忖度道路

下関北九州道路 予算
安倍政権の体質 大変判りやすい解説  ありがとうございました

忖度文化 政(まつりごと)を謳歌
民の年貢米 運上金(税金) 
天上天下唯我独尊 一族郎党 勘定所を差配
媚び諂(へつら)い 従う者にお裾分け

金子(きんす)足りない 金座金吹所 紙に刷る
外様 消滅 靄(もや)の中
 


江戸時代のお金
 
 

 


●塚田国交副大臣 4/1
福岡県知事候補 武内和久 新人(自民党推薦) 選挙応援演説

麻生太郎衆院議員にお仕えして、はや20年近く。最初の総裁選は大変でした。その時代から、麻生太郎命、一筋でやってきた。筋金入りの麻生派です。
実は公務で(福岡県に)来ました。福岡空港の民営化の開設式です。私は新潟の自民県連会長もやっているので、50人の同士の応援要請があったが、かわいい弟分の大家敏志参院議員(麻生派)の要請があり、おやじ(麻生氏)の顔が浮かんで足を運びました。麻生派は渡世の義理だけで動いている。ほとんどやせ我慢の団体です。私は夏に参院選があるが、自分の票を削って北九州に参りました。
国交副大臣なのでちょっとだけ仕事の話を。大家さんが私が逆らえない吉田博美・自民参院幹事長と一緒に「地元の要望がある」と副大臣室に来た。下関北九州道路(の要請)です。これにはいきさつがありまして、11年前に凍結されています。何でか分かります? 「コンクリートから人へ」の流れで、とんでもない内閣があったでしょ(※事実上凍結した2008年当時は自公政権)。総理は悪夢のようだと言ったがその通りです。
何とかしないといけないと。下関と北九州ですよ。よく考えてください。下関は誰の地盤ですか? 安倍晋三総理です。麻生副総理の地元でもある北九州への道路事業が止まっている。吉田先生が私の顔をみて、「塚田、分かっているな」と。「これは総理の地元と副総理の地元の事業なんだよ」と。「俺が何で来たか分かるか」と。私は物わかりがいい。すぐ忖度(そんたく)します。「分かりました」と。
そりゃ総理とか副総理はそんなこと言えません。私は忖度しました。この事業を再スタートするには、いったん国で調査を引き取らせてもらいます、と。今回の新年度の予算で国直轄の調査計画に引き上げました。
別に知事に頼まれたからではありません。大家敏志が言ってきた、そして私が忖度したということですので。
いろいろ計画があります。トンネルが良いという人がいるが、橋がいいのではないかということで、おそらく橋を架ける形で調査を進めて、できるだけ早く、みなさまのもとに橋が通っていけるように頑張りたい。 
 

 


●首相の地元で道路整備 「私が忖度」発言を撤回 4/2
北九州市と山口県下関市を結ぶ道路の整備をめぐって、塚田一郎国土交通副大臣は「安倍総理大臣や麻生副総理が言えないから、私が忖度(そんたく)した」と発言しましたが、2日、事実とは異なるとして、撤回しました。
北九州市と山口県下関市を新たに結ぶ道路の整備に向けて、今年度の国の予算では、調査費が計上されました。
これに関連して、国土交通副大臣を務める自民党の塚田一郎参議院議員は1日、北九州市で開かれた集会で、安倍総理大臣が下関市を、麻生副総理兼財務大臣が福岡県を地元とすることに触れたうえで、「安倍総理大臣や麻生副総理が言えないから、私が忖度(そんたく)した」と述べました。
しかし、塚田副大臣は2日、「発言は事実と異なる」として、撤回し、謝罪するコメントを出しました。
そのうえで、「下関北九州道路は、国で事業の必要性などを鑑み、直轄調査を実施することにした」としています。
参議院では、4日に決算委員会が開かれることになっていて、野党側から、発言に対する批判が出ることも予想されます。 
●塚田氏「安倍・麻生氏の意向を忖度」発言 撤回し謝罪 4/2
国土交通副大臣を務める自民党の塚田一郎参院議員(新潟選挙区)が、北九州市内の集会で、同市と山口県下関市を新たに結ぶ「下関北九州道路」を巡り、本年度から事業化に向け国直轄調査に移行する決定をしたことについて「総理とか副総理が言えないので、私が忖度(そんたく)した」と話していたことが2日、分かった。塚田氏は同日、一連の発言を撤回し謝罪した。
安倍晋三首相が下関、麻生太郎副総理兼財務相が福岡県を地盤にしており、事業を管轄する国交省の現職副大臣が利益誘導を認めたとも受け取れる「忖度」発言は、大きな批判を呼びそうだ。
塚田氏は1日夜、福岡県知事選に立候補している自民推薦候補の応援演説をするため北九州入りしていた。塚田氏は時期は明かさなかったが、自民党の吉田博美参院幹事長と面会した際、「これは総理と副総理の地元の事業だよ」と言われたことを明かした上で、「私は物分かりがいい。すぐ忖度する。分かりましたと応じた」と話した。さらに「私は筋金入りの麻生派だ」とも強調した。
この道路を巡っては、2008年3月に当時の自公政権が調査中止を決めたが、17年度から地元自治体による調査を再開。19年度予算で調査費として約4千万円を計上した。
塚田氏は2日、取材に「事実に基づかない発言をしてしまい、おわびします」と謝罪した。塚田氏は自民党県連会長を務めている。
菅義偉官房長官は同日午後の会見で「個々の事業については周辺道路の整備状況や当該事業を行った場合の効果を踏まえて実施を判断している」と説明。「既に(塚田氏から)訂正と謝罪があったと聞いている。本人から丁寧に説明を行うことが必要だ」と述べた。 
●「安倍・麻生氏の意向忖度」 下関北九州道で国交副大臣、利益誘導認める 4/2
塚田一郎国土交通副大臣(自民参院議員)は1日夜、北九州市内の集会で、同市と山口県下関市を新たに結ぶ「下関北九州道路」(下北道路)を巡り、本年度から事業化に向け国直轄調査に移行する決定をしたことについて「総理とか副総理が言えないので、私が忖度(そんたく)した」と述べた。下北道路は安倍晋三首相が下関、麻生太郎副総理兼財務相が福岡県を地盤にしていることから「安倍・麻生道路」とやゆされてきた。現職副大臣が利益誘導を認めた「忖度」発言は、大きな批判を浴びそうだ。
塚田氏は同日、福岡県知事選に立候補している自民推薦候補の応援演説をするため北九州入りしていた。塚田氏は時期は明かさなかったが、下北道路建設を推進する自民の吉田博美参院幹事長と面会した際、「これは総理と副総理の地元の事業だよ」と言われたことを明かした上で、「私は物分かりがいい。すぐ忖度する。分かりましたと応じた」と話した。さらに「私は筋金入りの麻生派だ」とも強調した。
塚田氏は新潟県生まれ。2000〜02年まで麻生氏の秘書を務め、07年、新潟選挙区から参院議員に初当選。現在、麻生派に所属している。
下北道路は、08年3月に当時の自公政権が調査中止を決めたが、17年度から地元自治体などによる調査を再開。19年度予算で調査費として約4千万円を計上した。
塚田一郎国土交通副大臣は2日、一連の発言について「事実と異なるため撤回し、謝罪申し上げます。下関北九州道路については今般、国において事業の必要性などに鑑み、直轄調査を実施することとしたところです」との談話を発表した。 
 

 


●首相、塚田国交副大臣の罷免否定  4/3
安倍晋三首相は3日の衆院内閣委員会で、塚田一郎国土交通副大臣の発言を巡り「副大臣としての公正性が疑われてならないのは当然だ。行政への信頼を傷つけてはならない」と述べた。「すでに本人から撤回し謝罪した。まずは本人からしっかり説明すべきで、そのことを肝に銘じて職責を果たしてもらいたい」と語り、罷免を否定した。
塚田氏は1日、北九州市内での集会で、同市と山口県下関市を結ぶ「下関北九州道路」の建設計画を巡り、国による直轄調査へ移行したことを「首相や麻生太郎副総理・財務相が言えないので、私が忖度(そんたく)した」と発言した。塚田氏は2日に発言を撤回し謝罪したが、野党は辞任するよう求めている。
塚田氏は3日の衆院内閣委で「甚だ不適切であり、真実ではない。大変申し訳ない」と改めて陳謝した。「しっかりと説明責任を果たすことにおいて職責を全うしていきたい」とも語った。 
●「忖度」発言の塚田一郎副大臣に菅義偉長官が注意 4/3
菅義偉(すが・よしひで)官房長官は3日の記者会見で、山口県下関市と北九州市を結ぶ「下関北九州道路」の国による直轄調査への移行に関する発言を撤回し、謝罪した塚田一郎国土交通副大臣を注意したことを明らかにした。「二度とこのようなことがないようにしてほしい」と要請した。
塚田氏は1日に北九州市で開かれた集会で、調査に関し「安倍晋三首相や麻生太郎副総理が言えないので、私が忖度(そんたく)した」と発言。首相の地元の下関市と、麻生氏の地元の福岡県を結ぶ道路整備に関し、現職副大臣として便宜を図ったと受け取られかねない発言で、2日に撤回していた。 
 

 


●野党、国交副大臣「忖度」発言を追及 首相、改めて罷免否定  4/4
野党は4日の参院決算委員会で、塚田一郎国土交通副大臣が安倍晋三首相と麻生太郎副総理・財務相の地元の道路整備を巡って「忖度(そんたく)した」と発言したことへの追及を続けた。首相は「事実と異なることを有権者の前で述べたのは重大な問題だ」と指摘したが、野党による塚田氏の更迭要求には応じない考えを改めて示した。
塚田氏は「大勢の会合だったので、熱が入ってしまい発言した」と釈明。「嘘だとの認識で発言したわけではないが、報道を知り改めて自分の発言を確認して、事実と異なるとの認識に至った」と述べ、発言翌日の報道で問題を認識したと主張した。野党からの辞任要求は拒否した。
国民民主党の礒崎哲史氏は「塚田氏は非常に聡明(そうめい)、冷静沈着だ。その場の雰囲気で嘘を言ったとは信じられない」と批判した。
野党は塚田氏が言及した北九州市と山口県下関市を結ぶ下関北九州道路の整備を巡って利益誘導があったのではないかとみて批判を強めている。
立憲民主党の小川敏夫氏は道路事業に首相が関与したのではないかとただした。首相は「首相として要望することはない。地元の陳情などは聞いたことはある」と述べた。本州と九州を結ぶ既存の関門トンネルについては老朽化が進んで通行止めが多いと指摘し「これでいいのかという問題意識はずっと持っていた」と説明した。
立民の蓮舫参院幹事長は4日、国会内で記者団に「利益誘導だ。(政府・与党は)国民不在で首相しか見ていない。忖度政治を終わらせないといけない」と批判した。
野党は4日、下関北九州道路に関する国土交通省への合同ヒアリングを開いた。同省の説明によると、昨年12月20日に塚田氏が自民党の吉田博美参院幹事長から要望を受けた際、池田豊人道路局長と担当課長が同席した可能性があるという。
塚田氏は1日、北九州市内で開いた集会で、下関北九州道路の建設計画に関し、国による直轄調査へ移行したことを「首相や副総理が言えないので、私が忖度した」と発言。2日になって、発言は事実と異なるため撤回し謝罪すると文書で発表した。
塚田氏は1日の発言のなかで、吉田氏から昨年12月に要望を受けた際に首相と麻生氏の地元だと強調されたと言及していた。吉田氏は3日、そのような発言はしていないと文書で否定している。 
●塚田国交副大臣、釈明に追われる=忖度発言、与党も批判 4/4
安倍晋三首相と麻生太郎副総理兼財務相の地元を結ぶ道路整備をめぐり、首相らの意向を「忖度(そんたく)した」と発言した自民党の塚田一郎国土交通副大臣は4日も釈明に追われた。立憲民主党など主要野党は改めて辞任を要求。与党内でも批判が出ており、世論の反応次第で進退問題に発展する可能性もある。
塚田氏は同日の参院決算委員会で、「事実と異なる発言で、国民に謝罪したい」と何度も頭を下げつつ、「説明責任を果たし職責を全うしたい」と述べ、野党の辞任要求を拒否した。
首相は同委で「発言は問題」との認識を示しながらも、「しっかり説明し、(失敗を)肝に銘じて職責を果たしてもらいたい」と語り、続投させる考えを示した。
塚田氏は参院新潟選挙区(改選数1)選出で、夏に改選を迎える。参院選の勝敗を左右する1人区だけに、更迭すれば逆風が避けられないと判断しているとみられる。
ただ、統一地方選は既に始まっており、与党内で塚田氏への風当たりは強まっている。茂木敏充経済再生担当相は記者団に「極めて不適切だ。選挙にプラスではない」と断言。石破派幹部も「辞任につながる話だ。説明は全然納得できない」と語った。公明党関係者は「ずるずるいくなら、すぐに辞意を示した方がいい」との見方を示した。  
●“安倍・麻生道路で大炎上 塚田副大臣「忖度」発言の真相 4/4
国交副大臣の塚田一郎参院議員の発言が大炎上だ。塚田氏は1日、北九州市で行われた福岡県知事選の応援集会で、下関北九州道路(下北道路)の調査が今年度から政府直轄になったことについて、「総理とか副総理が言えないので、私が忖度した」と明言し、「(吉田博美参院幹事長から)これは総理と副総理の地元の事業だよ」と言われ「分かりました」と応じたエピソードまで披露。道路整備で便宜を図ったと口にしたのである。
北九州市と下関市を結ぶ下北道路は、1998年に政府が策定した「海峡横断プロジェクト」のひとつとして調査が進められてきたが、大型公共事業への批判が高まり、2008年に凍結された。ところが、安倍政権下の17年度から、調査費約2100万円のうち700万円の補助金支給が始まり、19年度からは政府直轄で調査することが決定。一度は止まった計画が安倍政権下で復活したわけだ。
「安倍首相のお膝元・山口県と麻生副総理の地元・福岡県を結ぶ計画だけに、地元では『安倍・麻生道路』と呼ばれています。地元財界の試算では、建設費は約2000億円に上るとみられている。両県選出の国会議員にとっては、安倍総理と麻生副総理の在任中に事業化することが“最重要課題”といわれています」(福岡県政関係者)
安倍首相自身も昨年10月、下北道路の整備促進を図る自民党参院議員との会談で「早期建設に向けた活動にしっかり取り組むように」と話していた。
「そもそも両県を結ぶ道路は、既に関門橋と関門トンネルの2ルートがある。交通量も減少傾向にあり、福岡県議会では、第3の道路を造る意味はないと野党が追及しています」(前出の福岡県政関係者)
そんな中で、予算決定に関与できる塚田氏の発言は一発アウトだろう。
「塚田さんはお堅いタイプで、過去に失言したことはほとんどない。今回の失言は、二階幹事長と麻生さんの“代理戦争”になっている福岡県知事選が原因でしょう。塚田さんは麻生さんの元秘書で、『私は筋金入りの麻生派』と公言するほどの間柄。現状、麻生さんが支持する自民推薦の新人は、二階派が支援する現職に大差をつけられている。大惨敗だと、麻生さんの求心力が低下しかねません。焦る塚田さんが少しでも新人の票を増やすため、『安倍・麻生道路』をアピールし、やりすぎてしまったとみられています」(永田町関係者)
塚田氏は「我を忘れて誤った発言をした」と釈明。ついつい“本音”を漏らしてしまったということか。  
●副大臣「忖度」発言 4/4
北九州市と山口県下関市を新たに結ぶ「下関北九州道路」計画をめぐり、塚田一郎国土交通副大臣が、安倍晋三首相と麻生太郎副総理・財務相を「忖度(そんたく)」して、計画の調査を国の事業に格上げしたと発言しました。自民党推薦の福岡県知事候補を応援する集会の中での発言です。あけすけな利益誘導にほかなりません。しかも、首相と副総理の意向をくんで道路行政を動かしたことを所管官庁の副大臣自身が公然と語ったものであり、ことは重大です。本人の発言撤回や謝罪で済む話ではありません。安倍政権の姿勢と体質自体が厳しく問われます。
「下関北九州道路」計画は、安倍首相の地元である下関市と、麻生副総理の地盤である北九州市を、道路でつなぐという構想です。すでに関門海峡には二つの道路が通っており、無駄な公共事業だという批判の中で2008年に凍結されましたが、安倍首相の政権復帰後に計画は再び動きだし、17年度から自治体の調査費がつきました。さらに19年度から国直轄調査として費用を国が全額負担することになりました。
1日夜、北九州市内で開かれた集会での塚田氏の問題発言は、国直轄の調査に格上げされた経過を生々しく語ったものです。
塚田氏は、副大臣室で自民党の吉田博美参院幹事長から「これは総理と副総理の地元の事業だ」と言われ、「分かりました」とすぐに答えたことを明らかにし、「総理とか副総理がそんなこと言えません。でも私は忖度します」「私は麻生太郎命、筋金入りの麻生派」「できるだけ早くみなさまのもとに、橋が通るように頑張りたい」などと述べたと報じられています。
もともと「下関北九州道路」をめぐっては、安倍首相が昨年10月に早期実現を求める発言をしたと伝えられるなど、地元では「安倍・麻生道路」と呼ばれています。
道路行政を担当する国交省の副大臣という立場の者が、政権トップとナンバー2をおもんぱかって、国の事業にわざわざ引き上げ、予算も手当てしたというのなら事態は深刻です。この道路計画は総額2000億〜2700億円とされる巨大開発事業です。政権中枢の政治家の地元だから公共事業をもっていくというのは、文字通りの利益誘導です。この計画は、ただでさえ税金の無駄遣いと大問題になっている事業です。それがこんな形ですすめられてきたとなれば、まさに、政治の私物化です。
選挙応援で、その“政治力”を自慢し、自民党が推薦する知事候補の票獲得につなげようという発想は「利権政治」そのものです。
塚田氏は「忖度した」などの一連の発言は事実と異なるとして、撤回・謝罪しましたが、事実関係の説明はなく、説得力はありません。副大臣の資格がないのは明白で、即刻辞任すべきです。
「職責を果たしてもらいたい」と塚田氏を擁護し、罷免を拒む安倍首相の姿勢は重大です。
塚田氏の発言は、首相の意向に沿う形で政治や行政をゆがめた「森友」「加計」疑惑にも通じる安倍政権の体質自体の問題ではないのか―。安倍政権下で相次いで発覚した疑惑の解明と合わせて、今回の問題も絶対にあいまいにすることはできません。 
●「私が忖度した」塚田副大臣、野党「利益誘導」と批判 4/4
安倍総理と麻生副総理の地元を結ぶ道路の整備をめぐり、「私が忖度した」という発言が波紋を広げている塚田国土交通副大臣。4日も野党側から厳しい追及を受けました。
「これは忖度じゃなくて、もう利益誘導です。税金は自民党のためのものだと、まさに明言しているようなもの」(立憲民主党 蓮舫副代表)
納めた税金が公平に使われていないのではないか。国交副大臣の発言が波紋を広げています。
「下関は誰の地盤ですか。安倍晋三総理ですよ。安倍晋三総理から麻生副総理の地元でもある北九州への道路事業が止まっているわけですよ。私、すごく物分かりがいいんです。すぐ忖度します」(塚田副大臣 1日)
安倍総理の地元・山口と麻生副総理の地元・福岡を結ぶ道路整備の構想について、自らが忖度して「国の直轄の調査に引き上げた」などと発言した塚田国交副大臣。「事実と異なる」として自らの発言を撤回しましたが、野党側は納得していません。
「自分は嘘を言っていると認識しながら話をしたんですか」(国民民主党 礒崎哲史参院議員)
「改めて自分の発言内容を思い起こしまして、その内容が事実と異なる内容であったということの認識に至りましたので、2日の時点で発言を撤回をし謝罪をさせていただきました」(塚田一郎国交副大臣)
塚田氏は一連の発言をした理由について、“大勢の会合で熱が入ってしまった”などと説明していますが、与党議員でさえ呆れ気味のようです。
「完全にアウト。あの発言は許されない」(自民党副大臣経験者)
「政治家失格だよ」(自民党中堅議員)
野党だけでなく与党からも辞任論が上がっていますが、安倍総理は塚田氏を続投させる意向のようです。
「塚田国交副大臣を罷免しないんですか」(立憲民主党 小川敏夫参院議員)
「まずは本人からしっかりと説明すべきであり、そのことを肝に銘じて、職責を果たしてもらいたい」(安倍首相)
野党側は、塚田氏のもう一つの発言にも注目しています。
「吉田幹事長が私の顔を見て、『塚田、分かってるな。これは総理の地元と副総理の地元の事業なんだよ』と」(塚田国交副大臣 1日)
予算編成も大詰めを迎えていた去年の12月20日、国土交通省の副大臣室で自民党の吉田参院幹事長からこんな要請を受けたという発言です。3日、塚田氏と吉田氏はこの発言内容も事実で無かったとコメントしていますが、“面会自体はあった”ということです。国土交通省によると、この面会には道路局長と担当課長が同席していた可能性があるということです。
「(国交省の)局長と道路調査の担当課長が同席しているのに、この件について話がなかったというのは不自然」(立憲民主党 初鹿明博衆院議員)
問題となっている道路整備には、国の直轄調査として今年度から4000万円程度の予算が想定されています。野党側は吉田氏と塚田氏の会談が影響した可能性があるとして、さらに追及する構えを見せています。 
●安倍首相、要望「知らなかった」=塚田副大臣が「忖度」発言の道路事業 4/4
安倍晋三首相は4日の参院決算委員会で、塚田一郎国土交通副大臣の「忖度(そんたく)」発言の発端となった北九州市と山口県下関市を結ぶ道路事業をめぐり、両市にゆかりのある国会議員有志で構成し、首相自身も参加している「関門会」が道路の事業化を国に要望していたことについて「知らなかった」と述べた。共産党の仁比聡平氏への答弁。  
●塚田国交副大臣「忖度」発言が嘘なわけがない 4/4
安倍政権の政治がいかに腐りきっているか。そのことが現役副大臣の発言によって明らかになった。1日に北九州市でおこなわれた集会で、自民党・麻生派所属の塚田一郎・国土交通副大臣が「総理とか副総理が言えないので、私が忖度した」と発言した問題だ。
塚田国交副大臣が公の場で「暴露」したのは、北九州市と山口県下関市を結ぶ「下関北九州道路」について。下関北九州道路は2008年の福田康夫政権時に調査が中止されたが、第二次安倍政権で復活。2017年度からは自治体予算と国の補助で調査を再開させ、2019年度からは国の直轄事業として国が調査費を全額負担することになり、4000万円が計上されている。
総事業費が2000〜2700億円もかかると試算されている一方、その必要性や採算がとれないのではと疑問視されている下関北九州道路。どうしてそれが復活したのか疑問視されてきたが、塚田国交副大臣は今回、本年度から国直轄の調査へと決定された内幕を明かし、「私が忖度した」と発言したのだから、これは大事件だ。
塚田国交副大臣は昨日の国会で「我を忘れて誤った発言をした」などと釈明したが、実際の話はディテールに富んでおり、とてもじゃないが嘘の話だとは思えない。あらためて、塚田国交副大臣の発言を紹介したい。
まず、塚田国交副大臣は「麻生太郎衆院議員にお仕えして、早20年近く。最初の総裁選は大変でした。その時代から麻生太郎命、一筋でやってきた。筋金入りの麻生派です」と述べ、その後、こんな話をはじめた。
「国土交通副大臣ですから、ちょっとだけ仕事の話をさせていただきますが、大家敏志さん(福岡県選出の自民党参院議員)がですね、私のもうひとり逆らえない吉田博美さんという参議院の(自民党)幹事長と一緒に、私の副大臣室にアポを取って来られました。『地元の要望がある』。これが下関北九州道路です。
 じつはこれ、経緯がありまして、11年前に凍結されているんです。なんでかわかります? 『コンクリートから人』っていう、とんでもない内閣があったでしょ。総理は『悪夢のようだ』と言いましたが、まさにそのとおりでございます。公共事業はやらないという民主党政権ができて、こういう事業は全部フリーズ、凍結しちゃったんです」
事業がストップしたのは11年前の2008年であることは間違いないが、前述したように、それは福田政権時のことであって民主党政権時ではない。デマによって相も変わらずしつこい民主党政権叩きをつづけるのは安倍首相や麻生副総理とまったく同じだが、問題はこのあとだ。
「何とかしないといけないと。下関と北九州ですよ。よく考えてください。下関は誰の地盤ですか? 安倍晋三総理です。安倍晋三総理から麻生副総理の地元でもある北九州への道路事業が止まっているわけです。
吉田(参院)幹事長が私の顔を見たら、『塚田、わかってる? これは総理の地元と副総理の地元の事業なんだよ』と。『俺が何で来たかわかるか』と。私、すごく物わかりがいいんです(会場笑い)。すぐ忖度します(会場笑い)。『わかりました』と。
そりゃ総理とか副総理はそんなこと言えません、地元の。そんなこと、実際ないんですよ? 森友とかいろいろ言われていますけど、私は忖度します」
吉田自民党参院幹事長といえば、2015年の安保法制の審議で自民党参院国対委員長として安保法制強行の先頭に立ち、先の総裁選では石破茂議員が掲げた「正直、公正」というスローガンに対し「(首相への)個人攻撃と受け取っている国民もいる」と批判するなど、安倍首相に近い人物だ。
その吉田自民参院幹事長は国交副大臣にわざわざアポを入れ、「総理と副総理の地元の事業だとわかっているのか」「俺が何で来たかわかるか」と明確に圧力をかけ、塚田国交副大臣から見事に「忖度」を引き出していたのである。
しかも、塚田国交副大臣の「総理とか副総理はそんなこと言えません」という発言は重大だ。加計問題で安倍首相は「私から指示を受けたという方はひとりもいない」などと主張しているが、実態は柳瀬唯夫首相秘書官や和泉洋人首相補佐官、杉田和博官房副長官といった官邸スタッフが暗躍していた。実際、和泉首相補佐官は「総理は自分の口からは言えないから、私が代わりに言う」と、吉田自民参院幹事長とそっくりの発言をおこなったとされている。ようするに、直接指示せずとも「総理のご意向」「首相案件」だというだけでこうした利益誘導はおこなわれるという証拠ではないか。
そして、この下関北九州道路は「安倍首相と麻生副総理の地元」案件として、事業化に向けて動き出した。塚田国交副大臣はこう明言している。
「それでですね、この事業を再スタートするためには、いったん国で調査を引き取らせていただくということになりまして、これを、今回の新年度の予算に国で直轄の調査計画に引き上げました!(会場拍手) 別に知事に頼まれたからではありません。大家敏志が言ってきた、そして私が忖度したということですので」
唖然とするほかないだろう。安倍首相に近い吉田自民参院幹事長や、北九州市を含む福岡県を選挙区とする大家議員に「総理と副総理の地元の事業だとわかっているのか」と迫られたことを明かした上、「私は忖度します」と誇り、言われたとおりに国直轄の調査計画に引き上げたことを自身の手柄として堂々と胸を張っているのである。
見てのとおり、塚田国交副大臣はこれが利益誘導だという事の重大性にまったく無頓着で、悪気などなく発言している。これは、それほど安倍政権下で「お友だち優遇」と「忖度」政治が当たり前になっているということを示す発言であり、そのディテールの細かさからも「我を忘れて誤った発言をした」とは到底考えられないのだ。 
そして、実際にこの塚田国交副大臣の下関北九州道路をめぐる「証言」は、「誤った発言」どころか、あまりにも状況とぴたりと符号するものなのだ。
というのも、この下関北九州道路にかんしては、以前から「安倍・麻生道路」と呼ばれ、「安倍案件なのでは」と囁かれてきた問題であり、吉田自民参院幹事長や大家議員が関与していることも確認されていた。
たとえば、実際に安倍政権は、凍結されていた下関北九州道路を建設に向けて検討を再開させ、2017・2018年度予算でそれぞれ調査費700万円を計上。さらに、下関北九州道路の建設を目指して昨年11月2日に「整備促進を図る参院議員の会」を発足させた。そして、その会長に就任したのは吉田自民参院幹事長であり、幹事長には大家議員が就いている。
その上、会発足直前の昨年10月25日には、ふたりは官邸で安倍首相と面談。そこで安倍首相は、下関北九州道路について、こう号令をかけていた。
「早期建設に向けた活動にしっかり取り組むように」
問題となっている塚田国交副大臣が国交省副大臣室で吉田自民参院幹事長と大家議員が面談したのは昨年12月20日であり、塚田国交副大臣も面談の事実は認めている。ようするに、安倍首相主導のもと、下関北九州道路建設に向けて吉田自民参院幹事長と大家議員が動いていたのは事実なのだ。
そして、塚田国交副大臣の発言どおり、実際に国直轄の調査計画に引き上げられ、先月29日には今年度から調査費は国が全額負担することが公表された。
しかも、だ。いまから約1カ月前のしんぶん赤旗紙上で、下関市の自民党関係者はこんなことを語っているのだ。
「九州経済連合会の会長は、麻生太郎副総理の弟の泰氏だ。自民党内の会議では、安倍・麻生の関係でスタートした計画だといわれている。それだけに総理・副総理の在任中に事業化させたいという思いは両県の政治家に共通している。ここで動かなかったら経済界にも顔向けできない」
どうだろう。塚田国交副大臣の今回の発言は、こうした証言と符号、見事に裏付ける内容になっているのである。
新たに浮上した、森友・加計学園につづく「忖度」による利益誘導問題。しかも、現役の副大臣が悪びれもせずに公の場で手柄話として披露するほど、安倍政権が腐りきっていることが白日の下に晒されたのだ。今後、安倍首相と麻生副総理は全力で事実を否定しつづけるだろうが、今度こそ、この腐敗政権に終止符を打つときだ。 
●忖度発言の道路「事業化は費用対効果など検証して」 4/4
塚田国土交通副大臣が安倍総理大臣と麻生副総理兼財務大臣の意向を「忖度(そんたく)した」と発言した山口県と福岡県を結ぶ道路整備について、菅官房長官は午前の記者会見で、「個々の道路事業は、周辺道路の整備状況や渋滞の状況、また事業を行った場合の効果などを踏まえて実施を判断している」と述べました。
そのうえで「本件についても、地域の周辺道路で慢性的な渋滞が発生しており、さらに本州と九州を結ぶ主なルートが1つしかないため、去年の豪雨の際に支障が生じたことなどを踏まえ、一昨年度から調査が行われている。まだ調査段階であり、今後の事業化は費用対効果などを検証して判断していくことになる」と述べました。 
 

 


●塚田国交副大臣、「忖度」発言で辞任へ 4/5
自民党麻生派の塚田一郎国土交通副大臣は5日、道路整備に関して安倍晋三首相や麻生太郎副総理・財務相の意向を「忖度(そんたく)した」と発言した問題を受け、辞任する意向を固めた。7日投開票の統一地方選や21日投開票の衆院大阪12区と沖縄3区の補欠選挙などへの影響を考慮したとみられる。
麻生財務相は5日の閣議後の記者会見で、塚田氏から4日に「迷惑をかけたので辞めたい」として辞意を伝えられたことを明らかにした。
塚田氏は1日、北九州市での集会で、同市と山口県下関市を結ぶ下関北九州道路の整備について首相と麻生氏の地元だと言及したうえで「国直轄の調査に引き上げた。私が忖度した」と述べた。その後に「我を忘れて事実と異なる発言をした。行政の信頼性をゆがめた」と陳謝したが、野党は利益誘導だと批判し、辞任を求めていた。
首相は4日の参院決算委員会で「事実と異なることを有権者の前で述べたのは重大な問題だ」と指摘した。野党からの更迭要求には応じない考えを示したものの、自民党内でも選挙への影響を懸念し「辞任は不可避」との声が強まっていた。
塚田氏は参院新潟選挙区選出で当選2回。麻生氏の秘書などを経て2007年に初当選し、18年10月に国交副大臣に就いた。 
●塚田国土交通副大臣が辞任へ 「そんたく発言」で 4/5
道路整備をめぐって、安倍総理大臣と麻生副総理兼財務大臣の意向を「そんたくした」と発言した塚田国土交通副大臣は、発言の責任をとりたいとして辞任する意向を固めました。
山口県下関市と北九州市を結ぶ道路整備をめぐって、塚田国土交通副大臣は、今月1日、下関市と福岡県が安倍総理大臣と麻生副総理の地元だと言及したうえで、「総理や副総理が言えないから、私がそんたくした」と発言しました。
その後、塚田副大臣は、「発言は事実と異なる」と述べ、撤回し、謝罪したうえで、説明責任を果たして、職責を全うする考えを示していました。
野党側は、撤回や謝罪では済まされない重大な問題として、速やかな辞任を求めていたほか、与党内からも、国会運営や選挙への影響を懸念して、みずから進退を判断するよう求める声が出ていました。
こうした中、塚田副大臣は、5日、発言の責任をとりたいとして辞任する意向を固め、周辺に伝えました。
塚田副大臣は、参議院新潟選挙区選出で、55歳。自民党麻生派に所属し、内閣府副大臣と復興副大臣を兼務しています。
麻生副総理「4日に辞意の申し出」
塚田国土交通副大臣が所属する派閥の領袖を務める麻生副総理兼財務大臣は、閣議のあとの記者会見で、4日、塚田副大臣と会談した際に、本人から「ご迷惑をおかけしたので辞職をしたい」と申し出があったことを明らかにしました。そのうえで麻生副総理は「政治家の出所進退だから、自分で決断したということだと思う。北九州市と下関市を結ぶ道路は30年ぐらい前からやっている話で、国土強靭化の一環で国が直轄で調査を行う対象になったと報告を受けていた。それを自分がやった、いかにも頼まれてやったと言ったところが問題であり、安倍総理大臣も、少なくとも塚田副大臣に頼んでいることもないだろうし、こっちもないので、本人がその場の空気で言ったのが問題ではないか」と述べました。
石井国交相「辞意は聞いていない」
塚田国土交通副大臣が辞任の意向を固めたことについて、石井国土交通大臣は閣議のあとの記者会見で「本人から何も聞いていないので承知していません」と述べました。また、塚田副大臣が「総理や副総理が言えないから私がそんたくした」などと発言したことについては「すでに国会で本人が事実と異なる内容だったとして撤回したうえで謝罪している。撤回した発言の内容についてコメントすることは控えたい」と述べました。そのうえで、下関北九州道路の整備については「そんたくや利益誘導は全くない。渋滞緩和と災害時の代替道路の面からも、今後整備について検討する必要があるプロジェクトだと考えている」と述べ、地元と協力しながら調査を進め、整備手法についても検討を進める考えを示しました。
自民 森山国対委員長「本人の判断を尊重したい」
自民党の森山国会対策委員長は、NHKの取材に対し、「発言は非常に遺憾なものだ。本人も深く反省して謝罪し、撤回していたが、政治家の進退はみずから決断すべきものであり、本人の判断を尊重したい」と述べました。
立民 長妻代表代行「辞任で済む話ではない」
立憲民主党の長妻代表代行は、NHKの取材に対し、「辞任で済む話ではない。国会で証言してほしいし、利益誘導を国土交通副大臣が認めたという歴史的な発言で、辞任で幕引きにするわけにはいかない。統一地方選挙にマイナスの影響が出ると考えて辞任したのだと思うが、簡単に済まされる話ではない」と述べました。
国民 玉木代表「国会でしっかり追及する」
国民民主党の玉木代表は、NHKの取材に対し、「辞任は当然だ。ほかにも同じような案件がないか、徹底的に点検すべきだ。政権の長期化により、権力の私物化がまん延している可能性がある。後半国会でしっかり追及する」と述べました。
共産 小池書記局長「安倍政権の体質がむき出し」
共産党の小池書記局長は、NHKの取材に対し、「辞任は当然だが、辞めて済む問題ではない。政治を私物化して恥じない安倍政権の体質がむき出しになった発言だ。かばっていた安倍総理大臣の責任も問われ、統一地方選挙で審判を下すべきだ」と述べました。
菅官房長官「具体的なことは承知していない」
菅官房長官は閣議のあとの記者会見で、「報道は承知しているが具体的なことは承知していない」と述べました。
桜田五輪相「コメント差し控えたい」
桜田オリンピック・パラリンピック担当大臣は閣議のあとの記者会見で、記者団が「安倍政権で失言が多発している現状をどう思うか」と質問したのに対し、「けさの新聞を見ると、私もその1人に数えられているので、コメントは差し控えさせていただきたい」と述べました。 
●塚田国交副大臣が辞意 「忖度」発言で 4/5
塚田一郎国土交通副大臣(55)=参院新潟選挙区=が5日、辞任の意向を固めた。自民党幹部が明らかにした。塚田氏は道路整備をめぐり首相らへの「忖度」などと発言し、主要野党が辞任を求めていた。統一地方選や衆院大阪12区、沖縄3区補欠選挙への影響を抑えるため、責任を取る必要があると判断した。夏の参院選を控え、安倍晋三政権にとって打撃となる。
政府は、塚田氏の後任に青木一彦参院議員(58)=鳥取・島根選挙区=を就任させる方向で調整に入った。塚田氏の辞表を受理後、5日中に皇居での認証式まで終える方針だ。
塚田氏は1日に北九州市で開かれた集会で、安倍首相の地元の山口県下関市と、麻生太郎副総理兼財務相の地元の福岡県を結ぶ「下関北九州道路」の国直轄調査に関し「首相や麻生氏が言えないので私が忖(そん)度(たく)した」と発言。便宜を図ったと受け取られかねず、2日に文書で事実と異なる発言だったとして撤回した。
首相は4日の参院決算委員会で「まずは本人から説明すべきで、そのことを肝に銘じて職責を果たしてもらいたい」と述べ、罷免を否定していた。
与党は当初、「撤回と謝罪をすれば問題ない」(与党幹部)との見方を示していたが、主要野党が「利益誘導だ」と批判を強めて塚田氏の辞任を要求。問題が長引けば後半国会の運営に響きかねないとみて方針転換した。
塚田氏は麻生氏の秘書を経て、平成19年に参院選新潟選挙区で初当選し、現在2期目。麻生派(志公会)に所属している。 
●枝野氏「道路作るのに忖度なんて昭和」 4/5
道路事業の調査をめぐり、安倍晋三首相と麻生太郎副総理兼財務相の意向を「忖度(そんたく)した」と発言した塚田一郎国土交通副大臣が5日、辞表を提出した。野党は、国直轄の調査に引き上げた経緯について真相解明を目指すと同時に、更迭を否定してきた首相に批判の矛先を向ける。統一地方選や参院選への影響を懸念する与党からも、発言を批判する声が出た。
立憲民主党・枝野幸男代表
今時、道路を作るのに忖度(そんたく)だなんてそれこそ「昭和」だ。いつの時代の話かと思った。(発言した塚田氏は)お辞めになったみたいだが、遅い。そんな政治では困るし、実は大きなところで(安倍政権は)いろいろ間違っているんです。(福岡県久留米市での演説で)
自民党・甘利明選挙対策委員長
(参院選新潟選挙区で改選を迎える塚田氏の差し替えについては)ありません。彼は生真面目な性格で、ウケを狙うような軽率な行動に出てしまった。言ってよい言葉と言ってはいけない言葉がある。事実からはみ出した話は、いかに笑いを誘ったとしても絶対に発言してはいけない。誠心誠意、自身の政治姿勢を訴えて、失点を取り返してもらいたい。(都内で記者団に)
岩屋毅防衛相
本人は少し会場を盛り上げたい気持ちで言ったんだと思うが、いやしくも国交副大臣。所管する省庁の副大臣としては極めて不適切な発言だった。同じところ(自民党派閥)で勉強する同志でもあるので、反省してさらに精進していただきたい。(安倍政権は)まずは(本人の)判断を見守るということだったと思うが、国会その他の反応が思いのほか厳しかったということで、本人がこれ以上迷惑はかけられないと判断されたんだろう。(記者会見で)
国民民主党・玉木雄一郎代表
(辞任は)遅きに失した。安倍総理がかばったから辞めにくくなった、あるいは自民党・政府としても辞任を促しにくかったのではないか。かばった総理の責任も厳しく問われるべきだ。安倍政権が長期化することで、いわゆる権力のおごり、緩み、こういったものが出てきて権力の私物化、税金の私物化がこれに限らず全国に蔓延(まんえん)しているのではないか。総点検していく必要がある。後半国会では各委員会で厳しく追及していきたい。単なる辞任で幕引きでなく、予算委員会を開いて集中審議を行うべきだ。(国会内で記者団に)
社民・又市征治党首
塚田氏の発言は選挙向けのリップサービスでは済まされない。応援する候補者の選挙を有利にするための露骨な利益誘導発言だ。首相らの意向を忖度(そんたく)して、本当に便宜を図ったのなら、政治の私物化の極致だ。辞任は統一地方選や衆院補選への影響を考えてしっぽ切りを図ろうとしたのだろうが、塚田氏を最後までかばい続けた首相の任命責任は残る。幕引きを許さず、道路整備の問題点の追及や忖度発言の真相究明を図るとともに、首相の任命責任をただしていく。(談話で)
共産党・志位和夫委員長
塚田氏の発言が大問題になっている。とんでもないじゃないですか。国政の私物化、利益誘導の見本のような話じゃないですか。辞めて済む話ではありません。安倍首相、麻生副総理、忖度(そんたく)。この三つの文字が並ぶと、思い出しませんか。森友疑惑と同じじゃないですか。安倍政権の、まさに体質を表していると思います。真相の徹底究明をしてまいります。(新潟県長岡市での演説で)
公明党・高木陽介国会対策委員長
今回の発言で辞任することは当然だと思う。大変遺憾だし、二度とこういうことがないように徹底してもらいたい。政治家、特に政府の要職にある人が事実と違うことを公の場で話したということは、(統一地方選や参院選の結果に)少なからず影響はあるかもしれない。(国会内で記者団に)  
●「忖度」発言の下関北九州道路 4/5
下関北九州道路(山口県下関市―北九州市)整備計画の調査を今年度から国直轄事業に移行させた決定について、自民党の塚田一郎・国土交通副大臣が「総理とか副総理が言えないので私が忖度(そんたく)した」と発言した問題で、日本共産党の仁比聡平議員は4日の参院決算委員会で、背景に安倍晋三首相の“陳情”や指示があったのではないかと追及するとともに、塚田氏の罷免と計画の断念を求めました。
仁比氏は塚田発言の核心を、「下関北九州道路を再スタートするために新年度予算で国直轄事業に引き上げたことであり、それは総理の地元の下関市と麻生副総理の地盤の北九州市の道路計画だからだ」という内容だと強調しました。
塚田氏は発言の中身を「事実ではない」と否定しました。仁比氏は第2関門橋計画で2008年に冬柴鉄三国交相(当時)が「今後は調査を行わない」と答弁していたことを指摘。与党国会議員有志で結成された「関門会」が16年に石井啓一国交相あてに提出した要望書に安倍首相の名前があることを明らかにしました。
仁比氏は「同会は『下関北九州道路の早期実現をはかること』や『具体的な検討を進め、調査を実施するとともに必要な予算を確保すること』を要求している。そうやって忖度させてきたのではないか」と迫りました。安倍首相は、自身が同会のメンバーであることを認めた上で「要望書が出されたことは初めて知った。私は陳情する立場にはない」などと言い逃れました。
仁比氏は「実際に安倍首相は官邸で推進議員と会談し、『早期実現に向けた活動にしっかり取り組むように』(昨年10月25日)と整備に意欲を見せている。これは(塚田氏の)忖度と言うより、あからさまな指示ではないか」と指摘。「麻生副総理も下関北九州道路整備促進期成同盟会の顧問に名を連ねている」として、この計画が地元で「安倍・麻生道路」と呼ばれていることの実態を明らかにしました。
仁比氏は2000億〜2700億円かかるとされる同計画は「不要不急の上に採算がとれる見通しもない。約4000万円の国直轄調査はやめ、ただちに計画を断念すべきだ」と強調しました。 
●「忖度道路」「安倍・麻生道路」早くも定着 NHKもネット記事見出しに 4/5
塚田一郎国土交通副大臣の「忖度」発言によってクローズアップされた山口県下関市と北九州市を結ぶ「下関北九州道路」が、ネット上では「忖度道路」との呼称が飛び交っている。
「忖度道路と呼ばれるでしょう」「完成したら忖度道路と名付けよう」との投稿が続いている。すでに「安倍麻生道路」と揶揄する呼称も定着しており、NHKもネットニュースの見出しに「安倍・麻生道路」を用いて、野党からの批判内容を伝えている。
塚田氏は1日に北九州市で、同道路の国による直轄調査への移行に関して「安倍晋三首相や麻生太郎副総理が言えないので、私が忖度した」と発言し、後日撤回した。 
●塚田副大臣、辞任 道路忖度発言で引責 統一選政権に打撃 4/5
塚田一郎国土交通副大臣(55)=参院新潟選挙区=は五日、道路整備を巡り「安倍晋三首相や麻生太郎副総理(兼財務相)が言えないので、私が忖度(そんたく)した」と発言した問題の責任を取って辞表を提出したと記者団に明らかにした。事実上の更迭だ。統一地方選や衆院大阪12区、沖縄3区補欠選挙への影響を抑えるための判断とみられる。夏の参院選を控え安倍政権への打撃となるのは必至で、野党は首相の任命責任を追及。政府は五日中にも後任を選定する。
塚田氏は石井啓一国交相に「発言の責任を取り、職を辞したい」として、辞表を提出。国交省で記者団に「行政への信頼を損ね、国政の停滞を招いた」と辞任理由を説明した。「事実と異なる発言をしたことで、大変大きなご迷惑をお掛けした。誠に申し訳ありませんでした」と改めて謝罪を表明した。議員辞職は否定した。
麻生氏はこれに先立つ閣議後記者会見で、自民党麻生派に所属している塚田氏から四日に辞意を伝えられたと明らかにした。西村康稔官房副長官は五日、自民党の二階俊博幹事長を訪ね、塚田氏を辞めさせるとの首相方針を伝達した。
首相は三日の衆院内閣委員会で「本人がしっかり説明し、このことを肝に銘じ職責を果たしてほしい」と話し、罷免を否定。四日の参院決算委では、罷免を重ねて拒否しつつ「有権者の前で事実と異なることを述べたのは重大な問題だ」と指摘していた。野党の反発が収まらず、後半国会の運営に響きかねないとみて方針転換した。
立憲民主党の逢坂誠二政調会長は五日、取材に「辞任は当然だ。遅すぎたぐらいだ」と語った。塚田氏は参院当選二回。麻生氏の秘書などを経て二〇〇七年に初当選した。党副幹事長や党国対副委員長を務め、昨年十月の内閣改造で国交副大臣に就任した。
政府は五日、忖度発言で辞表を提出した塚田一郎国土交通副大臣の後任に、牧野京夫(たかお)元国交副大臣を充てる方針を固めた。 
●忖度発言、地元統一選に影響 アピール材料が一転、疑惑の的に 4/5
統一地方選のさなかに飛び出した、安倍晋三首相と麻生太郎副総理兼財務相の地元を結ぶ下関北九州道路での「忖度(そんたく)」発言が、地元の選挙戦にも余波を広げている。自民参院議員の塚田一郎副国土交通相(新潟選挙区、麻生派)の発言を巡り、自民候補の陣営からは悪影響への懸念が聞こえる一方、野党陣営は「敵失」に乗じ批判を強めている。
「あんなことを言わなくてもいいのに」。福岡県北部で県議選を戦う自民候補の陣営関係者は気をもんだ。
地元自治体や経済界が求める下関北九州道路は、財政難から2008年に計画が凍結されたが、19年度予算で国は再び調査費を計上。自民関係者が困惑するのは、事業推進がアピール材料だったが、一転して疑惑の的になったからだ。県内の麻生氏の勢力圏で県議選を戦う保守系候補は「自分の選挙に必死の中、世間から『政治家はみんな利益誘導する』とみられかねない」と迷惑がった。
野党側は攻撃材料を得て争点化を図る。対岸の山口県下関市で議席を争う県議選の野党系候補の陣営幹部は「安倍さんは問題発言した人を処分しないから図に乗っているようにしか思えない。こういう政治は変えなくてはいけない」と批判。立憲民主福岡県連も「政治の私物化」と指摘し、3日の統一選候補の合同個人演説会で取り上げて問題視するなど攻勢を強めている。
影響は、保守分裂選挙の福岡県知事選にも及んでいる。
自民推薦で新人の武内和久氏(47)の陣営関係者は「選挙に関係ない。我々は有権者と毎日触れあうだけだ」と打ち消しに必死だ。小川洋氏(69)は現職として下関北九州道路推進の立場。国直轄の調査移行を実績として訴えてきただけに、陣営関係者は「下関北九州道路の問題を政争の具にするなど許されない。我々は正々堂々と政策として(必要な道路だと)訴えていく」と話した。
一方で、共産推薦の新人、篠田清氏(70)は「(武内氏と小川氏の)2人とも下関北九州道路の推進を表明している。忖度政治のもとで、大型開発に熱中するような県政でいいのか」と保守系の両候補を矛先に批判を強めている。【西嶋正法、下原知広、近藤綾加】
「本当の話、許されない」
塚田氏は発言を撤回し謝罪したが辞任要求は拒否している。政権の「緩み」との指摘もある今回の問題を有権者はどう受け止めているのか。
福岡市中央区の公園で花見をしていた同市の無職の男性(67)は「(塚田氏は)本当の話をしたのだと思う。政治家として許されないし、責任は取るべきだ」としつつ「自民党を支持するのは変わらないし、それは知事選でも同じ。自民党はもっとしっかりしてほしい」と注文をつけた。
同市の会社員の男性(47)は「発言を撤回するのは当たり前。安倍首相は早めに辞任させた方が良いのではないか」と語った。
「(事実ではなかったという)言い訳は苦し紛れにしか聞こえない。公共事業を正当な理由なく進めてはいけない」と問題視するのは同市の会社員の男性(24)。「このままでは自民がやりたいようにやってしまう」と統一選の投票先は自民党を避けるつもりで「野党がもっと頑張ってほしい」と漏らした。
●「忖度」予算に見え隠れ 下関北九州道路 4/5
下関北九州道路(下北道路)の建設に向けた調査に国が直接乗り出し、関連事業費も倍増させたのは「地元」選出である安倍晋三首相や麻生太郎副総理兼財務相への「忖度(そんたく)」だったのか−。塚田一郎国土交通副大臣の「忖度」発言で浮上した疑念に対し、国交省幹部の多くは予算配分の正当性を強調し、予定通り調査を進める構えを見せる。しかし、ある幹部は予算配分作業が大詰めを迎えていた3月中旬、西日本新聞の取材に対し、麻生氏らへの「配慮」を示唆する発言をしていた。
「麻生さんには逆らえない。山口出身の吉田さんの言うとおりにしないわけにもいかないしね」。3月中旬。この幹部は麻生氏と自民党の吉田博美参院幹事長の名を挙げ、下北道路への予算配分に麻生氏らの存在が影響していることをほのめかした。吉田氏は、塚田氏が北九州市での集会で「『これは総理と副総理の地元の事業だよ』と発言した」人物として挙げた実力者だ。
その数日後、石井啓一国交相は国交省を訪れた福岡県の小川洋知事らに直接調査の方針を伝達。財政難で一度は打ち切られた国による調査が、11年ぶりに復活することが決まった。3月末には、調査費4千万円の配分を決定。福岡、山口両県などの検討会の調査を補助する形で計上していた2017年度、18年度の事業費各2100万円から倍増した。
結果として、忖度が予算配分に影響したのか−。別の複数の国交省幹部は「首相や麻生氏、吉田氏らの顔が頭に浮かんだことはあるかもしれないが、配慮は全くない」などと全面否定。ある幹部は「配分過程を丁寧に説明すれば、疑念は晴れるだろう」と話す。
ただ、下北道路の実現が首相らの悲願だったことは間違いない。「11年前の調査凍結後、首相は酒席で『進めよう』と言っていた」と証言する自民党衆院議員もいる。
「利益誘導の赤裸々な証言が出た戦後初めてのケースだ」。立憲民主党の長妻昭氏は4日の野党合同ヒアリングで、下北道路の予算配分が他の公共事業と比べて公平だったかを追及していく構えを強調。国交省はヒアリングで、昨年12月20日に塚田氏が吉田氏から下北道路整備の要望を受けた際、池田豊人道路局長と担当課長が同席していた可能性があると説明した。
五十嵐敬喜・法政大名誉教授(公共事業論)は、第三者などによる予算配分過程の検証の必要性を唱え、こう訴える。「建設すれば2千億円にも上る巨額事業だ。ゆがんだ判断がなかったか徹底して調べないと禍根を残す」
「事業推進に迷惑」 地元北九州、発言に困惑
下関北九州道路の新設調査の予算決定を巡り、塚田一郎国土交通副大臣が安倍晋三首相などの意向を「忖度した」と発言、撤回したことを受け、地元の北九州市では「事業の推進に迷惑」との批判の声が上がる一方、「これを機に必要性をもっと議論すべきだ」と考える市民もいる。
「本当に迷惑な話だ」。1日夜、塚田副大臣が発言した同市での集会に参加した自民党市議は憤る。国の直轄調査は3月末に決定したばかり。「関門橋やトンネルの老朽化と災害対応で、いずれ必要となる事業だ。無駄な公共事業とのレッテルを貼られなければいいが…」と不安がる。
一方で長年、労働組合活動に携わった同市門司区の男性(68)は「塚田氏は集会で本当のことを口にしたと感じた。人口減と行政の財政難が続く中で、3本目の道路が本当に必要なのか議論を深めてほしい」と注文を付けた。
同市の北橋健治市長は4日の定例記者会見で「所感は差し控えるが、発言したご本人が事実と異なる、と撤回した上で謝罪している」と慎重な言い回しをし、事業の推進を引き続き国に求めていく考えを示した。 
●塚田氏の「忖度」発言があぶり出す日本政治の病 4/5
国土交通副大臣を辞任
凍結されていた下関北九州道路に、本年度4000万円の国直轄調査予算を計上したことについて、「安倍総理、麻生副総理に忖度(そんたく)して決めた。」と発言した塚田一郎氏が、国土交通副大臣を辞任しました。そもそもは北九州市でひらかれた福岡県知事選の応援演説の席での発言ですが、野党のみならず与党からも批判が強まり、辞任に追い込まれました。
塚田氏の発言はいったい何が問題なのか? 地方自治体の長をつとめた経験を踏まえつつ、あらためて考えてみたいと思います。
「仕事は利益誘導」という政治家観
まずもってなのですが、ほとんど一言一句という形で報道されている塚田氏の応援演説は、悪口のようで大変恐縮なのですが、率直に言って品がありません。
その内容は、それが事実であるにせよないにせよ、内輪の人間関係と、その強固さゆえに、国から地元にお金が降りますという、露骨な利益誘導の話に終始しており、通常なら応援演説の中心となるはずの候補者の崇高(すうこう)な政治理念、高い能力、高潔な人格については、一言も触れられていません。
政治的言及と言えるのはたったひとつ、「『コンクリートから人へ』の流れで、とんでもない内閣があった」という、もう10年も前の民主党政権の悪口だけです。
私は塚田氏とは同郷同世代です。自民党にいたころに、塚田氏が初当選した参院選では新潟5区の選対本部長もつとめ、氏のことをよく知る一人なのですが、この演説は、端的に言って、外野からとはいえそれなりに近い距離で拝見した氏の言動、仕事ぶりからうかがわれる氏の国会議員観、政治家観をかなりストレートに反映したものに思えます。
それは、「政治家の仕事は、党内で強固な人間関係を築き、それを元に地元に利益を誘導することである」という政治家観であり、それが自民党内で決して特異なものではないことは、かつて身をおいた政党ではありますが、一国民として、極めて残念だと思わざるを得ません。
有力者への忖度による行政の意思決定の問題点
第二の問題点は、すでにさまざまに指摘されていることですが、「有力者への忖度による、行政の意思決定」です。
私は、一国会議員であれば、地元の代表として、いかようにも地元をアピールし、牽強付会(けんきょうふかい)だろうが何だろうが、国に対して地元の利益となる主張をしていいし、むしろするべきだと思います。
しかし、副大臣ともなれば、行政府の一員です。たとえ与党の政治家、地元の国会議員としての立場があるとしても、いったん行政府の立場を得たなら、まず行政府の一員として、国全体の利益のために、可能な限り公正に職責を果たすことが優先されるべきです。ことに各地域・各団体の利害が錯綜(さくそう)する公共事業担当の副大臣であれば、限られた予算の中で、どれを採用してどれを採用しないか、できる限り公正に決定しようとぎりぎりまで考える職責があると私は思います。
ところが、塚田氏の演説からは、そのような葛藤はひとかけらもうかがえません。
事実か事実でないかはさておくとして、今般の氏の演説は、公共事業の採否、ひいては行政の意思決定を、必要性の優先順位ではなく、有力者への忖度で決定しても特段問題ないという考え方が、自民党内で許容されていることを物語っており、これも一国民として、極めて残念だと思わざるを得ません。
復活する大型公共事業頼みの地方活性化策
上述の「露骨な利益誘導」と「忖度による行政の意思決定」は、当然それだけで大きな問題なのですが、私は、今般の氏の演説があぶり出した、それと同等、もしくはそれ以上の問題は、中央以上に与党が圧倒的多数を占める地方政治において、脈々と受け継がれてきた「(超)大型公共事業頼みの地方活性化策」が、あからさまに復活しつつあることだと思っています。
問題となっている下関北九州道路は、建設費2000億〜2700億円と推定される、まさに(超)大型公共事業であり、建設の目的は、現在の関門トンネル、関門橋の災害時のバックアップと慢性的な渋滞の緩和とされています。
しかし、ちょっと考えてみてください。
下関−北九州間には現在、車のルートとして関門トンネルと関門橋という二つのルートがあり、鉄道用ルートとしても山陽本線用関門トンネル、新幹線用関門トンネルの二つがあります。つまり、輸送路は合計四つあるわけです。災害時の一時的バックアップに、これ以上のルートが必要というのは、正直いって牽強付会と言われても仕方がないと思います。
混雑についても、関門トンネルの老朽化が進むなか、関門トンネルが閉鎖されると、関門橋が混雑するという説明ですが、関門橋の設計通行量7万2千台/日に対して現在の交通量は3万8千台/日、関門トンネルの交通量は2万8千台/日ですので、時間によっては地方の道路としては混雑するのでしょうが、恒常的に車が動かないというような状況とは思えません。
にもかかわらず、麻生副総理の弟さんが会長を務める下関北九州道路整備促進期成同盟をはじめ、地元財界をあげてこれを推進しているのは、地元では、この道路が「地域発展のカギ」「地域経済の起爆剤」と位置付けられているからだと思われます。
現在、地方では通常必要と思われるインフラ整備は相当に進んでいます。実はそれ故に、この下関北九州道路のような(超)大型公共事業が「地域の悲願」として、ことさらクローズアップされる傾向があるのです。
地方財政を圧迫する大型公共事業
ところが、あまり知られてはいないのですが、この手の(超)大型公共事業は、国の事業であっても、建設費の二分の一から三分の一は地元が負担し、維持費も原則として全額地元負担です。
現在、地方財政はおしなべて逼迫(ひっぱく)しています。各地で「悲願」とされている公共事業が実際に着手されると、まず間違いなく、地方債で調達される建設費とその後の維持管理費が地方財政を長期にわたって圧迫します。予算として使える総額が限定されている以上、そのしわ寄せは当然ながら他の財政支出の削減、具体的には今後本格的に増加する既存のインフラの修繕費や、高齢化によって拡大する福祉予算の削減に向かわざるを得ません。
また、この手の(超)大型公共事業は、前述のように「地域経済を大きく発展させる起爆剤となる」と喧伝(けんでん)されるのですが、実際のところその効果は極めてあやしいと言わざるを得ません。
人口が増え続けていた高度成長期なら、そのままでは一人当たりのインフラ量(例えば一人当たりの道路総延長)が年々小さくなるわけですので、インフラの拡充でそのボトルネックを解くことが、地域の経済発展に繋(つな)がったのは事実だと思います。しかし、少子高齢化によって急速に人口が減少しているいま、何もしなくても一人当たりのインフラ量は増加して、ボトルネックはどんどん解消されてしまうのであり、かつてのような効果は期待できないのです。
地域の気概を奪うものは
牽強付会な理屈で、過大な経済効果を期待されている(超)大型公共事業は、いざ実現するや、パッと見は豪華だけれど、実のところ特段何も生み出さず、にもかかわらず長期にわたって莫大(ばくだい)な費用を消費して地方を消耗させる「白い象」になってしまう可能性が、相当程度に高いものと私は思います。
そして実のところ、このことは霞が関の官僚も、地方自治の現場でも気づかれています。・・・ 
●塚田国土交通副大臣辞任についての総理会見 4/5
平成31年4月5日、安倍総理は、総理大臣官邸で会見を行いました。
総理は、塚田一郎国土交通副大臣辞任について次のように述べました。
「石井国交大臣から塚田大臣がその意向により辞任し、後任として牧野さんを副大臣に任命したいとの申出があり、先ほど皇居において、認証式を行いました。塚田大臣は、自らの発言により行政に遅滞を及ばすようなことがあってはならない。よって辞任したい、との申出があり、石井大臣もその意向を尊重したということであります。行政においては、国民の信頼が何より重要であります。全閣僚、そして副大臣、政務官が、この機に改めて気を引き締め、そして自らの襟を正し、国民の負託に全身全霊をもって応えていかなければならないと考えています。」
「まず、本人が国会の場において、きちっと説明をすることが重要であると考えておりました。その上において、本人が行政に遅滞があってはならないと判断したわけでありまして、石井大臣もその意向を尊重したということであります。この上は、我々も一層気を引き締めて国民の負託に応えていく決意であります。」
「雰囲気がどうあれ、知事選挙であったということでございますが、その場において政治家が語る言葉は真実を語らなければならないと、このように思います。」 
●忖度案件の道路に要望書提出、山陰自動車道、下関人工島にも疑惑 4/5
「安倍・麻生道路」と呼ばれてきた下関北九州道路の建設計画をめぐって、「総理とか副総理が言えないので、私が忖度した」と発言した塚田一郎・国土交通副大臣がようやく辞任を表明した。
しかし、問題は塚田副大臣の辞任で済む話ではない。これは安倍首相と麻生財太郎務相の地元に露骨な利益誘導がおこなわれたという話だからだ。
先日の記事でも伝えたが、塚田副大臣は、昨年12月、「私の逆らえない」相手だという吉田博美・自民党参院幹事長と福岡県選出の大家敏志・参院議員のふたりと面会。そこで「塚田、わかってる? これは総理の地元と副総理の地元の事業なんだよ」「俺が何で来たかわかるか」と言われ、対して塚田国交副大臣は「わかりました」と返答したと語っていた。そして、下関北九州道路は今年度から国直轄の調査となり予算として4000万円が計上された。
「逆らえない」相手である政治家の固有名詞まで挙げて、こんな具体的な嘘をつく理由はどこにもない。「忖度」どころか「圧力」があったと考えるのが普通だろう。
しかも、やはり昨日おこなわれた野党合同ヒアリングでは、立憲民主党の長妻昭議員から「吉田氏と塚田氏の面会がだめ押しになって4000万円の予算がついたのではないか」と問われると、国交省側は「時系列的にはそうなる」と回答。またこの面会の際、国交省の池田豊人道路局長と担当課長までもが同席していた。
さらに、ここにきて、「本人からしっかりと説明すべきで、そのことを肝に銘じて職責を果たしてもらいたい」などとまるで他人事のように語ってきた安倍首相に、直接的な関与を物語る物証が出てきた。
2016年3月31日付けの石井啓一国交相宛てに提出された「下関北九州道路の早期実現に向けての要望書」。この要望書の提出者は「関門会」なるグループなのだが、その提出者のひとりとして〈安倍晋三〉と明記されているのだ。昨日の参院決算委員会で共産党の仁比聡平議員が突きつけた。
総理大臣が国交相に対して「道路の建設を早く進めろ」と要望をおこなっていた──。その事実だけでも驚くが、この要望書には、こんなことが書かれていた。
〈「関門会」は、関門すなわち下関、北九州にゆかりのある自民党、公明党国会議員の有志によって結成された会である。去る二月二十四日、安倍総理を囲み懇談会を開催させていただいたところ、その際、「第二関門橋」の早期建設促進の件が話題となり、「関門会」の総意として要請活動を行うこととなった。〉
つまり、安倍首相が発端となって、この要望書は提出されていたのである。
要望書を読み上げた仁比議員が「こうやって忖度させてきたんじゃありませんか?」と追及すると、安倍首相は「私自身ですね、そういう要望書が出されたってことは、いま拝見するまで知らなかった」などと言い訳をしたが、無責任にもほどがある。実際、下関北九州道路は2008年の福田康夫政権時に調査が中止されたにもかかわらず、第二次安倍政権で復活。要望書が提出された翌年の2017年度からは自治体予算と国の補助で調査を再開させているのだ。
しかも、問題は下関北九州道路だけではない。第二次安倍政権になってから、こうした「安倍案件」の公共事業が息を吹き返し、事業化に向けて動き出しているのだ。
たとえば、下関北九州道路と同様、「安倍道路」と呼ばれてきたのが、安倍首相の地元・長門市を通る「山陰自動車道」(山口県美祢市〜鳥取県鳥取市)。総事業費は約4500億円とも言われるものだが、本サイトでも連載をしているジャーナリストの横田一氏がこの問題をレポートした「週刊朝日」(朝日新聞出版)2013年6月7日号によれば、山陰自動車道は小泉純一郎政権時に総延長距離が1万4000キロから9342キロに引き下げられたのだが、第二次安倍政権の発足によって議論などなかったかのような状態に。そして、2013年1月には中尾友昭・下関市長(当時)が、このような安倍首相の発言を紹介したという。
「『(私が)首相になったから下関は良くなりますよ』と仰られ、『山陰自動車道は(国交省OBの)山本繁太郎知事が誕生したのだから必ずできますよ』とお墨付きを与えてくれました」
実際、安倍首相は事ある毎にこの山陰自動車道に言及してきた。2016年には「国土の骨格となる基幹的な道路だ」「予算を確保したい」と言い、昨年7月にも「山陰は最大のミッシングリンク(高速道路未整備区間)だ」と明言。そして、国交省もそれに合わせるように、昨年11月、先行整備する優先区間を最終決定するために動きを進めている。
さらに、同じく安倍首相のお膝元である山口県岩国市では、民主党政権時代に槍玉にあがって検証対象となった「平瀬ダム」が、安倍政権下の2014年3月より着工。2023年に完成予定となっているが、総工費は当初の想定から120億円増え、860億円にまで膨らんでいる。
また、父・晋太郎氏も推進した総事業費755億円の下関市の人口島「長州出島」も、「事業化には安倍首相や父晋太郎氏の国への働き掛けがあった」(東京新聞2014年2月19日付)と言われているが、今年3月1日、国交省が下関港を「国際旅客船拠点形成港湾」に選定したと下関市が発表。これにより、現在は岸壁を貨物船と客船が共用しているが、国がクルーズ船の専用岸壁を整備するという(西日本新聞3月7日付)。
安倍首相の地元で、安倍政権の「国土強靱化計画」のもと、「無駄な公共事業」として見直された計画が復活したり、国がバックアップしている事実──。安倍首相は森友学園問題の追及を受けた際、「私自身がずっとかかわってきた山陰自動車道なんかもずっとミッシングリンクのままでございますし、妻が名誉校長だったからといって、近畿財務局がそれはそう簡単にそういう行為をするということはあり得ない」などと述べて森友問題を矮小化しようとした。だが、現実には、今回の下関北九州道路の問題が象徴するように、こうした公共事業でも森友や加計同様、「忖度」がなされ、安倍首相の地元への利益誘導は進んできたのだ。
塚田国交副大臣の辞任は当然だが、それでこの問題を終わらせてはならない。安倍首相の「私物化体質」をこのまま放置しつづけるのかどうか。それがいま問われているのである。 
 

 


●忖度副大臣の忖度発言による忖度辞任 政権ダメージ 4/6
安倍晋三首相と麻生太郎財務相の地元の道路計画をめぐる「忖度(そんたく)」発言で追い込まれていた塚田一郎国交副大臣は5日、発言の責任を取り辞任した。自身の判断としたが、事実上の更迭。政権のNGワードを得意げに連発する感覚に、全国で統一地方選を戦う自民陣営は激怒。今後の選挙への影響は必至で、盟友麻生氏に近い塚田氏をかばった首相は“火消し”優先に転換したが、判断の遅れで政権のイメージも悪化した。野党は塚田氏の議員辞職も求めている。
「説明責任を果たし、職責をまっとうする」と話していた塚田氏が一転、辞任した。取材に「行政への信頼を損ね、国政の停滞を招いた」と説明。自民党でも辞任不可避の空気が拡大した4日のうちに所属する麻生派会長の麻生氏に辞意を伝え、麻生氏も了承した。
塚田氏は1日、福岡県知事選の候補者集会で、地元で「安倍・麻生道路」と呼ばれる下関北九州道路の計画に関し「首相や麻生氏は言えない。私は忖度(そんたく)します」「私は物わかりがいい。すぐ忖度します」と利益誘導を認めるような発言をし、調査計画が国直轄になったと、自分の手柄のように語った。
この日、一連の発言は「事実と異なる。雰囲気にのまれた。不適切だった」と釈明。忖度による辞任か問われると「違います」と語気を強めた。議員辞職は否定。後任は牧野京夫・元国交副大臣(60)が務める。
発言から4日。失言の深刻さや塚田氏のひどい言い逃れでも進退問題にならなかったのは、首相による盟友麻生氏への配慮があったとみられる。桜田義孝五輪相ら失言大臣も辞任させておらず、「強行突破」をはかろうとした節もある。
しかし統一地方選の前半戦は7日に投開票で、後半戦も21日投開票。7月には参院選もある。自民党本部には全国の陣営から抗議が相次ぎ、「選挙活動にならない」の嘆きもあった。テレビは連日塚田氏発言を報じ、モリカケで問題になった「政権と忖度」が、再び直結。首相は盟友への気遣いどころではなく、現実的対応に迫られた。
昨年、不適切なやじで辞任した副大臣もおり、「忖度」連発でも塚田氏が続投なら、党の不満もさらに拡大する。首相は5日、「雰囲気がどうあれ、政治家が語る言葉は真実でなければならない」と述べたが、判断は後手に回った。麻生氏は会見で「別に頼んでいない。道路計画が副大臣の忖度くらいで決まることはない」と述べたが、予算計上に政治的判断は本当になかったのか。「亥(い)年選挙」を前に、深刻なスキャンダルが安倍政権にのしかかった。 
●国交副大臣の忖度発言 辞任で幕引きにするな 4/6
これで幕引きにしてはならない。
塚田一郎国土交通副大臣が、道路整備を巡って「安倍晋三首相や麻生太郎副総理(兼財務相)が言えないので、私が忖度(そんたく)した」と発言した問題で辞任した。安倍首相は当初、続投させる構えだったが、統一地方選や衆院補欠選挙への影響を抑えるため方針転換したとみられる。
発言は国交省の首脳が所管する行政を私物化した上、選挙向けにそれを誇るような内容で、副大臣辞任だけでは済まされない。学校法人「森友学園」を巡る一連の問題で焦点となった忖度という言葉を使う軽薄さも尋常ではない。
1強状態が長期にわたる安倍政権のおごりと緩みを象徴する言動でもある。
塚田氏は参院議員も辞職するとともに政府、国会双方で忖度など行政をゆがめる行為がなかったのか事実関係を明らかにする必要がある。
塚田氏の発言は1日、北九州市で開かれた福岡県知事選の応援集会で飛び出した。
副大臣室を訪れた吉田博美・自民参院幹事長から、安倍首相の地元の山口県下関市と、麻生氏の地元の福岡県を結ぶ「下関北九州道路」の国直轄調査について「これは総理の地元と副総理の地元の事業なんだよ」「俺が何で来たか分かるか」と言われたと紹介。「私は忖度しました」と断言した。
下関北九州道路は、関門海峡を挟んだ下関市と北九州市を結ぶ「第3の関門道」として地元自治体や経済関係者などが長らく整備を求めている。財政難などを理由に2008年に凍結されたが、19年度から国の直轄調査が決まった。塚田氏は「今回の新年度の予算で国直轄の調査計画に引き上げました」とも強調していた。
事実であれば、首相らに対する配慮で行政をねじ曲げたことになる。報道を受け、塚田氏は翌日、文書で事実と異なる発言だったとして撤回、謝罪。3日には衆院厚生労働委員会などで「大勢が集まる会だったので、われを忘れて誤った発言をした」「忖度したことはないし、首相、副総理の地元だから特別な配慮をしたことはない」と釈明した。
安倍首相も「有権者の前で事実と異なることを述べたのは重大な問題だ」と事実関係を否定する塚田氏の説明を追認。罷免要求に対しては「本人がしっかり説明し、このことを肝に銘じ職責を果たしてほしい」と否定していた。
しかし、塚田氏の発言は極めて具体的で「われを忘れたことによる誤った発言」とはとても思えない。政府、国会は今後、関係者から事情を聴くなど調査を行うべきだ。
仮に塚田氏の主張通り事実ではなかったとしても、発言は7日投開票の福岡県知事選の自民党推薦候補を応援する集会でなされている。さらに国の直轄調査は、選挙の対抗馬である「(現職)知事に頼まれたからではありません」とも述べているという。権限乱用による利益誘導で選挙戦を有利にしようとしたと見るのが自然だ。
塚田氏があくまでも議員を辞職しないのであれば自民党が促す必要がある。昨年10月の内閣改造で「適材適所」として塚田氏を国交副大臣に任命した安倍首相が率先しなければならないことは言うまでもない。 
●「忖度」発言、麻生氏は沈黙 4/6
山口県下関市と北九州市を結ぶ下関北九州道路(下北道路)建設計画を巡る「忖度(そんたく)」発言の舞台となった福岡県知事選は6日、最終日を迎えた。自民党麻生派の塚田一郎参院議員が国土交通副大臣を辞任したことを受け、下北道路に反対してきた共産系新人は訴えに熱がこもる一方、計画推進派の自民系新人と現職の陣営は言及を避けた。
共産推薦の篠田清氏は福岡市・天神での街頭演説で「(忖度発言は)真実を語ったと考えている」と触れ、「利益誘導型の政治がまかり通っていいのか」と批判。「無駄な大型開発、忖度政治を県政から一掃していこう」と声を張った。
塚田氏が意向を忖度した相手として語った麻生太郎副総理兼財務相はこの日、福岡入り。福岡市内などで自民推薦の武内和久氏の応援演説に立ったが、一連の問題には一切言及しなかった。武内氏の選対本部長で、塚田氏への陳情に同行していた大家敏志参院議員は記者団に「(塚田氏)本人が言った通り、事実ではない。国政の停滞と行政の信頼を失った」と説明した。
計画推進を国に求めてきた現職の小川洋氏は、国直轄で調査費が付いた直後は「実績」としてPRしていたが、この日は控えた。陣営幹部は、福岡入りした麻生氏が問題に触れなかった対応について「政治責任をもっと感じるべきではないか」と指摘した。
武内和久 47歳 無所属 新人(自民党推薦)
公約 / 世界初、少子高齢化をテコにした新産業を興す。「福岡サミット」開催で県と政令市、市町村との関係回復。(1)県内全域での県民所得をプラス成長へ転換(2)健康づくり・介護予防強化で健康介護保険料引き下げ(3)高止まりの犯罪率・失業率引き下げ(4)女性が子育てし、働きやすい職場とまちづくり。経歴 / 福岡市西区出身。1994年に旧厚生省入り。主に医療福祉分野を担当し、福祉人材確保対策室長を最後に退官。その後、コンサルタント会社員、民放コメンテーターを務めた。福岡市西区。東大卒。
小川洋 69歳 無所属 現職
公約 / 時代の変化に的確に対応。「第4次産業革命」に先導的に取り組むとともに、100年の人生を充実して過ごせる「100年グッドライフ福岡県」を目指す。誰もが住み慣れたところで「働く」「暮らす」「育てる」、この三つができる地域社会をつくる。人を元気にし、地域を元気にする。経歴 / 福岡市早良区出身。1973年に旧通産省入り。近畿通商産業局長、産業技術環境局長、特許庁長官、内閣官房内閣広報官など歴任。2011年の知事選で初当選した。福岡市中央区。京大卒。 
●麻生太郎氏が街頭演説で忖度問題への言及を“封印” 4/6
12年に1度の「亥(い)年選挙」の第1弾、統一地方選は6日、前半の選挙戦最終日を迎えた。自民党を塚田一郎前国交副大臣の「忖度(そんたく)」発言が直撃する中、塚田氏に「忖度した」と指摘された麻生太郎財務相は、福岡県知事選の応援に入り街頭演説したが、忖度問題には触れずだんまりを決め込んだ。大阪府&市のダブルクロス選は、自民VS維新が最後まで大舌戦。「維新政治」に、有権者はどんな審判を下すのか。投開票は7日。
「塚田・忖度ショック」が自民党を揺るがす中、迎えた選挙戦最終日。安倍晋三首相の地元下関市と、麻生氏の地元に近い北九州市を結ぶ道路整備をめぐり、塚田氏に「忖度した」と指摘(事実ではないとして発言を撤回)された麻生氏は、福岡県知事選の応援で、大票田の福岡市に入った。
今回の知事選で麻生氏は、3選を目指す現職と、過去の選挙応援をめぐる「私怨」で決別し、新人を支援。自民党の推薦ももぎ取ったが、自民内の分裂と激しい対立を生み、地元の反発も拡大。厳しい戦いだ。
そんな中での「忖度ショック」。麻生氏は天神など繁華街3カ所で演説したが、忖度問題に関する言及は、一切“封印”。知事選の訴えだけに専念した。「今回の選挙では、県のリーダーの姿勢が問われている。『令和』という新しい時代に向けて新しいリーダーを選ばなければいけない」と県政刷新を主張。麻生氏の福岡での人気は高く、特段のやじも飛ばなかった。
ただ、塚田氏の発言は今月1日、麻生氏の支援候補の会合であいさつした際のもの。露骨な利益誘導をアピールした背景に、選挙戦の厳しさの挽回を目指した、とみる向きもある。陣営幹部は「知事選なので、知事選での訴えを(最後まで)していく」と話した。
「忖度発言」について、福岡市民は「福岡に関係ない人(塚田氏は新潟が地元)が、余計なことを言った」(50代女性)「もし道路が開通しても、忖度という色眼鏡で見られる」(60代男性)と受け止めていた。
7日投開票される11道府県知事選のうち、福岡など4知事選が保守分裂。そんな流れに「忖度」問題が影響するのか、自民党は戦々恐々だ。 

 

●福岡知事選、麻生氏推す自民推薦が敗れる 4/7
自民系組織が分裂した福岡県知事選は7日に投票が行われ、現職の小川洋氏(69)=県農政連推薦=が、いずれも新顔で麻生太郎副総理が支援する自民推薦の武内和久氏(47)と共産推薦の篠田清氏(70)との対決を制して、3選を確実にした。
小川氏は過去2回の知事選で麻生氏ら自民の支援を受けたが、麻生氏や党県連との関係が悪化し、自民の推薦を得られなかった。ただ、武内氏擁立の過程への反発も噴き出し、県内選出の自民衆院議員11人のうち二階派などの6人が小川氏支持を明言する事態となった。多くの自民の有力支持団体も小川氏陣営に流れ、連立与党・公明党の県本部も事実上、小川氏を支援した。
武内氏は、麻生氏や安倍晋三首相に近い高島宗一郎・福岡市長の応援を受けたが、伸び悩んだ。 
●麻生副総理「期待に応えきれず、おわび」 福岡知事選 4/7
麻生太郎副総理・財務相は7日、福岡県知事選で自身が支援した自民推薦の新人、武内和久氏の敗北が決まったことについて「期待に応えきれず大変申し訳なく思う。おわび申し上げたい」と語った。福岡市内で支援者にあいさつした。
福岡県知事選は、自民党支持層が割れる「保守分裂」となった。選挙戦のさなかには、麻生氏に近い塚田一郎氏が武内氏の応援集会で「忖度(そんたく)」発言をし、責任を取って国土交通副大臣を辞任する騒動が起きていた。
麻生氏は3選を果たした現職の小川洋氏を過去2回の知事選で支援した。今回は小川氏に対抗馬をぶつける形で武内氏を応援し、党本部の推薦を取り付けた。2016年の衆院補選の対応をめぐり小川氏との関係が冷え込んだためとされる。自民党の一部国会議員は小川氏の支援に回った。
塚田氏は武内氏の応援集会で、福岡県と山口県を結ぶ道路整備を麻生氏らの意向を忖度して国直轄の調査計画に引き上げたと発言した。その後、塚田氏は事実ではないとして発言を撤回した。 
●福岡知事選で現職圧勝、麻生氏の影響力低下も 横暴批判払拭できず 4/7
保守分裂となった福岡県知事選は、現職の小川洋氏が自民党推薦の新人、武内和久氏らを引き離し、3選を確実にした。新人擁立にこだわった麻生太郎副総理兼財務相は7日夜、支援者らを前に「当選させられず誠にふがいなく、われわれの力不足だった。心からおわび申し上げる」と語った。求心力低下は避けられそうにない。
「麻生さんがあそこまで言うから認めたけど『麻生はわがままだ』というストーリーを作られたら負けるよ」。安倍晋三首相は1月に党本部が武内氏の推薦を決めると、周囲にそう漏らした。
首相が危惧した通り、小川陣営は「反麻生」キャンペーンを展開した。麻生氏が自分の意に沿わないため、過去2回の知事選で支援した小川氏をすげ替えようとしているとして、「横暴」や「いじめ」と批判した。
小川陣営のある国会議員は「日本は判官びいきがある。いじめているという印象がつくと、いじめられているように見える方に票が集まる」と解説する。
県政界の覇権争いも絡んだ。「麻生1強」を突き崩そうと、岸田派名誉会長の古賀誠元幹事長や山崎拓元副総裁ら有力OBも、影響下にある国会議員とともに小川氏支援に回った。
従来の自民党支持団体や公明党などの票も取り込み、陣営からは早々と「後は何倍の票差が付くか」と勝利宣言が漏れていた。
対する武内陣営は「小川県政では停滞が続く」と主張。「県議をはじめ自民党県連は交代を望んでいる」などと批判の払拭を図ったが、広がりを欠いた。
麻生派所属の元国土交通副大臣、塚田一郎氏が選挙戦の最中、道路建設をめぐり首相と麻生氏に「忖度(そんたく)した」と発言し、副大臣辞任に追い込まれたことも“ダメ押し”となった。
麻生氏周辺は「党の決定に従わず小川氏を支持した“造反”議員におとがめなしなら、野党と変わらない」として二階俊博幹事長に対応を求めた。だが、党幹部は「県連の責任はどうなのか。処分なんてできない」と突き放す。
圧倒的な票差に、小川氏を支援した国会議員は冷ややかにこう語った。
「麻生さんは有権者がどう見るかを読み間違えた。昔みたいに自民党の推薦が出れば、ついていく時代じゃない」 
●自民が”象徴的選挙”で敗北、参院選に向け不安残す 4/7
12年に1度の「亥(い)年選挙」の初陣となった統一地方選前半戦。自民党は、唯一の与野党対決となった北海道知事選は制したものの、大阪ダブル選で維新に敗れた上、保守分裂となった4知事選のうち、麻生太郎財務相の地元福岡や「竹下・青木王国」の島根で敗北。象徴的な決戦を次々と落とす結果になった。
安倍晋三首相が重視する今夏の参院選を控え、分裂した地方組織の修復に向けた時間はわずかだ。二階俊博幹事長は7日夜、「今後に向けた大いなる反省材料だ。反省の上に一枚岩で取り組みたい」と述べた。
今回、特に自民党内で衝撃が走ったのは、竹下登元首相や引退後も力を持つ「参院のドン」青木幹雄氏の地盤、「竹下・青木王国」の島根の県知事選で敗れたことだ。自民系3人が乱立し、44年ぶりの保守分裂。党は元消防庁次長の大庭誠司氏(59)を推薦したが、多くの自民県議が消防庁室長の丸山達也氏(49)を擁立。竹下氏の弟で、病気療養中の竹下亘県連会長も大庭氏支持を呼びかけたが、竹下派を象徴する「一致結束」には至らず、王国の“崩壊”も懸念されている。
一方、大阪ダブル選では、党調査で一時、市長選で維新をリードしたが、すぐに逆転された。敗戦ムードが漂う中、9日には自民議員の死去に伴う衆院大阪12区補選が告示され、再び維新と激突する。共産党が現職国会議員を無所属で出馬させるなど野党の動きもあり、混戦は必至だ。補選は沖縄3区でも行われるが、米軍普天間飛行場の辺野古移設をめぐる県と政府の対立もあり、自民は厳しい戦いを迫られそうだ。
塚田一郎前国交副大臣による、道路整備をめぐる「忖度(そんたく)」発言も、尾を引いている。野党は合同ヒアリングなどを通じ、道路整備をめぐる首相や麻生氏への忖度が本当になかったのかを、ただす。
12年前の亥年選挙は、参院選惨敗で第1次安倍政権が退陣。亥年選挙は、政変の火種となり得るのだ。 
●「忖度捜査」と「忖度道路」−法務委質疑 4/7
衆議院法務委員会では、民事執行法の改正案が審議されています。その中には、離婚後の子どもの養育費や殺傷事件の損害賠償金などの逃げ得を許さないため、支払義務が確定している者が裁判所に呼び出され、自己の財産状況についてうそをついた場合、厳しい罰則を科すことが含まれています。
しかし、いくら法律を変えて罰則を厳しくしても、起訴をする権限を持つ検察官に罰則を適用する気がなく、いい加減な捜査しかしなければ無意味です。現に、森友事件では国有地を不当に安く売却して国民に損害を与えた背任罪の疑いや、公文書を改ざんしたり廃棄したりした公文書変造罪・毀棄罪の疑いがあったにもかかわらず、検察は関係した官僚を全員不起訴としました。
この検察の姿勢に対し、先月末に一般市民から選ばれた11人から成る検察審査会は、捜査が中途半端に行われたことを指摘し、やり直しを命じる「不起訴不当」の議決をしました。そこで2日の法務委員会で、検察庁を所管する山下法務大臣に対し、この議決に関する見解を求めたところ、「検察当局は、適正にその後の手続を進めるのであろう」と他人事のような答弁。
カルロス・ゴーン容疑者に対し、検察は海外の関連会社の預金口座まで徹底的に調べ、会社に損害を与えた背任の疑いで4度目の逮捕をしました。森友事件では、国民に損害を与え、国民や国会を欺いた疑いがあるのに、ゴーン事件で見せる検察の本気度が感じられません。「忖度捜査」ではなく、国民の理解と納得が得られる捜査の実行と起訴の判断をすべきです。
検察捜査に続き、公共事業についても「忖度」が問題となりました。しかも、選挙演説中、有権者の前で「私が忖度した」と堂々と自白したのです。自白した人物は、道路の建設を所管する国交省の塚田一郎副大臣。彼によると、忖度したのは安倍首相と麻生財務大臣のご意向であり、忖度した結果、安倍氏と麻生氏の地元を結ぶ道路を国の直轄工事にするための予算が付いたとのこと。
副大臣は特別職の公務員であり、憲法15条2項により「全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と定められています。自白が本当なら憲法違反、自白がうそなら有権者を欺いたことになり、いずれにせよ副大臣を辞任するだけで済む問題ではありません。それ以上にあきれるのは、安倍首相らへの忖度を自慢話にする神経です。
安倍政権下で行政の中立公正性という常識が失われています。各地で統一地方選が行われていますが、選挙権は「忖度」のない政治を選択し、常識を取り戻すための国民の権利です。  
●下関北九州忖度道路 4/7
先日5日、自由民主党麻生派の塚田一郎国土交通副大臣(55)が辞任しました。
塚田一郎元国土交通副大臣は、今月1日北九州市で開かれた福岡県知事選挙の候補者の集会で、「北九州市と山口県下関市を結ぶ通称下関北九州道路の整備について安倍晋三総理大臣の地元から麻生副総理の地元への道路なのだからすぐ忖度(そんたく)して今回の予算で国直轄の調査計画に引き上げた」などと言う趣旨の発言をしていました。
この発言が問題となり翌2日に発言は事実と異なるため撤回し謝罪すると文書で発表しましたが4日の参議院決算委員会で「利益誘導だ」と追及され、安倍晋三総理大臣は擁護していたのですが地方議員から統一地方選挙戦へ影響するとの声もあり菅義偉官房長官の独断で引導を渡したようです。
この問題で、4日の参議院決算委員会で共産党の仁比聡平議員が明らかにしたところでは、自由民主党と公明党の有志議員からなる「関門会」と言う会が平成28年3月31日付で石井啓一国土交通大臣あてで「下関北九州道路の早期実現に向けての要望書」なるものを提出していたそうです。
その要望書の中で関門会は『下関北九州道路の早期実現をはかること』『具体的な検討を進め、調査を実施するとともに必要な予算を確保すること』を要求しているようです。
そして、この要望書には安倍晋三総理大臣の名が連ねられていました。
この下関北九州道路に関してはその建設理由とされている関門トンネル及び関門橋には”慢性的な”渋滞など起きておらず建設段階の想定交通量の半分程度しか使われていないことが分かっています。
この件について安倍晋三総理大臣は「要望書は知らなかった。そこには総理大臣だから名前が載っているわけはなく関門会のメンバーとして載っているだけなのだろうと。そもそも私は総理大臣として陳情する立場にない。」などと笑いながら答えていました。
時の総理大臣の名前が、当の本人が知らない間に使われているにもかかわらず「メンバーとして載っているだけだ」などと言うのは余りにも無責任です。
この手の文書に名前を記載する際にはいくらメンバーだからと言って無断で載せていいわけではなく常識的には本人の承諾を得るのが筋です。
総理大臣であれば、いつ何時自分の名前が不正に使われるか注意すべきで国会議員であれば、総理大臣の名前を気安く載せるべきではないとわかるはずです。
「関門会」なる集団は、明らかに相手に忖度させるために「安倍晋三」の名前を記載したとしか思えません。
森加計問題と同じような感じがします。
やはり、安倍晋三政権と言うのは利益誘導型の忖度政権なのです。 
●私怨拭えず看板倒れ 頼みの高島氏動き鈍く 武内陣営「こんなはずじゃ」 4/8
福岡県知事選の投票終了と同時に落選確実の見通しが伝わると重苦しい沈黙が会場を包み、報道陣のカメラ音だけが響いた。福岡市であった自民推薦の新人武内和久氏(47)の報告会。麻生太郎副総理兼財務相は憮然(ぶぜん)とした表情で、喜びに沸く小川洋氏陣営のテレビ中継に目を向けた。
擁立を主導した候補の惨敗。「当選させられなかったのはわれわれの至らぬところ。心からおわびする」。麻生氏は硬い表情で頭を下げたが、自民分裂を招いた責任には最後まで触れなかった。一方の武内氏。後援会長の麻生渡前知事らが見守る中、吹っ切れたような表情で「挑戦の機会をいただき本当に感謝している」と語った。
1月末に党推薦を得て、麻生前知事を味方に付けた当初は、政権党のお墨付きと“ダブル麻生”の看板を背に自信を見せていた。だが党推薦を「ごり押し」した麻生副総理への反発は想像以上だった。相次ぐ党国会議員の「造反」や支持団体の離反。自民県議団は全面支援を約束したが、県議選への影響を懸念する議員の面従腹背は明らかで、街頭で1人マイクを握る姿が目立った。「推薦があれば(組織は)まとまると思った」と周囲にこぼした。
最大の援軍と期待した副総理の“秘蔵っ子”高島宗一郎福岡市長が、武内氏支援を表明したのは告示前日。武内氏の遊説カーは「高島、武内は一体」と連呼し、ポスターに市長の顔写真シールを貼るなど共闘を強調。反転攻勢を図ったが、一緒に街頭に立ったのは告示日と最終日だけ。自らに近い市議、県議候補の応援に注力する市長に、陣営幹部は「こんなはずではなかった…」と声を落とした。結局、市長は7日夜の福岡での報告会にも顔を出さなかった。
県と福岡市が対立する宿泊税問題の解決など政策論争に活路を模索したが、有権者から返ってくるのは「なぜ麻生さんは知事をいじめるの」という声。「選挙構図が政策をのみ込んだ」(支援議員)。選挙終盤には下関北九州道路建設計画を巡る麻生派参院議員の「忖度(そんたく)」発言が飛び出し、劣勢を決定付けた。
「この選挙は初めから間違いだった」。自民推薦候補の惨敗という結果に、選対幹部は恨み節を漏らした。
「栄えある、誇り高き自民党推薦候補として戦わせていただいた」。敗戦の弁で最後まで自民党への配慮を見せた武内氏。記者から「反麻生の壁」について聞かれても「いろんな考え方があるが、私は精いっぱいやった。私の力が及ばなかっただけだ」と気丈に語った。 
●国交省、会談記録を提出へ 道路「忖度」発言で野党に 4/8
下関北九州道路の整備で安倍晋三首相や麻生太郎副総理兼財務相の意向を「忖度(そんたく)した」と話した塚田一郎前国土交通副大臣の発言を巡り、野党は8日、2回目の合同ヒアリングを国会内で開いた。国交省は昨年12月に塚田氏と吉田博美自民党参院幹事長が会談し、道路の要望を受けた際の記録が存在すると明らかにした。内容を確認し速やかに提出すると説明した。
塚田氏は昨年12月20日、副大臣室で吉田氏と会談。同省道路局長と担当課長も同席していた。野党側は「メモがあるはずだ」と指摘してやりとりの公開を要請した。国交省が2019年度の直轄調査対象に下関北九州道路を選んだ根拠についても、データを示して説明するよう求めている。
国交省は4日の野党ヒアリングで、直轄調査を決めた理由を「自治体の調査結果や地域の要望を踏まえ、より技術的な調査が必要と判断した」と説明していた。 
●忖度道路 下関前田市長「頭にきた。強引な政策ではないと知ってほしい」 4/8
"忖度発言"をめぐって野党のみならず与党内からも批判を受け辞任した塚田一郎前国土交通副大臣。発言によって、一部で「忖度道路」などと呼ばれることになったのが、山口県下関市と福岡県北九州市を結ぶ「下関市北九州道路」だ。以前から議論されてきたものの、計画は福田内閣時代の2008年に凍結、そして今年度から国の直轄事業となり、4000万円が調査費用として計上されていた。
5日放送のAbemaTV『 AbemaPrime 』では、塚田元副大臣の発言を厳しく批判していた下関市の前田晋太郎市長を生直撃した。
「頭にきた。本当に悲しかった」
問題の発言は、「みなさんよく考えてください。下関は誰の地盤ですか。安倍晋三総理ですよ。安倍晋三総理から、麻生副総理の地元でもある北九州への道路の事業が止まっている。私すごく物わかりがいい。すぐに忖度をする。これを今回の新年度の予算に国で直轄の調査計画に引き上げた」というもので、北九州市で開かれた「自民党推薦県知事候補激励集会」にて飛び出した。これについて塚田元副大臣は「大変大きな会合のなかで、私自身雰囲気にのまれ、場内でそのような発言をしてしまったということで、大変申し訳なく思っている」と釈明。安倍総理は「雰囲気がどうあれ、知事選挙であったということだが、その場において政治家が語る言葉は真実を語らなければならないと考える」とコメントしている。
前田市長は「発言を聞いて、やはり頭にきた。そういうところから離れたところで議論しようとみんな必死になっていたので、本当に悲しかった。積み重ねてきたものに冷や水をかけられた気持ちだ。多少パフォーマンスが必要な場面だったんだろうと拝察するが、今の政治家は"忖度"という言葉を出すこと自体NGだ。それをあえて言ったというのは、逆にすごいと思う。今日は私も2つの演説会に出て10分ずつ話をしてきたが、"これも言いたいな"と思うことや、"まだ決定していないから危険だな"、など、自分の中で戦いながら喋った。塚田元副大臣をあまり批判したくはないが、人を喜ばせたい、票を得たいといった思いはあると思うが、そこを自制し、バランスを取りながら話すのが本物の政治家だと思う」と指摘する。
「このご時世、強い政治家に頼って何かを一発で決めてもらおうというようなことは極力控えていると思う。私は安倍総理の地元の首長であり、安倍総理の元秘書。非常に長くやり取りをしてきたが、この道路の件についてお願いがあったとか、私から何かをお願いをしたということは一切ない。当然"ボトムアップ"でやっていかなければ決まらないことだし、適正な正しいやり方で、全ての方にご理解いただいて着工することが理想だということをお互いに分かっているので、あえてそういう話はしない。そうやってこれからも続けていかなければならない」。
「日本全国の方々に知って頂きたい」
その上で前田市長は「下関北九州道路について、今回のことを契機に日本全国の方々に知って頂きたいと思っている」と話す。
現在、下関と北九州を結ぶ自動車のルートは「関門トンネル」(1958年開通)、「関門橋」(1973年)の2つがあるが、関門トンネルは老朽化が進んでおり、補修工事による通行止めが年間1440時間(2014年)に上っており、全国の高速道路でもワースト1位となっている。
「関門トンネルは150円で通ることができる一般道だが、片側一車線ずつで狭く。開通から60年以上が経過しているので、非常に老朽化している。頻繁に壁が落ちるなどしており、その度に大渋滞が起きていて、地元からも懸念の声や、新しい道路が欲しいという声が上がっていた。熊本地震の際には7,000台の自衛隊車両がここを通過し、熊本の人を助けに行ったが、昨年の西日本豪雨のときには、関門トンネルと関門橋の高速道路が同時に通行できなくなり、市民の生活が止まってしまった。例えば自分の家から北九州空港までは普段なら45分で到着するのが、7時間半もかかってしまった。これは下関市と北九州市だけのことではなく、九州全域と本州全域とを繋ぐ、人間で言うならば大動脈のような、非常に大切な問題だ。確かに少し前まではお金もかかるし、要らないのではという議論も市民の間ではあった。しかし私の肌感では豪雨災害を機に"このままじゃだめだ"と、少しずつ前向きになってきていたと思う」(前田市長)。
そこで新たな道路(2km)を通そうという構想が浮上。1990年には地元の自治体が調査費を計上。しかし前述の通り計画は一度凍結。橋なのかトンネルなのか、また、事業の予算規模も決まっていない状況だ。
「関門道路も含む日本全国6か所で橋を架ける"海峡横断プロジェクト"が凍結されてしまったが、よくよく見直すと、関門道路は中でも事業規模が小さく距離も短い一方、必要性も高いため、実現に向けたスピードが上がった。今回、"忖度"だとか言われているが、福岡県、山口県、下関市、北九州市の二県二市の自治体と経済界がお金も出し合い、どこを通るルートが最も適切なのか、形式、構造、工法など、ワークショップや協議会を開き、専門家の意見も聞いて議論を進めてきた。どれだけ税金を投入するのか、どれだけ民間の力を借りながらやっていくかといったことについての検討会も、事務方レベルで進めてきている。様々な可能性を検討しながら丁寧に進めている。そうやって下から上げていき、ようやく国から"取り上げよう"という話を頂いた矢先のことなので、地元に対する冷や水、ダメージはものすごく大きい。また、反対しているのは共産党だけで、超党派で進めてきたものなので、自民党単独の強引な政策ではないということも知っておいて頂きたい」。
「国交省、族議員のあり方も見直しを」
元経産官僚の宇佐美典也氏は「公共事業の実務経験があるわけではないが、"個所付け"といって、各省庁は予算要求の段階では"ここに道路を作る""ここに港を作る"といった使い道は基本的に明らかにせず、予算が全て決まった後に配分を決める。ここに政治的な思惑が入るのではないか?ということはよく指摘されるが、国土交通省の場合は地方の支分部局からボトムアップで予算を積み上げていき、そしてその時々の政府の大きな方針というのが本省から出される。したがって政治家が何か言ったから動くといったものではない。もちろん大臣が政治家である以上、政治的な背景があることは間違いないが、個別の事業がポンと決まるというのは幻想だ。そういうことがあると思いこんでいるメディアにも問題があるのではないか」と指摘。
その上で「国土交通省があまりにも巨大すぎるという問題もある。都道府県の上がいきなり国になるため、今回のように県をまたぐ案件は全て国の事業になってしまう。それを何とか地方に分権する仕組みを考えていかないと、こういった話はまた出てくると思う。族議員の側も、実際には何も関係がなくても"俺が予算を付けた"というようなことを言って票を取ることを繰り返していた。"忖度"が問題になる中、そういった問題点も無くしていくべきだと思う」と話していた。 
●国交相、副大臣更迭で謝罪 道路整備の忖度発言問題 4/9
石井啓一国土交通相は9日の衆院国交委員会で、下関北九州道路の整備を巡り安倍晋三首相や麻生太郎副総理兼財務相の意向を「忖度した」と発言、事実上更迭された塚田一郎元副大臣の問題を謝罪した。「行政の公正性に疑念を与えかねない発言は厳に慎まなければならない。国会、国民の皆さまに大変なご迷惑をお掛けした」と述べた。
国交省は8日、昨年12月に塚田氏が吉田博美自民党参院幹事長と会談し、道路要望を受けた際の記録メールを衆院に提出した。吉田氏は「総理、副総理と言うと国交省もやりにくいだろう」と首相らの地元事業であることを示唆しつつ、前向きな対応を求めていた。 
●忖度道路めぐり安倍首相の直接指示を証明する新事実 4/12
「私が忖度した」と安倍首相と麻生太郎財務相の地元への利益誘導を認めた塚田一郎国交副大臣につづき、「復興以上に大事なのは議員」と発言した桜田義孝五輪相と、安倍政権の「辞任ドミノ」が起きている。
あまりにも当たり前すぎるだろう。桜田五輪相については大臣就任以前から「(慰安婦は)職業としての娼婦、ビジネスだ」などと堂々発言した人物であり、大臣としての資質などまるでゼロのネトウヨ議員でしかない。それを総裁選で安倍首相のバックアップに回った二階派への論功行賞人事で大臣に抜擢したのだ。安倍首相は「さまざまな批判があることも真摯に受け止めなければならない」などと耳タコフレーズを口にしているが、反省などまったくしていないのは明らかだ。きっといつものごとく、適当にいなしておけば、そのうち話題が消え去ってしまうだろうとタカをくくっているのだろう。
しかし、もうひとつの問題、「安倍案件」として浮上した忖度道路問題に関しては、そのまま収束なんていうことは絶対にありえない。ここにきて、安倍首相自身が直接指示していた、という証言者までが出てきたからだ。
それは、吉田博美・自民党参院幹事長が塚田国交副大臣に対して「塚田、わかってる? これは総理の地元と副総理の地元の事業なんだよ」「俺が何で来たかわかるか」と迫って忖度を引き出した際、その場に同席していた福岡県選出の大家敏志・参院議員だ。
大家議員は昨年10月25日、やはり吉田自民参院幹事長とともに安倍首相と首相官邸で面会。いま「忖度道路」と呼ばれている「下関北九州道路」について陳情をおこなったことを自身のFacebookおよびブログに、こう記述していた。
〈山口県下関市のご出身である安倍総理からは「早期建設に向けた活動をしっかりと取り組むように」とお言葉を頂きました。〉
この安倍首相の発言は、当時の西日本新聞朝刊にも記載されており、本サイトはそのことをいち早く指摘していたが、当事者である大家議員が自分のメディアで当時、そのことを開陳していたのだ。
これは、安倍首相が陳情どころか「直接指示」していたという事実が確定的になったということだろう。
しかも、大家議員は昨年12月9日にも、重大発言をしていることが判明した。北九州市でおこなわれた講演のなかで「総理と副総理の地元なので、2人がやるとぐちゃぐちゃ言われるから、参議院の吉田博美幹事長を引っ張り出した」と明言していたのだ。実際、この発言の約10日後の12月20日に大家・吉田両氏は塚田国交副大臣と面会していたわけで、これは、表立って動けない安倍・麻生の名代として吉田氏が圧力をかけていたことを認める発言と言っていいだろう。
いや、安倍首相の指示は、今回、これらの事実が明らかになる以前からはっきりしている。4日の参院決算委員会で指摘されたように、安倍首相は下関や北九州にゆかりのある自民・公明党の国会議員有志によって結成された「関門会」のメンバーとして、2016年3月31日付けの石井啓一国交相に「下関北九州道路の早期実現に向けての要望書」を提出しているのだ。要望書の提出者欄にしっかりと〈安倍晋三〉と名前が記載されていた。
さらに、この要望書には〈去る二月二十四日、安倍総理を囲み懇談会を開催させていただいたところ、その際、「第二関門橋」の早期建設促進の件が話題となり、「関門会」の総意として要請活動を行うこととなった〉と、安倍首相を囲んだ会で、要請活動が決まったことが明記されていたのだ。
こんなあからさまな「総理案件」の要望書が提出されて、石井国交相が無視したとは考えられるはずがない。
事実、塚田国交副大臣の発言どおり、実際に国直轄の調査計画に引き上げられ、先月29日には今年度から調査費は国が全額負担することが公表され、4000万円を計上。そして、国直轄で調査をおこなう道路の候補は全国で108路線もありながら、今年度に事業として予算を認められたのは下関北九州道路のみだったことも、池田豊人・国交省道路局長の答弁によってあきらかになっている。
そこに加えて、今回の大家議員のブログやFacebookと発言である。もはや言い逃れできるような状況ではないはずだが、安倍首相は相変わらず「知らぬ存ぜぬ」をつらぬき、きょうおこなわれた参院本会議でも、「そもそも内閣総理大臣は要望や陳情をおこなう立場にはなく、また、石井国土交通大臣も『総理から指示があったとはまったく思っていない』と答弁しており、私が国交省の判断に影響を与えるようなことはなかったと承知しております。そのため私の指示で新たな調査をおこなうことは考えておりません」と強弁している。
身内の「石井国交相が指示はなかったと言っている」などと言ってもなんの証拠にもならないのに、たったそれだけで「新たな調査はしない」と決定してしまう──。森友・加計問題をはじめとする「忖度」案件と同様、こうして疑惑の目を潰してしまおうとしているのだ。
しかも、信じられないのが、これだけの証拠がそろいながら、まだ本格追及の姿勢を見せないマスコミだ。いったいどこまで、この政権の腐敗と不正を放置するつもりなのか。これでは、不正をやりたい放題の独裁国家と変わりがないだろう。 
 
 
 
 
 
 
 
 

 



2019/4/1-
 
 
 

 

●江戸時代のお金
江戸時代の、金・銀・銅の3種からなるお金の制度を「三貨制度」といいます。豊臣秀吉にかわって天下を取った徳川家康は、貨幣制度の全国統一に乗り出し、「大判」「小判」や「一分金(いちぶきん)」といった金貨、「丁銀(ちょうぎん)」「豆板銀(まめいたぎん)」といった銀貨をつくります。さらに、三代将軍の家光の時代には「一文銭(いちもんせん)」などの銅貨(銭貨)の鋳造がスタートしました。
ちなみにこの時代、金貨をつくる機関のことを「金座」、銀貨をつくる機関のことを「銀座」と呼んでいました。金座は江戸、京都、駿府(現在の静岡)、佐渡などに、銀座は江戸、京都伏見、駿府などにそれぞれ置かれていました。現在の東京にある「銀座」という街の名前はここから来ています。
江戸時代の貨幣制度はユニークで、金・銀・銅という3種類のお金の制度がまったくバラバラでした。また現代の社会で円とドルを交換する相場が毎日変わっているのと同じように、金と銀の交換割合も日々変動していたということです。
金貨の場合、単位には「両(りょう)」「分(ぶ)」「朱(しゅ)」があります。一朱金が4枚で1分、一分金が4枚で1両(小判1枚分)という具合に、お金の枚数で価値を数えることができます。これに対して銀貨の場合、単位には「貫(かん)」「匁(もんめ)」「分(ふん)」がありますが、貨幣の枚数ではなく、「重さ」で価値を測って使われるのが特徴です(銀貨の重さ10分が1匁、重さ10000匁が1貫)。実際、使う度に天秤などで重さを測って使われていたようです。
江戸時代は、モノによって代金を「金貨で払うもの」、「銀貨で払うもの」、「銅貨で払うもの」に分かれていました。また、高額な取引の場合、関東エリアでは「金」を、関西エリアでは「銀」を使う独特の風習("関東の金遣い、関西の銀遣い")もありました。さらに、金・銀・銅ではそれぞれ単位も呼び名も違っていましたし、いくらの金貨といくらの銀貨を交換するのかという相場も頻繁に変わっていたので、買い物のときは計算が大変でした。
そこで発達したのが「両替商(りょうがえしょう)」でした。両替商とは文字通り、金・銀・銅の交換を専門とする商人ですが、経済活動が活発化するにしたがって巨大な富を得るようになり、単なる両替だけではなく、人々からお金を預かったり、貸し付けたり、遠く離れた土地へ送金をしたりするなど、今の銀行のような役割を果たしていました。特に有名な両替商には鴻池(こうのいけ)、三井、住友があります。このうち三井・住友はそれぞれ現在の大手銀行グループへと発展していくことになります。
江戸時代につくられた貨幣は、大変質が高かったと言われていますが、江戸幕府の財政が苦しくなり、貨幣の材料となる金属が不足するようになると、金や銀の質を落とした貨幣がつくられるようになりました。しかし、国の経済規模をはるかに上回るほどのお金を発行してしまうと、物価がどんどん上がる現象(インフレーション)が起こります。日本の江戸時代も同様で、質を落とした貨幣を次々と発行した結果、幕末期にはインフレが発生。当時の人々の生活をたいそう苦しめたといいます。 

 

●小判に命を捧げた橋本庄三郎
橋本庄三郎とは
豊臣政権の時代、1593年。橋本庄三郎は、室町時代から代々続く彫金師の名家、後藤家で仕えていた職人でした。後藤家の人間よりも技術と知恵をもっていた庄三郎は、後藤家では理不尽な扱いをされ、いっこうに認められず、苦しんでいました。しかし、その腕は確かで、家康が小判を造ることになった際には、後藤家とともに庄三郎も呼び寄せました。
そうして1595年、橋本庄三郎は彫金師の後藤徳乗とともに、徳川家康と接見しました。長乗は早々に京都に帰ることになりますが、橋本庄三郎が中心になり、武蔵墨書小判を作ったのは1595年とされています。家康はこの橋本庄三郎を気に入り、後藤庄三郎光次という名を与えます。
家康は、江戸本町一丁目を与えて後藤屋敷を建てさせ、御金改役として金貨の検品を任せることにしました。後藤庄三郎光次はこの金座の当主となります。周辺には吹所という金貨鋳造施設を建て、小判師たちが日々金貨を作り、後藤庄三郎光次が管理する組織となりました。
江戸時代の貨幣について
江戸時代の貨幣は「三貨制度」といって金、銀、銭(銅)の3種類がありました。金貨の単位は「両(りょう)、分(ぶ)、朱(しゅ)」で、「1両=4分=16朱」の四進法でした。「1両」は金の小判が1枚となっています。現代でいうと、1両で約8万円〜10万円前後の価値になります。
それまでは、秤量貨幣(ひょうりょうかへい)といって、天秤を引っ張り出してきて、貨幣のやりとりをいこなっていました。
こうした大口取引に秤量貨幣としての金銀貨を使用する貨幣経済はこの頃より商人を中心として発展し始め、また貴族や寺院が貢租や賜物として取得した金銀を銭貨に両替によって判金の需要が生じます。このころから、金屋(かねや)や銀屋(かねや)といった金銀の精錬および両替を行う職業が現れ始めます。
そこで、庄三郎は、天正大判を参考に約4.4匁の1/10の定位定量を採用しました。薄く延ばす技術を必要とするその定量は、橋本庄三郎のアイデアとされます。関東ではそれまで甲州金が使われていたので、金工達は旧武田の流れでありましたが、徳川は天正大判を作っている後藤家の権威ある判金を作りたかったのです。
豊臣対徳川 豊臣家との経済戦争
橋本庄三郎は、豊臣家と徳川家の経済戦争においても重要な役割を果たしました。
徳川家康が世を納めた、江戸時代。徳川家康は全国統一を成し遂げましたが、橋本庄三郎の力もあり、貨幣の全国統一も成し遂げました。それまでの金貨は、豊臣秀吉が造らせた「天正大判」がありましたが、額面が大きすぎたため、一般市場には流通せず、その存在をみたことがないということから、「生き霊」などと揶揄されていました。
そんな時代から徳川家康が貨幣の全国統一を成し遂げました。ではどうやって成し遂げたのか、それは、計数貨幣への移行にありました。徳川家康は、大判ではなく、小判を造りました。額面1両で、一般市場で流通するにはとても便利で、またたくまに広がります。
一般市場にとって何が必要とされているのか、見極めた徳川家康に軍配があがったのですね。家康の戦略を裏で支えたのが、橋本(後藤)庄三郎光次です。
誰も行ってこなかった小判づくりをはじめ、見事成功させました。
金座(現在の日本橋)で小判は作られていた
金貨をつくる機関のことを「金座」、銀貨をつくる機関のことを「銀座」と呼んでいました。銀座といえば、いまでもお馴染みのワードですが、「金座」という金を精錬していた場所もありました。
金座とは、幕府から大判を除く金貨製造に関する独占的な特権を与えられていた金座人と呼ばれる町人によって構成された、いわば半官半民の事業団体のこと。
江戸時代に「金座」には、金吹所(きんふきしょ、製造工場)、金局(きんきょく、事務所)がありました。
その中には、橋本庄三郎の住宅もあったというので驚きですね。その場所は、現在の日本橋にあたります。なんと日本銀行の本店の敷地が、もともと「金座」だった場所なんだとか。 

 

●謳歌 
1
声を合わせて歌うこと。また、その歌。「或は之を諷詠し、或は之を―し」〈柳河春三編・万国新話〉。声をそろえて褒めたたえること。「世は名門を―する、世は富豪を―する」〈漱石・野分〉。恵まれた幸せを、みんなで大いに楽しみ喜び合うこと。「青春を謳歌する」「平和を謳歌する」。
2
多くの人が声をそろえてほめたたえること。喜びなどを言動にはっきり表すこと。 「青春を−する」。声をそろえて歌うこと。また、その歌。 「詩変じて謡と成り−せらる/閑吟集」。うわさすること。また、うわさ。 「洛中に−し、山上に風聞す/平家 一本・延慶本」。
3
声を合わせていっせいに歌うこと。また、その歌。特に、歌謡、俗謡をいう。※凌雲集(814)奉和聖製宿旧宮応製〈藤原冬嗣〉「不レ異三沛中聞二漢筑一、謳歌濫続大風音」。※読本・昔話稲妻表紙(1806)一「旨酒珍膳席上にみち、郢曲謳歌(アウカ)室中にかまびすく」。声をそろえてほめたたえること。※本朝文粋(1060頃)六・申美濃加賀等守状〈源為憲〉「若預二今春之拝任一。定継二吉年之謳歌一」。※野分(1907)〈夏目漱石〉三「世は名門を謳歌(オウカ)する、世は富豪を謳歌する」 〔孟子‐万章・上〕。よい境遇にあることをはばかることなく言動に表わすこと。「青春を謳歌する」※酒ほがひ(1910)〈吉井勇〉祇園冊子「杯を鳴らし祇園を謳歌(オウカ)すと」。 うわさすること。また、風説。風聞。謳歌の説。※台記‐久安三年(1147)七月二〇日「三人兄弟、一夜婚姻、人以謳歌、也以嘲哢」。
4
「声を合わせて歌うこと」。「声をそろえてほめたたえること」。「幸せを大いに楽しみ、喜び合うこと」という意味です。謳歌は3つ目の「幸せを大いに楽しみ、喜び合うこと」という意味で使われることが多いです。よく聞く「我が世の春を謳歌する」はこの意味です。「我が世の春」は「何ごとも自分の思い通りになる絶頂期」という意味なので「我が世の春を謳歌する」で「何ごとも自分の思い通りになる絶頂期を大いに楽しむ」という意味になります。漢字をみると「謳」は「謳われる(うたわれる)」とも読み、「多くの人からほめたたえれれる」という意味を持つ言葉で、「歌」は「うたう」という意味の言葉です。謳歌は使われている文字からすると1つ目と2つ目の意味の方がしっくりときますが、前述のとおり3つ目の意味で使われることが多いです。
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謳歌の「謳」は「声を揃えて歌う」という意味があります。漢字の組み合わせから見れば、謳歌は「歌を歌う」という意味であるため、前述の1の意味が思い起こされます。しかし、現代では3の意味である「幸せを喜び合う」という意味や、「存分に楽しんでいる様子をあらわす」という意味で使われることがほとんどです。謳歌を使った表現で耳にする事の多い「青春を謳歌する」が代表的でしょう。
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中国語に語源のある熟語です。中国における「謳歌」の意味も、日本語として使われている「謳歌」と同じ意味で使われています。現代中国では漢字が簡略化されているので、「謳」の字は「讴」と表されます。「领导同志勖勉作者讴歌新人」という中国語は、「指導者は作者に新しいタイプの人物を謳歌するよう励ます」という日本語訳になります。
「声を合わせて歌うこと」 「謳歌する」のひとつ目の意味である「声を合わせて歌うこと」は、「うたう」という読みと意味を持つ漢字を二つ重ねているという成り立ちから、直接感じ取れる意味といえます。大きな歌声となった様子を「うたう」という漢字を二つ重ねて表現しているといえます。「声を合わせて歌うこと」という意味が、「謳歌する」のもともとの意味と考えられますが、現代文の中でこの意味で使われることはなくなっています。
「声をそろえて褒め称えること」 「謳歌する」の二つ目の意味である「声を揃えて褒め称えること」は、一つ目の意味である「声を合わせて歌うこと」から派生した意味だと考えられます。この意味で使われることも、現代文の中では減っています。この意味で使われている場合も、読み方によっては、三つ目の意味である「幸せを大いに楽しみ、喜び合うこと」の意味に受け取ってしまこともあります。
「幸せを大いに楽しみ、喜び合うこと」 現代文の中で「謳歌する」が使われていたら、ほとんどの場合は「幸せを大いに楽しみ、喜び合うこと」の意味で使われています。「楽しんでいるね」「楽しそうだね」といった言葉の代わりに、「謳歌する」を使って表現されていることが多いので、多くの人が「謳歌する」の意味は「楽しんでいる様子を表現するもの」と受け止めています。
例文
・・・こうしてふたたび勉強ばかりがわが世の春を謳歌することになった。
・・・シェイクスピアの劇団はわが世の春を謳歌していた時代であった。
・・・恵まれた環境で、デラックスなシングルライフを謳歌しているらしい。
・・・私たちは東京での学生生活を謳歌しています。
・・・定年後の第二の人生を謳歌してください。
・・・今しかない青春を謳歌してください。
・・・試験にも合格したことだし、これから青春を謳歌することにする。
・・・彼らは一時の平和を謳歌しているに過ぎない。
・・・哲学がそれを謳歌し、宗教がそれを賛美し、人間のことはそれで遺憾のないように説いている。 自分は今つくづくとわが子の死に顔を眺め、そうして三日の後この子がどうなるかと思うて、真にわが心の薄弱が情けなくなった。わが生活の虚偽残酷にあきれてし・・・
・・・今の時代の人々は彼らを謳歌している。そしてかれは今の時代の精神に触れないばかりに、今の時代をののしるばかりにこのありさまに落ちてしまった。『あらためて一つ差し上げましょう、この後永くお交際のできますように、』と自分は杯をさした。かれは黙・・・
・・・時代の風潮は遊廓で優待されるのを無上の栄誉と心得て居る、そこで京伝らもやはり同じ感情を有して居る、そこで京伝らの著述を見れば天明前後の社会の堕落さ加減は明らかに写って居ますが、時代はなお徳川氏を謳歌して居るのであります。しかし馬琴は心中に将・・・
・・・「リベルタンってやつがあって、これがまあ自由思想を謳歌してずいぶんあばれ廻ったものです。十七世紀と言いますから、いまから三百年ほど前の事ですがね。」と、眉をはね上げてもったいぶる。「こいつらは主として宗教の自由を叫んで、あばれていたらしいで・・・
・・・の無条件な謳歌者でない事だけは想像される。少なくも彼の頭が鉄と石炭ばかりで詰まっていない証拠にはなるかと思う。 彼はまだこれからが働き盛りである。彼が重力の理論で手を廻さなかった電磁気論は、ワイルによって彼の一般相対性原理の圏内に併・・・
・・・「人生謳歌」 グラノフスキーの「人生謳歌」というのを見せてもらった。原名は「人生の歌」というのであるが、自分の見たところではどうも人生を謳歌したものとは思われない。むしろやはり一種のトーテンタンツであるような気がす・・・
・・・こういう絵を見ては誰でも資本主義を謳歌したくなる。 安井氏の「風吹く湖畔」を見ると日本の夏に特有な妙に仇白く空虚なしかし強烈な白光を想い出させられるが、しかしそういう点ではむしろ先年の「海岸風景」の方から一層強い印象を受けたような気がし・・・
・・・雷同し謳歌して行くより外には安全なる処世の道はないように考えられている。この場合わが身一つの外に、三界の首枷というもののないことは、誠にこの上もない幸福だと思わなければならない。        ○ わたくしの身にとって妻帯の・・・
・・・この常識から見れば奇妙な偏りをもった古典文学謳歌の傾向が、ともかく自身のために語り得る場処をもち得ているという可能の条件に就て、自明な情勢はもとよりのこととして、更に文化の面から考察が進められなければなるまいと思う。アカデミックな国文・・・
・・・の人々は亀井勝一郎、保田与重郎、中河与一を先頭として「日本精神」の謳歌によって文飾されたファシズム文学を流布した。女詩人深尾須磨子はイタリーへ行って、ムッソリーニとファシズムの讚歌を歌った。私は目白の家で殆ど毎日巣鴨へ面会にゆきながら活ぱつ・・・
・・・ブランデスは既に彼の卓越した十九世紀文学の研究において、当時のロマンチスト達が、自然を謳歌したことは事実であったが、「彼等の愛する自然はロマンチックな自然であった」ことを洞察している。彼等が「没趣味なもの、俗悪なもの、平俗なものとして斥けた・・・
・・・大宅氏は、嘗てのプロレタリア評論家たちが、この問題を自身の問題として真面目にとりあげず、転向謳歌者の驥尾に附している態度を慨歎している。杉山氏は硬骨に、そういう態度に対する軽蔑をその文章の中で示しているのである。 プロレタリア文学・・・
・・・知性の喪失を、梶が謳歌していることに対して、もし、苦しんでいる知識人からの祝詞や花束がおくられると予想すれば、それは贈りての目当てにおいて大いにあやまったものと云わざるを得ない。従来馴致された作家横光の読者といえども、知性を抹殺する知性の遊・・・
・・・をもって先生は人生の矛盾不調和から眼をそむけたわけではなかった。先生はますます執拗にその矛盾不調和を凝視しなければならなかった。寂しく悲しく苦しかったに相違ない。 それゆえ先生は「生」を謳歌しなかった。生きている事はいたし方のない事実で・・・
・・・生を謳歌するニイチェの哲学は苦患を愛する事を教うるゆえに尊貴である。 苦患を乗り超えて行こうとする勇気。苦患に焔を煽られる理想の炬火。それのない所に生は栄えないだろう。三 私は痛苦と忍従とを思うごとに、年少のころよ・・・
・・・烏は績を謳歌してカアカアと鳴く、ただ願わくば田吾作と八公が身の不運を嘆き命惜しの怨みを呑んで浮世を去った事を永しえに烏には知らさないでいたい。 孝は東洋倫理の根本である、神も人もこれを讃美する。寒夜裸になって氷の上に寝たら鯉までが感心し・・・ 

 

●年貢 
日本史上の租税の一形態。律令制における田租が、平安時代初期-中期に律令制が崩壊・形骸化したことにともなって、年貢へと変質したが、貢租(こうそ)という別称に名残が見られる。その後、中世・近世を通じて、領主が百姓(農民でなく普通の民をいう。)を始めとする民衆に課する租税として存続した。主に、米で納めるため、その米を年貢米(ねんぐまい)と呼ばれた。
7世紀末-8世紀初頭
7世紀末-8世紀初頭に始まった律令制における租税は、租庸調制と呼ばれ、人民一人ひとりを対象に課税・徴税する性格が強かった。こうした租税制度は、戸籍・計帳の整備や国郡里(郷)制といった緻密な人民支配システムに大きく依存していた。
9世紀-10世紀
9世紀-10世紀頃になると、百姓層の中で田地を開発・集積する富豪層が出現するようになった。こうした富豪層は田堵と呼ばれ、開発・集積した田地の経営(営田)や私出挙の実施などで富を蓄積し、一般の百姓を自らの経営下に組み込んでいった。このような百姓内の階層分離が進んでいく中で、政府による律令制的支配は徐々に弛緩していき、戸籍・計帳の作成や班田などが実施されなくなっていった。そうなると、人民一人ひとりを収取(課税・徴税)単位としていた人別支配はもはや不可能となり、政府や支配層にとって別の支配体制を構築する必要が生じていた。まず、公田を支配していた国衙が、当時台頭しつつあった田堵と連携して、土地を収取単位とする支配体制を築き始めた。国衙は、国内の公田を名田に再編成し、名田経営を田堵へ請け負わせ始めた。名田経営を請け負った田堵は、従前の田租や調・庸・雑徭・正税出挙に相当する分量を国衙へ納入した。こうした租税請負の形態を負名(ふみょう)という。主として田租や正税出挙に由来するものを官物(かんもつ)といい、主として調・庸・雑徭に由来するものを雑役(ぞうやく)といった。そして、官物にあたるものが年貢となっていくのである。
11世紀-12世紀
名田を中心とする収取体制は、11世紀-12世紀以降、一円化して領域制を高めつつあった荘園にも導入された。荘園内の田地は名田へ再編成され、田堵らが名田経営と領主への貢納を請け負った。領主への貢納のうち、国衙領でいう官物にあたるもの(田地からの収穫米)が年貢と呼ばれるようになった。こうして成立した年貢は、その後の中世・近世を通じて、支配層の主要な財源として位置づけられ、被支配層にとっては年貢を負担する義務が課され続けたのである。
鎌倉時代
鎌倉時代になると、商品経済が発展していき、貨幣流通が増加し、中には銭貨で年貢を納入する代銭納が行われるケースも出てきた。ただし、そうしたケースは非常にまれで、物納された年貢を荘官や地頭が換金することの方が多かった。また、未進が発生すると、荘官や地頭が領主に対して請け負った貢納額を満たすために不足分の補填を行う場合があり、未進者との間に債権債務関係が発生する場合もあった。この時代には公事・地子などの貢納が行われるようになり、これらと区別する意味で本年貢・公方年貢とも呼ばれるようになった。
室町時代
室町時代に入ると、貨幣経済が一層進展し、年貢の銭納・代銭納などの銭貨による年貢納入が畿内を中心に広く普及するようになった。また、荘官や地頭が経費や輸送費の転嫁あるいは自己の得分を増やすために交分や口米などの名目で各種の付加税を徴収した。
戦国・安土桃山時代
戦国時代になると貴族や寺社によって守られた荘園制が崩れていく。それに代わり、「村」や「町」といった自治組織が各地に出現。自分達で掟を作り、独自の方法で集団を守っていた。一例として、村を守るため、篠(ささ)を村の入口や周辺に引いて囲っていくことにより、村を擬似的に山林に見立てる。当時、『山林には神が宿る』と考えられていた為、村が、『聖なる場』となり譴責使(けんせきし、年貢を納めない農民に対して催促のために領主が派遣する使い)等、領主の権限で村に介入する余地がなくなり、いかなる領主であっても神の祟りを恐れ、入ってこなかったという。またこの時代の紛争では、略奪行為や人身売買は日常茶飯事だった。その為村人たちは、山や地下にシェルターを設けたり、村を要塞化したり、信頼できる領主の城に逃げ込む等して、村の食料や財産を守った。主な攻撃手段は投石である。安土桃山時代に実施された太閤検地により、一つの土地に対する重層的な支配・権利関係がほぼ全て解消された。一つの土地の耕作者がその土地の唯一の権利者となり、土地の生産力は米の見込生産量である石高で計られることとなった。年貢については、石高を村落全体で集計した村高(むらだか)に応じた額が、村の年貢量とされ、年貢納入は村落が一括納入の義務を負う村請(むらうけ)の形態が採用された。
江戸時代
江戸時代になっても、太閤検地による村落支配体制はほぼそのまま継承され、村請制がとられた。年貢徴収は田を視察してその年の収穫量を見込んで毎年ごとに年貢率を決定する検見法(けみほう)を採用していたが、年によって収入が大きく変動するリスクを負っていたことから、江戸時代中期頃になると、豊作・不作にかかわらず一定の年貢率による定免法(じょうめんほう)が採られるようになった。だが、例外も存在した。米が取れない地域の一部では、畑地に対する特殊な年貢賦課方法である畑方免の採用や商品作物等の売却代金をもって他所から米を購入して納税用の年貢に充てるという買納制が例外的に認められていた。だが、江戸時代中期以後商品作物の生産が広まってくると、都市周辺部の農村など、本来は米の生産が可能な地域においてもうやむやのうちに買納制が行われていき、江戸幕府さえもが事実上の黙認政策を採らざるを得なくなった。
   年貢米の江戸回送
江戸時代の領主は年貢を米で徴収しました。全国各地の領主は年貢として集めた米を食用米や備蓄米など米として使用する分を除いて市場で換金するため大坂や江戸に送りました。江戸時代の物流は、現代よりも季節や気候の影響を受け易く、年貢米の回送も大きく左右されました。では、越後国高田藩(榊原家、約15万石)を例として、ある年の秋に収穫した米は、城下町であった現在の新潟県上越市から江戸に送ると、いつ頃到着したのでしょうか。
今では想像できませんが、江戸時代の文献によると江戸に着くのは翌々年の春以降になります。
その年の年貢の納入は12月に終了しますが、豪雪地帯の高田藩領はすでに雪に覆われており、年末の段階で年貢米は領主の蔵(城下の蔵、および領内各地に点在する領主指定の蔵)の中にあり、この地で年を越します。翌年の春、雪解けを待って、高田藩領の直江津港から船積みされて海に出ます。
米は6石(1石=180リットル)で1トン程度の重さになるので、人力、馬ではなく船で海上輸送されました。高田藩のような日本海側の藩の場合、まず大坂を目指し、日本海を南下・西進し、関門海峡を通り、瀬戸内海を経て大坂に至るルートをたどりました。輸送は大量かつ遠距離なため幾つも港に寄港しながら運び、大坂までの回送に年内一杯を費やすことになります。
当時の日本式の帆船は冬の季節風や荒波に弱いことから、江戸への回送は翌々年の春以降となってしまいます。もちろん、大坂でも換金されますが、全部ではなく、残りは市場の大きな江戸に向けて送られるのです。こうして、大坂から送られた高田藩の年貢米は、半月から1ヶ月かけて江戸に順次到着します。
大坂や江戸に送られた年貢米は、蔵元(くらもと)・札差(ふださし)・掛屋(かけや)と呼ばれる御用商人の手で販売されることになります。蔵元たちは同時に金融商人でもあり、年貢米を担保(信用)として大名貸し(大名相手の金融)を行っていることが多いのです。そのために藩は、年貢米を大坂や江戸で売るよりも前に、蔵元などから現金を手に入れることができたのです。
この時代、年貢米の回送には非常に時間がかかりましたが、政治や行政を行う上で支障が出ないようそれを補う現金調達の仕組みが出来上がっていたのです。
   年貢の納め方、助郷
「年貢は、年貢米の付加税ともに米のもみ等がないよう吟味して納めること。米のよしあしを見分け、升を使ってはかり、名主が立合って、縄・俵は注意深く蔵に納め、(それから)年貢米を港へ輸送する。とりわけ滞納ないよう心懸けるべきこと。役人が村々を視察してまわる時、公用輸送にあてた馬(伝馬)は、幕府領地・旗本領ともに、宿場に人馬が不足した時に補充を常に義務づけられた村(定助郷/じょうすけごう)、追加でその負担を補充する村(加助郷/かすけごう)、ならびに宿駅の助郷責任者(助郷問屋/すけごうといや)、人馬を各助郷村に割振り、お触れの順番・・・ 」
前半は年貢の納め方、後半は助郷(すけごう)等について書かれています。年貢米は一度、村の蔵(郷蔵/ごうぐら)に保管し、郷蔵から年貢米を回送するための船積場所(津出場/つだしば)に移出します。
   幕府領の村の一般的な年貢の納め方
○1.村の郷蔵 / 年貢は、個人ではなく「村」に課せられ、村人たちが分担して耕作し年貢を納めます。米は秋に収穫され、納める年貢米は村の蔵である郷蔵(ごうぐら)に保管します。参考までに小倉藩の蔵納めの期限は旧十二月一〇日です。
○2.津出場 / 年貢米の多くは、船で運ばれたので、年貢米を郷蔵から出すことを「津出(つだし)」と言います。また、年貢米を回送するための船積場所を「津出場(つだしば)」と言います。津出場まで五里以内の運送は農民負担で、それ以上には五里外駄賃(ごりがいだちん)が支給されます。
○3.廻船 / 年貢米を回送する船(廻船)には、村方から船中の責任者の上乗(うわのり)と租米納入時の責任者の納名主(おさめなぬし)が乗り込み、船中は上乗が、年貢米納入の時は納名主が責任者となります。幕府から江戸へ年貢米を運ぶ(廻米)にはかなりの日数を要し、享保二年(1717)旧九月の定めにより、関東地方の翌年正月をはじめとして、越後・越前・能登・出羽などは旧七月を期限としています。
○4.浅草の米蔵 / 江戸浅草の米蔵へ年貢米を納入の時は、代官が蔵奉行の仕方を立合い、見届ける義務がありました。さて浅草の米蔵は六七棟、面積にして東京ドーム二個分もありましたが、現在、蔵は一つも残っていません。しかし浅草の米蔵があったことの証として、「蔵前」という有名な地名だけは今でも残っています。
○5.年貢皆済目録 / 無事に浅草の米蔵に年貢米を納めると、代官が村に年貢皆済目録を出します。年貢皆済目録とは、年貢を完納したときに、領主側から村に交付した請取書のことです。
○6.検地/検見法と定免法 / さて、村の年貢額を決める検地には、毎年収穫前に幕府役人を派遣し、実際の収穫によって年貢額を決める検見法(けみほう)と、過去数ヵ年の収穫量の平均を基礎として定められた額をその年の豊凶に関わらず納める定免法(じょうめんほう)がありました。毎年行われる検見法は、費用がかさみ、役人の不正も多く、定免法は不作の時には打撃が大きく、特に小百姓の負担が大きく、一概に検見法と定免法、どちらががいいとは言えないのですが、江戸中期ごろから定免法が一般的になりました。
○7.年貢割付状 / 検見法と定免法どちらにせよ、年貢額が決まると、納入すべき年貢額を記入して村に通達した帳簿である年貢割付状(ねんぐわりつけじょう)を代官が村に出します。そしてまた、せっせと耕作に励む村人の一年が始まるのでした。
   五公五民・六公四民
五公五民とか六公四民というのは年貢率のことで、六公四民ならば、六割が領主の取り分、残りの四割が農民の取り分ということです。農民といっても一人一人の百姓ではありません。江戸時代は村請制といって年貢は村単位で納めたので、領主取り分と村の取り分の分配比ということになります。太閤検地で村の生産力をつかんだ豊臣秀吉は、一五八六(天正一四)年に「年貢は百姓と相談して額を決定し、その決定が困難なときは三分の二を領主が取り、三分の一を農民がとれ」という法令を出しました。一六〇〇(慶長五)年に徳川家康が駿河国一帯に出した法令でも、年貢率は七割〜五割五分です。江戸時代はじめは年貢率は六公四民〜五公五民だったようです。こんなに年貢が重いのは、百姓は「生きぬよう死なぬよう」に支配されたからだともいわれています。ところが、最近では江戸時代の農民はそんなに悲惨ではなかったと考える人も多いのです。実際の年貢の取り方をみながら、考えていきましょう。
○年貢はどのようにとられたのか / 年貢の取り方は、時期や地域、領主との関係によって違いますが、当初は検見取りという方法がとられていました。九月の稲が穂をつける頃、毎年検見役人という武士が村にやってきて、村役人の案内で稲がよく実っているかどうかを調べます。具体的には、坪刈りといって一坪分の稲を刈り、籾の量をはかったりします。この調査をもとに「免」(年貢率)が決まり、一〇〜一二月頃「年貢割付状」が届きます。これは「免定」などともよばれました。村高からさまざまな理由で耕作できなかった土地を免除分として除き、残りの土地に年貢率をかけて年貢が算出されています。田と畑にかかる年貢率は別々の場合が多く、なかには田畑の等級ごとに率が違ったり、年貢率のかけ方にはさまざまなバリエーションがありました。年貢はもちろん米で払いますが、小物成とよばれる林野や地方の特産物などの税もあり、これは貨幣(銀・銭)で支払われました。「年貢割付状」かくると、村役人は村独自で検地帳などをもとに年貢の割付を行います。これはあくまで村の仕事で領主は一切かかわりません。このような割付の特権を持つ村役人の不正を、平百姓が追求する村方騒動がおこり、江戸中期以降は名主(庄屋)・組頭を監察する農民の代表である百姓代が村政に参加するようになりました。割付が決まったら、百姓たちは自分が負担すべき年貢を名主の家へ運び、そこから領主が指定する郷倉へ運ばれました。これら全てが終了すると領主から村へ「年貢皆済目録」が発給されます。これで年貢納入が完結するのです。
○検見から定免へ / 検見取りは検見役人を派遣するのに費用がかかります。農民にとっても、検見が終わらなければ取り入れが出来ず、年貢率を低くして貰うために役人を丁重にもてなしたり、賄賂を送ったりと負担が大きいものでした。そこで、定免といって、過去数年間の率から推定した年貢率をあらかじめ設定するようになりました。五年か一〇年間が期限で、終わると農民側からまた願うという形式を取り、前より少し高く設定されます。しかし、洪水や日照りなどで三〇パーセント以上の被害があった場合は、一時定免を停止し、検見によって年貢量が決められました。これを「破免」といいます。あらかじめ年貢量を決めていても、農民が立ち行かなくなったときは収納しないというのは、江戸時代の武士と百姓の一種の契約関係を示していて、地租改正以後の近代的な取り立てと決定的に違います。
○だんだん年貢がとれなくなる幕府 / ところで、年貢率をかけるもとになる村高とは一体何でしょうか。それは村の生産力、つまり村が作り出す富の総量を米の量に換算して示した数字です。太閤検地の強行によって全国一律の基準で領主がつかんだものです。この村高はほとんどの村では寛文〜元禄期までの検地によって定まってしまいます。未墾地の開発はこの時代までにほぼ終わり、それ以後は商品価値の高い作物を工夫して作る時代に入りました。この時代以降、村の富は増大しても村高の増加としては現れない。その点で江戸前期頃より農民の中に余裕が出来てくるわけです。ところが、これと並行して年貢率が下がってしまいます。八代将軍吉宗は、このような課題に取り組み、新田開発や定免法、有毛検見法などを採用しました。有毛検見は村高に関係なく実際の出来高をつかもうというもので、農民にとっては過酷な徴租法でした。このような政策を実行した神尾春央が「百姓と胡麻の油はしぼればしぼるほどとれる」と放言したことはあまりにも有名です。しかし、この放言の前提として、農民がすでに豊かになっている事を理解しておく必要があるでしょう。神尾の放言にかかわらず、幕府の一七一六(享保元)年から一八四一(天保一二)年までの年貢率は三〇〜四〇パーセントであり、四公六民から三公七民という状態になってしまいました。このような中で、幕府が新たに検地を行って村高をつかみ直すことは、新田以外はほとんど不可能に近い状態でした。一八四二(天保一三)年、天保の改革のとき近江国で行おうとした幕領検地は、農民の反対によって粉砕されてしまいます。このように、農民達は着実に自分たちの剰余を膨らませ、次の時代を準備していきました。だから、江戸時代の農民を悲惨だとばかり見る見方は正しいとは言えないのです。
明治時代
1873年(明治6年)の地租改正により、年貢は廃止されることとなる。しかし、その後も小作料を年貢と呼ぶ慣習が残った。  

 

●運上 1 
1
運送上納の略。古くは年貢などの公物を京都へ運んで上納することを意味し、室町時代には課税の意であった。江戸時代には年貢以外の雑税の一種。本来、冥加 (みょうが) と同じく自発的な献金の性質をもち、商工業など諸営業者に賦課され、年期を限り、額も年により増減する浮役 (うきやく) で、水車、市場、問屋、諸座、油絞、紙漉、塩浜、酒など多くの種類があり、すべて金納であった。運上に関する事務は、幕府では勘定所運上方が、地方の天領では代官が扱い、納期は一般金納の例にならった。諸藩にもこれに似た制度があった。維新後は明治政府の租税制度改革に伴い、従来のおもな運上は漸次国税に編入され、…免許税、…免許料などと改称され、そのほかは 1875年、旧来の各地の雑税とともにすべて廃止されたが、あるものはのちに地方税として復活した。
2
鎌倉時代、年貢物を京都に運んで上納すること。室町後期、租税を割り当てること。江戸時代の雑税の一。商・工・漁・鉱・運送などの営業者に賦課した。
3
江戸時代における雑税(営業税)。運上は商業・工業・運送業・漁業などに従事する者に課され、一定の税率を定めて納めさせた。市場運上・問屋運上・紙漉(かみすき)運上・諸座運上などがある。これに対し、神仏によって与えられた加護を冥加といい、その礼銭を冥加銭といったが、江戸時代には営業を許可された商工業者から、収益の一部を献金などの形式で上納させることを称した。醤油屋冥加・質屋冥加・旅籠屋(はたごや)冥加などが知られる。
4
江戸時代における雑税で、小物成(こものなり)の一種。商業、工業、運送業、漁業、狩猟などに従事する者に対して課せられた。中世の荘園制下にあっては、年貢などを納める場合、とくに遠隔の地、たとえば都まで運んで納めることを運上といった。したがって、直接課税の意味を含まなかったが、近世に入って課税を意味するものとなった。また、本来は各種営業に対する課税の中で、一定の税率を定めて納めさせるものを運上と称し、免許を許されて営業する者が、その利益の一部を上納するものを冥加(みようが)と呼んで区別した。
5
〔「運送上納」の意〕 中世、公の物、特に年貢を京に運送し上納すること。 〔室町末期より「課税」の意に使われた〕。江戸時代の雑税。商・工・漁・運送業者などに課した。種類はさまざまで、すべて金納。営業税と免許手数料の二通りの性質のものがあった。運上金。
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中世では、荘園(しょうえん)の年貢を領主のもとへ運ぶことを運上と称したが、中世末期ころから課税の意にも用いられるようになり、近世に至って小物成(こものなり)(雑税)の一種の意を確立した。近世においては、商業、工業、漁業、狩猟業、運送業などの各種の営業に従事する者に賦課された。本来は、一定の税率をもって納付するものを運上といい、税率なく、免許を得て営業する者が納付するものを冥加(みょうが)という。しかし、両者は同一義に用いられる場合が少なくなかった。運上、冥加は年季を限って賦課され、その賦課額は年により増減した。年季満期には願いによって審議し、延長が許可された。賦課額が増減することからみれば浮役(うきやく)に属する。運上の種類には、水車、市場、問屋、油絞(あぶらしぼり)、絹、紙漉(かみすき)、酒、鉄砲、金銀銅鉄明礬(みょうばん)硫黄(いおう)砥石(といし)山、長崎などの諸運上があり、また地方により特殊な種目が存在した。
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物や金を運んで納めること。(イ) 古代、中世において、上納する物を運ぶこと。※書陵部所蔵壬生古文書‐太政官符案・寛和三年(987)正月二四日「応レ令レ運下上延暦寺散位従五位下平朝臣繁盛奉二書写一金泥大般若経一部六百巻上事」。(ロ) 古代、中世において、特に、年貢物を運ぶこと。※玉葉‐治承三年(1179)一一月三日「徒抑二留坂東運上之人物等一之外」。室町末期では課税の意に用いられ、江戸時代には雑税の一種として、商、工、漁猟、運送などの営業に対して、一定の率で課したもの。定率でないものは冥加(みょうが)といった。※室町殿日記(1602頃)六「洛中洛外諸商買人等座之輩、先規之運上、雖レ無二皆済一」。江戸時代、当道(とうどう)職の盲人が、その救済のため将軍、大名、旗本、武士、農民、商人などから誕生、死亡、嫁取り、建築などの吉凶事がある度ごとに公認されて受ける米銭などの合力(ごうりき)。これを仲間に分配した。語誌 (1)平安時代の古文書では、年貢を運搬する意味で使用される場合が多いが、古くは年貢に限定されず、種々の物について使用された。(2)京都へ運送する場合に限らず、各地域の領主への年貢の運搬についても使われている。従って、「運上」の原義は上位のものに向かって物品を運搬し、進上することと推察される。それが年貢に関する用語として漸次固定し、その後、2のように課税そのものを意味するようになったのであろう。
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百姓稼山より…飛驒国で中世末のころから行われた百姓稼山(白木稼ともいう)は、領主の御林山で用材を採出した跡に放置された残材(根木、末木、悪木、枝条など)を処理して、各種の白木類(短軽材や割材)を再生産するか、または御林内の枯損木(立枯木や風・雪折木など)から家作木や白木・薪などを採出して、近隣諸国にまで売りさばくことを免許された稼山をいう。この稼山製品には山役人の検木と、採材量に応じた運上の負担が義務づけられていた。類似の稼山は木曾、伊那の御林山にも見られたが、その多くは臨時的に行われる〈御救山(おすくいやま)〉であったことと、出願者が村単位であった点に多少の相違が見られる。… 
●運上 2 
近代の日本における租税の一種。金銭で納付が行われる場合には運上金(うんじょうきん)と呼ばれる。
中世においては、荘園から上がった年貢を遠隔地の中央の領主に貢納することを指した。
江戸時代に入ると、小物成の1つとして租税化した。農業以外の各種産業(商業・工業・漁業など)の従事者に対して一定の税率を定めて課税したものを運上と呼んだ。これに対して特定の免許を得てその代わりに一定の税率等を定めずに必要に応じて上納させたものを冥加(冥加金)と呼んだ。
時代が下るにつれて両者の明確な違いは失われていった。内容は賦課の主体が幕府か藩かなどによって異なる。
運上は通常年単位で一定額を賦課し、対象者は年季完了時までに原則金納にて納付を行い、その願出によって新しい年の課税額を決定した上で年季を改めた。ただし、年季については原則は1年単位であったが、複数年単位で契約を行い、複数年、場合によっては10年・20年を一単位としている事例がある。
明治維新後も1869年に運上・冥加は当分現状維持するとしたが、地租改正が進行した1875年には地方の雑税1500種が一斉に廃止された際に、既存の運上・冥加のほとんどは廃止された。ただし、旧運上・冥加に代わって営業税や各種間接税などに転換していった。
冥加金・運上金 1
ともに商工業や漁業に従事する者に課せられた営業税。冥加金は、その業務を独占的に行うことに対する御礼として上納するものある。たとえば、江戸・本船町の魚問屋が、河岸地の独占使用に対して10年間に冥加金3000両上納を申し出たように、献金的な性格の上納金といえる。運上金は、市場や問屋などをはじめとするさまざまな業者団体に、一定の税率を定めて上納させる営業税である。中でも長崎運上金は、貿易を管轄する長崎会所に課したもので、毎年数万両という多額の納税を得た。ただし、冥加金も、毎年一定額を上納するようになったことから、両者は混同されることもあった。
冥加金・運上金 2
雑税の一つで、「浮役(うきやく)」すなわち浮動して定まらない雑税という意味である。これには運上金と冥加金があった。主として商工業・漁業・狩猟・運輸などにかけられ、営業税・免許税といった性格をもっていた。このうち、一定の税率で納付を命じて取るのが運上金であり、一方、納める側から『無事商売ができますのは御上のおかげで、まことに冥加のいたりに存じます』と、表面上は自発的に出すのが冥加金である。
領内での諸職人は、酒造・鍛冶屋・大工・木挽・左官・畳屋・石工・黒鍬(くろくわ)(土方)・馬口労(ばくろう)などで、それぞれ運上金を上納した。これらの営業をはじめようとする者は、庄屋を通じて担当代官に願い出、鑑札をうけて営業をした。その運上金は毎年納めていた。安政二年(一八五五)高山村御年貢帳による運上金は一年につき次のとおりである。
○ 酒造 金三分 / 指物屋 銀弐匁 / 商人 金壱分 / 桶屋 銀四匁 / 大工 銀四匁 / 猟師 銀八匁 / 木挽 銀三匁 / 石工 金弐朱 / 左官 銀六匁 / 馬口労 銀拾匁
これら諸職人は、毎年正月に営業改廃、継続の手続きをとったが、年間通じての職人は少なく、冬季農閑期のみ営業する「半入札」を願ってその運上も半額であった。
また、福岡村平山売払運上金のように、平山(ひらやま)で山林立木を伐採・売却する場合には届け出て山方役人の見分(けんぶん)を受け、材木価格の一〇の一に相当する運上金が課せられて藩に納めている。史料は馬喰(ばくろう)(馬口労)札の札改めを文政七年(一八二四)正月藩へ願い出、同時に馬肝煎(周旋人)が加わり銀五匁づつの運上金を納める願書である。
冥加金は、自発的にしかも一時的な税で定率もない。したがって税というよりは、むしろ献金的性質のものであった。冥加は冥加金・銀のごとく金納を原則としたが、冥加米としてしかも年々定率をきめて賦課されるようになった。明治五年(一八七二)福岡村定納記は、明治維新により、米納年貢制最後のもので、冥加米は一般租税と同じように取扱われていることがわかる。 

 

●勘定所 1 
1
江戸幕府の役所。勘定奉行を長官とし、幕府財政の運営、幕領の租税徴収・訴訟などを主要任務とした。城内と大手門内の2か所にあった。
2
江戸幕府の役所。江戸城内(御殿勘定所)と大手門番所裏(御番役御勘定所,下勘定所)にあり,幕府財務一般のほか,新田開発,旗本の知行割,街道・山林・河川の支配,訴訟取り扱いなどを担当。勘定組頭・勘定・支配勘定・支配勘定見習・勘定出役ほかの役人が執務し,その長官が勘定奉行。1712年監査役の勘定吟味役を再置。1721年以降は財政担当の勝手方と訴訟担当の公事方に分かれた。諸大名家でも藩の財務をつかさどった役所を勘定所という。
3
江戸幕府の財政・農政を担当する機構,役所。おもな職務は,幕府財政の出納,全国幕領年貢の収取,鉱山・山林・河川・街道の支配,新田開発,旗本の知行割,代官の支配地割,幕領私領からの公事訴訟の取扱い,およびそれらに関連する事務などであった。勘定奉行を長官とし,勘定吟味役,勘定組頭,勘定,支配勘定,同見習などの諸役人によって構成されていた。城内(御殿勘定所)と大手門内(下勘定所)の2ヵ所にあったが,それらの設置年代は不明である。
4
勘定奉行を長官とする江戸幕府の役所。
5
江戸幕府の役所。勘定奉行(ぶぎょう)を長官とし、天領支配と貢租徴収、財政事務、天領と関八州の大名領・旗本領の訴訟を管掌した。江戸城本丸殿中の御殿勘定所、大手門横の下(しも)勘定所に分かれる。職員は勘定組頭、勘定、支配勘定などで、最初は御殿詰・上方(かみがた)・関東方に分かれていたが、1721年(享保6)公事(くじ)・訴訟を受け持つ公事方と、財政事務を行う勝手(かって)方に分かれ、23年御殿勘定所は御殿詰・勝手方、下勘定所は取箇(とりか)方・伺(うかがい)方・帳面方に分課し、職員を増員した。監視役として勘定吟味役(ぎんみやく)がある。勘定組頭は常時12名、役高350俵、焼火間詰(たきびのまづめ)。勘定は役高150俵、焼火間詰。支配勘定は目見(めみえ)以下、役高100俵、躑躅間詰(つつじのまづめ)である。
6
江戸幕府勝手方勘定奉行の執務する役所。城内と大手門番所裏の二か所にあり、前者を御殿勘定所、後者を下勘定所、または御番役御勘定所と呼んだ。※禁令考‐前集・第二・巻一五・文化八年(1811)八月「御勘定所評議もの、其外御用向、殊之外手間取候も間々有之候」。江戸時代、諸大名家で財務をつかさどった役所。※法例集(岡山藩)‐一・第二・山林・宝永六年(1709)三月「其上にて御郡方之御勘定所へ遣し」。
7
勘定帳 …江戸時代には年貢そのほかの決算帳簿を勘定帳と称した。幕府代官所,大名・遠国奉行預所ごとに毎年作成して勘定所に報告する勘定帳に,地方(じかた)勘定帳と御金蔵(おかねぐら)勘定帳の2種があり,また村請年貢を村内高持百姓に割り付け,その収支を計算する年貢勘定帳,商家の収支についての金銀勘定帳も勘定帳の一種である。地方勘定帳は年貢米金およびこれに付加する小物成・運上冥加・口米金その他の雑税の出納・皆済後決算する帳簿である。…
享保改革 …これは貨幣経済の発達,通貨混乱で訴訟が増加したことへの対応であったが,29年撤回された。1721年閏7月勘定所を公事・訴訟を受け持つ公事方(くじかた)と年貢・普請・出納・知行を受け持つ勝手方に分け,翌年5月水野忠之を勝手掛老中に任じ財政改革に着手した。それまで御殿詰,上方,関東方に分かれていた勘定所機構を改め,殿中勘定所は御殿詰・勝手方,下勘定所は取箇(とりか)方・伺方・帳面方に分け,以後の分課の基本が形成された。…
記録 …《異国日記》《通航一覧》は外交関係の編年体記録である。勘定所記録は《吹塵録》所収や譜代大名文書中の代官所・預所の物成勘定帳,金銀・米大豆納払勘定帳などの決算簿,〈御取箇相極候帳〉の連年の数字は〈御年貢米・金其外諸向納渡書付〉〈御取箇辻書付〉として《誠斎雑記》に記録されるが,その基礎史料は代官所・預所から勘定所に進達された勘定帳・取箇帳などの帳簿である。このほか国絵図・郷帳は大名が作成・上申したが,天保国絵図・郷帳は幕府が作成した記録である。…
新田開発 …開発主体による新田類型は幕藩領主による官営新田と被支配者である土豪・農民・町人などによる民営新田である。 幕府の新田開発は代官見立新田と勘定所の監督工事であり,近世初頭に大規模かつ積極的に行われた。代官見立新田とは全国の天領を支配している代官が管内に開発可能地を見いだし,勘定奉行の許可を得て適当な担当者に開発させたものである。… 
●勘定所 2 
江戸幕府や諸藩・旗本などにおいて、財政や民政を担当する役所・支配機構の名称。勘定奉行を長官とする場合が多い。職掌・組織・設置年代などはそれぞれ異なる。一般的に職務内容は、
1. 蔵入地(直轄領)の農政を司る代官系統の職務-年貢収納など
2. 蔵入地と知行地にまたがる業務を担当する郡奉行系統の職務-触の伝達・治安・治水・用水・新田開発など
に大別することができる。江戸幕府の場合は両系統が勘定所に包摂されているが、別機構になっている諸藩も多い。
勘定奉行を長官として、勘定吟味役・勘定組頭・勘定・支配勘定などで構成されていた。役所は、城内の「御殿勘定所」と大手門内の「下勘定所」のふたつがあった。御殿勘定所には「御殿詰」と「勝手方」とに分かれており、下勘定所には天保5年(1834年)時点では「取箇(とりか)方」「道中方」「伺方」「帳面方」があり、その下にはさらに幾つもの業務が細かく分課されていた。
○御殿詰 - 各役所からの諸経費などの書類の決裁、米相場や分限帳の検査を担当
○勝手方 - 金座・銀座・朱座の監督や御家人の給米を担当
○取箇方 - 天領における徴税など経済面の事務を担当
○道中方 - 五街道の管理業務を担当
○伺方 - 運上金・冥加金、山林管理などの雑務の監督・経理処理を担当
○帳面方 - 各役所や郡代・代官から提出される帳簿を検査し、勘定奉行の可判を受けた上で決算書類を作成
天和年間以降に郡代・代官の吏僚化が図られ、勘定奉行から代官に至る支配機構の整備が進められた。享保6年(1721年)に、「勝手方」(農政財政関係)と「公事方」(訴訟関係)というふたつの部門に分割された。享保8年(1723年)、上方と関東の二元支配体制から、部門を統合し一元支配となった。 

 

●金座 
江戸幕府において金貨鋳造あるいは鑑定・検印を行った場所あるいは組織。
文禄4年(1595年)、徳川家康が京都の金匠後藤庄三郎光次に命じ江戸で小判を鋳造させた時に始まる。江戸幕府成立後は留守居、ついで勘定奉行の支配下に置かれて、江戸本石町に役宅が設置された。
金座成立以後、後藤家は御金改役(ごきんあらためやく)として本石町の役宅において金貨の鑑定と検印のみを行い、実際の鋳造は小判師(こばんし)などと呼ばれる職人達が行っていた。小判師達は小判座(こばんざ)と総称され、後藤宗家が居住していた本石町の金座役宅の周辺に施設を構えてその支配下に置かれていた。このため、御金改役を世襲した後藤宗家を小判座(小判師職人)の元締という意味を込めて特に大判座(おおばんざ)とも呼んだ。だが、管理の厳格化と小判師の分散化を防止するために元禄11年(1698年)に邸外の鋳造施設を廃止して金座役宅(後藤宗家邸)の敷地内に鋳造施設を設置して、以後江戸での金貨鋳造はここでのみ行うことになった。更に明和2年(1765年)以後には小額の銅銭鋳造の業務を銀座と分担して行うようになった。なお、後藤家は宗家が文化7年(1810年)に役目に不正があったとして取り潰され、後任の御金改役を命じられた分家も弘化2年(1845年)に幕府批判をしたとして取り潰された。そこで江戸に帰還を許されていた旧宗家の末裔が再興を許されて御金改役に復帰して幕末まで金座を管理していた。
当初は江戸以外にも駿府・京都・佐渡(後には甲府)にも置かれたが、後に江戸に一本化された。ただし、寛政3年(1791年)に鋳造を停止された京都・姉小路車屋町にあった金座はその後も廃止されず、禁裏御用の金細工及び上方における金職人統制などを後藤家の支配に従って幕末まで行っている。また、佐渡と甲府の金座も文政年間までは鋳造が行われていた。
公式には慶応4年4月17日(1868年5月9日)に官軍によって江戸の金座・銀座が占領された時に廃止された。ただし、実際には接収された金座は新政府貨幣司の統制下となり明治政府の軍費支払に充てるために翌年2月まで新政府が用いる金貨を鋳造していたが、改税約書違反の悪質な金貨を鋳造していた事実が明らかとなったために諸外国からの抗議を受け、明治政府が太政官札への全面切り替えと新しい造幣施設建設を決めたために廃止された。
東京都中央区日本橋浜町には昭和初期に「金座通り」という道路が整備されたが、これは関東大震災復興の幹線道路第5号の別称として賑やかな銀座にあやかって地元民が金座の倉庫があったとして名付けたもので、本所両替町にあった金座とは関係ない。また、静岡市には、現在も小判が鋳造された場所が金座町という町名として残っている。同様に、銭座町という町名も存在する。
明和2年(1765年)以降は金座および銀座が鋳銭事業を兼任することになり、それまで主に民間の商人による請負事業であった銭座が金座の統制下に置かれる事となった。特に天保6年(1835年)に御金改役の後藤三右衛門光亨の建策により発行された天保通寳は金座主導により鋳造された。この天保通寳の裏側には金座の後藤庄三郎光次の花押が鋳出されている。
小判の鋳造法
最初に後藤手代が立会い監視の下、地金の精錬が行われた。金山より買い入れた山出金、古金貨、輸入印子金などを鎔解し、食塩および硫黄を加えて含まれる銀と反応させ精錬して一定の品位の焼金とした。試金石を用いて手本金と比較して品位が改められた。次に焼金および花降銀(純銀)を規定品位になるよう秤量し取り組み、坩堝で鎔融して竿金とした。
金座人がこの地金を受け取り、一定の目方に切断され小判型に打ち延ばされた。表面に鏨目が打たれ、計量検査が行われた後、棟梁および座人の験極印が打たれ、後藤手代に渡された。さらに検査が行われ、扇枠の桐極印、額面などの極印が打たれ、金座人に戻された。
仕上げは、小判に食塩、焔硝、丹礬、緑礬、薫陸などの薬剤を塗り火で焙って色揚げが行われ金色が整えられた。最終検査に合格した小判は百両単位で包封金とし勘定所に上納された。
日本銀行本店の敷地
歴史上貨幣に縁の深い土地で、江戸時代に金吹所(きんふきしょ、製造工場)、金局(きんきょく、事務所)、世襲の御金改役(ごきんあらためやく)である後藤庄三郎光次(ごとうしょうざぶろうみつつぐ)の役宅—これらを総称して「金座」と呼びました—があった場所です。
「金座」とは、勘定奉行の支配下にあり、御金改役を長官として、幕府から大判を除く金貨製造に関する独占的な特権を与えられていた金座人と呼ばれる町人によって構成された、いわば半官半民の事業団体のことです。
「金座」以外の貨幣鋳造機関としては、「銀座」、「銭座(ぜにざ)」、「大判座」<大判の金貨製造>がありました。「金座」は明治 2年(1869年)、造幣局に吸収され廃止されました。