悪夢の布団を敷いた自民党

「悪夢の民主党政権が誕生」

役割を投げ出した 第一次安倍総理
失言 リーマンショックで大盤振る舞い 信頼を失った麻生総理
夢を見たがる国民のため 布団を敷きました

民主党政権誕生
旗振りに不慣れでした
不運 東日本大震災 原発事故
 


「国民の責任」諸話政策システムの説明責任政治の役割民主党政権概史民主党政権の検証(迷走の3年)
国民のレベル民意とは何か(政治と経済学)国民のための国会改革案・・・
 
 
 

 

「民主党政権の検証 ―迷走の3年を総括― 」を見つけました
2012/8当時 野党の自民党が悪夢を調査したもの
野党消滅 長期の安倍政権
同じ物差しで見れば  同じか もっと悪化しているとも言えます
「政治は民のレベルの反映」とも言われています
悪夢 笑い話でしょうか
 2/10

 

●安倍首相「悪夢の民主党政権が誕生」亥年参院選を振り返り結束訴え 2/10
自民党は10日、東京都内で第86回党大会を開いた。安倍晋三首相(党総裁)は演説で、今夏の参院選について「厳しい戦いになるが、まなじりを決して戦い抜く先頭に立つ決意だ」と述べた。
安倍首相は12年前の第1次安倍内閣の下での参院選に触れ、「亥年の参院選で我が党は惨敗を喫した。当時総裁だった私の責任で、このことは片時たりとも忘れたことはない」と振り返った。この選挙で自公政権は過半数を失い、国会はねじれ状態に陥った。当時の安倍首相も3か月後に辞任した。「我が党の敗北で政治は安定を失い、そして悪夢のような民主党政権が誕生した。決められない政治、経済は失速し、後退し低迷した。若い人が頑張ってもなかなか就職できない仕事がなかったあの時代、地方でも中小企業の倒産件数が3割も多かったあの時代、人口が減少していくから成長なんかできないとあきらめていたあの時代に、戻すわけにはいかない」と参院選に向けて地方組織も含めた結束を呼びかけた。
先月末に政府は、2012年12月から始まった景気拡大の期間が戦後最長になった可能性が高いとする見解を発表したが、前回の最長期間だった「いざなみ景気」(2002年4月〜2008年2月)と今回の景気拡大期間を比較して成果を強調する場面もあった。
名目GDP(国内総生産)について、いざなみ景気の期間中は2.5%の成長だったが、今回は6年間で10.9%伸びたとする数値を紹介。また地域別の景況状況については、日銀のデータをもとに、前回期間(6年1か月)の残り5年間に「プラス」で推移したのは関東と東海だけだったが、今回は北海道から九州・沖縄まで9つの地域が5年連続「プラス」で推移しているとした。
その違いは「海外からの観光客、観光業が寄与している」ことだと訴え、海外からの観光客数が政権交代前の800万人から2018年は3000万人超に増加したことや、インバウンドの消費額が4兆5000億円(2018年)だったことを挙げて、「地域に新たな大きな産業が誕生したといっていい」と述べた。
先月からスタートした通常国会では、厚生労働省の毎月勤労統計の不正調査に端を発する問題が追及され、統計への信頼が揺らぐ事態となっているが、「勤労統計の問題は徹底的に検証し、再発防止に全力を尽くすことでその責任を果たしていく」と述べるにとどめた。
憲法改正については、あらためて「立党以来の悲願である憲法改正に取り組む時が来た」と表明。自衛隊の新規隊員募集に関して6割の都道府県が協力を拒否しているとして、「この状況を変えようではないか。憲法にしっかり自衛隊と明記して違憲論争に終止符を打とうではないか」と呼びかけた。 
 2/11

 

●悪夢のような民主党政権、一国の総理の発言としては不穏当だったろう
自民党の党大会における安倍総理の挨拶の原稿をどなたが書かれたのか分からないが、安倍総理の挨拶は明らかに昂ぶり過ぎていて、傲岸不遜に聞こえただろう。安倍政権の非を棚上げして、かつての民主党政権の非をあげつらうというのは、紳士がやる業ではない。
参議院選挙を目前にして、それだけ自民党総裁としての安倍総理の闘争心が燃え上がっているということだろうが、品はない。戦いを目前にしているのだから仕方がない、と仰る方もおられるだろうが、心ある方々は苦々しく聞かれていたはずである。
かつて「美しい国、日本」を標榜されていた安倍総理にしては、解せないことである。
安倍総理のスピーチライターが交替してしまったのかしら。安倍一強政治の弊害がこんなところに現れてきているようである。
安倍総理の闘争心が極めて旺盛であることを、改めて知った。
選挙に勝つためには何でもするつもりだな、と思わせるところがある。
多分、今年の国政選挙は、衆参同日選挙になる。
●民主党政権の誕生は悪夢だったと語った安倍首相のピント外れ 2/11
ロシアとの北方領土の失敗を野党に批判されて、素直に「批判を甘受する」と答えた安倍首相を私はほめ殺した。いつもならむきになって反論するのに、謙虚になったと。批判を受け入れ、野党の言う事を聞くようになったら安倍政権は手ごわくなると。
しかし、三つ子の魂百まで続くとはよく言ったものだ。安倍首相は何も変わっていなかった。ロシアとの交渉は、どうにもならないほど失敗だったから、批判を甘受したまでの話だったのだ。
きのう10日に開かれた自民党党大会における安倍首相の演説は、元の通り、強がりの連発だった。しかも、言っている事が国民の気持ちに反する事ばかりであるところまで元のままだ。もはや安倍首相では無理だと皆が思っている北方領土問題や拉致問題の解決を、自分しか出来ない、自分の手で解決して見せる、と繰り返した。
公明党が絶対に認めないと言っているのに、自民党の中ですら反対意見があるのに、そして何よりもいつまでたっても案分そのものが決まらないのに、自衛隊明記の9条改憲を、必ずやると言っている。
極めつけはこの発言だ。12年前の参院選で負け、悪魔のような民主党政権が誕生した、今度こそ負けるわけにはいかない、こう吼えた。これほど国民の意識からかい離した発言はない。
国民の多くは、12年前に安倍政権が破れ民主党政権が誕生したこに歓喜し、期待した。その民主党政権がわずか3年で自滅し、よりによって安倍政権がゾンビのように復活した事が国民にとっての悪夢だったのだ。
ここまで国民の意識からずれている安倍政権が選挙に勝てるはずがないだろう。こんな安倍政権を倒せないようでは、野党はもっと国民の意識からずれているということだ。野党共闘が勝てばもちろん安倍政権は終わる。そして安倍政権が勝てば今度こそ野党は終わる。
まさしく戦後70年余り続いたこの国の政治を一変させる事になる一大選挙になると言う事である。
●民主党政権は「悪夢」だったのか 2/11
安倍首相が自民党大会で「悪夢のような民主党政権」と評したのに対して、立憲民主党の枝野代表が「自殺者数が減るなど、よくなった部分もある」と反論したことが話題になっている。公平にみて民主党政権が悪夢だったことは事実だが、安倍政権はそれほどいい政権なのだろうか。
次の図は日経平均株価に完全失業率(右軸)を逆に重ねたものだが、失業率が最悪(5.5%)だったのは麻生政権の末期で、2009年8月の民主党政権から下がり始めた。自殺率も失業率と相関が強いので、同じころ減り始めた。その後も単調に雇用は改善した。
これを2000年代前半からみると、不良債権処理で多くの企業が破綻した2003年が、雇用も株価も最悪だった。そのボトムから景気が回復する途上でリーマンショックにぶつかったが、2009年後半から元のペースを回復した。これは民主党政権の経済政策がすぐれていたからではなく、麻生政権がばらまいた90兆円以上の補正予算がきいたものと思われる。
印象的なのは2010年代に政権が代わっても、失業率がほぼ同じペースで改善したことだ。これは非正社員の増加で就業者数が増えた(総労働時間は減った)ためで、安倍政権で加速も減速もしていない。リフレ派は「金融政策で失業率が下がった」というが、それが下がり始めたのは白川総裁の時代である。
それに対して株価は、民主党政権では上がらなかった。図の灰色の部分が民主党政権の時期だが、この時期だけ失業率と株価の相関が破れ、雇用は改善しているのに日経平均は8000円台を低迷した。それが急上昇したのは、2012年9月に安倍総裁が誕生し、自民党政権に戻ることが確実になったときだ。
株式市場にとっては、民主党政権は悪夢だった。2011年の東日本大震災と福島第一原発事故への対応も支離滅裂だったが、子ども手当などのバラマキ福祉で大企業から労働者に再分配しようというアンチビジネスの姿勢が、市場にきらわれたのだ。
この点で自民党の政権復帰が悪夢をさます効果は大きかった。株価がもっとも大幅に上がったのは、安倍首相の就任直前である。つまりアベノミクスの効果の大部分は、プロビジネスの自民党が政権に戻るという心理的な「偽薬効果」だったのだ。日銀の量的緩和も初期にはほとんどきかなかったが、2014年には円安で株価が上がった。
2010年代に日本経済は、世界金融危機から着実に回復してきた。政権交代やマクロ経済政策は、よくも悪くも雇用にはほとんど影響していない。景気は世界的に回復したので、この時期に政権をとった安倍首相はラッキーだった。民主党政権が2012年末の総選挙で政権を維持していたら、日本経済の救世主といわれたかもしれない。
●首相"悪夢"発言に枝野氏反論 2/11
立憲民主党の枝野代表は、10日に安倍総理が「12年前の参院選で惨敗し、悪夢のような民主党政権が誕生した」と述べたことに反論し、「限られた人だけがアベノミクスの恩恵を受け、多くの国民の暮らしは厳しくなっている」などと批判しました。
「あのとき利権を手放してしまった彼らにとっては“悪夢のような”時期だったかもしれません」(立憲民主党 枝野幸男 代表)
また、衆参ダブル選挙の可能性が取りざたされていることについて「やっていただけるならありがたい。しっかりと受けて立つ」と強調しました。
●首相の民主政権「悪夢」発言、枝野氏反論「自殺者が…」 2/11
安倍さんは6年も7年も前のことを取り上げて(民主党政権を)「悪夢のようだ」とおっしゃったそうだが、あのとき利権を手放してしまった彼らにとっては悪夢のような時期だったかもしれない。しかし、あの時代は自殺者の数が減るなどよくなった部分も多々ある。
現実にいま、足元で起きていることは何か。一部の限られた人たちだけは、アベノミクスと称するものの恩恵を受けているが、多くの普通の暮らしをしている国民にとってはどんどん暮らしが厳しくなり、老後や子育てなどの不安が大きくなっている。悪い夢ではなくて、現実が悪くなっているのがいまの現状だ。
(衆院)解散を打っていただけるなら、しっかりと受けて立つ決意だ。いつあちらが我慢しきれなくなって解散を打って出ても、我々が大きく躍進して、日本の政治の流れを大きく変えられるようにやっていきたい。 
 2/12

 

●悪夢のような民主党政権発言、「言論の自由ある」=安倍首相 2/12
安倍晋三首相は12日午前の衆院予算委員会で、「悪夢のような民主党政権」との発言について「自民党総裁として言論の自由がある」と述べ、「少なくともバラ色の民主党政権ではなかった」と強調した。立憲民主党の岡田克也委員に対する答弁。
岡田氏は民主党政権は過去の自民党政権の重荷も背負ったと述べ、原発事故を取り上げた。首相は過酷な事故が起こったことについては第一次安倍政権も含め歴代の政権として反省していると述べた。  
●民主党政権前の、自民党政権も悪夢だった 2/12
安倍晋三首相がかつての民主党政権を「悪夢」とこき下ろしたことが話題となっている。
自民党が10日に都内で開いた党大会。首相は春の統一地方選と夏の参院選での勝利を呼び掛ける中でこう述べた。
“12年前の亥年の参院選でわが党は惨敗した。当時、総裁だった私の責任だ。片時たりとも忘れたときはない。政治は安定を失い悪夢のような民主党政権が誕生した。あの時代に戻すわけにはいかない。厳しい戦いだが、まなじりを決して戦い抜く先頭に立つ決意だ”
2009年から2012年にかけての民主党政権がボロボロだったのは言うまでもない。しかし、思い起こせば民主党政権が誕生したのは2007年から2009年にかけての自公政権がボロボロだったからだ。これではまずい、と思った国民が誕生させたのが民主党政権である。
第一次安倍政権だった2007年、数多くの疑惑を取りざたされた農水大臣が自殺。後任の大臣にも数えきれないほどの政治とカネの問題が指摘され、たった2ヶ月で辞任に追い込まれた。そんな中で行われた参院選で自民党は大敗。民主党に第一党の座を奪われ、体調不良を理由に安倍首相は退陣を決めた。
当時は「消えた年金」に代表されるように、今と同じく政治による役人統治の問題も指摘された。
その後の福田政権、麻生政権も支持率の回復はかなわず、いずれも1年という短命に終わった。そして、2009年の衆院選で民主党は大勝し、政権の座を奪ったのである。
安倍首相が2007年の参院選で敗北してから、麻生政権まで支持率低迷を余儀なくされたのは、小沢一郎氏率いる民主党が「ねじれの弱点」をついて政権を攻撃し続けたからだ。自衛隊によるインド洋での給油活動、日銀同意人事、ガソリン暫定税率……。数的優位に立つ参院での「拒否権」を駆使し、政治がまったく前に進まなくなった。「決められない政治」は民主党がもたらしたものだが、当時の国民は政権のせいだと理解した。
しかし、自民党は同じことを民主党政権でもやったのだ。民主党ほど露骨でなかったにしろ、巧みな「国会対策」で政権運営を邪魔した。もちろん、鳩山首相や菅首相によるめちゃくちゃな言動等もあったが、少なくとも自民党は経験の浅い民主党の政権運営に協力するどころか、邪魔することしかしなかった。その結果が、首相のセリフにある「政治は安定を失い」なのである。
政党なのだから、その政党のトップなのだから選挙で勝とうというのは当然のことである。党内の士気を高めるために多少、相手を挑発することも許されるだろう。
ただ、相手をただ、貶めるだけではこの国の政治がいつまでたっても進歩しない。安倍首相もいつかは退任する。自分が退任した後、またかつての悪夢を再現しないためにどうすればいいか、考えてこそ、戦後最長の内閣を担う(であろう)宰相の責務ではないだろうか。
小沢氏が国民民主党と組み、再び表舞台に立とうとしている。再び政治が2007年に戻ることだけは御免こうむりたい。 
●「民主政権は悪夢」 岡田氏の撤回要求、首相は拒否 2/12
「取り消しなさい」「取り消しません」――。安倍晋三首相が10日の自民党大会で「悪夢のような民主党政権」と述べたことを巡り、12日の衆院予算委員会で立憲民主党会派の岡田克也氏(無所属)と首相が応酬した。岡田氏は撤回を求めたが、首相は「言論の自由がある。少なくともバラ色の民主党政権でなかったのは事実だ」と拒否した。
岡田氏は民主党政権で副総理や外相を務めた。予算委での質問後、記者団に「野党を頭から否定する言い方はいかがなものか。ちっちゃな首相だ」と批判した。自由党の小沢一郎共同代表も記者会見で、首相の「悪夢」発言について「彼にとってはそうだろう。もう一度、悪夢を見てもらえばいい」と反発した。
首相は10日の党大会で2007年参院選を振り返り「わが党の敗北で政治は安定を失い、あの悪夢のような民主党政権が誕生した」と述べた。「決められない政治。経済は失速し、後退し、低迷した。あの時代に戻すわけにいかない」とも語った。
立民の枝野幸男代表は11日の全国幹事長会議で「あの時代はむしろ自殺者が減るなど良くなった部分もある」と反論した。第2次安倍政権で老後や子育ての不安が強まっていると指摘し「悪い夢ではなく現実が悪くなっている」と述べた。 
 2/13

 

●「民主党政権は悪夢か」 安倍 vs 岡田 2/13
2月12日の衆院予算委員会での安倍晋三首相と立憲民主党会派所属の岡田克也元副総理の質疑は、思いのほか激しい応酬となった。その議論を詳しくお伝えする。
議論の発火点は、2月10日の自民党大会で安倍首相が「悪夢のような民主党政権」と発言したことだった。この発言については、共感する声の一方で、野党以外に自民党内からも「過去に終わった政権のことを引き合いに自分たちは正しいんだというやり方は危ない」と懸念の声が上がっていたが、この発言が国会で議論された。
「立憲民主党・無所属フォーラムの岡田克也です」
この日の予算委員会は、去年まで無所属の会の代表を務めてきた岡田元副総理にとって、立憲民主党の会派に入って初めてとなる節目の国会質問だった。旧民主党政権の中枢にいた岡田氏は、本題の前にこの「悪夢の民主党政権」発言を取り上げ安倍首相に噛みついた。
岡田氏
「きょうは総理と北方領土問題を中心に議論したいが、その前に一つ。先般の自民党大会で総理はあの悪夢のような民主党政権が誕生したと言われました。もちろん民主党政権時代の反省は我々にあります。しかし政党政治で頭から相手を否定して議論が成り立つのか。私たちは政権時代に、その前の自民党の歴代政権の重荷も背負いながら政権運営もやってきました。そのことを考えたら、あんな発言は出てこないはずだと思います。撤回を求めます!」
野党席から「そうだ!」という声が飛ぶ一方、与党席からは「(岡田氏が)反省しろ!」「結果だよ!」というヤジが飛び交った。そして苦笑いを浮かべながら質問を聞いていた安倍首相が答弁に立った。
安倍首相
「まさに政党間で議論する。私は別に議論を受け入れていないわけではなく、先週も7時間を5日間ずっと議論させていただきました。みなさんは自分たちの政権の正当性であれば、いろんな場所で演説されたらいいんですよ。私は自民党総裁としてそう考えている。そう考えているということを述べる自由はまさに言論の自由なんですからあるわけでありまして。少なくともバラ色の民主党政権でなかったことは事実なんだろうと言わざるを得ないわけですが」
自民党総裁として旧民主党批判をするのは言論の自由であり批判はあたらないとしつつ、改めて民主党政権の失敗を指摘した安倍首相。さらに民主党政権批判を続けた。
「では何が私が一番言いたかったかというと、あの時若い皆さんの就職率低いじゃないですか。岡田さんにはそういう反省全然ないんですか?我々は、政権を失ったとき、なぜ政権を失ったか、我々は深刻に反省したんです。その中で、全国で車座集会を開きながら真摯に耳を傾け、我々は生まれ変わろうと決意したわけでございます」
ここで改めて安倍首相の自民党大会での発言を、前後も含めて見てみたい。
「12年前のいのしし年、亥年の参議院選挙、我が党は参院選挙におきまして惨敗をいたしました。当時、総裁だった私の責任であります。このことは片時たりとも忘れたことはありません。我が党の敗北によって政治は安定をしない、そしてあの悪夢のような民主党政権が誕生しました。今、皆さんにはしみじみと思いだしていただいたと思います。決められない政治、経済は失速し、後退し、低迷しました。若いみなさんがどんなにがんばったってなかなか就職できない、仕事がなかったあの時代、地方においても今よりも中小企業の倒産件数が3割多かった、あの時代。もう人口が減少していくんだから成長なんかできないと諦めていたあの時代にみなさん、戻すわけにはいかないんです」(2月10日 自民党大会)
安倍首相は確かに、民主党政権の“悪夢”として当時の経済状況を挙げていた。そして安倍首相は岡田氏に対し、民主党政権は野党議員とっても悪夢だったのではないかと攻撃に出た。
「みなさん、悪夢でなかった、それを否定しろとおっしゃるが、ではなぜ民主党という名前を変えたんですか。私は非常に不思議だ。自民党という名前を変えようとは思わなかった。私たち自身が反省して生まれ変わらなければならないという大きな決意をしたんです。名前のせいで負けたわけではない。みなさんは民主党というイメージが悪いからおそらく名前を変えたんだろうと推測する人がたくさんいますよ。そういう意味では皆さんもそう思っておられるのではないですか」
腕を組み憮然として安倍首相の反論を聞いていた岡田氏は、向けられた矛先を、安倍首相に再び向け返した。
岡田氏
「驚きました。もちろん私たちは政権運営について反省はあると今申し上げました。しかしその前の自民党政権時代の反省はないのかと私は申し上げている。その重荷を背負って私たちは運営をした部分もある。あなたが本当に自民党政権時代の反省をしたというのであれば、あんな言葉出てこないはずですよ。一方的に民主党政権にレッテル張りしていますが、あなたたちがやったことで私たちも苦しんだこともある。そういったことについて謙虚な気持ちで、総理ですから発言してもらいたい。今の発言全く了解できませんよ。取り消しなさい!」
安倍首相
「取り消しなさいと言われても取り消しません(笑)。それを明確にさせて頂きたいと思います。反省がないというわけではないと申し上げましたよね。でも、みなさんに重荷を背負わせたというのは、これはわからない。皆さん政権を取ったんですから、自分たちの政策を進めればいいじゃないですか。重荷というのはなんですか?(ヤジ「財政赤字!」)財政赤字?例えば財政赤字ということについてはもちろん我々も財政赤字が溜まってきた。しかしこれはそれぞれ必要があってやってきたことであって漫然と行ってきたわけではない。それぞれあえて赤字を覚悟しても出さないといけない時もあるんですよ。例えば就職氷河期等を作ってはならない。その皆さんはずっと苦労するんですよ。そういう時には財政政策をするわけであります」
岡田氏の発言撤回要求について「取り消しません」と明確に拒んだ安倍首相。それに対し、岡田氏は、自らが苦しめられたという「自民党政権時代の重荷」の反省を求め、1つの具体的事例を挙げた。
岡田氏
「私は民主党政権時代の最大の苦しみ、そして申し訳なかったと思うことは、原発事故ですよ。あの福島の原発事故。もっとうまく対応できなかったか、私たち反省ありますよ。だけど同時に、その前の自民党政権にも責任があるんじゃないんですか?そこにあなたは責任を認めないんですか。はっきり答えてください!」
安倍首相
「原子力政策についてですね…失礼、過酷な事故が起こってしまったことについては、歴代政権として第一次安倍政権の時を含めて反省をしております。しかし総じてみれば、原発事故のことについて皆さんの対応をどうこう言おうというつもりはありません。そうではなくて経済政策について私は、そのあとの私の演説の文脈を見てくださいよ。経済政策において、この間、まさに失業率が今よりも、有効求人倍率においては我々の半分くらいですよね。都道府県について見てみれば、有効求人倍率は47すべての都道府県が1倍を超えています。これは史上初めてのことですが、民主党政権時代には7県8県であったのも事実じゃないですか。そういう時代を超えていかなければいけない、解消しなければいけないということで我々も努力してこういう状況を作り出したわけです。だからそういう批判をさせていただいた。だいたい批判をするなということ自体がおかしいのであって、皆さんが自由民主党に対して批判すればそれに対して反論しますよ。批判自体をやめろとか、そういうことを言ったことは、私は一回もない」
岡田氏
「批判するなと言っているのではなくて、全否定するようなレッテル貼りはやめろと言っているんです。では私が言った原発事故について、全会一致で設けた国会事故調の報告書はなんて言っていますか?総理、原発事故の根源的原因は何だと国会事故調の報告書は結論付けていますか?述べてください」
安倍首相は、自民党政権時代の原発対応が福島の事故を引き起こしたとして責任を追及したが、安倍首相はそれには乗らず、自らの民主党政権批判は経済が主眼だと反論した。岡田氏は、さらに食い下がるが、安倍首相はまたも反撃する。
安倍首相
「全否定するなと仰いますが、皆さん、例えば採決の時にアベ政治は許さないと全否定してプラカードを持ったのはどこの党の皆さんですか。名前が変わったらそれがもうなくなったということになるんですか。事故調の調査についてどういう見解を述べろということについては、質問通告していただかないと、政府として統一見解を述べないといけませんから、すでに述べていると思いますので、個人の見解は述べることはできませんからこの場においては。政府を代表して私ここに立っているんですから、それは通告していただかないと答弁することはできません。」
自ら口にした批判が同じ形で自らに帰ってくる、いわゆる「ブーメラン」を意識した安倍首相の反論。岡田氏はそれには答えず、あくまで原発事故を焦点に、自民党政権の反省を求めた。
岡田氏
「総理の見解を述べろと言っているのではないんです。国会事故調の報告書にどう書いてあるかということを聞いているわけです。私は驚きました。そんなことも総理は知らないんですか。国会事故調の報告書にはこう書いてありますよ。原発事故の根源的な原因は、平成23年3月11日以前に求められると、これが結論じゃないですか。その反省もできていないんですか。調査報告書覚えてもいないんですか。つまり3月11日以降の対応については私たちは反省しないといけないし、その前も私たちは責任を負いますよ。だけどあなたたちが、3月11日以前に歴代自民党政権が一体何をしてきたのか。この国会事故調の中(報告書)にはっきり書いてあるじゃないですか。(原発の)規制と推進を同じ役所、経済産業省の中に置いたこと。そして様々な提言を先送りした結果としてあの事故に至った。これが事故調の結論じゃないですか。そのことの反省はあなたには無いんですかと聞いているんですよ」
原発事故対応は反省するが、原発事故が起きてしまった原因は、自民党政権時代の政策、対応にあると強調した岡田氏。この点は、これまでも国会で追及されてきた部分で、自民党にとってはアキレス腱の面もある。
安倍首相
「事故調に何が書いてあるかここで述べろと言われたら、私は事故調の文章をちゃんと見て述べなければいけない立場なんですよ。覚えていることをここで述べる立場には、内閣総理大臣ですからないわけですよ。そこでまた一言一句、私が記憶の中で答えたら、ここが違うのではないかと言われるわけですから、岡田さんもこちら側に立った立場があるんですから、その質問がどういう質問だったかは考えていただかなければいけないと思いますよ。お互いそういう質問をしあうのは非生産的の最たるものだと言わざるを得ないと思っています」
安倍首相としては、質問通告を受けての応答要領なしに、この原発問題を答弁することの危険性を察知したのかもしれない。突っ込んだ答弁を避け、再び経済に話題を戻した。
安倍首相
「そこで反省がないかと仰るわけですが、先ほどから、その点については我々も反省していると一番最初に述べたじゃないですか。その上で申し上げているが、政党同士ですから、そこはお互い戦いあっていくわけですよ。その中で相手の政策は間違っていたということで申し上げているわけで、私の党大会における演説は経済政策について主に批判させていただいている。原発の政策について私は一言も述べていないわけですから、ほかにもありますよ。外交にだって言いたいことはたくさん、全部言う時間がありませんでしたから経済について述べさせていただいた。つまり仕事がなかった、連鎖倒産が続いていたということを述べた。マクロ政策においても皆さんの時のマクロ政策は間違っていたと思いますよ、明確に。ですから私達は3本の矢という政策を打ち出した。その中でもはやデフレではないという状況をかなり早い段階で作りだすことができた。雇用状況が改善しているのは事実ですよ。昨年12月1日時点での大卒者の就職内定率は過去最高となっているわけであります。若い皆さんが、働きたいと思う人が、仕事があるという状況を作るのが政治の大きな責任だと思っている。申し訳ないですが残念ながら皆さんの時はそれを果たすことができなかったのは事実ですから、この事実を受け止めないのであれば、まったく反省していないと言わざるを得ないのではないですか」
岡田氏
「私が聞いてもいないことを長々と答弁されるわけですが、あの原発事故の時に本当に残念だったことは、津波が来て水に浸かった。予備電源が失われた。そして電源が失われたことによって水素爆発やメルトダウンが生じてしまった。もちろん我々の対応にも問題あったと思うけれども、なぜ予備電源が地下にあったのか、なぜ津波の水が超えて来た時に水没してしまうようなところに予備電源を置いておいたのか。この本当にばかげた失敗、これは自民党政権の時代の話なんですよ。そのことがわかっていたら、今のような答弁にならないですよ。私は3月11日以前にあったというこの事故調の報告書についてもう一度総理に読み直していただきたいと思っています。民主主義はお互いに相手を全否定したら成り立たないんです。ですから私はこれからも議論します。だけど、総理の党大会の言い方はほぼ全否定に近いような言い方、それでは私は、議論は深まらないし民主主義はどんどんおかしくなってしまう、そのことを申し上げたいと思います」
結局、原発と経済と、議論がすれ違ったままこの議題は終わり、本来岡田氏がメインの質問としていた北方領土問題の議論に移っていった。
今回、一連の議論がヒートアップした原因は、民主党政権の評価、平たく言えば失敗という国民の多くの記憶が、安倍政権にとって重要な生命線の1つであり、野党にとっては最大のハードルだという現実だ。
第二次安倍政権は民主党政権から「この国を取り戻す」と掲げて誕生し、ことあるごとに、民主党政権時代と比べて、これだけ結果を出してきたと強調してきた。それは国民の間に一定の共感を生み、森友加計問題があっても、安保法制や消費税増税など国民の反発の根強い政策を通しても、安倍政権が一定の安定を保つ大きな原動力となってきた。
一方の野党にとっても、いかに民主党政権の負のイメージを払拭するかはこれまで大きな課題だったし、民進党への党名変更を突いた安倍首相の批判は、野党にとっては痛いところを突いたものだっただろう。そして、野党内には今、民主党政権時代の記憶を払拭するのではなく、政権のよかった部分については堂々と再評価を訴えイメージを変えないと、政権奪還は難しいとの意見も強まっている。
夏の参院選でも、投票行動を左右する隠れた重大要素となる、旧民主党政権の評価。その重要性が改めて露わになった安倍首相と岡田元副総理の議論だった。 
●「悪夢のような民主党政権」発言も“言論の自由”… 2/13
  安倍首相答弁に「はぐらかし」との批判
安倍晋三首相の「悪夢のような民主党政権」発言をめぐり、12日の衆院予算委員会で立憲民主党会派の岡田克也元外相に発言撤回を求められた首相は「自民党総裁として言論の自由がある」と答弁し、撤回を拒否した。最高権力者が自身の言動を正当化する根拠としたことに「『言論の自由』の意味をはき違えている」と批判の声が上がっている。 
●「悪夢のような民主党政権」という言葉の是非 2/13
民主党時代は悪夢のような時代だった
衆院予算委員会における安倍総理の「悪夢のような民主党政権」という発言が物議を醸している。
「民主党時代は悪夢だった」というような話は、これまでにもいろんなところで耳にしてきたので、今更、話題になるほど新鮮な発言とも思えないのだが、安倍総理の脳裏にそういった言葉の断片が記憶として残っていたため、つい口に出てしまったのだろう。
保守系の論客、山村明義氏の著書に『民主党政権-悪夢と恐怖の3年3ヶ月』というタイトルの本があったので、ひょっとすると、以前にこの本を読まれたのかもしれない。
「民主党時代は悪夢だった」というのは、一般的には主に就職難の時代だったというのが大きいと思う。リーマンショックで経済が瀕死の状態だったにも拘らず、景気対策としての有効な経済政策が全く打てなかったため、なんのセーフティネットも構築できないまま、ただ、ひたすら経済状況が悪化していくのを指を咥えたまま呆然と眺めているしかないような時代だった。あの時代、不況の煽りを受けて職を失った人にとっては悪夢と言うより地獄だったかもしれない。
個人的なことを書かせてもらうと、個人投資家にとっても、投資難の時代だった。来る日も来る日も、株価は下がる一方で、ネット証券のログインパスワードを忘れてしまうほどだった。ある証券会社からは、取引が全く無いせいか、「口座管理料を徴収します」というようなメールが来たこともあった。
そこへ、泣きっ面に蜂の如く、東日本大震災が発生、まるで日本全体が貧乏神にでも取り憑かれたかのような暗澹たる時代だった。
国内の政治家発言ではなく、海外の政治家発言について言い争うべき
野党の政治家が自民党に対して「悪夢のような自民党政権」と言っても、何のお咎めもなく、安倍総理に対して「悪の独裁者」と言っても、何のお咎めもなし。しかし、安倍総理が「悪夢のような民主党政権」と言うだけで袋叩きにされるのでは、あまりにも理不尽で偏っている。
「悪夢のような民主党政権」と言うより、「悪夢のような民主党時代」と言えば、誰もが認めざるを得ないので、安倍総理もここまでバッシングされることもなかったのかもしれない。
しかしながら、おそらく、憲法改正に反対の政党は現在ただいまも「悪夢のような自民党政権」と思っているだろうから、お互い様だろうと思う。なんでもかんでも、やることなすこと、「反対!」「反対!」と言われるのでは、「悪夢のようだ」と思われても仕方がない。
何度も言うように、政治家の言葉の善し悪しを政治家同士で言い争われても、国民にとってはしらけるだけで何のメリットもなく国益にもならない。与党と野党の国内の政治家同士がどうのこうのと言い争うぐらいなら、政党の垣根を超えて他国の政治家の言葉に対して、言い争うべきだ。
例えば、韓国国会議長の「従軍慰安婦問題は天皇の謝罪の一言で解決される」という発言が問題になっているが、そういった発言に対して与党の政治家や野党の政治家という立場ではなく、“日本の政治家”という立場で言い争いをするべきだ。 
 2/14〜

 

●自民党大会「谷垣スピーチ」に大喝采のわけ 2/14
  保守化に突き進む「安倍1強」政権への不安
平成年間として最後となる第86回自民党大会が10日、都内のホテルで開催された。
主役の安倍晋三首相は締めくくりのあいさつで、参院選などの勝利に向け、「あの悪夢の民主党政権に戻してはいけない」と、居並ぶ自民党議員や地方党員に檄を飛ばした。ただ、会場が一番沸き、首相以上の大喝采を浴びたのは谷垣禎一前幹事長の車椅子での演説だった。
引退後初のスピーチに臨んだ谷垣氏
3連休の真ん中の日曜日に開催された党大会は、午前10時から東京・高輪のグランドプリンスホテル新高輪で約2時間にわたって行われた。歌やプロモーションビデオなどで盛り上げる恒例の演出で会場が沸いた。
4月の統一地方選、7月の参院選という12年に一度の「選挙イヤー」とあって、党大会は首相を先頭に選挙勝利を誓う総決起集会となったが、安倍首相と並んで「もう一人の主役」として注目を集めたのが谷垣氏だった。開会直前に会場の最前列で首相の右隣に座ると、歩み寄った多くの党幹部の握手攻めにも笑顔を振りまき、報道陣のカメラのフラッシュを浴びた。
例年通り、山口那津男公明党代表と中西宏明経団連会長の来賓祝辞が終わって、谷垣氏がスポットライトを浴びながら車椅子で登壇。スペシャルスピーチに臨むと、会場内は拍手の渦に。党幹事長だった2016年7月に皇居周辺でのサイクリング中に転倒事故を起こし、頸髄損傷で長期のリハビリ生活を強いられている谷垣氏は、高揚した表情で政界引退後初めてとなる晴舞台に登場した。
谷垣氏はまず「3年前の夏、私の不注意から大けがをして突然仕事ができなくなり、大変ご迷惑をおかけしました」とお詫びから切り出した。大怪我からのリハビリ中に「全国の党員・党友らから大変な励ましの言葉を頂いた」と会場を見回した後、「私が今楽しみにしているのは、来年の東京パラリンピックです」「自分が障害を負うと、障害というものは一人ひとりで抱えている課題が全部違う」と語った。
続けて谷垣氏は「パラアスリートの方々がそれぞれの課題をどう乗り越えて、どう勇気を振り絞って大会に挑戦されるのか、ぜひ拝見したい。それが私にも勇気を与えてくれる」と真剣な表情で会場に語りかけた。さらに谷垣氏は、今年が改元の年で、世界情勢も激動していることを指摘し、「新しい道を切り開くには、自民党がさらに精進して、安定した政治をつくっていくことではないか」と首相らへの熱いエールで締めくくった。
メモも持たず、声量豊かに会場の一人ひとりに呼びかけるような約5分間のスピーチに、会場は大きな喝采と歓声に包まれた。インターネットでの中継動画でも「ガッキーいいぞ!」「参院選に出るべきだ」「車椅子の総理目指せ」などの書き込みがあふれた。
二階幹事長の登場でしらけムードに
谷垣氏とは対照的に、その後党情報告で登壇した二階俊博幹事長の声は弱々しく、ろれつの回らない場面もあったため、会場はしらけムードに。ネット上でも「大丈夫か」「眠くなる」「早く終わりにしろ」などの批判的な書き込みが相次いだ。
最後に登壇した安倍首相は、12年前の第1次安倍政権下での参院選に触れ、「亥年の参院選で惨敗を喫したことは、当時総裁だった私の責任で、このことは片時も忘れたことはない」と振り返った。その上で、「我が党の敗北で政治は安定を失い、そして悪夢のような民主党政権が誕生した。あの時代に、戻すわけにはいかない」と口を極めて民主党政権を批判。参院選勝利に向けた党内の結束を訴えた。
通常国会での最大の火種となっている毎月勤労統計調査の不正問題については「徹底的に検証し、再発防止に全力を尽くすことで責任を果たす」と紋切型で短く言及。憲法改正については「立党以来の悲願である憲法改正に取り組む時が来た。憲法にしっかり自衛隊と明記して違憲論争に終止符を打とう」と呼びかけたが、昨年と同じ表現にとどまった。
首相演説には会場から「よ〜し!」「そうだ!」などの掛け声もあったが、「悪夢のような」発言に首を傾げる向きも多く、熱気は谷垣スピーチには及ばなかった。自民党の石破茂元幹事長は「(悪夢発言で)過去の政権を引き合いに自分たちが正しいと主張するやり方は危ない」と批判した。その一方、党大会後に二階幹事長が「素晴らしかった。谷垣さんの復活、復帰を期待している」と目を潤ませて語るなど、谷垣氏の演説に賛辞が広がった。
谷垣氏は昨年秋、厳しいリハビリを経て公の場に姿を見せ、10月31日に官邸で安倍首相と面会。続いて11月6日には二階幹事長らとも会談した。首相や二階氏は谷垣氏の政界復帰を促したが、谷垣氏は「やっぱり老兵は死なず、ただ消えゆくのみということだ」と否定した。ただ、二階氏は「政界復帰を待ち望む国民の声は多い。それに応えてもらいたいという強い願望を持っている」と述べ、加藤勝信総務会長も「十二分にそうした期待に応えていただけるのではないか」と谷垣氏の政界復帰への期待を強調した。
首相や二階氏が視野に入れるのは、夏の参院選での比例代表からの谷垣氏出馬だ。政界でも「もし谷垣氏が比例名簿に名を連ねれば、安倍政治に批判的なリベラル層からも数十万単位で票を取り込め、自民全体の得票数のかさ上げは確実」(選挙アナリスト)との分析があるからだ。
首相が2014年9月に谷垣氏を幹事長に起用した際、側近に「ゴルフのティショットに例えると、私は右、谷垣さんは左に行きがちなので、二人を合わせればフェアウエイのど真ん中だ」と冗談交じりで語ったとされる。「保守色が際立つ安倍政権にとって、谷垣氏は貴重な毒消し役だった」(自民長老)だけに、政権安定と安倍1強維持のために谷垣氏の政界復帰が必要なのだ。
安倍首相の在職日数は戦後2位に
首相が悲願とする憲法改正も、谷垣氏が総裁時代の2012年春に「安倍案」よりさらに踏み込んだ自民党改憲草案を作成、公表している。このため、自民党内では「谷垣氏が政界復帰して、党憲法改正推進本部の最高顧問などに就任すれば、野党との協議もスムーズに進められる」と期待する声もある。
週明けの12日に再開した衆院予算委では、早速、立憲民主党に合流したばかりの岡田克也元外相(元民進党代表)が首相の悪夢発言を取り上げ、「民主主義はお互いに相手を全否定しては成り立たない」などと発言撤回を求めた。これに対し安倍首相は「総裁としての言論の自由はあるはずだ」「国会審議で『安倍政治は許さない』などのプラカードを掲げたのはどこの党だ」などと応戦、冷笑交じりで撤回を拒否した。
巨大与党を背景に1強を堅持し続ける首相は、今月23日には通算在職日数が吉田茂元首相を抜き、戦後単独2位となる。さまざまなスキャンダル発覚にもかかわらず、歴代首相より内閣支持率が高率なのは「決められる政治を実践しているから」(閣僚経験者)との見方が多い。ただ、6日の参院予算委で統計不正に関する報告書を「読んでいない」と答弁して非難されると、「総理なので森羅万象すべてを担当しているのだから」と言い返すなど、「上から目線の安倍語」(自民幹部)が党内外での批判につながっていることも否定できない。
党大会での谷垣スピーチへの大喝采は、「首相を先頭に保守化に突き進む自民党への不安の広がりが背景にある」(首相経験者)との指摘もある。11月下旬には史上最長政権となる首相だが、10日の党大会における安倍首相と谷垣氏への対照的な評価が、「安倍政権の現状を象徴している」(自民長老)との声も広がっている。 
●民主党政権は「悪夢」!? 2/15
「あの悪夢のような民主党政権」――。安倍晋三首相の発言を巡り、12日の衆院予算委員会で、旧民主党幹部が感情をあらわに反論したため、13日付各紙はこの話題を「『悪夢の民主政権』応酬」(毎日)といった見出しで取り上げた。このやり取りをきっかけに、民主党政権の失敗を再び想起した人も多いのではなかろうか。
この安倍首相の発言は、10日の自民党大会の演説で、今年の統一地方選、参院選への意気込みを語る中のもの。首相によると、民主党政権(2009〜12年)の経済政策を批判したということらしい。これに対し、民主党政権で副総理などを務めた岡田克也氏(立憲民主党会派に所属)は、衆院予算委で発言の撤回を求め、「一方的にレッテル貼りをしている。取り消しなさい!」と激高した。
だが、首相は応じず、「ではなぜ、民主党という名前を変えたのか。民主党のイメージが悪いから変えたと推測する人はたくさんいる」と反撃。自公政権の再発足後、党勢低迷にあえぎ民進党と名を変え、今では立憲民主党や国民民主党へと四分五裂したことを指摘され、傷口を広げる格好となってしまった。
立憲民主党の枝野幸男代表は首相の発言に対し、「6年も7年も前のことを」と言うが、国民にとっては民主党政権の残像はまだ鮮明に残っている。読売新聞が昨年実施した世論調査(11月28日付)では、平成時代で「悪い影響」を与えた政治的出来事として「自民党から民主党に政権交代」が第1位だ。
同紙は、「目立った成果を上げられず、失望した人が多かったことを示した」と分析している。
この民主党政権に対する評価は、夏の参院選でも、有権者の判断に大きな影響を与える要素となることは間違いないだろう。 
●「壊し屋」小沢一郎氏“復活”で悪夢を見るのは誰 2/16
3回目の政権交代に向けて「壊し屋」が動き出した。小沢一郎代表(76)率いる自由党と国民民主党の合併交渉が本格的に始まり、月内にもまとまる見通しとなった。かつて自民党を2度下野に追い込んだ豪腕の復活は、野党結集の劇薬となるのか。
「もう一度、悪夢を見てもらわなければならない」
小沢氏は12日の記者会見で、安倍晋三首相(64)が自民党大会で「悪夢のような民主党政権」と表現したことにこうコメントし、不敵な笑みを浮かべた。
11日に都内で開かれた自身が主宰する政治塾では「自民党政権を倒すという意味で、3回目の政権交代を実現したい。その1つの歩みの中で、自由党と国民民主党の連携が進んでいる」と訴えた。
当選回数は17回を数え、今年で在職50年を迎える小沢氏。浮沈を繰り返し、現在は国会議員6人の小政党の代表だが、政権交代への意欲は衰えていない。
小沢氏といえば、平成5年に新生党代表幹事として、非自民党勢力を結集して細川護煕政権を誕生させ「55年体制」に幕を降ろした。21年の衆院選では、民主党代表代行として自民党に大勝し、再び政権交代を果たした。国民民主党の玉木雄一郎代表(49)はこのときに初当選した「小沢チルドレン」だ。
小沢氏は夏の参院選に向け、野党第一党である立憲民主党の枝野幸男代表(54)と会談を重ねて結集を呼びかけたが、枝野氏は応じなかった。小沢氏が次に目を付けたのが、100億円といわれる内部留保金に加え、全国組織と党職員を持つ国民民主党だった。
低支持率にあえぐ国民民主党執行部にとって、小沢氏と手を組むことはわらにもすがる思いだっただろう。
旧民進党の分裂後、野党間の主導権は立憲民主党に握られ続けてきた。夏の参院選を「党の存亡をかけた戦い」(玉木氏)と位置づけるが、政党支持率が上向く兆しもなく、現状打破のためには小沢氏の力にすがるほかないのが実情だ。
昨秋の臨時国会前、国民民主党は合併を視野に入れた統一会派結成を小沢氏に持ちかけた。しかし合意直前で玉木氏が決断できず、小沢氏を激怒させた経緯がある。その後、同僚議員からの説得もあり、両党は今年1月24日、衆参両院で統一会派を結成し合流を視野に政策協議を進めることで合意した。
小沢氏をめぐる国民民主党内の反応はさまざまだ。
あるベテラン党職員は「宣伝効果がかなりあった」と、メディアの露出が増えたことに手応えを感じる。別の党関係者は「『小沢一郎』といえば選挙だ。参院選の候補者調整は小沢氏の力を借りた方が早い」と語り、豪腕ぶりに期待を寄せる。
その一方で、かつて旧民主党分裂の引き金を引いた小沢氏への忌避感も根強い。筆頭格が旧民主党政権時代に小沢氏とたもとを分かった階猛憲法調査会長(52)だ。
1月28日、国民民主、自由両党が国会内で開いた両院会派合同総会で、階氏は「大義が見えない。わが党の『中道改革政党』という理念にもそぐわない。一緒になるにしても総括が必要だ」と小沢氏に迫り、場を凍り付かせた。
真っ向から異を唱えるのは階氏のみだが、もろ手を挙げて賛成する議員は少ないのも事実。「どうせ沈みゆく船なら、何かやらないといけない」(中堅議員)「小沢氏はもう過去の人だが、やるしかない」(参院若手)。党内ではこうした「消極的合併容認論」が大勢を占めている。
問題は、自由党と合併した後の展望が不透明なことだ。多くの野党議員は「野党の大きな固まり」をつくる必要性を説くが、道筋が見えてこない。
小沢氏は2月11日の政治塾で、国民民主党との合併交渉の狙いについて「国民民主党が力をつけて立憲民主党と並ぶ勢力にすることにより、永田町の力学的に(野党の)結集がやりやすくなる」と説明。「参院選前に立憲民主党も含め一体的な連携を作りあげたい」とも強調した。
しかし、参院では国民民主党と立憲民主党が野党第1会派の座をめぐる主導権争いを繰り広げ、枝野氏も相変わらずわが道を行く構えだ。参院選に向けての野党連携がより難しくなった印象すらある。
小沢氏は枝野、玉木両氏との連携を模索する一方で、日本維新の会前代表の橋下徹前大阪市長(49)にも秋波を送ってきた。7日夜のインターネット番組では、共演した橋下氏を「全野党をまとめるリーダーだ」と持ち上げ、重ねて国政進出に期待感を示した。
国民民主党の中堅議員は小沢氏をこう警戒する。
「ちゃぶ台をひっくり返して党を混乱に陥れることはこれまでもあった。何をやりたいのか分からないのが最大の怖さだ」
果たして「小沢政局」で悪夢を見るのは誰なのか? 

 

●「国民の責任」諸話 
●今の国会に国民の責任はないのか?  2015/2
今朝の産経新聞にこのように出ていました。
「農水相辞任で質疑停滞 予算の年度内成立は絶望的」
そうですね。確かにこの日程では厳しいと思います。年度内の予算成立は難しいでしょう。そして、その余勢をかって、野党としては4月の統一地方選に挑みたい構えだと思います。
これらの国会の動きに対して「このような国会の動き全体に憤りを感じます。なぜ、政治家たちは国民の方を向いてくれないのでしょうか?こんなくだらない争いをしている場合ではないはずです!」という怒りの声が僕のブログにも寄せられました。
そうですね。そう見えてしまうと思いますし、このご指摘があっていると思います。政治の現場を何年も見続けてくると「あぁ、またやってるな」ぐらいにしか思わないんですけれど、その考え方はやっぱり間違ってますよね。本来、国民にとっては「自分たちの未来のため」に政治を進めてほしいのだと思います。
でも、見方を変えれば、国会議員をやっていく上では、このような「戦術」も必要な時が出てきます。
そもそも、私はテレビの現場に居続けた経験から「テレビを信じすぎるのはやめましょう。テレビも新聞も、作っているのは人間ですよ?」という指摘を何度もしてきました。本も出しました。「メディアリテラシー」という価値観は、とても大切なものです。テレビを作ってる人間も新聞の記事を書いている人間も…私たちと同じ人間です。
「人から褒められるの、好きです。」「お金、大好きです。」「モテたいです。チヤホヤされると嬉しいです。」そんなの、みんな同じじゃないですか。聖人君子なわけないじゃないですか。特にテレビに出てる人とか政治家なんて…みんな「自己顕示欲の塊みたいな人達」だと思ってください。みんな、自分が大好きです。他人よりも自分が認められ称賛されるのが大好きなのです。と、いう視点をもう一度持ってみましょう。
あなたが政治家だったとしましょう。与党(自民党)であった場合、本音の部分はどうでしょうか?自分は選挙に勝っているわけです。国会でも超多数派なわけです。「野党の連中、面倒くさいな〜」が本音です。実際に、与党関係者はこのように言う人が少なくありません。私が一緒に飲みに行った与党政治家も、そのように言う人はいました。野党は邪魔なだけだ、と。
では逆に野党の政治家の立場になったらどうでしょうか?今のままの自民党の数、実行力をそのままにしていたら自分たちが何のためにいるのか分かりません。そもそも、国会は「数の論理」でほとんどすべてが決まってしまうのが現実でもあります。その「数」を抑えられてしまっているのです。もう何もできないってのが、今の国会の野党の現実です。しかし、このままやりたい放題させていれば、4月の統一地方選は負けてしまいます。統一地方選ってのは、地方の議員さんを選ぶってだけではありません。将来の国政選挙の時に、現場を走り回ってくれる大事な「駒」を獲得する戦いです。国会議員にとって「地方議員の存在」って、国政選挙の時の大事な戦力なんです。負けるわけにはいきません。大事な戦いです。
「大臣を追及!スキャンダルが!」ってやってても、日本国民は…ホワッとした民意でかなり動きます。これは日本国民全体の問題点でもあるのですけれど、日本国民の「ホワッとした民意」は結構バカに出来ない影響力があります。「数の論理」がほぼ全てと言っていい国会において、自分の政策を押し通すためには、まずは選挙で勝たなければいけないことも確かです。そして選挙で勝つためには、日本ではまず…「ホワッとした民意」を動かさなければいけません。
そうなんです。ここまで考えると分かるんですが…現在の国会って、結局日本全体の民度…といいますか、日本国民が普段から、政治の勉強をして、国会の勉強をして、興味を持って、国政に対して積極的に協力して…ってやってないことを反映してるだけだったりするんです。
「西川さんの問題ってどうなの?」「追及してる野党ってどうなの?」「スキャンダルを報じてるマスコミって、どこと癒着してるの?」もっと勉強して、もっと普段から興味を持って、もっと議員たちの発言や書いてるブログに興味を持って…まさにBLOGOSの読者層のような人たちがもっと増えていれば、野党だって、いつまでもこんな戦術はいらなくなるし、政策で選んでもらえるのであれば、下さらない国会戦術は必要なくなったりします。
でも、今の日本じゃ無理でしょ?
「えー、小泉さん、面白いじゃなーい!」「やっぱ民主党に一回やらせてみたらいいんだよ〜!」「 進次郎、超イケメンだよねー!」そうやって投票結果、全部変わるでしょ?国会議員って、落選したら、収入、ゼロですからね?もし子供なんていた日にゃあ、生活もできなくなっちゃう。私の目から見ると、与党も野党も、今の国会戦術でしょうがない部分もあるようにも見えるんです。
日本の国会が国民の方を向くのは選挙前だけです。あとはテレビと新聞の方を向いているんです。要は、選挙対策。自分たちの生活と権力を守る方に向いてるんです。そして、それを許し、そうなる方向にもっていっているのも、また日本国民全体のムードだったりします。なかなか根深いですよね。 
●政治家の劣化に関する一考察 パフォーマンス政治の行き着く先は… 2016/2
今さら指摘するまでもないが、政治家の質の低下が著しい。
2月16日、宮崎謙介氏(自民党を離党)が衆院議員を辞職した。理由は前代未聞の不倫である。いや、正確に記せば、「国会議員の育児休業取得を国民に訴えていながら、妻の出産6日前に女性タレントと密会していた」からとなろうか。要は、言っていることとやっていることが、まるで違ったという、国会議員じゃなくても軽蔑される理由での退場だ。
民主党の岡田克也代表が「こういった候補者を擁立してきた自民党の責任は重い」と指摘したのは、理屈ではその通り(同じく過去に女性問題が報じられた細野豪志政調会長を擁立している民主党はどうなんだという点は別にして)だが、宮崎氏のケースは、もうそんな建前論を吹き飛ばしてしまうレベルの低さだ。ニュースを聞いた国民に「それって、人としてどうなのよ」と思わせ、議員の資質を論じることすら無意味に感じさせたという点で、宮崎氏のスキャンダルは一層、罪深い。
その脱力感の余韻も冷めやらぬ中、今度は深く考えさせられる暴言が飛び出した。深く考えさせられるというのは、真剣にその意味を考えるということではなく、文字通り理解に苦しむという意味だ。
自民党の丸山和也参院議員は17日の参院憲法審査会で次のように発言し、野党から議員辞職勧告決議案が提出される問題になった。深く考えるために、氏の発言を正確に引用する。
「例えば今、アメリカは黒人が大統領になっているんですよ。黒人の血を引くね。これは奴隷ですよ。はっきり言って。で、リンカーンが奴隷解放をやったと。でも公民権もない。何もないと。ルーサー・キングが出てですね、公民権運動の中で公民権が与えられた。でもですね、まさかアメリカの建国あるいは当初の時代にですね、黒人、奴隷がですね、アメリカの大統領になるようなことは考えもしない。これだけのですね、ダイナミックな変革をしていく国なんですよね」
長々と引用してみたが、やはりよく分からない。米国の変革力をたたえようとしていることは、かろうじて読み取れるのだが、事実誤認もあるし、第一、何の説得力もない。この人、弁護士なのに…。
暴言といえば、民主党議員にも看過できない発言があった。中川正春元文部科学相は16日の党代議士会で、「これからいよいよ攻勢を掛けていきたい。首相の睡眠障害を勝ち取りましょう」とぶち上げた。
民主党が追及を強めようとしていた甘利明前経済再生担当相が睡眠障害で1カ月の自宅療養が必要との診断書を国会に提出したことを踏まえたお調子発言とみられるが、たぶん中川氏は普段からぐっすり眠れる体質なのだろう。明日の仕事が心配で、夜中に何度もトイレに立ってしまう身からすれば、うらやましくもある暴言だ。
ついつい前置きが長くなったが、ここからが本題だ。与野党を問わず、毎日のように飛び出す暴言・失言。それも、政治的信念に基づく突出や、熱意ゆえの勇み足といった類いの失策ではなく、愚も就かぬ発言がこうも続くのはなぜなのか。こんな低レベルの言動をしてしまう国会議員が続出するのはなぜなのか。
選挙制度の弊害(特に衆院選での比例復活制度)、政党の議員育成能力の低下(派閥の功罪)などさまざまな指摘は可能だと思うが、ここではあえて、政界に蔓延するパフォーマンス至上主義にこそ問題の本質があると言いたい。
先日、国会中継を見ていてあることに気づいた。ほとんどの議員が、質問するにあたり、パネルを用意している。政権の政策の問題点を図表化したり、各種経済統計のグラフを拡大してみせたりと、それ自体は議論を理解する上で大いに結構なことだと思う。
問題はパネルの見せ方だ。予算委員会などでは、首相・閣僚の答弁席と質問者の席は相対する形になっている。質問者はパネルをもとに政府側の見解をただすのだが、中継を見ているとパネルは答弁者側のほうではなく、テレビカメラのほうを向いているのだ。
昔はこうじゃなかった。パネルを用意する議員もいるにはいたが、パネルは手持ちで、中継では角度的に見えにくいことが多かった。それが今では、質問者の机にパネルを固定するステイのようなものが取り付けられている。さらに、パネルを取り換える係の議員までいたりする。
変なことにこだわっているようだが、これは質疑者がテレビカメラを意識していることに他ならない。政府側とやりとりをかわしつつも、政府側とやりとりをかわしている自分を見せる≠アとにも、質疑の意味を見いだしている。もっと分かりやすく言うと、政府を批判すると同時に、政府を批判している自分をテレビカメラの向こう側にアピールすることが目的になっているとも言える。
これを全て「パフォーマンス」のひと言で片付けるつもりはない。国政の課題をテレビカメラを通じて国民に分かりやすく示すことも、政治家の重要な役割のひとつだろう。ただ最近は、見せたがる°c員が多い。何かと記者会見したがる議員、フェイスブックやツイッターで活動報告する議員。これがいいことなのか、悪いことなのか。
政治家の劣化と見せたがる議員の増加には、相関関係があると思う。 
●日本国民の政治家への信頼度はなぜ世界最低レベルなのか 2017/2
国民からの評価が「最低」に近い日本の政治家
なぜ、我々は政治家をこんなに信頼していないのであろうか。自分たちで選んだ人々であるのに不思議といえば不思議である。これは、我が国特有の現象なのであろうか。それともどの国でも同じなのだろうか。そこで、今回は、政治家に対して国民はどう思っているかについての国際比較データを取り上げてみよう。
図1は、世界価値観調査と並んで有名な国際共同意識調査であるISSP(International Social Survey Program)調査における政治家への評価に関する2つの設問について、世界40ヵ国の国民の回答結果を散布図グラフにしたものである。
   図1 世界各国の国民は政治家をどう見ているか?
散布図のX軸は、「政治家は自己利益の追求だけだ」と思っている人の比率、Y軸は、「政治家は正しいことをしていると信頼」している人の比率である。
両軸で回答分布には違いがある。X軸の自己利益の追求かについては10〜90%の幅でばらついている。国民により、ほとんど一か十かの範囲で、大きく見方が分かれているのである。それに対して、Y軸の正しいことをしていると信頼しているかについては、0〜60%の幅の中で、大方の国民は相対的に低い水準の範囲に収まっている。
両方のプラス・マイナスの評価はだいたい比例している。すなわち、政治家が自己利益中心だと思われている国では、正しいことをしていると信頼されていないし、逆ならば逆である。マイナス評価が両方とも大きい国はラトビア、クロアチア、スロベニアといった国であり、逆にプラス評価の大きい国はノルウェー、デンマーク、スウェーデン、スイスといった国である。
一方、こうした比例関係から外れた国も多い。政治家は自己利益中心だと思われているのに、正しいことをしていると信頼されている国としては、フィリピン、ベネズエラ、南アフリカが目立っている。大国としては、ロシア、インドがこれらの国に近い。どちらかといえば途上国的な性格の強い国が該当している。
こうした国では、自分のことばかり考えている政治家でも皆の役に立つ働きをしている場合も多いという見方だといえる。政治家は、少々、人格的には問題があっても、やることをやってくれればよいという考えが強いともいえる。
政治家への信頼がなければ優れた政策も実現しない
日本の場合は、政治家が自己利益中心かどうかという判断では、比率は49.7%で40ヵ国中25位とそれほど大きくマイナスではない。ところが、正しいことをしていると信頼しているかという点では、比率が8.7%と1割未満であり、国別には下から4位と国民からの信頼度が極めて低くなっている。ある程度、政治家の善意や活動の公益目的を認めながらも、政治家を信頼できるというところにまでは、まるで至らないというわけである。
日本の値が、調査年の特殊事情によって左右されていないかを確かめるため、正しいことをしていると信頼しているかに対する回答率に関して前2回の結果を掲げておくと、2010年調査と2004年調査では、それぞれ、7.3%、8.4%となっている。2010年の民主党政権時代と前後の自民党政権時代とで値に大きな差はないようである。
日本の国民は、みんなのことを考えている政治家だからといって、必ずしも、政治家として役に立ってはいないと考えているようだ。あるいは、ささいな個人的欠陥でも、そうしたものがあれば政治家としては信頼できないと考えがちなのかもしれない。
政治家への信頼がなければ優れた政策でも実現しない(逆に言えば信頼があれば無意味な政策でも実現する)。この点について、我が国政治家の祖ともいえる聖徳太子の十七条憲法の第九条ではこう述べられている。
「信はこれ義の本なり。事ごとに信あるべし。それ善悪成敗はかならず信にあり。群臣ともに信あるときは、何事か成らざらん。群臣信なきときは、万事ことごとくに敗れん」(決定版中村元選集別巻6「聖徳太子」p.181)。
日本ではこうした見方が伝統的なので、他国であれば、トランプ米大統領ではないが、少々の個人的問題があっても政治家としては信頼されるのに、日本では国民の評価が厳しくて、政治家はなかなか信頼されにくいのであろうか。
政治家に対する見方の日本の特徴は、日本における政治家の能力やこれまでの実績に問題があるせいなのか。それとも、ここで触れたように、聖徳太子以来の政治家に厳しい目をもつ政治風土があるせいなのか。あるいはまた、何らかの世界共通の傾向に沿った結果なのか。理由が知りたいところである。
人口規模と反比例する政治家への信頼度
日本における政治家への信頼度の低さの理由の一側面として人口規模との関係を探ってみよう。
   図2 人口規模と政治家への信頼度(先進国比較)
所得水準が高い先進国では、基本的に、民主主義国としての歴史が長い。民主主義が定着しているかは政治家への見方にも影響を与えると考えられるので、ここでは先進国に限定して、人口規模と政治家への信頼の相関図を図2に描いた。
散布図の中で2つの変数の相関関係を確かめるために描かれるものが相関図である。ここでは政治家への信頼が人口規模と関係しているのではないだろうかと考えながら散布図を描いているので相関図と呼んだのである。
これを見ると、「政治家は正しいことをしていると信頼」の割合は人口規模が大きいほど低くなる傾向が見て取れる。 政治家への信頼度の高いスイスやニュージーランド、北欧のデンマーク、スウェーデンといった国は人口が1000万人未満の小国であり、反対に、日本のほか、米国、英国、フランス、ドイツといった大国における政治家への信頼度はそう高くない。人口の大きな国はやはり国民と政治家との距離がどうしても遠くなってしまい、信頼が得にくいということなのであろう。日本も人口規模からすれば政治家への信頼度が低いのも無理はないのかもしれない。日本における政治への信頼性の低さは、伝統的な政治風土というよりは、国の規模によるものといえそうだ。
ところで、一般傾向から乖離した「はずれ値」にこそ情報が潜んでいるといわれる。例外的な位置にある国に着目してみよう。
ベルギーは人口規模が小さい割に政治家への信頼度は高くない。国がオランダ語圏とフランス語圏とに分裂しかねない状況の中での政治の難しさが原因ではないかと思われる。
逆に、スイスは人口の割に非常に政治家への信頼度が高い。また、米国は人口大国であるにもかかわらず政治家への信頼度が、日本やフランスほどには低くない。米国やスイスの相対的な政治家への信頼度の高さは州の独立性が強い連邦制によるものかもしれない。大国でも政治が小国として機能すれば政治家への信頼度が増す可能性がある。そうだとしたら、日本の地方分権、あるいは道州制もこうした観点からも評価した方がよいだろう。
社会保障の維持のために高齢者に負担を納得してもらう必要が増している今、政治不信からの脱却は極めて重要な国民的課題である。政治への信頼性の回復のためには、今回触れたデータからも、国の政治家より県の政治家、県の政治家より市町村の政治家と、住民との距離が近い政治家の役割を高めていくことが重要ではないかと考えられる。
近年、地域政党から出発して全国政党を目指す動きがあらわれたり、オリンピックや水産物卸売市場といった地域課題をめぐる東京都の女性知事の活動が注目を浴びていたりしているが、これらも同じ理由からなのではないだろうか。 
●野党議員のレベルの低さ それを後押しする新聞の罪 2017/11
自民党が衆院選で絶対安定多数を獲得、与党全体では全議席の3分の2を超えるという“民意”が示されても、それでも何も変わらないところが2つある。
野党と新聞である。どれほど森友・加計問題を煽(あお)っても、与党を指弾しても、民意は揺るがなかった。しかし、その有権者の意思が判明したあとも、反省も、思考の変化も、さらには現実直視も、野党と新聞には全くなく、国民を呆(あき)れさせるドタバタ劇が続いている。本来の政治信条を捨て、誓約書まで書いて1人のリーダーのもとに集まった政治家たちが、今度はそのリーダーを糾弾し、誓約書の中身まで踏みにじろうとするあさましさを有権者は長く記憶に留(とど)めておくべきだろう。
しかし、野党議員のレベルの低さはもはや国民の「常識」ともいうべきものであり、驚くにはあたらない。むしろ、それをあと押しする新聞の罪のほうがよほど深いのかもしれない。
証拠もなく、抽象論だけで、内外の諸課題をそっちのけにして国会で気の遠くなるような時間が費やされた森友・加計問題。ネットではとっくに典型的なフェイクニュースであったことがさまざまな観点から論証されているが、新聞は相変わらず〈「森友・加計」どう説明〉(朝日)〈森友・加計学園問題 終わっていない〉(毎日)と、必死なのだ。
もし、本当に一国の総理が“お友達のために”国有財産を8億円も値下げしたり、国家戦略特区をつくって優遇したりしたのなら、国民の一人として是非、徹底糾弾してほしいと思う。
だが国会では逆に、加計問題の当事者である加戸守行・前愛媛県知事が、構造改革特区以来の過去15回に及ぶ今治市の懸命な申請の有様(ありさま)を語り、さらに「公正な手続きに疑う余地もなく、歪(ゆが)められた行政がまさに正された」と詳細に証言した。もし、これを突き崩す証拠があるなら、是非、野党は国民の前に明らかにしてほしいと思う。
しかし、情けないことに野党も、そしてそれを支援する新聞も、ただ抽象論で疑惑とやらを叫ぶだけで一向に証拠は出てこない。「国会よ、いいかげんにせよ」と、有権者の怒りがついに爆発したのが、今回の選挙結果だったとも言えるだろう。
政府が出す法案をなんでも全否定し、修正の要求や対案の提示もなく、人の言葉尻を捉えた揚げ足取りにだけ熱心で、ひたすらテレビカメラに向かってパフォーマンスをする野党。新聞がそのお先棒を担ぐために野党議員はますます勘違いし、日本の国会は、いつの間にか現実から完全に遊離した情けない「空間」と成り果ててしまった。
観念論の壁の中に閉じ籠もり、最も重視すべき有権者の審判さえ軽んじる新聞に、今さら「襟を正せ」などと言うのも陳腐だろう。だが、もはや笛を吹いても誰も踊ってくれないことと、自分たちより遥(はる)かに読者のレベルの方が高いことをせめて「自覚」することをお勧めする。 
●小沢代表「国民が投票で安倍首相を許している」 2018/6
  政治家のレベルは国民のレベル。余りにも民度が低くて嫌になる。
自由党の小沢一郎共同代表は5日の会見で、安倍政権が続く背景について「野党だけでなく自民党でも、ひきょうな権力に批判的な言動をする人がいなくなった。与野党ともに、権力におそれおののいている」と指摘した。
その上で「与野党ともにだらしないが、基本的には国民がおかしい。危険な権力者の安倍さんを(選挙で投票することで)あえて許している」と、国民の投票行動に対する持論を述べた。
「選挙では、もっと真剣に考えて投票すべきだ。棄権は白紙委任になる。ツケは全部、国民にやってくることに思いを致して投票すべきだ」とも述べた。
一方、森友学園をめぐる財務省の文書改ざん問題で、財務省が4日に発表した調査結果について、「真実を隠す、国民の目をごまかそうというたぐいの一連の行為ではないか」と指摘。「財務省の調査結果には、(忖度=そんたく=の有無に関する)肝心なところが書かれていない。国民は、安倍首相か奥さんか、官邸の意向が反映されたと、分かりきっている。それをもっともらしく報告書と言い、肝心なところに触れていない」と、批判した。
麻生太郎財務相の責任については「森友にしても加計の問題にしても、麻生氏が直接、やったことではないが、官僚組織内で、上司の権限でさせたこと。最大の上司である大臣の責任はまぬがれない。当然のことだ」と、麻生氏の引責は不可避との認識を示した。 

 

●政策システムにおける説明責任 2010 
はじめに
政治行政において、説明責任という言葉はよく使われる。通常、政治行政の側が人々の側、つまり、国民、市民、住民に民主制での何らかの説明の責任を負っていると考えられる。説明責任をこのように捉えることに意義があるのだろうか。言い換えれば、そのような説明責任が何の役に立つのか。説明責任が単に政治行政の側から人々への情報提供の促進をもたらすに過ぎないとすれば、それなりの意味はあるとしても、その意義としては乏しい気がする。このような疑問から、本稿では、今まで語られてきた説明責任の概念やイメージを根本的に変えて、新たな意義を見いだせないかと考えた。そのため、ここで用いる主要な言葉は、説明責任をはじめ、公共性、公民協働、行政の裁量など、全く新しいものとして使っている。その背後には、公共政策を論じるうえで疑いのない前提とされがちな民主主義にまで疑問をさしはさみ、公共政策システムの機能を高めるための説明責任を捉えようとする私の意図が潜んでいる。
自由に何かを行えば、その責任は本人が負わなければならない。それは責任の根拠が自由な裁量にあることを意味する。自由裁量から生じる責任がどのようなものかは、裁量が行われる場面によって異なる。しかし、責任が何かを考えるとき、共通した要素が挙げられるだろう。誰が、誰に対する、何についての責任かが、まさに責任を明確にする要素である。また、責任の負い方には様々なレベルがある。最終的には責任をとって身を引くこともあるが、もっとも初期の責任は、なぜそのような裁量を行ったかを説明することだろう。ここではこれを説明責任と捉える。行政の施策執行は、それを行う個人が責任を負わないところに制度としての妙味がある。そのことは、政策を実施する行政組織の裁量の行使について、組織自体が行為の主体として責任を負う必要がないことを意味しない。政策システムから身を引き、退場することの許されない行政組織にとって、その裁量から生じる責任については、初期レベルの説明責任こそ、行政過程における責任として重要であると言える。そのような行政の説明責任の公共政策システムの中での役割を明らかにしようとするのが、本稿の主要な目的である。
行政の説明責任は、どのような場面の裁量で生じるのか。もちろん個々の具体的な政策実施における裁量についての説明責任が求められるが、それを検討する前提として、政策形成、政策実施、政策評価の政策サイクルの3種類の場面を考えてみよう。なぜなら、説明責任の共通要素の誰が、誰に対する、何についての責任かが、公共政策の形成、実施、評価の3場面によって異なるからである。ここでの政策サイクルは、議会で形成された政策が、行政での実施へと展開し、さらに、人々による評価へとつながって、再び、議会での政策形成へと戻るサイクルである。つまり、誰が、誰に対するかに関しては、議会が行政に対する説明の場面、行政が人々に対する説明の場面、人々が議会に対する説明の場面が想定できる。それぞれの場面での説明責任が、何についての説明かを明らかにすることで、説明責任の行政過程での必要性に新たな知見を加え、より良い政策の実現には、どのような説明責任が求められるかを示そうと思う。政策形成での議会の自由から生じる説明責任は、全体の利益への決断の裁量の結果として、あるいは政策実施での行政の自由から生じる説明責任は、事業展開の指針として政策実現を具体化するための施策執行の管理における裁量の帰結として想像できる。しかし、政策評価における人々の説明責任は、その必要性を私が新たに主張するものである。ここでの政策評価は、行政が主体となって自ら行う評価を意味しない。従来言われる行政評価は、たとえ外部評価を導入しても、あくまで行政内部での政策の検討にすぎないと見る。本稿の政策サイクルでの政策評価は、人々が主体として自由に評価することを言い、評価するしないをも含むその自由裁量による評価の状況についての説明責任を、人々が議会に対して負う。たとえば、なぜ政策形成に参画したり、しなかったりするのか、あるいは争点のある選挙での投票率について人々の側から議会の側にどのように説明が可能か、これらも人々による評価の表れである。今まで論点にならなかったこのような説明責任の存在を指摘するのは難しいが、人々の説明責任への注目が、ひいては、行政や議会の説明責任の本質を明らかにすることになると考えた。これが人々の説明責任をも含む政策のサイクルおよびシステムでの説明責任を本稿で論じる私の動機である。
以上にような目的と動機による本稿の研究の背後には、主権在民の民主性の考え方に沿って、説明責任を国民への政治行政の責任と安易に導き出すことが、より良い政策の実現にはあまり役立たないとの私の思いがある。そこで私は、政策サイクルでの説明責任を、政策形成、政策実施、政策評価におけるそれぞれの主体の裁量の公共性について、サイクルの次の主体への説明責任と捉える。説明責任の目的を公共性に見定めることで、裁量の自由も絶対的ではなく公共性の限界内になければならないとして、公共政策システムの機能を高める説明責任を具体的に示せると考えている。ここでの公共性とは、その概念の基本は開放性(Openness)であり、どれだけ開放的であるかが公共度を示す。政策システムの公共性を、その他大勢の人々をも視野に置く開放性と捉え、理念としてすべての人々の参加を前提とするが、現実には積極的な関係者の関与に限られがちになる民主性のシステムの閉鎖性と対比する。そのような公共性に注目して、政策サイクルの主体間での説明責任が具体的にどのようであればよいかを論じる。以下では、1章で誰の誰に対する説明責任かを政策サイクルの循環から明らかにし、2章で何についての説明責任がなぜ必要かを、公共性の公民関係の発展に絡めて説明し、3章で公共政策システムの機能の視点から説明責任がどのように役立つかを示す。最後に、政治行政において説明責任の重要性が注目される今日において、どのように説明責任を捉えれば、より良い政策へとつながる説明責任の意義を見出されるかを明らかにする。
1章 誰の誰に対する説明責任と捉えるのか
1.行政の説明責任
行政が提供する公共サービスの対象者に、そのサービスについて説明する必要はあるだろう。それを行政の説明責任と捉えて、サービスを受けるコミュニティの代表者などへの説明の必要性を強調したり、サービス実施のプログラムの運営管理にコミュニティ主導を組み込むガバナンスでの説明責任の貫徹を主張するものもある。しかし、行政過程へのそのような国民の関与の程度を説明責任の判断基準とするのはよろしくない。なぜなら、私には、説明責任の根拠を政策実施における人々の関与の民主性に求めることで、より良い政策を生み出す政策システムを担保できると思えないからである。それどころか、偏在的な価値配分による利害の対立を常にはらむ政策実施において、そのような関与の民主性を説明責任で強調することは、ある人々への満足のいく説明が他の人々への不満を招く説明になりかねないことから、行政過程にいらぬ政治的混乱の危険を招きやすい。行政の説明責任については、公民関係での民主性とは切り離し、公共政策システムの機能の促進により役立つような捉え方が必要だろう。
たとえ今日が、政治と行政が融合する時代であることを前提にしても、行政の説明責任は、その原語のAccountability が示すごとく法律化された予算などの執行管理を基盤に考え、政治の説明責任とは別との見方をとる。行政の説明責任をそのように厳格に狭く捉えることの意義は大きい。政策サイクルの政策形成、政策実施、政策評価において、行政は主に政策実施を担当する組織であるが、政策形成、政策評価においても相応の役割を担っている。たとえば、政策形成では原案の作成に関わる。大統領制や首長制はもとより、議院内閣制においても、純粋の議員立法や住民直接立法制以外では、行政の政策原案作成への関与が目立つ。また、政策評価では、行政評価と一般的に呼ばれる事後の内部評価での施策執行の効率や効果の確認が行政によって行われる。そこでは、外部からの評価を導入したとしても、その結果報告をもっぱら行政自身が取りまとめる。そのように政策サイクル全般における行政の関わりを考慮するなら、行政の説明責任をあまり広く捉えると、説明責任の存在理由を不明確にし、説明責任の必要の連呼にもかかわらず、その具体的な効果をともなわない結果に終わりかねない。それゆえ、政策サイクルの下で政策形成の主体となる議会との相互作用や、本稿での政策評価の主体と見る人々との連携をも視野に入れたとしても、行政の説明責任の本質が施策の執行管理での政策の効率的な実施にあると限定して捉えることが必要だろう。
行政の説明責任が生ずる根拠はその裁量にある。既に述べたように、自由に何かを行えば、その責任を本人が負わなければならないことは、責任の根拠が自由な裁量にあることを意味する。責任を、「自己の作為不作為について他人に弁明できる状態で行動すること」と見るなら、政策サイクルの実施の場におけるそのような責任についての説明を行政はしなければならない。そこでの責任は、政策を実現するための施策を担当する個人が負うのではなく政策を実施する行政組織自体が行為の主体として負う。議会で法律化された決定や予算の執行など、施策の管理の政策実施の場における行政の説明責任は、図1の公共政策システムの出力の政策実施の過程の自由裁量から生じる。そこでの自由な裁量がどれだけ効率的な管理であったかを、人々に説明するのが最もわかりやすい行政の説明責任の出発点である。
   図1 公共政策システムの入出力モデル
   公共政策の評価→公共政策の形成→公共政策の実施→(フィードバック)→
この公共政策システムは、人々の支持や要求を政策や決定へと変換する政治過程の機能に注目する入出力モデルを参考に、政策評価の入力を政策実施の出力へと変換する公共政策過程として示している。ここでは、公共政策の評価が行政の政策実施から人々へのフィードバックの帰結として示されている。このシステムでは、公民関係の下での政策評価の主体が人々であるとする。このモデルは、政策サイクルの3要素とされる政策形成、政策実施、政策評価について、政策形成のブラックボックスでの議会を中心とする形成主体、出力の政策実施での主体としての行政、入力での人々を主体とする政策評価を想定し、公共政策の入力から出力への変換機能を図示している。そのような政策システムでの政策実施の過程における「誰の」「誰に対する」責任かを明確にするために、政策サイクルでの行政の説明責任をどのように捉えればよいかを、議会や人々の説明責任とともに次に示そうと思う。
2.政策サイクルと説明責任
   図2 政策サイクルでの説明責任の位置付け
   [政策形成(主体/議会)]→政治の説明責任→
   [政策実施(主体/行政)]→行政の説明責任→
   [政策評価(主体/人々)]→人々の説明責任→[政策形成・・・
政策実施の場面における自由裁量について、それを行う行政は、人々に対して説明責任を負う。これが行政の本質的な説明責任であることを、政策サイクルでの位置付けで示したのが図2である。そこには、政策形成、政策実施、政策評価の循環サイクルとともに、議会の説明責任、行政の説明責任、人々の説明責任の3種類の主体の説明責任が示されている。ここでの政策サイクルは、議会で形成された政策が、行政での実施へと展開し、さらに、人々による評価へとつながって、再び、議会での政策形成へと戻るサイクルである。つまり、誰が、誰に対するかに関しては、議会が行政に対する説明、行政が人々に対する説明、人々が議会に対する説明と捉える。以前にも指摘したが、政策形成での議会の自由から生じる説明責任は、全体の利益への決断の裁量の結果として、政策実施での行政の自由から生じる説明責任は、施策執行の管理の裁量の帰結として理解しやすい。しかし、政策評価における人々の説明責任は、その新たな必要性を私が主張するものであり、想像しにくいところもある。
行政の政策実施について、議会が行政に報告を求めている場面を国会や地方議会でよく見かける。それは、民主制の選挙で選ばれた選良で構成する議会が、行政の専断をコントロールする民主政の原理からのものと考えられる。説明責任の根拠が自由な裁量であると見るなら、その自由裁量について行政が議会に説明責任を負うと言えなくもない。しかし、私は政策サイクルの循環に沿う方向の説明責任に注目し、公民関係の民主性からではなく公共性から考える。公共性の詳細については次の第2章で述べるとして、ここでは、行政の説明責任は議会へと向かう逆方向ではなく、人々に対するものと捉えてこそ説明責任の内容が具体化すると考える。そのような政策サイクルの循環に沿うと、政策形成での議会の説明責任は、細目まで規定していない議会自らの裁量行為についての行政に対する責任となる。もっとも、今日の政治行政融合を前提とする本稿の議論では、行政が作成する原案からの議会の裁量による変更などが、具体的な説明責任として表れるだろう。そこでの責任という言葉が、一見、議会の行政への従属であるような誤解を招くかもしれないが、責任こそが自由の担保であり、逆に、それは説明できさえすればどこまでも自由にできる優位の大きさを示していると考える。
   表1 政策サイクルの循環での説明責任
      (誰が、どこで、誰に対して、いつ、負う責任か)
政策サイクルの循環での  政策形成における   政策実施における   政策評価における
説明責任の要素      説明責任       説明責任       説明責任
誰が           議会が        行政が        人々が
             (議会の説明責任)   (行政の説明責任)   (人々の説明責任)
どこで          政策サイクルの    政策サイクルの    政策サイクルの
             政策形成において   政策実施において   政策評価において
誰に対して        行政に対して     人々に対して     議会に対して
いつ           政策決定のときに   施策執行のときに   意見表明のときに
そこでの行政組織の役割  政策原案の作成    施策執行の管理    執行報告のとりまとめ
行政の役割の例示     市民参画の推進    公民協働の拡大    住民意識の反映
説明責任の目標      −−主体から次の主体への政策サイクルの循環をよくするーー
政策サイクルにおける説明責任が、「誰の」「誰に対する」責任かを明らかにし、そこでの行政の説明責任は政策実施における施策執行の管理での自由裁量から生じる人々への説明責任であると捉えてきた。加えて、行政組織の役割は、そのような政策実施での役割を本質的なものとしつつ、政策形成での政策原案の作成や政策評価での執行報告のとりまとめなど、執行管理に密接に結びつく役割をも果たす。その実状を考慮するが、説明責任が何かを明らかにするには、説明責任を生み出す本来の構造をどう捉えるかを、まず明確にする必要がある。そのような政策サイクルでの行政の説明責任の捉え方を、政策形成での説明責任と政策評価での説明責任と合わせてまとめたのが表1である。加えて、それらの政策サイクルの各場面で行政組織が公民関係で果たす役割の例を、参考として示している。政策形成における市民参画を行政の裁量で都合よく推進することは可能だろうし、政策実施における公民協働での行政の裁量による都合のいい拡大を目指せるかも知れないし、政策評価における住民意識を行政の裁量で都合よく反映させることもできる。それらの好都合な自由裁量は、実際、政策実施の過程において不可欠なこともあろう。しかし、その裁量の説明が、民主性に沿うとの主張であれば、それで十分とは言えないと思う。行政の説明責任は、まずは、施策執行の管理について主体の行政から次の人々への政策サイクルの循環をよくするという説明責任の目標に沿う必要がある。そこでの民主性の要素を強調しすぎて行政の責任の具体性を欠くならば、説明責任の目標を阻害することになりかねない。
政策実施における行政の役割の具体例として示した公民協働の拡大こそに、行政の裁量が求められ、そこでの説明責任が公民関係の発展にとって必要であると考えている。具体的には、効果的に人々を動員し、効率的な
政策執行管理をもたらす公民協働の拡大になっているとの説明を行政ができるかに、循環がよくなるかが左右される。加えて、行政の役割を広く見れば、行政による市民参画の推進は、効率的な政策執行管理に向けて、政策形成における議会の裁量への牽制として役立つだろう。また、行政が住民意識を行政内部での検討としての行政評価の取りまとめに反映させることで、政策執行の内部での検討の合理性の担保に使えるだろう。いずれも行政の説明責任を果たすのに役立ちそうだが、それらが民主性に軸足を置く説明責任となれば、行政の政治化を必要以上に進めて行政の合理性のゆらぎをもたらす危険がある。法適合性を基本とする行政の合理性が、行政の政治化により民主性に行政の合理性の担保を求めようとすれば、政治と行政の区別をあいまいにし、国民、市民からの直接の授権を経ない行政の官僚組織の裁量権の行使の説明にはなりえない。たとえ、大統領制、首長制でのトップへの授権があってもである。それなら、他のどのような説明責任が可能か。私は、より良い公共政策の機能を実現するには、公共性を目的とする説明責任が求められると考えている。以下ではそのような説明責任の公共性を、何についての説明責任がなぜ必要かを議論することで明らかにしようと思う。
2章 何についての説明責任がなぜ必要か
1.政策のサイクルおよびシステムの保守性と説明責任
   表2 公共性の公民関係の発展と説明責任
      (何について、どのように説明するのか)
公共性の公民関係の発展 政策形成の説明責任   政策実施の説明責任   政策評価の説明責任
何について       全体の利益への決断の  思索執行の管理の    政治的関与の
            裁量について      裁量について      裁量について
どのように       たとえ民主的な市民の授 たとえ活発な住民の協力 たとえその他大勢の人々
            権を超えていても議会の の範囲外であっても行政 の完全な了解でなくても
            裁量に公共性があること の裁量に公共性があるこ 人々の裁量に公共性があ
            を説明         とを説明        ることを説明
裁量の公共性の説明の目標 −−政策サイクルと政策システムの保守的な現状維持の傾向を打破して、
             そこでの公民関係の発展に寄与するーー
重要なことは、政策サイクルがうまく循環して、政策システムがうまく機能することだと考えるのは当然である。しかし、システムやサイクルはその存続自体が主要な課題となり、そこに見られるのはサイクルとシステムの現状維持へと向かいがちな保守性である。政治行政の主要な目的の一つである社会統合は、軋轢のない現状維持との見方もできるが、そこに何らかの発展の要素を組み込めないかと私は考えている。本稿の研究ではシステム論を基礎に置くが、システム論は現状の機能に注目するゆえに社会の発展、変革、変動などを説明できないとの批判があり、それに応えるために変化を含みうるものを考える必要がある。私は、自由裁量の説明責任に、発展の契機を見ようとする。ここで特に注視するのは、公民関係の発展である。しかし、政治行政の側が、政策形成と政策実施について、人々の側への説明責任を果たせば、民主的な公民関係が発展すると単純に考えたりはしない。そのような見方は、説明責任の実践や強化の宣伝の力とはなるが、説明責任が何について、どのように説明すればよいかを、具体的に示すことには結びつかない。それでは、説明責任が単なるお題目にとどまり、政策サイクルと政策システムの保守的な現状維持の傾向を打破して、そこでの公民関係の発展に寄与する説明責任とはならない。
何についてどのように説明する責任と捉えるかは、政策サイクルの政策形成、政策実施、政策評価の場面によって、具体的には違っている。その違いをまとめたのが表2である。公民関係の民主性の強調によるお題目の説明責任に終わらせないためには、その具体的な違いを捉えて、公民関係の発展への寄与を検討する必要がある。ここでは、政策形成における説明責任を、全体の利益への決断の裁量について、たとえ民主的な市民の授権を超えていても議会の裁量に公共性があることを、議会が行政に対して説明すべきものとみなす。政策実施における説明責任を、施策執行の管理の裁量について、たとえ活発な住民の協力の範囲外であっても行政の裁量に公共性があることを、行政が人々に対して説明するものと捉える。政策評価における説明責任を、政治的関与の裁量について、たとえその他大勢の人々の完全な了解でなくても人々の裁量に公共性があることを、人々が議会に対して説明できるものと考える。それらの主体によって異なる説明責任が、いずれも裁量の公共性についてであることは共通している。ここでの公共性とは開放性であり、政策システムの公共性をその他大勢の人々をも視野に置くものとすることで、民主性のシステムが理念としてすべての人々の参加を前提とするが、現実には積極的な関係者の関与に限られがちになる閉鎖性と対置している。
そのような裁量の公共性の説明が、なぜ、政策サイクルと政策システムの保守的な現状維持の傾向を打破して公民関係の発展に寄与すると、私が考えるのか。そこでの私の裁量の定義は、通常、行政裁量などで使われるものとは異なっている。もし、裁量を与えられた範囲内での自由と定義するなら、自由裁量がもたらす発展的な要素は減殺されるだろう。与えられた範囲を超えての裁量こそが、新たな視点を導入するような変革や変動の契機を秘めている。しかし、自由裁量を無制限にしないことに留意する必要もある。私は、範囲外の裁量の公共性に裁量の限界を設定しようとし、公民関係の発展に資する裁量の公共性を説明できてこそ、裁量が与えられた範囲を超えてなお限界内のものである証となると考える。実は、裁量についてのこのような捉え方の意義を、与えられた範囲外の裁量のみに見ているわけではない。与えられた範囲内の裁量と捉えると、ともすれば、民主政でのお題目となりがちな具体化を欠く説明責任の連呼と共鳴して、全くの無制限な自由になる危険が生じる。範囲内の裁量にも起こりうるその危険の阻止をももくろんでいる。そのような権限内の裁量の無秩序な拡大の生じる可能性は、選挙による選良であるとの議員の意識や、行政の最高責任者の大統領や首長が選挙で選ばれることと相まってますます高くなる。そこで、民主性ではなく公共性を基盤として説明の責任を求めて、裁量に限界を設けることは、与えられた範囲を超えた裁量について議論しつつ、結果として、与えられた範囲内での裁量についても、説明責任がどのようなものであるべきかの示唆となる。いずれにしても、ここでの裁量は、決断、管理、関与における自由を広く含んだ言葉として使っている。政策形成での議会の決断の自由、政策実施での行政の管理の自由、政策評価での人々の関与の自由について、自らの裁量がどのように限界内のもであるかを説明する責任に、政策のサイクルおよびシステムの保守性を打破する力を与えるような説明責任の捉え方をしようと思う。
2.公民関係の発展への説明責任
何についてどのような説明責任を、政策形成の決断での議会、政策実施の管理での行政、政策評価の関与での人々が負うかの判断基準が、公民関係の発展に資する裁量の公共性であるとして、それが具体的にどのようなものかを示してみる。私の考えは、説明責任が民主政の義務として生じるとする消極的な見方ではなく、発展への契機にしようとする積極的な見方に基づく。政策サイクルと政策システムの保守的な現状維持の傾向を打破して公民関係の発展に寄与するところに、裁量において公共性の説明を求める目標がある。それは、公民関係の破綻なき発展に説明責任がどう役立つかを示すことと言い換えられる。そこで公民関係の破綻の危険と、それを防ぎ公民関係の持続的発展へと向かう説明責任の役割を、図示したのが図3である。本稿では、議会の説明責任は行政に対して、行政の説明責任は人々に対して、人々の説明責任は議会に対して、政策サイクルでの主体間で負う責任と捉えている。そのような主体の説明責任が次の主体にどのように役立つかは、次章の公共政策システムの機能においての課題であり、ここでの説明責任の役割についての議論はその前提となる。何についてのどのような説明責任が、民主的な政治行政と人々の直接的な関係で求められるかを強調するのではなく、人々を視野に置きつつ、政策サイクルの主体間の説明責任がもたらす公民関係の発展への効果を、説明責任の役割として注目する。
   図3 公民関係の発展への説明責任の役割
3種類の説明責任は、いずれも、公民関係の破綻を防ぎ、公民関係の持続的な発展に向けて、現状維持の保守的な政策サイクルと政策システムに終わらさない役割を果たすと捉える。図3における公民関係の持続的発展モデルの破線と公民関係の破綻モデルの実線とのずれに手をこまねいていると、「公」と「民」は相互に齟齬をきたし、良好な関係ではなくなる。そこでの「公」は政治行政、「民」は、時には国民、市民、住民などと呼ばれる人々としよう。縦軸の公的領域に関わる人々の規模と積極性の軸は、上に行くほど規模は拡大し積極性は減少するのに対して、下に行くほど規模は縮小し積極性は増加する。たとえ積極性が減少しても、関わる人々の数が増すと民への開放度が上がると見て、公共性も高まるとする。投票での支持などの政治参加を通じて民主的な市民が公的領域に関わる民主的政治制度の現状は、関わる人々の規模では利害のある限られた関係者より広がりがある一方で、政治参加は好まないが地域社会での活動への積極的市民参加において活発な住民や、民主的制度や積極的市民参加にあまり関心を示さないその他大勢の人々への広がりに、その規模は及ばない。ここではその他大勢の人々とは、そのような公的領域への積極的な関与に乏しく公的領域からの自由を比較的好む人々と定義し、彼らの公的領域への関わり方の中心には、政治参加や地域社会での活動ではなく、どちらかといえば受動的な現状として、図3右の政策評価での政策への了解による公共政策の受容があるとした。そのような人々の受動的な現状を、ここでは決して悪いものと見ていない。それどころかむしろ、民主性での積極的な市民や住民に限ることで公的領域への関与者の規模が縮小するより、政策への消極的な了解を、関与者の規模を拡大する開放の公共性に資する方向と捉える。したがって、想定される公民関係の持続的発展モデルは、横軸の時の経過によって、民主的政治制度の現状から積極的市民社会の現状を経て、公共政策受容の現状へと変化し、それに伴って縦軸の関与者が拡大し公共性を増す方向にあるとした。
今日、このような公民関係での公的領域への人々の関与の規模の拡大こそが、民主政の全員参加の理念の下での一部の参加者の関与に限られる現実による民主主義の空洞化への処方箋になると見て、私は、それを民主性のパラダイムから公共性のパラダイムへの転換の必要性として主張している。もっとも、受動的な関与までをも含むとしても、了解での関わりにすら関係しない人々は存在し、縦軸の最上位にあるすべての人々までをも含む発展モデルを想定できない。一方、図の実線の矢印が示すような、すべての人々の関与まで組み込んだ公民関係の理念的なモデルが実際には受け入れられている。そのすべての人々の参加の理念に基づく民主性のパラダイムは、公民関係の破綻を招く公と民の齟齬をもたらす物語となって現実から遊離し、そこから公民関係の発展は展望できない。しかし、政策形成の主体である議会が、一部の民主的市民からの授権の範囲を超えて、広く人々に影響する裁量を行うことの説明をすることで、その齟齬は狭まり破綻の危険は減少する。つまり、全体の利益への決断の裁量についての政策形成での議会の裁量が、たとえ民主的な市民の授権を超えていても、民主的な市民の範囲を超えた広がりのある決断であるとの公共性を、議会が行政に説明できてこそ、公と民との齟齬は狭まる。その議会の説明責任の役割は、逆の場合を考えるとわかりやすい。議会が民からの授権ゆえに自由裁量に限界がないものと誤解して、行政に向けて政策形成を主張するようなら、議会に関しての公民関係は破綻する。その役割を民主的制度参加に向かう太い矢印が示しており、この議会の説明責任が、民主性のパラダイムの現実から遊離した物語のもとで、変化しない政策サイクルと政策システムの保守性を打破して、公民関係の発展へと向かう契機となる。
民主的市民の関与を基盤とする民主的政治制度の現状で、そのような公民関係の発展モデルの持続性を保つことができると同様に、行政の説明責任の太い矢印も、公民関係の発展モデルの持続性を保つ役割を示している。政策実施における行政の説明責任は、施策執行の管理の裁量について、たとえ活発な住民の協力の範囲外であっても行政の裁量に公共性があることを人々に説明するものである。それは、積極的市民参加の現状での活発な住民を超えて人々を巻き込む施策執行に理由があることを、先に述べた範囲外でも限界内の裁量として示すことで、公民関係での齟齬を回避し発展モデルの持続性を保つ役割を果たす。このような議会の裁量と行政の裁量が、大統領制や首長制の政治行政融合の中で、何についてのどのような説明責任が、政治行政側の発展の契機となる役割を果たすものとして求められるかを示している。他方、政策への了解の政策評価に向かう人々の説明責任も、同様に公民関係の発展への契機となるものではあるが、その主体が人々であり、議会に対する人々の側の説明責任であることで、先の政治行政側の説明責任とは、少し異なった様相を呈する。しかし、それが人々の側での公民関係の発展に資するものであることに変わりはない。投票に参加したりしなかったり、政策評価を考えたり考えなかったりなどの人々の自由の限界が、政治的関与の裁量について、たとえその他大勢の人々の完全な了解でなくても、その自由な裁量に公共性があることを説明できるかが重要である。そのような判断基準による説明責任を人々が果たすなら、選良とされる議員から成る議会と人々の公民関係について民主的政治制度での理念的な授権の物語におけるよりも、その他大勢の人々の関与へと公民関係での齟齬をより狭めて、公民関係の発展に資するものとなる。
説明責任の必要性がどこにあるのかは、以上のように、裁量の公共性の説明の役割を公民関係の発展との関係で具体化することで、その役割が公民関係での政治行政側と住民側の齟齬を狭めるところにあることを示してきた。それがどのような役割かは、この章の最初の表2で、何について、どのように説明するのかの記述にまとめてある。そこに加えて示された、裁量の公共性の説明の目標が公民関係の発展であり、政策サイクルと政策システムの保守性を打破する積極的な意義をそこに見出す説明責任の捉え方を示した。それは、説明責任の共通の目標が、民主性の主権在民の理念に基づく公民関係での公の民への説明の責任であるとの見方に、私が異議をはさみ、公的領域に関与する人々の規模の拡大への開放の公共性を重視する独自の見方による。本稿がそのような独断に基づくがゆえに、次章では、説明責任がどのように役立つかを私がどう捉えるかを示して、ここでの説明責任の意義をさらに具体的に明らかにしようと思う。
3章 説明責任がどのように役立つか
1.システムの機能がどのように高まるのか
   図4 政治システムを一部に含む公共政策システム
説明責任は公共政策システムの機能を高めてより良い政策を実現することに役立つ。ここでは、システムの入力、出力、フィードバックのそれぞれでの機能の高まりがどのように可能かを詳細に示して、政策サイクルの議会の政策形成、行政の政策実施、人々の政策評価での説明責任の意義を、さらに具体的に明らかにしようと思う。政治行政の側の説明責任を考えるために、政策サイクルの連鎖のなかで、政策形成の主体である議会が政策実施の主体である行政に対して負う説明責任から検討を始めよう。次に、政策評価の主体である人々が政策形成の主体である議会に対して負う人々の説明責任について、議会との関係での意義を議論する。加えて、それらの政策形成や政策評価での行政の実際のあり方を踏まえて、本稿の中心課題である政策実施の主体である行政の人々への説明責任の意義を明確にする。公共政策システムは、入力としての政策評価を政策実施の出力に変換する機能を果たすものとして先の図1で示した。そのような公共政策システムの変換機能のブラックボックスに、政策形成が含まれていると考えて、政策形成、政策実施、政策評価の政策サイクルと公共政策システムの関係を捉えている。その私独自の入出力モデルを示したのが図4である。このシステムの機能をよくするために注目すべきは、入力での連結と出力での連結である。これらの連結がうまく働けばシステムがうまく機能すると見て、そのための説明責任がなぜ必要で、どのように役立てば、意義ある説明責任となるかを示してみる。
入力での連結構造は、公共政策システムの入力である人々の政策評価を、政策形成の政治システムでの入力である人々の支持や要求へと結び付ける。出力での連結構造は、政治システムの出力である議会による政策や決定の出力を、公共政策システムの出力である行政の政策実施へと結び付ける。まずは、後者の出力での連結における政治行政の側の説明責任から見てみる。議員内閣制、大統領制、首長制などの下で、政治と行政の融合が現実の政策実現において錯綜する中で、ここでは説明責任をより具体化するために政策サイクルでの政策形成の主体を敢えて議会に限ったことはすでに述べた。そのうえで、政策サイクルにおける政策形成の政治の本来の主体の議会組織の裁量について、政策実施の行政の本来の主体と見る官僚組織との関係から議論することにする。それによって、政治と行政の関係の実際あるいは制度の種別を超えて、政治システムの出力と公共政策システムの出力の連結構造における政策形成での説明責任が、政治行政の融合の促進に寄与し、より良い政策形成のシステムの機能をもたらす意義を明らかにできると考えた。
議会が、政策サイクルの政策形成において、行政に対して政策決定のときに負う説明責任は、行政による裁量の判断基準の提供となり、システムの機能を高めて政治の統治に役立つ。これまでにも述べてきたように、自由な裁量から説明責任は生じる。与えられた範囲内での自由な行為についてではなく、与えられた範囲を超えての裁量行為による説明責任を議論している。授権の範囲内の自由裁量についての説明は、内容の開示や報告であれば十分だろう。説明責任は範囲外の裁量から生じると捉えてこそ、その必要性と意義は深まる。議会はともすれば、民主的な選挙での選良として、政策形成のための法規や予算の決定において、全体の利益への決断の裁量が無制限なものと考えがちである。それに対して、主権在民の民主性からその説明責任を求めるだけでは、情報の開示や報告以上のものを望むのは難しい。そこで説明責任を人々に対するものではなく行政に対するものとすることで、政策サイクルでの議会と行政の相互関係の中で説明責任は具体化し、より良い政策の実現へと結び付く説明責任の意義も増す。政治行政融合の現実では、政策案を行政が作ることが多い。それを法規や予算へと決定する議会は自由な裁量を持っており、行政の案に加えた変更などの説明責任を議会に負わすことで、政治行政の融合はより実質的なものとなる。議会の説明責任から生じる行政の判断基準に基づき、議会からの政策や決定を受けた行政が行う政策実施は、議会のコントロールを受ける。そこでは議会と行政の相互を連結する構造が、議会の責任としての説明内容を巡って展開される。政策形成での説明責任を負う議会が、出力連結での機能を高める政治の統治に役立つ説明を、前章で示した公共性について行政に対して行うことで、政治行政の融合の促進による、より良い政策形成の実現へと向かう。
政策の形成、実施、評価の政策サイクルにおいて、政策形成から政策実施への流れは議会と行政の関係の政治行政過程として様々に議論されてきたが、実施された政策への人々の評価から議会の政策形成への流れへの注目は少ない。評価から形成への流れは、時として、争点選挙や圧力団体の政治過程として議論されるが、その政策過程としての含意については、それがどのようなものかは明らかになっていない。本稿では、そのような政策システムにおける人々の側の政策評価が、ブラックボックスの中で政治行政の側の政策形成へとつながる連結構造に注目して、そこがどのようであれば、社会の問題を解決しようとする公共政策システムがうまく機能するかを示そうとする。社会の問題解決には、より良い政策を形成し、それをより良く実施することで、どれだけ問題が解決できるかの政治行政過程が一般には重視される。しかし、公共政策システムでの人々の政策評価が、政治行政の側の政策形成の民主政治システムの入力にどのように連結するかを検討することも重要だろう。すべての人が公的領域に関わるわけではない中で、積極的な政治参加より消極的な政策評価での了解へと入力での公民関係の重心を移すことで、公的領域に関与する人々の規模が広がり、その開放度が示す公共性は増す。公共政策の機能を高めるには、そのシステムの入力での公共性についての連結のよさがシステムの機能を左右する。そこでは、人々の政策評価における議会への説明責任が、議会の裁量の判断基準の提供に役立つように、入力連結での機能を高める連携構造となることが求められる。
公的領域への人々の消極的な関与と積極的な関与の混在の現状で、入力連結における消極から積極への関与者の規模の縮小が、どのような意味を持っているかを、人々が議会に対して説明する責任を負っていると見る。そこでの人々の関与における自由な裁量の結果に現れた現状をどう説明するかが、ひいては議会の選良意識による無制限な裁量への限界の設定となる。なぜなら、議会は行政に対して、与えられた範囲外と思われる裁量による自由な政策形成について、それでよいとの説明を、人々から議会への説明責任で示された限界内であることでもって主張する。そのような循環の連鎖の中に、入力連結の意義がある。多元社会のデモクラシーのような様々な集団への人々の重層的な関与の必要を強調し、関与の質的拡大を意図する考え方もあるが、入力連結で重要なのは、人々が関与したりしなかったりあるいは積極的関与と消極的関与の複合の結果による関与の規模の収斂での意味を示せるかであると思う。その意味づけをするのが人々の議会への説明責任である。公共政策システムにおいては、ブラックボックス内での政策評価を政策形成へとつなぐそのような入力連結での機能の高まりが、政策形成を政策実施へとつなぐ出力連結での機能の高まりとともに、より良い政策の実現をもたらすと考える。政策形成において議会が行政に対して負う説明責任が、行政の裁量の判断の基準の提供として出力連結の機能を高めるのに役立つように、政策評価において人々が議会に対して負う説明責任が、議会の裁量の判断基準の提供として入力連結での機能を高める。そのような説明責任の役立ち方が、連結構造の主体での裁量の限界の設定となり、その限界を巡って政策サイクルの主体間の相互作用が生まれることを示した。残る政策実施において行政が人々に対して負う説明責任が、人々の裁量の判断基準の提供として、政策実施を政策評価へとつなぐ図4の外側の公共政策システムのフィードバックの機能を高めるのに役立つことについては、説明責任の意義を公共性についてさらに議論を深める次節でより詳細に述べる。
2.公共性はシステムの機能をどう高めるのか
   図5 公共政策システムの入力連結と出力連結での開放度
本稿の本題とも言える行政の説明責任は、公共政策システムの政策実施から政策評価へとつながるフィードバックにおける機能を高めるような、人々への説明責任として期待される。それはすでに述べた出力連結での機能を高めた議会の説明責任が、入力連結での機能を高める人々の説明責任へと循環するフードバックでの機能を高める行政の説明責任と言い換えられる。その循環での説明責任の意義を、公共性の視点から示したのが図5である。本稿の公共性の概念は開放性であり、具体的には、公的領域への人々の関与の規模が、利害関係者、民主的な市民、活発な住民、その他大勢の人々へと拡大して、公民関係がより開放的になることとするのは先の図3について既に述べた。公共政策システムでの了解を基盤とする政策評価から、支持や要求を基盤とする政治システムへの入力連結においては、人々の関与の規模は縮小し、その縮小の公共性にどのような意味があるかを人々は説明する責任を負う。人々による議会へのその説明がうまくできれば、公共性の縮小がかえって、議会の自由裁量の限界の設定としての役割を果たし、システムの機能の向上につながり、より良い政策の実現をもたらしうる。一方、議会の自由な裁量で作られた政策や決定が、どのように公共性を基盤とする判断に基づくかを議会から行政に説明できれば、その判断への考慮が政策実施への連結において、行政の裁量の限界についてどこまでの公共性の拡張へと向けた自由が可能かの判断基準となる。入力連結での公共性の縮小の出発となる政策評価での公共性にフィードバックする出力連結で広がった公共性の拡張を、図の左右の円が示している。ここでは、公共政策システムでの関与者の規模が、民主性から公共性へのパラダイム転換を通じて、入出力のいずれにおいても民主政治システムの関与者の規模より大きいモデルを示している。
   表3 公共政策システムの機能と説明責任
      (なぜ、どう役立つ説明責任なのか)
共政策システムの機能 政策形成における    政策実施における    政策評価における
           説明責任        説明責任        説明責任
なぜ         行政の裁量の判断基準の 人々の裁量の判断基準の 議会の裁量の判断基準の
           提供のために負う議会の 提供のために負う行政の 提供のために負う人々の
           責任          責任          責任
どう役立つ      出力連結での機能を高め フィードバックの機能を 入力連結での機能を高め
           る政治の統治に役立つ説 高める行政の共治に役立 る人々の創治に役立つ説
           明責任         つ説明責任       明責任
どのような意義が   政治行政の融合の促進に 公民協働の動員の促進に 参加状況の集約の促進に
あるのか       よる、より良い政策形成 よる、より良い政策実施 よる、より良い政策評価
           の実現         の実現         の実現
そこでは先の出力連結に関しての議論を、政治行政の融合による統治の促進により公共政策システムはさらに良くなる方向として捉えている。議会が全体の利益への決断の裁量について、たとえ民主的な市民の授権を超えていても議会の裁量に公共性があることを、行政のための判断基準として議会が説明することで、政策実施の公共性の開放度がさらに増し出力連結の質が高まる。入力連結については、公共政策システムでの人々の政策評価の開放度が、民主政治システムでの支持や要求の入力の開放度よりも高いものとして示されている。つまり、ここでの公共政策システムと民主政治システムの違いは、公共政策システムの方が民主政治システムよりも公共度が高く、民主性を強調しすぎると相対的に公共性が低くなりすぎるとの私の理解があり、公共政策システムから民主政治システムへの入力開放についての適度の収斂が必要と考えている。評価する人々から参加する人々への減少は民主政では不可避があり、そのこと自体がシステムの機能にとって必ずしも不都合ではなく、その現実を全員関与の理念的な物語で覆い隠すことこそ、システムの機能を阻害する。そこで求められるのは、この入力連結の現状が公民関係においてもつ意味を説明する責任を、人々が負うことである。その説明は、人々にとっての義務というより、むしろ権利であると理解すべきと私は思っている。たとえば、低い投票率や政策評価への無関心の現状を説明して、議会ひいては行政の無制限の自由を制限できる。そのような人々の説明責任の意義を、入力連結での機能を高める積極的な意味をもつものとして創治と名付けた。それは、政治的関与の裁量について、たとえその他大勢の人々の完全な了解でなくても、そこに人々の裁量が示す公共性があることを説明できれば、人々の側での公共性が参加状況の集約による創治の促進につながると見るからである。ここでの創治は、説明責任の意義についての議会の政策形成における政治行政の融合の促進による、より良い政策形成の実現、行政の政策実施における公民協働の動員の促進による、より良い政策実施の実現と対比して、人々の政策評価における参加状況の集約の促進による、より良い政策評価の実現をもたらすと捉えている。その背後には、サイクルとシステムの保守性を打破する可能性をもつ自由裁量からの3種類の説明責任の中でも、政策のサイクルやシステムに組み込まれない要素が人々の側には多く残されているが故に、人々の説明責任による打破への力が最も期待できるとの私の思いがある。改めて確認するが、人々の説明責任は、公的領域への人々の関与の集約状況についての社会全体の状況を、たとえばメディアなどが説明するものであり、個々人が自らの関与の積極、消極を説明するものではない。そのことは政策評価での説明の主体が人々の社会を指し、それは、政策実施での主体が官僚個人ではなく行政の組織を指し、政策形成の主体が個々の議員ではなく議会を指すのと同じである。以上を踏まえて表3は、公共政策システムの機能は公共性でどう高まるのかについて、なぜ、どう役立つ説明責任であることに説明責任のどのような意義を見出せるかをまとめている。
最後に注目すべきは、これまでに十分に述べてこなかった表3での行政の説明責任である。行政の説明責任は、政策サイクルの政策実施において、施策執行のときにその執行管理の裁量について、人々に対して負うものと捉えることは既に示した。また、そこでは、たとえ活発な住民の協力の範囲外であっても、行政の裁量に公共性があることを説明できれば、その裁量の及ぶ範囲にとらわれず自由に裁量できるものと見た。ただし、そこでの自由裁量が、人々の側の政治関与について議会への人々からの説明での公共性が示す限界の範囲内であることを、議会の裁量の公共性として議会が説明すれば、行政の自由な裁量はその説明に影響される。そのような政策実施における行政の説明責任は、政策サイクルの循環に沿って、人々の裁量の判断基準の提供のために負うものであり、その説明責任が公共政策システムのフィードバックの機能を高める行政の共治に役立つと捉えている。ここでの共治は、ガバナンスと呼ばれる人々との関係を視野に置く公民協働などを重視する行政管理と考えている。しかし、私は、公民協働を民から公への新しい公共性の動きの中で捉えようとは思わない。むしろ、公民協働の重要性は行政が人々を動員するところにあるとして、積極的な住民を超えて人々を動員する施策執行の自由裁量が、どれだけ公共性を備えているかを説明することで、その必要性を担保できると考えている。
公民協働について、しばしば、行政が住民を都合よく利用するとの非難が、公が独占していた公共領域への民の関与の重要性とともに語られる。そこでは、利用と関与のバランスのような議論になりやすい。バランスの議論だけではどうあればよいかが明らかにならず、その不明確さがかえって事態を悪くする。私は、行政の実施での公民協働は、住民を動員して問題解決へと向かう行政管理の手法として、それを肯定的に捉え、どれだけ効率的で実効性の高い動員であるかを示すのが不明確さを避けるのによいと考える。行政から人々へ向けられたその関係者の規模の拡大、つまり、利害関係も積極性もないその他大勢の人々を巻き込む施策執行について、行政から人々への明確な説明責任の履行が、人々の政策評価における公的領域への関与もしくは公的領域からの退場などの裁量についての判断基準の提供へとつながる。そこに、公共政策システムのフィードバックの機能を高める可能性がある。政治行政の融合による統治は、議会の裁量の公共性の説明をめぐってその質を高め、行政から人々への共治は、行政の裁量の公共性の説明をめぐってその機能をよくし、人々から議会への創治は、人々の裁量の公共性の説明をめぐってその意義を深める。それらの図5の公共性をめぐる説明責任の循環が、先の図4の政治システムを一部に含む公共政策システムの機能を高めて、先の図3の公民関係の発展を基盤に、より良い政策を生み出す可能性につながる。
おわりに
政治行政過程での説明責任の新たな意義を探るために、説明責任の捉え方を検討してきた。第1章の政策サイクルの循環の枠組みから、誰が、どこで、誰に対して、いつ、負う責任かを示した。第2章の公共性の公民関係の発展の枠組みから、何について、どのように、説明するのかを議論した。第3章の公共政策システムの機能の枠組みから、なぜ、どう役立つ、説明責任なのかを明らかにした。加えて、それらを通じての説明責任の捉え方によって、責任を果たすことの政策過程での効果としての意義が何かを考える私の筋道を示した。それらをまとめたのが表4である。そこでは政策形成、政策実施、政策評価の政策サイクルの各場面における説明責任を、以下のように捉えることで、公共政策のシステムの機能を高めて、より良い政策の実現に結びつく、新たな説明責任の意義を見いだせる可能性を提示した。
   表4 政策過程における説明責任のまとめ
説明責任を考える枠組み       政策形成における  政策実施における  政策評価における
                  説明責任      説明責任      説明責任
政策サイクルの循 誰が、どこで、誰 議会が、政策サイ  行政が、政策サイ  人々が、政策サイ
環(第1章)     に対して、いつ  クルの政策形成に  クルの政策実施に  クルの政策評価に
         (負う責任か)   おいて、行政に対  おいて、人々に対  おいて、議会に対
                  して、政策決定の  して、施策執行の  して、意見表明の
                  ときに負う責任   ときに負う責任   ときに負う責任
公共性の公民関係 何について、どの 全体の利益への決  施策執行の管理の  政治的関与の裁量
の発展(第2章)   ように      断の裁量について、 裁量について、た  について、たとえ
         (説明するのか)  たとえ民主的な市  とえ活発な住民の  その他大勢の人々
                  民の授権を超えて  協力の範囲外で   の完全な了解でな
                  いても議会の裁量  あっても行政の裁  くても人々の裁量
                  に公共性があるこ  量に公共性がある  に公共性があるこ
                  とを説明      ことを説明     とを説明
公共政策システム なぜ、どう役立つ 行政の裁量の判断  人々の裁量の判断  議会の裁量の判断
の機能(第3章)  (説明責任なのか)  基準の提供のため  基準の提供のため  基準の提供のため
                  に負う議会の責任  に負う行政の責任  に負う人々の責任
                  が、出力連結での  が、フィードバッ  が、入力連結での
                  機能を高める政治  クの機能を高める  機能を高める人々
                  の統治に役立つ説  行政の共治に役立  の創治に役立つ説
                  明責任       つ説明責任     明責任
政策過程での効果 (責任を果たすこ  政治行政の融合の  公民協働の動員の  参加状況の集約の
         との)意義は何か  促進による、より  促進による、より  促進による、より
                  良い政策形成の実現 良い政策実施の実現 良い政策評価の実現
政策形成における説明責任は、議会が、政策サイクルの政策形成において、行政に対して、政策決定のときに負う責任であり、全体の利益への決断の裁量について、たとえ民主的な市民の授権を超えていても議会の裁量に公共性があることを説明する。それは、行政の裁量の判断基準の提供のために負う議会の責任が、公共政策システムの政策形成を政策実施へとつなぐ議会から行政への出力連結において、その機能を高める政治の統治に役立つ説明責任であり、政治行政の融合の促進による、より良い政策形成の実現に結びつく意義を持っている。
政策実施における説明責任は、行政が、政策サイクルの政策実施において、人々に対して、施策執行のときに負う責任であり、施策執行の管理の裁量について、たとえ活発な住民の協力の範囲外であっても行政の裁量に公共性があることを説明する。それは、人々の裁量の判断基準の提供のために負う行政の責任が、公共政策システムの政策実施を政策評価へとつなぐ人々の側でのフィードバックにおいて、その機能を高める行政の共治に役立つ説明責任であり、公民協働の動員の促進による、より良い政策実施の実現に結びつく意義を持っている。
政策評価における説明責任は、人々が、政策サイクルの政策評価において、議会に対して、意見表明のときに負う責任であり、政治的関与の裁量について、たとえその他大勢の人々の完全な了解でなくても人々の裁量に公共性があることを説明する。それは、議会の裁量の判断基準の提供のために負う人々の責任が、公共政策システムの政策評価を政策形成へとつなぐ人々から議会への入力連結において、その機能を高める人々の創治に役立つ説明責任であり、参加状況の集約の促進による、より良い政策評価の実現に結びつく意義を持っている。
そのような説明責任の捉え方こそに意味があるとするのが本稿の結論であるが、それは従来とは異なる以下のような見方を前提としている。まず、説明責任を政策サイクルから見ることで、情報の開示や提供に終わらせない説明責任を主張したかった。そのためには、何についての何ゆえの説明責任かが重要であり、民主性は、説明責任の根源にあるかもしれないが、政策サイクルの政策形成、政策実施、政策評価における政策主体が次の政策主体に向けて、裁量の公共性を説明するものと決めた。そう考えることで、説明責任は単なるお題目ではなく、より良い政策の実現に向けての公共政策システムの機能を高めるのに役立つと思った。それは、説明責任を民主性の帰結と見るのではなく、政策過程の公共性を求めて、公共政策システムの質を高める起因となるものとの私の見方に基づく。ここでの公共性とは開放性であり、政策システムの公共性をその他大勢の人々をも視野に置くものとすることで、理念としてすべての人々の参加を前提とするが、現実には積極的な関係者の関与に限られがちになる民主性のシステムの閉鎖性と対比することにした。
公共政策システムの質を高めてより良い政策の実現に役立つ説明責任のためには、その内容を抽象的ではなく具体的に示せる説明責任の捉え方が必要と考えた。議員内閣制、大統領制、首長制などの下で、政治と行政の融合が現実の政策実現において錯綜する中で、政策サイクルでの政策形成を敢えて議会に限ったのは、説明責任をより具体化するためであった。そこから政策サイクルにおける政策形成の政治の本来の主体を議会組織とし、政策実施の行政の本来の主体を官僚組織として、その裁量をより明確に示せたが、政策評価の主体を人々の社会とし、その裁量が何かを議論する必要が生じた。そこで、人々の説明責任という人々の側の社会全体による説明の責任を新たな概念として導入し、今日の公民関係についての見方を整理することによって、公民関係での新たな視点を提供することにした。これは、従来からの私の民主性パラダイムから公共性パラダイムへの転換についての理論を基礎にしている。
しかし、それによって本稿で用いる概念が一般的なものとは異なる結果になった。裁量は、権限の範囲内の自由裁量とされることが多いが、そこでの説明は報告にとどまることを懸念し、ここでは権限を超えたところにこそ裁量があり、その裁量についての説明責任に注目している。また、通常、行政評価と呼ばれる行政内部のものは、確認や検討の作業にすぎないと捉え、ここでの評価とは区別した。ここでの政策評価は人々の態度や意識に由来するものであり、選挙や運動やメディアに表れる社会全体についてのものなどを指す。それが示す人々の政治関与についての参加状況の集約における創治とは、公共政策システムにおける住民の側の機能を高めることであり、単に政治行政への圧力を強くすることではない。創治は、政治と行政の融合による統治や行政と人々の直接的な公民協働による人々の効率的な動員の共治ではなく、公民関係の創造的な側面を重視する呼称として、私が使っているものである。それは、システムがもつ現状維持の保守性ゆえに、政治行政の側が既存の融合や協働の追求に専念しがちになるのに対して、人々の側にこそ発展と変革をもたらす土壌があると見て、公民関係の新たな可能性を含みうる創治の言葉を用いている。
以上のような前提の下での本稿の結論としての説明責任の新しい捉え方は、政治行政の統治や共治の過程における議会の裁量および行政の裁量に、公共性の視点から限界を設定でき、説明責任により具体的な意義を盛り込むことができる。加えて、人々にも政治関与に自由があると共にその限界があることを人々の側の説明責任として指摘でき、その責任は民主政の義務というより、政治過程の創造性をもたらす可能性を秘めた権利であることを示唆している。説明責任は民主性の根幹に関わるが故に、その議論は従来からの無難な見方に陥りがちだが、既存の概念から離れて公共性に踏み込んだ本稿での議論と指摘によって、説明責任の捉え方に異なる方向を多少示せたのではないかと思う。 

 

●政治の役割 2010/7 

戦後日本の民主主義の基本は国民全員参加の選挙政治にあり、国民は自分達の議会での代表や行政の長を直接或いは間接的に自分達の意思で選びます。民が主であることを定義するため、日本語ではデモクラシー(Democracy)のことを“民主主義”と呼んでいます。もともとはギリシア語のDemos(人民)とKratia(権力)から成り立っていて、正に“人民の権力”を意味するのがデモクラシーなのです。従って訳語である“民主主義”という表現には、我らが先人の知恵を絞った後が窺えます。明治の“自由民権”、そして“大正デモクラシー”という言葉が残っているように、民主主義は戦前にもありました。しかし現在の国民全員参加の制度(選挙)は第二次大戦後から始まったものです。
民主主義制度の功罪は一言で断じるのは難しく、かつてドイツではヒットラーを国民の意思で選択しましたが、その手法はあくまで民主主義の原則に従った手続きにより、国民の選挙で決められました。その教訓として彼の国では第二次大戦後、首相を国民の直接選挙で選ぶことを制度上禁止しました。ナチス全盛期、ドイツのエリート階級の“我々は今、無関心の代償を払わされている”という自省の発言が今の日本にも重くのしかかって来ています。ナチスの中枢には所謂ドイツでの伝統的なエリートは参加していません。リーダーとなるべく鍛えられた人達が政権に参加していなかったのです。“無関心の代償”という発言にはそういった背景があるのです。
また、国民の政治意識が低い場合、選挙が単なる人気投票に陥る傾向があり、イギリスでは「国民は自分のレベル以上の政治家(原文ではCabinet−内閣)を選ぶことが出来ない」という格言さえ生まれました。
選挙制度が民主主義の根幹をなし、国民が選挙で自分達の代表を選んでいる限り、多数決で選んだ代表達の成果については最終的に選んだ選挙民、つまり我々国民に責任があります。つまり我々国民は、もし政治に不満がある場合、その最終責任はそういった政治家を選んだ自分達に帰属するというパラドックスを抱えているのです。従って政治の不毛を嘆く前に、選んだ自分達の不明を嘆かねばなりません。自分の投げたブーメランが自分に戻って来ただけの話です。民主主義はとかくコストの掛かる効率の悪い制度だと言われる所以です。
政治家と言葉
ある県の知事は選挙戦の最中、「退職金は要らない」とテレビのインタービューに答えていました。小泉政権当時、知事の退職金の多寡が問題になり、当選していたその知事にインタービューしたところ「私は頂きます」と前言を翻していました。その矛盾を突かれた時「そんなことは言っていません」と否定し、その直後に「退職金は要らない」と言った時のビデオを流されましたが、それでもその後の選挙で見事に再選されました。出る方も選ぶ方もこの程度のレベルかと妙に納得した覚えがあります。発言する方の言葉の軽さと同時に選ぶ方の選球眼の甘さは、まさにイギリスの格言に揶揄されても仕方ないとの思いをしたものです。ちなみに彼は今でも首都圏で現職(知事)を立派(?)に務めていて、テレビでは相変わらず高邁な自説を披露しています。言葉の重みに対する感性が、発した方も受けた方も互いにこの程度の鈍い場合はご都合主義で何ら問題ありませんが、本来政治家は言葉が全てで、自分の発言には責任が伴うことを念頭に置かねばなりません。
最近の首相の交代劇も彼の発した言葉が、彼の真意はともかく、ことごとくその場限りの発言と国民に取られたからでしょう。
舌鋒鋭く政敵を批判した場合、同じことが自分の陣営で起きたら、相手に要求したことを自分も実行しなければ何の説得力も持ち得ません。もしその結果、責任を取るとしても明らかになった時点で直ちに実行しなければ意味がありません。いろいろ事情があったにせよ、「秘書の不祥事は議員の責任」と論じ、「私が貴方の立場なら議員もやめる」と迫った迫力は自分も直ちに従って初めて国民に理解されます。自分の発言に対する責任の取り方ではなく、時間が経過した後、選挙を控えての党内からの不満で辞めるのでは彼の政治家としての適性に根本的な疑問が残ります。彼の発言(主張)に対する信念の無さが国民に見透かされたのです。
身近に居る人であれば常日頃の言動からその人の資質と人柄は分かります。従って互いに目の届く、話の聞こえる範囲の集団では、リーダーを務める人が例え口下手であったとしてもあまり違和感なく役目を果たしています。ところが市・県・国レベルの代表を選ぶ時は必ずしも個人的に良く知っている人を選ぶ訳ではありません。
業界・組合・その他の組織の代表として出てきた人達には、組織を守るという目的や、その個人的上昇志向に執念があったとしても、政治を委ねるに相応しい人物かどうか疑問に感じる人が居るのも事実です。
一方、政見放送や政治信条を伝える出版物を信じて投票したとしても、上に挙げた例のように言葉の軽い人が多数混じっているのも私たちは経験上知っています。
かつて中国では君子の口約束が最高の契約とされていました。西洋式の契約書に頼り切っている現代では過去の遺物として一顧だにされないでしょうが、口約束の本質を考えてみる価値は充分にあります。特に政治の世界では選挙民は政治家の言葉を信じて投票するより他に方法がない訳ですから、政治家は自分の言葉が意味するものと、発言に対する責任を常に自覚していなければなりません。そういった自覚の無い人達に、例え当選の可能性があっても政治家を目指してもらっては困るのです。本来、有権者はそこまで判断して投票するべきなのです。
政策の整合性と実現性
公約が最近ではマニフェストと呼ばれるようになり、各党自分達の主張と選挙民との約束を羅列するようになりました。支持者(得票)を増やす為か、国を良くする為のスローガンなのかを選挙民は賢明に判断しなければなりません。
私達は社会が悪い、国が悪い、議員が悪いと言う前に、各個人が社会や国を構成しているのは自分なのだという事を改めて認識し、その悪い原因は先に述べましたように最終的にはそういった代表を選んだ自分達にある、という事実をもう一度考えてみるべきです。
実現不可能な公約は公党の公約として意味を成すのかどうか、そして人に犠牲を強いるなら、まず自分達が改めなくては説得力が無いのではないか。高速道路無料化が財政的に実現可能なのか。また、子供手当が財政的に永続性のある政策になり得るのか。公務員の削減を言うのなら、議員定数の削減も同時に示すべきではないのか。給与のカットを言うならば、自分達もどの位カットするのか示すべきではないのか。こういった考察を各公約について私達がそれぞれに注意深くやってみる必要があります。何より民主主義(民が主)を唱えるのなら、使用人(公務員)の給与が雇い主(納税者・国民)より高いのは、如何なる理由かを政治家は国民に対して明らかにしなければなりません。説得力のない皮相的な口当たりのいい政策をいくら出されても、何の役にも立たないし何にも変りません。
戦後60年以上も外国の軍隊が日本に基地を持つのは独立国としては異常なことです。ただアメリカと安全保障条約を結び、いわゆるアメリカの核の傘の下で日本の平和が守られていた事実は認めなければなりません。戦後一度も戦火に見舞われなかったのは平和憲法があったからではなく、アメリカとの日米安全保障条約が機能していたからです。
ある与党(当時)の党首は日本が戦争に巻き込まれなかったのは憲法9条のお陰であると国会で答弁し、持論の米軍基地国外移転を支持者に約束していました。米軍基地の国外移転を主張するなら、現在の防衛費予算を何倍かにして、自国は自分たちで守るという姿勢が無ければ主張の意味がありません。憲法の制約があるため、日本は米国に頼らざるを得なかった歴史的現実があります。政治家であればこういった背景の事実認識には正確を期すべきでしょう。国家の安全保障に関しては、感情論としか言えない公約は小学校の学級委員会で通用しても、国家レベルでは単なる無責任で、ある意味国家の安全を危うくする可能性さえあります。その党首の主張が通らず、連立政権離脱の折、驚いたことに“筋を通した”とその党首はマスコミから評価されていました。通す筋にそれなりの意味があれば別ですが、少し物の分かった大人の判断として今回はその党首も、また評価したマスコミも、ただお粗末と言うしかありません。もともと2%にも満たない選挙民の支持で選ばれた政党に、大臣としてのポジションを与え、国家の安全に関する案件にキャスティングボートを握らせたことに根本的間違いがあります。どういう主張も党として許されていますが、支持率2%以下という数字は自然界では誤差の範囲として扱われているものです。無責任な野党の主張ならいざ知らず、政権与党の提案した政策は整合性と実現可能なことが絶対に必要なのです。
政治に於ける理念と実践
戦争反対・平和愛好等々、誰もが反対できない提言があります。人間社会の基本をなすものは国籍の如何を問わず共通理念として共有され、今さら声高に唱えなくても誰もが分かっている事です。こういったお題目を並べていれば平和が保障され、戦争が無くなるものではありません。家庭内でも、学校でも、職場でも、地域内でも争いごとの種は尽きません。同じ宗教内でも、平和を掲げる団体間でも争いはあります。人類の歴史は争いの歴史とも言えて、地球規模では、かつて戦争・紛争の絶えた時期はありません。この人類に与えられた永遠のテーマには、理念を掲げただけで“戦争反対”をいくら主張しても何の解決法にもなり得ません。国の安全を維持するのは実は大変なコストと犠牲が伴うものなのです。想定されるあらゆる事態に備えていなければ国の安全は守れません。
つまり政治家とは理念を唱えるだけではなく、現実への対応を常に考えていなければなりません。これは国家間の争いに関する問題だけではなく、あらゆる政策に共通しています。ただ国家の安全はいろいろな問題の中で最優先の課題ですので、国を預かる政治家は充分に心して対処しなければなりません。
過ぎたる福祉政策が国民の活力を奪った例は有名な“英国病”を出すまでも無く、制度があれば悪用する国民が出てくるのは洋の東西を問いません。国民は自立することが大前提として求められ、それが何らかの理由で適わない人達にのみ国は手を差し伸べるべきです。
国民から委託された税金と言う財源をどういう順序で、どの位の予算で仕切ればいいのかを判断するのが政治なのです。
国のあり方、社会のあり方の根本理念をどうするのか。国防、外交、教育等々、国の基本になるものをどう組み立てるのか。そもそも今の税制のままでいいのか。又、憲法は改正すべきかどうか。こういった基本的な方針は政権党が代わる度に変えるものではありません。革命でもない限り、国家間の約束事も継承するのが当然です。
民意というものは残念ながら移ろい易く、時として雰囲気に流される傾向があります。民意が選んだ政治家に民が翻弄されて来た歴史があります。つまり民主主義のコストというのはこのことを指しています。効率が悪いというのもここから来ています。誤解を恐れずに言えば、民意は単に世論の指標に過ぎませんし、絶対的に正しく、間違いが無いとは決して言えません。従って政治家は民意を斟酌しながらも、普遍的に通用する理念を政策の根本に据えなければなりません。「次の選挙で落としてもらって結構です。どんな反対があろうと私はやります」というのが本来の政治家のあり方です。国家百年の計に必要であればこの位のことは言って貰いたいものです。政治家に形而上・下、つまり理念と実践が必要なことは言うまでもありません。政治家は理念を唱えると同時に決断も下さねばならないのです。誰でも満足する政策なんかあり得ないことですが、それでも最大多数のための決断が必要になります。その決断を民意だけに頼っていけませんし、民意に迎合するだけでは決断とは言えません。
伝統的日本政治の手法とその終焉
明治維新は日本にとって正に革命的変化の時代でした。そういった時には、しがらみを背負った連中(大名など幕府高官)は動き辛く、活躍したのは自由に活動できる若き下級武士達でした。欧米列強に“追いつけ・追い越せ”を旗印に近代化への道を歩む時、政策の重点は当然国力の充実が優先されます。学校教育は欧米、特にヨーロッパを手本として基礎が作られ、結果として必然的にいわゆる文献学者を育てる制度となったのです。自分の意見や新説より、世界的権威の何々博士の著書の何ページにその話は出ていると諳んじている方が優秀だと判断されています。欧米の知識の習得が一番の目的であり、学ぶことが極めて単純化されていて、その伝統は未だに続いている面があります。途上期には確かに効果があり、社会体制の構築、産業の振興を図る時も分かり易くかつ効率のいい方法をとなりました。国が発展途上にある時に機能した制度はそれなりの理由がありました。トップグループを走る人達(先進国)の真似をしていれば良かったのです。手本がある限り迷いが無く、国民の識字率の高さや勤勉な性向も旨く機能して、近代化のスピードには目を見張るものがありました。鉄鋼業・造船業もその創成期には資金力の無い民間では手に負えず、官営でスタートして、後に民間に払い下げられています。
官僚と言われる人達は日本近代化の黎明期、及び第二次大戦後の復興期にはこの官主導の方法で非常に成功を収めてきました。一言付け足せば、鉄鋼業・造船業が民営になった時ただの一人も天下りをしていません。官と民の役割を峻別し、民で出来ることは全て民に移管しています。こういった成長期の迷いの無い時代には政治もやり易く、具体的なことは官僚に任せておけば旨く運びました。その代わり国民の生活は幾らか犠牲になり、預金は基幹産業へ優先的に融資され、一般預金者は住宅資金、中小・零細企業では設備・運転資金の調達に苦労したものです。その傾向は未だに続いています。
この成長の図式が働かなくなった時、つまり経済成長が最盛期を迎えた後の方向性が政治家にも官僚にも出せなかったのです。円の価値が高まれば当然国際比較の労働単価は上昇し、製品のコストにも影響が出ます。民間ではオイルショックを乗り越え、円高も乗り越え企業努力の限界まで挑んで生き残ってきました。対応できなかった企業・産業は消滅しています。一方コスト意識の無い官僚を始め、国・地方の公務員は成長期の組織・運営を温存したままで危機意識は民間ほどありませんでした。気が付けば先程述べましたように、使用人(公務員)の給料が雇い主(納税者・国民)の給料より高くなっていたのです。数字の取り方にもよりますが、概略使用人の給料の方が雇い主より5割位多くなっています。
また、戦後日本が経済の分野にのみ集中し、それなりの成果を収めたのは国防の基本をアメリカに任せたおかげと言えるでしょう。このような環境で育った日本人には、基本になる国の安全に対してどうしても鈍感に成りがちです。自由・平等といった権利が自分たちで勝ち取ったか、与えられたかによって国民の理解が大いに違ってきます。つまり、公務員のみならず、国民も自分達が立っている足元を充分理解しないで、表面的な経済の繁栄に身を任せていただけ、ということに早く気が付くべきなのです。
本来政治家がやるべき役目を官僚に丸投げし、政治家は自分が当選するための効率のいい予算の運用をやっていたのです。地元の道路・橋・ダム等の建設は選挙戦で大いに効果がありました。現在の自民党の敗北はここに原因があります。コンテナー船の母港(ハブポート)となるべき施設は未だに作られず、その代わり地方に殆ど利用されてないコンテナー船用の港が作られ今では魚釣りの名所となっているところさえあります。かつて神戸・大阪・横浜・東京がアジアの中心だった面影は全くありません。空港もハブ空港としての役目を果たせる空港が無く、数だけやたらと増え(約100)、韓国・シンガポールの後塵を拝しています。国家としての戦略が無く、予算がいわゆる実力者と言われる議員に恣意的に使われた結果と総括するしかありません。
成長を遂げた後の将来図は実は一番難しいのです。予定調和に慣れ切った人達と、自分が当選することしか関心の無い人達の組み合わせでは結果は明らかです。今日の日本の実態がそれを良く象徴しています。断言しますが、過去の成功モデルはもう今の日本には合わなくなっています。政も官も根本的に変わらなければ日本の将来はありません。
国を支えるのは
本来国家と国民は対立するものではありません。ただ、個人はほっておけば自分の利益を最優先させ、特に国が相手の場合、道路・空港等の建設の際、地権者(個人)は取れるものは出来る限り取ろうとする傾向があります。これは何も日本に限ったことではなく、従って国にもよりますが公の目的に使用する時、土地収用法がかなり厳密に適応されています。ドイツでは新しく鉄道が建設される場合、公表した日から一年遡った地価で土地を買い取ります。制度が確立している為、日本で言う“ごね得”はあり得ません。フランスではシャルル・ドゴール空港を建設した時、地権者はたった三人で、買い取り価格も何ら揉める事はありませんでした。国・国民の姿勢として公共の利益に寄与する建設物に協力するのは当然というコンセンサスと運用上の制度が出来上がっているのです。一方日本では道路・鉄道・空港(成田)の建設が少人数の地権者のため大幅に遅れ、そのためコストも時間も掛かり、結果として納税者(国民)にとっては必要以上に高いものとなっています。ごね得という言葉が定着するほど日本人の精神は劣化したのでしょうか。こういった風潮は必ず蔓延します。ごね得、それによって生じる不労所得は元来、日本では非常に恥ずべきものでした。しかし今の日本ではこういったことの積み重ねで国の財政は膨らみ借金が増えているのです。
天下りも社会が必要とし、妥当な賃金であればこれほどの非難の声は上がらないでしょう。ところが“渡り鳥”と揶揄されているキャリヤー組の天下りは、退官後の短い期間に一般勤労者の生涯賃金に匹敵、或いはそれ以上のものを貰っています。その原資は言うまでもなく、雇い主の税金です。彼らのどこに国を支える自負と志があるのか分かりません。
政治家が悪い・役人が悪い・社会が悪いと言う前に、国民一人一人がもう一度考えてみることです。子孫に誇れる社会・国を我々は残し得たかどうか。
政治家も、役人も、そして国民も“国を支えるのは自分達だ”という責任と自負を、それぞれに持って貰いたいものです。こういった基盤が無ければ、どの政党が政権を担ってもうまくいくはずがありません。政治家、役人、国民が物欲の塊になった時、自分さえ良ければという風潮が蔓延した時、国は滅びます。何故ならそこには国の土台となる共通の理念が無くなっているからです。民主主義に於ける個人の自由とは、際限の無い個人の欲望の追求を担保したものではありません。公共の為に自分を犠牲に出来る人間を多く持てることが、その国の発展を左右します。志とは、そういう心構えのことを言うのではないでしょうか。
今後の政治のあり方
あるIT関連の創業者が“人間の心も金で買える”と豪語していました。建前論ではいざ知らず、今の日本をよく見ていると半ば納得したものです。誰もがそんなことではいけないと思いながら、実際は彼に見透かされていたのです。
理念を無くした経済活動ほど人心を蝕むものはありません。分単位・秒単位で行われる株の取引が正常な経済活動だとは誰も思っていません。まして会社はこういった超短期の株主の物でもありません。取り締まる方法が無いため、実質公営ギャンブルに成り下がっているこういった株取引を認めざるを得ないだけです。為替の取引でも同じことが言えます。アジアの国の国家予算に匹敵、若しくはそれを上回る資金力を注ぎ込み、為替取引で巨万の富を得たジョージ・ソロス率いる投資会社がある一方で、当時シンガポールを始め、タイ・韓国は為替問題で深刻なダメージを負いました。為替投資会社は、為替の交換レートが単純に上がるか下がるかを読み、顧客から委託された巨額な資金を動かして利益を生んでいます。つまり丁半博打を合法的にやっているだけです。何故なら、誰かが勝てばその分誰かが負けるのが為替相場なのです。為替取引に占める実需は10%以下だと言われています。残りの90%以上は過剰流動性の飽くなき不労所得の追及に利用されているのです。こういった資本主義の不健全な部分はその制度の性質上どうしても避けられません。少数とは言え、何十億円という年俸を稼いでいる人が居る一方、同じ社会にホームレスが居るのがアメリカの現実です。経済を最優先、わかり易く言えば違法と認定されていない限りどんな方法でも稼いだ者が勝ち、といった価値観をグローバルスタンダードと持て囃す必要はありません。
同じアメリカの先人で慈善家としても有名な鉄鋼王カーネギー(Andrew Carnegie)は“財産を持ったまま死ぬのは罪悪である(The rich should distribute their wealth during their life time)”として、その遺産の全てを寄付しています。遺族には遺産は一切渡っていません。わが国でも“子孫に美田を残さず”と言った西郷隆盛が居ます。ただその精神を受け継ぎ、実践している人がどれ程いるかは定かでありません。
人類はあやまちから学ぶしか方法がありません。ケネディー大統領の父(Joseph P. Kennedy)が証券取引委員会(Securities and Exchange Commission=SEC)の初代委員長に選ばれた時、国民の間で大ブーイングが起きました。彼はあらゆる内部情報を通じて株で巨万の利益を上げ、1929年の暴落の寸前に売り抜けていたのです。株の暴騰から暴落で終わったアメリカ経済の余波は世界大恐慌へと連鎖の輪が拡がりました。行過ぎた株の取引が発端になった訳ですが、その反省からSECが出来たのです。公正・透明な取引を目指しJ.P. ケネディーがその監視役の親玉に指名されました。まるで強盗に強盗対策をやらせるようなものだと揶揄されましたが、裏道を知り尽くしていたから最適任だと妙な持ち上げ方もされたものです。
カーネギーもまた鉄鋼業で巨万の富を得ましたが、彼の経済活動が遠因となり独占禁止法が生まれました。利益の飽くなき追求から、公正で秩序ある競争へと改革されていったのです。しかし、こういった改革は全てが後追いにならざるを得ません。
資本主義社会では富めるところへ富は集中する傾向があります。金融機関も金持ちには金を貸しますが、赤字の会社、資産のない個人には貸しません。どれだけ社会的意義があり、将来性が良くても日本の銀行は絶対と言っていいほど融資しません。それでベンチャー企業の創設をいくら呼びかけても、生まれる筈も育つ筈もありません。目先の利益と自己保身が全てという状態になっています。この傾向があらゆる分野に蔓延し、日本中が閉塞状態になっているのです。
金をめぐっての人間ドラマは上に述べましたように、主役の個人・企業がどういう目的を持って役目を果たすかによって結末は大いに違ってきます。非難は単なる怨嗟の念から来ているとは思えない面もあります。賞賛はすべからず社会還元への姿勢に対してのものです。強いて結論付ければ、個人(会社)の利益に対するエゴの飽くなき追及には人間は本能的に嫌悪感を示し、社会還元には全員一致で賛同を示します。当たり前と言えば当たり前ですが、実はここに人間の健全な判断を見ることが出来ます。富の配分・再配分もこの単純な価値判断を基本に置かないと体制は長く続きません。理念・社会的責任を放棄したような企業はいずれ立ち行かなくなるでしょう。
政治は後追いながら不備と思われる点を修正してきました。競争は基本的により良いものを生み出すため必要です。しかし基本は公正でなければなりません。経済の面を考察しただけでもその難しさが良く分かります。
極めて平凡な結論ですが、価値を生み出さない経済活動を“利益を生むから良し”とする風潮は改めるべきです。21世紀の日本の政治家には正にこういった視点と見識をもって貰いたいものです。
政治家と選挙民の資質
アメリカでは“国民は誰でも大統領になる可能性がある”という表現で、自国の民主主義の素晴らしさを称えています。また、イギリスでも“代表なきところ課税なし”という言葉で表されているように、納税者(国民)の主権は守られています。ただ、そのイギリスでは親が代議士であった場合その子息は同じ選挙区からは出馬出来ません。日本で言う地盤・看板は子供が受け継ぐことは出来ないのです。イギリスの国会議員の給料は65,738ポンド、首相は142,500ポンドで、今の為替換算ではそれぞれ約900万円弱と2,000万円弱となります。ちなみにロンドンの市会議員の給料は無給で、政治活動に要した経費が領収書と引き換えに払われます。その額は役職によって違いますが、それぞれに上限が決められています。これが今の政権与党がお手本にしているイギリスの実態です。国会議員は650名と日本より多いのですが、全員が出席した場合座る椅子がなく、あぶれた議員は階段に腰掛けたり、立ったままで質疑応答を聞いています。第二次大戦後、狭い議場の建て替えの話が出た時ウィンストン・チャーチルは“議場は互いの声が良く聞こえる広さがいい”と主張し、元のままに残しました。権威とは立派な議場や立派な議員宿舎で守られるものではないことをチャーチルは国民に示したのです。
わが国では実力者と称されている人が、一年生議員は“次の選挙に当選することが最大の役目”とはっぱをかけ、それに対し誰も異議を唱えません。そもそも一年生議員とは何を表しているのでしょうか。国民から信託を受けた議員を当選回数によって一年生・二年生と呼ぶのは相応しくありません。本人の見識で評価されるのが本来の姿でしょうが、日本では何故だか当選回数で評価されています。それに対する疑問が国民からもマスコミからも、そして肝心の議員自身からも出ないのが不思議です。本来なら知性豊かであるべき国民の代表からして、そのレベルだということを自ら認めているようなものです。
外国の首脳と一人10秒単位内での記念写真撮影を、140人を超す我が国の議員が何の疑問もなく整然とこなし、念の入ったことにその首脳に話し掛けてはいけないというルールまで見事に守りました。話もしないで単に記念写真を短い時間で撮るのは、憧れの芸能人やスポーツ選手に対してフアンが偶然出会った場合は理解出来なくもありませんが、国民の代表が他国の首脳に集団で同じ事をやるのは国辱以外の何ものでもありません。我々はこういった連中に税金を使っているのです。当選後に“政治は良く分かりませんから勉強させて頂きます”と言う新人議員が日本では珍しくなく、むしろ謙虚な人柄だという評価さえ受けています。政党の員数合わせに著名人を掘り起こし、当選の可能性だけ追求しているのは国民を馬鹿扱いしていることに他ならず、このままでは我々もいずれ “無関心の代償”を払う時が来る事でしょう。
政治家に資質を求めるなら、選ぶ方にも資質が求められます。政治を変えるのは非常に単純で、国民の意識さえ変わればいいのです。 

 

●「失われた3年」 民主党政権概史
2009年から2012年まで政権を担当した民主党。「失われた3年」とも呼ばれ始めた民主党政権下ではどんなことが起きたのでしょうか?
圧倒的人気を背景に成立した民主党政権
2009年7月21日、衆議院が解散。「政権交代選挙」が行われる。各種世論調査では終始民主党の圧倒的優勢が伝えられた。結果、絶対安定多数を超える308議席を確保して、民主党は政権交代をついに実現。308議席は一つの党が獲得した議席数としては戦後最多であった。また比例区の得票も2984万4799票を獲得し、日本の選挙史上で政党名の得票としては過去最高を記録した。
2009年9月16日 鳩山由紀夫内閣発足
2009年9月16日〜2010年6月8日
第45回衆議院議員総選挙における民主党の圧勝を受け、民主党、社会民主党、国民新党の3党連立内閣(民社国連立政権)として成立。非自民勢力による政権(非自民・非共産連立政権)の誕生は実に1994年の羽田内閣以来15年ぶりの出来事。
新規国債発行額は過去最悪に
   【自民党政権】
   2007  27.5兆円 ←安倍政権
   2008  25.4兆円 ←福田政権
   2009  33.2兆円 ←麻生政権
   【民主党政権】
   2010  44.3兆円 ←鳩山政権
   2011  44.3兆円 ←菅政権
   2012  44.6兆円 ←野田
「鳩山由紀夫内閣は子ども手当などの政策を実行するため、不足する財源を補うため過去最悪の44兆3,030億円分の新規国債が発行されることになった」
政府が「約44兆円以内」に抑えるとした新規国債発行額は、過去最悪の44兆3030億円に。当初予算ベースでは戦後初めて国債が税収を上回り、公約実現に必要な財源を国債など借金に依存する姿が鮮明となった。
事業仕分けで科学技術振興費用が削減
科学技術振興機構・北澤宏一理事長 「実質5倍の競争的資金でアメリカの基礎研究というのは行われている。私たちは竹槍で戦っているという風に思っていた」
仕分け人 「前置きはいいので質問にだけ答えてください」
仕分け人 「大変申し訳ないんですが、思いはわかるんですが」
「科学技術に力を入れることは、日本の国際競争力を強化するだけでなく、国際的な取組みに貢献する重要な意味がある」
「民主党は科学技術振興を無駄だと決めつけて削減」
「世界一になる理由は何があるんでしょうか?2位じゃダメなんでしょうか?」 蓮舫発言
口蹄疫の流行
宮崎県で発生した牛、豚、水牛の口蹄疫の流行。2010年3月頃発生、2010年7月4日の終息確認まで、28万8643頭を殺処分に。畜産関連の損失は1400億円、関連損失は950億円。
「初動が非常に遅く、東国原宮崎県知事や自民党からの再三の働きかけも無視」
赤松農林水産大臣が外遊を切り上げることもせず、国家の一大事となる恐れを無視し、帰国後は即同党候補者の応援に行ったことも問題に。
「感染源や経路、拡大した原因などは未解明のまま」
2010年6月8日 菅直人内閣発足
2010年6月8日〜2011年9月2日
2010年6月発足。消費増税、TPP参加は成果を上げられず。震災以降は「脱原発」を掲げたが、2011年8月に総辞職。
菅談話
2010年8月10日に菅首相が、日韓併合100年に際して公表した首相談話。1995年の村山談話を基本的に踏襲しているが、村山談話がアジア諸国に対するお詫びであるの対し、菅談話では韓国のみに対するお詫びである。
「日本政府が保管している朝鮮王朝儀軌等の朝鮮半島由来の貴重な図書について、韓国の人々の期待に応えて近くこれらをお渡ししたいと思います」
尖閣諸島中国漁船衝突事件
2010年9月7日に起きた、中国の不法操業漁船と日本の海上保安庁の巡視船の衝突事故。
「中国漁船衝突事件では逮捕した船長をあっさり釈放。「弱腰」との批判を招いた」
「民主党政権時代、海自艦艇は尖閣から112キロ内の海域に入ることを自制してきた」
中国を刺激することを嫌った首相官邸の指示だったとされる。そうした「弱腰」に乗じるかのように中国艦艇は海自艦艇に近づくような挑発も。
尖閣諸島中国漁船衝突事件 / 2010年9月24日、国連総会開催中で菅直人内閣総理大臣および前原誠司外務大臣不在の中、那覇地方検察庁鈴木亨・次席検事が船長の行為に計画性が認められないとし、また日中関係を考慮したとして、中国人船長を処分保留で釈放すると突如発表。本決定を仙谷由人官房長官は容認。25日未明、中国側が用意したチャーター機で、中国人船長は石垣空港から中国へと送還された。
東日本大震災
首相官邸の危機対応のほころびは、地震から一夜明けた12日午後、福島第一原子力発電所1号機で起きた水素爆発であらわになった。放射能漏れの可能性があり国民への一刻も早い周知が求められたにもかかわらず、菅首相は東京電力の技術者を官邸に呼びつけると、どなりちらしたという。
「これから記者会見なのに、これじゃあ説明出来ないじゃないか!」
「民主党は事業仕分けと称し、災害対策予備費、学校耐震化予算、地震再保険特別会計などを次々と「埋蔵金」扱いで削減、廃止してきた」
「菅が震災翌日に福島原発を視察する「政治的パフォーマンス」を行ったことで事故対応の初動に遅れが生じたと批判が出る」
「海江田万里経産省が放水作業準備中の東京消防庁レスキュー隊に対して「速やかにやらなければ処分する」と恫喝まがいの発言」
朝鮮学校の高校授業料無償化推進
辞任のドサクサに紛れて、朝鮮高校授業料の無償化を駆け込み指示。
「辞任直前の菅直人総理(当時)は、朝鮮学校の高校授業料の無償化適用について審査を再開するよう高木文部科学相(当時)に指示」
2011年8月。自民党は朝鮮学校の無償化審査再開に抗議し即時撤回を求める決議を即時行った。
2011年9月2日 野田佳彦内閣発足
2011年9月2日〜2012年12月26日
在任期間は482日間で、戦後の歴代首相33人中19番目。離党者が出る中、消費増税関連法を成立させた。
「民主党は「円高になれば日本は景気回復する」と主張して円高を招きました」
その影響で、赤字決算になる輸出企業も多く見られた。
「民主党政権では円高について「断固たる措置をとる」と言いながら、具体性がなく場当たり的な対応でした」
「長期にわたり、日本株は他の主要株式市場である米・独と連動した動きにあったしかし、2009年半ば以降、日本株だけが出遅れた状況にあった」
「日本の成長を高めるための首尾一貫した政策がない民主党政権に対し、市場が失望していたことの裏返し」
生活保護の受給者数は過去最大に
2006年度〜8年度に、それぞれ、生活保護世帯数は107万世帯、110万世帯、114万世帯と毎年3〜4万世帯づつ増加。ところが09年度には127万世帯、10年度には141万世帯と保護世帯数は毎年13〜14万世帯増と増加幅が加速。
「生活保護の受給者は2012年(平成24年)7月には過去最多の212万4669人を記録」
「生活保護世帯が急増し生活保護給付費も大きく増大するなか、2012年5月には高収入お笑いタレントの母親の生活保護受給問題がクローズアップされ、不正受給や不適切受給の適正化が国民の関心事となった」
そして何も残らなかった…
政権交代後は、その国家運営能力の絶対的な欠如によって、内政・外交上の数々の失敗を引き起こし、国益を損ない続けてきた。
「我が国の国政史上に大きな汚点を残してしまった民主党政権」
「やってはいけないことを全部やったのが民主党」 
 
 

 

●民主党政権の検証 ―迷走の3年を総括― 2012/8
●はじめに  
本報告書は、平成21年9月の政権交代の後、現在まで2年10カ月にわたり政権を担い、我が国の国政史上に大きな汚点を残してしまった民主党政権の失敗について、事例をもとに検証するものである。
民主党政権の失敗は、政権交代以前からの、さらに遡れば結党当初からの、政党としての本質的な欠陥に起因するところが大きい。「政権交代」だけを目標に、政策理念もバラバラな政党・議員が集合して誕生したのが民主党である。そして、国家観・憲法観を共有できず、党の綱領も作成できないまま、実現不可能な政策を並べたマニフェストを掲げて選挙を戦い、国民を欺いて政権を取ってしまった。その経緯をみても、民主党政権は、最初から失敗が運命付けられていたといってよい。
政権交代後は、その国家運営能力の絶対的な欠如によって、内政・外交上の数々の失敗を引き起こし、国益を損ない続けてきた。また、都合の悪い事実を隠蔽し、約束を簡単に反故にする体質によって、国民を裏切り続けてきた。さらに、総理・閣僚をはじめとする所属議員の度重なる不祥事によって、国民の政治に対する信頼を失い続けてきた。
この2年10カ月間で、我が国が置かれた状況はますます厳しさを増しており、再びこのような失敗を犯せば、即、国を滅ぼすことにもなりかねない。今後、二度とこのような亡国政権が誕生することのないよう、本報告書において、民主党政権の失敗を総括したい。  

 

●T 民主党政権の根源的問題  
民主党政権の根源的問題は、絶対的な能力不足である。国家運営・党運営をはじめ、予算編成、国会運営、各種政策の遂行能力など、あらゆる面において、政権党として求められる能力が絶対的に欠けている。
これは、民主党の政党としてのあり方そのものに端を発する問題であり、民主党が民主党である以上、解決不可能な本質的な問題だと言わざるを得ない。  
 
1.国家運営能力の欠如
(1)法治主義の欠如
民主党政権は、法治主義に対する理解が著しく欠けている。自らに都合のいいように行政を動かすためには、法律の定めであっても無視して構わないという考え方で政権を運営した。結果、法的根拠のない組織の乱立、法定の手続を無視した人事や行政執行が横行し、行政に多大な混乱をもたらした。
○法的根拠のない組織の乱立
民主党政権では、国家の基本政策に関わる議論や危機管理に関わる事務を、法的根拠のない本部・会議で行うことが常態化している。これらの本部・会議の決定には法的拘束力がないため、政府・民主党内で容易に結論が覆されてしまう状況にあり、意思決定過程が不明確となっている。
特に、東日本大震災に際しては、緊急災害対策本部、原子力災害対策本部、安全保障会議といった、法令上の根拠と権限を持った組織を活用せず、法的根拠のない本部・会議を乱立させたことにより、指揮命令系統が麻痺した。その結果、迅速な事態対応や国民への適切な情報提供ができず、戦後最大の「人災」を引き起こした。
【法的根拠のない本部・会議の例】
・国家戦略室(H21.9総理大臣決定)
・新成長戦略実現会議(H22.9閣議決定)
・国家戦略会議(H23.10閣議決定)
・行政刷新会議(H21.9閣議決定)
・行政改革実行本部(H24.1閣議決定)
・行政改革に関する懇談会(H24.5 内閣府特命担当大臣(行政刷新)決定)
・震災
 ・原発事故対応で設置された各種本部・会議
 ・福島原子力発電所事故対策統合本部(東電内に設置)(H23.3設置根拠なし)
 ・政府・東京電力統合対策室(H23.5原子力災害対策本部の下に設置)
 ・原発事故経済被害対応チーム(H23.5総理大臣決裁)
 ・原子力発電所事故による経済被害対応本部(H23.4総理大臣決裁)
 ・原子力被災者生活支援チーム(H23.3原子力災害対策本部長決定)
 ・被災者生活支援チーム(H23.3緊急災害対策本部長決定)
 ・被災者生活支援各府省連絡会議(H23.3設置根拠なし)
 ・電力需給に関する検討会合(H23.3総理大臣決裁)
 ・電力改革及び東京電力に関する閣僚会合(H23.11設置根拠なし)
 ・除染及び特定廃棄物処理に関する関係閣僚会合(H23.11設置根拠なし)
 ・エネルギー・環境会議(H23.6新成長戦略実現会議決定)
・共済年金職域部分と退職給付に関する有識者会議(H24.4設置根拠なし)
○法律・手続を無視した人事
民主党政権は、法令の根拠がない大臣・副大臣を任命したり、国会法に違反して国会議員を仕分け人にしたりするなど、組織と人事のルールを理解していない。
また、個人的な友人・知人を顧問・参与に任命する、民主党の職員を大量に内閣官房職員に任命するなど、公私の区別がついていない。
【具体例】
・枝野法令解釈担当大臣(法的根拠なし、内閣法制局との関係も不明)
・松原拉致問題担当副大臣(内閣府の副大臣としての任命なし)
・国会議員を仕分け人に採用(国会法違反)
・友人・知人を政府職員に採用
 内閣特別顧問:稲盛和夫氏など
 内閣官房参与:平田オリザ氏など。震災後には原子力関係者が急増。
 内閣官房専門調査員:民主党職員27人
 内閣府本府参与:湯浅誠氏など
 (※既に離職している者を含む。)
○法定の手続を無視した政策遂行
・浜岡原発の停止、大飯原発の再稼働
菅総理は、法律の根拠なく、民間企業である中部電力に対して浜岡原発の停止を命じた。指示や命令ではなく要請だと言うが、中部電力が要請を断ることは困難であり、事実上の命令に他ならない。
大飯原発の再稼働については、野田総理が、安全委員会を無視して閣僚会合で再稼働を決定した。もちろん、安全委が現行法制上の職務を放棄していることも問題である。
・八ツ場ダム建設中止
法律に基づいた建設基本計画では、(当然ながら)ダムを建設することになっている。それを変更せずに、前原大臣が勝手に中止を宣言した。計画の変更には地元自治体との事前協議が義務付けられており、これを無視した形である。結局、H23.12に建設再開を決定した。
・「地域主権」という語の使用
「地域主権」という、現行憲法と相反する政治的スローガンを、内閣提出法案の題名にまで使用した(地域主権改革の推進を図るための関係法律の整備に関する法律案)。
結局、自民党の指摘で法案名から「地域主権」を削除した(「地域の自主性及び自立性を高めるための改革の推進を図るための関係法律の整備に関する法律」に修正して成立)。
(2)誤った政治主導
政務三役等として政府の構成員となった政治家は、党の政権公約に基づき、政治主導による政策運営を行うことが最大の課題である。そのためには、政策決定の責任者として重要な決定を自ら行うだけでなく、必要に応じて官僚を適切に使いこなす「官僚の管理・監督者」としての役割も求められる。
決定された政策について国民に説明責任を果たすとともに、それによる結果責任を負うのは、当然のことながら、官僚ではなく政治家である。
民主党政権は、これらの仕組みを全く理解せず、「政治主導=官僚の排除」だという誤解に基づいて、政府内の意思決定プロセスを機能停止させた。その結果、意思決定は錯綜し、政と官の信頼関係は崩壊し、行政執行は停滞してしまった。
○官僚を敵視・排除し、業務の停滞・質低下を招く
・事務次官会議の廃止
事務次官会議は官僚主導の象徴として批判されたが、同時に政府全体の情報共有機関でもあった。そのため、民主党政権による廃止後は、各省の官僚が職務遂行に必要な他省庁の情報すら得られない「情報のタコツボ状態」となった。
結局、民主党政権も、震災対応の「各府省連絡会議」という形で、事務次官会議を復活せざるを得なかった。
・政務三役会議からの官僚の排除
各省の最終的な意思決定を政務三役会議で行うこと自体には意義があるが、その場からサポート役としての官僚を排除することは、意思決定に必要な情報の取得、意思決定過程の記録、円滑な政策実施のための意思疎通などを欠くことになり、行政の質を低下させてしまった。
・官僚の国会答弁禁止(特に内閣法制局長官)
国会質問は、国会議員の中核的な活動であり、国民主権を具現化するための憲法上の要請である。したがって、国会議員が、誰に対して、どのような質問をするかは、国会議員の自由な裁量に委ねられる必要があり、政府が制限すべき事柄ではない。
また、特に政治的恣意による安易な憲法解釈の変更を防止するため、準司法的な性格を持った内閣法制局長官に対しては、国会議員の自由な質問の機会が確保されるべきである。
民主党政権は、こうした内閣法制局長官答弁の意義を理解せず、ただ官僚であるということだけで答弁を禁止し、法的根拠のない「法令解釈担当大臣」の答弁という無責任な事態を招いた。
・官僚の記者会見禁止
記者会見は、各府省の政策責任者たる政務三役が原則として行なうべきものであるが、技術的事項や細かなデータについての説明を官僚が行うことは、国民の知る権利を保障する観点からも認められるべきである。
民主党政権は当初、こうした事項を含む官僚の記者会見を一律に禁止しようとしたため、混乱を生じさせた。
・総理や閣僚の独断・思いつきを止められない体制
民主党政権では、総理や閣僚が、将来に禍根を残す決定を独断で行い、誰もそれを止められないという体制があったことは大きな問題である。しかも、その責任は部下に取らせて恥じない態度は、政治家として無責任と断ぜざるを得ない。
【具体例】
・朝鮮王朝儀軌引渡し(菅総理の独断)
・尖閣事件の船長釈放(仙谷官房長官の独断)→ 那覇地検の責任に
・運用3号通知(長妻大臣の独断)→ 担当課長の責任に
・国家公務員採用の大幅減(岡田副総理の独断)
・閣僚間の不一致が常態化
民主党政権では、菅総理と海江田大臣、岡田副総理と小宮山大臣など、明らかに異なる方向性の発言や国会答弁が常態化した。自民党政権時代であれば閣内不一致として問題化し、閣僚の罷免にもつながる事態であるが、民主党政権では、これを問題視するという感覚すら持たない。
憲法66条3項の「内閣は、行政権の行使について、国会に対して連帯して責任を負う」という義務を果たせていない状況である。
・自ら「事業仕分け」を行いながら、その結果を無視・軽視
民主党政権の事業仕分けは、その法的根拠がないという致命的な問題のほか、仕分け人の選定、対象事業の選定などに透明性を欠いており、仕分けの結果には何ら正当性がなく、単なるパフォーマンス以外の何物でもない。
そのため、仕分けの結果は、当然ながら政権内でも無視・軽視された。野田総理自身が財務大臣時代に決定した朝霞公務員宿舎の建設再開はその象徴である。ついには、仕分け結果が無視された事業の「再仕分け」という、それ自体が無駄な作業まで発生した。
・ビジョンのない政策決定
民主党政権の政策決定は、中長期的なビジョンに欠けており、どうしたらその場の喝采を得られるかというポピュリズム的視点に支配されている。そのため、公務員採用の大幅減、科学技術の軽視(はやぶさ2の予算激減)など、国益の観点からはあり得ない決定が次々となされている。自ら国の衰退を招き寄せていると言っても過言ではない。
・違法交渉
現行法上、公務員には労働協約締結権がないにも関わらず、総務大臣と組合が、自律的労使関係の「先取り」と称して、違法な「合意」を行った。これにより、給与削減と労働基本権付与の引き換えが合意された。
現在は違法なものを、将来合法化される(という希望的観測)から「先取り」で行ってもいいという論理は理解不能であり、明らかに法治主義を逸脱している。
・情報の隠ぺい体質(都合の悪い情報は隠す)
民主党政権には、自らに都合の悪い情報は隠ぺいするという体質が染みついている。それが、国民の政府に対する不信感を招いたばかりでなく、原発事故対応に際しては不要な被ばくも引き起こすという、犯罪にも等しい行為となって表れた。
【具体例】
・原発事故対応(SPEEDI、米実測値の非公表、議事録不作成など)
・温暖化対策の家計負担、年金改革の財政試算
・尖閣ビデオ、北朝鮮ミサイル発射への対応
(3)政策決定一元化の失敗
マニフェストの「5原則」の一つとして「政府と与党を使い分ける二元体制から、内閣の下の政策決定に一元化へ」と明記していた。これは、イギリスの制度を模倣したものであった。
しかし実際には、政権発足当初から、党幹事長が入閣しないなど「不完全な一元化」に過ぎなかった。そればかりか、逆に政策調査会を廃止したことで幹事長に党の権力が集中した。その結果、鳩山総理と小沢幹事長の二元体制が定着することとなった。
結局、菅政権では政策調査会を復活させ、マニフェストの公約であった政策決定の一元化は一度も実現することなく破綻することとなった。
○党政調の廃止
日本の国会議員は、英国の政府外与党議員(いわゆる「バックベンチャー」と異なり、それぞれが「全国民を代表する」(憲法43条1項)存在として、個々の案件に関して自主的・自立的に判断することが求められている。
民主党が行った党政調の廃止は、各議員が党内での「平場」の会議において自由闊達な議論を展開させる場や、与党が党内での議論を通じて政府の活動を監視する場を奪うものであり、政府外の与党議員を、政府の意思決定に無条件に従う単なる「採決要員」に貶めるものであった。
○請願・陳情窓口の一元化
憲法第16条は、何人も「平穏に請願する権利を有す」るものと規定し、請願法第5条は、「請願は、官公署において、これを受理し誠実に処理しなければならない」と規定している。
陳情は、請願を補完するものであり、憲法・請願法の趣旨に照らせば、国民が政府に対して陳情する権利は、保障されるべきものである。
民主党が行ったように、一政党が何らの法的根拠もなく、国民が陳情のために政府に接触することを制限するのは、憲法の趣旨に反するものと言わざるを得ない。
特に、地方自治体や地方議会からの要望の途が狭められ、国民全般の声を国政に届けることが大幅に制約されたことは、政権専横・政治の私物化に他ならず、国政に大きな混乱をもたらす原因となった。
○超党派議連の停止
超党派議連は、国会議員が党派を超えて個々の自由な立場から政策を研究し、議論する場であり、国政の活性化と、その可能性の拡大のために不可欠の場と言える。民主党政権は自党の議員がこれに参加することを禁止し、結果として超党派議連が有する効果の発揮を妨げ、国政への不利益をもたらした。
(4)発言の軽さ
総理・閣僚等の発言が軽く、間違ったら取り消せばいい、謝ればいいと思っている。自民党政権の場合であればすぐに罷免となるような事例ばかりであり、発言自体が国益を損なう、社会に影響を与える、ということに全く考えが及んでいない。
民主党政権は、守るべきモラルを持っていない、責任を取る文化がない、という点が、自民党政権との大きな違いであると言える。
【具体例】
○鳩山総理
・「私は愚かな総理かもしれません」と自ら認める(H22.4)
→平野官房長官が「総理の謙虚さの表れ」と擁護
○仙谷官房長官
・「自衛隊は暴力装置」と発言(H22.11)
→本人が撤回・謝罪
→菅総理:御本人が謝罪し訂正して変えられたわけでありますから、それはそれで良かったのではないかと思っております
→菅総理:私からもおわびを申し上げたいと思います
○柳田法務大臣
・「国会答弁は2つだけ覚えておけばいい」と発言(H22.11)
→辞任
○細川厚労大臣
・年金の運用3号通知について「当時は知らなかった」と発言(H23.3)
→担当課長を更迭するが、自らは辞任せず(部下に責任を押し付け)
○丹羽中国大使
・東京都の尖閣購入は「日中関係に重大な危機をもたらす」と発言(H24.6)
→本人が謝罪
→玄葉外相:深い反省の意を表していることを踏まえなければならない(処分せず。注意のみ。)  
 
2.党運営能力の欠如
民主党は、基本的な国家観を異にする議員の寄せ集めであり、綱領すら定めることができていない。また、党内の意思決定手続が明文化されていないため、同じ議論が何度も蒸し返されて、物事を決めることができない。党運営の基本的な能力を欠いているといえる。
○国家観・憲法観の不在
民主党は、保守系から旧社会党系まで党内がバラバラであり、未だに、党としての国家観・憲法観をまとめることができていない。
そのため、国会での憲法論議にも非常に消極的であり、衆参両院の憲法審査会に対しては、名簿提出を遅らせるなどして開催に抵抗した。
また、民主党内の憲法調査会は、昨年12月に政権交代後初の総会を開催したが、出席者が所属議員の1/10に留まるなど、党内議論は低調である。
○綱領を持たない
民主党は、そもそも綱領を持っておらず、基本的な政策理念すら定まっていない。これでは、全ての政策がその場しのぎの対応に留まり、大局観を持ったブレない政策判断を行うことは無理である。これは、鳩山、菅、野田という各総理の責任もあるが、民主党の成立過程に端を発する根源的な問題であり、改善は不可能である。
○内部手続の不備
民主党の党則では、部門会議、調査会、政調役員会など、政策を議論する会議の意思決定方法(多数決、全会一致など)が決まっていない。また、党議拘束についての定めもない。そのため、党議の決定方法や党議拘束に違反した場合の措置などを、その時の執行部が恣意的に運用できてしまう状態となっている。実際、困った時は強引に「一任」とする運用がまかり通り、民主的な意思決定ができる状況ではない。
○国会運営の慣例無視
民主党は、与党になった途端、慣例を無視した一方的で強引な国会運営を行い、国会審議を停滞させた。与野党一致が慣例であった事項を多数決で決めようとする事態が続出したが、与野党の不要な摩擦を生じさせただけで、結局は国会審議を遅らせる原因となった。  
 
3.経済運営能力の欠如
○成長戦略の欠如
成長戦略という名の文書は毎年のように発表するが、中身は変わり映えがしない。実際には競争力を削ぐ政策ばかりで、国内企業は六重苦と言われる状況。
【「六重苦」と言われる要因】
1極端な円高
2高すぎる法人税
3自由貿易協定の遅れ
4厳し過ぎる労働規制(派遣規制、最低賃金)
5環境規制の強化(CO2の25%削減)
6電力不足
○マクロ政策欠如で国富の喪失
マクロ経済政策の欠如により、民主党政権になってから50兆円のGDPが失われた。また、デフレ時にも関わらず事業仕分を行い、必要な公共事業等を削減したことにより、経済を悪化させた。「コンクリートから人へ」という誤った政策は、地域社会までをも破壊した。
○円高・デフレ対策
民主党政権は、歴史的水準にまで達した円高を放置し、デフレを加速させた。一方で、景気対策には全く関心を示さず、ただ「イノベーション」を唱えるだけで、それ以外の成長戦略を持っていない。
国内的には無策である一方で、IMFへの出資(600億ドル)、日韓通貨スワップ協定(130億ドル→700億ドルへ拡充)、中国国債の買い入れ(100億ドル)等、世界経済の下支え役ばかりをやらされ、失ったものは大きい。
○貿易赤字とエネルギー政策の不在
唐突な脱原発でエネルギー輸入が拡大し、平成23年は31年ぶりに貿易赤字を記録した。貿易赤字は、震災から一年以上経っても改善していない。このままでは、慢性的な貿易赤字が定着しかねない状況である。
○国家戦略なきTPPの参加表明
TPP交渉に関しては、米国への配慮ばかりが優先され、国民や各業界への説明が全く不足している。また、参加した場合の具体的な影響や、現在の交渉状況についても、十分な情報開示は行われていない。
一方で、実際の協議は難航しており、カナダ・メキシコに先行されている。これに焦った民主党政権が、国益をかえりみずに勝手な譲歩をする恐れもあり(特に、自動車、保険、牛肉の分野)、注視が必要である。
交渉参加には前のめりである一方、参加した場合に大きな影響を受ける農業の強化策は示されていない。デフレ時の自由貿易は、雇用喪失によりデフレを悪化させるという懸念にも、何も答えていない。  
 
4.危機管理能力の欠如
○その場しのぎの対応
何かあると官邸に会議をつくり、マスコミの前でしゃべる、という対応を繰り返して、それだけで仕事をしたつもりになっている。しかし、実際には全く問題解決にはなっていない。その結果、官邸には、使い捨てられた不要な会議が多数残されている。
また、目標を決め、それに向けたスケジュール・工程表を作るという能力がない。そのため、復興や原発事故対策も遅れに遅れている。
【具体例】
・復興庁設置の遅れ・不十分な指令塔機能
・補正予算の執行遅れ(15兆円中、5兆円繰越し・1兆円不用)
・被災者の生活再建・被災地の事業再建の遅れ
・がれき処理の遅れ
・原子力規制委員会の設置遅れ
○災害への備えの欠如
「コンクリートから人へ」という誤ったスローガンを掲げ、災害対策を疎かにした結果、人命を含む重大な被害が生じている。また、そもそも民主党政権は、通常業務の執行も覚束ない状態であるが、平常時を管理できない政権が、非常時の管理などできるはずがない。
・ダム建設延期による人災
先日の九州豪雨で、大分県竹田市の災害現場では、ダム建設済みの河川は氾濫していない。一方、民主党の事業仕分けによってダム建設が延期になっている場所が氾濫した。
・緑のダム構想の誤り
民主党は「緑のダム」構想を打ち出しているが、これは整備に数十年を要するし効果は不明である。昨今の大雨による洪水は従来の統計では全く予想できない激しいものであり、民主党の悠長な治水対策が既に国土に甚大な生命、財産の被害をもたらしている。
○原発事故対応の責任
国会事故調が「人災」と断定した福島第一原発事故については、規制当局の体制や過度の安全神話など、自民党政権時代から継続した責任があることは否定できず、我々も深く反省すべき点はある。
しかし、実際の事故対応に当たっての官邸の過剰介入や、情報の隠ぺい(SPEEDIの予測結果、米エネルギー省の実測値)など、民主党政権の危機管理能力の欠如が、事態をさらに悪化させ、不必要に被害を拡大させたことは明らかであり、その責任は重大である。また、汚染水を事前の通告なく海に放出し、諸外国から非難を受けるなど、国際的な信頼も失墜させた。
現在でも、賠償の遅れ、除染の遅れなど、民主党政権に対応能力がないことは明らかである。特に除染については、細野大臣は平成25年度末までに終えると約束したが、現状では大幅に遅れており、地元に大きな失望感と挫折感を抱かせている。現地の安全対策も、環境省が国民、地方自治体用に作成した対策例は実現が困難なことが明らかになりつつあり、除染が進むにつれ、かえって環境悪化が拡大する危険性が生じている。
○原発の再稼働
大飯原発の再稼働をめぐっては、政府の発言が二転三転し、住民や地元自治体を混乱させた。
【大飯原発をめぐる混乱の例:いずれも枝野大臣の発言】
4/2 現時点での再稼働に反対だ
4/3 (積極的な反対とは)違う。今日は昨日の段階とは違う
4/13 原発への依存をゼロにしたい
4/14今後とも引き続き重要な電源として活用する
再稼働の判断に当たっても杜撰な点が多く、国民の大きな不信を招いた。その結果、再稼働に反対する大規模なデモを引き起こし、政権の正当性そのものが問われる事態が生じた。
【大飯原発再稼働の問題点】
・安全基準の甘さ(時間のかかる対策は、計画ができていればOK)
・福井県以外の避難計画が出来ていない
・専門家ではなく政治家が再稼働を判断
・夏の直前まで問題を放置
・再稼働してから活断層の調査を実施
○北朝鮮のミサイル発射
北朝鮮のミサイル発射時に、官邸が司令塔の役割を果たさず、防衛大臣が官邸より先に記者会見をするなど、政府内が混乱し、有効な対応ができなかった。また、発射情報を速やかに国民に知らせなかったばかりか、「発射を確認していない」という情報を流し、混乱を増幅させた。
なお、麻生政権時には、発射から2分で政府が発射を発表しており、当時との対応の違いは歴然としている。  
 
5.予算管理能力の欠如
○バラマキ政策による歳出額の膨張
自民党政権時代には、当初予算は80兆円台で推移していたが、民主党政権になってから、90兆円台まで拡大してしまった。
○国債発行額
国債発行に44兆円の枠を設定したが、守れないことがわかると、粉飾工作を実施(補正予算への前倒し計上、交付国債への「飛ばし」)。
民主党政権になってから、当初予算の段階で国債発行額が税収を上回るという異常事態が継続している。(平成22〜24年度)
○予算編成プロセス
スケジュール管理ができておらず、予算編成の準備が間に合っていない。昨年度は、震災対応の補正予算が大幅に遅れたほか、本予算の概算要求も1ヶ月後ろ倒しとなった。今年度も、未だに中期財政フレームの策定が行われておらず、来年度予算へ向けた概算要求も形骸化して、国民生活のための実のある予算編成が行われないおそれがある。 
 
6.情報管理能力の欠如
○尖閣諸島中国漁船衝突事件ビデオの漏えい
事件現場を撮影したビデオの公開を民主党政権が拒んでいたが、海上保安官によって動画投稿サイト(YouTube)に流出した。映像は、海上保安庁のサーバの共有フォルダに保存されており、海上保安庁職員なら誰でも見られる状態であった。
○GDP速報値の漏えい
直嶋経済産業大臣が、GDP速報値を会議の冒頭挨拶で正式発表より前に漏らしてしまった。GDP速報値は、株価などにも影響を与える重要な数値であり、発表時間より前に漏らすことはあり得ないが、大臣は「公表の時間が決まっているということを、私自身がよく理解していなかった」と無知をさらけ出した。
○農水省機密情報の漏えい
筒井農水副大臣が主導する対中輸出促進事業に関する文書が外部に流出した。文書は、事業を手掛けている一般社団法人「農林水産物等中国輸出促進協議会」の代表理事 (民主党衆院議員秘書)に渡っており、最も機密性が高い「機密性3」の文書も含まれていた。
○原子力規制委員会人事の漏えい
原子力規制委員会の委員長・委員の人事案が事前にメディアで報道された。政権交代前、民主党が強く主張して、事前報道された人事案は国会への提示を認めないというルールが形成されたが、民主党政権は自らそのルールを無視する形となった。  
 
7.外交能力の欠如
民主党政権は、国の基本的な外交スタンスが定まらないまま、拙劣な外交を繰り返した。その結果、最も重要な日米の信頼関係を大きく損なうとともに、周辺諸国とのトラブルも頻発させた。
唯一、一貫した外交姿勢は、「言うべきことを言わず、言うべきでないことを言う」というものであり、これが全方位に適用されている。その結果、これまで国益に与えた損失は計り知れない。
○日米関係
・インド洋での補給活動中止(H22.1)
対テロ戦争における重要な抑止力であり、我が国の国際的地位向上にも大きく資する活動であったインド洋での燃料補給活動を中止。
・普天間問題の迷走(〜H22.5)
それまでの経緯を無視して県外・国外移設を主張し、散々迷走した挙句、元の辺野古案に戻るという大失態を演じ、沖縄の信頼や米国の信頼を大きく損なった。
・オバマ大統領放置(H21.11)
鳩山総理は、来日したオバマ大統領を日本に残したまま、シンガポールのAPEC首脳会議に出発。来日中の外国首脳を残して総理が海外に行くのは、極めて異例で失礼な対応である。
・野田訪米時に仕返し(H24.5)
野田総理が訪米し、オバマ大統領と会談したが、オバマ大統領はそのままアフガンを電撃訪問。オバマ大統領が訪日時に置き去りにされたことに対する仕返しをされた形になった。
・TPPをめぐる発表の齟齬(H23.11)
TPP協議入りをめぐり、米側は「全ての物品・サービスを貿易自由化交渉のテーブルに載せる」と野田総理が発言したと発表。日本側はそれを否定したが、訂正は求めないという不可解な対応。
・オスプレイ配備に見る弱腰外交(H24.7)
国民から安全性を不安視されているオスプレイの配備をめぐり、「日本側に配備を拒否する権限はない」として米側に対し何も言えず。一方で森本防衛大臣は「地元を説得できる自信はない」とも発言。民主党政権に当事者能力がないということを自ら示した。
また、先行きの展望のないまま岩国基地への陸揚げを行い、問題の火の手を拡大させた。
○日中関係
・尖閣沖漁船衝突事件への対応
法に則って粛々と対処すべきところを、中国側の脅迫や報復措置に屈して、船長を釈放、不起訴としてしまった。さらには、釈放の責任を地検に押し付けた。また、証拠となるビデオの公開を拒否し、映像がインターネットに流出するという不祥事を起こした。
あらゆる面で将来に禍根を残し、我が国の国益に甚大な影響を与える、歴史に残る外交失策である。
・立ち話で通訳なしの「首脳会談」(H22.10)
アジア欧州会議(ASEM)の場で、菅総理と温家宝首相が立ち話で「首脳会談」を行った。中国側には通訳がついていたが、日本側には通訳はなく、明らかに日本側に不利な形となった。
・丹羽中国大使の不適切発言
丹羽大使が、東京都の尖閣購入は「日中関係に重大な危機をもたらす」と発言。国益を損なう重大発言であるにも関わらず、更迭しなかった。
・尖閣諸島国有化の迷走
東京都が尖閣諸島購入を表明した直後、政府が国有化を検討するとしたものの、すぐにトーンダウン。後日再び国有化を表明するなど、方針が迷走した。
・領海侵犯の頻発
中国の漁船や漁業監視船による領海への接近・侵犯が頻発しているにも関わらず、形式的な抗議を繰り返すのみで、何ら実効的な対策を取らなかった。
○日韓関係
・竹島の不法占拠
韓国国会議員の訪問、海洋基地の建設など、韓国が着々と不法占拠を強化する一方、民主党政権は有効な措置を取れていない。自民党政権時代には明確に表現していた「不法占拠」という言葉さえ言えない弱腰の態度は、現状を黙認しているに等しい。
・慰安婦問題
ソウルの日本大使館前への慰安婦像設置など、韓国側が攻勢を強めるのに対して、野田総理は弱腰の対応を続け、押され続けるばかりであった。また、日韓首脳会談で「知恵を絞っていきたい」と発言し、日本が譲歩するかのような誤解を与えてしまい、韓国側をさらに勢いづかせる結果となった。
・不用意な譲歩
民主党政権は、朝鮮王朝儀軌の引渡し、通貨スワップ協定など、相手を一方的に利する不用意な譲歩を重ねた。通常の外交であれば、相手を利する場合は、引き換えにこちらも利益を得るのが当然であるが、そうした発想が欠けていた。
○日ロ関係
民主党政権は、北方領土へのロシア大統領・閣僚の相次ぐ上陸を黙認し、軍備・空港等の強化に対しても打つ手がないなど、弱腰の外交姿勢を続けた。これによって、ロシア側の北方領土の不法占拠を強化し、返還を遠ざけてしまった。
○北朝鮮問題
そもそも民主党は、北朝鮮関係団体と不適切な関係(献金・秘書派遣等)にあり、北朝鮮問題に取り組む資格がなかった。実際に、民主党政権になってから、拉致問題は全く進展しなかった。
一方で、延坪島砲撃事件やミサイル発射への稚拙な対応により、危機管理体制のぜい弱さをさらけ出した。  
 
8.皇室の軽視
民主党政権は、皇室行事での居眠り、野次、欠席など、皇室への非礼が相次いでいる。また、皇室日程や慣例を無視し、皇室を政治的に利用して恥じない。これだけ皇室軽視の事例が続出するのは、個々の議員の問題ではなく、民主党としての体質の問題であるとしか考えられない。
○菅副総理が居眠り(H21.11)
国立劇場で開催された、「天皇陛下ご在位20年記念式典」で、式典実行委員会副委員長だった菅副総理が居眠りをしていた。
○中国副主席との特例会見(H21.12)
天皇陛下と外国要人との会見は1カ月前までに申請するという慣例を無視して、習近平副主席との会見をセット。小沢幹事長が鳩山総理に要請したとされる。同時期に小沢幹事長は民主党議員140人を引き連れて訪中し、胡錦濤国家主席と会談した。
○ご静養中に認証式を強行
菅総理の内閣改造に伴う認証式を、天皇陛下の葉山御用邸でのご静養中に強行。陛下はご静養を一時中断して皇居に戻られ、お身体に負担をかけることになった。
○中井議員が野次(H22.11)
中井前国家公安委員長が、国会で行われた議会開設120年記念式典で、秋篠宮ご夫妻に「早く座れよ」と野次を飛ばした。
○仙谷官房長官が居眠り(H23.1)
皇居で行われた「講書始の儀」で仙谷官房長官が居眠りをしていた。
○天皇陛下を携帯で撮影(H23.9)
民主党会派(当時)の平山誠議員が、国会の開会式に出席する天皇陛下を携帯電話で撮影した。
○宮中晩餐会の欠席(H23.11)
一川防衛大臣は、ブータン国王を招いた宮中晩餐会を欠席し、民主党議員の政治資金パーティーに出席。パーティーの場で、「こちらの方が大事だと思って来た」と発言した。
また、山岡国家公安委員長、川端総務大臣、細野環境大臣も同晩餐会に欠席。蓮舫行政刷新担当大臣は、同晩餐会前のカクテルパーティー中に携帯電話を使っていた。
○天皇陛下のご入退場時に不起立(H24.3)
東日本大震災一周年追悼式において、天皇陛下のご入退場時に「着席しているように」という場内アナウンスを流した。国のトップの入退場時に起立しないのは、世界の常識に反する。
また、この式典では、世界最多の200億円の義援金を拠出した台湾代表を、2階席に座らせ、指名献花にも参加させないという非礼もあった。 
 
9.その他
○エネルギー政策
民主党政権は、各総理の思いつきで、行き当たりばったりのエネルギー政策を展開している。その結果、総理が変われば以前の方針はうやむやになってしまい、政策の一貫性を著しく欠いている。
【具体例】
・CO2の25%削減
鳩山総理は、国連気候変動サミットの場で、CO2の25%削減を突如国際公約化した。しかし、実現のための方策は全く決まっていないままの見切り発車であった。当時の直嶋経産大臣は、「(実現のための方策は)まだ具体的にまだ提示できるようなものにはなっていない」と明言した。
・太陽光パネル1000万戸
菅総理は、G8の場で、太陽光パネルを1000万戸に設置すると突如国際公約を行った。担当大臣との調整もなく、実現の見込みも全くないままであった。当時の海江田経産大臣は、「報道で知った。聞いていない。」と絶句した。
○生活保護問題
H21.12に「速やかな保護決定」を求める通知を発出。以後、受給者の際限ない増加に歯止めがかからなくなってしまった。
○JAL再生
JAL再生支援をめぐっては、航空政策不在の、不公平・不透明な企業再生が行われた。
まず、中小企業を支援するはずの企業再生支援機構に、真っ先にJALを支援させるという強引なやり方が問題である。さらに、100%減資という株主の犠牲、5,200億円の債権放棄という債権者の犠牲のもと、3,500億円の資金投入という過度な優遇を行った。健全に運営を行っているANAと比較すると、潰れた会社の方が得をするという不公平がまかり通っている。
こればかりか、不透明な第三者割当増資で、京セラ、大和証券ら8社が、再上場の際に濡れ手で粟のキャピタルゲインを得られる仕組みになっており、民主党が特定企業に利益供与を行っているに等しい。  

 

●U 国民への裏切り  
民主党は、政権担当能力が欠如しているばかりでなく、国民に嘘をつき、都合が悪くなるとすぐに方針を転換する体質がある。
政権交代時に大々的に掲げたマニフェストは、最初から実現不可能な項目が並んでおり、事実、ほとんど達成できていない。また、普天間問題・消費税問題に象徴されるように、大きな方針転換を簡単に行い、国民を裏切り続けている。  
 
1.マニフェストの破綻
民主党が政権交代の際にマニフェストで掲げた項目は、ほとんど達成されておらず、そもそも財源の見込みが甘かったことは民主党自身が認めている。マニフェスト全体が破綻していることは既に客観的事実であるにも関わらず、頑なに破綻を認めない姿勢は、真実を語らない民主党の姿勢の象徴とも言える。
[1] 撤回済み・マニフェスト違反が確定した項目
・子ども手当、高速道路無料化:撤回(三党合意)
・暫定税率廃止:撤回
・八ツ場ダム建設中止:再開(前田大臣が表明)
・最低保障年金・後期高齢者医療制度廃止:事実上不可能
・消費増税
[2] 明らかに破綻した項目
・16.8兆円の財源捻出(事業仕分け):約7兆円のみ(ただし、大半は埋蔵金から)
・温暖化ガス90年度比25%削減:実現は絶望的
・国家公務員人件費2割(約1兆円)削減:7.8%減のみ
・天下り根絶:日本郵政社長に元大蔵事務次官、現役出向は拡大
・幹部人事一元化(内閣人事局など):今国会での成立断念
・医学部定員1.5倍:8,486人→8,991人(505人(6%)増のみ)
[3] 検証・追及すべき項目(マニフェストの項目別)
(1)ムダづかい
・天下り根絶、企業・団体献金廃止、国会議員の世襲禁止(党内ルール)、公務員の労働協約締結権の付与
(2)子育て・教育
・出産一時金引き上げ(55万円)、希望者全員に奨学金(大学・専門学校)、「子ども家庭省(仮称)」の設置
(3)年金・医療
・年金記録問題(2年間で集中対応、「年金通帳」を全員に交付)、ヘルパー給与4万円引き上げ、歳入庁の創設、年金保険料は年金給付だけに充当
(4)地域主権
・国直轄事業負担金の廃止、「ひもつき補助金」廃止、畜産・酪農・漁業所得補償制度、国の出先機関の原則廃止
(5)雇用・経済
・中小企業の法人税引き下げ(11%)、「中小企業いじめ防止法」制定、最低賃金引き上げ(時給1000円)
(6)消費者・人権
・「危険情報公表法」の制定、危機管理庁(仮称)の設置
(7)外交
・日米地位協定の改定を提起
[4] 実施済みの項目
・高校実質無償化 → 政策効果を要検証、所得制限の必要性
・農業者戸別所得補償 → 政策効果を要検証
・扶養控除廃止 → 子育て家庭の負担増
・生活保護/母子加算復活(※生活保護制度自体を見直す必要)  
 
2.国民への説明の欠如
○公開質問状に対する回答拒否(政権交代前)
民主党の鳩山代表は、党首討論で「4500の天下り団体に2万5000人の天下りがいて、そこに国の予算が12兆1000億円流されている」と発言。
自民党がその根拠を問う公開質問状を発出したのに対し、民主党は明確に回答できなかった。さらに、2回目の公開質問状に対しては回答しなかった。
 H21.6.2  自民党(細田幹事長)から民主党(鳩山代表)宛に公開質問状を発出
 H21.6.4 民主党(平野役員室担当)から自民党(細田幹事長)に回答(「国会で議論すべき」という趣旨)
 H21.6.9  自民党(細田幹事長)から民主党(鳩山代表)宛に2回目の公開質問状を発出
      → 民主党からの回答はなし(鳩山代表が6.17の党首討論で「二度とこのようなことはなさらないでいただきたい」と発言)
○国民に説明しないまま重要政策を国際公約化
歴代の民主党政権は、国内の意見が分かれる課題について、国民への説明がないままに国際公約化する手法を連発している。国内の議論をまとめる能力がないため、こうした手法に頼っているものと考えられる。
【具体例】
・温暖化ガス25%削減
鳩山総理は、国連気候変動サミット(H21.9)で、実現の方策もないままに温暖化ガスの25%削減を国際公約とした。
・太陽光パネル1000万戸設置
菅総理は、G8サミット(H23.5)で太陽光パネルを1000万戸に設置すると突如表明した。しかし、担当大臣との調整もなく、当然ながら実現の方策も、そのための財源も未定である。
・消費税増税
野田総理は、G20首脳会議(H23.11)で消費税の10%への増税を国際公約とした。しかし、一体改革大綱の閣議決定、法案の国会提出、民主党内の調整、国民への説明は全て後回しであった。
・TPP協議参加
野田総理は、APEC首脳会議(H23.11)でTPP交渉参加に向けた協議開始を表明した。その直前に記者会見を行ったが、とても十分な説明と言えるものではなかった。
○沖縄への説明不足
民主党政権は、沖縄県に十分な説明がないままに在日米軍に関する重要な政策決定・政策変更を繰り返し、政府と沖縄県との関係を決定的に悪化させた。
【具体例】
・普天間問題
政権交代前には「県外・国外移設」と言い、選挙の際も「最低でも県外」と言っておきながら、結局、元の辺野古移設案に回帰した。その過程で、鳩山総理は、「腹案がある」、「(最低でも県外というのは)党の考え方ではなく個人の発言」などと迷走した。一連の混乱や方針転換は、沖縄県民に対する説明もないままに行われ、県民の激しい怒りと失望を買った。
・オスプレイ問題
オスプレイの普天間基地への配備について、沖縄県や山口県の反対にも関わらず、全く意見を聞かずに決定し、実行しようとしている。これまでの事故の原因やオスプレイの安全性について、政府から十分な説明はない。
○被災地への説明不足
野田総理は、所信表明演説で「震災復興が最大・最優先の課題」と言いながら、数カ月すると消費税増税に「政治生命をかける」として消費税問題に集中し、復興は二の次という状況である。昨年度補正で計上した復興予算は大量の使い残しが出ている(15兆円のうち、繰越が5兆円、不用が1兆円)にも関わらず、復興の遅れについて政府からの説明はない。 
 
3.基本政策の方針転換
(1)普天間問題
県外・国外移設が政権交代前からの民主党の方針であった。しかし、「最低でも県外」と発言していた鳩山総理は、移設先の目処が立たずに方針転換、結局は元の案に戻らざるを得なかった。一連の迷走で民主党政権が失った信頼はもはや回復不能である。
[1] 民主党・沖縄ビジョン(H20)
・米軍再編を契機として、普天間基地の移転についても、県外移転の道を引き続き模索すべきである。言うまでもなく、戦略環境の変化を踏まえて、国外移転を目指す。
[2] マニフェスト2009(H21.7)
・日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む。(※ 普天間について具体的言及なし)
[3] 鳩山総理発言
・「最低でも県外」の方向で、われわれも積極的に行動を起こさなければならない。(H21.7.19 那覇市(政権交代前))
・Trust me.(H21.11.13 日米首脳会談)
・私には今、その腹案を持ち合わせているところでございます。(H22.3.31党首討論)
<方針転換>
[4] 鳩山総理発言
・学ぶにつけ、沖縄に存在する米軍全体のなかで、海兵隊は抑止力が維持できるという思いに至った(H22.5.4)
→後にこの言葉は「方便だった」と語る。
・(最低でも県外というのは)党の考え方ではなく、私自身の代表としての発言だ(H22.5.4)
・日米共同声明で辺野古沖移設を発表(H22.5.28)
[5] マニフェスト2010(H22.6)
・普天間基地移設問題に関しては、日米合意に基づいて、沖縄の負担軽減に全力を尽くします。
(2)消費税増税
消費税増税について、政権交代時のマニフェストには言及がなく、鳩山代表は政権を取っても4年間増税しないと明言していた。しかし、菅総理は10%への増税を表明、野田総理は消費税増税に「政治生命を賭ける」とまで宣言して恥じない。
[1] 鳩山代表発言(H21.6 国家基本政策委員会 両院合同審査会)
・四年間の間、我々が政権をとっても消費税の増税はしないということをここに明言をしておきます。
[2] マニフェスト2009
・消費税増税について言及なし
[3] 野田議員演説(衆院選時)
・マニフェスト、イギリスで始まりました。ルールがあるんです。書いてあることは命懸けで実行する。書いてないことはやらないんです。
[4] マニフェスト2010
・早期に結論を得ることをめざして、消費税を含む税制の抜本改革に関する協議を超党派で開始します。
<方針転換>
[5] 菅総理発言
・具体的な税率について自民党案の10%を参考にする。
[6] 閣議報告「社会保障・税一体改革成案」(H23.7)
・まずは、2010 年代半ばまでに段階的に消費税率(国・地方)を10%まで引き上げ、当面の社会保障改革にかかる安定財源を確保する。
[7] 閣議報告「社会保障・税一体改革素案」(H24.1)
・2014 年4月1日より8%へ、2015 年10 月1日より10%へ段階的に引上げを行う。
[8] 野田総理発言(TV出演)(H24.1)
・(一体改革を)この国を守るために、政治生命をかけてやりぬく
[9]閣議決定「社会保障・税一体改革大綱」(H24.2)
・2014 年4月1日より8%へ、2015 年10 月1日より10%へ段階的に引上げを行う。
(3)TPP
マニフェストには全く言及のなかったTPPが、横浜でのAPEC首脳会議を前に、突如として主要な政策課題に浮上。その経緯は、「菅総理の思いつき」という以外に説明できない。
[1]マニフェスト2009(H21.7)
・アジア・太平洋諸国をはじめとして、世界の国々との投資・労働や知的財産など広い分野を含む経済連携協定(EPA)、自由貿易協定(FTA)の交渉を積極的に推進する。その際、食の安全・安定供給、食料自給率の向上、国内農業・農村の振興などを損うことは行わない。
[2] マニフェスト2010
・アジアをはじめ各国とのEPA・FTAの交渉などを積極的に進めるとともに、投資規制の自由化・緩和などの国内制度改革に一体的に取り組みます。
<TPPが急浮上>
[3] 閣議決定「包括的経済連携に関する基本方針」(H22.11)
・環太平洋パートナーシップ(TPP)協定については、その情報収集を進めながら対応していく必要があり、国内の環境整備を早急に進めるとともに、関係国との協議を開始する。
[4] 菅総理発言(横浜APEC CEOサミット)(H22.11)
・環太平洋パートナーシップ(TPP)については、国内の環境整備を早急に進めるとともに、関係国との協議を開始します。
[5] 閣議決定「新成長戦略実現2011」(H23.1)
・環太平洋パートナーシップ(TPP)協定については、その情報収集を進めながら対応していく必要があり、国内の環境整備を早急に進めるとともに、米国を始めとする関係国と協議を続け、6月を目途に、交渉参加について結論を出す。
[6] 野田総理記者会見(H23.11)
・明日から参加するホノルルAPEC首脳会議において、TPP交渉参加に向けて関係国との協議に入ることといたしました。
(4)温暖化対策
民主党政権は、マニフェストで温暖化ガス25%削減をうたい、政権交代後、鳩山総理が国連で突如国際公約化した。震災後、目標達成が非現実的となったにも関わらず、一年以上目標撤回を認めず、今年6月になってようやく方針転換を認めた。
[1] マニフェスト2009
・2020年までに温暖化ガスを25%削減(1990年比)するため、排出量取引市場を創設し、地球温暖化対策税の導入を検討します。
・CO2等排出量について、2020年までに25%(1990年比)、2050年までに60%超減(同前)を目標とする。
[2] 鳩山総理演説(国連気候変動サミット)(H21.9.22)
・温暖化を止めるために科学が要請する水準に基づくものとして、1990年比で言えば 2020年までに25%削減をめざします。
[3] 閣議決定(地球温暖化対策基本法案)(H22.3.12)
・1990年比25%削減
<方針転換>
[4] エネルギー・環境会議決定(エネルギー・環境に関する選択肢)(H24.6.29)
・2020年:1990年比7〜11%減
(5)原発政策
民主党政権は原子力発電を約5割にするという目標を立てたが、福島原発事故により断念した。現在も、原発輸出は継続する姿勢であるが、それ以外の方針は定まっていない。
[1] マニフェスト2009
・安全を第一として、国民の理解と信頼を得ながら、原子力利用について着実に取り組む。
[2] 新成長戦略(基本方針)(H21.12)
・安全を第一として、国民の理解と信頼を得ながら、原子力利用について着実に取り組む。
[3] マニフェスト2010(H22.6)
・総理、閣僚のトップセールスによるインフラ輸出
政府のリーダーシップの下で官民一体となって、高速鉄道、原発、上下水道の敷設・運営・海水淡水化などの水インフラシステムを国際的に展開。国際協力銀行、貿易保険、ODAなどの戦略的な活用やファンド創設などを検討します。
[4] 2030年のエネルギー需給の姿(H22.6)
・2030年に原子力発電が発電電力量の約5割
[5] エネルギー基本計画(H22.6)
・電源構成に占めるゼロ・エミッション電源(原子力及び再生可能エネルギー由来)の比率を約70%(2020 年には約50%以上)とする。(現状34%)
・原発の新増設(2020年までに9基、2030年までに14基以上)
<東日本大震災>
[6] 菅総理記者会見(H23.5)
・2030年に総電力に占める原子力割合が50%以上としている現在のエネルギー基本計画はいったん白紙に戻して議論する必要がある
[7] 閣議決定(質問主意書に対する答弁)(H23.8)
・諸外国が我が国の原子力技術を活用したいと希望する場合には、我が国としては、相手国の意向を踏まえつつ、世界最高水準の安全性を有するものを提供していくべきであると考える。
[8] 日本再生のための戦略に向けて(H23.8)
・原発への依存度低減へのシナリオを描く
・「反原発」と「原発推進」の二項対立を乗り越え国民的議論を展開
[9] ベトナムの原子力発電所建設に係る協力に関する日越政府間の文書(H23.10)
・両政府は、両国の事業者による原子力発電所建設プロジェクトの円滑な実施(注)のため、両国で必要な国内手続を完了した後に発効する日越原子力協定や国内法令に従い、協力を実施する。
(注)原子力発電所の建設を日本の事業者が担うことも明記された。  
 
4.年金問題
○消えた年金
マニフェストで大々的に掲げ、2年間で集中的に解決するとしていたが、結局、満足に解決できていない。
マニフェスト2009の記述と進捗
「消えた年金」「消された年金」問題の解決に、2年間、集中的に取り組みます。(2009〜2011)
 ・未達成。
 ・2年間で、「統合済」「一定の解決」は2,860万件→3,174万件(314万件増)。残りあと1,922万件。
「納めた保険料」「受け取る年金額」をいつでも確認できる「年金通帳」を、全ての加入者に交付します。
 ・未達成。
 ・「年金通帳」は未だに交付されていない。交付される予定もない。
○運用3号問題
国民の権利義務に関わる重要な問題を、安易に運用で解決しようとして、かえって問題を大きくした。
【概要】
サラリーマンの配偶者(専業主婦)は、第3号被保険者(保険料納付が不要)であるが、夫がサラリーマンを辞めた場合などには、第1号被保険者(保険料納付が必要)に変わる。
しかし、この届出を行わなかった場合には、記録上は第3号のままになり、保険料を納めない期間ができてしまう。こうした人が多数存在しているという問題が判明した。
民主党政権は、周知が不徹底だったためとして、記録上の第3号の期間をそのまま認める運用(課長通知)を行った。しかし、この措置が「不公平だ」、「正直者がバカを見る」などと批判されると、一転して運用を凍結。
現在、10年分の追納を認める法案を提出しているが、未成立。
【経緯】
平成21年11月 社保庁職員へのアンケートで問題が判明
平成22年12月 「運用3号」通知発出
平成23年 1月 「運用3号」の取扱を開始
2月 「運用3号」の取扱を凍結
3月 「運用3号」通知の廃止
11月 主婦年金追納法案閣議決定(現在未成立)
【問題点】
年金の加入・受給に関する問題は、国民の権利義務に関わる重要問題であるにも関わらず、立法ではなく課長通知で「運用3号」を認めてしまった。
保険料を払った人と払わなかった人が同じ年金をもらえるというのは不公平であり、運用で簡単に認められるべき話ではない。 結局、批判されて方針転換したが、現在も、法改正による抜本的な解決はなされていない。
誤りを認めた以上、長妻大臣をはじめとする当時の政務三役は、誤った判断をした責任を取るべきである。  

 

●V 不祥事の続出  
民主党政権の誕生以来、総理自身をはじめ閣僚からも問題が噴出しており、問責決議や辞任が相次いでいる。
不祥事を起こしても、最初は極力隠ぺいしようとし、言い逃れできなくなった後も、謝ればいい、一旦辞めればいいという発想が明らかである。  
 
1.総理の不祥事
民主党政権になってからの3人の総理には不祥事が続いている。中には刑事事件に絡むものもあり、辞任に値するものばかりであるが、誰一人として責任を取っていない。
鳩山元総理、菅前総理については、総理を退いた後、事件自体をうやむやにして逃げきろうとしているが、総理を辞めても追求すべき問題である。
○鳩山総理
・偽装(故人)献金問題(総額2,117万円)
・脱税問題(母親からの子ども手当:月額1,500万円)
・退任時「国民の皆様が聞く耳を持たなくなった」と発言
・退任時に任期限りの引退を表明。後に撤回。
○菅総理
・二つの献金問題
・外国人献金:領収書を国会提出せず
・北朝鮮関係団体への献金
・不信任決議を逃れて延命工作
・「顔が見たくなければ法案を通せ」という発言
○野田総理
・民団の選挙協力に対するお礼発言
・在日韓国人からの献金
・脱税企業からの献金
・脱原発デモに対し「大きな音だね」と発言
・前後援会長の診療報酬不正請求疑惑
・政策秘書の架空領収書発行疑惑
○世論の不支持
世論調査(産経新聞ネット調査)では、「リーダーとして評価できない戦後の首相」の1・2位は民主党政権の総理である(1位:鳩山総理35.1%、2位:菅総理19.9%)。  
 
2.閣僚の不祥事
民主党政権の閣僚には、以下のとおり不祥事が続出し、数え上げればきりがないほどである。中には辞任した閣僚もいるが、多くの場合、内閣改造に紛れて目立たないように交代させており、責任問題があいまいになったままである。
○千葉法務大臣(H22.9内閣改造で交代)
・落選後も留任
○原口総務大臣(H22.9内閣改造で交代)
・委員会に遅刻し、責任を部下になすりつけ
○川端文部科学大臣(H22.9内閣改造で交代)(現総務大臣)
・家賃が不要の労組幹部宅等に事務所を置きながら、事務所費を計上。
・ニューハーフショーパブ、キャバクラなどの費用を政治資金で計上
○長妻厚生労働大臣(H22.9内閣改造で交代)
・官僚と意思疎通ができず、職務が停滞
・「運用3号」を独断で決定
○中井国家公安委員長(H22.9内閣改造で交代)
・銀座のホステスに議員宿舎の鍵を渡す
・金賢姫元死刑囚を豪遊をさせる
○荒井国家戦略担当大臣(H22.9内閣改造で交代)
・家賃が不要の知人宅に事務所を置きながら、事務所費を計上。
・事務所費でキャミソール、マンガ本、CDなどを購入。
○柳田法務大臣(H22.11辞任)
・国会軽視発言(答弁は二つ覚えておけば良い)
○仙谷官房長官(H22.11問責可決、H23.1内閣改造で交代)
・尖閣諸島中国漁船衝突事件(船長釈放、証拠ビデオ公開問題)
・「自衛隊は暴力装置」発言
○馬淵国土交通大臣(H22.11問責可決、H23.1内閣改造で交代)
・尖閣諸島中国漁船衝突事件(証拠ビデオ公開問題)
○岡崎国家公安委員長(H23.1内閣改造で交代)
・北朝鮮による延坪島砲撃事件の際に登庁せず
○前原外務大臣(H23.3辞任)
・在日韓国人からの献金
○蓮舫行政刷新担当大臣(H23.6解任)
・自宅を事務所としながら、事務所費を計上
・尖閣諸島について「領土問題」と発言
・国会内でのファッション雑誌撮影
○松本復興担当大臣(H23.7辞任)
・被災地で「知恵を出さないやつは助けない」と発言
○高木文部科学大臣(H23.9野田内閣成立で退任)
・SPEEDIの予測結果、米エネルギー省の実測値の隠ぺい
○鉢呂経済産業大臣(H23.9辞任)
・「死の街」「放射能をうつす」と発言
○一川防衛大臣(H23.12問責可決、H24.1内閣改造で交代)
・「安全保障に関しては素人」などと発言
・ブータン国王の宮中晩餐会を欠席
・少女「乱交」事件と発言
○山岡消費者担当大臣(H23.12問責可決、H24.1内閣改造で交代)
・マルチ商法業者のイベントで応援演説
・マルチ商法業者からの献金
・実態のないコンサルタント料の受領
○田中防衛大臣(H24.4問責可決、H24.6内閣改造で交代)
・防衛に関する知識の著しい不足
・委員会の無断退席
○前田国交大臣(H24.4問責可決、H24.6内閣改造で交代)
・公選法違反(告示前の投票呼びかけ)
○小川法務大臣(H24.6内閣改造で交代)
・脱税疑惑、国会審議中に競馬サイトを閲覧
○鹿野農水大臣・筒井農水副大臣(H24.6内閣改造で交代)
・対中不正輸出疑惑、機密漏えい疑惑  
 
3.民主党議員の不祥事
○小沢元代表
・西松建設からの献金を関連の政治団体からの献金と虚偽記載したとして、公設秘書が逮捕され、有罪判決を受けた。
・小沢氏の資金管理団体「陸山会」に土地購入をめぐり、政治資金規正法違反(虚偽記入)容疑で強制起訴された。現在も控訴審の手続が続いており、小沢氏は刑事被告人である。
・平成24年7月、一体改革法案に反対し、結局、民主党を離党した。
○小林千代美議員
・平成21年の衆議院総選挙において、民主党公認の小林千代美議員陣営の選対幹部(連合北海道札幌地区前会長)が公職選挙法違反で有罪となり(買収の約束、事前運動)、議員には連座制が適用された。
・また、北海道教組からの違法献金が明らかになり、選対委員長を務めていた北教組委員長代理らが政治資金規正法違反で逮捕された。民主党議員と支持母体である連合組織の違法な癒着の典型的な事例である。
・平成22年6月に議員辞職した。
○土肥隆一議員
・平成23年2月、日韓キリスト教議員連盟の日本側会長として、竹島領有権の放棄を日本側に求める「日韓共同宣言」に署名するとともに、韓国の国会で、韓国の議員らと竹島放棄を求める内容で記者会見を行った。
・平成23年3月に民主党を離党した。
○横峯良郎議員
・賭けゴルフ、女性への暴行、恐喝事件への関与など、数多くの不祥事が報道されている。ほとんどの事例は、関連する裁判で事実と認められている、又は自ら事実と認めており、即刻議員辞職すべき事件ばかりである。
・平山誠参議院議員とともに、実態と異なる住所を届け出て、東京・宮崎間の航空券を不正受給していたが、故意ではなかったと釈明している。
・平成23年12月に民主党を離党した。  
 
4.不適切な人事
○政府・党ポストのたらい回し
問題を起こした閣僚をすぐに党幹部に起用するなど、特定の政治家で政府・党の重要ポストをたらい回ししている。これは、民主党の「責任を取らない文化」の象徴であるとともに、党内の人材不足を物語っている。
岡田克也氏
 H21.9 外務大臣(鳩山内閣・菅内閣)
 H22.9 民主党幹事長(〜H23.9)
 H24.1 副総理(野田改造内閣)
枝野幸男氏
 H22.1 行政刷新担当大臣(鳩山内閣)
 H22.6 民主党幹事長
 H22.9 民主党幹事長代理
 H23.1 内閣官房長官(菅第二次改造内閣)
 H23.9 経済産業大臣(野田内閣)
前原誠司氏
 H21.9 国土交通大臣(鳩山内閣・菅内閣)
 H22.9 外務大臣(菅第一次・第二次改造内閣)(〜H23.3)
 H23.8 民主党政調会長
仙谷由人氏
 H21.9 行政刷新担当大臣(鳩山内閣)
 H22.1 国家戦略担当大臣(鳩山内閣)
 H22.6 内閣官房長官(菅内閣・菅第一次改造内閣)
 H23.1 民主党代表代行(〜H23.9)
 H23.3 内閣官房副長官(菅第二次改造内閣)
 H23.9 民主党政調会長代行
一川保夫氏
 H23.9 防衛大臣(野田内閣)
 H24.1 民主党参議院幹事長(野田改造内閣)
○少子化担当大臣のたらい回し
民主党政権になってから、少子化担当大臣は既に9人目であり、野田政権になってからも4人目である。民主党政権がいかにこの問題を軽視しているか、また、いかに適材がいないかを如実に表している。
歴代の少子化担当大臣(民主党政権)
福島瑞穂 H21.9.16〜H22.5.28 / 平野博文 H22.5.28〜H22.6.8(事務代理) / 玄葉光一郎 H22.6.8〜H22.9.17 / 岡崎トミ子 H22.9.17〜H23.1.14 / 与謝野馨 H23.1.14〜H23.9.2 / 村田蓮舫 H23.9.2〜H24.1.13 / 岡田克也 H24.1.13〜H24.2.10 / 中川正春 H24.2.10〜H24.4.23 / 小宮山洋子 H24.4.23〜
○問題を起こした総理・閣僚の再起用
これまで問題を起こした総理や閣僚を、問題を起こした分野で起用するという、冗談とも本気ともつかない人事が次々と行われている。
・党最高顧問
・外交失策の鳩山元総理を、外交担当の最高顧問に任命
・原発失策の菅前総理を、新エネルギー政策担当の最高顧問に任命
・皇室会議
・皇室軽視発言で問責決議を受けた一川元防衛大臣を、皇室会議予備議員に起用。
・皇室の伝統・文化を守る議員連盟
・秋篠宮ご夫妻に暴言を吐いた中井元国家公安委員長が、民主党の「皇室の伝統・文化を守る議員連盟」の会長に就任。
・予算委員長
・国会軽視発言で辞任した柳田元法務大臣を参議院予算委員長に起用。
○自民党時代の人材を活用せざるを得ない状況
民主党内の人材不足により、重要な案件には自民党時代の人材を活用する手法が定着しつつある。
・与謝野経済財政担当大臣
・森本防衛大臣
・森元総理(ロシア特使)  

 

 
 
 
 

 



2019/2
 

 

●「政治家のレベルは、その国の国民のレベルと比例する」って本当ですか?  
現在の安倍政権のようにマスコミに圧力を掛けてアンケート結果の数値を変えさせたり、ネット空間で野党やリベラル層への誹謗中傷を繰り返すなどの意図的で悪質な情報操作によって、政治家が国民を誘導する事が可能なので、一概にレベルが同じだとは言い切れないですね。
本当です、今の日本間まさにそうなっています。国民のレベルはマスコミのレベルとも比例します。
国民のレベルが全体的に低かったら良い政治家は出る訳ないでしょうね。全体レベルが低いと素晴らしい政治家は育たないし、国民の選ぶ目も育たないですからね。
ほう、なるほど、では、その比例していると言う部分に関する貴殿の思いは何処でしょうか?
収入に関する限り、まったく嘘だね。国民の政治に関する関心のたかさが、議員のレベルに反映しているだけでしょう。こんな立証不可能な一般論は、学問の対象になりません。
近代政治の定説でしょう。
アベカイダ(安倍一味)が支配するビューティフルジャパンですね?テロ支援国家指定間違いなしでしょう!南無安倍駄仏〜
ほんとうです。右翼安部総理が率いる自民党の支持率が高いということは。国民は戦争を望んでるということです。
西洋のことわざに「愚かな民の上には厳しい政府がある」というのはこのことだ。これは政府が厳しいというより、民が愚かであることから自ら招いたわざわいである。愚かな民の上に厳しい政府があるとするならば、よい民の上にはよい政府がある、という理屈になる。いまこの日本においても、このレベルの人民があるから、このレベルの政府があるのだ。 
政治は国民を映す鏡 / サミュエル・スマイルズ「自助論」
サミュエル・スマイルズの遺した不朽の名著「自助論」。この中に政治は国民を映す鏡であると指摘したくだりがある。
「一国の政治というものは、国民を映し出す鏡にすぎません。政治が国民のレベルより進みすぎている場合には、必ずや国民のレベルまでひきずり下ろされます。反対に、政治のほうが国民より遅れているなら、政治のレベルは徐々に上がっていくでしょう。国がどんな法律や政治をもっているか、そこに国民の質が如実に反映されているさまは、見ていて面白いほどです。これは水が低きにつくような、ごく自然のなりゆきなのです。りっぱな国民にはりっぱな政治、無知で腐敗した国民には腐りはてた政治しかありえないのです。」
いい政治家を育てられるかどうかは、私たち国民次第ってこと。政治なんて興味ない、政治家なんて信用できない… と選挙を放棄する国民が多い今の日本ならば、もろもろ仕方ない。
でも舛添氏の都知事辞職についてはあんまりだと思った。辞めるまで許さない!といった雰囲気を新聞・テレビが作り出し、結果として都民は選挙費用の約50億円を負担させられることになった。
どうでもいい気持ちで選んだ都知事ならば、詳しい額は知らないけど数百万円くらいの不正ならいいじゃないか。都知事選が行われることで儲かる人々に都民はハメられたのだろうか?
近年ネットに押されて哀愁ただよう新聞・テレビが存在感を示すため、アラを見つけた政治家を袋だたきにして自己満足に浸っている。これでは優秀な人が「政治家になりたい!」って燃えてくれないよ。さすがにここまでくると、政治の混迷の原因は明白なのでは? 

 

●民意とは何か――政治の論理と経済学の論理 
要約
民主主義社会においては、民意に基づく政治が行われるのが理想であるが、民意が不安定であるのに政治は揺れる民意の影響を排除できない。このため消費税、TPP、原発再稼動といった最近の重要課題に関する国会審議を円滑に進めることができず、先送り政治が蔓延している。こうした閉塞状況を打破し、真の国益を追求するためには、民意の実態を正確に把握し、内外情勢を慎重に見極めながら、冷静に政策決定に導く必要がある。この場合に行われる政策決定は、経済理論による客観的な検討を踏まえたものでなければならない。
1.はじめに
日本の政治、経済、および社会を巡る閉塞状況が長期化している。このような状況のなかで一つの大きな問題は、民意の解釈について誤解と混乱が蔓延していることではないかと思われる。
言うまでもなく日本は民主主義国家であり、政治の世界において民意が尊重されなければならないのは当然である。そのために選挙という制度があり、国政選挙で衆参両院議員を選ぶ場合にも、また地方において首長や都道府県・市町村議会議員を選ぶ場合にも選挙が行われている。このような制度によって民意が反映されるように考えられているわけであるが、実際には、いわゆる一票の格差の問題や年代によって投票率に格差があることから国民の意思が正確に反映されているとは言い難い。
民意は、選挙において重要な意味を持つほかに、さまざまな案件を政策決定する際の判断材料としても重要である。しかし、民意を正確に把握することは非常に難しく、また民意そのものが不安定であったり、あるいは民意の測定方法に問題があったりして、政策決定にそのまま活かすことができないような状況もしばしば生じている。
民意に関するこのような錯綜した状況は、政治の問題ばかりでなく経済的な諸問題にも影響を与えている。本論において詳説するように、消費税率引上げを巡る議論においても、また社会保障のあり方を巡る議論においても、さらにTPP への参加を巡る問題においても、民意の動向が政策面に大きな影響を与え、それによって国民の経済的な側面、すなわち将来における負担と給付(受益)のあり方が決まってくることにもなる。場合によっては、それが国論を二分するような大きな経済問題に発展することもあるのである。
このように考えると、民意というものについて政治的な側面と経済的な側面との双方向から分析を加えることが
必要であり、それによって長期化しているわが国の閉塞状況を打開する方策を探し出すヒントも見えてくるのではないかと思われる。
2.世論から民意へ
すでに「民意」という言葉を使って本論を始めているが、これは前置きなしに使える言葉ではないので、ここで民意という言葉そのものについて若干の考察を加えておきたい。
結論から言えば、「民意」の前に「世論」という言葉があり、「世論」が形骸化したことを受けて新たな装いをもって登場したのが「民意」なのではないか、というのが筆者の推論である。一つ付け加えておきたいのは、世論は「せろん」とも「よろん」とも読まれるが、「よろん」と読むべき本来の漢字のかたちは「輿論」であったという事実で、これは忘れてならないことである。ただ、本稿においては、「輿論」にまでさかのぼって議論することは考えていないので、すでに定着している「世論」という言葉との関連で「民意」について論じることにしたい。
戦後民主主義の浸透とともに、盛んに使われるようになった「世論」という言葉に込められているのは、政治的な判断に際して依拠すべきものであり、大切な基準として尊重されなければならないもの、という意味合いである。実際に、新聞やテレビ、それに多くの調査機関によって各種の世論調査が盛んに実施され、その結果は大きく取り上げられ、それが新たな世論を形成するという形で影響力を増してきている。
しかし、世論には不安定な側面があることも事実である。あるテーマで人々の意見を聞くと、大多数の国民にとってはその問題の専門家ではないので、はっきりした意思表明ができない場合が多いのではないかと推察される。「はい」でも「いいえ」でもなく、「わからない」とか「どちらとも言えない」といった答えが多くなるのは、その表れである。あるいは国全体の利益を考えた場合にどうなのかを問われたときにも、自分自身の利害に即した答え方をすることが多いのではないだろうか。長期的視野に立った答えが期待されるような場合でも、多くの国民は短期的な視野でしか答えられないのが普通だと思われる。また、任意でアンケートの対象者を選定した場合でも、実際に答えるのは関心のある層であり、回答者の比率が低いほど回答結果に一定の偏りが生じることは避けられない。アンケートにこのようにさまざまな問題があるとすれば、その結果を見る際には一定の幅をもって解釈する必要が生じることになる。
デモなどによって国民(市民)の意思表示がなされる場合についても、参加者は特定の意見を強く表明したい人々であり、そうでない人々、すなわち「声なき大衆」の存在との対比で考えなければならないことは広く指摘されている。
このような例にみられるように、人々にさまざまな形による意思表示があった場合に、それが果たして「世論」と言えるものなのかどうかについては、議論の対象となってきた。実際に戦後日本の長い政治過程の中で、われわれは多くの実例に即した経験を積んできているわけである。そして世論がアンケートやデモの形で具体的に表されたものであっても、また時によってはそうであればあるほど、必ずしも全体の意思を代表するものではない場合もあり得ることが知られるようになってきた。
このような経験を積んだ結果、為政者の側、すなわち政治家に「世論離れ」ともいうべき感覚が生じたのではないか。すなわち、いかにも国民の具体的な意思表示のように見える世論であっても、いくらかの留保条件を付けて解釈しなければならないことを政治家は体感したのではないかと考えられる。政治家は、世論を参照はするけれども、それに100%依拠するのは危険であると知ったとき、民主主義の下で依って立つべき新たな基盤として、ある意味で世論ほど具象的なものではなく、より漠然としたものではあるが国民の総意を表す言葉として「民意」という言葉に思い至り、これを尊重すべき大事なものと位置付けたのではないか。
最近の政治家の言動から判断すると、具体的な「世論」よりも抽象的な「民意」に意識が向いているように思われる。メディアの論調を見ても民意に傾斜してきているのではないか。本稿において「民意」をテーマとして取上げたのは、このような背景に基づくものである。
3.民意の揺れ
世論から民意へと政治家の意識は微妙に変化してきていると思われるが、世論であれ民意であれ国民の総意を把握することと、実際に政策をどの方向へ持っていくかということとは完全に一致するものではない。基本的には、世論に従い、民意を汲んで政策を進めて行くわけであるが、場合によっては必ずしも国民の意向に沿って問題の解決が図られたとは言い難いケースが歴史上あったことをわれわれは知っている。国民投票制度がないわが国では、議会制民主主義のもとで重要な案件について政府の判断を貫いたこともたびたびあった。結果の善し悪しについては、ある程度の時間が経過してから判断されるが、場合によっては価値判断が逆転するなどの大揺れがないとは限らない。
民意そのものにも「揺れ」があることは周知の事実であろう。これまでの議論で世論から民意への流れを説明してきたが、民意は漠然とした概念であるからさまざまな要素が含まれており、アンケート調査の結果によって判断される世論の動向も当然その中に含まれる。そこで、ここではまず最近のアンケート結果から民意の揺れを示してみる。
野田第三次改造内閣が2012年10月1日に発足した直後に実施された世論調査によれば、内閣支持率は29.2%で前回調査(9月)の26.3%からやや上昇したものの、改造効果はかなり狭い範囲にとどまった。一方、野党である自民党の政党支持率は30.4%となって前回より11.1ポイント上昇し、与党民主党は12.3%となって0.6ポイント下落した。
与党に内閣改造効果がなく、野党に支持率上昇という現象が生じたことは次のように説明できよう。すなわち、今回の内閣改造は、野田首相というトップが交代せず、半数程度の閣僚が入れ替わっただけのものであり、政策面等で大きな変化は期待できない。それに対して野党であるが自民党の方は、谷垣総裁に代わって安倍新総裁が選出されている。安倍氏は再度の総裁職であるが、折しも領土問題など外交課題に関心が集まる中で、保守色の強い新総裁ら新執行部への期待が高まったのではないか。金融など積極的な経済政策への期待も大きい。
トップの交代によって内閣や政党に対する支持率が大幅に変動するのは、最近の常態である。われわれは、新しい内閣が成立し、政策対応に国民が満足せず支持率が落ち込み、新首相が誕生することで内閣支持率が急回復するという現象をしばしば見てきた。その結果、内閣の支持率が低下してくると「今の首相では次の選挙を戦えない」という党内非主流派の声が強くなり、その流れが党内を支配し、やがて党首選が行われて新しい顔が登場するといったケースがたびたびあった。過去いくつかの例を見ても明白にそうした結果が示されている。表1にあるように、全体(与野党の支持者、および無党派の総計)で見て、安倍内閣の当初の支持率は63%であったが、末期には33%と30ポイントの低下となっているが、次の福田内閣が成立すると同じ政党であるにもかかわらず支持率は53%に急回復している。麻生内閣発足時にも福田内閣の25%から48%への急回復が見られた。民主党政権になってもこの傾向は変わらず、鳩山内閣の支持率が71%から17%へと54ポイント低下した後に登場した菅内閣の当初の支持率は60%となっている。
このように支持率が発足当初に急回復するのは、前内閣への失望感からの反動という意味合いもあるが、未知の魅力を秘めた新内閣への期待感の現れであることは明白である。それにしても、支持率にこのように大きな変動がみられることは民意に揺れがあることの証明である。
   (表1)支持政党別に見た内閣の初期と末期における内閣支持率の変化(%) (省略)
4.政策形成と民意
政策形成にあたって民意は尊重すべきものであるが、これまで分析してきたように民意には「揺れ」が伴うことは避けがたい事実となっている。実際に、最近の重要政策課題の審議についても、民意の揺れがさまざまな形で影響を与えているので、いくつかの事例を取上げて具体的に吟味していく。これらの事例は民意に関する考察の必要上ここに議論するものであり、それぞれの事例に関する詳細な分析自体が主目的ではない。したがって、そうした角度からの分析は行っていないことを付記しておきたい。
(1)消費税の場合
消費税に関する論議は長期にわたって行われてきており、1989年の導入(3%)までの経緯、1997年の5%への税率引上げまでの経緯もあるが、ここで取上げるのは、その後の税率引上げを巡る議論の過程で民意がどのように影響したか、という点である。
税負担が重くなることは歓迎されず、基本的に国民は消費税率引き上げには強く反対する。政治家もそれを十分承知しているから、次の選挙のことを考えて消費税率には慎重な姿勢を示す。ところが、経済の現状を見ると、長期停滞しているため税収は低迷している。それにもかかわらず高齢化が進行して社会保障費がかさむことや景気刺激の必要もあって、年々歳出は膨らむ一方となっている。その結果、歳入不足に陥り、国債の発行額が増加して各年度の予算における国債依存度が高くなり、発行残高は年々累増している。
このような現状を打開するには歳出を削減するか、さもなければ歳入増を図らねばならない。歳入増には消費税が第一の候補となるが、世論調査によると民意は増税には反対で、歳出削減を求める意見が多くなる。そこで政府もまず徹底的なムダの削減に言及する。はじめはムダを削減すれば財源を捻出できるとの考えから事業仕分けなども実施されたが、それだけでは必要な財源が捻出できないことが分かってくる。そのうちアンケート調査でも消費税増税に対する反対意見の割合はしだいに低下し、やがて賛否が拮抗するレベルにまで達してくる。一部の政治家は、マニフェストで国民に約束したからとか、景気の現状を見ると増税は不可能だとか、格差をさらに拡大することになるからとか、いろいろな理由で増税反対の旗を降ろさない。政府は財政破綻に対する懸念から国民に対して財政が危機的状況にあることを訴えるが、増税反対の立場の政治家や国民の声にかき消されてなかなか認めてもらえない。それだけでなく一部のメディアや政治家からは官僚悪玉論さえ聞かれるようになる。多くのエコノミストや経済学者、ことに財政学者の中には、財政の異常な状態を放置することのリスクが非常に大きくなっていることに警鐘を鳴らす人が増えてくる。しかし、増税反対の大きな声にかき消されて彼らの意見は広まらない。
こうして苦しい財政事情を改善する方策は見つからず、長く膠着状態が続いたが、ギリシャ危機に始まるEU の混乱の主因が財政悪化にあることが明らかになるなどのグローバルな状況変化も一因となって、政治的にも長い論争に終止符を打つ時期が近づいた。野党が消費税率引き上げの方向をはっきり打ち出し、与党の民主党においても菅総理が引上げに言及し、野田政権になってから税と社会保障の一体改革を進める中で自民党、公明党との3党合意が成立し、条件付きながら消費税率引き上げの基本方針が結着したのが2012年6月である。これに基づき消費税・子育て支援・年金改革関連8法案が6月26日に衆議院、8月10日に参議院で可決され成立した。民主党の中にはマニフェストに書かれていないことなどを問題視して多数の造反離党議員が出たが、消費税率引き上げの方向が明示されたことは「決められない」、「先送り」政治からの脱却という意味において画期的なことである。
(2)社会保障の場合
高齢化の進行に伴い社会保障関係費が膨らみ、平成24年度予算において26.4兆円と一般会計の29.2%、一般歳出の51.5%を占めるに至っている。それでもなお若年者対策や就労支援対策等の不備が指摘され、年金・医療・介護等の高齢者に向けられる比率の高い分野の予算も今後ますます必要性が増大する。
一般に、社会保障のあり方によって各国政府は「大きい政府」と「小さい政府」に分けられ、北欧型の大きい政府とアメリカ型の小さい政府が対比される。日本の場合は、それらの中間のタイプが目指されていたと見られる。しかし、高齢化等に伴って給付が増大するにもかかわらず、税や保険料の引上げを実行できず、結果的に「高福祉低負担」状態が現出した。
このような状態に至った道筋、すなわち給付(歳出)の増大に負担(歳入)の増加が追いつかないという経緯は基本的に消費税の場合と同様である。ここにも民意による圧力を感じないわけにはいかない。すなわち、社会保障に対するニーズが強いので、年金・医療・介護等の制度を整備する。高齢化が進めば年々給付は増加する。一方、そのために必要な財源は税収の低迷等によって確保できなくなる。仕方なく国債を発行して一時しのぎをする。景気は回復せず、税収は落ち込む一方なので、さらに国債発行額を増やす。こうして債務は累積するが、財政バランスを改善する方向へ舵を切るメドは全く立たない。
民意は各種のアンケート調査結果にも表れており、高齢者が充実した社会保障を必要としていることは当然であるが、若年層においても低所得層が増加し格差が拡大したとの意識から社会保障に対する期待が膨らんでいる。実際問題として、生活保護受給者数が増大し、戦後のレベルを超える状況となっていることなどから給付増を期待し、一方で負担増は拒絶するという空気が支配的となっている。
(3)TPP の場合
環太平洋諸国のあいだで経済連携協定を結び、貿易自由化を推進する目的でTPP に関する協議が進められている。当初はシンガポールなど4カ国のFTA(自由貿易協定)としてスタートしたが、アメリカ、オーストラリア、カナダなども参加を表明し、枠組みが拡大している。日本の参加については国内に賛否両論の論議が起こっているが、菅政権から野田政権にかけて政府は参加に向けて検討する姿勢を打ち出している。しかし与党内からも強硬な反対論が出されており、意見の統一が図られたわけではない。
TPP における民意について分析を進めていて気付くことは、消費税や社会保障における民意とはかなり性格を異にするということである。まず、各種のアンケート調査を見ると、調査母体、実施時期、調査対象などによって結果には相当の違いが見られる。この問題への関心は高いと言えるが、関心がない人や知らないと答えた人も2〜3割程度は存在する。かなり多くの業種でTPP に何らかの関連があるという認識は持たれている。しかし、関連する分野のうち、特に強い影響を受けることが確実視されているのは農業などの一部の産業である。そのため反対運動で表面に出てくるのは農業団体などが中心である。一般企業へのアンケートでは賛成が多く、経済団体も積極的に参加賛成論を展開している。一方で、有識者の意見は割れている。経済学者などの自由貿易推進論者を中心に賛成意見が主張されているが、一部の有識者のあいだに反対論が広がっている。
TPP は、どの産業に従事しているかによって利害がはっきり分かれる問題であり、とくに農業関係者などの反対意見は強硬である。それに比べると強い調子で賛成意見を展開するといった産業分野があるわけではないが、グローバル化する国際競争に勝ち抜くためには自由化を進めることが必須と考えている企業人は多い。このように濃淡に違いはあるものの産業によって賛否がくっきりと色分けされているのが特徴である。
利害関係のはっきりしている人を除く一般の国民の対応はどうだろうか。冷静に利害得失を比較検討して客観的に結論を出せる人は少なく、メディアの論調や反対運動の勢いに影響される人も多いだろう。調査によって結果に大きな違いが出ているのは母集団に影響されるTPP という問題の性格によるものと思われる。
では最終的に政府与党としては、どのように民意を汲み、国益を忖度して、結論をどう導くべきなのか。以上のようにTPP の場合、消費税や社会保障政策の場合のような民意の示され方とは違い、反対勢力の強い意志表示をどうくみ上げるのか、それが一部の産業の自己保全のための狭量な主張にすぎないのか、あるいは国民的な利害にかかわる大きな問題として理解すべきなのか、そして自由貿易推進による国の利益についてはどう評価するのか、それによって長期的に日本経済発展の道筋を描くことができるのか、といった問題がある。政府与党は、TPP への参加に向けて舵を切るに当たっては、こうした問いに明確に答えなければならない。
(4)原発再稼動の場合
2011年3月11日の東日本大震災は、地震や津波による被害も甚大であったが、さらに福島第一原子力発電所の事故が深刻化するという事態に至った。事故対応は緊急を要するものであり、当初から関係者の真剣な努力が伝えられた。にもかかわらず、その後事故対応の過程における多くの不手際が指摘されている。
各種のメディアによって事故現場の惨状が伝えられ、避難地域の住民の退避生活が苦難に満ちたものであることも明らかになった。また、放射能が広域的に拡散していることが報じられ、風評被害が広がり、国民生活にさまざまな悪影響が及ぶことが次々に知らされた。さらに、現地の事故処理には長期の対応が必要であることのほか、想像を絶する長期にわたり使用済燃料の処理等の問題が大きな課題として残されていること、なども知られるようになった。
実態としては、国内に50基余りある原子炉は定期点検等のため次々に運転が休止され、浜岡原発に対する菅総理(当時)の運転停止要請などもあって、2012年5月には一時的に国内にあるすべての原子炉が運転停止の状況となった。その後、電力需要がピークとなる夏場を迎えるにあたり、電力不足が懸念され、野田総理は福井県の大飯原発の再稼動を決断した。結果的には既存火力発電設備のフル稼働や節電努力が実を結び、電力需給が深刻な事態に直面することもなく夏場を乗り切れたのは幸いであった。
しかし、多くの国民が直感的に原発の危険性を深刻に受け止めているのは事実であり、脱原発を主張する国民の声が政府主催の公聴会なども含めさまざまな場に届くようになってきている。電子メディアによる呼びかけに応じて参加する一般の人たちからなる首相官邸付近でのデモの参加者数は次第に増加し、大飯原発再稼動後には反原発集会への参加者は10万人規模に達したとされる。
一方、経済界、産業界からは、一定レベルの生産活動を続け、雇用の維持を図り、競争が激化するグローバル経済の中での日本の位置が後退することのないよう、原発を含めたエネルギー政策には慎重を期すべきだとの要請が出されている。
福島の原発事故に関する調査報告書も相次いで(政府、国会、民間、東電社内の4報告書)公表され、事前の対策や事後の対応に不備があったことなどから事故原因は人災であるとの論調が支配するようになった。
政府は12年7月14日のさいたま市をスタートにして8月初めまでに仙台、名古屋など11都市で新たなエネルギー・環境政策についての意見聴取会を開催した。ここで示されたのは、10年度に約26%だった原発依存度を30年までに、0%、15%、20〜25%のいずれにすべきかという選択肢で、0%を支持する声が圧倒的に多かった。
以上のように、アンケートや公聴会において示された回答者・参加者の声からも、反対集会に参加した多数の市民の姿勢からも、原発再稼動に対する厳しい見方が伝わってくるので、ここから民意を判断するとすれば、脱原発依存という方向で一致するとみて間違いはない。原発といえば放射能被害が意識されるわけで、がれき処理受入に対する市民の反応にも示されたように、「きずな」で結ばれたはずの日本人の間にも、こと放射能に関しては反応が全く異なることが明らかになっている。
しかし、「脱原発依存」に関しては、このような形で表される民意だけを判断材料にして政策決定することには問題がある。エネルギーの確保は、生産活動を継続的に行うために必須であり、国民生活にとっても必要不可欠である。今後のエネルギー需給を見極め、必要量を確保することなしには経済も国民生活も成り立たないわけだから、単純な感情論だけで済む問題ではない。確かに安全性の確保は重大問題なので、この点に関しては万全を期する必要があるが、火力や自然エネルギーなどですべてをまかない、原発をゼロにすることが実際に可能なのか。この点に関しては十分に精査しなければならない。また、人々がもっとも懸念する安全性に関しては、安心安全な技術レベルを確保できるよう徹底しなければならない。
他の論点と同様に、民意は尊重すべきであるという点に関してはいささかの異論もないが、こと原発に関しては、民意を尊重するということは、「エネルギー政策の決定には、他の問題と比較して“より”慎重を期す」ということではないか、と考えられる。
(5)領土問題の場合
日本近海を巡る領土問題は、北方領土をはじめとして竹島、尖閣諸島などが知られている。北方領土に関しては、国民のあいだに、領土自体がかつてのソ連や現在のロシアによって不法占拠されているという意識が強いし、旧住民には漁業権などの問題もあった。最近も、メドベージェフ大統領(当時)が10年11月に国後島を訪問し、わが国から強い反発を受けた。12年7月には首相として再度国後島を訪問した。プーチン大統領とのあいだで領土問題の進展が期待されている中でのメドベージェフ氏の行動には怪訝な思いを抱く国民も多い。竹島については、戦後の混乱に乗じて韓国によって占拠され、そのまま実効支配されているとの認識である。もとは島根県の隠岐諸島の漁民が漁業基地として活用していた時代もあり、今でも隠岐の住民はその意識を持っている。
尖閣諸島を巡る状況が北方領土や竹島と違うのは、実効支配しているのがわが国である点である。1895年の閣議決定により正式に日本領土に編入され、現在は沖縄県石垣市に属している。状況が急変したのは1968年の海底調査で周辺海域に石油・天然ガスなどの資源が埋蔵されている可能性が高まってからである。71年以降、中国と台湾ははっきり領有権を主張するようになっている。近年はとみに領海への監視艇や漁船の接近事例が増加し、海上自衛隊との衝突事件が起こっている。
一般に領土問題ほど国民世論が結束し一致団結しやすいものはなく、日本人として領土意識を持たない国民を想像することは非常に難しいだろう。これまでは北方領土にしても竹島にしても、ロシア(ソ連)や韓国が実効支配し、それぞれ一方的に領土問題は存在しないとの通告を受けてきたので、国民のフラストレーションは相当に高まってきている。それに対して、最近の尖閣問題は、日本が実効支配している点で状況が違っている。北方領土や竹島の例にならえば、今回こそは中国や台湾に対して、領土問題は存在しないと宣言できるはずだと思っている国民が多いだろう。実際、政府の基本的スタンスはそうなっているが、少し押しが足りないように見えてならない、というのが国民の実感ではないだろうか。
5.「民意を反映させる」ということ
前節において5つの具体的な事例を取上げ、それぞれの場合に政策形成に対して民意がどのような役割を果たしているのかを分析してきた。比較検討すると明らかなように、各ケースで示されていると考えられる民意には性格的にはっきりした相違点がある。本節においては、各政策課題について、1民意の実態、すなわち民意の示され方、2民意をどのように受け止めるべきか、もし民意に沿えないとすれば、その客観的な状況、および、3政策形成の方向、すなわち実際にどのような政策として実行され、あるいは実行するべきなのか、の3点に集約して議論を進める。
(1)消費税の場合
消費税増税については、財政の現状からみて避けがたい政策選択として多くの識者のコンセンサスを得ている。しかし、民意は税率引上げには心情的に反対する傾向が強く、その背景にはかつては無駄の排除によって財源確保は可能だという意識が強く働いていた(現在は、その意識は以前と比較すると薄らいでいる)。最近でも、消費税にはいわゆる「逆進性」(注8)があるという議論が盛んであることからわかるように、低所得階層にとってより厳しい税であると考えられていることがあり、その根底には若年者を含めて「格差拡大」(注9)が進んでいるとの認識もある。
しかし、財政は危機的な状況であり、今後も高齢化の進行などで歳出の増大が見込まれる現状においては、安定した財源の確保が是非とも必要となっている。ギリシャの財政危機がEU 全体に影響を及ぼしている状況を見ても、他人事と見過ごすことはできない。
したがって、全般的にさらにムダを徹底的に省いて歳出削減を実施することが最低限の前提となるが、そのうえで社会保障についても使途を厳しく限定するなどの姿勢で臨み、民意の納得を前提にしたうえで増税に踏み切る、という姿勢が重要である。
(2)社会保障の場合
社会保障に対する意識は、基本的に給付はできるだけ厚く、負担は極力軽くというのが民意であることは理解できる。論理的には高福祉高負担か低福祉低負担かのいずれかしかあり得ないのは分かっていても、給付は期待するが、負担は望まないのが民意というものである。
しかし、財政の実態を見ると急速な高齢化による歳出の急増にもかかわらず、税収が伸び悩み、財政バランスが大きく崩れている。今後も高齢化はますます加速し、財政負担が増大することは避けがたい情勢である。退職後の高齢者に年金等の社会保障が必要なことは言を俟たないし、少子化対策のためにも財源が必要である。
したがって、政府には社会保障制度の持続可能性を確保していくことが求められている。しかも一定の給付レベルの確保、低所得層の生活維持といった課題に対処し、財政バランスも改善していかなければならない。将来的には、国民の納得を得ながら給付水準を見直すこと、財源不足が顕在化した場合には新たな財源措置が必要になることも覚悟しなければならないだろう。
(3)TPP の場合
TPP には農業などの強力な反対勢力が存在する。一方で、経済界、産業界は賛成意見を表明している。識者のあいだでも意見は割れている。自由化のメリットについての理解は浸透しているが、全員がメリットを受けるわけではなく、一部には壊滅的な被害を受ける産業があるとの予測もある。反対勢力の意見はメディアにもたびたび登場し、強い印象を与えている。一般の国民にも心情的な支持者がいるのが現状となっている。
しかし、グローバルに状況をみると、日本が各国とのFTA 等の自由貿易協定の締結状況において後れをとっていることは明らかとなっている。製造業は、円高、高い法人税率、人口減少、新興国の追い上げなどによって厳しい状況を強いられており、TPP への参加が遅れるようでは競争条件の悪化は致命的となる。企業サイドばかりでなく、雇用者にとっても、企業が厳しい状況に置かれることはマイナスであり、自分自身の雇用にも響いてくる。
したがって、政府は各産業の置かれた状況を総合的に把握し、長期的な視野に立って、国益の観点から参加の是非を冷静に判断することが必要である。その際、TPP の枠組みへの参加によって甚大なマイナスの影響を受けることが予測される産業等に対しては、実態に合った対策を講じることが求められる。
(4)原発再稼動の場合
原発問題に対する民意の特徴としては、まず放射能に対する非常に強い拒否反応があげられる。また、福島原発事故における「人災」の部分が強調されることから、技術への不信感が非常に強くなっていることも指摘されよう。一般に恐怖感ほど人の感覚に強く訴えるものはないので、とにかく原発はいやだという素朴な感情が民意の基底にあることは間違いないであろう。
しかし、だからといって今すぐに原発を全廃したらどうなるかは容易に想像がつく。代替エネルギーのうち火力には化石燃料の確保という問題があり、自然エネルギーの開発はまだ先の読めない不安定な存在である。いずれにしてもコストの問題があって、かなりの電気料金の負担増となって跳ね返ってくることが予想される。また、原子力から100%手を引くことは、今後の国際的な原子力問題への対応を困難にし、廃炉など将来必ず必要になる重要案件に対応できる技術者の確保が難しくなるという問題を生じさせる。
したがって、「原発依存からの脱却」という基本原則には問題はないが、これから新しいエネルギー政策を進めて行くに当たっては不確定要素が多いので、時間をかけて慎重に合意形成を図っていくことが重要である。たとえば30年までの目標を今すぐに決めて固定的に考えていくのは実態に合わない。技術力の向上にも期待していいし、新たなエネルギー資源の開発が進む可能性もあるので、焦りは禁物である。
(5)領土問題の場合
他の問題と違って領土問題に関しては国民的な総意が得やすい状況にあると考えられる。これまで長年にわたって北方領土や竹島で味わってきた屈辱感を一掃するようなすっきりした対応を、尖閣諸島の問題に関して国民は政府に期待しているのではないかと推察される。中国で起こったようなデモや暴動などといった激しい行動を日本国民が起こすことは考えられないが、政府の対応には注視している。
しかし、日本政府の対応には慎重さが求められる。中国では反日教育が浸透しており、若い世代を中心に日本に対する反感は非常に強いものであることがわかる。現地で受けた日本企業の損害にも配慮しなければならない。だからといってこれまでの主張を変えるのは論外であるが、中国政府との関係を途絶させることなく、状況を冷静に観察しながら対処する必要がある。
したがって、政府は領土の帰属については一歩も引くことなく毅然とした態度を取り続けることである。一方で中国政府に対し、両国の経済面における協力体制にひびが入ることはお互いにとって大きな損害であり、40年にわたる友好関係を無にするものであること、将来の建設的な関係を見据えた対話の継続が必要であることを粘り強く訴えて行くことが求められる。
   (表2)民意と政策形成の関係 (省略)
6.むすび
「民意とは何か」をメインテーマとする本稿において、サブタイトルとして「政治の論理と経済学の論理」を掲げたのは、民意は基本的に政治に関連するテーマであるが、最近の政治的な争点の中では経済問題がトップの座を占めることが多くなっているからである。たとえば民主党のオバマ氏と共和党のロムニー氏との間で戦われ、本稿執筆時点で最終段階のテレビ討論が行われているアメリカ大統領選挙における最大の争点も景気回復や雇用などの経済問題である。EU 各国でも財政危機や異常に高い失業率などの経済問題が最大の課題となっている。いずれの場合でも、民意が最終的な方向を決める際の重要なポイントであることは共通している。
本稿では、国民が深い関心を持っている国内問題を分析対象とし、具体的に5つの事例を取上げた。これらの事例は、大きな政治問題になっているが中心は経済問題であることが多い。最初の3つは明らかに経済問題が政治問題化している例である。4つ目の原発再稼動については、政治的な要素が強いが、背景には化石燃料の輸入や自然エネルギーの開発コスト等の経済問題があるし、補償問題や廃炉などの処理コストは電力料金に関係してくる。5つ目の領土問題は、非常に政治的要素が強いが、経済問題が全くないわけではない。中国進出企業の受けた影響などは経済的に処理されねばならないし、漁業を巡る経済的な利害関係も大きな問題である。
このように政治問題が経済問題化している背景には民意が密接に絡んでいる。あらためて民意の背景を考えてみると、アンケート調査の結果やデモ等の直接行動、それに労働団体や経済団体等による組織的な意見表明、あるいは各種のメディアを通じて示される学者・有識者等の意見なども民意を構成するものと思われる。
市場を通じた個別の取引によって決まるような事柄であれば、民意の問題は、その経済的取引の中に自然に解消している。すなわち、価格を媒介として需給関係が決まるから、民意をあらためて問題にする必要はない。民意が問題となるのは、出発点において政治的な問題であるものに限られる。
政治的な環境は、2009年の衆議院選挙で自民党を中心とする枠組みから民主党を中心とする枠組みへの政権交代で新たな方向へ展開した。この時点で政権交代は民意の表れであったが、新しい政権が掲げた政策方針である「マニフェスト」とともに、スローガンとして掲げられた「政治主導」、「国民の生活が第一」、「コンクリートから人へ」なども個別の問題への対処に躓くことで次第に色あせ、それとともに民意を測るモノサシとも言える与党支持率や内閣支持率も低下傾向を示している。
民意の離反は、政権交代後の与党の政策運営に対する失望の積み重ねによる。首相が代わるたびに一時的に人気は回復するが、支持率を一定期間維持できた例は稀である。支持率低下は与党内に不満勢力の広がりとなって現れ、離党者が出たり新党結成につながったりする。政権交代後の与党が民意に沿った政策を必ずしも継続できないのは、対外関係や財源(経済問題)といった「現実」に直面することも理由の一つだろう。離反者が出るのは、政策に不満といった理由もあるが、本音は次の選挙への懸念にあると見られている。以上を総括すれば、「政治、経済、民意の三すくみ状況」が現出していると言うことができる。
「三すくみを解消することはできるのか」について考えてみるために、もう一度、三者に関する論点を整理してみよう。
第一に、政治については、一部の政治家の資質に疑念が呈せられている。官僚を排除するなどの狭量な姿勢は、独断的な政治判断を横行させ、政策遂行のスピードを遅らせた。また、党利党略を優先させ、国会審議をなおざりにした。さらに、次の選挙を念頭に置いた政治行動によって先の選挙における有権者の意思を踏みにじった。一言でいえば、政治家の使命を忘れ、自己中心的な言動に終始している。
第二に、経済については、何が国益につながるのかといった価値観が変動している。たとえば1970年頃に八幡・富士や第一・勧銀の合併問題が浮上したとき、一部の経済学者が連名で反対するなど経済学の立場からの反論が示された。現在では、たとえば新日鉄・住金の合併問題に専門の立場から反対するような空気がないことに示されるように、合併による市場占拠率の高まりに懸念を示すような風潮がなくなっている。この問題に象徴されるように何が国益かを判断する際の基準となるような考え方が変化している。また、TPP の場合のように、経済学的には自由貿易の利益が自明であっても、弱体な産業を一時的に保護することが国益と判断する立場もあるので、慎重に結論を導くことが必要となっている。
第三に、民意については、それを尊重すべきことに誰も異議はないはずであるが、民意には本質的に不安定な一面があること、それを正確に把握することが必ずしも容易ではないこと、いちいちそれに従っていては選挙制度を通じた代議制の意味をなさないことなどの問題がある。
このように考えると、三すくみを解消し「民意を尊重しつつ、民主主義に基づく政治制度を通じて、経済的な意味での国益を実現する」という状況を導くためには、前節において検討したように、それぞれ具体的なケースに応じて、1民意の実態を正確に把握し、2内外情勢を慎重に見極め、3客観的かつ冷静に政策形成を図る、ことが求められる。こうした政治過程は、経済学的な裏付けに基づく慎重な検討を踏まえて進められなければならない。  

 

●国民の、国民による、国民のための国会へ向けた改革私案 2018/2 
1.はじめに
国会は、わが国の国民が推進する民主主義的統治構造の下で国民の総意を代表する最高の意思・政策決定機関であり、三権分立体制の一環として、その権威は誰しも侵害することが出来ない。この点が、中国にみるような共産党が立法府、行政府、司法府の上位にあって統治する一党独裁国家とは基本的に異なる。戦後平和憲法の下で基本的人権が保障され、自由と平和を愛好する我が国国民は、国会の権威・権限を侵害しようとするいかなる国内外の勢力にも毅然として対抗し、民主主義的統治機構の頂点に立つ国会の権威、権限を死守する責任をもっている。
しかし、国内外の情勢の変化、国民の政治意識・行動の変化に伴い、国会が国民の、国民による、国民のための統治機構の一環である限り、立法府である国会のあり方、運営の仕方などについて、国民の総意の下で審議・改革することも、わが国民の政治的責務である。同様なことは、行政府、司法府のあり方、運営についても同様であろう。しかし、民主主義統治機構の基本である三権分立体制は、絶対に維持さるべきものであり、国会も、行政府、司法府もすべて、国民の基本的人権を擁護し、国民の幸福を追求する権利を保障する義務があることはいうまでもない。
世界経済のグローバル化、国民の価値観、世界観の変化に伴い、国民各層の政治意識・行動も変貌しており、戦後72年余の民主主義的統治機構の運営も多くの課題を抱えていることが判明した。これらの変化に対応して、国民の、国民による、国民のための国会の再構築のためには、如何なる政治改革、特に国会を巡る改革が必要となっているかに絞って、以下考察してみたい。
2.国政レベルでの民主主義政治制度の改革
我が国の議会制民主主義体制へ民主主義の理念を一層貫徹するためには、下記に列挙した普通選挙制度を含めた諸々の制度上の欠陥や、市民の政治意識、より広く国のガバナンス体制の欠陥を早急に除去することが不可欠である。以下、実行可能な範囲内での国政レベルでの議会制民主主義政治制度の改革と議会運営上の改革を、若干提案したい。
(1)普通選挙制度の改革
(ア)衆参両議院議員の立候補者は、日本国籍を有し、あらゆる民法・刑法上で3年以上の有罪判決歴がない、満25歳以上の男女とする。
(イ)現行の国会議員選挙に関する法律を改正し、衆議院議員選挙は、人口比に徹し、簡易国勢調査による有権者35万人に一人とする。小選挙区制のみとする。(注記1)
(ウ)衆議院議員の任期は4年とし、再選による任期は通算4期を限度とする。(注記2.1)
(エ)参議院議員の任期は4年とし、再選による任期は通算4期(16年)を限度とする。(注記2.2)
(オ)参議院議員の選出は、小選挙区制度を廃止し、一方で都道府県を一選挙区とするものと、他方で全国を一選挙区とするという2種類の比例代表制を都道府県単位で導入し、それぞれの選挙区制からは一人を選出する。(注記3)
(カ)衆参両議院に欠員が生じた場合には、各選挙区別に繰り上げ当選とする。その場合の任期は残任期間とする。補欠選挙は実施しない。
(キ)衆参両議院議員立候補者は、各政党が推薦する者と自薦等による立候補者から構成される。各政党が推薦する衆参議院議員立候補者の半数は女性とする。
(ク)衆議院議員の小選挙区制に基づく立候補者選定では、現行の一人多数票制から複数多数票制へ変更する。(注記4)
(ケ)衆参両議院議員候補者による選挙活動の期間、方法等は、特に定めのない限り公職選挙法下の現行制度を継承する。
(コ) 衆参両議院議員候補者による選挙費用の調達は、借入金を含む候補者本人名義の資金と候補者への個人寄付に限定し、一人当たり寄付限度額は年100万円とし、国政報告会や支持有権者個人ないし団体所属個人による集会での納入会費を含む。団体寄付は禁止。候補者一人当たりの選挙費用総額は1億円を限度する。
(サ)政党および政党支部への個人及び団体寄付は合算して、一個人、一団体当たり年間100万円とする。
(シ)政党助成金制度は廃止。(注記5)
(2)国会審議・運営制度の改革
(ア)衆参両議院の通常国会会期は、予算審議国会(1回)、法制審議国会(4回)、決算審議国会(1回)の年6回、各会期は30日間とし、予算審議国会は補正予算審議を含め毎年1−2月、法制審議国会2−3月、5−6月と9−10月、11−12月、決算審議国会は4−5月とする。各通常国会は、議員の単純過半数の合意に基づき特別国会を召集でき、会期を定める。
(イ)衆参両議院では、議員の3分の1の要請により、議長は臨時国会を召集しなければならない。会期は国会議員の合意に基づく。
(ウ)国会審議での党議拘束制度を廃止。(注記6)
(エ)衆参両議院に議院運営委員会、政策委員会、特別委員会を置き、各委員会の議題は、各政党代表の合意により決定する。
(オ)衆参両議院における議院運営員会、政策委員会、特別委員会の委員数は、政権与党所属議員と野党議員同数とする。無所属議員は与党か野党どちらかに席をとる。
(カ)衆参両議員は少なくとも3委員会への登録を義務とし、その選択は任意とする。各委員会の委員長および副委員長には、各政党推薦による政権与党と野党代表が付く。
(キ)すべての委員会所属委員は議案提案権を有する。委員会で3分の2以上の賛同があった場合には、委員長はその決議に従い、議員立法の審議に入らなければならない。(注記7)
(ク)衆参両議院におけるすべての法案審議は、政策委員会あるいは特別委員会での出席議員3分の2の合意を経て、本会議へ上程される。本会議での議決は出席議員の5分の4の合意で成立する。
(ケ)衆参両議院の政策委員会、特別委員会の審議は、一般公開を原則とするが、委員の3分の2以上から、非公開の請求がある場合には、委員長は非公開とすることができる。
(コ)衆参両議院の政策委員会、特別委員会の審議では、委員の3分お1以上から、証人、参考人の出席を求める要請がある場合にば、委員長はその要請に従う。(注記8)
(サ)衆参両議院における予算委員会の審議を実効あるものにするために、国会に政策・予算分析・評価を専門とする独立委員会を設置する。本独立委員会は同時に、衆参両議院における決算行政監視委員会の審議を実効あるものにするために、決算行政監視委員会を補佐する機関としての機能も有する。本独立委員会は、国政調査権限を有する。その詳細な機能および運営規則は別に定める。(注記9)
(3)国会議員の報酬と報告責任に関する改革
(ア)衆参両議院議員の報酬は年俸1,200万円とする。
(イ)衆参両議院議員は、政策活動費用として年600万円を限度として請求できる。その収支状況は毎月議長へ報告し、常時一般公開とする。この運営規則は別に定める。
(ウ)衆参両議院議員は、議員会館に執務筆をおき、政策秘書6人を限度として採用することができる。政策秘書の給与は、勤務条件に応じて年俸360万円から600万円とする。政策秘書の採用には、両議院の議院運営委員会の承認を必要とするが、政策秘書応募要件および採用に関する規則は別に施行細則で定める。(注記10)
3.民主主義的政治制度の一環として基礎づける三権分立制度は、
   理念としての民主主義を貫徹できるか
(1)三権分立制度と独裁・専制政治制度
古代ローマ時代以来、王政下にあったあらゆる地域の人々は、絶対的君主(制)の下で15世紀以上にわたって、政治的自由は束縛されていたが、欧州では13世のMagna Carta採択以来、国政、地方自治体レベルでの市民(burg/berg に住む商人たちと農園主たち資産家bourgeoisieを指す)による一定範囲内での自治が認められて、各種政治制度が誕生した。18世紀の米国独立戦争とその後のフランス革命によって、欧米諸国で市民(相変わらず資産家たち限定的な市民で、小作人、日雇い労働者、農奴、奴隷を含まない)による、市民自身の、市民のための政治体制の端緒がみられたが、我が国を含めてその他の地域では、相変わらず王政ないし独裁専制政治制度が横行した。なお、市民の範囲が広がり、現在のように非納税者を含むようになったのは、第1次世界大戦後のロシヤ革命以降である。(なお、わが国では第2次世界大戦後)
しかし、第2次世界大戦後に政治的独立を果たし、民主主義的政治制度の下で三権分立体制が導入された途上国でも、実態は三権分立からほど遠い国々が大半であり、米ソ冷戦体制が解消した1990年代以降に入って、漸く一部途上国で徐々に実現しつつある状況である。現在でも一党独裁・専制政治体制国家では、民主主義的政治制度の根幹である普通選挙制度も三権分立制度も共に存在しない。(参考:中国、朝鮮民主人民共和国、カンボジアなど)そこでは、政府が国民に奉仕するのではなく、国民が党・専制政治指導下の政府に奉仕することを強要されており、民本主義、民主主義の下での個人の政治的自由は存在しない。グローバリゼーションと「2030年開発アジェンダ(SDGs2016−30)」の下で経済成長、貧困削減、教育水準と情報・資本・人々の移動の国際化が紆余曲折ながらも進展し、中産階級が着実に増大している中で、途上国において、かかる独裁専制政治制度は何時まで存続できるのであろうか、甚だ疑問である。
(2)改革への道
(ア)実態面での主要諸国との比較
三権分立制度を導入している多くの国々では、国政では行政府の長たる大統領の選挙では直接選挙制を採択しているフランス、フィンランド等EU諸国、多くの中南米国、旧ソ連邦諸国と一部アジア・アフリカ諸国と大統領選挙人制度と直瀬選挙制度を併用している米国があり、他方では行政の長について、間接選挙制度の下で議院内閣制を採用している一部のEU諸国と旧英連邦諸国と日本がある。
一般的には、前者では三権分立制度下における立法、行政、司法機関間の相互牽制機能が厳しく、後者では比較的弱いとされている。その理由は、前者では、立法府と行政府の長は国民の直接選挙下にあり、それぞれが国政の最高意思決定機関、国政の最高執行機関として完全に独立しているのに対して、後者では、立法府が行政府の長を任命し、行政府の長が閣僚と政府機関の長や委員と司法府最高機関の任命権者である。なお、前者でも行政府の長が閣僚と政府機関の長や委員と司法府最高機関の任命権者であるが、前者では立法府による合意が求められる。後者でも、一部重要な政府機関の長ないし委員の任命には、立法府の同意が求められるが、議院内閣制の下で、衆議院で3分の2の絶対多数を占めている場合には、立法府による同意はさほど困難ではない。さらに、両制度の下で国家予算案と決算案は行政府の長が作成し、立法府が合議の上最終決定するが、前者では立法府と行政府の間で常に緊張関係がみられるのに対して、後者では議院内閣制ということもあって、かかる緊張関係は微弱か存在しないのが通例である。なお、会計検査院が前者では立法府に所属しているのに対して、後者では行政府に属していることが多く、これが両府間の緊張関係の強弱に関係しているといえよう。前者における立法府の優位性は、行政府閣僚の承認権、高い頻度の公聴会の開催、有能な多くの議員スタッフによる強固な支援体制の下での議員立法の普及度・頻度の高さと相まって、議院内閣制に立脚した後者に比すると、民意に沿った議案審議が一層見られ、より民主主義的な政治制度といわれる基本的な理由である。
(イ)三権分立制度の活性化と民主主義的政治制度の改革
議院内閣制の下では、行政府は立法府で多くの議案成立要件である3分の2の圧倒的多数議席を確保すると、三権分立制度に本来期待する立法府の牽制機能の有効性は低下する。2012年以降の自民党・公明党連立の安倍政権の発足以来、内閣法制局による集団的自衛権の合憲性という従来の憲法解釈の大転換や安保法制をめぐる立憲主義違反に疑問を投げ、抵抗したのは野党議員だけであり、立法府は完全に行政府の管理下にあるといってよい。さらに、司法府の長も内閣総理大臣の指名に基づき立法府が承認することになっており、司法府下部機関の裁判官任命も最高裁判所長官によるので、立法府で多数党である与党の意向が司法府でも重視される傾向が最近屡みられる。今回の最高裁による別姓違憲訴訟に対する敗訴も、その一例であろう。辺野古基地への移転に関する沖縄県知事による工事差し止め措置をめぐる訴訟事件への地方裁判所の判決は注目に値する。(過去における沖縄県知事対日本政府の訴訟事件では、常に日本政府が敗訴した。)かくして、今日の我が国の国政では、立法府、行政府、司法府の間の緊張関係や相互牽制関係は、最早存在しないし、そのために民主主義的政治制度の根幹である三権分立体制が危機に直面していると言ってよいであろう。
(ウ)議会制民主制度の下での健全な三権分立制度の回復:二つの選択肢
[1] 次回の国会議員選挙で、与党議席を3分の2過半数未満に追い込む。
このためには、野党勢力は選挙に関係なく、通常の国会審議に於いて、政策面で与党へ対抗できる、国民にとって魅力的な政治活動を展開する。その結果は、選挙時における有権者の投票行動へ反映される。しかし、このような状況を生むためには、常時野党間の連絡・協議を密にして、政策面での合意点を出来るだけ多く見出して、政策面で与党に対抗することが急務である。その場合、当然ながら大同小異という形で妥協が必要である。出来るだけ与党との政策面での違いを明確に有権者に示すためには、最も重要な戦略的な政策で野党間の合意を見出し、他の政策の違いについては目をつぶる。可能であれば、野党間で統合可能な政党は、選挙時以前の早い段階で統合できる環境作りに励み、実際に統合できていることが必要である。選挙直前の選挙のための統合は、有権者が最も嫌う行動であることから、これは絶対に回避しなければならない。
なお、選挙運動時に、衆議院選挙では県別、小選挙区別に与党候補に対抗する野党の立候補者をたてるためには、常時かかる有望な立候補者を育成ないし発掘しなければならない。選挙時には、野党の立候補者は一人区では一人はもちろんのこと、2人区でも与党候補が一人の場合には一人に絞り、2人の場合には2人という風に全野党間で調整し、全選挙区でどの野党に関係なく野党候補者を当選させるためには、与党候補者と同数を野党候補者で占めることが不可欠である。あらゆる選挙区で、野党候補者数が与党候補者を上回ると、野党候補者同志での票数分裂が結果し、与党候補者が当選することになる。参議院議員選挙でも同様である。
[2] 国会におけるあらゆる重要議案の成立に必要な賛成議席を3分の2以上にする。
与党の議席数が全議員数の3分の2を下回る場合には、重要法案の制定・採決時に、与野党間の協議が不可欠となることによって、与党による野党の政策への歩み寄りが実現し、民意に一層向いた政策の採択・実現が可能になる。ただ、かかる法案採決に拘わる議院運営上のルールの改正には、与野党間での根気のいる調整協議が不可欠であろう。このような議院運営ルールの改正には、野党はこの課題を選挙時の重要な政策公約として取り上げることによって、選挙後の与野党間の合意が一層容易になると考えられる。
[3] 議院内閣制を維持しつつ、内閣総理大臣の選出で両議院議員間の合議制度を導入へ
現行の議院内閣制に改革を導入して、内閣総理大臣の選出を衆議院議員の3分の2の採決ではなく、参議院議員の同意を条件とする。こうすることにより、国民、有権者の意向を一層反映させることができると考える。同時に、組閣権限は従来通り、内閣総理大臣の権限とするが、この場合任命大臣の承認を米国のように立法府の権限とすることか必要であろう。また、内閣総理大臣の所属政党と衆議院の多数党との間に「ねじれ」が生ずることもあり得るが、これによって立法府と行政府の間には緊張関係ないし牽制関係が生じ、三権分立制度が元来期待する効果が生まれる。この場合、内閣総理大臣の権限への国民の信頼は現行の総理大臣へのものと比較して、一層大となるであろう。
4.要約と結論
以上、民主主義の理念を貫徹する民主主義的政治制度の現状とその在り方について考察してきた。公正、平等、自由、参加を基軸とする民主主義の理念に立脚した政治制度の発展は、国家間で若干の時間的・制度的仕組みで差異がみられるが、いずれも19世紀後半以降の近代化過程で顕著となった比較的新しい政治制度である。いくつかの国々では21世紀の今日でも、未だ定着は愚か、導入さえされていない。本政治制度は、基本的には住民、国民が主権者として行使する普通選挙制度と三権分立制度を両輪とした制度である。前者は、最高意思決定機関たる地方議会と国会が、住民、国民を代表し、後者は立法府が制定した条例・法に基づいてその政策を履行する行政府と、国の最高法規たる憲法とその他の法律に基づき、行政府の権力行使を監視し、立法府の法制行為の合法性を審査する司法府による相互牽制体制を意味する。この両制度により、民主主義の理念がどの程度実現し、住民、国民の経済的・政治的・社会的福祉の向上、環境保全、文化的充実につながるかどうかは、立法府、行政府、司法府の三権分立制度に基づく運用如何によるが、最終的には、住民、国民の監視体制によって規定される。
かくして、いかなる地方自治体や国においても、民主主義の理念の貫徹は、一方で民主主義政治制度の存在と、他方ではその制度を運用・監視する住民、国民の決意と能力によって規定される。我が国に於いては、民主主義の理念に基づく民主主義的政治制度が第2次世界大戦後の民主化過程で導入されたこともあって、地方議会、国会とその運営はもちろんのこと、行政府や司法府によって導入された諸制度・仕組みとその運用も未だに改善・改革すべき点が多々存在する。と同時に、これらの法律、制度とその運用を監視し、民主主義の理念に合致するかどうかを検証し、国内外の環境、価値観の変化に即して民主主義的政治制度の再構築責任を有する地域住民、国民の意志および主権者教育を通じた有権者の能力の向上が急務である。
Better Late than Neverである。以上

(注記1)衆議院議員と参議院議員の任期を通算4期とした根本的理由は、一方で古参議員の知見を各種委員会、本会議での討議に活用すると共に、若手議員の研修活動に力を入れてもらうためである。他方では古参議員によく観察される既得権集団との癒着を出来るだけ排除し、新しい議員の参入を通じて、国会での審議を創造的かつ時代の要請に合致するためである。さらに、衆議院議員選挙を小選挙区制だけに限定したのは、各政党内部での政策形成審議で、出来るだけ日本各都道府県、市町村が直面している課題の多様性を理解すると共に、共通課題への全国的な解決策に着目して、国会における審議を全国的に組織された産業界、労働界、職種別集団などの既得権益よりも、全国の各地域社会に居住する国民一般の要望・利害に応えるためである。
(注記2)議院内閣制の下では、内閣総理大臣は衆議院解散権を有し、政局の見通し故に、戦後毎年ないし2年以内に衆議院解散による衆議院選挙が実施されてくることが多かった。数少ない例外は、吉田・佐藤・中曽根・小泉・安倍第2次内閣だけである。このような状況下では、任命大臣の是非や政局を睨んだ議論が横行して、政治の安定を通じた法制・予算・決算などについて与野党議員による政策に基づいた真剣な審議という、国民が衆議院に期待する本来の役割を満足させることは到底不可能である。そこで、衆議院議員の任期を絶対年数ではなく通算4期(議員任期を全うすれば最長16年)に限定することによって、与党議員の間にも内閣総理大臣の安易な解散権の行使を抑制する効果があり、また野党議員による総理大臣不信任案の安易な提案を阻止することも期待できる。なお、参議院の解散はないのが故に、参議院議員は再選を含めて最長通算16年間議員として、中長期的な立場からの国会審議ができる。
(注記3)参議院議員選挙を比例区制に限定した根本的な理由は、国会が制定する法律・制度設計について、特定地域の個別利害に焦点を合わせた衆議院での政策審議に対して、参議院では全国的、国際的、世界的視点に立った国民全体の利益に資するための審議を期待するためである。と同時に都道府県単位での比例代表制の導入は、かって全国単位での比例代表制の導入で見られた「政策形成に無関心な立候補者」を排除するためである。
(注記4)現行の小選挙区選挙制度では、同一選挙区の有権者の投票数の絶対数が立候補者の当選・落選を決定する。小選挙区で落選した立候補者が比例区で当選する道は現在残されているが、この制度が政党の党内事情によって左右されるために、小選挙区比例区並立制度に対する批判も多い。よって新しい制度の下では、比例区制度を廃止する。しかし、現行小選挙区制度の最大の問題は、有権者の選択肢が狭められていることにある。そこで、立候補者の数にもよるが、上位3人まで選出し、最上位候補者は3点、次は2点、最下位は1点という点数制を導入して、最終的には最高点数を獲得した候補者が当選するという新しい選挙制度の導入を提案したい。ある政策に賛成して候補者(政党Aないし無所属)へ投票する有権者が、他の政策では候補者(政党A以外)を支持する場合もあるであろう。しかし、現行の小選挙区制度では、有権者は、そのどちらかの政策を優先して、一人の候補者(政党A,B,Cないし無所属)へ投票することしか選択肢がない。政策に注目して複数の立候補者へ投票する選択肢があれば、特定選挙区で有権者大半の支持政党がA党であっても、政策で優位なB党、C党ないし無所属立候補者が選出されることが可能となる。このような選挙制度の下では、政策でもって選挙戦が闘われることになり、現行制度以上に選挙民の民意が政策ごとに反映されて、従来型の血縁、地縁、金銭本位の選挙ではなくなる。この複数候補点数制の導入によって、より民主主議理念を貫徹した選挙制度となる可能性が大である。その結果、特定既得権益集団の利害から一般市民の経済・社会福祉改善、環境保全・文芸多様化を志向する立候補者選びへの転換も促進されるであろう。なお、地方議会選挙の場合には、国会議員選挙以上に、狭い地域社会での特定既得権益集団の利害を代表する候補者が当選する選挙結果が多くみられる。青森県のある地方議会選挙では、選挙違反で検挙された立候補者が全員当選するということが過去に見られた。このような状況では、選挙民の政治教育を通じて、選挙民への民主主義理念の浸透をはかることが重要であろう。近年地域社会で活躍する政策指向的な市民社会組織が増えつつあるが、これによって一般市民の特定政策に関する民意がより明確に反映されてくることが期待される。一昨年7月の参議院選挙から18歳、19歳人口も有権者となったが、選挙権登録を含めて、彼らの政治教育が投票率の引き上げと、従来の血縁・地縁に基づいた選挙行動から脱皮して、政策に基づいた選挙権行使になることが、民主主義の理念の貫徹に一歩でも寄与することは疑いない。
(注記5)現行の政党助成金制度では、国民の税金の一部が国会議員の議席数に基づき各政党に配分されており、議員数の大小が助成金額を決めている。小選挙区制の下で落選した立候補者へ投票された有権者の意志は完全に無視されている。いやしくも国税の配分で有権者間で差別することは、憲法で保障された国民に対する公平性の観点から問題である。さらに、無所属議員で会派に属さない場合および共産党(政党自らの基本方針)には政党助成金は配分されていないという国会議員間の不公平性も存在する。上記の有権者間と国会議員間の不公平性を排除するためには、現行政党助成金制度を廃止することが妥当である。なお代案として、立候補者個々人へ一定同額の国政選挙補助支援金(例えば500万円)を提供し、落選者を支持した政党あるいは落選者個人(無党派の場合)からは、当該額の返還を義務付けることも考えられるが、膨大な財政赤字に直面している我が国では、かかる国政選挙補助支援金の許与は国民の理解・賛同を得ることは困難であろう。なお、現行公職選挙法に基づく立候補者すべてに課されている立候補納入金は、その金額の増額を含んで、納税者の膨大な選挙費用への応分な負担の観点からも、今後も継続することは望ましい。
(注記6)大半の議案の採決において、各政党は党所属議員の投票に政党の党議拘束性を設けている。その結果、特定政策採決において所属政党の政策に反対したり、棄権したりした場合には、特に重要法案の採決の際には、離党勧告ないし除名問題に発展する。党議拘束規定は、国会での民意を託された実のある討議を抑制し、国会審議を政党の利害に基づく政党間の対立だけを煽る結果をもたらし、国民へ向いた審議が行われない。政党党議拘束制度は、民主主義理念の発露、民主主義的議会制度・政治制度の発展を阻害することになる。国会議員は(地方議員も)、たとえ特定政党に所属していたとしても、所属政党の総ての党議政策に賛成ということではない場合は多い。現行の政党本位の議院運営制度を早急に改めて、有権者の民意を直接代表する議員個人本位の制度を導入することが望ましい。
(注記7)戦後の新憲法の下で制定された現行議院運営制度では、1940後半から50年代にかけて議員立法制度が広範囲に活用された。しかし、現在の議院内閣制に基づく国政では、行政府による議案提出とその法制化が支配的で、議員立法が極端に少ない。このことは、首長選挙と議会議員選挙という直接選挙制度が導入されている地方自治体でも同様である。議員立法制度を有効に活用して、議会へ民意を直接届けることで、民主主義理念を貫徹する参加型議会制度を強化することが望ましい。そのためには、議員による政策形成能力・意欲の向上が緊急課題であろう。後述するように、三権分立がもう一つの民主主義的政治制度の根幹であることを考慮すると、行政府に依存した法制化という現行の体制を反省して、議員立法制度の一層の活用と充実が望まれる。
(注記8)我が国の議会運営では、重要政策課題であっても、公聴会を開催して、広く国民の意見に耳を傾ける機会が少ない。今後は、あらゆる重要政策課題については、証人、参考人が出席する公聴会の開催を義務付けることを提案したい。こうすることで、選挙で選出された議員以外の多様な意見を聴取して、国政(や自治体)政策へ広く民意を反映させることが一層可能となる。なお、地方議会では、議員を通じた陳情書の提出・審議件数は、毎年かなりの数に上るが、その採択件数は比較的少ない。その一つの理由は、陳情書の内容が特定利害集団の利害にかかわる案件が多く、地域住民全員の利害とかけ離れていることが多いためである。住民は今後、市民社会組織、NGO等との協議を通じて、市民の政治参加を促す手法として、住民全員の利益の改善、地球市民全体の利益に資する陳情書を適時提出し、公正、平等、自由、参加という民主主義の理念とその理念に基づく民主義的政治制度を共有する議員と共に、地方議会での採択に努めることが望ましい。なお、地方議会の審議では、住民のレファレンダム制度があるが、提出された議案で、有権者の意見に相当隔たりが見られると予想される議案については、有権者総数の20%からの署名入り申請がない限り、この制度を利用することができない。そのために、レファレンダム制度の活用件数は非常に限られている。この比率を、直近選挙時における投票率が有権者の50%未満の場合には、その30%として、さらに投票率が有権者の50%以上の場合には、その比率の20%として、出来るだけ議院運営へ民意を反映させる制度の導入が望まれる。
(注記9)我が国の予算委員会は、新年度予算案と年度末の補正予算案を審議する機能を持った常設政策委員会であるが、その予算審議時間は現行では前者については、通常1週間、後者については通常12時間という短期間である。さらに、政権与党が提案する予算案における予算項目についての詳細な討議よりも、政権運営に関する諸々の質疑応答に大半の時間を費消しているのが現状である。その結果、政府提案の予算案は何らの修正無く予算委員会で決議され、衆参本会議へ提出され、可決されるのが通常である。国民の税収を含めた歳入案と財政投融資を含めた歳出案は、本来国の政策を実現するための重要な財政手段であり、その歳入・歳出案が国民の、国民による、国民のための政策を実現するのに適切かどうかを審議する国会は、行政府提案の政策を詳細に亘って審議する責任と義務がある。しかるに現実には国会議員には、通常広範に及ぶ政策やそのための予算を科学的に分析、厳正評価する専門的能力や審議時間に欠けるが故に、党派に関係なく予算委員会を補佐する独立専門機関が不可欠である。国会は、かかる独立専門機関の助言に基づき、行政府提案の政策・予算案を徹底的に審議し、国民への負託義務を履行することが可能となる。同様な補佐助言は、衆参両議院における決算行政監視委員会の審議に於いても不可欠である。本独立専門機関は予算委員会の補佐機関として政策・予算の分析・評価に従事するところから、決算行政監視委員会で決算・行政成果の分析・評価も担当することが適切である。なお、本独立委員会の職務の重要性から、その専門職員数は最低200名を確保し、立法府国家公務員として政府内外から広く募集することが肝要であり、その資格・処遇は行政府国家公務員に準ずる。
(注記10)立法府の機能強化の一環として議員立法制度を活性化するためには、両議院における議員立法を補佐する制度の拡充が不可欠である。現行の政策担当秘書と2人のスタッフという体制は、議員立法の推進のためには極めて貧弱である。衆参両議院では各議員は少なくとも3つの委員会に所属しなければならないという議院運営規則に基づき、かつまた各委員会において委員の職務を全うするためには課題分野別の有能な政策スタッフの配置が不可欠であるということに配慮すれば、6名からなる各分野の政策形成、必要な情報収集・分析、関係機関との協議などに従事する政策スタッフ・チームを持つ予算措置が不可欠と考える。同時に、6人の政策スタッフにはその職務を遂行するために必要な法的権限を与えられなくてはならない。周知の如く、米国連邦議会ではこのような政策立案・監視に通暁した政策スタッフが十分配置されていることによって、議員立法制度が有効に機能して、三権分立体制の下での立法府と行政府の間にチェックアンドバランスの緊張関係が堅持されている。なお、我が国でも将来の政策スタッフや政策に通暁した議員立候補者の育成を目的にしたインターン制度の導入も一考に値する。