誰のための靖国参拝

一国の宰相が国のために殉じた人に参る 
人は死して神となる 
 
国のために喜んで死んだか 
心ならずも死しか選択できなかったのでは
 


 

靖国神社諸説 / 阿南惟幾二二六事件と阿南大将の訓話靖国神社の源流は招魂社靖国神社とはなにか靖国問題の基礎知識A級戦犯は何処へ・・・
 
  
靖国神社 
靖国神社は、明治2年(1869)明治天皇によって、戊辰戦争(徳川幕府が倒れ明治の新時代に生まれ変わる時に起った内戦)で斃れた人達を祀るために創建された。初め、東京招魂社と呼ばれたが、明治12年に靖国神社と改称されて今日に至る。後に嘉永6年(1853)アメリカの海将ペリーが軍艦4隻を引き連れ、浦賀に来航した時からの、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀り、明治10年の西南戦争後は、外国との戦争で日本の国を守るために、斃れた人達を祀ることになった。
 
明治維新 7,751/西南戦争 6,971/日清戦争 13,619/台湾征討 1,130/北清事変 1,256/日露戦争 88,429/第一次世界大戦 4,850/済南事変 185/満洲事変 17,176/支那事変 191,250/大東亜戦争 2,133,915 
合計 2,466,532柱
   
小泉首相 
問題提起の総仕上げ 
後は野となれ山となれ 
提起できなかった数々を陽に晒しただけでも大宰相
  
中国韓国 
上げたこぶしの下ろし時を探っている
  
天皇 
神国を信じる 
神風を信じる 
靖国で逢うことを誓う 
殉じる
  
  
大西滝治郎 
これでよし百万年の仮寝かな  
 
マスコミ 
相変わらずの反対映像をかき集める 
500人集まれば1人は精神に異常のある人が紛れ込む 
0.2%にも満たない数百人の反対運動を中国韓国の民意とでも言いたいのか
  
マスコミ自身の考えでも活字にしてほしいものです 
できれば会長社長の考えが知りたいものです 
日本人として
  
大正昭和初期の東南アジアが欧米の何であったか 
さかのぼって検証してみてほしいものです 
現代の解決方法など誰も思いもいたらなかったはず 
「列強」と言われていました 
バランスとりのお抱え識者の意見など意味がありません
  
西郷隆盛 
大君のためには何かおしからむ為 薩摩の迫門に身は沈むとも  
  
乃木希典/乃木静子 
うつし世を神さりましし大君の あとしたがひて我はゆくなり    
いでまして帰ります日のなしと聞く けふの御幸にあふぞ悲しき
  
日本の文化 
神仏(かみほとけ)の世界 
死者を鞭打たない 
水に流す
  
山本五十六 
天皇の御楯とちかふ真心は とどめおかまし命死ぬとも
  
阿南惟幾 
大君の深き恵に浴みし身は 言い残すべき片言もなし
  
東条英機 
たとへ身は千々に裂くともおよばじな 栄しみ世をおとせし罪は 
さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根の花薫るとき 
明日よりはだれにはばかるところなく 弥陀のみもとでのびのびと寝む

 
2006/ 
 
靖国神社 諸説

 
阿南惟幾
 
(あなみこれちか・1887-1945/8/15) 東京生まれ。陸軍大学の入試に3度失敗、4度目にやっと受かり、1918年11月(大正8)に卒業。 
42歳の昭和4から4年間、侍従武官として昭和天皇に使えた。1936年(昭和11)の2・26事件の時に、陸軍幼年学校の校長をして阿南は、全校生徒を集め、「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と、きわめて厳しい口調で語ったと伝えられる。陸軍内の派閥構想では一貫して中立を通し、2・26事件後の統制派による粛軍断行では、その中立的姿勢がかわれ粛軍実行機関といわれた兵務局長に1936年に就任する。37年陸軍省人事局長、1938年には第109師団長として支那に出征するが、この時に昭和天皇は阿南を呼んで2人だけで夕食をとった。阿南はいたく感激して、次の和歌を作ったといわれる。 
   大君の深き恵みに浴(あ)みし身は言い遺すべき片言もなし 
太平洋戦争開始後は、野戦指揮官として1941年第11軍司令長官、1942年第2方面軍司令官に就き、1943年さらにニューギニア方面の戦線に赴いた。阿南がここで眼にしたには、驚くべき南方戦線での大本営の統帥の混乱ぶりであった。これを批判して、「大本営の統帥乱れて麻の如し」と方面軍の機密作戦日誌にと書き残した。1945年4月(昭和20)天皇の命で鈴木貫太郎が戦前最後の首相に就任するが、鈴木は阿南を陸軍大臣に就ける。(「今次の大戦に於ては世界の3大国米英支を敵とし、真に戦略上勝利の見込みのない戦争を続けている」鈴木貫太郎述) 
しかし阿南は、御前会議等の公式会議では軍部が主張する「本土決戦」を強硬に主張し、敗戦処理を進める鈴木や東郷外相と激しく対立する。御前会議において御聖断によりポツダム宣言受諾が決定された後、阿南は各課の幹部を全員集め、御前会議の内容を説明、敗戦の決定に愕然とする陸軍幹部の前で、「私が微力であるため、遂にこのような結果になったことは諸君に対して申しわけなく、深く責任を感じている。しかし御前会議の席で、私が主張すべきことは十分主張した点については、諸君は私を十分信頼してくれていると信ずる。このうえは、ただ大御心のままに進むほかはない」と訓示、天皇に戦争継続の決意を促すクーデタを企てていた一部幹部に「今日のような国家の危局に際しては、一人の無統制が国を破る因をなす。敢えて反対の行動に出ようとするものは、まず阿南を斬れ」と牽制した。  
この後、「陸軍はあくまでも聖断に従って行動す」との承詔必謹の方針が明確に打ち出され、翌15日正午、昭和天皇の玉音放送によって、ポツダム宣言に無条件受諾が伝えられる直前、阿南陸相は陸相官邸で割腹自決した。
二・二六事件と阿南大将の訓話  
二・二六事件というのは、昭和11(1936)年2月26日から29日にかけて陸軍の青年将校らが起こしたクーデター事件です。1483名の兵を率いた陸軍皇道派の青年将校らは、2月26日午前5時に一斉に蜂起し、総理官邸、赤坂の高橋是清蔵相私邸、四谷の斎藤実内大臣私邸、荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸、麹町の鈴木貫太郎侍従長官邸、神奈川県湯河原の牧野伸顕前内大臣を襲撃し、警視庁、陸軍省、陸軍大臣官邸、参謀本部を占拠しました。  
決起した将校は、霞が関から三宅坂周辺を完全に占拠し、川島陸軍大臣に決起趣意書と7項目からなる要望書を提出して「昭和維新」の断行を迫ったのです。クーデターは、開始から2日後の28日午前5時、「叛乱軍は原隊に帰れ」との奉勅(ほうちょく)命令が下され、この時点で決起将校たちの「昭和維新」の夢は完全に断たれました。事件後の軍法会議では、首謀者17名は死刑、69名が有罪となっています。以下がその「決起趣意書」と「要望書」です。  
この決起趣意書にある首謀者の野中四郎大尉は、29日、山下奉文少将に促され、陸相官邸で自決しています。戒名は直心院明光義剣居士です。「まっすぐな心と明るい光で未来を照らす義の剣士」という意の戒名です。当時、昭和2年の金融恐慌からさめやらぬ日本国内は、たいへんな不況下にあり、しかも満州事変、支那事変と、日本は国力の総力を挙げて、戦いをして行かなければならないという状況にありました。そうした中で、国がこれほどまでに荒廃するのは、佞臣のせいに違いないと立ち上がった野中大尉以下の青年将校たちの気持ちは、よく理解できます。というより、現在の保守の方々の思いは、まさにこのときの野中大尉らと同じなのではないでしょうか。当時の世論も、まさにまっ二つに分かれ、青年将校たちを義挙として高く評価する者、治安を乱す反乱兵士と看做す者と、おおいに論争が巻き起こりました。そうした中で、当時、陸軍幼年学校校長だった阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大将が発表したのが、以下の談話です。事件について、もっともたいせつなことが、ここに書かれています。「帝都不祥事件」というのは、事件後に二・二六事件のことを指して呼んだ言葉です。  
 
二・二六事件が起きたとき、東京は雪の降りしきる寒い日でした。反乱軍への鎮圧隊は、帝国ホテルの裏の空き地に陣営を張っています。場所が場所だったので、鎮圧隊は、帝国ホテルに食事の炊き出しを依頼したのだそうです。大雪が降って寒い日です。帝国ホテルのシェフは、すぐに食べれて体が暖まるものということで、このときカレーライスを作りました。雪の中、明日は仲間と戦わなければならないかと緊張している鎮圧部隊の兵たちにこの熱いカレーライスは忘れられない味となります。そして彼らによって東京の洋食屋さんで発達したカレーライスの味が、全国に広まった、のだそうです。  
 
阿南大将は、「どのような忠君愛国の赤誠も、その手段と方法とを誤れば、大御心に反し、ついには大義名分さえも失う」と述べられています。そして「本気で憂国の情があるならば、先ずもって自己の本分に邁進しなければならない」ともおっしゃられています。もっというなら、何事も人の「せい」にせず、自分でできることから始めなさい、ということなのではないでしょうか。また、阿南大将は、「忠孝一本の道こそが、日本精神の千古不磨の鉄則」と述べられています。現代社会では、「忠」や「孝」は、まるで死語となっているかのようです。子は親を馬鹿にし、生徒は先生を馬鹿にし、社員は上司を馬鹿にする。しかし日本人は、つねに自己を研鑽し、目上の者を大切に扱うことで集団社会の安定と秩序と高い精神性を保持してきました。日本人は、日本の精神を取り戻す。これが、現代日本に生きる私たちに課せられた最大の使命なのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。 
蹶起趣意書  
謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり。然るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我慾を恣にし至尊絶対の尊厳を藐視し僭上之れ働き万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随つて外侮外患日を逐うて激化す。所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。倫敦軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件、或は学匪共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にして、その滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず、而も幾度か頸血を濺ぎ来つて今尚些かも懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕らしむる、火を見るより明かなり。内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮し稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずして皇謨を一空せん。恰も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍の我等同志は、将に万里征途に登らんとして而も省みて内の亡状憂心転々禁ずる能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし。臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪を翻すに由なし、茲に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭し以つて神州赤子の微衷を献ぜんとす。皇祖皇宗の神霊、冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを。  
昭和十一年二月二十六日 陸軍歩兵大尉 野中四郎 外同志一同 
起趣意書  
日本は、万世一系の天皇陛下の下に、挙国一体となって八紘一宇をまっとうするという国家です。日本は、神武天皇の建国から明治維新を経由して、ますます体制を整え、今や日本の精神風土は、世界万民に開かれようとしています。しかるに私利私欲にまみれた不逞のヤカラが政財界を牛耳り、私心や我欲によって陛下を軽んじ、民衆の生活をとたんの苦しみに追いつめているのみか、昨今では外国にまで侮られるという事態を招いています。いわゆる元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は、この国体破壊の元凶です。ロンドン軍縮条約、ならびに教育総監更迭における統帥権干犯問題は、陛下の大権を奪い取ろうというたくらみでした。三月事件、あるいは学匪共匪大逆教団等は、政財界と利害関係を結んでこの国を滅ぼそうとするものです。最早、彼らの罪は万死に値する。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆者たちの捨身の戦い、五・一五事件、相沢中佐の閃発など、彼ら佞臣に反省を促す動きは、これまで幾度もありました。けれど売国奴たちには、いささかの懺悔も反省もなく、依然として私利私欲をほしいままにしています。このままでは、日本は完全に破滅に追い込まれてしまう。いま、内外に重大な危急があるときです。私たちは、日本破壊を阻止するために、日本国破壊の不義不臣を誅殺しました。君側の奸を、斬りたおすのは、我等の任だからです。私たちは、同憂の同志たちと機を一にして決起し、奸賊を誅殺して大義を正し、日本を守ります。皇祖皇宗の神霊、こい願わくば、照覧冥助を垂れ給わんことを。  
昭和11年2月26日 陸軍歩兵大尉 野中四郎 外 同志一同  
帝都不祥事件に関する訓話  
昭和11年3月12日 於第一講堂 阿南惟幾  
去る二月二十六日早朝我陸軍将校の一部が其部下兵力を使用して国家の大官を殺害し 畏くも宮城近き要地を占拠せる帝都不祥事件は諸氏の己に詳知せるる所なり。而して其蹶起の主旨は現下の政治並社会状態を改善して皇国の真姿発揚に邁進せんとせしものにして憂国の熱意は諒とすべきも其取れる手段は全然皇軍の本義に反し忠良なる臣民としての道を誤れり。以下重要事項につき訓話する所あらんとす。  
第一、国法侵犯並軍紀紊乱  
単に同胞を殺すこと既に国法違反なるに 陛下の御信任ある側近並内閣の重臣特に陸軍三長官の一人たる教育総監を殺害するが如きは国法並軍紀上何れより論ずるも許すべからざる大罪なり。  
一、重臣に対する観念  
仮りに是等重臣に対し国家的不満の点ありとするも苟も陛下の御信任厚く国家の重責を負いたるものを擅に殺害駆除せんとするが如きは臣節を全うするものにあらず。先ず陛下に対し誠に恐懼に堪えざる事なるを考えざるべからず。  
忠臣大楠公の尊氏上洛に処する対策用いられず之を湊川に邀撃せんとするや当事に於ける国家の安危は到底昭和の今日の比に非ざりしも正成は尚御裁断に服従し参議藤原清忠を斬るが如き無謀は勿論之を誹謗だにせず一子正行に桜井駅遺訓す。言々国賊誅滅一族殉国の赤誠あるのみ。而して戦利あらず弟正季と相刺ささんとするや「七度人間に生れて此賊を滅さん」と飽く迄大任の遂行を期して散りたるが如き誠に日本精神の発露にして忠臣の亀鑑たるは言うまでもなく特に責任観念の本義を千載の後に教えたるものにあらずや。自己の職責と重臣に対する尊敬とは此間によく味うを得べく今回の一部将校の行為と霄壤の差あるを知るべし。  
ニ、長老に対する礼と武士道  
重臣就中陸軍の長老たる渡辺教育総監を襲いし一部の如きは機関銃を以って数十発を発射し更に軍刀を以て斬り付けたる如き陸軍大将に対する礼儀を弁えざるは勿論其他高橋蔵相斉藤内府等に対しても一つの重臣に対する礼を知らず実に軍紀を解せず武士道に違反し軍人特に将校としての名誉を汚辱せるものなり。  
彼の大石良雄等四十七士が苦心惨憺の後吉良上野介を誅せんとするや不倶戴天の仇に対しても良雄は跪きて短刀を捧げ「御腹を召さるるよう」と懇ろに勧告して武士の道を尊び已むを得ざるを見て「然らば御免」とて首を打ち総ての場合に於て「吉良殿の御首頂戴」等いとも鄭重なる敬語を用い居る所真に日本武士の大道に叶えるものと言うべし。今回の将校等殆ど全部が幼年校又は士官校に学べるものなるに斯かる嗜みなかりしは臭を千載に残すものにして武夫の礼、武士の情を知らざるが如きは己に軍人として修養の第一歩を誤りたるものとす。諸子反省せざるべけんや。  
三、遵法の精神  
動機が忠君愛国に立脚し其考えさえ善ならば国法を破るも亦已むを得ずとの観念は法治国民として甚だ危険なるものなり。即ち道は法に超越すと言う思想は一歩誤れば大なる国憲の紊乱を来すものなり。道は寧ろ法によりて正しく行わるるものなりとの観念を有せざるべからず。  
古来我憂国の志士が国法に従順にして遵法の精神旺盛なりしは吾人の想像だに及ばざるものあり。  
吉田松陰の米船により渡航を企つるや其悩みは「国法を犯す」ことなりき。故に此件につき佐久間象山に謀りしに象山は近海に漂流して米船に救い上げられば国禁を犯すにあらずとの断案を授けぬ。松陰大に喜び以て大図を決行せしなりと伝う。又林子平が幽閉中役人さえ密かに外出して消遣然るべしと勧告せしに  
月と日の畏みなくはをりゝは 人目の関を越ゆべきものを  
とて一歩も出でざりきとぞ。先生の罪は自ら恥ずる所なく愛国の至誠より出でたるにも拘らず尚且斯の如く天地神明に誓って国法を遵守せしが如きは如何にも志士として恥じざるものと謂うべし。此等忠臣烈士は仮令幕府の法に問われ或は斬罪の辱を受しと雖も奕々たる精神は千載の下人心を感動せしめ且つ世道を善導せる所以を思うとき今回の事件が武人として吾人に大なる精神的尊敬を起さしめ得ざるもの茲に原因する所大なるものあるを知るべし。  
第二、統帥権干犯行為  
彼ら一部将校は徒に重臣等共の統帥権干犯を攻撃し之を以て今回蹶起の一原因に数え悲憤慷慨せり。然るに何ぞ擅に皇軍を私兵化し軍紀軍秩を紊乱して所属長官の隷下を離れ兵器を使用し同胞殊に重臣殺戮の惨を極め剰え畏くも皇居に近き官庁官舎を占拠せるが如き全く自ら統帥権を蹂躙破壊せるものにして其罪状と国の内外及将来に及ばす悪影響とは蓋し彼等の唱うる重臣の過失に倍すること幾何ぞや迷妄恐るべきかな。  
第三、抗命の行為  
霞ヶ関付近要地占領後自ら罪に服せざるは勿論所属師団長以下上官の諄々たる説諭も帰隊に関する命令も全然耳を仮さず或は条件を附し或は抗命の態度を取る等軍紀を破壊せり。而して是等一部将校に率いられたる下士兵の行動は多くは真事情を知らず唯上官の命の儘に行動せるもの多きも未だ其心理の詳細に到りては明かならず。他日判明を待ちて研究する所あらんとす。但し今日の教訓として軍人の服従に関する心得中左の二項は特に肝銘しおかざるべからず。  
一、服従の本義は不変なり  
服従の精神は依然として 勅諭礼儀の条の 聖旨に基き従来と何等変化なく「服従は絶対」ならざるべからず。  
今回の如き特例は以て服従に条件を附するが如きことあらんか忽ち上下相疑うの禍根を生じ軍隊統率軍紀の厳粛(訓育提要軍紀の章参照)に一大亀裂を与うるものなり深く戒めざるべからず。  
ニ、上官特に将校の反省と教養  
上官たらんものは「上官の命令を承ることは実は直ちに朕が命を承る義なりと心得よ」との 聖旨を奉体し常に至尊の命令に代りて恥じざる正しき命令の下に服従を要求すべきものにして猥りに「国家の重臣を殺せ」など命令するが如きことあらんか啻に命令の尊厳を害い服従の根底を破壊するのみならず将来部下の統率は絶対に不可能に陥らん。嘗て戒め置けるが如く「其身正不正雖令不従」(論語 訓話第一号の如く書きある書物あり)と。即ち服従の精神を繋ぐものは下にあらずして上官にあることを忘るべからず。故に将校たらんとする諸子は今日より先ず其身を正しくし教養を重ね部下をして十分の信頼を得しめ喜んで己に服従し命令一下水火も辞せざらしむる底の人格と識見とを修養することを第一義となさざるべからず。  
第四、最後の態度  
事件最後の時機に於て遂に 勅命下るに至る。誠に恐懼に堪へざる所なり。如何なる理由あらんも一度 勅命を拝せんか皇国の臣民たらんものは啻に不動の姿勢を取り自己を殺して 宸襟を悩まし奉りし罪を謝し奉るべきなり。然に惜むらくは彼等は此期に及んで尚此大命すら君側の奸臣の偽命なりとして之に服さざるが如き其間如何なる理由あるにもせよ寔に恐懼痛心に堪えざる所にして実に 勅諭信義の御戒に背きしものと謂うべく事茲に至りて彼等の心境に多大の疑問を残すに至り同胞軍人として遺憾至極とす。  
一、自決と服罪  
我国にて自決、切腹等は武士が戦場等に於て已むを得ざる場合其名誉を全うせんが為取りしに始まり己が国法を犯したるとき等は自ら殺す即ち自ら罪を補うは御上に対し其道に背きし一種の謝罪を意味す。畢竟切腹は武士の面目を重んじたるものなり。己の行動が死罪に値するとせば更に絞首火炙りに値するやも知れず故に潔く服罪して処罰を仰ぐを武士道とせるが如し。是れ大石良雄の復讐達成後の覚悟及処置にても明かにして万一にも死罪を免ぜらるる事ありとするも少くも良雄と主税とは自決して罪を天下に謝すべきものなりとの信念を有したりしとき聞く。  
是れ真の武士道なり。然るに今回の事件に際し将校等が進んで罪に服するにもあらず僅か二名が自殺し一名未遂に終りしのみなりしは我武士道精神と相隔つること大なるものにして吾人は此際自決するを第一と考うるも一歩を譲りて若し我儘の自決が 陛下に対し奉り畏れ多しと感ぜしならば潔く罪に服すべきものなりと断ぜざるを得ず。  
ニ、彼等の平素  
彼等の平素に於て人格高潔一隊の輿望を担いつつありしもの決して之れなしとせざるも仄聞する所によれば其大部は上官同僚にさえ隔心あり隊務を疏外して本務たる訓練に専心ならず軍務以外の研究に没頭し武人として必ずしも同意し得ざる点多々ありしと。平素の人格高潔にして真に至誠人を動かし而も最後に潔く自決するか又真に大罪を闕下に謝せんが為従容進んで罪に服せしならんには少くも今回の挙は精神的に日本国民の多大の感銘を与うるものありしならんに其平素の行為と最後の処置を誤りし点とに於て一段同情と真価とを失えりと言わざるべからず。夫れ其身を修むべしとは古諺に明示せられある所深く思わざるべからず。  
第五、背後関係  
本事件の背後関係につきては未だ確報を得ざるも北輝次郎、西田税一派と密接なる連絡ありしものの如く其大部が彼の「日本改造法案」を実効せんとするが如き主義に基けるにあらずやとの疑あり。果して然りとせば深く戒慎を要するものあり。彼の改造法案は己に昭和二年頃一読せしことあり。其後も吾人の間には屡々話題に上りしものにして其主旨が国家社会主義と言わんより寧ろ民主社会主義に近く我国体の本義に一致せざるは何人も明かに認め得ざる所なるに彼等一部青年将校は其純真なる心情より徒に彼等を過信し或はよく之を熟読批判することなく彼等の主張に引きつけられしものならん。もし之に心酔せりとせば将校として其見識殊に国体観念に於て研鑽と信念の不十分なるによるべく寧ろ此点同情に堪えざるものあり。以上の如き心境は羊頭を掲ぐる幾多不穏思想の乗ずる所となり易く彼の欧州大戦時に於ける独海軍及び露軍の革命参加の経過より見るも明かにして(例記載を除く)一歩を誤らば皇国皇軍を危険に導くもの之より大なるは莫し。軍隊の棹榦たらんものは自ら修養と研鑽と積み皇軍将校としての大綱を確実に把握し何物も動かすべからざる一大信念に生き苟も羊頭狗肉の誘惑に陥るが如きことあるべからず。  
第六、結論  
以上は事件の経過に鑑み比較的公正確実なる情報を基礎として生徒に必要なる条件につき説明訓話せるものにして如何なる忠君愛国の赤誠も其手段と方法とを誤らば 大御心に反し遂に大義名分に戻り 勅諭信義の条下に懇々訓諭し給える汚命を受くるに至る諸子は此際深く自ら戒め鬱勃たる憂国の情あらば之を駆って先ず自己の本分に邁進すべし。是れ忠孝両全の道にして各条述ぶる所は此忠孝一本の日本精神に基ける千古不磨の鉄則なり。今回の事巷間是非の批判解釈多種多様ならんも本校生徒たる諸子は堅く本訓話の主旨を体し断じて浮説に惑わさるることあるべからず。 
帝都不祥事件に関する訓話  
昭和11年3月12日 於第一講堂 阿南惟幾  
去る2月26日早朝、わが陸軍将校の一部が、その部下兵力を使用して国家の大官を殺害しました。おそれ多くも、宮城に近い要地を占拠した帝都不祥事件は、みなさんのすでにご承知の通りです。その決起の主旨は、現下の政治並社会状態を改善し、皇国の真の姿の発揚に邁進しようとしたものであり、憂国の熱意は諒とすべきものです。しかし、その手段は、全然皇軍の本義に反し、忠良な臣民としての道を誤ったものです。そこで以下に重要事項について訓話します。  
第一、国法侵犯並軍紀紊乱  
単に同胞を殺したというその一点だけでも既に国法違反です。そのうえ陛下の御信任ある側近、並びに内閣の重臣、特に陸軍三長官の一人である教育総監までも殺害するというのは、国法、並びに軍紀上、何れから論じても、許すべからざる大罪です。  
一、重臣に対する観念  
仮にこれら重臣に対して国家的不満の点があったとしても、陛下の御信任厚く、国家の重責を負っている者を、ほしいままに殺害駆除したというのは、臣節を全うするものとはいえません。なによりも先ず、陛下に対して誠に恐懼に堪えざる事であることを考えざるを得ないからです。忠臣楠正成は、足利尊氏上洛に対処するための対策が用いられず、これを湊川で邀撃しようとしました。当事の国家の安危は、到底昭和の今日とは比べ物にならないけれど、楠正成は尚御裁断に服従し、参議藤原清忠を斬るが如き無謀は一切行わず、一子正行に遺訓を残しました。そこには、「言々国賊誅滅一族殉国の赤誠あるのみ」とあり、戦利あらず弟正季と相刺ささんとしたときには、「七度人間に生れてこの賊を滅さん」と、あくまで大任の遂行を期して散っています。これは誠に日本精神の発露であり、忠臣の亀鑑であることはいうまでもありません。そして特に責任観念の本義を千載の後に教えたものでもあります。私たちは、自己の職責と重臣に対する尊敬を、この楠正成から学ばなければなりません。そしてこうした正成の振る舞いは、今回の一部将校の行為と雲泥の差があるということを知らなくてはなりません。  
ニ、長老に対する礼と武士道  
重臣、なかんずく陸軍の長老である渡辺教育総監を襲いし一部の如きは、機関銃をもって数十発を発射し、更に軍刀で斬り付けています。このような陸軍大将に対する礼儀をわきまえない行為は、勿論その他、高橋蔵相や斉藤内府等に対しても同様で、重臣に対する礼を知らず、軍紀を解せず、武士道に違反し、軍人特に将校としての名誉を汚辱するものです。彼の大石良雄等四十七士が苦心惨憺の後吉良上野介を誅したとき、不倶戴天の仇に対しても良雄はひざまづいて短刀を捧げ「御腹を召さるるよう」と、懇ろに勧告して武士の道を尊びました。これに抵抗する已むを得ざるを見て「然らば御免」と首を打ち、そのすべての場面において、大石内蔵助は、「吉良殿の御首頂戴」等、常に鄭重な敬語を用いています。これが、真の日本武士の大道に叶えるものと言うべきものです。今回の将校等は、ほとんど全部が幼年校、または士官校に学んだ者ですが、にもかかわらずこうした「たしなみ」がなかったということは、臭(くさみ)を千載に残すものであり、武士の礼、武士の情を知らないが如きは、まさに軍人として修養の第一歩を誤ったものです。みなさんも、よく反省してください。  
三、遵法の精神  
「動機が忠君愛国に立脚し、その考えさえ善ならば、国法を破るもまたやむを得ず」という観念は、法治国民として甚だ危険なものといえます。道は法に超越す、などと言い出せば、一歩誤ったら大いなる国憲の紊乱を来すものです。道は、むしろ法によって正しく行われるものです。そういう観念を持っていないから、こういう事件が起こる。古来、我が憂国の志士が国法に従順であり、遵法の精神旺盛なのは、私たちの想像さえおよばないものがあります。吉田松陰は、米船によって渡航を企てましたが、その彼の悩みは「国法を犯す」という一点にありました。ゆえに、彼はこの件について佐久間象山に相談するのだけれど、象山は近海に漂流して米船に救い上げられば国禁を犯すことにならないのでは、と助言します。松陰はおおいに喜んで、以て大図を決行したと伝えられています。また林子平は、幽閉中に、役人さえ密かに外出してしまいなさいと勧告するのだけれど、「月と日の畏みなくはをりゝは 人目の関を越ゆべきものを」と言って、一歩も外出することはありませんでした。これら先生方の罪は、自ら恥ずる所なく愛国の至誠より出でたることであるにもかかわらず、なおこのように天地神明に誓って国法を遵守したことは、いかにも志士として恥じざるものというべきです。これらの忠臣烈士は、仮にも幕府の法に問われ、あるいは斬罪の辱(はずかし)めを受けるものであるといえども、その精神は、多くの人達の心を感動させ、かつ世論を善導するものとなりました。このことを思うとき、今回の事件が武人として我らに多大なる精神的尊敬を起させるものではなかった、その原因が、彼ら決起した将校たちに遵法精神が欠落していたことにあることを、私たちは知る必要があります。  
第二、統帥権干犯行為  
彼ら一部将校は、いたずらに重臣たちの統帥権干犯を攻撃し、これをもって今回の決起の一原因に数え、悲憤慷慨しました。そのためにほしいままに皇軍を私兵化し、軍紀軍秩を乱し、所属長官の隷下を離れ、兵器を使用し、同胞ことに重臣殺戮の惨を極め、あまつさえ畏くも皇居に近き官庁官舎を占拠したのは、まったく自ら統帥権を蹂躙破壊したものといえます。その罪状と国の内外および将来に及ぼす悪影響は、彼等が唱えている重臣の過失に倍する。「迷妄恐るべきかな」とはこのことをいいます。  
第三、抗命の行為  
霞ヶ関付近の要地を占領後、自ら罪に服さないのはもちろん、所属師団長以下、上官の噛んで含めるような説諭に対しても、あるいは帰隊に関する命令も、全然耳を貸そうとしませんでした。あるいは条件を附し、あるいは抗命の態度を取る、これらはことごとく軍紀を破壊する行動です。しかも彼ら一部将校に率いられた下士兵の行動は、多くは真の事情を知らず、唯上官の命令のままに行動したといわれています。その心理の詳細は、現時点ではいまだ明らかにはなっていませんが、この点は後日の判明を待って研究する必要があろうと思います。ただし、今日の教訓として、軍人の服従に関する心得中、次の二項は特に肝に銘じておかなければなりません。  
一、服従の本義は不変なり  
服従の精神は、いつの時代においても依然として軍人勅諭の礼儀の条の聖旨に基くものです。このことは「絶対不変」のものです。今回の事件を特例だというのなら、それは「服従に条件を附する」ものです。こんなことを許しておけば、たちまち「上下相疑う」の禍根を生じ、軍隊統率、軍紀の厳粛に一大亀裂を与えるものとなります。深く戒めなければなりません。  
(参考) 軍人勅諭、礼儀の条  
軍人は礼儀を正しくしなければならない。およそ軍人には、上は元帥から下は一兵卒に至るまで、その間に官職(官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲)の階級があり、その統制のもとに属している。そして同じ地位にいる同輩であっても、兵役の年限が異なるから、新任の者は旧任の者に服従しなければならない。下級の者が上官の命令を承ることは、実は直ちに朕が命令を承ることと心得なさい。自分がつき従っている上官でなくても、上級の者は勿論、軍歴が自分より古い者に対しては、すべて敬い礼を尽くしなさい。また、上級の者は、下級の者に向かって、少しも軽んじて侮ったり、驕り高ぶったりする振る舞いがあってはならない。おおやけの務めのために威厳を保たなければならない時は特別であるけれども、そのほかは務めて親切に取り扱い、慈しみ可愛がることを第一と心がけ、上級者も下級者も一致して天皇の事業のために心と体を労して職務に励まなければならない。もし軍人でありながら、礼儀を守らず、上級者を敬わず、下級者に情けをかけず、お互いに心を合わせて仲良くしなかったならば、単に軍隊の害悪になるばかりでなく、国家のためにも許すことが出来ない罪人であるに違いない。  
ニ、上官特に将校の反省と教養  
上官たらん者は、「上官の命令を承ることは、実は直ちに朕が命を承る義なりと心得よ」という聖旨を奉体し、常に至尊の命令に代って恥じない正しい命令の下に服従を要求すべきものです。にもかかわらず、「国家の重臣を殺せ」など命令するが如き行為は、ひとえに命令の尊厳を害し、軍規服従の根底を破壊するものです。こんなことでは、将来部下の統率は絶対に不可能に陥いる。かねてより戒めえいる通り、「其身正不正雖令不従(論語)」とは、すなわち服従の精神をつなぐ者は、下にあるのではなく、常に上官であることを忘てはならなりません。故に、将校たらんとするみなさんは、今日からでも遅くない、先ずその身を正しくし、教養を重ね、部下をして十分の信頼を得しめ、喜んで己に服従し、命令一下水火も辞せざらしむるほど人格と識見とを修養することを第一義としなければなりません。  
第四、最後の態度  
226事件最後の時に、ついに勅命が下りました。これは誠に恐懼に堪えざるものです。如何なる理由があるといえども、ひとたび勅命を拝するときは、皇国の臣民たらんものはひとえに不動の姿勢を取り、自己を殺して陛下の大御心を悩また罪を謝し奉ねばなりません。しかしながら惜むらくは、彼等はこの期におよんでも、大命すら君側の奸臣の偽命なりとして、これに服さなかった。これは如何なる理由あるとしても、恐懼痛心に堪えざるものであり、実に軍人勅諭の信義の御戒めに背くものとしか言いようがありません。事ここ至っては、彼等の心境に多大な疑問を残すものです。同胞軍人として、遺憾至極に思います。  
一、自決と服罪  
我国にて自決、切腹等は、武士が戦場等に於て、やむを得ない場合に、その名誉を全うするために行ったことに始まり、自分が国法を犯したときなども「自ら殺す」、すなわちみずから罪を補うことで御上に対してその道に背いた謝罪を意味する行為です。すなわち切腹は、武士の面目を重んじたるものです。自分の行動が死罪に値するとするならば、更に絞首や火炙りに値するかもしれず、ならば潔く服罪して処罰を仰ぐを武士道といいます。大石内蔵助は、復讐達成後に覚悟も自分の身の処置も明かにし、万一にも死罪を免れることはない、だから少くとも内蔵助と息子の主税は自決して罪を天下に謝すべきものであるとの信念を持っていたと聞きます。これが真の武士道というものです。しかるに今回の事件に際しては、将校等は、自ら進んで罪に服そうともせず、わずか二名が自殺し、一名が未遂に終っただけというのでは、これでは我が国の武士道精神とあまりにも相反します。自分はこのさい、いさぎよく自決するを第一と考え、たとえ一歩を譲って、もし我儘の自決が陛下に対し奉りおそれいと感じているというのならば、せめて潔く罪に服すべきものであると断ぜざるを得ません。  
ニ、彼等の平素  
彼等は、平素に於て、人格高潔で一隊の輿望を担わなければならない地位にありました。ところがその大部分の者は、上官同僚にさえ隔心あり、隊務を疏外し、本務である訓練にも専心せず、軍務以外の研究に没頭し、武人として必ずしも同意し得ない点が多々あったと聞き及んでいます。平時において人格高潔であり、真心で誠実に人を動かし、しかも最後に潔く自決する。あるいは大罪を闕下に謝するために従容として進んで罪に服するのなら、少くとも今回の挙は精神的に日本国民の多大の感銘を与えるものであったであろうと思います。しかし平素の行為と、最後の処置の両方を誤ったという点において、彼らは一段と同情と真価を失ったと言わざるを得ません。「まず我が身を修むべし」というのは、古い諺(ことわざ)に明示されているところであることを、深く思わないではいられません。  
第五、背後関係  
本事件の背後関係については、未だ確報を得ていませんが、彼ら青年将校たちは北輝次郎、西田税一派と密接な連絡があり、彼らの「日本改造法案」を実効しようとする主義に基づいて行動したという疑いがあります。果してもしそうだとするならば、深く戒慎を要するといえます。彼の改造法案は、すでに昭和2年頃一読させていただきました。その後も我々の間には、よく話題に上ったものですが、その主旨が、国家社会主義と言うよりも、寧ろ民主社会主義に近く、我国体の本義に一致していないことは、多くの人が明らかに認めているところです。彼ら一部青年将校たちは、その純真な心情から、いたずらに彼らを過信し、或いはよくこれを熟読批判することもなく、彼らの主張に引きつけられたものでしょう。もしこれに心酔していたとするならば、将校として、その見識、ことに国体観念に於て、研鑽と信念の不十分というべきで、むしろこの点は、同情に堪えざるをえません。以上のような心境は、羊頭を掲げる幾多の不穏思想に乗せられやすいものです。こうした心境は、欧州大戦時の独海軍や露軍の革命参加の経過と同様に、一歩誤まったら、皇国皇軍を危険に導くとんでもないものに至る可能性がある。軍隊の幹部たらんものは、自ら修養と研鑽と積み、皇軍将校としての大綱を確実に把握し、何物も動かすべからざる一大信念に生き、いささかも羊頭狗肉の誘惑に陥ってはなりません。  
第六、結論  
以上は事件の経過に鑑み、比較的公正確実な情報を基礎として、生徒に必要な条件につき説明訓話したものです。どのような忠君愛国の赤誠も、その手段と方法とを誤れば、大御心に反し、ついには大義名分さえも失うこととなります。軍人勅諭の信義の条のもとに、日々訓諭していたにも関わらず汚命を受けることになった諸子は、この際、深く自らを戒め、本気で憂国の情があるならば、先ずもって自己の本分に邁進しなければなりません。これこそが、忠孝両全の道です。軍人勅諭が述べていることは、まさに忠孝一本の日本精神に基づく、千古不磨の鉄則です。今回の事件は、巷間、是非の批判解釈多種多様あるけれど、本校生徒である諸子は、堅く本訓話の主旨を体し、断じて浮説に惑わされてはなりません。 
 
 
靖国神社の源流は招魂社
 

 

現代日本で最も注目を集めている神社といえば、それは靖国神社です。では、なぜ靖国神社は、それほど注目を集めるのでしょうか。それは靖国神社が、明治以降から第二次世界大戦の敗戦までの日本国家の歴史が集約された象徴的存在の故だからです。  
近代日本国家の歴史の功罪の内、罪に関しての議論では、批判する立場の人々から常に引き合いに出されるのが、靖国神社と天皇と思われます。特に靖国神社は、対国家間における戦争での戦死者を祭っていることから、中華人民共和国や大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国の人々からも、戦前までの近代日本の体制を美化する宗教施設とされ、攻撃の対象になっています。  
しかしながら靖国神社が、近代日本の精神的記念施設となっていることも確かで、我々が日本人であることを自覚して近代日本史を見るとき、靖国神社が国内外から批判されることに、ある不快を感じるのは、靖国神社のそうした存在による為のものと考えられます。  
靖国神社は、明治12年(1879)に突然出来た神社ではありません。それまでは、東京招魂社と称されていた神社で、明治天皇の思し召しによって明治二年(1869)に創建されたのでした。しかも草創期には、単に「招魂場」とも呼ばれていました。  
今、靖国神社→東京招魂社→招魂場と、何の解説もなく靖国神社の草創期の歴史を紹介しましたが、明治二年から十二年までの十年間の草創期に於ける、この呼称の変遷には、実に深い意味が宿っているのです。つまり結論からいうと、靖国神社創建の根底には、実は招魂社・招魂場の信仰というものが基になっているといえるのです。尚いえば、原点は招魂場だったのです。  
さて、「招魂社」は、社が付いているのですから神社のことですが、では「招魂場」とは何なのでしょうか。実態を知っている人は、ほとんどいないはずです。私は、山口県に在住しておりますので、山口県以外の招魂社を探訪することは、ほとんど出来ません。しかし実は、山口県は全国の官祭招魂社104社(『神社協会誌』では昭和7年における官祭招魂社は104社とされていています)の23%にあたる22社もの招魂社(山口県の招魂社数は21社と記述されている書物もあるのですが、これは昭和18年『神祇院調査表』に基づく社数と思われます。しかしながらこの調査表の昭和18年では、中山神社《旧称、勝野原招魂場》が昭和3年に県社に昇格している為、招魂社としてカウントされていないのです。したがって山口県の招魂社は22社ということになります)存在している県なのです。山口県に次いで多いのが鹿児島県の17社ですが、この両県で、全の招魂社の38%、約4割を占めるのです。  
招魂社のこうした特定県への偏在の原因は、初期の招魂社が幕末から維新の戦乱や、明治の戊辰戦争の明治政府軍側の戦没者を祭る為に創建されたということに理由があります。そのため招魂社は薩摩・長州の両藩に偏って存在しているということなのです。  
「招魂場」は明治7年頃から、「招魂社」へと、その名称が変更されていくのですが、それは単に名称変更だけではなく、実態の変更を伴っていたということがいえます。  
この招魂社講座では、これから順次、山口県内22の招魂社の写真を全て紹介する予定です。ご期待下さい。 
 
招魂社と護国神社の概説  
招魂社、或いは護国神社とは、明治初期から大東亜戦争までの近代の戦役・戦争の戦死者を祀っていることから、戦前では親兄弟といった身内が祀られている場合も多く、一般の人々にも招魂社や護国神社は身近な存在でした。したがって護国神社や招魂社に関した知識も豊富であったと考えられる。  
しかし戦後六十数年が経っている現代の我々は、そうした環境にいるわけではなく、招魂社や護国神社は身近な存在とは言えない。 そこで以下には招魂社及び護国神社の歴史の制度史的な概略を紹介しておきた。  
招魂社は、今日では慶応四年五月十日に布告された京都東山に癸丑以来の忠死者を祀る祀宇を設けるとの太政官布告と、伏見の戦い以降の戦死者の霊魂を祭祀する一社を建立するとの太政官布告の二つの布告が起点となって創建された神社とされている。 この太政官布告によって、京都や東京に招魂社が創建され、また諸藩に於いても京都東山の招魂祠に倣って自藩出身の戦死者を祀った招魂社を建立するようになったのだった。  
先ず、明治二年(一八六九)に、鳥羽・伏見の役から函館戦争までの諸戦役の戦死者三、五八八柱を祀った東京招魂社(創建当初は単に「招魂場」と称されていた)が創建されました。 この東京招魂社が、明治十二年(一八七九)には「國神社」と社号が改称されて、今日に至っている。  
中央における招魂社の整備は、こうして明治初期から進めらました。しかし各藩によって創建された招魂社や各戦役の戦死者を葬った墓地は、明治四年の廃藩置県によって藩による財政的保護を失ってしまったことから、その維持・運営に支障を来す状態となっていたのです。  
この地方における招魂社が荒廃していく状況が憂慮され、明治六に国内招魂社の状況が調査され、明治七年三月からは「在地の地租の免除、祭祀並びに修繕の官費支給」という、国家による保護・管理が行なわれるように法的整備(内務省達乙第二十二号)がなされたのでした。  
この省達に該当した招魂社は二十七社でした。因みに官費支給額は、祭祀料は一社につき年額十円、営繕料は二十五円、神饌料は祭神一座につき二十五銭でした。そして明治八年には社号を全て一般に「招魂社」とするようにとの内務省達乙第一三二号が出されたのでしらた。  
さらに明治二十三年には、各招魂社に受持神官を置いて、祭祀その他の一切の業務を取り扱わせるようにしたのでした(内務省訓令第八号)。  
招魂社は、明治七年以降も各地で創建されていったのですが、明治三十四年に至って、それまで官費支給されていた招魂社と官費支給の対象とならなかった招魂社を区別する為に、官費支給される招魂社には「官祭」の文字を冠することが定められました。  
これ以降は、称によって「官祭招魂社」(官費支給有り)と、「私祭招魂社」(官費支給無し)の区別がされるようになったのです。ここで注意しなければならない事は、「官祭招魂社」において、定額の神饌料が給付されるのは、明治七年三月の時点での官祭招魂社の祭神だけで、それ以後追祀された祭神には官祭招魂社であっても国からの支給はなく、遺族や縁故者の寄付等によってまかなわれていたという点です。したがって官祭招魂社に於いても、前者は官祭祭神と称せられ、後者は私祭祭神と称されたのでした。勿論、私祭招魂社では私祭祭神のみが祀られていたのでした。  
このように明治七年頃から整備が始まった招魂社制度は、明治三十年代に至って大枠がほぼ整備されまし。靖國神社では、日清戦争(明治二十七年〜二十八年)・日露戦争(明治三十七年〜三十八年)によって十万柱もの祭神が祀られたのですが、靖國神社は東京にあるため、遠隔地の地方に住む遺族や郷里の人々は容易に参拝に行けないといった理由から、この戦役以降には全国に多数の官祭・私祭の招魂社が創建され、その数は昭和七年には官祭招魂社が一〇四社、私祭招魂社が三四社で、合計一三八社となっていました。  
このように、近代の諸戦役に於ける郷土出身の戦死者を郷土に於いても祀りたいとして、市町村に於ける招魂社創建を希望する国民の希望は強まるばかりでしたが、政府としては靖國神社で全国の戦死者を一括して祀っていること、或いは招魂社の維持管理という費用的面から、招魂社の際限の無い増加には応じることは出来なかったのでした。  
そこで招魂社創建には、崇敬区域、或いは維持管理資金の確保といったことなど様々な面からの規制が加えられ増加に歯止めが掛けられるようになっていったのでした。そうした中、昭和九年ごろから招魂社の「一府県一社」制が考えられるようになりました。やがて昭和十四年四月からは、招魂社の創立については、師団管轄を異にする歩兵連隊の設置ある等の特殊な事情があってやむを得ない場合の他は、道府県に一社を限り許可することとし、市町村等を崇敬区域とするものは、独立招魂社であろうと、境内招魂社であろうと、創立は容易に許可されないことになりました(発社第三十号 内務省神社局長通牒)。  
更に同年四月一日から招魂社を護国神社と改称するとの内務省令第十二号が三月十五日で令達され、同日内務省発第五九号「招魂社制度ノ改善整備ニ関スル件」によって招魂社制度改革の内容が詳しく規定されたました。  
特に、明治二十七年の勅令二十二号に規定される府県社に関する取り扱いに相当する招魂社は、これを「指定護国神社」とし、指定護国神社に限り、その名称に府県名用いることが許されました。また、明治二十七年の勅命二十二号の村社に関する取り扱いに相当する招魂社は、「指定外護国神社」とされ、その社名に府県名を用いることはできないことになりました。  
こうして昭和十四年四月一日に、各道府県あたり一社を基準にして三十四社の「指定護国神社」が指定されることになりました(内務省告示第百四十二号)。但し、崇敬地域が広い北海道では北海道護国神社(旭川)、札幌護国神社(札幌)、函館護国神社(函館)の三社が指定護国神社となり、連隊区にかかわる特殊事情のある島根県には松江護国神社・浜田護国神社が指定護国神社となり(連隊区の関連では、岐阜県では指定護国神社であった濃尾護国神社に追加して岐阜護国神社も指定となり、兵庫県では指定護国神社の姫路護国神社に追加して神戸護国神社が指定となった)。また旧藩の創建になる広島県には、広島護国神社(芸州藩)・福山護国神社(福山藩)と各二社が指定護国神社に指定された。  
このようにして、大東亜戦争末期には指定護国神社は五十一社、指定外護国神社は八十三社にのぼりました。  
しかし終戦とともに、占領政策によって全国の護国神社は国の管理から切り離されることになりました。それに加えて占領軍が靖国神社や護国神社を国家神道とし、戦争を精神的に支え鼓舞したとの誤った認識が広がり、神社祭祀への公務員の参列が禁止されたことなどから、当然のごとく護国神社への人々の足は遠ざかった。  
そのため昭和二十一年以降には、護国神社では社名「護国神社」を一般神社の名称(例えば、 御霊(みたま)神社 のように改称することになったのでした(尤もサンサンフランシスコ講和条約が発効した昭和二十七年以降は、旧称の「護国神社」に復称した護国神社が多いが、旧称に復称しなかった護国神社もある)。  
この期間は、全国の護国神社は非常に困窮し、維持は困難を極めたのでした。しかし昭和二十七年以降になると各地の遺族会によって祭祀も復活し、財政的基盤も安定して、社殿・参集殿などの施設が整備されていきました。  
今日では、護国神社は安定しているように見えますが、遺族の減少によって、維持・運営などに将来的な不安が生じており、特に指定外護国神社においてはこの状況がより深刻となっています。また指定護国神社においても、財政収入に余裕のある神社と、そうではない神社との二極化が進行しています。  
招魂社信仰とは、これまで招魂社信仰は、招魂社の祭神は忠死、或いは戦死した人であることから、これを人間が神として祀る信仰、即ち、「人を神に祀る信仰」形態に属する信仰とされてきた。 「人を神に祀る信仰」としては、古くから日本には応神天皇を八幡神として、或いは神功皇后を神社に祭る信仰があった。  
しかし平安時代になって、疫神を鎮める仏教の行事の御霊会の影響を受け、生前の恨みをいだいたまま死んだ人、或いは非業の死を遂げた人が、怨霊となって人々に祟るという信仰が非常に流行した。これが怨霊信仰(おんりょうしんこう)・御霊信仰(ごりょうしんこう)といわれるもので、戦陣に没した人や非日常的な死に方などした人の霊魂を畏怖して祀る信仰が民間にも広まったのでした。  
こうした日本人の信仰史から、小林健三・照沼好文氏は、招魂社信仰を、  
招魂社の信仰は、従来の氏神系統の祭祀と著しい差異をもつ、むしろ御霊信仰の部類に属する信仰といって差し支え無いであろう。(小林健三・照沼好文著『招魂社成立史の研究』一〇二頁)  
との理解をしています。しかしながら両氏は他方で、招魂社信仰は御霊信仰とは違った性格を持っていることを踏まえ、  
菅公が怨霊の神としていうよりも、文神として尊崇されたように、招魂社の祭神もまた、怨霊神として信仰されたのではなく、護国の神として一般から尊崇された。これは、近世に起こった国家的な倫理観、思想を反映するものであったと言ってよかろう (小林健三・照沼好文著『招魂社成立史の研究』一〇三頁)  
としたのでした。そして護国の神の信仰がどのような信仰であるかを、  
皇統・国家の護持防衛のため、究極的な死をもって、自己の生命を捧げ尽くした人びとの至誠そのものを讃仰し、その極致に護国の神として崇拝したところに、招魂社の成立がある。(小林健三・照沼好文著『招魂社成立史の研究』一〇三頁)  
として、近代に起こった倫理的・道徳的な信仰と位置付けてもいます。こうした理解は、「護国神説」(或いは「英霊説」)といえるものでしょう。  
しかし怨霊が守護神となるには、怨霊が長い年月を掛けて和らいだ霊となってから成立する信仰であって、怨霊であり守護神であるとする信仰が同時に成立することはできないといわなければなりません。即ち、小林健三・照沼好両氏の理解は矛盾した招魂社信仰の理解となっているのです。  
「御霊信仰説」は、村上重良氏(『国家神道』1970年、『慰霊と招魂』1974年、両書とも岩波新書)、大江志乃夫氏(『国神社』1984年、岩波新書)などが立つ信仰説であり、これらの書籍が岩波新書ということもあって、一般に広く知られる招魂社信仰説となっている。  
特に村上氏の著作は靖国神社国家護持法案阻止を目的として著述されたことから、国神社に批判的な人々の信奉する国神社論の拠り所となっている。  
これに対して、「護国神説」や「英霊説」は、国神社に肯定的な立場の人々の論拠になっています。また阪本是丸氏は、近代の招魂社信仰を近世に起こった、地域の為に自ら進んで犠牲となった人々を祀り信仰する「義人信仰」から発展したとしています。  
私自身は、以前は招魂社信仰は義人信仰からの発展と考えてきたのですが、近年再考したところ、別の見解を持つようになっている。即ち、招魂社信仰は、近世に於いて整備された神道葬祭で発達した「死した人の霊を神霊」とする信仰が国学思想と結びつき、更にそうした国学思想が尊皇思想の拠り所となり、それが幕末長州藩の奇兵隊に流れ込んだことによって新たに発生した「隊士の戦死者の神霊を祀る信仰」が、招魂社信仰発生の原点になった。そして「隊士の戦死者の神霊を祀る信仰」が、やがて「国軍の戦死者の神霊を祀る信仰」へと発展して、靖國神社・護国神社の基本信仰をなしたと考えています。 
 
靖国神社とはなにか -資料研究の視座からの序論- 

 

はじめに  
日露戦争のさなかの明治37(1904)年、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)(1850−1904)はその絶筆となった『神国日本―解明への一試論―』でこう書いている。  
「日本の真の力は、この国の一般庶民の百姓とか漁夫とか、職人とか労働者とか…(中略)…の、精神力のなかに存するのである。この国民のあの自覚しない英雄主義の行為は、すべてこういう人たちのなかに存するのである。そしてすべてのあの天晴れな勇気生命を何とも思わないという意味ではなく、死者の位を上げてくれる天皇のご命令には一命を捧げようという念願を表す勇気なのである。…(中略)…異口同音にいっている希望は、「招魂社」に長く名をとどめたいということだけである。この「社」は、「あの死者の霊を迎える社」で、そこには天皇と祖国のために死んだ人すべての魂が集まるものと信じられているところなのである。この古来の信仰が、この戦時におけるほどに強烈に燃え上がった時はない。それでロシア軍は、連発のライフル銃やホワイトヘッドの魚雷よりもこの信仰の方をよけいに恐れなければならないだろう。祖国愛としての「神道」は、フェア・プレイを許されるとあれば、全極東の運命だけではなく、将来の文化にも影響を及ぼすことになろう(1)」。  
「招魂社」すなわち靖国神社と「祖国愛としての神道」をこのように評価したハーンは、その一方で日本の前途の暗闇の中に「悪夢」も見ていた。「この国のあの賞讃すべき陸軍も勇武すぐれた海軍も、政府の力でもとても抑制のきかないような事情に激発され、あるいは勇気付けられて、貪婪諸国の侵略的連合軍を相手に無謀絶望の戦争をはじめ、自らを最後の犠牲にしてしまう悲運を見るのではなかろうか(2)」。  
靖国神社は「近代日本」と現代を結ぶ糸である。このように譬えることができるとすれば、この糸は「戦前」にあってはいわば真っ直ぐな一本の糸であった。しかし、敗戦と占領によって始まった「戦後」においてこの糸は、幾多の  
論争と運動と訴訟とからなる「政治の磁場」に引き寄せられることによって、何本もの糸が複雑に捻じれ絡まりあっているようにも見える。  
靖国神社をめぐって生じてきたさまざまな問題は、今日「靖国問題」と総称されることも多いことに見られるように、その議論の範囲は、政治と宗教の関係、憲法解釈から、いわゆる「歴史認識」の問題に至るまで、非常に多岐にわたっている。また、この問題はあまりに長い経過を辿ってきたこともあって、この問題の全体像とその論点の把握は容易ではなくなっている。  
そこで、本稿では、靖国問題の論点整理の一助として、靖国神社の起源から現代の首相参拝問題にいたるまでのおよそ150年に及ぶ歴史の流れの中で、靖国神社とはなにか、という問いを設定し、これに「資料研究の視座」からアプローチを試みることとした。「靖国問題」は、その問題領域が拡大したことから、靖国神社自体をどう観るのかという視座に一度立ち返る必要もあるのではないか、と考えたからである。  
また、その論点は歴史的に形成されてきた側面があり、その意味で「構造的な」ともいいうる性質があると思われる。しかし、靖国問題関係の資料は汗牛充棟といえるほどに多い。本稿では、構造的な論点を検討する方法として、歴史の流れの中で今日にいたる論点を含むと考えられる基本的資料を読み込むことを試みた。「資料研究の視座から」としたゆえんである。  
もとより、この小論で可能なことは極めて限られており、大きな歴史的時期区分の中で、構造的な論点を意識しながら基本的な資料の若干を紹介する、いわば「序論」といったものにとどまらざるをえない。  
歴史的時期は、以下のようにおおむね章別構成と対応させている。第T章:近代日本と靖国神社文久2(1862) 〜昭和20 (1945) 年、第U章:占領期における「靖国神社改革」昭和20(1945) 〜昭和26 (1951) 年、第V章:戦没者の合祀と「国家護持問題」昭和27 (1952)〜昭和49 (1974) 年、第W章:「公式参拝」と「政教分離」昭和50 (1975) 〜平成18 (2006) 年。  
なお、資料の引用等にあたっては正確を期したものの、もし誤り等があれば御叱正をお願いする次第である。 
 
T 近代日本と靖国神社 

 

1 「招魂の思想」  
靖国神社は、ペリー来航以来の近代日本の幕開けの動乱期に、「尊皇攘夷」を掲げ倒幕運動を推進した勤皇の志士達による「国事殉難者」を祀る「招魂の思想」に、その淵源を求めることができる。  
明治42 (1909) 年に第3代の靖国神社宮司に就任し、昭和13 (1938) 年まで約30年にわたってその職にあった賀茂百樹(3) は、明治44 (1911)年に『靖国神社誌』(4) を編著した。靖国神社の最初の通史であるこの書の「起源」の章で賀茂は、文久年間に挙行された小さな二つの祭祀からその筆を起している。  
文久2(1862) 年12月、津和野藩士の神道家で国学者の福羽美静(5)、由緒ある神道家である神祇伯白川家の臣古川躬行らは京都の平安霊山で私祭を執り行い、その祝詞中で「安政の大獄」以後の殉難志士の霊の鎮斎と神祇官の復興を祈念した(6)。翌文久3(1863) 年7月、この福羽美静ら津和野藩関係者の主唱によって京都祗  
園社内に小祠が建立され(7)、吉田松陰、橋本左内ら46柱の霊が具体的にその名を挙げて弔慰された(志士達の名は判明次第追加されることになっていた)。  
国事のため殉難した志士の魂を慰め、その行為を顕彰して神として祀る「招魂の思想」は、尊王思想の普及、特に楠正成に対する尊崇思想とともに形成されたという(8)。例えば、水戸学派の会沢安は『新論』や『草偃和言』において、楠正成をはじめ国家に功労のあった者を神として祭祀すること、年中行事、国民の祭日の制定等を主張し、また、久留米藩の祀官真木和泉は会沢の思想を継承し、古来の忠臣義士を祭祀すべきと主張した(9)。志士達のあいだでは楠公祭が盛んに執行され、これに合わせて殉難した同志の神霊を「従祠」する「招魂祭」が挙行されるようになっていく(10)。慶応3(1867) 年、尾張藩主徳川慶勝は楠正成を祀る「楠公社」の創建とともに「国事のために身凶」した者達の「幽魂」「精霊」を慰め、合祀して一社とするよう朝廷に建言している。招魂の思想は元治から慶応年間にかけて全国に拡大したが、その魁となったのは長州藩であり、維新以前に「招魂社」を16社創建している。維新後は各藩も続々と藩の志士達を祀る招魂社を建立した。  
明治元(11) (慶応4、1868) 年5月10日、二つの太政官布告が発せられた。「癸丑以来殉難者ノ霊ヲ東山ニ祭祀ノ件」(以下「殉難者布告」という。)、及び「伏見戦争以来ノ戦死者ノ霊ヲ東山ニ祭祀ノ件」(以下「戦死者布告」という。) である。「殉難者布告」は、京都東山に祠宇を設け、嘉永6(1853) 年のペリー来航以来の国事に斃れた者および草莽有志の霊魂を永く合祀すること、「戦死者布告」は、この年1月3日の鳥羽伏見戦争以来の「東征」で戦死した者を祀る新しい一社を建立して永くその霊魂を祭祀し、さらに「向後王事ニ身ヲ殲シ候輩」を速に合祀すること、という趣旨の布告である。これらが東京招魂社(のちの靖国神社) の創建の起点となったという(12)。この二つの布告は、明治天皇の意思により「忠魂」を祭祀するという主旨は同じであるが(13)、合祀の対象・基準・範囲といった観点から見ると「殉難者」と「戦死者」とはいわば「カテゴリー」を異にする。このことは靖国神社の性格を考える上で重要な点なので、あとでまた触れる。  
上野の彰義隊壊滅後の明治元年6月2日、東征大総督有栖川宮熾仁親王、三条実美らは、江戸城で鳥羽伏見戦争以来の戦死者のための「招魂祭」を挙行した。この招魂祭は先の布告とは別に既に計画されていたもの(14) であったが、賀茂はこれを「東京招魂社の起源とも謂ふべし(15)」と注釈している。江戸における招魂祭の実施という意義を重く見たのであろう。  
また、同年7月、神祇官は京都河東操練場で鳥羽伏見戦争以来の殉難者の招魂祭を行った(16)。  
賀茂はこれを京都招魂社の始まりと位置づけている(17)。  
東京遷都後の明治2年、招魂社建設の計画は具体化した。木戸孝允は、上野の焼け跡を通りがかり「此土地を清浄して招魂社と為さんと欲す」(18) としたが、大村益次郎の意見もあり、社地を九段坂上に選定し、仮本殿・拝殿が建設された。6月28日、鳥羽伏見の役より函館の役に至る戊辰の役の戦没者3,588名の招魂式(第1回合祀) が行われ、翌29日には、軍務官知官事小松宮嘉彰親王が祭主、軍務官副知官事大村益次郎が副祭主となり、明治天皇の勅使の参向のもと、祝詞の奏上などが行われた。7月1日、右大臣三条実美が政府を代表して参拝している。  
6月30日から7月3日までは賑やかに祭典が行われ、余興として相撲や花火が奉納された。東京招魂社は兵部省の管轄となり、例祭日の決定(鳥羽・伏見開戦、彰義隊潰走、五稜郭開城、会津藩降伏の日を例祭日とし、のち、彰義隊と五稜郭の日を合併し、西南の役が加わる) 、以後、4年8月青山清が祭事掛(初代宮司) 就任、5年5月  
本殿造営竣工、6年5月招魂社大祭式改定、同年9月『招魂社年中祭式祝詞』制定というように、一般の神社として整備されていった。明治6年12月、兵部省の廃止(明治5年2月) にともない陸海軍省の管轄となった。明治7年1月27日、例大祭に明治天皇がはじめて行幸し、「我国の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」との御製を山県有朋陸軍卿に賜わったが、この篇額が東京招魂社さらに靖国神社に伝えられている(19)。 
 
2 靖国神社の創建と特性  
東京招魂社は設立以後、神社同様の祭祀を行っていったが神官は置かれていなかった。これでは一社としての体裁を為さないと考えた陸軍省は神官を置くことを太政官に要望したが、そのためには「社格」が必要との結論になり、明治12年6月4日、東京招魂社は靖国神社と改称され、別格官幣社に列せられた(20)。賀茂百樹は、靖国の字は春秋左氏伝に見えているが、その意義は祭文にあるように「祭神の偉勲に拠りて国家を平和に統治し給ふの義なること」、「我が帝国は古来平和を以て国是とすれば皇祖列聖安国と平らけく天の下を知食さむ事を軫念し給ひ、下民も亦聖旨を奉戴して、平和の為めに一身を犠牲に供し、死しても猶ほ護国の神となりて、平和を格護せむことを期しつるなり。靖国の称実に宜なりけり(21)」として、靖国神社が国の「平和」のための存在であることを強調している。  
別格官幣社とは、「官国幣社昇格内規」によれば「国乱を平定し国家中興の大業輔翼し、又は国難に殉ぜしもの、若くは国家に特別顕著ある功労あるものにして、万民仰慕し、其の功績現今に祀られしものに比して譲らざるもの」でなければならない、とされている(22)。  
明治4年、政府は古代の神祇制度にならって神社を官社(神祇官所管) と諸社(地方官所管)に分け、官社を官幣社と国幣社(それぞれに大、中、小がある) に分けた。別格官幣社は新しい神社制度で、湊川神社に続いて日光の東照宮(徳川家康)、豊国神社(豊臣秀吉) などが列格されていった。靖国神社は別格官幣社に列格されることによって、国家による神社管理制度、いわゆる「国家神道」(23) 体制の一環に組み入れられた。しかし、靖国神社の近代日本における位置、役割を考える場合、他の神社とは異なるその際立った特性を考察する必要がある。  
賀茂百樹は靖国神社の「他の神社と異なる由緒と特例」として、次の点を挙げている(24)。  
第一はその由緒で、明治天皇の「益々忠節を抽でよ、との最も忝き叡慮」によって創建されたことである。賀茂が引用しているのは太政官の「戦死者布告」であり、靖国神社の創建は天孫降臨と出雲大社の創建の関係に類似すると述べている(25)。第二は、例祭日の勅定、勅旨による祭典の実施、及び例祭に勅使が差遣されることである。第三は「その祭神数の国家の隆昌と與に増加」すること、そして第四に「各郡村に亘りて祭神の遺族あらざるなく」「国民の崇敬を一にせる」ことを挙げている。  
さて、靖国神社の大きな特性はその「祭神」にある。合祀の資格、条件はなにかという問題である。これは、先に述べた二つの太政官布告「殉難者布告」と「戦死者布告」の具体化、適用の問題として考えることができよう。  
まず、「殉難者布告」では、ペリー来航以来の国事で斃れた者、草莽の志士を祀るとしているが、この調査が開始されたのは明治8年1月である。太政官はその達で、京都招魂社ほか全国各府県の招魂社に祭祀されていた嘉永6年以来の殉難者の霊を東京招魂社へ合祀することとし、祭祀の列に漏れていた者の調査にとりかかった。内務省からは「各人の履歴及び殉難死節の顛末」を「凡そ小伝にも充るべき程に詳細を取調べて」差し出すよう通知している(26)。神社側では、これを「明治維新」の「維新前後殉難者」として区分したが、この調査と合祀者の認定は非常な時間を要し、実際の合祀は明治14年の高知藩に始まり、完了したのはなんと昭和10年の第49回合祀であった。戦死者に関しては、明治7年、佐賀の乱による戦死者が第2回の合祀となる。これは先の「戦死者布告」で「向後王事」に斃れた者を祀る、とあったことを受けるものであり、以後、台湾事件(台湾出兵)、朝鮮江華島事件、神風連の乱・秋月の乱・萩の乱・西南の役から竹橋事件まで、海外出兵と内乱の戦死者が祀られていく。そして、日清・日露の二大戦役における大量の戦死者の合祀によって、靖国神社の存在は国家的・国民的な性格のものとして確立した。  
戦死者合祀の範囲が拡大したのが、日清戦争である。明治31年9月30日の第25回合祀では、桂太郎陸軍大臣告示により「明治二十七八年戦役中、戦地において疾病若くは災害に罹り又は出征事務に関し死没したる」者も「特旨」を以って「戦死者同様合祀」することとなった(27)。  
合祀の対象と範囲をめぐって興味深い事例が、明治35 (1902) 年1月に起きた「八甲田山雪中行軍遭難事件」である。青森歩兵第5連隊の兵士210人が遭難、うち199人が死亡するという世上有名な事件で、このとき陸軍は調査委員会を設けてこの死者を靖国神社に合祀すべく検討を行い、寺内正毅陸軍大臣はこれを閣議に提出し  
たが、結局閣議では遭難者を戦死者に準じて取扱うことはできない、という理由で合祀が否決されたという(28)。合祀者の選定は陸軍大臣、海軍大臣が行い、天皇に上奏し、裁可を得てから合祀されるという通常の手続からは異例なことであったが、より重要なことは合祀すべきかどうかについて陸軍内部で議論と検討が行われている事実である。このことは、合祀基準のようなものが存在していたとしても、その実際の適用については幅があることを示している。  
賀茂百樹は昭和10年、全5巻の大作『靖国神社忠魂史』(29) を編んだが、これは近代日本の戦史、個々の戦闘、事件、事績等と対応させて、この時点までの12万8千余柱の氏名等を収録した膨大な記録である。靖国神社の祭神を「英霊」と呼ぶようになったのは、明治44年の『靖国神社誌』に寄せた寺内陸軍大臣と斎藤実海軍大臣の題辞が初出らしいが、個々の祭神記録が靖国神社にとっていかに重要かが理解される。 
 
3 西欧世界の観察者  
さて、戦後における米国の対日占領政策、とりわけその神道政策の形成にとって、「西欧世界の観察者」たちの認識がどうであったかの問題は欠かすことができない。  
本稿の「はじめに」で引用したラフカディオ・ハーンの『神国日本』の認識と鋭く対立したのがB.H.チェンバレン(1850−1935) である(30)。  
明治6年から日本に滞在し東京帝国大学教授を務めたチェンバレンは、明治期日本の日本学者として周知の存在であるが、大正元(1912) 年にロンドンで出した"The Invention of a NewReligion" (『新宗教の発明』) と題する論文(31) で、忠君愛国の思想である国家神道を日本政府の官僚が新しく造ったものとして次のように批判した(32)。  
「天皇崇拝および日本崇拝は、その日本の新しき宗教であって、もちろん自発的に発生した現象ではない。… (中略) …二十世紀の忠君愛国という日本の宗教は、まったく新たなものである。なぜならば、この宗教においては、古来の思想はふるいにかけて選り分けられ、変更され、新たに調合されて、新しき効用に向けられ、重力の中心を新たにしたからである。… (中略)…これは官僚階級が自己の利益のために役立てようとするものであり、付随的には国民一般の利益をはかるためのものである(33)」「神道は皇室と関係が深いから、ひとり尊崇されるべきである。… (中略) …表面上は信教の自由を掲げている制度のもとにおいて、ある神道の祭礼には官僚の出席が求められ、諸学校では、毎年数度、天皇の写真の前に拝礼するという式典が制定された。この間、日本の政治は栄え、日本軍人は大勝利を博した。かくして、尊王主義と復活した神道崇拝に大いなる威名が加わった(34)」。  
チェンバレンの『新宗教の発明』は、楠家重敏氏によればヨーロッパの知識人の日本観に大きな影響を与えた。例えば、1922 (大正11) 年にはバートランド・ラッセルが『中国の問題』の中で引用している。そして、この『新宗教の発明』は『日本事物誌』に収録されることによって、第二次大戦前後における連合国の対日政策形成の材料となっていった(35)。また、阿部美哉氏は「占領軍の国家神道理解の骨格を形成したのは、チェンバレンの1912年における日本批判であったといえる(36)」と指摘している。  
占領期における米国の神道政策への影響という点で、D.C.ホルトム(1884−1962) (37) の神道に関する著作はもっとも重要である(38)。ホルトムは、明治43 (1910) 年、アメリカ・バプテスト教会の宣教師として来日し、日本バプテスト神学校等で布教・教育にあたる傍ら、日本の神道、皇室制度の研究を行った。大正11 (1922)年には『現代神道の政治哲学―日本の国家宗教の研究』(39)、昭和13 (1938) 年には『日本の国家信仰―現代神道の研究』(40) を刊行している。特に重要な著書は、昭和18 (1943) 年にシカゴで刊行した『現代日本と神道ナショナリズム』(41)である。その中でホルトムは、靖国神社の祭典の性格について日本人以外の読者層への説明として、最初の合祀を行った政府当局の動機に注意を払うべきであるとして、太政官布告のひとつの「殉難者布告」を引用し、根本的な動機は「非常な苦労をなめたあげく生命を捧げた人々の霊に正しく報い、また、新政府に忠誠をつくした人たちを、それ相応に顕彰することによって、皇室への関心を昂めんとするにあったのである( 42 ) 」と説明した。そして、靖国神社に「神として祀られている戦没将士の霊は、国家の守護神、特に軍事に関して国家を守護する神々となったもので、この神々は戦場の将士を護り、そしてかつてはこの神々を感激せしめ、愛国的な任務を遂行するために生身の血を流させたその愛国の熱情をもって、国の運命を見守るのだ(43)」という信念が存在すると分析する。さらに、天照大神の「太陽神話」は国民精神の中心をなす要素となり、国民精神総動員計画の原動力をなし、「一言でいえば、軍事国家の政治的な力を神格化することになったのである(44)」と述べている。のちに、GHQ (連合国軍最高司令官総司令部) はこの書について、「神道が日本の軍国主義者や極端な国家主義者達によって如何に利用されたか、またこの結果が仏教や基督教に如何なる影響を与へたかを説明しようとしている」と評価している(45)。 
 
U 占領期における「靖国神社改革」 

 

1 米国の対日政策と「神道指令」  
昭和20 (1945) 年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏した。ラフカディオ・ハーンが41年前に書き残したあの予言めいた「悪夢」、「連合軍を相手に無謀絶望の戦争をはじめ、自らを最後の犠牲にしてしまう悲運(46)」が現実となったのである。「祖国愛の宗教としての神道(47)」と「招魂社」はどうなるのであろうか。  
占領のため日本に上陸した米軍の動きは迅速だった。9月はじめには早くも米軍兵士が靖国神社に到着し警備についた。マッカーサー総司令官が連合国軍最高司令官総司令部(以下、GHQと略記する。) に民間情報教育局(教育、宗教政策等を担当。Civil Information and Education Section, 以下CIE と略記する。) を設置したのは、戦艦ミズーリで降伏文書が調印されてから3週間後の9月22日であり、日本の「国家神道」を解体した文書である「神道指令」(後述する) が発せられた12月15日までわずか3か月足らずである。その2週間後の昭和21年元旦には天皇のいわゆる「人間宣言」(48) が詔せられている。  
足掛け7年に及ぶ占領下日本の未曾有の激動と変化はなんであったのか。占領期についての学術的な研究が本格的に進められるようになったのは、米国国立公文書館の占領期文書が公開・利用できるようになった1970年代後半からである。各論的分野ともいうべき「神道指令」などの米国の対日宗教政策の研究成果が世に出るのは、ようやく1990年頃からである。つまり、靖国神社の国家護持や首相の公式参拝問題が大きな問題になったのちに、その問題の「起源」ないし「原点」となった占領期における「靖国神社改革」のプロセスや意味を検証することが可能になってきた。  
占領期の全期間、GHQ 宗教政策の立案プロセスのほぼ全体を担ったのは、CIE 宗教課長(49)のW.K.バンス博士であった。バンスは「神道指令」を起草するにあたって、まず神道を中心として日本の宗教事情を知る必要があり、岸本英夫東京帝国大学文学部助教授(当時、のちに教授) に顧問を依頼した。岸本は宗教学を講じており、米国留学の経験もあることなどから選ばれたが、CIE 宗教課と日本側の関係者との「橋渡し役」を果たすことにもなった。靖国神社の存続に岸本が果たした役割には大きいものがあったと言えるだろう。また、前章Tで言及した神道学者D.C.ホルトムに対して、GHQ は来日を要請したが健康上の理由で来られなくなり、ホルトムは神道政策に関する勧告書を送付してきた。岸本は「バンス博士は、参考書を次から次へ熱心に読みこなして行った。とくにアメリカの神道学者D.C.ホルトムの著書を熟読玩味しているようすだった(50)」と記している。  
また、「バンス博士は、総司令部の上層部の信任も厚かった。宗教行政に関しては、彼の意見は決定的な力を持っているように見えた。そのような彼が、日本を愛する人であり、万事につけて筋を通して考えずにはいられない理性の人だったことは、占領軍の宗教行政に、多大の影響を与えたと私は思っている(51)」と書いている。バンスは日本側にとって手ごわい占領統治側の交渉相手であり、まぎれもなくGHQ の基本政策の忠実な遂行者であったが、彼に接した神道関係者を含む日本側には個人として悪い印象は残していないようである。  
さて、米国の占領政策の検討において、神道についての議論は、早くも1943 (昭和18) 年の後半に登場している。大統領の諮問機関である戦後外交政策諮問委員会の領土小委員会で、ヒュー・ボートン(52) (1903−1995, 国務省特別調査部極東班のメンバー、当時コロンビア大学助教授・日本史) は、戦後日本の国内改革に積極的に介入することを主張し、「軍国主義が日本の政治を支配するに至ったのは、神道の政治的利用や明治憲法で認められた種々の特権を行使」したからであり、「日本の侵略性は、超国家主義と軍国主義から出てきたもの」で、「除去可能な、一時的歴史現象」と主張した(53)。ボートンは、天皇制の廃絶は必ずしも必要ではなく「政治目的のために天皇が利用される事態を防止することや、天皇が不可侵であるとする信仰のような近代神道の国家主義的教義の布教を禁止する」ことが重要だと主張した(54)。  
1944 (昭和19) 年3月15日、国務省の極東に関する部局間地域委員会は「日本―信教の自由」と題する神道と信教の自由に関する基本政策文書をとりまとめた。この文書は「神道を一宗教として、極端な国家主義から区分するのが困難であることを考えるとき、占領軍は日本に信教の自由を許すべきか否か」という問題設定への回答であった。宗教的信仰の自由はルーズベルトの「四つの自由」にも表明されているように連合国の尊重する原理であり、当然守らねばならないが、「この原理の日本への適用は複雑な問題を内包しており、それは、本来無害で原始的なアニミズムである原始神道のうえに、昨今の狂信的な愛国主義と侵略主義を増長させるため軍国主義者によって利用された『国家主義的天皇崇拝カルト』が接ぎ木されているからである」とし、日本にある約10万の神社を大きく三つに分類した。第一は古代に起源を持ち地域の守護神を祭る神社、第二は伊勢神宮のような古代に起源を持つが国家主義の象徴的存在になっているもの、そして、第三は靖国神社や明治神宮、乃木神社のような近年設立された国家的英雄を祭る神社である。第三の類型に属する神社は、軍国主義的国家主義精神を鼓舞する神社であり、日本政府も、宗教ではなく愛国主義の表現形態であると繰り返し主張しているのであるから、仮に閉鎖を命じても信教の自由に抵触はしない。ただし、現実的政策としては、国家主義的神社にあっても、強制的閉鎖は逆効果を招く恐れもあるので望ましくない。公的秩序や安全保障に反しない限り、個人的信仰の対象としては公開存続を許されるものとする、と勧告している(55)。  
米国の対日宗教政策の原則となった基本文書とその宗教関連の主要部分は、以下のとおりである(56)。  
@ 「ポツダム宣言」:「言論、宗教、思想の自由は基本的人権の尊重と共に、確立されなければならない」  
A 「降伏後における米国の初期対日方針」(57):「宗教的信仰の自由は占領後直ちに宣言されなければならない。同時に超国家主義的かつ軍国主義的組織や運動が、宗教の仮面の背後に隠れることは決して許されないことを、日本国民に明らかにしなければならない。」  
B 「降伏後の日本固有の軍政に関する基本指令」(58):「日本の軍国主義的、超国家主義的イデオロギーの宣布および宣伝は、如何なる形態においても禁止され、完全に抑止される。連合軍最高司令官は日本政府に国家神道体制への財政的、その他の支援を停止するよう要求しなければならない」、「宗教的信仰の自由は、日本政府によって速やかに宣言されなければならない。」  
さきに述べたように、昭和20 (1945) 年9月にCIE が設置され、10月4日には「政治的、社会的及び宗教的自由ニ対スル制限除去ノ件」(「人権指令」) が発令された。10月7日、国務省極東局長J.C.ヴィンセントがNBC ラジオで国家神道について語り、翌8日「神道は日本の国教としては廃止される」と日本に伝えられた。  
13日、J.F.バーンズ国務長官からGHQ の問合せに対して「神道は、それが日本人個人の一宗教である限り、干渉されることはない。しかしながらそれが日本政府によって指導され、また政府によって上から強制された手段である限り、それは廃止されなければならない」と回答し、ダイクCIE 局長はこの回答をバンスに渡し、この政策を具体化する指令の草案作成を命じた。  
この年12月15日、「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件(59)」、いわゆる神道指令が発せられた。この神道指令の意義と内容、それが日本の宗教界に与えた衝撃、実際の運用状況、さらには日本の社会に残した影響等は実に興味深いものがあるが、今それらに踏み込む紙幅はない。今日、この神道指令がもっとも関心を呼ぶ点は「政教分離」との関係である。神道指令は「本指令ノ目的ハ宗教ヲ国家ヨリ分離スルニアル、マタ宗教ヲ政治目的ニ誤用スルコトヲ防止シ、正確ニ同ジ機会ト保護ヲ与エラレル権利ヲ有スルアラユル宗教、信仰、信条ヲ正確ニ同ジ法的根拠ノ上ニ立タシメルニアル」として、「国家と宗教の分離」を命じたのである。  
バンスが神道指令の草案を作成していくプロセスについては研究が進展しているが(60)。なかでもきわめて興味深い文書が「担当者研究(スタッフ・スタディ)」である。「担当者研究」とは「GHQ が日本政府に対して重要な指令を発するに先だって、当該指令の意図ないし趣旨、発令の理由となる事実、実施すべき政策に関する勧告などについて、担当スタッフが調査・研究した資料(61)」で、神道に関するバンスの担当者研究は3度にわたって作成された。第1次担当者研究でバンスはこう書いている。  
「神道は、日本の軍国主義及び神道の理論家に数えられている協力者によって、日本人の間に軍国主義精神を生み、育むために、また領土拡張戦争を正当化するために利用されてきた。  
それが再びそのように利用される危険がある。かかる可能性を除くために軍国主義及び過激なる国家主義的イデオロギーの弘布は完全に禁止され、神道は学校から排除され、国家から分離されることが命じられている(62)」。  
このような基本認識を示した上で、バンスは「本問題に関係ある要素」として、神道の起源、神道の意義、神道と皇室の関係、近代における国家神道の創出、学校や軍事教育における神道の利用、神道国家主義と抑圧、国家神道と宗派神道の区別、国家神道の発展の足跡、国家神道の神社の区分(社格)、神社の収入等々について、前出のホルトム、チェンバレンのほか、日本学者のW.G.アストン(1841−1911)、姉崎正治(宗教学者、東京帝国大学教授) らの学説から政府の統計数字まで引用して12項目にわたって記述している(63)。  
バンスは神道指令の作成にあたってホルトムらの著作を参考にしたばかりでなく、岸本や神道学者の宮地直一(東京帝国大学教授)、仏教学者の鈴木大拙らからも教示を受け、日本政府関係者や神道界、宗教界の指導者とも会い、各地の神社も訪問している。しかし、神道についての「西欧世界の観察者」のうち、いわばチェンバレンの「系譜」を主要な情報源としたことの意味は決して小さくない。それは「外部」からの知的な「日本理解」を決して軽視してはならないことを示しているのである。 
 
2 靖国神社の存続問題と再出発  
占領期における「靖国神社改革」を検討するにあたって、問題の出発点となった陸軍省等の対応方針と昭和20年11月19−21日の臨時大招魂祭までの経過を一瞥した上で、靖国神社の存廃問題を含む「靖国神社の存在形態」をめぐる問題と合祀をめぐる経過とに分けて述べたい(64)。  
8月30日、陸軍省は「靖国神社ノ合祀ニ関スル件」を作成し、陸海軍の解体を前提として、今次大戦における死没者の合祀の実施、靖国神社の管理と合祀事務の移管についての見解をまとめ、海軍省等の関係機関と協議を進めた。陸軍としては「国家ノ総力ヲ挙ゲ且本土モ戦場トナリタル今次戦争ノ特性ニ鑑ミ(65)」合祀の対象を一般国民の戦災者まで拡大する意向だったが、海軍省や宮内省の同意が得られず、協議を続けた結果、臨時の大招魂祭を実施することとなった。その内容は、とりあえず今次大戦(満州事変、支那事変、大東亜戦争) による、9月2日(降伏文書調印の日) までに死没した軍人・軍属等で、合祀未済の者の霊を一括して招魂祭祀するというもので、個々の祭神については後日調査を実施して判明したものから霊璽簿を本殿に奉安し、遺族に合祀完了を通知する、という方針であった(66)。GHQ は一部に異論もあったがCIE は自由に実施させて観察するため了承を与えた。神社側は岸本東大助教授の助言等もあり、CIE に好い印象を与えるためいろいろと配慮したという(67)。  
11月20日、天皇の御親拝、梅津美治郎祭典委員長、幣原喜重郎首相、下村定陸相、米内光政海相以下の国務大臣、陸海軍・官庁の代表、遺族1千名余の参列のもとに祭典が行われた。  
CIE からは、ダイク局長、バンス、ウォープの3人が岸本の案内で参列している。ダイクらは好い印象を抱いたようで、靖国神社の「第一の、最大の危機を脱した(68)」と岸本は判断している。  
GHQ では、靖国神社そのものの存廃が検討されていた。ブルノー・ビッテル神父(カトリック教会東京大司教区麹町教会、聖イグナチオ教会)の回想(69) によれば、大招魂祭の前の10月中旬、マッカーサー元帥からのメモが届いた。その内容は「司令部の将校たちは靖国神社の焼却を主張している。同神社焼却に、キリスト教会は賛成か、反対か、すみやかに貴使節団の統一見解を提出されたい」というものであった。駐日ローマ法王代表・バチカン公使代理のビッテルは「自然の法に基づいて考えると、いかなる国家も、その国家のために死んだ人びとに対して、敬意をはらう義務と権利があるといえる… (中略) …もし靖国神社を焼き払ったとすれば、その行為は米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残るであろう(70)」という意見を提出した。マッカーサーはのちに「カトリック教会からあんな見解が出されるとは、思いもよらないことだった(71)」と語ったという。  
靖国神社ではGHQ の意向を知るために、11月26日、横井時常権宮司らが岸本助教授、宮地教授を同行して、バンスを訪問した。この時、靖国神社側が携えたのは「廟宮制」である。廟宮とは、慰霊安鎮を目的とする遺族中心の神社を公益法人として経営する案で、バンスの一定の評価を得た靖国側は年末までに「靖国廟宮庁規則」案を作成した。これとは別に、政府側では、祭神を氏子とする一神社として存続する案を考えていたのであり、また、バンスは戦死者の記念碑とする案の存在も示唆している。明けて、昭和21年1月19日、廟宮への移行を考える靖国神社側と、神社としての存続を主張する政府側(第一復員省、終戦連絡中央事務局) との意  
見調整が図られ、神社としての祭祀を行うという実質に変化がないのなら、靖国神社という社号を残すべきだ、という結論になったという(72)。  
昭和21年2月2日、宗教法人令(73) が改正されて靖国神社も「宗教法人令ニ依ル法人ト看做ス」とされた。2月1日、復員省の所管を離れ、4月28日社制改更奉告祭を執行し、9月7日には単立の宗教法人として登記を完了した。  
しかし、これで靖国神社の法的地位が確固としたものになったわけではなかった。11月13日、GHQ は「宗教団体使用中の国有地処分に関する件(74)」と題する指令を発した。社寺境内地は明治4年の上地令によって国有財産に編入されていたが、新憲法改正案に「公の財産は宗教上の組織の利用に供してはならない」との趣旨の規定が盛り込まれた関係で、国と神社・寺院との間の財産上の関係を整理する必要が生じた(75)。この指令は、神社や寺院が現に使用している境内地を一定条件のもとで無償あるいは有償で取得することを可能にするものであった。  
ところが、この指令第3項F号には、土地所有権を宗教団体に移管する規定は「軍国的神社(military shrine) (靖国神社、護国神社、招魂社)には適用されない、との付帯条件がついていたのである。「戦没した兵士の神格化を通して、軍事的理想に栄光を与えるために創建された」軍国的神社は「将来の地位のありようが未決定である」から、というのがその理由であった(76)。  
この付帯条件は神社そのものの存立を左右する問題であり、関係者に非常な危機感を与えた。  
これに関する文部省宗務課や靖国神社との協議の中でバンスは、「靖国神社の問題はまだ結論に達していないが、存立するには二つの方法で考えられないか。一つは神道の宗派的なものから離れて、戦死者の記念堂の如きものとして、誰でも礼拝できる形とする方法である。他は慰霊のみを目的とする神社とすることである(77)」との見解を明かにしている。この問題の調査にあたっていたW.P.ウッダード(78) は「靖国神社―その将来に関する意見」(昭和22年1月6日付け) で、靖国神社の存続は許されるべきであると報告した(79)。CIE はその後も調査を進め、靖国神社のあり方について検討したが、結局、新しい指令を出すには至らず、また、対日平和条約締結後の昭和26年9月12日、境内地に関する第3項F号を取り消したのであった(80)。  
バンスは後年、こう語っている。「靖国神社は戦争で肉親を失くした遺族の方々の気持の安息所だ、というのが当時の私の考えだったと思います。だから、日本国民が靖国神社を残しておきたいなら、当然日本人の生活の中にあってよいのではないかと思ったのです。… (中略) …靖国神社には戦死した普通の兵士がみんな祀られ、軍国主義的な精神の象徴であったかどうかは問題ではなかったから閉鎖までしませんでした(81)」。  
靖国神社の祭神の合祀は、陸海軍大臣官房内に高級副官を委員長とする審査委員会が内規によって個別審査を行った上で、陸海軍大臣から上奏、勅許を得て決定されていた(82)。昭和20年12月1日、第一・第二復員省の設置に伴ない、復員に関連する業務として合祀手続きに関する事務を行うこととなり、同月13日、第一復員省は「靖国神社合祀未済ノ者ニ関スル件」(一復第76号第一復員次官通牒) を都道府県ごとに置かれた地方世話部に発して、未合祀者の調査を開始した。神道指令が発令され、また靖国神社が国家管理を離れたため、この業務の継続の当否が検討されたが、この業務は続けられ、従来の合祀者資格審査基準に依拠して決定された名簿の第1回分が靖国神社に通報されたという(83)。  
こうして昭和21年4月29、30日に、新しい合祀祭神2万6,887名の霊璽奉安祭と例大祭、合祀祭が執行されたが、GHQ の意向により勅使参向の儀は取り止めとなり、勅使参向は占領中一切認められなかった(84)。  
CIE 側はこのころから靖国神社・護国神社の本格的な調査を開始し、合祀に対して厳しい制限を加えてきた。この結果、秋の合祀祭は中止となり、今後の追加合祀と遺族への合祀通知も禁止された。外部に一切公表せず、神社限りで本殿に別座を設け、大招魂祭で招魂した祭神を奉祭することのみが許可された。従来の合祀祭が不可能になったことから、靖国神社では、昭和22年から霊璽奉安祭のみを神社限りの祭典として執行することとし、占領期には5回行われた。国側の調査と通知業務は継続されたがCIE 宗教課は黙認していたという(85)。 
 
V 戦没者の合祀と「国家護持問題」 

 

1 戦後の合祀  
昭和26 (1951) 年10月18日、靖国神社は戦後初の例大祭を挙行し、吉田茂首相が参拝した。  
9月8日に対日講和条約、日米安全保障条約を調印して帰国後、第12回国会(臨時) (昭和26年10月10日−11月3日) の開会直後の時期であった。首相の参拝は戦前においては常例ではなかったようであるが(86)、これ以後慣例化していく。  
独立回復後の靖国神社にとって最大の課題は、さきの大戦による戦没者の合祀という、当時にあっては困難を極めた事業であった。  
靖国神社の合祀問題が国会で審議されたのは、昭和26年11月2日衆議院外務委員会が最初のようである(87)。戦没者を至急合祀すべきであるという立場から以後たびたびこの趣旨の質疑が行われ(88)、昭和30年5月16日の衆議院予算委員会では重光葵副総理が、政教分離の関係で直接政府が予算を出すわけにはいかないが、厚生省等の管轄の中でできるだけの手段を講じる努力をする旨答弁し、川崎秀二厚生大臣も靖国神社からの祭神資格決定のための経歴等の問合せについて積極的に協力していきたいと発言している(89)。川崎厚生大臣は参議院予算委員会でも同様の趣旨で「何らか靖国神社の合祀と結びつけてこれを行うというようなことで、相当に便宜的な方法もあるのではないか(90)」具体的に研究すると答弁した。このような経緯もあり、昭和31年4月19日、厚生省は「靖国神社合祀事務に対する協力について」という引揚援護局長通牒を発し、概ね3年間で戦没者の大部分の合祀が完了するよう都道府県等に通知したのである(91)。  
この間の昭和30年7月23日、第22回国会の衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会において、「靖国神社における英霊合祀に関する問題について」参考人からの事情聴取が行われた(92)。参考人として出席したのは、池田良八(靖国神社権宮司) 、館哲二(靖国神社奉賛会理事長) ほか神社側から計4名である。  
池田参考人によれば、終戦前の合祀は、陸海軍による祭神の決定、霊璽簿の調製、遺族への通知等の後、招魂式を行い「お招き申し上げましたおみたまを直ちに御本殿にお移し申し上げまして、御本殿の御正座にお祭り申したのです」。  
戦後、未祭祀の戦没者の合祀の方法について、陸海軍、宮内省、内務省等との協議の結果、「従来のように一々お名前を霊璽簿に謹写してお祭り申し上げるということは当時の事情でできないのでありまして、それで、結局おみたまだけをお迎え申し上げまして、御本殿にお移しする。お移しするには、御正座に沿いまして、われわれの言葉で言う相殿にお祭りを申したのであります。そして、逐次資料が集まりました方々からお名前を謹戴いたしまして御正座にお祭りを申し上げるという話し合いになっておったのであります(93)」。昭和20年11月19日の大招魂祭はこの方式で行われ、その後、逐次調査が済んだ分について毎年時期を決めて御正座に移すことになったという。要するに「みたまはお招き申し上げましたけれども、その霊璽をお祭りできない方々がまだたくさんおありになるという現状(94)」で、約76万柱は合祀が済んだが、まだ推定百二、三十万の合祀が済んでいないという状況であった。  
池田参考人が委員会に提出した「経過及び事業計画の内容」の中の「靖国神社合祀祭神関係参拝遺族接遇社頭整備復興経費概算書」の内訳には、「合祀祭神関係費」として2億1千526万円が計上されている(95)。その項目は、遺族への通知状、霊璽簿(96) の調製、霊璽簿格納のための神庫の造営、事務用の祭神簿、陛下のお手元に差し上げる上奏簿、祭神名票(調査用のカード) 、索引、参拝券、参列者の接待等の祭典、等に要する経費である。これは198万柱に対する経費で、このほか20万柱が将来判明するかも知れない分の予備費として計上されている。  
さきに述べたように、靖国神社の戦後における合祀問題を検討する際の出発点となるのは、昭和20年11月の臨時大招魂祭における合祀の対象と祭祀の方式である。まず、合祀の対象であるが、陸軍省・海軍省告示(97) によれば、「大東亜戦争、満洲事変、支那事変に関し、戦死・戦傷死し、又は戦地・事変地等における傷痍疾病等に基因し、昭和20年9月2日までに死没した軍人・軍属等であって、靖国神社に合祀未済の者」であった。ここで、9月2日というのはミズーリ号艦上で降伏文書が調印された日である。  
合祀の場合、祭神となるべき者の柱数、氏名が必要であるが、それらを直ちに確定することが不可能だということで、まず、靖国神社の招魂殿に招魂祭祀し、個々の祭神名は、今後慎重調査の上、例大祭に際し逐次本殿に合祀する、ということになった(98)。軍部側では氏名等が不明でも直ちに本殿合祀をしたいという意向であったが、神社側は「余にも新しき忠霊をも含むが故に、直ちに旧祭神の側に合祀は如何?」と主張し「遂に招魂殿奉斎に至」ったのである(99)。  
11月19、20、21日の祭祀では、招魂に関する一連の式が行われたあと、招魂された祭神は招魂殿(招魂斎庭の仮殿) に奉斎された。翌年、昭和21年4月、氏名の確定した祭神を春の例祭で合祀したが、10月の合祀はGHQ の意向により中止され、やむなく神社側は「招魂殿遷座祭」を行うこととした。これは、招魂殿の祭神は将来当然合祀されるべき資格があるが、死没年月日、氏名が未決定のものを旧祭神と同列にできないので、ひとまず本殿の隣の「左側の相殿」に移すこととしたのである。調査の結果氏名等が確定したものから霊璽簿に記入し、本殿正床に移す「霊璽奉安祭」を行って合祀を完了することとし、昭和22年4月(第68回合祀) から実施された。  
では、昭和20年9月3日以降についてはどうするかが神社としての課題であった。昭和31年10月の「霊璽奉安祭についての覚書」(100)、昭和33年3月31日の「相殿遷座祭執行の件」(101) 及び「臨時招魂祭霊璽奉安祭等一覧」(102) によれば、次の区分によって臨時招魂祭等が行われた。  
第1回昭和24年6月4日  
昭和20年9月3日〜23年5月31日に死没した者  
第2回昭和25年6月4日  
昭和23年6月1日〜24年5月31日  
第3回昭和26年6月4日  
昭和24年6月1日〜25年5月31日  
第4回昭和27年6年4日  
昭和25年6月1日〜26年5月31日  
第5回昭和33年10年9日  
昭和26年6月1日〜32年9月30日  
「霊璽奉安祭についての覚書」は、これらの祭神は、「時間的相違はあるが、昭和20年11月の臨時大招魂祭の延長であり、祭神の資格も従来の合祀資格内規の規定に基づくものとして将来靖国神社正床に合祀されるべき命等と云ふことが出来る(103)」としている。しかし、「陛下の行幸なく、従って正床の祭神とは勿論、昭和21年10月遷座の左側相殿の祭神とも神格が相違する」等の理由で、「右側の相殿」に祭られた。  
その後、2回の天皇の行幸親拝も行われた結果、この右側の祭神も左側と同格となったとして、昭和33年3月に左側相殿に移されている(104)。  
ここで詳細に書いたのは、対象期間がなぜ昭和32年までという長期間になったのか、また、後に問題となる東京裁判のいわゆる「A級戦犯」が死刑を執行されたのは、昭和23年12月23日のことであり、従って上記の第2回で招魂された祭神(有資格者) に既に観念としては入っていたのかという疑問のためである。いずれにしても、合祀対象については、占領期とその後における合祀の経緯を全体として考える必要があるのではなかろうか。 
 
2 靖国神社のあり方をめぐる論議  
さて、衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会は、昭和31年2月14日、「靖国神社における英霊合祀に関する問題について」第2回目の参考人からの意見聴取を行った。今回の参考人は、金森徳次郎(国立国会図書館長、新憲法制定時の担当国務大臣) と大石義雄(京都大学教授、憲法学) であった(105)。参考人が意見を求められたのは、「現在のままの靖国神社に対して、国家補助をすることが、憲法に抵触するか否か」、「靖国神社を宗教法人にしておくことが間違いであって、特別法を制定して特別法人とし、これに国家的財政補助をなすべきであるとする説」の2点であった。この委員会における金森・大石発言は、のちに再三参照されるように、靖国神社のあり方をめぐる論議の原点をなすもので、「日本国憲法下の政教分離問題」のプロトタイプといえるものである。  
金森参考人は、靖国神社への英霊合祀が遅れていることは国家として悲しむべきことであると前置きしながらも、政治と宗教は「土俵を別々にして」、「政教分離ということを徹底的にするというのが、憲法の精神であろう」と述べ、靖国神社は「たとい十年間といえども、はっきり宗教としてみずから認めてきたところを見ると宗教施設ではないとは断言できない(106)」とする。靖国神社には、「宗教的なものと切り離すことができない面」と「宗教を除いた意味の国民の精神的な問題が含まれて」おり、「実際はこれがくっついて発達して」きたので「ここのところを割り切るには、相当骨が折れる」と見る。特別立法については、「一つの法律を出して、これは宗教ではないと宣言をいたしましても、それが実質において宗教であれば、憲法にひっかかってくる」。国として考えるなら「宗教的色彩のないもの」を設備の本体として作り、「その回りを取り囲んで礼拝等の気持ちを満たすことは、それは国民各自の自由である(107)」というような施設が望ましい、とする。金森参考人は、バートランド・ラッセルの日本批判(108)、あるいは明治維新以来の招魂社、靖国神社、宗教制度、神社制度調査会の議論などを引き、戦前の神道に対する反感が国民の一部にあることを認めなければならない、としながら、また、靖国という言葉はいわれもあり意味も深い言葉なので、「靖国記念堂」といった国民の得心する名称があれば「四方八方、都合よくなる」と述べている。  
大石参考人は、国家・神社・宗教とはなにかを理解することなしにはこの問題を解決できない、靖国神社が宗教的施設であるかどうかが本質的な問題である、とする。国家を国家たらしめる精神的基礎は国体であり、わが国の神社は国体と密接な関係を有している。国民は何人も自己の所属している共同社会としての象徴天皇を崇敬すべきで、これは国民の道徳的義務である。靖国神社は天皇または天皇を助けて国家に特別の功労のあった人々、あるいは国難に準じた人々を祭神としているのであるから、「いやしくも日本国民ならば、それが仏教徒だろうとキリスト教徒だろうとその他の宗教徒だろうと、国民としての立場においては、ひとしくこれらの祭神に対しては崇敬の念をささぐべきは、日本国民の最小限度の道徳的義務であります(109)」と述べている。神社と国家の関係を切り離した「神道指令」を日本国憲法の解釈の根拠とするのは間違いであり、憲法は神社を宗教的施設として規定していない。立法論としては、特別法を制定して宗教法人法の対象から靖国神社を除外するしかない、と主張した。「歴史というものは、結局われわれの祖先の生活の積み重ね」であり、その歴史の中の重大な誤りは反省して、将来再び繰り返さないように警戒しなければならないが、「私どもは敗戦下の今日において、静かに日本の歴史というものを振り返って、われわれの祖先の築き上げたもので、とっておくべきものの大事なものはあくまでも残しておかなければならない(110)」と結ぶのである。  
二人の参考人の見解は、みかけほど隔たりがあるものではない。憲法解釈は別としても、靖国神社の日本にとっての国家的・国民的意味の重要性の認識においても、特別の立法でなければ靖国神社の国家管理は困難であるという点においても共通していた。論点のひとつは靖国神社の「国家性」と「宗教性」という二重の性格のどちらを重く見るかであった。もうひとつの論点は、大石が戦後の国民意識に対して戦前期の「近代日本」に存在した歴史的・道徳的な規範意識を求めたのに対して、金森は「近代日本」から戦後への変化を重視した点にある。そして今日の眼からして重要なことは、金森が、靖国神社の国家管理立法が企てられる場合には、キリスト教の人など国民の一部に批判的な反応を引き起こすかも知れないことを指摘したことである。たとえ法律で靖国神社を宗教的施設ではないと割り切ろうとしても、その施設や祭祀という「外見」が宗教的であれば、立法化は容易ではないというのが金森の見通しであった。  
では、靖国神社の「宗教性」少なくともその「祭祀の伝統」を靖国神社自身はどう考えていたのであろうか。戦没者の英霊合祀のところで見たように、靖国神社はその由緒と伝統に基づく戦没者の祭神化に努力を傾けていたし、当時は、宗教法人という「ワク」についてもこれを否定するほどではなかった(111)。いずれにしても、靖国神社は、戦前からの伝統の継承と戦後日本の新しい変化への適応という、二重の課題に直面していたといえるのではなかろうか。  
さて、もうひとつの重要な論点である憲法の信教の自由と政教分離規定についての、基本的論点の出発点となった内閣憲法調査会の議論を一瞥しておこう。  
憲法調査会における信教の自由、政教分離等の「国家と宗教の関係」に関する問題は、総会のほか、主として、国民の権利及び義務・司法を担当した「憲法運用の実際についての第一委員会」で憲法第20条の「信教の自由」が、また、国会・内閣・財政・地方自治を担当した「憲法運用の実際についての第二委員会」で第89条の「公の財産の支出または使用の制限」が議論されている。  
第20条に関する第一委員会の報告書(112) は、昭和21年2月26日の臨時閣議に配付された「マツカーサー司令部草案」等の各段階の憲法改正案の条文を掲げ、「1 本条の由来」(旧憲法下の信教の自由、神道指令)、「2 宗教の概念、宗教と神道」、「3 信教の自由」、「4 政教分離」(国教、国およびその機関による宗教教育・宗教活動、国およびその機関の宗教上の行為、宗教団体に対する財政的援助) という項目に整理して議事内容の要旨が報告されている(113)。また、第89条に関する第二委員会の報告書(114) では、「1 宗教的組織・団体への支出、供用の禁止」、「2公の支配に属しない慈善・教育・博愛事業への支出、供用の禁止」が報告されている。  
靖国神社の問題を含む議論は、第38回総会議事録(昭和34年12月2日) と第3委員会第14回会議議事録(昭和35年3月9日) が中心である。第38回総会では、岸本英夫東京大学教授が新憲法の宗教政策、信教の自由と政教分離について見解を述べている。特に重要なのは第3委員会第14回会議であり、岸本英夫・東京大学教授(115)(神道指令(116))、前田多門・元文部大臣(宗教団体法の廃止)、福田繁・元文部省宗務課長(靖国神社等の境内地、神道指令と憲法第20条、第89条との関係)、飯沼一省・元神祇院副総裁(戦前の神社制度、宗教政策、「国家の祭祀」、皇室の祭祀)、大金益次郎・元宮内次官(皇室祭祀令、伊勢神宮)、高尾亮一・宮内庁皇室経済主管(宮中祭祀、伊勢神宮、式年造営) が、それぞれ参考人として意見を述べている。  
今、これらを紹介する紙幅はないが、神道指令を中心としたGHQ の宗教政策、日本側の対応、戦前期の「国家神道」の実態等を踏まえ、「国家と宗教」、政教分離についての基本的論点はほぼ出揃っている感がある。今日に至る靖国神社をめぐる論点としては、第一に、神道指令と新憲法の関係について「神道指令の精神なり、内容なりが、まったくそのまま新憲法第20条あるいは第89条に移行したと考えることができる(117)」との意見が多かったこと、そして、新憲法の運用という観点からは、靖国神社のみならず、伊勢神宮、皇室祭祀、天皇と神道の関係、宗教と学校教育との関係など、幅広い視点から議論されていることなどが注目される。また、靖国神社のあり方については、岸本がかなり詳細な議論を展開している。岸本は宗教の定義として「人間の問題の究極的な解決を目指す営みを中心とした文化現象(118)」と規定し、その定義からすると、「神道は神々を祀ることに重きを置き」、「人間の問題は余り立入らない傾向がある」特別な性格を持った宗教であるとする。  
その意味では、靖国神社は宗教現象としては「周辺的」と思えるが、しかし、「理論的には、その祀り方が、一つの特定の宗教の形をとっているところに難点がある。それがなかなか遺族にはわからない。それでは、反憲法になるおそれがあるのであります(119)」と述べている。  
ここで言及されていることは、靖国神社は宗教の定義からすると他の宗教や伊勢神宮と比較して宗教性が薄いとは言えるが、その祭祀の形式が神道形式をとっていることが憲法に抵触する恐れがある、という点である。この論点はのちの靖国神社法案、さらには首相の「公式参拝」をめぐって展開されることになる最大の論点とも言える問題であった。なお、この時点では、信教の自由に関する憲法改正案が若干提出されたようである(120)。  
次に取り上げるのは、日本遺族会の『靖国神社国家護持に関する調査会報告書』および『靖国神社国家護持に関する調査会報告書附属文書』(以下『附属文書』とする。) である。昭和27年、日本遺族会の前身である日本遺族厚生連盟第4回全国戦没者遺族大会において、靖国神社の慰霊行事は国費をもって支弁するよう決議し政府・国会に要望した。昭和31年には靖国神社の国家護持を決議し、以来、政府・国会・政党等関係各方面への働き掛け、全国的な署名運動、地方議会決議等々、靖国神社国家護持運動を長期にわたり国民的規模で展開し、昭和38年には、「靖国神社国家護持要綱」を作成した。その骨子は、宗教法人靖国神社を解散し、その財産を継承する特別の法人を設立するための立法、靖国神社の名称の存続と目的の限定、憲法の信教の自由等の規定に抵触しない規定を設ける、施設・儀式・行事等の歴史の尊重と本態の維持保全等であった(121)。  
昭和39年8月、日本遺族会は会長の諮問機関として「靖国神社国家護持に関する調査会」を設置し、広く各界の学識経験者の意見を聴取するなど調査研究を行った。意見を聴取した学識経験者は、高柳賢三(憲法調査会長(122))、入江俊郎(最高裁判事)、小林直樹(東大教授・憲法)、堀豊彦(早稲田大学教授・政治学)、天野貞祐(元  
文部大臣)、佐藤達夫(人事院総裁)、松本徳明(文学博士・仏教)、葦津珍彦(元神社新報主幹・神道)、佐藤功(成蹊大学教授・憲法)、大石義雄(京都大学教授・憲法)、林修三(前法制局長官)、林房雄(文筆家) など22名(123) に及ぶ。また、問題点としての質問項目は「靖国神社は宗教か」、「宗教の定義について」、「現憲法のままで、現在の姿のまま、靖国神社を国家が護持することができるか」、「神社という名称はそのままでよいか」、「鳥居、社殿、賽銭箱、お札等はそのままでよいか」、「祭式について」という6項目に及ぶ詳細なものである。各氏の意見は様々では  
あるが、意見分布にひとつ大きな特徴がある。  
それは、法制局関係者、憲法学者など法律専門家の多くが靖国神社の性格、祭祀の方法、設備等に宗教性を認め、濃淡はあるが、憲法との関係上疑問を呈していることである。この調査会が作成した「靖国神社法要綱案」では、この点も考慮してであろうか、「靖国神社の業務である感謝奉仕の要綱は、日本民族の伝統の礼式を重んじて、国が別にこれを定める(124)」とし、神職の名称・服装、お賽銭箱等についても弾力的に考えることとしている。  
昭和40年から49年までの約10年間は、靖国神社法案(125) をめぐる問題は熾烈な政治過程となった。このプロセスについては多くの文献資料があるのでここでは省略するが、自民党、日本遺族会、靖国神社等の強力な推進運動にも拘わらず、靖国神社法案が陽の目をみなかったのは、政治的には野党、宗教界等の反対運動が激しく展開されたためであろうが、「国家と宗教」をめぐる上記の論点との関係では、衆議院法制局の見解の存在が大きかったと言われる。昭和49 (1974) 年5月作成の「靖国神社法案の合憲性」(126) と題する文書は、問題の核心を神社の祭祀の性格について「神社祭祀がいわば宗教の周辺部分に属するものであり、宗教性の希薄な、単なる習俗ないし儀礼と境を接するものであることを、特に指摘しておかなければならない」が、「ここで肝要なことは、神社祭祀の持つ宗教性を、その希薄さの故に軽視して、何等の変更なしにこれを国家の体内に包摂することが可能であるとする立論も、神社祭祀の持つ宗教性を一律画一的に概念化してその濃薄の度に着目せず、その持つ習俗ないし儀礼としての側面を黙殺する立論も、ともに排除されるべきである(127)」とした。具体的には、祝詞の奏上・文言の変更、降神・昇神の儀の中止、修祓いの儀の別形式化、御神楽の変更、拝礼形式(二拝二拍手一拝) の自由化、神職名の変更などが必要であり、これは「殉国者の英霊に対する尊崇の儀式が、公的参加者の信教の如何を問わず何等の心情的抵抗を感ずることなく参列しうるように(128)」という考え方によるものであった。  
靖国神社法案が成立しなかった大きな理由のひとつは、佐藤栄作首相(当時) がこの問題を「国民的な課題」として、各党の合意による取扱いを希望したためもあろう。佐藤首相は再三この考えを国会で表明している(129)。靖国神社法案は、昭和49年に衆議院内閣委員会及び本会議で自民党による単独採決により可決されたが、その後廃案となり、結局国会では会議録に残るような論戦がなされなかった。 
 
W 「公式参拝」と「政教分離」 

 

1 「靖国懇談会」  
昭和50 (1975) 年、三木武夫首相は8月15日に靖国神社を参拝し、それが私人としての参拝である点を強調した。この参拝はその後の経過から見ると、三つの点で重要な意味を持ち、「論点」を形成していくことになったと言える。  
第一は、参拝が「公式」なものか、「私的」なものか、という論点を創出することになったことである。しかも、私的参拝であることの基準として、公用車の不使用、玉串料を国庫から支出しない、記帳に肩書きを付さない、公職者を  
随行させない、という4条件を挙げたため、このような「外形的基準」自体が問題となった(130)。以後、歴代の首相の参拝のたびごとに公私の区別とその基準が問われ、政府は統一した見解(131) を出さざるをえなくなった。第二は、8月15日という終戦の日を選んだことで、戦争の評価ひいては「歴史認識」の問題を導き出すひとつの要因となったことである。第三は、なによりも重要なこととしては、参拝自体が首相の政治的姿勢の象徴とみなす傾向が生れたことである。このことを劇的な形で示したのが、昭和60年の中曽根首相の公式参拝である。  
ここでは、「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会(132) 報告書」(133) (以下、「靖国懇報告書」とする。) を中心に、靖国神社に関する認識がどのようなものであったかを見ておきたい。「靖国懇報告書」は公式参拝に関して「配慮すべき事項」として、参拝の方式、合祀対象、国家神道・軍国主義復活、信教の自由、政治的対立・国際的反応という6点の問題を挙げている。靖国神社とはなにか、という視点からは次の点が注目される。  
ひとつは靖国神社の合祀対象について、「明治維新前後においていわゆる賊軍と称せられた人々が祀られていないことや、極東軍事裁判においていわゆるA級戦犯とされた人々が合祀されていることなどに問題があるとの意見があった。しかし、合祀者の決定は、現在、靖国神社の自由になし得るところ(134)」である、としながらも「これらの点は依然問題として残るものであることに留意すべきであろう(135)」と指摘していることである。  
もうひとつは、「靖国神社がたとえ戦前の一時期にせよ、軍国主義の立場から利用されていたことは事実であるし、また、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、時としてそれに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられたことも事実であるので、政府は、公式参拝の実施に際して、いささかもそのような不安を招くことのないよう、将来にわたって十分配慮すべきであることは当然である(136)」との指摘である。  
なお、これに関連して公式参拝自体への異論として、「靖国神社がかつて国家神道の一つの象徴的存在であり、戦争を推進する精神的支柱としての役割を果たしたことは否定できないために、多くの宗教団体をはじめとして、公式参拝に疑念を寄せる世論の声も相当あり、公式参拝が政治的・社会的な対立ないし混乱を引き起こす可能性は少なくない(137)」との意見も付記されている。ここで留意あるいは配慮されるべきとされているのは、靖国神社自体の祭祀対象あるいは来歴とされているものである。靖国懇談会の各委員の論考中には、靖国神社の歴史的役割とその基本的性格に関する意見が見られる。  
それぞれの立場や意見の相違は別として、ここで問題とされていることは、靖国神社に近代日本が刻印したものがなんであり、それが現在及び将来にどのような意味を持っているのかという問いであろう。 
 
2 靖国神社の歴史叙述  
さて、戦前戦後を通観した上で、靖国神社の歴史的役割やその基本的役割を議論する場合、欠かせないのは靖国神社の歴史である。あるいは靖国神社に関する「歴史的認識」といってもよいかも知れない。この点について、若干具体的な資料によって靖国神社の歴史叙述をめぐる問題状況を概観してみたい。  
靖国神社問題を本格的に取扱った図書としては、昭和45 (1970) 年に刊行された村上重良氏の『国家神道』及び昭和49 (1974) 年刊行の同氏の『慰霊と招魂―靖国の思想―』(いずれも岩波新書) がある。前者は「日本軍国主義の復活に対応する靖国神社の国営化が、すでに現実の問題になってきた。天皇崇拝と軍国主義を結合した、国家神道のこの巨大な支柱の再構築は、国家神道の事実上の復活を意味する(138)」という状況が民主主義の危機であるとの認識に立って書かれたものであり、後者は「靖国神社、護国神社を、近代天皇制国家の全構造のなかで位置づけ、靖国の思想の本質と役割を究明する(139)」ことにより「靖国神社国営化反対のたたかいの一助ともなること」を意図した著作である。昭和59 (1984) 年には、大江志乃夫氏の『靖国神社』(岩波新書) が刊行されたが、これは「岩手と箕面の二つの訴訟で裁判所に提出した「意見書」をもとにして、法廷での証言内容をもくわえ、全面的に書き改めたもの(140)」である。いずれも立場と目的を明確にした上で宗教学あるいは歴史学の学問研究の成果を一般向けに提示した点で、先駆的なものと言えよう。昭和61(1986) 年には、江藤淳・小堀桂一郎『靖国論集―日本の鎮魂の伝統のために―』(141) が刊行された。これは編者のひとり江藤淳氏が「靖国  
懇談会」終了後「歴史的・文化的に、また同時に法的・政治的に、この問題の由来するところに対する深い洞察と正確な事実の認識に支えられる必要がある」との認識に立って編集した13氏の論集である。  
靖国神社自身の編集刊行による資料としては、『靖国神社百年史資料篇』がある。これは昭和58 (1983) 年から59年にかけて、上・中・下の3冊が刊行された。また、昭和62 (1987) 年には『靖国神社百年史事歴年表』が刊行された。  
このうち『資料篇』は東京招魂社以来の靖国神社所蔵の文書資料等を17の部門に分類整理したもので、また『事歴年表』は弘化3(1846) 年から昭和60 (1985) 年までの約140年間をカバーしている。しかし、当初予定されていた『総説』1巻は結局刊行されなかった(142)。  
この『資料篇』を使って書かれた図書としては、平成10 (1998) 年刊行の小堀桂一郎氏の『靖国神社と日本人』がある。同書は「文学・歌謡に現れた靖国神社」に大きな関心が払われている。昨年(平成17年) 刊行された、赤澤史朗氏の『靖国神社―せめぎあう<戦没者追悼>のゆくえ』(143) は『資料篇』に所収された資料、靖国神社社務所発行の『靖国』を丹念に分析している。東京招魂社の第1回合祀の祭典で、相撲や花火が余興として奉納されたことは前に述べたが、靖国神社は、明治の東京のハイカラな新名所であり祝祭空間でもあったことを、坪内祐三氏は『靖国』(144) で活写している。坪内氏の視点は靖国神社の国民的受容とそのイメージを知る上で参考となろう。  
このように、靖国神社の歴史叙述の状況としては、基本的な資料の刊行がやっと20年前のことで、それも未完である。また、占領期の宗教政策や「国家神道」についての研究の進展に伴なって靖国神社に関する実証的な共通の知的基盤が形成される状況となってきたとも言える。  
いわゆる「A級戦犯」の合祀の問題も、先に述べたように占領期から講和条約後の歴史的制約条件と戦没者合祀全体のプロセス全体を踏まえた上で検討する必要もあるのではなかろうか。 
 
3 司法の場  
靖国神社問題の局面を大きく分けるとすれば、靖国神社法案は主として「立法」に関わる問題であり、首相をはじめとする閣僚の参拝は内閣ないし「行政」の問題であった。この首相の靖国神社参拝に関わる訴訟が提起されることによって、靖国神社の問題は「司法」判断の対象ともなった。  
直接靖国神社の参拝を対象としたものではないが、憲法が規定する信教の自由と政教分離に関わるものであることから、靖国参拝に大きく影響した裁判として津地鎮祭訴訟がある。この訴訟は、市が挙行した神社神道式の市体育館起工式(地鎮祭) が憲法第20条第3項の規定に違反するかどうかをめぐって争われた訴訟で、憲  
法の政教分離規定が初めて正面から司法の場で判断されたこと、最高裁判決において国家と宗教の関係について「目的・効果基準」が示されたこと等により、その後の訴訟に大きな影響を与えるものとなった(145)。  
本稿の「靖国神社とはなにか」という問題意識からすると、憲法解釈との関係で戦前の「国家神道」と占領期の神道指令の歴史的評価が司法判断のうちに含まれていることが注目される。  
すなわち、名古屋高裁の控訴審において、原告側はその「控訴代理人陳述」において、神道の特質、戦前戦中の国家神道による人権侵害、戦後の神社神道の国家神道化の動向等という項目のもとに詳細に論じるとともに、靖国神社国家護持の動きについて厳しく批判している。判決では、神社神道の特質について宗教学・国法学の観点から論じるとともに、戦前、戦中における国家権力との結合がもたらした種々の弊害について指摘し、占領期のGHQ による神道指令が徹底的な政教分離と信教自由への保障の道を開いたこと、憲法第20条第3項の政教分離の規定により、国家神道による思想的支配を完全に払拭し、信教の自由を確立・保障することになった、としている(146)。  
首相の参拝をめぐる訴訟では、昭和60年の中曽根康弘首相の公式参拝をめぐって九州・大阪・播磨の3件が提起された(147)。公式参拝は憲法第20条第3項等に違反するとした原告側の訴えは、いずれも敗訴に終わったが、このうち大阪高裁は公式参拝が第20条第3項の宗教活動に該当する疑いが強く、また、公費から3万円を支出したことは第20条第3項、第89条に違反する疑いがある、との判断を示したことが注目された。  
小泉首相の平成13年8月からの一連の参拝に対しては、大阪(第1次)・松山(第1次)・福岡・大阪(第2次)・千葉・那覇・東京・大阪(第1次)・松山(第2次) の6地方裁判所、8件の訴訟が提起された(148)。このうち、大阪(第1次)  
訴訟については、一審の大阪地裁、二審の大阪高裁で原告敗訴となり、最高裁に上告されていたが、平成18年6月23日、最高裁判所は、憲法判断や参拝が公的か私的かの判断は示さず、首相の参拝により原告の法律上の権利や利益が侵害されたとは認められない、として原告側の上告を棄却した(149)。  
一連の訴訟における原告側の靖国神社に関する認識を示すものとして、この大阪(第1次)訴訟での原告側の主張を見てみよう。原告側は、「靖国神社は、軍国主義日本の象徴であり、植民地人民も含めて『帝国臣民』を戦争に向けて統合する精神的装置として、まさに『軍事施設』であった(150)」とする。そして、戦後、靖国神社は「国家とのつながりはなくなったが、戦没者を『英霊』として慰霊・顕彰することにより戦死を他の死(例えば空襲による戦災死) と峻別し、戦死を尊いものとして褒めたたえるその教義や宗教施設としての本質は戦前のそれと何ら変わっていない(151)」とし、「靖国神社には、わが国の戦争、とりわけわが国のみならず中国、朝鮮半島をはじめアジア諸国に惨禍をもたらした侵略戦争に対する反省の態度は微塵もみられない(152)」と主張している。さらに、小泉首相の参拝は「靖国神社に合祀されたA級戦犯に『敬意』を表したことに帰結する(153)」とし、在韓遺族原告らの親族は、「『日本の国家のために戦死した者』を祀ることを趣旨として存続している靖国神社において、肉親戦没者が加害者である戦犯と同列に英霊として合祀されていることに対し、筆舌に尽くし難い精神的苦痛を感じている(154)」とも述べている。ここで示されているのは、靖国神社とはなにか、という問いについての原告側の認識の一端であろう。このような見解の当否には立ち入らないが、ここでの問題のひとつは、靖国神社の祭神をどう把えるかという「視点」である。  
ホルトムは『日本と天皇と神道』で、政治学者吉野作造の「神社崇拝の道徳的意義」(155) という一文に言及している(156)。吉野は、友人のひとりが子供に質問されて答えに悩んだことを例に挙げたのだが、その質問というのはどんな悪い人間でも国のために戦死すればいちばん立派な人にも拝んでもらえる神になれるのか、というものであった。その父親は子供の心に納得のゆくようにこの問題を残りなく説明することは非常に困難なことを知った。吉野は、戦死者を靖国神社に祀ることは道徳的な混乱が起こる可能性がある、と指摘しているのである。昭和13年、『帝国新報』は、吉野の論は、国体に侮辱を加え、戦没将士の英霊とこの英霊が生命を抛った神聖な目的を冒涜するものだとして非難した、とホルトムは書いている。ホルトムの問題意識は「靖国神社に祀られる戦没者数が、著しく増加するにつれて、頓に重大となった問題は、これらの戦没者を祭神と呼ぶことが正しいかどうか」、「国家神道一般の神々の性格についてどんな考えが抱かれているか」という点にあった(157)。  
靖国神社の祭神の対象と範囲については、先述(W章の1) したように「靖国懇談会報告書」でも議論されていた。こうした議論をあえて単純化してひと括りにすれば、「神々の持つ象徴性」とそれが見る者に引き起こす「感情」の問題であるようにも考えられる。いずれにせよ、宗教法人の活動内容とは何か、どういう立場からどのような議論が成立するのか、またそうした議論の根拠と条件は何か等々、多面的な視点からの議論が必要な事柄であるように思われる。 
 
むすびにかえて 

 

以上靖国神社とはなにか、という問題設定のもとに資料研究の視座から序論的考察を試みた。 この小稿を閉じるにあたり、多少のまとめをしておきたい。  
靖国神社は、その淵源から通算するならば、140年余の歴史を持っている。「日本の神々」の古代からの歴史に鑑みれば非常に新しいものとも言えるが、現代における政治的、宗教論的射程から見れば、決して短くはない期間にわたる存在である。そして、チェンバレンが言うように明治国家が創造した「新宗教」の一構成部分という見方も可能なのかも知れない。またハーンが論じたように、江戸期の国学と復古神道、あるいは日本人の伝統的な生活態度との関係からの視点も除外することはできないであろう。  
ホルトム的な神道認識を基礎とした米国の占領政策における国家神道観やバンスによる靖国神社の改革の評価、さらには、占領期から独立回復後の新憲法体制のもとにおける日本社会の激動の中で、靖国神社自体がその存在をかけた合祀プロセスについてなど、いっそう多面的かつ実証的な検討・評価が必要であろう。同時に筆者の現時点での感想としては、靖国神社の歴史叙述に関する基本的な資料整備はいまだ必ずしも十分ではなく、未研究の領域も少なくないように思われる。  
明治44 (1911) 年3月、横浜海岸いぎりす波止場からチェンバレンは船上の人となった。見送った弟子のひとり、佐々木信綱はこう書いている。  
「鶴のようにやせて背の高い、日本のかぞえ年六十二としてはふけて見える先生は、遠く雲の上にうかぶ富士の雪を仰ぎ、近く波の上に舞う􀀀をながめつつ、いつものおだやかな調子の日本語で、『うつくしい国です。このうつくしい国にも、永久にお別です』と、しづかに独言のように云うて、すぐ側にいた自分に。めづらしく手をさしのべられました(158)」。  
明治6年に来朝してから前後39年に及ぶチェンバレンの日本滞在に終止符を打たせるきっかけになったひとつは、明治43年の日本による韓国併合であった。韓国併合を知ったチェンバレンは若い弟子のひとりにこう書き送っている。  
「朝鮮の人々は日本人のことを聖水を憎む悪魔として憎悪していたのです。つぎは満洲の番でしょう。また、中国人は日本をいみ嫌っており危険な敵ですが、その彼らがさらに激昂してくるでしょう。かたや、こうした外国への冒険に金と人とが動員されるので国内改革は延期されるか放棄されてしまうのです。そして、現政体の前半期に行われた知性的かつ社会的目標の追求にかわって、国民的精神なるものが俗悪な政治的野望と軍事的侵略へと水路を変えているのです(159)」。  
スイスに永住の地を定めたチェンバレンがこの年に書いたのが、先に触れた『新宗教の発明』である。par ハーンもチェンバレンも、そしてホルトムも、「日本」を肯定するにせよ批判するにせよ、彼らのそうした評価の基底には、日本に対する深い愛情と学究的探究心があった。チェンバレンの日本批判が西欧世界で影響力を持ったのも、彼の学識が日本を愛する心に起因していたからではあるまいか。これを可能にしたのは、ほかならぬ当時彼に接していた日本人達であり、彼を深く敬愛した弟子達であった。西欧の「日本学」は、当然のことであるが日本人との交流なくしてはありえなかった。そして、彼等の「日本学」がヨーロッパ知識人の日本理解に、さらには米国の対日政策形成の認識にも大きな影響を与えることになったのである。  
我が国への深い愛情と理解と学識とを兼ね備えた外国の友人たちを持つことは、日本を取り巻く「国際環境」のひとつの要素であると考えられる。とりわけ、今日の靖国問題の国際環境を考えるとき、中国(160) や韓国を中心とするアジア諸国の中に一人でも多くこうした友人を見出すことは、長い目で見るとその意味は決して小さくないであろう。 
 
(1)ラフカディオ・ハーン(柏倉俊三訳) 『神国日本―解明への一試論―』(東洋文庫292) 平凡社, 1976, pp.394-395.  
(2)ハーン同上p.387.  
(3)賀茂百樹は伝記的情報に乏しい。『近世防長人名辞典増補』(吉田祥朔著, マツノ書店, 1976.) によれば、長州の祠職藤井氏の出で賀茂の家名を継ぐ、著書に『日本語源』2巻など、和歌に長じ中今亭と号す、昭和16年75歳で没す、とある。なお、賀茂は『賀茂真淵全集』全6冊(国学院編輯部編, 吉川弘文館, 1903−1905.) の校訂を行っている。  
(4)靖国神社発行兼編輯(代表者宮司賀茂百樹) 『靖国神社誌』明治44 (1911) 年12月。平成14 (2002) 年に神社本庁教学研究所から「近代神社行政史研究叢書W」として復刻されている。底本は明治45年6月発行の改訂再版。  
(5)福羽美静は、明治初期の神祇行政、宮中祭祀にも深く関わり、また、木戸孝允とも親交を結んだという。福羽美静については、阪本健一「神道家・国学者としての福羽美静」『神道宗教』48号, 1967.11, pp.1-40. (阪本健一『明治神道史の研究』国書刊行会, 1983. 所収)。加藤隆久『神道津和野教学の研究』国書刊行会, 1985. 参照。  
(6)この弔祭が可能になったのは、公武合体の時期の文久2年8月、孝明天皇から幕府への勅文で、安政大獄以来の尊攘派志士達の赦免と招魂弔祭が命じられたことによるという。(村上重良『慰霊と招魂―靖国の思想―』岩波書店, 1974, pp.4-6.)  
(7)この小祠は幕府の嫌疑をおそれて福羽邸に移されていたが、昭和6年靖国神社に移され「元宮」(もとみや) と称されている。前掲注􀀀の阪本論文による。  
(8)小林健三・照沼好文『招魂社成立史の研究』錦正社, 1969, pp.25-51.  
(9)同上pp.39-42. およびpp.45-46.  
(10)藤井貞文『近世に於ける神祇思想』春秋社松柏館, 1944, pp.226-230.  
(11)明治への改元は慶應4年9月。当時は太陰暦。  
(12)池田良八「靖国神社の創設」『神道史研究』15巻5・6号, 1967.11, pp.50-51. 池田は当時、靖国神社権宮司。  
(13)宮内庁編『明治天皇紀第一』吉川弘文館, 1968, p.725.  
(14)鳥巣通明「靖国神社の創建と志士の合祀」『出雲神道の研究―千家尊宣先生古希祝賀論文集』神道学会, 1968,pp.301-323. 鳥巣によれば、江戸城の招魂祭は東征大総督の令旨による軍陣の戦友慰霊祭であり、太政官布告による国家的行事とはみなせない、と指摘している。  
(15)􀀀前掲注􀀀, 『靖国神社誌』2丁。  
(16)鳥巣は、明治元年5月24日の太政官布告を根拠として、これが「戦死者布告」による最初の招魂祭である、としている。前掲注(14)参照。  
(17)前掲注􀀀, 『靖国神社誌』2丁。  
(18)木戸日記(明治2年正月15日) 鳥巣前掲注(14), p.307. から再引用。  
(19)池田前掲注(12), p.66.  
(20)阪本是丸「補論2 靖国神社の創建と招魂社の整備」『国家神道形成過程の研究』岩波書店, 1994, pp.386-417.  
(21)前掲注􀀀, 『靖国神社誌』15−16丁。  
(22)白山芳太郎「旧別格官幣社」(戦後における神社研究の成果と課題) 『神道史研究』30巻3号, 1982.7, pp.207-210.  
(23)明治維新以来の神社行政の沿革は複雑な経過を辿っているが、基本的に、神社神道は行政上は国家の祭祀としてその他の宗教とは区別して取扱われた。明治33年、内務省における神社局と宗教局の分置で確立したとされる(文化庁『明治以降宗教制度百年史』1970, pp.91-96.;村上重良『日本宗教辞典』講談社, 1978, pp.333-342.)。「国家神道」研究としては、村上重良『国家神道』岩波書店, 1970.;井上順孝・阪本是丸編『日本型政教関係の誕生』第一書房, 1987.;葦津珍彦『国家神道とは何だったのか』神社新報社, 1987.;阪本是丸『国家神道形成過程の研究』岩波書店, 1994.;新田均『近代政教関係の基礎的研究』大明堂, 1997.;山口輝臣『明治国家と宗教』東京大学出版会, 1999. などがある。  
(24)前掲『靖国神社誌』1丁。  
(25)賀茂の編纂になる『靖国神社事歴大要』(国晃館, 1911.) は、『靖国神社誌』と同年刊行のもので、靖国神社についての賀茂の考え方を知る上で興味深いものである。  
(26)鳥巣前掲注􀀀, p.318.  
(27)前掲『靖国神社誌』98丁。戦死者「甲号」に対し「乙号」とされた戦死者同様の者の人数は、1万917名にのぼる。  
(28)丸山泰明「八甲田山雪中行軍遭難事件と靖国神社合祀のフォークロア」川村邦光編著『戦死者のゆくえ―語りと表象から―』青弓社, 2003, pp.153-160.  
(29)靖国神社社務所編『靖国神社忠魂史』第1−5巻, 靖国神社社務所, 1933−1935.  
(30)遠田勝「『神国日本』考―チェンバレンとの対立をめぐって―」『比較文学研究』47号, 1985.4, pp.24-53. 遠田はこの論考の中で、ハーンとチェンバレンの日本観、宗教観、特に神道に関する見解が「正面衝突」していることを詳細に検討している。また、両者の日本理解をめぐるより広い考察としては、平川祐弘『破られた友情―ハーンとチェンバレンの日本理解―』新潮社, 1987. がある。  
(31)楠家重敏『ネズミはまだ生きている―チェンバレンの伝記―』雄松堂出版, 1986. 楠家重敏氏はこの浩瀚な著書の中で、チェンバレン『新宗教の発明』について詳しい論証を行っている。この論文は、昭和2(1927) 年の『日本事物誌』第5版再刷本付録として転載され、さらに同書第6版で「武士道―新宗教の発明」と改題の上、本文に組み入れられた。日本語への全訳は戦後になってからで、高梨健吉訳による『日本事物誌1』(東洋文庫131)平凡社, 1969. に収録されている。  
(32)遠田前掲注􀀀p.41.  
(33)バジル・ホール・チェンバレン(高梨健吉訳) 『日本事物誌1』(東洋文庫131) 平凡社, 1969, p.87.  
(34)同上pp.88-89.  
(35)楠家前掲注􀀀p.596.  
(36)阿部美哉「翻って平成時代の宗教の課題を問う」田丸徳善編『現代天皇と神道』徳間書店, 1990, p.51.  
(37)ホルトムは、加藤玄智(東京帝大教授、比較宗教学) ら日本の宗教学者とも深い交友関係があった。前掲『現代天皇と神道』pp.50-51. に略歴がある。  
(38)安津素彦・上田賢治「外国人の見た神道―戦前篇・戦後篇」『明治維新神道百年史』第2巻, 神道文化会, 1966.  
(39)原題はThe Political Philosophy of Modern Shinto;A Study of the State Religion of Japan, Chicago:The University of Chicago Libraries, 1922.  
(40)原題はThe National Faith of Japan;a Study in Modern Shinto, London, 1938. リプリント版New York:Paragon Book Reprint Corp, 1965.  
(41)D.C.Holtom, Modern Japan and Shinto Nationalism;A Study of Present-day Trends in Japanese Religions, Chicago:The University of Chicago Press,1943. 昭和25 (1950) 年に『日本と天皇と神道』の題で翻訳刊行された(深沢長太郎訳, 逍遥書院)。  
(42)ホルトム前掲『日本と天皇と神道』p.64.  
(43)同上p.68.  
(44)同上p.89.  
(45)民間情報教育局が刊行した『日本の宗教』の参考文献には、ホルトムの著書3冊のほか、Robert O. Ballou,Shinto, the Unconquered Enemy, New York: Viking Press, 1945. が挙げられている。「神道、征服されざる敵」という原題を持つこの書は、ロバート・O.バーロウ著(生江久訳) 『神国日本への挑戦―アメリカ占領下の日本再教育と天皇制』三交社, 1990. として翻訳・刊行された。  
(46)ハーン前掲注(1)p.387.  
(47)同上p.395.  
(48)この詔書は当初特定の名称はなく、その後「人間宣言」という名称で流布されるようになった。国立公文書館では「新日本建設ニ関スル詔書」と称しているという。(大原康男『神道指令の研究』原書房, 1993. p.112.)  
(49)正確には、CIE に当初教育・宗教課が設置され、課長はヘンダーソン、教育班にホール、宗教班にバンスが配された。12月3日、宗教課が分離独立しバンスが宗教課長となり、占領終了までその任にあった。  
(50)􀀀岸本英夫「嵐の中の神社神道」新宗連調査室編『戦後宗教回想録』新宗教新聞社, 1963, p.207. 岸本のこの回想録は、脇本平也・柳川啓一編『岸本英夫集第5巻戦後の宗教と社会』渓声社, 1976. に収録されている。  
(51)同上p.240.  
(52)ヒュー・ボートン(五百旗頭真監修, 五味俊樹訳) 『戦後日本の設計者―ボートン回想録』朝日新聞社, 1998.同書によれば、ボートンと岸本英夫には交友関係があった。なお、本書は日本語訳が原著である。  
(53)中野毅「アメリカの対日宗教政策の形成」井門富二夫編『占領と日本宗教』未来社, 1993. p.44.  
(54)同上pp.46-47.  
(55)同上pp.53-55.  
(56)同上pp.59-60. から再引用。したがって、各文書名、引用文の翻訳は、中野論文に依拠している。なお、占領期文書の詳細な検討は今後の課題としたい。  
(57)同上。中野氏が使用している資料は、United States Initial Post-Surrender Policy for Japan, 8.29, 1945,SWNCC150/4. で、米国陸軍省からマニラのマッカーサーに宛てて送付されたものと思われる(五百旗頭真『米国の日本占領政策下』中央公論社, 1985, p.254.)。外務省政務局特別資料課編『日本占領および管理重要文書集第1巻基本編』1949, p.92-108. に、1945年9月22日付けの「降伏後ニ於ケル米国ノ初期ノ対日方針」が収録されている。  
(58)同上。中野氏が使用している資料は、Basic Directive for Post-Surrender Military Government in Japan Proper, 11.3, 1945, SWNCC52/7, JCS1380/15. である。  
(59)昭和20年12月15日連合国軍最高司令官総司令部参謀副官発第3号(民間情報教育部) 終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書。大原康男『神道指令の研究』原書房, 1993, pp.57-68. に英文、日本語訳の全文が掲載されている。  
(60)阿部美哉『政教分離―日本とアメリカにみる宗教の政治性―』サイマル出版会, 1989.;大原前掲注􀀀の『神道指令の研究』など。  
(61)大原同上p.18.  
(62)同上pp.18-19.  
(63)同上。  
(64)同上pp.231-277. 第7章「靖国神社・護国神社に対する施策」に詳しい記述がある。  
(65)同上pp.234-235.  
(66)同上pp.235-236. 「靖国神社祭式」によれば、祭祀の手順は、合祀の前夜に祭神となるべき霊を招魂場に招祭して「招魂式」を行い、ついで霊璽を本殿に奉遷し、翌日この次第を大前に奉上し「合祀祭」を行う、というものである。  
(67)岸本前掲注􀀀pp.213-216.  
(68)同上p.25.  
(69)B.ビッテル述, 朝日ソノラマ編集部編『マッカーサーの涙―ブルノー・ビッテル神父にきく』朝日ソノラマ,1973.  
(70)同上p.118.  
(71)同上p.127.  
(72)大原前掲注􀀀pp.239-242.  
(73)昭和20年12月28日勅令第719号。  
(74)昭和21年11月13日連合国軍最高司令官総司令部発第602号終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府宛覚書(SCAPIN1334)。  
(75)大蔵省管財局編『社寺境内地処分誌』大蔵財務協会, 1954.  
(76)大原前掲注􀀀p.252. 大原氏が翻訳したバンスの「担当者研究」からの再引用による。  
(77)同上p.254.  
(78)ウィリアム・ウッダードはCIE の宗教関係の調査を担当し、占領後も日本に留まり国際宗教研究所を設立、宗教に関する国際的理解のための活動を行った。その回想録(阿部美哉訳) 『天皇と神道―GHQ の宗教政策―』サイマル出版会, 1988. (原書名:William P. Woodard, The Allied Occupation of Japan 1945-1952 and Japanese Religions, Leiden:E.J.Brill, 1972.) は貴重な証言であり、GHQ の宗教政策に関する最初の研究書でもある。  
(79)大原前掲注􀀀pp.261-262.  
(80)同上pp.267-270.  
(81)竹前栄治『GHQ の人びと―経歴と政策』明石書店, 2002. pp.268-269. 同書所収の第8章が「神道指令と宗教政策―民間情報教育局宗教課長W・バンス少佐」。初出は、「占領下の宗教改革―W.K.バンス博士に聞く」『東京経大学会誌』150号, 1987.3, pp.187-219.  
(82)大原前掲注􀀀p.244.  
(83)同上p.245. 大原氏は靖国神社所蔵の「靖国神社合祀者資格審査方針綴三、四」所収の「要旨」と題されたメモに依拠している。  
(84)同上p.246.  
(85)同上p.256.  
(86)賀茂百樹は「未曾テ首相ノ詣リテ敬意ヲ表シタルダニ聞カザルナリ」と書いている(大正11年頃と推定される)。「靖国神社例祭日に関する意見書」『靖国神社百年史資料篇上』靖国神社, 1983, p.405.  
(87)第12回国会衆議院外務委員会議録第3号昭和26年11月2日p.24. 並木芳雄議員の質問。  
(88)参議院法務委員会戦争犯罪人に対する法的処置に関する小委員会会議録第1号昭和26年12月12日p.3.;衆議院予算委員会議録第9号昭和27年2月5日p.2.;衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会議録第19号昭和27年7月30日p.2. など。  
(89)第22回国会衆議院予算委員会議録第14号昭和30年5月16日p.19.  
(90)第22回国会参議院予算委員会会議録第30号昭和30年6月22日p.9.  
(91)国立国会図書館調査立法考査局『靖国神社問題資料集』(調査資料76-2) 1976, pp.231-232.  
(92)第22回国会衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会議録第13号昭和30年7月23日pp.1-12.  
(93)同上p.1.  
(94)同上  
(95)同上p.6.  
(96)同上。池田参考人の説明によれば、霊璽簿の調製には、明治初期からのしきたりで、料紙は鳥の子、表紙に金襴を使い、天地に金箔を用い、中の記載は、祭神の本籍の府県、位階勲等、階級、死亡年月日、場所、氏名を毛筆で書く、という。  
(97)陸軍省・海軍省告示第4号昭和20年11月17日『靖国神社百年史資料篇上』p.274.  
(98)陸軍大臣・海軍大臣から宮内大臣への照会(昭和20年11月17日付け)、『靖国神社百年史資料篇上』p.272.  
(99)「招魂殿遷座祭経過」『靖国神社百年史資料篇上』p.292.  
(100) 『靖国神社百年史資料篇上』pp.300-302.  
(101)同上pp.303-305.  
(102)同上pp.306-307. 第3〜5回の名称は「相殿合祀祭」。  
(103)同上p.302. 「霊璽奉安祭についての覚書」  
(104)同上p.305.  
(105)ほかに、衆議院法制局第一部長の三浦義男が出席している。  
(106)第24国会衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会議録第4号昭和31年2月14日p.1.  
(107)同上p.6.  
(108)金森が戦前読んだのはラッセルのThe Problem of China (1922年) であろう。戦後『中国の問題』(牧野力訳,理想社, 1971) として翻訳刊行された。  
(109)前掲注􀀀106 p.4.  
(110)同上p.12.  
(111)池田参考人(靖国神社権宮司) は、「今のところ、神社といたしましては宗教法人というワクの中におるのが一番いいようでございます」と述べている。(第22回国会衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会議録第13号昭和30年7月23日p.8.)  
(112)『憲法運用の実際についての第一委員会報告書』憲法調査会事務局, 1961.  
(113)各委員会の報告書では、各会議議事録の引用個所に、発言者名・会議名・回次・頁が表示されており、会議録の検索が容易である。  
(114)『憲法運用の実際についての第二委員会報告書』憲法調査会事務局, 1961.  
(115)以下、肩書きはいずれも議事録の記載による。  
(116)氏名の後の( ) 内は、参考人が陳述した主な問題項目として筆者が付した。  
(117)前掲注􀀀112 p.107.  
(118)『憲法調査会第三委員会第14回会議議事録』憲法調査会事務局, 1960, p.37.  
(119)同上p.38.  
(120)鷹谷俊昭「憲法改正論議の一方向」『武蔵野女子学院短期大学文化学会紀要』5号, 1964. p.8. 鷹谷氏は、広瀬久忠、大石義雄、神川彦松、里見岸雄の案に触れている。  
(121)日本遺族会『靖国神社国家護持に関する調査会報告書』1966, pp.2-12. なお、日本遺族会事務局編『日本遺族会の40年』(日本遺族会, 1988.) は、同会の活動を中心に関係資料の要点、内外の動向も記載した総合的年表であり、参考となる。  
(122)肩書きはいずれも注􀀀117 の調査会報告書の記載による。  
(123)「意見一覧表」には、前出の金森徳次郎参考人の国会における発言要旨も合わせて掲載されている。  
(124)日本遺族会『靖国神社国家護持に関する調査会報告書』1966, pp.58-62.  
(125)靖国神社法案は、昭和44年6月、自民党議員立法で第61国会に初めて提出されて以来、昭和45、46、47、48年と5回提出されたが、いずれも廃案となった。この経過については、赤澤史朗『靖国神社―せめぎあう<戦没者追悼> のゆくえ―』岩波書店, 2005, pp.122-157.  
(126)前掲『靖国神社問題資料集』pp.171-175.  
(127)同上p.172.  
(128)同上p.175.  
(129)例えば、第65回国会参議院予算委員会会議録第5号昭和46年3月2日p.24.  
(130)斎藤憲司「戦後の靖国神社問題の推移」『ジュリスト臨時増刊』848号, 1985.11.10, pp.87-88.  
(131)昭和53年10月17日の参議院内閣委員会における政府統一見解、昭和55年10月28日の閣議決定による政府答弁書の回答及び同年11月17日の衆議院議院運営委員会理事会における表明。  
(132)「靖国神社公式参拝―政教分離のゆくえは!!」『ジュリスト臨時増刊』848号, 1985.11.10. 懇談会のメンバーは、林敬三(座長)、芦部信喜、梅原猛、江藤淳、小口偉一、小嶋和司、佐藤功ほか、計15名。懇談会には委員という名称もなく、その報告書には肩書きが付されていない。  
(133)同上pp.110-113.  
(134)同上p.112.  
(135)同上p.113.  
(136)同上  
(137)同上p.112.  
(138)村上重良『国家神道』(岩波新書) 岩波書店, 1970. まえがきp.2.  
(139)村上重良『慰霊と招魂―靖国の思想―』(岩波新書) 岩波書店, 1974. まえがきp.3.  
(140)大江志乃夫『靖国神社』(岩波新書) 岩波書店, 1984. おわりにp.197.  
(141)江藤淳・小堀桂一郎編『靖国論集―日本の鎮魂の伝統のために―』日本教文社, 1986.  
(142)執筆の予定だった森谷秀亮博士(元駒澤大学教授) が急逝したことによる(『靖国神社百年史事歴年表』靖国神社, 1987. の凡例追記) と推測される。  
(143)赤澤史朗『靖国神社―せめぎあう<戦没者追悼> のゆくえ―』岩波書店, 2005.  
(144)坪内祐三『靖国』新潮社, 1999.  
(145)最(大) 判昭和52年7月13日民集31巻4号533頁。「目的・効果基準」とは、政教分離原則について、国家と宗教とのかかわり合いについて、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが、社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さない、とするもの。この判決については多くの評釈、論評がなされたが、さしあたり、日比野勤(東京大学教授) 「神道式地鎮祭と政教分離の原則―津地鎮祭事件」「憲法判例百選T 第4版」『別冊ジュリスト』154号, pp.98-99.  
(146)『判例時報』630号, pp.33-34.  
(147)福岡地判平成元年12月14日判時1336号81頁・判タ715号79頁, 福岡高判平成4年2月28日訟月38巻12号2515頁・判時1426号85頁(九州), 大阪地判平成元年11月9日判時1336号45頁・判タ715号79頁、大阪高判平成4年7月30日訟月39巻5号827頁・判時1434号38頁・判タ789号94頁(大阪), 神戸地姫路支判平成2年3月29日訟月36巻7号1141頁・判時1457号100頁, 大阪高判平成5年3月18日訟月40巻3号544頁・判時1457号98頁(播磨)。  
(148)大阪地判平成16年2月27日判時1859号79頁・判タ1146号176頁, 大阪高判平成17年7月26日(判例集未登載),最(二小) 判平成18年6月23日(判例集未登載) (大阪(第1次)), 松山地判平成16年3月16日判時1859号117頁,高松高判平成17年10月5日(判例集未登載), 最(二小) 決平成18年6月27日(判例集未登載) (松山(第1次)), 福岡地判平成16年4月7日判時1859号125頁(福岡), 大阪地判平成16年5月13日判タ1151号252頁, 大阪高判平成17年9月30日(判例集未登載) (大阪(第2次)), 千葉地判平成16年11月25日(判例集未登載), 東京高判平成17年9月29日(判例集未登載), 最(三小) 決平成18年6月27日(判例集未登載) (千葉), 那覇地判平成17年1月28日(判例集未登載), 東京地判平成17年4月26日(判例集未登載), 東京高判平成18年6月28日(判例集未登載) (東京),松山地判平成18年3月15日(判例集未登載) (松山(第2次))。  
(149)平成18年6月23日夕刊、『朝日』『読売』『毎日』『日経』『東京』の各紙。なお、この判決の後、平成18年6月27日に松山(第1次) 訴訟及び千葉訴訟についても、最高裁は憲法判断は示さず、それぞれ上告棄却の決定を行った(平成18年6月28日朝刊、『朝日』『産経』『日経』の各紙による)。  
(150)「靖国参拝第1次大阪訴訟」『判例タイムス』1146号, 2004.6.1, p.181.  
(151)同上  
(152)同上  
(153)同上p.183.  
(154)同上p.187.  
(155)吉野作造「神社崇拝の道徳的意義」『中央公論』35年13号, 1920.12, pp.95-96.  
(156)ホルトム前掲注􀀀pp.72-75.  
(157)同上p.65.  
(158)佐々木信綱「人としてのチェンバレン先生」『国語と国文学』12巻4号, pp.559-560. 楠家重敏『ネズミはまだ生きている―チェンバレンの伝記―』雄松堂出版, 1986. pp.546-547. より再引用。  
(159)楠家同上p.540.  
(160)たとえば最近、劉傑・三谷博・楊大慶編『国境を越える歴史認識―日中対話の試み―』東京大学出版会, 2006.が出版された。日本語と中国語で同時出版されたこの書は、この点から注目したい。  
 
 
靖国問題の基礎知識
 

A級戦犯ってなに?  
極東国際軍事裁判(以後東京裁判と略する)の被告とされた二十八名のA級戦犯の一人、佐藤賢了陸軍中将(元陸軍省軍務局長)は、「私は、A級(戦犯)に指名されて非常に名誉に思っとった。私ごとき者がA級とは望外の喜びで、昇進したような気持ちだった」(児島襄『東京裁判(上)』)と語っている。東条英機、松岡洋右、木戸幸一などの、彼からすれば”大物”と同じランクで戦犯指名されて名誉に思うという意味なのだろうが、佐藤氏のこの誤解は、実は当時の日本人の平均的な感覚を表していて興味深い。  
困るのは、その誤解を未だに我々日本人が継承している点である。そもそもA級戦犯容疑者とは、1945年8 月8 日に英米仏ソ四ヵ国がロンドンで調印した国際軍事裁判所憲章第6条a項「平和に対する罪」に違反した容疑で連合国から戦犯指名を受け、逮捕された百名余りの戦犯容疑者を指す。同様に、いわゆるBC級戦犯は、同条b項「通例の戦争犯罪」、c項「人道に対する罪」に違反した容疑で戦犯指名を受けた者ということになる。本来、訴追した側の連合国がA級戦犯という呼称をしたのではない。まして、罪の軽重を表す言葉でもない。  
A級戦犯>国際軍事裁判所憲章第6条a項「平和に対する罪」に違反した者  
B級戦犯>同条b項「通例の戦争犯罪」に違反した者  
C級戦犯>同条c項「人道に対する罪」に違反した者  
つまり、A級戦犯という呼称は「第6条a項に該当する被告」と表現するところを、誰かが「A級戦犯」と言い換えたのである。おそらく新聞記者の誰かではなかったろうか。当人は軽い気持ちでアイデアを出したつもりだろう。しかし、この後「A級戦犯」が「重大な罪を犯した者」と同義語になって一人歩きしてしまったのも、実はマスコミ関係の責任といわれても仕方がない。それは今でも「A級戦犯」が堂々と新聞紙面を飾ることからも判るとおり、この言葉を慣用句にしたのが彼等だと云わざる得ないのだから。ちなみに、ニュールンベルグ裁判においては、被告をA級戦犯といっている表現を新聞報道等で目にされた方が居られるだろうか。恐らくはいないだろう。東京裁判に先んじて行われたこの裁判では、東京裁判のような容疑者へのa項,b 項,c項という分け方自体が存在しなかったのだから。(本稿では話の進行上、あえて「A級戦犯」という呼称を使用しています)  
しかも、もっと罪深いのは戦後の教育界で、歴史か政経、あるいは倫社の授業で、東京裁判をちゃんと取り上げず、「A級戦犯」とは何かを教えてこなかった。本来の平和教育とは、民主化に向かうための戦後史をちゃんと教えてこそ目的が達せられると思うのだが、どうもイデオロギーが邪魔をしたのかもしれない。したがって、戦後教育を受けた平均的な日本人の中で、「A級戦犯」をどういうものか正確に説明できる人は、そんなには居ない事になる。例え代議士や外交官といえども、その点であやふやと思える人がかなり居る可能性があるのではないか。  
驚くべきは、「A級戦犯」が合祀されている靖国神社への、日本政府要人の公式参拝を批判している中国・韓国でも、「A級戦犯」が戦争犯罪人だとは言えるのだが、その「A級戦犯」とはどういう意味ですかと尋ねると答えに窮する人が多い。実は中国でも正確な説明をしていないようなのだ。  
要するに騒いでいる側にも、追求を受けている側にも、正確な知識や見識を持った者がなく、ただただ感情的、情緒的に反応しているだけで、空理空論が交わされているのが今の『靖国参拝問題』の現状なのである。これでは不毛としか言いようがない。それ故、これを外交上の由々しき事態と騒いでいる一部の人が、いかに胡散臭いかも判ろうと言うものであろう。今の内に誰が騒いでいるのかを確認しておくと面白かもしれない。 
 
靖国にA級戦犯は眠っているのか  
極東国際軍事裁判において、「平和に対する罪」で有罪判決を受けたいわゆるA級戦犯の被告(1946年4月29日に起訴)は以下の人達です。なお、A級戦犯という表現は日本側が作った造語であり、被告人の罪の軽重を示す意味でないことは前稿でも書きましたね。  
<武官> 荒木貞夫/板垣征四郎/梅津美治郎/大島浩/木村兵太郎/小磯国昭/佐藤賢了/東條英機/土肥原賢二/橋本欣五郎/畑俊六/松井石根/南次郎/武藤章/鈴木貞一/永野修身/嶋田繁太郎/岡敬純  <文官> 賀屋興宣/木戸幸一/平沼騏一郎/広田弘毅/星野直樹/松岡洋右/重光葵/白鳥敏夫/東郷茂徳 <民間人> 大川周明  
あまり知られていないようですが、この他にも不起訴及び免訴となった被告がいました。それが次の人達です。特に、近衛や本庄は自殺しなければ確実に起訴されていたと云われています。  
近衛文麿(収監前に自殺)/本庄繁(収監前に自殺)/岸信介(不起訴により釈放)/真崎甚三郎(不起訴により釈放)/児玉誉士夫(不起訴により釈放)/笹川良一(不起訴により釈放)/正力松太郎(不起訴により釈放)/徳富蘇峰(不起訴により自宅拘禁解除)  
起訴された被告達への判決は、二年に及ぶ裁判を経て、極東国際軍事裁判において1948年11月12日に申し渡されました。以下が、その判決内容です。 
<絞首刑> 板垣征四郎/木村兵太郎/土肥原賢二/東條英機/広田弘毅/松井石根/武藤章 <終身刑> 荒木貞夫/梅津美治郎/大島浩/鈴木貞一/南次郎/橋本欣五郎/畑俊六/小磯国昭/佐藤賢了/嶋田繁太郎/岡敬純/賀屋興宣/木戸幸一/白鳥敏夫/平沼騏一郎/星野直樹  <有期禁錮> 重光葵(7年)/東郷茂徳(20年) 判決前に病死のため除外 永野修身/松岡洋右 <訴追免除> 大川周明  
終身刑及び有期禁固を言い渡された者は、結審後に即日収監。その後、服役中に獄死した、梅津美治郎、小磯国昭、白鳥敏夫、東郷茂徳の四氏を除いた被告は、サンフランシスコ講和条約の発効後に、講和条約第11条の手続きにもとづいて、関係各国の同意を得るなどの手続きを経て、1956年に釈放されました。しかし、国内では国会において以下のような決議を経るなど、日本としては早期の釈放を求めていたのが実状だったのです。  
1952年6月9日参議院本会議にて「戦犯在所者の釈放等に関する決議」 1952年12月9日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」  
1953年8月3日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」 1955年7月19日衆議院本会議にて「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」
 
第11条(戦争犯罪)  
日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の判決を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。  
このことは、当時は今のようなA級戦犯=戦争犯罪人という理屈ではなく、戦犯に対する同情や支援があったということを示していて興味深いです。もしも、世論が悪人の印象を強くもっていたら、こんな決議には(しかも四回も)発展しない訳ですから。マスコミが反対キャンペーンをした訳でもありません。  
A級戦犯として有罪判決を受けた被告の内で、釈放後に政界へ返り咲いた人が三人います。禁固七年を科せられた重光葵元外相は、釈放後に鳩山内閣の副総理・外務大臣を務め、後には勲一等を授与されています。また、終身刑とされた賀屋興宣元蔵相は池田内閣の法務大臣を務めました。A級戦犯容疑者(不起訴)の岸信介は、ご存知のように内閣総理大臣になってすらいます。(岸は東条内閣の閣僚ですし、満州帝国の運営に関わっています)  
不思議なことに、重光・賀屋・岸が政界に返り咲いた時に、韓国や中国から重大な抗議や反日運動が起こったかというと、そうではありません。ことの軽重がすれば靖国神社参拝よりも問題は大きいのにです。何故なのかは筆者にもわかりません。  
さらに、ABC級戦犯の国内での法的扱いに関しても、それまで戦犯とされた者は国内法上の受刑者と同等に扱われて、遺族年金や恩給の対象から除外されていたのですが、これではおかしいとの声を受けて1952年(昭和27年)5月1日、当時の法務総裁から、戦犯の国内法上の解釈についての変更が通達されます。この通達によりますと、戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」として扱われることとし、戦犯逮捕者は「抑留又は逮捕された者」として取り扱われる事になりました。もちろん、法律の方も「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の一部改正がおこなわれました。戦犯としての拘留逮捕者についても被拘禁者として扱い、当該拘禁中に死亡した場合には、その遺族に扶助料を支給する事にしましたので、過去に遡って支払いがおこなわれたのです。  
さて、処刑された七人の遺体は、その日に横浜の久保山火葬場で火葬に付されました。遺骨は遺族には返されず、GHQの手により東京湾に投棄されたと公式発表されました。ただ、12月25日に小磯国昭の弁護人だった三文字正平が久保山火葬場の共同骨捨て場から遺灰を密かに回収するという命懸けの行動にでて、その遺灰を近くの興禅寺に一時預けたと云われています。そして翌年の1949年5月には遺灰を伊豆山中の興亜観音に移して密かに葬られたのだそうです。その後、1960年8月18日に愛知県幡豆郡幡豆町(当時)にある三ヶ根山の山頂付近に遺灰が移され、この場所には殉国七士廟が設けられ現在に至ります。七人分が混ざっているとはいえ、遺灰はこちらにあるということです。遺灰が靖国神社にあると誤解されている人もいたのではないですか。  
では、靖国神社の合祀とは何かといえば、1978年、靖国神社が以下の14名を昭和時代の殉難者として合祀するとしたことに始まっています。全ては靖国神社の判断ということです。処刑された人数と合わないのは、獄中死した被告もふくまれているからです。  
板垣征四郎/梅津美治郎/木村兵太郎/小磯国昭/白鳥敏夫/土肥原賢二/東郷茂徳/東條英機/永野修身/平沼騏一郎/広田弘毅/松井石根/松岡洋右/武藤章  
現在のところ極東国際軍事裁判(通称東京裁判)の判決をくつがえす新たな国際法廷は開廷されていないので、国際社会(司法社会)においては、日本のA級戦犯は今も戦争犯罪人として認識されているのは事実です。また、日本政府もその点を認めて同様の立場を取っていることを忘れてはいけません。  
しかし、国内的には前述したように、戦争犯罪者の赦免決議や、遺族年金や恩給も復活させるなど、事実上の名誉回復をされているのも事実です。また、戦犯は国際法によって裁かれたもので、国内法上の犯罪者には該当しないので、名誉回復の必要性自体が存在しないという意見もあります。  
ただ、支那事変(日中戦争)や太平洋戦争において大きな犠牲を強いられた国々、特に中国政府と民衆の間には、A級戦犯を含めた日本の戦争犯罪人に対する反感が無くなっていないのも事実です。  
ここに書いてきた事実を知ることで、その議論の素地に少しは役に立て貰えれば幸いです・・・というか何にも知らずに議論をする不毛をそろそろ無くして貰いたいというのが筆者の願いです。  
最後に極東国際軍事裁判所のいう「戦争犯罪人」の定義を紹介して、この稿を閉めさせていただきたいと思います。  
極東国際軍事裁判所条例の第五条の(イ)の以下の定義  
「平和ニ対スル罪 即チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。」  
 
A級戦犯は何処へ

近頃目につくのは、自民党の代議士たちが太平洋戦争を起こした責任は国民全体にあり、A級戦犯だけを問題にするのはおかしいという議論を展開していることだ。これは明らかに、靖国問題で窮地に立っている小泉首相を援護するための議論である。  
明治維新以後の政府は民主主義的な運動を徹底的に弾圧してきたから、大多数の国民は戦争が始まればこれに協力するしかなかった。だからといって、一般の国民が無謀な戦争をはじめた指導層と同罪だというのは、暴論というしかない。  
この論理からすると、強制されて政府の方針に従っている北朝鮮国民は、金正日の実行している政策のすべてについて連帯責任を負わねばならないことになる。  
国民にも戦争責任があると主張するためには、その国の言論の自由が完全に保証されていなければならない。戦争を始める前の日本には、そんな状況はなかった。特高警察が「危険思想」の持ち主を洗いざらい逮捕して戦争反対の声を圧殺していたのである。  
加えて軍部の尻馬に乗る跳ね上がりの「愛国者」たちが、少しでも政府を批判するものがあれば「非国民」だの「アカ」だのと言って、よってたかって迫害していたのだ。  
開戦直前の日米会談で、アメリカは日本に中国から撤兵することを求めた。当時中学生だった私ですら、ひそかに政府がアメリカの要求を呑めばいいのにと思っていた。が、同時に、そんなことを公言しようものなら「皇軍兵士が尊い血を流した占領地を放棄しろというのか」と皆から袋叩きにされるだろうことも想像していた。  
あのころには、「同胞の血を流した土地」という言葉が、護符のような力を持っていたのである。  
だから、軍部に批判的だった多くの国民も、日本に生まれついた以上は、政府のやることをただ黙って受け入れるしかないのだと、一種運命論的な諦めを抱いていたのだ。  
戦争責任を負わなければならないのは、国民の口を封じていた政府当局者たちである。葉書一枚で招集され、否応なく戦地に送り出された無力な国民に責任があるはずはない。  
戦争が終わっても日本人は自らの手で戦争犯罪を裁くことをしないで、裁きを連合軍による東京裁判にゆだねてしまった。国民は漠然と天皇の戦争責任について考えはしたが、これをあえて口にする勇気を持ったものはほとんどいなかった。  
現在のイランを見ていると、当時の日本を思わせる点が多い。イランには自由主義的な大統領がおり、民主的な議会もあるのに、社会の改革はほとんど進まず、反動的な政治がまかり通っている。これは民主的な制度の上に宗教的指導者グループによる組織が乗っかり、そのトップに坐る最高指導者が絶対的な権威を持っているからだ。  
最高指導者への批判は許されず、従ってこれにつながる宗教的指導者を攻撃することもできないというイランの社会制度は、議会制度を持ちながら天皇が現人神(生きている神)と仰がれ、これを囲む軍部・官僚グループが特殊な権力を握っていた戦前の日本の社会体制によく似ている。  
国民がびびってしまって國家の首長を自由に批判できないような社会は、健全な社会とは言い難い。戦後の日本が、天皇の戦争責任について公然と論議することを避けたのは、社会の中に戦前の病的な要素が残っていたからだった。私が今こんな程度のことを言えるようになったのも、戦後60年たち私自身も80の老人になったからなのだ。  
天皇の決断によって戦争が終わったというのなら、天皇は戦争を阻止することも出来たはずである。こうしたことさえ口にすることをはばかる空気が敗戦直後には残っていたのだ。昭和天皇は、開戦前の御前会議で「虎穴に入らずんば、虎児を得ずと言うことだね」といって戦争にゴーサインを出しているのである。  
天皇は大勢に抗しかねてやむを得ず開戦に賛成したのだ、あの段階で反対したら軍部に暗殺されていたかもしれないという弁護論もある。しかし東京裁判の裁判長ウエッブは、「戦争をするには天皇の許可が必要だった。もし彼が戦争を欲しなかったら、その許可を与えるべきではなかった。暗殺されるかも知れないというのは答えにならない。その危険性は統治者のすべてが負っているからだ」と言っている。  
天皇は、陸軍部内にある皇道派と統制派のうち統制派を支持していた。皇道派が「一君万民」のスローガンを掲げ、天皇と国民の間に介在する重臣・財閥などを一掃してある種の国家社会主義体制をつくることを志向していたのに対して、統制派は軍内部の指揮系統を厳しくして対外戦力を強化することに専念していた。東条英機をその一員とする統制派は、日本を臨戦体制下に置いて仮想敵国を攻撃するチャンスをうかがっていたのである。  
昭和天皇が好戦論者だったと言うのではない。皇道派には厳しい態度で臨み、他方で統制派を支持した天皇の姿勢に、100パーセント平和論者だったとは言い難いあるものを感じているのだ。  
東京裁判を主宰したアメリカは、昭和天皇に戦争の責任を負わせたら、日本国民の反発を買い占領政策をスムースに実行できなくなると考えて、一切の責任をA級戦犯に負わせることにした。  
この場合、被告たちが自己の責任を回避しようとして下手なことをしゃべると、火の粉が天皇に及びかねない。そこで弁護団は東条に繰り返しその点を説得し、海軍大臣だった米内光政も獄中の東条に伝言してそのへんの念押しをしたといわれる。これに対して東条は、「米内も馬鹿だな。こうして自分が(自殺しないで)生きているのも、ただ一点そのためではないか」と語ったという。  
首相の靖国参拝問題がこじれたとき、関係筋が戦犯の家族に対して分祀を承知してくれないかと頼んだことがあるらしい。他の戦犯家族はすべて申し出を受け入れたが、東条の遺族だけが承知しなかったため、この件は流れてしまったという。  
遺族が、東条英機は一命をなげうって昭和天皇を守ったと考えているとしたら、分祀を断固として拒んだこともうなずける。先日、「朝まで生テレビ」という番組を見ていたら、出席者の一人がA級戦犯への有罪判決は、天皇の免責とバーター関係になっている、だからA級戦犯の無罪を主張すれば、こんどは昭和天皇の戦争責任が問われることになると言っていた。東京裁判の資料が出そろってきた現在、このバーター論が定説になっているようなのだ。  
新聞には、自民党の有力議員が戦犯分祀論を唱えているという記事が載っている。「分祀」という以上、彼らを神として祭ることを意味する。だが、戦犯だけをひとまとめにして神社に祭り、定期的な祭祀を怠らないということになれば、またもや近隣諸国を刺激することになりはしないか。  
あれこれ考えあわせてみると、解決策は靖国神社とは別に戦死者・原爆死者・空襲被害者全員を合祀する斎場を作ることくらいしか思いつかない。  
靖国問題に関連してさまざまな意見が飛び交っているなかで、小泉首相の参拝は彼一流のパフォーマンスだという意見に賛同するものだ。小泉首相が、羽織・袴を着用し、内閣総理大臣と記帳して参拝するのは俗受けを狙ったパフォーマンスにすぎないのではないか。  
イエスは、祈るときには独りで祈れと言っている。これ見よがしに参拝する首相の姿からは、日本遺族会の票を狙い、保守層にアピールする軽薄な打算しか感じられない。  
そんなに戦死者を悼む気持ちが強いなら、激戦地だったガダルカナル島、サイパン島、沖縄本島などに渡り、大地にひざまずいて独り静かに黙祷することを勧める。