ドラマ作りの端境期

農家の居間に5、6人が座る
「あさが来た」 の一場面 ふと見る

話から 十代から五十代の家族の会話場面
俳優の顔 皆どうみても二十から三十代
セリフの口調 化粧 衣装 違和感を感じる

俳優 裏方さん 監督も素人


 
 
 
役柄年齢を感じさせる しゃべり口調があるはず
音程 抑揚 間のとり方 一本調子
合間に 方言と標準語が入り混じる
 
役柄年齢を思わせる 化粧があるはず
俳優の張りのある肌ばかり目立つ 
年代に合わせて かつらの白いものを増やすだけではすまない
 
裕福な農家か
シャキッとした綺麗な野良着
 
高い視聴率
視聴者も些細なことに拘らない 素人
私が老人

 
2016/4
 
 
広岡浅子
旧字:廣岡淺子。嘉永2年-大正8年(1849-1919)は、日本の実業家、教育者、社会運動家。ペンネームは九転十起生(きゅうてんじっきせい)。明治を代表する女性実業家であり、豪気・英明な天性から「一代の女傑」と称えられた。
生い立ち
山城国京都(現・京都府京都市)・油小路通出水の小石川三井家六代当主・三井高益の四女として生まれる。幼名は照。幼い頃より裁縫や茶の湯、生け花、琴の稽古などよりも、四書五経の素読など学問に強い興味を持つが、「女に教育は不要」という当時の商家の慣習は固く、家人から読書を禁じられる。9歳で父親が没し、35歳の高喜が家長となる。
17歳(数え年、以下同様)で鴻池善右衛門と並ぶ大坂の豪商であった加島屋の第8代広岡久右衛門正饒(まさあつ)の次男・広岡信五郎と結婚。嫁いだ後も、主人は手代に任せて業務に関与しない商家の風習に疑問と限界を感じ、簿記や算術などを独学するようになる。
20歳で明治維新の動乱を迎え、家運の傾いた加島屋を救うため実業界に身を投じ、夭逝した正饒の長男に代わり加島屋当主となった第9代広岡久右衛門正秋(信五郎の弟)、夫の広岡信五郎と共に、加島屋の立て直しに奔走する。
明治の女性実業家として
1884年(明治17年)頃から炭鉱事業に参画。筑豊の潤野炭鉱(福岡県飯塚市、後の製鐵所二瀬炭鉱)を買収、開発に着手。単身炭鉱に乗り込み、護身用のピストルを懐に坑夫らと起き伏しを共にしたと伝えられている。男もためらうような冒険的事業に敢えて乗り出したので、しばしば狂人扱いされたという。
1888年(明治21年)に加島銀行を設立。続いて1902年(明治35年)に大同生命創業に参画するなど、加島屋は近代的な金融企業として大阪の有力な財閥となる。これらの活躍により、広岡浅子は鈴木よね、峰島喜代子(尾張屋銀行、峰島合資会社の経営者)らと並び明治の代表的な女性実業家として名を馳せる。
女子高等教育機関設立に尽力
土倉庄三郎の紹介により、1896年(明治29年)、梅花女学校の校長であった成瀬仁蔵の訪問を受け、成瀬の著書である「女子教育」を手渡される。幼い頃に学問を禁じられた体験を持つ浅子は 「女子教育」に大いに共感し、金銭の寄付のみならず、成瀬と行動を共にして政財界の有力者に協力を呼びかけるなど、強力な援助者となる。広岡家、実家の三井家一門に働きかけ、三井家から目白台の土地を寄付させるに至り、1901年(明治34年)の日本女子大学校(現・ 日本女子大学)設立に導く。日本女子大学校の発起人の一人であり、創立当初の評議員となる。また夫(廣岡信五郎)は女子大学校の創立委員の一人である。
キリスト教と女子教育に貢献
開講3年目となる1904年(明治37年)、夫(信五郎)の死去を機に事業を娘婿の広岡恵三(大同生命第2代社長)に譲る。以後は女子教育や婦人事業に貢献することを是とし、社会貢献事業と自身の学問に専念、長井長義らに学ぶ傍らで愛国婦人会大阪支部授産事業の中心的人物としても活動した。
1909年(明治42年)1月に大学病院において胸部の悪性腫瘍手術を受け回復。同年年末に大阪の菊池侃二宅で宮川牧師と知り合い、同席者の成瀬から宗教哲学を勧められた縁で1911年(明治44年)に宮川経輝より受洗。 婦人運動や廃娼運動にも参加し、当時発行が相次いでいた女性雑誌に多数の論説を寄せる。「女性の第二の天性は猜忌、嫉妬、偏狭、虚栄、わがまま、愚痴であり、西洋婦人は宗教により霊的修養をしている」とし、宮川による 「心霊の覚醒」や自らの宗教的信条を記した「一週一信」を出版して日本のキリスト教化に励んだ。日本YWCA中央委員、大阪YWCA創立準備委員長を務めた。
日本女子大学設立後も浅子の女子教育に対する情熱は衰えることがなく、1914年(大正3年)から死の前年(1918年)までの毎夏、避暑地として別荘を建設した御殿場・二の岡で若い女性を集めた合宿勉強会を主宰。参加者には若き日の市川房枝や村岡花子らがいた。このころ東京芝材木町、現在の六本木ヒルズ、ハリウッドビューティプラザのところに親戚の建築家ヴォーリスの設計で4階だての家を建てている。
1919年(大正8年)、腎臓炎のため東京・麻布材木町(現・六本木6丁目)の別邸にて死去。「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」と、遺言を残さなかったと言われる。生前から「(子孫には)不動産で資産を残してやりたい」と各地に別邸・別荘を積極的に建築していた。葬儀は東京と大阪で2度行なわれ、浅子の功績を称え、日本女子大学校では同年6月28日に全校を挙げて追悼会を開催した。 
「あさが来た」
2015年度下半期放送のNHK「連続テレビ小説」作品である。放送期間平均視聴率は関東地方で23.5%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)となり、2002年前期放送の 「さくら」の23.3%を超え、連続テレビ小説としては今世紀最高の視聴率を記録した。
ヒロイン・白岡あさのモデルは大阪を拠点に活動した実業家の広岡浅子で、その生涯を描いた古川智映子の「小説 土佐堀川」を原案とし、大森美香が脚本を手掛ける。広岡浅子は、京都の豪商小石川三井家の三井高益の四女に生まれ、大阪の豪商加島屋一族の広岡信五郎に嫁ぎ、幕末から大正の、日本人の女性が表舞台に出ることがなかった時代に、企業経営者として、銀行、生命保険会社、さらには女子大学を日本で初めて作る、女性起業家のパイオニアとして知られた。
物語は、朝ドラではもっとも古い年代となる安政4年(西暦1857年)から始まり、様々な困難を乗り越えて成長するあさと、その家族らを通して、社会に貢献するさまを描くとしている。
タイトルの「あさが来た」は、「あさ(朝)が来ると新しい世界が始まる、そんな社会を明るくするようなドラマにしたい」という思いが込められている。なお、同作品は激動の時代を生き抜いた夫婦愛を描くため、実話の人物・企業・団体名などを改名して大幅に脚色し、フィクションとして制作される。
ヒロインの人選は「マッサン」と同様に、17歳から33歳までと事実上の年齢制限を設けた公募オーディションが行われ、2015年3月12日、NHK大阪放送局での記者会見で波瑠に決定したと発表された(応募2590人)。
2015年4月23日には出演者発表会見が大阪局で行われ、5月15日に京都の松竹撮影所でクランクインした。江戸時代後期の豪商の娘を演じるため、クランクイン前から波留や宮崎をはじめ子役も、所作や箏、そろばん、習字などを練習して撮影に臨んだ。また、ヒロインあさ愛用のそろばん・パチパチはんも準備され、6月2日に大阪局でスタジオ撮影がスタートし、同局スタジオに、朝ドラ史上最も裕福な家に生まれた設定のヒロイン「あさ」の実家・今井家などの豪華セットや、炭坑のセット、銀行のセットなどを設けて撮影された。
 
前編 / 九転び十起き
1901年(明治34年)、女性実業家・白岡あさは、自身が創立した「日の出女子大学」の入学式での壇上で、女性に学問を推奨する祝辞を述べていた。
遡ること1861年(文久元年)、呉服屋と両替屋を営む京都の豪商・今井家の次女・あさは、お転婆で好奇心旺盛な11歳の少女だった。ある日、女ゆえに学問を許されないことや親同士で結婚を決められることに不満を持ったあさは、父に猛反発し押入れに閉じこもる。そんなあさに対して許婚の白岡新次郎は、ゆっくり考えた上で将来を決めるよう諭し彼女が興味を寄せていたそろばんを贈る。さらに婚約の経緯を母から聞かされ、当初抱いていた新次郎への悪印象や不安な気持ちは次第に変化していく。やがて父からそろばんの手習いを許されその才能を発揮、いつしか店の番頭たちが目を見張るまでに上達していく。
時は流れ1865年(慶応元年)、15歳に成長したあさは相変わらずお転婆で、両親や付き人たちを悩ませていたが、同年春に姉・はつと、それぞれ祝言を挙げることが決まる。しかし久々に面会に現れた許婚・眉山惣兵衛は冷淡で義母となる菊からは威圧され、はつは気丈に振る舞うのとは裏腹に結婚への不安が増していく。一方、あさを定期的に訪ねていた新次郎は、あさに恋文を送ったのを最後に連絡を断つ。音沙汰無くあさが不安を募らせていた頃、新次郎は重篤の兄に心を痛めていた。祝言予定日の目前になって新次郎と彼の父・正吉が今井家を訪れ、兄の急逝により祝言の延期を申し出る。こうしてはつの祝言から半年後に、あさも白岡家に嫁入りするが、新次郎は道楽に興じて家に寄り付かず、さらに女は家業・加野屋に関われないなど制約が多く、新生活になかなか馴染めない。しかし店の人々とは次第に仲良くなり、内緒で経営について教えてもらう。また店に貸付を強要した新選組に立ちはだかり返済の約束を交わしたあさは、その日より新次郎に大人の女性と認められ床を共にするようになる。
新次郎の協力を得て加野屋の現状を知ったあさは、以前出会った武士・五代才助から聞いた「世の中が変わる」との言葉を気にして正吉に大名への貸付の回収を提案するが、長年の信用を理由に却下され経営を委ねるようにたしなめられる。しかしさらに詳しく調べて食い下がり1件のみ取り立てを許されたあさは、一部金ながらも回収に成功して功績を認められ、以後取り立てに出回るようになる。そんな時、新政府は倒幕の軍資金十万両の貸付を加野屋に要請し、さらに銀目停止の通達により困惑した人々が店に押しかける。それらの対処を終えた時には店の資金は底をつき、あさは借金を申し込みに奈良の豪商・玉利友信を訪ねる。当初は貸付を渋っていた玉利だが、新たに事業を始めて返済すると約束したあさに将来性を見込み、無利子で資金を貸す。
一方はつは、外出や外部との面会、手紙のやり取りを菊に禁じられ、逆らうと蔵に閉じ込められる仕打ちを受けていた。やがて婚家の家業・山王寺屋も窮地に陥り、はつは菊に命じられて惣兵衛とともに実家に借金を申し込むが、返済の目処が無いことから断られる。
1868年(明治元年)、時代の変化をなんとか乗り切った加野屋の様子が落ち着き始め、あさははつを心配して山王寺屋を訪ねるが、店は廃業し夜逃げ後であった。あさは粗末な長屋に暮らす眉山一家を見つけるが、はつから冷たく追い返される。後日再び失踪し、あさはひどく落ち込むが、五代に勧められるまま大阪商人の寄り合いに出席したことを機に商売への興味がさらに増し勉強に打ち込む。一方、新次郎は百姓の納屋を間借りし農作業をする眉山一家を探し出すが、はつに口止めされたため、あさには内緒で通い支援をする。しかし、あさに怪しまれて仕方なく打ち明ける。こうして再会したあさとはつは、互いに近況を話し、はつが家を守るために頑張る様子を見たあさは安堵する。
新次郎の話であさが新たな商売として石炭に着目した頃、はつの妊娠が判明するが、惣兵衛が突如姿をくらます。あさは加野屋を支えるために、炭坑経営を切願するが、資金不足や現場が遠距離であることから反対される。それでも鉱山買収方法を思案するあさを、義母・よのは快く思わず、さらに子宝に恵まれないことから、新次郎に妾を持たせようと考える。よのの考えを知り気落ちしたあさは、1871年(明治4年)、正吉から炭坑経営の心得として夫と仕事との選択を迫られ、不本意ながら新次郎に妾を取るよう願い出るが、新次郎はあさを愛するゆえに拒否する。その頃、炭坑主の未亡人・櫛田そえが加野屋を訪ねてくる。直接対面してあさの思いを知り協力的な義父を見た櫛田は、加野屋に「蔵野炭坑」を譲ることを決める。こうしてあさは、新次郎にも背中を押され、1872年(明治5年)、炭坑がある九州・筑前へと旅立つ。
あさは九州の炭坑に到着するが、坑夫たちは「女の下で働く」ことを拒絶し働こうとしない。彼らと話し合ううちにもみ合いとなり、転倒した際に、五代から「お守り代わり」にと持たされた拳銃が懐から落ち暴発する。坑夫の妻たちは、あさが拳銃で脅迫していると誤解し、坑夫たちも仕方なく働くことを決めるが、心配して炭坑を訪れた新次郎は、あさには武器は似合わないと優しく諭す。翌日、坑夫たちに拳銃を盾にした言動を謝罪し、国の未来を支える石炭を採る彼らを讃えるが、それでも納得いかない坑夫相手に相撲を挑む。彼らの代表として支配人・宮部と勝負をすることになり、結果、あさが勝利する。以来、坑夫たちはあさに信頼を置き働くようになる。その頃、長男・藍之助が誕生し1年経ったはつは、五代からの情報を受けて賭博場で惣兵衛を発見する。はつを不幸にしたと自責する惣兵衛であったが、彼女に説得されて帰宅する。
九州の炭坑から大阪へ戻ろうとした矢先、祖父・忠政の危篤の知らせを受け、京都の実家へ直行する。親族で祖父の最期を看取った後、今井家は政府の勧めで銀行開設に向けて、東京移転の準備を進める。はつの境遇に心を痛める母・梨江は、今井家には不要となった和歌山の土地の権利書をはつに渡す。当初は頑なに拒んでいたはつだったが、はつ夫婦を信じ応援する貸付だとあさから説得されて権利書を受け取る。今井家が東京へ旅立った後、あさは正吉に銀行開設の相談を持ちかけるが、今はその時ではないとたしなめられる。坑夫やその家族が夢を持てるようにと労働の改革を進めようとするあさだったが、納屋頭たちの反対を受けて難航する。新次郎と会えない日々が続く寂しさを押し殺し、寝る間を惜しんで炭坑を手伝いながら納屋頭たちの説得を続けるうちに、やがて多くの納屋頭の賛同を得て改革を実行する。炭坑の人々から感謝されるが夫を差し置いて働く姿勢を叱責される。
一方惣兵衛は、はつから土地の譲渡を聞き、現地・和歌山を視察してみかん農業を始めることを決意する。当初反対していた菊も、家族の説得に折れる。そして白岡家の計らいであさとの時間を過ごしたはつは、翌早朝、一家で和歌山へと旅立って行く。
その後も大阪と九州を行き来するうちに妊娠が判明するが、反抗的な態度をとる納屋頭・サトシの動向が気になり炭坑に留まり続ける。しかし、つわりで体調を崩し、迎えに来た新次郎とうめに連れられ大阪に帰る。そして長女・千代が誕生する。親子で穏やかな日々を送る中、炭坑で落盤事故が起きたと知らせが届き、あさは千代を新次郎に託して五代とともに急ぎ現場に駆けつける。事故ではなく何者かが故意に起こした事件だと五代は推理するが、結果は事故として処理される。事故後の現場復興はあさ一人の力ではどうにもならないと判断した正吉は、炭坑に大番頭・雁助を差し向ける。実は、サトシは加野屋から独立した元大番頭の息子・松造で、雁助と対面後に突如炭坑から姿を消す。大阪のあさと新次郎の前に現れた松造は、加野屋を恨み落盤事故を首謀したことなどを自白するが、あさからは叱責され、さらに病床の正吉から謝罪され、父の思い出話を聞いて、加野屋とのわだかまりも解けて、警察へ出頭する。
その後、正吉は他界し、あさは炭坑運営のために再び大阪と九州を往復する日々を送る。1878年(明治11年)、あさは五代の誘いを受け、文明開化を確かめるために初めて東京へ行く。そこで五代から、友人で内務卿の大久保利通を紹介される。銀行を開業した父とアメリカ留学から帰国した弟とも再会し、また、あさが感銘を受けた書「学問のすゝめ」の著者・福沢諭吉と偶然出会う。帰阪間際に大久保が暗殺されたことを知って急遽五代の元を訪ね、大久保に代わり五代の心の友となることを誓う。 
 
後編 / 文明開化
1879年(明治12年)、女中・ふゆは、新次郎への恋心を胸に秘めたまま、父親が決めた縁談を受け入れようとする一方で、自身が新次郎の妾候補だったことを知り複雑な思いを抱く。新次郎と出かけた帰り道に思いを告白するが失恋。傷心で涙するふゆの元に駆けつけた亀助は優しく寄り添い慰める。結局この出来事が原因で、縁談は破談となるが、亀助に求婚され彼との結婚を決める。祝言を終えた亀助とふゆは、加野炭坑で新たな生活を始める。
1880年(明治13年)、榮三郎はさちと結婚し、よのは大奥様、さちは若奥さん、あさは奥さんと呼ばれるようになる。1881年(明治14年)、加野炭坑の借金もようやく返し終わりあさは銀行設立を願望したが、雁助の反対と五代の助言もありひとまず銀行設立は保留して新しい炭坑を買う。
あさと美和、新次郎と五代はそれぞれ友情を育てていくが、仕事をしない新次郎と仕事に忙しいあさは、娘の千代の「なんでだす(どうして普通の家と違うのか)」に戸惑う。その頃、五代が計画していた「北海道の官有物払い下げ」は官民癒着であるという新聞記事が載り、五代は世間から「悪徳商人」と呼ばれ大阪商人たちから非難を浴びる事態になる。しかし、新次郎と榮三郎の機転で五代の疑いは晴れ、大阪の繁栄のために生涯尽くすと誓った五代だったが、病に冒され始めていた。
新しく買った炭坑が当たって、あさは次々と九州の炭坑を買い進め、加野炭坑は大きくなっていった。榮三郎と雁助が話し合った結果、ついに3年後に加野銀行を設立することを決定する。いよいよ両替屋の加野屋がなくなることが決まって、雁助は店を去ることを考え、雁助と心を通わせるうめも思い悩み、2人の仲を知るあさも鬱々とする。
五代の助言もあって、銀行の頭取に榮三郎、その他の会社の社長は新次郎が務めることになる。その五代は、病を押して精力的に働いていたが病が悪化し、東京で療養生活に入って1か月後の、1885年(明治18年)9月に他界する。
3年後の加野銀行の設立を目指す加野屋は、元大蔵省会計監査院で働いていた山崎平十郎を雇い入れる。その翌年、はつが藍之助と菊とともに、10年ぶりに加野屋を訪れる。あさとはつは子育てのことなどを話し合い、藍之助は店の商売に興味津々で、千代ははつの優しさに触れて戸惑う。
銀行のことに詳しい山崎のおかげで銀行開設の準備も順調に進む。そんな時、今井家の東京の祝賀会で会った伊藤博文に、銀行の神様と呼ばれる渋沢栄一に会うことを勧められる。銀行開業の準備が進む中、あさと新次郎は渋沢にも会い、1888年(明治21年)、あさはこの日のために後藤屋で誂えた洋装で加野銀行開業の日を迎え、雁助は「お母様の働く姿をよく見ておくように」と千代に言い残して独りで加野屋を去って行く。
加野銀行創業から3年後の1891年(明治24年)、加野銀行は大阪で10本の指に入るほど大きく成長し、商事部門の加野商店も順調で、榮三郎とさちにも女の子が誕生し近くに新居を構え、新次郎は尼崎の阪神紡績の初代社長に就任する。精力的に働くあさだったが、千代との関係だけはうまくいかなかった。
実力有る女性に対して、進路がまだまだ開かれていない現状を知ったあさは、日本初の女性銀行員の募集をかけ、4人の女性を雇うことになる。あさと新次郎が千代の進路について考えていたある日、和歌山から藍之助が働かせてほしいと家出をして来る。数日、加野銀行で丁稚奉公をして喜びを感じていた藍之助だったが、あさの知らせで迎えに来たはつとよのの説得によって、心を残しながら和歌山に帰って行く。
千代が京都の女学校へ進学し寄宿舎生活に入った後のある日、新次郎の提案で、あさと新次郎は初めて2人だけの旅で、はつのいる和歌山へ行く。はつや惣兵衛たちのもてなしを受けて寛いだ時間を過ごすあさと新次郎だったが、村の世話役・倉掛の話で、みかん農業の厳しさも知る。その後の眉山一家の話し合いで、3年の期限付きで藍之助は再び加野銀行で働くことになる。
女性行員たちや加野銀行の評判が上がる中、要注意客の一人・成澤泉があさに面談を求める。成澤から日本初の女子大学校設立に向けての協力を求めらて即座に断るが、彼から渡された女子教育についての論文を読んで感涙し、支援に乗り出す。女子大学設立に30万円の資金がかかると見積もったあさは、加野銀行から融資しようとするが、山崎の反対と成澤の希望により、有志者の寄付で賄うこととなる。あさは東京の教育者・大隈重信を訪ねるなど、寄付金を集めるために奔走するが、銀行の顧客の金を女子大学設立資金に回していると噂が立ち、取引をやめる客が大勢いると、榮三郎と山崎から苦言される。
その頃千代は、加野炭坑の落盤事故は子育てのために帰阪したことが原因と、あさが公言していたと知り、複雑な思いを抱く。帰省した千代は、あさとの会話を試みるが後回しにされ、複雑な思いから苛立ちをぶつけて大喧嘩になる。直後、あさは恨みを持つ客・萬谷に包丁で刺されて生死を彷徨うが、奇跡的に命を取り留める。
病床のあさは、新婚当時や千代が産まれて間も無い時のことを千代に話す。子育てをした時間が今でも宝というあさの言葉で千代の誤解は解け、母娘は心を通わせる。後日、萬屋の逮捕を知ったあさは、彼の心情を推し量らなかった自身の対応を反省し、情状酌量を懇願する。
はつ夫妻や亀助など、入院中のあさを見舞いに様々な人々が訪れる。大隈の妻・綾子は女子大学設立賛同者の署名を集めて見舞いに訪れ、有志の妻たちもあさの活動に心動かされたことを伝えて励まし、最後まであさを支えることを誓う。数か月後にあさは退院し、通院しながら治療に努める。
一方、眉山家では菊が、山王寺屋復活は不可能と知らされ動揺する。転倒して骨折し病床に就いた菊は、はつの看病を受けるもしだいに衰弱し、家族に看取られながら息を引き取る。眉山家に弔問に訪れたあさは、はつや養之助やうめと共に、体調がすぐれないと聞いた東京の両親のもとを訪れる。重体の母・梨江は、ほどなくして家族に見守られながら息を引き取る。あさは、妻の葬儀に参列出来ないほどに衰弱した父・忠興から、幼少時に学問を禁じたことを詫びられ、女子大学設立に役立ててほしいと目白の今井家別荘地の寄付を申し出される。
1896年(明治29年)春、千代は京都白川高等女学校を卒業し花嫁修業を始める。同じく卒業した千代の親友・田村宜は、あさの秘書見習いとなる。そんな折雁助の妻・ツネから、雁助が仕事中に負傷したとの知らせが届く。
雁助が倒れたことが原因で工場経営が傾きかけ、ツネは榮三郎に借金を申し込む。雁助が意識を取り戻して借金話は取り消されるが、この事に因り、榮三郎は加野屋の第三事業として生命保険業への進出を決める。同じ頃、みかん農業を継ぐことを宣言したはつ・惣兵衛夫妻の次男・養之助は20歳を迎え、幼馴染・節と祝言を挙げるが、直後に新兵証書が届く。そして、養之助不在による家業の人手不足を心配して連れ戻しに来た祖父・栄達に応じ、藍之助は加野銀行を辞め和歌山へ帰って行く。
千代は、あさの入院先の病院で出会った青年・東柳啓介を忘れらない日々を送っていたが、二度と会うことはないと思っていたそんなある日、啓介が旅行ついでに加野銀行を訪ねて来て千代と再会を果たす。2人の様子を見たよのは、千代と啓介の縁談を膳立てしようと考える。よのから話を聞いたあさは、綾子を通じて東柳家に縁談を申し込むが、見合いの日取りが具体化する中、突如啓介から辞退の返事が来る。よのは、悲しむ千代に心を痛めて体調を崩しながらも、謝罪にやって来た啓介に考え直すようすがり頼む。また、あさと新次郎は、官吏として国を動かすことが夢と語る啓介に対し、政府を辞め事業で国を動かした五代についての思い出話をする。それから半年後、啓介は千代との結婚を胸に白岡家を訪れる。千代とともに喜んだよのは、2週間後に静かに息を引き取る。
あさは近々不況が来ると危惧して、優良企業に成長した加野炭坑を売却する。女子大学設立運動は、創設地を忠興から譲渡された東京・目白の土地に決定し、成澤は発起人大会を開催する。あさは、反対者からの抗議や嫌がらせにも動じず支援に奮闘し続け、1901年(明治34年)、当初の目標入学者数100名を上回る180名の入学者を受け入れ、いよいよ日本初の女子大学校・日の出女子大学が創立する。そしてあさの予感が当たり、「大阪恐慌」が始まった。
預金の支払いを停止したり倒産する銀行が出てくる中、加野銀行は預金者への支払いを敢行する。さらに生命保険の重要性に着目したあさはこれを機に生命保険事業の合併・拡大を提案し、加野生命は2社の生命保険会社と合併して淀川生命となる。日本政府の救済融資により大阪恐慌は収束し、加野銀行の預金は増え続け、また淀川生命も飛躍的に契約数を伸ばす。
千代が無事祝言を終えた頃、体調の急変により病の床に就いた惣兵衛は、家族を集めて自身の人生について言い遺した後に静かに息を引き取る。一方、白岡家では千代夫婦に長女が誕生する。そして、新次郎の身体の異変に気付いたあさは、病院へ行くよう懇願する。
あさは、余命幾許もないと診断された新次郎との時間を過ごすため、実業家を引退する。夫婦で穏やかな日々を送る中、平塚明ら日の出女子大学の学生3人があさと対面するため大阪にやって来る。あさに対する不服を述べた明は、逆に褒められて唖然とするが、あさを超える女性になると心に誓う。
最初の卒業生を送り出した日の出女子大学は、財団法人になることが決まる。卒業生の一人の宣は教授就任を見通して欧米への留学を予定し、加野銀行を結婚退職した元女性行員のサカエは、夫から女子大学進学を認められる。こうして、あさの思いが実になってきたことを知った新次郎は、突然倒れ危篤に陥る。そして榮三郎、千代、亀助に思いの全てを伝えた後、あさに「いつもそばにいる」と言い遺してこの世を去る。
新次郎の葬儀ののち四十九日で、あさははつと語り合う。その中で、互いに家を守ってきたことを称え合い、はつは孫の面倒を見ながら家を守り続けること、あさは女性たちの教育支援を続けたいと述べる。
6年後、熱心に勉強を続けるあさは、別荘で年1回女性のための勉強会を開くことを決める。勉強会の第1回目、家族の女性たちと宣と成澤を集めての講義を終えたあさは、遠方に新次郎の姿を見かける。新次郎の元に駆けつけるうちに若い姿になったあさは、満開の菜の花畑で彼と再会して抱き合い、互いに微笑み合うのであった。