誰でもよかった

家庭家族はどこにいったのでしょう 
親の躾 
教育などとは言いたくありませんが 
くるところまできたようです 
 
末世がすぐそばにきたのでしょうか 
携帯メールが唯一の友とは情けなさ過ぎます


 
 
2008 ワースト・コピー賞 
悪い世の中のスタートにならなければ幸いです
 
 
話しする相手もいない寂しさでしょうか 
コミュニケーションは書き込みだけなのでしょうか
 
 
他人を傷つけて憂さ晴らし 
警察弁護士他人の目を友達にしたいのでしょうか
 
 
 
 
 
 

 
2008/ 
 
誰でもよかった1 
視点論点「誰でもよかった」 精神科医/斉藤環 
このところ、無差別に人を殺す通り魔的な殺人事件が続発し、世間を騒がせています。 
3月23日には茨城県土浦市の荒川沖駅で、24歳の男性が包丁で一人を殺害し、七人を負傷させるという事件がありました。続く25日の深夜には、JR岡山駅ホームで、大阪から家出してきた18歳の少年が、県職員の男性を線路に突き落とし、死亡させる事件が起きています。 
土浦の通り魔殺人の容疑者は、高校を卒業後、コンビニ店員などのアルバイトを転々としていましたが、アルバイトをやめてからはひきこもりがちな生活を送っていました。自宅ではゲームに熱中し、家族ともほとんど会話せず、家庭内でも孤立していたようです。 
岡山で男性をホームから突き落とした少年は、阪神大震災で被災して大阪に転居したものの、新しい環境になじめず、小中学校ではいじめを受けていました。高校時代はまじめな努力家でしたが、卒業後も家庭の事情で、進学も就職も決まっていませんでした。 
二つの事件の容疑者に第一に共通するのは、逮捕後に「殺すのは誰でもよかった」という意味の供述をしている点です。 
このように、若者による動機のわからない犯罪が起こると、メディアは過敏に反応しがちです。とりわけ背景に個人的事情がみて取れない場合、その犯罪はしばしば、社会状況を映し出す鏡としてあつかわれます。それゆえ、今回続発した犯罪についても、さまざまな解釈がなされました。 
土浦の事件の直後には、ゲームが槍玉に上げられました。ゲームをやりすぎると、仮想と現実の区別がつかなくなる、というおなじみの論理です。 
ちなみに岡山の事件の容疑者はまじめな勉強家でしたが、勉強のしすぎの問題についてふれた人はいませんでした。このほか、若者を絶望させる競争社会や格差社会が悪い、という説もありました。 
それらの解釈が正しいものかどうかについては、私はあまり関心がありません。殺人という、めったにない出来事が成立してしまう背景には、必ず複合的な要因が絡んでくるはずで、単一の原因だけで語り尽くせるとは考えられないからです。 
それぞれの事件の容疑者は、たしかに不安定で明るい展望が持てない生活を送っていたようですが、これを絶望的なものとみるかどうかは賛否があるでしょう。もちろん、いかなる事情があろうとも殺人は許されることではありません。メディアの勝手な解釈とは別に、精神鑑定なども含めて、事実関係がきちんと解明されることを希望します。 
ただし、このような犯罪には、それに対するメディアの反応も含めて、さまざまに象徴的な意味を読み取ることはできると思います。私がこれから述べるのは、個別の事件についてというよりも、事件の持つ象徴的な意味についての解釈です。この点をまずご了承下さい。 
さて、二人の容疑者に共通することは、一種の自暴自棄です。彼らはあきらかに、逮捕されることを想定した上で犯行に走っています。その意味で、彼らにとっては、他殺と自殺の距離は限りなく小さいとも言えます。 
もちろん彼らの置かれている状況が、通常の意味では絶望的にはみえません。しかし、それは一面的な見方です。生活を続けていくことの可能性という点から言えば、彼らはまだ、必ずしも「生存の不安」にはさらされていません。しかし、彼らは別の意味で危機的状況にあったとも言えます。それは「実存の不安」というものです。 
自分がなにものか。自分が生きていくことに意味があるのか。そうしたことにまつわる「実存の不安」は、戦後の若者がいだく不安の中心を占めています。 
いまや「生存の不安」はリアルなものではなくなり、「実存の不安」が圧倒的になりつつあります。それゆえかつての若者は、行動によって自分が何ものかであることを証そうと必死であがきました。その少し後には「自分探し」が流行しました。どこかにあるはずの本当の自分をさがして、若者は心理学や宗教にすがろうとしました。しかしいまや、若者は自分探しすら断念しつつあるようにみえます。どういうことでしょうか。 
社会のインフラがネットワーク化、システム化されると、社会全体の匿名化が進みます。個人の意志や動機が直接に社会を動かすのではなく、間にさまざまなシステムが介在するため、物事の因果関係がきわめて複雑になります。その結果、システムの中枢を司る一部の人々を除いては、自分がおかれている状況がきわめてわかりにくいものになりがちです。この傾向は今後ますます加速されるでしょう。 
「格差社会」という言葉の問題は、それが誰のせいでもなく、システムの作動それ自体が、自動的に格差を押しひろげていくのだ、というイメージを固定してしまったことでしょう。このイメージはきわめてリアルで曖昧なものなので、検証できないまま流布していく性質を持っています。その結果、経済格差や人間関係の格差、希望の格差あど、あらゆる点において格差の存在が予測されがちです。 
そこで予測されるものの一つに「名前の格差」というものがあるように思います。 
名前の格差とは、あくまでも比喩的な表現です。システムの中で、自分だけの固有の名前を持つことができる人と、匿名のまま名前を持つことができない人の格差です。目的として扱われる人と、手段としてしか扱われない人の格差、とも言いかえられます。目的としての名前を持つということは、変化と成長の可能性に開かれていることを意味します。しかし匿名の手段でしかないことは、そうした変化の可能性に希望を持つことができないことを意味します。 
こうした匿名性という視点からみるとき、「誰でもよかった」という言葉は特別の意味を持つように思います。もちろんそれは、「殺す相手は誰でも良かった」という意味だったでしょう。しかし、本当にそれだけでしょうか。二人の容疑者が偶然にせよ同じ言葉を口にした事実は、この言葉を象徴的なものに変えます。 
私には、この言葉が彼らが自分自身に向けた言葉のようにも聞こえるのです。匿名性の中に埋没しつつあった若者が、「これをするのは自分ではない誰でも良かった」と呟いているように聞こえるのです。 
かつて、若者による動機の不可解な犯罪の多くは、犯罪行為による自分自身の存在証明のように見えました。自分自身の神を作り出したり、犯行声明文を出したりという形で、それは表現されました。 
しかし、今回の二つの犯罪には、もはや殺人によって何ものかであろうとする欲望の気配も感じられません。自分自身の行為すらも、半ばは匿名の社会システムに強いられたものであり、たとえ犯罪を犯しても自分の匿名性は変わらない。そのようなあきらめすら感じられるのです。 
果たして彼らを、匿名性から救い出す手段はあるのでしょうか。それはまだ、わかりませんが、ここでヒントとなりうるのは、哲学者カントによる「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」 いう言葉です。いかにしてこの定言命令を、社会システムの倫理に変換しうるかが、これから問われることになるでしょう。
誰でもよかった2 
4月9日放送のNHK「視点・論点」は、最近の無差別通り魔殺人事件に関する精神科医/斎藤環氏の発言を放送していた。 
3月23日、茨城県土浦市の荒川沖駅で24歳の男性が包丁で1人を殺害し、7人を負傷させるという事件があり、そして25日の深夜、JR岡山駅ホームで、大阪から家出してきた18歳の少年が県職員の男性を線路に突き落とし死亡させるという事件が起きた。 
土浦の通り魔殺人の容疑者は、高校を卒業後、コンビニ店員などのアルバイトを転々としていましたが、アルバイトを辞めてからは引きこもりがちな生活を送っていました。自宅ではゲームに熱中し、家族ともほとんど会話せず、家庭内でも孤立していたようです。岡山で男性をホームから突き落した少年は、阪神大震災で被災して、大阪に転居したものの、新しい環境に馴染めず、小中学校ではいじめを受けていました。高校時代はまじめな努力家でしたが、卒業後も家庭の事情で進学も就職も決まっていませんでした。 
二人の容疑者に共通しているのは、逮捕後に「殺すのは誰でもよかった」という意味の供述をしていること。 
メディアはこういう動機のよくわからない事件に対して過敏な反応を示し、「社会状況を映し出す鏡」として解釈する傾向がある。たとえば土浦の事件の容疑者について、「ゲームをやりすぎると、仮想と現実の区別がつかなくなる」という「お馴染みの論理」を持ち出す等。 
「ちなみに、岡山の事件の容疑者は、まじめな勉強家でしたが、勉強のしすぎの問題について触れた人は誰もいませんでした」と斎藤氏は言う。*1 
このほか、「若者を絶望させる競争社会や格差社会が悪い」という説もあったが、「殺人という滅多にない出来事が成立してしまう背景には、必ず複合的な要因が絡んでくるはずで、単一の原因だけで語り尽くせるとは考えられない」、それゆえ「精神鑑定なども含めて、事実関係がきちんと解明されることを希望します」と斎藤氏は慎重に語る。 
しかし、ここから斎藤氏は、「ただし、このような犯罪には、それに対するメディアの反応も含めて、さまざまに象徴的な意味を読み取ることができると思います」と語り、「個別の事件についてというより、事件の持つ象徴的な意味についての解釈」を述べ始める。 
さて、二人の容疑者に共通するのは、一種の自暴自棄な態度です。彼らは明らかに、逮捕されることを想定した上で犯行に及んでいます。その意味で、彼らにとっては他殺と自殺の距離は限りなく小さいとも言えます。 
もちろん、彼らが置かれている状況は、通常の意味では絶望的には見えません。しかし、それは一面的な見方です。生活を続けていくことの可能性という点から言えば、彼らはまだ必ずしも「生存の不安」には晒されていません。しかし、彼らは別の意味で危機的状況にあったとも言えます。それは「実存の不安」というものです。*2 
この「実存の不安」は、戦後の若者が抱く不安の中心を占めてきたもので、かつての若者は「行動」によって自分が何者であるかを明かそうと必死であがいたし、その少し後には「自分探し」が流行し、心理学や宗教にすがろうとした。「しかし今や若者は、自分探しすら断念しつつあるようにみえます」。 
斎藤氏はその背景を、社会システムの問題、「社会全体の匿名化」という傾向に見出そうとする。 
社会のインフラがネットワーク化・システム化されると、社会全体の匿名化が進みます。個人の意志や動機が直接に社会を動かすのではなく、間にさまざまなシステムが介在するため、物事の因果関係がきわめて複雑になります。その結果、システムの中枢を司る一部の人々を除いては、自分が置かれている状況がきわめてわかりにくいものになりがちです。 
「格差社会」という言葉の問題は、それが誰のせいでもなく、システムの作動それ自体が自動的に格差を押し広げていくのだというイメージを固定してしまったことでしょう。このイメージはきわめてリアルで曖昧なものなので、検証できないまま流布していく傾向を持っています。 
この結果、経済格差や人間関係の格差、希望の格差などが予測されるようになるが、斎藤氏はこれに「名前の格差」を付け加える。 
システムの中で自分だけの固有の名前を持つことができる人々と、匿名のまま固有の名前を持つことができない人々との格差です。目的として扱われる人と、手段としてしか扱われない人の格差、と言い換えることもできます。目的としての名前を持つということは変化と成長の可能性に開かれていることを意味します。しかし、匿名の手段でしかないことは、そうした変化の可能性に希望を持つことすらできないことを意味します。*3 
こういう「匿名性」という観点から見るとき、「誰でもよかった」という言葉は「二重の意味」を持つように思える、と斎藤氏は言う。1つは「殺す相手は誰でもよかった」ということ。そしてもう1つは、これを「彼らが自分自身に向けた言葉」と見た場合、「これをするのは自分ではない、誰でもよかった」と呟いているようにも聞こえるということ。 
かつて若者による動機の不可解な犯罪には、「自分自身の神を作り出したり、犯行声明文を出したり」というように、「犯罪行為による自分自身の存在証明」のように見えるところがあった。 
しかし、今回の2つの犯罪には、もはや殺人によって何者かであろうとする欲望の気配すらも感じられません。自分自身の行為すらも半ばは匿名の社会システムに強いられたものであり、たとえ犯罪を犯しても自分の匿名性は変わらない。そのような深い諦めすら感じられるのです。 
「はたして彼らを匿名性から救い出す手段はあるのでしょうか」と斎藤氏は問う。氏は「それはまだわかりません」としながらも、カントの「他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」という言葉がヒントになるのではないかと言う。「いかにしてこの定言命令を社会システムの倫理に変換しうるかが、これから問われることになるでしょう」。*4 
 
*1私の知る限り、「勉強のしすぎ」ではないが、「まじめさ」の問題については、「「まじめさ」こそが人を犯罪に追い込むのだ」と書いている人がいる。ただし、ゲーム好きも、まじめな勉強家もたくさんいるわけで、その中で「なぜ彼らだけが…」という固有の事情を問うとき、同時に、「なぜ他の人は犯罪を犯さずに済んでいるか」「何が歯止めになっているのか」ということも問う必要があるのではないだろうか。デュルケム『自殺論』の発想を応用できないだろうか等。 
*2「生存の不安」は経済的問題、「実存の不安」はアイデンティティや社会的承認の問題を意味していると思うが、私はこの2つを切り離して論じることには疑問を感じる。斎藤氏も、両者が「複合的」に「絡んで」いることを否定していないのかもしれないが、失業・無業状態の「不安」は、経済的且つ実存的な問題であるはずで、「今や生存の不安はリアルなものではなくなり、実存の不安が圧倒的になりつつあります」と斎藤氏が言うのは、問題を一面化・単純化してしまうことになるように思う。 
*3たとえば会社員(正社員)とフリーターの違いは、「名刺」を持つ者と持たざる者の違いと重なるのではないだろうか。少なくとも私は自分の名刺を持ったことがない。というか、コンビニでは「ひらがな名札」の着用を強いられている。仕事内容は代替可能で匿名的なのに、「ひらがな名札」を着けさせるというのは、「ラベリング」による「有徴化」ではないだろうか。 
*4いま手元に本がないので確認できないが、ハンナ・アレントは『革命について』の中で、「貧困」の問題と「無名性」の問題とを区別し、フランス革命(社会革命)の失敗とアメリカ革命(政治革命)の成功を対比的に論じていたはずである。「無名性」の問題は、言論による「公的領域」の創出の問題につながっていたと思うが、はたしてそれは「社会システムの倫理」(この言葉が何を意味するかはよくわからないが)の問題なのだろうか。
誰でもよかった3 
「だれでもよかった」無差別の連鎖、秋葉原以来すでに7件、公共の場で通行人や買い物客が刃物で襲われる事件が相次いでいます。 
東京・八王子の駅ビルでは女性店員が殺害され、神奈川県平塚市のJR平塚駅では7人が切りつけられるなど、先月8日の東京・秋葉原の無差別殺傷事件以降、少なくとも7件の事件が発生しました。 
「だれでもよかった」「うっぷんを晴らしたかった」。容疑者たちの供述がよく似ています。 
今月15日夜、東京都青梅市のスーパーで女性店員(53)が突然、バタフライナイフで右胸などを刺されて重傷を負った。近くに住む会社員大越粒巧(りゅうた)容疑者(22)が間もなくナイフを持って交番に出頭、銃刀法違反の現行犯で逮捕された。大越容疑者は「仕事のことで社長に文句を言われた。誰でもいいから刺して騒ぎを起こし、社長を困らせたかった」と供述。 
翌16日には茨城県東海村石神外宿の河川敷で散歩中の会社員の男性(61)と長女(25)が包丁で背中や腕を刺されて重傷を負い、付近にいた同村の無職寺島喜一容疑者(32)が殺人未遂容疑で現行犯逮捕された。寺島容疑者は被害者親子とは面識がなく、「仕事がなくてムシャクシャしていた」などと供述している。 
25日には甲府市内の路上で飲食店従業員の女性(35)がペティナイフで刺される事件が発生。傷害容疑などで逮捕された調理師桜林清容疑者(37)も取り調べにこう語ったという。「上司から仕事で注意され、うっぷんを晴らすために刺した。だれでもよかった」 
さらに27日、北海道名寄市の名寄短大敷地内の公園で、散歩中の男性(53)が刃物で刺された事件で、無職三浦義将容疑者(20)が銃刀法違反容疑で現行犯逮捕された。三浦容疑者は調べに対し、「腹が立って人を刺した。だれでもいいから刺そうと思った」と話し、北海道警は殺人未遂容疑で調べている。 
共通することばが浮かび上がってきますね。 
「誰でもよかった」「むしゃくしゃしていた」「○○を困らせたいと思った」 
こんな事件を起こす背景を私なりに探ってみました。 
怒りという感情を、コントロールできないようですね。怒りの矛先を当事者ではなく、力関係の下の人たちに向けていますね。 
社長に注意されて、親に注意されて、怒りを抑えることができなくて、何も関係ない人にぶつけてしまう・・・・ 
一つの事件の表面だけをみて、すべてを理解することは難しいのですが、その犯行に至るまでの親子の関係に起因していることが多いと思います。 
親は愛という名のもとに、子供を束縛していることに気が付いていないのです。 
保護しているつもりなのですが、保護という言葉に変えて、支配しているのです。 
モンスターペアレンツもそうですね。 
この世のルールは、支配する人がいて、支配される人がいる・・・・これはセットで表裏一体、離れていません。 
支配していることが悪いことのように思われますが、高次元からみると、どちらも同じであります。 
まずこの表裏一体という関係性を創り出したものは何なのか・・・・それは依存と支配があるからです。 
そしてこの依存と支配の連鎖は、親も、またその親の親も、またまたその親の親の親も代々受け継がれたものなのです。 
根源にある受け継がれたコンプレックスの正体をはっきりさせるために、今わたしたちができること・・・・ 
この連鎖を止めるにはどうしたらいいのか。 
その根本的な解決策を探し求めてきた結果、あまりにも身近で置き去りにされてきた“ある”ことに気がつきました。 
それが、「家族・夫婦」です。 
今、社会が抱えている数多くの諸問題の根本的な解決策が「家族・夫婦の再生」にあることを広く知って頂くこと・・・
誰でもよかった4 
「誰でもよかった」として連鎖反応的に殺傷事件が起こっている。今年になってからその数はただならぬものがある。そのいくつかを書き出してみると以下の通りである。 
1月5日 東京戸越銀座で高2の16歳が刃物で切りつけ通り魔。5人に切りつける。「誰でもいいから皆殺しにしたかった」という。「少年は小学校高学年のころから他人の感情や意図を理解できず、他人を殺害するか、自分を抹殺するかとの考えを抱いた。今後も自分や他人を傷つける恐れが高い。計画的な側面があり心神喪失ではなかった」として医療少年院送致になっている。 
3月23日 茨城荒川沖駅で24歳男が刃物で一人殺害7人負傷。「誰でもよかった。複数殺せば死刑になれると思った」という。犯人は72歳の男性を殺害した疑いで指名手配されており、事件後、携帯電話で「早く捕まえてごらん」と警察を挑発していたが、交番に出向き逮捕された。警察の不手際が伝えられた事件であった。 
3月25日 自宅から150キロ離れた岡山駅のホームで18歳男が男性を突き落とし一人殺害。「人を殺せば刑務所に行ける。誰でもよかった」という。 
4月22日 鹿児島で19歳の自衛官がタクシー運転手を刺殺。「金品が目的ではなく、単に人を殺したかった。死刑になりたかった。相手は誰でもよかった」という。 
6月8日 東京秋葉原で25歳男がトラックと刃物で7人殺害10人負傷。「世の中が嫌になった。誰でもよかった。親は他人」という。殺傷能力の高いダガーナイフを使用。「彼女がいれば、仕事を辞めることも(中略)携帯依存になることもなかった。希望がある奴にはわかるまい」と語り、派遣社員を解雇されると誤解したことが凶行の一因になった。ネットに「犯罪者予備軍って、日本にはたくさん居る気がする」「やりたいこと…殺人 夢…ワイドショー独占」「小さいころから『いい子』を演じさせられてたし、騙すのには慣れてる。悪いね、店員さん」「中止はしない、したくない」などと凶行に至る一部始終を書き込み、あたかも誰かに止めて欲しいとも思える部分もある。 
6月22日 大阪駅で38歳女が刃物で3人に切りつけ負傷させた。「イライラしたから切りつけた」「電車の扉に左腕を挟まれたので、同じ左腕を傷つけようと思った」などと供述している。 
7月15日 青梅市のスーパーで22歳男が女性をバタフライナイフで刺し負傷させた。「普段から社長に仕事で文句を言われ、(犯行を起こして)恥をかかせてやろうと思った」という。女性とは面識がなく、「誰でもいいから殺そうと思った」という。 
7月16日 愛知岡崎市で中2の14歳が、東名高速バスハイジャックし一人殺害一人負傷。「親に叱られ、嫌がらせでやった」「ただ走りたかった」という。バスには男を含め計12人が乗っていたが、けが人はいなかった。 
7月16日 東海村の河川敷で、32歳男が散歩中の父娘に刃物で刺して重傷をおわす。「殺すつもりはなかった」「仕事がなくてムシャクシャしていた」 
7月22日 八王子市駅ビルの書店で33歳男が、アルバイトの大学生ら女性2人を殺傷。一人殺害一人負傷。「仕事の関係で人間関係も含め2,3日前からムシャクシャしていた。親が話しを聞いてくれないので、大きな事件を起こせば名前が出るようになると思った。うちには自分の居場所がない」という。 
7月25日 甲府市の路上で37歳男が女性をペティナイフで背後から刺し軽傷をおわす。女性と面識がなく、「上司に怒られてむしゃくしゃしていた。だれでもよかった」という。 
7月27日 名寄市内の公園で22歳男が散歩中の男性に刃物で背中を刺し全治10日のケガをおわす。「腹が立って人を刺した。だれでもいいから刺そうと思った」という。 
7月28日 平塚駅で34歳女が男性7人に刃物で切りつけ負傷させた。「前日に家族とトラブルになり、父親を刺そうとしたが家族に止められた」「死にたい気持ちがあり死ぬなら道連れにしようと思った」「むしゃくしゃして、電車に乗って土地勘のある平塚に来た」「サウナに入ったら頭が痛くなり、人を殺して自分も死のうと思った」という。 
この他に、7月19日に埼玉の父刺殺事件、7月29日には愛知県知立市の中学校で、同校教諭が担任だった卒業生の18歳男に刃物で胸などを刺された事件も起こっている。 
これらの事件は連鎖反応的である。非正規就労者が全就労者の三分の一という、今までにない経済的な不安定さ、年金、医療、福祉など数え切れないほど先の見えない不安定な社会的状況もその一因になっていることは否めない。「仕事がなくてムシャクシャしていた」などはその典型だろう。また、家庭内の会話のなさ、コミュニケーション不足、家族に対する不信もある。 
だが、貧しいながらもまっとうに生きている人はいくらでもいる。事件を起こした人物の多くは自己のフラストレーションのはけ口を誤っていると言わなければなるまい。派遣社員がいつ解雇されるか分からぬ不安を持つのは当然だろう。労働者を消耗品のように使い、一部の大企業と一部の階層の人びとだけが豊かでいられることへの不満の矛先を「自分より弱い者、見ず知らずの人」に向けることは許されざる事である。上司に不快感をもっているなら赤の他人でなく上司に不満をぶつける勇気を持つべきである。それもできず、何が起こっているか分からない状態で無抵抗な人を殺傷する行為は卑怯である。 
「象徴的貧困」(仏・哲学者Bernard Stieglerによる)に陥った多くの国民が、政治に淡い期待をもち、マスコミを利用していつの間にか、役人の湯水のように浪費が糾弾されないまま、「財源がなければ消費税の増税やむなし」などと口車に乗せられかけている現状は、正に為政者の思うつぼである。拝金主義、利益優先が蔓延り、市場原理主義・極端な規制緩和によってどれほどの零細な商店が街から消えたことか。そんな元凶を作った政治家への待望論が取り上げられるほど日本人は愚かだったのか。 
30年ほど前の社会だったら、学生運動、労働運動が激しく起こり、政治、権力に矛先を向け、真剣に社会を住みやすくしようと思い、行動してきただろう。多くの若者を中止とした人びとが真剣に国の将来を考えていた。だが、今はどうだろうか。そんな勇気も英知も持ち合わせず、ただ誰かがどうにかしてくれるだろうと思っているに等しい。 
思い通りにならないから「人を殺し死刑になりたかった。誰でもよかった」などと考えて、見知らぬ不特定多数を殺傷に至る短絡さは、「生きること」の根本が理解できずに成長し、不都合という陰を引きずって凶行に走ったとしか言いようがない。自分の不幸の矛先は目の前にいる人を殺傷して解決できることでないことは自明である。だが、凶行は起こっている。 
その原因のひとつは「事件を起こせば、自分の存在を世の中に知らしめることができる」などという、誤った自己顕示につながっている場合も少なくない。自分の起こしたことで、被害者とその家族はもとより、自らの家族、友人、郷土にどれほどの迷惑をかけ傷つけるか、知るべしである。だが、そんなことが判断できる状況なら事件にはつながるまい。自らを社会的に破壊しなければ解消できない心の闇は、あまりにも深すぎる。そこに至る前に、自らの心を制動する強い気持ちが幼い頃からの訓練を必要としていることに多くの人びとが気づかなければなるまい。いずれにせよ、事件を起こした人物の考えは甘ったれたものである。職場の上司への、親への腹いせのために刃物を他人に向け、関係する人物の気持ちを自分に向けようなどという、子どもがダダを捏ねていることに似ている。従来は殺傷事件のマスコミ等の報道が事件再発の歯止めの役割を果たしていたが、現在はまったく違う。事件の再発を防止したければ事件についての報道は最小限にするべきである。マスコミ関係者は、事件報道を見ながら「犯罪の手口」を学習している人物がいることを知るべきである。事細かに報道する必要はない。また、当分の間、殺傷場面をTVのドラマから外すべきである。殺人ドラマを見ながら無意識的にそうしたことが、事件を引き起こす潜在的引き金になっているのではないか。 
秋葉原の事件後、舛添厚生労働相は派遣労働制度について「大きく政策を転換しないといけない時期にきている。働き方の柔軟性があっていいという意見もあるが、なんでも競争社会でやるのがいいのかどうか。安心して希望を持って働ける社会にかじを切る必要がある」との言葉は同感である。幼時から何事も競わされ、勝ち組と、負け組に分類する社会の単純さと傲慢は、多様性を認めたがらないシステムがもう破綻していることに気づくべきである。白と黒の他に灰色があっていい。1があって0があり、その間に小数点のつく数字が無数あることを認めることが大事なのではないか。多くの小数点のつく人びとが世の中を背負っていることに思いをいたすべきである。 
このまま時計がまわっていくと、今までには考えられない事態が待っているような気がしてならない。弱き者、倒れかけている者、病んでいる者に人びとが手を差しのべるような、当たり前の世の中にすることが急務である。弱肉強食の世の中なら動物の世界と何も変わらない。「相手を思いやる」。そう思う人が増えれば世の中が少しづつ変わっていくと思うのだが。事件を起こした人物はいずれも、「自分の存在を認めて貰いたい」と思っていたのではないか。 
今の社会全般の閉塞感を解消しない限り、不条理な殺傷事件が再発するに違いない。