生きざま

生きざま  それぞれ

色々の価値観 
生きる人 周囲の思い浮かぶ人
世捨て人
 


蚊帳の外恵んで下さい夢の終わり・本音縋る衣食足りて礼節を知る優柔不断白雪姫不運無気力美人美男子骨川筋右衛門貧相一匹狼恒産無くして恒心無しキレイになりたい欲望ダイエット妄想三途の川痩せこける不遇孫正義仇桜世捨て人1世捨て人2世捨て人3世捨て人物語現実逃避現実逃避活用逃避の心理人生の好転隠遁隠遁生活隠遁の総決算隠遁思想−陶淵明と西行人生相談ユニクロのブランディング戦略教会の信仰良寛隠遁生活が与えるもの半農生活者・・・
 
 
 
 
 

 

競争社会
格差社会 勝ち組 負け組 
蚊帳の外 忖度 茶坊主 腰巾着 理不尽
●蚊帳の外
蚊帳の外とは「無視され、不利な扱いを受け孤立する事」「物事に関わることができないようにされること」という意味です。蚊帳とは目の細かい網状の天幕であり、天井から吊って使用します。この中にいると、幕の外にいる蚊に刺されるのを防ぐことができます。蚊帳が使われてきた歴史は古く、平安時代の文献にも出てきます。最近ではあまり使われませんが、蚊帳の中に布団を敷いて寝るという風景は昭和のころの日本家屋でよく見られた夏の風物詩でした。蚊帳を吊る際に中に蚊を巻き込んでしまうこともあるので、蚊帳の中では蚊取り線香を焚くのが通例ですが、蚊取り線香がない時代でも蚊帳の効果は十分に高かったようです。つまり、蚊帳の中に入ることができなければ蚊に刺されてしまいます。蚊帳から追い出されてしまって蚊を防ぐことができない状態、それが「蚊帳の外」という言葉の語源です。類語に「仲間外れ」「爪弾き」「村八分」などがあります。  
 
 
 
 

 

恵んでください
頭を下げる 手を合わせる 拝む
空き缶拾い ゴミ活用 人混み行脚
●恵んで下さい
お返しするものはなにもないですが、どうしても助けを必要としているので、慈悲をもってその必要としているものを施して下さいという懇願の言葉である。その言葉を口にしなければならないほど、どうしようもなくそれを吐いた者は困窮しているのである。と思ったら、どうやらそうでもない者も混ざっているようである。

先日、信号待ちをしていたら後ろから突然声をかけられました。最初は時間を聞かれたので答えたのですが、そのあとに『もう何日も何も食べていない。よかったらいくらか恵んでくれないか』と言われたのです。できればそそくさと逃げたかったのですが、ちょうど交差点の真ん中での信号待ちだったので逃げるに逃げられず、断って逆ギレされるのも怖かったので500円を渡しました。後でそのことを親や友人に話すとみんな口を揃えて渡すべきではないと言いました。 
 
 
 
 

 

二人 
夢の終わり そして一人 
終いは それぞれの世界 本音 コミュニケーション
●夢の終わり
この本は、ジュラの城と高地プロヴァンスの農家と、そこで暮らし永住しようとしたが出来なかった私と娘の物語である。私は、家に住むよりも森に住むことを好むジュラ地方人の最後の世代に属する四人の男と知り合った。また、鷹のように影を見張り、怖ろしい闘いの渦中には要塞であった城をわが家にした。プロヴァンスでは、ライッサ山麓の集落に住む仲違いをしている二つの家族の、思ってもみなかった人間味と暖かさに接した。この本にはまた、若者とその夢の計画の物語があり、老人と幽霊の物語がある。それに、私の記憶の中にいつまでも残っている個性豊かな女たちや男たちの物語がある。彼らの中のいく人かはいまだに薄れゆく夕影の中にそのまま生き続けている。(情熱的な女性と知られざるフランスの舎暮らしとの運命的な出会いと別れを、美しく細やかに描いた紀行・回想文学。)

ふと 大事過ぎて 愛し過ぎて 切り刻みたくなる   君の激しい愛 受け止められない ふと逃げ出したくなる   だけど、また抱きしめてしまう可愛い人   こんな苦しいを想いするなら   出会わなきゃ良かったよ(出会わなきゃ良かったの?)
長い夢の終わり 二人見失った未来   いつまでも貴方と居たい この願いは叶わない…   Oh Baby I'm So Sorry もう悲しませたりしない   サヨナラ 二度と戻らない この行き先のない愛   
サヨナラ…  
●本音
「本心から言う言葉」という意味を持つ言葉です。特に日本人や日本の文化では、古来から本音と建前を使い分けるコミュニケーションが浸透していると言われています。「本音が出る」「本音を吐く」という使い方をします。いつもは隠しているけど、何かの拍子に出てきてしまう本当の気持ちというニュアンスがあります。
「本心」の意味は、1 本当の心。真実の気持ち。「本心を打ち明ける」 / 2 本来あるべき正しい心。良心。「本心に返る」 / 3 たしかな心。正気。「酔って本心を失う」 / 4 本来の性質。うまれつき。

欧米圏を主とした海外では、交渉ごと(商談や取引など)をおこなう際、自分の要求を直接突きつけることが基本です。しかし日本では、最初に「お元気ですか?」など建前のあいさつから始め、十分お互いの距離感が温まってきてから、本題に入ります。古代日本、飛鳥文化の時代に作られた仏像には「アルカイックスマイル(微笑みの表情)」があると言われていますが、「内心では相手のことを憎んだり怒ったりしているが、表情は微笑んでいて感情を表に出さない」という本音と建前の文化を表しているといえるでしょう。もちろん、アルカイックスマイルは日本独自の文化ではなく、古代ギリシャのアルカイック期に期限があります。しかし、日本人論として日本人の特徴を説明される際には、よく引き合いに出されるようです。

本音に対する「建前」とは、「表向きの考え」という意味です。本心から言う考えではなく、表向き人当たりのよく、都合が良い考えのことを指します。立前・建前の意味、1 原則として立てている方針。表向きの考え。「―と本音」「―を崩す」 / 2 行商人や大道商人が商品を売るときの口上。売り声。
建前ばかりで本音を言えないという悩みを持つ方は多いと思いますが、一方で上手に建前を言うことができず、人間関係がぎくしゃくしてしまう…という悩みを持つ人も多いです。どちらの場合も、人間関係をスムーズにするための言動ができていない点では共通しています。ただし、「なぜ、本音と建前を使い分けることができないのか?」という原因を知ることで、円滑に人とコミュニケーションを取るための努力・改善を重ねることはできます。 
 
 
 
 

 

すがる
空き缶 手を差し出す (藁にもすがる思い)
路上生活 気遣い不要 春夏秋冬仮住まい
●縋る (すがる)
頼りとするものにつかまる。「命綱に―る」「手すりに―って歩く」。頼みとしてしっかりとつかまる。しがみつく。 「母の腕に−る」 「手すりに−って階段をのぼる」 「松に−りて危うき拷コを行く」。助力を求めて頼りとする。「人の情けに―る」。たのみとする。たよる。 「仏様のお慈悲に−る」
「縋る」の意味は、頼りになるものにしっかりとつかまること、手助けを求めて、頼みとすることです。一つ目の意味は「しっかりとつかまる、しがみ付く」です。この場合の対象は物理的なものになります。例えば、「手すりに縋って階段を降りる」と使います。二つ目は「(自分一人ではどうにもできないので)何かを頼りにする」という意味です。例えば、「親に縋って生きる」ならば、「仕事をしないで家にこもったり、お金を親に出してもらって生活している」というニュアンスになります。「縋る」は「他人に任せっきりにする、依存する、物を頼みにする」というネガティブな意味合いが強く、自分が苦しい状況にあるという前提のもと使用します。
手すりに縋る / 命綱に縋る / 腕に縋る / 杖に縋る / 優しさに縋る / 人の情けに縋る / 神に縋る / 縋るしかない / 縋りたい / 縋るような思い / 藁(わら)にも縋る、というような使い方をします。
「藁にも縋る」とは「せっぱつまったときに頼りにならないものまで頼りにする」という意味で、「藁にも縋る思いで」の形で使います。「溺れる者は藁をも掴む」ということわざもあり、「藁をも掴む思いで」とも使います。それと混同して「藁をも縋る思いで」とするのは誤用なので注意してください。「縋る」の類語には、「しがみつく」「寄りかかる」「依存する」などがあります。
「縋る」と「頼る」
「縋る」と「頼る」は同義語です。しかし「縋る」は「自分には能力がない」というネガティブな意味合いが強いです。例えば、「大学卒業後、就職もせずに親に縋る」などと使います。「縋る」というのは、元々「(体が落ちないように)しがみつく」という意味なので、自分がピンチな状態に置かれているという前提で使う言葉です。一方「頼る」は「自分のさらなる成長のために」というポジティブな意味合いでも、「縋る」と同じく「自分ではどうすることもできなくて」というネガティブな意味の両方で使うことができます。例えば、「上京するために兄貴を頼る」などと使います。「地方から東京に出てさらなる機会を求めるために」ということなので、すごく前向きなニュアンスをありますよね。
文例
・・・世に人にたすけのない時、源氏も平家も、取縋るのは神仏である。 世間は、春風に大きく暖く吹かるる中を、一人陰になって霜げながら、貧しい場末の町端から、山裾の浅い谿に、小流の畝々と、次第高に、何ヶ寺も皆日蓮宗の寺が続いて、天満宮、清正公、弁・・・ 泉鏡花「瓜の涙」
・・・草には露、目には涙、縋る土にもしとしとと、もみじを映す糸のような紅の清水が流れた。「関ちゃん――関ちゃんや――」澄み透った空もやや翳る。……もの案じに声も曇るよ、と思うと、その人は、たけだちよく、高尚に、すらりと立った。――この時、日月を外・・・ 泉鏡花「小春の狐」
・・・ とその男が圧えて、低い声で縋るように言った。「済みませんがね、もし、私持合せがございません。ええ、新しいお蝋燭は御遠慮を申上げます。ええ。」「はあ。」と云う、和尚が声の幅を押被せるばかり。鼻も大きければ、口も大きい、額の黒子も・・・ 泉鏡花「菎蒻本」
・・・ 小県が追縋る隙もなかった。 衝と行く、お誓が、心せいたか、樹と樹の幹にちょっと支えられたようだったが、そのまま両手で裂くように、水に襟を開いた。玉なめらかに、きめ細かに、白妙なる、乳首の深秘は、幽に雪間の菫を装い、牡丹冷やかにくず・・・ 泉鏡花「神鷺之巻」
・・・とあとから仔雀がふわりと縋る。これで、羽を馴らすらしい。また一組は、おなじく餌を含んで、親雀が、狭い庭を、手水鉢の高さぐらいに舞上ると、その胸のあたりへ附着くように仔雀が飛上る。尾を地へ着けないで、舞いつつ、飛びつつ、庭中を翔廻りなどもする・・・ 泉鏡花「二、三羽――十二、三羽」
・・・ 今は疑うべき心も失せて、御坊様、と呼びつつ、紫玉が暗中を透して、声する方に、縋るように寄ると思うと、「燈を消せ。」 と、蕭びたが力ある声して言った。「提灯を……」「は、」と、返事と息を、はッはッとはずませながら、一度消・・・ 泉鏡花「伯爵の釵」
・・・ と、手をふるはずみに、鳴子縄に、くいつくばかり、ひしと縋ると、刈田の鳴子が、山に響いてからからから、からからからから。「あはははははは。おほほほほほ。」 勃然とした体で、島田の上で、握拳の両手を、一度打擲をするごとくふって見せ・・・ 泉鏡花「みさごの鮨」
・・・この間に、早瀬、ベンチを立つ、お蔦縋るようにあとにつき、双方涙の目に月を仰ぎながら徐にベンチを一周す。お蔦さきに腰を落し、立てる早瀬の袂を控う。お蔦 あきらめられない、もう一度、泣いてお膝に縋っても、是非もしようもないのでし・・・ 泉鏡花「湯島の境内」
・・・ とばかり、取縋るように申しました。小宮山は、亭主といい、女中の深切、お雪の風采、それやこれや胸一杯になりまして、思わずほろりと致しましたが、さりげのう、ただ頷いていたのでありました。「そらお雪、どうせこうなりゃ御厄介だ。お時儀も御・・・ 泉鏡花「湯女の魂」
・・・ 私は言われるままに、土のついた日和下駄を片手に下げながら、グラグラする猿階子を縋るようにして登った。二 二階は六畳敷ばかりの二間で、仕切を取払った真中の柱に、油壷のブリキでできた五分心のランプが一つ、火屋の燻ったままぼ・・・ 小栗風葉「世間師」
・・・集る者は大抵四十から五十、六十の相当年輩の男ばかりで、いずれは道楽の果、五合の濁酒が欲しくて、取縋る女房子供を蹴飛ばし張りとばし、家中の最後の一物まで持ち込んで来たという感じでありました。或いは又、孫のハアモニカを、爺に借せと騙して取上げ、・・・ 太宰治「老ハイデルベルヒ」
・・・、ほら吹きなり、のほほんなりと少し作品を濶達に書きかけると、たちまち散々、寄ってたかってもみくちゃにしてしまって、そんならどうしたらいいのですと必死にたずねてみても、一言の指図もしてくれず、それこそ、縋るを蹴とばし張りとばし意気揚々と引き上・・・ 太宰治「風の便り」
・・・けれども私は、藁ひとすじに縋る思いで、これまでの愚かな苦労に執着しているということも告白しなければならない。若し語ることがあるとすれば、ただ一つ、そのことだけである。私は、こんなばかな苦労をして、そうして、なんにもならなかったから、せめて君・・・ 太宰治「困惑の弁」 
 
 
 
 

 

餌 食べ物探し
天災 地球温暖化 干ばつ 天変地異
人 「衣食足りて礼節を知る」
●衣食足りて礼節を知る
衣服や食糧といった生きるために必要なものが十分にあるようになって初めて、礼儀や節度といった、社会の秩序を保つための作法・行動を期待することができるようになるものである。1.生きるためには、体裁にこだわっている場合ではない。2.誰かに、礼節を求めるならば、まず生活を豊かにさせることが必要である。3.生活が満ち足りたならば、作法や行儀というものにも配慮すべきである。

《「管子」牧民の「倉廩(そうりん)実(み)ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱(えいじょく)を知る」から》人は、物質的に不自由がなくなって、初めて礼儀に心を向ける余裕ができてくる。衣食足りて栄辱を知る。生活にこと欠かなくなって、人は初めて礼儀に心を向ける余裕ができる。※続日本紀‐和銅七年(714)二月辛卯「詔曰、人足二衣食一、共知二礼節一、身苦二貧窮一、競為二姧詐一」  
 
 
 
 

 

男ひとり
相手の目が見れない  心を閉ざす 
スマホがお友達 優柔不断 甲斐性なし
●優柔不断
物事の判断がなかなかできず、迷ってばかりいること。「煮え切らない」とも言い換えることができる。また、対義語として、決断力があることを意味する「積極果断」がある。
「決断がすぐできないこと」。「すぐに気持ちを決めることができず、ぐずぐずと迷っている様子」を表す言葉です。「優柔」と言う言葉には、「決断力が十分にないこと」「気が弱いこと」の意味があります。「ゆったりしている」「やさしい」などの意味も合わせ持っています。また「不断」は「決断力がない」の意味の他にも、「絶えないこと」の意味を持つ言葉です。「断」は、「断る」の意味の他にも「決める」の意味も持っています。
一般的に「優柔不断」な性格は短所とされますが、「すぐに慌てて決断をしない」と言う長所も含まれていると言えます。「優柔不断」をいい意味で使いたい場合には、「慎重」を使うのがよいでしょう。「慎重」とは、「注意深く考え、すぐに決断を行わないこと」を意味する言葉です。「すぐ決断を行わない」は、「決断することができない」ではなく、考えや意志のもと、決断を先に伸ばす意味合いとなります。 
 
 
 
 

 

女ひとり
男が煩わしい  心を閉ざす 
鏡がお友達 シングルマザー
●「白雪姫」1 
白雪姫を産むときに本当の母親である妃が死んでしまい、白雪姫の父親である王は、ある女性を後妻としてむかえる。新しい妃(継母)は、魔法の鏡を持っていて、ことあるごとに魔法の鏡にたずねる。 
「鏡よ鏡、この世で一番美しいのは誰?」答えはずっと妃その人であったが、白雪姫が7歳になったとき、鏡は「白雪姫のほうが千倍も美しい」と答える。その言葉を聞いた継母は、狩人に「あの子を森へ連れ出し殺しておくれ。その証拠に肺と肝を持って帰って来るように」と命じる。狩人は白雪姫を森へ連れ出すが、彼女に泣きつかれて、結局、彼女を森の中へ置き去りにして、代わりに、猪の肺と肝を持ち帰った。継母はその臓物を食べ尽くして安心した。しかし、白雪姫は森の奥深くで暮らす7人の小人の家に世話になることになった。ほどなく、魔法の鏡に白雪姫が生きている、という事実を聞かされた継母は、みずからの手で白雪姫を葬ろうと、胸を締め上げる紐や毒の櫛を試みるが悉く失敗する。最後の手段として、毒リンゴを持って行き、これを食べた白雪姫は仮死状態となった。7人の小人は、ガラスの棺を作って、彼女をその中へ横たえた。小人たちが彼女の死を嘆き悲しんでいるところへ、他国の王子が通りかかり、白雪姫の美しさに心打たれ、棺を譲って欲しいと小人たちに頼んだ。そして、棺を動かした時に、白雪姫の口の中から毒リンゴのかけらが吐き出され、彼女は生き返った。そこで、王子は白雪姫に求婚した。二人の婚礼に出席した継母は、真っ赤に焼かれた靴を履かせられて、熱さに踊りくるいながら、死んでいった。そして白雪姫は王子と末永く幸せに暮らした。 
以上が白雪姫のあらすじであるが、グリム初版では、継母ではなく実母となっている。版を重ねるごとに残酷な実母が継母へと姿を変えた。また、母親が白雪姫の美しさだけを憎んで葬る去ろうとしたのではなく、夫である王の愛(性愛)が白雪姫へ向けられていたからという解釈もある。母親が娘の臓物を食べたり、焼けた靴で拷問を受けるというくだりは2版以下にも出てくるが、実母との確執、実父との近親相姦の描写は大幅に変えられている。グリム兄弟は、血なまぐさい残酷描写には比較的寛容であったが、性的な表現は隠蔽しようとした向きが強い。狩人や7人の小人たちと性的な関係があったという類話も多い。また、通りかかった王子がネクロフィリア(屍体愛好家)であったとも言われている。最後に、ディズニーの「白雪姫」像に慣れ親しんでいるものにとっては、意外であろうが、白雪姫が森へ追われたのは、たった7歳のときなのである。  

Mirror, mirror on the wall 
 Who's the fairest of them all ? 
「鏡よ鏡……、世界で一番美しいのはだあれ?」知らない人はいないほど有名なこのフレーズ。そう、グリム童話「白雪姫」で継母が魔法の鏡に向かってつぶやくあのセリフです。Fairは古典文学で美しい(=beautiful)の意味。同センテンスのthemは女王が知り得る周囲の女性全員を指していますが、ロシアに伝わる「The Tale of the Dead Princess」(白雪姫の物語と酷使していますが別の物語と認識されています)では、Who's the fairest throughout the land?(この国で一番美しいのは誰?)と表現されています。  
My dear, you are the most fair. Your face and look are beyond compare ! 
ご主人様、それはあなたです。他と比べものにならないほど!
●「白雪姫」 (初版グリム童話)2 
ずっとむかしの、冬の雪の日、一人の美しい妃が、黒檀の枠のついた窓のそばで縫い物をしていました。 
妃は、うっかり針で指を刺してしまい、雪の上に落ちた三滴の血を見た時、 
「この雪のように白く、血のように赤く、この窓枠のように黒い子どもがほしいものだわ」 
と、考えました。やがて、そのような女の子が生まれ、白雪姫と名づけられました。 
この妃は、その美しさを鼻にかけた、高慢な人でした。 
「鏡よ鏡、国じゅうでいちばん美しい女はだれ?」 
と聞いて、鏡が、 
「あなたです、お妃さま、あなたが国じゅうでいちばん美しい」 
と答えるのを聞いて、満足していました。 
ところが、白雪姫が、7歳になり、いつものように、妃が鏡に聞きますと、 
「白雪姫は、あなたより千倍も美しい!」 
と、こたえるではありませんか。 
妃は、妬ましさのあまり、白雪姫を殺してしまおうと思い、狩人を呼んで、いいました。 
「白雪姫を、森のずっと奥へ連れていって、刺し殺しておしまい。そうして、殺した証拠に、あの子の肺と肝臓をここへ持っておいで。」 
狩人は、白雪姫を森に連れ出しますが、いざ、殺そううとするとかわいそうになり、ちょうど走ってきた猪の子を刺し殺し、肺と心臓を取り出して、持って帰りました。 
妃は、白雪姫が死んだと思い、その肺と心臓を塩茹でにして食べてしまいました。 
一方、白雪姫は、森の奥の小人の住む家で下働きするようになりました。 
ある日、妃が、いつものように鏡に向かって、国じゅうで一番美しい女はだれかと聞きますが、白雪姫がまだ生きていることを知ります。 
自分で、姫を殺そうと考えた妃は、始めは、物売りに化けて、小人たちが、昼間、金を堀りに出かけている隙に、黄色と赤と青の絹紐で編んだ紐で、姫を絞め殺そうとしますが、夜、小人が戻ってきて、白雪姫は、生き返ります。 
次に、きらきら光る綺麗な毒の櫛で、姫を殺そうとしますが、夜に、小人たちが戻ってきて、毒の櫛を抜き取ると、姫は、生き返りました。 
最後に、半分だけ毒の入るように細工したりんごを持って行き、自分が半分食べて見せた上で、残りを姫に食べさせました。今度は、小人たちも、姫を生き返らせることができませんでした。が、棺の中に横たわった姫は、いつまでも生きているかのように見えました。 
こうしたある日、一人の若い王子が、小人の家にやってきて、姫の美しさに目を奪われ、その棺をお城に持って帰りました。王子は、その棺を自分の部屋に置いて、毎日つききりで見守り、目を離そうとしません。更に、どこに行く時も、食事の時も、その棺を持ち運ばされるので、うんざりした召使の一人が棺を開け、白雪姫を持ち上げて、 
「こんな死んだ娘の一人のおかげで、俺たちが一日じゅう、苦労させられるんだぜ」 
と、いいながら、白雪姫の背中をドンと突きました。 
そのとたん、白雪姫がかじった林檎のかけらが、のどから飛び出し、姫は生き返りました。 
次の日、結婚式が行われることになり、白雪姫の母である妃も招かれました。 
その朝、いつものように鏡に向かって、国じゅうで一番美しい女はだれかと聞きますが、鏡は、 
「若いお妃は、あなたより千倍も美しい!」 と、答えました。 
妬み心に突き動かされた妃は、結婚式に出かけていきますが、若い妃が、白雪姫であることを知ります。 
結婚式には、火の中で真っ赤に焼かれた鉄の上靴が用意され、妃は、それをはいて踊ればなりませんでした。足は焼けただれましたが、死ぬまで踊りやめさせてもらえませんでした。
 
 
 
 

 

不運
後進国 未開の地 貧困 逆境
生まれ所の不遇
●不運
運の悪いこと。また、そのさま。.不幸な運命。また、物事のまわりあわせが悪く、うまく行かないさま。非運。「不運をなげく」「不運な身の上」 「不運に泣く」 「不運な出来事」。今昔(1120頃か)二九「此は我が兵の道に不運なるを致す所也」

〇自分の一部である不運 / 自分の“根本的”な容姿・知能・身体能力・血縁など、生まれた時から決まっていて変えられないもの(容易に変えられないもの含む)。自分をかたちづくっているもの。この不運は自分をかたちづくっているものですから、人生の中で全てに影響してきます。
〇自分の選択から生まれた不運 / ギャンブルでの失敗から人生における大きな決断まで、自分が選択した・選択によって招いた不運(不幸)です。この「選択」は普段の何気ない判断や行動も含み、一般に“過失”とされるものも含まれます(不注意・怠慢・能力の過信による失敗など)。「選択できること・想定できること」が基本の定義で、後述する「不可抗力の不運」の対局にあたります。範囲がとても広く、不可抗力の不運との境界は非常にあいまいです。不運に対して「選択がどの程度影響しているのか」「因果関係をどこまで求めるのか」など、責任の視点による評価の差が最も出る種類といえます。
〇不可抗力の不運から選択したもの / 不可抗力の不運から半ば強いられたような選択。苦渋の決断とも表現できる、それを全て責任というのは酷なもの。(継続した)いじめ・パワハラ、介護疲れ、負担となる親族、嫌いな人間・危険人物との関係…など。「逃げる・助けを求める・関係を断つ」など、そこに違う選択肢がある中で不幸(不運)の継続を選んだ状態(※選択肢がない場合は不可抗力の不運となります)。当人の「道徳心・優しさ・恐れ・懸念・トラウマ・何らかの目標達成のため」など、生き方(価値観)や状況からくる様々な理由が考えられます。いずれにせよ、解決する選択肢を選ぶのが難しい状態にあるということです。不幸な状態の根本的解決をしない選択であるため、不運が続く継続的なものであることが多いです。本人は苦しんでいますし、当然この選択は悩んだ末に出した結論です。周囲からの「こうすればいいのに」「なんで○○しないの?」というアドバイスは、時として心無い一言にもなりかねません。また、いじめ・パワハラ・DVなどに関しては、学習性無力感(※長期のストレスに晒され、その状況から抜け出す自発的努力ができなくなること)とも深い関わりがあります。こうなると、本人の頭に「逃げる」などの選択肢自体が浮かばなくなります。この記事を読んで少しでも心当たりのあった方は、(とても勇気がいることとは思いますが)自覚があるうちに回避行動を起こしてください。
〇不可抗力の不運 / 一般的な人間が「想定できない・どうすることもできない」ようなもの、想定できても「普通の人間は無視するような確率」のもの。(※「想定できない・どうすることもできない」とは、選択が発生していないということです。)交通事故の“被害”・自然災害・無差別犯罪といった非日常的事件から、迷惑な客との遭遇、合わない同僚、あるいは「満員電車の中で近くの人が臭う」といった日常の些細なことまで…。最も多様で、最も降りかかることの多い不運(不幸)といえるでしょう。普通の人間であれば回避できないようなことであり、純粋に不運(運が悪い)という他ないものです。
〇自分の能力から生まれた不運 / 自身の能力(身体能力や知識)は、不運を回避したり和らげたりする力ともいえ、各種類の不運に付属するようなかたちになります。一般常識を知らなかったり日々の不摂生が回避行動に影響した場合、自身の責任とされることがあります。また、この不運が自身の責任とされるかは、年齢によっても変わってきます。例えば、小さな子供が台風の日に川の近くで遊んでいて流される事件などは(※小さな子供にとっては)責任のない不運にあたります。しかし、大人が同じことをすれば、おそらく批判もあるでしょう。一般常識として、大人であれば知っているべき(想定すべき)ことだからです。責任の度合いは年齢が進むにつれて上がっていき、高齢者になるとともに徐々に下がっていきます。

悪いことが続く時期とは頑張っているのに上手くいかない、邪魔や障害がある、トラブルが続くというような時期のことです。その原因の多くは不可抗力によるもので、自分ではどうすることもできない場合もあります。この悪いことが続く時期は、実は人生の中では大事な時期なのです。私たちの人生は良い流れのときと悪い流れのときが繰り返し起こります。悪い流れのときに得た経験、苦労、努力が良い流れに変わったときに報われてくるのです。いわば修行期間のようなものといえるかもしれません。なので人生で不運の時期をどう過ごすかによって幸運の訪れが早くなったり遅くなったりします。悪いことが続く時期も上手な過ごし方を知っていれば、知らずにもがいているときよりも楽になります。乗り越え方を実践して、少しでも生きやすくしてみてください。
〇考え方を変える / 悪いことが続く時期を乗り越える方法の1つ目は、考え方を変えるということです。苦しいときはネガティブ思考になりがちですよね。未来に希望なんて無いと思ってしまったり、何故こんな状況に?と悩みが頭の中をぐるぐるしてしまうもの。この世には引き寄せの法則があるため、辛いときに後ろ向きになっているとその状態が続きやすくなってしまいます。なるべくポジティブ思考を維持すると不思議と助けが得られたりします。そうはいっても悩んでいると答えを見つけたくなりますよね。しかし答えが出ず、余計後ろ向きになってしまう。このようなときの答えは「なんとかなる」です。未来はこれから作るものですから、はっきりした答えは出なくて問題ないのです。
〇新しいことを始める / 2つ目の悪いことが続く時期を乗り越える方法は、新しいことを始めることです。流れを変えるには今までやってなかったことに挑戦するのが効果的。いつもと違う道を通ってみる、イメージチェンジする、入ったことのないお店に行くなど、何かを変えてみるといいでしょう。その変化が次第に大きくなり前向きな気持ちや行動ができるようになっていきます。ストレス解消にもなりますね。家でできることでも構いませんよ。興味があることにはどんどんトライしてみましょう。
〇悩みを相談する / 3つ目の悪いことが続く時期を乗り越える方法は、悩みを相談することです。あれもこれもどうしようと悩んでいるようなときは的確な答えを出せず堂々巡りをしがちです。また、わかっているけど決断できないこともあるでしょう。不安などの精神的なストレスも溜まっていきます。このようなケースのときは信頼の置ける相手に相談してみるのがおすすめです。話を聞いてもらうだけでも心が楽になるはず。話を聞いてもらい背中を押してもらったりすれば、不安が減る場合もあります。誰に相談していいかわからないときは、紙に悩みや不満、不安などを書いてみるのもいいですよ。書いたあとは捨ててしまうとすっきりもします。ごちゃごちゃになっている思考の整理ができるでしょう。
〇好きなことをする / 悪いことが続くときを乗り越える方法4つ目は、好きなことをするということです。こんなときに、と思うかもしれませんが、思いきって好きなことに没頭するような時間を持つと気持ちがリフレッシュします。今まで頑張って過ごしてきたのですから、のんびりしてもバチは当たりませんよ。悩みを一旦忘れて楽しい時間を過ごすうちに解決の糸口に気づけるかもしれません。最近時間がなくてできなかったことなど、ぜひ素敵な時間を満喫してみましょう。
〇受け入れてみる / 5つ目の悪いことが続くときの乗り越え方は、受け入れてみることです。どんなに辛くて逃げたい現実でも時間は止まりません。ただ悩んでいるだけではその苦しい時間が長引くだけです。理想があっても、今できることから動き始めると次第に悪いことは終わりを迎えます。この行動する癖がつくと再び同じように悩んでも以前よりも早く動きだせるようになります。毎日の仕事や日課、なんでも構いません。今自分がしなければならないことを少しずつしていきましょう。悩むのは動きながらでもできますからね。また、いきなり大きすぎる目標を立てるのはこの時期は避けたほうがいいでしょう。できなかったときに苦しくなってしまいます。最低限のことから行動して毎日をつくっていきましょう。 
 
 
 
 

 

助けて下さい
何もしたくない 引きこもり ニート オタク 無気力
究極の甘え
●無気力
「最近、なんだかやる気がでない」「疲れる」「からだがだるい」…俗にいう「無気力」な状態ですが、「神経伝達物質」は、そんな状態から抜け出すヒントになるかもしれません。
無気力の原因
私たちの脳内には、アドレナリンやドーパミン、セロトニンといった物質が分泌されています。これら「神経伝達物質」は、人の感情や行動を左右し、さらに自律神経にも大きく影響を与えています。過度なストレスや疲労、自分にとって好ましくない環境が続くと神経伝達物質のバランスが乱れ、さまざまな精神・身体症状を引き起こします。
無気力になった時の解消法
無気力なときに行動を起こすのは難しいもの。次の3つのポイントを意識しつつ、できることから初めてみましょう。
〇睡眠 / 良質な睡眠を得ることで、しっかりと疲れを取りましょう。日中に受けたダメージを修復するホルモンが分泌されるのは22時頃からといわれています。その時間には布団に入っていることが望ましいです。夜に眠れなくならないよう昼寝をするときは短時間を基本とし、夕方には寝ないようにしましょう。
〇栄養 / お腹が空いていたり、栄養バランスが崩れたりすると「イライラ」しやすく、必要な栄養が臓器にいかず病気にも弱くなります。健康な体は、栄養バランスのとれた食事から作られています。暴飲暴食や偏食はやめて色々な食材をまんべんなく食べ、抵抗力をつけましょう。
〇生活習慣 / 生活のリズムを整えることは、多くの病気の予防・治療にも重要です。1.毎日決まった時間に寝起きする 2.朝起きたら、鏡を見て顔を洗い、歯磨きして、洋服に着替える 3.食事は少量でも、三食だいたい決まった時間に摂る 4.便意が無くても、毎朝便座に座る 5.一日一回は外に出て少し歩いてみる 6.特に午前中に日に当たるようにする。最初は抵抗があって、無意味な感じがするかもしれませんが、生活習慣として取り入れましょう。
〇無気力症候群 / 無気力症候群には、例えば受験生が合格したあと目標がなくなり、喪失感とともに陥るもの(スチューデント・アパシー)があります。児童の不登校や社会人の出勤困難なども、同様の病理と考えられています。また、一生懸命頑張ったにもかかわらず、期待した結果を得られなかったあとに陥る「燃え尽き症候群(バーンアウト)」でも、無気力を生じます。さらに、モラトリアムと呼ばれる、人格の成長過程で、目標を見失い、アイデンティティが確立できていない時期にも、無気力になりやすいです。これらの状態は、一概に病気とは言えませんが、うつ病への移行もあり、注意が必要です。
〇病気で起こる「無気力」とは? / 「無気力」は病気の症状としてあらわれることもあり、こんなときは要注意です。うつ病 [精神的・身体的ストレスが原因で、脳に機能障害が起き、脳がうまく働いていない状態です。普段は乗り越えられるようなストレスでも、とても辛く感じてしまったり、ものの見方がネガティブになり、自分は「ダメな人間なんだ」と感じたりします。「眠れない」「起きられない」「だるい」「何をしても楽しくない」「気分が乗らない、落ち込んでいる」などが続いている場合には、うつ病の可能性があります。] 認知症 [認知症とは、いったん正常に発達し獲得した知能や精神機能が、減退消失していき、日常生活に支障をきたしている状態です。初期の認知症では、「何をやってもうまくいかない」「考えても思い出せない」といった症状から、自分の失敗や失態に対し気が滅入り、やる気を失った無気力状態になってしまうことがあります。] 甲状腺機能低下症 [甲状腺機能低下症とは、甲状腺ホルモンの分泌が減少する病気です。これにより、食事をエネルギーに変えるスピードが遅くなることで、「だるい」「寒い」「眠い」「食欲不振」などの症状を引き起こします。主に、ホルモン剤の投与により治療します。] 更年期障害 [更年期障害とは、性ホルモンの分泌量減少が原因で起こる、さまざまな体調の変化や情緒の不安定な状態のことです。男女ともに起こり、初期に、「何となくだるい」「寝付けない」などの症状を感じることがあります。女性の場合は50歳前後(閉経の前後)、男性の場合は50〜60歳頃に発症する方が多いですが、女性に比べて発症年齢に個人差が大きい傾向があります。男性では睾丸ホルモン(テストステロン)の分泌が減少し、自律神経失調症と同様の症状が現われます。一方、女性は閉経により卵巣ホルモン(エストロゲン)が急激に減少することで、のぼせ・異常な汗・めまい・イライラ・不安感・不眠・無気力感などの症状が出ます。] 慢性疲労症候群 [原因不明の強い疲労感が長期間続く病気であり、微熱、痛み、リンパ節の腫れなどを伴い、自律神経症状や無気力などの精神症状も生じます。重症化すると、日常の生活にも著しい制限を受けることがあります。]。

誰でも一度くらいは、「やる気が起きない」「だるい」「疲れる」と感じたことがあるのではないでしょうか。休んでもなかなか抜けない疲労感や、長く無気力な状態が続くようであれば、体の悲鳴であると受け止め、一度医療機関を受診することをおすすめします。 
 
 
 
 

 

チャレンジ
美人の条件 勘違い スリム スマート スマイル 
化粧に走る
●美人の特徴と条件
本当の美人とはどんな女性のことを指すのか、美人なら必ず持っている特徴、美人といわれる条件を15個あげてみました。特に顔立ちにフォーカスした美人の見た目に関することや、美人に共通する行動特性、どんな性格なら美人の条件に当てはまるのか見ていきましょう。
美人の「顔」の条件 .
誰もがパッと見て美人だと思う顔の条件をあげてみます。肌や顔の輪郭、顔の各パーツや配置バランス、笑うとチラリと見える歯まで、顔に関する美人条件を解説していきます。美人顔の条件に欠かせない黄金比率についても知っておきましょう。
1. 色白で肌で透明感のある肌も持っている
いくら顔立ちが綺麗でも肌がボロボロだったら、まず美人とはいわれません。肌トラブルがなく、肌のトーンが整っていることが条件です。毛穴が目立たず、きめ細かい透明感のある肌で、血色のある頬をしていること。それに加えて『肌の白いは七難隠す』ではありませんが、色白だとなお良いです。顔立ちがどうかという前に、肌の綺麗さがまずは美人の最低条件になります。
2. 切れ長で眼力のある目or幅が広めのくっきり二重をしている
美人の条件として目力のある目があげられます。目力=目が大きくて存在感があることですが、切れ長で整っている目の形も重要なポイントです。最近は幅が広めのくっきり二重で、メイク映えする目を持っているのが美人のイメージとして定着しています。目の形だけでなく、瞳の輝きや白目が綺麗なことも美人の条件です。充血した目を白くする眼薬を常備して常に透明感ある目を演出している人はもいます。
3. 顔の輪郭はどんな髪型にも似合う「卵型」
現代の日本では、卵型の顔が良いと一般的にいわれています。欧米ではあごや頬の骨がしっかりしているのが健康的でセクシーだと好まれますが、日本人は彫りが浅く顔の骨が出ていると目立ちやすく、スッとした顔立ちが美人顔として認定されやすいです。卵型の輪郭であれば、前髪を下ろしても上げてもバランスがよく、どんな髪型も似合います。卵型は横顔もすっきり見えて誰もに好かれる顔の形です。
4. 鼻から顎にかけてのEラインが綺麗
「Eライン」とは「エステティックライン」ともいい、顔を横から見て、鼻とあごのそれぞれの先端を結んだラインのこと。口元が前に出ていないか、つまり出っ歯でないかを判断するための基準です。出っ歯では横顔が美しく見えません。理想的な美人顔は、くちびるがEライン上になく内側にある女性です。これは高い鼻としっかり発達したあごのある顔立ちの成人女性を意味するのですが、日本人の場合は顔が薄いので成人になってもEラインの基準を満たさない人もいます。
5. 程良い厚さで、潤いのある唇
唇は女性の顔の中で目の次に目立つパーツ。薄い唇はちょっと寂しい印象を受けるため、程良い厚みがあるのが美人の条件です。肌の項目でも紹介したように、いくら綺麗でも汚くてはNG。潤いがあってくすみや色むらがなく健康的な唇なのが前提です。その時々によって流行の唇の形や質感がありますが、現在ツヤ感の高いリップは下火に。時代を問わず厚めの唇は情熱的なイメージになります。
6. 鼻筋が綺麗に通っている
美人の顔を見てパッと目に付くのは目や唇ですが、顔の中央にある鼻の印象によっても美人かどうかが判断されています。鼻筋が綺麗に通っているのも美人顔の必須条件。ちょっと曲がっていると顔がゆがんで見えてあまり良い印象をもたれません。鼻筋がある程度あるのも重要で、日本人に多い小さめな低い鼻ではなく、高い鼻の女性のほうが鼻筋がビシッと通り顔が綺麗に見えます。
7. 顔全体のバランスが整っている
どんなに美人顔の理想的なパーツを揃えても、全部合わせた全体的なバランスがよくなければ、人は美人とは思ってくれません。人には個性があるから、顔の各パーツの大きさが多少バラけていることもあります。どれか一つでも大きすぎたり小さすぎたりすると、パッと見た印象が悪くなって美人とは程遠い存在に。過ぎたるは及ばざるがごとしで、コンプレックスを隠すあまり、顔のパーツを過剰に大きく見せたり強調したりすると逆効果です。美人顔の代表的な黄金比率として、おでこからあご先まで顔を3分割した1:1:1の比率が理想とされています。詳しくは、おでこの上から眉頭まで、眉頭から鼻の下まで、鼻の下からあごの先までが均等になっていることです。女性なら知っている人も多いかもしれませんが、小鼻から黒目の外側を結ぶ線の延長線上に眉山があるのも眉メイクの理想形。黄金比率に近づくようにメイクすれば、綺麗な人と認識されやすくなります。
8. 歯並びが良く、歯が白い
Eラインの項目でも紹介しましたが、歯並びがきちんとしているのも美人の条件です。日本では八重歯は愛嬌があってかわいいといわれるけれど、八重歯はあごの未形成や乳歯がうまく外れないなどのトラブルで生じたりするので、バランスを尊ぶ美人顔とはちょっとかけ離れてしまいます。歯が白くて清潔感があるのも美人の条件です。コーヒー、紅茶などの習慣や加齢などで歯に色がつくことがありますが、丁寧にお手入れをして白さを保ちましょう。
美人に共通する行動や性格
美人かどうかは顔だけでなく、その人が全体的にどんな人かによって判断されるのが普通です。全身がどんな装いなのか、態度や雰囲気、考え方、行動パターンなど、美人に共通して見られる各種の条件を紹介しましょう。
1. 清潔感のあるメイクやファッションをする
顔が美人の条件にぴったりあっていても、モード感たっぷりのエッジのあるメイクや厚塗りのベースメイクは浮世離れしていて清潔感が感じられません。具体的には、パーツメイクが肌とかけ離れたダークな色味だったり、マットすぎて素肌の色を全く感じないベースメイクです。顔だけでなく、髪や爪先まで気を配って整えていることも大事になります。サイズがきちんと合ったシワのない服を着ているか、履く靴はきちんとお手入れされているかもポイント。全身がトータルで美しいのが美人の条件です。
2. ふんわりといい匂いがする
パッと見てわかる美しさの他、匂いからでも美しさが感じられる女性が美人といえます。特に男性は綺麗な女性のいい匂いに弱いです。清潔感のある見た目だと、きちんと全身を綺麗にしているから悪いニオイはしませんが、それだけでは美人といわれるほどの一段上の評価は与えられません。あからさまな強い香りではなく、ふんわりと柔らかく香る匂いであれば、誰も不快にさせず、その場を立ち去ってもいい印象だけが残ります。
3. 上品な雰囲気があり、落ち着いている
堂々として品があり落ち着いているというのも美人の条件です。どんなに見た目が綺麗でも自信がなさそうにいると、貧相な印象でいい感じを受けません。上品な女性は社会性や常識をわきまえている感じがして、誰からも好印象を持たれます。常に落ち着きのある態度でいるのも重要。クールなのではなく、表情は豊かで魅力的なのですが、ちょっとしたこと慌てないのです。何事も人頼みで騒いだりせず、冷静によく考えて解決するというのが評価されるポイント。
4. いつも姿勢が整っている
姿勢がよくて堂々としていると、たたずまいも歩き方も素敵で美しく見えます。姿勢が良ければ何をするにも動作や仕草が丁寧に見えてくるため、他人に好印象を与え美人と思わせるのです。姿勢がよければ、身体がゆがんだりしにくいから身体のラインも綺麗に見えます。姿勢が悪くと他人に悪い印象を与えます。下を向くので暗く見え、だらりとして元気がなく自信なさげにも見えます。姿勢が悪いと自分にも他人にも悪影響を及ぼしてしまうのです。
5. 誰とでも別け隔てなく、平等に接する
他人に対して誠実に分け隔てなく対応し、かつ気づかいができる女性が美人といえるでしょう。美人は他人と調和をとりつつ、誰ともうまく接します。美人はとにかく人に悪い印象を与えません。『八方美人』とはまた違います。八方美人は人当たりがよくて他人との円滑な関係を築きますが自分が損をしたくないから、他人に嫌われないように立ち回るのです。本当の美人は八方美人のようなあざとさはありません。
6. いつも笑顔で、前向きな考え方をする
前向き思考で何事にも全力で取り組んでいる姿は美しく見えます。前向きな性格だからウジウジせずにすぐに行動を起こせて、何をするにも人より先を行っていることもあります。多少のことがあっても常に明るくて笑顔で感じが良いから、周囲に人が多いのも美人の特徴です。仕事でもプライベートでも本気で取り組むから、仕事でも恋愛でも成果を得やすく、それが美人の評価につながっています。
7. 向上心があり、好奇心旺盛
美人はポジティブで何事にも積極的に取り組み、恋愛でも仕事でも成果を上げて評価されても、それに満足せず、さらに上を目指そうとする向上心にあふれています。向上心が高くて、何事にも積極的だから好奇心も旺盛でとてもアクティブ。外見的に美しくあるべく磨きをかけるのはもちろん、内面的な教養や気づかいなどのマナーを身につけたり、ある分野が突出せずバランスよく優れているのが美人といえます。
「美人」になる方法
美人の条件となる外見、共通してみられる行動や性格などの美人の特徴がわかったところで、美人になるための10個の方法をここで紹介しましょう。全て実行するのは大変で時間もかかりますが、少しずつでも努力すれば美人に近づけるはず。ぜひ頑張ってみてください。
1. 自分に似合うファッションやメイクを研究する .
美人に該当する外見的な条件はある程度決まっていますが、それに近づけるようファッションやメイクを工夫することで綺麗さがアップしていきます。美人が持つ理想的な体型や顔になれるよう、細見えしてバランスがよく見えるファッションや、美人顔の黄金比率に寄せたメイクを研究することで美人への道も開けてきます。完全無欠のパーフェクトなルックスを持つ人は非常にまれです。美人といわれる人のほとんどは、努力や工夫、研究により綺麗になれるのです。
2. 規則正しい生活習慣を送り、肌のコンディションを整える .
どんなにルックスが完璧な女性でも、元気がなかったり不健康だと美人とはいわれません。肌は健康を表すバロメーターでもあります。いくら自分が綺麗に見えるファッションやメイクを研究しても、肌がカサついていたり血色が悪そうだと意味がありません。肌は正直だから、ちょっとした不摂生でも調子を崩したり化粧ノリも悪くなったります。健康的な肌になるには規則正しい生活を送って、バランスの良い食事を取り、常に肌のコンディションを整えましょう。
3. 歯列矯正をして歯並びを治す .
美人の定義のひとつに、鼻からあごにかけての「Eライン」が綺麗なことがあげられます。出っ歯や八重歯など、美しいEラインの形成を邪魔する歯並びの悪さを矯正することで、自分の横顔を綺麗に見せられるようになるのです。歯列矯正に限らず、意識して歯のお手入れをすると口臭や虫歯を予防できますし、健康な歯や口は健康的な身体づくりのベースとなります。笑顔もより魅力的になることでしょう。
4. 運動を定期的に行い、健康的な体を作る .
定期的に運動することで、健康的な筋力や骨の形成や内蔵機能を育み、ひいては健康的でしなやかな女性らしい体型を作れます。一瞬目を見張るような活発美しい顔立ちの女性であっても、体型がイマイチで鈍い感じがしては人に好ましいと思ってもらえません。ジムのエクササイズや、ジョギング、ヨガなどある程度の負荷のある運動をして、健康的な引きしまった身体つきとしなやかな動きを手に入れましょう。
5. 正しい座り方・歩き方を意識する .
健康的な筋力や骨といった美人の身体のベースを作れたら、次に美しい動作を意識すると良いでしょう。運動をしてどんなに均整の取れた身体を作っても、日常で普段座っている姿勢や歩き方がよくないと悪いクセがついたり身体がゆがむ原因になります。パッと見は綺麗に見えても、他人は微妙な身体のゆがみやバランスの悪さを察知し、なんとなく違和感を感じます。普段の歩き方や姿勢を綺麗にすることを意識して、いわばトレーニングにしてし前ば健康も美しさも手に入るのです。
6. 自然体で無駄な見栄をはらない .
美人だといわれる女性が堂々としてして落ち着いているのは、自信があって自分の中に揺るがない価値観を持っているから。周囲に振り回されたり、人と比べて一喜一憂したり、無駄な見栄を張って人に誇示することもありません。他人への気づかいや協調性は持っていますが、一時の流行やその場の雰囲気に流されずに自分が信じることを貫く、一人の女性として自立しているのも美人の特徴です。
7. 美容室に通い、髪のケアを怠らない .
髪がとても綺麗な女性は非常に目を引き、思わず振り返ってしまう男性もいるほど。『髪は女の命』というように、髪の毛は女性の美しさを表す象徴的なパーツです。枝毛や切れ毛のない、健康的でツヤツヤな髪は女性の美しさを引き立てます。髪の毛は長い時間をかけて伸びるから、普段からのお手入れがものをいいます。自己ケアだけでなく、美容室でヘッドスパで頭皮の血流を良くしたり、自分に合うヘアケア情報を仕入れてケアを怠りなくしていきましょう。
8. 恋も仕事も遊びも一生懸命取り組む .
『美人は運が良い』ともよく聞きませんか。多くの人から好かれるし、恋愛でも仕事でも成功をおさめるからうらやましいと思う人もいるでしょう。美人といわれる人は全員が始めから美人だったわけではなく、努力して綺麗さを手に入れた人がほとんど。プライベートでも仕事でも、何事も一生懸命に取り組んできた成果が『運の良さ』として表れ、人から綺麗と評価されるようになったのです。恋も仕事も遊びも楽しんで、周りから好かれる女性になりましょう。
9. 春夏だけでなく秋冬も徹底したムダ毛の処理を行う .
美人は見えないからと綺麗でいる努力を怠りません。薄着になる春夏はムダ毛のお手入れをする女性が多いですが、寒くなる季節になるとムダ毛の処理をやめてしまっていませんか。美人はふんわりした雰囲気でできるのでなく、たゆまぬ努力できています。自然の花々と違い、美人の美しさは季節限定ではありません。足先・つま先など細部にも意識を行き届かせており、見えないからとムダ毛の処理をサボったりはしないのです。
10. ボディークリームや柔軟剤を活用して、身に纏う香りに気を使う .
ふんわりといい香りをさせるには、香水やオードトワレを使わなくてもいいのです。香りが苦手ならいい香りのボディークリームを塗ったり、自分が好きな柔軟剤の香りを纏うのでも構いません。どんな場でも浮かないほんのりとした香りなら、纏った人の印象を一段と良くしてくれます。清潔感のあるいい香りはアロマ効果で人はもちろん自分の気分も良くなります。香るサプリメントなら健やかさとアロマのリラックス効果を同時に得られて一挙両得です。 
●男が思う美人の条件
美人の条件って、何かわかる? そもそも、美人と言われる人には……条件ってあるのでしょうか? 美人に条件があるとしたら……自分はその条件を満たしているかどうか、気になるところですよね?女性ならきっと、一度は美人に憧れたことがあるはず!美人にも色んな美人がいますね。顔が端正な美人、立ち振る舞いがきれいな美人、女性として美に対する意識の高い美人、性格美人と言われる美人……などなど。美人と言われる人にも様々なジャンルの美人がいます。では、男性が思う美人の条件ってどんな条件があるのでしょうか?もちろん美人が嫌いな男性は……いませんよね? 美人に一歩でも近づくことができらたら……そう思わない女性はいないはず! 美人の条件、知りたくありませんか?美人の条件って⁉ 男性が美人だと思う女性の条件と理由、これについて筆者の雪野にこがお話したいと思います。
美人ってどんな女性?
美人の条件に入る前に、美人と言われる女性ってどんな女性? ココからお話したいと思います。美人と一言に言っても、それは見る人によって大きく変わってくるんです。つまり、美人にも人それぞれの『価値観』というものがあるということ。でも、一般的に美人とは、顔やスタイルが整った女性のこと。もちろん、人によって美人の条件だけでなく好みもあります。でも、美人のマネをしたからといって、美人になれるとも限りません。美人と言われる人は、自分らしさを大事にする人。似合うスタイルや色など、熱心に研究しているんです。だから……実は、誰でも美人になれる条件は備わっているんです!あなたの目指す美人はどんな美人ですか? まずはそのイメージをしっかりと持ってみましょう♪ 
鼻すじがスッとしたきれいな横顔
美人と言われる人の条件、具体的にお話しますね。美人と言われる人の条件として挙げられるのは、まず顔立ち。横顔がきれいなことって、美人の条件としては大きなポイントになるんです!なぜ、横顔美人は美人の条件? そう思われる人もいるかもしれませんが、それは整形美人を思い浮かべてください。整形美人は、真正面の顔、これが美人になるように作られた顔なんです。だから天然の本当の美人、それは横顔に現れるんです! 整形美人の横顔にどこか違和感を感じるのはこのせいですね。整形していなくとも、正面から見るとそんなに美人と思わない人でも、横顔がキレイな女性にドキっとした経験のある男性って非常に多いんです! 横顔美人は、美人の条件として外せない条件という訳ですね。
手入れの行き届いたキレイな白い肌
美人と言われる人の条件、その2つ目に挙げる条件は透明感のある白くてきれいな肌。男性が思う美人の条件の中でも、“肌がキレイ”という条件は外せない美人の条件のようです!男性って、女性のお肌を意外にもよ〜く見ています。いくら他の部分がキレイで美人のように見えても、肌がキレイという条件を満たしていない女性は美人には思われません。見た目だけではなく、触れてみて、もちもちすべすべなお肌であればなおGOOD!素肌美人は、美人の条件として譲れない! そう男性は思っているんです。でもこの美人の条件であれば、そんな女性でもクリアできる美人の条件と言えるのではないでしょうか? 日頃からのスキンケア、しっかりとして美人条件をクリアしちゃいましょう♪
整ったキレイな姿勢
美人と言われる人の条件、3つ目に挙げる条件はキレイな姿勢です! 座っていても立っていても姿勢がキレイで凛としている女性は美人なんです! 美人な人に、猫背な人って見たことありますか? これは常に人から見られていることを意識しているという、美意識の高さ所以の美人の条件ではないでしょうか? 背筋がピンとして堂々としている姿、これは美人の特徴とも言えますね。でもこの美人の条件も、意識次第では条件をクリアすることが可能な美人の条件です! 猫背になりがちな人、いませんか? 頭の上からひもでピンと引っ張られているような、そんなイメージをしてみてください。そして内側に入り気味の肩甲骨、これをグッと下げるイメージて胸を張るんです! それを意識するだけで、見え方が全然変わってきちゃいますよ♪ 美人は一日にしてならずです。美人の条件を一つずつ、自分のペースでいいのでクリアしていけると、目指す美人像に近づけるはず!
笑顔を絶やさない
美人と言われる人の条件、これは最も大事な条件ではないでしょうか? でも待って? 美人と言われると、笑わないなんてイメージ持っていませんか? それは本当の美人ではないんです。見た目の美しさにあぐらを搔いている美人もどきです。美人と言われる人は笑顔を忘れることはありません。周りをパッと明るくさせる笑顔の持ち主なんです!女性の笑顔って、一番輝いている表情ですよね? そして感情を上手に表現できる人の方が圧倒的に人に好かれます! 見た目だけの美人もどきの感情表現に乏しい人は、どこかとっつきにくささえ感じてしまいます。なので美人だとは思われません。この美人の条件、これも習得可能な美人の条件です! 美人に見える笑顔、それは口角を上げるようにして微笑む笑顔です。確かに大口を開けて笑う人も可愛らしく見えますが……美人の条件としての笑顔は、“口元と優しい目元”これで表現された笑顔と言えるでしょう。 
 
 
 
 

 

チャレンジ
男の条件 勘違い 
中身忘れ外見に走る イケメン ヤンチャ
●美男子の条件
顔立ちが良いという事
美男子の条件で外せないのは、顔立ちが良いという事でしょう。服装などに気を配っていて、その為にかっこいいと言われる事は、雰囲気イケメンと言われるなど、美男子でなくてもありますが、やはり美男子と呼ばれるには、顔だちが良い、つまりハンサムだという事が絶対条件といえるでしょう。顔立ちが良いという事は、好みに左右されず、どのような人から見ても好きか嫌いかは別として、顔立ちがいいと感じる顔でなければいけません。鼻すじが通っていたり、目がパッチリしていて二重だったりという、誰から見ても顔立ちがいいという条件を兼ね添えている人いうのが、美男子と言えるのです。美男子の条件として、顔だちがいいという事は、とても大切な事になるのでしょう。
体型がいいという事
美男子の条件として、体型がいいという事もあげられます。いくら顔立ちが良い男性でも、お腹が出ていたり体系があまりにも崩れすぎていたら、美男子とは呼べないでしょう。ある程度引き締まった体でないと、ハンサムな顔立ちとも合いません。また、手や足が長いというのも大切なポイントです。体型の全体的なバランスが取れているという事が、美男子の条件なのです。
そこそこ背が高いという事
もう一つの美男子の条件は、ある程度は背が高いという事です。背が高いとスラリとしてみえますし、ハンサムな顔立ちとも合うでしょう。背が低くてずんぐりむっくりという体だと、顔はいいのだけれど、美男子と呼ぶのには無理があります。背が高いというだけで、ある程度は魅力的に見えるのですが、背は本人の努力で伸びるわけではありません。しかし、体系が細身だったりすると、実際の背丈以上に高くみえるので、背が高くない人は、細身の方がハンサム度が増すといえます。
素敵な笑顔の人
鼻が高く、鼻筋がスッと通っている人は、パッと見たときに美男子に見えます。鼻は顔の真ん中にありますので、一番引き立つ場所で、最初に顔を見たとき鼻が高い人はそこに目が行くことが多々あるものです。そして、キリッとした切れ長の目も凛々しく感じます。現代の男性は眉毛を剃ってしまい、ない人もいますが、適度に処理をし、形を整え、眉毛がしっかりある人のほうが男性的だと感じる女性がたくさんいるものです。キリッとしている人も美男子ですが、逆に表情が柔らかい人も優しそうに見えたり違うタイプの美男子です。顔立ちが整っていて、更に笑顔の男性は素敵です。笑わない美男子は冷たく見えてしまうものです。笑顔が溢れている人は他人を惹きつけるものを持っているものなのです。
適度な肌色でスタイルが良い
顔が整っていて、更にスタイルが良いと非の打ち所がないぐらい、美形に見えたり美男子だと周囲に扱われます。背が高くなくても、柔らかな表情の美男子でもカッコ良くみえますし、背が高いキリッとした美男子だと、モデルさんみたいに思われます。痩せ過ぎでもなく、太り過ぎでもなく、程良い肉付きで筋肉がある人は魅力的です。そして肌の色も血色が良いと、健康的に見えてより一層美男子の魅力が増します。
美男子の条件は見た目と同時に心も重要
性格が悪い人は必ず顔や態度にでます。かっこ良いからと周囲にチヤホヤされて、美男子だからって自惚れて他人に偉そうな態度をとったり、人の悪口を言って、人に優しくない男性は本当の美男子だとは言えませんよね。心が綺麗な美男子は、周囲にも優しく振る舞い、自分を着飾らない常に自然体な人という印象を与え、魅力を感じさせるものなのです。美男子だと女の人に好意を持たれることが多いものですが、そんな中でも軽い気持ちで誰とでも付き合うのではなく、真剣に付き合う美男子は惹かれる部分があります。人は顔!と言いますが、いくら非の打ち所がない美男子でも性格が真っ黒だと魅力が下がります。こういう人をみると本当に勿体ないと感じるのではないでしょうか。顔も良く、中身も素敵な男性が本当の意味での美男子だといえるでしょう。
清潔感がある身だしなみ
元々顔が整っていたとしても、清潔感がなければ台無しです。いくらかっこいい人だって、ボサボサの頭に髭を生やしっぱなしでは好かれないでしょう。中にはそういうタイプが好きだという人もいますが、ほとんどの女性は清潔感がある男性に惹かれます。女性は汚いものを嫌う傾向があるので、身だしなみに気を遣っている男性の方がモテるのですね。清潔感がある男性なら一緒に過ごしてもストレスになりませんし、友人にも紹介しやすいので交際しやすいでしょう。それに、イケメンの条件として考えると顔のつくりよりも重要ですね。顔がそれほど整っていなくても清潔感がある男性なら、女性にとってイケメンに見えることもあるのです。美男子の条件は顔だけではありません。女性が近付きたいと思うか、素敵だと思うかどうかで美男子か否か決まるのです。
ファッションセンスがある
ファッションに気を遣っていない男性は多くいますが、それではいくら顔がよくても意味がありません。顔はイケメンなのに履いているのがジャージやサンダルではなかなか注目されないでしょう。本人は好んで着ているのでしょうが、普通の女性からしてみれば残念な服装なのです。だらしのない服装だと、陰で笑われてしまうでしょう。また、奇抜なファッションを好む男性もいますが、インパクトはあるものの女性が惹かれるかといったらそうではありません。奇抜な服装より、本人に似合っていて素敵だと思える服装が好かれやすいでしょう。女性は、ダサくはないきちんとした服装の男性が好きなのです。変な服を着ていたらせっかくの美男子でも服以外に注目できず、美男子ということに気づかないでしょう。そのため女性はある程度のファッションセンスがある人を美男子だと思うのです。
笑った時は綺麗な歯が見える
歯並びが悪い人や、歯が汚い人は美男子ではありません。生まれつきで仕方のない場合もありますが、治療できるなら綺麗にしておくべきでしょう。歯医者には定期的に通って、虫歯は一本もない状態が望ましいですね。虫歯があると口臭が気になりますし、場所によっては口を開けた時に見えてしまいます。歯の黄ばみが気になるようなら、歯医者や自宅でホワイトニングをすることもできますね。現代は歯を綺麗に保つ方法がたくさんあるのです。笑った時に汚い歯が見えてしまうと、イケメンでだとしてもがっかりしてしまいます。歯のメンテナンスを怠っている人なのだという印象を抱きますね。しかし笑った時に歯が綺麗な人は、それだけで笑顔が素敵に見えます。見ていて気持ちの良い笑顔なので、顔のつくりも整っているように感じてしまうのです。
ほどよく筋肉がついている
だらしない体型の美男子はいません。食べすぎや飲みすぎで太ってしまった体では美男子とはいえません。美男子とはほどよく筋肉がついていて、女性が頼もしいと思える体をしているものです。その美しく素晴らしい体があってこその美男子なのです。女性は太っている人間に対して厳しいので、元の顔はいいのだろうけれど太ってしまっているような人でも美男子とは言いません。筋肉がない男性にも厳しく、男性なら少し筋肉があった方がいいという意見が大半でしょう。男らしさや肉体美を求めているのです。それゆえに、女性はほどよく筋肉がついた男性を美男子と認める傾向があるのです。顔はいいけれど細く頼りない体の男性より、顔は普通だけれど筋肉が目立つような男性に惹かれてしまうのです。美男子は顔だけではなく体の美しさまで求められるのです。
美男子の条件をおさえておく
いかがでしょうか。美男子の条件をご紹介しましたが、あなたの条件と一致するものはあったでしょうか。女性にとっては美男子であることには越したことがありませんが、それが全てというわけはありませんよね。もちろん外見も関係ありますが、それと同時に内面の良さを知ることで、その人に対して魅力を感じるものでしょう。しかし、男性は顔立ちが悪い、背が低いなど、1つの部分が欠けていると自信を失いがちです。このように男性と女性との間にちょっとしたズレが生じがちです。突然、美男子になるというのは難しいかもしれませんが、体型を整えたりする事で、美男子風になる事はできるので、ぜひトライしてみて下さい。また、もしあなたの仕事が上手くいっていなかったり、職場での悩みがあるのであれば「仕事ができない人の特徴とその対処法9つ」もあわせて読んでみましょう。きっと今までの悩みや問題が一瞬で解決できるキッカケをつかむことができるはずです。 
●イケメン 顔の特徴
「若い男性の顔かたちがすぐれていること。また、そのような男性」。なんとなくイメージできた人もいるかもしれませんが、結局“顔がすぐれている”とはどんな状態なのでしょう? イケメンの顔の構成要素について、さらに分析していきましょう。
〇1 顔全体のバランスが整っている 「整っていて際立った特徴がないほどバランスがいい」「左右対称。パーツが整っていて配置もバランスがいい」
〇2 顔立ちがはっきりとしている 「顔立ちのはっきりしている顔」「目鼻立ちがはっきりしている」
〇3 目の印象が強い 「目がくっきりとした二重」「目が細くなくてぱっちりしている」
〇4 鼻筋が通っている 「鼻筋が通っている。バランスがいい。小顔」「二重で鼻筋が通っている」
〇5 肌がきれい 「肌がとてもきれいで毛穴がない」「肌がきれいで整っている」
〇6 全体的にシュッとした印象 「顔がシュッとしていて目がかわいらしい感じ」「顔がシュッとしていて髪の毛もきちんと整えて目がキラキラしている人」
〇7 眉毛がきれいに整っている 「眉毛がきれいで整っている」「眉毛が整っている、笑うとかわいい」
アンケートから紐解くイケメンの顔を要約すると、顔のパーツが左右対称(バランス)、目の印象が強い、鼻が高い、きりっとした眉、肌がきれい。それぞれの好みもありますが、共通点としては「はっきりとして印象的な顔立ち」「パーツひとつひとつが整っている」などの傾向があるようです。また、パーツの配置や比率といった全体のバランスのよさも欠かせないことが見えてきました。
パーツ別・イケメンの顔の条件って?
〇1 イケメンの目は「二重」 84.2%の女性が「二重」をイケメンだと感じるようです。ぱっちりと大きく開いた二重の目は印象的。イケメンにはそんな「目力」が必須なのかも?
〇2 イケメンの唇は「薄い」 81.4%と圧倒的多数の女性が「薄い唇」を支持する結果に。もちろん厚くてセクシーな唇の男性もいますが、小栗旬さんや嵐の二宮和也さんなど、薄い唇がさわやかなイメージを与えるイケメンはたくさんいますよね。
〇3 イケメンの鼻は「小さい」 こちらは、68.4%の多数派が「小さい鼻」と答えました。大きくて存在感のある鼻よりも、すっと鼻筋が通った主張しすぎない鼻のほうが整って見えるのかもしれませんね。
〇4 イケメンに見えるほくろの位置は「目元」 ほくろの位置に関しては、多くの方が「目元」だと答えています。また、次いで多かったのは「口元」ですが、どちらもセクシーさを感じさせるほくろの位置ですよね。目元にほくろがあるイケメンといえば、佐藤健さんや福山雅治さんなど。ほくろがあるかないかでも、だいぶ顔のイメージは変わってくるはずです。
モテるイケメンの○○顔ランキング
「犬顔」「猿顔」「馬顔」など、人間の顔の特徴を動物に当てはめることがありますが、一体どの「○○顔」が一般的なイケメンのイメージに近いのでしょうか?ここでは、ランキング形式で女性意見をまとめてみました。
〇第1位 「犬顔男子」(59.6%) 第1位は犬顔男子。約6割の男性がこれを支持する無敵イケメンです。犬顔イケメンの代表格といえば、錦戸亮さんや向井理さん、千葉雄大さんなど。かわいらしい一面があり、人懐っこい印象の顔立ちは、多くの女性から好まれるようです。なんとなく明るいイメージがある犬顔タイプは、一緒にいて癒される存在。くしゃっとした笑顔を向けられたら、なんでも許してしまいそう!
〇第2位 「猫顔男子」(25.7%) 第3位に圧倒的差をつけてランクインしたのが猫顔男子。猫顔イケメンの代表格といえば、綾野剛さんや佐藤健さん、松田翔太さんなどが挙げられますよね。猫顔タイプのイケメンは、シャープでつりあがった目元が特徴。ぱっちり二重というよりは、一重や奥二重が多く、「塩顔イケメン」に分類されるような男性も猫顔だといえそうです。猫顔男子のどこか気だるげでツンデレっぽい雰囲気に、女心をくすぐられる女性も多いのではないでしょうか。
〇第3位 「馬顔男子」(7.6%) 馬顔イケメンの代表格といえば、玉木宏さんや長谷川博己さん、亀梨和也さんなど。面長で鼻が高く、スッキリとした顔立ちがで、イケメンの特徴にあった「シュッとした顔」のイメージに近いかもしれません。どこか聡明な印象を与え、共通して凛とした印象のあるイケメンです。
〇第4位 「猿顔男子」(7.1%) 猿顔イケメンの代表格といえば、香取慎吾さんや岡田准一さん、伊藤英明さんなど。猿顔男子はいつも元気で活発、にこにこ笑っているイメージが強く、女性の母性本能をくすぐるやんちゃな印象が魅力的。人懐っこくて愛きょうが感じられる、親しみやすい雰囲気が人気なのでしょう。顔の特徴としては、耳や目が大きい、丸顔など、それぞれのパーツがダイナミックで明るいイメージを与えるのがポイントです。
イケメンの定義は「整った顔」だけじゃない
ひと言でイケメンといっても、パーツや顔立ちで分けて見るとさまざまな特徴が。「整った顔」であることもイケメンの要素ではありますが、その人が持つ雰囲気や性格が顔立ちにも表れ、女性たちの心を掴むようです。あなたがイメージするイケメンと、一般女性がイメージするイケメンに共通点はありましたか? あなたが心からカッコいいと思える男性に会える日がいつか訪れますように。 
 
 
 
 

 

老化
早晩 皆にやってくる じじばば じじいばばあ
骨皮筋右衛門 石部金吉 小言幸兵衛 
●骨川筋右衛門
この言葉は、死語になりつつある。いや、殆ど死語かもしれない。
私の幼いころは、よく使った言葉だ。おいおい、あの男を見てよ!骨川筋右衛門じゃないかーーどこが、カッコいいんだろう。女の子、女子に、あまりに人気がある。だから〜うらやましい。妬(ねた)み、僻(ひが)み根性も有ったのかも!?
しかしおもしろい言葉だ。
テレビで見ても、そんな人を見るとよく使っていた。あああ〜〜っ、骨川筋右衛門だっ!!道を歩いていても、そんな人を見かけると小声で、あの人見てよ!骨川筋右衛門だ! ホントだホントだ、骨川筋右衛門だ。何も食べて無いのか??? 餓鬼のくせに、要らぬお世話をしていた。本当によく使っていた。
ある本で見るまでは、殆ど忘れてしまっていた。が、懐かしい言葉に出会った気がする。まあーー年代的なもの平成生まれの人には、聞き覚えもない言葉だろう。もしかしたら〜お祖父さんやお婆さんから、聞いた覚えがあるかも!?それとも両親から、あるかもしれない。しかし今では殆ど死語。だが、先人のユーモアのセンスがうかがえる、言葉の一つだろう。骨川筋右衛門、あなたは笑えませんか!?
(骨川筋右衛門)・・・とは?
身体が痩せて骨と皮ばかりに見える人を、形容した言葉です。骨と皮と筋を使って、あたかも人名のように組み立てたものだ。そう言えば、私の記事にもあります。同じような言葉、知らぬ顔の半兵衛。この言葉は、あなたも想像つくでしょう。気になれば、検索して見て下さい。ユーモアのある言葉と言うのは余裕、よゆうが無くては出て来ない。それにそんな言葉には、相手を明るくし・・・自分の心も、明るくする力がある。
そうそう、忘れる所でした〜骨川筋右衛門、あなたにも分かるでしょう。どう聞いても、男性名。だから一般的には、男にしか使わない。その辺りを勘違いしないで下さいネ!
〜言霊〜言葉には魂が宿ると言う。だからその人が何を言っているかで、魂が分かる。人の悪口を言う人。言い訳責任のがれを言う人。みんな自分で自分の首をしめている。否定的な言葉を使う人で・・・幸せな人生を送った人はいない。  
 
 
 
 

 

痩せる
美しいか? ダイエット 
貧相 ふけ顔 やつれ 青白い
●貧相
いかにも貧乏そうな人相。貧弱でみすぼらしく見えること。また、そのさま。「貧相な身なり」。貧乏の相。貧乏くさくみすぼらしい顔つきや風体、物事の様子。また、そのさま。貧乏そうな雰囲気が漂っているさまを指す語。痩せこけている、弱々しい、服がよれたりほつれたりしてみすぼらしい、といった様子を指して用いられる。米沢本沙石集(1283)二「彼の仏のうなじの貧相(ヒンサウ)に御坐(まします)を」。黄表紙・莫切自根金生木(1785)上「旦那のお顔も、このごろはひんそうにおなりなされた」。
貧相に見える理由
〇1.家族や親族に文句ばかり言う。
特に家族や親族への文句が多い。「また旦那が!」「また、旦那のお父さんが!」「また、子供が!」「また、あいつが!」そんな風に言っていると、荒んだ心で貧相に見えてしまいます。また、DVなどはお金が原因で起こることが多いです。収入が多くて、海外旅行や好きなだけ買い物、美味しいものを食べて、アウトドアを楽しんでいればDVや言葉の暴力が出ることはないはずです。まずは、文句を減らして感謝の言葉を言ってみましょう。
〇2.ニュースや政治について不満を言う。
ニュースや政治についての文句も良くありません。残念ながら、テレビを見ながら政治家について文句を言っても改善されないのです。掲示板やSNSに日本の政治について文句を書くのも貧相に見えてしまいます。もし不満があるのであれば、それを改善できるように自分の身分を劇的に向上させるしかありません。お金があったり、自分が政治家になれば、不満に対しての要求や改善ができるかもしれません。今まで何人ものお金持ちに出会ってきましたが、彼らは政治やニュースに対しての不満を殆ど持っていません。その代わりに、ゴルフや旅行や、投資、高級車、お買い物、ライフスタイルの向上に対して興味を持っていました。つまるところ自分が幸せであれば、ニュースや政治に不満はでにくいようです。
〇3.身なりが貧相。
例えば履いている靴が、古くて汚い何年も履きつぶした様なスニーカーで、ヨレヨレのスウェットを着ていたらどうでしょうか?それに、プリンになった茶色のボサボサヘアーでは貧相に見えてしまいます。普段から清潔にして、ユニクロでも十分なので、いつも綺麗な服を着ていれば裕福に見えます。それに、1で紹介したように文句を言わずに、ニコニコしていれば、いつの間にか収入が上がっているかもしれません。大事なことは、靴をいつでも綺麗にしておくことです。お洒落に気を使う人や、インテリジェンスな仕事をしている人は、足元を見てきます。履いている靴の種類によってその人の経済力が出るといっても過言ではありません。3千円のスニーカーでもOKなので、いつも足元は綺麗にしておきましょう。
〇4.お金の使い方が偏っている。
例えば日曜日のお昼に、お腹が減ってパートナーとマクドナルドで食事をします。ベーコンレタスバーガーとビッグマックのセットを頼むだけで1200円程度の金額になります。家でパスタを作ったとしたら、パンチェッタのペペロンチーノと米国産肩ロースステーキとアイスティーなど、といった感じで千円以下でお腹いっぱいの本格的な料理が出来てしまいます。初めに調味料を揃えるコストは掛かってしまいますが、一回揃えてしまえば、長く持つので日曜日のお昼は、本格パスタとステーキ、それとリーフから抽出した美味しいアイスティーといった感じでランチをすることもできるのです。マクドナルドが間違っている訳でありませんが、少ないコストでもお洒落で贅沢ができます。他にも、田舎に行くと「焼き肉食べ放題!2980円(税抜き)」などありますが、カップルで行くと2人分+ドリンクで7千円以上掛かってしまいます。一方で高級ホテル(シティホテル)のビュッフェディナーは平日3,500円(ドリンク込み)だったりします。なので同じ金額でも、使い方次第で色々な楽しみ方があります。あとは、お会計などでちょっとしたところでも、貧相に見えてしまう事があります。友達と食事に行った時は、1円単位で割り勘するのではなく、100円位だったら、キリの良い金額をこっちが多く出す。といった気持ちでいると良いです。ほんの100円で他人とのコミュニケーションがスムーズになるので有れば安いものです。
〇5.テレビで見た事ばかりを話す。
昨日の◯◯◯見た〜? ああ!あれいいよね。あの番組おもろいよな。 あの◯◯の✕✕キモかったね。などとテレビで見たことばかりを話していると、貧相に見えてしまう事があります。自分の実体験でなく、テレビやニュース、インターネットの情報だけを話しているのはあまり良くありません。スノボーやサッカーなど好きなスポーツ、最近行った旅行など自分の実体験を話せると良いです。裕福な人は、美術館展など芸術的な分野や、陶器や焼き物など、他には歴史的な話が好きでそういった話を友達とする事も多いです。
文例
・・・ 宮奴が仰天した、馬顔の、痩せた、貧相な中年もので、かねて吶であった。「従、従、従、従、従七位、七位様、何、何、何、何事!」 笏で、ぴしゃりと胸を打って、「退りおろうぞ。」 で、虫の死んだ蜘蛛の巣を、巫女の頭に翳したので・・・ 泉鏡花「茸の舞姫」
・・・ どうせ文楽の広告ビラだろうくらいに思い、懐手を出すのも面倒くさく、そのまま行き過ぎようとして、ひょいと顔を見ると、平べったい貧相な輪郭へもって来て、頬骨だけがいやに高く張り、ぎょろぎょろ目玉をひからせているところはざらに見受けられる顔・・・ 織田作之助「勧善懲悪」
・・・といって品物を減らすと店が貧相になるので、そうも行かず、巧く捌けないと焦りが出た。儲も多いが損も勘定にいれねばならず、果物屋も容易な商売ではないと、だんだん分った。 柳吉にそろそろ元気がなくなって来たので、蝶子はもう飽いたのかと心配・・・ 織田作之助「夫婦善哉」
・・・耳、鎗おとがいに硬そうな鬚疎らに生い、甚だ多き髪を茶筅とも無く粗末に異様に短く束ねて、町人風の身づくりはしたれど更に似合わしからず、脇差一本指したる体、何とも合点が行かず、痩せて居れども強そうに、今は貧相なれども前には人の上に立てるかとも思・・・ 幸田露伴「雪たたき」
・・・汚れた手拭で頬冠りをして、大人のような藍の細かい縞物の筒袖単衣の裙短なのの汚れかえっているのを着て、細い手脚の渋紙色なのを貧相にムキ出して、見すぼらしく蹲んでいるのであった。東京者ではない、田舎の此辺の、しかも余り宜い家でない家の児であると・・・ 幸田露伴「蘆声」
・・・あの人は、何かと気が弱く、それに、せんの女に捨てられたような工合らしく、そのゆえに、一層おどおどしている様子で、ずいぶん歯がゆいほど、すべてに自信がなく、痩せて小さく、お顔も貧相でございます。お仕事は、熱心にいたします。私が、はっと思ったこ・・・ 太宰治「皮膚と心」
・・・如何にも貧相に厚みも重みもない物置小屋のように見えた。往来の上に縦横の網目を張っている電線が透明な冬の空の眺望を目まぐるしく妨げている。昨日あたり山から伐出して来たといわぬばかりの生々しい丸太の電柱が、どうかすると向うの見えぬほど遠慮会釈も・・・ 永井荷風「深川の唄」
・・・むしろ貧相の方であって、六十年来持ち来ったつぎまぜの財布を孫娘の嫁入に譲ってやる方だ。して見ると福の神はこんな皺くちゃ婆さんを嫌うのであろうか。あるいは福の神はこの婆さんの内の門口まで行くのであるけれど、婆さんの方で、福なんかいらないという・・・ 正岡子規「熊手と提灯」
・・・それは否定されないけれども、それだからといって、異性との間に友情はないというのは、明らかに一つの誤りであり、そのこと自身、今日もなお私たち女や男が、人間としてどんなに狭く貧相な感情の種目で、しかもぼんやりしたり混乱したりしているその内容のま・・・ 宮本百合子「異性の間の友情」
・・・すべて無言のうちに須彌壇の前で行われる動作、やや貧相な中に生動する何ものかがあり、鶴三画的であった。帰途、富士を見た。薄藍のやや低い富士、小さい焔のような夕焼け雲一つ二つ。 A氏のところに寄る。温室にスウィートピーが植込まれたところ。一・・・ 宮本百合子「金色の秋の暮」
・・・ 島野 古の物語、絵巻にありそうに貧相でプルルルとしたしなび鼻、うすい髭、うすい卑屈な唇、「――でございます」という。○竹の島人 大きな酒やけのした鼻、光った、鋭く動そうとする眼。古い記者生活時代のくせで、人を呼びすてに話し、野・・・ 宮本百合子「一九二五年より一九二七年一月まで」
・・・ みじめっぽく小さい同胞たちがごたついている小さい貧相なわが家なんかを友達に見せたくない職場の娘さんたちは、いろいろうるさい家のそとで友達と会っている他の社会層の娘さんたちと、椅子をぶっつけ合いつつ、おしる粉をのみつつ、暫くの気焔を愉し・・・ 宮本百合子「若い娘の倫理」  
 
 
 
 

 

プレッシャー
一人で抱え込む 観られている意識 マイペース 挫折 
開き直り 一匹狼
●一匹狼
群れから離れ単独で放浪するオオカミである。オオカミの社会は群れ社会であり、アルファ (alpha) と呼ばれるペア(夫婦)と未成熟の子供たちからなるパック (pack, wolfpack) が単位である。パック内ではアルファ夫婦のみが繁殖を許される。子供たちは性的に成熟すると、まれに同性のアルファを倒し新たなアルファとなることもあるが、ほとんどはパックを離れる。同い年の兄弟や姉妹が、同時にパックを離れて、しばらく行動を共にすることもあるが、基本的に彼らは一匹狼となる。彼らは、一匹狼同士でペアとなり新たなパックを作るか、他のパックの同性のアルファを倒しパックを乗っ取る。ただし後者はリスクが高く、失敗すると死に至ることもあり、一匹狼の主な死因の一つである。パックは一匹狼を攻撃するので、一匹狼はパックの縄張りの外を行動範囲とする。パックの縄張りには、パック同士の衝突を避けるため緩衝地帯があり、そこは一匹狼にとって安全なだけでなく、狼の獲物となる草食獣にとっても比較的安全であり、草食獣の生息密度が高く、一匹狼が生きてゆく助けとなる。
転じて、孤独を好んだり性格が内向性であることなどの要因により、自発的に集団を離れ、または集団の中であっても単独で行動する人間を一匹狼と呼ぶ。このような者に対し英語ではマベリックという表現も使われる。

「一匹狼」とは文字通り、単独で行動している人のことを指します。グループで群れて行動するのを好まず、自発的に単独行動をする人のことを「一匹狼」と表現するのが一般的。そのため、「一匹狼」と呼ばれる人は、グループから外されたのではなく、自分の意思であえて一人で行動している場合が多いのです。「一匹狼」という言葉は、狼の生態の特徴からきています。基本的に狼は狩りの効率化などのために、グループ(群れ)を作って行動します。しかし、攻撃を回避して新たな群れをつくるために、ある時期になると一匹だけ群れを離れて行動するようになります。一匹でいると危険もありますが、同時に新たなグループを作るチャンスもありますよね。この狼の習性が語源となって、危険とチャンスを併せ持った状態を表す言葉として「一匹狼」という言葉が生まれたのです。「一匹狼」はあえて一人での行動を望んでいます。そのため、誰かの意思や行動によっていつも一人で行動している「一人ぼっち」とは少し違います。「友達や仲間が欲しくない。あえて一人でいる人」が一匹狼。「友達は欲しいけどできない。いないから一人」が「一人ぼっち」となります。状況は同じであっても、背景が全く異なるのです。
●一匹狼な人の特徴
1. 周りの意見に左右されない .
まず、大きな特徴は、自分の意見をしっかり持っていて、周囲の意見に流されない芯の強さです。本当は違う意見だったとしても、他人の意見と合わせてしまうことってありますよね。しかし、「一匹狼」は他人の意見ではなく、自分の意見をなにより重要視しているため流されないのです。
2. 嫌なことはきっぱりと断る .
「本当は嫌なのに、頼まれちゃってつい…」。こんな風に、本当なら嫌なことをつい受けてしまった経験ってありませんか。しかし、「一匹狼」と呼ばれている人は、きちんと断れます。ただ相手を突き放すのではなく、自分の意見を伝えて説明できるところも特徴。自分の意見を持って、嫌なことは嫌だとしっかり主張できる人って、男性でも女性でも素敵ですよね。
3. 自分自身に誇りを持っている .
「一匹狼」の人は、自分の生き方や性格に誇りを持っています。しかし、これは決して自意識過剰なわけではありません。意見をしっかり相手に伝えたり、周囲の意見に流されなかったり…。そんなマイペースだけど、しっかりした自分のことを誇らしく、好きだと感じている人が多いんです。そんな自分に対して自信をもっているところも、大きな魅力のひとつ。
4. 信頼できる人には、とことん大切にする .
「一匹狼」の人は、グループで行動をしないだけで、周囲の人のことが嫌いなわけではありません。そのため、自分が信頼できると認識している相手や、自分のことを気遣ってくれる人に対しては、とことん心を開く傾向にあります。普段はクールな性格な人が、頼りにしてくれて心を許してくれるギャップに、周囲の人は惹かれるのです。
5. クールであまり自分の話をしない .
自分のことを多く語らないのも「一匹狼」に多い傾向。話さないのは、自らの生い立ちや性格などの自分に関することのみではありません。誰と交際しているなどの恋愛話や、家族についても話すことはまれ。しかし、そんなミステリアスな部分が、実はかっこよくみえる秘密なのです。「もっと好きなタイプや過去の恋愛のことを聞きたい」「休日はどんな風に過ごしているんだろう」など、「もっと知りたい!!」と周囲の人に感じさせるのです。
6. 他人に対して興味が薄い .
他人にあまり興味を示さないのも「一匹狼」の特徴の一つ。必要以上に相手のことを詮索したり、興味を持ったりすることが少ないのです。しかし、これは一見クールでそっけない人のようですが、そんなことはありませんよ。人に興味を示さない「一匹狼」は、相手についての悪い噂や陰口にも、興味を示さない傾向にあります。むやみに、陰口や噂話をしない誠実な部分も魅力的ですよね。
7. 仕事とプライベートのオンオフがはっきりしている .
仕事とプライベートをしっかり切り替えて、オンオフの区別をしているのも「一匹狼」の人に多い傾向。「一匹狼」は、仕事中はクールで淡々と仕事をしています。そのため、時には厳しい発言や行動も。しかし、プライベートと混同することがないので、どんなに仕事中に意見がぶつかったとしても、それは仕事中限定。プライベートでは、優しく接してくれます。そんな「一匹狼」のツンデレな一面に、仕事面のみでなく恋愛面でも惹かれていく女性って多いんですよ。
8. 何に対してもストイックに取り組む .
何に対しても、ストイックに取り組むことも「一匹狼」に共通すること。みんなが少し手抜きをしてしまいそうなことであっても、周囲の意見や行動に流されることがないので、全力を出し切ります。また、「一匹狼」はそんなときに、手を抜いている周囲の人を批判することはありません。「自分がしていればいい」というスタンスなのです。
●一匹狼の男性 モテる特徴
ここからは、「一匹狼」について男性と女性を分けてご説明します。なぜ一匹狼はモテるのか、秘訣を探っていきましょう。まずは男性編から詳しくチェックしていきましょう。一匹狼の男性って、クールでかっこいいイメージがありませんか?特別優しいわけでもないのに、どうしてあんなにも女性からモテるのでしょうか。
1. 自分に素直なため、発言や行動が信頼できる
「一匹狼」の男性は、自分の気持ちに正直な人が多いですよね。そのまっすぐで素直なところに女性は惹かれていくのです。人間は嘘をつく生き物。生きていく上で都合の悪いことは、つい隠したくなってしまいますよね。しかし「一匹狼」は自分の気持ちを大切にしているので、嘘やごまかしをすることが少ないのです。発言や行動に信頼性があるのも大きな魅力のひとつなんですよ。
2. 浮気をしない
「一匹狼」は、人に対してあまり興味がありません。かわりに自分が心を開いた人に関しては、とことん信頼して大切にしてくれる傾向にあります。そのため、一度付き合い始めると他の人に興味を持ったり、浮気をしたりすることはあまりありません。浮気をされないのって、当たり前のことですが女性とっては嬉しいものですよね。
3. ミステリアスなオーラがある
ミステリアスなオーラをまとっているのも「一匹狼」がモテる秘密。マイペースで、自分だけの空気感を大切にしている一匹狼。相手の恋愛について質問しても、多くは語ってくれないことが多いんです。しかし、そんなクールでミステリアスな性格に惹かれる女性は少なくありません。「教えてくれないから、余計に知りたくなる!」と知らず知らずのうちに、好きになってしまうこともしばしば。
●一匹狼の女性 モテる特徴 .
続いては、一匹狼の女性の特徴について。一匹狼女がモテる理由は、どんなことがあるのでしょうか。男性目線でお答えしますので、自分が一匹狼女だと思う人は、ぜひ参考にしてみてくださいね。
1. 心を許すとツンデレで、ギャップがある
まず、男性が惹かれるポイントである「ギャップ」を感じられること。「一匹狼」の女性は、慣れてくるまであまり仲良くしてくれません。しかし、一度心を許すと、甘えてくれたり優しくしてくれたり。ツンデレな一面を見せてくれるんです。ツンデレが好きな男性は多く、そのギャップにドキドキしてしまうんですよ。
2. 自立しており、良い意味で男性に依存しない
経済的にも精神的にも自立している、かっこいい女性は「一匹狼」である傾向が強いです。必要以上に男性に甘えたり、頼りすぎたりしないので、「この人なら恋愛を超えて、パートナーとしても支えあえそう」と将来のことをイメージする男性も。やれることは自分で、でもどうしても出来ないときは頼る、といったサバサバした性格に惹かれる男性は多いんですよ。
3. 男性を外見だけでなく、内面までしっかり見ている傾向にある
「あの人優しいんだけど、かっこよくないからちょっと…」「もっと年収の高い人がタイプ」など。女性は、年収や外見のみで男性のことを判断しがちですよね。しかし「一匹狼」の女性は、他人を見かけだけで判断しません。相手のことを、内面までしっかり見たうえで見極めるのです。そんな誠実な性格も、「一匹狼」の女性の大きな魅力のひとつといえるでしょう。
●集団に群れない男性
あなたの周りには、群れない男性はいるでしょうか?群れる人が多い中、一人群れないことでひときわ存在感を放っているような人のことです。今回は、そんな群れない男性の特徴と恋愛傾向についてご紹介します。
群れない男性はカッコいい
群れない男性って独特のカッコよさがありますよね。自立している感じがしますし、ミステリアスな雰囲気もあって、他の男性にはない魅力があります。決して他の男性と仲良くできないわけではなく、一人でも困らないからあえて一人でいる感じが、カッコよさを感じる理由でしょう。群れない男性は能力的にも高いことが多いので、女子としては群れない男性の力に惚れてしまいます。そんな群れない男性と付き合いたい人は、群れない男性の気持ちをよく理解することが大事です。どういう性格をしていてどういう恋愛をするのか知っておけば、自分がどのように振る舞えば群れない男性に気に入ってもらえるのかわかるようになります。この記事で群れない男性への理解を深め、カッコいい彼氏をゲットしちゃいましょう!
群れない男性の特徴
ここでは、群れない男性の特徴をいくつかご紹介します。周りに以下の特徴に当てはまる男性がいたら、その人は群れない男性かもしれませんね。
〇決断力がある / 群れない男性は決断力があります。決断を人任せにするということがないので、決断力がないと何もできなくなってしまいます。逆に言えば、決断力があるからこそ、群れなくても一人でやっていけるのでしょう。周りからすれば頼りがいがあるように見えるのが、群れない男性です。
〇自分の意見をしっかりと言える / 群れない男性は、自分の意見をしっかりと言えます。同僚や友達に気遣って意見が言えなくなるということがありませんし、嫌だと思ったらちゃんとNOと言うことができます。自分の考えをしっかりと持っているので、ビジネスシーンではもちろんのこと、プライベートでも一目置かれるような存在になっています。
〇強い信念を持っている / 群れない男性は強い信念を持っていることが多いです。自分の中で善悪の基準があり、それを守ろうとして行動します。人に合わせて自分の信念を曲げることはなく、自分のやりたいようにやるという特徴があります。
〇冷静 / 群れない男性はとても冷静です。物事を分析することが得意で、確実に仕事をこなしていきます。何でも自分で判断をするので、冷静な判断ができないと致命傷になってしまうという事情もあります。
〇人の目を気にしない / 群れない男性は人の目を気にしません。自分の言いたいことをズバズバ言うことができますし、人の目に臆病になることもありません。そのため、会議などでも積極的に発言することができます。このような特徴もあり、群れない男性は仕事ができるとか、頭が良さそうだと思われることが多いです。
〇愚痴を吐くことがあまりない / 群れない男性は、あまり人に頼りません。愚痴を吐くこともなく、自分でストレスを処理する傾向があります。人にサポートを頼まないわけではないのですが、自分のことは自分でするという考えのもと、行動するのが群れない男性の特徴です。
〇少ない友人がちゃんといる / 群れない男性は、文字通り周りと群れないわけですが、では友達がいないかと言えば、そうでもありません。きちんと信頼できる友人が何人かいます。広く浅くの交友関係を作らない代わりに、本当に信頼できると思っている友人を大事にする傾向があります。
群れない男性は、人とのつながりがない男性というわけではないのです。あくまでも普段は群れないだけです。
群れない男性の恋愛傾向
ここでは、群れない男性の恋愛傾向をご紹介します。群れない男性をゲットしたい人は、特に参考にしてくださいね。
〇浮気しない / 群れない男性は、浮気をしません。感情的に動くことがほとんどありませんし、多くの女子とつながりを持つことがないからです。下手すると彼女以外本音を出す女子がいないという男性もいるくらいです。そのため、流されてついつい浮気をしてしまうということがなく、彼女に一途に恋をする傾向があります。これは女子にとって嬉しい特徴であると言えます。
〇慎重に相手を選ぶ / 群れない男性は、疑い深い性格をしています。女子が近寄ってきても、何か裏があるのではないかと思っていたり、どうせすぐに去って行くだろうと考えていたりします。そのため、恋愛では相手のことを慎重に選ぶという特徴があります。相手が何を考えているのかよく見極め、この人は信用できると思ったら本音を出していくというスタイルをとっています。安易な気持ちで群れない男性に近づいても、相手にされず心を開いてもらうことができません。群れない男性と付き合うには、じっくりと相手と関わり、徐々に心を開いていく根気強さと誠実さが必要なのです。
〇人が少ない場所のデートが好き / 群れない男性は、人が大勢いる場所はあまり好きではありません。元々人とあまり関わるタイプではありませんから、人がたくさんいる場所は少し疲れてしまうんですね。群れない男性は、デートするなら人が少なくのんびりできるような場所を好みます。お家デートやドライブデート、映画館や美術館、カラオケなど、二人でのんびり遊べるようなシチュエーションが好みです。群れない男性をデートに誘うときは、人が多すぎない場所を選ぶといいでしょう。

群れない男性は大人の男性として自立しており、決断力があります。人の目を気にせず自分の信念に従って行動するので、独特のカッコよさがあります。周りに振り回されず、真っすぐに我が道を行く感じですね。そんな群れない男性を魅力的に思う女子は多いです。群れない男性は、浮気をしない、慎重に相手を選ぶ、人が少ない場所のデートが好きという傾向があります。群れない男性には以上の内容を踏まえた上でアプローチすることをおすすめします。誠実な気持ちを持って丁寧に関わることを意識すれば、きっとうまくいきますよ。  
 
 
 
 

 

棲み分け
生きる環境 人間の割り込み 人災
人 「恒産無くして恒心無し」 
●恒産無くして恒心無し
ある程度の安定した財産がないと、心も動揺しがちで、安定した状態を保つことはできないものです。清貧に甘んずることは、心構えとしては立派ですが、一般の庶民には難しいことです。
「孟子」の「梁上編」にある言葉をやや日本風に修正した格言です。原文から孟子の真意を探ってみると、「恒産なくして恒心あり、若もそれ民に恒産なければ、因りて恒心無からん」。「心構えとしては、普通レベルの定収入や財産がなくても、平常心を失わないことが大切です。しかしもし一般の人民に、きまった相応の財産がなく、収入も不安定であれば、安定した気持を期待するのは無理というものでしょう」ということになります。
この文章を理解するキーは「恒」という字です。この意味は、変らないもの、常に決まったものということです。私どもが普通に使う熟語としては「恒例」があります。会社のお正月の儀式で、司会者が「恒例により、社長から年頭のごあいさつを頂きます」などというのがありますが、「毎年変らぬしきたりとして…」という意味です。なお、見なれない言葉として「恒士」という語がありますが、これは普通の一般人のことを意味します。
「人生を豊かにする方法」ということをいろいろ考えてみましたが、本音の部分からいえば、ある程度の財産があり、また一定の収入があるということが基本条件だと言えます。「お金がないと、君子になれません」というような格言が見あたらない中で、孟子は民の心をうまく表現しています。しかし本来の彼の意図としては、「仮りに収入がなくても、動揺して心を乱すようではいけない」と述べています。これは合わせて民の心を明示したものと見てよいでしょう。
豊かな人生の条件としては、
1)ある程度の財産があり、できれば老後の収入が安定し保証されていること
2)家族関係に不和がなく、友人に恵まれていること
3)趣味が豊かであること
などで、他に「普通の健康体であって、病気に悩まされることが少ない」などがあります。 一方、「清貧」を礼讃する考え方が格言にも多く見られますが、それは別項に譲るとしましょう。
この諺とおなじ線上にある諺としては、「貧すれば鈍す」というものがあります。これは日本製のことわざで「貧乏するとよい判断ができなくなり、うまい考えも浮ばなくなる」ということで、貧乏人はますます貧乏から抜け出しにくくなるといっています。このことは現代の企業活動にも、あてはまるといえます。決算が悪くなって業績があがらなくなった会社では、ともすれば考えがミミッチクなって、大きな計画ができなくなり、また新しい思い切ったアイデアも生れにくくなります。 
 
 
 
 

 

美の追求
誰が見てくれる 意識している相手 不一致 
アピール リバウンド
●「キレイになりたい」
突然ですが質問です。神様が目の前に現れて、次のふたつのうちどちらかの願いを叶えてくれるとしたら、あなたはどっちを選びますか? 「誰もが振り返るような絶世の美女にしてあげる」 「あなたが欲しい才能(知性・創造性・体力etc)、なんでも求めるものを世界一のレベルにしてあげる」 ちなみに私は、悩んだ末に、美女になることを選ぶような気がします。仕事も好きで、創作活動にも日々精を出している私にとって、仕事の能力や、限りない創造性は喉から手が出るほど欲しいものです。自分だけしか創れないものを生み出せたときの喜びは、何ものにも変えがたいと本気で思っています。でも、それ以上に、容姿が与えてくれる恩恵が魅力的に思えて仕方がないのです。女性なら誰でも、「もっと美人だったら」と思ったことがあるでしょう。これまでにファッションやメイク、ネイルに費やした時間が、読書や勉強に費やした時間よりも多い、という人も少なくないはずです。
それほど、女性にとって「美しくいること」は至上命題なのです。近年、男性用化粧品やミスターコンテストなど、若い男子が容姿に敏感になりつつある兆しは見えますが、女性の比ではありません。なぜ、私たち女性はこれほどまでに容姿を磨くことに情熱を注いでしまうのでしょうか。そして、そうすることで、誰が得をし、どういったリスクがあるのでしょうか。今回は、スタンフォード大学法科大学院教授・デボラ・L・ロード著『キレイならいいのか』をテキストに、女性がルックス磨きに追い立てられる理由とリスク、対策について考えていきたいと思います。
女性は業績や知性よりも、ルックス・ファッションに着目されがち
ファースト・レディになったミシェル・オバマは、ゴシップ誌に度々登場し、「ドレスは〇〇というデザイナーのもの、価格は○万円」などと書き立てられていました。一方のオバマ大統領は、公式の場で8年間同じタキシードスーツを着ていたのに、誰もその事実に気がついていなかったといいます。また、2008年に共和党副大統領候補として出馬したサラ・ペイリンは「外交政策顧問よりもメイクのプロに高級を払った」といいます。アメリカの政治に目を向けるまでもなく、「あの人、仕事はできるけど、ファッションセンス(もしくは容姿)がちょっと残念」と影で言われている女性を見たことがある人も少なくないはずです。女性は、仕事の実力や業績とは関係なく、ルックスやファッションセンスが微妙だという理由で、非難されたり軽んじられることが少なくないのです。
容姿は恋愛だけでなく、就職・昇進に影響を与える
こういった容姿による不利益を被るのは、もちろん女性だけではありません。肥満の人が多いアメリカでは、太っているというだけで、男女ともに偏見にさらされ、不利益をこうむりがちだといいます。
「体重過多の人を対象にした調査で、就職にあたって差別を受けた経験があると答えたのは女性の60パーセント、男性の40パーセントに上る。研究者たちがいつも指摘することだが、体重過多ゆえに収入の面でかなり損をすることがしばしばある。女性はなおさらである。肥満女性は、仕事のうえで有利になる他の特性を備えていたとしても、肥満のゆえに貧困に陥りがちである。」
また、太っているか否かに関わらず「魅力的でない人は就職や昇進の機会が少なく、知的能力の点では容姿の優れた人との差が認められないにもかかわらず、受け取る給料も少ない」という調査もあると著者は指摘しています。
美しさという「終わりなき幸福の追求」はハイリスク
また、女性の容姿の美しさは、恋愛・結婚市場において高値で取引されがちです。リッチな中年男性と美しい女性の結婚は、「顔と金の結婚」と揶揄され、「お互い中身なんて見ていないんだろう。金目当てだろう」といくら非難されたところで、減少する様子はありません。恋愛や結婚だけでなく、就職や昇進などに置いても、容姿が重要視されるとするならば、女性たちが容姿の向上に時間とお金を投資することも、一見合理的な選択のように見えます。ただし、その時間とお金が本当に当人を幸せにするのかは疑問が残るところです。実際には、美の追求が利益をもたらすこともある一方、当人に多大なダメージを与えるだけに終わる可能性も少なくはないのです。若い女性の摂食障害がその一例です。美を追求することによって、健康をも概してしまう女性は少なくありません。美容整形にも失敗するリスクがあります。成功したとしても、メンテナンス費用を捻出するために、大きな金銭的代償を支払う必要が出てくるのです。
また、最大のリスクは、美の追求に終わりがないことです。
「矛盾しているのだが、容姿は重要だが、それでも容姿を磨こうと専心したからといって、生活の質が格段に向上することはない。他の形の消費と同様に、容姿に対する投資は永続的な満足感を与えてくれないことが多い。(略)いったん満足すると、さらなる欲望や期待が湧き、比較基準は跳ね上がる。テクノロジーの進歩や市場の圧力は、身体的な完璧さの基準をつねに押し上げている。」
つまり、美を追い求め一時的には満足感を得られても、その満足感はすぐに欠乏感へと変わってしまうのです。
個人が美しさを追求することで、得をしているのは誰?
本書では、「フィジーにテレビが導入されてから3年で、摂食障害が劇的に増え始めた」という例が紹介されています。テレビなどのメディアの登場が、女性を終わりなき美の探求に追い立てる一因であることは明らかでしょう。石原さとみの顔と比べたら、ほとんどの女性は自分の顔面に絶望してしまうはずです。女性誌のカバーガールとして微笑む石原さとみが、何万倍の確率をくぐり抜けて選ばれた美女であり、さらにフォトショップで肌を極限までなめらかに見えるように加工されていると薄々知りながらも、非現実的な「理想の容姿」を女性は追求してしまいがちです。「ハーフ顔メイク」を推奨し、西洋風の目にするために目頭切開をした女性を雑誌の顔として読者モデルに抜擢し、栄養失調ぎりぎりの細身のモデルを起用することは、標準体型の日本人である女性たちにとって有益なことだとは思えません。読者・消費者が利益を得ていないとしたら、誰が利益を受け取っているのでしょうか? それは、美容やダイエット関連業界で商品を提供している人たちです。
「金銭的な面からいえば、身だしなみへの投資額は全世界で年間1150億ドルを下らない。ヘアケアに380億ドル、香水に150億ドルである。また、アメリカ人はダイエットに400億ドルを投じ、それを少し上回る金額をフィットネスのために使っている。」

現代日本に生きている限り、美しさを追求することから完全に自由になることは難しいでしょう。ただし、与えられる情報を鵜呑みにせず、背景を考えることで、美しさの追求によるリスクを回避することはできます。まずは、広告を信用しすぎないことが大切です。美容業界の販売戦略は、「消費者の自己不全感をあおり、それにつけ入ることから始まる」ことも多いのです。著者は「消費者は、化粧品や美容処置は効果を上げる確率が低く、健康リスクを伴うことをもっとよく知るべきだろう」と指摘しています。バービー人形のような大きな胸とウエストのくびれは現実的か、また、与えられた美の基準を追求することが本当に自分を幸せにしてくれるのか、個々人が考える必要があるでしょう。私もいつか、「美しさよりも、能力が欲しい」と言える自分になるために、与えられた美しさの基準を疑える強さを持ちたいと思います。 
 
 
 
 

 

お金社会
欲望の原点 経済 株式 貯蓄
景気 好況 不景気 不況 
●欲望
不足を感じてこれを満たそうと強く望むこと。また、その心。ほしいと思う心。不足を満たそうと強く求める気持ち。「欲望にかられる」「欲望を抱く」「欲望を満たす」。一般的には、動機の実現が意識的、無意識的に抑制されている状態をいう。動機の有無は、刑罰上重要な意味をもち、意図的に行われた行為は厳しく罰せられる。しかし、「隣に住んでいる美人の奥さんと、肉体的な関係をもちたい」といった欲望は、実行すれば不倫な関係になるので道徳的に抑制されるものである。多くの宗教では、そうした欲望をもつことそのことが、罪深いことになると教えている。通俗的な例だが、「抑制された状態」の意味が理解できるだろう。したがって、欲望と願望とは同義語とする学者もある。心理学の同種の概念に、フラストレーションfrustration(欲求阻止、欲求不満)がある。これは、目標行動がなんらかの条件によって阻止されていることを意味する。フラストレーションの結果、緊張を解消するための攻撃行動などがみられる。これは、フロイトによって使用された異常行動の解釈仮説であるが、欲望と状態が類似している。欲望は理性主義者によって、卑しむべき低級のものとされたが、サルトルは、欲望は自分に欠けているものを求め、欠けていない存在になろうとすることだという積極的意味を与えている。
●「欲望が満たされると楽となるが、欲望がなければそれ以上に楽である。」
食欲などの基本的な欲望をまったく満たさずに生きることは不可能ですから、ほとんどすべての人は、日々何らかの欲望を抱き、それを大なり小なり充足させて生きていると言えるでしょう。しかし必要以上に大きな欲望に囚われると、人はどうなるでしょうか。
標題の言葉は、大乗仏教の確立に大きな影響を与えた南インド出身の僧、龍樹(りゅうじゅ)(二世紀頃)によるとされている『宝行王正論』の一節です。人はともかくも自分の欲望を解消したいと願いますが、その方法には二通りあります。一つは、自分の欲望を叶えることでそれを解消するやり方、もう一つは、欲望そのものを放棄するというやり方です。そして龍樹は、いずれの場合も人は楽になるが、その度合は、後者のほうが勝っていると言います。
例えば、ずっと欲しかったものを苦労して手に入れたとしましょう。その時は大きな喜びに満たされ、その物を大事にするに違いありません。しかし徐々にその愛着は薄れていき、そしてある時、それよりもよい物を目にしてしまうと、今度はそちらが欲しくてたまらなくなってしまう。皆さんも、そのような経験をしたことが一度くらいないでしょうか。このように、欲望を叶えることで得られる満足は一時的なもので、しかもそれがさらなる欲望を招いてしまう場合すらあるのです。
一方、欲望そのものを放棄したならば、さらなる欲望に悩まされることはありません。もちろん一般の私たちは、あらゆる欲望を完全に断つことなどできません。しかし「もうこれで十分」と、どこかで満ち足りることができなければ、人はいつまでも欲望に囚われ、欠乏感に悩まされ続けます。このように考えると、様々な漢訳仏典に表れる「少欲知足」という言葉が示すように、生きるうえで必要十分なところで満足できるようになることは、とても大切なことに思われます。
市場経済が世界を支配しつつある現代では、いたるところに広告が溢れ、私たちの物欲が常に刺激され続けています。リーマン・ショックの直後には、強欲さに対する批判の声も一部から上がりましたが、経済が回復基調に戻り始めると、そうした声もすっかり聞かれなくなりました。しかし、エネルギー資源の枯渇や環境破壊といった、人間の欲望に起因する諸問題は、一向に解決の糸口が見つかっておりません。少欲知足という考え方は、決して時代錯誤的なものではなく、むしろ多くの物に囲まれて暮らす現代の私たちにとってこそ、切実な意味をもっているのではないでしょうか。
●現代人が「欲望」に振り回される原因
幸福な人生とはどのようなものか。古代ギリシャの哲学者たちは、ただ生きるということではなく、よく生きることが重要だと考えた。そのための道具が「理性」だ。理性があれば、富や名誉、食欲、性欲などに振り回されずに生きることができる。だがこれは裏を返せば、それだけ理性的な行動が難しいということだ。現代の私たちはどうすればいいのか――。
透明人間になれたら何をするか
もしも透明人間になることができたら、あなたは何をするか。この素朴な思考実験を、正義や道徳に関わる問題として扱った哲学書がある。古代ギリシャの哲学者・プラトンの代表作『国家』だ。この本のなかで、プラトンの兄・グラウコンは、はめると透明人間になれる指輪に関する伝説を紹介したうえで、「この指輪を、正しい人間と不正な人間がはめると何をするだろうか」と問いかけている。グラウコンの考えは、この指輪をはめてもなお、正義にとどまるような意志強固な人間などいるはずがない、というものだ。その後に続く部分を読んでみよう。
「市場から何でも好きなものを、何おそれることもなく取ってくることもできるし、家に入りこんで、誰とでも好きな者と交わることもできるし、これと思う人々を殺したり、縛(いまし)めから解放したりすることもできるし、その他何ごとにつけても、人間たちのなかで神さまのように振舞えるというのに!――こういう行為にかけては、正しい人のすることは、不正な人のすることと何ら異なるところがなく、両者とも同じ事柄へ赴くことでしょう」
いくら正しい人間だって、透明人間になれるなら、盗み、レイプ、殺人などやりたい放題を尽くすだろう、というのである。
「ただ生きる」のではなく「よく生きる」
この思考実験からグラウコンは「正義は、個人にとって善いものではない」と結論づける。彼に言わせれば、透明ならざる人間は、やりたいようにはできないから、しぶしぶ正義に従っているにすぎないのだ。『国家論』では、この後に、ソクラテスの反論が展開される。要旨だけを述べれば、不正や悪徳を働く生き方は、魂がかき乱されるのだから、決して幸福な人生とはいえない、というものだ。では、ソクラテスやその弟子であるプラトンにとって、幸福な人生とはどのようなものか。それは、理性を用いて、善の何たるかを知り、富や名誉、食欲、性欲などに振り回されずに生きることだという。別の著作でソクラテスは言っている。<大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、よく生きるということなのだ>(『クリトン』)と。
自分の見たいものしか見ない現代社会
ソクラテス、プラトンを嚆矢として、西洋の哲学者たちは、長らく理性的に考え、生きることの重要性を説いてきた。だが、それは裏を返せば、多くの人間が理性的に生きていないことを示すものだろう。理性的な人間がマジョリティならば、わざわざ理性の大切さを訴える必要はないのだから。私たちが生きる現代社会はどうだろうか。多くの識者が指摘しているように、ネット社会が人々を視野狭窄にしている側面があるのはたしかだろう。政治学者の片山杜秀氏は、平成史を振り返る連載のなかで次のように語っている。
「世の中が高度に複雑化・専門化したために、高等教育を受けても追いつかない。分かりにくい政治的・経済的・社会的事象も増える一方。要するにいくら学んでも追いつかず、人間がオーヴァーヒートしてしまう。そんな時代が当世なのです。そうなると人間は自ら進んで原始宗教の時代に戻るのです。広く分かろうとしても分からないので、多くのものに目をつむり、「見たいものしか見ない」「聞きたいものしか聞かない」ようになるのです」
IT革命が夢見たユートピア
以前、この連載でも紹介したように、ヒトの心には、直感的な「速いこころ」と理性的な「遅いこころ」という2種類の情報処理システムが重なって搭載されている。「分かりにくい政治的・経済的・社会的事象」を理解するためには、直感は向いていない。安全保障はどうあるべきか、社会保障はどうあるべきかといった問題を、直感で判断するわけにはいかないだろう。それゆえ、社会が複雑になればなるほど、その問題解決には理性的な能力が求められる。でも理性は「遅いこころ」なので、立ち上がるのも遅ければ、処理能力もゆっくりだ。それでもヒトが高度な文明を築くことができたのは、前回述べたように、環境を知性の一部としてきたからにほかならない。今年、邦訳が出版された『知ってるつもり――無知の科学』(スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック著/土方奈美訳、早川書房)でも語られているように、「頭蓋骨によって脳の境界は定められるかもしれないが、知識の境界はない。知性は脳にとどまらず、身体、環境、そして他の人々をも含む」のである。ならば、現代社会で生じる複雑な問題、解決が不可能に思えるような問題も、環境を知性の一部にすることで対処が可能なのではないか。いや、人間は、社会は、もっと賢くなれるのではないか――そう考えた人々がいる。IT革命の旗手たちだ。情報技術の発展は、人類の知性をも発展させる。戦争、紛争、貧困、環境問題など、グローバルな問題も、情報技術を駆使すればいずれ解決されるだろう。IT革命の可能性を信じた人々は、そんなユートピアを思い描いていた。
視野狭窄の原因は「情報過多」だけなのか?
しかし現実には、片山氏が指摘するように、人々はますます視野狭窄に陥り、どの国々でも政治的対立が先鋭化している。片山氏は、その典型例として安倍政権への態度を挙げて、次のように説明している。
「政権を支持する人は、政権を擁護する保守や右派系のサイトやブログ、アカウントばかりをフォローする。政権が嫌いな人は、リベラル・左派系のメディアしか見ようとしない。自分で考え、判断するどころか、味方の論法をそのまま真似て、相手を攻撃し悦に入る。あるいは、相容れないものは端っから無視する。負荷も減って楽だし、自分に近い意見だけに接すればストレスもかからない」
この現状診断に異論はない。ただ、ひとつ疑問を投げかけるとすれば、人々が視野狭窄に陥っているのは、本当に情報過多が主要因なのだろうか。
ダマすための技術を生み出してしまう人間
テクノロジーが進歩して情報があまりに増えすぎたために、人々がその処理に追いつかず、結果として狭い見方に閉じこもってしまうという説明は、たしかにわかりやすい。でも、問題の根っこはもっと深い。この連載でも繰り返し述べてきたように、認知科学や行動経済学は、人間がさまざまな認知バイアスに陥りやすいことを明らかにしてきた。そしてバイアスの多くは、先述した直感的な「速いこころ」と関係している。直感的な判断は、しばしばエラーを起こしてしまうからだ。人間は思ったほど理性的でも合理的でもないことが明らかになれば、そこにつけこむ人間が出てきてもおかしくない。人間の感情や直感は非常にダマされやすい。それを見越して、上手にダマすための技術を生み出してしまうのも、また人間なのだ。
●欲望の対処方法
欲望とは、欲しがる心です。お金が欲しい、物が欲しい、美味しいものが食べたい、好きなことがやりたい、男が欲しい、女が欲しい、愛されたい、理解されたい、認められたい、他人に勝ちたい、と限りなく求め続ける心です。仏教では「貪欲(とんよく)」といわれ、108の煩悩の中で最も恐ろしい三毒の一つです。対処を誤ると、人生を棒に振ることになります。
欲望に強烈に突き動かされる
欲望は、モチベーションの源であり、私たちの行動の原動力です。何をするにも、欲望に突き動かされています。これがいいことならいいですが、(そして、自惚れ強い私たちは、いいことだと思い込んでいるのですが)ほとんど悪いことばかりです。代表的な欲望を、仏教で「五欲(ごよく)」と教えられています。1.食欲(しょくよく)、2.財欲(ざいよく)、3.色欲(しきよく)、4.名誉欲(めいよよく)、5.睡眠欲(すいみんよく)、の5つです。
1.食欲
食欲とは、食べたい、飲みたい心です。食べ物が乏しく、お腹がすいてくると、強烈に食べたくなります。食べ物に困っていない人も、グルメになってきて、美味しくないものに文句を言い、美味しいものが食べたくなります。他人と会食をすれば、同じメニューなのに微妙におかずが違うと、「そっちのほうがいい」といって苦情を言い始めます。
2.財欲
財欲とは、お金が欲しい、物が欲しいという心です。毎日、少しでも安いスーパーに買い物に行き、1円でも安いガソリンスタンドでガソリンを入れます。欲しいものがあるのに、お金が足りないから買えず、寂しい気持ちになっています。職場の友人やお隣さんが持っているものは、自分も欲しくなります。収入が下がったりすると、ものすごく苦しみ、少しでも収入をアップさせようと苦しみます。
3.色欲
色欲とは、男が女を求め、女が男を求める心です。好きな人に愛されたい、男女ともに性欲が抑えきれずに苦しみます。結婚しても、結婚相手以外の人が好きになり、周囲のウワサになります。パートナーに見つかると、死ぬまで許してもらえず苦しみ続けます。
4.名誉欲
名誉欲とは、ほめられたい、認められたい、馬鹿にされたくない、という心です。挨拶をして、挨拶が返ってこないだけでムッとします。意図的に無視されたり、相手にされないと、軽んじられている気がして、その人が嫌いになります。他人が自分のウワサをしていると、すごく気になります。ましてやインターネット上の掲示板に何か悪いことが書き込まれていたら、大きなショックを受けます。少しでも認めて欲しい、理解されたいのに、話を聞いてくれたり、認めてくれる人はほとんどいないので、苦しみます。
5.睡眠欲
睡眠欲とは、眠たい心のほかに、少しでも楽がしたい心も睡眠欲に入ります。他の人のいびきや、歯ぎしり、蚊が飛ぶ音など、少しでも睡眠欲が妨げられると苦しみます。睡眠欲によって朝起きられないと会社に遅刻したり、待ち合わせに遅れたり、不幸な結果を招きます。それは目覚ましがならなかったせいだと言い訳しますが、お寝坊さんは、強い睡眠欲によって、無自覚のうちに自分で目覚ましを止めてしまっているのです。そして、積極的に働くのは面倒だから、何も考えないで生きたほうが楽でいいと、少しでも休もうとします。積極的に働くモチベーションも、財欲や色欲、名誉欲などの欲の心なら、怠けるモチベーションも、やはり欲の心です。どの欲なのかの欲望の種類が違うだけで、私たちは、朝から晩まで、何かしらの欲望に引きずられて生きています。
他人よりも自分優先
この欲望の特徴として「自己中心的」ということがあげられます。仏教では、「我利我利(がりがり)」といいます。「我利我利」とは、我が利益、我が利益と書くように、自分の得しか考えていません。ブッダは『百喩経』というお経にこんなことを説かれています。ある占星術を学んでいたバラモンが、自分の名前を売りたいと思っていました。そこである日、自分の子供を抱いて泣いていると、親切な人から「あなたはなぜ泣いているのですか?」と尋ねられます。「今この子供は、7日後に死ぬことになっているので、悲しんでいるのです」と答えると、「人の命は、そんな簡単に計算できるものではありませんよ。7日経っても死なないこともありますから、そんなに泣かないで下さい」と慰めてくれました。ところがそのバラモンは、「これは星占いに基づいていますから、間違いのないことです」と言います。果たして7日後に、バラモンは自分の子供を殺して、自分の予言の正しさを証明しました。ところが、予言の通り子供が7日後に死んだことを聞いた世の中の人は、「この智者の言うことには間違いがない」と驚嘆し、そのバラモンを信じて敬うようになったといいます。ブッダは、この名誉欲のために子供を殺した愚か者は、未来に限りない苦しみを受ける、と説かれています。
私たちは、自分の利害には敏感ですが、他人のことには鈍感です。自分が一円でも得するためなら、他人がどれだけ苦しんでいても無関心で、自分ができもしないことを他人にやらせます。資本主義では、昔から、少しでも安くできるなら、アメリカのプランテーションで他人を奴隷のようにこき使おうが、イギリスの工場で他人の子供を安く働かせようが、おかまいなしです。自己中心的で、他人のことには冷酷なまでに無関心なので、相手を思いやることが大変困難です。今日の日本でも、上司が少しでも身を守り、得をするためには部下をこきつかい、社内政治の勢力争いに余念がなく、ブラック企業といわれます。自己中心的な人が集まって生きていますから、一人一人の欲望から利害が一致せず、人間関係が壊れて苦しまなければなりません。
欲望は満足を知らない
「欲を少なくして足を知ることが大切」とか、「ほどほどで満足したらよい」とか言いますが、実際に満足することはできません。具体的に考えてみれば分かります。食欲に「これで満足した」ということがあるでしょうか。美味しいものも、初めてのときはいいのですが、2回目3回目と回数を重ね50回目くらいになってくると、別の美味しいものが食べたくなります。満足できないのです。色欲も、好きな人と、最初に手がふれたときにはドキドキするのに、手にふれるだけで数十回目になってくると、少しは進展しないと焦ってきます。関心が別の人に移ることはあっても、色欲に「これで満足した」ということはないのです。財欲でも、自分の収入は「これで十分です」という人がいるでしょうか。「もちろん仕事のノルマは達成しますが、給料は今の2/3でいいです」という人がもしいれば、きっと会社に喜ばれますが、実際には少しでも楽して収入を増やして欲しいと思っています。これで満足したということはありません。欲望にはきりがないのです。これまで史上最高にお金を稼いだ人は、石油王のロックフェラーという人です。個人資産が数十兆円あったそうなので、現在の日本人1億2千万人全員の一年間の税金よりも多くのお金を持っています。そのロックフェラーが巨万の富を築いて引退した後、ある新聞記者から、「お金はいくらあれば満足ですか?」と聞かれたことがあります。3億円くらいあれば一生遊んで暮らせると思うので、一生で使い切れないどころか、1万回以上の人生を遊んで暮らせます。ロックフェラーは一体何と答えたでしょうか。なんと、「もう少し欲しい」と答えたそうです。地球上の石油資源が枯渇するほど頑張っても、一人の欲望さえも満たし切るこはできないのです。それどころか、欲望は、満たせば満たすほど、もっと欲しくなります。ブッダは、喉が渇いた時に、海水を飲むともっと喉が渇くようなものだと教えられています。欲望は、満たせば二倍の度を増して渇くのです。欲望には限りがないということです。そんな不要なお金を限りなく稼ぐために限りある人生の時間を遣ってしまい、満足できないままで一生を終わるのです。無駄な欲望に馳せ使われて、あっという間の人生を酔生夢死してしまうのです。
欲望はなくすことができない
では、欲望はどうすればいいのでしょうか。よく、欲望を抑えたり、なくすことを教える人がありますが、仏教では、私たち人間は「煩悩具足(ぼんのうぐそく)」と教えられています。「具足」というのは、それでできているということで、100%煩悩の塊ということです。雪だるまから雪をとったら何も残らないように、人間から煩悩をとったら何も残らなくなってしまうのです。煩悩は、死ぬまで、減りもしなければ、なくもならないのです。煩悩がなくせないとなったら、どうすればいいのでしょうか。煩悩あるがままで、救われる道があります。
欲望をコントロールせずに幸せになる方法
仏教では、欲望などの煩悩は、苦しみの「原因」と教えられているのですが、苦しみの「根本原因」は、煩悩ではなく、別にあると説かれています。その、苦しみの根本原因をなくせば、煩悩あるがままで煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)煩悩がそのまま喜びの元となる、絶対の幸福の身になれるのです。 
 
 
 
 

 

スリム
努力  スリムを喜ぶ  誰に見せたい
ダイエット 筋トレ 運動 食欲
●ダイエットの基本
皆さんは、リバウンドしない“一生もののダイエット”があると聞いたら、何を想像しますか。どんな珍しい食品を摂るのだろう、きっと運動の方法が特殊なんじゃないか、食事ルールが厳しいんじゃないか?…などを想像するかもしれませんね。しかし、実はとても基本的な5つの考え方に基づく方法で、一生もののダイエットは身に付けられます。詳しくご説明しましょう。
基本1.小さな目標を積み重ねる
基本の1つ目は、体重の目標を立てるということです。ダイエットに意気込んで「1ヵ月で10kg痩せたい!」といった難しい目標を立てる人も少なくありません。しかし、短期間で大幅に体重を落とすことはリバウンドにもつながりやすいのです。また、目標体重のハードルが高いと、なかなか体重が減らない現実との葛藤で挫折してしまいがちです。そこでリバウンドせずに継続できる目標体重の立て方は、まず現体重の5%の減量を目標にしていきましょう。例えば現在の体重が80kgの方であれば5%に当たるマイナス4kgの76kgが最初の目標となります。これを1〜2ヵ月で落とすことを最初の目標にすると、無理なくダイエットを続けることができます。達成できたら、そこからさらに5%の減量を目指します。このように小さなゴールを積み上げていくと自信にもなり、やる気を失くすことなく最終的な目標まで目指しやすくなるのです。
基本2.体重と食事の記録と管理
基本の2つ目は記録することです。体重と食事を記録することで、ダイエットに意識が向けられ、自身への戒めにもなります。体重の記録は朝と晩の2回測ることで、食べ過ぎているかどうかの目安に活用できますし、食事の記録では、甘い物やアルコールも全て書き出します。すると食事の内容の偏りや量を可視化することができ、自分でコントロールできるようになります。実は、ダイエットの一番の成功とは、「自分で管理ができるようになること」です。この習慣が身につけば、少し食べ過ぎて体重が一時的に増えてしまったとしても、また自身でコントロールして戻すことができます。
基本3.食事は「3つのお皿」と食べ順
食事でダイエットを行おうと思うと「食べる量を減らさなきゃ」と思いがちですが、食事量を減らすだけのダイエットは満足感が得られずに気を抜くと暴飲暴食に走りやすくなります。食事の量ではなく「食事の質」を考えることが大切です。食事の質とは、簡単に言えば「バランスの取れた食事」です。主食…ご飯やパンなど。主菜…肉、魚、卵、大豆製品など。副菜…野菜、きのこ、海藻類。上記の3つのお皿(1プレートにまとめても構いません)でしっかり栄養を摂ることが代謝アップにもつながり痩せやすい体になります。3つのお皿を意識できるようになったら、血糖値をゆるやかに上げる「食べ順」も意識しましょう。野菜や汁物から食べ始め、次にタンパク質の摂れる肉や魚、最後にご飯やパンなどの炭水化物を摂ります。この順番で食べることで、血糖値の急激な上昇を抑えることができるため、糖質が脂肪になりにくく、また食べ過ぎ防止にもつながります。
基本4.ジムが続かないなら日常生活で運動を
男性は特にダイエットをする際、スポーツジムに通い始める人も少なくありません。しかし、忙しくて一度でも行けない時があると、その後は面倒になり続かない…という人が多いのではないでしょうか?運動も食事と同じく継続できなければ意味がありません。気負ってスポーツジムに通わなくても日常生活で活動量を上げるように意識するだけで十分です。階段を使う、早歩きをする、電車で座らない、姿勢をよくする、一駅歩くなど、普段の生活からできそうなことを継続していきましょう。
基本5.睡眠で食欲異常を抑える
見落とされがちですが、睡眠不足も痩せない原因の1つです。睡眠時間が短いと食欲を増やすホルモンの分泌が増えて、食欲を抑えるホルモンの分泌が減ると言われています。だから、早寝・早起きを心掛け、しっかりと睡眠を取ることもダイエットの基本です。

糖質制限ダイエットや断食のような流行りのダイエットは、一時的に体重を減らすことはできても、リバウンドする人が少なくないのが現実です。その人のライフスタイルにマッチしていなければ、継続できないからです。「○○で痩せる」という特定の方法でもリバウンドせずに痩せた体重をキープできる人は、ダイエットが終わったあとに上記5つのコントロールを完璧にできている人に限られます。自分の生活習慣に合わせて継続できるダイエット方法こそが、あなたが一番成功する方法なのです。
代表的なダイエット 疑問・質問
さて、5つの基本は分かっても、それを自分に照らして考えたり、実生活に落とし込むことにハードルを感じる人は多いようです。そこで、5つのポイントを踏まえて、よくある質問にお答えします。
Q1.食べる事が大好きですがどのように食事をコントロールしたらよいですか?
まずは食事記録を付けるようにして、自分が食べている量を把握しましょう。その後、食べ順を守りよく噛んでゆっくり食べることで、ドカ食いしなくても満足感を得ることができるようになります。まずは昼食と夕食の量を減らしてみてお腹が空くのであれば、間食(タンパク質がとれるゆで卵や蒸しチキンなど)を取り入れていきましょう。食べ過ぎているかどうかは朝、晩の体重の差でチェックします。朝、晩の体重差が1kg以内を目標にしていきましょう。
Q2.外食やコンビニ食が多くバランスを取るのが難しいです。
外食やコンビニ食でも、選び方次第で栄養バランスを整えることができます。外食では、定食タイプのメニューを選ぶことで前述した3つのお皿が自然と摂れます。また、外食のご飯は量が多いので最初に「少な目」でお願いするか、残すようにしましょう。コンビニ食では、「鮭弁当」「豚スタミナ丼」など1品で完結するメニューは選びません。その代わりに、おにぎりや納豆巻き、豚肉と野菜の炒め物、ワカメスープのように主食、主菜、副菜を意識して組み合わせましょう。
Q3.仕事の都合で夜遅い夕食になってしまいます。
昼食から夕食までが4時間以上空いてしまう場合は、夕方に間食を入れていきましょう。間食を摂ることで夕食のドカ食いを防ぐことができます。ゆで卵や蒸しチキン、豚汁タンパク質の入ったおにぎり(鮭、ツナなど)などタンパク質が摂れるものが満足感もあり、おすすめの間食です。夕方に炭水化物をとった場合は夕食の炭水化物は控えましょう。
Q4.甘いものがやめられません。
甘いものが欲しくなる人は、栄養が充分に摂れていない可能性があります。一度、食事を見直してバランス食を心がけましょう。また、手の届くところに甘いものを置かない、買い置きをしないなど環境を変えることも大切です。どうしても甘いものが欲しい時は、ただ甘いものではなく栄養が摂れる果物やヨーグルトなどを活用していきましょう。
Q5.飲み会が多いのですがどうしたらよいですか?
飲む量と食べる量で総カロリーが決まります。飲み会がある日はむしろ朝食と昼食をしっかり食べて、飲み会中は会話を楽しみ、食べる量をセーブしましょう。場の雰囲気に流されて暴飲暴食してしまう人は、野菜や刺し身などのヘルシーなものをつまんでお酒をゆっくり楽しみましょう。それでも食べ過ぎ、飲み過ぎた時は、次の日の食事をセーブして体重を戻していきましょう。
Q6.タンパク質がいいと聞きたくさん摂っていますが大丈夫ですか?
なんでもそうですが、摂り過ぎる、一つの食材や栄養素に偏るのはよくありません。タンパク質はダイエットにとても重要な栄養素ですが、摂り過ぎれば腎臓に負担がかかります。自身の体重×1〜1.5gのタンパク質量を目安にしながら、タンパク質だけではなく炭水化物、ビタミン、ミネラルなどトータルバランスで食事を摂っていきましょう。
Q7.寝つきが悪いのですがどうしたら改善できますか?
よく眠れない人は日中の過ごし方に問題がないかチェックしてみましょう。朝食を食べない、デスクワークが多い、日中の活動量が少ない、寝る直前までスマホなどを見ている、といったことはありませんか? 朝食を食べることで体内時計がリセットされて1日が活動的に過ごすことができます。また日中の活動量が少ない人は、散歩をしたりストレッチをするなど体を動かすことを意識していきましょう。 
 
 
 
 

 

人のつながり
他人との距離 
自己主張 孤独 埋没 逃避 妄想 わがまま
●妄想
その文化において共有されない誤った確信のこと。妄想を持つ本人はその考えが妄想であるとは認識できない(病識がない)場合が多い。精神医学用語であり、根拠が薄弱であるにもかかわらず、確信が異常に強固であるということや、経験、検証、説得によって訂正不能であるということ、内容が非現実的であるということが特徴とされている。妄想の内容や程度は個人差が大きく、軽度で生活に支障をほとんど来たさないものから重大な支障を来たすようなものまで様々である。本人が妄想であるとは自覚しない(「病識」がない)場合が多いが、漠然と非合理性に気づいている場合(いわゆる「病感」がある状態)もある。また、妄想世界と現実世界が心の中で並立してその双方を行き来する「二重見当識」という状態もある。日常的な会話でも用いられることもあり、その際はいかがわしい考えや空想を表し、必ずしも病的な意味合いを含むわけではなく軽い意味で使われている。
「一次妄想」と「二次妄想」
古典的には、まったく根拠を持たない妄想を一次妄想(「あの人はまだ自分がxxであることに気づいてない。」「おれはナポレオンの生まれ変わりだ」「近所の人たちが私を電波で攻撃している」など)、何かしらの経験と関わりがある妄想を二次妄想(「私の病気は不治の病なのだ」「皆の不幸は私のせいなのだ」など)と区別している。しかし、一次妄想と考えられる妄想にも本人なりの理由が存在している場合も多く、真の無意味で根拠のない妄想はまれである。了解可能か否かで一次妄想と二次妄想を区別するという定義もあるが、「私の病気は不治の病なのだ」という妄想も、抑うつ気分から悲観的妄想が出現していれば理解可能であるが、健康なひとがそのような妄想をもっていれば了解不能であるため、これらの区別は難しい。偏見との区別も難しく、考えの根拠を聴取し、ひとつひとつ反証していくことで妄想と明らかになるが、文化が異なる反証であるとその方法は有効ではなくなる。さらに一次妄想は以下の5つに細分化されている。
1.妄想気分:周囲がなんとなく意味ありげで不気味と感じる。形容ができないがそこから具体的な判断がおこり妄想となる。
2.妄想知覚:正常な知覚に特別な意味づけがなされる。それが強固な確信となり訂正が不可能である。
3.妄想表像:とんでもないイメージを抱く。
4.妄想覚性:途方もないことを察知するが実体には何も理解できていない。
5.妄想着想:ある考えや古い記憶が突然思いがけない意味をもって思い出され、強固な確信に至ること。
妄想知覚などは統合失調症でよくみられる現象である。二次妄想はうつ病でよく見られる現象である。心気妄想、微小妄想などが有名である。「なんとなく胃が痛い、病院にいって検査しても異常がない、心療内科の受診を勧められ、それでうつ病と診断される」こういったエピソードが心気妄想には多い。
内容による分類
大半が統合失調症によく見る病状でもある。
注察妄想 / 「常に盗聴されている」とか「隠しカメラで監視されている」と思い込む妄想。
関係妄想 / 周囲に起こっている現実を自らに結びつけて考える妄想。周囲の行動・言葉に過敏で自己に関係して捉えるが、それに動じることも多く、妄想まで発展し現実離れしていく。自分は人に嫌われ避けられていると思い込む忌避妄想も関係妄想の一種である。
恋愛妄想・被愛妄想 / 「エロトマニア」とも呼ばれる。特定の相手に恋愛対象とみなされていないのに「自分は相手に愛されている」と思い込む妄想性障害。
罪業妄想 / 「自分は非常に悪い存在」「罰せられるべきだ」「皆に迷惑をかけている」などと思いこむ妄想。うつ病によく見る病状の一つでもある。
心気妄想 / 自分の身体の一部が病気にかかっていると思いこむ妄想。実際に病気に罹っていても、その症状が自分の思っているより非常に軽い場合もこの種類に分類される。いわゆる「エイズノイローゼ」や「ガンノイローゼ」も一種の心気妄想である。
貧困妄想 / 現実にはそうでないにも関わらず、「自分は非常に貧しい」「借金を抱えてしまった」などと信じる妄想。
宗教妄想 / 誇大妄想の延長上、またはひとつの症状として考えられる。統合失調症のひとつの症状としても考えられているが、自分自身に何か超次元的で特別なパワーがあると信じたり、霊界のような所から特別な預言や啓示を受けた、またはあらゆる病気を癒す力を授けられたなど、内容が極めて非日常的で壮大なものであり、訂正不能な強固な確信があることが特徴で、現実世界からは考え得ることのできない壮大なスケールによって描かれる妄想が大半である。つまり自分自身を“神”の化身であると信じてしまう症例である。人格崩壊まで至るケースは稀であるが憑依妄想を共に発症するケースがある。これが極端になると宗教団体の教祖にまでなってしまうケースも見受けられる。
その他 / 好訴妄想、不死妄想、Capgras妄想、被毒妄想、恋愛妄想、血統妄想など(詳しくは統合失調症参照)。嫉妬妄想は隠される場合が多い。
被害妄想
被害妄想(persecutory delusions)は、妄想の中で最も一般的なタイプであり、他人から悪意をもって害されていると信じる妄想。何らかの犯罪的な干渉を受けていると信じこみ、事業や就職などにおいて失敗しても、他者からの攻撃で失敗したと考えたり、「脳内に何らかの機器を埋め込まれ、意識や行動を操作されている」と考えたりする。DSM-IV-TRにおいては、被害妄想は統合失調症患者の妄想に最も多く見られるタイプとされ、本人は「苦しめられ、追跡され、妨害され、騙され、盗聴され、嘲笑されている」と信じている。DSM-IV-TRでは、被害妄想は妄想性障害の主な特徴とされている。盗害妄想は自分の物を盗まれたと思い込む妄想で、認知症によく見られる。
誇大妄想
誇大妄想 (Grandiose delusions)は、現実的な状況から逸脱し、自己を過剰評価したり、実際には存在しない地位・財産・能力があるように思い込んでいる状態である。躁病によく見られる。自己評価と他者からの評価のバランスの悪さがある。誇大妄想は主に妄想性障害(Delusional disorder)のサブタイプとなっているが、ほか 統合失調症や、双極性障害の躁エピソードの可能性もある。
原因
様々な精神疾患(統合失調症、妄想性障害、双極性障害、うつ病、妄想性パーソナリティ障害、統合失調型パーソナリティ障害、境界性パーソナリティ障害、認知症、せん妄、あるタイプのてんかん、急性薬物中毒、覚醒剤乱用など)に伴って生じることがある。しかし、健常者においても断眠や感覚遮断など特殊な状況に置かれると一時的に妄想が生じることもある。また、原因となる基礎疾患によっても生じる妄想の種類が異なる傾向があり、統合失調症に多いのは被害妄想、関係妄想、誇大妄想などで、うつ病に典型的なのは罪業妄想、心気妄想、貧困妄想であるとされているが、必ずしも全例に当てはまる訳ではない。
病態生理学
生物学的な解説 / 統合失調症では中脳辺縁系のドパミン神経の過活動が妄想、幻覚の発生に関与していることが示唆されている。うつ病やせん妄に伴って生じる妄想に対してもドパミン遮断薬である抗精神病薬が有効であることなどから、それらの疾患でもドパミン神経系の過活動が関与していることが推測される。
精神力動学的な解説 / 戦争や災害の被災者や凶悪事件等の被害者が、一時的に妄想状態に陥ることがある。これは、現実から遊離する事によって精神的なダメージを回避しているとみなすこともできる。統合失調症などの疾患においての妄想ですら、過剰なストレスが精神を破壊しないようにするため逃げ場であるという見方すらできる(ジョン・シュタイナー「こころの退避」参照)。但し安全装置という観点では妄想の代わりに衝動性が生じることもある(いわゆる、キレる状態)。しかし安全装置であるとはいえ病的な方法であることには間違いなく、治療が必要である。そして、本人にとっては安全装置であったがゆえに、治療の途中で激しい抵抗に遭うことは珍しくない。それなりに安住の地であった妄想の世界から現実の世界を直視することは苦しみを伴うのである。ここでいかに本人のペースを尊重しつつ、希望や安心感を与えつつ現実と折り合いをつけてもらうかが、精神科医や援助者の力量が問われるところである。
妄想の弊害
その妄想に対して否定的な現実を敵視したり、妄想を認めない他人に攻撃的になることがあり、ときには暴力や犯罪行為に結びつくこともある。周囲から見れば異常な行動をとり、周囲に疎まれ孤立したり攻撃されるおそれもある。本来は社会的動物である人間が社会から逸脱することは、本人にも周囲にとっても非常にダメージが大きく、妄想が回復した後の社会復帰にも支障を残すことがある。また「自分は空を飛べる」などの妄想に支配されて転落したり、「頭の中に埋め込まれた装置を取り出す」ために頭部を自傷するなど自らを傷つける危険性もあり、最悪の場合は自殺に結びつくこともある。
●妄想性障害
妄想性障害は、1つまたは複数の誤った思い込みがあり、それが少なくとも1カ月間持続するのが特徴です。
• 誤った思い込みの内容は、通常でも起こりうること(配偶者の裏切りなど)の場合もあれば、起こるはずのないこと(傷あとを残さずに内臓を抜き取られてしまったなど)の場合もあります。
• この病気は妄想性パーソナリティ障害の人に生じることがあります。
• 診断は、まず考えられる他の原因の可能性を否定した後に、主に病歴に基づいて下されます。
• 通常、患者は社会的な役割を果たせる状態にあり、仕事をもっています。
• 治療には医師と患者の良好な関係の構築が不可欠です。
一般に、妄想性障害は成人期中期から後期にかけて発症します。統合失調症よりもまれな病気です。妄想の内容は、後をつけられている、毒を盛られる、感染させられる、遠くから誰かに愛されている、配偶者や恋人に裏切られるなど、実生活でも起こりうるような状況に関するものがあります。あるいは傷あとを残さずに内臓を抜き取られてしまったなど、起こりえない状況に関するものもあります。妄想と誤った思い込みとの違いは、妄想の場合は、矛盾するどれほど明らかな証拠があっても信じ続けるという点にあります。妄想性障害には、いくつかの種類が知られています。
• 被愛型:誰かが自分に心を寄せていると思い込みます。電話や手紙、さらには監視やストーカー行為などによって妄想の対象者と接触を図ろうとする行動がよくみられます。妄想に関連した行動が法に触れることもあります。
• 誇大型:自分には偉大な才能がある、あるいは重要な発見をしたなどと思い込みます。
• 嫉妬型:配偶者や恋人が浮気をしていると信じこみます。この思い込みは、あいまいな証拠を踏まえた誤った推測に基づきます。このような状況では、身体的な暴力に訴える危険性が大いにあります。
• 被害型:自分に対して陰謀が企てられている、見張られている、中傷されている、嫌がらせをされているなどと思い込みます。裁判所など行政機関に訴えて、繰り返し正当性を主張しようとすることもあります。まれに、想像上の迫害に対する報復として、暴力的な手段に訴えることもあります。
• 身体型:体に変形が起きている、体臭がするなどと思い込み、体の機能や特徴にとらわれます。この種の妄想は、寄生虫感染症など想像上の病気という形を取る場合もあります。
症状
妄想性障害は、もともとあった妄想性パーソナリティ障害に起因して発症する場合があります。妄想性パーソナリティ障害の人は、成人期の初期に始まり、他者やその動機に対して全般的な不信感や疑念心を抱きます。妄想性障害の初期症状には以下のものがあります。
• 利用されていると感じる
• 友人の誠実さや信頼が気になって仕方がなくなる
• 悪意のない言葉や出来事に自分に対する脅迫的な意味合いがあると考える
• いつまでも恨みを抱き続ける
• 軽視されていると感じるとすぐに反応する
行動は明らかに奇妙というわけではありません。妄想性障害の人は、比較的良好に日常生活を送る傾向がありますが、妄想によって問題が起きる場合はそうはいきません。例えば、配偶者が不貞を働いていると思い込むと、夫婦関係に問題が生じます。
診断
• 医師による評価
妄想性障害の診断は、妄想が起きる他の特定の病態(物質乱用など)を否定した上で、患者の病歴と症状に基づいて下されます。また、患者毎に危険性の度合いを評価する必要もあり、特に自らの妄想に基づいて行動を起こす可能性がどの程度あるかを評価することが非常に重要です。
予後(経過の見通し)
妄想性障害によって日常生活に重度の障害が起きることは通常ありません。ただし、次第に妄想に深くのめり込むようになる場合があります。たいていの人は仕事を続けることができます。
治療
• 医師と患者の良好な関係の構築
• ときに抗精神病薬
人によっては妄想を強く信じ込み、助けを求めることを拒否するために、治療が困難になることがあります。医師と患者の良好な関係が治療の助けになります。いったん良好な関係を築くことができれば、治療を拒んでいる人に医師が治療への参加を勧めることが可能になります。患者が危険であると医師が判断した場合は、入院が必要になります。抗精神病薬は一般に使用されませんが、ときに症状を抑えるのに有効となります。妄想にとらわれた患者の関心を建設的で満足感の得られる方面に向けることが長期的な治療目標になりますが、その達成にはしばしば困難を伴います。 
 
 
 
 

 


薄い 影 潮時 引退 
消去る お迎え 神仏 三途の川 六道
●三途川 1
此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける境目にあるとされる川。三途は仏典に由来し、餓鬼道・畜生道・地獄道を意味する。ただし、彼岸への渡川・渡航はオリエント起源の神話宗教からギリシア神話にまで広く見られるものであり、三途川の伝承には民間信仰が多分に混じっている。
三途川の出典は『金光明経』1の「この経、よく地獄餓鬼畜生の諸河をして焦乾枯渇せしむ」である。この地獄・餓鬼・畜生を三途(三悪道)といい、これが広く三悪道を指して三途川と称する典拠であるといわれる。しかしながら俗に言うところは『地蔵菩薩発心因縁十王経』(略称:地蔵十王経)の「葬頭河曲。於初江辺官聴相連承所渡。前大河。即是葬頭。見渡亡人名奈河津。所渡有三。一山水瀬。二江深淵。三有橋渡」に基づいて行われた十王信仰(閻魔大王は十王のうちの1人)による。
この十王経は中国で成立した経典であり、この経典の日本への渡来は飛鳥時代と思われるが、信仰として広まったのは平安時代末期とされる。正式には「葬頭河」といい、また「三途の川」・「三途河」(しょうずか、正塚)・「三瀬川」・「渡り川」などとも呼ばれる。
一説には、俗に三途川の名の由来は、初期には「渡河方法に三種類あったため」であるともいわれる。これは善人は金銀七宝で作られた橋を渡り、軽い罪人は山水瀬と呼ばれる浅瀬を渡り、重い罪人は強深瀬あるいは江深淵と呼ばれる難所を渡る、とされていた。
伝承
渡し舟
平安時代の末期に、「橋を渡る(場合がある)」という考え方が消え、その後は全員が渡し船によって渡河するという考え方に変形する。三途川の渡し船の料金は六文と定められており、仏教様式の葬儀の際には六文銭を持たせるという習俗が以来ずっと続いている。現在では「文」という貨幣単位がないことや火葬における副葬品制限が強まっていることから、紙に印刷した六文銭(冥銭)が使われることが多いようである。
懸衣翁・奪衣婆
三途川には十王の配下に位置づけられる懸衣翁・奪衣婆という老夫婦の係員がおり、六文銭を持たない死者が来た場合に渡し賃のかわりに衣類を剥ぎ取ることになっていた。この2人の係員のうち奪衣婆は江戸時代末期に民衆信仰の対象となり、祀るための像や堂が造られたり、地獄絵の一部などに描かれたりした。
賽の河原
三途川の河原は「賽の河原」(さいのかわら)と呼ばれる。賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積石塚(cairn ケルン・ケアン)または石積みの塔を完成させると、供養になる。しかし完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうと言う。こうした俗信から「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。ただし、いずれにしても民間信仰による俗信であり、仏教とは本来関係がない。賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もあるが、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したものであるというのが通説である。中世後期から民間に信じられるようになった。室町時代の『富士の人穴草子』などの御伽草子に記載されているのが最も初期のものであり、その後、「地蔵和讃」、「西院(さいの)河原地蔵和讃」などにより広く知られるようになった。この伝承から、石が多い湖畔や河原、海蝕洞内を含む海岸に、積み石や子供を救済するとされた地蔵菩薩像などが造られて「賽の河原」と呼ばれるようになった場所も、数カ所存在する。後述の恐山(青森県)のほか、佐渡島北部、島根県にある加賀の潜戸(くげど)などが有名である。
女性の渡河
10世紀中頃の日本の俗信として、「女性は死後、初めて性交をした相手に手を引かれて三途の川を渡る」というものがあった。また、『蜻蛉日記』の作者は、三途の川を女が渡る時には、初の男が背負うて渡る—といった意味の歌を詠んでいる。こうしたことからも、平安時代の頃より三途の川信仰が多様に日本でアレンジされていたことが分かる。  
●「三途の川」の渡り方 2
「三途の川」の話、あなたは聞いたことがありますか?亡くなった方があの世に行くときに渡ると言われている川のことです。この川は、この世とあの世の境界線のようなもので、渡りきると、霊界の入口に入ります。世の中には、あの世を信じられず、自分が死んでも、その「死」を信じない人がたくさんいます。三途の川を渡る行為は、そうした人たちに死んだことを教える儀式でもあるのです。
さまざまな川の渡り方がある
「この世を去り、川を目の前にした霊人は、「とにかく渡らなければいけない 」 という内なる声に導かれて、川を渡ろうとします。その渡り方一つをとっても、服を濡らしてザブザブと歩いて渡る場合、水に濡れずにスムーズに渡る場合、溺れそうになりながら 大変苦労して渡る場合など、人によってさまざまなのです。では、いくつかの渡り方を紹介しましょう。
水面を浮いて渡る
橋で渡る
舟に乗って渡る
溺れかけながら渡る
「あの世では、この世で生きていたときのお金や地位や名誉などは、まったく通じません。川を渡るときに、川の中に沈んでいる名刺や預金通帳などを見ながら、この世での執着を捨てなければならないことを学んでいきます。大事なことは、仏神を信じ、人に優しく思いやり深い人であったかかどうかという、心の美しさです。こうした心のでき、ふできによって、渡り方に差があるわけです。」
あの世での生活にも反映される、この世での心の在り方
老いて、この世にさよならをすることは、悲しいことですが、それは新たな「あの世」という世界での生活が始まること。人間は、霊的存在であり、あの世での生活が本来の世界なのです。この世は、魂の学びのための学校です。死とは、この世での学びを終えて、あの世に還っていくことであり、本来悲しむべきことではないのです。この世の生き方、心の在り方によって、「三途の川の渡り方」が決まります。そして、その渡り方の様子は、あの世での行き先や生活を予感させるものでもあるのです。死後、あなたは、どんな渡り方をしたいですか?三途の川を前にして、「しまった!」と後悔しないように、普段から、心の執着を取り去り、明るく元気な気持ちで、幸福な毎日を送ることが大切です。
「この世で、人に対して優しい思いを持ち、 いつもよいことをしようと考えることが天国に還る条件です。」 
●三途の川 3
「三途の川」というと、よく臨死体験をした人が「三途の川を見た」などと言います。そして、川の向こうから手招きされたけど、後ろから「その川を渡ってはいけない」と呼び止められたとか、渡ろうとしていたら後ろに引っ張られて、気がついたら病室だったと言います。このような「三途の川」とは、この世とあの世の間を流れている河のことです。この川を越えると、もう戻ってこれません。死後の世界に行きます。この世と死後を分ける三途の川とは一体どんな川なのでしょうか?
三途の川は仏教?
三途の川の「三途」は「三塗」とも書き、「三悪道」のことです。「三悪道」とは地獄、餓鬼、畜生の3つの苦しみの世界です。地獄は火に焼かれるので「火途(かず)」畜生は互いに食い合うので「血途(けつず)」餓鬼は刀で責められるので「刀途(とうず)」と言うので、「火血刀の三途」ともいいます。この3つの世界は、渡りにくく、沈みやすいので、川にたとえられます。また、人は死ぬと、冥土の旅の途中に、あの世とこの世を分ける大河を渡らなければならず、それを「三途の川」と呼ばれています。このような言い伝えは世界中にあり、三途の川も、もともとは仏教本来のものではありません。
世界中に流れる三途の川
この世とあの世の間を流れる河は、世界中に言い伝えがあります。
〇エジプトの三途の川 / エジプト人は、天国の入り口に川があって、そこに渡し守がいると伝えています。その渡し船に乗るためには、呪文を知っていなければなりません。そのためエジプト人は死ぬまでにその呪文を覚えるようにしていました。
〇ギリシア・ローマの三途の川 / ギリシア人は、現世と来世の間に、ステュクス川という川があると伝わっています。アキレス腱で有名なアキレスは、足首を握られてその川の水に浸され、足首以外が不死身になったのですが、足首だけが川の水につからなかったので、アキレス腱が弱点となってしまった、といわれるのが、ステュクス川です。支流にはアケロン川、コキュトス川、レテ川、ピュリプレゲトン川など、4つの川があります。このステュクス川を渡るには、カロンという渡し守に1オロボスの渡し賃を払わなければなりません。そのためギリシア人は、死んだ人の口に1オロボスのお金を入れる風習があります。これはギリシア文化の影響を受けたローマでもほとんど同じです。
〇北欧の三途の川 / 北欧では、ヨル川という川です。ヨル川には、橋がかかっており、金が敷き詰められています。モットグッドという美少女が、橋の番をしています。
〇ペルシアの三途の川 / 古代ペルシアのゾロアスター教では、この世から浄土の入り口まで「チンバット橋」といわれる長い橋がかかっています。それは渡る人の罪の重さによって幅が変わるので、善人が通るときは幅は広く、ゆったりと楽に渡れますが、悪人が通るときは糸のように細くなり、下にある地獄に堕ちるのです。
〇東南アジアの三途の川 / 東南アジアでも、例えばボルネオ島のカヤン族には、ロングマランという川が伝えられています。橋のたもとには大男がいて、橋をゆらしています。勇者は橋を渡れますが、臆病者は橋から堕ちて、川に落ちます。
〇古代インドの三途の川 / 古代インドでは、ヴァイタラニー川という急流があります。川の水は熱くて臭く、膿や血、髪の毛や骨が流れています。これが地獄の入り口です。そしてカミソリの歯のように細い橋がかかっていています。
〇古代日本の三途の川 / 日本では、奈良時代にできた古事記に出てきます。イザナギという男の神とイザナミという女の神が色々な神を生んでいると火の神を生んだときにイザナミは火傷をして死にました。イザナギが黄泉の国へ探しに行くと、イザナミから、「もう黄泉の国の食べ物を食べてしまったので基本的に帰れないんだけど、黄泉の国の神と相談するからちょっと待って、その間、私を見ないで」といわれます。ところがイザナギが言われたことを守らずにイザナミを見てしまうと、腐った死体でした。驚いてダッシュで逃げると、イザナミは、「見たなー」と言って、ヨモツシコメ(黄泉醜女)などの追っ手を使わして殺そうとします。イザナギがおとりを使って逃げ切ると、イザナミは大軍を送り込んできたので、イザナギは桃を投げて追い払います。こうして命からがら黄泉の国から帰ってきたイザナギは、ケガレをはらうために、川へ入ります。上流は激流、下流は弱い流れだったので、中流でみそぎをしました。この川を「三瀬川(みつせがわ)」といいます。奈良時代は渡し守も橋も何もありませんでした。それが、平安時代頃には色々加わって、「三途の川」となります。
三途の川とは?
〇死出の山路 / 人が死ぬと、死出の山路へ旅立ちます。仏教の宗派の中でも、浄土真宗ではしませんが、死に装束は、白い経帷子を左前に着ます。白装束を着るのは、裸だと鬼に皮をはがれるからです。そして鉄鋼脚絆つけ、草鞋をはきます。三途の川の渡し賃の六文銭を入れた、ずだ袋をかけて、数珠を持って出発です。たった一人で真っ暗闇の中を歩き出します。荒れ果てた広野を歩いて行くと、険しい山道にさしかかります。冷たい風が吹き下ろし、罪人の悲鳴が聞こえます。約800里の3200キロの旅路を7日間で歩くので、1日約460キロです。
〇三途の川 / 死出の山を過ぎると、河原で幼い子供たちが泣きながら石を積んでいます。「賽の河原」です。これが三途の川の河原です。かわいそうですが、他人の心配をしている余裕はありません。その向こうにいよいよ見えてきた大河が三途の川です。川幅は40由旬、400キロ以上という向こう岸の見えない大河です。東京と神戸間くらいの幅があります。三途の川には、3通りの渡る道があるので、「三瀬川」ともばれます。上流は「清水瀬」といって、膝下くらいの深さで、罪の少ない人が渡れます。中流には宝石でできた橋が架かっていて、善人は橋を渡れます。下流は「強深瀬」といわれる激流です。水面に顔を出すと鬼から矢を射られます。水の中は大きな石が流れる濁流で、罪人の体は粉々になり、川の底には毒蛇がいて喰われます。死んでもすぐに生き返って400キロを泳ぎ続けます。室町時代以降になると、この強深瀬に渡し船がいて、六文の渡し賃で渡してくれることがあるのです。
〇三途の川の対岸 / ようやく対岸にたどり着くと、大きな樹があります。「衣領樹(えりょうじゅ)」です。大樹の前には「脱衣婆(だつえば)」というお婆さんと、「懸衣翁(けんねおう)」というお爺さんがいて、衣服をはぎとられ、木の枝にかけられます。罪の重さによって、枝がしなります。ここで素っ裸にされて死出の旅路を続け、閻魔大王の元に行くのです。そして裁判で、死ぬまでに造った罪によって行く先が決まり、6つの迷いの世界のどれかへと生まれ変わって行きます。これが輪廻転生です。このように、三途の川を渡ってしまうと、必ず六道輪廻を続けなければなりません。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道は、いずれも苦しみ迷いの世界で、果てしなく生まれ変わりを繰り返しますので、三途の川に来てしまったらもう手遅れです。
三途の川を渡らなくてもすむ方法
そこで仏教では、輪廻転生の根本原因を教え、それを生きているときになくしておけば、死ぬと同時に浄土に往生できると教えられています。これなら三途の川を渡る必要はありません。 
●三途の川 4
「三途」という言葉の由来は?
「三途」という言葉は「三塗」とも表され、もともと「金光明経」という仏典に記された「地獄餓鬼畜生の諸河をして焦乾枯渇せしむ」の一説に由来するといわれています。仏教の世界には3つの苦しみの道があると考えられていて、これを三悪道といいます。三悪道は地獄道、餓鬼道、畜生道からなります。地獄道は、まさに戦争に象徴されるような相手を傷つけ殺し合う世界で、火や炎に焼かれることから「火途(かと)」と呼ばれています。餓鬼道は、刀で虐げられる世界であるため、「刀途(とうず)」ともいわれます。鬼畜道は傍生(ぼうしょう)ともいい、人間を中心に据えて他の生き物を傍らに置くあり様を指し、人間同士もその能力や資質によって他の者を支配する差別の世界を示します。相互に食い合うことから「血道(ちみち)」とも呼ばれます。
三途の川とは
三途は三悪道からなる苦しみの道に由来しますが、そこから派生した三途の川はどのようなものなのでしょうか?三途の川という概念は、仏教が広く伝わった東洋や日本だけに存在する考え方ではありません。例えば、オリエント時代の神話宗教や古代ギリシャ神話でも、現生と死後の世界は川で隔てられているという考え方がありました。この世とあの世が、川という境界線で分けられているという概念は、世界的に広く存在するのです。三途の川は現世とあの世を隔てる境目にあるとされる川です。死後7日目に渡るとされる冥途に流れる川で、三瀬(みつせ)川や葬頭河(そうずか)、渡り川とも呼ばれています。三瀬川と呼ばれる理由は、三途川には流れの速さが違う3つの瀬があり、現生での業の深さによって渡る場所が変わる、という考え方からです。善人は橋を渡り、軽い罪を犯した者は浅瀬を、重い罪を犯した者は流れの速い深い瀬を渡らなければならないという言い伝えがあります。
六文銭と賽の河原
また、三途の川を渡るには「六文銭」を用意しなければならないという話も伝わっています。三途川を渡る前には、死者の着衣を剥ぎ取る鬼の老婆の奪衣婆と、奪衣婆が剥ぎ取った着衣を衣領樹(えりょうじゅ)の枝にかけ案内する懸衣翁に、川の渡し賃として六文銭を差し出さなければならないというわけです。また、三途の川と密接に関係しているのが、「賽(さい)の河原」です。賽の河原とは三途川の手前にある河原で、親に先立ち冥途の旅に出る子どもはこの河原に立ちより石積みをしなければならないとされています。これも一種の言い伝えに過ぎませんが、「法華経」に説かれる「童子の戯れに沙を聚めて仏塔を作る」によるという説もあります。三途川の名称は、今日の日本においても各地に現存しています。群馬県甘楽町を流れる白倉川の支流、千葉県長南町を流れる一宮川の支流などには、いまもその名が刻まれています。
三途の闇の意味
三途の川に対して「三途の闇」という言葉もあります。三途とは、前述のとおり地獄道・餓鬼道・畜生道からなる世界です。闇とは、こうした三途の世界での、光の見えない迷いの様、混沌とした様を指します。一般的には死後に逝くべき世界と捉えられていますが、三途の闇つまり地獄道、餓鬼道、畜生道の三悪道は死後の彼方に存在する世界であるばかりか、現実の世界、現実の生活の中にも存在するとも説かれています。本来、三途とは死後、生前の悪業を報いるために受けなくてはならない3つの苦悩、闇に包まれた境遇を意味する三悪道のことでした。そして、死者が生前に犯した悪業のすえに迷い込む三悪道と、この世の善人を隔てる境として考えられたとされるのが「三途の川」なのです。
三途という概念の仏教的意味合い
仏陀は「大無量寿経」で48の本願を説いています。そこには、第一の悲願として「設我得佛、國有地獄餓鬼畜生者、不取正覺」と記しています。つまり、「もし私が仏になろうとしても、この世に地獄、餓鬼、畜生の三悪道がある限りは、悟りを開くことはできない」というわけです。本来、仏教では三悪道や三途の闇とは無縁の平和で平等、けがれない世界の実現を願って日々精進しようと努めます。しかし、現実として人々は三悪道の道に迷い込み三途の闇にもがき苦しんでいるというのが実態であると捉えています。確かに現実を顧みれば、そうした様相は明らかかもしれません。世界中の人々は一様に、三悪道や三途の闇を克服し、平和で平等、けがれない世界が切り開かけることを願っていますが、戦争や殺りく、また差別や排除が収まる兆候は残念ながらありません。仏教では解決の拠り所として、他は敵と見なし排除や殺りくの根拠とする自我、つまりエゴの排斥を説きます。仏の悲願は人間のもとの姿に寄り添いながら、本来の願いの実現に努めることです。三途という概念もその一端を表す教えとして捉えることができます。 
●三途の川 5
通夜の読経に励まされてようやく「死出の山」の山頂に立つと、眼下に、この世とあの世を分ける、三途の川が見えます。向こう岸も見えない大きな川です。川のこちらの岸(此岸・しがん)は「この世」、川の向こう岸(彼岸・ひがん)は西の彼方に当たり、地獄や極楽浄土もある「あの世」とされます。総じて「冥土」とも呼ばれます。
亡者は誰もがこの三途の川を渡ることになるので、川辺は大変な混雑です。賽(さい)の河原と呼ばれる川辺には、幼くして親に先立って亡くなった子供たちが、親不孝の罪で渡川できず回向の石積みを毎日繰り返していて、地蔵菩薩が幼児を救済しようとしています。また、三途の川は生前の善行や悪業の多少で渡川の仕方や場所が異なります。川のほとりには、亡者の衣服で罪の重さを測る奪衣婆(だつえば)や懸衣翁(けんえおう) がいたり、生前の善悪の行為ををつぶさに審査して転生先を言い渡す十王(閻魔)がいます。さらに、これら大勢の亡者の監視・指示などに当たったり、十王の審判の手助けや判決執行などを苦界の現場で直接手掛ける、それはたくさんの鬼(鬼卒)がいます。
T 賽の河原
三途の川のほとりに「賽(さい)の河原」と呼ばれる場所があります。河原で、大勢の幼子(おさなご)が、それぞれ、重い石を一つずつ運んでは積み上げてケルンを造っています。早死(はやじに)したと、親不孝の罪を償わされているのです。子供たちは「父恋し、母恋し」と父母の名を呼びながら、回向(えこう)の塔をつくっているのですが、夕暮れになると、鬼が現れて金棒でせっかく積んだ塔を壊してしまいます。それが、毎日、来る日も来る日も繰り返されていて終わりは見えません。そんな時、お地蔵さまが現れて、「私を冥土の父母だと思いなさい」と、子供たちを庇護・救済してくださいます。
地蔵和讃
これは此世のことならず 死出の山路の裾野なる 賽の河原の物語 聞くにつけても憐れなり 二つや三つや四つ五つ 十にも満たない嬰児が 賽の河原に集りて 父恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を徹すなり 彼の嬰児の所作として 河原の石を取り集め 是にて回向の塔を積む 一重積んでは父のため 二重積んでは母のため 三重積んでは故里の 兄弟我身と回向して 昼は一人で遊べども 日も入相の其の頃は 地獄の鬼が現れて やれ汝等は何をする 娑婆に残りし父母は 追善作善の勤めなく 只明け暮れの嘆きには むごや悲しや不憫やと 親の嘆きは汝等が 苦患を受くる種となる 我を恨むることなかれ 黒金棒をとりのべて 積みたる塔を押し崩す 其の時能化の地蔵尊 ゆるぎ出させ給いつつ 汝等命短かくて 冥土の旅に来たるなり 娑婆と冥土は程遠し 我を冥土の父母と 思うて明け暮れ頼めよと 幼きものを御衣の 裳の内に掻き入れて 憐れみ給うぞ有難き 未だ歩まぬ嬰児を 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲の御膚に 抱き抱えて撫で擦り 憐れみ給うぞ 有難き
U 三途の川を渡る
三途の川を渡るのに、罪のない善人だったら、昔は橋がありましたが、今は舟で渡るしかあません。渡し賃は六文(銭)と決められています。善人でなかったり、六文銭を持っていない亡者は川の中を歩いたり泳いだり大変な苦労をして渡ります。渡る場所も、生前に犯した罪の軽重によって、浅瀬から深淵、緩流から激流の所と違います。
奪衣婆(だつえば)
三途の川のほとり(川を渡った先)に衣領樹(えりょうじゅ)という木があり、その木の下に「奪衣婆」(だつえば)と呼ばれる老婆がいます。老婆は、ようやくのこと川を渡り終えた亡者の濡れた衣を剝ぎ取っては、木の上にいる「懸衣翁」(けんえおう) という老爺に渡します。老爺は受け取った衣を木の枝に掛け、枝の垂れ具合で生前の罪の軽重を判別します。
V 十王の審判
亡者の生前の行い(善悪)が裁かれ、来世の転生先が言い渡されます。
三途の川を渡ると、亡者は、冥界の十王の審査を受けることになります。仏教(往生要集・十王経など)では、人の死後の行き先は、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)のいずれかとされます。どの世に行くかは、亡者の生前の行いを基に冥界の裁判官である十王が裁きます。閻魔王はこの中の一王です。審判は、没後初七日の1回目から七日ごとに開かれて四十九日の7回目で六道のいずれに転生するかが判決されます。その後、追善供養(百ヶ日、一周忌、三回忌)に開催される3回の追補審査での「救済」が加味されて、すべての転生先が最終的に確定されます。全部で10回の審判ですが、各回、異なった王によってなされます。
(参考)各王の審判担当日:()内は没後の日数) 秦広王(初七日)・初江王(十四日)・宋帝王(二十一日)・五官王(二十八日)・閻魔王(三十五日)・変成王(四十二日)・泰山王(四十九日)・平等王(百ヶ日忌)・都市王(一周忌)・五道転輪王(三回忌)
閻魔王の審判
十王の審判は全部で10回なされますが、各回、異なった王によってなされます。閻魔王の担当は、5回目(没後三十五日)です。閻魔王の法廷には、閻魔王を筆頭に、冥府の書記官である「司録と司命」、亡者の生前の善悪の行為を知る「倶生神」、濡れた衣で亡者の罪の重さを知る「奪衣婆・懸衣翁」が同席します。また、法廷には、亡者の供述の真偽を確認するため、閻魔帳、浄玻璃鏡、人頭杖、天秤(はかり)が用意されています。
閻魔王は、亡者の生前行為の善悪をつぶさに審査して、六道(苦界)、特に苦界の中でも最も酷とされる「地獄道」を中心に、亡者がそのいずれへ転生するかを宣告します。罪の内容や軽重で、転生先は細かく決められています。、特に地獄についていえば、八大地獄がありさらに十六の小地獄があります。(下の地獄の項を参照ください)
閻魔王の法廷 
罪の軽重や嘘がすぐ判る六つの仕組み
審判の冒頭に、閻魔大王はまず手元の閻魔帳を見ながら罪状を述べます。閻魔王の述べた罪状に対して亡者は自分を弁護することができるようです。でも、嘘をついたことがわかると舌を抜かれてしまいます。
閻魔王が亡者に述べた罪状内容に、亡者は自己弁護を行う場合もありますが、それが嘘か本当かはどうしてわかるのでしょうか。審判の場(法廷)には、閻魔王が亡者の善悪の行為を見極めるのに使用する道具や証人が、6種も、用意されています。上掲の絵図では、閻魔王は机上に 1自身が亡者について記録した閻魔帳を広げています。机の右には下(手前)から、2浄玻璃鏡 3人頭杖 4天秤(はかり)が置いてあります。その上、図には載っていませんが、亡者の生前の行いを知る5俱生神や、6奪衣婆・懸衣翁も同席しています。これら、1〜6をご案内します。
1 閻魔帳(えんまちょう)
閻魔帳は、閻魔王が亡者の生前のすべての行為を善悪問わず書き留めておくとされる帳簿です。下図では、閻魔王の机上に広げてあります。この閻魔帳の記録をを確認しながら、亡者の生前の行為をチェックし審判を行います。
2 浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)
浄玻璃鏡の前に亡者が立つと、亡者の生前の行動の一挙手一投足が再現映像として映し出されます。気づかずに自分の生涯が他人に及ぼした影響までも映るといわれます。そのため、何一つ隠し事はできません。大きな水晶の鏡で、閻魔王の前に置かれています。
3 人頭杖(にんとうじょう)・檀拏幢(だんだとう)
杖や竿状の檀の上の蓮華に中国風の髪形をした憤怒の男と柔和な女の頭が並んで載っています。「見る目」「嗅ぐ鼻」と呼ばれる善と悪の二つの顔で、人頭杖(にんとうじょう)または檀拏幢(だんだとう)と呼ばれます。閻魔王が亡者の生前の行為の「善行と悪業の程度や両者のどちらが多いか」などを総合的に判断する際のよりどころの一つです。閻魔王が亡者を審判するとき、重罪であれば憤怒の男相の口が火を噴き、善行が勝れば柔和な女相から芳香が漂うとされます。
4 天秤(はかり)
「業(ごう)の秤」ともいわれる天秤(はかり)で、亡者の生前の罪の重さをはかります。下掲の石造の「はかり」では、左の分銅の大石が上がっていて、右の天秤皿に乘った亡者の側が下がっています。亡者の罪が重いということです。
5 俱生神(くしょう じん )   (審判に同席)
俱生神は、亡者の生前のすべての善悪の行為を知る者として審査に同席しています。
俱生神は、人の誕生と同時に、その人の両肩の上に生まれ、常にその人の善悪の行動のすべて(どんな些細なことも)を記録し、その人の死後、閻魔王に報告するという二神(二神は同一の神ともされますが)です。左肩に在る男神は「同名(どうめい)」といいその人の悪業を記録し、右肩に在る女神は「同生(どうしょう)」といい善行を記録するとされます。閻魔王の審判に同席します。久野俊彦・「日本神仏辞典」大修館書店によると、インドでは冥界を司る双生児神だが中国・日本では十王信仰と結びつき、十王図では閻魔王の前に立つ人頭杖の上に乗る「視目」「嗅鼻」とよばれる二つの鬼の首として描かれる、とあります。
6 奪衣婆(だつえば)・懸衣翁(けんえおう)  (審判に同席)
奪衣婆・懸衣翁は裁かれる亡者の罪の重さを知る証人として審判に同席しています。前述しましたが、奪衣婆・懸衣翁は三途の川のほとりで、亡者から剥ぎ取った衣の重さで、裁かれている亡者の罪の軽重を測定してあります。
エンマ
嘘をつくと閻魔さまに舌を抜かれるといわれます。十王の審判の仕組みの中では、嘘はどんなに些細なものでもすぐにバレて言い逃れはできません。舌を抜くのに用いる釘(くぎ)抜き状の道具は「エンマ」と呼ばれます。下掲の閻魔像には、「エンマ」が添えられています。
W 鬼たち
三途の川にやってくる、大勢の亡者を整理、管理、指示したり、十王の審判の処刑を地獄で執行するのは、鬼たち(鬼卒)です。地獄には牛頭・馬頭などの鬼もいるようです。
X 十王の判決と六道  転生先
亡者は、没後四十九日の7回目の審判で、来世は六道のいずれへ生まれ変わるか(転生するか)の判決が言い渡されます。六道とは、再掲しますと、
地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道
ですが、すべて苦界です。苦界で最も酷なところが地獄で、最も楽なところが天道です。人間道とはこの世・現世のことです。六道の中での生まれ変わりを「六道輪廻(りんね)」というようです。仏様(阿弥陀如来ほか)に「救済」して頂いたり、刑期を終えて自分で「悟り」や「徳」を積むなどすると、苦界(六道)を「解脱」できて、極楽浄土に入れるとされます。極楽浄土への切符はきわめて「入手困難」なもののようです。
人間道
冥界の十王の審判による転生先の六道の一つ「人間道」とは「現世」のことです。現世は、たくさんの楽しみや喜びなどもありますが、いわゆる’生き’地獄の観もあります。戦争・テロ・飢餓・貧困・病苦・差別・いじめ・地震・風水害・火事・犯罪・親殺し・子殺し・・・、さらには、受験地獄・通勤地獄・借金地獄・交通地獄・地獄谷などもあります。
地獄道
地獄は最も罪の重い亡者が行く所とされます。地獄は奈落(ならく)の底とも呼ばれる、苦界で最も過酷な場所です。地獄絵・極楽絵は、鎌倉時代以降(特に江戸時代)、寺の僧侶が庶民に地獄・極楽を「絵解き」して説明するものでした。「地獄絵図」などを題材にした優れたウエブサイトが多数あります。そちらをご覧ください。一部のサイトを勝手に、本項末尾に添付させていただきました。
(参考)地獄は、八つの大地獄があり、さらに、十六の小地獄があって、多重層構造になっているとされます。八大地獄は以下の通りですが、後にいくほど過酷な世界のようです。1等活地獄⇒2黒縄地獄⇒3衆合地獄⇒4叫喚地獄⇒5大叫喚地獄⇒6灼熱地獄・炎熱地獄⇒7大焦熱地獄・大炎熱地獄⇒8阿鼻地獄・無間地獄。(亡者の生前の罪の内容や軽重で行き先は細かく規定されています。
Y 六地蔵
閻魔王は地蔵尊の化身とされます。また、賽の河原では地蔵尊が幼子(おさなご)を庇護救済します。六地蔵と呼ばれる、地蔵尊が六体並ぶ像はよく見かけます。六道(ろくどう)地蔵とも呼ばれます。亡者が生前の行いによって生まれ変わる迷いの世界、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)に関わる地蔵尊です。
六地蔵とは、六道において衆生の苦しみを救うという六種の地蔵菩薩。すなわち、地獄道を救う檀陀(だんだ)、餓鬼道を救う宝珠、畜生道を救う宝印、修羅道を救う持地、人道を救う除蓋障、天道を救う日光の各地蔵の総称。また、延命・宝処・宝手・持地・宝印手・堅固意の六地蔵とする説もある。
Z 極楽・浄土
「源信の往生要集」によると、苦界(六道)から抜け出した(解脱した)「悟り」の世界が極楽浄土です。如来を中心に菩薩・明王もおられます。
平等院は藤原頼道によって1052年に創始され、翌1053年に極楽浄土の象徴である阿弥陀如来の像(定朝作)を安置した阿弥陀堂(鳳凰堂)が完成。
平安時代に著された源信の「往生要集」は、地獄も記されていますが、いわば極楽への案内書で、念仏修行すれば、西方の極楽浄土の主、阿弥陀如来が諸菩薩を従えて人間世界へ降りてきて極楽浄土へ導いてくださり(来迎)、極楽往生できるとされました。当時、平安貴族たちの間では、末法思想(釈迦入滅後、年代が経つにつれ正法は衰滅し、永承7年-1052-に末法の世を迎えるとされた)が行きわたり、来世での極楽往生を願い、来世の極楽浄土を想い描いていました。
そのような背景から、鳳凰堂や周囲の庭園は、「観無量寿経」に基づく西方極楽浄土を現世に出現、感得するものとして建立されました。(平安貴族がイメージした極楽浄土です) 
●三途の川 6
人は死ぬと七日目には三途の川の辺に到着。人が冥土に行く為には、渡らなければならない三つの川、すなわち「葬頭川」(そうずがわ)三瀬川(みつせかわ)「渡り川」がある。川の流れは三つに分かれていて、前世の行為(業)にしたがって、それぞれにふさわしい流れを渡ることになる 。三途とは地獄・餓鬼・畜生の三悪道のことだが、この川の辺に衣領樹(えりょうじゅ)という木がある。木の下には「奪衣婆」(だつえば)という老婆がいて、木の上には「懸衣翁」(けんえおう)というお爺さんがのっている。お婆さんが着ている衣類を脱がせ、木の上のお爺さんに渡し、木の枝に掛けると、その重みで枝が垂れる。枝の垂れ方で生前の罪の軽重が分かる仕掛けである。その「懸衣翁」と「奪衣婆」が、35日目の閻魔大王の裁判に、陪席しているので嘘の申告は出来ないのである。  

真田六文銭 渡し賃 
三途の川はどこにある 死んで冥土に行く途中に越える川 
生前の罪業により 緩急の異なる三つの瀬を渡る 
川のほとりに鬼形の姥がいて衣を奪い取る 
六道銭 葬る時に三途の川の渡船料として棺の中に納める 
六道能化の地蔵菩薩への賽銭 
衆生が生前の業因によって生死を繰り返す六つの迷いの世界 
地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上 
倶生神(くしょうじん)  
どんな人間でも生れ落ちた時その瞬間から、二人の神様がその人の両肩に乗かっているそうだ。神様だから重みを感じない。この神様の名前は「倶生神」で、左の肩には、男の神様が、右の肩には女の神様が乗る。この倶生神が、閻魔大王の命により、その人の善行・悪行の全てを記録している。男の神様は善行を、女の神様は悪行を記録し、35日目の閻魔大王の裁判の時、肩から降りて、閻魔大王に最大漏らさず奏上する。  
 
 
 
 

 

ダイエット
痩せこける  目の隈 こけた頬 への字の口 
やり過ぎ
●痩せこける
やせて骨ばる。ひどくやせる。体重を減らす。やせて肉が落ちる。ひどくやせる。病的な痩せ方をするさま。「病気で痩せこける」「骨と皮ばかりに痩せこける」
自分の痩せる夢
自分の身体が痩せている夢は、一時的な精神疲労や金銭面での心労などをあらわしています。そのため、痩せる夢も結果的に病気や体調不良などに対する注意を呼びかけている場合もあります。もしくは、あなたの両親のどちらかの病気や体調不良を教えるために、あなたの体が痩せてしまった夢を見ることもありますし、ご両親のどちらかが、何か心配や辛労を抱えている可能性もあります。ご両親が近くにいるなら様子を見にいったり電話をかけたり、一緒に住んでいるなら優しい言葉をかけてあげたり、体調の変化などにも気をかけてあげてください。
自分が太る夢
自分の身体が太っている夢は、自分が病気にかかる前触れか体調不良になる警告夢になります。もしくは、あなたの両親のどちらかが病気か体調不良になることを警告して出てくることもありますので気をつけましょう。特にあり得ないほど巨漢になっている自分の姿は、病気や体調不良などがより深刻な事態になる可能性があることを告げているため、既に体調に異変を感じている場合は、医療機関できちんと診てもらうことをおすすめ致します。同様に、両親のどちらかの健康運を象徴している場合もありますので、両親の体調にも気を配っておきましょう。なお、鏡に映る自分の姿が太っている夢も同様の判断になりますので、十分な注意が必要です。 
 
 
 
 

 

不遇 / 不幸 / 不運 / 不満 / 不変 / 不如意 / 不慮の事故 / 不測の事態 
運 / 運気 / 運命 / 運勢 / 運がない / 運が悪い / 運の尽き / 夢見が悪い / 悲運 / 悪運 / 衰運 / 逆運 / 天運 / 宿運  / 命運
天罰 / 神罰 / 仏罰 / 自然の報い / 罰が当たる / 天 / 天命 / 天誅 / 天に見放される / ばち当たり / 宿命 / 薄命 / たたられる / 無常 / 巡り合わせ / 因縁 / 星回り / 憂き目 / 命 / 星 / 命数 / 数奇 / 凶日  / 必然
貧乏くじ / 貧困 / 極貧 / 貧乏くじ / 貧乏 / 赤貧 / 貧乏人 / 貧者 / 清貧 
夢 / 夢幻 / 砂上の楼閣 / 蜃気楼 / 心外 / 身の上 / 約束 / ケチがつく
難 / 難儀 / 災難 / 御難 / 急難 / 艱難 / 後難 / 危難 / 苦難 / 困難 / 厄難 / 財政難 / 一難去ってまた一難
災難 / 災厄 / 災い / 災禍 / 災厄 / 罹災 / 被災
禍 / 禍害 / 被害 / 事故 / 厄
窮乏 / 窮迫 / 窮迫 / 逼迫 / 困窮 / 薄幸  / あだ桜
裸 / 裸一貫 / 無一文 / 無一物 / 火の車 / 食い潰す / 疲弊 / 首が回らない / 食いはぐれ  / 青息吐息 / 四苦八苦 / 丸裸 / 負け組 / 金欠病 / すってんてん / すかんぴん  / 文無し / 宵越しの金は持たない / ワーキングプア
ついてない / 弱り目に祟り目 / 泣きっ面に蜂 / 間が悪い 
限界状態 / 格差社会 / 劣等感 / 引け目 / コンプレックス / うだつが上がらない
 
 
 
 

 

●孫正義の成功 
フォーブスの日本長者番付で、2017年、18年と2年連続で首位を獲得した、ソフトバンクグループ会長兼社長の孫正義。創業から現在に至るまで、事業規模を拡大させ続けている孫の生い立ちや学生時代から、華々しいキャリアを築き上げてきた道のりをたどる。
孫は在日韓国人実業家の4人兄弟の次男として、1957年8月11日に、佐賀県鳥栖市の在日韓国人の集落に生まれた。国鉄の土地を不法に占拠して住み着き、住所は番地のない「佐賀県鳥栖市五軒道路無番地」だった。孫の父は養豚や焼酎の密造で家計を支えていたが、家はトタン屋根の粗末なもので、生活は決して楽ではなかった。忙しく働いていた両親の代わりに、孫の面倒を見ていたのは祖母だった。孫の祖母は14歳の時に日本に渡り、太平洋戦争を生き延びた経験もある。孫が3、4歳だった頃は、祖母の引くリヤカーに乗って毎日のように散歩していたが、それは豚の餌にするための残飯を近所の人からもらうためでもあったという。
孫が中学生の頃、父の仕事が好転しはじめ、一家の暮らし向きは改善した。しかし、一家に新たな試練が訪れる。父が吐血して入院したのだ。家計を支えるために、孫が学業を諦めかけたこともあったようだが、1歳年上の兄が高校を中退して家計を支え、父の入院費のサポートをした。中学生だった孫は、一時的な解決策ではなく中長期的に家族を支えたいと、事業家になることを決意。当時、事業家になるためにはアメリカで学ぶことが必要だと考えた孫は、母親や親戚からの反対を押し切り、進学校として有名な久留米大学附設高等学校を中退して渡米。アメリカではまず、オークランドのホーリー・ネームズ・カレッジの英語学校に入学。その後、サンフランシスコのセラモンテ高校に編入学をすると、3年生、4年生と飛び級をして、高校卒業検定試験に合格した。75年にホーリー・ネームズ・カレッジへ入学、77年にはカリフォルニア大学バークレー校のへ編入学を果たした。孫は大学在学中に発明した自動翻訳機をシャープに売り込み、1億円の資金を得る。それを元手にソフトウェア会社である「ユニソン・ワールド」を設立。日本からインベーダーゲームを輸入、販売するなどの事業を展開した。80年にカリフォルニア大学バークレー校を卒業し、81年に日本ソフトバンク(現 ソフトバンクグループ)を、96年には、「Yahoo!JAPAN」を設立した。
在日韓国人3世とし生まれた孫は、16歳で渡米するまで「安本正義」と名乗っていた。一家全員が戸籍に登録されている孫という苗字ではなく、通名である安本を名乗る中、ただ一人孫と名乗ることを決めたことに対し、親戚からは大きな反発があった。「孫 正義」という名前で生きていくことを決めた理由について、「今まで自分が悩んできた国籍や人種のことで同じように悩んでいる人たちがたくさんいるので、立派な事業家になって、孫正義の名前で人間はみんな一緒だと証明してみせるためだった」と、2010年の「ソフトバンク新30年ビジョン発表会」で語った。15年の講演の際には、「僕は十数年前にやっと、泣きたいほど望んで日本国籍をいただくことができました。今でも自分が何人かよくわかりません」と語っている。生い立ちで苦労してきた孫は、19歳の時に人生50年計画を立てていたという。それは、「20代で業界に名乗りを上げる。30代で軍資金を貯める。40代で一勝負して、何か大きな事業に打って出る。50代でそれをある程度完成させる。60代で次の経営陣にバトンタッチし、300年以上続く企業に仕上げる」というもの。
40代でソフトバンクを東証一部に上場させ、ボーダフォン買収により携帯電話事業に参入するなど、10代の時に立てた計画を着実に実行している。
幼稚園時代には「朝鮮人!」と呼ばれて石を投げられてケガをしたことも、小学生、中学生の時には、自身の生い立ちに対する差別に悩み自殺をしようと思ったこともあったという。逆境をバネに世界的な実業家として活躍する姿は、実業家を志す人、また、恵まれない環境で苦労している人たちに勇気を与え続けている。 
 
 
 
 

 

●「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」 
親鸞聖人が詠まれたと伝わる和歌です。親鸞聖人が9歳の時、仏門に入られる決心をされ天台座主である慈円を訪ねましたが、すでに夜だったので、「明日の朝になったら得度の式をしてあげましょう」と言われました。しかし、聖人は「明日まで待てません」とおっしゃられ、その時詠まれたのがこの歌と伝わっています。この歌の意味は、「今美しく咲いている桜を、明日も見ることができるだろうと安心していると、夜半に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない」ということですが、親鸞聖人は、自分の命を桜の花に喩え、「明日自分の命があるかどうか分からない、だからこそ今を精一杯大事に生きていきたい」との思いが込められています。
今年も3月11日がきました。あの大震災から早くも3年が経過し、あの時に感じた災害の悲惨さ、そして命のはかなさというものが薄れつつあるように思えます。私たちは当然のように自分には明日もあり、また明後日もあり、そして10年先、20年先もあると思っています。また、知らず知らずのうちにそういうことを前提とした生活習慣となり、今ここにしかないこの命を大切に生きられていないことも多くあるのではないでしょうか。3年前の3月11日には一瞬にして2万人近くの方々がお亡くなりになり、そして3年経過した今もなお、26万人以上の方々が避難生活を余儀なくされているという現実。この現実を経験しても、時間の経過とともにその記憶が薄れ、また当然のように自分には明日があり、今を精一杯生きられていない自分。親鸞聖人の詠まれた歌から、改めてそういった自分に気づかされます。
4月は新年度です。本学も多くの方々が新しい生活に期待を膨らませご入学されます。心機一転、新たな気持ちで新たな生活をはじめていきたいものです。今までは「明日やればいい」と言って、先延ばしにしていることはないでしょうか? 「もう少し落ち着いたら、新しいことを考えよう」「もう少し落ち着いたら、改善に取り掛かろう」「もう少し落ち着いたら、資格の勉強を始めよう」と言って先延ばしし、結局なにも手をつけられなかった今までの生活を改め、これからは「今を精一杯生きる」ことを目標に、何事も先送りせず取り組む生活を送りたいものです。
親鸞聖人のこの和歌は日野の誕生院の石碑にきざまれています。是非一度、観光をかねて足をお運びになってご覧ください。 
 
 
 
 

 

●世捨て人 
ついったでちょこちょこお話しているのですが、今ジョジョのスマホゲーをやっております。スターダストシューターズと言うアプリです。ジョジョもいよいよ終わらないコンテンツとなりましたかね。今更のアニメ化、今度は実写。近々、新しいアプリが出るそうですね。今のスターなにがしアプリも、5部以降のキャラが未登場なのです。まだまだ更新の期待ありなのです。
私がジョジョファン全盛期だったのは学生時代でしたね。15年は前の話です。そのころにはもう6部が始まってました。未だにその頃の作品を楽しめるのはそれはそれで楽しいことなのですが。が、です。時々思うのです。昔の作品、昔の感性のまま、新しい事をせず、新しいものに触れずに人生を過ごすのは、今の世を生きている意味がないのではないか…なんてね。
囚人だって同じ囚人と会話します。聖職者だって迷える人を救います。引きこもりだってネトゲ位するでしょう。世捨て人や孤独な老人とは違います。仕事もせず、世間に出ず、人と交わらず。新しい趣味も学習も知的作業もせず。何も生み出さない、世の中と隔離された生活を送る事に、漠然とした恐怖を覚えるのです。
「生きている意味が無いのではないか」世のため人のため…なんて高尚な事を言うつもりはないのですよ。言葉のままなのです。
「あの頃は」といつまでも言い続けて、あの頃から何も変わらず、何の影響も受けず、何にも誰にも影響を与えないで生きるのであれば…「あの頃」に死んでいても同じなのではないか。とね。と、ウチの父親の姿を見て思ったのです。
家族(私と私の母親)以外と会話なく…家族ともロクな会話しませんけどね。人生経験も浅く狭く、経験を経験談として語れる語彙や考えもないジジイです。1960年代歌謡と藤田まことに未だ執着し。あとは競艇、競馬、囲碁将棋の中継を見ているだけの人生です。ま、「普通以下であっても異常という程ではない老人」の範囲内だとは思いますし。父親を非難する意図もあることはあるのですが、それ以上に自分がそうなりたくないと思う気持ちが強いのです。
仕事を辞めてすぐは「もう二度と世に出るまい」位に引きこもりを覚悟していた時期もありましたが。職業訓練を経て、いろんな(と言っても、メイン2名なのですが)人に影響を受けて だいぶ前向きな考え方になったのです。前向きと言うほど大層な事をしたいわけではなく、ホント些細なことでもよいので、新しいものや他の人に関わりたいと思うようになりました。
おなじ老人(失敬)でも父親とは異なり、職業訓練にいた60代の方は「若い人たちと触れ合う機会はめったにあるものじゃないから」と、割り勘の持ち多めで呑み会を企画してくれて「好きなものを頼め」と職なしの我々を支援してくれました。
その場でも訓練中でも、仕事や趣味などで経験したお話をいろいろ聞かせていただい たのです。そういう和やかな空気を作れる方でして、おかげでとても楽しく訓練できたのです。ちなみにもう一名の私に影響を与えた方は前回ブログに記載した、私を「心配な人」 呼ばわりしてくれた先生です。
30代半ば、超大手企業の設計担当として最前線で世界を相手に実績を上げてきた私の経歴に惑わされず、引っ込み思案なネガティブニートの本質を見抜いたのです。私より10歳近くも年下なくせして、世の事をしっかり見据えているような方です。なんちゃって分析屋の私より、はるかに知的で現実的に物事を見て、どうすれば より良い方向に向くか知っていて、自分も向上心に溢れるような熱血先生でした。でも頭ごなしに怒鳴ったり、自分の考えを相手に押し付けるようなヤカラではなく。いい「先生」に出会えました。後から生まれた年下であっても、ね。
私がクラスの方々や先生にどれだけ影響を与えられたかはわかりませんが、訓練を経て、私が前向きな心を与えられたのは間違いないのです。あ、講習で私が作業したエクセルシートを「代表例として使いたい」と言ってくれた ので、私のオフィスソフト取扱いスキルは今後の訓練生のために役立つでしょう。世のため人のためになりました。くれぐれも、特に「ご高説賜り私も世の為尽力する次第で」とか言う次元の話ではありません。
ネトゲやSNS経由でもいいから人と関わりたい。ニコニコ動画のアニメでもいいから「今」創られている、今流行っているものに触れていたい。安月給でもいいから世間に貢献したい。そんな気分なのです。ま、それも未だ無職でいるから考えられる余裕の現れなのかも知れませんがね。仕事はじめたらそれどころじゃなくなってまた「あぁ^〜死にたい引きこもりたい」になったりしてね。今の気持ちがあるうちに、内定もらえるといいんですけどねえ。 
 
 
 
 

 

●世捨て人生活で起こった身体の変化
痩せた
一般人カナモの時は、体重が63kgありました。でも世捨て人カナモになって1年ほどで、58kgに減りましたね。運動量は以前よりも明らかに増えてるんで、単純に脂肪が落ちたんだと思います。今は筋トレしてるんで64kgくらいになってますが、基本的には世捨て人生活は痩せるってことです。
筋肉ついた
こんな不安定な生活では、健康な肉体が唯一の資産です。なので今までよりも健康に気を遣うようになり、結果的に筋肉つければ万事解決というとこに落ち着きました。おそらく同年代の中では筋肉ある方だと思います。筋肉つけることによって妙な自信もつき、精神面も確実に改善しました。
頭から焚き火の匂いがする
最近はそうでもないですが、西表島にいた時なんかはほぼ毎日焚き火してました。そうすると、いくらしっかりシャンプーしても頭から焚き火の匂いが取れなくなるんですよ。まぁ加齢臭よりも遥かにマシなんで良いんですけどね。溢れ出る加齢臭に悩んでる人は、毎日焚き火したら良いと思いますよ。
目のクマが酷くなった
元々クマがひどいほうだったんですが、最近は更にひどくなってます。どうしても生活リズムが不規則になってしまうんで、これは要改善ですね。体調面は全く問題ないんですけどね。
スタミナついた
きりもみ式火おこしを1時間近く頑張ったり、西表島のジャングルを8時間歩き続けたり、とにかく忍耐力が必要なことばっかやってます。そんな生活送ってると、必然的に我慢強くなりますよね。当然ながら、肉体的な耐久力も上がってます。でもフルマラソンだけは絶対イヤ。
表情が柔らかくなった
これは人によく言われるんですが、前よりも表情が柔らかくなったそうです。社会人生活中は常にストレスとの戦いで、心に余裕がありませんでした。月に1回はひどい胃痛に苦しみ、夜も眠れませんでした。今は胃痛も完全に消え、心にもゆとりが生まれました。その変化が表情に表れているんだろうと思います。
まとめ
以上が、世捨て人生活生活を始めてから僕の身体に起こった変化です。家庭、仕事、収入、安定など、色んなものを犠牲にして、僕は今世捨て人として生きています。正直な話、他人に誇れるような生き方じゃないです。でも後悔なんて微塵もありません。何故なら、やっと自分らしくいられる生き方を見つけたからです。人生に疲れ切ってしまったら、僕のような生き方をするのもアリかもしれませんね。 
 
 
 
 

 

●世捨て人の生活となり方
仕事が嫌で会社を辞めたい人にとって世捨て人は憧れの存在です。たまにニートと世捨て人を混同する人もいますが、意味には明確な違いがあり世捨て人は生活に張りがあるのが特徴です。世捨て人にはどのように行動すればなれるのでしょか。なり方を紹介していきます。
世捨て人の意味とは
世捨て人の自由な生活に憧れるという人もいれば、正直「世捨て人」という言葉を聞いたことがなくてどのような生活をしているか想像もつかないという人もいるのではないでしょうか。あまり一般的ではない世捨て人という言葉に関して、まずは意味や類語から紹介していきます。
世捨て人の意味
「世間を捨てた人」と書いて「世捨て人」と読む言葉ですので、意味はそのまま「俗世を捨てている人」になります。世間の煩わしさから解放されて自由に生活している人や、一般的な人のように時間に追われた仕事をしていない人のことを意味します。自由な生活をしている人のことを世捨て人と呼びますので、まれに「ニート」と同じ意味だと誤解している人もいますが世捨て人とニートは似ているようで意味が全然違います。世捨て人とニートの違いについては後程解説しますので、まずは「世捨て人」への理解を深めるために類語を確認していきましょう。
世捨て人の類語
世捨て人の類語にはどのような言葉があるでしょうか。先ほどお伝えした通り、混同されがちがですが「ニート」は違う意味を持った言葉です。世捨て人の類語としては「仙人」や「隠者」という言葉が適切でしょう。その他にも「自由人」や「浮世離れてしている人」を総称して「世捨て人」ということもあります。「世捨て人」という言葉だと意味が分かりづらくても、「仙人」や「浮世離れてしている」という類語を知ることで意味も理解しやすくなるのではないでしょうか。
ニートとの違い
世捨て人とニートはどのような違いがあるのでしょうか。世間との関わりを持たずに生活をしているという点では、世捨て人とニートは確かに共通点があります。しかしながら、今から紹介する世捨て人の生活や特徴にもある通り世捨て人は俗世との関わりを最低限にしている人が多い一方、ニートはネットやテレビなど俗世間の娯楽に時間を費やしている人が多いでしょう。また、世捨て人は毎日出勤して仕事をしていなくても十分な貯金や収入がありますが、ニートは自分の生活費を親や兄弟に依存しています。自立しているか否かという点も、世捨て人とニートを区別する基準になるのではないでしょうか。
どんな状態を言う?世捨て人の生活
世捨て人はどのような生活をしている人が多いのでしょうか。憧れる人も多い世捨て人の生活がどのようなものか、実態を解説していきます。今、漠然と「世捨て人になりたい」と考えている人も自分が本当に世捨て人の生活ができるかどうか考えながら読んでみてください。
基本的に勤めには出ない
世捨て人は基本的に毎日出勤をすることはしません。十分な貯蓄や在宅で稼ぐ手段を持っているので、毎日決まった時間に会社にしゅっきんをしないのが特徴的です。毎朝毎晩の満員電車や渋滞にうんざりしている人は世捨て人が羨ましいと思えるのではないでしょうか。在宅で働く場合でも、自分の好きな時間や空き時間、気の向いた時だけ気分転換を兼ねて働いている人がほとんどです。とにかく時間に縛られてそれに合わせて行動する必要がないのが世捨て人の基本的な生活スタイルです。
自給自足中心の生活をする場合が多い
基本的に世捨て人は人と関わったり買い物を楽しむ生活を送ることはありません。どうしても手に入らないものを買うことはありますが、基本的には自給自足の生活スタイルを楽しんでいます。家の前で家庭菜園で自分や家族が食べられるだけの野菜を作ったり、庭で鶏を飼って卵などを手に入れます。野菜の値段に一喜一憂することもないので、自然と心に余裕も生まれます。自分の手で農作物を作るのが好きな人は、世捨て人のような生活をしてみたいと考える人も多いのではないでしょうか。
情報社会から距離を置く
現代社会で生活していく上で、PCやスマホを使った情報収集は多くの人にとって必須なものとなっています。しかしながら、世捨て人はそういった情報社会からも距離を置いた生活をしています。緊急時のためにラジオを持っている人もいますが、基本的に使うことはありません。当然ながら、どれだけ素晴らしい自然の風景を目の前にしてもスマホで写真を撮ってSNSにアップするということもしません。一見不便に見えるかもしれませんが、いつでも誰かから連絡がないか心配することがない生活は意外と快適です。
必要最低限の人付き合いしかしない
スマホなどの連絡手段を持たずに情報社会から距離を置こうと思っても、友人たちから頻繁に連絡が来てしまっては社会との関わりを少なくすることはできません。世捨て人は徐々に昔からの友人や家族との関わりも減らしていきます。最初は退職した会社の人、次は最近使っていない連絡先、といったように徐々に連絡先を消去していってアドレス帳が10個以下しか登録されていない世捨て人も珍しくはありません。もちろん連絡先を残している人から「ちょっとカフェでお茶をしよう」と誘われても断ることが多くなるでしょう。
どんな方法がある?世捨て人へのなり方
世捨て人の生活を見て、自分に合っているからどうしても世捨て人になりたいと思っても、なり方が分からないと世捨て人になることはできません。どのようにすれば世捨て人になれるのでしょうか。世捨て人になりたい人は、今の生活や人間関係が一変する覚悟を持って世捨て人に挑戦してみましょう。
人里離れた山奥へ引っ越す
現在の住居のまま、世捨て人になるのは基本的に難しいでしょう。いくら連絡先を消去しても、友人が突然家に遊びに来る可能性もありますし、住宅地に住んでいるのであれば隣の人の生活音などで世間との関わりが生まれてしまいます。世捨て人になるためには、まず人里離れた山奥へと引っ越しましょう。山奥なら訪ねてくる人はほとんどいませんし、万が一「戻りたい」と思っても簡単に街中に戻ることはできないので自分への自制にもなります。物件探しから始めるのが世捨て人のコツです。
生活費の安い海外に引っ越す
日本国内でしか世捨て人になれないわけではありません。海外に引っ越すことで世捨て人になれば、知っている人がいないので世間との関わりも絶ちやすくなりますし、言葉も通じないので新たな知り合いができる可能性も低いでしょう。知名度が高くてなじみのある有名な国から選んでも良いですが、できれば物価などの生活費が安い国を探しましょう。金銭的な不安がない方が余裕を持って世捨て人としての生活を満喫することができます。海外に移住する場合は、気候や治安だけではなく物価にも注目してみましょう。
知り合いのいない静かな環境へ引っ越す
山奥への引っ越しや海外への移住にどうしても抵抗がある場合は、単純に知り合いがいない静かな環境に引っ越すだけでも世捨て人としての生活をスタートさせることができるようになります。知り合いがいない場所に引っ越して、他の人との関りを少しずつ少なくしていきましょう。ただし、いくら知り合いがいない場所といっても東京などの都会に住んでは世捨て人として生活することは難しくなってしまいます。最寄りのコンビニに車を使わないといけないような地域を探して移住するようにしましょう。
寺や修道院に入る
誰もいない環境に身を置かなくても、世捨て人としての生活をスタートさせることはできます。世捨て人になりたくても急に孤独になるのはどうしても抵抗があるという人は寺や修道院に入るのがおすすめです。体験ではなく出家をしたり洗礼をして正式に入るようにしましょう。ただし他の世捨て人と違って、もちろんその寺や修道院の宗派ごとの戒律は厳しく守らなければならないので、会社などの規則が嫌で世捨て人になりたいと考えている人にはあまりおすすめできない方法です。
世捨て人の収入や仕事は?どうやって暮らしている?
山奥や海外に移住することは簡単ですが、世捨て人になったといっても仙人のように霞を食べて生活するわけにはいきません。基本的には自給自足の生活をする場合でも、どうしてもお金が必要になる場合もあります。世捨て人になった人は、どのような仕事をして収入を得ているのでしょうか。気になる世捨て人の金銭事情についても解説していきます。
仕事をしていないケースも多い
仕事に悩んでいる人にとっては羨ましい情報ですが、世捨て人の中には仕事をしていない人も少なくはありません。仕事をせずに自給自足に勤しみ、太陽が沈む時間に眠れば一日の中でお金を必要とする機会はほとんどありません。仕事がないからこそ、農作物を育てたり鶏の世話をする時間を多めに確保することができます。そのため、スーツを着て出勤するような一般的な仕事はしていなくても、生活を成立させるための作業を仕事の代わりに行っている世捨て人がほとんどです。
働いていた時の預貯金を切り崩している
仕事をしていない世捨て人でも、たとえば急な病気などでどうしてもお金が必要になる場合があります。その他、寒い季節は防寒グッズを手作りするのも限界があるのでお金が必要になる場合もあるでしょう。そのような場合、ほとんどの世捨て人は働いていた時の預貯金を切り崩して生活をしています。一般的な生涯賃金は2億円と言われていますが、通信費や交遊費などを使わない世捨て人の生活であればそれほどのお金は必要ありません。預貯金を少しずつ切り崩しながら、自給自足の生活を送ります。
不動産収入を得ている
全く収入がなく預貯金を切り崩して生活をせざるを得ない世捨て人もいれば、不動産収入などで働かなくてもお金に困らない、いわゆる不労所得で収入を得ている世捨て人もいます。土地や不動産を持っている世捨て人は、その管理もお金を払って雇っている人に任せることで自分自身は趣味の生活を楽しむことができます。一般的に世捨て人に憧れる人にとって、収入も十分にあり趣味を満喫できそうなこのタイプの世捨て人の生活が一番羨ましいのではないでしょうか。
株式投資などで利益を得ている
誰かと繋がるためのSNSなどの登録はしていなくても、株式投資などで自分自身の生活費を稼いでいる世捨て人もいます。特に金融系の会社に勤めていてノウハウが分かっている人は、世捨て人になった後も株式投資でもしものための貯金を作る人も珍しくはないでしょう。山奥に住んで自給自足の生活をするのが世捨て人だと考えている人はイメージの違いに驚く人もいますが、世捨て人の中でもネット環境だけはしっかり確保して投資を行う人もいることを知っておくのも良いでしょう。
画家や作家などの場所や時間に縛られない仕事をしている
働くといっても、満員電車で通勤をしたり投資をすることだけが方法ではありません。画家や作家など、時間や場所を選ばずに働ける職業に就いている人も比較的世捨て人になりやすい環境にあると言えるでしょう。もちろん、締切が設定されている場合は時間に追われて世捨て人としての生活を始めるどころではありませんが、特に連載などを持たずに自分の気が向いた時にだけ作品を作り出している人は世捨て人になるのも不可能ではありません。
会社を辞めたい!世捨て人になるための準備
毎日の仕事に嫌気が差し、世捨て人になりたいと考える人もいるでしょう。しかしながら、会社に退職届を出してから世捨て人になるための準備をしたのでは金銭的な余裕がなく辛い思いをしてしまう可能性があります。会社に辞めたいと伝える前に、世捨て人になるための準備をしておくようにしましょう。世捨て人としての生活に何が必要なのかを知ってから世捨て人になると、ストレスのない生活が送れるようになります。
十分な貯蓄を作る
世捨て人としての生活に、貯蓄は欠かせないものです。会社を衝動的に辞める前に、まずは十分な貯蓄を作るようにしましょう。現在の住居を引き払って新しい住居を用意する際にも貯蓄が必要になります。家具などを捨てる際にも粗大ごみならお金が必要になる自治体もあるでしょう。お金だけではなく、物件を借りる際にも「無職」より「会社員」の方が借りやすくなります。世捨て人は職業ではないので、社会的な信用がなく不便な思いをすることもあることを覚えておくようにしましょう。
仕事を辞めるなどして不快なしがらみを絶つ
十分な貯蓄が用意できたら、思い切って会社を辞めましょう。最後の出勤が終わったら、会社の連絡先を消去して連絡がつかないようにするのもおすすめです。可能であれば早めに引っ越しをして、会社の人が家に来られないように対策を練りましょう。特に会社の人間関係でストレスを溜めていた人は、退職してしがらみがなくなるだけでも開放的な気分になることができるでしょう。世捨て人になったら、そうしたストレスを我慢する必要もありません。開放的な気分で新生活を始めていきましょう。
断捨離をして物を減らす
世捨て人としての生活の中に、不要なものがあってはいけません。会社を辞めて時間に余裕ができたら、早速断捨離して物を減らしておきましょう。家の中のインテリアや可愛いぬいぐるみなどの装飾品は思い切って処分をして、生活を成立させるのに必要なものだけを残すのがおすすめです。断捨離をして物を少なくすることで、引っ越し作業が楽になるだけではなく自分の本当に大切なものが何かということも分かりやすくなります。たっぷりと時間をかけて断捨離をして、自分と向き合うようにしましょう。
安く住める住居を手に入れる
現在の仕事の人間関係などの世捨て人としての生活に不要なものを全て断捨離し終えたら、次は実際に世捨て人としての生活を始めるための基盤を探さなければなりません。山奥でも海外でも、誰も知っている人がいない環境でも良いので新しく生活を始めるための住居を探すようにしましょう。街中の住居ではないので自分でリフォームする必要がある場合もあります。当然ながらオートロックや床暖房などの便利な機能もありませんが、それが世捨て人としての生活だと理解しましょう。
自給自足に必要な知識や技術を学ぶ
断捨離をして新たな住居を手に入れても、すぐに世捨て人としての生活がスタートできるわけではありません。野菜を育てる際にも、しっかりとした知識がなければ自分の分の食事の材料すら収穫できないでしょう。野菜の育て方や、海外に移住するのなら手続きなどもしっかり調べておきましょう。ちょっとした怪我なら自分で治療する必要があるので、そうした知識も必要になります。今までお金の力で解決していたことも自己解決する必要があることをしっかりと自覚し、実際に生活を始める前にできる限りの準備をしておきましょう。
どんな人なら大丈夫?世捨て人に向いている人の特徴
世捨て人の生活に憧れている人全てが世捨て人として生活できるわけではありません。どんな職業にも向いている人と向いていない人がいるように、世捨て人にも向いている人と向いていない人がいます。世捨て人に向いている人とは、どのような特徴を持った人なのでしょうか。世捨て人として快適に暮らせる特性を持った人の特徴を紹介していきます。
人付き合いが嫌い
人付き合いが嫌いな人は現代社会でサラリーマンなどをしながら生きる上ではマイナスになる場合が多いですが、世捨て人としての生活にはとても適していると言えるでしょう。基本的に世捨て人は最低限の人付き合いを残して他の人との連絡を絶ちますが、それによるストレスを感じることがほとんどありません。むしろ、煩わしい人付き合いに悩まされずに快適に過ごすことができるのでのびのびと生活できるでしょう。嫌いな人付き合いに悩まされない生活はとても快適なものになります。
孤独に強い
人付き合いが嫌いでも、夜の静かな時間に孤独を感じると気心の知れた友達と連絡を取りたくなったりSNSを黙って眺めるのが好きな人は世捨て人の生活に向いていないでしょう。「世界に自分一人しかいない」という状況でも何か楽しいことを見つけられるような、孤独に強い人は世捨て人の生活に適していると言えます。自分が孤独に強いか分からない人は、一度世捨て人としての生活を始める前に一人だけで買い物にも行かない休日を何度か過ごしてみて確かめても良いのではないでしょうか。
サバイバル能力が高い
自給自足の生活が基本となる世捨て人として生活するためには、当然ながらサバイバル能力の高さが必須となってきます。ちょっとした家の修理ができたり、農作物を育てた経験がある人は世捨て人としての生活を始める上で大きなアドバンテージとなるでしょう。もちろん、大きな虫などにも耐性があることも大切な条件になります。街中よりも大きな害虫が出ても、殺虫剤などを買う余裕がないことがほとんどなので気にしないくらい虫が平気など、サバイバル能力が自分にあるか考えてみましょう。
頑健である
世捨て人としての生活は自分で色々なことを行う必要があるので、当然ながら体力勝負の面も多々あります。また、街中に住んでいる場合と違って少し体調が悪い時では気軽に病院に行って薬を処方してもらうこともできないでしょう。自分自身に体力があるかどうか、一度じっくり考えてみましょう。大きな仕事が終わって気が抜けた時に毎回熱を出していたり、持病があって定期的に病院で診断してもらう必要がある人は残念ながら世捨て人としての生活はかなり厳しいと言わざるを得ません。
意志が強い
世捨て人としての生活は、始めるのも終えるのも意外と簡単です。世捨て人としての生活を始めたい時は断捨離をして山奥へ移住するだけですし、終えたい場合は街中に引っ越してきて再就職をするだけです。しかしながら、世捨て人としての生活を継続するのは強い意志が必要になります。人付き合いがなくなって寂しいと思った時、少し体調が悪くて便利な暮らしに戻りたいと考えた時、世捨て人としての生活を継続する強い意志は持てるでしょうか。そういった自信がない人は最初から世捨て人にならない方が良い場合もあります。
こんな人は諦めた方が良い!世捨て人に向かない人の特徴
世捨て人に向いている人がいるように、残念ながらどれだけ憧れても世捨て人としての生活が厳しい人もいます。いくら世捨て人の生活は始めるのも終えるのも簡単とはいえ、軽い気持ちで始めてしまっては周りの人の信用を失うこともありますし、一度世捨て人としての生活をしてしまうと再就職が厳しくなる可能性もあります。世捨て人として生きていくことを決意する前に、今から紹介する特徴に自分が当てはまっていないか考えてみましょう。
寂しがり
寂しがり屋で、いつでも誰かと繋がっていたい人は世捨て人として生活を始めても大きなストレスを抱え込んでしまうことになるでしょう。顔を知っている友人だけではなくSNSで誰かと話すのが好きな人も世捨て人には不向きです。たまに人間関係が嫌になることがあっても、簡単に世捨て人になろうと考えないようにしましょう。嫌なことも含めて人間関係を楽しんでいるのだと自覚しなければ、世捨て人になってから後悔してしまう可能性もあります。自分が孤独になった時にどう感じるか想像してみるのも良いのではないでしょうか。
決断力がない
決断力がなく、基本的に誰かの指示に従った方が安心できるという人も世捨て人には向いていません。世捨て人として生活する場合、起きる時間や寝る時間といった基本的なことから、どの作物を育てるかといった生活の方針の決定まで全て自分がしなければなりません。誰かと「どうしようか」と相談しながら物事を進めるのが好きだという人は、世捨て人になっても不安で動けなくなってしまいます。全て自分で決めて自分で責任を取る覚悟がない人は、世捨て人の生活を諦めましょう。
トラブルに弱い
世捨て人としての生活は、毎日がトラブルの連続です。天候が悪くて野菜が思うように収穫できなかったり、自分自身の体調が悪くて思うように動けないこともあるでしょう。もしかしたら、家が急に壊れて自力で直さなければならないケースに直面するかもしれません。そういったトラブルを解決できなければ世捨て人としての生活は成立しません。普段の生活からトラブルが起きた時に自分で考えて動けずに誰かの解決策を実行する癖がついている人は、世捨て人になれない可能性が高いでしょう。
流行やおしゃれが好き
世捨て人は世間との関わりをほとんど持たないので、当然ながら流行の遊びやおしゃれなファッションに関する情報を入手することもできなくなります。話題のテーマパークに行ってインスタ映えする写真を撮ったり、日本初上陸の食べ物をすぐに食べたいタイプの人は世捨て人として生活することはできないでしょう。流行やおしゃれといったものから対極の生活を送るのが世捨て人の生活です。普段から友達よりも先に新しい体験をしたいと考えている人は気をつけましょう。
スマホが手放せない
あなたはスマホを触らずに数日間過ごすことはできるでしょうか。LINEが来ていないか気になったりTwitterのタイムラインに全て目を通したかったり、はまっているゲームの進捗が気になってしまうことはないでしょうか。一つでも当てはまった場合は、世捨て人としての生活は諦めるようにしましょう。世間との関わりを絶つ必要がある世捨て人としての生活にスマホは必要のないものです。時にはスマホを触る時間もないほど、自給自足の生活が忙しい場合もあります。
世捨て人になるメリットとデメリット
世捨て人としての生活を考えた時、「なんとなく自由そう」という良いイメージしか持っていない人も多いのではないでしょうか。そのイメージももちろん間違いではありませんが、残念ながら世捨て人として暮らすにあたって不自由な点も多くあります。世捨て人の生活にまつわるメリットやデメリットを紹介していきます。世捨て人としての生活を始まる前に、ぜひ比較してみてください。
自由気ままに暮らせる
世捨て人の生活の大きなメリットは、自由気ままな暮らしができることです。仕事に追われることもなく、のんびりしたい時はいつもよりゆっくり起きて、気分が良い時に早めに起きて生活をすることができるでしょう。特に金銭的に余裕がある場合は、世捨て人の中でもさらに自由な生活を満喫することができます。いつもの生活を窮屈に感じている人は、世捨て人として自由な生活を送れるのは大きなメリットになります。自由な生活を謳歌したい人は、ぜひ世捨て人としての生活も検討してみましょう。
面倒な人付き合いがない
自由な生活を送るので、面倒な人付き合いに巻き込まれないのも世捨て人の大きなメリットです。仕事のために嫌いな人に頭を下げる必要もなければ、友達同士の揉め事に巻き込まれることもないでしょう。必要最低限の物資を買う時に店員と話す必要がある場合もありますが、そういった交流の中に面倒な人付き合いはめったにありません。煩わしい人付き合いから解放されたいと思っている人は、少々不便でも世捨て人として生活をしてみるのもおすすめです。
孤独に苛まれる
世捨て人として生活する上でのデメリットは、やはり孤独感が大きいことです。普段は一人の気ままな生活に憧れている人でも、実際に世捨て人として毎日孤独な生活を送っていると辛い気持ちになってしまうこともあります。誰とも関わらずに世捨て人として生活していると、一日どころか一か月以上人と会話をしないことも珍しくはありません。もちろんSNSなどの交流もないので、本当に自分以外の人間の言葉を聞く機会が失われます。人間が嫌いな人でも、こうした環境は意外と耐え難いものです。
生活が不安定
不動産などで不労所得を得ている一部の世捨て人を除いて、基本的には自給自足で生活する世捨て人の生活は不安定なものになってしまいます。野菜の収穫が悪ければその日の食卓が物足りないものになることもあるでしょう。天候や気温、自分自身の体調によって大きく左右されるのが世捨て人の生活の特徴の一つです。困った時に徒歩でコンビニに行って必要なものを買うこともできません。不便な生活をしたくないという人は世捨て人としての生活は向かないでしょう。
病気や高齢になると生活に困る
若くて元気なうちは世捨て人として生活できても、体調を崩して自分でなんとかできないレベルの病気になったり、高齢になって体力が落ちてくると世捨て人として生活することが難しくなる場合もあります。若いうちに世捨て人としての生活を謳歌して、体力が落ちたら世捨て人を辞める人もいますがその場合は金銭的なことに悩まされることも多々あります。世捨て人としての生活を始める前に、五年後や十年後だけではなく三十年後の自分の生活も想像してみるようにしましょう。
世捨て人になるならそれなりの覚悟を!
自由なイメージのある世捨て人ですが、意外と制限も多く不安定な生活を送っている人が多くなります。仕事のストレスを抱えている人でも、安易に世捨て人としての生活を始めずにしっかり調べて覚悟を決めてから世捨て人になるようにしましょう。  
 
 
 
 

 

●「ある世捨て人の物語」 感想
2013年4月4日、アメリカのメイン州で無人の別荘地帯に盗みに入った男が捕まる。捕まったクリストファー・ナイトは、20歳のときに森の中に入って以来27年間、二度簡単な挨拶の言葉を交わした以外は、手紙や文字も含めて一切世間と関わらず生きてきた。
アメリカでは映画にもなった、27年間世間と隔絶した生活を送ったクリス・ナイトの実話。
ナイトが無人とはいえ、別荘地帯に頻繁に盗みに入っていた、というのはすごく引っかかった。「何が盗られたかは問題ではなく、不気味で怖かった。心の平穏が乱された」という人の気持ちはよく分かる。ナイトは暴力行為や破壊行為は一切していないし、盗んだもの自体は些細なものだけれど、何回も繰り返し入られれば日常生活に支障をきたすくらいの心配事になるだろう。
ただ一方で、こういう完全に文明社会から隔絶して生きていきたい、という人が生きる余地が現代はないというのは、その通りかもしれないと思う。人間が比較的住みやすい場所は既に開拓されてしまっており、誰にも出会わず隠者のような生活を送るためには、人が簡単には生きられないような場所に行くしかない。
クリス・ナイトの事例はさほど興味がわかなかったのだけれど、「現代の隠者」とも呼べるクリスを巡って語られる、様々な「隠者に対する考え方」が面白かった。歴史上、世界各地で「隠者」は見られるが、「抗議者」「巡礼者」「探究者」の三つにグループに分けられる。中国ではだいたいどの時代でも、「抗議者の隠者」が見られる。中世のヨーロッパでは、教会の独居房に引きこもる「アンコライト」と呼ばれる隠者がおり、アンコライトは男性よりも女性のほうが多かった。中世のヨーロッパは女性にとっては生きるのが辛い環境だったので、アンコライトになったほうがむしろ幸せだった。というのは、「薔薇の名前」や「乙女戦争」を思い出しても、そうかもなあと思う。この「隠者」と呼ばれる人々を受けれいる土壌があるかないかは国や宗教によっても違うし、本書を読むと同じアメリカでも州によっても違うようだ。メイン州はクリスのような人に比較的寛容な人も多く、クリスが住んでいた場所の所有者も土地を提供し続けても構わないと言っている。クリスに偶然会った人も、「この人はそっとしておいてあげたほうがいいのかもしれない」とクリスの生き方に理解を示している。一方で同じアメリカでも、テキサスだったらこうはいかなかっただろうという話も出ており、土地柄によっても考え方や価値観がだいぶ違うようだ。
中国やヨーロッパだと「隠者」は「知恵がある」「尊い」と見られており、人々が助言を求めてわざわざ会いに行く。中国だと「知恵のある人は俗世から離れていて口をつぐんでおり、その教えを乞いに貴人もその人に会いに行く」というのはよくある事例に見える。「カラマーゾフの兄弟」では、粗末な生活で祈りを捧げて生き続けるフェラポント神父が聖人扱いされている。スメルジャーシチャヤも「神がかり行者」として、街の人から大事にされている。「物を恵む」という感覚ではなく、「彼女に物を恵ませてもらうことで、自分が何かを与えられている」と尊ばれている。日本だと「貧しく汚く世俗から離れていて、狂人に見えかねないものこそ賢く尊い」のようなな感覚はピンとこない。抗議者タイプの隠者は尊ばれそうな気はするが、スメルジャーシチャヤのような人は「可哀相…」一辺倒になりそうだ。そういう場所ではクリス・ナイトのような人は生きる余地はない気がする。
この話の最も面白かった点は、孤独について考察しているところだ。ここで言う孤独は「誰も理解者がいない」などの心理的な孤独ではなく、人との接触をすべて断ち切る「物理的な孤独」のことだ。「孤独」というのは人を狂気と安らぎの狭間に追いやるが、狂気に至り死んでしまう人と安らぎに至ってその状態で幸福を見出す人と二種類いるのではないかと言っている。十二年間洞窟で一人で暮らし続け、そのことを「世界で最もたやすいこと」と言うチベットの高層もいれば、111日間地下洞窟で一人きりでいる実験を行ったあと、自殺してしまった探検家もいる。この本では「人は人がいなければ生きていけないに決まっている」「いや、孤独でいることのほうが自由で楽しい」などを決めつけず、様々な事例を通して「孤独に順応できる人間と順応できない人間がおり、順応できる人間には最上の効果をもたらし、順応できない人間には最悪の結果をもたらす」ということが書かれている。
そして「孤独」を経験した幾人かは、「人は人がいなければ生きられない。人は社会で生きなければならない、というのは先入観なのではないか」ということを述べている。「ハーミタリー」という孤独探究者のためのウェブサイトのSという執筆者は、「社会に暮らし、これに参加することは、狂気かつ犯罪的なのである」「隠者として、あらゆる他者から永久に身を引かないかぎり、われわれは何等かの形で地球を破壊する罪人なのだ」と述べている。ここまで極端ではないにしろ、「社会で生きること、人には固有の人生がある、ということのフィクション性」を述べてる人が何人か紹介されている。「世捨て人とは、必然的に、自分のやりたいことをやっている人間である。実のところ、(人は?)他にやるべきことを持たない。だからこそ、この資質は危険であり唾棄すべきである」自分が最もなるほど、と思ったのは、前述した12年間洞窟で暮らし続けた、チベットの高僧テンジン・パルモの言葉だ。「人は悟れば悟るほど、悟るべきことが何もないのを悟るのです……たどり着くべきどこかがあり、なすべき何かがある、という考えは、根本的な錯覚なのです」現代社会は壮大なフィクションであり、隠者は隠者として存在することでその錯覚を暴いてしまうからこそ、人は「孤独」や「世を捨てること」を忌むものとして見るのではないか。「人は人がいなければ生きていけない」というのは、(少なくともある種の人々にとっては)フィクションに過ぎないというのはありえそうな話だなと思う。
クリス・ナイトは「ほかのだれかにアイデンティティーを押し付けられるのが、いやなんだ」と言って、自分の人生の中に特別な物語を見出されることを拒否している。「この人はこういう理由でこうなったのではないか」「自分はこうだからこう生きる」という人生の物語は、クリスのような人には必要ないものなのだ。
自分は何であれ、ここで言う錯覚、フィクション性というものが好きで、むしろそこを意識的に吸収し生きてきたとすら思っている。この本を読んだ理由も、「フィクションを持たないで生きる人」の中に、自分のためのフィクションを見出したいからだ。
だが例えば宗教的な素地や理由を持たなければ「隠者にはなれない、受け入れられない」というのは、社会として狭さを感じるし、前々から現代のその辺りの「狭さ」には疑問があった。「存在するだけで社会の意義を否定している者」を受け入れるという矛盾、社会にはそういう余地やおおらかさがあってもいいのでは、と思う。ナイトが生きるために盗難したような社会との深刻な対立も、そうしたほうが発生しないのではないか。また昔の人々が隠者に知恵や助言を求めたように、現在の社会の機能にそもそも疑問を持っていて、しかもそれを実践している人の言葉や感覚というのは、社会でいき詰っている人の救いや助けになるのではと思う。「社会の中で(ここがミソ)社会を否定したり批判することを売りにして、結局は弱い人を利用する組織」のようなものが存在しにくくなるのでは、と思うのだ。現代で問題になっているカルトやカルトに構造が似ていると指摘されている団体に人が惹きつけられるのは、そこにしか受け皿がないからではと思う。助言などの直接的なつながりは持たなくとも、生き方のモデルケースが増えればそういうものに取り込まれる人も少しは減らせるのではないか。
「社会や人との関わりの中で生じる自分というものやその固有の生がフィクションや錯覚だとしても、それを生きることに特に不満はない」と思っている自分でも、今の社会は遊びの余地が少なくて、社会の方向性と少し違う人や割り切れない人には息苦しすぎるのではと思う。社会がみんなで夢見るフィクションならば、そういう人が感じる息苦しさは、「この社会でうまくやっていける」と思っている人も、いつか必ず息苦しくするのではと思うのだ。 
 
 
 
 

 

●現実逃避
現実に求められたり、何かしなくてはならない物事から意図的に注意や意識をそらすための行為や心理状態。困難な状況から目をそむけ、不安から逃れようとする機制。
人は本能的に不快感を避けるため逃避するが、先延ばしに陥り長期的あるいは客観的な視野から見て不適切な結果をもたらしてしまう場合がある。現実逃避と呼ばれ戒められた結果として、酒や薬物あるいは問題行動に依存する事もある。
精神分析では防衛機制の事を指す。一般には、やらなければならない業務、課題といった社会生活を送る上で義務的な仕事がストレッサー化し、それによる対処行動が本人の逃避に至る状態が平均である。重度の逃避衝動に陥った場合、他者に対する攻撃や、自傷による行動が見られる場合もある為、専門的治療が必要なケースもある。
対照的な定義として、「現実からの逃避」ではなく「現実への逃避」を意味する場合もある。高塚[2]は、防衛機制のひとつである逃避を「現実に逃避する」もの、「非現実(空想)に逃避する」もの、「疾病に逃避する」ものに分類して言及している。この意味での「現実逃避」は、現実の忙しさを言い訳にして解決しなければならない問題を避けてしまう行為を意味する  
 
 
 
 

 

●「現実逃避」活用、うまく人生と向き合う5つの方法
人生は困難に満ちています。たまには現実逃避、仕事や恋愛などについて考えることをやめて、はるか遠い国を舞台にした物語を読んだり、たくましいキャラクターになりきって、バーチャル世界の冒険に出かけたりするのも悪いことではありません。とはいえ、現実逃避にはまりすぎると、生産活動や成長の妨げになってしまいます。
現実逃避は、自らを現実世界から切り離し、目をそらすということです。置かれた状況から一時的に逃れ、充電するチャンスを与えてくれるので、現実との戦いにまた飛び込んでいけるようにしてくれます。テレビや映画を観たり、音楽を聴いたり、本を読んだり、ゲームをしたり、ただぼーっと空想したりするのが好きなら、現実逃避しがちということになります。でも、それは当たり前のことです。
空想は、脳に良い効果をもたらしているのではないか?という研究結果もあります。現実逃避をしなければ、日々のストレスで早々に燃え尽きてしまうでしょう。「もうだめだ、やめよう」と思ったときに自分の感情から距離を置き、新鮮な気持ち、心理で再び問題に立ち向かえるようにしてくれるという効果が、現実逃避にはあります。効果的な現実逃避はおすすめです。厳しい現実をうまく整理して対処する頭を作り出してくれます。
でも、度が過ぎた現実逃避はよくありません。現実逃避は砂糖や塩のようなものです。振りかける量がほんの少しであれば、人生をより良いものにしてくれますが、多すぎるとすべてが台無しになってしまいます。仕事で問題が生じたり、人間関係にひびが入ったりしますし、社会生活から自らを隔絶してしまいかねません。生産性が急に落ちる可能性だってあります。
ちょっと現実逃避をしたくらいで、その人が怠けているということにはなりませんが、現実から逃げるうちに、現実を避けて通るようになり、やる気を失って、積極的にゴールを目指さなくなってしまうのです。
上手な現実逃避のしかたとは?
現実から逃げるのをやめ、再び自らハンドルを握る方法を身につけるのは、難しくありません。とはいえ、悪い癖を絶つのと同じで、時間がかかります。きっぱりとやめることは無理でしょうし、必ずしもそうしなければならないわけでもありません。単に、ほかの生活との健全なバランスが必要なだけなのです。
1. 現実の生活を優先する
現実の世界が楽しいと思えるようになれば、逃げる必要がなくなります。ですから、現実逃避をするよりも、現実の世界の中で楽しい体験をするようにしましょう。まずは、現実の生活を優先してみましょう。
「今、現実の世界で楽しめそうなことが見つかったら、あなたが大好きな現実逃避はしない。」
たとえば、友だちの誘いを断ってビデオゲームをするのではなく、ゲームをやめて友だちの誘いに応じてみるのです。楽しいこと(=ゲーム)をする代わりに、別の楽しいこと(=友達と会う)をするわけです。どちらでも楽しく過ごすことができ、人生のイヤな面から逃げてホッとできることも変わりはありませんが、友だちと会うことを選んだ場合は、仲間を遠ざけて人間関係を損ねたりすることにはなりません。注意してほしいのは、現実の世界での気分転換には、少なくとも「楽しめそうだ」と思えるものを選ぶという点です。日常生活に戻れば、また仕事や悩みごとに向き合わなくてはなりません。現実の生活を優先しても、現実逃避中毒をすぐに断ってるわけではありませんが、正しい方向に進むための第一歩としては悪くありません。
2. 「現実逃避」をもっとポジティブにとらえる
心理療法士のMichael J. Hurd博士は、「現実逃避」という名称には否定的なニュアンスがあると指摘しています。仕事や家族、友人やペットといった、現実世界の大切なものから「逃げている」印象を与えるからです。そして、「現実世界の大切なものは、逃げたくなるような嫌なものだ」という印象ももつようになるでしょう。Hurd博士は、「現実逃避」ではなく、「燃料補給」のような名前で呼ぶよう勧めています。
「私は「現実逃避」を「燃料補給」と呼んでいます。どうしてかと言えば、心身を精神的・心理的に充電するために「燃料補給」を行うことで、キャリアや結婚、人間関係、家族や子どもといった、「一番大切なこと」にうまく対処できるようになるからです。空想や娯楽を通じた充電は、決して悪いことではありません。」
「充電」、「私の時間」などと呼ぶのもいいでしょう。いずれにせよ、いわゆる「現実逃避」とは、「意地悪な世界」から「逃げる」のではなく、有意義なことをするのに使ったエネルギーを取り戻す行為だということをよく覚えておいてください。漫然と現実世界を避けているのではなく、再び戻る意志を持った上で、一時的な息抜きを求めているのです。ネガティブにとらえるだけではいけません。ポジティブにとらえることも重要です。
3. 何から、どうして逃避したいのかを見極める
過度な現実逃避をやめようとするのは、現実の生活を向上するチャンスでもあります。何かから逃れるために現実逃避しているのであれば、今こそ、その原因を突き止めるときです。ライフコーチであり自己啓発系サイト「Personal Excellence」の創設者でもあるCelestine Chua氏は、現実逃避とは防衛メカニズムであり、人生のマイナス要素から自分を守る手段なのではないかと話しています。一方で、現実からは逃げられません。「ひとりオールナイト映画祭」をしても支払いは待ってくれませんし、『ハリー・ポッター』シリーズを読み直したところで仕事の状況は改善しません。自分の置かれた状況を細かく分析し、「逃避モード」の原因を見極める必要があるはずです。そこで、次のように自問し、正直に答えてみてください。
「現実逃避することで、自分は何を避けようとしているのか?」
避けているのは借金かもしれないし、ルームメイトとの不仲や、家族の死など、さまざまでしょう。問題は1つではなく、複数同時に発生しているかもしれません。実際はどうなのかを正確に見極め、少しの間、正面から向き合ってみてください。次に、以下のように自問自答しましょう。
「どうして避けたいのか?」
今、見て見ぬふりをしたところで、良いことがありますか? デメリットがメリットを上回る可能性が高いはずです。もしかしたら、問題を避けて通る理由などなく、ただ嫌なだけなのではありませんか? 現実逃避中毒になっているときは、無理にでも物事を直視し、見極めたほうがいいのです。現実世界の問題に立ち向かうのが少し楽になり、現実世界が楽になればなるほど、逃げたいと思わなくなるでしょう。
4. 現実逃避中毒を少しずつ改善していく
禁煙しようという時は、禁断症状を和らげるためにニコチンパッチやガムを使おうと考えるのではないでしょうか。これは薬物中毒についても同じのようで、ある薬物中毒者が自らの経験を次のように語っています。
「私の経験から言えば、現実逃避の手段を徐々に危険性の低いものに置き換えていき、最終的には完全に絶つようにするべきです。これが一番まっとうなやり方ですよ。薬物中毒の私の場合、「危険の少ない現実逃避」はビデオゲームでした。ビデオゲームが私の命を救ってくれたのです。」
現実逃避中毒にも、同じ考えかたを当てはめることができるでしょう。ビデオゲームの中毒状態で、自分の時間がすべてゲームに費やされてしまうのに嫌気がさしているのなら、簡単なゲームを選ぶようにして、プレイ時間を短くしていけば、自然にやめられるのではないでしょうか。ゲーム仲間とコミュニケーション中毒になっているのなら、ゲーム内やSNSでやりとりするのではなく、掲示板やチャットに参加してみるか、いっそのこと、オフ会で情報交換をするのも良いでしょう。共通の趣味を持つ友達に会ったり、イベントに出かけて同じような関心を持つ人と交流してみましょう。新しい友達を作る方法はいくらでもありますし、外に出れば人と知り合える場所もたくさんあります。ためらわずに探してみましょう。イベントや家族の集まりを避けようとして、気がついたら読書に走っているという自覚のある人は、「本を読んで良いのは寝る前だけ」とか「トイレに行った時だけ」というようなルールを自分に課すのがいいでしょう。大好きな現実逃避先を完全に封じるのではなく、少しは楽しんでも良いことにして、残りの時間は大事なことへの対処に使いましょう。
5. 自分が属している世界に「逃避」する
どうしても現実逃避したくなったら、以前からずっと学んでみたかった事柄をすべて思い浮かべてみましょう。米国のドラマシリーズ『Breaking Bad』を1シーズン一気に観る代わりに、プログラミングやウェブデザインのオンラインコースを受講してはどうでしょうか。ビデオゲームで架空の世界に冒険に出かける代わりに、自分が住む町を探険して、本物の冒険がどんなものかを実感してみるのも楽しいはずです。現実逃避先を、架空の世界ではなく現実の世界に変えるのです。だまされたと思ってやってみてください。実生活に役立つ新たなスキルを身につけられたり、新しい出会いがあったりすると、逃げたい気持ちが薄れてくるかもしれませんよ。現実の世界で、直面する問題に取り組むなり、楽しいことをするなりして、いつも忙しくしておきましょう。そして、ToDoリストとは別に、やりたいけれど別の用事があってやれなかったことをすべてリストアップしてみましょう。逃げたいと思うたびに、とりあえずそのリストに目を通すようにしてみてください。人生の目標が見つかっていないのなら、必ず見つけにいきましょう。生きる目的がわからないと、現実逃避しがちですから。あなたにも世界を変える力があることを忘れないでください。現実は必ずしも、映画や本、ビデオゲームほど楽しいものではないかもしれませんが、あなたが立ち向かうことで、映画や本と同じくらいエキサイティングになるかもしれません! 現実逃避には良い面もあります。それをうまく活用できるかは、あなた次第なのです。 
 
 
 
 

 

●現実逃避をしてしまう人の心理
どんな人でも現実逃避してしまうことがある【心理学的な根拠】
どんな人でも現実逃避をしてしまうシーンはあるでしょう。まずは、その具体例として「セルフハンディキャッピング」という現象を紹介します。
セルフハンディキャッピングとは
あなたはテスト前など「勉強しなければならないのに部屋の掃除をしてしまった」という経験はありませんか?実はこのような現象のことを「セルフハンディキャッピング」といいます。セルフハンディキャッピングとは一種の心の防御反応と言えるものです。テスト勉強を一生懸命したにも関わらず悪い点数だとショックを受けます。そのような状況を避けるために、無意識のうちに「部屋の掃除」など別の行動を起こすのです。こうすることで「部屋の掃除をしたからテストでいい成績を取れなかった」という予防線を張れ、心のショックを軽減できます。一方で「テストでいい成績が取れなくても仕方ない」という心理が働き、目標達成のモチベーションがそがれるデメリットもあります。
セルフハンディキャッピングの3つの対処法
セルフハンディキャッピングには、以下の3つの方法で対処しましょう。
   できる理由を考える
セルフハンディキャッピングは、いわば「できない理由を作ること」。ですので逆にできる理由を考えると起きにくくなると考えられます。例えば「ダイエット中に外食に誘われる状況」が、目標体重を達成「できない理由」だとします。その理由をなくすために、周囲にあらかじめダイエット中であることを伝えておくのです。そうすれば「ダイエット中に外食に誘われない状況」=「できる理由」を作り出せます。このようにできない理由をできる理由に変換させてしまうのも1つの方法です。
   言い訳を考えない
セルフハンディキャッピングは、「言い訳を作るための現象」とも言えます。なのでセルフハンディキャッピングを発生させないためには、言い訳を考えないようにするのが大切でしょう。また言い訳を考えることは、失敗したときのイメージを膨らませることにもつながります。前述したように、ものごとを悪い方向に考えすぎてしまうのは、現実逃避してしまう心理の特徴の1つです。成功イメージを強く持ち、ものごとを前向きにとらえるためにも、言い訳を考えないようにするのは重要なのです。
   周囲に宣言する
周囲に目標を宣言するのは、意思の弱い人に効果的な対処法です。家族や友人に向けて、あるいはSNSなどで、「いつまでにこれをやる!」と目標を宣言してしまうのです。「宣言したからには達成しなければ」という心理が働き、目標に向かって継続的に努力するきっかけになるでしょう。
現実逃避をしてしまう人の心理的な特徴
そもそも現実逃避をしてしまう人の心理的な特徴にはどんな共通点があるのでしょうか。ここからは8つの特徴を解説します。
特徴1:自分をコントロールできない
現実逃避をしてしまう人は、潜在的に自分をコントロールをすることを苦手としています。自制心をうまく働かせられない、とも言い換えられます。例えば「眠い」「お腹が空いた」「休みたい」などと言った欲求を抑えられない人は、仕事などやらなければならないことがあっても、それらの欲求が発生した途端に中断してしまうケースが多いです。「やりたくない」「今の仕事を放り出して遊びたい」「妄想にふけりたい」という感情は、自己コントロールが苦手なゆえのものなのです。
特徴2:すぐ飽きる
ものごとに飽きやすいのも現実逃避をしてしまう心理の特徴と言えます。例えば何か始めようとしても、3日や1週間、長くても1ヵ月でいつの間にかやめてしまう人は、継続させる意思が弱いと考えられます。この特徴は1つ目に紹介した「自己コントロールが苦手」ともつながるでしょう。「もう少し続けてみよう」という気持ちよりも、「しんどいからもうやめてしまおう」という欲求が勝ってしまうのです。そもそも何かを継続して行う際に、意志の力に頼りすぎるのは効果的ではありません。継続したいことを早い段階で習慣化させることが重要です。
特徴3:目指すもの(ポジティブな目標)がない
「今ここで頑張ったら1年後にはきっと成果が出る」。このようなポジティブな目標がある人は、目の前にあるタスクをこなす力が湧いてくるものです。逆にこのような目標がない場合、「なぜこのようなことをやらなければならないのだろう」と思い、現実逃避してしまうケースも多いでしょう。目標を見出せると、「自分にとってこれはメリットになる」と考えるきっかけになります。逆にこのようなメリットを見出せないと、自分がしている目の前の仕事に前向きになれず、現実逃避につながるのです。
特徴4:できるだけ責任を負いたくない
できるだけ責任を負いたくないと考える人は、ものごとをやり切る責任を負いたくない人とも言い換えられます。途中で飽きて投げ出してしまいたいときに、自分に責任があると厄介ですよね。だから責任を負わずに飽きたら辞められる状態を作り出したいのです。この特徴は、2つ目の「飽きやすい」にもつながることです。飽きっぽい人は責任感が薄いとも言えます。
特徴5:何事も完璧にこなしたい
何事も完璧にこなしたいと思う人は、ものごとのすべてが自分の思い通りにならなかったり、途中で計画が崩れ始めたりすると、一気にやる気を失うことが多いです。1から10まで計画通りに、そして目標もきちんと達成したい完璧主義の人は、それが狂ってしまったときに現実と向き合うのが怖くなりやすいのです。そして目標を達成できない、あるいはできそうにない自分に失望し、現実から目を背けてしまうのでしょう。
特徴6:考えすぎてしまう
ものごとを進めていくときに、「もしうまくいかなかったらどうしよう」という心理状態になる人は、現実逃避をしやすい傾向にあります。これは3つ目の特徴の「ポジティブな目標がない」にもつながることです。メリットとなるようなゴールを見出せず、悪い方向に考えすぎてしまうと、それを恐れて現実逃避したくなるケースもあります。このようなネガティブ思考は、リスクを考える上では役に立つかもしれません。しかし世の中はやってみないと分からないことも多いです。リスクを考えすぎてチャレンジできないのは、結果的にデメリットにつながることもあります。
特徴7:感情的に考えてしまう
喜怒哀楽が激しく、結果に気持ちが左右されやすい人は、現実逃避をしてしまうケースが多いです。例えば仕事上の目標を達成できかった場合です。感情的に考えてしまう人は、成果を出せない自分に失望して激しく落ち込み、現実逃避をしてしまうことが多いでしょう。また一つの結果にいつまでも固執してしまい、前に進めないケースもあります。いい結果だとしても悪い結果だとしても感情的に流されず、「フィードバックをどう次に生かすのか」を考えるのが大切です。
特徴8:理想(プライド)が高い
プライドが高い人は、仕事やものごとがうまくいかなかったとき、自分の力不足に原因があることをなかなか認められないでしょう。あるいはスムーズにプロジェクトを進められない自分に嫌気がさし、現実逃避してしまうケースもあります。また理想が高い人の場合、そもそもの目標設定が高すぎる特徴もあります。
現実逃避から抜け出す方法
では現実逃避をやめるためにはどうしたらいいのでしょうか?前述した8つの心理的な特徴を踏まえた、現実逃避から抜け出す方法を5つ見ていきましょう。
方法1:最も重要なことは何かを見定める
目の前のタスクが山積みになって現実逃避したくなったら、タスクの優先順位をつけましょう。例えば複数のタスクが1つの案件に属しているのなら、その案件で最終的に達成したいことは何なのかをまず考えます。その上で今やるべきタスクはどれなのか、重要度をつけてこなしていくのです。そしてもっとも重要なタスクを終わらせることだけを考えましょう。最も重要なことが分かると、逆にやらなくてもいいことも見えてくるはずです。その結果タスクの数や負担が減り、現実逃避したくなる気持ちも治まるでしょう。また現実逃避したくなるのは、複数のタスクを同時にこなす「マルチタスク」に原因があるのかもしれません。
方法2:ポジティブな目標を立てる
例えば仕事上で現実逃避から抜け出したくなったら「この案件が成功すればもっと大きな仕事を任されるかもしれない」など、先にある目標にポジティブなできごとを紐づけるのもいい方法です。目の前の仕事ばかりに囚われていると、先が見えず苦しくなることもあります。しかし明確な目標があったり、その目標達成で自分にとって大きなメリットがあったりすると、多少嫌な仕事も乗り切る気持ちが湧いてくるでしょう。このようなポジティブな目標は仕事上のものだけに限りません。例えば週末に旅行の計画を立てるのも一つの手です。「この5日間を乗り切ったら思いっきり観光を楽しむ」といった目標を立てると、モチベーションを上げるきっかけになるでしょう。
方法3:開き直る
完璧主義や深く考えすぎてしまう人は特に、ときには「開き直る」のも大切です。ものごとがうまくいかなくなったとき、「そうなってしまったのはある意味仕方がない」と考えるのです。大切なのはうまくいかなかった事実ではなく、「その状況をどう挽回するか」です。失敗してしまった原因を探るのはもちろん重要です。しかし失敗してしまった事実にいつまでも囚われていると前を向けないでしょう。そういった意味で、「もうこれは仕方ない」と開き直るのも大切なのです。
方法4:小さな成功体験を重ねる
やるべきことが多すぎる、あるいは目標が大きすぎて現実逃避したくなった場合は、まずは小さなハードルを立てて、超えていくようにしましょう。そのためにおすすめなのがタスクを書き出す作業です。目標達成のために必要なタスクや小さな目標を書き出し、達成できたら線を引いて消していくのです。こうして小さな達成感や成功体験を重ねていくと、自信につながります。少しずつステップアップするのを実感でき、大きな目標達成の原動力になるでしょう。
方法5:不安を紙に書き出す
ポジティブな目標を立てられない人やものごとを悪い方向に考えすぎてしまう人は、自分の不安な気持ちを紙に書き出してみてください。それだけで心配事をアウトプットでき、心が落ち着くことがあります。またこの行為は、目標達成のための原動力にもなります。これはダイエットで考えると分かりやすいです。「1ヵ月後にマイナス3キロを達成する」という目標を立てた場合、その目標の障害となるような、不安な点を書き出してみるのです。例えば「間食を我慢できない」「外食に誘われたら断れない」「自分で運動を継続できない」などです。そしてその不安を発生させないためにはどうすればいいのかを具体的に考えてみましょう。例えば「家にあるお菓子を全て処分する」「周囲にダイエットしていることを宣言する」「会費制のジムに入会する」などです。こうすることで、目標達成の障害となり得るできごとに、あらかじめ対応できます。「達成できないかもしれない」という不安から現実逃避するのを避けられるでしょう。
やらないほうがいい現実逃避
やっていい現実逃避があれば、やらないほうがいい現実逃避があるのも事実です。ここからはやらないほうがいい現実逃避の代表例を見ていきましょう。
1 先延ばし
やらなければならないことを、ただ先延ばしにしてしまうだけの現実逃避はやめたほうがいいです。例えば膨大なタスクから逃れるために現実逃避をしても、結局は自分にふりかかってきますよね。そのような現実逃避はかえって自分を追い込むきっかけになります。
2 中途半端な現実逃避
中途半端な現実逃避もおすすめできません。例えば旅行先に仕事道具を持って行ったり、外出しているのにも関わらずスマートフォンで仕事の連絡を取り合ったりすることです。このような状況は、休暇を取っているのにも関わらず、仕事のことを考える時間をどんどん蓄積させてしまいます。その結果「ちゃんと休めなかった」という気持ちになりやすいのです。いい現実逃避のためには、「休むときは思いっきり休む」のを心がけましょう。休みを取ると決めたらそれまでに必要な仕事は終わらせ、「休暇の間は仕事の連絡は取らない」と宣言するのもときには必要でしょう。そして現実逃避の時間はスマートフォンやパソコンの電源を切って、ゆっくりと過ごすのもいい方法です。
上手に現実逃避を行うことでストレスを低減できる
上手な現実逃避は、ストレスを軽減させられます。ものごとを前向きに考えるきっかけを与えてくれるでしょう。
「現実逃避」ではなく「休息」などポジティブな言葉に言い換える
「現実逃避」には「逃げる」という意味が含まれます。そのためあまりポジティブなイメージを持たない人も多いでしょう。しかし「休息」と言い換えれば印象はガラリと変わります。実際に現実逃避として行うことは、「休息」と言えるものが多いです。
逃避したい対象を正確に認識する
「休日に遅くまで寝る」「SNSのタイムラインを何となく眺める」。このような行為は、上手な現実逃避とは言えません。なぜなら「休息した実感」が湧きにくいからです。「休息した実感」を湧かせるためには、明確に自分の逃避の対象を決めるのが大切です。例えば「漫画を読む」「映画を観る」「音楽を聴く」などです。「現実逃避にはこの漫画!」と決めてしまうのもいいでしょう。そのようにテーマを決めて逃避をすると、気持ちの上でも「休息できた」と感じやすく、リフレッシュにつながります。
新しい趣味を見つけて逃避先をワクワクするものにする
惰性でスマートフォンを見るのではなく、「VRを試してみる」「知らない土地に行ってみる」など、何かワクワクできるような逃避先を探してみましょう。これを機に新しい趣味を見つけるのもよいかもしれません。そのような何か新しいものごとに触れると、頭は必死にその情報をインプットするように働きます。仕事など「逃避したいきっかけ」となったものごとは、その間はすっかり忘れられるでしょう。
さいごに
現実逃避をしてしまう心理には特徴があります。あなたも自分がどのタイプかを見極め、適切な対処法で、現実逃避してしまいそうな状況を乗り切ってください。上手な現実逃避は身体や心のリフレッシュにつながります。今回紹介した方法を参考に、あなたの生活にも現実逃避をうまく取り入れてみてください。 
 
 
 
 

 

●人生を好転させる現実逃避の方法
人生良いことばかりではありません。ときには何もかもうまくいかなくて心身ともに疲れ果ててしまい、現実から逃げたいと思うこともありますよね。今回は、現実に向き合うエネルギーを充電して人生を好転させていくための、「良い現実逃避」の方法を紹介します。悪い現実逃避の方法も合わせて解説しますので、参考にしていただきながら、上手に自分の人生に向き合っていきましょう。
現実逃避とは?
現実逃避とは、「向き合わなければいけないことや、やらなければならないことから目をそらすこと」をいいます。「現実から逃げる」という意味があるので、一般的には良くないニュアンスで使われることも多いです。しかし、ストレスから心身ともに疲弊しているときには、燃え尽きる前に自分の身を守ることも大切になります。もう一度「よし、やるか」と思えるようになるためには、ときには現実から一時的に離れて、エネルギーを充電することも必要です。
現実逃避したくなる心理状況
では、まず現実逃避したくなる心理状況はどういったときなのかご説明します。
1.何もかもうまくいかないとき
人間関係や仕事、恋愛などでトラブルが続いているときや、頑張ったわりには結果が全然出ないようなときには、「なぜこんなにもうまくいかないのか」とがっくりくるものです。自分の努力が無駄だったような気がしますし、これ以上どうしたらいいのかわからなくなってしまいます。頭の中が混乱し未来に希望が見えなくなると、「一度リセットしたい。現実から逃げ出したい」と思う気持ちが高まります。
2.心身ともに疲弊しているとき
ハードワークなどで自分の時間がなかなか取れなかったり、仕事によるプレッシャーが強くあったりすると心も体も疲れてきます。とくに、体は疲れているのに頭が冴えてしまって眠れなくなったりすると、ますます精神的に追い込まれやすくなります。心身ともに疲弊すると極限状態になるので、「もう逃げたい」と思う気持ちが生まれやすくなります。
3.受け入れられない現実があるとき
失恋や資格試験の失敗など受け入れられない現実があるとき、頭では起こった出来事を理解しているのですが、心は受け入れたくないと抵抗しています。「こんなはずじゃなかったのに」と悔やむ気持ちや自分を責める気持ちが膨らんでしまうと、現実を認めることができず逃げ出したくなるものです。
ダメな現実逃避の仕方とは
先程、ときには現実逃避が必要とお伝えしましたが、どんな方法でもいいということではありません。ここでは、してはいけない現実逃避の方法をお伝えします。
1.すべてを投げ出す
突発的に仕事を辞めたり、やらなければならないことをすべて放棄して逃げ出したりするのは基本的にはNGです。自分の行動には責任がついてまわるので、そのような無責任な行動をすると、今まで積み上げてきた信頼を一気に失いかねません。自分の行動によって、まわりの人がどう思うのか、迷惑をかけないかはしっかりと考えましょう。
2.暴飲暴食
自分の体を傷つける行為は良くありません。食べたり飲んだりすると、一時的にストレス発散にはなりますが、過度にやると気持ち悪くなったり自己嫌悪に陥ったりします。とくに、お酒は要注意です。飲みすぎると歯止めが効かなくなってしまう恐れがあるので、できればお酒は現実逃避の手段にしないほうが賢明です。
3.中途半端な現実逃避
「休むならしっかり休む、リフレッシュするなら全力でリフレッシュする」が大切です。たとえば仕事で疲れたからリフレッシュのために旅行に行ったとして、その旅行先にパソコンを持ち込んで仕事をするようなことはあまり良いことではありません。中途半端な現実逃避では、エネルギーの充電ができないので、仕事のことを考えない時間を確保するようにしましょう。
人生を好転させる現実逃避5選
では、最後にオススメの現実逃避の方法をご紹介します。
1.スマホやパソコンは見ない
日常の必須アイテムとなっているスマホやパソコンですが、メールやSNSをしていると現実からなかなか離れることができません。人間関係に疲れているときなどは、しばらくスマホやパソコンを見ない時間を作るのがオススメです。その場合、2日間以上見ないときは頻繁に連絡を取るような相手にあらかじめ伝えておくとスムーズです。ネットに接続しない状態を作ると、時間の流れがゆったりすることがわかります。落ち着いた時間の中でさまざまな気づきがあるかもしれません。
2.自然に触れる
自然に触れると、私たちはホッと安心したような感覚がして心身ともに癒されるものです。現実逃避ということを考えると、いつもより少し足を伸ばして港など海の見える場所に行ったり、山や森など自然豊かな場所に行ったりしてみてはいかがでしょうか。中でも私のオススメは高原にある牧場です。街から離れた場所にあってゆったりとした空気が流れていますし、牛や馬、羊などの動物とも触れ合えます。広大な自然の中を散策していると、今の悩みが小さく感じられるかもしれません。
3.旅行やドライブに行く
旅行で知らない土地に行くと、現実から離れることができるのでリフレッシュできます。海外でもいいですし、国内なら沖縄の離島などがオススメ。沖縄はシュノーケリングやバナナボートなど海のアクティビティが充実しているので、自然を感じながら楽しく過ごせてエネルギーが充電できるはず。あとは、ひとりでドライブに行くのもいいですね。ふらっと車に乗って街を走るだけでも、良さそうなお店を見つけたりといった発見がありますし、少し遠出をして海岸線や山の中を走ったりするのもGOOD。お気に入りの飲み物と音楽を用意して、自分だけの空間と時間を楽しみましょう。
4.思いきった断捨離をする
現実逃避の目的は、「現実に向き合うためのエネルギーを取り戻すこと」。心身ともに疲弊しているときは家が荒れやすい傾向にあり、家の中がごちゃごちゃしていると、自分もパワーダウンしてしまいます。そこで、まず使っていないものを手放すことから始めてみましょう。思いきったレベルでやると、効果も高くなります。不要なものが部屋からなくなると、部屋の中の空気がきれいになることが感じられるはずです。掃除をして体を動かすことで、夜もぐっすり眠れるようになりますので一石二鳥です。
5.趣味に没頭する
小説や漫画、ゲームや映画など、好きなことに集中するのもいい方法です。忙しいときにはできないような、時間と手間のかかる料理を作ってみるのも癒されます。食べる楽しみもありますし、「こんな料理も作れる!」という自信や喜びにもつながります。手先が器用な人は、ビーズアクセサリーやハーバリウム、編み物など、モノづくりをするのもオススメです。集中して取り組むと頭が空っぽになってスッキリしますし、いい作品ができればなおうれしいものですよね。
自分の人生とうまく付き合っていこう
人生、うまくいくことばかりではないですが、現実逃避したいと思うときは、さまざまな要因が重なって、精神的にかなり追い詰められているときです。心のSOSを見逃さず、一時的に現実から離れて楽しいことをすることで、もう一度自分の人生と向き合うパワーを取り戻しましょう。効果的に気分転換ができれば、また元気になって頑張ろうと思えるようになるはずです。 
 
 
 
 

 

●隠遁 1 
世事を逃れ、隠れ住むこと。俗世間を逃れて隠れ住むこと。遁世(とんせい)。世俗を離れて生活すること。世間を去って山中などに住み、仏教の修行に専心すること。また特に、自力門を離れて浄土教の信仰に入ることもいう。「隠遁者(しや)」「山中に隠遁する」「庵を結び隠遁する」「隠遁者」
…13世紀以降、隠者も共同組織にくわえられることが多く、アウグスティヌス会、カルトゥジア会、カルメル会などが成立し、現在にまで存続する。日本でも、世俗の生活を捨てたり、そこでの社会的・人間的な関係のもつ制約から逃れ、ときに山野に隠れ住む人を隠者といい、その行為を隠遁という。日本古代の隠遁は老荘や儒教の影響をうけた中国の隠逸を模倣し、官僚社会から逸脱した生活を憧れる観念としてあらわれた。…
隠者
一般社会との関係を絶ち(隠遁)、生活する人のこと。特にキリスト教や仏教など多くの宗教の宗教者、または宗教的背景をもった隠者が多数知られる。
隠遁生活
世俗から離れてひっそりと送る暮らしを意味する語。  
●隠遁 2 
もとは中国の古典に見られる、世俗を超えた道理に通じた隠逸いんいつや隠士と呼ばれる人々が、山野や市井で、清貧にして名利にとらわれない生活をするあり方のこと。日本では、官位を辞し、都を離れ閑静な地に暮らし、風雅に富んだ生活を送る意味に用いられた。しかし、日本で顕著に見られる特徴は、隠遁と出家とが同義に用いられたことである。その用例が増加し始めるのは平安時代である。当時、比叡山などの大寺院は世俗化が進み、これを嫌った一部の僧侶達は隠遁の身となった。その一方、漢文詩文に通じたいわゆる文人貴族の中にも、仏教に大きな関心を抱き、隠遁という生活形態をとる者がいた。文人貴族達は、専門の養成課程を経た僧侶とは異なり、仏教教理や儀礼にこだわらず、執着を減らすことを修行とみなし、隠遁を仏道修行や往生の手段とした。鎌倉時代に入ると、『発心集』『撰集抄』『宝物集』『閑居友かんきょのとも』『沙石集』『方丈記』『一言芳談』『徒然草』などの隠遁に基づいた文学作品が登場し、一大流行を見せた。さらに鎌倉時代の半ば以降、隠遁者に多く見られた墨染めの衣を着る者達が、説教僧や死者儀礼に携わる人々、芸能を生業とする人々にまで広がり、隠遁の思想は日本社会に内在化され、仏教のみならず文学・芸術・芸能にまで広範な影響を与えた。法然が『徒然草』などの隠遁に基づく文学作品に登場するのは、当時の社会的なイメージや期待が、隠遁者法然に寄せられていたことを示している。また、法然の『七箇条制誡』には、「予が門人の念仏上人らに告ぐ」(昭法全七八七)とあり、法然の門下には、隠遁を志し民間に念仏を説いた僧侶がいたことが窺われ、『一枚起請文』に見られる「一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして」(聖典四・二九九/昭法全四一六)という、一般的な学識にこだわらないとする見解は、隠遁の思想の系譜に連なる一面を持っており、法然のもとに集まった人々に広く訴えかける意味をも持っていたと言えよう。  
 
 
 
 

 

●隠遁生活 1 
隠遁生活は昔から日本人の憧れの生活であった
調べたところ、昔から日本では隠遁生活は憧れの生活であったようだ。日常の喧騒から離れ、自らの道を追求する。例えば、戦国時代の権力者も、茶の道に生きる糧を求めたようだ。茶の道は、城にあって、その本堂ではなく、離れに存在した。金や権力を手に入れても、満たされなかったものがそこにあったのだろう。昔から、人の心は変わっていない。
現代流の隠遁生活
時代は流れ、今。仮想通貨やら、YouTuberやら一攫千金を成そうとする人々の心は変わらないし、お金や権力のために、私生活や家族との時間を犠牲にして仕事を朝から晩まで、さらには休日も犠牲にしてしまう人も多くいるが、今こそ、私たちは、隠遁生活によって、自らの心を取り戻すことに、安らぎや幸せがあることを考えて見る必要があるのではないか私はそう思い、この題材について、筆をとることにした。現に、断捨離やシンプルライフという言葉で日本にもその生活やあり方が見直されているようだ。しかし、その本質をつかめなければ、また一過性のブームとして過ぎ去ってしまうだろう。私は貧しいことが良いこととは考えていないし、貧しいからこそ得られる幸せがあるとも考えていない。それは、本質が見えていない商売人のポジショントークであり、本来の姿からはかけ離れてしまう。なので、隠遁生活についてそれをオススメする前に隠遁生活に少し噛み砕いてみたいと思う。もちろん、現代流の実現可能な隠遁生活をするためである。
隠遁生活を噛み砕いて理解する
隠遁を辞書で調べると、((俗世間を逃れて隠れ住むこと))と出てくる。俗世間とは((一般の人々が日常の暮らしをしているこの世))ということである。((求道・修行に無関心な世俗の世界))と認識したほうがわかりやすいか。少し大げさに自分の技術や精神を磨くことを忘れた『欲望にまみれた世界』と定義してみよう。この欲望にはきりがない。戦国武将は天下統一を目指した。天下統一のあとは世界統一とでも言う気だろうか。お金も権力もとどまるところを知らない。そして、一度手に入れたら、それを維持することにとらわれ、一生を欲望の奴隷として過ごすことになる。だからこそ、この欲望を捨て、自らの道を追求することだけに目を向けることが心の安定の道だと私は考えた。しかし、欲望を捨てることはなかなか難しい。羨望の目や、憧れの的になること。お金に権力、こうしたものを捨てることができないのは、自らの見栄やプライドからくるものだろうか。だからこそ、無理をせずに捨てるために選ぶ道が隠遁生活で得られるメリットなのではないかと考えた。他人がいなければ、見栄やプライドは生まれない。誰かが儲かった、誰かが運がいい、誰かが絶世の美男(美女)だ、そんな情報が入ってこなければ、見栄やプライドとは別世界にいくことができる。誰かの成功が妬ましく、誰かの失敗が喜びとなってしまうような現世(いつの世もそうなのだろう)から離れられるのである。現代に置ける隠遁生活は、ただ単に、山奥に暮らすといったようなことではなく、(もちろん可能であれば、自然の多い場所に移り住むのは良い)情報を遮断して自ら探索者として、この世の真理を掴む精神の旅をすることにある。仕事をしている人も、上司や取引先の奴隷になるのではなく、あえて残業などしないで、時間を確保して、「自分と向き合う時間」を取ってみることである。それによって、昇進できなかったとしても、ちょっとくらいの昇給がなかったとしても、何が問題だろうか。その昇給のための犠牲は、死ぬときに必要だったと思えるものだろうか。私はそのように考えている。
隠遁生活をして思ったこと、失敗したこと、課題
ここからは私ごとで申し訳ないが、私が始めた隠遁生活について振り返りをしてみたい。私は一年前、自ら隠遁生活を始めた。しかし、実は途中忘れてしまった。それは、孤独が寂しいというデメリットが生み出したものだ。寂しさのなかで、俗世へ身を戻してしまったのである。例えば、良くない出歩き方や、人付き合いやお金の使い方をしてしまった。隠遁生活が幸福の道だとわかっていて、なぜそれをできないのかと考えればそれは孤独に耐えることが出来ないからである。かのブッダでさえ、悟りを開く前には様々な誘惑にかられたというし、修行を積んだ高僧でさえ、日々の生活を見直していかないと、いつの間にか俗世に戻ってしまうと言う。私も懺悔の気持ちではあるが、改めて隠遁生活の意味を考え、それを選択する道を選んだので、とても大層なことを言える立場ではないのだが、心の安定と、死を迎えるときにやり残したことのない人生を送るために、隠遁生活の実践を進めていきたいと思う。ちなみに、私は今でも投資家である。なので、もちろん資本社会への参加をしているのだが、いくら稼いだ、という喜びではなく、人間社会の仕組み、成り立ち、本質を追求していく姿勢をとっていくということである。だから、投資で稼いで、高価なものを買いたいという欲はない。あるのは、家も、服も、清潔で快適なものを整えながら行きていきたいという姿勢だけである。誰かにこの隠遁生活を押し付ける気はない。ただ、もし今の生活に疑問を感じたり、情報に振り回されて疲れてしまっているのなら、私が選んだ生活の一部でも参考になれば幸いである。幸福は、外にではなく、自分の内側にある。そんな道の追求である。 
●楽しい隠遁 山水に遊ぶ 2 
隠遁(いんとん)という言葉の語彙を引くと「俗世間を逃れて隠れ住むこと。遁世。庵を結び隠遁する。隠遁者。閑居。わび住まい。」(『大辞泉』)とあります。
隠遁と聞いてまず思い浮かぶのは、鴨長明の『方丈記』ではないでしょうか。鎌倉時代、神官であった長明は上位を望んで果せず、無常を感じて京都郊外の日野山に一丈(約3m)四方の庵を結んで隠遁生活をしました。
世間の喧騒を離れた静かな自然のなかで、四季の移ろいを肌で感じながら悠々自適の生活を送ることができたら、さぞかし心が洗われることでしょう。
思うにまかせないことの多い現実生活のなかで、こうした隠遁生活は人々の憧れの的となり、とくに文人たちは隠遁生活を理想の境地として、その思いをさまざまな形で表現しました。
21世紀の現代にあっても、隠遁という言葉はなぜか人々の心をそそります。そんな隠遁生活をテーマにした展覧会「楽しい隠遁 山水に遊ぶ 〜雪舟、竹田、そして鉄斎〜」展が、京都の泉屋博古館で開かれています。
本展では、おもに日本の文人たちが理想の隠遁空間をイメージして描いた山水画や、隠遁生活には欠かせない文房具の名品を中心に紹介します。
本展の見どころを、泉屋博古館の学芸員、外山潔さんにうかがいました。
「本展では、雪舟《漁樵問答図》や田能村竹田《梅渓閑居図》はじめ、富岡鉄斎《掃蕩俗塵図》、小田海僊《酔客図巻》、岡田半江《渓邨春酣図》などの山水画が紹介されます。いずれも深山幽谷の地に庵を結んで暮らす、うらやましいばかりの閑雅な世界が描かれています。また本展では、文人たちが愛玩した精緻な細工が施された中国の文房具も展観します。竹林七賢図筆筒(明〜清時代・17世紀)、太湖石置物(明〜清時代・17世紀)、白玉香炉(清時代・18世紀)、山水図石彫硯屏(清時代・18世紀)など、机上の文房具にも隠遁の風雅がうかがわれます」
現実のしがらみを忘れて、しばし理想の隠遁生活を、画中に楽しんでみませんか。 
●隠遁生活のすすめ 3 
隠遁生活のすすめ
初孫が誕生、男子であるとの報を得,喜ぶと同時に、自分の心中の緊張する糸が大き な音を立てて「ブッ!」と切れた音を聞いた。個人として生命の継承という人生にお ける重大事をつつがなく全うし,天よりおせつかった役目はこれですべて成し遂げた 安堵感に満たされた。人間なら誰でも経験する境地ではないだろうか。
今より10年前の話でありました。その頃、私は輸入住宅の会社を経営していた。
当時は、時代がデフレに振れて激変する経済の真っ只中、社業の舵取りに四苦八苦の毎日であった。
私は昭和18年生、世間というものに出て以来、そんなに努力せずとも夜の明けるご とに売上も仕事量も増える時代を生きてきた。
それがイキナリ縮小の時代に突入した のであるが、頭では理解していても若いころより体で覚えたインフレ感覚はなかなか 消えるものではない。放漫経営でもあった。
そんな時、息子がカナダでの勉学を無事 終了し入社してきた。詳細は兎も角も、孫のお守にかまかけて社業は大分おろそかに なっていた。それでなくとも、俗事が疎ましく感ずるようになり、或る日、身代を借 金諸共、息子夫婦に投げ渡して、家内、愛犬をともない、かねてより憧れの「隠遁生 活をする!」と宣言した。
嫁は「お父さん!あたら二十歳半ばの青年にいきなりご自 分でしでかした借金と社業をまかせるとは、いくらなんでも虫が良すぎるのではあり ませんか?」「しかし、まぁ、めったにないチャンスだから、存分にやってみよう !」と息子。「兎も角も、よしなに、よしなに!」と私。
身内、周囲の者は、誰某も何某もあれだけ頑張ってやっているではないか!と叱咤激 励するのであるが、人間50を過ぎたら生き方は気分の問題となる。個人差が出て当 然であると説得した。私は若い頃より方丈記的生活、荷風の隠遁生活に憧れていた。
世の中をやや斜に見ながら自分の好きな世界に耽溺する生き方は魅力的である。自分 にはそのときのシュチュエーションからしてとにかく世を捨てて「隠棲生活」と云う ライフスタイルが今後の生き方としては適切であると確信していた。今をおいては チャンスはない!と、そのとき思ったのである。
隠遁生活の実践
作法の基本として、隠遁生活の必須アイテムは草庵、田舎、かすみ。
バックボーン に、隠者の屈折した思想的経緯が必要であり、それは、隠者の周辺にある種の影を漂 わせ、独特なる雰囲気を、醸し出すのである。ワインで云えば「熟成」と云う高度な 技術で、その付加価値を高める。ありていに申せば「生への情熱をうちに深く秘め、 田園生活をライフスタイルの理想とし世間を逃れ、人里はなれた田舎に草庵を設け, 精神の充足に努め、仏の道を探求しつつ、おのれの世界を構築し、花鳥風月を心の慰 めとする」と云うのが伝統的な手順である。
私は、幸い梅田付近、飛駒と言うところ に二十余年のログハウスを所有、屋根は板葺き、それなりの趣が出てきた。「霞」は とりあえず、葉巻で代用することにした。「かたち」としてはこれでなんとか格好が つく。新規な事をするには、まず「かたち」から入るのが一番の早道である。要はそ のコンテンツであった。何か体裁のよい屈折せし思想であるが、ノー天気な私には、 人に誇れるような思想や求道精神など皆無なのである。
しかし、このあたりのコンセ プトが厳然と構築されないと隠遁生活も格好がつかない。本物志向の私としては、こ の部分のストーリー性に執着するのである。悩んだ据え、「志なかばで経済世界の激 動の波に弾き飛ばされ、おのれの志す思想展開を断念、いさぎよく後継者に事後を託 し隠遁す(ありていに言えば単に経営能力が不足していて事業の経営に自信をなくし ただけであるが)」と云うことで何となく自分で得心した。
一方、隠遁生活も,多少 の変化、つまりメリハリがなければ、永く続かないわけで、そこで、一度,トライし てみたかったカフェレストランの運営に着手することになった。例えば、或る人が街 を 訪れたとして、一時を、都会の喧騒より離れて、閑静な庵にて憩おうとする、そのよ うな 人が食事を兼ねて訪れたくなるような「場」 を創り出そうと考えたのである。
久しく手を入れぬ2000坪の敷地は木々、雑草も自由 勝手に伸び、草庵も荒廃していた。そこから晴耕雨読的に手入れを開始したのであ る。今振り返ると、ビールを飲み、ほろ酔い加減で構想を練りつつ、葉巻を吸う時間 のほうが多かったような気もするが、兎も角も、季節をおうごとに体裁も徐々に整っ ていった。
快楽的隠遁
車中、香水の匂いがただよう。目を助手席に流すと、薄い布からはみ出しそうな白い 乳が目にとびこむ。下は臍あらわなる腹部が露出(目が潰れてしまいそう)。
当店 シェフ、ジュリア女の出勤風景。いや、確かに、ナイスバディーなのだが、なにしろ 時節、早春の頃であった。「風邪を引くのでは!」とひたすら心配。(しかしアトラ クティブではある!)「キミサムクハナイノカ?」「ワタシハワカイカラダイジョウ ブヨ」「ボクハキミヲミテイルトヨケイサムクナル!」「トシヲトルトミンナソウデ スネ」。この頃、ひとしお布の表面積が小さくなったような気がする。
先日は体の後 は網であった。私は思わず「マエトウシロヲイレカエタラワタシハウレシイ!」 「ダーメヨ、ソレハせくはらヨ」と注意をうけた。彼女は美女、ハイ・アイキューの 持ち主、料理が得意で、しかも手早い。店で購読せしファインクッキングをザット見 て、材料を自分で調達し、すばやく試食品を創る。ジュリア女と家人、私をまじえそ の料理を前に、グラスにドライなワインをそそぎ一時の品評談義に入る。
じつは、彼女、この頃、遭遇せし隠遁者の細君。同輩の隠者は足利在、日本生。若くして渡米、 南部のハーバードと云われるノースカロライナの名門校ディユーク大学を卒業、以来 三十年世界を舞台に「ヘッドハンティング」「投資」を主たるビジネスとして蓄財、 一人暮しの母親の介護の為、久方ぶりに故郷、日本の土を踏み、日本人の変わりよう に腰を抜かさんばかりに驚いたと言う「今様浦島太郎」のごとき人物。
会うたびに 「古きよき日本は何処へいってしまったのか相場さん?僕は哀しい!」とワインをす すり、嘆くことしきりなのである。二百年の旧家に住み、時にニューヨーク、カル フォニアに出掛け、平生、古庵にてパソコンを駆使、インタナショナルなビジネスに はげみ、金を集める。
葉巻、古庵、世間を斜に見る視点、極東のこの地を世界の田舎 と見立て、隠者生活に、どっぷりとつかっているのである。コイーバ、ワイン、極東 の端所の草庵と云うキーワードゆえに私と波長が合う。細君ジュリア女は異国の地に て、このカフェレストランを気に入り加勢する事になる。
山林に自由を存す
飛駒は、見回す限り山の囲まれた、程よき広さの盆地にて、周辺の他の地に生じた集 落より明るい。カフェは正にその盆地、中央に存する。広き敷地の周囲、木々育ちて 林をなし涼風は訪れる人を癒す。また、この地、すり鉢の底ゆえに、気功家はオゾン 効果「いやしろち効果」に優れていると言う。
飛駒川は盆地の中央を南北にはしる。 黒沢、寺沢より水を集め村落の半ばで覆水となり出原に湧きだすのである。「日本百 名水」の一つとして知られる。飛駒の水はこの名水の源、甘露である。東京、埼玉、 関東各周辺よりカフェを訪れし人まずこの水を飲み、一様に「美味しい!」と驚く。
コーヒーは味の切れがよくなる。最近では盆地の高台にモノ作りの新天地を求めて集 まりくる人が増えた。飛駒の自然が織なす「やわらかさ」ゆえかと思う。をである。
店を開くにあたりパソコン習得に挑戦した。ここは、極東奥地に存する草深い田舎で ある。ホームページで店の魅力を掲載しなければ訪れる人はない。パソコンの入力に は貿易の仕事で長年英文タイプを使用していた事が役に立った。しかし、パソコンの 概念、Webページの作成、画像処理等を習得するのに悪戦苦闘をした。パソコンやソ フトに付属するマニアルを読んでもさっぱりわからない。読むほどに謎はふかまるば かりであった。
日本語で記述してあるが、その意味するところが理解できない。何度 も挫折を繰り返しながらも、書店で、理解可能な解説書を求め、片っ端から読んで、 試して、この頃ではようやく「パソコン自由自在」となった。
ザ・グレートスモー キー・マウンテン山麓に散在する、ヒルビリーなヴィレッジの雰囲気を色濃く漂わせ る、この店を慕い、ブルーグラスやカントリーミュージックを演奏する人達も集まる ようになり、春秋の演奏会は、私の楽しみの一つとなり、草庵も賑わいを得てきた。 料理は、「広き世界より、入手可能な食材の持ち味を生かせる料理を、我等独自のス タイルで確立したい!」とかなり大胆なことを考えるようになった。事さような次第 で隠遁生活、カフェレストラン経営と、二束のわらじを履き、老犬、愛妻よう子と極 東辺地の狭き世界に留まり、脳裏から次第に忘れ行く文明世界の中心「パリの街」を 恋しく思う、今日この頃となる。
飛駒三山
飛駒三山とは、佐野市北部の飛駒盆地を取り囲む要谷山(ようがいざん)、のこぎり山、多高山(たこうさん)の三つの山のことです。超ローカルな呼称らしく、"飛駒三山"で検索しても、今のところ「やまの町桐生」の要谷山の項と飛駒の自然を守る会のサイトしか出て来ません。三山と聞けば、これは三山駆けをせねばなりますまい(^^)。のこぎり山と、のこぎり山〜多高山の稜線には一般登山道がありませんが、ネットで調べるといくつかの山行記録があり、歩き通せそうです。低山ながら距離は長く、正月以来の山行のブランクでなまった身体にちょっと刺激を入れるのにも良さそう。天気の良い日を見計らい、休日出勤の代休を取得して出かけて来ました。桐生を車で発ち、桐生川上流の梅田湖から老越路峠(おいのこうじとうげ)を越えて、飛駒に入る。青空が広がって、三山がよく見える。根古屋森林公園の駐車場に車を停める。今日は冬のしかも平日なので、公園内にはさすがに人の気配はないが、良く整備されていて、春〜秋の行楽シーズンには賑わいそうな所だ。今日は暖かいので、重ね着して来たフリースのインナーパンツは脱いで出発する。
根古屋森林公園に入り、「いけづきの道」という道標に従って林間のキャンプ場を通り抜け、山道を登る。大きな針葉樹(なんだろう)の林がなかなかきれいだ。
「こんぴらの道」を左から合わせた先に、少し荒れ気味の金比羅宮の小さな社殿があり、傍らに金比羅の妙泉という泉がある(ただし水たまりで、飲めるものではない)。さらにひと登りで、城砦の遺構らしい段差を越えて要谷山の頂上に着いた。樹林に囲まれて展望は多高山が望める程度だが、ベンチが設置されていて休憩には良い所だ。頂上から西へ一段下がると浅間大菩薩が祀られている。ここで西へ下る「せんげんの道」と稜線を辿る「するすみの道」に分かれる。するすみの道に入り、冬枯れの雑木林の尾根をしばらく辿る。杉林に入って石祠を過ぎると、道は左斜面を下って、やがて林道に出る。林道をずっと辿ると元の森林公園入口に戻るが、途中で右に分岐する林道に入り、三面コンクリートの沢沿いに下って、鳥谷戸(とりがいど)の集落に出た。
次はのこぎり山だ。彦間川を渡り、クロマツの大木(推定樹齢400年)がある参道を通って永台寺に向かう。門前の説明板によると、永台寺は奈良時代天平年間に行基が開山草創、現存する仁王門は文禄2年、本堂も天保年間の上棟とのこと。阿吽の仁王像のある仁王門をくぐり、のこぎり山が背後に控える本堂の前に出た。
ここからのこぎり山にどう登るかは、事前の情報がない。取り敢えず、本堂左手のコウヤマキの大木(これも推定樹齢400年)の横を通って、杉林の中に入る。とにかく上を目指すと雑木林になり、岩場に突き当たる。ここは直登できないので左に回り込むと、細いながらも明瞭な踏み跡があった。これ幸いと踏み跡を登って行くと尾根に出て、石灯籠と石祠があった。石灯籠は安永四?年と刻まれた古いものだが、石祠の中には秋葉三尺坊大権現の新しいお札が祀られている。踏み跡はこの石祠への参道だったようで、この先に道はない。しかし、右側斜面が伐採された赤松林の尾根で、日射しを浴びて快適に登ることが出来る。振り返れば、要谷山、飛駒の里、多高山が一望だ。
伐採地が終わると杉、松、雑木に覆われた尾根になる。そこはかとなく踏み跡があり、藪も薄い。露岩と赤松が点在する急な尾根をひと登りすると、石祠のある小平地に出た。石祠の屋根の前面に「宮神山」と刻まれているのは右書きだろう。台座には「寺沢、黒沢、鳥谷戸」と麓の集落の名が刻まれていた。木立に囲まれて展望は限られるが、西には遠く鳴神山、東には眼下に山麓の黒沢の集落が見える。雪が残るピークは風当たりが強く寒いので、休憩もそこそこに先に進む。山名のとおり、露岩の多い痩せた尾根の小さなアップダウンが続く。ちょっとした岩尾根を攀じ登って、のこぎりの中央のピーク(取り敢えずここでは主峰と呼ぶ)に登り着いた。主峰も樹林に囲まれて展望に乏しい。木立の間から、かろうじて遥か遠くの野峰を眺めた。
主峰から左に折れて、立ち木を摑みながら急な斜面を下る。ここはかなり急なので、補助のロープがあった方が良かったかも知れない。次のピークも岩場があるが、ここは左に巻く踏み跡がある。626m標高点の位置は気付かずに通過してしまった。ようやくギザギザの稜線も終わって、気楽に歩けるようになる。そろそろお腹も減って来た。古い石祠を過ぎると、行く手の尾根を送電線が横切っている。あそこまで頑張ろう。前方ななめ右の方向には、ずいぶん奥の方に丸岩岳がどっしりとした山容を見せている。こちらから見ると、奥山の雰囲気があるなあ。ようやく送電鉄塔に到着。杉の植林地の中で眺めはないが、風は当たらないので休憩には丁度いい。ゆで卵をつまみに缶ビールを飲み、餅入りスープを作って食べる。
送電鉄塔から杉林の尾根を少し辿ると、野峰から多高山へ続く主稜線上のピークに出た。ピークといっても、杉林の中に何かの境界標石があるだけの、全く特徴のない場所だ。ここから多高山へ南西に向かうところを、間違えて西に落ちる尾根を暫く辿るが、すぐに気が付いて、斜面をトラバースして正しい尾根にのる。暫く進んでふと気が付くと、ザックのベルトに掛けていたデジカメがない。さてはさっきのトラバース(ちょっと灌木を漕いだりした)で落としたか。ザックを置いて、慌てて拾いに戻る。道に迷っている途中で落としたので、来た道を戻るのは難しかったが、運良くデジカメを発見。良かったー。尾根道を下ったところには細い峠道が通っていて、傍らに「飛駒村有林」と刻まれた石柱が立っていた。先程の騒ぎで時間をロスしたこともあり、そろそろ日没の時間が気になって来て、先を急ぐ。杉林や雑木林に囲まれて、ところどころ木立の間から茫洋とした野峰の山容が見えるだけの、しぶーい尾根歩きが続く。
どこが尾根だかわからない平らな杉林をしばらく進むと、624.6m三角点でR.K氏の標識を発見。こんなところまで標識を付けて歩いているR.K氏とはどういう人だろう。この先で送電鉄塔を過ぎると左手の眺めが開けて、皆沢の集落や鳴神山から大形山へ長く尾を引く稜線が見える。天気は下り坂で、空は既に寒そうな雲で覆われている。
このあたりから群馬・栃木県境の稜線になり、屋根だけの潰れた石祠を見る。尾根上は小さなアップダウンが多くて、行く手の多高山の台形の頂上はなかなか近づいて来ない。急な斜面を灌木を頼りに攀じ登ると、「MHC 535m」という標識のあるピークに着いた。県境はここまで。一汗かいたので休憩する。冷たいミカンが美味しい。
ここからも小さなピークをいくつも越えて行く。さすがに疲れて来た。途中でホタテ貝を立てたような面白い形の岩を見る。前仙人ヶ岳のつなぎ石と同じような地質なのかしらん。登り着いたピークから振り返ると、のこぎり山や通過した送電線、遥か遠くに野峰や丸岩岳が見えた。ずいぶん歩いて来たものだ。
杉の植林に覆われた鋭峰に登ると、稜線は東に曲がって一旦下り、多高山に向かって最後の急坂となる。縦走の最後にこういうのがあるとこたえますな。空は暮れ始め、西の空はきれいに夕焼けしていた。老越路峠からの登山道を合わせて、ようやく最終目的地の多高山に辿り着いた。多高山の頂上には崩れた石祠、天明元年と刻まれた石灯籠、二等三角点とアンテナ塔がある。東に眺めが開けて、飛駒の里が俯瞰できる。標高の割には高度感のある山頂だ。ゆっくりしたいところだが、今日は多高山まで歩き通せたことで満足。麓にもぽつぽつ明かりが灯り始めたので、暗くならないうちに下ろう。
頂上から南東の尾根を下ると石祠のある岩場があり、さらに麓の眺めが良い。この先の岩場の下りは結構危ない。巻き道もあるようだが、先を急いでいたため見逃したようだ。
あとはハイキング向きの雑木林が快適な尾根道となり、山腹をジグザグに下ると、ゴルフ場の駐車場に降り着いた。ゴルフ場のレストハウスの水銀灯には明かりが入り、従業員の人たちの車が帰って行くところだった。日が暮れる前に下山できて良かった。
車道を歩いて森林公園に置いた車まで戻る。それから桐生♨湯ららに向かい(開設5周年記念で入館料割引中)、よく温まって筋肉痛になりそうなところをほぐして帰った。 
 
 
 
 

 

●隠遁生活5年目の総決算 
スピリチュアルに生きるってどんなことか。私なりにまとめると愛を感じるための戦略を自分は、皆とは違い「特別」なことを示し、分離をどんどん強めていくことから、自分がどんなにみんなと「同じ」で、すべての意識と一つにつながっているかを、深く実感することへと変えることだと思ってます。
奇跡のコースの言葉を使うと、「尊大さ」から「壮大さ」へと、モチベーションを移していくことです。
ここ数年感の私の人生を一変させた大発見は、誰をみても、何をみても、自分との共通点をみて、一体感を確認するという馬鹿みたいにシンプルなことを続けているだけで、「自分は、皆とは違い特別だ」ってことを証明するために、躍起になっていたときよりずっと、揺るぎない自己肯定感が得られるということでした。
しかも、そこにはボーナスとして、安らぎや、愛情の増大、宇宙の荘厳さ、自然の美しさに、しみじみと心動かされる気持ちの増大、なによりそれらを自分自身と全く一つのものとして感じられることなどが伴っています。「壮大さ」と言う言葉は、全然大げさではないのですね。
自己肯定感は、自分は人とは違う、そして優れていることを示すことからしか得られないとずっと思ってきた私にとって、これはまさに、革命的なことでした!

でもこの移行には、試行錯誤、ありました!
いい研究者になろう、大学教員になろうと、知識や理論で武装すればするほど、「自分はダメだ」という気持ちはおさまるどころか、やればやるほど、まずます不十分なところが目につく悪循環にはまり。これはキリがないなと思って、早々に大学を辞め、田舎で隠遁生活をはじめたのが、5年前。
それと同時に、奇跡のコースを始めとした、スピリチュアルな世界の探究も本格的にはじめました。
ただ、しばらくして気づいたことがいくつかあります。
一つ目は、スピリチュアルな学びそのもので、研究者をしていた時と同じパターンを繰り返している自分に気づいたことです。そういう場合、いくら頑張っても、心の安らは得られません
ありのままの自分はダメ、でも、スピリチュアルになり、悟りを開くことで、完全になれるかもしれない・・・という動機が、背後に隠れている場合、スピリチュアルな学びや修行が、本当にスピリチュアルになることを妨げる可能性があります。
自分がそうしていることに気づいたら、すぐに立ち止まり、心を見つめる必要があります。たとえば、コースのワークブックレッスンを1日でもやらないでいると、不安な自分に気づいたら、レッスンをやって不安をなだめるよりも、逆にレッスンをやるのは中止して、レッスンをやれないことで浮上してきたこの不安の方を、癒しが感じられるまでしっかり見つめ、ゆるす方が、ずっとスピリチュアルなことだと思います。
もちろん、そのあとで、自然に「レッスンをしたい!」という気持ちが内側から湧いてきたら、ぜひ、やってください。ワークブックレッスンに「おすがり」するようにやるよりも、ずっといい状態でできると思います。

もう一つは、「自分はダメだ」と頻繁に感じる状況に身をおくこと、それ自体は、決して悪いものではないということです。
「自分はダメだ」と感じるのは、欠如感で、コース的にはもちろん、ゆるしの対象です。
でも、本当にそれをゆるして、そこから解放されるためには、自分の中に、少しでも残ってるこの感情を、どんどん浮上させて、しっかり感じる必要があります!
ゆるしをどんどん進めて、解放感を味わうには、恥ずかしい、気が滅入る、できれば避けたい・・・そんな状況にすすんで身をさらした方がいいのですね。逃げたり、ごまかしたりせず、この気持ちをしっかり感じれば感じるほど、その分、深い癒しが得られ、心の平安やよろこびが得られます。
ところで、大学を早期退職して、隠遁生活5年目の私。自分のやりたいことだけに集中できる自由も謳歌させてもらってますし、後悔はしていませんが、ただ、かすかな閉塞感や、退屈さも感じられてきました。
そんな気持ちを感じだしたのは、田舎生活そのものが悪いのではなく、「もっと世界で自分の実力をためしたかった」という思いが、私の中にまだ残っていたからなんですね。一種の自己承認欲で、エゴから来る思いの典型なのですが、ゆるされ、昇華されるうちに、真のコミュニケーション、聖霊の体験を分かち合うところまで高められるかもしれません。
心の底に残っている、まだ成仏されないこうした思い(笑)を、しっかり見つめ、成仏させる必要を感じ始めました。
しかも、そこには深い恐れもまとわりついていることにも気づきました。この恐れこそ、この思いがエゴから来ているということの証明なわけですが、すると、さらに気づいたのは、私の田舎での隠遁生活の全体が、この恐れを直視しないでいるための見事な防衛になっていたことです。つまり、田舎に引っ込んだ動機の中には、自分の仕事に対する批判が届かないところ、叩かれないところに逃げたいという思いが微妙に混ざり合っていたのです。
つまり心安らかに隠遁するには、まだまだ時期尚早だったわけですね!
というわけで、成仏されていないこの思いをしっかり癒すためには、もっともっと、自分のアイデアをいろいろ公表して、たくさん叩かれて、傷ついて、ゆるして・・・を繰り返す必要があるのも、見えてきました。
もちろんそうした一切が、コース的には「幻想」だってことも、重々承知ですが、そのことが頭でわかるだけでなく、心底、実感され、腑に落ちるようになるには、癒しのプロセスを、深く、深く、くぐっていく必要があります。
つまり、心にまだまだ残っている、成仏しない思いを、光にさらさずにはいられないところに、追い詰めていく必要があるのですね。

このことにはっきり気づく、きっかけになったのは、アメリカの社会心理学者、ブレーネ ・ブラウンさんの”Darling Greately”(邦訳『本当の勇気は弱さを認めること』)という本です。コースの本でも、非二元の本でもない。アカデミックな実証研究の成果に基づいた本です。
細かいところを見ると、意見が分かれるところも多いのですが、全体の主張は、うなづけました。快適な状況、コンフォートゾーンから抜け出て、後生大事に隠してきた、自分のおそれに直面したり、あえて傷つきやすい状況に身をさらすことを厭わないでこそ、本当に「生きてる!」という感覚、真のよろこびを感じられるし、自己肯定感も強めていけるというものです。(興味がある人は、ぜひ、彼女のTEDトーク、覗いてみてください。
私の言葉で言えば、一番避けたいところ、こわいところのただ中に飛びこむ勇気がなければ、それを超える癒しは起きないということですね。
実際、周りを見回してみて、生き生きと生きている人たちは、みんなそうだってことに気づきました。必要とあれば、リスクを犯したり、傷つくことを恐れず、事の核心にとびこめる勇気の持ち主ばかり。
私のように早々と敵前逃亡して、隠遁している人はいません。

では結局、どうすればいいのか。5年間の私の試行錯誤の成果が、もしかしたら、お役にたつか方もいらっしゃるかもしれないので、簡単にシェアさせていただきます。
まず、「ありのままの自分じゃダメだ」「不完全だ」という欠如感、不全感を感じた時、私たちは普通、そこで「では、完全になろう、欠如した部分を埋め合わせ、パワーアップして出直そう」と、努力し、頑張りますよね。
そして、自分の人生を少しでも「素敵」にしたり、「パワフル」にしてくれる、物や成果や能力や資格や地位や所属や関係性を手に入れようと、あくせく動き始めます。
これは、学校教育から始まり、世の中でも、奨励されている生き方ですよね。
でも、この対策法を選ぶと、やればやるほどダメなところ、不十分さが感じられてくる、欠如感の悪循環にはまります。
それが見抜けるようになると、「一抜けた! こんな際限のないラットレースから、私、降りるわ」と、この修羅場そのものから逃げてしまうことになります。
そしてそれがスピリチュアルに生きること思いこんだりします!大学を辞めて、田舎に引っこんだ時の私もそうでした。
収入も下がるし、地位もなくなるし、スピリチュアルな生活がはじまったって気分にだけはなれますが(笑)
この時点で、欠如感から来る自己承認欲など、すでに完全に癒されていれば、そこには何の問題もないです!
心安らかに満ち足りて、隠遁もできるかもしれません。
でも、そうでない場合。つまり、まだ成仏していない欠如感、不全感、無価値感が心身に残っている場合、逆に、そうしたものが、ひしひしと感じられる修羅場にあえて身を置くことが、真の癒しや成長のために、必要なことなのではないかと思います!
つまりそんな場合、あえて修羅場に止まる方が、時期尚早にそこから逃げるよりスピリチュアルといえるわけです。
ただその際、決定的に重要なのは、修羅場で、「ありのままの自分じゃダメだ」「不完全だ」という欠如感、不全感、無価値感などを感じた瞬間、それを補うための行動に走るのを、ストップできるかってことだと思います。
この瞬間、「もっともっと勉強しなきゃ」「がんばらなきゃ」、そして「見返さなきゃ」と、そこで感じられた欠如を補う行動へ走りたくなる気持ちをグッと抑えて立ち止まれるか。
あるいは、とにかくこの堪え難い気持ちを晴らすために、お酒や甘いものやコーヒーなどの嗜好品をつまんだり、ショッピングをして気持ちを高揚させたり、SNSをのぞいて、欠如感を麻痺させる行動に走る前に、立ち止まれるかどうかということです。
なぜ立ち止まる必要があるかというと、せっかく心の奥に隠されてきた成仏されていないエゴの思いの残滓が、浮上した、癒しのための、またとない絶好の機会を逃してはならないからです。
ここで気晴らしや、補完のための行動をはじめると、またそれは覆い隠され心の奥深く、無意識の中へと沈んでしまいます。
深海魚が、水面をかすめたその一瞬を、逃さず、しっかり捉えて、この感情を、ごまかさず、とことん感じてください。
はじめはとてもきついかもしれません。
一瞬だけでも、ジャッジメントをゼロにして、自分も含め誰も責めず、ありのままに、それを除去したい、厄介払いしたいという気持ちも忘れ、一生つきあっていくつもりで感じます。つまり抵抗のゼロ値(=愛そのおの)に達しながら、それでも、この感情をじっと感じ続けると、必ず、聖霊と合流できて、ゆるし のプロセスがはじまります。
すると、自然に、内側から、「こんなことで、私の価値はびくともしない。本当の私は、もっともっと大きな存在だ」という確信が湧いてきます。
心の一番痛いところ、きつい箇所にあえてとどまると、闇の、痛みのただなかから、だんだん光と安堵感がひろがっていくこの癒しは、圧巻で、 言葉ではとても尽くせません。
とにかく、どうぞ、実践して、体験してください。
欠如感を感じるたびに、それを癒すことの方が、欠如感を埋めるために、完全になろうと、あくせくいろんなものを探し回ったり、再現ない努力を続けるより、ずっとずっと、簡単だということに気づくでしょう。
このずっと簡単なプロセスが、そして、私たちみんなが、結局のところ、心の底では望んでいる本当の安らぎやしあわせに、まっすぐに運んでくれるというわけです。ついつい、その偽物ばかりを追いかけてしまい、際限なく探究ばかりを繰り返す悪循環の迷路にはまることも、もうありません。

長くなってしまいましたが、5年もかけて私が学んだこと、ここでシェアしたかったことは、ごくごく単純にまとめられます。
つまり、まだまだ癒されなければならないものが心に残っている限り、修羅場を避けるのは、スピリチュアルではないこと。
かといって、修羅場のただ中で、中毒行動で修羅場をごまかすのも、スピリチュアルではないこと、修羅場の中で、修羅場をごまかさず、しっかり見つめることからのみ、スピリチュアルがはじまること、以上です。  
 
 
 
 

 

●中国と日本における隠遁思想 −陶淵明と西行− 
一、研究の動機
私が日本の隠遁思想に関心を持つきっかけとなったのは、日本の有名な文学作品『徒然草』を読んだことだ。作者である吉田兼好は隠遁し草庵で暮らした文人として知られているが、実は隠遁生活を送った人は珍しくなかった。隠遁思想は日本の思想の一部とも言える重要な位置を占めていた。また、中国にも竹林の七賢や陶淵明、謝霊運など隠遁した文人がいたため、本論文では、これら中日両国における隠遁思想には何か共通点、あるいは違いがあるかどうかを明らかにしたいと思った。
二. 研究の方法
まず、中国の隠遁した詩人陶淵明と日本の隠遁した歌人西行二人を例として、これまでの研究によって、二人の隠遁思想がどう説明されているかをまとめる。そして、二人の隠遁思想を比較した上で、中日両国における隠遁思想の共通点と違いを明らかにしたい。
三. 陶淵明の隠遁
陶淵明(325~427 年)は中国の隠遁した詩人としてよ く知られている。陶淵明は、義熙元年(405 年)八月に、 揚子江沿岸の彭沢の長官となった。しかし、十一月に四十一歳で辞任した。この間に、有名な『帰去来の辞』を書いた。それ以後、故郷で田畑を耕す生活を送り、元嘉四年 (427 年)、六十三歳で一生を終えた。陶淵明は『宋書』「隠逸伝」に収められ。隠遁 者と扱われた。陶淵明が隠遁した理由は何か、また、どんな隠遁生活を送っていたかをまとめてみよう。
1. なぜ陶淵明か
陶淵明は『宋書』「隠逸伝」に記され、隠逸者として扱われる。後の『晋書』『南史』「隠逸伝」にも収められている。陶淵明は、隠遁生活を送る間に、たくさんの詩と文章を残した。その中の『五柳先生の伝』などは陶淵明の人生観が読み取れるが、作者の理想とする高潔な隠遁者の姿を描いている。陶淵明の人生観と生活態度は後世の人々に大きな影響を与えた。陶淵明を隠遁者とみなすことについては、当時から後の世まで認識が一致している。中国で隠遁といえば、だれしも思うのは、まず陶淵明であろう。
2. 隠遁の理由
1 不安定な時代
中国では、王莽(前 45~後 23 年)が、 「新」王朝(8~16 年)を建てた。天下が大 きく乱れ、官僚たちは安穏な生活が送れなくなると、宮仕えを辞め、安全な場所に身を隠すようになった。それ以降、漢王朝が成立したとはいえ、政治の混乱は続く。や がて後漢の王朝(東漢)(25~220 年)は滅亡し、三国時代(魏、蜀、呉)(220~280 年)という分裂、戦乱の時代に入った。官僚たちは生命の危険にさらされて、身を隠 すものが多かった。そして、八王の乱(291~306 年)が起こり、五胡の中原侵入を招 くと、西晋(280~316 年)が滅亡する。さらに五胡の勢力は増大し、南にある東晋(317 ~419 年)を圧迫した。陶淵明の生きた時代は政局の不安定な時代であった。
2 大きな社会潮流
王莽の「新」王朝以降、生命の安全を守るために政治に関わる場から逃れ、身を隠すものが多く現れた。宋の『後漢書』には、 「逸民列伝」の巻が設けられ、これらの人々の隠遁という行動が歴史として記されている。この隠遁という行動様式は、三国時代から晋までつづく。晋になると、隠遁は社会全体の潮流となった。
3 心の支え
「この風潮(隠遁)を醸成したのは、ほかならぬ三国時代から流行した老荘思想である。」(『中国の隠遁思想』)前漢・後漢において、国を支える政治の指導原理であった儒教は、統治者を支える規律として利用された。それは統治者にとって都合のいいものであったが、政治の場から逃避し、身を隠す当時の官僚たちにとっては、心の拠り所とはならなかった。後漢の滅亡とともに、儒教思想は官僚たちの支持を得られなくなる。そのような社会状況の中で、老荘を中心とする道教の思想が隠遁した人々の間に流行した。老荘思想の精神は「人為的なことを排し、『無為自然』、『無私無欲』を目標とし、人間本来のあるがままの姿を尊重するものである。そのめざすところは自由な世界であるとみていた。」(同上)老荘の「自ら然る」考え方は隠遁する人々に強く支持された。「老荘の追及する『自然』とか『道』が、自分たちの隠れ住む環境のなかにあると悟ったとき、苦しく思われていた山野の生活も楽しく感じられるようになった。」(同上)隠遁生活は苦しい生活から憧れの生活となった。厳しい生活の場であった山野は、次第に「山水」という美しいイメージに変わった。更に、晋になると、 「老荘を慕いつつ山水に遊ぶことを、知識人の教養であると考えるようになった。」「晋代から始まり、官僚社会を俗社会とみる。」(同上))このような時代に生きていた知識人たちは、「老荘思想に心酔し、無為自然を心がけて山水に遊ぶことを好み、仕官せず、官僚社会を世俗社会といって見下した。」(同上)当時の官僚たちは宮廷社会を嫌い、自分の身を潔く保つために、宮仕えを辞め、隠遁生活を始めた。隠遁は処世の道の一つとして尊ばれていたと考えられる。
3. 隠遁生活
このような時代風潮の中で、知識人である陶淵明は老荘思想の影響を深く受け、官僚社会を卑賤なものと見なし、宮仕えの生活から逃れたと考えられる。隠遁生活は陶淵明にとって、故郷での田園生活であった。宮廷の生活から離れて、故郷で田畑を耕しながら、自給自足の生活を送っていた。そして、隠遁する中、たくさんの有名な詩と賦を残した。この隠遁生活がなければ、こういった貴重な文学作品は生まれなかっただろう。しかし、陶淵明自身にとって、宮仕えを止めるというのは、まったく収入のない生活になることを意味した。このような生活は決して楽な生活ではなかったと考えられる。「彼は一家を支えるためには、仕官せざるをえない現実があった。仕官は本意ではないが、といってそれを拒否して、理想とする田園生活に入るには、暮らしの貧しさがそれを許さない。仕官と隠遁の間を往きつ戻りつする心の苦悩、葛藤に、いつも苛まれていた。意を決して故郷の田園生活に隠遁したものの、なお隠遁が、果たしてとるべき道であったかどうか悩んでいた。」(『中国の隠遁思想』)こういう心の動揺があるときに、老荘思想は強い支えとなった。陶淵明は「その貧乏生活を諦観し、ときには楽しんでいるかのごとくみえる。」それは老荘思想の主張する「無私無欲」の考え方に影響されてと考えられる。「淵明は富貴を無視し、貧賤に甘んずることを、人生における最大の価値と考えているが、その生き方こそ隠者の姿であると見ていたのではないだろうか。」(同上)老荘思想は陶淵明の隠遁の原因でもあれば、隠遁後の心の支えでもある。陶淵明はまずしい生活に甘んじて、隠遁生活を続けたことが理解できる。
4. 陶淵明の死生観
陶淵明の生死に対する考え方は老荘思想に深く関係していると考えられる。まず、『荘子』に見られる死生観を取り上げて、荘子の死生観と陶淵明の死生観を比較してみよう。荘子は、妻が死んだとき、土瓶を叩きながら歌っていた。それを「はじめはもともと生命なんかなかったのだ。それがなにかのひょうしで形となり生まれてきて、それがまたものへ戻っただけだ。一年が春夏秋冬というふうにめぐるのと同じだ」と説明した。そして、荘子は自分が死ぬときに、「自分は天と地とをお棺とし、日と月とを飾り玉とし、万物を葬式の道具としているのだ。 」という考えを表した。
陶淵明にとって、「生死は人間の力ではいかんともしがたいという諦観が背後にある。生死の問題は、自然にゆだね天命にまかせるよりほかはない。」(『中国の隠遁思想』)死に対してはどうしようもないと考えた。これは自然のままでいいという老荘の考え方と一致する。「陶淵明が頭に描く理想の生活は、外物に左右されず自由に歩きまわれる生活である。」(同上)老荘思想は、宮仕えの場から離れ、故郷の田園に帰り、自然の変化のままに身を委ねて、自分の人生を送るという陶淵明の隠遁生活の選択に影響を与えたと考えられる。
5. 陶淵明はどうやって生活を維持したか
仕官しない陶淵明は経済的な問題をどう解決するかについて、前回のレポートで問題になった。今回はこれまでの研究と陶淵明の作品を踏まえて、論じてみる。
陶淵明は自給自足の農村生活を呼びかけている。自分も田園へ帰って、そういう生を送っていた。しかし、畑仕事はそう簡単ではない。「豆を種ゆ南山の下、草盛んにして豆苗稀なり」。農作物を植えても、なかなか収穫できないのが現実である。そこから、陶淵明の隠遁生活は厳しく、貧しいものであったと推測できる。
岡村繁の『陶淵明 世俗と超俗』によると、陶淵明には有力なパトロンがいる。その人は当時の尋陽における最高の権力者であり、江州刺史の王弘である。岡村繁は『宋書』隠逸伝を引用して、論じる。王弘はかねてから陶淵明と知り合いになりたいと思っていた。そして、積極的に陶淵明に接近する。陶淵明は王弘の接近に対して、隠遁者らしく無関心を一応は示しつつも、実は内心そうでもなさそうな態度をとっている。
隠遁者として、世俗とはきっぱり縁を切ったと考えられるが、実はそうでもない。隠遁生活を経済的に維持しようとするかぎり、権力者にある程度接近することは避けがたい。必然的な身の振り方である。
6. 詩人陶淵明
陶淵明は詩人として夥しい作品を残した。これらの作品を通して、陶淵明の隠遁生活の心情が読みとると思う。以下で陶淵明の代表的な作品を取り上げて、論じてみよう。
『五柳先生の伝』
原文   先生不知何许人也,亦不详其姓字;宅边有五柳树,因以为号焉。闲静少言,不慕荣利。好读书,不求甚解;每有会意,便欣然忘食。性嗜酒,家贫,不能常得,亲旧知其如此,或置酒而 招之。造饮辄尽,期在必罪。既醉而退,曾不惜情去留。环堵萧然,不蔽风日;短褐穿结,簟瓢 屡空,晏如也!常著文章自娱,颇示己志。忘怀得失,以此自终。⋯ ⋯
この作品は陶淵明の自伝である。生活の実録と言われた。梁の沈約(四四一—五一 三)の『宋書』隠逸伝や、梁の昭明太子簫統(五〇一—五三一)の『陶淵明の伝』な ど、いずれもその冒頭に『五柳先生の伝』に関する記述があった。
淵明、嘗て『五柳先生の伝』を著して以て自らを況う。時人これを実録という。 この作品の冒頭には「先生は何許の人なるかを知らざるなり」と書かれている。小 尾郊一『中国の隠遁思想』によると、こういう書き方は、超俗的隠者に、しばしば用いられている。『南史』「隠逸伝」に、晋の太康年間の「漁父」なるものを、「姓名知らず、亦た何許の人なるかを知らず」として、世俗を超越して富貴を無視した人物としている。似ている表現で、超俗的な隠者を描いた。「五柳先生」もこういう表現で隠者の身分を著していると推測できるだろう。
こういうことから分かるのは当時この作品がただならぬ位置を占めていたことだ。そして、この作品は当時の人たちが陶淵明を研究する際重要な文献となったようだ。『五柳先生の伝』は陶淵明の自伝であり、陶淵明の生活態度や価値観を反映する作品であり、後世の人々の陶淵明像の形成に決定的な影響を与えた作品だと言われる。
この作品から見られる陶淵明の自画像は物静かで、お金や名誉に関心がなく、読書を好む。貧しい生活に超然と甘んじる、高潔な隠者である。お酒を飲むことだけが気に入っている。富貴を羨まず、貧賤に甘んじることはまさに隠者であることの証明と言えるであろう。
『桃花源記』
原文  晋太原中,武陵人,捕鱼为业,缘溪行,忘路之远近。忽逢桃花林,夹岸数百步,中无杂树,芳草鲜美,落英缤纷,渔人甚异之;复前行,欲穷其林。林尽水源,便得一山。山有小口,仿佛 若有光;便舍船从口入。初极狭,才通人,复行数十步,豁然开朗。土地平旷,屋舍俨然,山有 良田美池桑竹之属,阡陌交通,鸡犬相闻。其中往来种作,男女衣著,悉如外人;黄发垂髫,并怡然自乐。见渔人,乃大惊,问所从来,具答之,便要还家,设洒杀鸡作食,村中闻有此人,咸 来问讯。自云先世避秦时乱,率妻子邑人,来此绝境,不复出焉;遂与外人间隔。问今是何世, 乃不知有汉,无论魏、晋。此人一一为具言所闻,皆叹惋。余人各复延至其家,皆出洒食。停数 日辞去,此中人语云:“不足为外人道也!”既出,得其船,便扶向路,处处志之。及郡下,诣太守 说此。太守即遣人随其往,寻向所志,遂迷不复得路南阳刘子骥,高士也,闻之,欣然规往,未 果,寻病终。后遂无问津者。(鈴木虎雄 『陶淵明詩解』 )
陶淵明はこの作品によって、「桃花源」という理想の世界を描いた。この世界は生 活が豊かで、平和である。「土地は平かにして廣く、屋舎は厳然として、良田・美池、桑竹の属あり。ÛÛ年寄り・幼子も、ともに自ら楽しめり。」人々は誰でも働き、怠る人がいない。そして、働いた後の収穫は自分のものになる自給自足の社会で、封建社会におけるような搾取はまったくない。「先世、秦の時の乱を避け」「漢の有りしことをすらしらず、無論魏・晋をや。」この世界は外の世界と離れた「絶境」である。秦・漢・魏・晋などの封建社会と対立する理想的な社会と言えるだろう。陶淵明が生きていた時代は、政情の不安定な戦乱時代である。外からは五胡の中原への侵入するなど、絶えず北の民族に脅かされている。内では八王の乱や農民の反乱によって、戦が続き、人々は明日の命さえ保証できない状態に陥った。そのような時代を背景に、陶淵明は暗い現実に不満を持ち、理想の社会に憧れていた。
『帰去来の辞』
原文   归去来兮!田园将芜胡不归?既自以心为形役,奚惆怅而独悲?悟已往之不谏,知来者之可 追;实迷途其未远,觉今是而昨非。舟摇摇以轻殇,风飘飘而吹衣。问征夫以前路,恨晨光之熹微。乃瞻衡宇,栽欣载奔。童仆 欢迎,稚子候门。三径就荒,松菊尤存。携幼入室,有酒盈樽。引壶觞以自酌,眇庭柯以怡颜。 倚南窗以寄傲,审容膝之易安。园日涉以成趣,门虽设而常关。策扶老以流憩,时翘首而遐观。云无心以出〔山由〕 ,鸟倦飞而知还。景翳翳以将入,抚孤松而盘桓。   归去来兮,请息交以绝游。世与我而相遗,复驾言兮焉求?悦亲戚之情话,乐琴书以消忧。 农人告余以春兮,将有事乎西畴。或命巾车,或〔木卓〕孤舟。既窈窕以寻壑,亦崎岖而经丘。木欣欣以向荣,泉涓涓而始流。走恤ィ之得时,感吾生之行休。   已矣乎!寓形宇内复几时?何不委心任去留?胡为惶惶欲何之?富贵非吾愿,帝乡不可期。 怀良辰以孤往,或执杖而耘耔。登东坳以舒啸,临清流而赋诗。聊乘化以归尽,乐夫天命复奚疑?
『帰去来の辞』は義煕元年(四〇五)十一月に書かれて、陶淵明が四十一歳の時に作 った代表作である。『宋書』「隠逸伝」、簫統の『陶淵明の伝』、『晋書』「隠逸伝」、『南史』「隠逸伝」など、陶淵明について書かれた伝記によると、この詩を作った直接の動機は、次のように伝えられている。
陶淵明が彭沢の長官となってしばらくたったころ、上級官庁の郡役所から監察官が巡視に派遣されてきたので、県の属僚が陶淵明に、うやうやしく正装をして出迎えるよう進言したところ、彼は嘆気して「われ、五斗米(わずかな俸給)のために、腰を折りて郷里の小人に向かうこと能わず」といい、即日、県令の印綬を解いて職を去り、そこで『帰去来の辞』を詠んでみずからの志を述べた。
しかし、実は陶淵明が自分で書いた『帰去来の辞』の序文によると、この作品を書いた動機はそのようなものではない。以下にその序文を取り上げてみよう。
私は家が貧しく、田畑の耕作だけでは十分に食っていけない。しかも幼い子供が部屋にいっぱいおり、かめには穀物のたくわえもない。だが、いったいどのようにして生活の資をかせいだらよいのか、その方法も見つからないままであった。親戚や旧友たちは、しばしば私に地方官になるようすすめてくれ、私も思いきってそうしようかと思うこともあったが、いかんせん、それをさがすにも手づるがなかった。ところが、たまたま全国各地に変乱が起こってきて、各地の軍閥たちが領民への優遇策で人気を取り始めた。そこで、叔父が私の貧窮を見かねて、仕官の世話をしてくれ、かくてしがない県知事に採用されることとはなった。ところが、当時は動乱がまだおさまらず、遠方への赴任は気持ちがすすまなかった。幸い彭沢県は、私の家から百里ばかりの所だし、官田からのみいりは、好きな酒をつくるのに十分だ。というわけで、さっそく官職に飛びついたのであった。
しかし、ほんのしばらくで、むしょうに家が恋しくなり、帰りたい気持ちが起こってきた。なぜならば、生まれつきの気ままは、どうにも直しようがないからである。飢えと寒さは身にしみて苦しいに違いないけれども、自分の性格に逆らえば、何かにつけて苦悩の種になるだろう。考えてみれば、以前に何度か官僚生活をしたのは、みな食わんがために我とわが身をこき使ったのだ。こう思うと、げっそりとして心がいらだち、かねてからのわが本志に対して深く恥じ入るばかりであった。はじめのうちはまだ、今年の取り入れを待って、その時になったら必ずぬき足さし足で闇に紛れて逃げ出そうと待ちかまえていたが、まもなく程氏に嫁いでいた妹が武昌でなくなり、その葬式に駆けつけたい一心で、みずから辞表を出して職を去った。仲秋の八月から冬まで、在官期間は八十余日。妹の死亡という不慮のできごとを契機として本来の心のままに行動したのだ。この篇には『帰去来兮』という題名をつける。時に、きのとみの歳(義煕元年、四〇五)十一月である。(岡村繁 『陶淵明̶世俗と超俗』 )
ここで陶淵明自身がいうところによれば、官僚生活を辞めるに至るまで、複雑な心情だった。自分は官職に就きたくはないけれど、一家を支えるためにそうせざるをえない。仕事をしている間も家が恋しくてたまらない。自分の愛する妹の死がきっかけになって、やっと官僚生活を辞める決心をした。
ここに書かれた二つの動機のどちらが主かという問題ではない。両方とも本当だと考えるべきだ。この序文は『帰去来の辞』を書く前に書いたとは限らない。書いたあとで、自分の考えをまとめ、 『帰去来の辞』を書いた動機として付けたとも考えられる。
この作品は陶淵明が最後の宮仕えを辞め、故郷に帰る時のものである。冒頭の「田園将にあれんとす。なんぞ帰らざる」は、反語によって、自分の帰る決心を強調した。「舟はゆらゆらとして軽く、うきあがり」「風ははたはたとして衣を吹く」。故郷へ向かい、胸は喜びにあふれる。「ようやくかぶきとやねをのぞみ」「かつはよろこびかつは奔る」。待ちきれないほど実家へ帰りたいという心情を見事に表現した。作者は子供のように無邪気になる。「童僕はよろこび迎え」「幼児は門に待つ」「三すじの小径は荒れにつけるも」「松と菊とは猶お存す」。実家に帰り、子供たちが喜んで迎えてくれるのを見て、うれしくてたまらない。暖かい雰囲気に温もりが感じられる。 「菊」と「松」は、陶淵明の高潔な気品を表していると言えるであろう。「雲は無心にしてほらを出で」「鳥は飛ぶに飽きて帰るを知る」。自然の景物と自分の志を重ね合わせて、詠んでいる。描いているのは鳥や雲だが、実は自分の本当の気持ちを表している。官職に就いたのは自分の本音ではない。飛んで、疲れている鳥みたいな自分は味気ない官吏の生活にもうすっかり飽きたと。鳥の姿を借りて、作者自分の超然とした心を表している。
陶淵明にとって、農民は楽ではないけれど、役所で自分の本当の気持ちを隠したり、上の人に気を遣う必要はない。こういう自給自足の農耕生活は心の安らぎが得られる。
「富貴は吾が願いに非ず」「帝の郷は期すべからず」。富貴は作者の願いではない。天帝います仙郷などあてにはできない。彼の人生観を書いている。憧れるのは「よい天気に誘われて一人で散歩に出かけるか、それとも杖をつき立てて草刈りしたり土寄せしよう。また、東の丘に登ってのんびりと口笛をふいたり、清らかな流れを前に詩でも読んだりしよう。 」という生活である。
この作品の主題「帰りなんいざ」は二回出てくるが、そこに反映されている作者の気持ちは少し違う。一回目の「帰りなんいざ」は陶淵明が官職を辞め、故郷に帰ることを決心する宣言であり、二回目はもう宮仕えを辞め、故郷に帰ることを考えながらの、落ち着いた気持ちであろう。
『園田の居に帰る』
原文 其一: 少无适俗韵,性本爱丘山。误落尘网中,一去十三年。 羁鸟恋旧林,池鱼思故渊。 开荒南野际,抱拙归园田。方宅十馀亩,草屋八九间。榆柳荫後檐,桃李罗堂前。暧暧远人村,依依墟里烟。 狗吠深巷中,鸡吠桑树颠。 户庭无尘杂,虚室有馀闲。久在樊笼里,复得返自然。(鈴木虎雄 『陶淵明詩解』 )
この詩で、陶淵明は統治階級の社会を「網」と見なし、その中にいる自分を捕らえられた鳥、池の中の魚と見なしていた。田園へ帰ることを鳥かごから逃げることに例えた。官吏生活からの脱出をこの上なく嬉しいことと思っている。
『飲酒』 (其の五)
原文 结庐在人境,而无车马喧。 问君何能尔?心远地自偏。山气日夕佳,飞鸟相与还。 此中有真意,欲辨已忘言。采菊东篱下,悠然见南山。(鈴木虎雄 『陶淵明詩解』 )
この作品はおよそ義煕十三年(四一七)陶淵明が五十三歳の時に書かれたものである。 「廬を結んで人境にあり」。陶淵明は隠遁生活を送るために、廬を作った。俗社会の中に隠居場所を作ったのだが、訪問客の車馬の騒がしさがぜんぜんない。なぜかというと、「心が遠く世俗から離れれば、住む所も辺境になるのだ。」「東の垣根のあたりで菊を摘みつつ、ふと目をあげれば、ゆったりと大きく廬山の姿が見える。」陶淵明は菊が好きで、畑の回りにいっぱい植えている。『帰去来の辞』に言っているように、詩人は「松と菊がまだ生き残っているのを見て、心に慰めになった。」菊は詩人の高潔な人格のシンボルのような存在と言えるであろう。
最後に「此処に真の意があり、弁ぜんと欲してすでに言を忘れる」の二句で詩を終えている。われわれはその「真の意」を聞きたいところだが、驚いたことに詩人は忘れたと言 っている。荘子は“辩也者,有不辩也,大辩不言。 ” (《齐物论》 ) 「言は弁なれば及ばず」 。 『荘子』には、「真の弁説は論理を振り回さないものであり、言論が分析的になればなるほど真実というものは把握できない。」という基本的認識がある。(斉物論)また、“言者所以在意也,得意而忘言”(《外物》)「言語というものは、意味を伝えるものである。その意味を会得してしまえば、言語は忘れたれる」(外物篇)という考え方を踏まえているとも言える。
陶淵明は道教の老荘思想から強く影響を受けていることがよく分かる。この「真の意」とはいったい何なのかを明らかにするために、他の作品を取り上げて、分析してみる。
陶淵明の『連雨独飲』にこういう詩句がある。
天岂去此哉,任真无所先。「天というものもこの酔い心地からかけはなれたものではない、自分は天のそのままなるにまかせて後にもならず先にもならずにいる。」ここで、「真」を自然の原理と見なしている。また、 『勧農』に以下の詩句がある。
傲然自足,抱朴含真。 「傲然と威張りながら何不足ということを知らずにいて、天から受けた飾り気のない性質をそのままもっていた。」この「真」は遙か昔の自給自足の社会に対する憧れである。
美しい山の気配、連れだって帰る飛ぶ鳥の姿は、人間の作り上げたものではなく、自然のままの姿である。
これと対して、陶淵明は仕官を辞め、まったく逆の気持ちも持っていた。以下の詩から読みとることができるであろう。
『飲酒』(其の四) 原文 栖栖失群鸟,日暮犹独飞。徘徊无定止,夜夜声转悲。 厉响思清远,去来何依依。因值孤生松,敛翮遥来归。劲风无荣木,此荫独不衰。 托身已得所,千载不相违。(鈴木虎雄 『陶淵明詩解』 )
この詩に、陶淵明は自分を群れから離れた一羽の鳥に例えた。この孤独で、頼りのない鳥が疲れ果てたときに翼を休める所はこの荒れ野の中の一本の松である。この一本の松はシンボルとして陶淵明の心の支えとなっている。それは自分の故郷と考えられる。以上の二つの詩から分かるように、陶淵明は官吏を辞めるに際して、矛盾する心を持っていた。時に故郷へ帰る喜びを熱っぽい調子で語りもするが、時に自分を群から離れた鳥と見なし、寂しさも吐露する。
四.西行の隠遁
西行(1118~1190年)は平安末期・鎌倉初期の歌人、僧であり、 俗名は佐藤義清、法名は円位と言う。鳥羽院の下北面の武士として仕えたが、二十三歳で出家し、陸奥から中国・四国まで生涯にわたって旅をした。隠遁の歌人として自然と心境を歌った和歌が多く伝わり、多くの人に知られた。西行がなぜ隠遁したか、また、どんな隠遁生活を送っていたかをまとめてみよう。
1. 隠遁の動機
これについては昔から伝わる話がある。また、近現代の西行の研究者もいくつかの説を立てている。昔から伝わる話は、具体的事実の裏付けがない。しかし、本人が直接語ったような資料はないので、そのような間接的資料は西行の隠遁の動機を考えるには貴重な資料となる。以下にまとめてみた。
1 昔から伝わる話
『西行物語』による人生のはかなさが身にしみての「人生無常」説
鎌倉時代に成立した『西行物語』は、次のように伝えている。ある日「同じく北面に参り、相親しかりける佐藤左衛門憲康と、使の宣旨を給はりて、夜の間のほどに鳥羽殿よりうちつれて契るやう、 「あしたは必ずことにきらめきて参り給へ」と互いに約束して別れた。しかし翌日の朝「参りざまに誘ひければ、門にひとびと多く立ち騒ぎ、内にもさまざまに泣き悲しむ声」が聞こえる。憲康がその夜のうちに死んだというのである。「十九になる妻女、八十有余なる母」らが声を惜しまず泣き悲しんでいる有様をみるにつけても「いよいよかき曇る心地して、風の前の灯火、蓮の浮葉の露、夢のうちの夢と覚えて、やがてここにて髻を切らばや」と思う。「朝に紅顔ありて世路に誇れども、暮に白骨となりて郊原に朽ちぬ」。『西行物語』は、西行が憲康の突然の死に出逢って、 「世のはかなきこと」を感じ、それをきっかけに隠遁の決意を固めたと語っている。
『源平盛衰記』による「恋ゆゑ」説
西行は激しく、辛い恋の思いをみずから断ち切ろうとして、隠遁の道を選んだとある。『源平盛衰記』は、次のように伝えている。 「さても西行発心のおこりを尋ぬれば、源は恋ゆゑとぞ承る。申すも恐れある上臈女房を思ひ懸けまゐらせたりけるを、「阿漕の浦ぞ」といふ仰せを蒙りて思ひきり、官位は春の夜見はてぬ夢と思ひ(略) 」西行の隠遁の動機は「恋ゆゑ」であると『源平盛衰記』は語る。
とにかくに 厭はまほしき 世なれども 君が住むにもひかれぬるかな(山家集・一三四八)
何事に つけてか世をば 厭はまし うかりし人ぞ 今日はうれしき(山家集・一三四九)
この厭わしい世から逃れたいが、恋しい「君」がいるから、捨てきれない。自分が出家を決意できたのは、恋しい「君」のためであると西行は語っている。この歌から、西行の出家を失恋ゆえとする説が読みとるであろう。「しかし、『源平盛衰記』が語っている西行の恋は、直接、具体的事実として裏付けとなるような和歌は見出せない。史実の位置における確度はきわめて低い。 」( 『隠遁の思想−西行をめぐって』 )
2 近現代の西行の研究者による研究
凡卑な出自と優れた才能の矛盾
佐藤正英氏の『隠遁の思想−西行をめぐって』では、西行が凡卑な出身であるために宮廷で疎外される現実と自分の才能との矛盾に苦しみ、その宮廷の枠組みから出て、自由な身になろうと隠遁したと書かれている。 「西行の門流は「重代の武士」 ( 『台記』 )として名族豪富を誇っていた。しかし所詮土着の凡卑な武士であり、随身の家柄でしかない。 」西行は下北面だから、六位に相当する。「随身階級にとっては、五位は一生をかけて手に入れる位階であって、(略)この六位か五位かの違いは、宮中では絶対的意味を持つ。 (略)だから西行が六位であったことは、宮中においての無資格者であったことを意味する。」(風巻景次郎『西行』)「在俗時の西行は律令体制における最下級の官人として辛うじて宮廷社会につながっているにすぎなかった。」しかし、それは「官人貴族を中心に形成されている宮廷社会では周辺的存在でしかなかった。 」西行は下北面として「宮廷社会における主要な権力者のひとびとと面識をもち、交渉ができたとしても、宮廷社会は西行にとって手の届く物ではなかった。西行は宮廷社会から疎外される場にいた。 」現実に宮廷社会に身を置きながらも、心理的にはずいぶん疎外され、貴族世界と離れている。」 ( 『隠遁の思想−西行をめぐって』)一方では、「若き西行は人目を惹かずにはおかない華々しい才能の故に官人貴族や女房にもてはやされたであろう。そのことはかえって西行の宮廷社会から疎外感を強める結果をもたらした。 」出家する前の西行は、外見もよく、武道にも優れ、 「生得の歌人」として歌を詠み、文武を兼ね備えた才能あふれる人物であった。しかし、 「宮廷社会での位置は出自によって規定されている。西行自身の才能や栄達の努力の如何の関わるところではない。西行にとっては自己の可能性を限界づけている壁であった。 」宮廷社会での西行の位置付けは、彼が持つ才能や彼自身の努力で決まるのではなく、どこの出であるかによって規定された。西行自身の能力ではなく宮廷社会の秩序で定められていたのである。宮廷社会では、身分の低い階層の一員である随身とみなされ、小さな役割を担う立場でしかなかった。
屏風の絵を人々によみけるに、春の宮人群れて花見ける所に、よしなる人の見やりて立てりけるを
木のもとは 見る人しげし 桜花 よそにながめて 香をば惜しまん(山家集・九十五)
桜の木の下は東宮にお仕えする人々がいっぱい群がってその美しい色を賞美している。「よそなる人」の自分は、よそながら桜をながめ、せめてその香をめでようと西行は自分の「よそなる人」の立場をはっきり自覚している。
西行は、自己の在りようがこの社会において定められ、自己の有限性を規定されていると感じただろう。これは西行にとって自己の可能性を限界づける壁になり、西行を苦しめていたに違いない。
『台記』の記録には、西行が内大臣の藤原頼長に一品経を行うことを頼んだことが記されている。「隠遁者は宮廷社会においてはいわば格外者である。格外者であるが故の、一定の自在さが隠遁者としての西行にはある。隠遁者でなかったならば、内大臣に直接面会することなど凡卑な身には考えられないことであった。 」(『隠遁の思想−西行をめぐって』 )隠遁したからこそ、宮廷社会の階級から自由になり、対等の人間として宮廷の官僚と接することができる。それは、西行にとって精神的に楽だったであろう。これが現実に身を置く世界からの離脱、つまり隠遁への思いを引き起こしたと考えられる。
眉目秀麗な青年への「恋」  
佐藤正英氏の『隠遁の思想−西行をめぐって』では、「西行の隠遁の動機は「恋ゆゑ」であったが、高貴な上臈女房への恋ではなく、眉目秀麗な憲康への恋であったと思われる。」と書かれている。「恋が絶対願望となったとき、恋は眉目秀麗な青年といった直接の対象をつきぬける。恋は直接さを失い、観念に彩られる。 (略)西行の内にそれと気づかないままに絶対願望と化した恋がわだかまっていたのであろう。憲康の急死は絶対願望を一挙に噴出させたのであろう。 」憲康は西行の同僚として、また二歳年上の親族としての存在であったので、ここの「恋」の理解と『源平盛衰記』に出る上臈女房への「恋」とは違う意味ではないかと思う。 「一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。 」という意味の「恋」と理解したほうが相応しいだろうと思う。
2. 西行の隠遁生活
草庵生活
西行にとって、草庵生活は隠遁生活の中の重要な部分を占めていた。
いにしへ頃、東山に阿弥陀房と申しける上人の庵室にまかりて見けるに、なにとなくあはれにおぼえて詠める 柴の庵と 聞くはくやしき 名なれども 世に好もしき 住居なりけり(山家集・七二五)
柴の庵と聞くと、いかにも粗末な所だと思っていたが、実際行ってみると、好ましい住居であった。草庵は俗の世界の仮の住まいと対比になって、粗末な草庵のほうがいいと西行は思っている。「西行は隠遁後まもなく、嵯峨法輪寺の草庵に身を置いている。 」(『隠遁の思想−西行をめぐって』 )いったいどんな所を草庵にしたのかは興味深い。
嵯峨に住みける頃、隣の坊に申すべきことありて、まかりけるに、道もなく葎の茂りければたちよりて 隣とふべき 垣に添ひて ひまなく這へる 八重葎かな(山家集・四七一)
草庵と草庵の間に八重葎が通り抜けられないほど茂っている。寂しく、荒れた草庵の様子が窺える。「草庵は孤立してあるのではなく、集落を形作っていた。集落を形成していても隠遁者はそれぞれに孤絶している。秋になると、草庵は丈高く茂った八重葎に覆われて、少し隔たったところにある隣の草庵への道も埋もれてしまう。 」 (同上)
もろともに 影を並ぶる 人もあれや 月の洩りくる 笹の庵に(山家集・三六九)
夜になると、この粗末な草庵に月の光が差し込む。月の光は美しいのだが、独りで見るのはやはり寂しいものだ。一緒に月を見る人が側にいてほしい。「さびしさにたへたる人のまたもあれな庵並べん冬の山里」 「山里にうき世いとはん人もがなきうやしく過ぎし昔語らん」と同じく、独りの草庵生活の寂しさを語っている。
草庵の生活は厳しく、辛く、寂しいものだったと考えられる。
春のほどは わが住む庵の 友になりて 古巣な出でそ谷の鶯(山家集・二十九)
鶯に春の間は自分が住んでいる庵の友となって、古巣をでて里へ都へと移っていたりしないでほしいと願い、寂しい草庵生活に友達がほしいと詠んだ。
庵にもる 月の影こそ さびしけれ 山田は引板の 音ばかりして(山家集・三〇三)
山里の独り住みの草庵では、耳にする音は山田の引板の音ばかりであり、目にするのは、草庵の隙間から洩れこんでくる月の光である。草庵生活の寂しさが窺える。
閑待月
月ならで さし入る影の なきままに 暮るるうれしき秋の山里(山家集・三一八)
月以外には山里の草庵を訪れるものがない。月の光がさし入るだろうと、日の暮れるのがうれしく思われる。なんと寂しい草庵生活であろうか。
いづくとて あはれならずは なけれども 荒れたる宿ぞ 月はさびしき(山家集・三四〇)
蓬わけて 荒れたる庭の 月見れば 昔すみけん 人ぞ恋しき(山家集・三四一)
身にしみて あはれ知らする 風よりも 月にぞ秋の 色はありける(山家集・三四二)
虫の音に かれゆく野辺の 草むらに あはれをそへてすめるつきかげ(山家集・三四三)
木の間洩る 有明の月を ながむれば 寂しさそふる峯の松風(山家集・三四五)
荒れ果てた、都を遠く離れた寂しい草庵で、月を眺め、月の「あはれ」を詠んでいる。草庵のまわりは雑草の蓬がいっぱいで、荒れ果てた様子が窺える。夜響いてくる峯の松風はいっそうこの寂しさをつのらせる。
「隠遁したばかりのころは、訪れてくるひとも多く、煩わしかったが、ひとびとの訪れもいつか間遠になった。心をうちあけて語ることのできる相手がほしいと思った。 」 「冬が長く感じられ、春の来るのが待ち遠しい。 」 ( 『隠遁の思想̶西行をめぐって』 )
西行は一つの草庵に止まって、一生を送ったことはなかった。
鶯は 谷の古巣を出でぬとも わがゆくへをば わすれざらなん(山家集・二十八)
鶯は谷を巣とし、春と共に谷から里、里から都へと移る。西行は鶯の巣に近い山里に住むものとして独自の境地を詠んだ。西行は鶯と同じく辺境世界へ旅に出て、一所不定の漂泊の隠遁生活を送っていた。「西行は嵯峨や東山、鞍馬の奥、さらには大原など、草庵から草庵へと流離していった。」 (同上)常に場所を変えて、異なる草庵に身を置くことは西行の草庵生活の特徴と言えるだろう。

西行は陸奥から中国・四国まで生涯にわたって旅がよくした。二十代後半に陸奥へ、また、六十九歳で二度目の陸奥へ旅した。旅は草庵生活とともに、隠遁生活のもう一つの重要な部分である。西行はなぜ絶えず旅に出たのか。「冬が巡ってきて一年が過ぎた。二年三年が経つのは早かった。草庵での生活ももの珍しさを失った。草庵での日々もいつか在俗の頃と変わらない常凡な日常とな っていった。」「西行は隠遁しても世俗と無縁になったわけではない。 在俗時に比べ、かえってか かわりを深めているといってもよい。勧進、陳情、造営管理などで頻繁に権力者層と接している。草庵に隠れ住む存在でありながら、これでは都にいるのと変わらないと西行は思う。」(『隠遁の思 想 西行をめぐって』)時間が過ぎていくうちに、 世俗からの離脱で始まった草庵での日々も、日 常的な営みになっていくと西行は気づく。西行は旅に出ることによって、隠遁を本来の、日常生活とは違う生活のありように戻そうとしたのだろう。
修行
西行は大峰へ修行の旅をしたことも知られている。大峰での修行は厳しい苦行であった。大峰入りには「木をこり、水を汲みÛÛ日食少しきにしてÛÛ重き荷をかけて、嶮しき峰を越え、深き谷をわくる」苦行を伴った。 (『古今著聞集』)大峰での修行は「通常の隠遁者には思いもよらないことであった。」西行ははじめ苦行の厳しさに涙を流したが、苦行の謂われ「ÛÛ身を苦しめて、木をこり、水を汲み、あるいは勘発の言葉を聞き、(略)これ即ち地獄の苦を償ふなり。(略)早く無垢無悩の宝土に移る心なり」を聞いて、少しもたじろぐことなく、よく苦行に堪え、修行したそうだ。こういうことから、西行の隠遁生活には仏教の教えが関わっていたと考えられる。
3. 隠遁生活における心の拠り所
西行は厳しく、寂しい草庵生活に甘んじて、普通の人には耐えられないほど厳しい大峰の苦行に従い、山伏の修行をやり遂げたが、これは何か信念が西行の心にあったからだと考えられる。この「信念」は、 「心の支え」 、 「拠り所」と言い換える事が出来ようが、これはすでに、佐藤正英の『隠遁の思想−西行をめぐって』に詳しく論じられている。ここでその研究を見てみよう。
『隠遁の思想—西行をめぐって』には「原郷世界」という概念が出てくる。「隠遁とは世俗世界 を離脱して辺境に赴くことであった。そして、その背後にはもう一つの世界の存立が予感されていた。原郷世界である。原郷世界とは、人々が本来そこに在るべきはずの世界であり、自己の生の拠り所とは何かの問いに対する答えとして存立した。隠遁とはまさに、その原郷世界を目指すことに他ならなかったのだ。 」「原郷世界はひとびとが本来そこに在るべきはずの世界である。」 「ひとびとにとっての本来の家郷、つまり原郷である。」「原郷世界は隠遁者自身の観念においてのみ存立する。」原郷世界は人々の観念にある世界で、自分にとって、少しも「間然する」ところがなく、理想的で、完全な世界である。西行にはこの理想的な「原郷世界」の観念が宿っていたと考えられる。彼方にある「原郷世界」を追いかけ、憧れることは西行に隠遁生活の寂しさや厳しい苦行を忘れさせる。
「隠遁は世俗世界からの離脱である。古代や中世のひとびとにとって世俗世界は律令体制内世界を意味していた。律令体制内世界の外部にある世界に出ていこうとすることである。 」「律令体制内世界の外部に在る世界は、 (略)律令体制内世界の周辺に位置している辺境世界である。」「隠遁者は辺境世界へ出ていくことによって世俗世界を離脱しようとする。」西行にとってこの辺境世界は「草庵」であったり、都を離れたあちらこちらの「旅先」であったり、修行する人気のない山奥であると考えられる。
西行がどこの草庵に身を置いても、雑務は追いかけてくる。草庵での日々は日常と化す。西行はどの草庵にも安住することができない。そして、どの草庵も仮りの住まいではないかとの思いが宿る。これは西行が草庵から草庵へ流離する原因のひとつと考えられる。また、いつの間にか世俗世界に舞い戻ってしまっている自分に気づく。このままでは隠遁したことが無意味になってしまう。世を捨てた時のあの心に立ち戻り、世俗世界から離れようと心を決める。そして、辺境世界を目指して旅に出る。
4. 西行と和歌
西行にとって和歌が「原郷世界」へ近づくための媒介であった。「西行は、和歌を通じてしか自己の思想を語らなかった。」 「西行においては、和歌を詠むことは、隠遁者であろうとすることにつながっていた。和歌を詠むことと隠遁者であることが重なっていたのである。」西行にとって和歌の意味は、修行における一時の息抜きではなく、「観念の内なる情景を読むことによって原郷世界に到達しようとするのである。」西行の和歌の二大素材が春の桜と秋の月であることは先人の研究によって知られている。窪田章一郎の『西行の研究』によれば、西行の和歌の中で最も頻度の高いのは桜の花である。そして、秋の月は西行の和歌において桜の花と並ぶ主題である。西行は桜と月など観念世界の情景を詠むことで原郷世界に少しでも近づこうとする。また、自分が原郷世界にいることを和歌を詠むことによって証明している。
1 西行と桜
「日本人と桜ということですぐ思い出されるのは、西行である。かれは一生のあいだ、桜をうたいつづけてうむことがなかった。なかでも、吉野の桜を歌った歌はよく知られている。 」 ( 『日本人の心情』 )
『山家集』の桜歌群春部には 173 首中 103 首もの桜の歌があることは、いかに西行が桜を愛した かを示す。
願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃(山家集・七十七)
仏には 桜の花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば(山家集・七十八)
西行は釈迦が入滅なさった二月十五日頃に春の桜の花の下で死にたいと言っていた。そして、藤 原俊成の『長秋詠藻』によると、西行はこの歌の願い通り、文治六年(1190)二月十六日に寂した そうである。その歌と死は、 『秋篠月清集』 (九条良経) ・ 『拾玉集』 (慈円) ・ 『拾遺愚草』 (藤原定家)等にも取り上げられ、いかに当時の人々を感動させたかが知られる。自分の死後、後世弔ってくれる人があるならば、自分の最も愛する花である桜を供花として供えてほしいと西行は言っていた。西行の桜に対する特別な感情と道心が表されている。
世を遁れて東山に侍りける頃、白川の花ざかりに人さそひければ、まかりて、帰りて昔思ひ出でて散るを見で 帰る心や 桜花 昔にかはる しるしなるらん(山家集・一〇四)
昔は桜の花を見にいくと、散るのを見ないで帰ってしまったが、出家隠遁して淡々たる心境となった今は、散るのを見てから、帰るようになった。そういう桜の花に対する心の心境の変化は、隠遁して心の在りようが在俗の昔の有りようと変わってしまったことの証拠であろうと西行は気づいた。隠遁すること自体が確かに西行に大きな影響を与えたと考えられる。
もろともに われをも具して 散りね花 憂き世をいとふ 心ある身ぞ(山家集・一一八)
思へただ 花の散りなん 木のもとに 何をかげにて わが身住みなん(山家集・一一九)
惜しめども 思ひげもなく あだに散る 花は心ぞ かしこかりける(山家集・一二一)
西行の桜に対する感情はきわめて矛盾しているように見える。時には桜が散った後なにも頼りにできるものがなくなるのを惜しんで、散らないでほしいと望んでいる。また、桜の花が散るのはこの憂き世にいつまでもさらされたくないからであり、はかなく散ってゆく花の心は、賢いと思い、自分もこの憂き世をいとう心を持ち、桜の花と伴に、散ってゆきたいと詠んだ。
以上の例からわかるように、西行といえば桜というほど、西行は桜を数多く詠んでいる。
2 西行の「あくがれいづる心」
「西行は桜の花を見ているうちに、自分の心がいわかに騒ぎ出し、感情が激してきて、ついにその心が自分のからだから花の方へと抜けていく感じにとらえられる。心と身が乖離する不安定な状態をかれは繰り返しうたっている。」 (『日本人の心情』)「心は花や月に憧れ、身体から離れて、出ていく」という。西行は月や桜を見て、よく心が体から離れて、美しい月や桜に憧れると詠んでいる。目崎徳衛氏の『出家遁世』によると、西行は数奇の心を持っている。
吉野山 こずゑの花を 見し日より 心は身にも そはずなりにき(山家集・六十六)
桜の花のため身に添わなくなった心の歌である。昔の人は霊魂は肉体より遊離して「あくがれいづるもの」と考えた。「もの思へば沢の螢もわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る」 (『後拾遺集』雑六神祇、和泉式部) 。
うちつけに また来ん秋の 今宵まで 月ゆゑ惜しく なる命かな(山家集・三三三)
西行は月ゆえにこそ「惜しくなる命かな」と詠んでいる。月に憧れる心がそののままに見てとることができる。
暁落葉
木の葉散れば 月に心ぞ あらはるる み山隠れに 住まんと思ふに(山家集・四九五)
月に憧れる心ともののあわれを語る歌。落葉前は月の光の洩れてくることも少なかったが、落葉した後のこの時、月の光は大いに差し込み、秋同様に月に心が憧れ出る心境を詠んだ。
月を見て 心うかれし いにしへの 秋にもさらに めぐりあひぬる(山家集・三四九)
西行は月を見ていると、心が身を離れ、月に憧れ、魂が美しい月に向かって身から抜け出ていくように感じる。 「心うかれし」は西行がよく用いていた語である。
うかれ出づる 心は身にも かなはねば いかなりとても いかにかはせん(山家集・九一二)
西行は絶えず花や月に「あくがれいづる心」を持っている。しかし、身から抜け出てゆく心は、出家し仏道に志す身の自由にはならないので、どのようになろうとも致し方のないと西行は語っている。
花を見る 心はよそに 隔たりて 身につきたるは 君がおもかげ(山家集・五九八)
桜の花に心あこがれる西行の心境を詠んだ歌である。桜をめでる心は身から抜け出て、どこか別の所へ行ってしまい、その代わりに自分の身についているのは、恋しい人の面影だけである。『日本国語大辞典』では、 「数奇」を1物事を愛好する心持ち。すきこのむこと。2風流、風雅の路に深く心を寄せること。風流の物好み。3風流、風雅の道。和歌、茶の湯など。4恋愛の情趣を好むこと。5自分の思うままにふるまうこと。また、そのさま。6物好きなこと。また、そのさま。と説明しているが、西行の数奇の心は1から3までの意味に近いと思う。月や桜を愛し、それに寄せる風流心である。
3 無常
西行の隠遁は無常と深く関係している。西行の作品には必ず無常がある。西行の生きていたころは、浄土宗、禅宗などの新しい宗教が出てきたので、無常観が激しく燃え上がっていた。西行の隠遁の一つの原因とも言える。
なにごとも 変わりのみゆく 世の中に 同じ影にて すめる月かな(山家集・三五〇)
西行の生きていた時代は「なにごとも変わりゆくのみ」という諸行無常の世である。それは「ありしにもあらずなり行く世の中に変わらぬものは秋の夜の月」 ( 『詞花集』 )にも見られる。
あはれ知る 涙の露ぞ こぼれける 草の庵を むすぶ契りは(山家集・九一一)
草庵を結んで、世間から隠れる決意をしているが、世の無常を知り涙がこぼれた。この歌からも、無常感は隠遁の前提となっていると言えるだろう。
亡き人も あるを思ふも 世の中は ねぶりのうちの 夢とこそ見れ(山家集・七六〇)
越えぬれば またもこの世に 帰りこぬ 死出の山こそ 悲しかりけれ(山家集・七六三)
はかなしや あだに命の 露消えて 野辺にわが身や 送り置くらん(山家集・七六四)
秋の色は 枯野ながらも あるものを 世のはかなさや 浅茅生の露(山家集・七六七)
年月を いかでわが身に おくりけん 昨日の人も 今日はなき世に(山家集・七六八)
以上の歌で無常を詠んでる。人間はいつか死ぬものである。命ははかない露にたとえられる。今はなき人もかつてはこの世にいたことを思うにつけ、世の中は夢のようにはかないものと思われる。
諸行無常の心を
はかなくて 過ぎにし方を 思ふにも 今もさこそは 朝顔の露(山家集・七七七)
人生はあたかも朝顔につく露があっという間に消えてしまうようにはかないと説く。
さだめなし 風かづらはぬ 折だにも また来んことを たのむべき世か(山家集・九二四)
風邪を患っていない時でさえも、無常のこの世は確かなものではない。まして風邪を患っている今は、いっそう頼りない。
あだに散る 木の葉につけて 思ふかな 風さそふめる 露の命を(山家集・九二五)
風邪を引いて、命は風にさそわれてはかなく散る木の葉や同じように風が誘って散らす露のごとく、はかなくなった。
4 もののあわれ
西行は歌の中で、よく「もののあわれ」が歌われている。   
月前荻
月すむと 荻植ゑざらん 宿ならば あはれすくなき 秋にやあらまし(山家集・三八七)   
月前鹿
たぶひなき 心地こそすれ 秋の夜の 月すむ峯の 小牡鹿の声(山家集・三九七)
荻は秋の風に吹かれて、葉ずれの音がする。秋の夜の月の澄みわたる峯に泣く小牡鹿の声も耳にする。そういった音は一層寂しく、草庵から洩れ見える月のあわれを感じさせる。   
山家冬月
冬枯れの すさまじげなる 山里に 月のすむこそ あはれなりけれ(山家集・五一七)
何もかもすっかり枯れはてて、寂しい山里に月のみが澄んだ光を落としている。こういう光景は西行にひどくもののあわれを感じさせる。
雪歌よみけるに
なにとなく 暮れるるしづりの 音までも 雪かはれなる 深草の里(山家集・五三八)
「深草の里」は秋の鶉で有名な歌枕で、物寂しい里のイメージがある。冬の夕暮になって、枝から雪が落ちると、その音が一層あわれ深く感じられる。
「もののあわれ」という言葉にはいろいろな意味が含まれている。 『日本国語大辞典』は「もののあわれ」を1一の心を、同情をもって十分に理解できること 2物事にふれて起こるしみじみとした回顧の感慨 3物事や季節などによって呼び起こされる、しみじみとした情趣 4何かに深く感動することのできる感じやすい心 5悲哀や同情を感じさせるような気の毒なさま、と説いている。こういう解釈から分かるように、 「もののあわれ」というのは必ずしも悲しい感情ではない。この気持ちには政治的な判断や何かの道理のような意味合いなどは混ざっていない、物事に対して「すばらしい」とか「きれい」と感じる心である。「『理』よりも『事』を、目にふれ、耳にひびく眼前即近の事物を大切にし、それをつくづくと認め、わきまえることが、いまにいたるまで日本人の特色を成している。」(『日本人の心の歴史』唐木順三)。西行の歌は何かの「理」を表すのではなく、自分が見て、感じていることをそのまま表現する。中村元氏は、 「普遍を無視して、具象的直観的な個物を強調しようとする態度」は凡そ日本人に共通する態度であると言う。
つまり、具体的なものはなければならない。その「もののあわれ」を感じさせる対象は桜の花であったり、月であったり、露であったりする。桜の花は咲いている間はものすごくきれいだが、あっという間に散ってしまう。月はいつも満月ではなく、常に変化するもののシンボルである。露も短い時間で、なくなってしまう。これらのものの共通点といえば、絶えず変化しているという点である。
五.まとめ
陶淵明(325~427 年)と西行(1118~1190 年)は生きた時代に 800 年ぐらいの隔たりがあり、二人の隠遁には因果関係はほとんどない。西行は陶淵明から何も影響を受けていない。だが、二人の隠遁を比べてみると、似ている点もある。そして、陶淵明と西行との対比の中で見えてくる中日両国における隠遁思想の似ているところと違うところをまとめてみた。
類似点
寂しく、苦しい隠遁生活には精神的な支えとなるものがいる。中国の隠遁者の場合は老荘思想が支えとなり、日本の場合は「原郷世界」のような理想的な観念世界の存在が考えられる。
隠遁者たちが自分の捨ててきた場所を「俗の世界」と見なすことには、仏教の影響があると考えられる。(その「俗の世界」は、中国においては宮廷社会で、日本においては律令体制の世界と考えられる)以下、図式で簡単にまとめた。
   律令体制 / 原郷世界  ||  宮廷社会 / 老荘思想
隠遁と言っても、ずっと一人で辺境に暮らしているわけでもない。世俗とのつながりは持っていた。陶淵明の場合は当時の権力者に「知己」がいた。西行も勧進などでよく上層階級の人と会ったりした。
何か具体物によって、自分の気持ちを表すところは、陶淵明と西行では同じと言えるだろう。陶淵明は、菊や松などによって、暗い官吏生活をきっぱりと辞め、高潔で、超然とした志をもって生きる決意を表した。西行は桜や月を詠んで、 「もののあわれ」を表現した。
隠遁するとき、心に迷いがある。寂しく、厳しい隠遁生活はそう簡単にできるわけではない。西行は草庵に身を置いていても、時々都の事を想い出して、懐かしむ。すると、そういう迷いのある自分が嫌になり、自分を責める。陶淵明の場合は、官吏生活から抜け出ることをうれしく、楽しみに思うが、時には、自分を寂しく、群から離れた鳥とたとえ、かわいそうに思う。
中日の特徴
日本における隠遁は仏教と深い関係のあることが分かった。
隠遁者を分類してみると、僧侶からの隠遁者が圧倒的に多い。
これまでの研究によると、日本の隠遁者には、僧出身の隠遁者が一番多い。隠遁生活は寂しく、厳しい生活環境であることはいうまでもない。隠遁を決心するひとには心の強い人間しかいない。僧は一度世間を離れた人間であるから、厳しい修行にも堪えた、かなり強い心の持ち主と言えるだろう。こういう所からもなぜ僧出身の隠遁者が多いかが窺える。
石田吉貞『隠者の文学』によると、日本における隠遁の分類(三十人)は以下の通りである。 僧侶 (十三) 貴族 (八) 武士 (三) 庶民 (六)(『撰集抄』の巻首から、順に三十例)
隠遁者は隠遁した後、修行や勧進など仏教に関する活動をつづけた。
仏教の無常観は隠遁者に大きな影響を与えた。
日本における隠遁は個人の問題で、政治とあまり関係がないが、日本における隠遁の一つの特徴は「王法仏法不二」への批判である。日本の仏教ははやくから官寺仏教として発展したが、王朝国家体制の発達にともない、権門勢家に庇護を仰ぐ権門仏教と化した。そのため俗化した教団・寺院を嫌い、そこを離れて、再出家しようとする隠遁者が出てくる。「我が国の隠遁は『王法』や『仏法』に対して、否定的には働きかけるのであり、それらの『不二』の関係へくさびをうちこんだのであった。 」 (桜井好朗『閑居と漂泊—隠遁の文化的構造』 )
中国における隠遁
中国における隠遁者は「仕官」するかどうかという問題と深く関係していた。
隠遁者の分類からみると、隠遁というものは、一般の庶民にほとんど関係ない。官僚からの隠遁者ばかりだ。(その「官僚」の意味するものは、『中国の隠遁思想』の研究を引用すると、士大夫階級、読書人階級といった知識階級である。 )
陶淵明の隠遁は政治に深く関係している。仕官するかどうかを迷い、往きつ戻りつする状態であった。それは陶淵明一人の特徴ではなく、中国における大多数の隠遁者の隠遁は政治に関係している。「賢者が世に処する場合、天下が乱れておれば隠棲し、よく治まっておれば仕官するとのことである。」というのは中国では古代から読書人に共通の認識といえる。隠遁は処世の道の一つとして尊ばれていた。読書人たちは自分の考えが全うできない、世の中の考えと合わないときに、隠遁という道を選んだ。政治や社会へ直接的な批判もする。
今回のレポートで、中国と日本における隠遁について論じてきた。陶淵明と西行を二人しか例として取り上げたが、中日両国における隠遁が少しわかるようになった。そして、違いからわかるように、隠遁は中日両国の異なる文化や歴史の背景と深く関係している。中日両国は一衣帯水の隣邦であり、昔から文化などの交流が続いてきた。今回のレポートを書いているうちに、いろいろな資料を触れることができ、中日両国における文化は似ているところが多いのがつくづく思うようになった。これからも自分の関心のあるところをみつけて、研究していきたいと思う。  
 
 
 
 

 

●人生相談 
人生100年時代。60代からの第二の人生は、悠々自適の毎日が待っているのかと思いきや、悩み深い日々を送っている人が少なくありません。あなたが今60歳なら、日本人の平均寿命に照らして、30〜50代に過ごした時間に匹敵する余生が残されていることになります。その長さを持て余しているのだとすれば、もったいないこと。第二の人生を悔いなく過ごすために、今できることは? 
●まだ遅くはない 居場所と人脈つくる「生きがい」を探せ

この春、会社を定年になりました。最初は開放感のようなものにひたっていたのですが、だんだん時間を持てあますようになり、つい家でゴロゴロ。妻にやかましく言われるので出かけてもみるのですが、自分は地元のことを何も知らないのだと、改めて気付いた次第です。妻は地域のボランティアなどをやっているので、ついて行ってもみたのですが、なんとも居心地が悪くて長続きしません。せっかくの第二の人生、こんなことではいかんと思うのですが、どうしたら良いものでしょう。(神奈川県 男性 60歳)

この相談を読んで、身につまされている男性、たくさんいるでしょうね。「オレは大丈夫」と思っている現役の人もいるでしょうが、先のことだと保留すればするほど、ヤバさは増すわけで。
世の奥様方の多くは、子どもが手を離れれば、地域のコミュニティーに出て行く。そこで友だちを作って、一緒に旅行なんかに行く。男性の多くは定年になって、落下傘のように奥さんのコミュニティーに参加しようとする。だけど、そこでは彼女たちがポジションをとっているわけで、はっきり言って迷惑。「自分の居場所は5年ぐらいかけて自分で作るものよ」なんて跳ね返されちゃう。
現役時代にバリバリやっていた企業戦士が引退して時間を持てあますと、かつての部下を家に招いて庭でバーベキューやろうかなんて考えがち。でも、最初こそ気を使って来てくれるかもしれないが、普通は行かなくなるよね。だって、行ってもメリットがないもの。偉かった人は、自分の人間力で部下を従えてきたと思いがち。だけど、実はそうじゃないんだよね。「部長」を支えていたのは、人事権や予算権なの。口に出してこそ言わないけれど「言うこと聞けばボーナスはずむけど、聞かなきゃ飛ばすよ」みたいな、そんな権力に支えられていたんだ。でも退職して会社の名刺がはがれたとたん、一個人としての「佐藤一郎」さんが、あからさまになる。
今や人生100年。リタイア後の30年は長い。再び権力を持つことができればいいけれど、残念ながらそれが無理ならば、何か生きがいになるようなものを見つけて、とにかく始めることだね。そうして自分の居場所を作り、新たな人脈を育てるしかない。
子どものころ鉄道マニアだったという人なら、今も興味を持てるのかどうか。現役時代に接待ゴルフを散々やった人なら、本当にゴルフが好きだったのかを自問してみたりね。私のテニス仲間に聞いてみると、40代で始めている人が多かったな。年をとり、体力が落ちた状態では、キャリア差の大きい人たちに混じってプレーするのは、なかなかハードルが高いから。やっぱり早く始めておくほど、結果的に長く続けられるんです。私がテニスを始めたのは52歳ですよ。テニスクラブに2カ月間通い詰め、集中レッスンしてもらった。今のライザップじゃないけど、結果を保証して欲しくて「試合できるレベルにしてくれ」って頼んだ。40万円ぐらい積んだかな。それぐらいしないと、コーチも50過ぎの初心者を本気で育ててくれないでしょ。とにかく今始めれば、遅くはないと思いますよ。
●見過ごすな 柔らかアタマでチャンスをつかめ

定年退職して10年。勤めていた頃は、それなりに出世もし、幸運な会社人生だと思っていました。でも今、人生を振り返る時、あれはたまたま右肩上がりだった経済に乗っていただけだったのだと、自信が持てない自分がいるのです。そんなことを考えるのも、刺激のない毎日に鬱々(うつうつ)としているからかもしれません。もう、この退屈な人生を変えるようなチャンスに巡りあうことは、ないのでしょうか。こんなことを考えるのも、自分が老いたからなのでしょうか。(東京都 男性 70歳)

のっけから、何の話かと驚かれるかもしれないが、時計の話をします。実は私、同じ腕時計を40年使い続けていました。中学の時に買ってもらったもので、1万円台の安物です。
それが妙に気に入り、止まれば修理を繰り返して、もう20万円ぐらいかけていた。それが、ついに「もう直せません」と言われて、新調を考えたのが2008年のことです。
ちょうど、東京の区立中で校長を5年やり、退任間近だったので、「卒業祝い」として高い腕時計を買うのもいいかと考えた。それで、高級時計の雑誌を集めて探したのですが、気に入るものがなかった。日本らしい、日本の職人の技を結集したようなモデルが欲しかったのですがね。
なので、理想の時計のスケッチを描いて、こんなのはないですかと、あちこち聞いて回ったりした。そんな時、清水新六さんという方に出会ったのです。OEM(相手先ブランドで販売される製品の製造受託)で時計を作る会社を率いる、元セイコーの技術者です。
OEMは、千個以上のオーダーが必要なのは知っていましたが「お金を出せば、1個からでも作ってもらえますか?」と、聞いてみた。すると、50個からなら可能だという。それなら「知り合いを50人集めれば何とかなるんじゃないか」と、むちゃなことを考え、事業化しました。
漆塗りの藍色の文字盤に小さなだいだい色の月が浮かぶデザイン。値段は約25万円。製作過程をネットで公開して購入者を募ったら、なんと1カ月で完売してしまった。それで、デザインや価格を変えて第2弾、第3弾と出すうち、もう10弾目です。最初の50個でおしまいのつもりだったんですがね。
今にして思えば、清水さんとの出会いはチャンスだった。その時はそうは思わずに即断したのですが。でも、チャンスをつかむってそういうもの。目の前に来た時、それがチャンスだとは気付かないことの方が多いんじゃないか。チャンスは、60歳になろうと70歳になろうと、前を通る。それに、ガッと飛びつけるかどうかなんです。
そのためには、アタマを柔らかくしておかなければ。教科書的な思い込みに縛られたアタマでいると、通り過ぎるチャンスに即応できない。正解のない世界で、自分なりの仮説を作っては試行錯誤しながら、つながる人の力も借りて「納得解」をクリエイトする。
チャンスをつかむには、そんな柔らかアタマが必要。そして、アタマを柔らかくするには、素直な好奇心がいる。好奇心が失われているとしたら、それは老化しているってこと。年齢とは関係ない。「好奇心」の反対語は「無関心」と言われるが、ひょっとすると「老化」なんじゃないか。
素直な好奇心を失うことなく、柔らかアタマで、教科書的な解に縛られない。それができれば、いつまでも若々しくチャンスをつかむことができる。僕は、そう信じていますよ。
●引きこもる夫は放っておけ どん底に落とすが吉

今年定年した夫のことでご相談です。夫は無趣味というわけではないのですが、最近はいつも部屋でごろごろ。私がやかましく言うので、一時は図書館などに通っていたのですが長続きしませんでした。私は、近所の仲間とヨガやカラオケで楽しく過ごしているつもりなのですが、家で夫がため息をついているのを見ると、つい心配になります。どうすればもっとアクティブな夫に変えることができるでしょうか。(千葉県 女性 60歳)

困りましたね。でも、ここは旦那のことは放っておいて、ご自身のコミュニティーでの取り組みに邁進(まいしん)することをお勧めしますよ。なんて、身もふたもないアドバイスだと思われるかもしれませんが、奥さんが旦那さんを変えよう、プロデュースしようとすることには、本質的に無理があると思うのですよね。
改めて、男性と女性の違いを考えてみましょうか。みなさん、あまり自覚はないかもしれませんが、男性と比べて女性には、人生をモードチェンジする機会がたくさんあるのです。髪形やファッションといった小さなものから、子どもを産んで母になるといった大きなものまで。もちろん男性だって髪形を変えることはできますよ。でも、そのバリエーションは女性よりもずっと限られます。父になることはできても、出産するわけではないので、そこに本質的な変化はありません。
子育てが手から離れるようになると、モードチェンジに慣れている女性は、地域のコミュニティーへと足を踏み出します。将来の自分の居場所を、積極的に探し始めるのです。でも男性は違います。特に60〜65歳まで単一組織に属し、モードチェンジの機会に恵まれなかった人は、定年後に「会社モード」から「個人モード」への切り替えがうまくできません。それで、スケジュール帳が埋まらない日々が続くと不安になって、朝から図書館に出かけてみたりするのです。
定年後、未知のコミュニティーにデビューしようという時、求められるのはコミュニケーション力です。本来は40〜50代のうちに会社の外に自分のサブコミュニティーをつくり、そこで名刺に頼らないコミュニケーション力を身につけておくべきなのです。ところが、定年まで同じ会社にいて、日常会話の9割は仕事絡み、しかも、ある程度出世してからは、部下がお膳立てする中でしか勝負してこなかったという人がいます。そんな人は、帰宅しても口を開けば「メシ。フロ。寝る」ぐらいで、基本ダンマリ。そんな人って、人間関係を円滑にするような「ムダ話」ができないから、定年後の地域デビューに失敗しがちなんです。それを、今さら妻の力で何とかしようとしても、無理があるとは思いませんか。
だからこの際、家に引きこもる旦那は放っておく。いったんどん底まで突き落としてしまうのです。孤独のどん底まで落ちれば、意外とそこから跳ね返ってくるかもしれませんよ。私は「入射角=反射角の法則」と呼んでいるのですが、急角度で落ちるほどに、跳ね返ってくる勢いは大きくなる。これはある意味賭けですが、どん底から跳ね返ってくる力を持っている男性は少なくないと思いますよ。どん底から跳ね返ってきた人は、そのショックでモードチェンジを果たします。昔の肩書ではなく、素の自分で付き合う。そんなコミュニケーションを目指すようになるはず。
獅子は我が子を崖から突き落とすと言うじゃありませんか。あなたが夫を変えるのではなく、変わるように仕向ける。妻のあなたがするべきは、それだと思うけどなぁ。
●モードチェンジの極意は、他人の視線に自分をさらすこと

勤めていた時はスーツを着ていればよかったので、気にならなかったのですが、最近は何を着ればいいのか分かりません。出かける時は、無難にジャケットを着ますが、妻から「いつも同じ格好ね。地味だし」と言われる始末。最近は、外出がおっくうになりました。同世代の男性として、何かアドバイスをいただけませんか。(埼玉県 男性 63歳)

なんとなく分かります。私はこの10年で1300回の講演をしました。聴いてくださる人は会場により様々ですが、シニア男性主体の講演だと、演台から見た客席の色がどこか地味なんです。見たところ紺やグレーの上着の人が多いんですね。みなさん、無難な色を選んだ結果なのだろうと思います。
なぜ、シニア男性は無難なチョイスになりがちなのか。それは、定年退職したのに「会社モード」から「個人モード」へのモードチェンジが出来ていないからかも。会社の看板や肩書ではなく、「素の自分」で勝負する気持ちになれていないから、自分を表現しようという気持ちが乏しいのでしょう。
良い例を知っています。私が、都内の公立中の校長をしていた時、地域本部といって、学校運営に地域のみなさんに積極的に関わってもらったのですが、その中に衛藤さんという人がいました。元は伊藤忠にお勤めで、長く海外駐在も経験された人でした。最初は、土曜日の補習を手伝うおっさんの一人だったのですが、生徒のお母さんの評判もよく、学生時代にテニスの経験があったので、テニス部にもサブコーチとして関わってもらったのですね。そうして、彼が学校に来る頻度が増えるうち、目に見えて変化が現れたのです。
何が変わったのかというと、ファッションです。土曜日ならスーツ姿で行くのも変だと思ったそうで、最初からカジュアル目な感じではあったのですが、服装の色使いがグッと若返った。同じ青でも紺ではなく、鮮やかなブルーを選ぶというような感じにね。
一番の変化が靴でした。元ビジネスマンなら、つい昔の習いで黒や茶の革靴を選びがちですが、彼は白のスニーカーを履き出した。なぜスニーカーなのか。それは、生徒に見られるからなのだそうです。今どきの中学生は「あれはナイキのエアフォースワンだ」とかって、スニーカーに命かけてますから。よく「営業マンは靴を磨け」なんて言いますが、中学生も足元を見るんですね。
白いスニーカーは、いつも真っ白じゃなきゃいけない。だから彼は、スペアを何足か買い、きちんと手入れもしていた。彼が言うには、かなり大変だったそうですよ。そして、白いスニーカーを履くと、合わせるパンツの組み合わせなども考えるようになる。多分、彼はアパレルショップの店員らに、ひそかに助言を仰いでいたんじゃないかな。
彼は、別に女子中学生に意見されたわけでも、奥さんのコーディネートに従ったわけでもない。ただ「中学生の目が気になった」のだそうです。中学生になめられたくない、そんな力学が働いたのですね。
日本人は、とても「他律的」な所がある。環境やコミュニティーに自分を合わせることに、非情に敏感なんです。だから、どういう場所に出没して、どう自分をさらしているのかが大事なのです。家に閉じこもっている人は考えないけれど、若い女性も参加するコミュニティーに加われば、いつも同じ格好ではいけないと思うようになる。モテたいと考えるかどうかは別として、少なくともダサイと思われるのはイヤでしょう。
だから、家に閉じこもっていないで、外に出ていろんな人の視線に自分をさらすことです。そうすればあなたの装いは、おのずと変わってくると思いますよ。
●「懐かしい人」を目指せ 笑って語れる挫折のススメ

60歳を過ぎたころから、同窓会などの誘いが増え、努めて参加しています。ですが、かつてのクラスメートたちとの会話が、いまひとつかみ合わず、盛り上がりません。現役時代の私は、上場企業で役員にこそなれませんでしたが営業本部長まで勤め上げ、コミュニケーション能力は高いと自負していました。それが、今ではすっかり自信喪失な感じです。どうしたら自信を取り戻せるでしょうか。(大阪府 男性 62歳)

同窓会に行くと、妙に懐かしがられる人がいませんか? 久しぶりに顔を合わせるかつてのクラスメートはみな、懐かしいといえば懐かしいのだけれど、その中でも、何かにつけて会いたくなったり、連絡してみたくなったりする人です。そんな人を、ひそかに私は「懐かしい人」と呼んでいます。そんな「懐かしい人」を目指すことこそが、60代以上を生きる目標になると思うのです。
同窓会では、不思議と「懐かしい人」の周りに人が集まります。なぜかと言えば、彼らは人を引きつける話題を豊富に持っているから。その話題というのはいずれも、彼の人生の豊かさに根ざしたものなのですね。
これまでの人生を振り返った時、ずっと順調だったという人もいるかもしれませんが、みなさんそれなりに浮き沈みがあったことでしょう。人間は、つい好調だったころの記憶にばかり注目して、それで自分が成長したかのように思いがち。でも、よくよく考えてみれば、失恋や病気、失敗や挫折などを乗り越えた経験こそが、あなたの人生の肥やしになっているのです。
今回いただいた質問を見ると、質問者は現役時代にそれなりに出世もして、順風満帆の会社人生を送られた様子。ひょっとすると、何の気なしに語った昔話が、同窓生に自慢話のように受け取られた可能性はなかったでしょうか。自慢オヤジの周りからは、友だちは去って行きがちですから。
あなたがいくら過去の栄光を語ったとしても、それがよほどの成功でなければ、聞く側は「ふーん」の一言で終わってしまいます。逆に、あなたが人生のマイナス期をいかにプラスへと反転させたのかを語れば、聞き手は耳を傾けてくれるはずです。「懐かしい人」は、自身の過去の挫折や失敗をネタにして、おもしろおかしく笑い飛ばせる人なのです。あなたにもそれができれば、今後の人生の有力な武器になるはずです。
かくいう私にも、挫折の経験がたくさんあります。中学の時に万引きして補導されたこと。大学で典型的な五月病になって3カ月も引きこもったこと。リクルートにいた30歳の時に働き過ぎからメニエール病を患い、出世レースから自ら身を引くことになったこと……。どうです? こう並べると、どれも一部始終を聞いてみたくなるネタでしょ? それらのいきさつについては、私の過去の著書でもたびたび触れていますから、興味があれば読んでみてください。
中にはトラウマになった失敗もあるかもしれませんね。でも、乗り越えられていない挫折まで告白する必要はありませんよ。聞き手は、失敗そのものより、あなたがそれを克服したプロセスにこそ興味があるのですから。
逆に、幸か不幸かこれまでなんの挫折も味わっていないという人もいるかもしれません。困ったことにそんな人には、今後30年間の「食い扶持(ぶち)」ならぬ「話し扶持」がないことになります。それが原因でコミュニケーション障害に陥っているのだとしたら、この60代のうちにぜひ、今まで全くやったことのない分野に積極的に切り込んで、挫折や失敗を味わっておくべきです。それを実行するには相当の胆力が求められるかもしれませんが、絶対に良い70代を過ごせるようになると思いますよ。
●バランス人生は捨てなさい 自分史飾る「バカ」になれ

テニス、スキー、バイク、バンド、旅行と、若い頃は一通りのことをやり、楽しい青春時代だったと思うのですが、今はこれといってやりたいこともなく、無為に時間を過ごしている感じです。藤原さんは「老化とは、年齢と関係なく、好奇心を失うことだ」と言っていましたね。私はあなたと同じ1955(昭和30)年の生まれですが、私の方が先に老いた、ということなのでしょうか。(京都府 男性 63歳)

現在60〜65歳の、私と同じ「アラウンド昭和30年生まれ」の皆さんの生きた時代のことを、改めて考えてみましょう。
私たちより上、主として今の70代の皆さんは全共闘世代。怒れる若者たちとして政治や社会と戦っていた。それとは対象的に、私たちの世代は基本的にノンポリでしたね。その反面、1976年に創刊され、アメリカ西海岸のカルチャーやファッションを発信した雑誌「POPEYE」などの影響を色濃く受けて、ロックやクルマ、ヨットなんかに象徴されるアメリカ文化に強烈に憧れた。
僕らは、ぶわっと時代が拡大して行くのに乗って生きて来たところがある。何か特別のことをしなくたって、いろんなモノやコトを経験できた。でも、それらに手を出したのは、たまたま流行(はや)っていたからで、心から望んでやったわけではないんだよね。色々幅広く「消費」はしてきたのだけれど、体験の多くはどれもどこか浅くて、「自分のモノ」にはなっていない感じがする。
だから、「根っからそれが好き」とか、「他は全く興味がないのだけれど、それだけはやりたい」ってことがない。そういう人は、良く言えば豊かだった時代をバランス良く生きて来たとも言える。でも、どこかバランスが取れ過ぎちゃってて、いつか「特有の悩み」を抱え込むようになるんです。
「65歳からの30年をどう生きるか?」と、改めて問われたとき「さて、どうするかな……」と思ってしまう、そんな悩みをね。
「最後の30年もバランスなのかよ? それって、何か違うんじゃないか……」。知らず知らずそうした、根源的な疑問が頭をもたげてくる。そんな覚えはありませんか?
バランス人生に疑問を感じているのなら、崩すしかない。それは、ある意味「狂う」こと。第二の人生をアクティブに生きるには、ある種の「狂気」が必要なんですよ。
これまでの人生を振り返ってみると、誰でも失敗したり、恥をかいたりした経験がありますよね。20代に大きな失敗をして、それが30〜40代を生きる自分の肥やしになる。それで今度は45歳ぐらいで大恥かいて目が覚め、その経験が60代に生きる。昔ならそれで人生一丁上がりだった。僕らの親の世代まではね。でも人生100年時代には、60代でもう1回バカをやらないと、70〜80代でガス欠になっちゃうんだよ。
だから、自分の人生を本にまとめるために、60代の章を飾るようなバカをやってみることです。やれば、そのネタは70〜80代に絶対に生きる。仮にその挑戦が失敗だったとしても、大笑いのネタになればいいじゃないですか。その失敗談を聞きたさに、老後のあなたの周りには、たくさんの人が集まって来るはずだよ。さすがに生死にかかわるネタはだめだけど、そういうことじゃないかな。
「狂う」対象は、損得で考えないことだね。「何の役にも立たないでしょ」「それじゃあ食えないでしょ」なんて言われたっていい。むしろそんな分野にこそ、あえて切り込んでみる。誰も目指さないような所に一点張りして、オタクのように取り組むのがいい。
僕のテニス仲間で、元はメーカーの技術者だったんだけど、ずっと流氷に興味を持ち続けていたオタクがいます。彼は定年後に北大の大学院に行き、念願の流氷の研究で博士号まで取った。それで今度は、フィンランドに渡って流氷研究を続けるのだそうです。狂ってますよね。でも、そんな狂える対象があるって、素晴らしいことなんですよ。
僕にとっての流氷は「よのなか科」の授業。この10年で1300回やった授業や講演は、自分的には音楽家がやるライブのようなものなの。ある高校に呼ばれて講演をして、そこの高校生たちと交流している時が、自分が一番イキイキしていると感じられる時なんです。この10年かけるコンテンツはほぼ変わっていないのだけれど、同じネタを語っても会場によって跳ね返ってくるものが全然違う。それが楽しい。ただ単に一方通行で教えるだけなら飽きがくると思うけれど、僕にとって「よのなか科」の授業は、一種の知的エンターテインメントなんです。これからも、ずっと発見があると信じられるような。だから、一生やめられないと思うのだけれど、ある意味狂ってますよね、僕も。
●自分を再定義せよ 第二の人生で子供たちに一目置かれるには

50歳にして小学校の教員免許を取得しました。外資に働くITエンジニアから、人生二毛作を目標にチャレンジしました。しかし、教育現場は未経験。若い時に比べ体力、気力も自信がなく、あるのは社会経験と、諦めなければ夢はかなうという思いのみです。英語やプログラミング教育を推進し、教育環境でIoT(物がインターネットにつながる仕組み)を活用していきたいと考えていますが、守旧的な先生や、保護者の皆さんとどう関わったら良いのか、アドバイスをお願いします。(神奈川県 50歳 男性)

50歳で教員免許を取り、教育現場への転身を目指すなんてすばらしい。なかなかできないことです。無謀だと止めた人もいたでしょうが、無謀な挑戦をした時こそ、応援者が現れるものです。そしてその経験は、定年後の人生の肥やしにもなるはず。ぜひ、そのチャレンジを成功させてください。
しかしながら、50代でいきなり学校現場に舞い降りるというのは、ご想像通り、相当にしんどいことになるでしょう。
忘れもしない2003年、東京の杉並区立和田中の校長になり、初めて臨んだ入学式の壇上で、私は震えました。当時の映像を見れば分かるほどです。千人規模の講演や、テレビ番組での司会者の突っ込みにも動じない私ですが、初めて169人の中学生の視線にさらされた時は、恐怖すら感じました。
子供たちの純粋な目には、かつて所属した企業の看板も、そこで培った自慢のキャリアも、「何それ?」です。先生だから、校長だからと無条件に子供たちはリスペクトしてくれない。ここでは、自分自身が問われている。改めてそう体感したのです。
あなたも教育現場に立てば感じるでしょう。子供たちは、リスペクトできる相手かどうか、早い時期に見極めてきます。あなたがどんなエンジニアだったのかは分かりませんが、まずは自分を再定義しなければ。自分の強みは何か。それを、どう出していくべきか。自分の持っている何で、子供の心をつかめばよいのか。教室では、彼らの気持ちをつかむ技芸こそが求められます。
お掃除ロボットの制御プログラムを手がけたとか、子供たちが容易に想像できる仕事をしていたなら、比較的説明は容易かもしれません。でも、そうとは限りませんよね。
まずは、学校に慣れること。住まいがどこなのかにもよりますが、地域の人々が学校運営に関わる地域学校協働本部(和田中で生まれた学校支援地域本部が名称を変え、国の後押しで全国約1万カ所に広がっています)があったり、コミュニティースクールを標榜(ひょうぼう)していたりする学校を探し、土曜日学校のお手伝いなどから入ってはどうでしょうか?
学校長と教員の関係は? 教育委員会と学校の関係は? PTAは学校に何を求め、校長はそれをどの程度尊重しているか? 今時の児童生徒は荒れているか、落ち着いているか……。学校の現状が、間近で見られると思います。その中で、ITエンジニアとしての経験が生きる場面もあるでしょう。
下手をすると学校のコンピュータールームには、いまだに「コンピューターに触るときには手を洗いましょう!」なんて貼り紙があったりして(実際に目撃しました!)、前時代の幻を見る思いをするかもしれません。でも、そんな化石のような学校でこそ、あなたの技が歓迎される可能性もある。
そうした経験を積めば、自信を持って「本番」に備えられます。ボランティアとしての実績は、自治体に教員として採用される際に、面接のプラス材料にもなるはずです。
企業と学校で違うであろう職場環境の落差を懸念されてもいるようですが、両方を経験した私には、それほど違うとは思えません。伝え聞いた教育現場の守旧性を批判し、自分が変えてやると息巻いたとしても受け入れられないでしょう。まずはフラットな心で、相手を理解するところから始めなければ。
今回の相談、教員免許を持たない自分は関係ないと思った人がいるかも。でも、あながちそうでもありませんよ。先ほど触れた地域学校協働本部、地域や学校によって活動の内容こそ違いますが、どこも学校外からのパワーを求めています。
もし、あなたが第二の人生の生きがいを求めているなら、ボランティアとして参加してみてはどうでしょう。名刺の通用しない世界でモードチェンジを果たし、地域デビューにつながるかもしれない。その場合、男性なら奥さんと一緒に参加するが吉です。時節柄、未知の男性がいきなり来ると不審者だと警戒される場合もありますが、夫婦ペアならその恐れもありません。夫婦一緒に取り組めるテーマを持つことも大事ですしね。
●100年時代の夫婦の形は? 離婚を決める前に荒療治を

結婚生活についてお聞きします。今まで子育てに追われ、自分自身の結婚生活について考えたり、振り返ってみたりする余裕もなく、子供たちが独立して初めて、そうしたことをじっくり考える時間ができました。夫とは長いこと一緒に暮らしてはいても、どうしても我慢が出来ないことや不満があります。特に夫の定年後は、お互いの価値観の相違に深く悩むようにもなりました。人生は後戻りできないのだから、本当に苦痛なら別れるのも選択肢の一つですが、この年齢で踏み切るにはとても勇気がいります。離婚するか否か、あえて正解を求めるならばどう考えるべきか、アドバイスを頂けないでしょうか。(東京都 女性 60歳)

離婚するか否か、あなたは正解をお求めですが、残念ながらこの問題には正解はありません。ここに書かれた内容だけでは、あなたとご主人の人生観の隔たりがどの程度なのか推し量ることはできませんし、離婚の是非についても、他人がとやかく言うことではないと思いますから。とはいえ、あなたの悩みの深さは、文面から十分伝わってきます。ここは、あなたが自ら納得解にたどり着くためのヒントを、一緒に考えてみましょうか。
夫婦は、まだ子供が小、中、高校生ぐらいのうちは、子供の敵は親にとっても共通の敵なので戦友になれます。二人で担任の先生の悪口を言い合うなど、子供を接点に共通の話題が持てます。でも、その子が大学生にもなれば、親が口をはさむ余地はぐっと減りますから、夫婦共闘の機会は減り、別に共通の話題が必要となってきます。
若い頃は別として50代にもなれば、夫婦それぞれに趣味や関心領域も固まってきます。二人で旅行に行く話になっても行きたい場所が一致しないとか、何か一緒に取り組もうと思っても、好みの違いがはっきり分かれ、夫婦とはいっても別人格なのだということに改めて気付かされることになります。
だから30代ぐらいのうちに、テニスでも何でもいいから夫婦共通の趣味を持ったり、一緒に取り組めるテーマを見つけておいたりする必要があるのですが、時計の針は巻き戻せません。運悪く50〜60代になって、ようやくそれに気付いてしまった人は、熟年離婚の文字が頭をよぎる羽目になるのです。
今からでも遅くはないと思いますよ。夫婦で取り組めるテーマは見つけられないものでしょうか? どうしても無理だというのなら、しょせんは夫婦も他人だと割り切り、自分の生きがいを見つけ、追求するしかありません。大事なのはあなた自身の余生の充実です。そのためなら、夫のことを突き放したって構いません。
不満を抱えながら、夫のために日に3度の食事を用意する必要もありません。相手がグータラを決め込むのなら、この際、こんな風に宣言してはどうでしょう。「あなた、家を出て地方に行ってボランティアに取り組むなり、単身赴任するつもりであなたの生きがいを探していらっしゃいよ。やらないなら、私が行くわ」と。その結果、ご主人はどん底まで落ち込むかもしれない。でも、以前の回の相談でも言いましたが、そのショックでモードチェンジを果たし、あなたも見直すような夫に生まれ変わるかもしれません。できるかどうかは本人の甲斐性次第。あなたの責任ではありません。離婚を切り出すなら、荒療治を試した後でもよいのではありませんか?
夫婦の間に本当に共通の話題が絶えてしまったのなら、メンバーチェンジを考えるのもやむを得ないでしょう。60代で離婚に踏み切るのは、おっしゃるように勇気がいることかもしれませんが。
でも、アメリカでは、20〜30代に結婚や離婚を繰り返し、40代になってようやくベターハーフと言えるパートナーに巡り合う、そんな生き方があると聞きます。人生100年時代を迎えた日本でも、今の子供たちが大人になるころには、人生で2度、3度パートナーを変えることが当たり前になり、一生を同じパートナーと添い遂げるケースの方がまれになるかもしれません。進む長寿社会には、夫婦のあり方をも変えるかもしれない潜在力があるのです。
仮にご主人と別れたとして、その後はどうするつもりですか? 日本人女性の平均寿命は伸び続け、今や87歳を超えています。あなたが健康な女性だとすれば、これまでの人生の半分近い月日が、まだ残されているかもしれないのですよ。
あなたのこの半生の浮き沈みを振り返れば、きっと山と谷が交互に訪れていたはずです。大きな山を駆け上がるには、ジェットコースターのように位置エネルギーを運動エネルギーに変え、思い切り谷を下って勢いをつけなければなりません。60代の今、離婚を考えるほど思い悩んでいるあなたは、きっと大きな谷に沈み込んでいるのでしょう。
でも、考え方を変えれば、それは70代に訪れるかもしれない人生のピークを駆け上がるための、助走期なのかもしれない。「この不幸、welcome!」とでも言うぐらいの気持ちで、この際、思いきり悩みを深めてみてはどうでしょう。
これまでも繰り返し語ってきましたが、あなたが今思い悩んでいる問題も、いつか他人に面白おかしく話せる日が来ます。その時、あなたが悩みをいかに乗り越えて来たか、その経験談に耳を傾けたい人が、周りに集まってくるはずです。そのあなたの隣に、10年前の倦怠(けんたい)期の記憶を共に笑い飛ばすご主人がいれば、最高なのですがね。
●隠遁するには早すぎる 余生の長さに思いをはせよ

退職して5年が経ちました! 近頃はお偉い先生方が第二の人生とか、人生100年時代とか、様々なお題目でお話しになり、みんなそれに踊らされているようにも見えます。「何もしないのが一番」と考えるのは、私だけなのかと思い、一筆啓上した次第です。私は現役時代、いろんなことをやらかして来ました。だから引退した今となっては、「何かやれ」と言われても「何を今更」な心境です。朝起きてお日様に手を合わせ、空気を食べ、周りの音を聞いてみる。すると何とも寂しいかな、周りには誰もおらず、何もありません。一人静かにしていれば、その日は暮れていきます。何かしなければいけないという思いが、世の中の大勢なのでしょうか? (東京都 男性 65歳)

一人静かにひっそりと過ごす。自然に感謝し、時の流れに身をまかせて老いてゆく。あなたのおっしゃることは、それはそれで立派なお心がけですし、孤高の人生を生きると決めたならば、それも尊敬できる美しい生き方だと思います。ただ、普通の人には、それが30年、40年と続くことに耐えられるのかどうか。それが問題となってきます。
「方丈記」を書いた鴨長明が出家し、山里に4畳半ほどの庵(いおり)を結んで隠遁(いんとん)生活を始めたのは50代でした。人の世の無常をつづった「方丈記」を書き上げたのが58歳。亡くなったのは、その4年後とされています。長明の人生がもっと長かったら、「方丈記」のあと、さらに40年の月日を生きたとしたら、果たして彼はその暮らしに耐えられたでしょうか?
都会の騒がしさから逃れた庵での晴耕雨読の毎日は、潔く、美しくも見えます。でも、そんな斜に構えた、人を寄りつかせないような暮らしは、普通の人には、長く続けられないのではないかと思うのです。余生が10年ぐらいなら、枯れながら美しく死ぬのもありかもしれない。「自然のまま座して死を見つめるのみ」という達観した覚悟は、短いであろう自分の老い先が自覚できるからこそ可能なのではないでしょうか。でも、そんな日々が延々と続くとしたら、その暮らしはある種牢獄のような毎日にもなりかねず、とても私には耐えられそうにありません。
人生の長さは、個人の自由にはなりません。自死が肯定的に認められる社会でもない限り、そろそろ人生をしまいにしようと思っても、終わりにできるものではないのです。幸か不幸か、医学の進歩や栄養状態の改善などで、日本人の平均寿命は男性で81歳、女性は87歳を超え、100年を生きる人も昔ほど珍しくはなくなりました。60代にして長明のような生き方を選ぶことは、まだ人生50年とも言われていた時代だからこそ、可能だったとは言えないでしょうか。
お金の問題もあります。人生100年時代、定年後から死ぬまでの間には、夫婦で1億円が必要だと言われています。ひっそりと他人と交わらず、清貧な毎日を過ごせば、あまりお金を使わずに済みそうです。動かなければ変な事故に巻き込まれる恐れもないかもしれない。でも、積極的に体を動かさなければ体は早く衰え、病気につながる可能性もあります。そうなると、治療や入院で余計なお金がかかり、暮らしにも影響しかねません。
私の大先輩の著述家に、脇田保さんという人がいました。ホスピスに入って亡くなられたのですが、晩年に講演で、こう話していました。「自分が枯れていくのは耐えられない。そうではなく、匂いを放ちながら腐るように老いていきたい」と。世間と関係を持ち続け、仲間と楽しくやりながら、最後はハエまで寄ってくるかのような芳香を放って朽ちたい……。私は、そんな思いからの発言だと受け取り、共感しました。
だから、私は最後まで他人や社会と関わり続け、誰かにとっての「懐かしい人」であり続けたいと願っています。
あなたも、枯れるには、まだ早いのではありませんか。現役時代、さんざんやらかしてきたというならなおさらです。やらかしてきた失敗談を笑い飛ばしていれば、あなたの周りにはおのずと人は集まってくるはず。60代になった今もぜひ色々やらかして、70代以降の話のタネを仕込んではいかがでしょう。隠遁生活に入るならその後でも遅くはない。私はそう思うのですが。 
 
 
 
 

 

●「隠遁生活から復帰して挑んだユニクロのブランディング戦略」
シマジ バブルが崩壊してご自身の会社をたたむことになるとは、チェンさんも大変だったでしょうね。
チェン ええ。たぶん神さまが「原点に戻れ」といっていたのだと思うのですが、ちょうどその頃、マテリアリスティック(物質主義的)な文化からスピリチュアルな文化へと徐々に傾倒していきました。
ヒノ 長い人生のなかでは、それも有意義なことだったのではないでしょうか。
立木 より大きな、より深い人間へと成長する精神的な踊り場だったんだと思うね。
チェン ところが実際にはそんなにのんびりしたものではなく、それまでオフィスで使っていたIT機器のリース代の残額を突然請求されたりもして、弱り目に祟り目でした。当時1台150万円もしたマッキントッシュ25台分ですからね。なんとか交渉して1500万円まで負けてもらいましたが、手持ちの資金が枯渇していてどうしようもない状態だったんです。その上プライベートではいまのカミさんと2度目の結婚をして、子供はできるわ、借金はあるわで、ともかく急に大金を稼がなくてはいけない状況になってしまったわけです。結局、スピリチュアルな隠遁生活からすぐに生々し現実社会に引き戻されてしまいました。
ヒノ スピリチュアルなアイデンティティーを求めていた頃は、チベットあたりを巡っていたそうですね。
チェン はい。そこでこんなことがありました。ムスタン王国で片道4日間のトレッキングをしていたときのことなんですが、200メートルはあろうかという断崖絶壁沿いの細い1本道を歩いていたら、ムスタン馬という小さな馬とヤクが遠くから暴走してきました。道が狭くて避けようにも避けられず、足を踏み外したら崖下に落ちてしまいそうな際どい場所でした。必死に崖のへりにしがみついていると、わたしの手の上を馬がパカパカ走って行きました。馬に乗った現地の少女がやさしい微笑みを残して風のように去って行きました。そのとき突然、もう一度新しい希望を持って人生に立ち向かってみようという気持ちが湧きあがってきたのです。とはいえ先程も言いましたが、いまのカミさんと出会い結婚してしまったこともあり、隠遁生活どころではなくなっていたのも事実なんですが・・・。
シマジ チェンさんは一度目の経験から結婚というものは知り尽くしていたでしょうけれど、再婚なさったのは何歳のときだったんですか?
チェン わたしが46歳でカミさんが28歳のときでした。
立木 よっぽどいい女に巡り会ったんだね。
シマジ 人生は恐ろしい冗談の連続ですからね、仕方ないんですよ。でもそのタイミングの再婚が、チェンさんをビジネスの世界に引き戻したわけですから、いいことだったんすよ。華僑の男が隠遁しているのは勿体ない感じがしますからね。
チェン そんなこんなで再びCIAのビジネスをはじめたんですが、今度は仕事の中心を空間プロデュースからブランド構築のほうに切り替えていきました。CIAの再出発はわたしを入れて社員3名だけでしたが、まもなくGAPの仕事が舞い込んできました。バブル崩壊の影響で東京の不動産価格が下落したことで、海外のブランドが進出し出したのです。GAPは日本の若者をターゲットとして渋谷や青山あたりにフラッグショップが欲しいということでした。だからGAPに関しては不動産開発の仕事からはじめたわけです。ほぼ同時期に今度はナイキからも声がかかりました。
シマジ やっぱりチェンさんは隠遁生活より、生き馬の目を抜くようなハードなビジネスに携わっているほうがお似合いですね。
ヒノ でもチェンさんを有名にしたのは、なんといってもユニクロのイメージを一新して、売上を飛躍的に伸ばしたビッグプロジェクトですよね。
チェン それもGAPとナイキの2つのプロジェクトが評価されてのことなんです。1998年、ユニクロの東証一部上場に向けたマーケティング戦略の開発という依頼を受けました。これは伊藤忠商事からユニクロに移られた副社長の澤田貴志さんからお声かけいただいたプロジェクトでした。
シマジ 面白くなってきました。ユニクロのあれだけの成功談にはいろいろユニークなエピソードがあったでしょうね。
チェン 山口県宇部市の工業団地のなかにあるユニクロのオフィスをはじめて訪ねたとき、あっと思ったのは、澤田さんをはじめ社員の方々がユニクロの服を着ていないということでした。みんな好き勝手に他社のカジュアルウェアを着ていたんです。GAPでもナイキでも、社員が他社のものを身につけていたら怒られるでしょう。すぐさまそのことを澤田さんに進言すると、「来週からみんなうちの服を着るように」と全社員に号令がかかり、見事に全員が自社製品を着てくるようになったんです。そうすることで自社製品はどこがいいのか、どこが悪いのか、実感としてわかってくるものです。
ヒノ CIAが関わりはじめたころのユニクロの売り上げはどれくらいだったんですか?
チェン 年商で830億円はありましたね。
立木 それが、CIAがブランド構築に関わることで、どれくらい大きくなったの?
チェン 1998年にわれわれが想定した5,000億円という売り上げ目標にユニクロは2008年に到達しています。
シマジ 凄いですね。企業イメージを変えるだけで10倍も売り上げを伸ばしたんですか。
チェン わたしが凄いわけではなく、社長の柳井さんの即断と実行力があってこそでした。たとえば店舗開発のプロトタイプストアに時間をかけなければいけないと提案すると、山口にあった店舗を1軒閉鎖して、そこを原宿店に見立てて全エネルギーを注ぎ込んでくれたのです。
ヒノ やっぱり柳井社長は決断が早いんですね。
チェン 優れた経営者たちの即断即決と実行力には目を見張るものがありますね。ユニクロの宣伝広告にはナイキの広告制作をしているワイデン&ケネディという会社を紹介して、従来のイメージを塗り替えてもらいました。GAPのモデルは外国人だけど、ユニクロは日本人で行こうとか、有名人じゃなくてこれからブレイクしそうな人を起用しようとか、いろいろと考えてくれました。
シマジ やっぱり和製グループではなく外資系の才能を使ったんですね。そこはチェンさんの強みですもんね。
チェン そういわれてみればそうですね。さらに原宿店をオープンするにあたっては、アメリカから商品数を絞り込む専門家を呼んで店舗作りをしていきました。
ヒノ それまでのユニクロはどういうイメージだったんですか?
チェン よく郊外にあるリーズナブルな量販店というイメージでしたね。ロゴタイプもいまのものとはまったく違い、人が3人くらい立っているシルエットをデザインしたものでした。ファミリーとかスポーツを意識していたのでしょうね。TVコマーシャルもラメの服を着たおばさんが試着室に駆け込んでいく、というようなものでした。
シマジ それを一気にGAPのようなメジャーな存在にバージョンアップしたんですね。
チェン 最初に取りかかった仕事はミッション・ステートメントの制作でした。これは政党のマニフェストみたいなものです。われわれが柳井社長に誠心誠意伝えたのは、「ユニクロは日本人の理想だ」と思われるような、新しい日本を象徴する会社にしならなければならないというメッセージでした。約3ヵ月かけて徹底的にブレーンストーミングを重ねた結果、われわれのイメージに近いものはGAPだろうという結論に達したんです。じつは「ユニクロ」というブランドネームも変えたほうがいいのではないかと提案したんですよ。でも柳井社長があくまでもこの名前にこだわりたいということで、ブランドネームはそのまま残しました。
立木 たしかにユニクロというのはいい名前だから、残しておいて正解だったね。
シマジ 雑誌の世界とも共通点がありますね。新雑誌を創刊するときはまず対抗誌を真似ることからはじまりますから。チェンさんたちが3ヵ月もかけて柳井さんと一緒に考え抜いたミッション・ステートメントが原動力になってユニクロは驚異的な成功を収めたんですね。
チェン ブランドの成功はだいたい閃きから生まれるものです。その閃きを現実的な戦略に落とし込んでいく作業がいちばん重要なんです。その次に手がけたのが青山フラワーマーケットのプロジェクトでした。街の普通の花屋さんが飛躍的な成長をとげた例です。これは1999年のことでした。日本フローラルマーケティング協会会長の小川孔輔さんのご紹介で、パークコーポレーションの井上英明社長が「青山フラワーマーケットを花屋のユニクロのような存在にできないだろうか」と相談にこられたのです。
シマジ そこでチェンさんがまたブランド構築を手がけたわけですか。
チェン そうです。青山フラワーマーケットは当時青山と赤坂に2店舗を持つちょっとお洒落なフラワーショップでした。そのころの売上はおよそ2億円でした。実際にお店に行ってみて、わたしが即座に井上社長に提案したことは、「GAPではお客さまがディスプレイやマネキンをみて商品を買うまでの意志決定は3分以内です。御社でもそれくらいの時間で意志決定が出来る展示システムを作ってみてはどうですか」ということでした。
立木 素晴らしい発想の転換だね。
チェン 井上社長は即座に「それは面白い」と賛成してくれました。
ヒノ それで青山フラワーマーケットのあのワンコインブーケが生まれたんですね。
チェン 実際はワンコインではなく、350円のブーケはトイレ用、500円ならキッチン用、750円ならリビング用というように価格帯と用途を分けて売ったんです。駅構内への出店にこのシステムを取り入れた途端、青山フラワーマーケットは大ブレイクして、4年間で売上が約7倍に伸びました。
シマジ それは凄いですね。4年で7倍ですか。
チェン そんなわけで、ユニクロと青山フラワーマーケットの成功から、われわれはブランド構築の方法論を身につけていったわけです。ヒノさん、ネスプレッソをもう一杯いただけませんか。少ししゃべり過ぎてノドが渇きました。
ヒノ どうぞ、どうぞ、何杯でもお作りします。今日はネスプレッソの出張サービスです。
シマジ 今日はこの対談のためにわざわざ広尾から運んできたんですよ。近々新しいネスプレッソマシンを送らせていただきますからお楽しみに。
チェン ありがとうございます。じつはわたしも自宅に一台持っているんですが、会社と自宅に一台ずつあれば、便利でいいですね。これは本当に美味いですから。
ヒノ 今日は長時間ありがとうございました。
チェン こちらこそありがとうございました。

シー・ユー・チェン 1947年北京生まれ。30年の成功のトラック・レコードがあるブランドコンサルティング会社CIA Inc.のファウンダー兼CEO。"Japan Branding"を提唱し、ユニクロ、青山フラワーマーケット、東京三菱UFJ銀行PBO、出光、大崎Think Park、Peach、サウスウッド、Oisix Crazy for Veggy等の新業態ブランドの原型を構築し成功に導く。Innovation Prototypingを実践し、プロジェクトフローとリアルな検証プロセスを通じてリスクを軽減させ、成功率を高めている。 
 
 
 
 

 

●教会の信仰
隠遁者の知恵にふれて
初代教会の「信仰に生きる」 具体的な形を示した聖書の言葉があります。『信者たちは皆一つになって、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心を持って一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。』(使徒言行録2:44ー47)。
大きな目標をたて、人々に影響を及ぼす福音宣教をする教会像の魅力が感じられます。福音書にも同じ招きが載せられています。それは「キリストに学び、キリストに従う」ことを通して、神の国の訪れに不可欠な部分です。その狙いに近づくときに、世代ごとに置かれている状況が変わり、それに相応しい形を探す必要があります。そのため聖霊の導きを祈らなければなりません。そうすると、この世に居てキリスト者らしさを目指す具体的な霊性も生まれて来ました。例えば、東では聖バシリオとパコミオ、西では聖ベネティクトの霊性に基づいて、修道生活と隠遁生活が始まりました。聖アントニオ修道院長は代表的な人物です。修道院生活の父と呼ばれるほどです。
教会はローマ皇帝コンスタンティヌスによってキリスト教が歓迎され、平和な時代(311年)を迎えました。それに伴い、グループや隠遁者が砂漠に退いて、特にエジプトとパレスチナでその運動が盛んになりました。
『荒れ野の教父』の書物を読んで、私が感銘を受けた一部を紹介します。四旬節の精神を高めるために参考にしていただければ幸いです。聖アントニオ修道院長の記念日は1月17日です。書物には、『アッバアントニオ』と呼ばれていました。
1.ある人がアッバアントニオに尋ねました。神に喜んでいただくためどうすれば良いでしょうか。アッバアントニオが答えた。『どこへ行っても、目の前に神の存在を置くようにする。また、何かをする時には、聖書からヒントを学ぶ。あなたの住居(居場所)を長く使用する。わたしがあなたに提案するこの3点を守るなら、救われる』。
2.『生きること・死ぬことは隣人によって決められる。兄弟を得れば、神を得るし、兄弟に躓きを与えれば、キリストに背く』。
3.ある人が『わたしのために祈って下さい』と願ったとき、彼は『あなた自身が努力をして願うなら神の憐れみが得られ、わたしの祈りが適えられます』と答えました。
4.アッバアントニオの信仰告白。『わたしは神を恐れない。神を愛する。愛は恐れに打ち勝つ』。
「死者の月」の黙想について
「死者の日」は11月2日ですが、今月中に死者のために祈ることは、教会の伝統として最も古くからのキリスト教的な習慣に基づいています。人は死後においても人生の旅を共に過ごしてきた人々との絆が切れてしまうのではありません。前日の1日は、諸聖人の祭日です。聖人たちは神の親しみに招かれて、もう既にその賜物を豊かに受けて新しい姿になりましたので、私たちはその聖人たちのためにお祝いをします。そして次の日に教会は、清めの完成を待ち望んでいる死者のために、一日も早く天の扉が開かれるようにと祈りの支えを送ります。この記念日に因んで、司祭たちに与えられている特別の許可があり、それは一日にミサを3回ささげることが出来ることです。同じく信徒は、部分免償を受け死者のために適応する恵みが授けられるのです。
さて、「信仰者と死」について考えてみましょう。
まずイエスの死に触れますと、キリストは十字架の死によって全人類の購い主となり、彼の死においてすべての人が死んだとあります。次の聖句にはその光が見えます。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のため死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(U コリント5章14〜15)。
体験的に出来ることは何かといえば、死を受け入れる準備を毎日することです。そのためにまず、「人の四終:死・審判・地獄・天国」について知ることが助けとなり、罪を犯さないようにと努める生き方を選びます。「死」について言えることは、人間は生まれることも死ぬことも選ぶことが出来ず、死にたくない願望があっても、いつかその時がやって来るということです。最近聞いた話を思い出しました。80歳代に入ったある司祭について、「どんな人ですか」と尋ねられたところ、仲間の神父の返事は、「死にたくない神父ですよ」。
「審判」に関して言えば、その時いかに「愛した者」であるかどうかが問われるので、生きているうちに自我の自分を死んで、他人を大事にする生き方へと正したいのです。「地獄」か「天国」のどちらかを選びなさいと、今から勧められている気がします。審判の時に人の望んでいた内容が明らかにされるでしょう。
今月、このようなことを黙想したいと思います。
平和のために働く人は幸い
8月に行われる平和旬間に因んで、「平和」について考え、何か具体的な取り組みが出来れば幸いと思います。 聖書を見ますと「平和」が聖書全体にわたって大切にされている事が分かります。その例を挙げてみましょう。
1 民への祝福が与えられる際、神からモーセに指示がありました。「主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」(民数記6・26)
2 平和が訪れる約束をダビデ王に与えられました。「…平和は絶えることがない。」(イザヤ書9・6)
3 平和は、外からの危険から免れるだけではなく、その夢を実現させるのはメシアです。「その名は、…平和の君。」(イザヤ書9・5)
4 キリストは十字架の血によって、ご自分の中で憎しみを滅ぼし、人々を神と和解させ、ご自分の教会を全人類の一致、神との一致の秘跡となさいました。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」(エフェソ2・14)
5 山上の説教でキリストは断言されます。「平和を実現する人々は、幸いである。」(マタイ5・9)(カトリック教会のカテキズム2305番)
6 時が満ちたときに、天使たちの声が響き渡りました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2・14)
教皇フランシスコは、多様な危険が世界中のあちこちに迫っている今、次のように述べておられます。「わたしたちは世界平和のために何が出来るでしょうか。教皇聖ヨハネ二十三世が述べたとおり『平和と愛に基づく共存関係を再構築するのは、すべての人の務めです。』
平和のための努力の鎖は、すべての善意の人を一つに結びつけます。わたしは、全カトリック教会と、カトリック以外のすべてのキリスト者、あらゆる宗教の信者、そして信仰をもたない兄弟姉妹の皆さんに強く切迫した呼びかけを行います。平和はあらゆる障壁を乗り越える善です。平和は全人類の善だからです。…人々の中に、また人々の間に共存を築くのは、出会いの文化、対話の文化です。対話の文化だけが平和に通じる道です。」(教皇フランシスコ講和集1、〈シリアと中東と全世界の平和のための断食と祈りの日の呼びかけ〉より)
さて、主イエスは復活の後弟子たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20・19)、と挨拶されました。彼らは喜び、これを力にして、同じ平和の恵みをもたらす働き手となりました。
わたしたちもミサの中でイエスのことばを聞きます。「わたしは平和を あなたがたに残し、わたしの平和を あなたがたに与える。」きっと、わたしたちも平和のために働く弟子を目指して発奮し、「出会いの文化・対話の文化」に力を尽くして、主の平和の恵みを大切にしていきましょう。
『イエスのみ心』の月 日々のことばでイエスの愛を深めよう
有名な人なら、その人の日々のことばの書物を誰でも興味深く読みます。カトリック教会は毎日のように、イエスの福音を伝えて、信者の心の隙間にある渇きを満たすのです。
6月は、大自然の観点からみれば、春が終わり夏が始まる時でもあります。典礼的な側面の豊かな月です。例えば、六月はイエスのみ心の月と呼ばれるだけではなく、イエスのみ心の祭日は六月に当たります。その祝いはキリストの聖体の祭日の次の金曜日と定めています。
さて、『イエスのみ心』の伝統的なイメージがあることは、皆様存知の通りです。傷を受けたイエスの姿、茨を被せられた頭、十字架上のイエス、そしてイエスの愛を示す炎などです。人々をそれほど愛された方で、全てを与え尽くされました。イエスの教えも、行った奇跡も、ご聖体も、自分のお母さん聖母マリアも、人々に与えて下さったことを思い起こすお祝いです。
「イエスご自身が聖マルガリタ・マリア・アラコクにお現われになり、ご自分の心臓を指さしながら、『この心をごらんなさい。人びとを愛するあまり、みずから燃やし尽くすまで惜しまず与えたわたしの心を・・・。それなのに多くの人びとから侮辱と忘恩しか受けないのです。』と嘆かれた。
こうして〈愛にてまします神〉は人びとから愛されたいと望むあまり、この名も無い貧しい少女の献身的な勇気を見込んで、これに『み心の信心』を全世界に広めるという大切な事をおまかせになった。」。
今年は6月23日が「イエスのみ心」の祭日です。また、初金曜日の取り組みは、主にキリストの愛に応える運動でもあります。6月、1日毎にテーマや聖句を選んでイエスの愛を深め、イエスが喜ぶ兄弟的な交わりの新たな挑戦をしませんか。例えばイエスの姿に親しみを覚えるように、み心の姿やイエスからのプレゼントを順番で黙想する等。または、救いの元であるイエスを信じる者として、次のようなテーマを考えた上に、その実践に取り組むという過ごし方も考えられます。
『人権』について調べて、すべての人は神の愛によって存在するとの新たな確信を持つこと。『誘惑』があることを忘れないで、自分にとって課題となる点を賢く見分けてみること。『祈りの価値』を認め、具体的な方法で祈りを深めること。『子どもや青年』に関わって、イエスの行動を思い起こすこと。『実りのある行い』として、イエスが望んだ最も小さい者にすること等を工夫してみてはどうでしょうか。
主イエスの受難と復活を祝って
教会は、復活祭を迎える前に、聖週間と過越の聖なる三日間の典礼を捧げます。それはキリストの生涯の主な出来事を記念し、キリストの救いの恵みに与ります。年に一度しかない大切な典礼であって、今年も新たな感動を覚えさせる恵みに出会いたいと思います。
4月9日は『主の受難』(枝の主日)で、その木曜日は『最後の晩餐』の記念ミサがあります。金曜日『主の死』にはミサはありませんが、典礼が捧げられます。土曜日の夕方までは一日の沈黙を守る日で、 その夜は『復活徹夜祭』の典礼とミサが行われます。4月16日は『復活の主日』です。一人でも多くの方が参加されるように祈ります。なお参加出来ない方々のために祈りの支えを送る勤めを致します。
三つの質問をたてました。
1、『どうしてイエスは殺されたのでしょうか』イエスが殺されたのは、イエスの生き方と、人々に対する係わり方の故です。イエスは命を大切にし、病人や悪霊に取り付かれた人々を解放します。疎外された者(婦人・子供達など)を温かく迎え、 罪人と一緒に食事をします。仕える精神を持って生きる方で、弟子たちにその価値観を教えます。そして、祈りと宗教行事が相反しない秘訣を教えます。『真理と霊によって礼拝』する時が来たと教えます。だから、イエスの使命を理解しない宗教的な立場の指導者たちは反感を抱き、イエスのいのちを狙い、イエスの使命を理解しませんでした。
2、『なぜイエスはいのちを捧げましたか』御父のみ旨を果たし、すべての人の救い主となるため。「わたしは自分の命を捨てる。再びそれを得るためである。それで、父はわたしを愛してくださるのである。」(ヨハネ10:17)。イエスは、死に至るまで従順であり、それによって人間が生まれ変わり、神に近づく道を示したのです。「イエスは人々にこうお話しになった。『わたしは世の光である。わたしに従う者は、決して闇の中を歩くことはない。それどころか、いのちの光を得る。』」(ヨハネ8:12)。良い牧者のキリストとなるためです。
3、『イエスの復活の意味は何ですか』初代教会の信者たちはイエス・キリストの生涯(死を含む)の中、最も大切な要素は復活だと理解したのです。御父は主を復活させました。すなわち、神は主の復活によって、「死」「エゴ」「鞭打ちする者」ではなく、『いのち』『愛』『罪のない者』を選ばれました。ご復活おめでとうございます。 
 
 
 
 

 

●隠遁者としての良寛
良寛をとらえる枠組み
……前に良寛詩の思想、僧としての良寛ということで、良寛の思想性ということと隠遁した僧侶としての生き方について、良寛の作品を介しながらお話ししてきたわけです。
今日は隠遁者としての良寛ということで、けっきょく前二回で自分にとって通りやすいところを通ってしまって、どういうふうに理解したらいいのかいちばんわかりにくい良寛の作品、作品を介しての内面性の構造ということが、最後に残ってしまったということなんです。
ふつう、良寛ということで考えられているのは逆であって、ぼくなんかがいちばん難しいと思って残してきたことが良寛という名前に最初につきまとうイメージだと思うんだけれども、ぼくにとっては逆なんです。隠遁者としての良寛といいましょうか、詩で言いますと山川草木、花鳥風月に託して自分の内面性を述べたという詩、そういう詩に託された良寛というのがいちばん最後に残ってしまいました。そこのところを、内面性のなかに入り込む糸口をつけてみたいということが、前二回終わってから二年半、頭のなかで理解の手がかりをどこにもっていったらいいのかということを考えてはやめ考えてはやめしてきました。今日、なんとかひとつのとっかかりをつけて、ぼく自身にとってもそう簡単に終われる人ではないですから、自分なりに良寛についてまたこれから考え方を深められたらと思っています。
最後のいちばんむずかしい良寛をどういうところでつかまえたらいいのかということを、まず枠組みみたいなものとして考えてみました。すると隠遁者、隠遁詩としての良寛の詩というものをどこでつかまえたらいいのかと言いますと、やはりどうしてもヘーゲルの言い方で言えば、アジアの原理は自然なんだという言い方で言うのと同じように、自然性あるいは自然というのが、隠遁者としての良寛というのが大きな枠組みを決めていると考えればいちばんいいのではないかと考えました。そして良寛の隠遁詩、自然詩というものをよく読み込んでいきますと、いくつかの主題の違い方にわけることができると思います。
全体の枠組みを自然性ととりますと、その枠組みのなかでそこに図式的にしますと、全体の枠組みとしての自然のなかで、自然のなかの自然、あるいは自然に対する自然性と言いましょうか、そういう表現が良寛の詩のなかにあります。自然という原理のなかの自然性というものが根柢的なところにあって、その比喩で言えばその少しうえのところに自然性のなかの生活というものがそのうえに想定されます。
自然性のなかの自然というものと自然性のなかの生活というのとはくっきりと境界がついているわけでもつけられるわけでもありませんから、それは重なりあうわけです。そしてまたそのうえ、抽象性の少し高いところで、あるいは観念性の高いところで、自然性のなかの倫理という枠組みを考えることができると思います。またそれも決して生活性と倫理性とは境界があってきっぱりと分けられるということではないのですけれども、やはり生活性より抽象的なところで自然性のなかの倫理性というものを想定することができると思います。そのうえにもう少し抽象性、精神性の高いところで、自然という原理のなかの宗教性というものを最後に考えることができると思います。宗教性と倫理性は良寛のなかでわけることができるものではなく重なりますけれども、もう少し観念性の高いところで宗教性というのを考えることができると思います。
いま言いました自然のなかの自然性、自然のなかの生活性、自然のなかの倫理性、自然のなかの宗教性という、いくつかの区分というものを考えにいれますと、良寛の隠遁性の思想の構造に分け入っていく手がかりがえられるんじゃないかと考えました。
それで、いちおうそういうふうに全体としての自然という原理のなかでの四つの区分けを考えて、そこで良寛の隠遁性の構造がなっているか、それが詩の表現のなかでどういうふうにあらわれているのかということをひとつひとつ考えていったら考えやすいんじゃないかと思ってそういう分け方をしてみました。
で、こういう分け方が正統であるかどうかは問題ではなく、どういうとっかかりを持てば良寛の隠遁性の構造、良寛に置ける自然という原理に入っていけるかということが重要です。とっかかりを介して良寛んお曰く言い難い心境、境地に、言葉で理解しながら入っていければいちばんよろしいわけです。そういう分け方をして入っていってみます。
自然のなかの自然
まずはじめに、良寛の生き方、詩の表現、思想性というものぜんぶをひっくるめた大きな枠組みとして良寛を規定しているのは自然という原理、思想です。その思想のなかでの自然というものがどういうふうにあらわれているかということをまず考えてみたいと思います。
自然性のなかで自然というものがどういう意味を持つかというと、自然が自分で自分を区別するというところで、良寛の自然性のなかの自然、あるいは自然のなかの自然性というものが出てきていると考えればよろしいと思います。つまり良寛のなかで、自分の生き様とか境地、そういう全体を規定している自然というなかで良寛がことさら自分でそれを自然として区分けしよう、差異をつけようというふうに内面で考えたところで、自然のなかの自然というものが、良寛のなかで表現となって出てきていると考えます。
たとえば、詩にひとつの作品をあげています。良寛の自然という生き様の原理のなかで、自分が自然というものをどういうふうに区分けしているか。あるいは自分がどういうふうに自然に対して自然という差をつけているかということの第一の要件というのは、ここには〈行動する自然〉というふうに言っておきました。それは、日常の生活をしながら遭遇している自然だと考えてみればいちばんわかりやすいと思います。
   秋夜偶作……
すると、ここでは自然そのものが歌われているわけですけれども、それはどういうことを意味するのでしょうか。良寛の全体の雰囲気、生き方のぜんぶの枠、世界すべてを規定している自然というなかで、自分が選んだ自然、なぜ選ばれるかと言いますとそのことが自分に引っかかってくる、あるいは矛盾をきたすからそういう自然を選んで表現するわけです。だからここで表現されたものは、自分のなかで自然という生き様が自分にもたらした一種の違和感、心に引っかかって、触ってくるもの、それがこういう作品のなかにあらわれてくると理解したいと思います。
そうすると、ここで良寛が、夜中に眼が覚めて杖をついて庵の外へ出て行った。そうしたら秋の虫が鳴いているし、落ち葉が木の枝から落ちてくる音が聞こえる。また、谷が遠く深く、水の声がする。自分は夜中に外へ出て何か口ずさんでいて、時久しく経つと、露が自分の衣を濡らしている。そういう、良寛が現にどういうありさまで自然というものに相対しているかが彷彿とするわけです。
それはなぜそういうふうになるかと言うと、良寛が自然が好きだから自然の詩をつくったんだと理解したり、良寛が花鳥風月に対して自分の心境をあらわそうとしたからこういう詩が出来たという理解の仕方をとらないで、良寛を全体の雰囲気として生き様から気分、詩の表現、すべてをつつんでいる自然性のなかから、自分が自然として自分に触ってきたもの、違和感をもたらしたもの、あるいは自分に差異をつける自然として自分のなかに浮かびあがってきたもの、それを表現したものが、いま言いました詩だと理解するのがいいのではないかと思います。
そうしますとここで、この詩をよく読みますと、良寛が夜中に杖をついて暗い外へ出て、虫の声や落ち葉の音とか、谷の水音とかそういうものに耳を傾けながら何か口ずさんでじっとしている。そして衣が露に濡れてしまうという光景が彷彿とするわけですけれども、それはべつに境地だとか心境だとか、そういうふうに自然を愛しているからそうしているというよりも、何か自分のなかに触ってくる、違和感をもたらしてくる自然というものを、自分が詩の表現としてとりだしているというふうに理解されると、良寛が夜中に起き出して外へ出てという行為をするなかで自然に対面している対面の仕方、自然と矛盾している、あるいは自然と自分との差異、対立というものに身を置いている良寛というものが、浮かんでくるんじゃないかと思います。こういう理解の仕方をしたほうがいいのではないかと思います。
自然の自己差異の表現
で、自然というものは、こういう言い方をしますと、外の風物とか景色と考えてくださってもいいわけですけれども、自然というものは絶対に同じものなんだ――たとえば木は木そのものであって、海なら海の水は海の水そのものであるということで絶対的にそのもの自体であると理解するか、あるいはそうでなければまったく逆に、自然というのは絶対的な区別、差異なんだと理解するかどちらかです。
つまり、自然の樹木、木というものと、海の水というものは、絶対に同一ではないということは、誰がどのように理解しようと、どこから眺めようと、どういう考えの人がそれを見ようと、それは絶対に区別があるものです。ですから自然というものを全体として理解する場合には、これは絶対的に同じものだ。海は必ず海で、樹木は必ず樹木だ。自然のなかでは必ずそうで、全体性として自然はぜんぶ同じだ。つまり自分に同じものを、自然と理解されるか、あるいは逆に自然というのは絶対的に区別されているものだ。海と樹木とは絶対に同じにはならない。海が樹木になってみたり、樹木が海になってみたりすることはできない。人間ならばそういうことはありうるわけです。自分が他者になってみたり、他者が自分になってみたりということがありうるわけですし、また自分の心を他者のなかにおいてみたり、他人の心を自分のもののように理解してみたりということは、人間においてはありうるのです。けれども、自然においてはそういうことはないのです。樹木は樹木であって、海は海であって、樹木が海になり樹木が海になるということは絶対にありえない。そういうものが自然なんだと理解されるか、どちらかの理解の仕方しかないと思います。
ここでぼくが言いたいことはそういうことであって、良寛の自然のなかの自然、自然詠、山川草木そのものを歌っている詩というものをどう理解したらいいかというと、絶対的に自分を区別するもの、絶対的に自分のなかに区別として起こったものが、良寛の詩としては自然詠と言いましょうか、花鳥風月詠と言いましょうか、山川草木詠と言いましょうか、そういうものであって、そう理解するのが妥当な理解のしかたじゃないかというふうに思います。
そうでなければもうひとつの理解の仕方があるので、それは良寛のなかの自然詠というのが、自然の風物、景色を媒介にして自分が自分に区別をつけようとしている――つまり自分をことさら意識しようとしているとか、自分と自分が違うところを、自然の景色を媒介にして表現しようとしていると理解されていくとよろしいんじゃないかと思います。そうすると少し、漠然と良寛の研ぎすまされた心境を読んだものだとか、良寛がどんなに自然を愛していたかを詠んだものだとか、漠然と理解しているもののなかに、もっと微細に分け入るための手だてが得られるんじゃないかと思います。ですからむしろ良寛の自然そのものを歌っている詩というものは、絶対に同一である自然、あるいは絶対に差別である自然というものを媒介にして、自分と自分とが違うところを表現しようとしていると理解されていくと、良寛の内面のなかに分け入っていく手だてというものが得られていくんじゃないかと思います。
良寛の「自然」の特性
で、もうひとつそういう言い方で、自然のなかの自然という良寛の隠遁の構造ですけれども、もうひとつあげてみます。いま言いましたように、自然が自分と自分とを差別しようとしているというところ、あるいは海が絶対に海であって、樹木はどんな人が見ても樹木ではなく海であって、というふうに、自然が自然自身を区別している区別に対して、自分がどういう場所を占めようとしたかということがもうひとつあります。
例をもうひとつあげてみました。
   寒炉深撥灰……
このなかでみなさんが何を感ずるかというとふたつあると思います。ひとつは、炉端の炉が燃え尽きようとして、灯火も消えようとして暗くなりつつある。ひっそりと静かになって夜中を過ぎて、ただ遠い谷の水の音が聞こえるというだけのことです。それだけのことでふたつのことがあります。ひとつはいま言いましたように、自然のなかの絶対的な区別と言いましょうか、谷の水の音は谷の水の音であって、灯火は灯火であって、灯火が暗くなっているということはそのこと自体である。ただそういう、自然が持っている絶対的な区別、差異ということをここで言葉に表現しようとしているということが、ひとつあります。
もうひとは何かというと、そういうことを表現することのなかで、自分が自分に対する区別をなくそうとしていると考えられます。自分が自分に対する違和感、差異感、対立感があるとすれば、絶対的な差別である自然を媒介にして、今度は自分の差異、違和感というものを逆に溶かそうとしているということがあります。これはたぶん良寛の自然のなかの自然という場合の手がかり、とっかかりだと思います。良寛の自然のなかの自然という内面構造にとっかかっていく場合の手がかりだと思います。この場合には自然という絶対的な差別、違いのあるもの、それに対して自分が自分に感じる差別、対立感、違和感というものを、それを媒介にして溶かそうとしていると理解されると、この手の詩というものは理解する手がかりが得られるんじゃないかと思います。
そうすると良寛が自然という枠組みのなかで別けても自然というものを取り出そうとしている表現のなかで、良寛が何をしようとし、どういう内面性を披瀝しようとしているかということを考えてみますと、いま言いましたように自然を媒介にして自分の差異、自分の自分に対する矛盾というものを明らかにしようとする場合と、自然の絶対的な差異を媒介にして自分のなかに残っている違和感、本来存在している違和感、存在感の不調和性というものを逆に溶融しようとしていると理解することができます。それが良寛がことさら自然性のなかから自然というものを取り出そうとしている表現のなかで、良寛の内面性をつかもうとする場合の非常に大きなとっかかりになると思います。
このふたつのとっかかりを手がかりにして、良寛の詩のなかに分け入っていきますと、微妙な違い方のなか、微妙なん内面の流れ、ニュアンスというものをつかまえるとっかかりが得られるというように思います。
自然を規範として見る
それからもうひとつ、良寛の自然のなかの自然、自然のなかで良寛がことさら自然性ということを際立たそうとしているときもうひとつ言えることは、ここに規範としての自然としてきたことです。規範と言いましょうか、広く社会的に言えば法律のような決まりです。規範というものに対して良寛がどういうふうに自分をて名づけようとしているか。あるいは良寛がどういうふうにして自然というものを規範、規則、法則、あるいはこういうふうになっている法則というようなものとして良寛がどういうふうにとらえようとしているかということがひとつあります。
詩の例をあげてみます。
   客中作……
ここで何が問題なのかというと、たぶん、表面的な詩の規則ということのなかで、全体性の枠組みとしての自然というものを、規則、規範として考えた場合、良寛のなかで自然というものはどういうふうに存在するか、どうなっているかということがあらわされていると思います。ここで良寛にとって大切なのは、自然という枠組みを規範として見るという考え方です。規範として自然というものを見るということが、良寛にとっていちばん重要なことなのであって、この種の詩というものも、良寛の詩、自然詠のなかでかなりの数あります。
このかなりな数の自然詠のなかで良寛にとって大切なのは、自己の内面の流れでもなければ、また自分の内面性から見た場合に自然というものがどういうふうに存在しているかということでもなく、自然というものがひとつの規則、決まり、法則というものとして自然というものがどういうふうに自分にとってあるのかということが良寛にとっては非常に重要なことになっていると思います。
つまりこれはたぶん、良寛が持っている、詩の歴史で言っても、良寛が影響を受けた同時代に流布された詩があるわけですけれども――たとえばアンソロジー的に言えば儀の時代の詩、唐の時代の詩、宋の時代の詩が良寛に大きな影響を与えていると思いますが、その影響のなかで良寛が自在な意味あいで得ている影響ではなく、詩の規範、言葉の規範として受けている影響というものは、たぶんこの種の詩を見るといちばんよくはっきり出てくるのではないかと思います。
また良寛が個人の詩としていちばん影響を受けているのは寒山の詩だと思います。その影響の受け方は、寒山の生き方があまり規範的ではないですから、規範としての影響はあまり受けていないと思います。ですからこの手の詩というものは、魏の時代の詩、唐の時代の詩、宋の時代の詩とかそういう時代の詩というものからの影響の受け方というものが非常によく出てきていると思います。それはなぜかと言いますと、すでにもとになっている中国の詩のなかに、中国的な意味での規範というものが自然に対して抱かれていて、その決まりはかなりな程度言葉のうえで緻密に規定されている。良寛の影響の受け方というのはそういうなかでは比較的自由な影響の受け方をしているのです。けれども、漢詩ということ自体が中国に起源を持つ、自然を規範としてみるという考え方がひとりでに起源として含まれていますから、良寛のこの種の自然詠のなかでは規範として自然を見るという見方が非常に大きく作用していると思います。
この作用の仕方が、詩の作品として見ますと、いちばん興味は少ないものじゃないかと思います。そうじゃない詩のほうが、自由で奔放で、勝手なことを言っていて自由になっていると思います。「秋夜偶作」のような、具体的に自分がそう言う行為をしたということを前提としなければ到底できないという詩のなかのほうが良寛らしい自在さはよく出ていると思います。けれども良寛が自然を詠んだ作品、あるいは良寛が自然のなかで自然をことさら際立たせようとした隠遁生活のなかで、隠遁ということが規範、法則、規則、あるいは僧侶として、世を捨てた人としてありうべき生活のかたちであったという意味あいで言えばこういう詩はやはりそれなりにたいへん重要な意味を持っています。こういう規範がある意味では良寛の長い生涯の隠遁生活の繰り返しというものを支えているわけです。
自然を規範としてみる見方が良寛にまったくなかったとしたら、やはりたいへんな生き方で、侘しい生き方でもあるし厳しい生き方でもあるし、また病弱でもあったわけですし、人に接することも少なく孤独にも耐えねばならぬし、たいへんな生活ですから、良寛でも生涯の隠遁生活を貫くことができなかったかもしれないと思います。
つまりこういうことは、規範として自然を見る、隠遁生活はこういうものだと決まっているからそういう生活をするということを抜きにして考えてしまって、一から十まで自由極まる生活というものを想定したら、良寛にとってだけではなく、誰にとっても生涯というものは貫くに難しいものだと思います。やはりそういう意味あいでは自然を規範としてみる、隠遁の生活はこういうものだと規則、規範として見る見方は、重要なことのひとつになると思います。
また良寛の詩のなかで面白みということから見たら、面白みは少ないかもしれないんですけれども、こういう種類の良寛の詩の重要さ、存在の理由というものも自ずから別のところにあって、こういうものが良寛の隠遁生活の反復、繰り返しを支える大きな力になっていたと思われます。
「生活」がどこまで風景になっているか
それから今度は、自然のなかの生活ということに入っていくわけです。生活というものは、自然のなかの自然性ということとやや違ってきます。それはどうしても自分がご飯を食べ、用事を足し、誰かと話を交わし、また帰ってくるとか、どうしても人と人との世界のなかに自分の気持ちを関わらせていかなければ生活というものは成り立っていきません。生活というものは自然のなかの自然という、純粋に内面性と自然の問題ということだけではなくて、一種の社会性と言いましょうか、人と人との関わりあいというものがそのなかに入ってきます。その生活という場合でも、良寛のなかでいちばん大きく外側から規定しているのは自然性ということであって、良寛の生活という概念、考え方がなりたっていただろうと思います。
そうすると、良寛の自然性というなかでの生活という考え方がどういうふうになっているのか、どういうふうにそのなかで良寛の内面性というのが流れて移っていっているのかということを見つけていくとっかかりになるいくつかのことを区分けしてみますと、まず最初に「生活がどこまで風景になっているか」ということです。逆に「風景がどれだけ生活になっているか」という言い方をしてもまったく同じことだと思います。
つまり、主観と客観を逆にすればいいので、「生活がどこまで風景になっているか」あるいは「風景がどこまで生活になっているか」ということが、良寛の自然のなかの生活性ということに分け入っていくひとつのとっかかりになると思います。
ここでは、例をあげてあります。
   柳娘二八歳……
……良寛も立ち止まって見ていたから綺麗な娘さんだったんでしょうけれども、その光景をものすごく見事に彷彿としてくるわけですけれども、そういうふうに眼に止めているところで良寛の生活というようなものを思い浮かべてくださればいいわけです。たとえば自分が、自然のなかの風景のなかで、綺麗な娘さんが花を持ってやってきて、誰かを待っているみたいにゆっくりゆっくり歩いているのを見た場合の自分の気持ちというものがどういうものであるかという理解の仕方でもいいと思います。そうしますと良寛の生活性というものははっきりと思い浮かべられると思います。
これはいい詩だと思います。こういう詩は、中国の詩でも、宋の時代の詩くらいにならないと、こういうリアルで何気ない風景をうたうということはできないわけです。たぶん良寛自身、非常に力量のある人ですから、奔放で自由な詩のつくり方がこれだけリアルな作品を生んでいるわけです。あたうかぎり漢詩はこうあるとか、中国の詩はこうだからこうつくらなきゃいけないという規範を壊していって、非常に奔放につくっているということもあるわけですけれども、もし影響云々ということでしたら、宋代の詩になりますと、名所旧跡を詠んだり、山水画に描かれるような風景を詩につくるというようなことを辞めにして、ごく何気ない風景というものを詩につくれるようになりました。十一二世紀以降でしょう。
良寛は宋代の詩をよく読んでいて、影響もずいぶん受けただろうと思われます。もし影響ということを考えないならば、自然のなかで良寛の生活がどうあったか、良寛の生活のなかで自然ということが、どういうふうにさりげない自然というところまで身近に迫って感じられていたかということが、こういう詩を詠むと非常によくわかると思います。
これは良寛のなかで、自然というものがどれだけ身近なところまで近づいていたか。名所旧跡の綺麗な風景、旅で見た綺麗な風景ではなく、どこにでもある風景に眼を止められるということは、良寛のなかで自然がどれだけ身近に迫っていたかということが非常にわかる詩だと思います。生活のなかに自然が迫ってくる迫り方ということが、良寛の隠遁の内面性を探っていく場合に非常に大きな手がかりになると思います。
それはたとえば、現在のぼくらだったら、子どもの頃はかなり身近にあった自然がいかにいま遠ざかりつつあるかということがテーマになるわけで、それとは逆に良寛の場合には、名所旧跡や名だたる風景ではなく、いかに身近な道ばたの風景が自分の眼に止まってくるということですから、自然というものが自分のなかに迫っているかということをよくあらわしていると思います。
「生活」がどこまで自然生活になっているか
そのことをもう少し微細化していきますと、生活どこまで自然生活になっているかということは、生活のなかに自然の風景がどこまで身近になっているかということの次の手がかりと理解されてもいいと思います。
また例を引きます。
   行々投田舎……
……風景として見れば、さっきあげた、娘さんが花を持って山を下りてくるのに出会ったというのと少しも変わらない風物なんですけれども、ここで良寛は自分の生活の感じ方というものに歳とった農家の人と出会ってお酒を飲みましょうと言われて、お酒を飲んで陶然としたということのなかで、自分が自分の生活ということのなかに、単に風景が生活になっているか、生活が風景になっているかということではなくて、生活のなかに風景を呼び込んで、それが是と非は知らないという言い方で――是と非を知らないということは、是と非を問題にする気持ちにはなっているわけで、そこまで生活を自分のほうに引き寄せようとしているという意味あいでは、前にあげました詩に比べて生活ということに対しては気持ちの内面性を、一歩引き込んでいるということが言えると思います。
この種の詩も、前の詩と同じように数多くあります。これは一例に過ぎないのですけれど、これも良寛にとって非常に重要な鍵になる考え方です。
で、ここのところでは、詩の作法、つくり方は非常に自由なつくり方、感じ方をしていて、実際確かに道を通っていて、お百姓さんに出会って用事ないなら家に来なさいと言われてお酒を飲みあって、奥さんが摘んできた菜っ葉を洗って肴に出してくれたという、実際に生活のなかでそういうことがなければこれだけリアルに、自在に、漢詩のなかで詩をつくることはできないと思います。
これなんからは生活のなかに自然が、風景がどこまで迫ってきているかということではなくて、生活のなかに自然がどこまで、瞬間的な一コマの風景ではありますけれども、入ってきたかというところまで行き届いたものがこの種の詩のなかに表現されていると思います。この種の詩も良寛のなかで非常に大きな重さと数を占めるということができます。
これは生活という概念が隠遁という概念と関わってくるわけで、これは二回目のときにそういう話が出ましたけれど、僧侶ということは何かということは、僧侶のあり方、隠遁のあり方というものが、どうしても村里の共同体というものとどういうふうに関わっていくかということが大きな意味を持ちます。そういう関わり方のひとつとして、こういう詩に託された自然の引き寄せ方、引き込み方が良寛のなかであったということが言えると思います。それは良寛のなかでたいへんに重要な部分を占めていると思います。
「生活」がどこまで自然になっているか
もう少し今度は、自然のなかの生活が良寛にとってどういうものだったかということをもう少し微細に分け入ってみます。
ここれに例があげてあります。
   一路万木うち……
これもそうとう詩としての規範、規則は破っていますから、これは実際に自分が日常のように体験していることに基づいてつくられた詩だと思います。だから籠を持ってキクラゲをとりに出かけて行ったときのことを詠んだんだと思います。
確かに良寛の隠遁生活、日常生活の一部分なんですけれども、ここでは人と人との関係と言いましょうか、村里との関係という意味あいでの生活は入り込んでこないわけです。入り込んでいるのは自然と自分の生活との関わりだけなわけです。自分と自然とがどういうふうに直接接触しているかあるいは直接区別されているか、自分と違うものと考えているかということが表現されていて、その中間に、歳とったおじいさんがいるとか、花を持った娘さんがいるとかいうように、中間に人間の関係があって生活がなりたっているという生活ではなく、直接に自分の隠遁生活の日常のありさまがなんの媒介もなしに自然そのものと直に接触して、キクラゲをとったり野の水を汲んだりしているという自然自体との接触の仕方を述べていて、これが隠遁生活の核心にあるいちばん重要な部分で、村人の生活から見るとわかりにくいところの生活だと思います。
村里の生活でももちろんキクラゲをとりに行ったり、水を汲みに行ったりすることはあるわけですけれど、人と人との接触があったり、何かを買いに行ってという一コマとしてあるわけで、この場合では隠遁生活の核心、中心部分で自然とどう直に対面しているかという問題が描かれていると思います。
ここのところに行きますと、たぶん良寛が個人の詩として言えば、いちばん影響を受けている寒山の詩の世界に近くありますし、またたいへん大きな影響を受けていると思います。これがたぶん隠遁ということの核心にある生活の仕方です。
ただここでは隠遁の核心にある生活自体を読んでいるのであって、その生活に対する、また自分の内面の流れ方というものを詠もうとしているわけではありません。ただ隠遁生活の核心にあるそのものを詠もうとしていると言うことが出来ます。
「生活」がどこまで生活の否定になっているか
そうだとしたら、この問題はもう少しだけ内側のところまで入っていくことができると思います。
良寛の詩の表現から辿って行きますと、生活がどこまで生活の否定になっているか、と言ってあります。自然生活がどこまで生活の否定になっているか、と言ってもいいわけですし、自然生活がどこまで自然生活の否定になっているかと言ってもよろしいですし、また自分が生きていることが自分にとってどれだけ否定になっているかという言い方をしてもいいだろうと思います。ただ、自分が生きていること、自分が存在していることが、どれだけの自分の否定になっているかということも、直接の否定ではなく、生活を媒介にして自分の存在、あるいは自分がどれだけ自分の否定になっているか、自分がどれだけ自分を否定することとして生きているかということだと思います。
ことにそれは良寛の場合、隠遁生活のもうひとつ奥にある精神状態ですから、生活と自然との直接の対面のもっと奥にあると解しないと仕方がないのです。もうひとつ奥にあると解すると、奥にどういうふうに辿って行くのかという行き方のとっかかりが得られると思います。
例があげてあります。もっといい例はあるんですけれども、長くなっちゃいますから短いやつをあげています。
   冬夜長……
そうすると何が問題かというと、詩の表現の仕方から入って理解する仕方があるでしょうけれど、そんなことよりもひとりぼっちで山の奥かなにかに自分が住んでいて、真冬で人なんか訪ねてくるわけもない。そこにたった一人で小屋掛けして住んでいる自分を想像したほうがわかりがいいと思います。するとちょっと堪え難い生活だということがわかります。これを一生やるのは、堪え難い状態の自分が詠われているわけです。
そうすると堪え難い自分の状態が、堪え難いというふうに肯定されているとすれば、それは別に詩につくらなくていいわけです。詩につくるということは何かというと、堪え難いところの自分の生活を、自分の意志でもって、あるいは隠遁生活の本質として良寛は選んでいるわけですし、青春時代、つとに自分はそういうことを覚悟のうえで出家しているわけですから、それは自分が意志でもって選んでいる孤独さで、それはどうしようもないわけです。しかしどうしようもない自分の生き方というものを、もう一度自分が自分に対して否定するというものがあるから、こういう表現が出てくると考えたらよろしいと思います。
これは冬の夜の孤独な生活の心境を述べていると理解されないで、そうではなく自分の意志で自ら選んだ山中の孤独で、寒くて灯火も消え、炉端に炭もなくなったというときに、なぜおれはこういうことをせねばならんのだ、こういうことをして何になるのだ、誰もそれを認めてくれるわけでもないし、認められるためにやっているわけでもないですし、こんなことしたからと言ってどうってことないわけです。いちばんよくて自分が死んでしまうというだけです。けれども意志して自分が選んだことですから、そういう生き方を選んでその通りになっていたら不服はないだろうということで、不服がないなかでもう一度自分を否定するんです。なぜ自分はこういう生き方、生活をしているのか、何になるのか、何のためだ、そういうふうには言わなかったでしょうけれども、ぼくが俗っぽく理解すれば、自分が選んだ生活に対する否定の意志が起こったときにこういう作品が出来てきているので、決して自分の隠遁生活を肯定する心境が詠ったのがこういう作品ではないのです。
そうではなく自分の選んだこういう生き方に疑いを生じた――これをもう一回否定したいというところでつくられている詩と理解されると、もうひとつ良寛の隠遁生活の中側に入っていくとっかかりが得られるんじゃないかと思われます。
こういう理解の仕方は、それに固執しますととたんに良寛の内面状態から逸れてしまうということがありますから、固定してはいけないわけです。けれどもただ、これは決して自分の隠遁生活を肯定してその心境の寂漠さ、深さが描かれていると理解されないで、むしろその逆で自分の隠遁生活に対する否定性が出てきたときにこういう作品が生まれたと理解されたほうがいいと思います。そのほうが理解にかなっていると思います。   
そうしますと一瞬ですけれども、良寛の精神状態がなんとなくつかめた気がしてくるんです。けれども次の瞬間にはつまらない詩じゃないかという気がします(笑)。灯火に火がなくなった、炉に炭がなくなって、雨の声を聴いていたというのの何が面白いんだ、月並みの詩じゃないかとなるんです。けれどもある瞬間に、おれがそういうところにいたらそういう瞬間にどうだろうなというところから入っていきますと、それは否定性だ、自分に疑いを生じて、こういう生活は何のためだとなったときに、そういうときにことをつくったものだということが、ある瞬間ですけれども非常にリアルに思えてくるわけです。
だからその瞬間の気持ちで言えばそういう読み方が正しいだろうと思います。次の瞬間になってしまうと、非常に月並みな詩に思えてしまう。そういうときには言葉が死んで見えるわけです。とくに時代は隔てていますし、漢詩ですから、死んだ言葉に見えます。ある瞬間の言葉の切り結びを逃がしちゃいますと、月並みな詩でやりきれないとなってしまいます。我々は現代に住んでいますから、ストーブはあるし、つまらないよこんなのはとなってしまします。
これはある意味でやむをえないことです。詩の様式が隔たって我々にこういう詩をつくれと言ったって出来ないですから、仕方ないわけです。ただ、良寛を読む、良寛を理解する、隠遁者としての良寛の内面性を理解するということは、詩のある瞬間におけるここのところだ、ということが、わかる感じになったときに、良寛と切り結んでいるわけで、その時だったら現代に生きて生活様式が違っていても、瞬間をとらえることは誰にでもできるんじゃないかと思います。
瞬間以上のことでとらえようとしたら、言葉がみな死んだ言葉としてしか映ってこない。特にぼくらの時代だったら、こんな漢語を並べた詩なんてどこがいいんだということになってきます。ある瞬間で出会えたら、言葉がぜんぶ生きているというふうにとらえられて、わかったよ、これは否定の仕方だよ、良寛が自分の生活を否定しようとしているんだよということがわかると思います。たぶん良寛の隠遁生活の奥の奥の奥の方までたどったときの良寛というものは、ここがとば口じゃないかと思います。
それからだんだん行って行きますけれども、今度はもう少し……
出家隠遁の「倫理」がどこまで自然の側にあるか
次にあの、三番目の、自然という原理の中で良寛が持っている倫理性というものが、どうなっているかということです。それを少しだけ微細に折り目をつけてみます。
まず一番目に、出家隠遁の倫理がどこまで自然の側にあるかという言い方をしてありますけれど、自分が出家隠遁しているということの意味がどれだけ自然ということのなかに引き寄せられているかということの度合いという意味に理解してくださればいいと思います。
これも例をあげてあります。
   東風吹時雨……
秋夜長しという隠遁生活のなかで生活がどこまで生活の否定になっているかとさきほど申し上げましたけれども、そのことを表にあらわにしたものが、いま読みました詩のなかの倫理になって出てきていると思います。ここでは否定性ということは、ただ自分の内面に帰って行くだけで、内面のなかに帰って行くからこういう表現が出てきたということなんですけれども、これを自分はなぜこういう生活をしているんだということがもう少し外側に出てきてしまえば、この場合、はじめのほうには自然の風景に対する描写があり、道で行き会ったご老人に対して、あるいはどこかの家の子どもに対して、そういう村里の人の生活、生涯を勘定に入れたうえで自分の生活の否定性というものを表に出していったときに、良寛における倫理があらわれてくると思われます。その倫理の言葉は、それぞれの人はそれぞれの生き方をしているし、折々は少しもとどまることもなく四季はめぐっていく。人はそれぞれすることがあって生きている。それじゃ自分は何のために生きているのだろうか。自分はただ故郷で隠遁の草屋を守っているということだけをしているだけだという言い方になっていると思います。
それぞれの人はそれぞれの生活をして、何か意味ありげなこと、役に立ちそうなこと、意義深くありそうなことをやりながら生活をしている。しかし自分は自然もまたそれぞれとどまることなく巡っている。それなのに自分は何をしているのだろうか。自分は隠遁の小屋を守ってそこにいるだけなんだ。そういうことを言っていると思います。その場合に他者も自然も意味ありげな生き方、流れ方をしているけれども、自分は少しも意味があるようなことをしていないという言い方でもって、自分の隠遁ということの場所、意味に対して、少し探りを入れているということになると思います。
僧侶とか隠遁ということは、いわば世を捨てることですから、いいことをするわけでも役にたつことをするわけでもない。また曹洞禅というのは、人の役に立つことをするとかしないとかいうことが問題ではなく、良寛流の言い方をすれば古い仏があったがごとく坐り、古い仏があったがごとく自然と直に対面する、そういうことが目的で、それ自体が生で、何の役に立つか、何のために生きているのかということは意味をなさないのですけれど、しかし村里の行き会う人の生活や、自然の巡り方と比較した場合に、そこではじめてどういうあり方があるのかという問い方がなりたっていると思われます。
ですからこういう内面の否定性が押し込められたうえで詩の表現がされているよりも、自分と異質な生き方をしている人とか自然とかとの対比のうえで自分の生き方の違い、差異というのが詠われていますから、差異が詠われている詠い方自体のなかに、倫理が含まれていることになります。
この倫理はそんなに自然の側にあるわけではなく、自然と村里の人の生き方のはざまにあって、自分の倫理が問われている。まったく自然の側によっているわけでもないし、村里の人の生き方と四季をめぐる自然の生き方とのあいだに挟まれた自分の生き方がいったい何なんだということを問うところで、倫理がどこまで自然の側にあるか、あるいは自然の側にありきらないで、途中のところにあるかという問題が、こういうところにはっきり出ていると思われます。
「規範」がどこまで自然になっているか
もう少し良寛の持っている倫理というものを表現から区分けして行ってみてみましょう。そこでは「規範がどこまで自然になっているか」という言い方をしてあります。これは先ほどの規範としての自然という感じ方と同じです。ある意味で良寛の日常生活の繰り返しを支えている枠組みがあります。その枠組みがあるから、日常生活が繰り返される。その規範というのがどこまで自然の近くにあり、遠くにあり、隔たっているかという問題として考えることができると思います。
   秋夜々正長……
……先ほどの詩と同じで、良寛のなかでかなりな数あると思いますけれど、しかしこの詩は割合にフォルムが決まっている詩です良寛の詩としてみればありきたり、月並みな詩だと言うことができると思います。良寛らしい表現はありますけれど、これは漢詩はこういうふうにつくるものだという常道的な表現が大きく作用していると思います。しかし良寛らしいところはあることはあるわけです。しかしそんなに自由奔放な表現ではないと思います。だから、よく漢詩のなかにある心境性とか境地とかがよく守られた詩だと思います。
しかしそういう詩のなかで、どこまで自分が自然の側に近づいて行けているのかということが問題なので、そうするとやはり虫がしきりに鳴いているとか、雨が止んで滴がだんだん細っていくとか、自分は誰も哀れんでくれないで一人住んでいるとか、そういうことは言ってみればありきたりな漢詩のなかの心境の表現です。そういう批判からそんなに遠くないと思います。それかrあそれが非常に重要なものとしてこの詩の枠組みを決めていると思います。
しかしそのなかで、眠れないまま雨の音を聞きながら夜明けになてしまったというところで良寛の隠遁生活のなかにあるありきたり性というものがどれだけ自然に近づいているのかということが、この詩の眼目だと思います。自然のところにまったく近づいていってしまうとか、同化してしまうと、ありきたり性というものも消えてしまうわけです。
ありきたり性だけということになってくれば、それは村里の人のごく日常の生活おちうのがいちばんありきたりの生活と考えれば、良寛の隠遁生活のありきたり性というのはその中間のところにあるわけです。そうありながら、どこまで良寛のありきたり性というものが自然の近くにあるかということを、この詩から浮かび上がらせ、見つけ出すことができたらこの詩を読んだことになるんじゃないかと思います。
この詩はなんなんだと言ったら、規範的、ありきたりな心境というものを表現しながら、それがどこまで自然の近くにいけているかということが見つけたられたら、そこのところが思い浮かべられたら、この詩を読んだことになるのではないかと思われます。
一行一行辿ってみればよくわかります。秋の夜が長いというのはありきたりな表現で、ありきたりなことであるし、その次の寒さが自分のしとねを侵しているというのも物珍しい表現でもなんでもないと思います。六十に近い自分が隠遁生活をしているのを誰が憐れんでくれるだろうかというのもありきたりの表現です。
その次の雨止んで滴り漸く細りというのもありきたりの表現です。ただ、良寛は耳が非常によいか悪いかどちらかだと思います。雨の表現がたくさんあり、気にしているところがあって、よく耳についてきます。この表現もありきたりなんですけれど、雨がやんで滴りが細ってくるというのはかなりありきたりでない近づき方のような気がします。
その次の「覚めて言に寝ぬる能わず」というのはありきたりそのものです。眠れなくて目が覚めて枕によりながら夜を明かしてしまった、ありきたりな詩の表現ですし、珍しい心境の表現でもないと思います。
このなかで生活のありきたり性、心境のありきたり性、隠遁のありきたり性というもの、あるいは詩の表現の言語的なありきたり性というものが、どれだけ自然になっているかということを測る眼目は、「雨止んで滴り漸く細り」という表現のなかにあるような気がいたします。そこを中心にしてこの詩のイメージをつくれたらこの詩を読んだことになりますし、この詩のなかで良寛がいかにありきたりの隠遁生活から、自分独自の仕方で自然に近づこうとしている近づき方の度合いとか性質が吐かれるんじゃないかと思います。
それはたぶん、まだこっちよりも向こうのほうがいいように思いますけれども、目が覚めたような意味あいで、一瞬すばらしく読める瞬間が思い浮かぶとすれば、こちらのほうがはるかに自然に近くにいるように思います。しかしそうではなく、言葉は言葉だというところで言うならば、やはり向こうの詩のほうがこの詩よりもはるかにいい詩ですし、向こうの詩のほうがはるかに規範が自然に近くなっていると言えばいえるように思います。しかしそう言うとそれほどのことはなくて、五行目ですか、「雨止んで滴り漸く細り」という状態の良寛を思い浮かべることができて、それがたいへんリアルに感じられたら、感じられたその瞬間のイメージというものが、たぶんこの詩のなかでありきたり性から脱出している個所だと言えるかと思います。
「欲望」(本能)がどれだけ自然になっているか
倫理というものをもうひとつあれしてみますと、三番目に、「欲望あるいは本能がどれだけ自然になっているか」とあります。逆にこんどは、どちらの言い方をしてもいいように思います。自然がどれだけ良寛にとって欲望になっているか、という言い方をしても同じだと思います。これはどちらの言い方がいいのかということは、たぶんそうとう問題じゃないかと思われます。ぼくはどちらの言い方をしても同じじゃないかというところで見ていきたいと思います。欲望がどれだけ自然になっているかという言い方をしても、あるいは自然がどれだけ欲望になっているかという言い方をしても、そういうことが良寛の倫理の問題を呼び起こすということだと思います。
   秋日過一行……
そうすると、一見するとこのなかで何が欲望か、本能かということはどこにも何も書かれているわけではありません。ただ涙がモスソを潤したということが、唯一良寛の欲望や本能がどうなってたんだということを象徴している個所です。良寛の涙は何なのかと言った場合、それは本能的な欲望、欲求があり、それが涙になって出てきていると思います。
もし欲望というものが言葉にあらわして言えるんだったら、言葉にあらわして表現されたでしょうけれど、良寛のなかで欲望がどこか自然のなかに溶けてしまっているところがあって、わずかに欲望を象徴するものとしてはこの場合、涙ということだけで、どういう涙かということはわからないわけです。ただそういう風景を見て、お堂でもってすごい風がふいてきた夕暮れで、涙が落ちたということだけです。ただその涙が本能的な欲望であるということだけは言えるわけです。どんな本能的な欲望かということがあるわけですけれども、それは良寛のなかで自然のなかに溶けてしまっている部分、あるいは自然のなかに押し込められてしまっている部分があって、わずかにその涙が良寛の本能、欲望になっているということだと思います。
だからこの涙を、風景を見て悲しくなったとも理解できるでしょうし、一行上人のことを思い浮かべて涙を流したと理解することもできるでしょうし、また自分の境涯、隠遁生活そのものを顧みてそれが涙になって出てきたとも言えるわけでしょうし、またそういうなんのためでもなくなんとなく心細くなって涙が出てきたというふうにも解釈できるわけでしょうけれども、そういう解釈の多様性ということが重要であるというよりも、ここのところで欲望とか本能というものが良寛のなかでどれだけ自然に溶けてしまっているか、あるいは自然のなかに同一化してしまっているかということが重要なことのように思います。
だから、そこのところで、わずかに最後の行の涙ということだけが、自然のなかを歩いている自分とか、お堂で風の音を聞いている自分の描写ということと、涙ということだけが異質で対立しているわけですし、涙というところで本能というものがどれだけ良寛のなかで自然のなかに入ってしまっているのか、あるいは入っていないのかということをあらわす度合いというものが決まるということになると思います。
涙というのは、なかなか日本人というのは難しいんです。涙と自然の同一性とか違いというのは、日本人の場合には難しいような気がします。たとえば中国の詩だったら、人と別れる、別離の涙というように、具体的なことがあって流れる涙だということになると思います。こういうふうに、どこまで自然のなかに欲望が隠されているかとか、どこまで倫理が隠されているかという涙とか、ただ涙が出ちゃったという意味あいの涙とか、それは改めて言葉で理解、解釈、表現してみなければ、その涙があなんであるかということは後からじゃないと言えない涙というのが、日本にはあります。
たとえば、源氏物語とか物語作品を見てもそうですけれども、登場人物は何かと言えば泣くわけです。風の音を聞いちゃ泣き、月を見ては泣く。それはたいへん難しいことのような気がします。これは異常なほど、花を見て泣くとか、虫を聞いて泣く、月を見て泣くというように、物語作品でも歌のなかでは日本ではよく出てきます。
これはたいへん特異な気がします。かなりな程度虫の声とか、月の光、四季の移り変わりとか風の音、風の冷たさ、そういうものを意味として感受する感受性が非常に大きいような気がします。
だからこの場合の涙というのはほんとうの意味ではわかりません。一行上人のことを書いたんだから、一向上人のことを思い出して、夕暮れで風はふいてきて悲しくて泣いた、その涙のように受けとれるんですけれども、そういう受けとり方をしてもそれまでの描写が山はむなしく、グミの実は赤く、とかいうことを描写してきての涙ですから、それだけでは満たされなく思えます。そうするとこの涙はたいへん象徴的なことになります。
それは何の象徴かと言えば、隠れている象徴だと思います。何が隠れているかわからないけれども、それは欲望だろう、本能だろう。それが隠れていて、どこまで隠れているかということの象徴だろうと理解すると座りがいいような気がします。その涙ということがなければ、これは自然描写になってしまうわけです。
この涙というところで、辛うじて良寛の自然のなかの倫理、自然に対してどれだけ近づいているか、近づいていて最後のところで近づけていないかということの倫理性というものが良寛のなかではじめて出てくると言えそうに思います。
村落社会の差異化
で、その次に宗教家としての良寛としては最後の問題になるわけでしょうけれども、自然の中の宗教性ということが、いちばん抽象的な問題として――隠遁者または僧侶としての良寛の宗教性が、残ってくると思います。
大雑把なことでふたつにしてしまえばいいことで、村落社会との違い方ということで、二回目のときに僧としての良寛ということで僧としての存在が何かということが、僧侶にとっては重要なことです。それは村里の共同体とどういう場所で関わるかということにかかってくるという問題だと思います。それを先に申し上げてしまいます。
   春気梢和調……
この言い方は、村里の社会に対して自分は僧侶としてどういうふうに関わっていくのかということの心境を表現していると思います。これは村里の社会と僧としての自分、自己自身というものとの違いというものを明瞭に取り出しているという詩だと思います。その違いということは、どこで脈絡がつくのかと言ったら、食を乞うていくと言いますか、托鉢に行って食べ物を乞う、そのことで村落社会と自分とはつながっているし、それ以外につながり方はないんだといことを言っていると思います。そこでつながることが重要な意味を持つということを言っていると思います。
自然との差異の消去
もうひとつの問題があります。それは良寛の宗教性としては最後の問題です。良寛の宗教の問題は、一般的に仏教の問題でもあります。もっと広く言えば、東洋の宗教は何かという問題になると思います。もっと範囲を漠然としてしまえば、東洋の世界とは何なのかという問題と同じことになると思います。
それは、自分の存在、人間の存在というものと自然というものとの差異、対立をどこまで消せるかということだと思います。ぜんぶ消すのが、曹洞禅における直接の教義だと思います。禅の本質というのは、自然と人間の自己存在との差異というのを消してしまうことだと思います。 もちろん、第なり小なり仏教の理念というのは、自然と人間存在との違いを消してしまうことです。そこにどうやって到達するかということでそれぞれは違ってきますが、それが東洋における宗教の目的です。
禅者としての良寛にとってもそれが最終の目的になっていて、自然と自分との差異を消してしまうか、同化してしまうかという問題になってくると思います。そこが宗教性としての最後に目的としたところだと思います。そこでの消去の仕方がうまくいかないということの問題が、涙やさまざまな問題になって表現のなかに出てくると思います。
決して代表作でもなんでもないですけれど、適当な長さなので引いてみました。
   静夜虚窓下……
最後の二行は、詩だからこういうふうに表現がありますけれども、打坐してというところで言えば、その前までで終わりなわけです。前までで、自然との差異を消すという消し方が、どの程度消されているか、消されていないかという問題は、終わりの二行の前までで、表現が尽きるわけです。後の二行というものは、それを改めて詩の言葉の表現に打ち出したときに、改めてそう言っているだけです。自然と自分との違いを消し去ろうとしているということとはまた違うことです。そのことの状態をただ説明しているのであって、終わりの二行は詩だから付け加えられたのでありますし、そういう付け加え方をして止めるというのは、一般的に漢詩の方法のかたちのなかにひとつあるわけだから、それを踏んでいるという意味あいも含むと思います。そういう意味だと思います。
これは自然との差異を消去している状態が詩の表現そのものとしてちゃんと出来ているという意味あいではいい詩ではありません。ただ、そういう状態を自分がやっている状態を説明している意味では適切だからこの詩を引用したんです。この詩自体が、自然との差異を消去しているという表現ではありません。そういう意味あいではこれは決していい詩ではありません。
しかし、自然との差異を消去するという良寛の宗教性、禅の宗教性をいちばんよく詩で説明しているから例にあげました。けれども詩の表現自体が自然との差異の消去自体の写しになっているものが、宗教性としてはいちばんいい作品になりますけれども、そういう意味あいでは決していい作品ではありません。けれどもわかりやすく説明しているからこれをあげました。
それがたぶん、良寛の宗教性のなかでいちばん最後に到達できる宗教の問題としてあったと思います。
自然との差異を消去した状態の表現
それじゃあその、良寛の宗教性、自然と人間存在との違いを消去してしまうという状態で何が起こるのかということは、禅の修練に属するわけでしょうし、禅の修練をした人が同時に言葉で説明し、表現してくれれば、それはいちばんわかりやすいでしょう。禅の修行をしている人は、逆に表現の仕方をしらないですし、表現をするとだいたいまずいです。曰くそれは言い難いんであって、やってみなけりゃわからないということになります。そうでなければわけのわからない言い方しかしないわけです。そのこと自体はなかなか説明してくれないんです。禅の修練をしている人自体は、なかなか自然との差異を消去しているという状態で何が起こっているんだということを説明してくれないですし、逆にぼくらみたいのが言葉でもって何でも説明してやろうという欲求を持っている者にとっては、禅の修行をしている状態はどういう状態になっているのかということはわからないですから、説明しようがない。
ただ、枠組みとして言えることは、自然と人間との状態を消去しちゃうことなんだろう、その状態にもっていくことなんだろう。人間がありさまざまな状態を思い描き、ということがあると、だんだんそれは人間の状態から動物の状態みたいなところへ持っていて、動物にもまだ意識もあれば感情もあるから、植物の状態に意識をそういう状態にもっていっちゃう。それでもまだなんか生臭いから、もっと意識の状態をもっていくと、岩とか石とか無生物の状態まで意識の状態をもっていけるみたいになったとき、自然との違いがだいたい消去されたという比喩しかできないわけです。
ほんとうの自然の状態ということとか、どういう意識状態になっているのかとか、何がどうなるんだということは、なかなか外からはわからないんです。うちからやっている人は、それをなかなか言葉で説明してくれないです。
良寛という人もかなりなそうだと思いますけれど、かなりな程度良寛はよくそれを説明しているはずなんです。たまたまこちらのほうがそれを読み切れないわけです。ほんとうを言いますと自然との差異の消去の状態は詩のなかで表現されているはずで、それは微細にこちらの読み方をよくすればたぶん読めるはずなんです。
しかしかつてそれをやったものをぼくは見たことがありません。一般的にはそれはなされないんです。この状態は外からはわからないんです。内の人はそれは表現できないのです。やってる人、やった経験のある人、やってあるところまで意識の状態をもっていった、これこそ古物の意識状態までもっていったという名僧、高僧は、えてして言っていることはつまらないことを言うわけです。絶対わからないような禅問答的なことしか言っていないんです。そこが問題なんです。
たぶん良寛は、両方のあれをもっているわけだから、この状態はかなりな程度表現された作品のなかを微細に分け入るとその状態をちゃんとつかんで表現できる、こういう状態だというところまでもっていけるはずなんですけれど、残念ながらぼくらの読みがないからそれができないんです。また仏教の本質的な自然との差異の消去ということの実感的な体験を持っていないからできない。その両方が相まってそこまでいけないわけです。
だから今日申し上げたことは、わずかにいくつかのとっかかりを申し上げているだけで、それはだいたい自然との差異を消去する、それを微細に見つけ出して言葉にすることができるはずです。しかしぼくらは残念なことにそういうものにお目にかかったことはありませんし、これからみなさんがさまざまな方法を模索されながらそこへ行くよりしょうがないんじゃないかと思われます。それはわずかに糸口みたいなとっかかりがあればつかんでいくみたいなことをして、少しのとっかかりはやりましたけれど、もっとどんどん微細に入っていって、ほんとうに言葉にしていかなければ誰もする人がいないんです。
日本でも名僧知識というのはたくさんいるわけでしょうけれども、言葉に表現するのは馬鹿馬鹿しいことだと思ったり、つまらないことだと思うわけでしょうし、そんなものは禅にとってはくだらんことだと思うから言ってくれないわけです。たまたま言うと、つまらない言い方しかしません。つまらないことしか言ってくれないからつまらないんじゃなくて、ひとつ曰く言い難い意識状態にもっていくという状態を言葉にしにくいから、言葉にしようとするとつまらなくなっちゃうということです。
だから決して馬鹿にするわけではありません。つまらないことしか言わないからそのお坊さんはつまらないんじゃないですけれども、どうしてもその状態はやってる人からはそうなっちゃいますし、ぼくらみたいなやつはその状態がほんとうにわからないんです。そうするとたまたま良寛のように両方を兼ね備えた人の表現というものを、ほんとうの意味でよくよく読み込めたら、完全にそれがわかるというところにいけるはずなんです。ただぼくらに読みが出来ないということです。
ですからぼくが今日申し上げていることは、わずかに何か手がかりをということで、浅い手がかりを羅列しているということしかほんとうはないと思います。ほんとうはいけないので、もっとほんとうに言い切れないといけないんですけれど、そこまではなかなか辿れないというのが現状だと思います。
良寛の書とは何か
で、そこのところで、書というのがぼくにはまったくわからないし、書が下手なことはご覧のとおりですから、駄目なんですけれども、言葉ですから、良寛の書というものにできるだけ言葉で近づいていってみたいと思います。そうすると良寛の書はいいんだ、というとどこがいいのかいってくださいといろんな人が書いたものをみても、何も言っていないんです。ただすばらしいと言っているだけで、そうとうな書家であって、言葉に巧みなヨシノヒデオみたいな人が良寛の書に言っても、ただいいって言ってるだけじゃないのというだけにしか過ぎないということがあるんです。
だけれども書というのはかなりな程度、良寛の宗教性とか意識の微細な状態とか、色合いとか、匂いとか、音とか、そういうものをちゃんと言葉にするための手段としては、良寛の書はかなりな程度有効なんじゃないかと思います。
良寛の書とは何なのかということの枠組みについてはできるだけ言葉を費やしてみたいと思います。まず、良寛の書には、まず丁寧に書いた楷書があります。そうかと思うと草書があります。自分のつくった漢詩や何かを……
……それから仮名書きと、仮名書きだけの美麗な書もあります。それから仮名書きと交えた流麗な書もあります。概して言えば良寛の書とは何なのかということを見る場合には、楷書というものと、草書化された漢字の両方を見ればいいんじゃないかと思います。これはいい加減なことを言っていることになるかもしれません。ぼくは良寛の書というものを、一冊に集めて片っ端から見たとか、いちどに集めてあるのを見たということはないものですから、もしかしたら間違うかもしれなくて、平仮名だけの文字が重要なことになるのかもしれませんけれども、そういう意味あいでは知識教養の面からは間違うかもしれません。
書の背景としての自然性
その場合に、何を良寛の書という場合に、基本形と言いますか母型と見るかという場合には、楷書を基本形として見るべきだと思います。良寛の楷書、お経なんかを写し書いたものを、良寛の書のいちばん基本にあるものだと考えて、そこをまず問題にしていけば入りやすいのではないかと思われます。
その場合に申し上げたいことは、それでは良寛の楷書というものを見た場合、何をどう見たらいいのかということになるわけです。一般的に、たぶん書を見る場合には、まずこういうふうに見て欲しいわけです。つまり、この書のバックグラウンドになっているものは何なのかと考えた場合、こういうふうに見てほしいわけです。この書のなかで、書の背景になっているものを、自然と考えた場合――紙なら紙を自然と考えた場合――自然というバックグラウンドのなかで、どこまで自然がひとつの世界としてみれるかというように見て欲しいのです。
バックグラウンドになっている自然性というものがどこまで同一と考えられるか。同一と考えられるバックグラウンドは、このなかでどこまでか考えて欲しいわけです。どこまで、という意味あいは非常にメタフィジカルな意味あいです。つまり、ここまでという意味あいはありません。書を見た場合、バックグラウンドになっているものを自然性と考えて、自然性というものが、同一という意識で見られるのはどこまでかなと考えて欲しいわけです。
ある書を見て、書の背景になっている白地、紙というものを自然性と考えたとします。そこに良寛なら良寛が字を書いている。するとこの字を見ていると、一般的には良寛の書は音楽性があるとかなんとか、いろいろ言うけど、言ったらおしまいで、そういう言い方は結果なんです。そういう言い方をしたらどこまで結果だけしか言えないんです。良寛には音楽性があって流麗と流れていくとか、ぜんぶ結果論なんです。そういうふうに考えてはいけません。
だから、バックグラウンドを自然性と見て、そこに良寛の書が書かれている。このなかで自然性が同一だ、ここまでは同じ自然性だと考えられている世界がどのくらいあるかなというふうに考えて欲しいわけです。そのどのくらいという度合いが、良寛の自然性の枠組みと同じ意味あいをもちます。それがどこまでそうかなというふうに、良寛の書を見ながら、どこまでそうかなというふうに、バックグラウンドになってる自然性というものが、どこまで同一の深さ、厚みをもっているのはどこまでかということが浮かび上げられるならば、それは非常に重要なことです。そういうふうに見れば、結果論じゃなくなる可能性があります。
そしてその同一性として見られる自然性の世界の厚みというものが、直感的に見てそのなかに良寛らしい字が浮かんでいる、と見て欲しいわけです。その浮かべられた字というものは、自然性のなかにおかれたひとつの意味形象です。ひとつの意味をもったかたちなわけです。ですからそれが浮かべられている。
そうするとそれは、自然性のなかに一種の差異を打ち込んでいることになるんです。概念の意味がある形象でもって、自然性の世界の厚み、深さのなかに、ひとつの差異、異和を打ち込んでいるわけです。するとその異和はどういうふうに打ち込まれているかというふうになるわけです。そのときにはじめて音楽性がなんとかという問題が出てくるのです。
書の母型――楷書
それでは良寛の場合、楷書の場合に、どういうふうに打ち込まれているかといったら、まず概念をあらわす文字形象としては、良寛の書はほとんど骨格だけで出来ていると言えるわけです。ここでピッと点を押さえてとか、流してとか、情念をこめることはあたうかぎり少ないと言えるわけです。それが良寛の書の特徴です。これは楷書でない場合も特徴です。概念をあらわしうる形象であるかぎり、最小限の骨組みだけでできていると言っていいくらい、力が均質で、思い込みをこめるということがないと考えられるのです。それは非常に大きな良寛の書の特徴だと思います。
それじゃ、すぐに思い浮かべられるでしょうけれど、活字だってそうじゃないか、活字とどこが違うんだということになります。骨組みだけで出来ているという意味では、活字とそんなに違わないでしょう。けれど大違いなわけです。
何が違うのかと言ったら、ひとつひとつの字が骨格だけで出来ているくらいですけれど、しかしそれだったら活字とは正反対に違うということが言えます。この、概念をあらわすかぎり最小限の骨格のまわりには、目に見えない最高度に緊張した肉体があるということです。それが良寛の書の特徴だと思います。どんな書家でも、骨組みのまわりには、それなりの肉体、肉付けとか、情感が出てくるわけですけれども、良寛の場合はその骨格のまわりに目に見えない肉体があるわけです。その肉体が最高度に緊張しているということです。
現実の自然性としてある人間の肉体よりも、もっと緊張した肉体です。極端に言いますと、すぐれた舞踊家に、決まった踊りの格好があるでしょう。そのときの肉体のかたち、格好というのは、やはり美だと思うでしょう。そういう意味あいの、目に見えない肉体が、字の骨格のまわりに存在するというように、自然の同一性をバックグラウンドにして、自然の形象ある文字が打ち込まれているということが、良寛の書の特徴だというふうに思います。
それで、もう少しぼくでも言えることがあります。うまいというのは当たり前で何も言っていないと同じです(笑)。
ひとつひとつの字を見ますと、骨格だけでできていて印刷とちっとも変わらないじゃないかというふうに思えながら、たとえば仏という字があるでしょう。この人篇とのあいだの空間とか、人間とこっちのドルとのあいだの空間は、造形性がものすごく見事なんです。それはちょっと怖いくらいです。
たとえば、概念をあらわす骨格だけで出来ている形象が自然性の世界に打ち込まれている。そしてしかもその骨格のまわりには最高度に緊張した目に見えない肉体があると言っただけでは、ぼくらもまだ良寛の書の特徴を言っていないじゃないかということになります。もうひとつだけぼくらでも言えるところで言えば、ひとつひとつの線と線の配置の決まり方がじつに良く出来てピチッと決まっているということなんです。それが特徴だと思います。
そうして、それだけを漠然と思い浮かべて良寛の書というものを見て欲しいわけです。そうするとぼくは書なんてぜんぜんわからないし、理解することが出来ないのですけれども、書ということに言葉を与える――どうしていいのか、どうしていいと思うのか――ようとする場合には、そのような見方をしてくださることが前提であると思います。書をよく知っている人だったら、そのような見方をしてもっと微細に言えるはずです。ぼくらには言えないだけであって、もっと言えるはずです。
何かを言えるような見方をしていけば、書について、理解が深めれば深まるほど、もっと微細に言えるはずということのためには、どうしてもある見方がいるわけです。いつでもそういう見方をつくりながら見てくださらないと、ほとんど意味がないと思います。そういう見方をしてくだされたば、もっと先まで良寛の書を見ていくことができるのではないかと思います。
空に字を書く
ぼくは、良寛の書について書いたものをそんなにたくさん読んだことはないのですけれども、高村光太郎が言っていることのなかで、ひとつだけ面白いなと思ったことがあります。高村光太郎という人は書をよくわかる人です。書の造形性がわかる人ですけれどもやはりいいものをいいと言っている、動議反復の部分がたいへん多いです。だからそんなに書の論としてそんなにいいものではありません。
良寛という人は、中国の書家についても日本の書家についてもたいへんよく手本にしてならっていろんな書家の書風を知っていてよく修練している人です。それから書に自身のある人だと言っています。
それからもうひとつぼくが感心したのは、この人は絶えず、空に、空気中に字を書いて練習していたと言っています。空に書いているという意味あいで言っています。高村光太郎という人も優れた書を書いた人ですが、そういうふうに言っていることは面白いと思います。バックグラウンドを自然性として見るという見方からしますと、空に書いて練習したという言い方はたいへん面白いわけです。実際の空に、字を書いているという意味あいは、自然のなかで同一と考えられているところがどこまでで、そこのところにわずかに意味のある字をつくることが、わずかに同一性に対して差異を表現しているということになります。その表現の仕方が良寛の場合、あたうかぎり力こぶを入れていないわけです。
同一性として見える自然に対して力こぶを入れない打ち込み方をしているということは、良寛の精神状態の特徴です。あるいは意識の流れ方の特徴です。これは良寛の宗教性にもつながっていきます。それをもっといい言葉で微細に言うことができたら、良寛の書についてたくさんのことを言うことができるはずです。それから良寛の詩が表現している宗教性についてももっと微細なことが言えるはずだと思います。ただぼくらには力がなくてそれができないんですけれども、こういう見方をしていけば、もし言葉が蜜からならばこういうことを言うことができるぞという余地を残しながら書を見ていってくださるのがいいと思います。良寛の書というのはそうとう本質的なものですから、内面の流れ方に対しては重要な意味を持つと思いますから、いつでも言葉がそこに入り込める余地を残す見方を書についてもしてほしいと思うわけです。
草書の特徴
それから、楷書的なものを母型としますと、流れるような草書化ということが良寛にはあります。
草書化ということの特徴は何なのかということを申し上げてみます。これはいろんな人が言っていることだからどうってことはありません。ひとつは、こういうふうに字を流して書いていった場合には、概念をあらわす最小限の骨格が溶けていってしまっているということが言えるわけです。草書では誰でもそうであって、同一性と考えられる自然に対して、意味をあらわす形象を溶かしていってしまうことですから、良寛の場合の溶かし方の特徴というものは、概念が最小限に自分のなかに保たれていればそれでいいというくらい、溶かしきってしまうということだと思います。
溶かしきったものを、字は字ではないかという字らしさをどこでとどめているかということを見てみますと、それは文字形象ではなく一種の絵画形象が概念をあらわす骨格でさえあれば、そこまでは文字形象は溶かし込んでいいんだということが良寛の書の特徴であるように思います。
それは良寛の書についてどなたが書かれた書でも言ってあります。たとえば、ここに、雨という字がこれだけになってしまっています。本来的に言えばこうあるべきなんで、良寛の場合にはこういうところまで文字形象としては溶かされてしまっています。そうするとこれだけ単独で取り出して雨と読めと言ったらそれは読めないだろうと思います。
雨という字の漢字形象の起源を考えていった場合、雨という字はどう考えたって、雨という字がこうなった起源はせいぜい考えてこんなところであって、こういう省略というのはどんなに直感的にいったとしても漢字の形象文字の起源というところにはいかないわけです。つまり漢字の形象文字は何かと言ったら、起源には自然物の形象化がはじめにあって、それが段々抽象化、規範化されて、雨という漢字形象ができているわけです。ですからさかのぼっていってしまえば、雨がポツポツ振っているということが元にあるわけです。ここから出てきているから、起源にさかのぼればこういうかたちになっている。
これを雨と読ませる、書くということはどこから出てくるかと言ったら、雨という文字形象をもう一度自然のなかに溶かし込んでいるのであって、しかも自然の同一性に溶かし込んでいるのであって、良寛のなかでは雨という文字概念は頭のなかにあって、それが出てきた場合にこういうかたちに出てきている場合です。
このかたちは起源に近づくということではなく、雨が降っていたということが漢字の起源としてあるからこれでいいじゃないかというふうにしているのではなく、この雨という文字形象を濃淡とか単純な線とか点に溶かし込んでしまったらどうなるかという意味あいで、雨という字がこういうかたちで出てきているわけだと思います。ですからこのかたちは決して起源には近くないのです。起源からすればますます遠ざかっているかたちになります。ふつうの漢字の文字形象よりもっと起源からは遠い。
しかしなぜ起源から遠いような文字形象がこの草書のなかで許されているかと言えば、あまりの点というものがバックグラウンドであり同一性として考えられる自然のなかに溶かし込まれてしまっているから、これが雨と読まれることが許されるんです。つまり良寛のなかで、自然に対する差異の意識が、この雨をこれだけにしてしまうという差異として残されていると言うことができると思います。それが、雨という字がこのように残されている大きな理由だと思います。
これは、自ずから自分の自だと思います。
書の論じ方
この、これは、自という、自ずからという、自分の自だと思います。自分の自ですけれど、ここで書かれている……鳥のかたちにしかなっていないですけれど、自分の自であるわけです。そうするとこれを単独でなんと読むかと言ったら、これを自と読むことは難しいので、自と読んだっていいでしょうけれど、百とも読めるし白とも読めます。これ単独でとりだしてこれを自と読めと言ったら、そういうふうには読めないよというところまで、良寛は草書化を押し進めています。押し進めているということは何かと言ったら、それはこうまでこれを押し進めていってしまう残りはバックグラウンドである自然性のなかに溶かし込んでしまう。このかたちは何か自分の自という字が、濃淡とか線とか点で省略して書いちゃうとすれば、これでいいじゃないか。これを書いているときには良寛のなかにはこういう字があって書いているんだけれども、書かれてある字はこういうふうになっているわけです。
そうしたら、この残りの部分は自然のなかに溶かし込まれちゃっている。良寛が心のなかで自然性の世界だと考えている深さ、厚みのなかに溶かし込まれちゃっていると理解することができます。
もうひとつここにありますからあげてみますと、乞食の乞だと思います。乞という字はすでに良寛のなかでこういうふうふたつの線になっちゃっているわけです。これも同じで、これを乞と読めと言ったって誰にも読めないでしょう。しかし前後の続きというものと、このなかで何がどれだけ溶かし込まれて、どれだけ残っているのかということには、良寛には原則があって、このかたちが濃淡または線分、または点というもので省略できるならば可能なかぎり省略しちゃっても、自分の中に乞というものがあるならば、これは乞と読めるということが良寛のなかに最小限度あると思います。そこまで草書の崩し方を良寛はやっちゃっていると思います。
これはたとえば町という字も、どういう字かもともとぼくはわかりませんけれど、誰がみてもわからないと思います。そこまでやっちゃっています。そうすると良寛のなかで同一として考えられる自然性という世界、それに対してどれだけ文字形象でもって差異感、違和感を打ち込めるかということが、良寛の詩のなかで非常に大きな意味を持つということが言えると思います。
一般的に書というものの世界というものは、だいたいそういうところで見ていくと言葉になるんじゃないかと思います。わかっていて言葉に出来ないというのではなく、わからなくても言葉にできるというほうがよろしいのです。性格じゃないけど言葉にできる。どんどんそれは正確に正確に言葉にできるとして、どんどん微細に微妙に言葉にできると考えていきますと、書というものがもつ重要な意味あいが伝わってくるし、またそれを解明していくことができるのではないかと思われます。ですからほんとうに書というものがわかる人、あるいは自分でやっておられる人が、良寛の書について何か論じてくださると非常にすごい問題が出てくるように思います。
ぼくらがいままで見てきたものですと、だいたい結果のことしか論じていないんです。書の論じ方はどうしてもそうなっちゃうので、そのことはどうしても避けなくちゃいけないので、過程の問題と言いますか、プロセスの問題として書を見ていったとき、いつでもそこに言葉を埋めることができるし、いつでも良寛の本質的な心境性、内面性の流れのなかにいつでも入っていける、大きな意味あいをもって浮かび上がってくるんじゃないかと思われます。
だいたい先ほど申し上げました通り、ぼくにとってわかりにくい良寛について触れてきたわけですけれど、わかりにくい良寛というものについて、少しでも手がかりがあれば……いちおうこれで終わらせていただきます。
質疑応答

禅ということを≪音声聞き取れず≫個々の詩のなかの≪音声聞き取れず≫良寛さんは坊さんの修行もしたと考えまして、曹洞宗でいらっしゃいますから、良寛さまの目標は道元禅師であったと思います。道元禅師が一生かかってお書きになりました『正法源蔵』の章に「生死の巻」というのがあります。そのなかにはこうございます。「身も心もはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、なんのちからをもいれず、こころをもつひやさすし、生死をはなれ、仏となる。」とおっしゃっております。この身も心もはなちわすれて、仏の家に投げ入れて、そうすると仏のほうから行われて、これに従いもてゆく時、なんの力もいらず、心も労せずして生死を離れ、仏になるとおっしゃっておりますが、この仏から守られた力でこれに従っていくというのが、良寛さまの詩のどのなかにも、自然を自然のままとしてご覧になっている良寛さまの本質が流れているように思われてなりません。自然を自然のままとして、仏のかたよりおこなわれた自然のままとして、良寛さまは受け取っておられるのではないかと思われてなりませんがいかがなものでしょうか。

そのとおりなのかもしれませんけど、ぼくらには至りつくせない場所だから、ほんとに実感的な意味ではなかなか僕にはわからないことのように思います。同じことは、たとえば、道元と同じ時代にいた、これは浄土門ですけど、親鸞がやっぱり、至心に信心して、そして、念仏をすると向こうのほうから接収されるので、こちらから計らってどうということはないので、ということは親鸞なんかも眼目にしているように思うんですけど。そこがぼくらには一番むずかしい、つまり、向こうからというのが一番むずかしいことで、おっしゃるとおりなのかもしれませんけど、ぼくにはよくそこはわからないところだと思います。実感できないところだと思います。

この詩のどれを見ましても、自然を自然のままとして良寛さまは受け取っておられますか。その自然のままとして受け取っておられるのが、仏の故意とじぶんのあれとして、むしろ自然を自然のままとして受け取っておられる。親鸞にしましても自然法爾という言葉を申しておりますが、そこいらがこの詩をおつくりになる根本の中に、良寛さまはそれ自体が仏の道に入っておる詩の表し方が、自然に従って、仏に従って、仏のかたよりおこなわれた自然のままそのままな見ているように思われてならないのでございます。だから、詩の裏に一本、仏性といいますか、仏から賜った力というものが良寛さまのどの詩にも一本ながれておると私は思われてならないのでございます。

そうなのでしょうと思いますけど。そこが一番むずかしいところでわからないところです。これは道元の場合でも親鸞の場合でも一番そこがむずかしいところのように思います。だから、ぼくはあまり実感的にそれがそのとおりなんでしょうというふうに、ほんとうは実感を離れてあまり言葉が出てこないですけどね。自然というふうに解されても、それはちっとも構わないと思いますけど。それらをすべて包括していると考えてくださっていっこう構わないです。だから、あまり定義が問題にはならないような気がします。

人間の中にある自然という話もしていましたけど。

人間の中にある自然といいますと、厳密にいうと身体性というのですね。身体性を自然に含めてもいっこう構わないです。

道元と親鸞の思想、○○とおっしゃったことがあると思いますが、あれでいきますと、良寛は○○ならなかった人だと≪音声聞き取れず≫。

「僧としての良寛」というこの前のお話のときに、そういう考え方というのは僕も申し上げたんですけど。道元は修行して修行して、つまり、ひたすら座って、24時間すわって、極端にいいますと食べることもいらないし、飲むことも眠ることもいらない、とにかくひたすら座って、その姿から状態が実現できたとき、それは釈迦が実現した仏というのといちばん近い状態なんだからひたすら座ればいいんだというところで、ひたすら縦に超えよう超えようというふうに道元はおっしゃるとおり考えたと思うんです。
親鸞は逆であらゆる修行というのは全部ダメで、修行をしようと思ったらダメだというふうに、だから、横に超えるより仕方がない。つまり、横に超える以外にないんだという考え方で、つまり、じぶんが修行して仏になろうとか、仏に至りつこうとか考えるのはまったく無意味だと考えて、横に超えるより仕方がないと、道元と比べればまったく180度違うように考えていたと思いますけど。
良寛はおっしゃるとおり、道元、つまり、曹洞宗の僧侶でありますし、また、僧侶として印可を受けているわけですから、一通りの意味でいえば、曹洞禅的な宗教性を持っていたというふうには言えるんじゃないかと思いますけど。
ただ、しいてそういう言い方をして、仏教的な言葉の範囲の中に良寛の生き方、それから表現というもの、詩の作品とかそういうようなものを全部しいて入れ込んでしまうとすれば、道元の『正法源蔵』なら『正法源蔵』の言葉の中の言い方のなかでいちばん近いのは、いわゆる「阿羅漢」という生き方であって、つまり、縦に超えて自分を仏にしようという修練から一歩退いて、自然の中に退こうという、それが少なくとも曹洞禅の、つまり道元の思想からいっても第2の策としてはそれがいいんだという考え方があると思うんですけど。
しいて位置付ければ、良寛というのは一歩、じぶんを仏にする修行をしようというふうにもっていくよりも、道元なんかが好まなかった詩歌をつくり、自然の中に退いて、そこのところでならばどこかに超えられるということを考えたんだろうなと思うんです。
だから、しいて仏教の言葉の中に入れていけばそうでありましょうし、また、中国的な、つまり南シナ、つまり南中国から出てきた中国的な思想、仏教とはやや違う思想のところまでもっていってしまえば、老子とか、荘子とか、そういう人にいちばん近かったという言い方もまたできそうな気がするんですけどね。
だから、ぼくはあまりそういうところで、良寛の思想というのはこうだったから、あるいは、良寛の宗教が最後まで曹洞宗の印可を受けた僧侶としてのあれを全うしたかどうかというところに微細に分け入ってどうという気は少しもないので、また、そこから退いたかどうかというところも、あまり、実証して決めていくみたいな考え方はあまり僕の中にはないんです。
大きな意味で東洋的な宗教とか、東洋的な思想の大きな特徴である自然性といいましょうか、これは人倫の人間的な意味での自然性であるし、また、天然自然という意味でも自然性でありますし、また、制度といいましょうか、政治とか、権力とか、そういうような意味あいでも自然性というのが、どうしても第一義的に残ってくる東洋的な自然性のなかで良寛がどういう意味をもつかという、そういうところから考えていきたいみたいなことがありますから、あまり僕には固執するあれがないんですけどね。良寛が宗教を持続したか、それは一般的に宗教性といえるものに過ぎなかったのか、あるいは、善悪みたいなのがあったのか、また、道元がいう阿羅漢生活といいましょうか、草案曹洞で自然とあい交わって悠々生きるという生き方は非常に仏に近い生き方なのだという、そういう生き方を守ったとしてみるべきなのかということの違いをそれほど深刻には僕は受け止めない。
一般的にオリエントとか、東洋とか、アジアとか、そういうところにおける全般的な原理になっている自然性の枠組みのなかで、良寛がどうやって自分の独特な仕方をしたかということ、それから、もっと微細に入っていきますと、今度は文学・詩人としての良寛みたいな、どういう意識状態をもっていて、それをどういうふうに表現したか、そういうところから近づいていきたいみたいな気持ちが僕は多いんです。だから、おっしゃることはよくわかるように思いますけど。こうじゃないかというのは僕にはあまりないんです。

宗教性というものを分けて考えざるをえないだろうというような、そういうふうに理解してよろしいでしょうか。離れますと漢詩の理解はできないと私は思っています。良寛はどういう人間になろうというのは、良寛の詩や歌から機能的に論を結ぼうという考え方は自然だと思うんです。ところが、それぞれの分野から専門的になりますと、まるっきり違ったものに見えてくることがあるわけです。たとえば、詩にしましても、初期の詩と中頃と終わりの詩ではかなり良寛自身が変わっているだろう思うんです。ですから、晩年の作品を初期の良寛の考え方で理解はできないと思います。たとえば、高野山に行く前に自然におぼれて身を誤るというような詩がございます。そう考えてみると、自然そのものの中に同化するという詩が非常に多ございます。そうなると良寛の自然観というものは、長い人生を通じた中でかなり変質してきたんじゃなかろうかというのが、私がいきついた考え方なんです。自然観に関していいますと、良寛も<聞き取れず>、ですから、古代仏教にはほとんど自然観というのはなかったんでしょ。自然に対する考え方のはっきりしたものはなかったと私は思っているんです。そうじゃないでしょうか。

そうではないんじゃないでしょうか。ぼくは仏教というのは一般的に自然宗教だという、自然ということを抜きにして成り立っていない宗教だというふうに、大雑把にそう思っています。

それは原始仏教そのものが自然崇拝であると、それはわかるんです。言葉として説得力をもった考え方を示したのは、○○じゃないかなと私自身がするものですから、そういうひとつの論理をもっているのは、どこでどういうふうに良寛が変わったかというのが、詩を理解する場合に、ずいぶん違ってくるんじゃないかなということがございます。それともうひとつ、たとえば、かめだこうさいというのがいますね。<聞き取れず>自然に対しての○○な見方をしているんじゃなかろうか。疑問に思っております。良寛のもっている自然に対する成就の仕方というものは、<聞き取れず>していたと思うんです。<聞き取れず>。その上にさらに良寛というものがあるだろうと私は考えたんです。良寛の自然観に非常に興味をもっておりますので、なにかの機会にまとまったお考えをお示しいただければなあと。

それは初めからぼくの任じゃないような気がするんですね。それはみなさんのほうでやってくだされば大変いいことなので、ぼくが接近できるひとつの方向があって、そこから接近していくよりしょうがないような気がしてるんです。だから、今日、ぼくがおしゃべりしたことが良寛のなかで一番わかりにくいところで、ぼくの力量ではどうしようもなく精一杯という感じがしているんです。だから、これ以上は、みなさんにしていただくよりしかたがない。

隠遁者という<聞き取れず>良寛さまは非常に社交性をもっていると私は思っているんです。いろんな人と交わるという<聞き取れず>自然の中に同化するのが隠遁なのか、宗教から逃げることが隠遁するのか、そのあたりお考えをお示しいただければなと。

自然の中に同化することと、それから、村里というものに対して、自分がどういう位置をとるかということが隠遁ということのいちばん大切な要のように思いますけどね。だから、村落に対するかかわり方というのをどうするかということは非常に大切なことがひとつ、隠遁ということも大切なことのように思います。そういうことと自然に対してどういうふうに関わるかということ、両方が隠遁という言葉を支えている2つの柱みたいなものになっているんですけどね。だから、良寛の隠遁というのを見ていく場合に、両方を見ていくと、いいんじゃないかなと、ぼくはそういうふうな考え方です。
さてそれはどうでしょうか、そういうことがあるのかもしれませんけど。ぼくなんかが良寛についてつっ込みを入れているのは、はるかもっと以前の段階のような気がします。そういう問題についてこうだというところまで僕は到底いっていないので、もっとずっと以前のことをしているような気がしています。

たいへんおもしろいお話をお伺いさせていただいたんですけど。最初の自然性の向上という最初のとっかかりがなかなかうまく理解できなくて、途中からおもしろくなってきたんですけど。自然、生活、倫理、宗教というのが、最初、自然というのが根底にあって、これが共時的に常に良寛の中で同じ部分をずっと占めていたものなんでしょうか。それとも生涯わたっていくうちに、この部分がだんだん大きくなっていくとか、先生の最後の親鸞のような、良寛はどこらへんが重要だったんでしょうか。

ぼくがここでいう概念は、全然そういう理解は含んでないと思います。だから、良寛の伝記的な事実とか、良寛の詩の作品の初期と後期がどう違っていたかということも、あまりそういう概念をそのなかに含んでいないと思います。
ただ、いずれにせよ、重なっていて共時的なものであって、だから、どこか境界線を引けばこれはこっちというふうに厳密に分けられるように作品の構造をあったというふうにはちっとも思っていないです。だけれどもしいて図式的にいえば、そういう重なり合いになるんだろうなということに過ぎないことなんです。
基本にあるのはいずれにせよ、自然のなかの自然性というのが基本であって、それがどうなっているかということがいちばん基本なような気がします。つまり、自然に対して自分がどういう対立の仕方、差異のつけ方をしていたかということと、それから、もうひとつは良寛のほうは差異をつけようと少しもしようとしていないのにもかかわらず、良寛の取り出す自然が全自然とどういうふうに差異ができちゃっているか、それがいちばん基本なような気がします。
だから、それがどうしても基本で、全体の枠組みがどうして良寛の場合、自然性かということは、これは詩人としての良寛とか、僧侶としての良寛、あるいは、思想としての良寛というのを、どういうのをとってきても、だいたい自然性という大きな枠組みというものを眼に見えない枠組みですけど、それを考えるのがいちばん良寛についてわかりやすいんじゃないか、つまり、つかまえやすいんだろうなというふうに思う、そういう意味あいで自然ということの枠になりますけどね。
ぼくらはわりあいに、マルクスとかヘーゲルとか、そういう人たちの考え方の影響が強いものですから、そういう語彙としてはごくふつうなんですけど。こういう自然性とか、差異とか、同一性とか、そういうのはヘーゲル・マルクスの語彙なんですけどね。それは非常に大きな枠組みの意味での東洋の自然性といいますか、東洋の原理自体が自然性だということについての、たいへん抽象的でありますけど、たいへん有効な研究をされていますけど、非常に大きな枠組みで自然性という枠組みの中に入ってきちゃうんじゃないでしょうか。
だから、良寛の作品の歴史的な流れとか、そういうようなのは、個々に実証的にやっていかないといけないような気がしますけど。

ヨーロッパ的な語彙という意味で自然性とかいう言葉を使ってらっしゃるんですか。

ヨーロッパ的な語彙というよりも、東洋とか、西洋とか、第三世界とか、いろいろ言われている地域というのがありますね。地域の概念があります。そういうものは、とにかくヨーロッパも地域ですよね、ニーチェみたいな言い方をすれば、ヨーロッパもアジアのどこかから突き出た半島にしか過ぎないんだという言い方をしているけど、そういう意味合いではローカルな地域なので、そういう意味合いでは、ローカル性ではない世界性というもののなかに、東洋も、もちろん日本もそうですけど、そういうようなものを置き直したいという概念なんですけどね。

今回のお話のなかで感じたのは、一人の作家を批評するという感じを非常に受けたわけです。かなり微細に書から入っていかれたということで、なにかのお話の中で、たしかに良寛の時代というのは偉大な歌もできないし、偉大な思想もできない、そこからつながっていますから、現在もあまり偉大なことはできないのですが、そういうことで我々は軸としてこれを考えていっていいのか。現代の作家とか、思想家、哲学者に関しても、良寛に立てられた軸、すっきり方法として成り立ちうるのか否か、そのへんを聞かせていただきたい。

前提から申し上げますと、良寛のいちばんわかりにくい、一種の宗教性みたいな、境地みたいなのがある良寛の詩というのがいちばんわかりにくいというふうに思ってきたわけですけど。どこからそれをとっかかっていくかということを考えていった場合に、これはどこからどういうふうに境地を一般的に語っている、あるいは表現している詩、あるいは、自然に対する境地を語っている詩というのをどこから入っていくか考えていった場合に、どこをとっかかるかといった場合に、それをどれだけ微細なニュアンスということを含みながら、あるいは、微細な違いというのを含みながら解釈して突っ込んでいけるかということが、どうしても眼目になるように思って、どうしてもそこが今日の主眼点になってしまったんですけどね。これは現在の作家とか、近代の作家みたいなものを論ずるときには、ぼくらがしばしばやっているやり方でやっているわけです。
大雑把にいうとどういうことかというと、批評、あるいは、作家論、詩人論でもいいですけど、論ずる場合に結局、その作品なら作品の非常に大きな特徴をもっと感覚的な言い方をすると、あるひとつの作品でいえば、その作品のなかでいちばん頂点のところ、あるいは、いちばん目立つところをまずつかまえて、そこを解いていくことで、解明していくところで、作家論、作品論をつくるとか、作家論の場合でも、初期があって中期があって後期があった場合に、どこかに頂点があって、頂点のところにいちばん特徴が現れてというふうに考えて、そこに現れてくる問題を作家論の眼目にするとか、あるいは、初期がいうなれば起源ですから、起源のなかには後年展開される要素が全部集中されて、点になってそこにあるから、そこを見ればあらゆる面がそのなかに含まれているという見方で、起源のところで論ずるとか、結局どこかに集約されたところで、作品とか作家を見るみたいなことを一般的にしちゃうわけですけど。
ぼくがわりあいにここ数年の間で気がついたところ、じぶんの批評というところでダメだなというふうに気がついたところは、どうもそういうところで、あるひとりの作家の作品でも、あるいは、ひとつの作品でも、何気なくスッススッス読むと、スッスッはいってきちゃって、ちっとも感銘を与えないし、印象深いところじゃなくて、そうじゃなくて、スッススッスはいってしまうところがあるでしょ。
たとえば、(テープ切れ)…あると、そんなところは7時半だろうが、8時半だろうが、あまりおかまいなくスッススッスはいっていっちゃって作品を読んでいくでしょ、作品の中にある頂点みたいな、そういうところがひっかかってくるわけです。これはまた感銘を受けるわけです。そこのところで作品をつかまえると、いちばんつかまえやすいことがあるでしょ。だから、誰でもそうしちゃうわけですけど。ぼくらもそうしちゃってきているわけですけど。
ここ数年来、そうじゃないことが気になってきたわけです。スッス入っちゃってあまり感銘を与えるわけでもないし、印象深いわけでもない。それからまた、そこがひっかかって気になって仕方がないという箇所でもなくて、スーッとはいっちゃう箇所があるでしょ。そこのところが重要なんじゃないかという、そこのところを言葉にできるかどうかということは、批評にとって非常に重要なんじゃないかということを、数年来、考えてきまして、だから、良寛でも、わかりやすい、つまり、特徴的なところはたぶん一等最初にやっちゃっているような気がするんです。非常に良寛の特徴が現れているというのは、やっちゃっているんです、結局は。いちばんわかりにくいんです。虫が鳴いてどうしたとか、雨の滴りがどうかとか、いちばんようするにわかりにくいですから、わかりにくいという問題をどれだけ微細に言葉にできるかということは、結局、良寛の作品論としても、良寛論としても、結局いちばん重要なんじゃないかというあれがあるわけです。そういうのを言葉にできないかということが、批評の問題としてものすごく気になって、よく微細に見てくださると、ぼくのここ何年かの批評というのはそこのところを相当気を付けています。逆に言うと、物言いがそうとう誰でもわかるような、ズバッていうようなのが、だんだんなくなっているように思います。そういうことじゃなくて、サーッと入って、サーッと出ていっちゃう、あるいは、作品として少しも山場でもないし、特徴が凝縮しているところでもない。また、優れた描写の箇所でもない。そういうところでスーッと入って出ていっちゃう、それがほんとうは重要なんじゃないか。それがつかまえられないと、批評の本来的な、本質的な問題というのはダメなんじゃないかと思いだしてきたんです。
だから、そこのところの問題だと思うんです。批評の問題にひっかけて、今日の問題でもひっかけていうとすれば、そこの問題のような気がします。数年来、ものすごく気になってきたんです。それができてない、山場ばかり、高揚しているところばかり、興奮しているところばかり、作品の中でも強調しているところとか、うまく盛り上がって感銘度が深いところばっかり、そこがつかまりやすいから、そこでもって特徴を論じてOKという感じできてたけれど、そうじゃないんじゃないか、それじゃダメなんじゃないか、それでもいいですけど、それじゃダメなんじゃないか、ほんとうの批評の問題というのはダメなんじゃないかと思いだしてきたんです。
そうすると、何が問題になるかというと、スッスはいってきちゃって、もう一回、読み直さないとうまくつかめないという、スーッと読み飛ばすととスーッと入ってきちゃう、そういうところをおやっとあらためて読みかえすと、これは問題があるぜということになってきて、そこのところが言葉にできなければ、批評の問題としてはダメじゃないかなということを、ぼくは考えだしてきて、ぼくは自分ではそれを考えだして、うまくはなかなかできないんですけど、やり始めてからは、おれの批評はちょっとよくなったんじゃないかなと思っているんですけど。ただ、よくなったと言わない人もいるわけで、ぼくは、そう思っているんですけど。うまくいっていることはあまりないんですけど。それがあれしてきてから、ちょっとぼくは、自分は自分の批評というのは少し進んだと思っているんですけど。
だから、前2回目のところだったら今日みたいなことは到底いえなかったんです。杖をついて外に出たら虫が鳴いていたという、なんだこの意味はとか、何が境地なのかとか、ひとつの詩の作品で何を言いたいんだとか、生き様として、生き方として何なんだとかいうことがまるでわからないよという、あるいは、わかるとしても、一般的に言われている、これは研ぎ澄ました心境であるとか、そんなこと誰だっていえることなので、そんなのなら何も言わないのと同じことだから、なんだろう一体これはという、どこからとっかかったらそれについて何かとっかかりができるのだろうかということは、ぼくが前2回を断続的ではありますけど、いろいろ考えてきて、現在の作家を論じている論じ方のなかから出てきた問題とか、それを敷衍してみたりとか、自分の中では結構やってきたんです。だから、ほんの少しだけ、外に出たら落ち葉が落ちていたとか、これはどういうことなんだというのは少しだけ言葉にできるようになったような気がしているんです。やっぱりこれじゃダメだということがよくわかっているんです。もっとやれるはずなんです。
それから、坐禅とか、密教の修行とか、みんなそうですけど、そういうのは一種の体術の面があるでしょ、身体を自然とすると、身体の自然からいかにして意識を離してみたり、意識をそこから分離したような格好で膨らませてみたりとか、そういうことがいかにできるかということが一種の修練でしょ。あるいは、意識の状態をいかに低下させるか、身体の自然性よりも意識の内面性をもっと低下させて、もっと植物に近い状態にもっていくにはどうやったらそれができるかみたいな、そういう一種の体術の面があるでしょ。仏教の修練のなかには、その面は必ずあるはずなんです、それは良寛の曹洞宗の坐禅とか、そういうのがあるわけなんです。それを微細にやれないとダメだと思うんです。やれるはずなんです。
ところが、つくられたものから、言葉の表現から、それも微細に分析していくというやり方はなかなか難しんです。なかなかできないんです。だけど、これだけの人ですから必ずできるはずなんです。ここのとっかかりからここのとっかかりへ、次はここにいってと微妙に組み立てていければ、必ずそれができるはずなんです。それをやると、詩の中に流れている内面性、自然の内面性というのは、もうちょっと微妙な言葉でそれができるはずなんです。良寛を論じられるはずなんです。それは究極なんだけど、なかなかそれができないんです。ぜんぶ外側です。つまり、結果です。結果になっちゃうんです。だから、それをいかようにして避けるというやり方をどこかでやっていかないと、微妙なところというのは、良寛の作家論となりうるところ、あるいは、詩人論となりうるところというのは、なかなか本格的にはできないんじゃないでしょうか。その問題を少し今日いってみたかったんですけど、そういう問題に帰着するような気がするんです。

良寛の問題を語っていただいたのですが、西行が中断してますね、私たちそのようなことから良寛のことでお願いをしたのですが、だいぶ横道に入られたみたいなのですが、西行についてはどんなあれでしょうか。

いろんなことを試みるわけです。つまり、一種の方法づくり、雰囲気づくりというのをやるわけです。方法づくりというのは、なかなか思いどおりにいかないのですけど。雰囲気づくりというのはいろいろやるわけです。去年、一昨年あたりは『源氏物語』をやって、雰囲気をそういうふうにもっていこうというふうにしてみたり、今度は逆に柳田国男みたいに言葉をもっと現実のほうにリアルにもっていったらどういうことになるかという、それは地域地域によって、たとえば、良寛なんかは雪に閉じ込められたというのがよく出てきますけど、そんなのはほんとに地域地域であれしないと、ほんとによく理解できないんじゃないかという問題みたいなのは柳田国男のなかに大きく含まれているわけです。そういう問題で考えて、雰囲気は盛んにつくるんですけども、なかなかうまくとっつけないでいるわけです。方法論というのはとっつくつもりです。それは西行論としてではないんですけど、とっつくつもりなんです。雰囲気がなかなかつくれないといいますか。

前回の講演との関連でお聞きしたいのですけど、前回、良寛の最後に難解さがあるということで、良寛の詩の中には僧としての良寛を離れた良寛というご指摘があったと思うんですけど。ようするに、村落共同体内部につくられて生きている良寛というのがあるのだけれどという指摘があったのですが、それはどういうことで今回、位置づけて理解すればいいのか伺いたいのですが。

お坊さんというのは、良寛も托鉢して食を乞うにはどういう心構えがあれなのか、文章の中で良寛もそのことを非常に強調しているわけですけど。僧侶というのはインドから始まって中国へきて、日本へ渡って、何千年も伝統があるわけですけど。そのなかで、僧侶というのは、いわゆる村里といいましょうか、村落共同体といいましょうか、農業の共同体というものに対して、どういう位置をもって関わったらいいのかということについては、非常に厳密なあれがあると思うんです。良寛の中にもどういう厳密なかかわり方の面が明らかにあると思うんです。そこは厳密に守っているところがあるんです。
ところが、そうじゃなくて、良寛の中には僧侶としての自分からもう少し退いて、自然の中に退いちゃっているという面もあると思うんです。自然の中に退いちゃっている面が逆に村落の内部との交渉になると、おじいさんと会ったら酒を飲まないか、来いよと言ったら一緒に飲むというような、そういうことというのは僧侶としての良寛の位置から自然の中に退いているといいますか、退いたところから逆にきていると思います。
僧侶というのはもう少しきちっと決まった場所だと思います。じぶんの命を養うだけ、つまり、薬と同じだけの食べ物を村落から喜捨をうけるということ、それが必須条件なわけです。それは良寛も必須条件として守っている。それをやめちゃうと、人々との関わり、つまり、衆行とのかかわり合いが保てないわけで、なくなってしまうわけです。それは、仏教大乗経が避けてきた問題で、究極的に確立したのはやっぱり避けないということなんです。かかわりをもつということ、食べ物を乞うという形でだけでもつという、そういう厳しいかたちなんです。
それは良寛も批判していますけど、木食みたいな、荒行みたいなことを村の中、町の中に入って、そんなことをやってみせるやつは外道だと言っているわけです。厳しい修行をしているというような顔をしているやつは外道だと、仏教じゃないといっているわけです。というくらい仏教というのはそうとう厳しく、村落共同体、農業の共同体と、村里とどうかかわるかという厳しい位置があるわけです。
良寛も守っている位置、場所がありますけど、同時に良寛の中には守っていない場所があるんです。それは、もっと自然の中に退いちゃって、そうすると村里とは緊張した関係をもたないという、そういうところを退いた面があるわけです。歌や詩のなかには、それがずいぶんある。
それが逆に今度は村の中に入ってくると、子供と遊んだり、農家の人と会って一杯飲まないかと飲んじゃったりというふうに逆にあらわれます。それは良寛が自然の中に僧侶としてよりも、自然の中にもうひとつ退いた位置の場所というのを良寛が同時にもっていたということを僕は意味していると思っています。それだから、逆に村里とはのんきになっちゃうところがあると思います。
ところが、のんきじゃない面もあります、良寛も。食を乞うとか、喜捨を受けるとか、なんかあったら我慢してお腹を空かして家にいるとかいうことに対して、かなり厳しいあれを守っていますけど。ただ、非常にのんきな面もあります。とうてい僧侶だったら、ことに曹洞禅の僧侶だったらそうはいかないよというくらいのんきなところもあります。
だから、その両面があるんじゃないでしょうか、良寛のなかには。ただ、わずかに宗教性みたいなところだったら今日の話でも僧侶としての良寛というのはかかわるかもしれないですけど。ずいぶん関わらない面もありますね、僧侶以外の自然生活者みたいなところで、村の人たちと交わっているところがありますし、それは交わっているから、かえってほんとは村から退いているという面にあたるところがあると思います。その2つの面じゃないでしょうか。2つの面が詩の中に、ことに漢詩といいましょうか、中国の詩でしょうね、これに良寛が固執した意味というのはそこらへんが濃いのではないでしょうか。

道元も親鸞も、知識の極みをもっている者だと思いますが、そうしますと、良寛の宗教性というのはひとつの極みのなかにあるとしても、かなり多面的なものだと。

そうですね、多面的であるし、宗教者ではない面がかえって立派なんじゃないでしょうか。もちろん宗教者としてもあるけど、そうじゃない面が良寛は立派なんじゃないでしょうか。これは親鸞にも道元にもない面だと思うんです。道元というのは『正法源蔵』の中で、詩とか歌とかこういうやつはダメだと決めつけていますよね、そういうのはダメなんだと、親鸞もおおよそ縁がないです。詩歌とかそういうのはおおよそ縁がないです。詩には全然なっていないです、思想的要約ですから、縁がない人ですね。
良寛はむしろ宗教者としての面よりもそういう面で、書家とか詩歌の人として、詩人として非常に大きな存在じゃないでしょうか。どのくらいに位置づけられるか知らないですけど、日本の代々のあれのなかでたいへんな位置をくっているんじゃないかなと僕は思いますけどね。代々の空海とか、そういう人たちも書家と言われているけど、そういうようなところで相当大きな位置をもっているんじゃないかと思うんですけど。ぼくにはよくわからないんですけど。

若手の人に聞きますと、したたかな奴だといいます。

単調な人じゃないです。執拗な人です。詩でもそう思います。自然に対する執拗で微妙なかかわり方というのは、これはやっぱり度外れていると思います。度外れた人だと思います。それが非常に微妙だから決してあくが強いというふうに見えないのだけど、そうとう微妙に執拗に自然に対してこだわっていく人のように思います。  
秋夜偶作
良寛さん、夜中に目覚め眠れなくなった。庵の外に出ると、虫鳴き、落葉。谷川のせせらぎが遠くに聞こえ、山深いせいで月が出ていない。長い時間物思いにふけっていると、夜露が衣を濡らす。
覚言不能寝 曳杖出柴扉 陰虫鳴古砌 落葉辞寒枝 渓深水声遠 山高月色遅 沈吟時已久 白露霑我衣
覚めて言(ここ)に寝(い)ぬるあたわず 杖を曳いて柴扉を出ず / 陰虫 古砌(こせい)に鳴き 落葉 寒枝を辞す / 渓深くして水声遠く 山高くして月色遅し / 沈吟して時已に久しく 白露 我が衣を霑(ぬ)らす
寒炉深撥炭
明日からは寒くなるみたいです。孤独な流れ者には、寒さが沁みるぜ。冷えた火鉢の灰の底を掻いて、炭火を熾そうとする(が、その火は小さい)。孤立した家にともした燈火も、少しも明るくない。孤独だなあ。寂しく静かに夜更かししているうちに、今日も夜半を過ぎてしまった。壁の向こうからは遠く谷川の音が聞こえてくるばかり。
寒炉深撥炭 孤燈復不明 寂寞過半夜 透壁遠渓声
寒炉に深く炭を撥(か)く / 孤燈もまた明らかならず / 寂寞として半夜を過ごせば / 壁を透して渓声遠し
客中作 李白
白玉の酒杯に注がれた薫り高く輝く琥珀色の銘酒を飲めば、異郷に身を置く孤独感も忘れられるという。「旅先での作」 蘭陵で産する美酒、その名は鬱金香。透明な白玉の杯になみなみとつがれ、琥珀色に輝く。この酒席の主が、旅人である私を存分に酔わせてくれるので、他郷ゆえの寂しさを忘れるほど飲んでしまった。
蘭陵美酒鬱金香 玉椀盛来琥珀光 但使主人能酔客 不知何處是他  
「客中(かくちゅう)の作」 蘭陵(らんりょう)の美酒 鬱金香(うこんこう) / 玉椀(ぎょくわん)に盛り来たる 琥珀(こはく)の光り / 但(ただ)主人をして 能(よ)く客(かく)を酔はしむるに / 何れの処か是れ他郷なるを知らず
題は「客中行」とも。・行:歌行。「…行」は楽府に付く「詩・歌」の意。蘭陵:山東省の南部、名酒の産地として有名。現在の山東省棗荘市。鬱金香:酒に浸して、色や香を附ける香草。「郁金香」とする本もある。琥珀:コハク。松ヤニの樹脂の化石。透き通った深い黄色の玉(ぎょく)。玉碗:玉杯。但使:ただ…しさえすれば。ただ…のようにさせれば。
半夜
生まれてこのかた五十年あまり。振り返って考えてみると、この世界は善も悪も夢のようなものだ。山中の庵(五合庵)に五月雨がふりかかる。夜中に、さびしげにふる雨を、私はこのみすぼらしい窓から眺めている。
回首五十有餘年 人間是非一夢中 山房五月黄梅雨 半夜蕭蕭灑虚窗
首を回らせば五十有余年 / 人間の是非は一夢の中 / 山房 五月 黄梅の雨 / 半夜蕭蕭として虚窓に灑そそぐ
行々投田舎

一路万木の裏
良寛には若いころから激しい無常感があった。「無常 信(まこと)に迅速 刹那刹那に移る」の詩句もある。良寛はどんな片々(へんぺん)の動向にも「永遠と瞬時の交代」を見た。特筆すべきは、無常の速さをどこで観るかということである。しかし、その無常迅速・無常旋転を、どこで見るか。外ではない。中でもない。すれすれに無常の活動とともに、見る。そこが良寛だったのである。そういうことを如実に言葉にしている漢詩も少なくない。
2行ずつ、別々の漢詩から採って任意にならべてみる。
   一路万木の裏(うち) 千山沓霞(ようあい)の間
   過去は已に過ぎ去れ 未来は尚未だ来らず 
   現在 復(また)住(とど)まらず 展転 相依るなし
   去る時 是れより去り 
   来る時 是れわり来る
   三界は客舎の如く 
   人命は朝露に似たり
   一朝分飛の後 
   消息 両(ふたりながら)茫々たり
   人生 浮世の間 
   忽として陌上(はくじょう)の塵の如し
いずれも全と一、瞬時と永遠、本来と将来とがあっというまに交差する。その行き来、そのすれちがい、その往還と反転とに、良寛の目は動き、良寛の手が動く。刹那と無限を捕捉えて決して離さない。日本人は、宗教として、人の世の「はかなさ・無常観」と片づけて(解釈して)きたが、現在のイシコロの感想は少々異なる。物理学の先端を行く量子力学の世界では、「全と一、瞬時と永遠、本来と将来」について、多くの科学者がこの命題に取り組んでいる。先に挙げた「宇宙ホログラフィ理論」が、全体=部分(一)、刹那=永遠、を科学的に証明しようとしている。良寛も空海も、目に見えない高次元世界の膨大な智慧をすでに獲得していた、と思わざるを得ない表現である。
以前にも、シリーズでブログアップしたが、私が敬愛してやまない越後の名僧、良寛について、少し書いてみたい。良寛は、江戸時代末期に誕生した禅僧である。しかし、生涯にわたって寺をもつことも弟子をもつこともなく、ただ越後(新潟)の田舎でただひとり、托鉢で生計をたてながら、村人と交流を重ねて一生を終えた。数々のすぐれた書や歌を残し、また、天真爛漫なエピソードが数々残されている。子供と遊ぶのが好きで、一般には「良寛さん」などと親しく呼ばれている。しかし、私が思うに、良寛ほど高い悟りと霊性を体現した僧はまれであり、本来なら「良寛さん」などと気安く呼べるような人ではなかった。まさに比類なき名僧の中の名僧なのである。
良寛は、名主の御曹司として生まれ、長男だったので後を継ぐはずであった。しかしあまりにも生真面目で純粋で気弱な性格だったため、政治的なかけひきが苦手で、一時期、名主の見習いをしていたたものの、すぐに挫折。結局、18歳で寺に出家することになる。そして22歳のとき、当時、高僧として知られていた国仙和尚の弟子となり、はるばる岡山の寺までいって修行を始めることになる。これは、当時の仏教界では大変な名誉らしく、今日でいえば、ハーバード大学やオックスフォード大学に留学するくらい、すごいことだったようだ。おそらく、家族は、いつか修行を終え、大僧正にでもなって華々しく帰郷することを期待していたに違いない。
さて、良寛はこの国仙和尚のもとで十数年ほど修行し、師匠から印可(卒業証書)をもらうと、寺を出てしばらく放浪の生活をしたようだ。そして、ついに故郷である越後の国に帰ってきた。ところが、すでに実家は衰退の一途をたどった末に没落。母親は48歳の若さで病死、その12年後に父親は川に飛び込んで自殺、細々と弟が家を継いでいるといったありさまだった。かたや良寛の方も、出世したわけでもなく、着ているものはボロボロで乞食同然、歳も40歳になろうとしていた。まったくの落ちぶれた、ひとりの孤独な雲水(旅をしながら修行する僧)でしかなかった。さすがの良寛も、こんなみじめな姿を弟に見せられず、実家の近くを通ったものの、顔も見せず素通りしてしまった。そしてふらふらと浜辺に足を向けた。寝る場所さえなかったので、漁師にお願いして物置に泊めさせてもらうことになった。ふとんもなければ、すきま風が吹き込んで来るような、わびしくて寒い物置であった。
良寛の伝記を読み返すたびに、私はこのときの様子に感銘を覚える。世間一般的な価値観からすれば、良寛はまさに「落ちぶれ者」であり、今日の言葉を借りれば、「負け組」であった。僧侶として成功し故郷に錦を飾って凱旋するどころか、乞食同然の境遇で帰ってきたのだ。名声も、お金も、家族も、なにもない、みじめな姿そのものになって。しかも歳は40歳。今日の社会からすれば、まだ若い年齢だが、当時の40歳は、今の感覚なら60歳くらいかもしれない。そんな良寛が、ひとり漁師の物置小屋で一晩をあかした。そのときの気持ちは、いかなるものだったのかと思う。聞こえるのは、寄せては返す波の音ばかり。凡人の感覚なら、これほどの屈辱、これほどのわびしさ、これほどの孤独、これほどの絶望に、とても耐えてはいけないのではないかと……。けれども、こんなにも崖っぷちの暗闇の時期が、歴史を経て良寛の人生の全体像を知る現代の私たちの目から見れば、まさにこのときこそが、偉大なる良寛の、その真の人生の始まり、その輝かしい業績の誕生の瞬間であったことがわかる。寄せては返す波の音は、輝かしい勝利のファンファーレである。「負け組」どころではなく、実は最高の「勝ち組」だったことがわかる。もしも良寛が出世して、大僧正などと呼ばれて、金ぴかの袈裟をぶら下げて故郷に帰ってきたならば、その地方の人にだけは多少は名が知られたかもしれないが、すぐに忘れ去られ、歴史に残ることもなく、私たちを励ましてくれるような人には成り得なかったであろう。良寛の生い立ちのなかで、もっとも暗いこの場面こそが、まさにこれからすばらしいことが始まる夜明け前の暗闇であったことがわかる。そう思うと、まったく人生というものはわからないものである。
その後、良寛は弟に発見され、閑静な場所に小さな小屋を建ててもらって住むようになる。そうして、内に輝くものを宿す人は、やはり自然にその存在は認められるものである。その徳と学識の高さを慕って、当時の有名な学者や文化人が良寛のもとをに訪れた。それでも結局、良寛は死ぬまで自分の寺ももたず、弟子ももたず、説教のようなこともせず、子供と遊び、村人と共に泣いたり笑ったりしながら、見事な書や歌を残して、74歳でその生涯を閉じた。多くの参列者がかけつけ、実家から火葬場に列を作って向かったが、先頭が火葬場へ着いても、その後尾はまだ、実家の庭先にいたという。良寛は、私が最終的にたどりつきたい心の故郷であり(まずありえないことであるが)、これほど深い思いで敬意と思慕を寄せる人はいない。あたかも「花と蝶」の間柄のように。
   花無心招蝶 蝶無心尋花 
   花開時蝶来 蝶来時花開 
   吾亦不知人 人亦不知吾
   不知従帝則
「花は無心に蝶を招き 蝶は無心に花を尋ねる / 花開く時蝶が来て 蝶が来る時花が開く / 吾も亦(また)人を知らず 人も亦吾を知らず / 知らずとも互いに 帝則(真理の摂理)に従っている」
冬夜長
一思少年時 讀書在空堂 燈火數添油 未厭冬夜長
一たび思ふ 少年の時 / 書を読みて 空堂に在り / 灯火 数ば油を添へ / 未だ 冬夜の長きを厭はざりしを
冬夜長:冬の夜長(よなが)。詩句の一部を取りだして、仮に詩題としたもの? 年老いてから、若かった時代の意気軒昂としていた日々を懐憶しての詩。一思少年時:一度、若者の時を思い(出したが)。 一…:いつに。みな。すべて。まったく。もっぱら。また、ひとたび。また、少し。少年:若者。成年期。日本語の「少年」とは微妙に異なる。唐・張籍の『哭孟寂』に「曲江院裏題名處、十九人中最少年。今日春光君不見、杏花零落寺門前。」がある。以下の用例は「少年」というよりも「少年行」という用法が主であるが、「少年行」とは楽府題のことで、普通の用法とは異なる。「少年」の語には、日本語でも使われる「子ども」の意は無くて「若者」の意。李白『少年行』「五陵年少金市東、銀鞍白馬度春風。落花踏盡遊何處、笑入胡姫酒肆中。」、唐・崔國輔『長樂少年行』「遺卻珊瑚鞭、白馬驕不行。章臺折楊柳、春日路傍情。」や、唐・王昌齢『少年行』「走馬遠相尋、西樓下夕陰。結交期一劍、留意贈千金。高閣歌聲遠、重門柳色深。夜闌須盡飲、莫負百年心。」や王維も『少年行』で「新豐美酒斗十千、咸陽遊侠多少年。相逢意氣爲君飮、繋馬高樓垂柳邊。」、沈彬の『結客少年場行』「重義輕生一劍知、白虹貫日報讎歸。片心惆悵清平世、酒市無人問布衣。」や、宋・賀鑄『六州歌頭』「少年侠氣、交結五キ雄。肝膽洞、毛髮聳。立談中、生死同、一諾千金重。推翹勇、矜豪縱、輕蓋擁、聯飛、 斗城東。轟飮酒、春色浮寒甕。吸海垂虹。闌ト鷹嗾犬、白駐E雕弓、狡穴俄空。樂怱怱。」等と、粋な若者の姿として描かれる。時:とき。平仄に拘らない詩でも、踏み落としのこの「時」字のところは、仄韻字が多い。読書在空堂:(あの頃は)ひとけのない部屋で、勉強した(ものだった)。読書:勉学する。また、本を読む。在:…にいる(/ある)。空堂:ひとけのない部屋の意。灯火数添油:ともしびに、たびたび油を注(つ)ぎたして。この「灯火数添油」の句の第五字目は、仄韻字が来ることが多い。数:しばしば。たびたび。
東風吹時雨
東風吹時雨 夜来澍茅茨 主人高枕眠 何知浮世機
東風、時雨を吹き、夜来、茅茨を澍ぐ 主人、枕を高うして眠る、何ぞ知らん浮世の機。
秋夜々正長

秋日過一行

分衛(ぶんえ)
春気稍和調 振錫入東城 青青園中柳 泛泛池上萍
鉢香千家飯 心抛万乗栄 従事古仏跡 乞食次第行
春気 稍(やや)和調し 錫(しやく)を振りて東城に入(ゐ)る 青青たり 園中の柳 泛泛(はんぱん)たり 池上(ちじよう)の萍(うきくさ) 鉢は香る 千家の飯(はん) 心は抛(なげう)つ 万乗(ばんじよう)の栄 古仏の跡に従事し 乞食(こつじき)して 次第(しだい)に行(ゆ)く
静夜虚窓下
 
 
 
 
 

 

 

●隠遁生活が与えるもの
ツァラトゥストラは、三十歳になったとき、そのふるさとを去り、ふるさとの湖を棄てて、山奥にはいった。そこでみずからの知恵を愛し、孤独を楽しんで、十年ののち倦むことを知らなかった。しかしついにかれの心の変わるときが来た。……
昨日はずいぶん的はずれなことを書いてしまったな、と思う。隠者や隠遁志向の人の中には、「美女や10億円や名誉はいらん、わしゃ孤独に引きこもりたい」という人はかなりいるはずだし、私はどちらかといえばそういった人びとの感性が理解できる。家賃5000円の彼は、ちょっと特殊なケースだったかもしれない。もう少し違った面から考察してみたいと思う。
他者との関わりは、必要である
私は孤独となるよう生まれついている。社交は私にとって害悪でしかないのだ。と考えるような人がいるかもしれない。「他者との付き合いは無駄だ」というような考え方は、哲学書や密教的な宗教書に散見されるし、世間でもそういうスタンスの人がたまにいる。巷間の「心理学」では、「外向的人間は社交から、内向的人間は孤独から充電する」と言われている。しかし、これは嘘だ。現実には、内向型も社交から充電している。ただ、内向型は少しの社交で足りるし、それ以上は煩わしいというだけなのである。あらゆる人は他者に認められることや、良好な関係を築くこと、好意を持たれたり愛情に触れることが必要である。社交への欲望は食べ物や異性を求めるように自然であり、本能的である。このことは、ほとんどの高等動物が群れで暮らしており、社会を形成していることを考えると理解しやすい。隠遁生活は不自然な状態といえる。それは息を止めているようなもので、いつかは呼吸を再開しなければならない。つまり、隠遁生活は本質的に持続困難unsustainableであり、永続的なものというよりは一時的、あるいは断続的になる定めにある。
それでも隠者が引きこもる理由
隠者は苦しい状況におかれる。恋い焦がれた孤独だが、今度はそれにさいなまれることもある。社会的には死んだも同然で、生活の不安もある。それでも彼が引きこもろうとする理由はなにか。それは目的があるからだ。孤独でなければできないことがあるからだ。研究や創作に没頭したいとか、真理や霊力を得たいとか、そういった目的があって引きこもる人がいる。社交や世間の喧騒が精神を乱すことは大いにありうるから、彼らが引きこもることはまったく正当だ。もちろん、はっきりとした目的がない場合がある(そちらの方が多いのかもしれない)。「なんとなく隠遁したい」「理由はわからないが、隠遁がどうしても必要だ」という状態がある。
20代半ばの私もそうだった。とにかくすべての社交にうんざりして、世間の人びとを突き放して、孤独に本を読むことがもっとも必要なことだと考えていた。そのときの私は読書がおもしろくてたまらず、隠遁生活を人生の理想と考えていた。ソローの「森の生活」に憧れて、安い土地や空き家を探し回ったこともある。孤独に生活する間、いろいろなことを学び、発見したが、最終的に私は隠遁生活を辞めることにした。そして私は自分のためだけに書いていたブログを、他者のために書こうと決めた。世の中にはかつての自分と同じように生きづらさや不条理、苛立ちや虚無感を感じているひとがたくさんいるに違いない、と考えたのである。私は孤独のなかで、文章でだれかの役に立ったり、助けることが好きだと気づいた。そういうことを隠遁生活は教えてくれたのだった。それまでの私は自分が何を求めているのか、何がしたいのか、どうありたいのか、そういう基本的なことをまるで知らなかったのだ。
「われわれは、自分の本性に適合している特定の仕事に召されているのである。それから逃避すること、それを恐れること、不熱心になること、それに関してアンビバレントになることは、すべて古典的な意味で、「神経症的」反応である。それらは、不安や抑止を作りだし、古典的な神経症を生み、あらゆる種類の心身症的徴候や犠牲が大きく無意味な防衛を生ずる意味で病気と考えられてよいのである。(マズローの人間論/エドワード・ホフマン)」
隠遁生活は目的ではない
自分の話が長くなってしまった。結論として私が言いたいことはこうだ。隠遁生活はそれ自体が目的とはならない。それは手段だ。私はかつての自分のように、知恵を求め、隠遁しようとする多感な青年が大好きだ。それは、いつの日か豊かな果実をもたらすからである。しかしもし彼が種のまま地中で終わるとしたら、私は彼を愛せないだろう。
「……見てください。あまりにもたくさんの蜜を集めた蜜蜂のように、このわたしも自分の貯えた知恵がわずらわしくなってきた。いまは、知恵を求めてさしのべられる手が、私には必要となってきた。
私は分配し、贈りたい。……満ち溢れようとするこの杯を祝福してください。その水が金色にかがやいてそこから流れだし、いたるところにあなたのよろこびの反映を運んで行くように! ごらんなさい! この杯はふたたび空になろうとしている。ツァラトゥストラはふたたび人間になろうと欲している」
――こうしてツァラトゥストラの没落は始まった。
こんな感じで、孤独から豊かなものを持ってきてくれればいいな〜と私は思う。
まだ書き尽くしていない感じがあるので、隠遁についてはもう少し考えたいと思う。 
 
 
 
 

 

●半農生活者の群に入るまで / 石川三四郎
私が初めて自然と言ふものに憧憬を持ちはじめたのは、監獄の一室に閉じ込められた時のことである。ちようど今から二十二三年前の話で、――それ迄と言ふものは全く空気を呼吸してゐても空気と言ふものに何の感じもなく、自然と言ふものに対しても親しみをも感じ得なかつた。それが獄の一室にあつて以来は庭の片隅のすみれにも愛恋を感じ、桐にも花のあつたことを知り、其の美しい強い香にも親しみを感じたやうな理由で、自然と言ふものに深い感慨を感ずるやうになつたのである。
それと同時に私は思想上の悩みに逢着してゐた。それは私はキリスト教的精神と、社会主義的精神の不調和に挟まれてゐたのである。これを私は獄中で統一しやうと努力したが、エドワード・カーペンターの著書を読んで、自分の行くべき道を考へ得たのである。先づ私はその『文明論』を見た。そして次に、クロスビーの書いた「カーペンターの伝記」を読むだのである。カーペンターが山家の一軒家で生活してゐると言ふことを読んで、其の生活を知り、同時に其の思想に触れて、私の思想の上に大きな変化を与へて呉れた。
それから出獄してからなほ、内外の上の戦ひ――社会運動の戦ひや、貧乏の上の戦ひをせねばならなかつた。間もなく幸徳事件が起る、私共の生活は呼吸のつまるやうな生活であつた。それから私はある事情のもとに日本を脱出せねばならなくなつた。勿論、一文なしのことであるから、フランスの船に飛び込むで、ベルギーに行つたのである。そして、そこで私は労働生活を始めたのである。先づ行きたては百姓生活も出来ないで、ペンキ屋、つまり壁塗りを一ヶ月ばかりして、其後、室内装飾などをした。その内、機会を得て、英国にカーペンターの清らかなる百姓生活を見廻ることが出来た。さうかうしてゐる中に、ヨーロツパの大戦争が起つたのである。私は黄色人種であるので、七ヶ月間ブラツセルに籠城したが、後、オランダからイギリスに渡り、更にフランスに落ちのびたのである。其処で、以前から知つてゐた、ブラツセルの新大学教授で、無政府主義者ルクリユ氏の一族と共に百姓生活を始めたのである。
ルクリユ氏は非常に百姓生活に興味を持ち、私も共々、農業の本を読むだり、耕作したり、それはあらゆる種類のものを実地に研究したのである。私は此処で足掛け六年間の生活をしたのであるが、私の生涯中、これ程感激に満ちた幸福な生活はこれ迄なかつた。
あの欧州戦争の結果、従来の社会組織、経済組織が根本的に狂つてしまつて人間の生活が赤裸々になつた時に、真実な生活そのものがハツキリと目の前に残され、あらゆる虚偽の生活、幻影を追つた生活が全く覆へされ、真の人間生活がヒシ/\とわかつて、百姓ほど強いものはないと言ふ事、真に強い土台になつたものは百姓であることがわかつた。権力や組織に依つて生活を維持してゐた人は全く足場を失つて、非常な窮状に落ち入つた。然るに百姓だけは寧ろ機会に於いて実力を自覚し発揮することが出来た。
そこで、私はさう言ふ風な事実を見せられると同時に、自然の中に自分が生き、太陽と地球と、木や草や、鳥や、けだものを相手にして、そして自給自足の生活を立てゝゐる間に、私の知識は、今までに経験した事のない力と光りとを持つて、私の心を開き、引き立てゝ呉れた。ほんとうに自然は無限の図書館である。無尽蔵の知識の籠であるやうに私には感じられた。私の六年間生活した土地は、パリーから七八十里も西南のボルドオの近所であつた。断崖絶壁をめぐらした三百米突メートルの高い立場の村落で、城の跡であり、風光明媚、四季常に遊覧の雅人があとをたゝないと言ふ位の地方であつた。
さう言ふ所に居た私は、単に自然の与へる知識ばかりでなく、自然の美、自然の音楽、自然の画、と言ふ風なものに常に感激を受けながら働くことが出来た。
私はフランスを帰る時、日本に来ても斯うした百姓生活をしたいと思つて帰つたのである。
然るに、事、志しと違つて、生活にばかり追はれて、今日迄騒がしい生活を送つて来たのである。もと/\一角の土地を持つた人間でないのだから、百姓をしやうと思つたつてそれは不可能のことであつた。それも激しい筋肉労働に堪へるだけの体力を持つたならそれ専門に百姓になれるのだが、それも出来ぬのは文筆労働に生活を立てゝ来た懲罰だ。半農生活するより成り立たない。
今日、私がやり始めやうとする百姓生活は、ほんのまだ試験の第一歩なのである。この試験に依つてこの農業がどうなるか――葡萄が出来るなら葡萄も作り、それから葡萄酒も作つて見たい。林檎が出来るなら林檎酒も作りたい。それから、鶏、豚、山羊、兎も飼つて見たい。出来るなら、もつと山奥へ這入つて人の捨てゝ行つた土地を耕してやり度いのである。しかし、それで生活も立てられまいから、文筆労働もやらなければなるまい。今日の資本主義のもとに事業をやらうと思へば、どうしても資本主義になるから、さう言ふことはやり度くない。自分の生活は出来るかぎり原始的な自給自足で労働をする。それは、一人ではいけないから、仲間があれば共にやり、それが私の社会運動になれば面白いと思ふのである。
そこで斯う言ふ……現代社会思想を検討すると、ジヤン・ジヤツク・ルーソー以来、今日に至る迄自然生活に帰れと言ふ感想と生活とが、非常な勢ひをもつて近代人を動かしつゝあることに気がつく。ルーソーは自然に帰れと教へたが、ルーソーの思想はフランス大革命を起させたが、それは起させただけで、その思想を実現しないでわきへそれた。そこでその後に生れた社会主義の鼻祖と言はれるシヤルル・フーリエは更に一歩を進んで、土に帰れと教へた。イギリスの社会主義の父と言はれる、ロバート・オーエンの実現しやうとしたところも、主農的共同生活であつた。
かうした思想の傾向はずん/\延びて来て、イギリスで言へばラスキンとか、ウイリヤム・モリス、それから先に言つたカーペンターなどは皆この傾向に属して、近代機械文明を呪つて自然に帰れ、土に帰れ、と教へたのである。トルストイの如きもそれである。ルクリユの如きもそれである。クロポトキンの如きもやはりその系統に属するのである。
かうした思想は今日真実を求むる人々の生活の上に深く喰ひ込むで来て、実際の生活として、若くは生活運動として、力強い発展を示して居る。
今日は無産政党の盛んの時だけれど、私は余りこれに興味を持たなくなつて、何だか隠遁生活じみてゐるやうだが、決して隠遁するつもりではないのである。寧ろ、これからほんとの私の積極的の生活になつて行くと信じて居る、バヴヱルの塔を望んで狂奔してゐたのでは、百年千年待たうとも、落ち着く先は見当らぬ。 
 
 
 
 

 



2020/4