の翻面について見よう。鰺76(明治9)年には金融梗塞と身代限りが激増、最も甚大な打撃を受けたのは、下級士族と小農民だった。i874(瞬治7〉年とi875年は7円28銭だった東京の正米相場は、i876年には5円磁銭に下落、地方によっては2円台にまで暴落した。同年9月には大蔵省出納条例が公布され地租金納が実施された。農民の地租負握は、封建公租に匹敵する厳しさだったため、小農民はいよいよ急迫した。一方、高利貸は土地信用の実質的な成立条件となった田燈永代売買の解禁、債権の最終保証措置としての身代限法の整備、さらに利息鰯隈法の廃止などから、徳耀期よりもいっそう発展の契機が与えられた。そして貸付利率も、金融梗塞→米価下落→小農民の困窮→貨幣需要の増撫を反映して、20−30%と著しい高利となった。小農民はこうした高利の借金をし、かろうじて農家経済の再生産を維持したが、負債償還能力は低く、負績の累積、身代限の続出となった。こうした諸条件の下に、各地に地租改正反対の農民騒擾が起きた。同時期の不平士族の反乱とともに、新政府の土台をゆさぶる要因となった。政府はこれらを武力で鎮圧する一方、その拡大を防ぐために捻77(明治io)年i月、太政官布告第i号で地租公課率を地細の3%から2.5%へと引下げ、またなんらかの人民保護(救済〉の措置をとらねばならなかった。工874(朝治7〉年鴛月救櫨規則が凝定されていたが、予算が極蜷に少なく、効果はあがらなかった。こうした事椿の下に、安上がりの保護立法として利息制限法が裸馬された。もっともこの究極の目標は、人民保護→財政鋼度の強化→殖産興業政策の展開である。
金利醗下げ政策の側面はどうか。政府は先進諸国に対抗し、急速な資本主義化をはかるため、機械網大工業や銀行制度を移入し、その保護育成を行った。国立銀行は、維新当時の貨幣割度を整備し、低利で豊富な殖産興業資金の留出を意図したもので、貨幣市場から高利貸資本の独占を誹除する意味もあった。為替会社、紙幣条例案、国立銀行を通じて、政府はこれらの銀行制度に貸付利息規定を設けて金利引下げ→高科貸資本の擁除→殖産興業政策の推進をはかろうとした。しかし、政府の意図した金利引下げ政策は、民間の資本蓄積の低位や、不換紙幣増発による貨幣市場の混乱などから、国立銀行は瀬調には発展できなかったので、効果がみられなかった。例えば鰺76(明治9〉年与月の第i国立銀行の貸付利率は藩一29%と高く、各府県の人民相対’普通貸借金利とさほどの差がなかった。政府は同年8月、国立銀行を再建し、同時に大量に発行される秩禄公憤価格を維持するため国立銀行条擁を改正した。この条例中に新たに鎗%という貸付鱗隈利率が挿入されていた。この規定は、鰺7i〈明治4)年i月の利息制隈法の廃止監利子自由放任政策に瞬らかに違反しているものであった。政府が、あえて特弼規定を設けたのは、褻_国立銀行なる者は特殊の権利を付与せられたるものなれば其利息亦普通の割合より軽減し以て公益を謀るは一般人民に対し甘んじて尽すべきの義務たり」とした。政府は国立銀行に対して特殊の権利を与える代わりに、この低い法定利率で当時の高い市中金利に規制的作用を及ぼし、金利を引き下げようとした。鰺77(明治io〉年9月利息舗隈法が嗣定されると、国立銀行の特例規定の存在意識は弱められ、鰺78年9月、法定利率はゼ利息斜眼法に準擁すべし涯と改正された。
しかしながら、利息鰯限法が制定されたとはいえ、次のような特徴を持っていた。第iに、法定利率が市中貸借金利よりも低いとはいえ、借入元金別に低額ほど高利の舗限利率として重層的に決定されたこと。この法定利率の重層麟は、我国特有の規定で、徳川時代の質屋に関する法鰯によったものらしい。第2に、葬罰則主義をとったこと。同法は違反者に対してなんらの罰則規定をも設けず、ただ裁判上無効とするだけで債務者に法的保護を与えたにすぎない。こうして見ると、この政策が小経営を高利貸から保護する機能を果たすには不十分だったことがわかる。対等な懸人の問の公平な取引であるという前提をつくることなしに導入された市場原理が、結局、強者の権利のみを助ける自由となって機能していった過程がわかる。
2.松方デフレの意義
外国貿易に開かれた日本経済は、景気変動の波に襲われ始めた。土地所有鰹度の変化が、農民の生活を直撃したのは、松方デフレ期だった。米俵が激落しでも、金納になった地租の額は変わらなかったので、租税負担率がひどく重くなった。払えないと、財産を公売翅分されることになっていた。土地儀格も下がっていたため、かなりの土地が租税の肩代わりとして売却された。或は公租公課を負担するために借金をする、景気が良い時に、新しい事業を始めるために捲りたお金は、デフレの時代、全財産を手放しても解消できない程の規模になっていた。不景気になって公租公課のために偽金したお金は、低米簸に凶作がかさなり、返還できるはずがない。金利制限法は復活していたが、デフレ期には機能しなかっだ?。結果として抜本的な構造変化がもたらされた。
1885(明治18)年、1886年には、農民を保護するため、金利鯛限法の活用も含めた以下のような政策提言も存在した。しかしながら、こうした政策提言は、現実に実施されたわけではなかった。
前田正名は、農民救済のための緊急方策として、利息割隈法の改正を要求した。
内容はi)「利息麟限法にて明治越年i月以後地券を抵当として金銭を貸借したるものは貸借上如何様の契約あるにもせよ其利子は年i割を超ゆるべからず、之れに超遇せるの契約は無効なりとすること」。2〉返済に関連して越年i月以降の地券を抵当とする貸倦については瞬治貿年7月 日より明治蟹年鴛月 日迄其抵当物を流れ込むことを許さず、此令に背きたるの契約は無効なりとすること」の2点であった。
古橋源六郎は建議を提出していた。
現在紙幣整理が進み、農工業の発達がまさに軌道にのろうとしているとき・人民は困窮の極に達し、いましきりに地種軽減を唱導している。しかしこの地種軽減要求は、ギ方今海外列国の形勢を察するに_常に兵権を拡張して以て商権を壟断し、乗ずべきの機を待ち、以て乗ぜんまとしているのでとうてい容認できず、これに代わるなんらかの措置を考えねばならない。ゼ金利を鱗猿するまことこそ妥当なものである。すなわち金利は、利息の自由放任主義がとられた鰺警(瞬治4)年以降上昇しはじめその結果ゼ産業は萎靡し、人民は其に安んぜず、従って一鱗一令綴る毎に器々として官府を非議し、怨望して止まな重い。そこで金利を麟瞑すれば、「国害退いて国利興る」。なぜなら、エ〉遊民の就業、2〉農工商業の興隆、3〉金融の円滑、4)生産に対する貨幣の利罵、5)国績応募の増大、6)備荒貯蓄の増加、7〉道義の尊重、8〉政費の減少、などが興るから。現在利息麟鰻法が存在しているものの、それは経済の上昇期の遺物に過ぎず、下降類の今日においてはもはや適応できない、それゆえに、これを「海外の金利に対照して適正なる制限法に改正し、法定利率の引下げをしてもらいたい達59。
マイエット(P.Mayet)も法定利率の引下げを求めながら、より積極的な負債農民の救済策を提唱していた。
地租に関するものとして、i)地租の地無の2分、i分5厘若くはi分に軽減すること、2)歳出入の平準を害せざる限り又納米を適宜に使耀し得る限り地租幾部の米納を許すこと。穀物の収穫高に関するものとして、3)穀物の貿易を盛にする事、4〉農業保険を実行する事、緊急度による区分として、王)現今将に破産流離せんとする農民を救済して高科債主の酷遇を免れしむるの方洗 2〉今後無事の農民をして再び災害に由り困弊に陥らしめざるの方法。当面の利息鋼限法に薄する批判も、この緊急策の一環であった。利息舗隈法の限界について「擁も該利息鋼銀法なるものは今欝に至ては全く死文徒法に帰して之を犯す者続々踵を接し毫も農民の疾苦を救ふの具とならさるなり」、「政府は縦ひ利息鰯限法を犯すものあるも之を罰するの意に非ずして唯不当の利息若くは礼金を請求する者に法律上の保護をなさざらんと欲するのみ』。マイエットは利息鰹限法の空文化を指摘したが、撤廃ではなくr利息鱗鰻法を実際に活躍せんとました。プ滋シアのシュタイン薫ハルデンベルクの改革を参照した具体策であったという鑓。
困民党などの形で、近世の伝統を楯にして、農民たちは生きさせろと声を上げだ’。天災のようにもたらされた借金の返済を、返せる環境になるまで、まってほしい、と主張した。政府は富国強兵のための資金が必要だったので、税金を取り立てられる人に味方した。秩父事件の場合は、火付け、強盗として、徹底的に弾圧され、政府や所有権に楯突いたら怖いという記憶を、周辺の人びとに植えつけた縫。貸手の権利が守られる運用により、耕作農民の手を離れて、この時期多くの土地が、高利貸・地主に集まった、
松方デフレ下の大構造変化をもたらしたものは、これまでの伝統的な土地と耕作者との借金をめぐる関係が大福に変わったことであった。近世までの農村の伝統によれば、賃借者の生存権は考慮されるはずであった。そこで、福島県菊多郡では負債の50カ年賦や欝金の永年賦延期を、農民たちは要求する鑓。茨城県久慈郡では、利子を幾分減じ元金を欝か年賦にするよう要求し、また従来の借金は4カ年据置菊年賦を要求した。近世の賃借関係に見られたような長期間とか、しばらくは返済猶予とかを要求したものであった蟹。しかし、松方デフレ顛の廼理においては、そういう願いは、公的に退けられたのであった。債務者の生存が脅かされようがどうなろうが、債権者が守られるのが、資本主義のルールであった。どのような契約であれ、講者が結んだ契約の遵守である、というコンセプトに基づいて、粛々と債務麺理が実践されたことにより、大きな講造変化がもたらされたのである。
自由民権運動の求めたザ下からの近代化3はもちろん明瞭ではないが、生産者の生活をよくするため、それぞれの工夫が生かされ、地域の風土に見合った分散した、産業発展をもとめる資本主義化だった。その道をもとめることへの断念、放棄が、鰺綴年鉛丹の瞬治懲年の政変から松方デフレ期の激変でほぼ方向が定まった。
あのころ、直接生産者そのものに金融の道がひらけていたら、違う発展の仕方はあったのだろうか、などとグラミン銀行が実施しているマイクロ金融の話を読んで感じた鋳。小経営が、伝統的な家族経営を引き継いでいることにより、家父長講を強く帯びざるを得ないのに対して、自己雇用は違う。これまで考えたことが無かった自己雇用という問題を提起された。実際に養蚕や製糸や機織りの技衛は、かなりのところ女性が担い手であった。ユヌスのしたような金融、働く人その人が資金を低利あるいは無利子で借りられるという環境が、もし作られたのであったなら、彼女たちの自発性や麟造性は、育くまれていったのだろうか。それにより内需拡大型の戦前日本社会があるいは出現していたのだろうか。そうした方策がなぜ作られなかったのか、考えられもしなかったのか、考えたことも無かったなと思った。自己雇罵に低利資金を貸し出すという方法について思う。経済発展を経た現在だからこそ、なおも存在しつづける貧困を撲滅するために、ようやく到達した曖昧でない本質的な下からの道の方法であろうか。
実際、米懸変動、デフシによる地細下落によってもたらされる困難は、小農民には担い切れない。自由主義による契約の重視は、高金利やその他の方法での上乗せ金利も、契約によったものなら、仕方が無いと、貸手の権利を守った・ようやく最近の金融危機魑理の過程で、王MFの基準、すなわち貸手の債権を守ることを最重視してきた対応に、疑義がむけられはじめた。本当は自己責任でないことを、自己責任にして押しかぶせる。そして遍酷な条件のもとで働かせる。そうした貧困の罠の解消にむけて、金融のあり方の見直しが、ようやく現在論議されつつある。それは自由主義的市場経済の行き詰まりが恐慌を麗した経験を再度した後のことなのである。
3.寄生地主制の創出
高利貸、高金利を容認する社会とは、不労所得を是認する。だが、日本の農村では、この時難高利貸により高金利をとりたてて地主になった人びとのことを、勤勉で吝嗇で働き者で地主になったという麗。これは、倦手の農民たちへの過酷な取り立て条件をモノともせず貫徹して取り立てることを意味している。彼らの子女による前捲りを斡旋しても貸金を取り立てる姿が、経済的な成功は勤勉と節約で達成したという神話なのだろうか。      明治政府によるゼ上からの近代化まとは高率小作料と匹敵するような配当を求める寄生地主的な資金による資本主義化であった。こうして高金利と高配当をもとめる地主・高科貸の資金を資本として、大規模な収益炉あがる企業経営が自指されることになった。収益源は非人問的に収奪される人びとであった。
私たちが学んできた基本的な枠縛みをマルクスに依挺した経済史では、戦前の講座派・労農派論争以来、段階規定や範疇論議が厳しかった。枠績み論議に規定されたことによる功罪は、私には論じきれない。ただ、農民や労働者の生活の厳しさと官擦や地主やブルジョアジーの富裕な生活との格差、内需拡大の限界と対外市場を必要とする資本主義のあり方をどう説明するのか、模索していたのだとは言えよう。高率小作料と低賃金の相互規定関係(出綴盛太郎〉、寄生地主という呼称(栗原百寿〉、利回りによって投資先を決定する地主像(中村政則)など、引き継ぐべき論点は多い。
中村政則は地主麟の形成を媒介にした日本資本主義の本源的蓄積について、次の5点にまとめている。
第玉に、地租改正の基本的内容は、地種金納化と私的土地所有権の設定。その地主制割出にたいする画期的意義。ひとつは、江戸時代以来の複雑な土地所有慣行を廃絶・整理して、心地一主の原則にもとづく土地所有関係を創墨した。農村内部における階級関係は、地主対小作農民の基本的薄抗となり、小作農民の存在形態を均質なものとした。次に、地租改正が江戸時代とは異なった仕緩みの下で地主・小作関係の再生産を軌道づける契機となったこと。地穣金納化と新たな土地抵当金融方式の成立。資本蓄積の低位性、国内産業の未発達。ブルジ欝アジーの未成熟という国内的条件の下にありながら、欧米列強からの対外自立をはかるため、国家権力が生産諸方の編翻者となる途を進み、それを可能とするための国家権力への資金の独占的集中をはかった。その手段が地種改正=土地駈有原則の改変であり、貨幣形態での徴税調度の確立薫地租金納化であった。
第2に、国家は、官営諸企業への直接的資本投下の資金源(地租の線〉を確保できた。地租改正を旋回軸として貨幣制度・信用制度の改革を実施し、華士族層の所有財産(金録公儀)の銀行資本への一挙的転化。商人・地主層の蓄積資金の銀行資本への推転・誘導化をはかれた(地代の線〉。
第3に、鰺73(明治6)年、地租改正と表裏一体の関係をなす、地所質入書入規則、動産不動産書入金穀貸借規則の趨走。金主保護の法的補償。土地抵当金融方式が確立した。金主は動産不動産が滅失しても、債権に影響をおよぼされず、負債は身代限で取り立てることとし、書入れの動産不動産を競売にしても債権に足りない場合は、不足は身代限りで取り立てることができることになった。金主は貸し付けただけの金額を回収できる保障を法的に与えられた。一般に、商品生産の展開、資本主義の発展にとって不動産担保による金融方式は大きな歴史的意義をもつ。封建鱗から資本鰯への移行期に農業部面で蓄積された資金が資本形成に役立つためには不動産=土地・建物に担保物権としての法的保証を与えねばならない。
第4に、日本が世界資本主義に包摂されていく過程において、欧米列強に対抗しつつ資本主義的自立をとげるためには、何よりも先ず、農民叡奪を梃子とする特殊な原始的蓄積を短時日の閥に完遂しなければならなかった。原始的蓄積は、生産者と生産手段の歴史的分離遍程であるが、わが国の場合には、農村生産者・農民からの土地収奪を本来的コースとするのではなく、農民の生産的成果を財政・金融制度を縫子として国家権力の下へ集中・確保し(地租の線〉、それによって上から資本関係を強力的に創出するというコースをたどった・経済の発展段階に照応しない、資本の有機的構成の高い資本鱗企業が初発から導入・移植されたため、農村の潜在的過剰人口を吸収しえず・それだけ原蓄は・不徹底なものとならざるをえなかった。しかし、この「地種の線3確保は、地主・小作関係の不噺の再生産を軌道づけたばかりでなく、国家権力に担保されての地主のギ地代の線董確保は、小作農民家族の再生産をも許さず、子女を家計補充的低賃金労働力として押し出さずにはおかなかった。これらの低賃金労働力は、明治国家が政策的に輸出産業として育成を試みた繊維産業に吸収され、とくに製糸業を外貨獲得産業の主導的地位に押し上げる基礎条件となった。こうして、田本製糸業の獲得した外貨=ファンドを基礎に、日本資本主義は軍事機構=キイ産業を旋回基軸として構築することが可能になり、農村では子女の稼ぐ家計補充的低賃金が、地主に高率小作料を保障する関係として作用し、地主・小作関係の安定的再生産の基礎条件を与えた。
第5に、以上のように日本型原蓄の特徴は、農家男子労働力を農村に滞留させたまま、財政・金融・貿易を媒介として資本主義と農村が連繋させられ、その中で地主鰯と軍事機構;キイ産業が相互にみあうような形で飼出されるという構成を示す。その意昧で、地租改正を軸とする日本型原蓄は、軍事的・半封建的資本主義の構造を決定した歴史的起点であった。
結論的に見れば、高率小作料と低賃金の相互規定関係など貧困ビジネスによって成長をとげた戦前の日本資本主義の構造的特質を、批判的に瞬らかにした。ただ、こうした議論が、なぜ力にならなかったのかを考えてみたいと思う。農民や労働者の生活の厳しさと官僚や地主やブルジョアジーの富裕な生活との格差、内需拡大の限界と対外市場を必要とする資本主義のあり方について説明することはできたのだと思う。しかし圧芻的に暴力的な権力のもとで、階級闘争の闘いの論理は、どちらにつくのか、ボスを誰にするのかに収斂させられ、一人ひとりを大切にする論理を打ち立てられなかったといえよう。そのため、多数の人びとの思想を、どん欲や目先の損得や長いものに巻かれろや目上に媚びたほうが得だといった難量術に対抗できるような、解放を展望できる闘わない論理を購築することができなかったことにあるのではないか。
第3節 西欧の何をとるか、民主主義への接近
 (主権者(政治〉の視点〉
1.広く会議をおこし、旧来の陋習を破り、知識を世界にもとめると
日本の近代は、1853(嘉永6〉年にペリー率いるアメリカが徳辮幕府に日本の開国を追った時点から具体化した。置界の資本主義が帝国主義段階に入っていく過程で、アジアにありながら大国の植民地にならず、独立国としてまがりなりにも近代化を果したのが日本であったという麗。なぜ、尊王攘夷という対応が出てきたのか。人と人が対立しあう、という論理は不思議だ。人と人は、働け合ったり分かち合ったり協力しあったりする方法を編み出せる存在でもある。国益が対立するという論理が、どうして受け入れられるのか、よく考えてみれば不可解な気がする。それは、対応したそれまでの支醗層が武士だったからだ。攘夷という鬼擁除の支醗の論理が、武力支配の構造を活性化させ、テロを横行させた。
しかしながら、吉田松陰や福沢論吉などにまずあったのは、外国へ行ってみたいという好奇心だった。異質のものを知りたいという関心、優れているようにも見える何かを見たいという要求は、そう不思議ではない。生活や生存の論理によれば、できればゆとりをもっていろいろ考えながら、それぞれが得意な仕事をして暮らし、衣食住が満たされることが、望ましい、そういう視点で考えれば新しい文明を学んで、じっくり取捨選択しつつ、多くの人びとの霞常生活を良くするために生かすという方策が、西欧との出会いで求められる一つの希望であった。西欧先進諸国における資本主義成立期の多様性を学ぶことができる時代だった、自由などの近代的極値が、多分にアトランダムに偶然的に、取り入れられた。
戦前は主権が天皇にあった時代であった。国民は富国強兵の担い手として、国につくす愛国心を教育された。忠孝を旨とし、刻苦勉励して働き、勤倹貯蓄に励む、といった道徳に従うことを求められた。近代のさまざまな言説は入ってきたが、言論統制のもとで、その普及は高等教育の場に限定されていた。だが、本章の時代は、まだその形成過程、模索の時期である。幕末には、たくさんの可能性があったように見える。王様のチェンジか、王様はいらないか、もっと偉い王様のお出ましか。徳綴幕府を暴力で廃止した官軍=尊王攘夷の人びとは、もっと偉い王様として天皇を擁立した。しかしながら、倒した方も下級とはいえ武士だったので、君主のいない支配方法は、考えつかなかった。でも、黒船と開国による学習によって、万国公法や天賦人権論などを学んでいた。1868(慶応4)年3月廼日五箇条の御誓文齢は広く会議をおこし、旧来の陋習を破り、知識を世界にもとめると述べていた。これは、言論の自由が脅かされ、軍国主義の独裁がすすんだ時期に、桐生悠々や石橋湛山が、反論の携り所として利濡した。戦後は天皇の人間宣言に引用され、また国体をあらわす民主主義的なものの根擁として、吉田首相も引飛したものであった。
王様は最も強い暴力を所有する存在なので、そこ(支配地域)のルールを決定する。その地域の住民は、王様の決定に従わなければならない。ただ、王様と王様の意をくんで家来が具体的な事を取り仕切るという有司専飼に対して、地域住民が西欧の民主主義などを学んで、自由民権を唱え、憲法の制定を求める動きが出て来た。
2.自由民権運動の意義
自由民権運動には、王様を当然とするものから共鵜翻まで、様々なヴァリエーションがあり、それらをどう見るか論じられてきている。そうしたなかで、自由民権運動が、福沢諭吉が広く説いたような、近代化すなわち纒人の自立、騒人主義を奨励する意味をもち驚、学習熱7’をひろめたということは、言えるであろう。そこで語られた思想には、家父長麟的な自由民権思想もあるが、ジェンダー平等な視点にたった自由民権思想は存在していた。大石嘉一郎は、植木枝盛のヂ生命を保つために_国家を結ぶ崖ことの指摘を紹介している。生存、生活が脅かされる政策を変えるために、参政権が必要だと主張していたη。
色辮大吉は欝雛年時点で、自由民権運動は、国民主権を主張した下からの民主主義の可能性字3をもつ運動でもあったとし、饗本国憲法の源流としての歴史的意義について以下の6点を指摘している。
第iに、日本国憲法の前文の思想は、改憲論者たちのいうように、占領軍に押し付けられた屈辱的な翻訳文にすぎないのではない。誰が自主的に民主憲法を鰯定しょうと努力してきたか、歴史を顧みるべき。明治憲法起草にあたっては、伊藤博文らの方がスタイン、ロエスラーらの強い影響をうけ、ドイツ憲法の翻案に近いものを下敷きにしていた。鰺83年、ウィーンで、彼がドイツ人数舗から、立憲鯛下での皇帝大権と超然的な威嚇制度運用の秘策をさずけられた時、大日本帝国憲法の骨子が定まった。これに対して立志社草案、相愛社草案、内藤魯一草案、五日市憲法草案などは、日本の現実と彼らの理想との矛盾を統一しようと苦心した独創的な労作であった。
第2に、瞬治維新以来わずか越年で、民衆が自力で日本の近代国家の全体像を構想したということは驚くべきことと言える。しかも、その中の少なくない私擬憲法草案には、i鱗6年憲法をつらぬく三大原理一主権在民、平和主義、基本的人権の思想がさまざまな形で現れている。私たちはこうした憲法起草退程が、いかに強い専麟権力への不信と、人民自身の政治参加への熱望に発していたかを知ることができる。現代の改憲論議にあたってこうした歴史的伝統が全く無視されているのは、自由民権朗の史実についての無知からも来ているのだと思う。
第3に、主権の麟限の問題についても、すでに鰺80年、植木枝盛らが「無上政法論」の中で、人類の集団安全保障の確立のためには獲界最高憲法による一定の国家主権の制眼が必要であることを説雛ている。それから百年も経遍して、今なお19世紀的な主権論をふり回す改憲論者の意鐵はいったいどこにあるのか。そうした論者らは、45.46年に憲法砺究会の鈴木安蔵らが植木枝盛案などを参考にして主権在民の憲法私案を発表し、自由民権の伝統の継承を果そうとしていたことなど念頭にもない。このようにr非武装、中立、平鵜、主権在民窪の現憲法は、日本人民の革新的伝統につながっている。
第4に、民主主義の原理に帰れ、という問題。今の日本ではすべて反動政策も軍事化路線も民主主義の名によって推進されている。決して民意を正しく反映しているとはいえない選挙によるものであっても、いったん合法的に政権を握ったものは、オールマイティのようにふるまっている。現在の民主主義は事実として名目的多数派の専髄の道具になりさがっている。国民が主権者であるといっても、それは選挙の時だけであって、翌日からはまた無力な被治者に戻ってしまう。
第5に、自由民権家たちが命をかけてたたかったのは、こういう民主主義のためではなかった。もっと一人一人の人民の意志が尊重される鰹度であり、徳性の高い理想であった。そもそも民主主義の基本原理とは何であったのか。民権家たちはそれを人民による政治、つまり代執行者たちによる人民のための政治ではない、人民自身の参加による人民のための政治だと考えた。それがあの情熱的な各地域での政治活動や国会開設運動のあらしをよび起こしたのである・
第6に、民権家たちは民主主義を単なる投票行動に限定していない。政府(権力の保持者〉は必ず悪をなすものだという哲学をもった彼らは、人民によるたえざる監視と撹判活動をこそ民主政治の不可欠の条件だと考えていた。したがって、その批判の条件は最大隈に保障されていなくてはならない。人民の言論、集会、墨版の自由権や悪政府にたいする弾劾権、抵抗権を保障していないような民主制は、みせかけの欺購であり、人民による政治の原理に反すると考えるに至っている。
自由民権運動の時代には、主権在民、平隷主義、基本的人権がもられた憲法草案も墨現していた。序章でのべたように、鰺78(明治ii)年には楠瀬喜多が女性の参政権を請願している。家永三郎は1960年の時点で、植木枝盛の思想の客観的位置を、日本国憲法によって実現した水準を当時ほぼ提起していたと、以下のように述べていだ畦。
すなわち、第iに植木枝盛の思想が形成された時期は、古典的な封建社会機構が鰹度の上で一応解体し、しかも新しい天皇制国家体鰯と資本主義的社会体制が不動のものとして確立される以前の、過渡的時代であった。思想史の観点からいえば古典的な封建的思想が正統的権威の座を失いながらも、なお天皇鰯国家主義の精神が新しい正統的権威の座をしめるにいたらない、一種の思想的真空状態にあった時期と考えられる。
第2に、さまざまな構想がたてられたが、中では、古典的なブルジョア民主主義体鰯の方向に誘導しようとする自由民権思想と、天皇制君権主義め国家機構を確立しようとする藩閥政府の政策とが2つの極限として険しく対立していた。結局講者の敗北、後者の勝利に終って、明治憲法と教育勅語とに象徴される天皇制国家主義が新しい正統思想の権威を確保する結果となった。植木枝盛の思想は、前者のなかの、そのまた論理的極限形態を示すものであった。
第3に、植木枝盛の思想は、あらゆる点で、伝統的な日本人の意識を根本から変革しようとするものであった。植木枝盛の憲法草案と日本国憲法との対比をすると、人権、家族制度、戦争の放棄、地方自治について、先取りしていることがわかる。
まず、古来より日本には、人民の政治的権利を積極的に主張する思想はきわめてとぼしかった。政治的支配者と現行支醗秩序への無条件の服従を人民の道徳的義務と説く教説が、著しい抵抗もなく通用してきた。「下なる者は、ただよくもあれあしくもあれ、上の御おもむけにしたがひをる物にこそあれ」(本居宣長r玉かつまDゼ公義御はつとは聖人の道達であり、時には人民にとりゼ害なる事もあるなれども」、それも噛運のあしき故にて、たとへば類焼にあひ、あるいは洪水にあひ、その外りんじ不仕合にあふも岡前にて、時のさいがいなるべし。公儀をうらむべき事にあらず」(ギ商家見聞鋤〉「下賎のつたなき農工商の身分として達(ギ米恩禄のギ天下の政を談ずるは、をこのわざといふべし達(r積徳叢談Dというのが封建時代以来の正統的政治意識をなしてきた。このような考え方を根本から否定し、政治の主体としての人民の能動的な政治参加を権利として主張したのが、自由民権の思想であった。特に(獄「公儀御法度は聖人の道畳とする封建意識を、ゼ世に良政府なし達の観念に置き換え、2、「よくもあれあしくもあれ、上の御おもむけにしたが」えとする教説を「人民は可成政府を監督視察すべく、可成抵抗せざるべからず」という勧奨に置き換えようとするものが、植木枝盛の「世に良政癪なるものなきの説の思想であった。
次に、封建思想は、現行政治権力への無批判的従順を説いたことの当然の結果として、社会の画定と現状の維持とを尊び、変化と進歩とをめざす一切の新規の企画を群斥していた。εなに事によらず、ただありふりたるやうにすればやすらかかにして事ゆきぬるを、よろしき仕かたこそあれとてあたらしく仕出しぬれば、ことおほくむつかしくなりつつ、かねてのようとはちがふ物也。一中にも祖宗の良法成策先代より用ひ来て、天下の耳熟し事久し。かやうの類は軽々しくいろふ事あるべからず3(室鳩巣ギ駿台雑話Dという理由から、ゼ総じて万般古法に準ずべく、新規の事は停止すべき事達(ゼ徳耀成憲百ヶ条Dとされた。ことに鎖国と身分秩序の画定とによって社会状態の人為的な固定をはかり、武士支醗の体鰯の維持につとめた幕藩体制下では、こうした心がけは金科玉条として尊重された。また、劣悪な生活条件の下に最小限の再生産を反復するのが精一杯の耕作農民にとって、上から強麟せられずとも、そのような意識以上に出ることはむつかしかった。明治維新によるゼ一新」の政策がはじめてそのような停滞的盤界観への反省の機会を与え、多くの開瞬思想家によって、社会の前進、人類の進歩への積極的な期待が寄せられるにいたった。それは、自由民権の陣営にかぎらず、むしろ明六社系の啓蒙思想とこれを継受する改良主義思想家の綴に顕著であったようにも思われるが、槌木枝盛の無限進歩の哲学は、福沢諭吉の同種の思想とならんで、伝統的思考様式からの鰺0度の転換を典型的に表現したものであった。
更に、日本の封建社会では、人民の支配者に対する絶対服従の道徳を、そのまま家族関係にも適期し、妻の夫に対する、子の親に対する、嫁の舅姑に対する、弟の兄に対する、それぞれ絶麟の服従を以て家族生活の根本規範とした。窮女のみちも億兆の臣民一君に事ふるがごとく、一家には一夫にして妻あり妾あり、衆女共に一男に事ふる事、天地の道な駒(会沢正志〉という夫婦道や、ゼ父母の為に妻子を忘るるは孝子のつね」(ギ売卜先生綾俵」)といった孝の道が説かれたのはそのためであった。これが、政治的支配者への絶対服従の道徳を内灘から裏付け、あいまって封建秩序直走のための精神的支柱としての役割を果すとともに、武士における知行、庶民における家産の麗襲という物質的基礎が、「家」の権威への随順を抵抗なく受け入れさせることを容易としていた。ところが、明治維新における秩禄延分や土地制度の改革は、封建的な家族道徳の絶対性を動揺させ、さらに資本主義社会への移行を志向する動きの申からは、これに対応する近代的小家族生活への切りかえの要望が生まれ、家族道徳に対しても、根本的な変革の必要が自覚されるにいたった。この場合も、日本的資本主義の最大のイデオローグである福沢諭吉において、封建的家族道徳への携判が経織的な形であらわれたのだが、植木枝盛のそれが福沢よりもさらにいっそう徹底していた。
第4に、日本国憲法の髄定にひきつづいて、ポツダム宣言の目的を達成する為の諸種の改革が行なわれたが、その中でも特に重要なの煎家族制度の改革。この場合にも、憲法第24条の精神に基づいて融定された新しい制度が、ほとんど全く植木枝盛の構想した家族制度と符号している事実は重要である。植木枝盛がヂ如侮なる民法を鰯定す薄き耶謹に示した民法の構想の基本をなす、戸主および家の廃止、男女の同権、長子相続の廃止と男女諸子への均分分割相続は、いずれもそのままの形で、改正民法親族篇・相続編で成文化されたと見ることができるからである。また、植木枝盛が一夫一婦の建白において主張した姦通罪の男女平等化は、飛法第鰺3条(植木枝盛当時の旧罰法第353条に該当)の酎除という形で(建白では男女両罰案が建議されており、戦後の改正では男女非両罰に落着いたが、平等という点では講じである〉実現されたのであった。1957(昭窟32)年4月売春防止法の施行されたのも、植木枝盛の時論がほとんどそのまま実現したものといえるのであって、総じて戦後の家族制度改革は、60数年前における植木枝盛の構想が機熟して実現のはこびにいたったものとみることができるであろう。
ジェンダー平等の視点から言えば近代家父長講に対する評緬が不開陳であるが、女性の経済的自立を含む植木枝盛の議論には、戦後の民主化を超えるものがあったかも知れない。逆に言えば、埋もれてしまっていたとはいえ過去に依擁すべき伝統が存在していたことによって、戦前の家鱗度を解体する戦後日本の民主化が曲がりなりにも根付き、ようやくジェンダー平等が課題として提起されうる礎石ができたと言えるのかもしれない。
3.女性にも開かれたか
戦争を起こすエリート同盟は、帝国主義時代の国際競争の論理にキャッチアップし、日本国民を凶暴な好戦的ナショナリズムで緯織することに表面的に成功した。エリート同盟の論理は、国内の多数の民衆を黙らせ、立身出世論などの自己責任論で過酷に働かせ、低賃金と市場が必要不可欠であるとして、国民を侵略戦争に動員していった。しかし、多様な外国文化や鯉度取り入れ方の試行錯誤の時代、外国と戦わない平和と生存権の論理がすでに提起されていた驚。中江兆民が、洋学紳士に語らせている政策の内容は、次のとおり非戦論、非武装論であった。
君主国の帝王は、戦場には行かずゼ平生どおり、ご猟場で狩りをしたり、あるいは宮中で宴会まをしているので、死なない。だから君主は功名のため、遊びのように平気で戦争をしたがる。だが、戦争で被害を受ける人民は、みずがらすすんで戦争をはじめる道理をもたないと、主張している。
民主、平等の難度を確立する。要塞をつぶし、軍鱗を撤廃して、勉国にたいして殺人を犯す意志がないことを示す。催国もそのような意志を持つものでないと信じることを示し、国全体を道徳の花園とし、学問の蝦とする。貧富にかかわらず、男女の区別なく、選挙権、被選挙権を持たせて、みな独立の人格とする。行政官にへつらう必要のないよう、みな公選にする。学校をつくり、授業料不要、蛋民みなが学問をして紳士となる方法を獲得させる。死飛を廃止。保護関税を廃止して、経済的嫉娠の障壁をとり去る。言論、出版、結社の自由。
そして、民主鰯は、戦争をやめ平和を盛んにして、地球上のすべての国を合わせてiつの家族とするための不可欠の条件だとして、その理由を次のようにのべていた。
諸国が民主麟になれば人民の身体はもはや君主の所有ではなくて、自分の所有である。いやしくも人民が自分で自分を所有し、自分で自分の主人であるときは、すき好んで殺し合いをする道理がどもにあろうか_、.2つの国がたがいに攻撃するとき、戦争から生じるすべての禍いは、いったいだれがうけるのか。武器をとって戦うもの、それは人民だ。軍事費のための金をだすもの、それは人民だ。家を焼かれ田螺をふみあらされて、その害をうけるもの、それは人民だ。このことが落着して國績をつのられ、善後策をおっかぶされるもの、それもやはり人民だ。しかもこの種の国債は、けっきょく、完全に償還することはできない。なぜなら一度戦いを交えると、禍難がひきつづき、怨みが深まって、いったんは講隷となっても、すぐまた戦争になるのは避けられないことだからである。もしそうだとすると・人民というものが、自分からすすんで戦争をはじめる道理がどこにあろうか、云々7藝。
これは平和を翻るジェンダー理論と見ることができる。女性の手によるものとしては、福田英子の男女局等論胃、岸田俊子の女性による最初の男女同権論とされているものが書かれている、儒教的な女性観に対する撹覇的な感覚は、広がりつつあったと言えよう。自由民権運動にさまざまなレベルで参加した女性は予想以上に多かったのではないだろうかと、大木基子聡は述べている。
大木が日常生活レベルと述べるのは女権伸張の具体策、教育、職業、財産を女性ももつべきだ、という主張である。これを現代的にみると、参政権があっても、日常生活レベルで意味ある権利拡大とセットで実現しなければ意味がないということになる。当時すでに山続竹によって、日常生活レベルにおける男女平等・同権は政治的権利と不可分のものとしてとらえられていたという指摘を、大切にしたい。
被支配者が主権者になるとき、この論理が世界連帯の論理につながらないはずはないと思う。北朝鮮がミサイルを打つ、攻めて来るかもしれない。だから軍備が必要、その規模は云々が常識という議論が国会などで飛び交う。しかし、そのことによってもたらされるものは何なのか。国益というフィクションに動員されて、戦争に動員される人びとは、人為的に死のリスクにさらされる。国の国際競争力のためとして、企業の低賃金を甘受せよと強鰯されたくもない。徳人が生活できる産業と助け合いを再構築できれば現代の生産力水準で、海賊や人殺しや戦争を好む人は鑽るはずがない。誰が威張ろうと関係ないという論理鷺にも、生存権を基礎にして社会のあり方を考える、媚びないで生活できるジェンダー平等の思想の萌芽が、あったのではないだろうか。  
 
 

 

●男女平等・諸話
●男女同権
男女両性の権利が同等であること、および、そのような理念を言う。男女が同権であることは、男女平等と言う。
男女同権と男女平等は若干だが異なり、男女同権の権利が社会文化に浸透してから自然と生まれて来る社会が男女平等である。男女同権社会を実現するにあたり、日本では男性の権利と女性の権利が、性別による差を熟考した上での同権になっていない。男性の権利の面においては、男性の育児休暇を取る権利や主夫と云う態勢を取る権利が一般文化常識的に扱われていない。女性の権利面においては成人社会人の女性の性を守る権利が整っていない。
前近代からの流れ​
近世期、江戸時代の日本では儒教による支配層の統治が強まった結果として、男尊女卑も強まったが、これに対し、神道家の増穂残口は、「人の世の根源は男女和合にある」と主張し、「和の国である日本の伝統的な神道祭祀や民俗的な豊穣儀礼につながるものであり、男女和合の世界では、男女は対等である」とし、当時の男尊女卑社会の風潮や家と家とによる婚姻制度が男女の「恋慕の情」を疎外している状況を批判した(佐々木潤之介他 『概論日本歴史』 吉川弘文館 2000年 p.174)。しかし明治近代期以降も儒教的道徳の下、女性の参政権は認められず、第二次世界大戦敗戦後、GHQによる五大改革(日本の戦後改革)の第一項目に「婦人解放」(前同 p.270)が盛り込まれ、女性の参政権が認められることとなる。(海外については、フェミニズムの項の、歴史を参照のこと。)
21世紀の男女同権​
世界経済フォーラムは2006年より、世界各国の男女差別の度合いを指標化した世界男女格差指数を、『世界男女格差レポート』(Global Gender Gap Report) において発表している。この報告によると、2015年において格差が最も少ないと判断された国はアイスランドで、北ヨーロッパ諸国が上位をほぼ独占した。日本は世界145カ国中101位と開発途上国並みの評価となった。 このレポートにおいて日本が101位となった理由は下記の通りある。
・教育・法・制度上の男女差は少ない。
・過去50年間のうち国家元首が女性であったことが無い。(男 : 女 = 100 : 0)
・日本の女性が議員・官僚などの国政へ参加できる職業に就いている割合が極端に低い。(男 : 女 = 91 : 9)
・日本の女性が管理職などの責任を伴った影響力のある役職に就いている割合が極端に低い。(男 : 女 = 91 : 9)
・日本の女性官僚・議員が重要なポストに就いている割合が低い。(男 : 女 = 78 : 22)
・男女の勤労所得の総和を比較して女性のほうが所得が少ない。(男 : 女 = 40,000 : 24,389)(※一人当たりの所得については明記されていない。)
・男性と比較して女性の労働参加人口が少ない。(男 : 女 = 85 : 65)
一方で、国連開発計画 (UNDP) が発表する人間開発報告書によれば、ジェンダー不平等指数 (GII)の2018年における日本の順位は162カ国中23位、ジェンダー開発指数(GDI)の2018年における日本の順位は166カ国中51位である。 GIIについては、産婦死亡率、15-19歳での出産率、女性議員率、女子中等教育割合から算出している。 GDIについては、平均余命、識字率、所得から算出している。世界男女格差レポートと順位が大幅に異なるのは、考慮項目が異なるためであり、GIIの女性議員数、GDIの所得については、低い数字となっている。
徴兵とジェンダー​
NATO加盟国の多くでは女性の兵役義務は低い。イギリスでは女性を歩兵連隊や戦闘には組み込まない。また、アイスランドを除く北ヨーロッパ諸国で徴兵制度があった時代は、男性のみを徴兵対象としていた。一方、志願制の米国では、女性兵士の前線での戦闘行為が禁止されてきた。しかし、戦場での女性兵士の存在が増していく中で、男女平等に基づきこれを容認する法律の施行を2016年までにすすめることを決めた。当時の米国大統領であるバラク・オバマは、国防において女性兵士がより重要な役割を果たすことで米国軍がますます強くなるとし、この決定を歴史的一歩と述べた。男女平等が浸透しているノルウェーでも、かつては徴兵は男性のみとなっていたが、2014年に女性も対象とする法案が可決し、2015年から女性の徴兵を開始した。訓練内容だけでなく部屋も男女混合である。
関連する習慣と法律​
日本国憲法第14条 、24条、44条
民法第2条(解釈の基準)
労働基準法第4条
雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律
男女共同参画社会基本法
選択的夫婦別姓​
日本では、夫婦は婚姻時に同姓とする民法の規定があり選択的夫婦別姓制度は導入されていないが、これは男女平等に反するとの議論がある。民法の規定は、夫又は妻の氏のいずれを称するかを夫婦の選択にゆだねているものの、実際には妻の側が改氏する割合が全体の96.1%であり、これは女性の間接差別に当たり、男女平等に反する、との主張である。さらに、同姓の強要は、男女における個人の尊厳・両性の平等を定める憲法第14条、憲法第24条に抵触する、などの主張もある。
また、日本を含む130カ国の賛成で国連で1979年に採択された「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」では選択的夫婦別氏の導入が要求されている。そのため、国連の女性差別撤廃委員会は、2003年や2009年の勧告で、日本の民法が定める夫婦同姓を「差別的な規定」と批判し、「本条約の批准による締約国の義務は、世論調査の結果のみに依拠するのではなく、本条約は締約 国の国内法体制の一部であることから、本条約の規定に沿うように国内法を整備するという義務に基づくべき」(2009年)とするなど、法改正するよう繰り返し求めている。

 

●男女平等になるほど、男と女の「性差」は拡大する 2020/7
ジェンダーギャップ、世界最底辺の日本
両性生殖のすべての生物と同様に、人間の男と女も生殖機能に明らかなちがいがある。この生物学的な性差が人間社会にどのような影響を与えているかについては、これまで多くの議論がなされてきた。
安倍政権が「女性が活躍する社会」を掲げて7年以上たつが、その間、社会的な性差を示すジェンダーギャップ指数で日本の順位は下がりつづけ、2020年の数字でも153カ国中121位と世界最底辺に沈んだままだ。
その理由は「政治」と「経済」における男女の格差が極端に大きいことで、国会や地方議会に女性議員がほとんどいないのはもちろん、「社会貢献」を掲げる企業や「リベラル」を自称するメディアですら、社長・役員など経営幹部を「日本人・男・シニア・特定大学卒」というきわめて多様性のない層が独占している。
なぜこんな悲惨なことになるかというと、日本は「近代のふりをした身分制社会」で、身分制の上位にいる既得権層が権力にしがみついているからだが、その話はここでは置いておこう。
日本のようなジェンダーギャップが極端に大きな社会は、より男女平等な社会を目指さなければならない。これはもちろんそのとおりだが、この理想が実現すれば、男女の社会的な性差はなくなるだろうか?
なにをバカなこといっているのか、と思われるかもしれないが、じつはこれまでの研究では、「男女平等の社会になるほど性差は拡大する」という奇妙な結果が出ているのだ。
男女平等の度合いと性差を比較してみると…
議論の発端は、2001年に心理学者のポール・コスタらが発表した「文化を超えたパーソナリティの性差 頑健かつ驚くべき発見」という論文だった。
国連開発計画(UNDP)の「ジェンダー不平等指数(GII)」は、妊婦の死亡率や思春期の出産率、国会の女性比率、中等教育以上を受けた女性比率、女性の労働参加率などに基づいてつくられている。
GIIでは、男女平等な国ほど不平等指数が低くなり、不平等な国ほど高くなる。2016年のデータでは、70カ国のなかでもっともジェンダー不平等指数が低いのは(男女平等なのは)スイス、デンマーク、オランダ、スウェーデン、アイスランドなどの(北の)ヨーロッパの国々で、もっともジェンダー不平等なのはブルキナファソ、コンゴ、エジプト、パキスタン、タンザニアなどアフリカ・アジアの新興国だった。
コスタらはこの不平等指数と、ビッグファイブのパーソナリティ特性の関係を調べた。ビッグファイブは「外向性/内向性」「情緒安定性(神経症傾向)」「堅実性」「同調性」「経験への開放性」の5つのファクターでパーソナリティ(性格)を評価する心理学の標準的な指標だ。
男女平等な国ほど男女の性差がなくなるとすれば、GIIと男女間でのビッグファイブのちがいは正の相関になるはずだ(ジェンダー不平等指数が低いほど性差は小さくなる)。研究者たちも当然、そのように予想したが、結果はまったく逆になった。それも、情緒安定性‐0.61、外向性-0.57、経験への開放性-0.49、同調性-0.42というかなり大きなものだった(相関係数は1が完全な正の相関、-1が完全な負の相関、0が無相関になる)。
これが「頑健かつ驚くべき結果」で、コスタらは「性差はヨーロッパ・アメリカ文化でもっとも大きく、アフリカやアジアの文化で小さかった」と述べて物議をかもした。男女が不平等な社会よりも、平等な社会でパーソナリティの性差は拡大しているのだ。
次いで2005年、心理学者のロバート・マックレーらが、調査対象を50カ国1万1985人に拡大し、自己報告ではなく他者の観察によって性格・行動を評価することで先の研究を検証した。
その結果は、やはりGIIとビッグファイブは負の相関関係で、経験への開放性-0.61、情緒安定性-0.57、外向性-0.56、堅実性-0.47、同調性-0.43というかなり大きな値になった。
追試をしてみても…
男女平等になるほど性差が拡大するという「頑健かつ驚くべき結果」について、2008年、デイビッド・シュミットらイギリス、オーストリア、エストニアの心理学者チームが3つの目的で検証実験を行なった。以下が彼らの疑問とその目的と結論だ。
(1) 異なるパーソナリティ因子を使っても同じ結果になるか? →先行研究と同じように、別の指標を使っても、男女平等になるほどパーソナリティの性差は拡大した。
(2) 国の数を55カ国に増やしても同じ結果になるか? →新たに追加した国も先行研究と同じ結果を示した。
(3)発展した国での性差の拡大を説明する外部要因はあるのか? →性差の拡大を社会の発展以外の別の要因で説明することはできなかった。
2018年、スウェーデンの心理学者エリク・マックジョラらが、22カ国の大きなサンプル(最低1000人)を用い、120項目のパーソナリティを比較した研究を発表した。
この研究ではグローバル・ジェンダーギャップ指数が使われたため、「発展した国ほど性差が大きくなる」ときは、GIIとは逆に相関関係がプラスになる。
その結果は、情緒安定性+0.33、経験への開放性+0.33、堅実性+0.48、同調性+0.49、外向性+0.53と、やはり大きな値になった。
国別では、もっとも性差が大きかったのがオランダ(1.17)、ノルウェー(1.13)、スウェーデン(1.11)、カナダ(1.07)、イギリス(1.06)で、逆にもっとも性差が小さかったのが中国(0.47)、マレーシア(0.58)、日本(0.59)、韓国(0.59)、インド(0.70)となった。ジェンダーギャップの大きな社会で暮らす日本人は、欧米人より男女のパーソナリティ(性格)が似ていることになる。
同じく2018年、ドイツの経済学者アーミン・フォークらが2012年に実施された「国際選好調査」の結果を分析した。この調査は76カ国の「利他性」「信用」「(報酬をともなう)ポジティブな互酬」「(罰をともなう)ネガティブな互酬」「リスクテイク」「忍耐力(時間割引率)」の選好を調べたものだ。
その結果は、女性は男性より利他性、信頼、ポジティブな互酬を好み、ネガティブな互酬を避けた。その一方で男性は女性よりリスクを取り、大きな報酬を期待した。
こうした性差は、経済的に発展し、より平等な社会政策を採用する国で拡大した。その相関関係は利他性+0.51、信頼+0.41、ポジティブな互酬+0.13、ネガティブな互酬+0.40、リスクテイク+0.34、忍耐力+0.43となり、平等が性差を拡大することが裏づけられた。
これを受けて著者たちは、「これらの発見は、経済的に発展しジェンダーが平等であることは、選好におけるジェンダーの差の独立した大きな要因であることを示した」と結論した。
社会に縛られなくて済む
男女が平等な社会になればなるほど男女の性差が拡大する。なぜこんな不思議なことが起きるのだろうか。
これについて研究者たちは、「伝統的な社会では、ひとびとは性差を個人の気質ではなく社会的強制と考えるのではないか」「経済的にゆたかになると身長の性差が拡大するように、パーソナリティの性差も拡大するのではないか」などの仮説を提示しているが、もっとも説得力があるのは、「ひとびとが自由に生きられるようになると、男と女の生得的なちがいが顕在化する」だろう。
厳格なイスラーム文化の下で暮らしている外向的な性格の女性は、自らの外向性を抑圧する強い文化的圧力にさらされるだろう。伝統的な社会の女性は自由を剥奪されているために、自分らしさ(生得的なパーソナリティ)を表現することができないのだ。同様に、こうした文化は男性のパーソナリティをも歪めるかもしれない。
認知能力において、男は論理数学的知能に優れ、女は言語的知能が高いとされる。この性差が生得的なものか社会的に「構築」されたものかは例によってはげしい議論になっているが、数学の成績において、男女が平等になるほど性差が拡大するという研究がある。
イギリスの心理学者ジズバート・ストーは、ステレオタイプの脅威(「女は数学が苦手だ」というステレオタイプを意識させると実際に数学の成績が下がる)を検証するなかで、「男女平等で人間開発指数の高い経済的に発展した国々は、発展の遅れた国々よりも、数学における性差が大きくなる傾向がある」ことを発見した。
具体的には、「発展の遅れた地域の数学の成績は、ある国では男の方がよく、別の国では女の方がよかった。それに対して発展した国では、男の方が数学の成績がよいという一貫した傾向が見られた」とされる。
この研究でもうひとつはっきりしたのは、経済的に発展した国の方が数学の平均点が高いことだ。これは、伝統的な社会では学習において男も女も本来の能力を発揮できていないことを示唆している。
「男女平等」を掲げた旧ソ連では、物理学と工学の分野で政策的に男女の研究者がほぼ同数とされたが、体制が崩壊して自由に研究対象を選べるようになると、強制的に「エンジニア」にされた女性研究者たちが、生物学や医学、心理学など、人間や生き物にかかわる分野に次々と専攻を変えたという。自由な選択は生得的な性差を拡大するのだ。
こうした「事実(ファクト)」はフェミニズムの理念に反するように思うかもしれないが、そんなことはない。
日本の保守派は、「男は男らしく、女は女らしくあるべきだ」と主張し、夫婦別姓や同性婚のようなリベラルな改革に一貫して反対している。だがここで紹介した性差に関する研究からは、彼らの理想を実現するには保守主義がなんの役にも立たないことがわかる。
ジェンダーギャップの大きな日本では、男と女の性格はよく似ている。これは、男も女も「自分らしく」生きられないからだ。現在の「身分制的」な社会をより男女平等なものに変えていくことによって、ひとびとはより幸福になり、同時に保守派が望むような「男らしさ」「女らしさ」がはっきりした社会になるのではないだろうか。 

 

●「男女平等ではない」と感じる人が7割強、女性は8割近くに 2020/1
BIGLOBEは、「男女平等に関する意識調査」を実施しました。本日、調査結果の第1弾を発表します。本調査は、インターネットを利用する方のうち、スマホを所有する全国の20代〜60代の男女1,000人を対象にアンケート形式で実施しました。なお、それぞれの年代カテゴリは200人ずつ、性別カテゴリは100人ずつ抽出しています。調査日は2019年11月30日〜12月2日、調査方法はインターネット調査です。
【調査結果のトピックス】
1.「男女平等ではない」と感じる人は7割強、女性に限ると8割近くに
20代から60代の男女1,000人に「男女平等ではないと感じることがあるか」を質問したところ、「よくある」(23.1%)、「たまにある」(49.9%)という結果に。73%が男女平等ではないと感じることがあると回答。女性に限ると「よくある」(25%)、「たまにある」(51.4%)と、76.4%が男女の不平等を感じていることが分かった。
2.職場の男女不平等、男性は「責任の重さ」、女性は「昇級や昇進のしやすさ」が最多
「職場における男女の不平等」を質問したところ、男性は「仕事における責任の重さ」(36.3%)が最多に。続いて「男女による不平等を感じることはない」(31.1%)が2位となった。一方、女性は「昇進や昇給のしやすさ・機会」(47.5%)が最多となり、不平等を感じる内容に男女差があった。
3.「男性の育休取得」賛成は9割弱も「育休取得への抵抗を感じる」男性5割強
「職場の男性社員が育児休暇を取得することをどう思うか」を質問したところ、「賛成」(33.5%)、「やや賛成」(52.4%)で、男性の育休取得に賛意を示す人が9割弱に。しかし、「自身が育児休暇を取ることに抵抗を感じるか」を質問すると、男性の5割強が「感じる」「やや感じる」と回答し、ギャップが明らかに。
【調査結果詳細】
1.「男女平等ではない」と感じる人は7割強、女性に限ると8割近くに
20代から60代の男女1,000人に「普段の生活の中で、男女平等ではないと感じることがありますか」と質問したところ、「よくある」(23.1%)、「たまにある」(49.9%)と回答。全体の7割強が男女平等ではないと感じていることがわかった。性別で見ると、女性は「よくある」(25%)、「たまにある」(51.4%)と回答。76.4%が男女の不平等を感じていることが分かり、男性の69.6%を上回った。
2.職場の男女不平等、男性は「責任の重さ」、女性は「昇級や昇進のしやすさ」が最多
20代から60代の働く466人に「あなたの職場で男女による不平等を感じることを教えてください」と質問したところ、男性は「仕事における責任の重さ」(36.3%)が最多に。続いて「男女による不平等を感じることはない」(31.1%)、「昇級や昇格のしやすさ・機会」(30.8%)となった。一方、女性は「昇級や昇進のしやすさ・機会」(47.5%)が最多。「給与額の設定」(44%)、「仕事における責任の重さ」(27.7%)、「雑用・雑務を割り当てられること」(27.7%)と続く。この結果により、職場の不平等の認識には男女でギャップがあることが明らかとなった。
3.「男性の育休取得」賛成は9割弱も「育休取得への抵抗を感じる」男性5割強
20代から60代の働く466人に「あなたは職場の男性社員が育児休暇を取得することをどう思いますか」と質問したところ、「賛成」(33.5%)、「やや賛成」(52.4%)で、男性の育休取得に賛意を示す人が全体の9割弱に。男性は84.6%、女性は88.7%が賛意を示している。しかし、「あなたご自身が育児休暇を取ることに抵抗を感じますか」と質問すると、男性の18.2%が「感じる」、37.2%が「やや感じる」と回答。男性の55.4%は、自分自身が育児休暇を取得することに抵抗を感じていることが明らかとなった。また、育児休暇取得に抵抗を感じる238人に「育児休暇取得に抵抗を感じる要因」を質問すると、「職場に気を使うから」が58.8%で最多に。「会社や顧客に迷惑をかけそうだから」(51.7%)、「収入が減るのは困るから」(31.5%)と続いた。

 

●男女同権
男女同権とは?
男女同権は、男性も女性も同じ「人間」として同等の権利をもち、社会的な地位や法律上の権利が男女で区別されないことを表す言葉。ジェンダーの役割による不平等を改善し、男女が対等な社会を目指そうという考えだ。
19世紀から20世紀前半にかけての女性の参政権運動(婦人参政権)を中心とする第一波フェミニズムと、その後の社会的な性差別(教育・雇用の機会、賃金の不平等、中絶の権利)に対する第二波フェミニズムにより、女性の権利は拡大した。
一方、権利と義務は表裏一体で、現在ではイスラエルやマレーシア、ノルウェー、スウェーデンなど多くの国で女性の兵役も広がっている。「男女同権=女性にとって生きやすい社会」かどうかというのは、多角的な面からよく考えなくてはならない。
男女の平等さを表す国際的な指標には主に、世界経済フォーラムが発表する世界男女格差レポートのジェンダー・ギャップ指数(GGI)や、国連開発計画 (UNDP) が発表する人間開発報告書のジェンダー不平等指数 (GII) 、ジェンダー開発指数(GDI)、ジェンダー・エンパワーメント指数(GEM)がある。
世界の男女差別と日本の状況
1906年に、フィンランドが世界で初めて女性に完全参政権を実現。ドイツでは、1958年に初めて法律で「男女同権」を規定した。日本では、男女同権の新選挙法によって1946年に総選挙を行い、初の婦人代議士が誕生した。それ以前は、日本も世界も男権社会が主流だった。
たとえばインドでは、歴史的・宗教的な価値観から女性の地位が低い傾向にあった。女子は男子と同じレベルの教育が施されず、多額の婚姻持参金(ダウリー)で本人の意思とは無関係に若くして嫁がされるケースがあり、夫が火葬される火に未亡人が飛び込むサティーという習慣もあった。
ヒンドゥー教やカースト制の根拠にされた「マヌ法典」は、女性の性格を悪いと決め付け女性に従属を強要している。その名残は現在でも続いており、お腹の中の胎児が女児だとわかったときに人口妊娠中絶する悲劇が後を絶たない。2011年の英医学専門誌ランセットの研究調査によると、インド過去30年に「女児だから」という理由で行われた中絶は最大1,2000万人もいるという。
日本では、時代や地域によっては女性は神聖なものとされ、邪馬台国では卑弥呼という女性の指導者が国を治めていたと言われている。しかしその後、武力のある者が世を治めるという歴史の流れの中で、腕力で勝る男子が武功を上げ、政治的な影響力を持つようになった。
女性の権利が拡大した今でも、依然として所得の格差や、女性政治家の少なさ、要職に登用される女性の数の少なさが顕著だ。他にも、婚姻により夫婦同姓にするために氏を変更するのは、大半が女性だ(日本の男性の変更率はわずか4%)。それをうれしく思う女性もいるが、雑多な書類の手続きや苗字が変わることで起こる社会での影響といった負の側面もあり、これは男女差別だという指摘もある。
男女同権を実現するには、根本的に社会を変える必要がある
マタニティハラスメントという言葉がある。妊娠できるのは女性だけ、ということから、妊婦に対する個人または組織からの嫌がらせのことだ。妊娠をしたとわかった瞬間から、雇用を受けにくくなったり、昇進できなくなったりすることで、女性の社会進出を阻む。これを是正するべく、父親の育児休暇といった制度がある。
しかしここで問題となるのは、日本の男性の労働時間が長すぎることだ。有給休暇の取得率すら4割をきる中で、仕事に穴をあけて育児に時間を割く決断を下すのはなかなか困難である。また、男性トイレにオムツ交換台がほとんど設置されていないなど、男性が育児をするための土壌ができていないこともある。単に男女の問題だけではなく、社会インフラや人々の長年の思い込みが男女同権を阻害していることもあるのだ。
アメリカのニューヨークでは、新設されるすべての男性トイレにオムツ交換台が設置されることとなった。女性の「働く」という権利を保障するのと同じく、男性の「子供と過ごす」という権利を大事にしている。

 

●戦後ニッポン「男女平等」の光と影 
終戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)民政局の一員として日本国憲法の起草に参加し、24条の「男女平等」条項を書いた米国人女性ベアテ・シロタ・ゴードンさんが昨年12月30日、膵臓がんのためニューヨークの自宅で亡くなった。89歳だった。
共同通信に対して、ベアテさんの娘のニコルさんは「母は生前、憲法の平和、男女同権の条項を守る必要性を訴えていた。改正に総じて反対だったが、この二つ(の変更や削除)を特に懸念していた。供物で弔意を示したい場合は、代わりに護憲団体・9条の会に寄付してほしい」と語ったそうだ。
ベアテさんの発案で盛り込まれた日本国憲法24条は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」とうたっている。
ベアテさんは平成12年5月、参院憲法調査会で「男女平等」条項が誕生した経緯について詳しく証言している。
「私は、戦争の前に10年間日本に住んでいたから、女性が全然権利を持っていないことをよく知っていた。だから、私は憲法の中に女性のいろんな権利を含めたかった。配偶者の選択から妊婦が国から補助される権利まで全部入れたかった」
ベアテさんの草案は現24条より随分と長かった。
・家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統は、善きにつけ悪しきにつけ国全体に浸透する。それ故、婚姻と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然であるとの考えに基礎を置き、親の強制ではなく相互の合意に基づき、かつ男性の支配ではなく両性の協力に基づくべきことをここに定める。これらの原理に反する法律は廃止され、それに代わって、配偶者の選択、財産権、相続、本居の選択、離婚並びに婚姻及び家庭に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定されるべきである。
・妊婦と乳児の保育に当たっている母親は、既婚、未婚を問わず、国から守られる。彼女たちが必要とする公的援助が受けられるものとする。嫡出でない子供は、法的に差別を受けず、法的に認められた子供同様に、身体的、知的、社会的に、成長することにおいて機会を与えられる。
・養子にする場合には、夫と妻、両者の合意なしに、家族にすることはできない。養子になった子供によって、家族の他のメンバーが、不利な立場になるような偏愛が起こってはならない。長男の単独相続権は廃止する。
草案はGHQ内部で現24条に近い案に絞り込まれたが、日本側は猛反発した。ベアテさんは参院憲法調査会で「日本側は、こういう女性の権利は全然日本の国に合わない、こういう権利は日本の文化に合わないなどと言って、大騒ぎになった。天皇制と同じように激しい議論になった。夜中の二時に男女平等の条項がまた大変な議論になった。もう随分遅く、みんな疲れていた」と振り返っている。
米国側と日本側両方の通訳をしていたベアテさんに対する日本側の印象は良く、GHQ民政局ケーディス大佐はそれを利用して、「ベアテ・シロタさんは女性の権利を心から望んでいるので、それを可決しましょう」と日本側に提案した。ベアテさんが男女平等の草案を書いたことを知らなかった日本側はびっくりして、「それではケーディス大佐が言う通りにしましょう」と同意し、現在の24条が固まった。
ベアテさんがいなければ、日本の「男女平等」がどうなっていたかわからない。その意味で、ベアテさんは日本にとって「男女平等」の母と呼ぶにふさわしい。
こうした光の部分に比べて、「男女平等」が戦後日本に落とした影の部分についてはあまり知られていない。
平成16年4月の衆院憲法調査会。生命倫理学の草分けで、元早稲田大国際バイオエシックス・バイオ法研究所長、木村利人氏が「科学技術の進歩と憲法」をテーマに参考人として証言した。その内容は衝撃的だった。
木村氏は医療の「インフォームド・コンセント(十分な説明と同意)」を日本に初めて紹介、故坂本九さんが歌った「幸せなら手をたたこう」の作詞家としても知られる。
刑法は戦前、戦後を通じて堕胎を厳しく禁じているが、婦人参政権が認められた昭和21年の総選挙で39人の女性代議士が誕生し、第一号の加藤シヅエさんらの議員立法で昭和23年、人工中絶の違法性を阻却する優生保護法(現・母体保護法)が施行された。
米連邦最高裁判決が「中絶は女性のプライバシー権」と認めたのはその25年後のことだから、戦後、日本の男女平等は米国を一気に追い抜いてしまったのだ。
富国強兵に突き進む日本は昭和16年、一夫婦平均5人出産という「産めよ、殖やせよ」政策を閣議決定し、「東亜共栄圏建設と発展のため内地で昭和35年に1億人」の目標を掲げていた。
しかし、その一方で米国の人口学者は昭和初期に、「世界人口の危険地域」の一つに、明治5年の約3300万人から昭和5年の約6370万人へ約60年間で人口がほぼ倍に増えた日本を挙げて、日本は東南アジアに国内過剰人口のはけ口を求める恐れが大きいと戦争の勃発を予言していた。
木村氏は衆院憲法調査会で「優生保護法は、米占領治下に可能になった法律だ。米国の戦後の統治の文献などを読むと、日本にやらせてはいけないことの一つとして、人口の増加ということがあった」と指摘した。
つまり、女性の権利を守るという触れ込みだった優生保護法には、日本の人口増加を抑制するという隠された狙いがあったというわけだ。
しかし、米側から思わぬ反発が起きる。バージニア州のカトリック信者からGHQのマッカーサー最高司令官あてに「このような法律をつくったら、日本人を大量虐殺した将軍、ジェノサイド・ジェネラルと呼ばれるでしょう」と抗議の手紙が届いた。
マッカーサーが自分でサインした手紙には「私は、日本人をジェノサイドするつもりはない」と記され、優生保護法の成立には関係していないことを強調している。
強姦が多発、経済的に困窮していた戦後の混乱期、優生保護法は女性の味方とされた。戦前、「人口1億人」の達成目標年とされた昭和35年は同42年にずれ込んだ。
木村氏は「米国というのは、いろいろな人体実験を含めて、極めて人権侵害を意図的に、大胆にやってきた国の一つだ。広島、長崎という、人間が、人類が絶対起こしてはならない犯罪的戦略によって日本の人口に対するアタックをした。米国がしたもう一つの実験の一つは、日本に優生保護法をつくったということだ」と証言した。
日本は先進国の中でも最も少子高齢化が進んでいる。これは米国の実験が成功したことを意味しているのだろうか。
ベアテさんの「男女平等」が戦後日本の光明として語られることはあっても、世界に先駆けて導入された優生保護法の成立過程や、優生保護法と少子高齢化の関連性に光が当てられることはない。 

 

●日本の戦後改革
1945年(昭和20年)に日本(大日本帝国)が第二次世界大戦に敗れた後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQあるいは「進駐軍」と呼ばれ、稀にSCAPとも)およびその圧力の元で日本国政府により行われた一連の民主化、自由化改革について述べる。
1945年10月11日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは当時の首相幣原喜重郎に対し、口頭で五大改革指令を命じた。その内容は
   1.秘密警察の廃止
   2.労働組合の結成奨励
   3.婦人解放
   4.学校教育の自由化
   5.経済の民主化
であった。
1946年(昭和21年)、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は日本国憲法を成立させ翌年から施行した。大日本帝国憲法を改正する形をとり、主権在民、象徴天皇制、戦争放棄、男女同権などの理念を盛り込んだ。また、改革の大きな柱として戦争協力者の公職追放、財閥解体、農地改革などが含まれる。農地改革で自作農が飛躍的に増えたことは農村部の保守化につながったともいわれる。

 

●働く女性のあゆみ
第1期 日本の近代化を支えた女性たち<1867 年 − 1910 年>
日本が近代国家をめざし、政治、経済、社会の諸制度の変革を進めるなかで、近代産業の発展を主に支えたのは、製糸・紡績を中心とする繊維産業であった。そこでは多くの若い女性が生産を担った。
明治政府は、各地に官営の工場を設立し、産業の育成を図った。その一つである富岡製糸場では、全国から士族の娘たちを集めて伝習工女(技術指導者)の養成を行った。彼女たちは使命感をもって新しい技術を学び、郷里へ帰ってその技術を伝えた。その後各地につくられた民営の製糸工場で工女として働いたのは、主に貧しい農家から集められた10代から20代の女性たちであった。紡績工場でも、その生産の主力となったのは若い女性たちであった。
しかし、大多数の女性は農業に従事し、家事・育児を担いながら過重な労働にたずさわった。また、義務教育も終えずに幼いうちから「子守・女中奉公」などに出る女性も多かった。教育や医療の分野で近代化が図られると、専門教育を受けた女性たちが教師や看護婦、医師などの職に就き、少数ながら専門職のパイオニアとして活躍した。
この時代、民法により「家」制度が法的に 確立し、女性の地位は男性に比べて極めて低く位置づけられた。
第2期 「職業婦人 「職業婦人 」と「主婦」の誕生 <1911年 − 1929年>
第一次世界大戦や関東大震災などを経て、日本は工業化と都市化が急速に進んだ。経済の発展に伴って、新しい仕事が生まれ、女性の就労機会が広がった。働く女性の増加は「職業婦人」の裾野を広げていった。
第一次世界大戦期の急速な経済発展に伴い、都市では企業や官公庁で働く事務員などの需要が高まった。女性も事務員やタイピストなどの仕事に就くようになり働く女性が増加した。このような新分野の仕事に就いた女性たちは「職業婦人」と呼ばれた。職業婦人たちの多くは、高等小学校や高等女学校を卒業後、結婚までの一時期、就職して働いた。女性が働くことに対して偏見は根強かったが、彼女たちは周囲から先進的な女性と見られることもあった。
また、女性による権利獲得や社会的な地位の向上を目指す動きが盛んになり「母性保護」や「女性の自立」のあり方をめぐって論争が展開されるようになった。この頃、都市部の俸給生活者(サラリーマン)の妻として一家をきりもりしている女性を「主婦」と呼ぶようになった。
第3期 戦時の女性労働<1930 年 − 1945 年>
恐慌から戦争に続く昭和前期、女性は男性に代わって労働の担い手となった。
1930(昭和5)年に昭和恐慌が発生し、都市も農村もこれまで経験したことのないほどの困窮に陥った。特に農村への打撃は大凶作と重なって大きかった。
昭和恐慌からの脱出過程で、日本の産業構造は軽工業から重化学工業中心へと移行が図られた。都市は徐々に恐慌から立ち直ったが農村の困窮は長引いた。1937(昭和12)年の日中戦争の勃発以降、1938(昭和13)年の国家総動員法の成立を経て、国民の生活は戦時体制へ突入していった。
衣食から思想まで統制は生活全般にわたった。この時期、つぎつぎに徴兵されていく男性に代わって農業や工業をはじめさまざまな仕事を女性が担っていった。未婚女性や女子学生までが動員されて労働にたずさわるようになった。その一方、総動員体制の下で人口政策として早婚と多産が奨励された。戦争末期、戦局が厳しさを増し、食料・物資の不足が深刻になった。空き地に畑を作るなどの有効利用や代用品などの工夫が求められ、生活は厳しかった。 また、出征や徴用、学童疎開など家族が離れ離れの生活を強いられた。戦争はすべてにわたり多大な犠牲をもたらした。
第4期 戦後の改革と女性たち<1945 年 − 1955 年>
民主主義国家として新たなスタートを切った戦後、さまざまな改革が行われ、長年の女性の願いが実現した。戦後しばらくの間は社会と経済の混乱が続き、深刻な食糧難、生活難に人々は苦しめられた。
しかし同時に戦争が終わった解放感と、占領下ではあったが、新しい時代をつくるという希望にもあふれていた。戦後改革が進められる中で、婦人参政権の実現、男女平等を定めた新憲法制定、「家」制度を廃止した民法の改正、教育の機会均等、男女共学を定めた教育基本法制定など女性の権利拡大が図られ、女性の社会進出と地位向上への基本的な条件が整えられた。
やがて朝鮮戦争(1950〜1953年)をきっかけに戦争特需が急激な経済発展の契機となり、その後輸出が拡大し、日本経済は本格的に復興への道を歩み始めた。糸へん景気・金へん景気と呼ばれる好況の下で、労働力需要が増大し、繊維産業における技能工、生産工に加えて各産業分野にわたって事務・販売などの仕事に従事する女性が増えた。それまで女性に門戸が閉ざされていた職業や戦後新しく登場した職業にも女性が進出するようになった。
第5期 高度経済成長期の女性労働<1956 年 − 1974 年>
日本が飛躍的な経済成長を続けていく過程で、女性の生き方や働き方は大きく変化した。1956(昭和31)年の『経済白書』で「もはや戦後ではない」と述べられた頃から、日本は急速に高度経済成長期へと移行していった。人々の生活もそれまでの節約を美徳とする生活から消費型生活へと変貌していった。家庭用電化製品が大量に普及し、家計に占める教育費、レジャー費の比率が増大した。
人々は国の経済的発展と個人的な生活レベルの向上を求めて、懸命に働いた。外で働く夫を支える妻には、家庭を守る「主婦」の役割が期待された。女性たちは、学校を卒業すると結婚までの一時期働くことが一般的になった。しかし長く働き続けるケースはまれであり、結婚・出産を機に退職し、子育てをする女性たちが大半を占めた。
その後、若年労働者の不足、家電製品の普及に伴う家事労働の軽減、就業意識の変化等によって、家庭に入った女性たちは子育てが一段落すると、パートタイム労働者として職場に進出していった。
また農村では、男性が都市に出稼ぎに出かけ、女性や高齢者が農業の担い手となっていった。
第6期 男女の雇用機会均等に向かって <1975 年−1985年>
1985(昭和60)年「男女雇用機会均等法」が成立した。同法の施行により、女性の就業に関する一般の意識や企業の取組は次第に変化し、また女性の働き方も多様化してきた。高度経済成長期以降の経済の発展のなかで、平均寿命の伸長、出生率の低下、教育水準の向上等により、女性のライフサイクルは大きく変化した。
1975(昭和50)年の「国際婦人年」を契機に、女性の地位向上、男女平等の推進を目指した国際的な潮流は我が国にも大きな影響を与え、職場をはじめとしてさまざまな分野で男女平等を求める動きが活発になった。また、1977(昭和52)年には国立婦人教育会館が開館した。1980(昭和55)年、デンマークで開催された「『国連婦人の十年』中間年世界会議」において、我が国は「女子差別撤廃条約」の署名式に参加し、国内外に「女子差別撤廃条約」の批准を約束した。我が国の関係省庁は、各々の分野で同条約批准のための諸条件の整備に努めた。
雇用の分野においては、女性労働者の増加、就業意識の向上等と相まって、職場における男女平等を求める声もだんだんと高まり、「男女雇用機会均等法」が生まれる大きな原動力となった。労働省では、1978(昭和53)年から雇用機会の均等を確保するための法的整備を含めた諸方策について、婦人少年問題審議会において検討を始めた。このような状況に「女子差別撤廃条約」批准のための条件整備という視点も加わり、1985(昭和60)年に「男女雇用機会均等法」が成立した。 
 
 

 

●謝罪のマナー
相次ぐ「誠意のない謝罪会見」から考える、心に響く謝罪とは?
恐らく日本独特の現象でしょうが、2000年頃から全国津々浦々において頻繁に行われるようになった謝罪会見。最近では企業、病院、施設、学校、各種団体を始め政界や芸能界の様々な分野で繰り返し行われているのが現状です。しかし、いずれもテレビ、新聞、週刊誌等でも大々的に取り上げられ国民の関心度は高いものの、誠意がなく、精神的満足感を得るものは非常に少なく、悲劇が繰り返し発生することも珍しくありません。名誉や信頼回復のための謝罪は大切ですが、やり方次第で結果が大きく違ってきます。逆効果になる謝罪、相手の心に響く謝罪とは何か?についてマナーの視点で考えてみます。
逆効果を招く謝罪のパターンとは?言い訳・責任転嫁など
誠意がなくうわべだけの謝罪はかえって逆効果にもなりかねないでしょう。例えば「謝罪をするための会見なのに謝罪の言葉が一切ない」もの。「開き直りや反論したりするもの」。「逆切れする」内容も論外でしょう。そして最も不快になる謝罪は「言い訳に徹した内容」と「責任転換」の会見ではないでしょうか・・・。さらに一見立派と思えそうですが「お詫びのしるしとして給料の一部を返上します」「役職の一部を返上します」といった一時しのぎの謝罪も不快になります。これらは謝罪のつもりが、相手の心を疲れさせ拒否反応を与えかねないでしょう。「謝罪会見に騙されないぞ!」という気持ちになり溝はさらに深まる気がします。
相手の心に響く謝罪は「速さ」「潔さ」「具体策」が重要
一方、心のこもった誠意ある謝罪は時として「ピンチをチャンスに変える」こともあるでしょう。では本当に相手の心をつかむ《誠意ある謝罪》とは何でしょうか?先ずは発生した問題に素早く対応し、ミスを潔く認め、心を込めて謝罪することでしょう。謝罪に対する捉え方はその国々で異なると思いますが、迅速に対応することは必要不可欠だと思います。加えて潔くミスを認めることも日本人なら好感が持たれるでしょう。身だしなみや表情も大切ですが、これもうわべだけではだめです。例えば清潔感溢れる身だしなみで、姿勢を正し、丁寧な言葉遣いの大前提は清らかな心です。しかし、これだけでは根本的な解決にはなりません。生じた問題とどう向き合い、再発防止のためにどのような努力をするかを相手にきちんと理解してもらうことが大切だと考えます。自分の非ばかりに心が動けば、相手の気持ちや現実を見失います。相手の状況を正しく把握するとともに相手に対する思いやりを発揮したうえで、具体策を練ることが大切になってきます。つまりピンチをチャンスに変える謝罪とは、言葉だけの謝罪ではなく、その後の振る舞いまでが必要ということです。
感動を与える謝罪には人格が求められる
謝罪文化はその国々により多種多様ですが、日本には昔から「死んでお詫びする」という慣用句があります。加えて「潔さ」や「品格」を大事にする国です。潔さとは思い切りがよく未練がましくない意味ですが、ここでは都合の悪い現実にも冷静でかつ強い気持ちで向き合うことができる人です。また品格とはその人から感じ取れる上品さや気高さを意味します。早い話いずれも中身がどの程度かに尽きるでしょう。加えてフランスには「nobless oblige(ノブレス・オブリージュ)」という言葉があります。権力や財力や社会的地位がある人はそれなりの責任が伴うということです。謝辞や祝辞と異なり、自ら非を認めて許しをこうむることで、名誉や信頼を回復する謝罪にはその人の人格がにじみ出ます。相手の心に響く謝罪にするには、一夜漬けではなく、日頃から自分磨きに励み、人格を高めることが何より大切ではないでしょうか。

 

●謝る人の表情−あなたは「謝罪」できますか? 
企業の不祥事や政治家の失言などで「謝罪」の場面を相変わらずよく見ます。例えば謝罪会見を見て、いまひとつ納得できないのは何のせいでしょうか?
その「表情」が言葉を裏切っている
テレビでよく見る、不祥事を起こした企業や団体、人の謝罪会見。冒頭、「申し訳ありませんでした」と言ってから、長い時間お辞儀をします。
まずこの場面、間違うとダメですからね。最近は、「リスク管理」のコンサルタントなどがついて、謝罪会見のときの指導をおこなうケースも増えてきたので、前より、皆きちんと頭を下げるようになりましたね。
ポイントは「先に言葉を言ってから、頭を下げる」という「先語後礼」の作法。これは、正式なご挨拶の作法です。きちんとしたお辞儀の所作も重要。 正式なご挨拶が必要なときはちゃんとできないと、誠意そのものが疑われます。
ここで「すいませんでした」などと言いながら、ぺこんと頭を下げてしまうと「雑」「いいかげんな態度」という印象になってしまい、新たな火種を作りかねません。
しかし、冒頭そんな風にきちんとした謝罪をしても、何か違和感を感じることありませんか?
それは、「表情」が「申し訳ありません」という言葉を裏切っているから。
頭を下げる前はまだ何とか表情に気をつけていても、その後の表情や態度が「謝罪」という場面に、適合していないことがよくあります。
お辞儀後、頭を起こしたときに始まり、質問などをされている間、そして、会見が終わり、退場するまで、「見られている」ことは、わかっているはずなのですが。
人から見て「反省していなさそう」「表面だけ謝罪しているように見せている」との印象を感じるような様子になってしまうのです。
その印象を作るのは、とろんとした無表情な目つき、締りの欠けた口元、だらしないアゴの角度など。何というか、弛緩してしまっている様子です。
服装もポイントですね。だらしない服装、派手なアイテムを無頓着に身につけた様子では、「軽く考えている」と思わざるを得ません。
本当に反省しているときの人って、もっと違う様子ですよね。例えば表情や態度は、こんな言葉で形容できます。
「沈痛な面持ち」…なんてことをしてしまったんだ、という気持ちが表れる
「神妙な面持ち」…悪いことをしてしまった、つぐないたい、という気持ちが表れる
「緊張した様子」…どれだけ非難されるのだろうか、どうすればよいだろうか、というせっぱつまった気持ちが表れる
だいたいは、こういった様子のどれかか、いくつかの複合体で、その人の端々に、つまり、表情や目つき、姿勢、声音、身だしなみや服装に現れます。
「重たく受け止めている」「真摯に反省している」が、言葉以上に伝わってくるのです。
そういう様子を見て、取材側とか、メディアで見ている人とかが、「ああ、とりあえず事態の深刻さは把握できているんだ」「真摯に反省する気持ちがあるんだ」と感じられれば、安心もしますし、共感も涌いてきます。
しかし、逆に感じられない、となれば「なぜ、事態の深刻さがわからない?」「反省する気持ちはないのか?」と追求し、責める姿勢に傾きます。
今まで、開いても意味のなかった会見、逆に火に油を注いだ結果になった会見は、こういった「印象の問題」が端を発していることがほとんどです。
こんな会見を見ると、上に立つ人、表に出る人には、その表情や態度が表現するものに、注意を払うことは、責任の一つだとよくわかります。
明確な態度は言葉に勝る
表情や態度など、言葉以外の部分で、感情や意図、考えが伝わることを「ノンバーバル(非言語)コミュニケーション」と言います。
人間は多くの場合、言葉そのものよりも、その言葉を発したときの周辺情報を見ます。それが表情や声音、動作を含む態度です。
人間は相手が見せる態度を、視覚を中心とする感覚器官で素早く読み込み、判断に反映させることを無意識に行います。これはコンマ数秒の素早さです。
反対に言えば、その反映される印象が、言葉そのものとマッチした明確なものであれば、伝えたいことが、相手の無意識レベルにも効果的に伝わるということです。
いまだに多くの人が「言葉」の方を重要視しますが、どんな美辞麗句でも、そらぞらしい表情や言い方では、まったく人に刺さらないことはよくおわかりでしょう。
相手の判断に強い影響や変化を与えるのは、私たちは表情や声音、動作など、実はノンバーバルののほうが強いのです。これは、さまざまな研究によって、よく知られるようになってきましたが、「メラビアンの法則」がとても有名ですね。
あなたが「上に立つ人」または「ワンステージ上を目指す人」であれば「ノンバーバルの大切さ」は、よく理解しておかなければなりません。説得力や影響力も左右する要素だからです。
この「ノンバーバル」の要素、表情や視線、声や話し方、動作、姿勢、服装などが印象をどう左右するか、どう相手の印象に働きかけられるかを、よく理解できれば、コミュニケーションの力は上がり、説得や影響の力は磨かれます。
日頃からの意識が重要
「ノンバーバルな部分」は、急に意識しようとしても難しいです。日頃から意識していないと、「今日は『謝罪』だから気をつけよう」と思い立っても、無理な話です。
「意味のない謝罪」「炎上する謝罪」になってしまった今までの例でも、たぶん、そのご本人たちは、故意にダメな表情や態度になっていたわけではないでしょう。
いつものように、できる範囲で気をつけていたが、本来通用しない気の付け方なので、足りなかった、というだけなのです。
「人の心理や反応に影響を与えるノンバーバル」に無頓着であるのは、何の得にもならないばかりか、リスクさえも生むことがよくわかります。
深刻な謝罪会見では、表に出た人の表情や態度が、謝罪にふさわしいものかどうかで、社会的心証は大きく変わります。
問題の原因を説明し、謝る側としての認識を言葉で示すのは大前提。そこに付加しなければならないのは「言葉とその他の表現が一致している」ということです。
そして、「言葉とその他の表現が一致している」ことの、大切さは謝罪のときだけではありません。
顧客とのやり取り、部下とのやり取り、会議に臨む態度など、あなたのちょっとした表情や目の動きや動作は、相手の感情や判断、思考に発する言葉以上に変化を加える力があります。
ふだんから、自分の態度がノンバーバルとして、どんなメッセージを発しているか、自分の態度が生み出す印象は、自分の伝えたい言葉とマッチしているか、ぜひ意識をしてみてください。 
 
 

 

●どんな良い言葉でも使い手によりうわべだけの美辞麗句となる
丁寧な説明、真摯に受け止める、断じてない、おわびする、反省する、説明責任を果たす、そして仕事人(何がし)・・・など。この言葉を使用する人に二心が無ければ、とてもよい社会作りができる。しかし、残念ながら最近は言葉だけがすべっていて、空虚感が漂う。
美辞麗句のもともとの意味は、美辞は美しい言葉、麗句は美しい語句という。しかし、最近はうわべだけ飾った内容の乏しい、また真実味のない言葉の意で、皮肉った使い方をするとのこと。
「丁寧な説明」などの言葉の真意は、使う人の思い、考え、感情、態度など正直であるかどうか、発言者の人格が問われるものだと思う。最近は、政治、経済に限らず芸能界、教育界など広範囲にわたる社会でうわべだけの美辞麗句がはびこっているようだ。
このようなうわべだけの繕いが、どうして蔓延しているのだろうか?
昨日、ニュースで秘書に暴言・暴力をふるった議員が記者会見を行った。マスコミは謝罪会見という表題での報道だ。しかし、被害者とされる秘書への謝罪の言葉はあまり感じられない。言い訳に終始していたようだ。むしろ再び選挙にでたいという表明であったように思える。解散の可能性が出てきたので、急遽演出したのだろうか。
会見に限らず謝罪は、被害を被った人に対しては行うべきである。これを記者会見で行うことは、不適切とは思わないが、時と場合によっては言い訳の場になってしまう。メディアが利用されてしまうことが危惧される。
「・・・申し訳ございません」と、起立の上責任者が頭を下げ謝罪を表明する。これも誠意をもって行うのであれば全く問題はない。残念ながら、必ずしもそうではなく、形式化した会見の場となっていることがある。むしろ、言い訳の場、あるいは虚偽の場となっている。
また、最近は当初の会見では、疑惑に対して断じて報道されるような事実はありません。と言っておきながら、後の会見では、報道されている通りですと、正反対の発言が目立つ。
議会等の重要な役割を担った人の発言、記者会見などでの発言は、最初からうわべだけの美辞麗句ではなく、本来の意味で中身の伴った「美辞麗句」であってほしい。真に二心のない正直な謝罪、反省などの言葉を発して欲しいものだ。 

 

●「安倍談話」美辞麗句で埋められぬ認識の溝  2015/8 
8月14日午後、日本政府は安倍晋三首相の戦後70年談話を閣議決定した。安倍首相が苦心して準備した談話は50年談話と60年談話を継承したように見えるが、詳しく読んでみると、安倍首相には先の談話を発表した2人の元首相のような潔さと誠実さがなく、華やかで扇情的な言葉で日本の侵略に対する定論を覆そうとし、恩と仇を帳消しにしてほしいと期待していることが分かる。
このような態度は、日本が周辺諸国、特に中国や韓国との関係を改善する上で、依然として歴史認識が溝であることを意味している。15日の終戦記念日当日、安倍首相が靖国神社に参拝はしなかったものの「玉串料」を奉納したことがその最も良い証拠である。
「安倍談話」のキーポイントは、欧州植民主義のアジア拡張によって日本は次第に戦争への道を進み始め、周辺諸国に甚大な災難をもたらし、自身をも深く傷つけたという点、また日本が交戦国の人々に「計り知れない損害と苦痛」を与え、歴代内閣はこれについて「繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明」してきており、この立場は「今後も揺ぎない」とした点である。
しかし、安倍首相は日本の 「侵略」発動には直接言及せず、明確な「お詫び」もしていない。反対に、欧米など敵国の戦後の対日和解について語り、さらには中国が3000人近い日本人残留孤児に親切に接した寛容さまで持ち出した。安倍首相は、「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」とわざわざ強調している。
重要なことには触れず関係のないことを述べた安倍首相の談話について、中国、韓国、ひいてはロシア政府までもが抑制した態度で不満を表明した。この3カ国のメディア、学者ともに談話を認めていない。全体的な評価はかなり否定的なもので、イギリス紙「ガーディアン」、米国の通信社「ブルームバーグ」、米国紙「ワシントン・ポスト」など欧米メディアですら、安倍首相と明仁天皇の態度を比較して、「安倍談話」には謝罪と誠意が明らかに不足していたと指摘した。
「安倍談話」は、安倍首相がより多くの責任を西洋諸国になすりつけ、日露戦争勝利を美化して植民地支配されていたアジアやアフリカの人々を「勇気づけた」と述べ、日本のアジア太平洋諸国侵略による直接的損害を過小評価しようとし、またそれを「食糧難」といった要因のせいにしている。
実のところ、侵略し損害を与えたことを認めることは日本に歴史の重荷を永遠に背負わせることではなく、率直で誠意ある謝罪も日本を被害者の前に跪かせることではない。いかなる人、民族ないし国であっても、自身の大きな犯罪について心から深く反省し、再度同じ間違いを起こすことを防がないのであれば、同じ間違いを繰り返す悲劇から逃れることは困難だ。このことはすでに多くの事実が証明している。日本でこのところ民族主義、右翼勢力ないしは尚武精神が幅を利かせていることは、慎重に行き先をコントロールしなければ日本が平和の道から離れていきかねないことを示唆している。
冷静に見定めねばならないのは、「安倍談話」の発表は安倍首相本人が心から望んだことではなく、国内の反対勢力に押されてのことであり、連立政権を組む公明党の要求、さらには中国や韓国など隣国の断固とした態度によるものだったということだ。しかし、安倍首相が内外の強い圧力を受けながらもなお言葉をはぐらかしたことは、本人がきっぱりと心を改め心から承服しているわけではないことの証であり、また既存の歴史観と何が正しく何が間違っているかについての考え方を今後も持ち続けていくことも示唆している。
A級戦犯の東郷茂徳の孫である東郷和彦氏はこのほどその著書で、「未来を展望すると、日本には諸問題を解決に導く『ロードマップ』が必要である。安倍首相の70年談話はこのロードマップの第一歩となる。談話が謙虚であるほど、未来の歩みは力強いものになるだろう」と指摘した。東郷氏は、靖国問題、慰安婦問題、竹島紛争、徴用工問題、北方領土紛争、日中間の釣魚島紛争など、安倍首相が直面する一連の対外問題はどれも今回の談話と関わっており、こうした問題を解決して初めて、日本は東北アジア隣国関係の潜在力を存分に発揮することができる、と考えている。
しかし事実は、「安倍談話」が踏み出した第一歩は楽観できるものではなく、中韓などとの立場の明らかな違いを際立たせることとなった。この立場の違いによって、今後も歴史のページを進めていくのが難しくなることは間違いない。今後の中日関係と韓日関係がうまくいくか否かは依然として不透明で、ひいてはうまくいかないことのほうが多いように思われる。 

 

●「文大統領の新年の辞、自画自賛と美辞麗句だけ」… 2021/1 
韓国与党“共に民主党”の議員であったクム・テソプ前議員は今日(11日)、ムン・ジェイン(文在寅)大統領の新年の辞について、自画自賛と美辞麗句を並べただけで、国民が聞きたがっている真摯な謝罪と反省はなかったと批判した。
クム前議員はこの日、自身のフェイスブックを通じて「文大統領は今日の新年の辞で、回復・包容・飛躍を強調した」とし「必要な価値であることは明確だが、新年の辞を満たした自画自賛と美辞麗句が(実現)可能なのか疑問だ」と主張した。
つづけて「(自画自賛の代わりに)国民たちの苦痛に共感すべきだった」とし「株価上昇を誇ることよりも、放置と虐待に苦しんでいる子供たちの涙を直視すべきで、自力で成長している“Kコンテンツ”に自身も乗っかる前に、ソウル東部拘置所と療養病院で起きていること(集団感染)に対して謝罪し、再発防止を約束すべきだった」と皮肉った。
クム前議員は「今日 文大統領が、政治的対立を煽るような発言を控えたことは、よかった」としながらも「昨年 青瓦台(韓国大統領府)と与党が先頭に立って起こした“政争と対立”について、反省しなければならなかった」と指摘した。
つづけて「すなわち 野党と国民の懸念を無視し 法を独断で処理したこと、法相を先立てて検察改革を形骸化させたこと、異見を敵と見なし 民主主義を破壊したことを謝罪しなければならなかった」と付け加えた。
クム前議員は「まもなく青瓦台による新年の記者会見が行なわれるので、その時 今日は出なかった真実なる反省と省察の声が聞きたい」と、文大統領に要求した。 
 
 

 

●うわべだけの謝罪会見
えひめ丸事件にみる日米「心情」摩擦  2001/3 
「謝れ」「もう謝ったじゃないか」「もっときちんと詫びろ」「何度詫びれば気がすむのか」―― 一時はそんな泥仕合の様相すら呈したのが、えひめ丸と米潜グリーンビルとの衝突事故への対応をめぐる日米(言論機関)間の応酬であった。だが、ここに来て、事故の責任者に対する日本側の受け止め方には変化が表れてきたようにみえる。行方不明者の家族の見方もワドル前艦長に対する憎しみ一辺倒から原因究明を重視するトーンにシフトした感がある。事故を見る日本側の目を変える契機となったのはワドル前艦長の「涙」であった。米国政府の公式謝罪ではなかった。この間の経緯には単に日米の文化の違いに留まらず、心情や情念、さらには死生観といった深層心理レベルでの葛藤が潜んでいるように思われてならない。
<涙が契機に>
ワドル前艦長が涙ながらに遺族に謝罪したのは、衝突事故事故発生から実に約1カ月後の3月8日であった。この謝罪を遺族はどう受けとめたか。
邦紙報道によれば、直接謝罪を受けた行方不明者の家族の1人は「(これまで)前艦長に対する憎しみの世界で生きてきた。だが、心の中の怒りが空白になった」と語ったという。また、涙の謝罪というワドル前艦長が初めて見せた人間らしさに「この人も(弁護人からの指示など)いろいろな事情で謝罪の実現が難しかったのかなと思えた」と述べたり、「あなたも愛する家族を大切にして下さい」と伝えた遺族もいたという。もちろん、中には謝罪を受け付けない遺族もいる。だが、大勢は「やっと家族の思いが伝わった。ただ、前艦長が証言を拒否したり、真実を話さなければ、謝罪もうわべだけのものになる」(遺族の1人)との発言にみられるように、重点は前艦長への糾弾から原因究明に向けられ始めた感がある。
ワドル前艦長の「涙」が日本ではいかに大きな意味をもって受けとめられたかは、謝罪を報じる邦紙が揃って「涙」の文字をタイトル、あるいは記事中に使って強調していることからもうかがうことができる。
<もう十分謝ったじゃないか>
事故発生以来、米国は日本に謝り続けた。大統領が謝罪し、国防・国務両長官、在日大使が謝罪し、米政府特使を派遣して謝罪した。対日関係重視を掲げるブッシュ政権登場直後というタイミングにあったにせよ、米軍の事故により死傷者を出した他の外国のケースでの対応と比べても、異例と思われるほどの多大な対日配慮であった。だが、米政府高官たちが何度、公式謝罪を繰り返しても、遺族達の頑な気持ちはほぐれなかった。(その意味でも、ワドル艦長の涙の効果は劇的ですらあった。)
米側の目からは頑なとも見えたはずの日本側の姿勢に対し、米国内には感情的批判論も一部に台頭した。「どれだけ詫びたら日本の気が済むのか」――えひめ丸事件への日本の対応を批判する論評をワシントンポスト紙が報じたのは事件発生から3週間ほど過ぎてからであった。「日本にはもう十分詫びた」(We've Apologized Enough to Japan)と題する2月26日付同紙記事は、まずこんなふうに始まる。
「グリーンビルがどんなふうにえひめ丸を沈めるに至ったか、民間人がいたことと事故が関係があるかどうか、誰かがひどくいい加減なことをしたのかどうかは、私には言えない。私に言えるのは、あれが事故だったのだということであり、米国はすでに十分に詫びたということだ。米国は大統領以下、高官がみな日本に詫びている。だが、日本にとってはそれで十分ではないというのだ。えひめ丸乗員の家族が我々に要求するのは当然のことだ。だが、他の日本人(新聞論説や政治家など)が、我々にできる以上のことを要求するのは何なのだ。詫びろという要求はたえずますます強くなる。彼らは、米国人は日本人の死に対して傲慢で非情だと言いたいのである」。
同記事は続けて「かくまで詫びを要求するところに、日米の文化の差もあるのかもしれないが、同時に、そこにはたいへんな偽善が感じられる」と言い切る。その上で、従軍慰安婦や南京虐殺などの例を挙げて「日本軍の蛮行」と謝罪の欠如を糾弾した。これにひきかえ、米国ほどきちんと詫びる国はなく、黒人やインディアンに対する謝罪がその証左だというのである。極めつけは、「戦後の日本の安全を守ってきたのであり、日本の再建を助け、つねに日本の同盟国であり、最良の友でもあったのは米国である」とする結語の部分である。
要するに、1米国は十分に謝罪した、2日本は戦争責任を片付けてはいない、3安全保障、経済の分野で米国は日本を助けてきた――といのが、記事の論理骨格である。記事中には明示的に書かれていないが、3の後に来るのが「だから、これ以上米国の非を追求しないで欲しい」という本音であることは容易に察しがつく。
<「悲しみの涙」と「贖罪の涙」>
この記事に反論することはたやすい。「えひめ丸事故と日本の戦争責任問題という本来別個の問題をいっしょくたんに論ずるのはおかしい」、「米国では今でも差別が続いている」などと反論することは可能ではあろう。現に、そうした意見は日本でも散見される。しかし、そうした反論は事の本質を突くことにはならない。この問題の背後に潜むものを見出すには、ディベート術のレベルでの反論に留まるのではなく、日米の文化的差異にも着目する必要がある。邦紙報道によれば、フォーリー駐日大使は原因究明や被害者への補償に全力を尽くすと約束する一方、「米国では刑事責任の追及が想定される場合、法律的な過程が完了するまで、謝らないのが通例」と日米の文化の違いを指摘したという。
だが、問題の本質に迫るにはそれでも不十分だ。訴訟技術の差などで言い表されるような文化の差に求めるだけでは事態は説明しきれない。問題のさらなる核心は、文化というよりも、その背後にあるもの、心情、情念といった、より深いところでのすれ違いにあるのではないか。そこには、日米双方のいわば深層心理レベルでの葛藤が潜んでいるように思われる。
特に「かくまで詫びを要求するところに、…(中略)…たいへんな偽善が感じられる」とのポスト紙の指摘はいかにも的外れな見方だ。何故、日本は詫びを求めたか。賠償金が欲しいからでもなければ、「米国にできる以上のことを要求する」ためでも決してない。日本人にとって、欲しいのはただ一つ「心からの謝罪」だったのだ。
だが、謝罪にこだわる日本人の心的態度を「偽善」と断ずるところに、同紙の見方の限界を感じる。遺族にとっては、身内に襲いかかった、信じ難くも悲惨な事態を自らの不幸として受け入れるためには、どうしても必要なものがある。加害者の「贖罪の涙」である。肉親を失った被害者の「悲しみの涙」と加害者の「贖罪の涙」、この2つの涙がなければ、真のカタルシスは訪れない――これが日本側の執拗な謝罪要求の背後に潜む動機だったといっても過言ではない。卑俗な表現に直せば「詫び方が少ないからもっと詫びろ」というよりも、「死者のために一緒に涙を流して欲しい」というのが、事の本質だったように思われる。ただ、この屈折した心情を米国人が汲み取るのは難しいことであるのかもしれぬ。情念の衝動は我々日本人にとってすら、普段は無意識の闇領域に閉じ込められているからだ。
<「甘えの構造」で読み解く日米心情摩擦>
土居健郎著「甘えの構造」は、日本人にとって「涙のお詫び」の持つ魔術的・呪術的な役割についても触れている。土居は、同著の中で、日本人の罪に対する態度を描き出している例として、ラフカディオ・ハーンの「停車場にて」と題する随筆を取り上げている。ここで語られる人情の機微を損なわないように紹介するためには若干、長い引用になるが、御容赦頂きたい。
この話は、強盗をしていったん掴まった後、巡査を殺して脱走していたある犯人が、再び掴まって熊本に護送されて来たところから始まっている。駅前につめかけた群集を前にして、護送して来た警部が殺された巡査の未亡人を呼び出す。その女の背には小さな男の子が負ぶさっていたが、その子に警部が語りかけて、これがあなたのお父さんを殺した男ですよ、と告げたのである。すると子供は泣き出したが、引続いて犯人が「いかにも見物人の胸を震わせるような、改悛の情きわまった声」で、次のように語りだした。「堪忍しておくんなせえ。堪忍しておくんなせえ。坊ちゃん、あっしゃァ、なにも怨み憎みがあってやったんじゃねぇんでござんす。ただもう逃げてぇばっかりに、つい怖くなって、無我夢中でやった仕事なんで。……あっしぁァ坊ちゃんに、なんとも申訳のねぇ、大それたことをしちめえました。ですが、こうやって今、うぬの犯した罪のかどで、これから死にに行くところでござんす。あっしゃァ、死にてえんです。よろこんで死にます。だから坊ちゃん、・・…どうか可哀そうな野郎だとお思いなすって、あっしのこたァ、堪忍してやっておくんなせえまし。お願えでござんす……。」やがて警部は犯人を連れてその場を立ち去ったが、するとそれまで静まり返っていた群集が「俄かにしくしく啜り泣きをはじめ、」そればかりか付添いの警部の眼にも涙が光っていたというのである。
ハーンは「(日本人の)我が子に対するこの潜在的な愛情、これに訴えて、罪人の改悛を促した」点に最も深い意義を見出している。だが、土居はこの観察に満足していないようだ。「今1歩解釈を進めれば」と断った上で、土居は「犯人は子供を可哀想と思うと同時に、自分も実はこの子供と同じくみじめであることを悟ったといえないであろうか」と解説する。
「日本では、謝罪に際し相手に本質的には幼児のごとく懇願する態度を取り、しかもそのような態度は常に相手に共感を呼び起こすので、あたかもお詫びが魔術的な効果を持つように、外国人には見えるのであろう」、「見物の群集が啜り泣いたのも、ただ子供のためばかりでなく、改悛している犯人のためであったといって過言ではない。むしろ群集の眼には、子供も犯人もこの際渾然一体となって映っていたという方がより正確であろう」――土居の指摘は今回のえひめ丸事件の顛末に当てはめると奇妙なほど符合する。ハーンの随筆に登場する殺された巡査を犠牲者、犯人をワドル前艦長、子供を遺族、群集を日本国民に見たてると、この物語を構成する原理はえひめ丸事件のそれに収斂するのだ。登場人物全員が泣いている。仮に犯人の涙がなかったらこのドラマは成り立たぬ。そして、これこそが、えひめ丸事故で、米政府の公式謝罪よりも加害者の涙の方が遺族達の心をずっと大きく動かした理由だと思われるのである。
土居によれば、「甘え」とは、「一体化を求める依存欲求であり、分離についての葛藤と不安が隠されている心理」でもあるという。「甘えの構造」とは、相手の好意を期待し、また期待されたほうもそれに応えるという心に他ならない。それゆえにこそ、甘えが裏切られた時には、「すねる」「ひがむ」等のネガティブな反応が生じるというのである。
九鬼周造はその著「いきの構造」の中で、「いき」(粋)とは「武士道の理想主義と仏教の非現実性とに対して不離の内的関係」に立つ概念だと規定する。九鬼が「いき」の構成要素として挙げたのは「意気地」と「諦観」である。すなわち「犯すべからざる気品・気格」と「運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心」である。そして、この「意気地」と「諦め」は日本の「民族的、歴史的色彩を規定している」というのだ。こうした美意識に基づく規範に反する行動様式は、当然「野暮」ということになる。
確かに、この基準に照らせば、当初、遺族と距離を置き、訴訟で自らが不利な立場に置かれないようにすることにのみ汲々としていた感のあったワドルのこの事件に対する身の処し方は、いかにも「野暮」であった。弁護士からのアドバイスによるものであれ、謝ることより言い逃れをしようとする訴訟技術が見え見えなのは決して粋でない。日本の美意識に合わないのである。
こうしてみると、先のワシントン・ポスト紙の指摘がいかに的外れかが改めて浮かび上がる。だが、こうした日本の心情を、あるいはカタルシスへの屈折した期待そしてそれゆえの相手への無意識な期待を米国人に分からせることは難しい。それは日本人ですら明瞭には気付かない無意識の心的態度であるかもしれないからである。
貿易摩擦、投資摩擦、経済摩擦から文化摩擦へ。そしてその背後に潜む、いわば心情摩擦の露呈。これを日米関係の成熟化の産物とみるべきなのか、それとも2つの国の間に横たわる深くて暗い溝とみるべきなのか、難しいところである。  

 

亀田興毅、謝罪会見を振り返り「俺ら謝罪のプロでもない」 2007/12
朝青龍との同日謝罪会見で世間を煙に巻き、さらに反省が見られないと各方面で物議を呼んだ亀田家の長男・興毅が2日(日)、自身のブログで「俺らはリングで結果を出すだけ。謝罪で結果を出すことじゃない」と自らの謝罪会見を振り返った。
会見当日は「お騒がせして申し訳ありません。一からではなく、ゼロからスタートしていきたいと思います」と語るも、反則行為や言動、内藤に対する謝罪や反省の言葉が特に見られなかった大毅。その内容に対し再び非難が集中したことに対し「大毅の謝罪会見があかんとか言うてる人おるけど、正しい謝罪会見、悪い謝罪会見とか答えってないやん。作ってやったらやったで、「あれは本心じゃない」「上辺だけの謝罪は意味がない」とか言うんちゃうん?」と逆風を逆手にとる形でコメント。
さらに「大毅は大毅なりに反省して、何も作らんと自分の言葉で謝罪した。俺は立派な人間でも何でもないけど、大毅は18歳であの状況の中良くやったと思う。そもそも俺ら謝罪のプロでもないのに完璧にやれって言う方が間違ってるな。(笑)」と自らに非や落ち度がないと強調。その後も「謝るってことは誰かに言われてやるもんちゃう」「100人中100人納得させることは100%無理」「精一杯やることがほんまの心からの謝罪とちゃうかな?」「正しい人間っていうのもおるかもわからん」「人間最初から完璧な人間なんかおらん」と自身の考えを綴り、「まぁ俺は来年勝負や! 大毅はマイペースでやるらしいわ!(笑)」と最後まで亀田節を炸裂させている。

 

朝日新聞、うわべだけの謝罪を看破する! 2014/9
まさに、朝日新聞の“9.11”事件と言うべき出来事である。11日の記者会見で木村伊量社長ら経営陣は否定してきた“誤報”を認め深々と頭を下げたのだ。だが、朝日の報道は本当に変わるのだろうか。作家の百田尚樹氏が“謝罪”の裏側を語り下ろす。
読者の皆さんは、朝日新聞社の“謝罪会見”を見てどう思われたでしょうか。満場の会見でフラッシュを浴びて頭を下げる経営陣を見て、『朝日』も捏造と誤報を反省し、報道姿勢を大転換するはずだと映ったでしょうか。残念ながら私はそう思わない。言葉では謝っているけど、本気で謝罪する意思はないとしか見えなかった。なぜなのか。その理由をこれからお話ししましょう。
まず、どうして9月11日になって記者会見を開いたのか。ここに注目するべきです。ご存知のように、朝日新聞が、今回、謝罪・撤回することになったのは、故吉田昌郎氏(元福島第1原発所長)の『聞き取り調査』を手に入れたと報じた5月20日の記事です。そこで、『朝日』は職員たちが命令に違反して原発事故現場から逃亡したと断定しました。これに対して、まずノンフィクション作家の門田隆将氏が、事実と違うと反論するのですが、当初、『朝日』は訴えると脅して彼を黙らせようとしました。これは『スラップ』と言って、企業が法的手段をもってジャーナリストなどを威圧するやり方です。アメリカでも社会問題になっていることを平気でやってきたのです。しかし、そのうち産経新聞なども調書の内容を報道するようになると、誤報は動かしがたいものになった。それでも、『朝日』は訂正しようとしなかったのです。『吉田調書』は非公開でしたが、調書を手に入れたマスコミが増えてきたため、政府はついに公開を決める。その当日となった9月11日に急転直下、『朝日』は記事を謝罪・撤回したわけです。
当日の会見で杉浦信之取締役(編集担当)は「以前から謝罪会見を計画していた」と釈明していましたが、それならどうして他紙が調書を手に入れ、事実を報じた時点でやらなかったのか。一方で杉浦氏は「政府の公開の前に会見をやるのは難しかった」と認めている。もし、調書が公開されていなかったら『朝日』はいまだに本当のことを隠し、しらを切り通していたかも知れません。公開されると国民に捏造したことがばれてしまう。こうなったら、もう謝るしかないと観念しての会見だったのは明白です。刑法では、犯人がわかる前に自首すれば刑が軽くなることがあるが、指名手配されてから自首しても減刑にはなりません。たとえは悪いですが、今回の朝日の謝罪会見は“指名手配”されてからの自首に近いと思う。
それから、もうひとつ、本気で反省していないと分かったのは、今回の会見で、(慰安婦狩りの嘘をついた)吉田証言の記事について“ついでに謝った”という姿勢を取ったことです。質疑応答で慰安婦報道について聞かれても、8月5日・6日の記事で検証は終わっていると突っぱねるばかり。朝日新聞は変わっていないと、私はいよいよ確信したわけです。ご存知のように、『朝日』の慰安婦報道の核心は『吉田証言』、そして女子挺身隊と慰安婦の“混同”にあります。1991年8月の記事で植村隆記者が《“女子挺身隊”の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた》と書いたことから、軍の強制連行があったと悪質な誤解が広まったのです。
ところが、『朝日』はこれを当時の研究が不十分だったことから“誤用”したと逃げた。会見では、「元慰安婦は挺身隊として連行されたと話していないのではないか」と追及の声も出ましたが、杉浦氏ははぐらかしてばかり。そして「広い意味での強制性はあった」と従来の自説を強弁するだけでした。記者会見は、私もじっくり見ていましたが、木村社長の向かって右に座る杉浦氏の受け答えが本当に苦しそうだったのが印象的です。『朝日』で、編集担当役員にまで上り詰めたのだから超エリートであることは間違いないのですが、自分の言っていることが支離滅裂だと知りながら話さなくてはならないのが手に取るように分かった。私はサラリーマンじゃないから言えるのですが、あんな支離滅裂な説明をして、天下にアホ丸出しの姿をさらすくらいなら仕事を失ったほうがマシやと思ったほどです。
さらに、『朝日』の体質が変わっていないと思わせたのは、「謝罪するべき」とした池上彰氏のコラムを掲載拒否したことでした。これに対し、池上氏が、今後の連載を拒否したこともあって週刊新潮・週刊文春などで大きく取り上げられ、現場の朝日記者からもツイッターなどで猛烈な批判の声が上がった。この事態が読めなかったとするならば、上層部の判断力は中学生以下である。もっと呆れるのは、批判の厳しさに驚いて、今度は掲載を決めたことです。もはや指揮系統がバラバラ、混乱の極みです。
ところが、朝日新聞の『沢村亙』という朝刊編集長がこの騒動をツイッターで自画自賛しているのにはさらに驚いてしまいました。多様な意見を載せる。その原則を守れと同僚たちが声をあげる。社が受け入れる。結果的にそうできたことに誇りを感じる。 @asahi 掲載を見合わせていたコラム「池上彰の新聞ななめ読み」は、明日の朝刊に掲載されます。読者のみなさまや池上さんにご迷惑をおかけしたことをおわび申し上げます。
— 沢村亙
うちの会社も官僚的な体質があるが、主筆とか社長とかトップの鶴のひと声で軍隊のように一糸乱れずに動くこともできない。だからこそ情報が漏れ、現場が声を上げる。つくづく危機管理には向かない組織と思うが、これはこれでいい、と思う
— 沢村亙
これは悪い冗談でしょうか、と聞きたい。今回は池上さんだから大きな問題になりましたが、『朝日』にとって都合の悪いコラムを平気でボツにしたなんてことは、これまでにもあったはずです【註:1995年4月、獨協大学の中村粂教授(当時)が南京事件や慰安婦報道について反対する論文を朝日新聞の『論壇』に投稿したところ、「誤解や反発を招く恐れがある」として書き直させた上で不掲載とした。後に中村氏は裁判を起こすが敗訴】。
そもそも、それほど民主的で、記者が自由に発言できる新聞社なら、32年もの間、慰安婦問題の誤報に対して誰か声を上げる人はいなかったのかと問いたい。長い期間で延べ数万人になるはずの社員のうち、どれだけの人が、慰安婦報道の間違いを批判できたのでしょうか。この“朝刊編集長”にぜひ聞きたいものです。『朝日』のOB記者のなかには、報道のあり方に批判的な発言をしてきた人もいますが、その中には『社友』の資格を停止された人もいると聞きました【註:元週刊朝日編集長の川村二郎氏のこと】。古巣を心配して発言するOBに対してこんな“仕打ち”をする会社の中で、はたして現役記者が編集委員に対して声を上げられるものなのか、大いに疑問である。
それにしても会見に臨んだ『朝日』の木村社長の姿を見ているとつくづく惜しいなあ、と思わざるを得ません。私は前回、週刊新潮の“語りおろし”で木村社長を改革者だとして「朝日の“ゴルバチョフ”だとさえ思っている」と言いました。しかし、木村社長は『吉田証言』を撤回させた一方で、社内メールに《反朝日キャンペーンを繰り広げる勢力に断じて屈するわけにはいきません》とか、《今回の紙面は、これからも揺るぎのない姿勢で慰安婦問題を問い続けるための、朝日新聞の決意表明だと考えています》と居直っている。記者会見でも、慰安婦報道については“検証済み”と譲らなかった。マスコミのエリート『朝日』の、そのまたトップという立場がそうさせたのでしょうか。でもね、人間というものは、60歳を超えたら「後生を畏れる」ということを考えないといけません。これは孔子の言葉で、“後生”とは後から生まれた人たちのことを指しますが、人は棺に蓋をされて、後生による評価が定まるのです。木村社長も、「慰安婦報道はぜんぶ間違っていました」と言って辞めたら“朝日を変えた男”として、後生に高い評価を受けたと思います。
思うに『朝日』において“強制”にこだわる『慰安婦報道』は、もはや社長でさえ撤回ができないほど固く根を下ろしているのかも知れません。それは、原発事故についての『吉田調書』報道は全面的に謝罪・撤回できたのに、慰安婦報道ついてはまったく基本姿勢を崩していないことからも歴然としている。この差は何なのか。私が思うに『吉田調書』の記事は、今年5月に報じた“一発もの”だった。誤報そのものは大問題ですが、まだ時間も経っておらず、早めに謝罪・撤回すれば処分の人数も限られ、傷が浅いと考えたのだと思います。ところが、慰安婦報道は違う。朝日新聞は30年以上をかけて、朝鮮人女性が日本政府によって強制的に慰安婦にされたという膨大な報道を積み重ねてきたわけです。これは、ある意味、社を挙げて繰り広げてきた“歴史プロジェクト”みたいなもの。それを、いまさら謝罪・撤回するとなれば、報道に関わってきた多くの記者や編集幹部の責任が問われることになる。それこそ、本当の“自己否定”につながりかねない。
今回の謝罪会見で、木村社長は社内に「信頼回復と再生のための委員会」を立ち上げ、これまでの報道を検証するとしています。また、慰安婦報道については元名古屋高裁長官やジャーナリスト・歴史学者らによる社外の『第三者委員会』も作ると明言している。しかし、私はそうした“第三者”などという組織にそもそも期待していません。当たり障りのない人選でお茶を濁すのが普通ですから。作るのなら世間があっと言うようなメンバーでなくてはならない。まあ、私みたいな朝日を徹底批判する人間に声がかかることはないと思うし、忙しいからやりたいとは思わないけど、「やってくれ」と言われたらやりますよ。朝日新聞の間違いを正す絶好の機会ですからね。

 

「記憶にございません」 傍聴人あきれ顔「常識ではあり得ぬ」 2016/1
政務活動費(政活費)をだまし取ったとして詐欺罪などに問われ、26日の“やり直し初公判”に出廷した元県議、野々村竜太郎被告(49)。被告人質問では「記憶にございません」などと、かつてのロッキード事件で当事者が語った言葉のように繰り返した。これに対し、傍聴した県民らからは怒りや落胆の声が漏れた。
平成26年7月に兵庫県庁で記者会見して以来、初めて公の場に現れた野々村被告。髪を短く刈った姿に、傍聴した男性は「本当に本人なのかと驚いた。テレビで見た印象とまったく違っていた」と話した。
法廷で野々村被告は、裁判長や弁護人らの呼び掛けには「はいっ」と威勢のいい返事をしていた。だが、質問が具体的な事件の中身に及ぶと「記憶がございません」などとあいまいな受け答えに終始。傍聴人らは困惑したりあきれた表情を浮かべたりしていた。
傍聴した兵庫県宝塚市の無職男性(66)は「何を聞かれても『覚えていない』とごまかしていた。常識ではあり得ない主張だ」と憤る。「自分がやったことと向き合っていないのではないか。政治責任についての謝罪もうわべだけに聞こえた」
仕事を休んで傍聴に訪れたという加西市の自営業、前野睦(むつみ)さん(47)は「『記憶にございません』という言葉を、数えただけで50回以上使っていて腹立たしく感じた」。
「次回は常識的な発言をしてほしい」と注文を付ける一方、「税金を無駄遣いされた怒りはあるが、裁判での態度にそれ以上にあきれた。強制的に連れてこられていなければ、今回も法廷に来ていなかったのではないか」といぶかった。

 

麻生「子どもを産まないのが問題」発言、海外に発信される。 2019/2 
もはや政治家の失言・暴言が当たり前となっている日本。一時的にはニュースで取り上げられるものの、うわべだけの謝罪や説明が行われるだけで、政治家が実際に責任を取ることはまずない。麻生太郎副総理の「子どもを産まないのが問題」発言も、「撤回する」の一言ですっかりなかったことになっている。
しかし、アッサリと失言・暴言が時に流されてしまう日本国内とは対照的に、海外では「恥の上塗り」となっている。都合よく忘れてしまいがちなデータや過去の失言が再検証されているのだ。
たとえば、CNNは今回の件について、『日本の副総理が人口減少で「子どもを産まない」女性を非難』という記事を掲載。麻生副総理の「誤解を与えたなら撤回する」という発言と併せ、「無意識のジェンダーバイアス」という見出しつきで日本社会の問題点を取り上げている。
“90年代から日本は出生率を上げるための政策を導入してきた。たとえば、育児サービスを高めたり、子持ち家庭への住宅や公共設備の改善を改善してきた。だが、構造的な問題は今なお働く男性と女性を仕事と家庭のバランスを崩している。最近の調査によると、30〜34歳の女性が出産後に職場復帰する率は、わずか30年間で50%から75%へと増えた。
しかし、’17年経済開発協力機構のレポートによると、職場復帰する者の多くは減給や、出世するうえでの障害を受け入れなければいけない。世界経済フォーラムがジェンダー間の平等性を測った世界男女格差指数では、日本は149か国中、110位に位置している”  
データによって、問題は女性ではなく、それを取り巻く日本の社会的環境であることが強調されている。
『ニューヨーク・タイムズ』には「日本の人口減少で子どものいない人を非難したことを官僚が謝罪」との記事が。実際には謝罪するどころかお馴染みの「撤回」をしただけだが、それはさておき、中身を見てみよう。
“麻生氏の人々が子どもを十分に産んでいないという日曜日の発言は、出生率や高齢化、健康保険や定年などについて語ったスピーチで出たものだ。彼は発言を撤回する際に、報道によって文脈から外されたように感じたと話した。78歳の麻生氏は安倍晋三政権の保守的な政治家の一人で、国の人口問題について子どものいない女性を非難するなどしてきた。
安倍氏は1月に日本では女性の67%が仕事をしており、これは歴代最高の数字だと自慢した。しかし、彼女たちの多くは職場で限られた役割に縛られている。日本では、男性が驚くべき長時間に渡って仕事をする一方、女性が子どもの世話を背負わされている。これらの要因は女性がより高給の仕事に就くことを妨げている。また、同時に雇用者が労働力確保に苦しむなか、経済を停滞させている”
今まさに統計問題に揺れている国会。しかし、その数字も中身をしっかり分析しなければ意味がない。記事中で安倍総理は得意げに数字を強調しているが、中身が伴っていないとしっかり釘を刺されている。
また、『ガーディアン』は、この発言を次のように取り上げた。
“78歳(の麻生氏)は、メディアが彼の言葉を文脈から外したのであって、彼は単に出生率の低下が日本の経済的繁栄にもたらす脅威を強調したかっただけだと主張した。しかし、彼は「撤回し、今後は発言に注意したい」と加えた。(中略)専門家は出生率の低さにはいくつかの原因があるとし、育児費用の経済的負担、保育支援の欠如、悪名高い長時間労働などがそれに含まれている。麻生氏は、その傾向をカップル、特に女性の責任であるとしてきた保守政治家の一人だ”
うっかり放った言葉が自分の意図とは違った形で受け取られた……。本人はそう強調しているが、以前からそういった発言をしていることが、あらためて説明されている。
同記事では、昨年6月の二階俊博氏による「子供を産まない方が幸せだと勝手なこと考える人がいる」という発言や、同年4月の加藤寛治氏の「ぜひとも3人以上、子供を産み育ててほしい」発言、さらには‘07年の柳澤伯夫氏による「産む機械」発言も紹介されている。これらを振り返ると、決して「文脈から切り取られた」のではなく、「出生率が低いのは女性が悪い」という考え方を持った政治家が多いことがよくわかる。
さらに、こちらも日本ではすっかり忘れ去られているが、どう記事は麻生氏の過去の発言を引き合いに、以下の部分にも着目していた。
“同じスピーチで麻生氏は日本の驚くべき長寿を称えた。彼が生まれた40年代に比べ、30年ほど伸びているのだ。これは国の負担を減らすため、高齢者は「さっさと死ぬ」ことができるべきだという’13年の彼の発言とは対照的だ”
膨れ上がる医療費について、「死にたいと思っても生きられる。政府の金でやっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない」と発言したのは、6年前。このときも「マスコミに揚げ足を取られた」と擁護する声があったが、懲りずに失言を垂れ流す様子を見ていると、本心が漏れてしまったようにしか思えない。
日本ではいつの間にか風化していく失言・暴言も、海外では積み上がり、悪名となっているのだ。
また、メディアだけでなく、一般人からの反応も外国人のほうが敏感に捉えているようだ。呆れるどころか、怒りに満ちた声が出ている。
「こういう年寄り(政治家)にこそ、さっさと死んでほしいよ。政治に限った話じゃないけど、人を非難することは問題の解決にはならない。もしこのバカ(Asshole)が本当に女性のせいだと思うなら、この人たちが悪いと指をさすんじゃなくて解決法を示すべきだ」(男性・37歳・アメリカ人)
「女性が悪い」「女性がこうするべき」といった発言が多いわりには、具体的な施策はまるで出ていない。本来、政治家の役割は国民の“ご意見番”でいることではなく、幸せに生きるための仕組みづくりをすることなのだが……。
「そもそも、子どもがほしくない人もいるし、そんなことを政治家が一方的に押しつけるのがおかしい。産みたいと思っている人が、安心して産める環境を作るのが仕事でしょ。オンナは子どもを産むべきかなんてことを議論している時点で的外れ」(女性・29歳・フィンランド人)
もはや感覚が麻痺してきているが、今後も同様の失言・暴言は続くはず。なんとも心身に悪い作業ではあるが、そのたびに問題点にしっかり向き合い、政治家の責任を問い詰めていかなければ、この負の連鎖は止まらないだろう。なにより、社会が好転することもないはずだ。
「今はSNSも普及して、情報とか言葉の進んでくスピードが速くなってる。そのぶん、平気で暴言を吐く人もいるけど、『まあいっか』と思わずに、しっかり考えさせないとマズいんじゃないかな。特に責任ある立場の人が、ツイッターに書き込むような感覚で無神経な発言をするのは危ないと思う」(男性・35歳・アメリカ人)
本人が問題ないと思っている以上、止めることができるのは周りの人間だけだ。はたして、暴言が止む日はいつくるのだろうか。 

 

日本的謝罪の不思議 2019/12 
日本のメディアを通して、色んな人がしょっちゅうカメラの前で謝っているのを目にする 。有名人の不倫、不正、脱税疑惑、暴言やスキャンダルの発覚を初め、企業や団体の不祥事の場合には、責任者が当事者に変わって謝罪する。
「ご迷惑をおかけして、大変申し訳ございませんでした。」、黒っぽいスーツ姿で深々と頭を下げる人を見る度に、取りあえず正式に謝罪しないと、その過ちを許さない日本的慣習や世論の厳しさを感じる。謝罪内容そのものに対してよりも、世間を騒がせてしまったことへの謝罪の比重も大きそうなのは、出る釘は打たれる日本的な思考に起因するものなのか。
有名人などの謝罪会見の場合には、弁護士やコンサルタントが、なるべく多くの日本人が納得してくれるであろう「リスクマネージメントのテンプレート」に基づいた模範謝罪法や謝罪文、なるものを指南するそうだ。それでも会見時の態度やそのタイミングなどにクレームが出されたりすることもあり、謝罪のマナーとテクニックは色々と複雑そうだ。
昨今はSNS上の発言やニュース記事への投稿欄に、誰でもコメントを入れることが可能なので、そのコメントの傾向が世論を影響することになる。そして今度はその世論に押されて、「炎上」*した自分の失言に責任を取らざる得なくなり謝罪に追い込まれるなどということも出てきている。日本に限らず、最近世界中のそこかしこで同じような事が起こっている のは、オンライン上での情報拡散の早さにも比例しているのであろう。まあ、炎上しても決して謝罪も訂正すらしない大統領もいるが。
先日、日本に帰国した際に、大きなスーツケースを持ってあちこち移動した。混雑する都内の駅や電車にスーツケースを持ち込む際には、「すみません、すみません」と言いながら人混みをかき分けた。レンタルした携帯用Wifiを充電したまま新幹線に置き忘れてしまい、駅員達に助けてもらった時にも「ありがとうございました。色々お手数御かけして、申し訳ありませんでした。」というような言葉が自然に出てくる。新幹線の車内販売で物を買った際、販売員に「お釣りが細かいものしかございません。申し訳ございません。」と謝られた。日本にいると何故か自然と謝罪したりされたりが増える。
日本では電車が数分遅れと、「ご乗車の皆様には大変ご迷惑をおかけしております・・・」とアナウンスが流れるが、トロントでは地下鉄が遅れても、謝罪のアナウンスどころか、状況報告のアナウンスさえはっきりしないこともある。でもトロント市民はそんな故障や地下鉄が止まることなどには慣れっこになってしまっているので、「またか、しょうがないなぁ」とあきらめて、さっさと臨時バスに乗り換えるのが常だ。
カナダに戻ると反対に、ちょっとやそっとでは謝らないカナダ人気質のようなものに、気が付くとイライラしている自分がいる。銀行で口座移行の手続きを間違えられたり、店で会計が間違っていたり、約束の時間に業者が来なかったりしても、その理由を説明されても謝罪の言葉は無い事が多い。そんな時には、ちゃんと手続きが済み、業者が仕事をしてくれたらそれで良しと思うことに慣れっこになっている。
先日、買ったばかりの家具にヒビが入り家具屋にクレームを出すと、謝罪の言葉は一切なかったが、違うモデルのテーブルと交換してくれることになった。こちらが店に再度足を運んで新しいテーブルを選び直し、そのテーブルとの交換配達も待たなければならないことへの謝罪はなく、それでも「私達はお客様に満足していただきたいので!」と笑顔で鼻高々に対応されると、ちゃんと交換してくれてフレンドリーに対応してくれただけでもまあいいか、と自分に言い聞かせた。
仕事関係のセミナーで、「許し」について参加者各自の経験をシェアするディスカッションがあった。自分を傷つけた相手を許すことへの葛藤を話す人がいたり、先住民の歴史や日系カナダ人収容のへのカナダ政府の補償対応や公的謝罪の歴史などの話から、「謝罪の大切さ」に移った際に、日本の謝罪文化について言及したら、多くの参加者にとても興味を持たれた。上辺だけでも取りあえず謝ることを強いられがちな日本では、謝られた人は許したいという気持ちにならないと思う、と私は発言したのだが、なかなか謝罪しない北米の人々にしてみれば、そのようにすぐに「一応」謝罪するくせに、政治的な史実に関しては謝罪を拒み続ける日本人は不可解に思えるらしい。
日本の謝罪文化に違和感を覚えながらも、自分のカナダの生活を振り返ると、取りあえず「すみませんでした。」と言われたていたら、「まあ、しょうがないよね」いう気持ちになれた事も多々あったような気がする。現にこのような記事も書いているので、自分には日本的な感性が根強く宿っているのであろう。
*「炎上」とはFacebookやTwitter、ブログなどのSNSサイトのコメント機能を使って、火が勢いよく燃えるかのように好意的ではないコメントが集中的に投稿されること。 

 

不思議な日本の謝罪会見 2019/12
2019年も企業や著名人に様々な不祥事があった。米国出身のタレントで日本の文化の特異性をネタに活躍の場を広げてきた厚切りジェイソンさんに、日本特有の謝罪文化はどのように映るのかを聞いた。
――米国出身のジェイソンさんは、不祥事が起きると謝罪会見が大きな話題になる日本の文化をどう見ていますか。
厚切りジェイソンさん(以下、ジェイソン) 日本に10年近く住んでいるので、日本文化に慣れてきている部分はあります。でも、はっきり言って、謝罪会見とかには興味はないかな。だって、僕自身がその被害者ではないし、ましてや加害者でもない。つまり、問題に一切かかわっていない。なので、自分に関係ない謝罪に対して興味が湧かないというのが本音です。日本の謝罪会見では、偉い人が並んで頭を下げている印象があります。ただ、実際に被害を受けたわけではない人を前に謝罪をしても、意味があるのかな。誰に対して何を謝っているのかわかりませんね。形を大事にするあまり、誠意を感じない。謝罪が「形式化」しているんじゃないかな。
――米国ではどうでしょうか。
ジェイソン そもそも謝罪会見なんてほとんどしませんね。加害者が被害者に対して直接謝ることはもちろんありますよ。ただ、社会に対して謝るということは聞いたことがない。意味がないですから。一般社会だけでなくメディアにも問題はあると思いますが、会見というコンテンツを期待している人が日本には多いんでしょうね。「お騒がせして申し訳ありません」と謝りますよね。でも、そもそも本当にそんなに騒がせてしまったのか。不貞行為なんて、もちろん良いことではないですよ。ただ、関係者以外がそこまで騒ぐ社会にこそ、問題があるのではないでしょうか。ただし芸能人は別です。自分自身が商品で、それを消費しているのが一般社会の人たちだから、お客さんである社会に向けて、会見をする必要性はあるかもしれませんね。
――ジェイソンさんはIT(情報技術)企業の役員も務めていらっしゃいます。これまでも米国ではGEヘルスケアなど企業に勤めた経験もあるそうですが、企業における謝罪の違いは日米でありますか。
ジェイソン うーん、正直わからない。僕自身が被害者にも加害者にもなったことがないから。ただ、もし何かが起きれば、加害者が被害者に対して直接謝罪すべきだというのが僕の考えです。
――芸能活動をされていて、「炎上」などのご経験はないですか。
ジェイソン 炎上とまではいかないですが、一度経験はあります。あるテレビ番組で、すし職人を養成する学校を取り上げたときのことです。若い学生は基礎から学びながらも同時にすしを作れる環境が整った学校でした。ところが、すし職人の業界では徒弟制度が残っており、最初はシャリも触らせてもらえない時期があるとか。スキルを磨くうえで、早い時期からすしを作る練習をした方がいいという意見を言ったところ、インターネット上で批判的な意見を多くもらいました。でも、僕の意見は間違っているとは思いません。野球も同じ。1年生には球拾いしかさせない学校もあるでしょ。その選手がたとえ3年生で急成長したとしても、1年生からしっかりと練習していたらもっと活躍する選手になっていたと考えるのが普通でしょう。僕の意見は論理的に考えても間違っているとは思わない。だから謝罪はしません。
――ネットでの炎上も、企業経営者たちを悩ませる種です。「バイトテロ」など、アルバイトの不適切な投稿動画で企業が釈明に追われることも少なくありません。
ジェイソン バイトの不祥事に対して、運営企業が謝罪するというのも、米国では考えられない。バイトをクビにして、そこで終わり。責任は不適切な動画を投稿したバイトにあるのだから。そういう意味で、日本の謝罪には責任がどこにあるのかがわからない場合が多いんじゃないかな。「お騒がせして申し訳ありません」「誤解させてしまいました」などの謝罪コメントは、謝っているようだけれど本質ではありません。責任が誰にあって、どう責任を取るのかという中身がない。謝罪はしても責任は取らない。これでは意味がないですよ。時間の無駄です。謝罪会見は日本社会の中で、次に進むための一つの「段取り」にすぎません。
――日本の「謝罪文化」は幼少期から醸成されるものかもしれません。ジェイソンさんには3人のお子さんがいらっしゃいます。子供に対する教育で、謝罪に関する認識の違いなど日米で差はあるでしょうか。
ジェイソン ありますね。例えば子供がケンカするなどもめたとき。日本はすぐに親が出てきます。それも子供がいないところで、裏で親が「すみませんでした」と謝りがちです。でも、これって何の意味があるんですかね。子供は自分が悪いことをしたということにさえ気づかないかもしれない。僕の場合は、子供に自分で謝りに行かせます。何が悪かったのか。どうすべきだったのかを自分自身に考えさせるべきです。誰が誰に、何のために謝っているのか。その境界や責任の所在が曖昧になっている中での謝罪は、誰のためにもなりませんよ。

 

無罪主張「残念でならない」 遺族の夫、不信感にじませ―池袋暴走 2020/10
東京・池袋で昨年4月、乗用車が暴走して松永真菜さん=当時(31)=と娘の莉子ちゃん=同(3)=が死亡した事故で、真菜さんの夫拓也さん(34)が8日、初公判終了後に東京都内で記者会見した。飯塚幸三被告(89)が無罪を主張したことについて「予想していたとはいえ、残念でならない」と述べ、「2人の命や遺族と向き合っているようには思えなかった」と不信感をにじませた。
事故の原因は車の異常だとして、自身の過失を否定した飯塚被告。謝罪の言葉も口にしたが、拓也さんは「車の不具合を主張するなら、別に謝ってほしくない。謝るなら、判決が出て本当に申し訳ないと思ったときでいい」と語った。真菜さんの父、上原義教さん(63)も「うわべだけの謝罪はあってはならない」と憤った。
拓也さんは上原さんらと共に被害者参加制度を用いて裁判に参加。「つらい思いもするだろうが、できることはすべてやりたい。加害者の口から真実を聞くことが、遺族の心の回復や再発防止の議論にもつながる」と改めて表明した。
被告と初めて対面し「むなしさ、悲しさ、怒りなどいろいろな感情が入り乱れた」といい、「(被告には)実刑で、2人に向き合う時間と場所が与えられるべきだ」と訴えた。

 

安倍“謝罪”会見後の醜態 フリー記者を無視し急ぎ足で去る 2020/12
24日、「桜を見る会」前夜祭事件や118回もの虚偽答弁について、衆院議員会館内で“謝罪”会見を開いた安倍前首相。「深く、深くお詫び申し上げる」「政治責任は極めて重い」「信頼回復に努力する」と反省の弁を繰り返したものの、うわべだけ。舞台裏は見え透いた三文芝居のような会見だった。
24日午後の「安倍氏夕方会見」の一報を受け、日刊ゲンダイ記者は永田町に向かった。ところが、安倍事務所が発した案内は、自民党を担当する記者クラブ「平河クラブ」所属メディアに限定し、用意されたのもたった24席のみ。日刊ゲンダイやフリーの記者は排除されたのだ。
記者は狭い会見場で自民党スタッフに入場を懇願。「首相会見では本紙が所属する雑誌協会にも枠があり、参加できることもある」と告げると、スタッフは「そうなんですか。コロナ対策もあって、安倍事務所から平河クラブオンリーと指示されている。安倍事務所に聞いてください。ここにはいませんが」と取り付く島もない。会見後、安倍事務所を訪ねると、ファクスでの質問を求められた。言う通りに送ったものの、期限までに回答はなかった。
クラブ限定はコロナ対策を盾にしたメディア選別だ。会見が行われた第3会議室は定員42人の小さな部屋で、会館内にはもっと大きな部屋がいくらでもある。わざわざ小部屋を選んだとしか思えない。SNS上でも<質問者を選別して説明責任を果たしたなんてちゃんちゃらおかしい>との批判が上がっている。
会見でも「もっと広い部屋でより開かれた会見であっていいのでは」との質問が出たが、安倍は「できる限りご質問に答えさせていただきたい」とはぐらかす。参加できない記者が大勢いるのに、つくづくテキトーな男だ。
さらに、会見時間にも仕掛けがあった。
この日の司会はなぜか、安倍政権時代の内閣広報官だった長谷川栄一氏。安倍氏の首相在任中は「この後の予定があります」として、よく会見を打ち切ったものだが、暇な前首相にその言い訳は使えない。そこで長谷川氏は「会議室の予約が午後7時までです」と繰り返し、打ち切りをもくろんだのだ。
場外のフリー記者からは「遅くまで予約すればいいだけだ」との声が上がった。
会見終了後、参加できなかったフリー記者らが安倍氏を追いかけ、「100回以上ウソをついて議員辞職しないのか」「フリーは排除ですか」「買収ではないのか」などと質問を飛ばしたが、安倍氏はガン無視。振り向きもせず、急ぎ足で立ち去った。
こんなシャンシャン会見で国民は納得しない。会見中の午後6時半に「#安倍晋三の不起訴処分に抗議します」のツイートは17万件を突破。オンライン署名サイト「Change.org」では、桜問題の徹底捜査を東京地検に求める署名が10万件を超えた。
アンジャッシュ・渡部建の謝罪会見は1時間40分。闇営業問題で吉本興業の岡本昭彦社長は5時間超の会見をした。安倍前首相は日刊ゲンダイやフリーを入れて徹底的に説明したらどうだ。

 

渡部建「答えられません」連発会見でテレビ復帰が絶望的に 2020/12
約1時間半に及ぶ謝罪会見を行ったお笑いコンビ「アンジャッシュ」渡部建。6月に複数の女性との不倫が報じられての会見だったが、なぜこの時期に…という質問には終始、歯切れの悪い答えだった。
「大晦日に行われる『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』(日本テレビ系)の「絶対に笑ってはいけない」シリーズで復帰すると、ニュースサイト「週刊女性PRIME」が11月16日に報じた。これに「スポーツニッポン」が追随し、18日にすでに極秘収録済み…と伝えた。するとネット上では、《見たくない》《渡部はムリ》《何でもアリでは済まされない》などと、大炎上しましたね」(スポーツ紙記者)
復帰報道が出ての世間の厳しい声に押されての会見かと思われたが、渡部はこれを否定。あくまで、復帰ありきの会見ではないことを強調した。
だが『笑ってはいけない』の収録に参加したかどうかの質問になると「答えられません」の一点ばり。あくまで謝罪を優先しており、仕事復帰とは無関係と話していた。収録に参加したことは否定せず。あまりに矛盾している説明に、会場は白けムードが漂っていた。
ベテラン芸能レポーターの石川敏男氏も今回の会見を「大失敗」と断じたうえで、こう話す。
「具体的な話をせずにただ、謝るばかり。テレビ局がどうこうではなく、収録に参加したかどうかは話さなくてはならないだろう。こんな話しかできないのであれば、騒動1年後くらいに開けばよかった。相方の児島一哉さんに差をつかられているから、早い復帰を焦ったとしか思えないよ。この失敗会見は夫婦関係にも影を落とすのでは」と、いったんは許すことにした妻・佐々木希との離婚危機が再燃しかねないと指摘する。
「まさにレポーターさんたちに“フルボッコ”にされた姿をカメラの前にさらしたのは良かった。ですが、肝心の謝罪がまったく響いてこなかった。これでは、リスクを取ってまで彼を起用しようと思うテレビマンはいないでしょう。すでに収録されている『笑ってはいけない』も、文字通りお蔵入りになるのでは……」(テレビ局関係者)
会見の直前に『笑ってはいけない』に出演している「ダウンタウン」松本人志は自身のTwitterで、《オレと渡部の共演は当分無いと思うよ〜。》と三行半とも思える言葉を投稿。大御所芸人に見放されては、テレビ復帰もままならないだろう。
『笑ってはいけない』の収録に参加したかどうかはともかく、すでに仕事をスタートさせたのかどうかも明らかにできないのはマイナスだろう。素直に「黙ってテレビ復帰しようと思っていたのですが、あまりのバッシングの多さに慌てて会見を開きました」と話した方が、恥はかいても、どれだけイメージが良かったことか。
会見で1つの誤魔化しは、すべての言葉が誤魔化しに聞こえてしまう。不倫相手への謝罪や妻への誠意も、どこか上辺だけに思えてしまった。
芸能人として“失うモノは何もない”ほどの崖っぷちで臨んだ会見だったはず。なのに、彼はいったい何を守ろうとしていたのだろうか――。

 

森会長が謝罪、逆ギレ、強弁で逆効果 辞任は否定、引導渡せないのか 2/4
「反省」の意図が伝わらないどころか、火に油を注ぐ結果になったのではないか。東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長(83)は、日本オリンピック委員会(JOC)評議員会(3日)で「女性がたくさん入っている理事会は、時間がかかる」などと女性蔑視とも取れる発言を国内外で批判され、4日午後に謝罪会見を開いた。
「五輪精神に反する不適切な表現だったと深く反省しています。発言を訂正、撤回し、不愉快な思いをした方に深くお詫び申し上げます」と謝罪。一方で、辞任する考えはなく「世界のアスリートを受け入れる大会が無事、開催できるように、引き続き努力してまいります」と述べた。
だが会見の生中継を見ると、文章を読み上げた後は質問する報道陣に対していら立ち、開き直って「先ほど発言を撤回した」「場所をわきまえて発言したつもり」と強弁も。不遜な態度で、謝罪の言葉もうわべだけになり、舌禍を騒がれた総理時代と何ら変わらない印象だ。国際オリンピック委員会(IOC)が推進しているジェンダー・バランスの理解も感じられなかった。
懲りない人だ。2日も自民党スポーツ立国調査会の会合で「コロナがどういう形であろうと必ずやる」と力説して、物議を醸した。コロナ禍で10都府県の緊急事態宣言の延長が決まり、国内で五輪開催に否定的な意見がふれている時期に、国民感情を逆なでにするようなもの。さらに女性差別と受け取れる不適切発言とあって、もはや“リップサービス”では済まされない事態となった。マスコミも会場にいる公の場で堂々と語るのだから、五輪運営のトップとして資質、そして物事の分別を問われても仕方ない。
世界中が、不快感を示している。森会長が高齢で、現代に見合った認識を欠いていると指摘した海外メディアもある。国内以上に、海外の批判が強まっている。東京五輪の開催可否が注視されている時期とあって、IOCでも森会長の相次ぐ失言を問題視する声は多い。
この日の会見で「不適格」という見方は、さらに強まったかもしれない。昨日は、密を避けるため聖火ランナーを務める人気タレントは「田んぼを走ればいい」とも語り、お笑いのロンドンブーツ1号2号・田村淳(47)がその発言に同意しかねると聖火ランナー辞退している。
東京五輪の開会式(7月23日)まで半年を切った段階での「暴言」。ある国会議員は、この日午前「今回は謝罪しても、辞任を求める声は続くのではないか」と話していた。だが83歳の元総理をいさめて、引導を渡す人間がいないのも事実。昨日のJOC評議員会で、その発言に笑いも起きていたという。小池百合子都知事は、苦笑いで「女性の話の長さは人によります」と言うにとどまった。
以前、東京・早稲田の飲食店で五輪関係者と一緒に同席した際、森会長は肺がんで闘病していると明かして「大会組織委員会が軌道に乗ったら、私は退任します。いつまでも会長職にすがっていない」と笑っていた。その後、2年半前に会うと画期的に薬が効いたと語り「(会長職は)私でなければ務まらない」と意欲的だった。
確かに森会長の政治力、人脈、スポンサー契約などの集金力は必要だろうが、表舞台の看板として「わきまえていない」のは明白(3日の会見で、大会組織委員会の女性の方は「わきまえている」とも発言して、SNSで話題になっていた)。コロナ禍の緊急事態に「荷が重い」のも世界中に知れ渡った。このままでは、五輪開催国としてガバナンスを疑われ、信用を失いかねない。辞任を求める声は強まるばかり。民意が届く組織であってほしい。 
 
 

 

 

 

   
 
 
 

 



2021/2