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瓜生島伝説
 
  
辛いことばかりでしょうが
頑張ってください
 
 
 
 
 
 
 
社会人なりたて 仕事で熊本へ行った
早く終わらせ お城見物をと思っていた
叶わず 駅からお城を見て帰ってきたことがある

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
悲しみを紛らわそうとしても
晴らしようが無い 切ない

 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
  

 
2016/4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

瓜生島伝説
『昔、別府湾に瓜生島という島があった。島の神社には木彫りの蛭子(エビス)様を祀っており、「島民が一人でも仲違いをすれば島中の神仏の怒りに触れ島は海中に沈む。そのときには蛭子様の顔が真っ赤になる」という言い伝えがあった。だから島の人々は信心を深く仲良く暮らしていた。
しかし文禄5年、加藤良斎という医者が「そんな言い伝えは迷信である」として、蛭子様の顔を丹粉で真っ赤に塗ってしまった。島民がこのことを憂えていると、やがて改元があり、はたして1ヶ月後の慶長元年から地震が頻発するようになった。そして白馬に乗った老人が現れ、「今すぐに逃げよ」と触れ回った直後、巨大な地震と大津波が起き、島は何一つ残さず海に沈んでしまった。』
これがいわゆる「瓜生島伝説」ですね。TVアニメの『まんが日本昔ばなし』の1エピソードとして、「瓜生島とえびすさま」という題で放映されていますので、ご存知の方も多いと思われます。ただし、アニメの中では蛭子様の顔を塗るのは、大人の医者ではなく、悪太郎という島の鼻つまみ者の少年になっていました。この瓜生島ですが、さまざまな謎を秘めていて、「日本のアトランティス」と言われたりもします。
さて、どのような謎があるかというと、まず、この昔話は真実か?ということですが、それはさすがにありえないですよね。この話にはさまざまなバリエーションがあって、島民の恋物語がからんだバーションも存在しますし、他県にも類似の話が点在しています。京極夏彦氏が『後巷説百物語 赤えいの魚』で取り上げていましたが、舞台は秋田県の男鹿半島沖になっていました。(ただし秋田県の伝承としてはないようですので、京極氏が話を改変したんでしょう。)
これ、元ネタは中国の古書からきていまして、『捜神記』などの書物に、実際に湖に沈んだとされる中国の町の話が載っています。その町に住む信心深い老婆が毎日城門を見にくる。不審に思って問いただした役人が「この門が赤くなると町が沈む」という老婆の話を聞き、イタズラ心を起こして門を犬の血で塗ると、直後に町が本当に沈んでしまったという。これが翻案され、日本の『今昔物語集』では、門が卒塔婆に変わっていました。瓜生島が沈んだとされるはるか以前から存在する話なんですね。前に「うつろ舟」の項で書いたように、日本の説話、古伝承には、元が中国の話であったものがたくさんあるのです。
次、この地震はあったのか? これはあったようです。1596年、関ヶ原の戦いの数年前のことですが、『理科年表』には別府湾直下型の地震で、マグニチュード7.0。津波は高さ4mで、湾内2kmにわたって被害を受けたとなっています。これは当時日本に来ていたルイス・フロイスなどの外国人も書き残しており、間違いのない事実として地質学的な調査でも裏付けられています。
では、瓜生島はあったのか? ここが最も謎な部分で、諸説が入り乱れているのですが、そもそも「瓜生島」という地名が出てくるのは、この地震から100年以上後の書物なんですね。1699年の『豊府聞書』という本なんですが、現存せず、その写本と思われる『豊府記聞』というのに出てきます。その他の後代の情報も加えると、瓜生島は大分市の沖合500mほどの別府湾内にあり、周囲12kmほどの島で人口5000人程度。町の通りは3筋もあり、上記の蛭子神社の他、寺院や島津家の居館も置かれたということになっています。地震のときには島の8割が流失し、犠牲者は708人。島の領主は被災者に衣服や米、金銭などを与えた・・・
ここまで詳しく書かれているのですから、実際に島があったと思いたいところです。下に載せたように詳細な地図まで存在しているのです・・・が、それにしても、それほど栄えていたのなら、地震の100年後に書かれた書物以前に、瓜生島の名前が出てこないのは、どう考えても不自然です。それと、後代の書物には「瓜生島は沖ノ浜とも呼ばれていた」というただし書きが出てくるのです。
では沖ノ浜はあったのか? これは間違いなくありました。前述のルイス・フロイスがイエズス会に送った書簡には、「沖ノ浜はたくさんの船で賑わっており、秀吉の船が徴税のために来ていた。」などと出ています。また、同じイエズス会のフランシスコ・ザビエルは、この沖ノ浜の地で宿泊もしているんです。それと、地震で沖ノ浜が被害を受けて以後も、その地に住んでいた人が移住した場所が沖ノ浜町としてずっと残っていたようです。沖ノ浜はポルトガル船も来航する当時、東九州一の港だったんですね。
この沖ノ浜が瓜生島であったのは間違いないところでしょう。では、沖ノ浜は島であったのか? これについては地質学的な調査は否定的です。海底は深く、島があったとは考えられない。ただし、海底斜面に土砂が厚く堆積した跡が見つかりました。これは島ではなく、陸地部分が崩壊したものと見てよいようです。
とすれば、沖ノ浜は海岸から続く砂州のような地形ではなかったかと思われます。それが別府湾直下型の地震と津波により、地盤の液状化現象が起き、崩れるようにして海に飲み込まれていった・・・どうやらこのあたりが真相ではないかと考えられるんですね。
さてさて、自分なんかは瓜生島の実在ということより、伝承がどう変化していったかのほうに、より興味があります。これは一種のミームなんだと思います。この手の話というのは、より大げさに、そしてよりロマンのある方向へと、話が伝わっていく過程で改変されていくものです。100年後の資料にはじめて「島」として出てくるのは、ほぼ往時を知る関係者がいなくなる時期でもあります。海岸沿いの砂州地形が流されたというより、たいへんに栄えていた島が、一夜にして沈んだとするほうが、伝承としてドラマチックですよね。さらに、中国の古伝承が実際にあった蛭子神社の話としてつけ加えられた、ということなんでしょう。  
瓜生島 (うりゅうじま)
大分県の別府湾に位置していたが、安土桃山時代に1日にして沈んだとされている島である。別名、沖の浜(おきのはま)。
伝説や昔話を基にすると、瓜生島は大分市から400-500m沖の別府湾内にあり、島の周囲は約112km、人口約5千人と推定されている。伝承によれば、島にあった恵美須像の顔を不心得者が赤く塗った為、祟りで島が沈んだとされる。
瓜生島という名称が最初に使われたと言われるのが、1699年の戸倉貞則『豊府聞書』である。同書及びその写本または異本とされる『豊府紀聞』によれば、瓜生島は1596年9月4日(文禄5年閏7月12日)の地震(慶長豊後地震)によって沈んだとされている。この地震については、ルイス・フロイスが、「九州にある太閤の海港が地震によって被害を受けた」と言及している。この地震は実際に起きたものである事が現在迄の研究で判明しており、震源地は別府湾南東部で、マグニチュード7.0程度の地震が起きたものと推測されている。
沖の浜については、寛永13年(1636年)ごろに成立したとみられる『徒然草嫌(もどき)評判』に、南海にあった沈島「万里が瀬」の記述のあとに「日本にも秀吉公いまだ御存生なるうちに、豊後沖の浜といへる海津、にはかに沈海と成て数百人死ける。遥なる岡に有ける楠の大木、沖に成て、近年まで潮の干ける時には木末見えし」という記述がある。
現在、大分市勢家町には「瓜生山威徳寺」という寺院が存在するが、『豊後国志』によればこの寺院は大友氏19代当主大友義長の弟大友義正が永正10年(1513年)に瓜生島に開いたもので、沈没後に現在地に再建されたものと伝えられる。
実在したかどうかについては諸説あり、島があったとされる場所は湾の最深位置であるとして存在を否定する説、島ではなく半島だったのではないかとする説、別府市または大分市にあたる位置にあった村だったとする説など、研究者によって見解が分かれている。また、村だったとする説のひとつとして、実在した沖の浜という港町が地震で海没し、後世に瓜生島という別名が付けられたとする説もある。
別府湾内には、瓜生島の隣に久光島という島があって、瓜生島と共に沈んだとされる。また、日本国内では、高麗島(長崎県五島列島)や万里ヶ島(鹿児島県甑島列島)に関して、瓜生島とほとんど同じ沈没伝説が伝わっている。
一夜にして沈んだ共通点を持つことから、日本のアトランティスと称されることもある。 
「瀬」
河川の中で、流れが速く水深が浅い場所のことを指す。(淵の対義語) / 海流の流れ。潮流。海峡のような場所。 / 立場。場所。機会。折(おり)。
川などの流れが浅く歩いて渡れる所。浅瀬。「瀬を渡る」 / 川の流れの急な所。また、海水の流れ。潮流。「瀬を下る」「潮瀬」 / 物事に出あうとき。機会。「身をすててこそ浮かぶ瀬もあれ」「逢 (お) う瀬」 / 置かれている立場。「立つ瀬がない」 / そのような点。ふし。「かへりて面だたしげなるを、うれしき―もまじりて、大臣 (おとど) は御涙のいとまなし」 / 場所。ところ。「聞かずともここを―にせむ時鳥 (ほととぎす) 山田の原の杉の群立ち」
通常河川は淵と瀬が交互に並んでいる場合が多い。更に詳しく分ければ、上流から淵、とろ、平瀬(ザラ瀬)、早瀬(荒瀬)の順に並びそれを繰り返す。平瀬とは、川底にある石が半分程度あるいはほとんど砂に埋もれ、水面が多少波立つこともあるが水底まで見通すことができる所をいう。一方で早瀬とは、底の石が砂利に埋もれず重なり合い、表面が白く泡立っている場所をいう。後者の方が流れは激しいためこの名がある。一般的に上流よりも下流は淵、瀬ともに長くなりその形も異なる。上流では滝のように落ち込むこともあり、一つの蛇行区間に複数の淵と瀬がある。一方、中流や下流では1組の瀬と淵しかない場合が多い。この場合、流れが曲がる場所に淵が、直線部分に瀬が位置する。[3]下流では泡立たないこともある。
浅瀬(あさせ) / 逢瀬(おうせ) / 急瀬(きゅうせ) / 迅瀬(じんらい) / 石瀬(せきらい) / 早瀬(はやせ) / 川瀬(かわせ) / 河瀬(ごのせ、かわせ)
瀬戸(せと) / 瀬戸際(せとぎわ) / 瀬脇(せわき)
「瀬」 流れが速く浅い場所
「瀬」は、さんずいへんが付いた水に関係する語で、川の流れに由来しています。国土交通省の「河川用語集」を見ると、「流れが速く浅い場所を瀬、その前後で流れが緩やかで深いところを淵と呼びます」とあります。瀬と淵は、対義語というわけです。水の流れは、場所の断面積が狭ければ速くなり、広く深い場所では緩やかになります。流れが速いのが「瀬」ですが、「浅瀬」ならば、人は立って渡れることもあります。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」。急流にのまれ、もう助からないと思い定めた末、流れに身を任せていれば、思いがけず浅瀬にかかって命拾いすることもあることをいいます。「瀬」は、身を捨てて見いだす起死回生の活路や場所ということになります。逆に、「立つ瀬がない」というと、安心して立てる浅瀬がない、拠って立つ場所や立場がないことを言います。
「逢瀬」 人目をしのんで会う
「瀬」の字をよく見るのは「瀬戸内」でしょうか。この「瀬戸」は、陸地や山にはさまれ狭くなっている海峡や谷、川の瀬の幅が狭い所です。語源辞典によると、古くは「狭門(せと)=狭い門」と書いたようです。「瀬戸際」となると、狭い海峡と外海の境のこと。流れが速く、波も変わりやすくて、船のかじ取りを誤れば命にかかわる分岐点です。そこから、成功するか否かの分かれ目のことを言います。男女が人目をしのんで会う機会のことは、「逢瀬(おうせ)」といいます。逢瀬はもともと、川の流れの出合いを指す言葉。公然と会えないからこそ、貴重な時間で、過ぎるのが速く感じられるのでしょう。平安時代の崇徳院(1119〜64)の短歌「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢(あ)はむとぞ思ふ」も、流れの速い川にたとえて未来の逢瀬をうたっています。鴨長明(1155?〜1216)は「ゆく川の流れは絶えずして……」と、川の流れに時と世の流れを重ね合わせました。このように、「瀬」の流れの速さは、時の流れの速さを連想させます。「年の瀬」は、一年最後の一番忙しい時期を呼ぶ言い方として使われるようになりました。
「年の瀬」 借金清算の日
江戸時代、大みそかは、つけ払いが多かった庶民にとって、盆と並ぶ借金清算の最大の攻防の日でした。井原西鶴(1642〜93)の「日本永代蔵」には、「借銭の淵をわたり付(つけ)て、幾度(いくたび)か年の瀬越(せごし)をしたる人のいへり」と、危うい思いをして年末を乗り切った人が語る場面があります。年末のこの清算期が「年の瀬」と言った時期だったようです。しかし、後ろに「迫る」「近づく」などの言葉が付くことで、「年の瀬」が使える期間がより広くなったようです。ちなみに、「迫る」も「狭い」に通じていて、空間や時間の隔たりが小さくなり、時期や期限が近づくという意味があります。NHK放送文化研究所によれば、年の瀬が「押し迫る」は年末が近づいていることを指し、「押し詰まる」ならさらに年末(12月末)が間近になったことを指すとして、放送で使い分けているそうです。いろいろな問題が山積みだった今年も暮れてゆきます。清算せずに将来に「つけ」を回しても、一歩踏み外せば「淵」に落ちる、危うい「瀬」にいる状態に違いありません。
「遣る瀬ない」
憂い・悲しみを紛らわそうとしても、晴らしどころが無(くて、せつな)い。 / 思いを晴らすすべがない。せつない。 / 施すすべがない。どうしようもない。 / 気持ちに余裕がない。
「瀬踏み」
川を渡る前に瀬が浅いか深いか、あらかじめ調べてみること。 / ある物事をする前に、ちょっと試してみること。
「切ない」
切ないとは、寂しさや悲しみなどで胸がしめつけられるさま。つらくやるせない気持ち。
切ないの「切」は、心が切れるほどの思いを意味し、「切なる思い」や「切に願う」など、「親身なさま」を表す言葉としても用いられる。「切ない(せつなし)」は、元々「大切に思う」といったポジティブな意味も表し、広い意味で「切実な気持ち」をさす言葉として使われていたが、時代とともにネガティブな意味のみで使われるようになった。
「折」(おり) 
物事を行うにあたって丁度よい時点のこと / ちょうどよい時期 ・ 好機 ・ チャンス ・ ナイスタイミング ・ グッドタイミング ・ グッドチャンス ・ よい時期 ・ 絶好の機会 ・ よい機会 ・ 二度とない機会 ・ またとない機会 ・ ちょうどよいタイミング ・ ベストタイミング ・ ベストのタイミング ・ ちょうどいい頃あい ・ 絶好のチャンス ・ ベストなタイミング ・ 絶好のタイミング ・ 最高の機会 ・ 時機 ・ 狙いどころ ・ 狙い目 ・ 期待できる点 ・ 絶好のチャンス ・ 最大の機会 ・ 最高のチャンス ・ 最大のチャンス ・ ジャストなタイミング ・ ぴったりのタイミング ・ 丁度 ・ ぴったり ・ 頃合い ・ おり ・ いい折 ・ いい機会 ・ 絶好機 ・ 絶好のタイミング ・ 間 ・ 潮時 ・ 適当な時機