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●上杉鷹山 1 |
戦国時代の名門・会津藩上杉家120万石は、関が原の戦いで大阪方につき、徳川幕府によって30万石に所領を削られ米沢へ移封された。その際、上杉家は家臣団を減らさず、格式も落とさずに移転を完了した。収入が減ったのに人員削減を行わなかったことは美談として賞賛された。その後「忠臣蔵」で有名な吉良上野介の息子・綱憲が養子に入り、五代藩主として家督を継いだときに、相続手続きに誤り、ふたたび所領を半分に減らされた。格式の維持は不可能であったのに、綱憲はなにもしなかった。8代藩主・重定のころには、財政の逼迫で領地を幕府に返上し廃藩を願い出る始末だった。廃藩の願いは許されず、重定は隠居し家督を鷹山に譲った。そのころ米沢藩の給与支出額は、総収入の実に9割を超えていた。
鷹山は九州の日向高鍋藩(3万石)の秋月種美の息子として江戸藩邸で育ち、10歳で8代米沢藩主上杉重定の養子となり、16歳で元服、17歳で米沢藩主となった。鷹山は相続して2年間米沢に入国せず、江戸で再建策を練り、明和6年(1769)に初めて所領に入り改革に取り組んだ。かつて、ケネディ米大統領は就任直後の日本人記者団との会見で「尊敬する日本人は?」との質問に「上杉鷹山」と答えた。内村鑑三も代表的日本人の中に鷹山をあげている。 |
藩主に就任するや、鷹山は徹底した「大倹約令」を発し、江戸から国許へ申し送った。「大倹約令」は12項目から成り、格式を重んじる気風を変えることが目的だった。士分と庶民を問わず身に着けるものは木綿にかぎり、食事は年末年始以外は一汁一菜とし、年始中元のような儀礼を廃した。下級武士や領民にのみ倹約を求めたのではなく、自らが倹約を実践した。大名行列の類もその人数を極端に減らし、鷹山の住む江戸邸の奥女中の数も、50余名から一気に9人に減らした。自分の身の回りのものに充てる費用(仕切料)も、養子時代の209両のまま据え置いた(重定の仕切料は1500両だった)。鷹山はこの金額を隠居の身となるまで50年余も据え置いた。 |
いかに自ら範を垂れても、江戸からの号令だけでは国許の実体は簡単には変わらなかった。米沢の白子神社には今も4通の倹約誓紙が保存されている、これらの誓紙は米沢在住の藩重職たちの抵抗がいかに大きかったかを物語っている。鷹山の政治信条は「自分だけが正義だとは思うな」で強引なことは好まなかった。鷹山は江戸家老・色部照長と上杉一族出身の重職・上杉勝承に頼み、鷹山の二度目の誓紙をふたたび白子神社に奉納し、「大倹約令」に向けての決意を披瀝した。同時に、前藩主・重定に「大倹約令」を国許で発表させた。国許の重職たちは鷹山ではなく前藩主には従った。鷹山は前途多難の道の第一歩を緻密な根回しによって切り抜けた。 |
鷹山の藩政改革・財政再建の真骨頂は、「倹約」の一方で大胆な殖産興業を行ったことにある。倹約を奨励する傍ら、離散した農民を呼び戻し、積極的に新田を開拓し、用水路を整備した。さらに、寒冷地に適した品種の育成にも励んだ。
他方で鷹山は「米本位主義」の財政を崩すことも考えていた。米を生産するには東北の風土は厳しいことを知っていたからである。米本位主義から脱却する方法として、原料として他藩に輸出していた特産品に、付加価値を付けることを考えた。米沢の特産品は漆(うるし)、楮(こうぞ)、桑などである。鷹山は「漆の実からは塗料の漆ばかりでなく蝋を取り、楮から紙を漉き、桑から生糸を織って絹織物を作る」ことを藩士たちに提案、すぐに植林計画を実行した。織物は藩士の妻女や家族が取り組んだ。「武士の妻に織物などをさせるとは」と怒る人たちを尻目に、臨時収入を生活費の補助にしようという下級武士の妻女たちが一所懸命取り組み始めた。漆の苗を取る名人の農民を「漆苗取り専門の頭取」に任命して効果を上げたりもした。
特産品作りには、他藩から職人の数家族を家族ぐるみで招聘し厚く遇した。紙漉き職人は長州から、小千谷からは小千谷縮の職人を、奈良からは晒職人や蚊帳職人をというように、他藩からの技術移転には金を惜しまなかった。技術導入が将来のための先行投資と鷹山は弁えていた。 |
家督を受け継いだとき、鷹山はまだ江戸の藩邸に暮らしていた。もちろん、藩の窮乏は知ってはいたが、東北米沢の実情は知らなかった。江戸藩邸の藩医・藁科松柏は若い鷹山の優しい心に打たれ、いまは藩から遠ざけられているが、将来の見込みのある青年たちを鷹山に紹介した。竹俣当綱は、かつて正義心から藩政を壟断し私欲を満たしていた重職を刺殺した男だった。小姓の佐藤文四郎は、目上に対しても直言して憚らない男だった。硬骨漢の木村丈八、世の中を醒めた目で批評的に見ている志賀八右衛門など異色の人材が集まっていた。学問の師・細井平洲も松柏の友人で「学問とは聖賢の説く道を現実に行うことにある」とする「現実主義者」だった(世に「折衷学者」ともいわれた)。これらの側近たちを重用した鷹山の仕事初めが「大倹約令」の施行だった。 |
藩主に就任して2年がたち、財政再建に一定の目処がたったとみるや、師である現実主義的朱子学者・細井平洲を招き藩校・興譲館の建設にかかった。興譲館の「譲」は「誠と実による仁政主義」のことで、現代ではこの理論は天明期の藩政改革の基本理念とされている。鷹山の考え方も「自分だけ良くなろうとは思うな」「自分だけが正しいと思うな」そして「一度譲って考えろ」その結果、間違っていると気がついたら「改むるに憚る事なかれ」だった。興譲館からは多くの人材が輩出され、その後の米沢藩を支える人材が巣立った。
当時としては珍しい「自由出仕制度」も鷹山の発案で、仕事のある時に出社し、ないときは休んでいいという制度である。自由出仕制度の真意は「出仕しているだけで仕事をしていると思うな。暇な時間は得意な仕事を選んで、藩のために働け」だった。その結果、農業にも、植林にも、土木工事にも士分の者の姿が見受けられるようになり、藩財政の再建に貢献した。 |
鷹山の基本政策は「自助」「互助」「扶助」の3助の精神を米沢に住むすべての人間に自覚してもらうことだった。
倹約・殖産興業・新田開拓・人材育成などと、三助の訓えもその延長線上にあり、富の分配の平等を図り、無駄を極力排除し、飢饉に備える蓄えも忘れなかった。改革の成果は天明の大飢饉(天明2〜3年[1782-1783])が立証した。東北地方を中心に大飢饉が起こり、仙台藩では30万人、弘前藩では8万人、盛岡藩では7万人ともいわれる餓死者を出した。米沢藩は一人の餓死者も出さず、他藩からの難民も藩民同様に保護した。鷹山の凶作に対する対応が早かったことと、倹約の半面で蓄えた備蓄があったからである。「食料は藩士、藩民の別なく男1日米3合、女2合5勺の割で支給するから、これを粥にして食せ。酒、酢、豆腐、納豆など穀類を原料とする品の製造禁止」藩主、藩士、領民が等しく窮乏に耐え、飢饉を乗り切った。当時、300諸侯のうちで、飢饉に対する米の備蓄があった藩は、紀州と水戸の徳川家、熊本の細川家と米沢の4藩しかなかったと伝えられている。 |
藩政改革が成功したのは、武士農民が一体となって藩政改革に邁進したからである。なぜ藩全体が一体となれたか、その謎を解く鍵が鷹山の説得術である。
説得とは、一般的にはよく話して相手にわからせること、説き伏せることとされる。従って、説得術とは相手にわからせ、協力させるための術ということができる。説得術では、熱意をもって諄々と話すこと、相手が理解しやすいように論理的に話すこと、相手の立場や考えを踏まえた上で自説を展開すること、話の前提を共有できるようにすることなどを重要なこととしている。また、比喩の使い方が重要とする考え方もあり、段階を追って説得することを勧める考え方もある。話術ではないが、相手が何を望み、どんな取引材料を提示するかが重要とする説もある。これらは説得術の一面を表していると言える、しかし、説得術とは単に話術ではなく、説得する人物にそれを推し進める行動力があるかどうか、話す相手によってその内容を変えていないかどうか、途中で梯子を外されはしないかどうか、取引材料を提示したにしても空手形に終わる可能性があるかどうかなど、説得する人物が人格的にも実力的にも信頼できるかどうかが重要な鍵を握る。
生き方を含めた信頼感がなければ、本当の説得はできない。説得術とは全人格的なものなのである。
鷹山の説得術には大きく4つの特徴がある。一つは情報公開と全員討議。二つ目が率先垂範、三つ目が公正な人事、そして四つ目が将来のビジョンを明確に示すということ。この四つが揃って、はじめて領民も鷹山を支持し、その方針に従った。 |
鷹山の説得術における顕著な特徴は、情報公開と民主的な全員討議に見られる。情報公開は藩の現状を一人一人が理解し、改革の必要性を認識するためには不可欠。全員討議は、決定を広く知らしめ、「自分たちで決めたこと」と実行に責任感を持たせることに役立った。
藩主就任直後に大倹約令を発する際にも、身分の上下を問わず、軽輩たちも参加した全員会議を開催し、疑問のある者には自由に発言させた。鷹山の信条は「譲」で「自分だけが正義だと思うな。相手にも正義があるかもしれないと思え」ということで、権力的に下の者を押さえつけることは好まなかった。なんどでも同じ事を説明し、広く合意を求めた。封建制の時代には珍しいことだった。全員討議を開き、藩の実情と将来の方向を徹底的に説明したことで、武士が農作業を行ったり、新田開拓に参加したり、武士の妻たちが織物に従事したりできたのである。合意と納得がなければ、このようなことは武士のプライドが許さなかっただろう。
鷹山が藩主を務めたのは、「田沼時代」から松平定信の「寛政の改革」にまたがっている時代で、ちょうどバブルの時代から不景気と緊縮財政の時代へ転換する時代にあたる。社会構造が転換する時期で、望むと望まざるとに関らず、転換期に藩財政を立て直す宿命を負っていた。 |
過激な改革案を打ち出せば、当然、守旧派の抵抗が始まる、しかし、鷹山は説得を繰り返した。下級武士から順次、鷹山支持が広り、そうした最中に守旧派重職による最後の抵抗がおこった。守旧派重職たちはある日、鷹山の側近をだまして登城させず、鷹山と小姓のみを反対派重職たちで取り囲み、政策変更を迫った。前藩主・重定の機転で、そのクーデターは失敗に終ったが、鷹山は全家臣に総登城を求め、事実を公表し全員討議にかけた。討議の結果を受け、鷹山はクーデターを首謀した重職たちに対して、切腹2名を含む厳しい処分をいいわたした。これにより鷹山の改革は成功に近づいた。 |
他人に倹約や忍耐、重労働を迫るには、まず本人がそれを実行しなければならない。そうでなければ、下のものは付いてこない。鷹山の率先垂範ぶりは徹底したものだった。家臣・領民に木綿着用、一汁一菜を強制したときも、まず鷹山が率先した。前藩主・重定にも同様の倹約を求めた。藩に帰ってからは、鷹山はこまめに領内を廻る。新田を開拓する家臣たちに親しく声を掛け、織物をする武士の才女たちにも激励の言葉を与えた。領民とともに畑仕事に勤しむこともあったと伝えられる。 |
人間は生き物であると同時に生物(なまもの)だと言われる。人間をもっとも腐らせるのは、人事の不公正であることは今も昔も変わらない。つねに優しく温顔を崩さない鷹山も、改革の精神を損なうと見ると、熟慮の末に厳しい処分を行った。竹俣当綱(たけまたまさつな)の場合もそうだった。当綱は直情な改革派だったため守旧派の重職たちに煙たがられて、江戸屋敷に左遷されていた時代に鷹山の側近となり、以降、改革の中心人物として鷹山の右腕となって働いた。米沢に入ってからは鷹山の心を敏感に読み取り、実行に移した。しかし、改革が成功へのレールに乗ると、利権を求めて賄賂や接待という魔の手が竹俣に忍び寄ってくるのも当然だった。当初は厳正に拒否していた竹俣の心に慢心が巣食いだし、賄賂を取っているという噂が狭い藩内に広まりだし、竹俣は辞職を願い出たが許されなかった。綿密に事情調査をし、汚職の事実を確認した鷹山は竹俣に免職をいいわたし「押籠(おしこめ)」にした。この鷹山の厳しさは、藩民一同に鷹山の改革への意志の強固さを印象付けた。
鷹山にとって竹俣の抜擢は藩政改革のシンボルであり、藩の活性化に必要なことだった。しかし、だからといって汚職を許すことはできない、鷹山にとって「泣いて馬しょくを切る」心境だった。情に流されず、厳正な人事を断行したことが、鷹山の評価を高め説得力が増したといえる。 |
家臣・領民に我慢を強いるためには、我慢の後にある光が見えなければならない。藩運営の理念と、将来のビジョンを家臣・領民に見せ共感を持たせることがリーダーの条件である。
大倹約令を発すると前後して、新田開拓の計画、特産品を原料として売るだけでなく、そこに付加価値を付けて高く売る殖産興業を提案した。そのために他藩から専門技術者を招聘することも示した。治水や用水の開拓計画も示し、開墾すれば十分に食べられることを明示した。そうした上で、将来の収入を概算し、災害や飢饉への備え、教育や生活水準の向上を約束した。「いま我慢すれば、将来はこういう社会が築ける」というビジョンを示すことがリーダーには不可欠の条件である。
また、具体的な施策と方向性だけでなく、組織を運営するための理念を家臣・領民に訴え、支持を得る事も重要である。施策とビジョンは常に流動する現実社会にあわせて修正する必要があり、目標年度がずれることもあるからである。その点、経営の理念は流動することはなく、計画にズレがあっても、明確な理念の方向に向かっていれば、部下は付いていくことができるからである。 |
鷹山が35歳で重定の実子・治広に家督を譲る際に与えた「伝国の辞」は極めて感動的なものだ、鷹山の経営理念を示すもので、この理念を鷹山はあらゆる機会に訴えてきた。
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
右三条御遺念有間敷候事
天明五巳年二月七日 治憲 花押
治広殿 机前
しかしながら、世子・治広は、鷹山の政治を引き継ぐには若すぎたうえ、急激な改革の反動が治広を襲った。財政再建が成ると、家臣団にも再び格式を重んじる風が表われ、鷹山の改革の成果は潰されかけた。治広には、こうした弊を排除する胆力と老練さが欠けていた。ついに、進んで開拓地に入っていた下級武士団や、特産品を手掛けている武士たちから、鷹山再任への動きが始まり、治広も鷹山に指導を願い出た。鷹山は隠居の身分のまま藩政の前面に立ち、以後72歳の死まで米沢藩のために力を注いだ。 |
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●上杉鷹山 2 |
上杉鷹山(冶憲)は米沢藩9代藩主です。江戸時代屈指の名君で知られています。
鷹山は、寛延4年(1751年)に日向高鍋藩主、秋月種美の次男として生まれました。
宝暦10年(1760年)、10歳で米沢藩8代藩主重定の娘幸姫の婿養子となりました。14歳の頃から細井平洲に師事し、君主としての知識を磨き、その後の藩政改革に役立てています。
鷹山は17歳で家督を相続しますが、当時の米沢藩は莫大な借財をかかえて身動きが取れない状態でした。この困窮した藩を立て直すには相当な決意が必要だったわけですが、藩主になった鷹山は、決意を表す誓詞を春日神社、白子神社に奉納しています。
春日神社に奉納した誓詞には、 •民の父母の心構えを第一とすること
• 学問・武術を怠らないこと
• 質素・倹約を忘れぬこと
• 賞罰は正しく行うこと
とあり、また白子神社に奉納した誓詞には、大倹約を行って米沢藩を復興することを誓っています。
●大倹約令の実施
明和4年(1767年)、鷹山はこの誓詞に誓った通り、12か条からなる大倹約令を発令しました。重役の一部からは、米沢藩の対面に関わると強い反対を受けましたが、鷹山は率先して節約を実行しました。江戸藩邸での藩主の生活費をおよそ7分の2とし、日常の食事は一汁一菜、普段着は木綿、奥女中も50人から9人に減らしました。
●農業開発と籍田の礼
大倹約令と並行して実施されたのが農業開発です。鷹山は安永元年(1772年)、中国の例にならい、遠山村で藩主が自ら田を耕す「籍田の礼」を執り行い、農業の尊さを身をもって示しました。以後、刀を鍬に持ち替え家臣あげて荒地開発や堤防修築などが次々に実施されました。
●殖産興業
もともと米沢藩の特産品であった青苧を使い、武士の婦子女に内職として機織りを習得させました。その後、桑の栽培と養蚕を奨励し、絹織物に移行。出羽の米沢織として全国的に知られるようになりました。米沢織は現在も米沢の主要産業になっています。
その他にも製塩、製紙、製陶などの産業も興しました。
●藩校「興譲館」の創設
鷹山は「学問は国を治めるための根元」であるとの強い考えを持っていました。このため安永5年(1776年)、城下の元篭町に藩校「興譲館」を創設しました。創設にあたっては、鷹山の師である細井平洲の意見を求めました。
平洲は、学問は単なる考証や漢文を読めることではなくて、現実の政治や経済に役立つ「実学」でなければならないと教え、鷹山に「建学大意」という指導書を贈りました。
学生は有能な家臣の子弟から20名選んで無料で入館させました。
この興譲館からは、現在に至るまで多くの偉人が輩出されています。
●天明の飢餓
天明3年から続いた凶作は、当然米沢藩にも影響を与えました。天明4年の米価は1俵が平年の2倍から5倍にも跳ね上がり、このため鷹山は新潟や酒田から米1万俵を買い上げ領民に分け与えました。この政策により米沢藩は天明の大飢餓においても、1人の餓死者を出さずにすんだものの藩財政は大きな打撃を受けてしまします。
飢餓救済の手引書「かてもの」の発行
この経験をもとに藩政の重臣にいた莅戸善政は、日頃から代用食となる動植物の調査、研究が必要と藩の侍医矢尾板栄雪らに、食用となる動植物の研究を命じました。そして、自ら飢餓救済の手引書を執筆。その内容は、「いろは」順に、草木果実約80種類の特徴と調理法について、また、食料の保存法や味噌の製造法、魚や肉の調理法について詳しく書かれています。
執筆から2年後の享和2年、鷹山の意をくんで「かてもの」(かて物・主食である穀物とともに炊き合わせ、食糧不足に陥った際に節約するための代用食となる食物)と命名され1575冊を刊行。藩内を中心に配布されました。
●35歳で引退
天明5年(1785年)、鷹山は35歳という若さで家督を上杉冶広に譲り隠居します。その際に君主としての心得を記した「伝国の辞」を冶広に残しています。
「伝国の辞」
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
一、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候
引退後も、鷹山は冶広の強い要請によって、相談役として藩政に参与しました。
引退後の大事業は「寛政の改革」でした。上書箱を設けて、藩財政再建のための意見を家臣のみならず、広く領民からも求めました。その意見を集約して藩費を半減し、残る半分を借金返済に向け、16年で完済するという思い切った計画をたてました。これは「寛三の改革」と呼ばれています。
また、寛政6年(1794年)には、米沢の北部に総延長32kmにおよぶ農業用水「黒井堰」工事に着手。翌年に完成させ、同11年(1799年)には、飯豊山に導水トンネルを掘って、玉川の水を水量の少ない置賜の白川に引水するという大工事に取り組みました。20年後の文政元年(1818年)に竣工し、置賜の田畑は潤いました。
鷹山の改革の成果が徐々に表われ、藩財政は少しずつ好転していましたが、まだ借金は多く残っており、鷹山は相変わらず一汁一菜、綿服着用の生活を続けていました。
文政5年(1822年)3月12日、体調をくずしていた鷹山は、72歳でこの世を去りました。
平成19年(2007年)、読売新聞が日本の自治体首長に行った「理想のリーダー」アンケートで、上杉鷹山が1位に挙げられています。
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬ成りけり」は鷹山が残した有名な言葉です。 |
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●上杉鷹山 3 |
上杉鷹山 / 上杉治憲 (うえすぎはるのり)
江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩9代藩主。山内上杉家25代当主。諱は初め勝興、後に治憲であるが、鷹山は藩主隠居後の号である。米沢藩政改革を行った江戸時代の名君として知られる。
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●生涯
●誕生から襲封まで
寛延4年7月20日(1751年9月9日)、日向高鍋藩主秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれる。幼名は松三郎。実母が早くに亡くなったことから一時、祖母の瑞耀院(豊姫)の手元に引き取られ養育された。宝暦9年(1759年)、この時点でまだ男子のなかった重定に、我が孫ながらなかなかに賢いと、幸姫の婿養子として縁組を勧めたのが瑞耀院である。
宝暦10年(1760年)、米沢藩主上杉重定の養嗣子となって桜田の米沢藩邸に移り、直松に改名する。宝暦13年(1763年)より尾張国出身の折衷学者細井平洲を学問の師と仰ぎ、明和3年(1766年)に元服、勝興(かつおき、通称:直丸)と称す。また、世子附役は香坂帯刀と蓼沼平太が勤める。江戸幕府10代将軍徳川家治の偏諱を受け、治憲と改名する。明和4年(1767年)に家督を継ぐ。
上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積する一方、石高が15万石(実高は約30万石)でありながら、会津120万石時代の家臣団6千人を召し放つことをほぼせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れず、このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かった。そのため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていた。深刻な財政難は江戸の町人にも知られており、「新品の金物の金気を抜くにはどうすればいい? 「上杉」と書いた紙を金物に貼れば良い。さすれば金気は上杉と書いた紙が勝手に吸い取ってくれる」といった洒落巷談が流行っていたほどである。
加えて農村の疲弊や、宝暦3年(1753年)の寛永寺普請による出費、宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を直撃した。名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。
●米沢藩政改革
当時米沢藩では重定の側用人森平右衛門による専制体制が敷かれ、江戸の商人からの大名貸が打ち切られるなど問題をきたしていた。そのため、家老竹俣当綱は森を謀殺し、産業振興に重きを置いた明和・安永改革を行う。新藩主に就任した治憲は、この竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政(中老、のち家老)を重用し、先代任命の家老らと厳しく対立した。また、それまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行った。ところが、そのため幕臣への運動費が捻出できず、その結果明和6年(1769年)に江戸城西丸の普請手伝いを命じられ、多額の出費が生じて再生は遅れた
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天明年間には天明の大飢饉で東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行った。また、曾祖父綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館(山形県立米沢興譲館高等学校のルーツ)として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。
安永2年6月27日(1773年8月15日)、改革に反対する藩の重役が、改革中止と改革推進の竹俣当綱派の罷免を強訴し、七家騒動が勃発したが、これを退けた。
これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。
天明5年(1785年)、専横が目立った竹俣を罷免し、同時に家督を前藩主重定の実子(治憲が養子となった後に生まれた)で治憲が養子としていた治広に譲って隠居した。この後、逝去まで後継藩主を後見し、隠居すると初めは重定隠居所の偕楽館に、後に米沢城三の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移る。この後の藩政改革は家老莅戸善政を中心に財政支出半減と産業振興をはかった寛政の改革(寛三の改革)と呼ばれる。
享和2年(1802年)、剃髪し、鷹山と号す。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われる。莅戸善政が没すると、その子莅戸政以が家督を継ぎ、享和・文化改革と呼ばれる改革を行った。
文政5年3月11日(1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去した。享年72(満70歳没)。法名は元徳院殿聖翁文心大居士、墓所は米沢市御廟の上杉家廟所。初め、上杉神社に藩祖謙信と共に祭神として祀られたが、明治35年(1902年)に設けられた摂社松岬神社に遷され、現在に至る。
●改革について
米沢藩では宝暦の飢饉において、多数の領民が餓死、あるいは逃亡し、宝暦3年(1753年)からの7年間に9699人の人口減少を経験している。鷹山の治世において起きた天明の大飢饉においては、天明3年からの7年間に4695人の人口減少に食い止めており、鷹山の改革は実効を上げていたことがわかる。ただし、改革のお陰で飢饉の時も餓死者が藩内から出なかったという評判は、明らかに誇張である。
鷹山の推奨したウコギの垣根は現在でも利用されている。若葉は苦味があるが高温の湯や油で調理して食べられる。根の皮は五加皮という滋養強壮剤になる。
日本で最も古く公娼制度の廃止にも取り組んだ。これは鷹山の愛の治世の方針に基づき、寛政7年(1795年)公娼廃止の法令を出した。公娼を廃止すれば欲情のはけ口がなくなり、もっと凶悪な方法で社会の純潔が脅かされるという反論もあったが、鷹山は「欲情が公娼によって鎮められるならば、公娼はいくらあっても足りない。」とし、廃止しても何の不都合も生じなかったという
。
●官歴
明和3年(1766年)7月18日 - 従四位下に叙せられ弾正大弼に任官。
明和4年(1767年)4月24日 - 家督相続。同年12月16日侍従を兼任する。
天明5年(1785年)2月7日 - 隠居。同年同月11日越前守に遷任。侍従兼任は元のまま。
明治41年(1908年)9月7日 - 贈従三位 |
●系譜
父:秋月種実
母:春姫 - 黒田長貞の娘
養父:上杉重定
正室:幸姫 - 上杉重定の次女
側室:お豊の方 - 上杉勝延の三女
長男:上杉顕孝 - 早世
次男:寛之助 - 早世
養子
男子:上杉治広 - 上杉重定の次男
●家系
日向国高鍋藩6代藩主秋月種美の次男で、母は筑前国秋月藩4代藩主黒田長貞の娘・春姫。母方の祖母の豊姫が米沢藩4代藩主上杉綱憲の娘である。このことが縁で、10歳で米沢藩8代藩主重定(綱憲の長男・吉憲の四男で、春姫の従兄弟にあたる)の養子となる。
兄弟のうち、兄・秋月種茂は高鍋藩主を継いだ。弟のうちで他に大名となった者に人吉藩主相良晃長がおり、治憲と同様に幼くして相良家に養子に入ったものの、早世した
。
正室は重定の娘・幸姫(又従妹にあたる)。側室のお豊の方(綱憲の六男・勝延の娘で、重定や春姫の従妹にあたる)との間に長男・顕孝(第10代藩主治広の世子)と次男・寛之助(満1歳半(数え2歳)で夭折)の2人の子がいる。
上杉家において女系の血統に基づく相続は(より近縁であるが)先例があり、綱憲は3代藩主綱勝の妹・富子の子(父は高家・吉良義央)であったし、初代藩主景勝からして藩祖謙信の姉・仙桃院の子であった
。
ただし、重定は治憲を養子に迎えた年から10年余りの間(その間に家督を治憲に譲って隠居した)に勝熙、勝意、勝定、定興の4人の男子(治憲の又従弟にあたる)を儲けており、次男の勝意(治広)が治憲の跡を継いで10代藩主となった。また、重定の男子が生まれる以前にも上杉家に男子がいなかったわけではなく、綱憲の四男・勝周に始まる支藩(支侯)米沢新田藩の分家(麻布上杉家)もあり、勝周の息子(重定の従弟にあたる)の勝承(2代藩主)や勝職(旗本金田正矩となる)がいた。勝承は重定の養子の候補にもなっていた。
●妻子
正室の幸姫(よしひめ)は重定の次女(同母の姉妹は夭折)で、治憲の2歳年下であったが、脳障害、発育障害があったといわれている。彼女は1769年(明和6年)に治憲と婚礼を挙げ、1782年(天明2年)に30歳で死去するという短い生涯であった。治憲は江戸藩邸に側室を置かなかったうえ、幸姫を邪険にすることなく、女中たちに同情されながらも晩年まで雛遊びや玩具遊びの相手をし、ある意味2人は仲睦まじく暮らした。重定は娘の遺品を手にして初めてその状態を知り、不憫な娘への治憲の心遣いに涙したという(現代の観点からは奇妙に感じるが、家督を譲ってからは米沢に隠居し、江戸藩邸の娘とは幼少時から顔を会わせていないのである)。
後継者が絶えることを恐れた重役たちの勧めで、1770年(明和7年)に治憲より10歳年上で上杉家分家の姫であるお豊の方(初め、お琴の方と称す)を側室に迎えた。お豊の方は歌道をたしなむなど教養が高く、治憲の改革を支えた賢婦として地元米沢に伝えられている。しかし、お豊の方との子である長男・顕孝と次男・寛之助は2人よりも早く死去し、お豊の方以外に側室を迎えることもなかったため、治憲の血筋は結局残らなかった。
養子として当主になった者が養父の実子に家督を譲るのは順養子と呼ばれ、江戸時代ではさして珍しいことではない。しかし、治憲があえて35歳で隠居し、家督を治広に譲ったのは、重定が存命中に家督を継がせることで重定を安心させたいという鷹山の心遣いだったとされる。なお、治広には同母兄の上杉勝熙がいたが、それを差し置いての後継指名であった。
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●人物・逸話
元来頑丈で大病でも病床についたことはなかったようである。
着衣は木綿、食事は一汁一菜を基本とし、木綿の使用は羽織や袴だけでなく、下着にいたるまで着衣の全てに使用していた。食事の内容は朝食に粥を2膳ほどと香の物(漬物)、昼食や夜食に千魚などの肴類を添えて、うどんやそばを食べていた。酒は飲まず、冬になると甘酒を一椀ずつ飲んでいた。結果的に倹約ができて健康にも良い粗衣粗食であった
。
上杉家へ養子入りする際、高鍋藩老臣で鷹山の傅役であった三好善太夫重道より訓言を記した一書を手渡されているが、鷹山は生涯これを机の近辺より離さず、また鷹山の業績はこれに基づいているとされる。この書は現在、米沢市の上杉神社に保管されている
。
米沢の名産である笹野一刀彫の「御鷹ぽっぽ」は鷹山の象徴という。
煙草を愛好していた。また、酒はあまり飲まなかったが、薬用酒はときどき飲んだという。
一時期鳥の飼育を趣味にし珍しい鳥を何匹も飼っていたが、倹約令を出すにあたり、きっぱりとやめ飼っていた鳥を全て野に放っている。また、隠居後煎茶に凝り最上の味を求めてかなり上達したが、他人に入れてもらったお茶を不味く感じるようになったのを申しわけなく思いやめたと言われる。
有名な「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」(『上杉家文書』国宝の抜粋・上杉鷹山書状。弗爲胡成(為さずんばなんぞ成らん、『書経』太甲下篇)に由来)の歌は「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられた
。
これは武田信玄(1521-1573)の名言「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき」を模範にしたもの。
伊勢津藩主・藤堂高兌は藩政改革の一環として、津に藩校有造館を、伊賀上野に支校崇廣堂を設立した。これに当たって、当時既に名君の誉れ高かった治憲の徳を慕って、崇廣堂の扁額の揮毫を依頼した。扁額裏には治憲の署名と文政4年(1821年)とある
。
当時、米沢藩で奸臣と見なされていた直江兼続の200回忌法要に香華料を捧げたという。このことから、20世紀に入り一転して兼続が称揚されるようになると、鷹山が兼続を再評価したとされ、鷹山の施政の多くは兼続の事業を模範にしたものとされた
。
江戸時代の大名は隠居後にはほとんどが江戸屋敷で暮らしたが、上杉家では隠居生活を米沢で送るのが慣例であった。近年の研究では、治憲の30歳代での隠居は参勤交代を気にせずに改革に専念する理由もあったからという考察がある。なお、幕府は諸大名が隠居後に領国に定住するのは好まないというのが建前であったが、上杉家では常々、脚痛治療のための長期間の湯治の名目で幕府老中に届出を出していた(幕閣もわかった上で許可を出している)。
藩主の称号は謙信以来の御屋形様であり、隠居した先代は大殿様であった。治憲は早くに隠居したため先代の重定が健在であり、中殿様と呼ばれている。
天明7年(1787年)8月に実父の秋月種美の危篤の報を受け江戸へ出立し、長者丸(品川区上大崎)の高鍋藩邸へ日参して30日間かかさず看病を続け、臨終を看取った。その直後、江戸で服喪中に今度は養父の重定が重病との報があり、実父の四十九日法要後すぐさま米沢に帰国した。翌年2月までの80日間看病を続けて快癒させたが、一時危篤状態に陥った時には数日間徹夜で看病したという。
米沢藩を建て直した際の根本方針の精神となった自助・共助・扶助の三助を唱えたとされる。
●伝国の辞
伝国の辞(でんこくのじ)は、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した、3条からなる藩主としての心得である。
「一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にして君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
右三条御遺念有間敷候事
天明五巳年二月七日 治憲 花押
治広殿 机前」
以下が意訳である。
「一、国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我(藩主)の私物ではない。
一、民(領民)は国(藩)に属しているものであり、我(藩主)の私物ではない。
一、国(藩)・民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、“君主のために存在・行動する国・国民”ではない。
この三ヶ条を心に留め忘れることなきように。」
伝国の辞は、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。
●老婆の手紙
安永6年12月6日(1778年1月4日)、米沢西郊の遠山村(米沢市遠山町)のヒデヨという老婆が、嫁ぎ先の娘に宛てて書いた手紙が残っている。
「一トフデ申シ上ゲマイラセ候アレカラオトサタナク候アイダ
タツシヤデカセキオルモノトオモイオリ候
オラエモタッシャデオルアンシンナサレタク候
アキエネノザンギリボシシマイユーダチガキソウデキヲモンデイタラ
ニタリノオサムライトリカカツテオテツダイウケテ
カエリニカリアゲモチアゲモウスドコヘオトドケスルカトキイタラ
オカミヤシキキタノゴモンカライウテオクトノコト
ソレデフクデモチ三十三マルメテモツテユキ候トコロ
オサムライドコロカオトノサマデアッタノデコシガヌケルバカリデタマゲハテ申シ候
ソシテゴホウビニギン五マイヲイタタキ候
ソレデカナイヂウトマゴコノコラズニタビくレヤリ候
オマイノコマツノニモヤルカラオトノサマヨリハイヨーモノトシテダイシニハカセラレベク候
ソシテマメニソタテラルベククレグレモネガイアゲ候
十二かつ六か
トウベイ
ヒデヨ
おかのどの
ナホ申シアケ候マツノアシニアワヌトキワダイジニシマイオカルベク候
イサイショガツニオイデノトキハナスベク候」
ある日、干した稲束の取り入れ作業中に夕立が降りそうで、手が足りず困っていたが、通りかかった武士2人が手伝ってくれた。取り入れの手伝いには、お礼として刈り上げ餅(新米でついた餅)を配るのが慣例であった。そこで、餅を持ってお礼に伺いたいと武士たちに言ったところ、殿様お屋敷(米沢城)の北門に(門番に話を通しておくから)と言うのである。お礼の福田餅(丸鏡餅ときな粉餅の両説あり)を33個持って伺ってみると、通された先にいたのは藩主(治憲)であった。
お侍どころかお殿様であったので、腰が抜けるばかりにたまげ果てた上に、(その勤勉さを褒められ)褒美に銀5枚まで授けられた。その御恩を忘れず記念とするために、家族や孫たちに特製の足袋を贈ることにしたのである。なお、「トウベイ」とは屋号と推定されている。
講談『水戸黄門漫遊記』のように、お忍びの殿様が庶民を手助けする話(架空)はよく語られるが、こうした実例が示されることは他にないであろう。
遠山村では安永元年(1772年)より、治憲が籍田の礼を行っていた。これは古代中国の周代に君主が行った、自ら田畑を耕すことで領土領民に農業振興を教え諭し、収穫を祖先に捧げて加護を祈る儀礼で、儒学の教えに則ったものである。4反の籍田で収穫された米は、謙信公御堂と白子神社、城内春日神社に奉納され、残りは下級武士に配給された。これは歴代藩主に受け継がれた。
この手紙の逸話については、莅戸善政の記録に、該当すると思われる記述がある。
手紙は現在、米沢市宮坂考古館にて所蔵、展示されている。ほぼ片仮名で書かれ、現代人にも容易に読むことができる。当時の識字率、書法の一例としても興味深い。
●鷹山の名声・評価
鷹山による米沢藩の藩政は在命中から日本全国のおおよそ280藩の中でも模範として幕府から称揚されていた、と小説家の綱淵謙錠は述べている。
特に寛政の改革の主導者であった老中松平定信からは高く評価され、白川藩主時代の定信から鷹山の徳政を称える手紙を受け取っている。定信は後に鷹山の訃報を告げられたさい、「三百諸侯第一の賢君が亡くなられた」と言ってその死を悼んだ。
明治以降、鷹山は修身の教科書で数多く取り上げられた。また、内村鑑三が海外向けの日本人論として英語で著した『代表的日本人』でも、鷹山の生涯が紹介された。
米沢藩中興の祖である鷹山は、現在の米沢市民にも尊敬されている。その例として、他の歴代藩主は敬称なしで呼ばれることがあっても、上杉鷹山だけは「鷹山公」と「公」という敬称を付けて呼ばれることが多い。
2007年に『讀賣新聞』が日本の自治体首長に対して行ったアンケートでも、理想のリーダーとして上杉鷹山が1位に挙げられている。
第35代アメリカ合衆国大統領にジョン・F・ケネディが1961年に就任した際に、日本の記者団に「日本でいちばん尊敬する人物」を聞かれたときすぐに鷹山の名前を挙げたという逸話がある。1975年に綱淵謙錠と歴史家の奈良本辰也を迎えて放送されたNHKの歴史番組『日本史探訪』が紹介している。それによると、ケネディは『代表的日本人』により鷹山を知り、政治家の理想像を見たのだとしている。ただし、この逸話の真偽は不明である。米沢の歴史を研究する小野榮は、ケネディが上杉鷹山を尊敬していると述べたというのは誤りで、鷹山を尊敬していると述べたのは、第26代大統領セオドア・ルーズベルトであり、彼が鷹山を知ったのは、新渡戸稲造が英文で出版した『武士道』を読んだからだと述べている
。
ジョン・F・ケネディは、1960(昭和35)年に、43歳の若さでアメリカ大統領に選ばれました。そのケネディ大統領は就任時に、日本記者団から「貴方が日本で最も尊敬する政治家は誰ですか」と問われて、「上杉鷹山」と答えたといわれています。上杉鷹山という人物は、内村鑑三著の「代表的な日本人」によって大統領が知ることになったと言われていますが、公式な記録は残っていないようです。
ジョン・F・ケネディの長女で駐日アメリカ合衆国大使をつとめていたキャロライン・ケネディは、山形県や米沢市の要請に応じて2014年9月に米沢市を訪れ、父親のケネディが鷹山を称賛していたことに触れるスピーチをした
。
2014年5月、山形県の白鷹山(994メートル)の山頂に2基の石碑が建立された。1基は鷹山が藩主としての心得を示した「伝国の辞」。もう1基には英語で「国家があなたに何をしてくれるかではなく、あなたが国家に何ができるかを問おうではないか 大統領ジョンF・ケネディ 上杉鷹山の称賛者」と刻まれている。
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●年譜
宝暦元年(1751年)、高鍋藩江戸藩邸にて、秋月種美と春姫(黒田長貞の娘)の次男として誕生。幼名は直松。
宝暦9年(1759年)、米沢藩主上杉重定との養子内約。
宝暦10年(1760年)、重定の世子となり、直丸に改名。8月、上杉家桜田藩邸へ移る。
明和元年(1764年)、細井平洲が師となる。将軍徳川家治に上杉家世子として御目見。重定、幕府への領土返上を舅の尾張藩主徳川宗勝に相談し、強く諌められる。
明和2年(1765年)、竹俣当綱、奉行となる。
明和3年(1766年)、元服、勝興と名乗る。従四位下弾正大弼に叙任さる。将軍より偏諱を与えられ治憲と改名。
明和4年(1767年)、重定隠居。治憲が米沢藩主となる。
明和6年(1769年)、莅戸善政、米沢町奉行となり藩政にかかわる。幸姫と婚礼をあげる。10月、初めて米沢に入る。
明和7年(1770年)、上杉勝延の末娘お琴(お豊と改名)を側室とする。
安永元年(1772年)、藩財政改革で『会計一円帳』作成開始。米沢の遠山村にて籍田の礼を始める。
安永2年(1773年)、七家騒動。
安永5年(1776年)、学館を再興し、来訪した細井平洲により「興譲館」と命名さる。
安永6年(1777年)、義倉を設立。
安永7年(1778年)、重定のために能役者金剛三郎を米沢に招く。以後、金剛流が米沢に広まる。
天明2年(1782年)、幸姫病没。義弟(重定実子)で世子の勝憲が元服、中務大輔に叙任され、将軍より偏諱を与えられ治広と改名。治憲実子の直丸を治広世子とし、顕孝と改名。竹俣当綱失脚。天明の大飢饉( - 1786年)、それまでの改革が挫折する。
天明3年(1783年)、改革挫折で莅戸善政辞任、隠居。大凶作で11万石の被害。
天明4年(1784年)、長雨続く。治憲、謙信公御堂にこもり断食して祈願す。20年計画での籾5000俵、麦2500俵の備蓄計画開始。
天明5年(1785年)、治憲隠居。治広が家督を継ぎ、ここで「伝国の辞」を贈る。顕孝傅役に世子心得を与える(「なせばなる」)。
寛政3年(1791年)、莅戸善政、再勤を命じられ改革が再度始まる(寛三の改革)。
寛政6年(1794年)、実子の顕孝が疱瘡で病没。代わりに宮松(斉定)が治広の世子となる。治憲は宮松と共に寝起きして、自ら教育に当たる。
寛政7年(1795年)、北条郷新堰(黒井堰)完成。公娼廃止の法令を出す。
寛政8年(1796年)、細井平洲、三度米沢に来訪。治憲は関根普門院に師を出迎える。
享和2年(1802年)、総髪となって鷹山と号す。『かてもの』刊行。
文化5年(1808年)、治広世子の定祥が元服、式部大輔に任官し、将軍徳川家斉より偏諱を与えられ斉定と改名。
文化9年(1812年)、治広が中風で隠居。斉定が家督を継ぎ、従四位下弾正大弼に叙任さる。
文政4年(1821年)、お豊の方死去。
文政5年(1822年)、逝去。
文政6年(1823年)、米沢藩の借財、完済さる。斉定、藩士一同とともに謙信公御堂にこれを報告。 |
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●上杉鷹山 4 |
●1 なぜ上杉鷹山が高い評価を受けるのか
上杉鷹山といえば、江戸時代の後半に米沢藩の第9代藩主として、困窮した藩財政を再建したことで知られています。しかし財政難は、江戸時代前半の急速な商工業経済の伸張によって幕府や全国諸藩に共通した問題でしたから、単に「財政再建」というのであれば、全国に他例はたくさんありました。にもかかわらず、上杉鷹山の財政再建や藩政改革が有名なのには、それだけの理由があります。ここでは、そのうち主要なものを3つ挙げてみようと思います。
●最悪な状態からのスタート
一つ目は、全国的な財政難の中でも、米沢藩が最もひどい状態だったからです。それには、上杉家ならではの歴史的背景がありました。
そもそも上杉家は、豊臣秀吉によって会津120万石と佐渡金山を与えられていました。それは、関東に配した徳川家康の背後を押さえ、岩出山に移した伊達政宗(のち仙台に移る)を封じるために秀吉が必要と判断した財力でした。そして秀吉の没後、上杉家は石田三成と連携して、徳川家康と正面から対立します。しかし関が原の戦は家康が勝利。家康は上杉家を潰すことなく米沢30万石に減封します。なおも続く対立構造の中で軍事力を維持しなければならない上杉家は、120万石規模の家臣団をそのまま抱え続けました。財政担当の直江兼続は、徹底した支出削減によって上杉家を50万石で経営する見通しを立て、積極的な新田開発や青苧(高級麻織物の原料)販売などによって52万石の実収入を実現させたのです。ところが、第3代藩主上杉綱勝が急死すると、跡継ぎをめぐる混乱から米沢藩は15万石に減封されてしまいます。加えて、養子に入った吉良上野介義央の子、そして孫・曾孫たち(第4〜8代藩主)が放漫な経営を行い、さらには吉良家の財政負担の多くを肩代わりしたために、米沢藩の財政は急激に悪化しました。全国的に見て、これだけの悪条件が重なった藩は他例がありません。危機感を抱いた一部の藩士たちは、養子に迎えられ元服したばかり(数え年15歳)の鷹山に、藩再建のすべてを託したのです。
●鷹山の堅実さ、堅実さ
二つ目は、鷹山のやり方が非常に誠実かつ堅実だったからです。他藩の中には、武士の権力を用いた強引さや傲慢さが目につく債務処理や改革もありましたが、鷹山は自ら田に入り、山に登って雨請いをし、商人に学び、借金の返済を続け、地道な工夫や改革を積み重ねていきました。
もちろん、鷹山の成功の背景には、彼を支える沢山の人々がいました。鷹山や藩士たちを導いた、細井平洲をはじめとする学者たち、藩再建に知恵を絞った幹部たち、同じ目的に向かって自分の持ち場で尽力した中級家臣たち、半士半農の生活を誇りに感じ藩政・藩社会の土台を守った下級藩士たち、米沢藩を見捨てず指導し続けた商人たち…。それでも、彼らの力が引き出され、一つ方向に束ねられ生かされていくためには、やはり優れたリーダーが必要でした。上杉鷹山の人柄、あらゆる人や物事に対する姿勢、学問に励む姿…に導かれてこそ、改革は実を結んだと言えるでしょう。
●良質な社会の実現
三つ目は、鷹山によって改革が進められて以降、米沢藩の地域社会が他の見本とされるほどに良質になったからです。
良質な社会の実現にとって必要なのは、経済(産業・財政など)と倫理(学問・教育・文化など)のバランスです。かつては上杉謙信や直江兼続が体現し、その後の幕府政治の不安定さが証明してきたバランスの大切さに、鷹山は当初から気づいていました。そこで鷹山は、米沢藩の再建を、大倹令(財政策)と藩校設立(学問教育)に同時に取り組むところからスタートさせたのです。そして鷹山自身、生涯を通じて倹約と学問に励みました。
鷹山の確固たる政治思想・社会思想は学問に導かれたものです。鷹山を導いた学者は何人かいますが、とくに大きな影響を与えた細井平洲の学問は、日々の現実を重視したものでした。そのため鷹山は、理論理屈に従うだけでなく現実から学ぶ姿勢を持ち、自ら判断し行動する力に長けていたのです。経済(現実)と倫理(学問)のバランス感覚に優れた鷹山は、新規と伝統、権力と人情、組織と個人、対外と内政などのバランスを保つ力がありました。臨機な選択、優先順位の判断、偏りのない手配などなど、単純な正義や常識では説明できない鷹山の優れた行動には、現実主義の学問に基づく確かな裏づけがあったのです。
学問の大切さをよく知る鷹山は、身内や藩士、そして領民に対してとても教育熱心でした。「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」という言葉は、通常の政務についてではなく、教育についての指示に添えられた言葉です。
鷹山の改革は、存命中より儒学者たちによって高く評価され、全国に紹介されています。そして、鷹山自身が老中松平定信より、第11代藩主上杉斉定(なりさだ)が第11代将軍徳川家斉によって鷹山以来の善政を表彰されています。鷹山は、現代の鷹山びいきの地元民によってではなく、当時の全国の人々によって評価された「名君」だったのです。
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●2 上杉鷹山の魅力
鷹山は、決してヒーローではありません。彼の改革は、天才の偉業などではなく、試行錯誤と努力の連続でした。彼の言動は神がかり的なものではなく、学問に導かれ誠意に溢れた、等身大の人間の姿でした。彼は特別な人格や能力の持ち主ではなく、素直で明るく、感謝に溢れた謙虚な人物でした。
●「鷹山」の雅号
鷹山は、10歳(数え年)で上杉家の養子となる以前、兄(鷹山の生家である高鍋藩秋月家を継ぐ)が自分の雅号(文書家・学者・書家などが本名以外につける別名)を「鶴山」としたのを真似て、「鷹山」の雅号を考案しました。まだ詩歌が何たるかもわからない年齢です。ただ大好きなお兄ちゃんのあとを追いかける、素直で無邪気な少年鷹山の姿がそこにあります。家族や家臣たちに大事に育てられて形成されたまっすぐな人格は、鷹山の生涯を通じて変わることはありませんでした。
●いただき橋
上杉家の養子になることが決まった鷹山に確かな学問を身につけさせようと、米沢藩の儒医藁科松伯は良師を探し求めました。そうして出会ったのが、後に尾張藩(徳川御三家筆頭)藩校明倫堂の督学(学長)となる儒学者細井平洲でした。鷹山は14歳より平洲の教育を受け、学問を通じて社会のことや生き方を学びました。
鷹山が初めて米沢に入ったのは19歳の時です。義父上杉重定は、歓迎の意を表して米沢城大手門前広場の前を流れる御入水川(上水道)に架かる橋を、新しく石橋に架け替えました。行列を従え馬に乗ってやってきた鷹山は、その橋が新しいことに気づきます。すると彼は馬を下り、石橋の手前で丁寧に頭を下げて、徒歩で橋を渡りました。これは当時の常識では考えられないことでした。現役の藩主であれば、例え義父の好意とは言え、騎馬のまま橋を渡り後に御礼を言えば良いことです。新藩主のお出迎えとして出ていた人々は、この鷹山の人柄に感激し、この橋に「いただき橋」と名づけました。そして明治に入って橋が割れても、その石で「建国記念の日」碑を建てて、鷹山の人柄を伝えました。
●鷹山の倹約
鷹山の晩年、米沢藩の財政も危機を脱し、健全な状態になりました。しかし鷹山は独り、17歳で自らが始めた倹約を続けていました(藩民に出された倹約令は期限付き)。そこで第11代藩主斉定が鷹山の生活費用増額を申し出ると、鷹山はこれを拒み、その理由を「倹約は私の“厳師友”である」と説明しました。すでに師である細井平洲も他界し、目前の困難も去ったいま、鷹山は人として道を踏み外さないための導きを「倹約」に求めていたのです。「倹約」は、単なる経済的な効果にとどまらず、欲望に打ち勝ち流されないことで理性を失わず、物を大切に使用することで謙虚さや敬い、そして感謝の心をはぐくむという、倫理的な成果を生み出します。鷹山の指導者の一人である儒学者渋井太室も「一度に恵みを与えてもかえって今以上の害になる恐れがある」と言っています。そして、鷹山のお金の遣い道は、学問や教育、民の救済と安定、敬老でした。“師”として鷹山を導き“友”として鷹山を支えた「倹約」とは、誰のため、何のためにお金を遣うかを追究することで人間としての在り方をも追究した、彼の人生哲学だったと言えましょう。
日本経済が最も膨張した昭和末年のバブル期は、「倹約」とは正反対の経済感覚でした。欲望が満たされることがあたり前の人たちは、自分の「納得できない」事態に出くわしても、その解決方法を探る力がありません。そのため、その解決を他人に求め、他人を批判します。かつては「苦労は買ってでもしろ」という教訓が知られていましたが、苦労(倹約)を師友とし、「自分の楽」のためではなく「他人の楽」(自分の苦労)のためにお金を遣おうとした鷹山は、困難から逃げることなく自らの責任で解決しようとした、米沢藩の大黒柱だったのです。
●七家騒動
鷹山が藩主となって6年目の6月27日、「七家騒動」と呼ばれる事件が起きました。7人の重臣たちが鷹山の改革を真っ向から批判し、改革推進の中心人物竹俣当綱(たけのまたまさつな)の罷免を迫ったのです。鷹山はすぐさま各部署の担当者数百名を集めて批判内容の真偽を確かめ、前藩主重定とも相談し、7人の武力抵抗への備えも整えた上で、騒動を起こした7人に処分を下しました。その内容は、2名が切腹、5名が隠居・閉門でそのうち2名は領地半分没収、3名は領地300石没収。7月1日のことでした。独断に走らず、慎重に事を進めた手腕もさることながら、驚くべきはその迅速さです。迷いの無いその姿が、どれほど藩士たちの信頼を勝ち得たかは容易に想像できます。研究者たちは、この七家騒動に対する対応の適確さが、鷹山のその後の改革を軌道に乗せたと評価しています。
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●3 財政再建
●大倹令
財政改革でもっとも重要なことは、赤字体質の改善です。これが無いままに収入増を図ってみても、借金は増えるばかりでしょう。鷹山は「大倹令」の中で、赤字体質の正体を次のように指摘しています。 「泰平久しきゆえ、いつとなく風俗も奢(ぜいたく)に成りそうろうゆえに、今これが我相応と思いおりそうろうが直ちに奢にてそうろう。」
社会全体が豊かになり、生活水準が上がってくると、「普通」の生活が実はぜいたくなのだ、ということです。それが、完全にその社会の実力の果実であれば問題は無いのでしょうが、豊かさを支えるために行政府が借金をしているとなれば、それは大問題なのです。しかし、借金に慣れぜいたくが染み込んでしまった人々は、そこに新たな収入があると喜んで使ってしまうばかりか、安心して更なる借金を重ねてしまうもの。そこで、この赤字体質を改善するために打ち出された政策が「倹約」でした。
倹約は、不便さとの闘いです。不便さは苦を伴いプライドを傷つけます。これら感情的・感覚的な欲求を管理するのは、人間の理性・知性です。したがって、理性・知性を磨く学問は、倹約と不可分なものとなります。
鷹山の「大倹令」は、続けてこうも言っています。 「何ほど今日の上、心安く暮らしそうろうとも、明日家あい立たざるには取替えがたくそうらえば、今日の難儀と当家の永く続くことを取替えそうろう心得をもって…」「大倹約を用いそうらわば、今はさぞや難儀、不自由とも存ずべくそうらえども、面々永く家を保ち身を安しそうろう事にいたしたきものと、重く倹約申し出だしそうろう。ここを考え申さば、今の難儀は難儀とも不自由とも思うまじき事にそうろう。」
もう一つの赤字体質の正体は、繁栄志向・膨張志向です。鷹山の改革が求めたものは、今日の満足・繁栄を捨てて明日からの存続を実現させることでした。このことは、冷静に考えれば理にかなったことです。しかし理性・知性が感情・欲望に負けてしまうと、倹約は先延ばしにされるでしょう。鷹山の財政改革は、理性・知性を磨く学問と倹約との二本柱で進められたからこそ、成功したと言えるのです。
●備籾蔵
このように体質改善が進められていくことが前提となって、諸々の政策は効果を発揮していきました。鷹山たちが力を入れたのは、米沢藩の経済的体力をつけることでした。その核となった政策が、身分ごと・地域ごとの備籾蔵(そなえもみぐら)の設置です。これは「非常食米の備え」ですが、米で納税され、藩の財政規模が石高 で表される当時、米は現金としての性質も併せ持っていましたから、「資本の備蓄」という意味合いもありました。これらの備蓄は、大飢饉によって消耗することはありましたが、飢饉の被害は最小限に止められ、その効果が実証されました。そのため、財政難の苦しい中でも備籾の蓄積は継続されました。
備籾蔵政策の注目点は、受益者負担のやり方だったということです。当時の食糧備蓄は、富裕者の供給によるものが一般的で、米沢藩内でも受益者負担には反対の声があったようです。しかし、鷹山の政策はいずれもそうなのですが、決して「恵んでやる」ようなことはしませんでした。領民一人一人が自分の足で立って生活していけるように、あらゆる支援や指導、体制づくり・環境づくりに手を尽くしても、生きていくためにやるべきことを肩代わりするようなことはしなかったのです。鷹山は、藩主になったときに「受けつぎて 国のつかさの身となれば 忘るまじきは 民の父母」という歌を詠んでいますが、受益者負担のやり方は、まさに我が子の未来を案じ自立を願う親心だったと言えましょう。
●自給自足体制
支出削減策の基本は、自給自足体制の推進です。民間産業の発達した江戸時代においては、必要なものはお金を出せば藩外から購入することは可能でした。それを、できうる限り藩内で自給しようというものです。藩からは「品質の善悪にかかわらず国(藩)産品を利用するように」という通達が出されました。大きなところでは陶器(成島焼)の製造が知られていますが海を持たない米沢藩が小野川で温泉水から塩を製造したことには驚かされます。そして、これらの中でもとくに有名なものは冊子「かてもの」の作成です。穀類とともに食す非常食・保存食を紹介したものですが、野草82種の名称・調理法のほか、味噌・醤油の作り方や魚鳥獣肉の貯蔵法などについて書かれていました。この冊子は藩内に配布され、天保の大飢饉で威力を発揮したほか、太平洋戦争時の食糧難にも大いに役立ったということです。
●収入増加策
収入増加策の基本は、新田開発です。その前提として、農村支配体制の改善と自治能力の回復策、灌漑用水路の開削、人口増加策等が行われました。商工業政策については、現代の日本において考えられるような方策のほとんどが当時も行われていたと言えます。その中で大きな収入を生み出したものは米沢織ですが、藩が織物業に力を入れ始めてから40年もの試行錯誤の積重ねが実現させた成功でした。
鷹山たちの財政改革でき評価すべきは、効果的な借金と投資を駆使しているところです。これらの政策に商人の協力があったことはもちろんですが、鷹山の時代は商人を藩に迎えることもしています。近年の研究では、改革の中心人物だった莅戸善政(のぞきよしまさ)が酒田の豪商本間家より具体的な指導を受けたとも考えられています。彼らは、いわゆる公的な行政者というよりもむしろ、民間企業の経営者並みの手腕を持って財政に当たったと言えましょう。学問・政治に偏らず、バランスの良い経済観念も持ち合わせていたからこそ、改革は米沢藩地域社会の良質化をもたらしたのです。
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●4 仁政
江戸時代は儒学に基づく政治思想・社会思想が浸透し、全国的に仁政(思いやりのある政治)が重んじられていました。もちろん、「民の父母」であることを心に刻んだ鷹山も、あらゆる分野で、あらゆる立場の人に対して、仁政に徹していたと言えましょう。とくにここでは、鷹山の医療政策について取り上げてみたいと思います。
そもそも上杉家は、直江兼続以来、医学に熱心だったと言われています。米沢藩の藩医たちは探究心が強く、1764(明和元)年には刑死体の解剖もおこなわれています。その土台の上に、細井平洲の実学(現実に即し役立つ学問)を学んだ鷹山は、解剖の実施のほか、西洋医学も積極的に導入しました。(中国で生まれ発展した儒学では、西洋は「夷狄」とされ蔑視されていましたが、鷹山は実証的な西洋医学を評価し、人々のために積極的に導入したのです。) 鷹山は優れた藩医を長崎や杉田玄白のもとに送り、学ばせました。蛮社の獄で追われる身となった高野長英が、米沢の蘭医堀内素堂(そどう)のもとに身を寄せたのは、二人が学友だったからです。また、鷹山は、杉田玄白の斡旋でオランダの外科医療機器類を購入して医学館「好生堂」に与えています。
鷹山は製薬にも力を入れました。江戸時代に発達した本草学(薬学)の学者佐藤成裕を米沢に招き、藩医・ 町医者を指導させました。そうして藩内各所に薬草園を設置し、ほとんどの薬を藩内で製造しまかなえるようになりました。先述した「かてもの」も、佐藤成裕の指導協力のもとで作成されています。
もちろん医学・研究ばかりでなく、領民の医療にも力を入れています。鷹山のもとで、領内7ヵ所に新たに宿場医師が置かれ、医療に当たりました。
さらに鷹山は、食材の面からも領民の健康保持に心を砕きました。現代のように鶏肉・獣肉を日常的に食べなかった当時、海を持たず魚の入手が困難な米沢では動物性タンパク質が不足していました。そこで鷹山は、 養鯉の先進地相馬(福島県)から稚鯉を取り寄せ、鯉の養殖を始めたのです。鯉は、ビタミン類やカルシウム・リン・鉄分等も豊富で、中国でも古くから薬として利用されていました。鷹山は、家臣にも池を掘らせて養鯉を勧めており、鯉料理は現在も郷土料理として定着しています。
近年、石油危機やバブル崩壊で日本経済が苦境に立たされたとき、上杉鷹山の藩政が注目され、鷹山を扱った本も多く出版されました。しかし、それらは更なる繁栄が期待された視点で書かれ、鷹山の手法が断片的に評価された「つまみ食い」のようなものでした。鷹山の改革は、目先の繁栄を捨てて将来の存続を志向するものです(このことは「大倹令」の中で鷹山自身が語っています)。歴史的に見ると、日本の商工業経済(資本主義経済)は昭和末年のバブル経済がピークであり、情報化と人口減少によって経済規模が縮小していくことが予見されます。そんな今こそ、鷹山の改革を正確に理解し、鷹山を正しく評価する意義があると思います。
ある大学教授が「現在の日本が抱える様々な問題点の答えは全部 鷹山が持っている」と言われました。本当に「全部」かどうかは吟味の余地があるとしても、鷹山を学ぶことで、問題点の相当な部分に指針が得られることは事実でしょう。目先の20年、30年程度の繁栄のために、子孫の存続を危機にさらしかねない主張が飛び交う現代の世界情勢の中、まずは日本人が鷹山に学び、より正しい指針を打ち出していきたいものです。 |
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●上杉鷹山 5 |
●上杉鷹山の名言・格言集
●為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり
●してみせて 言って聞かせて させてみる
●一村は互いに助け合い、互いに救い合うの頼もしき事、朋友のごとくなるべし
●物を贈るには、薄くして誠あるを要す。物厚くして誠なきは、人に接する道にあらず。
●父母の恩は、山よりも高く、海よりも深い。この恩徳に報いることは到底できないが、せめてその万分の一だけでもと、力の限り努めることを孝行という。
●受けつぎて 国の司(つかさ)の身となれば 忘るまじきは 民の父母
●働き一両、考え五両、知恵借り十両、コツ借り五十両、ひらめき百両、人知り三百両、歴史に学ぶ五百両、見切り千両、無欲万両
●人間は、いつも張り詰めた弓のようにしていては続かない。
●伝国の辞 一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候 一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
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●上杉鷹山 / 童門冬二 |
同じ人物を扱っていても、作家によってこうも印象が異なるものかと思ってしまう。ここで対比するのは藤沢周平の「漆の実のみのる国」である。本書では、上杉治憲が改革の旗振りとなり、自身も改革案を提示して家臣に実行させるトップダウンの姿が描かれている。そして、その家臣の中では小姓の佐藤文四郎を重要な人物として登場させている。トップに近い視点で描くためにそうなるのだろう。一方、「漆の実のみのる国」では、上杉治憲は改革の立案から実行を家臣にまかせ、その採決や責任を負うという姿が描かれている。いわゆるボトムアップの姿であるが、トップの上杉治憲が全責任をきちんと背負うという図式になっている。そのため、重要な人物として執政の竹俣当綱がクローズアップされる。また、本書と「漆の実のみのる国」とでの人物の決定的な取扱いが異なるのは先代藩主の重定である。本書ではほとんど触れられることがないが、「漆の実のみのる国」では上杉治憲に影響を与えている記述が見られる。その結果として、家臣が上杉治憲に引退を迫った事件や、上杉治憲の若くしての隠居などの記述に違いを持たせている。この上杉治憲の引退に関しても本書と「漆の実のみのる国」では捉え方が異なり興味深い。本書では、後進の育成のために引退する。更には自身の影響力を小さくするための出来事として描かれている。一方で「漆の実のみのる国」ではさらなる改革を進めるために、より自由な隠居の身分を選んだとして描かれている。藩主は参勤交代があるため、本国に常駐できない。隠居すれば本国に居続けて改革を推進させることが出来る。そのため、家督相続に問題がなくなった時点で家督を譲ったと捉えているのである。童門冬二は上杉治憲の改革を行う姿勢に重きを置いているようである。実は、本書では改革の成果についての記述はあまりない。成功したのか失敗したのかは、事実上描かれていない。つまり、改革を行うことの大切さを謳い、理想主義的な側面を強調しているのである。童門冬二は結果として表れるものよりも、観念的なものを重視しているようである。一方、藤沢周平はより現実的な側面に重きを置いている。そのため、上杉治憲と竹俣当綱が進める改革が見込み違いや天災などにより全然進まない情況を描いている。現実主義的な面があるのである。他にも両者の差至る所で見受けられる。比較して読まれるととても興味深いだろうと思う。両者で共通する点が一つある。それは、本書も「漆の実のみのる国」でも、上杉治憲が隠居して鷹山を名乗ってすぐで物語が終わってしまうのである。そのため、莅戸善政が藩政に復帰してからの改革は詳しくは描かれていない。また、上杉鷹山は七十を超す長寿だったにもかかわらず、その後半の人生が描かれない結果となっている。米沢藩の改革の成果が現れ始めるのは実際には上杉鷹山の晩年近くになってからだったのではないだろうか?改革の結果がすぐに現れるはずがない。特に殖産興業政策が短期で実を結ぶ方がおかしい。だから、個人的には上杉鷹山の改革が成功したのかどうかを知るためにも、晩年の姿を描いて欲しかった。
● 数日前、治憲は米沢藩の藩主の座を相続した。まだ十七才の青年藩主である。
だが、米沢藩は困窮に喘いでいた。借金を頼みに行った色部照長は不首尾に終わったことを告げた。そして、一つだけ策があるという。それは藩を幕府に返上することである。それ程までに追詰められていた。
米沢はもともと、藩祖・上杉景勝の家臣・直江兼続の領地であった。景勝は家来の国に転がり込んだのだ。そのとき、所領が減ったにもかかわらず、家臣の人員整理を行わなかった。景勝の死後数代たち、さらに減封される出来事が起きた。その結果、米沢藩は収入の約九割が人件費として支出される異常な状態になってしまった。
だが、治憲は藩を返上しないことを決意していた。そのつもりがあるのなら、一度改革を断行してみてからでも遅くないと思ったからである。だが、そのためには人が必要である。
米沢藩は本国も江戸も開藩以来の形式主義、事大主義に毒されており、身動きがとれないでいる。この悪習に立ち向かえる人物が必要である。
そこで、小姓の佐藤文四郎に命じて人物を探させた。そして佐藤文四郎が持ってきたのは、竹俣当綱、莅戸善政、木村高広、藁科松柏らである。これは治憲が注目していたのと一致していた。
治憲はこの者たちを呼び、改革を命じた。まずは江戸からの改革を始める。米沢藩の改革は民を富ませることである。そして、まず取りかかったのが、虚礼の廃止である。だが、このことはすぐに本国での抵抗を招く。
治憲が始めて米沢に入国する。十九の時である。その途中のこと。治憲は炭の中の種火をみて、近習達を呼び、この種火のようにお前達は改革の火種となってくれと頼む。そしてその場で、種火から炭に火が移され皆に手渡された。
米沢に入国した治憲は竹俣当綱を執政に、莅戸善政を奉行に任命し本国での改革を始めるが、本国の重臣達が非協力的な態度に出るため、遅々として進まない。そうしたなかで、治憲は米沢藩の殖産を竹俣らに命じる。だが、これも重臣達が妨害をする。
両者の対立は決定的な物になり、重臣達は治憲追い出しを企む。だが、先代藩主・重定のおかげで命拾いをする。この事件に関わった重臣達には厳罰が言い渡された。
藩政に落ち着きが戻り、改革が進む。そのなかで人物養成のために治憲は学校を作ることを決断する。学校は興譲館と名付けられた。
だが、改革が進む中、様々なことがあり、治憲の回りから頼みにしていた人間が去る。そして治憲は、若くして隠居することを決意する。三十五才のとこである。この時に次期藩主となる治広に送ったのが「伝国の辞」である。この後、治憲は鷹山と名乗るようになる。 |
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●漆の実のみのる国 / 藤沢周平 |
米沢藩中興の祖であり、江戸時代を通じて名君の誉れの高い上杉鷹山を主人公とした小説である。藤沢周平は以前に同じテーマで「幻にあらず」を書いているが、藤沢周平としては珍しいことである。同じテーマを最期の作品に選んだのは、一つには「幻にあらず」で書いた人物が実際とは異なっていたこと(例えば、藁科松柏が竹俣美作当綱より八歳歳下だったが、「幻にあらず」では歳上のように描かれている)や、書き足らなかった事柄が多かったためであろうと思われる。そのことを裏付けるかのように、当時の米沢藩の窮状がいかにして成立したのかが克明に書かれているし、それに伴う、藩士の退廃ぶりも描かれている。さて、上杉鷹山は名君の誉れが高いが、結局・藩主であった時代には米沢藩の財政が建て直ることはなかったようである。それは、天候不順による凶作が度々起こるという不幸な要因もあるが、財政再建の骨子となる殖産事業に失敗したという要素が大きい。だが、この失敗で鷹山を評価してはいけないだろう。米沢藩のような窮乏に喘ぐ藩では、なにもやらない緊縮財政では破綻が目に見えている。成功するかどうかは不確定だが、何かをやらなければ未来が見えてこないのは確かである。抵抗はあったものの、それを断行したところに鷹山の真の評価があるのだろう。これで、天候不順などの不幸がなければ、鷹山の評価はさらに上がっていたはずである。改革が成功するかどうかは、その構想とは別の偶発的要因に左右されることが多いようである。そういう意味では、鷹山は今ひとつ運のなかった治世者だったのかもしれない。
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米沢藩の江戸家老・竹俣美作当綱のもとに手紙が来た。現在の米沢藩を牛耳っている森平右衛門利真を排除するには当綱が米沢に戻らなければ埒があかないと書かれていた。
米沢藩は貧乏藩である。会津時代の百二十万石から、米沢に移ってから八分の一の十五万石になったためである。だが、十五万石には十五万石のやりようがあるはずである。そのためには障害物を除かなければならない。
森平右衛門利真を除く。だが、森は現藩主重定の寵愛を受けている。除いた後の重定説得が必要である。
藩世子の直丸は英明の資質であると藁科松柏からも聞いており、当綱もそうであることを思っている。その直丸のために道を空けてもらわなければならない。
当綱は国元に戻り、執政らと謀って森を殺した。その後、素早く動き森派達を封じ込め、藩主重定を説得した。だが、これがきっかけで当綱と重定の間に感情的なしこりが残った。
竹俣美作当綱らが執政となり、藩の梶を取り始めた。その中で当綱は藩主交代を急ぐべきだと思い始める。そのためには重定に引退してもらう。だが、それもすぐというわけにはいかなかった。
森を排除した後の藩の改革は遅々として進まない。経済状況は悪化する一方である。この中で当綱が放った一言がきっかけで、封土返上の話が持ちあがる。結局は封土返上とはならなかったが、それだけ米沢藩は追詰められていた。
そして、ようやくにして藩主が交代する。第九代藩主・上杉治憲、後の鷹山である。
治憲は早速に改革に着手し始めた。それは竹俣美作当綱を中心として、倹約から始まるものだった。だが、この急速な改革に対して、頑強に国元の重臣達が抵抗を見せる。
それは、やがて「七家騒動」となる。国元の重臣達が上杉治憲を強制的に隠居させようとしたのである。他の藩でも同様の事件は起きていた。だが、このとき治憲はからくも逃げ切った。
この事件の後、竹俣美作当綱は上杉治憲に新たな改革案を示した。それによれば、改革が上手くゆけば、十五万石の米沢藩が実質三十万石になるという壮大な構想だった。上杉治憲は気持ちが高ぶるのを感じた。しかし、その一方で何かを見落としているのではないかという気持ちもあった。
こうして、米沢藩の改革の火蓋は切って落とされた。 |
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