平成 令和 バトンタッチ

ご退位  上皇陛下となられる
・・・明日から始まる新しい令和の時代が、
平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、
ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。 

新天皇 即位
・・・常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、
日本国および日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、
国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します。
 


賢所・八咫鏡・巧言令色鮮矣仁
 
 
 
 

 

皇室行事
   3/12
○賢所に退位及びその期日奉告の儀 〔賢所〕
 賢所に天皇が退位及びその期日を奉告される儀式
○皇霊殿神殿に退位及びその期日奉告の儀 〔皇霊殿・神殿〕
 皇霊殿神殿に天皇が退位及びその期日を奉告される儀式 賢所・皇霊殿・神殿を総称して宮中三殿という。天皇は黄櫨染御袍をまとい、宮中三殿に参入して、自らが退位することと、その期日が4月30日であることを奉告する「御告文(おつげぶみ)」を読み上げた。
○神宮神武天皇山陵及び昭和天皇以前四代の天皇山陵に勅使発遣の儀 〔御所〕
 神宮並びに神武天皇山陵及び昭和天皇以前四代の天皇山陵に退位及びその期日を奉告し幣物を供えるために勅使を派遣される儀式 伊勢神宮、神武、孝明、明治、大正、昭和の各天皇の陵(みささぎ)に退位を奉告する勅使を派遣する儀式。
   3/15
○神宮に奉幣の儀 〔伊勢神宮 内宮・外宮〕
 神宮に退位及びその期日を勅使が奉告し幣物を供える儀式 豊受大神宮(三重県伊勢市) / 勅使ら30人が、木製の辛櫃に入った絹や木綿などの奉納品を携え伊勢神宮内宮を訪れ、正宮で御祭文を読み上げ、退位とその日程を報告した。
○神武天皇山陵及び昭和天皇以前四代の天皇山陵に奉幣の儀 〔各山陵〕
 神武天皇山陵及び昭和天皇以前四代の天皇山陵に退位及びその期日を勅使が奉告し幣物を供える儀式 神武天皇畝傍山東北陵(奈良県橿原市)、昭和天皇陵(東京都八王子市)、孝明天皇陵(京都市)、明治天皇陵(京都市)、大正天皇陵(八王子市)。
   3/26
○神武天皇山陵に親謁の儀 〔神武天皇山陵〕
 退位に先立ち,神武天皇山陵に天皇が拝礼される儀式
   4/18
○神宮に親謁の儀 〔伊勢神宮〕
 退位に先立ち,神宮に天皇が拝礼される儀式
   4/23
○昭和天皇山陵に親謁の儀 〔昭和天皇陵〕
 退位に先立ち,昭和天皇山陵に天皇が拝礼される儀式
   4/30
○退位礼当日賢所大前の儀 〔賢所〕
 退位礼の当日,賢所に天皇が退位礼を行うことを奉告される儀式
○退位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀 〔皇霊殿〕
 退位礼の当日,皇霊殿神殿に天皇が退位礼を行うことを奉告される儀式
国事行為 / 退位礼正殿の儀(退位の礼) 〔宮殿 正殿〕
 退位を広く国民に明らかにするとともに,天皇が退位前に最後に国民の代表に会われる儀式  
   5/1
国事行為 / 剣璽(けんじ)等承継の儀 〔宮殿〕
 剣璽とは三種の神器のうち、天叢雲剣と八尺瓊勾玉を併せた呼称。神器の勾玉を璽(あるいは神璽)とも呼ぶため、「剣璽」と称される。
○賢所の儀 〔賢所〕
○皇霊殿神殿に奉告の儀 〔皇霊殿・神殿〕
国事行為 / 即位後朝見の儀 〔宮殿〕 
 

 

内閣総理大臣の国民代表の辞 (退位礼正殿の儀)
謹んで申し上げます。
天皇陛下におかれましては、皇室典範特例法の定めるところにより、本日をもちまして御退位されます。
平成の三十年、「内平らかに外成る」との思いの下、私たちは天皇陛下と共に歩みを進めてまいりました。この間、天皇陛下は、国の安寧と国民の幸せを願われ、一つ一つの御公務を、心込めてお務めになり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たしてこられました。
我が国は、平和と繁栄を享受する一方で、相次ぐ大きな自然災害など、幾多の困難にも直面しました。そのような時、天皇陛下は、皇后陛下と御一緒に、国民に寄り添い、被災者の身近で励まされ、国民に明日への勇気と希望を与えてくださいました。
本日ここに御退位の日を迎え、これまでの年月を顧み、いかなる時も国民と苦楽を共にされた天皇陛下の御心に思いを致し、深い敬愛と感謝の念を今一度新たにする次第であります。
私たちは、これまでの天皇陛下の歩みを胸に刻みながら、平和で、希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来を創り上げていくため、更に最善の努力を尽くしてまいります。
天皇皇后両陛下には、末永くお健やかであらせられますことを願ってやみません。
ここに、天皇皇后両陛下に心からの感謝を申し上げ、皇室の一層の御繁栄をお祈り申し上げます。 
 
 

 

○退位礼正殿の儀 
天皇陛下のおことば (退位礼正殿の儀)
今日をもち、天皇としての務めを終えることになりました。
ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。
即位から30年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。
明日から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。 
 
 

 

○剣璽等承継の儀
○即位後朝見の儀 
新天皇陛下のおことば (即位後朝見の儀)
日本国憲法および皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。
この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。
顧みれば、上皇陛下にはご即位より、30年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心をご自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。
ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国および日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します。 
 
 
 4/30

 

令和幕開け=天皇陛下退位「国民に感謝」−皇太子さま即位へ
天皇陛下は30日、退位される。
皇太子徳仁(なるひと)親王殿下が5月1日午前0時に新天皇に即位し、元号が平成から令和に改まる。陛下は30日午後5時から、国民に広く退位を知らせる儀式「退位礼正殿の儀」に臨み、30年余りの在位について「象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します」と最後のお言葉を述べられた。
儀式は皇居・宮殿「松の間」で、憲法が規定する国事行為として実施。陛下は「天皇としての務めを終えることになりました」と冒頭に述べ、「天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした」と振り返った。
お言葉に先立ち、安倍晋三首相が国民代表の辞を述べ、皇室典範特例法に基づき陛下が退位することを説明。自然災害の際に現地を訪れ、被災者らを励ましてこられた姿に触れた上で、「いかなる時も国民と苦楽を共にされた天皇陛下のみ心に思いを致し、深い敬愛と感謝の念をいま一度新たにする」と謝意を伝えた。
成年皇族方のほか、政府、国会、裁判所、地方自治体の要人ら約300人が参列した。
陛下は85歳。2016年8月のビデオメッセージで高齢を理由に退位の意向をにじませた。政府の有識者会議や与野党の意見を踏まえ、陛下一代に限り退位を認める特例法が成立した。天皇退位は、江戸時代後期の光格天皇以来202年ぶり。
新天皇は宮内庁の記録によると126代目。現行憲法が定める象徴天皇としては3代目となる。
元号を令和に改める政令は5月1日に施行。248番目の元号として、政府が4月1日に決定した。典拠は現存する日本最古の歌集「万葉集」で、日本で記された国書に由来する元号は初めて。
代替わりに伴い、皇太子妃の雅子さまが新皇后となる。皇位継承順位は、皇嗣になる秋篠宮さまが1位、秋篠宮さま長男の悠仁さまが2位。天皇、皇后両陛下は上皇、上皇后となる。
即位に関する国事行為として、5月1日午前10時半から「剣璽等承継の儀」が皇居で行われ、新天皇が皇位の証しとされる剣や勾玉(まがたま)などを受け継ぐ。同日午前11時10分からは国民の代表と会う「即位後朝見の儀」があり、新天皇が初めてお言葉を述べる。
陛下「令和の平和祈る」=在位中最後のお言葉−皇居で退位礼正殿の儀
天皇陛下の退位に伴う「退位礼正殿の儀」が30日夕、皇居・宮殿「松の間」で行われた。30年3カ月余り象徴として歩んだ陛下は「新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」と、在位中最後のお言葉を述べられた。
江戸時代後期の光格天皇以来、202年ぶりの退位に伴う憲政史上初の儀式で、国民に広く退位を知らせるため憲法が定める天皇の国事行為として実施。皇后さまや皇太子ご夫妻ら成年皇族15人全員に加え、閣僚や衆参正副議長、最高裁長官、国会議員、都道府県知事や市町村長の代表ら294人が参列した。
午後5時、モーニング姿の天皇陛下が皇后さまと共に松の間に入室した後、侍従が皇位の証しとされる剣と璽(じ)=勾玉(まがたま)=、天皇の印の御璽、国の印の国璽を「案」と呼ばれる台の上に置いた。
安倍晋三首相が退位特例法に基づき、30日限りでの陛下の退位を宣言。即位以来、国民と苦楽を共にした陛下への謝意を表した。陛下は「天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした」と述べ、国民への感謝を示した。
両陛下は剣と璽をささげ持った侍従と共に退出し、儀式は10分余りで終わった。
両陛下は引き続き、皇族や側近、宮内庁や皇宮警察の職員らからあいさつを受けた後、お住まいの御所で平成最後の一日を終える。
これに先立ち、陛下は30日午前、皇居・宮中三殿で、「退位礼当日賢所大前(かしこどころおおまえ)の儀」などの儀式に装束姿で臨んだ。
剣と璽は退位礼正殿の儀の後、皇居・御所「剣璽の間」に再び戻され、5月1日午前0時の即位とともに新天皇が継承する。
1日午前、新天皇が剣と璽などを受け継いだことを明らかにする「剣璽等承継の儀」と、即位後初めて国民代表に会う「即位後朝見の儀」が、いずれも国事行為として行われる。  
「国民への感謝」「平和への祈り」天皇陛下、お言葉で不変の思い
30日で30年余りにわたった象徴天皇の務めを遂げられた天皇陛下。同日の譲位の儀式「退位礼正殿の儀」(退位の礼)で残された最後のお言葉は「国民への感謝」と「平和への祈り」という変わらぬ思いだった。10分余りの儀式を粛々と終え、共に歩まれた皇后さまに見送られる形で退出された。
退位の礼の舞台となった皇居・宮殿で最も格式が高い「松の間」。午後5時、静寂と緊張に包まれた部屋に、靴音を響かせて入ってきた陛下は、中央の壇上に少し遅れて続かれた皇后さまと立たれた。
追従した側近が皇位継承の証である「三種の神器」のうちの「剣(けん)」と「璽(じ)」(勾玉=まがたま)などを据え置くと、安倍晋三首相が出席者の列から一歩前に出て、陛下への謝辞とともに「希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来を創り上げていく」と述べた。
「今日(こんにち)をもち、天皇としての務めを終えることになりました」。陛下は、側近からお言葉が記された紙を受け取り、202年ぶりの譲位の実現を淡々と告げられた。天皇の務めを「国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした」と続けた場面では、一瞬言葉を詰まらされた。
陛下の方を向き直った皇后さまが寄り添われる中、表情を変えず、単語を一つ一つ区切りながら、ゆっくりと言葉を紡がれていく陛下。「象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します」。国民への謝意は紙から顔を上げ、国民の代表である出席者をまっすぐに見据えて伝えられた。
約1分半にわたるお言葉の最後に込められたのは、平和への祈り。幼少期に疎開を経験し、昭和天皇の遺志を継いで戦没者慰霊に尽くした陛下が、象徴の務めの中心に一貫して位置づけられてきたものだ。
天皇として最後の機会だった昨年12月の誕生日会見で、「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)しています」と述べたのに呼応し、新たな天皇、皇后とともに1日に幕を開ける「令和」の時代も「平和で実り多くあること」を、皇后さまとともに願われた。
陛下は退出間際、壇を降りられる皇后さまの手を携える普段の気遣いを見せたが、式次第通りに出席者に一礼し、先に部屋を出られた。「感慨無量」。譲位実現に奔走し、儀式を見届けた宮内庁の山本信一郎長官は言葉をかみしめた。
退位の礼後も分刻みで、皇太子ご夫妻や秋篠宮ご夫妻をはじめとする皇族方、宮内庁職員、皇宮警察職員のあいさつを受けられた両陛下。午後7時すぎ、最後に顔を合わせられたのは、献身的に支えてくれた側近部局の職員たちだった。 
英 専門家 「天皇陛下の退位に英王室も強い関心」
天皇陛下が退位されることについて、イギリス王室を研究するレディング大学のケイト・ウィリアムズ教授は「日本で起きていることをエリザベス女王や王室のメンバーは強い関心を持って見ている」と述べ、日本の皇室と親密な関係を続けてきたイギリスの王室にとっても重要なできごとだと指摘しています。
イギリスでは近年、健康や高齢を理由に国王や女王が王位を譲った例はなく、93歳のエリザベス女王についても生前退位をめぐる議論は広がっていませんが、ウィリアムズ教授は「イギリス王室においても将来、生前退位が可能なのか、さらに検討することになると考えられる。王位継承順位1位のチャールズ皇太子は、自分の子や孫が若いうちに君主の役割を果たすべきと考えることになるかもしれない」と述べています。
また、来月1日に即位される皇太子さまと皇后になられる雅子さまについて、「お二人ともオックスフォード大学で学ばれており、イギリスの人々は特にうれしく思うだろう。こうしたきずなや関係は注目されるだろうし、今後、イギリスを訪問されれば、それは王室との関係をより深める絶好の機会になるだろう」と述べました。 
「退位は約200年ぶり」海外メディアも大きく報道
天皇陛下が30日をもって退位されることについて海外のメディアも大きく伝えています。
英 BBC / このうち、イギリスの公共放送BBCは、皇居前からの中継を交えてトップ項目として伝え、「きょうは日本にとって歴史的な日で、天皇が退位するのはおよそ200年ぶりです」と報じています。そして、皇居の周辺に多くの市民や観光客が集まっている様子を紹介したうえで、「国民は、親しんだ天皇が退位することについて寂しさを感じる一方、85歳となった天皇が退位することに理解も示している」と伝えています。
米 CNN / アメリカのCNNテレビは、「天皇は、伝統的な皇室のしきたりにとらわれず、新しい取り組みに挑戦してきた」と紹介し、「初めて民間からおきさきを迎え入れたり、2年前、退位の意向をにじませたメッセージをテレビを通して伝えたりするなど、皇室のしきたりを打ち破ってきた」と振り返りました。
仏 フランス24 / フランスのニュース専門チャンネル「フランス24」は、「2600年以上続く皇室の125代目の天皇が退位する日だ」紹介としたうえで、「天皇は、日本の戦後の和解と平和、そして民主主義の象徴として捉えられている」と伝えています。そして、「あす皇太子さまが即位すると皇位の継承資格がある男性の皇族は3人となる。皇室を維持していくために女性の皇位の継承について、議論を始める必要が出てくるかもしれない」と今後の課題を伝えています。 
天皇陛下が退位、最後のお言葉で「国民に感謝」 CNN
天皇陛下は30日、皇居・宮殿で退位の儀式に臨んだ。翌5月1日に皇太子殿下が第126代の天皇に即位し、日本の元号は30年続いた「平成」から「令和」へと改まる。
天皇の退位が行われるのは過去200年間で初めて。85歳の陛下は在位中最後となるお言葉の中で「象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します」と述べた。
新たに始まる令和の時代については「平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」と語った。
退位後の陛下の称号は「上皇」となる。
陛下は2016年8月、自らテレビを通じてお気持ちを表明し、健康状態が悪化すれば象徴としての務めを果たしていくことが難しくなるのではないかとの懸念を伝えた。天皇陛下がこうしたメッセージを発するのはまれ。
これを受け宮内庁は17年12月に退位を行う方針を固め、安倍首相が決定を公表していた。  
 
 
 5/1

 

「令和」幕開け、新天皇陛下が即位 雅子さま新皇后に
天皇陛下が4月30日に退位し、皇太子さまが1日、新天皇に即位した。退位特例法に基づく代替わりで、元号は平成から令和となった。陛下は退位日の30日に国事行為の「退位礼正殿(せいでん)の儀」に臨み、「象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します」と述べた。
陛下は退位して「上皇」に、美智子さまは「上皇后」となり、今後は一切の公務から退く。
上皇となった陛下(以後、上皇さま)は85歳。2016年8月、高齢に伴い、退位の意向をにじませるビデオメッセージを公表。政府による検討を経て、17年6月、一代限りの退位を認める皇室典範の特例法が成立した。これにより、1817年の光格天皇以来202年ぶりの退位が実現した。
新天皇陛下は59歳。新皇后の雅子さまは55歳。53歳の秋篠宮さまは皇太子待遇の「皇嗣(こうし)」になり、皇位継承資格者は上位から順に秋篠宮さま、秋篠宮家の長男で12歳の悠仁(ひさひと)さま、83歳の常陸宮さまの3人のみとなった。
新天皇即位に伴い、皇居・宮殿では1日午前10時半から、皇位のしるしとされる神器などを引き継ぐ「剣璽(けんじ)等承継の儀」、午前11時10分から新天皇が最初のおことばを述べる「即位後朝見の儀」がそれぞれ国事行為として行われる。
上皇さまは退位にあたり4月30日、宮殿で午後5時から憲政史上初の退位礼正殿の儀に臨んだ。美智子さまや新天皇ご夫妻、秋篠宮ご夫妻のほか、三権の長や閣僚、地方代表ら294人が参列。安倍晋三首相が国民を代表して「深い敬愛と感謝の念をいま一度新たにする次第であります」と述べたのに続き、上皇さまが「今日をもち、天皇としての務めを終えることになりました」と在位中最後の「おことば」を述べた。天皇の務めを「国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした」と述懐。令和の時代が「平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」と結んだ。儀式は約10分間で終わった。
新天皇・皇后両陛下の横顔
「国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、あるいは共に悲しみながら、象徴としての務めを果たしてまいりたい」。新天皇陛下は皇太子時代の2月の記者会見で、即位への思いをこう語った。
59歳。学習院大時代の卒業論文のテーマは「中世瀬戸内海水運の一考察」。留学した英オックスフォード大では「18世紀のテムズ川の水上交通、物資流通」を研究、治水や利水など「水」問題の研究をライフワークとしてきた。
趣味は登山で、170超の山を踏破。ジョギングを日課としている。ビオラ奏者でもある。語学にたけ、国際親善の場や国際会議などでは英語やフランス語でスピーチをする。海外では市民との写真撮影に応じるなど気さくな一面も見せる。
新皇后の雅子さまは55歳。幼少期を旧ソ連、米国で過ごし、英仏独の3カ国語が堪能。米ハーバード大、東京大で学び、父と同じ外交官の道を歩み、「僕が一生全力でお守りします」との言葉を受け入れ、1993年に結婚し皇室に入った。
2001年に長女愛子さまを出産。その2年後から「適応障害」の長い療養生活に入った。近年体調は上向き、公務への出席のほか、教育や貧困、環境問題などについて専門家から「進講」を受けるなど活動の幅は広がりつつある。昨年12月の誕生日に際し、「国民の幸せのために力を尽くしていくことができますよう、研鑽(けんさん)を積みながら努めてまいりたい」と新皇后となる決意を文書でつづった。 
新陛下「重責に粛然たる思い」=朝見の儀で初のお言葉
新天皇陛下の即位に伴う「剣璽(けんじ)等承継の儀」と、即位後初めて国民代表に会う「即位後朝見(ちょうけん)の儀」が1日午前、いずれも天皇の国事行為として、皇居・宮殿「松の間」で行われた。即位後朝見の儀で新陛下は「この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします」と初めてお言葉を述べられた。
剣璽等承継の儀には、皇位継承順位1位の皇嗣の秋篠宮さま、同3位の常陸宮さまに加え、三権の長や閣僚ら26人が参列。午前10時半、えんび服に勲章を着けた新陛下が松の間に入室し、秋篠宮さま、常陸宮さまが後に続いた。
皇位の証しとされる剣と璽=勾玉(まがたま)=、天皇の印の御璽、国の印の国璽をささげ持った侍従が入室。それらを新陛下の前の「案」と呼ばれる台の上に置き、皇位継承を明らかにした。その後、新陛下は再び剣と璽をささげ持った侍従と共に退出した。儀式は約5分で終了。剣と璽は今後、新陛下のそばに置かれる。
午前11時10分すぎからの即位後朝見の儀は、新皇后さま、秋篠宮ご夫妻ら成年皇族方13人に加え、三権の長や閣僚、都道府県知事や市町村長の代表ら292人が見守る中、行われた。新陛下が30年余り国民と苦楽を共にした上皇さまに「敬意と感謝」を示し、国民に寄り添いながら憲法にのっとり、象徴の責務を果たすことを誓った。
続いて安倍晋三首相が「国民を挙げて心からお喜び申し上げます」と述べた。儀式は約7分で終わった。
新陛下は午前中から、宮殿で二つの儀式を国の儀式として行うことなどを定めた臨時閣議決定を裁可し、天皇としての公務を開始。菅義偉官房長官との面会、新侍従長らの認証式にも臨んだ。
新天皇、皇后両陛下はその後、いったん赤坂御所に戻り、午後、上皇ご夫妻らへのあいさつのため、皇居を訪れる。
剣璽等承継の儀の参列者は前例を踏襲し、皇族は皇位継承権を持つ成年男性に限定。片山さつき地方創生担当相は女性として憲政史上初となった。同儀式とほぼ同時刻には、皇居・宮中三殿で、皇室行事の「賢所の儀」と「皇霊殿神殿に奉告の儀」が行われ、新陛下に代わって掌典長が即位を告げる「御告文(おつげぶみ)」を読んだ。 
新天皇陛下が即位儀式
10:00 新天皇陛下が「初出勤」
新天皇陛下は1日朝、お住まいのある赤坂御用地を車で出発し、即位関連の儀式に出席するため車で皇居へ「初出勤」した。新陛下の姿を見ようと、沿道には大勢の人たちが集まった。
午前10時前、新天皇陛下を乗せた車が半蔵門に到着すると、集まった市民ら約500人から、「陛下!」「天皇陛下万歳」などの声が上がった。陛下は車の窓をあけ、にこやかに手を振って応えた。
陛下は当面、赤坂御用地にある即位前と同じ住まいで生活し、皇居・御所に通うことになる。
10:30 新天皇陛下が「承継の儀」
新天皇陛下が即位し、皇位のしるしとされる神器などを引き継ぐ「剣璽(けんじ)等承継の儀」が宮殿・松の間で始まった。安倍晋三首相や衆参両院議長らが参列。新天皇陛下は燕尾(えんび)服に、天皇という特別な地位に基づく「大勲位菊花章頸飾(けいしょく)」などの勲章を身につけて入場した。
参列は皇位継承権のある成人の男性皇族に限られ、継承順位第1位の皇嗣となった秋篠宮さま、同3位で上皇さまの弟・常陸宮さまが続いた。女性皇族は参列しなかった。
新天皇陛下に続き、侍従が「三種の神器」(剣、璽〈じ〉=まが玉、鏡)のうち、鏡を除く剣と璽、天皇が国事行為の執務で使う御璽(天皇の印)、国璽(日本国の印)を捧げ持って入場。新陛下の前の台にそれぞれを置いた。儀式は約5分間で終わった。
11:17 新天皇陛下「責務果たす」
新天皇陛下が即位儀式で「憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します」と即位後初めての「おことば」を述べた。
安倍首相は、即位後朝見の儀で、新天皇陛下の「おことば」を受け、「私たちは、天皇陛下を国及び国民統合の象徴と仰ぎ、激動する国際情勢の中で、平和で、希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ時代を、創り上げていく決意であります」と述べた。 
新天皇陛下「国民に寄り添う」 即位の儀式終了
1日午前0時に即位した天皇陛下は皇居・宮殿で即位関連の儀式に臨まれた。「剣璽等承継の儀」では陛下が歴代天皇に伝わる神器などを受け継がれた。続いて行われた「即位後朝見の儀」で、陛下は「国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たす」とする即位後初めてのお言葉を述べられた。
即位後朝見の儀で皇位継承に伴う儀式が終了した。
天皇陛下は59歳。実在が確かな歴代天皇の中では、60歳で即位した奈良時代の光仁天皇に次いで2番目の高齢での即位となった。皇后雅子さまは55歳。
剣璽等承継の儀は国事行為として午前10時半から、宮殿内で最も格式の高い「松の間」で行われ、安倍晋三首相ら三権の長や閣僚ら26人が国民代表として参列した。
陛下は、宮内庁の秋元義孝式部官長と山本信一郎長官の先導で松の間に入られた。皇位継承順位1位の秋篠宮さまと、陛下のおじに当たり、同3位の常陸宮さまも儀式に参列された。
陛下が正面の席の前に参列者と向き合って立たれ、三種の神器のうちの剣と璽(じ=まがたま)、国事行為で使われる御璽(天皇の印)と国璽(国の印)を持った侍従が一列になって入室。剣璽などを陛下の前の台に置いた。その後、陛下は受け継いだばかりの剣や璽をささげ持った侍従らと共に松の間を退出され、儀式は約7分間で終了した。
松の間では続いて、午前11時10分すぎから即位後朝見の儀が行われた。儀式は約7分間。三権の長や閣僚、地方自治体の代表ら266人が参列し、天皇、皇后両陛下が秋篠宮ご夫妻ら成年の皇族方と共に入室された。
陛下のお言葉の後、安倍首相が国民代表として「天皇陛下を国及び国民統合の象徴と仰ぎ、激動する国際情勢の中で、平和で、希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ時代を創り上げていく決意だ」とお祝いの言葉を述べた。
儀式に先立ち、陛下は午前9時50分ごろ、赤坂御所を車で出発。首に天皇が装着する最高の勲章「大勲位菊花章頸飾」を身につけ、沿道に集まった人々にほほ笑みながら手を振って応えられた。午前10時ごろに皇居に入ると、宮殿「菊の間」で初の公務として、剣璽等承継の儀と即位後朝見の儀を国の儀式として行う旨の閣議決定に「裁可」された。
この日は夜まで多忙な日程が続く。側近トップの小田野展丈新侍従長と、上皇ご夫妻を支える河相周夫新上皇侍従長の辞令関係書類に署名・押印した後、松の間で任命式に臨まれる。
両陛下はいったん東京・元赤坂の赤坂御用地内にある赤坂御所に戻られた後、午後に皇居・吹上仙洞御所を訪ね、上皇ご夫妻に即位を報告。その後、宮殿に移動し、皇族方や元皇族、宮内庁の職員らから祝賀を受けられる。受け継がれた剣と璽は赤坂御所に運ばれ、厳重に保管される。 
新しい天皇陛下が即位 「令和」始まる
天皇陛下(明仁さま)が4月30日に退位し、皇太子徳仁親王さまが1日午前0時、新天皇に即位した。天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づく代替わりで、元号は平成から令和に変わった。
天皇の譲位は202年ぶり。陛下は退位して「上皇」に、美智子さまは「上皇后」となった。
宮内庁によると、新天皇になった皇太子さまは1日午前10時過ぎ、即位後初の国事行為に臨み、「剣璽等承継の儀」と「即位後朝見の儀」を国の儀式として実施することを定める閣議決定を決裁される。
午前10時半からは皇居・宮殿で、即位の儀式「剣璽等承継の儀」に臨む。さらに午前11時10分から「即位後朝見の儀」で、新天皇として初めて安倍首相ら三権の長など国民の代表を前に、お言葉を述べられる。
新しい天皇陛下は59歳。学習院大学と英オックスフォード大学で学び、28歳の時に皇太子になった。
1986年の茶会で雅子皇后さまと出会ったとされる。お2人は1993年に結婚した。
2001年には、一人娘の愛子さまが誕生した。ただし、現在の日本の法律(皇室典範)では女性が皇位を継承できないため、愛子さまは皇位継承者ではない。
新天皇の即位によって、愛子さまの叔父の文仁親王(秋篠宮)が皇位継承順位第1位となり、特例法の規定で皇太子待遇の「皇嗣(こうし)」になった。継承順位第2位は、秋篠宮さまの長男で、愛子さまのいとこに当たる12歳の悠仁さま。
退位のおことばで国民に感謝
30日午前には、天皇陛下が歴代天皇などに退位を報告する宮中祭祀が皇居で行われた。午後5時からの「退位礼正殿の儀」では、国民に向けて「おことば」を述べた。
約10分間の「退位礼正殿の儀」はテレビやインターネットで生放送された。今生きている日本人が退位の儀式を目にするのは初めてだった。
天皇陛下は天皇としての務めを終えることを宣言し、「即位から30年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します」、「明日から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」と述べた。
「退位礼正殿の儀」は、皇居正殿の松の間で行われ、皇后陛下や徳仁親王といった皇族に加え、安倍晋三首相をはじめとする政府関係者など約300人が参列した。
儀式はまず、侍従が国璽(こくじ)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を持って松の間に入り、続いて天皇陛下が入室した。
天皇のおことばの前には安倍首相が国民を代表して「私たちは、これまでの天皇陛下の歩みを胸に刻みながら、平和で、希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来を創り上げていくため、さらに最善の努力を尽くしてまいります」とあいさつを述べた。
続く「おことば」の中で、モーニングコート姿の陛下は、「ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」と述べた。
壇上から降りる皇后陛下に手を差し伸べて手伝った天皇陛下は、集まった参列者に一礼してから松の間を退室した。
新天皇の即位によって上皇、上皇后となったご夫妻は、今後は一切の公務から退く。
なぜ譲位を
天皇は政治的な権限をもたず、国民統合の象徴の役割を担う。
上皇となった陛下は、病気や災害に苦しむ人々と交流した天皇として知られ、多くの日本人が、そうした天皇陛下を慕ってきた。
天皇の譲位は、1817年の光格天皇以来だ。
2016年に当時の天皇陛下は、高齢のため天皇の義務を果たすのが難しくなってきたと表明。「既に80を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」と述べ、退位の意向を強くにじませた。
世論調査の結果によると、天皇陛下の退位の意向を、大多数の日本人が同情的に受け止めた。翌年、天皇陛下の退位を認める特例法が国会で成立した。
日本人は代替わりをどう受け止めている?
天皇の代替わりに伴い、ゴールデンウィークの連休は、過去最長の10日に延長された。
国全体が喪に服していた30年前の昭和天皇からの代替わりとは対照的に、今回の代替わりは前向きな祝い事として受け止められている。
多くの人は映画に出かけたり、自宅で天皇陛下の退位と即位の儀式の生中継を見たりして、休日を満喫している。
天皇退位の儀式を目にするのは、今生きている全ての日本人にとって、初めてのことだ。
天皇の即位がテレビ放送されるのは今回が2回目となる。天皇陛下の即位も、30年ほど前にテレビ放送された。
なぜ日本の皇室は大事なのか?
日本の皇室は、世界最古の世襲制の王室。神話では、その起源は紀元前600年近くまでさかのぼる。
実際、天皇は神とあがめられてきた。しかし、第2次世界大戦で日本が降伏した際、昭和天皇が公に神格を否定した。
しかし、諸外国への訪問を重ね、皇室外交を通じて戦後日本の悪評改善に寄与したのは天皇陛下だ。さらに天皇陛下は、国民と皇室の垣根を取り払ったと高く評価されている。
それまでの天皇が国民と交わる機会はあまりなかったが、上皇陛下は天皇としての役割を再定義。そして、災害の被災者たちへの思いやりで知られるようになった。
即位2年後の1991年に、長崎県・雲仙普賢岳噴火による大火砕流の被災者を見舞ったときには、両陛下はそれまでのしきたりを破り、避難所の床にひざを付いて被災者たちに話しかけた。こうした姿勢はその後も継続して見られた。
国内で長く迫害され、疎外されたハンセン病などの慢性病の患者と交流してきたことも、過去の皇族とは大きく異なる行動だ。
陛下は世界各国を訪問し、日本の非公式の大使となって、外交官の役割を果たしてきた。新天皇にも、その役割が引き続き期待されている。 

 

天皇陛下 退位のご報告
平成天皇 2018
言葉が思い浮かばない 2016
 
 
 
 

 



2019/5
 

 

●賢所
1
かしこどころ、「けんしょ」とも読む。皇居で天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)とする神鏡を祀(まつ)ってある所。内侍所(ないしどころ)ともよばれた。三種の神器の一つである神鏡(八咫鏡(やたのかがみ))が、伊勢(いせ)神宮の建立とともに移されたため、宮中では別の神鏡を祀ることにした。当初天皇の起居する所に祀られたが、つねにいっしょであることを避けて別に場所を設けた。これが賢所で、平安宮内裏(だいり)では温明殿(うんめいでん)にあり、鎌倉時代以後は春興殿(しゅんこうでん)に移った。1869年(明治2)明治天皇の東京遷都に伴って、皇居内の山里御庭に造営され、皇居火災後の89年皇霊(こうれい)殿、神殿とともに宮中三殿として吹上御苑(ふきあげぎょえん)内に新造され、現在に至っている。
2
日本の天皇が居住する宮中において、三種の神器のひとつである八咫鏡を祀る場所。宮中三殿の一つである。八咫鏡そのものを祀るというより、八咫鏡を天照大御神の御霊代として祀るといった方が正しい。かつては内侍が管理したため内侍所(ないしどころ)とも称され、威所・尊所・恐所・畏所などともいった。現在は宮中三殿の中央が賢所とされる。なお、「かしこどころ」で神鏡そのものを、「けんしょ」で宮中三殿そのものを指すことがある。起源としては、伊勢神宮に奉安されている八咫鏡の模造の神鏡が天皇の居住する内裏の側に奉安され、賢所とされるようになった。平安京の内裏では温明殿の南側の身舎が賢所とされた。平安時代中期以後、温明殿と綾綺殿との間の西側の庭において毎年12月に天皇臨席のもと御神楽が開かれた。後に内裏が荒廃すると、賢所は春興殿に移された。
3
宮中三殿のひとつ。天照大神 (あまてらすおおみかみ) の御霊代 (みたましろ) として神鏡を奉安してある所。内侍所 (ないしどころ) 。けんしょ。八咫 (やた) の鏡のこと。「内侍も女官も参りあはずして、―を出だし奉るにも及ばず」〈平家・一一〉。
4
皇室の重要な祭祀が行われる宮中三殿の1つ。皇祖神である天照大神を祀り、その御霊代である神鏡(八咫鏡の複製とされる)が奉斎されている。掌典と内掌典が御用を奉る。神聖な場所で厳格な規律があると言われている。
5
(恐れ多く、もったいない所の意) 宮中で天照大神の御霊代(みたましろ)として神鏡の八咫鏡(やたのかがみ)を模した別の神鏡を祀ってある所。内侍所(ないしどころ)ともいった。平安時代は温明殿(うんめいでん)に、鎌倉時代以後は春興殿にあった。現在は皇居吹上地区にあり、神殿・皇霊殿と共に宮中三殿という。けんしょ。神鏡を指す称。[ 内侍所 ナイシドコロ ] 宮中の賢所の別名。神鏡を安置し、内侍がこれを守護したからいう。平安時代には温明殿(うんめいでん)にあり、毎年一二月、吉日を選んで、その庭上で神楽(かぐら)が催された。八咫鏡(やたのかがみ)の称。
宮中三殿
皇居内の賢所かしこどころ・皇霊殿こうれいでん・神殿しんでんの総称です。
賢所 / 皇祖天照大御神がまつられています。皇霊殿 / 歴代天皇・皇族の御霊がまつられており、崩御・薨去の1年後に合祀されます。神殿 / 国中の神々がまつられています。三殿に附属して構内に、神嘉殿しんかでん・神楽舎かぐらしゃ・綾綺殿りょうきでん・奏楽舎そうがくしゃ・幄舎あくしゃ等の建物があります。 
●八咫鏡(やたのかがみ)
三種の神器の一つ。年代不詳。『古事記』では、八尺鏡(やたかがみ)と記されている。八咫鏡は神宮にある御神体と、その御神体を象って作ったという皇居にある形代(複製)の2つがある。
『古事記』では、高天原の八百万の神々が天の安河に集まって、川上の堅石(かたしは)を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた」と記されている。
『日本書紀』には、別の名を真経津鏡(まふつの かがみ)ともいうと記されている。単に神鏡(しんきょう)または宝鏡(ほうきょう)とよばれることも多いが「神鏡」や「宝鏡」という言葉は普通名詞であり、八咫鏡だけをさすとは限らないので注意が必要である。
一般に「八咫(やた)」は「八十萬神」「八尋大熊鰐」「八咫烏」等と同様、単に大きい・多いという形容であり具体的な数値ではない、とされているが、咫(あた)を円周の単位と考えて径1尺の円の円周を4咫(0.8尺×4)として「八咫鏡は直径2尺(46cm 前後)、円周約147cmの円鏡を意味する」という説も存在する。
後漢の学者・許慎の『説文解字』には、
「 咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也 」 (咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、周尺なり)
とあり、戦国〜後漢初期の尺では一寸2.31cm×8寸×8咫=約147cmとなるが、周尺とでは齟齬がある。
平原遺跡出土の「大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)」は直径46.5cm、円周は46.5×3.14 = 146.01cmであり、弥生時代後期から晩期にこのサイズの鏡が存在したことは確かとなった(考古遺物の節を参照)が、現存する桶代(御神体の入れ物)の大きさから推察される神器の鏡はもっと小さい。
いずれにせよ、その特大の大きさから、後に三種の神器の一つである鏡を指す固有名詞になったと考えられている。
伊勢神宮の八咫鏡
天照大御神の「御神体」としての「八咫鏡」は神宮の内宮に変わらず奉安されている。神道五部書や類聚神祗本源等(神道五部書そのものは「偽書」との指摘もある)によればこの「八咫鏡」は「八葉八頭花崎形」、「八葉中有方円五位象、是天照大神御霊鏡座也」という。この「八咫鏡」は、明治初年に明治天皇が天覧した後、あらためて内宮の奥深くに奉納安置されたことになっている。
この「神宮の八咫鏡」の「最初の姿と大きさ」は、考古学者原田大六によれば、福岡県糸島市にある「平原遺跡出土の大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)と、同じ形状で同じ大きさのものではなかったか」と考察して、それを著書に記している。これは『延喜式』伊勢大神宮式、『皇太神宮儀式帳』において、鏡を入れる桶代の内径が「一尺六寸三分」(約49センチ)としており、46.5センチの大型内行花文鏡を納めるにはちょうど良い大きさであることから。原田によれば「御鎮座伝記を読み解いてみると、約三回ほど内宮の火災があり、このいずれかに焼失してしまい(一度だけとは限らないかも、とも)、その時に新たに作り直された八咫鏡は、現在に残る桶代(御神体の入れ物)の大きさから推定して、直径46.5cmの大きさではなくなっている」という。また、「図象も実際に見て模写するべくもないであろうから、これも変化しているだろう」という。
宮中賢所の八咫鏡
皇居の八咫鏡は、賢所に奉置されていたことから、その鏡を指して賢所(かしこどころ)ともいう。そのため、あえて賢所のことをいう場合にはこれを「けんしょ」と呼ぶか、またはその通称である「内侍所」といって、これを言い分けたという。しかし後世になると内侍所も神鏡のことを指す言葉となった。
内侍所の神鏡は天徳4年(960年)、天元3年(980年)、寛弘2年(1005年)に起こった内裏の火災により焼損している。天元の際に半ばが焼失し、鏡の形をとどめないものとなった。寛弘の際には、ほとんど灰になってしまい、やむなく灰の状態のまま保管した。このため直後から鏡を改鋳する議論が持ち上がり、諸道に勘文を提出させた。翌寛弘3年7月には一条天皇御前で公卿会議が行われ、左大臣藤原道長が改鋳を支持したものの、公卿の大半が反対したため改鋳は行われなかった。
平安時代末期、平家の都落ちとともに西遷し、寿永4年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦の戦いの際に安徳天皇とともに海中に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが今日も賢所に置かれている。
室町時代の嘉吉3年9月23日(1443年10月16日)に起こった禁闕の変で、後南朝勢力が宮中を襲撃した際、三種の神器をのうち宝剣と神璽は奪われたが、神鏡のみは難を逃れ、翌日近衛殿に移された。
宗像大社邊津宮の八咫鏡
筑前国風土記は現存しないが、逸文に明確に記述される。古代の記録では八咫鏡を依代とするのは、神社では伊勢神宮と宗像大社邊津宮だけであるとされる。
神話
記紀神話によれば、天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命が作った。天照大神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大神自身を映して、興味を持たせ、外に引き出した。そして再び高天原と葦原中国は明るくなった、という。
天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下された、という。
考古遺物
福岡県糸島市にある遺跡「平原遺跡」において出土した国宝に指定されている直径46.5cmの大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)4面(後に5面に修正)は原田大六によると八咫鏡そのものという。この「大型内行花文鏡」は、図象のみの大型の青銅鏡である。つまり、文字や神獣などの図柄は無い。 また、『御鎮座伝記』に「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」とあり、この「八頭花崎八葉形也」の図象を持つ考古遺物は現在のところ、この「大型内行花文鏡」のみである。
この鏡のうち4面は伊都国歴史博物館で、また1面は九州国立博物館で常時展示されており、実物を見ることができる。 

 

●巧言令色、鮮矣仁≠安倍首相に贈る 
令和≠ノこめる妄執に囚われる危険な思想
私、思想的にも信条的にもラディカルかつ、リベラルであると自任していますが、こと言葉遣いに関しては保守的で、従来通りの意味をまずもって尊重します。例えば「鳥肌が立つ」というフレーズ。昨今は「これまでの慣用を破る、という語感を伴い、プラス評価の場合にも」などと、新しい用例を示す辞書も目立つようになってきていますが、そうしたニュアンスでは決して口にしませんし、文に綴ることもありません。スポーツの実況中継で、選手やアナウンサーが興奮気味に「鳥肌が立った」と連呼するのを聞くと、拠って立つ言語観の違いから、本当に鳥肌が立ってしまいます。
そういえば、こんな記憶が残っています。六〇歳まで勤めた地方の新聞社で短い期間でしたが、運動部に所属したことがありました。四〇歳前後のころです。その時、すごく気になったのが「国民体育大会」を略した国体≠フ文言でした。一九三〇年代半ばから四五年の敗戦まで、この国体≠フ名の下で人々がいかに理不尽な状況に追い込まれたか、という事実を思い起こせば、このような省略の仕方には疑問を持たざるを得ませんでしたし、少なくともジャーナリズムに関わる人間は言葉にナーバスであるべきだ、という念が強くありました。
翻って、四月一日(エープリルフールでしたね)以降の令和°カ騒曲です。安倍晋三首相は新しい元号の発表に際して、わざわざ官邸の会見場にしゃしゃり出てきて大仰な談話を述べただけでなく、ツイッターやインスタグラムにも談話を投稿する、といった悪乗りぶり。加えて彼に迎合したかのようなマスコミの尋常でないはしゃぎぶり。いずれに対しても強い違和感を抱きました。むろん、安倍首相、そして政府の「典拠は国書の万葉集」という説明もうさんくさく感じました。
そして言葉遣いに保守的な私は、首相談話にこれまた、等閑視できない語句を見つけました。「悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄を、しっかりと次の時代へと引き継いでいく」の国柄≠ナす。この語、これまで政治家が使うことはあまりなかったのですが、彼の演説では頻繁に登場しています。それもこの談話同様、必ず日本の伝統、風土を讃える部分を受ける文脈で。例えば、「素晴らしい田園風景、緑あふれる山並み、豊かな海、伝統あるふるさと。わが国の国柄を守ってきたのは、全国各地の農林水産業です」(二〇一九年一月二八日の国会での施政方針演説から)といった具合に、です。
日常会話での「お国柄の違い」とか、いう言い方とは明らかにニュアンスを異にしています。これは私の勘ぐりですが、安倍首相はこの国柄≠ノ、前記の国体≠ニいう言葉の意味、つまり天皇を頂点に仰ぐ国家体制のイメージ、を恣意的に重ねようとしているのではないでしょうか。そういえば、一九四〇年に文部省(当時)が編纂した「聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告」にある「教育勅語全文通釈」では「此レ我カ国体ノ精華ニシテ」の部分を「これはわが国柄の精髄であって」としています。
こうした安倍首相のご都合主義というか、言い回しのすり替えは、断じて認めることができません。彼がことのほか気に入っている新元号「令和」の令≠ノ引っ掛けて、これは彼が大好きな国書≠ナはありませんが、何度か元号の典拠になっている『論語』の一節を贈ります。「子曰、巧言令色、鮮矣仁(子ののたま 曰 わく、こうげんれいしょく 巧言令色、 すく鮮 なし仁)」(先生がいわれた、「ことば上手の顔よしでは、ほとんど無いものだよ、仁の徳は。」)。 
●「已む」読めなかった? 安倍首相が歴史的儀式で驚きの大失言
4月に行われた「退位礼正殿の儀」歴史的な儀式での、安倍首相の失言が世間を騒がせた。ミスは誰にでもあるが、それを防ぐ準備は十分だったのか? 首相の姿勢が問われる。
4月30日、「退位礼正殿の儀」で、安倍晋三首相はおそらく歴史に残る大失言をしてしまった。それが起きたのは「国民代表の辞」のほぼ末尾だ。
「天皇、皇后両陛下には末永くお健やかであらせられますことを願っていません」
これでは、国民の大多数の願いとは全く逆だ。
文書として公表された「国民代表の辞」には当然、「願ってやみません」とある。なぜこんな間違いが起きたのか。動画で確認すると、安倍氏は懐から出した文書を読み上げたのだが、「あられますことを願って」まで進んだところで一瞬口ごもり、その後で「あらせられますことを願っていません」と発言していることがわかる。
「願ってやまない」の「やむ」は「已む」と書く。「己」や、十二支の「巳」と紛らわしい字ではある。安倍氏が手にした原稿では教養のある官僚が漢字で書いていたため、なんと読むかためらって、「願っていません」と言ってしまったのではないかとも思われる。
安倍氏は2017年1月24日、参議院本会議で蓮舫議員に対し「訂正でんでんという指摘は全く当たりません」と答弁した。これは「云々」を、「伝々」と誤って覚えていたようだ。もし「国民代表の辞」の原稿にひらがなで「願ってやみません」と書いてあったのに「願っていません」と言ったのなら、安倍氏は「願ってやまない」という言葉を知らないほど語彙が乏しいのか、意図的に変えたのか。どちらも少々考えにくい。
当意即妙が求められる国会答弁なら「でんでん」も笑い話で済むが、今回の舞台は憲政史上初の儀式だ。その重要な場で国民を代表し、天皇、皇后両陛下に直接あいさつをするのに、下読みも十分にしなかったなら、怠慢の極み。皇室に対する敬意を欠いていると言われても仕方が無いだろう。
だがテレビや翌日の新聞は、公表された原稿の内容を伝え、言い誤りはほとんど報じなかった。記者が聞き耳をたてず、発表文書に頼る風潮を示しているように感じられる。
私が5月3日に動画サイト「デモクラ・テレビ」の討論番組で「あきれた失言」と話すと、他の出演者は「それは初耳」と驚いていた。その後、右翼団体「一水会」が6日ごろからインターネットで批判を始めるなど、言い間違いへの非難は徐々に広がっている。
このように趣旨が逆転する失態が起きた例としては、1899年5月24日の読売新聞社説がある。原稿には「全知全能と称される露国皇帝」とあったのが、「無知無能と称される露国皇帝」と誤植された。主筆が毛筆で右肩上がりの崩し字を書いたため「全」が「無」に見え、活字を拾う工員が間違えたのだ。国際問題にもなりかねず、同紙は訂正号外を出し、ロシア公使館に釈明、陳謝して事なきを得たという。
1631年にロンドンで発行された「姦淫聖書」事件も有名だ。十戒の一つ「汝姦淫すべからず」の「not」が脱落し、「姦淫すべし」となっていた。教会は組織をあげて回収、焼却したが、残った数冊は今も珍書として高価で取引される。出版元の主は300ポンド(現在の価値で1500万円に相当か)の罰金を科されたが支払えず、投獄され獄死したという。
戦前の日本では皇室に対する不敬罪があり、「天皇陛下」を「階下」と誤植して出版禁止の行政罰をうけた出版社もあった。新聞社は「天皇陛下」の4字を一つにした活字を作るなどして過失の防止に努めた。幸い、今の日本には不敬罪はないが、国民を代表しながら「未曽有」の失言をしたのはなぜなのか。安倍氏はそのいきさつを国民に釈明するべきだろう。