「アベノマスク」の錯覚 

「アベノマスク」
毎日のテレビ 安倍総理のマスク顔

錯覚
マスクからはみだす 総理の大きな顔
総理の鼻先・顎がはみだす 小さなマスク
どちらに見えますか
 


マスクメーカー情報日本ミャンマー協会(JMA)・・・
政治家の資質 / 適性とスキル資質リーダーの資質涙と体験問題は雇用慣行職業としての政治1職業としての政治2資質問題議員平成の後白河法皇院政の歴史後白河天皇権力を失った院政・・・
 
 
 

 

全国民へ配られる布製マスク
小ぶりなマスク
総理以外 どの大臣も市販マスク着用
 
 

 

●アベノマスク 不安は覆えず? 1枚200円 200億円超必要 4/3
政府が全戸に二枚ずつ配布する再利用可能な布マスクは再来週から約五千万世帯に郵送される。菅義偉(すがよしひで)官房長官は二日の記者会見で、予算額は一枚当たり二百円程度と明らかにした。送料などを合わせれば経費はマスク代の計二百億円を上回る計算だ。歓迎の声がある一方、家族の人数に足りないとの不満や費用対効果への疑問も出ている。
安倍晋三首相は二日の衆院本会議で、布マスク配布について「急拡大するマスク需要の抑制を図り、国民の不安解消に少しでも資するよう速やかに取り組みたい」と強調した。
配布の背景には、都市部で感染経路を追えない症例が相次ぎ、誰でも感染源になり得る危機感がある。政府の専門家会議は「無症状または軽症者が、気付かずに感染を広める事例が多く見られる」と指摘。東京都の小池百合子知事も「若い人は行動範囲が広く、無症状のまま行動することもある」と懸念する。
全国で使い捨てマスクの品薄が続く中、布マスクの配布で国民の不満と不安を和らげたい思惑もある。
例年、この時期の国内のマスク需要は月約五億枚。政府がメーカーに補助金を出し、四月には月七億枚の供給が可能になったが、需要に追いつかない。アイリスオーヤマ(仙台市)は中国の工場をフル稼働させ、月八千万枚のマスクを輸入しているが、自社の通販サイトですぐ完売に。政権幹部は「マスクはどこに行っているのか」と困惑する。
布マスクの配布には与野党から批判がある。自民党の後藤田正純衆院議員はフェイスブックで「切迫した医療現場でなく、全戸に? 家にいたら、マスクいらんやろ?」と疑問を投げかけ、立憲民主党の松平浩一衆院議員は本会議で「思い付きの場当たり的対応の極みだ」と非難した。
政府は当初、感染の疑いがある人を中心にマスク着用を求めたが、東京都などで急速なまん延の懸念が高まり、国民に積極的な着用を促す方針に転換。首相は三月三十一日から官邸の会議で布マスクを着けるようになった。 
 
 

 

●アベノマスク配布466億円 想定外の額にどよめき 4/10
安倍政権が、新型コロナウイルス対策として全世帯に布マスク2枚を配る経費が、何と466億円と見積もられていることが9日、分かった。これまでは200億円程度とみられており、実際は2倍以上の費用がかかることになる。国民のマスク不足はいっこうに解消されない中、「アベノマスク」とやゆされる政策が、その額に見合ったものであるのか、議論を呼びそうだ。
アベノマスクにかかる諸費用の額は、9日開かれた野党会派の会合で明らかになった。政府から総額が示されると、想定外の額に「えー」などと、どよめきが起こった
政府側の説明によると、配布には、公表済みの20年度補正予算案で明示していた233億円に加えて、20年度当初予算の予備費からも233億円を充てる。枚数については、余裕を見込んで1億3000万枚と想定しているという。
マスクの単価は1枚200円程度と受け止められ、事業費も200億円程度とみられていた。しかし立憲民主党の蓮舫参院幹事長に対する政府の説明では、マスクは1枚260円で買い上げ、費用は338億円になる。残りは日本郵政の配送費やパッケージ代などという。
蓮舫氏は自身のツイッターで「マスク生産可能工場への設備投資や支援などに回した方が現実的」と指摘。「まだ間に合う。見直すべき」と、ただしている。
マスクをめぐっては菅義偉官房長官が、この日の会見で「迷言」を展開。配布する1億枚が洗濯によって平均20回使われれば「使い捨てマスク20億枚分の消費を抑えられる」というナゾの試算を披露。野党は緊急経済対策が不十分だとして「そんなことをやっている場合か」と反発している。
アベノマスクは来週以降、東京など感染者の多い地域から配布が始まる。菅氏は会見で、多くの人にマスクをしてもらうことや医療機関などに必要な量を届ける狙いに触れ「代替できる手段はない」と語ったが、果たして…?。  
 
 

 

●花見の次は団体旅行 昭恵夫人がコロナ会見翌日にお出かけ 4/16
3月下旬に知人と私的な「桜を見る会」をしたと報じられて、世間を仰天させた安倍首相の昭恵夫人。3月15日にはヒマを持て余し、団体のツアー客と共に大分県を旅行していたという。週刊文春が15日ウェブサイトで報じた。
前日14日には、安倍首相が記者会見して、国民にコロナウイルス対策の重要性を訴えたばかり。そのタイミングで、昭恵夫人は約50人の団体ツアーと共に同県の宇佐神宮を参拝していた。ノーマスクで他の客と距離を取ることもなく、警戒しているそぶりはなかった。ツアーの主催者に「コロナで予定が全部なくなったので、どこかへ行こうと思っていた」と能天気に語って参加を希望し、参拝に合流したという。 
●「洗ったら縮んだ」…466億円投じても非難される「アベノマスク」 4/16 
日本政府が新型コロナウイルス感染予防策として全世帯に配布中の布マスクに対する不満があふれていると毎日新聞が16日に報道した。
日本の安倍晋三首相は1日、洗って繰り返し使える布マスクを全国5000万世帯に2枚ずつ配布すると明らかにした。マスク不足にともなう国民の不安を解消するための対策だった。日本政府はマスクを調達し配布するために466億円を投じた。
しかし日本国民は「アベノマスク」を酷評している。報道によると介護施設と福祉施設などに優先支給された布マスクを使った人々は「マスクが小さい」「話すとずれて使いにくい」「耳がこすれて痛い」などと不満を提起している。
特に配布された布マスクは男性には小さく、一度洗えば縮んで再使用できないなど活用性が落ちるという共通した評価が出てきた。
実際に共同通信が10〜13日に日本の有権者を対象に実施した世論調査で、回答者の76.2%が安倍首相の布マスク支給方針を否定的に評価すると答えた。肯定的に評価した回答者は21.6%にとどまった。
一部では日本政府が配送料をかけてまですべての世帯に布マスクを支給するより、だれでも簡単に近くでマスクを買えるように支援することが必要だと提案した。
一方、安倍首相に向けられた日本国民の非難世論はさらに強まっている。この日安倍首相夫人の安倍昭恵氏が先月に団体旅行ツアーに参加した事実が明らかになり、再度非難に巻き込まれた。昭恵夫人のツアー参加時期は日本政府が新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため外出自粛を呼び掛けた時だっただけに世論の批判は続くものとみられる。  
●あす以降“アベノマスク”配布へ 費用466億円  4/16
新型コロナウイルス感染拡大の防止策として、政府がすべての世帯に2枚ずつ配布する布製マスクが、東京都内の郵便局に到着した。
世田谷区内の郵便局には、16日午前10時ごろ、封筒に入った布製マスクおよそ6万通が届いた。日本郵便は、17日以降、世田谷区と港区から順次、各世帯へ配達する。郵便局の担当者「しっかりと間違いのないようにお届けしたい」
政府は、すでに成立している2020年度当初予算の予備費と、これから審議される補正予算案に盛り込まれた分をあわせ、466億円を投じて全世帯に配る方針。 
 
 

 

●「アベノマスク」届いた人たちは・・・ 4/17
政府が目指す全国すべての世帯への布マスクの配布。まずは東京で配達が始まりました。
布マスクの配達が始まったのは、東京の中でも新型コロナウイルスの感染者数が多い世田谷区と港区です。マスクは郵便局員が配達し、各家庭のポストに投函されます。世田谷区では、およそ50万世帯分のマスクが配達されますが、全ての家庭に届くまでおよそ1週間かかるということです。
布マスクは各世帯2枚ずつ配布されますが、かかる費用はおよそ466億円で、費用対効果を疑問視する声もあがっています。5月中旬までには全国の家庭へマスクが届く予定です。
一方、政府のマスク配布に便乗して、マスクの「送りつけ商法」が増える可能性があるとして、消費者庁が注意を呼びかけています。消費者庁によりますと、マスクなどが一方的に送りつけられて高額な代金などを請求されたという相談が今月13日までに全国でおよそ150件にのぼっているということです。消毒液やガーゼを送りつける場合もあるということですが、相談の9割はマスクだということです。 
●アベノマスク製造元が判明!社長と安倍の怪しいお金の関係とは? 4/17
ついにアベノマスク生産したメーカーが判明。小さく、稚拙な白地のガーゼ・「妊婦が触れては行けないもの」という洒落にならない仕様が発覚して配布中止となるも肝心の「メーカー名、製造元の記載がない」という何故か隠蔽していましたがついに政府は社民党の問い合わせに対して重い腰を上げてメーカー名を回答。超有名メーカー中に何故御社が?という
それでも人の噂は広がるもので「あのメーカーじゃないか」と既に特定されてきていますので紹介します。
アベノマスク製造メーカー判明も・・。
日経ビジネスではアベノマスクを制作しているのは興和株式会社だと断定していましたが。
「話題の「アベノマスク」要請を受けて布製マスクを増産しているのが、医薬品メーカーの興和(名古屋・中区)だ。ガーゼを15枚重ねた仕様のマスクで、3月には月産1500万枚、4月には同5000万枚規模の生産を目指すとしている。同社は不織布マスクも国内外で生産しているが、こちらも品薄に対応すべく月産1200万枚規模の増産体制を敷いている。」
しかし、先日厚労省は社民党への回答によってアベノマスクは90億円を支払って興和株式会社・伊藤忠商事。マツオカコーポレーションの3社と判明。
当初政府と契約していたXinsやハタ工業株式会社のマスクはどうなったのかなどは不明なままだ。しっかりと生産協力しているのなら医療施設優先で供給しているとか言ってくれれば国民も納得するのにいまだ品薄なままでは90億つかってそれかよ。当初の何百億使っていろんな企業にお願いしていたのはどうなったのか?なども紹介して欲しいものですが・・・。
あの雑な布マスクを作ったのはどこだ?
興和株式会社はコンビニでも見かける全て日本で作られているマスクで品質も最高峰。このメーカーがあんな雑なマスクを作るでしょうか?
というのもこの3メーカーのうち興和株式会社だけが国内でマスク生産をしているにもかかわらず残る2社だけは中国製造だからです。
以前このXinsのマスク購入ページに中華製で急ぎで作っているからこんな付着物あるけどごめん。気にしないでって記載されていたのが話題になっていますが。中華製品ってこんな感じです。
アベノマスクの使い勝手の悪さから興和株式会社ではありえないと判断できないでしょうか。その他の伊藤忠とマツオカは外注先に丸投げしているだけなので、全体的な品質の低さからアベノマスクは伊藤忠とマツオカのマスクではないか?と推測しますが実際はあの低品質なマスクを作ったのは○○メーカーか政府が確実な答えを言わない限り特定は難しそうです。
メーカー名を隠すのは何故?
諸説あります、466億円投じて作り上げたアベノマスクの製造元メーカー名を隠していますが「数々の政治家とメーカーの癒着」とお金の問題によってまた安倍首相が懇意にしているメーカーに批判がいかないようにしているのでは?とも言われています。
もう一つはアベノマスクの批判が強くそのままメーカー名が記載されれば抗議の電話が鳴り響くのは目に見えているからでしょうね。
本当に466億円の価値がない無駄な政策。公明(創価学会)に見放されそうだったから一律10万円にした意思の弱さ。全てにおいて悪手続きの安倍首相が唯一完璧だった対応が「マスクのメーカー名は隠そう」だったのは残念ですね。
ネットの反応は?阿部と社長の関係?
厚労省「どのメーカーに発注したのかは答えられない」 血税466億円が行方不明に / 2分問い合わせだの取材だの、果ては意味不明なクレームが殺到してメーカーさんの通常業務ができなくなるからだよ。 / 勝手に送りつけられるの、迷惑商法だから。 どこのメーカーが作ったの? ちゃんと医学的または科学的効果技術で裏打ちされてるの? どこの誰がいつ、どういった経緯でそのメーカーを選定し、発注をかけたのか、 大人であれば、知りたいよ? 466億円の行方、知りたい。 / メーカーなんか公開したらマスゴミや一般市民様が電凸してくるに決まってんじゃん?馬鹿でもわかると思うよ / これ安倍政権を叩いているつもりだろうか、小さいだカッコ悪いだ言われているメーカーが一番傷付く案件。 / ひた隠しが嫌なんじゃなくて、このマスク事業が本当に466億円にふさわしいかの判断を隠していることがおかしい。 税金の使い道を明かさないのはおかしい。 / メーカー名、パッケージに書いておいたら日本中にその名を知らせるチャンスだったのにねぇ。あんな粗悪品じゃ、名前を知られてそのあとどうなるかは分からんけど。 / これはきちんとメーカー側からの説明も欲しい。サイズの小さな給食マスクのために466億って馬鹿にするにも程がある / アベノマスク作ったメーカーを国が隠すのはなんで?? やましい事でもあるの? 安倍の親戚とか 昭恵の親戚とか 麻生の親戚とか いや、オトモダチとか? 
以上のように擁護する人もいますが、それでも466億円も掛けてその程度のマスクしか作れないのか?隠す理由も曖昧だと火に油を注ぐ結果になっています。 
 
 

 

●「アベノマスク」都内で配布始まり、賛否の声。「素材しっかり」「少し小さい」 4/18
政府が全世帯に配る布マスクの配布が17日朝、全国に先駆けて東京都で始まり、一部の家庭の郵便受けに届けられた。安倍晋三首相の重点施策で「アベノマスク」と呼ばれる。費用は約466億円。
世田谷区の主婦山口ヨシ子さん(78)は「思っていたよりもしっかりした素材。ちゃんと包装もされてて安心しました」と話す。自宅にあるマスクは10枚ほど。「なくなれば買い物の時にどうしようかと不安だった。とても助かります」
一方、美容室で働く酒井豊子さん(63)は「少し小さいと思う。長時間動いてたらずれてきて、鼻が出ちゃうのでは」。自宅には娘の分も合わせて40枚ほど予備があるという。「急ぎでマスクが欲しいわけではない。医療現場や足りない人に多く配れるように、お金を使ってほしかった」
厚生労働省は、5月中に全都道府県に配送を終える予定としている。配布状況を示すサイトでは17日午後8時時点で、東京都以外の道府県はいずれも「準備中」となっている。 
●466億円かけたアベノマスク 厚労省がメーカーヒタ隠しの怪 4/18
17日から各家庭に2枚ずつ“アベノマスク”の配布が始まった。非難ごうごうのニュースをそらすためか、安倍首相は16日、一律10万円給付に加え、緊急事態宣言の全国拡大と“ちゃぶ台返し”を連発。肝いり策の悪評を封じたい思惑は、厚労省の不自然な対応からもうかがい知れる。厚労省は、なぜか発注先や製造元について口を閉ざすのだ。
厚労省は〈布マスクの全戸配布に関するQ&A〉なる専用サイトを開設したものの、製品情報はどこにも記載がない。どこのメーカーなのか、どんな製品が家庭に届くのか。同省のマスク等物資対策班に聞いた。
――(アベノマスクは)どのメーカーに発注したのか。
「公表していないので、現時点ではお答えできません」
――何社かということも答えられない?
「具体的にはお答えできませんが、複数メーカーに頼んでいます」
――国内外のメーカー?
「詳細は控えますが、国内メーカーが海外工場で生産する場合もあります」
――家庭によって、品質の異なるものが届く恐れはないのか?
「各家庭に1種類のものが届くよう予定しています」
――メーカーに一定の規格での生産を頼んでいるということ?
「詳しい中身は把握していませんが、家庭ごとに品質がバラバラにならないようにしています」
まるで、奥歯にモノが挟まったような言い回し。具体的なメーカー名については、終始「答えられない」の一点張りだった。
すでにアベノマスクを受け取った介護施設や障害者施設などの職員からは、「小さくて鼻が出る」「話すとずれる」と戸惑いの声が噴出している。計466億円もの税金をつぎ込んだ揚げ句に、“欠陥品”が家庭にも届く可能性があるのに、厚労省は製品情報を隠蔽する気なのか。
ちなみに、厚労省がわざわざ設置した〈布マスクの全戸配布に関する電話相談窓口〉に、メーカーを問い合わせると、「複数の国内メーカーに発注しているとだけ聞いています」と答えた。
466億円はいったいどこに流れるのか――。政府はきちんと国民に説明する義務がある。  
 
 

 

●政府、アベノマスク製造元の公表を頑なに拒否 4/20
先週末から順次配送されているアベノマスクこと、小さな布マスク。届いた人からは、「顎を隠せば鼻が出るし、鼻を隠せば顎が出る」「推奨されている通りに洗ったのに、洗えば洗うほど縮むので、眼帯になってしまうのでは…」と困惑とも皮肉とも取れる投稿がネット上に相次いでいるが、そのサイズ感や性能だけではなく、品質に対する疑問もあがっている。
朝日新聞、読売新聞などが、妊婦に配布したアベノマスクに変色しているものや異物が混入しているものがあったと報じたのだ。
読売新聞によると、厚生労働省が18日、国内全戸への発送に先立って配布された妊婦向けの布マスクの一部に汚れが付着するなどの不良品が見つかったと発表。学校や介護施設等への発送分でも虫や髪の毛が混入されているものが見つかり、17日時点で80市区町村から1901件の報告があったという。
厚生労働省は、「一般世帯に配送した布マスクは、目視による点検を徹底しているため、不良品が配られる可能性は減っている」としているが、不良品が見つかった場合、居住自治体に連絡すれば、新品のものと交換するとコメントしている。
これに対しネットからは、「勝手に税金を使い、国民に欠陥品を大量に寄越す政府とか終わってるな」「いったん回収しろ。リコールだ、リコール。国民に危険な粗悪品つかませやがって。口や鼻腔に接触するデリケートな物なのに」「466億円かけた『地獄のアベノマスク』だな」「髪の毛混入、虫混入、シミあり、変色……。気持ち悪くて使えないアベノマスク。マスクも総理もロクなもんじゃない」などと更なる批判が巻き起こっている。
そもそもこのアベノマスク、発注先や製造元のメーカーなどの製品情報を政府がひた隠しにしていることでも疑問の声が噴出している。日刊ゲンダイが厚生労働省や布マスクの全戸配布に関する電話相談窓口〉に問い合わせるも、「公表していない」と口を閉ざし、立憲民主党の蓮舫議員からの問い合わせにも応じていない。
「何度も厚労省に確認していますが、いまだに返事が来ません。発注先が何故公表できないのでしょうか。 — 蓮舫 ・ 立憲民主党 」
製品情報が公にされていないことについても、「どこの誰がどんな場所でどんな材料を使って作ったかも分からなくて、おまけに虫や髪の毛や汚れが付いてるようなものを、口や鼻を守るために使うのはイヤだわ。そもそも税金使って作ってるのに、何で納税者の私たちに必要な情報が開示されない訳?」「縮み志向の強いアベノマスクに変色や髪の毛、虫の混入。まずメーカーを公表して原価を明らかにしてほしいね。460億円もの税金を使ったんだから当然の義務」などといった声がネットに続々と投稿されているが、布マスクの配布をめぐり、安倍政権への不信感はますます強まっていきそうだ。  
 
 

 

●異物混入…アベノマスクに批判続く 製造社名は来月公表 4/21
新型コロナウイルスの感染防止策として、政府が配布する布マスクへの批判が続いている。全世帯向け配布に先立って妊婦用に配られた布マスクには一部で異物混入が発覚。今後は全世帯への配布が本格化することから、政府はメーカーに生産体制の見直しや検品体制の強化を要請。野党は国会などで追及を強めている。
妊婦用の布マスクについて菅義偉官房長官は20日の記者会見で「配布にあたり異物の混入などがないかの確認をお願いしている。今後同様の事案が発生しないよう厚生労働省で適切に対応していきたい」と釈明した。
厚労省によると、今月14日から妊婦用に配った布マスク計50万枚のうち、17日時点で変色や異物混入などの報告が80市町村から計1901件あった。政府が配布する布マスクは、国内メーカーの4社が製造。企業名は現在は明らかにしていないが、5月までに同省のホームページで公表するという。業界関係者によると、4社の中にはミャンマーの工場で生産している会社もあるという。
一方、全世帯に2枚ずつ布マスクを配布する事業も17日から始まっている。経済産業省出身の官邸官僚による進言を受け、安倍晋三首相が突然表明し、「アベノマスク」とも呼ばれる。ただ、投じる予算は約466億円。費用対効果などに疑問の声が上がっている。・・・ 
●466億円“アベノマスク”の企業名と契約金額が明らかに 4/21
布マスク2枚を全戸に配布する"アベノマスク"。466億円もの税金をかけながら天下の愚策と極めて評判が悪いが、この事業の内訳の一部が明らかになった。社民党・福島瑞穂参議院議員が4月10日が厚生労働省マスク班に発注先と契約内容を質問したところ、4月21日に同省よりFAXで回答があったのだ。
回答の内訳は、次の企業名と契約金額だ。
   興和株式会社 約54.8億円
   伊藤忠商事 約28.5億円
   株式会社マツオカコーポレーション 約7.6億円
合計で90.9億円しかないが、厚生労働省マスク班は下記のように回答を添えている。
〈マスク枚数を開示した場合、契約金額との関係で、マスクの単価を計算できることとなり、今後の布マスクの調達や企業活動への影響(他の取引先との関係)を及ぼすおそれがあるため、回答は差し控えさせていただきます。〉 〈ご回答が遅れましたこと、深くお詫び申し上げます〉
厚労省マスク班の回答に対し福島議員は、「466億円との差がありすぎます。いったいどういうことなのか。4社といっていたのに3社しか出てきておらず、大きな部分がわかりません。公共調達ルールで93日以内に明らかにしなければならないのだから早く言ってくれればいいのに。差額分は追及していく」と話した。 
●アレクの「アベノマスク品質レビュー」が大好評 4/21
モデルでタレントのアレクが4月18日、自身の公式ブログを更新し、政府から各世帯に2枚ずつ配布された布マスクの感想を綴っている。
アレクは「布マスク届いた!!感想」と題したエントリーにおいて、「アベのマックス!!アベのハルカス!!アベのマスク!」と興奮しながら、「なんだこの優しい着心地 給食マスク思い出すな ありがとうございます」と布タイプならではの肌ざわりを絶賛。アベノマスクについてはサイズが小さすぎるとして一部から批判の声も上がっていたが、アップされた写真にはアレクの鼻と口がしっかりと覆われた状態で着用され、ウイルス対策として十分な役割を果たすであろうことが確認できる。
「サイズの他にも、各世帯あたり2枚の配布に留まったことなど、様々な批判を集めたアベノマスク。しかし、全国民に向けた配布を実現させる過程では製造者から配達業者まで多くの業者による尽力があったことから、ただ愚痴を並べるのではなく、前向きにその良さをレビューしたアレクには『素直に感謝するのは良いこと』『この人、良くも悪くも素直でそのままな所が良いと思う。あれこれ文句を言う前に嬉しい気持ちを発信できるって良いですね』『マスクへの批判が多い中、感謝の気持ちを言える人はなかなか居ないと思います』などと好評です。また、アレクの妻でタレントの川崎希もブログで布マスク配布を歓迎する想いを綴っており、夫婦揃って政府からの贈り物に感謝しています。全ての人が満足できるマスクではなかったのかもしれませんが、まずはきちんとマスクが届いたことや、その着け心地を素直に褒めたアレクは好感度を急速に高めています」(芸能記者)
一方、歌手でタレントの森公美子は友人で入院中の元フジテレビ笠井信輔アナウンサーに向けて、アベノマスクのサイズ感をおちょくるような動画を送信。笠井アナがこれをSNSに掲載したところ、世間からは「見ていて不快」「使わないならわざわざ開封しないで必要な人に渡せばいいのに」といった怒りの指摘を受け、炎上してしまった。
後に笠井アナは森の動画があくまで自身に向けて個人的に送られたものであるとインスタグラム上で釈明したが、こうした事例があることから、素直にアベノマスクに喜びを表現した川崎希&アレクの心証が余計によくなったのかもしれない。 
●「アベノマスク」受注先 興和、伊藤忠など3社 契約額計90億円 4/21 
厚生労働省は21日、新型コロナウイルスの感染拡大防止に向けて政府が全世帯に2枚ずつ配布する布マスクの受注企業3社と契約額を明らかにした。興和、伊藤忠商事、マツオカコーポレーションの3社で、契約額はそれぞれ約54・8億円、約28・5億円、約7・6億円で計約90・9億円だった。野党が受注先を公表するよう求めていた。
社民党の福島瑞穂党首の質問に対し、厚労省マスク班が書面で回答した。3社に発注したマスクの枚数については「マスク単価を計算できることになり、今後の布マスク調達や企業活動への影響を及ぼす恐れがあり、回答は差し控える」としている。
政府は布マスク配布に充てられる予算額は約466億円で、内訳は配達費128億円、マスク調達費338億円と説明している。福島氏はツイッターに「3企業を合わせても90・9億円で少ない。また、4企業と言っていたのに3企業という疑問はある」と書き込んだ。 
 
 

 

●アベノマスク製造元を公表しない理由は麻生太郎?興和のミャンマー製? 4/21
アベノマスクに不良品
妊婦用の布マスクは約50万枚を全国の自治体に発送し、4月14日から各自治体の窓口で配布。一般世帯向けの布マスクは4月17日から配布が開始されていました。配布されたマスクの一部に、髪の毛や虫の混入、変色などといったクレームが多数寄せられています。
「これがアベノマスクの衛生認識 / 北海道のある学校に送られてきたアベノマスクの中に異物が混入していたようです。子どもたちに配布する前に先生方で全品点検したところ、なんと四分の一がアウトだったそうです。こんな不良品を全国民に送りつけるのでしょうか?(かわ) — 勝手連チーム札幌 爺」「わが家の小さい人が小学校からもらってきたアベノマスク。ほんとに髪の毛が入ってました。— 姜信子」「アベノマスク / 施設から配られたものだけど、あのね、髪の毛みたいなゴミが入っていたの。— パスタ」 「今日学校で例のアベノマスクを貰ったんやけど髪の毛?らしきものが入ってる… 髪の毛やったらあんまり使いたくないな — きたりんご」「アベノマスク届いたので、開封したらご覧の通り髪の毛が入っていました。品質管理どうなってるいるんでしょう アベノマスク」
アベノマスクの製造元はどこ?
不良品のマスクの配布が相次ぎ、マスクの製造元はどこ?という声が多数寄せられていました。4月21日の現時点で判明している事は、
国内メーカーの4社が製造
5月までに厚生労働省のホームページで製造元を公表
「政府が配布する布マスクは、国内メーカーの4社が製造。企業名は現在は明らかにしていないが、5月までに同省のホームページで公表するという。業界関係者によると、4社の中にはミャンマーの工場で生産している会社もあるという。YAHOOニュース」
政府からの公表はまだありませんが、アベノマスク製造の4社のうちの1社は興和が製造しているのでは?と言われています。興和は愛知県名古屋市中区に本社を構えるメーカーです。興和はミャンマーに工場があり、3月にガーゼマスクの増産を発表。
「医薬品大手「興和」(名古屋市)は5日、国の要請を受けてガーゼマスクを生産すると発表した。新型コロナウイルス感染拡大に伴うマスク不足に対応する。国内とミャンマーの工場を活用し、3月に月産1500万枚、4月に同5000万枚の生産を目指す。毎日新聞」
国からの要請の元、ガーゼマスクを製造していると報道されています。
アベノマスクを製造している可能性は非常に高いです。
「ミャンマーで日本向けのガーゼマスクが4月から1か月あたり5,000万枚生産されることがわかった。7Day Dailyが伝えたもの。マスクを生産するのは、名古屋市に本社がある医薬品・繊維事業の興和で、3月中に1,500万枚を生産し4月には5,000万枚に増産する予定。日本政府・経済産業省からの要請に応えたもので、既に第1便は日本に到着済み。使い捨ての不織布マスクに対し、ガーゼマスクは洗濯して何度も使うことができる。」
製造元を公表しない理由は麻生太郎?
マスクの製造元を公表しない理由は、副総理・財務大臣を務める麻生太郎さんが絡んでいるのではないか?といった声が多数寄せられています。
日本ミャンマー協会の役員名簿の中に、最高顧問として麻生太郎さんの名前がありました。
ミャンマーとの繋がりのある、麻生太郎さん。
製造元を公表しないのは、政治的な背景があるのが理由では?といった声が多数寄せられたいました。
「製造元も仕様も明かさないアベノマスク実はアベノマスクを受注したのも麻生太郎の関係会社だった。興和褐o由でミャンマーが受注ってなってる。ミャンマー協会の役員名簿を見てみたら最高顧問は「麻生太郎」そして甘利しかも他の企業が1%前後という割合の中、麻生太郎1人で「63%」どこまでも強欲。」「アベノマスクの製造元は、興和株式会社。ミャンマーでガーゼマスクを生産。日本ミャンマー協会の最高顧問は、麻生太郎。3月5日に国の要請によりガーゼマスクの生産を増量。1500万枚と、4月に5000万枚の供給をする。安倍昭恵友絡みか。元警察庁も天下り。名誉会長は、中曽根。甘利の名前も。」「オリンピック延期で3000億の負担を同意するなら違う事同意しろよ。安倍さん今のままじゃ来年のオリンピックも出来ないよ。 アベノマスクは麻生太郎が最高顧問の工場で作って麻生太郎が大株主の日本郵便で配送。政治絡みの事は収束したらいくらでもやっていいから、今やるべき事と向き合ってくれ。」
まとめ
本当に麻生太郎さんが、製造元を明かさない理由に絡んでいるのでしょうか。製造元は明かさない理由の真相は分かりませんが、政府には国民が納得する回答をしてほしいですよね 。 
日本ミャンマー協会 役員名簿 (2020年3月現在)
最高顧問   麻生太郎 (内閣副総理・財務大臣、元内閣総理大臣、衆議院議員)
相談役     清水信次 (潟宴Cフコーポレーション代表取締役会長兼CEO)
会長・理事長 渡邉秀央 (元内閣官房副長官、元郵政大臣)
副会長     白浜一良 (元参議院議員、公明党顧問)
副会長     佐々木幹夫 (三菱商事梶A特別顧問)
副会長     勝俣宣夫 (丸紅梶A名誉理事)
副会長     岡 素之 (住友商事梶A特別顧問)
理事長代行  古賀 誠 (元衆議院議員、元運輸大臣)  
 
 

 

●首相の「アサヒノマスク」発言が物議 2枚3300円の製造元… 4/21
新型コロナウイルスの感染拡大防止に向けて、政府が全世帯に2枚ずつ配る布マスク。安倍晋三首相が主導し、国民の人気はいまいちで「アベノマスク」ともやゆされている。記者会見で配布に疑問を呈した朝日新聞の記者に対し、首相が「御社も2枚3300円で販売していた」と“反撃”したことが物議を醸している。一体、何が問題なのか?
「御社のネットでも布マスク、3300円で販売しておられたということを承知しておりますが、つまりそのような需要も十分にある中において、我々もこの2枚の配付をさせていただいた」
「緊急事態宣言」の全国拡大などを巡って首相官邸で開かれた17日の首相記者会見。「最近では布マスクや星野源さんの動画でも批判を浴びているが、この間の一連の新型コロナの対応について、ご自身でどのように評価しているか」と質問した朝日新聞記者に対し、首相は語気を強めて“反撃”した。
事前に保守系の経済評論家が「朝日新聞が2枚で3300円のぼったくりマスクを販売中! 買っちゃダメだよ!」とツイートしていた影響もあってか、ネット上には「朝日新聞に特大ブーメラン直撃! ぼったくりかよ」「朝日新聞社は国民のことを何も考えていないぼったくり悪徳商法会社だった」などのツイートが相次いだ。
元々定価、「繊維の街」が手作り
しかし、実はこのマスク、2枚3300円が定価だ。「繊維の街」として知られる大阪府泉大津市の南出賢一市長と泉大津商工会議所がマスク不足の解消を目指し、3月6日に市内の繊維メーカーに呼びかけて、市内と近隣の計6社(後に7社)がそれぞれに手作りで製造・販売したうちの一つだった。市や商議所のホームページには「必要な人にマスクが届かない状況を改善するため、泉大津ならではの良さが詰まったマスクを揃(そろ)えました」「地元事業者が一つひとつ手作りでつくりました。“泉大津産マスク”は洗ってもまた使えるマスクで、経済的、環境にも優しいマスクです」とある。
朝日新聞の通販サイトで販売していたマスクを製造したのは、1917年創業の泉大津市の老舗繊維メーカー「大津毛織」。同社によると、マスクは計4層構造。綿は医療用レベルの原料を使うなどし、150回洗濯しても使えるという。1日1000〜1500セットを社員約15人で手作りしているという。
ぼったくりと言われ「すごく残念で悲しい」
大津毛織のマスク担当者は「布製でありながら、立体構造で長時間着けていても不快感がない」と胸を張る。だが、首相の発言によって、ネットの一部では「ぼったくり」などと表現されて攻撃対象に。担当者は「すごく残念で悲しい。言われっぱなしで我々にはどうしようもなく、対抗策もない。日々マスクを作って届けるしかない」と声を落とした。
ただ、ネット上ではそうした事実を踏まえた投稿も増え始めている。妊婦向けマスクの袋に虫が混入するなど約1900枚の不良品が見つかり、「サイズが小さく、重い」などと批判される「アベノマスク」と比較し、「アベちゃんも注目、アサヒノマスク! アベノマスクより高品質らしいし」といったツイートも。「どこがぼったくりや? プロの作ったもん、バカにすんな。仕事潰すな!」「安倍政権が打ち出した地方創生をも否定する話」などの指摘も上がっている。
ネット上ではさらに、朝日新聞の通販サイトが首相の指摘を受けて閉鎖したとの誤った情報まで広がった。朝日新聞社によると、受注を停止したのは、首相が東京都などに緊急事態宣言を翌日に出すと「予告」した4月6日。通販サイトでは日付は入っていないものの「新型コロナウイルス感染拡大で政府が緊急事態宣言を出しました。これに伴い、朝日新聞SHOPは、物流に支障が出る恐れがあることから、お客様からの受注を、期間未定で停止いたします」と記載しており、確認をしないまま情報が広がっているようだ。
首相は、17日の記者会見では「ウイルスとの闘いを乗り切るためには何よりも国民との一体感が大切だ」と述べ、収入が減った世帯への30万円給付から1人当たり一律10万円給付へと方針転換したことに関し「混乱を招き心からおわびを申し上げたい」と陳謝するなど、いつになく低姿勢で国民の協力を求めた。
しかし、その同じ会見で、自らの政策に疑問を呈した特定の新聞社を「攻撃」し、結果的に一体感とは正反対の「分断」を招いている。  
 
 

 

●「アベノマスク」受注企業3社が判明 計90億円で契約 4/22
厚生労働省は21日、新型コロナウイルスの感染防止策として政府が全世帯向けに配布する布マスクについて、受注企業3社とそれぞれとの契約金額を明らかにした。同省マスク班が社民党の福島瑞穂党首の問い合わせに書面で回答した。政府は当初、製造元などを明らかにしておらず、野党から開示を求める声が上がっていた。
回答によると、受注したのは興和、伊藤忠商事、マツオカコーポレーションの3社で契約金額はそれぞれ約54・8億円、約28・5億円、約7・6億円の計約90・9億円だった。マスクの枚数など契約の具体的な中身は示されていない。布マスク配布に投じられる予算は約466億円で、福島氏側は3社の契約金額との差額について、さらに問い合わせているという。 
●アベノマスクは3社と90億円で契約と回答も残りの1社は未公表 4/22
見えない経費はどこにいったのでしょうか。詳しい検証が必要です。
アベノマスク、3社に90.9億円→最後の1社は回答せず
厚生労働省が4月21日、新型コロナウイルスの感染防止対策として日本の全世帯に配布する布マスク、通称「アベノマスク」に関し、計90億9千万円の契約で3社から調達したと明らかにしました。これは社民党の福島瑞穂党首の問い合わせに書面で答えたもの。厚労省の回答によると、内訳は興和が54億8000万円、伊藤忠商事が28億5000万円、マツオカコーポレーションが7億6000万円でした。アベノマスクについては総経費が466億円と東京スカイツリーの建設費を超える価格となっており、内訳は配達費128億円、マスク調達費338億円と説明されています。福島議員は「3企業を合わせても90.9億円で少ない。また、4企業と言っていたのに3企業という疑問はある」として、残りの1社がどこになるのか、また差額の用途などについても問い合わせているとのこと。
「厚生労働省マスク班から今日4月21日、布マスクの全戸配布にかかる企業名、契約内容についての回答がきました。3企業を合わせても90•9億円で少ないのだが。また、4企業と言っていたのに3企業という疑問はあるが、3企業と契約金額が出てきました。— 福島みずほ」
なお、厚労省は各企業の調達枚数は明らかにしておらず「開示した場合、マスクの単価を計算できることとなり、今後の布マスクの調達や企業活動に影響を及ぼす恐れがある」と説明しています。マスク調達費の338億円から3社90.9億円を引くと247.1億円。最後の1社にいくら投入され、差額の用途は何か。非常時に使われる国民の税金のため明確な説明が必要です。
興和のミャンマー工場に「政府・経産省からの要請」
なお、ここで名前の出た最も高額で受注している興和については3月18日の時点でミャンマージャポンが「ミャンマーで日本向けガーゼマスクを1か月に5,000万枚生産へ」(魚拓)という気になる記事を掲載しています。以下引用します。
「ミャンマーで日本向けのガーゼマスクが4月から1か月あたり5,000万枚生産されることがわかった。7Day Dailyが伝えたもの。マスクを生産するのは、名古屋市に本社がある医薬品・繊維事業の興和で、3月中に1,500万枚を生産し4月には5,000万枚に増産する予定。日本政府・経済産業省からの要請に応えたもので、既に第1便は日本に到着済み。使い捨ての不織布マスクに対し、ガーゼマスクは洗濯して何度も使うことができる。」
アベノマスクの生産地については妊婦向けの汚れや異物混入などの不良品6700枚が「大半は東南アジアや中国で作られたもの」とNHKが報道。また「業界関係者によると、4社の中にはミャンマーの工場で生産している会社もあるという」との指摘を朝日新聞も掲載しており、海外で作られたものがあることは知られています。ただし、問題となるのは3月18日という日付、そして「日本政府・経済産業省からの要請」という部分です。アベノマスクの発表は4月1日で「エイプリルフール」かと話題になりましたが、その半月ほど前に生産が決定し、始まっていたということ。「お肉券」や東京オリンピック延期決定前の話であり、大炎上しながらも撤回されなかった大きな理由がここにあると言えそうです。
また福島議員の質問に回答したのは厚労省ですが、ここで要請を行っているのは日本政府に加えてなぜか経産省ということ。アベノマスク発表の半月近く前に政府と経産省がこの施策を既成事実として生産を始めさせていたことには、何らかの利益誘導が行われたのではないかとの憶測も飛び交っています。そうした憶測を補強するのは日本ミャンマー協会の最高顧問に麻生太郎副首相が就任していること。また安倍昭恵首相夫人は以前より熱心にミャンマー支援を行っており、ミャンマーで教育支援を行うNPO、GMI(メコン総合研究所)の名誉顧問を務めるなど、現政権とミャンマーの近さを挙げる声も。
いずれにせよ、実際に数十億円を掛けて海外で生産した衛生用品であるマスクから数千枚単位の不良品が見つかっている以上、国民の税金が極めてずさんな使い方をされていたことは覆せない事実となります。 
 
 

 

●アベノマスク製造元は名古屋市の興和で天下り?製造工場ミャンマー 4/23
「アベノマスク製造元は名古屋市の興和で天下り?製造工場ミャンマー関連企業だった?」と題してお届けします。各世帯に向けての配布が始まったアベノマスク。配布宣言が出てから、アベノマスクの製造会社や製造メーカー、製造工場について、発注の決め方について様々な憶測が飛び交っていました。製造メーカー候補の中には、名古屋の興和の名前も上がっていましたね。また一部では山口県の企業が製造するのではという噂もありました。実際のところ、どこの製造会社や製造メーカーが生産しているのか、どこの製造工場で作っているのかとても気になります。中国製なのか日本製なのか、品質に対する不安も大きいですよね。今回は、アベノマスク製造会社は名古屋の興和で中国製なのかについてと、製造工場どこで企業の決め方はどうなったのかについて、詳しく調査していきました。マスクが日本製なのか、噂のあった山口県の企業についてもまとめてみました。4月21日新たに、噂されている興和が政府の天下り先で、関連会社のミャンマー工場で製造されているという情報が入ってきました。報道によると、麻生太郎氏の名前が関連企業に連ねられているというのです。
アベノマスク製造会社が山口県の企業はデマだった?
アベノマスク製造会社は、山口県の企業に依頼するのではないかという噂が広まりました。元々は安倍首相の地元が山口県ということと、山口県にある企業が大量のマスク注文を受けたことで噂が広まったようです。実際のところはどうなのでしょうか。このような噂が飛び交った原因となる企業の詳しい情報について調べてみました。
安倍首相の地元の中村被服が風評被害?
安倍首相が、地元山口県の企業に受注させるのではないかとの噂がインターネット上に飛び交ったことで、防府市の中村被服が風評被害に遭いました。中村被服は、幼稚園や保育園の制服メーカーで、抗菌仕様の給食服の生地を転用したマスクを製造しています。県から布マスクの大量受注を受けたことで、国から注文を受けたと勘違いされたとのことです。山口県は3月23日に、県内の幼稚園や保育施設などへ布マスク12万枚を配ることを表明しました。1人あたり2枚が行き渡るように中村被服に製造を委託しました。安倍首相の地元が山口県であることに加えて、2枚行き渡るようにするという情報が、今回のアベノマスク製造会社ではないのかと勘違いされたのかもしれません。
安倍首相の友達が受注先?
中村被服の中村顕社長が異変に気付いたのは2日昼です。社員から、「ネット上で社長が安倍首相の友達だと話題になっている」と知らされたことで今回の騒動が発覚しました。県のマスク製造を始めた直後に経済産業省からマスクの製造について問い合わせもあったとのこと。その後もなぜ受注するのかと電話がよせられていました。ホームページにもアクセスが殺到し、社内のメールサーバーにもつながりにくい状況に陥りました。中村顕社長は、「マスク不足で困っている子どものために県の仕事を受けただけで、子どもたちのために頑張って作るだけです」と話しています。このように、今回のアベノマスク製造は中村被服とは全く関係がないことがわかっています。皆様もデマに振り回されないようにしましょう。では、アベノマスクの本当の受注先はどこなのでしょうか?
アベノマスク製造会社は名古屋の興和?製造工場はどこ?
アベノマスク製造会社について、いくつか候補となる社名が上がっていました。その中に名古屋の興和の名前がありましたが、アベノアスクの製造会社は本当に名古屋の興和なのでしょうか。製造工場について、また日本製か中国製のどちらなのかについても詳しく調べました。
名古屋の興和はどんな会社?
名古屋の興和は医薬品メーカーです。皆さんも一度は目にしたことのある、ブランドマスクで有名な会社ですね。女性向けには、メイクが落ちにくいマスクやほんのりハーブが香るマスクなども販売されています。また、子ども用にはキャラクターの可愛らしいパッケージとイラスト付きマスクも販売されています。ダブル捕集と抗菌の5層構造の機能性を持ったマスクです。
名古屋の興和の発表は?
実際に興和株式会社のホームページを覗いてみると、プレスリリースの中に以下のような記載があります。興和株式会社は国からの要請のもと、 国内と海外の生産協力工場を活用した 「ガーゼマスク」の取り扱いを推進していきます。3 月には 1,500 万枚規模、4 月には5,000 万枚規模の生産を目指し、日本国内に供給してまいります。このように、はっきりと国からの要請のもとと発表しています。合わせて、今回のコロナウイルス感染拡大の影響を受け、不織布マスクの需要に十分応えられていないことも謝罪しています。その上で、新しく生産と包装の設備投資を行っています。
アベノマスク製造工場どこで中国製と日本製どっち?
アベノマスク要請を受けて布製マスクを受注し、増産しているのが興和です。ガーゼを15枚重ねた仕様のマスクで、3月には月産1500万枚、4月には同5000万枚規模の生産を目指すと発表しています。興和では不織布マスクも国内外で生産していますが、こちらも月に1200万枚規模の増産体制を敷いていて品薄への対応を急いでいます。国内には、静岡県・愛知県・栃木県・東京都に生産工場があり、そこで生産している分は日本製です。興和のホームページでは、このように記載があります。
「国からの要請のもと、広く海外に展開している繊維事業の経験を活かし、国内と海外の生産協力工場を活用したガーゼマスクの取り扱いを推進してまいります。」
どうやら、日本の工場だけではなく、海外にもあるようですので、流通経路によって日本産と中国産、そのどちらも可能性があるということですね。では、アベノマスクの製造メーカーはどのようにして決定されたのでしょうか。
アベノマスク製造メーカーの決め方は?
マスクの業界団体である「日本衛生材料工業会」の担当者によると、異業種からマスク業界へ参入しやすいのかと言うと、そんなことはないと話しています。さらに、クリーンルームはがなくても生産は可能だとのことですが、衛生環境が基準を満たしている必要はあるようです。実は、経済産業省が2月末から「令和元年度マスク生産設備導入支援事業費補助金」の対象事業者を公募しています。審査に通過すると、1ライン3000万円を上限に中小企業であれば4分の3の補助、それ以外なら3分の2の補助を受けられます。実際のところ興和以外にも、明星産商などが生産ラインの増設や機器の改修費用として補助を受けることが決まりました。
補助金を受けた企業は?
この補助金は、基本的にはマスク生産を手がけている会社が設備投資を行うためのものです。同時に選ばれた企業もありますが、いずれもマスク生産に関わる企業とのコンソーシアムによるものとのこと。仮にマスクを大量生産するために製造機器を新規購入するとなると、1ラインあたり数千万円から高いと1億円は超えるため、補助金がないと難しいようです。新規参入も増えてきているようですが、経済産業省が補助金を出した案件だけでも、5650万枚規模の増産が可能になります。これは早い段階でのマスク不足解消が見込めそうですね。4月21日、最新の情報が入ってきました。興和の工場は国内だけでなく、ミャンマーにもあり、それが天下り先ではないかと報道が流れ始めたのです。詳しくみていきましょう。
アベノマスク天下りで製造工場ミャンマー関連企業だった?
「アベノマスクを受注したのも、麻生太郎の関係会社だった。興和褐o由でミャンマーが受注ってなってる。ミャンマー協会の役員名簿を見てみたら、最高顧問は「麻生太郎」そして甘利やっぱり利権か466億こんだけの額をマスクに使ったんなら、国内に工場どんだけ作れたんだ。」
ここにきて、新たな天下り疑惑が浮上しています。興和株式会社は政府の要請を受けてマスクの増産を請け負うと発表しましたが、その工場のメインがミャンマー工場だというのです。興和のミャンマーの工場の場所はどこかというと、ヤンゴン市郊外シュエピーター工業団地内にあります。実は、ミャンマーの工場から出荷されているのは3月の時点で判明している情報でしたが、その理由や、天下りの可能性については不明でした。というのも、政府は未だにアベノマスクの製造元を非公表にしており、何らかの事情があるのではと推測されてきたのです。
話題の焦点となっている天下りの根拠は、「受注しているミャンマー工場の関連会社、一般社団法人の日本ミャンマー協会」の最高顧問の役員名に、 麻生太郎 (内閣副総理・財務大臣、元内閣総理大臣、衆議院議員)と記載されていることです。実際に「日本ミャンマー協会」のHPには2020年3月現在の情報として、上記の内容が記載されています。これが、政府が頑なに製造元を明かさなかった理由なのでしょうか。国民の追及が深くなるにつれ、とうとう公表せざるを得ないという判断がされたようで、政府は5月に製造メーカーを公表すると表明しました。政府が製造会社の企業名をついに発表しました。受注したのはこれら3つの企業です。
   興和株式会社 約54・8億円
   伊藤忠商事 約28・5億円
   マツオカコーポレーション 約7・6億円
合計金額は約約90・9億円で、注目すべきは企業それぞれとの契約金額が大きく異なる点です。ちなみに、マスクの枚数や契約の具体的条件などの詳細はいまだ明らかにされていません。福島氏は、3社の契約金額がなぜここまで離れているのかについて、さらに追及していく見通しのようです。
まとめ
今回は、アベノマスク製造会社は名古屋の興和で中国製なのかについてと、製造工場どこで企業の決め方はどうだったのかについて、詳しく調査していきました。アベノマスク製造会社が山口県の企業というのは、ツイッターで出回ったデマでしたね。今回の騒動を受けて、山口県の企業も被害を受けながらも頑張って生産活動を続けています。今後もアベノマスクの製造会社や製造メーカー、製造工場についてどこなのかと様々な情報が出回るかもしれません。とうとう、アベノマスク製造メーカーは天下りのミャンマー関連企業へ発注していたという事実が明るみになってきました。アベノマスクの製造会社は名古屋の興和ですが、日本製ではなくミャンマー製だったということになりますね。興和はアベノマスクと揶揄される布マスクの生産について、日本の工場で製造している自社ブランドマスクの生産ラインを圧迫していないとコメントしてきました。そしてその理由は、「布マスクをその生産ラインでは製造していない」とのことでしたが、つまり国内の工場で製造しているのはアベノマスクではなく自社ブランドのマスクで、アベノマスクはミャンマーの工場で製造しているのが真相だったのでしょうか。また、流通しているものに中国製も入っているかどうかも、これから判明していくでしょう。政府は5月に、今まで非公表としてきた布マスクの製造元を明かすと表明していますので、これから国内外の批評がどうなっていくのか目が離せませんね。 
 
 

 

●アベノマスク不良品でメーカーはどこ? 4/24
アベノマスクは不良品!?
「未配布の“アベノマスク”を全量回収へ 伊藤忠など、検品強化を発表 – 毎日新聞」
厚生労働省は、配布した布マスクの一部に不良品があったことを4月18日に発表しました。4月17日の時点で80市町村から1901件もの報告があったそうです。
「厚生労働省は18日、新型コロナウイルスの感染拡大によるマスク不足対策として全国の妊婦に配布を始めた布マスクの一部に、汚れなどの不良品があったと発表した。17日時点で80市町村から1901件報告があったという。朝日新聞」
実際にあった不良品の報告時は下記の通りです。
【市町村からの報告】 ・「変色している」 / ・「髪の毛が入っていた」
【介護施設からの報告】 ・「髪の毛の混入」
【小中高、特別支援学校から】 ・虫の混入
不良品の報告件数が多いと心配になりますよね。また、先ほどの報告事例意外にも、アベノマスクを洗うと縮んだと言う声もありました。これらの不良品報告を受けて、今回未配布の分を回収し再検品することになりました。マスクメーカーは国内4社から納入していましたが、今回のマスクを納入したメーカーの製造環境に問題はなかったのでしょうか?
アベノマスクのメーカーはどこ?
アベノマスクのメーカーが気になります!アベノマスクの製造元は、興和、伊藤忠商事、マツオカコーポレーションの3社です。妊婦向けマスクはこの3社の他に1社加えた4社で、この会社についての情報は発表されていません。
「厚労省から回答。布マスクは興和、伊藤忠商事、マツオカコーポレーションの3社と契約。7800枚の不良品が混入していた妊婦向けマスクはこの3社のほかに1社加えた4社。ということは全戸配布マスクにも不良品混入の可能性が?466億円かけて不良品配布に?そういえば東京でも配布が止まっているような気が — 日本共産党」
アベノマスクを製造した工場はどこ?
アベノマスクを製造した工場については公表していません。ですが、アベノブリーフを受け取った方の情報によると、ベトナム製となっていました。
アベノマスク不良品で返品や交換はできる?
結論からお伝えすると、アベノマスクが不良品だった場合、新品と交換することはできます。ただし、返品のみは記載されていないので、できないようです。  
●不良品相次ぎ「全品回収」 “アベノマスク”466億円のナゾ 4/24 
マスク不足対策として安倍総理が打ち出した、あの布マスクの問題です。汚れや異物の混入など不良品が相次いで見つかり、これから配る予定のマスクの全品回収に踏み切る事態となりました。さらに、調達コストが当初、政府が発表していた予算「466億円」の5分の1以下だったことも判明。どういうことなんでしょうか。 
●「アベノマスク」未配布分は全量回収 4/24 
新型コロナウイルスの感染防止のため、政府が配布する布マスクにカビなどの汚れがあった問題で、マスクを納入した4社のうち興和(名古屋市)と伊藤忠商事は4月23日、未配布分を全て回収すると発表した。
布マスクは全戸配布に先立ち妊婦に配られていたが、カビや髪の毛の混入といった欠陥が相次いで発覚。その後、全世帯向け布マスクでも配布前の検品段階で同様の不良品が見つかり、問題となっていた。
両社はいずれも政府から要請を受け、海外の工場からマスクを調達していた。
興和は自社サイトで、「この度の事態を真摯に受け止め、未配布分につきましては全量回収の上再検品し、生産協力工場における検品体制への指導強化を行うとともに、国内での全量検品を行います」とコメントを発表。
伊藤忠商事も自社サイトで「輸出前の外部業者による検品、日本に輸入後も社員数十名の立ち会いのもと、専門業者による検品と三重の全量検品体制を敷き強化を図っております」と掲載した。 
 
 

 

●アベノマスク不良品を回収「3悪」で国民さらに激怒 4/25 
新型コロナウイルスの感染防止策として政府が配る布マスク、通称アベノマスクに汚れがあった問題で、厚生労働省と納入元の企業2社は24日までに、未配達分のマスクを回収すると明らかにした。いったん回収するものの、厚労省は事業は継続する方針。
また、配達済みマスクにも不具合があるとの連絡が厚労省に複数寄せられていることが判明した。納入元は未配達分の回収を急ぎ、同省は配達済みのもので不良品があれば交換するとしている。
厚労省によると、マスクの生産国は中国とベトナム、ミャンマーの3か国。不良品は納入元のうち、興和(名古屋市)と伊藤忠商事の納入分で見つかっており、2社は未配達分の回収を始めた。
布製のアベノマスクは不織布マスクに比べてフィルターの効果は薄いと指摘され、「小さい!」「ズレる!」などサイズにも問題がある。また、経費は466億円かかり世間からの反発は強い。さらに不良品が発覚したため回収となった。もはやめちゃくちゃな事態に、国民としてはマスクが届いたとしても開いた口がふさがらないだろう。
アベノマスクは17日に都内で配達が始まり、5月中に約5000万世帯へ2枚ずつ届ける計画。
日本郵便は22日時点で約65万袋を配ったと24日、明らかにした。都内で配達を予定する分の約8%に当たるという。
今回の“リコール”により、配達の遅れは必至。菅義偉官房長官は24日の記者会見で「回収し検品を行うため予定より遅れるのは事実だ」との見解を示した。 
 
 

 

●アベノマスク不良品出て回収 金額にも問題? 4/26 
新型コロナウイルスの感染拡大防止策として、政府が全世帯に2枚ずつ配布する布マスクの一部に汚れや髪の毛が入っているなどの不良品が見つかった問題で、納品した興和と伊藤忠商事が未配布分を回収する、と23日に発表しました。菅官房長官は、記者会見で、今後の配布について「予定より遅れるのは事実だ」と述べ、配布自体は見直さない考えを示しました。
どこまでも負のイメージがついてまわるアベノマスクです。衛生用品メーカーによると、マスクなど衛生用品を新たに作る場合、試作品を高温・多湿の状況に置き、カビが生えないかなどを半年位かけて確認してから納品する、ということです。
不良品が7千件以上見つかっているマスクは、東南アジアで作ったもの、と報じられています。また、2020年度の予備費と補正予算に、マスクの経費として計、約466億円を想定していましたが、実際にはマスク調達費用が、積算より低い90億円になる予定、ということです。初めの積算根拠が問われると思います。
そもそも、家族の人数が違うのに世帯単位で、たった2枚の布マスクを配布すれば、国民が喜びマスク不安が解消する、という私たちの認識とはかけ離れた発想からスタートしています。コロナウイルス感染症対策は、長期化を余儀なくされている中で、予算の使い道として、もっと医療への支援など、有効に使うべきだと、改めて思います。 
 
 

 

●アベノマスク「発注先4社だと思っていたら5社でした…ありえない」 4/27
フランス文学者で神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏(69)が27日、全世帯に配布する”アベノマスク”の発注先が4社ではなく5社であったことが菅官房長官の会見で急に発表されたことについて、自身のツイッターで政府の対応のまずさを嘲笑した。
「『発注先4社だと思っていたら5社でした。会社の名前もいくら発注したかも、今までころっと忘れてました。ははは。ひとつご容赦』で済むようなことってビジネスの世界ではありえないでしょう」とこきおろした。社民党の福島瑞穂党首の問い合わせで厚労省側は妊婦用マスクの製造先を当初は3社と回答していた。
福島党首の問い合わせで明らかになったのは福島市の「株式会社ユースビオ」。その後に行われた菅長官の会見で急に名前が読み上げられたのは、ユースビオのほか名古屋市で「日本マスク」のブランドで製造、販売を手掛ける「横井定」だった。伊藤忠商事、興和、マツオカコーポレーションの3社は既に公表されている。 
 
 

 

●アベノマスク 発注先の福島市企業を直撃 4/28 
樋山茂社長が語った胸中
新型コロナウイルスの感染防止対策として、政府が再利用可能な布マスクを全戸に配布するアベノマスク*竭閧めぐり、思わぬ形で福島市の企業が注目されることになった。これまで非公表とされてきたマスク調達先の1社が、福島市の輸入仲介業「ユースビオ」(樋山茂社長)であることが明らかにされたのだ。いったいどんな会社なのか、4月27日、樋山社長に話を聞いた様子を特別リポートする。
新型コロナウイルス対策として、国は布マスクを約1億3000万枚確保。妊婦、高齢者の介護・福祉施設、小中高校などに優先的に配布された後、東京都など感染者が多い地域から順次配布されている。しかし、市販の不織布マスクと比べて小さくて使いづらいのに加え、妊婦用配布分のマスクから変色、髪の毛の混入、異臭といった報告が出始めた。そのため、マスクを納入している大手医薬品メーカーの興和と大手商社の伊藤忠商事が未配布分のマスクをすべて回収する事態となった。
政府が当初打ち出していた関連予算額は466億円。まず半数の約6500万枚の調達配送のため、予備費233億円の執行を進めているが、実際には90億円程度で収まる見込みであることが明らかにされた。なぜこれだけの差額になったのか理由が分からないのもさることながら、もっと不可解なのがマスク調達先4社のうち1社が非公表とされたことだった。公共調達のルール上、公表する義務があるのに、なぜか厚生労働省は情報を伏せ続けたため、ネットなどでは「怪しすぎる」、「利権絡みではないか」、「受注額が最も高い可能性がある」などと囁かれた。
そうした中、4月27日の記者会見で菅義偉官房長官が公表した1社が冒頭で紹介した福島市の会社「ユースビオ」だったわけ。
ところが、同社の法人登記簿は同日変更登記中となっており(翌日に変更終了)、民間信用調査機関にも登録されていないため、詳細が全く分からない。ちなみに、登記変更が申請されたのは、社民党の福島瑞穂参院議員が厚労省にマスクの発注先や契約内容について質問した4月10日だった。偶然の一致で片付けられるのか。
住所を基にグーグルストリートビューで現地の写真を確認すると、表示されるのは長屋風の貸しオフィスの一角で、政府の仕事を直接受注する企業にはとても見えない。しかも、公明党の大きなポスターが張られていたため、「公明党関係のペーパーカンパニーではないか」、「絶対裏がある」とさらなる疑念が噴出し、多くのマスコミ関係者が同社に殺到。昨日から今日にかけて、テレビや新聞、ネットなどをユースビオ関連のニュースがにぎわせることになった。
なお、前述した通り、昨日の時点で「登記中」とされていた法人登記簿は4月28日になって閲覧できるようになっていた。それによると、同社は2017年8月24日設立。資本金1000万円。役員は樋山社長のみ。事業目的は1再生可能エネルギー生産システムの研究開発及び販売、2バイオガス発酵システムの研究開発及び販売、3発電及び売電に関する事業、4ユーグレナ等の微細藻類の生産、加工及び販売、5オリゴ糖等の糖質の生産、加工及び販売、6ファクタリング業、7不動産の売買、賃貸、管理及びその仲介、8貿易及び輸出入代行業並びにそれらの仲介及びコンサルティング。
このうち、6、7、8が4月10日に登記した項目のようだ。報道によると、「木質ペレットの輸入会社がマスクを生産するというのはちょっと厳しい」と考え、事業目的に関連項目を追加したという。社員は5人で、ベトナムとインドネシアに拠点を置いている。
同社はJR福島駅から約3`離れた住宅地に位置している。4月27日夕方、ネットで話題になっているのを目にして、同社まで足を運ぶと、マスコミ関係者のほか、スマホを持って写真撮影する人が多数見かけられた。
記者も写真を撮影しようとすると、部屋に明かりがついているのが目に入り、中に人影が見えた。そこで、思い切って「ごめんください」とドアを開けて声をかけると、樋山社長が電話していた。媒体名と氏名を名乗ると、部屋の中に入るよう促され、「今日はもう何人もマスコミ関係者が来て対応に疲れた。基本的なことはテレビ、新聞に話している。それ以外、質問があれば答えられる範囲で対応するのでそれで勘弁してほしい」とかなりいらだった様子で言われた。
さまざまな質問をしながら話を広げていきたいところだったが、話している最中にもひっきりなしに在京マスコミなどから取材電話がかかってきて、別の記者などもドアから入ってくるため、こちらのペースで話すことができなかった。結果、まずは一方的に思いをしゃべってもらい、後から質問して補足する形になった。
「もともとうちはベトナムからバイオマス発電に使う木質ペレットを輸入する仕事を展開しており、現地に日本人の駐在員を置いています。同国は大気汚染に対応するためマスクを着用する習慣があり、立体的な布マスクは『ベトナムマスク』という名前で知られているほどだが、同国であれば、世界的なマスク不足の中でも、大量に確保して輸入できることが分かりました」
「私は福島県出身、駐在員は山形県出身で、それぞれ周囲から『何とか調達できないか』と言われていました。そのため、山形県や福島県に話を持ちかけたら、『ぜひ買いたい』という話になり交渉を進めていました。ただ、そうした中で、行政のマスクに関しては、国が全世帯への配布に向けて一括購入することになりました。そのため、途中からは国からの発注を受ける形にスライドし、3月上旬に経済産業省と交渉に入りました」
「うちが製造しているわけではなく、型紙やスペック表、洗ったときの検査成績表、人体に影響が出ない証明書、さまざまなエビデンスやサンプルをつけて交渉しました。その結果、最終的に1枚135円、350万枚を納入することになり、3月には納入が終わりました。それがどこに使われたかは国に任せているので把握していません」
納入金額1枚135円で350万枚ということは、単純計算で約4億7250万円分に上る。報道によると、政府とは随意契約により契約を結び、政府担当者は「各地の経済産業局を通じて短期間でマスクを納入できる業者を探した。緊急を要する事業だったので随意契約を結んだ」と説明したという。
樋山社長によると、アベノマスク℃幕ニは厚労省と経産省の合同チームで行われており、メーンとなる制度運用は厚労省、調達は経産省が担当している。4月に入り、不良品問題が発覚した後、樋山社長は厚労省から「発注先として名前を公表しても問題ないか」と確認された。それに対し、「少なくとも現時点でもうちからは不良品が出ていない。公表されても全く問題ない」と胸を張って伝えていた。
ところが、同社に関する情報はなぜか最後まで公表が控えられ、その結果、大きな疑念を抱かれることになった。
「はっきり言って、不良品ではない良いものを、安く、納期に間に合うように納品したのはうちだけです。それなのに、なぜかうちの名前だけが最後まで公表されなかったのです。うちが出さないでくれとお願いしていたわけではないし、非公表の理由はよく分かりません。それは国に聞いてほしい」
政府の対応への不満をのぞかせる一方で、マスクの品質と価格の安さには自信を持っている様子がうかがえた。
「先ほども話した通り、うちで扱っているマスクは立体的なベトナムマスクで、不良品が出たとされる布マスクとは形状がそもそも異なります。それに抗菌の糸から作っているので、30回洗っても抗菌性能は変わらない。政府によると、『1枚平均260円で買い上げた』ということですが、うちのマスクは1枚135円と安いのも特長です。現地で人気がない白生地のものを大量に仕入れたので価格を下げることに成功しました。もっとも、コロナがなければ特別安いというわけではなく、これぐらいが適正価格なのだと思います。うちの社名だけが公表されなかったのは、単に不良品が出ていなかったからなのか、ほかの会社と一緒に公表したくない理由があったのか……」
政府は布マスクを1枚平均260円で買い上げたとしている。だが、同社が平均を下回る1枚135円で納入していたとすれば、ほかの企業は平均をはるかに上回る金額で納入していたことになる。ほかの発注先の価格の高さを浮き彫りにさせないため、厚労省としては同社の存在をあまり公表したくなかったのかもしれない。
樋山社長は同じ住所にある電気通信機器修理業「樋山ユースポット」の社長も兼任しているが、2018年には3000万円あまりの脱税容疑で、懲役1年6月、執行猶予3年の判決を受けた。このときの記事を基に、「こんなうさんくさい経営者がやっている会社に政府はなぜマスクを発注したのか」と疑問視する向きもあった。
これについて樋山社長は「そもそも脱税は冤罪だった」と主張する。
「最盛期で従業員60人規模の会社で、社員が労働基準法の縛りにとらわれず、経営者のように自由に判断して働けるようにしたいと考えていました。そこで、労働基準監督署などに相談して、樋山ユースポットと社員による有限責任事業組合(LLP)を立ち上げ、組合員となった社員は同業他社の1.5〜2倍ぐらいの給料がもらえるようにしました。ところが、『制度を悪用して消費税の脱税をはかっているのではないか』とマルサに目を付けられ、2年間にわたり捜査を受けました」
「こちらとしてはそんなつもりはなく、私も社員も容疑を否認し続けていた。だが、向こうは『労働基準法のしばりなどは建て前で、脱税目的だったのだろう』という考えを押し付けてくるばかりで、『こちらは書類送検する考えだ。これ以上争うと執行猶予がつかなくなる』と言われた。その時点でさまざまな商売がダメになり、2億円近く売上減となり、社員もゼロになっていたので司法取引をやむなく受け入れたのです」
このほかの疑惑については、テレビ・新聞ですでに報じられている通り。公明党や若松謙維参院議員のポスターが張ってあり、積極的に支持していることについては「単に公明党支持者・創価学会員であるだけ。ポスターをはがさず外に張っていることから分かる通り、別に隠しているわけでもない」。
ネットなどでウワサされていた政府との癒着については、「そういう関係だったらマスクは1枚135円などではなく、1枚300円で売りますよ。全くそういうことはないです」。同じ住所に複数の会社を登録していることもあっさり認め、「ペーパーカンパニーなどではなく、どれもきちんと経営している」と述べた。
経営者として活動してきたからか顔は広いようで、旧知の記者の名前を何人も上げた。ベトナムマスクとは別に不織布マスクも大量に仕入れて周囲に寄付する活動も展開しているとか。
「福島県、福島市、お世話になっている病院、介護施設、知人・友人などが所属する団体などに数千〜数万枚寄付しています。国内でもマスクの生産が始まったところを見ると、おそらくもう間もなく充足するでしょう。そうなると、自分のところでマスクを抱えていたってしょうがないじゃないですか。何よりいまは緊急時なのだから、どんどん寄付しているところです。こんな緊急時に『うちが儲ける』なんて心構えでやっているのはおかしいと思います」(同)
以上が樋山社長の主張であり、話を聞いていると、納得できる部分はあった。だが、多くの人が指摘する通り、政府の発注先としてはあまりに企業規模が小さすぎて、正直不自然なのは否めない。4月28日の衆院予算委員会における加藤勝信厚労相の答弁では、同社の輸入代行を福島市飯坂のシマトレーディング(島正行社長)という会社が行っていたことも判明した。福島市が舞台となったこの問題、まだまだ続きそうだ。 
 
 

 

●ひた隠しにされた「アベノマスク」発注先、ついに発覚。「ユースビオ」 4/30
流行中の新型コロナウイルスには、特に高齢者や持病のある人、そして、妊婦さんは気を付けなければなりません。例えば、試験的に投与されているアビガンは胎児に深刻な悪影響を与える可能性があるということで、妊婦さんには投与されないことになっています。もちろん、レムデシビルなど未承認な薬も安全性が確認されていないため、投与には慎重になるはずです。だから、妊婦さんには感染しないように気を付けてもらわないといけない。
そこで、安倍政権が用意したのは、なんと2枚の布製マスク「アベノマスク」です。なにしろ布でできているので、防護にはほとんど効果がなく、感染させないために着用するにしても効果が見込めない。強いて言うなら、直接的に鼻や口を触らないようになるくらいで、もしも家に市販されている普通のマスクがあるのなら、そっちをつけた方がよっぽどマシという代物。
そんな物を安倍政権は466億円もかけてお届けしてきたのですが、最近、その妊婦用のマスクにカビが生えているのが発覚したり、髪の毛が混入していたりと、とても衛生的とは言えない欠陥が次々と見つかり、「むしろ別の病気になる可能性があるわ!」ということでクレームが入りまくっていました。きょうび、どこぞの雑貨屋さんで売られているような「おもちゃマスク」でさえ、ここまでのクソ品質ではないので、政府が肝入りで発注したマスクがこんな状態だと、当然、「どこの会社に発注したんですか?」ということになるわけでございます。
ひた隠しにされた4社中の1社
社民党の福島みずほさんが質問した時、厚生労働省は4つの会社のうち、3つの会社は公表しましたが、1社だけは頑なに情報を出しませんでした。まず、公表した3つの会社とは、興和、伊藤忠商事、マツオカコーポレーション。あんまり詳しく知らない人のために、それぞれの会社について簡単にご紹介しましょう。
【興和株式会社】
私たちに馴染み深い商品としては「キャベジンコーワ」や「バンテリン」、虫刺されの「ウナコーワクール」などの薬をはじめ、コンビニや薬局で売られていた「三次元マスク」を製造販売している会社。実は、薬やマスクだけでなく、医療機器やファッション、望遠鏡や顕微鏡なども製造している専門商社。年商1728億円。
【伊藤忠商事株式会社】
日本を代表する総合商社の一つ。繊維、機械、金属、エネルギーや化学品、情報から金融まで、ありとあらゆるものを取り扱う大企業中の大企業。ファミリーマートの親会社であるといえば、どれだけ大きな会社なのかがわかるだろう。年商11兆6004億円。
【マツオカコーポレーション】
メンズ・レディースのフォーマルウェアからカジュアルウェア、スポーツウェア、ユニフォームウェアまでの縫製、洗い加工、生地開発と生産、貿易業務をしている。中国や東南アジアに製造拠点を展開。優良な工場で生産力を拡大。年商634億円。
伊藤忠商事はズバ抜けて大きいけれど、興和もマツオカコーポレーションもそれなりに大きな会社であり、いくら大変な時期とはいえ、これまでの実績から考えて、ゴミや髪の毛が混入していたり、ましてやマスクの布にカビが生えているというのは考えにくい会社です。それなりにノウハウと実績のある会社が、ここまでクオリティーの低い商品を出してくるなんて信じられません。ちゃんとした会社に頼んでいるのに、このクオリティーなんでしょうか。とにかく、残る1社を教えてもらわないことには検証もできません。
3社は公開したのに、1社だけ公開しないなんて怪しすぎる! ということで、社民党の福島みずほさんを中心に、野党の議員たちが「出せ!出せ!」と追及してきたのですが、とうとう新聞や雑誌の記者たちがゴールデンウィークのお休みに入ったタイミングで、4つ目の会社を渋々公開しました。ちなみに、菅義偉官房長官は会見でさらに一社(「横井定」)であると発表しています。
渋々発表された「4社目」の会社の名前は「株式会社ユースビオ」。いきなり誰も知らない超マイナーな会社が出てきたので、さっそく「どこだよ!」と捜索が始まったのですが、これがまた調べれば調べるほど怪しさ満点。どうやら福島県福島市に会社があるらしいのですが、代表取締役の名前も非公表で、さっぱり実態が掴めないのです。もう行ってみるしかなくない?
妊婦向けアベノマスク発注先の、経営実態が見えない会社
ネット上では既にGoogleストリートビューの画像が出回り、そのプレハブ感が伝えられていたんですけど、実際に見てもプレハブ感満載。福島駅から3kmほど離れたところにあって、それなりに車通りのある道路から1本路地に入ったところに、疑惑の会社はありました。
看板もなければ、表札もありません。どこからどう見ても儲かっているようには見えないし、この会社が政府から億単位の受注を受けて妊婦用のマスクを製造・納入しているとは到底思えません。これでも何か実績があるのなら理解もできますが、今まで一度もマスクを作ったことがない上に、会社名も出していなければ、本当に経営しているのかどうかもよくわからないのです。
もし僕がそのマスクを売るんだとして、この会社に300万円を振り込めるのかと聞かれたら、300万円でさえ躊躇します。だって、こんなに経営しているのかどうかがよくわからない会社にお金を振り込んで、万が一の自体が発生したらどうするんでしょうか。一度は信用調査会社に調査をお願いすることでしょう。ちなみに、もしもお願いをしたら社長が脱税で逮捕され、現在は執行猶予中の身であるという情報が出てくるわけです。もちろん、過去に罪を犯したとしても仕事を発注することはなんら問題ありません。ただ、300万円だとしても社運をかけるような事業です。気軽に発注することなど、少なくとも僕はできません。しかし、僕たちの税金が使われるというのに、安倍政権はこの会社に億単位の発注をかけるというのです。その決定プロセスも有権者であり納税者である国民に説明責任があるのは自明でしょう。
シールで伏せられていた郵便受けの宛先表記部分
郵便受けには、何やら別の会社名が書いてありましたが、白いシールのようなものでマスクをされていました。これが本当の「アベノマスク」でしょうか。会社の中は茶色い敷居が設置されていて、奥の様子が見えないようになっていたのですが、その手前のソファには乱雑に段ボールが横たわる始末。全体的にきちんと管理されている雰囲気ではなかったのですが、こんな会社に1本の髪の毛の混入さえ許されない妊婦用のマスクを作る能力があるのかどうかは、ものすごく疑問です。
会社の窓には、ガッツリと公明党のポスターが貼られていました。これだけ騒ぎになっているのに、このポスターだけは断固として掲げているのですから、ある種の信念を感じます。一部では「公明党の議員が関わっているんじゃないのか」という疑惑が向けられていますが、いずれにしても、この会社がアベノマスクを億単位で受注できるのは、どう考えても不自然です。
政府は説明責任を果たせ
不思議なことに、社名が公開されるや否や、一部のネットメディアがどこよりも早く、社長が「癒着はない」と否定していることを報じたりしていますが、癒着がないなら、なおさら不自然でなりません。どうしてこんなにコソコソしている会社が、政府から億単位の受注を受けられるのか。既に1枚135円で350万枚を納入しているとのことですが、これだけで4億7250万円の売上ということになります。このマスクはベトナムで作っているそうなのですが、ベトナムで作っているにしては値段が高い気がします。ベトナムで作るメリットがあったでしょうか。他の3社がいくらで納入しているのかは知りませんが、この値段だったら海外で作る必要があるとは到底思えません。
このプレハブオフィス、ちゃっかり裏口があるので、表が閉まっているからといって、人がいないとは限らない構造になっています。エアコンのファンは回っていたので、中に誰かいるか、エアコンをつけっぱなしで外に出ているかということになります。時代が時代なもので、社員がほとんどいないような会社でもテレワークが進んでいるのかもしれませんが、どういう経緯で契約に結び付いたのかは、政府がしっかりと説明するべきでしょう。
深まる謎。危機に際してなぜこんなことが起こるのか?
耳にかける部分の伸縮性がなく、まるで顔面にブリーフをつけているような感じになっているマスクを作っていたのが、ユースビオ株式会社ではないかと噂されています。社長は「クレームは1件もない」と言っていましたが、実際はクレームだらけだった可能性があり、衝撃的なクオリティーに仕上がっています。
さらに、マスクを作ったのは「株式会社ユースビオ」だけど、マスクの輸入代行をしたのは「シマトレーディング」であることがわかり、ますます闇が深そうなことになっています。この話の真相は、きっと週刊誌などが報じてくれると思いますが、この期に及んで、よくわからないカネの動きになっている時点で、安倍政権が無能であることは言うまでもありません。国民の命をなんだと思っているのでしょうか。 
 
 
 2020/5

 

●アベノマスク返品の山 5/8
田中「これマスクですか?」
業者「はい」
田中「アベさんのマスクですか?」
業者「そうです」
倉庫には「返品」の貼り紙がついた段ボール箱が山のように積まれてあった。場所は東海地方の水田地帯だ。業者とはアベノマスクの製造業者でも発注元でもない。不良品だったため返品となったアベノマスクの検品を発注元に依頼された業者だ。この業者によれば「数十万枚を10日間かけて検品した」。(数十万枚としたのは、具体的な数字を出すと、どの業者なのか、特定されるからだ)
中国で製造されたアベノマスクは、シミや汚れがあったりしたのが、3分の1もあったそうだ。
この業者が検品しただけでも10万枚は下らなかったことになる。検品した業者は何社もある。一体、どれ位の数が不良品なのか。
A社が縫製業者に出した指示書。右側ピンクの線が生産枚数。アベノマスクの不良品を回収した大手A社は、国内の縫製会社に布マスクの生産を発注した。その数30万枚(厳密には29万6,400枚)。取材班が入手した、大手A社から縫製会社への指示書が、それを示している。アベノマスクは少なくとも30万枚が再発注されたことになるのだ。再発注の莫大な費用は、税金で賄われるのだろうか。
官邸の動向については正確無比のNHKによれば、菅官房長官は8日午後の記者会見で「5月中に(布マスクの)配布を完了させることを目標に取り組んでいる」と話した。マスクは今や100円ショップで入手できる代物となった。供給が需要に追いついたのである。
私たちの血税を投じて、ウイルスの漏れ率100%のアベノマスクを再発注するとすれば、愚策という他ない。 
●安倍首相の主張「アベノマスクで在庫放出に成果」が怪しい訳 5/9 
「こういうものを出すと、今まで溜められていた在庫もずいぶん出てまいりました。価格も下がってきたという成果もありますので、そういう成果はあったのかなぁと思います」
5月6日、ニコニコ生放送「安倍首相に質問!みんなが聞きたい新型コロナ対応に答える生放送」に出演した安倍晋三首相(65)は、いわゆる“アベマスク”の成果についてこう力説した。
安倍首相の肝いりで始まった全世帯に向けた布製マスクの配布政策。一住所あたり2枚ずつマスクが届く予定なのだが、配られたマスクに大量の不良品が含まれていることが発覚。未配分を回収して検品を強化した結果、配布は遅れに遅れているのだ。
厚生労働省の公式サイト「布製マスクの都道府県別全戸配布状況」によると、5月9日時点で「配布中」となっているのは東京都のみ。「5月11日(月)の週から配布開始予定」となっているのが14道府県で、ほかはすべて「準備中」となっている。一方、ツイッターなどでは、4月下旬ごろから市中で不織布マスクを買えるようになったという声が目立つように。その声は日に日に増えてきている。
《近所のスーパーで2日連続でマスク売ってたからマスク不足はかなり解消されてきてる》
《マスクが普通に、スーパーに売ってました。。。値段も298円、マスク不足の時代は終わりですかね?》
《地元のピカソ(ドンキの小型店)でも不織布マスク売ってた もうアベノマスク配る理由ないよな…》
布マスクは不織布マスクと比べてフィルター効果が低いこともあって、466億円もの予算がつけられた“アベノマスク”は無駄だという批判は強い。一方、主に政権支持層を中心にされてきたのがこんな主張だ。
《アベノマスクが 国民に配付されることが決まり これ以上の高値はつかないと ブローカーが、在庫を放出して 不織布マスクの価格が下がり 市場に出回りだしたので大成功》
《マスクを出し惜しみして価格を吊り上げていた業者や悪徳転売屋にダメージを与えてくれたのでアベノマスク効果は絶大であったといえるでしょう》
要は“アベノマスク”配布が決定したことで、価格高騰を狙ってマスクをため込んでいた業者があわてて在庫を放出。そのためマスクの流通量が増え、値段も下がったという理屈だ。最初は主に政権支持層がネットなどで主張してきたものだったが、冒頭のように安倍首相も口にするように。4月28日の衆院予算委員会でも「マスク市場にたいしても、それなりのインパクトがあったのは事実でございまして、業者のなかにおいてはですね、ある種の値崩れを起こす効果にはなっているということを評価する人もいる」と同様の主張をしている。
そもそもマスクを求める長蛇の列ができ、店頭に置けば飛ぶように売れていた時期があったのにも関わらず、在庫を出し惜しみする業者がいたとは考えづらいが……。はたして安倍首相の主張は本当なのだろうか。
日本のマスク不足は新型コロナウイルスのために国内でのマスク需要が高まるとともに、海外からのマスクの流入が減ったことにあった。もともと国内で流通するマスクの約8割は輸入品。さらに財務省貿易統計によると、昨年に輸入された不織布マスクは12万7300トン。そのうち中国産は10万8724トンと、およそ85パーセントを占めていた。
今年1月の不織布マスクの総輸入量は1万5157トンと、昨年同月(1万3010トン)と比べて大きな変化はなかった。だが。これが今年2月になると4732トンにまで落ち込む。これは新型コロナウイルスのまん延でマスク輸出国を含む各国でマスク需要が高まり、日本への流入が減ったためだと考えられる。特に中国からの輸入量の落ち込みは顕著で、中国産が占める割合はおよそ72パーセント(3439トン)にまで低下している。
しかし3月になると、不織布マスクの総輸入量は8697トンに回復。中国産のものが占める割合も80パーセントほど(7001トン)まで回復した。これは中国内でマスクの増産が行われたためだとみられている。新華社3月2日の報道によると、中国共産党の号令で中国内のマスク生産量は急増。2月29日時点で1日当たりの生産能力は1億1千万枚に達したと報じられた。また人民網日本語版3月13日の報道によると中国内のマスク不足は緩和され、この時点で使い捨てマスクの価格は半額程度まで下がったと伝えられている。
5月9日時点では公表されていないが、これまでの経緯をみると、今年4月の不織布マスク輸入量はさらに増えているとみて間違いない。加えてシャープなど複数のメーカーが国産マスクの生産に踏み切っており、日本国内のマスクの流通量は大幅に改善されている。マスクが店頭で見られるようになったのも、これが主要因と考えられる。
実際に複数の報道機関がマスク販売している小売店を取材したところ、マスクは中国から輸入したもので、“アベノマスク”との因果関係を証言した例はなかったという(アエラドット「品薄のマスクが東京・新宿区の雑貨店に山積みされている理由」、ビジネスジャーナル「マスク価格が突然急落した謎に迫る 安倍首相は“アベノマスクの成果”と自画自賛だが…」など)。
“アベノマスク”のために在庫が放出され、価格が下がったと主張する安倍首相。だがこの主張には、今のところ何の裏付けも証言も示されていない。少なくとも配布を止めれば、送料がかかることはない。いま一度、立ち止まって“アベノマスク”について検証してみるべきではないだろうか。 
●アベノマスク発注先の興和とはどんな会社? 5/11
新型コロナウイルス対策として安倍晋三首相が「1世帯あたり2枚配布」とぶち上げた布製(ガーゼ)マスクが不評で、“アベノマスク”と揶揄された。供給元は5社とされ、総合商社の伊藤忠商事、医薬品メーカーの興和(名古屋市、非上場)、アパレルOEM(相手先ブランドの生産)最大手のマツオカコーポレーション(東証1部)、「日本マスク」のブランドで知られる横井定(よこいさだ、名古屋市、非上場)、そしてバイオマス発電向けの木製パレットの輸入業者ユースビオ(福島市、非上場)だ。
政府の公表が遅れたのがユースビオ。登記された場所には会社の看板がなく、過去に社長が脱税で福島地裁で執行猶予付きの有罪判決を受けていたことも話題となった。
アベノマスクは出足からつまずいた。布マスクは介護施設や妊婦向けに2000万枚、全世帯向けに1億3000万枚を政府が調達。1世帯2枚ずつ配布する計画で、東京都内では4月17日から配布が始まった。伊藤忠と興和が供給したマスクの一部から黄ばみや黒ずみなどの汚れが見つかり、両社は未配布分を全量回収することを決めた。
興和の三輪芳弘社長は「週刊文春」(文藝春秋/5月7日・14日合併号)で、「完全な逆ザヤ。絶対に利益は出ません。(中国へ)飛行機を何十往復も飛ばしていますし、持ち出しです。これで批判まで受けたら正直たまらんですよ」。安倍首相との関係が云々されているが「全然知らない」とした。
胃腸薬の「キャベジンコーワ」、かゆみ止めの「ウナコーワ」など消費者に知名度の高い製品を世に送り出しているが、三次元マスクもつくっている。興和は今年3月、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、ガーゼマスクを新たに生産すると発表した。国内・海外の工場で3月に1500万枚、4月に5000万枚の生産を目指すとした。政府の補助金を活用し、使い捨て不織布マスクの増産に向け設備投資をした。
アベノマスクの受注額は興和が約54.8億円でトップ、伊藤忠が28.5億円、マツオカコーポレーションが7.6億円。3社のなかで興和が6割を占めた。
一般薬連のお家騒動
新型コロナウイルスの感染拡大で揺れる最中、“コップの中の泥仕合”と皮肉られた医薬品業界団体の民事訴訟がようやく決着した。市販薬を手がける業界5団体で構成される日本一般用医薬品連合会(一般薬連)のお家騒動である。
原告団体「日本一般用医薬品連合会(代表者会長 柴田仁)」は、被告団体「日本一般用医薬品連合会(代表者会長 三輪芳弘)」を相手取り、名称及びロゴマークの使用差し止めなどを求め、2018年11月21日、東京地裁に訴えを起こしていた。原告団体の一般薬連は3月4日、裁判が終結したと発表した。
<本件訴訟につき、本日(2020年3月4日)、被告団体から請求認諾書が提出され、請求の認諾により、当会の請求が全て認められる形で終了しましたことをお知らせします>
その請求とは以下のとおり。
(1)「日本一般用医薬品連合会」の表示を、被告団体は使用してはならない。
(2)ロゴマークについて、被告団体は使用してはならない。
(3)銀行口座の預金債権は、被告団体ではなく、原告団体に所属する。
(4)被告団体が訴訟費用を負担する。
原告団体の全面勝訴。全く同じ名前の団体が2つ存在するという異常事態が続いていたが、ひとまず解消した。
キャベジンの興和と正露丸の大幸薬品の対決
一般薬連の会長人事が混乱の発端だった。16年5月から一般薬連の会長を務める三輪氏は、18年5月末で任期切れを迎えるはずだった。ところが、5月14日に続投の意思を表明した。
三輪氏の強引な組織運営に不満が続出。反三輪派の一般薬連幹部が5月19日、会則で定めた「会長に事故ある事態」に当たると主張し、緊急理事会を招集。構成5団体が推す柴田仁氏(大幸薬品会長)を同日付で会長とする人事案を24対1の賛成多数で決めた。その後、興和が一般薬連に派遣していた出向者2人を解任した。
これを不服とした三輪氏は会長選の手続きに問題あるとして、勝手に事務局を運営したことなどを理由に、元厚労省審議官(医薬担当)の黒川達夫理事長を解任。柴田会長と黒川理事長を名誉棄損で訴えるとともに、あらためて三輪氏自身を会長とし、一般薬連の名称はそのまま使用することにした。
三輪氏が招集した理事会に出席したのは理事33人のうち興和出身の2人の理事のみ。この場で三輪会長の続投と出席した2人を除く全理事の辞任を決めていた。これで同じ名称の一般薬連が2つ、会長が2人存在。事務所も2つある異常事態に陥った。柴田氏側は18年11月、三輪氏側を被告として、「一般薬連」の名称使用の差し止めを求めて東京地裁に提訴したのである。
紡績会社から医薬品メーカーに大変身
興和は1894年、名古屋市で創業した綿布問屋が前身。紡績業に進出し、興和紡績として名古屋証券取引所と大阪証券取引所に株式を上場していた。09年12月、三輪氏が代表取締役を兼務していた興和紡がマネジメント・バイアウト(MBO)のためのTOBを実施。10年に興和紡績は上場廃止。興和紡が興和紡績を吸収合併した。創業事業である紡績は行っていない。
興和紡は興和グループの持ち株会社の性格をもち、興和の24.12%の株式を保有する筆頭株主(19年9月末時点)。現在の興和は1939年、商工分離の国策により、紡績会社の商事部門が分離して設立されたカネカ服部商店がルーツだ。60年に興和に商号変更している。54年、興和新薬を設立して製薬業に進出して以降、医薬品事業が主力となる。2019年、興和新薬を興和が吸収合併した。興和は上場していない。
19年3月期の連結決算の売上高は前の期比0.5%増の4365億円、純利益は19億円の黒字(前期は11億円の赤字)に転換した。18年3月期は、傘下の百貨店、丸栄の閉店に伴う損失を100億円規模で計上したことが響き赤字に転落していた。
名古屋の繁華街、栄地区の復権に挑む
三輪社長が今、力を入れているのが、老舗百貨店丸栄跡地の再開発だ。丸栄は約400年の歴史を持ち、かつては松坂屋や名鉄、三越と共に名古屋百貨店の「4M」と称された。だが、00年、JR名古屋高島屋が開業すると、名古屋の消費の中心は栄地区から駅前に移った。今では「高島屋1強時代」といわれ、名古屋の百貨店売上高トップを独走している。業績不振が続く丸栄は興和に支援を要請した。興和は出資比率を徐々に増やし、17年に完全子会社とした。それでも業績は低迷し、18年6月、閉店に追い込まれた。
三輪社長は19年5月、丸栄跡地を3階建ての商業施設にすると発表。「2020年末に食を中心とした施設を完成させる」と表明した。さらに、隣接地のビルを解体し、大型の施設をスクラップ・アンド・ビルドする計画だ。かつて名古屋随一の繁華街だった栄地区の復権に力を入れる。だが、市の中心部にあった繁華街が、栄光の座を失った後、返り咲いた例はない。三輪社長の決断は吉と出るか。一般薬連での独走にみられるような不安がつきまとう。 
●アベノマスク「耳が痛くて使えない」 呆れた実態 5/12
異形≠フマスクに困惑する現場
「先月中旬に届いたのですが、手に取ってみて、『えっこれなの?』というのが第一印象でした。変わった形の布マスクだったし、1つの袋に10枚が重ねて入っていたからです。スタッフや介護サービスの利用者に1人ずつ配ってください、という厚労省からの文書が添えられていました。でも新型コロナウイルスで衛生面にとても敏感になっている今、そのまま手渡しするなんて考えられません」
困惑した表情でこう話してくれたのは、神奈川県で訪問介護の事業所を運営する男性である。4月末に掲載された拙稿「福島の無名会社『アベノマスク』4億円受注の謎」(2020年4月30日配信)を読み、連絡をくれた。
男性は、布マスクを1つずつ封筒に入れ直し、「洗ってから使ってください」と伝えて渡したという。
いわゆる「アベノマスク」といわれて思い浮かぶのは、閣僚の中で唯一、安倍首相だけが装着している、あの少し小さめの古典的なガーゼマスクだ。
しかし、男性の介護事業所に届いたマスクは、2つ折りの状態で半円形をしていた。広げると鼻と口に当たる部分が突き出た立体的な形状になる。素材はガーゼではなく、滑らかな肌触りの布を使用していた。
パッケージのラベルには、「抗菌布マスク」「30回洗濯しても抗菌効果維持!」と日本語で表記されている。ベトナムのアパレル会社が製造したマスクだった。
「このマスクは、耳に掛ける部分がゴムじゃないんですよ。布を折り返して縫ってあるので、伸びないのです。これが目一杯」
男性がそのマスクを装着しながら、説明してくれた。
記事冒頭の写真のとおり、耳に掛けるひもが短く、耳の付け根までしっかりと掛けることができない。さらには、耳に当たる部分の伸縮性がない。この男性に無理矢理マスクを装着してもらったせいか、数分した経っていないのに耳がうっ血して赤くなってきた。
顔のサイズには個人差があるので、大半のマスクは耳に掛ける部分にゴムなどの伸縮性がある素材を使用している。だが、このマスクは耳に掛ける部分も布。これでは顔が小さい人しか装着できないだろう。
「私の妻も一緒に介護の仕事をやっているんですけど、妻はなんとかこのマスクを装着できます。でも、私の事業所を利用している方の6割以上が男性ですから、装着できない人は多いはず。これでは税金の無駄遣いでしょう」
東京都内で訪問看護の仕事をしている女性の看護師にも、同じベトナム製のマスクが2枚配布された。
「薄くて子供の肌着のような布ですね。マスクのサイズにバラつきがありますし、長時間着けていると、耳が痛くなって泣けてくるほどです。マスクの内側にガーゼを入れて使っていますが、機能面での不安もあるので、痰の吸引や口腔ケアなどの感染リスクが高い看護では使い捨てのサージカルマスクを使っています」
SNSには全国各地の介護事業関係者たちが投稿した、このマスクに対する不満や困惑のコメントがあふれている。その多くが装着画像付きで、それを見ると実際の使用に耐えない様子がうかがえる。
つまり製造ロットや、個別の1つ1つに発生した不具合ではなく、仕様そのものに問題がある、とみるべきだろう。
ベトナム製マスクを輸入した社長の主張
国から配布された2種類のマスクを広げて、サイズを計測してみた。1つは安倍首相が使っているようなガーゼマスク。実際に装着したときをイメージして、ゴムを少し伸ばすと、全体の横幅は約33センチだった。もう1つは、介護施設などに配られた、このマスクだ。横に広げようとしてみるが、ほとんど伸びず約28センチ。その差は約5センチもあったのである。
調べてみると、ベトナム製のマスクを納入したのは、厚労省がかたくなに社名の公表を拒んでいた福島市のユースビオ社が、輸入していたものだと判明した。
社長の樋山茂氏に、あらためて電話で経緯を聞いた。
──ガーゼマスクとは異なる形状のマスクを納めた理由は?
それはお答えする義務はないので、お答えしません。うちはこれが調達できただけです。以上です。
──立体的な形状にしたのは、樋山さんの考え?
ベトナムマスクは、みんなあのカタチです。
──耳に掛かる部分が伸びないが、これもベトナムマスクだから?
そうですね。
──男性が使用するにはサイズが小さいのでは?
サイズは厚労省が決めたものであって、私が決めたものではありません。
──国からの仕様書があった?
違います。うちで30種類のサンプルを出しました。SMLと耳の長さが違うものを出して、「それがいい」と(厚労省のマスクチームに)言われたものをウチが納入したんです。国が決めたんです。
──サイズに関しては、問題ないと?
それはお客さんの注文ですからね。あと、洗うと伸びますからね。
──洗うと伸びる? 縮むのでは?
うちのは一度洗っているので、縮まないです。
──ご自身は、あのマスクを使用された?
ございます。今も使っていますよ。
樋山氏は、契約の経緯はほかのメディアに全部話したので、その記事を読んで書けばいいと繰り返し言った。きっと自分の主張をそのまま書いてくれる記者は、都合がよい存在なのだろう。だが、私はその言葉を額面通り受け取ることはできない。
アベノマスク は、樋山氏のユースビオ社だけで約4億7000万円、5社総額は約100億円という多額の税金が投入された事業だ。配布されたマスクが、実際は使い物にならない、という苦言が相次いでいる以上、責任の所在を明確にしないと再び同じことを繰り返すことだろう。
ベトナムでも耳の部分は当然伸縮する
アベノマスクの形状や、耳の部分に伸縮性がなく男性には掛けづらい理由について、樋山氏は「ベトナムのマスクだから」と答えた。
果たして本当なのか? ベトナムでの撮影経験が豊富な日本人カメラマンに聞いてみると、ベトナムのマスク事情の一端がわかった。ベトナムでは、大きく2種類のマスクが使われているというのだ。
「首都ハノイの中心部などは、車やバイクによる大気汚染がひどいので、排ガス対策用として、耳のあたりまでカバーされている横長のマスクを着けている人は多く見かける。
それとは別に、薬局で売っている感冒用のマスクは、日本と大差ないタイプ。アベノマスクとして輸入されたのは、(排気ガス対策用として)たくさんデザインされている1つであって、ベトナムのマスクがすべて同じようなデザインではない」(日本人カメラマン)
その彼に教えてもらったウェブサイトには、ベトナムで売られている多種多様のマスクが紹介されていた。日本円で1つ50円から100円程度。布の柄に凝ったものもあり、日本の手作り布マスクにも似ているが、これらはベトナムでは排ガス対策用として使用されているという。
介護施設などに配られたマスクと同じような、耳に掛かる部分も布製であるマスクが、確かにベトナムでも売られていることがわかった。ただし、大半は伸縮性のあるゴムなどが使われているという。どの国でも顔のサイズに個人差があるので、当然のことだ。
それなのに、樋山氏はサイズ調整がきかない仕様で、ベトナムの会社に製造させた。可能性として考えられるのは、サイズを犠牲にした、コストダウンである。
また、以前の取材に対して、ユースビオ社にはマスクの製造や販売経験はないと、社長の樋山氏は答えている。
マスクは、「感染拡大の防止」が目的のはずである。その重要な目的を担うマスクの供給を、素人というべき会社に依頼したのは、厚生労働省だった。
厚労省マスクチームのあきれた回答
冒頭の介護施設に送られてきた、ベトナム製のマスクに添付されていた、厚労省医政局経済課の文書には、布マスクの配布に関する問い合わせ先の電話番号が掲載されている。男性には小さすぎて、うまく装着できないことが続出していることについて、どう対応しているのか尋ねてみたが、話がかみ合わない。ベトナム製の立体的なマスクの存在自体を把握していないというのだ。
詳しく聞いてみると、電話対応をしているのは、厚労省の職員ではなく、マニュアルに従って答える外部スタッフだった。厚労省経済課には、通称・マスクチームが設置されている。経済産業省、総務省、文部科学省などからの応援も加わった混成部隊だ。4月からマスクチームに加わった職員にベトナム製のマスクについて尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「介護施設など55万カ所に向けた、布マスク2000万枚は、4月下旬までに1回目の配布を完了しました。(クレームは?)いただいていないと思いますね」
厚労省にクレームが届いていないというのは信じがたいが、もし本当だとしても不思議ではない。なぜなら厚労省は許認可や介護保険の請求などで、介護施設などに対して、絶大な権力を持っているからだ。仮にクレームを上げて厚労省ににらまれたら、事業運営で不都合が生じる可能性がある。
「ユースビオ(ベトナム製)のマスクが、個包装ではなかったというご指摘ですが、3月に調達したマスクは各社様も同じく個包装ではありませんでした。スピードを優先したからです。3月の調達分に関しては、こちらから仕様書は示していません。立体式というか、ガーゼマスクじゃない形状は、ユースビオさんだけでした」(前述の厚労省マスクチームの職員)
サイズ調整ができず、装着できない人が多数出ている、ユースビオ社のマスク。多額の税金をドブに捨てたに等しい。社長の樋山氏は、厚労省がサイズを決めたと明言していたが、実際はどうなのか。
「いちおうサイズは実物で確認して、厚労省の男性職員が何人か着けたうえでお願いしていたみたいです。皆さんにぴったりのものは、この急ぎの中でご用意はできないので、ガーゼマスクも含めてワンサイズです。サイズが(合わない)というご指摘が別途あるので、いちおう大人用として調達したものですというのがわれわれのお答え。顔が小さい方もいらっしゃるし、大きい方もいらっしゃるんで、ぴったりにはなっていないということ」(前述の厚労省マスクチームの職員)
反省することは微塵もない、という姿勢だ。さらにこの担当者は、驚くべきことを口にした。
「1回目として、約2000万枚を55万カ所の施設に配布済みなので、2回目、3回目の布マスク配布もやろうと今は準備をしています」
なお、ユースビオ社は厚労省の追加発注には応じない方針だという。その理由とは─―。
「ちゃんとしたものを納めたのに、こういう取材やらで嫌になりました。はい。国民のためにと思ってやったけど、嫌になりました。なので、みなさんのせいでやめます」(樋山社長)
布マスクはこれから本当に必要か?
くしゃみをした際、マスクの種類によって効果に違いがあることを、可視化した動画が公開されている。制作したのは、研究機関やテレビ局に可視化計測の技術を提供している、カトウ光研だ。
最も効果が高いのは、「不織布を使用したサージカルマスク」。ほとんど飛沫は漏れていない。これに対して布製の「ガーゼマスク」(安倍首相が使用しているものに近い)では、飛沫が30センチ以上先に届いている。なお、若者に人気のウレタンマスクに至っては、布マスクより大量の飛沫を通過させていた。
マスクを装着する第1の目的は、他者への感染を防ぐことだといわれているが、ガーゼマスクの効果は、決して高いとはいえないことがわかる。
一時期は、入手が困難だった「サージカルマスク」だが、今月に入ってからスーパーや量販店でも見かけるようになった。
横浜市の繁華街である関内では、洋品店に大量のサージカルマスクが積まれていた。ここの店長によると、3月上旬には、50枚入りで8000円から9000円(税抜)でも売れていた。それが今月11日時点で、2800円(税抜)。実に3分の1以下になっている。
さらに同じ横浜市内の伊勢佐木町では、中華食材店で50枚入り2200円(税込)のサージカルマスクが山のように積まれていた。
安倍首相は、マスクの下落や流通が始まったのは布マスクの配布による効果だという見解を示した。(5月6日 ニコニコ生放送での発言)
「アベノマスクを着けている人はほとんど見ない」
だが、横浜の洋品店の店長はこう話す。
「4月後半から、中国からのマスク供給が一気に増えてきました。今は他店との価格競争になっていて、毎週値段を下げないと売れなくなりました。アベノマスクの効果? 私にはわかりませんが、付けている人はほとんど見ないですよね」
国は「介護事業所や保育園など」以外に、「妊婦用に約50万枚」「約6300万世帯の全住所」に布マスクを配布する計画だが、不良品が続出したことで配布が停止していた。
ようやく再開したものの、全住所のうち配布が完了しているのは、わずか610万枚でしかない(5月12日午前時点)。
新型コロナ対策として、これからの布マスク配布に意味はあるのか。今こそ、費用対効果を検証する必要があるだろう。 
●アベノマスク「隠されていた30億円受注」の疑念 5/20 
あれほど入手困難だったマスク。今月中旬ごろからは需給が緩和され、価格も低下してきた。その中で、新型コロナウイルス対策として登場した「アベノマスク」こと、政府の「布マスク」配布計画は、完全に周回遅れとなった感が否めない。全6300万世帯に配布予定のうち、届いたのは1割以下だ(5月18日時点)。
先行して介護施設等に届けられたベトナム製「布マスク」は、耳掛け部分の寸法が短すぎるうえ伸縮性がなく、装着できない人が多いという。それなのに、ベトナム製「布マスク」の第2回配布のために、約30億円の契約が結ばれていたことが判明した。
そもそも感染リスクが高いとされる現場で、布マスクの使用は適切なのか、聖路加国際大学・大西一成准教授に実証実験を依頼した。
これまで「福島の無名会社『アベノマスク4億円受注』の謎」(2020年4月30日配信)、「アベノマスク『耳が痛くて使えない』呆れた実態(2020年5月12日配信)と報じてきたが、次々と明らかになるアベノマスク問題の追及・第3弾をお伝えする。
医師も誤解しているマスクの機能
「マスクは他人に感染させないための道具。マスクは新型コロナウイルスを通すので予防はできない。だから、元気な人は基本的にマスクをつける必要はない──」
今年2月まで、感染症に詳しいと称する医師が、新聞やテレビで「マスク不要論」を盛んに主張していた。その影響もあって、マスクの装着効果を過小評価している人は少なくない。
日本では数少ないマスクの研究者である、聖路加国際大学の大西一成准教授(公衆衛生学)は、医師の一部に誤解があると指摘する。
「防じんマスクや、サージカルマスクでPFE試験(※)をパスした不織布でも、0.3マイクロメートル以下(1マイクロメートル=1/1000mm)の隙間があります。そのため、『0.1マイクロメートル以下の新型コロナウイルスは、不織布を通過してしまう』と話される方がいますが、それは大きな間違いです。
飛沫として外に出てくる新型コロナウイルスには、水分が付いており、0.1マイクロよりも大きい状態になるからです。それに、不織布はミクロのレイヤーがランダムに何層にも重なっており、例え0.1マイクロメートルでも、微粒子の不規則な動きであるブラウン運動によってほぼ100%カットできるということが私の研究でわかっています」
ここで注意したいのは、不織布のこの性能はあくまでも実験環境の下での数字ということだ。大西准教授によると、マスクの機能は、「フィルター性能」と「顔のフィット」の2つが重要になるという。
つまり、どんなにフィルター性能が高くても、顔にフィットしていなければ意味がないのだ。
漏れ率100%だった、アベノマスク
マスクを装着した状態の機能を評価するのが「フィッティングテスター」である。空気中に漂う0.3マイクロメートルの粒子量を、マスク内部と外部を約12秒間ずつ測定、その数値差を「漏れ率」として表す。
大西准教授が勤務する聖路加国際大学は、緊急事態宣言により通学停止中であるため、遠隔会議システムのzoomを利用して、実証実験を行ってもらった。
実際に届いたアベノマスクは、ガーゼを15枚重ねた構造になっている。まず、大西准教授は、一般の人が装着した状態をイメージして測定。結果は、漏れ率100%だった。
そこで、アベノマスクの周囲を押さえて顔にフィットさせて再測定すると──。
「漏れ率89.58%ですね。ガーゼ1枚の網目は500マイクロメートルですが、15枚重ねているので、粒子を約10%カットしていることが観察されました」
そして、介護施設等に配布された、ベトナム製布マスクを測定しようとしたのだが、これが想像以上に大変だった。
「僕には小さすぎますね。いや厳しいです。これで男女兼用のワンサイズですか?」
大西准教授には、無理やりマスクを引っ張って装着してもらうしかない。
「耳がひしゃげてますけど、なんとか付けました。あごがしっかり覆われていてフィット感はいいです。では測定を開始します」
結果は、漏れ率100%。そこで、ガーゼマスクと同様に周囲を押さえ込んで隙間を塞いで測定すると──
「やっぱり100%です。このマスクは、ブリーフみたいな生地を2枚重ねているだけですし、隙間が目で確認できる。おそらく100マイクロメートルくらい、髪の毛1本通るほどです」
今回の実証試験では、ガーゼマスクの場合、外の粒子の吸い込みを約10%程度ブロックしていたが、ベトナム製マスクにこうした機能は、ほとんど期待できないことがわかった。
大西准教授は、ほかにマスクがない場合のみ、つける意味はあると言う。
「マスクには、感染予防の重要な機能が4つあります。1つ目は外の粒子を取り込まないフィルター効果。2つ目が感染している人がウイルスを飛ばさないこと。3つ目がのどの保湿と保護。4つ目がウイルスで汚染されている手で顔を触らないこと。
このベトナムマスクは、1つ目の観点で×(バツ)、2つ目の観点で△(三角)、3と4の観点では〇(マル)という感じです。ただし、感染リスクの高い場所での使用は絶対に勧めません」
あまり知られていないが、大西准教授によると、のどの粘膜が乾燥するとウイルスに感染しやすくなるので、のどの保湿は大切だという。
マスクの特徴と限界を踏まえて、使う場所と状況に応じて正しく使い分けることが重要だ。
隠されていた30億円の契約
感染予防としてのフィルター性能は、ほとんど期待できないことがわかったベトナム製布マスク。現地では、排気ガスが直接顔にかかるのを防ぐために普及しているタイプだ。つまり、新型コロナウイルス対策のマスクとしては、目的外使用というべきだろう。
確かに、店頭からマスクが姿を消して入手困難な時に、緊急措置として輸入するなら、仕方がない側面もある。しかし、現在はフィルター性能が高い不織布のサージカルマスクが、苦労せずに入手可能になった。
アベノマスク問題を国会で追及している、参議院の福島みずほ議員(社民党)による情報公開の要求に対して、5月11日付で厚労省マスクチームが提出した資料がある。そこには、意外な事実が記されていた。
ベトナム製布マスクを輸入している、ユースビオ(福島市)は、2021年度予算で、新たに約30億円の契約を結んでいたのだ。
今月10日、厚労省の追加発注に関して、樋山茂社長に尋ねたところ、次のように答えている。
「ちゃんとしたものを納めたのに、こういう取材やらで嫌になりました。国民のためにと思ってやったけど、嫌になりました。なので、皆さんのせいでやめます」
また、厚労省マスクチームの広報担当者は、5月12日の取材に対して、こう述べていた。
「ユースビオのマスクは、介護施設等に第1回目の配布分で完了した。これから第2回目、第3回目の配布を予定している。新しい契約はあちら(ユースビオ)がされないと、オープンに言ってらっしゃるので難しいのではないか」
その後の取材で、約30億円の契約分は、4月15日に納品が完了していたことがわかった。
ユースビオに関して、報道が相次いだのは4月27日から5月上旬。これまで、同社と厚労省は、約30億円の契約について一切触れようとしなかった。
取材が殺到したから、国のマスク事業はもう受けない、とした樋山社長の言葉は一体何だったのか?
樋山社長は、今後取材を受けないと宣言しているため、同社の代理人である弁護士にメールで質問を送ったところ、次のような回答が届いた。
「樋山氏が岩澤様に話したものは、下記の記事に関するもので本年5月以降に関するものと思われます」。記事とは、今月3日付の週刊朝日オンライン版で、樋山社長の主張をずいぶんと丁寧に掲載している。そこにも「政府からまたマスクの納入を頼まれたとしても、もうやりたくありません」と記されていた。つまり、約30億円分の納品は4月15日に終わっているので、5月以降については新たに受けない趣旨だという主張なのだろうか。しかし、この記事でも樋山社長は約30億円の契約に触れていない。
ユースビオも厚労省も、4月下旬以降、ユースビオの受注額は約4.7億円という説明を続けてきた。そのためマスメディアや国民は、この金額がすべてだと思うのが自然だろう。約30億円の受注が判明したのは、5月11日付の福島参院議員への資料。厚労省マスクチームは5月12日の、私の取材に対しても、「第1回目の配布で完了した。新しい契約はしないはず」という言い方で、約30億円の契約について言及しなかった。
厚労省「2回目の契約といったご質問はなかった」
納得がいかない私は、5月18日に厚労省マスクチームにあらためて電話をした。
──これまで、ユースビオの契約内容について、繰り返しお尋ねしたが、あなたは30億円の契約に関していっさい触れなかった。それはなぜか?
厚労省担当者「ご質問の中で、介護施設の2回目の契約といったご質問はなかったからだと思います。ご質問いただいたものには、正確にお答えしているつもりなので」
──5月8日の電話で、あなたは「介護施設等に、2回目、3回目の配布も考えている」と話していた。しかし、その時点でユースビオと30億円の契約も済ませ、納品も済んでいたのでは?
厚労省担当者「そういうことになりますね」
──なぜ、まるで未確定のような表現をされたのか?
厚労省担当者「うーん、すみません。2回目3回目も考えているのは、まさにその通りなので。この契約日は、今(5月18日になって)ちゃんと聞いたので」
のれんに腕押しだった。
この厚労省マスク班の担当者は、30億円の契約でもベトナム製布マスクのデザインに変更はないこと、ただし、現行サイズに大きめのサイズも加えたことを明かした。
キャリア25年になる訪問看護師は、再びベトナム製布マスクが配布されると聞いて、すっかりあきれていた。
「あのマスクは、今の職場にいる私を含めた6人の看護師は誰も使っていません。全員が不織布の使い捨てマスクを使っています。誰のために国が購入して配るのでしょうか」
介護施設を運営する男性も、必要なのは布マスクではないと断言する。
「同じ布マスクなら、もうやめてもらいたいです。もし配布するならサージカルマスクのほうが役に立ちます」
前出の福島参院議員は、アベノマスク事業を中止すべきではないか、と指摘している。
「もう布マスクを配布する必要性はなくなりましたよね。それなのに、布マスクにこだわる理由がわかりません。税金の無駄遣いです。それに、不良品の検品に総額8億円の予算をつけていることがわかりましたが、これも絶対におかしい。検品なんて、納める企業の責任でしょう」
今月14日の厚生労働委員会で、なぜ布マスク事業にこだわるのか、という福島議員の質問に対して、厚労省の官僚はこう述べていた。
「医療機関に優先的に医療マスク(サージカルマスク)を確保するため、一般には布マスクでお願いする」
医療用マスクの不足はなお続いている
5月19日、私は東京都内で、新型コロナの治療にあたる都立病院の医師に会った。マスク事情について聞くと、彼は苦い表情を浮かべて首を横に振った。
「サージカルマスクやN95マスクの不足は、今も続いています。どうして改善しないのか、不思議です。マスクを使い回すなんて、感染リスクを考えたら絶対にやるべきではありませんが、仕方がありません」
医療現場にサージカルマスクを優先的に供給するため、国民に布マスクを使わせる、という大義名分は一体どこにいったのだろうか。
高い機能を持つマスクを正しく使えば、新型コロナから命を守ることも可能だが、国が配る布マスクには、もともとそのような機能はない。
はっきりしたのは、布マスクに多額の税金が注ぎ込まれるのは、国民の命を守るためではない、ということだ。
政策決定のプロセスが不透明で、国民や医療現場の要望に耳を貸そうとしない。このアベノマスクには、政府の新型コロナ対策そのものが、投影されているように思えてならない。 
●アベノマスク 実績ない企業に30億円 5/20 
新型コロナウイルス対策として安倍晋三首相の肝いりで政府が配布し、「アベノマスク」とも呼ばれている布マスク。受注企業6社すべてが入札を経ない随意契約ですが、マスク事業の実績がない企業にも30億円超の発注をしています。その理由を追うと―。
厚生労働省のマスク等物資対策班(マスク班)によると、11日までの6社の契約額は、興和=約76・3億円、ユースビオ=約31・8億円、伊藤忠商事=約31・1億円、マツオカコーポレーション=約9・6億円、シマトレーディング=約3・1億円、横井定=約0・1億円です。
政府は計466億円をかけて、福祉施設や幼児施設、約5000万の全世帯に布マスクを配布する計画です。
マスク班によると、契約額2位のユースビオ(福島市)はシマトレーディング(千葉県富里市)と共同で受注。ユースビオが原料となる布の調達、シマトレーディングが製造・輸入という形で3月16日に契約したといいます。両社とも、政府がなかなか社名を公表しなかった企業です。
ユースビオ代表取締役の樋山茂氏は本紙の取材に、「価格は1枚135円で受注した。ベトナムから輸入した」といいます。
ユースビオは2017年に創業した再生可能エネルギー原料の販売会社。資本金は1千万円で、NTTの電話番号案内には未登録です。シマトレーディングは植物の輸入商社。両社とも法人登記にマスク関連の事業は書かれていません。
なぜ実績もない企業が突然、政府と30億円超の随意契約をすることができたのか―。
マスク班の担当者は「社長さんからマスクの確保が可能だという話を聞いたので、サンプルを提供してもらいました。それ以前のやりとりはなかった。海外にネットワークを持ち、実績がなくとも信頼をして発注した」といいます。
随意契約とした理由については、「迅速性を優先して緊急随意契約という形になった」(マスク班)としています。
ユースビオはどうやって政府につながったのか―。
樋山氏は、政府と契約する前から山形県に調達する予定で話が進んでいたとして、こう説明します。
「山形県の職員から『国が一括して発注することになったので、経産省に連絡してください』と言われた」
ところが、山形県の担当課長は、「県としてマスクの確保に動いていたのは事実ですが、ユースビオの社名が出たことはありません。もちろん国に同社を紹介した事実もない」と否定します。
ユースビオの事務所には公明党のポスターがはってあります。15年には樋山氏が、同党の若松謙維参院議員の政治団体に12万円を献金していました。
樋山氏は、若松議員と親交や献金があったことを認めたうえで、「3年前に国税庁に脱税を指摘されたことを契機に若松議員の後援会を辞めた。癒着など疑われるような関係は一切ない。口利きもない」と語りました。 
 
 
 2020/6

 

 
 
 
 2020/7-

 

●Go To、アベノマスク…愚策で国民を翻弄する「陰の総理」今井氏の末路  7/21 
血税を使いながら、お粗末極まりない景気刺激策
今井尚哉たかや(61)という男がいる。肩書は内閣総理大臣補佐官。週刊ポストは安倍官邸の「陰の総理」と呼んでいるが、彼の肉声はほとんど聞こえてこない。今井の下にいる経済産業省の後輩、佐伯耕三秘書官は、週刊文春が「官邸の金正恩」と呼ばれていると書いている。
一強といわれ、長期政権を続ける安倍首相を差し置いて、「陰の総理」がいるということは、安倍首相は単なるお飾りで、日本を動かしているのは今井補佐官ということか。だがいろいろな報道をつぶさに見てみると、しょせん虎の威を借る狐に過ぎないようである。
週刊誌報道によると、森友学園の国有地払い下げの経緯をまとめた文書を改ざんしろと命じたのも、ポスト安倍の有力候補になってきた菅官房長官をスキャンダルで潰しにかかったのも、酷評されたアベノマスクを配ったのも、電通と組んでコロナ対策事業のカネの中抜きをしたのも今井とその一味ということのようである。
極めつきは「Go To Travel キャンペーン」であろう。後で触れるが、国民の血税を湯水のように使ってお粗末極まりない景気刺激策を考え、地方の首長たちからも痛烈に批判されたのである。
朝日新聞(7月20日付)の世論調査では「Go To」に対して、22日から始めることに74%が反対している上、「開始時期や対象地域を決めるまでの安倍政権の一連の対応も『評価しない』が74%を占めた」。またコロナ感染拡大防止に向けて、安倍が「指導力を発揮していない」が66%、安倍内閣の支持率は33%だった。
今井程度の人間を安倍首相はなぜ重用しているのか。その疑問を解くカギは今井の経歴にあるようだ。
今井氏のおじと岸信介の関係
今井は東京大学法学部を卒業して通商産業省(現経産省)に入省する。主として産業政策やエネルギー畑を歩んでいる。この経歴が、3.11の福島第一原発事故の後、再稼働を進めたい安倍の意を汲んで、関西電力大飯発電所の再稼働に尽力することにつながる。
第一次安倍政権の時、内閣官房に出向して内閣総理大臣秘書になったことで、安倍に認められていくのだが、今井と安倍は昔からつながりがあった。今井のおじには今井善衛元通産事務次官と、新日本製鐵会長と経団連会長を歴任した今井敬がいる。安倍の祖父の岸信介と善衛は商工官僚同士だった。同じエリート育ち、そんな思いもあって安倍も今井に胸襟を開いていったのではないか。
だが、安倍は持病の潰瘍性大腸炎もあり、突然辞任してしまう。失意のどん底にいた安倍を誘い出し、ゴルフや山登りに誘ったのが今井だったという。今井にしても、安倍が再び政権へ返り咲くとは考えていなかっただろうから、この時期にある種の友情が芽生えたのかもしれない。予期せぬ第二次安倍政権発足後、安倍は今井を政務担当の総理秘書官に就かせる。
ここから政権が長期化するにつれて、今井も自分の権力を拡大していく。
側近でさえ今井氏の許可なしには首相に会えない
中でも今井が一番熱心だったのは、江戸時代の五代将軍徳川綱吉に仕えて権勢をほしいままにした側用人・柳沢吉保のように、「主への情報の出入りを時に遮断し、時にねじ曲げ、主の寵愛と権力を得た」手法を真似たのだと、週刊現代(7/18号)が書いている。
「総理の日程を管理する秘書官を兼務しているのがキモです。総理の指示を下ろすのも、総理が相談するのも、情報を集約して総理に上げるのもすべて今井さん。総理は今井さんの切れ者ぶりに惚れ込み、任せきっている」(自民党中堅議員)
どんなに安倍側近を自任する人間だろうが、今井が認めなければ、安倍との面会はかなわないそうである。
昔、田中角栄の秘書に早坂茂三というのがいた。東京タイムズ出身だったが、態度の大きなことでは、オヤジの角栄を凌いでいた。
だいぶ前になるが、私が角栄のインタビューの了解を取り、社から出ようというとき、早坂から電話がかかってきて、「オレを通していないからインタビューはさせない」といわれ、ドタキャンされたことがあった。今でもそのことを思い出すと怒りに震えてくる。
早坂がいなかったら、角栄の評判はもう一、二段上がっていただろう。
外交のブレーンに「涙目」で口答えする
今井の話に戻ろう。彼の戦略は、安倍に徹底的に忠誠を尽くしながら、自分の敵になりそうな人間を潰していくというものだ。
安倍のインテリジェンス分野のブレーンは、元外務次官で初代国家安全保障局長の谷内正太郎だった。
17年5月、自民党の二階俊博幹事長が安倍の親書をもって中国の習近平国家主席を訪れた。その時同行した今井が、親書の一部を勝手に書き換えてしまったそうだ。
「これに谷内が激怒、今井の帰国後、官邸で口論となった。今井は興奮のあまり、目に涙を浮かべながら谷内に口答えした」(外務省キャリア)
だが、自分の書いた親書を部下が勝手に書き換えたのを叱責するのは安倍のほうであろう。安倍はそれをしなかった。あるいは、元々今井が下書きを書いたのかもしれない。
この喧嘩、谷内の負けである。谷内の対中・対ロ外交が手詰まりになると、安倍は外交の打開策まで今井に聞くようになったという。
昨年9月、谷内は局長の座を降りた。
谷内が退場すると、今井のターゲットは菅義偉官房長官に向いた。「令和オジサン」などといわれ、陰険で底意地が悪そうだと一般受けしなかった菅が、一躍、ポスト安倍の先頭に躍り出たのである。今井がこれを露骨に警戒したというが、それはそうだろう。安倍との仲がぎくしゃくしている菅が首相になれば、自分の居場所はなくなる。
「菅からの宣戦布告」ととらえ…
実質的な菅派結成の動きも急になり、昨年9月の内閣改造では、菅が後見人となって小泉進次郎、菅原一秀、河井克行が初入閣した。週刊現代によれば、今井が「一線を踏み越えた」と判断したのは、8月に小泉進次郎が滝川クリステルとの結婚報告で、まず、菅のところへ行き、その後に安倍のところへ向かったことだという。
「今井は『菅からの宣戦布告』ととらえたわけです」(全国紙政治部デスク)。あまりにも短絡的過ぎると思うが、その後、進次郎の女性スキャンダル、菅原経産相の有権者買収疑惑、河井法相の公選法違反疑惑などが続けて報じられたところを見ると、誰かが意図的に漏らしたと考えても不思議ではなかろう。
それも、全てを報じたのは週刊文春であった。菅が重用していた和泉洋人首相補佐官と部下の大坪寛子厚生労働省大臣官房審議官の「不倫」も、報じたのは文春である。
週刊誌を使って政敵のスキャンダルを流し、失脚させようという手法は昔からよくある。だが、今回のやり方は、もし万が一、今井陣営がリークしていたのだとすれば、あまりにも露骨すぎるやり方である。
文書改竄は「忖度ではなく『やれ』と言われたのだろう」
森友学園問題で、安倍と妻の昭恵の関与が取りざたされていた時、安倍は野党の追及に対して、「私や妻が関わっていたとすれば、総理も議員も辞める」と口を滑らしてしまった。
当時の佐川宣寿理財局長が矢面に立ち、安倍を忖度して懸命に否定し続けていた時、払い下げ経緯をまとめた文書の改竄を命じたのは今井だといわれている。
前川喜平元文部科学次官は、かつて週刊朝日で、こう語っている。
「官僚が、これほど危険な行為を、官邸に何の相談も報告もなしに独断で行うはずがない。文書の詳細さを見れば、現場がいかに本件を特例的な措置と捉えていたかがわかる。忖度ではなく、官邸にいる誰かから『やれ』と言われたのだろう」
「私は、その“誰か”が総理秘書官の今井尚哉氏ではないかとにらんでいる。国有地の売買をめぐるような案件で、経済産業省出身の一職員である谷査恵子氏(当時昭恵の秘書役=筆者注)の独断で、財務省を動かすことは、まず不可能。谷氏の上司にあたる今井氏が、財務省に何らかの影響を与えたのでは」
忖度官僚たちに与えた餌は、出世である。佐川は国税庁長官になり、佐川の後を引き継いで安倍を守った太田充は財務省事務次官に抜擢された。
コロナ対策をきっかけに迷走が始まった
政敵を次々に潰し、野党の不甲斐なさもあって、安倍政権は永久に続くのではないかと思われていた。だが、新型コロナウイルス感染拡大が政権内部の驕りや堕落を炙り出したのだから皮肉である。
習近平主席の訪日や東京五輪開催にこだわり続けたために、中国をはじめとする外国からの旅行客の入国を阻止することが遅れ、その後もコロナへの対応策が後手後手に回ってしまった。コロナの専門家会議をつくったが、感染拡大を恐れ、安倍首相は独断で突然、「小中高の一斉休校」をいい出し、教師、児童、親たちを大混乱させてしまった。
これが安倍政権が迷走を始めた第一歩だった。
4月には緊急事態宣言を発表して全国民に自粛要請をした。だが、補償もない要請では、コロナよりも、将来の生活への不安の方が大きく、国民の間に動揺が広がってしまった。
そんな国民の不安に答えることもせず、今度は国民一人一人にマスクを配るといい出したのである。こんなものに約400億円もかけるのなら、PCR検査の機器を増やす、医療現場が崩壊しないよう早急に手を打つなど、もっとやるべきことがあるだろうと、多くの国民は首を傾げ、官邸の連中はコロナに感染しておかしくなったのではないかと、より不安を増幅したのである。
もう古巣にも戻れず、政権を延命するしかない
その後も、YouTubeで星野源の人気に便乗して、自宅で優雅に犬と戯れている動画を投稿して顰蹙ひんしゅくを買った。こうした稚拙な国民向けアピールを考えたのは、今井、佐伯ラインだといわれている。
官邸のコロナ対応を取り仕切ってきたのも今井たちだったが、その神通力も通用しない事態になる。
「今井氏が主導した『減収世帯への三十万円給付』案が公明党の反対で『一律十万円給付』にひっくり返されるなど、これまででは考えられない事態が相次いだ」(官邸担当記者=週刊文春7/23号)のである。
6月24日には、コロナ対策のために招集した専門家会議を、西村康稔経済再生相が突然、解散すると発表した。日本記者クラブで座長の脇田隆字が会見をしている最中で、記者から知らされた脇田は、驚きを隠さなかった。
秋に解散総選挙を目論んでいる安倍首相と今井たちは、感染予防に重点を置き、経済回復に熱心ではない専門家会議に不満を持ち、それを忖度した西村が、専門家会議のメンバーにも知らせず解散してしまった。これもまた今井が省の後輩の西村に吹き込んだといわれている。
安倍がコケたら古巣の経産省へ戻ることもかなわない今井にとって、コロナ感染拡大に怯える国民のことよりも、レイムダック状態の安倍政権の延命こそが最重要課題なのである。
それを如実に示したのが、拙速としか思えない「Go Toキャンペーン」だった。
“失敗”続きを見かねた安倍首相の思惑
国内旅行の半分額相当を政府が支援するというもので、「支援は一人二万円までとされているものの、宿泊日数や使用回数に制限はないという大盤振る舞いです。今年度の一次補正に盛り込まれた予算は約一兆四千億円。同じ一次補正で、感染拡大防止策や医療体制の整備に配分された約六千七百億円をはるかに上回ります」(官邸担当記者=週刊文春)
ここにも当然ながら、政局が絡む。公募で選ばれたのは大手旅行代理店や業界団体で構成される「ツーリズム産業共同提案体」というところで委託費用は1895億円にもなる。この中の業界団体は3つで、二階幹事長ベッタリの団体だといわれている。
最近、菅や石破茂と急接近している二階をつなぎ留めておくために、二階に安倍が配慮したということだろう。今井たちの相次ぐ“失敗”を見かねた安倍首相が、再び菅を頼るようになったと週刊文春が報じている。
石破に接近して、「俺が推せば石破は勝つ」と嘯うそぶいている菅をつなぎ留めておくために安倍は菅と会食する。その席で、菅が唱える「感染拡大防止と経済活動の両立」が実現すれば、落ち込んでいる支持率もアップするかもしれないと安倍は考え、「そのため菅氏は首相にとって有力な後継候補となったのです」(同)。
だがここでも大きな誤算が生じるのである。
「東京を除外」で謝罪する羽目に
菅が暴走してしまうのだ。「Go To」は8月からの開始が見込まれていた。だが、菅が旅行代金の割引に限り7月22日から実施すると主張したのである。
「一斉休校の影響で、八月になっても登校しなければならない子供もいる。そのため菅氏は、子供も大人も確実に休める七月二十三日からの四連休も割引対象とするべきだとしていた」(官邸関係者)
策士策に溺れるである。8月中に経済回復の兆しを安倍に見せなければ、ポスト安倍にはなれない。焦りが菅を自滅させたのであろう。
東京の感染者数が増え続けていた。小池都知事の、「無症状の感染者も出ている中で、どう仕切りをつけるのか。これは国の問題だ」という批判に菅は、「圧倒的に東京の問題」だと突っぱね、予定通りに実施すると強気だった。
だが、全国から東京の人間が観光に来てもらっては困るという声が上がった。安倍も計画を変更しないと強気だったが、7月16日、東京の感染者が過去最多の286人になったと聞くと、前言をあっさり撤回して、東京の発着旅行を対象から外すとしたのである。強気だった菅も、会見で「直前になって東京の感染が拡大をしているという現実の中で判断をさせていただいたわけでありますので、そこについては大変申し訳ない」と謝罪するはめになった。
菅は悔し紛れに、多くの感染者が出ているキャバクラやホストクラブに対して、風営法で警察官の立ち入り調査をやっていく必要があるという趣旨のことを、フジテレビの報道番組でしゃべったのである。
この責任は安倍首相1人のものか
官憲を導入して強制的に休業させることをやれば、次々に対象を広げていくに違いない。私などは、戦前の悪法「治安維持法」を思い起こす。コロナ感染に乗じて、ただでさえ私権の制限が狭められているのに、さらに警察まで動員しようという危険な考えに危機感を持たなくてはいけないはずだ。
6月18日以降、安倍首相は会見も、週1のペースで開かれている国会の委員会の閉会中審査にも出席していない(北海道新聞7/18 17:00)。さらに秋の臨時国会も開きたくないと漏らしているという。説明責任を放棄したということは、もはや政権運営の情熱を失ったと見るべきであろう。
これまで安倍の親衛隊として力を誇示してきた今井ら腹心たちの数々の失態。存在感を増してきた安倍の天敵・石破茂の台頭。政権内から噴出してきた露骨な安倍批判。低迷する支持率。「退陣」の二文字がはっきり見えてきた安倍政権だが、主がいなくなれば、彼にパラサイトして、わがもの顔に振る舞ってきた連中が権力を失うのは必定である。
官邸を伏魔殿にして、人事で官僚を取り込み、経産省主導の不透明な政権運営は、この国を歪な形に変えてしまったと私は考える。言論表現の自由は狭まり、国による監視は強化され、医療・年金制度は崩壊の度を早めている。
その責は安倍をはじめ、今井たち忖度補佐官たちも負うべきことはいうまでもない。 
●間抜けの象徴「アベノマスク問題」今なおだらしなく進行中 7/23 
アベノマスクをいまさら話題にするのもうっとうしいが、依然として進行中のことなので問題点を指摘しておきたい。
第1に、4月1日に安倍晋三首相が誇らしげに宣言して17日に配布が始まり、菅義偉官房長官が「6月15日におおむね完了する」としていたアベノマスクが、7月になってもまだ届かない家がある。
7月7日付朝日新聞に載った千葉県の62歳主婦の投書によると、この人のところには6日昼を過ぎても届かない。厚労省に電話してどの部署の誰が責任者なのかを問うと「そういう部署も人もいない」と言われてあぜんとしたという。
第2に、幸いにも届いた人たちはそのマスクを使っているかを1863人を対象に尋ねた調査結果が、18日付朝日の週末別刷版「be」に載っているが、驚くべきことに95%が「いいえ」。理由は、小さい、使い捨てが入手できる、無駄の象徴だから使いたくない、首相以外であまり見たことがない……などで、その4分の3の人たちは「家に置いてある」と答えている。
第3に、多くの人々が、あの小さなマスクが安倍の顔にチョコンとのっているのを見ただけで「これは役に立ちそうにないな」と直感的に判断したのは正しくて、後に環境疫学の専門家が実験したところでは、布マスクやガーゼ製のアベノマスクの「漏れ率」は100%。つまり、空中を漂うウイルスを吸い込まずに済む確率はゼロである(7日付朝日夕刊)。
とはいえ、自分が感染者であった場合に大きな咳やくしゃみで飛沫を周りにまき散らすのを防いだり、ウイルスが付着した手で直接鼻や口を触って感染してしまうのを防いだりすることは可能。
いま普通に出回っている使い捨ての不織布マスクも、普通に着けたのでは布やガーゼと同じく漏れ率100%だが、正しく着けると漏れ率を80〜50%程度まで下げることができる。いちばん効果的なのは、医療用の米国基準N95、日本基準DS2の高性能マスクで、正しく着ければ漏れ率1%、つまり空気中からの感染をほとんど遮断することができる。
政府がなすべきは、マスクの種類と性能についての正しい知識を広め、そのどれをどこで入手すべきかを、台湾当局のようにアプリを通じて刻々と告知して国民を安心させることであったはずだが、日本は最初から間抜けの連続で、それがまだ総括もされずにだらしなく続いている。 
●布マスク8千万枚、今後さらに配布 不要論噴出でも…9業者に発注済 7/27 
政府が新型コロナウイルスの感染防止策として始めた布マスクの配布事業で、介護施設や保育所など向けの布マスクの発注と製造が続き、今後さらに約8千万枚を配る予定であることが厚生労働省などへの取材でわかった。全戸向けの配布は6月に終わり、すでに店頭でのマスク不足も解消されて久しい。配布はいつまで続くのだろうか。
「忘れた頃に突然、という感じだった」。東海地方にある保育園には、4月に続いて6月にも、職員用の布マスクが届いた。園長(53)は「万が一の時のために備蓄しているが、今のところ出番はない。自分で使うなら、もう少し呼吸しやすい形のマスクを選びます」と困惑気味だ。
政府が配布を続けているのは、介護施設や保育所、幼稚園など向けの布マスク。総額約466億円の予算で始めた全戸向けの布マスク、通称「アベノマスク」の配布とともに、こちらは約504億円の予算で3月下旬から配り始めた。カビや虫などの混入が見つかって回収騒ぎになった妊婦向け布マスクもこれに含まれる。素材や形状もアベノマスクと同じだ。
政府の布マスク配布は、店頭のマスク不足が続いていた3月下旬、厚労省が緊急対応策として介護施設などに布マスクを配ると発表。4月1日には安倍晋三首相が、5千万余りの全戸へ2枚ずつ配ると政府の対策本部で表明した。
朝日新聞は、布マスクの配布事業で厚労省がこれまでに業者と結んだ全ての契約書計37通を入手。取材も踏まえて分析したところ、配布・発注済みの布マスクは計約2億8700万枚にのぼり、総額約507億円の費用がかかっていた。うち郵送やコールセンター、検品などの事務経費が約107億円を占める見通しという。いずれも入札をしないで業者に発注する随意契約だった。
このうち、全戸向けの布マスクは約1億3千万枚を総額約260億円かけて配布。介護施設など向けの布マスクは計約1億5700万枚、総額約247億円で、全戸向けの配布が完了した2日後の6月22日にも、伊藤忠商事など9業者に計約5800万枚を発注していた。契約書によると8月末までに納入される予定となっている。
厚労省によると、介護施設などには職員と利用者を対象に、保育所や幼稚園、放課後児童クラブなどには職員を対象に、1人あたり7枚ほどが行き渡るように配り続ける計画という。
まず1回目として4月中旬までに約2千万枚が配られ、6月下旬からは約4千万枚の配布が続いている。妊婦向けなどに配る枚数を除いても、まだ約8千万枚が残っており、厚労省の担当者は「配布時期は未定だが、なるべく早期に配りたい」としている。
だが、すでに店頭や通販でマスクが品薄な状態は解消されている。通販の価格比較サイト「在庫速報.com」の運営会社アスツール(東京)によると、使い捨てマスク1枚あたりの最低価格のピークは4月24、25日で1枚57円。その後は下落が続き、5月1日に39円、6月10日には10円まで下がったという。加藤雄一社長は「供給元の中国でコロナが収束した影響か、4月下旬ごろから供給量が増えたようだ。今はほぼコロナ流行前の水準に戻った感じだ」と話す。
厚労省の担当者は「必ずしもまだ十分マスクが行き渡っていると言い切れない状況の中で、布マスクを配ることで需要を抑制する効果は十分認められる」と説明。一方で、今後新たに布マスクを発注する予定は「現時点ではない」としている。 
●布マスク調達などに計247億円 官房長官  7/28 
菅義偉官房長官は28日の記者会見で、介護施設や保育所などに配布する布マスクの調達費用が247億円になると明らかにした。これまでに7千万枚を配布し、追加配布する8千万枚も「すでに調達した」と説明した。
これとは別に、政府は全世帯に布マスクを2枚ずつ配布した費用に466億円を使った。 ・・・ 
●アベノマスク 追加発注先は9業者!残り8社はどこ?社名特定は? 7/28 
2020年7月27日、「アベノマスク」と揶揄された布マスクが、更に”追加発注”されていたことが判明し世間の注目を集めています。報道によると、追加発注された布マスクは約5800万枚で順次発送される予定とのこと。一体、この追加発注されたアベノマスクの発注先はどこなのでしょうか?
アベノマスクの在庫は8千万枚
アベノマスクの追加発注について「朝日新聞DIGITAL」は次のように報じています。
「全戸向けの配布が完了した2日後の6月22日にも、伊藤忠商事など9業者に計約5800万枚を発注していた。契約書によると8月末までに納入される予定となっている。」
「まず1回目として4月中旬までに約2千万枚が配られ、6月下旬からは約4千万枚の配布が続いている。妊婦向けなどに配る枚数を除いても、まだ約8千万枚が残っており、厚労省の担当者は「配布時期は未定だが、なるべく早期に配りたい」としている。」
上記の通り、追加発注された5800万枚を含むアベノマスクの在庫は8000万枚とのこと。追加発注された分の布マスクは8月末までに納入され、順次発送されるようです。ただ、2020年7月28日現在、マスクの供給量は十分に確保されており、マスク不足は既に解消されています。布マスクが追加発注された6月22日の時点でも、既に市場には十分なマスクが流通していました。マスクの供給量が十分にも拘わらず、さらに5800万枚を追加発注したことに批判と疑問の声が上がっています。
「全く理解不能…その業者に発注をしなければならない理由が、間違いなくあるのでしょうね…仮に、国民にとって必要であるなら、まだ理解出来るが、自民党の国会議員すら使わないマスクを今さら追加発注なんて、民間ならクビになるぞ!安倍内閣が終わったら、アベトモと呼ばれる会社を全て調査してほしいよ。もし不透明な金の流れが見つかったら、厳正な処分を望みます。それにしても、これほどまでに私利私欲にまみれた内閣は、私の知る限り今までない。」
「発注時に納期を決めてないの?納期を守れない商品なんかは発注取り消しできるでしょ。民間ではありえないような発注がまかり通っている。このだらしなさでは利権を持った業者とズブズブの関係といわれてもしかたない。」
「安倍よ、最近あまり見かけないと思ったらこんな意味不明な事まだやっているのか、同じ配るなら医療従事者にN95マスクを確保して配れよ。一般向けにマスクは今飽和状態で普通の薬局でも買えます、今、無いのはN95マスクです。gotoキャンペーンも菅とかに説明させず、トップの安倍が説明するべきだろ。仮にも日本のトップならトップなりの事をしろよ。」
追加発注先は9業者!残り8社はどこ?社名は?
5800万枚もの布マスクを追加で受注した業者はどこなのでしょうか?朝日新聞によると、受注先は”9業者”あるようです。その内の1社は「伊藤忠商事」であることが公表されています。しかし、残りの”8業者”については情報が一切開示されていないのです。アベノマスクの”第1弾”でも受注先の4社は公表されず、物議を醸しました。
自民党が受注先の会社を頑なに公表しない中、社会民主党の福島瑞穂党首が厚労省に問い合わせたことで4社の社名が明らかになったのです。自民党はこうした”前科”があるため、追加発注した今回の受注先8社についても、自主的に情報が開示されることはないと思われます。ただ、前回同様に野党の追及で、残り8社の社名が明らかになるかもしれません。
布マスク8千万枚は主に介護職員向け
追加発注分の5800万枚を含むアベノマスクの在庫が8000万枚あることで、国民の間では批判と不信の声が続出しています。ただ、今回の報道を巡っては”誤解”による批判も存在していました。その誤解というのが、「もう1度全世帯にアベノマスクを配布するのか?」という声です。しかし、8000万枚の在庫は全世帯に向けて配布されるものではありません。これらの在庫は、主に介護職員やその利用者に向けて配布されるものです。 
●アベノマスク8000万枚「今後も配布」は続く…仕掛け人は 7/28 
政府が新型コロナウイルスの感染拡大防止策として、全戸に配布した布マスク事業。いわゆる「アベノマスク」は、全然届かない、カビなどの混入物が見つかったなどと大いに批判を浴びた。逼迫していたマスクの在庫が安定してきたことや、全戸配布への抗議の意味合いもあってか、国や自治体に送り返したり、民間団体に寄付したり、そのまま廃棄したりというケースが報告されてきた。そんな中、7月下旬から約8000万枚を介護施設などに配る予定であることが判明。仕掛け人として音頭を取ったのは、安倍晋三首相の“炎上動画”の発案官僚だった。
この「今後も配布」を最初に報じた朝日新聞(7月27日・電子版)によると、
《全戸向けの配布が完了した2日後の6月22日にも、伊藤忠商事など9業者に計約5800万枚を発注していた》
配布対象は介護施設や保育所、幼稚園などで、
《厚労省によると、介護施設などには職員と利用者を対象に、保育所や幼稚園、放課後児童クラブなどには職員を対象に、1人あたり7枚ほどが行き渡るように配り続ける計画という》
その頃ならマスクの価格も安定していたし、何よりアベノマスクへの批判は続いていた。全戸ではなく介護施設などが対象でも、税金を使った配布はさらに政権批判を招くリスクがあったはずだ。そのうえ、《いずれも入札をしないで業者に発注する随意契約だった》というから、やり方も乱暴に映る。
官邸関係者によると、
「この仕掛け人は経産省出身の佐伯(さいき)耕三首相秘書官。そもそもの『アベノマスク2枚配布』の発案者であり、安倍さんのツイッター動画を主導した人物です」
マスクを配れば国民の不安はパッと消えますよと首相にささやいて逆に不興を買い、ツイッター動画では、優雅に寛ぐ首相と星野源を並べた結果、「貴族か」「王様感まる出し」などと、大炎上を招いたのだった。
「前回と違って、佐伯さん主導ではなく、マスク班を立ち上げてそこが指揮を取る形になっています。ただ佐伯さんはマスクにこだわっていて、まだまだ税金を使った配布事業を続けていくスタンスだと聞いています」(同・官邸関係者)
国民にまったくと言っていいほど受けていない施策が、これからも続くというのは些か理解に苦しむが、霞が関のあるキャリア官僚に聞くと、
「確かに安倍さんは、たまたまかもしれないけど、アベノミスクで株価を上げたり、消費増税を2度延期したりと、国民受けのよい、わかりやすい政策を訴えてきました。それが選挙で勝ち続けてきた理由でもあるわけですが……。コロナ禍で打ち出したものはスベりまくっていて、らしくないというか、危機管理に強いと言っていた割に、本当の危機がやってきた時には弱かったのかなという印象すらします」
「今の霞が関は“官邸に好かれるか、そうではないか”でしかありません。近くに置いてもらえれば意見やアイディアも通りやすくなるけれど、そうでなければ“いない”も同然。こういう状況がもう何年も続いていると、さすがにやる気をなくしますよね」
「佐伯さんは優秀な人だけど『官邸官僚』の烙印を押されている以上、そのチョンボを喜ぶ霞が関の人たちも少なくない。官邸に睨まれれば飛ばされたりしますから、とにかく黙って安倍政権が終わるのを待っている。国民にとって芳しくない状況です」 
●アベノマスク8千万枚追加配布に批判殺到「もはや狂気の沙汰」 7/28 
政府が介護施設や保育所などに約8,000万枚の布マスクを追加配布すると、7月27日に朝日新聞デジタルが報じた。4月から続く配布事業の取り組みで、厚生労働省は9月中に配布完了を目指しているという。
記事によると、配布・発注済みの布マスクは計約2億8,700万枚。事務経費約107億円を含む総額費用は、約507億円にも上ったという。
全国世帯に向けて1住所あたり2枚配布される布マスクは、6月下旬に配送完了。だがその後に、伊藤忠商事など9業者に計5,800万枚の追加発注がされていたことも報じられた。
安倍晋三首相(65)は4月の配布決定当初、「急拡大するマスクの需要の抑制を図り、国民の皆様の不安解消に少しでも資するよう速やかに取り組んでまいりたい」と述べていた。しかし、4月に配送されたマスクから変色や異物混入といった不良品が多数発覚。回収や検品を強化した結果、遅配となった。
全戸向けの配布は完了したものの、布マスクは“無用の長物”となっているようだ。
「配布開始当初から、『税金の無駄遣い』や『費用対効果を感じられない』と批判が殺到。経済官庁出身の官僚が安倍首相に、『国民に布マスクを配れば不安は消えます』と進言したことが政策の発端だとも報じられました。配布された結果、“不要”として厚生労働省や各自治体に返却・寄付された布マスクは10万枚にも及んだそうです。品切れが続き高騰していた不織布マスクも、徐々に生産が回復し、値崩れてしているといいます」(全国紙記者)
産経新聞によると菅義偉官房長官(71)は28日、「布マスクは繰り返し利用でき、コスト面でも安価」「継続配布は有意義」と述べたという。
当初から強い批判を受けていたが、今回も“有意義”を強調し続ける政府。その強固な姿勢に、各界から様々な反応が上がっている。
女優の小泉今日子(54)は、朝日新聞のネットニュースに《ちょっ、ちょっと!》とコメントを添えてツイート。
メイプル超合金のカズレーザー(36)は、28日放送の『とくダネ!』(フジテレビ系)に出演。布マスクが追加配布されることについて、「使う使わないに関しては、皆ずっと『使わない』って言っているからそれは変わらないんじゃないですか」とコメントした。
国民民主党の小沢一郎(78)は、Twitterで《正気だろうか。5百億円も使って一体何をやっているのか。一度決めたら途中でやめられない。正に戦前の軍部と同じ。結局はお友達利権》とツイート。続けて《これだけ巨額の予算を、なぜ赤字に苦しむ医療現場支援や、PCR検査の拡大に回さないのか。この内閣は、やることなすこと全てが間違っている》と痛烈に批判した。
消費を喚起する観光事業分野「Go Toトラベル」では、強い批判を受けて「東京除外」や「キャンセル料補償」に転換していた政府。“アベノマスク”についても方向転換を求める声が上がっている。  ・・・ 《6月の時点でなぜ軌道修正できなかったのか布マスク路線》 《布マスク制度ってそんなに方向転換できないものなのかしら》 《誰か、進言する人はいないのだろうか》  《もはや狂気の沙汰です……》 
●もういらないのに…「アベノマスク」追加配布するという日本政府の意地 7/28 
日本政府が新型コロナウイルス感染症(新型肺炎)に対する緊急支援のために製作した布マスク、別名「アベノマスク」8000万枚を追加で配布することにした。保育所や介護施設などに配布する計画だが、現場では「いらない」という反応が出ていると朝日新聞が28日、伝えた。
「アベノマスク」事業は新型コロナ流行初期にマスク不足を解決するために安倍晋三首相が主導して開始した布マスク配布政策をいう。466億円の予算を投じて各家庭に2枚ずつの布マスクを配布したが、「サイズが小さい」「耳が痛い」などの不満が相次いだ。さらにカビや虫が見つかり、一部回収される騒ぎが起きて巨額の予算だけを浪費した失敗政策という批判が集中した。
同紙によると、しかし日本政府はこのマスクと形や材料が同じマスクを保育所や介護施設、学童などに配布する事業にすでに着手している。その予算は504億円。3月末から現在まで約6000万枚がすでに配布され、8000万枚を追加で配布する計画だ。日本政府は6月中旬、まだ製作前の布マスク5800万枚の発注をすでに終えた。
現場では困惑を隠せない。東海地域の保育園園長は朝日新聞の取材に対して「万が一の時のために備蓄しているが、今のところ出番はない」と答えた。北九州市のある看護師も「政府の布マスクは小さく、顔にも密着しないので看護では使えない。今後届いても使わない」と話す。
「もう普通に買えるマスクより、換気のための扇風機や空気清浄機を支援してほしい」という声もあがる。
日本のマスクの需給はすでに新型コロナ以前の水準に戻った状況だ。価格比較サイト「在庫速報.com」によると、使い捨てマスク1枚当たりの最低価格は4月24〜25日に57円で最高値をつけた後、下落が続いて6月10日には10円まで落ちた。
家庭や施設に配布された「アベノマスク」は寄付物品として人気だ。名古屋市の女性2人はフィリピンで慈善活動を行っている知人に送るために布マスクの寄付を呼びかける掲示物をフェイスブックに掲載して驚くことになった。数百枚程度を予想したが1カ月で全国から3万枚を越える布マスクが寄せられた。2人は6月12日までに集まった6万枚のマスクをフィリピン慈善団体に寄付した。
日本労働組合総連合会の北海道連合会(連合北海道)も5月から道内20カ所回収ポストを設置してマスクの寄付を募ったが、1カ月半の間に集まったマスク12万1000枚のうち約9万1000枚が政府配布の布マスクだった。
朝日新聞が6月に実施した世論調査で各家庭に配布された「アベノマスク」に対して「役に立った」と答えた人は15%、「役に立たなかった」は81%だった。予算の浪費という批判が出てくるよりほかない状況だ。
神戸学院大学(行政学)の中野雅至教授は同紙に対して「コロナ禍の緊急事態に対応する財政支出はやむを得ない」としつつも「費用対効果や着実な遂行を考えて立案された政策と思えず、あまりに場当たり的だ」と指摘した。 
●布マスク8千万枚 希望施設に配布、残りは備蓄  7/31 
加藤勝信厚生労働相は31日の閣議後の記者会見で、新型コロナウイルス対策で介護施設など向けに布マスク約8千万枚を追加配布する計画を見直すと発表した。希望する施設には配り、余りは備蓄に回す。計画では介護施設や保育所など全国50万の事業所に一律で配布することになっていた。コストをかけた一律の配布に野党から批判が出ていた。
8月にもマスクや消毒製品の高額転売を禁止する規制も解除する。国民生活安定緊急措置法に基づき、マスクは3月から、消毒製品は5月から規制の対象だった。医療機関向けのサージカルマスクは個別の医療機関向けの緊急配布を除き、8月から一律の配布を当面休止する。 ・・・ 
●首相「アベノマスク」せず  8/1 
安倍晋三首相は1日、いつもの小さめの布マスクではなく、鼻から顎まで覆うタイプの白いマスクに替えて首相官邸を訪れた。政府支給の布マスクは通称「アベノマスク」と呼ばれ、首相自身も4月ごろから着用し続けてきた。
首相は4月1日に「急激に拡大するマスク需要に対応するうえで極めて有効だ」と全世帯に布マスクを2枚ずつ配布する方針を突如、表明。関連費用は466億円と「コストがかかり過ぎる」などと与野党から批判も出ていた。
7月末には介護施設などに8千万枚の追加配布を検討したが、再び批判を浴びて見送った。
首相周辺は8月1日、首相が布マスクを外した理由について「民間のマスクが市場に行き渡ってきた。首相はあす以降も別のマスクを着けるだろう」と話した。 
●安倍首相も脱アベノマスク…政府統計からも配布の意味に疑問符 8/3 
「この半年間、さまざまな施策を講じて参りました。現在ですね、お店でもいろんなマスクが手に入るようになりました」
ついに安倍晋三首相(65)も脱アベノマスク!
4月1日に全戸配布を表明したころから、頑なにアベノマスクの着用を続けてきた安倍首相だが、今月になってから別のマスクを着用するように。8月3日、報道陣にそのことを問われると、冒頭のように答えた。
サイズが小さいことや、一部から不清潔なものが見つかった経緯もあり、街中でも使っている人をほとんど見かけなかったアベノマスク。閣僚の間でも安倍首相以外に常用している人はおらず、ツイッター上ではこんなふうに揶揄する声も……。
《アベノマスクをつけてる人は、安倍さん以外にみたことなく、完全に絶滅危惧種だったのに、 保護されることもなく、 どうやら、絶滅したらしい》
《最後のアベノマスクの砦が没落》
全戸向けのもので260億円、介護施設などに向けたもので247億円もの巨額の税金を使ったマスク配布だが、無駄な事業だったという批判は根強い。東京都以外で配布が本格的に始まったのは5月半ばになってから。5月末の段階でも配布率は3割に満たず、全戸に配布が完了したのは6月20日だった。
不織布マスクの供給は4月下旬ごろには回復傾向。品不足や価格高騰が収まりつつある、あるいは収まったタイミングで、不織布マスクと比べてフィルター効果が低い布マスクが自宅に届いたことを、疑問に感じた国民は多かったはずだ。
一方、政府側は“布マスクを全戸配布することによって、業者が溜め込んでいた在庫を放出し、供給量を回復して価格も下落した”と、アベノマスク配布の意義を主張してきた。
「マスク市場にたいしても、それなりのインパクトがあったのは事実でございまして、業者のなかにおいてはですね、ある種の値崩れを起こす効果にはなっているということを評価する人もいる」(4月28日の衆院予算委員会、安倍首相答弁)
8月3日にも、“さまざまな施策を講じたことで、店でマスクが手に入るようになった”と話していることから、その見解は今も変わっていないようだ。
だが、政府統計を見ると、全戸配布によって、マスクの供給量と価格が正常化したという主張には疑問符がつく。
もともと、国内で流通するマスクのおよそ77%は輸入品(2019年度、一般社団法人日本衛生材料工業連合会ホームページより)。日本国内のマスク不足の主要因は、新型コロナウイルスの世界的流行のために、国内でのマスク需要が高まる一方で、マスクの輸入量が激減したことにあった。
不織布マスクは、世界共通のHSコード(輸出入統計品目番号)で「6307.90 029」に分類されている。2019年の総輸入量は12万7,300トンで、中国産はおよそ85パーセント(10万8,724トン)だった。だが、今年2月には中国からの輸入量が激減し、全体の輸入量も前年比56%にまで落ち込んだ。しかし、3月には90%まで回復、4月からは前年を大きく上回った。以下、今年1月〜6月の輸入量の推移だ。
【2020年の不織布マスク(HSコード6307.90 029)輸入量の推移】
1月 1万5,157トン(前年同月比116%)
2月 4,732トン(同56%)
3月 8,697トン(同90%)
4月 2万5,872トン(同257%)
5月 3万144トン(同309%)
6月 1万4,067トン(同173%)
アベノマスクの配布が始まる前月の4月段階で、十分な輸入量は確保できるようになっていた。その背景には、中国共産党の号令で、中国のマスク生産量が急増したことや一時規制されていた医療物資の輸出が解禁されたこともあるとみられる。2月には3,439トンにまで落ち込んだ中国からの輸入量は、5月には2万8,465トンと8倍以上にまで増えているのだ。
さらに、アイリスオーヤマやシャープなど、業種を問わず、さまざまな会社が国産マスクの生産に着手。6月の輸入量は5月と比べて半減していることから、日本国内で不織布マスクが供給過多に陥っている可能性もうかがえる。どうやら、マスクの供給量の回復と価格の低下の主要因は、ここにありそうだ。
もちろん、アベノマスクの全戸配布が決まった段階で、不織布マスクの輸入がいつごろ回復するかの見通しは立っていなかった。しかし、アベノマスクの本格配布が始まるよりも前に、輸入量は大きく回復しており、今後の供給量の回復の見込みは立っていたはずだ。その時点で、可能な分をキャンセルしたり、全戸配布を取りやめたりと、方針転換するという選択肢もあった。
現に、政府は介護施設に約8,000万枚のアベノマスクを追加配布する予定だったが、多くの批判を受けて、7月31日に撤回。一律配布を止めて、希望する施設にだけ配り、残りは備蓄用に回すと決定している。
「アベノマスクの配布で、在庫が放出され値段も下がった」
政府のそんな言い分は統計からでも怪しいことがわかる。安倍首相が着けるのを止めてしまえば、見る機会がなくなり、存在を忘れてしまいそうなアベノマスクだが、巨額の税金を投じたこの事業に意味があったのかを、検証することは忘れてはいけない。 
●安倍首相「いろんなマスク入手可能に」=新型コロナ 8/3  
安倍晋三首相は3日、新型コロナウイルス対策として政府が各世帯に配布した布マスクの着用をやめた理由について「現在、お店でもいろんなマスクが手に入るようになったので、ぜひ外出時はマスク着用など感染予防に協力をお願いしたい」と述べた。
首相官邸で記者団の質問に答えた。
政府が配布した布マスクは、サイズの小ささが不評で「アベノマスク」とやゆされた。首相は1日から顔を覆う面積が広い別のマスクを使っている。 
 
 
 
 
 
 

 

●「日本ミャンマー協会」(JMA)
加計疑惑:国家戦略特区の議事録は4年間のブラックボックス 2017/9
国家公務員倫理法では、利害関係者とゴルフをすることや旅行することは禁止されているようです。しかし、大臣などを含む特別職の国家公務員は例外だというのです。
加計学園で問題になった国家戦略特区の基本方針では、“審議の内容および資料は、原則として公表すること”とあるにも関わらず、“4年を経過した後にこれを公表する”ということになっていて、事実上、“4年間、ブラックボックスの中に入れられることと等しい”状態になっています。しかも、驚いたことに、“わが国の利益に重大な支障を及ぼす恐れがある場合”には議事録を非公表に出来るというのです。
こうなると無茶苦茶で、政府はやりたい放題で、悪事を国民が忘れる事を前提としている感じです。特定秘密保護法も、この文脈で見なければならないのかも知れません。
以降は、本題の“農業分野の外国人労働解禁”の質疑です。事実上、外国人技能実習制度を利用した“労働力の需給の調整の手段”のようです。要は、外国人労働者を奴隷として使う仕組みだということです。
質疑の後半には、日本ミャンマー協会なる一般社団法人が出てきます。名誉会長に中曽根元総理、最高顧問に麻生太郎などなどという、“泣く子も黙るラインナップ”のようです。このミャンマー協会は、受け入れ管理団体から多額の手数料を徴収しているとのこと。
以前ヤクザの人が、“自分たちは悪い、しかしもっと悪いのが政治家だ”と言っていましたが、事実だとしか考えようがありません。 
麻生財務相が「最高顧問」の外国人実習制度「利権」団体 2018/4
〜実習生の低賃金化を助長〜
先日、ベトナム人実習生が福島第一原発の除染作業に従事していたことが判明し、問題となった。外国人技能実習制度の職種に「除染」はない。にもかかわらず、実習先の建設会社が請け負った仕事に駆り出されていたのである。
いくら政府が「実習」という建前に固執しようと、実習制度は日本人が嫌がる仕事を低賃金で外国人労働者にやらせる手段にほかならない。ベトナム人実習生の「除染」問題によって、その実態が図らずも露呈した格好だ。
新聞やテレビでも頻繁に報じられるように、実習制度をめぐる問題は数多い。残業代の未払いなど実習生への人権侵害もあとを絶たない。実習生は職場を変わることも許されず、しかも給与は最低賃金レベルとあって、失踪して不法就労に走る者も目立つ。制度の根本的な見直しが必要であることは明らかだ。
しかし制度は見直されるどころか、昨年11月に拡充が決まった。最長3年の実習期間が5年に延長され、「介護」分野での実習生受け入れも可能となる。2017年6月時点で過去最高の約25万2000人を数える実習生も、さらに増えていくことは間違いない。
なぜ、多くの批判を浴びながらも実習制度は存続しているのか。その大きな理由は、政治の「利権」が絡んでいるからだ。
実習生の受け入れには、民間の人材斡旋会社などは関与できない。代わって送り出し国と日本の双方に、それぞれ仲介役の「団体」が存在する。日本側の組織は「監理団体」と呼ばれる。新聞などでは「商工会など非営利の監理団体」(2016年1月13日『日本経済新聞』電子版)などと説明されるが、正確ではない。監理団体は「事業協同組合」といった公的なイメージの看板を掲げてはいるが、実態は営利目的の人材派遣業者と大差ない。
監理団体は、実習生の受け入れ先から1人につき毎月3〜5万円前後を「監理費」として徴収する。「監理」とは名ばかりのピンハネである。零細な企業や農家などが大半を占める受け入れ先には重い負担となる。結果、実習生の賃金が抑えられる。
監理団体の介在だけでもなくせば、実習生の失踪はかなり減るはずだ。しかし、制度が改まる気配はない。監理団体には、政治の後ろ盾があるからだ。監理団体の運営には、落選もしくは政界を引退した政治家がかかわっていることが少なくない。「中国は旧社会党、それ以外のアジア諸国は自民党」といった具合に、与野党で受け入れ利権の棲み分けまで以前はあった。現在でも、小泉純一郎政権で幹事長を務めた武部勤・元自民党衆院議員が代表理事を務める一般財団法人「東亜総研」は、監理団体としてベトナムなどからの実習生を受け入れている。現職の国会議員で、自民党幹事長という要職にある二階俊博氏も、同法人の特別顧問だ。監理団体は、問題が起きれば入国管理局など行政機関とのやり取りが生じる。また、送り出しの政府関係者とのコネクションがあれば、受け入れもやりやすい。そんな事情もあって、政治家の名前が威力を発揮する。
最近になって実習生の送り出しが急増中のミャンマーに関しては、監理団体から収入を得ている組織がある。宮澤喜一内閣で郵政大臣を務め、のちに自民党から民主党などに移った渡邉秀央・元参院議員が会長を務める一般社団法人「日本ミャンマー協会」(JMA)だ。
JMAの最高顧問には、「森友問題」で注目を集める麻生太郎・財務大臣が就いている。麻生氏のほかにも、名誉会長に中曽根康弘・元首相、副会長には仙谷由人・元民主党衆院議員、さらには理事には福山哲郎・立憲民主党幹事長、魚住裕一郎・公明党参院議院会長といった具合に、現職を含め与野党の大物政治家が並ぶ。
JMAは2016年から、ミャンマー人実習生に対する求人票の「事前審査業務」を担っている。失踪防止などの観点から、監理団体をチェックするのだという。「ミャンマー労働省の要請、並びに在日ミャンマー大使館の委託」があってのことだが、一民間団体が実習生の斡旋で独占的な立場を占めるなど、他国からの受け入れにはないシステムだ。
ミャンマー人実習生の受け入れを希望する監理団体は、JMAの「ミャンマー人技能実習生育成会」に入会しなければならない。さもなければ、ミャンマーからの受け入れができないのだ。入会金は5万円で、年会費が1口5万円、さらに審査手数料として実習生1〜3人だと1万円、4〜6人で2万円といった費用が発生する。こうした費用は監理団体から受け入れ企業へと転嫁され、結果的には実習生の賃金が安くなる。
2013年末には120人にすぎなかったミャンマー人実習生の数は、17年6月時点で5019人まで急増した。その数は今後、飛躍的に増える可能性が高い。受け入れ関係者の間では、実習生の出身国として現在のトップはベトナムだが、今後ミャンマーが逆転するという声が強い。当然、JMAの収入も増えることになり、極めて大きな利権だ。同協会の渡邉会長は、4年前のインタビューでこう語っている。
「ミャンマー支援で、なにか甘い蜜があるというような記事が出たこともあるが、そういう気持ちでやってきたことはない。国のため、日本企業のためにプラスになり、ミャンマーの力になることをやってきた」
だが、実習生の「事前審査業務」は明らかに「甘い蜜」である。
JMAについては昨年6月6日、参院内閣委員会でも取り上げられた。
「(日本)ミャンマー協会のように、送り出し国との間に一枚かんで何か仕事をつくって、一枚かんでいるほかの日本の団体というのは存在するんでしょうか、教えてください」
そう質した山本太郎・自由党共同代表に対し、政府参考人の佐々木聖子・法務大臣官房審議官はこう述べている。
「私ども、このような団体というのは承知しておりません」
そんなやり取りがあった以降も、JMAの「特権」は維持されたままだ。
ミャンマー政府がJMAに特権を与えたのは、有力政治家の存在があってこそだろう。こうした与野党がグルになっての関与がある限り、いくらメディアが批判したところで、実習制度が根本から見直されることはないだろう。その陰で、実習生と、彼らの受け入れ先となる零細企業が泣いている。 
移民利権で私腹を肥やす 天下り法人「JITCO」の“商売方法” 2018/11/17
外国人労働者の受け入れ拡大に向けた入管法改正案を巡って、安倍政権は今国会での成立に前のめりだ。過酷な労働環境に置かれた外国人“奴隷”の増員を、歓迎するのは大企業ばかりかと思いきや、実は霞が関の役人たちも巨大な「移民」利権に舌なめずりしている。
外国人労働者の受け入れ拡大で、恩恵にあずかろうとしているのは、法務、外務、労働(当時)など5省の共同所管で1991年に設立された公益財団法人「国際研修協力機構(JITCO)」だ。
15日の野党ヒアリングで、法務省からの再就職者が2015年度からの3年間で計11人に上ることが判明。かつては検事総長を務めた筧栄一氏が理事長に就任していた時期もある。
日刊ゲンダイの調べでは、計15人の役員のうち9人が省庁OBで、法務省の他に厚労省、外務省、経産省から再就職者がいることが分かった。典型的な天下り法人である。
永田町関係者がJITCOの“商売方法”についてこう解説する。
「ある調査によると、現行の外国人技能実習生の受け入れ先企業は、実習生を受け入れると、JITCOに7万5000円程度の年会費を支払うことになるといいます。事実上の移民拡大で、JITCOの“実入り”が膨張するのは確実です」
JITCOの今年度の収支予算書を見ると、「受取会費」として17億3300万円の収入を得ている。全収益の約8割を占めるから、運営のほとんどを会費に依存している格好だ。
JITCOに問い合わせると、「年会費は企業等の資本金等の規模に応じて1口当たりの金額が算出される」と返答。複数の同業企業でつくる「監理団体」から1口10万円、団体傘下の複数企業から1口5万〜15万円を徴収し、それとは別に個別の企業からも1口10万〜30万円を受け取っていると説明した。
外国人実習生は現在、約26万人。監理団体の数は全国に約2300ある。現行の制度で、農業や漁業、建設関係など6業種だった受け入れ対象業種は、今回の法改正で介護や外食、自動車整備などが加わり、14業種にまで拡充され、19年度からの5年間で最大約35万人を受け入れる見込みだ。JITCOの監理団体や会員企業も対象業種の拡充に比例して、倍以上に増えると考えるのが自然で、会費収入も同じく倍以上に膨れ上がるのは間違いないだろう。
一方で、外国人技能実習生の労働実態は悲惨を極めている。これまでの野党ヒアリングでは、多くの実習生が「病気になっても薬をもらえるだけで病院へは行かせてくれない」「足を骨折したが休業補償を払ってもらえない」と涙ながらに訴えていた。この問題を追及する国民民主党の原口一博衆院議員はこう言う。
「このまま法案が通れば、より多くの外国人労働者が過酷な状況に追い込まれる可能性が高い。その一方で、官僚の天下り団体ばかりが潤うとは、到底看過できません。現在は、世界的に労働者不足で各国で奪い合っている状況です。現状のままでは、日本は世界中の労働者から信頼を失う恐れがある。もっと審議に時間をかけるべきです」
“奴隷拡大”で官僚貴族が私腹を肥やすとは、とても現代社会とは思えない。  
技能実習生名目で外国人奴隷の増員を図ろうとしている安倍政権 2018/11/18
〜それに関わる、官僚の典型的な天下り法人である「国際研修協力機構(JITCO)」や「管理団体」〜
技能実習生という名目で外国人奴隷の増員を図ろうとしている安倍政権ですが、これには、官僚の典型的な天下り法人である「国際研修協力機構(JITCO)」が関わっているとのことです。その「JITCO」は、複数の同業企業でつくる「管理団体」や受入れ企業から年会費を徴収することで、今年度の収支予算書では、17億3,300万円の収益を得ているとのことです。
ツイートを見ていると、この「JITCO」だけではなく、「管理団体」も問題なようです。原口議員の真ん中のツイートに資料があり、そこに書かれていることを要約すると、“管理団体は収益を上げてはならない協同組合または公益法人のはずだが、法の抜け道を駆使してアンダーグラウンドバックマージンを受け取ったり、関連会社に業務委託させ収益を確保している。地方の協同組合が全国に技能実習生を紹介しています”と書かれています。
収益を上げてはならないはずの管理団体が、ツイートを見る限り、犯罪組織のようなことをやっているように見えます。原口議員を始めとする野党議員には、徹底的にこの闇を暴いてもらいたいと思います。 
外国人技能実習生制度と一般社団法人日本ミャンマー協会 2018/11/19
先日11月19日のTBSラジオ『荻上チキ Session-22』の特集は外国人技能実習生制度をめぐって悪質ブローカーが暗躍しているというものでした。ゲストは『ルポ ニッポン絶望工場』等の著書があるジャーナリストの出井康博さん。番組の終わりになかなか衝撃的というか重要な発言が飛び出した。

出井康博さん:これだけね、多くの人が批判して、もう10年ですよ。10年批判しているのになぜこれ変わらないのか、この制度が変わらないのか。朝日新聞から産経新聞まで右も左も全部批判しているのになぜ変わらないのか。荻上さんのような影響力のある方もこれだけ頑張っているのになぜ変わらないのかっていうところを考える必要がある。
それは何かっていうと政治の利権ですよ。ひとことで言って。元々この実習制度、かつての研修制度ですけども、中国からの受け入れは社会党。それ以外のアジアは自民党系。要はその管理団体の後ろに政治家がいるんですよね。落選した政治家が管理団体をやっていたりだとか、辞めた人が管理団体の顧問をやっていたりとか、そういうパターンがあるんですよね。で結局これ政治の利権になっていると。
これ今日リスナーの方でご興味ある方は、『一般社団法人日本ミャンマー協会』というのを検索して頂きたいんですけども、ここはですね、ミャンマーの実習生って今ものすごい増えているんですよね。去年で6000人です。5年前は200〜300人だったのに6000人になっている。で、ミャンマーからの実習生を受け入れようとすると日本ミャンマー協会って通さないと駄目なんですよ。管理団体が会員になって、何万円か払ってですね。ひとり実習生を受け入れるのにまた1万だとか2万を払うんですね。
ここ最高顧問は麻生太郎さんですよ。で理事の方はこれ名前は言いませんけど立憲民主党の方、公明党の方、自民党の方、大物政治家が並んでいますよ。副会長は大手商社トップ3名。理事には大蔵、今は財務省ですけども、通産、今の産業経済省ですけども、次官経験者、ミャンマー大使。オールジャパンですよ。
荻上チキさん:役員名簿すごいですね。名誉会長が中曽根さんですよ。
出井康博さん:こういう構図があるんですよ。こういうところから、別に麻生さんがね、まあ取ってるとは思いませんよ。ただこういう後ろに政治家の影があるから今いくら国会で野党がやっても変わんないんですよね。
(中略)
出井康博さん:ブラック企業問題じゃないです、これ。なぜこんなに実習生の給料が安いのかっていうのは、いろんな人がピンハネしてるんです。政治家も官僚もタカっているんですよね。 
外国人技能実習生受け入れ管理団体から多額の手数料を徴収している「一般社団法人日本ミャンマー協会」 ―その利権に群がる政治家  2018/11/22
〜安い実習生の給料からピンハネをしている奴らが居る〜
外国人技能実習生制度についての重要情報です。18日の記事で、これには「国際研修協力機構(JITCO)」や「管理団体」が関わっているということで、典型的な官僚の天下り法人であるJITCOを調査することはもちろん、管理団体では人権侵害が横行しているのではないかということでした。
冒頭の記事では、「一般社団法人日本ミャンマー協会」というのがあり、受け入れ管理団体から多額の手数料を徴収しているとのことです。ミャンマーから日本財団を連想しましたが、日本ミャンマー協会のホームページには、しっかりと日本財団のロゴがありました。
日本ミャンマー協会の名誉会長は中曽根康弘、最高顧問は麻生太郎ということで、引用した役員名簿をクリックしていただくと、“永田町や霞ヶ関では泣く子も黙るラインナップ”がご覧いただけます。理事には、自民党の甘利明、公明党の魚住裕一郎、立憲民主党の福山哲郎の名前も見えます。
それでなくても安い実習生の給料からピンハネをしている奴らが居るというのが、この問題の本質のようです。実は、この話題は、2017年9月16日の記事で、すでに紹介しています。今回、その記事の外国人技能実習制度に関する部分のみを編集し直したものを、“続きはこちらから”で再掲載しました。
これを見ると、山本太郎氏がいかに先見の明があり、鋭い質問をしていたかがよくわかります。それにしても、こうした問題を追及する側の野党議員が利権に群がっているようでは、解決は難しいとつくづく思います。 
ミャンマー政府が「日本ミャンマー協会」(JMA)に特権を与えたのは、実際には、政治家ではなく日本財団の存在があったからか 2018/11/23
〜ミャンマー人実習生の受け入れには、管理団体がJMA に入会しなければならない〜
今問題になっている外国人技能実習制度ですが、実習生の受け入れには、民間の人材斡旋会社は関与できず、仲介役として、日本では「管理団体」と呼ばれる非営利団体が存在します。非営利とは名ばかりで、実際には管理費を徴収しており、実態としては人材派遣業者だと考えられます。ミャンマー人実習生に関しては、その管理団体から収入を得ている組織があり、それが昨日紹介した一般社団法人「日本ミャンマー協会」(JMA)です。
記事によると、ミャンマー人実習生の受け入れには、管理団体がJMA に入会しなければならないということで、“ミャンマー政府がJMAに特権を与えたのは、有力政治家の存在があってこそ”だと書かれています。
昨日の記事では、この日本ミャンマー協会の役員には、最高顧問の麻生太郎を始めとして様々な人物が居ることを紹介しました。
下のツイートをご覧になると、ミャンマーには昭恵夫人や加計孝太郎氏も関わっていることがわかります。リテラによると、昭恵夫人は、“6月30日から7日1日の日程で東京都港区にて開催された「ミャンマー祭り2018」なるイベントに参加した”とあり、“2013年5月24〜26日におこなわれた安倍夫妻のミャンマー訪問に加計理事長が同行”と書かれています。
ツイートには、“奴隷商人か、フルスペックの人身売買か?”とありますが、ミャンマーは現在、ロヒンギャ族迫害の問題で揺れており、多くの難民も発生しています。このような時に人身売買が横行するのは常識です。下手をすると、国家が関与している可能性があります。
冒頭の記事では、ミャンマーは“最近になって実習生の送り出しが急増中”だとあり、実習生のひどい待遇を見ると、別の形の人身売買ではないかと思いたくなります。
“続きはこちらから”は、日本財団の笹川陽平氏のブログからミャンマー関連の記事をいくつか引用しました。驚いたことに、氏はミャンマー国民和解担当日本政府代表として、何度も現地に入っています。
また、ミャンマー軍部との関係も深いらしく、“日本財団では、ミャンマー国軍の高級幹部10名を毎年5年間にわたり日本に招聘”しているそうです。
笹川陽平氏といえば、別荘に森、小泉、麻生、安倍といった総理大臣経験者を招待するほどの実力者です。日本財団は CSISとの関わりが深く、昨日の記事でも触れましたが、日本ミャンマー協会ホームページでは日本財団のロゴが誌面を飾っています。
これらを総合して考えると、冒頭の記事で、ミャンマー政府が「日本ミャンマー協会」に特権を与えたのは、有力政治家の存在があったからだと書かれていましたが、実際には、政治家ではなく日本財団だったのかも知れません。
 
 
 

 



2020/4-
 
 
  

 

●政治家に向いている人・適性・必要なスキル
政治家に向いている性格・適性
リーダーシップを取れる人
政治家は国や地方の舵取りを行う必要があるため強いリーダシップが求められる職業です。国や国民、市区町村や市民のためにならないことはしっかり「ノー」という決断をしなければいけませんし、将来的に有益な議案であれば自らが先頭に立って自信を持って推進する行動力が求められます。
責任感の強い人
政治家は国や地方の舵取りを任されている職業です。歳費や議員報酬といった政治家の給料は税金から支払われている以上、自分のためというよりは人のために尽力しなければならず、強い責任感を持っていなけば政治家を続けることは難しいでしょう。
体力に自信のある人
政治家は分単位でスケジュールが埋まることもあるハードな職業です。特に国会議員などは国会での仕事や地元まわり、イベントなどへの出席など移動も多く、なかなかゆっくり休める日は少ないかもしれません。国民や市民の代表としての活動が義務なので、すぐに体調不良になっていては代表としての務めは果たせなく、体力があるというのも立派な政治家の資質といえます。
政治家に必要なスキル・能力
コミュニケーション力
政治家にとってコミュニケーション力は重要なスキルです。選挙では政策を有権者に訴え共感してもらう必要がありますし、議会や委員会では議案を通すために時には反対意見者を説得する必要もあります。またイベントやタウンミーティングなどでは来場者と交流することもあるでしょう。ある意味イメージが大事な職業でもありますので、コミュニケーション力を生かし、有権者に良いイメージを持ってもらい次期選挙につながるという活動も必要です。
政策立案能力
当然ですが政策立案能力は求められます。現在の問題点は何で、どのような解決策があるかなど、法律や条例、過去の例を照らし合わせながら政策を練っていきます。そのためには法律的な知識や行政に関する知識も深いレベルで必要でしょう。そのためには何か一つの専門分野を持ち、自分の強みにしている政治家もいるようです。
調整能力
政治家の仕事は1人で完結することは少なく、多くの人や関係団体と関わりながら一つの議案を成立させていきます。そのためには関係者と事前にコンセンサスを取る必要もありますし、案件によっては何年もかけて事前調整が必要な上に、議案に反対している人たちとも議論の場を設け、説得することで賛成票を獲得する必要もあるでしょう。このように調整力を生かし、一つひとつの議案を通していく能力がとても重要です。
政治家に向いていないのはどんな人?
政治家を「儲かる職業の一つ」と考えている人は向いていないといえるでしょう。結果的に私利私欲のために政治家をしている人もおり、残念ながらそうした問題で報道される政治家も後を絶ちません。信念をしっかり持ち、自分の考えに共感して一票を投票してくれた支持者のために力を発揮するのが政治家の義務であり基本といえます。そのような気持ちを継続して持っていなければモチベーションを保てず、政治の世界で働くことを一つの仕事としてとらえる政治屋になってしまいます。そうなってしまうと自分のことを中心に考えてしまうため、国や国民、県や県民など公益のための仕事ができなくなるでしょう。  

 

●政治家に求められる資質とは!
つい先日、成田市議会議員の先生と話す機会があり、市長が交代しても暫く市政自体はあまり変わることはないということを耳にしました。一瞬耳を疑ってしまうような発言でしたが、その理由はいとも簡単でした。何故なら役所がらみの仕事は複雑であり、外部から今回参入された小林市長が成田市行政全体の在り方を理解するのには最低2年はかかるためだそうです。それ故4年という限られた任期では殆ど何も期待することができず、2期目に再選されて初めて多少の結果を出すことができるというのです。この市議の見解が成田市議会議員の全ての見識を代表しているとは言えませんが、確かに小林市長が当選してからこれまでのおよそ半年間、成田の行政に何ら変化は無いようです。選挙中は小林市長を含む各立候補者が複数の公約を掲げ、行政改革をあれほど訴えてきたにもかかわらず、一旦市長の椅子に落ち着いてしまったとたんに行政の実務に追われ、何時の間に改革の情熱を失ってしまったのでしょうか?
まだまだ疑問は残ります。
せっかく新市長が就任したにも関わらず、協力関係にあるべきはずの市議会議員の殆どは市長に何も期待せず、「どうせ何もできないだろう」と冷ややかに横目で見るどころか、むしろ足を引っ張りながら何か失敗するのを待ち焦がれているのかもしれません。また市民も特に自分達の生活に困ることが無く、行政への関心も失いつつあり、小林市長から公約通りの改革の旗が上がらなくても何ら気にならないとするならば、これもまた問題です。もしそうならば、議員からも市民からも何ら期待されない立場に置かれた市長ほど、苦しい仕事はありません。
市民一人ひとりに期待感があり、市議会議員も含めて全員がひとつの心となって「もっと成田を良くしよう」、「市長、がんばって下さい!」と心から応援する気持ちを持ってこそ初めて、小林市長も最大限の力を発揮できるのではないでしょうか?
市長を応援する大切さを米国民の愛国心から学ぶ
アメリカの政治は基本的に共和党と民主党の2大政党に分かれ、上院、下院共にこの2党でいつも議席を争っています。市民も通常どちらかの政党に属しており、勢力的にほぼ均等に分かれているため、大統領は想像を絶するエネルギーを用いて巧みに世論の誘導を目論まない限り、国全体をまとめて国民の支持を得ることは至難の業です。そんなアメリカでも、同時多発テロ事件ような国家の一大事が起こると、国民は一斉に大統領を心から支持するサポーターに一変します。周囲の緊張感が高まるとき、国家が危機感に包まれる時、米国市民は強い愛国心をもっていつも「USA」と叫びつつ心を一つにしてきました。
もしかすると日本国民はいつのまにか気楽な島国での平和な生活環境に慣れすぎてしまい、自分の利得のみを考えるようになったあげく、一国民として周囲の同朋と結束することの大切さを見失ってしまったのではないかと危惧しています。危機感に乏しければ市民の心が一つになることは難しく、政治に対する無関心層も増える一方です。これでは改革の炎が燃え上がる訳がありません。この現状を打破するためにも、成田市長を始め、政治家はもっと鋭く市民に対して危機感を煽りたてなければいけないのです。実際、問題は山積みです。
現状を否定する危機感を政治家は常に訴えるべき
週間ダイアモンド誌9月27日号に「社長の偏差値」という大変興味深い記事が掲載されました。今や大企業の経営者も業績という目に見える数字の結果に応じて個人的にその実力度を比較される時代になりました。同様に、行政においても日本全国の市長の実力度をランク付けすることも可能であるため、近い将来に市長ランキングが掲載される可能性は高いと言えるでしょう。
さて上場企業で成功を収め、偏差値が高く評価されている経営者には幾つかの共通点があります。その最も大切なポイントは「現状否定」です。すなわちどんなに現状が良く、収益も十分に確保し、会社の運営が落ち着いているように見える状態であったとしても、決してそれに満足することなく、意図的に社内に危機感をかきたて、不断の改革を仕掛け続けることに日夜努めていることです。それはどんな成功体験にもうつつを抜かすことなく、常に将来を見据えた上で戦略的な仕掛けを密に考案し、新規事業を淡々と推し進めていくことを意味しています。
この「現状否定」こそ、民間企業のみならず、行政のリーダーシップにおいても重要なポイントです。これは単なる文句や執拗な批判とは違って、あくまで「もっと良くしたい」という強い向上心が根底にあるポジティブな思考です。成田市において、市長以下、市の行政を導く立場にある市議会の議員から何ら斬新な行政の改革案が出てこないのは、正にこの現状否定の認識が欠けているからに他なりません。そこでまずはリーダーである市長の「現状否定」を始めとして、その「危機感」をベースに役所内や市議会、及び市民の中にかつてない結束力と強い向上心が生まれることを期待したいものです。そして古い行政の体質を克服し、国内外の目まぐるしい環境の変化に適応できるようあらゆる面で徹底した行政改革を推し進めていくべきです。市民の将来と生活レベルの向上を考えるからこそ、今を否定して日夜改革に取り組まなければならないのです。
ワーカホリックな政治家が行政改革の先陣を行く!
民間企業において結果をきちんと残している上場企業の経営者は全て、ワーカホリックという点でも共通しています。常に現状に対する強い危機感を抱いているため、休む暇もなく分刻みのスケジュールで奮闘しているのです。これらの経営者は全て仕事に忙殺されていると言えます。そしてキーワードは「社内では自分が一番仕事をしている」と言い切れるワーカホリックとしての自負です。この頼もしさがあってこそ初めて周囲のスタッフも一生懸命がんばってついてきます。仕事に命をかけるリーダーには必然的に求心力が生まれます。
優れた経営者の素顔の中には、「夜の宴席は一切入れず、毎日ヘトヘトになるまで働く」ことを当たり前とする武田薬品の会長や、ローム社長の佐藤氏のように仕事一筋に頑張る余りマスコミにも殆ど登場しない方針を貫いたり、年間100回以上の海外出張をこなして国際通としての成果を極めるソニーの出井会長等があります。
このような仕事人間こそ今や行政も必要としており、それが成田市長、及び政治家一般にも求められているのです。政治家も民間企業で成功を収めている経営者と同様に仕事人間であるべきです。そして日常の行政業務を取り仕切り、市内をくまなく巡り歩き回っては市民の声に耳を傾け、そのレスポンスとして行政の方針についてわかりやすくかつ大胆に語り続け、議会においては時間の無駄なく新法を取り纏め、できることは何でも即実行に移し、新聞やインターネット、マスコミを介して一般庶民との意思の疎通を図りつつ行政改革を推し進める。この非常に多忙なスケジュールを寝る時間も惜しまず必死にこなし、その大変さを厭うことがない純粋な姿があれば、市民は政治に信頼を寄せるようになるものです。
市民の声を聞くだけでなく政治家は自分の情熱を語るべき
最近の国会答弁など、政治家の生の姿をテレビで見て呆れ返った人も大勢いるはずです。国会という国の最高レベルにある行政機関においてでさえ愚問と愚答に終始するナンセンスな水掛け論が繰り返され、おまけに野次や罵声が頻繁に会堂に響き渡ります。政治家の命はコミュニケーションにあり、自分の考え、理論をきちんとわかりやすく誰にでも説明できるスキルが不可欠なのですが、それができないのが今の政治家です。その点において小泉首相はコミュニケーションとパフォーマンスの大切さを良く心得ており、どんなに厳しい反発を内外から食らっても上手に振舞いながら、常に根強い支持率を維持しています。
コミュニケーションの基本は2ウェイです。政治家は当然のことながら市民の声を聞き、要望事項に耳を傾けます。しかし単に聞くだけでなく、その後、様々なアイデアを取り纏め、そこから生まれる自己の信条や行政のポリシーを明確な言葉でわかりやすく正確に、市民に対して包み隠さず説明する必要があります。
しかし現実問題として一般的に地方の政治家は「聞く耳」は持つが、上手に説明してそれを実行に移すことができないというジレンマに直面しているようです。鋭いコミュニケーションのスキルが無ければ、市民のモチベーションを高めることにつながらないのは明白です。成田市においても市長は単に市民の声に耳を傾けるだけでなく、これからはご自分のポリシーを明確に訴えていく必要があります。市民誰もが内心、面白くてわかり易く、気合の入った情熱的なメッセージを語る政治家が現れるのを待ち焦がれているのです。
政治家が自ら汗をかく時行政改革の炎が舞い上がる
現代社会は型にはまらない自分流の政治哲学をしっかりと持った実行力のある政治家を必要としています。高い志を掲げ、溢れんばかりの情熱を持ち、市民の心に火をつけて社会の改善に大きな期待を持たせ、「やる気」を起こさせるようなリーダーの登場を待っています。今や政治家も自ら汗をかくことが大切な時代となりました。市民一人ひとりがもっとアクティブに市政に参加するために、また社会全体が保有する潜在能力を最大限に引き出すためにも、政治家には社会全般のリーダーとして日夜、仕事人としての平凡な原則をひたすら守り抜き、わかり易く、期待感に満ち溢れた政治を実践することを心がけてもらいたいものです。  

 

●政治家に求められるリーダーの資質とは?
スイスの連邦議会では間もなく、2人の新しい閣僚が選出される。今日の民主主義を主導する政治家に必要とされるスキルは何なのか?スイスインフォの読者や専門家、政治家に意見を聞いた。
優れた指導者は何が違うのだろう?資格や人脈、品位や気性の問題?それともただ単に、運よく良い時に良い場所にいただけなのだろうか?
ヨハン・シュナイダー・アマン経済相とドリス・ロイトハルト環境相の後任を決める5日の閣僚選出選挙を前に、スイスではリーダーの資質について議論されている。両氏は今年9月、年内に辞任する意向を表明した。
物事を合意によって進める合議制に基づく国スイスでは、閣僚候補になるための条件がある。まず、新しい2人の閣僚は前任と同じ政党から選ばれなければならない。7人の閣僚からなる内閣の政党バランスを保つ、いわゆる「マジック・フォーミュラー(魔法の法則)」を維持するためだ。そのため今回は中道右派の急進民主党とキリスト教民主党から新閣僚が選出される。
次に、出身地の問題がある。スイスの多様な文化・言語圏は、その言語圏の代表者が得た閣僚ポストを固守しようとする傾向がある。ロイトハルト氏もシュナイダー・アマン氏もドイツ語圏の出身。その点、候補者選びは容易になるだろう。誰に投票するかを決めるプロセスも単純だ。議会は各政党の推薦に基づいて投票するからだ。
更に、国民と政界既成勢力の両サイドから、より多くの女性閣僚を望む声や、年齢が上がりつつある内閣の若返りを熱望する声も高まっている。そうなると、ほぼ選択の余地が残されないレベルまで候補者数が絞られてくる。
読者の声
では、候補者に求められる資質や能力はどうだろう。この国の舵取りに必要なのは、米国の伝統的なケースのようにむしろ弁護士?それとも中国流に、技術者出身の官僚?デジタル時代にふさわしい科学者やテクノロジーの専門家?健全な人格者?英語以外の外国語も操るマルチリンガル?
スイスインフォの読者にSNSでこの質問を投げかけたところ、様々な回答があった。弁護士や型にはまった政治家にうんざりしている人の中には、「現実を良く知っているから」「エネルギーや環境問題を理解する人なら解決策を見つけられるかも」という理由で、科学者を望む人もいた。
実業家や経営者なら「現実世界」での問題を解決できるのでは、という点に関しては、意見が両極端に分かれた。「少なくとも10年は民間で働いた経験者が必要」と歓迎する声や、「絶対にビジネスマンはダメ。アメリカの例を見れば一目瞭然」と非難する声もあった。
他にも、年齢(『若くても45歳希望』)や、テクノロジーの知識(『私たちは全く新しい環境の中に生きているから』)、細かいことに行き詰まることなく複雑なテーマや問題を理解し対応できる能力、といった意見も出た。ロジャー・フェデラーなら象徴的な国王以上の存在になれると言う読者もいた。
性格も重要
だが、読者のコメントで、能力や出身、経歴よりもはるかに重要だった要素がある。それは「良識があるかどうか」という点だ。逆に「学位が多すぎる人物は望ましくない」とコメントした読者もいた。
スイスの世論調査機関gfsベルンの創立者で、政治学者のクロード・ロンシャン氏は、そのような考え方に理解を示しつつも、多少異なった結論を出している。このベテランアナリストは、典型的なスイスの政治家が、地元に根差した「住民の味方」から、様々な側面を持つ国家の指導者に変わっていく過程を見てきた。その上で、思慮深さや威厳といった人格は、能力や専門知識にも勝る重要な要素であると考える。
ロンシャン氏は、「閣僚は品格を持ってスイスという国を代表できなければならない」と主張する。閣僚たる人は、「単に」問題に対応する能力を備えるだけではなく、優れた指導者の地位とカリスマ性を示さなければならない。現在の閣僚では、大統領を兼任するアラン・ベルセ内務相が、そしてシュナイダー・アマン氏の後任候補と言われているカリン・ケラー・ズッター議員がそうした品格を備えているという。
このような考察は、政治や公人を理論的かつ正確に分析する政治学者の意見としては、いささか曖昧だと感じられるかもしれない。所詮、カリスマ性を測定することは不可能だ。だが、そこが最も重要なポイントなのだ。説得力、知識、謙虚さ、信頼性といった、真のリーダーシップに必要とされる要素は、測定不可能なものだからだ。
それは同時に、スイス独特のシステムも反映している。ロンシャン氏は、スイスの閣僚は欧州他国の閣僚とは違うと強調する。例えばフランスのように、特定のテーマを担当する専門家が大臣に指名される国もある。だがスイスでは、一つの行政機関(省庁)が多岐にわたる分野をカバーするため、専門家よりもむしろ幅広い能力を持つゼネラリストが求められる。
求められるゼネラリスト
ロンシャン氏はまた、所属政党にとらわれずに国家の利益のために打開策を打ち出す能力も重要だと指摘する。ベルセ大統領はこの点にも長けているという。中道派に比べると、極端な政治的立場の政治家はこの点を満たすのが難しい。
今年3月、28歳のファビアン・モリーナ氏が当選するまで、ジュネーブ出身で30歳のリザ・マッツォーネ議員(緑の党)は、長い間最年少の下院議員だった。
マッツォーネ氏は閣僚候補には上がっていない。本人も特に閣僚になりたいと思わないと言う。では官僚にはどんな人物を求めるのだろう?
フランス文学とラテン文学を研究したマッツォーネ氏は、専門的な資格や経歴を過大評価しないように努め、「ゼネラリストであることのほうが重要だ」と言う。鍵となるスキルは、問題のテーマを素早く理解し、メディア漬けの国民に、争点を単純化し過ぎることなく効果的に説明できる能力だと確信している。
また、「性格や気質が他のどんなスキルにも勝る」というロンシャン氏や読者の意見に同意する。マッツォーネ氏は、リーダーの最も重要な能力として、対人スキル、スイス的価値観に関する真の基礎知識、国の利益のために「政党の枠」を超えて行動できる心構えを挙げた。
最近は、別の分野でキャリアを積むことなく専業で政界に入る、いわゆる「職業政治家」が増えている。そのような政治家は市民の実生活や感覚からかけ離れていると批判されることもある。マッツォーネ氏も厳密にいえば職業政治家だが、他に本業を持つ政治家よりも専業の政治家がリーダーシップに優れているかどうかについては、明言を避けた。
政治を「すること」よりも政治家で「あること」に関心がある政治家も多い中、マッツォーネ氏自身の目的や動機は明確だという。「私が政界に入ったのは、社会を変えたかったからだ」

 

●政治家に必要な、涙とともにパンをかみしめる体験
前稿で私は、政治家にとって学歴・学校歴に意味はなく、重要なものは別にあると記した。それはいったい何か。
政治家に欠きえない冷静な判断力
「職業としての政治」論で有名なマックス・ヴェーバーは、政治家に求められる資質として「情熱、責任感、判断力」をあげていた。そして判断力とは、「事柄(事態)と人に対する距離〔を見はからう能力〕」である、と(ヴェーバー『職業としての政治』角川文庫、75-6頁、ただし訳はかならずしも出典とした訳書に従っていない。以下同じ)。
政治家は、一般にはもちえない権力によって市民・社会に多大な影響を及ぼしうる。それは市民生活に安逸を与えもすれば、苦痛をもたらしもする。人を生かすこともできれば、殺すこともできる。政治という営みは、それだけ厳粛な意味をもつ行為である。
だからこそ政治家には、情熱のみならず「冷静な判断力」(同77頁)が、「事柄と人に対する距離」が不可欠だと、ヴェーバーは記すのである。それを欠けば、「情熱」は統制のとれない興奮にいたる。これをヴェーバーは政治家にとっての大罪と記すが(同前)、今日、与党にはその種の「政治家」が多すぎると私には思われる。満足な説明責任もはたさずに強行採決に訴える様子を見ていると、彼らは政治家として大罪をおかしていると感ずる。
政治家に欠きえない観察者の立場・歩みよる資質
では、いったい何が、冷静な判断力の行使を可能にするのであろう。
政治思想家のハンナ・アーレントは、美学を論じたカントの『判断力批判』を政治哲学書として(多少むりに)読もうと試みたが、その中で唯一成功したと思われるのは、冷静な判断力行使を可能にする条件を明示したことである。
アーレントは、政治家は行為者でありながら、己の活動についての公平な観察者となる必要があると論じ、その場合に、少数派を含めた市民との共生を可能にする「共同体感覚」を、政治家固有のエートス(持続的な性格・倫理観)として重視した。
政治家は政党に属するのがふつうだが、そのために己の立ち位置をせばめてしまう結果になることが多い。しかも今日、与党の場合、党内で自由な議論ができる余地は極小化している(朝日新聞2019年6月13日付「朝日・東大共同調査/自民 15年で進んだ純化」を参照)。
だが政治家にとって最も重要なのは、この共同体感覚――分断ではなく、同じ市民としての共生可能性を重視しようとする市民感覚――であり、それを保持した公平な観察者(第三者)の立場に立てることである(アーレント『カント政治哲学の講義』法政大学出版局、77頁、109頁)。
社会契約説で名高いルソーも、政治家の資質について重要な発言を行った。近代的価値の実現をめざした政治団体(国家)は、人々があい集って総意を形成し、その指揮の下に、全員の利益を配慮しつつ運営されなければならない、と(ルソー『社会契約論』岩波文庫、30-1頁;ルソーは直接民主制論者であるため「人々」は市民全体をさすが、間接民主制論として「議員」と読んでよい)。
要するにルソーは、特定の集団(党派)の立場に偏するのではなく(同48頁)、少数派を含めた全成員の総意(一般意思)によって法を制定する必要がある、と論じたのである。
もちろん総意形成は、問題によっては困難かもしれない。だがこれは、民主制下の政治理念として不可欠である。そして総意形成のためには政治上の技術も重要だが、はるかに重要なのは、少数派の利益を考慮し我意(特殊意思)をすてて歩み寄る、人々(議員)の道徳的資質である、と論じている。
世の英知に従えば、政治家に不可欠なのは以上のような資質である。
勉学より重要なのは実社会での体験と共感である
では、こうした資質を備えるためには、そもそも何が必要なのだろう。
学校教育も必要な条件となりうる。ただし、高卒か大卒か、「名門」校出か非名門校出かなどは、無関係だろう。どの学歴・学校歴も、政治家に固有なエートスをつくる保障にはならない。
むしろ高い学校歴をほこる人は、偏差値教育への適応をつうじ、「短時間内に頭脳のなかに蓄えた知識を要領よく紙上に再現する能力――というより技術――を持つ」かもしれないが(尾形憲『学歴信仰社会――大学に明日はあるか』時事通信社、28頁)、それだけが価値ある人間的能力でない。ましてや、それが政治家にふさわしい能力だとは、とうてい言えない。 ・・・  

 

●「政治家の資質」の問題は、日本の雇用慣行にも原因がある
「政治家の資質問題」は、日本政治にとって「古くて新しい問題」である。「政治とカネ」の問題や「暴言・失言」の類で様々な閣僚が辞任し、歴代政権の基盤が揺るがされてきた。また、いわゆる「チルドレン現象」で当選してきた1、2回生議員が不祥事を起こすことも少なくない。
これらの問題は、政治家個人のモラルの低さや人間性の問題とされることが多い。そして、その政治家は世間から激しいバッシングを受けるが、その嵐が過ぎ去ると、まるでなにもなかったかの如く世間から忘れ去られる。しかし、別の政治家がまた同様の問題を起こし、世間のバッシングに晒される。その繰り返しなのである。
本稿は、政界で嫌というほど繰り返されてきた「政治家の資質問題」を、政治家個人ではなく、日本社会の構造問題と捉える。そして、現在日本政治の重要課題の1つである「働き方改革」、特に「終身雇用」「年功序列」の「日本型雇用システム」との意外な関連性に焦点を当てたい。
政治家の資質問題と選挙制度
従来、「政治家の資質問題」は政治制度、特に「選挙制度」と関連付けられることが多かった。日本の選挙では、候補者の政治家としての能力よりも「3バン(地盤、看板、カバン)」が重視されることが指摘されてきた。この場合、一族に政治家がいる者が有利であり、日本では「世襲議員」が多くなり、政界への新規参入を試みる若者には高い「障壁が」存在している。
特に、1993年の「政治改革」による「小選挙区比例代表並立制」導入以前の「中選挙区制」では、1つの選挙区に自民党だけが複数の候補者を擁立したために、同一選挙区内で自民党公認候補同士の争いとなる選挙では、政策よりも地元への利益誘導が重視された。政治家は、地元対応のために多額の政治資金を確保するために散々苦労していた。その結果、様々な「政治とカネ」の問題が起こってきた。そして、地盤・看板・カバンを持たない新人が政界に参入するには高い障壁となってきた。
また、中選挙区制下で自民党だけが複数候補者を擁立できたことで、自民党政権が長期化し、38年間(1955年〜1993年)続いた。これは、自民党内に「当選回数至上主義」のキャリアシステムという、「年功序列」の制度化をもたらした。
当選回数至上主義とは、国会議員の当選回数に応じて、閣僚、副大臣、国会の委員会、党の役員といった、さまざまなポストを割り振っていく人事システムである。自民党議員は当選5、6回で初入閣までは横並びで出世し、その後は能力や実績に応じて閣僚・党役員を歴任していく。
これは、約300人もいる自民党の国会議員の全員が納得できるように党の役職を割り振るのは簡単ではないため、「当選回数」というわかりやすい基準を設けたということだ。このシステムは自民党政権の長期化に伴って固定化し、「当選回数」が国会議員を評価する絶対的な基準となった。
このシステムでは、若くして国会議員に当選すると、それだけ党内での出世に有利となる。そして、強固な選挙区(地盤)、政治資金(カバン)、知名度(看板)を引き継ぐ世襲議員の初当選年齢は若い。例えば、小泉純一郎氏・30歳、橋本龍太郎氏・26歳、羽田孜氏・34歳、小渕恵三氏・26歳である。ちなみに、史上最年少・自民党幹事長だった小沢一郎氏は27歳初当選だ。
一方、官界やビジネス界で成功した後や、知事などを経験した後に40〜50代で政界入りした場合、この人事システムでは経験や実績はほとんど考慮されない。例えば、財務省主計官だった片山さつき氏は46歳で初当選したが、ただの1回生議員扱いだった。さらにこのシステムでは40〜50代で政界入りすると、初入閣するのは50代後半か60代前半となる。その時彼らと同年代の世襲議員は、既に主要閣僚・党幹部を歴任したリーダーとなっている。これでは、優秀な人材がわざわざ政界に転身しようという気にはなれないのは当然だと言えるだろう。
選挙制度だけでは「政治家の資質問題」は説明できない
93年の「政治改革」で、小選挙区比例代表並立制の導入という選挙制度改革が断行された。その結果、選挙は利益誘導よりも政策を競うものに次第に変化した。前時代的な不祥事が続いてはいるが、全体的には、政治とカネを巡る政治家の問題は大幅に減少した。また、各政党は「候補者公募」を行うなど、候補者の多角化と参入障壁の緩和を図ってきた。
その結果、2000年代になって「小泉チルドレン」(自民党、2005年総選挙)、「小沢ガールズ」(民主党、2009年総選挙)、「安倍チルドレン」(自民党、2012年総選挙)など、3バンを持たない新人の大量当選現象が起こった。しかし、政界への参入障壁は下がったが、チルドレンの様々な失言・暴言、不適切な行動によって、「政治家の資質」の低下は、より厳しく批判されるようになった。
要するに、厳しい批判があった選挙制度を改革してみたが、「政治家の資質問題」は改善しないどころか、むしろ悪化した。従来の選挙制度による説明では、不十分だということだ。そこで、本稿は終身雇用・年功序列の「日本型雇用システム」に注目する。そして、優秀な人材が政界入りしないのは、日本社会特有の高い「転職リスク」にあると主張する。
「日本型雇用システム」を批判する
一般的に終身雇用・年功序列として知られる「日本型雇用システム」は、新卒で正社員として就職できれば、定年近くまでの数十年間、失職しないシステムだ。このシステムは、戦後の高度成長期からバブル経済期までは国内外で高い評価を受けた。
このシステムは、経済のグローバル化によって徐々に崩れてきたとされている。だが、現在でも日本社会では高い支持を誇っている。就職活動に挑む学生は、多数が「正社員」となることを望んでいるし、一生同じ企業に勤め続ける終身雇用を希望しているのだ。
しかし、この連載では「日本型雇用システム」を度々批判してきた。「失われた20年」の間、日本企業は国際競争力を維持するために多国籍化し、開発途上国の安いコストで生産する体制を作った。国内経済が「空洞化」したが、これに対して日本企業は、「慣行」に従って既存社員の雇用維持に努め、新規採用を抑制し、派遣や請負等の非正規雇用社員を増加させた。その結果、若年層の多くが新卒で正社員として採用されず非正社員となっている。
そして、非正社員として社会人をスタートした若年層が、その後に正社員の職を得ることは極めて難しい。だが、その事態を引き起こした企業の行動を、与野党の政治家、財界、労組、マスコミのほとんどが支持し、若者を「努力不足」と批判している。これは大学教員の立場からすれば、許しがたいことだと考えている。
また、日本型雇用慣行は「裕福な高齢者」vs「貧しい現役・若者世代」という世代間対立の「本丸」と位置付けられるのではないだろうか。この問題に切り込まない限り、若者の雇用問題の本質的な解決はないのである。そして、今回は更に議論を進めて、日本型雇用慣行を「政治家の資質問題」の原因の1つと考えてみたいのである。
新卒一括採用の就職活動が、政治家になる志を断念させる
筆者は、学生とともに香港を訪問し、雨傘運動のリーダーの1人だった周庭(アグネス・チョウ)氏や香港立法会議員、香港中文大学の学生たちへのヒアリングを通じて、日本の被選挙権を得られる年齢(衆院25歳、参院30歳)が、世界的に見て「例外的」に高いことに問題意識を持った。香港を含む、実に60%の国・地域が21歳以下に被選挙権を与えている。主要先進国(G7)では、米国とイタリアが25歳であるのを除けば、英、仏、独、加の被選挙権は18歳である。
世界では、日本では想像できないほど学生の政治参加が進んでいる。2015年5月の英国総選挙では、スコットランド国民党から20歳の女子大生メアリー・ブラックが当選し、被選挙権が満23歳以上の台湾では、2014年の「ひまわり学生運動」の後に、学生を中心とした「時代力量」という政党が誕生した。そして、香港立法会選挙では、Demosistoの羅冠聰(ネイサン・ロー)氏が23歳の史上最年少当選を果たした。
もちろん、これらの国・地域でも、大学生が政治家となるのは例外的だ。だが、それ以上に重要なのは、政治に関心を持った大学生が、卒業後も政治家となることを一貫した人生の目標として持ち続けられることだ。
これに対して日本では、大学生が被選挙権を持っていない上に、大学4回生時に一斉に「就職活動」を行う「新卒一括採用」のシステムがある。優秀な人材ほど「正社員」として企業に雇用される。学生が政治に関心を持っても、大多数の学生が就活をする中で、「正社員」とならずに自らの志を貫くのは容易なことではない。つまり、「日本型雇用慣行」によって、日本の若者は大学卒業時に、政治家になるという目標を一度は断念せざるを得なくなるのだ。
日本特有の「政治家への転職リスク」
そして、企業で「正社員」のステータスを得た若者が、年功序列・終身雇用のキャリアトラックを捨てて、再び政治家を目指すことは極めて少ない。なぜなら、企業を退職するなどでキャリアトラックから一度離れると、再び戻ることが難しいからである。いまだに、企業の中途採用枠は少ない。また、中途採用では、新卒で正社員と比べて出世の道が限定される。要するに、「転職」は日本社会ではいまだに相当な「リスク」なのである。
日本で政治家になるということは、大学4回生時の「新卒一括採用」で得た「正社員」の座を捨てることになる「転職」そのものだ。それは、生まれながらに地盤・看板・カバンの3バンを持つ「世襲」の候補者を除けば、大きなリスクのある挑戦となる。
あるエリート官僚に聞いたことがある。彼と同じ省から国会議員への転身は少なくないのだが、「尊敬できるのは1人しかいない」と言い放った。省内で出世コースに乗り、仕事が充実している官僚は政治家に転身しない。転身するのは、省内で評価されず、不満を持っていた官僚だ。そして、元官僚の政治家は決して官僚の味方ではない。むしろ執拗に「官僚いじめ」を繰り返したりするという。
民間でも同じだろう。年功序列・終身雇用のキャリアトラックに乗って順調に出世している優秀な人が、わざわざ退職して政治家になる理由がない。会社を辞めるのは、社内満足な評価を得られず、不満を募らせている人だろう。
より踏み込んでいえば、政治家とは、正社員になれなかった人が目指すものかもしれない。かつて、社民党には大学院在学中に衆院選で当選し、「就職が決まった」と発言した原陽子氏がいた。また、衆院選で当選した際、「早く料亭に行ってみたい」「念願のBMWが買える」などと奔放な発言を繰り返した小泉チルドレン・杉村太蔵氏は、就職活動がうまくいかず、派遣社員・契約社員として職を転々としていた。
諸外国では、政治家への道は日本ほどリスキーではない。それは、選挙制度など政治システムの問題よりも、むしろ年功序列・終身雇用が世界的に見ると極めて珍しい制度だからである。例えば、英国では大学卒の一括採用というシステムがない。学生は、卒業してから、インターンシップを皮切りにキャリア形成を始める。インターンで評価されれば就職できるが、最初から正社員の待遇は得られない。日本でいう「派遣社員」としてキャリアをスタートさせる。若者は30歳くらいまで転職を繰り返して、自分の適職を探していく。
また、英国では「年功序列」が事実上存在しない。企業・行政機関で役職者のポジションに空席が生じた時、組織外にオープンに人材を募る「公募」が行われる。平社員として契約している者が役職者になりたければ、「公募」に応募して、外部からの多数の応募者と競争しなければならない。
もちろん、社内の人間が昇格することはあるのだが、それは社外からの応募者と能力を比較して、役職者にふさわしいと社外に明確に説明できる場合である。この雇用制度であれば、政治に「転職」することは大きなリスクにはならない。たとえ落選しても、オープンな公募で企業・行政機関に戻る機会があるからだ。
英国では近年、ジョン・メイジャー、トニー・ブレア、ディビッド・キャメロンと、40代で首相に就任する政治家が多く、閣僚も若手が起用されることが多い。日本では当選回数が2、3回では、副大臣でさえ経験することができないが、英国においては、同程度の当選回数の国会議員が、首相や主要閣僚を務めることは決して珍しくない。
特に、キャメロン政権では、ジョージ・オズボーン財務相、ウィリアム・ヘイグ外相ら、40代前半で主要閣僚を占めた。これらの事例は、英国では早期に主要閣僚の業務をこなせる能力を持つ優秀な若者が政界入りしていることを示している。
ちなみに、年功序列・終身雇用制度がないのは欧米だけではなく、中国や東南アジアなども同様である。
適材適所の人材投入は国家存亡の最重要課題
自民党長期政権と日本型雇用システムは、ともに1990年代以降、時代に不適合なものとして批判されてきたが、2つを結び付けて考えられることはなかった。しかし、優秀な人材が政治家になるインセンティブを持つようになるには、人材を受け入れる側の政治制度だけではなく、むしろ人材を送り出す側にある日本型雇用慣行という「障壁」を検証する必要があるのではないだろうか。そして、これは政界における人材確保のあり方のみならず、日本社会・経済のシステム全体を包括的に見直すための議論とせねばならない。
先が読めない、これまでの常識が通用しない時代だ。専門性の高い優秀な人材を発掘し、適材適所に投入するかは、国家が生き残っていくための最重要課題の1つであろう。  

 

●マックス・ヴェーバー 『職業としての政治』 1
1.政治家の資質
ヴェーバーは政治家にとって重要な資質は情熱、責任感、判断力の3つだと言います。情熱とは、自らが追求せんとする事柄(ザッヘ)や正しいと信じる信仰への情熱的献身のことです。これはただの情熱、特にロマンティズムに基づく情熱ではありません。そのような情熱は責任を欠いている。情熱は「それが『仕事』への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す」のです。
そして、そのために必要なのが判断力だとヴェーバーは言います。「すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である」。判断力とは、自らの情熱をしばし脇に除けておき、まずは物事の原因や現況を客観的に観察できる能力のことあり、判断とはその先に下されるものなのです。とはいえ、情熱のまったくない政治家もまた政治家たる資質に欠けています。そのため「燃える情熱と冷静な判断力の二つを、どうしたら一つの魂の中でしっかりと結びつけることができるか、これこそが問題」なのです。
この問題にとっての最大の敵が「虚栄心」です。しかし、この虚栄心を政治家の心の内から取り除くのは容易ではありません。なぜなら、政治家はその職業の本質から言って権力を追求せねばならず、この権力は政治家の虚栄心をくすぐる最悪の麻薬だからです。権力の追求がある仕事(ザッヘ)のためでなく、単なる自己陶酔の目的となったとき、政治家は堕落するのです。
2.政治家の品位
「政治家がそのために権力を求め、権力を行使するところの『事柄』がどういうものであるべきかは信仰の問題である」とヴェーバーは言います。というのも、どのような当為(……スベキ)が正しいかどうかは、ある基準や理念の合理性や道徳性云々ではけし導き出せるものではないからです。政治家が果たさんとする「事柄」の選択は、そのような確実性や道議性のもとでのみ行われるのではありません。さまざまな立場や利権が相互に入り交り、競り合っている政治的空間においては、いずれの目標を採択するかにおいて「信仰」という情感的な感覚に頼らざるをえないのです。「そこでは、究極的な世界観が衝突し合っていて、われわれとしては結局その中のどれかを選択しなければならないわけである」。
ここで話は「仕事(ザッヘ)」としての政治のエートスという問題に移っていきます。すなわち、政治家に要請される特有の倫理とは何か、という問いです。
まずヴェーバーは、行為の後になって自分の行為に合理性を見出して正当化するような態度を斥けます。たとえば「イソップのきつね」が食べられないブトウを「どうせまだ酸っぱいや」と言って自分の正しさを主張するようなことは「騎士道精神(リッターリッヒカイト)」に反するのです。そうではなく、たとえば戦争に負けた者が敵に向かって「われわれは戦いに敗れ、君たちは勝った。さあ決着はついた。一方では戦争の原因ともなった実質的な利害のことを考え、他方ではとりわけ戦勝者に負わされた将来に対する責任――これが肝心な点――にもかんがみ、ここでどういう結論を引き出すべきか、いっしょに話し合おうではないか」と言うこと、これこそが品位のある言い方なのだとヴェーバーは言います。戦争責任者をつるし上げて責任追及をしたり、いつまでも過去の憎しみを抱いてねちねちと責め続けるような態度は「政治的な罪」ですらあるのです。「戦争の道義的埋葬は現実に即した態度(ザッハリッヒカイト)と騎士道精神(リッターリッヒカイト)、とりわけ品位によってのみ可能となる」。
「政治家にとって大切なのは将来と将来に対する責任である」とヴェーバーは言います。ヴェーバーにとって、過去の責任問題はそもそも解決不可能なものであり、そんなことにいつまでもかかずらっているのは政治的にはまったく不毛なのです。しかもこのような「倫理(自己弁護の倫理)」は政治が善を実現しうると見なしているようですが、政治の場には複雑な利害関心が渦巻いているのであって、そのなかにあっては善なるものは目的というより、むしろ自己の利益を増そうとするにあたって都合良く振るわれる大義名分になっていくのであります。そのため「倫理」は人間心情的には共感を呼ぶとはいえ、政治においては品位の欠如でしかなのです。
3.政治と倫理
そうなりますと、政治と倫理とは相反するものであって、まったく関係のないものなのでしょうか。しかしヴェーバーは国家を「一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体」と定義しているのでありまして、この人民にとって、ともすれば危険物たりえる装置の運営を任されている政治家たる人格に、なんら倫理的態度を要請できないというのは社会政治的な失敗であるように思われます。
ではどうにか政治家にある倫理的態度を要請するとして、それはいかなるものとなるだろうか。
まず政治家の営為は「絶対倫理」に従わせることができるのか。ここでの絶対倫理とはある掟の、特に福音主義的な絶対善の無条件遵守を要求するものです。いかなる理由・条件・状況であれ、ある行いが絶対善を定めた掟に反するのであれば許されることはないというこの倫理は、しかし政治家にはそぐわないとヴェーバーは言います。
絶対倫理はおよそ「結果」なるものを考慮しません。絶対倫理にとっては掟に則っていたかのみが問題なのです。たとえば「すべての真実を国民に公表する義務がある」という掟が政治に突きつけられたのであれば、その「真実」がもし国民にパニックをもたらし、また諸外国との関係を取り返しのつかないほど悪化させるなど、最終的に国家国民にとてつもない損失をもたらすという予測が事前にあり、そして実際その通りになったとして、しかし絶対倫理はその責任をけして引き受けないのです。政治家に求められる倫理として、これは決定的に問題です。
4.心情倫理と責任倫理
ここに、ある行為を倫理づけるにあたってふたつの対立する方向があることをヴェーバーは示します。すなわち「心情倫理(Gesinnungsethik)」と「責任倫理(Verantwortungsethik)」です。「人が心情倫理の準則の下で行為する――宗教的に言えば『キリスト者は正しきをおこない、結果を神に委ねる』――か、それとも、人は(予見しうる)結果の責任を負うべきだとする責任倫理の準則に従って行為するかは、底知れぬほど深い対立である」。
心情倫理と責任倫理のちがいをより詳しく説明しますと、まず絶対倫理的な善に準拠する心情倫理家は、ある行為の責任は行為者本人にではなく、他人の愚かさや世間、もしくは神にあると言います。というのも、心情倫理はある行為が正しい、善なる倫理的要請(掟)に適っているかどうかしか関心がなく、また善い行いは必ず正しい結果に結びつくと信じています。しかしながら、ある意図や動機が必ずしもその目標とする結果に達するわけではないのは明らかでありまして、この心情倫理家の信仰はたびたびはずれてしまう。しかしはずれたとて、心情倫理の立場からすれば、その原因は行為者当人ではなく、それを歪めた何かしら他の要因のせいにしてしまえるのです。これに対して責任倫理家は、自分の行為の結果が予測できたのなら、帰結はどうあれ、その責任は自分の行為にあると言います。たとえ人間は完全に世界を制御できないという前提を承知していたとしても、です。
5.悪魔の契約としての政治
政治における心情倫理の最大の問題は、政治は暴力という手段と切っては切り離せない関係にあるということです。つまり、心情倫理は「暴力は悪である」と定めた時点で、政治そのものを不可能にしてしまうのです。「目的による手段の正当化の問題にいたって、心情倫理も結局は破綻を免れないように思われる。実際、この心情倫理には――論理的につきつめれば――道徳的に危険な手段を用いる一切の行為を拒否するという道しか残されていない。……かりにわれわれが、目的は手段を神聖化するという原理一般をなんらかの形で認めたとしても、具体的にどのような目的がどのような手段を神聖化できるか、を倫理的に決定するのは不可能である」。
ヴェーバーにとって、心情倫理家の素朴で、非倫理的な合理性を認めない態度は、世界の非合理性から目を背けているものに映ります。「この世がデーモンに支配されていること。そして政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と暴力性とに関係をもった者は悪魔の力と契約を結ぶものであること。さらに善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。……これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である」。
かつての偉大な宗教家たちがけっして政治にたずさわらなかったのは、暴力を手段とするのを良しとしなかったからです。「自分の魂と他人の魂の救済を願う者は、これを政治という方法によって求めはしない。政治には、それとはまったく別の課題、つまり暴力によってのみ解決できるような課題がある」。ヴェーバーからしてみれば、心情倫理は政治特有の目的・手段と鋭く対立するものなのであり、その倫理は政治家のそれとしてはふさわしくないのです。さらに「魂の救済」を政治に盛り込んでしまえば、政治には「悪魔の力」が潜んでいるということを人々の目から隠蔽することにもなりかねない。そうなれば、当人たちにとって二重に悲惨な結果を招いてしまいます。魂の救済の道が醜く歪んでしまうことと、人民が知らず知らずのうちに政治の悪魔に蹂躙されるということの。そのため、政治家は基本として責任倫理に則り、そして「修練によって生の現実を直視する目をもつこと、生の現実に耐え、これに内面的に打ち勝つ能力をもつこと、これだけは何としても欠かせない条件」なのです。
6.政治家たる資質とは
ヴェーバーにとって、政治家によりふさわしいのは責任倫理の重みを引き受け、「私としてはこうするよりほかない。私はここに踏み止まる」(ルターの言葉)と言える人間のことなのであります。もちろん、心情真理をまったく無視するのではなく、自分は悪魔と契約したのだということに自覚的になった上で、その両面をバランス良く内面に宿した政治家こそ「天職」をもちうる真の政治家なのであります。
「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である」とヴェーバーは言います。心情倫理家が信じるような、善い行いが善い結果をもたらすなどということの保証はどこにもない。しかも暴力という悪魔の手段を、政治家はそれでしか達成できない理想があると信じて行使する。この絶望的な重圧に曝されてなお、己の道を貫かんとする堅い意志、冷静と情熱をともに秘めた英雄的精神、そして政治的行為の責任をあまんじて引き受ける侠気、これこそが政治をなさんとする政治家に必要な資質なのです。「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が……どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!(デンノッホ)』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への『天職(ベルーフ)』を持つ」。  

 

●ヴェーバー『職業としての政治』 2
『職業としての政治』(1919年)は、社会学者のマックス・ヴェーバー(1864年〜1920年)が学生に向けて講演した際の内容をもとにした著作だ。本書でヴェーバーは政治、政党、官僚などのテーマについて論じている。具体的な内容は『国家社会学』で取り上げられたテーマとかなり重なっている。「同じ原著の別の翻訳?」と思ってしまうほどだ。それだけヴェーバーの議論に一貫性があるということだろう。ただし本書の議論には、いまから見るとかなり古い箇所も多い。ヴェーバーは本書で当時のドイツ、イギリス、アメリカの政治についても論じているが、当時はそういう見方が一般的だったのかな、と参考程度に止めておくのがいいだろう。
『国家社会学』との共通点
本書と『国家社会学』の議論の共通点を取り出すと、大体次のような感じにまとめることができる。
•国家とは正当な(legitimate)暴力行使を条件とした支配関係
•その正当性の根拠は3つ
   1.伝統の権威
   2.カリスマの権威
   3.合法性
•現実の統治には行政スタッフ(官吏)と行政手段が必要
•近代国家は、行政スタッフと行政手段が分離される過程と平行して発展してきた
•政党間の争いは「官職任命権」をめぐって生じる
•かつて政党は名望家団体として運営されていたが、今日では近代的政党組織(マシーン)として運営されている(特にアメリカで)
•マシーンの登場は「人民投票的デモクラシー」の登場を意味する(デマゴーグが指導者に選ばれるように)
•同時にボスが登場 ◦ボス=票集めの資本主義企業家
◦ボスは明確な政治原則をもたず、票集めのことしか考えない
共通する論点は以上の通りだ。ただ重複する内容を論じてもアレなので、以下では本書に独自の内容について詳しく見ていくことにしたい。
政治「のために」生きる?政治「によって」生きる?
ヴェーバーによれば、近代国家は政治にたずさわるスタッフから行政手段を奪い去る過程のうちで発展してきた。かつては国王やその取り巻きが行政手段を所有していた。しかし次第に彼らから行政手段が取り上げられていった。この過程のうちで生まれてきたのが、いわゆる職業政治家だ。
「(解読) 政治は臨時の業務や副業、または本業としても行うことができる。副業としての政治とは何かというと、要は生きる糧として行われるのではない政治のことだ。例えば政治団体の幹事などは“副業としての政治”だ。しかし支配者は次第に、みずからを補佐することを本職とする政治家を必要とするようになった。それが職業政治家だ。職業政治家とは、みずからが支配者になるのではなく、支配者の補佐として働くことを本職とする政治家のことだ。」
ヴェーバーによれば、職業政治家のあり方には2つのタイプがある。ひとつは政治「のために」生きるあり方、そしてもうひとつは政治「によって」生きるあり方だ。政治を生活の収入源としようとするひとは政治「によって」生きる政治家であり、とりわけ官吏がそれにあたる。
「(引用) 同じく政治を職業とするといっても、二つの道がある。政治「のために」(für)生きるか、それとも政治「によって」(von)生きるか、そのどちらかである。この対立は決してあい容れないものではない。むしろ、少なくとも精神的には、いや多くのばあい物質的にも、両方の生き方をするのが普通である。この〔「のために」と「によって」の〕区別は事態のもっと実質的な側面、すなわち経済的な側面に関係している。政治を恒常的な収入源にしようとする者、これが職業としての政治「によって」生きる者であり、そうでない者は政治「のために」ということになる。」
官吏は政治をなすべきでない
ヴェーバーによれば、政治が「経営」(裁判官や官吏といった「器具」を用いて営まれる行政のこと)として発展するにつれて、官吏は専門官吏と「政治的」官吏に二分されるようになった。しかしヴェーバーによれば、官吏はあくまで行政の執行機関であり、政治を行う機関ではない。なぜなら政治は官吏ではなく、政治家に属するものだからだ。したがって官吏は政治を行うべきではない。そうヴェーバーは言う。
「(解読) しかし本来的に官吏は政治をなすべきでない。官吏は行政を「憤りも偏見もなく」行うべきである。なぜなら党派性や闘争といったことは、官吏ではなく政治家の本領に属するものだからだ。官吏として倫理的に優れたひとは政治指導者には向かない。というのも政治指導者は責任の原則のもとにあるからだ。」
「(引用) 党派性、闘争、激情—つまり憤りと偏見—は政治家の、そしてとりわけ政治指導者の本領だからである。政治指導者の行為は官吏とはまったく別の、それこそ正反対の責任の原則の下に立っている。」
政治家には3つの資質が必要
職業としての政治は、政治家に対して権力感情を与える。ではいかにして職業政治家は権力にふさわしい人間に、また、権力が与える責任に耐えられる人間になるのだろうか。そうヴェーバーは問いを立てる。この問いに対してヴェーバーは、政治家にとって重要な資質を取り出し、これに答えようと試みる。それは、情熱、責任感、判断力の3つだ。
「(引用) 政治家にとっては、情熱(Leidenschaft)—責任感(Verantwortungsgefühl)—判断力(Augenmaß)の三つの資質がとくに重要であるといえよう。」
「(解読) ーー情熱は、「事柄」(Sache)に尽くし、それに対する責任が行為の従うべき規準となったとき、はじめて政治家を作り出す。事柄に“没主観的に”献身することこそ、政治にとってきわめて重要なことだ。そのためには、政治家は冷静さを失わず、虚栄心を克服して、事柄から距離を置き、現実をあるがままに受け止めなければならない。」
ここでヴェーバーの言う「事柄」は、英語ではthing, matter, affairなどに該当し、まさに取り組まれるべき中心問題・根本問題という意味で使われている。"What's the thing?", "What's the matter?"というときのthingやmatterのニュアンスに近いと考えれば分かりやすいかもしれない。
「(解読) 権力の追求は、「事柄」への献身的追求を必要とする。そのことを見誤り、権力がエゴイスティックな欲求の対象として追求・利用することがあってはならない。なぜなら権力は政治の手段であるからだ。権力崇拝は政治を堕落させてしまうほかない。」
「(引用) 権力は一切の政治の不可避的な手段であり、従ってまた、一切の政治の原動力であるが、というよりむしろ、権力がまさにそういうものであるからこそ、権力を笠に着た成り上がり者の大言壮語や、権力に溺れたナルシシズム、ようするに純粋な権力崇拝ほど、政治の力を堕落させ歪めるものはない。」
何に権力を行使するべきかは信念の問題
では、政治家が権力を行使するべき「事柄」はどのようなものでなければならないのだろうか?ヴェーバーはこれに対して、「それは個々の政治家の信仰(信念、信条)の問題である」、と答える。つまり政治家がなすべき事柄の内実は、ただ政治家の意志によってのみ規定されうるのであって、外側からこれを一概に規定することはできない、というのだ。
「(引用) 政治家がそのために権力を求め、権力を行使するところの「事柄」がどういうものであるべきかは信仰の問題である。政治家が奉仕する目標は、ナショナルなこともあれば人類的なこともある。」
心情倫理と責任倫理
政治家がなすべき事柄は、ただその政治家の内面によって規定される。では政治家は自分の心情にもとづくことであれば何をしてもいいのだろうか。ヴェーバーの言い方に従えば、原理的にはその通りだ。ただしそれは、結果に対する責任がともなっている限りにおいてのことだ。そしてここにおいて、政治と倫理の関係が問題となるのだ、とヴェーバーは言う。
「(解読) 倫理的な行為には、心情倫理的に方向づけられた行為と、責任倫理的に方向づけられた行為がある。2つの根本的な違いは、おおよそ次のようなものだ。心情倫理においては、動機が善・正義であるかどうかが肝心であり、行為の結果は二の次となる。要は「後は野となれ山となれ」の精神だ。」
「(引用) 純粋な心情の炎、たとえば社会秩序の不正に対する抗議の炎を絶やさないようにすることにだけ「責任」を感じる。「結果」などおよそ問題にしないのが、この絶対倫理である。」
「(解読) それに対して、責任倫理においては行為の結果に対する責任が問題となる。自分の行為の結果をある程度予見することができた以上、行為の結果に対する責任を誰かに転嫁することはできない。これが責任倫理の原則だ。」
「(引用) これこれの結果はたしかに自分の行為の責任だと、責任倫理家なら言うであろう。」
心情倫理と責任倫理の妥協は不可能
「(解読) 原理的に、心情倫理と責任倫理を妥協させることはできない。なぜなら、とりわけ政治においてこれは顕著となるのだが、「よい」目的を達成するためには、たいていは道徳的にいかがわしい手段を用いなければならないからだ。責任倫理の観点からすれば、手段が道徳的であるか否かは二次的な問題だ(なぜなら重要なのは結果であって手段ではないから)。しかし心情倫理は、魂の純粋さを維持することの上に成り立つので、論理的に突き詰めると、そうした手段の一切を拒否するほかない。」
ここにおいて、心情倫理と責任倫理は厳しい対立関係に陥る。ただしヴェーバーは、単純に一方を肯定して他方を否定するというような方向には進まない。ヴェーバーからすれば、心情倫理と責任倫理はともに倫理の本質をなしているからだ。しかしここでヴェーバーは次のように言う。もし心情倫理が政治において「魂の救済」を目指すようなことがあれば、その目的それ自体が損なわれてしまうかもしれない。なぜなら心情倫理は結果を度外視するからだ。その意味で、心情倫理が政治の領域で活動することは、心情倫理それ自体にとっても決してよいことではない、と。
「(引用) この「魂の救済」が純粋な心情倫理によって信仰闘争の中で追求される場合、結果に対する責任が欠けているから、この目的そのものが数世代にわたって傷つけられ、信用を失うことになるかも知れない。」
責任倫理に従って困難に立ち向え
政治においては心情倫理ではなく責任倫理が力をもたなければならない。責任倫理に従って行為し、どのような困難に直面しようとも、それに立ち向かうことのできる人間のみが、政治を天職とすることができる。そう最後に主張して、ヴェーバーは論を終える。
「(引用) 自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が—自分の立場からみて—どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」
政治家の資質とは?
本書でヴェーバーは、政治家の資質には情熱・責任感・判断力の3つがあると言っていた。しかし、この3つが政治家に特有の資質といえるだろうか? たとえば外科医もまた、情熱をもって患者・症例と対峙し、それを途中で投げ出さない責任感と、冷静さを失わない判断力が必要だ。教師も同じく、生徒に対して真摯に接する情熱と、教育を途中で放棄しない責任感が必要だ。こう見ると、それら3つの資質を必要とする職業は、別に政治家に限定されるわけではない。なぜなら「事柄」に尽くすべき職業は、政治家のほかにいくつもあるからだ(というよりも、責任感の不要な職業がこの世に一体どれだけあるだろうか?)。また、ヴェーバーは「事柄」の内実は一義的に規定することはできないと言っていた。しかし、滅私奉公的な献身であれば何でもいいのであれば、責任倫理に支えられている限りで、独裁もまた容認されうることになる。そうした政治家が「よい」政治家であるとは限らない。そういう場合はあるかもしれないが、そうではない場合もあるだろう。
   ルソーのほうがうまく言えている
政治家の資質については、ヴェーバーよりも近代哲学、とくにルソーの議論が参考となる。ルソーは『社会契約論』で、個々人の利害を目がける特殊意志、またはその総和である全体意志ではなく、一般意志を反映する統治のみが正当であると論じていた。各個人が独力で生きていくことができない状態に至ったとき、人びとが互いに自由となるためには、社会契約を結び、各人の間に法的・権利的平等を確保するほかない。各人が相互に自由で平等であるような社会を目がけることのうちで、一般意志が現れてくる。その意味で、一般意志は社会の正当性の原理である。自由で平等な社会を実現させるために、人びとは、自らのうちから代表を選出し、自らに代わって政治行為を行うよう彼らに委託する。したがって、党派的な利害ではなく、一般意志を代表するような政治行為だけが正当であり、一般意志に反するような政治行為は正当とはいえない。そうルソーは論じていた。ルソーの議論に従えば、「よい」政治家とは、一般意志をたえず政治行為に反映させている政治家だと言えるだろう。
   どこまで倫理が問題なのか
個人的もしくは党派的な利害を優先させることなく、一般意志をたえず政治行為に織り込んでいく政治家のみが、正当な政治家ということができる。強いて言えば、ヴェーバーのいう責任倫理はこの点において発揮されるべきものだ。なぜならここにおいて、政治家にとっての「事柄」は一般意志を政治に反映させることになり、その「事柄」を達成できるかどうかにおいて、政治家の責任が問われるようになるからだ。しかし政治において問題なのが倫理ではなく正当性であるとすれば、そこに倫理をあえて持ち込む理由は無くなってしまうのが正直なところだ。  

 

●政治家の資質
世界的ニュースになった兵庫県議の泣きわめき記者会見で一番得をしたのは、実はあのセクハラ発言の自民党都議や、同じく都議出身の自民党衆議院議員だろう。そして、それらセクハラ発言が発覚したときにも、一番ホッと胸を撫で下ろしていたのは、あの「最後は金目でしょ」発言の御仁であろう。枚挙にいとまが無いが、少し前には、改憲は「ナチスの手口に学べ」というのもあった。
こんな「事件」が起きるたびに、よく耳にするのが「資質に欠ける」という表現。しかし、サラリーマンから身を転じて11年間、衆議院議員をやらせて頂いている私の感覚では、まさに他の職業とは違って政治家だからこそ、こうしたことがかなりの確率で起こってしまうのだ。理由は簡単、政治家は選挙のみで選ばれるからである。もちろん、選挙による選出は民主主義の基本であるし、有権者の総意が反映されるという点では他のいかなる手法よりも優れている。しかしその分、能力テストも無ければ、社会常識テストも無い。どうしても、間違って政治家になってしまうケースがあるのだ。地盤を親から譲り受ける「世襲議員」では、当選確率が高い分そのリスクは更に高まる。
では、選挙で選ばれる政治家の資質を高めるにはどうしたらいいのか? 理想を言えば、組織で苦労した経験のある普通のサラリーマンから身を転じる方が増えて頂けたら、それだけで政治、特に地方政治は劇的にレベルアップする。だが、政治家のこういう酷いケースを見せ付けられると、リスクを取ってそんなトンデモナイ世界に飛び込む勇気も情熱も沸かないのもうなずける。次善の策として、やはり優れた、あるいは最低でも「まともな」、政治家を選ぶ「目」を有権者が持つことである。
折しも来年春には統一自治体選挙がある。「災い転じて福となす。」一連の酷い政治家の資質を見せ付けられたお陰で、今まで以上に冷徹な「目」で、有権者の皆様が厳しく政治家を品定めして頂けることを期待したい。「優れた政治家は有権者が育てる。」そして、利権・金権などは今さら論外だが、それだけでなく、一生懸命に努力しない人間、誠実に責任を果たそうとしない人間を絶対に政治家にしてはいけないのだ。政治家の言葉にはそれが正直に表れる。  

 

●今も居すわる“問題議員”まとめ 2020/4
緊急事態宣言2日後の4月9日、新宿・歌舞伎町のセクシーキャバクラに入店したのは立憲民主党の高井崇志衆院議員。「週刊文春」が前号で「イキそう」「犬になりたい」と存分に楽しむ様子を報じると人気講談師、神田伯山からもラジオで「コロナでお笑いの人も大変。それでもやっぱり爆笑王は出てくる」と揶揄される始末。枝野幸男代表から「議員辞職に値する」と断じられ、除名された。
政治部デスクが嘆く。
「日頃なら『馬鹿だなあ』で済んだ話かもしれないが、コロナ禍の緊急事態においては完全アウト。後手後手の対応で支持率を落とす安倍政権を助けてしまった。ここぞとばかりに、高井氏の古巣の維新の、松井一郎大阪市長や吉村洋文府知事が声高に議員辞職を求めています」
だが実は、議員辞職どころか離党すらしていない問題議員が国会にはワンサカいる。筆頭が河井克行前法相と妻の案里参院議員だ。案里氏が初当選した昨年7月の参院選をめぐり、秘書が公職選挙法違反(買収)の罪で起訴された。克行氏から現金20万円を受け取った地元町長は辞職。包囲網が狭まる中、案里氏は持病の薬と酒を一緒に飲んで入院騒ぎ。克行氏は国会に登院するが、記者団の質問には無言。慌てて本会議場に入る際、申し合わせで決まっている手の消毒もせず、批判の声も出た。
「4月20日には案里氏の秘書の初公判もあった。秘書は罪状認否を留保しているが、さらに批判が高まるだろう」(政治部記者)
買収、口利き、セクハラ、暴言……
昨秋の初入閣直後、「週刊文春」の買収疑惑報道で閣僚辞任した菅原一秀議員。辞任時、「今後説明責任を果たす」としたが、その後も公選法違反の疑いで東京地検に告発されたことを理由に「適切な時期に説明したい」と頬かむりしたまま。社会部記者はこう憂慮する。
「東京地検特捜部に期待したいが、地検を取り仕切る東京高検トップは黒川弘務検事長。定年延長された『官邸の門番』だけに心配だ」
若手にもいる。衆院二回生の上野宏史議員は、「週刊文春」が報じた外国人労働者の在留資格認定証明書をめぐる口利き疑惑で厚労政務官を辞任。地元群馬の記者は「東京で一応取材に応じたが、地元では取材拒否。評判は散々です」。“魔の三回生”石崎徹衆院議員は元秘書への暴行容疑で昨秋、新潟地検に書類送検された。
一方、党は離れたが、セクハラの青山雅幸氏、強制わいせつの初鹿明博氏、飲酒暴言の丸山穂高氏も、未だ議員のまま。
国会議員の歳費はコロナ禍で2割カットとはいえ、月額約100万円。外出できなくても文書通信交通滞在費も月に100万円支給される。  
 
 

 

●平成の後白河法皇
牛尾治朗・ウシオ電機代表取締役会長は1931年2月12日生まれの89歳。1964年3月、ウシオ電機を設立して社長に就いて以来、56年間、経営トップの座にある。
安倍晋三政権の後ろ盾として隠然たる影響力を持つのは葛西敬之・JR東海名誉会長、古森重隆・富士フイルムホールディングス会長兼CEOら保守派の財界人だ。葛西らは首相が若手の頃から「四季の会」を主宰し、応援してきた。
財界人の序列で見ると牛尾は別格だ。2018年6月、東京・三田のフランス料理店「ジョエル・ロブション」で、安倍首相の母・洋子の卒寿(90歳)を祝うパーティーが開かれ、牛尾は出席した。
牛尾の長女・幸子は安倍首相の実兄の安倍寛信・三菱商事パッケージング社長の妻である。牛尾家と安倍家は姻戚関係にある。
牛尾と安倍家の関係が深まったのは、寛信・晋三兄弟の父・安倍晋太郎と親交があったからだ。晋太郎の後援会のひとつ「総晋会」の会長を牛尾が務めた。晋太郎が外務大臣になった時、晋三が神戸製鋼所に在籍のまま秘書になったが、その当時からの古い付き合いである。
娘を政治家一家に嫁がせた理由を、牛尾は次のように語っている。
〈政治家のところには嫁を出さん、と反対しました。晋太郎さんと寛信君と晋三君と、そこに晋太郎さんの秘書官も1人入って、政治は晋三君が継ぐと。寛信君は政治家が嫌いで、最初から三菱商事に入っているのだから、絶対に政治家にはならない。だから娘を嫁にくれと言ってきたのです。それで私も賛成しました〉
牛尾の八面六臂の活躍は血のなせる業かもしれない。牛尾家の始祖・牛尾梅吉は米相場で財を成し、姫路駅周辺の大地主となった。梅吉の息子・健治は姫路銀行頭取を務める傍ら、中国合同電気や山陽配電(関西電力、中国電力の前身)を中心に電力・電機事業を手広く営んだ。中国合同電気の電球製造部門が独立して姫路電球となり、姫路電球から産業用特殊光源(ハロゲンランプ)部門を受け継いだウシオ電機を、健治の息子の治朗が立ち上げた。
治朗は旧制三高(現・京大)を経て東大法学部政治学科へ進む。国際的な仕事をしたいとの思いから、東京銀行(現・三菱UFJ銀行)に就職し、米カリフォルニア大学バークレー校大学院に留学。社業の傍ら、28歳の若さで経済同友会に入会し、その後、財界活動に軸足を移すようになる。
第二次臨時行政調査会専門委員、経済同友会代表幹事を歴任。2001年1月、森喜朗政権下で発足した経済財政諮問会議に初代の民間議員として参画した。小泉純一郎政権(01年4月〜06年9月)が幕を閉じるまで、民間議員の職務を全うした。牛尾は小泉の下で、政治を動かすツボを会得したようである。
小泉構造改革は、オリックス会長の宮内義彦が議長を務める規制改革・民間開放推進会議と、牛尾が陣取る経済財政諮問会議が両輪の役割を果たした。
牛尾は竹中平蔵の後ろ盾でもあった。小泉政権が発足する前から、牛尾は竹中に声を掛け、のちに小泉構造改革の柱となる政策を提言する集まりに参加させた。
小泉からバトンを手渡された安倍第1次内閣では、大田弘子が経済財政担当相に起用された。
〈安倍に大田を強力に推薦し、躊躇する大田を「新しい民間議員のリード役を務めて欲しい」とひざ詰めで口説き落としたのは、実は牛尾さんだった〉
新政権の船出に舞台裏で重要な役割を果たした牛尾を、〈畏怖と揶揄をない交ぜにして「平成の後白河法皇」などと呼ぶ官僚もいた〉。
牛尾は官邸人事にも介入した、と伝えられている。
〈安倍に経産省キャリア官僚の今井尚哉の登用を勧めた〉
牛尾は政治の舞台裏で活躍したが、経営者としては目立った業績を残していない。ウシオ電機の2020年3月期の売上高は1700億円の見込みだったが、新型コロナウイルス禍で世界的に映画館の閉鎖やイベントの中止が相次ぎ、映像装置の納入が予定通り進まなかったため1550億円(前期比6%減)に下方修正した。中堅企業の域を出ない。
治朗の長男・志朗(61)はウシオ電機取締役常務執行役員。治朗の引退後、創業家の指定席である会長の椅子に座るものとみられている。
牛尾は「財界の老害・老人の跋扈」を批判して、若くして財界にデビューした。
今、その批判がブーメランのごとく、牛尾に降りかかってきた。成熟度は社業、企業人としての足跡をたどっているので、やや辛口だがプラス2点。老害度はいわずもがなだ。 

 

●院政の歴史 
院政とは
院政は、在位中の天皇の親(父・祖父)が、天皇にかわって天下を支配するという政治体制のことです。「院」とは、もともとは上皇の住まいのことでしたが、のちに上皇そのものを指すようになりました。院が行う政なので「院政」ということです。院政を行うのは、天皇に即位した経験があり、退位した上皇であることが原則ですが、在位の天皇の父・祖父であることが第一の条件だったようです。上皇であっても、現在即位している天皇の兄弟や伯父のような立場では院政を行えないのです。院政を行う上皇は「治天の君」と呼ばれたりしましたが、その機能は天皇から与えられたものではなくて、自らがその地位に就くことによって生じました。歴史上、天皇以外で天下を支配する権限を握った役職として、古代では藤原北家が独占支配した摂政・関白、中世では鎌倉・室町幕府の征夷大将軍があります。しかし、天下を支配したといっても、摂政関白・征夷大将軍とも天皇から任命される役職で、その点では、院政を行った上皇の地位は、摂政関白・征夷大将軍とは異なるものだったのです。
平安末期
院政は、平安時代の後半に白河天皇が退位して上皇になったときに始まったとされています。白河院は、堀河・鳥羽・崇徳の約43年間、次の鳥羽院は崇徳・近衛・後白河の約27年間、その次の後白河院は二条・六条・高倉の約21年間にわたって院政を行いました。後白河院政の場合、後白河院が平清盛に幽閉されて政権を奪われたとき、清盛の娘婿高倉上皇が、安徳天皇の時代に院政を行っています。平家没落によって後白河院政が再開されるのですが、院政という政治形態は平家全盛期の間にも続いていました。
鎌倉時代
後白河院政が再開されたときの天皇は後鳥羽。1192年(建久三年)3月に後白河院が崩御しましたが、この時上皇は存在しなかったことから、後鳥羽天皇によって「天皇親政」が復活します。院政は中断しました。そして、1198年(建久九年)に上皇となった後鳥羽によって、院政が再開されます。土御門・順徳・仲恭の約23年にわたって続きました。後鳥羽上皇は、1221年(承久三年)の承久の乱で鎌倉幕府に敗北して隠岐に流されました。土御門・順徳の両上皇も配流。4歳の仲恭天皇は廃位に追い込まれます。3ヵ月にも満たない在位でした。幕府は、後鳥羽院の兄守貞親王の子を後堀河天皇として即位させます。守貞親王は皇位についた経歴はなかったことから、天皇の父という理由に「太上天皇(上皇)」の尊号を受け、後高倉院として院政を敷きました。しかし、後高倉院が1年余りで没したため、その後は本格的な院政は行われませんでした。1246年(寛元四年)、後深草天皇に譲位した後嵯峨院が院政を再開します。後深草・亀山の約26年におよびました。しかし、後嵯峨院が没すると皇位継承について、後深草系統の持明院統・亀山系統の大覚寺統に分裂し、院政もこの2つの系統が交互に行うことになります。後嵯峨院政が終わると、亀山院政が後宇多天皇の在位12年間おこなわれ、次に持明院統の後深草院政が伏見天皇の在位2年間行われます。その後、伏見院政が後伏見天皇の在位2年間行われました。皇位が後伏見天皇から大覚寺統の後二条天皇に移ると、後宇多院政が後二条天皇の在位7年間行われ、後二条天皇から持明院統の花園天皇に皇位が移ると伏見院政が復活。花園天皇から後醍醐天皇に皇位が移ると後宇多院政が復活しました。そして、1321年(元亨元年)に後宇多が院政を停止。後醍醐による天皇親政が始まり、鎌倉幕府滅亡と建武の新政へとつながります。
一般的に「院政」について語られるのは、この後醍醐天皇による天皇親政までですが、実は室町以降も続いています。
室町時代
後醍醐による「建武の新政」が終わり、南北朝時代が始まると院政は復活します。持明院統の北朝では、後伏見院政=光厳天皇、光厳院政=光明・崇光天皇、後光厳院政=後円融天皇、後円融院政=後小松天皇と続きました。そして、南北朝合一以降は、後小松院政=後花園天皇、後花園院政=後土御門天皇と続き、後花園院政は1470年(文明二年)まで行われます。これ以降は天皇の崩御に伴った即位となったことから院政は行われませんでした。応仁の乱による財政基盤の喪失は、天皇家の皇位継承もままならぬ状況に陥れたのでした。一方の南朝では、院政を嫌った後醍醐天皇の遺志もあり、北朝のように簡単に院政が復活することはありませんでしたが、南朝末期には長慶院政=後亀山天皇という形で復活しています。
江戸時代
天皇家は、応仁の乱から戦国時代にかけて皇位継承もままならない状況になりましたが、織田信長・豊臣秀吉によって天下統一が進められると、天皇家も安定を取り戻します。そして、徳川家康が江戸幕府を開き天下もおさまると、1611年(慶長十六年)に後陽成上皇=後水尾天皇という形で院政が復活します。その後、後水尾院政が明正・後光明・後西・霊元の50年間、霊元院政が東山・中御門の45年、光格院政が仁孝天皇の20年間にわたって行われました。そして、1840年(天保十一年)に光格上皇の崩御して以降は、「太上天皇=上皇」の尊号が贈られなくなったことから院政は途絶えて明治を迎えます。孝明・明治・大正・昭和天皇は終身の天皇です。ちなみに、2019年(平成31年)に退位された明仁上皇様は、光格上皇以来202年ぶりに上皇ということになります。

以上見てきたように、院政は、開始・終了に関する宣言や法令もなく、自然に発生・消滅した朝廷に深く根を張った政治的な仕組みだったのです。  
●院政 
天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治のことである。摂関政治が衰えた平安時代末期から、鎌倉時代すなわち武家政治が始まるまでの間に見られた政治の方針である。天皇が皇位を譲ると上皇となり、上皇が出家すると法皇となるが、上皇は「院」とも呼ばれたので、院政という。1086年に白河天皇が譲位して白河上皇となってから、平家滅亡の1185年頃までを「院政時代」と呼ぶことがある。「院政」という言葉自体は、江戸時代に頼山陽が『日本外史』の中でこうした政治形態を「政在上皇」として「院政」と表現し、明治政府によって編纂された『国史眼』がこれを参照にして「院政」と称したことで広く知られるようになったとされている。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。
概要
前史
本来、皇位はいわゆる終身制となっており、皇位の継承は天皇の崩御によってのみ行われていた。皇極天皇以降、持統天皇・元正天皇・聖武天皇など、皇位の生前譲位が行われるようになった。当時は皇位継承が安定していなかったため(大兄制)、譲位という意思表示によって意中の皇子に皇位継承させるためにとられた方法と考えられている。皇極・持統・元正は女帝であり、皇位継承者としての成人した男性皇族が現れるまでの中継ぎに過ぎなかったという事情があった。聖武天皇に関しては、国家プロジェクトであった東大寺建立に専念するためという事情もあった。これらが後年の院政の萌芽となる。
平安時代に入っても嵯峨天皇や宇多天皇や、円融天皇などにも、生前譲位が見られる(後述)。日本の律令下では上皇は天皇と同等の権限を持つとされていたため、こうしたやや変則的な政体ですら制度の枠内で可能であった。これらの天皇は退位後も「天皇家の家父長」として若い天皇を後見するとして国政に関与する事があった。だが、当時はまだこの状態を常に維持するための政治的組織や財政的・軍事的裏付けが不十分であり、平安時代中期には幼く短命な天皇が多く十分な指導力を発揮するための若さと健康を保持した上皇が絶えて久しかったために、父系によるこの仕組みは衰退していく。代わりに母系にあたる天皇の外祖父の地位を占めた藤原北家が天皇の職務・権利を代理・代行する摂関政治が隆盛していくことになる。
だが、治暦4年(1068年)の後三条天皇の即位はその状況に大きな変化をもたらした。平安時代を通じて皇位継承の安定が大きな政治課題とされており、皇統を一条天皇系へ統一するという流れの中で、後三条天皇が即位することとなった。後三条天皇は、宇多天皇以来藤原北家(摂関家)を外戚に持たない170年ぶりの天皇であり、外戚の地位を権力の源泉としていた摂関政治がここに揺らぎ始めることとなる。
後三条天皇以前の天皇の多くも即位した直後に、皇権の確立と律令の復興を企図して「新政」と称した一連の政策を企画実行していたが、後三条天皇は外戚に摂関家を持たない強みも背景として、延久の荘園整理令(1069年)などより積極的な政策展開を行った。延久4年(1072年)に後三条天皇は第一皇子貞仁親王(白河天皇)へ生前譲位したが、その直後に病没してしまう。このとき、後三条天皇は院政を開始する意図を持っていたとする見解が慈円により主張されて(『愚管抄』)以来、北畠親房(『神皇正統記』)、新井白石(『読史余論』)、黒板勝美、三浦周行などにより主張されていたが、和田英松が、災害異変、後三条天皇の病気、実仁親王の立東宮の3点が譲位の理由であり院政開始は企図されていなかったと主張し、平泉澄が病気のみに限定するなど異論が出された。近年では吉村茂樹が、当時の災害異変が突出していないこと、後三条天皇の病気(糖尿病と推定されている)が重篤化したのが退位後であることを理由として、摂関家を外戚に持たない実仁親王に皇位を継承させることによる皇権の拡大を意図し、摂関政治への回帰を阻止したものであって院政の意図はなかったと主張し、通説化している。しかしながら美川圭のように、院政の当初の目的を皇位決定権の掌握と見て、皇権の拡大を意図したこと自体を重要視する意見も出ている。
その一方で、近年では宇多天皇が醍醐天皇に譲位して法皇となった後に天皇の病気に伴って実質上の院政を行っていた事が明らかになった事や、円融天皇が退位後に息子の一条天皇が皇位を継ぐと政務を見ようとしたために外祖父である摂政藤原兼家と対立していたという説もあり、院政の嚆矢を後三条天皇よりも以前に見る説が有力となっている。
白河院政
次の白河天皇の母も御堂流摂関家ではない閑院流出身で中納言藤原公成の娘、春宮大夫藤原能信の養女である女御藤原茂子であったため、白河天皇は、関白を置いたが後三条天皇と同様に親政を行った。白河天皇は応徳3年(1086年)に当時8歳の善仁皇子(堀河天皇)へ譲位し太上天皇(上皇)となったが、幼帝を後見するため白河院と称して、引き続き政務に当たった。一般的にはこれが院政の始まりであるとされている。嘉承2年(1107年)に堀河天皇が没するとその皇子(鳥羽天皇)が4歳で即位し、独自性が見られた堀河天皇の時代より白河上皇は院政を強化することに成功した。白河上皇以後、院政を布いた上皇は治天の君、すなわち事実上の君主として君臨し、天皇は「まるで東宮(皇太子)のようだ」と言われるようになった。実際、院政が本格化すると皇太子を立てることがなくなっている。
ただし、白河天皇は当初からそのような院政体制を意図していたわけではなく、結果的にそうなったともいえる。白河天皇の本来の意志は、皇位継承の安定化、というより自分の子による皇位独占という意図があった。白河天皇は御堂流藤原能信の養女藤原茂子を母親、同じく御堂流藤原師実の養女藤原賢子(御堂流とつながりがある村上源氏中院流出身)を中宮としており、生前の後三条天皇および反御堂流の貴族にとっては、異母弟である実仁親王・輔仁親王への譲位が望まれていた。そうした中、白河天皇は、我が子である善仁親王に皇位を譲ることで、これら弟の皇位継承を断念させる意図があった。これは再び御堂流を外戚とする事であり、むしろ摂関政治への回帰につながる行動であった。佐々木宗雄[要曖昧さ回避]の研究によれば、『中右記』などにおける朝廷内での政策決定過程において、白河天皇がある時期まで突出して政策を判断したことは少なく、院政開始期には摂政であった藤原師実と相談して政策を遂行し、堀河天皇の成人後は堀河天皇と関白藤原師通が協議して政策を行って白河上皇に相談を行わないことすら珍しくなかったという。これは当時の国政に関する情報が天皇の代理である摂関に集中する仕組となっており、国政の情報を独占していた摂関の政治力を上皇のそれが上回るような状況は発生しなかったと考えられている。だが、師通の急逝と若年で政治経験の乏しい藤原忠実の継承に伴って摂関の政治力の低下と国政情報の独占の崩壊がもたらされ、堀河天皇は若い忠実ではなく父親の白河上皇に相談相手を求めざるを得なかった。更にその堀河天皇も崩御して幼い鳥羽天皇が即位したために結果的に白河上皇による権力集中が成立したとする。一方、樋口健太郎は白河法皇の院政の前提として藤原彰子(上東門院)の存在があったと指摘する。彼女は我が子である後一条天皇を太皇太后(後に女院)の立場から支え、以後白河天皇まで5代の天皇にわたり天皇家の家長的な存在であった。天皇の代理であった摂政は自己の任免を天皇の勅許で行うことができず(それを行うと結果的に摂政自身が自己の進退を判断する矛盾状態になる)、摂関家の全盛期を築いた道長・頼通父子の摂政任免も彼女の令旨などの体裁で実施されていた。師実は自己の権威づけのために自己の摂関の任免について道長の先例に倣って父院である白河上皇の関与を求め、天皇在位中の協調関係もあって上皇の行幸に公卿を動員し、院御所の造営に諸国所課を実施するなどその権限の強化に協力してきた。また、白河上皇も院庁の人事を師実に一任するなど、師実を国政の主導者として認める政策を採ってきた。ところが、皮肉にも師通・師実の相次ぐ急死によって遺されたのは、師実が強化した白河上皇(法皇)の権威と上東門院の先例を根拠とした白河上皇(法皇)による摂関任命人事への関与の実績であり、結果的には藤原忠実の摂政任命をはじめとする「治天の君」による摂関任命を正当化することになってしまった。
直系相続による皇位継承は継承男子が必ずしも確保できる訳ではなく、常に皇統断絶の不安がつきまとう。逆に多くの皇子が並立していても皇位継承紛争が絶えないこととなる。院政の下では、「治天の君」が次代・次々代の天皇を指名できたので、比較的安定した皇位継承が実現でき、皇位継承に「治天の君」の意向を反映させることも可能であった。
また、外戚関係を媒介に摂政関白として政務にあたる摂関政治と異なって、院政は直接的な父権に基づくものであったため、専制的な統治を可能としていた。院政を布く上皇は、自己の政務機関として院庁を設置し、院宣・院庁下文などの命令文書を発給した。従来の学説では院庁において実際の政務が執られたとされていたが、鈴木茂男が当時の院庁発給文書に国政に関する内容が認められないことを主張し、橋本義彦がこれを受けて院庁政治論を痛烈に批判したため近年では、非公式の私文書としての側面のある院宣を用いて朝廷に圧力をかけ、院独自の側近を院の近臣として太政官内に送り込むことによって事実上の指揮を執ったとする見解が有力となっている。これら院の近臣は上皇との個別の主従関係により出世し権勢を強めた。また、上皇独自の軍事組織として北面武士を置くなど、平氏を主とした武士勢力の登用を図ったため、平氏権力の成長を促した。そのため、白河上皇による院政開始をもって中世の起点とする事もある。
平安後期以降に院政が定着した背景として、岡野友彦(皇學館大学教授)は財政面の理由を指摘している。公地公民制が実態として崩壊したこの時期であっても、法制上は律令国家の長である天皇は荘園を私有できなかった。このため寄進によって皇室領となった荘園を上皇が所有・管理し、国家財政を支えたという見解である。
ただし、院政の登場は摂政関白の必要性を否定するものではなかったことには注意を要する。院(上皇・法皇)の内裏への立ち入りはできない慣例が依然として維持されている中で、摂関は天皇の身近にあってこれ補佐すると共に天皇と院をつなぐ連絡役としての役割を担った。そして、長い院政の歴史の間には白河法皇と藤原忠実のように院が若い摂関を補佐する状況だけではなく、反対に摂関が若い院を補佐する場面もあり、院と摂関、ひいては天皇家と摂関家は王権を構成する相互補完的な関係であり続けたのである。
院政の最盛と転換
白河上皇は、鳥羽天皇の第一皇子(崇徳天皇)を皇位につけた後に崩じ、鳥羽上皇が院政を布くこととなったが、鳥羽上皇は崇徳天皇を疎んじ、第九皇子である近衛天皇(母、美福門院)へ皇位を継がせた(近衛天皇没後はその兄の後白河天皇(母、待賢門院)が継いだ)。そして、保元元年(1156年)に鳥羽上皇が崩じた直後、崇徳上皇と後白河天皇の間で戦闘が起こり、後白河天皇が勝利した(保元の乱)。
後白河天皇は保元3年(1158年)に二条天皇へ譲位すると院政を開始した。しかし、皇統の正嫡としての意識の強い二条天皇は天皇親政を指向しており、後白河院政派と二条親政派の対立がもたらされた。したがって二条天皇の時代、後白河院政は強固なものとはとうていいえなかった。しかし、病を得た二条天皇は永万元年(1165年)6月25日に幼い六条天皇に譲位、7月28日には崩じてしまった。ここで後白河院政には実質上の内容がもたらされたのである。後白河院政期には、平治の乱と平氏政権の隆盛およびその崩壊、治承・寿永の乱の勃発、源頼朝の鎌倉幕府成立など、武士が一気に台頭する時代となった。
ただ、後白河法皇と平清盛とが対立し始めた後、治承3年(1179年)11月の治承三年の政変によって鳥羽殿に幽閉され、後白河法皇は院政を停止されてしまった。ここで一旦高倉天皇の親政が成立するが、高倉天皇は治承4年(1180年)2月に安徳天皇に譲位、ここに高倉院政が成立した。高倉院政下では福原への「遷都」などが行われたが、もともと病弱であった高倉上皇は福原で病を得、平安京に還御した直後の養和元年(1181年)1月14日に崩じてしまった。まもなく清盛も世を去ったため、清盛の後継者であった平宗盛は後白河院政を復活させた。
後白河院政の後は、その孫の後鳥羽上皇が院政を行った。後鳥羽院は、皇権復興を企図して鎌倉幕府を倒そうとしたが失敗(承久の乱)、自身は流罪となった上、皇権の低下と朝廷に執権北条氏の介入を招いてしまった。乱後、後堀河天皇が即位するとその父親である行助入道親王が例外的に皇位を経ずして院政を行う(後高倉院)という事態も発生している。
院政は承久の乱以降も存続し、公家政権の中枢として機能した。特に乱以後初めて本格的な院政を布いた後嵯峨院政期に院政諸制度が整備されている。後嵯峨院は、奏事(弁官や蔵人による奏上)を取り次ぐ役職である伝奏の制度化、そして院が評定衆とともに相論(訴訟)裁許に当たる院評定を確立し、院政の機能強化に努めた。院評定は当時の課題であった徳政の興行のために訴訟の裁許を円滑化する役目を担った。
後嵯峨院以後の両統迭立期には、実際の院政を行う治天の君は天皇の父(あるいは祖父・曾祖父)である必要性が特に強調されるようになる。持明院統の伏見天皇が即位した際に実父である後深草院が院政を行うものとされ、前天皇である大覚寺統の後宇多院がこれに抗議したものの顧みられず、反対に後宇多院の子である後二条天皇が即位した際には同時に前天皇である後伏見院の代で院政を行っていた伏見院の院政も停止されて後宇多院の院政が開始されている。なお、この際に伏見院の皇子で後伏見院の弟にあたる富仁親王(後の花園天皇)が立太子された際に後伏見院の猶子とされた(『皇年代略記』・『神皇正統記』)。花園天皇即位後は当初は伏見院が院政を行ったものの、正和2年(1313年)10月17日に治天の君位が後伏見院に譲られ(『一代要記』)、4年後に伏見院が崩じた時には花園天皇は実父の崩御にもかかわらず祖父の喪の形式を採った(『増鏡』)。これは本来は花園天皇の兄である後伏見院が同天皇の治世における治天の資格を得るために、花園天皇と猶子関係を結んだために本来は「父と子」の関係である伏見院と花園天皇の関係も「祖父と孫」の関係に擬制されたことによる。大覚寺統の事例(長慶院と後亀山天皇)は不明であるものの、以後の持明院統においては治天の君に予定された者と皇位継承予定者が猶子関係を結び、治天の君と天皇の間で親子関係が擬制されるようになった(光厳院と光明天皇及び直仁親王(廃太子)、後小松院と後花園天皇)。
建武新政期には後醍醐天皇が親政を行い院政は一時期中断したが、数年の後に北朝による院政が復活した。室町時代に入ってからも院政は継続したが、永享5年(1433年)に後小松院が崩御すると院政は事実上の終焉を迎えた。これ以降、院政は度々執られたが、あくまで形式上の存在でしかなくなっていった。実際、次に上皇になった後花園院は譲位後に程なく応仁の乱に巻き込まれ、実質的な院政をほとんど行う期間も無く崩御した。その後、財務上の理由などから、天皇の譲位自体が不可能な状況が続くことになる。だが、院庁自体は廃止されず存続していたため、江戸時代に入っても院政は残った。
江戸時代の院政
江戸時代に入ると、『禁中並公家諸法度』に基づいて江戸幕府の対朝廷介入は本格化した。幕府は摂政・関白を中心とした朝廷秩序を求めた。しかし後水尾上皇による院政が敷かれたため、明正天皇が朝廷に於ける実権を持つことは無く、後水尾上皇に朝廷内の実権が集中した。霊元上皇が院政を行うと、親幕府派であった近衛基熙との間に確執を生んだ。霊元院政の終了後、桜町天皇が上皇となって院政を行ったが、わずか3年で崩御、後桜町上皇は後桃園天皇・光格天皇が幼い時期には院政を行ったが、光格天皇は成人後に親政を行っている。光格天皇は、息子の仁孝天皇に譲位して院政を行ったが、これが最後の院政である。
皇位継承の法制化と院政の禁止
明治22年(1889年)に制定された旧皇室典範第10条「天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」によって天皇の譲位は禁止され、天皇の崩御によってのみ皇位の継承がおこなわれることが規定された。これにより、院政の前提となる上皇の存在は否定された。
院政を否定的に見る考え方は、江戸時代の朱子学者(例:新井白石『読史余論』など)にも見られるが、院政期当時は天皇家の当主を擁した「朝廷」という組織が維持されれば天皇親政でも院政でも、天皇家の当主が天皇に在位しているか退位しているかの違いしか認識されていなかった。ところが、皇室典範の制定は皇位継承が法律によって厳密に行われることを意味するようになり、こうした曖昧な形態を持った「朝廷」というあり方そのものを否定することとなった。これによって、従来は存在しなかった「皇位にあってこそ天皇として振舞える」「譲位して皇位を離れた天皇はその地位も権限も失われる」という概念が形成されるようになり、その後の日本人の一般的な院政観や専門家の院政研究にも影響を与えることとなった。
そして昭和22年(1947年)に法律として制定された現行の皇室典範でも、第4条で「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」とし、皇位は終身制であり、皇位の継承は天皇の崩御によってのみおこなわれることを定めている。さらに第2条で皇位継承の順序を、第3条でその順序の変更について規定しており、天皇が自らの意思によって継承者を指名できなくなった。また天皇を象徴とする日本国憲法の成立により、天皇が内閣の承認と助言を受けた上で行う国事行為以外に政治に関与することはできなくなった。
そんな中、平成29年(2017年)6月9日に天皇の退位等に関する皇室典範特例法が成立し、同法に基づき、令和元年(2019年)5月1日に明仁(第125代天皇)が光格上皇以来202年ぶり、かつ憲政史上初めて「上皇」となったが、「上皇」が正式称号であり、上皇が行う国事行為及び政治に関与する権限は定められておらず、院政が復活するわけではない。
院政の特殊性
隠居制度との関連
皇位譲渡者が後継君主の後見として実質的な政務を行う政治体制は、日本独自の家督制度に由来している。当主が存命中から隠居して、家督を次代に譲って、家の実権を掌握し続ける、というもので、この制度がいつ頃から始まったかは、かなり古くからとされており、詳しくはわかっていない。日本人の思想に国家ならびに家の概念が固まりつつあった弥生時代に確立された、とする説も存在する。
鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府のそれぞれの征夷大将軍職において、将軍職を退いて大御所となることも、院政の変形と言える。さらに、武家社会の大名家のみならず公家や神官職、さらには一般庶民の家庭においても隠居制度は浸透しており、いわば院政自体が隠居制度の延長線上に存在していた、と見做すことも可能である。
既述の通り明治年間以降は、皇室典範の施行に伴い、天皇が隠退して上皇になることは一旦途絶えた。また、明治以降西洋文化の流入に伴って、家督制度に対する日本人の思考にも変化が表れた影響から、隠居制度は急速に廃れていき、日本国憲法によって法的に家督制度と共に隠居制度は廃止された。
世界史上から見た院政
元々隠居制度は日本にしか存在しないものである。このことから恒久的な制度としては、日本の院政は非常に稀な政治体制であった。
他の多くの君主国では君主位が終身制となっており、死去するまで在位するのが通常である。他の権力者によって位を廃されたり、あるいは自発的に譲位する例はあるが、譲位の場合もその後は政治の実権を大幅に失うものであり、日本のように君主と君主家の最高権力者の分離が常態化した例はほとんどない。日本以外ではベトナムの陳朝に類例が見られるのみである。中国において、趙の武霊王、南宋の孝宗、清の乾隆帝など、君主位を後継者に譲った後も権力を握っていた例はあるが、制度として継続したわけではない。
生前に譲位する君主はヨーロッパにも古くから今日まで存在し、アラゴン王ラミロ2世や神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼ねたカール5世(カルロス1世)のように余生を修道院で送った例、あるいはアラゴン女王ペトロニラなどの女性君主が自らの息子に譲位した例などがある。近代のオランダやルクセンブルクなどのように譲位が常態化している国もある。そうした場合も、譲位にともない政治的実権も手放すのが常である。カスティーリャ女王ベレンゲラのように、フェルナンド3世を王位に即けた後、その後見人となった事例もあるが、女性君主の即位自体が恒常的でないこともあり、制度化するには至っていない。  

 

●後白河天皇 
(大治2年-建久3年 / 1127- 1192) 日本の第77代天皇(在位:久寿2年- 保元3年 / 1155-1158)。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。
生涯
親王時代
大治2年(1127年)9月11日、鳥羽上皇と中宮・藤原璋子の第四皇子として生まれる。中御門宗忠は「后一腹に皇子四人は、昔から希有の例だ」と評した。11月14日、親王宣下を受けて「雅仁」と命名される(『中右記』)。2年後に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始された。保延5年(1139年)12月27日、12歳で元服して二品に叙せられる。院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子を寵愛して、永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇に譲位を迫り、得子所生の体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁親王は崇徳帝中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳帝にとってこの譲位は大きな遺恨となった。一方、皇位継承とは無縁で気楽な立場にあった雅仁親王は「イタクサタダシク御遊ビナドアリ」(『愚管抄』)と、遊興に明け暮れる生活を送っていた。この頃、田楽・猿楽などの庶民の雑芸が上流貴族の生活にも入り込み、催馬楽・朗詠に比べて自由な表現をする今様(民謡・流行歌)が盛んとなっていた。雅仁は特に今様を愛好し、熱心に研究していた。後年『梁塵秘抄口伝集』に「十歳余りの時から今様を愛好して、稽古を怠けることはなかった。昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かした。声が出なくなったことは三回あり、その内二回は喉が腫れて湯や水を通すのもつらいほどだった。待賢門院が亡くなって五十日を過ぎた頃、崇徳院が同じ御所に住むように仰せられた。あまりに近くで遠慮もあったが、今様が好きでたまらなかったので前と同じように毎夜歌った。鳥羽殿にいた頃は五十日ほど歌い明かし、東三条殿では船に乗って人を集めて四十日余り、日の出まで毎夜音楽の遊びをした」と自ら記している。その没頭ぶりは周囲からは常軌を逸したものと映ったらしく、鳥羽上皇は「即位の器量ではない」とみなしていた(『愚管抄』)。今様の遊び相手には源資賢・藤原季兼がいたが、他にも京の男女、端者(はしたもの)、雑仕(ぞうし)、江口・神崎の遊女、傀儡子(くぐつ)など幅広い階層に及んだ。雅仁の最初の妃は源有仁の養女・懿子だったが、康治2年(1143年)、守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死する。次に妃となったのは藤原季成の女・成子で、2男4女を産むが、終生重んじられることはなかった。
保元の乱・平治の乱
久寿2年(1155年)、近衛天皇が崩御すると、自身の第一皇子であり、美福門院(得子)の養子となっていた守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、立太子を経ないまま29歳で即位した。守仁はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。 本来、新帝践祚 → 即位 → 立太子の順で行われるものが、新帝の即位式以前の同年9月に鳥羽法皇主導によって守仁の立太子が行われたことも後白河天皇即位の性格を示している。10月に藤原公能の娘である藤原忻子が入内し、その翌年には皇子を生むことなく中宮に立てられているが、崇徳上皇・後白河天皇にとって公能は母方の従兄弟にあたり、崇徳上皇に好意的とみられてきた公能ら亡き待賢門院(璋子)の一族(徳大寺家)を新帝の後ろ盾にする意味があった。保元元年(1156年)、鳥羽法皇が崩御すると保元の乱が発生した。この戦いでは後見の信西が主導権を握り、後白河帝は形式的な存在だった。乱後、信西は政権の強化に尽力し、保元新制を発して荘園整理・大寺社の統制・内裏再建などを行う。保元3年(1158年)、守仁(二条天皇)に譲位し、太上天皇となる。これは当初の予定通りであり「仏と仏との評定」(『兵範記』保元3年8月4日条)、すなわち美福門院と信西の協議によるものだった。父の所領の大部分は、美福門院とワ子内親王に譲られたため、後白河上皇は藤原頼長から没収した所領を後院領にして経済基盤とした。また、配流となった崇徳上皇を除いた待賢門院所生の兄弟関係を強めるためにわずか1つしか違わない同母姉の統子内親王を自分の准母(母代わり)として、後に上西門院の女院号を与えている。二条天皇の即位により、後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも信西と藤原信頼の間に反目が生じるなど、朝廷内は三つ巴の対立の様相を見せるようになった。この対立は平治元年(1159年)に頂点に達し平治の乱が勃発する。12月9日夜、院御所・三条殿が藤原信頼・源義朝の軍勢によって襲撃され、内裏の一本御書所に幽閉される。結果、信西は殺害され信頼が政権を掌握するが、二条親政派と手を結んだ平清盛が武力で信頼らを撃破、後白河院政派は壊滅する。後白河院は乱の最中、幽閉先を自力で脱出して仁和寺に避難していた。この時、争奪の対象になったのは二条天皇であり、後白河院は信西が殺害され政治力を失っていたことから、ほとんど省みられていなかった。乱後、後白河院は二条親政派の中心だった大炊御門経宗・葉室惟方の逮捕を清盛に命じる。 経宗・惟方は、藤原信頼とともに信西殺害の首謀者であり、その責任を追及されたものと推測される。これ以降、後白河院政派と二条親政派の対立は膠着状態となる。
二頭政治と法住寺殿造営
後白河院政派と二条親政派の対立は、双方の有力な近臣が共倒れになったことで小康状態となり、「院・内、申シ合ツツ同ジ御心ニテ」二頭政治が行われた(『愚管抄』)。蔵人頭・中山忠親の『山槐記』によると、国政の案件は後白河院と二条帝に奏上され、前関白・藤原忠通が諮問に答える形で処理されていた。永暦元年(1160年)10月になると、後白河院は焼失した三条殿に代わる新たな院政の拠点として、法住寺殿の造営に取り掛かる。六波羅の南、東七条末の地には、摂関期に藤原為光が法住寺を創建したが早くに衰退し、信西の邸(平治の乱で焼失)や藤原清隆・紀伊二位の御堂などが建ち並んでいた。造営は播磨守に重任した藤原家明が担当し、藤原信頼の邸を移築することで進められた。10余町の土地を囲い込み、大小80余堂を壊したことから、多くの人々の恨みを買ったという(『山槐記』永暦2年4月13日条)。10月16日、後白河院は法住寺殿の鎮守として日吉社・熊野社を勧請する。これについて『今鏡』は「神仏の御事、かたがたおこしたてまつらせ給へる、かしこき御こころざしなるべし」としている。新日吉社は、競馬や流鏑馬など武士の武芸が開催される場となり、新熊野社は、熊野詣に出発する前の精進・参籠の場となった。17日に早速、勧請したばかりの新熊野社に参籠して、23日、初めての熊野詣に出発する。この参詣には清盛も同行している。熊野詣は以後34回にも及んだ(実際に記録で確認できるのは28回)。熊野詣の最中の11月23日、美福門院が薨去した(『山槐記』同日条)。即位以来、美福門院派との協調に神経を遣っていた後白河にとっては束縛からの解放であり、二条を抑えて政治の主導権を握ることも夢ではなくなった。法住寺殿の造営も順調に進み、翌永暦2年(1161年)4月13日、完成した御所に移り住んだ(『山槐記』同日条)。二条親政派にとって、後ろ盾の美福門院を失ったことは大きな打撃だった。一方「清盛モタレモ下ノ心ニハ、コノ後白河院ノ御世ニテ世ヲシロシメスコトヲバ、イカガトノミオモヘリ」とあるように、後白河院が政務を執ることに不安を抱き、否定的な見解をする者も少なくなかった。後白河院には芸能に堪能な側近が多い反面、鳥羽院政以来の伝統的貴族や実務官僚とのつながりは希薄で、その支持基盤は必ずしも強固なものではなかった。後白河院の寵愛は、専ら上西門院の女房・小弁局(平滋子)にあり、皇后・忻子や女御・j子は全く無視されていた。三条公教(j子の父)・徳大寺公能(忻子の父)も相次いで死去しており、後白河院と閑院流の関係は疎遠になっていたと考えられる。この時期の状況として『平家物語』には「院の近習者をば、内よりいましめあり。内の近習者をば、院よりいましめらるるの間、上下おそれをののいて、やすい心なし。ただ深淵にのぞむで、薄氷をふむに同じ」とあり、両派の緊張関係がうかがえる。
二条親政の確立
9月3日、滋子は後白河院の第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)を出産するが、その誕生には「世上嗷々の説(不満・批判)」があった(『百錬抄』)。15日、憲仁立太子の陰謀が発覚し、院政派の平時忠・平教盛・平基盛・藤原成親・藤原信隆らが二条帝により解官される。これ以降、後白河院は政治決定の場から排除され、国政は二条帝と藤原忠通の合議により運営されることになる。12月17日、藤原育子が入内する。育子は閑院流出身(徳大寺実能の女)で藤原忠通の養女だった。翌応保2年(1162年)2月19日、育子が中宮に冊立されると閑院流の藤原実長が中宮権大夫となり(大夫の九条兼実は14歳で名目のみ)、清盛も内裏を警護して二条支持の姿勢を明確にしたため、後白河院政派は逼塞を余儀なくされる。3月には配流されていた大炊御門経宗が帰京を許され、入れ替わるように6月23日、実長の密告により二条帝呪詛の容疑で源資賢・平時忠が流罪となった。鳥羽院政を支えていた貴族の認識では二条帝が正統な後継者であり、後白河院はあくまで暫定という位置づけだった。院政を停止された後白河院は、信仰の世界にのめり込む。応保2年(1162年)正月の熊野詣では、千手観音経千巻を読んでいた時に御神体の鏡が輝いたので、「万の仏の願よりも千手の誓いぞ頼もしき、枯れたる草木もたちまちに花咲き実なると説ひたまふ(多くの仏の願いよりも、千手観音の誓願は頼りに思われる。一度千手におすがりすれば、枯れた草木さえも蘇って花咲き実が熟る、とお説きになられている)」と今様を歌い、千手観音への信仰を深くしている(『梁塵秘抄口伝集』)。長寛2年(1164年)12月17日、後白河院は多年の宿願により、千体の観音堂・蓮華王院を造営する。造営は清盛が備前国を知行して行った。後白河院は落慶供養の日に、二条帝の行幸と寺司への功労の賞を望んだが、二条帝が全く関心を示さなかったため「ヤヤ、ナンノニクサニ」と嘆いたという(『愚管抄』)。蓮華王院・新日吉社・新熊野社には荘園が寄進され、後白河院の経済基盤は強化される。二条帝は後白河院の動きに警戒感を募らせていたが、翌永万元年(1165年)6月25日、病状の悪化で順仁親王(六条天皇)に譲位、7月28日に崩御した。
二条親政派の瓦解と憲仁親王擁立
六条天皇は母の身分が低いことから中宮・育子が養母となり、摂政・近衛基実を中心にして体制の維持が図られた。しかし政権は不安定で、後白河院政派はしだいに息を吹き返していく。12月25日、後白河院は憲仁に親王宣下を行い、清盛を親王勅別当とする。院政期に親王宣下されるのは原則として正妃所生の皇子のみであり、憲仁は皇位継承の有資格者として位置づけられた。永万2年(1166年)7月26日に基実が急死すると、嫡子の近衛基通が幼少のため、松殿基房が新たに摂政・氏長者に任じられた。この時に清盛は、殿下渡領を除く摂関家領を実娘で基実後家の盛子に相続させているが、後白河院はこの措置を容認していたと考えられる。主柱であった摂関家と平氏が後白河院政派に鞍替えしたことで、二条親政派は完全に瓦解した。後白河院は二条親政派を切り崩すと同時に、自派の勢力拡大を強力に推し進める。7月に源資賢が参議に補されたのを皮切りに、8月には藤原成親・藤原光隆が参議、藤原成範・平頼盛が従三位となるなど、院近臣が次々に公卿に昇進した。一方、外戚でありながら離反した閑院流に対しては冷淡な態度をとり、権大納言の徳大寺実定・藤原実長が辞任している。実定は安元3年(1177年)にようやく還任するが、実長は生涯散位のまま留め置かれた。10月10日、後白河院は清盛の協力を得て、憲仁親王の立太子を実現する。立太子の儀式は摂関家の正邸・東三条殿で盛大に執り行われ、九条兼実が東宮傅(とうぐうのふ)、清盛が春宮大夫となり、摂関家・平氏が憲仁を支えていることを誇示するものとなった。11月、後白河院は清盛を内大臣とする。院近臣の昇進は大納言が限界であり、近衛大将を兼ねずに大臣になったことも極めて異例で、破格の人事だった。さらに藤原実長が辞任した後の権大納言には、藤原師長を抜擢する。師長は保元の乱で配流されたが琵琶の才能を認められ、日和見的傾向の強い上流貴族の中では最も後白河院に忠実な人物だった。
 

 

院政開始と出家
後白河院は人事の刷新を済ませると、御所の拡張と軍事力の整備に乗り出した。法住寺南殿は信頼の邸宅を移築したものだったが、手狭で儀式に対応しにくいことから、仁安2年(1167年)正月19日、新しく建て替えられた。法住寺殿は、儀式用の法住寺南殿、憲仁の住む七条上御所、後白河院・滋子の住む七条下御所などに区分され、政治の中枢として機能する。28日には六条天皇の朝覲行幸があり、叙位・除目が行われた。5月10日、後白河院は清盛の長男・平重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨を下す(『兵範記』)。これにより、重盛は国家的軍事・警察権を正式に委任された。重盛は憲仁親王立太子の儀式で後白河院の警護に当たり、9月の熊野詣にも供をするなど、平氏一門の中では後白河院に近い立場にあった。清盛は家督を重盛に譲っても、依然として大きな発言力を有していたが、仁安3年(1168年)2月、病に倒れる。後白河院は熊野詣から戻る途中だったが、日程を早めて浄衣のまま六波羅に見舞いに駆けつけており、その狼狽ぶりがうかがえる。九条兼実も「前大相国所労、天下大事只此の事に在る也。この人の夭亡の後、弥よ以て衰弊か」(『玉葉』2月11日条)と政情不安を危惧している。摂関以外の臣下の病では異例の大赦が行われ、19日、反対派の動きを封じるために松殿基房の閑院邸において六条天皇から憲仁親王(高倉天皇)への譲位が慌しく執り行われた。病の癒えた清盛は政界から身を引き、福原に別荘を造営して退隠する。大嘗会などの即位の行事が一段落して、年が明けた仁安4年(1169年)正月、後白河は12度目の熊野詣に向かう。2月29日には賀茂社にも詣でるが、これらは出家の暇乞いのためであったという(『梁塵秘抄口伝集』)。3月13日には高野山に詣で、帰路の途中の20日、福原の清盛の別荘に立ち寄る。この時に行われた千僧供養は、以後の恒例行事となった。帰京して嘉応と改元された4月、滋子に建春門院の院号を宣下し、6月17日、法住寺殿において出家、法皇となる。出家の戒師など8人の役僧は、全て園城寺の門徒だった。11月25日、新帝の八十嶋祭が行われ、平重盛の室・経子が勅使役として公卿を引き連れて六波羅から出立する。後白河院は滋子とともに七条殿の桟敷で行列を見送っており、平氏との協力体制は磐石なものに見えた。
政権分裂と徳子の入内
嘉応元年(1169年)12月23日、延暦寺が藤原成親の配流を要求して強訴する(嘉応の強訴)。後白河院が成親を擁護したのに対して、延暦寺と友好関係にある平氏は非協力的な態度を取り、事態は紛糾する。翌嘉応2年(1170年)2月には終息したものの、双方の政治路線の違いが浮き彫りとなった。4月19日、後白河院は東大寺で受戒するために奈良に御幸する。清盛も合流して翌20日に並んで受戒するが、これは康治元年(1142年)の鳥羽法皇と藤原忠実の同時受戒の例に倣ったものだった(『玉葉』『兵範記』)。御幸から戻った21日、後白河院は平重盛を権大納言、成親を権中納言・検非違使別当に任じる。後白河院と平氏の間に生まれた溝もひとまず解消し、高倉天皇元服の儀式に向けて準備が進められていった。しかし10月21日、参内途中の摂政・松殿基房の車を平重盛配下の武士が襲撃する事件(殿下乗合事件)が起こり、元服定は延期となってしまう。盛子が摂関家領を相続して以来、基房は平氏に大きな不満を抱いていたが、この事件により更なる関係悪化が懸念された。30日、後白河院は近臣・藤原光能を福原に遣わしている(『玉葉』同日条)。九条兼実は「何事なるかを知らず」とするが、殿下乗合事件の処理について清盛と協議するためだった可能性が高い。12月9日、基房が太政大臣となったのは、事件で被害を受けたことへの慰撫と考えられる。翌嘉応3年(1171年)正月3日、摂政・大臣・公卿・平氏一門が臨席する中、天皇元服の儀式が執り行われた。後白河院政は内部に利害の異なる諸勢力を包摂していたため、常に分裂の危機をはらんでいた。前年のような混乱を避けるためには政権内部の結束が不可欠だったが、そのような中で政権の強化・安定策として浮上したのが、高倉帝と清盛の女・徳子の婚姻である。承安元年(1171年)7月26日、後白河院は清盛から羊5頭と麝(じゃ)1頭を贈られる(『百錬抄』)。10月23日には滋子とともに福原に招かれて歓待を受けるが、これらは清盛による徳子入内の働きかけと見られる。後白河院にとって、院政確立のために平氏の支援は必要だったが、平氏の発言力が増大して主導権を奪われることは避けたかったものと推測される。12月2日、入内定が法住寺殿で行われ、徳子は後白河院の猶子として入内することになった(『玉葉』『兵範記』)。白河法皇の養女として鳥羽天皇に入内した待賢門院の例が用いられたが、「かの例頗る相叶はざる由、世以てこれを傾く」(『玉葉』11月28日条)と周囲からは疑問の声が上がった。九条兼実は「法皇の養女では天皇と姉妹の関係になり、忌むべきものだ」(『玉葉』12月14日条)と非難している。徳子入内への反発は大きかったが、この措置で後白河院は徳子を自己の影響下に組み込み、発言力を確保することができた。14日、徳子は法住寺殿に参上して滋子の手により着裳の儀を行い、大内裏へと向かった。
日宋貿易と寺社の統制
後白河院と清盛の間には、政治路線の違いなど解消できない対立が存在したが、両者には旧来のしきたりや偏見にとらわれず目新しいものを好むという共通点もあった。後白河院は清盛の進める日宋貿易に理解を示し、貴族の反対を抑えてその拡大に取り組んだ。嘉応2年(1170年)9月20日、後白河院は福原に御幸して宋人と会う(『百錬抄』『玉葉』同日条)。日宋貿易は民間で活発に行われ博多には宋人が居住し、越前国の敦賀まで宋船が来航することもあった。しかし畿内まで宋人が来ることは異例であり、外国人との接見は宇多天皇の遺戒でタブーとされた行為であったことから、九条兼実は「我が朝延喜以来未曽有の事なり。天魔の所為か」と仰天した。平氏は代々、博多と大輪田泊をつなぐ瀬戸内海航路の整備・掌握に力を入れていたが、清盛の力だけで宋船を畿内まで入港させることは困難であり、後白河院の助力が必要だった。同年5月25日、藤原秀衡が鎮守府将軍に任じられているのは、日宋貿易における重要な輸出品である金を貢納させる狙いがあったと見られる。前述したように清盛は承安元年において後白河にヒツジとジャコウジカを献上しているが、いずれも日本には生息しない動物であり日宋貿易によってもたらされたものと思われる。承安2年(1172年)9月になると、宋から後白河院と清盛に供物が届けられた。その送文には「日本国王に賜ふ物色、太政大臣に送る物色」と記されていた。「日本国王」は後白河院を、「太政大臣」は清盛を指していたが、「国王」は中国皇帝が周辺諸国に授ける臣下の称号で「賜ふ」というのも日本を見下した文言であり、「頗る奇怪」であると非難の声が上がった。また供物を送ったのが皇帝・孝宗ではなく皇帝の兄で明州刺史であった趙伯圭だったこともあり、貴族は相互に差別の無い外交に反するとして、品物は受け取らず返牒も出すべきではないと反発した(『玉葉』9月17日、22日条)。
しかし、翌承安3年(1173年)3月3日、左大臣・大炊御門経宗の計らいで返牒が出され、答進物が送られることになった。返牒は藤原永範が草案を作成し、藤原教長が清書した。内容は進物の美麗珍重を褒めたもので、後白河は蒔絵の厨子に入れた色革30枚・蒔絵の手箱に収めた砂金百両、清盛は剣一腰・物具(鎧)を送った(『百錬抄』3月3日条、『玉葉』3月13日条)。これ以降、日宋貿易は公的な性格を帯びて本格化していく。輸入品である宋銭は国内に大量に流入して、重要な交換手段となった。後白河院が日宋貿易と並んで、積極的に取り組んだのが寺社の統制である。有力寺社はこの時期に荘園領主として発展し、各地で国司と紛争を引き起こしていたが、その中で特に強大だったのが「南都北嶺」と並び称された南都興福寺と比叡山延暦寺だった。興福寺と延暦寺は、藤原鎌足の墓がありながら天台宗である多武峯の帰属を巡って鋭い対立関係にあったが、承安3年(1173年)6月に抗争が激化して「昔より以降、南北大衆蜂起の中、今度より勝ること莫し」という情勢となった(『玉葉』6月23日条)。後白河院は紛争の調停に乗り出し、両寺に大衆の蜂起停止を厳命していたが、6月25日に興福寺が多武峯を襲撃して、鎌足の御影堂までも焼き払った。さらに張本の差し出し・僧綱の召還命令に対しても「三千衆徒張本なり」(『玉葉』7月21日条)と応じなかったため、後白河院は法勝寺八講への興福寺僧の公請を停止し、興福寺別当・尋範らを解任した(『百錬抄』6月26日条、29日条)。
その後、興福寺は処分の撤回を求めていたが、10月29日に張本の覚興が配流されたため、11月3日に強訴と延暦寺攻撃の方針を固めて宇治に向かい、天台座主の配流・覚興の召還・七大寺の所領奪取を図る延暦寺僧の禁獄を要求した。後白河院は官兵を出動させて入京を阻止する一方、使者を遣わして大衆の説得を試みるが交渉は平行線をたどり、7日の春日祭は延引となり、11日に予定されていた熊野詣の進発も危ぶまれる事態となった。ここに至って後白河院は官宣旨を発し、東大寺・興福寺以下南都15大寺ならびに諸国末寺荘園の没官という前例にない厳しい処罰を下す(『百錬抄』『玉葉』)。南都15大寺領は2ヵ月後に返還されるが、後白河院の強硬な政治姿勢は寺社に強い衝撃を与えた。平氏は大和国の国検・盛子の摂関家領相続で興福寺とは対立関係にあったため、この強訴では後白河院に同調して迅速に行動したようである。
厳島御幸と安元の御賀
承安2年(1172年)、法住寺殿の南に滋子御願の新御堂が建てられることになり、2月3日に上棟式が行われた(『百錬抄』『玉葉』同日条)。これに先立つ嘉応2年(1170年)4月19日、後白河院は東大寺で受戒するため奈良に向かう途中、宇治の平等院に立ち寄り、本堂で見取り図を閲覧している(『兵範記』同日条)。承安元年(1171年)11月にも滋子を連れて再訪しているので(『玉葉』11月1日条)、平等院をモデルに造営する計画だったと思われる。しかし、諸国からは御願寺造営で重い賦課が課せられたという訴えが相次ぎ、工事は難航した。承安3年(1173年)10月21日、御堂の完成供養が行われ、最勝光院と名付けられる(『百錬抄』『玉葉』同日条)。その華麗と過差は先例を越えるもので(『玉葉』)、「土木之装麗、荘厳之華美、天下第一之仏閣」(『明月記』嘉禄2年6月5日条)と称されるほど、大規模なものだった。承安4年(1174年)3月16日、後白河院は滋子を伴って安芸国厳島神社に参詣するため京都を出発、福原を経由して26日に到着した。交通手段は福原で清盛が用意した宋船であった可能性が高い。天皇もしくは院が后妃を連れて海路を渡り、遠方まで旅行することは前代未聞であり、吉田経房は「已無先規、希代事歟、風波路非無其難、上下雖奇驚、不及是非」(『吉記』3月16日条)と驚愕した。厳島参詣には清盛に対する政治的配慮の面もあるが、単純に滋子を連れて霊験殊勝な厳島神社を見物したいという願望・好奇心が大きな動機だったと考えられる。後白河院には后妃が何人かいたが、遠方に連れて行ったり、桟敷で共に並んで行列を見物したりするのは、滋子に限られていた。
厳島神社では回廊の下の波や山の緑といった風景を楽しみ、内侍の巫女の舞を見て「伎楽の菩薩が舞の袖をひるがえすのも、このようであったろうか」と感嘆する。やがて巫女が「我に申すことは必ず叶うであろう、後世のことを申すのは感心である。今様を聞きたい」と託宣を告げたので、「四大声聞いかばかり、喜び身よりも余るらん、われらは後世の仏ぞと、確かに聞きつる今日なれば(四大声聞の方々はどれほど身に余る喜びを感じただろう、釈尊から後世において仏に成り得ると、確かに保証の言葉を聞いた今日であるから)」と今様を歌う。後白河院は感極まって涙を抑えられなくなり、清盛は「この御神は後世の願いを申すことをお喜びになります」と説明した(『梁塵秘抄口伝集』)。帰京後の7月8日、久我雅通が右大将を辞任する。後任人事では平重盛と花山院兼雅が候補に上がるが、「禅門の心重盛にあり」と清盛の意向が大きく作用した結果、重盛が任じられた(『玉葉』7月9日条)。翌安元元年(1175年)2月、雅通が死去して内大臣が空席となる。後白河院と平氏の間で調整が行われたためか後任はすぐに決まらず、11月10日になってようやく藤原師長が任じられることが決定した(『玉葉』同日条)。師長の後任の大納言には重盛が、重盛の後任の権大納言には藤原成親が昇格している。院近臣と平氏の対立抑止のためには、互いの勢力の均衡を保つことが重要だった。
安元2年(1176年)に後白河院は50歳を迎え、3月4日から6日にかけて法住寺殿で賀宴が催された(『百錬抄』『玉葉』『安元御賀記』)。この時期の天皇・院は短命で50歳に達することは稀であり、白河法皇の康和の例に倣って盛大に執り行われた。宴には後白河院・滋子・高倉帝・徳子・上西門院・守覚法親王・関白・大臣・公卿・平氏一門が出席し、初日は舞と楽が披露され、翌日には船を浮かべて、管弦や蹴鞠が行われた。最終日の後宴では高倉が笛を吹き、人々を感嘆させた。賀宴が無事に終わると、後白河は四条隆季を使者として「此度の御賀に、一家の上達部、殿上人、行事につけても、殊にすぐれたる事おほし。朝家の御かざりと見ゆるぞ」と清盛に院宣を下す。清盛は金百両を入れた白銀の箱を返礼として送った(『安元御賀記』)。皮肉にもこの賀宴は、後白河院と平氏の協力関係を誇示する最後の行事となった。賀宴後の3月9日、後白河院は滋子を連れて摂津国・有馬温泉に御幸する(『百錬抄』)。4月27日には比叡山に登り、天台座主・明雲から天台の戒を受け、延暦寺との関係修復を図った。しかし、6月に滋子が突然の病に倒れ、看護の甲斐もなく7月8日に薨去した。相前後して高松院・六条上皇・九条院も死去しており、賀宴の華やいだ空気は一変して政局は混迷に向かうことになる。
安元の強訴と鹿ケ谷の陰謀
滋子の死去によって、後白河院と平氏の関係は悪化の兆しを見せ始める。10月23日、四条隆房が後白河院の第九皇子(後の道法法親王)を抱えて参内、11月2日には平時忠も第十皇子(後の承仁法親王)を連れて参内し、2人とも高倉帝の猶子となった。九条兼実は「儲弐(皇太子)たるべきの器か」(『玉葉』10月29日条)と憶測しているが、これは後白河院による高倉帝退位工作の一環と考えられる。成人天皇の退位自体は白河・鳥羽院政期にもあったことで珍しくはなかったが、平氏にとって徳子に皇子が生まれる前の退位は絶対に認められるものではなかった。2人の皇子が高倉帝の猶子となったのは、後白河院と平氏の対立を回避するための妥協策と思われるが、これは問題の先延ばしに過ぎず、両者の対立は徐々に深まっていく。12月5日に除目が行われ、院近臣の藤原成範・平頼盛が権中納言となる。空席となった参議には蔵人頭の西園寺実宗・藤原長方が昇任したため、後任の蔵人頭の人事が焦点となった。ここで後白河院は、院近臣の藤原定能・藤原光能を押し込んだ。定能は道綱流、光能は御子左家の出身で長く公卿を出していない家系であり、位階上臈の藤原雅長・平知盛を超えたことについて、九条兼実は「希代」と評している(『玉葉』同日条)。一方、翌安元3年(1177年)正月14日には平氏による巻き返しがあり、平重盛・宗盛がそれぞれ左大将・右大将となり、両大将を平氏が独占した。ただし宗盛は滋子の猶子で、後白河院との関係は良好だった。2月3日の宗盛の拝賀には殿上人・蔵人を前駆として遣わしている。3月14日には福原に御幸、千僧供養に参加して滋子の菩提を弔った。
平氏との関係は修復されたかに見えたが、ここで新たな要素として延暦寺が登場する。加賀国目代・藤原師経が白山の末寺を焼いたことが発端で、当初は目代と現地の寺社によるありふれた紛争にすぎなかったが、白山の本寺が延暦寺であり、師経とその兄である加賀守・藤原師高の父が院近臣の西光だったため、中央に波及して延暦寺と院勢力との全面衝突に発展した。3月28日、後白河院は師経を備後国に配流するが、延暦寺の大衆はあくまで師高の配流を求め、4月13日に神輿を奉じて内裏に向かった。後白河院は大衆の行動を「大衆已に謀叛を致す」(『玉葉』4月14日条)、「訴訟にあらず。已に謀叛の儀に同じ」(『玉葉』4月17日条)と断じて、平重盛に防御を命じる。ところが重盛の軍兵が神輿に矢を当てるという失態を犯したため、情勢は一挙に不利となった。14日、高倉帝と徳子は内裏から法住寺殿に脱出するが、その様子は「禁中の周章、上下男女の奔波、偏に内裏炎上の時の如し」(『玉葉』同日条)であったという。院御所議定では、内侍所(神鏡)も法住寺殿に移すべきか議論されたが「内侍所が洛外に出た例はない」と反対意見が出たため沙汰止みとなった。後白河院は内侍所の守護を平経盛に命じるが、経盛は「左右は入道の許しにあり」と取り合わず、宗盛も「経盛は一所(天皇)に候すべきの由、入道申す所なり」と弁護したため、やむなく源頼政を内裏に派遣した(『玉葉』19日条)。後白河院は神輿を射た責任を認め、20日、藤原師高の尾張国への配流、神輿を射た平重盛家人の禁獄の宣旨が下された。
4月28日、安元の大火が起こり、大内裏・京中の多くを焼き尽くした。5月4日、後白河院は天台座主・明雲を逮捕し、翌5日には座主の地位から解任する。5月11日になると、嘉応の強訴と今回の事件は明雲が首謀者であり、「朝家の愁敵」「叡山の悪魔」と糾弾して法家に罪名を勘申させるとともに、所領を全て没収する(『玉葉』同日条)。後任の天台座主には覚快法親王を任じた。この措置に対して延暦寺が蜂起するという情報が流れ、「洛中驚目、偏に軍陣の如し」と緊迫した情勢となる(『百錬抄』5月13日条)。事態の急転の背景には、藤原師高の配流を嘆く西光の讒言があったとされる。15日、延暦寺の僧綱が法住寺殿に参上して、座主配流の例はないことを理由に宥免を訴えるが、後白河院は拒絶する。法家が、謀叛の罪により罪一等を減じて流罪と勘申したのを受けて、20日、明雲罪名について公卿議定が開かれた。藤原長方は「衆徒訴訟により参陣を企て相禦るる間、自然合戦に及ぶ。偏に謀叛と謂ふべからず」として還俗・流罪の宥免を主張し、他の公卿も同調した(『玉葉』同日条)。しかし後白河院は議定の決定を「時議に叶はず」と一蹴して、21日に明雲を伊豆国に配流した(『百錬抄』同日条、『玉葉』22日条)。23日、大衆は配流途上の明雲の身柄を奪還する。後白河は伊豆国知行国主で配流の責任者だった源頼政を譴責し、延暦寺武力攻撃の決意を固める。ところが兵を率いる平重盛・宗盛が「清盛の指示がなければ動かない」と出動を拒否したため、業を煮やした後白河院は、福原から清盛を呼び出して攻撃を要請する。28日の会談で清盛は出兵を承諾するが、内心は悦ばなかったという。29日、武器を携帯して京中を往来する輩の捕縛、諸国司への延暦寺の末寺・荘園の注進、近江・越前・美濃の国内武士の動員が行われた(『玉葉』29日条)。承安3年(1173年)の興福寺の時と同様に、延暦寺領荘園の停廃を意図していたと見られる。しかし、6月1日に多田行綱が平氏打倒の謀議を清盛に密告したことで状況は激変、西光は捕らえられて斬首、藤原成親は配流、他の院近臣も一網打尽にされた(鹿ケ谷の陰謀)。5日には明雲が召還され、9日には藤原師高が清盛の家人の襲撃を受けて惨殺される。この事件により後白河院は有力な近臣を失い、政治的地位の低下を余儀なくされる。7月29日、天下の物騒は保元の乱の怨霊によるものとされ、鎮魂のために讃岐院の院号を崇徳院に改め、藤原頼長には太政大臣正一位が贈られた(『百錬抄』『玉葉』同日条)。
 

 

鹿ケ谷の陰謀後の情勢
鹿ケ谷の陰謀により、高倉帝退位工作と延暦寺攻撃は吹き飛んだ。失意の後白河院に更なる追い討ちとなったのが、滋子の一周忌における法華八講の挙行を巡る紛糾である。高倉帝は閑院を里内裏としていたが、清盛の意向で八条殿に行幸していた。後白河院は閑院に戻って法華八講を行うことを命じるが、兼実邸を訪れた日野兼光は「無断で閑院に戻ると清盛が内心どう思うか分からない。八条殿で挙行しても問題はない」と語り、決定は先延ばしにされた(『玉葉』安元3年6月21日条)。後白河院は妻の冥福を祈る仏事の場所すら自由に決められなくなっていた。後白河院の政治力低下に反比例するように、17歳となった高倉帝が政治的自立の傾向を見せ始める。「今度の除書一向に内の御沙汰たるべし。院知ろし食すべからざるの由これを申さると云々」(『玉葉』治承元年11月15日条)と後白河院が全く政務に関与しないケースも現れた。もっとも弱体化したとはいえ院政も継続していたため、かつての二条天皇の時と同じく二頭政治となった。
治承2年(1178年)正月、後白河院は園城寺で権僧正・公顕から伝法灌頂を受けることを計画するが、灌頂の賞により園城寺に戒壇が設立されることを恐れる延暦寺は、末寺荘園の兵士を動員して蜂起、園城寺を焼き払う構えを見せる(『玉葉』『山槐記』正月20日条)。後白河院は僧綱を派遣して延暦寺を譴責するとともに、平宗盛を福原に向かわせて清盛を呼び出す。しかし清盛は呼び出しに応じず、後白河院は園城寺御幸と灌頂を断念せざるを得なかった(『山槐記』正月25日条、『百錬抄』2月1日条、『玉葉』2月5日条)。この事件は大きな遺恨となり、5月になると後白河院は報復措置として最勝講への延暦寺僧の公請を停止する(『玉葉』『山槐記』5月16日条)。延暦寺との衝突を望まない高倉帝から再三のとりなしがあったが、後白河院は灌頂を阻止した罪科によるとして耳を貸さなかった。このように院政と親政の並立は困難で、二頭政治は早くも行き詰まる。歴代の治天の君は幼帝を擁立することで二重権力となることを回避していたが、平氏の支援を受けている高倉帝を退位させることは、後白河院にはもはや不可能だった。平氏の意図は高倉帝親政に速やかに移行することで、後白河院を政界から引退させることにあったと推測される。
5月24日、平時忠が高倉帝に徳子の懐妊を伝える(『山槐記』同日条)。後継者の不在が高倉帝の弱みだっただけに皇子誕生の期待が高まり、朝廷は出産のための祈祷に明け暮れた。後白河院も徳子を養女としていたことから、平氏へのわだかまりをひとまず解いて安産祈願に参加し、11月12日、高倉帝の第一皇子が無事に誕生する。清盛からの立太子の要請を受けて、後白河院は九条兼実に年内の立太子の是非を諮問した。兼実は「2歳、3歳で立太子の例は良くなく、4歳まで待つのは遅い」と奏上し、年内の立太子が決定される(『玉葉』11月28日条)。12月9日、皇子に親王宣旨が下り「言仁」と命名、15日に立太子するが、立太子の儀式は六波羅で挙行され、春宮坊は平氏一門で固められた。皇太子周辺から排除される形となった後白河院は、再び平氏への不満と警戒を強めることになる。それでも翌治承3年(1179年)3月の段階では、後白河院が厳島巫女内侍の舞を見るため清盛の西八条邸に御幸、翌日にも院御所・七条殿で同じ舞が行われるなど両者の交流は辛うじて保たれていた(『山槐記』3月17日、18日条)。
院政停止
6月21日、後白河院は小松殿に御幸し、重病の平重盛を見舞った(『山槐記』同日条)。重盛は平氏一門では親院政派であり、清盛との対立を抑える最後の歯止めだった。それに先立つ17日、清盛の娘・白河殿盛子が死去している。盛子の死による摂関家領の帰属問題は、後白河院と清盛の全面衝突を惹起することになる。前関白・近衛基実没後の摂関家領は後家の盛子が管理していたが、これはあくまで嫡男・基通が成人するまでの一時的なものだった。盛子の早すぎる死は、基通への継承という清盛の既定路線を大きく狂わせることになる。この時点で非参議右中将に過ぎない基通が、関白氏長者の松殿基房を差し置いて遺領を全て相続することには無理があった。そこで平氏の打った方策が、盛子が准母となっていた高倉天皇への伝領である。盛子が死去してわずか2日後の19日には、平時忠が中山忠親に「庄園一向に主上に附属し奉られ了はんぬ」と通告し(『山槐記』同日条)、20日には九条兼実も「白川殿の所領已下の事、皆悉く内の御沙汰あるべし」という情報を入手している(『玉葉』同日条)。この措置は、基通が成長して関白氏長者になるまでの時間稼ぎと見られる。
この措置に不満を募らせた松殿基房は、氏長者として遺領相続の権利があることを後白河院に訴える。『愚管抄』には「白川殿ウセテ一ノ所ノ家領文書ノ事ナド松殿申サルル旨アリ。院モヤウヤウ御沙汰ドモアリケリ」とあり、基房の訴えを聞いた後白河院が遺領問題に介入したとする。やがて「内の御沙汰」となったはずの盛子遺領は、院近臣・藤原兼盛が白河殿倉預に任じられて後白河院の管理下に入った。これは高倉天皇領に対して、王家の家長の権限を行使したものと考えられる。この時期、在位中の天皇の所領管理は後院が行っており、王家の家長である治天の君が後院を掌握していた。
後白河院・松殿基房と清盛の対立は、10月9日の除目で決定的なものとなる。仁安元年(1166年)以来の平重盛の知行国・越前が「入道ニモトカクノ仰セモナク」(『愚管抄』)没収されて院分国となるが、それにも増して衝撃だったのが清盛の推挙する20歳の近衛基通を無視して、基房の子でわずか8歳の松殿師家が権中納言に任じられたことである。この人事は師家がいずれ氏長者となり、後白河院の管理下に入った摂関家領を継承することを意味した。この強引な措置は、摂関家出身の九条兼実でさえも「法皇の過怠」「博陸の罪科」であり国政を乱すものと批判している(『玉葉』11月15日条)。さらに後白河院と基房が平家党類を滅ぼす密謀を練っているという情報も流れた(『百錬抄』11月15日条)。これに対して清盛は、11月14日にクーデターを起こす(治承三年の政変)。松殿基房・師家父子は直ちに罷免されるが、これは天皇の公式命令である宣命・詔書によって執行された。院政は天皇の後見であることを権力の源泉としていたため、天皇の側が独自の支持勢力を背景に攻撃を仕掛けてくると抵抗できないという構造的な弱点を抱えていた。清盛の強硬姿勢に驚いた後白河院は静賢を派遣して「自今以後、万機に御口入有るべからざる(今後二度と政務に介入しない)」(『百錬抄』11月15日条)ことを申し入れるが、20日、住み慣れた法住寺殿から洛南の鳥羽殿に連行されて幽閉の身となった。ここに後白河院政は完全に停止された。
寺社勢力の反発
後白河院は鳥羽殿で厳しい監視下に置かれ、藤原成範・脩範・静賢(いずれも信西の子)や女房2、3人以外の御所への出入りは禁じられた。幽閉の翌21日、清盛は院庁年預・中原宗家に院領目録を書き出させ、翌12月には後院庁が設置される(『百錬抄』)。これらは後白河院から院領を没収して、高倉天皇領に組み込むために必要な措置だった。治承4年(1180年)2月21日に高倉帝は譲位、後院庁の院司(藤原隆季・吉田経房・藤原長方)はそのまま高倉院庁別当に異動して、高倉院政が発足する。幽閉生活の後白河院は正月下旬より病気で憔悴状態となり、平宗盛の許可を得て診察に赴いた典薬頭・和気定成に「もう一度、熊野詣に行きたい」と涙ながらに訴えたという(『山槐記』2月27日条)。3月になると高倉上皇は清盛の強い要請により、厳島神社への参詣を計画する。しかし上皇の最初の参詣は、石清水八幡宮・賀茂社・春日社・日吉社のいずれかで行うことが慣例だったため、宗教的地位の低下を恐れる延暦寺・園城寺・興福寺は猛然と反発した。三寺の大衆が連合して高倉院・後白河院の身柄を奪取する企ても密かに進行していたが、後白河院が平宗盛に大衆の動きを伝えたことで露顕する(『玉葉』『山槐記』3月17日条)。宗盛は平通盛・平経正を鳥羽殿に、平知盛を高倉の御所に派遣して警護を厳しくすると、福原の清盛に今後の指示を仰いだ。清盛は後白河院の協力的姿勢に幾分態度を軟化させたらしく、女房2人(京極局・丹後局)の伺候を認めた(『山槐記』3月17日条)。洛南の鳥羽殿は洛中から遠く警備に不安があったため、後白河院を五条大宮の藤原為行邸に遷すことになったが、宗盛が「日次(ひなみ)よろしからず」と判断して延引となった(『玉葉』3月19日条)。
動乱の始まり
5月10日、清盛が上洛して武士が洛中に充満する。14日、後白河院が武士300騎の警護により八条坊門烏丸邸に遷った(『百錬抄』は藤原俊盛邸、『玉葉』は藤原季能邸とする)。これらの動きは以仁王の謀叛が発覚したことによるものだった。以仁王の挙兵は短期間で鎮圧されるが、その背後にはワ子内親王(八条院)の存在があり、後白河院と密接な関係にある園城寺、関白配流に反発する興福寺も与同したことは、成立したばかりの高倉院政にとって大きな脅威となった。6月2日、清盛は敵対勢力に囲まれて地勢的に不利な京都を放棄し、平氏の本拠地・福原への行幸を強行する。後白河院も強制的に同行させられ、福原の平教盛邸に入った。福原での新都建設は準備不足のため難航し、貴族だけでなく平氏一門・高倉上皇・延暦寺からも反対の声が上がった。そして10月の富士川の戦いの大敗で軍事情勢が極度に悪化したことから、清盛も還都に同意せざるを得なくなる。11月23日に福原を出発した一行は、26日に京都に到着、後白河院は六波羅泉殿に入った(『山槐記』同日条)。30日、東国逆乱についての公卿議定が開かれるが、その席上で藤原長方が後白河院政再開と松殿基房の召還を主張する(『山槐記』同日条)。この発言は「長方卿善言を吐く」(『百錬抄』11月30日条)、「時勢に諛はず、直言を吐く」(『玉葉』12月3日条)と貴族から広範な支持を集めたらしい。その効果によるものか、16日夜に基房が配流先の備前国から帰京し、18日には清盛が「法皇天下の政を知し食すべき由」を後白河院に再三申し入れる。後白河院は当初辞退していたが最後には承諾して、讃岐・美濃を院分国とすることも決まった(『玉葉』12月18日条)。この時期、高倉上皇の病状が「今においては起き揚り給ふ能はず」(『玉葉』12月21日条)というほど悪化していたことが、清盛が譲歩した要因の一つとして考えられる。高倉院が崩御すれば幼児の安徳天皇が政務を執れない以上、後白河院の院政再開しか道は残されていなかった。清盛は後白河院の院政を無条件で認めるつもりはなく、園城寺・興福寺を焼き払う(近江攻防・南都焼討)とともに、翌治承5年(1181年)には東大寺・興福寺の僧綱以下の任を解いて寺領荘園を没収(『百錬抄』正月4日条)、院近臣の平知康・大江公朝、甲斐源氏の武田有義などの危険分子を解官するなど(『玉葉』正月8日条)、可能な限り後白河院の勢力基盤削減を図った。
高倉上皇と清盛の死
正月12日には高倉上皇が危篤状態となるが、ここで高倉院崩御後に中宮・徳子を法皇の後宮に納めるという破天荒な案が飛び出し、清盛・時子夫妻も承諾したという情報が流れ、見舞いに駆けつけた九条兼実は「およそ言語の及ぶ所にあらざるものなり」と呆然とした(『玉葉』正月13日条)。後白河院も、この平氏の策謀には辟易としたらしく「平に以て辞退」する。徳子の身代わりとして、清盛の別の娘・御子姫君が法皇の猶子として後宮に入るが、「ただ付女の如くなり」と全く省みられることはなかった(『玉葉』正月30日条)。14日に高倉上皇が崩御したため、「天下万機、法皇元の如く聞し食す」ことになり後白河院の院政が再開される(『百錬抄』正月17日条)。高倉院の崩御で平氏の動きは慌しくなり、16日、高倉院の遺詔により畿内惣官職が設置される。これにより平氏は、後白河院政下でも軍事的権限を行使することができるようになった。さらに2月4日には、高松院領がやはり高倉院の遺言により中宮・徳子に伝領される。これは高倉院庁別当・中宮大夫の平時忠が強引に処理したもので、後白河院は内心喜ばなかったという(『玉葉』同日条)。院政再開により治承三年の政変で後白河院から没収した院領は返還しなければならず、皇位に付随する後院領も後白河院の管理下に入ることは目に見えていた。徳子への伝領は、王家領が後白河院に流出することを食い止めるための防衛策であったと考えられる。2月7日、丹波国に諸荘園総下司職が設置され、翌閏2月に関東への追討使として平宗盛が自ら出馬して「一族の武士、大略下向」することが決まり(『玉葉』2月26日条)、反撃の準備が整えられていった。しかし、清盛の病が「十の九はその憑み無し」という状況となり派兵は延期となる(『玉葉』閏2月1日条)。閏2月4日、清盛は後白河院に「愚僧早世の後、万事は宗盛に仰せつけ了はんぬ。毎事仰せ合せ、計らひ行はるべきなり」と申し入れる。しかし後白河が明確な返答を避けたため、清盛は怨みを含む色を見せ「天下の事、偏に前幕下の最なり。異論あるべからず」と言い残して死去した(『玉葉』閏2月5日条)。この夜、後白河院の宮に武士が群集しているという風聞があり、人々は後白河院が平宗盛に変異の心を抱いたのではないかと憶測した。『平家物語』「築島」には、六波羅の南(法住寺殿)から2、30人の「うれしや水、なるは滝の水」と舞い踊り、どっと笑う声が聞こえたという話が記されている。『百錬抄』閏2月4日条にも「八日葬礼。車を寄するの間、東方に今様乱舞の声〈三十人許りの声〉有り。人をもってこれを見せしむ。最勝光院の中に聞ゆ」とある。後白河院は2月2日に最勝光院に遷っているので(『玉葉』同日条)、今様乱舞の中にいたことはまず間違いない。後白河院にとって清盛の死は、絶えず存在した重圧からの解放だった。
 

 

院政の再開
清盛の死後、平宗盛は「故入道の所行等、愚意に叶わざるの事等ありと雖も、諫争する能はず。只彼の命を守りて罷り過ぐる所なり。今に於いては、万事偏に院宣の趣を以て存じ行うべく候」(『玉葉』閏2月6日条)と表明して、後白河院に恭順する姿勢を示した。宗盛の発言を受けて、後白河院は公卿議定を開いて追討の中断を決定する。静賢が宗盛に議定の決定を伝えると、宗盛は追討使として平重衡を下向させることを理由に、追討のための院庁下文を発給することを要求した。静賢が「それでは話が違う」と抗議すると、宗盛は「頼盛・教盛等の卿を招き相議し、重ねて申さしむべし」と返答した(『玉葉』閏2月7日条)。親平氏派の四条隆季・中山忠親は、平宗盛の意向に沿った院庁下文の草案を作成する(『玉葉』閏2月9日条)。後白河院は草案を見て「全く拠る所がなく、然るべからざる内容だ」と反発したが、結局は宗盛の圧力に屈して追討の院庁下文を発給することになった。このように軍事問題に関しては平氏が主導権を握り、後白河院の意向が反映されることはなかった。後白河院は東国追討について融和策を考えていたらしく、源頼朝からの密奏を受けて宗盛に和平を打診する。和平案の内容は「古昔の如く、源氏平氏相並び、召し使ふべきなり」と平氏の立場にも配慮したものだったが、宗盛の拒絶により調停は失敗に終わる(『玉葉』8月1日条)。この時期の後白河院は平氏の圧力に対抗するため、八条院と緊密な連携を取っていた。 さらに、4月10日に安徳天皇を八条頼盛邸から閑院に遷し(『吉記』)、11月25日に徳子が院号宣下を受けると殿上人を自ら清撰している(『明月記』12月1日条)。天皇と母后を平氏から引き離す狙いがあったと見られる。翌養和2年(1182年)3月には、藤原定能・藤原光能・高階泰経が還任して「去る治承三年解官の人々。去る冬今春の除目、過半還補」(『玉葉』3月9日条)となる。壊滅状態だった院政派が息を吹き返したことで、平氏は後白河院の動きに警戒心を強めていく。4月15日、後白河院が比叡山に御幸した時には、大衆が不穏な動きをしているという噂が流れ、平重衡が兵を率いて出動する騒ぎとなった(『百錬抄』『玉葉』)。
ただし、九条兼実に代表される貴族層は日和見的態度を取ったため、後白河院も一挙に主導権を握ることはできなかった。後白河院は平氏に協力的な姿勢を示し、諸国荘園に院宣を下して兵粮米を徴収する(『吉記』3月17日条、26日条)。しかし養和の飢饉の影響で徴収は思うように進まず、吉田経房は「万民の愁い、一天の費え、ただこの事にあるか」と慨嘆している。8月14日、後白河院は第一皇女・亮子内親王を新たに安徳天皇の准母として送り込み皇后とする(『吉記』『玉葉』)。安徳天皇の准母には、それまでは清盛の後押しで近衛通子(基実の娘)が選ばれていた。准母は禁中に伺候し、行幸の際は幼帝と同輿するなど重要な機能を有していたため、政治の主導権を奪還するために必要な措置だったと推測される。9月には大嘗会の準備のため、院宣により追討が停止された(『吉記』9月14日条)。
叡山潜幸
寿永2年(1183年)2月21日、安徳天皇は初めて後白河院への朝覲行幸を行う(『百錬抄』『玉葉』『吉記』)。後白河院は逆修(生前に死後の冥福を祈る仏事)と日程が重なることから延期を希望していたが、平宗盛の強い要望で予定通りに執り行われた。宗盛は3月に追討使を発向させる準備を進めていたため、日程を変更する余裕はなかった。追討使の発向は遅れ、4月9日にようやく北陸征討が伊勢神宮以下16社に祈願され(『玉葉』)、4月17日、平維盛を総大将とする10万騎とも言われる大軍が北陸道に下向する(『百錬抄』)。しかし、平氏が総力を結集して送り込んだ追討軍は5月11日の倶利伽羅峠の戦いで壊滅し(『玉葉』5月16日条)、これまで維持されてきた軍事バランスは完全に崩壊した。7月22日には延暦寺の僧綱が下山して、木曾義仲軍が東塔惣持院に城郭を構えたことを明らかにした(『吉記』)。24日、安徳帝は法住寺殿に行幸するが、すでに「遷都有るべきの気出来」(『吉記』7月24日条)という噂が流れており、平氏が後白河院・安徳帝を擁して西国に退去する方針は決定していたと思われる。夜になると後白河院は平宗盛に御書を送り、「若し火急に及ばば何様に存じ御しまさしむべきか。期に臨んで定めて周章せしめんか。其の仔細を申さるべし」と探りを入れた。宗盛の「左右無く参入、御所に候ふべし」という返事を聞いて都落ちの意図を察知すると、25日未明、源資時・平知康だけを連れて輿に乗り法住寺殿を脱出、鞍馬路・横川を経て比叡山に登り、東塔円融坊に着御した(『吉記』7月25日条)。後白河院の脱出を知った宗盛は六波羅に火を放ち、安徳帝・建礼門院・近衛基通・平氏一族を引き連れて周章駆け出した。26日には公卿・殿上人が続々と後白河院の下に集まり、円融坊はさながら院御所の様相を呈した。27日、後白河院は錦部冠者(山本義経の子)と悪僧・珍慶を前駆として下山し、蓮華王院に入る。翌28日、公卿議定が開かれ、平氏追討・安徳天皇の帰京・神器の返還が議論された。中山忠親・藤原長方は追討よりも神器の返還を優先すべきと主張するが、木曾義仲・源行家軍が都を占拠しており、天皇・神器の回復の目処も立たないことから、「前内大臣が幼主を具し奉り、神鏡剣璽を持ち去った」として平氏追討宣旨を下す(『百錬抄』『玉葉』『吉記』)。ここに平氏は賊軍に転落し、義仲・行家軍が官軍として京都を守護することになった。
新帝擁立と十月宣旨
7月28日、後白河院は木曾義仲・源行家に平氏追討宣旨を下すと同時に、院庁庁官・中原康定を関東に派遣した。後白河院にとって平氏が安徳帝を連れて逃げていったのは不幸中の幸いであり、8月6日に平氏一門・党類200余人を解官すると(『百錬抄』同日条、『玉葉』8月9日条)、16日には天皇不在の中で院殿上除目を強行して、平氏の占めていた官職・受領のポストに次々と院近臣を送り込んだ。院殿上除目に反対していた九条兼実も「異議なし」と屈服し、「任人の体、殆ど物狂と謂ふべし。悲しむべし悲しむべし」(『玉葉』8月16日条)と憤慨している。後白河院は平時忠ら堂上平氏の官職は解かずに天皇・神器の返還を求めたが、交渉は不調に終わる(『玉葉』8月12日条)。やむを得ず、都に残っている高倉院の皇子2人の中から新天皇を擁立することに決めるが、ここで木曾義仲が突如として以仁王の子息・北陸宮の即位を主張する。九条兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」(『玉葉』8月14日条)と言うように、この介入は治天の君の権限の侵犯だった。義仲の異議を抑えるために御卜が行われ、20日、四宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)が践祚する。後白河院は義仲の傲慢な態度に憤っていたと思われるが、平氏追討のためには義仲の武力に頼らざるを得ず、義仲に平家没官領140余箇所を与えた(『平家物語』)。木曾義仲に期待された役割は、平氏追討よりもむしろ京中の治安回復だったが、9月になると略奪が横行する。たまりかねた後白河院は19日に義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」(『玉葉』9月21日条)と責めた。義仲がすぐに平氏追討に向かうことを奏上したため、後白河院は自ら剣を与え出陣させている。木曾義仲の出陣と入れ替わるように、関東に派遣されていた使者・中原康定が帰京する。康定が伝えた頼朝の申状は、「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」と言うもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」(『玉葉』10月2日条)と朝廷を大いに喜ばせるものであった。10月9日、後白河院は頼朝を本位に復して赦免、14日には寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える(『百錬抄』)。ただし、後白河院は北陸道を宣旨の対象地域から除き、上野・信濃も義仲の勢力圏と認めて、頼朝に義仲との和平を命じた(『玉葉』10月23日条)。高階泰経が「頼朝は恐るべしと雖も遠境にあり。義仲は当時京にあり」(『玉葉』閏10月13日条)と語るように、京都が義仲の軍事制圧下にある状況で義仲の功績を全て否定することは不可能だったが、頼朝はあくまで義仲の排除を要求した。
法住寺合戦
後白河院と頼朝の交渉が容易に妥結しない中、閏10月15日に木曾義仲が帰京する。人々の動揺は大きく「院中の男女、上下周章極み無し。恰も戦場に交るが如し」(『玉葉』閏10月14日条)であったという。20日、義仲は頼朝の上洛を促したこと、頼朝に宣旨を下したことを「生涯の遺恨」と抗議し(『玉葉』同日条)、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給(『玉葉』閏10月21日条)、志田義広の平氏追討使への起用を要求するが、後白河院は拒絶した。11月4日、源義経の軍が不破の関にまで達した。この情報に力を得た後白河院は、7日、木曾義仲を除く源行家以下の源氏諸将に院御所を警護させる。16日には、延暦寺や園城寺の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ法住寺殿の武装化を進めた。行家は平氏追討のため不在だったが、後白河院は圧倒的優位に立ったと判断し、義仲に対して最後通牒を行う。その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」というものだった(『玉葉』11月17日条、『吉記』『百錬抄』11月18日条)。義仲から「君に背くつもりは全くない」という弁明があったが、17日夜に八条院、18日に上西門院と亮子内親王が御所を去り、入れ替わるように後鳥羽天皇・守覚法親王・円恵法親王・明雲が御所に入っていることから、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる。19日、法住寺殿は木曾義仲軍の襲撃を受ける。院側は源光長・光経父子が奮戦したものの完膚なきまでに大敗し、後白河院は法住寺殿からの脱出を図るが捕らえられ、摂政・近衛基通の五条東洞院邸に幽閉された。この戦いで明雲・円恵法親王・藤原信行・清原親業らが戦死し、院政の象徴だった法住寺殿も炎上した(法住寺合戦)。義仲との対決は惨憺たる結果に終わったが、後白河院に「歎息の気」はなかったという(『玉葉』11月25日条)。五条殿の警備は「近日日来に陪し、女車に至るまで検知を加ふ」(『玉葉』12月4日条)という厳重なものだったが、12月10日、怪異のためという理由で、六条西洞院の平業忠邸に遷された(『吉記』12月10日条)。同日、後白河は義仲の恫喝により、頼朝追討の院庁下文を発給している。
平氏追討
寿永3年(1184年)正月20日、源範頼・義経軍の攻撃で木曾義仲は敗死した。解放された後白河院はすぐに摂政・松殿師家を解任し、翌21日、公卿議定を開く。最大の議題は、勢力を盛り返し福原まで進出していた平氏への対応だった。この席上で大炊御門経宗と徳大寺実定は、後白河院の叡慮により追討を主張する(『玉葉』正月22日条)。出席者の多くは神鏡剣璽の安全のため使者を派遣すべきという意見だったが、院近臣の藤原朝方・水無瀬親信・平親宗も「偏に征伐せらるべし」と主張した。それは「法皇の御素懐」であったという(『玉葉』正月27日条、2月2日条)。結果、26日に平宗盛追討の宣旨、29日に義仲残党追捕の宣旨が下されることになる(『玉葉』2月23日条)。後白河院にすれば、平氏が政権に復帰すると再び院政停止・幽閉となる恐れがあり、和平はありえなかった。2月7日、源範頼・義経軍は一ノ谷の戦いで平氏軍を壊滅させる。後白河院は捕虜となった平重衡を介して、平宗盛に神器の返還を求めた(『玉葉』2月10日条)。これに対する宗盛の返書には「6日に修理権大夫(修理大夫とすれば、藤原親信)から和平交渉を行うという書状が届いた。合戦してはならないという院宣を守り使者の下向を待っていたが、7日に源氏の不意打ちがあった」という内容が記されている(『吾妻鏡』2月20日条)。事実とすれば、後白河院の謀略が戦局に大きな影響を与えたことになる。2月25日、頼朝は平氏追討と東国安定のため、後白河院に「東海・東山・北陸道諸国への国司補任」「畿内近国からの軍事動員」を申し入れる(『吾妻鏡』同日条、『玉葉』2月27日条)。しかし前年からの平氏・木曾義仲による度重なる軍事動員・兵粮米徴収で、もはや京都の疲弊は限界に達していた。関東の威を募る武士の狼藉も頻発したことから、武士の狼藉停止・兵粮米停止の宣旨が下り(『玉葉』2月23日条、『吾妻鏡』3月9日条)、29日には義経の西国下向が延引となった(『玉葉』同日条)。
 

 

平氏残党の蜂起
平氏追討は一時中断となり、遠征軍の大半は鎌倉に帰還する。義経は頼朝の代官として京都に残り、播磨・美作に梶原景時、備前・備中・備後に土肥実平、伊賀国に大内惟義、伊勢国に大井実春・山内首藤経俊、紀伊国に豊島有経らが配置されて、平氏・木曾義仲残党の追捕、兵粮米の確保に従事した。この時期、後白河院は「もし頼朝が上洛しないのなら、東国に臨幸する」とまで言い出すなど(『玉葉』2月16日条)、頼朝への期待は大きいものがあった。頼朝が上西門院蔵人であったことも、両者の関係に影響を及ぼしたと考えられる。3月27日の除目で、後白河院は頼朝を従五位下から一挙に正四位下に叙し(『百錬抄』同日条、『玉葉』3月28日条、『吾妻鏡』4月10日条)、6月5日には親鎌倉派の平頼盛を権大納言に還任させ、平氏の知行国だった三河・駿河・武蔵を頼朝の知行国(関東御分国)とした(『吾妻鏡』6月20日条)。7月、準備期間を経ていよいよ平氏追討が再開されようとした矢先に、伊賀・伊勢において平氏残党による大規模な蜂起が起こった(三日平氏の乱)。義経は平信兼の子息を邸に呼び出して誅殺すると、反乱鎮圧のため伊勢に下向した(『山槐記』8月10日条、12日条)。その直前の8月6日、後白河院は義経を、京都の治安維持を任務とする検非違使・左衛門少尉に任じている。頼朝はこの人事にすこぶる機嫌を損ねたという(『吾妻鏡』8月17日条)。 京都を離れられなくなった義経に代わり、鎌倉に戻っていた範頼が再び西国へ下向した。(『吾妻鏡』8月8日条)。後白河院と頼朝は平氏追討という点では一致していたが、個々の人事になると双方の思惑に差があった。頼朝は平頼盛を介して、九条兼実を摂政にするよう働きかけていたが、後白河院は兼実が朝廷にほとんど出仕せず、諮問にも明確な返答を避けるなど非協力的態度が目立つことから、認めようとはしなかった。後白河院は近衛基通を擁護し、頼朝上洛の折には基通を頼朝の女婿とする計画を立てていたらしい(『玉葉』8月23日条)。9月18日の除目では「中納言十人の例は不吉」という声を無視して、藤原朝方・藤原定能・吉田経房を権中納言に任じている。さらに義経に対しては、治安を回復させた功績により検非違使のまま五位に叙し、院昇殿・内昇殿を許すなど厚遇を示した(『吾妻鏡』10月24日条)。
平氏滅亡
西国に下向した源範頼軍だったが、兵粮の欠乏・水軍力の不足・平氏軍の抵抗により追討は長期化の様相を呈した。年が明けた元暦2年(1185年)正月8日、危機感を抱いた義経は後白河院に四国に出撃することを奏上する(『吉記』正月8日条)。当初、後白河院は京都の警備が手薄になることを危惧して義経の出京に反対するが、義経は「範頼もし引帰さば、管国の武士等なお平家に属し、いよいよ大事に及ぶか」と反論し、吉田経房も「義経を発向させて雌雄を決するべきだ」と主張した。後白河院も最終的には義経の奏上を認めたらしく、正月10日に義経は出陣する。ところが2月16日に、後白河院は高階泰経を摂津国渡辺に派遣して「京中武士無きに依り御用心のため」という理由により、義経の発向を制止するという行動に出ている(『玉葉』同日条)。後白河院の対応は一貫していないが、木曾義仲に再三に亘り西国下向を命じていたのとは対照的に、義経を京都の治安責任者として信頼していたことがうかがえる。義経は泰経の制止を振り切って四国に渡ると平氏の本拠地・屋島を攻略、3月24日には壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした。ここに5年近くに及んだ治承・寿永の乱は終結した。4月4日、義経より京都に平氏討滅の報告が届いた(『玉葉』『百錬抄』『吾妻鏡』同日条)。後白河院は高階泰経を介して使者を関東に送り、「追討の無為はひとへに兵法の功によつてなり」と頼朝の功績を称賛した。これに対して頼朝は「殊に謹悦」したという(『吾妻鏡』4月14日条)。21日、左大臣・経宗以下公卿十余人が集まり議定が開かれた。議題となったのは神器の入洛・捕虜の処遇・頼朝の恩賞であり、天皇・宝剣が失われたことが特に問題となった様子はない。25日、神器が京都におよそ2年ぶりに戻り、26日、平宗盛・時忠らの捕虜が見物人が群れを成す中、車で大路を渡された。27日、後白河院は頼朝を正四位下から従二位に叙す(『百錬抄』4月27日条、『玉葉』4月28日条、『吾妻鏡』5月11日条)。正三位は清盛の例、従三位は「指したる功の無い」源頼政の例と重なるため、忌避されたという(『玉葉』4月26日条)。同日、後白河院は追討の指揮官である義経を院御厩司に任じている(『吾妻鏡』文治5年閏4月30日条)。5月7日、平宗盛・清宗が鎌倉に送られた(『玉葉』『百錬抄』同日条、『吾妻鏡』5月15日条)。九条兼実は「配流の儀にあらず」としており、死罪は決定していたと思われる。20日、捕虜となった貴族・僧侶の罪名が宣下され、平時忠・平時実・平信基・藤原尹明・良弘・全真・忠快・能円・行命の9名が流罪となった。武士に対する処罰は厳しく、6月21日に平宗盛・清宗、23日に平重衡が斬首された。23日、宗盛父子の首は検非違使庁に渡されて梟首され、後白河院は三条東洞院で宗盛父子の首を見物している(『玉葉』『百錬抄』同日条)。
東大寺大仏開眼供養
元暦2年(1185年)7月9日、京都を大地震が襲い、多くの建物が倒壊した。その後も余震が続いたことから、8月14日に改元が行われる(文治地震)。改元定では「建久」の号にほぼ決定していたが、摂政・基通が「近日武を以て天下を平げらる、文を以て治むるは宜しきに似るか」(『山槐記』8月14日条)と主張して、「文治」の号が採用された。8月27日、後白河院は大仏の開眼供養のため、八条院や公卿・殿上人を引き連れて東大寺に御幸する。翌28日の供養は多数の群集が集まり、盛大に執り行われた。鍍金されていたのは顔だけで未完成だったが(『玉葉』8月30日条)、後白河院は正倉院から天平開眼の筆を取り出すと、柱をよじ登って自らの手で開眼を行った(『山槐記』8月28日条、『玉葉』29日条)。法皇が自ら開眼を行った経緯については次のように伝わっている。8月21日に左大臣・大炊御門経宗と上卿・中御門宗家が式次第を定めた際には、仏師が開眼を行うことになっていた。ところが、開眼供養直前になって急遽法皇が筆に執ることとなった。『東大寺続要録』によれば、前夜に正倉院の勅封倉を開けさせて筆を取り出したと伝えられている。一方『山槐記』によれば、筆者の中山忠親が吉田経房から聞いた話として、式の当日朝に重源の勧めで決意したという。法皇に同行していた経宗は驚いて地震が起これば命の危険があると反対意見も出たが、後白河院は「開眼の際に余震が起きて足場の階段が壊れて命を失ったとしても後悔はしない」と述べて聞き入れなかった(『山槐記』)。後白河院の大仏再建にかける意気込みが感じられる。困り果てた廷臣たちは足場を組んで横板を渡した上、院近臣が先に上がって安全を確認した上で法皇を登壇させた。そのため、下から開眼の様子を覗こうとした参列者は横板に遮られて開眼の瞬間が見られなかったという(『東大寺続要録』)。なお、当日は京都にいた九条兼実は翌日になって事の次第を聞き、「(式次第には仏師が開眼するとあるから)さながら法皇は仏師になったことになる。これはいかなる前例によるのか?」(『玉葉』8月29日条)と呆れ返っている。
頼朝の政治介入
「文治」の号や大仏開眼には平和到来への願いが込められていたが、10月になると源義経・行家の頼朝に対する謀叛が露顕する(『玉葉』10月13日条)。後白河院は義経を制止しようとするが、義経は頼朝追討宣旨の発給を迫り、大炊御門経宗も「当時在京の武士、只義経一人なり。彼の申状に乖かれ若し大事出来の時、誰人敵対すべけんや。然らば申請に任せて沙汰あるべきなり」(『玉葉』10月19日条)と進言したことから、やむを得ず頼朝追討の宣旨を下した。しかし宣旨は下されたものの兵は思うように集まらず、11月3日、義経は京都を退去した(『玉葉』同日条)。その後、関東から武士が上洛して「二品忿怒の趣」を伝え(『吾妻鏡』11月5日条)、藤原範季が「法皇の御辺の事、極めて以て不吉」(『玉葉』11月14日条)と語るなど、院周辺は頼朝の報復に怯えて戦々恐々となった。後白河院は頼朝に「行家義経の謀叛は天魔の所為」と弁明したが、頼朝は「日本国第一の大天狗は、更に他の者にあらず候ふか」と厳しく糾弾する(『吾妻鏡』11月15日条、『玉葉』26日条)。頼朝にすれば義経の恫喝による追討宣旨はまだしも、義経・行家をそれぞれ九国・四国の地頭に補任したことは看過できなかった(『吾妻鏡』12月6日条、『玉葉』27日条)。11月24日、北条時政が千騎の兵を率いて入京する。28日には「守護地頭」の設置が奏請され(『吾妻鏡』『玉葉』同日条)、12月6日には「天下の草創」として兼実への内覧宣下、議奏公卿10名による朝政運営、「行家義経に同意して天下を乱さんとする凶臣」である平親宗・高階泰経・平業忠・難波頼経・葉室光雅・一条能成・藤原信盛ら14名の解官を内容とする廟堂改革要求が突きつけられる(『吾妻鏡』12月6日条、『玉葉』27日条)。ただし、平清盛・木曾義仲が40名に及ぶ近臣を解官・追放したり、院政停止や幽閉を断行したことに比べれば、遥かに穏便な措置だった。
朝幕交渉
頼朝の圧力が恐れていたほど苛烈なものではないと見た後白河院は、翌文治2年(1186年)になると巻き返しに転じた。2月には熊野詣の費用を捻出するよう北条時政に院宣を下し(『吾妻鏡』2月9日条)、3月には平家没官領である丹波国五箇荘を院領にするよう命じた。また頼朝追討宣旨を奉行して解官となった葉室光雅が朝廷に復帰し、高階泰経も後白河院の宥免要請により配流を取り消された(『吾妻鏡』3月29日条)。この時期、北条時政は「七ヶ国地頭」の辞任を表明し(『吾妻鏡』3月1日条)、諸国兵粮米の徴収も停止となっている(『吾妻鏡』3月21日条)。摂政・氏長者の人事については、九条兼実の摂政就任を求める頼朝に対して後白河院は近衛基通擁護の姿勢を貫いたため、摂政・内覧が並立する異常事態となっていた。3月12日にようやく兼実に摂政の詔と氏長者の宣旨が下されたが(『玉葉』同日条)、ここで摂関家領の継承が問題となる。頼朝は摂政・氏長者の地位と共に基通の家領を兼実に与えることを主張したが(『吾妻鏡』3月24日条)、基通は引渡しを拒み、後白河院も基通の訴えを認めたため、双方の言い分は真っ向から対立することになった。4月になると、頼朝は摂関家領のうち「京極殿領」を兼実に、「高陽院領」を基通に配分するという妥協案を示すが後白河院は拒絶し、基通が源義経・行家に命じて兼実に夜襲をかけるという噂も飛び交った(『玉葉』5月10日条)。緊迫した空気が漂う中、7月に大江広元が上洛する(『玉葉』7月12日条)。院側の丹後局と折衝が重ねられたが妥協点は見出せず(『玉葉』7月15日、17日条)、結局は頼朝が後白河院の要求を全面的に呑み、基通が家領の大部分を継承することで決着が着いた。ここに摂関家領の分割が確定し、近衛家・九条家が名実共に成立する。後白河院の粘り強い対幕府交渉により、前年の頼朝の改革要求の大部分は事実上無効化されることになった。頼朝が前年の強硬な姿勢から一転して後白河院の要求を認めた背景には、各地の武士が謀叛人の所領と決め付けて神社・仏寺の所領を押領したり、本家・領家への年貢を納入しないなどの非法行為が多発していたことが要因として考えられる。荘園領主による訴えが殺到した結果、頼朝は下文を一挙に252枚も出すなど紛争処理に忙殺されることになった(『吾妻鏡』10月1日条)。頼朝自身も関東御領・関東御分国を持つ荘園領主・知行国主であり荘園公領制の崩壊は望むところではなく、武士の引き締めに乗り出さざるを得なかった。10月には謀叛人跡以外の地頭職設置が停止された(『吾妻鏡』11月24日条)。
 

 

戦後復興と奥州合戦
地頭職の設置範囲・摂関家領の分割が合意に達したことで、朝幕関係は文治3年(1187年)になると改善に向けて動き出した。皇居である閑院内裏は元暦2年(1185年)の大地震で破損が著しく、大江広元が上洛して幕府の全面的支援により修理作業が行われた(『吾妻鏡』6月21日条、『玉葉』7月14日条)。修理は10月25日に完了し(『吾妻鏡』同日条)、11月13日に後鳥羽天皇の遷幸が実現する(『玉葉』同日条)。同じ頃、京都では群盗の出没が大きな問題となっていた。検非違使庁の機能低下もあり、後白河院は治安回復のため京都守護・一条能保に「勇士等を差し、殊に警衛する」ことを命じた(『吾妻鏡』8月12日条)。能保の報告を受けた頼朝は、ただちに千葉常胤・下河辺行平を上洛させて、群盗鎮圧の任務に当たらせている(『吾妻鏡』8月19日条)。翌文治4年(1188年)4月13日、院御所・六条殿が焼失する(『玉葉』同日条、『吾妻鏡』4月20日条)。六条殿は院政の拠点であり、院分国・公卿知行国・幕府が分担して再建工事が進められた。元の六条殿は平業忠の邸宅で四分の一町と手狭だったが、新造御所は一町に拡張された壮大なものとなり、院政の威信を示した。頼朝の所課の屋々は特に丁寧であり、後白河院を大いに喜ばせた(『吾妻鏡』12月12日条、30日条)。各地の農業生産も「万民の悦びなり、今年惣べて第一の豊作なり」(『玉葉』7月9日条)と回復の兆しを見せ始め、荒廃した京都も戦乱・地震の打撃から徐々に復興していった。朝幕間に残された懸案は義経の動向だったが、文治4年(1188年)2月、義経が奥州にいることが確実であるという情報が頼朝から朝廷に伝えられた(『玉葉』2月13日条)。頼朝は「亡母のため五重の塔を造営すること」「重厄のため殺生を禁断すること」を理由に年内の軍事行動はしないことを表明し、藤原秀衡の子息に義経追討宣旨を下すことを要請した。頼朝の申請を受けて、2月と10月に藤原基成・泰衡に義経追討宣旨が下されている(『吾妻鏡』4月9日条、10月25日条)。文治5年(1189年)閏4月30日、頼朝の圧迫を受けた泰衡は義経を襲撃して自害に追い込む。後白河院はこれで問題は解決したと判断して「彼滅亡の間、国中定めて静謐せしむるか。今においては弓箭をふくろにすべし」(『吾妻鏡』6月8日条)と頼朝に伝える。しかし、頼朝の目的は背後を脅かし続けていた奥州藤原氏の殲滅にあり、泰衡追討の宣旨を求めた。奥州への対応を巡って朝廷と幕府の見解は分かれたが、7月19日、頼朝は宣旨によらず自ら軍を率いて奥州に発向し、9月には奥州藤原氏を滅ぼした(奥州合戦)。これは朝廷の命によらない私戦だったが、後白河は7月19日付けの泰衡追討宣旨を下して頼朝の軍事行動を追認し(『吾妻鏡』9月9日条)、10月には「時日を廻らさず追罰するの條、古今に比類なき事か。返す返す感じ思しめす」と院宣を下した(『吾妻鏡』11月3日条)。12月、上洛を求める後白河に対して、頼朝は「明年に臨みて参洛すべし」と奏上した(『吾妻鏡』12月25日条)。
頼朝との対面
建久元年(1190年)11月7日、頼朝は千余騎の軍勢を率いて上洛し、かつての平氏の本拠地・六波羅に新造された邸宅に入った。東国の兵を見るために多くの人々が集まり、後白河院も車を出して密かに見物した(『玉葉』『吾妻鏡』『百錬抄』同日条)。9日、後白河院と頼朝は院御所・六条殿で初めての対面を果たす。両者は他者を交えず、日暮れまで会談した。詳しい内容は明らかでないが『愚管抄』によると、頼朝が後白河院に「君ノ御事ヲ私ナク身ニカヘテ思候(法皇の事を自分の身に代えても大切に思っています)」と表明し、その証拠として朝廷を軽んじる発言をした功臣・上総広常を粛清したことを語ったという。この日、後白河院は参議・中納言を飛ばして頼朝を権大納言に任じた。13日、頼朝は後白河院に砂金800両・鷲羽2櫃・御馬100疋を進上、19日と23日には「御対面数刻に及ぶ」「終日御前に候ぜしめたまふ」と長時間の会談があった(『吾妻鏡』同日条)。24日、後白河院は花山院兼雅の右近衛大将の地位を取り上げて、頼朝に与える。12月1日の右大将拝賀の儀式は、後白河院が車と装束を調達し、前駆10名の内8名が北面武士から遣わされて執り行われた。頼朝は3日に権大納言・右大将両官を辞任するが、翌年正月に前右大将家政所吉書始を行い、前右大将の名で下文を発給するなど、右大将任官の事実を活用して自らの権威高揚を図った。14日、頼朝は京都を去り鎌倉に戻る。頼朝の在京はおよそ40日間だったが後白河院との対面は8回を数え、双方のわだかまりを払拭して朝幕関係に新たな局面を切り開いた。建久2年(1191年)3月22日に17ヶ条の新制が発布されるが、その16条には「海陸盗賊放火」について「自今已後、たしかに前右近衛大将源朝臣並びに京畿諸国所部官司等に仰せ、件の輩を搦めまいらしめよ」(『鎌倉遺文』523)と記され、頼朝の諸国守護権が公式に認められた。ここに武家が朝廷を守護する鎌倉時代の政治体制が確立することになる。
崩御
建久2年(1191年)、幕府の支援により戦乱と地震で荒廃していた法住寺殿の再建工事が始まった(『吾妻鏡』2月21日条)。法住寺殿は後白河院にとって、滋子と日々を過ごした懐かしい御所であり、再建は悲願だったと思われる。12月16日、後白河院は完成した御所に移り(『玉葉』同日条)、造営を担当した中原親能・大江広元に剣を下賜(『吾妻鏡』12月24日条)、丹後局・吉田経房は頼朝に「法住寺殿の修理美を尽さるる事」を感謝する書状を送った(『吾妻鏡』12月29日条)。ところが法住寺殿に戻ってすぐに、後白河院は「御不食」「御増気あり。又御脚腫れ給ふ」と体調を崩す(『玉葉』12月25日条)。その後、長講堂供養のため六条殿に御幸するなど快方に向かうかに見えたが(『玉葉』12月28日条)、翌閏12月に再び発症して病の床についた(『玉葉』閏12月16日条)。平癒を祈って非常大赦が出され(『玉葉』閏12月17日条)、崇徳上皇の廟・藤原頼長の墓への奉幣、安徳天皇の御堂建立なども行われるが(『玉葉』閏12月29日条)、容態は日増しに重くなっていった。建久3年(1192年)2月18日、雨の降る中を後鳥羽天皇が見舞いのため六条殿に行幸する(『玉葉』同日条)。後白河院は「事の外辛苦し給ふ」という病状だったが(『玉葉』2月17日条)大いに喜んで、後鳥羽の笛に合わせて今様を歌っている。後鳥羽帝が還御すると、後白河院は丹後局を使者として遺詔を伝えた。その内容は、法住寺殿・蓮華王院・六勝寺・鳥羽殿など主要な部分を天皇領に、他の院領は皇女の亮子・式子・好子・覲子にそれぞれ分与するというもので(『明月記』3月14日条)、後白河院に批判的な九条兼実も「御処分の体、誠に穏便なり」としている。前年、「后位にあらず、母儀にあらず、院号を蒙むる例、今度始めなり」(『玉葉』建久2年6月26日条)と先例を破って女院(宣陽門院)となった覲子内親王には、院領の中でも最大規模の長講堂領が譲られた。さらに後白河院は、覲子について特に配慮するよう後鳥羽帝に念を押している。遅く生まれた子である覲子を溺愛し、気にかけていた様子がうかがえる。覲子の母・丹後局はすでに譲られていた21ヶ所の領地・荘園について、改めて「公事免除」の院庁下文を与えられた(『鎌倉遺文』584)。後事を託した後白河院は、3月13日寅の刻(午前4時頃)、六条殿において66歳で崩御した。
人物

 

『台記』仁平3年(1153年)9月23日条によると、関白の藤原忠通が近衛天皇の跡継ぎとして雅仁親王を飛ばして、守仁親王(二条天皇)を即位させる提案を鳥羽法皇に行ったことに対し、父の藤原忠実は「此の事を案ずるに、関白狂へるか。彼の童(守仁)即位せば、又雅仁親王猶ほ在り。親王如しくは政を専らにせん。豈に関白をして執権せしめんや」と雅仁親王の権力志向の強さを指摘している。これは不仲になっていた忠通への悪意を含む発言であった可能性もあるが、後に忠通が院近臣の藤原信頼と争った末に後白河の怒りを買って閉門処分を受けた事実(『兵範記』保元3年4月20日、21日条)を考えると、忠実の予測は当たっていたことになる。
『保元物語』では、「文にもあらず武にもあらぬ、四の宮(=後白河)」が重仁親王を差し置いて即位したことが遺恨であると崇徳上皇が語ったとされている。
『玉葉』寿永3年(1184年)3月16日条に記された信西の後白河院評は「和漢の間、比類少きの暗主」。その暗君のわずかな徳として「もし叡心果たし遂げんと欲する事あらば、あえて人の制法にかかわらず、必ずこれを遂ぐ」(一旦やろうと決めたことは人が制止するのも聞かず、必ずやり遂げる)、「自ら聞し食し置く所の事、殊に御忘却なし。年月遷ると雖も心底に忘れ給はず」(一度聞いた事は年月が過ぎても決して忘れない)としている。ただし、これは九条兼実が清原頼業から聞いた話として書きとめたもので、信西が本当にそう言ったかは定かでない。
九条兼実は「鳥羽法皇は普通の君であるが、処分については遺憾であり、すべてを美福門院に与えられた。今の後白河法皇は処分に関する限り遙かに鳥羽法皇より勝れている。人の賢愚など、簡単に評価できないものだ」とし、その死去にあたっては「法皇は度量が広く慈悲深い人柄であられた。仏教に帰依された様子は、そのために国を滅ぼした梁の武帝以上であり、ただ延喜・天暦の古きよき政治の風が失われたのは残念である。いまご逝去の報に接し、天下はみな悲しんでいるが、朝夕法皇の徳に慣れ、法皇の恩によって名利を得た輩はなおさらである」と形式的な悲しみの言葉を使いながらも、仏教帰依を非難し、近臣の悲しみを嘲笑している(『玉葉』建久3年3月13日条)。
後白河院は、源義経の要請に応じて頼朝追討の宣旨を下したが、義経没落後は源頼朝に義経追捕の院宣を下した。さらに、頼朝より奥州藤原氏追討の院宣が願いだされてもこれを拒否し、頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした事を知ると事後承諾の形で奥州藤原氏追討の院宣を下している。次から次にあたかも手駒を捨てていくかのごとく武士を利用していったように見える行動から、頼朝に「日本国第一の大天狗」と評された(近年この大天狗の表現は、院近臣の高階泰経を指したのではないかとする説も出ているが、定説ではない)。
一旦使い捨てた相手や対立した相手でも、時が過ぎればそれを受け入れる度量も有しており、藤原頼長の子・師長は太政大臣となり、信西の子供達を公卿に取り立て、二条親政派として罰した大炊御門経宗はその後左大臣を20年以上務め、一度は蔑ろにした近衛基通は寵臣となり、一度は流刑にして前代未聞の比叡山攻撃を計画させる原因を作った天台座主・明雲も最後は後白河のために法住寺合戦で討死するほどの親密な関係になっている。
院政期には、朝廷内の序列や慣例、実務能力を無視して院近臣を優遇する傾向があったが、後白河法皇はそれが顕著であった。清盛の怒りを買った師家の中納言任官の他にも、師長の太政大臣も左大臣経宗、右大臣兼実を飛び越えての任官であった。また大納言資賢も父は非参議止まりであり、資賢の家系では平安中期以来約180年ぶりの大納言任官であった。師長は琵琶・箏、資賢は笛・和琴・郢曲の当代一の名手と言われており、今様に熱中していた後白河にとっては、政務はともかく趣味の面で必要な人材であった。
平清盛と対立した後も誕生したばかりの言仁親王の立太子に同意するなど、清盛との和解を図った向きもある。
後白河院は源頼朝追討の宣旨を下した後、高階泰経に「保元以来乱逆が相次ぎ、玉体を全うするためにこのような処置をとってきたが、今後も乱逆が絶えないだろうから治世から身を引きたい」(『玉葉』文治元年10月25日条)と心情を吐露している。しかし他に貴族政権を取りまとめる者がいなかったことも事実であり、最期まで政治の実権を握り続けた。頼朝との悪化した関係は建久元年(1190年)の頼朝上洛により修復され、この時に成立した朝廷と鎌倉幕府の協調関係は、承久の乱まで約30年間保たれることになった。  

 

●蕩尽する中世、腐敗する権門、武士の台頭を招き 権力を失った院政
本郷恵子氏の著作に「蕩尽する中世」がある。
本郷氏は「中世が財貨を求めて争った時代」であるという、権門は富を得るため、相争い武士の武力を導入して天皇家・摂関家が争った、源氏も平家も一枚板ではなく、各家で権門に結びつき源氏同士、平家同士で争った。個人の富獲得争いである。院政がその中心にあり、院政の強権により地方の財貨(荘園の富)が都の院のもとに集中する(地方から受領が運ぶ富)。 白河院はこれらの集まった富を蕩尽(とうじん)したのである。富を有用なインフラ事業に使うのでなく、私的な寺の造営や「金泥一切経書写」などに惜しみなく使用した。皮肉なことにそれらは、現在、観光資源として外人を含む多くの観光客を集めている。
都の軍事貴族平氏の台頭……源氏から平氏へ
『白河上皇が始めた院政(天皇の父方の血縁者が実権を握る政治形態)は、藤原氏の摂関政治(天皇の母方の血縁者が実権者となる政治形態)を乗り越えることを課題としました。そのため、上皇は藤原氏と緊密な関係にある源氏を忌避し 、上皇に忠誠を誓う、新たな武家の棟梁の出現を望んでいました。 それに応えたのが、乱暴を働く源義親(有名な八幡太郎の義家の嫡子)を討ち取って武名を上げた平正盛でした。』(「戦いの日本史 武士の時代を読み直す」本郷和人著 角川学芸出版 平成24年刊)
   世界でも同じような状況が現れる(ヨーロッパの中世)
武力による富を簒奪したのが中世のポルトガルである。(日本の蕩尽と同じ社会状況が出現)王家と宗教が結びつき、富を求め海に乗り出した。大航海時代の幕開けである。ポルトガルが先陣を切り、武力に長けたスペインが続いた。ポルトガルの最盛期にはその当時の世界の半分を支配下という。まさしく蕩尽(とうじん)するポルトガルである、わずか人口100万の国が富を集め、王家や教会が黄金を蕩尽した。
それを見た中世ヨーロッパの国々はより強い武器で乗り出した。獲得競争に乗り遅れたオランダは、香辛料を求め艦隊を派遣するが、アフリカ沿岸を航海する航路はポルトガルに押さえられているため、やむなくオランダ艦隊は、インド洋を横断する冒険に乗り出した。この冒険によりオランダは香辛料を独占する事が出来た。絶滅鳥ドードーが棲むモーリシャス諸島は、この時に発見され横断の中継基地として大きな役割をはたした。ヨーロッパ中世は略奪の時代である。大航海時代は黄金を産出しないヨーロッパが、アジアや南アメリカに植民地を求めて争った時代である。メキシコのトポシ銀山の銀がイギリス産業革命の原資になったと言われる。マルコポーロは奥州平泉の「黄金の館」を目指して『黄金の国ジパング』発見の航海に乗り出した。
   「治天の君」と言われた院政構造とは……権力の二重構造
『武士勢力の台頭によって、天皇制が危機を迎え、王家といえども、政争から超然とした立場を維持しえず、渦中に入って行動することを余儀なくされた。そのため天皇制を二分し、行動し、その結果、傷つく恐れのある治天の君と、儀礼的地位や神事主宰者としての伝統を守り、政治能力をもたず、行動せず、それ故に安泰を保証されている天皇との二重構造を作り王家が行動する中でも、天皇を安全なままに保ってきた。』(日本の中世 8「院政と平氏、鎌倉政権』上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次著 中央公論社 2002年)
   蕩尽された富(白河院が蕩尽した富、寺社造営)……
大治四年(1129)7月15日 白河院の葬礼が行われた。『中右記』に白河院残した蕩尽の記載がある。
絵像5470余体 / 生丈仏5体、丈六 127体 (高さ4.8メートルほど) / 半丈六 6体 / 等身3150体 / 三尺以下2930余体 / 堂7宇、塔44万66130余基 / 金泥一切経書写    注「中右記」藤原宗忠の日記、(1087年から1138年)
集中する富……受領が都に運ぶ地方の富、それを浪費する権門
『過剰といえるまでに 精力的な造寺・造仏も、院政期の大きな特徴である。白河の地には、天皇の発願によってつぎつぎに五つの御願寺が創設された。これに待賢門院(鳥羽天皇の中宮)が発願した寺をあわせて、いずれも寺名に「勝」の字がつくために、六勝寺と総称する。』(全集 日本の歴史 第六巻『京・鎌倉 ふたつの王権』本郷恵子著 小学館 2008年刊)
平安京の洛東・白河の地域に造営された寺号に「勝」の字が含まれた6つの御願寺の事であるが、女院である待賢門院が建立した円勝寺は後から付け加えられたもので、当初は「五勝寺」と称されていた(愚管抄)、円勝寺以外の寺は、白河天皇以降の天皇が在位中に建立を始めた。円勝寺以外の寺は、白河天皇以降の天皇が在位中に建立を始めた。しかし、いずれも災害や院政の衰微により応仁の乱以後廃絶して今は無い。 1.法勝寺、落慶は承歴元年(1077)左大臣藤原師実の寄進と白河天皇の御願による、最初に創建された御願寺である。 2.尊勝寺(そんしょうじ)。供養は康和4年(1102年)、堀河天皇の御願による。 3.最勝寺(さいしょうじ)。創建は元永元年(1118年)、鳥羽天皇の御願による。 4.円勝寺(えんしょうじ)。落慶は大治3年(1128年)、待賢門院(藤原璋子)の御願による[2]。六勝寺では唯一の女院御願寺である。 5.成勝寺(じょうしょうじ)。供養は保延5年(1139年)、崇徳天皇の御願による[2]。保元の乱で流刑に処された院を慰撫するための御八講法要が行われた。 6.延勝寺(えんしょうじ)。落慶供養は久安5年(1149年)、近衛天皇の御願による。
また、院政期で始まった事に寺社の強訴がある。比叡山延暦寺や大和興福寺は寺のシンボルを押し立てて院に迫った。強訴に対抗するために導入されたのが武士である。院庁の付属機関として院北面が設置された、有名な北面の武士である。ここに起用されたのが上記の伊勢平氏・平正盛である。白河院は自分の権力を守るため武士の武力を導入した。武力により朝廷(権力)が左右される時代の始まりである。
鳥羽院の治世……大治4年から保元元年(1129〜56)
『皇族や有力近臣が諸国の支配・経営権を 院から与えられて知行国主となり、自分の近親者や配下の貴族を国司(こくし)に任ずる仕組みである。』(本郷恵子 2008年)、鳥羽院政期には新しい荘園が増える、これらの荘園には院庁符牒・院庁下文が発給されるようになり、院の高権による荘園承認の図式が明確化する。鳥羽院のあとは後白河天皇が誕生した。
今様狂いの後白河院、天皇にはなれないと思われた人
今様は白川院が始め、息子の後白河院に受け継がれた。彼は今様に狂い『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』 を撰述した。全20巻だが現存するのは、歌詞集1巻と断簡、口伝集巻1と断間のみである。今様とは当世風の新興の歌謡である。
彼は今様に熱中していたが、久寿2年(1155)異母弟の近衛天皇が17才で亡くなった後に天皇になった。保元の乱、平治の乱、治承・寿永の内乱と武士の戦いが続き、それに対するのは後白河院しかいなかった。
『後白河院は多くの戦闘にさらされるのみならず、時に幽閉され、時に脅かされるなど、危機的な状況をかいくぐりながら、何とか政権を維持したのである。彼の政治運営は、良く言えば柔軟、悪く言えばまったく定見のないものであった。中略、武士が京都政界に進出し、武力が全国を席巻し、ついに鎌倉に武家政権の成立を見るという激動の時代を、とにもかくにも生き抜いた人物が後白河院だったのである。』(『蕩尽する中世』本郷恵子著 新潮社 2012年)
院政期を考える……
『収奪した財産の惜しみない濫費、行楽と寺院の濫立、権謀術数、悪徳と腐敗、気まぐれ、無気力、淫乱と耽溺であり、それは一言で言えば、日本の支配階級の歴史において、前後にその比を見ない頽廃の時代である』(石母田正1989)ー『日本の時代史7 院政の展開と内乱』元木泰雄著編 吉川弘文館 2002年刊
日本国家第一の大天狗……源頼朝の言葉
『天魔とは仏法を妨げ、人にわずらいをかけるものだ。行家 ・義経を捕らえないから、諸国が衰え、人民が破滅するのだ。だとすれば、日本国第一の大天狗は、ほかでもない。頼朝追討を行家・義経に命じた法王さま、あなたではないか』(『玉葉』11月26日条 『玉葉』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、日本の公家九条兼実の日記である。)右の絵は九条兼実(宮内庁蔵)  参照・『義経とその時代』大三輪龍彦・関幸彦・福田豊彦著 山川出版社 2005年
保元の乱……後白河院と崇徳院・藤原頼長の戦い
後白河院方は源義朝・足利義康・平清盛に検非遺使(けびいし)や衛府(えふ)などの武士を鳥羽院の崩御前から集めて体制を整えていた。対する崇徳院・藤原頼長方は源為義・頼賢・為朝や平忠正など近臣の武士だけであった。保元元年(1156)7月11日に戦いは、始まりからわずか数時間で決着した。
藤原頼長は、一時逃れたが受けた傷が原因で死亡、崇徳院は捕らえられ讃岐国に配流されて8年後に崩御した。のちに崇徳院は怨霊となり都を悩ませたとの伝承が生まれた。
権力争いに武力が持ち込まれ、肉親同士で戦い敗者を斬首にするという、武力が政権を左右する時代に突入する。勝利した後白河方では、前少納言にすぎない官位の藤原信西(しんぜい)が天皇高権のもとに、保元元年(1156)に「七か条の新制」を公布して、全国を再編成することが宣言された。この信西と組んで勢力を伸ばしたのが平清盛です。
〇摂津源氏の源頼政は「保元の乱」 では後白河院側につき、「平治の乱」では平清盛側につき、源義朝と敵対して源氏の凋落を招いた。その頼政が以仁王と共に平氏打倒の狼煙(のろし)を挙げた。
〇崇徳上皇の怨霊  崇徳は何故怨霊になったのは、後白河院が崇徳上皇に対し、天皇家が受けるべき国葬礼を取らなかった事による。崇徳上皇は爪も切らず、髪も切らず、伸ばし放したために、生きながら天狗のようになったと『太平記』は伝える。
〇怨霊と化した崇徳天皇 一勇齋国芳東京都立図書館所蔵 
平治の乱……平清盛、ただ一人が勝利者となる。
〇保元の乱以後、各自の利益が対立し、信西一門、二条親政派、後白河院政派の三つのグループが生まれた。
 1.信西一門と平清盛
 2.二条親政派とは、美福門院と二条天皇
 3.後白河院政と藤原信頼と源義朝
〇三条殿焼討……
二条親政派と後白河院政派は対立していたが、反信西という店では一致していた、そこで平治元年(1159年)12月、平清盛が熊野参詣に行った隙に、京都が軍事的空白になると反信西派はクーデターを起こした。三条殿の焼き討ちである、後白河院達は身柄を確保される。信西は山城国田原に逃げたが見つかり首を切られ獄門にさらされた。
〇「平治物語絵巻 三条殿焼討」模本 国立国会図書館所蔵 狩野栄信・狩野養信・養福作 ボストン美術館所蔵の模本 
〇六波羅行幸絵巻……  清盛は旅先で動揺したが、説得され京に戻る、戦力的には清盛が多く、二条親政派も清盛に保護を求める。清盛は二条天皇の六波羅行幸を計画して脱出させる。ここに公卿・諸大夫は続々と六波羅に集結する、信頼と提携関係にあった摂関家の忠通・基実父子 も加わわり官軍となる、信頼・義朝追討の宣旨が出され信頼・義朝達は賊軍となる。
〇「平治物語絵巻 二条天皇脱出する」ボストン美術館所蔵
〇「平治物語絵巻 六波羅行幸巻」鎌倉時代 国宝 他の場面を見る(東京国立博物館所蔵)
平治物語絵巻について…国立国会図書館解説
『平治物語』を絵巻にしたもので、江戸時代の住吉派の画家・住吉広行(1755-1811)による模写。原本を絵、詞書とも忠実に模している。原本は鎌倉時代中期(13世紀後半)の作とされ、三条殿焼討巻は現在ボストン美術館、信西巻は静嘉堂文庫の所蔵。住吉家の当主は代々内記を名乗り、幕府の御用絵師を務めた。古画の鑑定もしばしば行い、『住吉家鑑定控』(東京芸術大学所蔵)が残る。これによれば、広行はこの模写の日付と同じ寛政10年5月25日に、当時本多家所蔵の「平治物語絵詞」を見て、住吉法眼慶恩画、詞書は家隆卿筆と鑑定している。(国立国会図書館)
国宝 指定名称:紙本著色平治物語絵詞 1巻紙本着色  42.2×952.9  鎌倉時代・13世紀  松平直亮氏寄贈  東京国立博物館
『平治物語』を絵巻としたもの。『平治物語』は、保元の乱(1156年)に戦功のあった源義朝と平清盛との勢力争いに、藤原信頼と藤原通憲(信西)との抗争がからんだ平治の乱(1159年)を叙述する。「六波羅行幸巻」は、内裏に幽閉された二条天皇が脱出を図り、清盛の六波羅邸に逃れる場面。天皇と中宮が乗る牛車の簾をはね上げて中をあらためる武士たち(第1段)、美福門院の御幸(第2段)、馳せ参じる公家衆(第3段)、事態を知って狼狽する信頼(第4段)を描く。人物の集団の大小・疎密、その配置の仕方など動きのある群像表現、きびきびした描線と美しい色彩によって、動乱の緊迫した状況を見事に描ききっている。
15世紀中ごろ、比叡山延暦寺の西塔(さいとう)に「保元絵」15巻と共に「平治絵」が秘蔵されていたことが知られ、現存の巻物はその残巻と見られる。「六波羅行幸巻」は、江戸時代には大名茶人として知られる松江藩主、松平不昧(まつだいらふまい)が所蔵していた。
今様好きの後白河院は「絵巻」も好きだった。
『承安元年 (1171)、後白河院の発案で『後三年合戦絵巻』が作られた。現在、三巻に調巻されるこの絵巻には、比叡山の学僧玄恵が制作由来を述べた、承和三年(1347)の年記を持つ序文が付属する。後三年合戦を描いた現存唯一の絵巻で、年記が明らかな合戦絵として貴重である。』(「すぐわかる絵巻の見方」榊原 悟著 東京美術 平成16年刊)
『似絵(にせえ)』と言う絵画のジャンルを始めたのも後白河上皇である。
人物や牛馬の容貌を像主に似せて描いたもので、写実性・記録性が強い。したがって、尊崇や礼拝のために理想化された肖像画や禅宗における頂相などを似絵とは呼ばない。特色としては、細い淡墨線を引き重ねて目鼻だちを整え、対象となる人物の特徴を捉えようとする技法を用いていること、また、作品の多くが小幅の紙本に描かれていることが挙げられる。
『玉葉』によれば、承安3年(1173年)に建春門院の発願で成った最勝光院御堂の障子絵には、常盤光長によって平野行啓・日吉御幸や高野御幸の有様が描かれたが、実際に供奉した公卿の面貌だけはその道に堪能な藤原隆信が手掛けたという。また、『吉記』によると、四天王寺の念仏堂には、後白河上皇の仰せによって、藤原隆能が描いた鳥羽上皇の御影(崩御後の供養像であろう)が安置されていたという。これらの作例は何れも現存しないが、似絵の先駆的作品として位置付けることが出来るものである。(ウィキペディアWikipedia )
平安末期までは、貴族達は自分の姿が描かれることを嫌ったと言われる。それが変わったのは、後白河上皇の御幸に同行した貴族達の姿が、完成したばかりの最勝光院に障子絵となっていると話題になってからである。後白河上皇は、父・鳥羽法皇が没すると、その遺影を藤原隆能に描かせ、四天王寺におき参拝者にも公開した。彼は現実的な人間であったらしい。
〇後白河院の肖像画も別人だと言われる。教科書などで見られる後白河院の肖像画は、『天子・摂関・大臣影』(鎌倉時代)によるものである。これと違うのは、京都妙法院所蔵の後白河院の肖像画である。姿がでっぷりとした下ぶくれの肖像画である。