廃仏毀釈・現人神・民主主義・ゆとり教育

日本の精神文化 右往左往 
 
廃仏毀釈 心の拠り所を捨てる 
現人神 天皇をダシにする 
民主主義 与えられた自由と権利 
ゆとり教育 馬鹿の大量生産
 


ゆとり教育
 

 

 
 
 
 
 
日本の精神文化 右往左往 
庶民は 本当に器用でした 
時々の権力者の要望に 「真面目」に応えました 
 
 
 
 
 
 
廃仏毀釈  
「仏様にすがってきました」 心の拠り所を捨てる 
「真面目に西洋文化を吸収」 
国家は 神道 仏教は葬祭文化へ  
 
 
 
   
 
 
現人神  
天皇をダシに 植民獲得競争に遅れて参戦 
服従 「真面目に仕える」 
 
 
 
 
 
 
民主主義  
与えられた自由と権利 義務は後回し 
「貧乏人は麦を食え」 
信じる者は救われる 「真面目に働けば報われる」
 
 
 
 
 
ゆとり教育 
バブルに酔う 馬鹿の大量生産にチャレンジ 
「個性を大切に」と称して 「真面目」を捨てる 
 
 
 
 
 
  
死語 「真面目」「生真面目」「一所懸命」「 鉄は熱いうちに打て」 
「バカ真面目」 郵便局くらいでしょうか 
 
   
 
 
 
  
ゆとり教育2 
経済効果 安い労働力の大量供給  
失われた20年を下支えしました
 
ゆとり教育3 
自分の世界 最優先 スマホがお友達 
煩わしいから 結婚しない  
結婚しても 子供作らない
 
 
 
 

 


   
2016/3 
 

 

ゆとり教育1
日本において、1980年度以降2010年代初期まで実施されていたゆとりある学校をめざした教育のことである。  
ゆとり教育(文部科学省が指定した正式な名称でない)は、知識重視型の教育方針を詰め込み教育であるとして学習時間と内容を減らし、経験重視型の教育方針をもって、ゆとりある学校をめざし、1980年度、1992年度、2002年度から施行された学習指導要領に沿った教育のことである。ゆとり教育は、1980年度から施行された学習指導要領による教育であるが、1992年度から施行された新学力観に基づく教育、および2002年度から施行された教育もゆとり教育であると定義する人もいる。  
経緯  
まず1970年代に日本教職員組合(日教組)が「ゆとりある学校」を提起をし、国営企業の民営化を推し進めた第2次中曽根内閣の主導のもとにできた臨時教育審議会(臨教審)で、「公教育の民営化」という意味合いの中で導入することでゆとり教育への流れを確立した。  
さらに、校内暴力、いじめ、登校拒否、落ちこぼれなど、学校教育や青少年にかかわる数々の社会問題を背景に、1996年(平成8年)7月19日の第15期中央教育審議会の第1次答申が発表された。答申は子どもたちの生活の現状として、ゆとりの無さ、社会性の不足と倫理観の問題、自立の遅れ、健康・体力の問題と同時に、国際性や社会参加・社会貢献の意識が高い積極面を指摘する。その上で答申はこれからの社会に求められる教育の在り方の基本的な方向として、全人的な「生きる力」の育成が必要であると結論付け、「ゆとり」を重視した学習指導要領を導入し開始した。  
ゆとり教育は、詰め込み教育に反対していた日教組や教育者、経済界などの有識者などから支持されていたが、生徒の学力が低下していると指摘され、批判されるようになった。そして、中山成彬文部科学大臣は、中央教育審議会に学習指導要領の見直しを要請し、さらに第1次安倍内閣の主導のもとに、ゆとり教育の見直しが着手された。さらに、教育再生会議(内閣府設置会議)が出した報告書(第1次:2007年(平成19年)1月24日 第2次:2007年(平成19年)6月1日)において、「授業時間の10%増(必要に応じて土曜日授業の復活)」などが盛り込まれた。そうして2008年には、今までの内容を縮小させていた流れとは逆に、内容を増加させた学習指導要領案が告示され、2009年度以降徐々に施行されていった。マスコミは、この改定された教育の事を「脱ゆとり教育」と称している。
ゆとり教育と関連付けられる事項  
ゆとりカリキュラム  
1980年からの学習指導要領の改訂で教育内容の精選と標準授業時数削減が施行された。 この改訂について文部科学省の出版する学制百二十年史によると、各教科の指導内容を大幅に精選し思い切って授業時間を減らした事が大きな特色とある。具体的には授業時数は小学校210時間中学校数は385時間を合計で削減されている。また、この改訂は「ゆとりと充実」で有名とし、完全学校週5日制については「生きる力」を強調しているのに対して1980年からの学習指導要領の改訂では明確に「ゆとり」を重視する目的を表明している。  
学校週5日制  
1992年9月に公立学校において、第二土曜日が休日となったのから始まり、1995年度から第四土曜日、そして2002年度からは全ての土曜日が休み(完全学校週5日制)となった。このことは、学校教育法施行規則(第六十一条)に決められており、2014年現在改定されていないため、公立学校において、原則として土曜日は休みである。なお、私立学校では各学校の方針に任せられているため、土曜日の扱いについては学校によって異なり、完全週5日制を実施している学校もあれば、1991年度以前のように週6日制を続けている学校もある。また、文部科学省は、完全学校週5日制について、生きる力をはぐくむために必要であるとしている。  
総合的な学習の時間  
1998年の学習指導要領の改定のときに新しくできた科目で、2002年度以降から開始された。総合的な学習の時間は教員や児童・生徒の力量・意欲が高い場合は成功しやすく、そういった要素に左右されるという欠点を持つとされるが、基本的に総合的な学習時間の何を成功・失敗の評価基準とするのかという問題も存在する。実際、総合的な学習の時間を有意義に使う学校もある一方で、単に不足している授業時間の補完など評価基準のはっきりした伝統的科目の学力向上に使うなどというケースも少なくなかった。また、基礎学力が低い生徒は「総合的な学習の時間」の目的とされる、「主体的に考える力」なども低くなる傾向があるという指摘もあった。その後、2008年の学習指導要領が改定され、新しい学習指導要領で、この総合的な学習の時間の授業時間が削減された。  
絶対評価  
1998年の学習指導要領の改定とともに採用された評価方法である絶対評価については、2014年現在も継続している。
ゆとり教育の結果  
ゆとり教育(ここでは1998(平成10)年度から99(H11)年度にかけて告示された指導要領を指す)は学力低下を引き起こすと懸念されていたが、成果については(文部科学省内においてすら)確定的な評価はない。学力の上昇を示すもの、低下を示すという両方の例が見られる。  
2000年代に入ってから、よく用いられる子どもの学力をはかる指標として、PISAやTIMSSの結果が挙げられる。ただし、この指標は学力が低下していることを示すための道具として使われているとの指摘もあり、また、条件が一定ではないことなどから、この結果だけで学力が高いか低いかという判断をするのには注意が必要である。  
OECD生徒の学習到達度調査(PISA)  
2004年12月に発表された「OECD生徒の学習到達度調査」(PISA)2003では、読解力は8位から14位へ、数学リテラシーは1位から6位へ(統計的には1位グループ)、科学的リテラシーは2位のまま(同1位グループ)という結果となった。2007年12月に発表された「OECD生徒の学習到達度調査」(PISA)2006では、読解力は14位から15位へ(統計的には9〜16位グループ)、数学的リテラシーは6位から10位へ(同4〜9位)、科学的リテラシーは2位から6位へ(同2〜5位)へと全分野で順位を下げる結果となっている。2003年と2006年で共通に実施された(同一)問題48題について、平均正答率は03年が56.1%、06年が53.4%であり、約2.7%低下していた。正答率の比較では、06年は03年より、上回った問題が8問、下回った問題が40問だった。そのうち5ポイント以上、上回った問題が1問、下回った問題が10問であった。2010年12月に発表された「OECD生徒の学習到達度調査」(PISA)2009では、読解力は15位から8位へ(統計的には5〜9位グループ)、数学的リテラシーは10位から9位へ(同8〜12)、科学的リテラシーは6位から5位へ(同4〜6位)へと全分野で順位を上げる結果となっており統計的に、読解力に関して有意に上昇していることが示された。また、同一問題について正答率をPISA2006とPISA2009を比較すると、読解力では58.4%から61.7%、数学的リテラシーでは51.9%から54.4%、科学的リテラシーでは59.5%から61.8%であった。  
国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)  
義務教育の中途段階における算数・理科の基礎学力知識を調査するために1995年から4年ごとにIEA(国際教育到達度評価学会)が実施している国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)の2003年度調査(TIMSS2003)において、日本の数値がそれまでの調査に比べ低下したことがゆとり教育を見直すきっかけとなった。TIMSS2003では、中学2年生の数学は前回のTIMSS1999年よりも9点、前々回のTIMSS1995よりも11点、いずれも有意に低くなっており(順位は5位のまま)、数学が楽しいと思う者の割合も減少していた。TIMSS2007では前回のTIMSS2003の結果よりも平均得点が全て上回った。ただし誤差を考慮すると前回と同程度であるとしている。8800人の児童が参加し2011年に行われたTIMSS2011では、小学校4年生の成績は過去最高を記録した。この結果について文部科学省では、「2008年度に学習指導要領を改定し、学習内容や授業時数を増やしたこと、2007年度からの全国学力調査の取り組みが成果を上げてきた」ことが原因であり「脱ゆとり教育」路線に変更したことの成果であると評価していると報道されている。  
小・中学校教育課程実施状況調査  
一方で、平成15年度 小・中学校教育課程実施状況調査(2003年に文部科学省に属する国立教育政策研究所が実施)では多くの学年、教科で、前回調査と同一の問題については正答率が有意に上昇した設問が、正答率が有意に下降した問題よりも多かった。特に、小学生と中学3年生の学力向上が顕著で、理科では前回より正答率が上昇し、アンケートで「勉強が好き」「どちらかというと好きだ」と答えた子の割合は増加傾向にある。
社会的な見解  
支持  
元文部省官僚である寺脇研は、当時の文部省の考えを代弁するスポークスマンとしてメディアに出て、ゆとり教育について説明を行っていた。作家で教育課程審議会会長として、ゆとり教育に舵を切った新・学習指導要領の答申の最高責任者であった三浦朱門は2000年7月、ジャーナリストの斎藤貴男に、ゆとり教育について、新自由主義的な発想から、多数の凡人の中に必ずいるはずの数少ないエリートを見つけて伸ばすための「選民教育」であるという主旨を述べた。知識偏重の詰め込み教育を批判していた教師や保護者などの他にも、経済同友会などの経済界や、学者、弁護士をはじめとする識者などの民間人が参加した「21世紀日本の構想」懇談会(小渕恵三内閣総理大臣の私的諮問機関)でも、ゆとり教育を支持していた。「21世紀日本の構想」懇談会の第5分科会は2000年(平成12年)1月に提出された最終報告書の中で、教育への市場原理導入の観点から、義務教育週3日制と教科内容を5分の3にまで圧縮することを提案した。ゆとり教育について、2013年に西部邁(評論家)は、ゆとり教育を主導した寺脇研は、多くの個性のある子供たちの中で勉強の嫌いな子に無理して偏差値教育をしてもしょうがないと主張しており、その意見に賛同していたと述べた。  
批判  
また、自分がやりたいことだけをやればいいという考えを教え、その考えを教えた世代にさまざまな人格的影響を与えたという批判もある。  
擁護  
第3期の教育改革(2002年度実施された学習指導要領改定)は始まったばかりで、ゆとり教育の評価は時期尚早だという意見もある。  
批判に対する反論  
『学力低下は錯覚である』(森北出版株式会社)を著した神永正博は、自身のブログで、「根拠がはっきりしないことで、若者をディスカレッジしない方がよいのでは」と補足している。早稲田大学教授の永江朗は自身の執筆したコラム記事の中で、PISAの順位の低下は「参加国が増えたため」とも、冷静に分析すれば考えられると述べ、「PISAの結果が少し落ちていたぐらいで大騒ぎする理由がわからない」と教育社会学の専門家が疑問を呈しているということを紹介している。元東京大学総長の有馬朗人はゆとり教育によりむしろ理科の力が上がった、と述べている。広島大学教授の森敏昭はIEA(国際教育到達度評価学会)の調査結果を検討した上で「我が国の児童・生徒の学力は、今なお高い水準を保っている。(中略)「我が国の小・中学校段階の児童・生徒の学力は、全体としておおむね良好である」という文部科学省のいささか楽観的すぎるコメントも、あながち的はずれではない。」と述べている。
受験産業  
改定された学習指導要領の内容が明らかになると、学習塾や進学予備校などの受験産業や、私立学校(特に中高一貫校)は広告やマスメディアを利用して活発な営業活動を行った。マスコミ媒体などに頻繁に登場した西村和雄京都大学教授などの言説を論拠に、「ゆとり教育」に対する危機感を訴えることによって、親の不安を煽り、活発に児童・生徒の勧誘活動を行った。 折込チラシ、CMや電車内のドア周辺や吊り広告などの広告活動や、自らがスポンサーとなっているテレビ番組内などで、「小学校では円周率をおよそ3として教えている(正確にはゆとり教育のため小数点による計算が遅れたため幾何学において概算に3を使うようになったため)(日能研)」、「ゆとり教育で学力低下を引き起こす」「あなたの子供の将来が危ない」など、あるいは、学習時間の多寡を基準に、日本よりも学習時間が長いイタリアなどが、PISAでは日本のはるか下位に位置しているのにも拘わらず「世界の子は勉強している(栄光ゼミナール)」といい、教科の好き嫌いを基準に、算数の好きな子の割合がイランが1位、日本は24位で日本の教育がダメだといい(栄光ゼミナール)、統計値を恣意的につまみ食いした正確性・客観性に欠ける情報で感情論に基づいて危機感を煽ったり、この種の営業活動を行った事例もある。学習塾などがこういった営業活動を行った理由として、子供が減るために学習塾間で「パイの奪い合い」が発生していたことがある。  
一部の公立校では、塾の教師やスタイルを取り入れて学校教育を変えようという試みもしている。一例としては杉並区立和田中学校(校長の藤原和博、後任の代田昭久、共にリクルート出身)にて2008年(平成20年)1月に行われた「夜スペシャル」(通称夜スペ)があり、これは成績上位者のみを対象に、名門進学塾サピックスの講師を派遣して有料(1万円〜2万円)で授業を行う(学校が運営しているわけではなく、保護者の有志団体による運営形式)。  
さらには、都立高校などが「総合的な学習の時間」のカリキュラム作成にもたついている間に、日能研を初めとする一部の塾は「自ら学び考える力を育てる授業。『総合学習』そのものだ」と「総合的な学習の時間」を商品として提供を始めている。私立学校や中高一貫校の入学試験が、PISAに似たものになってきているからだ。
国外の類似例  
デンマーク  
ゆとり教育をすすめていたデンマークでも、OECD生徒の学習到達度調査 (PISA) の結果が下がり、学力低下が議論になった。教育改革として、義務教育の1年早期化などが議論されている。学校の現場では学力向上を目指した教育改革に反発があるものの、生徒の親は学力低下への不安が強いようである。  
フィンランド  
OECD生徒の学習到達度調査(PISA:数学・科学・読解力の3教科のみ)においてトップの成績をあげ、全ての項目で日本を上まわったフィンランドは週休二日制であり、授業時間も日本よりかなり少なく、また、「総合的な学習」に相当する時間も日本より多く、「ゆとり教育」に近い内容である。具体的な中身として一つは、中学校の教育に特筆されるのは1⁄3にわたる(成績の低い)生徒が特別学級に振り分けられるか、補習授業を受けていることがある。低学力の生徒に対する個別の教育により底辺の学力を上げるだけでなく、優秀な生徒にはそれ相応の特別な教育がおこなわれている。つまり、生徒の能力の違いを前提にして全体の学力を上げている。生徒の個別の能力差に沿った教育が行われているため、無理に能力の低いものを能力の高い授業に適応させる必要がないために「遅れる」ことはあっても「落ちこぼれる」ということはない。特定の基準を満たさない生徒にそぐわない授業内容を押しつける必要がないから「ゆとり」があるわけである。また、高校入学は中学の成績に基づいて振り分けが行われており、よい高校やよい課程に入学するには中学でよい成績をおさめなければならない。他には、授業の組み立て方や教科書の選定など、教育内容の大部分を現場の裁量に任せられているという特徴もある。また、フィンランドは授業時間は少ないものの、日本にはない様々な教育の工夫が試みられている。多くの学校で学費が無料であるため、低所得の世帯でも安心して教育を受けさせることができる。このようなシステムがフィンランドにはあるため、フィンランドで講師を務めたこともある中嶋博早大名誉教授は、落ちこぼれをつくらず楽しんで学ぶ教育がフィンランドの教育であると述べており、フィンランドに留学経験のある者は、中高一貫の学校が多いため、(中学)受験を気にせずじっくりと学習に取り組む事ができ、学習への理解が不足している、いわゆる「落ちこぼれ」の生徒は義務教育中であっても、じっくり教育を受けるシステムが確立されていると述べている。  

 

ゆとり教育2
ゆとり教育の内容を知るためには、どのような部分にその目的が設定され、結果としてどのような利点があるだろうと想定されているのかを知ることが欠かせません。ここではそのようなポイントを踏まえた上で、ゆとり教育とはどのような教育なのかを紹介していこうと思います。  
目的  
ゆとり教育の目的を簡単に説明すると、以下のような点にポイントを絞ることができます。  
・ 各学校のスタッフが、自分たちで知恵を出し合って特徴豊かな教育を行う  
・ 生徒の学ぶ勉強範囲を絞る事でその負担を減らし、浮いた時間は生徒個人の自主的な勉強の時間にあてる  
・ 生徒自身が、【自分で物事を考える力】を育てる事ができるよう導く  
つまり、生徒個人の自主性を伸ばす事に、目的を置いた教育だと言う事ができるでしょう。  
詰め込み教育への反省  
ゆとり教育がこのように、生徒の自主性の伸長に重点を置いているのは、やはり詰め込み教育の反省による所が大きいようです。基礎知識を徹底的に頭の中に詰め込むやり方では確かに、生徒の自由な想像力は伸ばせませんよね。しかしゆとり教育に移行後、生徒の自由で豊かな発想力や想像力が伸びたというデータは、今のところほとんどありません。
ゆとり教育の内容  
ゆとり教育の内容をより具体的にまとめると、以下のようなポイントに絞る事ができます。  
勉強内容の選択  
これは、生徒が学校から与えられた勉強を能動的にこなすのではなく、自主的に教科を選択する事を言います。こうすることで生徒の学習意欲が上がり、より学習効率とそのクオリティが上がるという考え方から来ています。  
総合的な学習の時間  
各学校がその創意工夫によって独自の学習カリキュラムを組み、バラエティに富んだ学習機会を生徒に与えようというのが、総合学習の狙いです。農家に行って芋掘りの体験学習をさせたり、英語や中国語を教えたり、ごみ拾いなどでボランティア精神を養わせたりと、学校によって多くの試みがなされているとされています。しかし現実には、英語などの言語学習にあてる学校が多いようです。  
選択学習  
選択学習とは主に高校などで実施されていますが、生徒の習熟度に合わせてより発展的な内容を扱うことが可能である事を指します。つまり、より生徒個人に焦点を合わせた学習機会を与えようというわけです。  
問題解決力を養う学習  
問題解決を養う学習とは例えば、「観察や実験」「プレゼンテーションやディベート」のような、問題を解決するのに時間と思考力を必要とする学習を指します。ゆとり教育の目的である「考える力を養う」を実現するためには、まさに打ってつけの分野というわけです。  
週休二日制  
これまでの理念的な内容とは少し離れますが、ゆとり教育を実践するための手段として週休二日制の導入にも触れないわけにはいきません。週休二日制がどのような制度なのか、説明する必要はないでしょう。それにしても、なぜゆとり教育に週休二日制が絡むのか、皆さんはご存知でしょうか?これは、「土曜日は休みにするので、日ごろの疲れを取ってください」というわけではなく、空いた時間で生徒が自主的に学習する機会を与えようとしているのです。
ゆとり教育の利点  
ゆとり教育の利点として、文部科学省が考えていた事が以下のような点です。  
考える力を養う  
ゆとり教育の利点はなんと言っても、子供たちが自分自身で物事を考える力を育てられるという点です。基本的には学校で教わる勉強範囲は少なくなったので、それ以上知識を吸収したければ自分で調べるしかないという理屈です。このような学習過程によって、生徒の考える力を養おうと考えたのです。  
生きる力を養う  
物事を自分で考えるという習慣は、人間が生きていく上では欠かせない要素ですよね。つまり、物事を自分の頭で考える力とは、生きる力に直結しているという理屈です。  
豊かな人間性  
生きる力が養われると、それは豊かな人間性につながるという論理です。この考え方は非常に感覚的なので、ぼんやりと「そうだなぁ」と感じることはできますが、論理的に理解するには少々ムリがあるのではないでしょうか。そのため、より具体的な説明を加えると…… 【生きる力を養う→多くの経験を積む=多様な価値観を学ぶ→豊かな人間性を育む】という事になります。  

 

ゆとり教育で不足した学力の補完
1. ゆとり教育?  
1.1. ゆとり教育以前に何がおこったのか  
1957年10月4日のソビエト連邦(現在のロシア)による人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げが成功したという報告は、アメリカ合衆国をはじめとする西側諸国の政府や社会に大きな衝撃や危機感を煽ることになった。これをスプートニク・ショック(Sputnik crisis)といい、このことが教育の現代化を行うきっかけになったのである。当時のソビエト連邦が人工衛星打ち上げを成功させた秘訣を西側諸国が分析した。日本でも同様であった。結局、集合論とベクトル・行列を教育に取り入れることが結論づけられたようである。そのことを受けて、1971年に小学校に集合論が取り入れられて、1972年には中学校、1973年には高等学校にも集合論が導入された。また、高等学校の数学ではすでにベクトルは教えていたが、行列(行列式の計算や一次変換)も取り入れるようになった。もちろん、理科も難しくなった。同様な傾向は、西ヨーロッパ諸国でも起こり、集合論やベクトル・行列を学校教育で取り入れるようになったのである。  日本では数学や理科は極端に難しくなったのであるが、その時代は長くは続かなかった。落ちこぼれが顕在化して「つめこみ教育」批判が起こったのである。  
1.2. 学習指導要領  
戦前から戦後にかけて、日本では少しずつ、学習指導要領を整えてきた。科学技術立国を目指すための方策であったと思われる。付録に学習指導要領を色分けしてまとめた。戦後教育、系統的な学習、教育現代化、第一次ゆとり、第二次ゆとり、第三次ゆとり、脱ゆとりと大きく分類した。なお、学習指導要領は実施の5年前に改訂内容が発表され、検定教科書を出版する会社は3年かけて制作し、1年かけて検定結果の修正を行い、最後の5年目で営業活動を行うという段取りになっている。
2. ゆとり教育  
2.1. ゆとり教育のはじまり。  
ゆとり教育というのはついこの10年ぐらいの間に始まったと思われているが、実際は1980年に小学校から始まったのである。小学校では算数や理科で学習項目がとてもたくさんあった。1968年度生まれの私は小5から小6になったときに算数の教科書が薄くなったのにびっくりした。私が中学校に入学した1981年に中学校のゆとりが始まった。英語が週4時間だったのが週3時間になり、英語学力の低下はだれの目にも明らかになった。このことが、補習塾が繁栄する要因を作ったのである。そして、翌年の1982年には高等学校でもゆとり教育が始まった。その結果、高等学校卒業までに1966年度生まれは中3から4年間のゆとり、1967年度生まれは中2から5年間のゆとりだが、1968年度生まれは小6から7年間もゆとりなのである。以下、年々、ゆとり教育を受けた年数は増えていき、1974年度生まれの方は小学校1年生の時から完全にゆとり教育になる。そして学力は下がった。それでも、1974年度生まれまでは第2次ベビーブームだったので、高校入試や大学入試が厳しく、塾のおかげで学力低下はそれほど問題にならなかったのである。「塾のおかげ」というのは、文部科学省検定済み教科書は易しくなって、読んでもその学科が充分理解できるようなものではなく、練習問題の数も減った。当然、高校入試の問題も易しくなったが、競争が激しかったので、補習塾などでしっかりと勉強していたと思われる。大学入試では一流大学になると浪人は当たり前だった。また、大学・短大への合格が難しかったというのは、合格率からもわかる。合格率が最も低いのは1990年で、1971年度生まれが18歳のときである。  
2.2. 第二次ゆとり教育  
実はゆとり教育は更に続くのである。  
1980年代に入ると、コンピュータ教育をどうするかが議論になった。当時のパソコン業界はNECのPC88やPC98、シャープのMZやX68000、富士通のFM TOWNSなどのPC、東芝のIBM互換機(ダイナブックを含む)、アップル社のマッキントッシュなど機種依存性の問題があり、学校教育で扱えそうになかった。そこで、高等学校では数学の中でプログラミング言語であるBASICを選択単元で扱うことになった。中学校でも技術科の選択単元でコンピュータを扱うというのはこのときに議論された。それに加えて、学校教育週休二日制の導入である。1980年代といえば、日本経済は世界一位を謳歌したころで、諸外国からは「働きすぎ」批判を受けたため、まずは公務員から土曜日を休みにするように検討された。国立大学などは1990年度から週休二日制になったのであるが、学習指導要領で一週間あたりの授業時間数が決まっていた小中高はそんな簡単には土曜日を休みに変更することはできなかった。そこで、隔週の土曜日(第2と第4)を休みにすることになったのである。さらに、小学校の低学年で生活科を設定し、中学校では男女問わず技術・家庭科を学び、高等学校でも家庭科を必修にすることになった。また、高等学校ではそれまでの社会科は地歴科(日本史・世界史・地理)と公民科(政治・経済、倫理、現代社会)に分かれて、世界史の必修化が行われた。このような観点から、またもや理数の時間は必然的に減るしかなかったのである。英語(外国語)は1981年以来、時間数は減っていたので、これ以上減ることはなかったようだ。そこで1992年に小学校で、1993年に中学校で、1994年に高等学校で更なるゆとり教育が実施された。これを「第二次ゆとり教育」と呼ぶことにしよう。1978年度生まれの方が第二次ゆとり教育の始まりであり、高等学校を卒業するのが1997年である。このころから、大学生の学力低下問題が議論され始めた。その2年後の1999年には1980年度生まれが大学へ入学するのであるが、いよいよ、「学力低下問題」が深刻になるのである。  
ここでもう一度考えよう。  
1978年度生まれの方は高等学校を卒業するまでに中3から4年間が第二次ゆとり教育なのである。そして1979年度生まれは中2から5年間であるが、1980年度生まれの方は小6から7年間も第二次ゆとり教育を受けているのだ。だから、学習指導要領が変化した直後の世代よりも、その2年後の世代の方が学力の落ち込みは大きいのである。1997年の大学入学者あたりから、本格的に学力低下が見られ始めた。教育の情報化や隔週土曜日の休日化をはかるために、1992年小学校、1993年中学校、1994年高等学校で第二次ゆとり教育が断行されたのである。1978年度生まれが中3(1993年)から第二次ゆとり教育で1997年に大学に入学して来ることになるが、大学で「学力低下」が叫ばれたのはこのときからである。その後、年々学力は低下していく。そして、1999年には「分数ができない大学生」という本まで出版されるに至る。ここで冷静になってほしい。1980年にゆとり教育が始まって以来、一貫して学習した内容は減っているのであるから、経年的な学力低下は、本来は予測できたはずである。しかし、だれも小・中・高と一貫して学習指導要領や教科書を検討した者はいなかったので、いつどのようにどのくらい学力が低下するのかを予想することを怠ってきたともいえる。なお、第二次ゆとり教育では小学校では、作文、漢字、計算が重視されなくなってきた。このことは文章を書けない若者を生む結果となったことも追加しておきたい。  
2.3. 第三次ゆとり教育  
いよいよ第三次ゆとり教育となる。  
今回からは完全週休二日制を実施することになった。そのため、またもや時間数が減った。そのうえ、総合的な学習時間という理念は立派な時間が設定された。その結果、ますます理数の時間は減るが、今回はついに国語の時間まで減ることになった。また、高等学校ではいよいよ普通教科「情報」が必修科目として設定された。これは画期的なことである。しかし今回はこの点には触れない。とにかく、数学・算数と理科の内容の削減はすさまじかった。よく知られるのは、小学校で円周率が3.14ではなく3と教えるというものである。これはマスコミがたたきすぎたために、教科書の方では3.14で教えても検定合格になった。また、中学校の理科ではイオンがなくなったため、高等学校「理科」の生物ではイオンという概念を一切用いて説明できないことになった。このことは科学の歪曲と捉えられた。結局、2002年に小学校で、2002年に中学校で、2003年に高等学校で第三次ゆとり教育は断行された。1987年度生まれの方が第三次ゆとり教育の始まりであり、高等学校を卒業する2006年までの4年間が第三次ゆとり教育なのである。以下、1988年度生まれの方は第三次ゆとり教育が5年間であるが、1989年度生まれの方は第三次ゆとり教育が7年間になる。世間では「ゆとり教育」は危ないと騒いでいるが、壊滅的なまでに系統的な知識教育は崩壊した。彼らの一期生が2006年に大学や専門学校に入学してきた。さすがに、あれほど騒がれているので、2006年に入ってきた学生はそれほど問題視されていない。だが、ここで安心してはいけない。2008年から徐々にボディーブローのように低学力効果が現れてくるはずであると筆者は2006年頃に予想していた。事実、2008年頃から急激に学力低下はひどくなっている。
3. 第三次ゆとり教育世代は何を勉強していないのか?  
本節では、第三次ゆとり教育で、何を学習していないのか個別具体的に述べたい。  
3.1. 小学校算数で排除された反比例  
2001年以来、反比例が小学校から消えた。そのため小学生は曲線的なグラフを目にしなくなった。反比例は高等学校では分数関数と呼ばれる。高等学校での分数関数の軽視はすでに1994年に現れている。ずっと数学Iで扱われてきたが、このときから数学IIIにまわり、理系の学生以外は分数関数を学ばない。数学IIIは工業高校では学ばないので、工業高校ではその影響は大きい。また、1993年以来中学校で2乗に反比例する関数(逆自乗則)がなくなり、分数関数の排除は一貫している。  
3.2. 定着しない素因数分解  
1993年の中学校の第二次ゆとり教育でついに素因数分解が軽視された。この影響はどこに現れるかは大変わかりにくかった。筆者の最近の推定でようやくその全貌がわかりつつある。  
まず、単純に指数を理解できなくなった。たとえば、従来であれば  
8=2×2×2=2'3 とか 81=3×3×3×3=3'4  
などの計算をやっていた。そこで指数の法則も身についていたようである。1993年以来、このような計算を十分にはやらないために高校で指数法則や対数をやったときに、まったくできない生徒が増えたのである。2つめに、約数や倍数の指導もなくなったので、約分や通分ができない生徒が大幅に増加して、それが原因で「分数のできない大学生」が生まれたように推定される。  
3.3. 濃度を知らない高卒者  
小5でこれまで食塩水の濃度の計算を教えてきた。ところが2001年から突如、濃度の計算は小学校から消えて、中学校の理科からも一切消えて、高校で化学を選択した者だけが濃度の計算を知っているのである。1989年度生まれは小5まで第二次ゆとりであるので、濃度の計算は学習している。だが、小6以後は高校で化学を選択しない限り濃度に接することはないものの、濃度の計算は習っているのである。だが、1990年度生まれはもっと深刻で、小5から第三次ゆとりが始まったので、高校で化学を選択してなければ2009年に濃度の計算法を全く知らない学生を大学や専門学校は受け入れることになる。2006年現在、濃度の計算は義務教育の範囲ということで、公務員試験で頻繁に出題される項目であるが、将来はそうもいかないであろう。実際恐ろしいのは看護師などが濃度の計算ができないと困るのである。実際にある県の看護師の採用試験問題では20問中5問まで濃度の計算である。薬の濃度の計算ができない看護師などが増えると医療ミスの原因となる。なお、看護専門学校などでは理数教育の再編成に追われているそうである。このまま低学力が続けば我が国の医療そのものが危なくなるであろう。  
3.4. 四則演算の順番がわからない高卒者  
ある大学では「30ー4×5=26×5」と計算してしまうそうである。単純計算教育の軽視は1992年の小学校の第二次ゆとり教育から始まっている。「詰め込み=悪」のもとで多くの学校では計算ドリルが推奨されなくなったのである。四則演算の計算ができないような人は、本来は高校に入学できないはずであるが、現実には高校入試も甘くなっているので、高校生になれてしまう。もちろん、高校で数学の点数をまともにつけると赤点になるので、高校でも勉強せずに大学生になれてしまうのである。こういう人は本来は大学に来てはいけないのであるが、こういう人も入学させないとやっていけないのが現在の大学である。  
3.5. 大小関係がわからない高卒者  
2001年から小学校から不等号が消えた。不等号の記号を見るのは中学生になってからである。いやいや、これは顔文字の記号なのである。ここである種のモデル化をしたい。Aという知識が指導要領の改訂でn年生からn+1年生へ知識が移動したとき、その影響が出てくるのは2年後である。そこでn年生からn+k年生へ知識が移動したときにその影響が出てくるのがk+1年後である。さて、小学校2年生から中学1年生(7年生)に5学年だけ上がるので、6年後にその影響が出てくるのである。2001年から小学校から不等号が消えたので、2007年度の中学校でその影響が本格的になるはずである。  
3.6. 漢字を読めない高卒者  
2006年現在の中学校の教科書にはかなりの割合で「ルビ」が振られている。現場の教員の話によると、とにかく漢字がよめないので授業にならないそうである。実は、東大や京大に進学するための塾講師によると、ハイレベルな学生でさえ小学生レベルの漢字が書けないとのことである。漢字教育の軽視は1992年の小学校の第二次ゆとり教育から始まっている。「詰め込み=悪」のもとで多くの学校では漢字ドリルが推奨されなくなったのである。その後一貫して漢字の読み書き能力は下がっている。現在、いくつかの大学(いくつかの中学校ではない)では漢字検定に取り組んでいる。もちろん、中学校でも漢字ドリルは推奨されないので大学で補うのは当然である。しかし、ここまでレベルが落ちると識字率100%の前提が崩れるが、漢字ドリルのeラーニングはまじめに取り組まないとどうしようもないだろう。近い将来、大学・短大・専修学校では朝のショートホームルームが実現してその時間に漢字の書き取りまたは計算ドリルを行うこともありうるだろう。
4. 学力の国際比較  
4.1. PISA  
PISA(Programme for International Student Assessment)とは、OECD(経済協力開発機構)参加30ヵ国が共同して国際的に開発した、15歳児を対象とする学習到達度問題(理数系の問題)による試験のことで、2000年に第1回を実施し、その後3年ごとに行われることになった。参加国は回を重ねるごとに増加し、OECD非参加国も含め2006年には57の国・地域で実施されている。日本では、高校1年生を対象とし 「読解力」、「数学的リテラシー」、「科学的リテラシー」を主要三分野として調査している。  
この三分野について簡単に説明する。「読解力」とは、“書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力”ということであるが、要は問題文を読み、図や表から解答を導き出すことであり、いわゆる国語の読解力とは異なる。「数学的リテラシー」とは、“数学的根拠にもとづき判断を行い、数学に携わる能力”。「科学的リテラシー」とは、“科学が関連する諸問題について証拠に基づいた結論を導き出すための科学的知識、科学的な考えを持ち、科学が関連する諸問題に、自ら進んで関わること”をいっている。  
図2.「PISA平均得点の5ヵ国の推移」では5ヵ国(フィンランド、カナダ、オーストラリア、韓国、日本)についてのみ表示している。PISA2000(数字は西暦を表示している)の第一回目の成績は、日本は三分野ともトップランクにあった。図を参考にすると、この時受験した高校1年生は第二次ゆとり教育のみを受けている。3年後の PISA2003を受験した高校1年生は中学3年より第三次ゆとり教育を受けているので、平均得点は三分野において低下している。  
まだ PISA2003の結果は発表されていなかったころに、筆者は恐らく PISA2000よりも平均得点は下がるだろうと予測していた。やはりその通りの結果になり、 PISA2006の結果はさらに低下すると予測した。なぜなら、2006年に受験する生徒は小学校5年より第三次ゆとり教育を受けているからである。またまた、その通りの結果である。  
PISA2006の結果発表を知ったマスメディアが学力低下を問題にし、騒ぎだしたので2008年、ようやく文科省がゆとり教育廃止の方向に転換した。その結果学習指導要領が変更されていないのに学校現場では教科書に掲載されていない内容などを教え始めた。どっぷりと第三次ゆとり教育を受けた生徒が受験するはずのPISA2009では若干成績は向上した。しかし依然として成績は悪いのである。  
   図2.PISAの試験結果の点数
5. ゆとり教育で不足した学力はどこで補完するのか?  
「第三次ゆとり教育」は小学校ではすでに中止されているが、一体どうやって学習内容を増やすのであろうか? 週休2日制の実施で総時間数は減っている。まさか、7時間目を導入するというような過激なことでもするのであろうか?  
問題はそんなことよりも、次の学習指導要領をいつから実施するかである。教科書の検定の都合があるので実施年度は小学校で2011年度、中学校で2012年度、高校で2013年度となった。ゆとり教育がなくなるまでまだまだ気の遠くなるような話である。  
大雑把な予想としては、2016年度の大学や専門学校の入学者から第三次ゆとり教育の色が徐々に消えていくことになる。ということは2016年に高校卒業する方まではこのまま単純に学力は下がり続けるしかない。  
2016年高校卒業者から徐々に学力が上がり出すが、10年ぐらいかかってようやく2005年高校卒業者のレベルになるだろうから、2026年ぐらいでようやく2005年並みとなる。1995年高校卒業者レベルまで戻るには更に10年はかかるはずである。こう考えると筆者が定年を迎える(60歳として)までには、筆者が大学生だったレベルに戻る可能性はきわめて低い。このような現状を直視できる人だけが高等教育機関の教員として生き残る素質を備えていると思う。  
今後10年間ぐらいは、大学や専門学校でゆとり教育で身についていない学力を補うしかないのである。  
最後に、専修学校京都コンピュータ学院での取り組みについて記載しておく。本学ではコンピュータに関連する学校であるため、伝統的に数学の内容はコンピュータに必要な二進数、離散数学の初歩、集合、ベクトルと行列、確率などに限定して教育している。これらの分野は、高等学校までの学習指導要領ではメインの学習項目ではないので、入学者がこれらの分野を熟知している必要性もなく、本学の中で独自に教育することができた。また、文章を書くための授業も必修科目として設定されている。昨今、就職のためのSPI試験がある。この対策のために9時〜9時20分まで朝学習という制度がある。自習スタイルの問題演習である。多くの学生が積極的に参加していて、好評である。  

 

「ゆとり教育はやはりダメだった」は本当か?
国際学力調査で日本の順位が急復活した本当の理由 (2014/1/10)  
2012年にOECDが実施した「生徒の学習到達度調査」(PISA)の結果が昨年12月に発表され、日本の子どもの学力が復活を遂げたことが話題になった。「ゆとり教育」のピーク時に同調査での順位が低迷していたこともあり、今回の学力向上を「ゆとり教育の見直しによる成果」と言う人もいる。しかし、話はそう単純ではない。教育関係者や識者に話を聞くと、「そうではない」という声が多数上がると共に、改めてゆとり教育を評価する声も少なくないのだ。いったいこれはなぜか。「ゆとり教育悪玉論」の読者にも、ぜひ知ってほしい取材結果をお伝えしよう。(取材・文/プレスラボ・小川たまか)
ようやくゆとり教育の弊害が払拭された?  
OECD学力調査で日本の順位が堅調に改善  
「やっと、ゆとり教育の弊害が払拭されつつある」  
筆者は最近、こんな声を耳にすることがある。それは、昨年12月に発表された、OECD(経済協力開発機構)が実施する「生徒の学習到達度調査」(PISA=ピザ)の結果発表を受けてのものだ。  
PISAは2000年からスタートした調査で、3年に1度行われている。世界の15歳の男女を対象に、「数学的リテラシー」「科学的リテラシー」「読解力」の3科目で義務教育の習得度を測る調査だ。5回目にあたる2012年調査には、OECDに加盟する34ヵ国のほか、65の国と地域から約51万人が参加した。このテストで、国際的に見て日本が順位を上げたこと、3分野全てで点数が向上したことが明らかになり、教育界の明るいニュースとして受け止められたのである。  
前回2009年の成績と比べると、平均得点は数学的リテラシーが539点で9位から7位へ、科学的リテラシーが547点で5位から4位へ、読解力が538点で8位から4位へと上昇した。  
初回となる2000年、日本のPISAのランクは数学的リテラシー1位、科学的リテラシー2位、読解力8位だったが、その後2003年調査、2006年調査で連続ダウン。特に2006年調査での順位の下落ぶりは顕著であり、数学的リテラシーが同6位から10位へ、科学的リテラシーが同2位から6位へ、読解力が同14位から15位へとダウンした。2003年時に、日本は「世界トップレベルとは言えない状況」という烙印を押されている(ただし、当時と現在とでは参加国数や調査実施科目数が異なることもあり、単純比較はできないことを考慮する必要はある)。  
それが前回の2009年に続いて、直近の2012年にも順位を上げ、復活を遂げたのだ。この結果に喜ぶ人は多いだろうが、その反面、冒頭の声からもわかる通り、改めてやり玉に挙げられているのが「ゆとり教育の弊害」なのである。  
「学力向上はいいニュースだが、やはりゆとり教育がダメだったと証明されたようなもの」(30代男性)  
巷からは、こんな厳しい声も聞こえて来る。
ゆとり教育のピーク時に学力は低迷し、「脱ゆとり」以降改善しているのは事実  
ゆとり教育は、2002年度から施行された学習指導要領に沿った教育と認識されている。世間から「子どもの学力低下を招く」と強いバッシングが噴出した結果、文部科学省が「新学習指導要領」を公示し、「脱・ゆとり」と思しき方向へ方針を転換したのは2008年のことだ(実際の実施は2011年以降)。  
確かにこの経緯と照らし合わせると、「世界トップレベルとは言えない状況」と言われた2003年、PISAの順位が悪化した2006年はゆとり教育のさ中と見られる時期、そして順位が復活し始めた2009年は「脱ゆとり」が進み始めた時期と一致するように見える。そうした理由もあり、「『脱ゆとり教育』へ転換したことが功を奏したとみられる」などと報じられるケースが増え、またそう信じている人も少なくないのではなかろうか。だが、この調査の読み取り方には疑問点があることを後述する。  
やはり、ゆとり教育はダメだったのだろうか。今回のPISAの結果を受け、改めてそれを検証してみたい。  
まず、ゆとり教育を受けた本人たちはどう思っているのか。いわゆる「ゆとり世代」は、小中学校において2002年度に始まった学習指導要領における教育で育った世代(1987年4月2日生まれ〜)であることが多い。彼らは侮蔑的なニュアンスを込めて「ゆとり世代」と呼ばれることもある。  
公益社団法人東京広告協会が昨年12月に発表した『大学生の「ゆとり教育」に関する意識調査』では、当の「ゆとり世代」も約半数が「ゆとり教育は良くなかった」と答えたという。  
良くなかったと考える理由は、「学習時間が減ったことで一般常識や学力が低下したから」「『ゆとり』といわれ、ほかの世代にバカにされるから」など。良かった理由についても、「勉強以外の経験や自分のしたいことができたから」という前向きな意見もあるが、「休みが増え、自分の時間ができたから」「勉強量が少なく、楽に勉強できたから」などという、どちらかと言えば後ろ向きな理由も少なくない。  
実際、ゆとり教育について、「自分たちの受けてきた教育は何だったんだろうと思った」(20代男性)とネガティブに捉える若者は、身の回りにもいる。
「ゆとり教育」の意味とは「生きる力とゆとり」教育だった  
だが実は、教育関係者や識者からは全く違う話も聞こえてくる。  
前述の「学習時間が減ったことで一般常識や学力が低下したから」というコメントからもわかるとおり、我々はゆとり教育というと学習内容の削減ばかりをイメージしがちだ。だが「削減」は、1980年と1992年に行われた学習指導要領においても、すでに行われている。  
2002年から行われた「削減」は確かに大幅なものであり、完全学校週5日制もこのときから実施されたが、識者たちが「ゆとり教育の真の意義」と口をそろえるのは、このことではない。  
教育ジャーナリストの渡辺敦司氏は、「はじめは『生きる力とゆとりを』というキャッチフレーズでした。『生きる力』とはつまり、知識の量をつけるだけではなく、知識を実生活で使える応用力、活用力をつけようということです」と説明する。  
PISAの調査でも、求められるのは単なる知識ではなくその活用力だ。自分で課題を発見し、課題解決のための方法を模索する力が求められる。このため、当時は「PISA対策のための学習指導要領ではないか」という声も現場から上がったという。  
ただ、「PISA対策だったとしても、問題解決力、知識の活用力が今後の社会を生き抜くために必要であることは間違いない」とは、都内で教員として働いていた60代男性の言葉だ。  
「脱ゆとり」への方針転換により、小学校では2011年度、中学校では12年度から新学習指導要領が完全実施されたが、「生きる力をつける」という方針は新学習指導要領でも変わっていない。「ゆとり教育が見直されたと言われているが文科省の方針はある意味ぶれていない」と前出の渡辺氏は指摘する。
学力低下は本当にゆとり教育のせい?  
識者が巷説を「安直」と喝破する理由  
2011年から実施された学習指導用要領では、授業数が30年ぶりに増加した。このため、「脱ゆとり教育」が2012年のPISAにおける「学力向上」に結びついたと言う人もいる。ただしこれは、識者たちに言わせれば「安直」だ。  
「2002年にいわゆる『ゆとり教育』が始まり、2003年のPISAで学力が『世界トップレベルとはいえない』とされた。しかし、学習指導要領の改訂による全国的な『学力低下』があったとして、それが実施からわずか1年で起こるでしょうか」(渡辺氏)  
同じ意味で、2011年から行われた学習指導要領によって2012年のPISA調査で学力が急に向上したというのも、確かに想像しづらい話だ。  
『子どもがバケる学校を探せ! 中学校選びの新基準』(ダイヤモンド社)、『後悔しない中学校受験 改訂新板』(晶文社)などの著書を持つ教育ジャーナリスト・書籍プランナーの中曽根陽子氏も言う。  
「学力の低下や向上について何が作用したかは、複合的に分析しなければならず、難しい。『ゆとり』『脱ゆとり』は、たとえば『学校で教えられる円周率が3になった』というようなことが象徴的に取り上げられて独り歩きし、その意味が正しく理解されなかった面があると思います」(注:「円周率が3になった」は誤報だが、「ゆとり教育で円周率が3になった」という情報は多くの人に広まってしまった)  
ただし一方で、教育現場では実際に「ゆとり教育」に対する反発もあった。当時都内の中学校に勤務していた50代の元女性教諭は言う。  
「現場では誰も賛成していませんでした。教材も授業時間数も減らされて、『遊びのある授業』ができなくなった。その代わり総合的学習が増えたけれど、教員は準備が間に合わなくて生徒はついてこない。単なる子守の時間のようだったことすらあります。現場はすごく大変でした」
「何をどうやったらいいのか」 混乱も生んだ具体的対策の欠如  
これについては、前出の元教員の男性や渡辺氏、中曽根氏も言う。  
「『自分で考える子どもに』というところまではいい。でも、何をどうやったらいいのかが現場ではわからなかった。ただ、2007年度から実施されている全国学力・学習状況調査では、『B問題』で活用力を求めています。B問題の対策をすることで、結果的にどういう指導をしたらいいかのイメージを持てた教師も、多いのではないでしょうか」(元教員の男性)(注:A問題では知識を問う)  
「これまではマスへの伝達で良かったけれど、教師の側が想像力を求められるようになりました。総合的学習の時間をどう活用すればいいかわからなかった教師は多いはず」(中曽根氏)  
「どうやったら生きる力が伸びるかというのを、文科省は具体的に示さなかった。そこには『それを現場の教師が考えていくのがこれからの教育』という意図がありましたが、結果的には混乱を招きましたね。文科省が悪いか、現場が悪いかは解釈の問題でしょう」(渡辺氏)  
ただし、この混乱の中、現場で教師たちが試行錯誤し、奮闘してきたことも忘れてはならない。現場を見てきたという渡辺氏は、「そんなに頑張って燃え尽きてしまうのではないかと思うほどだった」と言う。 子どもを持つ人の中でも、現在の教育現場でどのように「生きる力、活用力を育てる教育」が行われているかを知らない人も多いかもしれない。ここで、今回の取材で聞いた具体例を紹介したい(ただしこれらは一例であり、どの地域・学校でも同じような指導が行われているとは限らない)。  
授業の最初に、「今回の授業で何を勉強するのか」「どんな力を身につけることを目指すのか」を教師が説明する。児童・生徒が自分で「何を学ぶか」を意識するため。また、授業の終わりには「何を学んだか」「わからなかったところ」「次の授業はこうしたい」などを書き、教師がそれを集めて次の授業に活かす。  
国語の授業で文学を読む場合、以前は「人物の気持ちを読み取る」ことに重点が置かれていた。現在は、「理解した上で自分の意見を持つこと、意見を言うこと」に重点が置かれている。  
キャリア教育。単なる職業体験だけではなく、「自分とは何か」や「自分と社会の結びつき」を考えさせる授業。  
こうした取り組みに鑑み、前出の中曽根氏はこう語る。  
「日本の教育は小中学校で行われる教育の出口が大学入試になってしまっていた。そうではなく、社会に出ていく力をつけようというのが、求められている21世紀型の教育です」  
前述の通り、いわゆる「ゆとり世代」は授業時間数が少なくゆとりを持った教育で育ったという認識により、他の世代から様々な批判を受けることがある。「マイペース」という言葉はまだいい方で、ときには「ゆとり世代」というだけで「仕事ができない」「空気を読まない」というレッテルを貼られる社会人もいる。「ゆとり世代」と呼ばれることに否定的な若者からは、「自分たちが選んでゆとり教育を受けたわけではない。大人の都合だ」という言葉を耳にする。  
しかし、識者が指摘する通り、ゆとり教育が本当に間違っていたかどうかは、これまで行われたPISAの調査結果だけでわかるものではなさそうだ。さらに言えば、渡辺氏が指摘するように文科省の方針がぶれていないとすれば、最新調査における学力向上の本当の理由は、ゆとり教育時代を含めた「生きる力」を教える教育の成果が出始めたことだと考えられなくもない。
社会に出たゆとり世代の真価は これから発揮されるのか?  
また、ゆとり教育を評価する識者がいることは、何よりゆとり世代にとって必要な事実ではないだろうか。  
渡辺氏は「ゆとり世代に期待している」と言う。「社会に出てからの力」を重視する教育を受けた初めての子どもたちが「ゆとり世代」だからだ。  
「これまでの世代よりもさらに社会で活躍する、強い力を持っているのがゆとり世代かもしれない。ぜひ頑張ってもらいたい」(渡辺氏)  
ゆとり世代たちが根拠の薄い「ゆとり教育バッシング」で肩身の狭い思いをしているなら、その必要はないのではないか。また他の世代は、安易に「ゆとり世代」という言葉を侮蔑的に使うことを避けるべきだろう。ひょっとしたら、彼らの「真価」はこれから発揮されるのかもしれないのだから。  

 

鉄は熱いうちに打て
[ Strike while the iron is hot. / 鉄は熱して軟らかいうちに鍛えて有用な形につくりあげることから ]  
○ 鉄は、熱して軟らかいうちに鍛えよ。精神が柔軟で、吸収する力のある若いうちに鍛えるべきである、というたとえ。人も精神が柔軟性に富む若い時代に有益な教育を施さなければならないということのたとえ。  
○ 物事は、関係者の熱意がある間に事を運ばないと、あとでは問題にされなくなるというたとえ。 手遅れにならないうちに処置を講ぜよということのたとえ。  
○ 鉄は真っ赤に焼けている時は、やわらかく、形を変えられますが、さめて、 かたくなった状態では、形が整わないということから生まれた句。大人のときより 若いときのほうが、新しいことを覚えるのが早く、しっかりと身につく、という意味があり、 又、何かを行う場合には、人の関心が高く熱意のあるうちに、始めるべきで、よい時機(チャンス)を 失ってはいけないという意味もあるようです。又、別の言い方として、「幼子は白き糸の如し」 (おさなごはしろきいとのごとし)ということわざがあり、これは、幼い時を白い糸にたとえ、 白い糸がどんな色にも染まるということから、 幼い時のしつけの大切さを言ったもののようです。