張り手 かち上げ 横綱の品格

相撲もスポーツ 勝たねばならない

とは言いながら
日本文化の 一つの価値観の上にある あってほしい
横綱が毎日 「張り手」「かち上げ」では
何となく 気持ちが離れる

関取 誰か白鵬の顔を 思い切り張ってあげてください


 
 
 
相撲は日本の文化
神代に始まる
 
 
 
 
 
横綱
一番強い関取 風格 品格
 
 
 
品格などと 言いたくありませんが
横綱らしさって何 考えてしまいます
 
 
 
 
 
 
張り手 かち上げ
格闘技です
白鵬に張り負けない関取 でてきてください
 
 

 
2016/3
 
張り手
突っ張りが平手で相手を突いて押すための技であるのに対し、張り手は平手を横に振って相手の顔や首の側面を叩く技である。いわゆるビンタのような「手首のスナップを利用し、表面的なダメージを狙う」というものではなく、実際には掌の付け根部分ごと相手にぶつける掌底打ちに近い性質を併せ持っている。
出合い頭に一発当たるだけで相手を倒してしまう威力を持つものもあり、この場合の決まり手は突き倒しと発表されることが多い。興奮して互いに冷静さを欠いた状態になった場合、張り手の応酬となる場合もある。ただし突きや突っ張りが相手の体の芯へ向けられ相手を押す役割を担うのに対して、張り手はそのような意味を持たない。そのために顔への張り手を透かされると、体勢が浮くうえに脇が開いてしまい相手に潜り込まれる場合があり、一気に不利になる。
なお、両掌で両耳を同時に張るのは禁じ手である(相撲規則禁手反則第1条4項)。ただし、片掌で片耳を張る分には禁手ではないのか、両掌でも耳でなく頬を張るのは認められるのか、判然としない条文になっている。また、女子相撲では顔への張り手そのものが禁止されている。 
張り差し
立合いで立った直後に一度張っておいて、相手が怯んだ隙に自分の有利な差し手に持ち込むことを張り差し(はりさし)という。張り差しを得意にする力士も多いが、猫騙しと同様に正攻法とは見做さず多用すべきではないと苦言を呈する者もいる。格下の力士が横綱相手に張り差しを繰り出すのは暗黙の了解としてタブー視されるが、大関時代の三重ノ海が横綱に張り差しを繰り出し、後に横綱昇進を果たした例もある。大関日馬富士の横綱昇進の際には、「張り差しなんかはしない方がいい。横綱は横綱の自覚を持って張り手は慎んでほしい」との苦言を呈された。かつて横審の委員長に就任していた鶴田卓彦は場所の取組がNHKで放映されていることから相撲普及の観点に立って「子どもも見ている。教育上よくない」と批判した。 
かち上げ
かち上げは相手の体を起こすことや相手をぐらつかせること、相手を後退させることや相手の肩に当たることで差し手を取る隙を作るなどの目的で使用され、本質的に突き押しの技術である。突き押し(特にぶちかまし)に適性のある力士がこれを得意とする場合が多い。横綱では北の湖、朝青龍が得意としていた。朝青龍の場合は相手を失神させる目的で使うことがままあったため、本質から外れた用途であるという意味で、批判を浴びる機会が多かった。大関では雅山が若手時代に右肩の瘤を活かして多用していたものの、右肩の遊離軟骨を除去したことをきっかけに、瘤が消えて使うことが無くなっていった。高見盛は学生時代にかち上げを得意としていたが、大相撲入門直後に兄弟子から取り口の修正を求められたことで、大相撲では結局使わず仕舞いであった。 
相撲の起源
相撲は人間の闘争本能の発露である力くらべや取っ組み合いから発生した伝統あるスポーツである。これによく似た形態のスポーツは古来世界各地で行われた。我が国の相撲の起源としては、古事記(712年)や日本書紀(720年)の中にある力くらべの神話や、宿禰(すくね)・蹶速(けはや)の天覧勝負の伝説があげられる。相撲はその年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として、毎年行われてきた。これが後に宮廷の行事となり300年続くことなる。
鎌倉時代から戦国時代にかけては武士の時代。武士の戦闘の訓練として盛んに相撲が行われた。織田信長は深く相撲を愛好し、元亀・天正年間(1570〜92年)に近江の安土城などで各地から力士を集めて上覧相撲を催し、勝ち抜いた者を家臣として召し抱えた。
江戸時代に入ると浪人や力自慢の者の中から、相撲を職業とする人たちが現れ、全国で勧進相撲が行われるようになり、江戸時代中期には定期的に相撲が興行されるようになった。やがて谷風、小野川、雷電の3大強豪力士が出現し、将軍上覧相撲も行われ相撲の人気は急速に高まり、今日の大相撲の基礎が確立されるに至った。相撲は歌舞伎と並んで一般庶民の娯楽として大きな要素をなすようになった。  
相撲節会(すまひのせちえ) 1
奈良・平安時代にかけて行われた宮中の年中行事。射礼や騎射(後に競馬)と並んで「三度節」とも呼ばれた。
記紀にも相撲に関する記事が多く見られ、相撲自体は古くから行われていることは確実であるが、相撲節会の最古の記録は『宮中行事秘事』などに伝えられる聖武天皇の神亀3年(726年)に諸国より相撲人(今日の力士)が貢進されというものであると考えられている。これは正史の『続日本紀』には載っていないものの、2年後の神亀5年4月25日(728年6月5日)条に騎射・相撲に参加する者の貢進の停滞に関する記事があること、更に同書養老3年7月4日(719年7月25日)条に相撲司の前身であるとされる抜出司設置の記事が見られることからこの前後の成立であると考えられている。
天平年間に入ると、七夕の節会と融合して7月7日に行われるようになった。平安時代には相撲司と呼ばれる親王を別当とした臨時の役職が設置されるようになった。だが、天長元年7月7日(824年8月5日)に平城上皇が崩御したのを機に節会が7月16日に期日変更されてからは次第に衰微した。後に光孝天皇が相撲を奨励するなど再興の動きも見られたが、平安時代中期以後は相撲召合と呼ばれて規模が縮小されるようになり、近衛府が事実上の主催するようになった。保元3年(1158年)と承安4年7月27日(1174年8月26日)に散発的に行われたのを最後に廃絶することになった。
相撲人は本来、近衛府・兵衛府の官人及び白生(見習い)が中心で諸国から貢進された相撲人がこれを補う形であったが、後に諸国からの貢進で賄われる様になり、抜手(優勝者)は近衛府・兵衛府などで採用されたり、帰国後、在庁官人などに登用されたりした。なお、諸国に対して中央から相撲人貢進を促すために派遣された使者を相撲使と呼称した。 
相撲節 2
日本の史書に「相撲」という文字が最初に出てくるのは、「日本書紀」雄略天皇13年(469) 9月の記事である。
韋那部真根という木工の達人がいて、石を土台にして斧で木を削っていた。その達人は日がな一日削っても、斧の刃を欠くことがなかった。 天皇がそこに御幸して、韋那部真根に(怪訝そうに)聞いてみる。「どんなときも間違って石にぶつけることはないのか」と。韋那部真根は「絶対にありません」と答えた。 天皇は、采女を呼び集め、衣裙を脱がせて犢鼻をつけさせ、人の見ているところで「相撲(すまひ)とらしむ」(日本書紀・敬語の助動詞がないのは、 いくら天皇の行為でも感心できぬ場合を記す際には敬語をつけないという語法が平安時代にあるためという)。 案の定韋那部真根はそれを見ながら木を削り、ついつい誤って刃を破損してしまった。 天皇はこれを責め、「不逞の輩め、軽々しくも豪語しよって」と、物部(刑吏)に委ねて処刑させようとした。 この時、同僚の工匠が「あたらしき 韋那部の工匠(たくみ) 懸けし墨縄 其(し)が無けば 誰か懸けむよ あたら墨縄」と歌ってその才能を惜しむ。 天皇がこの歌を聞き、後悔して刑を止めて許した。
ここに出てくる相撲は「女相撲」であるが、この記事の主題は相撲そのものではない。見るべきは、「褌一丁」の恰好であろう。 但しこのことは、前々項での話題に関連することであるので、これ以上は触れない。
史実と思われる相撲記事のはじめは、皇極天皇元年(642) 7月22日のものである。
百済からやってきた大佐平智積という使者を宮廷にて饗応したが、その際、健児(宮廷を守る軍人)に下命があり、翹岐(在河内の百済王族)の前で相撲が行われた。 宴の後、智積らは翹岐の門前において拝礼した。
翹岐のために行われた相撲であろうという。翹岐は前々月に子を失っているが、智積らの拝礼を併せ考えると、 この相撲と葬送に関する百済の習俗との間に何らかの関係があることが想像されるという。 さらに下って天武天皇11年(682) 7月 3日には、「隼人、多に来て、方物を貢れり。是の日に、大隅の隼人と阿多の隼人と、朝庭に相撲る。大隅の隼人勝ちぬ」なる記事があり、 また、持統天皇 9年(695) 5月21日に、「隼人の相撲とるを西の槻の下に観る」とある。日本書紀がカバーしているのはここまでで、 以降は続日本紀の範疇になる。養老 3年(719) 7月 4日に「初めて抜出司(ぬきでのつかさ)を置く」という記事が出てくる。 抜出司は、後の相撲司に当たり、健児のうちから膂力に優れ相撲技に熟達した若者を選ぶ係であり、その若者を監督・指導する立場でもある、とされる。 朝廷内において相撲の制度が整えられつつあった証左と考えられる(だが、「抜出司」の史料は何もないので、これが後の「相撲司」であるという明確な根拠はないといっていいとの由。 この解釈は村尾元融「続日本紀考証」(嘉永 2年(1849)稿)以来のものという)。
次いで神亀 5年(728) 4月25日には、聖武天皇がこんな詔を出した。
如聞らく、「諸の国郡司ら、部下に騎射・相撲と膂力者と有らば、輙ち王公・卿相の宅に給る」ときく。 詔有りて捜り索むるに、人の進るべき無し。今より以後、更に然ること得ざれ。若し違ふこと有らば、国司は、位記を追ひ奪ひて仍ち見任を解け。 郡司は、先づ決罰を加へて勅に准へて解き却けよ。その誂ひ求むる者は、違勅の罪を以て罪なへ。 但し、先に帳内・資人に充てたる者はこの限りに在らず。凡そ此の如き色の人等は、国・郡預め知りて、意を存きて簡ひ点し、勅至る日に臨みて即時貢進れ。 内外に告げて咸く知せ聞かしめべし。
要するに、相撲人を何がなんでも差し出せ、さもなくば国司・郡司には刑罰が待っている、という内容である。 このきついお達しを裏づけるかの如き記事が「万葉集巻第五」にある。天平 2年(730)のもので、「相撲部領使(すまひことりづかひ)」なるものが出てくる。 「部領(ことり)」は「事執り」の意で、相撲人を各地から徴発して召し出すための使者、簡単に言えばスカウトである。 この時代の部領使は相撲人以外のものを召集する場合にも派遣された。 そして天平 6年(734) 7月 7日の条に至って、いよいよこの記述を目にすることになる。
秋七月丙寅、天皇、相撲の戯を観す。是の夕、南苑に徙り御しまして、文人に命せて、七夕の詩を賦せしめたまふ。禄賜ふこと差有り。
漸くここまで辿りついたという感がある。これが記録の上で確実な「相撲節開催」の最初である。 制度としてはこの時には整っていたと考えられる所以である。
さて、抑も相撲節というものは何のためのものなのか。あっさり記せば、「「相撲節会」とは国家安泰と五穀豊穣を祈った大規模な平安時代の天覧相撲」(「大相撲」平成 6年12月号「再現・平安朝相撲節会」写真解説文)、 「古来相撲には服属儀礼や、攘災に関係する要素があり、宮中では攘災や国家安泰を祈願し、武術の鍛練とともに娯楽の目的で相撲を行い、天覧に供し宴を賜う慣行があった」(新日本古典文学大系「続日本紀(二)」)、 「朝廷行事としての相撲節の源流は、農耕儀礼と服属儀礼の二つの側面に求められるのが常である」(「相撲の歴史」新田一郎著)となる。
まずは「農耕儀礼」の面から見る。相撲に限ったことでなく、何か競技を行い(場合によっては競技ではなく天気による)、その結果によって農事の豊凶を占う「年占(としうら)」なる行事が、農事の節目ごとに行われる。 大別すると、二集団による争いに勝った側が豊作の「予祝(前祝い)」を受けられるというものと、 精霊(田の神、乃至は水の神)と争い(争うふりをして)、予定通りの結果を演ずる事によって豊作の「予祝」を受けるというものとがあるという。 また、後者の場合において、多くは子供が演ずるのであるが、子供は「精霊と人との中間的存在」すなわち媒(なかだち)として、精霊の意向(つまり農事の豊凶)を聞く役を負っていた。 「田の神水の神との交信を、格闘を通して行うことにより、豊凶を占う」、この時に行われる格闘が「日本の相撲」の一種の原型(地域ごとに異なることが想像されるが)であろうと考えられている。 (変形として「ガラッパ相撲」というものがある。「相撲」昭和57年11月号参照。また、その他祭礼相撲に関しては「相撲」昭和57年「ふるさとの祭りに相撲がある」12回連載(翌58年 1月に総まとめ)がある)。 ここで、「垂仁天皇 7年 7月 7日」「天平 6年 7月 7日」という日附を見る。 7月 7日といえば、七夕である。 「オリヒメヒコボシ」と別に、「七日盆(なぬかぼん)」という精霊をお迎えする日でもあった。 民俗学的に種々の議論がなされているもののようであるが、兎も角ここで「 7月 7日」を接点として「農耕儀礼」と「服属儀礼」とが接続するのである。 日本書紀の記事は、 7月 7日という日附で相撲節と農耕儀礼を繋ぎ、天皇への服属をも併せて表現するという意図に則ったものと解される(そのようなことは読めないとする論者もある)。
「服属儀礼」の方は、例の垂仁天皇 7年 7月 7日の記事からも読めるが、上に出した隼人相撲の例でも推察できる。 殊に持統天皇 9年の記事に出る「西の槻の下(=法興寺の槻の下(「日本書紀巻第二十四」皇極天皇 3年正月 1日条))」なる場所について、「この木の下の広場では、種々の行事が行われた。 大化改新の際、天皇・皇祖母尊・皇太子はここに群臣を召集し、皇室、群臣の一心同体の誓を行い(大化元年 6月19日条)、壬申の乱の際、近江方の使穂積臣百足は軍営とし(天武元年 6月29日条)、 後にここで殺された。また天武 6年 2月、多禰島人を、持統 2年12月、蝦夷をここで饗した」(岩波文庫「日本書紀(四)」)という説明があることから、 隼人の相撲が服属儀礼として技芸を天皇に奉仕したものであろうことが考えられるのである。
とどのつまり、「相撲節」の基本的な目標とでもいうべきものは、各地で異なると想像される「相撲の原型」を搗き交ぜ洗練し、一つの「相撲」に収束させることと、 諸国の相撲人に天皇の御前で技芸を奉仕させることにより、天皇への服従を改めて確認することにあった、ということになる。
相撲節の内容は、「儀式(朝廷における儀式を細目に亙って規定したもの)」や「内裏式(嵯峨天皇が編纂させた勅撰儀式解説書の嚆矢。弘仁12年(821)の成立)」に事細かに規定されている。 当初は 7月 7日のみだったが、弘仁年中より 7月 8日までの 2日間となったと伝わる。 「式」や「江家次第」によれば、まずは場内の整備から始まり、神泉苑の閣庭を掃き清めて砂を敷き、殿の上に規定通りに座を設け幕を張る。 場内整備が終わると、天皇の臨席の許、上は皇太子から下は六位以下まで、これまた規定の通り神泉苑に参入して着座する。 そして楽を奏しながら官人から相撲人まで 300人余りの隊列が入場する。壮麗を極めるが、その入場順は「儀式」に「次立合者各二人」の如く「次…」が繰り返されるという煩瑣なもので、書き切れない。 そして子供の占手相撲から取組が始まり、合計20番(近衛・兵衛17番、白丁 2番、小童 1番・左右対抗)行われる。また、「御饌并に群臣の饌等」(内裏式(中))もある。 明くる 8日は、場所が変わって紫宸殿で行われる。親王以下参議まで、また、三位が召される(全官人が参列するわけではない)。相撲は20番(近衛10番、白丁10番)である。
相撲節の 1ヶ月前ぐらいに相撲司が任命される。中納言・参議・侍従の中から左右12人ずつが選ばれ、また、別当(総監督)として、多くは親王がこれに当たる。 相撲人は相撲を見せることで天皇に奉仕し、こちら親王・臣下は儀式の運営面で天皇に奉仕する。 奉仕のしっ放しではなく、天皇の側は饗宴によって応えることになる。この応酬が前項に言う「天皇への服従を改めて確認する」ためのシステムであった。
さて、神亀 5年(728)に態々前出のような詔が出された理由として考えられるのは、「軍事力」の増強であろう。 後、天長10年(833) 5月に、
「相撲の節は娯游に止まらず、武力を簡択する寔に其中に在り、宜く越前、加賀、能登、佐渡、上野、下野、甲斐、相模、武蔵、上総、下総、安房、諸国に令し、膂力人を捜索して之を貢せしめよ」
という勅令が仁明天皇から出た。「相撲節は娯楽のためだけではなく、武力の足しになるような者を選んでおるのだ」というから、 「膂力人」を衛士・健児として徴用しようとしたものであろう。
相撲人の構成は、衛士・健児として衛府に属する者と、新規に諸国より勧められた者(白丁)とに分かれる。 最手(相撲人の最高位者)から近衛番長に登用されたことも多い。スカウトであるところの「相撲部領使(すまひことりづかひ)」、または「相撲使(すまひのつかひ・略称と考えられる)」は、 2〜 3月に任命されて各地に派遣され、相撲人を「部領(ことり)」し、 1ヶ月前ぐらいに京に入ることになっていた。 相撲人には多くの特権が用意されていたが、その多くが農民の出であり、農繁期に召し出されることから、 逃亡や遅刻が間々あり、挙句には取っ捕まって投獄されたケースもある。また、相撲人の選出は国司・郡司の責任であるから、国司・郡司への処罰もあった。 逆に、屈指の強豪を取るべく左右の近衛府が争い、白河上皇の裁断を仰ぐ破目に陥ったことすらあったが、これは珍しいことで、 やはり相撲人の貢進は遅々として進まないのが実情、幾度となく勅令によって「進んで貢進せよ」と促した。 しかし、人材が届いてこないばかりか、弱々しくて使い物にならない「相撲人」が来てしまうことまであったというからたまったものではない。 面白いことに、訴えの為に京にやってきた百姓や、京にいる者などのうち「これは使えそうだ」という者、 つまり、なりがでかくて力がありそうな素人を相撲人にしてしまうこともよくあった。
さて、「西宮記(源高明著の有職故実書)」「北山抄(藤原公任著の有職故実書)」「江家次第(大江匡房が記した儀式記録)」を検討することにより最近指摘されたこと(大日方克己氏)として、 相撲節の性格が 9世紀末辺りから変容を見せ始めたということがある。相撲司の編成・設置がなくなり、代わって左右の近衛府内に相撲所を置いて相撲節を司らしめたこと、 「占手相撲」が廃絶したことが変化の特徴として挙げられ、また貞観10年(868) 6月28日に、それまで式部省が管轄していたのが兵部省管轄に改められ、 それより早く 8世紀後半には式場も神泉苑から紫宸殿などの内裏に移り、略式の儀式になってしまった。 初日に17番程の取組を中心とした儀式(「召合」)が行われ、 2日目は「追相撲(お好み勝負)」「抜出(トーナメント)」といった特別取組が行われる。 加えて期日も変動があり、文武天皇(697〜 707)の頃に 7月 7日と決められたと伝わり(証跡なし)、ずっと守られてきたのが、 天長 3年(826)平城天皇の命日のためという理由(「国忌(こき)を避ける」)で 7月16日に移され、30年ほどは 7月半ばに行われてきたが貞観年中(859〜77)からは 7月下旬となり、 7月が大の月の場合28〜29日、小の月の場合27〜28日に原則として行われるようになった。追い討ちをかけるようなできごとが長元 4年(1031)に発生する。 この年 7月は大の月である。しかし28日は陰陽道でいう忌日の一つ(「坎(かん)」)であった。議論の末、右近衛大将藤原実輔は、 定例通りの期日で可ならんか、という当初の意見を変え、相撲召合は「臨時の小儀」ゆえ期日変更は構わず、節会に準ずべきものならず(節会は重大な国家の年中行事ゆえ期日は固定される)、とした。 このため、期日は29〜30日とされ、忌日を避けた。遂に「相撲節」は「臨時の小儀」にまで格下げされた意識しか持たれなくなったのである。 窺われることは、例の「七夕」における農耕儀礼との関連が意識されなくなったことと、 「服属儀礼」の意識も喪われたこと、つまり単純な娯楽のための一行事となったことである。
また、12世紀になると、相撲人のうちに世襲された者が見られるようになってきた。 承安 4年(1174)、最後の相撲節の際には、「世襲相撲人」の家柄の者が登用された相撲人の大部分を占めたという(そこに登場する者が、姓を変えて記されているという。 相撲人が低い地位の者として見られていたことの証ではないかと推測されている)。 それに、同じく12世紀の相撲人には高齢者が見られるという。「世襲」と一緒に考えると、「格闘」の部分は薄れ、 この時期に至って「技芸」としての、様式化した相撲がおおよそ成立し演ぜられたものと考えられる。
以下、相撲節の内容を略述する。
2〜 3月頃に相撲使が定められ、差し遣わされた相撲使は相撲人を従えて帰京する。 相撲人の貢進期限は、当初は 6月20日となっていたが、弘仁元年(810) 7月 9日の詔で「見つけ次第期日に関係なく進めよ」と改められた。 また、陽成天皇の元慶 8年(884)に出た詔では 6月25日と改められたものの、その後この期限は守られていないようだ。
相撲司が編成される場合は節の 1ヶ月ほど前である。これは既述の通り。 7月10日前後には「召仰」がある。これは相撲を行うべしとの勅を上卿が受け、これを左右近衛府の中将以下に伝えるものである。 その後左右の近衛府に相撲所が設けられ、楽などの打ち合わせも行われる(楽や舞は忌日や月蝕などのため行われないこともあった)。
稽古も始まる。稽古は「内取」と呼ばれ、左右の近衛府で行う稽古を「府の内取」という。各近衛府毎別々に行い、互いの様子は秘せられていたらしい。 その後、稽古を天覧に供する。これは「御前の内取」という。これも左の後に右が行ったともいう。この稽古を見て実力を測り、当日の序列や取組を決定するのである。
そして、召合当日を迎える。天覧・大臣以下列席の許、相撲が行われる。この相撲の(現代から見ての)特徴は、 まず、土俵等の境界線がないことである。つまり、相手の手を着かせる、膝を着かせる、或は何とかして倒すということによって勝負をつけることになる。 そして驚くことに、髪を掴んだら反則とされ拘禁された相撲人もいるという。もう一つの特徴は、行司のような勝負判定人がいないということである。 左右各々より「相撲長(すまひのおさ)」というのが出てくる。これは進行役である。「奏名(ふしやう)」が呼び上げ、 「立合(たちあはせ)」というのが左右に一人ずついて、相撲人を立ち合わせる。 勝負がつくと、勝った方の近衛次将が指示し、「籌刺(かずさし)」が矢を地に突き刺し、勝ち方が勝鬨の声を上げる。この声を「乱声(らんじやう)」という。 「立合」は「立合舞(たちあひまひ)」を演じ、楽も奏される(左が勝てば「抜頭(ばとう)」、右が勝てば「納蘇利(なそり)」)。他方、負けた方の立合と籌刺とは退き、交代する。 嘗て占手が相撲を取った頃は、占手相撲については楽だけで、舞はなかった。 勝負がもつれた場合は、次将が意見を「出居(いでゐ)」に申し立て、判定がつかない場合は、上卿が次将を呼んで聞いたり公卿に意見を求めたりするが(現代風に言う物言い。「論」・「勝負定」)、 それでも分明ならざるときは、天皇の裁断を仰ぐ。これは「天判」といい、「持」といういわば「無勝負」もあった。 また、相撲が長引いた場合は、途中でも下げられて次の相撲に移ってしまう。 左から出てくる相撲人は葵(占手は桔梗だった)の造花、右の相撲人は瓠(=夕顔)の造花を頭髪につけて登場した。 そして勝った側は次に登場する相撲人の頭に自分の造花をつけさせる(「肖物(にるもの)」)が、負けた側は新しい造花をつける。 最後には「千秋楽」「万歳楽」が奏されて終わる。
2日目には、前述の通りの特別取組が行われ、勝負のはっきりしない相撲を取り直す場合もあった。 大体大雑把に言えばこのような感じであった。また、事前に天皇が「相撲人御覧」と言って相撲人を見、場合によっては選り抜くこともあった。 節の後には、近衛大将が自分の府のほうの相撲人や関係者を招いて宴会を開き、禄を給う習慣があった(「返饗(かへりあるじ)」)。 また、童子による「童相撲(わらはすまひ)」や、臨時の相撲などでも相撲節を擬して行った場合がある。
隆盛を極めた相撲節も、その性質に変化が見られ、その存在も案外軽く見られるようになり、12世紀にはあまり行われなくなった。 保安 3年(1122)の相撲節の後、長い空白期間ができた。天養 2年(1145) 7月27日に相撲召合の予定があったが、 「天変あるによりて停止せら」(相撲大鑑)れてしまった。「天変」とはここでは彗星(それもハレー彗星、近日点通過はユリウス暦1145年 4月22日(「星の古記録」斉藤国治著))の出現のことで、 3月30日と 4月 1日に相撲使が任命されたが、彗星は不吉であるという意見から 7月22日に久安元年と改元されるなどのゴタゴタで、中止となった。 相撲節復活は保元 3年(1158)を待たねばならない。 2年前の保元の乱のあと、朝廷は信西藤原道憲の天下となった。 「保元元年よりこのかたは、天下大小事を心のまゝにとりおこなひて」(平治物語)、大内の修造を遂げ、また旧制の復古を図った。 「内宴、相撲の節、久しく絶たる跡をおこし、詩歌管絃のあそび、折にふれて相もよほす。九重の儀式むかしをはぢず、万事の礼法ふるきがごとし」(平治物語)。 相撲節復活(7月も 8月も忌月だということで、 6月に開催された)もその一つである。しかし慣例化するに至らぬうち、翌年の平治の乱でまた頓挫してしまう。 16年後(中絶期間中も御白河院は相撲見物をやっているし、相撲御覧の儀も数度あった)、承安 4年(1174)の相撲節は 7月27〜28日に召合・抜出の式が行われた。 召仰は 7月 5日、この時の詳細な記録は「玉葉(九条兼実の日記)」にあるが、その記録は生かされず、相撲節は全く行われなくなってしまった(朝廷を挙げての儀式である相撲節は消えても、相撲見物はちょくちょく行われていた)。
ただでさえ相撲節に対する意識が低下しているところへ、相撲人調達・費用調達の機構が麻痺したところで、 再構築しようとは思うまい。こうして相撲節は過去のものとなった。