夢が見たい石原田中小泉

石原都知事 ほんとうの日本国家 
田中県知事 県民主義 
小泉首相 小林虎三郎のように断固とした態度で改革 
 
夢が見たい
 


太陽の季節「NO」と言える日本なんとなくクリスタル米百俵
  
 
太陽の季節 
四年間は無競争・大統領的なことができる 
自分が死んじゃったら日本国家は消滅するという自覚  
憲法を破棄して天皇を元首にする新憲法をつくり、日本を世界一の防衛国家に 
あの戦争はやっぱり感動的だった 
自治体は命投げ出すぐらいの覚悟が必要
 
日本が植民地争奪戦争に参加したおかげで、戦後かつての植民地が独立した 
中国は分裂させなきゃいけない 
自衛隊を動員する震災対策総合大演習をやる 
アメリカ信仰を捨て大東亜共円圏を 
新しい道徳教育 
障害者を差別する発言 
横田基地を軍民共同使用の空港にする
 
 
なんとなくクリスタル 
知事室を3階から1階に移す 
月に2回、県民が予約なしに知事に面会できる「県民の日」を創設 
知事自ら各地に出かけて住民と対話する県民集会を定期的に開く 
公共事業はすべてゼロに戻して公共性の観点から再検討、進行中のものも再評価 
県民の生命財産を守るため災害危機管理司令室を設けて迅速な対応をする 
街や建物の景観・色彩条例を制定 
どこでも安心して暮らせるよう医療ICカードを導入 
移動議会を開催 
県外からの産業廃棄物の持ち込み禁止を徹底
 
    
米百俵 
結局、祖父と父の遺産のお陰でしたね、七光りどころか十四光りで当選したようなものですよ 
株を持っていないのは、持っているだけで疑われ、悪いように言われ、道理が通らない状況なので、売ってしまった 
福祉を担当する役所なんだから、老人にも理解できる美しい日本語を使いなさいとカタカナ語を批判 
党が証人喚問を拒否しても、自分から進んで(国会に)出ていきたいというのが普通の政治家だと思う、中曽根さんはちょっとどうかしている 
日本経済の発展は民間が努力してきたからだ、郵政の仕事は官業の民業圧迫と言われたり、摩擦のある役所だが、省益より国益優先だ 
真剣を抜いて行革に取り組んでほしい、あなたは竹刀を振り回している
 
分かりやすく言えば、部下が責任を取るうえで切腹することと同じと受け止めた、重い責任の取り方で妥当な判断ではなかったか 
候補者は選挙民を選べない、献金をくれた人が悪い人だとわかってもどうしようもない 
行政改革の第一歩は政治家自身が既得権を放棄することだ 
新しい省の名前が安直に過ぎる。労働福祉省なら閣議で署名しない。打ち首にしてくれ 
凡人(小渕恵三前首相)も軍人(梶山静六元官房長官)もこの世にいなくなり、残ったのは変人だけ、私は極めて常識的な発言をしているのに、政界では変わっていると言われる、変わっているのは永田町だ 
私は変人と言われるが、変人とは変革する人の略称だ

 
2003/ 
 
  
太陽の季節 石原慎太郎著
 
1955年度の芥川賞を受賞して大反響を呼び、翌年には日活で長門裕之・南田洋子の主演で映画化され、後のスーパースター石原裕次郎が注目されるきっかけを作った。高校生の竜哉(長門)は、遊び仲間(石原)らと共に銀座で誘った娘・英子(南田)と肉体関係を結んだ後で愛情を感じ始めるが、うるさくつきまとう英子を次第に疎ましく思い、兄・道久(三島)に五千円で売りつける。だが竜哉を愛する英子は道久に五千円を払い戻し、自分が妊娠していることを告げる。始末を勧める竜哉に従って妊娠中絶手術を受けた英子は、手術の経過が悪くついに死亡する。 
  
「NO」と言える日本 盛田昭夫・石原慎太郎著 対論/1989光文社 
ミリオンセラーになった、アメリカ議会はこれを無断で翻訳し配布、国内は論争が起った。主張はアメリカの安易な日本批判に屈することなく、日本は外交において「NO」のカードをうまく使うこと。アメリカ議会は、共著者がソニーの盛田昭夫会長であったこともあり、新しい「反米主義の台頭」ではないかと恐れた。
  
なんとなくクリスタル 田中康夫著 
音楽やファッション、レストランなど都会生活を飾るアイテムについての注釈が膨大に付されている。消費社会のありようを描いたこの小説の中では、知識や教養もブランド品と等価として扱われている。つまり知識や商品も人生に意味を添え、日々をやりくりするツールとして、あるいは人間関係を紡ぐコミュニケーション手段としては等しいというわけだ。 
商品名やブランド名が記号のように数多くちりばめられた、カタログ文学の様を呈していた。非常に表層的なその小説は、急激に回転速度を増した情報化時代、大量消費社会を反映していると話題を呼んだ。また、ブランド品を好んで身につけ、カルチャー情報やマニュアルに精通したリッチ志向の「クリスタル族」なる若者たちまで出た。
 
米百俵 山本有三著 戯曲/1943新潮社 
幕末時、佐久間象山の門下に「二虎」がいた。吉田寅次郎(松陰)と小林虎三郎である。幕府は安政の大獄で松陰を斬刑に、虎三郎は謹慎処分となった。虎三郎は明治維新で河井継之助なきあと長岡藩の大参事(旧家老)に登用された。 
長岡の町は官軍との激闘で三度も兵火に焼かれ、一望の焼け野原と化していた。長岡藩は74000石だが、米どころで実質十万石といわれていた。 それが官軍に刃向かったため24000石に減らされてしまった。藩士1700人家族を含めて8500人の生活はひどく苦しくなり、三度のお粥さえ満足でなかった。 
見かねた支藩の三根山藩(11000石)は敗戦の惨状をみて見舞いの米百俵を送った。ところが、虎三郎は家中には一粒の米も分けず、百俵を元手に学校を建てると言い出したのである。 
血相を変えて詰め寄る藩士達を前に、「百俵の米は食ってしまえばそれまで。それではいつまでたっても本当に食えるようになるのはならない。 学校を建て人物を養成するのが、まどろっこしいようだが一番の近道。今は百俵の米が、その時には千俵にも万俵にもなるのだ。」 と説得し初志を貫いた。
米百俵と小林虎三郎1 
窮乏に送られた米百俵を教育に使った 
そんな時に、分家の三根山藩から、「窮乏を見るに堪えない。見舞いをお届けする」といって、米百俵が送られて来た。長岡の城下町は、新政府軍によって徹底的に焼き払われていた。その復興作業が遅々として進まない上に、武士も民も、「今日一日どうやって食っていくか」ということで悩み抜いていた。食糧が絶対的に不足していたのである。 
そんなときに、分家の三根山藩から百俵の米が送られて釆たから、土民をあげて大喜びとなった。たちまち大参事であるわたしのところに、「三根山から送られて来たお米を、すぐ分けてていただきたい」という声が押し寄せた。 
しかしわたしはその要望を蹴った。「米を分ければすぐなくなる。それよりも、この米を売って今後の子弟教育のための学校につかう」と宣言した。大騒ぎになった。武士の中には、抜き身を突き付けてわたしを胴喝したものもいる。しかしわたしは怯まなかった。それは幼年時代からわたしは、「教育の重要さ」を身にしみて認識していたからである。 
「結局、教育が行き届かないために、人材育成に事を欠き、長岡藩牧野家は今度のような悲惨な日に遭ったのだ」という考えを持っていた、つまり、「危機に際して、その危機をみごとに管理する人物がいなかった」ということだ。 
これはある意味で、河井継之助批判になる。事実わたしは河井のやり方を批判していた。世間では、河井が生きている間から、わたしと河井の関係を、「ライバル同士だ」といった。 
「意見が全くちがう敵対老だ」とも見た。ある面では当たっている。しかしある面はちがう。   
河井とは役割が違っていた 
戦死者を悼む碑としては、早い時期に建てられたものだと思う。しかし、この頃、長岡の土民は塗炭の苦しみに陥っていた。それは、前に話したように、「石高の激減」に遭遇したからである。 
窮状を兼ねた分家三根山藩から米百俵が届けられて来た。藩の大参事になり、藩政の最高賓任者になっていたわたしは、「救済米を分けてほしい」という土民の要求を断固一蹴した。答えて、「学校建設(実際には既設の学校の強化拡充)の資に当てたい」と宣言した。困窮土民たちは、「米が食えぬのに、なぜ百俵の米を売って学校の建設資金など整えるのだ」と迫った。わたしは、「米が食えぬから、食えるように子弟を教育すろのだ。もっと先を見ろ」と言い返した。この時はまさに命懸けだった。わたしの説得が成功するとは思わなかった。しかしわたしは完全に、「命懸け」だった。これが自分の信奉する、「至誠天に通ず」という現象を生んだ。わたしのところへ抜き身を引っ提げて怒鳴り込んで来た人びとも納得した。これは嬉しかった。互いに手を取り合って泣いた。それは、「今後、さらに厳しくなる困窮状況を共に耐え抜こう。そのことが自分たちの子、孫のためになる」という決意を互いに誓ったことだ。その決意の底にはやはり、「長岡の地をこういう惨状にしてしまった、われわれ大人たちの責任」の自覚があった。 
そしてそれは、わたし自身特に深かった。つまり、わたし自身は激動する長岡藩末期において、たとえ謹慎の身ではありながらも、自分の無力ぶりを慨嘆せざるを得なかったからである。それは単に、「職務上における自分の立場」の非力さを感じただけではない。 
「学問の現実に対する効能カ」についても、深く反省せざるを得なかったのである。 
わたしが米百俵を金に換えて、子弟を教育したいというのも、「今後の長岡を発展させ、日本のために斥くせるような子弟の教育」を志していたからである。 
私がつくった学校の系譜から、のちに軍師山本五十六元帥が育った。山本五十六元帥が決して、「戦争好きの大将」でなかったことは、「米百俵」の戯曲を書いた作家山本有三さんの講演などによっても明らかだ。 
が、山本有三さんも講演や作品の中で、「長岡藩には人がいなかったためにああいう惨状を招いた」と結論づけておられる。それは暗に、「河井継之助の指導が間違っていた」ということになる。しかしわたしは必ずしもそうは考えていない。 
わたしが冥界に入ったのば、明治十年(一八七七)八月二十四日のことで、わたしは五十歳だった。病翁と号した長年の闘病生活にも疲れ架て、永遠の眠りについたのである。あの頃のことをいろいろと思い起こしていると、結局わたしと河井継之肋は、「時代に対する役割分担があった」ということだ。そして、「互い承知の上で、その役割を黄任をもって果たした」。
米百俵と小林虎三郎2  
前総理大臣小泉純一郎氏の所信表明演説で、「米百俵」の精神は脚光を浴びた。  
しかし、この「米百俵」の話は、概要をさらりと話されただけで、学校の社会科の教師も取り上げて話そうとはしなかった。  
私は当然、学校の教師がこの話をするものとばかり思っていた。  
このあまりにも有名な話の中に出てくる小林虎三郎はそれにも増して知られていない。  
歴史は人間学、それは私の持論であるが、「歴史読本」の永岡慶之助の文章を引用して、何回か記事にさせてもらうことにする。  
家禄百石の越後長岡藩士の家に生まれた寅三郎(小林虎三郎)は、弱冠十七歳にして藩校「崇徳館」の助教をつとめるという早熟さであった。  
二十三歳の時、藩命によって江戸へ遊学。  
木挽(こびき)町に西洋流砲術指南の塾を開いて当時評判の佐久間象山(さくましょうざん)の門に入った。  
象山塾には勝麟太郎(海舟)、山本覚馬、橋本左内、吉田松陰、さらには同じ長岡藩士の河井継之助も学んだ。  
山本覚馬は、のち会津藩砲術師範となり、新島嚢とともに京都同志社創立に関わる。  
とにかく象山塾には諸国から俊秀(しゅんしゅう:才知にすぐれていること)がぞくぞくと入門、技術を身につけようと競った。  
そうした中にあって小林虎三郎は、長州藩士吉田寅次郎(松陰)と並ぶ俊秀として、「象門の両虎」と称された。  
当然、象山は「両虎」に嘱目(しょくもく:今後どうなるか、関心や期待をもって見守ること)した。  
そもそも象山は、東洋の道徳と西洋の技術の融合を理想とし、開国を持論とする。  
安改元年(1854)のペリー再来航の際、象山の意をうけ、虎三郎は横浜開港の事を、幕府老中の長岡藩主牧野忠雅に進言したため、忌諱に触れて(きいにふれる:機嫌が悪いこと)、国元において蟄居謹慎(ちっきょきんしん:自宅や一定の場所に閉じ込めて謹慎させたもの)の身となった。  
もう1人の「虎」吉田松陰は、象山に西洋を見てくるように薦められ、伊豆下田で海外密航を企てるが失敗。  
のち安政大獄に連座して江戸伝馬町の獄屋に刑死した。  
象山もまた、渡航を指嗾(しそう:指図してそそのかすこと)したとして、危うく死罪に処せられるところを、昵懇(じっこん:親しく打ち解けてつきあうこと)の幕臣川路聖謨(としあきら)の奔走で、国元信州松代への蟄居謹慎で済んだ。  
 
激動の時代だ。戊辰戦争が勃発し、同門で岡津士の河井継之助と小林虎三郎は命運を決した。  
同じ長岡藩の俊才ながら、豪放不羈、行動的な継之助は、戊辰当時、藩の軍事総督の任にあり、武装中立論をもって新政府軍との交渉にのぞんだが、容れられずに開戦となつた。  
時に虎三郎は、非戦論を説いて継之助と対立している。  
しかし時勢の赴くところ北越戦争に突入、長岡城は落城する。  
一度は奪還したものの、激戦の果て再び落城、城下は焦土と化した。  
敗軍となつた継之助は会津をめざして逃れたが、途中塩沢村で戦傷が悪化して絶命した。  
一方、継之助の主戦論に敗れた虎三郎は、戦火の難を逃れ、明治二年(1869)、新政府から長岡藩大参事を拝命した。  
が、死ぬも地獄、生くるも地獄といえるほど、兵火に焼かれ、飢餓に苦しむ長岡城下では惨状を呈しているのだ。  
『この完全に焼土化した長岡藩を、どのように復興させるべきか……』虎三郎は唇を噛んで思わず、呟いたと言う。  
「死んだ河井殿が羨ましいほどだ」  
河井継之介は、司馬遼太郎の「峠」という小説で有名だ。  
彼は日本の中に中立国を作ろうとする。  
越後長岡藩という小さな藩に生まれた継之介は、武力強化をすることによって、藩を強くしこの夢を実現しようとする。  
そして、維新の波に飲み込まれていく。  
一度決まったことに対して、自分の全精力を傾け、最善を尽くす継之介の生き様が感動的に書かれている。  
 
長岡藩の支藩に三根山藩(新潟市西蒲区)なる小藩がある。  
一万一千石で、藩主は牧野忠泰。  
本藩の長岡城が最初に落城した際、降伏しようとしたが、奥羽列藩同盟の庄内藩兵に威迫され、新政府軍と一戦したため、藩主牧野忠泰は一時幽閉された。  
が、一部の小隊が政府軍に従軍したことにより無事釈放され、所領も安堵された。  
この三根山藩が、本藩の困窮の状を見かねて、ささやかながら百俵の見舞米を贈った。  
敗戦にうちひしがれ、焼土と化した長岡藩の人びとにとって、これはまさに干天に慈雨というべき贈物である。  
藩士たちが歓声を上げたのも無理はない。  
ところが大参事小林虎三郎は「この米百俵を売った金を元手にして、学校を造る」と提案したため、一藩騒然となり、中には激昂して虎三郎を斬り捨てるという者すら現われた。  
「飢えたる我らを殺す気か!」と。  
だが、このとき虎三郎は、たじろぐことなく、激しく抗議する藩士たちに、「百俵の米も、分けて食すれば、たちまちにして無くなる。わが藩の子弟が、この荒廃した焦土の中から立ち上がれるよう、学校を造ろうではないか」と説得、米を売り払った代金で国漢学枚を創設した。  
困窮の今をこらえて明日の教育資金にあてる、いわゆる「国家百年の大計」に生きよう、という虎三郎の抱負は、山本有三の戯曲『米百俵』により、広く天下の感動を呼んだ。  
彼の決断により、のちに山本五十六など、どれだけ有為の人材を生んだことか。  
 
私は国会でこの話が出たとき、子どもに話そうと少し勉強した覚えがある。「国家百年の大計」という話も虎三郎が、命を狙われてまで、学校を作ろうとしたこともテレビなどでは流されていた。しかし私は、小林虎三郎と河井継之介の運命について考えてしまった。虎三郎には、数々の理想を持ちながら散っていった者たちの想いが、大きくのしかかっていたのだと思う。