物いはぬ 四方の獣

ものいはぬ よものけだもの すらだにも
あはれなるかなや おやのこをおもふ
   話すことのできない この世のどんな獣でも
   親が子を思う気持ちがあることって 心動かされる

ふと目にした テレビ番組
源実朝の和歌

どうして 今の日本人
   こんなに馬鹿になってしまったんだろう

 


 
 
●「物いはぬ 四方の獣 すらだにも あはれなるかなや 親の子を思ふ」 
源実朝 『金塊和歌集』
ものいはぬ よものけだもの すらだにも あはれなるかなや おやのこをおもふ
   四方の獣 / この世の動物
   すらだにも / 〜でさえも 副助詞「すら」+副助詞「だに」+副助詞「も」
   あはれなる / しみじみとした思い、趣深い
   かなや / 感動、詠嘆をあらわす 接続助詞 詠嘆「かな」+係助詞「や」
現代語訳
1 話すことのできない、この世のどんな獣でも、親が子を思う気持ちがあることって心動かされるよなあ。
2 言葉をもたない獣たちでさえ、いとおしいものだ、親が子を思う心は。
3 物言わぬ、どこにもいる獣でさえも、いとしいことよ、親が子を思うさまは。
4 口をきかない、いたる所にいる獣でさえも、しみじみと胸をうたれるなあ。親が子を大切に思う様子には。「慈悲の心を」と詞書にあるように、いつくしみ哀れむ心の例として、獣の親が子を思う愛情の深さを歌ったもの。第四句を「あはれなるかな」とする伝本もある。
5 もの言うすべを持たぬ四方の獣でさえも、親がその子をいとおしんでいる様子には、まことに胸に迫るものがある。「慈悲の心」という仏教の根幹をなす理念を題意として詠んだ歌。人間はもとより、そこらに棲む獣でさえも、親が子を慈しむ心を持っているものだとあらためて確認したものである。人間のように「ことばという概念」を持たない「獣すらだにも」、本能的に「慈悲の心」を持ち合わせていることを「あはれなるかなや」と、くどいほど強調しているのは、それに比して、肉親愛とは無縁であった自らの境涯を思い起こしてのことであろう。
最後の源氏将軍
源実朝は、頼朝の次男であり鎌倉幕府三代目将軍です。そして、20代で暗殺された源氏最後の将軍です。人生を簡単に要約すると・・・ 
父である源頼朝は日本初の武士による政権である鎌倉幕府を創設。その父の死後、兄の源頼家が将軍を継ぐも、武士たちによる権力闘争の中、頼家は追放・暗殺されてしまいます。鎌倉幕府は将軍が絶対的な権力を有した政治組織ではなく、その権力基盤は武士たちに支えられてました。例えるなら、鎌倉幕府は設立して間もないベンチャーであり、創業メンバーの力関係は微妙で、会社組織としてのガバナンスもまだ確立できていない状態だったのです。そのような中、頼朝の次男であった実朝は12歳で将軍となります。とはいえ政務に関われる年齢ではなく、北条氏を中心とした権力闘争は続いておりました。時には自分が命を狙われることもありながらも、実朝は成長するにつれて政治にも関与していきます。特に京都で絶大な権力を有していた後鳥羽上皇とは良好な関係を保ち、武士として右大臣にまでのぼりつめました。
(このことや短歌が有名であることからも、実朝は武士の棟梁という自覚が薄く、貴族文化に傾倒した人物と描かれます。しかし、当時の朝廷はまだ絶大な権力を持っており、どの武士も朝廷からの官位を欲していた時代であり、そう簡単に論じられることでもないのです)
その右大臣就任の儀式を鶴岡八幡宮で執り行っていた最中、兄頼家の子、公暁に「父の仇!」と暗殺されてしまいます。これ以降、将軍は京都から呼び寄せる名ばかり将軍となり、権力は北条家が一手に握っていきます。最後の源氏将軍。それが源実朝なのです。
実朝の人生は以上の通りなのですが、もう一つ忘れてはならない側面が、歌人としての実朝です。その歌には傑作が多く歌集として『金塊和歌集』というものがあります。あの明治の短歌復興の立役者であり、過去の短歌に容赦ない批評を繰り広げた正岡子規が『歌よみに与ふる書』の冒頭からべた褒めしたのがなんと実朝なのです。その数奇な運命から詠まれた歌には、率直で人の心を打つものが多いのです。
短歌を味わう
今回の歌は、実朝がある動物の行動を見た時の思いを歌にしたものです。何の動物だったかは伝わっておりませんが、親が子供を慈しむ行動を見て、実朝は「あはれなるかな」と感動するのです。その感動は、倒置法と字余りにもあらわれております。
   倒置法
「物いはぬ 四方の獣 すらだにも 親の子を思ふ あはれなるかなや」→「物いはぬ 四方の獣 すらだにも あはれなるかなや 親の子を思ふ」前が通常の文章。後が倒置法。実朝は「あはれなるかなや」と先に感動を述べ、その後に、何に感動したかというと「親の子を思ふ」に。という形に歌を詠みました。これにより、「あの物も言わない動物たちにも・・・ああ心を動かされる・・・親が子を思うなんて」といかに感動したかが伝わります。
   字余り
あはれなるかなや→8文字、親の子を思ふ→8文字、どちらも1文字多いです。例えば「あはれなるかな」と詠んでもよいところを、あえて「あはれなるかなや」と字余りにしております。実朝がいかに感じたことをストレートに詠んだか。そして、その感じたことがいかに深いものだったか。それが7文字におさまらず、字余りという形で表現されています。非常に率直な内容であり、かつ形式を少し逸脱したこの歌は、実朝の声がそのまま漏れ出たような感じすらします。
それにしても、動物の行動から親心を感じとってしまうこの感性がすごいです。これはもう人間性の領域で、真似しようと思って真似できるものではありません。何せ心からそう感じなければいけないのですから。そして、飾り気のない率直な表現で感動を歌にしてしまう。誰もが実朝の見た景色が思い浮かび、そして同じように感動を共有できる。これが実朝が歌人として後世まで名を残す素晴らしいポイントなのです。
歌はその人物の真心があらわれます。本当に心から思っていないことを歌にできないのです。鎌倉幕府三代目将軍 源実朝。この人物は慈しみ、優しさを有した人物であったことが、その歌から窺い知ることができますね。 
 
 
 
●源実朝 
源 実朝(みなもと の さねとも、實朝)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治ははじめ執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く、武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。
歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。
●生涯​
出生
建久3年(1192年)8月9日巳の刻、鎌倉で生まれる。幼名は千幡。父は鎌倉幕府を開いた源頼朝、母はその正妻・北条政子。乳母は政子の妹・阿波局・大弐局ら御所女房が介添する。千幡は若公として誕生から多くの儀式で祝われる。12月5日、頼朝は千幡を抱いて御家人の前に現れると、「みな意を一つにして将来を守護せよ」と述べ、面々に千幡を抱かせる。建久10年(1199年)に父が薨去し、兄の頼家が将軍職を継ぐ。
将軍就任​
建仁3年(1203年)9月、比企能員の変により頼家は将軍職を失い、伊豆国に追われる。母の政子らは朝廷に対して9月1日に頼家が死去したという虚偽の報告を行い、千幡への家督継承の許可を求めた。これを受けた朝廷は7日に千幡を従五位下・征夷大将軍に補任した。10月8日、北条時政邸において12歳で元服し、後鳥羽院の命名により、実朝と称した。儀式に参じた御家人は大江広元・小山朝政・安達景盛・和田義盛ら百余名で、理髪は祖父・北条時政、加冠は門葉筆頭・平賀義信が行った。24日にはかつて父が務めた右兵衛佐に任じられる。翌年、兄・頼家は北条氏の刺客により暗殺された。
元久元年(1204年)12月、京より後鳥羽の従妹でもある後鳥羽の寵臣・坊門信清の娘(西八条禅尼)を正室(御台所)に迎える。『吾妻鏡』によれば、正室ははじめ足利義兼の娘が考えられていたが、実朝は許容せず使者を京に発し妻を求めた。しかし実朝はまだ幼く、この決定は実際は時政と政子の妥協の産物とする説もある。元久2年(1205年)1月5日に正五位下に叙され、29日には加賀介を兼ね右近衛権中将に任じられる。
騒乱と和歌​
元久2年(1205年)4月、12首の和歌を試作する。6月、畠山重忠の乱が起こり、北条義時、時房、和田義盛、三浦義村らが鎮める。乱後の行賞は政子により計らわれ、実朝の幼年の間はこの例によるとされた。閏7月19日、時政邸にあった実朝を侵そうという牧の方の謀計が鎌倉に知れわたる。実朝は政子の命を受けた御家人らに守られ、義時の邸宅に逃れた。牧の方の夫である時政は兵を集めるが、兵はすべて実朝のいる義時邸に参じた。20日、時政は伊豆国北条に追われ、執権職は義時が継いだ(牧氏事件)。9月2日、後鳥羽が勅撰した『新古今和歌集』を京より運ばせる。和歌集はいまだ披露されていなかったが、和歌を好む実朝は、父の歌が入集すると聞くとしきりに見ることを望んだ。
建永元年(1206年)2月4日、北条義時の山荘に立ち寄り、北条泰時、東重胤、内藤知親らと歌会を催す。2月22日、従四位下へ昇り、10月20日には母の命により兄・頼家の次男である善哉を猶子とする。11月18日、歌会で近仕していた東重胤が数か月ぶりに鎌倉へ帰参する。実朝はかねてより和歌を送って重胤を召していたが、遅参したために蟄居させる。12月23日、重胤は義時の邸宅を訪れ、蟄居の悲嘆を述べる。義時は「凡そこの如き災いに遭うは、官仕の習いなり。但し詠歌を献らば定めて快然たらんかと」と述べ、重胤を伴って実朝の邸宅に赴き、重胤の詠歌を実朝に献じて重胤を庇った。実朝は重胤の歌を3回吟じると、門外で待つ重胤を召し、歌のことを尋ね許した。
承元元年(1207年)1月5日、従四位上に叙せられる。承元2年(1208年)2月、疱瘡を患う。回復まで2か月かかった重症で、実朝はそれまで幾度も鶴岡八幡宮に参拝していたが、以後3年間は病の瘡痕を恥じて参拝を止めた。幕府の宗教的な象徴である鶴岡八幡宮への参拝は、将軍の公的行事の中でも最も重要なものの一つであり、その期間の実朝は疱瘡による精神的打撃から政務のほぼ全般を行い得なかったのではないかと推測する見解もある。同年、12月9日、正四位下に昇る。
承元3年(1209年)4月10日、従三位に叙せられ、5月26日には右近衛中将に任ぜられる。公卿となり政所を開設する資格を得、親裁権を行使し始める。この頃から幕府の下文が「鎌倉殿下文」から「政所下文」に変化する。7月5日、和歌30首の評を藤原定家に請う。8月13日、定家はこれに合点を加え、さらに「近代秀歌」として知られる詠歌口伝1巻を献じた。11月14日、義時が郎従の中で功のある者を侍に準ずることを望む。実朝は許容せず、「然る如きの輩、子孫の時に及び定めて以往の由緒を忘れ、誤って幕府に参昇を企てんか。後難を招くべきの因縁なり。永く御免有るべからざる」と述べる。しかし後世、北条氏の家人は御内人と呼ばれ、幕府で権勢を振るうこととなる。
建暦元年(1211年)1月5日、正三位に昇り、18日に美作権守を兼ねる。9月15日、猶子に迎えていた善哉は出家して公暁と号し、22日には受戒のため上洛した。
建暦2年(1212年)3月1日、「旬の蹴鞠」を始めたいという実朝の意向により「幕府御鞠始」を行う。実朝の蹴鞠記事は頼朝に比べ格段に少なく、恐らく4年前の承元2年に「承元御鞠」を催した後鳥羽を範としたものである。6月7日、侍所において宿直の御家人が闘乱を起こし、2名の死者が出る。7月2日、実朝は侍所の破却と新造を望み、不要との声を許容せず、千葉成胤に造進を命じる。12月10日、従二位に昇る。この頃しばしば幕府において歌会を催し、御家人との結びつきを固める(承元4年11月、建暦3年2月など)。特にしばしば泰時が伺候していることが注目される。
和田合戦​
建暦3年(1213年)2月16日、御家人らの謀反が露顕する。頼家の遺児を将軍とし、義時を討とうという企てであり、加わった者が捕らえられる(泉親衡の乱)。その中には侍所別当を務める和田義盛の子である義直と義重らもあった。20日、囚人である薗田成朝の逃亡が明らかとなる。実朝は成朝が受領を所望していたことを聞くと、かえって「早くこれを尋ね出し恩赦有るべき」と述べる。26日、死罪を命じられた渋河兼守が詠んだ和歌を見ると過を宥めた。27日に謀反人の多くは配流に処した。同日、正二位に昇る。3月8日、和田義盛が御所に参じ対面する。実朝は義盛の功労を考え、義直と義重の罪を許した。9日、義盛は一族を率いて再び御所に参じ、甥である胤長の許しを請うが、実朝は胤長が張本として許容せず、それを伝えた北条義時は和田一族の前に面縛した胤長を晒した。
4月、義盛の謀反が聞こえ始める。5月2日朝、兵を挙げる。義時はそれを聞くと幕府に参じ、政子と実朝の妻を八幡宮に逃れさせた。酉の刻、義盛の兵は幕府を囲み、御所に火を放つ。ここで実朝は火災を逃れ、頼朝の墓所である法華堂に入った。戦いは3日に入っても終わらず、実朝の下に「多勢の恃み有るに似たりといえども、更に凶徒の武勇を敗り難し。重ねて賢慮を廻らさるべきか」との報告が届く。驚いた実朝は政所にあった大江広元を召すと、願書を書かせそれに自筆で和歌を2首加え、八幡宮に奉じる。酉の刻に義盛は討たれ、合戦は終わった。5日、実朝は御所に戻ると、侍所別当の後任に義時を任じ、その他の勲功の賞も行った(和田合戦)。
9月19日、日光に住む畠山重忠の末子・重慶が謀反を企てるとの報が届く。実朝は長沼宗政に生け捕りを命じるが、21日、宗政は重慶の首を斬り帰参した。実朝は「重忠は罪無く誅をこうむった。その末子が隠謀を企んで何の不思議が有ろうか。命じた通りにまずその身を生け捕り参れば、ここで沙汰を定めるのに、命を奪ってしまった。粗忽の儀が罪である」と述べると嘆息し、宗政の出仕を止める。それ伝え聞いた宗政は眼を怒らし「この件は叛逆の企てに疑い無し。生け捕って参れば、女等の申し出によって必ず許しの沙汰が有ると考え、首を梟した。今後このような事があれば、忠節を軽んじて誰が困ろうか」と述べた。閏9月16日、兄・小山朝政の申請により実朝は宗政を許す。11月23日、藤原定家より相伝の『万葉集』が届く。広元よりこれを受け取ると「これに過ぎる重宝があろうか」と述べ賞玩する。同日、仲介を行った飛鳥井雅経がかねてより訴えていた伊勢国の地頭の非儀を止めさせる。建暦3年12月の奥書のある『金槐和歌集』はこの頃にまとめられたと考えられている。
建保2年(1214年)5月7日、延暦寺に焼かれた園城寺の再建を沙汰する。6月3日、諸国は旱魃に愁いており、実朝は降雨を祈り法華経を転読する。5日、雨が降る。13日、関東の御領の年貢を3分の2に免ずる。また同年には、栄西より『喫茶養生記』を献上される。栄西は翌年に病で亡くなるが、大江親広が実朝の使者として見舞った。建保4年(1216年)3月5日、政子の命により頼家の娘(後の竹御所)を猶子に迎える。
渡宋計画​
建保4年(1216年)5月20日、1首の和歌と共に恩賞の少なさを愁いた紀康綱に備中国の領地を与える。詠歌に感じた故という。6月8日、東大寺大仏の再建を行った宋人の僧・陳和卿が鎌倉に参着し「当将軍は権化の再誕なり。恩顔を拝せんが為に参上を企てる」と述べる。15日、御所で対面すると、陳和卿は実朝を3度拝み泣いた。実朝が不審を感じると、陳和卿は「貴客は昔宋朝医王山の長老たり。時に我その門弟に列す。」と述べる。実朝はかつて夢に現れた高僧が同じことを述べ、その夢を他言していなかったことから、陳和卿の言を信じた。
6月20日、権中納言に任ぜられ、7月21日、左近衛中将を兼ねる。9月18日、北条義時と大江広元は密談し、実朝の昇進の早さを憂慮する。20日、広元は義時の使いと称し、御所を訪れて「御子孫の繁栄の為に、御当官等を辞しただ征夷大将軍として、しばらく御高年に及び、大将を兼ね給うべきか」と諫めた。実朝は「諌めの趣もっともといえども、源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」と答える。広元は再び是非をいわずに退出し、それを義時に伝えた。
11月24日、前世の居所と信じる宋の医王山を拝すために渡宋を思い立ち、陳和卿に唐船の建造を命じる。義時と広元はしきりにそれを諌めたが、実朝は許容しなかった。建保5年(1217年)4月17日、完成した唐船を由比ヶ浜から海に向かって曳かせるが、船は浮かばずそのまま砂浜に朽ち損じた。なお、宋への関心からか、実朝は宋の能仁寺より仏舎利を請来しており、円覚寺の舎利殿に祀られている。また渡宋を命じられた葛山景倫は、後に実朝のために興国寺を建立したという。
最期​
建保5年(1217年)6月20日、園城寺で学んでいた公暁が鎌倉に帰着し、政子の命により鶴岡八幡宮の別当に就く。この年、右大将の地位を巡って西園寺公経と大炊御門師経が争い、公経が後鳥羽上皇の怒りを買った際に、実朝が遠縁である公経のために取りなした。上皇は内心これを快く思わず、実朝と上皇の間に隙が生じたまま改善されなかったとする見方がある。
建保6年(1218年)1月13日、権大納言に任ぜられる。2月10日、実朝は右大将への任官を求め使者を京に遣わすが、やはり必ず左大将を求めよと命を改める。右大将はかつて父が補任された職で、左大将はその上位である。同月、政子が病がちな実朝の平癒を願って熊野を参詣する。政子は京で後鳥羽上皇の乳母の卿局(藤原兼子)と対面したが、『愚管抄』によればこの際に実朝の後継として後鳥羽上皇の皇子を東下させることを政子が卿局に相談した。卿局は養育していた頼仁親王を推して、2人の間で約束が交わされたという。3月16日、実朝は左近衛大将と左馬寮御監を兼ねる。10月9日、内大臣を兼ね、12月2日、九条良輔の薨去により右大臣へ転ずる。武士としては初めての右大臣であった。21日、昇任を祝う翌年の鶴岡八幡宮拝賀のため、装束や車などが後鳥羽上皇より贈られる。26日、随兵の沙汰を行う。
建保7年(1219年)1月27日、雪が2尺ほど積もる日に八幡宮拝賀を迎えた。夜になり神拝を終え退出の最中、「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われ、実朝は落命した。享年28(満26歳没)。公暁は次に源仲章を斬り殺したが、『愚管抄』によるとこれは北条義時と誤ったものだという。『吾妻鏡』によれば、義時は御所を発し八幡宮の楼門に至ると体調の不良を訴え、太刀持ちを仲章に譲ったとある。一方で『愚管抄』によれば、義時は実朝の命により太刀を捧げて中門に留まっており、儀式の行われた本宮には同行しなかったとある。実朝の首は持ち去られ、公暁は食事の間も手放さなかったという。同日、公暁は討手に誅された。
『吾妻鏡』によると、予見があったのか、出発の際に大江広元は涙を流し「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これ只事に非ず。御束帯の下に腹巻を着け給うべし」と述べたが、仲章は「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」と答え止めた。また整髪を行う者に、記念と称して髪を1本与えている。庭の梅を見て詠んだと伝わる辞世の和歌は、「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」で「禁忌の和歌」と評される。落命の場は八幡宮の石段とも石橋ともいわれ、また大銀杏に公暁が隠れていたとも伝わる。『承久記』によると、一の太刀は笏に合わせたが、次の太刀で切られ、最期は「広元やある」と述べ落命したという。
公暁による暗殺については、実朝を除こうとした「黒幕」によって実朝が父(頼家)の敵であると吹き込まれたためだとする説がある。ただし、その黒幕の正体については北条義時、三浦義村、北条・三浦ら鎌倉御家人の共謀、後鳥羽上皇など諸説ある。またそれらの背後関係よりも、公暁個人が野心家で実朝の跡目としての将軍就任を狙ったところにこの事件の最も大きな要因を求める見解もある。
28日、妻は落餝し、御家人百余名が出家する。『吾妻鏡』によると亡骸は勝長寿院に葬られたが首は見つからず、代わりに記念に与えた髪を入棺したとあるが、『愚管抄』には首は岡山の雪の中から見つかったとある。実朝には子がなかったため、その死によって源氏将軍および源頼信から続く河内源氏直系棟梁の血筋は断絶した。
●和歌​
『金槐和歌集』定家所伝本に663首(貞亨本では719首)の和歌が収められている。万葉風の和歌もあるが、大半は『古今和歌集』や『新古今和歌集』の模倣の域を出ないとされている。しかし少数ながら、時代の水準を大きく超える独創的な和歌を残しており、その生涯と相まって「悲劇の天才歌人」というイメージを与えている。
和歌の師である藤原定家は『新勅撰和歌集』に実朝の和歌を25首入集させており(同集の入集数第6位)、『小倉百人一首』に
世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟の 綱手かなしも
を選んでいる。以後、勅撰和歌集に合計92首入集しており、『愚見抄』『愚秘抄』などの定家に仮託された歌論書でも人麻呂・赤人に匹敵する歌人とされていることから、中世においても、京都の中央歌壇で活動することがなかった歌人としては相当に高い評価を受けていたと見られる。
近世になると、松尾芭蕉が弟子の木節に「中頃の歌人は誰なるや」と問われ、言下に「西行と鎌倉右大臣ならん」と答えたという。賀茂真淵は『金槐和歌集』の貞享本を校訂したときの付言に、その万葉風の和歌を「大空に翔ける龍の如く勢いあり」などと絶賛し、各和歌に付した評語の中では、特に
もののふの 矢なみつくろふ 小手の上に 霰たばしる 那須の篠原
を「人麿のよめらん勢ひなり」と激賞している。
明治時代には、正岡子規を中心に和歌革新運動が進められたが、その口火を切った評論「歌よみに与ふる書」は「仰せのごとく近来和歌は一向に振い申さず候。正直に申し候えば『万葉』以来、実朝以来、一向に振い申さず候」という文で始まっており、『万葉集』以後の第一人者とされている。この評価はアララギ派の歌人によって継承され、万葉風の歌人というイメージを定着させた。その中心となったのは斎藤茂吉であり、
大海の 磯もとどろに よする浪 われて砕けて 裂けて散るかも
を「真に天然の無常相に観入した歌」と絶賛している。
昭和期には、小林秀雄が「実朝」で、万葉風の歌人という評価の中では見落とされていた、
流れ行く 木の葉のよどむ えにしあれば 暮れての後も 秋の久しき
のような作品に注目し、「無垢な魂の沈痛な調べが聞かれる」と評している。戦時中は『愛国百人一首』に、
山は裂け 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも
が収録され、愛国歌として大いにもてはやされた。
戦後には、吉本隆明が〈実朝的なもの〉を「暗い詩心ともいうべきものに帰せられる」とし、
くれなゐの ちしほのまふり 山の端に 日の入るときの 空にぞありける
を「この種の絶品を生涯のうちに一首でももっている歌人は、歴史のなかでも数えるほどしかない」と激賞している。
●評価​
『愚管抄』
暗殺された実朝について「又おろかに用心なくて、文の方ありける実朝は又大臣の大将けがしてけり。又跡もなくうせぬるなりけり」。
『吾妻鏡』
蹴鞠の書が京より送られたのを受け「将軍家諸道を賞玩し給う中、殊に御意に叶うは、歌鞠の両芸なり」。
長沼宗政
畠山重慶謀反の際に「当代は歌鞠を以て業と為し、武芸は廃るるに似たり。女性を以て宗と為し、勇士これ無きが如し。また没収の地は、勲功の族に充てられず。多く以て青女等に賜う」。
大江広元
昇任を急ぐ実朝を憂慮し、「今は先君の遺跡を継ぐばかりで、当代にさせる勲功は無く、諸国を管領し中納言中将に昇られる」。
正岡子規
仰の如く近来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば万葉以来實朝以来一向に振ひ不申候。實朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存候。強ち人丸・赤人の余唾を舐るでもなく、固より貫之・定家の糟粕をしやぶるでもなく、自己の本領屹然として山岳と高きを争ひ日月と光を競ふ処、実に畏るべく尊むべく、覚えず膝を屈するの思ひ有之候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤なるべく、北条氏を憚りて韜晦せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、實朝は全く例外の人に相違無之候。何故と申すに實朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、例の物数奇連中や死に歌よみの公卿たちととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、實朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。真淵は力を極めて實朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。真淵は實朝の歌の妙味の半面を知りて、他の半面を知らざりし故に可有之候。
●研究​
後鳥羽上皇は実朝に好意的であり、その昇進に便宜を図ったといわれている。その一方で、建永元年12月(1207年)に上皇が要求した備後国太田荘の地頭職停止要求を拒絶するなど、対朝廷の強硬態度を示しており、西園寺公経が右近衛大将を解任された折には、上皇の非を指摘してこれを諌めている。また、順徳天皇の蔵人に任じられた長井時広が鎌倉での職務を疎かにして京都に戻ろうとするのを「御家人でありながら鎌倉を軽んじている」とたしなめている。父・頼朝は自分の娘を後鳥羽天皇(当時)の妃にしようとするなど幕府を固めるために朝廷の利用を考えていた面があり、上皇との接近はその継承とも解釈できる。後鳥羽から見れば、実朝中心の幕府であれば武士の臣従を前提とした公武融和路線が進められると見ていたが、実朝の死によりその路線の破綻は明らかになり、承久の乱につながったとも考えられる。
上横手雅敬以来、幕府と後鳥羽には継嗣のない実朝の後継として後鳥羽の皇子を将軍(宮将軍)として猶子に迎える密約があったことが指摘され、また急激な官位の昇進をそのための環境づくりの側面があったとする見方がある(形式上でも皇族の父親となる以上、大臣級の官位を必要とした。河内祥輔説)。だが、鎌倉幕府成立以後、武士階層が次第に政治力と自信をつけてくるにつれて、朝廷や貴族による支配を拒絶する態度をより明確にするようになり、その中核をなした御家人などからは極端な官位昇進などを朝廷重視の姿勢の現れであると見なされ、後の暗殺事件への伏線になったとの説もある。一方で元木泰雄は、頼家・実朝は共に摂関家子弟クラスにしか許されていなかった「五位中将」となっていて、源氏将軍家は摂関家並みの家格が認められており、その点から見れば実朝の急速な官位上昇も摂関家子弟と比較すればごく普通なものであるとしている。
五味文彦は、実朝は承元3年(1209年)、18歳で政所開設とともに親裁権を行使し始めたとし、「実朝が直接の手本とした統治者は後鳥羽院だった。和歌・管弦に実朝が親しんだのもこの統治者の道にほかならなかった。」「頼朝・頼家・実朝と3代続いた源氏将軍は、否応なしに独裁の途を歩まねばならなかったのである。これに東国の有力御家人の北条氏らが強い反発を示したのは当然であろう。」としている。また、「実朝の最も直接的な影響を与えたのは北条泰時であった。泰時は実朝より約十歳の年上で、頼朝の徳政に学び、実朝の徳政を支えてきたことから、その徳政の延長上で武家の法典「御成敗式目」(貞永式目)を制定した。(中略)武家政権は泰時の段階に定着したが、幕府草創を担った頼朝や、後鳥羽上皇が推進した政治と文化に学び、武家の政治と文化の礎を築いた意味において、実朝の存在はもっと高く評価されるべきであろう。」としている。 
 
 
 
●源実朝の有名和歌 
源実朝(みなもと の さねとも)は鎌倉幕府を開いた源頼朝の次男で、鎌倉幕府の三代将軍です。
二代将軍だった兄の頼家が、幕府の中枢であった北条氏と対立して追放されたため、12歳で征夷大将軍となりました。父頼朝を尊敬し、配下である御家人からも信頼の篤い将軍だったと伝えられています。
朝廷からも重用され、武士では初めての右大臣にも任命されました。しかし26歳の折、頼家の子に暗殺されて短い生涯を終えました。
建保7年(1219)1月27日、源実朝が鶴岡八幡宮で暗殺されました。実朝は鎌倉幕府第3代将軍であると同時に優れた歌人としても知られ、小倉百人一首には「鎌倉右大臣」として和歌が採られています。
実朝は和歌が好きで、当時有名な歌人であった藤原定家から和歌の指導も受けていました。定家から「万葉集」を贈られると熱心に読み、和歌を勉強し続けたようです。実朝は多くの和歌を詠み、自分の歌集「金塊和歌集」の編纂も手がけました。
彼の和歌には京の貴族が好んだような雅な内容のものもあれば、「万葉集」にあるような自分の心を飾らずに表現したものもあります。
中には優れた感性で表現され、当時の歌人だけでなく正岡子規など後世の歌人からも絶賛されたような歌も見られます。
山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも
【意味】山が裂け、海の色が褪せるような世の中になったとしても、あなたに二心などあろうはずがない。
当時の権力者で実朝の妻の血縁でもある後鳥羽上皇への忠誠を歌ったものです。第五句の「あらめやも」は反語で「二心があるだろうか、いやない」と忠義の心を強調しています。「山はさけ」という力強い歌い出しと忠誠心をテーマにするところに武将らしさが感じられます。
古寺の くち木の梅も 春雨に そぼちて花も ほころびにけり
【意味】古寺の朽ちた梅の木が春の雨に濡れそぼって、梅の花もほころんでいる。
「ほころぶ」にはつぼみが少し開く様子や、口を開いて笑う様子といった意味があります。実朝には暖かな春の雨を受けた梅の花が嬉しそうに見えたのかもしれません。
今朝みれば 山もかすみて 久方の 天の原より 春は来にけり
【意味】今朝見ると山は春霞が立ってかすんでいて、遥か遠くの天上世界から春がやって来たのだなと思った。
「天の原」は神様の住む天界やのことです。春が天上世界からやって来るとは、単に巡る季節への感慨だけではなく天人が人間世界に春を分けてくれたような場面が想像され、春にありがたさを感じているように思われます。
風さわぐ をちの外山に 雲晴れて 桜にくもる 春の夜の月
【意味】遠くの外山に風が吹いて雲を晴らした。春の夜空は桜に曇って、そこには月が浮かぶ。
風がざわざわと騒ぐような音を立てたので見ると、遠くの山の方では雲が晴れて月が出ていたのでしょう。風で雲は流れたけれど桜が花霞のようになって月の姿をかすませるという、匂い立つような春の夜を歌ったものです。
昨日まで 花の散るをぞ 惜しみこし 夢かうつつか 夏も暮れにけり
【意味】つい昨日まで桜が散るのを惜しんでいたのに夢か現か既に夏が終わろうとしている。
実朝は何かでふいに夏がもう終わるのだなと感じて、時が経つのは早いものだと感慨を覚えたのでしょう。「夢かうつつか」には少しの驚きと、季節が移ることへの寂しさも感じられます。
秋ちかく なるしるしにや 玉だれの こすの間とほし 風のすずしき
【意味】秋が近いしるしなのだろう。すだれの隙間を通る風が涼しい。
暑い夏の終わりに吹く風に涼しさを感じて秋を思う歌です。すだれの隙間を通ってきた風はわずかなものでしょうが、それでも冷えた空気の流れが快かったのでしょう。「涼しい…」という心地の良さが率直に表されています。
夕されは 秋風涼し たなばたの 天の羽衣 たちや更ふらん
【意味】日が落ちると秋風が涼しい。七夕の天女が羽衣をまとって立つ頃だろう。
旧暦では七夕は秋にあります。実朝は涼しい夜風に吹かれながら星が瞬き始めた空を見上げて、そろそろ織姫が出発する頃だろうかと想像したのではないでしょうか。
萩の花 くれぐれまでも ありつるが 月出でて見るに なきがはかなさ
【意味】夕暮れまで咲いていた萩の花があったが、月が出たので見てみるともう散っていた儚さよ。
月の光の中で花を愛でようと思っていたのでしょうか。しかし花は散ってしまって既に姿はありませんでした。花の命の短さに驚きを感じ、その儚さに感じ入っています。儚さ故に花に愛情を感じたのかもしれません。
天の原 ふりさけみれば 月きよみ 秋の夜いたく 更けにけるかな
【意味】天を仰いで見れば月は清く澄んで、秋の夜は更けていくのだな。
秋の月の美しさを歌っています。空を「天の原」と表現したのは、月を清らかで神聖なものだと感じたからかもしれません。実朝は美しい月を眺めながら秋の夜の情緒をしみじみと味わっていたのでしょう。
秋はいぬ 風に木の葉は 散りはてて 山さびしかる 冬は来にけり
【意味】秋は去ってしまった。風で木の葉は散り果てて、山が寂しい冬が来たのだ。
初句の「秋はいぬ」がストレートで、秋が終わった寂しさが直接伝わります。紅葉して色鮮やかだった葉が枯れて散ってしまった山は見ていても寂しい、山だって寂しく思っているだろうという気持ちが感じられます。
世の中は つねにもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも
【意味】世の中はいつまでも変わらないでほしい。渚で海女の乗る小舟の漕ぎ手を見ても愛おしく感じるのだから。
どうか平和な今の世のまま変わらないでいてくれという願いが込められています。日常を愛していることが伝わり、自分だけでなく海女のような平民の暮らしも変わることがないようにとの思いが伝わる歌です。
時により 過ぐれば民の 嘆きなり 八大龍王 雨やめたまへ
【意味】時には過ぎたることが民の嘆きとなります。八大龍王よ、雨を降らすのをやめてください。
大雨で民衆に被害が出た際の歌です。雨は恵みだけれど、降りすぎては民が嘆くことになると、雨の神である八大龍王にあてた歌で、将軍として民を思う心が表れています。
来ぬひとを かならず待つと なけれども あかつきがたに なりやしぬらむ
【意味】来ない人を必ず待っているということでもないが、もう夜明けになってしまったようだ。
恐らく来ない恋人を夜明けまで待っていたのでしょう。必ずしも待ち続けているというわけではないけれど、と言いつつ本心では来るまで待つつもりだったのではないでしょうか。
大海の 磯もとどろに 寄する波 破れて砕けて 裂けて散るかも
【意味】大海の磯にとどろくように寄せる波、破れて砕けて裂けて散るようだ。
「破れて砕けて裂けて」と「て」の繰り返しによってリズムの良い歌となっており、繰り返し寄せる波をイメージさせます。荒々しい言葉を使って打ち寄せる波の迫力を表現した男性的で力強い歌です。
ものいはぬ 四方のけだもの すらだにも あはれなるかな 親の子をおもふ
【意味】言葉を話さない獣ですら人の心を動かすよ、親の子を思う気持ちには。
動物の親が子を大切にする様子を見て、獣にだって親子の愛情はあるのだと思ったのでしょう。まして人間ならばなおさら親子の情は深いのだと強く思ったのかもしれません。
月をのみ あはれと思ふを さ夜ふけて 深山がくれに 鹿ぞ鳴くなる
【意味】月にばかり趣があると思っていたが、夜がふけて深い山の中で鹿が鳴くのが聞こえてきた。
月の美しさに感じ入りながら夜を過ごしていたのでしょう。そこに山の奥から鹿の鳴き声が聞こえて、静かな夜に沁み入るような鹿の声にハッと心動かされ、趣の深さに感動したことが伝わってきます。
身につもる 罪やいかなる つみならん 今日降る雪と ともに消ななむ
【意味】この身に積もった罪とはどんな罪だろう。今日降る雪とともに消えてほしいものだ。
ここで言う罪とは仏教の罪のことで、知らぬ間に背負ってしまった罪が雪のように消えてくれないかと願う歌です。二代将軍だった兄は追放後に暗殺されていますが、実朝は自分を業の深い人間だと思っていたのではないでしょうか。
神といひ 仏といふも 世の中の 人の心の ほかのものかは
【意味】神と言い仏と言うけれど、神仏は世の中の人の心の中にいるにすぎないのだろうか。
神や仏は人間を救ってくれるのだろうか、人が信じているだけなのではないか、という葛藤が込められています。しかし第五句の「ものかは」は反語になっており「いやそうではない、神や仏はいるのだ」という気持ちを強調します。
君が代も 我が代も尽きじ 石川や 瀬見の小川の 絶えじとおもへば
【意味】あなたの治世も私の治世も終わることはないだろう。賀茂川の流れは絶えないのだから。
「君」は後鳥羽上皇で、上皇の治める世の中を称えた歌です。「石川や瀬見の小川」は賀茂川を指し、賀茂川の流れが絶えることがないように永遠に続くことを表現しています。そして鎌倉幕府もまた続いていくことを願っていたのでしょう。
出でいなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春をわするな
【意味】私が出て行って主なき家になっても、軒下の梅よ、春を忘れることなく咲いておくれ。
自分がいなくなってもお前は変わらずに咲くのだよ、と梅に語りかける歌です。また花を咲かせてお前も春を楽しむのだよ、といった愛情を感じます。実朝はこの歌を詠んだ後に暗殺されたと伝えられています。  
 
 
 
●源実朝  
建久三〜承久一(1192〜1219) 通称:鎌倉右大臣
建久三年(1192)八月九日、征夷大将軍源頼朝の次男として生まれる。母は北条政子。幼名は千幡(せんまん)。
正治元年(1199)、八歳の時父を失う。家督は長兄頼家が継いだが、やがて北条氏に実権を奪われ、頼家は建仁三年(1203)九月、北条氏打倒を企てて失敗、伊豆に幽閉された(翌年七月、北条時政の刺客によって惨殺される)。このため、実朝と改名して第三代将軍となる。翌年、坊門大納言信清の息女を妻に迎える。承元二年(1208)、十七歳の時、疱瘡を病む。翌年、藤原定家に自作の和歌三十首を贈って撰を請い、定家より「詠歌口伝」を贈られる(『近代秀歌』と同一書とされている)。建暦元年(1211)、飛鳥井雅経と共に鎌倉に下向した鴨長明と会見する。雅経とはその後も親交を続け、京から「仙洞秋十首歌合」を贈られるなどしている。建保元年(1213)には、定家より御子左家相伝の万葉集を贈呈された。また同三年の「院四十五番歌合」を後鳥羽院より送られている。建保四年六月、権中納言に任ぜられる。この頃渡宋を企て大船を造らせたが、進水に失敗し計画は挫折した。建保六年(1218)正月、権大納言に任ぜられ、さらに昇進を望んで京都に使者を派遣、十月には内大臣、十二月には右大臣に進むが、翌年正月二十七日、右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣した際、甥の公暁に暗殺された。薨年二十八歳。
新勅撰集初出。勅撰入集計九十二首。家集『金槐和歌集』(『鎌倉右大臣家集』とも)がある。同集定家所伝本には建暦三年(1213)十二月八日の奥書があり、実朝二十二歳以前に纏められたものらしい(自撰説が有力視される)。定家所伝本と貞享四年板本(以下「貞享本」と略称)の二系統があり、後者は「柳営亜槐本」とも呼ばれ、足利義政による増補改編本とする説が有力である。
「恐らく彼は、自分自身の自然感覚よりは、もっともっと深く、それに似通ったものをうたっている古歌の表現を愛している。彼が真に愛したのは言葉である。何故といって、言葉には文化があるからである。それ故に、彼の歌は王朝四百年伝統の風流に身をよせる心によって支えられている」(風巻景次郎『中世の文学伝統』)
●春
   正月一日よめる
今朝みれば山もかすみて久方の天の原より春は来にけり
【通釈】今朝眺めると、山も霞んでいて――大空から春はやって来たのだなあ。【語釈】◇久方(ひさかた)の 「天(あま)」に掛かる枕詞。◇天(あま)の原 広々とした大空。空を平原になぞらえて言う。また神話における天上界をも意味し、高天原に同じ。
壬生忠岑「拾遺集」 / 春たつといふばかりにやみ吉野の山もかすみてけさは見ゆらん
藤原良経「新古今集」/ み吉野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり
【補記】上記参考歌以外にも、新古今集の後鳥羽院御製「ほのぼのと春こそ空に来にけらし天のかぐ山霞たなびく」などを思わせる、丈高く大らかな迎春詠。
   梅花風ににほふといふ事を人々によませ侍りし次ついでに(二首)
梅が香を夢の枕にさそひきてさむる待ちける春の山風
【通釈】梅の香を、夢見て眠る枕もとへと誘って来てくれた春の山風は、私の目が醒めるまで待っていてくれたのだ。
式子内親王「新古今集」 / かへりこぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕ににほふ橘
後鳥羽院「御集」(建仁元年三月内宮御百首) / 梅が香をまやのあまりにさそひきて有りとや袖に春風ぞ吹く
【補記】夢から醒めた枕辺にただよう梅の香を、山から吹く春風が運んできてくれたとした。新古今集の幻想的な作風からの影響が顕著な歌で、実朝には珍しい詠みぶりと言える。
この寝ぬる朝けの風にかをるなり軒ばの梅の春のはつ花〔新勅撰31〕
【通釈】寝て起きた、この朝明けの風に薫っている。軒端の梅の、この春初めての花が。【語釈】◇かをるなり この「なり」はいわゆる伝聞推定の助動詞。視覚以外の感覚(この場合嗅覚)に基づき判断していることをあらわす。
安貴王「万葉集」 / 秋立ちて幾日もあらねばこの寝ぬる朝けの風は手本寒しも
【補記】安貴王の歌、と言うより「この寝ぬる朝けの風」の句は新古今集の頃もて囃され、盛んに本歌取りされた。因みに安貴王の歌は第三句「いくかもあらねど」、結句「たもとすずしも」とされて拾遺集にも採られている。
   梅の花をよめる
咲きしよりかねてぞをしき梅の花ちりのわかれは我が身と思へば
【通釈】咲いた時から予め愛惜される、梅の花よ――散って別れるのは、私の命だと思えば。【語釈】◇かねてぞをしき 咲いた時からもう散る時を考え、すでに愛惜の感情を持つ。◇ちりのわかれは… 梅の花が散るのを見るより先に、自分の方が命を散らせるだろう、ということ。
よみ人しらず「古今集」 / 散らねどもかねてぞ惜しき紅葉ばは今はかぎりの色と見つれば
【補記】建暦三年(1213)十二月十八日の日付を奧書に記す藤原定家所伝本(実朝の自撰と推測される)には見えない歌。定家所伝本の成立以後に詠まれた晩年の作と思われる。実朝には自らの遠からぬ死を予感しているかのような歌が少なくない。
   雨中柳
水たまる池のつつみのさし柳この春雨にもえ出でにけり
【通釈】池の周囲の堤に植えた柳の插木が、この春雨に芽ぐみ始めた。【語釈】◇水たまる 記紀歌謡や万葉集で「池」の枕詞として用いられている。「仏造る真朱足らずは水渟(たま)る池田の朝臣(あそ)が鼻の上をほれ」(大神奥守『万葉集』)。◇さし柳 插し木の柳。万葉集の長歌(13-3324)に用例がある。
高田女王「万葉集」 / 山吹の咲きたる野辺のつほすみれこの春雨に盛りなりけり
作者不詳「万葉集」 / あしひきの山の間てらす桜花この春雨に散りゆかむかも
   遠山桜
かづらきや高間の桜ながむれば夕ゐる雲に春雨ぞ降る〔新後撰110〕
【通釈】夕方、葛城の高間山の桜を眺めると、とどまっている雲に春雨が降っている。【語釈】◇かづらきや高間 葛城の、高間山。「かづらき」は奈良県と大阪府の境をなす金剛葛城連山を指し、高間山はその主峰、金剛山の古名という。◇夕ゐる雲 夕方、山にとどまっている雲。万葉語。雲は夜のあいだ山に居座り、朝になるとまた山を離れてゆく、と見るのが普通だった。但し掲出歌の場合、夕桜を「夕ゐる雲」と言いなしたと考えられる。
藤原顕輔「千載集」 / かづらきや高間の山の桜花雲ゐのよそに見てや過ぎなん
寂蓮「新古今集」 / かづらきや高間の桜さきにけり立田のおくにかかる白雲
【補記】新後撰集では結句を「春風ぞ吹く」とする。
   屏風の絵に旅人あまた花の下にふせる所
木のもとに宿りをすれば片しきの我が衣手に花はちりつつ
【通釈】木の下で野宿をすると、片敷きの我が袖に花は散り、また散り…。【語釈】◇片しき 片方の袖を敷いて臥すこと。
光孝天皇 / 君がため春の野に出でて若菜つむ我が衣手に雪は降りつつ
花山院「詞花集」 / 木のもとを栖とすればおのづから花見る人となりぬべきかな
源兼昌「永久百首」「新千載集」 / 秋の野にやどりをすれば蛬(きりぎりす)かたしく袖の下に鳴くなり
【補記】屏風絵に添えた連作四首のうち三首目。四首目は「木のもとの花の下ぶし夜ごろへてわが衣手に月ぞなれぬる」。
   落花をよめる
春ふかみ花ちりかかる山の井はふるき清水にかはづなくなり
【通釈】春深く、花の散りかかる山の井では、永い時を経た清水に蛙が鳴いている。【語釈】◇春ふかみ この「み」は形容詞の語幹に付いて理由・原因をあらわすのが本来の用法であるが、ここは「春深くあって」程度の意味で用いている。◇かはづ もともとカジカガエルのことを言ったらしいが、平安時代以後はカエル一般を意味する歌語としても用いられた。
源順「拾遺集」 / 春ふかみ井手の川浪たちかへり見てこそゆかめ山吹の花
【補記】定家所伝本の詞書は「桜をよめる」。
   如月の二十日あまりのほどにやありけむ、北向きの縁にたち出でて夕暮の空をながめ独りをるに、雁の鳴くを聞きてよめる
ながめつつ思ふもかなし帰る雁ゆくらんかたの夕暮の空
【通釈】眺めながら思いを馳せるのも切ない。故郷へ帰る雁が向かってゆく方向の夕暮の空を――。
式子内親王「千載集」 / 詠むれば思ひやるべきかたぞなき春のかぎりの夕暮の空
藤原家隆「新古今集」 / ながめつつ思ふもさびし久方の月の都の明け方の空
藤原雅経「明日香井和歌集」 / あぢきなくうつし心のかへりこでゆくらんかたの夕暮の空
【補記】下二句は雅経の歌と全く同一。雅経詠は建仁二年(1202)の作で、雅経と親交のあった実朝は当然知っていたはず。藤原定家は承元三年(1209)実朝の求めに応じて著した歌論書『近代秀歌』の本歌取りの条で「昨日今日といふばかり出で来たる歌は、一句もその人の詠みたりしと見えんことをかならず避らまほしく」と書いているが、実朝の本歌取りの態度はまことに鷹揚であり、師説を遵守したとは到底言い難い。
   山吹に風の吹くを見て
我が心いかにせよとか山吹のうつろふ花に嵐たつらむ
【通釈】私の心をどうせよといって、山吹の花を散らす嵐が起るのだろうか。
藤原俊成「新古今集」 / 我が心いかにせよとて時鳥雲間の月の影に鳴くらむ
【補記】定家所伝本に拠る。貞享本系統など第四句を「うつろふ花の」とする本もある。
   山吹の花を折らせて人のもとにつかはすとて
散りのこる岸の山吹春ふかみこの一枝をあはれといはなむ
【通釈】散り残った岸の山吹の花――春も深まった今、この一枝をいとしく思うと言ってほしいのです。
よみ人しらず「古今集」 / 吹く風にあつらへつくるものならばこの一もとは避(よ)きよと言はまし
【補記】定家所伝本、詞書は「山吹の花を折りて人のもとにつかはすとてよめる」。二首あるうちの後の歌。一首目は「おのづからあはれともみよ春ふかみ散り残る岸の山吹の花」。
●夏
   夏のはじめ
春すぎていくかもあらねど我がやどの池の藤波うつろひにけり
【通釈】春が過ぎ去ってから幾日も経っていないけれども、我が家の池の藤の花はもう散ってしまった。――そして水面に映じていた波の揺れるような花房も消えてしまった。
安貴王「拾遺集」 / 秋立ちて幾日もあらねどこのねぬる朝けの風は袂すずしも
よみ人しらず「古今集」 / わが宿の池の藤波咲きにけり山時鳥いつかきなかむ
藤原家隆「老若歌合」「風雅集」 / 時鳥まつとせしまに我がやどの池の藤波うつろひにけり
   五月雨
さみだれに夜のふけゆけば時鳥ひとり山辺を鳴きて過ぐなり
【通釈】五月雨の降る中、夜が更けてゆくと、ほととぎすが一羽山のあたりを鳴いて過ぎてゆく。
山部赤人「万葉集」 / 烏玉の夜の更けゆけば久木生ふる清き河原に千鳥しば鳴く
【補記】詞書は定家所伝本に拠る。貞享本では「郭公の歌中に」と、郭公の歌群に一括してしまっているが、定家所伝本では「五月雨」の題で括った五首の二首目に置かれている。元来は五月雨を主題とした連作の一首であったようである。
   故郷盧橘
いにしへをしのぶとなしにふる里の夕べの雨ににほふ橘〔続拾遺547〕
【通釈】昔を懐かしく思うというわけではなしに過ごす古里――夕方の雨に匂う橘の花よ。【語釈】◇いにしへを… 古今集の歌「さつき待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」から、橘の香は昔を思い出させるものとされた。◇ふる里の 「ふるさと」は、古い由緒のある里、荒れ寂れた里。「ふる」は「雨」の縁語。
   郭公
ほととぎす聞けどもあかず橘の花ちる里の五月雨のころ〔新後撰209〕
【通釈】ほととぎすの声はいくら聞いても飽きない。橘の花が散る、五月雨の降る頃。
大伴旅人「万葉集」 / 橘の花散る里のほととぎす片恋しつつ鳴く日しぞ多き
作者不詳「万葉集」 / 五月山卯の花月夜ほととぎす聞けども飽かずまた鳴かぬかも
(上の歌は新古今集に読人不知、結句「またなかむかも」として入る)
後鳥羽院「千五百番歌合」 / ほととぎす心して鳴けたちばなの花散る里の五月雨の空
   水無月の二十日あまりのころ、夕風簾を動かすをよめる
秋ちかくなるしるしにや玉だれのこすの間とほし風のすずしき
【通釈】秋が近くなった証拠だろうか。小簾の間を通して吹く風の涼しいことよ。【語釈】◇玉だれの 万葉集では「小簾(をす)」と地名「越智(をち)」の枕詞として用いられている。玉垂(たまだれ)すなわち玉簾は緒に玉を通すことから「緒(を)」と同音で始まる語の枕詞に用いたものらしい。◇こす 小簾。下記万葉歌の旧訓は「こす」であったので、実朝もこれに倣ったものであろう。
作者不詳「万葉集」 / 玉垂の小簾(をす)の間通しひとり居て見る験なき夕月夜かも
【補記】定家所伝本に拠る。貞享本は第三句「玉すだれ」。また結句「風のすずしさ」とする本も。
   夏の暮によめる
昨日まで花の散るをぞ惜しみこし夢かうつつか夏も暮れにけり
【通釈】つい昨日まで桜の花が散るのを惜しんできたのだ。夢か現実か定かでないまま、夏も暮れてしまった。
後鳥羽院「御集」 / いつまでか跡をも雪に惜しみこし春にまかする柴の庵かな
●秋
   寒蝉鳴く
吹く風のすずしくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり
【通釈】吹く風がなんて涼しく感じられるものか。するとどこからともなく、ひとりでに山の蝉が鳴いて――秋が来たのだなあ。【語釈】◇山の蝉 初秋に鳴く山の蝉としてはツクツクボウシとヒグラシがあてはまる。詞書の「寒蝉(かんぜみ)」は『和名抄』によればツクツクボウシのこと。
紀貫之「古今集」 / 川風の涼しくもあるかうちよする浪とともにや秋は立つらん
藤原清輔「新古今集」 / おのづから涼くもあるか夏衣日もゆふ暮の雨のなごりに
【補記】定家所伝本に拠る。貞享本は詞書「蝉のなくをききて」、初句「吹く風は」。
【主な派生歌】
秋ちかくなりやしぬらし足曳の山の蝉なきて風ぞ涼しき(宗尊親王)
した紅葉色づきそむるあしびきの山の蝉なきて秋風ぞ吹く(惟宗光吉)
   夕の心をよめる(二首)
おほかたに物思ふとしもなかりけりただ我がための秋の夕暮
【通釈】世間一般の物思いなどではない。ただ私を悲しがらせるために訪れた秋の夕暮よ。
具平親王「拾遺集」 / 世にふるに物思ふとしもなけれども月にいくたびながめしつらん
九条良経「老若五十首歌合」「秋篠月清集」 / たが秋のねざめとはむとわかずともただ我がためのさを鹿の声
【補記】定家所伝本に拠る。貞享本は詞書「秋夕によめる」。
たそがれに物思ひをれば我が宿の荻の葉そよぎ秋風ぞ吹く〔玉葉486〕
【通釈】黄昏、物思いに耽っていると、屋敷の庭の荻の葉をそよがして秋風が吹く。
額田王「万葉集」 / 君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く
柿本人丸「新古今集」 / かきほなる荻の葉そよぎ秋風の吹くなるなへに雁ぞ鳴くなる
   庭の萩わづかにのこれるを、月さしいでてのち見るに、散りにたるにや、花の見えざりしかば
萩の花くれぐれまでもありつるが月いでて見るになきがはかなさ
【通釈】萩の花は日が暮れようとする頃まで残っていたが、月が出て庭を見に行くと、もう無くなっているとは、はかないことよ。【語釈】◇くれぐれ 日が暮れようとする頃。和歌では「くれぐれと」の形で「暗い気持ちで」などの意で用いるのが普通。例「常知らぬ道の長手をくれくれといかにか行かむかりてはなしに」(山上憶良『万葉集』)、「くれぐれと秋はひごろのふるままに思ひしぐれぬあやしかりしも」(『和泉式部集』)。
【補記】結句は定家所伝本・群書類従に従う。貞享本は結句「なきがはかなき」。
   山家の晩望といふことを
暮れかかる夕べの空をながむれば木こ高き山に秋風ぞ吹く
【通釈】暮れ始めた夕方の空を眺めると、木々が高々と繁る山に秋風が吹いている。【語釈】◇木高き山 定家所伝本も貞享本も「こだかき山に」とし、「小高き山」の意にも解せる。しかし「こだかし」は古歌に「こだかき松」「こだかき枝」などと出て来て、「木の梢が高い」意で用いる方が普通だった。掲出歌でも、暮れかかる空に高く梢を伸ばした木々の夕影を思い描くのが適切であろう。
九条良経「新古今集」 / 暮れかかるむなしき空の秋をみておぼえずたまる袖の露かな
【補記】詞書は定家所伝本に拠る。「山家」は山中の家ということで、出家者を思い描く必要はあるまい。貞享本では「山辺眺望といふことを」に改変してしまっている。
   秋の歌
天の原ふりさけみれば月きよみ秋の夜いたく更けにけるかな
【通釈】大空を仰ぎ見れば、月がさやかに照っていて、秋の夜がひどく更けてしまったと知った。【語釈】◇天の原 ふりさけみれば 万葉集に多く見られる句。古今集の安倍仲麿詠も名高い。
藤原仲文「拾遺集」 / ありあけの月のひかりをまつほどにわが世のいたく更けにけるかな
【補記】定家所伝本に拠る。貞享本の詞書は「月歌とて」。
   海のほとりを過ぐとてよめる(二首)
わたのはら八重のしほぢにとぶ雁のつばさのなみに秋風ぞ吹く〔新勅撰319〕
【通釈】大海原、その限りない潮流の上を飛ぶ、雁の編隊――その翼の波に秋風が吹きつけている。【語釈】◇八重のしほぢ 幾つもの潮流。◇つばさのなみ 雁の翼が波の形に列んでいるさま。「なみ」は「並み」でもある。
藤原俊成女「新古今集」 / 吹きまよふ雲井をわたる初雁のつばさにならす夜はの秋風
【補記】定家所伝本に拠る。貞享本では詞書「海上雁」とし、題詠歌のように扱っている。
ながめやる心もたえぬわたのはら八重のしほぢの秋の夕暮〔新後撰291〕
【通釈】眺めやる心も断ち切れてしまった。秋の夕暮、大海原の、その限りない潮の流れを見ているうちに――。
平忠度「忠度集」 / 山里にすみぬべしやとならはせる心もたへぬ秋の夕暮
藤原家隆「壬二集」 / とまりとふ日さへみじかく成りにけり八重の塩ぢの秋の夕暮
【補記】新後撰集では上句「ながめわびゆくへもしらぬ物ぞ思ふ」。
   鹿をよめる(二首)
雲のゐる梢はるかに霧こめてたかしの山に鹿ぞ鳴くなる〔新勅撰303〕
【通釈】雲の留まっている梢を見渡す限り遥かに霧が籠めて、高師山に鹿が鳴いている。【語釈】◇たかしの山 高師山。『歌枕名寄』では遠江国の歌枕とする。今の愛知県豊橋市南東部の台地かとも言うが、もとより作者にとって所在地など関心の外であったろう。「たかし」という語の響き、そして高い山のイメージを連想させる名であることがこの歌枕を用いた理由に違いない。
紀友則「古今集」 / 音羽山けさこえくれば郭公梢はるかに今ぞ鳴くなる
藤原仲実「永久百首」 / 東路や今朝立ちくれば蝉の声たかしの山に今ぞ鳴くなる
【補記】定家所伝本に拠る。貞享本の詞書は「鹿の歌に」。
月をのみあはれと思ふをさ夜ふけて深山がくれに鹿ぞ鳴くなる
【通釈】月ばかりを趣深いと思っていたところ、夜が更けて、山の奧深く鹿が鳴く。【語釈】◇深山(みやま)隠れに 奥山に隠れて。深山は外山(とやま)の対語で、村里から見えない、奥の山。
   水上落葉
ながれゆく木の葉のよどむ江にしあれば暮れての後も秋は久しき
【通釈】流れてゆく木の葉が淀む入江であるので、暮れてしまった後でも秋は久しく留まっている。
「伊勢物語」第九十六段 / 秋かけていひしながらもあらなくに木の葉ふりしくえにこそありけれ
【補記】紅葉した木の葉が落ち、入江に淀んでいる情景を、終りを迎えた秋が久しく留まっている、と見た。貞享本は冬の部に収めるが、定家所伝本に従い秋歌とした。
●冬
   十月一日よめる
秋はいぬ風に木の葉は散りはてて山さびしかる冬は来にけり〔続古今545〕
【通釈】秋は去ってしまった。木の葉は風に散り尽くし、山が寂しい様をあらわす冬はやって来た。
曾禰好忠「新古今集」 / 人はこず風に木の葉は散りはてて夜な夜な虫は声よわるなり
   霰 (二首)
もののふの矢並つくろふ籠手こてのうへに霰たばしる那須の篠原
【通釈】武士が矢並を整える籠手(こて)の上に、霰が激しく降って飛び散る、那須の篠原よ。【語釈】◇もののふ 武士。◇矢並 箙(えびら)にさした矢の並び具合。◇つくろふ 整える。◇籠手(こて) 弓を射るとき、利き手でない方の手に着ける革製の具。◇那須の篠原 下野国北東部の広大な原野。今の栃木県那須郡あたり。
【補記】次の「ささの葉に…」の歌とともに定家所伝本には見えず、晩年の作か。実朝が那須を訪れた記録はなく、建久四年(1193)の父頼朝の那須での狩を想起した作かとも言う。
【主な派生詩歌】
ありま山うき立つ雲に風そひて霰たばしる印南野の原(賀茂真淵)
ささの葉に霰さやぎてみ山べは峰の木がらししきりて吹きぬ
【通釈】笹の葉に霰が騷がしい音を立て、奧山では峰を木枯しがしきりと吹き過ぎている。【語釈】◇さやぎ 騒がしい音を立てる。◇しきりて 後から後から続いて。
柿本人麻呂「万葉集」 / 小竹の葉はみ山もさやに乱げども吾は妹思ふ別れ来ぬれば
   冬の歌
夕されば潮風さむし浪間より見ゆる小島に雪はふりつつ〔続後撰520〕
【通釈】夕方になったので潮風が寒く感じられる。波間に見える小島に雪は降り積もっていて――。【語釈】◇雪はふりつつ 沖の小島に雪の落ちるさまが見えるはずはなく、ここは「雪はふれり」の意に、降雪の繰り返しの予感を響かせている。
【補記】万葉集の恋歌を本歌とし、冬歌に移している。技法としての本歌取りが意識された作品と思われる。詞書は定家所伝本に拠る。貞享本は「雪」。
作者不詳「万葉集」 / 浪間より見ゆる小島の浜久木久しくなりぬ君に逢はずして
●雪
我のみぞかなしとは思ふ浪のよる山のひたひに雪のふれれば
【通釈】私ばかりが悲しいと思うのだ。波の寄る、山のへりに雪が降り積もっているのを見ると。【語釈】◇山のひたひ 山のへり。海岸線にまで出張っている山のふもと。
【補記】貞享本では冬部に載せるが、定家所伝本では雑歌とし、老人の心を詠んだ歌に挟まれている。後者の排列からすると、「浪」は皺を、「ひたひ」の雪は白髪をあらわし、老人の身となって詠んだ歌と解釈される。
   老人、歳の暮を憐れむ
うち忘れはかなくてのみ過ぐしきぬあはれと思へ身につもる年
【通釈】うっかり忘れ、ただむなしく過ごしてきてしまった。憐れと思ってくれ、我が身に積もった年よ。【語釈】◇うち忘れ 時が過ぎ、年が去ってゆくことをうっかり忘れ。
藤原俊成「新古今集」 / いくとせの春に心をつくしきぬあはれと思へみよしのの花
式子内親王「新古今集」 / はかなくてすぎにし方をかぞふれば花に物おもふ春ぞへにける
【補記】貞享本は冬部に載せるが、定家所伝本は雑部に収めている。
   歳暮 (二首)
ちぶさ吸ふまだいとけなきみどりごとともに泣きぬる年の暮かな
【通釈】乳を吸うまだあどけない嬰児と共に、私も泣いてしまった年の暮れであるよ。【語釈】◇みどりご 嬰児。赤ん坊。
【補記】貞享本は第三句「みどり子の」。定家所伝本に従う。
はかなくて今宵あけなば行く年の思ひ出いでもなき春にやあはなむ
【通釈】むなしいままに今夜が明けてしまえば、去り行く年の思い出を留めない春に逢うことになるのだろうか。【語釈】◇行く年の思ひ出でもなき 旧年の思い出を留めない。◇春にやあはなん 春に逢うことになるのだろうか。「あはなむ」では「逢いたい」の意になり、歌意にそぐわない。「あひなむ」の誤用であろう。
●恋
   恋歌の中に
夕月夜ゆふづくよおぼつかなきを雲間よりほのかに見えしそれかあらぬか
【通釈】夕空にあらわれた月――ぼんやりとだが、雲間からほのかに見えたあれは――本当に月だったのかどうか。【語釈】◇夕月夜 ほの見た恋人を月に喩える。
【補記】定家所伝本には見えない歌。晩年の作か。
   恋の歌
月影のそれかあらぬかかげろふのほのかに見えて雲がくれにし
【通釈】月の光に見えたのは、あの人だったのか、違うのか。陽炎のようにほのかに見えただけで、姿を隠してしまった。
作者不詳(人麻呂歌集歌)「万葉集」 / 朝影に我が身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに
よみ人しらず「古今集」 / かげろふのそれかあらぬか春雨のふる日となれば袖ぞ濡れぬる
恋の歌
奧山の岩垣沼に木の葉おちてしづめる心人しるらめや
【通釈】奥山の岩で囲まれた沼に木の葉が落ちて、底に沈んでいる――そのように沈んでいる私の心を人は知っているだろうか。【語釈】◇岩垣沼(いはがきぬま) 石で囲まれた沼。
柿本人麿「拾遺集」 / 奧山の岩がき沼のみごもりに恋ひやわたらむ逢ふよしをなみ
丹波大女郎女「万葉集」 / 鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉散りて浮べる心我が思はなくに
【補記】定家所伝本に拠る。貞享本は詞書「名所恋の心をよめる」。
   恋の歌
わが恋は百島ももしまめぐり浜千鳥ゆくへもしらぬかたに鳴くなり
【通釈】私の恋は、多くの島を飛び巡って、行く先もわからず干潟に鳴く浜千鳥――それと同じで、どちらへ行けばよいのかわからずに泣いているのだ。
【補記】「かた」に「潟」「方(方角)」の意を掛ける。
【参考歌】
能因法師「後拾遺集」
夜だにあけばたづねてきかむほととぎす信田の森のかたになくなり
●雑
   離別 忍びて言ひわたる人ありき、遥なる方へゆかむと言ひ侍りしかば
ゆひそめて馴れしたぶさの濃むらさき思はず今も浅かりきとは
【通釈】髻(もとどり)を初めて結んでから、馴染んできた濃紫の緒――思いもしないことだ、今もその色が浅かったとは。【語釈】◇ゆひそめて 髻を初めて結んで。◇たぶさ 髻。もとどり。髪の毛を頂に集めて束ねたところ。◇濃(こ)むらさき 濃紫。元結(髻を結ぶ緒)の色を指す。◇浅かりきとは 緒の色が浅かったとは。去ってゆく人の情が浅かったとは思えない、との含意がある。
大中臣能宣「拾遺集」 / 結ひそむる初元結のこむらさき衣の色にうつれとぞ思ふ
【補記】恋歌のようでもあるが、定家所伝本・貞享本ともに雑部の離別歌群に配されている。
   旅 旅泊 (二首)
湊風いたくな吹きそしながどり猪名の水うみ船とむるまで
【通釈】湊風よ、ひどく吹かないでおくれ。猪名の海に船を停泊するまで。【語釈】◇湊風(みなとかぜ) 船の出入口に吹き付ける風。ここでは山の方から水門(みなと)に向かって吹く風を言っているらしい。◇しながどり 鳰(にほ)のこと。「猪名」の枕詞。◇猪名(ゐな) 摂津国の歌枕。今の兵庫県伊丹市・尼崎市あたり。六甲山地が海岸線にまで迫っていて、山颪が吹き付ける。◇水うみ 下記万葉歌の第四句は古写本に「居名之湖尓」とあるため「みづうみ」としたものらしい。「湖」は現在では「みなと」と訓んでいる。
作者不詳「万葉集」 / 大海に嵐な吹きそしなが鳥猪名の湊に舟泊つるまで
やらのさき月影さむし沖つ鳥鴨といふ舟うき寝すらしも
【通釈】也良の崎に月光は寒々と照っている。鴨という舟は辛い思いで浮き寝しているらしいなあ。【語釈】◇やらのさき 也良の崎。福岡県博多湾内、能古島北端の岬。◇沖つ鳥 「鴨」の枕詞。記紀歌謡・万葉集に見える語。◇鴨といふ舟 下記万葉歌では「鴨」という名で呼ばれた舟を言うらしい。実朝の歌では、鴨を舟になぞらえて言っていると思われる。◇うき寝 浮寝に憂き寝を掛けるのが王朝和歌の常套。
作者不詳「万葉集」 / 沖つ鳥鴨とふ舟の還り来ば也良(やら)の崎守はやく告げこそ
沖つ鳥鴨とふ舟は也良(やら)の崎たみて漕ぎ来と聞え来ぬかも
【補記】以上二首、定家所伝本に見えない。晩年の作か。
   二所詣下向後、朝にさぶらひども見えざりしかばよめる
旅をゆきし跡の宿守おのおのにわたくしあれや今朝はいまだ来ぬ
【通釈】私が旅をして来たあとの留守番の者たちは、それぞれに私事があるのだろうか、今朝はまだやって来ない。【語釈】◇二所詣 伊豆山・箱根の両権現を参詣すること。源頼朝が始め、代々の将軍に引き継がれた。◇さぶらひ 侍者。
【補記】二所詣から帰った翌朝、近習の侍たちが見えないので詠んだ歌。
   又の年二所へまゐりたりし時、箱根のみ海を見てよみ侍る歌
玉くしげ箱根のみ海けけれあれやふた国かけて中にたゆたふ
【通釈】箱根の湖は情愛があるのか、相模と駿河と二つの国にまたがって、その間で揺蕩うように水を湛えている。【語釈】◇玉くしげ 箱根にかかる枕詞。「くしげ(櫛笥)」は櫛などを納れておく箱のこと。◇箱根のみ海 芦ノ湖。◇けけれ 「こころ」の東国方言(【参考歌】参照)。◇ふた国 相模・駿河二国。芦ノ湖は現在の行政区画においても神奈川・静岡の県境近くに位置する。
作者未詳「古今集」甲斐歌 / 甲斐が嶺をさやにも見しがけけれなくよこほりふせるさやの中山
【補記】詞書の「又の年」は、定家所伝本に従えば、前の歌「旅をゆきし…」が作られた翌年を指す。
【校異】定家所伝本に拠る。貞享本は第二句「箱根の海は」、下句「ふた山にかけて何かたゆたふ」。
   箱根の山をうち出て見れば浪のよる小島あり、供の者に此の浦の名は知るやと尋ねしかば、伊豆の海となむ申すと答え侍りしをききて
箱根路を我が越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ〔続後撰1312〕
【通釈】箱根路を我らが越えて来ると、うち出づるところは伊豆の海、その沖の小島に波の寄せるのが見える。【語釈】◇箱根 相模国の名勝。東海道の難所であった。函根・筥根とも書かれた。◇伊豆の海 「出づ」意を掛ける。◇沖の小島 初島であろう。
【補記】恒例の二所詣(伊豆山・箱根権現参詣)の折の作。箱根の山を越えると波の寄せる小島が沖に見えたので、御供の者に「この浦の名は知っているか」と尋ねると、「伊豆の海と申します」と答えたのを聞いて詠んだという歌。実朝は浦の名を聞いたのであり、従者の「伊豆の海」という大雑把な地名の返答は的外れであったに違いないが、実朝は「伊豆の海」が「出づ」と掛詞になることに興をおぼえたのであろう。なお、定家所伝本では旅部でなく雑部に入れるが、続後撰集では羇旅の部に入れている。
【校異】貞享本に拠る。定家所伝本は第二句「われこえくれば」。
【他出】新三十六人撰、歌枕名寄、愚見抄、桐火桶
作者未詳「万葉集」 / 大坂を我が越え来れば二上にもみち葉ながる時雨ふりつつ
【主な派生歌】
百くまのあらき箱根路越え来ればこよろぎの磯に浪のよる見ゆ(賀茂真淵)
碓氷山わが越え来ればさ衣のを筑波山に雲かかる見ゆ(加藤宇万伎)
伊豆の海を漕ぎつつくれば浪高み沖の小島よ見えかくれする(上田秋成)
   走湯山参詣の時 (二首)
わたつ海のなかにむかひて出づる湯のいづのお山とむべも言ひけり
【通釈】海の中へと湧き出ている湯であるから、なるほど伊豆の御山と名づけたのだなあ。【語釈】◇走湯山(そうたうさん) 走湯(はしりゆ)の山。伊豆山権現(今の伊豆山神社)のこと。◇いづ 地名「伊豆」に「出づ」を掛けている。
伊豆の国や山の南に出づる湯のはやきは神のしるしなりけり〔玉葉2794〕
【通釈】伊豆の国の山の南に湧き出る湯がほとばしる速さは、神の霊験あらたかなしるしであった。【語釈】◇はやき 湯が噴出する速度が速いこと。◇神のしるし 神の霊験。
   釈教 得功徳歌
大日だいにちの種子しゆじよりいでて三昧耶さまや形ぎやうさまやぎやう又尊形そんぎやうとなる
【通釈】大日如来の根源から生まれ出て、三昧耶形となって現われ、三昧耶形がまた仏の尊い姿となるのだ。【語釈】◇大日 大日如来。密教の教主。それ自体宇宙と一体であるとされ、一切万物の原因にして結果。◇三昧耶形 大日の三昧耶(誓願)が形となったもの。諸仏の持つ器などを言う。◇尊形 尊い姿。特に菩薩如来を言う。
   懺悔歌
塔をくみ堂をつくるも人のなげき懺悔さんげにまさる功徳くどくやはある
【通釈】塔を組んだり堂を造ったりするのも善行ではあるが、労働する人の歎きの種である。懺悔に勝る善行があるだろうか。【語釈】◇功徳 果報をもたらす善行。
   思罪業歌
ほのほのみ虚空にみてる阿鼻地獄ゆくへもなしといふもはかなし
【通釈】炎ばかりが宙に満ちている阿鼻地獄よ。そこ以外にどこへ行くあてもないというのも、果敢ないことである。【語釈】◇阿鼻地獄(あびぢごく) 八大地獄のうち最も恐ろしい地獄。
【補記】題「罪業を思ふ歌」からすると、「ゆくへもなし」とは、阿鼻地獄以外の行く先が無いということであろう。
   神祇 社頭夏月
ながむれば吹く風すずし三輪の山杉の木ずゑを出づる月影
【通釈】眺めていると吹く風が涼しい。三輪山の杉の梢から昇る月を――【語釈】◇三輪の山 奈良県桜井市。三諸(御諸)山とも。神体山で、祭神を大物主神(大国主命)とする大神(おおみわ)神社がある。
式子内親王「新古今集」 / ながむれば衣手すずし久方の天の川原の秋の夕暮
【補記】定家初伝本には見えない歌。
   伊勢御遷宮の年の歌
神風や朝日の宮の宮うつしかげのどかなる世にこそありけれ〔玉葉2747〕
【通釈】伊勢内宮の御遷宮がある今年、日の光ものどかな世であることよ。【語釈】◇伊勢御遷宮 式年遷宮。伊勢神宮では二十年に一度、社殿を新しく建て直す。 ◇神風や 元来は「伊勢」の枕詞。ここでは伊勢神宮のことを歌うに際し、前置きのように用いている。◇朝日の宮 天照大神を祀る伊勢内宮をこう言った。◇かげのどかなる 陽光がのどかに照る。「神の恩恵により平和な」の意が掛かる。
【補記】「伊勢御遷宮の年」は承元三年(1209)。実朝十八歳の作ということになる。
   〔題欠〕
東路の関守もる神の手向たむけとて杉に矢たつる足柄の山(鶴岡八幡宮蔵詠草)
【通釈】東国の出入口の関を守る神へのお供えとして、杉に矢を射立てる、足柄山よ。【語釈】◇東路(あづまぢ)の関 足柄の関。関東の入口にあたる関。◇杉に矢たつる 武士が戦勝を祈願して杉に矢を射立てる風習があった。今も各地に「矢立の杉」と伝わる樹が残っている。
【補記】鶴岡八幡宮に蔵されている実朝の詠草三首より。『金槐和歌集』には未収録で、あるいは晩年の作か。
   雑
   朝ぼらけ、八重のしほぢ霞みわたりて、空もひとつに見え侍りしかば
空やうみ海や空ともえぞわかぬ霞も波もたちみちにつつ
【通釈】空が海か、海が空かとも区別できない。霞も波も一面に立っていて。【語釈】◇えぞわかぬ 判別し得ない。見分けることが出来ない。なお、貞享本は「見えわかぬ」とする。
【補記】定家所伝本に拠る。
   三崎といふ所へまかれりし道に、磯辺の松としふりにけるを見てよめる
磯の松いくひささにかなりぬらんいたく木高き風の音かな〔玉葉2191〕
【通釈】磯の松はどれほどの長い年月を経たのだろう。風の音がひどく高く、梢高くから聞こえてくる。【語釈】◇三崎 三浦半島の南端。◇ひささ 久々(ひさひさ)の略。◇木(こ)高き風の音 梢の高いところから聞こえてくる風の音。「高き」は梢の高さと共に響きの高さも言うのだろう。
   荒磯に浪のよるを見てよめる
大海おほうみの磯もとどろによする浪われてくだけて裂けて散るかも
【通釈】大海の磯を轟かすように寄せる大波――割れて、砕けて、裂けて、散るのだなあ。
笠女郎「万葉集」 / 伊勢の海の磯もとどろに寄する波かしこき人に恋ひ渡るかも
【主な派生歌】
蹴球の男罌粟の實刻刻に跳(は)ねて彈(はじ)けて裂けて散るかも(塚本邦雄)
   舟
世の中は常にもがもな渚こぐ海人あまの小舟をぶねの綱手かなしも〔新勅撰525〕[百]
【通釈】世の中は、いつまでも変わらないでほしいものだなあ。渚を漕ぐ漁師の小舟が、綱手で牽(ひ)かれてゆくさまは、何とも切ないものだ。【語釈】◇常にもがもな 常住不変であってほしいなあ。◇綱手(つなで) 舟を牽(ひ)くための綱。◇かなしも 「かなし」は、持て余すほどの強い感情に心が占められている状態をいう語。
【他出】新三十六人撰
吹黄刀自「万葉集」 / 河の上のゆつ岩むらに草むさず常にもがもな常処女にて
よみ人しらず「古今集」陸奥歌 / みちのくはいづくはあれど塩釜の浦漕ぐ舟の綱手かなしも
【補記】貞享本では羇旅歌群に配しているが、定家所伝本では旅の部になく、雑部の無常歌・釈教歌群の直前に位置している(いずれも題は「舟」)。新勅撰集では巻八羈旅歌の部に載せ、「題しらず」とする。
   浜へ出でたりしに、海人のたく藻塩火を見てよめる
いつもかくさびしきものか葦の屋にたきすさびたる海人の藻塩火
【通釈】いつもこのように寂しいものなのか。葦葺きの小屋で海人が焚く藻塩火が、盛んに燃え、やがて衰えてゆくさまよ。【語釈】◇藻塩火(もしほび) 塩をとるために海藻を焼く火。
【先蹤歌】
藤原家隆「建仁元年五十首歌合」「続古今集」
いつもかくさびしきものか津の国の芦屋の里の秋のゆふぐれ
   山の端に日の入るを見てよみ侍りける
紅のちしほのまふり山の端に日の入るときの空にぞありける
【通釈】幾度も繰り返し染めた紅は、山の端に日が沈む時の空の色であった。【語釈】◇ちしほのまふり 「ちしほ」は繰り返し染料に漬けて色を染めること、「まふり」は「まふりで(まふりいで)」に同じで、色を水に振り出して染めること。
   相州の土屋と云ふ所に年九十にあまれるくち法師あり。おのづからきたる。昔語りなどせしついでに身のたちゐにたへずなむ成りぬる事をなくなく申して出でぬ。時に老といふ事を人々に仰せてつかうまつらせしついでによみ侍りし
思ひ出でて夜はすがらに音をぞなく有りし昔の世々のふるごと
【通釈】思い出しては、一晩中声をあげて泣いている。その昔、あの年この年に起こった遠い出来事を。【語釈】◇夜はすがらに 夜すがら。一晩中。◇音(ね)をぞなく 声を上げて泣く。
【補記】相模の国の土屋(平塚市に土屋の地名が残る)に九十歳を越えた老法師がいて、たまたま実朝のもとを訪れた。思い出話をしていたが、立ち居も辛くなって、泣く泣く帰って行った。この際、「老」を主題に人々に命じて歌を作らせ、ついでに実朝自身も詠んだという歌。掲出歌は五首のうち第二首。すべて老法師の身になって詠んだ歌で、第四首は「道とほし腰はふたへにかがまれり杖にすがりてここまでも来る」。
中臣宅守「万葉集」 / あかねさす昼は物言ひぬばたまの夜はすがらにねのみし泣かゆ
   無常を
かくてのみありてはかなき世の中を憂しとやいはむあはれとやいはむ
【通釈】このようにばかり、生きていても果敢ない世の中を、辛いと言おうか、いとしいと言おうか。
【補記】「憂し」と「あはれ」を対語として用いる場合、前者が否定的、後者が肯定的な意味合いを帯びるのが通例。「憂し」は言わば世界や他人に対する離反的な感情であり、「あはれ」は共感的な感情である。
よみ人しらず「古今集」 / 世の中にいづら我が身のありてなしあはれとやいはむあな憂とやいはむ
よみ人しらず「古今集」 / あはれとも憂しとも物を思ふ時などか涙のいとながるらむ
   心のこころをよめる
神といひ仏といふも世の中の人の心のほかのものかは
【通釈】神と言い、仏と言うのも、現世の人の心以外のものであろうか。【語釈】◇心のこころ 「心」という題の心。◇ほかのものかは 以外のものであろうか、いやそんなことはない。「かは」は反語。
   道のほとりにをさなき童の母を尋ねていたく泣くを、そのあたりの人に尋ねしかば、父母なむ身まかりにしと答へ侍りしを聞きて
いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母をたづぬる
【通釈】いたわしいことよ。見ていると涙も止まらない。親もない子が母を求めて泣くさまは。
   慈悲の心を
物いはぬ四方よものけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ
【通釈】物言わぬ、どこにもいる獣でさえも、いとしいことよ、親が子を思うさまは。【語釈】◇四方のけだもの どこにもいる獣。ありとある哺乳動物。◇すらだにも 「すら」「だに」「も」、いずれも語に付いてそれを最低限のものとして提示するはたらきをもつ助詞。三つ重ねて用いた例は他を見ない。
   建暦元年七月、洪水天に漫り、土民愁ひ嘆きせむ事を思ひて、一人本尊に向ひ奉りて聊か祈念を致して云く
時によりすぐれば民のなげきなり八大龍王雨やめたまへ
【通釈】時によって、雨乞いの祈願を承けて降らせる雨が度を過ぎすことがある。そうなれば却って民の歎きである。八代龍王よ、雨を止めたまえ。【語釈】◇八大龍王(はちだいりうわう) 法華経序品に見える八体の龍神。雨を司る神と考えられた。
   太上天皇御書下預時歌 (三首)
大君の勅ちよくをかしこみちちわくに心はわくとも人に言はめやも
【通釈】大君の勅書を謹んで承り、あれかこれかと心は分かれますけれども、人に言ったりしましょうか。【語釈】◇太上天皇 後鳥羽上皇。◇御書 勅書。天子の命令を布告する文書。ここでは後鳥羽院からの勅書で、下されたのは建暦三年(1213)とする説が有力。◇ちちわくに とやかくと。「ちちわくに人はいふともおりてきむわがはた物にしろき麻ぎぬ」(人麿『拾遺集』)。◇心はわく 「分く」は「分かる」の意で用いるか。「わく」を「湧く」とみて「心が湧き立つ」の意にもとれる。
ひんがしの国にわがをれば朝日さすはこやの山のかげとなりにき
【通釈】東国に私はおりますので、朝日がのぼる藐姑射の山、すなわち上皇の御所の蔭に入っているのです。【語釈】◇ひんがしの国 東国。◇はこやの山 藐姑射の山。仙洞。上皇の御所のこと。
山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも〔新勅撰1204〕
【通釈】山は裂け、海は干上がる世であろうとも、あなた様に二心を抱くようなことは決してありません。【語釈】◇君 大君。主君の後鳥羽院を指す。
【補記】定家所伝本はこの歌を末尾に置く。因みに貞享本の末尾の歌は「八大龍王雨やめたまへ」である。
   庭の梅を覧みて、禁忌の和歌を詠じたまふ
出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな(吾妻鏡)
【通釈】私が出て行ったなら、たとえ主人のいない家となってしまうとしても、軒端の梅よ、春を忘れずに咲いてくれ。【語釈】◇禁忌の和歌 忌むべき和歌。「主なき宿」といった不吉な言葉を用いているゆえにこう言う。
菅原道真「拾遺集」 / こちふかば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春をわするな
式子内親王「新古今集」 / ながめつるけふは昔になりぬとも軒端の梅はわれを忘るな
【補記】『吾妻鏡』建保七年(1219)正月二十七日の記事より。この日、実朝は右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣し、同日夜、神拝を終えて退出する時、石階の際(きわ)に潜んでいた甥の公暁に斬りかかられ、暗殺された。その記事に続いて、当日出立の際の「変異」を語る条に引用された歌である。『金槐和歌集』には見えず、『吾妻鏡』のほか『六代勝事記』などにも見える。  
 
 
 
 
 
 
 


2022/10