●仏性(ぶっしょう)
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仏の性質・本性のことで、主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理である。「覚性」とも訳される。また『法華経』では、仏種(ぶっしゅ、「仏に成る種」)、『勝鬘経』では、如来蔵(にょらいぞう)などと、さまざまな表現がされるが、基本的に仏性と同じ意義である。
仏教では、この仏性を開発し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされている。
すべての衆生が仏性を持つかどうかについての見解は宗派により異なる。
仏教は、おおむね上座部仏教(南伝仏教)と大乗仏教(北伝仏教)に二分類される。これは釈迦の滅後、根本分裂による分類である。AD100年ごろには枝末分裂が起こり、両派あわせて20前後の部派仏教が成立した。この当時の部派仏教では、誰でもが悟れるのか、あるいは一部の人しか悟れないのか、などという様々な議論が起こった。
上座部仏教では、この穢れた世界(娑婆世界、穢土)に生まれて苦しみを受けるのは煩悩によるものであると捉え、出家して厳しい戒律を保つことによって煩悩を断ち切り阿羅漢になることを目的とする。煩悩を断尽すると自然と身から火が出て消滅し二度と生じないとされる。
これに対して、大乗仏教では、阿羅漢を小乗とみなして、その上の尊格に仏を立てた。また大乗仏教の教理では、誰もが救われることを主眼に置き、出家はもちろん在家でも救われると考えられ、誰もが仏になれる可能性がある、つまり仏性があるという考えが生まれた。
初期大乗仏教の経典である『法華経』では、それ以前の経典では成仏できないとされていた部類の衆生にも二乗成仏・女人成仏・悪人成仏などが説かれた。またその後成立した『大般涅槃経』では、さらに進んで一切の衆生に仏性が等しく存在すること(一切衆生悉有仏性 - いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)が説かれた。一切衆生悉有仏性は『大般涅槃経』を特徴づけるキーワードとも言える。
しかし、さらに時代を下り、後期大乗経典であり法相宗が所依とした『解深密経』などでは、衆生には明らかに機根の差があり誰もが成仏できるわけではなく、『法華経』が一乗を説くのは能力のない衆生が意欲をなくすのを防ぐための方便である、と説いた。
天台宗の智は、五時八教の教相判釈にて、『解深密経』は『法華経』や『涅槃経』以前に説かれた方等部の経典で権大乗(仮に説かれた方便の教え)であり、『法華経』に導く手前の教えとした。なお、天台宗では、一切悉有仏性として、衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに仏性があるとする考えも後世に生まれた。
なお、法相宗の徳一と天台宗の最澄の議論(三一権実諍論)において、華厳宗では天台宗側の意見を汲んで、『涅槃経』に説かれる一闡提(仏の正法を誹謗し懺悔せず否定し罪を犯す人)の成仏説などを以って、法相宗の一乗仏性方便説を否定した。つまり、奈良仏教は全体として、成仏には人によって、差別するのに対して、平安仏教は、全ての人間が成仏出来ると時(女人を除いて―真言宗でも女人結界ということがあった)、鎌倉仏教になると、女人も成仏できるというように、変化してきたといえるだろう。因みに、日本での時代的区分は、法相宗は、奈良仏教に属し、天台宗、真言宗は、平安期、浄土宗、禅宗、日蓮宗は鎌倉期になる。
したがって、仏性や一切衆生悉有仏性は、上記の通り仏教全体に共通する教義ではない。しかしながら、法相宗などの一部の宗派を除き、天台宗から派生した浄土真宗や日蓮宗、曹洞宗などでは、仏性や一切悉有仏性を積極的に説いている。また真言宗でも仏性及び如来蔵を説いている。
●三因仏性
『大般涅槃経』獅子吼菩薩品に説かれるものを智が整合し確立した、成仏のための3つの要素を三因(さんいん)仏性という。
正因仏性(しょういん) - 本性としてもとから具わっている仏性のこと
了因仏性(りょういん) - 仏性を照らし出す智慧や、その智慧によって発露(ほつろ)した仏性のこと
縁因仏性(えんいん) - 智慧として発露するための縁となる善なる行いのこと
三因仏性は通常は智の説を指す場合が多いが、世親の『摂大乗論』や『仏性論』には次の3つを説き、これを三因仏性という場合もある。
自性住仏性(じしょうじゅう) - 本性としてもとから具わっている仏性のこと
引出仏性(いんしゅつ) - 修行により引き出されて露見する仏性のこと
至得果仏性(しとくか) - 上記の2つが仏果として完成し成仏して実った仏性のこと |
●一切衆生悉有仏性1
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大乗経典の一つ『大般涅槃経』というお経に、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう」ということが説かれています。この意味は「一切の生きとし生けるものは、ことごとく仏性(仏の性質)を有している。」ということです。
さて、私は長いこと「仏性を有している」という言い方について、ちょっと勘違いしていたことに気付きました。それは、あるモノの中のどこかに仏性というものが存在していると解釈し、無意識のうちに、仏性が存在していないモノがある、と思っていたのであります。
また、「衆生」とは「生きとし生けるもの」という意味ですが、これはどうやら動植物ばかりでなく、水や空気や土や石も含まれているようです。
つまり「一切衆生悉有仏性」をそのまま解釈すると「あらゆるものは仏性だ!」ということになります。
物質の究極はクォークであるとされていますが、クォークという「モノ」が存在するならば、クォークを構成する、より小さい「モノ」が存在するハズであって、現代の物理学では、現時点ではここが限界であり、クォークより小さいものは「エネルギー」としか表現しようがないのだそうです。
物質=エネルギーとは、アインシュタインの相対性理論でも述べられていることですが、あえてエネルギー=仏性と考えると、「あらゆるものは仏性だ!」と悟られたお釈迦様ってほんとにスゴい方だと思わせられます。 |
●一切衆生悉有仏性2
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「一切衆生 悉有仏性」は涅槃経に説かれる文証です。一切衆生に悉く仏性有りと読みます。一切衆生は本来、仏性を具えているという意味です。信心をすれば、心の中に眠っていた「仏性」、仏様の命が蘇ります。
「仏性」とは、仏の性分で仏果を得るための因として一切衆生にそなわっている種子のことです。仏性は、信心から離れ、御本尊様から遠ざかると心の奥深く、唯識で説く九識に隠れてしまいます。隠れた仏性は、勤行唱題によって蘇ります。世の中の多くの人は、発心しないために仏性は眠っています。そのために迷い悩みを繰り返しています。信心は迷い悩みといった心の悪循環を、仏性を蘇らせて循環よくさせます。仏性が心の悪循環をスムーズにし楽しい人生を送る性分になります。この仏性が常に持続されていれば、迷いや悩みが現れても人生が暗くなることはありません。
日蓮大聖人は『聖愚問答抄』に、
「所有(あらゆる)一切衆生の備ふる所の仏性を妙法蓮華経とは名づくるなり。されば一遍此の首題を唱へ奉れば、一切衆生の仏性が皆よばれて爰(ここ)に集まる時、我が身の法性の法報応(ほっぽうおう)の三身ともにひかれて顕はれ出づる、是を成仏とは申すなり」(御書406)
と仰せであり、御題目の南無妙法蓮華経を唱えることが仏性を呼ぶ方法であります。仏性が出るようにとあまり意識せず、自然体で心を落ち着かせて御題目を唱えることが大切です。
『三世諸仏総勘文教相廃立』に、
「然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して、値ひ難き善知識の縁に値ひて五仏性を顕はさんこと、何の滞(とどこお)りか有らんや」(御書1426)
と御教示であります。仏性には「五仏性」と説かれるように、五つの仏性があります。仏になる五つの因果の性です。正因仏性・了因仏性・縁因仏性という三因仏性に、果性・果果性を加えて「五仏性」とします。
正因仏性(しょういんぶっしょう)が、全ての事物・事象が本来具えている仏性。
了因仏性(りょういんぶっしょう)が、本有の仏性を照らしあらわす智慧。
縁因仏性(えんいんぶっしょう)が、智慧を起こす縁となる行法。
果性(かしょう)が、菩提の果。
果果性(かかしょう)が、涅槃の果。菩提の智をもって涅槃を証する故に果の果といいます。
以上の仏性は、朝夕の勤行唱題と寺院参詣、総本山への登山によって心に隠れた仏性を確実に蘇らせ実らせます。更に折伏で周囲の人の隠れた仏性を、御授戒を受けることで蘇らせる一歩を踏むことが出来ます。
「一切衆生」とは、人間だけではなく有情と非情にわたって仏性が存在するのであります。一切衆生に仏性が隠れていますから、決して外見で人を判断するのではなく、仏性があることを尊び人間付き合いをしていきましょうという教訓が「一切衆生 悉有仏性」であります。
故に不軽菩薩の一切衆生を尊ぶ布教精神に繋がります。日蓮正宗の折伏は、相手を見下すのではなく「一切衆生 悉有仏性」を心得、一切衆生の恩や仏性があることを敬いつつ正法への帰伏を促していきます。 |
●「涅槃経」光明遍照高貴徳王菩薩品第十
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●甚深微密蔵 / 一切衆生悉有仏性
「爾の時、世尊は、光明遍照高貴徳王菩薩摩訶薩に告げて言(のたま)わく、善男子よ、若し菩薩・摩訶薩の有りて是くの如き大涅槃經を修行すれば、十事の功徳を得ん。」
「所謂、甚深微密の藏なり。一切衆生に悉く佛性有り。佛・法・衆僧は差別の有ること無し。三寶の性の相は常・樂・我・淨なり。一切諸佛は畢竟じて涅槃に入ることの有ること無しというは、常住・無變なるなり。如來は涅槃にして、非有・非無。非有爲・非無爲。非有漏・非無漏。非色・非不色。非名・非不名。非相・非不相。非有・非不有。非物・非不物。非因・非果。非待・非不待。非明・非闇・非出・非不出。非常・非不常。非斷・非不斷。非始・非終・非過去・非未來・非現在。非陰・非不陰。非入・非不入。非界・非不界。非十二因縁・非不十二因縁なり。是等の如き法は甚深微密にして、昔所に聞かずして而かも能く聞くを得る。復た聞かざること有るは、所謂一切の外道の經書たる四毘陀論・毘伽羅論・衞世師論・迦毘羅論と、一切の呪術・醫方・伎藝と、日月博蝕星宿運變の圖書・讖記(しんき)との是等の如き經なり。初めより未だ曾(か)って聞かず。祕密の義は今此の經に於いて之を知るを得る。復た十一部經の有りて毘佛略を除きて、亦た是くの如き深密の義の無し。今此の經に因(よ)りて之を知るを得る。善男子よ、是れを聞かずと名づけて而かも能く聞くを得る。聞き已わりての利益というは、若し能く是の大涅槃經を受けて聽けば、悉く能く具(つぶさ)に一切の方等・大乘經典の甚深なる義味を知らん。譬えば男女の明淨なる鏡に於いて其の色像を了了と分明に見るが如し。大涅槃の鏡も亦た復た是くの如し。菩薩は之を執りて悉く大乘經典の甚深の義を明らかに見るを得る。」
●一闡提に仏性は有るか
「一闡提の人・犯四重禁・作五逆罪・謗方等經、是等の如き輩に佛性の有り耶(や)、佛性の無し耶。是の經を聽く者は是等の如き疑いを悉く永斷するを得る。」
「善男子よ、菩薩・摩訶薩は是くの如き大涅槃經を修行して、諦(あき)らかに菩薩は無量刧より兜率從(よ)り神母の胎に降りず、乃至拘尸那城にいたるまで般涅槃に入らざると知る。是れを菩薩・摩訶薩の正直の見と名づく。能く如來の深密の義を知るというは、所謂即ち是れ大般涅槃の一切衆生悉有佛性なるなり。四重禁を懺(さん)じ、謗法の心を除き、五逆罪を盡くし、一闡提を滅して、然る後に阿耨多羅三藐三菩提を成ずるを得る。是れを甚深祕密の義と名づく。」
「善男子よ、一切の聲聞・縁覺は經の中において、曾って佛に常・樂・我・淨の有りて畢竟じて滅せずと聞かず。三寶と佛性とに差別の相無し。犯四重罪・謗方等經・作五逆罪と及び一闡提とに悉く佛性有り。今、此の經の於いて聞くを得る。是れを聞かずして而かも聞くと名づく。」
「善男子よ、一闡提の者は亦た不決定なり。若し決定なれば是れ一闡提は終に阿耨多羅三藐三菩提を得ること能わず。不決定を以って是くの故に能く得る。汝の所言の如く佛性は不斷なり。云何んが一闡提は善根を斷ずるや。善男子よ、善根に二種有り。一は内なり。二は外なり。佛性は内に非らず外に非らず。是くの義を以っての故に佛性は不斷なり。復た二種の有り。一は有漏なり。二は無漏なり。佛性は有漏に非らず無漏に非らず。是くの故に不斷なり。復た二種の有り。一は常なり。二者は無常なり。佛性は常に非らず無常に非らず。是くの故に不斷なり。若し是れを斷ずる者は則ち應さに還(か)えりて得るべし。若し還えりて得ずば則ち不斷と名づく。若し斷じ已わりて得れば一闡提と名づく。犯四重の者も亦た是れ不定なり。若し決定なれば、犯四重禁は終に阿耨多羅三藐三菩提を得ること能わず。謗方等經も亦た復た不定なり。若し決定なれば、謗正法の人は終に阿耨多羅三藐三菩提を得ること能わず。作五逆罪も亦た復た不定なり。若し決定なれば、五逆の人は終に阿耨多羅三藐三菩提を得ること能わず。色と色相とは二つ倶(とも)に不定なり。香・味・觸の相は相を生ずるに、無明の相に至るまで陰・入界の相・二十五有の相・四生乃至一切の諸法にいたるまで、皆な亦た不定なり。」
● 上記の経文においては、本品における重要な教説である「一切の諸法は不決定である」ということが説かれている。「不決定」とは、他に縁らないでそれ自体として有する存在性や相(性質)は無いということである。諸法には実体・自性・本性が無いということであり、空無我・縁起との大乗仏教の基本教説である。一闡提の救済可能性、阿耨多羅三藐三菩提を得る可能性について、先の「梵行品第八」においては仏の大慈悲に由り一闡提が回心して一闡提ではなくなって救済されることが説かれていたが、本品においては「一切諸法不決定」の教説により一闡提に救済の可能性があることが説かれるのである。本品においては一闡提にも他の極悪人にも、「決定」つまり実体・自性・本性としての変化しない固定的な存在性や性質を認めないのである。一闡提に限らず他の極悪人も、もし決定があれば阿耨多羅三藐三菩提を得る可能性は全く無く、永久に極悪人のままでいることになるが、本品ではそのような見解は否定される。一闡提も他の極悪人も、不決定であるが故に阿耨多羅三藐三菩提を得る可能性が有ると説かれるのである。もし「決定」つまり実体・自性・本性としての変化しない固定的な存在性や性質があれば、極悪人に限らず一切衆生には阿耨多羅三藐三菩提を得る可能性は全く無いことになり、仏道というものが意味をなさないことになる。「涅槃経」において、これまで厳しく糾弾されて絶対に助からないとまで説かれた一闡提をはじめとする「難治の三機」は、他の衆生とは異なる特殊な存在ではなく、一切衆生が「一切諸法不決定」ということにおいては同じなのである。大乗仏教の不決定つまり空無我の教説は、見る人によってはニヒリスティックな、否定的なマイナスのイメージの教えのように思えるであろうし、あるいは無機質な哲学的教説のように思えるであろうが、実は空無我であるが故に衆生が救済されて阿耨多羅三藐三菩提を得る可能性が開かれているのである。「空であるが故に一切が成就する」とは龍樹の「中論」の言葉であるが、もし空でなければ何も成就しない死んだ世界しか有り得ないことになる。ただし一切が成就する、阿耨多羅三藐三菩提を得ることが成就すると言っても、それは否定を通しての成就である。不決定・空というところに否定の作用がある。否定無しに自我を肯定・固執しているうちは迷いのさ中にあり、阿耨多羅三藐三菩提への道は開かれてこない。
● 上記の経文において重要な点は、「一切衆生悉有仏性」と説かれる仏性について、
仏性は不断なり。と説かれているが故に、仏性という何か固定的な「もの」が有るように感じられるかも知れないが、すぐ後でそのような誤解を破るために、
・仏性は有漏に非らず無漏に非らず。
・仏性は常に非らず無常に非らず。
と矛盾的な教説が説かれていることである。従って一闡提をはじめとする極悪人に初めから仏性が有るか無いかなどと、有無を論じること自体が大乗にそぐわないのである。
「涅槃経」の主要テーマの一つである一闡提の救済可能性の問題は、「梵行品第八」においては仏の大慈悲に由り一闡提が回心して一闡提ではなくなって救済されることが説かれ、本品においては「一切諸法不決定」の教説により一闡提に救済の可能性があることが説かれた。親鸞聖人が「現病品第六」における「難治の三機」の経文を、救済可能性は無いと記されている原典に反してまで、仏による救済可能性が有ると読み換えられた理由は、その箇所に記述されているだけの意味で解さずに経典全体の本意を読み取られて、その本意に即して解されたからであろう。また、この事は祖聖がいかに「涅槃経」を重んじられていたかを示すものであろう。「現病品」の「難治の三機」の経文を読み換えなければ、その経文だけが一人歩きをして、難治の三機は絶対に助からないとの主張の根拠とされることを危惧されて、経典全体の本意に即した読み換えをされたと思われるのである。 |
●正法眼蔵 |
●仏性
『正法眼蔵』七十五巻本の第三が「仏性」巻である。この巻は『正法眼蔵』にあっては「行持」巻に次いで長く、道元禅師の仏法の言わば一つの頂上のような巻だと言われている。
酒井老師によれば、『正法眼蔵』の七十五巻本の順序は道元禅師自ら決定されたもので、そこには明確な意味が読み取れる。従って『正法眼蔵』を読む場合、この順序で読み進めば『正法眼蔵』の大筋が理解し易いとのことである。
そもそも道元禅師は、『正法眼蔵』を只管打坐の坐禅の視点から説かれているのであるが、酒井老師によれば、まず第一の「現成公案」巻は、『正法眼蔵』全体を貫く「現成公案」の信仰を明らかにする巻であり、第二の「摩訶般若波羅蜜」巻は、「現成公案」である具体的事実を大乗の基本である「般若波羅蜜」(大自然の完全な働き)により裏付けたものである。
そして第三の「仏性」巻は、大乗仏教の最後的な経典である『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」(ありとあらゆるものは感覚による把握が不可能な尽十方界真実)の解釈を通して「現成公案」を示されたのだとされる。
因みに第四の「身心学道」巻は、現成公案の実践即ち只管打坐の坐禅を説いているが、それは既に「仏道」の項で述べた「身心学道」の当体「尽十方界真実人体」という『正法眼蔵』における最も重要な言葉によって説示されている。
さて「仏性」巻は、冒頭に上述の『涅槃経』の「一切衆生、悉有仏性。如来常住、無有変易(ヤク)」というまさに「正伝の仏法」を表現する語句を掲げている。
つまり、ありとあらゆるものが尽十方界(宇宙・大自然)の真実であり、人間の感覚では把握出来ない絶対的な事実であることを述べている。
そして『御抄』は、この巻を便宜的に十四段に区分しているが、始めの一、二段が特に重要である。第一段で「一切衆生悉有仏性」の解釈を通じて仏性の本質を述べると共に、第二段で『涅槃経』の「仏性の義を知らんと欲オモはば、當に時節の因縁を観ずべし。時節若し至れば、仏性現前す」という言葉を引用して、仏性の実態を詳細に述べている。
また第三段以下は、多くの公案を挙げて仏性の在り方が説かれているが、その中で特に「無仏性」の問題を取上げている。更に看話禅の「無字の公案」でも有名な「狗子還有仏性也無」(狗子に還って仏性有りや也(マタ)無しや)という「趙州狗子の公案」についても明らかにされている。
なお「一切衆生悉有仏性」については以下に説明するが、「如来常住無有変易」(如来は常住にして変易(ヤク)有ること無し)ということについては、この巻では特に触れられていないので、簡単に説明すると、「尽十方界(宇宙・大自然)は刻々様相が変わっても、尽十方界が活動し続けていること自体は変化が無い(全体が真実)」ということである。
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●仏性の意義
●(1)一切衆生悉有仏性
さて上述のとおり、「仏性」巻の冒頭は「一切衆生、悉有仏性。如来常住、無有変易」の語を掲げて、まさに正伝の仏法はこの言葉に尽くされていると説示している。
そこで「仏性」とは、「仏は性なり」「性は仏なり」であり、「仏」も「性」も所謂「心」と同義であるから、端的に言えば、これらの言葉と同じく「尽十方界真実」のことである。
即ちありとあらゆるものが宇宙・大自然の活動の様相であり、真(の事)実であるということである。
因みに岩波仏教辞典によれば、仏性とは「衆生が本来有しているところの仏となる可能性」であると仏教教学の説を引用しているが、勿論道元禅師の解釈はそのようなものではない。
例えば『涅槃経』(十三巻)に「真実と云うは即ち如来なり、真実とは即ち虚空(手応えなし)なり、虚空は即ち真実なり、真実とは即ち仏性なり、仏性とは即ち真実なり」とある。
また同経に「仏性」は「金剛三昧」「獅子吼三昧」「首楞厳(シュリョウゴン)三昧」「般若波羅蜜」等と同義であると説かれていることから、仏性というものが少なくとも辞典的解釈とは異なることが分る。
更に『大智度論』は、「仏性とは第一義空なり、第一義空は諸法実相と名づく。諸法実相は無愛無著なり」と説いている。「無愛無著」とは、「愛著」即ち自我が無い本来の大自然の姿のことである。
さてそれでは、『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」について説明すると、まず普通は「一切衆生は悉く仏性有り」と訓むが、道元禅師はそのような日本訓み(返り点を打つ)はせず、中国訓みどおり上から下へ訓む。
即ち「一切衆生は悉有(シツウ)なり、(悉有は)仏性なり」と訓む。そしてそのような訓み方の相違は意味にも大きな相違が生じる。
つまり前者は、「一切衆生」即ち「ありとあらゆるもの」(所有主)が悉く「仏性」という「被所有物」を有している、即ち「所有関係」を想定する何か「実体的な」仏性というものを意味することになる。
ところが後者は、一切衆生は「悉有」即ち「存在している事実、生きている事実」(尽十方界真実)であり、その存在の事実が仏性(尽十方界真実)である。従ってありとあらゆるものは仏性の様相(姿)だという意味になる。
例えば発心・修行・菩提・涅槃ということも、一般教学においてはそれらの間に階梯を認めているが、道元禅師から言えば、何れも尽十方界(宇宙・大自然)の(生命)活動のその時その時の様相であり、等しく「仏性」であることに変わりがないということになる。
以上のことを、「仏性」巻の本文は、「仏性かならず悉有なり、悉有は仏性なるがゆゑに」と述べると共に、「仏性に悉有せらるる有は有無の有にあらず」と述べている。
これは仏性の活動(実際)は悉有であり、悉有は単なる概念即ち人間の自我の世界の有無ではなく、実際に生きている事実、即ち全ての物が形を努力している本来の有り方としての「有」であるということを説いている。
因みに『中論』「有無品六偈」の「若し人、有と無とを見、自性と他性とを見ること、是の如ならば、則ち仏法の真実義を見ず」と説く有・無は自我世界のそれである。
なお「悉有」即ち「ありとあらゆる存在の事実」は、「無自性」(その存在根拠をそれ自身に持たない)であり、「縁起生」(条件的生起)の「依他起」、即ちそこに生ずべき条件が出揃った時生成するものである。
要するに、「一切衆生悉有仏性」は宇宙・大自然の本来の姿、尽十方界真実を表現しているのである。従って厳密に言えば、ただ「仏性」だけを独立に抽出すべきではなく、仏性の概念の背後には「一切衆生悉有」の事実が無ければならないのである。
「仏性」巻は、また「仏性は成仏(本来の姿・尽十方界真実)よりさき(先)に具足せるにあらず、成仏よりのち(後)に具足するなり。仏性必ず成仏と同参(一緒)するなり」と述べている。
これは「一切衆生悉有」(尽十方界真実)が仏道修行者によって行ぜられる(坐禅)時、それが仏性(尽十方界真実)と言われるのであって、成仏(自我意識の放棄)以後のことであるということである。
ところで『涅槃経』以来、大乗仏教が「悉有仏性」を説いて来た理由は、諸悪の根源が人間の「劣等感」に起因することを洞察した結果、これを克服する概念として仏性を説いたとされる。(『仏性論』世親)
●(2)欲知仏性義、當観時節因縁。時節若至、仏性現前。
次に、「仏性」巻は、『涅槃経』の「欲知仏性義、當観時節因縁。時節若至、仏性現前。」(仏性の義を知らんと欲(オモ)はば、當に時節の因縁を観ずべし。時節若し至れば、仏性現前す)という言葉を取上げて参究されている。
道元禅師は、この場合においても同様に中国訓みで、「欲知は仏性の義なり。當観は時節因縁なり。時節は若至なり。仏性現前す」と訓み、「欲知」(知らんと欲はば)、「當観」(當に観ずべし)、「若至(ニャクシ)」(若し至れば)や「時節」等について説示される。
まず「欲」(おもう)は、「知」(知る)、「行」(行じる)、「説」(説く)、「見」(見る)等と同様に、人間の生命活動の或る時の状態であって、全て尽十方界真実の現れ、即ち仏性の現れである。或いは尽十方界(宇宙・大自然)の生命活動の或る時の様相である。
つまり「欲知」とは、欲知という状態(生命活動のすがた)である時の尽十方界真実人体の在り方、悉有としての在り方であり、それが「仏性の義」即ち「欲知という仏性の在り方」だということである。
また「當観」も同じく仏性の現れで、尽十方界真実人体の「観」という生命活動そのものであり、尽十方界のその時の在り方である。
次に、仏性における「時節」は、「時間」を意味しない。「時節」とはものの「真実相」(本当の姿)を表しており、「尽十方界真実人体の活動(観・知・行等)」のことを表現している。つまり全てのもののその時その時の姿のことである。
例えば『涅槃経』に「菩薩摩訶薩八正道を修して平等心(自我でものを観ることなし)を得る、このときに観る(真実相を知る)ことを得る」という言葉があるが、「このときに観る」ということは、「時節を観る」即ち「真実相を知る」ということである。
従って「時節因縁」ということは、「悉有」の姿、即ち尽十方界真実を修行(実践)している時の様相であり、「平常底」の「生命活動」即ち仏性そのもののことである。
最後に「若至」とは、「若し〜であれば〜でありたい」と未来を現在時点で考える現在の生命活動であり、現在時点における尽十方界真実人体の在り方である。即ち「若至」という「時節因縁」(真実相)である。
つまり我々は「悉有」即ち「仏性」によって生かされており、悉有即ち仏性は常に「現在」であり、「過去」や「未来」は、あくまで現在時点の人間の生命活動における自我意識であるに過ぎない。
「仏性」巻は、「時節若至は、十二時不空過なり。若至は既至といはんがごとし。時節若至すれば、仏性不至なり」と説いている。
つまり十二時(一日)のどの時間も、「不空過」即ち時節因縁の時節(真実相)でないものはなく、何時でも時節(真実相)である。この意味から大智禅師は『十二時法語』で「何時でも疎かに出来ない」ことを説いている。故に「若至」は「既至」(既に至る)ということが出来るのである。
従って「時節若至」即ち「何時でも真実の姿」であるから、「仏性不至」即ち年百年中仏性でない時は無い。常に仏性(尽十方界真実)の姿であると言うことが出来る。
なお「不至」の「不」は、既述のとおり否定の意味ではなく、「絶対的」という意味であり、不至とは「絶対的に至っている」ということである。
因みに『涅槃経』に「仏性(尽十方界真実)の因縁力あるを以てのゆえに、阿耨多羅三藐三菩提(尽十方界真実・悟)を得るなり。若し聖道を修する(尽十方界真実の実践)ことを須モチいずと言はば、是の義しからず」とある。
つまり「仏性の因縁力ある」ということは、「本来成仏」であるということであり、本来成仏だからこそ「修行」しなければならないと説いている。 |
●「仏性」巻の公案と無仏性
「仏性」巻は、その第三段以下で多くの公案を取上げて仏性を説明している。
●(1)まず第三段は、『景徳伝燈録』を典拠とする第十二祖馬鳴(メミョウ)尊者が説く「山河大地、皆依建立、三昧六通、由茲(ジ)゙発現」という「仏性海」の話である。
要約すると、大自然をはじめ如何なるものも全部仏性に依りかかって出来ており、仏性の丸抱えの姿で、仏性から出ることが出来ないということを説示している。
●(2)第四段は、五祖大満弘忍が四祖大医道信に相見した時の問答を通じて「悉有仏性」を説いており、「仏性」巻の名所(難所)と言われている。
まず四祖が五祖に「汝何姓。」(お前は何(真実)の姓(仏性)だ)と問う。仏法の常識として疑問詞「何」は質問が同時に答である。
つまり「仏性の正体」を「何」と言い、仏法の大意を述べた。
五祖は「姓即有、不是常姓。」(姓は有りますが、普通の姓では有りません)と答えたが、道元禅師は「悉有仏性」を表現する為に、「有」「即」「姓」「不是」「常姓」と言葉を分解して、これら各々の言葉が一つの事実であり全て仏性である、即ち例えば「有」は有において悉有の仏性が「有」として現じていると説く。同様に「即」「姓」「不是」「常姓」も仏性である。
次に四祖曰く「是何姓。」(お前が言っていること(是)が仏性(何姓)だ。或いは何ものも仏性(成仏)の姿だ)、即ち「何事においても仏性を学べ」と言った。
すると五祖は「是仏性。」(貴方が言ったことは全部仏性を表現しています)と答える。
この「是」はすべてのものを主語とするものであり、「是が取り扱うもの何でも」ということである。
因みに「是」だけでなく「不是」も仏性である。即ち悉有の世界に落ちこぼれ無しである。
更に四祖曰く「汝無仏性。」これは表面的には「お前なんかに仏性なんか有ってたまるか」ということになるが、ここの「汝」は「にょ」即ち特定者ではなく「手応え無し」ということである。仏性を突き詰めると「何とも無し」即ち「無仏性」ということになる。
つまり「無仏性」とは、「無」の仏性即ち仏性の「絶対性」をいう言葉で、「只管」即ち仏性(尽十方界真実)そのもののことであり、ありとあらゆるものが生きている姿である。仏性は決して「存在」の問題ではない。「廓然無聖(宇宙全体の真実)」と同じことであり、「無所得・無所悟」即ちただ生きている、存在していることである。
そこで五祖は「仏性空なるが故に、所以(ショイ 故に)無と言う」と答える。「般若波羅蜜」の項で述べたように、「空」は尽十方界真実の在り方であり、仏性の姿を「無」と言ったのである。
要するに、仏性は元来「成仏」を説明する言葉であったが、道元禅師は仏性を「概念」に留めず、日常生活のあらゆる事実において学ぶべきことをこの公案で説示している。
●(3)第五段は、以下のように、六祖が五祖の会下に参じた時の問答を主題にして「無仏性」ということを説いている。酒井老師は、インドの「悉有仏性」を中国禅宗は「無仏性」という語で超えたと言われる。
五祖問う「汝何れの所よりか来たれる。」六祖曰く「嶺南人なり。」五祖問う「来たりて何事をか求むる。」(何しに来た) 六祖曰く「作仏(成仏)を求む。」五祖問う「嶺南人無仏性、如何にしてか作仏せん。」六祖曰く「人有南北なりとも、仏性無南北なり。」
一般に仏法の問答においては、この問答のように、相手が理解するか否かに関係なく、仏法の極意を丸出しに表現する。
仏法の観点から言えば、「嶺南人無仏性」とは「普通一般の人間」ということであり、「如何にしてか作仏せん」は、「如何なるものも作仏である、作仏に条件は無い」ということである。
また「南北」とは「差別」のことであるが、悉有(尽十方界真実)においては、同じものは一つもない(「唯我独尊」)という意味での「南北」即ち「個々の差別」がある。
ところで道元禅師は、六祖が、五祖に「無仏性」と言われた時、六祖が相当の人物であるならば「有無の無はしばらくおく、如何ならんか(如何なるものも)是仏性」と五祖に問い返し、「なにものかこれ仏性」と尋ねるべきであったと言われる。
●(4)第六段は、六祖が門人に示した「無常は即ち仏性也、有常は即ち善悪一切諸法分別の心也」という言葉を通して、仏法と世法の相違を説示している。
つまり「無常」とは、あらゆるものが変化・活動しており、其の一つ一つが真実(諸法実相・現成公案)である。そしてそれが悉有仏性の在り方であり、無仏性即ち正体が掴めない生きた真実の姿である。
そして『観音経』の有名な文句を使った「以現自身得度者、即現自身而為説法。」(自身を現すことを以って度(スク)うことを得べき者には、即ち自身を現して、為に法を説くなり)という言葉は、全てのものが、それ自身、真実(無常)を表現しているということである。
ところが「有常」とは、「自我」の世界のことであり、自我には仏性(真実)無しということである。
●(5)第七段は、第十四祖龍樹尊者曰く「汝仏性を見ん(修行・身心学道)と欲はば、先須らく我慢(自我)を除く(超越)べし。」・・(略)・・尊者曰く「仏性(尽十方界真実)は非大非小、非広非狭、無福無報(災い)、不死不生(死生即ち人生)。」(仏性は人間生活の基準(大小・広狭・福報等)で測りうるものではない)・・・(略)
「尊者復た坐上に於いて、自在身を現ずる(坐禅)こと、満月輪(完全無欠)の如し。一切の衆会、唯法音(真の説法)を聞くのみにして、師相を覩(ミ)ず。」・・・(略)
迦那提婆(カナダイバ 龍樹の弟子)曰く「此れは是れ尊者仏性の相を現じて、以て我等に示す。何を以てか之を知る。蓋し無相三昧(只管打坐)、満月の如くなるを以てなり。仏性之義は、廓然末セ(手がかりなし・何ともなし・平常底)なり。」言ひ訖(オワ)て輪相即ち隠る。
復本坐に居して、而て偈を説て言く、「身に円月相(正身端坐)を現じ、以諸仏体(尽十方界真実人体)を表し、説法は其形無く(定型なし)、用弁(修行)は声色(感覚)に非ず。」
以上本文は、『景徳伝燈録』からの引用文を基に、仏性の正体は「悉有」という事実であり、その現実の現れ方が「身体」(尽十方界真実人体)であり且つ「平常底」(何ともなし)であることが説かれている。
この事実を道元禅師は「身」と「現」即ち「身現」(尽十方界真実人体の実物)という言葉を使用して説明されているが、これほど明確に「生身の身体の尊厳性」を強調している祖師は道元禅師をおいて他には無い。そして生きた正法眼蔵は「身現」の坐禅(只管打坐)以外無いことが強調されている。(上記本文の全文訳は、傍線部分とその括弧内の訳を参照すれば、凡そお解り頂けると思われるので割愛する。)
●(6)第八段は、馬祖門下の塩官斉安国師(〜842年)の示衆の言葉「一切衆生有仏性」について、道元禅師は、この言葉だけでは不充分で不徹底だとされる。
例えば「一切諸仏有仏性也(マタ)無」と国師に問うてみよと言われる。
即ち「一切諸仏は有仏性に決まっているではないか。一切諸仏有仏性也(ナリ)は無なり」とも言えるのである。つまり国師のように馬鹿の一つ覚えの「一切衆生有仏性」だけでは能が無いという趣旨である。
●(7)第九段は、馬祖門下百丈の弟子大イ山(霊祐)大円禅師の示衆の言葉「一切衆生無仏性」についての説示であるが、これは「尽十方界真実人体」を「一切衆生無仏性」と受け取ったものであり、前述の国師の説道より優れているとも言える。
そもそも仏性は存在(有無)の問題ではないし、仏性というものが特別に有るのではない。
そこで道元禅師は、祖師達が仏性に関して何か言わずに済まないのなら、「一切仏性無衆生」「一切仏性無仏性」或いは「一切諸仏無仏性」というように、徹底的に表現を変えて言って見れば如何かと言われる。そして結局衆生は何処までも衆生で変わりない「悉有」の事実であり、この事実が仏性であると示される。
●(8)第十段は、百丈山大智禅師の示衆の言葉「仏は是れ最上乗(唯有一仏乗)なり、是れ上上智(般若波羅蜜)なり、是れ仏道立此人(仏は本来(仏道)人)なり、是れ仏有仏性(仏有は仏性なり即ち仏であると言うことは仏性なり)なり、是れ導師なり、云々・・・(略)」を引用し説明されているが、これについては割愛する。
●(9)第十一段は、南泉と黄檗師弟の以下の問答を引用しての説示である。
南泉、黄檗に問う、「定慧等学(一緒に学ぶ)、明見仏性、此理如何。」黄檗云く、「十二時中不依倚一物にして始て得。」南泉云く、「便ち是れ長老が見處なること莫し麼(ヤ)。」黄檗云く、「不敢(どう致しまして)。」南泉云く「漿水銭は且致(シバラクオク)、草鞋銭は什麼(誰)人にか還さ教(シ)めん。」黄檗便休す。
まず「定慧等学、明見仏性」は天台教学の言葉であるが、定(三昧・本来の姿)と慧は分けられるものではない。「等学」は偏らない修行である。「明見仏性」は仏性即ち本来の在り方を修行すること、坐禅することである。「此理」は自我の納得を超越することであり、「如何(いかなるものも)」は仏性のあり方、即ち此理が仏性であることを示している。
次に「十二時中」は一日中(二十四時)であり、「不依倚」は「只管」(自然の在り方そのもの)と同義である。「一物」は、「一」は全体の意で、仏性のことであり、無所得・無所悟のことである。
つまり「一日の生活において真実の実践即ち自己満足追求を止めることが一人前(始得)の修行者である」と黄檗は答えた。
此れに対して、南泉は「(修行者の本来の姿を指摘したが)それが貴方個人の意見なのか(本来の自己は黄檗個人に限らない)。よくそこまで徹底したな」と黄檗を誉めた。「不敢」は、普通謙遜の語とされるが、黄檗の意見が如何に立派であったとしても、本来真実そのものとは関係が無い。従って「不敢」は、「真実そのものは何とも無い」ということを表現している。
更に「漿水銭」とは、本来「飲み水代」のことであるが、「生活、生きている実態」を言う。
その趣意は「生活の実態そのものは修行の如何により現れるから、今は取上げない。」また「草鞋銭」とは、「行脚」乃至「修行」の意味であるが、結局「貴方は修行の甲斐があったな。行脚させてくれた人即ち「什麼人」(尽十方界真実人体)に報いる事が出来たな」ということである。
そして「黄檗便ち休す」の「休す」は、「自我が休した」即ち何もしなくて良かったのであり、元の姿(仏性)のままでよい(只管打坐)ということである。
なお以上の話を、後日イ山と仰山が取上げて、「休す」とは、黄檗が南泉に降参したことを意味するのではなく、逆に黄檗は南泉を虜にし手玉に取ったのだと話合うが、その詳細は割愛する。
●(10)第十二段は、趙州真際大師と或る僧の問答を取上げる。
ある僧問う「狗子還(カエッテ)仏性有りや也(マタ)無しや。」趙州曰く「無。」僧曰く「一切衆生、皆有仏性、狗子為甚麼無。(なんとしてか無なる)」 趙州曰く「為他有業識在。(他は業識有る在るが為なり)」
まず「狗子還有仏性也無」について説明すると、「狗子」とは犬のことであるが、ここは「一切衆生」のことである。「還」は特に意味が無い。
ところでこの僧の質問は、犬に仏性が有るか無いかを尋ねたのではない。本当の趣旨は、「如何なるか仏法の大意」或いは「如何祖師西来意」という質問と同じことなのである。
ところが『無門関』(無門慧開1183〜1260年)の所謂「無字の公案」は無を「存在の有無」と誤って取り扱ってしまった。本当は仏性の存在の問題ではない。この公案は仏性のあり方即ち仏法の実態、修行の如何を問題にしているのである。
端的に言えば、有る僧が趙州に「今日もまたご修行を続けておられるのですか」と問うたのである。
此れに対して趙州は「無」と言った。つまり全てのものの本当のあり方(自然の姿)即ち「悉有仏性」(尽十方界真実)の具体的な姿が「無」であり、無所得・無所悟である。それが「一切衆生」(狗子)の在り方である。同時に仏性即ち真摯な修行者(趙州)の自己表現でもある。そして修行の在り方として無所得無所悟の只管打坐でなければならないということである。
次に僧曰く「一切衆生、皆有仏性、狗子為甚麼無」について言えば、「一切衆生は無なり、皆有仏性も無なり、狗子為甚麼(なんとしても)無なり」というように、全てに「無」が掛かるのである。
即ち「無」は感覚を超越した事実全部であり、本当の在り方である。本当の在り方は感覚で掴めない事実であり、有も無も仏性の姿である。
最後に「為他有業識在」は、「為他有(一つの生き物)は業識在(生まれついている)なり」と訓む。
『御抄』には、「業識とは仏性を指すと心得べし」とあるが、「業識」とは生理現象のことであり、そのように生まれついているということである。
つまり犬は犬を望んで犬になったのではなく、犬は犬の在り方として存在しているのだということである。
●(11)第十三段は、仏祖の門下の日常茶飯事として、前述(10)と同じ質問を別の僧がした。すると趙州曰く「有」と答えた。僧曰く「既に有ならば、為甚麼(ナニトシテカ)却て這(コ)の皮袋(ヒタイ)に撞入(潜り込む)するや。」(元々有仏性ならば、有というのは如何して入り込むのか。)趙州曰く「為他知而故犯。」(他の為に知りてことさら犯す。)
まず「有」という答えは、「存在の有無」の有ではない。「有」は自我の世界の有ではなく、「悉有」の「有」、即ち仏性(尽十方界真実)の在り方としての有である。
つまり実際に生きている事実、即ち全ての物が形を努力している本来の有り方としての有である。言わばこの場合の「有」は、趙州がものを言っている姿、生身の実態(仏性)を現しているとも言える。
これに対する僧の言葉について考えると、「既に有ならば」の「既有」は「仏性の現れ」であるということであり、「為甚麼」は「なんとしても」、即ちどうにもならない(絶対的な)仏性の在り方であるという意味である。「撞入這皮袋」は、現在の仏性の在り方・姿がこの皮袋(犬)だということである。
つまり仏性の現れは絶対的な在り方であり、現在の仏性の在り方がこの皮袋(犬)だということである。要するに「無条件に現実を受け取ればよい」という意味である。
「為他知而故犯」とは、「為他は知而故犯なり」ということで、お前が「仏性ということを知った」から(知らなくてもよいことに囚われて)「問題が起こった」だけだということである。
●(12)最後に、第十四段の公案は、以下のとおりであるが、『永平広録』にも二回引用されているものである。
長沙景岑和尚の会に、竺尚書(高官の職名)問う「蚯蚓(ミミズ)斬れて両段(二つ)と為る。両頭倶に動く、未審(イブカシ)、仏性阿那(どちら)箇頭にか在る。」師云く「莫妄想。」書云く「動くをば争奈(イカガ)せん何。」師云く「只是れ風火(四大の要素)未だ散ぜざるなり。」
これは竺尚書という高官が長沙の下で教えを受けていたが、或る時、蚯蚓が二つに斬れて動いているのを見て、仏性はどちらにあるのかと疑問を抱いて長沙に尋ねた話である。
さて仏法では、斬られた蚯蚓を一切れ二切れと見ない。それぞれ完全無欠の仏性(尽十方界真実)である。どんなものでも仏性でないものは無い。一切れ二切れと見るのは人間の概念、自我の世界の分別である。
同様に「斬」も「為」も「両段」も「倶動」もそれぞれ仏性の在り方である。
また「未審」は、人間というものは常に正体を突き詰めようとする習性があるが、仏性の正体はこれだと人間が納得できるものではない。
「在阿那箇頭」は、どちらも仏性でないものは無いということである。言わば「蚯蚓」というのも仏性についた仮の名である。従って「蚯蚓の正体」はどちらと決められるものではない。
なお仏法において、疑問詞「阿那」は「真実の所在」を示す(問所の道得)ものである。
更に「莫妄想」とは、竺尚書が仏性(尽十方界真実人体の生命の在り方)から遊離して、「妄想」(自我意識の世界)だけになってしまった状態であるが、妄想(考え)も生命活動の一つの働きであり、宿命的な生理現象でもある。
従ってここも一応訓みは「妄想する莫れ」であるが、意味は「莫の妄想」即ち「誰でも自然に考えそうなことだ」ということである。
但し「莫」は自然の働き、或いは人間の意志に関係の無い絶対的な在り方という意味であることは言うまでもない。
最後に「風火未散」は、未だ「四大因縁和合」が分解に至らない、即ち「生きてる証拠だ」という意味である。「四大(地・水・火・風)」も「未散」も「散」も全て仏性の在り方である。
要するにこの公案は、仏性というものを、「識神」(意識又は認識活動)の主体ないし自我と考える誤りを正すためのものである。
例えば「生」も「死」も仏性の姿であり、いずれもその主体は無く、その時の尽十方界乃至尽十方界真実人体の様相である。 |
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