飲んで飲んで世界に飲まれる

飲まれるような酒は飲むな 
男のたしなみ 
 
飲んだら乗るな 乗るなら飲むな 
運転手の常識 
 
据え膳は食うな 安酒ただ酒は飲むな 
男の品格
 


  
  
  
百薬の長 
お酒は楽しむものです 
「たしなみ」が怒ります
  
  
 
  
酒で身を滅ぼす  
女は大丈夫でしょうか心配になります 
やはり「失敗に学ぶ」ことができませんでした
  
G8世界会議の締めくくり 
お疲れだったのでしょう
  
飲みすぎで呂律回らず 
中川財務・金融大臣辞任
  
初心を忘れました
  
一国の大臣の器 
民も世界も笑いました 論評にも値しません 
盟友も庇いきれませんでした
 
中川昭一 
(1953‐2009) 日本の政治家。自由民主党に所属していた衆議院議員。位階勲章は正三位旭日大綬章。学位は法学士(東京大学)。
北海道5区、小選挙区比例代表並立制導入後は北海道11区から選出され、2009年(平成21年)に落選するまで連続8期、衆議院議員を務めた。その間、農林水産大臣、経済産業大臣、財務大臣、内閣府特命担当大臣(金融担当)を歴任したほか、党三役では自民党政務調査会長を務めた。また、超党派の北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟会長、日本会議相談役を務めた。
戦後昭和期に衆議院議員・閣僚を務めた中川一郎は父、中川の跡を引き継いで2012年(平成24年)に衆議院議員になった中川郁子は妻。
生涯​
生い立ち​
1953年(昭和28年)7月19日、東京都渋谷区宮代町(現在の渋谷区広尾)に北海道開発庁に勤務していた中川一郎と、その妻・貞子の長男として生まれた。本籍地は、北海道広尾郡広尾町。父一郎は、新婚間もなく東京に赴任していた。
新宿区立落合第一小学校から麻布中学校・高等学校に進学した。中学受験時、母・貞子は昭一を塾や家庭教師に頼らせず、参考書を用いての自学のみで合格させたという。麻布時代には、それまで行っていたサッカーを大学受験のために止めたが、心臓肥大を患うこととなった。家では護憲派の学者・宮沢俊義の話をし、父・中川一郎に激怒されたことがあるという。
現役生の頃に合格した慶應義塾大学経済学部へいったん入学したものの約1年間で退学、高校卒業から2年を経た1974年(昭和49年)、東京大学文科一類に再入学し、専門課程では、同大学の法学部政治学科で政治学を学ぶ。
東大法学部卒業後の1978年(昭和53年)4月、日本興業銀行に入行、その後約5年間に渡って同行に勤めた。
父の死去と政界入り​
1983年(昭和58年)1月、自由民主党衆議院議員在職中だった父・一郎が急死。
日本興銀を退職し、同年12月に行われた第37回衆議院議員総選挙に、自由民主党の公認を得て北海道5区から立候補した。弔い選挙となったこの選挙には、父・中川一郎の側近として秘書を務めていた鈴木宗男も立候補した。2人による後継争いは、マスコミから「骨肉の争い」ともいわれた。
この選挙で中川はトップ当選し、自由民主党の公認が得られなかった鈴木も下位で初当選した。就任後は自由革新同友会(旧中川一郎派)に所属、その後は清和会(福田赳夫→安倍晋太郎→三塚博派)→亀井グループ→志帥会(江藤・亀井派→亀井静香派→伊吹文明派)と、農水系・保守派の議員として歩んだ。
1989年(平成元年)、農林水産政務次官に就任。
農林水産大臣​
1998年(平成10年)に小渕内閣が発足すると、中川は農林水産大臣として初入閣し、その後小渕第1次改造内閣まで同職を務めた。
父・中川一郎は初代・農林水産大臣であり、農林水産省の銘板も父の揮毫によるものであったが、大臣就任後に初登庁した中川は、その銘板に向かって一礼し、「しっかりやれって親父が言っているみたいだ」との感想を述べた。
小泉・安倍政権下​
2003年(平成15年)9月に組閣された小泉再改造内閣で経済産業大臣に就任した。中国による東シナ海ガス田問題に対応した。帝国石油に試掘権を与えるなど、中国には強い姿勢で交渉を行っていた。同職には2005年(平成17年)10月まで留まった。中川は経済産業大臣の後に農水大臣を務めた。同内閣では一連の小泉改革に貢献するとともに、大臣としてはメキシコやフィリピンとの自由貿易協定 (FTA) 締結などの成果をあげ、大韓民国を「ホワイト国」に認定した。中川は小泉純一郎からの信頼が厚く、小泉からファーストネーム(「昭一」)で呼ばれる数少ない国会議員の一人となっていた。
他方、小泉が進めた郵政民営化には賛成しながらも、平沼赳夫をリーダーとする郵政民営化法案への造反組に対しても半ば同情的だった。中川と平沼とは、銀行員時代からの兄弟のような間柄であり、初めて選挙に立候補した際には応援に駆けつけた。また、中川は2003年(平成15年)、それまで自身が務めていた拉致議連会長職に後任として就任するよう、安倍晋三とともに平沼に三顧の礼をもって打診した経緯がある。
2006年(平成18年)の自由民主党総裁選挙では、当時内閣官房長官だった安倍を支持し、安倍総裁誕生の後には同党政調会長に就任した。
翌2007年(平成19年)、政府税制調査会会長・本間正明の愛人問題に際しては、「道徳の問題」と断じ、本間辞任への流れを作った。また、2007年度予算案の衆議院採決において、民主党は解任決議案を多発して抗戦、多くの自民党議員がこれを「大義なき抵抗」と批判したのに対して、中川は「民主党は、本当に採決を阻止したいならもっと徹底的に抵抗するべきだった」という主旨の講演を行った。
同年8月の第1次安倍改造内閣人事ないし自民党役員人事では重要ポストへの起用が確実視されていたが、結果的には入閣や党重要役員への就任はなかった。
福田康夫政権下​
2007年(平成19年)9月、首相・安倍晋三が健康問題等を理由に辞意を表明したことを受け、直ちに麻生太郎“首相”実現に向けての活動を開始した。直後に麻生と会談して支持を伝え、総裁選立候補のための推薦人の一人となった。選挙戦では麻生に同行し、他の応援議員らとともに東京・新宿駅前での街頭演説などにも参加したが、結果は福田康夫が勝利し、同月福田康夫内閣が発足した。
同月、所属派閥の領袖であった伊吹文明が自民党幹事長に就任、中川が伊吹派(志帥会)会長代行を務めることとなった。その後中川は中曽根康弘らを講師として招いた政策勉強会を開催したほか、同年11月には、保守派の議員で集まる勉強会「真・保守政策研究会」を設立するにあたってのまとめ役を務めた。この会への参加者の多くは直前の総裁選における麻生の支持者であり、翌年の自由民主党総裁選挙において麻生が選出される原動力の一つとなった。
また、同月、中川は東トルキスタンの人権活動家・ラビア・カーディルと会談し、中国による東トルキスタンとウイグル人弾圧に対する強い懸念を示している。
麻生内閣​
2008年(平成20年)9月、首相・福田康夫の辞意表明に伴い、自由民主党総裁選挙が行われることとなった。直ちに中川は、福田政権下で自由民主党幹事長を務めていた麻生太郎への支持を明かし、所属派閥・伊吹派(志帥会)としても麻生支持が確認された。
選挙の結果、4人の対立候補を退けて麻生が当選。麻生内閣が組閣され、中川は財務大臣兼内閣府特命担当大臣(金融担当)に就任した。この頃、志帥会では、中川の兄貴分であった亀井静香や平沼赳夫が派閥から離れ、また、領袖の伊吹文明も総裁候補とは成り得なかったため、小泉内閣の5年間で一貫して党7役(広報本部長、組織本部長)や閣僚(経産大臣、農水大臣)として重用され、安倍政権では引続き党三役(政調会長)、さらに麻生政権でも財務・金融担当大臣を務めることになった中川が、同派では今後の総裁候補として最有力と目されるようになっていた。
翌年2月、中川はG7の財務大臣・中央銀行総裁会議出席のためにイタリア・ローマを訪れたが、この会議の後の記者会見における、呂律が回っていない、酩酊しているかのような姿が注目された。この様子は各メディアで大きく取り上げられ、猛批判を浴びることとなった中川は釈明を行ったが、3日後には大臣職を辞すこととなった。
議員落選​
大臣辞職から約半年後の2009年(平成21年)8月、第45回衆議院議員総選挙が行われ、中川は現職選挙区であった北海道11区から再選を目指して立候補した。中川は謝罪回りに奔走するとともに、断酒宣言を行い、麻生や安倍らも応援のために選挙区入りし、民主党の農業政策や日本国旗への侮辱などを批判した。しかし、民主党の石川知裕(翌2010年1月に政治資金規正法違反で逮捕)に敗れ、比例北海道ブロックにおいて惜敗率3位に留まり、比例復活もならず落選した。同選挙では民主党が大勝して政権交代を実現、落選後の会見で中川は、「私には何の力もなくなったが、みなさんにご恩返しをしたい。」と述べた。
翌月中川は、自身のウェブサイトで、「今後新たに決意を持って進んでいきます。発信していきます。『日本が危ない』から」と記したものの、健康は優れず、腰痛や風邪に悩まされるとともに、不眠症のため睡眠薬を服用する状況であったという。
急死​
同年10月4日、東京都世田谷区の私邸2階の寝室で倒れているところを、郁子夫人によって発見された。東京消防庁による救急搬送先で死亡が確認されたが、実際の死亡日時は発見前日の10月3日と推測されている。56歳だった。死因について、その後遺族は弔問客に急性心筋梗塞と説明していたとされるが、実際の死因の特定は行政解剖の結果待ちとなった。同月27日、新たに発足した鳩山由紀夫内閣の閣議において、中川に対する正三位および旭日大綬章の追贈を決定したが、その授与は同年10月3日付とされた。
『産経新聞』と『十勝毎日新聞』は特集記事を組み、中川の死を悼んだ。法名は「青邦院釋昭尊」。郁子夫人と長女が「清い政治を貫いた」との意味を込めて命名、鎌倉の高僧の承諾を受けた。郁子夫人は命名にあたり、 当時TBS『報道特集』の統括ディレクターとして衆議院選挙活動中の中川の取材をしていた山口敬之に依頼して、中川と親交のあった人物に戒名の候補となる漢字を考えてもらった。通夜と告別式は2009年(平成21年)10月8日・9日に東京都港区元麻布の麻布山善福寺にて自民党と中川家の合同葬として執り行われ、元首相・安倍晋三、前首相・麻生太郎、当時の首相・鳩山由紀夫等多くの政界関係者も参列した。
告別式では、自民党総裁・谷垣禎一が弔辞を述べた。続いて中川が所属していた志帥会(伊吹派)会長・伊吹文明の弔辞
「日本、自民党にとって大きな損失。保守主義は、人間の作り上げた良き伝統的規範や自己抑制、矜持(きょうじ)に期待する政治思想。あなたの政治的無念を晴らすためにも、自民党は正しい保守のあり方を体系的に理解し、保守政党として国民の信頼を取り戻す努力を誓う。— 伊吹文明」
そして、友人代表・安倍晋三の弔辞と続く。「今日も、いつも通り“昭一さん”と呼ばせて頂きます」と始まり、
「昭一さんは常にリーダーだった。自虐的な歴史観を正し、子供たちが日本に生まれたことに誇りを持てる教育に変えたい一心で教科書問題にも取り組んだ。困難な問題に立ち向かい、世の中を変えていく戦う政治家の姿を学んだ。最愛の奥様と夢だったエジプト旅行に来週出発すると聞いていた。郁子さんは昭一さんと の幸せな日々を胸に、中川家を守っていくと思う。— 安倍晋三}
同16日には、北海道帯広市の北海道ホテルにおいて「哀惜の会」が開催され、盟友であった麻生太郎が弔辞を述べた。
{昭ちゃん。まさかあなたの弔辞を13歳も年上の私が読むことになろうとは。(中略)「政治家我が身無念と思えども、国の為なら本懐なり」。貴方にこの言葉を贈りたい。(中略)我々は、中川先生の遺志を継ぐ義務と責任がある。「死せる中川生ける保守を走らす」。これが貴方が最も望んでいることだろう。残された我々は、歯を食いしばって頑張る。— 麻生太郎}
死後​
さらに、憲政記念館では追悼集会が行われ、約3000名が出席したほか、四十九日の法要には親族、関係者など50人以上が集まった。
四十九日法要の忌が明けた同年11月28日、後援会組織「十勝連合後援会」が解散を決定、他の地区後援会も順次解散・縮小することとなった。同年末、中川のウェブサイトには、支持者に対する感謝の言葉が郁子(ゆうこ)夫人の署名で掲載されたが、2010年(平成22年)1月に、同ウェブサイトから発表された『故 中川昭一先生カレンダー2010』には、日本全国から大量の注文が殺到し、完売の後、追加受付が行われるほどとなった。
中川の死から3年後、2012年に行われた第46回衆議院議員総選挙で中川の妻・郁子が北海道11区から自民党候補で出馬。新党大地に鞍替えしていた石川知裕を破り当選した。
政策​
中川は、農政を中心に、郵政制度、放送・電波政策、財政政策、文教政策、北方問題、北朝鮮問題など幅広く政策に通じていた。
信条・政策を共有する国会議員である安倍晋三と麻生太郎の「AA (ダブルエー)」は、中川を加えて「ANA」とも称された。さらに平沼赳夫を加えて「HANA(ハナ)」、または「花の会」、中川、麻生に菅義偉、甘利明を加えて「NASA(ナサ)」とも呼ばれた。
農政​
宇野内閣で農水水産政務次官、小渕内閣と小泉内閣で農林水産大臣と、農林水産行政のポストを歴任した中川は、典型的な農水族議員として知られた。
小泉政権下で経済産業大臣を務めた際にも、農業作物の輸出入にも関わる自由貿易協定 (FTA) 交渉に携わることになったが、ここでは農作物の輸入自由化に強固に反対する多くの農林族議員らの反発を抑えつつ、メキシコ、フィリピンとの協定合意に至った。
続く第3次小泉改造内閣では農林水産大臣に横滑りし、引続きWTOの通商交渉を行った。同職に在職中にはBSE(狂牛病)問題に直面する。2006年(平成18年)5月、アメリカ農務長官(当時)マイク・ジョハンズと会談した際、アメリカ国内で牛検査体制が縮小・中止となる動きを告げられた中川は「安全性よりもルールの問題。ルールも守れないのか」とアメリカを批判、同国産牛肉の輸入再開に渡って日本側が要求する厳格な検査の継続を求めた。また、2008年(平成20年)5月にはアメリカを訪問し、農務長官(当時)エドワード・トマス・シェーファーとの会談では、同国産牛肉の輸入再開に対する懸念を示した。
2009年(平成21年)の衆議院選挙では、マニフェストに「日米FTA(自由貿易協定)の推進」と明記した民主党を批判、「民主党が政権を取れば十勝は壊滅する。それでもいいのか。これまで十勝を守ってこられたのは私だからだ」と訴えたものの、同党候補に敗れて落選した。また、同選挙の結果、民主党への政権交代が行われた。
経済​
銀行勤務歴のある中川は、財政・金融に明るかった。小泉内閣での経済産業大臣や、麻生内閣での財務大臣兼内閣府特命担当大臣(金融担当)などを歴任し、住専問題や税制改正にも関わった。
経済産業大臣時代、政府系金融機関の統合問題では財務大臣(当時)の谷垣禎一とともに政策金融の重要性を訴え、首相の小泉純一郎、経済財政担当大臣兼郵政民営化担当大臣の竹中平蔵(いずれも当時)と対立したことがあった。また、財界などが求める法人税減税には賛成の立場を取り、2兆円の法人税減税を提唱していた。
さらに、財務大臣職は、世界的な金融危機下となり、日本国内市場に対する危機回避策として、政府保有株の売却凍結・空売り規制強化・ドル供給オペ拡充・無制限のドル貸し出しなどを行った。
国際財政・金融​
   IMFへの緊急融資
財務大臣就任後間もない2008年(平成20年)10月、先進7ヶ国財務相・中央銀行総裁会議に出席した中川は、国際通貨基金(IMF)に新興・中小国向けの新たな緊急融資制度を設けることを提案、各国から高い評価を受けた。この「中川構想」には、ブラジルを始めとする中南米諸国が、これを歓迎することを公式に表明、その後実際にウクライナ、ベラルーシ、パキスタンが、「中川構想」に基づく緊急融資を受けることで救済された。翌2009年(平成21年)2月にはアメリカ合衆国財務長官のティモシー・フランツ・ガイトナーと会談、同国が検討する「バイ・アメリカン条項」に懸念を示したうえ、保護主義の排除で一致した。続いて行われたG7会議では、各国間での保護主義的な施策への牽制が日本主導で行われ、特に同会議の開催国であったイタリアのメディアがそれを高く評価した。麻生内閣はIMFへの緊急融資について、「IMFが市場で資金調達をするための担保として米国債を提供し、日本政府は財政負担なしに利益だけを得られる」と説明した。
   日本からの資金拠出と高評価
日本は、新興・中小国の救済のために、IMFに外貨準備金の一部を拠出する取り決めに署名した。その額(1,000億米ドル)は、IMF加盟国による資金提供としては過去最大規模であり、IMF専務理事のドミニク・ストロス=カーンは、「日本による融資は、これまでの人類史上で最大規模のものだ」という謝意を表明した。
中国への警戒​
2006年(平成18年)4月、当時の経済産業大臣で親中派である二階俊博(前任の大臣は中川自身)による東アジア包括的経済連携協定(東アジアEPA)構想について、「これは中国の参加を想定しているが、2005年(平成17年)春に中国で起きた反日デモにおいて、一般人や民間企業が襲われたことの総括もできていない(状態では時期尚早)」と反対した。中川はまた、「日本は中国と経済連携協定締結の努力をするべきではない。なぜなら中国は日本国民の安全を保証できないからだ」とした。
同年6月、日本政府が凍結していた中国向け円借款の再開を決めたことについても中川は、「なぜ中国に対し、また援助するのか。正直言って分からない」と、親中的な政策に異議を唱えた。
外交・安全保障​
外交や国家観においては保守本流を貫き、拉致問題解決のための積極的な活動でも知られた。
   対 中国​
経済産業大臣時代、中国との東シナ海ガス田問題では法的・理論的根拠を崩さず、帝国石油に初めて試掘権を与えた。中国が要求した共同開発についても、日中中間線より中国側でも日本の試掘を認めることを前提にするよう再三要求した。
2007年(平成19年)、「日本は後20年もすれば、中国の省になっているかもしれない」と発言、北京オリンピックを契機とした軍拡路線・経済拡大路線を背景とする中国脅威論を唱えた。
また同年、中国首相・温家宝が来日したが、「日本のナンバー1が(中国に)行ったのに、中国のナンバー3が(日本に)来るというのは、おかしい」と、中国外交の非礼を批判した。
   対北朝鮮​
中川は、拉致問題に早くから取り組んできており、拉致議連の会長も務めていた。拉致家族会代表・横田滋は中川について、最も信頼する国会議員の一人として挙げていた。
1998年(平成10年)に北朝鮮がミサイルを発射、三陸沖に着弾させたことについて中川は「相手(北朝鮮)はまともな国ではない。気違いだと思っている」と発言した。また、北朝鮮による日本への核攻撃の可能性に関して、「普通はやらないが、あの国の指導者はごちそうを食べ過ぎて糖尿病ですから考えてしまうかもしれない」と、贅沢三昧をしている金正日を揶揄しつつ、その危険性を説いた。
また自民党政調会長時代の別の講演では、北朝鮮が日本を攻撃するのであれば、核兵器など使う必要はない、原発のどれかをミサイル攻撃すればいい、と語り、中国や北朝鮮と対峙する日本海側に原発が30数基も集中している現状に警鐘を鳴らしたこともある。
2007年(平成19年)4月、拉致問題の国民大集会に出席した中川は、北朝鮮の不誠実な態度を激しく非難するとともに、日本独自で北朝鮮を「テロ支援国家」に指定することを可能にする法整備に言及した。これは、前任の国連大使・ジョン・ボルトンらが辞任後、北朝鮮に融和的な対応を始めたアメリカの転換に対応する発言とみられた。
2008年(平成20年)、雑誌の企画でジャーナリスト・田原総一朗、及び元外務審議官・田中均と鼎談した中川は、将来金正日体制が崩壊した後には衆議院に「北朝鮮復興委員会」を創設し、自らが委員長となって北朝鮮の復興・民主化を推進することに意欲を示した。
   北方領土​
中川は、旧ソ連による北方領土侵略を、「20世紀最大の国際法違反」としていた。麻生太郎が外務大臣時代に「北方領土・面積二等分論」を唱えると、これを激しく批判し、外務省の暴走であるとした。中川は同領土問題に対し、「北海道の政治家として、絶対に譲れない一線。領土というのは2島と言ってしまった瞬間に、2島以上のものは返ってこない」と断じた。
   核兵器関連​
2006年(平成18年)10月、テレビ番組に出演した中川は、「非核三原則は国民との重い約束だ。しかし、最近の北朝鮮の核兵器実験の動向を受けて、この約束を見直すべきかどうか議論を尽くすべきだ」とのアドバルーン発言を行った。この発言に対しては、日本国内の一部政治家や反核団体からの非難、さらにアメリカ合衆国大統領(当時)ジョージ・W・ブッシュ(当時)が苦言を呈するに至った。これを受けて中川は釈明したが、同時に「非核三原則の下で核を持たずにどういう対抗措置ができるのか真剣に考えなければならない」と、関連議論の必要性を強調した。
中川の発言は、「北朝鮮が核を持てば日本も核武装するのではないか」との警戒を呼ぶともされたが、同月訪米した中川は、元副大統領・ダン・クエールや、元上院議員・トム・ダシュルら同国要人との会談においても、核拡散防止条約(NPT)や非核三原則の堅持を前提としながら、核関連議論の必要性については再度明言した。
2009年(平成21年)4月、北朝鮮によるミサイル発射実験を受けて中川は、「純軍事的に、核に対抗できるのは核だというのは、世界の常識」と発言、改めて日本による核武装論議を促した。遡って、中川は2003年(平成15年)の時点から、「(日本は核武装を)状況によっては検討すべき」としており、核武装論議については2006年(平成18年)11月にも、「(北朝鮮が核実験を行った)この時期だからこそ提起することに意義がある」と述べていた。また、2007年(平成19年)に行われた、ジャーナリスト・櫻井よしことの対談においても、中川は核論議と海洋権益保護の必要性を主張していた。
これら一連の核関連発言について中川は、「実際に日本の核武装化を目指しているわけではなく、あくまで非核三原則を守ることによって日本が得られる利益について議論しようとしているだけだ」とも説明している。背景には、「最近は、非核三原則に『言わせず』を加えた非核四原則どころか、『考えてもいけない』という非核五原則だ」と自身が指摘したように、国会において議論すらが封殺されている現状への危機感があった。
   その他 安全保障​
2007年(平成19年)、日米同盟強化や国際貢献の観点からの武器輸出三原則緩和を訴えた。
同年、インドやオーストラリアとの連携を促進させるための議員連盟・「価値観外交を推進する議員の会」の設立に関与、首相(当時)安倍晋三の掲げた価値観外交の実現、及び中国の脅威に対抗することを目指した。
教育・歴史認識​
   教育論​
教員免許の更新制度に関連して中川は、「日教組の一部活動家は(教育基本法改正反対の)デモで騒音をまき散らしている」「(デモという)下品なやり方では生徒たちに先生と呼ばれる資格はない。免許剥奪だ」と、日教組の活動を強く批判していた。
   歴史認識​
1998年(平成10年)7月、慰安婦問題に付いて、強制連行の事実の有無も不明であり、中学校教科書にその問題が記述されたことに疑義を呈した。
慰安婦は日本による強制であったとする、河野談話についても反対しており、出演したラジオ番組で、「(河野洋平は)自虐的な方」、「外国なんか、嘘でも誇りを持って(話を)する。(日本政府が)真実と思われるものを封じ込めているのは納得できない」などとも述べていたほか、この談話の早期見直し・撤回の検討を繰り返し主張していた。
2007年(平成19年)12月、慶應義塾大学の講演で、「原爆投下はアメリカが世界ナンバーワンの軍事力を持つための実験だった」と主張。さらに「我々は実験台にされた」としてアメリカに抗議し、場合によっては国会でも非難決議を行うべきという見解を示した。また、中川は「原子力船、あるいは原子力潜水艦を持つ、という議論が何で出てこないのかなあと、私は思っているわけであります」と切り出し、国内唯一の原子力実験船だった「むつ」が放射線漏れ事故を起こして以来、動力としての原子力を活用しようという動きが事実上なくなっていることを指摘。軍事目的の利用については否定しつつも、「原子力タンカー」の実現を訴えた。
その他 信条​
   靖国神社​
靖国神社への参拝は毎年欠かさず、経産大臣、農水大臣の職にある際にもこれは同様であった。一連の政治家としての活動は、「親父の遺言」と、たびたび公言していた。
   朝日新聞​
中川は長年、朝日新聞との間に確執があった。それは1998年(平成10年)、農林水産大臣に就任した中川が、省内の会見場に日本国旗(日の丸)を掲揚したことを朝日新聞が批判したことに始まった。日本国旗に関しては2008年(平成20年)にも、閣議後の会見の場に国旗を掲揚した中川に対して、「国民の中には(国旗掲揚に)違和感を持つ人もいる」と、財務省記者クラブ・財政研究会の一部の記者が批判、それを中川が「世界に発信する場という認識で国旗掲揚は当然だ」と一蹴したことがある。
さらに朝日新聞は2005年(平成17年)、中川らが権力を持ってテレビ番組内容を改変させたと報道(NHK番組改変問題)、それに対して中川は当初、「公正中立の立場で放送すべきであることを指摘したのみ」と主張、最終的には「NHKが説明に来たのは番組放映後であり、放送内容の変更や中止には関与し得なかった」と説明した。
   ヤコブ病​
中川は、歴史教科書問題をめぐる報道機関の態度を批判するなかで、「ヤコブ病で脳がスポンジ状態になっていて思考が停止している」と発言、それを薬害ヤコブ病訴訟の原告団から抗議され、後日謝罪している。中川はその後、その発言の責任をとる意味から、超党派の議員連盟会長に就任、薬害ヤコブ病問題の解決に尽力した。
人権擁護法案​
中川は、2002年(平成14年)に国会に提出された人権擁護法案に一貫して反対していた。
同法案は2003年(平成15年)に廃案とされた後にも燻ぶり続け、同じく同法案に強く反対していた安倍晋三が自身の政権下で中川を政調会長に起用したことには、同法の成立阻止という明確な意図もあったとされる。自由民主党は2006年(平成18年)10月、それまで同法案の議論を主導してきた同党・人権問題等調査会の会長職を中川に預け、これによって同調査会は事実上、その機能を停止した。
中川は2007年(平成19年)11月、前年の安倍内閣崩壊以降停滞していた保守政治再建のための会合を開き、そこには元農水大臣・島村宜伸や、元経済産業大臣・平沼赳夫らも参加した。この会合で中川は、保守主義の大家であるエドマンド・バークの言説を引用、集団的自衛権の明確化や人権擁護法案反対を強く主張した。この会合は同月、保守の勉強会「真・保守政策研究会」として、会長・中川、最高顧問・平沼、議長・島村という構成で発足した。この会には50名以上の国会議員が参加したが、同法案の上程を懸念する意見が相次いだ。
従前より中川は同法案を、「第二の治安維持法」と批判しており、2008年(平成20年)2月16日には、自民党大阪府連の会合にて、法案が成立すれば自身や安倍晋三・麻生太郎が人権侵害の名目で訴えられ、留置場に行くことになりかねないとして、同法案への反対を強調した。同年、人権擁護法案上程阻止のための、「いわゆる "人権擁護法案" 再提出に対する要請受付国民集会」に出席した中川は、同法案の危険性を改めて指摘、自身に寄せられる国民の声の中に賛成意見はただの1つもない点、また、同法案推進派議員が反対派に対して脅迫とも取れる発言をしていたことを明らかにした。
人物​
人物像​
父親は、農林水産大臣や科学技術庁長官を歴任した中川一郎、叔父には元参議院議員の中川義雄がいた。尊敬する政治家としては、父・中川一郎のほか、中曽根康弘、19世紀のイギリス首相パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルを挙げていた。父一郎は自らの政治家生活の原点として、中曽根康弘は綿密な情報収集と分析力で身の丈にあった政策を実現できる政治家として(この判断ができていない政策は実現できないか低レベルに終わるが、判断ができれば国鉄民営化のように不可能と言われていたことでもやり遂げることができるとしている)、パーマストン子爵はヴィクトリア女王に嫌われてでもイギリスの国益を追求した政治家としてそれぞれ評価している。
趣味は水鉄砲とサッカー、自宅で花を育てることであり、特技はテニスであった。政界きっての読書家としても知られ、自身のウェブサイトにも読書の感想を多く記していた。 2004年(平成16年)の年金未納問題では、中川が国会議員当選以来一度も年金保険料を納入していなかったことが明らかとなったが、議員年金には加入していた。
テレビの報道番組 『報道2001』(フジテレビ)には度々出演していた中川だが、同番組での注目度は高く、中川が出演する際には視聴率が上昇していたという。
2006年(平成18年)11月からは『夕刊フジ』の金曜日のコラムを隔週で担当していた。
夫人によると26年間の政治家生活の中で自民党を離党する可能性について2度打ち明けられたことを明かしている。
親台派と知られ、中華民国総統であった李登輝とは懇意であった。
「コワモテ」「歯に物着せぬ言動」との評価があったが、政策への批判はするものの人物への批判はしないよう言葉の品位の大切さを心がけていた。葬儀に出席した東京大学同期である社民党の福島瑞穂は「会うたびにいつも『大学時代、同級生だったよね。お手柔らかにね』と言ってくれた」と証言している。
中川秀直との関係​
同じ苗字を持ち、同時に自民党党三役に入ったことがある衆議院議員・中川秀直とはしばしば比較されたが、両者間での血縁関係は無い。また、中川秀直の政治思想は昭一のそれとは対照的で、経済政策においては増税を先送りする、いわゆる上げ潮派。対外的にも親中派とされ、靖国神社に代わる国立追悼施設の建設を持論としていた。また、中川秀直は昭一が強く反対した人権擁護法案を支持していた。
2006年(平成18年)、中川昭一の盟友である安倍晋三は自由民主党総裁に就任、昭一を同党の政調会長、中川秀直を同・幹事長とした。
当初は文部科学大臣就任が有力視されていた昭一であったが、政治理念の多くを安倍と異にする中川秀直の幹事長就任が決定したことから、それへの牽制を考えた安倍によって急遽、政調会長に据えられたとも言われた。
政調会長となった中川昭一は、北朝鮮政策に関する党内議論などを一任されたものの、安倍や昭一らとは理念が異なる中川秀直の幹事長就任は、その後の安倍政権運営の躓きの発端であったともいわれ、思想家の藤原正彦や政治評論家の屋山太郎などは「中川秀直を幹事長から解任すべき」と提言していた。郵政造反組復党問題に際して中川昭一は、造反組に反省と総括を要求する中川秀直と衝突、「まるで天安門事件のよう」と評した。
飲酒トラブル​
自他ともに認める大の酒好きだったが、政界で重要な地位を占めるにつれて、酒癖のリスクを注意されることが増えた。中川はしばしば禁酒・断酒を宣言したが、長続きしなかった。重大な交渉を前に飲酒する癖が経済産業大臣時代を知る官僚によって告発されているほか、2009年(平成21年)の落選には同年の飲酒報道が大きく影響した。飲酒に関わる中川のエピソードとして、次のようなものが知られている。
   だるまの目を塗り潰す
第42回衆議院議員総選挙(2000年)での当選時、選挙事務所で酒に酔い、ふらふらとしながら万歳三唱している姿が放映された。また、だるまに目を入れる際には、墨の塗り過ぎから黒い涙のようにしてしまい、周囲を慌てさせた。
   酔ったまま初閣議
2004年(平成16年)の内閣改造時、経済産業大臣からの離任会見後に外部で飲酒していたが、同職に再任されたことを知って慌てて官邸に戻った中川は、酔ったまま初閣議に臨んだ。
   酩酊での後援会挨拶
2005年(平成17年)夏、十勝管内本別町で行われた後援会パーティーに、中川は酩酊状態で登場した。呂律が回らないため、10分間を予定されていた挨拶は数分間で終了し、中川は同席していた地元の首長からたしなめられた。
   宮中晩餐会での騒動
2008年(平成20年)11月、スペインのフアン・カルロス1世夫妻を迎えて開催された、天皇・皇后主催の宮中晩餐会における悪酔い騒動は、中川本人もそれを認めて反省しているエピソードである。同席していた妻の制止を聞かずに多量飲酒した中川は、東宮大夫・野村一成に、「水問題について皇太子殿下もお詳しいと聞いたので是非お話しさせていただく機会がほしい」と絡み、素っ気なく「無理」と返されたことに激怒、「分かった、帰る!」と大声を出したという。また、「宮内庁のばかやろう」などと怒鳴って途中退席したとの報道もあった。
   演説での読み間違い
2009年(平成21年)1月、財務・金融担当大臣として衆議院本会議での財政演説を行った中川は、「渦中」を「うずちゅう」、「改正」を「改革」、「削減」を「縮減」などと読み間違い、財務省が計26ヵ所の訂正を申し出るという事態になった。これら間違いに付いて財務省は、「風邪で体調が悪かった」と説明したが、首相(当時)・麻生太郎の漢字の読み間違いが話題となっていた最中であったためにメディアによって取り上げられることとなった。この前日、中川は酒を飲みながらテニスをし、持病の腰痛を悪化させていたという。
   第45回衆議院議員総選挙
2009年(平成21年)8月の選挙に際し、北海道帯広市で行われた中川の総決起大会に招かれた政治評論家・三宅久之は、激励の演説中に中川に対して禁酒宣言する様に一喝した。さらに、郁子夫人に対しては自宅にあるアルコール類を全て捨てるように進言したため、中川は直後の登壇際、支援者に対して禁酒宣言をすることとなった。この一件について、三宅は中川の死後、自分の言動が中川にストレスを与えた可能性を悔い述べた。
朦朧記者会見​
2009年(平成21年)2月14日、G7の財務大臣・中央銀行総裁会議が、イタリア・ローマで開催された。同会議終了後、日本銀行総裁・白川方明と財務官・篠原尚之との共同記者会見に臨んだ中川だったが、その発言は呂律が回っておらず、あくびをし、表情は目が虚ろという状態であった。さらに中川は、言い間違いをする、質問した記者が見つけられずに「どこだ!」と叫ぶ、「共同宣言みたいなものが出ました」などと不明瞭な発言をするなどの異状を呈したことから、健康不安や酩酊などが疑われることになった。マスメディアはこれを、「深酒居眠り会見」などと報じた。
帰国後中川は、「(問題となった会見前にワインを)飲んだのをごっくんということであれば、ごっくんはしておりません。たしなんでいるんです。グラス一杯飲んでおりません」と説明した。また、原因は、往路の機内における抗ヒスタミン作用を含む感冒薬とアルコールの同時摂取、あるいは風邪薬単独の大量服用であると説明された。会見の前、中川がG7の昼食会を中座してホテルで昼食を採りワインに口をつけたが、1本のワインを6名で分けたものであり、その場に読売新聞記者、中川の高校の同期でもある財務省国際局長の玉木林太郎、財務官僚二名、通訳、居合わせた中川の知人が同席していたことを、川内博史の質問に答えて玉木が証言した。
この事態に対しては自由民主党幹部からも批判が出たほか、アメリカ人テレビ記者が自身のブログで行った皮肉交じりの批判を『読売新聞』が報じるなど、中川へのバッシングが過熱した。中川は緊急記者会見を開き、予算案及び関連法案の衆議院通過を待って大臣職を辞するとしたが、野党5党は中川に対する問責決議案を提出、また、与党である自由民主党内や公明党からも速やかな辞任要求が出された。さらに、野党側が予算審議拒否の姿勢を示すに及んだことから、結局中川は同日中に大臣職を辞した。
バチカン美術館でのトラブル​
G7における「朦朧会見」の直後、中川らはバチカン美術館を約2時間観光したが、その際にも中川は美術品に触れる、柵を越えて警報を鳴らす、彫像・ラオコーン像の台座に座るなどの不適切な行動をとっていたことが報じられた。
これを受けて中川の事務所は、「体調が悪く、入ってはいけない区域に入ってしまい、警報が鳴ったのは事実」と発表した一方、中川自身は 「非常に事実と違う」「(博物館を)案内してもらい、つつがなく終わったと思っていたらあの報道。(バチカン側も)全く警報機も鳴っていないし、私に注意もしていないとお怒りになっている」と報道内容を否定した。通訳として中川に同行していた神父の和田誠は中川の最も近くにいたが、報道にあったような非常識な行為を見た記憶はないという。和田によると、中川から酒のにおいはせず(和田は酒が苦手なため、匂いには敏感であると述べている)、中川の言葉は非常にはっきりとしており、中川が立ち入り禁止エリアに足を踏み入れることは無く、中川が触ってはいけない展示品を素手で触る場面も無く、中川は博物館の説明に非常に熱心に耳を傾けており、ラオコーン像の周囲には柵は設置されていなかったとした。
和田は、日本のマスコミに対して「中川の行動に非常識な点は無かった。あれは間違いであると繰り返し抗議したが徹底的に無視された」と抗議した。
その後の日本政府による答弁書は、中川が同美術館で立ち入り禁止区域に入り、警報が鳴ったとしているが(内閣衆質171第254号 平成21年4月7日)同博物館に確認し、「警報機は鳴ったが、その音量は全館に響くほど大きくなく、気づいた人も気づかなかった人もいただろう」としている。
政治資金​
政治資金源のいくつかは、不適切であると捉えられ得る業者や業界団体からの政治献金であった。それらには、消費者金融業界の政治団体である全国貸金業政治連盟(全政連)からの献金や、入札に絡む虚偽報告で行政処分を受けた秋田県の建築会社社長からの個人献金などが含まれていた。
また、牛肉偽装事件で摘発されたハンナングループの団体や企業からの献金は、中川が農水相経験もあるいわゆる農水族であったことから、国会でも関連する質疑が行われた。  
 

 
2009/2