「わが国の国策を反省」 村山談話と田母神論文

政治の世界 
過去の 「わが国の国策を反省」 
 
村山談話を支持します 
田母神論文も支持します 
 
時代環境に即した国策でした・・・


 
村山富市 内閣総理大臣 談話   1995年8月15日
「戦後50年の終戦記念日にあたって」 
先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。  
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。  
平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。  
いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。  
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。  
敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。  
「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。 
 
小泉純一郎 内閣総理大臣 談話   平成17年8月15日
私は、終戦六十年を迎えるに当たり、改めて今私たちが享受している平和と繁栄は、戦争によって心ならずも命を落とされた多くの方々の尊い犠牲の上にあることに思いを致し、二度と我が国が戦争への道を歩んではならないとの決意を新たにするものであります。  
先の大戦では、三百万余の同胞が、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に散り、戦禍に倒れ、あるいは、戦後遠い異郷の地に亡くなられています。  
また、我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します。悲惨な戦争の教訓を風化させず、二度と戦火を交えることなく世界の平和と繁栄に貢献していく決意です。  
戦後我が国は、国民の不断の努力と多くの国々の支援により廃墟から立ち上がり、サンフランシスコ平和条約を受け入れて国際社会への復帰の第一歩を踏み出しました。いかなる問題も武力によらず平和的に解決するとの立場を貫き、ODAや国連平和維持活動などを通じて世界の平和と繁栄のため物的・人的両面から積極的に貢献してまいりました。  
我が国の戦後の歴史は、まさに戦争への反省を行動で示した平和の六十年であります。  
我が国にあっては、戦後生まれの世代が人口の七割を超えています。日本国民はひとしく、自らの体験や平和を志向する教育を通じて、国際平和を心から希求しています。今世界各地で青年海外協力隊などの多くの日本人が平和と人道支援のために活躍し、現地の人々から信頼と高い評価を受けています。また、アジア諸国との間でもかつてないほど経済、文化等幅広い分野での交流が深まっています。とりわけ一衣帯水の間にある中国や韓国をはじめとするアジア諸国とは、ともに手を携えてこの地域の平和を維持し、発展を目指すことが必要だと考えます。過去を直視して、歴史を正しく認識し、アジア諸国との相互理解と信頼に基づいた未来志向の協力関係を構築していきたいと考えています。  
国際社会は今、途上国の開発や貧困の克服、地球環境の保全、大量破壊兵器不拡散、テロの防止・根絶などかつては想像もできなかったような複雑かつ困難な課題に直面しています。我が国は、世界平和に貢献するために、不戦の誓いを堅持し、唯一の被爆国としての体験や戦後六十年の歩みを踏まえ、国際社会の責任ある一員としての役割を積極的に果たしていく考えです。  
戦後六十年という節目のこの年に、平和を愛する我が国は、志を同じくするすべての国々とともに人類全体の平和と繁栄を実現するため全力を尽くすことを改めて表明いたします。 
  
  
  
 
  
 
日本は侵略国家であったのか  
田母神俊雄  
アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。  
この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936年の第2次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。  
我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937年8月15日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。  
1928年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ(誰も知らなかった毛沢東)(ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論(黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け(櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の1937年7月7日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争(岩間弘、岩間書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。  
我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の1932年1月には3千万人の人口であったが、毎年100万人以上も人口が増え続け、1945年の終戦時には5千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の35年間で1千3百万人の人口が2千5百万人と約2倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。  
戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。  
我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また1924年には朝鮮に京城帝国大学、1928年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降9つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6番目、台北帝国大学は7番目に造られた。  
その後8番目が1931年の大阪帝国大学、9番目が1939年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊(ホンサイク)という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校26期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1期後輩には金(キン)錫源(ソグォン)大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約1千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。1期後輩で蒋介石の参謀で何応欽(カオウキン)もいる。  
李王朝の最後の殿下である李垠(イウン)殿下も陸軍士官学校の29期の卒業生である。李垠(イウン)殿下は日本に対する人質のような形で10歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。  
陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠(イウン)殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子(まさこ)妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠(イウン)殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために1930年に新居を建設した。  
現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀(フギ)殿下の弟君である溥(フ)傑(ケツ)殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第2次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第1次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。  
時間は遡るが、清国は1900年の義和団事件の事後処理を迫られ1901年に我が国を含む11カ国との間で義和団最終議定書を締結した。  
その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2600名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会)」。また1915年には袁世凱政府との4ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4年後の1919年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編(渡部昇一、祥伝社)」。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901年から置かれることになった北京の日本軍は、36年後の廬溝橋事件の時でさえ5600名にしかなっていない「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会)」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。  
さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し3百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局(NSA)のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成18年5月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。  
ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940年から1948年までの8年間これをモニターしていた。当時ソ連は1回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である1943年から解読作業を開始した。そしてなんと37年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば1933年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には3百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2の財務次官ハリー・ホワイトであった。  
ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機100機からなるフライングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ1ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。  
ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。  
さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。  
日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第2,第3の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。  
強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。  
さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。  
一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。ロシアとの関係でも北方四島は60年以上不法に占拠されたままである。竹島も韓国の実効支配が続いている。  
東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63年を経てもなお日本人を惑わせている。  
日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。  
アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は20年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。  
子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。  
自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。  
日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。  
私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。  
私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。 
 

 
2015/2 
 
 
田母神論文に想う1
(一)コミンテルン謀略史観を超えて  
田母神論文は、荒唐無稽な謀略史観だという批判がある。日本がシナ事変から大東亜戦争に突入したのは、コミンテルンの策略なのか否か、結果から見れば、そう言えなくもないが、史料的に実証されたわけでもない。  
実際、シナ奥地で壊滅寸前であった毛沢東の中共軍は、日本軍と蒋介石軍との戦闘で漁夫の利を得て、中華人民共和国を創立し得た。戦後、中共の毛沢東、周恩来は、皮肉まじりに「日本軍のおかげで共産党の国を樹立できた」と語っていたことは有名だが、だからといって、共産党軍が自ら仕掛けたと言ったのでもない。しかし、日本にとってシナ事変の拡大は不本意であったのは事実である。  
また、もうひとつの分岐点、日独伊三国同盟締結について、中西輝政氏は、『正論』平成12年10月号で、次のように訴えている。  
「何をおいても決定的であったのは、1940年秋の時点で『三国同盟』に踏み切ってしまったことである。……あの時点で『新秩序』のかけ声に押され、『三国同盟』の締結へ向かった日本指導層のケタはずれの愚かさと、そうした苦しまぎれの失策へと導いた点で、コミンテルンの戦略にのってシナ事変の泥沼にはまり込むという戦略的無能力の、この二つが大東亜戦争の『決定的な誤り』として21世紀に向けた『歴史の教訓』にならざるを得ない。」  
戦争中に大本営参謀として、戦略・戦術の枢機に参画した瀬島龍三氏は、大東亜戦争回避策として、「万難を排して三国同盟を空洞化ないし廃棄し、満州以外の地域からの撤兵を断行し、日米交渉の妥結を計ることだった。……北清事変によって我が国が得た北京・天津地区の駐兵権を放棄しても、勇断をもって支那事変の解決を計るべきであった」(『幾山河』扶桑社)と回顧している。  
今回問題となったアパグループ懸賞論文の審査委員長をつとめた渡部昇一氏も、平成7年2月6日付の産経新聞〈正論〉欄で「『勝つ側』につくのが政府の使命である。『勝てば官軍』は千古の真理だ。……戦国時代に豊臣への恩顧で家康に味方せず、お家を潰された福島正則の道をとるべきではない」と、冷徹な戦略眼を記している。  
当時の日本は、世界のパワーバランス情勢を判断せずに、しかも日本の国是に反する人種差別政策を具現化したドイツと同盟してしまった。米国から同盟の破棄を言われても、〈国際信義上、それはできない〉と、福島正則の道を選んだのではなかったか。  
渡部氏はまたシナへの駐兵についても、「駐兵の権利があっても、国益に沿わないなら、その権利を凍結ないし放棄することも考えてもよかったのではないか」(『致知』平成11年12月号)と述べている。  
こうした意見に対して、航空幕僚長であった田母神氏には、シナ事変の不拡大方策や、日独伊三国同盟締結の是非について、見解を述べてほしかった。言い換えると、わが国はコミンテルンの謀略に乗せられ、蒋介石やルーズベルトの罠にはまった「被害者」であると言い募るだけではなく、その謀略を探知し、逆に相手を謀略にかけるほどの情報戦略を論じるべきなのではないだろうか。元幕僚監部として、歴史の教訓を今後に活かす提言をますます期待したい。
(二)文民統制について  
『正論』平成21年3月号では、文民統制について四つの論文を掲載している。なかでも北村惇氏は専門的視点で詳細に解説している。同氏によれば、「文民の側に責任が発生するので、責任ある決断や意思決定を速やかに行うためには、行政機関も立法府も軍事的な専門知識に精通しなければならないし、適確な判断力を備え、国防に関連する実力が備わっていなければならない」という。  
文民側の軍事知識の欠如が深刻な結果を生んだことについて、田母神氏は文民である近衛文麿首相が陸軍参謀本部の方針に反対してシナ事変を拡大したと述べる。  
西尾幹二氏は石破防衛庁長官(当時)との対談で「私は日本が戦争したことを批難するつもりはなく、負ける戦争をしたことが許せない。正確にいえば、負けると分かっている戦争を回避するための軍事的知識や合理的計略の知力が大正教養主義に浮かれた旧制高校エリートの戦前知識人に欠落していたことが許せない。軍部に責任をなすりつけてすむ話ではない」(『座シテ死セズ』恒文社)と、戦略論の欠如に憤激している。  
現在、軍事教練などまったく受けていない政府・行政官には、制服自衛官の意見を聞く度量も、それを判断する軍事的知識もないだろう。解決すべき重要な問題である。  
軍人が国防の見地から軍事機密保持の下で、政府方針を批判することは、民主主義国であれば当然の責務である。それを国民に納得させるためには、議会や記者会見など公式会見の場での発言、あるいは新聞、総合雑誌への寄稿によることも必要であろう。  
田母神論文とは、そうした点も含めて、問題の所在を知らしめ、あらためて、国民に「村山談話」の呪縛を想起させたのではなかろうか。
(三)「戦略論」と「国策の誤り」  
自由主義史観研究会会報の創刊は1995年2月である。その創刊号には、上原卓氏が藤岡信勝代表の論考「戦略論から見た日本近現代史」(『社会科教育』1995年1月号)を引用して以下のように記している。  
〈藤岡氏は「『戦略論』のメガネをかけて見ない限り、日本の『近現代史』の骨格はそもそも理解不可能だ、といって良いほどのものである」と述べている。戦略論とは、「国家の生き残りと繁栄のための最高方針を研究する学問分野である」。その戦略論から現実の政治の世界では、「相互に相手から独立した意思の存在する状況において、つまりこちらの思い通りにならない他人あるいは他国の存在を前提として、こちらの目的をどのように達成するかの方法」が生まれてくる。この方法が軍事戦略を含めた国家戦略である〉。  
「村山談話」には「わが国はある時期、国策を誤り……」とある。桜井よしこ氏によれば、村山氏は記者会見で、「談話で日本が過去に国策を誤ったと謝罪したが、具体的にどの政策をどのように誤ったと認識しているか?」と問われて絶句したそうだ(『WILL』平成21年2月号)。  
当時の日本は、「村山談話」の文脈とはまったく異なる意味で「国策を誤り」、シナ事変の泥沼から日米開戦に至ってしまった。わが国は《こちらの思い通りにならない他人あるいは他国である蒋介石、毛沢東、ルーズベルトやスターリンの存在を前提として、こちらの目的を達成するため》の国家戦略を持つべきであったと痛感する。 
 
田母神論文に想う2
田母神俊雄氏がアパグループの懸賞論文に「日本は侵略国家であったか」の題名で応募し、最優秀賞に入賞した。そして防衛省航空幕僚長を更迭されたことは周知の通りであり、筆者としても真に残念である。また、12月9日にはNHK「クローズアップ現代」がこの問題を取り上げたが、通例に漏れず著しく偏向した内容だった。筆者はNHKに抗議するとともに以下の文章を送付した。会員諸兄のご意見を乞いたい。田母神論文が浮き彫りにした問題点は二つある。一つは田母神氏の主張の正当性であり、今一つは政府の主張と異なる意見を高級官僚が主張することが許されるか否かである。まず、田母神論文の正当性について検証する。
田母神発言の検証  
1.アメリカの事情  
私はエンジニアである。何らかの事を行うためには、まず現状の把握、改善策の立案、実行、実行後の検証のサイクルが欠かせない。そのような観点から大東亜戦争を振り返ってみて、如何にもおかしいのは、あれだけの犠牲を払い、勝ったアメリカが、戦争目的を果たしていないことである。「アメリカは世界の覇者となったのだから、戦争目的を果たしたではないか」と言う人がいるが、世界の覇者となったのは、その後の厳しい米ソ冷戦に勝ち抜いてからである。  
1949年年中共の独立宣言に対し、アメリカは承認せず、断交した。アメリカが戦前主張していたことは、「日本は中国を支配し、中国貿易を独占しようとしている」「中国での機会均等の要求」ではなかったか。あれだけの犠牲を払った結果が、中国からのシャットアウトである。何かが間違っていたと言わざるを得ない。  
その反省が始まったのが、中国との断交の翌1950年から始まったマッカーシー旋風である。ルーズベルト大統領の側近が次々に共産党のシンパとして弾劾された。その中にはアルジャー・ヒス、ハリー・デクスター・ホワイト、ロークリン・カリー等の名がある。アルジャー・ヒスは戦後の枠組みを決めたヤルタ会談に、大統領顧問として同行した人であり、ハリー・デクスター・ホワイトはハルノートの原案を作った人として知られ、戦後世界銀行の総裁までした人である。またロークリン・カリーはアジア問題担当大統領特別補佐官であった。田母神氏も指摘されているように、近年VENONA文書と言われるソ連との暗号通信の傍受記録が解読されてきているが、上記の事実を裏付ける資料が次々に発掘されている。  
その反省が始まったのが、中国との断交の翌年1950年から始まったマッカーシー旋風である。ルーズベルト大統領の側近が次々に共産党のシンパとして弾劾された。その中にはアルジャー・ヒス、ハリー・デクスター・ホワイト、ロークリン・カリー等の名がある。アルジャー・ヒスは戦後の枠組みを決めたヤルタ会談に、大統領顧問として同行した人であり、ハリー・デクスター・ホワイトはハルノートの原案を作った人として知られ、戦後世界銀行の総裁までした人である。またロークリン・カリーはアジア問題担当大統領特別補佐官であった。  
田母神氏も指摘されているように、近年VENONA文書と言われるソ連との暗号通信の傍受記録が解読されてきているが、上記の事実を裏付ける資料が次々に発掘されている。  
戦後日本を統治したマッカーサー元帥は、アメリカの上院で「日本の戦いは自衛のためであった」と証言している。又東京裁判ではパール判事は「あのような立場に追い込まれたら、モナコのような国でも立ち上がらざるを得なかったであろう」と判決の中で述べている。  
さらに終戦時の中国戦線アメリカ軍司令官ウェデマイヤー将軍の回想録が『第2次大戦に勝者なし』の名で出版されている。これを見ても当時の米国が如何に共産主義に汚染され、判断を間違えていたか、明らかではないか。  
2.中国の事情  
中国についても田母神氏の主張には一理ある。1921年孫文が広東政府を樹立したが、共産党はこの政府にとりつき、ソ連からの多額の軍事支援で政府の実権を握った。孫文の死亡で重しの取れた共産党は南支で大暴れしたが、第1次南京事件で英米軍艦の反撃を受け、以降標的を日本に絞った。各地で排日デモ、反日テロを繰り返した。日本は中国政府にテロ対策を乞うが、一向に進まず、満州事変、シナ事変へと進んだ。  
盧溝橋の仕掛け人は田母神論文の通り、劉少奇である可能性が高く、実行部隊は赤い将軍・馮玉祥の残党である。また、シナ事変が本格的になったのは上海事件によるが、その原因を作ったのは、張治中将軍である。張治中は周恩来の命により蒋介石陣営に残り、戦後の国共内戦の休戦協定交渉時の国民党代表を務めながら、台湾に渡らず、共産党政権に加わった人である。  
シナ事変が始まった時、毛沢東は「これは三国志である」と語り、日本軍との戦いを極力避け、戦力を蓄え、最終的に内戦に勝利した。  
また、毛沢東は社会党の佐々木委員長に対し、「日本軍は中国に対し、大きな利益をもたらしたのだから申し訳なく思う必要はない」と語っている。すなわち現在の中国政権は戦前にはシナを統治したことがなく、日本のお陰で政権を取れたと認めた上で、感謝しているのである。  
中国共産党はシナ事変に火を付け、戦渦に巻き込んだ。戦後も大飢饉の原因を作る等、中国国民を貧困に陥れた。中国国民にとって非難すべきは共産党政権であり、日本ではない。  
3.韓国の事情  
かつての植民地で先進国の仲間入りしたのは、韓国・台湾以外どの国があったか。マルクス主義では資本家は労働者の敵であるが、近代経済学では資本家と労働者は企業間競争に勝ち抜くためのパートナーである。日本は、それと同様、宗主国と植民地は、国家間競争を勝ち抜くためのパートナーであると考えた。  
日本政府はその精神で韓国・台湾を統治したからこそ、大東亜戦争に多くの人が兵役に応募し、特攻隊となって国のために戦死したのである。朝鮮人特別志願兵の募集は昭和13年から始まった。採用人数は毎年増えていったが、応募人員はそれ以上に増え、昭和18年にはなんと57倍に達している。まさに日朝台一体となって戦ったのである。  
韓国の反日は戦後共産主義が蔓延する中で醸成された。初代大統領の李承晩は戦前よりアメリカに亡命していた人であり、徹底的な反日論者であった。朝鮮戦争があったため、戦後の混乱を早期には収拾できなかったが、若干の混乱期を経て、韓国をまとめ、今日のような世界の先進国に導いた。朴正煕が行ったセマウル運動は宇垣総督の行った農村振興運動を手本にしている。また、日韓基本条約が締結され、日本の資本や技術援助で韓国の発展が始まった。  
2003年、極めて親共的な慮武鉉政権は日本統治時代を非難し、親日的文筆家が次々に批判の的になった。しかし慮武鉉大統領の余りにも行き過ぎた容共姿勢に対する反発から、今年李明博大統領が登場すると共に、近年植民地発展論と言われる、日本の統治があったからこそ、今日の韓国の発展があったという議論が始まりつつある。  
4.日本の事情  
日本の当時の歴史で見逃せないのは、ゾルゲ事件である。  
近衛首相の側近秘書・西園寺公一(公望の孫)は、ゾルゲ事件の日本側主犯・尾崎秀美の親友であり、戦後共産党参議院議員を経て、中共に亡命している。  
軍部もまた天皇制を除けば、2・26事件に見られる如く、共産主義と紙一重であった。農林省を中心に当時の高級官僚の多くは、戦後左派社会党の中心勢力となり、米軍に先立ち農地解放の原案を作っている。極めてソ連の主張を受け入れやすい政府であった。  
1937年のトラウトマン工作の破綻、汪兆銘の引き出し工作は、戦争の継続を狙う尾崎一派の工作といわれている。また1940年から41年に起こった「南進論」か、「北進論」かの議論は、まさにソ連の生死を分ける情報戦であった。「南進論」の決定により、ジューコフ率いる大戦団はモスクワ攻防戦にとって返し、ソ連の勝利に貢献した。  
大東亜戦争は共産党の謀略により始まったものという側面は、荒唐無稽と批判されるようなものではなく、一概に日本の侵略戦争とも断じることは出来ない。  
田母神論文を機に大東亜戦争の事実論争が大きく進むことを期待する。
高級官僚の政府と異なる主張は許されるか  
田母神論文の「問題」とは、研究が許されるかという問題と、政府見解と異なる意見の発表が許されるかの、二つの問題がある。  
1.このような研究が許されるか  
何が原因で戦争になったか、それは防ぐことが出来なかったか、勝因・敗因の分析、勝敗の分岐点等、戦史の研究こそ軍人の必須科目である。その中で政府見解と異なる意見が出てきたときにどのようにするべきなのか。  
2.政府見解と異なる意見の発表が許されるか  
一般論として、農林省や文部科学省の役人が、財政問題について、政府見解と異なる主張をしても何の問題もない。財務省の役人が農林政策や文教政策について政府見解と異なる主張をしても何の問題もないだろう。防衛省のみが他省庁について、あるいは政府見解について議論することが許されないのだろうか。  
大東亜戦争が始まったのは1941年である。すでに67年前のことである。当時政策の決定に参加した人が、40才以上とすれば生きていれば107才である。現在生きている人には大東亜戦争の開始には何の責任もない。今度定年退職された田母神氏も戦後の生まれである。大東亜戦争の開戦とは全く関係がない。だからこそ、客観的に物事を判断し、また冷静な研究も可能になる。  
私は歴史を学ぶ目的は、二度と同じ間違いをしないためだと思っている。そのためには正しい歴史を知る必要がある。現在、朝日その他のマスコミの伝える歴史は勝者の歴史、つまり一面的な歴史観である。  
勝者の歴史だけを学んでいたのでは、真の歴史は分からず、歴史を学ぶ意義は半減する。戦後60年以上が経ち、さきの戦争による被害の補償は、東京裁判とその後の各国との講和条約、平和条約ですべて終わっている。(北朝鮮とは、韓国が全朝鮮を代表する立場を主張し、玉虫色の解釈となっている)いつまでも引きずるのはおかしい。  
前章で検証した如く、田母神氏の歴史認識がおかしく、政府見解、いわゆる「村山談話」が正しいというのも一面的にすぎない。ではこのような主張に文句を付けてくる国は何処だろう。アメリカに気兼ねする向きもあるが、マッカーシー旋風、VENONA文書等、アメリカ自身でも議論されている問題であり、タブーでも何でもない。  
ロシアも共産党の崩壊により、大東亜戦争時代の議論は問題ないであろう。問題は、やはり特定アジア、中国と韓国だろうか。  
しかし、中国は江沢民の引退により、大分ムードが変わってきている。韓国も慮武鉉大統領から、経済を重視する李明博大統領に代わった。また「植民地発展論」といわれる、日本統治肯定論も力を付けてきている。韓国との議論もそろそろ可能な時期に来ているはずだ。  
つまり、言論を封じるのは、外国にあらず、日本国内の一部、マスコミやアカデミズムに巣食うコミュニズムにある。「村山談話」なるものを不磨の大典にしているのは誰なのか。
結び  
この問題を巡り、国会で田母神氏を喚問し、質疑が行われた。大いに議論がなされることを期待したが、委員長は議論を許さなかったのは政府や野党の議員が、議論して勝てる相手ではないと考えたのだろう。しかし、インターネットの発達により、世論も正しい判断をし始めており、この傾向は止まらないはずだ。これを機にもっと議論を進め、正しい歴史認識が深まることこそ日本の最大の国益だと考えている。 
 
 
戦争謝罪発言の歴史
1972年9月29日 - 田中角栄総理大臣。「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した『復交三原則』を十分理解する立場に立って国交正常化の実現をはかるという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。」  
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1982年8月24日 - 鈴木善幸首相。「過去の戦争を通じ、重大な損害を与えた責任を深く痛感している」「『侵略』という批判もあることは認識する必要がある」  
1982年8月26日 - 宮澤喜一内閣官房長官。「一、 日本政府及び日本国民は、過去において、我が国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、このようなことを二度と繰り返してはならないとの反省と決意の上に立って平和国家としての道を歩んできた。我が国は、韓国については、昭和四十年の日韓共同コミュニケの中において『過去の関係は遺憾であって深く反省している』との認識を、中国については日中共同声明において『過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことの責任を痛感し、深く反省する』との認識を述べたが、これも前述の我が国の反省と決意を確認したものであり、現在においてもこの認識にはいささかの変化もない。二、 このような日韓共同コミュニケ、日中共同声明の精神は我が国の学校教育、教科書の検定にあたっても、当然、尊重されるべきものであるが、今日、韓国、中国等より、こうした点に関する我が国教科書の記述について批判が寄せられている。我が国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する。三、 このため、今後の教科書検定に際しては、教科用図書検定調査審議会の議を経て検定基準を改め、前記の趣旨が十分実現するよう配慮する。すでに検定の行われたものについては、今後すみやかに同様の趣旨が実現されるよう措置するが、それ迄の間の措置として文部大臣が所見を明らかにして、前記二の趣旨を教育の場において十分反映せしめるものとする。四、 我が国としては、今後とも、近隣国民との相互理解の促進と友好協力の発展に努め、アジアひいては世界の平和と安定に寄与していく考えである。」  
 
1984年9月6日 - 昭和天皇。「今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います。」  
1984年9月7日 - 中曽根康弘首相。 「貴国および貴国民に多大な困難をもたらした」「深い遺憾の念を覚える」  
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1990年4月18日 - 中山太郎外務大臣。「自分の意思ではなしに、当時の日本政府の意思によってサハリンに強制移住をさせられ就労させられた方々が、戦争の終結とともにかつての祖国に帰れずに、そのまま現地にとどまって暮さざるを得なかったという一つのこの悲劇は、まことにこの方々に対して日本としても心から済まなかったという気持ちを持っております。」  
1990年5月24日 - 今上天皇。「我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません。」  
1990年5月25日 - 海部俊樹首相。「私は、大統領閣下をお迎えしたこの機会に、過去の一時期,朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて謙虚に反省し、率直にお詫びの気持を申し述べたいと存じます。」  
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1992年1月16日 - 宮澤喜一首相。「私たち日本国民は,まずなによりも,過去の一時期,貴国国民が我が国の行為によって耐え難い苦しみと悲しみを体験された事実を想起し、反省する気持ちを忘ないようにしなければなりません。私は、総理として改めて貴国国民に対して反省とお詫びの気持ちを申し述べたいと思います。」  
1992年1月17日 - 宮澤喜一首相。「我が国と貴国との関係で忘れてはならないのは、数千年にわたる交流のなかで、歴史上の一時期に,我が国が加害者であり、貴国がその被害者だったという事実であります。私は、この間、朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて、ここに改めて、心からの反省の意とお詫びの気持ちを表明いたします。最近、いわゆる従軍慰安婦の問題が取り上げられていますが,私は、このようなことは実に心の痛むことであり,誠に申し訳なく思っております。」  
1992年7月6日 - 加藤紘一内閣官房長官。「政府としては、国籍、出身地の如何を問わず、いわゆる従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい。また、このような過ちを決して繰り返してはならないという深い反省と決意の下に立って、平和国家としての立場を堅持するとともに、未来に向けて新しい日韓関係及びその他のアジア諸国、地域との関係を構築すべく努力していきたい。」  
1993年8月4日 - 河野洋平内閣官房長官。慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話。 (いわゆる河野談話) 
 
いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  
今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  
なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  
いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  
われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  
なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。  
1993年8月23日 - 細川護煕首相。「それから四十八年を経て我が国は今や世界で有数の繁栄と平和を享受する国となることができました。それはさきの大戦でのたっとい犠牲の上に築かれたものであり、先輩世代の皆様方の御功績のたまものであったことを決して忘れてはならないと思います。我々はこの機会に世界に向かって過去の歴史への反省と新たな決意を明確にすることが肝要であると考えます。まずはこの場をかりて、過去の我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたことに改めて深い反省とおわびの気持ちを申し述べる」  
1993年9月24日 - 細川護煕首相。「私が侵略戦争、侵略行為という表現を用いましたのは、過去の我が国の行為が多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたとの同一の認識を率直に述べたものでございまして、改めて深い反省とおわびの気持ちを表明したものでございます。」  
1994年8月31日 - 村山富市首相。「我が国が過去の一時期に行った行為は、国民に多くの犠牲をもたらしたばかりでなく、アジアの近隣諸国等の人々に、いまなお癒しがたい傷痕を残しています。私は、我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたことに対し、深い反省の気持ちに立って、不戦の決意の下、世界平和の創造に向かって力を尽くしていくことが、これからの日本の歩むべき進路であると考えます。我が国は、アジアの近隣諸国等との関係の歴史を直視しなければなりません。日本国民と近隣諸国民が手を携えてアジア・太平洋の未来をひらくには、お互いの痛みを克服して構築される相互理解と相互信頼という不動の土台が不可欠です…いわゆる従軍慰安婦問題は、女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、私はこの機会に、改めて、心からの深い反省とお詫びの気持ちを申し上げたいと思います。我が国としては、このような問題も含め、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、関係諸国等との相互理解の一層の増進に努めることが、我が国のお詫びと反省の気持ちを表すことになると考えており、本計画は、このような気持ちを踏まえたものであります。」  
1995年6月9日 - 衆議院決議。「また、世界の近代史における数々の植民地支配や侵略行為に想いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジア諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。」(歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議。いわゆる戦後50年衆院決議)  
1995年7月 - 村山富市首相。「いわゆる従軍慰安婦の問題もそのひとつです。この問題は、旧日本軍が関与して多くの女性の名誉と尊厳を深く傷つけたものであり、とうてい許されるものではありません。私は、従軍慰安婦として心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対して、深くおわびを申し上げたいと思います。」  
1995年8月15日 - 村山富市首相。「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。」(村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」。いわゆる村山談話)  
1996年6月23日 - 橋本龍太郎首相。「例えば創氏改名といったこと。我々が全く学校の教育の中では知ることのなかったことでありましたし、そうしたことがいかに多くのお国の方々の心を傷つけたかは想像に余りあるものがあります…また、今、従軍慰安婦の問題に触れられましたが、私はこの問題ほど女性の名誉と尊厳を傷つけた問題はないと思います。そして、心からおわびと反省の言葉を申し上げたいと思います。」  
1996年10月8日 - 今上天皇。「一時期、わが国が朝鮮半島の人々に大きな苦しみをもたらした時代がありました。そのことに対する深い悲しみは、常に、私の記憶にとどめられております。」  
1997年8月28日 - 橋本龍太郎首相。「私は、我が国が、歴史の教訓を学び、まさに、「前事を忘れず、後事の戒めとする」という視点が広く国民の中に定着していると確信しております。私自身も一昨年村山前総理が発表した内閣総理大臣談話、すなわち「植民地支配と侵略によって、多くの国々、取り分けアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」た「歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明」するとの考えと同じ考えを持っています。この内閣総理大臣談話を決定したとき、私も内閣の一員でございました。日本国内の一部に中国側の感情を刺激しかねない発言があったとしても、日本という国が将来、軍事大国にならず平和国家としての道を歩み続ける決意であることは、我々日本人にとっては、自明なことであると考えます。しかしながら、自らに明らかなことではあっても、中国を始めとするアジア諸国に不信が生まれないような努力は弛まなく続けていく必要があります。昨年来、我が国の安全保障の根幹である日米安全保障体制につきましても、中国側から様々な形で見解が表明されているわけですが、この問題もやはり対話を重ねることにより、中国側の懸念を解いていく努力が不可欠でありますし、現在進めている「指針」見直しの作業も引き続き透明性をもって行ってまいりたいと考えております。日米安保共同宣言において明確に述べられておりますように、日米両国は、アジア太平洋地域の安定と繁栄にとり中国が肯定的かつ建設的な役割を果たすことが極めて重要であると考えており、この関連で、中国との協力を更に深めていかなければなりません」  
1997年9月6日 - 橋本龍太郎首相。「日本政府は、第二次世界大戦敗戦の日から五十周年の1995年、内閣総理大臣談話という形をとりまして、我が国として、過去の日本の行為が中国を含む多くの人々に対し、耐え難い悲しみと苦しみを与えた、これに対して深い反省の気持ちの上に立ち、お詫びを申し上げながら、平和のために力を尽くそうとの決意を発表しました。私自身がその談話の作成に関わった閣僚の一人です。そしてこれが日本政府の正式な態度である、立場であることを繰り返し申し上げたいと思います。そしてこのことは首脳間における論議の中でも、中国側に私も率直に申し上げ、李鵬総理も私の発言に完全に同意すると、そう言って頂きました。」  
1998年7月15日 - 橋本龍太郎首相。「我が国政府は、いわゆる従軍慰安婦問題に関して、道義的な責任を痛感しており、国民的な償いの気持ちを表すための事業を行っている「女性のためのアジア平和国民基金」と協力しつつ、この問題に対し誠実に対応してきております。私は、いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題と認識しており、数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての元慰安婦の方々に対し心からのおわびと反省の気持ちを抱いていることを貴首相にお伝えしたいと思います」「我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。我が国としては、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えながら、2000年には交流400周年を迎える貴国との友好関係を更に増進することに全力を傾けてまいりたいと思います。」  
1998年10月8日 - 小渕恵三首相。「両首脳は、日韓両国が21世紀の確固たる善隣友好協力関係を構築していくためには、両国が過去を直視し相互理解と信頼に基づいた関係を発展させていくことが重要であることにつき意見の一致をみた。小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べた。金大中大統領は、かかる小渕総理大臣の歴史認識の表明を真摯に受けとめ、これを評価すると同時に、両国が過去の不幸な歴史を乗り越えて和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させるためにお互いに努力することが時代の要請である旨表明した。」(日韓共同宣言)  
1998年11月26日 - 小渕恵三首相。「双方は、過去を直視し歴史を正しく認識することが、日中関係を発展させる重要な基礎であると考える。日本側は、1972年の日中共同声明及び1995年8月15日の内閣総理大臣談話を遵守し、過去の一時期の中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、これに対し深い反省を表明した。中国側は、日本側が歴史の教訓に学び、平和発展の道を堅持することを希望する。双方は、この基礎の上に長きにわたる友好関係を発展させる。」  
 
2000年8月17日 - 山崎隆一郎外務報道官。「本記事では、日本が第二次大戦中の行為について、中国に対して一度も謝罪をしていないと書かれているが、実際には日本は戦争中の行為について繰り返し謝罪を表明してきている。とりわけ、1995年8月に、村山総理(当時)が公式談話を発表し、日本が「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と述べ、「痛切な反省の意」と「心からのお詫びの気持ち」を表明し、また、1998年に、小渕総理(当時)が、日本を公式訪問した江沢民主席に対して、村山談話を再確認している。」  
2000年8月30日 - 河野洋平外務大臣。「私は、歴史認識については、戦後50周年に閣議決定を経て発出された村山総理談話で我が国の考え方ははっきりしていると考えています。私も閣僚の一人として、この談話の作成に携わりましたが、これはその後の歴代内閣にも引き継がれ、今や多くの日本人の常識であり、共通の認識であると言えます。」  
2001年4月3日 - 福田康夫内閣官房長官。「因みに、我が国政府の歴史に関する基本認識については、戦後50周年の平成7年8月15日に発出された内閣総理大臣談話にあるとおり、我が国は、遠くない過去の一時期、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた事実を謙虚に受け止め、そのことについて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するというものである。こうした認識は、その後の歴代内閣においても引き継がれてきており、現内閣においても、この点に何ら変わりはない。」  
2001年9月8日 - 田中眞紀子外務大臣。「日本は、先の大戦において多くの国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えたことを決して忘れてはおりません。多くの人々が貴重な命を失ったり、傷を負われました。また、元戦争捕虜を含む多くの人々の間に癒しがたい傷跡を残しています。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、1995年の村山内閣総理大臣談話の痛切な反省の意及び心からのお詫びの気持ちをここに再確認いたします。」  
2001年10月15日 - 小泉純一郎首相。「日本の植民地支配により韓国国民に多大な損害と苦痛を与えたことに心からの反省とおわびの気持ちを持った。」  
2001年 - 小泉純一郎首相。「いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ、おわびと反省の気持ちを踏まえ、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えるとともに、いわれなき暴力など女性の名誉と尊厳に関わる諸問題にも積極的に取り組んでいかなければならないと考えております…。」  
2002年9月17日 - 小泉純一郎首相。「日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した。」  
2003年8月15日 - 小泉純一郎首相。「また、先の大戦において、我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。国民を代表して、ここに深い反省の念を新たにし、犠牲となった方々に謹んで哀悼の意を表します。」  
 
2005年4月22日 - 小泉純一郎首相。「我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受けとめ、痛切なる反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ、我が国は第二次世界大戦後一貫して、経済大国になっても軍事大国にはならず、いかなる問題も、武力に依らず平和的に解決するとの立場を堅持しています。……」  
2005年8月15日 - 小泉純一郎首相。「また、我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します。……我が国の戦後の歴史は、まさに戦争への反省を行動で示した平和の六十年であります。……とりわけ一衣帯水の間にある中国や韓国をはじめとするアジア諸国とは、ともに手を携えてこの地域の平和を維持し、発展を目指すことが必要だと考えます。過去を直視して、歴史を正しく認識し、アジア諸国との相互理解と信頼に基づいた未来志向の協力関係を構築していきたいと考えています。」  
 
2007年4月28日 - 安倍晋三首相。「慰安婦の問題について昨日、議会においてもお話をした。自分は、辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情するとともに、そうした極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ないという気持ちでいっぱいである、20世紀は人権侵害の多かった世紀であり、21世紀が人権侵害のない素晴らしい世紀になるよう、日本としても貢献したいと考えている、と述べた。またこのような話を本日、ブッシュ大統領にも話した。」(日米首脳会談後の記者会見にて)  
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2010年8月10日 - 菅直人首相。「私は、歴史に対して誠実に向き合いたいと思います。歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さを持ち、自らの過ちを省みることに率直でありたいと思います。痛みを与えた側は忘れやすく、与えられた側はそれを容易に忘れることは出来ないものです。この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」 

 
 
● Statement by Prime Minister Tomiichi Murayama  
"On the occasion of the 50th anniversary of the war's end"  
   (15 August 1995)  
The world has seen fifty years elapse since the war came to an end. Now, when I remember the many people both at home and abroad who fell victim to war, my heart is overwhelmed by a flood of emotions.  
The peace and prosperity of today were built as Japan overcame great difficulty to arise from a devastated land after defeat in the war. That achievement is something of which we are proud, and let me herein express my heartfelt admiration for the wisdom and untiring effort of each and every one of our citizens. Let me also express once again my profound gratitude for the indispensable support and assistance extended to Japan by the countries of the world, beginning with the United States of America. I am also delighted that we have been able to build the friendly relations which we enjoy today with the neighboring countries of the Asia-Pacific region, the United States and the countries of Europe.  
Now that Japan has come to enjoy peace and abundance, we tend to overlook the pricelessness and blessings of peace. Our task is to convey to younger generations the horrors of war, so that we never repeat the errors in our history. I believe that, as we join hands, especially with the peoples of neighboring countries, to ensure true peace in the Asia-Pacific region -indeed, in the entire world- it is necessary, more than anything else, that we foster relations with all countries based on deep understanding and trust. Guided by this conviction, the Government has launched the Peace, Friendship and Exchange Initiative, which consists of two parts promoting: support for historical research into relations in the modern era between Japan and the neighboring countries of Asia and elsewhere; and rapid expansion of exchanges with those countries. Furthermore, I will continue in all sincerity to do my utmost in efforts being made on the issues arisen from the war, in order to further strengthen the relations of trust between Japan and those countries.  
Now, upon this historic occasion of the 50th anniversary of the war's end, we should bear in mind that we must look into the past to learn from the lessons of history, and ensure that we do not stray from the path to the peace and prosperity of human society in the future.  
During a certain period in the not too distant past, Japan, following a mistaken national policy, advanced along the road to war, only to ensnare the Japanese people in a fateful crisis, and, through its colonial rule and aggression, caused tremendous damage and suffering to the people of many countries, particularly to those of Asian nations. In the hope that no such mistake be made in the future, I regard, in a spirit of humility, these irrefutable facts of history, and express here once again my feelings of deep remorse and state my heartfelt apology. Allow me also to express my feelings of profound mourning for all victims, both at home and abroad, of that history.  
Building from our deep remorse on this occasion of the 50th anniversary of the end of the war, Japan must eliminate self-righteous nationalism, promote international coordination as a responsible member of the international community and, thereby, advance the principles of peace and democracy. At the same time, as the only country to have experienced the devastation of atomic bombing, Japan, with a view to the ultimate elimination of nuclear weapons, must actively strive to further global disarmament in areas such as the strengthening of the nuclear non-proliferation regime. It is my conviction that in this way alone can Japan atone for its past and lay to rest the spirits of those who perished.  
It is said that one can rely on good faith. And so, at this time of remembrance, I declare to the people of Japan and abroad my intention to make good faith the foundation of our Government policy, and this is my vow.