世界恐慌2017 保護主義宣言で幕開け

 トランプ 大統領の保護主義宣言
世界恐慌2017の幕開け

歴史上 保護主義で栄えた国は一つもないらしい


 
 
 
●保護主義

自由な貿易に反対し、貿易について何らかの制限を課すべきだという考え方。その動機としては、自国の衰退産業や幼稚産業の保護、貿易収支上の関心などがある。保護主義が有害であり、それが広がるのを防ぐべきであると世界的に明確に意識されるようになったのは、第2次世界大戦後である。
保護貿易主義
国家が貿易に一定の干渉を加えて自国産業、国内市場の育成・防衛をはかる考え方、政策。輸出入の統制・奨励と、関税政策がある。重商主義下には高率関税、輸出奨励金などの保護を行った。
保護貿易主義/保護関税政策
自国の産業を保護するため外国からの輸入品に高関税を掛けたり数量制限をする貿易政策。自由貿易主義と対立する。
外国との貿易に際して、自国の産業を保護するために、輸入品に対して高率の関税を賦課したり、数量制限などを設ける政策。主権国家形成期の絶対王政諸国が採った重商主義政策が保護貿易主義の最初の形態である。イギリスは特許会社である東インド会社に貿易を独占させるなど典型的な重商主義を展開していたが、イギリス革命・産業革命を経て産業の発展には保護主義はかえって有害であると説くアダム=スミスやリカードらの自由貿易主義が台頭し、次第に政策を転換していった。19世紀前半には地主保護のために穀物法が制定されたが、それらの保護主義は、1846年の穀物法廃止、49年の航海法の廃止など一連の自由主義改革によって、保護貿易主義は後退した。こうしてイギリスは自由貿易主義を率先して拡大し、フランスもナポレオン3世の時代に英仏通商条約を締結して自由貿易主義に転換した。  工業化に立ち後れたドイツでは1834年に発足したドイツ関税同盟で域内の関税を廃止し、対外的な統一関税を設定して経済の一体化をテコに1871年にドイツ帝国を成立させた。その間、経済学者リストは工業化の遅れている後進地域では保護貿易主義はやむを得ないことを強調し、19世紀後半にドイツは保護関税のもとで重工業を中心とした産業化を達成した。
アメリカの保護貿易主義
イギリスから独立したアメリカ合衆国も、特に工業地帯である北部はイギリス製品からアメリカ産業を守るため保護関税政策を主張し、共和党の政策となった。アメリカは1861年に起こった南北戦争で北部が勝利してから、保護主義を採るようになり、アメリカの外交政策の孤立主義とあいまって、アメリカの基本姿勢として維持された。一方民主党は自由貿易主義を採り、政権を取った1910年代にはそれを実現した。
世界恐慌と保護貿易主義
アメリカでは、1920年代の共和党時代の経済繁栄の行き過ぎから1929年に株価の大暴落が起こった。ここから世界恐慌が始まると、フーヴァー政権はスムート=ホーレー法という高関税を認める立法を行い、保護主義を明確にした。それに倣って世界各国は保護主義に急速に傾き、また植民地や勢力圏を有する強国はそれらの地域を囲い込んでブロック経済をつくりあげた。共和党に代わって成立したフランクリン=ローズヴェルト民主党政権は保護主義を転換させ、互恵通商方式をとろうとした。しかし、イギリスは大戦間の1932年には保護関税法を制定して保護貿易主義に転じ、自治領産品以外にはいずれも高率の輸入税を課した。さらに1932年のオタワ連邦経済会議によってイギリス帝国特恵関税政策に拡大され、スターリング=ブロックといわれるイギリス通貨ポンドを基軸通貨とするブロック経済圏を構築した。
第二次大戦後から現在まで
このような世界恐慌後のブロック経済が、第二次世界大戦の要因の一つとなったことを反省し、戦後の国際社会はアメリカの互恵通商主義を発展させ、1948年1月に「関税と貿易に関する一般協定=GATT」を発効させ、自由貿易の原則を打ち出した。こうして第二次世界大戦後には保護貿易主義の克服が課題とされたが、戦後のアジアアフリカの民族独立の潮流の中で、南北格差の問題が明らかになり、新興国のあらたな貿易保護の動きが出てきた。さらにアメリカ主導の世界経済の枠組みが崩れ、日本やドイツの急成長から、多極化が進み、また、1980年代末の社会主義圏の崩壊は、世界経済のグローバリズムを一段と推し進めた。この間、ウルグアイ=ラウンドなどの多角的交渉が進められ、各国間の貿易摩擦の解消にあたってきた。さらに中国が改革開放に転じて世界の経済大国として登場してきた。このように20世紀末から21世紀にかけて、戦後の世界経済の枠組みは大きく変動し、GATTは世界貿易機構(WTO)に改変されるなど、対応に迫られている。現在、グローバリズムや新自由主義の横行に対して、抵抗する枠組みとして保護貿易主義の復権の提唱も現れている。  
 
 

 

 
トランプ経済策 保護主義は全世界の不利益だ 2016/11
 
経済のグローバル化が進む中で、世界一の大国が独善的な「米国第一」主義に転じれば、国際社会全体に深刻な影響を及ぼす。ひいては米国の利益にもなるまい。
次期米大統領に決まったドナルド・トランプ氏の経済政策が各国の耳目を集めている。
勝利演説では「成長を現在の2倍にし、最強の経済にする」と米経済再生への意欲を強調した。
「トランプリスク」に身構えていた米市場は9日、株価が急上昇した。10日の日本市場も反発し、前日の下落分を取り戻した。
トランプ氏が掲げる法人減税や公共事業の上積みを好感したとみられる。共和党が米議会上下両院で多数を維持し、オバマ民主党政権での「ねじれ」が解消する。政策の実現性が高まるとの期待も反映したのだろう。
米国が内需拡大による成長促進を果たせば、世界経済にとってプラスだ。ただ、減税を穴埋めする財源が見当たらず、財政悪化を懸念する声も出始めている。
何より気がかりなのは、トランプ氏が選挙中、自由貿易を否定する発言を繰り返したことだ。
低所得の白人層などが抱える不満の解決策を極端な保護主義に求めた。雇用が失われ、生活が苦しくなったのは安価な外国製品の流入によるものだと決め付け、米国に雇用を取り戻すと訴えた。
自国通貨を安く誘導しているとして、中国を「為替操作国」に認定する構えを示した。日本が輸入する米国産牛肉並みの高関税を日本車にかけるとの発言もあった。北米自由貿易協定(NAFTA)の見直しにも言及している。
米国が、雇用維持のため自国市場を閉ざす保護主義を強めれば、主要な貿易相手国である中国のみならず、景気が低迷する新興国に与える打撃は計り知れない。世界経済の停滞は、結局は米経済の成長をも阻害する。
米国の内向き志向に歯止めをかけるには、日本など主要国が果たす役割が極めて重要となる。
今国会の焦点である環太平洋経済連携協定(TPP)承認案が10日、衆院を通過した。参加12か国が正式に合意した協定の国内手続きを進めるのは当然だ。
しかし、トランプ氏はTPPからの撤退を公言しており、発効が厳しい状況なのは間違いない。
安倍首相は来週訪米し、トランプ氏と会談する方向だ。自由貿易体制の重要性や、TPPを含む望ましい通商協定のあり方について理解を求める必要がある。 
 
なぜ米国は保護主義に傾いたのか 2016/5

 

今年の米大統領選挙を予測するのはあまり意味をなさないが、ある程度の確信を持って予想できることがひとつある。次期大統領は環太平洋経済連携協定(TPP)への反対を公言するだろう。TPPは今年2月に米国を含む12カ国が署名した貿易協定だ。
2016年の選挙運動で飛び交う保護主義的な論調は大きな分岐点だ。政治的かつ経済的に重大な影響を米国だけでなく世界に与えるかもしれない。
実業家ドナルド・トランプ氏はこれまで一貫して、自由貿易協定に反対してきた。保護主義的な主張は、共和党候補の指名獲得を確実にした同氏の大衆主義的な選挙運動の中核をなしている。
「我々は強盗にあった貯金箱みたいなものだ」。トランプ氏は今月、インディアナ州で開かれた支持者集会でこう語った。「我々の国を中国がレイプするのを、これ以上続けさせてはいけない」。
同様の主張は、イデオロギー的には対極にある人たちも口にする。
社会主義者を自認するバーニー・サンダース上院議員(バーモント州選出)は今年、「2001年以来、米国で6万の工場が閉鎖された。その多くは破滅的な貿易協定と関係している。もし大統領に選ばれたら、この国の貿易協定を根本的に書き換える」と語った。
ヒラリー・クリントン前国務長官でさえ、高まる保護主義の風に船の帆の向きを合わせている。バラク・オバマ大統領の一期目には国務長官としてTPPを支持した。大統領選の候補となった今、クリントン氏はTPPについて「学んでいる」と語り、「これまで分かった内容では賛成できない」とした。
こうした政治的主張の背後にある経済的現実は、ペンシルベニア州スティールトンのような場所に来ると明白だ。
スティール(鉄鋼)から名前が取られた町の経済は、1860年代からずっと鉄鋼業で成り立っていた。しかし今、静かに流れるサスケハナ川に沿って延々と連なる製鉄所から、音は聞こえてこない。町の中央通りでは、ひと気のない店や板で窓が閉ざされた事務所が虫食いのように点々としている。
それでも負けずに営業を続ける「クイグリーズ・レストラン」のオーナー、アル・クイグリーさんにとって、誰のせいかなのかははっきりしている。「外国から輸入された鉄鋼製品が鉄鋼所を立ちいかなくさせたんだ」。
クイグリーさんが店を開いたのは1952年。当時は「スティールトンには6000人余りの労働者がいて、週7日、毎日3シフトで働いていた」という。今は、「だいたい600人いて、1日2シフト。週末は休み」だ。
製造業の雇用減少に対する大衆の怒りの矛先は、あるところにまっすぐ向けられている。2001年、中国が世界貿易機関(WTO)に加盟し、2ケタの経済成長率を実現しつつあった巨大経済が世界貿易体制に加わった。
それによって経済的な調整が多少起きるのは誰でも分かっていたが、古典経済学の理論によれば、スティールトンのような場所の雇用は犠牲になるものの、輸出が新たな雇用を創出する。さらに、競争が価格を低く保つので、全員の利益になる。
だが、世界有数の学術機関のマサチューセッツ工科大学(MIT)による最近の研究では、現実の展開はかなり異なるという証拠が挙げられている。2001年以来の中国との競争で打撃を受けた伝統的製造業の地域では、経済回復にかかる時間は想定よりもずっと長く、失われた仕事を新しい雇用が埋め合わせることはなかった。
MITのデイビッド・オートー氏は、「医療サービスや小売と違って、製造業は特定地域での集中度が高い」と指摘する。「そのため、痛みが増幅される。製造業で働く人にとっては直接的な経験だが、同じ地域に住む人々にとっても間接的な影響がある」。
ペンシルベニア州の製造業者協会のデイビッド・テイラー会長は、共和党主流派の一人だ。ほかの主流派同様、トランプ氏に自分たちの党がハイジャックされたと、憤慨している。
「もう15年も警鐘を鳴らしてきた」とテイラー氏は語る。「誰も聞きたがらない話だった。全国委員会の指導部は何も手を打たなかった。(中略)トランプは大嫌いだ。しかし不幸なことに、目を引くこの問題は、ほったらかしにされたせいで、ああいうデマゴーグに利用された」。
実のところ、保護主義は共和党の血の中に長年流れるものだ。1870〜1880年代にかけて党は保護主義をめぐって分裂していた。同じ世紀のしばらく前には、英国でも同様にトーリー党を分裂させたように。共和党はその歴史の大部分にわたり、保護主義的な思想を抱えてきた。
大恐慌時に、貿易戦争のきっかけとなり状況を深刻化させた元凶とされる、悪名高きスムート・ホーリー法(1930年)は、共和党議員たちが支持し、共和党の大統領が署名した。
そして保護主義は、米国政治で重要な位置を占めるもうひとつの言葉、孤立主義との関連が深い。
ワシントンのブルッキングス研究所で統治を研究するシニアフェロー、ビル・ガーストン博士は、「保護主義と孤立主義は2つで一組だ」と指摘する。今の米世論は次のような論調だとガーストン氏は言う。
「軍力を展開し、何兆ドルもつぎ込み、幾多の命も失われたが、何も結果が出ていない。我々を利用するだけの連中を相手に、外交を実践しようとしている。そして世界経済に参加したのは、大企業や支配層にとってはとてもよかったが、それ以外のみんなにとっては、それほどでもなかった」
ワシントンの事情通の投資家によれば、冷静な分析では依然として、11月の大統領選で勝利するのはクリントン氏だ。そしてクリントン氏はいざ当選すれば、本来の本能的な自由貿易志向に戻ってTPP支持に回る――というシナリオが有望だという。
しかしもちろん、選挙戦の真っただ中にクリントン氏がそんな真似をするはずがない。さらに、貿易全般をめぐる幅広い議論が保護主義に傾いただけに、就任早々にTPP批准をごり押しするのにはリスクが伴う。
父ブッシュ政権で通商代表を務めたカーラ・ヒルズ氏は、TPPは「米国の指導的立場にとって非常に重要だ」と指摘し、もし実現できなければ「報復的措置が横行し、不法状態に陥る」と警告する。
自由貿易を強く支持する前出のMITのオートー氏も、ヒルズ氏と同様に警告する。中国との競争で米国の労働者が支払った多大な犠牲に関する研究が大きな反響を呼んだ、その人なのだが。
「世界経済は第1次世界大戦が勃発するまで非常に統合されていた。そして突然、門戸が閉ざされた」とオートー氏は語る。「(貿易戦争が起きたら)とんでもないことになる。だからといって、起きないとは限らない」。
スムート・ホーリー法
・1930年の施行。2万以上の物品について輸入関税を引き上げた。50%以上引き上げられたものもある。
・当初は、輸入農産物から米国の農家を守るのが目的だったが、幅広い産業の輸入品に対象が広げられた。
・フーバー大統領に法案に署名しないよう求める請願書に経済学者らが署名したが、大統領は署名し、法案は成立した。
・米国の貿易相手が報復措置として米国からの輸入品に対して関税を課することにつながった。 
 
保護主義が格差を解消する特効薬か 違う! 2016/4
 ポピュリストの主張に騙されてはいけない

 

今年の米大統領選挙で顕著なのが、保護貿易を掲げるポピュリストたちの躍進だ。これは世界情勢からの米国の撤退を予期させるほど危険な動きである。
民主党と共和党の候補者の一部は、保護貿易の動きを強めて貧富の格差を是正すべきと主張している。しかし、それでは発展途上国に何億人もいる貧困層が中産階級に入る夢は絶たれるだろう。保護主義の強まりは米国のリーダーシップに暗雲をもたらすものだ。
共和党候補の指名争いで優位に立つドナルド・トランプ氏は、米国が輸入する中国製品に45%の関税をかけるべきと主張している。彼は「中国は不公正な貿易慣行で利益を得ている」と訴え多くの米国人の心をつかんだ。
しかし彼の主張は現実から乖離している。実際にここ数十年間、中国は圧倒的な成長を遂げているが、中国国民の多くはまだ先進国では考えられないような貧しい暮らしを強いられている。
格差は米中間の方が大きい
中国政府が最近発表した13次5カ年計画によると、同国は2020年までに国民の5500万人を、政府が定義する年収2300人民元(約354ドル)の貧困ラインより上にすくい上げようとしている。
米国ではこの貧困ラインの定義は、1人当たり年収約1万2000ドルだ。もちろん物価の違いなどもあり、両国の値をそのまま比較することはできない。それでも米中間の格差のほうが、米国内の格差よりはるかに大きいことは明確だ。
世界的に見れば、中国の貧困問題でさえ深刻とはいいがたい。インドとアフリカは、それぞれ中国と同等の約14億人の人口を抱えている。しかし中産階級に達した割合は、どちらも中国をかなり下回っている。
民主党で候補者指名争いをするバーニー・サンダース上院議員は、人物としてはトランプ氏より好感を持てる。しかし彼の保護貿易主義のレトリックも、トランプ氏同様に危険である。彼は著名な左派の経済学者らとともに、TPP(環太平洋経済連携協定)を否定している。しかしTPPは、南米諸国などの製品に関して日本市場に開放を迫るなど、途上国の成長を大きく後押しする。
サンダース氏はさらにNAFTA(北米自由貿易協定)など過去に締結された貿易協定を支持したとして、ライバルのヒラリー・クリントン氏をも酷評している。しかし実際にはNAFTAにより、メキシコで米国製品にかかる関税は大きく押し下げられるなど恩恵もあった。
惨事の前触れ
危惧されるのは、サンダース氏やトランプ氏らのような保護貿易主義への支持が広がることで、クリントン氏らが中道的なスタンスから逸脱してしまうことだ。同様の動きは今後、上下両院の多くの議員に広がる可能性がある。これは惨事の前触れといえよう。
確かにTPPには、知的財産権保護の検討が不十分であるなど課題も多い。だからといってTPPが不要ということにはならない。「安価な輸入物の流入で米国の仕事が激減する」といった主張もあるが、一方的な見方である。自由貿易で重要なのは、中国のような新興国にハイテク製品を売りやすくする仕組みであり、そうした製品が模造される土壌を排除することである。
繰り返すが、米国における格差是正のための正しい選択は自由貿易に背を向けることではない。むしろ自由貿易と正面から向き合うことだ。一方で格差是正については、税制をよりシンプルで累進的な制度に改善するなど別の対策が求められる。先進技術の導入や競争力を養うための教育改革も必要だろう。
「格差是正」という、あたかも道徳主義者のようなマントを身にまとったポピュリストたちは、私の目には偽善者のように映る。今回の大統領選は貿易政策に関し、社会全般に知見が欠如していることを露呈している。 
 
 
 
●アダム・スミス以来続く自由貿易vs保護貿易
 だが、保護主義で栄えた国など一つもない

 

歴史は繰り返す
現代の経済学の基礎の多くは、アダム・スミスが著した『国富論』にあると言われる。アダム・スミスが経済学の父と呼ばれる所以だ。
アダム・スミスはこの本を、重商主義を論駁する目的で書いたと言われる。重商主義を信奉する人たちは、「輸出はよいが輸入は困る」と考える。輸出をすれば外貨を稼げるが、輸入が行われれば国内市場が打撃を受けると考えるからだ。重商主義は保護主義の典型である。
アダム・スミスが国富論を世に出したのは1776年である。それから250年近くたっているが、世の中で展開されている議論には、あまり大きな違いは見られない。
相変わらず「輸出は利益、輸入は損失」というような議論が展開されている。経済界は自由貿易協定を進めないかぎり輸出で不利になる、と主張する。もっと輸出がしやすい環境にしないと、利益を韓国企業などにさらわれると主張するのだ。
一方で保護主義者は、海外からの輸入を自由にすると、低価格の商品や物品が大量に入ってきて、国内の生産者が大きな打撃を受けるという。それだけでなく、海外からの輸入を自由にすれば、さまざまな食料が入ってきて、日本の食の安全が侵されかねないと考える人もいるようだ。
経済学の世界では、アダム・スミス以来の多くの学者が論じ分析してきた自由貿易の利益の意義を信じる人が大半だ。だから、大半の「経済学者」はTPPにも賛成している。ただ、「経済学者」とカッコでくくったのには理由がある。
大学で教鞭をとっている「経済学者」のなかにも、TPPに反対している人がいる。ただそうした人たちの経歴を見ると、いわゆるマル経(マルクス経済学)を学んだ人たち、農林水産省の役人を経て大学教授になった人たち、あるいはマル経ではないが政治経済学とでもいうのか、経済学の主流とは少し違った分野で研究をしてきた人たちが多いように思われる。
経済についての俗説を排し、正しい経済学的な理解をきちっと普及しようとしたアダム・スミスの保護主義との戦いは、現在でも続いている。スミスの時代から現在に至るまで、自由貿易主義と保護主義の戦いはずっと続いているのだ。時代によって少しずつ形は違っているように見えて、その本質には変化がない。
保護主義を主張する人たちは、けっして自分の利害だけで動いているわけではないと言う。そうした人もいないわけではないだろう。ただ、保護主義者の話を聞いて、TPPに参加したら日本は大変なことになる、と本気で信じている人も多い。
つまり、保護主義の思想が社会の中で、強い影響力を持っているのだ。間違った思想で社会が道を誤るというのはよくあることだ。保護主義の誤りをただすことが、アダム・スミスの時代から今に至るまで、経済学者の重要な役割であると私は信じている。
アダム・スミスの思想の影響力は非常に強かったとは言えるが、それでも世の中の俗説を消滅させるには力が及ばなかった。保護主義の力は依然として強く、ときには自由貿易主義の力を圧倒する勢いさえ見せる。残念ながら、経済学者と保護主義との戦いは、これからも何十年、何百年と続くのだろう。
保護主義が広げた世界大恐慌
保護主義の台頭は、人々の生活を破壊する威力を持っている。歴史的に見て最も重要な事例は、1930年代に世界に広がった保護主義的な政策である。19世紀末から20世紀の初めにかけては、貿易や投資の自由化が進み、世界経済は繁栄を続けてきた。しかし、1929年のウォール街の株の大暴落以来、多くの国が貿易を制限する保護主義的な政策に傾倒していった。
経済が混乱するときに保護主義に走るのには理由がある。不況で国内産業が不振であるとき、海外から低価格の商品が入ってくると、その不振がさらに大きくなるからだ。そこで海外からの輸入に高い関税を課して、国内産業を守ろうとする政策に転換する国が増えるのだ。
関税などによって国内産業を守ろうとするのは、不振な産業を救う上で有効であるように見える。しかし、これは当時の経済学者であるジョーン・ロビンソンが「近隣窮乏化政策」と呼ぶものである。自分の国の産業を守ろうとして各国が保護政策に走れば、結局お互いを傷つけて、すべての国が被害をこうむる結果になるのだ。
実際、ウォール街の株の大暴落の後、各国が保護主義に走ることで、世界の貿易量は急速に縮小しはじめ、世界経済の不況はますます悪化してしまった。保護主義の思想が世界経済を破壊したと言ってよい。経済はますます混迷し、ドイツではナチスの台頭、日本では軍国主義の台頭の原因となっていった。
第二次世界大戦後は、こうした戦前の失敗の反省の下、自由貿易を推進するためのGATT(関税および貿易に関する一般協定)の制度が確立された。先進国を中心として戦後に高い経済成長を実現できたのは、GATTの下における自由貿易促進の貢献が大きいと言われる。
保護主義で繁栄した国はない
保護主義が経済をいかに停滞させるのかを見る格好の例がもう一つある。戦後直後から1960年頃までの多くの発展途上国が辿った道である。
よく知られているように、第二次世界大戦後からしばらく、多くの発展途上国は保護主義的な政策を強く打ち出していた。海外からの輸入や投資を制限し、自国の産業を育成するために国家主導の産業育成政策を進めたのだ。
ネルーのインドも、スカルノのインドネシアも、そうした政策をとってきた。中国などは共産党一党独裁の計画経済の中で、外の世界に対してベールをおろしていた。多くの途上国がこうした保護主義的な政策をとってきたのは、貿易や投資を自由化すれば、国際競争力のある先進国の企業に席巻され、自国内に有力な産業が育たないと危惧したからだ。長く続いた植民地時代に先進国から搾取された、という気持ちもあったのかもしれない。
こうした保護主義的な政策をとった途上国は、1960年頃までまったく経済成長をすることができなかった。貧困状態が続いたのだ。市場を外に向かって開かずして、経済成長を実現することはできないのだ。
興味深いことに、途上国の中でもいろいろな事情によって、いくつかの国は早い段階で貿易自由化や資本自由化を進めた。台湾、韓国、香港、シンガポールなどの国である。それぞれ自由化を進めていった背景は異なるが、これらの国は1960年代後半から、成長のきっかけをつかみ始めるのだ。
保護主義ではなく市場開放こそが自国の経済成長を促進する、という理解が、少しずつではあるが途上国に広がっていった。1970年代以降、地域や国によって時期のずれはあるが、途上国は少しずつ市場開放や投資受け入れを進め始める。それが途上国の経済発展を促す重要な原動力となったことは、今さら説明する必要はないだろう。
保護主義を続けている国は経済成長をしないと書くと、では日本はどうだったのか、日本も自動車などの産業を保護したのに高い経済成長を実現したではないか、といった質問を受けることがある。
スペースがないのでここで詳しく書くことはできないが、戦後の日本の通商政策は途上国の保護主義とは本質的に異なるものだ。自動車の保護政策でも、何年か後には自由化を進めていくという国際公約をした上での暫定的な保護政策だったのである。
GATTにフルメンバーとして加盟するため、戦後の日本は自由化を進めていくしかなかった。歯を食いしばって自由化を進めてきた。それが結果的には競争力のある国内産業を作り上げ、高い経済成長を実現する結果となったのだ。
個人的な話になるが、この点については、若い頃、いろいろな形で研究論文を発表したことがある。
輸入の利益
日本でのTPPの議論は、もっと輸出しやすくなることを期待して積極的に進めようとする経済界と、輸入によって打撃を受けることを恐れる農業者の対立としてとらえられることが多い。産業界はもっと輸出をして利益を稼ぎたいという動機だけで、TPP推進を主張しているわけではない。ただ、産業界と農業者の対立となると、どうしてもそれぞれの利益で動いているように見られてしまう。
輸出は利益で輸入は負担──もしこうした見方をしているようなら、それこそ重商主義の罠にはまっていることになる。輸出を拡大することにもメリットは多いが、日本が貿易で本当に恩恵を受けているのは輸入であるということを忘れてはいけない。
例として天然ガスについて考えてみよう。原発事故以来、電力不足に火力発電で対応するため、日本は天然ガスの輸入を増やしてきた。その結果、1年で2兆円近い額の輸入増となってしまった。これはすべて国民負担となる。国民1人当たり2万円、4人家族で8万円の追加負担となる計算である。
米国やカナダではシェールガスの開発が進み、天然ガスの価格は日本が中東などから購入している価格の何分の一にもなるような低価格である。当然、日本も米国のシェールガスを輸入し、シェールガスの投資プロジェクトに参加することが期待される。しかし、米国は、自由貿易協定や経済連携協定を結んでいない国とはシェールガスの取引はしない、という話が漏れ伝わってくる。これがどの程度確かな情報なのかはわからないが、エネルギー関連業界の人からよく聞く話である。
エネルギーや資源や食料を安定的に輸入する貿易や、投資のパートナーを持つということは、日本の国益にとって重要なことである。途上国との関係も重要ではあるが、米国、豪州、カナダなどの民主的な先進国との関係がとりわけ重要であることは今さら言うまでもないだろう。民主主義国家であるからこそ、安定的で信頼のおける関係を築くことができるという面は大きい。
保護主義から脱することの要諦は、より積極的に海外に打って出るためというより、輸入や資本受け入れが、日本にとって大きな利益であるとしっかり認識することにあるのではないだろうか。
もちろん輸出も輸入も重要である。ただ、輸出の重要性は誰もがわかっているのに対し、輸入が本当に重要だということへの理解が浅いのではないか。輸入の重要性を理解することこそ、保護主義や重商主義の呪縛から逃れる重要な一歩なのである。 
 
 
 
●保護貿易

 

(trade protection) 国内取引と国外取引の間に関税などの交易障壁を設けた状態における貿易のこと。対義語は自由貿易。
国家が自由貿易による弊害を防止し、自国の産業を育てるためにとる貿易政策を「保護貿易」という。保護貿易は関税で輸入量を制御する場合と、政府や業界団体が輸入を独占したり様々な国内基準を設け、貿易数量を規制する(非関税障壁)場合がある。国内規格を設けて輸入を制限する、自国製品に補助金をつけて輸出を促進するという政策もある。
関税の決定権は通常、中央政府にあるが中央政府の体制次第では国内産業の主張を反映せざるを得ない場合がある。競争力の弱い国内産業の場合、競合する輸入品の制限を求めることが多い。このときに、中央政府は、当該産業との競合品に関して高率の関税をかけるなどして輸入を制限する。これによって、当該産業は保護され一定の市場占有率と利益を確保できる。また、中央政府が特定の産業を国内で育成する目的を持って主体的に関税を設ける場合もある。これらの意図で形成される貿易体制が保護貿易である。
一般に、関税は当該商品の購入者に対する間接的課税となる。
保護主義の主張
貿易が拡大することによって、不利益をこうむる人々が政治的に大きな力を結束させ、貿易に制約を加えることを保護主義と呼ぶ。
○海外からの輸入の拡大は国内生産者の利益を損ねる。
○海外からの輸入の増加によって、国内の製品が売れなくなり、雇用が悪化する。
○海外から安価な商品の大量流入によって国内の生産の縮小→国内企業の工場の海外移転→国内産業の空洞化が生じる。
○先進国との競争激化による国内企業の淘汰を防ぐため、一時的な産業の保護を必要とする(幼稚産業保護)。
○先端技術産業の育成のため、国内産業を保護する。
 
歴史
イギリスの保護貿易政策
17世紀のイギリスでは、重商主義がすすめられて、イギリスの繁栄の礎を築いた。イギリスは1651年から航海条例を発布する。目的はイングランドの貿易をイングランド籍の船にかぎることであり、これによりオランダ船を貿易において排除した。1690年には産業の保護のため、毛織物の輸入に関税をかけて、原毛の輸出を禁止した。この時代には連帯保護制度があり、製造業を保護する一方で、小麦をはじめとする穀物に輸入制限を設けたり、輸出奨励金の拠出を行った。穀物の輸出奨励金によって、イギリスは1770年代まで穀物輸出国となった。民間では名誉革命によって営業の自由が保証されたが、同時代の大陸ヨーロッパは国王特権による独占や特許がまだ力を持っており、アダム・スミスが『国富論』を書いた時代にも、フランスはコルベール主義の政策が続いていた。コルベールは産業育成と輸出奨励策をとり、輸入代替政策をはかった。
産業革命の進展
産業革命が進展した時代には、イギリスではインドの綿織物キャラコの輸入や使用を禁止して、インド産綿織物と国内毛織物との競争を防いだ。やがて毛織物から綿織物へと保護育成を移して、綿織物の輸出が増加を続けて、18世紀末から19世紀初頭にかけて輸出額が2倍以上に上昇した。一方で人口は1771年から1871年のあいだに900万人から2600万人となり、穀物輸出国から輸入国になる。ナポレオン戦争は貿易に大きな影響を与えて、ナポレオンがイギリスとの貿易を禁じた大陸封鎖令で小麦の価格はさらに上昇した。イギリスでは穀物の保護貿易による賃金高止まりへの批判から国内で対立が起き、反穀物法同盟などの運動もあって1846年に穀物法は廃止された。イギリスでは自由貿易がすすむが、イギリスに続いて工業化をすすめる大陸ヨーロッパ諸国やアメリカでは、保護貿易が継続されてゆく。
工業化と保護主義
ドイツでは1834年にドイツ関税同盟が作られて、プロイセンを中心としてドイツの統一がすすんだ。イギリスの自由貿易は、ドイツを農業国に戻すための政策として警戒されて、ドイツの保護主義の根拠となった。フリードリヒ・リストが保護主義による工業化を主張したのも、この時代である。
アメリカ合衆国の初期の貿易政策は、保護主義にもとづいていた。合衆国の初代財務長官アレクサンダー・ハミルトンは重商主義やリストの思想を参考として「製造業に関する報告書」を書き、アメリカ学派と呼ばれる経済学派を形成する。アメリカ学派の政策はアメリカ・システムとも呼ばれて、下院議員のヘンリー・クレイを中心に推進された。やがてプランテーションによる綿花の輸出で栄える自由貿易派の南部と、工業育成を図る保護貿易派の北部との間で対立が抜き差しならないものとなり、南北戦争が勃発する。北部は勝利してアメリカ国内の産業は拡大発展して、アメリカの保護貿易政策は第二次世界大戦まで続くことになる。
日本では、明治初期頃から帝国主義的な覇権競争の中で日本の利益をいかに保護するかという目的で、福澤諭吉の論説などに見られるようになった(『明六雑誌』第26号)。明治中期頃からは田口卯吉や徳富蘇峰は政府の保護貿易政策を批判して自由貿易を唱えたが、それを批判して河上肇の農業重視論などが登場した。
保護主義と公正貿易運動
19世紀後半からは、不況の影響で農業と工業における保護主義がすすむ。アメリカの穀物や食肉輸出はヨーロッパへ向けられ、ロシアの穀物輸出も増加して、ヨーロッパは農業不況にみまわれた。1873年恐慌が起きると、工業の保護の要求も高まった。1878年にはイタリアの保護関税法、1879年にドイツの農工保護関税法、1881年にフランスの農業関税率引き上げ、1890年にロシアの保護関税法とアメリカのマッキンリー関税法(英語版)、92年にフランスでメリーヌ関税が相次いだ。
こうした状況のなかでイギリスは自由貿易を継続して、他国からの工業製品の輸入が急増する。イギリス国内では一方的な自由貿易に対する批判が起きて、国民公正貿易運動と呼ばれる動きにつながった。20世紀初頭には、イギリス帝国の統一を強化するための保護主義として関税改革運動も起きた。しかしイギリス経済は製造業にかわって金融業が成長をしており、ロンドンのシティを中心とする海外投資収益がGDPの6.8パーセントを生み出す時代に入っていた。1906年の総選挙で関税改革運動を主張した保守党は大敗し、自由貿易は維持された。関税改革運動は、世界恐慌後の帝国特恵制度へ引き継がれることになる。
世界恐慌
世界恐慌ののち、工業諸国はブロック経済を形成して保護貿易の度合いを深める。きっかけとなったのは、アメリカが農業保護を目的に立案したスムート・ホーリー法だった。この法律は、当初は農作物の関税を上げることを目指していたが、世界恐慌の影響で工業界も加わる。当時の世界最大の貿易国だったアメリカが関税率を大幅に上げたことで、世界貿易は縮小した。
大恐慌をきっかけにイギリスでも保護主義がすすみ、1932年のオタワ会議(英語版)では、帝国特恵政策が定められた。世界貿易は、1930年代末には1920年代後半の50パーセント以下まで縮小した。ブロック経済は各国の経済的効率性を損なったことに加えて、政治的な対立の激化をまねき、第二次世界大戦の勃発の要因となった。
発展途上国と輸入代替
第二次世界大戦後にアジアやアフリカでは植民地からの独立が相次ぎ、こうした新たな独立国は発展途上国とも呼ばれた。発展途上国では、農業国から工業国への転換を目ざして、輸入代替型の工業化を推進した。輸入代替工業化は、先進国から輸入されていた工業製品の国産化を目ざす政策であり、財源には一次産品の輸出収入と開発援助があてられた。国連貿易開発会議(UNCTAD)は、途上国の経済開発を目的として各国の輸入代替工業化を推進した。発展途上国の援助のために、GATTの理念とは異なる一般特恵関税制度も維持された。
しかし、関税・輸入制限措置などによって外国製品との競争から国内企業を保護することで、産業の高コスト化・貿易収支の悪化といった形で経済構造に歪みが生じた。また、1973年の石油ショックは世界貿易を一変させ、貿易黒字の上位9カ国を産油国が占めて、開発途上国の利害は産油国と非産油国に分かれる結果となった。
貿易摩擦
アメリカは1950年代まで世界の鉄鋼生産量の40パーセントを占めていたが、1960年代には日本やヨーロッパの生産が増えて保護貿易の要求が高まる。日本とヨーロッパは輸出の自主規制をするが、1970年代には最低輸入価格制度、1980年代には国別輸入割当制度が実施されて、アメリカの鉄鋼保護貿易は厳しさを増した。鉄鋼のほかにも、繊維、自動車、半導体をめぐって貿易摩擦が起きた。
戦略的貿易政策
1994年のクリントン政権のもとでは、特定の産業を保護・育成・振興して経済厚生を高める政策の理論化がすすめられた。中でも、規模の経済や収穫逓増の特徴を持つハイテク産業が注目された。
リーマン・ショック
2008年9月のリーマン・ショック後、G20諸国のうち17か国が、同年11月の第1回サミットのわずか数ヵ月後に保護主義的措置を導入したが、世界貿易機関(WTO)の働きもあり保護主義は抑え込まれた。
 
研究と見解
最初期の保護貿易論としては、スコットランドの経済学者ジェイムズ・スチュアート (経済学者)(英語版)があげられる。スチュアートは著書『経済の原理』(1767年)において、商業の発達が封建制からの自由をもたらしたと述べた。そして商業の発達で商品生産が増えると、農業と工業の社会的な分業が起きるが、分業が順調にすすむためには有効需要が必要であるとした。スチュアートによれば、この有効需要を調整するための政策が、国家による保護貿易だった。スチュアートの保護貿易政策には、輸出産業の奨励、育成すべき製造業の選択がある。スチュアートはまた、消費者と供給者の利害や、農業と工業の利害は、貿易においては一致しないと論じた。
トマス・マルサスは、『人口論』(1798年)や『経済学原理』(1820年)において、食料調達の必要性から農業の保護を主張した。穀物を自給できる国家は農業と工業の並立を目指すべきであり、農業国と工業国の国際分業は一時的であると否定的な見解を述べている。実態としては、マルサスの指摘ののちも農業国と工業国の国際分業は継続した。
フリードリッヒ・リストは『政治経済学の国民的体系』(1841年)で、工業化のための保護貿易を主張した。リストは国民経済の発展を(1)農業段階、(2)農工業段階、(3)農工商業段階に分けて、(1)と(3)においては自由貿易、(2)においては工業化のための保護関税が必要とした。リストが生きた時代のドイツは統一の途上にあったため、リストはイギリスの自由貿易政策について、ドイツの国民形成や工業化をさまたげるとして批判した。そして、ドイツ中心の経済圏を作るための関税同盟の拡大や、オーストリア、ハンガリー、トルコへの植民の必要性を論じた。リストの思想は、アメリカのハミルトンや、イギリスの国民公正貿易運動にも影響を与えている。開発経済学における輸入代替工業化論の先駆けでもあった。
1881年からイギリスで形成された国民公正貿易運動は、イギリスのみが国家の援助なしに競争をすることが不公正であるとして、結成宣言に次のような内容を含んでいた。(1)通商条約の更新停止、(2)国内産業の原料輸入を無関税とする、(3)イギリス製品を無関税で受け入れない国の製品に関税を課す、(4)外国からのあらゆる食料に関税を課す、というものである。国民公正貿易運動の議長にはロイズ銀行のS・S・ロイド、幹部には毛織物業者のW・F・エクロイドなど、他国の保護主義によって損害を受けた業者がいた。E・E・ウィリアムズの『メイド・イン・ジャーマニィ』のように、イギリス産業が衰退してドイツ製品が急増しているという扇動的な内容の書物も出版されている。
国内産業や雇用との関連
保護貿易政策は、保護された比較劣位の産業には一時的に利益をもたらす。その一方で、消費者は比較劣位財を海外と比べて高い価格で購入しなければならない。衰退産業保護政策の問題点は、衰退産業が永続した場合、産業構造の調整を遅延させる。1990年代半ば以降のヨーロッパの生産性の低迷は、各国政府の産業保護を原因とする研究がある。保護主義が勤労者個人を保護するのではなく、脆弱な産業を保護する場合に問題が生じるとする指摘もある。
国内で輸入制限などの保護主義を求める運動が起きる度合いは、国内経済の転換能力と関係する。転換能力が高ければ優位な産業への労働や資本の移動がすすむが、転換能力が低い場合には輸入制限や輸出攻勢、貿易摩擦の原因となる。
イギリスでは1815年に穀物法が制定されたものの、1816年から1820年代に深刻な農業不況が起きた事例がある。これは国内農業の生産効率が上がったために、ナポレオン戦争の終結後に国内での競争が起きたことが原因とされる。
保護貿易のもとでも経済成長が促進される事例として、19世紀のアメリカ西部開拓のように、国内市場の規模が大きかった場合がある。
政治との関連
保護主義については、政治的な原因と理論的な基盤の両方から考察がすすめられている。保護貿易の支持と、利益団体や圧力団体との関係も指摘されている。
保護貿易の受益者である生産者は、その負担者である消費者よりも政治的に力が強くなりやすいとされる。アメリカの古典的な例では、砂糖輸入の総量規制がある。このメリットを享受できるのは、アメリカ国内の一部の生産者のみであり、消費者の年間コストは年間100億ドルとなる。一人当たりの年間コストは約5ドルとなり、小さすぎて有権者に認知されにくい。
不況との関連
歴史的に最も重要な事例として、1930年代の世界的な保護主義があげられる。不況で国内産業が不振であるとき、海外から低価格の商品が入ってくると、その不振がさらに大きくなる。そこで海外からの輸入に高い関税を課して、国内産業を守ろうとする政策に転換する国が増えた。これは経済学者のジョーン・ロビンソンをはじめとして近隣窮乏化政策と呼ばれた。
また、第二次世界大戦後の発展途上国に見られた輸入代替政策をはじめとする保護主義政策がある。海外からの輸入や投資を制限し、自国の産業を育成するために国家主導の産業育成政策を進めたが、1960年頃まで経済成長をすることができなかった。
世界恐慌との関連
アメリカのスムート・ホーリー法、イギリスのオタワ会議などは高関税、為替の切り下げの応酬による悪循環をまねいた。当時の国際機関である国際連盟には、最大の貿易国であるアメリカが参加しておらず、安全保障が不完全であった。このためブロック経済間の対立は軍事衝突につながった。貿易制限などの保護貿易政策では、国内需要への転換能力が重要となる。しかし転換には時間と費用がかかるため、世界恐慌において保護貿易は解決策とならず、有害に作用した。
世界恐慌については、当時の金本位制が保護主義とともに悪化の要因になっていたという研究がある。バリー・アイケングリーンとジェフリー・サックスの1985年の研究は大きな影響を与えた。その関連として、アイケングリーンとダグラス・アーウィン(フランス語版)は1930年代の貿易制限措置は破壊的かつ反生産的だったとしたうえで、金本位制からの離脱が早い国々ほど貿易制限措置に訴える程度が小さかったと論じた。
植民地主義との関連
イギリス植民地大臣だったジョゼフ・チェンバレンは、イギリス帝国の統合を強化するために、帝国特恵関税などの保護主義を主張して、経済学者のウィリアム・アシュレー(英語版)に支持された。アシュレーの思想は、植民地の農産物に特恵を与えるかわりに、植民地の工業化を制限して、宗主国の工業を守るというものだった。オタワ会議による保護主義と帝国特恵政策は、チャーチルの戦時内閣にも参加した政治家のレオポルド・エイメリー(英語版)らに支持された。 
 
 
 
●保護主義と自由貿易をめぐる歴史的考察

 

自由貿易こそ経済発展の決め手であるという見解は、国際通貨基金(IMF)、世界貿易機関(WTO)、世界銀行などの国際機関やEU機関の共通の了解事項となっている。しかし経済史を振り返れば、それがなんの根拠もない神話にすぎず、アメリカやイギリスをはじめとする自由貿易主義諸国が保護政策によって力をつけた後、今になってそれを糾弾するようになった事実が明らかとなる。

自由貿易主義者は過去20年にわたり多大な勝利を収めてきた。1982年に債務危機が起こり、国際通貨基金(IMF)と世界銀行が構造調整プログラムを強要して以来、多くの途上国は貿易を大幅に自由化してきた。91年に共産主義が崩壊すると、広大な自由貿易地域が新たに出現し、90年代には、カナダとアメリカとメキシコからなる北米自由貿易協定(NAFTA)など、多くの重要な地域協定が結ばれた。さらに最後のとどめとして、94年にガット(関税と貿易に関する一般協定)のウルグアイ・ラウンド交渉がマラケシュで妥結し、95年には世界貿易機関(WTO)が生まれている。
いかに大きな成功を収めようと、自由貿易主義者たちはまだ満足していない。彼らは先進国を筆頭に、WTO体制の中で、さらに関税を大幅かつ迅速に引き下げるように、またWTOの権限を外国投資や競争法など当初は予定されていなかった分野にまで広げるようにと圧力をかけ続けている。
自由貿易主義者たちは、歴史が味方だと信じている。彼らは先進国の繁栄の源が自由貿易政策にあると言い、このように効果が立証済みの方法を採用しようとしない途上国を批判する。しかし、これほど事実からかけ離れた主張もあるまい。紛れもない歴史的事実として、今日の先進国はまだ発展途上にあった頃、自分が現在推奨している政策をほとんど実施していなかった。そして、この歴史的事実と神話のギャップが最も著しいのが、イギリスとアメリカの事例である。
まずイギリスについて見ると、自由貿易の模範例というイメージにはほど遠い。それどころか、戦略的産業の保護と育成のための統制政策をかなり強引に進め、また一部の分野については最初にこれを始めたのがイギリスだった。そのような政策は、範囲こそまだ限られていたとはいえ、14世紀(エドワード3世の時代)から15世紀(ヘンリー7世の時代)の代表的産業であった毛織物工業の時代までさかのぼる。当時、イギリスはオランダへ原毛を輸出する立場にあったが、歴代の国王はこの状況を変えようとして、国内業者の保護措置、原毛の輸出への課税、オランダの熟練工の「引き抜き」などを行っていた(1)。
初代首相ロバート・ウォルポールによる1721年の貿易政策改革から1846年の穀物法廃止までの時期、イギリスはきわめて関与主義的な貿易政策を実施した。この間イギリスは積極的に関税保護措置をとり、輸出品への投入資源にかける輸入関税を引き下げ、輸出品については国による品質管理などを行った。今日では日本その他、東アジア諸国のものと思われている政策である。
イギリスは1846年の穀物法廃止とともに自由貿易に向け、不完全ながらも決定的な一歩を踏みだした(2)。この措置は一般的に、古典的自由主義が固陋な重商主義に対して最終的に勝利したものと考えられている。しかし、この時代を専門とする一部の歴史家は、これを「自由貿易帝国主義」の行為とみなし、その狙いは「農産物と原材料の市場を拡大することで、大陸の工業化に歯止めをかける」ことにあったとする(3)。この主張は、リチャード・コブデン議員のような当時の穀物法廃止論者たちにも共通する。
つまり、優れた経済史学者ポール・ベーロシュが言ったように、イギリスの自由貿易への転換を可能にした技術的優位は、通説とは反対に「長期にわたって維持された高関税障壁の陰で」獲得されたのである(4)。間違って「幼稚産業」保護論の創始者とされる19世紀ドイツの経済学者フリードリッヒ・リストも同様の観点から、イギリスが自由貿易を唱えるのは、一番上までたどりついた人間が梯子を蹴りとばし、他人が追ってこられないようにすること(kicking away the ladder)と同じだと述べていた。
 
20世紀初めまでの関税率
イギリスが大規模な幼稚産業育成戦略を成功裏に開始した国だとすれば、この戦略の論拠を最初に構築したのは、ポール・ベーロシュが「保護主義の祖国であり牙城である」と呼んだアメリカである(5)。その論者にはアメリカの初代財務長官アレクサンダー・ハミルトン(1789-95年)や、現在は忘れられている経済学者ダニエル・レイモンドなどがいる。近代の幼稚産業保護論の生みの親とされるフリードリッヒ・リストがこの理論について知ったのも、1820年代にアメリカに亡命していた時だった。アダム・スミスやジャン=バティスト・セーなど当時の著名な経済学者は、アメリカが自国の製造業を保護せず農業に専念すべきだと論じたが、19世紀のアメリカの多くの知識人や政治家には、自由貿易が自国向きではないことがよく分かっていた。
1830年代から第二次世界大戦終結までの間、アメリカは輸入工業製品に世界有数の高関税をかけていた。アメリカが1870年代まで高額の輸送コストによる「天然」の保護を享受していたことを考え合わせれば、この国の産業は1945年まで文字通り最大限に保護されていたと言える。1930年に作られたスムート・ホーレー関税法も、アメリカ経済の保護主義のレベルを少しばかり引き上げたにすぎない。同法に基づく平均関税率は48%と高いとはいえ、南北戦争以来のアメリカの平均関税率から突出したものではない。1913年から29年にかけての短い「自由時代」に比べれば保護主義の強化と言えるが、とはいえ上昇率は平均で37%から48%と11%にすぎない。
こうした背景のもと、南北戦争が奴隷制廃止と少なくとも同程度に、関税問題をめぐる戦争でもあったことに留意しなければならない。これら二つの問題のうち、南軍は奴隷制廃止以上に関税問題を脅威と感じていた。エイブラハム・リンカーンは、インフラ整備と保護主義に依拠する「アメリカ方式」を唱道していたホイッグ党のカリスマ的政治家ヘンリー・クレイ(6)のもとで政治を学び、貿易保護主義者として知られていた。これが「アメリカ方式」と呼ばれたわけは、イギリスの国益に合致するのは自由貿易の方だったからである。しかもリンカーンは、黒人が人種として劣等であり、その解放の提唱はすぐに実現される見込みのない理想にすぎないと考えていた。奴隷をただちに解放せよと主張する新聞論説に応えて、リンカーンはこう書いている。「もし奴隷を解放せずに北軍を救えるのならそうするだろう。また、もし奴隷を全員解放することで北軍が救えるのなら解放するだろう。そして、もし奴隷を一部だけ解放して他をそのままにしておくことで北軍を救えるなら、そうもするだろう(7)」。1863年1月1日の奴隷解放宣言の布告は、道徳的信念によるものではなく、内戦に勝つための戦略の一環であった。
アメリカが(19世紀半ばのイギリスほど明瞭ではないながら)貿易を自由化し、自由貿易の旗手となるのは、産業上の優位を確立した第二次世界大戦後になってからだ。ここでもまた、F・リストの見立ての正しさが証明される。南北戦争の英雄で1868年から76年まで大統領となったユリシーズ・グラントの次の言葉にも、その後の変化の予兆を見てとることができる。「イギリスは何世紀もの間、保護貿易に依拠し、これを徹底的に推進し、満足のいく結果を引き出してきた。2世紀後、もはや保護貿易から得るものはないと考えたイギリスは、自由貿易を採用する方が都合がいいと考えた。そこでだ、紳士諸君、わが国についての私の所見から言えば、アメリカもまた200年以内に保護貿易から得るものはなくなり、自由貿易を採用するようになるだろう(8)」
同様のことは他の先進国の歴史にも言える。より先を行く諸国に追いつこうとしていた時代、ほとんどの国が関税保護や補助金などの措置による自国産業育成策をとった。興味をそそることに、関税保護を最も積極的に使ったのはフランス、ドイツ、日本のように国家介入主義的とされる諸国ではなく、自由貿易の牙城とみなされているイギリスやアメリカであった。19世紀から20世紀初めまでの関税率は、フランスやドイツでは相対的に低く(15%から20%)、日本では不平等条約のあった1911年まで最大5%にとどまっていた。同じ時期、工業製品に対するアメリカとイギリスの関税率は平均40%から50%のレベルにあった。
こうした歴史に当てはまらない唯一の例外がスイスとオランダである。ただしこれらの国は、18世紀の時点で技術先進国となっていたため、強力な保護策を必要としなかった。また、オランダが17世紀まで様々な介入政策を展開して、貿易および海洋上の優位を築こうとしたことも指摘しておく。スイスの場合、1907年まで特許法が存在しなかった。この事実は、現在の主流派が論ずる知的所有権保護の重要性を一笑に付すものだ。さらに興味深いことに、オランダは1817年の特許法を1869年に廃止している。特許というのは国家によって作られる独占であり、自由市場の原理にそぐわないとの理由からだ。こうした考え方は、WTOの知的財産権の貿易関連の側面に関する協定(TRIPS)を支持する自由貿易主義の経済学者たちには見受けられないように思われる。オランダが新たに特許法を設けたのは1912年のことである。
関税保護は、多くの国にとって発展戦略上の重要な要素ではあったものの、唯一の要素でも必ずしも最重要な要素でもなかった。輸出補助金、輸出産業が必要とする輸入品に対する関税の緩和、独占の付与、企業カルテル、政策的融資、投資や労働力の計画的利用、研究開発の支援、官民協力推進機構の奨励など、数々の手段が用いられてきた。これらの措置は第二次世界大戦後に日本や他の東アジア諸国によって生み出されたと思われがちだが、その多くには長い歴史がある。さらに、先進諸国では同じ原則を共有するとはいえ、貿易分野と産業分野のポリシー・ミックスはきわめて多彩である。自由貿易主義の経済学者の大半が信じるところとは反対に、産業発展のモデルは一種類に限られないのだ。
 
自由化時代の経済成長
今日の先進国が過去に保護主義政策をとっていたことを知るごく少数の学者によれば、そうした政策は好ましい効果をいくらか(ほんのわずか)もたらしたかもしれないが、グローバル化された現代の世界では有害になっている。貿易自由化が進められた最近20年間の経済成長率を見れば、自由貿易が優れていることがよくわかるという。先進国が保護主義政策をとっていた過去数十年間に比べて経済成長率が高かったというのだが、彼らにとっては残念なことに、これは事実とかけ離れている。
もし自由貿易にそれほど効果があるのなら、貿易の自由化措置が進められた最近20年間の成長率はそれ以前より高いはずである。しかし、事実がどうだったかと言うと、保護や規制が今よりも多かった1960年代から70年代にかけ、世界経済は現在よりずっと速いペースで成長していたのだ。世界の一人当たり所得は、この「昔の悪い時代」には年3%程度の割合で増えていったが、この20年間の成長率は2.3%にすぎなかった。一人当たり所得の成長率を1960-80年と1980-99年で比べると、先進国では3.2%から2.2%に下がり、途上国では3%から1.5%に半減した。この20年間の平均成長率については、自由主義の処方箋に従ったとはとても言えない中国とインドの高成長を除外すれば、さらに低くなっていただろう。
その上、この数字は過去20年間に多くの途上国を襲った危機の深刻さを十分に伝えていない。この間、中南米では、1960-80年には3.1%あった一人当たり所得の成長率が0.6%のゼロ成長にまで落ち込んだ。同様の急下降は、中東・北アフリカにも(年間2.5%からマイナス0.2%へ)、サハラ以南のアフリカにも(年間2%からマイナス0.7%へ)起こった。旧共産主義国の多くは資本主義の導入を始めて以来、現代史に類がないほど急激な生活水準の低下を見た。
端的に言って、過去20年における新自由主義の実験は、急速な成長という最大の約束を果たすことができなかった。だが、公平性から環境まで他のすべてを犠牲にすることを求められたのは、そのためだったはずだ。この惨憺たる失敗にもかかわらず、自由貿易の美徳という新自由主義の教義は、中世ヨーロッパの法王庁ぐらいしか比べるもののないほどの規模と権力を備えた経済的、政治的、思想的装置のおかげで、今なお圧倒的な力を保っている。
新自由主義者たちは、アメリカやイギリスを筆頭に大きな影響力を持つ先進国の政府を掌握しており、それを通じて多国間機関、中でも「三位一体」のIMF、世界銀行、WTOの政治的な問題設定に甚大な影響を及ぼすことができる。彼らは世界中の主要メディアを意のままに左右することで、悲惨な成長率をはじめとする不都合な情報を小さく見せ、場合によっては握りつぶしてきた。世界中の有名大学の経済学部で重要なポストを占める彼らは、反対派の経済学者がそこに入り込んで大学の名声を利用したりしないようにと目を光らせている。
途上国では新自由主義の締め付けがさらにひどい。多くの途上国政府はIMF、世界銀行、また主要融資国からの資金援助なしでは立ちゆかず、たとえそれが経済依存の元凶にある開発危機を引き延ばすだけにしかならなくても、彼らの政策に従わざるを得ない。また、この政策に関しては、一次産品の輸出業者や外国企業相手の専門サービス業者など、現地にも強力な利益集団がある。途上国の知識人は主流派に挑戦する自信を失っているため、現状に代わる政策の提案はますます出にくくなっている。向こう側に寝返る知識人もいる。IMFや世界銀行の顧問料が、途上国の大学教員の給料の数年分になることを考えれば、それも不思議ではない。
このように政治的および知的な問題設定を支配する新自由主義者にとって、彼らを批判する者たちは、長期的な万人の富裕化のための短期的な不平等の創出を恐れる小心な軟弱者にすぎない。さらに言えば、現在の事態を理解できない経済音痴でしかない。こんなふうにして、真剣な議論は回避され、反対派は組織的に無視され、新自由主義の支配が強化されてきた。
 
WTOの二つの道
以上をふまえると、自由貿易の将来はどうなるだろうか。自由貿易主義者が言うこととは反対に、生産力に大きな差がある国の間で自由貿易を行えば、貧しい国は短期的には輸出市場が拡大するという利益を得るが、長期的には生産性の低い分野に釘付けになって発展を阻害されてしまうと考えられる理論的根拠がある。18世紀のウォルポールやハミルトンから1960-70年代の日本や韓国の官僚まで、自分たちの先を行く国に追いつこうとしていた国々で自由貿易路線をとろうとしなかった政策決定者は、このことをよく知っていた。
生産力に大きな差がある国の間で結ばれる自由貿易協定は、やがて貧しい国の方がそれでは発展につながらないことに気付くため、長期的には失敗することになる。加盟国の多くが途上国である南米南部共同市場(メルコスル)や東南アジア諸国連合(ASEAN)など(9)、発展レベルがほぼ同じ国々の間で結ばれる自由貿易協定の方が、ジョージ・W・ブッシュがなんとしても推進しようとする米州自由貿易圏(FTAA)より成功する可能性が高い。F・リストは、ドイツ関税同盟を支持しながら「幼稚産業」の保護を唱えることに、まったく矛盾を感じていなかった。ドイツ諸邦の発展レベルは十分に接近していると考えたからである。
発展レベルに大きな差がある国の間の自由貿易協定がうまくいく唯一の方法は、欧州連合(EU)のように、豊かな国から貧しい国への富の移転が制度化され、貧しい国から先進地域へ労働力が移動するタイプの統合である。これが実際に可能になるのは、貧困国が小規模で、富裕国に比べて少数の場合に限られる。さもなければ、富裕国は協定を結んでも割に合わないと感じることだろう。EUの拡大がトルコやウクライナの手前で終わる見込みが高いのも、こうした理由による。
WTOは途上国の産業に関して一定の保護を認めており、完全な自由貿易協定となるには至っていない。しかしながら、2015年までにすべての関税を撤廃するというアメリカの提案のように、大きな関税引き下げ圧力が働いている。もしそうした方向に動けば、WTOはNAFTAやFTAA以上に途上国の発展を妨げるものとなるだろう。これらの協定にもまして加盟国の生産力の差が大きいからだ。
この機構は従来の自由貿易協定と比べ、知的所有権、政府調達、投資など、従来の自由貿易協定よりもはるかに広い分野にわたっている。そのため、途上国にとって危険も増えている。それでも、途上国の多くはWTOへの加盟を望んでいる。WTOは理論上は一国一票制をとっているため、国際貿易体制の運営に自分たちの意見を反映させることができると考えられ、次善の選択とみなされているからだ。また、アメリカをはじめとする先進国からの貿易自由化に向けた二国間協議を求める圧力に対し、WTOによって最低限の保護が得られるという利点もある。
WTOの実態に対する途上国の不満を考えれば、こうした状況は長続きしないかもしれない。表向きは「民主的」とされるWTOは、実際には一握りの先進国によって運営されている。先進国には弱小国をなだめたり脅したりする裏の力があるというだけではない。それなら、力に差がある者から構成される民主制にはよく見られることだ。WTOの問題は、先進国が見せかけすら取り繕おうとしていないことである。例えば、いわゆる「グリーン・ルーム」の会合には途上国は出席を求められず、中に入ろうとすればドアの前で制止される。
もしこんなふうに途上国から経済発展の手段を奪い続けるなら、彼らが大挙してWTOを脱退する可能性もある。あるいは逆に、WTOの民主的な決定手続きを最大限に利用して、基本事項の再交渉を迫るかもしれない。その場合には、近年とみに単独主義の傾向を深めているアメリカをはじめとする大国は、投票で負ける前に脱退することを選ぶかもしれない。どちらに転ぶにせよ、これまでの自由貿易体制は終わりを迎えることになるだろう。しかし、過去20年間の嘆かわしい成果からすれば、それは必ずしも不幸なことではあるまい。

(1)『ロビンソン・クルーソー』の作者ダニエル・デフォーは、現在ではほとんど忘れられている書物『イギリス経済の構図』(1728年)の中で、チューダー朝、特にヘンリー7世(在位1485-1509年)やエリザベス1世(在位1558-1603年)が国家の計画的な介入を通じて、長らくオランダへの原毛の輸出に甘んじていたイギリスを世界一の毛織物大国に作り替えた経緯を記述している。
(2) 一連の穀物法は地主階級の後押しにより、産業資本家や都市ブルジョワ層の反対にもかかわらず、1815年に議会で可決され、大陸からの穀物輸入に高率の関税をかけた。
(3) Charles Kindleberger, << Germany's Overtaking of England, 1806 to 1914 >>, in Economic Response : Comparative Studies in Trade, Finance and Growth, Harvard University Press, Cambridge, Massachusetts, 1978.
(4) Paul Bairoch, Economics and World History - Myths and Paradoxes, Wheatsheaf, Brighton, 1993.
(5) Ibid.
(6) ヘンリー・クレイは1817年創設のアメリカ植民地委員会の幹部で、解放奴隷のための国をアフリカに作ることを発案した。1820年に始まる西アフリカ共和国に新たに付けられた「リベリア」の名はここに由来する。
(7) John Garraty and Mark Carnes, The American Nation. A History of the United States, 10th edition, Addison Wesley Longman, New-York, 2000.
(8) Ibid.
(9) メルコスルにはアルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、そしてウルグアイの4カ国が加盟している。ASEAN自由貿易協定にはブルネイ、カンボジア、インドネシア、ラオス、マレーシア、ミャンマー(ビルマ)、フィリピン、シンガポール、タイ、ヴェトナムの10カ国が参加している。この中でシンガポールだけが真の先進国で、ブルネイの富はひとえに石油による。
(2003/6)  

 

 

ナショナリズム
 
 
 
 

 


 
2016/11