馬鹿な女の子守歌

浅はかね  みんな私が悪いから 
世の中みんな 駄目にする
馬鹿な女と言われても 
仕方ないのよ 涙止まらない

寝ていてください
 


英霊が肩を押した稲田朋美さんの政界入り帯締め石帯束帯平成の零戦
 
 
 

 

 2015/1
「賛成意見が出ないのは寂しいな…」 稲田氏に訪れた試練「農協改革」  2015/1
安倍晋三首相肝いりの農協改革の実現に向け、自民党内で本格的な議論が始まった。稲田朋美政調会長は全国農業協同組合中央会(JA全中)の指導権・監査権廃止を念頭に、「中央集権的な農業での地方分権を目指す」と意気込むが、農林族議員を中心に党内の反発は強い。昨年9月の内閣改造・党役員人事で首相に「保守派のスターにしたい」と大抜擢(ばってき)された稲田氏に、最初の大きな試練が訪れた。
20日午後に自民党本部で開かれた政調幹部会議。
農協改革をテーマに、稲田氏はJA全中の指導権・監査権を廃止し、地域農協の自立性を確保することで農家の所得を向上させるという改革の理念を訴えた。その上で「この改革は決して農協つぶしではない」と協力を求めた。
幹部の一人は「農協の監査は今の制度がベストだ。稲田さんは前のめりになっている」と冷や水を浴びせた。これに対し、稲田氏は居並ぶ先輩議員らを前に、こう言い返した。
「世間に広がっている『農協つぶし』のイメージが間違っている。間違っていることを間違っているといっているだけです」
結局、会議は結論は出ないままに終わった。
幹部会議の直前には、農協改革の法案検討プロジェクトチーム(PT、吉川貴盛座長)の会合が党本部で開かれた。若手からベテランまで集まった会合は、本格的な党内議論のキックオフとなったが、「なぜ監査権をなくせば農家の所得が増えるのか」「経済合理性だけで考えてはいけない」「中央会制度は維持すべきだ」と改革への批判が噴出した。
昭和40年代に580万人を超えた農協の正組合員は、平成24年に約461万人にまで落ち込んだ。それでも、選挙での農協の影響力は無視できない。このため「改革を急ぎすぎると、来年の参院選がどうなるか分からない」と農協の反発を懸念する声も上がった。
日頃は強気な発言も多い稲田氏だが、この日ばかりは周囲に「賛成意見が出ないのは、さびしいなあ…」とつぶやいた。
弁護士として「靖国裁判」や「百人斬り訴訟」に取り組んでいた稲田氏を平成17年に政界に引き込んだのは当時、党幹事長代理を務めていた安倍首相だった。安倍首相の稲田氏への信頼は厚く、第2次安倍政権では衆院当選3回だった稲田氏を行政改革担当相に起用した。稲田氏も首相の期待に応え、霞が関の抵抗が激しかった公務員制度改革を成し遂げた。
当選3回(現在は4回)での政調会長起用に、周囲からやっかみも漏れたが、稲田氏は「まったく周りの声は気にならない」と淡々と職務をこなしてきた。
ただ、農協改革は安倍首相が「岩盤規制打破の象徴」と捉え、「中央会には脇役に徹していただく」と並々ならぬ意欲を見せるだけに、さすがの稲田氏の肩にも重くのしかかる。
稲田氏は農林族議員が議論の中心になりがちな法案検討PTとは別に、党規制改革推進委員会でも検討を進める方針だ。農協改革に積極的な後藤田正純衆院議員を委員長に起用し、改革に前向きな他の中堅・若手議員らとも連携しながら、改革への機運を盛り上げたいと考えている。
実は、安倍首相は、稲田氏の政調会長就任にあたり、党重鎮の二階俊博総務会長の名を挙げ、「困ったことがあれば、二階さんの協力を得たほうがいい」とアドバイスしたことがある。その二階氏は20日の記者会見で、農協改革について「できるだけ時間をかけて慎重に議論をしていくことが大事だ」と述べた。
首相の期待を背負った稲田氏は、トップダウンで早期決着をつけたいところだろう。しかし、二階氏ら党側は持久戦を主張する。稲田氏は「首相」と「党」との狭間に立たされている。 
 2015/10

稲田朋美「身体検査」 2015/10
思想信条はほとんど一緒。総理は話しやすい
2015年10月3日午前11時、東京都千代田区にある小社玄関前。記者の前に現れたのは、膝上丈の黒のワンピースと一際目を引く白の網タイツを身にまとい、「スター・ウォーズ」のキャップとサングラスで変装した1人の女性。誰あろう、前日に米国から帰国したばかりの稲田朋美・自民党政調会長(56)である。傍らには本来、この時間に取材を約束していた弁護士である夫、稲田龍示の姿もあった。
当選3回で大臣と党3役を経験するスピード出世を果たし、“女性初の宰相候補”と目される稲田。今回の内閣改造でも彼女の処遇は最大の焦点だった。
「安倍首相は経産相での起用を検討していたようですが、稲田氏の度重なる抜擢に党内の反発は大きく、首相も稲田氏の将来を考え、政調会長に留任となったのです」(官邸担当記者)
時の最高権力者の寵愛を受け、ポスト安倍をもうかがう稲田朋美とは一体、どういう女性なのか――。
小誌は特別取材班を組み、党幹部や支援者、親族らへの取材を進めていた。その過程で浮かび上がった疑問や疑惑の事実確認を求めたところ、突然の本人登場と相成ったわけだ。以下、取材した事実をもとに、緊急の“身体検査”を行った。
稲田は1959年福井県生まれ。高校の英語教師だった父の仕事の関係で、京都に移り住み、府立乙訓高校を卒業後、早稲田大学法学部に進学。大学卒業後、2度目の挑戦で司法試験に合格し、弁護士となった。そんな稲田の運命を変えたのが、安倍晋三だった。
2005年夏、稲田は安倍の誘いで、自民党若手議員の勉強会に講師として招かれた。当時、「百人斬り訴訟」の原告側代理人を務めるなど、気鋭の保守論客として活躍していた稲田に安倍が目をつけたのだ。
「安倍さんは稲田さんの弁舌に一目ぼれした。女性の保守という点も珍しいと評価していた」(側近議員)
その直後に郵政解散が決まると、安倍は早速、稲田に白羽の矢を立てた。「落下傘のおっかさん」というフレーズを掲げ、稲田は父の故郷、福井から“刺客”として出馬。373票の僅差で勝利する。
以降、稲田は安倍との関係を一気に深めていく。
第2次安倍政権で行政改革担当相に抜擢。初閣議を終えると、安倍は稲田と消費者担当相の森まさこという初入閣コンビにこう告げた。「君たちならできる。攻めの強い人は守りも強いから」。野党時代に“ヤジ将軍”として鳴らした2人への激励だった。
稲田を「ともちん」と呼ぶ安倍との近さを物語るこんなエピソードもある。
大臣に就任した稲田を囲み、昨年、司法修習時代の同期生が集まったときのこと。主役であるはずの稲田は「これから安倍さんと食事をするので」と言い残して中座したという。
「JXホールディングスの渡文明相談役や、JR東日本の大塚陸毅相談役など財界人との会食に、首相はよく稲田氏を同席させています」(官邸関係者)
小社の1室で取材に応じた稲田は、安倍との関係をこう語った(以下、太字は稲田の発言)。
「安倍さんがいなかったら私は政治家になっていません。思想信条はほとんど一緒。総理は話しやすいし、相談しやすい人です。(出馬を打診された時)主人には『君は政治家になったほうがいい』と言われました」
横に座る龍示も頷く。
2人の交際は30数年前、大阪で過ごした司法修習時代に遡る。実は稲田が25歳の時に1度結婚を決めたが、叶わなかった。
主人の家系は非常に民族的な考え
「長男長女同士の結婚ということで、両家の親同士が衝突したんです。夫の父が『1人娘をもらうのだから、諸手を挙げて賛成してほしい』と言うと、私の父は『しぶしぶ許してるだけ』と返して、そのうちに『絶対結婚させない』となって。最後は『もう2度と会うことはないね』と別れることになりました」
しかし稲田が28歳の時、母が亡くなり、新聞の訃報欄を見て通夜に現れた龍示と再会。週末に食事を共にするようになった。
隣に座る龍示は「覚えていないなぁ」と呟くが、
「なんで覚えてへんねん、腹立つわ(笑)。あの頃、海外を旅していた主人からは『鳥越九郎(とりこしくろう)』とか偽名使って、毎日のように絵葉書が届きましたよ。それ、私、今でも持ってるもん」
帰国後も龍示からの手紙は続く。ある日、署名捺印した婚姻届と〈宇宙の秩序により結婚することになっている〉というメッセージを綴った手紙が届いた。
「勝手に婚姻届を提出したので、それから2年くらい父はすごい怒っていましたね。口も利かなかった」
当時の稲田は政治には興味のない人間だったが、龍示は保守思想の持ち主だった。元同僚も「靖国神社について熱く語っていた姿が印象的」と振り返る。
「主人の祖父は大阪で(石原莞爾らが所属した)国柱会を広めた人なんです。主人の家系は非常に民族的な考えなんですよね」
また、公立高校の元英語教師という稲田の父も「日本文化チャンネル桜」に出演したり、7月には国会前で安保法制賛成の街宣に立つなど、保守活動家として一部で知られた存在だ。
ただ、稲田自身は父とは複雑な関係だと語る。
「父は私が政治家になるのに反対でした。『子どもの面倒は誰が見るのか』とか『小泉改革には賛同できない』とか。父からすると、私のことは何かと不満やろうから、あまり会わないようにしてる。父なりに信念を持ってやってるんやろうけど、国会の前で(街宣は)やらんといて欲しい」
1男1女に恵まれた母親としての家庭生活について、稲田は過去のインタビューで〈私なりに子育てを一生懸命やったが、家事はあまりしていないのは事実〉と語っているが、稲田家を知る知人はこう語る。
「忙しいなか、教育熱心な母親だったと思います。子どもたちが幼い頃は、空手の全国大会に連れて行っていましたね。選挙に出る前後、東京に引っ越してきた時に『東京やとどの学校がいいんやろ』と中学受験の相談を受けたこともありました。その後、長男は開成高から東大に進学し、大学では空手部に入っていました。長女は雙葉学園高から早大に進んでいます」
絵に描いたようなエリート一家である稲田家の資産もまた興味深い。行革相を退任した時の資産公開(14年10月)によると、主に夫婦の共同名義で文京区大塚(自宅用)、千代田区六番町(貸家用)など10件弱の不動産を所有しており、その推定価格は7億円を超える。注目すべきは、4億円近くと見られる港区高輪(自宅用)の土地を行革相就任前日に契約している点だ。大臣在任中は不動産や有価証券等の売買自粛が求められており、絶妙なタイミングではある。
「文京区の自宅は古くて震災が来たら潰れると思ったので、引っ越しを考えていました。10月頃から探していて、12月に総選挙があり、たまたまあの時期になったんです。ただ、多忙で引っ越しできずにいます」
さらに、すべて龍示名義の保有株式が42銘柄。今も保有し続けているとすれば、時価総額(10月2日終値)の総計は約2億7000万円で、アベノミクスの恩恵で含み益は約8000万円にのぼる計算だ。
「主人の父が株をやる人で、主人も昔から四季報を読むのが好きだった。細かな銘柄は大臣になった時に初めて知りました」
龍示は、苦笑する。
「(資産公開で)チマチマ持っているのが(バレて)恥ずかしい」
資産合計は約10億円に達する
これらの資産合計は約10億円に達する。政治家である稲田の歳費は年間約2000万円。龍示は企業再生や金融取引問題に強く、オリックスや子会社のオリックス債権回収の代理人を務めてきた。「大阪の弁護士でも儲かっているほう」(在阪弁護士)とはいえ、あまりに巨額の資産ではないか。
「全部住宅ローンを組んでいますから、借金のほうが多い。義父の家は戦災で焼けてしまったのですが、借地だったので何も残らなかった。それで、義父は“借地は駄目、土地は絶対に買うべき”という考え方になったんです。主人も引っ越すたびにローンで家を買い、(前の家は)賃貸に出している。私も最初は驚きました」
一方で、取材を進めていると、いくつかの疑惑も浮かび上がった。
「昨年9月に政調会長に就任して以降、まるで田中角栄のように、地元に新幹線を通そうと躍起になっています」(自民党幹部)
北陸新幹線の金沢―敦賀間は22年度に開通させる予定だが、稲田を中心とした福井政財界は「20年までに福井までを先行開業させろ」と主張。稲田の強い要望で安倍も4月に福井駅を視察している。
「福井駅で折り返し運転するために必要な留置線の工事には数10億円はかかります。ところが、その留置線は2年後に敦賀駅まで延伸した時点で不要になってしまう。それなのに、稲田氏は『そんなに予算はかからない』と言うばかりでした」(国交省関係者)
稲田はこう反論する。
「どうすれば経済効果が一番生まれるのか、いろいろな組み合わせを考えている。(国交省は)難しいと言うが、難しいことにチャレンジするのが政治です」
だが福井駅への延伸をめぐってはある事件が起きている。今年3月、用地買収などを担当していた、福井県庁新幹線推進課の課長補佐が公園内のトイレで自殺したのだ。遺族は「話すことはありません」と語るのみだが、政治の圧力があったのでは、とも囁かれる。
この件を稲田に問うと、
「えっ!? はっきり言いますが、福井県庁は先行開業にまったく協力的じゃなかった。(自殺した課長補佐は)知りませんし、会ったこともありません」
稲田の弱点として「スジ論ばかりで、調整力がない」ことを挙げる声は多い。安倍でさえ「政調会長は荷が重かったか」と周囲に漏らしていたほどだ。
6月末にまとめられた財政健全化計画における20年度の歳出削減額をめぐっては、経済再生担当大臣の甘利明と衝突した。
「財政再建に関する特命委員会の委員長として稲田氏は9・4兆円の削減を目指していたが、甘利氏が仕切る経済財政諮問会議は5兆円前後を主張するなど、隔たりは大きく、甘利氏が稲田氏を一喝するような局面もありました。甘利氏は記者にも『あのバアさんが……』『なぜ総理はあんな経済が分からない人を重用するのか』とこぼしていましたね」(政治部デスク)
甘利に怒鳴られたりしたのかと尋ねると、
「ありますよ、それは。でも、私は数値目標を掲げて財政再建を進めることが正しいと思っていますから。まぁ総理はやりすぎやと思ったでしょうね」
07年の総裁選では、所属する清和会から福田康夫が出馬していたが、麻生太郎に投票した。
「自分の思想信条に一番近かったのが麻生さんだった。あの時は(派閥会長の)町村(信孝)さんに『あなたみたいに正しいと思ったことをそのままやっていては、政治家として大成できない』と怒られましたね」
町村の忠告どおり、稲田のこうした態度は時に大きな軋轢を生んでしまう。
「稲田は恩を忘れる政治家だ。許さない」
そう憤るのは、稲田の元有力支援者の1人だ。
13年の参院選。初出馬以来、稲田の支援を続けてきた金井学園理事長の金井兼が出馬を決めていた。ところが急遽、西川一誠県知事らが推す財務官僚の滝波宏文も出馬に意欲を示し、県連会長の稲田が判断を迫られる事態となった。
「金井氏は稲田氏から『大変だけど、頑張れ』とも言われていました。ところが、稲田氏は知事側の顔色もうかがい、候補者を党員投票で決めると言い出したのです。そんなことは前代未聞ですよ。実弾や怪文書も飛び交い、最終的に滝波氏が公認候補となりましたが、県連内には大きなしこりが残りました」(同前)
この騒動が尾を引き、後援会の会長、吉田敏貢が辞任するなど多くの幹部が稲田のもとを離れた。
「一昨年暮れ、稲田氏は金井氏の自宅をアポ無しで訪れましたが、本人は不在だった。稲田氏は手土産を渡そうとしたものの、夫人に突き返されたそうです。金井氏は『あんなことがあったのに、非常識すぎる』と怒っていました」(同前)
一連の経緯について稲田に尋ねると、
「私は(金井には)お世話になって本当に感謝しているけれども、福井を代表する人は公平に選ぶべきだと思いました。これが恩を仇で返すということになるとは全然思いません」
さらに地元での取材を続けると、“男”に関する疑惑まで出てきた。相手は福井出身の元官僚だ。
「稲田氏はかつて、その官僚と頻繁にメールしていました。ある時、近しい人に『道でキスするような関係になったのに、こういう文章しか書けないの』と漏らしていたそうです」(稲田氏をよく知る地元関係者)
“路チュー”の真偽を問うと、驚いた様子で、
「それ、そ、誰が、そんなことあり得ないですよ。全くの嘘ですよ」
傍らの龍示が「そういう事実があるんだったら、ちゃんと指摘して批判してほしいよね。政治家なんだから」と言葉を継ぐと、
「路チューって一体、何それ? 中川郁子さんみたいじゃないですか。まぁ2人でご飯を食べたことがないかって言ったらあるよね」
そう言いながら、椅子の肘かけを握ったり離したり、を繰り返した(元官僚は「事実ではない」と回答)。
最終目標を首相に置くのは当然
今年3月の講演会で稲田は「政治家である以上、最終目標を首相に置くのは当然」と発言している。その思いに変化はないのか。
「私は1回生の頃からそう言っている。最初は生意気って印象だったよね。でも、別に思っていることは言ったらいいと思うんです」
政調会長留任という今回の人事の感想は「気ぃ悪くする人がいたら嫌やから」と言葉を濁しつつも、
「それが一番の希望でしたから。(やっかみは)直接感じることはない。ですけど、そう思われてもしょうがないなと思いますね」
結局、150分にわたって取材に応じた稲田。最後に、地元の職人が編んでいるという自慢の高級網タイツについて尋ねると、
「10本は持っています。ただ、有権者から福井の地元事務所に『センセイ、スカート短い』って電話がかかってくることもある」
今回の取材中も、正面の男性記者を気にして、ミニスカートの裾を幾度も伸ばしていた。そうまでしてミニスカをはく理由とは?
「網タイツを強調するためには短いほうがいい。今日はちょっと短すぎたかもしれません(笑)」
SPもつけずに現れた“網タイツの女王”曰く、白の網タイツはオフの日用だという。“身体検査”に対しても、「シロ」と主張したかったのか。 
 2016/6

稲田朋美が改憲で「自民党は国民主権、平和主義、人権尊重は変えない」 2016/6
先週、連続的に行われた党首討論では、安倍首相による総裁選の“憲法改正”争点隠しの言い訳が醜いことになっていたが、今度は安倍首相の“腹心”である稲田朋美政調会長がテレビで大ウソをついた。
それはNHK『日曜討論』(6月26日放送)でのこと。まず稲田政調会長は、参院選で改憲を争点にしないことについて「決して逃げているわけではありません」と言い訳すると、つづけてこう述べた。
「(野党は)3分の2阻止とおっしゃるんですけど、日本は主権国家なんですね。主権国家として必要があれば憲法改正する、その3分の2ですよね。それを阻止する、憲法改正自体がいけないというのは、日本が主権国家をやめる(ということ)」
いやはや、何を言っているのだか。この人、ほんとうに弁護士なのだろうか。憲法改正を阻止し、現行憲法を守ろうとするだけで「主権国家をやめる」ことになるなら、国民投票において、日本より厳しい「二重の過半数」を改憲の要件とし、これまで発議の9割近くが否決されているオーストラリアも主権国家でないというのか。
稲田は「対案がない」などというが、立憲主義を踏みにじり、安保法制を強行に可決させてしまった政権に対して、「憲法改正はさせない」と訴えるのは立派な“対案”だ。というか、そもそも、なぜ憲法を改正するか否かで、対案が必要になるのか。
ようするに、稲田政調会長こそはなから“改憲ありき”で、改憲したくないと思う国民のことを、国民でさえない“反日勢力”と決めてかかっているのだ。
しかも、民進党の山尾志桜里政調会長が「いまの憲法を悪い憲法だと思っている自民党」と話すと、稲田政調会長はすかさず「思っていません」「レッテル貼って批判するのは止めたほうがいいですよ」と、安倍首相が乗り移ったかのようにおなじみのフレーズで割って入った。そして、こう言い切ったのだ。
「自民党の出している憲法草案も、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重、これまったく変えません」
よくテレビの生放送で断言したものだ、と感心すらしてしまいそうになる。それは、自民党の憲法改正草案とは、ずばり「国民主権、平和主義、基本的人権の尊重」の3つをことごとく否定する中身だからだ。
先日発売された自民党改憲草案の批判本『あたらしい憲法草案のはなし』(太郎次郎社エディタス)は、〈憲法草案、すなわちあたらしい憲法の三原則〉について、その本質をこう指摘している。
   一、国民主権の縮小
   一、戦争放棄の放棄
   一、基本的人権の制限
そもそも改憲草案は、現行憲法の前文の主語が「日本国民」であるところが、「日本国」にすり替わっている。これは〈国民を必要以上につけあがらせてはけない〉という考え方からきており、〈国の中心が「国民」ではなく、「国」そのもの〉に変更されている証拠にほかならない。ようするに、国民主権という思想が根本から覆されているのだ。
さらに、平和主義の根幹を成していた憲法9条からは「戦争放棄」の題が消え、「安全保障」という名の〈軍事力を自由に行使する(使う)ことのできる国〉になることを明記している。そして、集団的自衛権の制約もなくなり、国防軍が組織される。もちろん、この改憲草案では、国民にも戦争協力を求めている。
基本的人権も同様だ。現行憲法13条では《すべての国民は、個人として尊重される》とあるが、自民党の改憲草案では〈全ての国民は、人として尊重される〉という大雑把な扱いになっている。人は生まれながらにして人権をもっているという考え方を否定し、個人の権利よりも国を優先させているのである。
そのような憲法改正草案を掲げておいて、選挙を目の前に控えて「国民主権、平和主義、基本的人権の尊重、これまったく変えません」などとNHKのテレビ番組でうそぶくことは、はっきり言って国民への背信行為だ。
実際、稲田政調会長の本音はもっと過激なものだ。稲田氏は過去に書籍のなかで、「国民主権、平和主義、基本的人権の尊重」が謳われた現在の憲法をこのように指弾している。
〈どこの世界に自国を自分で守らないと宣言する国があるでしょうか〉(渡部昇一監修『中国が攻めてくる!日本は憲法で滅ぶ』総和社、2011年)
〈前文だけ読んでも、まじめに勉強すれば、反日的になるような自虐的な内容です〉(『私は日本を守りたい』PHP研究所、2010年)
その上で、稲田氏は前文をこのように変えるべきだ、と主張している。
〈本来前文には憲法ひいては国としての理念が語られなければならないはずです。前文で書かれるべきは、日本という国が神話の時代から連綿と連なる歴史を保持し、四海に囲まれた自然豊かな風土を持つ日本が、どのような国を目指すべきなのかという理想が語られるべきです〉(前掲『中国が攻めてくる!日本は憲法で滅ぶ』)
思考が完全に戦前……。それを裏付けるように、ある講演会の壇上で稲田氏は「国民の生活が大事なんて政治はですね、私は間違っていると思います」とまで断言している。
国民の生活など政治は守る必要はない──この考えは、しかし稲田氏だけのものではない。安倍首相が会長を、稲田氏が事務局長代理を務める創生「日本」の研修会では、第一次安倍内閣で法務大臣を務めた長勢甚遠氏が改憲草案を「不満」だと言い、こう述べている。
「いちばん最初に国民主権、基本的人権、平和主義、これは堅持すると言っているんですよ。この3つをなくさなければですね、ほんとうの自主憲法にならないんですよ」
自民党の改憲草案は十分に国民主権、基本的人権、平和主義を無効化する恐ろしい内容だが、それでもまだ足りないとさえ考えているのである。
安倍政権が憲法改正に動き出せば、この国は確実にこれまでとはまったく違う国へと変貌する。だからこそ、それを阻止するために野党は共闘という手段に打って出ているのだ。言わば、この国はそれほどまでに、安倍首相によってギリギリのところまで追い詰められている。改憲の先兵たる稲田政調会長は、これからも耳障りのいい話ばかり吐きつづけるだろうが、そんな見え透いたウソにはどうか騙されないでほしい。 
 2016/8

 

韓国が嫌う「稲田防衛相」という"劇薬"の効能 8/4
 安倍改造内閣の目玉人事は吉と出るか
第3次安倍第2次改造内閣が8月3日、発足した。麻生太郎副総理兼財務相、菅義偉官房長官、岸田文雄外相という軸となるメンバーは変わらず、塩崎恭久厚労相や高市早苗総務相、加藤勝信一億総活躍担当相・働き方改革担当相といった安倍首相に近い面々や、“公明党枠”の石井啓一国土交通相も留任。都知事選で負けたばかりの石原伸晃経済再生担当相さえも異動がなかった。
だが今回の改造人事は、今後の政局に影響する可能性のある様々な点が見てとれる。
石破茂氏が閣外に去った「意味」
まず注目すべきは地方創生担当相だった石破茂氏が閣外に去り、山本有二氏が農水相に就任したことだ。同ポストは当初、石破氏に打診されたが、石破氏が断わったため、同じ水月会(石破派)に所属する山本氏に回ってきたものだ。
山本氏は水月会では石破氏に次ぐ当選9回のベテランで、“ナンバー2”といっていい。2015年9月の総裁選でも石破氏を擁立しようと動いた山本氏だが、第1次安倍内閣で金融担当相を務めるなど安倍晋三首相とも近く、一緒に座禅を組む仲でもある。
一方で入閣打診を固辞した石破氏は、ポスト安倍の準備をするつもりだと見られている。そもそも前回の改造の時から、石破氏は閣外に出ることは決意していたようだ。石破氏が就任していた地方創生担当相の役割は、この時に創設された1億総活躍担当相と重なるところが多かった。地方創生担当相というポストは大臣として軽量級で、石破氏は存在感をなかなか発揮できずにいた。
実際に8月2日の会見で、石破氏はこう述べている。「自由民主党というものが多様な意見があるということは大事なことであり、そのために自分がなすべきことは何なのかという思いがある」。
これは内閣外に出た後、安倍政権に不満を抱く党内の声の受け皿となるという宣言とも読みとれる。そうした石破氏の動きを牽制するためにも、安倍首相は山本氏に農水相に就任させることを判断したとも考えられる。
なぜ丸川珠代氏が五輪担当相になったのか
丸川珠代氏の五輪担当相起用は、小池百合子東京都知事への牽制と言えるかもしれない。
丸川氏は安倍首相のスカウトにより2007年の参院選に出馬した安倍チルドレン。安倍首相の政治復活のきっかけになった2012年9月の総裁選では、自民党東京都連所属ということもあって石原伸晃氏の推薦人に名前を連ねたものの、「子育て中」との理由で実際には動くのを避けた。
丸川氏の特徴はその言動。2010年5月21日には、参院本会議で演説中の鳩山由紀夫首相(当時)に対して、「ルーピー」と野次を飛ばした。
また都連が増田寛也氏を擁立した知事選では、小池氏を「スタンドプレーはできるけど、チームプレーできない。そういう人は都知事にしなくていい」と激しく批判もしている。すなわち丸川氏は腹芸ができず、ストレートに表現してしまうのだ。
これに対して小池知事は「よく存じていないが、それぞれ立場があるのだろう」と大人の対応を見せ、丸川氏も3日の会見で「大会成功のため、できることは何でもやっていきたい」と神妙に述べた。ただ丸川氏はオリンピックを、東京のみならず国の重要イベントとしてとらえており、小池氏と意見が分かれる時には、国側の立場で踏み込んでくる可能性も否定できない。その背後に安倍首相の意向があればなおさらのこと。安倍首相にとって扱いにくい小池知事を牽制する道具としてはもってこいだといえる。
さて今回の改造の目玉は、なんといっても稲田朋美氏の防衛相起用だろう。稲田氏は第2次安倍内閣で規制改革担当相に就任。この時に大臣に起用された女性は森まさこ男女共同参画等担当相と2人だったが、森氏の起用は2013年の参院選で減数区となる福島選挙区で改選を迎えるための“選挙対策”。その後に継続しての入閣などはない。
一方で稲田氏は自民党政調会長を経て、今回の改造で閣内に戻っている。「ポスト安倍のひとり」との注目が著しく、重要閣僚就任が囁かれていた。そればかりではない。「百人斬り訴訟」の原告側の弁護人として知られる稲田氏が防衛相に就任するというところがミソなのだ。
北朝鮮が8月3日に中距離弾道弾ミサイル「ノドン」と見られるミサイルを発射したのは、このような人事に触発されたのかもしれない。ミサイルは秋田県男鹿半島西側250km沖の日本の排他的経済水域内に落下したが、弾頭そのものが日本のEEZ内に落下したのは初めてだ。
8月3日の中央日報も、「過去に侵略戦争と植民地支配と関連して歴史認識議論を起こした代表的右派女性政治家」と稲田氏の防衛相起用を大きく報じている。
とりわけ韓国側が警戒を示すのは、稲田氏が2011年8月に新藤義孝元総務相や佐藤正久氏とともに韓国の鬱陵島を視察しようとし、韓国側から入国拒否された過去だ。
鬱陵島には竹島博物館があり、古図などが展示されている。中には竹島が韓国領であると推測しやすいように偽装されているものがあったため、彼らは調査に出向こうとしたのだ。
ところが、韓国当局が3人の日本の国会議員を案内したのは、厳重な二重ドアのある取り調べ室だった。さらには窓もない拘置所のようなところに連行しようとさえしたのである。これには自民党のみならず、当時の民主党内閣も韓国に激しく抗議したため、3人は強制送還され、鬱陵島視察は叶わなかった。後に稲田氏は「刺されるかもしないとの警告を受け、防刃服を購入した。韓国へ入国後は食事もとれなくなるかもしれないと思ったので、機内でカステラをバッグにしのばせた」と語っている。
"劇薬"で中国、韓国、北朝鮮を牽制?
強い信念を持った"劇薬"のような政治家だ。このような稲田氏が防衛相に就任すれば、歴史認識問題で日本を激しく批判する中国や韓国、北朝鮮へ大きな牽制となると思われる。
防衛相就任にあたって稲田氏が靖国参拝について「心の問題であって、行く・行かないは言うべきではない」と明確にせず、核武装についても「現時点で日本が核保有を検討すべきではない」と従来の持論を封印したのは、いたずらにこれらの国を刺激したくないためだろう。稲田氏が政治の“師”とする安倍首相も2013年12月には靖国神社を参拝したが、中韓やアメリカから批判が出たために、以降は自粛。代わりに春と秋の例大祭で真榊を奉納している。防衛相就任にあたり、稲田氏はこれを踏襲したと見るべきで、ポスト安倍にいっそう近くなったともいえる。
7月13日にはイギリスでテリーザ・メイ氏が首相に就任し、11月にはアメリカ初の女性大統領が誕生する可能性もある。そうした流れで考えれば、今回の内閣改造の最大の意味は、稲田氏の躍進とはいえまいか。 
まるでバカンス ジブチ行き稲田防衛相の“服装”に批判続々 8/16
アデン湾に展開している自衛隊を激励する――と13〜16日の日程で急きょ、ジブチを訪問した稲田朋美防衛相。しかし、ジブチ訪問は8月15日の「靖国参拝」を見送るための“口実”だったのは明らかだ。
現職の防衛大臣が終戦記念日に靖国神社を参拝したら、中国や韓国が強く反発するのは確実。かといって、参拝を見送ったら“右派勢力”から批判を浴びる。どちらからも批判されないように海外に逃げた格好である。
その稲田大臣に対して、「あの服装はヒドイ」と批判が噴出している。ジブチに向かうために成田空港を出発した時の格好が酷すぎるというのだ。たしかに、ド派手なサングラスをかけ、公務だというのにバカンスに出掛ける時のように終始、ニコニコしている。
NHKが流した映像を見て仰天したのだろう。さすがに、稲田氏を応援している右派勢力も、ネットの掲示板で批判しているほどだ。
〈芸能人かっ!〉〈あんたー国の安全保障を担保する立場である責務を背負っている自覚がありますか?〉〈プライベートかよ〉〈バカ女発見〉〈どう見てもウキウキルンルンの楽しい海外旅行にしか見えない。前代未聞、あり得ない。自分の立場を全く弁えない単なるオバさんだな〉
まさにその通り、という批判のオンパレードである。稲田氏を知る政界関係者がこう言う。
「彼女は主義主張の強い政治家と思われていますが、実際はまったく違います。成田空港でニコニコしていたのは、8月15日に日本を離れることになり、これで靖国参拝について誰からも批判されないとうれしくなったのでしょう。普段、身に着けているモノにしても、表では、選挙区の福井をアピールするためだと、福井県で製造されたメガネをかけていますが、プライベートでは、約5万円する“ティファニー”のサングラスを愛用しています。腕時計は100万円の“フランク・ミュラー”です。政調会長時代も、独自の政策を打ち出すことは皆無でした」
この程度で「ポスト安倍」のひとりだというのだから、自民党も末期的である。  
自衛官ヒヤヒヤ 稲田防衛相ハイヒールで艦内闊歩の非常識 8/24
永田町の“オシャレ番長”稲田朋美防衛相がまたやってくれた。
23日、神奈川県横須賀市の海上自衛隊の基地を視察。昨年就役した海自最大の護衛艦「いずも」や潜水艦「こくりゅう」で隊員らに訓示したのだが、艦内をヒールのある靴で歩き回っているのを見て、自衛官らがヒヤヒヤしていたという。艦艇内は転びやすいうえ、潜水艦の甲板に傷がつくかもしれないからだ。
先日のジブチ視察時のリゾートファッションにはのけぞったが、この日はマリンルック風のパンツスーツ。相変わらずで……。 
 2016/10

 

稲田氏に集中砲火…民進、過去の発言追及 10/4
民進党が国会論戦で、稲田朋美防衛相に集中攻撃を仕掛けている。3日の衆院予算委員会でも過去の発言を取り上げ、「閣僚の資質に欠ける」と追及。「ポスト安倍」候補の一人と目される稲田氏を追い込めば政権への大打撃になるとみており、党を挙げて攻勢を強める構えだ。
「能力、バランス感覚のない人を防衛相に据えたことは問題だ」。民進党の前原誠司元外相は3日の予算委で、稲田氏を痛烈に批判した。前原氏は、稲田氏が2012年の衆院外務委員会で沖縄県・尖閣諸島に自衛隊を配備すべきだとした発言を取り上げた。稲田氏が「現時点で配備は検討していない。(緊張を)エスカレートさせるのではなく、法による支配を貫徹させる」と否定すると、前原氏は「考えが変わったんですね」と皮肉った。
さらに前原氏は、かつて稲田氏が雑誌の対談で「米国の日本駐留は日本を守るためではない」と語ったことも問題視した。日米同盟での米国の役割について、稲田氏が「憲法9条の下、打撃力も重要だ」と述べると、前原氏は「抑止力もある。私が大学の教官だったら単位をあげられない」と指摘し、安倍晋三首相の任命責任を追及。首相は「以前、稲田氏とは日米同盟について時間をかけて話した。間違いなく(同盟の重要性の)認識を持っている」と防戦に追われた。
民進党国対幹部は「辞任に追い込みたい」と各議員に稲田氏を追及するよう発破をかけている。 
稲田防衛相 この答弁で大丈夫か 10/9
稲田朋美防衛相(57)が、国会で野党から集中攻撃を受けている。稲田氏は歴史認識などが安倍晋三首相に近く、タカ派的な言動で知られる。外交・安全保障の経験が乏しいにもかかわらず防衛相に起用されたのは、首相が自身の後継者として育てようとしたためとも言われる。
そういう背景のある稲田氏が、国の安全保障政策の責任者として、どういう考え方にもとづいて仕事をしていくのか、野党が厳しく追及するのは当然のことだ。しかし、これまでのところ、稲田氏が疑問に十分に答えているとは言えない。
参院予算委員会では、民進党の蓮舫代表が、月刊誌「正論」(2011年3月号)に掲載された稲田氏の発言をもとに認識をただした。
稲田氏はこの雑誌で「長期的には日本独自の核保有を国家戦略として検討すべきではないか」と語っている。だが、予算委で問われると「非核三原則を守り、核のない世界を実現するために尽くしていく」「現在、核保有は全く考えていないし、考えるべきでもない」と政府方針を繰り返した。蓮舫氏は「気持ちいいぐらいの変節」と皮肉ったが、認識を変えた理由を稲田氏はほとんど説明しなかった。
就任直後の記者会見では、核保有について「将来的にどういった状況になるかもあるが、現時点で核保有を検討すべきではない」と含みを残すような発言をしたこともある。
これでは、本当に「変節」したのかも怪しい。防衛相として一時的に自重しているだけで、何かの拍子に持論が復活するかもしれない、と疑いたくもなる。稲田氏はもっと丁寧に説明する必要がある。
「防衛費」を「軍事費」と表現したのも、言い間違いと見過ごすわけにはいかない。首相が自衛隊を「わが軍」と呼んだことを思い起こさせる。自衛隊という実力組織を預かるだけに、神経を使ってもらいたい。
衆院予算委では、8月にアフリカ・ジブチの自衛隊部隊を視察し、終戦記念日の全国戦没者追悼式を欠席したことを民進党の辻元清美氏から「言行不一致」と批判され、涙を浮かべたことがあった。
答弁の際、稲田氏が、防衛官僚である秘書官から渡されたメモを読み上げてしのぐ場面も目立つ。
野党からは稲田氏の資質や首相の任命責任を問う声が出ている。
防衛省は、北朝鮮や中国の情勢、安保法制など多くの課題を抱えている。政府は近く、南スーダンの国連平和維持活動(PKO)で、自衛隊に新任務を付与する方針で、稲田氏の現地視察の結果も判断材料になる。稲田氏は責任の重さを改めて自覚してほしい。  
稲田朋美防衛相、“就任2カ月”通信簿は「落第」 10/12
防衛大臣たるもの、自らの“防衛”にも長けた人物であるはず――。
その点、今回の彼女は一計を案じたのであった。7日から、稲田朋美防衛相(57)は南スーダンの視察に訪れた。防衛省関係者の話。
「駆け付け警護の任務付与のため、本来9月に視察する予定が、服用した抗マラリア薬のアレルギーでじんましんを発症。再び中止は許されないので、考えたのは、薬を飲まず虫除けスプレーでの対応でした」
マラリアは防げても、国会においては防戦一方である。先月30日に民進党の辻元清美衆院議員から追及を受け涙ぐむ場面があれば、核保有検討という過去の発言や、2010年に海上保安庁の巡視船に衝突した中国漁船を公船と言い間違えるなどで、集中砲火を浴びた。
「前任の中谷元さんは官僚のメモを忠実に読む人ですが、稲田さんは省内で“これほど答弁に慣れていないのか”と呆れられ、勉強不足は明白です。そこで彼女は、大臣室で官僚がレクする際の資料の簡素化を指示しました。“膨大な資料は読み込めないので紙1枚にするように”と。要点をまとめろということです」(同)
ところが、
「時に六法全書を持ち出しては法的根拠を求めてくるので、官僚は大慌て。同じ案件で何度も説明しないといけなくなり、負担が増大しています。9月の会見で、沖縄ヘリパッドへの自衛隊ヘリの派遣について、どんな法律に基づくのか質問されると、ムキになって答えていましたね」(同)
自身が得意な法律論で有能さをアピールしているのか。政治アナリストの伊藤惇夫氏が“採点”する。
「採点不可の落第ですね。法的根拠は大事ですが、それだけなら法律家です。重要なのは、政治判断ができるかどうか。答弁が不安定な上、言葉に慎重な防衛省で用語の間違いは致命的です」
大臣に任命したのが、そもそもの間違いだった。 
稲田防衛相 矛盾突かれ答弁で涙…専門家「ボロが出た」 10/15
質問の辻元氏「うろたえる大臣……国益を損ねている」
8月に入閣した稲田朋美防衛相を巡り、開会中の国会で、過去の発言と防衛省トップとしての言動の食い違いがクローズアップされている。発言の矛盾を問われ、答弁で涙ぐむ場面もあった。安全保障法制のもと、自衛隊は駆け付け警護など新たな活動領域に踏み込む。それを指揮するトップに不安の声が上がっている。

野党は稲田氏に対し、9月30日の衆院予算委員会での辻元清美氏(民進党)による質問を皮切りに、日米安保や日本の核武装、尖閣諸島問題などを巡る過去の言葉を引用し、防衛相としての見解を繰り返しただしてきた。そのたびに稲田氏は政府の公式見解を述べ、過去の発言の修正に追われる印象を与えてきた。
「こうした人物に我が子を預ける親は、私に限らず不安だろう」。陸上自衛官の次男を持つ北海道千歳市の50代の女性は懸念を口にした。「自衛隊などについて防衛相になる前からさまざまな発言をしていたが、言うことがくるっと変わった。南スーダンの訪問予定も体調を理由にキャンセルし、批判されれば慌てて訪問する印象だ」と話した。
専門家はどう見るのか。
軍事評論家の前田哲男さんは「資質もないのに大臣となり、ボロが出たのだろう」と厳しく指摘した。「防衛相には憲法と日米安保体制に折り合いを付ける覚悟と見識が求められる。稲田氏は、そのどちらも持ち合わせていないようだ。そこが野党側に狙われた」と分析する。
一方、坂元一哉・大阪大大学院教授(国際政治学)は「日本独自の核保有を巡る発言は稲田氏が大臣になる前の発言だ。ここまで問題にするのはいかがなものか」と野党側の姿勢に疑問を呈し、「大臣になって間もない時期であり、まずは職務に専念してほしいと思う」と話した。
稲田氏が涙を浮かべたのは9月30日。辻元氏が8月15日(終戦の日)の全国戦没者追悼式を欠席した理由をただした時だ。稲田氏は海賊対処で自衛隊の駐留するアフリカ・ジブチを訪問中だった。
辻元氏は「涙を浮かべ、震えていた。矛盾を突かれ、答弁しようがなかったのだろう。うろたえる防衛大臣を世界各国はどう思うか。国益を損ねている」と指摘する。
一方、菅義偉官房長官は記者会見で「高い緊張感をもって職務を果たしている」と擁護した。 
防衛省職員から総スカン クビが迫る稲田大臣の情緒不安定 10/18
「直ちに我が国の安全保障上、何か影響がある事態ではない」。16日、北朝鮮が新型中距離ミサイル「ムスダン」を発射、失敗した─―との情報について、民放番組出演後に記者団に対してこう語った稲田朋美防衛相。だが、防衛省内では「安全保障上の差し迫った問題は北朝鮮よりも大臣だ」なんて声が広がっている。
衆院予算委で日米安保や核武装、尖閣諸島問題などを巡る過去の発言を野党議員に繰り返し追及され“半べそ”状態になった稲田大臣。自業自得とはいえ、こんな親分の姿にカンカンなのが現場の防衛省職員や自衛隊員である。現役職員がため息交じりにこう言う。
「大臣就任当初は確かに評判が良かった。『弁護士出身だけあってのみ込みが早い』なんてね。でもいっときだった。最近は起案する時、必ず関係法令を『全部書きだして』とか言うのです。机の上に分厚い六法全書を置いてね。中谷前大臣の時は、大ざっぱな箇条書きで済んでいたのに、現場職員はテンヤワンヤです。揚げ句、国会答弁で泣きべそですから。そんな人が内戦状態の南スーダンに隊員を派遣し、『駆け付け警護』の任務の可否を判断するのですから冗談ではありません。省内ではシン・ゴジラならぬ『稲田ゴジラ』なんて囁かれています」
政権の御用学者からは「稲田大臣の発言は過去のこと。今、問題にするのはどうか」なんて擁護する声も出ているが、バカも休み休み言ってほしい。立場や肩書で政治主張がクルクル変わるのであれば、有権者は何を信じるのか。米大統領選の共和党候補であるトランプも連日、差別、侮蔑的な発言をしているが、仮に大統領に就いたら、「過去のこと」と問題視されないのか。違うだろう。軍事ジャーナリストの世良光弘氏はこう言う。
「南スーダンでは、国連PKOに派遣されている中国軍も撤退を検討し始めたと報じられています。それほど緊迫した状態にあるのに、日本の防衛大臣は国会で情緒不安定な答弁を繰り返している。これではすでに派遣されている南スーダンの自衛隊員はやってられません。隊員の命が失われるなど取り返しのつかない事態になる前に、早く稲田大臣を交代させるべきです」
稲田氏を防衛大臣に起用した安倍首相も衆院予算委で「(南スーダンは)永田町と比べればはるかに危険な場所」なんて能天気なことを言っていた。自衛隊員が怒るのも当然だ。  
稲田防衛大臣の更迭危機 10/20
 南スーダン視察で「現地の状況は落ち着いていた」発言の失態
これは“ともちん”こと稲田朋美防衛相がお払い箱になる前兆なのか?
南スーダンのPKOに参加する自衛隊に、駆けつけ警護などの新任務を付与するかどうか判断するため、稲田大臣が首都ジュバの治安状況を視察したのは10月8日のこと。帰国後、稲田大臣は「現地の状況は落ち着いていた」と国会で答弁。その報告をもとに、派遣期限の今月末にも新判断が下されるはずだった。
ところが安倍内閣は12日、その月末までの判断を見送ることに。一体、なぜ? 南スーダンPKOを現地で取材した東京新聞の半田滋(しげる)論説委員が言う。
「視察がお粗末すぎます。稲田大臣がジュバに滞在した時間はわずか7時間。しかも、国連施設のあるトンピン地区など、視察ポイントはジュバ市内でも安全の確保されたエリアばかり。安全保障のプロならば、紛争地の視察はもっと念入りに行なうもの。稲田大臣は最低でも1、2泊は現地に滞在し、任務中の自衛隊と行動を共にしながら、治安状況を見極めるべきでした」
防衛庁担当記者も苦笑する。
「稲田大臣が駆け足で視察をした同じ日に、ジュバ近くでトラックが攻撃され、市民21人が死亡する戦闘が起きていたんです。なのに、稲田大臣の報告は『現地は落ち着いていた』。このまま彼女の報告をうのみにして新任務を付与すれば、『ろくな視察もせずに、自衛隊に危険な任務をさせるのか』と、野党から集中砲火を浴びて、国会審議がストップしかねない。そこで月内の判断が見送られたというわけです」
国会答弁中に涙ぐむなど、これまでも防衛相としての資質に疑問符がついていた稲田大臣。
「南スーダン視察の大ポカで、身内の自民党からも信用を失いつつある。安倍晋三首相の任命責任が問われるようであれば、早めに更迭されることもあるかもしれません」
安倍首相の判断やいかに!? 
出張ドタキャン、珍答弁連発…稲田防衛大臣の言動がどうにも不可解だ 10/26
「涙の答弁」だけではない。相次ぐ重要案件のドタキャン、間違った答弁を連発…。稲田朋美防衛相の言動が、どうにも不可解だ。官僚たちも「腫れ物に触る」ように、彼女と接しているという。はたして、大臣としての自覚と資格があるのだろうか。過去30人以上の防衛相(長官)を取材してきた半田滋氏が、その実態をレポートする。
「涙の答弁」の真相
「初の女性首相候補」の鳴り物入りで国防の要職に就いた稲田朋美防衛相。就任して初めての国会論戦となった衆院予算委員会で、終戦記念日の8月15日に行われた全国戦没者追悼式を欠席したことを民進党の辻元清美氏に追及され、涙ぐんだ。
公式の場で涙を見せること自体、首相候補以前に政治家の資質として疑問符がつくが、奇妙な行動は涙だけではなかった。
式典を欠席したことについて、辻元氏は「あなたは『自国のために命を捧げた方に感謝の心をあらわすことができない国家であっては防衛は成り立たない』といっている」「欠席は言行不一致ではないか」と指摘すると、稲田氏は「大変、残念だったと思う」と言葉を詰まらせ、そして涙ぐんだ。
8月15日、稲田氏は自衛隊がソマリア沖海賊対処の「拠点」を置くアフリカのジブチにいた。それは唐突な出張だった。直前の12日、持ち回り閣議で決済され、翌13日に慌ただしく出発している。早くからジブチ行きが計画されていたとすれば、8日に開かれた閣議で決まっていたはずである。
帰国は16日。ジブチのホテルに泊まったのは一日だけで、あとは途中泊、機内泊という一泊四日のドタバタぶり。国会日程もないのにこの慌てようはない。
急だったことは日本からジブチまでの経路を見てもわかる。成田−シンガポール−ドーハ(カタール)−ジブチと中東を経由したが、通常ならハブ空港であるアフリカのアジスアベバ(エチオピア)経由など別の便を選ぶ。シンガポールでの乗り継ぎに10時間もあったのでホテルで泊まり、ドーハでは6時間のトランジットを余儀なくされ、ジブチのホテルにチェックインしたのは視察日当日の15日午前1時過ぎだった。
変則的なルートになったのは日本のお盆にあたり、アジスアベバ便や他のハブ空港のナイロビ(ケニア)便、ドバイ(アラブ首長国連邦)便が満席になるなど特別な事情があったためだろう。余裕をもって計画していたならば、このような行程にはまずならない。
稲田氏は国会議員になって以来、毎年、終戦記念日に靖国神社への参拝を欠かしたことがない。仮に今年、防衛相として参拝したとすれば中国、韓国との関係は決定的に悪化したはずだ。しかし、避けたら避けたで参拝を求める国内の支持層からの批判を浴びただろう。
防衛省幹部は「ジブチ訪問は大臣本人の希望。終戦記念日に重なったのは偶然だと思う」と解説するものの、国内外で浮上しかねない問題を回避するため、首相官邸の判断で体よく日本から追い出したとの見方が有力視される。
本人の意思によるジブチ訪問であれば、追悼式欠席は「承知の上」となり、指摘されて涙ぐむのは不自然に過ぎる。見方を変えれば追悼式に出るという閣僚としての職務を放棄させ、稲田氏が体面を失っても構わないという決断は首相官邸にしかできない。
だとすれば、安倍政権にとって稲田氏は「軽量」ということになる。女性閣僚として抜擢したように見せかけてその実、女性活躍社会を掲げる安倍晋三首相にとって都合のよい広告塔のひとつに過ぎないのかもしれない。
そんな稲田氏の不可解な行動が、翌9月になって連続して起きた。
二つの「ドタキャン」
9月12日、陸海空自衛隊の将官約180人が一堂に会する、年に一度の高級幹部会同が防衛省で開かれた。
稲田氏は安倍首相に続いて訓示したが、その日の夕方官邸で開かれた首相主催の将官らとの懇親会には欠席し、代わりに若宮健嗣防衛副大臣が出席した。理由は不明だが、自衛隊の高級幹部が集う公式行事に防衛相が欠席したのは極めて異例だ。
続いて稲田氏は重要な二つの出張をドタキャンしている。ひとつは沖縄訪問だ。9月10、11の両日、辺野古新基地建設に反対する翁長雄志沖縄県知事ら地元首長との会談が予定されていた。
ところが、訪問前日の9日夕になって同行を予定していた報道陣に沖縄行きの中止が伝えられた。この朝、北朝鮮は今年二度目の核実験に踏み切ったが、同日午前、国家安全保障会議が開かれ、北京「大使館」ルートで厳重抗議をすることで日本政府としての対応はほぼ終わっている。
那覇へ出発するはずだった10日、稲田氏は韓国の韓民求国防長官と約15分、電話会談したが、午前9時には終わった。この時点で防衛省から羽田空港に向かっていれば、予約していた午前10時40分発の飛行機に余裕を持って乗れたはずだ。
このあと稲田氏は午後0時40分に官邸近くのホテルで昼食中の安倍首相と会っているが、首相は午後1時17分には渋谷の美容室に着いている。面会の時間は、わずか20分程度。沖縄行きをキャンセルするほどの用件があったとは考えにくい。
防衛相として、基地問題が山積する沖縄を訪問しないわけにはいかない。結局、沖縄訪問は9月24日に仕切り直され、翁長氏らとの会談も二週間遅れで行われた。
ただ、反対運動が続く辺野古新基地、東村高江のヘリパット建設現場とも自衛隊のヘリコプターで上空から眺めただけ。歓迎されない沖縄へは行きたくなかったのでは、との憶測が記者の間に広がった。
もうひとつのドタキャンは国連平和維持活動(PKO)として自衛隊を派遣している南スーダンへの訪問だ。9月15日に訪米した稲田氏は、その足で現地へ飛ぶ日程だったが、これも訪問前日の16日夕になって中止が伝えられた。防衛省は「服用している抗マラリア薬の副作用でアレルギー症状が出たため」と発表した。
稲田氏は薬効に合わせて一週間前に飲んだとみられ、防衛省幹部は「体調が悪そうだった」とかばうが、米国の水がよほど合っているのか、ワシントンDCではカーター国防長官と会ったほか、アーミテージ元国務副長官、IMFのラガルド専務理事と予定通り会談し、米戦略国際問題研究所(CSIS)で講演までこなした。
アーミテージ氏とラガルド氏は、稲田氏が自民党政調会長だった昨年9月の訪米で面会した相手であり、そのときもCSISで講演している。つまり、ここでは二年連続の講演をしたことになる。何のことはない。カーター氏との会談を除けば、防衛省の公務とは直接、関係のない旧交を温める旅であり、有力者に自らを売り込む狙いだったことがうかがえる。
優先順位を間違えている
一方、南スーダン訪問は、7月に自衛隊のいる首都ジュバで武力衝突が発生し、治安情勢の悪化が懸念される中、安全保障関連法にもとづく「駆け付け警護」「宿営地の共同防衛」という新任務を与えるか判断材料を集めるための重要な視察だった。いつでも行ける米国をキャンセルしてでも向かうべきであり、明らかに優先順位が違う。
案の定、南スーダンへ行かないわけにはいかず、こちらも仕切り直して10月8日に訪問した。しかし、滞在はジュバのみでわずか7時間。会談が多かったうえ、武力衝突が起きた現場を避けて通り、表面的な視察に終始したが、会見で「ジュバは落ち着いている」と宣言した。
気温50度という酷暑の中、防虫服の上に防衛相の「五つ星」ワッペンを張ったカーキ色のジャンパーをはおり、白っぽいパンツに短ブーツという出で立ち。抗マラリア薬は飲まなかったというが、気配りすべきはファッションや虫よけより隊員の安全だろうに。
奇妙な出来事はまだある。9月13日、稲田氏は記者会見で、この日、高江のヘリパッド建設工事に自衛隊の大型ヘリコプターを投入した自衛隊法上の根拠を問われ、回答に詰まった。
すると陪席した秘書官らに防衛実務小六法を渡すよう求め、慌てた武田博史報道官が待機していた職員から受け取って手渡すと、稲田氏は会見中にもかかわらず、読み始めて約30秒間沈黙。この様子はテレビで報道され、ネットには「稲田氏側近に激怒」「ブチ切れ」などと二次加工された記事が並んでいる。
翌14日、稲田氏は参院外交防衛委員会で、国会議員バッジをつけずに答弁に臨み、元自衛官で「ヒゲの隊長」こと佐藤正久委員長から「国民の代表としてバッジをもらっている。その重みを受け止め対応してもらいたい」と注意される一幕もあった。
国民の代表としての自覚を持ってもらわなければ困るのは当然としても、稲田氏は防衛相として必要な基礎知識を持ち合わせているだろうか。そう疑いたくなるほど間違い答弁を連発している。
大臣の資質、以前の問題?
まず10月4日の参院予算委員会で「(尖閣諸島周辺の接続水域に)中国の戦艦が入ってきた」と答弁したが、中国は「戦艦」を持っていない。質問した民進党の後藤祐一氏から「防衛省発表では『艦艇』『艦船』となっている。言葉の選び方を慎重に」とたしなめられる始末。
続く5日には同じ委員会で民進党の蓮舫氏から追及を受けて「中国漁船」を「中国公船」、「防衛費」を「軍事費」と言い間違えた。
この日、稲田氏は沖縄の尖閣諸島沖で2010年、中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突した事件について聞かれ、「尖閣で『中国公船』が衝突して大混乱になった」と事実を誤認して説明。
続いて過去の雑誌で「軍事費を増やすべきだ」という旨の発言をしていたことについて釈明した際は、「財源のない子ども手当を付けるぐらいであれば『軍事費』を増やすべきではないかと申し上げた」と述べた。
自衛隊は憲法上、軍隊ではないため、政府は防衛費と呼ぶが、自民党憲法改正草案には「国防軍」の保有が明記してある。稲田氏の気分は早くも「軍隊」なのかもしれない。
そして6日の同じ委員会では、資金管理団体「ともみ組」が同じ筆跡で書かれた領収書を三年間で約260枚、約520万円分を総務省に提出していたことが判明した。同じ問題が明らかになった菅義偉官房長官とともに、パーティーで主催者側が一人ずつ金額を確認すれば対応に時間がかかることを理由にあげ、稲田氏は「主催者のいわば『委託』を受けて正確に書き込んだ。何ら問題ない」などと答弁した。
稲田氏は個人事業主でもある弁護士だ。税額の確定申告は手慣れていることだろう。国税当局に同じ筆跡で書かれた領収書をまとめて提出し、「委託を受けているから問題ない」と説明して通ると考えているのだろうか。
もはや大臣の資質以前に国会議員として、いや社会人としての常識を疑わざるを得ないところまできているのではないか。
稲田氏が防衛省の大臣室の机に常に防衛実務小六法を置き、外出する際は秘書官に持ち歩かせているのは公然の秘密とされている。
省内では「国会答弁に備えているのか、ご自身の疑問を解消したいからなのかは分かりませんが、報告を受ける案件は、関係する法令をすべて書き出すよう求めます。いかにも法律のプロ、弁護士らしい」(幹部)との評があるが、細部にこだわり過ぎるとの厭味が含まれていないだろうか。言葉の裏に「大臣は大局を理解していない」との批判がにじむ。
筆者はこれまで30人以上の防衛相(長官)を取材してきたが、稲田氏ほど防衛官僚たちが腫れ物に触るように接した例を知らない。周囲をピリピリさせる独特のオーラをまき散らしているのだ。安倍首相の「お気に入り」だからかもしれない。
稲田氏自身にも安全保障問題について「しろうと」の自覚はあるようで、部隊視察をひんぱんに繰り返し、自衛隊のことを早く知ろうと努力しているのはわかる。だが、沖縄で地元住民たちと膝詰めで話した先輩防衛相のように、「国民の意見」を知ろうとする様子は見られない。「上から目線」とされる安倍首相を真似ているのだろうか。
11月末の臨時国会が終わるころには、「初の女性首相候補」などの戯れ言は聞かれなくなるに違いない。 
 2016/11

 

防衛省では「安全保障上の差し迫った問題は北朝鮮より大臣」との声も広がる
「直ちに我が国の安全保障上、何か影響がある事態ではない」。16日、北朝鮮が新型中距離ミサイル「ムスダン」を発射、失敗した─―との情報について、民放番組出演後に記者団に対してこう語った稲田朋美防衛相。だが、防衛省内では「安全保障上の差し迫った問題は北朝鮮よりも大臣だ」なんて声が広がっている。
衆院予算委で日米安保や核武装、尖閣諸島問題などを巡る過去の発言を野党議員に繰り返し追及され“半べそ”状態になった稲田大臣。自業自得とはいえ、こんな親分の姿にカンカンなのが現場の防衛省職員や自衛隊員である。現役職員がため息交じりにこう言う。
「大臣就任当初は確かに評判が良かった。『弁護士出身だけあってのみ込みが早い』なんてね。でもいっときだった。最近は起案する時、必ず関係法令を『全部書きだして』とか言うのです。机の上に分厚い六法全書を置いてね。中谷前大臣の時は、大ざっぱな箇条書きで済んでいたのに、現場職員はテンヤワンヤです。揚げ句、国会答弁で泣きべそですから。そんな人が内戦状態の南スーダンに隊員を派遣し、『駆け付け警護』の任務の可否を判断するのですから冗談ではありません。省内ではシン・ゴジラならぬ『稲田ゴジラ』なんて囁かれています」
政権の御用学者からは「稲田大臣の発言は過去のこと。今、問題にするのはどうか」なんて擁護する声も出ているが、バカも休み休み言ってほしい。立場や肩書で政治主張がクルクル変わるのであれば、有権者は何を信じるのか。米大統領選の共和党候補であるトランプも連日、差別、侮蔑的な発言をしているが、仮に大統領に就いたら、「過去のこと」と問題視されないのか。違うだろう。軍事ジャーナリストの世良光弘氏はこう言う。
「南スーダンでは、国連PKOに派遣されている中国軍も撤退を検討し始めたと報じられています。それほど緊迫した状態にあるのに、日本の防衛大臣は国会で情緒不安定な答弁を繰り返している。これではすでに派遣されている南スーダンの自衛隊員はやってられません。隊員の命が失われるなど取り返しのつかない事態になる前に、早く稲田大臣を交代させるべきです」
稲田氏を防衛大臣に起用した安倍首相も衆院予算委で「(南スーダンは)永田町と比べればはるかに危険な場所」なんて能天気なことを言っていた。自衛隊員が怒るのも当然だ。 
稲田防衛相「自衛隊の歴史に新たな一歩」 駆けつけ警護 11/19
(南スーダン国連平和維持活動〈PKO〉に)今回派遣される部隊には、平和安全法制に基づく新たな任務が付与される。これは、自衛隊の国際平和協力の歴史の中で、新たな一歩となるものだ。
自衛隊による国際平和協力活動は、過去20年間、常に大きな注目を受けてきた。様々な議論がなされてきたのも事実だ。他方で、自衛隊の派遣が国際社会の平和と安定に大きく貢献してきたことに疑問を挟む余地は全くない。我が国自身の評価を高めることにつながってきたことも、また疑いのない事実だ。
南スーダンにおける派遣施設隊の活動。これは長期的な国造りのために欠くことのできない、文民保護支援や人道支援のための環境作りにほかならない。道路整備など派遣施設隊の活動の質は非常に高く、まさに自衛隊にしかできない責務をしっかりと果たし、日本の良さを体現してくれている。 
「稲田防衛相は頼りない」 自衛官募集ビラに滲むホンネ 11/26
「稲田防衛大臣(女性)は少々頼りないですが」――案外これが、自衛隊員22万人の本音じゃないか。自衛隊秋田地方協力本部大館出張所の40代の男性隊員が、稲田大臣を揶揄する自衛官募集のビラを配布した問題。防衛省は「極めて遺憾」(武田博史報道官)などと釈明に追われているが、ある陸自関係者は半笑いでこう明かす。
「地本(地方協力本部)は1人でも隊員を増やすのが至上命令で、各都道府県にある地本はどこも必死です。募集ビラの内容も地本の裁量に任されていて、若者ウケしようとノースリーブの制服を着た“萌えキャラ”のイラストを使ったりすることもある。つい行き過ぎて、本音が出ちゃっただけじゃないですか」
問題のビラは稲田大臣を「頼りない」と揶揄しつつ、「頼れるあなたはぜひチャレンジを!」と皮肉たっぷりだ。
「内局(防衛省)にも制服(自衛隊)にも、口を出したり顔を出していた軍事オタクの石破茂元大臣に比べたら、稲田さんの方がみこしが軽くて扱いやすいそうです。ただ、稲田さんは極度の目立ちたがり屋で、自衛隊のイベントにすぐ顔を出したがる。それも1日でいいのに2日連続で来たりするから、対応に追われる現場はいい迷惑らしい。バカンス風のド派手な衣装で現れ、ヒールのある靴で護衛艦内を闊歩されてもねえ。そのくせ、国会で野党から追及されたら半ベソをかく。とても命を預けようという気にはなれません。幹部はともかく、不満タラタラの現場の隊員は『よく言ってくれた』だと思いますよ」(元海自幹部)
頼りないのは「女性だから」という理由ではないだろう。 
稲田朋美防衛相が政務活動費で贅沢三昧! 11/27
 串カツ屋で一晩14万円、高級チョコに8万円、靖国の献灯も経費で
昨日、本サイトでは、25日に公開された2015年分の政治資金収支報告書から、安倍首相を始めとする現閣僚らのおそるべき"金満・豪遊っぷり"を報じた。だが、そのなかでもとりわけすごいのが、安倍首相から寵愛を受け、ネトウヨの間では「ともちん」の愛称で大人気の防衛大臣・稲田朋美氏だ。
稲田氏の資金管理団体「ともみ組」の収支報告書をみると、稲田氏は「政務活動費」と称して超高額の夕食会合をたびたび行っている。たとえば、15年2月6日にはホテルニューオータニで20万3212円と26万6765円を「夕食会合費」として支出。一晩でしめて46万9977円だ。さらに同年3月9日も同じようにニューオータニで2回に分けて10万3588円と20万5632円を支出。その上、この日は南青山の一軒家イタリアンレストラン「リヴァデリエトゥルスキ」でも7万円を使っている。
こうした謎の巨額会合費もさることながら、飲み食いの支出のなかには、ほんとうに政治活動で利用したのか?と思えてくるようなものもたくさんある。とくにお気に入りと思しきは、東京・JR新橋駅にほどちかい「串かつ凡」の銀座店。調べてみると、フランス・パリにも店を構え、大阪・北新地店はミシュランで一つ星を獲得した高級串カツ店だ。なんでも高級食材のシャトーブリアンやフォアグラをも串カツにしてしまうらしいが、収支報告書によれば、9月7日にはその串カツ屋に一晩で14万1380円も支出。そのほかにも5月11日には8万4300円、7月14日に7万2000円、10月21日に8万3100円を政治資金から出している。
串カツに14万円......。もはや庶民には考えられない世界だが、この"串カツ会合"が胡散臭いのは、どうも稲田氏は昔から夫婦でちょくちょく同店に顔を出しているからだ。稲田氏の"豪華飲食代"は少し前にも週刊誌で話題になっており、「FLASH」(光文社)16年9月27日・10月4日号では、イニシャル表記だが明らかにこの「串かつ凡」を指すと思われる串カツ店の店員が、このように証言している。
「稲田さんご夫婦とは古いおつき合いです。稲田さん本人は、いまでも月に1回程度いらっしゃいます。いつもコースの全30串を完食されますよ」
はたして、度重なるこの超高級串カツ店への支出は、本当に政治活動費で清算するべき「会合」なのだろうか?
実は一昨年、産経新聞に掲載された記事「【単刀直言】特別編 稲田朋美・自民政調会長 朝日は「百人斬り」精査を」のなかにも、この「串かつ凡」銀座店が登場する。記事は稲田氏と産経記者が、まつたけの串カツや日本酒に舌鼓を打ちながら談笑するというもの。談笑の途中、稲田氏が「主人が間もなく東京駅に着くのよ。ここに来てもいいかしら」と言いだして携帯電話で連絡、夫・龍示氏が合流しラブラブっぷりを見せつける、という愚にもつかない内容だが、いずれにせよ、記事は完全にプライベートな感じだ。
が、しかし、この産経の記事が掲載されたのは14年10月27日付朝刊、一方、14年分の「ともみ組」の収支報告書を調べてみると、同年9月26日に「夕食会合費」との名目で「銀座串かつ凡」に5万1950円が計上されていた。もちろん政治活動費としての支出である。これはいったい......。
まだある。15年分収支報告書からほんの一握りを紹介すると、夜はワインバーとなる赤坂の喫茶店で14万円、神楽坂の蕎麦屋で23万円、南青山のフレンチで11万円......などなど、あげていけばキリがないが、これらは1回での飲食代(会合費)である。こうした巨額飲食代のなかにはたしてどれほど私的なものが含まれているかは収支報告書だけではわからないが、どれもアヤしく見えてしようがない。
飲食だけではない。他にも、昨年2月11日には「贈答品」の名目で高級チョコレート専門店「ラ・メゾン・デュ・ショコラ六本木ヒルズ店」で2万9970円、翌12日にも同店で5万1840円分お買い上げ。あわせて8万1810円だ。時節柄、バレンタイン用のチョコとして買ったとしか思えないが、はたして政治資金でやることか?
また昨年6月19日、「みたままつり献灯代」として靖国神社祈祷所に1万2000円を支出していることも気になる。靖国神社の「みたままつり」は毎年7月に行われ、靖国神社のホームページによれば〈本殿では毎夜、英霊をお慰めする祭儀が執り行われ〉るといい、明らかに特定の宗教的行為に対する支出だ。まあ、その是非はいまはおいておくとしても、政治活動費から「献灯代」を出すのはいかがなものか。やるなら自分の金でやれ、としか言いようがないだろう。
一方で、稲田氏は政治資金パーティや寄付による収入もスゴイ。昨年2月24日にホテルニューオータニで開催した「衆議院議員稲田朋美さんと道義大国を目指す会」では、607人を集め一晩で2518万1000円も売り上げた。また、15年8月29日に帝国ホテル大阪で開いた「衆議院議員稲田朋美さんを囲む会」でも1648万5000円の収入をゲット。ここに、今年1月23日に名古屋マリオットアソシアホテルで開いた「衆議院議員稲田朋美さんを囲む会」で稼いだカネを足すと、実に合計4542万6000円にものぼる。
さらに、これらパーティ収入のほか、寄附金が計1400万3400円、「日傷議連解散による戻り金」などが16万201円、さらに稲田氏本人が「ともみ組」に2856万8229円を貸し付けており、その他少額のものも合わせると、同資金管理団体の収入総額は8816万9708円だ。実はこれ、安倍首相の資金管理団体「晋和会」の15年の収入額約8268万円をも上回る金額なのである。
稲田氏といえば、今年9月に公開された新内閣の保有資産情報でも、10名の閣僚のなかで家族分を含めたその総資産額が最多(1億8178万円)。稲田氏は夫で弁護士の龍示氏と共同で、都内を中心に140平方メートル(2696万円)や116平方メートル(1396万円)など9件の宅地を所有しており、さらに、夫名義で政府が武器などを発注している防衛関連企業の株を大量取得していたことも判明。資産公開後の会見で「配偶者の資産公開、プライバシー公開は抵抗がある」などと逆ギレしたのも記憶に新しい。
どうやったらこれほどまでに資産を溜め込むことができるのか。もしかして、その秘訣はこの集金力となんでも経費で落とすドケチっぷりにあったのか。
それはともかく、政治資金は「民主政治の健全な発達を希求して拠出される国民の浄財」(政治資金規正法)である。浄財とは個人の利益を離れた金銭や財産のことだ。その使い道として、これら豪華飲食や贈与品がふさわしいのか。国民は、ここまで馬鹿にされてもまだ安倍政権を支持するのか。よくよく考えてみてもらいたい。 
 2016/12

 

稲田朋美防衛相、国産ステルス機「心神」視察
 「独自開発の選択肢与える」 
稲田朋美防衛相は2日、航空自衛隊岐阜基地(各務原市)で国産初のステルス戦闘機「先進技術実証機」(通称・心神、正式名称・X2)を視察した。視察後、稲田氏は記者団に「将来戦闘機をわが国独自で開発する選択肢を与えるための非常に重要な取り組みだ」と述べ、戦闘機国産化について平成30年度までに判断する考えを示した。心神は11月29日、防衛装備庁に引き渡されて以降初の試験飛行を行ったばかり。将来戦闘機について稲田氏は「国際共同開発する良さもある。国内開発、国際共同開発を含むあらゆる選択肢の検討を進める」とも述べた。稲田氏は、同日試験飛行を行った次期主力輸送機「C2」にも搭乗。隊員らに「技術面、実用面の両面から、最後までしっかりと確認し、信頼性の確かな輸送機にしていただきたい」と訓示した。 
 2017/2

 

激しい銃撃戦・戦闘… 南スーダン陸自文書、緊迫の記述 2/7
昨年7月の南スーダンでの戦闘状況について、防衛省が7日に公表した文書からは、激しい衝突が陸上自衛隊の派遣部隊のすぐそばで繰り広げられていた様子が浮かぶ。紛争当事者間の停戦合意などの「PKO参加5原則」が保たれているのか、議論が再燃する可能性もある。
同省は陸自派遣部隊が作る日報「日々報告」の昨年7月11、12日付のほか、日報をもとに上級部隊の陸自中央即応集団(CRF)が作成する「モーニングレポート」も公表した。ただ、派遣部隊の警備態勢に関する記述や他国軍からの情報の部分は黒塗りにされた。
文書には生々しい記述が並ぶ。「宿営地5、6時方向で激しい銃撃戦」(11日日報)▽「今後もUN(国連)施設近辺で偶発的に戦闘が生起する可能性」(12日日報)▽「直射火器の弾着」「戦車や迫撃砲を使用した激しい戦闘」(12日レポート)――。事態悪化時の想定として「ジュバでの衝突激化に伴うUN(国連)活動の停止」を挙げ、PKO継続が困難になる可能性にも言及していた。
政府は「戦闘」との表現を避けてきた。南スーダンで戦闘が起きた後の昨年7月12日の記者会見で、当時の中谷元・防衛相は「散発的に発砲事案が生じている」と説明。昨年10月の参院予算委員会では野党議員が南スーダンでの戦闘は「5原則」に照らして問題があると追及した。安倍晋三首相は「戦闘行為ではなかった。しかし、武器を使って殺傷あるいは物を破壊する行為はあった。衝突、いわば勢力と勢力がぶつかったという表現を使っている」と答弁した。
PKO停止の可能性を指摘 南スーダン戦闘で陸自文書 2/7
国連平和維持活動(PKO)が展開されている南スーダンの首都ジュバで、昨年7月に発生した政府軍と反政府勢力の大規模な戦闘について、防衛省は7日、陸上自衛隊の現地派遣部隊が情勢を記録した文書などを公表した。戦闘激化でPKOが停止したり、隊員が巻き込まれたりする可能性を指摘しており、戦闘の深刻化を認識していた様子が浮かび上がった。
公表された文書は、派遣部隊が作成する日報「南スーダン派遣施設隊 日々報告」のうち、現地で戦闘が続いていた昨年7月11日付と12日付の分と、現地部隊から報告を受けた陸自中央即応集団(CRF)が作成する「モーニングレポート」。
日報やレポートでは、ジュバでの衝突の激化により「UN(国連)活動の停止」に至る可能性があると指摘。また、「(昨年7月)10・11日も戦車や迫撃砲を使用した激しい戦闘がUNハウス・(陸自部隊が駐屯する)UNトンピン周辺で確認される等、緊張は継続」とした上で、「宿営地周辺での射撃事案に伴う流れ弾への巻き込まれ、ジュバ市内での突発的な戦闘への巻き込まれに注意が必要」などとしていた。
防衛省によると、派遣部隊の日報については昨年秋に情報公開請求があったが、同省は文書を探した結果、破棄していたとして、同12月に不開示とした。これに対し河野太郎衆院議員(自民)が再調査を求め、範囲を広げて再度調べたところ、同省統合幕僚監部で見つかったという。
南スーダンPKO派遣部隊の日報を発見 一度は「廃棄」と説明 防衛省 2/7
稲田朋美防衛相は7日午前の記者会見で、情報公開請求に対して昨年12月に廃棄したと回答していた南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に参加している陸上自衛隊部隊の日報が、このたび見つかったと発表した。
防衛省によると、自民党の河野太郎衆院議員らの指摘を受けて再び探したところ、情報公開請求を受けた期間の日報が、統合幕僚監部で電子データとして見つかった。稲田氏は「防衛省として文書を探索しきれなかったことは、十分な対応ではなかった」と陳謝した。
日報は、部隊が日々の活動状況を記録したもので、上級部隊への報告用に毎日作成。情報公開請求を受けた時点では、日報を作成した部隊と、上級部隊である中央即応集団の司令部を中心に調べただけだった。
PKO停止の可能性を指摘 南スーダン戦闘で陸自文書 2/7
国連平和維持活動(PKO)が展開されている南スーダンの首都ジュバで、昨年7月に発生した政府軍と反政府勢力の大規模な戦闘について、防衛省は7日、陸上自衛隊の現地派遣部隊が情勢を記録した文書などを公表した。戦闘激化でPKOが停止したり、隊員が巻き込まれたりする可能性を指摘しており、戦闘の深刻化を認識していた様子が浮かび上がった。
公表された文書は、派遣部隊が作成する日報「南スーダン派遣施設隊 日々報告」のうち、現地で戦闘が続いていた昨年7月11日付と12日付の分と、現地部隊から報告を受けた陸自中央即応集団(CRF)が作成する「モーニングレポート」。
日報やレポートでは、ジュバでの衝突の激化により「UN(国連)活動の停止」に至る可能性があると指摘。また、「(昨年7月)10・11日も戦車や迫撃砲を使用した激しい戦闘がUNハウス・(陸自部隊が駐屯する)UNトンピン周辺で確認される等、緊張は継続」とした上で、「宿営地周辺での射撃事案に伴う流れ弾への巻き込まれ、ジュバ市内での突発的な戦闘への巻き込まれに注意が必要」などとしていた。
防衛省によると、派遣部隊の日報については昨年秋に情報公開請求があったが、同省は文書を探した結果、破棄していたとして、同12月に不開示とした。これに対し河野太郎衆院議員(自民)が再調査を求め、範囲を広げて再度調べたところ、同省統合幕僚監部で見つかったという。  
南スーダン陸自日報 「ジュバで戦闘」を明記 PKO停止を危惧 2/8
防衛省は七日、当初は廃棄したと説明していた陸上自衛隊の南スーダン国連平和維持活動(PKO)の日報を一部黒塗りで開示した。日報は、陸自が活動する首都ジュバ市内で昨年七月に大統領派と反政府勢力の「戦闘が生起した」と明記し、「市内での突発的な戦闘への巻き込まれに注意が必要」と報告。現地部隊は戦闘の激化を深刻に受け止め、PKO停止の可能性にも言及していた。
防衛省が開示したのは、昨年七月十一、十二日の日報など四冊の関連資料。同省は情報公開請求を受けた同七〜十日の日報も順次公開する。ジュバでは昨年七月に大規模衝突が発生し、八日には二百七十人以上の死者が出た。十一日には市内の国連南スーダン派遣団(UNMISS)司令部がある施設で、中国軍兵士二人が砲弾を受け死亡した。
十一日の日報は、こうした不安定な情勢を踏まえ、事態の推移に関する「予想シナリオ」を掲載。大統領派と反政府勢力の関係が悪化した場合、ジュバで「衝突激化に伴う国連(UN)活動の停止」や「大量の国内避難民(IDP)」が発生すると予測していた。
昨年七月の衝突では、稲田朋美防衛相が同年秋の臨時国会で「国際的な武力紛争の一環として行われる人の殺傷や物の破壊である法的意味の戦闘行為は発生していない」と強調。防衛省の武田博史報道官は七日の記者会見で、日報の「戦闘」について「一般的な意味で用いた。政府として法的な意味の戦闘が行われたとは認識していない」と説明した。
<柳沢協二元内閣官房副長官補の話> 防衛省が日報を廃棄したとして非開示扱いとした昨年十二月は、PKO部隊への駆け付け警護などの新任務付与が問題になっていた。だから、武力衝突が起きた時期の日報を開示したくなかったのだろう。
政府は新任務を付与しても大丈夫と考えているようだが、国会の議論を聞いても根拠が分からない。日報は現地の緊迫した情勢を伝えているが、安倍晋三首相は国会で現地情勢を「永田町よりは危険」と述べた。こうした不誠実な答弁を続ける姿勢も問題だ。
南スーダン 陸自部隊日報あった 2/8
 PKO撤退の可能性指摘 政府が否定の「戦闘」表記
防衛省は7日、廃棄したとして情報開示請求に対し不開示決定した南スーダンPKOの陸上自衛隊派遣部隊の日報について、一転して統合幕僚監部が保管していたと明らかにしました。文書では、首都ジュバの自衛隊宿営地周辺での戦闘の発生などが記され、情勢の悪化によっては国連の活動停止によるPKO撤退の可能性なども指摘されていました。「戦闘」の表記も複数あり、これまで政府が否定してきた「戦闘行為」が起きていたことを裏づける内容です。
「廃棄」から一転
明らかになった文書は、昨年7月11、12日の南スーダン派遣施設隊の「日々報告」第1639、1640両号と、報告などに基づいて上級部隊の中央即応集団司令部がまとめた「モーニングレポート」同7月12、13日付の4文書です。11日の日々報告は、ジュバ市内で政府側と前副大統領派の戦闘が発生したことを受け、自衛隊の宿営地内での流れ弾による巻き込まれや、市内での突発的な戦闘への巻き込まれの注意を喚起。宿営地周辺で射撃音が確認されたこと、国連南スーダン派遣団司令部のあるUN(国連)ハウス周辺でも射撃事例があったと報告しています。
モーニングレポートの12日付は、政府側と前副大統領派の戦闘がジュバ市内全域に拡大し、10、11両日も戦車や迫撃砲を使用した激しい戦闘がUNハウスや宿営地周辺で確認され、UNハウスでは中国兵2人が死亡するなど国連部隊の兵士が巻き込まれる事案が発生していることを明らかにしています。また、日々報告には政府側と前副大統領派の関係が悪化した場合の予想シナリオとして、ジュバでの衝突激化に伴う国連の活動停止など、PKO活動が継続不能になる可能性も指摘しています。
保管が明らかになったのは、ジャーナリストで「平和新聞」編集長の布施祐仁さんが情報公開請求していた、首都ジュバで政府軍と前副大統領派の武力衝突があった昨年7月7〜12日の同時期の派遣部隊の活動日報です。防衛省は、請求に対し昨年12月、「既に廃棄しており、保有していなかった」と不開示としていました。
「憲法9条上の問題になる」稲田朋美防衛相 2/8
 南スーダンの戦闘を認めない理由を説明
「9条上問題になるから『武力衝突』使う」 稲田防衛相
南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に参加する陸上自衛隊の日報で現地の「戦闘」が報告されていた問題に絡み、稲田朋美防衛相は8日の衆院予算委員会で「戦闘行為」の有無について、「事実行為としての殺傷行為はあったが、憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから、武力衝突という言葉を使っている」と述べた。
PKO参加5原則では、紛争当事者間の停戦合意が参加の条件で、「国際的な武力紛争の一環として行われる、人を殺し、または物を破壊する行為」という、政府が定義する「戦闘行為」があった場合、自衛隊はPKOに参加できない。稲田氏の発言は「参加ありき」で現状を判断しているとも受け取られかねない内容だ。
民進党の小山展弘氏に答えた。稲田氏は一方で、日報で報告された昨年7月に大規模な戦闘について、「法的な意味における戦闘行為ではない」との従来の政府見解を述べた。
また、防衛省が現地部隊の報告文書をいったん「廃棄した」としながら公表したことについては、「文書管理規則にのっとり管理している。隠蔽(いんぺい)との指摘は当たらない」と答えた。  
南スーダン日報 やっぱり「戦闘」だった 2/9
防衛省は南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に派遣している陸上自衛隊部隊の日報などの一部を公開した。
昨年7月に首都ジュバで発生し、270人以上が死亡した政府軍と反政府勢力の銃撃戦について、政府が否定してきた「戦闘」との表現を使っている。
現場が伝える危険性を政府はやはり過小に見せていたとの印象が強い。国会で派遣の是非を巡る仕切り直しの議論を求めたい。
「自衛隊宿営地周辺での流れ弾や、市内での突発的な戦闘への巻き込まれに注意が必要」
「衝突激化に伴うUN(国連)活動の停止の可能性がある」
「戦車や迫撃砲を使用した激しい戦闘があった」
日報などに記載されたジュバの情勢だ。当時派遣されていたのは北部方面隊第7師団(千歳市)が中心の第10次隊約350人。緊迫した部隊の様子が目に浮かぶ。
PKO参加5原則の柱である紛争当事者間の停戦合意は崩れたと読み取るのが自然だろう。
それでも政府は派遣をやめず、現在活動している第11次隊に駆け付け警護の任務を付与している。
反政府勢力は組織性や支配領域がなく紛争当事者に該当しない。ジュバは紛争の一環としての戦闘ではなく「武力衝突」だった―。
これが政府の見解だ。稲田朋美防衛相はきのう、日報の「戦闘」は「一般的、辞書的な意味で使ったと推測している」と説明した。
だが、政府がいくら「戦闘」という言葉を避け苦しい答弁を続けようと、自衛官が危険にさらされたという事実は隠しようもない。
南スーダン情勢は現在も好転の兆しを見せず、国連の事務総長特別顧問は7日、「大虐殺が起きる恐れが常に存在する」と警告する声明を改めて発表した。
安倍晋三首相は今国会で、派遣隊員に死傷者が出た場合は辞任する覚悟を持たなければならないと明言した。
5月にも派遣される第12次隊は北部方面隊第5旅団(帯広市)が主力となる。犠牲者が出る前に自衛隊を撤収させるのが、最高指揮官としての責任ではないか。
日報発表に至る経緯も問題だ。防衛省は昨年12月の時点では「廃棄した」と説明していたが、自民党の河野太郎衆院議員の指摘などを受け、統合幕僚監部内に電子データが見つかったという。
防衛省は否定するものの、意図的に隠蔽(いんぺい)していたとの疑念が拭えない。徹底調査が必要だ。  
稲田防衛相に辞任要求、PKO日報の「戦闘」隠蔽 2/10
防衛省が廃棄したとしながら一転、保管されていたことが確認された南スーダン国連平和維持活動(PKO)部隊の日報に、「戦闘」があったと記されていた問題で、稲田朋美防衛相の責任問題が浮上している。
民進党は9日の衆院予算委員会で、稲田氏が、PKO参加5原則や憲法9条によって撤退が必要になる戦闘行為ではなく、「武力衝突」と言葉を置き換えて、現地の実態を「隠蔽(いんぺい)している」と追及。大臣の辞任を求めた。
稲田氏は答弁で、「日報には『戦闘』とあったが、南スーダンでは法的な意味での『戦闘行為』はなかった」「一般市民を殺傷する行為はあったが、国際的な武力紛争の一環としてのものではなかった」と、苦しい釈明。「『戦闘行為』は法的に意味がある。混同されないように、『戦闘』という言葉を国会で使うべきではない」と持論を展開。審議はたびたび中断した。
ただ、8日の予算委では、海外での武力行使を禁じた憲法9条を念頭に「(戦闘行為が)行われたとすれば9条の問題になり、武力衝突という言葉を使っている」とも答弁している。
稲田氏はこれまで、過去の発言をめぐり野党に追及されてきたが、今回は自衛隊のPKO派遣にかかわる問題で、事態は深刻だ。日報が見つかった問題でも、隠蔽疑惑が浮上。民進党の蓮舫代表は会見で「公文書管理のあり方として大問題。担当閣僚として、資質に問題があると思わざるを得ない」と批判した。一方、菅義偉官房長官は会見で、辞任要求を拒否した。  
南スーダン日報  政府は実態を直視せよ 2/11
現実を覆い隠す政府の詭弁(きべん)に国民の不信感が募るばかりだ。
防衛省が廃棄したと説明後、保管が判明した南スーダン平和維持活動(PKO)派遣部隊の日報は、現地で「戦闘」が起きていると生々しく記していた。だが、稲田朋美防衛相は、あくまで「武力衝突」と従来の政府見解を繰り返し、「法的な意味での戦闘行為はない」と強弁を続けている。
眼前の戦闘に巻き込まれる恐れを伝える現場の声を握りつぶす、危険極まりない態度である。PKO派遣の前提が崩れていることが改めて明らかとなり、安倍晋三首相が明言していた「撤収」を判断すべき状況ではないか。
一部公開された日報は、昨年7月に宿営地のある首都ジュバで政府軍と反政府勢力がぶつかり、270人以上が死亡した際、「戦車や迫撃砲を使用した激しい戦闘」「戦闘への巻き込まれに注意」と緊迫した状況を克明に記していた。
これを稲田氏が「武力衝突」と言い換えるのは、戦闘と認めれば海外での武力行使を禁じる憲法やPKO5原則に抵触しかねないからだ。「憲法9条の問題になる言葉は使うべきではない」と国会で説明したが、批判をかわすために実態をねじ曲げるのは無理筋だ。
ならば何が「戦闘行為」か。稲田氏は「国または国に準ずる組織間の武力を用いた争い」と言う。反政府勢力はこれに当たらないから戦闘ではないという論法は、欺瞞(ぎまん)というほかない。
許し難いのは、危険な現地情勢を直視せずに政府がPKO任務を拡大したことだ。野党などの強い懸念にも「比較的平穏」と突っぱね、昨年12月から「駆け付け警護」など新任務を付与した。
日報の内容は、防衛省上層部を通じて政府に伝えられていたはずで、現地の認識とかけ離れた「派遣ありき」「安全保障関連法の実績づくり」との批判は免れまい。
防衛省内の対応も疑問だ。日報の保管を把握して1カ月余り稲田氏に報告せず、派遣部隊には「戦闘」の表現を今後は厳密にするよう指示した。政府の顔色をうかがって現場の実態が隠されれば正しい情勢判断ができず、派遣隊員の危険を高めかねない。
南スーダンは内戦状態が続き、民族間の大虐殺の危険を国連が再三警告している。日本政府は、新任務を加えた実施計画に安全の確保が困難なら撤収すると明記した。首相自ら「撤収をちゅうちょしない」と強調したのを忘れたわけではあるまい。
「自衛隊員死傷なら辞任」安倍首相の覚悟 2/11
その決意表明は本当か
安倍晋三首相は2月1日の衆院予算委員会で、南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に派遣している自衛隊に死傷者が出た場合、「首相を辞任する覚悟はあるか」と問われ、「もとより(自衛隊の)最高指揮官の立場でそういう覚悟を持たなければいけない」と述べ、首相を辞任する覚悟を示した。
死傷者など出ないことが一番だが、言葉通りなら、過去の海外派遣で自衛隊に対してみせてきた「政治の無責任ぶり」を吹き飛ばす決意表明となる。与野党で激しい論戦が交わされるのは派遣が決まるまで。決定後は忘れ去られ、棄民のように扱われてきたからだ。
これまでの「政治の無責任ぶり」は目も当てられないほどひどいものだった。当の自衛隊はほとんどの場合、沈黙してきたが、政治に対し「異議申し立て」した例がある。戦火くすぶるイラクへの派遣がその典型である。
2003年3月、米国のブッシュ政権は「フセイン政権が大量破壊兵器を隠し持っている」との根拠のない情報をもとにイラク戦争に踏み切った。小泉純一郎首相が世界に先駆けてこの戦争を支持したところ、米国から「ブーツ・オン・ザ・グラウンド(陸上自衛隊を派遣せよ)」と求められ、同年7月、自衛隊派遣を可能にするイラク特別措置法を成立させた。
ところが、11月に予定された衆院選挙でイラク特措法を争点にしたくない小泉政権はすぐに沈黙した。何の指示も出さず、「防衛庁(現防衛省)でやれることをやればいい」(福田康夫官房長官)と突き放した。その一方で、来日したブッシュ大統領には年内派遣を約束する始末。
首相官邸の指示がない防衛庁提出の補正予算は財務省が編成を認めず、イラクへ調査団さえ送り込めない。自衛隊は進退極まった。
「小泉首相は『殺されるかもしれないし、殺すかもしれない』と答弁したのに、万一の場合に起こり得る戦闘死に向き合おうとはしない」との疑念が陸上自衛隊内部に広がり、ひそかに葬儀のあり方が検討された。結論は以下の通りである。
イラクで死者が出た場合、政府を代表して、首相か、最低でも官房長官に隣国のクウェートまで遺体を迎えに行ってもらい、政府専用機で帰国する。葬儀は防衛庁を開放し、一般国民が弔意を表せるよう記帳所をつくり、国葬もしくは国葬に準じる葬儀とする――。
政治の命令を受けるはずの自衛隊が逆に命じる「逆シビリアン・コントロール」である。その後、防衛庁人事教育局長が首相官邸に出向き、「『万一の場合、国葬をお願いしたい』と自衛隊が言っていますが…」と伝えた。
内閣官房副長官補だった柳沢協二氏はこのときの様子を覚えている。「死者が出れば内閣が吹っ飛ぶ。なぜ自衛隊は葬儀のことを最初に考えるのか奇妙に思った」。隊員の死を心配するより、そうならないよう考えるべきだ、という筋論の前に棄てられた自衛隊の苦悩は官邸に伝わることはなかった。
当時、陸上幕僚長だった先崎一氏はイラク派遣が無事に終わった後、私の取材に国葬を検討した事実を認め、「死者が出たら組織が動揺して収拾がつかなくなる。万一に備えて(国葬の)検討を始めたら覚悟ができた。国が決めたイラク派遣です。隊員の死には当然、国が責任を持つべきだと考えた」と心情を明かした。
先崎氏の言葉から「政治家は自らの立場を優先させて自衛隊のことは考えない」という不信感がうかがえる。シビリアン・コントロールは「あてにならない」という恐るべき教訓が確認されたのである。
あの時、安倍首相はなんと言ったか
イラク派遣の第二幕には、首相を補佐する内閣官房長官に就任した安倍氏が登場する。陸上自衛隊が撤収し、航空自衛隊が武装した米兵をクウェートからイラクの首都バグダッドまで空輸していた時期にあたる。政府は後に名古屋高裁から憲法違反と指摘される「戦闘地域への米兵空輸」の真相を隠し、「空輸は国連物資」などと発表していた。
バグダッド上空では毎回のようにミサイルに狙われたことを示す警報音が機内に鳴り響き、機体を左右に急旋回させる命懸けの回避行動が必要だった。英軍の輸送機は撃墜され、乗員20人が亡くなった。
首相官邸の安倍氏のもとへ、航空自衛隊の幹部が報告に出向いた。そのときのやり取りを幹部の言葉から再現する。
幹部「多国籍軍には月30件ぐらい航空機への攻撃が報告されています」
安倍「危ないですね」
幹部「だから自衛隊が行っているのです」
安倍「撃たれたら騒がれるでしょうね」
幹部「その時、怖いのは『なぜそんな危険なところに行っているんだ』という声が上がることです」
どこか人ごとのような安倍氏。政治の決定で危険な任務に就いているのに、政治家に知らんぷりされてはかなわない、そんな思いで話す幹部に安倍氏は答えた。
「ああ、それなら大丈夫です。安全でないことは小泉首相も国会で答弁していますから」
人ごとのように話したのは、覚悟を持つべきは首相であって、自分ではないとの気安さからだろうか。
派遣を命じる側の政治家が責任をとらないとすれば、自衛隊はどうすればよいのか。過去に出してきた答えはひとつしかない。自己責任で必要なことを必要なだけ実施することである。
自衛隊にとって重要なのは国民の支持を得て、任務を遂行すること。そのためなら自己犠牲は厭わない。そんな教訓は陸上自衛隊初の海外派遣となったカンボジアPKOで得られた。
カンボジア総選挙を控えた1993年5月、旧政府軍のポル・ポト派による邦人警察官の殺害事件が発生し、日本人41人を含む選挙監視員をどう守るか、国会を中心に「自衛隊に守らせろ」との声が広がった。自衛隊の任務は道路や橋の補修であり、武力行使を禁じた憲法に抵触するおそれのある警護任務は認められていないにもかかわらず、である。
急きょ、東京からカンボジアの宿営地に派遣された陸上自衛隊の将官は邦人を警護する手法を伝えた。選挙監視員が襲撃されたならば、隊員が撃ち合いの中に飛び込み、当事者となることで正当防衛を理由に選挙監視員を守れるというのだ。隊員に「人間の盾」になれというのである。世論を忖度した当時の陸上幕僚長の判断だった。
命懸けの任務を命じられた部隊は戦闘能力の高いレンジャー隊員を集めて選挙監視員の活動先を巡回したが、幸い襲撃はなかった。帰国した部隊は防衛庁長官から口止めのように最高賞の一級賞詞を与えられ、カンボジアPKOの現実は闇に葬られた。
「制服組に任せればなんとかなる」。もともと軍事に関心を持たない日本の政治家がそんな根拠のない自信を持ち、今日に至る無責任体制を築くとことになった原点がこのカンボジアPKOにある。その後、PKO協力法に基づく海外派遣は現在の南スーダンPKOまで14回を数え、死者ゼロ、発砲ゼロという記録を更新し続けている。だから政治家は「自衛隊にお任せ」でいられる。
昨年3月の安全保障関連法施行により、「駆け付け警護」は実施可能となったが、実は、自衛隊の自己責任による「駆け付け警護」はとっくに解禁されている。1994年、ルワンダ難民救援のため派遣されたザイール(現コンゴ民主共和国)で日本の医師団の車両が難民に奪われ、自衛隊に救援要請があった。部隊が武器を持って駆け付けると難民は散り散りに逃げ、自衛隊は発砲することなく医師団らを救出した。
2002年には東ティモールPKOに参加している自衛隊に日本人のレストラン経営者から保護の要請があり、自衛隊は武器を持って出動し、経営者らを宿営地まで連れ帰った。
どちらもPKO協力法の「輸送」名目で実施しているが、防弾チョッキで身を固め小銃を構えて出動するのだから同法にはなかった「駆け付け警護」そのものであろう。
功するか、全滅するか
みてきた通り、「自己責任で必要なことを必要なだけ実施する」のが陸上自衛隊なのである。機能不全に陥ったシビリアン・コントロールなど、あってなきが如し、なのだ。
とはいえ、違法すれすれの活動に不安を覚えた陸上自衛隊は安全保障関連法案に「駆け付け警護」を入れるよう求め、法案は成立した。ようやく法律が現実に追いついたのである。
では、南スーダンPKOで「駆け付け警護」を求められた場合、自衛隊はどう行動するのか。陸上自衛隊の佐官はこういう。
「成功するか、全滅するか、二つにひとつしかない。一人や二人隊員に犠牲が出たからといって任務を途中で放り投げるわけにはいかない。だから何人犠牲者を出しても任務を成功させるか、失敗して部隊が全滅するかのどちらかしかない。『駆け付け警護』を要請された隊長は悩みに悩むでしょうね」
安倍政権は昨年11月、南スーダンPKOに派遣される青森県の部隊を主力とする第11次隊に「駆け付け警護」の任務を与えた。しかし、付与=実施ではない。陸上自衛隊の内部資料には「(駆け付け警護は)対応可能な範囲で実施」「実施するか否かは個別具体的な状況により判断」とあり、隊長の判断を重要視している。ただ、最終的には首相がその決断をするのは言うまでもない。
防衛省は7日、「廃棄した」としていた南スーダン派遣部隊の日報「日々報告」が「見つかった」として公開した。昨年7月、首都ジュバで大規模な戦闘が起きた当時の分である。日報には「戦闘が生起」「流れ弾への巻き込まれ」「市内での突発的な戦闘への巻き込まれに注意が必要」と危険な状況が生々しく書かれ、国会で戦闘との表現を避けて「衝突」と言い換え、事態を矮小化した安倍首相や稲田朋美防衛相の答弁との落差が際立つ。
そもそも自衛隊のいるジュバとその周辺の情勢は「不安定な状態が続いている」とする国連の報告書と「比較的落ち着いている」とする日本政府の評価は180度違う。
「積極的平和主義」を掲げ、自衛隊を活用したい安倍首相にとって南スーダンPKOは、ソマリア沖海賊対処と並ぶ、自衛隊海外活動の二枚看板のうちのひとつである。活動を継続させたいがために、クロをシロと言い換えているのではないのか。そんな疑念が浮かぶのだ。
安倍首相に求められるのは、死傷者が出たら辞任する覚悟を持つこと以前に、「政権の都合」という色メガネを外して情勢を的確に分析し、必要とあらば大胆に撤収を命じる覚悟ではないだろうか。
戦闘か、武力衝突か?「稲田防衛相、現地をちゃんと見てください」 2/11
 南スーダン支援NGOスタッフが訴える
防衛省は2月7日、当初は「廃棄した」と説明していた陸上自衛隊の日報を一部黒塗り開示。この日報に、陸自が活動する首都ジュバ市内で昨年7月に「戦闘が生起した」と記載されていた問題で、稲田防衛相は「法的な意味の『戦闘』ではなく、『武力衝突』だ」と説明していた。
多くの家が燃やされ、破壊され、死体がゴロゴロ転がっていた
「これが『戦闘』でないなら、何と呼べばいいんでしょうか。稲田防衛相に、『現地をちゃんと見てください』と言いたいです」
こう語るのは、南スーダン支援を行う日本国際ボランティアセンター(JVC)の今井高樹さん。現地の様子を知る、数少ない日本人だ。
今井さんは現在、隣国スーダンに駐在中。国境を超えて南スーダンの首都ジュバへ入り、避難民への医療・食糧支援などを行っている。
「昨年7月の大規模戦闘では、ジュバ市内に1万人ほど駐留していたといわれる政府軍(大統領派)が、市内に数か所ある反政府軍(元副大統領派)の拠点をロケット砲などで攻撃。特に、市内西部の拠点に対しては戦車や軍用ヘリも動員されました。これに反政府軍も対空砲で応戦。自動小銃で撃ち合いなんていうレベルのものじゃないですよ。戦闘が激しかった地域では、たくさんの家が燃やされ、破壊されました。
私はその時はジュバにいなかったのですが、私の友人たちがみな戦闘の様子を目撃しています。友人の一人は、『戦闘の間は家の中に隠れ、鎮まったので外に出たら死体がゴロゴロ転がっていた』と言っていました。
民間人もたくさん巻き込まれています。正確な数字は誰にもわかりませんが、当時ジュバにいた外国人の援助関係者の中では『1000人以上は亡くなったのではないか』と言われています」(今井さん)
「戦闘」か「武力衝突」かなど、現地から見れば“言葉遊び”
これほどの大規模な「戦闘」について、稲田防衛大臣は国会答弁で何度もこう繰り返した。
「法的な意味の戦闘行為ではない」
「国際的な武力紛争の一環として行われたものではない」
「武力衝突や一般市民の殺傷行為がたびたび生じていることは事実」
自衛隊はPKO5原則のもと、紛争当事者の間で停戦合意が行われているということが派遣の条件となっている。もし「戦闘」が行われているということになれば、撤収しなければならない。そのため、どんなに街が壊され、人が殺されていても「戦闘」とは表現できないのだろう。
「『武力衝突か戦闘か』なんて、現地にいる者から見たら“言葉遊び”ですよ。7月の大規模戦闘の時は、外国人が多く泊まっているホテルが襲撃され、南スーダン人のNGO関係者が殺害されました。外国人は長時間拘束されたうえ、何人かの女性はレイプされました。その時、宿泊客はPKO部隊に助けを求めましたが、あまりに戦闘が激しかったためPKOは出動を拒否したんです。『他国の部隊も出動できないようなこの危険な状態で、自衛隊は本当に活動できるんですか?』と聞きたい」(今井さん)
自衛隊がいつ戦闘に巻き込まれてもおかしくない
安倍晋三首相は国会で、南スーダンについて「永田町と比べればはるかに危険な場所だが、安定している」と説明していた。また稲田防衛相も昨年10月、ジュバにわずか7時間滞在して「現地は落ち着いていた」と確認したという。実際の状況はどうなのだろうか。
「今も各地で毎日のように戦闘行為が行われている状態です。ジュバでも民族間の敵対感情が強まっていて、いつ暴動や虐殺、大規模な戦闘が起きてもおかしくない緊張感があります。
PKO司令部は、昨年7月の戦闘時に破壊された反政府軍の拠点の近くにあります。しかも司令部に隣接する避難民保護施設には『反政府派の一部が紛れ込んでいる』として政府軍が警戒しています。そのため、この周辺はジュバ郊外でも最も治安が不安定。銃撃や兵士による住民・避難民への暴行などが今も起きていると現地の人から聞いています。
自衛隊はそのような場所で活動をしているんです。いつ戦闘が発生し、それに巻き込まれてもおかしくないでしょう」(同)
現在自衛隊は、インフラ環境が劣悪な南スーダンのために、道路や施設の整備などを行っているという。彼らが安心して活動できるよう、現地情勢を正確に把握することが必要ではないだろうか。 
 2017/3

 

稲田発言 3/8
「教育勅語の精神である親孝行など、核の部分は取り戻すべきだと考えており、道義国家を目指すべきだという考えに変わりはない」 
森友学園では幼稚園の園児に教育勅語を暗誦させていたこともクローズアップされたが、稲田防衛相は3月8日の参議院予算委員会で堂々と教育勅語の擁護を行った。なお、過去には雑誌で「教育勅語を素読している幼稚園が大阪にある。適当でないと文科省がコメントしたそうだが、どこがいけないのかと文科省に聞いた」という発言もしているが、これはどう見ても森友学園・塚本幼稚園のことだろう。
稲田防衛相のように「教育勅語は良いことを言っている」とする声もネット上には少なくないが、作家の平野啓一郎氏は「教育勅語を暗唱させれば解決する、という発想は、天皇の権威を復活させ、その命令に無条件に従う『臣民』を作る、という前提以外に不可能」と指摘している。また、弁護士の渡辺輝人氏は、稲田防衛相について「公務員は憲法尊重擁護義務を負っているので、日本国憲法に反する戦前の勅語を公然と擁護する者は、防衛大臣にも、国会議員にも明らかに不適格」とバッサリ。そもそも、稲田防衛相や籠池理事長らが教育勅語にこだわる理由は一体何なんだろう? 素朴な疑問。 
日本では議論されない南スーダン「絶望的な現状」 3/22
南スーダンで起きていた「戦闘」
2017年3月10日、首相官邸で開催された国家安全保障会議の結果、日本政府は国連PKOの一員として南スーダンに派遣されている自衛隊を5月末に撤収することを決定した。
昨年から、自衛隊の南スーダン派遣の是非と「駆け付け警護」という新任務に関して、日本の国会やメディアでは、さまざまな議論がおこなわれてきた。焦点は、2016年7月に南スーダンの首都ジュバで生じた事態が、「衝突」であったのか、「戦闘」であったのかという問題であった。
たんなる衝突であったという政府の主張にかかわらず、これは軍隊同士のまぎれもない戦闘であった。かつ、政府軍と反政府武装勢力の衝突ではなく、二つある政府軍が戦ったのだった。
まず確認しておきたいのは、7月8日に、ジュバでいったいなにが生じたのか、そしてだれとだれが交戦したのかという事実である。
この日、大統領官邸で、サルヴァ・キール大統領とリエック・マチャル第一副大統領、および南スーダン暫定国民統一政府(TGoNU)の閣僚たちのあいだで会議が開かれており、終了後には記者会見が開かれる予定であった。大統領と第一副大統領は、かならず警護隊に警護されて移動する。
7月8日も、大統領と第一副大統領の会談中、大統領官邸の周囲と構内に、双方の警護隊が待機していた。7月8日の戦闘の発端は、二つの警護隊のあいだで発生した銃撃戦であった。この銃撃戦は、2015年の和平合意後は沈静化していた内戦が再燃したものであり、その意味で内戦という戦争の一部と捉えられるべきである。
大統領警護隊と第一副大統領警護隊は、いずれも政府軍の兵士から構成されている。ただし、政府軍は二つある。つまり、スーダン人民解放軍(SPLA)とスーダン人民解放軍=野党派(SPLA-IO)である。
2013年12月に勃発した内戦状態のなかで、SPLAは、キール大統領の指揮下にとどまったSPLA本体と、マチャル元副大統領の側についたSPLA-IOに分裂し、内戦は主として二つのSPLAのあいだで戦われたのだった。政府軍と同様に、政権党であるスーダン人民解放運動(SPLM)も、SPLMとSPLM-IOに分裂した。
2015年8月の和平合意「南スーダンの紛争解決のための合意」(ARCSS)に基づいて樹立された現在の南スーダン暫定政府は、「一政府二政府軍」という、あまり類例のない制度を採用しているのである。
2015年の和平合意では、90日以内に、つまり2015年11月中にSPLMとSPLM-IOの両派と他の政治勢力が参加する南スーダン暫定国民統一政府が樹立されること、暫定政府の樹立後は、二つの軍隊が政府軍として併存し、180日以内に一つに統合されることが規定されていた。
また、ジュバから半径25キロメートル以内は「非軍事化」され、その圏内に駐屯していたSPLAの諸部隊はすべて圏外に撤退し、首都圏内には大統領警護隊と第一副大統領警護隊だけが存在することになっていた。
和平合意の執行は遅れ、SPLM/SPLA-IOの主要メンバーがジュバに戻って、マチャル元副大統領が第一副大統領に就任し、暫定政府が発足したのは2016年4月末のことであった。
それからわずか2ヵ月あまりの後に、ジュバで戦闘が再開され、和平合意は事実上破綻した。
だれも銃撃を止められなかった
7月8日に大統領官邸で発生した銃撃戦の直接の原因は、現在に至るまで不明である。ただし、その数日前から、SPLAとSPLA-IOとのあいだで殺傷事件が散発し、緊張が高まっていたのは事実だ。
銃撃戦は、大統領と第一副大統領をはじめ、暫定政府の首脳たちと、外国メディアを含むジャーナリストたちのすぐ目の前で発生した。その場での死者は100名を超えた。つまり、ほとんど全員が死傷するまで、だれも銃撃を止められなかったのである。
翌9日は、南スーダン共和国の独立記念日だったが、祝賀行事どころではなかった。戦闘は小休止を迎えたが、10日から11日にかけて、大統領側政府軍(SPLA)は、首都圏外から地上部隊と戦車部隊、および攻撃用ヘリコプターを動員し、副大統領警護隊の駐屯地を激しく攻撃した。
この軍事行為自体が、和平合意違反である。
このとき、ジュバにいたSPLA-IOの総兵力は副大統領警護隊の1,200名程度の兵士だけで、軽火器で武装していただけであった。SPLA-IOの主力部隊は、遠く離れた上ナイル地方におり、増援と武器弾薬の補給の可能性はなかった。つまり、軍事的にはSPLA-IOは圧倒的に不利だったのだ。
しかし、SPLAの総攻撃をよく持ちこたえ、11日にはキール大統領とマチャル第一副大統領が停戦を声明し、ジュバでの戦闘は終息した。
内戦の再燃と未曾有の人道危機
マチャル第一副大統領とその警護隊の生き残りは、ジュバを脱出し、SPLAの追撃を防戦しつつ、逃亡を続けた。その間、大統領はマチャルを罷免し、首都に居残っていたSPLM/SPLA-IOの指導部は、鉱山大臣であったタバン・デン・ガイを新たな第一副大統領に選んだ。
これによって、SPLM/SPLA-IOは、マチャル派とデン派に分裂することになった。マチャル派は、もちろんデンの第一副大統領就任を認めていない。
2016年7月以降、再燃した内戦は新たな展開をみせた。それまで相対的に安定していたエクアトリア地方に戦火が拡大したのである。
2013年12月から2015年8月までは、内戦の主戦場は、スーダン・エチオピアと国境を接している北部の上ナイル地方の三州――ジョングレイ州、ユニティ州、上ナイル州――であった。
首都ジュバがあるエクアトリア地方は相対的に平和な状態が継続していた。この「エクアトリアの平和」は、2016年7月以降、破綻することになった。
その原因は、ジュバから逃亡した副大統領警護隊の一部が、マチャル元副大統領とともにコンゴ民主共和国領内まで避難するのではなく、中央エクアトリア州や西エクアトリア州にとどまったためと、エクアトリア人のなかからSPLA-IOと連携しつつ、キール大統領の体制に叛旗をひるがえす武装集団が誕生したために、SPLAと大統領民兵との戦闘状態が生じたことである。
SPLA-IOと、SPLA・大統領民兵の双方は、市民に対する攻撃と掠奪を繰り返した。とりわけ後者による被害は甚大であり、多数の人びとが生命の安全のために、国境を越えてウガンダに避難する直接的な原因となった。とくに中央エクアトリア州南部のイエイとカジョケジ地域では、大半の住民が難民となった。
国連難民高等弁務官事務所の統計によると、2013年12月に内戦が勃発した時点での南スーダン難民の数は約11万人であった。それから2年7ヵ月後の2016年7月はじめの時点では、84万人に増加していた。
それ以降、難民は急速に増加する。
9月には100万人を超え、2017年2月には150万人に達した。とくに、エクアトリア地方からウガンダへの難民の流入が著しい。同時期、国内避難民は210万人に達した。さらに数百万人が食糧不足に直面し、一部では飢餓が発生している。
南スーダンの総人口は、1,300万人と推定されている。現在の南スーダンは、全人口の3割ちかくが難民か国内避難民になり、半数以上が飢えに苦しむという、未曾有の規模の人道危機に直面しているのである。
エクアトリア地方だけでなく、上ナイル州では依然として、大統領側SPLAと元副大統領側SPLA-IO、およびそれぞれと連携する武装集団との戦闘が継続している。
昨年来、日本政府は、ジュバは相対的に安定していると繰り返し表明してきた。たしかに、昨年7月の戦闘終了後、ジュバでは軍事的衝突は発生していない。
しかしこれは、政権が安定しているからでも、キール大統領が国民的支持を得ているからでもない。大統領側が、反大統領とみなした勢力を首都から軍事的に一掃した結果にすぎない。
ジュバを一歩外に出ると、国土の大半は内戦状態にあり、政府は事実上機能しておらず、数百万という国民が生命の危機にさらされているのである。
国際性が欠如した議論
2016年7月にジュバで生じた事態が戦闘ではなく武力衝突であったという認識の根拠として、稲田防衛大臣は10月の参院予算委員会において以下のように述べた。
つまり、「戦闘行為とは、国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷しまたは物を破壊する行為」であるから、ジュバの事態は戦闘ではなく衝突であるというのである。
稲田大臣は、2017年2月の衆院予算委員会でも同様の見解を繰り返した。これは奇妙な見解である。
まず、この戦闘行為の定義は、どの法に規定されているのか、あきらかにされていない。
つぎに、「国際的な武力紛争」が、国同士の紛争、つまりある国の政府軍とべつの国の政府軍とのあいだの紛争を意味しているとすると、これは時代遅れの、世界の現状に適合しない定義ということになる。
なぜなら、冷戦終結後の世界における武力紛争のほとんどは、「内戦」であるからだ。
稲田大臣の認識によると、いかに激しく、大規模であっても内戦は「国際的な武力紛争」ではないので、そこにおける戦いは戦闘行為ではないことになる。残念ながら、野党議員はこうした問題点を議論の俎上にあげることはなかった。
私は、日本における自衛隊の国連PKO派遣をめぐる議論は、内向きで国内事情だけを背景にしているという点で、一面的で表面的であると考えている。
つまり、自衛隊の派遣を規定している国際平和協力法(PKO協力法)に照らして適切かどうか、究極的には、派遣先に国や地域の状況が、「参加5原則」の第1項、「紛争当事者の間で停戦合意が成立していること」に相当するかどうかに議論の焦点がある。
そこでは、国際的な事情がまったく看過されている。
国づくりが破綻した状況ですべきこと
国際的な事情には二つの側面がある。
第一に、国連PKOの派遣対象国である南スーダンの状況である。
22年にわたったスーダン内戦をへて、2011年にスーダンから分離独立した、世界で一番新しい国家である南スーダンは、なぜ国連PKOの派遣を含む国際的な支援を必要としているのか、この国の政治・軍事・経済・社会的状況はどうなっているのかという問題がある。
第二に、南スーダンに派遣されている国連PKO(国連南スーダン派遣団、UNMISS)の目的と業績に関する評価という問題がある。
当初、UNMISSは平和構築の実現、平和の定着と復興・開発のために派遣された。言い換えれば、派遣の目的は、長年の内戦で荒廃した新興国家の国家建設(ステイト・ビルディング)と国民建設(ネイション・ビルディング)に貢献することであった。
内戦勃発後の2014年4月、派遣の優先目的は、市民の保護に変更された。
南スーダン情勢の変化に対応して、国連PKOの目的も変化している。派遣開始以来、流動的な情勢のなかで、目的はどの程度実現されており、そのなかで自衛隊が果たしている貢献はどう評価されるべきなのかという問題の検討が必要である。
2005年以降、日本を含む国際社会は、南スーダンに対して大規模かつ長期的な支援を実施してきた。国連PKOの派遣は、その一部である。自衛隊の派遣は、中期的には平和の定着と国家・国民建設の支援、短期的には市民保護と人道援助の支援という全体的枠組みの中に位置づけられねばならない。
現時点で、まず議論されるべきなのは、南スーダンの数百万の人びとが直面している未曾有の人道危機に、いかに対応するのかという問題だろう。
安倍晋三首相は、自衛隊の撤収を表明した3月10日の記者会見で、「南スーダンの国づくりが新たな段階を迎えるなかで、自衛隊が従事してきた道路整備の事業が終了すること」を撤収の理由としてあげた。
「新たな段階を迎えた国づくり」とはいったいなにを指しているのだろうか。南スーダンの状況を少しでも知っている者にとっては、現在の南スーダンは、国づくりが破綻した状況にある。自衛隊撤収の理由は理解不能である。 
 2017/6

 

稲田朋美防衛相「私たちは容姿が美しい」スピーチは笑えない 6/3
「共通点は女性であること、そして...」
稲田朋美防衛相が6月3日、シンガポールで開かれた「アジア安全保障会議(シャングリラ・ダイアローグ)」で、演説をした。壇上には、オーストラリアとフランスの国防担当大臣がいた。
ウェブサイトに掲載された発言録によると、稲田氏は、会議に出席できたことが光栄だと述べ、シンガポール政府への敬意を示したあと、共に女性である2人の大臣に触れてこんなことを言った。
「見たら分かるように、(私たち3人には)共通点がある。同じ性別で、同じ世代で、全員がグッドルッキング(容姿が良い/美しい)」。
録画された動画を確認すると、稲田氏は目をほそめてにこっと笑い、肩をすくめたように見える。
その後は、北朝鮮情勢や日米同盟など本来の専門の防衛の話に演説の時間を費やしている。
出席したジャーナリストから「違和感」
朝日新聞の守真弓シンガポール支局長は、6月14日付の「特派員メモ」で、稲田氏の演説を聞いたフランスのルモンド紙の女性記者による「大臣の容姿の善しあしなんて誰も気にしていない。女性である大臣自身が、女性差別的な発言をしたのに驚いた」という感想を紹介している。
会場では笑いが起きたことが動画で確認できる。まじめな国際会議で緊張をほぐすための「冗談」のつもりだったのかもしれない。
しかし、私の認識では、国際的な会議で「容姿」や「年齢」に触れることは、あってはならないことだ。その2つの要素は仕事には関係ないことだからだ。
「カボチャみたいな顔」は笑えるか
日本社会では、自分の体型や顔のかたちを指して、「見た目」で笑いを取ることがあるが、この種の場では、通用しないはずだ。
たとえば、「私はカボチャみたいな顔をしてますから」と言ってアメリカ人の前で場を和ませようとした日本人の男性会社員に私は出くわしたことがあるが、場が凍り付いたのを覚えている。
容姿に関する「ジョーク」が男性から出ることは少なくないにしても(残念ながら!)、女性本人から出たことに、守支局長も驚いたのだろう。
2016年の都知事選では、当時候補だった小池百合子氏を指して、石原慎太郎・元都知事が「厚化粧」と発言したと報じられたことも記憶に新しい。
日本は、世界経済フォーラム(ダボス会議)がまとめた男女格差指数で、2016年は144カ国中111位だった。男女の賃金格差や管理職比率の低さなどが指摘されている。稲田大臣のように、自ら「かわい子ぶる」ことで、男性社会に受け入れられるのが実態なのか。
会場では笑いが起きたかもしれないが、私はくすりともしなかった。
ただし、これは日本だけの問題だ、と単純に言えないのも事実。アメリカでもオバマ前大統領が2013年に、カリフォルニア州の女性司法長官を紹介するとき「アメリカの司法長官のなかで飛び抜けてきれいだ」と発言し、批判されたこともあった。世界的に、女性がどんどん社会に進出する中、改めて「容姿」をめぐる職場や公式な場での会話について、考えさせられた稲田氏の演説だった。 
 
 2017/7

 

混乱招いた稲田朋美防衛相の言動 PKO日報問題で異例の監察対象 7/20
菅義偉官房長官は20日の記者会見で、南スーダンの国連平和維持活動(PKO)の日報問題に関する防衛省の特別防衛監察について、稲田朋美防衛相が調査対象になるとの認識を示した。制度上、稲田氏は監察の対象外で、異例の対応となる。稲田氏は陸上自衛隊が保管していた日報の電子データ隠蔽(いんぺい)に関与していないと強調するが、混乱の背景には稲田氏がこれまでの言動で防衛省・自衛隊内の信頼を失ったこともある。
菅氏は記者会見で「防衛監察本部から求めがあれば、稲田氏ら政務三役が協力することになる」と述べた。稲田氏は20日、監察結果の公表時期について記者団に「なるべく早くということで作業を進めている」と述べるにとどめた。公表は当初検討された21日から来週にずれ込む。
菅氏は会見で稲田氏の資質を問われ「責任を果たしている」と擁護したが、振り返れば稲田氏は昨年8月3日の防衛相就任直後から混乱を巻き起こしてきた。
稲田氏は8月中旬に自衛隊の部隊視察のため外遊し、自身が例年行ってきた終戦の日の靖国神社参拝を見送った。外遊の出発時に派手なサングラスと野球帽というリゾートルックで空港に現れ、周囲をあぜんとさせた。その後も奇抜な服装が目立ち、防衛省関係者は「服装を改めるよう進言しても聞き入れられなかった」とため息を漏らした。
弁護士としての自負が強く、報告では法的根拠の説明を求めた。多くの憲法学者が自衛隊を違憲と見なす中、法令解釈の実務も背広組に委ねてきた制服組幹部には、さらに不満が募った。「あなたたちは司法試験にも受かっていない」と言い放たれた幹部もいた。
稲田氏も制服組に不信感を募らせていた形跡がある。制服組幹部のインタビューが新聞に掲載された際は「私の答弁は応答要領でがんじがらめにされているのに、なぜ制服組が自由に話せるのか。文民統制はどうなっているのか」と周囲に不満をぶつけたという。
安全保障に疎いことは自身も認めていたが、先輩から学ぶ姿勢にも欠けた。自民党の国防族議員と関係を築けず、重鎮にぞんざいな口をきいて激怒させた。森本敏元防衛相ら防衛相政策参与3人は昨年末、そろって辞任。「稲田氏が煙たがった」(防衛省幹部)との見方がもっぱらだ。
国会答弁も不安定だった。学校法人「森友学園」(大阪市)の過去の訴訟に代理人として出廷していたことについて「全くの虚偽だ」と突っ張ったが、後に「記憶違いだった」と訂正し、謝罪に追い込まれた。
安倍晋三首相の信任が厚い稲田氏への批判は国民の耳目を集める。「日報データの隠蔽に稲田氏が関与していた」との報道は、責任追及の目をそらしたい陸自側が情報をリークしたとの見方が省内でも根強い。日報問題に関する野党やマスコミの稲田氏への集中砲火は、そのもくろみが「成功」したことを裏付けているが、稲田氏の信頼の失墜が影響していることは間違いない。 
稲田防衛相の「隠ぺい疑惑」はなぜ暴露された?情けなさすぎる真相 7/20
暴露した「政府関係者」の意図
南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に派遣された陸上自衛隊の日報問題で、稲田朋美防衛相の虚偽答弁疑惑が急浮上した。日報を保管していた事実を非公表とすることを決めた、防衛省最高幹部による会議に出席しながら、国会では「報告はされなかった」と答弁していたと、複数の報道機関が伝えた。
内閣改造を8月に控え、問題発言が続いた稲田氏は退任が確実視されている。「安倍首相のお気に入り」という神通力は消え失せ、政府関係者から会議出席の事実を暴露される結果になった。
奇妙なのは、稲田氏が、元福岡高検検事長がトップを務める防衛監察本部に「調査を命じた」と国会で答弁し、今年3月に実際に監察を命じていたことだ。
2007年に防衛省の内部調査機関である防衛監察本部が設置されてから、防衛監察はこれまで3回行われた。いずれも緻密な調査によって、問題点が明らかにされている。
稲田氏が「罪」を犯しているならば、この調査命令は天にツバする行為に等しいが、自身の関与がバレないと本気で思ったのだろうか。
稲田氏は監察結果について「中間報告を含め検討する」と話していたが、内閣改造までに中間報告が出る保障はない。「それでは納得がいかない」とする政府関係者がいなければ、会議出席の事実が暴露されることはなかったかもしれない。
もっとも稲田氏は19日、「隠蔽を了承したとか、非公表を了承したとかいう事実は全くありません」と否定。「2月に(日報の非公表を決めた)会議があったか」との質問には答えないまま、足早に省内に入った。
隠蔽工作を目の当たりにしながら…
新聞報道だけでは詳細が分かりにくいので、改めて、日報をめぐる一連の流れを確認しておきたい。
防衛省は昨年12月、陸上自衛隊の部隊がまとめた日報の情報公開請求に対し、廃棄して存在しないことを理由に不開示とした。だが、同じ月のうちに別組織の統合幕僚監部に保管されていた事実が判明、今年2月になって開示した。
ところが、実は日報は今年1月、陸上自衛隊でも見つかっていた。これを受けて、防衛省の最高幹部による緊急会議が2月15日、稲田氏のほか、黒江哲郎事務次官、豊田硬(かたし)官房長、岡部俊哉陸上幕僚長らが出席して開かれた。
廃棄して「ない」はずの日報を今さら「あった」とはいえず、「陸上自衛隊にあった日報は隊員個人が収集していたもので、公文書にはあたらない」という理屈を付け、「保管の事実を公表する必要はない」との結論に達して会議は終了した。
3月になって、「日報は陸上自衛隊に保管されていたものの、廃棄された」との報道があり、稲田氏は国会で矢面に立たされた。3月16日の衆院安全保障委員会で、稲田氏は「(陸上自衛隊から)報告はされなかった」と明言。そのうえで「私の責任で徹底した調査を行わせる」と述べ、防衛監察を命じたことを明らかにしている。
自らが出席した最高幹部会議で隠蔽工作を目の当たりにしながら、犯人探しを命じたのだとすれば、相当に面の皮が厚いといわざるを得ない。
3月当時の報道では、廃棄を指示したのは、統合幕僚監部の背広組幹部で、実名は出ていないものの、辰己昌良総括官とされていた。国会でその点を指摘された辰己氏があまりにも堂々としていたため、内局幹部は「内局のトップクラスと相談しているからではないのか。仮にそうだとすれば、日報問題の根は深い。『組織ぐるみ』でないことを祈りたい」(筆者の3月23日の記事「防衛省・南スーダン日報隠しの『深層』」)と話していたが、今や「組織ぐるみ」の隠蔽工作だった疑いが濃厚なのだ。
すっかり愛想を尽かされた
隠蔽工作の背景には、二つの問題が潜む。ひとつはシビリアンコントロール上、欠かせない政治家による統率力が稲田氏には決定的に欠けている点である。
防衛相就任から1ヵ月後の昨年9月、稲田氏は南スーダンPKOの視察を予定していた。15日に訪米し、その足で現地へ飛ぶ日程だったが、前日の16日夕方になって突然、中止した。
防衛省は「抗マラリア薬の副作用による体調不良」と説明したが、稲田氏はワシントンDCでカーター国防長官と会ったほか、アーミテージ元国務副長官、国際通貨基金(IMF)のラガルド専務理事と予定通り会談し、米戦略国際問題研究所(CSIS)で講演までこなした。
アーミテージ氏とラガルド氏は、稲田氏が自民党政調会長だった一昨年9月の訪米で面会した相手であり、そのときもCSISで講演している。これらは政治家としての活動である政務の色彩が強く、防衛相としての公務とはいえない活動が含まれている。
しっかり政治活動をこなしながら、最優先すべき南スーダン訪問をドタキャンした神経が防衛省内で疑われたのである。
稲田氏は結局、南スーダンへ行かないわけにはいかなくなり、10月に仕切り直しの訪問となった。現地滞在はわずか7時間、しかも昨年7月にあった銃撃戦の現場を避けて通り、「情勢は比較的落ち着いている」と安倍首相に報告して、隊員が命掛けで取り組まねばならない「駆け付け警護」の任務を与える道筋をつけた。
このほかにも沖縄訪問のドタキャンなど、気分次第なのか公務をキャンセルすることがあり、防衛省は記者団に同行取材を呼びかける際、「状況によっては中止される可能性があります」とただし書きを付けていたほどだ。
さらに、6月にあった東京都議会選挙の応援演説では、「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてもお願いしたい」と発言した。「防衛省・自衛隊の政治利用だ」との批判を浴びて撤回したが、記者会見で「誤解を招きかねない発言であったことから撤回し、またおわび申し上げているところでございます」と「誤解」という言葉を35回も使って釈明した。
稲田氏は前後の脈絡なく「防衛省、自衛隊、防衛大臣」という言葉を持ち出しており、有権者が誤って理解をする、すなわち誤解する余地はない。
「自分は間違っていない」という子供じみた言い訳は、森友問題でもみられた。
稲田氏は「籠池氏の事件を受任したこともない」「裁判を行ったこともない」と事件とは無関係であることを主張していたが、大阪地裁の出廷記録が報道されたのを受けて一転、前言を撤回した。
極めつけは「私の記憶に基づいた答弁であり、虚偽の答弁をしたという認識はない」と開き直ったことである。「記憶」という言葉を持ち出せば、事実に反していても問題ないというのだ。
こうした「自己チュー」気味の態度は防衛省内でも存分に発揮されており、稲田氏に接する官僚や隊員は「腫れ物に触るようにしている」と正直に打ち明け、隠さない。
どうしようもない隠蔽体質
隠蔽工作の背景となった二つ目の問題は、もともと防衛省・自衛隊に潜む隠蔽体質である。
2004年、海上自衛隊の護衛艦「たちかぜ」の乗組員だった一等海士が自殺した。遺書には「上官からいじめを受けた」との趣旨が書かれていたことから、遺族は国と上官を相手に損害賠償請求訴訟を起こした。
遺族が「たちかぜ」の全乗組員に実施したアンケートなどの開示を求めたのに対し、海上自衛隊は「破棄した」と主張した。だが、控訴審の途中で現役の3等海佐がアンケートの存在を告発し、ようやく海上自衛隊が裁判所に提出、文書を「重要な証拠」と認定した東京高裁は、国などに約7350万円の支払いを命じる判決を出した。
海上自衛隊は2003年のインド洋での海上自衛隊補給艦から米艦艇へ提供した給油量の誤りも隠蔽し、国会で問題にされた。
加えて陸上自衛隊では2000年、幹部が民間人に違法に小銃を射撃させる事件があった。「表面化すれば、自衛隊の威信が失墜する」として刑事処分をとらずに内部の軽い処分で済ませ、報道で明るみに出るまで事件を隠蔽した。
組織の「良心」がはたらいた?
防衛省・自衛隊の歴史をひもとけば、事件や不祥事の隠蔽の歴史といっても過言ではない。事実を公表し、説明責任を果たして再発防止と組織再生を誓うことより、組織防衛を優先させるのである。「自ら守るから自衛隊」。こんな戯れ言は耳にタコができるほど聞かされてきた。
今回の日報をめぐる隠蔽工作を、「国会で責められ続けている稲田氏を守る」という動機によるものだったと捉えると間違う。稲田氏が今後、日報の有無をめぐって「ある」「ない」と対応を二転三転させる可能性が浮上したために、「これ以上、組織を傷つけてはならない」と、「あうんの呼吸」で隠し通すことで一致したのではないか。
一方、外部の人間が知るはずのない最高幹部会議での結論が明るみに出たのは、内閣支持率の急降下により安倍政権の足元がぐらつき始めた今こそ、持て余し気味の稲田氏を切り捨て、あわよくば防衛省・自衛隊に潜む旧弊体質を改め、出直しを期したいという組織内の「良心」が働いたと考えるほかない。
稲田氏が隠蔽工作への関わりを否定するならば、防衛監察の中間報告を急がせるべきである。そして中立の立場からの検証結果を、国民の前に示さなければならない。 
安倍首相は秘蔵っ子の稲田防衛相を斬れるか 7/21
 「見え透いた芝居」は政権への不信を増幅
稲田朋美防衛相が絶体絶命のピンチを迎えている。南スーダンでの自衛隊国連平和維持活動(PKO)に関する「日報隠蔽問題」に自らが関与していたとの疑惑が浮上したからだ。同問題を解明するための特別防衛監察は、命令した防衛相自身の疑惑で7月21日公表の予定がずれ込み、28日か31日となる見通しだ。
「トラブルメーカー」の稲田氏に対し、与党内では「このまま防衛相を続けさせると、政権へのダメージが拡大するばかり」(公明党幹部)と早期更迭を求める声が相次ぐが、安倍晋三首相自身が「女性首相候補」とまで評価して党・内閣の要職に抜擢し続けた稲田氏だけに、官邸サイドはなお、かばい続ける構えだ。
「加計学園疑惑」を主要テーマとして来週24、25両日に衆参両院で実施される予算委員会閉会中審査でも、野党の追及が稲田氏に集中することは確実で、逃げ場を失った"秘蔵っ子"に対して、首相が「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」ことができるのかどうかに永田町の注目が集まっている。
「虚偽答弁」なら議員辞職もの
南スーダンに派遣された陸上自衛隊の日報をめぐる隠蔽問題に絡み、一部メディアが19日に報じたのが「稲田防衛相が、防衛省幹部との2月15日の幹部会合で日報隠蔽を了承していた」との特ダネだ。具体的には、(1)「廃棄した」としていた2016年7月の日報が陸自内にも電子データで保管されていいたことが今年1月に判明、(2)それを公表するかどうかについて、稲田氏や防衛事務次官ら最高幹部が2月15日に緊急幹部会議を開き、その席で日報を非公表とする方針を決めた、という内容だ。
この日報については今年3月になって陸自にデータが残っていたことが明るみに出たが、国会で野党から「データが見つかったことの報告を受けたか」と追及された稲田氏は、「報告は受けていない」と否定。そのうえで「防衛省に隠蔽体質があれば、私の責任で改善していきたい」などと胸を張って、特別防衛監察の実施を指示した経緯がある。
それだけに、もし報道が事実なら、稲田氏自身が組織的な隠蔽工作に加担しながら国会で「虚偽答弁」を繰り返していたことになり、「大臣辞任どころか、議員辞職ものの不祥事」(共産党)となる。
報道へのコメントを求められた稲田氏は当初、「緊急会議を開いた事実はない」などと否定したが、数時間後には記者団に対し、当時の大臣日程などから防衛省幹部との「打ち合わせ」があったことは認める一方、「陸自から日報が見つかったとの報告があったとは認識していない」と苦しい説明に終始した。
こうした稲田氏の対応について、野党側は政府に真相解明を迫るとともに、これまでの稲田氏のさまざまな"問題発言"なども絡めて、「首相は(稲田氏を)即時罷免とすべきだ」(蓮舫民進党代表)と攻勢を強めている。その一方で、自民党内からも「稲田氏を早く更迭しないと、政権全体の問題になる」(自民幹部)との声が聞こえてくる。
稲田氏は自民党が歴史的惨敗を喫した東京都議選(7月2日投開票)で、自民公認候補を応援する際「防衛省、自衛隊としてもお願いしたい」との憲法違反ともとれる発言をして集中砲火を浴びたばかり。与党幹部の間では「あの時すぐ更迭していれば、こんなことにはならなかった」(公明党)との恨み節も出る。しかし、菅義偉官房長官は21日の会見でも辞任論を否定し、稲田防衛相の下で特別防衛監察をまとめて公表する方針を示した。
首相や菅氏が稲田氏を擁護するのは、同氏が「首相の秘蔵っ子」とみられているため「罷免に追い込まれれば、首相の任命責任がより厳しく問われかねない」(官邸筋)との懸念がある。しかも、首相は支持率急落などの窮地から脱するための自民党役員・内閣改造人事を8月3日に予定しており、「人事直前に更迭しても、誰を後任に据えるかも含め問題がより複雑化するだけ」(自民幹部)ということもあって首相らも踏ん切りがつかないのが実態とみられる。
裏目に出た首相の親心
稲田氏は衆院当選4回。2005年夏の小泉純一郎首相(当時)による「郵政解散」の際、当時自民党幹事長代理だった安倍首相に口説かれて「刺客」として立候補し初当選した。その後、自民党政権が崩壊した2009年も含め、3回の衆院選で当選を続け、2012年12月の第2次安倍政権発足以来、内閣府特命相(規制改革担当)、党政調会長などの要職に抜擢され、昨年8月の改造人事では小池百合子現東京都知事に次ぐ2人目の女性防衛相に起用された。
稲田氏は法律家で政策通を自称するが、防衛政務官も副大臣も未経験で、安保・防衛分野は素人だった。それでも首相が起用したのは「将来のために、安保・防衛問題を勉強させるため」(自民幹部)だったとされる。
しかし、この首相の親心が「裏目に出た」(自民長老)のは否定しようがない。トラブルは昨年暮れから続く自衛隊日報隠蔽問題だけではない。通常国会前半で大騒動となった「森友学園疑惑」でも、籠池泰典前理事長の弁護人を務めていたかどうかを国会で問われて明確な口調で「否定」したが、日を置かずに籠池氏関連訴訟の法廷記録に弁護人として記載されていたことが発覚。発言訂正と謝罪に追い込まれた。さらに、都議選での「憲法違反発言」も積み重なったことで、与党内からは「首相の秘蔵っ子ではなく、安倍政権の火薬庫だ」(公明党幹部)との厳しい声が噴出していた。
今回の「日報隠蔽了承」疑惑の陰には、防衛省内の制服組(自衛官)と背広組(防衛省職員=文官=)の確執があるとされ、「特別監察での背広組の対応に不満を持つ陸自の制服組が、内部情報をマスコミにリークした」(政府筋)との見方もある。
ただ、自衛隊という「実力組織」の暴走・暴発を阻止するのがシビリアンコントロール(文民統制)だ。職業軍人でない文民(文官)が、「軍隊」組織に対して最高の指揮権を持つことで、軍の政治への介入を抑止し、民主政治を守るという大原則だ。「陸自が文官の命令に反発したとすれば、まさに文民統制のトップとなる防衛相の責任」(防衛相経験者)であることは論を待たない。
首相はお友達だけ守り、ほかは切り捨てるのか
4月下旬に、東日本大震災について「東北でよかった」と失言した今村雅弘前復興相は、首相の「即断即決」で更迭された。今回の「隠蔽疑惑」も含め一連の稲田氏の言動が安倍政権に与えてきたダメージは「今村氏と比較にならないくらい大きい」(自民長老)とされる。にもかかわらず、首相が擁護を続ければ「お友達だけを守って、それ以外は冷徹に切るという首相の体質」(自民若手)を一段と際立たせる結果にもなりかねない。
通常国会閉幕直後に急落した内閣支持率はその後も下げ止まらず、「政権の危険水域」という30%割れの数字が現実となっている。だからこそ、首相は「8月人事」で態勢立て直しを図ろうとしているのだ。
永田町では、菅官房長官ら官邸サイドが稲田氏自身を特別防衛監察の対象とし、報告取りまとめと公表を28日か31日に先送りさせたのは、「24、25両日の衆参閉会中審査で稲田氏が追及されても、特別防衛監察を理由に具体的な答弁を避けて逃げ切るための策略」(民進党幹部)との見方も広がっている。「こんなドタバタ劇を7月末まで続ければ、人事による態勢立て直しさえ難しくなる」(自民長老)との指摘もある。
「水に落ちた犬はさらに打たれる」という"永田町の法則"からすれば、「このまま放置すれば、マスコミも含めた稲田氏への攻撃はさらに強まり、文科省と同様に情報リークも止まらない状況になる」(自民幹部)可能性も否定できない。首相周辺では「稲田氏が特別防衛監察の公表時に責任を取って辞任する」とのシナリオもささやかれているが、「そんな見え透いた芝居は、安倍政権への国民の不信を増幅させるだけ」(幹事長経験者)との声もある。どうやらこの週末以降、「首相がどう決断するかが、安倍政権の前途を左右する」(同)ことは間違いなさそうだ。 
稲田朋美防衛相に聞き取り調査実施 日報問題で防衛省の監察本部 7/21
稲田朋美防衛相は21日、防衛省で記者団に対し、南スーダンの国連平和維持活動(PKO)の日報問題をめぐる特別防衛監察を行っている防衛監察本部の聞き取り調査に応じたことを明らかにした。同日の記者会見では「報道されている事実関係についても徹底的な調査が必要だ」と強調した。自身の進退に関しては「しっかり、やるべきことをやってまいりたい」と辞任を否定した。
監察本部は稲田氏らへの聞き取り調査なども踏まえ、来週にも結果を公表する見通しだ。監察本部は防衛相直轄で、稲田氏は「できるだけ早く結果を公表したい」と強調した。
監察は、稲田氏が岡部俊哉陸上幕僚長らも出席した2月15日の幹部会議で、陸上自衛隊に日報の電子データが残っていたとの報告を受け、非公表とする方針を了承したかどうかが焦点となる。2月13日には湯浅悟郎陸幕副長が稲田氏にデータの存在を報告していたとの報道もある。
稲田氏は21日の記者会見で「日報を非公表・隠蔽することを了承したことはない。日報データが陸自に保管されていると報告を受けたことはない」と改めて報道を否定した。ただ、2月13日と15日の会議に関しては、議事録が存在しないと説明した。
問題の日報は、昨年9月に情報公開請求があり、防衛省が同12月に「廃棄済み」と回答したが、稲田氏の指示で再調査が行われた。その結果、防衛省は日報が電子データとして統合幕僚監部に保管されていることを確認し、今年2月7日公表した。
稲田氏は「私は一貫して日報を公開すべきだという立場だった。非公表や隠蔽を了承する行動はこれまでの私の姿勢と真逆で相いれない」と強調した。 
自衛官の「矛盾」を放置し信頼を失った稲田氏は潔く身を引くべきだ
いきなり私事で恐縮だが、日本共産党中央委員会に勤めていたころ、もし共産党が政権入りし、そのときに私が国会議員をしているなら(参議院比例区で立候補したこともあるので夢物語ではなかった。政権入りのほうは別にして…)、防衛大臣をやりたいと願っていた。「防衛」という仕事への使命感からだが、同時に他の人には任せられないという気持ちも強かった。
なぜなら、私の周りにいたのは、自衛隊に嫌悪感を持っている人がほとんどだったからだ。そういう人がトップに立つことになったら、自衛官の士気低下は避けられず、防衛の仕事にも悪影響を及ぼすことを懸念したからであった。
冒頭で触れた個人的な事情もあってか、内閣改造のニュースに接すれば、いつも防衛大臣には誰が起用されるのか、いつも関心を持って見守っている。とりわけ、昨夏の内閣改造は、集団的自衛権の行使を可能にする新安保法制が成立し、南スーダンの自衛隊に駆けつけ警護の任務が付与されることが確実視される状況下だっただけに、注目度は大であった。
そういう局面で防衛大臣になった稲田朋美氏であるが、現在強い逆風の中にいる。南スーダンでの「戦闘」を「武力衝突」だと強弁したことや、その同じ南スーダンの「日報隠蔽(いんぺい)」問題、さらにいま話題の大阪の学校法人「森友学園」との親密な関係など、枚挙にいとまがないほど批判の嵐が吹き荒れている。
これらのうち「戦闘」問題については、私は稲田氏に多少同情的である。なぜかと言えば、この種の答弁は歴代政権がずっと続けてきた「虚構の延長線上」のものであって、稲田氏だけを責めて済む問題ではないからだ。
「自衛隊が派遣されている場所が非戦闘地域」という小泉純一郎元首相の答弁は記憶に新しい。国際法の世界では、非戦闘地域で後方支援に徹しても、その行為は「武力の行使」とみなされる。戦争のための基地を外国に提供しただけで、自分も参戦国だということになる。それなのに、そういう常識と憲法9条が矛盾するので、常識のほうを優先させ、それに合うように9条の解釈をゆがめてきたのが歴代政権だからである。
少なくとも稲田氏の発言に問題があったとすれば、自衛官が遭遇する危険について、自分のこととして捉えていないように思えたことだ。PKOの現実も、自衛隊に付与される任務も、歴代政権のころとは様変わりしており、過去の延長線上で物事を考えてはならなくなっているのに、そのことへの想像力がほとんど働かず、これまでの答弁を繰り返しておけばいいという、ある種の「怠慢」が垣間見えたことだ。
日本がPKO法を制定した90年代半ば、PKOを特徴づけていたのは、紛争当事者の停戦合意と受け入れ合意があり、紛争当事者に中立的な立場を取ることであった。しかし、現在のPKOは、住民を保護するためには「武力行使」もいとわないものとなっている。南スーダンPKOも同じである。海外で武力行使をしないという日本国憲法とは完全に矛盾している。
その矛盾を解消するため、新安保法制では、武器使用の権限を国際水準に近づける方向で法改正が行われた。しかし、そのことにより、自衛官はさらに大きな矛盾の中で活動することを余儀なくされるようになった。
例えば、自己防衛のためなどに限られていた武器使用は、警護をはじめ任務遂行のためにも可能なようになった。しかし、その武器使用の方法は、国際水準と異なって正当防衛などの場合(相手が最初に撃ってきたときなど)に限られるので、他国の兵士と比べて自衛官の危険は格段に増している。
にもかかわらず、憲法上の制約があることにより、日本による交戦権の行使ではなく、個々人による武器使用だとされるため、自衛官には国際的な交戦法規が適用されず、捕虜にもなれないとされている。さらに、国家として命令し、部隊として行動しているのに、誤って民間人を殺傷した場合、自衛官個人の刑事責任が問われることになる。しかも、その自衛官を裁くのは軍事法廷ではなく、軍事紛争の知識も経験もない一般の裁判所である。
いま自衛官の多くは、そのような「矛盾」に苦しんでいる。同時に、国家の命令で派遣されたからには、立派に任務を果たさなければならないという使命感を持っている。防衛大臣に求められているのは、その矛盾から自衛官を救い出すために努力することだろう。任務を立派に果たせるよう法制面その他での整備をきちんとするのか、あるいは憲法との矛盾をキッパリ認めて自衛隊の海外派遣そのものを見直すのか、どちらの方向に進むにせよだ。
「憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから、武力衝突という言葉を使っている」。稲田氏の答弁をテレビで何度聞いても、心配りの対象は国会であって、自衛官ではないのだと感じるものでしかなかった。20万人を超える自衛官は、この防衛大臣を信頼し、その命令を受けて任務を遂行できるのかと、不安を抱かせるものだった。
自衛隊はこの5月、南スーダンから撤退することになった。しかし、「南スーダンは安定している」という虚構に最後まで固執し続けたため、PKOの現場で自衛官が抱える矛盾は放置されたままである。稲田氏の罪は重い。
そういう稲田氏と自衛官の間には緊張関係が存在していると思われ、「日報」をめぐる問題も、そこから生まれているように見える。自衛隊の隠蔽体質その他いろいろあるのだろうが、本質的なことは稲田氏と自衛隊の間の信頼関係の欠如にあるのではないか。
よく知られていることだが、南スーダンの自衛隊が「日報」を作成し、報告していることをつかんだジャーナリストの布施祐仁氏が、昨年9月30日に防衛省に対して情報公開請求を行った。直前の7月に首都のジュバで150人以上が死亡する大規模な戦闘が発生していたので、現地の自衛隊は事態をどうみて、どう動いたのかを知りたいと思ったことがきっかけだったという。
彼が情報公開請求を行うと、通常は30日以内にその情報を開示するか、しないかが通知される。ところが、30日を経た10月30日になって、布施氏のもとに届いたのは「開示決定にかかわる事務処理や調整に時間を要する」ので期限を延長するというものだった。そして、ようやく12月2日になって連絡が来ると「日報はすでに廃棄しており不存在」、つまり廃棄したので公開のしようがないというものだった。しかしその後、統合幕僚監部のコンピューター内に保管されているのが見つかり、今年2月7日に発表されたというのが一連の経緯である。
驚くべきは、統合幕僚監部が「日報」を発見したのが昨年12月26日だったとされるのに、それから1カ月も経った今年1月27日まで稲田氏に報告されなかったということである。南スーダンで大規模な戦闘が起きている中で、現地の部隊が事態をどうみているかは決定的に重要な「情報」である。
「戦闘」の二文字が入った「日報」を見せたら、稲田氏が「撤退」を言い出すのを恐れたのか、それとも国会答弁にブレが出るのを心配したのか、それは分からない。しかし、統合幕僚監部は、いま自衛官が置かれている最もシビアな問題をめぐって、情報を真っ先に共有する相手として防衛大臣を位置づけていなかったということである。
しかも、2月15日になると、この「日報」は陸上自衛隊にも保管されており、統合幕僚監部の幹部の指示で消去していたことなどが次々に報道されることになる。これも自衛隊内部からの情報だとされている。大臣を信頼しなかった統合幕僚監部も、現場の自衛官から信頼されていなかったということだ。
さらにこの3月17日、陸上自衛隊の3等陸佐が「身に覚えのない内部文書の漏洩(ろうえい)を疑われ、省内で違法な捜査を受けた」として、国に慰謝料500万円を求める国家賠償請求訴訟を起こした。河野克俊統合幕僚長が2014年に訪米した際、「安保法制は15年夏までに成立する」と米軍首脳に約束していたとする内部文書を共産党が入手し、新安保法制を審議していた2015年の国会で政府を追及したのだが、その文書の存在をめぐる訴訟である。
当時、防衛省はそういう文書は存在しないと言い張っていたが、訴状によれば、文書が国会で暴露された翌日、統合幕僚監部がその文書を秘密指定し、各職員に削除を命じたとされる。それと平行して、その3等陸佐を存在しないはずの文書を流出させた「犯人」扱いし、厳しく責任を追及するとともに、高度な情報を扱う部署から閑職へ異動させたという。
現職の自衛官が国を訴えるのは異例である。「日報」問題も含めて考えると、稲田大臣の下で、防衛省や自衛隊の間で信頼関係が揺らぐ事態が次々と生まれ、実力組織である自衛隊の統制上、深刻な問題が起きていると言わざるを得ない。
森友学園をめぐっても、稲田氏の信頼性が問われている。いわゆる虚偽答弁の数々で窮地に立たされているのである。撤回や修正に追い込まれた発言には以下のようなものがある。
「籠池氏から法律相談を受けたこともなければ、実際に裁判を行ったことはない」
「これまで私は、光明会(稲田氏が夫とともに立ち上げた弁護士法人)の代表となったことはない」
「(籠池氏とは)ここ10年来はお会いしていない」
「夫からは本件土地売却には全く関与していないことをぜひ説明してほしいと言われている」
国会で問題になっているのは、これらの「虚偽」である。ただ、私が問題だと思うのは、稲田氏がウソをついていたかどうかではない。その「ウソの付き方」である。そこに、人間として、防衛省のトップとしてそれでいいのかという、まさに「信頼性」に疑問を禁じ得ないものがあるからである。
誰が見ても、稲田氏と籠池氏との間には、イデオロギー上の親密な関係があったことは明らかだ。教育勅語を大事にすることなどで共感した稲田氏が弁護士として籠池氏を支援し、籠池氏も政治家である稲田氏を応援する関係を築く基盤となったことは疑いようがない。首相夫人の安倍昭恵さんに至っては、籠池氏妻との関係が最近まで続いていたことも明らかになっている。
ところが、森友学園のことが政治問題に発展し、政治家としての自分の立場に悪影響を及ぼすようになると、稲田氏は(安倍氏も)突然、籠池氏との間には何の関係もなかったかのように立場を翻した。人間と人間の関係はそういうものなのだろうか。自分に不利な関係になったとはいえ、即座に切り捨てるというのは人の在り様としてどうなのかと思いたくもなる。
そういう疑念を生じさせることが、私だけではなく、稲田氏に対する世論の冷たい視線の背景になっているように思えてならない(安倍内閣の支持率低下も同じだ)。そして、それが「戦闘」や「日報」をめぐって、自衛官からも信頼を勝ち得ていないのではないかという危惧とも重なってくる。
稲田氏にとって最も大切なことは、いったい何なのか。自分の部下、仲間や同志、それとも自分の政治的経歴なのか。そこが問われているだけに、現在の苦境から抜け出すのは簡単ではないだろう。
憲法9条の下での防衛大臣の仕事には特有の難しさがつきまとう。だからこそ苦労のしがいがあるポストでもある。防衛大臣たるもの、自分の身を捨ててでも、職務に邁進(まいしん)してほしい。それができないなら、潔く身を引くべきではないか。 
稲田朋美「政治資金パーティー」発起人は“死者”だった 7/21
内閣改造で「去りゆく大臣」がこれほど注目されたことはなかったのではないか。相次ぐ失言に加え、新たにPKO日報の隠蔽疑惑まで噴き出している稲田朋美・防衛相だ。「極めて有力な首相候補だ」安倍首相がほんの1年半前にそう“絶賛”した稲田防衛相が、内閣改造の直前になっても失態をさらし続けている。
東京都議選での公職選挙法違反発言に続き、九州北部豪雨で大きな被害が発生した7月6日には防衛省を1時間以上抜け出して私的な勉強会に出席していたことが発覚。
相次ぐ不祥事で翌7日に予定していた政治資金パーティー「稲田朋美さんと道義大国を目指す会」を中止する事態に追い込まれた。「パーティー中止の連絡が来たのは当日午後で、会費は返金するという説明でした」(後援者)という。
このパーティーこそ、稲田氏の政治家としての資質が問われるいわくつきのものだった。その案内状には、こんな挨拶文が添えられていた。
〈今、日本を取り巻く安全保障環境が厳しい状況の中で、防衛大臣の職責はますます重くなっています。いまやまさに日本を代表する政治家の一人として多くの国民にその手腕が発揮されることと、八面六臂の活躍が期待されています。この度、稲田さんと同じ思いを持つ皆様と「衆議院議員稲田朋美さんと道義大国を目指す会」を開催することに致しました〉
会場はホテル・ニューオータニ(東京)の大宴会場「鳳凰の間」で、「会費」は2万円。問い合わせ先は衆院議員会館の稲田氏の事務所になっていた。
一見、普通の文面に見えるが、受け取った後援者たちを驚かせたのは、これが“故人からの案内状”だったからだ。挨拶文の署名には、〈稲田朋美全国後援会「ともみ組」会長〉として渡部昇一・上智大学名誉教授の名前があった。稲田氏の後援者の1人が眉をひそめて語った。
「案内状が郵送されてきたのは5月中旬でした。渡部先生は稲田さんを熱心に応援されていましたが、1か月前に亡くなっていた。その渡部先生が呼び掛け人のままになっているのを見てギョッとしましたね」
保守派の論客として知られた渡部氏は今年4月17日、心不全で亡くなっている。挨拶文の日付は「平成二十九年四月吉日」となっており、渡部氏が生前に記したと思われるが、故人の名前で〈皆様には益々ご健勝のこととお慶び申し上げます〉と資金集めパーティーの案内状を出すのは相手先にも、なにより渡部氏に対しても礼を失している。
「常識があればせめて挨拶文に『渡部先生のご遺志を継いで』といった稲田さんのひとことを添えて案内状を刷り直すのが当然でしょう。印刷費をケチったとは考えたくないが、政治家云々の前に社会人としていかがなものか」 
稲田氏への「報告」示す直筆メモ 7/25
FNNが入手した、防衛省幹部の手書きのメモ。2017年2月、稲田防衛相らが、南スーダンでのPKO(国連平和維持活動)の日報をめぐる問題について、大臣室で協議した際のやり取りを記したもの。このメモには、陸上自衛隊No.2の湯浅陸幕副長、そして、稲田防衛相を示す「大臣」という文字が書かれている。
陸自には存在しないとされていた日報が、実際には残っていたと説明を受けた稲田防衛相は、「明日なんて答えよう」などと話し、これまで報告を受けていないとしていた稲田防衛相の説明と食い違う内容が、ここには記されている。
FNNが入手した、このメモによると、2月13日に、防衛省の大臣室で、稲田防衛相が陸自No.2の湯浅陸幕副長など、幹部数人から報告を受けた際のやり取りが、つぶさに記録されている。
メモでは、稲田防衛相が、南スーダンの首都ジュバで、大規模な武力衝突があった時期に触れ、「7月7日から12日の日報が残っていたのか」と問いただし、湯浅氏が、「紙はないかとしか確認しなかった。データはあったかというと、あった」などと回答したことが記されている。
また、日報のデータが削除されずに残っていたことを知った稲田防衛相が、「明日なんて答えよう。今までは両方破棄したと答えているのか」と幹部に確認した記述もあり、稲田防衛相が陸自の日報データの存在を認識し、自らが隠蔽(いんぺい)に関与したことを強くうかがわせる内容になっている。 
稲田防衛相の辞任会見「防衛大臣としての責任を痛感」 2017/7/28
稲田防衛大臣は、南スーダンでのPKO活動の日報をめぐる問題で記者会見を行い、防衛省の特別監察の結果を公表。また、この会見で防衛大臣の辞任を正式に表明した。

特別防衛監察の結果が防衛監察官から報告されました。
防衛省、自衛隊にとって大変厳しい、反省すべき結果が示されました。極めて遺憾であります。
特別防衛監察の結果において明らかになった事項は次の通りです。
本件に先立つ、昨年7月にも日報に関する開示請求がありましたが、その際、中央即応集団司令部は存在している日報を開示せず、情報公開法第5条の開示義務違反につながり、自衛隊法第56号の職務遂行義務違反にあたるものもあり、本件、10月受け付けのものですけれども、日報を不開示した契機となるものでした。
本件、日報の開示請求においては、陸幕及び中央即応集団司令部は、7月の日報の対応を踏まえて対応した結果、7月同様、存在している日報を開示せず、情報公開法第5条の開示義務違反につながり、自衛隊法第56条の職務遂行義務違反に当たるものがありました。
また、本件日報に関する開示請求においては、陸幕が開示請求受付後に、日報の廃棄を指示したことは、情報公開法第5条の開示義務違反につながり、自衛隊法の第56条の職務遂行義務違反に当たるものであり、さらに日報発見後の大臣報告の遅れのほか、対外説明を含む、不適切な対応がとられ、対外説明スタンスが継続するなど、自衛隊法第56条の職務遂行義務違反に関わるものでありました。
本件は日報にかかる開示請求の対応において、情報公開法第5条違反につながる行為があったこと、適切に廃棄されて不存在とされた日報が陸自内に存在したことの取り扱いに関する不適切な対応、私への報告がなされなかった等の対応があったことを踏まえ、関係者を厳重に処分することといたしました。
具体的には防衛事務次官のほか3名を停職に、陸上幕僚長を減給処分と致しました。
本件監察の経過において、私自身に関わる報道がありました。特別防衛監察の結果によれば、日報データの存在は事務次官まで報告されたものの、管理状況が不明確であるため、私には報告する必要がない旨の判断がされた、とされております。
報道においては、私自身に日報が陸自に存在するとなされ、それを非公表にすることを私が了承したというものがございました。
私自身、このような事実はないと否定してきましたが、特別防衛監察において、日報データの存在について、何らかの発言の可能性があったことを否定できないものの、書面も用いた報告がなされた事実や非公表の情報の公開を求める報告がなされた事実はなかった。また、私より公表の是非に関する何らかの方針の決定や、了承がなされた事実もなかったと認定されております。私自身、報告を受けたという認識は今でもなく、私のこれまでの一貫した情報公開の姿勢に照らせば、そうした報告があれば、必ず公表するように指示を行ったはずですが、監察の結果は率直に受け入れます。
また、大臣室において私に日報のデータが存在するとの報告が行われたとのメモが存在する報道もありました。しかしながら、私はそれまでに受けていた南スーダン派遣施設隊が作成した日報は上級部隊である中央即応集団司令部に報告され、用済み後、破棄されていたとの報告をくつがえす内容の報告は一切なかったと承知しております。
その時点ではすでに、事務次官に対してしっかりと事実関係を確認するように指示をしておりましたが、その報告があるまでは、それまでに受けていた報告に基づいて、国会において答弁していたところでございます
現在、厳しい安全保障環境のもと、隊員がそれぞれの現場において、24時間365日懸命に任務を全うしております。こうした状況において、日報をめぐる一連の問題は、単に陸自の情報公開への対応が不適切であったことのみならず、国民の皆みなさまに防衛省・自衛隊の情報公開に対する姿勢について疑念を抱かせ、内部からの情報流出をにおわせる報道が相次ぐことにより、防衛省自衛隊のガバナンスについても信頼を損ないかねない印象を与え、結果として国内外のそれぞれの現場で日々任務に当たる隊員の士気を低下させかねない、という点で極めて重大かつ深刻なものだと考えております。
私は防衛省・自衛隊を指揮監督する防衛大臣として、その責任を痛感しており、1ヶ月分の給与を返納することといたしました。
さらに、その上で防衛大臣としての職を辞することといたしました。先ほど、総理に辞表を提出し、了承されたところでございます。
今晩、特別防衛監察結果において示された改善策を受け、情報公開と文書管理の観点から、将来同様の事案が発生しないような抜本的な対策を講じます。
例えば、南スーダン派遣施設部隊の日報に加え、今後、海外に派遣される自衛隊の部隊が作成した日報のすべてを統合幕僚監部監視下において、一元的に管理するとともに、事後の情報公開請求に対しても一元的に対応することと致します。
また、防衛省行政文書管理規則を改正し、日報の保存期間を10年間とし、その後国立公文書館へ移管することと致します。
さらに、情報公開査察官を新設し、今後の文書不存在による不可避決定がなされたすべての案件について必要な調査のための権限を持たせ、今般のような事案の発生防止のための抑止力、チェック機能の強化を図ることといたします。
今後とも、防衛省・自衛隊として、一丸となり、問題となったところを徹底的に改善し、再発防止を図ってまいります。
続けて、幹部人事に関してご報告いたします。
本日の閣議において、黒江防衛事務次官、および岡部陸上幕僚長の退職を含む、防衛省幹部人事について内閣の承認が得られました。
私からは以上です。 
 
 2017/8

 

 

  

稲田語録 1
○ 小泉首相は就任以来、毎年欠かさず靖国神社に参拝してきた。これは総理個人の内心がどうであれ、他国の侵略に対してわが国は、血を流してでも守る覚悟であることを内外に表明することである。首相が靖国に参拝することの意味は「不戦の誓い」だけではない。「他国の侵略には屈しない」「祖国が危機に直面すれば後に続く」という意思の表明であり、日本が本当の意味での国であることの表明なのである。この点に触れずに、靖国問題を政教分離や対アジア外交の問題に矮小化することは、戦後体制の歪みそのものである。(産経新聞2006年6月3日付「正論」)
○ なぜ今さらこの不当きわまりない東京裁判で裁かれたA級戦犯について、同じ日本人がその戦争責任(人によれば敗戦責任)を糾弾し、墓を暴くようなまねをするのか。A級戦犯がいたから日本が無謀な戦争に突入し、そして敗れたというような単純なものではない。無数の偶然と必然、そして歴史の大きな流れの中で日本は戦争に突入し、未曾有の敗戦という悲劇を迎えたのであって、その責任をA級戦犯だけに帰すことはできない。ましてうち7人は自らの命でその責任をとっているのである。(産経新聞2006年6月3日付「正論」)
○ (平成7年8月15日に出された村山談話について)そこには、植民地支配と侵略に対する反省とお詫びはあるが、日本を守るために命を捧げた240万の靖国の英霊に対する感謝と敬意、また国際法違反の原爆投下や空襲などで犠牲になった同胞80万人に対する追悼の心の片鱗もない。いかなる歴史観にたとうとも、命を賭けて自分の国を守る行為は理屈ぬきに尊い。いやしくも日本の政治家なら同じ思いで政治をしているはずであり、政治家が戦後50年目に何よりも先に思うべきことは、命とひき換えに国を守った英霊と原爆投下に象徴される許すことのできない非道かつ不法な攻撃で殺戮された民間人への哀悼の念以外にはありえない。(産経新聞2010年8月10日付「正論」)
○ 私は、国であれ地方であれ、外国人に参政権を与えることは、日本が主権国家をやめることになると考えています。憲法十五条に公務員の選定罷免権は国民固有の権利であると書かれていますが、その意味するところは、国家の行く末を決めるのは日本人だけであるという国民主権、そして、日本が主権国家であることの当然の要請なのです。(2010年10月6日衆議院本会議・代表質問)
○ 我が国の尖閣諸島の領有権を守るためには国民が自国のために代償を払わなきゃならないこともある、その覚悟なくして領土は守れません。たとえ尖閣は日米安保の対象でも、自主防衛の気概なくして日米安保は意味がないということです。ことしの八月十五日、菅総理及び菅内閣の閣僚は、ただ一人も靖国神社参拝をしませんでしたが、いかなる歴史観に立とうとも、国のために命をささげた人々に感謝と敬意を表することができない国に、モラルも安全保障もありません。(2010年10月6日衆議院本会議・代表質問)
○ 我が国の隣に我が国の領土を実効支配しようとしている国があり、その国は近年目覚ましく軍事大国化、経済大国化している国であるということを認識しなければなりません。引っ越しはできません。まず、対中外交は今世紀最大の外交課題であると知ることです。簡単にいうと中国は我が国にとって脅威であるということです。やっかいで強大な隣人が虎視眈々と我が国の領土を狙っているときに、政治家が「友愛の海」なんて寝とぼけたことを言ってもらっては困るのです。(2010年11月13日シンポジウム「『尖閣』を忘れるな」)
○ 私は「伝統と創造」を政治信条として唱えてきました。真の改革とは伝統を守りながら創造すること、日本の伝統と国柄をしっかりと取り戻しながら新しい日本を創っていくということです。過去の歴史に目をそそぎ、未来に思いをはせ、変わるべき点と変えてはいけない点を認識しなければなりません。守るべきものは日本の伝統と国柄であり、それを守るために不断に改革を進めなくてはならないということです。保守とは革新なのです。(2010年12月14日出版記念会での挨拶)
○ 民主党の問題は、国家観、祖国愛がないこと、財政規律無視のばらまき政策を反省しないこと、意思決定のプロセスがいい加減なこと、ウソを認めないなど政治姿勢が不真面目なことにある。要は、綱領がないことに象徴されるように政治の背骨がないのである。(産経新聞2011年6月17日付「正論」)
○ いまの日本の閉塞感は、靖国の英霊が篤く弔われていないことにあると思うのです。祖国のために命を捧げても、尊敬も感謝もされない国にモラルもないし、安全保障もあるわけがない。そんな国をこれから誰が命を懸けて守るんですか。(「致知」2012年7月号)
○ これまでの首相はじめ閣僚たちは、尖閣だけでなく、竹島や北方領土も含め「摩擦を起こしたくない」と言っていますが、摩擦を起こさずにどうやって領土問題を解決するんですか。いまの時代、最終的に求められる国家リーダーの条件として、少々の犠牲を払ってでも自らの信念を貫く、「狂」みたいなものもないといけないのかなと思います。(「致知」2012年7月号)
○ 私はマニフェストじゃ政治はできないと思います。この国をこうしていきたいという理念。この理念をリーダーは国民に語るべきです。なぜなら理念なき政策はむしろ有害になるおそれもあるからです。(「致知」2012年7月号)
○ 日本はこれまで、戦後レジームの中核を成す東京裁判史観に毒されてきているせいで、歴史認識について言うべきことを言わず、なすべきことをしてこなかった。むしろ、言うべきでないことを言い、すべきでないことをしてきた。その典型が河野談話、村山談話、そして菅談話である。(産経新聞2012年8月31日付「正論」)
○ 国益というときに、国民の生命、身体、財産、領土は挙げられるけど、名誉が出てこない。名誉のために命をかけるという国民はいっぱいいるはずなのに、なぜ名誉を国益に入れないのか。慰安婦の問題なんてまさしく名誉の問題じゃないですか。日本人を不当に貶めることを言われても、それを訂正しようともしない。私は名誉こそ国益の核心だと思います。外務省は国益を守るために外交をやっていると言うけど、名誉を守ろうとしているとは思えない。(「正論」2012年11月号)
○ 今回の自民党総裁選の中で、安倍さんはあるテレビの質問に対して、とても印象的な回答をされました。「尖閣問題を解決するのに何が必要と思いますか?」と問われた安倍さんは「覚悟」と書いたんです。戦後最大の国難にあって、もっとも必要なのは政治家の覚悟であり、日本人の覚悟なのですよ。(「正論」2012年12月号) 
稲田語録 2
「国民の生活が大事なんて政治は間違っていると思います」
「えー国防軍を創設する。そんな憲法草案を提出いたしました」
「戦争は霊魂の進化に必要な宗教的行事、それが私の生き方の根本」
「靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、[祖国に何かあれば後に続きます] と誓うところでないといけないんです」
「戦前日本の占領政策は欧米の帝国主義とは違う」
「安保法制が違憲かどうか国会審議する意味は無い」
「国のために血を流す覚悟をしてほしい」
「男子も女子も自衛隊に体験入隊すべきだ」
「国のために命をかける者だけに選挙権を!」
「自分の息子が徴兵されるのは絶対嫌だ」
「無駄なものを無駄と指摘できる環境を整えることが重要」
「日本独自の核保有を、単なる議論や精神論ではなく国家戦略として検討すべき」
「私にも大学生の息子がいますが、赤紙で徴兵されるのは絶対に嫌です。憲法は徴兵制を認めていない」
「徴兵制というのは、まったく憲法に違反していると思いますし、徴兵制で集めて国を守るというのもナンセンスだと思う」
「先人たちは、国難に直面したとき明治維新がそうであったように、守るべき伝統を守りながら創造するという真の改革を断行して新しい日本を切り開いてきました」
「沖縄基地の駐留経費の負担の話はまったくなかった」(2017/2/4 防衛大臣として、米国のマティス国防長官と会談)  
稲田語録 3
「靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓うところでないといけないんです」(2006/9)
「真のエリートの条件は2つあって、ひとつは芸術や文学など幅広い教養を身に付けて大局観で物事を判断することができる。もうひとつは、いざというときに祖国のために命をささげる覚悟があることと言っている。そういう真のエリートを育てる教育をしなければならない」(2006/9)
「長期的には日本独自の核保有を、単なる議論や精神論でなく、国家戦略として検討すべきではないでしょうか」(2011/3)
「教育体験のような形で、若者全員に一度は自衛隊に触れてもらう制度はどうですか」「「草食系」といわれる今の男子たちも背筋がビシッとするかもしれませんね」(2011/3)
「祖国のために命を捧げても、尊敬も感謝もされない国にモラルもないし、安全保障もあるわけがない。そんな国をこれから誰が命を懸けて守るんですか」(2012/7)
「そもそも韓国は対日本に関しては、国際的常識の通用しない国ですが、その傾向は近年著しくなっています」(2012/11)
「でも、たとえば自衛隊に一時期、体験入学するとか、農業とか、そういう体験をすることはすごく重要だと思います」「(自衛隊体験入学は)まあ、男子も女子もですね」(2015/11) 
 

 


 
2016/12-
 

 

英霊が肩を押した稲田朋美さんの政界入り
第二次安倍内閣・入閣直前インタビュー(2012/12/27) 稲田朋美衆議院議員、高市早苗衆議院議員、山谷えり子参議院議員による鼎談で、司会は政治ジャーナリストの細川珠生さんです。
 
細川 / 先の総選挙で大勝した小泉自民党ですが、その象徴的存在になったのが、高市さん、稲田さんら「刺客」と呼ばれた女性議員の方々でした。あれから3カ月が経過し、やっと「刺客」ブームも落ち着いた感がありますが……。
稲田 / でも、高市さんは、当時は前代議士だったんでしょう。私なんか政治の経験も全くなく、しかも立候補を打診されたのが、なんと8月15日。終戦60年ということで、某雑誌の仕事で、朝から編集者と靖国神社にいました。参道で行われた「終戦60年国民の集い」で声明文を読む仕事も頼まれていたんです。午後になって、その「集い」でスピーチをしていた山谷えり子先生が来られて「ちょっと話があるのよ」と車に乗せられ、「安倍さんがあなたに衆院選に出てください、って言っているのよ」と言うんです。いきなりですから、思わず「はぁ?」ってなるじゃないですか。それでとっさに「いや、ちょっと悪いですけど、無理です」とお返事して……。
山谷 / そうそう。靖国神社を一周して、神社の正面に戻ってきた。だけど、私は諦めきれないから、もう一周、また一周とグルグル回って、何度も説得しました。というのも、「百人斬り」訴訟の集会で遺族や支援者の方々が、心から稲田弁護士に希望を託しているのを垣間見たことがあったんです。政治家というのは希望を託され、責任を持って実現していく職業でしょう。そんな稲田さんの情熱的な生き方をみて、彼女を政治の世界に送りたいと、ずっと思っていたんです。それで結局、そのまま靖国から党本部に連れていっちゃった。
稲田 / そこで安倍先生から直接、「福井1区で」と説明されたんです。あまりにも突然で、ピンと来なかったんでボーッとしていると、話はどんどん進んで「8月30日から12日間、空けてくれればいいんです」とかおっしゃるんですよ。後から思えば詐欺みたいな話ですよね。あまりのことで、とりあえずは「じゃ、また考えます」と伝えて、また靖国神社に戻ったんです。
細川 / えぇ、戻ったんですか。
稲田 / 衆院選に出ないなら某雑誌にレポートを書かなくちゃいけないですから……。夕方までいた靖国では、小堀桂一郎先生やクライン孝子さんにも会ったのですが、まずは主人に相談しなくちゃいけないと思って、夜に待ち合わせをして話をしました。主人は、私がやってきた仕事を知っているから「出たほうがいい」という意見だったんです。私は、なお迷って、小堀先生とクライン先生に改めて電話で相談したんです。クライン先生は「絶対賛成。前からいいと思っていたのよ」と。一方、小堀先生は郵政民営化に反対されているから大反対。もちろん親にも聞こうと思って、私の実家の両親(母は継母)に聞いたら、二人はもう泣いて反対、絶対ダメという感じで。それからの3日間は悩みました。一番気になっていたのは、主任弁護人を務めていた「百人斬り報道名誉毀損」訴訟。その時はまだ一審の判決も出ていないし、原告である遺族の方々も頼りにしてくれていたのですが、安倍先生に尋ねたら「政治家になってもそれはできます、絶対大丈夫です」とおっしゃる。さらに遺族の方々も「ぜひ挑戦してください」ということだったので、「これまで自分が弁護士としてやっていたことを、今度は政治家になってやるだけだ」と思えるようになったんです。
高市 / それで、悩んだのは何日間? 3日間?
稲田 / 15日に初めて聞いて、17日の晩に決断、18日朝に上京して記者会見をしましたから……3日間ですね。
高市 / 私も14日から16日まで同じ3日悩んだだけなのに、小泉総理に会ったら「なぜ即断できない。頼まれて嫌々出るみたいなことじゃ困るんだよ」と叱られたのよ。でも、稲田さん同様、私も大学の教え子たちに迷惑をかけないための調整に時間が必要でした。決断したらしたで、選挙の準備の傍ら、前期試験の採点と夏期講座の段取りをしなきゃいけなかったし。
稲田 / 私は、「百人斬り報道名誉毀損」訴訟は一審判決を待つだけの状態になっていて、「やるだけのことをやった」とは思っていました。高裁、最高裁を残してはいるものの、弁護団長の高池勝彦先生も出馬には賛成だったので助けられました。最初に選挙の話があったのが靖国神社で、それも8月15日。最後に決断した決め手は「246万余の靖国の英霊が肩を押してくれている」って。それで、自分で納得したんです。
細川 / お二人とも短期間でご決断されるなかで、その決め手として小泉さんの人間的な魅力というものもあったのでしょうか。「小泉チルドレン」なんていう向きもありますが。
高市 / 小泉総理個人とはあまり関係ないですよ。あくまでも政策。
稲田 / ごめんなさい、私も小泉総理のことは、全然頭になかった。選挙に出る前とはいえ、8月16日に古森義久さんと「諸君!」で対談して、「小泉談話は『第三の敗戦か』」(2005年10月号)なんて、選挙中に出てしまったくらいだし(苦笑)。このときは「諸君!」をみるのが恐かった。私は弁護士をやっていても、自分のやっている一つ一つの事件を通じて、「愛する日本の再建」ということを目指していたから、まずは国や国民のためになりたいという気持ちが原点にあった。もちろん、小泉さん自身の行動力や判断力、正しいと思ったら断固として進めていく姿勢は尊敬していますが、自分が選挙に出るという決断については、関与していませんね。 
稲田朋美の「弁舌に一目惚れ」安倍首相 2017/6
「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてもお願いしたい」──。昨日、都議選の自民党候補者の応援演説でとんでもない発言を行った稲田朋美防衛相。言わずもがな、自衛隊員は政治的行為が制限され、自衛隊法でも《特定の政党など支持する目的で職権を行使できない》と定められており、同時に公務員の選挙運動を禁じた公職選挙法違反発言だ。いや、それ以前に、防衛相が自衛隊を政治利用することなどもってのほかで、失言では済まされない大問題だ。
だが、驚くべきことに、弁護士であるはずの稲田防衛相は発言後も問題と認識していなかったようで、演説直後は集まった報道陣に「どうしてこんなにたくさんいらっしゃるんですか?」と反応。夜中になってようやく事態の大きさに気づいて、しどろもどろになりながら発言を撤回したが、「これからもしっかりと職務をまっとうしたい」と辞任は否定した。
稲田防衛相といえば、南スーダン派遣部隊の日報隠蔽に白紙領収書、森友学園疑惑に絡んだ国会における虚偽答弁など問題に問題を重ね、そのたびに大臣としての資質が問われてきた。本来なら「自衛隊としてもお願いしたい」発言など、「即刻、辞任」どころか「罷免」もの。今回ばかりは新聞だけでなくテレビも「問題あり」として大々的に報じている。
にもかかわらず、信じがたいことにこの期に及んで安倍首相は稲田防衛相の「続投」を指示。稲田防衛相を辞任させれば、さらに政権にダメージが加わるのはもちろん、必ず総理の任命責任が問われ、自分にはね返ってくるからだ。
たしかに、それも当然だろう。なにせ、稲田氏が当選4回で分不相応な大臣ポストまで登り詰めたのは、安倍首相の異様な寵愛と引き立てがあったからだ。いや、それだけではなく、安倍首相がいなければ稲田氏は政治家になることなどなかったのだから。稲田氏自身もこう語っている。
「安倍さんがいなかったら私は政治家になっていません。思想信条はほとんど一緒。総理は話しやすいし、相談しやすい人です」(週刊文春 2015/10)
稲田氏の弁舌に一目惚れした安倍首相、政界入り後の異常なひいきぶり
極右運動家を父親にもつ稲田氏だが、本人が言うには、「まったく政治に興味のない人間だった。新聞もろくに読まないし、政治についての意見などまったくなかった」(「The SEIRON WOMAN」産経新聞社)。彼女が保守に目覚めたのは、子育て中のこと。夫が講読していた産経新聞や「正論」(産経新聞社)を読みはじめ、藤岡信勝が主宰する自由主義史観研究会にも入会。「正論」などの読者欄投稿者となり、そこで生まれた縁から弁護士として百人斬り訴訟などに参加するようになっていったことだ。
そんな極右道を爆走するなかで、運命の出会いが待っていた。当時、自民党幹事長代理だった安倍氏が、稲田氏に声をかけて自民党若手議連の勉強会に講師して招いたのだ。前出「週刊文春」では、安倍氏の側近議員が当時のことをこのように証言している。
「安倍さんは稲田さんの弁舌に一目ぼれした。女性の保守という点も珍しいと評価していた」
そして安倍氏は、2005年の郵政選挙の刺客候補として稲田氏に出馬を自ら要請。初当選を果たした稲田氏は政治家の道を歩むようになったが、とくに安倍氏が稲田氏を重宝しはじめたのは下野時代だ。稲田氏は“ハガキ職人”として腕を鳴らした極右雑誌に登場しては安倍氏と同じように歴史修正主義発言を連発し、2009年に安倍氏が『創生「日本」』の会長に就くと稲田氏は事務局長代理を務めた。
また、その一方で稲田氏は安倍派の“ヤジ将軍”として活躍。当時の民主党・菅直人首相にも「官僚の原稿を読まないで自分の言葉で答弁しろ」(いまならそっくりそのまま稲田氏に返したい一言だ)と迫るなど、ネット保守からの人気も高まっていった。
そうして、安倍氏が2012年12月に政権を奪取すると、副大臣や政務官経験もない稲田氏をさっそく行政改革担当相に抜擢。つづけて公務員制度改革担当相に任命し、稲田氏は現在、加計学園問題の真相究明の大きな弊害となっている内閣人事局を発足させた。ちなみに稲田氏自らが「内閣人事局」と筆で書いた看板はあまりの字の下手さに「毎日見るのはしんどい」と職員からも苦情があがる代物だったが、それも安倍首相は「みずみずしい筆遣い」と評価。さらに、安倍首相は稲田氏を「次のスター」にするべく、2014年9月に自民党政調会長という党3役のポストに就かせたのだ。
「稲田は安倍首相の後継者」「日本初の女性宰相か」と騒がれはじめたのはこのころからだが、実際、安倍首相も稲田氏を「ポスト安倍」として育てようと財界人との会食にも同席させ、2015年1月には「財政再建に関する特命委員会」委員長に任命するなど、経験を積ませていた。
一方、稲田氏は同年のアメリカ訪問時に「真のチャンピオンとは決して倒れない人ではなく、倒れても立ち上がる人」「安倍総理はその生きる証しだ」などと猛勉強した英語で安倍首相のアピールに回るなど、“愛情返し”に必死になってきた(「週刊現代」15年10月24日/講談社)。しかし、肝心の財政再建特命委では財務官僚の言いなりとなり、稲田氏の「能力不足」が党内から指摘されるように。「総理の意向」を振りかざすことからも評判は悪く、経産相のポストを考えていた安倍首相も折れざるを得なくなり、同年10月の第三次安倍改造内閣では政調会長に留まった。
だが、それでも稲田氏が総理を目指していることを公言してきたように、安倍首相の下では自分は次期首相候補なのだと信じてきたのだろう。稲田氏は当時、自身が中心となって地元・福井と金沢間の北陸新幹線開通を推進。これは総理になるための地盤固めだと言われたが、安倍首相もこの計画に賛成していたといい、稲田氏からの要望を受けて安倍首相直々に福井駅の視察までおこなっている。
ポンコツぶりを次々露呈も揺るがないともちんラブ
そして昨年、安倍首相は悪夢のような人事を決行する。“命を捨てて国を守れ”と繰り返し口にしてきた稲田氏を、よりにもよって防衛相に任命したのである。この人事には、中国や韓国のみならずアメリカのワシントン・ポストほか多くの海外メディアが「極右」として稲田防衛相を紹介、警戒感を示した。しかし、そんな批判は安倍首相にとって想定内だったはずで、それよりも自分と同じ思想をもつ稲田氏に自衛隊トップを張らせたかったのだ。
それでも、安倍首相が計算外だったのは、一目ぼれした稲田氏の「弁舌」が、まったくの役立たずだったことだろう。
それが如実に表れたのが、南スーダンへの自衛隊派遣問題だ。稲田防衛相はそれまでも過去の極右発言を追及されて涙目になるなど狼狽えっぱなしだったが、昨年9月30日に自衛隊宿営地周辺で戦闘行為が起こったのかと国会で追及を受けても、まともに答えられないという失態を演じた。
当時の「週刊現代」によると、同日夜、安倍首相は今井敬・経団連名誉会長と会食したが、なぜか意気消沈していたといい、自民党幹部議員はその理由を「昼間、ともちんがいじめられたからじゃないか」と分析している。
「ともちんをいじめから守らなくては」と安倍首相は考えたのだろうか。その数日後の同年10月3日には、野党から「米軍が日本に駐留する理由は米国の利益であり、日本を守るためではない」という過去の発言について追及された稲田防衛相に対し、安倍首相は「打撃力だね、打撃力」と助け船を出している場面が見られた。それを受けて稲田防衛相は「たとえば打撃力、そういった点においてもアメリカとの同盟は重要」と答弁したのだが、安倍首相に助けてもらわなければ答えられないとは、どれだけ稲田防衛相が低レベルなのかという話だ。
しかも、今年に入り、前述したスーダンPKO日報隠蔽や森友学園問題の虚偽答弁などで、稲田防衛相が火だるまになった後も、安倍首相はそのまま守り続けるつもりだったのではないか、との見方もある。
「8月の内閣改造で更迭するという見方の一方で、永田町では、首相周辺から稲田氏を批判する声が全く聞こえてこないことから、留任させるつもりなんじゃないかという見方が流れていました」
そして、今回の「自衛隊として」発言で自民党内からも「稲田氏はアウト」という声が上がっても、前述のように、安倍首相は稲田防衛相を辞任させるつもりはさらさらない。
「加計学園問題で支持率が急落して、都議選の大苦戦が伝えられているところに、このタイミングで稲田防衛相を辞任させたら、さらに報道が大きくなり、選挙はもっとひどい結果になる。そうなると、自身の任命責任論に発展し、政権が大きく揺るぎかねない。そこで、国会が開いていないのをいいことに、8月でなんとかごまかし、内閣改造でこっそり稲田防衛相や金田勝年法相を更迭してしまおうという作戦にしたようです」(大手紙記者)
内閣改造でガラガラポンにすればいいと高をくくる安倍首相。だが、何度でも言うが、稲田防衛相に政治家としての資質などかけらもない。ただの極右雑誌ハガキ職人のネトウヨ弁護士を防衛相にまで引っ張り上げたのは、安倍首相なのだ。稲田防衛相の罷免はもちろん、自らの任命責任もしっかり取ってもらわなくてはならないだろう。 

 


着物の上から腰の上に巻いて結ぶことで着物を体に固定させる幅広で紐状の装身具。道具を装用する機能も持つ。
帯の始まりはおそらく衣類自体より古く、初発的形態としては裸体に腰紐のみを巻き、そこに狩猟で用いる道具を挿していたことにはじまる。これはいわゆる未開社会で見られる。
前開きの上着に対して帯は原理的には必須ではなく、ガウンなどのように、脇の部分に結ぶための紐を備えることで、開かないようにできる。
道具(ことに武器)を装用するための機能としては、たとえば日本刀において、打刀は腰に差す形で携行されていた例などが挙げられる。もとより日本語では「帯びる」というように、それは身体の最も近いところに置くことである。また漢語に於いても同様で、「携帯する」という語には既に、帯という字が含まれている。
服飾史においては、帯は「帯びる」「止める」よりも「飾る」機能の発揮によって様々なものが現れてきた。上半身と下半身を分かつ一本のラインとなり、トータルコーディネートの上での重要なアクセントである。ことに和服の帯のように幅広のものは、意匠を凝らす余地が存分にあることから、様々な模様が与えられ、実際的な機能を離れ鑑賞用になることもある。
帯鉤 (たいこう)
広くは、帯は結び目を作ることで固定するが、帯鉤と呼ばれる金具によって固定するものも、ヨーロッパでは新石器時代の終わり頃からすでに見られる。いわゆるベルトである。これはなにもヨーロッパ特有のものではなく、たとえば始皇帝陵の兵馬俑群が、その兵士たち一人ひとりが異なる形状の帯鉤を身につけていることでも知られているように、アジアなどにも存在した。これは日本においても律令制の時代の遺物には残っている。
和装の帯
和服の帯は江戸時代初期までは幅10cm程度の細い物であった。紐が使われることもあった。ところが平和な時代が長期に渡り、また華美を競う風潮と相まって女性の帯は時代が下がるごとに長大化が進んだ。
現代の着物の着付けでは、ほとんどの場合あらかじめ腰部分を紐やコーリンベルトで縛って固定した上から帯を巻くため、帯の目的はもっぱら装飾である。
帯の呪術的な要素
身体を取り締めるものである帯は、生命にかかわる呪術的な力をも有すると考えられ、妊婦のために特別のものが用意されるなどしたほか、様々な伝承において、力帯(ちからおび)やそれに類する装身具が広く見られる。北欧神話におけるトールの神話もその一つに挙げられる。適切に巻かれた帯は身体能力を発揮する一助となり、ウェイトリフティングなどのパワー系競技において、腰椎の保護などの機能も併せ、専用のベルトを装着する選手も多い。このことは古くより体験的に知られており、神秘的な力として、その強力なものが口承の中に現れてくるのであろう。
日本では帯初めという通過儀礼もあった。これは、着物の付け紐を取り、幼児が初めて帯を結ぶ儀式である。もとは室町時代に貴族の間で始まったと考えられる。地方によっては両親が執り行わず、帯親と呼ばれる人物に託す。これは名付け親などと同様の、仮親の一種と分類される。
「帯」の比喩的用法
帯の物理的形状から敷衍して「時間帯」「帯域」「帯グラフ」など幅を持った事物・概念にも適用される。本・レコード・CDの帯、テレビやラジオで使われる帯番組、ウェブデザインにおける「見出し帯」という用語も、このひとつである。帯封、メビウスの帯(メビウスの輪)などという言葉もある。
帯の結び方
ふくら雀結び(振袖) / ふくらみのあるお太鼓とたれが特徴のふくら雀は、古典的なムードたっぷり。女性らしいやさしさを演出するのにピッタリです。お太鼓の大きさを変えるだけで、体型にかかわらず、どなたにも似合います。
花結び(振袖) / クラシックなふくら雀にアレンジを加えて、愛らしさを強調した花結び。一番の特徴は左右の羽根部分。羽根の中心を帯締めで結びますので、まるで蝶がとまっているような可憐な帯結びです。
立て矢結び(振袖) / 斜めに蝶結びしたような立て矢結びは、立体感があって、すごくゴージャスなイメージ。シンプルな柄行きのふり袖によく似合います。 華やかさをアピール、背の高い人に最適にもおすすめです。
蝶文庫結び(振袖) / 女の子らしい文庫結びをアレンジして、可愛らしさをさらにUPさせた帯結びです。蝶文庫は、文庫の上にキュートなリボンが特徴で、女の子らしさ満点。左右の羽根は、長めにするのがコツです。
花流水結び(振袖) / 花流水結びは立て矢結びのバリエーションです。基本的には立て矢結びと同じ結び方ですが、内側に折りこんだ「たれ」の下羽根をZ型にたらすことにより、よりゴージャスな後ろ姿になり、女性らしさを強調されます。
男結び(角帯結び) / 男きものには角帯で結ぶ貝の口帯結びがおすすめ。ここでは、男性の帯結びの代表である貝の口をご紹介します。帯をやや前下がり気味に締めるのが凛々しい着姿のポイントです。
一重太鼓結び / きものに合わせる、もっとも基本的な結び方です。扱いやすく、初心者にも手軽に結べますので、きものを着るなら是非覚えておきましょう!
角だし結び / 「角だし結び」は、紬などの街着(普段着)に結び方です。基本の文庫結びよりも粋で大人っぽい雰囲気になります。
文庫結び / 「文庫結び」はゆかた帯結びの基本型です。手軽にマスターできるので、ぜひ一番最初に覚えておきましょう。帯の巻き方は右から左に巻く関東風と左から右に巻く関西風があります。
貝の口結び(半巾帯) / 貝の口は着物の帯結びの中では最も一般的な結び方です。
片蝶結び / 「片蝶結び」はリバーシブル帯のアレンジです。動きにつれて揺れるリバーシブルのたれ先と、帯前のアレンジがくっきり華やか。体型カバーもしてくれる帯結びです。関東風、関西風があります。
一文字結び / すっきりとシンプルな一文字結びは後ろ姿に涼やかで大人っぽい印象を与えます。関東風、関西風があります。
のし結び / 直線と角がシャープな印象を与えます。すっきりとした形が小粋な着こなしにぴったりの帯結びです。関東風、関西風があります。 
しだれ桜結び / 角出し結びのアレンジ。小紋や紬の着物にも似合う、おしゃれな帯結びです。羽根の大きさによって、愛らしくも小粋にも印象を変えることができます。関東風、関西風があります。 
蝶結び / 女の子なら誰でもできる蝶結び。半幅帯でも手順は変わりません。背中に花が咲いたような愛らしい帯結びです。関東風、関西風があります。 
蝶々結び / 兵児(ヘコ)帯ならではの細かいプリーツが可愛いらしい帯結びです。関東風、関西風があります。 
なでしこ結び / 重なる羽根が可憐な印象を与えます。腰幅もすっきり見える帯結びです。関東風、関西風があります。
 
 

 

帯締め (おびじめ)
着物の着付けをするために必要な小道具の一つで、帯を固定するのに用いる紐。帯締め紐。
帯締めは、江戸時代の文化年間にはじまる。当時人気であった歌舞伎役者が衣裳の着崩れを防止する為に、帯の上に締めたヒモが帯締めのルーツである。それを真似て装った女性らに流行し、その便利さから「帯締め」として庶民にも定着した。地方では「帯とめ紐」と呼ばれたこともあった。
当初は丸ぐけ紐が使われていたが、明治時代に廃刀令がだされると、それまで刀の下緒に使われていた組紐が、帯締めに流用されるようになった。その後、丸ぐけ紐はほとんど使われなくなり、組み紐の帯締めが主流となった。また、江戸時代には短かった紐の長さも、徐々に長さを持つようになり、戦後からは随分と長い製品もあらわれるようになった。
四季のある日本で、永々と培われた着物文化のひとつである帯締めは、着物に合わせて季節やTPOを考慮し、コーディネートする。
近年では、ビーズ帯締めは空調機器の発達により、季節を問わず利用されることも増えてきている。また、浴衣には通常用いなかった帯締めであるが、ここ数年は浴衣にも帯締めを利用する着こなしが増えている。
形態
帯締め紐には大きく分けて、二種類ある。一つは、丸ぐけとよばれる、布で綿をくるんだ紐であり、もう一つは組み紐である。組み紐は、さらに、「丸打ち(丸組)」「角打ち(角組)」「平打ち(平組)」の三種に分けられる。
組み紐は、まずは中国から伝わり、その後日本独自の発達を遂げた、日本の伝統工芸である。数十本の糸を様々な組み方で織る手法は、糸の色彩、糸の太細でそのリズムを変え、多彩な表情をみせる。糸の素材は主に染色された絹糸であり、帯締め紐一本を仕上げるのにはかなりの熟練技術と集中力が要求される。現代的な帯締めもあり、組みあげの際に糸にガラスビーズを交えた帯締め紐はきらびやかな輝きで注目され、趣味製の強い装いのアイテムとして好まれる。組み紐の専門家は伝統工芸士を中心に構成されているが、その人数は年々減少しており、最近は日本各地で後継者不足に悩まされている。
丸ぐけ紐の帯締めは、夏用は絽で作り、夏用と夏以外の季節のものと分けて使っていた。一方、組み紐の帯締めは、従来は、季節を問わず使われるものであった。だが、1990年頃から、レース組などの夏仕様の組み紐の帯締めが徐々に出回るようになると、夏用の組み紐の帯締めと、それ以外の組み紐の帯締めとを分けて考える風潮が生まれた。そのような風潮の中にあっても、冠組(ゆるぎ)は、四季を問わず用いることができるとされている。
用法
帯締めは、女性の和服の着付けでしか使わない小物である。基本的な使い方は、帯を結んだ「お太鼓結び」の背中の部分(お太鼓の垂れで作った輪の下)に通して前へ渡し、帯正面に「駒結び」などの結び方で固く結ぶ。帯の上に一本線が渡るように締めるが、正面から見た紐の高さは、年齢や着こなしによって整える位置を変える。(やや下気味に整えると年配、上気味に整えると若輩等)。余った左右の紐端は脇辺りにおさめ、慶事の際は下から上へ、忌事の際は上から下へ差し込んでおくのが習わしとされる。尚、近年ではその色や文様を好み、観賞用もしくは居合道用の刀剣の下緒として用いる人が存在している。上述のように、組紐の帯締めは元来は刀の下緒に使われていたものであり、一種の先祖返りとも言える。
帯締め 2
組紐でできた帯が崩れないように締める紐です。組み方や色、柄、太さなど、様々な種類があります。着用目的や好み、季節に応じて使い分けます。帯周りの色彩、華やぎ等、きもの姿を引き立てる大事な要素になります。
以前は礼装用に羽二重や綸子の丸ぐけを使っていましたが、慶弔とともに組み紐を用いるようになりました。帯締めは帯の格に合わせて選びます。幅も帯の格に合わせて変わります。振袖の帯締めは幅が広めのもので豪華な変わり結びの帯を引き締める効果があります。
帯締めとして使われるようになった組紐の歴史は古く、奈良時代に唐の国の技術を学びました。一般の人が使うようになったのは江戸時代で、羽織の紐、袋物の紐などに用いられました。そして明治の廃刀令の後、刀の下緒の組紐を帯締めに用いるようになりました。
現在、組紐は手組と機械組があります。手組のものは美術工芸品ともいえるほど品格があり、その繊細で乱れを見せぬ美しさは、帯締めとして最高級品となっています。唐組、笹波、貝の口、綾竹、地内記、紅梅、冠、千鳥、丸唐、み岳組などと雅な名前がついています。
機械組の帯締めも研究が重ねられ、新鮮な配色のものができています。正倉院、よろい組、さざ波、芭蕉、ななこなどがあり、手組と機械組の見分けがつかないほど精巧です。手組に比べると、かなり経済的で、若い人向きや流行色をとりいれたものなどがあります。また街着やおしゃれ着の帯締めは、機械組のものを気軽に取り替えて楽しむ人も増えています。夏物のレースや粗いメッシュ風のものなど変化に富むものもでてきています。
腰紐
着付けに使う紐で腰帯ともいいます。きものを着るとき形を備え着くずれしないように、またお端折りをつくるために結ぶ、幅のせまい紐のことです。普通メリンスや近年は合繊もので、中に芯を入れた幅2〜3cmの絎紐、しごき風の絹などの腰紐もあります。
腰帯 (こしおび)
女性の和服で、腰で着物をからげ結ぶ細いひも。婦人が和服を着る時、着物の丈を調節するために帯の下にしめる細い紐ひも。腰紐。手細(てぼそ)。
狩衣(かりぎぬ)の上に結ぶ幅の狭い帯。宛帯、石帯の別名。
宛帯 (あておび)
…石帯とは革帯が変化し形式化されたもので、平緒は太刀を佩用(はいよう)するための帯であった。公卿の平服である直衣(のうし)や狩衣(かりぎぬ)、水干(すいかん)、白張(はくちよう)などには共布(ともぎれ)の3寸幅の宛帯(あておび)が用いられた。近世になってから、武士も庶民も日常小袖を着用するようになり、女性の場合と同様、男帯も機能だけでなく、装飾性をもあわせもったものに発達した。…
 
 
 
 

 

石帯 (せきたい)
公家(くげ)の正装である束帯や準正装の布袴(ほうこ)に用いられる玉、石、角(つの)などの飾りをつけた革帯(かわおび)。訓読して「いしのおび」ともいう。束帯は袍(ほう)を着て腰部を石帯で束ね締めるためにつけられた名称で、石帯はこの装束にとって重要な構成要素の一つである。革に黒漆を塗った帯の一端に具(かこ)または水緒金(みずおがね)といわれる締め金具をつけ、他端に革先金(かわさきがね)をはめ、革の要所に数個の穴をあけて具の刺金(さすが)を刺し通して留める。養老(ようろう)の衣服令に規定された朝服では腰帯(ようたい)といわれ、五位以上金銀装、六位以下烏油(くろつくり)としている。腰帯の後ろ腰にあたる部分に(か)という金や銀または黒塗りの銅の飾りを据え付けて並べることとなっている。
正倉院宝物の聖武(しょうむ)天皇使用腰帯には碧玉(へきぎょく)のがつけられ、道明寺天満宮伝来菅原道真(すがわらのみちざね)所用といわれる腰帯には、銀銅浮彫りの15個がつけられている。平安時代中期になって、和様化した朝服を束帯とよび、腰帯を石帯というようになった。の形に方形と円形とがあり、前者は巡方(ずんぽう)といわれて儀式に用い、後者は丸鞆(まるとも)といわれて平常の参内に用いた。中世以降、両端に巡方2個ずつと、中間に丸鞆6個を並べたものを通用帯とよんで、儀式と平常に兼ねて用いた。の材質は、玉を最高とし、瑪瑙(めのう)、犀角(さいかく)、烏(う)犀角(実際は牛角)などで、玉や瑪瑙には有文と無文があり、有文は公卿(くぎょう)以上が用い、文様は鳳凰(ほうおう)、鶴(つる)などの丸、鬼形、獅子(しし)形、唐花などを浮彫りとし、毛彫りしたものを陰文(かくしもん)とよんだ。無文で玉の巡方は天皇が神事に用いる帛御服(はくのぎょふく)または御祭服のとき、犀角の丸鞆は殿上人(てんじょうびと)が平常のとき、烏犀角は、重服(じゅうぶく)といって重い喪に服するときおよび六位以下の者がつねに用いた。
鎌倉時代後期には、着脱の便宜上、形式を変えて後ろ腰に当てる部分のみ古式を残し、腹に当てる部分は省略して紐(ひも)で結ぶようにした。すなわち、後ろ腰に当てる本帯といわれる部分と、上手(うわて)といわれる後ろ腰に回す締め余りの部分のそれぞれの一端に紐を通して相互を綴(と)じ付け、別に本帯の両端につけた紐を腹部に回して結び締めるようにした。
 
 

 

束帯 (そくたい)
平安時代以降の、天皇以下公家の正装(平安装束)。衣冠を「宿直(とのい)装束」と呼ぶのに対し、束帯は「昼(ひの)装束」と呼ばれる。
束帯の構成は下から、単(ひとえ)・袙(あこめ)・下襲(したがさね)・半臂(はんぴ)・袍(ほう)を着用、袍の上から腰の部位に革製のベルトである石帯(せきたい)を当てる。袴(はかま)は大口袴・表袴の2種類あり、大口を履き、その上に表袴を重ねて履く。冠を被り、足には襪(しとうず)を履く。帖紙(たとう)と檜扇(ひおうぎ)を懐中し、笏(しゃく)を持つ。公卿、殿上人は魚袋(ぎょたい)と呼ばれる装飾物を腰に提げた。
なお、束帯には文官・武官による区別があり、文官と三位以上の武官は、縫腋袍(ほうえきほう)を用い、冠は垂纓とした。四位以下の武官は、闕腋袍(けってきほう)を用い、冠は巻纓とした。さらに、武官・中務省の官人、勅許を得た参議以上の文官は、大刀を佩用した。その場合、大刀は平緒(ひらお)で括り、腰に結びつけた。
○下襲の後ろ身頃(背部)は長くできており、着用時は長く尾を引くように引き擦った。この部位を「裾(きょ)」と呼び、束帯姿の大きな特徴である。また、裾の長さによって身分が表されるようになると、下襲自体が長大になった為、下襲と裾が分離するようになった(別裾)。その場合、下襲を着た後に腰に裾を当て、裾から伸びる帯を前に回して結びつけた。しかしながら、天皇と皇太子が着用するものに関しては下襲と裾が続くものとされている。また、纔著(さいじゃく)と言われる丈の短い裾もあり、地下官人の束帯に用いられた。
○文官は冬期は半臂を廃して着用していた。これは文官の用いる縫腋袍は脇が縫われているので、着用の有無を外見から判別出来ない為である。夏期は半臂が透ける(袍の布地が薄い為)ので着用されていたが、近世に入ってからは夏期も廃された。なお、『今鏡』には、冬期にくだけた場面で袍を肩脱ぎした際、皆下襲が露わになる中で藤原教通のみがきちんと半臂を着用しており、周囲がいたく自らを恥じた、という伝承が残されている。この事から、本来は冬期も半臂を着用する制であったことが窺える。天皇に関しては半臂を略さないとされる。
○衣冠は本来、宮中に於ける宿直用の装束(とのいぎぬ)であったが、宮中での勤務服として定着するにつれ、束帯は儀式に用いる儀礼的な服となった。このため、両者をまとめて「衣冠束帯」とも呼ぶ。 
 
 

 

大空に舞った「平成の零戦」 米軍「F−35」を凌駕する「心神」 2016/4
驚くほど細身で、しなやかささえ漂う「白地に赤く」彩られた機体は、前脚が滑走路から離れるや、グイと大空を見上げた。「空の青」に鮮やかに溶け込み始めた、操縦席直下に映える「日の丸の赤」に感動したのも瞬く間、頼もしい爆音とともに、かなたへと消えていった。国産初となるステルス戦闘機開発に向けて《心神》は22日、初陣を飾り、眼下に広がる濃尾平野が「若武者」の門出を祝った。心神は、防衛省の発注で三菱重工業などが製造する《先進技術実証機》の愛称であるが、誰が付けたか分からぬものの、富士山の別称とは心憎い。航空自衛隊・小牧基地(愛知県小牧市)を飛び立った心神は30分後、空自・岐阜基地(岐阜県各務原市)に着陸を果たしたが、国戦闘機開発の再生は緒に就いたばかり。わが国を取り巻くキナ臭い情勢を観察すれば、かつてわが国が掲げたスローガン《翼強ければ国強し》を、再び強力に実行する時代を迎えた。
日本航空史の屈辱「大学の応用力学科」
心神が、零戦と縁(えにし)が深い三菱重工業の愛知県内の工場で生まれたためかもしれぬ。心神の晴れがましい姿が見えなくなると、水を差す言葉が頭をよぎった。
大東亜戦争後、大日本帝國陸海軍の傑作機復活を恐れる連合国軍総司令部(GHQ)は日本の航空機産業をズタズタにした。《航空禁止令》により、航空機の研究開発はメーカー各社も大学も全面的に禁じられた。大学では《航空工学科》の看板が下ろされ、《応用力学科》などと名称変更を強いられた。世界に冠たる名機製造に参画した技術を泣く泣く封印し、鍋・釜の製造で糊口をしのいだメーカーもあったやに聞く。昭和27年の《サンフランシスコ講和条約》発効で主権を回復し、航空禁止令は解かれたが、時既に遅し。世界はジェット戦闘機の開発競争時代に突入していた。
ジェット戦闘機開発封印で海外メーカーの「下請け」
この遅れは痛く、技術大国でありながら長きにわたり海外メーカーの「下請け的」存在に甘んじてきた。心神こそ、わが国の航空機産業を蘇生・復活させる先駆けと成るのである。心神が一身に背負う「重み」は戦略レベルと言い切って差し支えない。
心神の背負う「重み」
中谷元・防衛相は2月24日、愛知県小牧市の航空自衛隊小牧基地で実施された心神の地上滑走試験を視察したが、心神の背負う「重み」をよく理解している。中谷氏は強調した−
「(開発が)順調に進展していることを確認した」
「将来のわが国の戦闘機開発や航空機産業全体の技術革新、他分野への応用に大変期待が持てる」
中谷氏が「順調な進展」に言及した背景には、平成7年の研究開始以来、技術的にほぼ未開の、しかも高度な分野に踏み込み、克服しつつある安堵感が横たわる。何しろ、米軍のF−35といった《第5世代》戦闘機の上をうかがう、将来の《第6世代》戦闘機開発に備えた開発・製造なのだ。30万点もの部品を組み合わせ、国産化率9割超の軍用機を造り上げた技術陣や参加企業220社は褒められてよい。
エンジン開発にも成功
特徴の第一は、炭素繊維を駆使し、形状を“彫刻し”た、敵レーダーに探知されず敵を捕捉するステルス性で、国産成功例は米露中3カ国のみ。繊維の他▽耐熱素材▽電子機器▽小型燃料装置…、わが国の得意技術を活かした点も特筆される。強い向かい風を受けても失速せず、旋回半径の著しい短縮を可能にしたエンジンの開発も、担当のIHIが成功した。結果、軽量化を図り高い運動性を実現する。
2つ目の「重み」は、中谷氏の言葉にもあるが、将来の戦闘機開発や航空機産業全体の技術革新に資する展望だ。
平成22年3月に国内企業群が試作を始めた心神は2月以降、9回の地上滑走試験を重ねた。そして迎えた今次初飛行は、防衛装備庁引渡し前の最終段階にして、最大の難関であった。
「失敗は成功のもと」
あと1回有視界飛行を試し、引き渡されても、研究中だった最新技術を追加→試験飛行を反復→問題点をあぶり出し→分析→改善を施し→対応技術を付加→再び飛行する。回転を止めず進化を求め続ける、以上の過程の繰り返しを軍事の要諦《スパイラル・セオリー》と呼ぶ。
実動・実戦で使う兵器の不具合は「自衛官の死」を意味する。従って、セオリー途中での不具合や問題点は貴重な発展的改善材料で、次の次の戦闘機開発にも性能アップした上で導入される。実動・実戦で失敗をしなければそれでよく、兵器の分野ではまさに「失敗は成功のもと」なのだ。 加えて「学び取った技術・ノウハウは、許される範囲で最大限民間にも伝授できる」(三菱重工業の浜田充・技師長)。
絶大な経済効果
経済効果も絶大だ。武器輸出3原則緩和や防衛装備庁設立と相まって、期待は否が応でも高まる。心神には220社が関わったが、戦闘機量産ともなれば、直接従事する企業(孫請け、ひ孫請け…を含む)ばかりか、工場建屋建設はじめ、工場の社員食堂に食品や白衣を納入する業者まで、さらに企業数が増える。小欄の認識で、広義の「防衛産業」とは関連業者も入り、兵器によっては総計数千社が恩恵を受ける。
開発資金の不足以外、良いことづくしだ。
F−2戦闘機の後継機は国産か共同開発か?
ところで、平成30年度までに空自のF−2戦闘機の後継機の取得方式を決定する方針が決まっている。その際、後継機を《国産》にするか《共同開発》にするかが注目されているが、大事な視点が抜けている。心神が授けてくれる数々の技術の完成度が、将来型戦闘機の生産・開発形態を決めるからだ。
関係者は「未定でよい」と言い切る。国産戦闘機製造への総合力を持てば、外国が注目し擦り寄ってくる。逆説的に言えば、国産戦闘機製造への総合力を持たぬと軍需大国に相手にされず、共同開発には参画できない。この関係者は「国産戦闘機の製造段階に昇った時点で、防衛技術基盤の発展や費用対効果、企業収益など国益を冷静に勘案し、国産か共同開発かを判断すればよい」と、まずは「国産力」蓄積を目指す方向が基本と考えている。
仮に国産にすれば開発費は5000億〜1兆円超。一方で防衛省は、最低でも4兆円の新規事業誕生+8.3億円の経済波及効果+24万人の雇用創出を試算する。
他方、共同開発であれば費用・技術上のリスクを、同盟・友好国とシェアできる。
国産・共同開発いずれにしても、海外に売り込むスキームは早期に構築しなければならない。
ヒト・モノ・カネ流失防止の法的スキーム
スキームといえばもう一つ必要だ。前述した武器輸出3原則緩和や防衛装備庁設立による「副作用」対策。3原則に縛られ兵器貿易と貿易管理面で「鎖国」状態だったぬるま湯時代とは違い、「開国」し、日本政府が外国との輸出入に乗り出した現在では不可欠となった、人材(ヒト)・技術(モノ)・利益(カネ)の流失を防ぐ法的管理スキームがないのだ。別の関係者は日本メーカーの具体名を挙げ(仮にA社)、「A社と提携関係を切って、ウチに来ないか?と、外国企業に手を突っ込まれる日本企業は次第に増えている」と証言。「開国」がもたらした現状を「舌なめずりするオオカミがうろつく荒野で、ヒツジが閉じ籠もっていたオリの扉が開いた」と表現した。
国家守護の礎
空自出身の宇都隆史・参院議員は「戦闘機開発は国家の体制を守る礎の一つになる。礎の構築は、わが国が独自の技術力をしっかりと確保して、初めて達成する」と、小欄に期待を語った。心神は上空で、国花・桜が散った《小牧山》を愛でたであろう。織田信長が450年ほど前、天下統一の夢を描き、自ら築いた最初の城が《小牧山城》とも伝えられる。
「国家の体制を守る礎」と成る心神の、門出にふさわしい風景ではないか。