野党は「恥を知りなさい」

「政権交代から6年余り。
民主党政権の負の遺産のしりぬぐいをしてきた安倍総理に、
感謝こそすれ、問責決議案を提出するなど、
まったくの常識はずれ、愚か者の所業とのそしりは免れません!
野党の皆さん、もう一度改めて申し上げます。恥を知りなさい。 」

トークは一流  セリフは古風
シナリオライターも高齢化
 


反対討論過去の発言史三原 じゅん子八紘一宇1八紘2八紘3・・・
八紘一宇国家神道と八紘一宇
総理問責決議案賛成討論・・・
 
 
 

 

●第198回国会 安倍総理問責決議案への反対討論 6/24
 三原じゅん子参議院議員
自由民主党の三原じゅん子です。私は、自民・公明を代表して、野党から提出された安倍内閣総理大臣問責決議案に対して、断固反対。断固反対の立場から、討論を行います。
(年金)
もう何度、この光景を目にしたでしょうか。野党の皆さん、はっきり言って、もううんざりです。
野党の皆さん、国民にとって大切な、大切な年金を、政争の具にしないで頂きたい。お一人おひとりの高齢者の皆様の、生活への切実な不安をあおらないで頂きたい! 猛省を促します。
では、問います。野党の皆さんは、年金を増やす具体的な政策を持っているのでしょうか?具体的な対案もないままに、いたずらに国民の不安をあおる。
具体的に申し上げましょう。かつて民主党のマニフェストで、華々しく打ち上げた、出来もしない「最低保障年金」。あれは、いったい何だったのでしょうか?更に、民主党政権の、あの3年間、年金の支給額は、増えるどころか、なんと、引き下げられていたのです。はっきり言って、無為無策だったのであります。
安倍内閣は、まったく違います。今年、年金支給額は、プラスとなりました。年金給付の前提となる積立金も、アベノミクス効果によって、6年間で44兆円、運用益が出たのであります。年金制度は、安倍内閣のもとで、間違いなく、より強固で安心なものとなっています。
かたや、民主党政権時代、年金積立金の運用益は、この10分の1。これは、年金の安定的な給付の前提になっている予定利回りを大きく下回り、年金の信頼性は、民主党政権によって、大きく傷つけられてしまったのです。そして、今また、出来もしないのに、対案もないのに、ただ不安だけを掻き立てる。野党の皆さん、もう、いい加減にしてください。
私たち自民党・公明党、そして、安倍政権は、年金で生活している皆様、おひとりおひとりの不安な気持ちをあおるのではなく、その不安に真正面から向き合い、具体的な政策で、対応してまいります。  
無年金の高齢者の問題に対しては、アベノミクスの果実を活かして、払込期間を25年から10年に短縮し、60万人を超える皆様に、新たに年金を支給いたしました。
年金額が少ない皆様のために、本年10月からは、財源をしっかり確保して、最大年6万円の給付金を支給し、しっかりと所得を底支えしてまいります。さらには、介護保険料も3分の1軽減いたします。
(経済)
重要なことは、「実行」で、「結果」なのですよ、皆さん。
安倍内閣は、この6年間で、正社員を130万人以上増やしました。
民主党政権時代はどうだったか?増えるどころか、なんと、50万人も正社員が減っていた。あの時代、仕事をしたくても、見つからない。若者をはじめ多くの皆様が、辛い思いをしていたのであります。
安倍内閣のもと、この春、中小企業で働く皆様の賃金は、しっかりと上がりました。賃上げ率は、この20年間で最高水準です。
民主党政権時代はどうだったか? 賃金を増やすどころか、企業自体の倒産が今よりも4割以上多かった。連鎖倒産という言葉が、日本中を覆っていました。まさに悪夢だったのであります。
政権交代から6年余り。民主党政権の負の遺産のしりぬぐいをしてきた安倍総理に、感謝こそすれ、問責決議案を提出するなど、まったくの常識はずれ、愚か者の所業とのそしりは免れません!野党の皆さん、もう一度改めて申し上げます。恥を知りなさい。
(国会)
政府が国会で説明責任を果たすべきは当然です。安倍総理は、昨年一年間で、国会に270時間以上出席されました。しかし、イギリスの首相は年間40時間程度、ドイツの首相は30時間余り。国際的にみると、明らかに突出しています。
我が国では、よほど、個別の大臣と議論するような専門的な課題が少ないのか?それとも、野党が、国民の関心からほど遠い、ただただ無意味な質問を繰り返し、国のトップである総理大臣の時間を浪費しているのか?答えは、明らかであります。
野党の皆さんは、自分の都合のいい時だけ、「参議院は言論の府だ」と主張します。しかし、自分の胸に、よく手をあてていただきたい。この1年間、憲法審査会は、たった3分間しか開かれていないのであります。議論から逃げ回っているのは、一部野党の皆さん、あなた方自身ではありませんか!
野党の皆さん、もうご都合主義はやめましょうよ。
民主党の、具体策無きままに、ただ不安をあおるだけの口車に乗って、不安定な政治をもたらした結果がどうなったのか。有権者は、痛いほど思い知らされました。総理大臣は毎年のようにコロコロ変わり、日本のプレゼンスは一気に低下した。民主党政権は、国民との約束を次々と踏み倒してきた。有権者は、すでに悪夢を経験しているのであります。
テレビ映りだけを意識して、針小棒大のパフォーマンス。選挙目当てで、国民不在。 所属政党コロコロ変える。対案なしで何でも反対。やることすべてがブーメラン。もう悪夢は絶対見たくない。
皆さん、ヤジっている場合ではありません。冷静に、私たち国会議員に求められている責任を、厳粛に自覚しましょう。
国民が求めているのは、足のひっぱりあいではありません。しっかりと政策論をしてほしい。実のある議論こそ求められているのであります。
令和の新しい時代に入って、明日の日本をどうつくるのか、建設的な議論を行う、真に国民のための国会を取り戻しましょう。
こんな光景は、平成の時代で終わりにしたかった。本当に残念でありますが、そのためにも、こんな常識外れの問責決議案の試みは、完膚なきまでに打ち砕かなければならない。次の世代に、野党のこんなやり方を絶対に引き継いではならないとの断固たる決意を持って、この問責決議案を否決すべきである。そのことを強く申し上げ、わたくしの反対討論といたします。 
 
 

 

 
ど迫力の三原じゅん子氏、問責決議案に「恥を知れ」 6/24
安倍晋三首相に対する問責決議案は24日午後の参院本会議で、与党などの反対多数で否決された。
立憲民主党の福山哲郎幹事長は、趣旨説明で「この2年、忖度(そんたく)、改ざん、隠蔽(いんぺい)が次々と明らかになった。どの問題をとっても、内閣総辞職に値する」と指摘した。
これに対し、自民党から反対討論に立った三原じゅん子参院議員は「恥を知りなさい」と反論。「こんな常識外れの問責決議案の試みは、完膚なきまでに打ち砕かないといけない」などと主張。腹の底から繰り出す、ど迫力の強いフレーズを駆使しながら、問責決議案提出の野党に反論した。
三原氏は、賃金や倒産件数など、民主党政権での経済状況に触れながら、安倍晋三首相の主張と同様に「まさに悪夢だったのです。尻ぬぐいをしてきた安倍内閣に感謝こそすれ、問責などとはまったくの常識外れだ。愚か者の所業とのそしりはまぬがれません」と主張。「もう1度申し上げます。恥を知りなさい」と発言した。
野党は当然、議席から三原氏に激しいやじをとばしたが、三原氏は「皆さん、やじっている場合ではありません。冷静に」と、淡々と応じた。
野党が老後2000万円問題に始まる公的年金の問題を追及することに「はっきりいってうんざりだ。国民にとって大切な年金を政争の具にしないでほしい。猛省を促します」と述べ、「具体的な対案もないまま、不安をあおっている」と持論を展開しながら、野党の対応を批判した。  
 
 

 

 
「野党のみなさん、恥を知りなさい!」 三原じゅん子氏“ド迫力演説” 6/25
自民党の三原じゅん子参院議員(54)による、大迫力の反対討論が話題となっている。野党4会派は24日、安倍晋三首相への問責決議案を参院に提出した。三原氏は本会議で、自民・公明与党を代表して反対討論に立ち、野党の姿勢を一刀両断したのだ。女優時代を彷彿(ほうふつ)させるドスの利いた演説の影響もあり、決議案は反対多数で否決された。
立憲民主党の福山哲郎幹事長は同日、問責決議案提出の趣旨説明に立ち、「老後資産2000万円」問題をめぐる安倍首相の説明について、「不誠実極まりない」などと非難した。
これを受け、純白のスーツに身を包んだ三原氏が登壇し、「国民にとって大切な大切な年金を『政争の具』にしないでいただきたい」と切り出し、以下のような反対討論を展開した。
「高齢者の不安をあおらないでいただきたい。猛省を促します。では、問います。野党のみなさんは年金を増やす具体策を持っているのでしょうか? 具体案もないまま、いたずらに国民の不安をあおる。かつて民主党のマニフェストで華々しくブチ上げた、できもしない最低保障年金。あれは一体、何だったのでしょうか」
野党議員のヤジも気にせず、三原氏は続けた。
「民主党政権の3年間、年金支給額は増えるどころか、引き下げられていた。はっきり言って無為無策だった。安倍政権では今年、年金支給額はプラスとなった。民主党政権の『負の遺産』の尻拭いをしてきた安倍首相に感謝こそすれ、問責決議案を提出するなど全くの常識外れ。『愚か者の所業』とのそしりは免れません」
そして、こう言い切った。
「野党のみなさん、もう一度改めて申し上げます。恥を知りなさい!」
ネット上では「品位に欠ける」「ひいきの引き倒しでは」という否定的意見もあったが、「スカッとした」「腹がすわった迫力」「さすが俺ら世代のヤンキー姉さん」という肯定的意見も多かった。 
 
三原じゅん子の安倍礼賛演説がカルトすぎる! 6/25
本日、衆院では内閣不信任案が、昨日は参院で安倍首相の問責決議案が提出され、いずれも否決された。明日、閉会を迎える国会だが、結局、安倍自民党は予算委員会の集中審議を拒否しつづけ、不信が高まる年金問題の説明責任から逃げたのだ。
しかし、問題はこれだけで終わらない。昨日の参院本会議における問責決議案への反対討論に自民党代表として壇上に立った三原じゅん子議員が、政権与党として説明から逃げていることを棚に上げ、すべての責任を野党に転嫁。挙げ句、安倍礼賛を繰り広げたことに、ネット上ではこんな悲鳴の声が上がっているのだ。
「く…狂ってる」
「カルトに国会が乗っ取られた瞬間」
「この口調、まるで、どこかの独裁国家の放送かと思った」
「どこぞの独裁国家かと思いました」
「ここまで人間、恥知らずになれるのか、とこっちが恥ずかしくなる」
一体、どんな演説だったのか。三原議員は、反対討論をはじめるや否や、『3年B組金八先生』での台詞「顔はやばいよ、ボディやんな、ボディを」を彷彿とさせるドスの利いた声で、こう吠えた。
「もう何度、この光景を目にしたでしょうか。野党のみなさん、はっきり言って、もううんざりです。野党のみなさん、国民にとって大切な、大切な年金を、政争の具にしないでいただきたい。お一人お一人の高齢者のみなさまの生活への切実な不安を、煽らないでいただきたい! 猛省を促します」
そもそも「老後は年金に頼るな、2000万円自助で貯めろ」という報告書案を作成したのは政府であり、その問題を「報告書は受け取らない」「報告書はもうない」などと誤魔化しておきながら、「年金問題を政争の具にするな」「不安を煽るな」って……。
だが、三原議員はさらにヒートアップし、「テレビ映りだけを意識して針小棒大のパフォーマンス。選挙目当てで、国民不在。所属政党コロコロ変える。対案なしで何でも反対。やることすべてがブーメラン。もう悪夢は絶対見たくない」などと下手なラップのようなフレーズを並べ立てて野党批判を展開。
そして、決め台詞を放つかのごとく正面を睨み付け、ものすごい剣幕で、こう主張したのだ。
「政権交代から6年余り。民主党政権の負の遺産の尻ぬぐいをしてきた安倍総理に、感謝こそすれ、問責決議案を提出するなど、まったくの常識はずれ、愚か者の所業とのそしりは免れません! 野党のみなさん、もう一度、あらためて申し上げます。恥を知りなさい」
出た、安倍首相とそっくりな「民主党の負の遺産」攻撃。三原議員は民主党が、第一次安倍政権が引き起こした「消えた年金」や「福島原発の津波対策拒否」の「尻ぬぐい」をやらされたことを知らないのか。
しかも、民主主義国家の「言論の府」である国会で、行政府の長でしかない人物に「感謝」を迫るとは……。ここは、北朝鮮の最高人民会議か。いや、その口調を聞いていると、三原議員は本気で安倍首相のことを絶対君主か何かだとでも思っていて、国会を絶対忠誠を誓わない者への弾劾裁判の場だとでも勘違いしているとしか思えない。
三原議員といえば、2015年の参院予算委員会でも「ご紹介したいのが、日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇であります」などと言い出したこともある。きっと、脳みそが「ファシズム」に侵されているのだろう。
だが、恐ろしいのはこのあと。三原議員はこの反対討論の動画をSNSに貼り付け、自信満々で〈【拡散希望】〉と投稿。すると、「カルトか」の批判の一方で、ネトウヨや安倍応援団から「まったく正論」「スカッとした!」「流石女番長」「これが国民の声です」「説得力がありすぎる」などと絶賛するコメントも数多く寄せられたのだ。
いやいや、「説得力がある」って、まったく何を言っているのだか。だいたい、三原議員は「野党のみなさんは、年金を増やす具体的な政策を持ってるのでしょうか? 具体的な対案もないままに、いたずらに国民の不安を煽る」「いままた、出来もしないのに対案もないのに、ただ不安だけを掻き立てる」などと述べたが、党首討論でも、立憲民主党の枝野幸男代表や共産党の志位和夫委員長は具体的な対案を提唱している。いま国民が不安に感じている、年金給付水準が下がっていくことがわかりきっている現行の制度にしがみつき、対案も出さず、他の提案にケチをつけているだけなのは、安倍首相のほうなのだ。
しかも、だ。安倍首相が乗り移ったかのように三原議員が並べ立てた“安倍政権の成果”は、都合の悪い数字を覆い隠したものでしかない。
たとえば、三原議員は民主党ディスを織り交ぜながら、安倍政権の成果をこう誇った。
「安倍内閣は、この6年間で正社員を130万人以上増やしました。民主党政権時代はどうだったか? 増えるどころか、なんと50万人も正社員が減っていた。あの時代、仕事をしたくても、見つからない。若者をはじめ多くのみなさまが、つらい思いをしていたのであります」
「安倍内閣のもと、この春、中小企業で働くみなさまの賃金はしっかりと上がりました。賃上げ率は、この20年間で最高水準です。民主党政権時代はどうだったか? 賃金を増やすどころか、企業自体の倒産がいまよりも4割以上多かった。連鎖倒産という言葉が日本中を覆っていました。まさに悪夢だったのであります!」
三原議員は、まるで安倍政権が雇用環境を改善させたかのようなことを言っているが、冗談じゃない。雇用が増えたのは、世界的な好況と円安に支えられただけで、全体の比率でいえば、第二次安倍政権下(2013年1月〜2019年1月)で増えた雇用のうち、じつに約7割が非正規雇用であり、多くの人が「仕事をしても長時間・低賃金・社会保障なし」という労働状況に晒されているのだ。
さらに、「賃上げ率はこの20年間で最高水準」と言うが、連合集計で見ると、これは名目賃金だ。そして、この結果から物価の変動の影響を差し引いた、生活実感に近い実質賃金の賃上げ率だと、民主党政権時代の平均賃上げ率は2.59%であるのに対し、第二次安倍政権での平均賃上げ率はわずか1.1%。安倍首相が持ち出す連合の結果で見れば、第二次安倍政権下の実質賃金の賃上げ率は、今世紀で最低水準なのだ。
また、倒産件数についても、安倍首相は第二次安倍政権下で倒産件数が3割減だと胸を張っているが、倒産に休廃業・解散を加えると、2013年が4万5655件だったのに対し、2018年には5万4959件へと増加している(東京商工リサーチ調査、しんぶん赤旗2019年4月18日付)。ちなみに、休廃業・解散件数は2018年で4万6724件。これはリーマン・ショック後である2009年の2万5397件を上回っている。リーマン以上というこの数字は「悪夢」ではないのか。
だいたい、民主党政権は約3年だったが、そこから安倍首相は倍にあたる約6年も政権を握ってきた。にもかかわらず、「安倍総理は6年あまりも民主党政権の尻ぬぐいをしてきた」って、まったくいつまで言っているんだか……。
その上、噴飯モノだったのは、三原議員が声高に叫んだ、このフレーズだ。
「国民が求めているのは足の引っ張り合いではありません。しっかりと政策論をしてほしい。実のある議論こそ求められているのであります」
「令和の新しい時代に入って、明日の日本をどうつくるのか、建設的な議論を行う、真に国民のための国会を取り戻しましょう。こんな光景は、平成の時代で終わりにしたかった」
それはこっちの台詞だよ!という話だ。いつまでも「平成」の民主党ディスばかり呪文のように唱え、対案を出している野党を「対案がない」と批判し、肝心の国会審議は拒否し、討論に立ったかと思えば安倍礼賛を繰り返す……。フェイクとカルトが混ざり合った地獄が国会で展開されるとは、それこそが「悪夢」のような光景だ。無論、ここまで国会を劣化させたのは、自らがネトウヨ脳の持ち主である安倍首相である。
しかし、7月4日公示、7月21日投開票の日程が確定した参院選では、安倍首相に倣い、自民党議員はこうやって「悪夢の民主党政権」を猛アピールする算段なのだろう。一体、どこまでこの国を劣化させるつもりなのか、考えるだけで暗澹たる思いを抱かずにはいられないだろう。 
 
 

 

 
三原じゅん子議員の「安倍首相に感謝こそすれ」演説が物議 6/26
自民党・三原じゅん子議員(54)が6月24日の参議院本会議に登壇。自民党と公明党を代表し、安倍晋三首相(64)への問責決議案の反対討論に立った。決議案は反対多数で否決となったが、三原氏の“演説”の異様さにTwitterでは非難の声が殺到している。
問責決議案の趣旨説明として、立憲民主党・福山哲郎幹事長(57)は渦中の「老後資産2,000万円」報告書をめぐる安倍政権の対応について「不誠実極まりない」と非難した。しかし三原氏は「断固反対」と切り出し、こう語った。
「野党の皆さん、はっきり言って、もううんざりです。国民にとって大切な年金を政争の具にしないでいただきたい。高齢者の皆様の、生活への切実な不安をあおらないでいただきたい! 猛省を促します」
三原氏は「野党の皆さんは年金を増やす具体策を持っているのでしょうか?」と発言。さらに民主党政権時を引き合いに出し「かつてマニフェストで華々しくブチ上げた、できもしない最低保障年金。あれは一体、何だったのでしょうか」「はっきり言って無為無策だった」と語った。また安倍政権下で今年の年金支給額がプラスになったといい、こう続けた。
「民主党政権の『負の遺産』の尻拭いをしてきた安倍首相に感謝こそすれ、問責決議案を提出するなど全くの常識はずれ。『愚か者の所業』とのそしりは免れません!野党のみなさん、もう一度改めて申し上げます。恥を知りなさい」
三原氏が「政争の具にするな」という年金問題だが、ここ1カ月国民の関心は高い。19日に開かれた党首討論でも立憲民主党・枝野幸男氏(55)は安倍首相にその姿勢を問いただした。しかし安倍首相が要領を得ない答弁に始終したために枝野氏は「私の問いかけには正面から答えていただけたとは思っていない」と強く批判。さらに「総合合算制度と医療介護の質量ともに賃金の底上げによる充実を勧めていくべきだ」などと提案した。
「年金を政争の具にするな」と語った三原氏。まるで演説のような口ぶりも相まってTwitterでは「三原じゅん子」がトレンド入りし、またこんな声が上がっている。
《国民の大切な年金だからこそ金融庁報告や年金財政検証を踏まえた議論が必要。国民の目から全てを覆い隠す政権が、報告書をなきものとし、年金財政検証公表を選挙後に先送りし、予算委員会の開催要求にも応じない。政争の具としているは野党じゃない》
《年金制度は政府が管理運営してるものですから政治そのもの。その年金制度を「政争の具にするな」と言ったら何を政争の具にすべきなんでしょう。政治に無関心でいて欲しいというのが与党の本音でしょう》
三原氏の「民主党政権の『負の遺産』」という発言にも厳しい声が上がっている。民主党は09年から12年のわずか3年間政権を握ったが、16年に党名は消滅しているためだ。
三原氏と同じく安部首相も民主党政権をしばしば引き合いに出し、「悪夢の民主党政権」と常套句のように形容している。くわえて6月10日の国会で共産党・小池晃氏(59)からの質疑に応じた際にも安倍首相は年金が増額したことに触れ「ちなみに民主党政権下には1回もプラスになってない」と啖呵を切った。思わず小池氏が「民主党じゃないですから、私は」と呆れる場面もあった。
わずか3年のみ政権を握った、すでになくなっている党を引き合いに出し安倍政権を語った三原氏。「安倍首相に感謝こそすれ」とまで話す姿に、こんな声が上がっている。
《自民党っていつまで「あの悪夢のような民主党政権」的なことを言い続けるんですか?政権交代してから何年経ってるか分からない人たちの集団なのかな》
《個人名を挙げて感謝せよとは。自民党は個人崇拝を是認する政党なのですね》
10年8月本誌で、子宮がんをキッカケに「これからの人生は自分のためだけでなく、誰かのためにも生きていきたいと思うようになりました」と政治家転身の決意を語っていた三原氏。しかし15年3月参議院予算委員会で第二次世界大戦中のスローガン“八紘一宇”について「その理念は大事ではないか」と話し、物議を醸したこともあった。いったい、どこを目指しているのか。 
  
「恥を知りなさい!」演説の三原じゅん子に、影響を与えた政治家たち 6/27
安倍晋三首相に対して野党が提出した問責決議案が25日の参院本会議で否決された。このとき、反対討論の自民党代表として壇上に立った三原じゅん子参院議員のスピーチが話題を呼んでいる。三原氏がどのような考えを持っているのか、過去の発言を追った。
 
「民主党政権の負の遺産の尻拭いをしてきた安倍総理大臣に感謝こそすれ問責決議案を提出するなど全くの常識外れで、愚か者の所業とのそしりは免れない」
趣旨説明で立憲民主党の福山哲郎幹事長は「安倍総理大臣は、なぜ予算委員会に出てこないのか」と与党によって約3ヶ月にもわたる衆参予算委員会の審議拒否を責めたが、これに対して自民党の三原じゅん子氏は「愚か者の所業とのそしりは免れない」「恥を知りなさい」と反論した。
もう少し三原氏の討論の内容を見てみよう。
「国民にとって大切な大切な年金を『政争の具』にしないでいただきたい」と切り出した三原氏は、「野党のみなさんは年金を増やす具体策を持っているのでしょうか?」と問いかけ、「民主党政権の3年間、年金支給額は増えるどころか、引き下げられていた。はっきり言って無為無策だった」と過去に目を向けた。
その上で「民主党政権の『負の遺産』の尻拭いをしてきた安倍首相に感謝こそすれ、問責決議案を提出するなど全くの常識外れ」と非難した(zakzak by 夕刊フジ 6月25日)。「まさに悪夢だったのです」とも言っている。
年金問題を政争の対象にしないでほしいというのは安倍首相の主張とまったく同じ。「悪夢」という表現も安倍首相が野党攻撃のために使って話題になったものだ。また、野党からの「具体案」は19日の党首討論で示されたが、安倍首相はほとんどまともに応えなかった。
今回の三原氏の反対討論は、安倍首相のいつもの主張を歯切れよくしたものにすぎない。日刊スポーツの政治コラム「政界地獄耳」によると三原氏の登板は安倍首相の指名だという。
 
三原じゅん子氏に罵られる国会の低レベル 6/28
三原じゅん子氏(54)というと、「3年B組金八先生」でのツッパリ女子中学生役を思い出す人がいるかもしれない。だが、現在の三原氏は自民党の参院議員として存在感を増している。6月24日の参院本会議では、野党が提出した安倍晋三首相の問責決議案への反対討論に立ち「恥を知れ」と野党を一喝し、議場を騒然とさせた。
ネット上では賛否半ばして大論争になっているが、自民党内での評判は急上昇。参院選では応援弁士として引っ張りだこで、選挙後の入閣候補にも名を連ねているのだという。
「私は自民、公明を代表して、野党から提出された安倍内閣総理大臣問責決議案に対して、断固反対。断固反対の立場から、討論を行います」
白いスーツ、黒ぶちのメガネで登壇した三原氏が、いつもよりも険しい表情で、そしていつもよりも太い声で討論を始めると、参院本会議場の与党側の席からは大きな拍手、野党席からは激しいヤジが沸き起こった。
三原氏はツッパリ生徒として「金八先生」に出演した時の「顔はやばいよ、ボディーやりな」というセリフが思いだされるが、あれは40年近く前の話。今はどちらかというと落ち着いて穏やかなキャラクターで売っている。しかしこの日ばかりは、40年前の、自身の残像を意識して話し始めたように見えた。
7分半に及ぶ演説で三原氏は、安倍氏の責任を問う決議案を提出した野党、特に旧民主党勢力を徹底的にこき下ろした。いくつか表現を紹介しよう。
「野党の皆さん、年金を政争の具にしないでいただきたい。(中略)猛省を促します」
「(民主党政権の3年間は)はっきり言って、無為無策だった」
「民主党政権時代はどうだったか。(中略)まさに悪夢だったのであります」
極め付きは「民主党政権の負の遺産の尻ぬぐいをしてきた安倍総理に、感謝こそすれ、問責決議案を提出するなど、全くの常識外れ。愚か者の所業とのそしりは免れません。恥を知りなさい」。
ここまで来ると批判というよりも罵詈雑言だろう。SNSでは「ヘイトスピーチではないか」という書き込みも見られた。いずれにしても衆院解散が消えてから緊張感が消えた終盤国会で三原氏は文句なく注目度ナンバー1。MVPだった。
三原氏というと「八紘一宇」発言が記憶に新しい。八紘一宇とは「世界を1つの家にする」という意味だが、第2次世界大戦で侵略戦争を正当化するスローガンとして用いられた言葉。
三原氏は2015年3月16日、参院予算委委員会の質問で「建国以来、大切にしてきた価値観『八紘一宇』を紹介したい。強い国が弱い国のために働く制度ができて、世界は平和になる」と肯定的に語ったのだ。
この時は猛烈な批判を受け、三原氏は超保守的・復古主義的な政治家という位置づけが定着した。その印象が強いだけに、25日の反対討論も注目を集め、騒ぎとなったのだ。
ただし三原氏は、自民党内では、なかなか評判のいい政治家であるのも事実だ。普段は物腰が柔らかで、政治家のパーティーなどへも積極的に出席してスピーチする。50代になってもアイドル時代を彷彿とさせるルックスで、知名度は抜群なだけに、パーティーも盛り上がるのだ。
1期目は比例代表で当選したが、2期目は神奈川県選挙区にくら替え。自民党候補が既に1人いるところに2人目の候補として出馬するという、誰もが嫌がる厳しい選挙を戦いながら、100万票を超える圧倒的1位で再選を果たした。度胸があると評判だ。
24日の反対討論も、野党の憎しみを一身に浴びる憎まれ役を引き受け、見事に演じきったということもいえるのだ。
そういった視点から三原氏の反対討論を聞き直してみると、新しいことに気づく。野党をディスる部分ばかり目立つが、もう1つ安倍政権の成果を強調する発信も抜かりないのだ。
「年金積立金は6年間で44兆円の運用益が出た」
「年金額が少ない人のために10月から、最大年6万円の給付金を支給する」
「6年間で正社員が130万人増えた」
これらの発信は、翌26日夕、国会閉幕をうけて安倍氏が首相官邸で行った記者会見でも繰り返されたデータ。政府・自民党としては参院選に向けて最もアピールしたい内容ともいえる。
残念ながら安倍氏の会見は「記者の質問にまともに答えずに自分の言いたいことだけを延々しゃべっている」と評判は悪く、テレビなどで引用されることは少なかった。三原氏の討論は、批判も多いが、テレビでも盛んに扱われ、ユーチューブなどを通じて動画は繰り返し再生されている。そういう意味で考えれば三原氏の「貢献度」は安倍氏よりも上、ということもいえるのだ。
三原氏は、少なくとも自民党内で「女を上げて」いる。参院選を前にして自民党は応援遊説日程の準備を進めているが、三原氏は小泉進次郎氏、野田聖子前総務相らと並んで「特Aランク」。自民党本部からの要望で全国の重点区を走り回ることになる。
参院選後に行われる内閣改造では、入閣候補として名前も浮上している。
ただし、この好意的な評価はあくまで自民党内と自民党支持層だけの話。三原氏の発言は、SNSでの発信をみるまでもなく世論の分断に拍車をかける結果となった。
討論で三原氏は野党に対し「国民の不安をあおらないでいただきたい」と訴えたが、三原氏に対しても、良識の府である参院で「与野党の対立をあおっている」という批判がブーメランのように返ってくる。全国で遊説に回っても、三原氏は大きな拍手とともに、少なくないヤジを受けることになるだろう。その場で失言するようなことになれば、参院選の流れを変えることにもなりかねないのだ。
選挙が終わった時には三原氏が「恥を知りなさい」と言われている可能性だってあるのだ。 
 
 
 
 
 
 

 

●過去の発言史 
 2013/12/10
「西田先生の政治姿勢とか思想とかに、ものすごく影響を受けたんですね」
参院予算委員会では自民党の西田昌司参院議員の隣席に座り、さまざまなことを教わったという。西田氏は保守思想を持つ人物として知られているが、国民主権や天賦人権説にも否定的な態度を取り続けている。西田氏のホームページには「日本人の生き様を伝えることにより、命を超える価値があることを子供達に気づかせることが必要です」などと記されていた 。
 2015/2/23
「がん撲滅は私のライフワークだ」 
三原氏は2010年に参院選で当選した。子宮頸がんを患った経験から、安心してがん治療ができる社会を構築するため、自ら政治家を志願したのだという。ほかにも児童虐待防止、リベンジポルノ被害防止などを訴えている。
元女優ということもあり、演説は抜群に上手い。2014年12月の衆院選では各地で応援弁士として活躍。竹下亘前総務会長(当時は復興相)は「三原さんの活躍で自民党があちこちで救われている姿を目の当たりにしている」と語り、茂木敏充経済再生担当相(当時は選対委員長)も「(演説が)うまい。むちゃくちゃ感情に訴える」と絶賛していた。ただし、産経新聞の同記事によると、党内での評判は「彼女は演技者。他人に書いてもらったセリフを話しているだけではないか」というものだった。
 2015/3/16
三原じゅん子氏「八紘一宇は大切な価値観」予算委で発言
自民党の三原じゅん子参院議員(比例区・党女性局長)は16日の参院予算委員会の質問で、「ご紹介したいのが、日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇(はっこういちう)であります」と述べた。八紘一宇は「世界を一つの家とする」という意味で、太平洋戦争中、日本の侵略を正当化するための標語として使われていた。
三原氏は、企業の国際的な課税回避の問題を取り上げる中で「八紘一宇の理念のもとに、世界が一つの家族のようにむつみあい、助け合えるような経済、税の仕組みを運用することを確認する崇高な政治的合意文書のようなものを、安倍総理こそが世界中に提案していくべきだと思う」と語った。
答弁した麻生太郎財務相は「八紘一宇は戦前の歌の中でもいろいろあり、メーンストリーム(主流)の考え方の一つなんだと思う。こういった考え方をお持ちの方が、三原先生の世代におられるのに正直驚いた」と述べた。 
 2015/3/17
「皆様方にご紹介したいのがですね、日本が建国以来大切にしてきた価値観、八紘一宇であります」 
三原氏の発言でよく知られているのが、この「八紘一宇」だ。2015年3月16日の参院予算委員会で、多国籍企業の租税回避について質疑している際、唐突に「八紘一宇の理念というものが大事ではないかと思います」と語り始めた。
「八紘一宇」は「世界を一つの家とする」という意味で、太平洋戦争中、日本の侵略を正当化するための標語として使われていたもの。元は「日本書紀」に記載されている神武天皇の即位建都の詔の一節に由来しており、本来は国内の統合を意味する言葉だったが、昭和前期の頃から対外政策の基本理念として用いられるようになった。
この発言は問題視されたが、三原氏は「私とて、この言葉が戦前に国威発揚のために使われたことは存じております」とした上で、戦争の原体験を持つ政治家はそのような意味で捉えたが、「私たちにはそうした体験はありません。だからこそ、この言葉が持つ本来の意味を評価する必要があると思います」と反論してみせた。自分は戦争を知らないから、戦前のスローガンを再評価するという考え方は「教育勅語」をめぐる与党の政治家の発言とよく似た構図だ。
「八紘一宇」について「『日本人は永遠に言葉にとらわれつづけるべきだ』と考えるか、あるいは『戦争を乗り越えて、新しい未来を作る』と考えるかによって分かれる」と語っているが、新しい未来を作るならわざわざ戦前のスローガンを持ち出す必要はあるまい。
 2015/3/17
「八紘一宇」とは何か? 発言した言葉はGHQが禁止していた
3月16日の参議院予算員会で三原じゅん子参院議員が行った質問のなかで、「八紘一宇は大切にしてきた価値観」と発言した。
3月16日の参議院予算員会で三原じゅん子参院議員が行った質問のなかで、「八紘一宇(はっこういちう)は大切にしてきた価値観」と発言した。
「八紘一宇」とはどのような意味なのか。コトバンクによると、由来は、「日本書紀」巻第三の神武紀で、神武天皇が大和橿原に都を定めたときの神勅に、
「 兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎
六合(くにのうち)を兼ねてもって都を開き、八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為(せ)んこと、またよからず 」
にある。六合とは「天下、世界」、八紘とは8つの方位から「全世界」、宇とは「家」をあらわす。
1903年、仏教運動家の田中智学がこの言葉を「全世界を一軒の家のような状態にする」と解釈し、日本的な世界統一の原理として 1903年に「八紘一宇」を造語した。
しかし、戦前には日本軍のアジア侵略を正当化するためのスローガンとして用いられた。1940年(昭和15)8月、第二次近衛文麿内閣が基本国策要綱で大東亜新秩序の建設をうたった際、「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国(ちょうこく)の大精神に基」づくと述べた。これが「八紘一宇」という文字が公式に使われた最初である。
戦後、1945年12月22日にGHQから発令された「神道指令」により、軍国主義、過激な国家主義と切り離して使用できない言葉として「大東亜戦争」などとともに公文書での使用を禁じられた。
「 公文書ニ於テ「大東亜戦争」、「八紘一宇」ナル用語乃至ソノ他ノ用語ニシテ日本語トシテソノ意味ノ連想ガ国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切り離シ得ザルモノハ之ヲ使用スルコトヲ禁止スル、而シテカカル用語ノ却刻停止ヲ命令スル 」
三原じゅん子議員が16日に行った質問と、麻生財務相、安部首相の答弁の全文は以下の通り。

三原参院議員: 私はそもそもこの租税回避問題というのは、その背景にあるグローバル資本主義の光と影の、影の部分に、もう、私たちが目を背け続けるのはできないのではないかと、そこまで来ているのではないかと思えてなりません。そこで、皆様方にご紹介したいのがですね、日本が建国以来大切にしてきた価値観、八紘一宇であります。八紘一宇というのは、初代神武天皇が即位の折に、「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)になさむ」とおっしゃったことに由来する言葉です。今日皆様方のお手元には資料を配布させていただいておりますが、改めてご紹介させていただきたいと思います。これは昭和13年に書かれた『建国』という書物でございます。「八紘一宇とは、世界が一家族のように睦(むつ)み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる」ということでございます。これは戦前に書かれたものでありますけれども、この八紘一宇という根本原理の中にですね、現在のグローバル資本主義の中で、日本がどう立ち振る舞うべきかというのが示されているのだと、私は思えてならないんです。麻生大臣、いかが、この考えに対して、いかがお考えになられますでしょうか。
麻生財務相: もうここで戦前生まれの方というのは、2人くらいですかね、あの、他におられないと思いますけど、これは、今でも宮崎県に行かれると八紘一宇の塔というのが立っております。宮崎県の人、いない? 八紘一宇の塔あるだろ? 知ってるかどうか知らないけど。ねえ、福島(みずほ)さんでも知っている。宮崎県関係ないけど、八紘一宇っていうのは、そういうものだったんですよ。で、日本中から各県の石を集めましてね、その石を全部積み上げて八紘一宇の塔っていうのが宮崎県に立っていると思いますが、戦前の中で出た歌の中でもいろいろ「往け、八紘を宇(いえ)となし」とか、いろいろ歌がありますけれども、そういったもののなかにあってひとつのメインストリームの考え方のひとつなんだと私はそう思いますけれども。私どもはやっぱり…なんでしょうねえ…やっぱり世界の中で1500年以上も前から、少なくとも国として今の日本という国の、同じ場所に同じ言語を喋って、万世一系天皇陛下というような国というのは他にありませんから。日本以外でこれらができているのは10世紀以降にできましたデンマークくらいがその次くらいで、5世紀から少なくとも「日本書紀」という外交文書を持ち、「古事記」という和文の文書を持ってきちんとしている国ってそうないんで。そこに綿々と流れているのはたぶんこういったような考え方であろうということで、この清水(芳太郎)さんという方が書かれたんだと思いますけれども。こういった考え方をお持ちの方が三原先生みたいな世代におられるのに、ちょっと正直驚いたのが実感です。
三原議員: はい、これは現在ではですね、BEPS(税源浸食と利益移転)と呼ばれる行動計画が、何とか税の抜け道を防ごうという検討がなされていることも存じ上げておりますけれども、ここからが問題なんですが、ある国が抜けがけをすることによってですね、今大臣がおっしゃったとおりなんで、せっかくの国際協調を台なしにしてしまう、つまり99の国がですね、せっかく足並みを揃えて同じ税率にしたとしても、たったひとつの国が抜けがけをして税率を低くしてしまえば、またそこが税の抜け道になってしまう、こういった懸念が述べられております。で、この期に及んで単に法人税をもっと徴収したいというような各国政府の都合に基づくスタンスから一歩踏み出してですね、つまり、何のためにこうした租税回避を防止するかという理念に該当する部分を強化する、こういったことが必要なのではないかと思っております。総理、ここで、私は八紘一宇の理念というものが大事ではないかと思います。税の歪みは国家の歪みどころか、世界の歪みにつながっております。この八紘一宇の理念の下にですね、世界がひとつの家族のように睦み合い、助け合えるように、そんな経済、および税の仕組みを運用していくことを確認する崇高な政治的合意文書のようなものをですね、安部総理こそがイニシアティブをとって提案すべき、世界中に提案していくべきだと思うのですが、いかがでしょうか?
安倍首相: こうした、いわば租税回避ができるのは本当に多国籍企業であり、巨大な企業であってですね、こういう仕組みを、こういう企業のみが活用できるわけでございます。まさに日本の中でコツコツ頑張っている企業はそういう仕組をとても活用することができないわけでございまして、そういう意味において正直者が馬鹿を見てはならないわけですし、しっかりとそれを進めていく国とそうでない国に大きな差が出てはならないわけでございますので、BEPSプロジェクトの取組みがですね、OECD租税委員会において進められているわけですが、本年中の取りまとめに向けてですね、日本政府としてもしっかりとリーダーシップを取っていきたいと、このように考えております。 

三原じゅん子議員は、17日に自身のブログで改めて「八紘一宇」について言及している。
 2015/3/19
三原議員「八紘一宇」発言は笑えない問題
3月16日の参議院予算委で、与党議員として内閣に対する質問を行った自民党の三原じゅん子議員は「八紘一宇」という大戦中のスローガンを肯定的な意味で使用したばかりか、「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」という発言までしています。
すでにこのニュースには色々な論評がされていますが、念のため確認をしておきますと「八紘一宇」とは元来は日本書紀の中で、神武東征伝説に関連付けて「日本全国を1つに」というニュアンスで登場した言葉です。それが、戦時中にはいわゆる「大東亜共栄圏」という構想と結びつけられて「全世界をひとつの家のようにする」という意味に拡大されています。これでは日本軍の侵略のスローガンだとされても仕方がありません。
三原議員の発言ですが、話題としては大企業が「タックスヘイブン」、つまり租税回避地を使って「節税」をする問題を批判する文脈で飛び出したようです。「八紘一宇の理念の下に、税の仕組みを運用していくこと」を安倍総理が「世界に提案すべきだ」と語ったというのです。
この発言ですが、私はまったく笑えないものを感じました。発言した三原議員には、そんなに深い考えはないのかもしれませんが、幾層にもわたる政治的・歴史的経緯を踏まえる中で、この発言はしっかりと批判がされるべきと思います。
まずタイミングが最悪です。オバマ政権は、日韓関係が悪化したことで、日米韓台の軍事同盟が有名無実化し、アメリカの東アジアにおける紛争抑止戦略が根本から崩壊することを真剣におそれています。例えば、キャロライン・ケネディ大使への脅迫事件は、NBCなど一般のTVニュースでもトップ扱いになっていますし、ミシェル夫人の訪日も、この問題への取っ掛かりを探す意味合いがあると思います。
そのような中で、しかも戦後70周年の「追悼の年」に、与党議員から第2次世界大戦中に「大東亜共栄圏」拡大のスローガンに使用された言葉が抵抗感なく使われる、しかもそれが直ちに厳しい批判に晒されないというのは重大なことだと思います。
例えば、日米韓台の同盟の中で、価値観を共有していないのは日本ではないのかという批判に結びつけられる可能性があります。更には中国やロシアから見ても日本が「枢軸国のアイデンティティー」を捨てられずに孤立へ向かう兆候だとして、功利的に解釈されかねない、そのような危険性もあります。
この発言は「用語とその背景のイデオロギー」が問題であるだけではありません。
現在の日本経済は、アベノミクス「第3の矢」である構造改革、国際競争力の回復が急務です。例えば、この2年強の間に1ドル79円であった円相場は、120円まで下げることに成功しています。ですが、その一方で貿易収支は32カ月連続で赤字であり、通商取引に関して言えば「円安の方が辛い」状況に陥ってしまっています。
このままでは、円安のプラス効果が発揮できない中で、デフレ脱却の決定的な兆候が見えていない状況です。その大きな要因の中には、企業がどんどん海外に移転している、つまり日本を脱出しているという問題があるわけです。その結果として、円安にしてもGDPが大きく改善していないのです。
つまり、国内の競争力を回復するということは、つまり外へ出ていった企業が戻ってくるような政策を採らなくてはならないわけです。そのために安倍政権は今回、諸外国より高率である法人税の引き下げに踏み切りました。
ですが、これで世界に逃げていった企業の工場、事業所が日本に戻ってくるかというと、そう簡単ではないわけです。例えば英語を使った法務や会計への対応、国際的な会計基準への対応、オフィスワークの生産性向上、あるいはビジネスに関わる諸規制といった問題にメスを入れて、本気で改革に取り組まなくては流出した経済や雇用は戻ってはきません。
そう申し上げると、株は高くなっているではないかという反論が来るかもしれません。ですが、現在の株高と、その背景にある企業の好業績の理由を考えると、全く楽観はできないのです。というのは「円安になって日本に仕事が戻ってきたので、安い日本のコストで作った製品が海外で売れて円安効果が出ている」からというのは、株高の主要な原因では「ない」のです。
そうではなくて、海外で作って海外で売って得た利益を、そのまま円安になった交換レートで「円建てで連結決算」すると大変に大きな数字になる、現在の企業の好業績であるとか株高というのは、そうした構造の結果なのです。
アベノミクスの「第3の矢」は、この問題にメスを入れて、本当に雇用が国内に戻ってくる仕組み、国内の実体経済が成長する仕組みを作らなくてはならない、そのための改革です。他でもない安倍首相以下、自民党の与党議員は2015年3月の現在は、そのために努力をすべきなのです。
三原議員の発言の何が問題なのかというと、「租税回避」への批判を行うということは、現時点では、つまり日本経済がデフレ克服ができるかできないかの瀬戸際においては、明らかに優先順位が低い問題だということです。
もっと言えば、せっかく法人減税をしてビジネスの海外流出を防止しようとしたのに、大企業優遇をイヤがる世論に迎合して、急務である改革よりも「多国籍企業バッシング」というまるで左派ポピュリズムに迎合したようなことを言っているわけです。その中身を覆い隠すために用語だけは古色蒼然としたものを使って「右派的」なスパイスを利かせた――今回の「お騒がせ」発言はそのように見ることもできます。
いずれにしても、まったく笑えない話です。 
 2015/3/23
『八紘一宇』発言に鈍感であってはならないと思う
唐突に出て来た『八紘一宇』
先週、久々にぞくっと悪寒が走るようなニュースがあった。元女優で自民党の政治家である三原じゅん子氏の発した一言に思わず体が敏感に反応した。『八紘一宇』がその一言である。この言葉の意味は、
「世界を一つの家にする」を意味するスローガン。第2次世界大戦中に日本の中国,東南アジアへの侵略を正当化するためのスローガンとして用いられた。『日本書紀』のなかにみえる大和橿原に都を定めたときの神武天皇の詔勅に「兼六合以開都,掩八紘而為宇」 (六合〈くにのうち〉を兼ねてもって都を開き,八紘〈あめのした〉をおおいて宇〈いえ〉となす) とあることを根拠に,田中智学が日本的な世界統一の原理として 1903年に造語したもの。40年第2次近衛文麿内閣が、「基本国策要綱」で東亜新秩序の建設を掲げるにあたり、「皇国の国是は八紘一宇とする肇国の大精神に基づく」と述べ、以後興亜新秩序の思想的根拠として広く唱えられた。
時代は変わった
本来の意味はどうあれ、あまりに『軍国主義』『侵略』のイメージが強く付着し過ぎていることもあり、戦後はGHQから公文書での使用を禁じられている。そしてその後も戦後民主主義的な空気の中では、長く『忌み言葉』扱いされてきた。だから、かつてなら、国会議員が国会でこのような言葉を口にしようものなら、即座に政治生命が絶たれかねなかった。ところが今回は、共産党も社会党も何も発言しなかったという。マスコミも、もちろん一部に批判的な論調の記事はあったものの、予想よりずっと静かだったとの印象がある。批判の内容も、侵攻を受けた側の中国や韓国等を始め、アジア諸国等のネガティブな反応を危惧し、外交上の失点となることを心配する論調がある程度で、反対に、GHQの洗脳を解く意味でも、日本古来の価値感に根ざす思想としての『八紘一宇』をこの際見直すきっかけにすべき、というような意見まで出たりする。明らかに時代は変わっている。
『イスラム国』と似ている
『八紘一宇』を造語した田中智学は、日蓮上人を奉じて『国柱会』を創立し、個人の自覚、宗教の改革だけではなく、世界全体の改革を訴えた。その思想の骨格は、『原理主義的』(既存の日蓮宗を維新し改革する)、『政教一致』(社会全体が日蓮宗に帰依し、天皇が日蓮宗に改宗し国教となるべきとして、日蓮仏教の国教化を目指す王仏冥合思想を宣言)、『超国家主義』(世界は日蓮宗の思想の下に統一されるべき)で、最終的には天皇が世界の頂点に立って指導を行う世界を目指す(これを田中智学は「八紘一宇」と表現したとされる)というもので、イスラム教内部でも非常に『原理主義的』で、カリフ制復活を唱え、最終的にはイスラムによる世界統一を目指す『イスラム国』の主張とその構造が非常に良く似ている。(あえて『イスラム国』という呼称を使わせていただく。)
戦闘的な日蓮宗の宗派
田中智学は、大正から昭和初期にかけて当時勃興しつつあったインテリ層に直接、間接に非常に大きな影響を与えた人物である。国柱会は『日蓮主義』という表現を使用し、この『主義』という概念は、明治以降に流入した西洋哲学に由来するものであり、日蓮教学の近代的体系化の一端を表しているとされる。小説家/文芸評論家の丸谷才一氏と劇作家/評論家の山崎正和氏の対談集である『二十世紀を読む』*1によれば、この時期の(昔も、そしておそらく今も)日本人のマジョリティは『親鸞的雰囲気』あるいは『浄土真宗的雰囲気』的なメンタリティ(主義主張を鬱陶しいと感じ、主義を主張する人を嫌うメンタリティ)を持っていたという。
日蓮宗にはもともと、接受派(内面的な信仰を抱き、世の中とは協調していこうとするタイプ)と、折伏派(全人類を日蓮宗に改宗させることを目指すタイプ)の二派があり、江戸期には折伏派の中の戦闘的な派閥とされる『不受布施派』は、江戸幕府からキリシタン並みの大弾圧を受けたというから、その嫌悪感は非常に強かったと考えられる。だが、日本の歴史においては、時折、本来マイノリティであるこのような思想とそれを体現する人物が出て来る時期があるようだ。
テロや侵攻を正当化するイデオロギーとして機能
田中智学自身は、死刑廃止や軍備縮小を唱える平和的な宗教者でもあり、世界の統一の目的は人々が本音で繋がり合う理想郷の実現であったことは確かだろう。だが、大正末期からから昭和初期というのは、国民が明治期の国家目標に熱狂した時期を過ぎ、大きな物語が見え難くなってくる時期だ。ただでさえ自らを託せる物語が失われ、インテリ層にも鬱屈が溜まっていた。加えて、社会の矛盾も極まっていた。国家と結んだ財閥が繁栄する一方、世界的な不況で地方は疲弊し、飢餓や娘の身売りが激発する。国にも軍にも官僚主義がはびこっている。こんな時に、日蓮宗の折伏派の系統に魅力的なイデオローグが出れば賛同者が続出するのは無理からぬところもある。
実際、この時期の熱烈な日蓮信者には、そうそうたるビッグネームが並ぶ。だが田中智学の思想は、結果的には、不幸なことに、国家改革をお題目にして、テロリズムや他国への侵攻を正当化するイデオロギーとして機能してしまったと言わざるをえない。具体的な人物名を列記すれば一目瞭然だ。
北一輝: 国家主義運動の理論的指導者。著書『日本改造法案大綱』は陸軍青年将校の革命のバイブルとされた。陸軍皇道派の青年将校が起こしたクーデターである二・二六事件(高橋是清蔵相、斎藤實内大臣等政府要人を暗殺)の理論的指導者として逮捕され刑死。
大川周明: 国家主義運動の指導者。青年将校が計画した三月事件、満州事変を推進。陸海軍将校によるクーデータである五・一五事件(犬飼首相を暗殺)に連坐。A級戦犯として東京裁判で起訴されたが、精神障害と診断され釈放。イスラム教の研究家としても知られる。
西田税: 陸軍軍人、思想家。北一輝と親交を持ち、二・二六事件で国家転覆を図った首謀者の一人として北とともに刑死。
磯部浅一、村中孝次、香田清貞、安藤輝三: 二・二六事件を主導/関与した陸軍青年将校。北一輝の『君側の奸』の思想の影響を受け、政治家と財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破する必要性を声高に叫んでいた。
塚野道雄、三上卓、山岸宏: 五・一五事件に関与した陸海軍の軍人。
井上日召: 宗教家、政治運動家、テロリスト。右翼団体血盟団結成。一人一殺の血盟団事件を引き起こし、無期懲役(恩赦で釈放)。
菱沼五郎: 日本の政治運動家、殺人者、テロリスト。井上日召に心酔し血盟団に加盟。1932年団琢磨を射殺(血盟団事件)。
相沢三郎: 陸軍軍人。北一輝の思想的影響を受け、永田鉄山軍務局長斬殺事件を起こした。刑死。
近衞 篤麿: 近衛文麿の父。国柱会会員。アジア主義の盟主として活躍。
石原莞爾: 陸軍軍人。関東軍参謀として満州事変と満州国建設を指揮。主著に『世界最終戦論』。国柱会会員。
宮沢賢治: 詩人、児童文学者。日蓮宗の熱心な信者となり、国柱会に入会。
文芸春秋の記事
三原じゅん子氏の『八紘一宇』発言は、3月16日の参院予算委員会で行われているが、それに先立って、文芸春秋の2015年4月号(3月10日発売)に、北海道大学准教授の中島岳志氏が、『若者はなぜテロリストになるのか』*2という記事を寄稿していて、サブタイトルに、『八紘一宇とイスラーム国の危うい類似』『かつて日本にもテロの時代はあった。悩める若者を搦めとる大きな物語に気をつけろ』とある通り、今の若者が八紘一宇のような大きな物語に影響を受けて暴発しかねないことを危惧している。中島氏も三原じゅん子発言には、肝を冷やした一人に違いない。
悩める若者
中島氏が指摘するように、バブル崩壊後の日本の若者の非常に鬱屈した雰囲気と、希望のなさは、近年の日本の抱える非常に大きな社会問題とされてきた。世界に類のない平和国家でありながら、日本の若者には、希望はなく、自分が承認される機会がどんどんなくなって来ている。中島氏は、そのような若者の代表の一人として、作家/社会運動家の雨宮処凛氏の例をあげている。酷いイジメを受けて育った雨宮氏にとって、会社等の中間集団の包摂を前提とした日本のシステムでは生きる意味も承認を受ける場所も見つけられず、自殺未遂を何度も繰り返す。紆余曲折の末出会った右翼や北朝鮮に初めて誰でも包摂してくれて、自分の生きる意味を与えてくれる場を見つける。
今回の記事には出てこなかったが、月刊『論座』に『「丸山眞男」をひっぱたきたい--31歳、フリーター。希望は、戦争。』を寄稿してメディアの注目を集めたフリーライターの赤木智弘氏などの発言も、平和だが承認も物語もない日本のような先進国より戦争やテロがあっても大きな物語と包摂のあることを感じさせるイスラム国を選ぶメンタリティに通じると言えそうだ。赤木氏は、今の日本では、一旦落ちこぼれたら全く希望がなく、その状態を変えてくれるきっかけなら戦争でもいいから起きて欲しい、すなわち、『希望は戦争』と言い切る。安倍政権の経済政策で、昨今、数値上の経済は上昇基調ではあるが、それが雨宮氏、赤木氏らに代表される若者の希望となっているとは残念ながら考えにくい。むしろ、格差を拡大して、このような若者を増やすことさえ危惧される。
成功者/エリートも欲求不満
中島氏の言説はどちらかと言えば、バブル崩壊後の日本で、正規社員になれなかったような、いわゆる『挫折した若者』がこの母体であることを示唆しているように読めるが、オーム真理教事件でも、いわゆるエリート層が沢山参加していたがごとく、今の日本には(というより資本主義と民主主義が行き渡ったはずの他の先進国でも)、人のうらやむようないわゆる勝ち組/エリート層でさえ、自分の人生をかけることが出来るような大きな物語は見つからず、承認欲求を満たすことはできなくなっていると見るべきで、むしろこのエリート層こそ、発火し易い状態にあると言えるのではないか。そこに『カリスマ』が登場すると、平和な東京に毒ガスを散布するようなことが再び起きても不思議はない。ことによると日本国内で、イスラム国のようなものをつくろうとする集団が現れる可能性もあり得る。日本の歴史はそれが絵空事ではないことを示唆しているとも言える。
鈍感であってはならない
そういう意味で、『八紘一宇』が国会の場で出て来るような状況に鈍感であってはならないのでは、と思わずにはいられない。経済成長が万能薬というような甘い認識では、先が思いやられる。戦争やテロのような暴力がなくとも、人が誰でも承認を受け、生き甲斐を感じられるような社会をつくることを真剣に目指していかないと、再び悪夢が襲って来かねないことを肝に銘じておく必要があると思う。 
 2015/4/3
三原じゅん子の「八紘一宇」発言 その本義とは…
少々旧聞に属するが、3月16日の参院予算委員会において、多国籍企業に対する課税問題を取り上げた三原じゅん子参院議員(自民)が「現在の国際秩序は弱肉強食だ」と指摘した際に、「八紘一宇」という語に言及したことが論議を呼んでいる。
漢和辞典によれば、「八紘」は「天地の八方の隅」の意で、転じて「全世界」を意味し、「宇」は「軒」または「家」を指す語で、「八紘一宇」は「世界を一つの家にする」というのが原義である。
三原議員はこれを「日本が建国以来、大切にしてきた価値観である」と述べ、この理念の下に「世界が一つの家族のようにむつみあい、助け合えるような経済、税の仕組みを運用していくことを確認する政治的合意文書のようなものを、安倍晋三首相がイニシアチブを取り、世界中に提案していくべきだ」と主張したのだが、この発言が一部の報道やネットで問題視されたことが発端となった。
周知のように、もともと「八紘一宇」は『日本書紀』に記載されている第1代神武天皇の即位建都の詔の一節「八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(せ)むこと、亦(また)可(よ)からずや」(原漢文)に由来する。したがって、本来は「八紘為宇」という四字熟語だったのだが、近代における在家仏教運動の先駆的唱導者として知られ、日蓮主義に立つ宗教団体・国柱会の創設者である田中智学が、これを基にしてより語感のよい「八紘一宇」という標語を工夫したことから広く世間に知られるようになった。
以上、この語の来歴を概略説明したように、「八紘一宇」は『日本書紀』の神武伝承がルーツだから、総じて国内の統合を強調する思想的文脈で語られてきたのだが、昭和前期にわが国の対外政策に関わる基本理念として用いられ、公文書にもしばしば登場するようになる。
たとえば、昭和15年に第2次近衛内閣が策定した「基本国策要綱」には「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国(ちょうこく)ノ大精神ニ基キ…」との一節があり、同年の日独伊三国同盟成立に際して発せられた詔書は「大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿(こんよ)ヲ一宇タラシムルハ…」という文書で始まっている(「坤輿」は「大地」の意)。さらに、翌16年4月から開始された日米交渉で日本側が提示した日米諒解(りょうかい)案でも「両国政府ハ各国並ニ各人種ハ相拠リテ八紘一宇ヲナシ等シク権利ヲ享有シ…」とある。
こうした履歴があったためであろう、敗戦の年の12月15日に連合国軍総司令部(GHQ)が日本政府に交付した「神道指令」(国家神道を廃止し、国公立学校における神道の教育・研究を禁止することを主たる目的とする)において、「八紘一宇」は「大東亜戦争」とともに「軍国主義、過激ナル国家主義ト切リ離シ得ザル」語として公文書で使用することが禁止された。この見解を今もそのまま諾(うべな)って「アジア侵略を正当化する理念だった」(「東京新聞」平成27年3月19日付)などと断定する手合いがあちこちに見られる。
これは第二次大戦終結直後から連合国によって峻厳(しゅんげん)かつ徹底的に進められた“非ナチ化政策”の一つであるナチス・イデオロギーに関わるキーワード−たとえば「指導者民族(ヘレンフォルク)」「生存圏(レーベンスラウム)」など−の排除を範とした施策であろうが、この「八紘一宇」に関しては、これまでほとんど知られてこなかった実に興味深い事実がある。
先記した「神道指令」の作成に際して、GHQの草案起草者がこの語の意義について詳しく調査した形跡はない。ところが、いわゆる“A級戦犯”を裁いた「東京裁判」ではかなり突っ込んだ論議が交わされたことが、裁判の「速記録」から窺(うかが)われる。
それは「八紘一宇」に充てられた訳語が多様なことからも分かるが、eight corners of the world under one roof のような直訳は僅かで、概ね making the world one homeといった翻訳がなされている。
最も注目すべきは判決文である。判決は「八紘一宇」は「帝国建国の理想と称せられたものであった。その伝統的な文意は、究極的には全世界に普及する運命をもった人道の普遍的な原理以上の何ものでもなかった」と明言しているからだ。
東京裁判で日本人弁護団の副団長を務めた清瀬一郎は、事実問題で立証に成功したのは「八紘一宇は侵略思想でないということ」のほかには一件あるだけだと回顧している。一方、裁判官においては日米交渉の出発点で提示された日米諒解案での「八紘一宇」の訳語である universal brotherhood が印象深かったかもしれない。
こうした経緯を鑑(かんが)みれば、「八紘一宇」が国策に利用された過去があったにしろ、その本義を踏まえた上で今日的な文脈で捉え直した三原議員の発言を頭から否定するのは、言論の封殺に繋(つな)がると言わざるを得まい。 
 
 

 

 2016/7/10
「神武天皇の建国のそのときからの歴史というもの、全てを受け入れた憲法を作りたい」
2016年7月の参院選でトップ当選した三原氏だが、選挙特番の中で上のようにコメント。さらに司会の池上彰氏に「神武天皇は実在の人物だったという認識なんでしょうか?」と問われて「私はそういう風に思ってもいいのではないかと思っています」と答えた。
初代天皇とされる神武天皇は神話的な人物であり、史実を伝えるものはほとんどない。池上氏に指摘された三原氏だが、「そういう考えであってもいいと思います」と言い張った。
 2017
 
 2018/5/7
「世界が激動する現在、それをフォローできるのは、安倍晋三首相しかいない」
三原氏は安倍首相に心酔しているようだ。森友学園問題や自衛隊の日報問題が紛糾していた最中に受けたインタビューでは、「与党議員として、じくじたる思いがある」としつつ、「『長期政権の緩みで生じた』という批判もあるが、私は関係ないと思っている」と断言。あくまで悪いのは官僚機構だとした。2014年に安倍首相が『笑っていいとも!』に出演した際はブログで「総理は人の心を掴む天才だ」と絶賛。「普段なかなか見れない総理の笑顔や笑い声が聞けて、皆様も安倍総理の気さくさに心惹かれたことでしょう」と記していた 。
三原氏は菅義偉官房長官の側近としても知られている。もともとは比例区で出馬した三原氏だが、2016年の参院選で神奈川選挙区に鞍替え。神奈川といえば菅氏の地盤である。その後、三原氏は菅氏の選挙応援演説に付き従うようになった。
 2018/5/7
「東京五輪に向けたテロ対策や、受動喫煙問題の解決を前進させたい。これは譲れない。そのために私は国会議員になったのだから」
あれ? 政治家になったのは、がん撲滅のためじゃなかったっけ?
東京五輪といえば、森喜朗・東京五輪組織委員会会長の「秘蔵っ子」である橋本聖子自民党参院議員会長を逆転して三原氏が五輪相に就任するのではないかという報道もある。
竹中平蔵元総務相は「東京オリンピック招致も全部、首相官邸主導でやっている。菅さんのシナリオだと思う」と語っていたが、菅氏のシナリオで出来た東京五輪に、側近の自分が五輪相として立つことができれば、まさに「晴れ舞台」だ。
 
八紘一宇を大切にし、神武天皇の実在を信じ、保守思想を学びつつ、安倍首相の言葉をコピーし、菅官房長官に重用される。こういう人が現在の自民党のメインストリームにいるというのが現実である。 
 
 

 

 
 
 

 

●三原 じゅん子
(1964- ) 日本の政治家、元女優・歌手、元介護施設経営者、元カーレーサー。以前は出生名の三原順子で活動。自由民主党所属の参議院議員(2期)、自民党女性局長(2013-2015年・2018年-)、参議院厚生労働委員長(2016年)。東京都板橋区出身。
 
生い立ち〜女優
1964年(昭和39年)9月13日、東京都に生まれる。1971年(昭和46年)4月、私立淑徳小学校入学。翌1972年(昭和47年)、東京宝映テレビ・劇団フジに入団。入団まもなく、劇団フジ定期公演「青い鳥」等に出演。
1975年(昭和50年)、第29回定期公演で「強制収容所の少女」の主役シズエを演じる(大場久美子とのダブルキャスト。1977年(昭和52年)4月、私立十文字学園中学入学。1979年(昭和54年)、テレビ朝日系ドラマ『燃えろアタック』(主演は歌手の荒木由美子)へ出演。本格的なドラマデビューとなる。学校が芸能活動を許可していなかったため、2年2学期に自主退学し、板橋区立志村第一中学校に転校する。
1979年(昭和54年)、『3年B組金八先生』に「山田麗子」役で出演。役柄の「ツッパリ(=不良、非行生徒)」イメージで、人気が急上昇した。中でも同級生へのリンチシーンで仲間を仕切りながら発した、「顔はやばいよ、ボディやんな、ボディを」のセリフは、三原を表す代名詞になった。
1980年(昭和55年)、明治大学付属中野高等学校定時制へ入学も、2日ほどで退学。同年に歌手デビューや宮脇康之(現・宮脇健)との熱愛報道。以降、1986年(昭和61年)までコンスタントにシングルを発表した。長戸大幸が作曲したデビューシングル「セクシー・ナイト」は売り上げ30万枚を超えた。
1982年(昭和57年)には、TAKU(横浜銀蝿)作曲の「だって・フォーリンラブ・突然」のロングヒットで、第33回NHK紅白歌合戦(歌唱曲は「だって…」と同じくTAKU作曲の「ホンキでLove me Good!!」)に出場した。
1984年(昭和59年)、20歳の誕生日を機に本名の「三原順子」から「三原じゅん子」へ改名。また、「JUNKO」というアーティスト名でハードロックのバンドを組み、ライブ活動をしていた時期もある。「山田麗子」のペンネームで先述の「だって・フォーリンラブ・突然」(横浜銀蝿との共同)などの作詞も手掛けている。
1987年(昭和62年)から1999年(平成11年)にかけては、カーレーサーとしても活動し、国際B級ライセンスを持つ。グループA、スーパー耐久、JGTCなどツーリングカーレースに参加した。レース中の事故による骨折も7回経験しているという。2005年(平成17年)から、二輪レースチーム「weave×MIHARA PROJECT」のオーナー。
1990年(平成2年)、レーサーの松永雅博と結婚(1999年5月離婚)
1999年(平成11年)11月、お笑い芸人のコアラと再婚(2007年離婚)。
 
介護問題への取り組みから政界進出
2008年(平成20年)、子宮頸癌を患い子宮を摘出したが、リハビリを経由して復帰した。この経験もあり、医療や介護問題への関心を強め、がん撲滅等の啓発活動を行うようになった。同年1月、心機一転を図る目的でテレビ番組の企画で「公開整形手術」に臨み、レーザーによるリフトアップ、シミとり、目じりのシワ対策のボトックス注射など、約30分のプチ整形施術を行った。
2010年(平成22年)3月には自ら介護施設の経営に乗り出す。
2010年(平成22年)4月8日、第22回参議院議員通常選挙に自由民主党から比例区で出馬すると記者会見で発表。この立候補は党からのスカウトでなく自ら名乗り出たことを明らかにした。また、「二足のわらじを履けるほど国会議員の仕事を甘くは考えていない」として、当選した場合は女優を引退すると表明した。同年7月11日の第22回参議院議員通常選挙は自民党にとっては野党の立場として初の大型国政選挙であった。出馬会見では、前述のがん克服体験について語ると共に、なぜ自民党から出馬したのかという質問に対し、今忘れられている日本人の良さ、伝統的な社会の価値観を大切に思っていることを理由として挙げた 。 約17万票を個人名で獲得し、党内5位で初当選。当選後は女優業をしていないが、例外として2011年(平成23年)3月に放送されたテレビドラマシリーズ「3年B組金八先生」の最終回で過去の出演者達が卒業生として勢揃いで集合する場面では卒業生の一人として特別出演した。なお、国会議員としての映像への出演は行っている。2013年(平成25年)、自民党女性局長(10月8日に総務会指名就任)、自民党オートバイ議員連盟事務局長を務める。2016年1月、参議院厚生労働委員長に就任。
2016年10月26日、自身のブログにおいて、政治家を志し、議員秘書を務める男性との結婚を明らかにした。
 
がん患者としての経験
2008年(平成20年)、子宮頸癌を患い子宮を摘出したが、リハビリを経由して復帰した。この自身の闘病経験もあり、医療や介護問題への関心を強め、がん撲滅等の啓発活動を行うようになった。がんが発覚した当時三原は、30歳以降は約3年に一度のペースで人間ドックを受けていたという。40歳以降は子宮頸がん、子宮体がんについても検査をしていたところ、2007年に突然、高度異形成(がん以前の細胞の変異)が発見された。三原のがんは早期で発見され円錐切除を行ったにも関わらず、進行が異常に早いものであった。このため最終的には腺がんの診断が下され、子宮全摘手術を行った。その際の心の支えが同じ患者仲間の励ましであったことを語り、この点が後の政界進出へのきっかけとなったと語っている。また、同様に母親ががん治療中であることにも触れている。
 
神奈川県選挙区に転出
2015年(平成27年)9月、自民党神奈川県連は第24回参議院議員通常選挙において三原を比例区から転出させ、神奈川県選挙区の候補に擁立することを決め、自民党本部に公認を申請した。自民党本部は改選4議席以上の選挙区に2名の公認候補を擁立する方針を立てており、同年6月、神奈川県連には神奈川県選挙区選出の現職小泉昭男と三原の2名が公認を申請していた。一方で公明党が神奈川県選挙区に公認候補者を擁立する方針を決めたため、自民党神奈川県連では公認候補は1名に絞って参院選を戦うべきであるとの意見が大勢を占めるに至り、党本部が求める公認候補の複数擁立については対応が困難となった。こうした中、県連内部の混乱発生を危惧した小泉が同年8月に公認辞退・議員引退の意向を示した。小泉の引退表明を受け神奈川県連は三原のみの公認申請を決めたが、自民党本部は神奈川県連に対しなおも2人目の候補者擁立を指示し、三原の公認を保留した。党勢拡大を狙う党本部と共倒れを避けたい県連との間で意見の相違が生じ、他の都道府県や比例区の公認候補が出揃う一方で現職である三原の公認が決まらず出遅れが懸念される中、2016年(平成28年)1月、自民党本部は三原の公認とともに、みんなの党解党後無所属で活動していた神奈川県選挙区選出の現職中西健治・旧みんなの党政調会長に党本部推薦を出し、候補者を2名確保することを決めた。党本部は中西を推薦した理由について「政策が近い」と説明したが、神奈川県連は中西が過去に自民・公明と袂を分かってみんなの党に参加したことを問題視しており、「党本部推薦であっても中西を県連が組織的に応援することはできない」と反発。三原のみの支援に注力するとの姿勢を示した。同年3月、自民党本部は公明党の新人候補三浦信祐にも推薦を出したが、神奈川県連は自民党系の候補者が3人になるためこれにも反対。県連は三原支援に専念するとの姿勢を改めて示した。同年7月の投開票の結果、三原は得票率24.5%でトップ当選した。
 
主張・活動
がん対策
子宮頸がんを患い、子宮を摘出した経験から、がん治療に対する取り組みをライフワークとしている。全てのがん患者とその家族の苦痛の軽減と療養生活の質の維持向上、がんになっても安心して暮らせる社会の構築を目標としている。
がん登録法 / 登録法の立法過程について法制化作業チームの一員として携わった際、日本には膨大な数のがん患者が存在するにも関わらず、がん罹患後の「5年後生存率」等の重要なデータがたった7府県からしか収集されておらず、国としては日本全体の状況を全く把握していないこと、そしてこのことが、がん治療の新薬及び治療法の開発のネックになっていることを懸念していたとインタビューで語っている。
HPVワクチン / 子宮頸がん予防ワクチン接種と検診の無料化を主張している。町田徹の取材に対し、「こんな思いをするのは私だけで十分です。2年前、私は子宮頸がんにかかりました。他の人に同じ苦労をさせなくない。子宮頸がんはワクチンで予防することができるのです。これを公費負担にすれば、多くの女性が救われます。そのために政治のお力を借りる以外に道がはない、そう考えたのです」――。」と語った。
参議院議員当選後は、参議院厚生労働委員会でHPVワクチンの公費助成、副反応被害救済制度、ワクチンに関する知識の啓蒙に関する主張を行ってきた。
・ワクチンの公費助成に関する国会での発言
「そもそも私が患いました子宮頸がんという病気は、毎年一万五千人の方が発症し、約三千五百人もの女性が命を落としているというのが現状でございます。また、発症する女性の若年齢化も問題となっております。(中略) 子宮頸がんワクチンの公費助成を実施あるいは実施を予定している市区町村は(中略)まだ七%程度しかありません。ということは、経済的な格差がワクチン接種の有無に直結しかねないということです。(中略)私は一貫して、経済的な格差が健康格差を生んではならない、ワクチンを接種したいと思った方が経済的な負担があるがゆえに接種できないというような状況はつくるべきではないと考えておりました。」 
積極的な国の推奨により子宮頸がんワクチン接種を受けた少女らに、副反応と疑われる重篤な障害が起こり、社会問題となったが、こういった被害者の救済に関する国会での発言
「ワクチンには一定の確率で副反応が起きることが分かっております。まれに重い副反応が出るケースも否定できません。そうした場合公費助成という施策を打ち出し、国として接種を推進していこうという際には、副反応が生じた場合における不安を軽減する施策を併せて打つことも重要になってきます。子宮頸がん副反応問題の根本、これは我が国の健康被害救済制度の不十分さにあると考えております。(中略)ワクチンとの因果関係を厳密にしてグレーゾーンにいる人々を救済しないのではなくて、わたくし、何度もこの委員会で言っておりますけれども、疑わしきは被害者の利益といった考えで幅広く補償を行う必要があるのではないかと考えております。 日本のような救済の間口が狭い仕組みでは、今回のように個別の事案がもととなって国のワクチンプログラム全体が止まってしまうというような新たな問題を引き起こしているではないかなと、こんなふうに思っているところであります。」
健康増進法改正
がん患者の立場から、受動喫煙防止を目的とした屋内原則禁煙の健康増進法改正を訴えている。
・2017年5月15日の自民党厚生労働部会において、
「飲食店を一括りとして扱って、表示義務だけで、望まない受動喫煙が防止できる、とは思えません。その考え方が強者からの考え方であって、全国がん患者団体連合会の直接の思いを話してきてくれ、ということで発言しております。がん患者の方々の就労支援は、大きな問題です。がんでも、一生懸命働いて就労している患者はいっぱいいる。そんな中、がん患者は選べません、お店を、仕事場を。弱い立場の方々がたくさんいる、ということを知ってほしいんです。上司うんぬんの話があったが、がん患者が治療している中で、喫煙してる人がいる中で働くことの苦しさは、どういうものがあるか、是非皆さんに・・・」
と発言をしていたが、その発言中に大西英男から「働かなければいいんだよ」という野次が飛んで問題となった。
三原はすぐさま、
「働かなければいい、という、そんな話がありますか。がん患者はそういう権利がないんですか。弱い人たちの立場を考えて法案を作っていくのが、自民党の政治家の役割だと申し上げたい。妊娠中の先生方の奥様に煙を吹きかけることができますか?そういうことが先生、ご自身できますか?弱い立場のことを考えて法案をつくることをお願いしたい。」
と強く訴えかけた。
・2018年7月10日の参院厚生労働委員会において、三原は大西の一連の行動について、「当初は様子を伺って、世間からの批判が大きくなって初めて、言い逃れのような釈明を行うというのも潔くないなと感じました」と評した。また、大西の発言内容についても、「がん患者の方々もがん患者の就労はまだまだ厳しい中、危機感を持っている。患者らからも怒りや悲しいという声が寄せられたと述べておられました。私も全く同感です」と述べた。
リベンジポルノ法案
私事性的画像記録の提供被害防止法(リベンジポルノ法案)の取りまとめを行った。
児童虐待防止
女性局局長として、当選直後からこの問題に取り組んできた。
全国の児童相談所が2013年に行った調査において児童虐待の件数が23年連続で増加し7万3802件にのぼったことについて、三原はインタビューで「一刻の猶予もありません。報告されていない多数の事例があるはずです。かつては80%が実母による虐待でしたが、最近は実父や母親の交際相手によるケースが増えている。暴力以外に、心理的虐待も多い。これらは子供の心に大きな傷を作り、成長を阻害する要因になっています」と語った。
・オレンジリボンキャンペーン / 女性局としては、児童虐待防止及び通報を啓発する「オレンジリボンキャンペーン」の実施を率いた。児童虐待の通報ダイヤル「189」は女性局が5年以上の月日をかけて取り組んだ成果の一環であると主張している。
・政策の特徴 / 三原の政策として、少子化対策との関連において、加害者としての親を救済するべきとする主張を行っている。インタビューでは、これまでの少子化対策は、「産みやすい環境をつくる」ことに重心を置いていたことを踏まえ、これからは虐待しない親を作ることも、政治に求められていることだと語り、虐待をしてしまう不安を抱える親の相談所を整備すべきだと主張している。
「八紘一宇」をめぐる発言
2015年3月16日、参議院予算員会において企業の国際的な租税回避問題に関する質問をした際「八紘一宇」という言葉をとりあげ「日本が建国以来、大切にしてきた価値観である」と述べた。
質問中、清水芳太郎の著書『建国』を引用し「一宇、すなわち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強い者が弱い者のために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。(中略)世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度ができたとき、初めて世界は平和になるということでございます」と述べ、さらにこの理念の下に「世界が一つの家族のようにむつみあい、助け合えるような経済、税の仕組みを運用していくことを確認する政治的合意文書のようなものを、安倍晋三首相がイニシアチブを取り、世界中に提案していくべきだ」と発言した。
批判
・歴史的な視点によるもの / ネット上では、「意図する内容を伝えるなら別の言い方があったのではないか」「本来の意味よりも戦時統制のプロパガンダとしてとらえられる危険性が高いのになぜあえて使うのか」「結果的に戦争に結びついた言葉なので、使わない方がいいのではないか」などの慎重な意見が出た。斎藤美奈子は東京新聞で同発言を「会心の無恥」であると批判し「口が滑った程度の話じゃないからね。(中略)歴史のお勉強をサボると、こういう惨事を招くんです。いずれにせよ、侵略戦争を正当化したいという願望がなげればこんな無知かつ無恥な発言は出ないはず。(中略)厳しく処分しないと禍根を残すよ」とコメントした。また、「戦時中のスローガンを国会でなぜ?」(3月19日付朝日新聞)や「侵略戦争を正当化」(同日付東京新聞)、「戦意活用スローガン『八紘一宇』国会発言」(3月27日付毎日新聞)など、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞とリベラル系メディアが一斉に批判した。さらに、三原が質問の中で清水芳太郎の著書『建国』を引用したことについては「北一輝の流れをくむ国家主義者」を礼賛したとの批判がなされた。日本美術史が専門の佐藤康宏は、「神武天皇の実在を信じる」三原の発言は「迷妄」であると断じている。
・経済的な視点によるもの / このほかにも、同発言はアベノミクスに対してネガティブなインパクトを与えると観点からも批判がなされた。冷泉彰彦はニューズウィーク誌上で三原の発言に対し、「租税回避への批判を行うということは、現時点では、つまり日本経済がデフレ克服ができるかできないかの瀬戸際においては、明らかに優先順位が低い問題だということです」「せっかく法人減税をしてビジネスの海外流出を防止しようとしたのに、大企業優遇をイヤがる世論に迎合して、急務である改革よりも『多国籍企業バッシング』というまるで左派ポピュリズムに迎合したようなことを言っているわけです」との批判を行った。
擁護
・歴史的な視点によるもの / 大原康男は、東京裁判(リンク)で「八紘一宇」が問題とされた際、判決で「その伝統的な文意は、究極的には全世界に普及する運命をもった人道の普遍的な原理以上の何ものでもなかった」と判断されたことに言及し、「こうした経緯を鑑(かんが)みれば、「八紘一宇」が国策に利用された過去があったにしろ、その本義を踏まえた上で今日的な文脈で捉え直した三原議員の発言を頭から否定するのは、言論の封殺に繋(つな)がると言わざるを得まい」とコメントしている。また、清水芳太郎は国家主義者であり、その著書を引用することはけしからんとの上記批判に対しては、片山杜秀が文芸春秋で反論を行っている。清水の思想は、弱肉強食の原理で敵を倒し搾取することを否定し、むしろ敵を拝んで仲間とすることで平和を達成しようとした点に要点があると指摘、「日本は八紘一宇という建国の精神を改めて想起し、グローバリズムの悪しき側面と戦うべきだ。三原議員はそのような含みで発言したのではないか」と擁護した。さらにこの点を示す清水の著作を引用し「キリストは汝の敵を愛せよと言った。日本教に於いてはもとより当然のことである。(中略)皇室に於かれては、常に敵を拝まれた。敵をも拝むのは、日本宗教の本来の伝統だ。この包容あってこそ、多種多様の民族が、日本において融合統一されたのである」と述べ、八紘一宇の言葉が記された建国の詔には敵を拝む精神が大きく刻印されていると主張した。
・経済的な視点によるもの / また、小林よしのりは「ピケティみたいなことを主張しているわけで、右巻きの者たちを説得する手段として「八紘一宇」を使ったわけだ。なかなかやるじゃないか」「安倍政権は多国籍企業に有利な政策しか取らないから、どうせ無理な提案だっただろうが、三原じゅん子が強欲資本主義に一定の疑問を持っていることには驚いた」と評した。
その他
・靖国神社には「20代の頃からほぼ毎年参拝していた」と語っており、議員初当選後の2010年(平成22年)から2013年(平成25年)の終戦の日、春季秋季例大祭にも参拝した。
・2011年の日韓図書協定に反対している。
・選択的夫婦別姓制度に反対。
 
不祥事 / フライデー記者への暴行
1987年(昭和62年)4月2日、当時恋人だった立川利明とデート中、尾行していた写真雑誌フライデーのカメラマン2人に暴行し、警視庁目白署に現行犯逮捕された。この日は午後7時30分から午前4時30分頃まで酒を飲んでいたといい、午前5時15分頃、東京都豊島区高松一丁目の路上でタクシーから降りたところを、フライデーの記者やカメラマン4人に撮影された。
これに激高した三原と立川が「フィルムを出せ」と言いながら、カメラマンに対し膝蹴りを入れた。三原はさらにカメラを抱えてうずくまったカメラマンに対して馬乗りになり、髪の毛をつかんで頭を路上に打ちつけるなどして暴行した。これにより通報で駆け付けた警察官に、立川と共に暴力行為の現行犯で逮捕され、書類送検となった。 三原は立川の動きにつられて乱暴したものの、悪質ではなく、カメラマンのケガも軽いとして翌日に釈放された。東京地検は三原らを「1暴行はとりわけ悪質とは言えず、2三原がカメラマンの壊されたカメラ代を支払い、カメラマン側は器物損壊の被害届を取り下げる事で双方に和解が成立している。」として起訴猶予とした。また読売新聞はこの頃激化していた写真週刊誌の報道に苦言を呈する記事の中で「有名人にプライバシーなし」を振りかざす報道側の風潮に対し、件の報道が公益を図るものであるとは考えられないという観点から、検察側が三原らの肖像権に強く配慮したのではないかと推測している。またフライデー側が「穏便に」との上申書を提出した背景には肖像権やプライバシー権をめぐる争いに持ち込まれては不利であるとのフライデー側の判断があったと見られると推測している。  
 
三原じゅん子「資産公開0円」でも…購入していた1億円豪邸 2017/11
「三原さんが8月、横浜に新居を購入されたんです。“24歳年下”と話題の夫と、すでに一緒に暮らしています。ただ不倫で騒がれた斉藤由貴さんの自宅から近いこともあって、意地の悪い政界関係者は“こっちの夫婦も危ないんじゃないの”なんて笑ってます」(自民党関係者)
元女優で芸能界から政治家に転身した三原じゅん子参議院議員(53)。私生活では“2度の離婚”を経験している。
「ところが昨年10月、自分の公設秘書を務めていた24歳年下のAさんと交際2カ月で“スピード結婚”したんです」(前出・政治部記者)
披露宴には、安倍晋三首相(63)もメッセージを寄せた。今回こそ添い遂げる覚悟で“終の棲家”を買ったのだろうか。さっそく現地に行ってみると、夫婦の新居は横浜市内の閑静な高級住宅街にあった。かつて横浜の豪商が邸宅を構えた、海を臨む丘陵地だ。
新居は、白を基調とした洋風の2階建て。表札には夫の姓が洒落たアルファベットで綴られている。
登記簿によると、土地・建物ともに今年8月に購入されている。土地面積は181平方メートルと広いが、木造2階建ての建物は2フロアあわせて110平方メートルほど。所有権は三原が65%、夫が35%を持ち、夫婦で9千万円のローンが組まれていた。
「近くに公園があり、かなり良い場所です。駅からは少し遠いですが、坪単価は120万円ほどで、土地代は6千万円以上。家も見ましたが、すごく立派な家を建てられていますから、合わせて1億円ほどでしょう」(地元の不動産業者)
ちなみに歩いて行ける距離にある斉藤由貴の自宅のほうが、立地としてはランクが上になるという。
じつは今年1月の政治家の資産公開で、三原は『資産0円』と報告している。週刊誌の取材に「初当選からずっとゼロですよ。もうゼロ、ゼロ!いまの住まいも賃貸だし、本当にお金がないんです。選挙で全部なくなりました」と答えているのだ。
かつて、自宅に井戸と塀しか残らないほど政治活動に打ち込む“井戸塀代議士”と呼ばれた政治家がいた。だが、三原は政治家になって家を建てたことになる。議員仲間の1人はこう話す。
「もちろん、国会議員だって家は買いますよ。でも、『資産0円』で1億円の家を買い、議員と秘書の夫婦で9千万円のローンを組んだとすると、返済は完全に議員歳費だよりでしょう。そうなると、議員の座にしがみつくことが彼女にとって“至上命題”になる。それで本当に国民のための政治をやれるのかとは思いますね」
政治家として“結果”を見せれば、有権者も納得するのだが――。  

 

だから私は「八紘一宇」という言葉を使った 2015/4/5
自民党の三原じゅん子参院議員が3月16日の予算委員会で発言した「八紘一宇」が話題になっている。「戦時中のスローガンを国会でなぜ?」(3月19日付朝日新聞)や「侵略戦争を正当化」(同日付東京新聞)、「戦意活用スローガン『八紘一宇』国会発言」(3月27日付毎日新聞)など、リベラル系のメディアが一斉に批判した。これらの記事が報じるように、三原氏は軍国日本を讃えているのだろうか。なぜ「八紘一宇」を使ったのだろうか。以下、本人がその意図を弁明する。(聞き手:ジャーナリスト・安積明子)

予算委員会での私の発言について、多くの方からご意見をいただきました。これをきっかけに政策や歴史に関する議論が活発するのであれば、それこそ本望だと思っています。
しかし、「三原じゅん子は『八紘一宇』が戦争や侵略戦争を正当化するスローガンだったことを軽視している」というご指摘はあたっていないように思います。私とて、この言葉が戦前に国威発揚のために使われたことは存じております。そしてあの戦争が日本の歴史に悲劇をもたらしたことも十分に理解しているつもりです。
よって戦争の原体験を持つ政治家たちの多くは、「八紘一宇」をそういう意味としてとらえてきたのです。でも私たちにはそうした体験はありません。だからこそ、この言葉が持つ本来の意味を評価する必要があると思います。
そもそも「八紘一宇」の本来の意味は何なのでしょうか。この語源は、神武天皇が即位された際に作られたとされる「橿原建都の詔(みことのり)」に遡ります。
「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(せ)むこと、亦可(またよ)からずや」
つまりは「世界のすみずみまでも、ひとつの家族のように仲良く暮らしていける国にしていこうではないか」という建国の理念です。この詔を編入した日本書紀が完成したのは720年で、実に1300年以上も前に、国民を「おおみたから」と呼んで慈しみ、自分より他人を思いやる利他の精神、絆を大切にするこころや家族主義のルーツが記されていたのです。
「八紘一宇」を予算委員会で用いた時、私は清水芳太郎氏の「建国」を解説として引用しました。これには「清水芳太郎は『日本的ファシストの象徴』と言われた北一輝の流れをくむ国家主義者ではないか」との批判をいただきましたが、私はそうは理解していません。
清水芳太郎研究で知られる平井一臣鹿児島大学教授の著書「『地域ファシズム』の歴史像・国家改造運動と地域政治社会」によると、清水氏は農村の貧困問題に取り組み、創生会を結成して運動を展開していました。ファシストというより、弱者救済を国レベルで成し遂げようとした人ではなかったのかというのが私の理解です。
さらに「八紘一宇」は二・二六事件の「蹶起趣意書」にも記載されていたために、軍事クーデターの原因となったとみなされがちですが、この事件が勃発するきっかけになったのも、農村の貧困問題でした。特に東北で長年農業恐慌が続いたことに加え、1931年と1934年に大凶作が起こり、少女の身売りや欠食児童問題が深刻になりました。
これらを見ると、多くの人々が困窮して国が疲弊している時こそ「八紘一宇」の重要性が叫ばれていたという歴史的事実が浮かび上がります。「八紘一宇」は混乱の時代にあって、人々を救済するスローガンだったと思うのです。
それは現代社会にも当てはまります。たとえ武力による戦争に直接参加していなくても、日本はグローバル資本主義の下で激化する競争に常にさらされているのです。
そこで私は3月16日の参院予算委員会で、現在のグローバル資本主義の中で日本がどう立ち振る舞うべきかを質問しました。たとえば日本でビジネスを展開して莫大な利益をあげているにもかかわらず、法律のはざまをぬって税金を納めない外国資本はどうでしょうか。法律によって違法とされない限り、何をやってもいいのでしょうか。
実際に多国籍企業による「税源浸食と利益移転問題」は深刻化しており、本社を税率のより低い国に移すという「コーポレート・インバージョン」ばかりでなく、税率の低い第三国に親会社を設立するという「コンビネーション・インバージョン」も行われるようになりました。このように租税回避のテクニックは次々と生み出され、法律が追いつかないというのが現状です。
その結果、支払われなかった税金のしわ寄せは国民に押し付けられます。実際にOECDが2013年2月に公表した「BEPS報告書」によれば、このような企業の租税回避行動は各国の税収を減少させ、ひいては国の税制そのものへの信頼を失墜させるとされています。特にその影響を受けるのは発展途上国や家族経営企業などで、同報告書は「租税はただ愚か者が支払うようになった」とまで記載しているほどなのです。
これはグローバル経済の下での当然の帰結かもしれません。しかし正直者が損する社会を作ってはいいのでしょうか。1国の努力だけで解決できるものではなく、国際的な協調が必要です。そこには何をもって法益とするのかについて合意しなくてはいけません。すなわちどの国も認める客観的な公正を認識することが必要なのです。
この公正の理念こそが、「八紘一宇」ではないでしょうか。16日の予算委員会でこのことを提案した時、与党はもちろん他の政党の委員からも、全く批判の声は上がりませんでした。事前に理事会に添付資料と質問内容を通告しましたが、問題とされませんでした。
また私の質問に対して答弁に立った麻生太郎財務相が「この言葉を知っている人、手を挙げて」と呼びかけても、2名ほどしか手を挙げませんでした。「八紘一宇」はすでに忘れられた言葉なのです。
だからこそ私はこの言葉に本来の意味を吹き込み、古来より日本が持っていた「和」の美徳をもういちど蘇らせたい。今年12月にはBEPSプロジェクトの取り組みについてとりまとめが行われるとことなので、この日本の建国の思いを是非とも世界に伝えるべきではないかと安倍晋三首相に申し上げたのです。
「八紘一宇」をどうとらえるか。それは「日本人は永遠に言葉にとらわれつづけるべきだ」と考えるか、あるいは「戦争を乗り越えて、新しい未来を作る」と考えるかによって分かれるといえるでしょう。予算委員会で問題にならなかった私の「八紘一宇」発言は、一部のメディアにより曲解されて報道されましたが、これもいいチャンスだと思います。
戦後70年を迎えた今だからこそ、もういちど歴史を見直し、改めて日本の将来を考えるべき時かもしれません。 

 

『八紘一宇』発言に鈍感であってはならないと思う 2015/3/23
唐突に出て来た『八紘一宇』
先週、久々にぞくっと悪寒が走るようなニュースがあった。元女優で自民党の政治家である三原じゅん子氏の発した一言に思わず体が敏感に反応した。『八紘一宇』がその一言である。
この言葉の意味は、「世界を一つの家にする」を意味するスローガン。第2次世界大戦中に日本の中国,東南アジアへの侵略を正当化するためのスローガンとして用いられた。『日本書紀』のなかにみえる大和橿原に都を定めたときの神武天皇の詔勅に「兼六合以開都,掩八紘而為宇」 (六合〈くにのうち〉を兼ねてもって都を開き,八紘〈あめのした〉をおおいて宇〈いえ〉となす) とあることを根拠に,田中智学が日本的な世界統一の原理として 1903年に造語したもの。40年第2次近衛文麿内閣が、「基本国策要綱」で東亜新秩序の建設を掲げるにあたり、「皇国の国是は八紘一宇とする肇国の大精神に基づく」と述べ、以後興亜新秩序の思想的根拠として広く唱えられた。 
時代は変わった
本来の意味はどうあれ、あまりに『軍国主義』『侵略』のイメージが強く付着し過ぎていることもあり、戦後はGHQから公文書での使用を禁じられている。そしてその後も戦後民主主義的な空気の中では、長く『忌み言葉』扱いされてきた。だから、かつてなら、国会議員が国会でこのような言葉を口にしようものなら、即座に政治生命が絶たれかねなかった。ところが今回は、共産党も社会党も何も発言しなかったという。マスコミも、もちろん一部に批判的な論調の記事はあったものの、予想よりずっと静かだったとの印象がある。批判の内容も、侵攻を受けた側の中国や韓国等を始め、アジア諸国等のネガティブな反応を危惧し、外交上の失点となることを心配する論調がある程度で、反対に、GHQの洗脳を解く意味でも、日本古来の価値感に根ざす思想としての『八紘一宇』をこの際見直すきっかけにすべき、というような意見まで出たりする。明らかに時代は変わっている。
『イスラム国』と似ている
『八紘一宇』を造語した田中智学は、日蓮上人を奉じて『国柱会』を創立し、個人の自覚、宗教の改革だけではなく、世界全体の改革を訴えた。その思想の骨格は、『原理主義的』(既存の日蓮宗を維新し改革する)、『政教一致』(社会全体が日蓮宗に帰依し、天皇が日蓮宗に改宗し国教となるべきとして、日蓮仏教の国教化を目指す王仏冥合思想を宣言)、『超国家主義』(世界は日蓮宗の思想の下に統一されるべき)で、最終的には天皇が世界の頂点に立って指導を行う世界を目指す(これを田中智学は「八紘一宇」と表現したとされる)というもので、イスラム教内部でも非常に『原理主義的』で、カリフ制復活を唱え、最終的にはイスラムによる世界統一を目指す『イスラム国』の主張とその構造が非常に良く似ている。(あえて『イスラム国』という呼称を使わせていただく。)
戦闘的な日蓮宗の宗派
田中智学は、大正から昭和初期にかけて当時勃興しつつあったインテリ層に直接、間接に非常に大きな影響を与えた人物である。国柱会は『日蓮主義』という表現を使用し、この『主義』という概念は、明治以降に流入した西洋哲学に由来するものであり、日蓮教学の近代的体系化の一端を表しているとされる。小説家/文芸評論家の丸谷才一氏と劇作家/評論家の山崎正和氏の対談集である『二十世紀を読む』*1によれば、この時期の(昔も、そしておそらく今も)日本人のマジョリティは『親鸞的雰囲気』あるいは『浄土真宗的雰囲気』的なメンタリティ(主義主張を鬱陶しいと感じ、主義を主張する人を嫌うメンタリティ)を持っていたという。
日蓮宗にはもともと、接受派(内面的な信仰を抱き、世の中とは協調していこうとするタイプ)と、折伏派(全人類を日蓮宗に改宗させることを目指すタイプ)の二派があり、江戸期には折伏派の中の戦闘的な派閥とされる『不受布施派』は、江戸幕府からキリシタン並みの大弾圧を受けたというから、その嫌悪感は非常に強かったと考えられる。だが、日本の歴史においては、時折、本来マイノリティであるこのような思想とそれを体現する人物が出て来る時期があるようだ。
テロや侵攻を正当化するイデオロギーとして機能
田中智学自身は、死刑廃止や軍備縮小を唱える平和的な宗教者でもあり、世界の統一の目的は人々が本音で繋がり合う理想郷の実現であったことは確かだろう。だが、大正末期からから昭和初期というのは、国民が明治期の国家目標に熱狂した時期を過ぎ、大きな物語が見え難くなってくる時期だ。ただでさえ自らを託せる物語が失われ、インテリ層にも鬱屈が溜まっていた。加えて、社会の矛盾も極まっていた。国家と結んだ財閥が繁栄する一方、世界的な不況で地方は疲弊し、飢餓や娘の身売りが激発する。国にも軍にも官僚主義がはびこっている。こんな時に、日蓮宗の折伏派の系統に魅力的なイデオローグが出れば賛同者が続出するのは無理からぬところもある。
実際、この時期の熱烈な日蓮信者には、そうそうたるビッグネームが並ぶ。だが田中智学の思想は、結果的には、不幸なことに、国家改革をお題目にして、テロリズムや他国への侵攻を正当化するイデオロギーとして機能してしまったと言わざるをえない。具体的な人物名を列記すれば一目瞭然だ。
北一輝: 国家主義運動の理論的指導者。著書『日本改造法案大綱』は陸軍青年将校の革命のバイブルとされた。陸軍皇道派の青年将校が起こしたクーデターである二・二六事件(高橋是清蔵相、斎藤實内大臣等政府要人を暗殺)の理論的指導者として逮捕され刑死。
大川周明: 国家主義運動の指導者。青年将校が計画した三月事件、満州事変を推進。陸海軍将校によるクーデータである五・一五事件(犬飼首相を暗殺)に連坐。A級戦犯として東京裁判で起訴されたが、精神障害と診断され釈放。イスラム教の研究家としても知られる。
西田税: 陸軍軍人、思想家。北一輝と親交を持ち、二・二六事件で国家転覆を図った首謀者の一人として北とともに刑死。
磯部浅一、村中孝次、香田清貞、安藤輝三: 二・二六事件を主導/関与した陸軍青年将校。北一輝の『君側の奸』の思想の影響を受け、政治家と財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破する必要性を声高に叫んでいた。
塚野道雄、三上卓、山岸宏: 五・一五事件に関与した陸海軍の軍人。
井上日召: 宗教家、政治運動家、テロリスト。右翼団体血盟団結成。一人一殺の血盟団事件を引き起こし、無期懲役(恩赦で釈放)。
菱沼五郎: 日本の政治運動家、殺人者、テロリスト。井上日召に心酔し血盟団に加盟。1932年団琢磨を射殺(血盟団事件)。
相沢三郎: 陸軍軍人。北一輝の思想的影響を受け、永田鉄山軍務局長斬殺事件を起こした。刑死。
近衞篤麿: 近衛文麿の父。国柱会会員。アジア主義の盟主として活躍。
石原莞爾: 陸軍軍人。関東軍参謀として満州事変と満州国建設を指揮。主著に『世界最終戦論』。国柱会会員。
宮沢賢治: 詩人、児童文学者。日蓮宗の熱心な信者となり、国柱会に入会。
文芸春秋の記事
三原じゅん子氏の『八紘一宇』発言は、3月16日の参院予算委員会で行われているが、それに先立って、文芸春秋の2015年4月号(3月10日発売)に、北海道大学准教授の中島岳志氏が、『若者はなぜテロリストになるのか』*2という記事を寄稿していて、サブタイトルに、『八紘一宇とイスラーム国の危うい類似』『かつて日本にもテロの時代はあった。悩める若者を搦めとる大きな物語に気をつけろ』とある通り、今の若者が八紘一宇のような大きな物語に影響を受けて暴発しかねないことを危惧している。中島氏も三原じゅん子発言には、肝を冷やした一人に違いない。
悩める若者
中島氏が指摘するように、バブル崩壊後の日本の若者の非常に鬱屈した雰囲気と、希望のなさは、近年の日本の抱える非常に大きな社会問題とされてきた。世界に類のない平和国家でありながら、日本の若者には、希望はなく、自分が承認される機会がどんどんなくなって来ている。中島氏は、そのような若者の代表の一人として、作家/社会運動家の雨宮処凛氏の例をあげている。酷いイジメを受けて育った雨宮氏にとって、会社等の中間集団の包摂を前提とした日本のシステムでは生きる意味も承認を受ける場所も見つけられず、自殺未遂を何度も繰り返す。紆余曲折の末出会った右翼や北朝鮮に初めて誰でも包摂してくれて、自分の生きる意味を与えてくれる場を見つける。
今回の記事には出てこなかったが、月刊『論座』に『「丸山眞男」をひっぱたきたい--31歳、フリーター。希望は、戦争。』を寄稿してメディアの注目を集めたフリーライターの赤木智弘氏などの発言も、平和だが承認も物語もない日本のような先進国より戦争やテロがあっても大きな物語と包摂のあることを感じさせるイスラム国を選ぶメンタリティに通じると言えそうだ。赤木氏は、今の日本では、一旦落ちこぼれたら全く希望がなく、その状態を変えてくれるきっかけなら戦争でもいいから起きて欲しい、すなわち、『希望は戦争』と言い切る。安倍政権の経済政策で、昨今、数値上の経済は上昇基調ではあるが、それが雨宮氏、赤木氏らに代表される若者の希望となっているとは残念ながら考えにくい。むしろ、格差を拡大して、このような若者を増やすことさえ危惧される。
成功者/エリートも欲求不満
中島氏の言説はどちらかと言えば、バブル崩壊後の日本で、正規社員になれなかったような、いわゆる『挫折した若者』がこの母体であることを示唆しているように読めるが、オーム真理教事件でも、いわゆるエリート層が沢山参加していたがごとく、今の日本には(というより資本主義と民主主義が行き渡ったはずの他の先進国でも)、人のうらやむようないわゆる勝ち組/エリート層でさえ、自分の人生をかけることが出来るような大きな物語は見つからず、承認欲求を満たすことはできなくなっていると見るべきで、むしろこのエリート層こそ、発火し易い状態にあると言えるのではないか。そこに『カリスマ』が登場すると、平和な東京に毒ガスを散布するようなことが再び起きても不思議はない。ことによると日本国内で、イスラム国のようなものをつくろうとする集団が現れる可能性もあり得る。日本の歴史はそれが絵空事ではないことを示唆しているとも言える。
鈍感であってはならない
そういう意味で、『八紘一宇』が国会の場で出て来るような状況に鈍感であってはならないのでは、と思わずにはいられない。経済成長が万能薬というような甘い認識では、先が思いやられる。戦争やテロのような暴力がなくとも、人が誰でも承認を受け、生き甲斐を感じられるような社会をつくることを真剣に目指していかないと、再び悪夢が襲って来かねないことを肝に銘じておく必要があると思う。 

 

八紘一宇(はっこういちう)
「世界一家」を意味する語。戦時中の大日本帝国では、「日本を中心(一宇)に、世界(八紘)を統合すること」の意味に便用され、戦争遂行スローガンとなった。
日蓮宗から新宗教団体国柱会を興した超国家思想をもつ田中智學が1903年(明治36年)、日蓮を中心にして、「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味で、「日本書紀」巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇」(八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(なさ)む)から「八紘一宇」としたものである。
この八紘の由来は、
九州外有八澤 方千里 八澤之外 有八紘 亦方千里 蓋八索也 一六合而光宅者 并有天下而一家也–[淮南子]地形訓–である。本来、「八紘」は「8つの方位」「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する語となった。
日中戦争から第二次世界大戦まで、大日本帝国の国是として使われた。日本の降伏後にGHQに占領されると、神道指令で、国家神道・軍国主義・過激な国家主義を連想させるとして、公文書における使用が禁止された。1940年(昭和15年)7月26日、第二次近衛文麿内閣は基本国策要綱を策定、大東亜共栄圏の建設が基本政策となった。基本国策要綱の根本方針で、「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」ことであると定められた。
八紘一宇の説明として、日本の代表的な国語辞典では、「第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」、としている。また、世界大百科事典では、「自民族至上主義、優越主義を他民族抑圧・併合とそのための国家的・軍事的侵略にまで拡大して国民を動員・統合・正統化する思想・運動である超国家主義の典型」と説明されている。また、1957年(昭和32年)9月、文部大臣松永光は衆議院文教委員会で、「戦前は八紘一宇といって、日本さえよければよい、よその国はどうなってもよい、よその国はつぶれた方がよいというくらいな考え方から出発していた」と説明、1983年(昭和58年)1月衆議院本会議で、総理大臣中曽根康弘も「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持ち、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった」と説明した。
Tanaka Memorial(田中上奏文)を歴史的真実として東京裁判冒頭から判決を導く裁判を進めていた検察側意見では「八紘一宇の伝統的文意は道徳であるが、-1930年に先立つ10年の間- これに続く幾年もの間、軍事侵略の諸手段は、八紘一宇と皇道の名のもとに、くりかえしくりかえし唱道され、これら二つの理念は、遂には武力による世界支配の象徴となった」としたが、清瀬弁護人は「秘録・東京裁判」のなかで「八紘一宇は日本の固有の道徳であり、侵略思想ではない」との被告弁護側主張が判決で認定されたとしている。また、元高校教諭上杉千年は、仲間内の講演会で「八紘一宇の精神があるから軍も外務省もユダヤ人を助けた」とする見解を示している。また、八紘一宇の思想自体に問題があるのではなく、軍部が都合よく利用したことが問題とする声もある。
 
 
 

 

 
●八紘一宇
八紘一宇 概説1
1 「世界を一つの家にする」を意味するスローガン。第2次世界大戦中に日本の中国、東南アジアへの侵略を正当化するためのスローガンとして用いられた。『日本書紀』のなかにみえる大和橿原に都を定めたときの神武天皇の詔勅に「兼六合以開都、掩八紘而為宇」 (六合〈くにのうち〉を兼ねてもって都を開き、八紘〈あめのした〉をおおいて宇〈いえ〉となす) とあることを根拠に、田中智学が日本的な世界統一の原理として 1903年に造語したもの。 40年第2次近衛文麿内閣が「基本国策要綱」で東亜新秩序の建設を掲げるにあたり、「皇国の国是は八紘一宇とする肇国の大精神に基づく」と述べ、以後東亜新秩序の思想的根拠として広く唱えられた。
2 《神武紀の「八紘をおほひて宇(いへ)とせむ」から》全世界を一つの家にすること。第二次大戦期、日本が海外侵略を正当化する標語として用いた。
3 大東亜共栄圏建設の理念として用いられた言葉。第2次近衛文麿内閣が決定した基本国策要綱の中の〈八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神〉に由来。日本書紀の〈八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ〉を全世界を一軒の家のような状態にすると解釈したもの。日本の大陸進出正当化に利用された。
4 〔日本書紀「掩二八紘一而為レ宇」より〕 天下を一つの家のようにすること。第二次大戦中、大東亜共栄圏の建設を意味し、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた。
5 神武(じんむ)天皇が大和(やまと)橿原(かしはら)に都を定めたときの神勅に「六合(くにのうち)を兼ねてもって都を開き、八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為(せ)んこと、またよからずや」(日本書紀)とある。ここにあるのは「八紘為宇」という文字であるが、1940年(昭和15)8月、第二次近衛(このえ)内閣が基本国策要綱で大東亜新秩序の建設をうたった際、「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国(ちょうこく)の大精神に基」づくと述べた。これが「八紘一宇」という文字が公式に使われた最初である。爾来(じらい)、教学刷新評議会で「国体観念をあきらかにする教育」を論ずるなかなどで頻繁に使用された。国柱会(こくちゅうかい)の田中智学(ちがく)もしばしばこの文字を使った。すべて「大東亜共栄圏の建設、ひいては世界万国を日本天皇の御稜威(みいづ)の下に統合し、おのおのの国をしてそのところを得しめようとする理想」の表明であったとされるが、太平洋戦争における日本の敗戦によって、万事休した。[古川哲史]
6 (「宇」は家のこと) 地の果てまでを一つの家のように統一して支配すること。「日本書紀‐神武即位前己未年三月」の「兼二六合一以開レ都、掩二八紘一而為レ宇」に基づくもので、元来は国の内を一つにする意であったが、太平洋戦争期、海外進出の口実ともなった。※日本国体の研究(1922)〈田中智学〉二「神武天皇の世界統一は『八紘(クヮウ)一宇(ウ)』といふことと『六合一都』といふことで言ひ現はされた、但に天皇の宣言中にある命題だ」。
7 …皇国史観…日本国民は臣民として、古来より忠孝の美徳をもって天皇に仕え、国運の発展に努めてきた、とする主張。こうした国柄(〈国体〉)の精華は、日本だけにとどめておくのではなく、全世界にあまねく及ぼされなければならない(〈八紘一宇〉)、という主張である。こうした歴史観は、《古事記》や《日本書紀》、あるいは《神皇正統記》や《大日本史》等にその淵源を求めるものであるが、そもそも、明治維新以降の日本における近代史学の形成は、こうした大義名分論的な歴史観からの独立、それとの対決を通じてなされていった。… 
八紘一宇 概説2
八紘為宇(はっこういう)とは「天の下では民族などに関係なく全ての人は平等である」という思想を背景の下に、天下・全世界(地球)に存在する多くの民族を「一つの家=地球」の「家族=民族」のように見立てようとする考え方を言葉で表した標語である。『日本書紀』の「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」を、全世界を一つの家のようにすると解釈したもの。
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』、『大辞泉』、『大辞林』は、「八紘一宇」とは第二次世界大戦中、日本の中国・東南アジアへの侵略を正当化するスローガンとして用いられたと記す。一方でこの語については侵略思想を示すものではなく人道の普遍的思想を示すものにすぎないとの論、「『平和のためにつくった』ことにすることで、日本が350年もの間東南アジアやアフリカをら白人の植民地から解放を目的とした。事実大東亜戦争終了後、東南アジア諸国が次々と独立国家となった。二度と白人からの植民地化を防ぐ為にバンドン会議が発足した。、反知性主義的な言葉だという論もある。『日本書紀』には、大和橿原に都を定めた時の神武天皇の詔勅に「兼六合以開都,掩八紘而為宇」(六合〈くにのうち〉を兼ねてもって都を開き、八紘〈あめのした〉をおおいて宇〈いえ〉となす)との記述があり、これをもとに田中智学が日本的な世界統一の原理として1903年(明治36年)に造語したとされる。
このように、日本書紀の記述は「八紘為宇(掩八紘而為宇)」であるが、1940年(昭和15年)8月に、第二次近衛内閣が基本国策要綱で大東亜新秩序を掲げた際、「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国(ちょうこく。建国)の大精神に基」づくと述べ、これが「八紘一宇」の文字が公式に使われた最初となった。近衛政権が「八紘一宇」という語を述べた西暦1940年は皇紀(神武紀元)2600年に当たり、「八紘一宇」は1940年の流行語になり、政治スローガンにもなった。1940年の近衛政権以来、教学刷新評議会の「国体観念をあきらかにする教育」を論ずる中などで頻繁に使用され、大東亜共栄圏の建設、延いては世界万国を日本天皇の御稜威(みいづ)の下に統合し、おのおのの国をしてそのところを得しめようとする理想を表明するものとして引用使用された。
日本書紀における出典
この言葉が日本でよく知られるようになったのは『日本書紀』巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」(いわゆる橿原奠都の詔)である。
「上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」 (上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや。)  — 日本書紀巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」
この意味について、記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀っている橿原神宮は以下のように説明をしている。
「神武天皇の「八紘一宇」の御勅令の真の意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和の理想を掲げたものなのです。昭和天皇が歌に「天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」とお詠みになっていますが、この御心も「八紘一宇」の精神であります。」
用語の整理
「八紘為宇」及び「八紘一宇」の混同
日本書紀の元々の記述によれば「八紘為宇」である。「八紘一宇」というのはその後、戦前の大正期に日蓮主義者の田中智學が国体研究に際して使用し、縮約した語である。ただし現代では、「為宇」の文字が難解であるため、「八紘一宇」の表記が一般的となっており、神武天皇の神勅について言及する際にも「一宇」が用いられる例がしばしば存在する。 また「八紘」という表現は古代中国でしばしば用いられた慣用句を元としている。
古代中国で用いられた慣用句の影響
この言葉が日本でよく知られるようになったのは上記に参照した『日本書紀』巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」(いわゆる橿原奠都の詔)からの引用である。ここで「八紘」とは、
「九州外有八澤、方千里。八澤之外、有八紘、亦方千里、蓋八索也。一六合而光宅者、並有天下而一家也。 — 『淮南子』墬形訓」
「……湯又問:『物有巨細乎?有修短乎?有同異乎?』革曰:『渤海之東不知幾億萬里、有大壑焉、實惟無底之谷、其下無底、名曰歸墟。八紘九野之水、天漢之流、莫不注之、而無摶ウ減焉。』……」 — 『列子』湯問
に見ることができる。すなわち「8つの方位」「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する語として解釈されている。また、「一宇」は「一つ」の「家の屋根」を意味している。このような表現は中国の正史『後漢書』・『晋書』にもあり、例えば晋書では晋の武帝、司馬炎が三国志でも有名な呉・蜀を滅ぼし中国全土を統一したことを「八紘同軌」といっている。
津田左右吉の説によれば、日本書紀は「文選に見えている王延寿の魯霊光殿賦のうちの辞句をとってそれを少し言い変えたもの」といい、元来は「(大和地方は服属したが、さしあたって橿原に皇居を設けることにするが、大和以外の地方はまだ平定してないゆえ)日本の全土を統一してから後に、あらためて壮麗な都を開き、宮殿を作ろう」という意味だという。
それ以後「八紘」の語は世界と同義語として若干使われた形跡がある。たとえば箕作阮甫が1851年(嘉永4年)に著した『八紘通誌』は、世界地理の解説書である。しかし大正期までこの言葉は文人が時々用いる雅語どまりで、それほど用例が豊富ではなかった。
田中智學による国体研究
大正期に日蓮宗から在家宗教団体国柱会を興した日蓮主義者・田中智學が「下則弘皇孫養正之心。然後」(正を養うの心を弘め、然る後)という神武天皇の宣言に着眼して「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であると解釈、その結果「掩八紘而為宇」から「八紘一宇」を道徳価値の表現として造語したとされる。これについては1913年(大正2年)3月11日に発行された同団体の機関紙・国柱新聞「神武天皇の建国」で言及している。田中は1922年(大正11年)出版の『日本国体の研究』に、「人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である。」と述べている。もっとも、田中の国体観は日蓮主義に根ざしたものであり、「日蓮上人によって、日本国体の因縁来歴も内容も始末も、すっかり解った」と述べている。
八紘一宇の提唱者の田中は、その当時から戦争を批判し死刑廃止も訴えており、軍部が宣伝した八紘一宇というプロパガンダに田中自身の思想的文脈が継承されているわけではない。田中は1923年(大正12年)11月3日、社会運動組織として立憲養正會を創設。「養正」の語も神武天皇即位前紀から取られている。立憲養正會は1929年(昭和4年)智學の次男、田中澤二が総裁となると、政治団体色を強め、衆議院ほか各種選挙に候補を擁立(田中澤二本人も選挙に立候補しているが、落選)。衆議院の多数を制し、天皇の大命を拝し、合法的に「国体主義の政治を興立」することを目標とした。その後同会は一定の政治勢力となり、田中耕が衆議院議員を2期(1期目は繰り上げ当選)務めたほか、地方議会や農会には最盛期で100人を超す議員が所属した。しかし新体制運動や大政翼賛会を批判していたためかえって弾圧の対象となり、1942年(昭和17年)3月17日には結社不許可処分を受け、解散に追い込まれた。日蓮主義を政治に実現しようとすることは、軍部などが言う国体を無視する思想であると見なされたためである。同年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では現職の田中耕ほか元会員37名が無所属で立候補したものの全員が落選している。第二次大戦後同会より衆議院議員に当選した齋藤晃は当時「護国の政治運動を展開していたが、大政翼賛会や憲兵から弾圧を受けた」という。戦後、田中澤二は公職追放となったものの同会組織は復活し、再び衆議院に議席を獲得。日本国憲法施行後も同会公認の浦口鉄男が衆議院議員に当選。浦口は他の小政党所属議員とともに院内会派を結成し、政権野党として活動した。
第一次大戦後〜第二次大戦中の用例の概要と評価
二・二六事件における言及
1936年(昭和11年)に発生した二・二六事件では、反乱部隊が認(したた)めた「蹶起趣意書」に、「謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり」とある。この事件に参加した皇道派は粛清されたが、日露戦争以降の興亜論から発展したアジア・モンロー主義を推し進める当時の日本政府の政策標語として頻繁に使用されるようになった。
「八紘一宇」という表現を内閣として初めて使ったのは第一次近衛内閣であり、1937年(昭和12年)11月10日に内閣・内務省・文部省が国民精神総動員資料第4輯として発行した文部省作成パンフレット「八紘一宇の精神」であるとされる。1940年(昭和15年)には、第2次近衛内閣による基本国策要綱(閣議決定文書、7月26日)で、「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」と表現し、大東亜共栄圏の建設と併せて言及された。同年9月27日には、日独伊三国同盟条約の締結を受けて下された詔書にて「大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ」と言及されるに至った。
第二次大戦中のスローガン
現在、日本の代表的な国語辞典では、八紘一宇は「第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」、と説明している。
第二次世界大戦での日本の降伏後、連合国軍最高司令官総司令部によるいわゆる神道指令により国家神道・軍国主義・過激な国家主義を連想させるとして、公文書における八紘一宇の語の使用が禁止された。
清水芳太郎による研究
昭和初期に活躍したジャーナリストである清水芳太郎は、世界大恐慌の中、主要国がこぞってブロック経済の構築を進めていた国際情勢に対抗するために、八紘一宇の理念を提唱すべきであると主張した。清水はブロック経済の中で大国が行っていることは弱者に対する搾取であると批判した。そして日本は八紘一宇の精神を想起し、弱肉強食を前提とした搾取の構造に加わることなく、むしろ敵を拝んで仲間とし、平和を達成すべきであるとした。
「更に八紘一宇といふ事は、世界が一家族の如く睦み合ふことである。これは國際秩序の根本原則を御示しになつたものであらうか。現在までの國際秩序は弱肉強食である。強い國が弱い國を搾取するのである。所が、一宇即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一案強い者が弱い者のために働いてやる制度が家だ。世界中で一番強い國が弱い國、弱い民族達のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる。日本は一番強くなつて、そして天地の萬物を生じた心に合一し、弱い民族達のために働いてやらねばならぬぞと仰せられたのであらう。何といふ雄渾なことであらう。日本の國民は振ひ起たねばならぬではないか。強國はびこつて弱い民族をしいたげている。 — 『建國』(1938年)、58頁」
戦中における対ユダヤ人政策との関連
一方で、八紘一宇の考えが欧州での迫害から満州や日本に逃れてきたユダヤ人やポーランド人を救済する人道活動につながったとの評価がある。
当時の日本はナチス・ドイツをはじめとする同盟国の政策を取り入れず、独自のユダヤ人保護政策をとった。当時制定された「現下に於ける対猶太民族施策要領」及び「猶太人対策要綱」では、ユダヤ人についてあくまで受動的な立場をとること、そしてドイツをはじめとする欧州諸国には八紘一宇の精神等に立脚する理由を理解させる旨が記載されている。
「猶太民族に対しては現下時局の推移に伴い、台頭しつつある在極東猶太民族の日満依存傾向を利導して之を世界に散在する彼ら同族に及ぼし以て彼らにして功利的術数を抛ち、真に正義公道を基として日満両国に依存するにおいては之を八紘一宇の我大精神に抱擁統合するを理想とす。然れどもこれが実施に方りては、世界情勢の推移、満州国内の状況、猶太民族の特性に鑑み、序を追って特に慎重を期するを要す。之が為、現下の情勢に応じ取敢えず施策上着意すべき要綱を述ぶれば左記の如し。
一、対猶太人(ユダヤ人)対策の実施は、一般に尚暫く受動的態度をとると共に、日満両国政府の公的機関の表面進出を避け、専ら内面工作に依り裏面隠微の間に序を追うて進む。
二、諸工作の実施に方りては、急激なる成果の獲得に焦慮するを戒むると共に、苟も敏感なる彼らをして我態度を迎合乃至便宜的利用主義と誤認せしめ、あるいは彼らをして恩に狎れて増長に至らしめざるを要す。特に現下、満州国の開発に際し外資導入に専念するの余り、猶太資本を迎合的に投下せしめるがごとき態度は厳に之を抑止す。
三、全満に於ける猶太人耕作は関東軍司令部において統制各実施期間は相互連携を密にし支離の態度に陥るなからしむ。
四、ドイツその他列国に対しては、我民族協和、八紘一宇の精神並びに防共の大義に遵由するを諒解せしめ誤解なからしむ。
— 『現下に於ける対猶太民族施策要領 昭和十三年一月二十一日関東軍司令部』(編集により現代仮名遣いとした)」
新しい歴史教科書をつくる会元理事の上杉千年は、「八紘一宇の精神があるから軍も外務省もユダヤ人を助けた」とする見解を示している。
第二次大戦後の用例の概要と評価
GHQによる使用禁止
戦後、1945年(昭和20年)12月22日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からいわゆる「神道指令」が発令された。同指令は、日本国民を解放するため、戦争犯罪、敗北、苦悩、困窮及び現在の悲惨な状態を招いた「イデオロギー」を即刻廃止するべきとし、「八紘一宇」の用語は国家神道、軍国主義、過激な国家主義と切り離すことができない言葉として「大東亜戦争」などとともに公文書での使用を禁じられた。
「(ヌ)公文書ニ於テ「大東亜戦争」、「八紘一宇」ナル用語乃至ソノ他ノ用語ニシテ日本語トシテソノ意味ノ連想ガ国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切り離シ得ザルモノハ之ヲ使用スルコトヲ禁止スル、而シテカカル用語ノ却刻停止ヲ命令スル — 国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件(昭和二十年十二月十五日終戦連絡中央事務局経由日本政府ニ対スル覚書)」
また「八紘一宇」をはじめとする「国家主義的イデオロギー」と結びついた用語を教育内容から除外することがGHQにより命令された。
「一 日本新内閣ニ対シ教育ニ関スル占領ノ目的及政策ヲ充分ニ理解セシムル連合国軍最高司令部ハ茲ニ左ノ指令ヲ発スル
A 教育内容ハ左ノ政策ニ基キ批判的ニ検討、改訂、管理セラルベキコト
(1)軍国主義的及び極端ナル国家主義的イデオロギーノ普及ヲ禁止スルコト、軍事教育ノ学科及ビ教練ハ凡テ廃止スルコト
(2)議会政治、国際平和、個人ノ権威ノ思想及集会、言論、信教ノ自由ノ如キ基本的人権ノ思想ニ合致スル諸概念ノ教授及実践の確立ヲ奨励スルコト」
— 日本教育制度ニ対スル管理政策(昭和二十年十月二十二日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)」
極東国際軍事裁判における評価
1946年(昭和21年)より開廷された極東国際軍事裁判において、検察側意見では「八紘一宇の伝統的文意は道徳であるが、…一九三〇年に先立つ十年の間…これに続く幾年もの間、軍事侵略の諸手段は、八紘一宇と皇道の名のもとに、くりかえしくりかえし唱道され、これら二つの理念は、遂には武力による世界支配の象徴となった」としたが、東条英機の弁護人・清瀬一郎は『秘録・東京裁判』のなかで「八紘一宇は日本の固有の道徳であり、侵略思想ではない」との被告弁護側主張が判決で認定されたとしている。
「日本帝国の建国の時期は、西暦紀元前六百六十年であるといわれている。日本の歴史家は、初代の天皇である神武天皇によるといわれる詔勅が、その時に発布されたといっている。この文書の中に、時のたつにつれて多くの神秘的な思想と解釈がつけ加えられたところの、二つの古典的な成句が現れている。第一のものは、一人の統治者のもとに世界の隅々までも結合するということ、または世界を一つの家族とするということを意味した「八紘一宇」である。これが帝国建国の理想と称せられたものであった。その伝統的な文意は、究極的には全世界に普及する運命をもった人道の普遍的な原理以上の何ものでもなかった。 — 東京裁判判決書13-19段」
戦後の用例・評価
1957年(昭和32年)9月、文部大臣松永東は衆議院文教委員会で、「戦前は八紘一宇ということで、日本さえよければよい、よその国はどうなってもよい、よその国はつぶれた方がよいというくらいな考え方から出発しておったようであります。」と発言した。1983年(昭和58年)1月衆議院本会議では、総理大臣中曽根康弘も「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった。」と説明した。
政治評論家の佐高信は、政治家の加藤紘一について「加藤紘一の紘一は八紘一宇から取ったんですよ」と発言したことがある。
八紘一宇の塔
宮崎県宮崎市の中心部北西の高台、宮崎県立平和台公園(戦前は「八紘台」と呼ばれていた)にある塔。かつての正式名称は「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」。設計は、彫刻家の日名子実三。現在は「平和の塔」と称されている。
神武天皇が大和に東征するまでの皇居と伝えられる皇宮屋(こぐや)の北の丘に1940年(昭和15年)、紀元二千六百年記念行事の一つとして建造された。
この塔の建立に当たっては日本全国からの国民の募金・醵出金がその費用の一部に充てられた。また、日系人が多く住む中南米やハワイ、同盟国であったナチス・ドイツの企業DEST、イタリア王国からの寄付もあった。さらに日本軍の各部隊が戦地から持ち帰った様々な石材が使用された。
高さ37 m、塔の四隅には和御魂(にぎみたま)・幸御魂(さちみたま)・奇御魂(くしみたま)・荒御魂(あらみたま)の四つの信楽焼の像、正面中央に秩父宮雍仁親王の書による「八紘一宇」の文字が刻まれている。内部には神武東征などを記した絵画があるが非公開。第二次世界大戦敗戦後に「八紘一宇」の文字と荒御魂像(武人を象徴)は一旦削られたが、後に再興された。この復元運動の中心となったのは、県の観光協会会長を務めていた岩切章太郎(宮崎交通社長)だった。
1964年(昭和39年)の東京オリンピックの際は、聖火リレー宮崎ルートのスタート地点にもなった。1979年(昭和54年)の昭和天皇宮崎訪問では、この塔の前での歓迎祝典が予定されていたが、天皇は固辞している。
「八紘一宇」の用例 / 戦前
田中智學「日本国体の研究」(1922年(大正11年)初版)における『宣言 =日本国体の研究を発表するに就いて=』(初出:国柱会日刊紙『天業民報』、1920年(大正9年)11月3日)
天祖は之を授けて「天壌無窮」と訣し、国祖は之を伝へて「八紘一宇」と宣す、偉なる哉神謨、斯の文一たび地上に印してより、悠々二千六百載、廼(スナハチ)君臣の形を以て、道の流行を彰施す、篤く情理を経緯し、具に道義を体現して、的々として人文の高標となれるものは、日本君民の儀表是也、乃神乃聖の天業、万世一系億兆一心の顕蹟、其の功宏遠、其の徳深厚、流れて文華の沢となり、凝りて忠孝の性となる、体に従へば君民一体にして平等、用に従へば秩序截然として厳整、這の秩序の妙を以て、這の平等の真に契投す、其の文化は静にして輝あり、是の故に日本には階級あれども闘争なし、人或は階級を以て闘争の因と為す、然れども闘争は食に在て階級に関らず、日本が夙く世界に誨へたる階級は、平等の真価を保障し、人類を粛清せんが為に、武装せる真理の表式なり、吁、真の平等は正しき階級に存す、人生資治の妙、蓋斯に究る。
陸軍教育総監部「精神教育の参考(続其一)」(1928年(昭和3年))
積、重、養と云ふは総合的広大持続を意味する生成発展の思想である、静的状態より動的状態への展開である。今や天業恢弘の気運に向へり、養正を主とし積慶、重暉を加へ以て八紘を掩ふて一宇と爲さむとし給へるもの即建国精神の第三なり。
陸軍省出版班「躍進日本と列強の重圧」(1934年(昭和9年)7月28日)
五、結言──危機突破対 / 策二、日本精神の宣布
列強の対日反感は、一面皇国の驚異的飛躍に基くと共に、皇国の真意に対する認識の欠如による事も大である。皇国は肇国の始めより、厳として存する大理想たる、八紘一宇の精神により、排他的利己主義を排し、四海同胞、一家族的和親の実現によって、世界人類の発展と、恒久平和とを招来せんことを庶幾しつつあるものである。彼のチモシイ・オコンロイの「皇道なる名称は、世界支配の大野心をカムフラージュせんが為め与えたるものである」と謂う如きは、全く我が真意を認識せざるもので、斯る蒙を啓く為め、日本精神を世界に向って宣布することが喫緊である。
関東軍参謀部第二課「関東軍軍歌」(1936年3月10日)
5番 旭日の下見よ瑞気 八紘一宇共栄の 大道ここに拓かれて 燦々たりや大陵威 皇軍の華関東軍
国際反共連盟「国際反共連盟設立趣意書」
帝国現前の諸政は、一切の活動力を共産主義絶滅の一事に集中せざるべからず。若し夫れ此の大斾を掲げて滅共産の下に内外を振粛し来たらんか、義を愛し、正を好むの日本国民にして、誰が砂上に偶語する者あらんや。如是にして内に既に基礎を置くこと堅固ならんか、大小の国家又我大義のあるところを涼となし、喜んで防共の目的を一にせんとするに至るや疑ふべからず。是れ真にまつろはぬものを伐ち平げて八紘一宇の大理想を顕揚するものと謂ふべき也。
内閣情報部「愛国行進曲」(1937年12月)
2番 起て一系の大君を 光と永久に頂きて 臣民我等皆共に 御稜威に副はむ大使命 往け八紘を宇となし 四海の人を導きて 正しき平和打ち立てむ 理想は花と咲き薫る
基本国策要綱(1940年(昭和15年)7月26日)第2次近衛内閣によって閣議決定された政策方針
「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」
日独伊三国軍事同盟締結における詔書(1940年(昭和15年)9月27日)
「大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ・・・惟フニ万邦ヲシテ各〻其ノ所ヲ得シメ兆民ヲシテ悉ク其ノ堵ニ安ンゼシムルハ曠古ノ大業ニシテ前途甚ダ遼遠ナリ爾臣民益〻国体ノ観念ヲ明徴ニシ深ク謀リ遠ク慮リ協心戮力非常ノ時局ヲ克服シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼セヨ」
東条英機「大詔を拝し奉りて」(1941年12月8日のラジオ演説)
「八紘を宇と為す皇謨の下に、此の尽忠報国の大精神ある限り、英米と雖も何等惧るるに足らないのであります」
『我言霊』(控訴審公判調書第7回 1941年(昭和16年)1月23日)
我国ニ於テハ第一豊葦原ノ千五百秋ノ瑞穂ノ国ハコレ吾子孫の王タルベキ地ナリ云々ト云フ天祖ノ御神勅、第二、神武天皇ノ八紘一宇ノ御勅語、第三、和気清麿ノ奏上シタ我国ハ開闢以来君臣ノ分定マレリ、云々ノ御神示、之ヲ我国ノ三大言霊ト云フノデアリマス
石原莞爾(軍事思想家)『最終戦争論・戦争史大観』
「昭和十三年十二月二六日の第七十四回帝国議会開院式の勅語には「東亜ノ新秩序ヲ建設シテ」と仰せられた。更にわれらは数十年後に近迫し来たった最終戦争が、世界の維新即ち八紘一宇への関門突破であると信ずる。」「日本主義が勃興し、日本の国体の神聖が強調される今日、未だに真に八紘一宇の大理想を信仰し得ないものが少なくないのは誠に痛嘆に堪えない。」
鈴木安蔵(マルクス主義憲法学者)『政治・文化の新理念』p. 44, 119 利根書房
今日占領しつつある諸地方に限らず、今後、全東亜は言うまでもなく、八紘為宇の大理想が今や単なる目標ではなくして、その実現の前夜にある…東亜共栄圏と言い、八紘為宇と言うのは、わが指導権の範囲が一億同胞にとどまらず、全東亜、いな全世界におよぼすべき目標と使命と有する… 中村哲「民族戦争と強力政治」『改造』p. 66 昭和17年2月号 八紘為宇の精神が世界史の現段階において、いかに四隣に光被さるべきかの軌道を示し、東洋諸民族をして各々その所を得しむる偉大な国家的悲願の具体的発顕である
平野義太郎(マルクス主義法学者)『民族政治学理論』p. 259 日本評論社 1943年(昭和18年)9月
八紘一宇の東亜政治の理想をその内在的な理念とする戦争論が樹立されねばならない
中村、平野は「世界共産化」という意味で「八紘一宇(為宇)」を用いていると中川八洋は述べている。
蓑田胸喜(反共思想家)「学術維新」(1941年(昭和16年))
肇国の始めより『いつくしみ』『八紘為宇』の人道的精神を含蓄する日本精神は其世界文化史的使命に於いて、単に欧州的地方文化に制約された『民族主義だけの民族主義』を原理としてチェコ合併やポーランド分割の如きによって、直ちにその『一民族・一国家・一指導者』の国家原理に思想的破綻を来す如きナチス精神とは比倫を絶するものである。個人が人倫道徳に於いて超個人性を具現すべきが如く、民族国家も亦その思想精神に超民族性超国家性を含蓄啓示せねばならぬ。(p. 748)
四王天延孝(反ユ思想家)「ユダヤ思想及運動」(1941年)
次は八紘一宇の大理想を以て進むべき大日本帝国は宜しく清濁合せ呑むの慨を以てユダヤ人をも包容し、之を愛撫して皇化に浴せしむべきだ、基督教徒や回教徒と、ユダヤ人との在来の対立の如きは日本の徳により解消させ得べきである。日本自らがユダヤ人に対抗するが如きは自らを小さくするものであると云ふ風な議論であって、堂々たるものである。議論としては宜しいが、実際に於て日本の経済も、政治も、道徳も、思想も、教育も既に大部ユダヤ思想にむしばまれ穴があいてゐる。之を今修繕して何でも来いと云へる迄は暫くこの大風呂敷へ余り多くの物、殊にトゲのあるものや発火の虞ある品物など詰め込まない方が宜しい。前章に述べたベロックの対策にある異物除去を吸収や同化で行ふと云ふのであるが胃腸が不健全の場合には六ヶ敷い、ことによると胃潰瘍の素地がもう出来てゐるかも知れない。尚八紘一宇の大理想と云ふても、善も悪も皆共に抱擁すると云ふのではなく、荒振るものがあれば之を掃ってしまふことも八紘一宇の大理想に近く方法である。この頃八紘一宇と云ふ言葉が少し使ひ過ぎられる傾きがある。(p. 356-357)
松本誠「第四回全鮮金融組合理事協議会開会の辭」 ─ 朝鮮金融組合連合会『第八回金融組合年鑑』(1941年(昭和16年))より
諸君以上は我が金融組合が現下並に今後邁進すべき使命と目標に付てその大要に触れたのでありますが之を要するに今や世界史的一大転換期に当りまして我が肇国の大精神たる八紘一宇の大理想を顯現いたしますが為には国民生活の領域に立って之が指導を担当するわが金融組合の如きは最も真剣に其の指導理念の把握をなすの要ありとするのがその第一であります。就中半島刻下の要求たる皇国精神の徹底に協力して内鮮一体の理想達成を期すると云ふ事はその第二であります。
宮城長五郎(裁判官、検察官、政治家)「法律善と法律悪」(1941年)
我が日本は八紘一宇の肇国精神を具現実行すべく、敢然として立ち上って居るのでありますが、各国は皆夫々目指す処を異にして居るのであります。即ちドイツ、イタリア両国が人的全体主義国家であり、ロシアが共産的全体主義国家の建設を目賭してゐるのであるが、我が皇国は外国の国家建設を模倣する事なく、日本は日本独自の立場に立って、「八紘一宇」の精神を如何に具現すべきかを考へねばならぬのであります。
宮本武之輔(技術者、企画院次長)「大陸建設の課題」内「興亜日本の技術者に望む」(1941年12月。初出:1940年1月)
東亜の共同防衛、帝国主義的支配機構の廃絶、アジア的共同体制の樹立と新東方文化の昂揚を以て、その根本性格とする東亜新秩序建設は、東亜両民族の醇化統一による福利増進と共栄確保とを目的とする。従って東亜新秩序と東亜国防国家とは一にして二ならず、征服精神、侵略精神を含まず、八紘一宇の世界観に立脚して『しらす』ことを以て本質とする、わが国体の大義を恢弘することを指導原理とする。東亜国防国家は実に日満支善隣連環の東亜新秩序の上に構成せられなければならない。この故に東亜新秩序を目標とする経済ブロック建設と文化建設とは、アジア的共同体制における自給自足経済の確立と、東洋古来の精神文化と西洋近代の物質文化とを融合した東亜の新文化の創造を目標としなければならない。それが東亜国防国家の緊急の要請だからである。
市丸利之助(軍人)「ルーズベルトニ与フル書」(1945年)
畏クモ日本天皇ハ、皇祖皇宗建国ノ大詔ニ明ナル如ク、養正(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)ヲ三綱トスル、八紘一宇ノ文字ニヨリ表現セラルル皇謨ニ基キ、地球上ノアラユル人類ハ其ノ分ニ従ヒ、其ノ郷土ニ於テ、ソノ生ヲ享有セシメ、以テ恒久的世界平和ノ確立ヲ唯一念願トセラルルニ外ナラズ。之、曾テハ「四方の海 皆はらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」ナル明治天皇ノ御製(日露戦争中御製)ハ、貴下ノ叔父「テオドル・ルーズベルト」閣下ノ感嘆ヲ惹キタル所ニシテ、貴下モ亦、熟知ノ事実ナルベシ。
諸外国による用例
アメリカは自国民に対し、映画で以て八紘一宇を以下のようにプロパガンダしようとしたが、公開前に終戦し戦争中に公開されることは無かった。
アメリカ合衆国旧陸軍省依頼「Know Your Enemy: Japan」
It is called as "Hakkō Ichiu". It became national ambition of Japan.[...]"Hakkō Ichiu" is coming true. Japs couldn't seem to make mistakes. [...]In 1927, one of them, baron Gīchi Tanaka made out a secret modern blueprint to archive this mad gree and handled it to the emperor. It is called a Tanaka Memorial, Japan's Mein Kampf.
「八紘一宇」の用例 / 戦後
坂口安吾『安吾巷談-野坂中尉と中西伍長-』 1950年(昭和25年)文藝春秋第3号
「私は日本映画社というところの嘱託をしていたが、そこの人たちは、軍人よりも好戦的で、八紘一宇的だとしか思われなかった。ところが、敗戦と同時に、サッと共産党的に塗り変ったハシリの一つがこの会社だから、笑わせるのである。今日出海を殴った新聞記者も、案外、今ごろは共産党かも知れないが、それはそれでいいだろうと私は思う。我々庶民が時流に動くのは自然で、いつまでも八紘一宇の方がどうかしている。八紘一宇というバカげた神話にくらべれば、マルクス・レーニン主義がズッと理にかなっているのは当然で、こういう素朴な転向の素地も軍部がつくっておいたようなものだ。シベリヤで、八紘一宇のバカ話から、マルクス・レーニン主義へすり替った彼らは、むしろ素直だと云っていゝだろう。」
宮本百合子『平和への荷役』 1948年(昭和23年)婦人公論7月号
「一億一心」「滅私奉公」「八紘一宇」のスローガンを、かりにも批判し分析する者は非国民とされ国賊とされ、赤とされた。そして、治安維持法と戦時特別取締法により取締りの対象となった。
橿原神宮(神武天皇を祭神とする神社)『御神徳 - 世界平和』
「神武天皇の「八紘一宇」の御勅令の真の意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和の理想を掲げたものなのです。昭和天皇が歌に「天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」とお詠みになっていますが、この御心も「八紘一宇」の精神であります。」  
 
 
 

 

●国家神道と八紘一宇 
『日本書紀』における「八紘一宇」
「八紘一宇(はっこういちう)」の典拠とされる『日本書紀』によると、現在の宮崎県あたりにいた彦火火出見(ひこほほでみ、後の神武〔じんむ〕天皇、当時45歳)が、「東の方によい土地がある。それがきっとこの国の中心だろう」と言って、東方遠征に乗り出した。それから6年め、東方遠征の困難な事業をひととおり済ました彦火火出見は言った。
「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや。」  (りくごうをかねてみやこをひらき、はっこうをおおいていえにせんこと、またよからずや)
現代語に翻訳すると、 「国中を一つにして都を開き、天の下を掩いて一つの家にすることは、また良いことではないか。」 
その翌々年、彦火火出見は現在の奈良県橿原(かしわら)市で即位した。これが万世一系の皇統の初代に位置する神武天皇であり、この年が皇紀(こうき)元年である。大日本帝国は皇紀元年は西暦紀元前660年に当たると算定した。そして、1940(昭和15)年には、「紀元二千六百年」の祝賀式典が全国で挙行され、全国民が祝った。
彦火火出見(神武天皇)がひとつの家のように統合しようと宣言した「八紘(はっこう)」は、意味上は地上世界のかなり広い範囲を意味するが、せいぜい日本列島の一部地域に限られる。いっぽう、1940(昭和15)年の閣議決定「基本国策要綱」における「八紘」は、意味上は地上世界のかなり広い範囲を意味するが、地球上の全人類世界を想定しているわけではない。直後に「世界平和」とあり、その「世界」は地球上の全人類世界を指すのだろうが、その「世界」についてはせいぜい「平和」な状態にしようという程度である。まさかそれを「一宇」として今上天皇(昭和天皇)のもとに統一してしまおうと想定しているわけではない。範囲を明確化するとしたら、「八紘」は、「大東亜」すなわち東アジア・東南アジア地域を指すのだろう。
このように、神武天皇時代の皇紀紀元前2年(西暦紀元前662年)と、昭和天皇時代の皇紀2600年(西暦1940年、昭和15年)とでは、「八紘」という語が想定する空間的限界に関して、大きな不一致がある。ひとつの「家」にすると言っているその「家」の規模からして全く違うのだ。当然、「八紘」の中身、さらに「八紘一宇」の意味するところは同一ではありえず、大きく異ならざるをえない。大日本帝国は、皇紀紀元前2年の時点で神武天皇が「八紘をひとつの家のように統一しよう!」と言ったその言葉を、皇紀2600年になって何かのスローガンに使おうというのだが、中身が違いすぎる。四字熟語「八紘一宇」の意味するものは、皇紀紀元前2年と皇紀2600年とではまったくことなる。したがって、「八紘一宇」というスローガンそれ自体に、ひとつの明確な理念が表現されているとは到底言えない。
「八紘一宇」の内実
「日本会議」の上杉千年(ちとし)は「八紘一宇」の意味を次のように説明する。
(1)「一人の統治者のもとに世界の隅々までも統合するということ」を意味する。
(2)「世界をひとつの家族とするということを意味」する。
(3)「八紘一宇」を翻訳すると「世界同胞主義ユニバーサル・ブラザフッド」である。
このうち、(2)「世界をひとつの家族とするということ」は、まさに字義通りであるが、説明としては十分ではない。「家族」といってもそれがどういう家族を意味するのか明らかでないからだ。家族の意味内容の差異に応じて、「一宇」の意味するものも当然異ならざるをえないだろう。このように「家族」の意味が曖昧なままでは、「八紘一宇」の具体的意味内容をとらえることはできない。
しかし、「世界」全部がひとつの「家族」になるというのであるから、そこに何らかの思想が前提されているといえる。どのような思想か? ヒンドゥー教や仏教には「世界」がひとつの「家族」だという発想はない。ユダヤ教・キリスト教・イスラムにも、そのような発想はない。プラトンにも、ホッブズにも、ヘーゲルにも、そのような発想はない。「世界」全部がひとつの「家族」になるという発想は、儒教思想のものだろう。しかし、1940(昭和15)年当時の大日本帝国におけるこのような発想は、もちろん中国における儒教それ自体ではなく、国家神道と結びついた日本独特の儒教的道徳である。その意味では、「八紘一宇」は特定の思想体系を前提にしており、その思想を指し示していると言ってよい。
「ひとつの家族」といっても、もちろん現代社会における勤労者の家族のようなものを指し示しているわけではない。「一人の統治者のもとに世界の隅々までも統合するということ」(上杉の説明(1))というように、この「家族」には「家長」が支配者として君臨している。法社会学者の川島武宜(1909-92)は、大日本帝国における儒教的忠孝の教説の特徴を、つぎのように説明している。
「親の『身分』が尊貴なものであり(身分の隔絶)、したがって子は親に対し、最大の敬意(恭順)を払い、また親の命令に絶対服従すべき義務をおう、という教説。」
「親子の関係を天皇と国民との関係に類推して天皇の『親心』を強調すること。」
「天皇と人民との関係を本家分家の同族集団の関係だとする擬制をとおして、『国民の宗家』たる天皇への忠誠義務を強調する論理。」
この「家族」には、「一人の統治者のもとに」「隅々までも統合」されている「世界」の姿があらかじめ組み込まれているのであり、だからこそ、その形姿を「世界」に投影し、「一人の統治者のもとに世界の隅々までも統合」された、「家族」のような「世界」をイメージすることができるのである。しかし、「一人の統治者のもとに」「統合」されている「家族」のような「世界」を、四字熟語「八紘一宇」が、単独で一義的に意味するわけではない。四字熟語「八紘一宇」それ自体は、思想そのもの、あるいは思想の要約などではなく、特定の思想を指し示すタグ(tag、つけ札)のようなものである。「世界同胞主義ユニバーサル・ブラザフッド」(上杉の説明(3))は、「八紘一宇」の説明とみなすことはできない。「同胞」には「一人の統治者のもとに」「統合」された状態という意味はない。「八紘一宇」の訳としてはとんでもない誤訳であり、大日本帝国の行為を免罪するために戦後になってから考えだした見え透いたすり替えにすぎない。
「日本会議」は、「八紘一宇」は侵略のスローガンではなく、人種差別廃止の崇高な理念だと強弁する。国粋主義者の主張は威勢が良く、人を驚かせるような内容だが、その立証がきわめて弱体である。肝心のところで決め手に欠け、論旨が支離滅裂になる。議論をたどっていっても、なるほどそうだと思わせる説得力がない。結局、どうがんばってみても、「八紘一宇」という四字熟語からひとつの思想体系を読み取るのは無理である。
「八紘一宇」は、「昭和」だとか、「平成」だとかと同様に漢籍を典拠とする造語である。たしかに漢字はたんに音を表すだけではなく意味をも表す。漢字一文字だけでも何らかの意味は表わすから、それが2つなり4つなり結合すれば、それ相応の意味を指し示しもする。しかし、四字熟語ひとつに、ひとまとまりの精神的諸原理を内包させるのは不可能だろう。2バイト文字わずか4個から思想体系を抽出しようとしたり、読解したりしようとしても、いかんせん情報量が少なすぎるのだ。あらかじめなんらかの思想を含有させておいて、しかるのちにそこから都合良く何らかの「思想」を読解してみせる「日本会議」の論理は、我田引水、牽強付会にすぎない。
大東亜の「新秩序」
「八紘一宇」が大日本帝国の国是として初めて登場した1940(昭和15)年7月26日の閣議決定「基本国策要綱」について、ひきつづき検討しよう。
「先づ皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する。」
「日満支」の「満」とは、中国東北部に大日本帝国が樹立した「満州国」である。形の上では独立国だが実質的には大日本帝国の植民地である。「支」は、大日本帝国により首都南京(なんきん)を占領され重慶に移った中華民国政府ではなく、汪兆銘(おう・ちょうめい)の「南京国民政府」を指す。大日本帝国は中国全土の征服をめざして軍事行動を開始したが、宣戦布告もしていないため、それを「戦争」と呼ぶことすらできず、当初は「北支事変」(1937〔昭和12〕年7月11日)、ついで「支那事変」(同9月2日)と呼んだ。
さらに「国民政府を対手とせず」と宣言し(1938〔昭和13〕年1月16日)、相手国政府とのいかなる交渉もできない状態をみずから作った。実質的な政府といえない汪兆銘の「国民政府」を中国国家とみなし、重慶政府を「対手(あいて)」としないと宣言してしまった以上、いくら戦闘を続けたところで休戦交渉をおこなうことすらできない。これでは休戦も、したがって戦争の終結もありえない。当然「泥沼」へと進むことになる。「日満支の強固なる結合」とは、「世界同胞主義」ではなく、大日本帝国による中国支配を、ただし到底達成できない中国支配の完成を表現している。これを「根幹」とする「大東亜の新秩序」を建設するという。「大東亜」は字義上は東アジアだが、実際にはそれを大きく上回る地域を指すことになる。「仏印(ふついん)進駐」(北部:1940〔昭和15〕年9月。南部:1941〔昭和16〕年7月)により占領したフランス領インドシナ植民地、太平洋戦争に際して占領した東南アジア全域、西太平洋地域、そしてそれらの隣接地域が「大東亜」の範囲となった。
大日本帝国は、アメリカ・イギリス・オランダ・フランスによる植民地体制の解消をめざした。その限りにおいて、大日本帝国は表面的には、欧米帝国主義諸国による植民地体制からのアジアの「解放」をめざしたことになる。しかし、自らを「核心」とする植民地支配体制へと「大東亜」全域を再編しようとしたのであり、けっして帝国主義による植民地支配を終わらせようとしたのではない。大日本帝国は、「白色人」による「黄色人」に対する差別にかえて、日本人によるアジア諸民族に対する差別を樹立しようとしたのである。
「八紘一宇」と『淮南子』
戦後数十年が経過した今、「八紘一宇」の一語にこだわることは、異様に思われる。しかし、国粋主義者にはそれ以外に方法がないのである。現実におこなわれたことではなく、四字熟語「八紘一宇」の無理な字義解釈や「世界同胞主義」などという誤訳へのすり替えによって、大日本帝国の政治的行動や軍事的行為を積極的に正当化しようとするにすぎない。窮余の一策というところなのだが、このような空疎な字義解釈に頼るのは、歴史修正主義者にとっては自殺行為である。
『日本書紀』巻第三における神武天皇の台詞の中の「六合(りくごう)」と「八紘」はオリジナルではない。その典拠は、『淮南子(えなんじ)』などの漢籍であるとされる。『淮南子』は、「宇宙」の生成と構造から、人類社会のありかたまで万般が話題となる道教思想の古典的文書である。「六合」や「八紘」は、宇宙の構造の説明において用いられる語である。「六合」とは、天地と東南西北、すなわち上下と四方のあわせて6方向に広がる空間を言う。地上世界の中心には、東西に3つ、南北に3つ配列される「九州」(3×3=9。それぞれ千里四方)がある。これが「中国」である。「九州」の外側、東西南北(四方)と、東南・南西・北西・北東の四隅、あわせて8方向にあるのが「八殥(はちいん)」(それぞれ千里四方)である。
「八殥」の外側の8方向にあるのが「八紘(はっこう)」(それぞれ千里四方)である。これで終わりではない。「八紘」の外側にあるのが「八極」(8方向にある極地)である。「八紘」の「紘」とは、「維」すなわち天地を繋いでいる綱のことであり、天と地とはこの綱により、8箇所(4つの隅と東西南北4方向)でつながっている。「八紘」は、それ自体は「八殥」の外側の8箇所のことであるが、「八紘」とその内側の領域全体をも指す。通例は後者の意味で用いられる。
ところで、『淮南子』は、前漢時代の西暦紀元前2世紀に成立した。ところが、『日本書紀』巻第三で神武天皇が「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや。」と述べたのは、皇紀4年(西暦紀元前656年)だということになっている。神武天皇は西暦紀元前656年に、約500年後に編纂されるであろう文書から引用して、お言葉を述べたことになっている。時間的に前の者が、時間的に後の書物を読んでいたというのである。これは絶対にありえない話であり、『日本書紀』の記述内容の虚構性を物語っている。
神武天皇が紀元前656年に「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや。」と言ったという『日本書紀』の記述はフィクションである。したがって、西暦紀元前656年に神武天皇が「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや。」と発言したという『日本書紀』の記述を前提とする国粋主義者の様々の主張は、成り立たない。
「日本会議」の上杉千年は、本国からの禁止的訓令と日々膨れ上がるユダヤ人群衆との板挟みになって苦悩する杉原千畝が、四字熟語「八紘一宇」に依拠して解決策を見いだしたのだと主張する。これでは杉原千畝が、フィクションとしての日本神話にもとづく空疎な虚偽である「八紘一宇」の理念に基づいて、1940(昭和15)年の東ヨーロッパでの「ユダヤ人問題」に対処したことになる。このような暴論は到底成り立たない。
小林よしのり『戦争論』
上杉千年の謬論は、他の国粋主義者らによってあちこちで引用され、間接的に少なからぬ社会的影響を及ぼしている。漫画家小林よしのりの『新ゴーマニズム宣言special 戦争論』(1998年、幻冬社)も、上杉の主張に依拠した漫画である。
齣1で小林は、「八紘一宇というのは『天皇の下ですべての民族は平等』ということだがこの政治的主張は単なるフィクションではなかった! じつはかなり本気の主張であることが証明されてきているのだ」としている。四字熟語「八紘一宇」に、来歴や文脈などすべてを無視して「天皇の下ですべての民族は平等」という内容を含意させている。「単なるフィクション」ではなく「かなり本気である」というのは、何を言っているのかわからない文章ではあるが、小林はどうやら「八紘一宇」が「フィクション」であることを自認しているようである。語るに落ちるとはこのことだろう。
齣2で小林は、杉原千畝について「もともと彼の行動は日本の八紘一宇の政治的主張のもとにやっていたわけだ」としている。ぞんざいな叙述であり、これもまた趣旨が明確ではないが、小林よしのりが上杉千年の主張に沿って書いていることは間違いないだろう。
「満州国」と杉原千畝
上杉千年は、極東国際軍事裁判(「東京裁判」)において、容疑者の弁護団は、杉原千畝を証人として召喚してビザ発給は人種平等の「八紘一宇」精神の発露としての国策に従ったものだったと証言させるべきだったという。そうすれば、大日本帝国が「八紘一宇」精神に基づきユダヤ人を保護した事実があきらかになり、ユダヤ人を差別するどころかそれを保護した大日本帝国が、「南京事件」のような虐殺事件を起こすはずがないことを立証でき、裁判の結果は大きく異なっていたのに、杉原千畝に証言させなかったのはまことに残念だったという。 だが、杉原千畝は晩年に書いた手記において次のとおり述べている。
「一九三六年(昭和一一)に満州国ができると、その外交部へ派遣され、満州国には三か年在籍しました〔……〕。そしてその間に私は、この国の内幕が分ってきました。若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになったので、本家の外務省へのカムバックを希望して東京に帰りました。」杉原千畝がすでに死去しているのをいいことに、「日本会議」の藤原宣夫や上杉千年らは、あきらかな事実を無視し、根拠のない主張を積み重ねて、大日本帝国擁護の主張を展開してきた。しかし、「八紘一宇」は人種平等のスローガンであり、杉原千畝はその精神にしたがってビザを発給したとの主張は、いかにしても成り立たない。杉原千畝に、大日本帝国のおこなった戦争についての弁護活動を期待するのは間違いだろう。
自由社版「つくる会」教科書
国粋主義的歴史観の普及をめざして中学校用歴史教科書を編集する「新しい歴史教科書をつくる会」は、1997(平成9)年1月に設立されたが、事務局長大月隆寛の解任(1999〔平成11〕年9月)、小林よしのりと西部邁の退会(2002〔平成14〕年2月)など、設立当初から中心メンバー間での内紛が絶えなかった。2006(平成18)年4月に元会長の八木秀次(高崎経済大学教授、憲法学)らが脱退して別組織(「日本教育再生機構」)をつくった。
これを受けて、「つくる会」教科書の出版元であったフジサンケイグループの扶桑社は、藤岡信勝らの「つくる会」とは絶縁したうえで、子会社として育鵬社を設立して八木らの別組織が今後編集する教科書を発行することにした(俵義文『〈つくる会〉分裂と歴史偽造の深層』2008年、花伝社)。(なお、八木が理事長となった「日本教育再生機構」は、小学校・中学校用の道徳の「教科書」〔副読本ではない!〕発行もめざしており、「教科書に載せたい話」を一般から募集した。
発行元をうしなった藤岡信勝(拓殖大学教授)らの「つくる会」は、別の出版社を探さねばならないことになった。理事らの奔走により、かつて雑誌『自由』などを発行していた自由社が新たな発行元になった。従来の扶桑社版教科書をもとに、改めて中学校用の歴史教科書が編集され、2008(平成20)年度に文部科学省に検定申請された。当初、136箇所について、「誤りである」・「不正確な表現である」・「誤解するおそれのある表現である」等の指摘を受けいったん不合格となったが、同年度内に該当箇所を全部修正して再申請し合格にこぎつけた。
自由社版の「つくる会」教科書は、横浜市教育委員会によって市内の全13学区中8学区(対象生徒数約13,000人)用に採択されたほか、私立中学校数校で採択され、2010(平成22)年度から使用されることになった。
なお、扶桑社は「つくる会」と絶縁したにもかかわらず、「つくる会」の藤岡らが以前編集した従来の「新しい歴史教科書」を継続して供給することとした。このため著者である「つくる会」の藤岡らは発行差し止めの訴訟を起こしたが、敗訴した扶桑社版の教科書は、東京都の中等教育学校や愛媛県今治市立中学校用などに採択され、2010年度に5000部以上が使用された。
樋口少将の「オトポール事件」
「つくる会」が新たに編集した自由社版中学校歴史教科書に、「迫害されたユダヤ人を助けた日本人」として、杉原千畝と樋口季一郎が取り上げられている。まず、樋口季一郎(1888–1970)に関する記述を検討しよう。
「1938〔昭和13〕年3月、ソ連と満州の国境にあるシベリア鉄道のオトポール駅に、ナチス・ドイツに迫害されビザを持たずに逃れてきた、ユダヤ人の難民の一団が到着した。当時、日本はドイツと友好関係にあったが、知らせを受けたハルビン特務機関長の樋口季一郎少将は、満州国建国の『五族協和』の理念からこれを人道問題として扱い、満鉄に依頼して救援列車を次々と出し、上海などに逃げる手助けをした。〔……〕このルートで1万1千人のユダヤ人が逃げたと伝えられている。」
リトアニアで杉原千畝がビザを発給した1940(昭和15)年8月の、2年以上前のことである。この件は、「日本会議」等で活動してきた「教科書問題研究家」で、「つくる会」の理事でもあった上杉千年(1927–2009)が普及につとめてきた。
この「オトポール事件」については、樋口季一郎の回想録が1970(昭和45)年の死去の翌年に出版され(『アッツキスカ軍司令官の回想録』1971年、芙蓉書房出版。1999年に同社から『陸軍中将樋口季一郎回想録』として再刊)、そこで樋口がみずから言及しているほか、作家相良俊輔が樋口の伝記『流氷の海』(1973年、光人社)において取り上げた。
これらを根拠にして「日本会議」の上杉千年や藤原宣夫らは、「オトポール事件」を「八紘一宇」と「五族協和」精神に基づいて大日本帝国軍人がおこなった偉業だと絶賛している。助けた人数は、「つくる会」教科書では「1万1千人」だが、樋口自身や相良の記述では「2万人」である。文官の杉原千畝が6000人なら、軍人の樋口季一郎が助けたのはその3倍以上の「2万人」である。しかも、樋口の場合、杉原千畝のように「訓令違反」の個人的行為である心配はなく、軍人による正真正銘の職務上の行為なのだ。
「オトポール事件」はあれこれの雑誌や書籍で紹介され、大日本帝国軍隊の偉業として宣伝された。樋口季一郎を賞賛したのは「日本会議」の上杉千年や藤原宣夫だけではない。杉原千畝についての児童向けの伝記の中にまで登場した。
「数の問題ではない」
ところが、「オトポール事件」を誇らしげに紹介した上杉千年は、「2万人」は「幻」だとする或る人物からの書簡を受け取って慌てることになる。すなわち、樋口と同時期に「満州国」に駐在していた大日本帝国陸軍大佐安江仙弘の長男、安江弘夫が外交史料館で調べたところ、「満州国」側の満州里駅に到着したユダヤ人は、1938(昭和13)年10月から翌年4月にかけての100人ほどだったというのである。
「2万人説」には鉄道の輸送力の点からも疑義が出された。『流氷の海』によると、樋口は、3月8日に「2万人」がオトポール駅で立ち往生している件を聞き、3月10日に救援列車の手配を命じた。これにより3月12日に「第一陣の救援列車」がハルピン駅に到着し、その「数刻後」には「オトポールの難民全部がハルピンに収容された」ことになっている。この点について在日本イスラエル大使館広報室の滝川義人は、オトポール駅に最も近い満州里駅からハルビン駅までは1000kmもあるうえ、大興安嶺山脈の難所をこえるために一編成に機関車3両を連結しなければならず、往復するのに最低でも2日間かかることから、数万人のユダヤ人難民を短期間で輸送するなど到底不可能だと批判する。
さらに、杉原幸子の『六千人の命のビザ・新版』(1993年)の出版元である大正出版社長渡辺勝正は、1938(昭和13)年当時のユダヤ人人口は「満州国」全体でも5400人で、しかも2年後には5070人に減少していることなどからしても、「2万人」が一挙に「満州国」に入国したとは考えにくく、この数字は当時ソ連のビロビジャン自治州にいたユダヤ人の人数(1万5000人ないし2万人)と混同したものだろうと推測している。
「2万人」説を安易に受け売りしたのを聞きとがめられた上杉千年は、新証拠探しに奔走したが結局目的は果たせなかった。「2万人」は滝川義人や渡辺勝正のいうように、思い違いのようである。
ただし、ゼロではなかった。1938年3月に、18人のユダヤ人が樋口の尽力により「満州国」に受け入れられたのは事実らしい。写真も残っているこの18人を含め、安江弘夫の言うように樋口は合計で100人ほどのユダヤ人を保護したようである。上杉は言う。
「『オトポール事件』で評価されるべきは、救出人数の問題ではなく、樋口・下村・松岡のユダヤ人を救出した『善意』『善行』である。この『善意』『善行』を樋口少将に決意せしめた動機については、ロシア旅行中のユダヤ老人が〈日本天皇こそ、我らの待望するメッシアではないかと思う〉といったことを想起したことにあるという。」
人数の問題ではない! 南京虐殺事件の人数は水増しだと主張する「歴史修正主義者」らしくもない言い草である。本人の「回想録」での2万人が、自由社版「つくる会」教科書で「1万1千人」になった理由も不明である。
しかし、人数について議論はここまでにしておこう。「オトポール事件」の説明には、それ以上にいろいろおかしな点があるのだ。
天皇は救世主だというユダヤ人
樋口季一郎は、戦後出版された回想録で次のように言う。
「かつて私が〔……〕南ロシア、コーカサスを旅行して、チフリスに到った時、ある玩具店の老主人(ユダヤ人)が、私共の日本人たることを知るや襟を正して、『私は日本天皇こそ、我らの待望するメッシアでないかと思う。何故なら日本人ほど人種的偏見のない民族はなく、日本天皇はまたその国内において階級的に何らの偏見を持たぬと聞いているいるから』というのであった。」
チフリスとは現在のグルジアの首都トビリシのことであり、樋口はソ連領内を視察した時の経験を語っているのである。「日本天皇」を世界終末に出現するはずの救世主(ヘブライ語で「メシア」 )だと言ってのけるなど、この「老主人」は相当におかしなことを語っている。もちろんユダヤ教の教義からは完全に逸脱している。「老主人」が本当にユダヤ教徒であったかどうか、たいへん疑わしい。さらに天皇が「階級的に何らの偏見を持たぬ」などと趣旨不明のことを言うなど、この「老主人」は例のマーヴィン・トケイヤー以上に、天皇制についても無知のようだ。日本の軍人相手に自称ユダヤ人が口から出まかせに適当なお世辞を言った、という程度のことだろう。
いっぽうで樋口自身は、「マルクスが、シオニストであったとの文献的確証がない」と意味不明のことを言ったり、ユダヤ陰謀論の古典的文書である偽書「シオン賢者のプロトコル」を真正のものと考えているなど、ユダヤ教やユダヤ人に関する認識はかなり混乱している。ところが、張作霖爆殺事件(1928年)の首謀者河本大佐を英雄視する戦記読物作家相良俊輔の手にかかると(『赤い夕陽の満州野が原に 鬼才河本大作の生涯』1978年、光人社)、樋口季一郎は「ユダヤ問題の権威」に祭り上げられる。樋口がオトポール駅で「2万人」(「つくる会」教科書では1万1千人)のユダヤ人が救援を待っていると聞かされた時のことを、作家相良俊輔は叙述する。
「ぐっと胸をついてきたのは、あのときの老人のことばであった。 『―東方の国の救世主が、いまにきっと悲運の民族を助けてくれる……』 そのことばが、早鐘のように樋口の耳朶をうち、心をゆりうごかした。(よし、おれがやろう。おれがやらずにだれがやるというのだ。軍を放逐されたっていい。正しいことをするのだ。恐れることはない、あの老人のために、いまこそ、ほんとうの勇気がいるのだ)」
天皇制について無知な「ユダヤ人」が発した言葉に、ユダヤ人とユダヤ教について無知な帝国軍人が感銘を受けたことが機縁となって「オトポール事件」が起きた、という展開である。これを「日本会議」の上杉千年が無批判に受け売りし、そして「つくる会」教科書における「ユダヤ人を助けた日本人」の美談ができあがる。「2万人」という非現実的な人数だけでなく、樋口季一郎の「オトポール事件」の動機自体が、ユダヤ教の教義に関するありえない誤解とひどい時代錯誤が前提になっている。このような架空の事柄が動機として広言される場合、当事者は実際の動機を隠していると見るべきだろう。大日本帝国軍人樋口の行動の真の動機は、抽象的な「八紘一宇」精神や、「五族協和」のスローガン、あるいは行き摺りの「ユダヤ人」の支離滅裂な言葉などではありえない。何らかの具体的目的があるはずだ。樋口は言う。
「いつか必ずユダヤ人との交渉のあるべきを予察し、いささかその道をつけ置くを必要と考えたものであり、これを極東において対ユダヤ関係の緊密化を希望したのであった。〔……〕私は、この〔オトボールに到達した〕流民中、日本化学の推進のため利用しうる人物の探索を部下に要望した。フランクフルト人造ゴム製造技師、その他数人の有望科学者を発見したのであるが、内地業界当事者と給料の点で折り合わず、何れもアメリカに去ったのであった。」
これがハルビン特務機関長樋口季一郎少将のもとでのユダヤ人「優遇策」の動機の、すべてではないにせよ、その一端であったと見るべきだろう。
なお、ユダヤ人やユダヤ教についてさほどの認識をもっていなかった樋口のもとで、実際にユダヤ人「優遇策」を推進したのは、陸軍大佐安江仙弘のようである。上杉千年に「2万人」に根拠がないことを指摘した安江弘夫の父である。陸軍大佐安江仙弘は、偽書「シオン賢者のプロトコル」を和訳するなど相当の「ユダヤ通」であったようで、彼が中心となり「満州国」に駐屯する大日本帝国陸軍は、「満州国」経営上ユダヤ人の協力を取り付ける必要から、一時的にユダヤ人「優遇策」を策定したようである(1938〔昭和13〕年12月8日策定、1942〔昭和17〕年3月31日廃止の「猶太人対策要綱」)。樋口季一郎の行動はその延長線上にあるものだろう。
東条英機を礼賛
「つくる会」の歴史教科書は、樋口季一郎によるユダヤ人救援に関して、さらに次のとおり記述している。
「まもなく事情を知ったドイツは、外務省を通じて抗議してきたが、関東軍参謀長の東条英機は『日本はドイツの属国ではない』として部下の処置を認め、ドイツからの抗議もうやむやになった。」
この部分も、「つくる会」理事の上杉千年が、樋口の『回想録』や相良の『流氷の海』から受け売りして出来上がった記述であるが、もとの樋口の『回想録』とはかなりニュアンスが違う。以下は『回想録』の記述である。「オトポール事件」の半月後、ハルビンのユダヤ人らが「私〔樋口〕に対する謝恩の大会」を開催した際、その場で樋口は次のように演説したという。
「ある一国〔ドイツ〕は、好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々〔ユダヤ人〕を追放するという。〔……〕私は個人として心からかかる行為をにくむ。ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ」
これに対して、在日本ドイツ大使を通じて日本の外務省に抗議があったという。すなわち、
「聞くところによれば、ハルピンにおいて日本陸軍の某少将が、ドイツの国策を批判し誹謗しつつありと。〔……〕請う速かに善処ありたし」
この件で樋口は関東軍参謀長東条英機に面会し、次のとおり訴えたという。
「日本はドイツの属国ではなく、満州国また日本の属国にあらざるを信ずるが故に、私〔樋口季一郎〕の私的忠告による満州国外交の正当なる働きに関連し、私を追及するドイツ、日本外務省、日本陸軍省の態度に大なる疑問を持つものである」
ところが、これらのドイツによる抗議文、樋口の弁明文などについて、典拠は一切示されていない。本人の『回想録』だけが根拠という状態である。もしドイツによる「抗議」の詳細だけでも現物が示されれば、救済したユダヤ人の人数を含め、「オトポール事件」の実態が明らかになるかも知れないのに、上杉千年らは史料の存在を確認していない。ドイツ政府、外務省、関東軍参謀長東条英機を巻き込んだとされる一連のやりとりの真偽は不明である。
しかし、ここでは一応事実であると仮定して検討しよう。樋口の『回想録』と「つくる会」教科書とを比較してみると、「つくる会」教科書には歪曲がほどこされているのがわかる。樋口の『回想録』によれば「日本はドイツの属国ではない」と言ったのは東条英機ではなく樋口季一郎本人であり、東条英機は「同意」したにとどまる。ところが「つくる会」教科書では東条英機が言ったことになっている。東条英機を美化するように書き換えられたのである。
「つくる会」が、樋口季一郎によるユダヤ人救済の件を持ち出すのは、つまるところそれにかこつけて戦争犯罪人東条英機を礼賛するのが目的のようだ。東条を裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判 )に対する「歴史修正主義」的な対抗措置なのである。根拠の不十分な記述、さらに意図的に歪曲された記述は、教科書の記述としては到底許されるものではない。文部科学省の教科書検定が、根拠のない東条弁護論を見逃しその流布を手助けしているのは見過ごせない。  
 
 
 

 



2019/7
 
 
 

 

 
第198回国会 総理問責決議案 6/24
 福山哲郎 立憲民主党   
福山哲郎君立憲民主党の福山哲郎です。
私は、立憲民主党・民友会・希望の会、国民民主党・新緑風会、日本共産党、沖縄の風各派共同提出の安倍晋三内閣総理大臣問責決議案について、その趣旨を説明いたします。
まず、決議案を朗読いたします。
本院は、内閣総理大臣安倍晋三君を問責する。
右決議する。
以上であります。
安倍総理、あなたはなぜ予算委員会に出てこないんでしょうか。参議院規則第三十八条二項によって、予算委員長は予算委員会を開かなければならないことになっています。七十五日間、総理の審議拒否が続いています。なぜ逃げ続けるのか。総理が、いつものお決まりの文句、国会でお決めいただくこととうそぶくことは目に見えています。しかし、そんなことを信じる国民はもはや誰もいません。なぜ、金子予算委員長や与党理事の諸君に規則に違反することを総理が強いるのでしょうか。
私も官房副長官として官邸にいました。野党から開会要求があれば、イの一番に与党の国対から、扱いはいかがしましょうとお伺いが立てられます。総理は出たくなくても、与党の仲間が追い込まれるなら、泥をかぶってでも出席せざるを得ない。それは議院内閣制の下に選出された総理の務めであり、あなたも衆議院議員なら百も承知のはずです。私が出ていくと言えば済むのです。総理が逃げ回っているから予算委員会が開会されないの一言に尽きるのです。
あなたに憲法を議論しろなどと言われる筋合いはありません。自分の仲間である与党の議員に規則違反をさせて、自らの都合で逃げまくる。それだけで宰相の資格はありません。そんなに予算委員会に出席したくないのなら、総理をお辞めになればいい。あなたが総理であるゆえんは議院内閣制です。その議院内閣制を破壊するような総理には、即刻お辞めいただきたい。
安倍政権のこの六年半は、立憲主義を壊し、国会の行政監視機能を否定するものでした。
二年前、予算委員会で、私は、森友学園問題について初めてそんたくという言葉を使って総理に問いただしました。それは昭恵夫人に恥をかかせたのか、安倍総理に恥をかかせたのか、近畿財務局だって財務省だってそんたくするでしょう、そういう状況をつくったことが問題だと私は思う、だから、こういう不透明な手続が積み重なるんですよと申し上げた私に、あなたは随分むきになって、やじに反応しながらいつもの長答弁を続けた後、日本のですね、かつてそんなことあったんですか、そんなことあったんだったら、一つでもいいから例を出していただきたいと思います、私の妻が名誉何々になっていて、それをそんたくした事実が、事実がないのにまるで事実があるかのように言うのは、これも典型的な印象操作なんですよとあなたはたんかを切られました。
事実がないどころか、皆さん御存じのとおり、その後の安倍政権は、そんたくと改ざんと隠蔽の事実が次々と明らかになった二年間だったのではないでしょうか。
森友学園での財務省の文書改ざん、国会での虚偽答弁、やっとのことで出された文書の中に、何と、安倍昭恵総理夫人が森友学園を視察した直後に行われた森友学園と近畿財務局との交渉記録、財務省本省への相談メモだけはいまだに出てきていません。これもそんたくなのでしょうか。
また、加計学園をめぐっても、怪文書と言い捨てたものを、その存在を認める羽目になりました。面会を否定した総理秘書官が、実は加計学園関係者と三回も会っていました。
存在しないと言い張っていた自衛隊のイラク派遣日報や南スーダンPKOの日報が見付かる、毎月勤労統計の不正調査の横行など、安倍政権は、国民にも国会にも真実を語らない、不都合なものは隠すことが常態化していることを国民に知らしめることになりました。
立法府と行政府の関係は、完全に壊れています。どの問題一つ取っても、本来なら内閣総辞職に値します。安倍政権は、自らに向けられた批判に対して、ひたすら否認するだけです。否認とは、精神分析用語で、不快な事実に直面した際に、証拠があるにもかかわらず、それを真実と認めず、拒否をすることをいいます。
そして、そのことが端的に現れたのが、現在も問題になっている金融庁の審議会ワーキング・グループの報告書の受取拒否問題です。まさに否認そのものです。
老後に年金以外に二千万円が必要とされた問題で、ここまで国民の皆さんの関心が高まったのはなぜなのでしょうか。年金だけではとても老後の生活を過ごせない、高齢者は働きに出ざるを得ない、多くの国民の皆さんがアベノミクスの恩恵を全く実感できず、老後の不安を持っているからこそ、あの報告書の問題はここまで大きくなったのではないのでしょうか。
この報告書に関して言えば、安倍政権を最も体現しているお一人が麻生太郎副総理兼財務・金融担当大臣であることは、誰の目にも明らかです。
自ら諮問したワーキング・グループ報告書の受取拒否はもはや論外ですが、これに加えて、先ほども述べた森友学園文書での文書改ざん、虚偽答弁の責任者その人であり、当時の福田事務次官のセクハラ問題に関しても、セクハラ罪という罪はない、男の番記者に替えればいいなどという暴言を言われました。さらには、一度ならず二度までも、子供を産まない方が問題という発言を繰り返すなど、政治家としての資質に加え、人としていかがかと思います。その麻生大臣を任命し、かばい続けている安倍総理の責任は、余りにも重いと言わざるを得ません。
この麻生大臣のみならず、安倍内閣を構成する大臣、副大臣、政務官に至るまで、暴言、失言のオンパレードです。東北だったからよかった、最後は金目でしょう、長靴業界はもうかったんじゃないか、それで何人死んだんだ、総理と麻生大臣をそんたくした、復興以上に重要なのは何々さん、もう耳を塞ぎたくなるような許し難い暴言の数々です。自民党は大丈夫ですか。一体どうなっているんですか。そして、この任命権者は、もちろん安倍総理、あなたです。ところが、総理はそうした暴言を放った大臣たちもまずはかばおうとしてきたのですから、もはや何をか言わんやです。
さて、総理、素朴な疑問です。
あなたは国民生活の実態に直接触れたことがあるのでしょうか。総理の言葉から生活感を感じ取ることができないのは、私だけではないと思います。
足下の実質成長率は減速傾向が明らかであり、個人消費、輸出、設備投資、いずれもマイナス、実質的にはゼロ成長近くになっています。五月の景気動向指数は、六年二か月ぶりに悪化へと引き下げられました。四月以降の食料品の値上げや消費増税が消費者心理を冷やしていることは間違いありません。十月から消費税を上げようとする一方で、自民党の議席を守るために参議院の定数を六増することを国民が理解するとは到底思えません。ましてや、二千万円も貯蓄が必要だと言われた国民が物を買う気分になるのでしょうか。まさに消費が萎縮することは間違いありません。
総理は、自分に都合の良い数字を並べ立てて、民主党政権を悪夢と言い募ることには関心があっても、日々の生活のために懸命に働き、なおかつ未来に希望がなかなか見出せない人たちの実
態には何も関心がないのではありませんか。六年半にもわたる安倍政権の下で、トリクルダウンは実現しませんでした。企業の収益が上がり、内部留保がどれだけ積み上がろうと、働く者の実質賃金の上昇にはつながりませんでした。非正規労働者は増加をし続けています。一般事業所の実質賃金はいまだに出てきていません。富める者が更に富んだとしても、真面目に働いている人たちには全く目が向けられなかった、そんな冷たい六年半だったのではないでしょうか。日本の社会に分断と格差という目に見えない大きな溝が広がっています。
次に、外交・安全保障です。
総理、あの安保法制は一体何だったのでしょうか。F35を百四十七機、イージス・アショア、オスプレイなどを爆買いするために、政府・与党はあの安保法制の成立に血道を上げたのでしょうか。トランプ大統領いわく、「いずも」型護衛艦を空母に改修してF35を載せ、地域を越えて両国が直面する様々な脅威を抑止するというのですから、専守防衛は一体どこに行ったのでしょうか。
何より、これらは防衛省・自衛隊の現場が本当に求めている装備なのでしょうか。F35Aの墜落事故の検証も曖昧なまま飛行が再開される。米国政府監査院ですら、昨年、F35の深刻な欠陥を指摘し、安全性に疑念を呈しています。そのF35を一兆二千億円も掛けて購入することが本当に必要なのでしょうか。自衛官の安全確保はできるのでしょうか。
そして、イージス・アショアについても、グーグルアースを用いて考えられないような縮尺の間違いをした上に、住民説明会で防衛省職員は居眠りをしました。緊張感の欠如には言葉がありません。初めに新屋演習場ありきで事が進められたと言われても仕方がないのではないでしょうか。岩屋防衛大臣は、秋田県知事らに謝罪をしましたが、現地の住民の皆さんには会おうとしませんでした。不誠実な対応でした。
その住民をないがしろにする姿勢は、沖縄県民に対して寄り添おうとしない安倍政権と軌を一にしています。
昨日は沖縄慰霊の日でした。辺野古沖への新基地建設について、玉城デニー知事の知事選、補欠選挙、県民投票で、基地建設反対の沖縄県民の意思は明確に示されています。私の質問に対して、岩屋防衛大臣が、県民投票の結果にかかわらず、あらかじめ土砂投入を継続すると決めていた、総理の了承をいただいていたと答弁したのには、本当に驚き、あきれました。県民投票の結果は関係ない、総理が工事強行をあらかじめ決めていたというのです。総理もこれを否定しませんでした。これが民主主義国家の総理の姿なのでしょうか。あなたも選挙で選ばれているのではありませんか。県民投票の結果に対して謙虚さのかけらもない。究極の御都合主義です。このような姿勢では、沖縄の理解が得られるはずがありません。
昨年秋、総理は、領土問題を解決して平和条約を締結する、私とプーチン大統領の手で必ずや終止符を打つと大見えを切られました。しかしながら、平和条約交渉は順調に進んでいるようには見えません。外交青書からは、北方四島が日本に帰属するという当たり前の記述も消されました。外務大臣は、北方四島は日本固有の領土と発言しなくなりました。ロシアに不法占拠されているとも言わなくなりました。これでは、相手国に逆のメッセージを与えてしまいます。目指していた今月の大筋合意は断念との見出しが出る始末です。先日、首脳会談の前にプーチン大統領は、北方領土を引き渡す計画はないとまで明言しました。自民党の皆さん、主権国家として本当にこんなことでいいのでしょうか。
安倍総理の外交に不思議なことがあります。首脳会談や外交交渉というのは、こちら側の主張
は外に明らかにしつつ、先方が何を主張したのかはこちらからは公表しないのが一般的なルールです。そして、両国が合意したものだけはお互い発表し合うという形でやっているはずなのですが、安倍政権は、相手側から日本の主張を明らかにされ、さらには言われっ放しの状況が続いています。なぜ自らが相手国に言った主張を明らかにできないのでしょうか。
日米関係でも、八月には大きな合意ができると思うとトランプ大統領に一方的に暴露され、密約の存在を疑わざるを得ない状況です。トランプ大統領をノーベル平和賞に推薦したことまで明らかにされました。米国とイランの仲介外交も、総理のイラン訪問中にタンカー攻撃事件まで起こりました。海外の論調も厳しく、選挙対策で近年最も失敗した調停外交などと言われています。
一方で、日朝関係も、国難突破解散、対話のための対話には意味がないとまで言っていた総理が、突如、金正恩委員長と条件を付けずに向かい合うと、従来の発言とは全く逆のことを言われました。しかし、首脳会談はいまだに実現していません。北朝鮮からは、ずうずうしいとまで返されている始末です。残念でなりません。外交の成果は乏しいと言わざるを得ません。
その他、安倍政権の下で、水道法、漁業法、種子法等々、国家の根幹に関わる、日本の地域社会を壊しかねない多くの法律が強行に通されました。
日銀が国債を大量に買い支え、株価維持に一役を担い、GPIFでも株を下支えする、株式を売却したくても相場が崩れるので売るに売れない、こんなことがいつまで持続可能なのでしょうか。
ここまで、るる問責の理由を述べてきました。しかし、最も問責に値する理由は、安倍政権が続くことで、未来に希望を持ち、国民が幸せを実感できる社会にはなると思えないことです。
あなたは、二〇一二年の就任会見で、頑張った人が報われる、今日より明日の生活が良くなると実感できる日本経済を取り戻すと言われました。また、内閣官房の広報誌には、どれだけ真面目に働いても暮らしが良くならないという課題を克服するとありました。
六年半たった今、そのことが全く実現していないことは明白です。
事実を申し上げます。
民主党政権三年三か月間の実質賃金の平均賃上げ率は二・五九%でした。安倍政権下では一・一%にすぎません。また、安倍政権下で労働分配率は下がり続け、四十三年ぶりの低水準となっています。非正規雇用は、約三百万人増えて、全体の三七・九%に達しています。年収二百万円以下のワーキングプアも百万人以上増えています。そのため、二人以上世帯の貯蓄ゼロ世帯は、二〇一七年に何と三一・二%と、過去最悪になりました。これでどうやって二千万円貯蓄をしろというのでしょうか。
総理は、政治は結果だとよく言われています。結果を出せていないのなら、お辞めいただくしかありません。
良識ある参議院の皆さんが、与野党を超えて我々の問責決議案に何とぞ賛同されることをお願い申し上げ、趣旨説明とさせていただきます。
御清聴ありがとうございました。 

 

 
 

 

 
第198回国会 安倍総理問責決議案への賛成討論 6/24
 大塚耕平 国民民主党・新緑風会 
国民民主党・新緑風会の大塚耕平です。会派を代表して、ただいま提案のありました内閣総理大臣安倍晋三君の問責決議案に賛成の立場から討論を行います。
はじめに、先週の日本海沖地震で被害に遭われた皆様をはじめ、東日本大震災ほか、過去の災害の影響で未だに避難生活をしている皆さんに、改めてお見舞い申し上げます。国会として、全力を尽くしてまいります。
国民民主党は、結党宣⾔の中に、「正直な政治」「偏らない政治」「現実的な政治」を追求することを明記しました。日本の政治にその3つが⾜りないと実感している故です。以下、その観点から、賛成理由を申し述べます。
第1に、「正直な政治」に照らし、安倍総理、閣僚及び霞が関の言動が、昨今あまりにも不正直だからです。⾦融審議会の「老後貯蓄2000万円報告書」問題は、不正直さが幾重にも積み重なった結果と言えます。
そもそも、マクロ経済スライドを導入した2004年の年金制度を「100年安心」と表現していることが不正直です。去る6月10日の決算委員会で総理に申し上げたように、この「100年安心」は「制度」の安心であって「国民」の安心ではありません。そのことを正直に認めないから今回の事態に至ったのです。
マクロ経済スライドという用語で国民を煙に巻いていますが、平易に表現すれば、要するに「年金の資金繰りが厳しくなった時には、政府が国民の年金受給額を引き下げることができる制度」です。
つまり「年金⾦引き下げ制度」。だからこそ、制度が「100年安心」なのは当たり前。一方、それは「国民の老後」の安心ではないことを正直に認めるところから、本当に意味のある国会の議論が成り立つのです。
それをつい正直に認めてしまった金融審議会報告書を受け取らないという暴挙。報告書を受け取るように金融担当大臣を指導することが、総理が本来とるべき行動です。正直な報告書を認めない、受け取らないという不正直な対応を看過したことは、それだけで問責に値します。
「老後貯蓄2000万円」問題に絡む金融庁の姿勢にも付言しておきます。金融担当大臣問責決議の討論において、大門実紀史議員が指摘したとおり、この報告書が、家族のため、自らの⽼後のために貯蓄をしようとする国民に対し、金融資産への投資誘導を行おうとする意図が内在していることは、私も感じていました。書いてあることは正直であっても、その目的に純粋さが⽋けていたからこそ、このような騒動になったものと考えます。
後日、金融庁に、審議会委員の中に金融機関の顧問等の地位にある者がいたか否かを改めて確認します。そういう委員が含まれていれば、利益誘導等の意図があったと疑われても仕方のない内容であることを指摘しておきます。
さらに、この「老後貯蓄2000万円」騒動の真っ只中、財務省の財政制度等審議会がとりまとめた建議において、原案に「将来の年金給付水準の低下が見込まれる」「自助努力を促すことが重要」と記されていた部分を、最終案で削除したことが明らかになりました。霞が関の忖度、隠蔽、改竄、捏造体質には、呆れるばかりです。
年金財政検証に関する不正直さも指摘しておきます。年金財政検証の結果は既に出ていると推察します。結果は正直に公表する。事実を国民ならびに国権の最高機関である国会に公開、報告し、事実を共有する。そこから、民主主義は始まるのです。
総理や政権の意向を忖度させ、霞が関が事実を隠蔽、改竄、捏造する状況を放置するようでは、とても民主主義国家の首班の座を委ねるわけにはいきません。
年金財政検証に関して、ひとつ指摘しておきます。「所得代替率50%」はいずれ維持できなくなるでしょう。今回の検証でも、前提の置き方によっては既に「50%維持」は困難だと思います。どのような不正直な捏造や操作を行って「50%維持」を糊塗するのか。そのことを、多くの国会議員や専門家が凝視していることを忘れないでください。
少子高齢化の進展の中で、公的年金制度の運営が容易でないことは、党派を問わず認識を共有しているはずです。事実を明らかにし、正直な年金改革のための議論を、一刻も早く超党派で開始することを提案します。
第2に、「偏らない政治」の観点からも、総理の政権運営は問責に値します。特定の人、特定の組織の利益のために政治を行ったり、特定の意見だけが正しいという傲慢な姿勢で政治を行うことでは、より多くの国民の皆さんの納得を得ることはできません。
ましてや、事実を隠蔽、改竄、捏造して利益誘導するようでは、不正直なうえに、偏った政治を行うことになり、民主主義の危機と言わざるをえません。
国家戦略特区を巡る不祥事が典型例です。規制緩和によって利益を得る利害関係者を検討過程に関与させ、さらに政府の検討ワーキンググループの責任者が当該事業者から報酬をもらい、しかも、その事実を隠蔽、改竄、捏造する事態には、呆れるばかりです。
これを腐敗と言わずして何と言うのか。腐臭が漂っている。総理大臣は与り知らない話だというのであれば、そういう輩を一掃することが、民主主義国家、日本の総理のあるべき姿です。
人事権を振りかざして「偏った政治」を行い続けていることが、官僚を劣化させています。「偏った政治」を行う政権の走狗となって、隠蔽、改竄、捏造に加担する忖度官僚には、「官僚としての矜持はどこにいったのか」と諫言しておきます。
今からでも遅くはありません。心ある官僚諸氏には、今回の案件のみならず、森友事件、加計学園を含む国家戦略特区等に絡む不公正な事実や対応を、良心に従って速やかに明らかにすることを勧めておきます。
第3は、現実的な政治です。「イージス・アショア」配備計画を巡り、防衛省調査報告書の重大な誤りが発覚した問題は、計画の杜撰さを露呈しました。グーグルアースの縦横の縮尺の違いに気づかなかったというお粗末さには驚きます。初歩的ミスの背景には、初めに結論ありきの検討のため、形だけの調査でやり過ごそうとした実態が垣間⾒えます。
「イージス・アショア」の調達コストは、当初の1基800億円から1340億円に膨張し、2基で2680億円。さらに維持・運用費を加えると総額4664億円。これに日米共同開発の迎撃ミサイル1発40億円、1基24発搭載で960億円、2基で1920億円、総額5584億円。そこにさらに施設建設費や土地整備費などが加算されます。
より低コストで、機動力のあるイージス艦を増強した方が合理的かつ現実的ではないでしょうか。何かを忖度し、事実を隠蔽、改竄、捏造してまで、非現実的な選択に固執するようでは、その責任者である総理を問責せざるを得ません。
非現実的対応は経済政策の面でも見られます。異常な金融緩和を柱としたアベノミクス。2年で日銀のマネタリーベースを2倍にし、物価上昇率を2%にすれば全てが好転するとして、合理的根拠のない政策を日銀総裁とともに強行して6年。既にマネタリーベースは4倍を超え、日銀が大量の国債やETFを保有する異常な事態に至っています。
そこまでやっても、安倍政権下の経済の現実は、自ら行った前回2014年の年金財政検証の標準シナリオである物価上昇率1.2%、実質賃金上昇率1.3%に遠く及ばず、物価上昇率は0.9%、実質賃金上昇率は▲(マイナス)0.6%にとどまっています。
非現実的な政策を行った顛末としてのこの現実。今や現実的な出口戦略は見出せず、後世、総理と日銀総裁が糾弾される事態とならないことを祈るばかりです。
総理は、第1次政権発足以前から「戦後レジームの脱却」を謳い、2013年の通常国会施政方針演説で「戦後レジームを原点にさかのぼって大胆に見直す」と発言しました。
戦後レジームの意味するところは、日本の降伏後、GHQ占領下で構築された体制のことを意味するのが一般的です。
総理は、その文脈で改憲に固執しているようですが、戦後レジーム脱却を目指すならば、もっと別のことに執着していただきたい。
第1に、対等な日米関係にほど遠い日米地位協定の見直し。昨年末に公表した国民民主党の地位協定改定案と機を一にして、今年1月、駐留米軍にも国内法を適用する姿勢を示したことは一歩前進です。しかし、依然として実態は変わりません。
第2に北方4島の返還。3月6日の予算委員会で、総理が北方4島を「固有の領土」と表現しなくなったことには驚愕しました。
第3に、3月10日の財政⾦融委員会で指摘したとおり、GHQの命令で皇籍離脱となった旧宮家問題への対応です。
歴代最長任期を窺う長期政権になったにもかかわらず、戦後レジームを脱却するどころか固定化し、不正直で、偏った、非現実的な政策を続ける総理には、問責をもって諫めるしかありません。
総理の姿勢は、政権や霞が関に憂慮すべき体質を生み出しています。
戦前戦後を代表する社会学者・丸山眞男氏は、戦前の政府・軍関係者には、上級者の考えを過度に忖度する傾向が浸透し、「上級者が言ったことだからいい」「上級者の命令だから仕方ない」という論理、個人の責任を棚上げする心理が形成され、そのことが戦争を招いた一因になったと分析。しかも、当事者にはその自覚症状がなく、責任意識が希薄であったと指摘し、丸山氏はこれを「無責任の体系」と呼びました。
戦後を代表する評論家、山本七平氏も「空気の論理」という概念で日本社会の体質を憂慮しました。異論を唱えることを躊躇し、空気に流されて忖度することを意味します。
総理の政権運営姿勢が、「無責任の体系」や「空気の論理」を彷彿とさせる状況を強めていることを指摘し、私の討論を終わります。