「忖度文化」の証明

内閣人事局の顔色を窺う お役人

不都合なこと
忘れる
記憶がなくなる
文書を作らない

作った文書は 
用済み後 即刻廃棄
「桜を見る会」名簿  ついに登場 シュレッダー
 


シュレッダー報道 11/2111/2211/2311/2411/2511/2611/2711/28
「忖度史」諸話・・・2019年・・・2018年後半・・・
   2018年6月5月4月3月2月1月
   2017年12月11月10月9月8月7月6月5月4月3月・・・
 
 
 

 

「桜を見る会」 
優秀なお役人 野党の質問責め 矢面に立つ
意味不明 あり得ない言い訳 説明繰り返す
総理を守るためとはいえ 可愛そうにさえ見えてくる
裏返せば 国民を馬鹿にしている
お役人は 総理のためのものか
・・・
忖度 出世 我慢すれば気楽な家業
楽しい外郭団体 天下り
 
 

 

「刑事訴追の恐れがございますので、答弁はご容赦させていただきたいと思います」 
 
 
 11/21

 

●桜を見る会名簿、野党の資料要求日にシュレッダー廃棄 11/21
「桜を見る会」をめぐる20日の衆院内閣委員会の質疑で、政府は今年の招待者名簿について、野党から招待者数や支出額などの資料要求を受けた5月9日に「シュレッダーで廃棄した」と説明した。野党は、森友学園の公文書を廃棄・改ざんした問題と通じる安倍政権の体質だとして追及を強めている。
政府が今年4月13日の「桜を見る会」の招待者名簿を廃棄した5月9日、共産党の宮本徹衆院議員が同13日の国会質問のために桜を見る会に関する資料を要求。2008〜19年の「各年の招待者数の推移」や予算額、参加者数が増えている理由などを求めていた。 
●名簿廃棄“大型シュレッダー待ち”の謎 11/21
国会では21日も『桜を見る会』をめぐる追及が行われた。野党側は、招待客について問うたが、菅官房長官や麻生財務大臣は「記録が残っていないため詳細は不明」と繰り返した。『桜を見る会』には、どんな人たちが参加していたのか、詳細を知ろうにも、政府は、招待客の名簿を5月9日に廃棄したとしている。5月9日は、共産党の宮本議員が『桜を見る会』の関連資料を開示するよう求めた日と一致する。内閣府の大塚官房長は、この日に廃棄した理由について、「分量が多いため 大型のシュレッダーを使おうとしたが、各局の使用が重なり、調整した結果、連休明けになった」と説明した。“大型シュレッダー”は、1000枚を一括投入でき、40秒で細断することが可能だという。別の省庁のある幹部は「“シュレッダー待ち”なんて経験もないし、聞いたこともない。大量の処分が重なるなんて驚きだ」と語る。さらに、公文書の保存期間をめぐる疑問も浮上。内閣府と内閣官房が最終的に取りまとめた総理に関連する招待客名簿は『保存期間1年未満』だが、総務省や厚生労働省、国土交通省などは、同様の名簿を『保存期間10年未満』で取り扱っている。この違いについて、内閣府の大西審議官は「数千人に及ぶ個人情報が含まれている文書であり、それを適切に管理することは困難なので、使用目的が終わり次第、速やかに廃棄している」と説明した。 
●「桜を見る会」シュレッダーが話題 40秒で1千枚細断 11/21
今年4月の「桜を見る会」について、政府が共産党から資料を要求されたのと同じ5月9日に招待者名簿を廃棄するのに使った大型シュレッダーは、大量の紙を瞬時に細断できる高性能のものだった。政府は国会で「連休前から使おうとしたところ、(内閣府の)各局の使用が重なって調整した結果、連休明けになった」と答弁。資料要求との因果関係を否定しているが、SNSでは疑問の声も上がっている。
内閣府が名簿の廃棄に使った大型シュレッダーは、東京・永田町の国会近くの同府本府にある。内閣府によると、製本・アルバム大手の「ナカバヤシ」社製の機種。同社に取材したところ、約40秒で最大約1千枚を細断できる性能だという。業務用で、大きさは横幅3・2メートル、高さ1・5メートル、奥行き1・7メートルある。
内閣府によると、大型シュレッダーは1台で、地下1階のシュレッダー室に設置。平日の午前9時から午後5時まで使うという運用だ。同室は施錠しており、予約して使用するたびに解錠するという。一方で、大型ではない通常のシュレッダーは、各部署ごとにあるという。
「5月9日」の廃棄日が問題になっているのは、共産の宮本徹衆院議員が桜を見る会の国会質問に備えて政府に資料を要求した日だからだ。政府は「会の終了後、遅滞なく廃棄する」という運用に沿って廃棄したと説明しているが、桜を見る会(4月13日)から約1カ月経っていた計算だ。
内閣府の大塚幸寛官房長は20日の衆院内閣委で「連休前から、廃棄の分量が多いから通常のシュレッダーではなく大型シュレッダーを使おうとしたところ、各局の使用が重なって調整した結果、連休明けの5月9日になった」と答弁している。 ・・・ 
 
 

 

「記憶にない」
「記憶の限りでは会っていない」
「会った記憶はない」
「覚えていない」
「否定できない」
「置いてきた可能性は否定できない」
「存在しない」
「ない、全くない」
「記録がない」
「これから調査したいと思っている」
「調査中で答えられない」
「調査を行っていて最終段階」
「調査したが、そういった文書は見つからなかった」
「調べることは調べた」
「精いっぱい確認作業を進めたい」
「現時点では文書が確認できるものは見つかっていない」
「仮定の質問には答えられない」
「コメントした通りです」
「コメントできる状況ではない」
「報道は拝見しましたが、これまでのコメントのとおりです」
「相手のある話なので」
「面会の相手先のことはコメントできない」
「(文書を)読んでいないので、コメントできません」
「中身についてはコメントできない」
「承知していない」
「(発言について)承知をしていない」
「政府として、そのような文書は承知していない」
「文科省で関係者に事実関係を確認している」
「(テレ朝から)まずはお話をよく伺いたい」
「可及的速やかにと(弁護士に)お願いしている」
「事実関係については財務省として調査をしていく」
「内閣府に伝えておりますのでそちらにお尋ねいただければと思います」  
 
 
 11/22

 

●招待者名簿の廃棄「答える立場にない」公文書担当の大臣 11/22
国の税金を使い、首相が主催する「桜を見る会」をめぐり、政府が今年の招待者名簿を野党議員による資料要求と同じ日に廃棄したとされることについて、公文書管理を担当する北村誠吾地方創生相は22日の閣議後会見で、「お答えする立場にない」と繰り返した。
招待者名簿は、共産党の議員が資料を要求した5月9日に内閣府のシュレッダーで細断したとされる。内閣府は国会で「各局の使用が重なって調整した結果」と説明している。
北村氏は会見で、「恣意(しい)的な破棄ではないか」などと問われたことに対し、「行政文書管理規則に基づいて保存期間が適切に設定されている。個々の行政文書の取り扱いについてはそれぞれの文書を管理する担当にお尋ねを」と説明した。そして、「シュレッダーを用いてどうこうということについては、私としてはお答えをする立場にはない」と述べた。
一方、「政府としては、できるだけご理解いただけるように調査を詳しくしたうえで、世の中のみなさんに丁寧に説明していく」とも話した。  
●整合性の取れない政府側答弁が続く 桜を見る会 11/22
桜を見る会をめぐり整合性の取れない政府側答弁が続いている。21日も菅義偉官房長官が記者会見で「前年に呼ばれた方がまた(推薦される)ということは適切ではなかった」などと前年に招待していた人を再度推薦していたことに対する記者団の問いに答えた。
この答えに日本共産党の宮本徹衆院議員はツイッターで「ならば、なぜ、そのチェックにかかせない招待者名簿を、翌年を待たずシュレッダーにかけたのか」と突っ込み。当然、菅長官の発言は桜を見る会開催から日を置かずに名簿をシュレッダーにかける行為と相容れない。
名簿をシュレッダーで廃棄処分したばかりか、やとうから名簿の請求を受けた5月9日に電子データも同日消去したとすれば、不都合な情報を隠蔽するために処分を急いだ「確信犯」としか受け取れない。
宮本議員は毎日新聞の報道を受けて「毎日新聞が内閣府に確認したところ、内閣府の大型シュレッダーの機種は、ナカバヤシ社製で、約1000枚を一括投入して裁断が可能なすごいもの。これが1ヶ月近くも空かなかったとは、どれほど毎日シュレッダーしているのか。このシュレッダーなら、桜ファイルはきっと一回の投入ですんだでしょう」と皮肉っている。
名簿廃棄に関しては麻生内閣でも3年保存のものだったのを安倍内閣が1年以内に変えた。その不可解さだけでなく、宮本議員は「内閣総務官室以外は、内閣府宛の推薦名簿を10年、あるいは5年など文書保存を保存期間表で定めている。自民党、総理などの招待者がわかるものだけは、推薦名簿としても招待名簿としても破棄され、存在しないとされている」と問題のポイントを指摘する。
また、宮本議員は「安倍内閣はこれ(招待者名簿)を1年保存の文書と指定し、1年未満保存にしたのは、森友事件後の2018年4月1日」だったことも自身のブログで紹介。宮本議員指摘の通り、不可解な部分、国民の疑問に対して「客観的な証拠を持って説明する」ことが政府、総理には強く求められている。 
 
 
 11/23

 

●桜見る会、名簿廃棄後に基準変更 「追求かわし」と野党反発 11/23
政府が4月の「桜を見る会」の招待者名簿を5月に廃棄した約5カ月後、文書保存基準に関する内規を変更していたことが23日、分かった。内閣府は、あいまいだった基準を明確にしたと説明しているが、野党は「追及をかわすため後付けで規定を補強した」と反発している。
内閣府が野党に示した公文書管理に関する資料で判明した。
公文書管理に詳しい東大の牧原出教授(政治学)は「廃棄のタイミングを含めて不適切だ。事後検証できない態勢になっているのが現政権の一番の問題。電子データはどこかにあるはずで、調査を尽くすべきだ」と指摘した。 
●桜を見る会 省庁推薦名簿、民間黒塗り 首相ら政治枠は「廃棄済み」 11/23
政府は二十二日の参院予算委員会理事懇談会に、今年の桜を見る会で使用した招待者名簿を提出した。中央官庁が推薦した分のみで、安倍晋三首相や菅義偉官房長官、自民党などの推薦分は「廃棄済み」と説明した。立憲民主党の蓮舫理事は懇談会後、記者団に「なぜ政治推薦枠だけが廃棄されているのか。疑惑は深まった」と訴えた。
名簿は各府省庁が推薦した計三千九百五十四人分。氏名や役職が記載され、国家公務員以外は黒塗りにされている。内訳は外務省が八百九十一人(日本人百四人、外交団関係七百八十七人)で最も多く、内閣府五百八十四人、文部科学省五百四十六人が続いた。
政府は過去六回の経費も報告。二〇一四年に三千五万円だった支出総額は一九年に五千五百十八万円まで増加。テロ対策や混雑緩和などの経費が占める割合が、一四年の6%から一九年は41%に上昇したとしている。 
 
 
 11/24

 

●公文書の廃棄 「説明責任」も捨てるのか 11/24
安倍晋三首相主催の「桜を見る会」を巡る先日の国会質疑で、内閣府が野党から今年の招待者名簿の資料要求があった日に、名簿をシュレッダーで廃棄したと答弁した。
内閣府は「シュレッダーの利用が重なり、なかなか使えなかった」と、資料要求と廃棄の日が重なったのは偶然だと強調した。かなり苦しい言い訳に聞こえる。
安倍政権は招待者名簿の「廃棄済み」を理由に、桜を見る会に関する野党側の追及をかわし続けている。官僚が政権に「忖度(そんたく)」し、やましいリストを隠したと受け取られても仕方ないのではないか。
公文書管理法は、行政機関の職員が職務上作成・取得し、組織的に用いるものとして保有している文書を、管理の対象となる「行政文書」と規定。桜を見る会の招待者名簿も行政文書であり、同法の対象になる。
内閣府の国会での説明によると、名簿は招待者リストを発送するためのもので、会の終了で必要性がなくなったため、「遅滞なく廃棄」したという。
公文書は、国などの活動や歴史的事実を伝える重要な記録であると同時に、政府の施策が妥当か否かを事後検証する上で欠かせない資料であるはずだ。
にもかかわらず、内閣府はなぜ招待者名簿を急いで廃棄したのか。国会や国民への説明責任を果たす上で大事な証拠となる文書を隠蔽(いんぺい)したのと同じではないか。
内閣府は名簿を「数千人の個人情報が含まれる。適切な管理は困難」として保存期間1年未満としていたが、総務省や国土交通省などは同様の名簿を保存期間10年未満として扱っている。なぜ1年未満なのか。内閣府は明確な根拠を示せていない。
安倍政権下ではこれまでにも、疑惑解明が求められる局面でずさんな公文書管理が次々と明らかになってきた。
森友学園への国有地売却が問題となっていた2017年2月、首相が国会で「私や妻が関与していれば首相も国会議員も辞める」と発言。その後に財務省が公文書である決裁文書の破棄・改ざんを始めていた。
18年4月には、防衛省が「存在しない」としていた陸上自衛隊イラク派遣部隊に関する日報が見つかり、後に情報を隠蔽(ぺい)していたことも判明した。
森友と日報の問題を受け、政府は内閣府に公文書監察室を設置し、独立公文書管理監の権限を拡大させて各府省庁を常時監視する体制を強化している。
だが、今回の名簿の廃棄は、その内閣府で行われた。
体制強化しても、公文書管理の実効性確保につながっていないのではないか。「身内」である官僚の監視ではなく、公文書保存に詳しい専門家による点検が必要だ。
公文書の保存期間についても、各府省庁が独自の判断で廃棄できるような仕組みを改めなければならない。明確で統一的な基準を設けるべきだ。
行政府を監視する立場の国会は、今回の名簿廃棄をうやむやで終わらせてはならない。徹底した調査と検証が求められる。 
●桜を見る会 名簿廃棄後に保存基準変更 内閣府、対象狭める 11/24
政府が四月の「桜を見る会」の招待者名簿を五月に廃棄した約五カ月後、文書保存基準に関する内規を変更していたことが二十三日、分かった。内閣府は曖昧だった基準を明確にしたと説明するが、野党は「追及をかわすため、後付けで規定を変えた」と反発している。
内閣府が野党に示した公文書管理に関する資料で判明した。
今年の桜を見る会は、四月十三日に開催。共産党議員が国会質問のため関連資料の提出を要求した当日の五月九日、今年分の名簿をシュレッダーで廃棄した。
野党が追及の動きを強めたのと同時期の十月二十八日、内規で定めた文書保存対象を「行事等の案内の発送等」に狭め、保存期間を一年未満とした。野党幹部は「招待者名簿の廃棄を正当化できるよう後で内規を変更したのではないか」と批判している。
二〇一八年三月以前は「行事等の名簿」が対象とされ、保存期間は一年。一八年四月に一年未満へと変わった。
内閣府は、対象を具体的にしたとした上で「変更前の基準でも保存期間は一年未満とされており、今年分の廃棄に問題はない」と説明している。
公文書管理に詳しい東京大の牧原出教授(政治学)は「廃棄のタイミングを含めて不適切だ。事後検証できない態勢になっているのが現政権の一番の問題。電子データはどこかにあるはずで、調査を尽くすべきだ」と指摘した。
臨時国会は会期末の12月9日まで2週間余りとなった。野党は首相主催の「桜を見る会」を巡り、追及態勢を増強。安倍晋三首相が公的行事を私物化して自らの後援会を優遇したとの批判を強め、首相が出席する衆参両院の予算委員会を重ねて要求する。与党は応じずに幕引きを図りたい意向で、日米貿易協定の承認に注力する。終盤国会の攻防は激しくなりそうだ。
野党は25日、追及チームを格上げした「追及本部」の初会合を開く。立憲民主、国民民主、社民3党などの会派と共産党に加え、れいわ新選組も参加し、実態解明を進める。参院では、22日の予算委理事懇談会で参院規則に基づき集中審議の開催を要求。回答期限を26日とした。
与党は首相が20日の参院本会議で、招待者推薦に関与したと認めた点などを踏まえ「首相は十分に説明している」として収束を狙う。集中審議の開催には応じる気配を見せない。 
●「桜を見る会」新疑惑…招待者名簿廃棄の5カ月後に文書保存基準を変更  11/24
政府が4月の「桜を見る会」の招待者名簿を5月9日に廃棄した約5カ月後の10月28日、文書保存基準の内規を変更していたことが23日、分かった。内閣府は曖昧な基準を明確にしたと説明するが、10月28日は野党が追及の動きを強めた時期と重なる。野党は「追及をかわすため、後付けで規定を変えた」と猛反発している。内閣府が野党に示した公文書管理に関する資料で判明した。
内閣府は10月28日、内規で定めた文書保存期間を改正して「行事等の案内の発送等」との区分を新設。ここに桜を見る会の招待者名簿が該当するとした。保存期間は1年未満とされていた。改正で対象を具体的にしたとした上で、名簿の廃棄について「変更前の基準でも保存期間は1年未満とされており、問題はない」と説明。改正前は同会の招待者名簿が「保存期間は1年未満」というカテゴリーに入るかどうか明確ではなかった。そのため、破棄してしまうと内規に抵触する恐れがあった。野党が手に入れようとしていた招待者名簿を処分するため内規を変えたと捉えられても仕方がない。党幹部は「招待者名簿の廃棄を正当化できるよう後で内規を変更したのではないか」と批判を強めている。
公文書管理に詳しい東大の牧原出教授(政治学)は「廃棄のタイミングを含めて不適切。事後検証できない態勢になっているのが現政権の一番の問題。電子データはどこかにあるはずで調査を尽くすべきだ」と指摘した。
桜を見る会の招待者名簿は、共産党議員が提出を要求した当日の5月9日、シュレッダーで廃棄された。なぜその日だったのかという追及に内閣府の大塚幸寛官房長は「シュレッダー使用の順番待ちでそうなった」と仰天の答弁。都合の良いことが、次から次へと起こるものなのか。またも隠ぺいを疑われる内規の変更。国民の不信感は高まるばかりだ。 
 
 
 11/25

 

●名簿廃棄のシュレッダーは高性能 11/25
今年の「桜を見る会」の招待者名簿を、内閣府が野党議員による資料要求の日に廃棄した問題で、使った大型シュレッダーが千枚の紙を40秒程度で処理できる高性能機種のため「他局の使用が重なり空きがなかった」とする内閣府の説明に、順番がすぐに回ってきたはずだと疑問が強まっている。野党は証拠隠滅ではないかとして、予約状況や使用履歴を示す資料の提出を求めている。
内閣府会計課によると、大型シュレッダーは共用で、大手事務機器メーカー「ナカバヤシ」の特注。ナカバヤシによると、同社のシュレッダーでは最も大型で、1時間で約550キロの紙が処理できる。 
 
 
 11/26

 

●桜を見る会 名簿廃棄は資料請求後 内閣府「職員は請求知らず」  11/26
総理大臣主催の「桜を見る会」をめぐり、野党の追及本部の会合が開かれ、内閣府はことしの招待者名簿を廃棄したのは、野党議員が資料を請求したあとだったと明らかにした一方、「廃棄をした職員は資料の請求を知らなかった」と説明しました。
立憲民主党など野党の「桜を見る会」の追及本部は、26日会合を開き、出席した議員らはことしの招待者名簿が野党議員が資料を請求したのと同じ日に廃棄されたいきさつについて質問しました。
これに対し内閣府の担当者は、シュレッダーで廃棄したのは5月9日の午後で、共産党の議員が資料を請求した直後だったことを明らかにしました。
一方で、「資料請求は昼すぎだったが、廃棄をした職員はそのことを把握していなかった。シュレッダーの予約は資料請求より前の4月22日に行っていた」と説明しました。
また、出席した議員が、「オーナー商法で多額の資金を集め、経営破綻した『ジャパンライフ』の幹部が、安倍総理大臣の招待で参加していたのではないか」とただしたのに対し、担当者は「特定の個人が参加したかどうかは答えられない」などと述べました。 
●首相枠減「確認できず」 桜を見る会、名簿廃棄で 11/26
菅義偉官房長官は26日の記者会見で、首相主催の「桜を見る会」をめぐり、平成26年は3400人だった首相や官房長官らの推薦枠が、今年は計約2千人になっているのは過少説明ではないかとの野党の指摘に釈明した。「招待者名簿は既に廃棄しており、確認できていない」と述べた。
首相や官房長官らの推薦枠には「自民党関係の推薦も数多く入っていると思う」と述べ、内訳を明確に区分するのは難しいとの認識も示した。
政府は26日の閣議で桜を見る会について「意義あるものという考えに変わりはない」とする答弁書を決定した。「各界で功績、功労のあった方々などを招き、親しく懇談する内閣の公的行事として開催している」と強調した。立憲民主党の熊谷裕人参院議員の質問主意書に対する回答。 
●「桜を見る会」名簿廃棄の経緯をヒアリング 11/26
首相主催の「桜を見る会」をめぐり、野党の追及本部は、招待者名簿を廃棄した経緯について、内閣府からヒアリングを行った。
内閣府は、ことしの「桜を見る会」の招待者名簿を、共産党議員が資料要求をした5月9日当日にシュレッダーで廃棄していた。
26日のヒアリングで、内閣府は、担当者がシュレッダーの予約を取ったのは4月22日だったと明らかにした。その上で、シュレッダーの予約が立て込んでいたため、実際に廃棄したのは5月9日の、共産党議員からの資料要求の直後になったと改めて説明した。
立国社・会派 山井議員「宮本議員の質問通告の直後に、招待者名簿を廃棄したということでよろしいですか」
内閣府・担当者「宮本先生の資料要求があったことを知っていた者が廃棄したわけではございません」
立国社・会派 山井議員「客観的事実としては、宮本議員の質問通告の直後に、シュレッダーで招待者名簿が廃棄されたという事実関係でいいですね」
内閣府・担当者「時間の流れという意味では、そういうことにはなりますけれども、廃棄した職員は、すでに取ってあった予約の時間にシュレッダーをかけたと」
野党側は、引き続き、証拠隠滅の疑いがあるとして、シュレッダーの予約表の提出や消された電子データの復元を求めている。 
●「15,000人名簿」30秒で細断 大型シュレッダー、野党視察―桜を見る会 11/26
立憲民主党など主要野党でつくる首相主催「桜を見る会」追及本部のメンバーは26日、内閣府が招待者名簿廃棄に使った大型シュレッダーを視察した。約1万5000人分の今年の招待者名簿に見立てて野党が用意したA4判約800枚を30秒程度で細断。野党は、順番待ちで廃棄までに時間を要したとの内閣府の説明に疑念を強めた。
内閣府は4月13日の桜を見る会の招待者名簿を5月9日に廃棄したと説明。共産党が資料要求した日と重なり、野党は隠蔽(いんぺい)の疑いがあると問題視している。内閣府は25日の視察要求は「予約がいっぱい」などと門前払いしていた。
視察したメンバーは、内閣府の担当者を国会に呼びヒアリングを実施。メンバーから「シュレッダーが空かずに処分が遅れたというのは極めて怪しい」などと疑問が続出したが、担当者は「年度末とか年度初めは予約でいっぱい」と反論した。  
 
 
 11/27

 

●桜を見る会 名簿廃棄、資料要求後 「別の担当課、知らず」 11/27
安倍晋三首相が主催した「桜を見る会」の今年の招待者名簿を巡り、内閣府は二十六日、野党の追及本部が国会内で開いた会合で、五月九日に名簿を廃棄した時間帯が、共産党の宮本徹衆院議員による関連資料要求よりも後だったことを明らかにした。廃棄と資料要求を担当した課が別だったため「廃棄の時点で、資料要求は知らなかった」と説明した。野党は「証拠隠滅だ」と改めて批判した。
内閣府によると、名簿の廃棄は大臣官房人事課が担当し、五月九日午後の早い時間帯に行った。一方、宮本氏の資料要求は同日正午すぎに大臣官房総務課が把握した。総務課は資料要求について速やかに人事課に伝えず、人事課の担当者が要求を知らないまま名簿を廃棄したという。
今年の招待者名簿については、内閣府が宮本氏から資料要求があった五月九日に廃棄したことを明らかにしていたが、廃棄の時間帯が資料要求よりも前か後かには言及していなかった。
自民党の二階俊博幹事長は二十六日の記者会見で招待者名簿について「後々の記録、来年の参考にもなるから、いちいち廃棄する必要はない」と苦言を呈した。
菅義偉(すがよしひで)官房長官は記者会見で、桜を見る会の招待客を巡り、首相や官房長官らの推薦が二〇一四年の約三千四百人から今年は約二千人に減っているのは過少説明との野党の指摘に対し「招待者名簿を既に廃棄しており、確認できていない」と釈明した。菅氏は、首相や官房長官らの推薦について「自民党関係者からの推薦も多く入っていたのではないか」との見方も示した。  
●桜を見る会名簿廃棄シュレッダー履歴「開示検討」 政府 野党公表要求 1/27
西村明宏官房副長官は27日午前の記者会見で、首相主催の「桜を見る会」の招待者名簿の廃棄に使われたとされる大型シュレッダーの予約表や使用履歴の開示について「開示の対象となる情報等を精査しつつ検討中だ」と述べた。
野党は、資料要求直後に招待者名簿が廃棄されたことなどから証拠隠滅の疑いがあるとして、予約表の開示などを求めている。 
●菅氏、名簿廃棄「隠蔽でない」 桜を見る会の推薦招待者 11/27
菅義偉官房長官は27日の参院本会議で、首相主催の「桜を見る会」を巡り、首相や官房長官らが推薦した招待者名簿が廃棄されたことに関し「あらかじめ決められた手続きに沿って廃棄したものであり、組織的な隠蔽との指摘は当たらない」と述べた。
菅氏は、保存期間1年未満の文書と設定されていると強調。「会の終了で使用目的を終えることに加え、全て保存すれば、個人情報を含んだ膨大な量の文書を適切に管理する必要が生じる」と語った。共産党の山添拓氏への答弁。  
●日本の首相、公文書と、巨大なシュレッダーをめぐる奇妙な話 11/27
 The strange tale of Japan’s prime minister,
 official documents and a very large shredder
国が主催し物議を呼んだ会合の招待者名簿。シュレッダーで廃棄された。
首相官邸への訪問者名簿。シュレッダーで廃棄された。
南スーダンやイラクで日本の自衛隊が遭遇した危険な状況を記録した日報。シュレッダーで廃棄されたといわれていたが、後で見つかった。
安倍政権をあわや失脚させた学校スキャンダルに関わる重要書類。改ざんされものもあれば、シュレッダーで廃棄されたものもあった。
日本では今、安倍政権の公文書に対する秘密主義の姿勢と、一度に1000頁もの書類を細断することが可能な業務用シュレッダーの関わりがトップニュースとして騒がれ、野党やマスコミが追及する状況となっている。
安倍は先週、日本で最長の在任期間を誇る首相となった。しかし、数百人もの支援者やお仲間を呼ぶために、毎年桜の開花時期に開催される国主催の会合を私的に利用した疑いが噴出し、支持率は低下している。
25日、野党議員らのグループは内閣府を訪問し、政府の隠蔽体質の象徴となっている巨大な業務用シュレッダー(ナカバヤシ社のNSC-7510マークIIIだとみられている)を視察しようとしたが、この試みは失敗に終わった。門前払いに遭った翌26日、議員グループは訪問に成功し、シュレッダー機の性能を検証した。結果、800頁の訪問者名簿であれば30秒程度で細断できることが判明した。
シュレッダー機は内閣府の各部署にもあると、政府関係者らは言う。
”何であれ疑惑が表面化すると、焦点の文書は「もうない」「破棄した」と強弁する。現政権下を生きぬく官僚たちの知恵なのか。”──と。
毎年4月、東京の『新宿御苑』にて首相主催で開催される「桜を見る会」の招待者数は、”持続可能な規模を超えている”。
野党議員らはこう指摘する。
今回の開催には1万5000人もの人びとが招かれ、その総費用は5500万円にも及んだ。
与党自民党の議員らは招待券で優遇された。
「桜を見る会」には、組織犯罪勢力(反社会的勢力)のメンバーとみられる人物や、前の会社で高齢者に対する投資詐欺の疑いをかけられた実業家も招待され、政治家や外交官、著名人やその他の公人らとともに、満開の桜を満喫した。
屋外で行われた会の『前夜祭』として東京のホテルで行われた会合についても疑念が持たれた。
5月9日、共産党の宮本徹衆院議員は内閣府に招待者名簿の開示を要求したが、招待者の個人情報を守る名目ですでにシュレッダーで廃棄されていたことを知らされた。
ところが後になって、この800頁もの書類がシュレッダーで廃棄されたのは、宮本議員が要求した5月9日当日であったことが判明。当日以前の電子履歴データも削除されていた。
これをまったくの偶然だと、政府は言い張る。シュレッダーの利用には事前予約が必要で、都度その場で使用することはできない、と。
「招待資格のない者が名簿に含まれていることがわかれば、それは違法行為となる可能性がある。その意味では、名簿は証拠の一部といえる」
「総理主催『桜を見る会』追及チーム」の一員である立憲民主党の黒岩宇洋衆議院議員はこう述べた。
米国では、「大統領記録法」により、大統領が触れた文書はすべて歴史上の記録として国立公文書館に保管することが規定されている。
しかしワシントンにはワシントンの問題がある。米政治誌「ポリティコ」によると、トランプは紙をばらばらに引きちぎってゴミ箱に捨てる癖があるため、これを元の状態に復元する専門のチームが設けられているという。
「情報の自由度」という点では、1999年に「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」を成立させてはいるものの、日本は米国を含む欧米の民主国に大きく遅れをとっている。
問題は、2012年に安倍が復権して以来、これらのルールが組織的に破られ続けており、規定が守られてなくなっていることだと専門家は指摘する。
上智大学政治学部の中野晃一教授はこう言う。
「不都合な事実を隠蔽するために関連文書を改ざんしたり廃棄したりするというのが、繰り返し行われるようになり、もはやパターン化している」
「自分たちの都合のいいようにルールを変えることで時計の針を戻したり、公記録について具体的な改善を見せずとも責任を回避する術を体得してきた。『ルールを破ること』と『ルールを変えること』の合わせ技を繰り出すようになった」
「これは7年にも及ぶ行政と官僚の私物化の産物の一つだが、安倍首相個人の人格の作用であるともいえる。安倍の在任期間が長くなるほど、その傾向は顕著になる」
これに前出の黒岩議員はこう加える。
「首相のおごりの表れでもある」
日本の法律では原則、公文書は最低でも1年間は保管する規定となっている。ただし、適切であると認められれば、保存期間が1年未満の公文書でも官僚の自己裁量で処理することが許されている。
野党の懸念するポイントの一つだと、黒岩議員は言う。
今月初め、安倍は突然、運用の見直しを行うことを前提に来年度の「桜を見る会」の開催を中止すると発表した。しかし、これは国民の信頼を取り戻すことにはつながっていない。 
 
 
 11/28

 

●野党が資料要求した1時間後に名簿細断開始 桜を見る会 11/28
今年4月の首相主催の「桜を見る会」の招待者名簿が野党議員が同会に関連する資料を要求した5月9日に廃棄されたことをめぐり、内閣府は28日、4月17日から5月15日までの廃棄に使った大型シュレッダーの「使用者記録表」を野党の追及本部の会合で公開した。廃棄した当日の使用回数は2回だった。
政府側は開催から約1カ月後の5月9日に廃棄した理由を「各局の使用が重なって調整した結果」と説明。野党側は共産党の国会議員から資料要求があったため国会の追及を逃れようと意図的に廃棄した可能性があるとして、「使用が重なった」ことを裏付ける資料の公開を求めていた。
今回公開された記録表は手書きで、日付、使用開始時間、終了時間、廃棄量(袋数)の項目があり、部局名や使用者の名前は黒塗りで提出された。
それによると、1日あたり4〜5件程度、おおむね1〜2時間程度使用されていた。政府はこれまで、「4月22日に(使用)予約を入れた」と説明。この日の会合では、5月9日の午後1時20分に利用を開始。1時間25分かけて12袋分の資料を細断したと説明した。この日の使用は2回だった。
野党側は、政府が使用が重なったとする大型連休前でも1時間半程度の「隙間がある」と指摘。5月7、9日の午前には使われた記録がなく、野党議員が資料要求した約1時間後に廃棄を始めていることなども疑問視した。「予約表と使用表をすりあわせないと納得できない」などとして、4月22日時点での予約状況を確認するため、改めて「予約表」の提出を求めた。 
●「桜を見る会」野党 招待者名簿廃棄の記録は不自然と指摘  11/28
「桜を見る会」の招待者名簿を廃棄した内閣府のシュレッダーの使用記録について、野党の追及本部では、当日よりも前に稼働していない時間帯があるにもかかわらず、野党議員が資料請求をした直後に廃棄しているのは不自然だという指摘が相次ぎました。
総理大臣主催の「桜を見る会」をめぐり、野党は、追及本部の会合を開き、招待者名簿などの資料の廃棄に使った内閣府のシュレッダーのことし4月中旬から5月中旬までの使用記録などについて政府側をただしました。
使用記録には、5月9日の午後1時20分から2時45分まで、人事課が使用したと記載され、内閣府は、ここで資料を廃棄したとしています。
これについて議員からは、当日よりも前に稼働していない時間帯があるにもかかわらず、野党議員が資料請求をしたおよそ1時間後に廃棄しているのは不自然で、大型連休後まで予約が取れなかったとするこれまでの説明には納得できないなどという指摘が相次ぎました。
これに対し、内閣府は「担当職員の勤務状況がつぶさには分からない」などと述べました。
また、桜を見る会当日のセキュリティー対策について、内閣府は、バスで訪れた団体に対し、手荷物検査などをそれぞれの引率者側に委ねていたほか、8時半の開門前に会場に入れたケースもあることを明らかにし、今後、見直す方針を示しました。 
 
 
 

 

 
 

 

 
 
 
 

 

●「忖度史」諸話
 
 
 
他人の心情を推し量ること、また、推し量って相手に配慮することであるが、特に、立身出世や自己保身等の心理から、上司等、立場が上の人間の心情を汲み取り、ここに本人が自己の行為に「公正さ」を欠いていることを自覚して行動すること、の意味で使用される 。「忖」「度」いずれの文字も「はかる」の意味を含む。2017年には政治問題に関連して広く使用され、同年の「新語・流行語大賞」の年間大賞に選ばれた。
辞典編集者の神永曉によれば、そもそも「忖度」という言葉は、すでに中国の古典『詩経』に使用されており、平安時代の『菅家後集』などにも存在が確認されている。明治期にも使用例があるが、しかし、この頃には、単に人の心を推測するという程度の意味しかなく、相手の気を配って何か行動するという意味合いはなかったという。
毎日新聞の記事によれば、1990年代には「忖度」という言葉は、脳死や臓器移植といった文脈でしばしば用いられていたが、この際もやはり患者の生前の意思を推量するというもともとの意味で使用されていた。ところが、1997年夏の時点になると、毎日新聞の記事においても、小沢チルドレンが小沢一郎の意向を「忖度」するというような記述が見つかり、上位者の意向を推し量る意味合いでの「忖度」の用例が見つかった。政治家に「忖度」という言葉が初めて使われた事例である。日本語学者の飯間浩明も、2006年12月15日の朝日新聞の社説において、上位者の意向を推し量る「忖度」の用例を採集している。そして、飯間によれば、2014年以降にはNHK会長の籾井勝人の意向をNHK職員が「忖度」するという用例もしばしば報道に見られるようになり、「忖度」という言葉には否定的なニュアンスが含まれるようになっていた。
2017年2月に表面化した学校法人森友学園への国有地格安売却問題(森友学園問題)をめぐって、同年3月23日、同学園の籠池康博理事長が証人喚問ののちに日本外国特派員協会で行った記者会見で、「口利きはしていない。忖度をしたということでしょう」「今度は逆の忖度をしているということでしょう」と発言した。これにより、この言葉は同問題に関する報道で多用されるようになり、検索数も急上昇した。
その後、引き続いて表面化した加計学園問題の報道でも用いられる。
流行に便乗した商品として、大阪市のヘソプロダクションが饅頭に「忖度」の文字を刻印した「忖度まんじゅう」を発売し話題となった他、ファミリーマートが弁当「忖度御膳」を発売するなどの動きもあった。
同年12月1日に発表された「新語・流行語大賞」では、「インスタ映え」とともに年間大賞に選出された。なお、実際に流行語大賞を受賞したのは上述のヘソプロダクション代表取締役の稲本ミノルである。また、12月3日には三省堂「今年の新語2017」大賞に選ばれた。その他には、Yahoo! JAPANの「Yahoo!検索大賞2017」カルチャーカテゴリー・流行語部門の受賞ワードにもなっている。  
 
 
 2019

 

●「新聞記者」が発端…「宮本から君へ」助成金の忖度不交付 2019/11
安倍政権下での「忖度」が、芸術・文化の分野でエスカレートしている。「KAWASAKIしんゆり映画祭2019」では、“安倍友”文化人をこきおろした映画「主戦場」に対して共催の川崎市からストップがかかり、一時は上映中止となった(多数の抗議を受け復活)。
また文化庁は、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」に対し、内定していた補助金の不交付を発表。さらに映画「宮本から君へ」に対する1000万円の助成金も突然取り消した。文化庁所管の日本芸術文化振興会によれば、麻薬取締法違反で有罪判決が出たピエール瀧被告の出演が理由という。だがこれまで振興会の助成金取り消しの前例はなく、あわてて交付要綱を今回の決定に沿って改正する後出しの対応が厳しく批判されている。こうした背景について映画批評家の前田有一氏はこう言う。
発端は映画「新聞記者」の大ヒット
「すべての発端は、加計学園問題をモデルにした映画『新聞記者』が興収ベストテンに食い込む大ヒットをしたことです。これまで、この手のガチ政府批判映画が国内で話題になったことはありませんでした。さらに安倍首相を揶揄したとおぼしき『記憶にございません!』も3週連続1位を達成。テレビやマスコミの“アンダーコントロール”に自信を持つ官邸も、よもや映画界からの“反乱”は想定外で、震撼したのではないでしょうか。今回助成金を取り消された『宮本から君へ』は『新聞記者』と同じ河村光庸プロデューサーによる作品で、彼は映画の宣伝であちこちで政治批判を繰り広げている。そのため“狙い撃ち”されたのだろうと、もっぱらの評判です」
新井英樹による90年代の人気コミックを、昨年のTVドラマ化に続いて同じスタッフ、キャストで映画化。池松壮亮演じる不器用ながら正義感の強い営業マンが、最愛の女性・靖子(蒼井優)を目の前でレイプした巨漢の男と決闘し、真実の愛を証明しようとする熱い人間ドラマだ。
「ヌードまで披露した蒼井優や、ノースタントで非常階段にぶら下がる超危険なアクションをこなした池松壮亮など、役者と真利子哲也監督の本気が伝わる久々の日本映画で、誰が見ても公的助成にふさわしい品質です。レイプ犯の父親役で類いまれな存在感を示したピエール瀧の麻薬逮捕事件にしても、発覚したのは映画完成後の話。だいたいR15+指定で子供はもともと見られないので、“国が薬物使用を容認”したと誤解される、などという文化庁の不交付理由は言いがかりに近い」(前田氏)
嫌がらせのような助成金不交付報道で、公開1カ月を過ぎた今も都内の映画館は満員御礼。結果的には1000万円分以上の話題性と注目を集めた格好だ。いくら政権に忖度しても、もはや潮目は変わりつつある。 
●だれもが首相を忖度する日本政治の異常さ  2019/4
「私はすごくものわかりがいい。すぐ忖度する」
国土交通省の塚田一郎副大臣(自民)が、「忖度発言」の責任を取って4月5日に辞任した。NHKによると、塚田氏は4月1日、北九州市で開かれた福岡県知事選挙の候補者の集会で、山口県下関市と北九州市を結ぶ道路整備をめぐって、次のように話したという。
「皆さんよく考えてください。下関は誰の地盤か。安倍晋三総理大臣だ。安倍晋三総理大臣から麻生副総理の地元への、道路の事業が止まっているわけだ。
吉田参議院幹事長と大家敏志参議院議員が副大臣室に来て、『何とかしてもらいたい』と言われた。動かしてくれということだ。
吉田氏が私の顔を見て、『塚田、分かっているな。これは安倍総理大臣の地元と、麻生副総理の地元の事業なんだ。俺が、何で来たと思うか』と言った。私はすごくものわかりがいい。すぐ忖度(そんたく)する。
総理大臣とか副総理がそんなことは言えない。森友学園などでいろいろ言われているが、そんなことは実際ない。でも私は忖度する。
それで、この事業を再スタートするためには、いったん国で調査を引き取らせてもらうことになり、今回の予算で国直轄の調査計画に引き上げた」
安倍首相と麻生氏の2人にも責任が問われる
塚田氏は翌日になって「発言内容は事実と異なる」と撤回したが、安倍首相や麻生氏の意向を推し量って道路工事に国民の税金を使う方向付けをしたことが疑われる内容である。
塚田氏は1963(昭和38)年12月生まれの55歳。新潟県知事や衆院・参院議員を務めた故塚田十一郎(といちろう)氏の五男だ。2007(平成19)年に参院議員(新潟選挙区)選挙で初当選。昨年10月の第4次安倍改造内閣で、国土交通副大臣に就任していた。
副大臣の職を辞するのは当然だ。いや、それだけでは足りない。国会議員も辞め、一から出直すべきである。塚田氏の政治家としての資質が大きく問われている問題だからだ。
塚田氏はネット上に自らの短所を「慎重すぎる所」と書いている。こんな発言をする性格のどこが慎重なのか、あきれてしまう。
塚田氏は麻生氏の秘書を経験した後、麻生派の国会議員として政治家になった。直接の親分は麻生氏であり、その上に麻生氏の朋友である安倍首相がいる。塚田氏以上に責任が問われるのは、安倍首相と麻生氏の2人のはずである。
日本という国が「忖度」で動いてしまっている
安倍政権では度々、忖度が問題になってきた。
森友学園の問題では、約8億2000万円という破格の値引きで国有地が売却された。値引き問題が発覚した後に、財務省は名誉校長に就任していた安倍首相の妻の昭恵氏の名前を決裁文から削除するなどの改竄を行った。
加計学園の問題では、獣医学部の新設をめぐって「総理のご意向」と内閣府が文部科学省に伝えた文書が見つかった。加計学園の理事長は安倍首相の古くからの友人で、便宜が図られたのでないのかとの疑いが持たれた。
そのほかにも、厚生労働省の「毎月勤労統計」の問題でも忖度が働いたのではないかという指摘があった。
いま日本という国は、安倍首相や首相官邸の意向を忖度する形で動いてしまっている。
大島理森・衆院議長も「安倍政権1強」に猛省を促した
昨年末、臨時国会で安倍首相と与党自民党が外国人労働者を拡大する改正入管法を成立させた。野党やメディアの強い反対があったにもかかわらず、審議は短時間で済まされ、安倍首相は数の力で押し切った。反対する声に全く耳を傾けなかった。
こうした強引さは、ここ数年続いてきた。その事態を象徴するのが、昨年7月の大島理森(ただもり)衆院議長の談話の発表だった。
大島氏は「民主主義の根幹を揺るがす問題だ。国民の負託に十分に応える立法・行政監視活動を行ってきただろうか」と嘆いた。
大島談話の直接のきっかけは、前述した財務省による決裁文書の改竄だったが、大島氏は「安倍政権1強」が生んだ忖度に対し、猛省を促したのだ。
昨年9月の自民党総裁選で安倍首相は3選を果たした。しかし私たち国民が1強政権を認めたわけではない。政治は安倍首相のためにあるのでなない。安倍首相が国民のことを本当に考えているというのなら、安倍首相自身が「1強」の驕りを自覚し、謙虚になる必要がある。今回の塚田氏の忖度発言をきっかけに深く反省してほしい。忖度は安倍1強が生んだ落とし子である。
「下関北九州道路」は安倍首相と麻生氏の地元をつなぐ道路
塚田氏の辞任について、朝日新聞の社説(4月6日付)は次のように指摘する。
「政権・与党は国会審議や統一地方選への影響を最小限に抑えたいようだが、予算の背景に政治的な配慮があったとしたら見過ごせない。これで幕引きではなく、国民が納得できる説明が必要だ」
塚田氏の辞任は、トカゲの尻尾切りと同じだ。トカゲの胴体である安倍首相や麻生氏をたたくべきだ。
問題の「下関北九州道路」は、山口県と福岡県、つまり安倍首相の地元と麻生氏の地元をつなぐものだ。2008年に凍結されたが、2017年度に地元自治体と国による事業化調査がスタートし、本年度からは海峡横断プロジェクト6ルートで唯一国の直轄となった。朝日社説は指摘する。
「塚田氏は福岡県知事選の自民党推薦候補の集会で、自民党の吉田博美参院幹事長から『これは総理と副総理の地元の事業だ』と言われ、自らが忖度して国の直轄調査にしたと語った」
「発言が問題になった後、『大勢が集まる会だったので、われを忘れて、事実とは異なる発言をした』と釈明したが、にわかには信じがたい。吉田氏との面会には、国交省の幹部職員も同席した。当時の記録を公開し、実際にあったやりとりを明らかにすべきだ」
自らの性格を「慎重すぎる」という塚田氏が、「われを忘れる」のはやはり信じがたい。公的記録をもとにことの真相をはっきりさせるべきである。
「罷免するどころか、かばい続けた首相の責任は重い」
朝日社説の後半は、矛先が安倍首相と麻生氏に向けられる。
「16年3月に与党議員が国交相あてに提出した早期実現を求める要望書には、首相も名を連ねていた。首相は『知らなかった』というが、調査を復活した経緯は、その妥当性も含め、検証されねばならない」
「この間、塚田氏を罷免するどころか、かばい続けた首相の責任は重い」
「麻生氏はいまだに公文書改ざんなどの責任をとらず、財務省トップの座に居座り続けている。首相はそのことを問題視する風もない」
「首相は塚田氏の辞任を受け、『一層気を引き締めて、国民の負託に応えていく』と記者団に語った。政権のおごりや緩み、政治責任を軽視する体質が本当に改まるのか、厳しく注視し続けねばならない」
本当に安倍政権の驕りが改善されるのか。沙鴎一歩も疑問である。
読売も「思慮を欠く発言にあきれる」と突き放す
次に読売新聞の社説(4月6日付)を見ていこう。見出しが「思慮を欠く発言にあきれる」で、こう書き出す。
「職責の重さを自覚しない発言にあきれるばかりだ。辞任を巡る安倍内閣の対応も後手に回った。緊張感を欠いていると言わざるを得ない」
安倍政権擁護の読売社説もかばいようがないようだ。
さらに「公共事業を所管する副大臣として、資質を疑う。野党は国会で追及する構えを取っており、自民党内でも統一地方選や夏の参院選への影響を懸念する声が強まっていた。事実上の更迭とみられる」と書く。
更迭はいいが、トカゲの尻尾切りでは困る。
「長期政権ゆえの驕りや緩みが目立つ」
読売社説は「塚田氏が発言したのは、福岡県知事選での新人候補の集会だ」と指摘しながら解説する。
「現職に麻生氏が推す新人が挑む保守分裂の構図だ。麻生派の塚田氏は、劣勢とされる陣営をテコ入れしようとして、政権の取り組みを誇示したのだろう。利益誘導を図ったと受け取られかねない」
「首相は当初、続投させる考えを明言していた。対応が遅れた背景には、塚田氏が参院新潟選挙区で改選を迎えるという事情もある。定数減で1人区となっており、選挙直前の辞任は避けたいとの判断が働いたのではないか」
塚田氏の選挙に勝つための利益誘導と安倍首相の選挙対応。いずれも党利党略であり、国民のことなど考えていない。読売社説の指摘は当を得ている。
さらに読売社説は「長期政権ゆえの驕りや緩みが目立つ。惰性を排して、政策面で結果を出さねばならない」とも主張する。
これまで沙鴎一歩は読売社説を「安倍政権擁護の社説だ」と批判することもあった。だが、今回の読売社説を読んで、まだ捨てたものではないことが分かった。  
●相も変わらず「忖度」できる大人が栄耀栄華を極める日本社会 2019/4
こんな「忖度」ばかりの世の中で
春休みの子供たちが、朝から浮足立っている。  
いよいよ刻限が近づくとテレビの前に2人揃って正座して、「まだ官房長官こないの?」「もうそろそろのはずなんだけどなぁ」とヤキモキしている。いざ新元号の発表となると、「令和だって。なんかしっくりこないね」「でも、書きやすい漢字でよかったね」とウキウキしながら感想を語り出した。  
こういうとき、素直に楽しめるのは子供の特権だろう。作為的でアーティフィシャルな演出にまみれたものであっても、子供は「歴史的瞬間」を素直に喜ぶ。そういうものの裏に潜む、人為や意図やメッセージを考えられるようになることを「世知辛い」といい、世知辛さを知った者を大人と呼ぶのだ。
「お前ら、こんなことで喜んでちゃいけないよ」と言いたくなるのは世知辛さを通り越して、物を考え物を書く人間の職業病。子供が喜ぶ姿を微笑ましく見守るのが親の責務というものだ。行きすぎがあればそのとき、指摘すればいい。  
しかし、どこかで説教してやろうと、手ぐすね引いて待っていた私の心配はどうやら杞憂だったようだ。
践祚もしてないのに大はしゃぎする世論
テレビは新元号発表に沸き立つ街角を中継している。それを見て小3になる下の娘が、こう言った。
「みんな喜びすぎよね。まだ、平成が終わったわけじゃないのに。天皇陛下、かわいそう」  
大人はこうはいかない。大人になると素直に誰かの気持ちを慮(おもんばか)ることが難しくなる。あらゆる事象に政治的意図を勝手に読み込み、政治的に動くのが大人という生き物だ。  
朝日新聞によると、二松学舎大学の石川忠久元学長も、政府から新元号考案の委嘱をうけていたという。石川学長は我が国における漢詩研究の第一人者。漢籍から考えた案ではなく、聖徳太子の十七条憲法にある「和をもって貴しとなす」から採った「和貴」を見せたとき、政府の担当者は「首相も喜びます。これでいきましょう」と言ったそうだ。こういう判断が即座にできることを「大人」というのだろう。
「忖度できる大人」が栄耀栄華を極める現代社会
「大人」といえば、総理の地元である下関と麻生財務大臣の地元である北九州を結ぶ高速道路の計画を「物わかり」よくすぐ「忖度」し、前に進めるよう指示を出したと嘯うそぶく国交副大臣もいた。  
この発言が問題になった当初、安倍首相は、この副大臣を辞職の必要はないと庇った。これも「大人」の対応なのだろう。しかし統一地方選挙が近づき、自民党のイメージダウンにつながるとの声が与党内からも上がると、塚田一郎国土交通副大臣は辞表を提出し辞職した。この辞職もまた、空気を読んだ忖度の果ての辞職に違いない。  
近頃はこの種の「大人」が栄耀栄華(えいようえいが)を極めるのだという。  
新元号は「忖度」――。そっちの2文字の方が、「立派な大人」の皆さまには、よほど似つかわしい。 
 
 
 
 2018/7-

 

●日本人が忖度から逃れられない、本質的な理由 2018/12
ムラ社会では、それぞれの善悪がある。多くの問題は、悪vs悪ではなく、自分たちが信じる善vs善の対決だ。この終わりのない衝突を解決するために、昔から日本社会で採用されてきた方法こそ、忖度だ。ムラ社会に所属する限り、忖度からは決して逃れられない……。15万部のベストセラー『「超」入門 失敗の本質』の著者・鈴木博毅氏が、40年読み継がれる日本人論の決定版、山本七平氏の『「空気」の研究』をわかりやすく読み解く新刊『「超」入門 空気の研究』から、内容の一部を特別公開する。
ムラごとに「善悪の基準」が違う ムラ社会では、それぞれの善と悪がある
日本はムラ社会だと言われます。産業や共同体ごとに、ある特定の集団を形成しています。ムラの特徴は何かと言えば、その共同体が「独自の善悪」を設定していることです。
Aというムラ(集団)ではこれが善、これが悪、一方でBというムラではまったく別のものが善、悪とされていることがあります。
政治家の善と国民の善は同じではないかもしれません(正反対のこともあるでしょう)。同様に特定の利権産業団体にとっての善が、市民にとって悪であることもあります。この点を、山本七平氏は次の言葉で表現しています。
・・・何よりも面白いのはまず「資本の論理」と「市民の論理」という言葉が出て来たことであった。・・・
上はイタイイタイ病という公害病に関して、山本氏が『「空気」の研究』で述べた一文です。この公害病の議論で、科学上のデータをどう扱うかを観察していたとき、山本氏が気付いたのは、双方が別の論理で公害病を捉えようとする日本社会の姿だったのです。
“父と子の隠し合い”で、ムラに不都合な現実を無視する
イタイイタイ病の、もう一つのエピソードも紹介されています。ある取材者が現地で取材をしたとき、現地の人から逆にこう聞き返されたのです。
・・・最初にきかれたことが『あなたは、どちら側に立って取材するのか』と言うことであった。これは簡単にいえば、どの側と“父と子”の関係にあるのかということであろう。・・・
「資本のムラ」にいる人は、企業体にとって不都合なことをすべて無視します。逆に「市民のムラ」にいる人は、市民にとって重要なことしか受け入れないのです。
取材を何度か受ける中で、現地の人たちはこのムラの構造に気付いたのでしょう。
ちなみに、父と子の関係とは、『論語』の「孔子曰く、我が党の直き者は、是に異なり、父は子のために隠し、子は父のために隠す、直きこと其の中にあり」の言葉からきています。「党」とはここでは村を指します。あるムラでは父が羊を盗んだとき、子どもは父のために窃盗の事実を隠した、それが(親子の間の)正直さだとしたのです。
特定の産業ムラに属している人間は、社会通念や市民生活ではなく、その産業ムラが正義と信じる利益を善として、その反対を唱える意見や活動を悪と規定します。
ムラそれぞれの独自の善悪の規定は、ムラの空気(ある前提)とも言えます。ムラの善悪にそぐわない現実は、「父と子の隠し合い」で、無視してムラを守るのです。
日本には「共通の正義」は存在しない
このようなムラでは、ムラの善悪を決める人物とそれに従う村民の関係になり、山本氏が指摘した「一君万民」の世界となります。
ムラには独自の善悪基準(前提)があり、別の表現をすれば、ムラごとに「独自の物の見方」を持っていることになります。この物の見方が「情況」だと考えると、どのムラに所属しているかで、善悪の規定が変わる「情況倫理」にならざるを得ません。
「情況」=特定の物の見方
「情況倫理」=物の見方に影響を受ける倫理
「一君万民・情況倫理」の世界は、集団倫理の世界である。この世界は結局、いくつかの集団に分裂し、その集団の間には、相互の信頼関係は成り立ち得なくなる。
   ムラごとに変わる倫理観
日本のムラ社会では、どの集団に、どんな形で所属しているかによって、倫理基準が変わってしまうのです(もちろん自分の倫理を保って流されない個人も存在します)。
では、ムラ社会の日本に欠けているものとは何でしょうか?
異なるムラを横断的に貫くことができる、「共通の社会正義」です。
ムラを横断的に貫く共通の社会正義が日本に確立されると、ムラごとの主張が衝突したときに、どちらのムラの主張がより正しいかをその社会正義から判定できます。
ところが、日本社会はこの横断的な社会正義を構築するのではなく、別の形で複数のムラの問題を解決してきたと、山本氏は指摘しています。それが「一君万民」の支配体制を横に広げていく世界です。
ウソをつくことが、正直者だとされるムラ社会の歪み
山本氏の「一君万民」と類似の指摘をしている書籍があります。天谷直弘氏の『叡智国家論』です。
天谷氏は、1970〜80年代に、日米貿易協議などで活躍した日本の官僚で、歴史研究家の一面を持ち、複数の著作を残しています。
天谷氏は、歴史上日本では、二つの勢力が衝突した際に、勝った側が正義であるという結果主義とは別に、もう一つの方式を採用してきたと指摘します。
・・・義と不義とを分かつもう一つの簡便な方法は、「お墨付き方式」である。交戦当事者よりも高い次元の存在者を認め、その「お告げ」によって、どちらの側に正義が存在するかを決める。・・・
学校なら、生徒同士の衝突では、どちらが正しいかは先生が決めるイメージです。会社であれば、社長のお墨付きがあるほうが、正義というわけです。
平家と源氏の戦いなどでも、武士は争って天皇のお墨付きを求めました。これは幕末、1800年代の日本の内戦でも同様です。
・・・彼らが院宣のたぐいを欲しがったのは、それをもらった側に義があるという共通の意識が、当時の日本社会に存在していたからであろう。・・・
正義をよそに、まずは当事者よりも高い次元の存在からの「お墨付き」をもらうことに執心する。このような社会慣習は、忖度などの行動を日本社会に誘発しやすいのです。このようなムラ社会では、ムラ独自の善悪に沿ったウソをつくことが正直者とされる一方で、公共の正義や公平性、社会全体への合理性をことごとく破壊してしまうことになるのです。
ムラごとに個別の善悪の基準(倫理)があり、その優劣基準を取り決めているのが「影響のより強い一君」であれば、争ってお墨付きをもらおうとすることも頷けます。
山本氏はこの点について少し難しい言葉で次のように触れています。
・・・情況倫理の集約を支点的に固定倫理の基準として求め、それを権威としそれに従うことを、一つの規範とせざるを得ない。・・・
情況倫理、つまり異なる「物の見方」を持つムラ同士が張り合う場合、どちらが正しいかを決めるため、それぞれの物の見方から超越した象徴をつくり、象徴としての権威からのお墨付きを得た側が、正義だとしてきたのです。
ムラ社会では生きるために空気を読む
日本では集団や組織、利権団体などが別々のムラを形成しており、集団ごとに倫理基準が違います。異なるムラの善悪が対立するとき、横断的な社会正義を追求するのではなく、より広い影響力を持つ一君に「お墨付き」をもらい問題を解決してきたのです。
   「空気を読む」を置き換える
   会社の空気を読む=会社の前提を理解する
   クラスの空気を読む=クラスの前提を理解する
   地域社会の空気を読む=地域社会の前提を理解する
   メディアの空気を読む=メディアの前提を理解する
例えば、業績改善のための会議が開かれたとします。しかし、あらゆる会議の空気は個別に違います。
挑戦的な新規事業に失敗したことで、業績が傾いたことに苦しんでいる会社ならば、「無謀な新規事業は絶対やらない!」という前提がその会議にあるのです。
そういう空気(前提)がある場で、業績回復に別の新規事業を提案するのは愚かでしょうし、「こいつ空気が読めてないな」となるでしょう。
この場合の空気を理解した提案は、効率化とコスト削減や、顧客のロイヤリティを高めること、既存顧客の深耕などでしょう。「新規事業で失敗した」という会社の前提(空気)に従っており、その前提に合わせた提案が受け入れられる確率が高いからです。
空気(前提)が共同体ごとに存在し、他の共同体と共通の社会正義、あるいは倫理基準は確立されていない。ある種の共通基準を満たすより、立場が高い人のお墨付きを得るほうが得をする。このような社会や組織では、忖度のような行為が流行してしまうのです。 
●忖度ってダメなの? 〜見えないスキル「ポジソン」で組織を動かそう 2018/7
ちょっと前だろうか、「ダークサイドスキル」(木村尚敬/日本経済新聞出版社)という本が話題になっていた。何気なくオンラインショップをチェックしていたときに、新刊としてレコメンドされたその本を、クリックしないわけがない。この本では、ビジネスを進めるためにはきれいごとだけでなく、「裏の顔」を持って周囲の人を動かしていくスキル(ダークサイドスキル)が必要であると語られている。読み進めるうちに、私が日々組織変革・風土改革の現場で実感し、戦っていることが言語化されていることに気付き、少しだけ自分を認めてもらったような気がしてうれしくなった。
組織を変えるプロジェクトを推進していると、実に様々な人に出会う。イケイケどんどんで、前向きに応援している“風”の人、周囲の声には耳も貸さず、自分の正義を押し通そうとする人、過去の成功体験に執着し“変わる”ことを遠ざけてスルーする人、「あの人がこう言っていた」と噂話でかき乱す人、今がチャンスと関係ないことでも変革だ!とこじつけて、自分だけ果実をとろうとする人、“変わる”という臭いを感じただけで誰彼かわまずかみつく人、そして冷静に状況を俯瞰しながら的確に必要な行動をとる人。誰と一緒に動くべきかは、言うまでもない。しかし、“変わる”、“変わろうとする”タイミングには、それまで築き上げてきた組織文化の負の部分が増大し、カオス度が増す。おなかが痛くなるくらいの“超”カオスだ。
そんな状況において、ときどき出会う“途中から登場する”タイプがいる。社内にはないスキルを持っていたり、会社が新たに取り組みたいことを異分野で成功させた経験がある中途入社社員など「外から来た人」だ。しかし残念なことに、この人たちの中には、「自分は論理的で、経験もあるので、正しい」という絶対的な自信や輝かしい実績とは裏腹に、プランがうまく進まないケースがある。彼・彼女の言い分がどんなに正しくても(正しいと本人が認識していても)、周囲からの協力を得ることができないことがある。そして、「この組織は、本当にダメだ、腐っている」(というような)渾身のフレーズを残して去っていくのだ。(もちろん、組織にも排他的なところがあることは、間違いないが)
上記のタイプは、多くの場合、
・会社の直近の歴史・過去を否定し、文化を一刀両断する。(本人は改善点を述べているつもり)
・自分の正義を振りかざし、反対意見を言ってくれる人の意見には耳を貸さない。(プロパー社員の言うことは、悪だと思っている)
・うまくいかないときは、他部門が言うことを聞かないせいだ、と言い張り、なぜうまくいかないかを冷静に分析しない。
・自分のセオリーに合致しないことは、一蹴する。
こんな行動をとりがちだ。
極端に書いているが、これが、彼・彼女らがつまづく要因を現していると思う。組織の中をうまく歩いていないのだ。こんな光景を目にしてきた私には、冒頭の「ダークサイドスキル」にピンとくるものがあった。
一方で、組織の中をうまく歩こうとしすぎた結果、自己利益ばかりに目がいってしまうケースがある。少し前に話題になった「忖度」などは、まさにそのいい例だろう。先日、当社で開催しているTGIF(Thank God It’s Friday ソフィアなんでも話す会)において、この「忖度」という言葉がテーマにあがった。
「忖度って、ダメなの?」こんな問いかけから議論が始まった。明らかに無駄な業務やサービスが「上役が気に入っているから」という理由でいつまでもなくならない、提案が上申されるうちにまったく別物になってしまった、というお客様の声を私たちはよく耳にする。いわゆる「忖度」が問題を引き起こしているのだ。しかし、「忖度」という言葉の本来の意味は何なのだろう。森友・加計問題をきっかけにまたたく間にバズワードとなり、「2017年ネットバズワードランキング」では第4位、2017年の新語・流行語大賞にまで選ばれている。道理で、自虐的に使う担当者が多いわけだ。しかし、本来の言葉の意味を調べると、「忖度」とは「他人の心中を推しはかること。推測」(小学館『現代国語例解辞典』第四版より)を指すそうだ。単に相手の気持ちを推測するという意味しかないのだが、現在はネガティブなニュアンスで使われている。
すっかり忖度=悪、という風潮が強まっている現在。しかし、「まったく忖度のない組織」ってあるの?それって、どうなの?という議題が投げられ、ソフィアTGIFでは、忖度の利用状況の整理を行った。それが、以下の図だ。
この整理が正しいかどうかは別として、忖度には、ポジティブな面とネガティブな面があることに着目した。組織の長期的なビジョンや目標に向かって取り組む際、上司だけでなく、周囲が気持ちよく前進できるように動くことも、「忖度」と呼べるのではないのだろうか。優先順位を下げた取り組みや対象者に対しても、悪い気を持たずに進んでもらうために“うまく”説明することも「忖度」ではないのだろうか。これからますます変化が激しくなる事業環境において、実はポジティブな忖度が効果的に働く「ポジソン型組織」こそ、目指すべき状態なのではないだろうか。変わることは、時に鋭利な刃物になって、努力する人を傷つけることもある。傷つけられた人は、それから先前向きに変化を捉えられるだろうか。言いたいことを言い合うだけでなく、全社的な視点を持ち、みなが快く前進するために、相手のことを推し量ること――ポジソンが変革には必要なのではないだろうか。
ずいぶん端折ったが、TGIFではそのような議論が交わされた。しばらく「ポジソン」「ネガソン」というキーワードが社内で流行したことは言うまでもない。
冒頭の「ダークサイドスキル」にも、“うまくやる”こと、戦い方が書かれていた。これから組織を変えようと思っている人には、ぜひこの本をお勧めしたい。そして、ポジティブな忖度=ポジソンをする組織を目指してもらいたいと思う。
「自分の会社は忖度ばかりでダメだ…」そんな嘆きばかりでなく、「この取り組みを前進させるには、あの部署にもポジソンが必要だよね」「いいね、ポジソンだね!」という言葉が飛び交う組織が少しでも増えたら、社会はもっと楽しくなるはずだと思う。 
 
 
 2018/6

 

●「一億総忖度社会」の日本を覆う「気配」とは何か? 2018/6
政治問題を忘れ去ることを急ぎ、ヘイトスピーチの萌芽を受け流し、被災地は「前を向いている」という声に簡単に染められてしまう。
なぜ私たちは、力の強い者が支配する「空気」をやすやすと受け入れるのか。「空気を読む」だけではない。さらに病状は進み、「空気」が生まれる前から、その「気配」を先回りして察知して、自らを縛る空気を作り出していないか? 
様々な政治状況や社会事件、個人のコミュニケーションなどを材料にそんな問いを投げかける『日本の気配』(晶文社)を、フリーライターの武田砂鉄さんが4月に出版した。
森友学園の土地取引を巡り、大阪地検特捜部が財務省の38人全員を不起訴処分にしたニュースが新聞一面に並んだ6月1日、インタビューをした。
積極的に気配に縛られようとする私たち
——「空気」と「気配」は、何が違うのでしょうか。
日本人の特性で、「空気を読む」「空気を読め」とは言われますが、「気配を読め」とは言われませんよね。日本人のコミュニケーションにおいて、「空気を読む」とか「忖度する」は、すっかり当たり前のことになっています。でも、とりわけ今の政治状況を見ていると、それよりもっと深刻な事態になっているのじゃないかと思わざるを得ません。空気ができあがる前段階、つまり「気配」を察知し、権力者たちのメッセージに先んじて隷従しようとしてないかと。数日前、加計学園の一連の問題を巡って党首討論がありましたが、朝日新聞は「議論は平行線」という見出しをつけていました。中継動画を見たり、全文の文字起こしを読んだりすればすぐにわかることですが、あの討論は、野党の質問に対して誠実に答えているとは言い難い。真っ当な質疑応答ではないのだから、平行線であるはずがない。それをメディアはいつもの手癖で、「議論は平行線」と書いてしまう。この見出しだけ見たら、「ふーん、野党の質問も煮え切らなかったんだな」「この問題、いつまで続けるのかな」「そろそろ幕引きなのかな」と察知してしまう。幕引きに加担してしまいます。
——関連する話で、財務省の福田淳一前事務次官のセクハラ問題について、麻生財務相の発言を、読売新聞が「麻生節」と表現したことにも怒っていらっしゃいました。
そうですね。財務省が文書でセクハラを認定した事案について、それを再びひっくり返そうとするような適当な発言を重ねていた麻生大臣の発言を「麻生節」とキャラづけして、「あの人はああだから仕方ない」と解放してしまうわけです。そんなの、国家を運営している側から見れば、「え? キャラ化してくれるの、マジでラッキー」と思うはずです。「ここで追及しなくてどうするの?」という場面で、なぜか引いてしまう。そうやって自主的に追及を引き下げていく様子が頻繁に見受けられます。党首討論後の記者会見でも、加計学園問題についての関与が疑われてきた萩生田光一・幹事長代行が、「何かを答えても、なかなかそれを了としないところの繰り返しがなされているんじゃないかなという印象を受けましたので、なかなか着地点と言いますか、最終形が分かり難いところがあるのかなと思います」と答えています。なぜ着地点や最終形を野党が出さないといけないのでしょうか。山積した疑惑を払拭して最終形を提示すべきは政権側です。「なんか野党物足りないよね」と思わせておいて、それに対して怒る力が弱い。政治問題に向かう国民の執念のなさが露呈してきたなと感じます。
自分も「気配」の危うさを読みきれていなかった
今回の本は4月後半発売で動いていたので、3月半ばまで原稿に赤字を入れる作業をしていました。その頃、モリカケ問題(森友学園、加計学園の疑惑)について文書改ざんの事実や新たな文書のスクープが出てきて、支持率が下がってきた。安倍政権が倒れた時のことを想定して、担当編集者と相談したんです。「今回の本には安倍政権に対する考察が多いので、最後の方に『確かに安倍政権は倒れたけれど、この時の空気を忘れてはいけない』など付け加えないといけないですね」と大真面目に相談していた。今、思い返せば、あの焦りは一体なんだったのか。むしろこちらが「日本の気配」を読めていなかったのは皮肉です。何も疑惑は解消されていないのに、支持率は逆に少しずつ戻り始めています。本の帯に「『空気』が支配する国から、『気配』で自爆する国へ」と書いてあるのですが、その状況は刊行後により強くなってきています。本のメッセージが切実に響くようになってきたので、届きやすい本になりましたが、本当にそれでいいのかという気持ちはどこかにあります。
——今朝の朝刊では、森友問題の不起訴について各社大きく報道していました。どう思いましたか?
かなりの文言を削ったわけですが、核心部分を改ざんしたわけではないから大丈夫、問題なし、との結論を出したわけですね。新聞を読み比べましたが、社説では怒りつつ、なぜか最低限の冷静さを保ってしまいます。「退陣せよ」という要求を一面で打ち出してもおかしくない出来事のはずなのに、やはりどこか冷静です。相手がどれだけ稚拙な手段に出ようが、マスコミは、達観し、鳥瞰し、冷静さを守ってしまうところがある。でもそれが今の政権運営の甘い蜜になっていて、その繰り返しを見させられている。財務省が認定した福田前次官のセクハラについても、彼自身は、自分の声は体を通して聞こえるから、録音は自分の声かどうかわからないと認めないまま、カメラの前から消えてしまいました。「ふざけるな、表に出てこい」と言い続けなければならないはずなのですが、冷静になって、もういいだろと引き下がってしまうメディアの姿があります。
——そうした傾向は社会問題にも散見されます。
cakesというウェブ媒体の連載で、本田圭佑選手について最近書いたのですが、本田選手が日大アメフト部の一件について、「監督も悪いし、選手も悪い。(中略)このニュースにいつまでも過剰に責め続ける人の神経が理解できないし、その人の方が罪は重い」とのツイートをした。これを、いわゆるインフルエンサーと呼ばれる人たちがリツイートしているのを見て、実に今っぽいなと思いました。そうやって世の中を達観する、という仕草が流行っちゃっているわけです。でも、監督も選手もメディアも悪いとすると、どう考えても得するのは監督です。ここ数ヶ月、あちこちでたくさんの人が嘘をつく光景を見てきたわけですが、唯一、自分の言葉を持って話していたのは、謝罪会見を開いた20歳の学生でした。言葉を慎重に選び抜きながら、誠実に答えていらした。「みんな悪い」と冷静ぶる行為は、そういう誠実な言葉を潰してしまいます。
怒るのは恥ずかしいという風潮
——なぜ、その「冷静ぶる行為」を良しとしてしまうのだと思いますか?
今、怒ることがどこか恥ずかしい行為とされがちですよね。「何、怒っちゃってるの?」「冷静になろうよ」という圧力がどんどん強まっています。振り返ってみれば、東日本大震災以降、原発再稼働なり、秘密保護法なり、安保法制なり、共謀罪なり、政治的にたくさんの山があり、その都度、支持率にも大きな変化があり、様々な形で反対活動が起きました。これはさすがに全員が怒るだろう、との期待を持つのだけれど、いつも怒る人が同じで、盛り上がりがいつのまにか和らぎ、政権がのらりくらり逃げるのを放置してきました。少し前まで怒っていたメディアが、「議論は平行線」や「麻生節」といった、問題の本質をずらして矮小化する文言を使いながら、波が引いていくのを眺める。そんなサイクルを繰り返しています。そうすれば、怒る人は疲れます。怒っても怒っても、成果が得られない。でもその怒りが間違っているわけではない。その切実さを毎回毎回更新しながら怒っている人たちがいる。
——ところがその怒りを軽んじる空気がある。
昨年の冬、樹齢150年の巨木を伐採して「世界一のクリスマスツリー」を神戸の港に展示するというイベントに反対する声があがりました。阪神・淡路大震災の犠牲者への鎮魂を掲げた計画に、「木の命を犠牲にして物語に活用する人間のエゴ」など様々な批判の声が上がったわけですが、計画を支援していた糸井重里氏が、「冷笑的な人たちは、たのしそうな人や、元気な人、希望を持っている人を見ると、自分の低さのところまで引きずり降ろそうとする」とツイートしていた。さっきの本田圭佑のツイートと同様に、今っぽいな、と思いました。違和感を覚えて、憤りを表明する行為を丸ごと下に据え置く行為で、まさしく、そうした処理の仕方こそ冷笑的だと感じました。怒っている人を、怒らないボクが上から見下ろし、怒らないボクたちが賢い、とする態度。この二つのツイートには、「前向いて歩いて行かなければならないのに、怒って足を引っ張るやつって嫌だよね」という共通項がある。そこでは、怒りという感情が安直に片付けられている。自分が今回の本で言い続けているのは、とてもシンプルなこと。怒り続けることって面倒臭いけれど必要だよね、大事なことだよねということです。「平行線」だ、「麻生節」だというその場を安易に収める言葉を、メディアで発信する人間が使い始めたらおしまいです。この本を出した後の世の中の空気を感じながら、その思いを強くしています。 
 
 
 2018/5

 

●<忖度>という言葉にみる日本社会の退行  2018/5
GW明けには「森友文書改竄」問題の財務省調査が公表されるとも言われています。どんな内容か、ちょっと楽しみですね。今回はこの問題に関する雑感などです。
最近よく言われていますが、たしかにこの問題、特に「忖度」の概念は外国人には理解できないと思います。まあ、日本人にとっても充分に理解し難いですけどね。
以前、岸田文雄政調会長が、大意として『開発途上国ならいざ知らず、日本でこんなコトが起きるとは』というような発言をしていました。「まあ、その通りだなぁ」と深く同感しつつ「現役の政治家がソレを言っちゃ終わりでしょ」という徒労感もハンパなく感じました。なんと言いますか、「日本ってホントに先進国なの?」みたいな感じでしょうか。
たとえば、こんなことを考える訳です。国際的な標準モデルの組織体、つまり議論があって、透明性があり、指示命令と責任が体系づけられた組織に対して・・・忖度で動く組織は競争優位性があるのか・・・
・・・ある訳ないですよね、やはり。どう考えても。
ただ、いかに日本人とはいえ、そんなことは分かっていた訳でして。たしかに日本人は自分も含めて「忖度」でうごく部分があるとは思うのですが、しかしながら「ソレを表立っていうのはあまりに気恥ずかしいでしょ」みたいな感覚があったような。言い換えれば、気概というか矜持というか、そんな感覚です。だからこそ、「忖度」という言葉はあまり陽の目を見ず、死語化していた訳でして。
それがいまや、新聞でもテレビでも「忖度」という言葉が氾濫しています。やはり、なにか大きなものが決壊してしまったのかもしれませんね。別視点で言えば「見える化が進行していて大変結構」なのかもしれませんが。
だから「忖度でやる訳がない、官邸の指示があったはずだ」という反政権系の人たちは、ある種、「日本を信じている」人たちだと思います。私も、本来、一愛国者として同調したいところですが、正直、そこまで日本を信じる自信も最近はなくなってきました。
ここから雑感パート2です。完全憶測&ヨタ話系と自分の現状の「日本を信じられるレベル」についてといいますか。
3月2日の朝日新聞報道は、当初、財務省の内部リークかと思いましたが、現在では大阪地検のリークではと思っています。今回の件でひとつ驚いたのは、官邸が文書改竄を認めるまでが異常に早かったことです。
ネットでは「どうせ朝日のデマ」「また朝日の誤報、これで朝日もオシマイ」説が飛び交うなか約一週間で、官邸が文書改竄を認めたのですから。官邸はリーク元の特定と確度に関して情報収集していたと思われ、地検リークでは逃げ切れないと読んだのかもしれませんね。
憶測その2。これは強力デマ系。「朝日の報道を受けて国交省が自分たちの持っている文書をチェックして、官邸と財務省に改竄を連絡」も眉唾ものの気がします。「朝日の報道を受けて」じゃなくて、「前から分かっていて、官邸と情報共有してたんじゃないの」という気がしてしまって。これがスピード認定の根本理由だと思っているのですが。
あれだけ騒がれていて、国交省も普通、気がついているんじゃないですかね。前から知ってはいたが、あえて小芝居してみたと。
また、財務省は国交省に同省保有文書の改竄依頼をしていたという報道もありましたし、官邸はそのへんの動きを事前に把握していた気がします。つまり今回の件が財務省の単独忖度犯行だとしても官邸は事前に把握していたのではないでしょうか。
根も葉もない憶測を書きつらねましたが、要はなにが言いたいかというと「その程度には、日本政府のガバナンスも効いているだろう」という個人的願望なのでした。これが現状の自分の「日本を信じる」レベルといいますか。
ただ野党も攻め口を考慮する必要はあると思います。「忖度された側の責任」なんて立証できないですから。「忖度」って、それだけ強力なポイズンなのだと思います、組織にとって。現政権にとっては<最終兵器>かもしれませんが。 
 
 
 2018/4

 

●あなたの会社も「忖度文化」はびこっていませんか? 2018/4
ここ近年悪者になってしまった言葉として「忖度(そんたく)」があったと思います。三省堂大辞林でその意味を見てみると「他人の気持ちをおしはかること、推察」であり特に悪い意味はないというか、むしろ良いニュアンスの方が強い気がします。ただ一定の文化の中では悪い方向に走る可能性はあるかもしれません。
モリカケ、防衛省文書隠蔽などの問題ですべて野党は安倍首相に忖度したことが根本的な原因と主張しています。多分安倍首相に対する忖度は少なからずあったとは思われますが、「忖度は気持ちをおしはかったもの」ですから、「気持ち」の証拠は何時間審議時間かけても出てくるはずはなく、時間の無駄です。もし出てきたらそれは「忖度」ではなく、明らかな要請があってそれに対して対応したということです。そういったことで働き方改革など重要法案をたなざらしにしている野党には絶望しています。それが安倍首相の支持率が下がっても野党の支持率が上がらない原因でしょう。
ただ、「忖度」は私的な人間関係においては良いことだと思いますが、ビジネスや公的な場面でそれが横行するような文化は、問題だと思います。「忖度」が横行する組織を見ているといわゆる上意下達文化を持っているケースが多いです。私が関係した企業の例をあげましょう。
ある上場企業の経営会議にオブザーバ―として出席する機会がありました。この会社は上場企業ですが創業社長がすべて仕切る「ワンマン会社」です。だいたいの雰囲気としては各部門の長が行った報告や承認事項について社長が意見を述べ、部門長が「はい、承知しました!」といったものです。いくつか社長が出した指示の中で意味がよくわからないものもありましたが、自分はこの会社のこともよくわからないので仕方ないなと思っていました。ところが会議が終了すると何人か仲の良い執行役員クラスの方々が近づいてきて「第三者的にみて社長の指示どういった意図があったかわかります?。よく言った意味わからないんですよね・・・」とのこと。とにかくそういえばこの会社社長は指示出すのですが、誰もそれに対する反論・質問をしません。社長が去った後、何人か役員クラスが集まって同じようなことを語り合っています。
このように上意下達文化がはびこって社長に質問さえできない環境だと忖度文化がはびこります。後日その会社の社長さんと少し話す機会があったのですが、「うちの役員クラスは言ったことしかやらないし、言ったことも半分もやらない人間もいる・・」と話されていました。私が以前いたアーサーアンダーセン(今はアクセンチュアというコンサル部門だけ残っています)では「Think Straight, Talk Stright」という言葉が一種の社訓でした。要するに自分の立場・地位に関係なくはっきりと自分の考えをもってきちんと相手に伝えなさいということです。立場に関係なくはっきりと考えを話し合わないと物事は正しい方向に進みません。ワンマン会社の場合は間違った方向に全速力で行ってしまうリスクがあります。
様々な隠ぺい体質を葬るためには忖度文化からTalk Straight, Think Straight」的な文化にシフトしていくことが大事でしょう。いくら国会で議論してもこれは解決しないですね。 
 
 
 2018/3

 

●森友問題を考える 2018/3
まず思うのは世の中の重要な部分はほとんど「忖度」で動いているのではないだろうか?特に日本人は他国人に比べればその度合いが強く、おそらく世界一の「忖度」人種だろう。そもそも野党を含めた他の国会議員が陳情された案件を政策に反映させようと関係省庁に働きかける際、「忖度」はまったくないのだろうか?日本社会のあらゆるところに「忖度」は存在しているはずである。
またそもそもこの「忖度」という単語の意味をググれば、「他人の気持ちをおしはかること」と表示される。よく考えて欲しい。「忖度」された側は薄々は気付くことはあっても、私はあなたに「忖度」しました!と「忖度」した側が言わない限り「忖度」の関係性は証明できない。そして今回、佐川宣寿前理財局長は「忖度」した側である。実際何があったかは別としても「忖度」した側が「忖度」していません、と言えばそれまでである。
証人喚問の国会中継をずっと観ていたが、すべての質疑の最初において自民党の丸川珠代参議院議員が佐川氏から安倍総理、総理夫人、麻生副総理、その他あらゆる政府関係者の関与がないと証言させた時点でもう勝負はあった。やはりただ安倍総理を退陣させたいという思いだけで集まった烏合の集の野党よりも自民党の方が一枚も二枚も役者が上だった!その後の反安倍派と思われる野党各党の戦略のない質問を見ていると、佐川氏があわよくば「忖度」があったと匂わせる発言をするのではないかと淡い期待を抱いていたとしか思えない。そんな甘い見通しで証人喚問を要求した野党では生き馬の目を抜く緊迫した国際情勢にまったく対処できない。相当無能にしか思えず、今のままでは未来永劫国家を任せるのは無理だろう。また「忖度」があったかなかったかは正直どうでもいい。安倍総理や夫人がこの件で巨額な裏金を手にしているわけでもない。チャイナ共産党の党員たちは賄賂にまみれているし、お隣の韓国の歴代大統領は退任後、収賄罪でつかまる人物が多い。たかが口聞きをしたぐらいでなんなのか?
またいくつかハシゴして喚問後のテレビを観ていたが、映像と情報の切り貼りをしていつものように反安倍の論調を盛り上げているだけだった。そしてTBSの「Nスタ」に佐川氏の証人喚問をし終えた直後に駆けつけた希望の党の今井雅人衆議院議員がゲスト出演していたのだが、今回の喚問で期待が完全に裏切られた悔しさが終始コメントににじみ出ていた。そしてスタジオで野党の質問がお粗末だったという指摘を受けた今井氏は「佐川さんは当事者じゃないから証人喚問に呼んでもわからないんですよね〜」とおっしゃった。 は? おいおい!佐川氏の証人喚問はお前ら野党が熱望したんだろ!唖然としてしまった!マスコミが酷いことは前々から理解していたが、反日政治家や売国奴と罵る以前に彼ら野党の政治家は国会議員をつとめる満足なレベルにすらない。しかも今井氏は実際に佐川氏に証人喚問をした当事者ではないか?政治家としてまったく自覚も責任感もない!
証人喚問から1夜あけたテレビ朝日の『モーニングショー』では、公文書の書き換え問題が浮上して以来鬼の首でも取ったかのように「安倍ゲート」(「ウォーターゲート事件」になぞらえて)などと呼称して息巻いていたコメンテーターの玉川徹氏の発言も見るも無惨にトーンダウンしていた。彼らは以前国会で文書はないと嘘をついた佐川氏の発言は信用できないと騒ぎ立てているが、同じく国会で証人喚問を受けた籠池泰典元森友学園理事長の証言は何を根拠に信用しているのか?ましてや現在籠池氏は詐欺罪で大阪拘置所に勾留されている人物である。これ以上ないというくらい見事なダブルスタンダード(二重基準)である。同じ不倫でも私がすればロマンス、あなたがすると不倫という論理である。
公文書書き換えは事実であるから政府関与が立証できない以上、これからは書き換えが理財局の中だけで行われたのか?それとも財務省全体が関与していたのか?そして誰が指示したのか?そちらに完全に論点が移ったと見て良い。その原因についても元大蔵官僚で現在経済学者の高橋洋一氏を筆頭に、経済評論家の上念司氏、そして政治評論家の有本香氏らが裏事情を述べている。森友学園に売却した土地が元々同和地区であることが「特殊性」の原因であり、元は1つの土地であった隣の土地は14億円値引きしてただ同然で売却され、現在は野田中央公園となっている。しかも売却当時、立憲民主党の辻元清美衆議院議員が民主党政権時代、担当副大臣であった事実もある。安倍政権に「忖度」の有無を迫るなら辻元氏も同様に身の潔白を証明するべきなのではないのか?地上波・BSにかかわらずテレビでは同和問題が絡むとタブーになるので野党やマスコミはその裏事情を悪用して安倍政権を責めているだけである。有本氏がこの問題を詳しく調べると発言していたので、そちらに期待したい。
米朝首脳会談が決まり、チャイナの習金平が憲法を改正して終身国家主席への道を開き、米-チャイナの経済衝突、新たな冷戦が本格化しそうなきな臭い空気が流れ始めたのと時を同じくしてこの森友公文書問題が持ち上がっている。この問題を機に日本の政治が停滞し始めた。それによってどこがほくそ笑んでいるか?を考えれば、裏で糸を引いている勢力がわかる。日本の政治家やマスコミの中に少なからずチャイナの息のかかった者、南北朝鮮に肩入れする者がいると言われている。まったくの私見で証拠はないが、裏でそれらの反日勢力が動き、無自覚なアホがその勢力に踊らされているとしか思えない!
政治評論家の故西部邁氏によればマスコミの「マス」にはバラバラの砂粒が「大量」に集まるような蔑んだ意味があるという。現在のマスコミはネット界隈で「マスゴミ」と呼ばれることもある。「大量のゴミ」とは言い得て妙である! 
●忖度やパワハラがなぜ頻発するのか 2018/3
 「ムラ」の構成員であることを今も求められる私たち
このところ、政治に関するニュースで「忖度(そんたく)」という言葉が飛び交っていますが、これはどうにも外国語には翻訳しようのない、わが国独自の言葉だろうと思います。
元々は、古い中国の言葉で「相手の心情を推し量る」といった程度の意味合いだったようですが、今日では「相手の意向を推し量り、それにおもねった行動をとる」というところまで、すっかり含意が拡大しています。
ところで、この「忖度」という言葉は、以前は今日ほどポピュラーなものではありませんでした。しかし、それはこれに相当するような言動やその傾向が私たちになかったからではなく、むしろそういうことが、空気のようにあまりに当たり前のことだったので、あえてそれを問題視する必要すらなかったからだと思われます。
しかし、この「忖度」に通ずる日本的な心性は、「空気を読む」「気遣い」「気配り」「おもてなし」といったおなじみの言葉の中にも脈々と流れているものであることは間違いありません。
その一方で、スポーツ界や大企業などにおいて長らく因習であったようなことが、実はパワーハラスメントに相当することだったのではないかと、最近、次々に顕在化してきています。
忖度は相手の意向におもねる方向性のものであるのに対し、ハラスメントはその真逆のものであり、相手の気持を無視して何かを強要することです。さて、この一見正反対とも言えるような現象が、なぜ同時期に社会問題化してきたのでしょうか。
ハラスメントの意味がわかっていない
パワーハラスメントの問題の成り行きを見ていますと、正直なところ、まだまだ因習側の保守性が払拭されず、爽やかな解決に至らないまま時間だけが過ぎて、問題が曖昧なまま風化していってしまうことが多いように見受けられます。
その一因としては、ハラスメントという言葉の真の意味合いが正しく理解されていないという問題があるように思われます。
ハラスメントは通常、「嫌がらせ」と翻訳されますが、この日本語が誤解を生みやすい一つの原因になっているのではないかと考えられるのです。
つまり、この訳語では行為者側に「嫌がらせ」の意図や自覚があった場合にのみハラスメントが成立するかのような誤解が生じてしまいます。しかし、本来ハラスメントというものは、それを受けた人間が苦痛を感じたかどうかによって決定される性質のものであって、行為者側の意図とはそもそも関係がないものです。
ですから、行為者側がいくら「そういうつもりはなかった」と釈明したとしても、それが決してハラスメントでなかったことの理由にはなりません。しかし、この基本精神がわかっていないと思しき釈明会見が、いまだに各方面で行われ続けているようです。
「他者」のいない「ムラ」
私たち日本人は、そもそも「自他の区別」が苦手なところがあります。
たとえ同じ言葉を使って同じ地域に生まれ育ったとしても、それぞれが違う資質を持って生まれ、異なった感受性を持ち、同じ言葉にも微妙に違う意味合いを込めていて、それぞれ独自の価値観や世界を持っている。この人間の真実にきちんと目を向けたとき、他人というものは、決して自分と似たり寄ったりの存在なのではなく、未知なる存在であること、つまり「他者」であることがわかってきます。このような認識をもって「自分」と「他者」を捉えることを、「自他の区別」と言っているのです。
しかし、わが国は似たり寄ったりの同質な仲間たちで構成される「ムラ」的集団で過ごしてきた時代があまりに長かったために、私たちには、価値観も感受性も違う「他者」がいるのだという想像力が育ちにくかった。そういう特殊な事情があるために、人を「他者」として見ることができずに、仲間なのかよそ者なのか、つまり「ウチ」の人間なのか「ソト」の人間なのかという分け方をして、もっぱら付き合うのは「ウチ」の者に限定するような傾向がある。そのため相手と自分の同じところばかりを探し、その微妙な違いはなかなか視野に入ってこないのです。
ですから、自分の行為が「他者」である相手にどのように受け取られるか、その不確かさと予測不能性について、思いが至らない。そのために、「ムラ」においてはハラスメントの問題が生じやすくなっているのです。
「ムラ」の構成原理
「ムラ」とは、構成員が同質であることと、タテ社会の秩序を基本にして成立しているものです。タテ社会の秩序とは、無条件に年長者や親、先輩、上司などを敬うべきであるといった上下関係を重視するものであり、そのバックボーンには儒教的精神が潜んでいるのではないかと思われます。
本来人間というものは、一人一人が生来違った性質を持ち、平等に独立した尊厳を持っているもののはずです。しかし、このような人間観は、「ムラ」にとっては甚だ都合が悪い。一人一人が自由意志を持つ「個」であってもらっては、タテの秩序が崩されるおそれもあるし、「同質性」を拠り所にする結束も難しい。
そこで、新入りや若年者に対して、教育指導的な建て前のもと、つまり「しごき」や「かわいがり」という名の理不尽な制裁を加え、精神的な去勢を施すのです。つまり、自分で感じ、考えるような独立的精神が育たないように、恐怖心を使ってタテの秩序を叩き込むわけです。このような通過儀礼によって、「ムラ」は人を「個人」ではなく、従順で勤勉な「構成員」に仕立てていくのです。
このようなやり方は、人員の統制を取る必要性の高い軍隊などでよく行われてきたものですが、わが国では運動部系の部活などでも広く行われてきていることはよく知られた事実です。よって、その延長線上にあるスポーツ界や体育会系的メンタリティを重んじる会社組織などで、その傾向が色濃く残ってしまうのは、至極当然の結果なのです。
しかし、そんな風潮の中にあっても「個人」の意識に目覚めた人は、この通過儀礼の正体がパワーハラスメントであることに気がつき始めます。これに対し、「ムラ」のメンタリティに疑いを持っていない人間は、そもそも正当な通過儀礼を施したに過ぎないと思い込んでいるので、それがハラスメントであることに気づかないのです。
「ムラ」の洗脳
「ムラ」はこの不自然な秩序を維持していくために、各人に「構成員」であることを美化するような価値観を植え付けようとします。例えば、「郷に入っては郷に従え」「長いものには巻かれろ」「苦労は買ってでもしろ」「人は皆、わが師と思え」「石の上にも三年」といった格言の数々を用いて、忍耐や従順さを称揚する価値観を植え付けるわけです。
また、「ムラ」の結束を固めるためには、常に共通の仮想敵が必要です。
本来、同じであるはずのない者たちを結束させるためには、共通の敵があれば手っ取り早い。これは、国家が内情不安定な時に仮想敵国の脅威をプロパガンダして、国内の結束を図る手口と同じものです。群れている人たちが、たいてい誰かの悪口の話題で忙しいのは、やはり同じ原理だと考えられます。いわゆる「いじめ」の問題も、この原理によるところが大きいのです。
さらに、「ムラ」の理不尽さに耐えかねてそこを立ち去ろうとする者に対して、「お前、逃げるのか? ここで続かないような弱い奴は、どこに行っても続かないぞ」という脅しがよく用いられます。これは、ブラックバイトなどでも横行している、おなじみの手口です。
「社会」という名の「ムラ」
このように「ムラ」という集団の特質を理解してくると、忖度ということがそこに必然的に生じてくる現象であることがわかると思います。「ムラ」はタテ社会なので、当然上の者への無条件的服従と配慮が求められる。言われる前に、自主的に上の意向に沿った行動をとることは、「気がきく奴だ」として高く評価されるからです。しかも「ムラ」では基本的に価値観がみな同質なので、下の者が上の者の意向を推量することが比較的容易であるという事情もあります。
私たち日本人は、明治の文明開化のタイミングで、individualやsocietyという言葉に触れ、急ごしらえで「個人」や「社会」という翻訳語を造り出しました。
それぞれが異質な存在であるような人間のあり方を「個人」と言い、そういう「個人」が集まったものを「社会」と呼ぶのですが、それまでそのような言葉がなかったということは、それまでは「個人」もいなかったし「社会」と呼べるような集団もなかったことを示しているのです。そこにあったのは世間であり、世間の構成員だったのです。ここで言う世間とは、先ほど論じた「ムラ」のことにほかなりません。
厳しい見方をすれば、「個人」や「社会」という言葉が誕生して150年ほど経過したにもかかわらず、私たちは未だに「個人」として在ることに困難を抱え、あらゆる集団の内実は依然として「ムラ」のままなのです。ですから、いくら学校教育等で「個人」としての在り方の大切さを説かれたとしても、現実的には「個人」としての言動は歓迎されないどころか、「空気の読めない奴」と陰口を叩かれ、「いじめ」に遭い、「ムラ八分」の憂き目をみることになってしまうことになってしまうのです。
「個人」として独自の思想を形成し、それを主張できるような真の優秀さは、「ムラ」においてはむしろ、秩序を乱す有害なものとして扱われてしまいます。「ムラ」における優秀さとは、そのような優秀さとは対極にある、あの忖度の能力のことだったのです。
神経症性としての忖度
「ムラ」の最小単位は、家族です。
親が、子どもを自分とは別個の尊厳と感覚を備えた「他者」とみなし尊重してくれた場合には、子どもは「個人」として成長することができます。しかし親が、わが子を自分の分身であるかのように見なしてしまった場合には、子どもにはうまく「自他の区別」の認識が育たずに、神経症性が生じてしまいます。
自分の意見や感情を引っ込めて、相手の顔色をうかがうことを神経症性と呼ぶのですが、これはそもそも親との関係の中で形成されるのです。神経症性を植え付けられた子どもは、親にとっての「良い子」を演じるようになります。そしてその生は「誰かのため」のものになってしまって、「自分を生きる」ことができなくなってしまうのです。
このように親の顔色をうかがうようになってしまった人は、次に教師の顔色をうかがうようになり、友人や先輩の顔色もうかがい、そして上司の顔色をうかがうようになるのです。
忖度のメンタリティは、このようにして形成されたものなのです。
「ムラ」をやめなければ、忖度もパワハラもなくならない
つまり、一見正反対のように思えた忖度もパワーハラスメントも、その発生源がいずれも「ムラ」によるものであったことが、お分かりいただけたのではないかと思います。
先ほども述べたように、民主的な先進国の「社会」に暮らしているはずの私たちですが、実質的には、未だに大小さまざまな「ムラ」に取り囲まれ、その暗黙の空気によって「ムラ」の構成員であることを求められてしまうという、かなり窮屈な状況下に生きているのです。
しかし、ここにきて忖度やパワハラの問題が次々と社会問題化してきているのは、一部の勇気ある人たちが、大変なリスクを承知の上で「個人」としての告発を始めたことによるものです。今私たちは、明治の文明開化で成し遂げられなかった「ムラ」的メンタリティからの脱却に、ようやく踏み出しているところなのかも知れません。
世界的にも、セクハラを告発する#me too運動の機運が高まりを見せていますが、私たちもそろそろ、各人が「個人」として生きる決意を固め、因習に凝り固まった「ムラ」をやめ、本当に「社会」と呼べるようなものを作っていく必要があるのではないでしょうか。
誰かの顔色をうかがっているような神経症的な在り方では、「心」のフタを開けることなど、とても恐ろしくてできるはずもありません。そのためにも、安心して「個人」でいられるような「社会」が、私たちには是非とも必要なのです。 
 
 
 2018/2

 

●忖度は社会の潤滑油、できるに越したことはない… 2018/2
森友学園問題や加計学園問題における「忖度」疑惑により、死語になりつつあった「忖度」という言葉が一気に国民の注目を浴びることになった。そして、ついに「『現代用語の基礎知識』選 2017ユーキャン新語・流行語大賞」に輝いた。
国会でも、「忖度」の実態を解明しようとする野党側と、「忖度」などなかったとする政権側との間で、必死の攻防戦が繰り広げられてきたが、真相はなかなか見えてこない。いまだにすべてが藪の中だ。それもそのはず、つかみ所のなさこそが「忖度」の特質なのだ。
「上」の者が命じたのなら、命じた側に責任があるのは明らかだ。だが、「下」の者が「忖度」で動いたとなると、「上」の者の責任とも言えない。では、誰に責任があるのかということで、問題が紛糾する。
ニュースを見ながら「忖度」のややこしさを他人事のように思っている人が多いかもしれないが、実は私たちの日常もさまざまな「忖度」で動いており、「忖度」がうまくいかないと仲間から浮いたり、仕事ができない人物とみなされたりする。
そもそも「忖度」とはなんなのか。メディアを通して流れてくる政治家や官僚の「忖度」疑惑の報道に触れることで、「忖度」という言葉はとても身近なものになっているが、実はその意味がよくわからないという人が意外に多いのではないか。
そこで、私は『「忖度」の構造』(イースト新書)で「忖度」の心理メカニズムを具体的な事例を用いてわかりやすく解説した。今回は、それをもとに、なぜ「忖度」が必要なのかを考えてみたい。まずは、「忖度」の辞書的な意味をみてみよう。『広辞苑 第6版』(岩波書店)で「忖度」を調べると、つぎのように解説されている。
<(「忖」も「度」も、はかる意)他人の心中をおしはかること。推察。「相手の気持を忖度する」>
また、『日本語源広辞典 増補版』(ミネルヴァ書房)では、「忖度」の語源について、つぎのように解説されている。
<中国語で「忖(思いはかること)+度(はかる)」が語源です。他人の心の中に思っていることをあれこれと推し量ること。例:病床の先生の心を忖度するしか方法がない>
そもそも「忖度」とは何なのか?
「忖度」は17年になって政治家絡みの問題で急速に世間に広まった言葉であるため、何か悪いことであるかのような印象を持たれがちだ。ニュースや雑誌記事をみても、悪い意味での「忖度」についてのコメントばかりが目立つ。
だが、このように辞書的な意味を確認すると、「忖度」そのものは、けっして悪いことではないことがわかる。「忖度」というのは相手の気持ちや立場に想像力を働かすことを意味する。相手の気持ちや立場を配慮することは、別に悪いこととはいえない。むしろ、相手の気持ちや立場を配慮せず、自分の気持ちや立場のみを基準にして行動するとしたら、それは非常に自分勝手なことになるだろう。
欧米社会で争いごとが多く、やたら訴訟問題になったりするのも、「忖度」というものが機能せず、誰もが自分を基準に行動し、自分勝手な自己主張をするからにほかならない。その意味では、「忖度」を大事にする日本的コミュニケーションこそが、争いごとが少なく、平和で治安の良い社会をもたらしているといってもよいだろう。
自分勝手な主張は見苦しいということで相手が遠慮してあえて要求しないことを「忖度」し、その要求に極力応えようとする。こっちに負担をかけては申し訳ないという思いから相手が口にしない思いを「忖度」し、その思いを汲み取り、相手のことを配慮した行動を心がける。それは、温かい心の交流にとって大切なことである。
問題なのは、ニュースで流される不正疑惑のように、「忖度」により判断が歪み、不適切な行動が取られることだ。「忖度」の結果が不適切な行動につながるのでなければ、「忖度」という心理メカニズムが働くことに対して、別に目くじらを立てることはない。もっと「忖度」すべしと奨励してもよいくらいだ。
どうも、そのあたりの混乱がみられるようだ。
「忖度」の良し悪しは、動機しだい
相手の気持ちや立場を思いやり、相手の身になって考えるのが「忖度」だということなら、それはけっして悪いことではない。むしろ心地よい雰囲気の醸成のために重要な役割を担っているといってよいだろう。
「忖度」するには、相手の視点に立ったときに物事がどのように見えるかを想像する姿勢が必要である。自分の視点からしか物事を見ることができないのでは「忖度」は成り立たない。ゆえに、「忖度」ができるということは、自己中心的な視点に凝り固まらずに、相手の視点に想像力を働かせることができるということで、それ自体はけっして悪いことではない。
政治家や官僚の「忖度」がともすると社会問題になるのは、「忖度」する動機に問題があるからだ。相手に申し訳ないとか、相手を傷つけたくないといった思いやりによって「忖度」するのではなく、「相手の要求を満たしておくと得をする」とか「相手の気持ちをくすぐっておけば、ものごとを自分にとって有利に運びやすい」といった利己的な動機によって「忖度」するときに、ついやりすぎてしまうといったことになりやすい。ときにそれが必要な手続きを省いたり、特別に基準を緩和したりといった不正行為につながる。
また、相手から「忖度」するようにと無言の圧力をかけられることも少なくない。権力を持つ側は、ただ「よろしく」のひと言だけで「忖度」を実質上強要することができる。ここで要求をのむわけにはいかない、そんなことをしたら不正行為に加担することになるといった葛藤が心の中に渦巻いたとしても、きっぱりと拒否することができずに、やむを得ず不正に手を染めてしまうようなこともある。
それは当然好ましくない「忖度」と言わざるを得ない。だが、「忖度」という心の働きそのものが悪いわけではなく、「忖度」の動機、そしてその結果として行われた行為が問題なわけだ。
仕事のできる人は「忖度」上手
相手の気持ちを汲み取るという意味での「忖度」は、日常生活で良好な人間関係を築く上で必要不可欠と言ってもよい。それはビジネスでも同じだ。仕事力のある人物は「忖度」上手なのに対して、「忖度」ができない人物は何かにつけて足を引っ張ることになりがちだ。
たとえば、会議室に入ったところでプロジェクターがないのに気づいた上司が、「会議室の準備をしておいてくれと言ったはずだが」と訝るのに対して、「はい、部屋の鍵を借りて、開けておきましたけど……」と、何が問題なのだろうといった感じで答える部下。そこで、「プロジェクターがないようだが?」と上司が言うと、「えっ? プロジェクターですか? それは言われてなかったので……」と慌てる部下。上司は、「そんなことまで、いちいち言わないとわからないのか」と呆れる。
段取りを考えれば何をすべきかわかるはずだから、察して自分から用意してくれるはず、わからなければ何か準備することがあるかと聞いてくるはず、と思っていたのに、その期待が裏切られる。文字通り、言ったことしかやっていない。「忖度」ができないのだ。
だが、部下の側は、「それならそうとハッキリ言ってくれればいいのに。非難がましい言い方だけど、言われてないんだから。なんか感じ悪いなあ」といった感じになる。その気持ちもわかるが、多少は想像力を働かすことも必要だ。実際、いちいち言わないとわからない部下より、上司の意向を「忖度」して動く部下のほうが重宝がられるし、好意的に評価されやすいので「忖度」できるに越したことはない。
「忖度」が求められるのはこのような場面に限らない。上司にも、取引先にも、ときにはっきり言いにくいこともある。今どき察するなんて無理だと言う人も、気まずくならないようにはっきりとは言わない場面もあるということくらいわかるだろう。
実際、言いにくいことをはっきり言われると誰でも傷つくわけだし、たとえば提出した書類に関して露骨に「ダメ出し」されるよりも、やんわりと言ってもらうほうが気持ちよく修正できるだろう。言いにくいことを言わなければならない側になったときも、相手にはっきり伝えて気まずくなるのは嫌だという思いになったりするはずだ。そうした場面では「忖度」を前提としたコミュニケーションが潤滑油の働きをする。
このように考えてみると、「忖度」する力を磨くことがビジネスには必要不可欠だということがわかるはずだ。自分はちょっと「忖度」力が低いかもしれないと思う人は、少しは「忖度」を意識しながら行動してみるのがよいだろう。  
 
 
 2018/1

 

●「インスタ映え」と「忖度」―真実を覆い隠して漂う現代日本を象徴 2018/1
2017年の流行語大賞に「インスタ映え」と「忖度」が選ばれた。一方はインターネット最先端ツールが生みだした奇妙な流行であり、他方は戦後民主主義に逆行するような旧態依然とした心象の復活である。たしかにここには現代日本が象徴されている。
両者は年鑑『現代用語の基礎知識』が選んだ恒例の「ユーキャン新語・流行語大賞」の年間大賞に選ばれ、12月に発表された。
映像投稿サイトの躍進
インスタ映えとは、映像投稿サイト、インスタグラムに見栄えのする写真や動画を投稿をする行為のことである。受賞理由には「テキストよりも大事なのは画像。SNSでの『いいね!』を獲得するために、誰もがビジュアルを競い合う」とある。
インスタグラムは2010年、アップルのスマートフォン用に開発された写真共有アプリケーション・ソフトウェアだが、フェイスブック、ツイッターといったSNSの映像版として瞬く間に多くのユーザーを獲得、世界の月間ユーザーは2017年9月時点で8億人とも言われている。アンドロイドのスマートフォンでも利用でき、2012年にフェイスブックが買収している。日本でも2014年からアカウントが開始され、すでに2000万人の利用者がいるという。
映像本位のメディアだから、ファッション業界などの広告媒体としても利用されているが、アメリカでは映画スターやモデルといった人びとが自らのはなやかな写真をアップしたり、例のハリウッド大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタイン氏によるセクハラ問題では、インスタグラムを舞台に告発する人も現れた。
日本ではタレントの渡辺直美が次々自画像をアップ、その奇抜なスタイルで話題になった。歌手の小林幸子は年末、新曲披露イベントで、インスタグラムで多くのフォロワーを持つファン100人を前に「インスタ映え」を狙った白いゴージャスなドレスで歌い、ファンはスマートフォンでライブを撮影し、そのまま発信することを試みた。
前回、インターネットによって書くという行為のあり方がすっかり変わってしまったことにふれたが、いまやコミュニケーションは「書く(打つ)」よりも「写す」という映像中心へと大きくシフトしている。
「リア充」代行サービス
この新しいメディアは、従来のSNSと同じように、いろんな社会的余波を生んでいる。自分のわいせつ画像を投稿したり、出会い系サイトとして利用されたり、違法薬物の売買に使われたりといった事例ばかりでなく、映像メディア特有の問題も浮上している。
自分が食べた料理やおしゃれなファッション、あるいは多くの友人に取り囲まれた幸せそうな写真を投稿し、日常生活のはなやかさを演出するために使われるが、これが過ぎると、インスタグラム用に撮影するためだけに料理を注文、撮影後は食べずに捨ててしまうという奇妙な事態へ発展する。店などもインスタ映えする商品を宣伝しているし、実際、そうして宣伝されたスイーツが食べずに捨てられている現場を撮影されて、公開されてもいる。
「リア充」という言葉がある。ウィキペディアには「リアル(現実)の生活が充実している人物を指す2ちゃんねる発祥のインターネットスラング」だと説明されている。記事によれば、最初(2005年ごろ)は現実生活が充実している人を「リアル充実組」と呼んでいたらしい。インターネット上のコミュニティに入り浸る者が現実生活が充実していないことを自虐的に表現するための対語的造語だったが、しだいに彼らの仕事や恋愛の充実ぶりに対する妬みのニュアンスを持つようになったという。
だからインスタ映えとは、自分の「リア充」を装うために、そのように見える写真を載せる行為と言ってもいい。「リア充代行サービス」というビジネスも登場している。たとえば、何人かの友人に誕生日を祝ってもらい幸せそうな写真を撮るために、理想的な場所や環境を提供してもらう。にこやかに祝福してくれている友人もエキストラである。その写真をインスタグラムにアップする。
現実世界に生きることより架空の世界での華やかさを追い求めるわけで、ゲームにふける心理とあまり変わらないけれど、そのリア充のおぜん立てをしてやる現実の商売がけっこうはやっているというのは、やはり物悲しい思いがする。サイバーリテラシーではサイバー空間よりも現実世界に軸足を置いた、地に足のついた生活が大事だと主張しているけれど、現実そのものはいよいよやせ細っている。
現実世界のやせ細り
さて忖度の方である。こちらの受賞理由は「今年は、マスコミから日常会話に至るまでのあらゆる場面でこの言葉の登場機会が増えた。きっかけは3月、『直接の口利きはなかったが、忖度があったと思う』という籠池泰典氏の発言」とあるが、「忖度」の源流が安倍首相その人の政治手法にあることはすでに明らかである。
安倍政権は国会での野党の質問にはまともに答えず、突然の衆議院解散に踏み切り、その結果は与党の圧勝に終わった。これもまた現実世界のやせ細りである。
「忖度」と封建時代の「御意」精神とはあまり変わらない。インスタ映えも忖度も、合理的、理性的な生き方とは対極にあり、「ポスト真実」の時代を反映して、すべてが明記されない曖昧さのままに流れている。
日本ばかりではない。トランプ米大統領就任も今年年頭の出来事だった。北朝鮮のミサイル実験や国際社会を敵に回しての大立ち回りもあった。南極では氷が解けて、地球温暖化の危機がいよいよ迫っているようだが、人目に触れにくい極地での出来事でもあって、人びとはあまり深刻に受け止めていない。
これが2017年年末の日本、および世界の姿である。この年に「インスタ映え」と「忖度」がともに流行語になったことは、まことに興味深いと思われる。 
 
 
 2017/12

 

●日本社会に蔓延する「忖度」という病 流行語で終わらせるな 2017/12
「2017ユーキャン新語・流行語大賞」(「現代用語の基礎知識」選)の年間大賞が発表され「インスタ映え」と「忖度」に決まった。その「忖度」という病が蔓延していることが、病理のようなさまざまな症状を呈することになるのだと、諏訪中央病院名誉院長の鎌田實医師はいう。「忖度」という言葉をただの流行語に終わらせてはならない理由を鎌田氏が語る。
山口県周南市で昨年7月、高校2年の男子生徒が自殺した。学校でいじめがあったかどうかなど、第三者委員会が調べ、最終報告書をまとめた。ところが、その報告書を遺族に見せる際、県教育委員会が「内容を報道機関などに提供しない」などとする「誓約書」の提出を求めていたことがわかった。
毎日新聞によると、県教委は遺族へのメールに、報告書には個人情報が含まれ、遺族にのみ提供されるものであることを踏まえ、内容を他の保護者・報道機関などの第三者に提供しないことなどと記した書類を添付し、署名のうえ提出するよう求めたという。
県教委は、ほかの生徒たちのプライバシーを守ることが大事といいたいようだが、本当に守りたいのは自分自身なのではないだろうか。「愛国のパラドクス」という言葉がある。国のため、会社のため、組織のため、あなたのため、といいながら、実は自分の利益や出世のことを考えているのである。自分ファーストという目的を隠しながら、組織や相手にしがみつき、コントロールしようとするのだ。
遺族は、報告書の内容を口止めされて、だれにも相談できずに苦しんでいる。
企業のデータ改ざんが後を絶たない。業界3位の神戸製鋼所が強度や寸法などの検査データを組織ぐるみで改ざんしていた。一部でJIS規格に満たない製品を出荷していた疑いも出だしている。製品は、自動車のドア、H2Aロケットや国産ジェット機の部品、自衛隊の防衛装備品など、延べ約500社に幅広く使われているという。
問題は国内だけにとどまらない。アメリカのゼネラル・モーターズなどの自動車メーカーや、航空機メーカーも調査を始めている。
日産自動車も無資格者が車両の最終検査をしていたことが発覚した。この問題がわかった後も、無資格検査が続けられていたことも明らかになった。さらには、検査員試験では、正解を丸写しさせるということまでしていたというから、検査が形骸化していたことがわかる。「やっちゃえ日産」が、とんでもないことをやってしまった。不正をやる側の一人ひとりの問題もあるが、それを容認し助長する空気が会社のなかにあったということである。
これらの不正は、日本ブランドの信頼を傷つけたのは間違いない。「モノづくり日本」というプライドは、もう過去のものになってしまったのだろうか。
いじめの報告書を外に漏らさないように口止めした教育委員会と、ズルをした神戸製鋼所や日産には、共通点がある。それは、わからなければいいというモラルの欠如と、わからないようにしてしまえば責任は免れるという隠ぺい体質だ。そして、こうした体質は、「忖度」というしがみつきやもたれあいを生む体質と、とてもよく似ている。
先日、ぼくは『忖度バカ』(小学館新書)を上梓した。日本社会に深く蔓延する「忖度という病」とは何なのか。一強におもねる官僚の姿があらわになったモリカケ問題や東芝の没落、ベッキーの不倫騒動、いじめ問題、日本人の終末期のあり方など、さまざまな例を挙げて分析した。
そもそも「忖度」とは「他者のことを推し量る」ということ。社会生活を円滑に営んでいくうえで役立つ心の働きである。
なのに、「忖度」が行き過ぎてしまうことで、自由な、自分らしい生き方が阻害されてしまう。内向きの社会のなかで、限られたパイを奪い合いながら、些細な違いによって分断し合ったりする。
他者とつながり、支え合うための「忖度」が、足を引っ張り合い、しがみつき合うような方向に作用してしまっているのである。
なぜ、こんな社会になってしまったのか。過剰な「忖度」を「病気」に例えて考えてみると、ぼくたちの社会が抱える問題が見えてきた。
忖度という病は、さまざまな症状を発症する。その一つは「記憶障害」だ。モリカケ問題でも、「記憶にありません」「記録がありません」と、一強の首相をかばうような発言をする官僚が多発した。
忖度という病になると、「視野狭窄」にも陥る。会社や教育委員会などの狭い組織の中だけしか見えておらず、組織に従うことだけをよしとしてしまう。
また、「認知のゆがみ」も生じる。認知とは、外部のものごとや出来事のとらえ方のこと。相手にレッテルを貼ったり、事実を隠ぺいしたりする。南スーダンで国連平和維持活動をしてきた自衛隊の「戦闘」を、当時の防衛大臣が憲法に違反するという理由で「武力衝突」と言い換えた「言葉のすり替え」も、典型的な症状だろう。
忖度という病で、さらに深刻な症状は、「過剰適応」だ。ブラックバイトやブラック企業というのがあるが、過酷な環境にも無理やり適応してしまう。子どものころから「いい子」であることを期待され、親や先生の顔色をうかがってきた人が陥りやすいといわれている。
過剰適応して自分を押し殺している人は、相手も自分を押し殺してくれないと怒りを持つようになる。怒りで、足を引っ張り合いながら、負の均衡を保とうとする。だから、ブラックはどんどん激化していく。
データ改ざんなどの組織ぐるみの不正も、過剰適応である可能性がある。さらに、社員が積極的に不正に手を貸すことで、自分が必要とされていると思い込んでしまうようになる。そうなると、病状は悪化し、「共依存」という状態になってしまう。
共依存は、アルコール依存症やギャンブル依存症のパートナーが発症する例が知られている。彼らは、依存症者に対して自己犠牲的にふるまいながら、相手をコントロールしようとするので、依存症からの回復はなかなか進まない。
組織で不正があったときも、共依存者がいると、組織の自浄作用は働かず、不正が発覚したときには手遅れになっていることも少なくない。忖度という病は、こうしたさまざまな症状を呈する。
「忖度」という言葉は、モリカケ問題に端を発し、一気に広がった。「Jアラート」や「ちーがーうーだーろー!」とともに今年の流行語大賞にもノミネートされた。
モリカケ問題の追及逃れともとられかねない突然の解散の後、自民党が大勝。何事もなかったかのように来年4月の加計学園の獣医学部新設が認可された。
一強の首相は、国民はすぐに忘れるとタカを括っているのだろうが、果たしてそれでよいのだろうか。「忖度」という言葉をただの流行語で終わらせてはならないと思う。 
●「忖度」の新用法の歴史 2017/12
今年を代表する言葉を選ぶ「今年の新語 2017」(三省堂主催) で、「忖度 (そんたく) 」が大賞に選ばれました。「忖度」そのものは古くからある言葉です。しかし、本来「相手の心中を推測する」意味だったものが、近年になって「 (上位者に) 配慮・迎合する」という意味が付加され、文法的にも用法が変わりました。こうした言語的変化が、大賞の選考理由となりました (参照) 。
この言い方は、一体いつごろから現れ、定着したのでしょうか。今回はその来歴を追ってみることにしました。
過去の用例
配慮・迎合の意味を含んでいると思われる「忖度」の用例を採集してみました。そのうちのいくつかを年代順に並べてみます。 ※用例・文献の引用方法について
1896年
餘(あま)り忖度(おもひやり)が無(な)さ過(す)ぎた。 (尾崎紅葉『青葡萄』春陽堂 p.43)
1908年
若し服從義務と云ふことを誤解して御無理御尤でやるものは誠實な眞面目の役人ではないと信じて居ります、然るに此ことを忘れて、太甚しきに至ると云ふと漫りに上官の意中を忖度して其意に迎合することに汲々たるものもあるかも知れぬ、是等は全く下僚たる責任を沒却するのみならず陋劣なる根性であると思ひます、・・・ (上山満之進「大林區署長會議に於ける演述 明治四十一年十一月二日 山林局長として」『上山満之進』[下巻] 成武堂 p.7) [1941年刊]
1931年
自分の生活を極度に節約壓縮して、先生のきもちを巧みに忖度し、うまくさきまはりして愛くるしい笑顔をし、忠實な犬となりきれば學校優等生といふものになる。 (小砂丘忠義「優等生とジヨン・デユーイ」『綴方生活』第3巻 第1号 ク土社 p.85)
1937年
これ〔この年に大阪の中等学校入試問題が日本歴史1科目だけになったこと〕は上の方の直接の意志ではないのではないか、と。上の方の直接の意志を忖度して、それに脅え且つおべつかる小吏根性が、こんな淺薄な國粹主義で、兒童の頭を混亂させるのではないか、と。 (廣津和郎「社會時評」『文藝春秋』第15巻 第6号 文藝春秋 p.165)
1952年
われわれが日本科学者の名誉のために、戦爭を防止するための積極的な努力、どんなささやかな努力さえも怠るまいとする提案に対しても、それが政治的であるという、むしろ極めて権力者の意志を忖度した政治的発言によつて封じられようとしている。〔1951年12月24日声明〕 (江上不二夫・上原專祿・長田新・務台理作・s要一「科学者の再軍備反対聲明」『社会主義』第9号 社会主義協会 p.11)
※「極めて…忖度した」の言い方に新奇性が感じられます。
1958年
〔前略〕〔国分寺町の合併協議は〕遅々として進まぬという状況になつており、これには県としても迷つているというのが実情なのです。しかし、できるだけ試案としてできた案でやつてくれという呼びかけはやつております。あえて今までの案に県が忖度を加えて、これはまずいというような考えは持つておりません。〔栃木県新市長村建設促進審議会会長・木村小金吾氏の発言〕 (「昭和三十一年第二回栃木県新市町村建設促進審議会会議録」『栃木県町村合併誌』第5巻 栃木県 p.100)
※「忖度を加えて」は「 (誰かの意向を勘案した上で) 試案に修正を加えて」という意味でしょうか。今ひとつ文脈が読み取れないのですが、「忖度を加える」という表現が興味深かったので取り上げました。
1964年
わが国の一部には、戦時中の軍部の意向とか、あるいは占領軍統治時代のGHQの意向とかというものを、一歩先回りして忖度 (そんたく) し、これを更に上回るような忠勤ぶりを競うという、まことに醜悪な奴隷 (どれい) 根性が見られたのであるが、今日に至っても依然として同じような現象が見られるのは、何とも奇怪なことである。 (田中美知太郎「論壇時評」『読売新聞』1964年6月22日付 夕刊 9面)
※「一歩先回りして忖度 (する) 」の言い方から「他を出し抜いて上位者の意に沿う行動をとる」という意味合いが感じ取れます。
1966年
つぎにまた、〔教科書の〕検定者側の不合格理由及び修正指示が実質的には口頭でなされ、存在及び内容の明確性を欠いていることも問題である。ことに、不合格理由は例示だとされることにより、他にも欠陥は多数あるのだということがにおわされ、申請者としては、権力の意向をつとめて忖度し、不必要に広くこれに迎合することを余儀なくされる。 (高柳信一「憲法的自由と教科書検定」『教育』第16巻 第12号 国土社 p.23)
1970年
〔前略〕稟議書は起案者にとって無条件に承認決裁を仰ぐことが至上の目的となる〔中略〕。したがって時と場合によっては,起案者が決裁者におもねるような立案をしかねないのである。もちろん,上位者の考え方を忖度する配慮は,補佐する者の当然のつとめであるが,おもねり的な忖度がまずはたらくということになっては問題である。 (鈴木初郎「第15章 意思決定の今日的条件」『日本経営の現代化』白桃書房 p.326)
※最近よく耳にする「忖度が働く」という言い方が使われていました。
1979年
責任ある地位に就いたからといって、意見を言う段階では上役の意向など忖度そんたくするな。こちらが、君の考え方を尊重しているからこそ、昇進させたのだ。〔和光証券社長 齋藤伸雄氏談〕 (「談話室」『金融と銀行』54年1集 [『週刊東洋経済』臨時増刊 (第4126号) ] 東洋経済新報社 p.89)
1983年
何か言われたときに、上の気持ちを忖度そんたくするといけません。上の顔色を見て仕事をするのはいかんのです。 (読売新聞大阪本社社会部 [編]『別所汪太郎・鬼検事覚書』読売新聞社 p.19)
1987年
内橋 トップが無責任になっていく一つの大きな背景を成しているのは「忖度社会」です。忖度社会というのは、トップが言葉に出して明言しない。アーとか、ウーとか、エーとか言うだけです。そうすると、それを解釈する解釈学が盛んになってくるわけです。結局どう解釈するかという解釈の能力を〔部下の間で〕競うことになり、その後づけが行われる。 (内橋克人・佐高信『「日本自讃論」では未来は読めない』講談社 p.86)

こうして用例を見てみると、配慮や迎合の意味を含む「忖度」は、戦前から継続的に使われていたことが分かります。ただ、この結果からだけでは使用頻度 (あるいは伝統的な用法との比率) までは分かりませんし、当時の人たちがはたして「〈忖度〉は、配慮や迎合の意味を込めて使うべき言葉である」という認識を持っていたのかも不明です。上記の用例は、本来の意味の「忖度」が、たまたま特殊な文脈で使われただけかもしれないからです。
そこで次に、「忖度」という言葉そのものについて言及している文章や、辞書の記述を取り上げ、新用法がいつ頃定着したのかを考えてみることにします。
「忖度」について言及した文章
昭和の終わりから平成にかけて、「忖度」の用法について書かれた文章が3つ見つかりました。
1983年
余談子は、この言葉〔「忖度」〕が大好きだ。あまりにも日本的で、日本人ならではの味わいと心情にぴったりだと常に思っている。また、この言葉こそ「民主主義」といわれるものの日本版ではないか、と。相手の立場を大切にし、その立場に立って考えること。これは人間としての尊厳を最大限にたっとぶことを態度で示すことである。 (「余談」『同盟』第302号 全日本労働総同盟 p.96)
1988年
忖度 / 人の気持ちを「忖度」するというのも、殺伐とした現代社会では本来の意味から離れて、悪い意味に使われることもあるようです。 〔中略〕 もともとは「他人のことを心配し真心から」忖度したものですが、どうも現在では「おせっかいな心配」という意味にも使われているようです。 (日本語研究会『日本語に強くなる本 あなたの日本語を美しく磨く』評伝社 p.156)
1990年
当用漢字にない文字をつかってもうしわけないが、忖度そんたくという問題をつぎにとりあげてみよう。忖度、というのはひとことでいえば他人の気持ちや願望を推量して、それにあわせて行動することを意味する。 (加藤秀俊『人生にとって組織とはなにか』中央公論社 p.143)
※この文章の後に、「忖度」の具体例として、稟議書作成のケース (上述の鈴木初郎氏の文章と同様の内容) などが挙げられていました。
2018年1月2日追記:このくだりは、ヤシロタケツグさんのブログで既に取り上げられていました。

「忖度」は本来「心中を推測する」以上の意味を持っていませんでしたが、この頃までには、「相手に配慮する」という意味、あるいはさらに度を越して「相手に合わせて行動する・迎合する」という意味に解釈する人たちが出てきたようです。
なお、この3つの資料だけを見ると、昭和時代に「配慮・思いやり」の用法がメインだったものが、平成に変わった頃に「迎合・おもねり・へつらい」の言い方に変化したように読めますが、迎合的用法は昭和にも存在するので、もう少し資料を集めないことには実際のところは分かりません。
辞書の記述
最近の辞書のなかには「忖度」の用法について「上位者の気持ちを特に論拠もなくあれこれ想像する感じが強い」 「人の心を思いやる」 「おしはかって相手に配慮すること」 などと解説しているものがあります。これらは新用法について言及したものでしょう。同様の解説は、さらに古い辞書にも載っていました。
1981年
そんたく〈忖度〉察し。推測。例上司の意向をー〔忖度〕した発言。 (『角川用字用語辞典』角川書店 p.297)
※語釈 (語句の説明) は一般的なものでしたが、例文に特徴がありました。
1985年
忖度そんたく〔名・スル動サ変〕他人の心や気持ちを推し測って考えること。〈推察〉の意味に近いが、〈推察〉が、ある根拠に基づいて相手の気持ちを思い測る場合を言うのに対して、この語は、下の者が上の者の気持ちを、あれこれ推し測る場合に使う。 (『表現類語辞典』東京堂出版 p.484)
1998年
※忖度 (そんたく)  相手の気持ちを思いやること。 (『日本語に強くなる 難読語辞典』愛育社 p.179)

1980〜1990年代には、新用法が既に定着しつつあったことが分かります。ただ、こうした説明をしている辞書は過去にも現在にも少ししかなく、大半は「他人の気持をおしはかること」(『岩波国語辞典』第7版新版) などとしか書いてありません。意味変化がなかなか気付かれなかったのは、世間一般での「忖度」の使用頻度そのものが低かったせいかもしれません。
まとめ
過去の用例を調べた結果、配慮や迎合の意味を含んだ「忖度」は、戦前から継続的に使われていたことが分かりました。また、1980年代には辞書にもこの新用法が解説されるようになり、少なくともこの頃までには、そこそこ普及していたと言えます。
とはいえ、やはり「忖度」は「今年の新語」に選ばれるのにふさわしい言葉だったと思います。この言葉は実際、最近になって殊に注目されだしたからです。また、「今年の新語」選考委員のご指摘にもあったように、近年文法的変化が生じている点も、新語たる所以になるでしょう。例えば、最近では「スポンサーに忖度する」のように「(人・組織)『に』忖度する」という言い方がよく聞かれるようになりました。ここまで文型が変化すると、「忖度」を「推測」の意味とするのには無理があり、「相手の意に沿った行動をとる」などの意味に解釈せざるを得ません。
もともと日常であまり使われることがなかった「忖度」という言葉ですが、流行語的な形で急速に広まったことで、今後は本来の用法よりも新用法のほうが一般的な言い方になっていくのかもしれません。
「忖度」に配慮の意味を込めようとする傾向は、案外古くからあったのかもしれません。 
 
 
 2017/11

 

●忖度社会に潜む同調圧力 2017/11
年末恒例の「ユーキャン新語・流行語大賞」候補に選ばれた「忖度(そんたく)」。日常で使うことが少なくなった漢字が、首相官邸の意向を官僚が配慮したと指摘された森友、加計(かけ)学園問題で注目された。
改めて手元の新明解国語辞典を引くと、忖度の語意は「他人の気持ちをおしはかる」とある。漢語的な表現であるが、円滑な人間関係を重んじて気を利かせる日本社会の性質を表したような言葉だ。
「政権1強」の政治状況で、官邸主導と政官の関係がクローズアップされた。問題の文書に記された「総理の意向」の真相は不可解だが、官僚側にとっては、あらがい切れない語感があり、神経をとがらせたであろうと察する。
こうした危うさは官僚社会に限ったことではない。有力者の言動に敏感に反応しながら、意に沿う結果になるよう物事を進め、異論を容易に差し挟めない空気は、社会のさまざまな場面であるだろう。古い難語の流行は、日本社会に根強く潜在化する同調圧力を表しているのかもしれない。 
●日本社会に深く巣食う「空気」の正体 2017/11
今年の流行語大賞の有力候補のひとつである「忖度」。安倍晋三首相の森友・加計学園問題に端を発し、急速に広まった言葉だが、これは流行語には終わらない、日本社会に深く巣食う病理を表わす言葉でもある。
ここでクローズアップされた官僚や政治家の忖度は「先回りの服従」というべきものだが、一強が、同じ意見の人をお友達にしたり、寵愛したりすればするほど、周囲の忖度は過剰になっていく。
その体質は、相手がお殿様であり、天皇であり、米国であり、社長であり、時代が変わって相手が変わっても、我々の国に根深く潜んでいる。政治の場のみならず、会社や学校、また、医療の現場など、様々な場で「忖度バカ」が生まれ、忖度疲労を起こしているのだ。
森友・加計学園問題で忖度してきた人たちは、「記憶にない」「記録がない」とシラを切ることで忠誠心を示そうとしたのだろうが、雲行きが悪くなれば、あっという間にトカゲのしっぽ切り。忖度バカの末路は哀れである。
病的な忖度はなぜ生まれるのか。
では、そうならないためにはどうしたらいいのか。
様々な「忖度」のパターンを検証し、その「空気」に負けない生き方を提唱する。 
 
 
 2017/10

 

●どうして政治家は「忖度」するのでしょうか 2017/10
忖度は日本的な仕事の文化。忖度しない人は「空気が読めない奴」として扱われてしまいます。
政治家や官僚が忖度をするのは、彼等がごく普通の日本人だからです。
そもそも「忖度(そんたく)」という言葉は「他人の気持ちを推し量る」というくらいの意味で、多くの場合、忖度をしないサラリーマンが「あの人は空気が読めない」と「仕事ができない人」として扱われるのと同様、政治家や官僚でも忖度しない人は「仕事ができない人」として扱われてしまうことになります。
私の経験上の話でいいますと、霞ヶ関では各人の仕事や役割分担が明確に定義されて個々人がその規定に従って働いている、というわけではありませんでした。部署ごとー課室ごとの大枠の役割分担の中で、個々の課員同士が空気を読みあって「お互い言いづらいことは言わずに済むようにして」流動的に業務を分担し、いわば“村的”にチームとして仕事をこなしていくスタイルが取られていました。
民間企業でも、大きくなればそういう会社が多いと思います。長期雇用という制度下、特定の決められた人間同士が内部で異動・昇進を繰り返す閉ざされた社会において、共同体として仕事や責任や成果を共有するために生まれた文化で、責任者不在の意思決定やサービス残業が常態化しているのも、こうした“忖度”文化が背景にあるのだと思います。
政治家も日本人ですから、こうした日本的な仕事の文化を引きずらざるを得ません。政治家は自身が大物政治家の意向を忖度しますし、また官僚に対して忖度させます。こうしたインフォーマルなコミュニケーションができずに大物政治家に対して明確な指示を求め、また官僚に対して直接的な圧力をかけるようでは、その政治家は「空気が読めない奴」と扱われ、上がり目はなくなるでしょう。これは与党も野党も一緒です。
日本ではお互いが空気を読みあって「阿吽の呼吸」を形作るからこそ、付かず離れずの持続可能な関係を築けるというものなのでしょう。なお私はこうしたコミュニケーションの取り方が苦手でしたから、今こうして役所の外に出て独立しているというわけです。
もちろん忖度の結果、違法行為が行われるようであれば大問題ですが、法律の範疇の中でことが処理されているのであるば「忖度」という文化そのものに目くじらを立てることはないでしょう。単なるコミュニケーションの一手法に過ぎないわけですから。 
●大衆民主主義および社会の変貌 「官僚政治」から「忖度―独裁政治」へ 2017/10
(一)行政国家と社会の政治化および組織化された大衆民主主義
法治国家と自由主義経済の変貌
先進諸国では1929年の世界大恐慌を契機として、国家が経済政策および社会政策によって、大々的に経済社会に介入するようになった。なぜなら経済は、慢性不況から自らの力で脱出することができなくなり、また階級対立も激化する一方となり、経済社会つまり市民の側が国家の政策を要求したからである。
こうして国家が大々的に経済社会の中に介入してくると、社会はできるかぎりの経済政策や社会政策を要求し、さらには福祉国家として、国家が国民の生活を保障することが当然視されるようになる。たとえば日本では、不況になると必ず補正予算が組まれ、公共投資による景気浮揚策が導入される。
しかし他方で「自由経済」も主張される。自由経済であれば、不況になっても、本来ならば経済自身で立ち直るべきであるが、産業界はもとより国民一般も、景気浮揚のための財政金融政策を政府に要求してきた。もはや自由経済とはいえない。要するに国家は単なる「法治国家」から「行政国家」に変わり、政治が政策主体として社会に介入するところの「政治国家」となった。
民主主義から組織化された大衆民主主義へ
このように国家が経済社会の諸問題を解決する施策を導入するにつれて、市民は国家に対する要求を次第に強めてくる。そして要求を効果的にするために、市民は利害関係を共通にするグループ間で組織をつくり、その組織の政治力を行使するようになった。たとえば経団連、労働組合連合、医師会、全国農業協同組合連合会、全国消費者団体連合会をはじめ、その他多くの利益団体が形成されている。
それゆえ民主主義はもはや、単なる民主主義でなく「組織化された大衆民主主義(organized mass-democracy)」(難波田春夫)に変質した。このような民主主義の下では、社会の国家に対する要求は強まる一方である。
またこれと並行して、社会は価値観を異にする多くのグループに分裂し、それぞれの組織が自分たちの代弁者としての議員を国会に送り込み、国家や行政の恩恵を自分たちにより多く向けさせようとする。それゆえ国会はこれらの利益団体の「パイの分奪り競技場」となっている。
(二)行政国家と官僚政治----官僚制の特質と弊害
官僚制の特質と弊害----合法性と正当性の混同
これらのプロセスから、行政の仕事は多種多様となり、無際限に増大してきた。しかし国民から選ばれた議員は、必ずしも専門的な知識をもっていない。M.ウェ−バーによると国会は「ディレッタントの集まり」であるから、これらの多種多様な要請に応えられない。したがって国会で法案が決められるが、それは官僚が創った法案の承認にすぎない。たしかに議員の手による「議員立法」はかなり限られ、実質的に官僚政治となった。一般的には「政治はむしろ日常的な行政処理に委ねられ、官僚政治が支配的」(ウェーバー)となっている。
ちなみに「ディレッタント」の語源は、ルネッサンス期のイタリアで生じた「ディレッターレ」である。当時は「ギリシャに帰れ」が叫ばれたが、ディレッターレ自身は、ギリシャの文芸、詩歌、演劇などにあまり通じていない。そこで、これらに詳しい「フマーナー」を招待して講演させた。このフマーナーが「ヒューマニスト」の語源である。
それはともかく、こうして政治は実際には、「民主主義政治」から「官僚(公務員)政治」に変質し、官僚自身が行政目標を立て、これを法案化している。そこで幾つかの問題が生じる。第一に公務員は「責任倫理」によって、先ずは何よりも「合法性」が要求される。行政は合法的な手段であることが不可欠だ。この合法性の重要性から、「合法性と正当性の混同」が生じる。つまり「合法」であれば、それが「正当」であると見做され、これが、しばしば深刻な問題をもたらした。
たとえば水俣病は、1956年に因果関係が公式に確認されていたのに、当時の通産省と厚生省の「窒素水俣工場は合法的であり、なお広範囲の検討が必要」との主張ゆえに、有機水銀の垂れ流しが放置された。そして水俣病が公害病に認定されるのに12年もかかった。同様なことが、アスベストはじめ幾つかの問題についても言えよう。
曖昧な責任と「省益・庁益・局益」および情報問題
第二に官僚制はピラミッド型のシステム、つまり縦は「命令―服従」、横は「権限で画される」関係である。そのため官僚の任務と責任は各部門の部分責務となり、システムや仕事の全体を捉える思考に欠ける。また権限で画される「各省庁の縦割り行政」が、非効率と無駄を生みやすい。
いうまでもなくピラミッドのトップが全体の責任を負うが、それは形式的責任にすぎない。トップは仕事全体に係わることも、これを理解することも不可能であるから、実質的な責任をとれない。全体の問題性について、誰も事前的もしくは行政の実行プロセスにおいて知りえないゆえ、結局は事後的に形式的責任をとることになる。
第三に官僚は「最小費用で最大効果」をあげる責任倫理を課せられているが、これが護られにくい。仕事の効率化よりは、むしろ「省益や庁益さらには局益」が優先されがちである。ここから各省庁による「予算の分奪り競争」が一般的となった。これが、縦割り行政とあいまって行政の肥大化と非効率および無駄の温床となった。国家予算は拡大し、とりわけ日本では財政の累積赤字が止まるところがない。
たとえば日本のODA(政府開発援助)は、ほとんどの省庁がばらばらに手がけてきた。しかし各省庁に、これを有効に分配する十分なスタッフがいるわけではなく、したがって無駄なODAが、これまでも随分と指摘されてきた。ようやく最近になって、これが内閣官房のもとに一元化されることとなった。
このように官僚制の弊害が少なくないが、さらに「合法性と正当性の混同」や「部分責任の問題性」ならびに「省庁の予算の分奪り競争」のすべてと関連して、官僚自身で、さらには政治家と組んで「情報」を、政党やマスコミおよび大衆に対して操作するケースも少なくない。
たとえばアメリカのイラク戦争に際しての、当局の情報コントロールは否定できない事実であった。また日本でも、たとえば郵政事業の民営化に関する議論において、当局は巨額の費用をかけ地方テレビを通じて民営化の喧伝をした。このような露骨なコントロールは例外的であるが、一般的に民主主義に反するような情報操作が見られる。
(三)忖度政治から独裁政治へ
議員立法が多くなれば、このような官僚政治による民主主義の形骸化をある程度は抑制することができる。しかし官僚でなく国会議員が自ら法律を立案するところの「議員立法」は、国会議員にとって容易ではない。もともと官僚は専門的な知識を備えているが、少なからぬ国会議員が、先述のとおり専門的な知識に欠ける「ディレッタント」であるからだ。
これに対して官僚を政治家がコントロールできれば、こうした官僚政治からある程度脱却することができる。それを試みているのが安倍政権である。そのために安倍政権は、上級公務員の人事権を内閣官房が握るという手段を導入している。中央省庁の幹部公務員約600人の人事を取り仕切る「内閣人事局」を設置した。その結果、すべての公務員の人事権を握ったと同じような効果を発揮している。
この人事権制度の下では、上級公務員は自己の出世のために安倍政権の意思どおりに動き、この意思が不明瞭でも、首相の思いを「忖度」して動く。下級公務員も同様な理由から、上級公務員の顔色を窺いながら仕事をする。したがって、こうした人事権制度を導入すれば、たしかに「官僚が支配する政治」を克服できる。
しかし、それは「民主主義政治」の回復ではなく、「忖度政治」への転落である。公務員全体が、自分より上級の公務員の意思を忖度し、それが法律を犯すことにもなりかねない。森友問題や加計問題について推測されるとおりだ。この忖度は、とくに上級官僚の現政権に対する忖度から始まり、やがて公務員システム全体に広まるであろう。
これは与党の「一党独裁政治」どころか「首相独裁政治」に近づく。実際に自民党のOBが心配を表明しているように、現政権に対する反対や意見を開陳する自民党議員が極めて少なくなった。かつての自民党は、内部において様々な意見が表明され戦わされた。自民党内の各派閥がそれぞれ、あたかも別の政党であるかのような体をなしていた。
(四)二大政党論と小選挙区制の誤謬
日本でもかつては自民党と社会党の2大政党により、議会制民主主義が正常に機能していたと言われる。しかし実態は、自民党も社会党も、内部に派閥を抱え、これがそれぞれ政党と同様な役割を果たしてきた。それゆえ「二大政党論」は実態とかけ離れた「政治学論」であった。もっともこの政治論は必ずしも日本に限られないが、しかしイギリスの政治を手本として学んだ「日本の政治学」に強い傾向である。
したがって日本では、二大政党が議会制民主主義の正統なあり方だとして、これを強引に創造するために「中選挙区」を廃止して「小選挙区制」を導入した。けれどもこれによって、市民の多様な意見を正しく汲み上げることができなくなり、また選挙における「死票」が多くなった。同時にこれが政治に対する大衆の無関心をも助長している。
ちなみに2大政党の議会制民主主義の典型と言われたイギリス、ドイツ、スエーデンでは、「神が予定しておいた人間だけが救われる」という「予定説」のプロテスタントが支配的であった。この影響から強いリーダ−シップが容認する国民のエートスが育ち、それゆえ政治は2大政党となり、いずれかが政権を担うこととなった。しかし現在では、ここでも大衆の価値観が多様化して、たとえば「緑の党」や幾つかの「右翼政党」をはじめ、多くの政党が連立し、「合従連衡政権」が生まれている。
これに対して「神のもとの平等」を説くカソリックが支配的であるフランス、イタリア、スペインなどでは、強いリーダーシップは容認されない。したがって常に少数政党の連立であり、政権はこれらの合従連衡である。ただし合従連衡政権の妥協と脆弱さの反動から、ドゴール政権などの例外もあった。こうして見ると、日本では「八百万の神」の理念が流布されてきたから、どちらかと言えば、カソリック諸国のエートスと政治にちかく、多党連立が自然の在り方だと言えよう。
(五)官僚制の社会的な広がりと自由の喪失
ところで官僚制組織は政治の世界に限られない。官僚制はたしかに形式的機械論的な制度ではあるが、これが正当に機能している場合は、合理的かつ民主的な組織である。したがって官僚制は次第に社会全体に広まってきた。企業でも労働働組合でも、組織が拡大すれば、官僚制的な組織とならざるを得ない。
それゆえ個人はこの官僚的機械的組織の中に、専門的な一つの歯車として組み込まれるようになった。このことから個人の本来の「創造性」や「全人性」ないし「自由」が抑圧される傾向が強まっている。
多くの市民が豊かな生活を求め高給を求めて、専門職を追求して「専門家」を心掛ける。そしてこの専門家は、企業と言う巨大な官僚的機械的な組織の中に、一つの歯車として組み込まれていく。こうして全人性を発揮できずに、自由を失っていくのである。ちなみにマックス・ウェーバーは、これは近代文明の不可避的な傾向だと説いた。
しかし「物的な豊かさと幸福とを同一する」ところの「経済主義」が克服されれば、これは不可避だとは言えまい。いまや少なからぬ人々が、一方で専門的な知識を追求しながら、他方で余暇の充実やボランティアに精を出して、経済主義を克服する傾向が出てきた。とくにEU諸国では、80年代からこうした傾向が強まってきたが、日本でも最近の震災ボランティアなどに典型的に見られるとおりである。
さて議会制民主主義は、先の官僚政治を克服することが重要であるが、現政権のやり方では、「忖度―独裁政治」となってしまう。官僚政治でも忖度政治でもない民主主義政治を回復する道はあるのか。その重要な一つが、EU諸国が導入している「経済社会協議会」である。これに関しては稿を改めて述べることにしたい。ところで今年の流行語大賞は「忖度」だろうか。  
●日テレ、安倍政権に忖度して番組改変か 2017/10
10月9日放送のNNNドキュメント(日本テレビ系列)で、安倍政権に忖度(そんたく)したと思われる番組改変事件が起きた。「『放射能とトモダチ作戦』 米空母ロナルドレーガンで何が?」と題し、東日本大震災で被災者を救援した米軍「トモダチ作戦」参加兵士が、「福島第一原発事故による放射能被曝で健康被害が出た」として東京電力などを提訴していることを紹介した番組だったが、昨年5月に米国で被曝兵士にヒアリング後、支援基金を設立(約3億円寄付)した小泉純一郎元首相が登場する場面がすべてカットされたというのだ。
この訴訟を当初から支援、小泉元首相に訪米を勧めたジャーナリストのエイミー・ツジモト氏(日系4世で被爆2世)が訴える。
「東電を訴えた米兵や弁護士を紹介するなど番組制作に全面的に協力してきましたが、放送10日前の9月29日になって日本テレビの担当プロデューサーから『今回放送の番組の中の小泉氏の登場シーンは全てカット』とメールで伝えられました。“改変前”の放送予定番組には、記者会見で涙を流した小泉元首相の訪米の様子や、兵士が小泉氏に感謝の気持ちを述べる場面もあったのに、“改変後”はすべて削除されてしまったのです」
同番組の担当者は削除の経過をメールでこう説明している。
「本日二度目の(中略)プレビュー(放送前視聴)が行われました。そこで、日本テレビ報道局の総意として以下の業務命令が出ました。『今回放送の番組の中の小泉氏の登場シーンは全てカット』というものです」
「放送法では『公示期間中』に限定されているのですが、小池=小泉は影響が大きすぎて期間直前でもだめだという局の判断との事。結局、日テレ報道の魂は『ABに忖度』という事なのです」
これに続き、「選挙が目前である事」「希望の党が脱原発を公約、選挙の争点にした事」「希望の党設立の会見後に小池・小泉が会って協力を臭わせた事」「小泉氏が(小池氏を)応援する事にでもなると、放送直前の直しが間に合わなくなり、放送に穴が空くから」などの削除の理由が列挙され、「守りきれませんでした。申し訳ありません」との言葉で結ばれている。
選挙報道原則を拡大解釈
「ABに忖度」とはもちろん安倍政権のことだろう。「小池=小泉は影響が大きすぎて」などとあるように、安倍政権に過剰なまでに忖度した“自主的検閲”といえる。選挙中の公平報道原則を、期間も内容も自分勝手に拡大解釈し、被曝兵士救済に動こうとしなかった職務怠慢の安倍政権のマイナス材料を削除したとしか見えない。その結果、有権者に投票の判断材料となる情報を与えずに国民の知る権利を奪ったのだ。
小泉元首相は訪米後、外務省に被曝兵士の実情を報告したが、日本政府(安倍政権)は動かなかった。そこで原発ゼロ社会実現を目指す仲間とともに小泉元首相は昨年7月、支援基金設立を発表。講演会参加費をすべて基金に回す全国講演行脚をボランティアで続けながら、原発ゼロ実現と被曝兵士救済をセットで訴えた。その結果、当初の目標の1億円を超える3億円が集まることにもなったのだ。
「被曝兵士が今回の番組を見たら『なぜ支援基金を作った小泉元首相が出てこないのか』と全員が首を傾げるでしょう」とツジモト氏。
原発推進で被曝兵士にも無関心な安倍首相と、脱原発で被曝兵士救済に奔走した小泉元首相の違いを知った上で、原発問題が大きな争点となった総選挙の投票行動の判断材料にすることは何ら問題ないはずだ。事実をありのままに有権者に伝えることになるからだ。
しかも小泉元首相は原発ゼロの政策の正しさは訴えても、選挙で特定の政党や候補者の応援をしない考えを繰り返し表明していた。日テレ上層部はありえない選挙応援の事態を妄想、被曝兵士救済に動かなかった安倍政権の職務怠慢を隠蔽したともいえる。これこそ、自民党に肩入れをする偏向報道に該当、多角的な情報提供を定めた放送法違反ではないか。日本テレビの対応が注目される。 
●忖度が国を滅ぼす  2017/10
森友学園や加計学園問題で官僚が安倍首相との関係を忖度して便宜を図ったのではないかと言う疑惑が国会で取り上げられてから、「忖度」という言葉が流行語のようになってしまった。
しかし「忖度」は昔から日本の社会ではずっと大事にされて来たことではなかろうか。何よりも「和」を尊んで来た「むら社会」では、庶民は権力者の意向を「忖度」して、違った意見を抑えて大勢に同調し、皆が「むら社会」の「和」を保つことが大事だとされて来た。
戦前の大日本帝国も「一億一心、百億貯蓄」「一億火の玉」などという標語からもわかるように、国民は独裁的な政府や軍部の方針に上から組み込まれるだけではなく、下からも政府の方針を忖度して協力した結果、耳の痛い異論は封じられ、反対者は排除され、皆がそのまま大きな流れに乗って突進し、戦争、敗戦という社会の破滅の道を突き進んでしまったのである。
同じ「忖度」でも、弱者を思いやるのは素晴らしいことであるが、強者への「忖度」は単なる諂いだけではすまずに、大きな災難に繋がりかねないものである。今も、森友学園や加計学園問題の場合の官僚たちがそうであるが、メディアが政府の意向を「忖度」して必要な報道を自粛するようなこともそれにあたるであろう。
最近の世相は次第に戦前に似て来たように思えて仕方がない。政府の戦前復帰の政策に対して、それに群がる利益集団は言うに及ばず、官僚機構や地方自治体、メディアなどまでが政府の意向を必要以上に「忖度」して保身を計り、あわよくば利益にありつこうとする傾向が強くなって来たようである。
先日の新聞でも、「梅雨空に『九條守れ』の女性デモ』という句が毎月公民館だよりに載せられていたグループの秀作に選ばれたのに、その句に限り掲載を拒否され、裁判沙汰になったことが載っていた。公民館は非掲載にした理由を「公平中立の立場であるべき観点から好ましくない」と説明したようであるが、裁判所は「公民館が俳句と同じ立場にあるとは考え難く、理由を十分検討しないで掲載を拒否した」として公民館側の敗訴となったそうである。
しかし、これと似た、公共の場から市民の政治的な表現活動が排除されるケースは各地で相次ぎ、新聞によれば、金沢市では市役所前の広場で計画した護憲集会が不許可になったり、姫路市では労働組合の催しで安倍政権を批判するポスターなどがあったとして、市が途中から会場使用を中止にしたり、東京都の国分寺祭りでは護憲、脱原発を訴える団体が参加を拒否されたりと、全国的にあちこちで同様のことがおこっている。
日本では、どこかで自治体が政府に「忖度」して何かを制限したりして問題になると、それを見、聞きした他の自治体までが問題になることを恐れて、右に習えで同じように政府の意向を「忖度」しなければならない雰囲気になり、同様なことが燎原の火のように広がっていくことが見られるようである。
そうなると「忖度」が「忖度」を呼び、その周辺の事柄や場所にまで「忖度」が広がっていくことにもなりかねない。戦争体験者が戦争の体験をぜひ次の世代に受け継ぎたいとあちこちで精力的に話し続けてきた老人が、最近はだんだんと話させてくれる機会が減ってきたと嘆かれる話も聞いた。
学校での教科書選定でも、学校の教師の選択によると言いながら、文部省や関係諸機関の思惑を「忖度」して決められる傾向が強くなってきているし、森友学園問題でチラと露見したように、教育勅語を教育に取り入れたり、国旗、国家を学校で強制したりする問題なども、一部の勢力が働きかけ、それを政府が暗黙のうちに後押しし、やがてその意向を「忖度」させて普及させていこうという傾向が顕著になりつつある。
これまでの安倍内閣の政治姿勢を見ていると、憲法改正、戦争法、共謀罪、秘密保護法、北朝鮮による危機への対応、日本会議、靖国神社、日本会議、教育勅語等々、最近問題となった項目を列挙するだけでも、世の中の右傾化が進み、戦前を思わすような動きが強くなってきているこの頃である。
その波に乗って権力に対する「忖度」が流行り、反対意見が出しにくくなって来ると、いよいよ独裁的な政治の雰囲気となり、間違えれば「いつかきた道」で、また戦前と同じことを繰り返すこととなり、もはや後戻りできない破滅の事態に陥る危険性が増してくる。
そう考えると、日本における「忖度」は日本の底流を流れる「むら社会」「和」、それに伴う同調主義、「タテ社会」などと密接に結びついたものであるだけに、一方的な「忖度」がひどくなるとこの国の将来までが心配になってくるのは私だけであろうか。 
●「寛容型共生社会」の実現に向けて 2017/10
先日、甲府で開催された「日本ワインコンクール」受賞ワインを味わう機会において、フランスの方と知り合いになった。日本で働く彼の流暢な日本語はもとより、周りを気にせずに発せられるワインに対する率直な意見に、私は驚きつつ懐かしさを感じていた。
日本社会においては、相手の意見や会場の雰囲気を察知し、差し障りのない言葉を選んだり、声の大きさや話し方を変えたり、相手と意見の相違があっても意見をぶつけ合うことを避けることが「大人の対応」とされる。それが出来ない人は「KY(空気が読めない)」として揶揄される印象を私は持っているが、そんな「大人の対応」も国が違えば評価も変わると実感した経験を思い出したのだ。
もう10年も前のことだが、フランス人の友人から突然「日本人らしくない」と言われた。出張中の電車の中で、彼の意見に対して率直な感想を伝え、決して先に会話をやめまいと気張っていた時のことだ。私自身、まだ社会人経験も浅く、またフランス人は「議論好き」と聞いていたこともあり、相手の反応を考えずに自分の言いたいことを口に出していただけであったのだが、それが彼にとって驚きだったという。
彼と共に働いた経験を改めて振り返ってみると、彼らが大事にする「議論」は自分の意見を無理強いするためのものではなく、多様なルーツを持つ人々がお互いを理解し、違いを認め、共に生活を営むために必要な過程であったと理解できる。
人口減少社会を迎えた日本では、近い将来、言葉や文化の異なる方々や知能を有するロボット機器など、多様な相手と交流する機会が増えていくと思われる。その様な社会においても、自分の幸せを大切に暮らしていくためには、相手をより深く理解し、お互いを認め合い、協調して暮らす社会(私はこれを「寛容型共生社会」と呼ぶ)の実現が必要だと考えている。
ただ「言うはやすし」である。まずは「大人の対応」の代表格である「忖度」を少し減らして、「KY」と冷やかされようとも、家族や友人、同僚たちとの「議論」から始めてみたいと思う。 
 
 
 2017/9

 

●「忖度」を悪者扱いするなかれ 2017/9
森友学園の問題以降、「忖度」(そんたく)という言葉をメディアで頻繁に聞くようになりました。年末の流行語大賞の有力候補にあがりそうです。
近頃、この「忖度」という言葉は、悪い意味を込めて使われているようですね。「権力を持つ相手におもねって、その意をくみ取る」というような意味で用いられる場合が多いように感じます。
例えば、最近の朝日新聞の記事。作家の椎名誠氏の新刊紹介のインタビュー記事ですが、このなかでインタビューアーの依田彰氏は次のように記しています。(「(著者に会いたい)『ノミのジャンプと銀河系』」『朝日新聞』2017年8月20日付)
「そしていまも(椎名誠氏の)好奇心は子供のときのように健在だ。(略)では勉強やバイトに追われ、大人の忖度やウソを見せられている今の日本の子供たちは、椎名さんにどう見えているのだろう」。
依田氏のこの記事では「忖度」という言葉が、「ウソ」と並べられ、何か非常に悪いもののように扱われています。
ですが、もともとは「忖度」、「忖度する」という言葉に特に悪い意味はありません。国語辞典をみると、だいたい「他者の心を推し量ること」といった語釈が掲載されています。悪い意味どころか、むしろ他者の気持ちを敏感に感じ取って、それをおもんぱかるということですので、「思いやり」「やさしさ」「和」など日本人が大切にしてきた、また現代でも大切にしている道徳に大いに関係のある語なのです。
なのに、最近のマスコミでは、「権力者におもねって、その意をくみ取る」という意味で使われ、これが広まりつつあります。そのため「忖度」という語のイメージが悪化していますので、日本の古くからの道徳意識そのものにも悪いイメージが付着してしまわないかと心配になります。
ひょっとしたら、「忖度」をそういう悪い意味で好んで使う人は、日本人の道徳意識自体を、「長いものには巻かれろ」的な、「権力者・権威者に対しておもねりやすく、オカミに弱い」もので、「主体的・自律的ではなく、同調主義的で他律的でいかん」と暗に言いたいのかもしれません。
しかし、「忖度」や、この言葉の背景にある他者の気持ちをおもんぱかる日本の道徳を、悪くとる必要はまったくありません。
「忖度」とは、さきほど述べたように「他者の気持ちを推し量ること」「おもんぱかること」ですが、ここで、気持ちを推しはかる相手である「他者」とは、特に「権力者」「権威者」「オカミ」などに限られません。
例えば、「息子の気持ちを忖度する」とか「友人の行動の意図を忖度してみた」という具合に、「権力者」でも「目上」でもない他者の気持ちを推し量る場合にも使われます。
もちろん、他者の気持ちを重視する日本の道徳自体も、権力者に対しておもねりやすい同調主義的なものだなどと捉える必要はありません。
アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは、かつて著書『菊と刀』のなかで、日本人の道徳意識を「恥の文化」と名付け、周囲の他者の顔色を窺うばかりの同調主義的なものだと非難しました。また、ベネディクトに倣って、日本の多くの戦後知識人も、日本人の道徳は、同調主義的で主体性や自律性がなく、オカミや権威に弱いと批判してきました。
確かに、日本人の道徳意識は、西洋のキリスト教のように絶対的な戒律を前提にしたり、「正義」や「人権」といった抽象的原理を第一に強調したりするものではありません。そうではなく、日本人の道徳意識とは、様々な他者の気持ちや期待を感じ取り、それに配慮し、自分の行為や思考を絶えず反省し改めていくことを重視するものです。
ですが、このことが「権力や権威に弱い」とか「同調主義」につながるというわけではありません。
気持ちを感受し配慮すべき「様々な他者」には、権力者やオカミ、目上の人などだけではなく、身近な家族や同僚、あるいは見知らぬ外国人や世間様も含まれます。
それどころか、日本の道徳では、「様々な他者」には人間以外の者も含まれることが少なくありません。
植物など人間以外のものも含まれるのです。
前回のメルマガでも書きましたが、私は、最近、なぜか園芸にハマっています。それで今年の夏は、朝顔やひまわり、ハイビスカスの気持ちを忖度するのに明け暮れてしまいました。
例えば、うちのベランダには、赤、黄、ピンクのハイビスカスの鉢植えがあり、7月のはじめごろまでは、ほぼ毎日、どれかの鉢が大輪の花を咲かせていました。
園芸初心者の私は、「ハイビスカスは熱帯の花だから、これから暑くなってくるとますます多くの花が咲くだろう!」(^^♪)と楽しみにしていました。
ですが、7月も半ばになり本格的に暑くなってくると、黄色いハイビスカスは、つぼみはたくさんつけるものの一向に開花しなくなってしまいました。つぼみは、花を咲かせないまま変色して自然と落ちてしまうのです。赤とピンクの鉢も、花こそ咲かせるものの、どんどん花が小さくなっていきます。
心配になりました。日照不足? それとも肥料不足? はたまたダニかアブラムシでも付いたか、病気にかかったか? あるいは鉢が小さくなって根詰まりを起こしたか?などといろいろ考えました。顔色ならぬ葉色を伺いながら、物言わぬ黄色のハイビスカスの気持ちをあれこれまさに忖度していました。
本やネットで調べたり、うちの大学の農学部の学生を捕まえて尋ねたりしたのですが、結局、「夏バテ」だったようです。ハイビスカスは熱帯原産ですが、最近の日本の夏の猛暑は熱帯地方以上のようですね。真夏は暑すぎるので、鉢植えをあまり直射日光に当てず、日陰の涼しいところに置くようにすると、秋になるにつれて元気を回復するそうです。
私だけでなく、園芸好きは皆、こんな感じで植物の気持ちを日々忖度しているのだと思います。
いとうせいこう氏は、様々な分野でマルチな活躍を見せている人ですが、ベランダ園芸界の大御所でもあります。いとう氏の園芸エッセイのなかでも、植物の気持ちを忖度する様子が描かれていました。
ニオイザクラの鉢植えが枯れてしまったのではないかと心配し、いとう氏は次のように書いています。
「…匂い桜は枯れ色の枝を固定したままで数か月、愚痴も礼も言わない。すねてしまった内省型の女のようで頭に来た。(略)何か言ってくれればこちらの気も晴れるのである。(略)その言葉からなにがしかのコミュニケーションが生まれ、互いの気持ちを忖度し合えるのではないか」(『ボタニカル・ライフ』新潮文庫、2004年)。
ことは園芸趣味だけにとどまらず、実は、植物など人間以外のものの「気持ち」を重視し、それに配慮するよう教えるのは、日本のしつけや教育の大きな特徴でもあります。
教育心理学者の臼井博氏は、教育学や心理学の様々な実証的研究を踏まえつつ、日本では、人間関係で他者との共感が好まれるが、これは人間同士の関係だけにとどまらず、人間と動植物との関係でもそうだと論じています(臼井博『アメリカの学校文化 日本の学校文化』金子書房、2001年)。
例えば、日本と英国の国語教科書の内容を分析した研究では、物語の主人公に動植物が擬人化されてでてくることが、日本の教科書では英国の教科書の3倍近く多いということです。
また、日本と米国の母親が子供にどのように言って聞かせるかを比較した別の比較研究では、日本の母親は、米国の母親と比べると無生物や動植物を擬人化することが多かったということも臼井氏は指摘しています。例えば、子供が家の壁にクレヨンで落書きをしているのをみかけたときに、「壁さん、泣いちゃうよ」と言ったり、夕食のおかずを食べないときに「人参さん、食べてもらえなくてかわいそう」と言ったりするというものです。
日本の母親がこういう言い方をすることは特にめずらしいことではないですが、この研究によると、アメリカの母親がこういう言い方をすることはほどんどみられなかったとのことです。
他にも例えば、文科省が作成した道徳の副教材『心のノート』(小学校3, 4年生向け 平成21年改訂版)には、「植物も動物もともに生きている」という項目があり、そこでは「植物も動物も、人間と同じような心や力をもって生きているんだなと感じたことはありますか?」という問いかけがなされていたり、傷ついた菊の花をかわいそうに思い、手当してやる子供の話などが出てきたりします。
考えてみれば、日本人の多くはかつて農民だったわけですから、他者の気持ちの感受を重視する日本人の道徳意識というのは、植物など人間以外の者が対象として含まれるのは当たり前なのかもしれません。むしろ、植物や動物、山や川などの自然物が主で、そのなかの一部として他の人間が入ってくると考えたほうがいいのかもしれません。
内山節(うちやま・たかし)氏は、東京と群馬の山村を行き来しながら思索を続ける在野の哲学者ですが、日本の伝統的な主体性の観念とは、「他者のまなざし」を自分のものにし、そこから自分を見つめることが基本となって生じるものだと論じています。このとき、やはり、まなざしを意識すべき「他者」には、人間だけでなく、自然の事物も入ってくると指摘します。
内山氏は、村人とのある会合で、村人が農作業の様子を語るときの語り方について興味を持ちます。農作業について話す場合、村の人々は、「…作物や畑のまなざしで自分の仕事ぶりを説明する。春になった畑が自分に耕作を促し、伸びはじめた芽が村人に間引きを促す。もちろん、森での仕事も同じことである。大きくなった木が、人間に間伐を求める。村人は木のまなざしを自分のまなざしとしながら、森で仕事をする」(内山節『「里」という思想』新潮社、2005年)。
内山氏は、日本の伝統的な主体性の観念の特徴を、欧米の主体性の観念と比較しつつ、次のように述べています。
「欧米的な主体性は、自己や自我が出発点であり、自分の側からの働きかけとともにある。ところが日本的な精神では、他者が出発点にあり、その他者とのかかわりのなかに、主体性も発生する。(略)たとえばそれは、村の森であり、村の川や畑であり、村人であり、村を訪れた人々である。そういった具体的な他者とのかかわりのなかで、他者のまなざしを自分のものにしながら、主体性を発揮する」(同書)。
今回の私のメルマガ、だいぶ長くなってしまっていますね…でも、この辺りの話、面白いと思いませんか?
こう見てくると、「忖度」という言葉に表されるような他者の気持ちを推し量り、それに配慮するという日本人の道徳意識は、決して「権力者・権威者に対するおもねり」とか「同調主義」といったもので言い尽くされるものではないでしょう。また、「オカミに弱い」「主体性や自律性がない」といった批判も、日本人の道徳意識全体を捉えた上でのものではないと言えます。
日本人の道徳意識とは、言ってみれば、自己と、自然界を含む万物・万人との調和的関係を試行錯誤的に絶えず探求していくことを求めるものなのではないでしょうか。
また、日本の道徳は、こうした探求を可能にするために、幅広い、多様な他者の観点を鋭敏に感受する諸々の能力を伝統的に重視してきたのではないかと思います。「忖度」とは、そうした伝統のなかから生まれてきた言葉の一つなのです。
長い目で見れば、今後、世界では、おそらくエコロジカルな視点が重視されるようになると思います。そのとき、日本の伝統的道徳意識が世界的に評価されるようになることは大いにあるはずです。日本の道徳意識は、現代の日本人が十分に理解していない、非常に大きな可能性を含んだものではないでしょうか。
最近、「忖度」が悪い意味を帯びつつあり、またその背景としての他者の気持ちを推し量り、おもんぱかることを重視する日本の伝統的道徳意識も評価されにくくなっているように感じます。
日本人自身が、「忖度」や日本人の道徳意識を矮小化して理解し、それに引け目を感じるようになってしまってはいけません。それは、日本人の道徳的アイデンティティの喪失のみならず、人類の可能性の削減につながるものに他なりません。 
 
 
 2017/8

 

●忖度 2017/8
今、「忖度」という言葉がはやっている。
発端は、学校法人「森友学園」への国有地格安売却問題や「加計学園」の獣医学部新設計画をめぐって省庁幹部が安倍首相の意向を「忖度」したのではないか、との疑惑だ。両学園の理事長はともに首相と「昵懇」(じっこん)だったからだ。
「忖度」には、他人の動機を「理論的に推し量る」、あるいは「すべての事実を知らずに推し量る」という二通りの意味がある。
頭脳明晰な官僚たちだから、〈首相の意図に配慮し、すべての事実関係を知り尽くしたうえで、(あたかも)理論的に推し量った上で行政措置をとった〉と解釈するのは、意地が悪すぎるだろうか。
ジャーナリストの新井光雄氏によると、日本社会では「忖度」はいたるところで幅を利かせているという。(『エネルギーレビュー』「一刀両断」2017年7月号)
上司から「分かっているだろうな、あの件」などと言われると、正式な指示ではないが、断れない。出世はこの「忖度」がカギを握っていることだってありうる。多分九割かたは大丈夫だ、が、あとで責任問題が表面化すると致命傷になりかねない。新井氏は、「忖度」は「日本的曖昧さの極みだ」と言い切る。
が、アメリカにも「忖度」はある。
トランプ大統領はコミー連邦捜査局(FBI)長官に「ロシアゲート」疑惑捜査を中止するように仄(ほの)めかした。
コミ―氏は「これは命令と受け止めた」と議会証言している。大統領の意図をsurmise(「忖度」)し、受け入れていれば、留任させてもらったかもしれない。が、長官は拒否した。だから更迭された。それが大方の見方だ。
上からの命令なのか、願望をつぶやいただけなのか。どう受け止めるかは聞き手次第ということになる。
人間関係はよきにつけ悪しきにつけ、「曖昧さ」の中で成り立っている。
何も日本社会に限ったことではない。浮き彫りになったのは、聞き手だった公僕に「社会正義」(Social Justice)を貫き通せる勇気があったか、なかったか。それだけのことだ。 
●「忖度」の意味 恣意的に歪めていないか 2017/8
「(『忖』も『度』も、はかる意)他人の心中をおしはかること。推察」−広辞苑が教える「忖度(そんたく)」の意味である。作家の佐藤優氏は「忖度は、人間社会を円滑に動かす重要な機能」「他人の気持ちを推し量って行動するという忖度を抜きにして仕事は成り立たない」(『週刊東洋経済』6月24日号)と述べているが、全く同感だ。
人の気持ちを忖度し、それに寄り添うのは絶対の美徳である。その「忖度」が森友学園問題をきっかけに汚いイメージにまみれてしまった。加計学園問題では「総理の意向」に対する官僚の忖度の有無をめぐって与野党の論戦が激化した。一連の議論で気になったのは、忖度が冒頭の語義から大きく逸脱し、もっぱら「おもねる、へつらう」の意味で使われたことである。

世につれ場面に応じて言葉の意味が変わるのは、別段珍しい例ではないから、忖度に負の語感が加わったところで特に驚くには当たらない。しかし国民の言語行動に大きな影響を与えるマスコミが、言葉のもともとの意味までも恣意(しい)的に歪(ゆが)め、それを世間に垂れ流しているのだとしたら、さすがに問題と言わざるを得ない。
忖度という語は、五経の一つで中国最古の詩集『詩経』(小雅・巧言)に「他人有心 予忖度之」(他人心(たにんこころ)有(あ)り、予(われ)之(これ)を忖度す)として登場する。
「森友」問題に触れた4月1日付朝日新聞のコラム「天声人語」は、「忖も度も『はかる』の意味である。それが最近では、権力者の顔色をうかがい、よからぬ行為をすることを指すようになってしまったのか」と書き、先の詩経の一節を紹介したうえで、こう続けた。「他の人に悪い心があれば私はこれを吟味するという意味だと、石川忠久著『新釈漢文大系』にある。もともとは悪いたくらみを見抜くことを指したのか」(傍点は清湖口)。
忖度のもともとの意味を知らない読者はこのコラムを読んで、「官僚が総理の意向を忖度したのだから、総理の考えは『悪いたくらみ』だった」と合点しかねない。コラムはこうして読者を反政権に駆り立てているのではないかと、私はコラム子の狙いを“忖度”してみたのだが、いかがか。
そもそも、忖度の語義を「悪いたくらみを…」などと書く辞書はどこにもない。諸橋轍次著『大漢和辞典』は「おもひはかる。おしはかる。人の意中を推量する」と載せており、これが忖度のもともとの意味なのだ。「もともとは悪いたくらみを見抜くことを指したのか」とは何を根拠とした御説なのか、全く理解できない。
念のため天声人語が引いた石川忠久著『新釈漢文大系』(明治書院)にあたってみると、通釈に「他の人に(悪い)心があれば、私はこれを吟味する」(傍点同)とあった。お分かりだろうか、天声人語は引用に際して「悪い」の前後に付されたパーレン(丸括弧)を外しているのである。
この詩は政治を混乱させる讒言(ざんげん)について書かれてあり、詩意や前後の文脈に照らして解釈する限りにおいては「他の人の心」が「悪い心」を指すというだけの話なのだ。「忖度」そのものが「悪い」を含意するわけではなく、だから石川氏も「悪い」をわざわざパーレンで囲ったのだろう。
そのパーレンをコラム子が外した結果、忖度の語義がねじ曲げられた。「たかがパーレン」で済むような話ではない。

さらに−。詩経の「他人有心 予忖度之」は実は、中国の思想家、孟子が諸侯や弟子と交わした問答などを記した『孟子』(梁恵王章句)にも引用されている。斉の宣王に孟子が「人民は誤解しているが、王には惻隠(そくいん)の情がある」と説く。すると王は「詩経には『他人有心 予忖度之』とあるが、これはあなたのことを言ったものだ」「あなたの説明によって私は自らの心にひしひしと思い当たる」と喜んだ。
もし詩経にいう「忖度」が「悪いたくらみを見抜く」ことだったら、宣王は喜ぶどころか、自らの心を忖度した孟子をきっと責め立てたに違いない。
言葉の本来の意味を、マスコミが自らの主義主張を引き立たせる目的で勝手に変えてしまう。これをこそ「印象操作」というべきではなかろうか。 
●権力の集中が「忖度」を呼ぶ〜官邸主導時代の政治ガバナンス 2017/8
7月の東京都議会議員選挙で、自民党は歴史的な惨敗を喫した。高位安定してきた安倍晋三政権の支持率も急降下した。個別の大臣・国会議員の言動もあったが、学校法人「森友学園」への国有地払い下げ問題、学校法人「加計学園」の獣医学部の新設問題、そして安倍晋三政権の対応のあり方が大きな影響を与えたのは間違いないだろう。
そのうち、加計学園の問題には、1990年代以降に日本が進めてきた政治・行政制度改革の功罪が象徴的に現れている。

90年代以降の改革熱狂が志向した大きな方向性は、政冶・行政面での政冶主導および官邸主導の実現と、経済面での規制改革だった。今回、岩盤規制のーつとされる獣医学部の新設が官邸主導で認められたことは、見方によってはまさにこうした制度改革の成果であり、ここ20年以上、日本が目指してきた方向性そのものと言える。
戦後日本の政治・行政システムは、政治学者の故・佐藤誠三郎氏らが「仕切られた多元主義」と呼んだように、省庁ごとの仕切りの範囲内で政官財の利害調整を行ってきた。明治期に引かれた省庁間の線引きの枠内で政策を考えるという意識が、霞ヶ関の官僚たちには染みついていた。そうした仕切りを乗り越え、仕切りの中で長年醸成された既得権や利権を打破する政策を実現する手法として、官邸主導は極めて有効である。日本が環太平洋経済連携協定(TPP)への署名にこぎ着けたのも、強力な官邸主導に多くを依っている。
他方で、加計学園問題は、政治主導、官邸主導の問題点も浮き彫りにした。
90年代以降の一連の改革は一貫して、政治家、特に官邸に強い力を与える方向を志向してきた。背景には上記の「縦割り行政」に加え、「官僚主導」「決められない政冶」への強い批判があった。
しかし議院内閣制は本来、大統領制や半大統領制などに比べて行政府の長(首相)とその周辺(官邸)が強い権力を持ちうる制度である。議会(立法府)の第一党党首が首相を務めることが多いため、立法府と行政府が一元化されるからだ。もちろん以前の中選挙区制であれば、自民党が一党優位であっても、自民党内の派閥が「党内党」として首相の権力に強い規律を与えた。多くの欧州国家が採る大選挙区制では、政権の連立政党が首相に強い規律を与えている。
90年代に導入された小選挙区制が議院内閣制と組み合わさったことにより、他の先進民主主義国家と比しても、首相および官邸が政権内で絶大な権力を握ることが制度的に可能となった。さらに先の民主党政権への有権者の強い幻滅が加わり、小選挙区制度の下で政権への最大の規律となるはずの対抗野党が政権批判の受け皿となれない状態が続いている。
政治から一定の距離を保つはずの各種機関にも官邸の強い力は及んでいる。行政機関については、一連の「政治主導」のスローガンの下、官邸は内閣人事局を通じて幹部人事権を握った。報酬などで差異を設けづらい行政機関において、公務員の最大のインセンティブ(誘因)となるのは人事である。上司の心の内を「忖度」して動ける人間が「できる」と評価されるのは、官僚組織も企業も同じである。かつて各省庁の幹部への「忖度」を競い合っていた官僚たちが、今は官邸への「忖度」を競い合うようになったのは当然の帰結だ。
行政機関以外でも、政治からの一定の独立性が求められる日銀の審議委員の任命には、「経済または金融に関して高い識見を有する」という日銀法の基準よりも、アベノミクス(安倍首相の経済政策)への賛同の度合いが重視されている印象がある。最高裁判事人事、内閣法制局長官人事、NHK会長人事などにも、従来の慣行を超えた官邸の強い介入があったと報じられている。
加計学園問題で明らかになったのは、官邸への権力集中とその権力の中枢への「忖度」が永田町や霞が関を中心に広がっている姿である。権力集中には大きなリスクが伴う。また、せっかく官邸主導により既存勢力の既得権や利権が打破されたとしても、その既得権や利権が一般には開放されずに、新たな権力の下での新たな利権になるのでは意味がない。
権力集中の弊害を防ぐには、権力へのガバナンス体制の構築が何より重要となる。数年に一度の選挙による政権交代に政治行政のガバナンス(統治)のすべてを託すのではなく、各種の政治行政制度を総合的に見た上で、あるべき日常的なガバナンス体制を判断していかなければならない。

まずは、権力分立のあり方だ。例えば日本と同様に議院内閣制と小選挙区制を併用する英国では、政治家の官僚への人事権は強く制限されている。二大政党制も根づいている。首相の解散権の行使も強く制限されるようになった。オーストラリア、ニュージーランドなど議院内閣制を採る他の主要先進民主主義国家でも、政治家による官僚の人事権は制約されている。他方、米国では大統領が官公庁幹部を政治任用するが、大統領は議会と独立しており、議会から強い規律を受ける。日本は首相の議会解散権の行使に制約がほとんどない数少ない国でもあり、この面でも首相および官邸の権力が強い。
人事や政策の実施については、透明化、ルール化、第三者の関与などを通じて、政府(特に官邸)の日常的な説明責任を高めることが必要だ。安倍政権は企業に対するコーポレートガバナンス・コード(企業統治指針)の導入を積極的に推し進めた。決算期ごとの株主総会によるガバナンスだけでなく、企業経営者の日常的な説明責任を高めるためだ。政治や行政においても、数年に一度の選挙だけでなく、政府の日常的な説明責任を促すような仕組みの導入が必要だ。野党が与党批判の受け皿となり得ていない現状ではなおさらである。米国などで一般的となっているエビデンス(証拠)に基づいた政策立案や政策評価の手法を導入することも有益だろう。
森友学園問題、加計学園問題を起点とした今回の政治混乱は、90年代以降の制度改革の功罪を冷静に見直す良い機会となる。制度改革は通常、新たな制度の実際の効果が顕れるまで時間がかかる。今回の件により、90年度以降に「政治主導」「官邸主導」を志向して進められてきた一連の制度改革が、いかに官邸周辺に強大な権力を集中させたかが、国民の前に明らかになった。それに戸惑いを感じている者も多いだろう。しかしあらゆる改革がそうであるように、改革の成否を決めるのは、改革そのものよりも改革後の地道な試行錯誤と微調整である。権力の集中と分散のバランスのあり方が問われている。 
 
 
 2017/7

 

●「忖度する社会」、日本の特有性を理解することが重要 2017/7
最近、忖度という言葉がとても悪いことのように使われています。もともと、他人の心を推し量るという意味ですが、日本社会では、上司がはっきり指示をしなくても、部下はその意向を推し量り、作業を進めるということはよくあることです。政治問題化しているからということがあるにせよ、なぜ、いま、それが悪いことのように捉えられるのか。それは、日本人自身が日本社会の構造を正しく理解していないからだといいます。
欧米と同じ制度を取り入れても、根底には日本特有の構造が存在している
日本社会では、責任の所在がはっきりしない問題が起こることが多々あります。最近でも、福島第一原発の事故問題、築地の移転問題、森友学園や加計学園問題など、責任は誰にあるのかはっきりしません。むしろ、誰も責任をとらなくても良いシステムになっている、といえるのです。それは、以前から指摘されてきた日本特有の社会構造といえるものですが、グローバル化が進む現代でも、なぜ、このような社会構造が、ある意味、放置されたままになっているのか。また、今後も放置したままで良いのか。放置するにせよ、そのしくみと実態についてしっかりと考える必要があります。
現代にもつながっている日本特有の社会構造がいつ頃から形成されたのか、それははっきりとはわかりません。例えば、権威と権限を分けて天皇家が今日まで生き残ってきたように、はるか以前から、日本社会には、権限と責任が一極集中する強いリーダーを生むことを良しとしない社会観や組織観があったのだと思います。それが、明治維新をきっかけに欧米に追いつく近代化を目指すようになり、変わっていったように見えます。古代から幕末までの間に中国などの影響も受けて形成されていた日本独自の社会システムに、明治期はドイツやイギリスなどのヨーロッパを中心とした制度を、戦後はそれらの上にアメリカの制度を手本として取り入れたのです。そのおかげで、現代の日本人は、自分たちの生活や思考が、その根本に日本的なものを残しつつも、欧米型であると思っていますし、社会構造も欧米型だと思うようになっています。確かに、制度としては外形的に非常に欧米化しています。民主主義だし、法治国家だし、組織にはピラミッド型の指示命令系統があります。ところが、そうした制度が欧米で機能しているのと同じように日本の社会でも機能しているかといえば、実は、決してそうではない。例えば、欧米の指示命令系統では、トップの権限は100です。その下が80、さらにその下が70、60と下がっていき、末端になると権限は0になっていきます。ひとつの組織がトップの指示命令に従って動くようになっています。トップに全権限があれば、全責任もある構造です。ところが、日本社会では一見すると同じように、ピラミッド型になっていても、その実はイエモト・モデルであると、フランシス・L・K・シューというアメリカの社会学者が指摘しています。家元は、師匠として弟子に対して100の権限があります。しかし、弟子に免許皆伝を与えると、その弟子は自分の弟子を取るようになって師匠となり、100の権限をもつようになります。これが代々繰り返されると、100の権限をもつ人がたくさんいる組織になります。現実には、そのような「免許皆伝」がなくても同様のことが起こります。しかも、家元が指示を出すか直接の影響力を及ぼせるのはせいぜい孫弟子くらいまでで、それ以降の弟子に直接命令することはしません。各弟子にとっての直接の師匠の権限を犯しかねないからです。各弟子にしても師匠こそ直接従うべき相手です。結果的に、自分の権限が及ばなければ、責任も及ばない構造です。例えば、企業では、社長は部長に対して指示を出し、部長は課長に、課長は係長に、係長は平社員に指示を出します。大企業では社長が平社員に実質的な指示を出すことはありません。すると、平社員がサービス残業で過労死しても、社長には引責の認識はなく、周囲も社長の責任ではないと思うので、責任をとらせようともしません。これは、その本質や意味を理解することなく、ピラミッド型という目に見える制度が同じであるから生じる「誤解」で、その制度の内には、イエモト・モデルという日本特有の構造があるからだと考えます。
同様に民主主義も、多数決で決めることだとか、個人が勝手に自由に振る舞うことと、多くの日本人がはき違えています。採決の前に討論と説得の過程が必要で、その結果として、納得や妥協に至ればそれで決まってしまいます。それでも決まらない状況になって初めて多数決が実施されても、すでに少数意見の主張をよく聞いているから、それを尊重できる余地があるのです。ところが今の日本では、その制度の本質や精神がきちんと理解されていません。このような例は、他にもたくさんあります。欧米と同じスタイルや制度を取り入れながら、本質的なところで日本特有の思考や価値観が脈々と流れていて、私たちは意識せずに、それを都合良く使い分け、上手く生活しているといえるのです。
他国を知ることで知る日本特有の構造
忖度も、私たちが意識せずに行っている日本特有の行動です。日本語はハイコンテクスト文化の言語といわれます。文脈の抽象度が高く、コミュニケーションにおいて、あうんの呼吸が必要なのです。例えば、来客に「暑いね」と言われたら、クーラーを入れるべきか、冷たいお茶を出したら良いのか、考えます。「暑いね」といわれれば「そうだね」で会話が終わる社会もあります。そうした社会では、クーラーを入れて欲しければ、そう言うのです。けれども、その人が言っていることを考えて、その意図を見つけていくのが日本社会です。これは、配慮ができる、空気が読める、あうんの意思疎通ができる、と肯定的に捉えられることが多かったと思います。そうできないと、少し前まではKY(空気が読めない)と否定的に捉えられていました。しかし、最近になって改めて問題視されているのは、これによって責任が曖昧になることがあることです。先ほどの例でいえば、「業績を上げろ」と社長に言われた部長は、その意図を忖度して課長に伝え、課長もまた忖度して係長に伝えます。いつの間にか、「仕事が終わるまで帰るな」が指示になります。さらに、この社長が全社員に向けて「サービス残業はするな」と訓示をしても、これは表向けの話で本音ではない、と社員たちは忖度します。しかも全員が「横並び」になることで、安心して自身の忖度を受け入れられます。ピラミッド型の指示命令系統に見えても、トップの指示で組織が一気に動くことはない。これが日本社会です。
問題は忖度をするかどうかだけではありません。より重要なのは、そうした日本特有の思考や価値観と、それに基づく社会構造をしっかり認識することなのです。明治維新以降、日本は近代化を目指すために欧米の制度やシステムを取り入れてきましたが、それは制度を優先し、実態を無視したものでした。人々の意識や生活と乖離したところの社会制度が持ち込まれたわけです。そのため、欧米と同じやり方では本質的な問題解決はできないのです。問題解決のためには、まず、日本を正しく分析、理解することが必要です。とはいえ、これはとても難しい作業だと思います。私たちは、ふだん意識することなく、日本特有の社会構造の中で上手く生活しています。意識されることがないので、この社会構造は放置されてきたのです。しかし、意識するきっかけはあると思います。グローバル化が進む現代、他国を知ることで、自国を知る機会は増えています。例えば、英語では1から12までの数字が固有の名前を持っていることからわかるように、12進法で数える国があることを認識して初めて、日本にいる自分たちは10進法で数えているのだと気づきます。さらに、日本の場合は10進法と時計などでは12進法で数えていたつもりのところへ、無意識で2進法の数え方があり、1+1を10にしていることに気がつく機会でもあるのです。専門家の間でも、これから日本社会の構造を分析する作業が進展すると思いますが、個々人が自分たち自身を正しく理解することは、いま起こっている様々な社会問題を解決するためには、非常に重要だと考えます。
日本を理解することは、日本の未来図を描くことにつながる
日本の社会構造を正しく理解することは、これからの日本をどんな社会として築いていくのかにもつながります。日本社会が、同じ制度を採る他国と構造も本質も同じと考えていては、ビジョンも政策も間違えてしまいます。その意味では、まず、政治家に本来すべき仕事である、ビジョンの提示をしっかりやってほしいと思います。しかし、日本が強いリーダーを良しとしない社会であること、また日本ではますます政治家の仕事と官僚の仕事が接近していることを考えると、私たち一人ひとりが将来像を描くことも同様に大事です。その上で、みんなで決めていくのです。実は、議会政治も明治以降に取り入れられた制度ですが、日本には、もともと寄り合いという意思決定システムがありました。そこでは、活発な議論などはありません。集まった人たちが、わずかな意見や、互いの態度や表情から忖度して別れ、また数日後集まって、を繰り返す中で結論を出していきました。少数派を無視するような多数決もなかったのです。忖度しながらみんなで決めて納得する、それも日本の社会の特徴だったのです。事の良し悪しではなく、日本社会の実情を正確に把握しないかぎり、有効な対策を立てることはできないのです。 
 
 
 2017/6

 

●忖度 2017/6
まだ、6月に入ったばかりであるが、今年の流行語大賞になりそうな言葉が現れてきた。
「忖度」(そんたく)である。
皆さんは、この言葉をご存知だっただろうか?
聞いたことはあったが、活字を見るのは初めて、という方が多いのではないだろうか。
この「忖度」騒動のおかげで、私は、公務を預かる人間の1人として、ここ数ヶ月間、大いに、考えさせられ、勉強させられた気がしている。
最初に、この言葉がマスコミに登場したのは、2月初め頃の「森友学園問題」であった。その後、森友学園報道がそろそろ下火になってきたと思っていたら、今度は「加計学園問題」とまたしても毎日のように、新聞やテレビのニュースで「忖度」の文字が躍るようになってきた。
国政を舞台にした「忖度」は、皆さんと一緒に経過を見守っていくとして、このような話は、決して他人事ではない。
今回の件を市役所の仕事に置き換えて考えてみた。
普段から市長の近くにいる、例えば秘書課の誰かが、「市長は自分の口で言えないから、私が代わって言う。」と何かを依頼した場合、依頼された部長は、それを無視できるだろうか?
難しい案件であった場合、きっと悩んでしまうのではないか?
「忖度」は、他人の心を推し量るというような意味で、必ずしも悪い行為をさすものではないが、状況を見誤ると公平・公正を大きく損なうことに繋がってしまう。
市長である私としても、この二つの「学園問題」を他人事と考えず、よき反面教師としてこれからの市政に臨みたい。
そして、何より、報道機関の皆さんには、決して権力の側につくのではなく、公平・公正を願う国民の側に立って、最後まで報道を行ってほしいと願うものである。 
●日本人が「黙って忖度」ばかりする根本原因 2017/6
まだ気が早いが、年末に発表される今年の流行語大賞の最有力候補といえば、ずばり、「忖度(そんたく)」ではないだろうか。明言化されていない意思をくみ取る、というまさに日本人特有の「空気を読む」コミュニケーション文化を象徴するような一語だ。
この蔓延する「忖度」コミュニケーションこそが、日本人を世界一の「コミュ貧」国民たらしめる一因なのではないか。そして、日本を覆いつくす不幸感、不安感、絶望感はこの「コミュ貧」にひも付いているのではないか。今回はグローバル視点から見た日本人のコミュニケーションの「異質性」について掘り下げてみたい。
相手に「伝わっている」と信じ切っている
「以心伝心」「言わぬが花」「沈黙は金なり」「あうんの呼吸」「つうと言えばかあ」「男は黙ってサッポロビール」……。日本には、明確な言葉を交わすことなくとも相手とわかり合える、という「信仰」が昔から根強い。筆者が「日本人のコミュニケーションスキルを上げるお手伝いをしたい」と1人で仕事を始めたとき、昭和の高度成長時代にまじめ一徹で働き上げた父にこう言われた。「『巧言令色鮮し仁』という言葉を知っているか」。ぺらぺらと話す口のうまいやつは信頼できない、重要なのは黙って仕事をすること――。そういう価値観がまだまだ根強いということを理解しておきなさい、というアドバイスだった。
新聞記者時代、PRコンサルタント時代を通じて、企業経営者のコミュニケーションを間近で観察し、その価値観がしみ付いた人がどれだけ多いのかということに驚かされてきた。言語も意味も不明瞭、それでも、相手には「伝わっている」と信じ切っている。「コミュニケーションの最大の問題点は、それが達成されたという幻想」という文学者バーナード・ショーの言葉どおりで、何か言葉を発しさえすれば、いや、発しないまでも自分の存在感だけで、コミュニケーションは成立しているという錯覚にとらわれている。
国際的によく知られているのは、日本人は「きわめてハイコンテクスト」のコミュニケーションスタイルである、ということだ。コンテクストとは文脈という意味だが、話し手と聞き手との間の文化的背景・文脈の共通性が高いのがハイコンテクストの文化、低いのがローコンテクストの文化ということになる。
この概念は1976年にアメリカの人類学者エドワード・ホールによって提唱された。島国であり、人種・文化的な多様性があまりない日本の場合、話し手と聞き手との間に共通項が多く、言葉を尽くさずとも何となくわかりあえる、暗黙知がある、という考え方だ。
一方、ローコンテクストの文化では、共通項が少ないので、きっちりと言語化し、クリアでシンプルでわかりやすいメッセージを伝え、あいまいさを排除しなければならない。ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化は表1のようにまったく対極のスタイルだが、その中でも人種のるつぼであるアメリカが最も、ローコンテクストな国であり、日本は反対に最もハイコンテクストな国と位置づけられている。
コミュニケーションスタイルの違い
ハイコンテクスト文化 ・・・ ローコンテクスト文化
日本、中国、エジプト、サウジアラビア、フランス、イタリア、スペイン ・・・ アメリカ、イギリス、カナダ、ドイツ、デンマーク、ノルウェー
暗黙知 ・・・ 形式知(言語化して説明可能な知識)
言葉以外にも状況や文脈によっても情報を伝達 ・・・ 伝達される情報は言葉の中ですべて提示される
あいまいな言語 ・・・ 正確性が必要とされる言語
一般的な共通認識に基づく ・・・ 言葉に基づく
感情的に意思決定される ・・・ 論理的に意思決定される
沈黙は不快ではない ・・・ 沈黙はコミュニケーションの中断として不快
協力的なビジネススタイル ・・・ 競争的なビジネススタイル
関係性重視 ・・・ タスク重視
チーム志向 ・・・ 個人志向
少数で緊密で長期志向の関係 ・・・ 多数で縛りが弱く短期志向の関係
関係性重視の意思決定 ・・・ 論理性、規則重視の意思決定
変化より伝統 ・・・ 伝統より変化
身体や経験で技術継承する ・・・ 明示できる知識として継承する
控えめなリアクション ・・・ わかりやすいリアクション
グループの内と外との境が明確 ・・・ オープンで柔軟なグループ形成
異なる文化、人種、背景を持つ人同士がわかりあうたった1つの手段はコミュニケーションである。だから、アメリカでは徹底して、言語化し、メッセージ化し、口頭で伝える教育が行われる。アメリカと日本とのコミュニケーションスタイルの違いは宣教師と禅僧のようなものだ。アメリカの宣教師は声に抑揚をつけ、大げさなジェスチャーで感情をこめて演じる、まさにパフォーマー。聖書という言語化されたクリアなメッセージを伝えていく一方で、禅僧は感情を極力抑え、内省的な問答によって、悟りを開く。
こうした「行間を読む」スタイルの日本のコミュニケーションは海外の人にとってはなじみにくい。たとえば、「難しい」という言葉。アメリカ人の知人は「これはdifficult(困難だ)の意味なのか、impossible(できない)の意味なのかわからない」という。同じ言葉がさまざまな意味を持っているだけではなく、日本語は特に同音異義語が多く、文脈の中で判断しなければならないケースも往々にしてある。
「同質性」を前提とした日本型のコミュニケーション
日本のコミュニケーションの特殊性はまだまだある。フランスのビジネススクールINSEADのエリン・メイヤー教授の著書『The Culture Map』(日本語版は『異文化理解力』)によれば、日本は「評価のスタイル」「説得の方法」「決断志向」「見解の相違の解決法」などにおいて、特異な傾向を示している。
「評価のスタイル」では、部下などへのネガティブなフィードバックについて、ロシアやイスラエル、オランダなどのように、直接的、単刀直入に伝える国に対し、日本は最も、柔らかく、やんわりと伝える国、とされている。「説得の方法」においては、上司と部下の理想の距離が近く、組織がフラットである「平等主義的」なデンマーク、オランダ、スウェーデンといった国々に対し、日本はその対極の「階層主義」の最たる国とされている。上司と部下の理想の距離は遠く、肩書が重要、組織は多層的で固定的、序列に沿ってコミュニケーションが行われる。
また、「決断志向」についてはナイジェリアや中国、インドなどが、「トップダウン志向」で決断は個人(主に上司)がするのに対し、日本は最も「合意志向」が強く、決断は全員の合意のうえ、グループでなされる、と位置づけられている。さらに、「見解の相違」をめぐっては、イスラエルやフランス、ドイツなどの見解の相違や議論はチームや組織にとってポジティブなものと考える「対立型」の国と比べ、「見解の相違や議論はネガティブで、表だって対立するのは問題」と考える「対立回避型」の最たる国が日本である、と結論づけられている。
こうしたスタイルはアジアの国々と共通するところも多いが、極端にどちらかに振れているというのは日本の特徴的なところだ。つまり、極度に「非言語志向」で、「ネガティブフィードバックを避け」、「階層主義的」で、「合意志向」で、「対立回避型」のコミュニケ―ションスタイルであるということらしい。こうしたスタイルは「一億総中流」の島国の秩序を保つために生み出され、機能してきた、「同質性」を前提とした日本型のコミュニケーションといえるのだろうが、グローバル化、都市への一極集中、過疎化、高齢化、格差の拡大とともに国民の価値観が多様化する中で、効能を失いつつあるように思える。
つまり、言葉にしなくても通じてきたがために、言語化し、はっきりとしたメッセージで伝える力が弱く、上司が部下を「しかる力」もなく、両者に距離感があり、合意を重んじるがために迅速性に欠け、「見解の相違」が発生したときの正しい対処の仕方もわからない、といったようなことである。
コミュ力は「生きる力」そのもの
通算7年ほど海外で暮らした筆者だが、さまざまな先進国と比べても、日本は本当に「いい国」である。治安がよく、クリーンで、自然は豊か。食事はおいしく、教育は比較的安価でしっかりしている。医療は充実しており、アメリカなどと比べれば信じられないほどの低料金だ。人々は礼儀正しく、親切で正直。ドラッグや銃などといった問題も圧倒的に少ない。しかし、この国の人々の幸福度は極めて低く、孤独で、多くの働き手は仕事に愛着もやりがいも覚えていない。そして、絶望的に未来を悲観している。労働環境や貧困、長引く経済停滞などさまざまな外因はあるが、大きな要因の1つとして見逃してはならないのが、「コミュニティ」と「コミュニケーション」の問題であると考えている。
過疎化などにより、地域社会が崩壊していく中、人々がよりどころにできるコミュニティを見つけにくくなっている。海外では宗教やNGO、NPO活動などに居場所を求める人も多いが、日本では、「家庭」や「職場」以外の「サードプレース」はあまり見当たらない。人は人とのかかわりの中で生きていく社会的動物、ソーシャルアニマルである。そのかかわり合いのゆりかごとなるコミュニティの欠落は孤独感、喪失感につながっている。
そして、長年の「非言語」文化により、使わない筋肉がこそげるように落ち、退化してしまった日本人の「コミュニケーション力」。コミュニケーションとは人と人とを結び付ける強力な糸であり、身体に命を巡らせる血液のようなもの、つまりコミュ力はまさに「生きる力」そのものである。「忖度」の名のもとに、血を通わせる努力を怠ってきたわけだが、伝家の宝刀のごとく、従来のやり方を堅守しなければならないものではないし、良い部分は残しながらも進化させていくべきものであろう。 
●「忖度の文化」と第5の権力=「電通」のメディア支配 2017/6
政権批判を自主規制してしまうマスコミの雰囲気
権力に対するメディアの萎縮が叫ばれて久しい。確かに、報道ステーションの古館伊知郎氏を筆頭に、ニュース23の岸井成格氏、NHKクローズアップ現代の国谷裕子氏など、ここ数年政権に批判的な発言をしていたニュースキャスターが次々に降板しているのは事実で、さらに辛口批評で知られる上杉隆氏のようなジャーナリストはほぼテレビに出演できないようになっている。
ただ、いくつかのメディア関係者と話をしても、個別具体的な案件で政権または自民党から放映中止を要請されたという決定的な話は聞かない。むしろ「こういう報道をすると(政権から)文句がくるのではないか」「文句が来たら対処が面倒だからやめておこう」という意識が先に立ち、結果的に報ずるのを取り止めたり、曖昧になってしまう場合がほとんどのようだ。つまり、権力側から要求されたわけでもないのに「こんなことしては、まずいのではないか」などと勝手に「忖度」し、自主規制をかける雰囲気が蔓延しているのだ。
今年になって森友学園問題が火を噴き、少なからぬ打撃を政権に与えた。しかし、最初の報道段階では政権中枢から遠い印象で、多くのメディアも「安心して」報道していた感じが強い。ところが昭恵夫人の関与が疑われる段階になって火種が大きくなってきて、報道にブレーキがかかり始めた。
さらに「本丸」と言われる加計学園の問題となると、朝日新聞などを除いては、追及する迫力が格段に減少している。「森友はしょうがないが、加計はやるな」という自民党からの警告が囁かれていて、特にテレビメディアがその「空気」に呑まれているようなのだ。
それはもはや、時の政治権力の監視役という、俗に言う「第4の権力」の使命を自ら放棄する体たらくである。
さらに、こうした「権力と争いたくない」というひ弱な「忖度体質」のメディアが、政府への批判と同等かそれ以上に恐れるのが、電通と博報堂という、日本を代表する巨大広告代理店である。両社は、あらゆる広告の制作とともに、企業とメディアをつなぐ連絡役としての機能を持っており、ほとんどの企業は電通と博報堂を介さなければ、大手メディアに広告を掲載することができない。とりわけシェア1位の電通に対する畏怖感は、全国ネットのテレビキー局や、女性誌など大量の広告を掲載する雑誌をもつ大手出版社などで非常に顕著だ。その理由は、ひとえに電通の巨大性にある。
昨年の日本の総広告費6兆2千億円のうち、電通は博報堂の倍、2兆円近い売り上げを誇るダントツのガリバー企業だ。つまり、1社で日本の広告費の3分の1を扱っていることになる。そして、昨年の国内テレビ広告費約1兆9千億円のうち、電通はシェア37%を握り、インターネット関連を除く他の全てのメディアでも、電通はシェアトップである。さらに、オリンピックやワールドカップなどの巨大イベントの利権をも一手に握るその寡占ぶりは、独占禁止法に違反しているのでは?と囁かれるほどだ。
メディアはすべて、その収入の多くを企業からの広告費に頼っている。とりわけテレビとラジオはその割合が高く、売り上げの7〜8割が広告収入だ。そうなると、スポンサーを連れてきてくれる電通こそ、大口スポンサー以上に大切にしなければならない特別な存在、ということになる。
その電通は、長い間「スポンサーの代弁者」として絶対的な地位を誇っていた。あるメディアがもしスポンサーの意に反する報道をするなら、そのメディアから広告を全て引き上げるという、その交渉役も全て電通が担っていた。
その分かり易い例が原発広告だ。戦後40年の間に約2兆4千億円にも上る原発礼賛広告費があらゆるメディアに投じられた結果、福島第一原発事故以前は原発に対する批判的報道がほとんどなくなり、国民の7割が原発行政を肯定していた。メディアは、原子力ムラからの広告費欲しさに批判的報道を抑えた。つまり、大量の広告費がメディアを麻痺させ、世論を誘導することに成功していたのだ。そしてその原子力ムラの広告宣伝戦略のほとんどを担ったのが電通だった。これこそ、「第4の権力」である報道機関をカネの力で凌駕する「第5の権力」の証明ではなかったか。
メディアで影響力増すネット業界電通の支配力は崩れるか?
その電通は昨年10月から今年にかけて、新入社員自殺問題で厚労省の強制捜査を受け、それまでの「超一流企業」というブランドイメージが「ブラック企業」となるほどの大打撃を受けた。この事件で初めて電通という企業を知った国民も多かったのではないか。
その電通こそ、長い間全てのメディアが国民に「知らせない」ようにしてきた最大のタブー的存在だった。これまでも社員の不祥事などが少しだけ報道されることはあっても、第一報だけで後追い記事がなく、ニュースサイトなどの記事も凄い速さで消去されていた。
また、そもそも多くの国民は電通の存在さえ知らなかった。今でも大半の国民は電通が何をしている企業なのかほとんど理解していないが、社員が長時間労働とパワハラで何人も自殺するような企業だという事実は知れわたった。
しかしだからと言って、あの事件によって電通が致命傷を負ったわけではない。電通は製造業などと違って直接消費者に商品を届けていないため、ブランドイメージの凋落が直ちに売り上げには直結しないのだ。一度堤防に穴が開いても、いきなり崩壊するわけではないのだ。
この電通問題で民放テレビ・ラジオなどの電波メディアは、同社に対する強制捜査などの「第一報」は流したものの、ワイドショーや報道番組などで同社の問題を深掘りしたところはほとんどなかった。つまり、論評や解説抜きの「事実報道」のみに徹していたのだ。
これは豊洲移転問題や北朝鮮問題について毎日専門家やコメンテーター総動員でこれでもかと論評するのと全く異なるやり方であり、視聴者には気づかれないように「電通隠し」を画策していたと言える。それにもかかわらずこの事件が広く話題になったのは、インターネットのSNSによる情報拡散と、NHKが孤軍奮闘して定時ニュースなどで繰り返し報道したからであった。つまり、ネットという新しいメディアが「電通支配」の構造を崩しだしているのだ。
バブル崩壊後、とりわけこの10年間で売り上げが劇的に伸びた国内インターネット広告費は、昨年初めて売上高1兆円を超えた。アメリカではすでに2016年にデジタル広告費(インターネット含む)がテレビ広告費を超えたと言われており、遅かれ早かれメディア業界の王座はテレビからネットに差し替わるだろう。そしてこのネット業界は群雄割拠で、電通の神通力は通用しない。長きにわたってメディアを凌駕していた「第5の権力」の力が弱まり、それによって多少なりとも健全な報道が甦るのかどうか。今後の10年間におけるメディア業界の変化が、大きな鍵を握っていると言えるだろう。 
 
 
 2017/5

 

●日本の忖度文化、研究不正の温床に 2017/5
学術界の不正を防ぐ既存の仕組みには論文の査読と成果の淘汰(とうた)がある。長く科学の質や自浄作用を支えてきたシステムだ。査読を担う熟練研究者や雑誌編集者は怪しいデータに大抵は気付く。追加データを求めたり、別の実験で仮説を補強させたりする。ただ査読者をだます意図があれば話は別だ。データを捏造(ねつぞう)し、著者に有名研究者を加えて信用を演出する。
だが査読を通過して論文が掲載されても、他の研究者が追試して再現されなければ学術的な成果として認められない。インパクトのある研究ほど世界の研究者を巻き込むため、追試が徒労に終われば、不正をした研究者は信用を失う。
ある医学会理事長経験者は、「不正一つで悪評が立ち、積み上げてきた業績が吹き飛ぶ。科学は膨大な失敗の上に成り立つが、論文にしないため、(失敗は)研究室から外には出さない」という。同業の研究者から信用を勝ち取るのは簡単なことではなく、査読と淘汰が科学への信頼性を高めてきた。
ただ査読システムは破綻しつつある。中国などアジアからの論文申請数が急増し、査読者や雑誌編集者の負担は限界に達しつつある。淘汰についても学問の細分化とすみ分けが進んだ結果、研究者同士で成果を検証し合う場面が減った。
そこに実験再現性の低さが追い打ちをかける。生命科学や医学など、元来再現性の低い分野は他の研究者が再検証するコストが高くなる。
再現しなくても、実験条件の細かな差異を理由にしてはぐらかすなど、不正が埋もれやすい構造ができている。増え続ける論文数に淘汰の速度が追いつかない。
それでも新薬開発につながるなど、市場性のある研究は企業が再検証コストを負担する。研究者は実験記録を残してトレーサビリティーを担保すれば、不正を疑われても身の潔白の証明はできるかもしれない。
ただ、京都大学の西川伸一京都大学名誉教授は「企業は不正防止に必ずしも貢献しない」とクギを刺す。企業が共同研究先の不正を見つけても、わざわざ研究者をおとしめてまで波風を立てたりはしない。燃費不正や臨床試験介入など、企業の倫理や管理体制そのものを問う問題も発生している。
さらに市場性がなく実験再現性も低い領域はより深刻だ。基礎科学は、企業による再検証すら期待しにくい。再検証の頻度が少なくコストも高い。不正防止は研究者のモラルに依存する。
まずは学術分野ごとに再検証の頻度やコストを整理し、不正が埋もれやすい領域を特定すべきだろう。構造的に危うさのある領域を学術界が認識するだけでも不正抑止の効果はあり、不正防止の勉強会など自発的な活動を促すことになる。まったく再検証されず再現性もない領域は、誰のための研究活動なのか説明するところから始める必要がある。 
 
 
 2017/4

 

●森友学園問題で注目された「忖度」 本来の意味 2017/4
安倍晋三 首相
「渡していないのは証明しようがない。いわば悪魔の証明だ。籠池氏らが出してきたものが本物だったか、しっかり検証されるべきだ」 共同通信 3月28日
名言、珍言、問題発言で1週間を振り返る。国有地の格安払い下げ問題に端を発し、安倍昭恵首相夫人の関与、籠池泰典理事長の証人喚問など、国民的関心事となった森友学園問題。今週は籠池氏が公の場所に登場しなかったこともあって、ややトーンダウンした格好。森友学園問題について野党からの追及を受け続けてきた安倍晋三首相だが、28日の参院決算委員会で民進党の斎藤嘉隆議員から籠池氏が証言した昭恵夫人からの寄付について否定する根拠をただされると、「民進党の辻元清美氏にも同じことが起こっている」と反論してみせた。これは28日、産経新聞が報じた辻元氏に関する「3つの疑惑」について語ったもの。正直なところ、なぜここで辻元氏が引き合いに出されるのかがよくわからないのだが、ネットは民進党と辻元氏への批判で非常に盛り上がった。辻元氏の疑惑を報じた産経新聞政治部長の石橋文登氏も「蓮舫氏の『二重国籍』疑惑も含めて今後も政界の疑惑は徹底的に追及していきたい」(産経新聞 3月31日)と意気上がる。また、ここで安倍首相が切り札にしているのが「悪魔の証明」という言葉だ。自分が昭恵夫人の疑惑を否定する根拠を示すなら、辻元氏も自身の疑惑を否定する根拠を示してみなさいよ、ということなのだろう。安倍首相は「悪魔の証明」という言葉が好きなようで、3月1日の参院予算委員会で共産党の小池晃氏からの質問に対しても「悪魔の証明」と切り返している。安倍首相は「悪魔の証明」で逃げ続けることができるのか、それとも新たな展開が待っているのか。まだまだこの問題からは目が離せない。
飯間浩明 日本語学者
「『忖度』という言葉が汚れてしまった気もしますね」 BuzzFeed Japan 3月29日
森友学園問題で一躍注目を集めたのが、「忖度(そんたく)」という言葉だ。籠池氏は会見で、土地取引のスピードが上がったのは「忖度」があったからだと語っている。昭恵夫人の秘書に問い合わせたのをきっかけに、財務省の官僚たちが夫人の意向を「忖度」したという主張だ。また、松井一郎大阪府知事は日本維新の会の党大会で「忖度には、悪い忖度といい忖度がある」(THE PAGE 3月25日)と発言した。辞書編纂者で日本語学者の飯間浩明氏は「もともと忖度に良いも悪いもなかった。ただ人の心を推測するってことですから」と説明するが、一方、「『忖度』という言葉が汚れてしまった気もしますね。これから『もっと人の心を忖度しなさいよ』と言うと、悪いイメージになるかもしれない」とも述べている。今後、自身が編纂する三省堂国語辞典に「役人が政治家の考えを忖度する」という例文を付け加えることも検討するという。
文科省担当者 
「パン屋がダメというわけではなく、教科書全体で指導要領にある『我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ』という点が足りないため」 朝日新聞 3月24日
「パン屋」は「和菓子屋」に、「アスレチック」は「和楽器店」に。多くの人が唖然とした小学生向け道徳教科書の検定結果。いずれも文科省が道徳教科書の検定で「学習指導要領の示す内容に照らして、扱いが不適切」だと指摘し、出版社が改めたものだ。これまで道徳では教科書ではなく副読本が用いられてきたが、2018年度からは小学校で教科書が使用されることになる。そのための教科書検定の結果が「和菓子屋」や「和楽器店」への変更だった。文科省が直接変更を指示したわけではないが、教科書作りにより積極的に関与しようとする姿勢を示したものだろう。ところで、文芸評論家の斎藤美奈子氏はパンと和菓子のルーツについて「どちらも郷土というより国際交流の賜(たまもの)で、両者の間に差などない」(東京新聞 3月29日)と指摘している。これを受けて池上彰氏は「郷土のことをよく知らないのは文科省なのかも」(朝日新聞 3月31日)とバッサリ。
稀勢の里
「今までの相撲人生15年間とは全く違う場所。見えない力を感じた15日間でした。あきらめないで、最後まで力を出して良かった」 日刊スポーツ 3月26日
大相撲の春場所千秋楽で奇跡が起こった。13日目に左肩付近を負傷、窮地に追い込まれた新横綱稀勢の里が本割、優勝決定戦と優勝争いのライバル・大関照ノ富士に連勝し、見事な逆転優勝を飾った。国歌斉唱の間、男泣きに泣く新横綱の姿に胸が熱くなった人も多いだろう。長く「ここ一番で弱い」と言われ続けていた稀勢の里だが、もはやそうは言われまい。貴乃花親方は「これまで稀勢の里自身が築いた相撲道を、神様が見守ってくださった気がする」(日刊スポーツ 3月30日)とコメントした。優勝が決まった瞬間、弟弟子の関脇高安が支度部屋で「報われて良かった」と号泣したというエピソード(日刊スポーツ 3月26日)も、新横綱の人柄をよく伝えている。
星野智幸 小説家
「相撲の内容と、出自はまったく関係ない。結びつけている時点で問題なのに、さらに出身国へ帰れというのは暴言のレベルを超えている」 BuzzFeed Japan 3月30日
大相撲で気になる話題も。26日、スポーツ報知が「照ノ富士、変化で王手も大ブーイング!『モンゴル帰れ』」という見出しの記事を配信した。変化で琴奨菊を下したモンゴル出身の照ノ富士に対して、観客から「モンゴルに帰れ」という野次が飛んだことを記事にしたものだ。好角家の小説家、星野智幸氏はこの「モンゴルに帰れ」という発言と、それをそのまま見出しにした新聞社について「これは差別発言であり、ヘイトスピーチ」と指摘。「長年、大相撲を見てきましたが、こんな発言は記憶にない」とコメントした。モンゴル出身の横綱日馬富士は、その日の場内の雰囲気を「相撲を取るどころじゃなかった。集中してるけど耳に入ってしまう。次の一番に集中してる人のことも考えてほしい。大けがにもつながるから」と振り返っている(日刊スポーツ 3月25日)。なお、日本相撲協会は差別発言に対する注意喚起を行う予定はないとのこと。スポーツ報知は自社のウェブサイトで当該の記事についてのおわびを発表した。
山田千賀子 てるみくらぶ代表取締役社長
「自力で対処してもらうしかない」 THE PAGE 3月27日
海外旅行の格安ツアーを手がける旅行会社「てるみくらぶ」が経営破綻。同社を介して渡航中だった旅行者は2500人にも上るとされており、「飛行機の航空券が発券できない」「予約したはずのホテルに泊まれない」「ホテルの宿泊料を追加で請求された」などのトラブルが相次いだ。山田千賀子社長は記者会見で今後ツアーを予定している客に対して、安全確保の観点から「もう本当に行かないでくれ」と懇願。一方、すでに海外へ出国した人について同社は「自力で対処してもらうしかない」としている。どっちもお金をもらっておいてその言い草はないだろう、と思わざるを得ない。 
●大前研一氏 「忖度」行政は我が国の文化に反する 2017/4
今年を代表する流行語となりそうな「忖度(そんたく)」は、安倍晋三政権下の政治や行政に蔓延している。森友学園問題や、「道徳の教科書」でパン屋が和菓子屋に変更されたことなどに表れている。経営コンサルタントの大前研一氏が、日本の伝統文化がもつ本来の精神性について、実例を挙げながら忖度とは正反対の日本文化の精神性について解説する。
安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を唱え、本音では東京裁判やアメリカに押しつけられた現行憲法を否定している。ところが、アメリカの上下両院やハワイ・真珠湾での演説では「日本にとって、アメリカとの出会いとは、すなわち民主主義との遭遇でした」「和解の力」などとおべんちゃらを連発した。本音と建前が完全に乖離しているのである。
そんな安倍首相の持論は、「美しい国」の復活だ。そして、安倍政権下の学習指導要領は「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度」を養えと説いている。これでは“戦前回帰”を目指しているようにしか見えない。
だが、そもそも日本固有の文化や生活とは何か?
日本の伝統文化というものを考える上で、私がいつも思い出すのは台湾の故宮博物館である。あそこを訪れると、書画にしても陶芸にしても蒔絵にしても、日本の範はすべて中国にあると痛感せざるを得ないのだ。私が大好きな江戸中期の画家・伊藤若冲でさえ、もともとは中国の絵を模写することで、その腕を磨いている。それを京都・相国寺の展示で知った時は、私もがっかりしたものだ。
しかし、裏を返せば、それらは日本人が進取の精神で海外の文化や技術を貪欲に取り入れてインターナライズ(内部化)し、さらに創意工夫を凝らしてオリジナルのものに進化させてきたということである。
たとえば、道徳の教科書ではパン屋が和菓子屋に修正されたが、世界中でパンを食べてきた私に言わせると、日本ほど美味しいパン屋が多い国はない。ラーメンも独自の進化を遂げて発祥の地・中国で大人気を博し、訪日中国人たちは競って日本のラーメン屋に並んでいる。自動車や家電などの工業製品は言わずもがなである。
また、欧米列強に比べ大きく後れていると自覚した明治維新の時は極めて早く近代化を成し遂げることができたし、第二次世界大戦に敗れて焼け野原となった戦後も急速に復興できた。日本人には、あらゆる困難を克服する能力があるのだ。
そもそも日本人は同じウラル・アルタイ語族のモンゴル人、朝鮮人や、満州人、漢人、南方系などが渡来して“混血”になった民族だ。神話に基づいた土着の「選民」思想とは逆に、多人種・多民族が混じり合うことによって獲得された「進取の精神」と「困難を克服する能力」こそが日本人の真骨頂であり、世界に誇れるものなのだから、そういうことを小中学校ではしっかり教えるべきだと私は思う。
「忖度」は「以心伝心」の日本文化だという意見もあるだろうが、今回の教科書検定で否定されかけた聖徳太子は、「十七条憲法」の中で「夫れ事は独り断むべからず、必ず衆と論ふべし」(第十七条)と説いている。日本初の成文法において、すでに「一強」や「腹芸」のような政治を戒めていると言えなくもない。
また、かの徳川家康も「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくがごとし。急ぐべからず」で始まる遺訓を残した。子孫が守るべき心得を明示し、最後は「己を責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり」と忠告している。そこに「忖度」の余地はない。だから江戸幕府は15代・265年も続いたのであり、これが日本の伝統なのだ。
長期政権の“暗黙の圧力”による「忖度」に身を委ねている安倍首相こそ、こうした日本の伝統を軽視しているのではあるまいか。
●“空気”より厄介? 森友学園問題で注目を浴びた「忖度」の威力 2017/4
大阪府豊中市の国有地払い下げをめぐる森友学園問題で「忖度(そんたく)」(人の心を推し測る)という言葉が注目を浴びています。籠池(かごいけ)泰典氏は3月23日、国会で証人喚問を受けた直後、日本外国特派員協会で記者会見を行いました。その際、籠池氏が発した「安倍首相の心を忖度した人たちがいた」の「忖度」の解釈をめぐり、通訳や弁護士が説明に追われるという場面がありました。
はじめ、「reading between the lines(行間を読む)」と訳されたのですが、具体的な口利きの有無を訪ねた記者の質問に、「surmise(推測する)」「conjecture(憶測)」などの語を使って補足したうえで、〈英語には「忖度」に直接あてはまる語がない〉と説明されたのです。
こうしたことから、「忖度」は日本特有の言葉と解釈されそうですが、漢語であって、和語(大和ことば)ではありません。紀元前の中国の古典に起源をもつことから、儒教社会に共通する心の所作ともいえそうです。
罪深い「空気」よりも厄介
同じく、日本社会の機微を表す言葉に「空気を読む」があります。否定形は「KY(空気を読まない)」という略語で、すっかり定着しました。当初、「KY」は場の雰囲気を壊す行為としてネガティブに捉えられていました。しかし最近は、その後に浸透してきた「同調圧力」という言葉へのカウンターとして、ポジティブに捉える見方も広がっているようです。
それどころか、「空気を読む」ことのほうがネガティブであるとして、「空気」の危険性を説いた有名な論考があります。評論家・山本七平氏の『「空気」の研究』(1977年)です。山本氏は冒頭で、戦時中に大本営が下した戦艦大和の出撃命令を例に挙げ、「空気」というものの正体とその罪を明らかにしました。
大戦末期、会議に出席した日本軍の参謀は、制空権を奪われた沖縄に大和を出撃させるのは無謀な作戦と分かっていました。冷静に戦況を分析できていたのです。しかし、陸軍の総攻撃に呼応し簡単には引き下がれない、という会議の場の「空気」に流されて、非合理な命令を下したのでした。山本氏はつづけて「水を差す」という、「空気」への伝統的な対処法を紹介しながらも、〈「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一種の「超能力」かもしれない〉などと述べています。
「忖度」は、より以上に厄介かもしれません。「空気」は会議や組織など一定の集団のなかで形成・共有されるものですが、「忖度」のベクトルは空間を超えて、離れた集団や直接かかわりのない人物にも向けられます。籠池氏の指摘が真実か否かはともかく、まさに「忖度」は「読む」行為に止まらず、「推し測る」行為なのです。
「KY」な社会より、「SS」な社会?
池上彰氏が「朝日新聞」の連載コラム「新聞ななめ読み」(3月31日)で、道徳教科書の検定において、教科書会社の「忖度」が働いたという旨の一文を書いています。文科省の指摘を受けた教科書会社が、小学校1年生の教材に登場する「パン屋」を「和菓子屋」に、「アスレチックの公園」を「和楽器店」に改めたという記事に対する論評です。文科省は具体的な書き換えを指示したのではなく、指導要領の「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」という点が欠けていると指摘しただけといいます。
池上氏は「滑稽というほかない」という「天声人語」の批判を紹介したうえで、〈教科書会社は文科省の顔色をうかがって忖度し、「和菓子屋」や「和楽器店」を持ち出す、という構図になっている〉と分析しています。さらに踏み込んで、文科省が〈教科書会社に忖度させて、内容をコントロールさせる〉という側面もあると見ています。これを物理的に立証するのは至難の業ですが、「忖度」のベクトルは「あちら側」が自分たちのほうに向くように仕掛けられているのだとしたら、ますます厄介です。
「空気」に話をもどすと、山本氏は「空気」による拘束力が増大したのは近代以降で、〈徳川時代と明治初期には、少なくとも指導者には「空気」に支配されることを「恥」とする一面があった〉と述べています。
「忖度」の歴史も、これに重なるのでしょうか。ただ「空気」と違って、「忖度」はこれまで日の目を見られてきませんでした。
森友学園問題ははからずも、日陰の存在だった「忖度」という言葉を表舞台に押し上げ、その双方向性の構図にも目を向けさせてくれました。「忖度しない、させない」という「SS」な社会が望ましいのか。「KY」と同じく、「忖度」の効用もそこそこ認めるべきなのか。政治家やお役人の胸のうちを忖度できる材料はありません。
ただ今後、政界絡みの怪しい事件、いかがわしい出来事がおこると、池上氏が持ち出したように、「忖度」という補助線がたびたび引かれることになるのは確かでしょう。政治家やお役人も、個々の陳情や相談ごとへの対応が過剰な「忖度」にあたらないか、自粛・自省することになるかもしれません。だとしたら、多くの「罪」が重なった森友学園問題にも、ちょっとした「功」を見出せそうです。 
●「忖度」は何が悪い―「忖度」と家文化 2017/4
大阪の国有地の払い下げに端を発した学校法人「森友学園」の問題で、「忖度(そんたく)」という言葉が注目を集めました。
日本社会独特の言葉とも言われますが、多数の建築と文学に関する著書で知られる建築家で名古屋工業大学名誉教授、若山滋氏は、背景に日本独特の住居空間から育った家文化がある、と考えます。また、閣僚周辺の相次ぐ不祥事や文科省天下り問題、東芝の経営悪化などから、現代日本に「忖度」の弊害がみえる、と指摘します。
「忖度」を生んだ行動様式と、現代日本にはびこる「忖度」の問題を若山氏が執筆します。
「和」が尊ばれた島国 ── 欧米と性格が異なる民主主義
アルバート・アインシュタインも、スティーブ・ジョブズも、かなりの変人であった。筆者もこんな変人に憧れているのだが、なかなか成り切れない。
しかし迷惑な変人もいる。このところマスコミを騒がせてきた某学園の前理事長はその一人だろう。
一躍、世に広がったのは「忖度」という言葉である。首相夫人が名誉校長になっていたことから、学校の認可や国有地払い下げにかかわる官僚に、安倍首相への忖度があったかどうかが問題となっているのだ。
しかし忖度とは「他人の心をおしはかること」であり、本来悪い意味ではない。むしろこの国の古き良き習慣であり美徳でもあった。現代でも、それが政治的な問題となるべきものかどうかは判断が分かれるところだ。明確な物事の依頼でもなければ、犯罪としての受託収賄でもない。勝手に忖度したものを、された方の罪にするわけにもいかないのではないかと思われる。
とはいえ、西欧から始まった市民社会の論理としては理解されにくいものでもあり、見方によっては、日本社会が抱える一つの弊害でもある。
近代的な法治国家は、言語化された個人の意思を基本にした「明言と契約」の社会であるが、日本は長いあいだ、言葉にしなくても想いが通じ、契約がなくても習慣的な約束が履行される「伝心と黙約」の社会であった。同じ民主主義でも、異民族異文化が衝突する欧米と、「和」が尊ばれた島国では、その性格が異なるのだ。
つまり忖度とは、この国の文化に深く根ざした人間関係の表れなのである。そうであれば、日本の伝統的な住まい=家との関係を考えてみてもいいような気がする。
源氏物語の住宅様式にみえる「柔軟で繊細な人間関係の美意識」
例えば『源氏物語』には、平安貴族の住居空間における人間(男女)関係が描かれるが、それが日本の住宅様式と美意識の原型にもなっている。
主人公光源氏をめぐる恋愛の物語で、舞台は源氏が訪れるさまざまな女性の住まいである。宮殿のように豪華な家もあれば、荒れ果て寂れた家もある。密会であるから、源氏は玄関からではなく庭から忍び入るのであるが、寝殿造という様式において、女性は、前栽、格子、蔀、簾、障子、屏風、几帳といった「柔らかい多重の隔て」によって守られており、男性はその一つ一つを乗り越えて近づいていく。
その家と庭の描写が、そこに住む女性の性格プロットでもあり、風情と情緒のバリエーションでもあり、いくつもの隔てを越える過程の描写が、この物語の恋愛記述様式なのだ。男女の関係も、その繊細な隔ての襞の中に醸成され、好悪や愛情の露骨な表現ではなく、簾越しの会話、歌のやりとりなど、微妙に相手の気持ちを慮るかたちで進行する。
もし『源氏物語』がなかったら、そういった「もののあはれ」の美意識が伝えられなかったら、千利休の草案茶室も、八条宮の桂離宮も生まれなかったであろう(これには詳しい説明が必要だが、興味のある方は拙著『「家」と「やど」』朝日新聞社刊参照)。
石や煉瓦という重厚な壁による不動の隔てではなく、木や葦や紙といった柔軟で繊細な、多重かつ可動の隔てによって囲まれた空間における、柔軟で繊細な人間関係の美意識である。
家基本の社会ではたらいた「忖度」
また筆者は、「壁の文化と屋根の文化」という比較論を書いたこともある。
厳密にいえば地域と風土によって異なるが、大まかに西洋では、石や煉瓦を積み上げて建築をつくり、その基本は「壁」である。屋根は、壁の上に乗せられるカバーに過ぎない。
一方、日本の建築は木を組み立ててつくり、その基本は「屋根」である。壁は、屋根の下の簡単な仕切りに過ぎない。
壁とは、空間を隔て、人を隔てるものだ。重厚で不動の隔てである。個人の空間を隔てたものが個室であり、家族の空間を隔てたものがサロン(リビング)であり、市民の空間を隔てたものが広場であり、信仰の空間を隔てたものが教会である。ヨーロッパの都市は、そういった隔てられた空間の集合なのである。
一方、屋根とは、人をまとめて覆いをかけるものだ。そこに「家」ができる。障子や襖という紙で仕切られた家の中にはプライバシーが存在しない。そこで個を立てるには、家を出る、すなわち出家する必要がある。
実際ヨーロッパの都市は、建築が隣の建築と密着して一つ一つの家という感覚ではない。イスラム圏はもっとそうで、インドも中国もその傾向がある。一つの建築の内部でも部屋と部屋は厚い煉瓦の壁で隔てられているから、そこに完全な個人の空間が成立する。
日本では東京のような大都市でさえ、家のまわりに隙間を空けて、塀で囲って土地を取ろうとする。家の集合は村であり、都市もまた大きな村に過ぎない。個人の論理も、都市の論理も、自治の論理も希薄なのだ。
社会構成の上にも、この「個人の論理」と「家の論理」が反映されている。ヨーロッパの社会は「個人」の集合であるが、日本社会は「家」の集合であり、個人はどの家に所属しているかで認識される。封建時代の「藩」も、近代の「国家」も、現代の「企業」や「省庁」も、その「家」の一形態ととらえられる。
つまりこの国は、現代の個人主義的、民主主義的社会においてさえ、その社会構成に「家文化」の特徴が強く見られる。「国家」という言葉のとおり、国全体が天皇を家長とする一つの「家」でもあるのだ。ここにおいても、人それぞれの主張より、無言のうちに相手の気持ちを慮ることが優先される。
「忖度」とは、そういった、柔軟で繊細な人間関係と、「家」を基本とする社会にはたらく、以心伝心のコミュニケーションであり、行動様式であり、美意識であった。
東電、東芝、文科省……忖度が奪った現代日本の活力
このような日本の風土に育まれた文化的習慣を、欧米から始まった個人の意思と自由と責任を基本にした法治社会に転換するのは、樹木を接ぎ木するような難しさがある。
実は、この忖度というものが、現代日本の活力を奪っているともいえるのだ。
重要な決定が、合理的にではなく、政治的な忖度によって決定される。重要な人選が、実力によってではなく、人脈的な忖度によって選定される。そういったことが、官僚組織だけでなく大企業にも大学などの法人にも蔓延している。東京電力の原発運営にも、東芝の経営悪化にも、文科省の天下り斡旋にも、類似した構造があったことを感じざるを得ない。
日本社会の隅々に、眼に見えない忖度の網の目が、粘着質の生命体にようにジットリと張り巡らされている。権力というものも、少数者の独裁というより、社会全体のその小さな網目の一つ一つに発揮されるものなのだ。これは文章にも言葉にもならない粘着力であるだけに、検察もマスコミも追求することが難しい。そして人体に動脈硬化が進行するように、徐々に社会の血管が目詰まりを起こす。平和と繁栄と安定が続いた島国の日本は、すでにかなりの重症であるかもしれない。
そう考えれば、忖度は、伝統文化として済ませているわけにもいかないのだ。われわれはそれが悪弊として作用しないよう、社会システムを大胆に刷新していく必要がある。
森友学園にみえた首相の弱点
今回の森友学園問題では、忖度があったかなかったかが問われている。首相側にその意思がなければ、これは忖度以前の問題というべきであるが、たとえそうであるにしても、当事者(官僚)が勝手に何らかの心情的同調を示し、不当な決定をしたのなら、それは大いなる傲慢であり、許されるべきではない。そしてその同調を利用しようとした人間も、単なる変人として済ますわけにはいかないのだ。
いずれにしろこの問題においては、安倍首相最大の弱点が露呈された、と筆者は考える。その弱点とは、健康問題ではなく、周辺人材の問題である。首相は、かなり国粋主義的なグループに支えられている。そこに日本社会の伝統的不合理と、偏頗な排他性と、情緒的甘えが顔を出す危険がある。
首相はそれが弱点であることを認識すべきだ。そして大いに反省し、情緒的仲間意識を捨てて、合理的判断に基づき、真にこの国の将来をリードすべき人材を活用する方向で、内閣改造を含む重要ポストの入れ替えを断行すべきである。すでに閣僚周辺の不祥事が続いているではないか。
その上で、つまり復古調の開き直りではなく、未来志向の姿を示すかたちで、国民の信を問うていただきたい。
久々の長期政権である。これは外交の上でも、経済の上でも、悪いことではない。これまでのように一年二年で総理が交代するのではガバナンスが疑われる。しかしどこの国でも、あまりに長い政権は、独善、腐敗、停滞を招きやすい。支持率にあぐらをかいていては、歴史の検証に耐える政治家にはなれないだろう。短期的なポピュリズム的な支持ではなく、長期的な質の高い支持を求めるべきだ。
高温多湿の風土の中、締め切った「家」の空気は淀み腐る。絶えず窓を開け、新風を吹き込むことが肝要だ。
常に新鮮であること、それこそがこの国の美意識というものである。  
 
 
 2017/3

 

●忖度病の独裁企業がリーダーをだめにする 2017/3
東洋独特の慣習とも言えるが、上司の意向を具体的な指示がなくとも部下が慮り行動し、上司を喜ばせようとすることを評価する文化がある。逆に言えば上司の意向を悟って自ら行動する部下を評価し、昇進の材料にするという企業文化が日本では根強く残っている。
例えば、親の心情を悟り、子供自ら親が喜ぶことを行うことを親孝行という。さらに日本の歴史の中には、殿様の意向を悟り、黙って行動し喜ばれる結果を持ってくる家来こそが忠孝の見本とも言われる。日本には言わずして悟ることを是とする考えが今でも強い。いわゆる忖度(そんたく)の文化だ。
ある外資系企業から相談を受け、アメリカ本社から来た社長が「君たち日本支社が出している結果に私はけっして満足していない」と言われ、本当は苦労を労ってほしかった日本人社員全員がショックを受けたという話を聞いた。日本的には「自分たちの働きを殿は満足しておられない」というように解釈してしまったとも言える。
忖度文化の背景には、3つの原因が想像できる。一つは家族(親子)関係の延長線上で組織や上下関係を捉えることで、孝行者の部下は上司の意向を忖度できてこそ一人前となる。二つ目は明治維新以前の社会にあった主君と家来の関係、あるいは主人と下僕の関係から、ご主人様の意向を悟って行動できる家来こそ忠臣という考え方だ。
三つ目は、世界に稀に見る常識や価値観の共有度が高い日本人は、上司の意向を言葉なくして悟るのが当然というハイコンテクストの慣習が考えられる。日本的経営はそのような文化の上に成り立ち、日本人だけで運営してきた過去においては忖度する文化は機能していた。
無論、忖度文化はデメリットもある。分かりやすい例は昨今の豊洲新市場の問題で、東京ガスからの土地購入、土壌汚染の処理問題など明るみに出た東京都の一連の動きでは、知事などトップに対して各部署の責任者が知事の意向を忖度して動いていたことが読み取れる。知事の側もそれを当然としており、都の職員は知事の意向を汲んで行動していたと言わんばかりだ。
韓国ドラマは、忖度の悲劇の山とも言える。朝鮮王朝時代、家来は王を喜ばせようとして行動するが、それが真逆な評価を受けることも多く、恨(はん)が増すという話だ。無論、メリットもある。それはコミュニケーションなしに上司の意向を悟り、時には上司の期待を超える仕事をするという、高度な離れ業にもなるからだ。
しかし、この極端に相似性、同質性の強い文化から生れた仕事の進め方は今、完全に機能不全に陥っている。日本国内でも世代間の違いは大きく、コミュニケーションなしの忖度文化は20年以上前から機能していない。そこに今度はグローバル化の波が押し寄せ、相似性どころか共有できる価値観すら怪しい世界で協業するようになり、忖度するどころではなくなっている。
過去の同質性に頼る忖度文化は、上司が部下にヴィジョンや目標を伝える努力を怠らせ、相互の理解の確認作業(フィードバック)も軽視することで上司と部下の溝を深まり、時にはトップが独裁化し上司をだめにしている現状がある。
つまり、上司と部下の相互理解を再構築するためには、日本企業に蔓延する忖度病を完全に排除し、コミュニケーションを徹底し、人間関係構築を上司自ら主体的に行う必要があるという話だ。 
●「日本では忖度するのが当たり前。忖度できる奴が有能でしょ」 2017/3
今年の流行語大賞が早くも「忖度(そんたく)」になりそうだ。「他人の気持ちを推し量る」という意味の言葉で、「アッキード事件」で争点となっている森友学園の籠池泰典理事長が証人喚問で使ったことから注目を集めた。籠池氏は「安倍晋三首相や昭恵夫人は直接圧力をかけたわけではないが、財務省の官僚が2人の気持ちを推し量って動いた」という意味で用いていた。
そんな中、はてな匿名ダイアリーに3月28日、「忖度が悪いことだとみんな本気で思ってる?」という投稿があった。
○「何をいまさら、忖度する奴もさせる奴も悪いみたいなことを言い出してるんだ」
投稿者は、「『気を回せ』『空気を読め』『経営者目線で考えろ』『言われずにできて一人前』『指示を待つな、先を考えて行動しろ』」とこれまでずっと忖度を求められてきたという。
「今まで世間からはずっと『忖度できない奴は無能、クズ、カス。忖度できる奴が有能』というメッセージしか受け取ったことがない」
そのため「何をいまさら、忖度する奴もさせる奴も悪いみたいなことを言い出してるんだ」と違和感を覚えているようだ。
「日本では忖度するのが当たり前(中略)カマトトぶって『私は忖度なんてしたこともさせたこともない。忖度なんていう言葉は初めて知った。官僚の世界って怖いなー』とか言ってんじゃねえぞ」
○過剰な忖度文化は「責任の所在を不明にする」
たしかに、日本社会では相手から言われる前に動くことを求められることが多い。これに対し、はてなブックマークでは、忖度すること自体が悪いわけではないという突っ込みも相次いだ。
「忖度が悪いんじゃない。忖度して悪いことやったんじゃないか」
「日常で行われる忖度は当然悪くないよ。今回のあれはもっと黒いモノをオブラートに包んで忖度と言ってるだけ」
「税金で運営してんだから忖度とか抽象的な言葉で誤魔化すなって話なのに、何言ってんだか」
忖度そのものが悪いのではなく、忖度した結果、不適切な行為に走ったのが悪い。またその責任を「忖度した人」に擦り付け、上からの圧力などなかったことにすることが悪いということだ。
「忖度的なものは、政治や行政といったものでは、責任の所在を不明にするので、問題があるのではないか。忖度したとしても、上司に確認し誰の判断か明確にし、文書化しないとなぁ」
また、政治だけでなく企業からも忖度を排除するべき、という意見も出ていた。「日本企業の生産性の悪さは、忖度過剰が原因」というのだ。
「会議と根回しと品質過剰の内部書類は全て忖度過剰が生み出す。良くも悪くも組織全体としてはやり過ぎになる」
たしかに、他人の気持ちを推しはかり過ぎてがんじがらめになり、非効率になることはある。そういう意味では、過剰な忖度は日本社会全体の病理ともいえそうだ。「この国はハイコンテクストすぎるんだよ」と感じている人もいた。 
「忖度」考
「忖度」の証明  森友学園
 
 

 



2019/11