「さっさと死ねるように」新しい死生観にチャレンジ

少子高齢化 家族の崩壊 孤独死 
増して回復の望めない病に  
ただただ生き続けさせることだけが幸せか 
 
麻生副総理 無責任な世論・マスコミに臆せず 
新しい死生観創りにチャレンジしてください 
 
どういう死に方が「幸せ」か 選択の道が昔の文化にありました 
現代版 死と向き合う選択の道を構築しましょう
 


「さっさと死ねるように」 2013/1/21  
麻生太郎副総理兼財務相は21日開かれた政府の社会保障制度改革国民会議で、余命わずかな高齢者など終末期の高額医療費に関連し、「死にたいと思っても生きられる。政府の金で(高額医療を)やっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない」と持論を展開した。また、「月に一千数百万円かかるという現実を厚生労働省は一番よく知っている」とも述べ、財政負担が重い現実を指摘した。
  
  
  
  
  
  
 
●麻生太郎氏、高齢者医療に関する「さっさと死ねるように」発言の真意を語る
2013年1月21日、麻生太郎副総理兼財務相(当時)が政府の社会保障制度改革国民会議で、高齢者療費の問題に関して、「死にたいと思っても、『生きられますから』なんて生かされたんじゃかなわない。しかも政府の金でやってもらっていると思うとなるとますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないと」と述べたと報道されました。それに対し麻生氏は同年2月20日の参議院予算委員会で発言の真意を語りました。高齢者医療については厚労省が検討を進めており、再びこの発言に注目が集まっています。
「さっさと死ねるようにしてもらわないと」発言が報道され話題に
梅村聡氏(以下、梅村) それから次の話題にいきたいと思いますが、昨年の7月25日にも私、一体改革の特別委員会で少し取り上げたのですが、尊厳死の問題というのを考えていきたいと思います。
まず1月21日の社会保障制度改革国民会議で麻生大臣がですね、私これ決して責めるつもりはないんですが、マスコミ報道でこの終末期医療に関して、ちょっと新聞報道を読み上げさせていただきますね。
「いい加減死にたいと思っても、『生きられますから』なんて生かされたんじゃかなわない。しかも政府の金でやってもらっていると思うとなるとますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないと」と述べたと。
「私は少なくとも遺書を書いてそういうことをしてもらう必要はない。『さっさと死ぬから』と書いて渡しているが、そういうことができないと死ねません」と述べたと。こういう報道がなされました。
確かに言葉遣いはちょっと乱暴なところはあるかと思いますし、それからお金の問題と絡めたというのはちょっと不適切だったかなと思います。
それから発言した場所が国民会議だったこともいろいろな議論があるかと思いますが、しかし問題はマスコミの皆さんがこのことを速報で伝えたと。本来このことが、一体どういうことが根底の問題としてあって、私は本来この発言からいろいろ国民的な議論が広がっていけばよかったのになと、そう思っていますよ。
だからこの新聞の後に、「野党が問題にする可能性がある」という丁寧な解説もありましたが、私は全然問題にするものではなくて、むしろこの発言から終末期医療のあり方、あるいはどういう形で個人が自分の終末期を過ごす自己決定を実現していくのか。そのことが大事だと思いますので、麻生大臣、あらためてこの発言の真意を少しお話いただけたらと思います。
麻生氏が祖母のエピソードとともに真意を語る
麻生太郎氏(以下、麻生) 誤解を生むような発言をいたして大変申し訳なかったと思っておりますが、私の家に親父のお袋ですけど、16で嫁に来て、24で後家、4人の子どもをそれぞれ育てて、子どもやなんかのほうが先に亡くなり、自分は91で亡くなったんですけど。
病院に行かず、最後は12月31日、大晦日の日、年越しそばをとって「医者を呼んでくれ」と。医者が来て、帰るときには「長くお世話になりました」とその医者に挨拶をし、2時間後に曾孫は「おばあちゃんが冷たい」と。行ったら亡くなっていた。
これは我が家の実態経験です。私のお袋が嫁ですけども、嫁をして「私もあんな上手いこと死にたいわ」と。これ我が家の全員の実感だったんです。正直なところ、侍の娘で育ったせいもあるんでしょうけども、痛かったこととかもまったく言わず、後半は少し記憶力がどうかなと思わないでもありませんでしたけど、少なくとも我々としゃべるときはまったく普通にしゃべっておったのがそういう状態でありました。
私のところは親父が一番最初に亡くなりましたので、私は喪主を3回くらいやったんだと思いますけど、3〜4回やったと記憶しておりますが、そういった中にあってやっぱり人間っていうのは、私も72ですけども、そろそろあっちのほうに近くなってきていますので、やっぱりそこに行くときの行き方として、なんとなく尊厳を持って、これまでの人生を振り返って静かに死なせてもらいたいなというのが私の率直な気持ちでした。
「あくまで私の個人の見解というか、人生観みたいなもの」
そのかたわら、私は(質問者である梅村聡)先生と同じで病院をやっていますから、現場を知らないわけではありませんので、その意味では病院のところにおけますといろいろな家族の難しい話もいっぱい見る立場にありましたので、そういった中を考えたときに実に複雑な心境でありましたので、私自身はぜひ「そういった気持があるので」と言ってきちんとその話を伝えるというか、あくまで私の個人の見解というか、人生観みたいなものだったんですけど。
言った場所が言った場所、書いた人が書いた人だったものですから、先生が仰ったとおりまったく別の方向に話がいったので、こういうようなことになるんだったら、全然意味が違いましたので、「この言葉は取り消させていただきます」と言って、その言葉を取り消させていただいたというのがその背景であります。
梅村 今日の麻生大臣の発言をぜひ新聞は書いていただきたいと思いますね。その真意というものをね。で、この中で麻生大臣、「遺書を書いて渡してある」と仰っていましたが、遺書はどういう形で渡していますか。それは実現されそうですか。
麻生 少なくとも個人のことではありますので内容を全部言うつもりはありませんけど、尊厳死の宣言書というのはこういったリビングウィルのこの種の話とは違って、一応筆で書いてあります。それだけです。
尊厳死や高齢者医療は国民的に議論していくべき問題
梅村 実は国民みんながこのことを個人では思っておられるんですね。最後の自らの終末期、そこは尊厳を持ってできるだけ苦痛がないように過ごしたい。というのはみんなが思っていること。だけどそれを例えば国会ですとか、あるいは政治家の発言となってくると、真意を違うような報道がなされてしまって、結局はその議論をすること自体がタブーになってしまっている。
実は私も今日ここで予算委員会でこのテーマを出すことに関してはある意味で戸惑いもありますし、言い方をひとつ間違えればいろいろな人を傷つけることになると。ですから慎重に考えないといけないんですが、一方でこの議論を国会やあるいはいろいろなところで国民的に議論していくことが大事なんだと思います。  
 
●安倍首相「尊厳死の仕組み考えたい」=参院予算委 2013/2/20
20日午前の参院予算委員会で終末期医療での「尊厳死」が取り上げられ、安倍晋三首相は「尊厳をもって人生を終えることができ、医師も安心して対応できる仕組みを考えていきたい。大切なのは医療費との関連で考えないことだ」と語った。
終末期医療をめぐっては、麻生太郎副総理・財務相が1月に「政府のお金でやってもらうのは寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしないと」と発言。批判を受けて撤回した経緯がある。
医師でもある民主党の梅村聡氏が「麻生氏の言葉遣いは乱暴で、金と絡めたのは不適切だったが、国民的な議論は大事だ」と指摘。麻生氏は「尊厳をもって静かに死なせてほしいという率直な気持ち、私の人生観(を言いたかった)」と改めて釈明した。 
 
●麻生副総理の発言 今こそ終末期医療を考える 死の教育の必要性
社会保障制度の在り方を議論する場で21日、財務相を務める麻生太郎副総理が終末期医療をめぐり「さっさと死ねるようにしてもらわないと」と発言した。間もなく撤回したものの、医療費削減の思惑がにじむ。専門家からは「乱暴だ」と批判の声が上がった。
「『お金がもったいないから、早く死にたい人は死んでもらいなさいよ』という非常に乱暴な言い方。終末期医療を全く理解していない」。東大死生学・応用倫理センターの会田薫子(あいた・かおるこ)特任准教授(医療倫理学)はこう指摘する。
その上で「医療費のことを先に持ち出すと、議論の中で何が大切か分からなくなる。望ましい社会保障をどうつくっていくか議論するのが先のはずだ」と話した。
終末期医療に詳しい別の専門家は、厚生労働省が2005年に公表した推計で、死亡前1カ月にかかる「終末期医療費」が年間約9千億円とされたことを踏まえ「年間10兆円規模の高齢者医療費の10%前後で、一般の人が思っているほどウエートは高くない」と指摘した。

今回の麻生さんの発言、いつものべらんめいで、言っている事は自分の希望、かつ終末期医療というみんなが今後絶対考えなければそして解決しなければならない問題を見事に提案しています。(これが計算ならすばらしい。でも撤回したから違うでしょうね)
そこにマスコミの削除改竄。「自分の希望を言うと...」が見事に削除されています。ネットでもすぐに流れていたため、いまのところこれ以上のマスコミバッシングはないようです。
ちなみに新聞はよくこの削除法(いいとこだけとる)を使います。イラクの時、自衛隊医官が『恐怖を感じた。(しかし訓練していたので冷静に対応した)』と答えたら見事に後半削られました。帰って来て上司に怒られたそうです。
今回この記事に出てきた2人の専門家。一人は実名ですので調べてみました。
会田 薫子(あいた かおるこ)さん。例の東大特認準教授の肩書きです。(今回論文は全て査読ありと森口さんとは違うとしています。)
看護師さんで、「高齢者ケアに関する意思決定プロセス研究班」(胃ろうを決定するのにどのような思考過程を患者と家族はとるのがいいかがテーマのようです)の班員と記されています。あと2人は哲学者と診療所の医師です。
記事の文章が短すぎるですので不明ですが、現実性をどこまで考えていらっしゃるのかと思ってしまいます。コメントは学者としての理想を話されています。専門家であれば理想論ではなく対案も欲しいです。
もう一人の専門家、「9000億円という額はウエートは高くない」と述べています。こんな人に終末期医療の研究予算を付けているのなら 即刻返還させてもらいたい。あなたには10万円だって高い。
終末期医療が現場でどのようになっているのか。どれだけの無駄があるのか。このことを知らないで机上の空論を宗教的、倫理的に正しいと言っても無意味です。ましてや今の無駄の部分も大した事がないという専門家を私は認めません。
この明らかな無駄と思われる部分を排除して、それでもなお無駄な終末期医療をおこないたいという方には健康保健からはずれても構わないというような施策が必要です。
宗教的、倫理的な概念は、死を教育しなければなりません。日本人はこの死の教育が全くされていません。それを全くやっていないのに今すぐに議論もせず、タブーだと言論を封じ込める事はなんの進歩も生みません。
ただ私は政治家麻生さんのファンですが、できれば挙げ足をとられないようにもう少しお気をつけていただければと思います。 
  
●尊厳死、自然死ブームの裏側にあるもの
  胃ろうは本当にムダな医療なのか?
「胃ろうしてまで生きたくない」「無駄な延命措置はしてほしくない」。日常の会話の中でも、こうした言葉を聞くことが多くなった。
やがて訪れる人生の終末期に、自分はどのような医療を受けたいか。6月27日、厚生労働省が発表した「人生の最終段階における医療に関する意識調査」によって、終末期に国民が望む医療の姿が明らかになった。
がん、認知症、心臓病になったら 胃ろうを望まない人は7割超
同調査は、無作為に抽出した20歳以上の男女5000人に郵送で調査を依頼し、44%の2179人から回答を得たものだ。がん、心臓病、認知症、交通事故で回復の見込みがなくなった場合に、どこで過ごしたいか、どのような医療を希望するかなどを調査している。
病気ごとに質問項目は若干異なるが、全体的に、肺炎になったときの抗生剤、水分補給の点滴は望むが、鼻や胃からの経管栄養、人工呼吸器の使用、心臓マッサージなどの蘇生処置は望まない人が多いようだ。
とくに、胃ろうを望まない人は多く、次のような結果となっている。
同調査では「事前指示書」についての質問もある。認知症などになって自分で物事の判断がつかなくなったときに備えて、元気なうちに終末期の治療方針を書き残しておくことに、69.7%の人が賛成と答えている。
だが、実際に作成しているのは、賛成と答えた人のわずか3.2%。つまり、9割以上の人は終末期の医療について明確なイメージを持っているわけではなさそうなのに、なぜか胃ろうについては望まない人が7割を超えているのだ。
死まであと数日となったとき、胃ろうによる経管栄養を拒否するのは分からないでもない。だが、今回の質問は、がんや心臓病では意識がはっきりしており、認知症も衰弱しているという段階だ。それでも望まない人が多いのは、胃ろうに対する誤解もあるのではないだろうか。
いったん胃ろうを取り付けても 適切なケアを受ければ外せることも
胃ろうは、お腹に開けた穴にチューブを通し、直接、胃に食べ物を流しこむ方法で、脳卒中や認知症、ALS(筋萎縮性側索硬化症)などで口から食事ができなくなったり、食べるとむせて肺炎を起こしやすい人などに取られる医療的な措置だ。
たしかに、一度、胃ろうを作ると亡くなるまで外せない人も多い。しかし、脳梗塞などで口や喉を動かす神経が麻痺した場合などは、いったん胃ろうを作っても、食べ物を飲みこむリハビリをしたことで再び口から食べられるようになっている人もいる。
また、数年間、胃ろうを装着していた認知症患者が、唾液腺のマッサージなどの口腔機能訓練を行い、適切な義歯(入れ歯)を装着して歯磨きするようになったら口から食事ができるようになったケースもある。
胃ろうについての情報提供を行うNPO法人PEGドクターズネットワークの「認知症患者の胃ろうガイドライン作成調査」(2011年3月)によれば、認知症患者が胃ろうをつけたことで、生活の自立度が改善したり、胃ろう増設後も口から食事ができるようになった人もいることが報告されている。
胃ろうは装着したら、誰もが二度と外せないものではなく、正しい医療やケアが行われれば外せることもあるのだ。
栄養を取り入れなければ、確実に身体は弱っていく。体力を回復するためにも胃ろうは有効な手段で、使用することで元気になっている人もいる。早い段階で適切な医療を受ければ、健康を取り戻して日常生活に戻れるかもしれないのに、そうしたチャンスを得られなかったからこそ、「終末期」になってしまった人もいるのではないかという疑問も湧く。
そうした個別の状況を知らされないまま、自分が見聞きしただけの乏しい知識の中で、なんとなく「胃ろうしてまで生きたくない……」と思っている人は案外多いのではないだろうか。
胃ろうをつけないと思っても いざとなったら揺らぐのが当然
死は、生の連続の先に訪れるものだ。いつからが終末期なのかを明確に示すことなどできない。であるならば、「高齢だから」「認知症だから」といったことで提供する医療を決めていいのだろうか。
本当に患者の尊厳を考えるなら、その時々の症状に合わせて、胃ろうや人工呼吸器の装着も含めて必要な治療を考え、家族の思いや本人の希望なども総合的に判断し、治療方針を決めていくのが筋だろう。
そうした経過を経て、胃ろうをつけないといった判断が出てきたのなら、それもひとつの答えだ。
だが、元気なときに、自分の死を正確にイメージできる人はまずいない。当然だ。今、この世で生きている全ての人が死の未経験者なのだから。胃ろうをつけたいか、つけたくないか。本当の気持ちは、実際にその場になってみなければ分からないはずだ。
人の気持ちは揺らぐものだ。元気なうちは「胃ろうをしてまで生きたくない」と思っていても、いざ、その時がきたら「胃ろうしても生きたい」と気持ちが変わるかもしれない。
「胃ろうをつけてまで生きたくない」と思ったのは、あくまでも元気なときの自分だ。病気になったら心変わりしても悪いことではない。
だが、今の流れでは、指示書を書かせて言質をとって「あなたは積極的な治療を望まなかったですよね。だから治療は差し控えますよ」という方向に持っていかれそうで心配だ。
それを象徴するのが、今年1月の社会保障国民会議での麻生太郎副総理の「さっさと死ねるように」発言だ。人権を無視した心無い言葉に批判が起こり、その後、麻生さんは発言を撤回したが、世間では彼に同調する声も多かった。
「無駄な」延命措置を拒否するという尊厳死協会に入る人も、いまや約12万5000人にもなっている。協会が目的としているのは、尊厳死を法制化することだ。法制化に向けて、超党派による議員連盟の動きも活発だ。
その裏にあるのは国の経済事情だろう。
患者に一筆書かせて「さっさと死ねる」社会へ
2010年に119.2万人だった年間死亡者数は、2030年には今より約40万人増えて、約160万人になると推計されている。そこで、終末期にかける医療費を削減するために、胃ろうや人工呼吸器をつけないことを患者に一筆書かせておいて、「さっさと死ねるよう」な社会にしようというわけだ。
現在は、いったん始めた人工呼吸器を途中で外すと、医師は殺人罪に問われる可能性がある。だが、法制化することで呼吸器を外しても医師は免責となり、合法的に殺人できる下地が出来上がる。
尊厳死が法制化されれば、適切な治療を行えば助かる命も、医療行為を何もしないことが良いことのように思われ、患者は次々と死の淵に立たされるかもしれない。
かつての過剰医療に対する反動なのか、自ら尊厳死、平穏死、自然死を求める人も増えているようだ。しかし、そのブームの裏側にある国の医療費削減策といった仕掛けを知っても、人々は素直に死を選ぶのだろうか。
多くの人が本当に求めているのは、「最後まで自分を大切にしてほしい」「自分らしく生きたい」という尊厳ある生を全うすることだと思う。それをさせずに、尊厳死を選べば解決するかのような喧伝は、問題のすり替えでしかない。  

 
2013/1