上杉鷹山の出番はないのでしょうか

新しい産業は興せなくても 
方法・手段を改めれば 新しい産業になります 
 
倹約は悪なのでしょうか 
景気が悪くなれば会社も個人も倹約するのが当たり前です 
税金のバラマキなど無責任な役人・政治屋のお遊びです 
 
どうせばら撒くなら考え直しましょう


 
 
 
農業の再生 
食料自給率 
食の安全 
労働力の移転
  
国地方自治体が官営派遣会社設立 
非正規雇用労働者を税金で雇い 
高齢化農家に無料派遣
  
規制撤廃 
自由に誰でも農業に参加できる予備軍の環境整備になります
  
  
  
高齢者専用の官営PC喫茶・パソコン塾 
病院待合室から移動 
引きこもりから散歩 
頭の活性化 
フリーター若者は先生で雇用創出
  
都内なら遊んでいる箱物はいっぱいあります 
リフォーム屋さんの仕事も生まれます
  
廃校も活用できます
  
シャッター通りの空き店舗も活用 
商店街が生き返るかもしれません
  
PCの新規需要 
老人仕様の機器・ソフトの開発も新事業に
  
  
 
介護士の最低賃金制導入 
資格分ちょっとだけ高めに設定 
介護料金との差分を介護士へ直接支給 
介護会社の支援は不要
  
介護士はきつい仕事のわりに低賃金だった 
そのため志半ばで止めた人が続出しただけです 
Uターンさせられるかも
  
勢い余ったら 
過疎地に現代版「極楽浄土」介護施設を作りましょう 
現代版姥捨山にしましょう
 

 
2009/ 
 
 
上杉鷹山
戦国時代の名門・会津藩上杉家120万石は、関が原の戦いで大阪方につき、徳川幕府によって30万石に所領を削られ米沢へ移封された。その際、上杉家は家臣団を減らさず、格式も落とさずに移転を完了した。収入が減ったのに人員削減を行わなかったことは美談として賞賛された。その後「忠臣蔵」で有名な吉良上野介の息子・綱憲が養子に入り、五代藩主として家督を継いだときに、相続手続きに誤り、ふたたび所領を半分に減らされた。格式の維持は不可能であったのに、綱憲はなにもしなかった。8代藩主・重定のころには、財政の逼迫で領地を幕府に返上し廃藩を願い出る始末だった。廃藩の願いは許されず、重定は隠居し家督を鷹山に譲った。そのころ米沢藩の給与支出額は、総収入の実に9割を超えていた。 鷹山は九州の日向高鍋藩(3万石)の秋月種美の息子として江戸藩邸で育ち、10歳で8代米沢藩主上杉重定の養子となり、16歳で元服、17歳で米沢藩主となった。鷹山は相続して2年間米沢に入国せず、江戸で再建策を練り、明和6年(1769)に初めて所領に入り改革に取り組んだ。かつて、ケネディ米大統領は就任直後の日本人記者団との会見で「尊敬する日本人は?」との質問に「上杉鷹山」と答えた。内村鑑三も代表的日本人の中に鷹山をあげている。
藩主に就任するや、鷹山は徹底した「大倹約令」を発し、江戸から国許へ申し送った。「大倹約令」は12項目から成り、格式を重んじる気風を変えることが目的だった。士分と庶民を問わず身に着けるものは木綿にかぎり、食事は年末年始以外は一汁一菜とし、年始中元のような儀礼を廃した。下級武士や領民にのみ倹約を求めたのではなく、自らが倹約を実践した。大名行列の類もその人数を極端に減らし、鷹山の住む江戸邸の奥女中の数も、50余名から一気に9人に減らした。自分の身の回りのものに充てる費用(仕切料)も、養子時代の209両のまま据え置いた(重定の仕切料は1500両だった)。鷹山はこの金額を隠居の身となるまで50年余も据え置いた。
いかに自ら範を垂れても、江戸からの号令だけでは国許の実体は簡単には変わらなかった。米沢の白子神社には今も4通の倹約誓紙が保存されている、これらの誓紙は米沢在住の藩重職たちの抵抗がいかに大きかったかを物語っている。鷹山の政治信条は「自分だけが正義だとは思うな」で強引なことは好まなかった。鷹山は江戸家老・色部照長と上杉一族出身の重職・上杉勝承に頼み、鷹山の二度目の誓紙をふたたび白子神社に奉納し、「大倹約令」に向けての決意を披瀝した。同時に、前藩主・重定に「大倹約令」を国許で発表させた。国許の重職たちは鷹山ではなく前藩主には従った。鷹山は前途多難の道の第一歩を緻密な根回しによって切り抜けた。
鷹山の藩政改革・財政再建の真骨頂は、「倹約」の一方で大胆な殖産興業を行ったことにある。倹約を奨励する傍ら、離散した農民を呼び戻し、積極的に新田を開拓し、用水路を整備した。さらに、寒冷地に適した品種の育成にも励んだ。 
他方で鷹山は「米本位主義」の財政を崩すことも考えていた。米を生産するには東北の風土は厳しいことを知っていたからである。米本位主義から脱却する方法として、原料として他藩に輸出していた特産品に、付加価値を付けることを考えた。米沢の特産品は漆(うるし)、楮(こうぞ)、桑などである。鷹山は「漆の実からは塗料の漆ばかりでなく蝋を取り、楮から紙を漉き、桑から生糸を織って絹織物を作る」ことを藩士たちに提案、すぐに植林計画を実行した。織物は藩士の妻女や家族が取り組んだ。「武士の妻に織物などをさせるとは」と怒る人たちを尻目に、臨時収入を生活費の補助にしようという下級武士の妻女たちが一所懸命取り組み始めた。漆の苗を取る名人の農民を「漆苗取り専門の頭取」に任命して効果を上げたりもした。 
特産品作りには、他藩から職人の数家族を家族ぐるみで招聘し厚く遇した。紙漉き職人は長州から、小千谷からは小千谷縮の職人を、奈良からは晒職人や蚊帳職人をというように、他藩からの技術移転には金を惜しまなかった。技術導入が将来のための先行投資と鷹山は弁えていた。
家督を受け継いだとき、鷹山はまだ江戸の藩邸に暮らしていた。もちろん、藩の窮乏は知ってはいたが、東北米沢の実情は知らなかった。江戸藩邸の藩医・藁科松柏は若い鷹山の優しい心に打たれ、いまは藩から遠ざけられているが、将来の見込みのある青年たちを鷹山に紹介した。竹俣当綱は、かつて正義心から藩政を壟断し私欲を満たしていた重職を刺殺した男だった。小姓の佐藤文四郎は、目上に対しても直言して憚らない男だった。硬骨漢の木村丈八、世の中を醒めた目で批評的に見ている志賀八右衛門など異色の人材が集まっていた。学問の師・細井平洲も松柏の友人で「学問とは聖賢の説く道を現実に行うことにある」とする「現実主義者」だった(世に「折衷学者」ともいわれた)。これらの側近たちを重用した鷹山の仕事初めが「大倹約令」の施行だった。
藩主に就任して2年がたち、財政再建に一定の目処がたったとみるや、師である現実主義的朱子学者・細井平洲を招き藩校・興譲館の建設にかかった。興譲館の「譲」は「誠と実による仁政主義」のことで、現代ではこの理論は天明期の藩政改革の基本理念とされている。鷹山の考え方も「自分だけ良くなろうとは思うな」「自分だけが正しいと思うな」そして「一度譲って考えろ」その結果、間違っていると気がついたら「改むるに憚る事なかれ」だった。興譲館からは多くの人材が輩出され、その後の米沢藩を支える人材が巣立った。 
当時としては珍しい「自由出仕制度」も鷹山の発案で、仕事のある時に出社し、ないときは休んでいいという制度である。自由出仕制度の真意は「出仕しているだけで仕事をしていると思うな。暇な時間は得意な仕事を選んで、藩のために働け」だった。その結果、農業にも、植林にも、土木工事にも士分の者の姿が見受けられるようになり、藩財政の再建に貢献した。
鷹山の基本政策は「自助」「互助」「扶助」の3助の精神を米沢に住むすべての人間に自覚してもらうことだった。 倹約・殖産興業・新田開拓・人材育成などと、三助の訓えもその延長線上にあり、富の分配の平等を図り、無駄を極力排除し、飢饉に備える蓄えも忘れなかった。改革の成果は天明の大飢饉(天明2〜3年[1782-1783])が立証した。東北地方を中心に大飢饉が起こり、仙台藩では30万人、弘前藩では8万人、盛岡藩では7万人ともいわれる餓死者を出した。米沢藩は一人の餓死者も出さず、他藩からの難民も藩民同様に保護した。鷹山の凶作に対する対応が早かったことと、倹約の半面で蓄えた備蓄があったからである。「食料は藩士、藩民の別なく男1日米3合、女2合5勺の割で支給するから、これを粥にして食せ。酒、酢、豆腐、納豆など穀類を原料とする品の製造禁止」藩主、藩士、領民が等しく窮乏に耐え、飢饉を乗り切った。当時、300諸侯のうちで、飢饉に対する米の備蓄があった藩は、紀州と水戸の徳川家、熊本の細川家と米沢の4藩しかなかったと伝えられている。
藩政改革が成功したのは、武士農民が一体となって藩政改革に邁進したからである。なぜ藩全体が一体となれたか、その謎を解く鍵が鷹山の説得術である。 
説得とは、一般的にはよく話して相手にわからせること、説き伏せることとされる。従って、説得術とは相手にわからせ、協力させるための術ということができる。説得術では、熱意をもって諄々と話すこと、相手が理解しやすいように論理的に話すこと、相手の立場や考えを踏まえた上で自説を展開すること、話の前提を共有できるようにすることなどを重要なこととしている。また、比喩の使い方が重要とする考え方もあり、段階を追って説得することを勧める考え方もある。話術ではないが、相手が何を望み、どんな取引材料を提示するかが重要とする説もある。これらは説得術の一面を表していると言える、しかし、説得術とは単に話術ではなく、説得する人物にそれを推し進める行動力があるかどうか、話す相手によってその内容を変えていないかどうか、途中で梯子を外されはしないかどうか、取引材料を提示したにしても空手形に終わる可能性があるかどうかなど、説得する人物が人格的にも実力的にも信頼できるかどうかが重要な鍵を握る。 生き方を含めた信頼感がなければ、本当の説得はできない。説得術とは全人格的なものなのである。 鷹山の説得術には大きく4つの特徴がある。一つは情報公開と全員討議。二つ目が率先垂範、三つ目が公正な人事、そして四つ目が将来のビジョンを明確に示すということ。この四つが揃って、はじめて領民も鷹山を支持し、その方針に従った。
鷹山の説得術における顕著な特徴は、情報公開と民主的な全員討議に見られる。情報公開は藩の現状を一人一人が理解し、改革の必要性を認識するためには不可欠。全員討議は、決定を広く知らしめ、「自分たちで決めたこと」と実行に責任感を持たせることに役立った。 藩主就任直後に大倹約令を発する際にも、身分の上下を問わず、軽輩たちも参加した全員会議を開催し、疑問のある者には自由に発言させた。鷹山の信条は「譲」で「自分だけが正義だと思うな。相手にも正義があるかもしれないと思え」ということで、権力的に下の者を押さえつけることは好まなかった。なんどでも同じ事を説明し、広く合意を求めた。封建制の時代には珍しいことだった。全員討議を開き、藩の実情と将来の方向を徹底的に説明したことで、武士が農作業を行ったり、新田開拓に参加したり、武士の妻たちが織物に従事したりできたのである。合意と納得がなければ、このようなことは武士のプライドが許さなかっただろう。 鷹山が藩主を務めたのは、「田沼時代」から松平定信の「寛政の改革」にまたがっている時代で、ちょうどバブルの時代から不景気と緊縮財政の時代へ転換する時代にあたる。社会構造が転換する時期で、望むと望まざるとに関らず、転換期に藩財政を立て直す宿命を負っていた。
過激な改革案を打ち出せば、当然、守旧派の抵抗が始まる、しかし、鷹山は説得を繰り返した。下級武士から順次、鷹山支持が広り、そうした最中に守旧派重職による最後の抵抗がおこった。守旧派重職たちはある日、鷹山の側近をだまして登城させず、鷹山と小姓のみを反対派重職たちで取り囲み、政策変更を迫った。前藩主・重定の機転で、そのクーデターは失敗に終ったが、鷹山は全家臣に総登城を求め、事実を公表し全員討議にかけた。討議の結果を受け、鷹山はクーデターを首謀した重職たちに対して、切腹2名を含む厳しい処分をいいわたした。これにより鷹山の改革は成功に近づいた。
他人に倹約や忍耐、重労働を迫るには、まず本人がそれを実行しなければならない。そうでなければ、下のものは付いてこない。鷹山の率先垂範ぶりは徹底したものだった。家臣・領民に木綿着用、一汁一菜を強制したときも、まず鷹山が率先した。前藩主・重定にも同様の倹約を求めた。藩に帰ってからは、鷹山はこまめに領内を廻る。新田を開拓する家臣たちに親しく声を掛け、織物をする武士の才女たちにも激励の言葉を与えた。領民とともに畑仕事に勤しむこともあったと伝えられる。
人間は生き物であると同時に生物(なまもの)だと言われる。人間をもっとも腐らせるのは、人事の不公正であることは今も昔も変わらない。つねに優しく温顔を崩さない鷹山も、改革の精神を損なうと見ると、熟慮の末に厳しい処分を行った。竹俣当綱(たけまたまさつな)の場合もそうだった。当綱は直情な改革派だったため守旧派の重職たちに煙たがられて、江戸屋敷に左遷されていた時代に鷹山の側近となり、以降、改革の中心人物として鷹山の右腕となって働いた。米沢に入ってからは鷹山の心を敏感に読み取り、実行に移した。しかし、改革が成功へのレールに乗ると、利権を求めて賄賂や接待という魔の手が竹俣に忍び寄ってくるのも当然だった。当初は厳正に拒否していた竹俣の心に慢心が巣食いだし、賄賂を取っているという噂が狭い藩内に広まりだし、竹俣は辞職を願い出たが許されなかった。綿密に事情調査をし、汚職の事実を確認した鷹山は竹俣に免職をいいわたし「押籠(おしこめ)」にした。この鷹山の厳しさは、藩民一同に鷹山の改革への意志の強固さを印象付けた。 鷹山にとって竹俣の抜擢は藩政改革のシンボルであり、藩の活性化に必要なことだった。しかし、だからといって汚職を許すことはできない、鷹山にとって「泣いて馬しょくを切る」心境だった。情に流されず、厳正な人事を断行したことが、鷹山の評価を高め説得力が増したといえる。
家臣・領民に我慢を強いるためには、我慢の後にある光が見えなければならない。藩運営の理念と、将来のビジョンを家臣・領民に見せ共感を持たせることがリーダーの条件である。 大倹約令を発すると前後して、新田開拓の計画、特産品を原料として売るだけでなく、そこに付加価値を付けて高く売る殖産興業を提案した。そのために他藩から専門技術者を招聘することも示した。治水や用水の開拓計画も示し、開墾すれば十分に食べられることを明示した。そうした上で、将来の収入を概算し、災害や飢饉への備え、教育や生活水準の向上を約束した。「いま我慢すれば、将来はこういう社会が築ける」というビジョンを示すことがリーダーには不可欠の条件である。 
また、具体的な施策と方向性だけでなく、組織を運営するための理念を家臣・領民に訴え、支持を得る事も重要である。施策とビジョンは常に流動する現実社会にあわせて修正する必要があり、目標年度がずれることもあるからである。その点、経営の理念は流動することはなく、計画にズレがあっても、明確な理念の方向に向かっていれば、部下は付いていくことができるからである。
鷹山が35歳で重定の実子・治広に家督を譲る際に与えた「伝国の辞」は極めて感動的なものだ、鷹山の経営理念を示すもので、この理念を鷹山はあらゆる機会に訴えてきた。 
    一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候 
    一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候 
    一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候 
    右三条御遺念有間敷候事 
           天明五巳年二月七日  治憲 花押 
        治広殿  机前 
しかしながら、世子・治広は、鷹山の政治を引き継ぐには若すぎたうえ、急激な改革の反動が治広を襲った。財政再建が成ると、家臣団にも再び格式を重んじる風が表われ、鷹山の改革の成果は潰されかけた。治広には、こうした弊を排除する胆力と老練さが欠けていた。ついに、進んで開拓地に入っていた下級武士団や、特産品を手掛けている武士たちから、鷹山再任への動きが始まり、治広も鷹山に指導を願い出た。鷹山は隠居の身分のまま藩政の前面に立ち、以後72歳の死まで米沢藩のために力を注いだ。
上杉鷹山 / 童門冬二 
同じ人物を扱っていても、作家によってこうも印象が異なるものかと思ってしまう。ここで対比するのは藤沢周平の「漆の実のみのる国」である。本書では、上杉治憲が改革の旗振りとなり、自身も改革案を提示して家臣に実行させるトップダウンの姿が描かれている。そして、その家臣の中では小姓の佐藤文四郎を重要な人物として登場させている。トップに近い視点で描くためにそうなるのだろう。一方、「漆の実のみのる国」では、上杉治憲は改革の立案から実行を家臣にまかせ、その採決や責任を負うという姿が描かれている。いわゆるボトムアップの姿であるが、トップの上杉治憲が全責任をきちんと背負うという図式になっている。そのため、重要な人物として執政の竹俣当綱がクローズアップされる。また、本書と「漆の実のみのる国」とでの人物の決定的な取扱いが異なるのは先代藩主の重定である。本書ではほとんど触れられることがないが、「漆の実のみのる国」では上杉治憲に影響を与えている記述が見られる。その結果として、家臣が上杉治憲に引退を迫った事件や、上杉治憲の若くしての隠居などの記述に違いを持たせている。この上杉治憲の引退に関しても本書と「漆の実のみのる国」では捉え方が異なり興味深い。本書では、後進の育成のために引退する。更には自身の影響力を小さくするための出来事として描かれている。一方で「漆の実のみのる国」ではさらなる改革を進めるために、より自由な隠居の身分を選んだとして描かれている。藩主は参勤交代があるため、本国に常駐できない。隠居すれば本国に居続けて改革を推進させることが出来る。そのため、家督相続に問題がなくなった時点で家督を譲ったと捉えているのである。童門冬二は上杉治憲の改革を行う姿勢に重きを置いているようである。実は、本書では改革の成果についての記述はあまりない。成功したのか失敗したのかは、事実上描かれていない。つまり、改革を行うことの大切さを謳い、理想主義的な側面を強調しているのである。童門冬二は結果として表れるものよりも、観念的なものを重視しているようである。一方、藤沢周平はより現実的な側面に重きを置いている。そのため、上杉治憲と竹俣当綱が進める改革が見込み違いや天災などにより全然進まない情況を描いている。現実主義的な面があるのである。他にも両者の差至る所で見受けられる。比較して読まれるととても興味深いだろうと思う。両者で共通する点が一つある。それは、本書も「漆の実のみのる国」でも、上杉治憲が隠居して鷹山を名乗ってすぐで物語が終わってしまうのである。そのため、莅戸善政が藩政に復帰してからの改革は詳しくは描かれていない。また、上杉鷹山は七十を超す長寿だったにもかかわらず、その後半の人生が描かれない結果となっている。米沢藩の改革の成果が現れ始めるのは実際には上杉鷹山の晩年近くになってからだったのではないだろうか?改革の結果がすぐに現れるはずがない。特に殖産興業政策が短期で実を結ぶ方がおかしい。だから、個人的には上杉鷹山の改革が成功したのかどうかを知るためにも、晩年の姿を描いて欲しかった。  
 
数日前、治憲は米沢藩の藩主の座を相続した。まだ十七才の青年藩主である。  
だが、米沢藩は困窮に喘いでいた。借金を頼みに行った色部照長は不首尾に終わったことを告げた。そして、一つだけ策があるという。それは藩を幕府に返上することである。それ程までに追詰められていた。  
米沢はもともと、藩祖・上杉景勝の家臣・直江兼続の領地であった。景勝は家来の国に転がり込んだのだ。そのとき、所領が減ったにもかかわらず、家臣の人員整理を行わなかった。景勝の死後数代たち、さらに減封される出来事が起きた。その結果、米沢藩は収入の約九割が人件費として支出される異常な状態になってしまった。  
だが、治憲は藩を返上しないことを決意していた。そのつもりがあるのなら、一度改革を断行してみてからでも遅くないと思ったからである。だが、そのためには人が必要である。  
米沢藩は本国も江戸も開藩以来の形式主義、事大主義に毒されており、身動きがとれないでいる。この悪習に立ち向かえる人物が必要である。  
そこで、小姓の佐藤文四郎に命じて人物を探させた。そして佐藤文四郎が持ってきたのは、竹俣当綱、莅戸善政、木村高広、藁科松柏らである。これは治憲が注目していたのと一致していた。  
治憲はこの者たちを呼び、改革を命じた。まずは江戸からの改革を始める。米沢藩の改革は民を富ませることである。そして、まず取りかかったのが、虚礼の廃止である。だが、このことはすぐに本国での抵抗を招く。  
治憲が始めて米沢に入国する。十九の時である。その途中のこと。治憲は炭の中の種火をみて、近習達を呼び、この種火のようにお前達は改革の火種となってくれと頼む。そしてその場で、種火から炭に火が移され皆に手渡された。  
米沢に入国した治憲は竹俣当綱を執政に、莅戸善政を奉行に任命し本国での改革を始めるが、本国の重臣達が非協力的な態度に出るため、遅々として進まない。そうしたなかで、治憲は米沢藩の殖産を竹俣らに命じる。だが、これも重臣達が妨害をする。  
両者の対立は決定的な物になり、重臣達は治憲追い出しを企む。だが、先代藩主・重定のおかげで命拾いをする。この事件に関わった重臣達には厳罰が言い渡された。  
藩政に落ち着きが戻り、改革が進む。そのなかで人物養成のために治憲は学校を作ることを決断する。学校は興譲館と名付けられた。  
だが、改革が進む中、様々なことがあり、治憲の回りから頼みにしていた人間が去る。そして治憲は、若くして隠居することを決意する。三十五才のとこである。この時に次期藩主となる治広に送ったのが「伝国の辞」である。この後、治憲は鷹山と名乗るようになる。 
漆の実のみのる国 / 藤沢周平
米沢藩中興の祖であり、江戸時代を通じて名君の誉れの高い上杉鷹山を主人公とした小説である。藤沢周平は以前に同じテーマで「幻にあらず」を書いているが、藤沢周平としては珍しいことである。同じテーマを最期の作品に選んだのは、一つには「幻にあらず」で書いた人物が実際とは異なっていたこと(例えば、藁科松柏が竹俣美作当綱より八歳歳下だったが、「幻にあらず」では歳上のように描かれている)や、書き足らなかった事柄が多かったためであろうと思われる。そのことを裏付けるかのように、当時の米沢藩の窮状がいかにして成立したのかが克明に書かれているし、それに伴う、藩士の退廃ぶりも描かれている。さて、上杉鷹山は名君の誉れが高いが、結局・藩主であった時代には米沢藩の財政が建て直ることはなかったようである。それは、天候不順による凶作が度々起こるという不幸な要因もあるが、財政再建の骨子となる殖産事業に失敗したという要素が大きい。だが、この失敗で鷹山を評価してはいけないだろう。米沢藩のような窮乏に喘ぐ藩では、なにもやらない緊縮財政では破綻が目に見えている。成功するかどうかは不確定だが、何かをやらなければ未来が見えてこないのは確かである。抵抗はあったものの、それを断行したところに鷹山の真の評価があるのだろう。これで、天候不順などの不幸がなければ、鷹山の評価はさらに上がっていたはずである。改革が成功するかどうかは、その構想とは別の偶発的要因に左右されることが多いようである。そういう意味では、鷹山は今ひとつ運のなかった治世者だったのかもしれない。  
 
米沢藩の江戸家老・竹俣美作当綱のもとに手紙が来た。現在の米沢藩を牛耳っている森平右衛門利真を排除するには当綱が米沢に戻らなければ埒があかないと書かれていた。  
米沢藩は貧乏藩である。会津時代の百二十万石から、米沢に移ってから八分の一の十五万石になったためである。だが、十五万石には十五万石のやりようがあるはずである。そのためには障害物を除かなければならない。  
森平右衛門利真を除く。だが、森は現藩主重定の寵愛を受けている。除いた後の重定説得が必要である。  
藩世子の直丸は英明の資質であると藁科松柏からも聞いており、当綱もそうであることを思っている。その直丸のために道を空けてもらわなければならない。  
当綱は国元に戻り、執政らと謀って森を殺した。その後、素早く動き森派達を封じ込め、藩主重定を説得した。だが、これがきっかけで当綱と重定の間に感情的なしこりが残った。  
竹俣美作当綱らが執政となり、藩の梶を取り始めた。その中で当綱は藩主交代を急ぐべきだと思い始める。そのためには重定に引退してもらう。だが、それもすぐというわけにはいかなかった。  
森を排除した後の藩の改革は遅々として進まない。経済状況は悪化する一方である。この中で当綱が放った一言がきっかけで、封土返上の話が持ちあがる。結局は封土返上とはならなかったが、それだけ米沢藩は追詰められていた。  
そして、ようやくにして藩主が交代する。第九代藩主・上杉治憲、後の鷹山である。  
治憲は早速に改革に着手し始めた。それは竹俣美作当綱を中心として、倹約から始まるものだった。だが、この急速な改革に対して、頑強に国元の重臣達が抵抗を見せる。  
それは、やがて「七家騒動」となる。国元の重臣達が上杉治憲を強制的に隠居させようとしたのである。他の藩でも同様の事件は起きていた。だが、このとき治憲はからくも逃げ切った。  
この事件の後、竹俣美作当綱は上杉治憲に新たな改革案を示した。それによれば、改革が上手くゆけば、十五万石の米沢藩が実質三十万石になるという壮大な構想だった。上杉治憲は気持ちが高ぶるのを感じた。しかし、その一方で何かを見落としているのではないかという気持ちもあった。  
こうして、米沢藩の改革の火蓋は切って落とされた。