五月雨

季節の言葉

梅雨入り  「五月雨」
何となく じめじめした語感
シーズンのイメージ

どんな夏になるのやら

 


五月雨1五月雨2五月雨3五月雨4五月雨5五月雨6五月雨7五月雨8・・・
奥の細道五月雨と五月晴れ芭蕉梅雨1梅雨2五月雨の俳句与謝蕪村・・・
最上川の俳句五月雨俳句集1五月雨俳句集2五月雨俳句集3・・・
瀬戸内寂聴 / 寂聴寂聴さんを偲ぶ寂聴の言集人生と愛を語る寂聴辻説法仏さまの慈悲横尾忠則寂聴の俳句1俳句2いきいきと生きる秘訣パソコン元年文学者と仏教者作家寂聴能を支える人びと青春は恋と革命よ年取っても心の運動を止めないいまを切に生きる愛してはいけない人はない人生の名言不倫の何が悪いのかバッシング経験者あの世で岡本太郎さん秘書とマジ喧嘩人生問答コロナ不安の日々幸せの掴み方コロナはあの戦争に匹敵不安な時代の生き方寂聴さんの法話男はつくづく純情だと思う不倫相手の妻と懇意井上光晴不倫相手の娘と対談男運のない人恋人の写真ホリエモンと対談バッシングされた人の味方自然体映像の軌跡・・・
 
 
 

 

●五月雨 [さみだれ・さつきあめ] 1
五月雨(さみだれ)は旧暦(陰暦)の5月頃に降る長雨のことであり、おおむね「梅雨」の別名。陰暦五月は今日用いられている新暦(陽暦)の6月前後(5月下旬から7月上旬あたり)に相当する。転じて、物事を少しずつ断続的に行うさまが「五月雨(式)」のように表現される。
五月雨の「さみだれ」とよむ難読字であるが、この「さみだれ」は「さつき(皐)の水垂れ」に由来すると言われている。なお五月雨は「さつきあめ」とも読める。「さみだれ」も「さつきあめ」も正しい読み方とみなされている。
ちなみに「五月雨」は夏の季語である。
「五月雨」は、物事を一気に行い終えるのではなく、断続的に(だらだらと)繰り替えすようなさまを指す表現でもある。労組(労働組合)が長期間にわたって行う交渉や闘争は「五月雨戦術」や「五月雨スト」などと呼ばれる。ビジネスシーンでは、電子メールなどで連絡する際、一度に要件を伝えきれず何度も追伸を送ってしまうような状況を「五月雨式」といい、送信する側が「五月雨式ですみません」と断りを入れることが半ば定番の作法となっている。
 
 

 

●五月雨 [さみだれ] 2
陰暦5月に降る長雨。梅雨と同じであるが、梅雨は主として五月雨の降る季節をさし、五月雨は雨そのものをさすことが多い。雨の降り方としては、前期はしとしと型、後期は集中豪雨型のまとまった降り方をする。「五月雨」の語は上代の用例にはみられず、平安時代に入ってからの語だが、『万葉集』巻19の大伴家持(おおとものやかもち)の「卯(う)の花をくたす長雨(ながめ)の始水(はなみづ)に寄る木屑(こつみ)なす寄らむ子もがも」は、五月雨の異称「卯の花くたし」の早い例であり、「いとどしく賤(しづ)の庵(いほり)のいぶせきに卯の花くたし五月雨ぞ降る」(『千載(せんざい)集』夏・藤原基俊(もととし))などと詠まれた。「五月雨にもの思ひをれば時鳥(ほととぎす)夜深(よぶか)く鳴きていづち行くらむ」(『古今集』夏・紀友則(きのとものり))、「さみだれはもの思ふことぞまさりけるながめの中にながめくれつつ」(『和泉(いずみ)式部集』)のように、「長雨(ながめ)」はもの思い(「眺(なが)め」)をかきたて、歌の贈答の折でもあり、「徒然(つれづれ)」の慰めとして「雨夜の品定め」(『源氏物語』帚木(ははきぎ))なども催された。夏の季語。「五月雨を集めて早し最上川(もがみがわ)」(芭蕉(ばしょう))。
陰暦五月頃に降りつづく長雨。また、その時期。つゆ。梅雨(ばいう)。さつきあめ。《季・夏》※古今(905‐914)夏・一五四「五月雨に物思ひをれば郭公夜ふかくなきていづちゆくらむ〈紀友則〉」※俳諧・奥の細道(1693‐94頃)最上川「五月雨をあつめて早し最上川」。(「さみだれ」が少しずつ繰り返し降ることから) 継続しないで、繰り返す行動などについていう。「さみだれ式」[語誌](1)「さ」は「さつき(五月)」の「さ」と同根。「万葉集」など上代の文献には確認できない。上代では季節にかかわりなく「三日以上(の)雨」〔十巻本和名抄・一〕をいう「なが(あ)め」に包含されていたと思われる。(2)歌題としては「長元八年関白左大臣頼通歌合」が早く、その後「堀河百首」、そして「金葉集」以後の勅撰集で多く立てられ、夏季の代表的素材となった。
〘自ラ下二〙 さみだれが降る。和歌では、多く「さ乱る」の意をかけて用いる。《季・夏》※宇津保(970‐999頃)内侍督「さみだれたるころほひのつとめて」※和泉式部日記(11C前)「おほかたにさみだるるとや思ふらむ君恋ひわたる今日のながめを」
[さつきあめ] 〘名〙 =さみだれ(五月雨)《季・夏》※金槐集(1213)夏「五月あめ降れるにあやめぐさを見てよめる」※俳諧・猿蓑(1691)二「日の道や葵傾くさ月あめ〈芭蕉〉」
[さみだれ] 《「さ」は五月さつきなどの「さ」、「みだれ」は水垂みだれか》 陰暦5月ごろに降りつづく長雨。梅雨。つゆ。さつきあめ。《季 夏》「―を集めて早し最上川/芭蕉」。断続的にいつまでもだらだらと続くことのたとえ。「五月雨式」「五月雨戦術」。
 
 

 

●五月雨 3
「五月雨」や「五月雨式」は、その意味や由来を知ると心を和ませる効果があることが分かり、 使わないともったいないものです。そこで、漢字の読み方・ふりがなや意味、使い方を例文とともに解説します。また、類義語や俳句、梅雨にまつわる言葉もあわせてご紹介します。知っておくとプライベートからビジネスシーンまで役立つでしょう。
読み方
「五月雨」の読み方は「さみだれ」です。「さ」は旧暦五月の「皐月(さつき)」などに、「みだれ」は「水垂れ」に由来します。「さつきあめ」という読み方もありますが、意図的にそう読ませる場合が多いので、ふりがながついていない場合には、一般的に「さみだれ」と読みます。
語源・由来
さみだれの「さ」は、「皐月(さつき)」や「早苗(さなえ)」などと同様に、耕作を意味する古語「さ」。「みだれ」は、「水垂れ(みだれ)」である。古くは、動詞で「五月雨る(さみだる)」と使われており、五月雨はその名詞形にあたる。「五月雨る(さみだる)」は、和歌で「乱る」の意味にかけて用いることが多い。
意味1 / 旧暦五月頃に降り続く長雨、梅雨
「五月雨」とは、旧暦の五月頃に降り続く長雨のことで、梅雨のことをさしています。旧暦の五月は、現在用いられている新暦では六月前後にあたるので、梅雨の季節です。旧暦の五月には、「皐月」のみならず「五月雨月」という異称もあります。五月雨は夏の季語です。梅雨といえば、うっとうしい、憂鬱な季節といったイメージが伴いがちですが、「五月雨」といえば、言葉の響きも手伝い美しい情景が浮かぶかもしれません。言葉ひとつで気分が変わるから不思議ですね。ちなみに、人気のブラウザゲーム「艦隊これくしょん〜艦これ」に登場するキャラ「五月雨」は、駆逐艦「五月雨」(現在はそれを受け継いだ護衛艦「さみだれ」が活躍中)からきており、梅雨の雨に由来しています。
意味2 / 断続的にいつまでもだらだらと続くこと
五月雨は、物事が一度で終わらず、断続的にだらだらと続くことのたとえでもあります。梅雨の雨が降ったり止んだりする様子になぞらえた表現です。労働組合が長期間にわたって行う交渉や闘争は「五月雨戦術」「五月雨スト」などと呼ばれます。また、とくによく使われるのは「式」をつけた「五月雨式」という表現です。ビジネスシーンでは日常的に使われているので、意味や使い方を押さえておきましょう。
「五月雨式」の意味・使い方・例文
ビジネスシーンでは、一度だけで終わらず何度も追加して行う状態のことを表すときに使います。例えば、電子メールで連絡事項や資料を一度にまとめて送らず、後から追加するかたちで小刻みに連絡する格好になってしまっていることを詫びる意味で、送信する側が「五月雨式ですみません」といった表現を用います。しかし、ネガティブなこととは限りません。「五月雨式」は、一度に全てを行うのではなく、部分的に少しずつ行っていき順次対応を期する方法をさすので、あらかじめ合意が得られていれば、準備できた部分から進めていけます。
<例文>
•五月雨式にメールをお送りし申し訳ございません。
•五月雨式で恐縮です。これが最後の質問なのでご回答よろしくお願いいたします。
•五月雨式で失礼します。先ほどの資料をお送りいたします。
•完成したものから五月雨式に納品させていただきます。
•五月雨式で構いませんので、進捗状況を報告してください。
•本件の資料は五月雨式に届くので、まとめておいてください。
•会議が五月雨式に行われており、メンバーにも疲労の色が見えます。
 
 

 

●五月雨 [さみだれ] 仲夏 4
子季語
さつき雨、さみだる、五月雨雲
解説
陰暦五月に降る雨。梅雨期に降り続く雨のこと。梅雨は時候を表し、五月雨は雨を表す。「さつきあめ」または「さみだるる」と詠まれる。農作物の生育には大事な雨も、長雨は続くと交通を遮断させたり水害を起こすこともある。[仲夏は、夏の三ヶ月を初夏、仲夏、晩夏と分けたときの半ばの一ヶ月で、ほぼ六月にあたります。二十四節気では芒種、夏至の期間(六月六日頃から七月六日頃)になります。] 
例句
五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉「奥のほそ道」
五月雨の降残してや光堂 芭蕉「奥のほそ道」
さみだれの空吹おとせ大井川 芭蕉「真蹟懐紙」
五月雨に御物遠や月の顔 芭蕉「続山の井」
五月雨も瀬ぶみ尋ぬ見馴河 芭蕉「大和巡礼」
五月の雨岩ひばの緑いつまでぞ 芭蕉「向之岡」
五月雨や龍頭揚る番太郎 芭蕉「江戸新道」
五月雨に鶴の足みじかくなれり 芭蕉「東日記」
髪はえて容顔蒼し五月雨 芭蕉「続虚栗」
五月雨や桶の輪切る夜の声 芭蕉「一字幽蘭集」
五月雨にかくれぬものや瀬田の橋 芭蕉「曠野」
五月雨は滝降うづむみかさ哉 芭蕉「荵摺」
五月雨や色紙へぎたる壁の跡 芭蕉「嵯峨日記」
日の道や葵傾くさ月あめ 芭蕉「猿蓑」
五月雨や蠶(かいこ)煩ふ桑の畑 芭蕉「続猿蓑」
さみだれやとなりへ懸る丸木橋 素龍「炭俵」
さみだれや大河を前に家二軒 蕪村「蕪村句集」
五月雨や魚とる人の流るべう 高浜虚子「五百句」
さみだれや青柴積める軒の下 芥川龍之介「澄江堂句集」
 
 

 

●五月雨 吉江喬松 5
五月雨さみだれが音を立てゝ降りそゝいでゐた。
屋根から伝つて雨樋に落ち、雨樋から庭へ下る流れの喧しい音、庭の花壇も水に浸つてしまひ、門の下から牀ゆか下まで一つらに流れとなつて、地皮を洗つて何処へか運んで行く。
夜の闇の中で、雨も真黒い糸となつて落ちて来るやうに思はれる。泥がはね上り、濁水が渦巻いて流れ、空も暗く、何処を見ても果てがつかない。家の中に籠つて電灯の下で、ぢつとその音を聞いてゐても不安が襲つて来る。牀とこを敷いて蒲団の中へもぐり込んでも安眠が出来ない。
うと/\として宵から臥てゐたが、私は妙に不安な気がして眠れなかつた。大地の上を流れてゐる水が、何処か一ヶ所隙を求めて地中へ流れ込んで行つたらば、其処から地上の有りたけの水が滝のやうになつて注ぎ込んで行つたらば、人間の知らずにゐる間に、地球の中が膿んで崩れて不意に落ち込みはしないかといふやうな気がせられた。
と思ふと、また何者かその地中から頭を上げて、地上の動乱の時機に際して、地上を覆つてゐる人間の家屋を、片端から突き倒しでもしはしないか。何ものかの巨きな手が、今私の臥てゐる家の牀下へ伸ばされて、家を揺り動かしてゐるのではあるまいか。
夢のやうに現のやうに、私ははつと眼が醒めると、たしかに家のゆさ/\揺すぶられたのを感じた。耳を立てると、ごう/\いふ水の音が地中へ流れ込んでゐるやうに思はれた。地中の悶えと、地上の動乱とが、少しも私に安易を与へなかつた。
さういふ不安が幾晩もつゞいた。
五六日経つと五月雨が止んだ。重い雲が一重づゝ剥げた。雲切れの間から雨に洗はれた青空が見えて来た。日の光が地上に落ちた。地の肌からは湯気が立ち上る。ぐつたり垂れてゐた草の葉が勢好く頭を上げる。樹々の芽が伸びだした。
戸障子を開け放つて、雨気の籠つた黴臭い家の中へ日の光を導き入れると、畳の面に、人の足痕のべと/\ついてゐるのも目にはひつた。不図気がついて見ると、畳と畳との間から何か出かゝつてゐるのが目にはひつた。何とも初の間ははつきりしなかつた。傍へよつてよく見ると竹の芽のやうだ。私はぞつとして急いで畳を上げて見た。牀板の破れ目から竹の芽が三四寸伸びて出てゐた。或ものは畳に圧せられて、芽の先を平らにひしやげられたやうにして、それでも猶ほ何処かへ出口を求めよう/\と悶えてゐるやうな様をしてゐた。或ものは丁度畳の敷合せを求めてずん/\伸び上らうとしてゐた。
私は畳を三四枚上げて、牀板ゆかいたを剥がして見た。庭から流れ込んだ水が、まだ其処此処にじくじく溜つてゐる中から、ひよろひよろした竹の芽が、彼方にも此方にも一面に伸び出て、牀板に頭をつかえて、恨めしさうに曲つてゐた。水溜の中を蛇のうねつてゐるやうに、太い竹の根が地中を爬はつてゐた。日の光が何処からか洩れて、其処まで射し込んで、不思議な色に光つてゐた。
私は怖ろしくなつた。竹の芽を摘み取るのさへ不気味に思つて、そのまゝ牀板を打ち付けて畳を敷いた。けれど畳の間に出てゐる芽が気になつて、其処へ臥る気にもなれなかつた。牀下の有様を思ふと、その上へ平気で臥てゐる気にもなれなかつた。
縁さきへその芽は五六寸伸びて、幾本も頭を出した。その頭は家の中を覗き込むやうにした。玄関の土間からはむく/\地を破つて、頭を上げて来た。上げ板などは下から幾度となくこつ/\突つかれた。家全体が今にも顛覆させられさうに思はれた。
私は冬からかけて二三ヶ月ゐたその家を早速移ることにした。其後も私は二三回その家の前を通つたが、何人も住んでゐる人がなかつた。
私は、その家の中に、竹の芽が思ふまゝに伸びて、戸障子や襖ふすまのゆがんでゐる有様を思ひ浮べて、こそ/\その家の前を通り過ぎた。
 
 

 

●五月雨 6
関東「梅雨入り」を迎えました。雨が降り続いたかと思うと、一時の「梅雨の中休み」もあります。この梅雨前線の気まぐれに一喜一憂する日々を過ごされているのではないでしょうか。この梅雨時期の雨のことを、古人は「五月雨」と名付けました。そして、この雨の降り方になぞらえて、とぎれながらも何度か続けて行う様を、「五月雨式に」という表現まで、誕生しています。
「五月雨」は、「さみだれ」と読むことは周知の事実。これほどの難読漢字を「ごがつあめ」と読む方が少ないほど、我々日本人に定着している不思議な言葉だと思いませんか。五月雨は梅雨のことを指し示すのですが、5月に梅雨?という違和感を差し置いて、不思議なほどに違和感なく受け入れている面白い言葉です。
明治時代に旧暦(月の周期)から新暦(太陽の周期)へ移行する際に、1か月ほどもズレの生じる誤差がありながら、六月雨と書き換えずにそのまま残すあたりは、「漢字」そのものよりも「読み」に大切な意味があるからなのか。「五月」を「さつき」読みます。ところが、漢字の語源辞典を紐解いてみても、「五」に「さ」の読みはありません。「さ」の月が、5番目の月だった…はて、「さ」の月とは?
古人は、田の神を指し示す言葉を、いや口にする音を「さ」としていたようです。以前にも書きましたが、「すわる場所」のことを「座(くら)」といい、田の神が山より舞い下りる場が、「さ・くら」です。農耕民族である日本人が、桜の開花を待ち望む理由は、古人より連綿と受け継がれてきた「田の神」信仰が、知らず知らずにDNAに刻み込まれているからだと考えています。田の神が舞い降りたことへの感謝の気持ちと、豊穣を祈念する「お祭り」こそ、「花見」のルーツなのだといいます。
収穫の源でもある、田植えのための稲を「早苗(さ・なえ)」と呼び、田植えを担う女性を「早乙女(さ・おとめ)」と言います。過ぎ去りし五月五日は「端午の節句」でした。今では三月三日の「ひな祭り」と対をなす男の子のお祝いとして定着していますが、かつては女性のための日でした。
今では、田植え機の登場で、過去とは比べ物にならないほどスピーディーになった「田植え」ですが、かつては手植えであり、途方もない時を要しました。家族はもちろん、親族や、村仲間も含め、一丸となって取り組まねばならなかったはずです。そして、この重労働の主たる担い手が、前述した「早乙女」です。
実りをもたらす神聖なる「田」に、田の神の息吹のかかる「早苗(さ・なえ)」を「早乙女(さ・おとめ)」が手植えをしてゆきます。そこで、田植えを前に「穢(けがれ)をおとす」ために、早乙女たちが身を清め「何もしない」日が必要になります。それが、5月5日でした。この日は、村中の田植えの担い手である、女性たち「早乙女」は、家事など一切何もしてはいけない安息日であり、その代わりに、男共があくせく働かなければいけない日なのです。まさに、「女性天下の日」だったのです。そして、翌日から「田植え」が始まります。
五月は、大いなる実りを得るための大切な「田植えの月」であるということ。「早苗月(さ・なえづき)」ともいわれますが、これほど重大イベントであるからこそ、余計な言葉を省き、「さ」の月と命名した。旧暦の中で5番目が、その「さ」の月に当たったのです。だから五月を「さ・つき」と読みようになったのだと。もちろん、異論諸説があるかと思いますが、自分のように余計な知識が無い分、素直に受け取れるのがこの説でした。
「水田」というほどに、稲作には豊富な水資源を必要とします。古人は、この水資源確保のために、果敢に灌漑に挑戦し続けてきた歴史があります。特に、田植え時には豊富な水を必要とします。山間を流れる清流はもちろん、降り続ける雨もまた、貴重な水資源です。
灌漑用水路が整うまでは、田植え時期に降り続ける大量の雨は、まさに恵みの雨であったはず。そこで、「さ」の月の雨を、「さ・みだれ」と命名しました。「さ」は前述の通り、「みだれ」は「水垂れ」と書き記すといいます。「さ・みだれ」は、五月に降る雨なので、「五月雨」である。
「五月(さ・つき)」も「五月雨(さ・みだれ)」も、かくも美しき響きをもっていることでしょうか。
 
 

 

●五月雨 7
五月雨という言葉の意味をご存知ですか?「さつきあめ」と読むこともありますが、ここでは「さみだれ」です。
その昔、松尾芭蕉が「五月雨を集めて早し最上川」という句を詠みました。芭蕉が最上川を舟で下っていたとき、五月雨の大量な雨水を全てひとつに集めたかのように感じて作った句です。
雨という漢字が使われているくらいですから、五月雨とは文字通り「雨」です。それでは一体、どんな雨のことを指しているのでしょうか。
意味
一番間違えられやすいのが、雨の降る時期です。五月の雨とは書きますが、実際には5月に降る雨を指しているのではありません。旧暦の5月の雨です。
つまり、新しい現在の暦では、梅雨の時期に当たります。 「だらだらと降り続く梅雨の長雨」という意味だとしたら、芭蕉が大量の川の水を「五月雨」に例えたのも頷けますね。
また、そこから転じて、梅雨の長雨のようにいつまでもだらだら続いていく様子を例えて使われることもあります。「五月雨式」という言葉を耳にしてことはありませんか?
由来
意味を確認したところで、次は「五月雨」という言葉の由来を見てみましょう。このまま読むと、「ごがつあめ」とで読んでしまいそうですが、実際の読み方は「さみだれ」です。
「さ」は「皐月・五月(さつき)」や「早苗(さなえ)」という言葉に共通しており、古語では「神に捧げる稲」を表します。「みだれ」とは「水垂れ(みだれ)」のことです。
つまり、雨が降るという意味の言葉だと言われています。 梅雨に降る雨であるため、梅雨と同じ意味で使われる場合もあります。しかし、季節を意味する梅雨に対して、五月雨は長雨そのものを示しています。
 
 

 

●五月雨 8
「五月雨」とは“梅雨に降る雨”のこと
五月雨を集めて早し最上川
これは江戸時代の有名な俳人、松尾芭蕉(まつおばしょう)が詠んだ俳句です。松尾芭蕉の作品の中でも有名な一句なのでご存知の方も多いでしょう。ちなみに意味はこんな感じ「五月雨を集めてきたように最上川は流れがすごいなー」。最上川は山形県を流れる川です。
ここでいう「五月雨」ですが、現在の5月に降る雨ではないことはご存知でしょうか。「五月雨」とは梅雨に降る雨のことを指します。梅雨といえば6月ですよね。なぜ“六月雨”ではなく「五月雨」なのでしょう。答えは簡単。ここでいう“五月”は旧暦の5月だからです。旧暦5月は現在でいう6月頃を指します。
「五月雨」の読み方
今更ですが、「五月雨」は何と読むでしょう。「さみだれをあつめてはやし…」と俳句を思い出せばスッと出てきますが、「五月雨」だけ見て一瞬、「ごがつあめ?」「さつきあめ?」と迷ったことがある人はいませんか。
「五月雨」は“さみだれ”と読みます。「さ」は旧暦5月を指す「五月・皐月(さつき)」から。「水垂(みだれ)」には「雨が降る」という意味があります。
「さつきあめ」と読む場合もありますが、一般的に「ごがつあめ」とは読まないので注意。
「五月雨式」とは
芭蕉の俳句ぐらいでしか耳にしない「五月雨」よりも、「五月雨式(さみだれしき)」の方がビジネスパーソンにとっては馴染み深いかもしれません。
「五月雨式にすみません」というフレーズを聞いたことはないでしょうか。
「五月雨式」とは物事をまとめてではなく、小出しにして断続的に行っていくこと。「五月雨」が表す梅雨の雨のように、少しずつ断続的に続いていく様に例えています。
ビジネスシーンではEメール等で質問や依頼、情報などをまとめてではなく小出しに送信、連絡していく様を表す言葉として使われています。また、商品や書類などを小出しに納品、提出するような際も使用します。
「五月雨式にすみません」とは、まとめて連絡や情報提供できないことを謝罪する際の言葉です。
「五月雨式」の例・使い方
ビジネスシーンでの「五月雨式」とは具体的にどのようなものなのでしょうか。以下の例文で見ていきましょう。
   「五月雨式」のEメール
   A社との打ち合わせの件です。B案とC案だったらB案の方がいいといっていました。
   オッケー。次回の打ち合わせまでにB案をもっと詰めておいて
   C案も条件によってはありとのことでした。
   B案を前提に進めつつ、C案も準備しておいて
   でも、やっぱりまったく新しいD案を持ってきてといってました
   結局どうだったの!?一度にまとめてよ(怒)
「五月雨式」の悪い例ですね。あらかじめ「五月雨式にすみません」と断っておけば怒らせることはなかったかも。とはいえ、この表現を知っている人であれば、あえてだらだらしたEメールは送らないですよね。
「五月雨式にすみません」と断るのは、事情があって断続的にならざるおえない場合です。例えば以下のような場合。
   ・送信した後に新情報が出て、追加送信
   ・完成したものから順次納品していく
   ・相手の様子を見ながら情報を小出しにして渡す
事情がある場合に「五月雨式にすみません」、「五月雨式になってしまいますが…」と断りを入れておけば相手を怒らせることはないでしょう。
   「五月雨式」の例文
   ・五月雨式にすみません。
   ・五月雨式に申し訳ありません。
   ・五月雨式ではございますが…
   ・五月雨式に失礼いたします。
「五月雨」の類語
「五月雨」を言い換えるとしたら「梅雨」「大雨」「長雨」「じとじと雨」「6月の雨」などでしょうか。「5月の雨」と言い換えるのは間違いです。「旧暦5月の雨」ならいいかもしれません。
「五月雨」と似た言葉で「五月晴れ(さつきばれ・ごがつばれ)」はご存知でしょうか。
「はいはい、これも「五月雨」と同じで5月の晴れた天気のことじゃなくて、6月の晴れ日のことなんでしょ」
と考えたあなた!半分正解で半分外れです。たしかに「五月晴れ」は以前は梅雨の合間の晴れ日のことを指しましたが、現在では5月の晴れ日のことも指すようになっています。
その証拠に気象庁のサイトを見ても「五月晴れ」の意味は「5月の晴天」とあります。備考には「本来は旧暦の5月(さつき)からきたことばで、梅雨の合間の晴れのことを指していた」とあるように、誤用が一般的になり浸透していったようです。
ニュースや新聞で見聞きする「五月晴れ」は基本的に「5月の晴天」であると覚えておきましょう。
「さつきばれ」と読むと「梅雨の合間の晴れ」、「ごがつばれ」と読むと「5月の晴天」と使い分ける説もあります。
ちなみに、「五月雨」は気象庁では使用を控えるべき言葉として「予報、解説には用いない」と記載されています。
「五月雨式」の類語
「五月雨式」を言い換えるとしたら、「断続的」「だらだら」「絶え間なく」などが挙げられます。
「五月雨式にすみません」というフレーズごと言い換えるのであれば、「まとめてお渡しできず申し訳ありません」といった言い回しが可能です。
「五月雨式」は断りを入れてから
誰でも連絡は、まとめてスマートに行いたいですよね。報告や納品も同じです。小出しにして提出するよりも、一度で終わらせた方が何だかできるビジネスパーソンっぽい…
とはいえ、いつでもそんな風にうまくできるわけではありません。自分の意思に反して「五月雨式」にならざるおえないこともあるでしょう。また、戦略的に「五月雨式」にする場合もあります。
だらだらと理由もわからず「五月雨式」に連絡されたら腹を立てる人もいますが、あらかじめ「五月雨式になるかもしれません」といえば問題ないでしょう。「五月雨式」になりそうなときは断りを入れておけばスマートです。
 
 

 

●奥の細道 
●「序章」
月日は百代という長い時間を旅していく旅人のようなものであり、その過ぎ去って行く一年一年もまた旅人なのだ。船頭のように舟の上に生涯を浮かべ、馬子のように馬の轡(くつわ)を引いて老いていく者は日々旅の中にいるのであり、旅を住まいとするのだ。西行、能因など、昔も旅の途上で亡くなった人は多い。私もいくつの頃だったか、吹き流れていくちぎれ雲に誘われ漂泊の旅への思いを止めることができず、海ぎわの地をさすらい、去年の秋は川のほとりのあばら家に戻りその蜘蛛の古巣をはらい一旦落ち着いていたのだが、しだいに年も暮れ春になり、霞のかかった空をながめていると、ふと【白河の関】を越してみたくなり、わけもなく人をそわそわさせるという【そぞろ神】に憑かれたように心がさわぎ、【道祖神】の手招きにあって何も手につかない有様となり、股引の破れを繕い、笠の緒をつけかえ、三里のつぼに灸をすえるそばから、松島の月がまず心にかかり、住み馴れた深川の庵は人に譲り、旅立ちまでは門人【杉風(さんぷう)】の別宅に移り、
草の戸も 住み代わる世ぞ 雛の家
(戸口が草で覆われたこのみすぼらしい深川の宿も、私にかわって新しい住人が住み、綺麗な雛人形が飾られるようなはなやかな家になるのだろう)
と発句を詠み、面八句を庵の柱に書き残すのだった。
   序文(じょぶん)
月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人(たびびと)なり。
舟の上に生涯(しょうがい)をうかべ、馬の口とらえて老(おい)をむかふるものは、日々(ひび)旅(たび)にして旅(たび)を栖(すみか)とす。
古人(こじん)も多く旅(たび)に死(し)せるあり。
よもいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊(ひょうはく)の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(こうしょう)の破屋(はおく)にくもの古巣(ふるす)をはらひて、やや年も暮(くれ)、春立てる霞(かすみ)の空に白河(しらかわ)の関こえんと、そぞろ神(がみ)の物につきて心をくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて、取(と)るもの手につかず。
ももひきの破(やぶ)れをつづり、笠(かさ)の緒(お)付(つ)けかえて、三里(さんり)に灸(きゅう)すゆるより、松島の月まず心にかかりて、住(す)める方(かた)は人に譲(ゆず)り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移(うつ)るに、
   草の戸も 住替(すみかわる)る代(よ)ぞ ひなの家
面八句(おもてはちく)を庵(いおり)の柱(はしら)にかけ置(お)く。
●「千住」
二月二十七日、夜明け方の空はおぼろに霞み、有明の月はもう光が薄くなっており、富士の峰が遠く幽かにうかがえる。上野・谷中のほうを見ると木々の梢がしげっており、これら花の名所を再び見れるのはいつのことかと心細くなるのだった。親しい人々は宵のうちから集まって、舟に乗って送ってくれる。千住というところで舟をあがると、これから三千里もの道のりがあるのだろうと胸がいっぱいになる。この世は幻のようにはかないものだ、未練はないと考えていたが、いざ別れが近づくとさすがに泪があふれてくる。
行春や鳥啼魚の目は泪
(意味)春が過ぎ去るのを惜しんで鳥も魚も目に涙を浮かべているようだ。
これをこの旅で詠む第一句とした。見送りの人々は別れを惜しんでなかなか足が進まない。ようやく別れて後ろを振り返ると、みんな道中に立ち並んでいる。後ろ姿が見える間は見送ってくれるつもりなんだろう。
   旅立ち(たびだち)
弥生(やよい)も末(すえ)の七日、あけぼのの空朧々(ろうろう)として、月はありあけにて光おさまれるものから、富士(ふじ)の嶺(みね)かすかに見えて、上野(うえの)・谷中(やなか)の花の梢(こずえ)、またいつかはと心ぼそし。
むつましきかぎりは宵(よい)よりつどひて、舟に乗(の)りて送る。
千じゆといふ所にて舟をあがれば、前途(せんど)三千里(さんぜんり)の思い胸(むね)にふさがりて、幻(まぼろし)のちまたに離別(りべつ)の泪(なみだ)をそそぐ。
   行(ゆ)く春や 鳥啼(なき)魚(うお)の 目は泪(なみだ)
これを矢立(やたて)の初(はじめ)として、行(ゆ)く道なを進まず。
人々は途中(みちなか)に立(た)ちならびて、後(うし)ろかげの見ゆるまではと見送(みおく)るなるべし。
●「草加」
今年は元禄二年であったろうか、奥羽への長旅をふと気まぐれに思い立った。この年で遠い異郷の空の下を旅するなど、さぞかし大変な目にあってさらに白髪が増えるに決まっているのだ。しかし話にだけ聞いて実際目で見たことはない地域を、ぜひ見てみたい、そして出来るなら再びもどってきたい。そんなあてもない願いを抱きながら、その日草加という宿にたどり着いた。何より苦しかったのは痩せて骨ばってきた肩に、荷物がずしりと重く感じられることだ。できるだけ荷物は持たず、手ぶらに近い格好で出発したつもりだったが、夜の防寒具としては紙子が一着必要だし、浴衣・雨具・墨・筆などもいる。その上どうしても断れない餞別の品々をさすがに捨ててしまうわけにはいかない。こういうわけで、道すがら荷物がかさばるのは仕方のないことなのだ。
   草加(そうか)
ことし元禄(げんろく)二(ふた)とせにや、奥羽(おうう)長途(ちょうど)の行脚(あんぎゃ)ただかりそめに思ひたちて、呉天(ごてん)に白髪(はくはつ)の恨(うら)みを重(かさ)ぬといへども、耳にふれていまだ目に見ぬ境(さかい)、もし生(いき)て帰らばと、定(さだめ)なき頼(たの)みの末(すえ)をかけ、その日ようよう早加(そうか)といふ宿(しゅく)にたどり着(つ)きにけり。
痩骨(そうこつ)の肩(かた)にかかれるもの、まずくるしむ。
ただ身(み)すがらにと出(い)で立(た)ちはべるを、帋子(かみこ)一衣(いちえ)は夜の防(ふせ)ぎ、ゆかた・雨具(あまぐ)・墨筆(すみふで)のたぐひ、あるはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは、さすがに打捨(うちすて)がたくて、路頭(ろとう)の煩(わずらい)となれるこそわりなけれ。
●「室の八島」
室の八島と呼ばれる神社に参詣する。旅の同行者、曾良が言うには、「ここに祭られている神は木の花さくや姫の神といって、富士の浅間神社で祭られているのと同じご神体です。木の花さくや姫が身の潔白を証しするために入り口を塞いだ産室にこもり、炎が燃え上がる中で火々出身のみことをご出産されました。それによりこの場所を室の八島といいます。また、室の八島を歌に詠むときは必ず「煙」を詠み込むきまりですが、それもこのいわれによるのです。また、この土地では「このしろ」という魚を食べることを禁じているが、それも木の花さくや姫の神に関係したことだそうで、そういった神社の由来はよく世の中に知られている。
   室の八島(むろのやしま)
室(むろ)の八嶋(やしま)に詣(けい)す。
同行(どうぎょう)曽良(そら)がいわく、「この神(かみ)は木(こ)の花さくや姫(ひめ)の神(かみ)ともうして富士(ふじ)一躰(いったい)なり。
無戸室(うつむろ)に入(い)りて焼(や)きたまふちかひのみ中に、火火出見(ほほでみ)のみこと生れたまひしより室(むろ)の八嶋(やしま)ともうす。
また煙(けむり)を読習(よみならわ)しはべるもこの謂(いわれ)なり」。
はた、このしろといふ魚を禁(きん)ず。
縁記(えんぎ)のむね世(よ)に伝(つた)ふこともはべりし。
●「仏五左衛門」
三月三十日、日光山のふもとに宿を借りて泊まる。宿の主人が言うことには、「私の名は仏五左衛門といいます。なんにでも正直が信条ですから、まわりの人から「仏」などと呼ばれるようになりました。そんな次第ですから今夜はゆっくりおくつろぎください」と言うのだ。いったいどんな種類の仏がこの穢れた世に姿を現して、このように僧侶(桑門)の格好をして乞食巡礼の旅をしているようなみすぼらしい者をお助けになるのだろうかと、主人のやることに心をとめて観察していた。すると、知恵や分別が発達したということでは全くなく、ただひたすら正直一途な者なのだ。論語にある「剛毅朴訥は仁に近し」という言葉を体現しているような人物だ。生まれつきもっている(気稟)、清らかな性質(清質)なんだろう、こういう者こそ尊ばれなければならない。
   仏五左衛門(ほとけござえもん)
卅日(みそか)、日光山(にっこうざん)の梺(ふもと)に泊(とま)る。
あるじのいいけるやう、「わが名を仏五左衛門(ほとけござえもん)といふ。よろず正直(しょうじき)をむねとするゆえに、人かくはもうしはべるまま、一夜(いちや)の草の枕(まくら)もうとけて休みたまへ」といふ。
いかなる仏(ほとけ)の濁世塵土(じょくせじんど)に示現(じげん)して、かかる桑門(そうもん)の乞食順礼(こつじきじゅんれい)ごときの人をたすけたまふにやと、あるじのなすことに心をとどめてみるに、ただ無智無分別(むちむふんべつ)にして、正直偏固(しょうじきへんこ)の者(もの)なり。
剛毅木訥(ごうきぼくとつ)の仁(じん)に近きたぐひ、気禀(きひん)の清質(せいしつ)もっとも尊(とうと)ぶべし。
●「日光」
四月一日、日光の御山に参詣する。昔この御山を「二荒山(ふたらさん)」と書いたが、空海大師が開基した時、「日光」と改められたのだ。大師は千年先の未来までも見通すことできたのだろうか、今この日光東照宮に祭られている徳川家康公の威光が広く天下に輝き、国のすみずみまであふれんばかりの豊かな恩恵が行き届き、士農工商すべて安心して、穏やかに住むことができる。なお、私ごときがこれ以上日光について書くのは畏れ多いのでこのへんで筆を置くことにする。
あらたふと青葉若葉の日の光
(意味)ああなんと尊いことだろう、「日光」という名の通り、青葉若葉に日の光が照り映えているよ。
   日光(にっこう)
卯月(うづき)朔日(ついたち)、御山(おやま)に詣拝(けいはい)す。
往昔(そのむかし)この御山(おやま)を二荒山(ふたらさん)と書きしを、空海大師(くうかいだいし)開基(かいき)の時、日光と改(あらた)めたまふ。
千歳未来(せんざいみらい)をさとりたまふにや。
今この御光(みひかり)一天(いってん)にかかやきて、恩沢八荒(おんたくはっこう)にあふれ、四民安堵(しみんあんど)の栖(すみか)穏(おだやか)なり。
猶(なお)憚(はばかり)多くて筆(ふで)をさし置(おき)ぬ。
あらたうと 青葉若葉(あおばわかば)の 日の光
●「黒髪山」
古歌に多く「黒髪山」として詠まれている日光連峰のひとつ、男体山(なんたいざん)をのぞむ。霞がかかって、雪がいまだに白く残っている。
剃捨てて黒髪山に衣更 曾良
(意味)旅に出発する時に髪を剃って坊主の姿となった。今また四月一日衣更えの時期に、その名も黒髪山を越え、この旅にかける決意を新たにするのだった。
曾良は河合という姓で名は惣五郎という。深川の芭蕉庵の近所に住んでいて、私の日常のことを何かと手伝ってくれていた。今回、有名な松島、象潟の眺めを一緒に見ることを喜び、また旅の苦労を労わりあおうと、出発の日の早朝、髪をおろして僧侶の着る墨染の衣に着替え、名前も惣五から僧侶風の「宗悟」と変えた。こういういきさつで、この黒髪山の句は詠まれたのだ。「衣更」の二字には曾良のこの旅にかける覚悟がこめられていて、力強く聞こえることよ。二十丁ちょっと山を登ると滝がある。窪んだ岩の頂上から水が飛びはねて、百尺もあうかという高さを落ちて、沢山の岩が重なった真っ青な滝つぼの中へ落ち込んでいく。岩のくぼみに身をひそめると、ちょうど滝の裏から見ることになる。これが古くから「うらみの滝」と呼ばれるゆえんなのだ。
暫時は滝に籠るや夏の初
(意味)滝の裏の岩屋に入ったこの状況を夏行(げぎょう)の修行と見立ててしばらくはこもっていようよ。
   黒髪山(くろかみやま)
黒髪山(くろかみやま)は霞(かすみ)かかりて、雪いまだ白し。
剃捨(そりすて)て 黒髪山(くろかみやま)に 衣更(ころもがえ) 曽良
曽良(そら)は河合氏(かわいうじ)にして、惣五郎(そうごろう)といへり。
芭蕉(ばしょう)の下葉(したば)に軒(のき)をならべて、よが薪水(しんすい)の労(ろう)をたすく。
このたび松島(まつしま)・象潟(きさがた)の眺(ながめ)ともにせんことを悦(よろこ)び、かつは羈旅(きりょ)の難(なん)をいたはらんと、旅(たび)立つ暁(あかつき)髪(かみ)を剃(そ)りて墨染(すみぞめ)にさまをかえ、惣五(そうご)を改(あらため)て宗悟(そうご)とす。
よって黒髪山(くろかみやま)の句(く)あり。
「衣更(ころもがえ)」の二字(にじ)力(ちから)ありてきこゆ。
廿余丁(にじゅうよちょう)山を登つて瀧(たき)あり。
岩洞(がんとう)の頂(いただき)より飛流(ひりゅう)して百尺(はくせき)、千岩(せんがん)の碧潭(へきたん)に落(お)ちたり。
岩窟(がんくつ)に身(み)をひそめ入(い)りて瀧(たき)の裏(うら)より見れば、裏見(うらみ)の瀧(たき)ともうし伝(つた)えはべるなり。
しばらくは 瀧(たき)に籠(こも)るや 夏(げ)の初(はじめ)
●「那須」
那須の黒羽という所に知人がいるので、これから那須野を超えてまっすぐの道を行くことにする。はるか彼方に村が見えるのでそれを目指して行くと、雨が降ってきて日も暮れてしまう。百姓屋で一晩泊めてもらい、翌朝また広い那須野の原野の中を進んでいく。そこに、野に飼ってある馬があった。そばで草を刈っていた男に道をたずねると、片田舎のなんでもない男だが、さすがに情けの心を知らないわけではなかった。「さあ、どうしたもんでしょうか。しかしこの那須野の原野は縦横に走っていて、初めて旅する人が道に迷うことも心配ですから、この馬をお貸しします。馬の停まったところで送り返してください」こうして馬を借りて進んでいくと、後ろから子供が二人馬のあとを慕うように走ってついてくる。そのうち一人は女の子で、「かさね」という名前であった。あまり聞かない優しい名前だということで、曾良が一句詠んだ。
かさねとは八重撫子の名成べし 曽良
(意味)可愛らしい女の子を撫子によく例えるが、その名も「かさね」とは撫子の中でも特に八重撫子を指しているようだ。
それからすぐ人里に出たので、お礼のお金を馬の鞍つぼ(鞍の中央の人が乗るくぼんだ部分)に結び付けて、馬を返した。
   那須(なす)
那須(なす)の黒ばねといふ所(ところ)に知人(しるひと)あれば、これより野越(のごえ)にかかりて、直道(すぐみち)をゆかんとす。
遥(はるか)に一村(いっそん)を見かけて行(ゆ)くに、雨降(ふ)り日暮(く)るる。
農夫(のうふ)の家に一夜(いちや)をかりて、明(あく)ればまた野中(のなか)を行(ゆ)く。
そこに野飼(のがい)の馬あり。
草刈(か)る男の子(おのこ)になげきよれば、野夫(やふ)といへどもさすがに情(なさけ)しらぬには非(あら)ず。
「いかがすべきや。されどもこの野は縦横(じゅうおう)にわかれて、うゐうゐ(ういうい)しき旅人(たびびと)の道ふみたがえむ、あやしうはべれば、この馬のとどまる所にて馬を返したまへ」と、かしはべりぬ。
ちいさき者ふたり、馬の跡(あと)したひて走る。
独(ひとり)は小姫(こひめ)にて、名をかさねといふ。
聞きなれぬ名のやさしかりければ、
かさねとは 八重撫子(やえなでしこ)の 名(な)成(な)るべし 曽良
やがて人里(ひとざと)にいたれば、あたひを鞍(くら)つぼに結付(むすびつ)けて、馬を返(かえ)しぬ。
●「黒羽」
黒羽藩の留守居役の家老である、浄坊寺何がしという者の館を訪問する。主人にとっては急な客人でとまどったろうが、思いのほかの歓迎をしてくれて、昼となく夜となく語り合った。その弟である桃翠という者が朝夕にきまって訪ねてきて、自分の館にも親族の住まいにも招待してくれた。こうして何日か過ごしていたが、ある日郊外に散歩に出かけた。昔、犬追物に使われた場所を見て、那須の篠原を掻き分けるように通りすぎ、九尾の狐として知られる玉藻の前の塚を訪ねた。それから八幡宮に参詣した。かの那須与一が扇の的を射る時「(いろいろな神々の中でも特に)わが国那須の氏神である正八幡さまに(お願いします)」と誓ったのはこの神社だときいて、感動もいっそう大きくなるのだった。日が暮れると、再び桃翠宅に戻る。近所に修験光明寺という寺があった。そこに招かれて、修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)をまつってある行者堂を拝んだ。
夏山に足駄を拝む首途哉
(意味)役小角(えんのおづぬ)のお堂を拝む。この夏山を越せばもう奥州だ。小角が高下駄をはいて山道を下ったというその健脚にあやかりたいと願いつつ、次なる門出の気持ちを固めるのだ。
   黒羽(くろばね)
黒羽(くろばね)の館代(かんだい)浄坊寺(じょうほうじ)何(なに)がしの方(かた)におとずる。
思ひがけぬあるじの悦(よろこ)び、日夜(にちや)語(かた)りつづけて、その弟(おとうと)桃翠(とうすい)などいふが、朝夕(ちょうせき)勤(つと)めとぶらひ、自(みずから)の家にも伴(ともな)ひて、親属(しんぞく)の方(かた)にもまねかれ、日をふるままに、日とひ郊外(こうがい)に逍遙(しょうよう)して、犬追物(いぬおうもの)の跡(あと)を一見(いっけん)し、那須(なす)の篠原(しのはら)をわけて玉藻の前(たまものまえ)の古墳(こふん)をとふ。
それより八幡宮(はちまんぐう)に詣(もう)ず。
与一(よいち)扇(おうぎ)の的(まと)を射(い)し時、「べっしては我国氏神(わがくにのうじがみ)正八(しょうはち)まん」とちかひしもこの神社(じんじゃ)にてはべると聞けば、感應(かんのう)殊(ことに)しきりに覚(おぼ)えらる。
暮(くるれば桃翠(とうすい)宅(たく)に帰る。
修験光明寺(しゅげんこうみょうじ)といふあり。
そこにまねかれて行者堂(ぎょうじゃどう)を拝(はい)す。
夏山(なつやま)に 足駄(あしだ)をおがむ かどでかな
●「雲巌寺」
下野国の臨済宗雲巌寺の奥の山に、私の禅の師である仏頂和尚が山ごもりしていた跡がある。「縦横五尺に満たない草の庵だが、雨が降らなかったらこの庵さえ必要ないのに。住まいなどに縛られないで生きたいと思ってるのに残念なことだ」と、松明の炭で岩に書き付けたと、いつか話してくださった。その跡を見ようと、雲巌寺に杖をついて向かうと、ここの人々はお互いに誘い合って案内についてきてくれた。若い人が多く、道中楽しく騒いで、気付いたら麓に到着していた。この山はだいぶ奥が深いようだ。谷ぞいの道がはるかに続き、松や杉が黒く茂って、苔からは水がしたたりおちていた。さて、仏頂和尚山ごもりの跡はどんなものだろうと裏山に上ると、石の上に小さな庵が、岩屋にもたれかかるように建っていた。話にきく妙禅師の死関や法雲法師の石室を見るような思いだった。
木啄も庵はやぶらず夏木立
(意味)夏木立の中に静かな庵が建っている。さすがの啄木鳥も、この静けさを破りたくないと考えてか、この庵だけはつつかないようだ。
と、即興の一句を柱に書き残すのだった。
   雲巌寺(うんがんじ)
当国(とうごく)雲巌寺(うんがんじ)のおくに佛頂和尚(ぶっちょうおしょう)山居跡(さんきょのあと)あり。
竪横(たてよこ)の 五尺(ごしゃく)にたらぬ 草(くさ)の庵(いお)
むすぶもくやし 雨なかりせば
と、松の炭(すみ)して岩に書き付(つ)けはべりと、いつぞや聞こえたまふ。
その跡(あと)みむと雲岸寺(うんがんじ)に杖(つえ)をひけば、人々すすんでともにいざなひ、若(わか)き人おほく、道のほど打(う)ちさはぎて、おぼえずかの梺(ふもと)にいたる。
山はおくあるけしきにて、谷道(たにみち)はるかに、松(まつ)杉(すぎ)黒く、苔(こけ)しただりて、卯月(うづき)の天今なお寒(さむ)し。
十景(じっけい)つくる所(ところ)、橋(はし)をわたつて山門(さんもん)に入(い)る。
さて、かの跡(あと)はいづくのほどにやと、後(うし)ろの山によぢのぼれば、石上(せきじょう)の小庵(しょうあん)岩窟(がんくつ)にむすびかけたり。
妙禅師(みょうぜんじ)の死関(しかん)、法雲法師(ほううんほうし)の石室(せきしつ)を見るがごとし。
木啄(きつつき)も 庵(いお)はやぶらず 夏木立(なつこだち)
と、とりあへぬ一句(く)を柱(はしら)に残(のこ)しはべりし。
●「殺生石・遊行柳」
黒羽を出発して、殺生石に向かう。伝説にある玉藻前が九尾の狐としての正体を暴かれ、射殺されたあと石に変化したという、その石が殺生石だ。黒羽で接待してくれた留守居役家老、浄法寺氏のはからいで、馬で送ってもらうこととなった。すると馬の鼻緒を引く馬子の男が、「短冊をくれ」という。馬子にしては風流なこと求めるものだと感心して、
野を横に馬牽むけよほとゝぎす
(意味)広い那須野でほととぎすが一声啼いた。その声を聞くように姿を見るように、馬の頭をグーッとそちらへ向けてくれ。そして馬子よ、ともに聞こうじゃないか。
殺生石は、温泉の湧き出る山陰にあった。石の姿になっても九尾の狐であったころの毒気がまだ消えぬと見えて、蜂や蝶といった虫類が砂の色が見えなくなるほど重なりあって死んでいた。また、西行法師が「道のべに清水ながるゝ柳かげしばしとてこそたちどまりつれ」と詠んだ柳を訪ねた。その柳は蘆野の里にあり、田のあぜ道に残っていた。ここの領主、戸部某という者が、「この柳をお見せしなければ」としばしば言ってくださっていたのを、どんな所にあるのかとずっと気になっていたが、今日まさにその柳の陰に立ち寄ったのだ。
田一枚植て立ち去る柳かな
(意味)西行法師ゆかりの遊行柳の下で座り込んで感慨にふけっていると、田植えをしているのが見える。(私は?)田んぼ一面植えてしまうまでしみじみと眺めて立ち去るのだった
   殺生石・遊行柳(せっしょうせき・ゆぎょうやなぎ)
これより殺生石(せっしょうせき)に行(ゆ)く。
館代(かんだい)より馬にて送(おく)らる。
この口付(つ)きの男の子(おのこ)、短冊(たんじゃく)得(え)させよとこう。
やさしきことを望(のぞ)みはべるものかなと、
野(の)を横(よこ)に 馬(うま)ひきむけよ ほととぎす
殺生石(せっしょうせき)は温泉(いでゆ)の
出(い)づる山陰(やまかげ)にあり。
石の毒気(どくけ)いまだほろびず。
蜂(はち)蝶(ちょう)のたぐひ真砂(まさご)の色の見えぬほどかさなり死す。
また、清水(しみず)ながるるの柳(やなぎ)は蘆野(あしの)の里にありて田の畔(くろ)に残(のこ)る。
この所(ところ)の郡守(ぐんしゅ)戸部(こほう)某(なにがし)のこの柳(やなぎ)見せばやなど、おりおりにのたまひ聞こえたまふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳(やなぎ)のかげにこそ立ち寄(よ)りはべりつれ。
田(た)一枚(いちまい) 植(う)えて立ち去(さ)る 柳(やなぎ)かな
●「白河の関」
最初は旅といっても実感がわかない日々が続いたが、白河の関にかかる頃になってようやく旅の途上にあるという実感が湧いてきた。平兼盛は「いかで都へ」と、この関を越えた感動をなんとか都に伝えたいものだ、という意味の歌を残しているが、なるほどもっともだと思う。特にこの白河の関は東国三関の一つで、昔から風流を愛する人々の心をとらえてきた。能因法師の「霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白川の関」という歌を思うと季節は初夏だが、秋風が耳奥で響くように感じる。また源頼政の「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関」を思うと青葉の梢のむこうに紅葉の見事さまで想像されて、いっそう風雅に思えるのだった。真っ白い卯の花に、ところどころ茨の白い花が咲き混じっており、雪よりも白い感じがするのだ。陸奥守竹田大夫国行が白河の関を越えるのに能因法師の歌に敬意を払って冠と衣装を着替えて超えたという話を藤原清輔が書き残しているほどだ。
卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良
(意味)かつてこの白河の関を通る時、陸奥守竹田大夫国行(むつのかみたけだのだいふくにゆき)は能因法師の歌に敬意を表して 衣装を着替えたという。私たちはそこまではできないがせめて卯の花を頭上にかざして、敬意をあらわそう。
   白河(しらかわ)
心もとなき日かず重(かさ)なるままに、白河(しらかわ)の関(せき)にかかりて、旅心(たびごころ)定(さだ)まりぬ。
いかで都(みやこ)へと便(たより)求(もと)めしもことわりなり。
中にもこの関(せき)は三関(さんかん)の一(いつ)にして、風騒(ふうそう)の人、心をとどむ。
秋風を耳に残(のこ)し、紅葉(もみじ)を俤(おもかげ)にして、青葉(あおば)の梢(こずえ)なおあはれなり。
卯(う)の花の白妙(しろたえ)に、茨(いばら)の花の咲(さ)きそひて、雪にもこゆる心地(ここち)ぞする。
古人(こじん)冠(かんむり)を正(ただ)し、衣装(いしょう)を改(あらた)めしことなど、清輔(きよすけ)の筆(ふで)にもとどめ置(お)かれしとぞ。
卯(う)の花を かざしに関(せき)の 晴着(はれぎ)かな 曽良(そら)
●「須賀川」
このようにして白河の関を超えてすぐに、阿武隈川を渡った。左に会津の代表的な山である磐梯山が高くそびえ、右には岩城・相馬・三春の庄という土地が広がっている。後ろを見ると常陸、下野との境には山々がつらなっていた。かげ沼という所に行くが、今日は空が曇っていて水面には何も写らなかった。須賀川の駅で等窮というものを訪ねて、四五日やっかいになった。等窮はまず「白河の関をどう越しましたか(どんな句を作りましたか)」と尋ねてくる。「長旅の大変さに身も心も疲れ果てておりまして、また見事な風景に魂を奪われ、懐旧の思いにはらわたを絶たれるようでして、うまいこと詠めませんでした」
風流の初やおくの田植うた
(意味)白河の関を超え奥州路に入ると、まさに田植えの真っ盛りで農民たちが田植え歌を歌っていた。そのひなびた響きは、陸奥で味わう風流の第一歩となった。
何も作らずに関をこすのもさすがに残念ですから、こんな句を作ったのです」と語ればすぐに俳諧の席となり、脇・第三とつづけて歌仙が三巻も出来上がった。この宿のかたわらに、大きな栗の木陰に庵を建てて隠遁生活をしている何伸という僧があった。西行法師が「橡ひろふ」と詠んだ深山の生活はこんなであったろうとシミジミ思われて、あり合わせのものに感想を書き記した。「栗」という字は「西」の「木」と書くくらいだから西方浄土に関係したものだと、奈良の東大寺造営に貢献した行基上人は一生杖にも柱にも栗の木をお使いになったということだ。
世の人の見付ぬ花や軒の栗
(意味)栗の花は地味であまり世間の人に注目されないものだ。そんな栗の木陰で隠遁生活をしている主人の人柄をもあらわしているようで、おもむき深い。
   須賀川(すかがわ)
とかくして越(こ)え行(ゆ)くままに、あぶくま川を渡(わた)る。
左に会津根(あいづね)高く、右に岩城(いわき)・相馬(そうま)・三春(みはる)の庄(しょう)、常陸(ひたち)・下野(しもつけ)の地をさかひて、山つらなる。
かげ沼といふ所(ところ)を行(ゆ)くに、今日は空(そら)曇(くもり)て物影(ものかげ)うつらず。
須賀川(すかがわ)の駅に等窮(とうきゅう)といふものを尋(たず)ねて、四、五日とどめらる。
まず白河(しらかわ)の関(せき)いかにこえつるやと問(と)う。
「長途(ちょうど)のくるしみ、身心(しんじん)つかれ、かつは風景(ふうけい)に魂(たましい)うばはれ、懐旧(かいきゅう)に腸(はらわた)を断(た)ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。
風流(ふうりゅう)の 初(はじめ)やおくの 田植(たうえ)うた
無下(むげ)にこえんもさすがに」と語(かた)れば、脇(わき)・第三(だいさん)とつづけて、三巻(みまき)となしぬ。
この宿(しゅく)のかたわらに、大きなる栗(くり)の木陰(こかげ)をたのみて、世(よ)をいとふ僧(そう)あり。
橡(とち)ひろふ太山(みやま)もかくやとしづかに覚(おぼ)えられてものに書き付(つ)はべる。
其詞(そのことば)、
栗(くり)といふ文字(もんじ)は西の木と書きて
西方浄土(さいほうじょうど)に便(たより)ありと、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の一生(いっしょう)
杖(つえ)にも柱(はしら)にもこの木を用(もち)いたまふとかや。
世(よ)の人の 見付(つ)けぬ花や 軒(のき)の栗(くり)
●「あさか山」
等窮の家を出て五里ほど進み、檜肌の宿を離れたところにあさか山(安積山)が道のすぐそばにある。このあたりは「陸奥の安積の沼の花かつみ」と古今集の歌にあるように沼が多い。昔藤中将実方がこの地に左遷された時、五月に飾る菖蒲がなかったため、かわりにこのり歌をふまえて「かつみ」を刈って飾ったというが、今はちょうどその時期なので、「どの草をかつみ草というんだ」と人々に聞いてまわったが、誰も知る人はない。沼のほとりまで行って「かつみ、かつみ」と探し歩いているうちに日が山際にかかって夕暮れ時になってまった。二本松より右に曲がり、謡曲「安達原」で知られる鬼婆がいたという黒塚の岩屋を見て、福島で一泊した。
   安積山(あさかやま)
等窮(とうきゅう)が宅(たく)を出(い)でて五里(ごり)ばかり、桧皮(ひわだ)の宿(しゅく)を離(はな)れて安積山(あさかやま)あり。
路(みち)より近(ちか)し。
このあたり沼(ぬま)多し。
かつみ刈(か)るころもやや近(ちこ)うなれば、いづれの草を花かつみとはいふぞと、人々に尋(たず)ねはべれども、さらに知(し)る人なし。
沼(ぬま)を尋(たず)ね、人に問(と)ひ、かつみかつみと尋(たず)ねありきて、日は山の端(は)にかかりぬ。
二本松(にほんまつ)より右にきれて、黒塚(くろづか)の岩屋(いわや)一見(いっけん)し、福島(ふくしま)に宿(やど)る。
●「しのぶの里」
夜が明けると、忍ぶもじ摺りの石を訪ねて、忍ぶの里へ行った。遠い山陰の小里に、もじ摺りの石は半分地面に埋まっていた。そこへ通りかかった里の童が教えてくれた。もじ摺り石は昔はこの山の上にあったそうだ。行き来する旅人が麦畑を踏み荒らしてこの石に近づき、石の具合を試すので、こりゃいかんということで谷に突き落としたので石の面が下になっているということだ。そういうこともあるだろうなと思った。
早苗とる手元や昔しのぶ摺
(意味)「しのぶ摺」として知られる染物の技術は今はすたれてしまったが、早苗を摘み取る早乙女たちの手つきに、わずかにその昔の面影が偲ばれるようだ。
   信夫の里(しのぶのさと)
あくれば、しのぶもぢ摺(ずり)の石を尋(たず)ねて、忍(しの)ぶのさとに行(ゆ)く。
遥(はるか)山陰(やまかげ)の小里(こざと)に石なかば土に埋(うず)もれてあり。
里の童(わら)べの来たりて教(おし)えける。
昔(むかし)はこの山の上にはべりしを、往来(ゆきき)の人の麦草(むぎくさ)をあらして、この石を試(こころ)みはべるをにくみて、この谷(たに)につき落(お)とせば、石の面(おもて)下ざまにふしたりといふ。
さもあるべきことにや。
早苗(さなえ)とる 手もとや昔(むかし) しのぶ摺(ずり)
●「佐藤庄司が旧跡」
月の輪の渡しを舟で越えて、瀬の上という宿場町に出る。源平合戦で義経の下で活躍した佐藤継信・忠信兄弟の父、元治の旧跡は、左の山のそば一里半ほどのところにあった。飯塚の里、鯖野というところと聞いて、人に尋ね尋ねいくと、丸山というところでようやく尋ねあてることができた。「これが佐藤庄司の館跡です。山の麓に正門の跡があります」など、人に教えられるそばから涙が流れる。また、かたわらの古寺医王寺に佐藤一家のことを記した石碑が残っていた。その中でも佐藤兄弟の嫁(楓と初音)の墓の文字が最も哀れを誘う。女の身でありながらけなげに佐藤兄弟につくし、評判を世間に残したものよと、涙に袂を濡らすのだった。中国の伝承にある、見たものは必ず涙を流したという「堕涙の石碑」を目の前にしたような心持だ。寺に入って茶を一杯頼んだところ、ここには義経の太刀・弁慶の笈(背中に背負う箱)が保管されており寺の宝物となっていた。
笈も太刀も五月にかざれ紙幟
(意味)弁慶の笈と義経の太刀を所蔵するこの寺では、端午の節句には紙幟とともにそれらを飾るのがよいだろう。武勇で聞こえた二人の遺品なのだから、端午の節句にはぴったりだ。
   佐藤庄司が旧跡(さとうしょうじがきゅうせき)
月の輪(わ)のわたしを超(こ)えて、瀬(せ)の上といふ宿(しゅく)に出(い)づ。
佐藤庄司(さとうしょうじ)が旧跡(きゅうせき)は、左の山際(やまぎわ)一里半(いちりはん)ばかりにあり。
飯塚(いいづか)の里鯖野(さばの)と聞きて尋(たず)ね尋(たず)ね行(ゆ)くに、丸山(まるやま)といふに尋(たず)ねあたる。
これ、庄司(しょうじ)が旧跡(きゅうせき)なり。
梺(ふもと)に大手(おおて)の跡(あと)など、人の教(おし)ゆるにまかせて泪(なみだ)を落(お)とし、またかたはらの古寺(ふるでら)に一家(いっけ)の石碑(せきひ)を残(のこ)す。
中にも、二人の嫁(よめ)がしるし、まず哀(あわ)れなり。
女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、袂(たもと)をぬらしぬ。
堕涙(だるい)の石碑(せきひ)も遠(とお)きにあらず。
寺に入(い)りて茶(ちゃ)を乞(こ)へば、ここに義経(よしつね)の太刀(たち)、弁慶(べんけい)が笈(おい)をとどめて什物(じゅうもつ)とす。
笈(おい)も太刀(たち)も 五月(さつき)にかざれ 帋幟(かみのぼり)
五月(さつき)朔日(ついたち)のことなり。
●「飯塚」
その夜は飯塚に泊まった。温泉があったので湯にはいって宿に泊まったが、土坐に莚を敷いて客を寝かせるような、信用できない感じのみすぼらしい宿だった。ともしびもたいてくれないので、囲炉裏の火がチラチラする傍に寝所を整えて休んだ。夜中、雷が鳴り雨がしきりに降って、寝床の上から漏ってきて、その上蚤や蚊に体中を刺されて、眠れない。持病まで起こって、身も心も消え入りそうになった。短い夏の夜もようやく明けてきたので、また旅立つことにする。まだ昨夜のいやな感じが残ってて、旅に気持ちが向かなかった。馬を借りて桑折の宿場に着いた。まだまだ道のりは長いのにこんな病など起きて先が思いやられるが、はるか異郷の旅に向かうにあたり、わが身はすでに捨てたつもりだ。人生ははかないものだし、旅の途上で死んでもそれは天命だ。そんなふうに自分を励まし、気力をちょっと取り直し、足取りも軽く伊達の大木戸を越すのだった。
   飯塚の里(いいづかのさと)
その夜飯塚(いいづか)にとまる。
温泉(いでゆ)あれば湯(ゆ)に入(い)りて宿(やど)をかるに、土坐(どざ)に筵(むしろ)を敷(しき)て、あやしき貧家(ひんか)なり。
灯(ともしび)もなければ、ゐろりの火(ほ)かげに寝所(ねどころ)をまうけて臥(ふ)す。
夜(よる)に入(い)りて雷(かみ)鳴(なり)、雨しきりに降(ふり)て、臥(ふせ)る上よりもり、蚤(のみ)・蚊(か)にせせられて眠(ねむ)らず。
持病(じびょう)さへおこりて、消入(きえいる)ばかりになん。
短夜(みじかよ)の空(そら)もやうやう明(あく)れば、また旅立(たびだち)ぬ。
なお、夜(よる)の余波(なごり)心すすまず、馬(うま)かりて桑折(こおり)の駅(えき)に出(い)づる。
遥(はるか)なる行末(ゆくすえ)をかかえて、かかる病(やまい)覚束(おぼつか)なしといへど、羇旅(きりょ)辺土(へんど)の行脚(あんぎゃ)、捨身(しゃしん)無常(むじょう)の観念(かんねん)、道路(どうろ)にしなん、これ天の命(めい)なりと、気力(きりょく)いささかとり直(なお)し、路(みち)縦横(じゅうおう)に踏(ふん)で伊達(だて)の大木戸(おおきど)をこす。
●「笠島」
鐙摺、白石の城を過ぎて、笠島の宿に入る。藤中将実方の墓はどのあたりだろうと人に聞くと、「ここから遙か右に見える山際の里を、箕輪・笠島といい、藤中将がその前で下馬しなかったために落馬して命を落としたという道祖神の社や、西行が藤中将について「枯野のすすき形見にぞ見る」と詠んだ薄が今も残っているのです」と教えてくれた。このところの五月雨で道は大変通りにくく、体も疲れていたので遠くから眺めるだけで立ち去ったが、蓑輪、笠島という地名も五月雨に関係していて面白いと思い、一句詠んだ。
笠島はいづこさ月のぬかり道
(意味)実方中将の墓のあるという笠島はどのあたりだろう。こんな五月雨ふりしきるぬかり道の中では、方向もはっきりしないのだ。
その夜は岩沼に泊まった。
   笠嶋(かさじま)
鐙摺(あぶみずり)・白石(しろいし)の城(じょう)を過(すぎ)、笠嶋(かさじま)の郡(こおり)に入(い)れば、藤中将実方(とうのちゅうじょうさねかた)の塚(つか)はいづくのほどならんと人にとへば、これより遥(はるか)右(みぎ)に見ゆる山際(やまぎわ)の里をみのわ・笠嶋(かさじま)といい、道祖神(どうそじん)の社(やしろ)・かたみの薄(すすき)今にありと教(おし)ゆ。
このごろの五月雨(さみだれ)に道いとあしく、身(み)つかれはべれば、よそながら眺(ながめ)やりて過(すぐ)るに、蓑輪(みのわ)・笠嶋(かさじま)も五月雨(さみだれ)の折(おり)にふれたりと、
笠嶋(かさじま)は いづこさ月の ぬかり道
●「武隈」
武隈の松を前にして、目が覚めるような心持になった。根は土際で二つにわかれて、昔の姿が失われていないことがわかる。まず思い出すのは能因法師のことだ。昔、陸奥守として赴任してきた人がこの木を伐って名取川の橋杭にしたせいだろうか。能因法師がいらした時はもう武隈の松はなかった。そこで能因法師は「松は此たび跡もなし」と詠んで武隈の松を惜しんだのだった。その時代その時代、伐ったり植継いだりしたと聞いていたが、現在はまた「千歳の」というにふさわしく形が整っていて、素晴らしい松の眺めであることよ。門人の挙白が出発前に餞別の句をくれた。
武隈の松見せ申せ遅桜
(意味)遅桜よ、芭蕉翁がきたら武隈の松を見せてあげてください
今それに答えるような形で、一句詠んだ。
桜より松は二木を三月超シ
(意味)桜の咲く弥生の三月に旅立ったころからこの武隈の松を見ようと願っていた。三ヶ月ごしにその願いが叶い、目の前にしている。言い伝えどおり、根元から二木に分かれた見事な松だ。
   武隈の松(たけくまのまつ)
岩沼(いわぬま)の宿(しゅく)
武隈の松(まつ)にこそ、目覚(さむ)る心地(ここち)はすれ。
根(ね)は土際(つちぎわ)より二木(ふたき)にわかれて、昔(むかし)の姿(すがた)うしなはずとしらる。
まず能因法師(のういんほうし)思ひ出(い)づ。
その昔(かみ)むつのかみにて下(くだ)りし人、この木を伐(きり)て、名取川(なとりがわ)の橋杭(はしぐい)にせられたることなどあればにや、「松(まつ)はこのたび跡(あと)もなし」とは詠(よみ)たり。
代々(よよ)、あるは伐(きり)、あるひは植継(うえつぎ)などせしと聞くに、今将(いまはた)、千歳(ちとせ)のかたちととのほひて、めでたき松(まつ)のけしきになんはべりし。
「武隈(たけくま)の松(まつ)みせ申(もう)せ遅桜(おそざくら)」
と挙白(きょはく)といふものゝ餞別(せんべつ)したりければ、
桜(さくら)より 松(まつ)は二木(ふたき)を 三月(みつき)越(ご)し
●「宮城野」
名取川を渡って仙台に入る。ちょうど、家々であやめを軒にふく五月の節句である。宿を求めて、四五日逗留した。仙台には画工加衛門という者がいた。わりと風流を解する者だときいていたから、会って親しく話してみた。この加衛門という男は、名前だけ知れていて場所がわからない名所を調べる仙台藩の事業に長年携わっていた。案内役には最適なので、一日案内してもらう。宮城野の萩が繁り合って、秋の景色はさぞ見事だろうと想像させる。玉田・よこ野という地を過ぎて、つつじが岡に来るとちょうどあせび咲く頃であった。日の光も注がない松の林に入っていく。ここは「木の下」と呼ばれる場所だという。昔もこのように露が深かったから、「みさぶらいみかさ」の歌にあるように「主人に笠をかぶるよう申し上げてください」と土地の人が詠んだろう。薬師堂・天神のやしろなどを拝んで、その日は暮れた。それから加衛門は松島・象潟の所々を絵に描いて、持たせてくれる。また紺色の染緒のついた草鞋二足を餞別してくれる。なるほど、とことん風流な人と聞いていたが、その通りだ。こういうことに人物の本質があらわれることよ。
あやめ草足に結ん草鞋の緒
(意味)加右衛門のくれた紺色の草鞋を、端午の節句に飾る菖蒲にみたてて、邪気ばらいのつもりで履き、出発するのだ。実際にあやめ草を草鞋にくくりつけた、ということでなく、紺色の緒をあやめに見立てようという、イメージ上のことです。
   仙台(せんだい)
名取川(なとりがわ)を渡(わたっ)て仙台(せんだい)に入(い)る。
あやめふく日なり。
旅宿(りょしゅく)をもとめて四五日(しごにち)逗留(とうりゅう)す。
ここに画工加右衛門(がこうかえもん)といふものあり。
いささか心ある者(もの)と聞きて知(し)る人になる。
この者(もの)、年比(としごろ)さだかならぬ名どころを考(かんがえ)置(おき)はべればとて、一日(ひとひ)案内(あんない)す。
宮城野(みやぎの)の萩(はぎ)茂(しげ)りあひて、秋(あき)の景色(けしき)思ひやらるる。
玉田(たまだ)・よこ野(の)・つつじが岡はあせび咲(さく)ころなり。
日影(ひかげ)ももらぬ松(まつ)の林(はやし)に入(い)りて、ここを木(き)の下(した)といふとぞ。
昔(むかし)もかく露(つゆ)ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。
薬師堂(やくしどう)・天神(てんじん)の御社(みやしろ)など拝(おがみ)て、その日はくれぬ。
なお、松嶋(まつしま)・塩竃(しおがま)の所々(ところどころ)、画(え)に書(かき)て送(おく)る。
かつ、紺(こん)の染緒(そめお)つけたる草鞋(わらじ)二足(にそく)餞(はなむけ)す。
さればこそ風流(ふうりゅう)のしれもの、ここにいたりてその実(じつ)を顕(あらわ)す。
あやめ草(ぐさ) 足(あし)に結(むすば)ん 草鞋(わらじ)の緒(お)
かの画図(がと)にまかせてたどり行(ゆけ)ば、おくの細道(ほそみち)の山際(やまぎわ)に十符(とふ)の菅(すげ)あり。
今(いま)も年々(としどし)十符(とふ)の菅菰(すがごも)を調(ととのえて)て国守(こくしゅ)に献(けん)ずといえり。
●「壷の碑」
加衛門にもらった絵地図にしたがって進んでいくと、奥の細道(塩釜街道)の山際に十符の菅菰の材料となる菅が生えていた。今も毎年十符の菅菰を作って藩主に献上しているということだった。壷の碑は市川村多賀城にあった。壷の碑は高さ六尺、横三尺ぐらいだろうか。文字は苔をえぐるように幽かに刻んで見える。四方の国境からの距離が記してある。「この砦【多賀城】は、神亀元年(724年)、按察使鎮守符(府)将軍大野朝臣東人が築いた。天平宝字六年(762年)参議職で東海東山節度使の恵美朝臣アサカリが修造した」と書かれている。聖武天皇の時代のことだ。昔から詠み置かれた歌枕が多く語り伝えられているが、山は崩れ川は流れ、道は新しくなり、石は地面に土に埋もれて隠れ(「しのぶの里」)、木は老いて若木になり(「武隈の松」)、時代が移り変わってその跡をハッキリ留めていないことばかりであった。だがここに到って疑いなく千年来の姿を留めている歌枕の地をようやく見れたのだ。目の前に古人の心を見ているのだ。こういうことこそ旅の利点であり、生きていればこそ味わえる喜びだ。旅の疲れも忘れて、涙も落ちるばかりであった。
   多賀城(たがじょう)
壷碑(つぼのいしぶみ) 市川村(いちかわむら)多賀城(たがじょう)にあり。
つぼの石ぶみは高(たか)さ六尺(ろくしゃく)あまり、横(よこ)三尺(さんじゃく)斗(ばかり)か。
苔(こけ)を穿(うがち)て文字(もじ)かすかなり。
四維(しゆい)国界(こっかい)の数里(すうり)をしるす。
この城(しろ)、神亀(じんき)元年(がんねん)、按察使(あぜち)鎮守府(ちんじゅふ)将軍(しょうぐん)大野朝臣東人(おおのあそんあずまひと)の所置(おくところ)なり。
天平(てんぴょう)宝字(ほうじ)六年(ろくねん)参議(さんぎ)東海(とうかい)東山(とうせん)節度使(せつどし)同(おなじく)将軍(しょうぐん)恵美朝臣(えみのあそんあさかり)修造(しゅぞう)而(読まない文字)、十二月(じゅうにがつ)朔日(ついたち)とあり。
聖武皇帝(しょうむこうてい)の御時(おんとき)に当(あた)れり。
むかしよりよみ置(おけ)る哥枕(うたまくら)、おほく語(かたり)伝(つた)ふといへども、山崩(くず)れ川流(ながれ)て道あらたまり、石は埋(うずもれ)て土にかくれ、木は老(おい)て若木(わかぎ)にかはれば、時移(うつ)り代(よ)変(へん)じて、その跡(あと)たしかならぬことのみを、ここにいたりて疑(うたが)いなき千歳(せんざい)の記念(かたみ)、今眼前(がんぜん)に古人(こじん)の心を閲(けみ)す。
行脚(あんぎゃ)の一徳(いっとく)、存命(ぞんめい)の悦(よろこ)び、羈旅(きりょ)の労(ろう)をわすれて、泪(なみだ)も落(お)つるばかりなり。
●末の松山
それから野田の玉川・沖の石など歌枕の地を訪ねた。末の松山には寺が造られていて、末松山というのだった。松の合間合間はみな墓のの並ぶところで、空にあれば比翼の鳥、地にあれば連理の枝「比翼連理」という言葉があるが、そんな睦まじく誓いあった仲でさえ最後はこのようになるのかと、悲しさがこみ上げてきた。塩釜の浦に行くと夕暮れ時を告げる入相の鐘が聞こえるので耳を傾ける。五月雨の空も少しは晴れてきて、夕月がかすかに見えており、籬(まがき)が島も湾内のほど近いところに見える。漁師の小舟が沖からこぞって戻ってきて、魚をわける声がする。それをきいていると古人が「つなでかなしも」と詠んだ哀切の情も胸に迫り、しみじみ感慨深い。その夜、目の不自由な法師が琵琶を鳴らして、奥浄瑠璃というものを語った。平家琵琶とも幸若舞とも違う。本土から遠く離れたひなびた感じだ。それを高い調子で語るから、枕近く感じられてちょっとうるさかったが、さすがに奥州の伝統を守り伝えるものだから興味深く、感心して聴き入った。
   末の松山・塩竃(すえのまつやま・しおがま)
それより野田(のだ)の玉川(たまがわ)・沖(おき)の石を尋(たず)ぬ。
末(すえ)の松山(まつやま)は寺を造(つく)りて末松山(まっしょうざん)といふ。
松(まつ)のあひあひ皆(みな)墓原(はかはら)にて、はねをかはし枝(えだ)をつらぬる契(ちぎ)りの末(すえ)も、終(ついに)はかくのごときと、悲(かな)しさも増(まさ)りて、塩(しお)がまの浦(うら)に入相(いりあい)のかねを聞く。
五月雨(さみだれ)の空いささかはれて、夕月夜(ゆうづくよ)かすかに、籬(まがき)が嶋(しま)もほど近(ちか)し。
あまの小舟(おぶね)こぎつれて、肴(さかな)わかつ声々(こえごえ)に、「綱手(つなで)かなしも」とよみけむ心もしられて、いとど哀(あわ)れなり。
その夜、目盲(めくら)法師(ほうし)の琵琶(びわ)をならして奥(おく)じょうるりといふものをかたる。
平家(へいけ)にもあらず、舞(まい)にもあらず。
ひなびたる調子(ちょうし)うち上(あ)げて、枕(まくら)ちかうかしましけれど、さすがに辺土(へんど)の遺風(いふう)忘(わす)れざるものから、殊勝(しゅしょう)に覚(おぼ)えらる。
●「塩釜」
早朝、塩釜(塩竃)神社に参詣する。伊達政宗公が再建した寺で、堂々とした柱が立ち並び、垂木(屋根を支える木材)がきらびやかに光り、石段がはるか高いところまで続き。朝日が差して朱にそめた玉垣(かきね)を輝かしている。このような奥州の、はるか辺境の地まで神の恵みが行き渡り、あがめられている。これこそ我国の風習だと、たいへん尊く思った。神殿の前に古い宝燈があった。金属製の扉の表面に、「文治三年和泉三郎寄進」と刻んである。父秀衡の遺言に従い最後まで義経を守って戦った奥州の藤原忠衡(ふじわらただひら)である。義経や奥州藤原氏の時代からはもう五百年が経っているが、その文面を見ていると目の前にそういった過去の出来事がうかぶようで、たいへん有難く思った。俗に「和泉三郎」といわれる藤原忠衡は、勇義忠孝すべてに長けた、武士の鑑のような男だった。その名声は今に至るまで聞こえ、誰もが慕っている。「人は何をおいても正しい道に励み、義を守るべきだ。そうすれば名声も後からついてくる」というが、本当にその通りだ。もう正午に近づいたので、船を借りて松島に渡る。二里ほど船で進み、雄島の磯についた。
   塩竃神社(しおがまじんじゃ)
早朝(そうちょう)塩竃(しおがま)の明神(みょうじん)に詣(もうず)。
国守(こくしゅ)再興(さいこう)せられて、宮柱(みやばしら)ふとしく彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仞(きゅうじん)に重(かさ)なり、朝日(あさひ)あけの玉(たま)がきをかかやかす。
かかる道の果(はて)、塵土(じんど)の境(さかい)まで、神霊(しんれい)あらたにましますこそ、吾国(わがくに)の風俗(ふうぞく)なれと、いと貴(とうと)けれ。
神前(しんぜん)に古(ふる)き宝燈(ほうとう)あり。
かねの戸(と)びらの面(おもて)に文治(ぶんじ)三年和泉(いずみの)三郎(さぶろう)寄進(きしん)とあり。
五百年来(ごひゃくねんらい)のおもかげ、今目の前(まえ)にうかびて、そぞろに珍(めずら)し。
かれは勇義(ゆうぎ)忠孝(ちゅうこう)の士(し)なり。
佳命(かめい)今にいたりてしたはずといふことなし。
誠(まことに)人能(よく)道(みちを)を勤(つとめ)、義(ぎ)を守(まも)るべし。
名もまたこれにしたがふといえり。
日すでに午(ご)にちかし。
舟をかりて松嶋(まつしま)にわたる。
その間(あい)二里(にり)あまり、雄嶋(おじま)の磯(いそ)につく。
●「松島」
まあ古くから言われていて今さら言うことでもないのだが、松島は日本一景色のよい所だ。中国で絶景として名高い洞庭・西湖と比べても見劣りがしないだろう。湾内に東南の方角から海が流れ込んでいて、その周囲は三里、中国の浙江を思わせる景色をつくり、潮が満ちている。湾内は沢山の島々があり、そそり立った島は天を指差すようで、臥すものは波にはらばうように見える。あるものは二重に重なり、またあるものは三重にたたみかかり、左にわかれ右につらなっている。小島を背負っているように見える島もあり、前に抱いているようなのもあり、まるで親が子や孫を抱いて可愛がってるようにも見える。松の緑はびっしりと濃く、枝葉は汐風に吹きたはめられて、その屈曲は自然のものでありながら、人が見栄えいいように意図的に曲げたように見える。蘇東坡の詩の中で、西湖の景色を絶世の美人、西施が美しく化粧した様子に例えているが、この松島も深い憂いをたたえ、まさに美人が化粧したさまを思わせる。神代の昔、山の神「大山祇(おおやまずみ)」が作り出したものだろうか。自然の手による芸術品であるこの景色は、誰か筆をふるい言葉をつくしても、うまく語れるものではない。雄島の磯は陸から地続きで、海に突き出している島である。瑞巌寺中興の祖、雲居禅師の別室の跡や、座禅石などがある。また、世の喧騒をわずらわしく思い庵を建てて隠遁生活をしている人の姿も松の木陰に何人か見える。落穂や松笠を集めて炊いて食料にしているようなみすぼらしい草の庵の静かな暮らしぶりで、どういう来歴の人かはわからないが、やはり心惹かれるものがあり立ち寄りなりなどしているうちに、月が海に映って、昼とはまたぜんぜん違う景色となった。浜辺に帰って宿を借りる。窓を開くと二階作りになっていて、風と雲の中にじかに旅寝しているような、表現しがたいほど澄み切った気持ちにさせられた。
松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良
(意味)ここ松島ではほととぎすはそのままの姿ではつりあわない。鶴の衣をまとって、優雅に見せてくれ。
曾良は句を詠んだが私は感激のあまり句が出てこない。眠ろうとしてもワクワクして寝られない。深川の庵を出る時、素堂が松島の詩を、原安適が松が浦島を詠んだ和歌を餞別してくれた。それらを袋から取り出し、今夜一晩を楽しむよすがとする。また、杉風・濁子の発句もあった。十一日、瑞巌寺に参詣する。この寺は創始者の慈覚大師から数えて三十二代目にあたる昔、真壁平四郎という人が出家して入唐(正しくは入宋)して、帰朝の後開山した。その後、雲居禅師が立派な徳によって多くの人々を仏の道に導いた、これによって七堂すべて改築され、金色の壁はおごそかな光を放ち、極楽浄土が地上にあらわれたかと思える立派な伽藍が完成した。かの名僧見仏聖の寺はどこだろうと慕わしく思われた。
   松島
そもそもことふりにたれど、松島(まつしま)は扶桑(ふそう)第一(だいいち)の好風(こうふう)にして、およそ洞庭(どうてい)・西湖(せいこ)を恥(はじ)ず。
東南(とうなん)より海を入(い)れて、江(え)の中(うち)三里(さんり)、浙江(せっこう)の潮(うしお)をたたふ。
島々(しまじま)の数(かず)を尽(つく)して、欹(そばだつ)ものは天を指(ゆびさし)、ふすものは波(なみ)に匍匐(はらばう)。
あるは二重(ふたえ)にかさなり、三重(みえ)に畳(たた)みて、左にわかれ右につらなる。
負(おえ)るあり抱(いだけ)るあり、児孫(じそん)愛(あい)すがごとし。
松(まつ)の緑(みどり)こまやかに、枝葉(しよう)汐風(しおかぜ)に吹(ふ)きたはめて、屈曲(くっきょく)をのづからためたるがごとし。
そのけしき、よう然(ぜん)として美人(びじん)の顔(かんばせ)を粧(よそお)ふ。
ちはや振(ぶる)神(かみ)のむかし、大山(おおやま)ずみのなせるわざにや。
造化(ぞうか)の天工(てんこう)、いづれの人か筆(ふで)をふるひ、詞(ことば)を尽(つく)さむ。
   雄島
雄島(おじま)が磯(いそ)は地(ぢ)つづきて海に出(い)でたる島(しま)なり。
雲居禅師(うんごぜんじ)の別室(べっしつ)の跡(あと)、坐禅石(ざぜんせき)などあり。
はた、松(まつ)の木陰(こかげ)に世(よ)をいとふ人も稀々(まれまれ)見えはべりて、落穂(おちぼ)・松笠(まつかさ)など打(うち)けふりたる草(くさ)の庵(いおり)、閑(しずか)に住(すみ)なし、いかなる人とはしられずながら、まずなつかしく立寄(たちよる)ほどに、月海にうつりて、昼(ひる)のながめまたあらたむ。
江上(こうしょう)に帰りて宿(やど)を求(もと)むれば、窓(まど)をひらき二階(にかい)を作(つく)りて、風雲(ふううん)の中(うち)に旅寝(たびね)するこそ、あやしきまで、妙(たえ)なる心地(ここち)はせらるれ。
松島(まつしま)や 鶴(つる)に身(み)をかれ ほととぎす 曽良(そら)
よは口をとぢて眠(ねむ)らんとしていねられず。
旧庵(きゅうあん)をわかるる時、素堂(そどう)松島(まつしま)の詩(し)あり。
原安適(はらあんてき)松(まつ)がうらしまの和歌(わか)を贈(おく)らる。
袋(ふくろ)を解(と)きて、こよひの友(とも)とす。
かつ、杉風(さんぷう)・濁子(じょくし)が発句(ほっく)あり。
   瑞巌寺(ずいがんじ)
十一日、瑞岩寺(ずいがんじ)に詣(もうず)。
当寺(とうじ)三十二世(さんじゅうにせい)の昔(むかし)、真壁(まかべ)の平四郎(へいしろう)出家(しゅっけ)して入唐(にっとう)、帰朝(きちょう)の後(のち)開山(かいざん)す。
其後(そののち)に雲居禅師(うんごぜんじ)の徳化(とっか)によりて、七堂(しちどう)甍(いらか)改(あらた)まりて、金壁(こんぺき)荘厳(しょうごん)光(ひかり)を輝(かがや)かし、仏土(ぶつど)成就(じょうじゅ)の大伽藍(だいがらん)とはなれりける。
かの見仏聖(けんぶつひじり)の寺はいづくにやとしたはる。
●「石の巻」
十二日、いよいよ平泉を目指して進んでいく。あねはの松・緒だえの橋など歌枕の地があると聞いていたので、人通りもとぼしい獣道を、不案内な中進んでいくが、とうとう道を間違って石巻という港に出てしまった。大伴家持が「こがね花咲」と詠んで聖武天皇に献上した金花山が海上に見える。数百の廻船(人や荷物を運ぶ商業船)が入り江に集まり、人家がひしめくように建っており、炊事する竈の煙がさかんに立ち上っている。思いかけずこういう所に来たものだなあと、宿を借りようとしたが、まったく借りられない。ようやく貧しげな小家に泊めてもらい、翌朝またハッキリしない道を迷いつつ進んだ。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱原など歌枕の地が近くにあるらしいが所在がわからず、よそ目に見るだけで、どこまでも続く川の堤を進んでいく。どこまで長いか不安になるような長沼という沼沿いに進み、戸伊摩というところで一泊して、平泉に到着した。その間の距離は二十里ちょっとだったと思う。
   石巻(いしのまき)
十二日、平和泉(ひらいずみ)と心ざし、あねはの松(まつ)・緒(お)だえの橋(はし)など聞き伝(つたえ)て、人跡(じんせき)稀(まれ)に雉兎(ちと)蒭蕘(すうじょう)の往(いき)かふ道そこともわかず、終(つい)に路(みち)ふみたがえて、石巻(いしのまき)といふ湊(みなと)に出(い)づ。
「こがね花咲(さく)」とよみてたてまつりたる金花山(きんかさん)、海上(かいしょう)に見わたし、数百(すひゃく)の廻船(かいせん)入江(いりえ)につどひ、人家(じんか)地をあらそひて、竈(かまど)の煙(けむり)立ちつづけたり。
思ひがけずかかる所(ところ)にも来たれるかなと、宿(やど)からんとすれど、さらに宿(やど)かす人なし。
漸(ようよう)まどしき小家(こいえ)に一夜(いちや)をあかして、明(あく)ればまたしらぬ道まよひ行(ゆ)く。
袖(そで)のわたり・尾(お)ぶちの牧(まき)・まのの萱(かや)はらなどよそめにみて、遥(はるか)なる堤(つつみ)を行(ゆ)く。
心細(こころぼそ)き長沼(ながぬま)にそふて、戸伊摩(といま)といふ所(ところ)に一宿(いっしゅく)して、平泉(ひらいずみ)にいたる。
その間(あい)廿余里(にじゅうより)ほどとおぼゆ。
●「平泉」
藤原清衡・基衡・秀衡と続いた奥州藤原氏三代の栄光も、邯鄲一炊の夢の故事のようにはかなく消え、南大門の跡はここからすぐ一里の距離にある。秀衡の館の跡は田野となり、その名残すら無い。ただ、秀衡が山頂に金の鶏を埋めて平泉の守りとしたという【金鶏山】だけが、形を残している。まず義経の館のあった高台、【高舘】に登ると、眼下に北上川が一望される。南部地方から流れる、大河である。衣川は秀衡の三男和泉三郎の居城跡をめぐって、高舘の下で北上川と合流している。嫡男泰衡の居城跡は、衣が関を境として平泉と南部地方を分かち、蝦夷の攻撃を防いでいたのだと見える。それにしてもまあ、義経の忠臣たちがこの高舘にこもった、その巧名も一時のことで今は草むらとなっているのだ。国は滅びて跡形もなくなり、山河だけが昔のままの姿で流れている、繁栄していた都の名残もなく、春の草が青々と繁っている。杜甫の『春望』を思い出し感慨にふけった。笠を脱ぎ地面に敷いて、時の過ぎるのを忘れて涙を落とした。
夏草や 兵どもが 夢の跡
(意味)奥州藤原氏や義経主従の功名も、今は一炊の夢と消え、夏草が茫々と繁っている。
卯の花に 兼房みゆる 白髪かな 曾良
(意味)白い卯の花を見ていると、勇猛に戦った義経の家臣、兼房の白髪が髣髴される)
かねてその評判をきいていた、中尊寺光堂と経堂の扉を開く。経堂には藤原三代頭首の像、光堂にはその棺と、阿弥陀三尊像が安置してある。奥州藤原氏の所有していた宝物の数々は散りうせ、玉を散りばめた扉は風に吹きさらされボロボロに破れ、黄金の柱は霜や雪にさらされ朽ち果ててしまった。今は荒れ果てた草むらとなっていても無理は無いのだが、金色堂の四面に覆いをして、屋根を覆い風雨を防ぎ、永劫の時の中ではわずかな時間だがせめて千年くらいはその姿を保ってくれるだろう。
五月雨の 降りのこしてや 光堂
(意味)全てを洗い流してしまう五月雨も、光堂だけはその気高さに遠慮して濡らさず残しているようだ)
   平泉(ひらいずみ)
三代(さんだい)の栄耀(えいよう)一睡(いっすい)の中(うち)にして、大門(だいもん)の跡(あと)は一里(いちり)こなたにあり。
秀衡(ひでひら)が跡(あと)は田野(でんや)になりて、金鶏山(きんけいざん)のみ形(かたち)を残(のこ)す。
まず、高館(たかだち)にのぼれば、北上川(きたかみがわ)南部(なんぶ)より流(なが)るる大河(たいが)なり。
衣川(ころもがわ)は、和泉が城(いずみがじょう)をめぐりて、高館(たかだち)の下(もと)にて大河(たいが)に落(お)ち入(い)る。
泰衡(やすひら)らが旧跡(きゅうせき)は、衣が関(ころもがせき)を隔(へだ)てて、南部口(なんぶぐち)をさし堅(かた)め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。
さても義臣(ぎしん)すぐつてこの城(じょう)にこもり、功名(こうみょう)一時(いちじ)の叢(くさむら)となる。
国破(やぶ)れて山河(さんが)あり、城(しろ)春(はる)にして草(くさ)青(あお)みたりと、笠(かさ)打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪(なみだ)を落(お)としはべりぬ。
夏草や 兵(つわもの)どもが 夢(ゆめ)の跡(あと)
卯の花(うのはな)に 兼房(かねふさ)みゆる 白毛(しらが)かな 曽良(そら)
かねて耳驚(おどろか)したる二堂(にどう)開帳(かいちょう)す。
経堂(きょうどう)は三将(さんしょう)の像(ぞう)をのこし、光堂(ひかりどう)は三代(さんだい)の棺(ひつぎ)を納(おさ)め、三尊(さんぞん)の仏(ほとけ)を安置(あんち)す。
七宝(しっぽう)散(ちり)うせて、珠(たま)の扉(とびら)風(かぜ)にやぶれ、金(こがね)の柱(はしら)霜雪(そうせつ)に朽(くち)て、すでに頽廃(たいはい)空虚(くうきょ)の叢(くさむら)と成(なる)べきを、四面(しめん)新(あらた)に囲(かこみ)て、甍(いらか)を覆(おおい)て雨風(ふうう)をしのぐ。
しばらく千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり。
五月雨(さみだれ)の 降(ふり)のこしてや 光堂(ひかりどう)
●「尿前の関」
南部地方へ続く遠い南部街道を目の前にして、岩手の宿に泊まった。小黒崎・みづの小島という歌枕の地を過ぎて、鳴子温泉から尿前の関にかかって、出羽の国に越えようとしたのだ。この街道はめったに旅人など通らない道なので、関守に不審がられて色々きかれ、やっとのことで関を越すことができた。鳴子から羽前に出る中山越えの山道をのぼったところ、もう日が暮れてしまったので、国境を警護する人の家をみつけて、一夜の宿をお願いした。三日間嵐となり、することもない山中に足止めされてしまった。
蚤虱馬の尿する枕もと
(意味)こうやって貧しい旅の宿で寝ていると蚤や虱に苦しめられる。その上宿で馬を飼っているので馬が尿をする音が響く。その響きにさえ、ひなびた情緒を感じるのだ。
宿の主人の言うことには、これから出羽の国にかけては険しい山道を越えねばならず、道もはっきりしないので案内人を頼んで超えたがよかろうということだった。ではそうしようと人を頼んだところ、屈強な若者が反り返った脇差を横たえて、樫の杖を持って私たちを先導してくれた。今日こそ必ず危ない目にあうに違いないとびくびくしながらついて行った。主人の言ったとおり、高い山は静まり返っており、一羽の鳥の声も聞こえない。うっそうと繁る木々の下は、まるで夜道のように暗い。杜甫の詩に「雲の端から土がこぼれるようだ」とあるが、まさにそんな感じで、篠の中を踏み分けつつ進んでいき、渓流を越え岩につまづいて、肌には冷たい汗を流し、やっとのことで最上の庄についた。例の案内してくれた男は「この道を通れば必ず不測の事態が起こるのですが今日は何事もなく送ることができ幸運でした」と言ってくれ、喜びあって別れた。そんな物騒な道と前もってきかされていたわけではなかったが、それにしても胸がつまるような心持だった。
   尿前の関(しとまえのせき)
南部道(なんぶみち)遥(はるか)に見やりて、岩手(いわで)の里に泊(とま)る。
小黒崎(おぐろさき)・みづの小嶋(こじま)を過(すぎ)て、なるごの湯(ゆ)より尿前(しとまえ)の関(せき)にかかりて、出羽(でわ)の国に超(こ)えんとす。
この路(みち)旅人(たびびと)稀(まれ)なる所(ところ)なれば、関守(せきもり)にあやしめられて、漸(ようよう)として関(せき)をこす。
大山(たいざん)をのぼつて日すでに暮(くれ)ければ、封人(ほうじん)の家(いえ)を見かけて舎(やどり)を求(もと)む。
三日(みっか)風雨(ふうう)あれて、よしなき山中(さんちゅう)に逗留(とうりゅう)す。
蚤(のみ)虱(しらみ) 馬(うま)の尿(ばり)する 枕(まくら)もと
あるじのいふ、これより出羽(でわ)の国に大山(たいざん)を隔(へだ)てて、道さだかならざれば、道しるべの人を頼(たの)みて越(こゆ)べきよしをもうす。
さらばといいて人を頼(たの)みはべれば、究境(くっきょう)の若者(わかもの)、反脇指(そりわきざし)をよこたえ、樫(かし)の杖(つえ)を携(たずさえ)て、我々(われわれ)が先に立ちて行(ゆ)く。
今日こそ必(かなら)ずあやうきめにもあふべき日なれと、辛(から)き思ひをなして後(うしろ)について行(ゆ)く。
あるじのいふにたがはず、高山(こうざん)森々(しんしん)として一鳥(いっちょう)声きかず、木(こ)の下闇(したやみ)茂(しげ)りあひて夜る行(ゆ)くがごとし。
雲端(うんたん)につちふる心地(ここち)して、篠(しの)の中踏分(ふみわけ)踏分、水をわたり岩に蹶(つまずい)て、肌(はだ)につめたき汗(あせ)を流(なが)して、最上(もがみ)の庄(しょう)に出(い)づ。
かの案内(あんない)せしおのこのいふやう、この道かならず不用(ぶよう)のことあり。
恙(つつが)なうをくりまいらせて仕合(しあわせ)したりと、よろこびてわかれぬ。
跡(あと)に聞きてさへ胸(むね)とどろくのみなり。
●「尾花沢」
尾花沢にて以前江戸で知り合った清風という人を訪ねた。この人は大富豪なのだが金持ちにありがちな品性のいやしさなどまるでない。江戸にも時々出てきているので、さすがに旅人の気持ちもわかっているようだ。何日か逗留させてくれ、長旅の疲れを労ってくれ、いろいろともてなしてくれた。
涼しさを我宿にしてねまる也
(意味)この涼しい宿にいると、まるで自分の家にいるようにくつろげるのだ。
這出よかひやが下のひきの声
(意味)飼屋の下でひきがえるの声がしている。どうかひきがえるよ、出てきて手持ち無沙汰な私の相手をしておくれ。
まゆはきを俤にして紅粉の花
(意味)尾花沢の名産である紅の花を見ていると、女性が化粧につかう眉掃きを想像させるあでやかさを感じる。
蚕飼する人は古代のすがた哉 曾良
(意味)養蚕する人たちのもんぺ姿は、神代の昔もこうだったろうと思わせる素朴なものだ。
   尾花沢(おばねざわ)
尾花沢(おばねざわ)にて清風(せいふう)といふ者(もの)を尋(たず)ぬ。
かれは富(とめ)るものなれども、志(こころざし)いやしからず。
都(みやこ)にも折々(おりおり)かよひて、さすがに旅(たび)の情(なさけ)をも知(しり)たれば、日ごろとどめて、長途(ちょうど)のいたはり、さまざまにもてなしはべる。
涼(すず)しさを 我(わが)宿(やど)にして ねまるなり
這(はい)出(い)でよ かひやが下(した)の ひきの声
まゆはきを 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花
蚕飼(こがい)する 人は古代(こだい)の すがたかな 曽良(そら)
●「立石寺」
山形藩の領内に、立石寺という山寺がある。慈覚大師の開基で、特別景色がよく静かな場所だ、一度は見ておくべきだ。人々がこうすすめるので、尾花沢から引き返した。その間、七里ばかりである。まだ日暮れまでは時間がある。ふもとの宿坊に泊まる手はずを整えて、山上の堂にのぼる。多くの岩が重なりあって山となったような形で、松や柏など常緑の古木がしげり、土や岩は滑らかに苔むしている。岩の上に建つどの寺院も扉を閉じて、物音がまったく聞こえない。崖から崖へ、岩から岩へ渡り歩き、仏閣に参拝する。景色は美しく、ひっそり静まりかえっている。心がどこまでも澄み渡った。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
(意味)ああ何という静けさだ。その中で岩に染み通っていくような蝉の声が、いよいよ静けさを強めている。
   山寺
山形領(やまがたりょう)に立石寺(りゅうしゃくじ)といふ山寺(やまでら)あり。
慈覚大師(じかくだいし)の開基(かいき)にして、殊(ことに)清閑(せいかん)の地なり。
一見(いっけん)すべきよし、人々(ひとびと)のすゝむるに依(より)て、尾花沢(おばなざわ)よりとつて返(かえ)し、その間(かん)七里(しちり)ばかりなり。
日いまだ暮(くれ)ず。
梺(ふもと)の坊(ぼう)に宿(やど)かり置(おき)て、山上(さんじょう)の堂(どう)にのぼる。
岩に巌(いわお)を重(かさ)ねて山とし、松栢(しょうはく)年旧(としふり)土石(どせき)老(おい)て苔(こけ)滑(なめらか)に、岩上(がんじょう)の院々(いんいん)扉(とびら)を閉(とじ)てものの音きこえず。
岸(きし)をめぐり岩を這(はい)て仏閣(ぶっかく)を拝(はい)し、佳景(かけい)寂寞(じゃくまく)として心すみ行(ゆ)くのみおぼゆ。
閑(しずか)さや 岩にしみ入(い)る 蝉(せみ)の声
●「最上川」
最上川の川下りをしようと思い、大石田という場所で天気がよくなるのを待った。かつてこの地に談林派の俳諧が伝わり、俳諧の種がまかれ、それが花開いた昔のことを、土地の人は懐かしんでいる。葦笛を吹くようなひなびた心を俳諧の席を開いて慰めてくれる。「この地では俳諧の道を我流でさぐっているのですが、新しい流行の俳諧でいくか、古い伝統的なものでいくか、指導者がいないので決めかねています」と土地の人がいうので、やむを得ず歌仙を一巻残してきた。今回の風流の旅は、とうとうこんなことまでする結果になった。最上川の源流は陸奥であり、上流は山形である。碁点・はやぶさなどという、恐ろしい難所がある。歌枕の地、板敷山の北を流れて、最後は酒田の海に流れ込んでいる。左右に山が覆いかぶさって、茂みの中に舟を下していく。これに稲を積んだものが、古歌にある「稲船」なのだろうか。有名な白糸の滝は青葉の間間に流れ落ちており、義経の家臣、常陸坊海尊をまつった仙人堂が岸のきわに建っている。水量が豊かで、何度も舟がひっくり返りそうな危ない場面があった。
五月雨をあつめて早し最上川
(意味)降り注ぐ五月雨はやがて最上川へ流れこみ、その水量と勢いを増し、舟をすごい速さで押し流すのだ。
   大石田
最上川(もがみがわ)のらんと、大石田(おおいしだ)といふ所(ところ)に日和(ひより)を待(ま)つ。
「ここに古(ふる)き誹諧(はいかい)の種(たね)こぼれて、忘(わす)れぬ花のむかしをしたひ、芦角(ろかく)一声(いっせい)の心をやはらげ、この道にさぐりあしして、新古(しんこ)ふた道にふみまよふといへども、道しるべする人しなければ」と、わりなき一巻(ひとまき)残(のこ)しぬ。
このたびの風流(ふうりゅう)ここにいたれり。
   最上川(もがみがわ)
最上川(もがみがわ)はみちのくより出(い)でて、山形(やまがた)を水上(みなかみ)とす。
ごてん・はやぶさなどいふ、おそろしき難所(なんじょ)あり。
板敷山(いたじきやま)の北を流(ながれ)て、果(はて)は酒田(さかた)の海に入(い)る。
左右山覆(おお)ひ、茂(しげ)みの中に舟を下(くだ)す。
これに稲(いね)つみたるをや、稲舟(いなぶね)といふならし。
白糸(しらいと)の瀧(たき)は青葉(あおば)の隙隙(ひまひま)に落(おち)て仙人堂(せんにんどう)岸(きし)に臨(のぞみ)て立(たつ)。
水みなぎつて舟(ふね)あやうし。
五月雨(さみだれ)を あつめてはやし 最上川(もがみがわ)
●「羽黒」
六月三日、羽黒山に登る。図司左吉というものを訪ねて、その手引きで山を統括する責任者の代理人(別当代)である、会覚阿闍梨に拝謁した。阿闍梨は南谷の別院に泊めてくださり、色々と心をつくしてもてなしてくださった。四日、本坊若王寺で俳諧をもよおし、こんな発句を詠んだ。
有難や雪をかほらす南谷
(意味)残雪の峰々から冷ややかな風が私のいる南谷まで吹いてくる。それはこの神聖な羽黒山の雰囲気にぴったりで、ありがたいことだ。
五日、羽黒権現に参詣する。この寺を開いた能除大師という方は、いつの時代の人か、わからない。「延喜式」に「羽州里山の神社」という記述がある。書き写す人が「黒」の字を間違って「里山」としたのだろうか。「羽州黒山」を中略して「羽黒山」といったのだろうか。「出羽」という言い方については、「鳥の羽毛をこの国の特産物として朝廷に献上した」と風土記に書いてあるとかいう話である。月山、湯殿を合わせて、「出羽三山」とする。この寺は江戸の東叡山寛永寺に所属し、天台宗の主な教えである「止観」は月のように明らかに実行されている。「円頓融通」の教理を灯火をかかげるようにかかげ、僧坊(僧が生活する小さな建物)が棟を並べて建っている。僧たちは互いに励ましあって修行している。霊山霊地のご利益を、人々は尊び、かつ畏れている。繁栄は永久につづくだろう。尊い御山と言うべきだと思う。
八日、月山に登る。木綿しめを体に引っかけ、宝冠に頭をつつみ、強力という者に導かれて、雲や霧がたちこめる山気の中に氷や雪を踏みながら八里の道のりを登っていく。太陽や月の軌道の途中にある、とてつもなく高い位置にある雲の関に入っていくのではないかという思いだった。息は絶え、体は凍えて、ようやく頂上にたどり着くと、太陽が沈んで月があらわれる。笹や篠の上に寝転んで、横たわって夜が明けるのを待った。太陽が昇り雲が消えたので、湯殿山に向けて山を下っていく。谷のかたわらに、鍛冶小屋と呼ばれる場所があった。ここ出羽の国では刀鍛冶は霊験あらたかな水を選んで、身を清めて剣を打ち(作り)、仕上げに「月山」という銘を刻んで世の中からもてはやされてきた。中国でも「竜泉」という泉で鍛えた剣がもてはやされたというが、同じようなことなのだ。月山の刀鍛冶たちも古代中国の有名な刀鍛冶、干将・莫耶夫婦のことを慕って、そのような工法をするのだろう。一つの道に秀でた者は、そのこだわりぶりも並大抵のことではないのだ。岩に腰掛けてしばらく休んでいると、三尺(90センチ)ほどの桜のつぼみが、半分ほど開いていた。降り積もる雪の下に埋もれながら、春の訪れを忘れず遅まきながら花を咲かす…花の性質は実にいじらしいものだと感心した。中国の詩にある「炎天の梅花」が、目の前でに香りたっているように思えた。「もろともにあはれと思へ山桜」という行尊僧正の歌の情をも思い出した。むしろこちらの花のほうが僧正の歌より趣が深いとさえ感じる。いったいに、この山中で起こった細かいことは修行する者の掟として口外することを禁じられている。だからこれ以上は書かない。宿坊に戻ると阿闍梨に句を求められたので巡礼した三山それぞれの句を短冊に書いた。
涼しさやほの三か月の羽黒山
(意味)ああ涼しいな。羽黒山の山の端にほのかな三日月がかかっている。
雲の峰幾つ崩て月の山
(意味)空に峰のようにそびえる入道雲が、いくつ崩れてこの月山となったのだろう。天のものが崩れて地上に降りたとか思えない、雄大な月山のたたずまいだ。
語られぬ湯殿にぬらす袂かな
(意味)ここ湯殿山で修行する人は山でのことを一切口外してはいけないというならわしがあるが、そういう荘厳な湯殿山に登って、ありがたさに涙を流したことよ。
湯殿山銭ふむ道の泪かな
(意味)湯殿山には、地上に落ちたものを拾ってはならないというならわしなので、たくさん落ちている賽銭を踏みながら参詣し、そのありがたさに涙を流すのだった。
   羽黒山(はぐろさん)
六月三日、羽黒山(はぐろさん)に登る。
図司左吉(ずしさきち)といふ者を尋(たず)ねて、別当代(べっとうだい)会覚阿闍利(えがくあじゃり)に謁(えっ)す。
南谷(みなみだに)の別院(べついん)に舎(やどり)して憐愍(れんみん)の情(じょう)こまやかにあるじせらる。
四日、本坊(ほんぼう)にをゐて誹諧(はいかい)興行(こうぎょう)。
ありがたや 雪をかほらす 南谷(みなみだに) 
五日、権現(ごんげん)に詣(もうず)。
当山(とうざん)開闢(かいびゃく)能除大師(のうじょだいし)はいづれの代(よ)の人といふことをしらず。
延喜式(えんぎしき)に「羽州(うしゅう)里山(さとやま)の神社」とあり。
書写(しょしゃ)、「黒」の字を「里山」となせるにや。
「羽州(うしゅう)黒山(くろやま)」を中略(ちゅうりゃく)して「羽黒山(はぐろさん)」といふにや。
「出羽(でわ)」といへるは、「鳥の毛羽(もうう)をこの国の貢(みつぎもの)に献(たてまつ)る」と風土記(ふどき)にはべるとやらん。
月山(がっさん)・湯殿(ゆどの)を合わせて三山(さんざん)とす。
当寺(とうじ)武江東叡(ぶこうとうえい)に属(しょく)して天台止観(てんだいしかん)の月明(あき)らかに、円頓融通(えんどんゆずう)の法(のり)の灯(ともしび)かかげそひて、僧坊(そうぼう)棟(むね)をならべ、修験行法(しゅげんぎょうほう)を励(はげ)まし、霊山(れいざん)霊地(れいち)の験効(げんこう)、人貴(とうとび)かつ恐(おそ)る。
繁栄(はんえい)長(とこしなえ)にして、めでたき御山(おやま)といいつべし。
   月山(がっさん)
八日、月山(がっさん)にのぼる。
木綿(ゆう)しめ身(み)に引きかけ、宝冠(ほうかん)に頭(かしら)を包(つつみ)、強力(ごうりき)といふものに道びかれて、雲霧山気(うんむさんき)の中に氷雪(ひょうせつ)を踏(ふみ)てのぼること八里(はちり)、さらに日月(じつげつ)行道(ぎょうどう)の雲関(うんかん)に入(い)るかとあやしまれ、息絶(いきたえ)身(み)こごえて頂上(ちょうじょう)にいたれば、日没(ぼっし)て月顕(あらわ)る。
笹を鋪(しき)、篠(しの)を枕(まくら)として、臥(ふし)て明(あく)るを待(ま)つ。
日出(い)でて雲消(きゆ)れば湯殿(ゆどの)に下(くだ)る。
谷の傍(かたわら)に鍛治小屋(かじごや)といふあり。
この国の鍛治(かじ)、霊水(れいすい)をえらびてここに潔斎(けっさい)して劔(つるぎ)を打(うち)、終(ついに)月山(がっさん)と銘(めい)を切(きっ)て世に賞(しょう)せらる。
かの龍泉(りゅうせん)に剣(つるぎ)を淬(にらぐ)とかや。
干将(かんしょう)・莫耶(ばくや)のむかしをしたふ。
道に堪能(かんのう)の執(しゅう)あさからぬことしられたり。
岩に腰(こし)かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半(なか)ばひらけるあり。
ふり積(つむ)雪の下に埋(うずもれ)て、春を忘れぬ遅(おそ)ざくらの花の心わりなし。
炎天(えんてん)の梅花(ばいか)ここにかほるがごとし。
行尊僧正(ぎょうそんそうじょう)の哥(うた)の哀(あわ)れもここに思ひ出(い)でて、猶(なお)まさりて覚(おぼ)ゆ。
そうじてこの山中(さんちゅう)の微細(みさい)、行者(ぎょうじゃ)の法式(ほうしき)として他言(たごん)することを禁(きん)ず。
よりてて筆(ふで)をとどめて記(しる)さず。
坊(ぼう)に帰れば、阿闍利(あじゃり)のもとめによりて、三山(さんざん)順礼(じゅんれい)の句々(くく)短冊(たんじゃく)に書く。
涼(すず)しさや ほの三か月(みかづき)の 羽黒山(はぐろさん) 
雲の峯(みね) 幾(いく)つ崩(くず)れて 月の山 
語(かた)られぬ 湯殿(ゆどの)にぬらす 袂(たもと)かな 
湯殿山(ゆどのさん) 銭(ぜに)ふむ道の 泪(なみだ)かな 曽良(そら)
●「酒田」
羽黒をたって、鶴が岡の城下で長山氏重行という武士の家に迎えられて、俳諧を開催し、一巻歌仙を作った。図司左吉もここまで送ってくれる。川舟の乗って酒田の港へ下る。その日は淵庵不玉という医者のもとに泊めてもらう。
あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ
(意味)ここあつみ山から吹浦(海)を見下ろす。「あつみ山」と名前からして暑さを思わせる山から涼しい風を思わせる吹浦を見下ろすのは、しゃれた夕涼みだ。
暑き日を海にいれたり最上川
(意味)最上川の沖合いを見ると、まさに真っ赤な太陽が沈もうとしている。そのさまは、一日の暑さをすべて海に流し込んでいるようだ。
   鶴岡・酒田(つるおか・さかた)
羽黒(はぐろ)を立ちて、鶴(つる)が岡の城下(じょうか)、長山氏重行(ながやまうじじゅうこう)といふもののふの家にむかへられて、誹諧(はいかい)一巻(ひとまき)あり。
左吉(さきち)もともにに送(おく)りぬ。
川舟(かわぶね)に乗(の)りて酒田(さかた)の湊(みなと)に下(くだ)る。
淵庵不玉(えんあんふぎょく)といふ医師(くすし)のもとを宿(やど)とす。
あつみ山や 吹浦(ふくうら)かけて 夕すずみ 
暑(あつ)き日を 海にいれたり 最上川(もがみがわ)
●「象潟」
海や山、河川など景色のいいところをこれまで見てきて、いよいよ旅の当初の目的の一つである象潟に向けて、心を急き立てられるのだった。象潟は酒田の港から東北の方角にある。山を越え、磯を伝い、砂浜を歩いて十里ほど進む。太陽が少し傾く頃だ。汐風が浜辺の砂を吹き上げており、雨も降っているので景色がぼんやり雲って、鳥海山の姿も隠れてしまった。暗闇の中をあてずっぽうに進む。「雨もまた趣深いものだ」と中国の詩の文句を意識して、雨が上がったらさぞ晴れ渡ってキレイだろうと期待をかけ、漁師の仮屋に入れさせてもらい、雨が晴れるのを待った。次の朝、空が晴れ渡り、朝日がはなやかに輝いていたので、象潟に舟を浮かべることにする。まず能因法師ゆかりの能因島に舟を寄せ、法師が三年間ひっそり住まったという庵の跡を訪ねる。それから反対側の岸に舟をつけて島に上陸すると、西行法師が「花の上こぐ」と詠んだ桜の老木が残っている。水辺に御陵がある。神功后宮の墓ということだ。寺の名前を干満珠寺という。しかし神功后宮がこの地に行幸したという話は今まで聞いたことがない。どういうことなのだろう。この寺で座敷に通してもらい、すだれを巻き上げて眺めると、風景が一眼の下に見渡せる。南には鳥海山が天を支えるようにそびえており、その影を潟海に落としている。西に見えるはむやむやの関があり道をさえぎっている。東には堤防が築かれていて、秋田まではるかな道がその上を続いている。北側には海がかまえていて、潟の内に波が入りこむあたりを潮越という。江の内は縦横一里ほどだ。その景色は松島に似ているが、同時にまったく異なる。松島は楽しげに笑っているようだし、象潟は深い憂愁に沈んでいるようなのだ。寂しさに悲しみまで加わってきて、その土地の有様は美女が深い憂いをたたえてうつむいているように見える。
象潟や雨に西施がねぶの花
(意味)象潟の海辺に合歓の花が雨にしおたれているさまは、伝承にある中国の美女、西施がしっとりうつむいているさまを想像させる。蘇東坡(蘇拭)の詩「飲湖上初晴後雨(湖上に飲む、初め晴れ後雨ふる)」を踏まえる。「西湖をもって西子に比せんと欲すれば 淡粧濃沫総て相宜し」
汐越や鶴はぎぬれて海涼し
(意味)汐越の浅瀬に鶴が舞い降りた。その脛が海の水に濡れて、いかにも涼しげだ。衣が短くすねが長く見えているのを「鶴はぎ」と言うが、まさに鶴はぎだなぁと感心した。
ちょうど熊野権現のお祭りに出くわした。
象潟や料理なに食ふ神祭り 曾良
(意味)熊野権現のお祭りにでくわす。海辺の象潟であるのに、熊野信仰によって魚を食べるのを禁じられ、何を食べるのだろうか。
蜑の家や戸板を敷て夕涼 みのの国の住人低耳
(意味)漁師たちの家では、戸板を敷き並べて縁台のかわりにして、夕涼みを楽しんでいる。風流なことだ。
岩の上にみさごが巣を作っているのを見て、
波こえぬ契りありてやみさごの巣 曾良
(意味)岩場の、いかにも波が飛びかかってきそうな危うい位置にみさごの巣がある。古歌に「末の松山波こさじとは」とあるが、強い絆で結ばれたみさごの夫婦なんだろう。
   象潟(きさがた)
江山(こうざん)水陸(すいりく)の風光(ふうこう)数(かず)を尽(つく)して、今(いま)象潟(きさがた)に方寸(ほうすん)を責(せ)む。
酒田(さかた)の湊(みなと)より東北の方(かた)、山を超(こ)え礒(いそ)を伝(つた)ひ、いさごをふみて、その際(きわ)十里(じゅうり)、日影(ひかげ)ややかたぶくころ、汐風(しおかぜ)真砂(まさご)を吹上(ふきあげ)、雨朦朧(もうろう)として鳥海(ちょうかい)の山かくる。
闇中(あんちゅう)に莫作(もさく)して、「雨もまた奇(き)なり」とせば、雨後(うご)の晴色(せいしょく)またたのもしきと、蜑(あま)の苫屋(とまや)に膝(ひざ)をいれて雨の晴(は)るるを待(ま)つ。
その朝(あした)、天よく晴れて、朝日(あさひ)花やかにさし出(い)づるほどに、象潟(きさかた)に船をうかぶ。
まず能因嶋(のういんじま)に船をよせて、三年(さんねん)幽居(ゆうきょ)の跡(あと)をとぶらひ、むかふの岸(きし)に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜(さくら)の老木(おいき)、西行法師(さいぎょうほうし)の記念(かたみ)をのこす。
江上(こうじょう)に御陵(みささぎ)あり。
神功后宮(じんぐうこうぐう)の御墓(みはか)といふ。
寺を干満珠寺(かんまんじゅじ)といふ。
このところに行幸(みゆき)ありしこといまだ聞かず。
いかなることにや。
この寺の方丈(ほうじょう)に座(ざ)して簾(すだれ)を捲(まけ)ば、風景(ふうけい)一眼(いちがん)の中(うち)に尽(つき)て、南に鳥海(ちょうかい)天をささえ、その陰(かげ)うつりて江(え)にあり。
西は有耶無耶の関(うやむやのせき)、路(みち)をかぎり、東に堤(つつみ)を築(きず)きて秋田(あきた)にかよふ道遥(はるか)に、海北にかまえて浪(なみ)打(う)ち入(い)るる所(ところ)を汐越(しおこし)といふ。
江(え)の縦横(じゅうおう)一里(いちり)ばかり、俤(おもかげ)松嶋(まつしま)にかよひてまた異(こと)なり。
松嶋は笑(わろ)ふがごとく、象潟はうらむがごとし。
寂(さび)しさに悲(かな)しみをくはえて、地勢(ちせい)魂(たましい)をなやますに似(に)たり。
象潟(きさかた)や 雨に西施(せいし)が ねぶの花 
汐越(しおこし)や 鶴(つる)はぎぬれて 海涼(すず)し 
   祭礼(さいれい)
象潟(きさかた)や 料理(りょうり)何くふ 神祭(かみまつり) 曽良(そら)
蜑(あま)の家(や)や 戸板(といた)を敷(しき)て 夕涼(ゆうすずみ) 
   みのの国の商人(あきんど) 低耳(ていじ) 
岩上(がんしょう)に 雎鳩(みさご)の巣(す)をみる 
波(なみ)こえぬ 契(ちぎ)りありてや みさごの巣(す) 曽良
●「越後路」
酒田の人々との交流を楽しんでいるうちに、すっかり日数が経ってしまった。ようやく腰を上げてこれから進む北陸道の雲を眺めやる。まだまだ先は長い。その遙かな道のりを思うと心配で気が重い。加賀国の都、金沢までは百三十里ときいた。奥羽三関の一つ、鼠の関を越え、越後の地に入ってまた進んでいく。そして越中の国市振の関に到着する。その間、九日かかった。暑いのと雨が降るので神経が参ってしまい、持病に苦しめられた。それで特別書くようなこともなかった。
文月や六日も常の夜には似ず
(意味)七夕というものは、その前日の六日の夜でさえなんとなくワクワクして特別な夜に感じるよ。
荒海や佐渡によこたふ天河
(意味)新潟の荒く波立った海の向こうに佐渡島が見える。その上に天の川がかかっている雄大な景色だ。
   越後路(えちごじ)
酒田(さかた)の余波(なごり)日を重(かさ)ねて、北陸道(ほくろくどう)の雲に望(のぞ)む、遙々(ようよう)のおもひ胸(むね)をいたましめて加賀(かが)の府(ふ)まで百卅里(ひゃくさんじゅうり)と聞く。
鼠(ねず)の関をこゆれば、越後(えちご)の地に歩行(あゆみ)を改(あらため)て、越中(えっちゅう)の国市振(いちぶり)の関(せき)にいたる。
この間(かん)九日(ここのか)、暑湿(しょしつ)の労(ろう)に神(しん)をなやまし、病(やまい)おこりてことをしるさず。
文月(ふみづき)や六日(むいか)も常(つね)の夜には似(に)ず 
荒海(あらうみや)や 佐渡(さど)によこたふ 天河(あまのがわ)
●「市振」
今日は親不知・子不知・犬もどり・駒返しなどという北国一の難所を超えて体が疲れたので、枕を引き寄せて寝ていたところ、ふすま一枚へだてて道に面した側の部屋から、若い女の声が聞こえてくる。二人いるようだ。それに年老いた男の声もする。聞くともなしに聞いていると、この二人の女は越後の国新潟という所の遊女なのだ。いわゆる「抜け参り」だろう。伊勢参りのため主人に無断で抜け出してきて、この関まで男が送ってきたのだ。明日女の故郷へ返す手紙を書いてこの男に託し、ちょっとした伝言などをしているようだった。白波の寄せる渚に身を投げ出し、住まいもはっきりしない漁師の娘のように波に翻弄され、遊里に身を沈めて遊女というあさましい身に落ちぶれ、客と真実のない夜毎の契りをして、日々罪を重ねる…前世でどんな悪いことをした報いだろう。いかにも不運だ。そんなことを話しているのを聞く聞く寝入った。次の朝出発しようとすると、その二人の遊女が私たちに話しかけてきた。「行き先がわからない旅は心細いものです。あまりにも確かなところがなく、悲しいのです。お坊様として私たちに情けをかけてください。仏の恵みを注いでください。仏道に入る機縁を結ばせてください」そう言って涙を流すのだ。不憫ではあるが、聞き入れるわけにもいかない。「私たちはほうぼうで立ち寄ったり長期滞在したりするのです(とても一緒に旅はできません)。ただ人が進む方向についていきなさい。そうすれば無事、伊勢に到着できるでしょう。きっと神はお守りくださいます」そう言い捨てて宿を出たが、やはり不憫でしばらく気にかかったことよ。
一家に遊女もねたり萩と月
(意味)みすぼらしい僧形の自分と同じ宿に、はなやかな遊女が偶然居合わせた。その宿にわびしく咲く萩を、こうこうと月が照らしている。なんだか自分が萩で遊女が月に思えてくる。
このあらましを曾良に語ると、曾良は書きとめた。
   市振(いちぶり)
今日(きょう)は親しらず子しらず・犬もどり・駒返(こまがえ)しなどいふ北国一(ほっこくいち)の難所(なんじょ)を超(こ)えてつかれはべれば、枕(まくら)引(ひ)きよせて寐(ね)たるに、一間(ひとま)隔(へだ)てて面(おもて)の方(かた)に若(わか)き女の声二人(ふたり)ばかりと聞こゆ。
年老(としおい)たる男(おのこ)の声も交(まじり)て物語(ものがたり)するを聞けば、越後(えちご)の国新潟(にいがた)といふ所(ところ)の遊女(ゆうじょ)なりし。
伊勢(いせ)参宮(さんぐう)するとて、この関(せき)まで男(おのこ)の送(おく)りて、あすは古郷(ふるさと)にかへす文(ふみ)したためて、はかなき言伝(ことづて)などしやるなり。
「白浪(しらなみ)のよする汀(みぎわ)に身(み)をはふらかし、あまのこの世(よ)をあさましう下(くだ)りて、定(さだ)めなき契(ちぎ)り、日々(ひび)の業因(ごういん)いかにつたなし」と、ものいふを聞く聞く寝入(ねいり)て、あした旅立(たびだつ)に、我々(われわれ)にむかひて、「行衛(ゆくえ)しらぬ旅路(たびじ)のうさ、あまり覚束(おぼつか)なう悲(かな)しくはべれば、見えがくれにも御跡(おんあと)をしたひはべらん。衣(ころも)の上の御情(おんなさけ)に、大慈(だいじ)のめぐみをたれて結縁(けちえん)せさせたまへ」と泪(なみだ)を落(お)とす。
不便(ふびん)のことにははべれども、「我々(われわれ)は所々(ところどころ)にてとどまる方(かた)おほし。ただ人の行(ゆ)くにまかせて行(ゆ)くべし。神明(しんめい)の加護(かご)かならずつつがなかるべし」といひ捨(すて)て出(い)でつつ、哀(あわ)れさしばらくやまざりけらし。
一家(ひとつや)に 遊女(ゆうじょ)もねたり 萩(はぎ)と月
曽良(そら)にかたれば、書(かき)とどめはべる。
●「那古の浦」
黒部四十八が瀬というのだろうか、数え切れないほどの川を渡って、那古という浦に出た。「担籠の藤浪」と詠まれる歌枕の地が近いので、春ではないが初秋の雰囲気もまたいいだろう、訪ねようということで人に道を聞く。「ここから五里、磯伝いに進み、向こうの山陰に入ったところです。漁師の苫屋もあまり無いところだから、「葦のかりねの一夜ゆえ」と古歌にあるような、一夜の宿さえ泊めてくれる人はないでしょう」と脅かされて、加賀の国に入る。
わせの香や分入右は有磯海
(意味)北陸の豊かな早稲の香りに包まれて加賀の国に入っていくと、右側には歌枕として知られる【有磯海】が広がっている。
   越中路(えっちゅうじ)
黒部(くろべ)四十八ヶ瀬(しじゅうはちがせ)とかや、数(かず)しらぬ川をわたりて、那古(なご)といふ浦(うら)に出(い)づ。
担籠(たご)の藤浪(ふじなみ)は春ならずとも、初秋(はつあき)の哀(あわ)れとふべきものをと人に尋(たず)ぬれば、「これより五里(ごり)いそ伝(づた)ひして、むかふの山陰(やまかげ)にいり、蜑(あま)の苫(とま)ぶきかすかなれば、蘆(あし)の一夜(ひとよ)の宿(やど)かすものあるまじ」といひをどされて、加賀(かが)の国に入(い)る。
わせの香(か)や 分入(わけいる)右は 有磯海(ありそうみ)
●「金沢」
卯の花山・くりからが谷を越えて、金沢に着いたのは七月二十五日であった。金沢には大阪から行き来している何処という商人がいて、同宿することとなった。一笑というものは俳諧にうちこんでいる評判がちらほら聞こえてきて、世間では知る人もあったのだが、去年の冬、早世したということで、その兄が追善の句会を開いた。
塚も動け我泣声は秋の風
(意味)一笑よ、君の塚(墓)を目の前にしているが、生前の君を思って大声で泣いている。あたりを吹き抜ける秋風のように激しくわびしい涙なのだ。塚よ、私の呼びかけに答えてくれ!
ある草庵に案内された時に、
秋涼し手毎にむけや瓜茄子
(意味)瓜や茄子という秋野菜でもてなしをうけた。いかにも秋の涼しさがあふれる。みなさん、それぞれ瓜や茄子をむこうじゃないですか。その手先にも秋の涼しさを感じてください。
道すがら吟じたもの
あかあかと日は難面もあきの風
(意味)もう秋だというのに太陽の光はそんなこと関係ないふうにあかあかと照らしている。しかし風はもう秋の涼しさを帯びている。
   金沢(かなざわ)
卯(う)の花山・くりからが谷をこえて、金沢(かなざわ)は七月中の五日(いつか)なり。
ここに大坂(おおざか)よりかよふ商人(あきんど)何処(かしょ)といふ者(もの)あり。
それが旅宿(りょしゅく)をともにす。
一笑(いっしょう)といふものは、この道にすける名のほのぼの聞えて、世(よ)に知人(しるひと)もはべりしに、去年(こぞ)の冬早世(そうせい)したりとて、その兄追善(ついぜん)をもよおすに、 
塚(つか)も動(うご)け 我(わが)泣(なく)声は 秋の風
ある草庵(そうあん)にいざなはれて 
秋涼(すず)し 手ごとにむけや 瓜(うり)茄子(なすび)
途中吟(とちゅうぎん)
あかあかと 日はつれなくも 秋の風
●「小松」 
しほらしき名や小松吹萩すゝき
(意味)「小松」という可愛らしい名前のこの地に、萩やススキをゆらして秋の風が吹いている。
ここ金沢の地で、太田の神社に参詣した。ここには斉藤別当実盛の兜と錦の直垂の切れ端があるのだ。その昔、実盛がまだ源氏に属していた時、義朝公から賜ったものだとか。なるほど、普通の平侍のものとは違っている。目庇から吹返しまで菊唐草の模様を彫り、そこに小金を散りばめ、竜頭には鍬形が打ってある。実盛が討ち死にした後、木曽義仲が戦勝祈願の願状に添えてこの社にこめた次第や、樋口次郎兼光がその使いをしたことなど、当時のことがまるで目の前に浮かぶように、神社の縁起に書かれている。
むざんやな甲の下のきりぎりす
(意味)痛ましいことだ。勇ましく散った実盛の名残はもうここには無く、かぶとの下にはただ コオロギが鳴いている。
   小松(こまつ)
小松(こまつ)といふ所(ところ)にて 
しほらしき 名や小松(こまつ)ふく 萩(はぎ)すすき
この所(ところ)太田(ただ)の神社(じんじゃ)に詣(もうず)。
真盛(さねもり)が甲(かぶと)・錦(にしき)の切(きれ)あり。
往昔(そのむかし)源氏(げんじ)に属(しょく)せし時、義朝公(よしともこう)よりたまはらせたまふとかや。
げにも平士(ひらさむらい)のものにあらず。
目庇(まびさし)より吹返(ふきがえ)しまで、菊唐草(きくからくさ)のほりもの金(こがね)をちりばめ、龍頭(たつがしら)に鍬形(くわがた)打(う)ったり。
真盛(さねもり)討死(うちじに)の後(のち)、木曽義仲(きそよしなか)願状(がんじょう)にそへてこの社(やしろ)にこめられはべるよし、樋口(ひぐち)の次郎(じろう)が使(つかい)せしことども、まのあたり縁記(えんぎ)にみえたり。
むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす
●「那谷」
山中温泉に行く道すがら、白根が岳を背にして歩んでいく。左の山際に観音堂がある。花山法皇が西国三十三か所の巡礼をおとげになって後、人々を救う大きな心(大慈大悲)を持った観世音菩薩の像を安置されて、「那谷」と名付けられたということだ。三十三か所の最初の札所である那智と最期の札所である谷汲から、それぞれ一時ずつ取ったということだ。珍しい形の石がさまざまに立ち並び、古松が植え並べられている。萱ぶきの小さなお堂が岩の上に建ててあり、景色のよい場所である。
石山の石より白し秋の風
(意味)那谷寺の境内にはたくさんの白石があるが、それより白く清浄に感じるのが吹き抜ける秋の風だ。境内にはおごそかな空気がたちこめている。
   那谷(なた)
山中(やまなか)の温泉(いでゆ)に行(ゆ)くほど、白根が嶽(しらねがだけ)跡(あと)にみなしてあゆむ。
左の山際(やまぎわ)に観音堂(かんのんどう)あり。
花山(かざん)の法皇(ほうおう)三十三所(さんじゅうさんしょ)の順礼(じゅんれい)とげさせたまひて後(のち)、大慈大悲(だいじだいひ)の像(ぞう)を安置(あんち)したまひて、那谷(なた)と名付(なづけ)たまふとなり。
那智(なち)・谷組(たにぐみ)の二字(にじ)をわかちはべりしとぞ。
奇石(きせき)さまざまに、古松(こしょう)植(うえ)ならべて、萱(かや)ぶきの小堂(しょうどう)岩の上に造(つく)りかけて、殊勝(しゅしょう)の土地なり。
石山(いしやま)の 石より白し 秋の風
●「山中」
山中温泉に入る。その効用は、有馬温泉に次ぐという。
山中や菊はたおらぬ湯の匂
(意味)菊の露を飲んで七百歳まで生きたという菊児童の伝説があるが、ここ山中では菊の力によらずとも、この湯の香りを吸っていると十分に長寿のききめがありそうだ。
主人にあたるものは久米之助といって、いまだ少年である。その父は俳諧をたしなむ人だ。京都の安原貞室がまだ若い頃、ここに来た時俳諧の席で恥をかいたことがある。貞室はその経験をばねにして、京都に帰って松永貞徳に入門し、ついには世に知られる立派な俳諧師となった。名声が上がった後も、貞室は(自分を奮起させてくれたこの地に感謝して)俳諧の添削料を受けなかったという。こんな話ももう昔のこととなってしまった。曾良は腹をわずらって、伊勢の長島というところに親戚がいるので、そこを頼って一足先に出発した。
行行てたふれ伏とも萩の原 曾良
(意味)このまま行けるところまで行って、最期は萩の原で倒れ、旅の途上で死のう。それくらいの、旅にかける志である。
行く者の悲しみ、残る者の無念さ、二羽で飛んでいた鳥が離れ離れになって、雲の間に行き先を失うようなものである。私も句を詠んだ。
今日よりや書付消さん笠の露
(意味)ずっと旅を続けてきた曾良とはここで別れ、これからは一人道を行くことになる。笠に書いた「同行二人」の字も消すことにしよう。笠にかかる露は秋の露か、それとも私の涙か。
   山中温泉(やまなかおんせん)
温泉(いでゆ)に浴(よく)す。
その功(こう)有明(ありあけ)につぐといふ。
山中(やまなか)や 菊(きく)はたおらぬ 湯(ゆ)の匂(におい)
あるじとするものは久米之助(くめのすけ)とていまだ小童(しょうどう)なり。
かれが父誹諧(はいかい)を好(この)み、洛(らく)の貞室(ていしつ)若輩(じゃくはい)のむかしここに来たりしころ、風雅(ふうが)に辱(はずか)しめられて、洛に帰(かえり)て貞徳(ていとく)の門人(もんじん)となつて世(よ)にしらる。
功名(こうみょう)の後(のち)、この一村(いっそん)判詞(はんじ)の料(りょう)を請(うけ)ずといふ。
今更(いまさら)むかし語(がたり)とはなりぬ。
●「全昌寺・汐越の松」
加賀の城下町【大聖持】の城外、全昌寺という寺に泊まる。いまだ加賀の国である。
曾良も前の晩この寺に泊まり、一句残していた。
終宵秋風聞やうらの山
(意味)裏山を吹く淋しい秋風の音を一晩中きいて、眠れない夜であったよ。一人旅の寂しさが骨身にしみる。
今まで一緒に旅してきたのが一晩でも離れるのは、千里を隔てるように淋しく心細い。私も秋風を聞きながら僧の宿舎に泊めてもらった。夜明け近くなると、読経の声が澄み渡り、合図の鐘板をついて食事の時間を知らせるので食堂(じきどう)に入った。今日は越前の国に越えるつもりである。あわただしい気持ちで食堂から出ると、若い僧たちが紙や硯をかかえて寺の石段のところまで見送ってくれる。
ちょうど庭に柳の葉が散っていたので、
庭掃て出ばや寺に散柳
(意味)寺の境内に柳の葉が散り敷いている。寺に泊めてもらったお礼に、ほうきで掃いてから出発しようよ。
草鞋ばきのままあわただしく句を作った。推敲する余裕もなく書きっぱなしだ。加賀と越前の境、吉崎の入江で船に乗って、汐越の松を訪ねた。
終宵嵐に波をはこばせて
月をたれたる汐越の松 西行
(意味)夜通し打ち寄せる波が松の木にかぶさって、松の梢に波の雫がしたたっている。それに月光がキラキラして、まるで月の雫のようだ。
この一首の中に、すべての景色は詠みこまれている。もし一言付け加えるものがあれば、五本ある指にいらないもう一本を付け加えるようなものだ。
   全昌寺
曽良(そら)は腹(はら)を病(やみ)て、伊勢(いせ)の国長嶋(ながしま)といふ所(ところ)にゆかりあれば、先立(さきだち)て行(ゆ)くに、
行行(ゆきゆき)て たふれ伏(ふす)と も萩(はぎ)の原 曽良
と書置(かきおき)たり。
行(ゆ)くものの悲(かな)しみ、残(のこ)るもののうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。
よもまた、
今日よりや 書付(かきつけ)消(け)さん 笠(かさ)の露(つゆ)
大聖持(だいしょうじ)の城外(じょうがい)、全昌寺(ぜんしょうじ)といふ寺にとまる。
なお加賀(かが)の地なり。
曽良(そら)も前の夜この寺に泊(とまり)て、
終宵(よもすがら) 秋風(あきかぜ)聞くや うらの山
と残(のこ)す。
一夜(いちや)の隔(へだ)て、千里に同じ。
われも秋風(あきかぜ)を聞きて衆寮(しゅりょう)にふせば、明(あけ)ぼのの空近(ちこ)う、読経(どきょう)声すむままに、鐘板(しょうばん)鳴(なり)て食堂(じきどう)に入(い)る。
今日は越前(えちぜん)の国へと、心早卒(そうそつ)にして堂下(どうか)に下るを、若(わか)き僧(そう)ども紙・硯(すずり)をかかえ、階(きざはし)のもとまで追(おい)来たる。
折節(おりふし)庭中(ていちゅう)の柳(やなぎ)散(ち)れば、 
庭(にわ)掃(はき)て 出(い)でばや寺に 散(ちる)柳(やなぎ)
とりあへぬさまして草鞋(わらじ)ながら書(かき)捨(す)つ。
   汐越の松(しおこしのまつ)
越前(えちぜん)の境(さかい)、吉崎(よしさき)の入江(いりえ)を舟に棹(さおさ)して汐越(しおこし)の松を尋(たず)ぬ。
終宵(よもすがら)嵐(あらし)に波(なみ)をはこばせて月をたれたる汐越の松 西行(さいぎょう)
この一首(いっしゅ)にて数景(すけい)尽(つき)たり。
もし一辧(いちべん)を加(くわう)るものは、無用(むようの)の指を立(たつ)るがごとし。
●「天竜寺・永平寺」
丸岡の天竜寺の長老は古い知人だから訪ねた。また、金沢の北枝というものがちょっとだけ見送るといいつつ、とうとうここまで慕いついてきてくれた。その場その場の美しい景色を見逃さず句を作り、時々は句の意図を解説してくれた。その北枝ともここでお別れだ。
物書て扇引さく余波哉
(意味)金沢の北枝としばらく同行してきたが、いよいよお別れだ。道すがら句を書きとめてきた扇を引き裂くように、また夏から秋になって扇をしまうように、それは心痛む別れなのだ。
五十丁山に入って、永平寺にお参りする。道元禅師が開基した寺だ。京都から千里も隔ててこんな山奥に修行の場をつくったのも、禅師の尊いお考えがあってのことだそうだ。
   天龍寺・永平寺(てんりゅうじ・えいへいじ)
丸岡(まるおか)天龍寺(てんりゅうじ)の長老(ちょうろう)、古き因(ちなみ)あれば尋(たず)ぬ。
また金沢の北枝(ほくし)といふもの、かりそめに見送(みおく)りて、このところまでしたひ来たる。
ところどころの風景(ふうけい)過(すぐ)さず思ひつづけて、折節(おりふし)あはれなる作意(さくい)など聞こゆ。
今すでに別(わかれ)に望(のぞ)みて、 
物書(ものかき)て 扇(おうぎ)引(ひ)きさく なごりかな
五十丁(ごじっちょう)山に入(い)りて永平寺(えいへいじ)を礼(らい)す。
道元禅師(どうげんぜんじ)の御寺(みてら)なり。
邦機(ほうき)千里(せんり)を避(さけ)て、かかる山陰(やまかげ)に跡(あと)をのこしたまふも、貴(とうと)きゆへありとかや。
●「等栽」
福井までは三里ほどなので、夕飯をすませてから出たところ、夕暮れの道なので思うように進めなかった。この地には等裁という旧知の俳人がいる。いつの年だったか、江戸に来て私を訪ねてくれた。もう十年ほど昔のことだ。どれだけ年取ってるだろうか、もしかしたら亡くなっているかもしれぬと人に尋ねると、いまだ存命で、けっこう元気だと教えてくれた。町中のちょっと引っ込んだ所にみすぼらしい小家があり、夕顔・へちまがはえかかって、鶏頭・ははきぎで扉が隠れている。「さてはこの家だな」と門を叩けば、みすぼらしいなりの女が出てきて、「どこからいらっしゃった仏道修行のお坊様ですか。主人はこのあたり某というものの所に行っています。もし用があればそちらをお訪ねください」と言う。等裁の妻に違いない。昔物語の中にこんな風情ある場面があったなあと思いつつ、すぐにそちらを訪ねていくと等裁に会えた。等裁の家に二晩泊まって、名月で知られる敦賀の港へ旅たった。等裁が見送りに来てくれた。裾をおどけた感じにまくり上げて、楽しそうに道案内に立ってくれた。
   福井(ふくい)
福井(ふくい)は三里(さんり)計(ばかり)なれば、夕飯(ゆうめし)したためて出(い)づるに、たそがれの道たどたどし。
ここに等栽(とうさい)といふ古き隠士(いんじ)あり。
いづれの年にか江戸(えど)に来たりてよを尋(たず)ぬ。
遥(はるか)十(と)とせあまりなり。
いかに老(おい)さらぼひてあるにや、はた死(しに)けるにやと人に尋(たず)ねはべれば、いまだ存命(ぞんめい)してそこそこと教(おし)ゆ。
市中(しちゅう)ひそかに引入(ひきいり)て、あやしの小家(こいえ)に夕顔(ゆうがお)・へちまのはえかかりて、鶏頭(けいとう)はは木々(ははきぎ)に戸(と)ぼそをかくす。
さてはこのうちにこそと門(かど)を扣(たたけ)ば、侘(わび)しげなる女の出(い)でて、「いづくよりわたりたまふ道心(どうしん)の御坊(ごぼう)にや。
あるじはこのあたり何がしといふものの方(かた)に行(ゆき)ぬ。
もし用あらば尋(たず)ねたまへ」といふ。
かれが妻(つま)なるべしとしらる。
むかし物がたりにこそかかる風情(ふぜい)ははべれと、やがて尋(たず)ねあひて、その家に二夜(ふたよ)とまりて、名月(めいげつ)はつるがのみなとにとたび立(だつ)。
等栽(とうさい)もともに送(おく)らんと、裾(すそ)おかしうからげて、道の枝折(しおり)とうかれ立(たつ)。
●「敦賀」
とうとう白根が嶽が見えなくなり、かわって比那が嶽が姿をあらわした。あさむづの橋を渡ると玉江の蘆は穂を実らせている。鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越えると、木曽義仲ゆかりの燧が城があり、帰る山に雁の初音を聞き、十四日の夕暮れ、敦賀の津で宿をとった。その夜の月は特に見事だった。「明日の夜もこんな素晴らしい名月が見れるでしょうか」というと、「越路では明日の夜が晴れるか曇るか、予測のつかないものです」と主人に酒を勧められ、気比神社に夜参した。仲哀天皇をおまつりしてある。境内は神々しい雰囲気に満ちていて、松の梢の間に月の光が漏れている。神前の白砂は霜を敷き詰めたようだ。昔、遊行二世の上人が、大きな願いを思い立たれ、自ら草を刈り、土石を運んできて、湿地にそれを流し、人が歩けるように整備された。だから現在、参詣に行き来するのに全く困らない。この先例が今でもすたれず、代々の上人が神前に砂をお運びになり、不自由なく参詣できるようにしているのだ。「これを遊行の砂持ちと言っております」と亭主は語った。
月清し遊行のもてる砂の上
(意味)その昔、遊行二世上人が気比明神への参詣を楽にするために運んだという白砂。その白砂の上に清らかな月が輝いている。砂の表面に月が反射してきれいだ。清らかな眺めだ。
十五日、亭主の言葉どおり、雨が降った。
名月や北国日和定なき
(意味)今夜は中秋の名月を期待していたのに、あいにく雨になってしまった。本当に北国の天気は変わりやすいものなのだな。
   敦賀(つるが)
漸(ようよう)白根(しらね)が嶽(だけ)かくれて、比那(ひな)が嵩(だけ)あらはる。
あさむづの橋をわたりて、玉江(たまえ)の蘆(あし)は穂(ほ)に出(い)でにけり。
鴬(うぐいす)の関(せき)を過(すぎ)て湯尾峠(ゆのおとうげ)を越(こゆ)れば、燧(ひうち)が城(じょう)、かへるやまに初鴈(はつかり)を聞きて、十四日の夕ぐれつるがの津(つ)に宿(やど)をもとむ。
その夜、月ことに晴(は)れたり。
「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路(こしじ)のならひ、なお明夜(めいや)の陰晴(いんせい)はかりがたし」と、あるじに酒すすめられて、けいの明神(みょうじん)に夜参(やさん)す。
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の御廟(ごびょう)なり。
社頭(しゃとう)神(かん)さびて、松の木(こ)の間(ま)に月のもり入(はいり)たる、おまへの白砂(はくさ)霜(しも)を敷(しけ)るがごとし。
「往昔(そのむかし)遊行二世(ゆぎょうにせ)の上人(しょうにん)、大願発起(たいがんほっき)のことありて、みづから草を刈(かり)、土石(どせき)を荷(にな)ひ、泥渟(でいてい)をかはかせて、参詣(さんけい)往来(おうらい)の煩(わずらい)なし。
古例(これい)今にたえず。
神前(しんぜん)に真砂(まさご)を荷(にな)ひたまふ。
これを遊行(ゆぎょう)の砂持(すなもち)ともうしはべる」と、亭主(ていしゅ)のかたりける。
月清(きよ)し 遊行のもてる 砂の上 
十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず雨降(あめふる)。
名月(めいげつや)や 北国(ほっこく)日和(びより) さだめなき
●「種の浜」
十六日、空が晴れたので西行の歌にある「ますほの小貝」を拾おうと海上を七里舟を走らせ、色の浜を目指した。天屋なにがしという者が弁当箱や酒の入った竹筒を心細かに用意してくれ、下人を多く案内のために舟に乗せてくれた。追い風だったので普通より早く色の浜に到着した。浜にはわずかに漁師の小家があるだけだ。侘しげな法華寺があり、そこで茶を飲み、酒を温めなどした。この浜の夕暮れの寂しさは格別心に迫るものだった。
寂しさや須磨にかちたる浜の秋
(意味)光源氏が配流された須磨は淋しい場所として知られるが、ここ種の浜は須磨よりはるかに淋しいことよ。
波の間や小貝にまじる萩の塵
(意味)波打ち際の波の間をよく見ると、小貝に混じって赤い萩の花が塵のように散っている。
   種の浜(いろのはま)
十六日、空(そら)霽(はれ)たれば、ますほの小貝(こがい)ひろはんと種の浜(いろのはま)に舟を走(は)す。
海上(かいじょう)七里(しちり)あり。
天屋(てんや)何某(なにがし)といふもの、破籠(わりご)・小竹筒(ささえ)などこまやかにしたためさせ、しもべあまた舟にとりのせて、追風(おいかぜ)時のまに吹(ふ)き着(つ)きぬ。
浜(はま)はわづかなる海士(あま)の小家(こいえ)にて、侘(わび)しき法花寺(ほっけでら)あり。
ここに茶を飲(のみ)、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ感(かん)に堪(たえ)たり。
寂(さび)しさや 須磨(すま)にかちたる 浜(はま)の秋 
波の間(ま)や 小貝にまじる 萩(はぎ)の塵(ちり)
その日のあらまし、等栽(とうさい)に筆(ふで)をとらせて寺に残(のこす)。
●「大垣」
路通もこの港まで迎えに出てきて、美濃の国へ同行してくれた。馬に乗って大垣の庄に入ると、曾良も伊勢から来て合流し、越人も馬を飛ばしてきて、如行の家に集合した。前川子・荊口父子、その他の親しい人々が日夜訪問して、まるで死んで蘇った人に会うように、喜んだりいたわってくれたりした。旅の疲れもまだ取れないままに、九月六日になったので、伊勢の遷宮を拝むため、また舟に乗って旅立つのだった。
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
(意味)離れがたい蛤のふたと身が別れていくように、お別れの時が来た。私は二見浦へ旅立っていく。もう秋も過ぎ去ろうとしている。
   大垣(おおがき)
露通(ろつう)もこのみなとまで出(い)でむかひて、みのの国へと伴(ともな)ふ。
駒(こま)にたすけられて大垣(おおがき)の庄(しょう)に入(い)れば、曽良(そら)も伊勢(いせ)より来たり合い、越人(えつじん)も馬をとばせて、如行(じょこう)が家に入(い)り集(あつ)まる。
前川子(ぜんせんし)・荊口父子(けいこうふし)、そのほかしたしき人々日夜とぶらひて、蘇生(そせい)のものに会ふがごとく、かつ悦(よろこ)び、かついたはる。
旅(たび)のものうさも、いまだやまざるに、長月(ながつき)六日(むいか)になれば、伊勢(いせ)の遷宮(せんぐう)おがまんと、また舟にのりて、 
蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ 行(ゆ)く秋ぞ
●「跋」
枯れて侘しい情緒も、力強いのも、か弱い感じも、「奥の細道」を読んでいくと思わず立ち上がって感激に手を叩いたり、また坐ったまま感動に胸が熱くなったりする。私も一度は蓑をきてこのような旅をしたいものだと思い立ちったり、またある時は座ったままその景色を想像して満足したりする。こういった様々な感動を、まるで人魚の涙が結晶して玉となったように、文章の力によって形にしたのだ。「奥の細道」の旅の、なんと素晴らしいことか。また芭蕉の才能のなんと優れていることか。ただ嘆かわしいことに、このように才能ある芭蕉が健康にはめぐまれず、かよわげなことで、眉毛にはだんだん白いものが増えていっている。
元禄七年初夏 素竜しるす 
 
 

 

●本当はいつ?「五月雨(さみだれ)」、「五月晴れ(さつきばれ)」と梅の実の熟すころ
なにげなく使っている季節の言葉、五月のお天気の良い日は「五月晴れ(さつきばれ)」、雨の日は「五月雨(さみだれ)」などと言いますね。さて、「五月」とつくからには6月になったら使えなくなるのでしょうか?
ところがそうでもない…旧暦の皐月(さつき)の語源と、使い方についてお話しましょう。
五月の異称のおさらい「皐月」のほかにもある呼び方は…?
私たちは旧暦の呼び名を、五月は「さつき」と呼ぶと習いましたね。漢字では「皐月」と書くとも習いました。そしてもう一つ、あまり使われていませんが「早苗月(さなえづき)」という異称があることをご存知でしょうか?
「早苗月(さなえづき)」は、その文字どおりに『田植えを始める月』を由来としています。そして「皐月(さつき)」は「さなえづき」が転じて「さつき」となったという説と、耕作のことを古語で「さ」と言うため「稲を植える月」として「さつき」という音がうまれ、『神にささげる』という意味を持つ漢字「皐」が当てられて「皐月」となったとも言われています。 また、狩りに行くのに良い時期であったことから「幸月(さちづき)」、橘(たちばな)の花が咲くことから「橘月(たちばなづき)」という異称もあります。
橘は着物の文様では吉祥模様(きっしょうもよう)と言い、お祝いに相応しい花です。いずれにしても、田植えを行う月であること。その稲は神様へのささげものであること。それを祝う意味を込めた言葉が使われていることがうかがえますね。
そして、旧暦の五月は『梅の実が熟すころ』でもあります…。
梅の実が熟すころ…と「五月晴れ」「五月雨」の関係
では、「五月晴れ」と「五月雨」はいつ、どう使いましょうか?
本来は旧暦の五月の言葉です。今で言うと、6月〜7月にあたりますので、実は「梅雨(つゆ)」の頃の言葉となります。つまり、五月晴れ=梅雨晴れ、五月雨=梅雨の雨…という意味があるというクセモノです。
例えば、五月晴れは「(1)さみだれの晴れ間。梅雨の晴れ間。(2)5月の空の晴れわたること」(広辞苑)「(1)五月雨(さみだれ)の晴れ間。つゆばれ。(2)5月のさわやかに晴れわたった空。さつきぞら」(日本国語大辞典・小学館)
と、辞書にも二つの意味の記載があるのです。俳句や短歌など、季語の世界ではもっとはっきりしていて、それぞれ旧暦に準じています。ですから、季語に親しんでいる方には、五月に「五月晴れ」「五月雨」という言葉を聞くとちょっと違和感を感じることもあるのではないでしょうか。
放送の世界では、「五月晴れ」は五月の晴天に使い、「五月雨」は季語に準じて、梅雨に降る雨に使われているようです。
緑が色鮮やかになる頃の「五月晴れ」という表現とはそろそろお別れですが、「五月雨」はこれからがまさにシーズンです。
 
 

 

●「五月雨を集めて早し最上川」 芭蕉
松尾芭蕉の『奥の細道』は有名で、教科書などにもよく採用されています。そのため事実が書かれていると信じている人も少なくないようです。でもこれは文学作品ですから、当然虚構も含まれています。そのことは、同伴した門人の河合曽良が書いた旅日記(奥の細道随行日記)と比較すればすぐにわかります。
それだけではありません。俳句や和歌・漢詩は推敲するのが当たり前です。本人が改めるだけではありません。後人の手もしばしば入ります。芭蕉など、門人たちに自詠の句の是非を議論させることを、教育の一環としていました。だからこそ推敲の過程を辿る面白さがあるのです。
さて掲載した句ですが、曽良の旅日記によると、元禄2年(1689年)5月28日に大石田(山形県)に到着し、29、30日とそこに滞在している間に句会を催しています。その句会の発句として芭蕉は、
   五月雨を集めて涼し最上川
と詠じました。みなさんの知っている句と少し違いますね。
一般に知られている句は、「涼し」が「早し」になっています。ですがこれは間違いではありません。芭蕉は最初「涼し」と詠んだのです。その理由は簡単です。その年の東北・北陸は異常に暑く、芭蕉も暑さに閉口していたからです。だから最上川の川風を受けて、素直に「涼しい」と詠んだのでしょう。それもあって、今でも山形県大石田では「五月雨を集めて涼し最上川」の方がよく知られているとのことです。
ところが『奥の細道』を見ると、
   五月雨を集めて早し最上川
となっています。いつの間にか「涼し」が「早し」に推敲されているのです。これについては、発句を詠んだ後、芭蕉は六月三日に実際に最上川の川下りを体験したようです。
五月雨は現在の梅雨に相当します。大量に降り続いた雨によって、川は増水します。京都の保津川下りでさえスリル満点ですから、日本三大急流(他は富士川・球磨川)に数えられている最上川であれば、きっと恐怖の川下りだったでしょう。そのことは『奥の細道』にも、「水みなぎって、舟あやふし」と記されています。
当初、夏の暑さと句会への配慮から、無難に「涼し」と詠じた芭蕉でしたが、実際に奔流となって流れる最上川の川下りを体験したことで、後に「早し」に推敲したのです。たった二文字の改訂ですが、これだけで句の趣は大きく変わりました。穏やかな流れが激流に変貌したのです。そして最終的に芭蕉は、この形をよしとしたようです。
ところで、歌枕ともいわれている「最上川」には、どんなイメージが付与されていたのでしょうか。代表的な古歌としては、
   最上川のぼればくだる稲舟のいなにはあらずこの月ばかり(古今集東歌1092番)
があげられます(万葉集には見当たりません)。これによれば、川を上り下る稲舟のイメージが一番印象的だったことがわかります(稲舟はこれが初出)。これは最上川が舟運(しゅううん)に利用されていたからです。また「否」を導く同音の序詞という技法も認められます。
そのことは『奥の細道』にも、「茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いなぶねとは云ならし」とあるので、芭蕉も古今集歌を念頭に置いていたことがわかります。ただしそこに急流のイメージはありません。どうやら最上川を「早し」と詠んだのは、芭蕉が嚆矢だったようです(もちろん「涼し」も同様です)。
もともと最上川を詠じた歌はそんなに多くありませんが、その中で兼好法師の詠んだ、
   最上川はやくぞ増さる雨雲ののぼればくだる五月雨のころ(兼好法師家集)
は「五月雨」が読み込まれている点が共通しています。また季節は異なりますが、斎藤茂吉の、
   最上川逆白波の立つまでに吹雪く夕べとなりにけるかも(白き山)
は、最上川の自然の猛威を詠じている点が特徴です。歌枕のイメージが徐々に広がっている(くずされている)のがわかりますね。芭蕉の句は決して伝統的な詠みぶりではなかったのです。最上川に行ってみたくなりませんか。  
 
 

 

●梅雨 [ばいう] 1
〈つゆ〉とも。6月から7月にかけて中国の揚子江流域から日本の南部にかけて特に顕著に現れる季節的な雨。年によりその期間に長短があり,入梅,梅雨明けの日付も一定しない。暦の入梅は太陽が黄経80°を通過する日(6月11〜12日)で,特に気象学的意味はないが,日本の南岸の地方ではこのころに梅雨に入ることが多い。梅雨明けは日本の南岸では通常7月中旬ごろ,東北地方で7月下旬。北海道は梅雨がはっきり現れる年とそうでない年がある。梅雨現象は気象学的にみると梅雨前線が南岸沿いに停滞することに対応する。梅雨前線帯は通常,5月ごろ台湾と硫黄島を結ぶ緯度帯に現れ,一進一退しながら季節的に北上し,盛夏季には沿海州方面まで北上する。したがって梅雨は南ほど早く始まり,早く明ける。沖縄の梅雨は〈夏ぐれ〉と呼ばれる。小笠原の梅雨も5月が最盛期。梅雨の語源は梅の実の熟するころの雨,または〈黴雨〉でカビの雨を意味するという。〈つゆ〉は露,あるいはカビなどのため物が〈ついゆ(わるくなる)〉に由来するといわれ,陰暦5月ころの雨なので五月雨(さみだれ)の称もある。
春から夏への季節の変わり目に東アジアから東南アジアにかけてみられる長雨や曇天。太陽が黄経80度を通る日が暦の上の入梅で、6月11日頃。気象上の梅雨入りは、南西諸島で5月中旬、南九州で6月初め、西日本から東北地方にかけては6月上旬から中旬頃。本州南岸では、オホーツク海高気圧からの冷湿な北東風(やませ)と太平洋高気圧からの暖湿な南寄りの風が衝突して、梅雨前線が停滞する。やませが吹き続けると、低温・日照不足・梅雨寒(つゆざむ)をもたらす。7月中旬から下旬にかけて太平洋高気圧の勢力が強まると梅雨前線が北上または消滅して梅雨明けとなる。梅雨明け後に再び前線ができる場合が戻り梅雨。梅雨のない北海道では、年によっては、えぞ梅雨という梅雨に似た現象が現れる。菜の花が咲く3月中旬から4月にかけての長雨が菜種梅雨(なたねづゆ)で、春霖(しゅんりん)とも呼ぶ。この頃の雨が春雨(はるさめ)、梅雨入り前の長雨が走り梅雨。8月後半から10月にかけて現れやすい長雨は秋雨(あきさめ)で、秋霖(しゅうりん)とも呼ぶ。
日本の春から夏に移る時期に本州,四国,九州,沖縄地方でみられる雨の季節。つゆともいう。統計では,梅雨入りは沖縄地方が 5月8日で,しだいに北上し,東北北部が 6月12日頃である。これは暦の雑節の一つである入梅(太陽が黄経 80°を通過する日)とも符合する。梅雨明けは,沖縄地方が 6月23日頃で,最も遅い東北北部が 7月27日頃である。梅雨は秋霖とともに日本の二大雨季であり,秋霖が秋雨前線に起因するのに対し,梅雨は梅雨前線による長雨で,湿潤高温な気候はカビ害,食中毒などを招きやすく,古来一般に嫌われてきた。しかし,この雨季があるために稲作農耕文化が起こったという点でも重要な気象現象であるといえる。梅雨はインド方面の夏の季節風(モンスーン)と連動した気象現象で,同様の長雨は,朝鮮半島南部,中国の華南や華中の沿海部および台湾など東アジアの広範囲でもみられる。
6月上旬から7月上・中旬にかけて、本州以南から朝鮮半島、揚子江流域に顕著に現れる季節的な雨。梅雨前線上を小低気圧が次々に東進して雨を降らせるもの。入梅の前に走り梅雨づゆの見られることが多く、中休みには五月晴さつきばれとなることもあり、梅雨明けは雷を伴うことが多い。つゆ。さみだれ。《季 夏》「草の戸の開きしままなる―かな/虚子」。[補説]梅の実が熟するころに降る雨の意、または、物に黴かびが生じるころに降る雨の意か。[類語]梅雨つゆ・五月雨・空梅雨・菜種梅雨・走り梅雨・戻り梅雨・返り梅雨。 / つゆ【梅雨/黴雨】6月ころの長雨の時節。また、その時期に降る長雨。暦の上では入梅・出梅の日が決められているが、実際には必ずしも一定していない。北海道を除く日本、中国の揚子江流域、朝鮮半島南部に特有の現象。五月雨さみだれ。ばいう。《季 夏》「―ふかし猪口にうきたる泡一つ/万太郎」。[類語]梅雨ばいう・五月雨・空梅雨・菜種梅雨・走り梅雨・戻り梅雨・返り梅雨。
〈つゆ〉ともいう。太陰太陽暦では梅雨の時期が5月にあたるので,五月雨(さみだれ)ともいった。梅雨は東アジアだけにみられる雨季で,6月上旬より7月上旬にかけて日本の南岸から中国の長江流域にかけて前線(梅雨前線)が停滞して長雨を降らせる現象である。梅雨は南寄りの季節風が直接あたる九州,四国,近畿,東海地方で顕著であり,この期間の降水量は年降水量のほぼ1/3(平年値は那覇で520mm,福岡で507mm,東京で260mm,仙台で265mm)に達する。
つゆ。梅の実の熟するころの長雨。〔五雑組、天部一〕江南三四、霪雨(いんう)止まず、百物黴腐(ばいふ)するにしむ。俗に之れを雨と謂ふ。蓋(けだ)し子の時に當ればなり。徐・淮よりして北、六七のに至り、〜俗之れを雨と謂ふ。
…〈つゆ〉ともいう。太陰太陽暦では梅雨の時期が5月にあたるので,五月雨(さみだれ)ともいった。梅雨は東アジアだけにみられる雨季で,6月上旬より7月上旬にかけて日本の南岸から中国の長江流域にかけて前線(梅雨前線)が停滞して長雨を降らせる現象である。… / 【前線】…このときは,前線の所に大きな低気圧はない。梅雨期にはこの前線を梅雨前線と呼ぶ。この時期には既に大陸の空気は暖かく,寒冷な空気はオホーツク海と三陸沖にある。…
夏至(げし)(6月22日ごろ)を中心として前後それぞれ約20日ずつの雨期。梅雨(つゆ)ともいう。これは極東アジア特有のもので、中国の長江(ちょうこう)(揚子江(ようすこう))流域、朝鮮半島南部および北海道を除く日本でみられる。中国ではMéi-yú、韓国では長霖(ちょうりん)Changmaというが、日本語のBai-uは国際的にも通用する。ウメの実の熟するころの雨期なので「梅雨」と書くが、カビ(黴)の生えるころの雨期でもあるので、昔は「黴雨(ばいう)」とも書かれた。梅雨はまた「つゆ」ともいう。旧暦では五月(さつき)ごろにあたるので「五月雨」と書いて「さみだれ」と読ませた。この流儀でいうと五月晴れ(さつきばれ)は元来はつゆの晴れ間をいったので、現在の新暦の5月の晴天を「さつきばれ」というのは誤用である。梅雨期間の雨量は、西日本では年降水量の4分の1程度、東日本では5分の1、北日本や日本海側では5分の1から10分の1程度となっている。梅雨末期の集中豪雨はさまざまな水害をもたらすことがあるが、梅雨全体としての雨量は冬の日本海側の雪とともに、日本のたいせつな水資源となっている。
梅雨の期間 梅雨期は走り梅雨(はしりづゆ)、梅雨前期、梅雨後期に分けられることが多い。それぞれの期間の特徴は次のとおりである。(1)走り梅雨 5月中旬〜下旬ごろから走り梅雨に入るが、このころはオホーツク海の高気圧はあまり顕著でなく、日本付近を寒帯前線がしだいに北上していくのに伴って雨が降る。年により走り梅雨がないこともあるが、普通は「走り」のあることが多い。(2)梅雨前期 この期間の特徴は、梅雨前線の活動が弱いことである。走り梅雨による雨と、梅雨前期の雨をはっきりくぎることのむずかしい年も多く、毎年、いつから梅雨入りとするかが問題になる。梅雨前期と走り梅雨による雨量は一般に少ない。(3)梅雨後期 前期と後期の境目はちょうど夏至のころにあたる。これが梅雨の中休みで、この中休みが前後に長引くと空梅雨(からつゆ)(涸梅雨とも書く)となる。中休みのころは一時、真夏の青空が現れ、地平には雄大な積雲がわくが、普通は長続きせず梅雨後期に入る。梅雨後期の雨はまとまって降る大雨や集中豪雨となる型で、前期よりは雨量がずっと多く、本土では6月末が一年中でもっとも雨の降りやすいころとなる。梅雨明けは7月中旬になることが多く、数日の差で比較的一斉に真夏の晴天を迎える。梅雨明けは、梅雨入りと比べると、よほどはっきりした季節のとぎれた変化である。梅雨後期には中国南部から日本の東の海上へ伸びる梅雨前線が顕著になる。梅雨前線には南西モンスーン(季節風)や太平洋の高気圧から湿潤な気流が流れ込む。ときには発達したオホーツク海高気圧におおわれて、北日本などにやませが吹きつけ梅雨寒をもたらすことがある。梅雨後期には熱帯地方で発生した低気圧(この発達したものが台風である)が北上し、これに伴われた湿潤な大気が梅雨前線を刺激して大雨をもたらすことがある。梅雨後期にはその期間中にも雷がしばしば発生する。したがって「雷が鳴ると梅雨(つゆ)が明ける」というのは間違った表現であり、「梅雨(つゆ)明けは雷を伴うことが多い」というべきである。
梅雨と生活 日本人の生活の一つのくふうは、6〜7月の高温多湿の条件をいかに克服するか、利用するかであり、この面を強調して日本の文化を湿度文化という人もある。たとえば防湿の知恵としては、唐櫃(からびつ)などによる木箱内の保存があるが、木箱内では木質が湿気を出し入れすることにより、湿度はおよそ70%くらいに保たれ、保存に適する小空間がつくりだされているのである。また正倉院の建築法で有名な校倉(あぜくら)造、高床(たかゆか)式なども、乾燥した空間をつくりだすのになにがしかの貢献をしていると思われる。黴雨(ばいう)とよばれたことがあったことからもわかるように、高温多湿の梅雨期はカビの繁殖の好条件である。このため古来、日本ではカビを取り除いたり、また反対に利用したりする知恵が発達した。たとえば、漢方薬は生薬(しょうやく)であるためかびることによって著しくその効き目が減ずる。そのため漢方薬は乾燥した環境に保存しなくてはならないのであるが、そのため蒼朮(おけら)(和蒼朮(わのそうじゅつ))をたくことが行われる。蒼朮は雑草の一種の根であるが、その根を燻蒸(くんじょう)すること(焚蒼(たきそう)という)により、室内の湿気を取り除くことができるのである。梅雨期は各種のカビなど微生物が発生しやすく、食品などの腐敗しやすい時期であり、そのため食中毒などには注意しなければならない。他方、微生物は日本の食物の基本となるみそ、しょうゆ、酒、納豆などをつくりだすのに重要な働きもしているのであり、これらの利用も巧みに取り入れたのが日本文化の一つの特徴といえるであろう。  
 
 

 

●梅雨 [つゆ・ばいう] 2
北海道と小笠原諸島を除く日本、朝鮮半島南部、中国の南部から長江流域にかけての沿海部、および台湾など、東アジアの広範囲においてみられる特有の気象現象で、5月から7月にかけて来る曇りや雨の多い期間のこと。雨季の一種である。
東アジアの四季変化における梅雨​
気候学的な季節変化を世界と比較したとき、東アジアでは春夏秋冬に梅雨を加えた五季、また日本に限るとさらに秋雨を加えた六季の変化がはっきりと表れる。
東アジアでは、春や秋は、温帯低気圧と移動性高気圧が交互に通過して周期的に天気が変化する。一方、盛夏期には亜熱帯高気圧(太平洋高気圧)の影響下に入って高温多湿な気団に覆われる。そして、春から盛夏の間と、盛夏から秋の間には、中国大陸東部から日本の東方沖に前線が停滞することで雨季となる。この中で、春から盛夏の間の雨季が梅雨、盛夏から秋の間の雨季が秋雨である。なお、梅雨は東アジア全体で明瞭である一方、秋雨は中国大陸方面では弱く日本列島方面で明瞭である。また、盛夏から秋の間の雨季の雨の内訳として、台風による雨も無視できないほど影響力を持っている。
梅雨の時期が始まることを梅雨入りや入梅(にゅうばい)といい、社会通念上・気象学上は春の終わりであるとともに夏の始まり(初夏)とされる。なお、日本の雑節の1つに入梅(6月11日頃)があり、暦の上ではこの日を入梅とするが、これは水を必要とする田植えの時期の目安とされている。また、梅雨が終わることを梅雨明けや出梅(しゅつばい)といい、これをもって本格的な夏(盛夏)の到来とすることが多い。ほとんどの地域では、気象当局が梅雨入りや梅雨明けの発表を行っている。
梅雨の期間はふつう1か月から1か月半程度である。また、梅雨期の降水量は九州では500mm程度で年間の約4分の1・関東や東海では300mm程度で年間の約5分の1ある。西日本では秋雨より梅雨の方が雨量が多いが、東日本では逆に秋雨の方が多い(台風の寄与もある)。梅雨の時期や雨量は、年によって大きく変動する場合があり、例えば150mm程度しか雨が降らなかったり、梅雨明けが平年より2週間も遅れたりすることがある。そのような年は猛暑・少雨であったり冷夏・多雨であったりと、夏の天候が良くなく気象災害が起きやすい。
東アジアは中緯度に位置している。同緯度の中東などのように亜熱帯高気圧の影響下にあって乾燥した気候となってもおかしくないが、大陸東岸は夏季に海洋を覆う亜熱帯高気圧の辺縁部になるため雨が多い傾向にある。これは北アメリカ大陸東岸も同じだが、九州では年間降水量が約2,000mmとなるなど、熱帯収束帯の雨量にも劣らないほどの雨量がある。この豊富な雨量に対する梅雨や秋雨の寄与は大きい。梅雨が大きな雨量をもたらす要因として、インドから東南アジアへとつながる高温多湿なアジア・モンスーンの影響を受けている事が挙げられる。
時折、梅雨は「雨がしとしとと降る」「それほど雨足の強くない雨や曇天が続く」と解説されることがある。これは東日本では正しいが、西日本ではあまり正しくない。梅雨の雨の降り方にも地域差があるためである。特に西日本や華中(長江の中下流域付近)では、積乱雲が集まった雲クラスターと呼ばれる水平規模100km前後の雲群がしばしば発生して東に進み、激しい雨をもたらすという特徴がある。日本本土で梅雨期にあたる6-7月の雨量を見ると、日降水量100mm以上の大雨の日やその雨量は西や南に行くほど多くなるほか、九州や四国太平洋側では2カ月間の雨量の半分以上がたった4-5日間の日降水量50mm以上の日にまとまって降っている。梅雨期の総雨量自体も、日本本土では西や南に行くほど多くなる。
名称​
漢字表記「梅雨」の語源としては、この時期は梅の実が熟す頃であることからという説や、この時期は湿度が高くカビが生えやすいことから「黴雨(ばいう)」と呼ばれ、これが同じ音の「梅雨」に転じたという説、この時期は「毎」日のように雨が降るから「梅」という字が当てられたという説がある。普段の倍、雨が降るから「倍雨」というのはこじつけ(民間語源)である。このほかに「梅霖(ばいりん)」、旧暦で5月頃であることに由来する「五月雨(さみだれ)」、麦の実る頃であることに由来する「麦雨(ばくう)」などの別名がある。
なお、「五月雨」の語が転じて、梅雨時の雨のように、物事が長くだらだらと続くことを「五月雨式」と言うようになった。また梅雨の晴れ間のことを「五月晴れ(さつきばれ)」というが、この言葉は最近では「ごがつばれ」とも読んで新暦5月初旬のよく晴れた天候を指すことの方が多い。気象庁では5月の晴れのことを「さつき晴れ」と呼び、梅雨時の晴れ間のことを「梅雨の合間の晴れ」と呼ぶように取り決めている。五月雨の降る頃の夜の闇のことを「五月闇(さつきやみ)」という。
地方名には「ながし」(鹿児島県奄美群島)、「なーみっさ」(喜界島での別名)がある。沖縄では、梅雨が小満から芒種にかけての時期に当たるので「小満芒種(スーマンボースー、しょうまんぼうしゅ)」や「芒種雨(ボースーアミ、ぼうしゅあめ)」という別名がある。
中国では「梅雨(メイユー)」、台湾では「梅雨(メイユー)」や「芒種雨」、韓国では「장마(チャンマ)」という。中国では、古くは「梅雨」と同音の「霉雨」という字が当てられており、現在も用いられることがある。「霉」はカビのことであり、日本の「黴雨」と同じ意味である。中国では、梅が熟して黄色くなる時期の雨という意味の「黄梅雨(ファンメイユー)」もよく用いられる。
メカニズムと経過​
気団​
梅雨の時期には、以下の4つの気団が東アジアに存在する。
・揚子江気団 / 中国北部・モンゴルから満州にかけての地域に存在。暖かく乾燥した大陸性の気団。移動性高気圧によって構成される。
・オホーツク海気団 / オホーツク海に存在。冷たく湿った海洋性の気団。
・熱帯モンスーン気団 / インドシナ半島・南シナ海から南西諸島近海にかけての地域に存在。暖かく非常に湿った海洋性の気団。インド洋の海洋性気団の影響を強く受けている。
・小笠原気団 / 北太平洋西部に存在。高温・多湿で海洋性の気団。 
春から夏に季節が移り変わる際、東アジアでは性質の違うこれらの気団がせめぎ合う。中国大陸方面と日本列島・朝鮮半島方面ではせめぎ合う気団が異なる。
・中国大陸方面:北の揚子江気団と南の熱帯モンスーン気団が接近し、主に両者の湿度の差によって停滞前線が形成される。
・日本列島・朝鮮半島方面:北のオホーツク海気団と南の小笠原気団が接近し、主に両者の温度の差により、停滞前線が形成される。
性質が似ていることや、距離が離れていて干渉が少ないことなどから、北側の気団同士・南側の気団同士の間には、前線は形成されない。
北と南の気団が衝突した部分には東西数千kmに渡って梅雨前線(ばいうぜんせん)ができ、数か月に渡って少しずつ北上していく。この前線付近では雨が降り続くが、長雨の期間は各地域で1か月–2か月にもなる。これが梅雨である。
梅雨前線の最初​
冬の間、シベリアから中国大陸にかけての広範囲を冷たく乾燥したシベリア気団が覆っている。シベリア気団はしばしば南下して寒波をもたらし、日本の日本海側に大雪を降らせるが、チベット高原では高い山脈が邪魔して気団がそれ以上南下できない。そのチベット高原の南側、インド-フィリピンにかけての上空を亜熱帯ジェット気流が流れる。
冬が終わり春が近づくにつれ、シベリア気団は勢力が弱くなり、次第に北上していく。代わって中国大陸には暖かく乾燥した揚子江気団ができ始め、勢力を強めていく。春になると、揚子江気団は東の日本列島や朝鮮半島などに移動性高気圧を放出し、これが偏西風に乗って東に進み、高気圧の間にできた低気圧とともに春の移り変わりやすい天候を作り出している。
春が終わりに差し掛かるにつれて、南シナ海付近にある熱帯モンスーン気団が勢力を増し北上してくる。すると、揚子江気団と熱帯モンスーン気団が衝突し始める。地上天気図でみると、揚子江気団からできた高気圧と熱帯モンスーン気団からできた高気圧が南シナ海上でせめぎあい、その間に前線ができていることがわかる。これが最初の梅雨前線である。
例年、華南や南西諸島南方沖付近では5月上旬頃に、梅雨前線のでき始めである雲の帯(専門的には準定常的な雲帯と呼ぶことがある)が発生する。
明瞭になる梅雨前線​
5月上旬には南西諸島も梅雨前線の影響を受け始める。5月中旬ごろになると、梅雨前線ははっきりと天気図上に現れるようになり、華南や南西諸島付近に停滞する。
一方、初夏に入った5月ごろ、亜熱帯ジェット気流も北上し、チベット高原に差し掛かる。ただし、チベット高原は上空を流れる亜熱帯ジェット気流よりもさらに標高が高いため、亜熱帯ジェット気流はチベット高原を境に北と南の2つの流れに分かれてしまう。
分かれた亜熱帯ジェット気流のうち、北側の分流は、樺太付近で寒帯ジェット気流と合流する。さらにこの気流は、カムチャツカ半島付近で南側の分流と合流する。この合流の影響で上空の大気が滞ると、下降気流が発生して、その下層のオホーツク海上に高気圧ができる。この高気圧をオホーツク海高気圧といい、この高気圧の母体となる冷たく湿った気団をオホーツク海気団という。
同じごろ、太平洋中部の洋上でも高気圧が勢力を増し、範囲を西に広げてくる。この高気圧は北太平洋を帯状に覆う太平洋高気圧の西端で小笠原高気圧ともいい、この母体となる暖かく湿った気団を小笠原気団という。
5月下旬から6月上旬ごろになると、九州や四国が梅雨前線の影響下に入り始める。このころから、梅雨前線の東部ではオホーツク海気団と小笠原気団のせめぎあいの色が濃くなってくる。一方、華北や朝鮮半島、東日本では、高気圧と低気圧が交互にやってくる春のような天気が続く。
北上する梅雨前線​
北上を続ける梅雨前線は、6月中旬に入ると、中国では南嶺山脈付近に停滞、日本では本州付近にまで勢力を広げてくる。
次に梅雨前線は中国の江淮(長江流域・淮河流域)に北上する。6月下旬には華南や南西諸島が梅雨前線の勢力圏から抜ける。7月に入ると東北地方も梅雨入りし、北海道を除く日本の本土地域が本格的な長雨に突入する。また同じころ、朝鮮半島南部も長雨の時期に入る。
7月半ばを過ぎると、亜熱帯ジェット気流がチベット高原よりも北を流れるようになり、合流してオホーツク海気団が弱まってくる。一方で、太平洋高気圧が日本の南海上を覆い続けて晴天が続くようになり、日本本土や朝鮮半島も南から順に梅雨明けしてくる。
こうして北上してきた梅雨前線は最終的に、北京などの華北・中国東北部に達する。例年、この頃には前線の勢力も弱まっており、曇天続きになることはあるが前線が居座り続けるようなことはほとんどない。また、8月中旬・下旬を境にしてこれ以降の長雨はいわゆる秋雨であり、前線の名前も秋雨前線に変わるが、前線の南北の空気を構成する気団は同じである。ただし、秋雨は中国大陸方面ではほとんど見られない。西日本でも秋雨はあるものの雨量はそれほど多くない。一方、東日本、および北日本(北海道除く)では梅雨期の雨量よりもむしろ秋雨期の雨量の方が多いという傾向がある(ただし、秋雨期の雨量には台風によるまとまった雨も含まれる)。
梅雨前線の性質​
性質の違う2つの空気(気団という)がぶつかる所は大気の状態が不安定になり、前線が発生する。梅雨前線を構成する気団はいずれも勢力が拮抗しているため、ほぼ同じ地域を南北にゆっくりと移動する停滞前線となる。
梅雨前線の南側を構成する2つの気団はともに海洋を本拠地とする気団(海洋性気団)のため、海洋から大量の水蒸気を吸収して湿潤な空気を持っている。ただ、北側の気団と南側の気団とではお互いの温度差が小さいため、通常はほとんどが乱層雲の弱い雨雲で構成される。そのため、しとしととあまり強くない雨を長時間降らせる。
しかし、上空の寒気や乾燥した空気が流入したり、台風や地表付近に暖かく湿った空気(暖湿流)が流入したりすると、前線の活動が活発化して、積乱雲をともなった強い雨雲となり、時に豪雨となる。
2つの高気圧がせめぎあい、勢力のバランスがほぼつり合っているとき、梅雨前線はほとんど動かない。しかし、2つの高気圧の勢力のバランスが崩れたときや、低気圧が近づいてきたり、前線付近に低気圧が発生したりしたときは一時的に温暖前線や寒冷前線となることもある。梅雨前線の活動が太平洋高気圧の勢力拡大によって弱まるか、各地域の北側に押し上げられ、今後前線の影響による雨が降らない状況になったとき、梅雨が終わったとみなされる。
梅雨入りの特定なしの年​
年によっては梅雨入りの時期が特定できなかったり、あるいは発表がされないこともある。東・西日本(特に四国地方・近畿地方・北陸地方)ではこのパターンが数年に一回の割合で起こる。これは、太平洋高気圧の勢力が強いために梅雨前線が北陸地方から北上して進みそのまま夏空に突入し、南の高気圧となって次第に南下していくパターンである(小暑を境にして、小暑以降はそのまま梅雨明けになる)。この場合でも、四国地方、近畿地方、北陸地方では高温や晴天がやや多くなるものの、概ね晴天が続く「夏」が訪れている。このことから、年によっては、近畿地方における(本当の)夏は北陸地方よりも長いとされている。
梅雨明けの特定なしの年​
年によっては梅雨明けの時期が特定できなかったり、あるいは発表がされないこともある。東北地方(特に青森・岩手・秋田の北東北3県)、関東甲信地方ではこのパターンが数年に一度の割合で起こる。これは、オホーツク高気圧の勢力が強いために梅雨前線が東北地方から北上できずにそのまま秋に突入し、秋雨前線となって次第に南下していくパターンである(立秋を境にして、立秋以降の長雨を秋雨とする)。この場合でも、北の北海道では低温や曇天がやや多くなるものの、概ね晴天が続く「夏」が訪れている。このことから、年によっては、東北地方における(本当の)夏は北海道よりも短いとされている。
アジアモンスーンと梅雨​
梅雨前線は、気象学的にはモンスーンをもたらす前線(モンスーン前線)の1つである。インドをはじめとした南アジアや東南アジアのモンスーンは、インド洋や西太平洋に端を発する高温多湿の気流が原因である。世界最多の年間降水量を有する地域(インドのチェラプンジ)を含むなど、この地域のモンスーンは地球上で最も規模が大きく、広範囲で連動して発生していることから、総称してアジア・モンスーンと呼ばれる。またこの影響を受ける地域をモンスーン・アジアという。
アジア・モンスーンの影響範囲はさらに東にまで及んでおり、南シナ海を覆う熱帯モンスーン気団にも影響を与えている。具体的には、南西諸島や華南の梅雨の降雨の大部分が熱帯モンスーン気団によってもたらされるほか、太平洋高気圧の辺縁を時計回りに吹く気流が、この熱帯モンスーン気団の影響を受けた空気を日本・朝鮮半島付近まで運んできて雨を増強する。このような関連性を考えて、気象学では一般的に、梅雨がある中国沿海部・朝鮮半島・日本列島の大部分をモンスーン・アジアに含める。
また、梅雨前線付近の上空の大気をみると、冬の空気と春・秋の空気の境目となる寒帯前線、春・秋の空気と夏の空気の境目となる亜熱帯前線が接近して存在していて、梅雨は「季節の変わり目」の性質が強い。
各地の梅雨​
日本​
   沖縄〜東北​
日本では各地の地方気象台・気象庁が、数個の都府県をまとめた地域ごとに毎年梅雨入り・梅雨明けの発表をする(北海道を除く)。まず、梅雨入り・梅雨明けしたと思われるその日(休日の場合は、以降最初の平日)に「速報値」として発表が行われ、その発表に従って「梅雨入りしたとみられる」・「梅雨明けしたとみられる」と報道される。その後、5月から8月の天候経過を総合的に検討し、毎年9月に最終的な梅雨の時期を「確定値」として発表する。その際、速報値での梅雨入り・梅雨明けの期日の修正が行われたり、最終的に「特定せず」という表現になることもある。一般に、南の地域ほど梅雨の到来は早く、沖縄は5月中旬から6月下旬、東北・北陸では6月下旬から7月下旬頃となるのが平均的である。
梅雨入りや梅雨明けの発表は通常、次のようにして行われる。各気象台は主に、1週間後までの中期予報とそれまでの天候の推移から、晴れが比較的多い初夏から曇りや雨の多い梅雨へと変わる「境目」を推定して、それを梅雨入りの日として発表している。端的には、管轄地域で曇りや雨が今後数日以上続くと推定されるときにその初日を梅雨入りとする。梅雨明けの場合は逆に晴れが数日以上つづくときである。中期予報の根拠になるのは、誤差が比較的少ないジェット気流などの上空の大気の流れ(亜熱帯ジェット気流と梅雨前線の位置関係は対応がよい)の予想などである。ただ、この中期予報自体が外れると、発表通りにいかず晴れたりする。梅雨入りや梅雨明けの発表は、確定したことを発表するのではなく、気象庁によれば「予報的な要素を含んでいる」ので、外れる場合もある。
ただし、梅雨前線が停滞したまま立秋を過ぎると、梅雨明けの発表はされない。立秋の時期はちょうど、例年梅雨前線がもっとも北に達するころであり、これ以降はどちらかといえば秋雨の時期に入る。しかし、この場合でも翌年には通常通り「梅雨入り」を迎えるが、「梅雨明けがないまま一年を越して重畳的にまた梅雨入りとなる」わけではない。つまり、梅雨明けがない場合は「はっきりと夏の天気が現れないまま梅雨から秋雨へと移行する」と考える。
梅雨期間の終了発表のことを俗に梅雨明け宣言という。基本的に、梅雨前線の北上に伴って南から北へ順番に梅雨明けを迎えるが、必ずしもそのようにならない場合もある。前線が一部地域に残存してしまうような場合には、より北の地方の方が先に梅雨明けになる場合もある。過去に、先に梅雨入りした中国地方より後に梅雨入りした北陸地方が先に梅雨明けしたり、関東地方の梅雨明けが西日本より大幅に遅れたりした例がある。
梅雨の末期は太平洋高気圧の勢力が強くなって等圧線の間隔が込むことで高気圧のへりを回る「辺縁流」が強化され、暖湿流が入りやすくなるため豪雨となりやすい。逆に梅雨明け後から8月上旬くらいまでは「梅雨明け十日」といって天候が安定することが多く、猛暑に見舞われることもある。
梅雨の期間はどの地方でも40日から50日前後と大差はないが、期間中の降水量は大きく異なる。本土では西や南に行くほど多くなり、東北よりも関東・東海・近畿、関東・東海・近畿よりも九州北部、九州北部よりも九州南部の方が多い。一方南西諸島では、石垣島や那覇よりも名瀬の方が期間降水量は多く、総合的に日本付近の梅雨期の雨量は九州南部が最も多い。
   北海道​
実際の気象としては北海道にも道南を中心に梅雨前線がかかることはあるが、平均的な気象として、つまり気候学的には北海道に梅雨はないとされている。これは、梅雨前線が北海道に到達する梅雨末期は勢力が衰え、北上する速度が速くなっていて、降水が長く続かず前線がかかっても曇りとなるだけで雨が降らないようなことが多いためである。しかし、記録的猛暑となった2010年を境に、近年は北海道南西部を中心にゲリラ豪雨や梅雨前線が弱まらずに勢力を保持したまま北海道付近に停滞するといった例が顕著に現れるようになり、中でも2018年には、梅雨前線の停滞による大雨で河川の氾濫など平成30年7月豪雨となって北海道各地で被害を及ぼした。
北海道の中でも南西部太平洋側(渡島・胆振・日高)では本州の梅雨末期に大雨が降る事がある。また、北海道の広い範囲でこの時期は低温や日照不足が起こりやすいほか、釧路など東部で海霧の日数が多くなるのも、東日本の梅雨と同じくオホーツク海高気圧の影響を受けている。特に、5月下旬から6月上旬を中心として見られる一時的な低温は、北海道ではリラ(ライラック)の花が咲く時期であることから俗に「リラ冷え」とも呼ぶ。また、このようにぐずついた肌寒い天気が、年によっては2週間程度、本州の梅雨と同じ時期に続くことがあり、「蝦夷梅雨」(えぞつゆ)と呼ばれることがある。
   小笠原諸島​
小笠原諸島が春から夏への遷移期にあたる5月には、気団同士の中心が離れているため前線が形成されず、雨が長続きしない。そして初夏を迎える6月頃より太平洋高気圧の圏内に入ってその後ずっと覆われるため、こちらも梅雨がない。
中国​
中国中部・南部でも梅雨がみられる。中国では各都市の気象台が、梅雨入りと梅雨明けの発表をしている。ある研究では、1971年 - 2000年の各都市の梅雨入り・梅雨明けの平均値で、長江下流域の梅雨入りは6月14日、梅雨明けは7月10日、淮河流域の梅雨入りは6月18日、梅雨明けは7月11日となっている。
目安として、華南では5月中旬ごろに梅雨前線による長雨が始まり6月下旬ごろに終わる。時間とともにだんだんと長雨の地域は北に移り、6月中旬ごろから7月上旬ごろに華東(長江中下流域)、6月下旬ごろから7月下旬ごろに華北の一部が長雨の時期となる。長雨はそれぞれ1か月ほど続く。
朝鮮半島​
朝鮮半島では6月下旬ごろから7月下旬ごろに長雨の時期となり、1か月ほど続く。北にいくほど長雨ははっきりしないものになる。
梅雨の気象の特徴​
梅雨入り前の5 - 6月ごろ、梅雨に似た天候がみられることがあり、これを走り梅雨(はしりづゆ)、梅雨の走り(つゆのはしり)、あるいは迎え梅雨(むかえづゆ)と呼ぶ。
梅雨入り当初は比較的しとしととした雨が連続することが多い。梅雨の半ばには一旦天気が回復する期間が出現することがある。この期間のことを梅雨の中休み(つゆのなかやすみ)という。
梅雨の時期、特に、長雨の場合は、日照時間が短いため、気温の上下(最高気温と最低気温の差、日較差)が小さく、肌寒く感じることがある。この寒さや天候を梅雨寒(つゆざむ)または梅雨冷(つゆびえ)と呼ぶ。一方、梅雨期間中の晴れ間は梅雨晴れ(つゆばれ)または梅雨の晴れ間と呼ばれ、特に、気温が高く、湿度も高い。そのため、梅雨晴れの日は不快指数が高くなり過ごしにくく、熱中症が起こりやすい傾向にある。
梅雨末期には降雨量が多くなることが多く、ときとして集中豪雨になることがある。南および西ほどこの傾向が強く、特に、九州では十数年に1回程度の割合でこの時期に一年分の降水量がわずか一週間で降ることもある(熊本県・宮崎県・鹿児島県の九州山地山沿いが典型例)。逆に、関東や東北など東日本では梅雨の時期よりもむしろ秋雨の時期のほうが雨量が多い。
梅雨末期の雨を荒梅雨(あらづゆ)あるいは暴れ梅雨(あばれづゆ)とも呼ぶ。また、梅雨の末期には雷をともなった雨が降ることが多く、これを送り梅雨(おくりづゆ)と呼ぶ。また、梅雨明けした後も、雨が続いたり、いったん晴れた後また雨が降ったりすることがある。これを帰り梅雨(かえりづゆ、返り梅雨とも書く)または戻り梅雨(もどりづゆ)と呼ぶ。これらの表現は近年ではあまり使われなくなってきている。
梅雨明けが遅れた年は冷夏となる場合も多く、冷害が発生しやすい傾向にある。
梅雨は日本の季節の中でも高温と高湿が共に顕著な時期であり、カビや食中毒の原因となる細菌・ウイルスの繁殖が進みやすいことから、これらに注意が必要な季節とされている。
空梅雨​
梅雨の期間中ほとんど雨が降らない場合がある。このような梅雨のことを空梅雨(からつゆ)という。空梅雨の場合、夏季に使用する水(特に稲作に必要な農業用水)が確保できなくなり、渇水を引き起こすことが多く、特に青森、岩手、秋田の北東北地方においては空梅雨になる確率がかなり高く、また、秋季〜冬季の降水量が少ない北部九州や瀬戸内地方などでは、空梅雨の後、台風などによるまとまった雨がない場合、渇水が1年以上続くこともある。
陰性・陽性​
あまり強くない雨が長く続くような梅雨を陰性の梅雨、雨が降るときは短期間に大量に降り、降らないときはすっきりと晴れるような梅雨を陽性の梅雨と表現することもある。陰性の梅雨を女梅雨(おんなづゆ)、陽性の梅雨を男梅雨(おとこづゆ)とも呼ぶこともあり、俳句では季語として使われる場合がある。
傾向として、陰性の場合は、オホーツク海高気圧の勢力が強いことが多く、陽性の場合は、太平洋高気圧の勢力が強いことが多いが、偏西風の流路や、北極振動・南方振動(ENSO、エルニーニョ・ラニーニャ)なども関係している。
台風との関連​
台風や熱帯低気圧は地上付近では周囲から空気を吸い上げる一方、上空数千m-1万mの対流圏上層では吸い上げた空気を湿らせて周囲に大量に放出している。そのため、梅雨前線の近くに台風や熱帯低気圧が接近または上陸すると、水蒸気をどんどん供給された梅雨前線が活発化して豪雨となる。また、梅雨前線が、勢力が弱まった台風や温帯低気圧とともに北上して一気に梅雨が明けることがある。
梅雨の豪雨パターン​
梅雨の時期の大雨や豪雨の事例をみていくと、気圧配置や気象状況にある程度のパターンがあるといわれている。日本海側で豪雨になりやすいのが日本海南部に停滞する梅雨前線付近を低気圧が東に進むパターンで、低気圧に向かって南西から湿った空気が流れ込み、その空気が山脈にぶつかって局地的な豪雨となりやすい。
太平洋側で豪雨になりやすいのが、梅雨前線が長期的に停滞するパターンや、太平洋側付近に梅雨前線、西側に低気圧がそれぞれ停滞するパターンであり、南 - 南東から湿った空気が流れ込み、同じようにその空気が山脈にぶつかって局地的な豪雨となりやすい。
このほか、梅雨前線沿いにクラウドクラスター(楕円形の雲群をつくる降水セルの一種)と呼ばれる積乱雲の親雲が東進すると、豪雨となりやすいことが知られている。上空の大気が乾燥している中国大陸や東シナ海で形成され、日本方面へやってくることが多い。
海洋変動との関連​
統計的にみて、赤道付近の太平洋中部-東部にかけて海水温が上昇・西部で低下するエルニーニョ現象が発生したときは、日本各地で梅雨入り・梅雨明け共に遅くなる傾向にあり、降水量は平年並み、日照時間は多めとなる傾向にある。また、同じく中部-東部で海水温が低下・西部で上昇するラニーニャ現象が発生したときは、沖縄で梅雨入りが遅めになるのを除き、日本の一部で梅雨入り・梅雨明けともに早くなる傾向にあり、降水量は一部を除き多め、日照時間はやや少なめとなる傾向にある。
梅雨予想の目的​
日本の気象庁が梅雨入り・梅雨明けの情報提供を始めたのは1955年ごろとされ、「お知らせ」として報道機関に連絡していた。気象情報として発表を始めたのは1986年になってからである。
梅雨の時期を発表することにより、長雨・豪雨という水害・土砂災害につながりやすい気象が頻発する時期としての「梅雨」を知らせることで防災意識を高める、多雨・高温多湿が長続きする「梅雨」の時期を知らせることで生活面・経済面での対策を容易にする、「梅雨」という一種の季節の開始・終了を知らせることで季節感を明確にする(春一番、木枯らし、初雪などの発表と同様の役割)といった効果が期待されている。
類似の気象現象​
菜種梅雨
おもに3月下旬から4月上旬にかけての連日降りつづく寒々とした降雨を、菜の花が咲くころに降るため「菜種梅雨(なたねづゆ)」という。梅雨のように何日も降り続いたり、集中豪雨をみたりすることは少ないが、やはり、曇りや雨の日が多く、すっきりしない天気が何日も続くことが多い。
また、「春の長雨」や「春霖(しゅんりん)」、「催花雨(さいかう)」とも言う。「春霖」の「霖」は長雨を表す漢字であり、春の長雨を表している。「催花雨」は、桜をはじめいろいろな花を催す(咲かせる)雨という意味である。「春雨(はるさめ)」も、このころの雨を指して言う場合が多く、月形半平太の名せりふ「春雨じゃ、濡(ぬ)れてゆこう」も、草木の芽を張らせ花を咲かせる柔らかい春の雨だからこそ、粋(いき)に聞こえる。なお、NHKで「菜種梅雨」を言うときには、必ず説明を付けるようにしている。冬の間、本州付近を支配していた大陸高気圧の張り出しや、移動性高気圧の通り道が北に偏り、一方で、その北方高気圧の張り出しの南縁辺に沿って、冷湿な北東気流(やませ)が吹いたり、本州南岸沿いに前線が停滞しやすくなるために生ずる。そのときには南岸に小低気圧が頻繁に発生しやすくなるのもまた特色である。そのため、西 - 東日本太平洋沿岸部にかけていう場合が多く、北日本にはこの現象はみられない。近年は、暖冬傾向および、温暖化の影響もあり、菜種梅雨が冬に繰り上がるきらいがあり、気候の変動が懸念される面もある。また、菜種梅雨は梅雨のようにずっと続くということはなく、期間は一日中あるいは数日程度のことがほとんどである。
例としては、1990年2月は月の後半を中心に曇雨天続きで、東京での同・月間日照時間は僅か81時間しかならず、大暖冬を象徴するかのようだった。また、1985年には3月は月全体を通して関東以西の太平洋側地方では冷たい雨の連続で、東京では同年月での快晴日数は0(梅雨期である6、7月を除いては初のワースト記録)、日本気象協会発行の天気図日記では「暗い3月」と評される程であった。その他、1986年、1988年、1991年、1992年、1995年、1999年と3月が比較的長いこと曇雨天が持続した影響で、月間日照時間は北日本を除いてかなり少なかったため、20世紀末にかけての3月は、「菜の花の上にお日様無し」、「行楽受難・鬼門の月」、「花見には 傘など雨具が 必需品」、「卒業式、終業式、離任式はいつも雨」などと不名誉なレッテルが貼られたこともあった。その他、2002年、2006年には2月おわりから3月初めにかけて、南岸前線が停滞したり、朝晩中心に雨の降りやすいすっきりしない空が続いて、お天気キャスターの一部では「菜種梅雨の走り?」と評されたりもした。
走り梅雨
おもに5月下旬から梅雨本番前ぶれのように雨が降り続く状態をいう。ちょうど、その時期が卯の花が咲くころにあたり、卯の花を腐らせるような雨ということから、「卯の花腐し(うのはなくたし)」とも呼ぶことがある。「走り」とは「先駆け」を意味し、「走り梅雨」とは梅雨に先駆けて降り続く雨と解釈することもある。「梅雨の走り」ともいう。沖縄など南西諸島の梅雨期にあり、南西諸島付近にある梅雨前線が一時的に本州南岸沿いに北上したときに多くみられる。また、オホーツク海高気圧が5月前半に出現した場合に北東気流の影響を受けやすくなるため、関東以北の太平洋側で低温と曇雨天が長続きすることがある。その他、メイストームなど、日本海や北日本方面を通過する発達した低気圧の後面に伸びる寒冷前線が本州を通過して、太平洋側に達した後、南海上の優勢な高気圧の北側に沿って、そのまま停滞前線と化して、太平洋側、おもに東日本太平洋沿岸部でしばらくぐずつき天気が続くケースもそのたぐいである。
秋雨
おもに8月後半頃から10月頃にかけて(地域によって時期に差がある)降り続く長雨の時期をいう。「秋霖(しゅうりん)」、「薄(すすき)梅雨」などとも呼ぶ。
山茶花梅雨
おもに11月下旬から12月上旬にかけての、連続した降雨を「山茶花(さざんか)梅雨」という。山茶花が咲くころに降るためこの名前がある。 
 
 

 

●季語「五月雨」の句
さみだるる大僧正の猥談と   鈴木六林男
雑誌「俳壇」(95年5月号)。筑紫磐井編「平成の新傾向・都市生活句100」より。妙におかしい句である。すべてがつながっているような、いないような。大僧正の猥談はだらだらととめどもない。「猥談」の使い方が絶妙。鈴木六林男、大正八年大阪生まれ。西東三鬼に師事。出征し中国、フィリピンを転戦し、コレヒドール戦で負傷、帰還する。戦後「天狼」創刊に参加。無季派の巨匠であるが「季語とは仲良くしたい」といい、有季句も作る。「遺品あり岩波文庫『阿部一族』」は無季句の傑作。
五月雨の降のこしてや光堂   松尾芭蕉
旧五月十三日、芭蕉と曽良は平泉見物に訪れ、別当の案内で光堂(正式には金色堂)を拝観している。「おくのほそ道」の途次のことだ。句意を岩波文庫から引いておく。……五月雨はすべてのものを腐らすのだが、ここだけは降らなかったのであろうか。五百年の風雪に耐えた光堂のなんと美しく輝いていることよ。とまあ、これは高校国語程度では正解であろうが、解釈に品がない。芭蕉はこのように光堂の美しさをのみ詠んだのではなくて、光堂の美しさの背景にある藤原氏三代やひいては義経主従の「榮耀一睡」の夢に思いを馳せているのだからである。有名な「夏草や兵どもが夢の跡」はこのときの句だ。ところで光堂であるが、現在は鉄筋コンクリートの覆堂(さやどう)で保護されている。たとえば花巻の光太郎山荘と同じように、元々の建物をそっくり別の建物で覆って保護しているわけだ。家の中の家という感じ。芭蕉の時代にも覆堂はあり(と、芭蕉自身がレポートしている)、学者によれば南北朝末の建設らしいが、いずれにしても五月雨からは物理的に逃れられていた。『おくのほそ道』の文脈のなかではなく、こうして一句だけを取り出して読むと、光堂はハダカに見える。また、ハダカでなければ句が生きない。その意味からすると状況矛盾の変な句でもあるのだが、覆堂の存在を忘れてしまうほどの美しさを言っているのであろう。昔の句は難しいデス。
さみだれを集めて早し最上川   松尾芭蕉
知っている人もいると思うが、この句の原形は「さみだれを集めて涼し最上川」であった。泊めてくれた船宿の主人に対して、客としての礼儀から「雨降りのほうが、かえって涼しくていいですよ」と挨拶した句だ。それを芭蕉は『おくのほそ道』に収録するに際して、「涼し」を「早し」と改作した。最上川は日本三大急流(あとは富士川と球磨川)のひとつだから、たしかにこのほうが川の特長をよくとらえており、五月雨の降り注ぐ満々たる濁流の物凄さを感じさせて秀抜な句に変わっている。ところで、実は芭蕉はこのときにここで舟に乗り、ずいぶんと怖い目にあったらしい。「水みなぎつて舟あやうし」と記している。だったら、もう少し句に実感をこめてくれればよかったのにと、私などは思ってしまう。単独に句だけを読むと、最上川の岸辺から詠んだ句みたいだ。せっかく(?)大揺れに揺れる舟に乗ったのに、なんだか他人事のようである。このころの芭蕉にいまひとつ近寄りにくい感じがするのは、こういうところに要因があるのではなかろうか。もしかすると「俳聖」と呼ばれる理由も、このあたりにあるのかもしれない。そういえば、実際にはおっかなびっくりの旅だったはずなのに、『おくのほそ道』の句にはまったくあわてているフシがみられない。関西では昔から、こういう人のことを「ええカッコしい」という。
五月雨や人語り行く夜の辻   籾山庭後
五月雨(さみだれ)は旧暦五月の雨だから、梅雨と同義と読んでよいだろう。そぼ降る小雨のなかの夜の辻を、何やら語り合いながら行く人ふたり。それぞれの灰色の唐傘の表情が、ふたりの関係を示しているようだ。だが、もとより作者の関心は話の中身にあるのではなく、情景そのものが持つ抒情性に向けられている。さっとスケッチしているだけだが、情緒纏綿たる味わいがある。籾山庭後は、子規を知り、虚子を知り、永井荷風の友人だった出版人。この句は大正五年(1916)二月に自分の手で出版した『江戸庵句集』に収められている。なぜ、そんなに古い句集を、私が読めたのか。友人で荷風についての著書も多い松本哉君が、さきごろ古書店で入手し、コピーを製本して送ってくれたからだ。「本文の用紙、平綴じの針金ともに真っ赤に酸化していて崩壊寸前」の本が、八千五百円もしたという。深謝。いろいろな意味で面白い本だが、まずは荷風の長文の序文が読ませる。この句など数句を引いた後に、こう書いている。「君が吟詠の哀調はこれ全く技巧に因るものにあらずして君が人格より生じ来りしものなるが故に余の君を俳諧師として崇拝するの念更に一層の深きを加へずんばあらず」。
五月雨や大河を前に家二軒   与謝蕪村 1
画家でもあった蕪村のの目が、よく生きている。絵そのものと言っても、差し支えないだろう。濁流に押し流されそうな小さな家は、一軒でも三軒でもなく、二軒でないと視覚的に座りが悪い。一軒ではあまりにも頼りなく、すぐにでも流されてしまいそうで、かえってリアリティに欠ける。濁流の激しさのみが強調されて、句が(絵が)拵え物のように見えるからだ。逆に三軒(あるいはそれ以上)だと、にぎやかすぎて流されそうな不安定感が薄れ、これまたリアリティを欠く。このことから、蕪村にはどうしても「二軒」でなければならなかった。考えてみれば、「二」は物のばらける最小単位だ。したがって、不安定。夫婦などの二人組は、「二」を盤石の「一」にする(つまり「不二」にしたい)願望に発しているので、ばらける確率も高いわけである。ついでに書いておけば、手紙の結語の「不一」。あれは、「一」ではないという意味で、「以上、いろいろ書きましたが、「一」のように盤石の中身ではありませんよ」と謙遜しているのである。これが一方で、「三」となると「鼎」のように安定するのだから面白い。ところで「大河」の読みだが、専門家は「たいが」と読むようだ。でも、この句をまず言葉として読む私は、「おおかわ」に固執したい。「たいが」だなんて、日本の河じゃないみたいだからだ。もっとも、蕪村自身は「たいが」派でしょうね。そのほうが、墨絵風な味がぐっと濃くなるので……。
五月雨や大河を前に家二軒   与謝蕪村 2
梅雨が降り続いて氾濫しそうなほど増水した大河のほとりにぽつんと心細く家が二軒寄り添っている。
註 / 明治の俳句・短歌の巨人・正岡子規が、当時所属し担当していた「新聞日本」紙上の文芸欄で、こともあろうに芭蕉の代表的名句の一つ「五月雨をあつめて早し最上川」を引き合いに出した上で、こちら蕪村に軍配を上げて絶賛し世間に衝撃を与えたことは、司馬遼太郎「坂の上の雲」にも描かれた事実だが、今その主張を聞いても、おそらく贔屓目に見ても贔屓の引き倒しだろうと思われ、今でいう「褒め殺し」(?)に近いものさえあると思う。確かに、「あつめて」の主語は「最上川」ということになるだろうから擬人化であり、発想がやや平凡で俗に堕ち、陳腐であるといった反発を感じる研ぎ澄まされた感覚があり得るのは首肯できるのだが、この場合、ちょっと格が違うだろう格が〜(・・・ほんかくてきよ、ほんかくてき〜)と思うのが正直なところである・・・とはいうものの、俳句・短歌革新の実作者であると同時に、いわば新時代を切り拓く志を高々と掲げたアジテーター(煽動者)でもあった子規の時代背景を見れば、この一句の持つ近代文学的な写実・リアリズム的な側面に感応し、その辺を強く評価したのだろうと、今の目では評価しうるのだろう。  
五月雨や御豆の小家の寝覚がち   与謝蕪村
季語は「五月雨(さみだれ)」で夏。陰暦五月に降る雨だから、現代の「梅雨」と同義だ。ただ同じ季節の同じ長雨といっても、昔のそれについては頭を少し切り替える必要がある。昔は、単に鬱陶しいだけではすまなかったからだ。「御豆(みず)」は、淀川水系の低湿地帯の地名であり、今の地図に「(淀)美豆」「水垂」と見える京都郊外のあたりだろう。周辺には淀川、木津川、宇治川、桂川が巨大な白蛇のようにうねっている。長雨で川が氾濫したら、付近の「小家(こいえ)」などはひとたまりもない。たとえ家は流されなくても、秋の収穫がどうなるか。掲句は、いまに洪水になりはしないかと心配で「寝覚がち」である人たちのことを思いやっている。蕪村にしては珍しく絵画的ではない句であるが、それほどに五月雨はまた恐ろしい自然現象であったことがうかがわれる。風流なんてものじゃなかったわけだ。似たような句が、もう一句ある。「さみだれや田ごとの闇と成にけり」。「田ごとの」で思い出すのは「田毎の月」だ。山腹に小さく区切った水田の一つ一つに写る仲秋の月。それこそ絵画的で風流で美しい月だが、いま蕪村の眼前にあるのは、長雨のせいで何も写していない田圃のつらなりであり、月ならぬ「闇」が覆っているばかりなのである。こちらは少しく絵画的な句と言えようが、深読みするならば、これは蕪村の暗澹たる胸の内を詠んだ境涯句ととれなくもない。いずれにせよ、昔の梅雨は自然の脅威だった。だから梅雨の晴れ間である「五月晴」の空が広がったときの喜びには、格別のものがあったのである。
船頭も饂飩うつなり五月雨   泉鏡花
特にヘソマガリぶるつもりはないけれど、芭蕉や蕪村の五月雨の名句は、あえて避けて通らせていただこう。「広辞苑」によれば、「さ」は五月(サツキ)のサに同じ、「みだれ」は水垂(ミダレ)の意だという。春の花たちによる狂躁が終わって、梅雨をむかえるまでのしばしホッとする時季の長雨である。雨にたたられて、いつもより少々暇ができた船頭さんが、無聊を慰めようというのだろうか、「さて、今日はひとつ・・・・」と、うどん打ちに精出している。本来の仕事が忙しいために、ご無沙汰していたお楽しみなのだろう。雨を集めて幾分流れが早くなっている川の、岸辺に舫ってある自分の舟が見えているのかもしれない。窓越しに舟に視線をちらちら送りながら、ウデをふるっている。船頭仕事で鍛えられたたくましいウデっぷしが打っていくうどんは、まずかろうはずがない。船頭仲間も何人か集まっていて、遠慮なく冷やかしているのかもしれない。「船頭やめて、うどん屋でも始めたら?」(笑)。あの鏡花文学とは、およそ表情を異にしている掲出句。しかし、うどんを打つ船頭をじっと観察しているまなざしは、鏡花の一面を物語っているように思われる。鏡花の句は美しすぎて甘すぎて・・・・と評する人もあるし、そういう句もある。けれども「田鼠や薩摩芋ひく葉の戦(そよ)ぎ」などは、いかにも鏡花らしく繊細だが、決して甘くはない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。
五月雨や上野の山も見あきたり   正岡子規
明治三十四年、死の前年の作。子規は根岸の庵から雨に煙る緑の上野の山を毎日のように見ていた。病臥の子規にとって「見あきたり」は実感だろうが、人間は晩年になると現世のさまざまの風景に対してそんな感慨をもつようになるのであろうか。「見るべきほどのことは見つ」は壇ノ浦で自害する前の平知盛の言葉。「春を病み松の根つ子も見あきたり」は西東三鬼の絶句。三鬼の中にこの子規の句への思いがあったのかどうか。この世を去るときは知盛のように達観できるのが理想だが、なかなかそうはいかない。子規も三鬼も「見あきたり」といいながら「見る」ことへの執着が感じられる。思えば子規が発見した「写生」は西洋画がヒントになったというのが定説だが、この「見る」ということが「生きる」ことと同義になる子規の境涯が大きな動機となっていることは否定できない。生きることは見ること。見ることの中に自己の瞬時瞬時の生を実感することが「写生」であった。『日本の詩歌3・中公文庫』(1975)所載。
三つといふほど良き間合帰り花   杉阪大和
帰り花、とただいえば桜であることが多いというが、いまだ出会ったことがない。上野の絵画展の帰りに、桜並木を見上げて探したこともあるが、立ち止まって一生懸命見つけるというのもなんだか違うかなあ、と思ってやめた。枯れ色の庭園を歩いていて、真っ白なつつじの帰り花がちょこんと載っているのに出会うことはよくある。いかにも、忘れ咲、という風情で、個人的にはあまり好きでないつつじの花にふと愛着の湧く瞬間だ。掲出句の帰り花は、桜なのだろう。花をとらえる視線を思いうかべると、一つだと点、二つだと線、三つになると三角形、つまり面になって、木々全体にふりそそぐ小春の日差が感じられる。確かにそれをこえると、あちらにもこちらにも咲いていてまさに、狂い咲き、の感が強くなりそうだ。以前、俳句の中の数、について話題になった時、蕪村の〈五月雨や大河を前に家二軒〉は、調べの問題だけでなく、一軒ではすぐ流されそうだし、三軒だと間が抜ける、という意見になるほどと思ったことがある。そのあたり、ものによっても人によっても微妙に違いそうだ。「遠蛙」(2009)所収。
五月雨ややうやく湯銭酒のぜに   蝶花楼馬楽
五月雨は古くから俳諧に詠まれてきたし、改めて引用するのもためらわれるほどに名句がある。五月雨の意味は、1.「さ」は稲の植付けで「みだれ」は雨のこと、2.「さ」はさつき、「みだれ」は水垂(みだ)れのこと――などと説明されている。長雨で身も心もくさくさしている売れない芸人が、湯銭や酒を少々買う金に不自由していたが、なんとか小銭をかき集めることができた。湯銭とか煙草銭というものはたかが知れている。さて、暇にまかせて湯へでも行って少々の酒にありつこうか、という気持ちである。貧しいけれど、むしろそのことに身も心も浸している余裕が感じられて、悲愴な句ではない。さすがは噺家である。「銭(ぜに)」は本来、金や銀で造られた「お金」ではなく、小銭のことを意味した。「銭ぁ、こまけえんだ。手ぇ出してくんな…」で知られる落語「時そば」がある。芭蕉の「五月雨の降り残してや光堂」のような、立派で大きな句の対局にある捨てがたい一句。晩年に発狂したところから「気違い馬楽」とも呼ばれた三代目馬楽は、電鉄庵という俳号をもっていた。妻子も弟子もなかったが、その高座は吉井勇や志賀直哉にも愛された。「読書家で俳句をよくし(中略)…いかにも落語家ならではの生活感にあふれた句を詠んでいる」(矢野誠一)と紹介されている。他に「ご無沙汰の酒屋をのぞく初桜」がある。矢野誠一『大正百話』(1998)所載。
駅前のだるま食堂さみだるる   小豆澤裕子
これから一週間ほど、東京地方には雨模様の予報が出ている。いよいよ梅雨入りだろうか。今日は旧暦五月三日だから、降り出せば正真正銘の「五月雨(さみだれ)」である。この句が何処の駅前の情景を詠んだものかはわからないが、私などにはとても懐かしい雰囲気が感じられて好もしい。現今の駅前はどんどん開発が進み、東京辺りではもうこのような定食屋っぽい食堂もなかなか見られなくなってしまった。昔の駅前といえば、必ずこんな小さな定食屋があって、小さなパチンコ屋だとか本屋などもあり、雨降りの日にはそれらが少しかすんで見えて独特の情趣があった。まだ世の中がいまのようにギスギスしていなかった頃には、天気が悪ければ、見知らぬ人同士の心もお互いに寄り添うような雰囲気も出てきて、長雨の気分もときには悪くなかった。そこここで「よく降りますねえ」の挨拶が交わされ、いつもの駅、いつもの食堂、そこからたどるいつもの家路。この句には、そうしたことの向こう側に、昔の庶民の暮らしぶりまでをも想起させる魅力がある。さみだれている名所旧跡などよりも、こちらの平凡な五月雨のほうがずっと好きだな。この情景に、私には高校通学時のまだ小さかった青梅線福生駅の様子が重なって見えてくる。あれからもう半世紀も経ってしまった。『右目』(2010)所収。
目の覚める時を朝なり五月雨   炭太祇
つまり、朝になったから起きるのではなく、目が覚めたその時が朝なのだよと、そのような意味なのでしょうか。起きて行動を起こすための眠りではなく、眠りそのもののための眠りを、しっかりととった後の目覚めです。句を読んでいるだけで、長い欠伸が出てきそうです。そういえば、眠りの中でずっと聞こえていた音は、窓の外に途切れることなく降る雨の音だったかと、目覚めて後に布団の中で気づくのです。なんだかこの雨も、そんなにあせって生きることはない、もっと体を休めていてもいいのだよという、優しい説得のようにも聞こえてきます。もちろん、いつもいつもでは困りますが、たまには、五月雨の許可を得て、目を閉じ、そのまま次の夢へ落ちて行ってもいいのかもしれません。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。
幾度も寝なほす犬や五月雨   木下杢太郎
この俳句は「いくたびも……さつきあめ」と読みたい。「さみだれ」の「さ」は「皐月」「早苗」の「さ」とも、稲の植付けのこととも言われ、「みだれ」は「水垂(みだれ)」で「雨」のこと。梅雨どき、降りつづく雨で外歩きが思うようにできない飼犬は、そこいらにドタリとふてくされて寝そべっているしかない。そんなとき犬がよくやるように、所在なくたびたび寝相を変えているのだ。それを見おろしている飼主も、どことなく所在ない思いをしているにちがいない。ただただ降りやまない雨、ただただ寝るともなく寝ているしかない犬。いい加減あがってくれないかなあ。梅雨どきの無聊の時間が、掲句にはゆったりと流れている。杢太郎は詩人だったが、俳句も多い。阿部次郎らと連句の輪講や実作をさかんに試みたそうである。その作風は、きれいな自然の風景を描くといった傾向が強かった。他に「湯壷より鮎つる見えて日てり雨」「杯の蟲取り捨てつ庭の秋」などがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。
五月雨や庭を見ている足の裏   立川左談次
左談次は1968年に談志の弟子になった、立川流の古参。五月雨の時季、OFFの芸人が無聊を慰めているという図かもしれない。自画像か否か、どちらでもかまわない。雨の日はせかせかしないで、のんびり寝そべって足の裏で雨の庭をただ眺めている、そんな風情はむしろ好もしい。それが芸人ならなおのこと。足の裏に庭を眺めさせるなんて、いかにも洒落ている。そのとき眼のほうはいったい何を見ていたのだろうか? 「足の裏」が愛しくてホッとする。錚々たる顔ぶれがそろう「駄句駄句会」の席で、左談次はさすがによくしゃべり、毒舌も含めてはしゃいでいる様子である。ちなみに、この句に向けられたご一同の評言を列挙してみよう。「よそに出しても通用する」「いかにも怠惰な男の句です」「『浮浪(はぐれ)雲』みたい」「毎日寝ているひとじゃないと詠めない」「足の裏がいい」「この表現が落語に生きたらすごい」「古い日本人共通のノスタルジーだ」……みなさん勝手なことを言っているようだけれど、ナルホドである。左談次の俳号は遮断鬼。句会では、他に「三月の山おだやかに人を呑み」がある。『駄句たくさん』(2013)所載。
この子らに未来はありや七五三   清水昶
七五三に限らないけれど、着飾ってうれしそうな子どもたちを見るにつけ、昶ならずとも「未来はあるか」という懸念が、身うちでモグモグしてしまうことが近年増えてきた。こちらがトシとって、未来の時間がどんどん減ってきていることと、おそらく関係しているのだと思う。それにしても、先行き想定しようのない嫌ァーな時代が仄見えている気がする。私などが子どもの頃、わが田舎では「七五三」といった結構な祝いの風習などなかった。いわんや「ハッピーバースデイ」なるものだって。だから、わが子の「七五三」や「ハッピーバースデイ」などといった祝い事では、むしろこちとら親のほうが何やら妙に照れくさかったし、落着かなかった。子どもに恵まれなかった昶の句として読むと、また深い感慨を覚えてしまう。もちろん「この子ら」の未来だけでなく、自分たち親の未来や人類の未来への思いを、昶は重ねていたはずである。掲句は、サイト「俳句航海日誌」の2010年11月15日に発表されている。亡くなる半年前のことである。亡くなる一週間前の句は「五月雨て昏れてゆくのか我が祖国」である。「子らの未来」や「我が祖国」などが、最後まで昶の頭を去ることはなかったかもしれない。『俳句航海日誌』(2013)所収。
ヘッドホンのあはひに頭さみだるる   柳生正名
ヘッドホンというのだから、たしかに「あはひ(あいだ・間)」には「頭」がある。しかし私たちは普通、そこには「頭」ではなく「顔」があると認識している。だからわざわざ「頭」があると言われると、理屈はともかく、「え?」と思ってしまう。そしてこの人は、顔を見せずに頭を突きだしているのだろうと想像するのだ。つまり、ヘッドホンを付けて下うつむいている人を思い浮かべてしまうというわけだ。ヘッドホンからはどんな音楽が聞こえているのかはわからない。が、さながら「さみだれ」のように聞こえている音楽が、その人の周囲に降っている五月雨の音に、溶け込むように入り交じっているようである。そう受け取ると、おそらくは青年期にあるその人の鬱屈した心情が思われて、読者はしんと黙り込むしかないのであろう。『風媒』(2014)所収。
菜屑など散らかしておけば鷦鷯   正岡子規
鷦鷯(ミソサザイ)は雀よりやや小さめの日本最少の小鳥である。夏の高所から冬の低地に移り住む留鳥である。根岸の子規庵は当時の状態に近い状態で保存されている。開放されているので訪れる人も多い。そこに寝転んで庭を眺めていると下町の風情ともども子規の心情なんぞがどっと胸に迫ってくる。死を覚悟した根岸時代の心情である。病床の浅い眠りを覚ましたのはミソサザイのチャッツチャッツと地鳴き。これが楽しみで菜屑を庭に撒いておいたのだ。待ち人来るような至福の喜びがどっと襲う。ここでの句<五月雨や上野の山も見あきたり><いもうとの帰り遅さよ五日月><林檎くふて牡丹の前に死なん哉>などが身に沁みる。高浜虚子選『子規句集』(1993)所収。
細胞はこゑなく死せり五月雨   柳克弘
五月雨は陰暦五月の雨、梅雨のこと。湿度の高さに辟易しながら、人は半分以上水分でできているのに…、人間は水の中で生まれたはずなのに…、とうらめしく思う。暑ければ暑いで文句が出、寒ければ寒いで文句が出る。声とは厄介なものである。しかしこの文句の多い体を見つめれば、その奥で、細胞は声もなく静かに生死を繰り返している。降り続く雨のなかでじっと体の奥に目を凝らせば、生と死がごく身近に寄り添っていることに気づく。新陳代謝のサイクルを調べてみると「髪も爪も肌の角層が変化してできたもの、つまり死んだ細胞が集まったものです(花王「髪と地肌の構造となりたち」)」の記述を発見した。体の奥だけではなく、表面も死んだ細胞に包まれていたのだ。衝撃よりもむしろ、むき出しの生より、死に包まれていると知って、どこか落ち着くのは、年のせい、だろうか。〈一生の今が盛りぞボート漕ぐ〉〈標なく標求めず寒林行く〉『寒林』(2016)所収。 
 
 

 

●与謝蕪村
[享保元年-天明3年12月25日 (1716-1784/1/17)] 江戸時代中期の日本の俳人、文人画(南画)家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩『帰去来辞』に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」「謝寅(しゃいん)」など複数ある。
経歴​
摂津国東成郡毛馬村(けまむら)(現:大阪府大阪市都島区毛馬町)に生まれた。京都府与謝野町(旧丹後国)の谷口家には、げんという女性が大坂に奉公に出て主人との間にできた子供が蕪村とする伝承と、げんの墓が残る。同町にある施薬寺には、幼少の蕪村を一時預かり、後年、丹後に戻った蕪村が礼として屏風絵を贈ったと口伝されている。
20歳の頃、江戸に下り、早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事して俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このときは宰鳥と号していた。俳諧の祖・松永貞徳から始まり、俳句を作ることへの強い憧れを見る。しかし江戸の俳壇は低俗化していた。
寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(現:茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて東北地方を周遊した。絵を宿代の代わりに置いて旅をする。それは、40歳を超えて花開く蕪村の修行時代だった。その際の手記で寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。
その後、丹後に滞在した。天橋立に近い宮津にある見性寺の住職・触誉芳雲(俳号:竹渓)に招かれたもので、同地の俳人(真照寺住職の鷺十、無縁寺住職の両巴ら)と交流。『はしだてや』という草稿を残した。宮津市と、母の郷里で幼少期を過ごしたと目される与謝野町には蕪村が描いた絵が複数残る(徐福を画題とした施薬寺所蔵『方士求不老父子薬図屏風』、江西寺所蔵『風竹図屏風』)。一方で、与謝野町の里人にせがまれて描いた絵の出来に後悔して、施薬寺に集めて燃やしてしまったとの伝承もある。
42歳の頃に京都に居を構え、与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。45歳頃に結婚して一人娘くのを儲けた。51歳には妻子を京都に残して讃岐に赴き、多くの作品を手掛ける。再び京都に戻った後、島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には夜半亭二世に推戴されている。
現在の京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明、68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされている。辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)。
作家論​
松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。また、俳画の大成者でもある。写実的で絵画的な発句を得意とした。独創性を失った当時の俳諧を憂い「蕉風回帰」を唱え、絵画用語である「離俗論」を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。
絵は独学であったと推測されている。
後世からの評価​
俳人としての蕪村の評価が確立するのは、明治期の正岡子規『俳人蕪村』、子規・内藤鳴雪たちの『蕪村句集講義』、昭和前期の萩原朔太郎『郷愁の詩人・与謝蕪村』まで待たなければならなかった。
旧暦12月25日は「蕪村忌」。関連の俳句を多く詠んだ。
・蕪村忌に呉春が画きし蕪かな 正岡子規
・蕪村忌の心游ぶや京丹後 青木月斗
2015年10月14日、天理大学附属天理図書館が『夜半亭蕪村句集』の発見を発表した。1903句のうち未知の俳句212句を収録。
与謝蕪村は松尾芭蕉と双璧を成すと言われているほど、評価の高い江戸時代の俳人です。画家としても有名で池大雅と共に、日本の文人画(南画)の大成者とされています。彼の本業は画家であり、絵を売って、妻と娘の三人の生活を支えていましたが、その生活は楽ではなく、絵を描くことに追われることもあったようです。
その作風は描写的でありますが、句の風景は現実をそのまま書き表すというより、理想化された空想世界的なものです。
   「五月雨や大河を前に家二軒」
これは蕪村が62歳の時に作った有名な作品です。五月雨が降り続いて勢いを増した川が流れている。そのほとりに家が二軒、ぽつりと建っているよ、という意味です。
明治を代表する俳人・正岡子規は、新聞『日本』の文芸欄で松尾芭蕉の名句「五月雨をあつめて早し最上川」とこの句を比べて、蕪村の方が優るとして人々に衝撃を与えました。正岡子規に言わせると、芭蕉の句は技巧的にうますぎて、おもしろくないのだそうです。
明治に至るまでは、松尾芭蕉の方が圧倒的に知名度が高かったですが、正岡子規が芭蕉が神格化されているのに危機感を持ち、「蕪村だって、すごいんだぞ!」とその功績を讃えたことから、よく知られるようになりました。
正岡子規の俳句革新に大きな影響を与えた人物です。
与謝蕪村は、享保元年(1716年)摂津の毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれました。家は、村の有力者であったそうです。ただ、十代の頃に父と母を亡くし、家を失って、20歳で江戸に出ました。その二年後、江戸で、夜半亭巴人(やはんていはじん)という俳人に弟子入りします。巴人は、松尾芭蕉の高弟、宝井其角(たからいきかく)と服部嵐雪(はっとりらんせつ)から俳諧(俳句)を学んだ人で、このためか蕪村は芭蕉を尊敬していました。
27歳の時に、師匠の巴人が亡くなります。その後、蕪村は江戸を出て、茨城県結城市(下総結城)に住む同じ巴人の弟子の元に身を寄せます。それから、十年もの間、東北地方、関東地方を旅して周り、絵や俳句を作って過ごしました。芭蕉の旅した「奥の細道」を歩いたりもしました。 
36歳になると、京に上りました。東山の麓に居を構えて、そこに定住するかと思いきや、三年後に、宮津に赴き、画題となる自然の豊かな地で、絵を描き続けました。その後、香川県(讃岐)なども遊興し、45歳で結婚すると、それ以後は、京に住み続けることになります。蕪村、炭太祇(たんたいぎ)、黒柳召波(くろやなぎしょうは)らは、三菓社という俳句結社を作り、俳句作りに励みました。 
その後、55歳で、師匠の名である夜半亭を継承します。画家としても俳人としても蕪村は有名になり、彼の主催する発句会には多くの人が集まるようになりました。
この頃、俳諧(俳句)の世界は、独創性を失って行き詰まっており、蕪村は松尾芭蕉を祖とする蕉風の流派を復興させようと、旗印を振りました。
68歳の時、持病が悪化し、妻子や弟子たちの必死の看病にも関わらず、この世を去りました。 
   「さみだれや仏の花を捨に出る」
降りしきる雨の中を花を捨てる、という寂寥感のつよい句です。「仏の花」とは仏壇に供えていた花でしょう。亡くなったのは誰でしょうか。愛しい想いがつよいほど、長くつづく慟哭……その悲嘆にさえ、雨は降り注ぎつづけています。
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉
寝ごゝろやいづちともなく春は来ぬ
罷出たものは物ぐさ太郎月
初午や物種売に日の当る
池田から炭くれし春の寒さかな
   關の戸の火鉢ちひさき余寒かな
   野とゝもに焼る地蔵のしきみかな
   しのゝめに小雨降出す焼野かな
   暁の雨やすぐろの薄はら
   二もとの梅に遅速を愛すかな
さむしろを畠に敷て梅見かな
鶯に終日遠し畑の人
草の戸や二見のわかめもらひけり
暖簾に東風吹く伊勢の出店かな
春の水山なき国を流れけり
   なつかしき津守の里や田螺あへ
   ぬなは生ふ池の水かさや春の雨
   わか鮎や谷の小笹も一葉行
   蘆塞で立出る旅のいそぎかな
   春雨やゆるい下駄借す奈良の宿
耕や鳥さへ啼ぬ山陰に
枸杞垣の似たるに迷ふ都人
古井戸のくらきに落る椿かな
垣越にものうちかたる接木かな
捨やらで柳さしけり雨のひま
   裏門の寺に逢著す蓬かな
   折もてる蕨しほれて暮遅し
   旅人の鼻まだ寒し初ざくら
   よし野出て又珍らしや三月菜
   梨の花月に書よむ女あり
誰ためのひくき枕ぞはるのくれ
肘白き僧のかり寝や宵の春
春月や印金堂の木の間より
花ぐもり朧につゞくゆふべかな
春の海終日のたりのたりかな
   菜の花や月は東に日は西に
   なの花や笋見ゆる小風呂敷
   菜の花や鯨もよらず海暮ぬ
   菜の花や皆出払ひし矢走船
   春風や堤長うして家遠し
春風のつまかえへしたり春曙抄
春風のさす手ひく手や浮人形
凧きのふの空のありどころ
花を踏し草履も見えて朝寝哉
難波女や京を寒がる御忌詣
   海棠や白粉に紅あやまてる
   ゆかしさよ樒花さく雨の中
   よもすがら音なき雨や種俵
   苗代や蔵馬の桜散りにけり
   一とせの茶も摘にけり父と母
今年より蚕はじめぬ小百姓
閣に座して遠き蛙をきく夜かな
蓮哥してもどる夜鳥羽の蛙かな
つゝじ野やあらぬ所に麦畑
山もとに米踏む音や藤の花
   ゆく春や逡巡として遅ざくら
   行春や撰者を恨む歌の主
   ゆく春やおもたき琵琶の抱ごゝろ
   返哥なき青女房よくれの春
   いとはるゝ身を恨寝やくれの春
春をしむ人や榎にかくれけり
遅キ日や雉子の下りゐる橋の上
遅き日のつもりて遠き昔哉
遅き日や谺聞ゆる京のすみ
春の夕はへなむとする香をつぐ
   山寺や撞そこなひの鐘霞む
   色も香もうしろ姿や弥生尽
   風声のおり居の君や遅桜
   朧夜や人彳るなしの園
   暮んとす春をゝしほの山ざくら
みよし野ゝちか道寒し山桜
まだきともちりしとも見ゆれ山桜
牡丹散てうちかさなりぬ二三片
御手打の夫婦なりしを更衣
小原女の五人揃うてあはせかな
   粽解いて蘆吹く風の音聞かん
   薬園に雨降る五月五日かな
   ねり供養まつり皃なる小家かな
   なつかしき夏書の墨の匂ひかな
   三井寺や日は午にせまる若楓
蚊帳を出て奈良を立ちゆく若葉かな
浅間山煙の中に若葉かな
掘食ふ我たかうなの細きかな
卯の花のこぼるゝ蕗の広葉かな
蚊の声す忍冬の花の散るたびに
   梢より放つ光やしゆろの花
   花いばら故郷の路に似たるかな
   愁ひつつ岡にのぼれば花いばら
   麦の秋さびしき貌 の狂女かな
   みじか夜や枕にちかき銀屏風
渋柿の花ちる里と成にけり
口なしの花さくかたや日にうとき
雷に小屋は焼れて瓜の花
さみだれや大河を前に家二軒
来てみれば夕の桜実となりぬ
   青梅に眉あつめたる美人かな
   葉を落ちて火串に蛭の焦る音
   飛び石も三つ四つ蓮のうき葉かな
   ぬなはとる小舟にうたはなかりけり
   河骨の二もと咲くや雨の中
藻の花や小舟よせたる門の前
夏河を越すうれしさよ手に草履
鮎くれてよらで過行夜半の門
川狩や楼上の人の見しり貌
水深く利鎌鳴らす眞菰苅
   飛蟻とぶや富士の裾野ゝ小家より
   蚊遣して宿りうれしや草の月
   青のりに風こそ薫れとろゝ汁
   おろし置笈に地震ふるなつ野かな
   若竹や夕日の嵯峨となりにけり
夕風や水青鷺の脛をうつ
かりそめに早百合生けたり谷の房
渡し呼草のあなたの扇かな
朝風に毛を吹れ居る毛むしかな
夏山や通ひなれたる若狭人
   細脛に夕風さはる簟
   床涼笠著連歌のもどりかな
   宗鑑に葛水たまふ大臣哉
   ところてん逆しまに銀河三千尺
   鮓おしてしばし淋しきこゝろかな
草いきれ人死にゐると札の立つ
わくら葉に取ついて蝉のもぬけかな
かけ香やわすれ貌なる袖だたみ
兄弟のさつを中よきほぐしかな
酒を煮る家の女房ちよとほれた
   腹あしき僧こぼし行く施米かな
   あふみ路や麻刈あやめの晴間哉
   水の粉もきのふに戻るやどり哉
   初秋や余所の灯見ゆる宵の程
   梶の葉を朗詠集の栞かな
魂棚をほどけばもとの座敷かな
大文字や近江の空もたゞならぬ
攝待へ寄らで過行く狂女かな
三徑の十歩に尽きて蓼の花
雨そゝぐ水草の隙や二日月
   住む方の秋の夜遠き火影かな
   葛の葉の恨み顔なる細雨哉
   蓑虫や笠置の寺の麁朶の中
   待宵や女あるじに女客
   蜻蛉や村なつかしき壁の色
秋の幮主斗りに成りにけり
狩衣の袖より捨つる扇かな
鯊釣の小舟漕ぐなる窓の前
おのが葉に月おぼろなり竹の春
野路の秋我後ろより人や来る
   紅葉してそれも散行く桜かな
   心憎き茸山超ゆる旅路かな
   新米にまだ草の実の匂ひかな
   毛見の衆の舟さし下ダせ最上川
   落し水柳に遠く成にけり
行秋のところ/" ̄\や下り簗
鮎落ていよ/\高き尾上かな
小鳥来る音うれしさよ板庇
鵯のこぼし去りぬる実の赤き
子狐のかくれ皃なる野菊かな
   うれしさの箕にあまりたるむかごかな
   落日の潜りて染る蕎麦の茎
   さればこそ賢者は富まず敗荷
   落穂拾ひ日当る方へ歩み行く
   掛稲に鼠啼なる門田かな
梅もどき折るや念珠をかけながら
冬近し時雨の雲もこゝよりぞ
紅葉見や用意かしこき傘二本
から堀の中に道ある照葉かな
打返し見れば紅葉す蔦の裏
   ひつぢ田の案山子もあちらこちらむき
   行秋やよき衣着たるかゝり人
   山雀や榧の老木に寝にもどる
   戸を叩く狸と秋を惜みけり
   銀杏踏みて静かに児の下山かな
茯苓は伏し隠れ松露は露れぬ
腹あしき僧も餅食へ城南祭
口切や小城下ながら只ならぬ
夜泣する小家も過ぬ鉢叩き
麦蒔の影法師長き夕日かな
   鷹狩や畠も踏ぬ国の守
   御火焚や霜うつくしき京の町
   顔見世や夜着をはなるゝ妹が許
   水鳥やてうちんひとつ城を出る
   鴛や池におとなき樫の雨
冬ざれや小鳥のあさる韮畠
葱洗ふ流もちかし井手の里
我のみの柴折りくべるそば湯かな
妻や子の寝貌も見えつ薬喰
既に得し鯨は逃て月ひとつ
   乾鮭や琴に斧うつひゞきあり
   炭団法師火桶の窓から窺けり
   炭がまの辺しづけき木立かな
   炭俵ますほのすゝき見付たり
   炭売に鏡見せたる女かな
我骨のふとんにさはる霜夜かな
狐火や髑髏に雨のたまる夜に
年守るや乾鮭の太刀鱈の棒
細道になり行く声や寒念仏
寒声や古うた諷ふ誰が子ぞ
   氷る燈の油うかがふねずみかな
   雪沓をはかんとすれば鼠行
   雪折も聞えて暗き夜なりけり
   寒月や枯木の中の竹三竿
   冬の梅きのふやちりぬ石の上
子燈心ことに御燈の光かな
宿かせと刀投出す吹雪かな
にしき木の立聞もなき雑魚寝かな
夜興引や犬のとがむる塀の内
闇の夜に終る暦の表紙哉
   三椀の雑煮かゆるや長者ぶり
   朝日さす弓師が店や福寿草
   藪入や浪花を出て長柄川 
 
 

 

●最上川の俳句
最上川は山形県内を流れる川で、日本三大急流の一つと呼ばれている流れの早い川です。最上川の急流の激しさは俳人の心を掴むのか、俳句の中でも「最上川」というモチーフは多く使われています。俳句の中で一番有名な句と言っても過言ではない、芭蕉の「五月雨を あつめて早し 最上川」も最上川の句ですね。
最上川で有名な俳句
   五月雨を あつめて早し 最上川   松尾芭蕉
勢いの増してきた梅雨の最上川を詠んだ句です。梅雨の雨で最上川の水かさが増し、水の流れの勢いも増し怖いくらいだと詠っています。松尾芭蕉は最上川の川下りを体験して感じた、最上川の急流の激しさを表現しています。
   暑き日を 海にいれたり 最上川   松尾芭蕉
暑い夏の1日の終わり、夕暮れ時に詠まれた句です。真っ赤な夕日が最上川によって海に流し込まれたように見える、日が沈み太陽と共に暑い1日も終わりを迎えられた。「海にいれたり」で擬人法を使っています。
   ずんずんと 夏を流すや 最上川   正岡子規
夏の最上川の、勢いよく流れる様を見て詠まれた句です。最上川の水の水量はすごく、夏という季節を乗せて流れているように思えるという意味。ずんずんという擬音語が、水の勢いを表しています。
   夏山の 襟を正して 最上川   高浜虚子
夏山の木々の重なりあっている襞の凛とした美しさを、襟を正していると表現してます。かつて最上川を見て名句を詠んだ、松尾芭蕉と正岡子規と同じ最上川を見て、木々の様に襟を正す思いだ、という尊敬の気持ちを表した句です。
   毛見の衆の 舟さし下せ 最上川   与謝蕪村
「毛見」というのは、米の出来高からその年の年貢の量を決定する作業の事で、査定する役人の事を毛見の衆と呼んでいました。毛見の作業をするのが秋のため、毛見が秋の季語となっています。高く年貢を取ろうとする厄介な役人を、最上川が船ごと流してくれという句です。
斎藤茂吉
最上川を詠った斎藤茂吉の作品で有名なのは、俳句ではなく短歌です。短歌は俳句とは違い季語がなく、五・七・五・七・七のの五句体の和歌になります。俳句ではありませんが、俳句と同じく自分の感情や感動などを表現する斎藤茂吉の「最上川」の有名な短歌について見ていきましょう。
   「最上川の 上空にして 残れるは 未だうつくしき 虹の断片」
最上川上空に残る虹を見て歌った短歌で、最上川上空の虹が、完全な形から時間が経過して断片のみとなってしまった情景を詠っています。虹は完全な形ではなくても美しい、断片となっても美しいままでいようとする虹の懸命な美しさに感動している心情を表しています。表現技巧としては、この歌は意味や内容、調子の切れ目である「句切れ」ではありません。最後の「虹の断片」が体言止めとなっており、詠んだ後に余韻が残る終わり方になっています。
小林一茶
小林一茶の俳句で、「最上川」の有名な俳句はありません。「最上川」の俳句で一番有名な「五月雨を あつめて早し 最上川」と同じ季語「五月雨」を使った、有名な句があります。
「五月雨や 胸につかへる 秩父山」
秩父山を見ると、梅雨の雨が胸につかえるような気持ちがするという句です。住み慣れた江戸を離れて故郷の信州に戻る事になった一茶が、秩父山を見て故郷に近づいてきた事を感慨深く思っている様を詠いました。
蕪村
蕪村も小林一茶と同様、「最上川」の有名な俳句はありません。同じく「五月雨」をつかった有名な俳句があります。
「五月雨や 大河を前に 家二軒」
梅雨の激しい雨で水の勢いが増している川のほとりに、家が2軒立っている様を詠った句です。大河の勢いにのまれそうな家という、心細い気持ちを表現しました。
 
 

 

●五月雨 1
さみだるる一燈長き坂を守り 林火
さみだるる中発電所顫動す 佐野良太 樫
さみだるる大僧正の猥談と 鈴木六林男
さみだるる尿道造影剤検査 高澤良一 鳩信
さみだるる心電車をやり過す 中村汀女
さみだるる沖にさびしき鯨かな 仙田洋子 雲は王冠以後
さみだるる灯が遠くより坂にさす 加倉井秋を 午後の窓
さみだるる等身大の穴である 増田まさみ
さみだるゝさゞ波明り松の花 渡辺水巴 白日
さみだるゝたそがる祇園長楽寺 正岡子規
さみだるゝ小家河童の宿にもや 石井露月
さみだるゝ軒の重さよほどきもの 及川貞 夕焼
さみだるゝ鵜に伴ありぬ山の湖 渡辺水巴 白日
さみだれてゐること知らず下り佇ちぬ 高木晴子 晴居
さみだれて此処に友住む薔薇くれなゐ 林原耒井 蜩
さみだれて翁このかた光堂 山本歩禅
さみだれて苔蒸すほどの樒かな 飯田蛇笏 霊芝
さみだれて黎明ながし額の花 佐野青陽人 天の川
さみだれにうたるる草のほととぎす 瀧春一 菜園
さみだれにふた月ぬるる青田かな 芳山 閏 月 月別句集「韻塞」
さみだれにやがて吉野を出ぬべし 榎本其角
さみだれに小鮒をにぎる小供哉 野坡
さみだれに濡れにぞ濡れし海女の墓 福村青纓
さみだれの*かや垂れて不平なき妻か 清原枴童 枴童句集
さみだれのあまだればかり浮御堂 青畝
さみだれのうつほ柱や老が耳 蕪村 夏之部 
さみだれのさゞなみ明り松の花 渡辺水巴
さみだれの傘さしもどる故郷かな 橋本鶏二 年輪
さみだれの夕波鳥やかいつむり 森澄雄
さみだれの夜の母に針煌々と 大井雅人 龍岡村
さみだれの夜は音もせで明にけり 高井几董
さみだれの大井越たるかしこさよ 蕪村 夏之部 
さみだれの奥にさみどり刷毛目壺 萩原久美子
さみだれの漏て出て行庵かな 炭 太祇 太祇句選
さみだれの田も川もなく降り包み 内田百間
さみだれの畳くぼむや肱枕 森鴎外
さみだれの空や月日のぬれ鼠 高井几董
さみだれの空吹きおとせ大井川 芭蕉 俳諧撰集「有磯海」
さみだれの雨だれたまりたるに降る 篠原梵 雨
さみだれはつぶやきつづけ焼豆腐 鍵和田釉子
さみだれやけぶりの籠る谷の家 加舎白雄
さみだれや三線かぢるすまひ取 大魯 五車反古
さみだれや仏に花をあふれしめ 林原耒井 蜩
さみだれや仏の花を捨に出る 與謝蕪村
さみだれや入日いり日を見せながら 横井也有 蘿葉集
さみだれや名もなき川のおそろしき 蕪村遺稿 夏
さみだれや夜半に貝吹まさり水 炭 太祇 太祇句選後篇
さみだれや夜明見はづす旅の宿 炭 太祇 太祇句選後篇
さみだれや大河は音をたてずゆく 須藤常央
さみだれや大河を前に家二軒 蕪村 夏之部 
さみだれや平泉村真の闇 山口青邨
さみだれや庵の下道人通ふ 西島麦南 人音
さみだれや我宿ながらかかり舟 竿秋 五車反古
さみだれや棹にふすぶる十団子 左柳 俳諧撰集「有磯海」
さみだれや浮き桟橋へ歩み板 吉野義子
さみだれや焙炉にかける繭の臭(かざ) ぶん村 五 月 月別句集「韻塞」
さみだれや石噛んでゐる火喰鳥 佐野青陽人 天の川
さみだれや船がおくるる電話など 中村汀女(1900-88)
さみだれや船路にちかき遊女町 高井几董
さみだれや薔薇冴えまさる雲の中 横光利一
さみだれや襦袢をしぼる岩魚捕り 渡辺水巴 白日
さみだれや門をかまへず直ぐ格子 久保田万太郎 流寓抄
さみだれや露盈つ松葉眼にあふれ 渡邊水巴 富士
さみだれや青柴積める軒の下 芥川龍之介
さみだれや鼠の廻る古葛籠 闌更
さみだれを集めて早し最上川 松尾芭蕉
さみだれ萩てふ名のやさし紅紫 細見綾子
 

 

五月雨が侘びよ寂びよと降りをれり 相生垣瓜人
五月雨が合歓に止む時虹かゝる 細見綾子 花寂び
五月雨さらに名の有る川もなし 玄貞 選集古今句集
五月雨と我儘ぐらし芸術家 京極杞陽 くくたち上巻
五月雨にさながら渡る仁王かな 上島鬼貫
五月雨にざく〜歩く烏哉 一茶 文化十一年甲戊(52歳)
五月雨にとらへられたるわが行方 小川かん紅
五月雨にぬれてやあかき花柘榴 野坡
五月雨にもてあつかふははしごかな 里東 俳諧撰集「有磯海」
五月雨に一つ淋しや水馬 水原秋櫻子
五月雨に大きな口を開けし池 木暮陶句郎
五月雨に室の八嶋やたぱこ好き 調鶴 選集「板東太郎」
五月雨に家ふり捨ててなめくぢり 凡兆
五月雨に御幸を拝む晴間哉 正岡子規
五月雨に御物遠(おんものどほ)や月の顔 松尾芭蕉
五月雨に浅間も見えぬ別れかな 高木晴子 晴居
五月雨に濡れたる髪をほどき度く 稲畑汀子
五月雨に火の雨まじる蛍哉 守武
五月雨に父の血を知る珊瑚かな 五島高資
五月雨に田よりも径の光りけり 関塚康夫
五月雨に籠り薬を點檢す 石井露月
五月雨に胡桃かたまる山路かな 斯波園女
五月雨に葵押しきる流かな 会津八一
五月雨に軽みの傘を授かりぬ 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨
五月雨に金はしめらぬ手わざかな 上島鬼貫
五月雨に降りこめられる程でなく 高木晴子 晴居
五月雨に隠れぬものや瀬田の橋 芭蕉
五月雨に鳰の浮巣を見に行む 芭蕉
五月雨に鶴の足短くなれり 松尾芭蕉
五月雨のうたかたをみて遊びけり 高橋淡路女 梶の葉
五月雨の何をか隔てゐたりける 八木林之介 青霞集
五月雨の傘のうちなる山青し 伊藤柏翠
五月雨の傘の中にて莨吸う 田川飛旅子 花文字
五月雨の再び昏し滝の堂 五十嵐播水 播水句集
五月雨の又降りかくす東山 五十嵐播水 播水句集
五月雨の名をけがしたる日照かな 水田正秀
五月雨の四窓にたるゝ簾かな 比叡 野村泊月
五月雨の大川白し幌のひま 会津八一
五月雨の大河へあけし障子かな 比叡 野村泊月
五月雨の天へふるびし竹梯子 平井照敏 天上大風
五月雨の山国川の瀬鳴りの夜 河野扶美
五月雨の山霧暗し枯つゝじ 中島月笠 月笠句集
五月雨の島々を見て船は航く 高濱虚子
五月雨の徴発駄馬を今や引 森鴎外
五月雨の憂きをも忘れ舞台終へ 荻江寿友
五月雨の憂さに鼓を焙りけり 谷活東
五月雨の或夜は秋のこkろ哉 永井荷風
五月雨の晴れて犬なく日和かな 徳元
五月雨の晴間や屋根を直す音 正岡子規
五月雨の木曾は面白い処ぞや 正岡子規
五月雨の瀬に三人が鮴の漁 瀧井孝作
五月雨の猶も降べき小雨かな 高井几董
五月雨の町掘りかへす工事かな 寺田寅彦
五月雨の空吹き落せ大井川 芭蕉
五月雨の窓にかぶさる舳かな 比叡 野村泊月
五月雨の端居古き平家ヲうなりけり 服部嵐雪
五月雨の竹に隠るゝ在所哉 一茶 享和三年癸亥(41歳)
五月雨の竹の緑や朝のパン 碧雲居句集 大谷碧雲居
五月雨の蔦の芽喰ひに守宮かな 碧雲居句集 大谷碧雲居
五月雨の蝙蝠草をいでにけり 萩原麦草 麦嵐
五月雨の蟹這ひよれり草川居 四明句集 中川四明
五月雨の西湖に舟はなかりけり 比叡 野村泊月
五月雨の輿で見にゆく西湖かな 比叡 野村泊月
五月雨の遥かに吾をぶちのめす 各務麓至
五月雨の降のこしてや光堂 松尾芭蕉
五月雨の降り込む椎と槇の間 高澤良一 さざなみやっこ
五月雨の降るも晴るるも石に影 野見山朱鳥
五月雨の降残してや光堂 芭蕉
五月雨の隅田見に出る戸口かな 子規句集 虚子・碧梧桐選
五月雨の雲に針さす所なし 立花北枝
五月雨の音を聞わくひとり哉 加舎白雄
五月雨の音聴きに来よ須摩舞子 山西商平
五月雨の馬の渡舟といふとかや 素十
五月雨はただ降るものと覚けり 上島鬼貫
五月雨は滝降り埋むみかさ哉 松尾芭蕉
五月雨もひと月のぴよ閏月 エド-石菊 閏 月 月別句集「韻塞」
五月雨も楽しきものと知りて旅 近江小枝子
五月雨も瀬踏み尋ねぬ見馴河 松尾芭蕉
五月雨も頻に声を大にせり 相生垣瓜人 明治草抄
五月雨やある夜ひそかに松の月 蓼太
五月雨やおのづと思ふかの古江 尾崎迷堂 孤輪
五月雨やかくて枯れゆく串の鮒 碧雲居句集 大谷碧雲居
五月雨やから駕籠戻る杉木立 蘇山人俳句集 羅蘇山人
五月雨やきのふ見廻はでけふははや 立花北枝
五月雨やけふも上野を見てくらす 正岡子規
五月雨やももだち高く来る人 夏目漱石 明治四十二年
五月雨や三味線かちるすまひ取 太祇
五月雨や三日見つめし黒茶碗 成美
五月雨や上野の山も見飽きたり 正岡子規
五月雨や二軒して見る草の花 一茶
五月雨や二階住居(ずまひ)の草の花 小林一茶 (1763-1827)
五月雨や人なき岸の一軒家 墨水句集 梅澤墨水
五月雨や人伺候してかいつぶり 秋色 俳諧撰集玉藻集
五月雨や人語り行く夜の辻 籾山庭後
五月雨や今日も勘文奉る 蝶衣句稿青垣山 高田蝶衣
五月雨や仏の花を捨に出る 蕪村
五月雨や作務僧だまり賑やかに 池上不二子
五月雨や傘さして汲む舟の淦 比叡 野村泊月
五月雨や傘に付たる小人形 榎本其角
五月雨や兄の形見の老の杖 滝青佳
五月雨や写本の欲しき嵯峨日記 小澤碧童 碧童句集
五月雨や十里の杉の梢より 句佛上人百詠 大谷句佛、岡本米蔵編
五月雨や危くなりし多々良橋 河野静雲
五月雨や古家解き売る町はづれ 井月の句集 井上井月
五月雨や合羽の下の雨いきり 立花北枝
五月雨や噴水の桶鯉の桶 会津八一
五月雨や四つ手繕ふ旧士族 夏目漱石 明治三十年
五月雨や土佐は石原小石原 寺田寅彦
五月雨や垢重りする獄の本 和田久太郎
五月雨や堂朽ち盡し屋根の草 寺田寅彦
五月雨や夏猶寒き箱根山 蘇山人俳句集 羅蘇山人
五月雨や夜の山田の人の声 一茶 寛政年間
五月雨や夜もかくれぬ山の穴 一茶 寛政三年辛亥(29歳)
五月雨や大河のエコのしもり舟 幸田露伴 拾遺
五月雨や大河を前に家二軒 蕪村
五月雨や天下一枚うち曇り 宗因
五月雨や天水桶のかきつばた 一茶 文政元年戊寅(56歳)
五月雨や富士の高根のもえて居る 椎本才麿
五月雨や寫し物する北の窓 寺田寅彦
五月雨や小袖をほどく酒のしみ 夏目漱石 明治三十年
五月雨や尾を出しさうな石どうろ 泉鏡花
五月雨や居ねむり顔の傷の痕 横光利一
五月雨や山少しづゝ崩れゐる 野村喜舟 小石川
五月雨や岐れの水の激ちゆく 行徳すみ子
五月雨や川うちわたす蓑の裾 炭 太祇 太祇句選後篇
五月雨や年々降るも五百たび 松尾芭蕉
五月雨や廂の下の大八ッ手 楠目橙黄子 橙圃
五月雨や御豆の小家の寝覚めがち 蕪村
五月雨や怒濤常住室戸岬 東洋城千句
五月雨や思はぬ川瀬桐油舟 沾葉 選集「板東太郎」
五月雨や息交すかに木偶並び 植田 桂子
五月雨や悲み事に森の家へ 尾崎迷堂 孤輪
五月雨や我宿ながらかゝり舟 竿秋
五月雨や戸口までなる桑畠 野村喜舟 小石川
五月雨や扉の外の蔵草履 楠目橙黄子 橙圃
五月雨や折々出づる竹の蝶 樗良
五月雨や拾うた鯉も鵜の嘴目 浜田酒堂
五月雨や暗きに馴れて支那美人 比叡 野村泊月
五月雨や月夜に似たる沼明り 小川芋銭
五月雨や朝行水のたばね髪 洛翠 俳諧撰集「藤の実」
五月雨や根を洗はるゝ屋根の草 寺田寅彦
五月雨や桶の輪切るる夜の声 芭蕉
五月雨や梅の葉寒き風の色 椎本才麿
五月雨や棹もて鯰うつといふ 鏡花
五月雨や汗うちけぶる馬のしり 会津八一
五月雨や沈みもやらず十二橋 東洋城千句
五月雨や泥より起きて豆の蔓 八十島稔 筑紫歳時記
五月雨や泪羅の水のうす濁り 蘇山人俳句集 羅蘇山人
五月雨や浪打際の葱坊主 佐野青陽人 天の川
五月雨や淀の小橋は水行灯 井原西鶴
五月雨や湯に通ひ行く旅役者 川端康成
五月雨や滄海を衝く濁り水 蕪村
五月雨や漁婦ぬれて行くかゝえ帯 子規句集 虚子・碧梧桐選
五月雨や漁家の軒端の地蔵尊 楠目橙黄子 橙圃
五月雨や潮来の家のうしろ向き 小杉余子 余子句選
五月雨や灯して透明エレベーター 長崎小夜子
五月雨や猫かりに来る船の者 卓池
五月雨や玉菜買ひ去る人暗し 芥川龍之介 蕩々帖〔その一〕
五月雨や田中に動く人一人 蓼太
五月雨や疳高ち寝らぬ汝は吾子か 石塚友二 光塵
五月雨や真菰かくれの附木舟 尾崎紅葉
五月雨や眼帯かけしまゝ眠る 大場白水郎 散木集
五月雨や硯箱なる番椒(唐辛子) 服部嵐雪
五月雨や窓を背にして物思ふ 寺田寅彦
五月雨や立ち眠りして座敷犬 島村元句集 島村元
五月雨や竹おほまかに光りをり 中島月笠 月笠句集
五月雨や筏組行く日傘 丸露 選集「板東太郎」
五月雨や紗幕隔てゝ持仏の灯 比叡 野村泊月
五月雨や美豆(みづ)の寐覚の小家がち 與謝蕪村
五月雨や肩など打く火吹竹 一茶 文政四年辛巳(59歳)
五月雨や背戸に盥の捨小舟 也有
五月雨や胸につかへる秩父山 一茶
五月雨や船路に近き遊女町 几董
五月雨や色紙はげたる古屏風 斯波園女
五月雨や色紙へぎたる壁の跡 芭蕉
五月雨や苔むす庵の香の物 野澤凡兆
五月雨や蕗浸しある山の湖 渡邊水巴
五月雨や蚓の徹す鍋の底 服部嵐雪
五月雨や蚕わづらふ桑ばたけ 翁 五 月 月別句集「韻塞」
五月雨や蚯蚓の潜(くぐ)る鍋の底 服部嵐雪
五月雨や蠶煩ふ桑の畑 松尾芭蕉
五月雨や起上りたる根無草 鬼城
五月雨や軒を煙のたよりなく 小杉余子 余子句選
五月雨や醜の小草を歌にして 野村喜舟 小石川
五月雨や野厠出づる蓑の人 比叡 野村泊月
五月雨や鉄の匂ひの歩道橋 下山宏子
五月雨や雨の中より海鼠壁 芥川龍之介
五月雨や雪はいづこのしなの山 一茶 寛政三年辛亥(29歳)
五月雨や雲の中なる山崩 故郷 吉田冬葉
五月雨や飯台立つる一燈下 金尾梅の門 古志の歌
五月雨や館晝灯し廂深 松根東洋城
五月雨や髭といふもの男らに 小澤克己
五月雨や鮓の重しもなめくじり 上島鬼貫
五月雨や鰌は畦へよぢのぼり 野村喜舟 小石川
五月雨や鴉草ふむ水の中 河東碧梧桐
五月雨や鶏の影ある土間の隅 木歩句集 富田木歩
五月雨や鼠の廻る古葛籠 闌更
五月雨るゝ柳橋とはこのあたり 野村梅子
五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉
五月雨を跡に置つつ有馬菅 上島鬼貫
五月雨を集めて早し最上川 松尾芭蕉
五月雨大井の橋はなかりけり 正岡子規
五月雨浅間の煙絶えにけり みそ萩(古屋夢拙俳句抄第一集) 古屋夢拙
五月雨盛りいちごの雫かな 轍士妻-留里 俳諧撰集玉藻集
五月雨花の絶え間をふりにけり 久保田万太郎 草の丈
五月雨軒に茶がらの山出来たり 調和 選集「板東太郎」
五月雨鉄瓶さめし夜風かな 碧雲居句集 大谷碧雲居
 

 

あか汲で小舟あはれむ五月雨 蕪村遺稿 夏
いたつきに名のつき初る五月雨 子規
かたむきし八阪の塔や五月雨 妻木 松瀬青々
かち渡る人流れんとす五月雨 子規句集 虚子・碧梧桐選
この二日五月雨なんど降るべからず 正岡子規
すててゆくかりの伏家や五月雨 吉武月二郎句集
つれ〜や双ケ岡の五月雨 竹冷句鈔 角田竹冷
つヾくりもはてなし坂や五月雨 向井去来
とても霽れぬ五月雨傘をさして去ね 竹下しづの女 [はやて]
にはとりを三和土に飼ふや五月雨 高橋睦郎 舊句帖
ぬけ落る瓦のおとや五月雨 橘田春湖
のみさしの茶の冷たさよ五月雨 光太郎
ひきにくき心の舵や五月雨 久保田万太郎 流寓抄
ほつ〜と二階仕事や五月雨 一茶 享和三年癸亥(41歳)
われに沸く風呂の浮蓋五月雨 松村蒼石 春霰
をけら焚く香にもなれつつ五月雨 居然
ストに入る前五月雨の河ながる 萩原麦草 麦嵐
一日は物あたらしき五月雨 炭 太祇 太祇句選後篇
三井寺や湖濛々と五月雨 正岡子規
上戸衆の物が降けり五月雨 丸石 選集「板東太郎」
二階下りぬ一日暮れし五月雨 碧雲居句集 大谷碧雲居
亡き父の蓑で水見や五月雨 石島雉子郎
人も斧も入らずの杜の五月雨 佐藤春夫 能火野人十七音詩抄
今日は又足が痛みぬ五月雨 正岡子規
仏の灯神にわかつや五月雨 金尾梅の門 古志の歌
仮初にふり出しけり五月雨 加舎白雄
保(も)つまいとおもふ空から五月雨 高澤良一 素抱
傘さして港内漕ぐや五月雨 前田普羅 新訂普羅句集
傘させば五月雨の冷えたまりくる 八木絵馬
傘持つて傘さしゆくや五月雨 会津八一
剃刀や一夜に金精(さび)て五月雨 野沢凡兆(?-1714)
十團子を売る日売らぬ日五月雨るる 金久美智子
命は一度五月雨小熄み光堂 草田男 (中尊寺にて)
土間に積む紫蘇の香高し五月雨 雉子郎句集 石島雉子郎
堤より低きに家し五月雨るゝ 四明句集 中川四明
塩鮭の油たるらん五月雨 暁台
夜は猶おもひゆられて五月雨 松岡青蘿
大欅かぶる灯や五月雨 碧雲居句集 大谷碧雲居
大河渡る小舟けなげや五月雨 比叡 野村泊月
大粒になつてはれけり五月雨 正岡子規
太綱に繋げる亭や五月雨 比叡 野村泊月
家一つ蔦と成りけり五月雨 一茶 享和三年癸亥(41歳)
寺による村の会議や五月雨 河東碧梧桐
小説に飽き五月雨に飽く机 副島いみ子
就中おん蒔柱五月雨るゝ 高野 素十
山池のそこひもわかず五月雨るゝ 飯田蛇笏 霊芝
山門や木の枝垂れて五月雨 子規句集 虚子・碧梧桐選
山間ヒに現はるゝ山や五月雨 雑草 長谷川零餘子
山鳥のおろおろ啼きや五月雨 服部嵐雪
川に佇つ五月雨傘の裏に蛾が 波多野爽波 鋪道の花
川越して五月雨の月おちにけり 萩原麦草 麦嵐
庖丁に砥石あてをり五月雨 鈴木真砂女 生簀籠
座敷まで山羊のにほひや五月雨 比叡 野村泊月
怒る渦泣く渦鳴門五月雨渦 橋本夢道 無類の妻
急ぎ来る五月雨傘の前かしぎ 高浜虚子
我と我が息吹聴き寝る五月雨 富田木歩
提灯の出迎へ頼み五月雨 上野泰 佐介
新しき柄杓が水に五月雨 下村槐太 光背
旅びとや曽我の里とふ五月雨 炭 太祇 太祇句選後篇
旅人もロダン青銅も五月雨るゝ 清水基吉 寒蕭々
旅笠に又五月雨の暗さ添ふ 比叡 野村泊月
日の道や葵傾く五月雨 松尾芭蕉
昏々と病者のねむる五月雨 飯田蛇笏
朝寝昼寝夏の夜長し五月雨 調盞子 選集「板東太郎」
椎の舎の主病みたり五月雨 子規句集 虚子・碧梧桐選
椎槇に朽つる堂宇や五月雨 雑草 長谷川零餘子
毎年の長逗留や五月雨 三角
水中にゆるゝ柳や五月雨 菅原師竹句集
水中の青蘆ほのと五月雨 西山泊雲 泊雲句集
水傷に好けん水灸五月雨に 内田百間
海山に五月雨そふや一くらみ 野澤凡兆
海棠の朽ち葉をふるふ五月雨 蘇山人俳句集 羅蘇山人
渓橋に傘さして佇つや五月雨 飯田蛇笏
温泉の宿の謡はずなりぬ五月雨 石島雉子郎
温泉烟の田にも見ゆるや五月雨 河東碧梧桐
湖の水まさりけり五月雨 向井去来(1651-1704)
湯の湖の湯気這ふところ五月雨るゝ 森田峠 避暑散歩
濁り江のあやめに澄みぬ五月雨 古白遺稿 藤野古白
灰ふきや下水つかへて五月雨 山夕 選集「板東太郎」
灰汁桶の澄みて溢るる五月雨 西山泊雲 泊雲
無病さや物うちくうて五月雨 中村史邦
燕もかはく色なし五月雨 榎本其角
牛若の鞍馬上るや五月雨 正岡子規
物あぶる染どのふかし五月雨 炭 太祇 太祇句選後篇
生垣にさす灯ばかりや五月雨 渡辺水巴 白日
畳売つて出られよ旅へ五月雨 浜田酒堂
病みてよりはだへのあつし五月雨 村山古郷
病蚕に焼酒を吹く五月雨 萩原麦草 麦嵐
眼を病んで灯ともさぬ夜や五月雨 夏目漱石
矢取丁稚声のやすめや五月雨 調泉 選集「板東太郎」
短夜のうらみもどすや五月雨 千代尼
磯はたや蟹木に上る五月雨 森鴎外
社参せぬ身に降りまされ五月雨 渡辺水巴 白日
空も地もひとつになりぬ五月雨 杉風
立ちつくす五月雨傘や古帝廟 比叡 野村泊月
竹育つ白光の径五月雨 長谷川かな女 花 季
竹隠の君子を訪ふや五月雨 寺田寅彦
竹馬や軒の下闇五月雨 調幸子 選集「板東太郎」
笠叩く松の雫や五月雨 比叡 野村泊月
筆結ひの心もほそる五月雨 立花北枝
簔張や枕にひびく五月雨 立独 選集「板東太郎」
紫陽花の葉に早き蚊や五月雨 癖三酔句集 岡本癖三酔
縁側に棒ふる人や五月雨 子規句集 虚子・碧梧桐選
縫物や着もせでよごす五月雨 野澤羽紅女
舟小屋に薺花咲く五月雨 佐野青陽人 天の川
舟著くや五月雨傘を宿の者 星野立子
船頭も饂飩打つなり五月雨 泉鏡花
芭蕉堂の緋布団に座し五月雨るる 原 コウ子
苫の香の舟にあきけり五月雨 徳野
荷に添はぬ合羽掛けゝり五月雨 雉子郎句集 石島雉子郎
葉を合せて楓広葉や五月雨 雑草 長谷川零餘子
葉籠りの青き葡萄や五月雨 五十嵐播水 播水句集
葛城やあやめもわかぬ五月雨 青々
蓮池の浮葉水こす五月雨 子規句集 虚子・碧梧桐選
藪打つて五月雨はやく止みにけり 萩原麦草 麦嵐
虫けらの壁からも出る五月雨 木歩句集 富田木歩
蛇の尾に五月雨の花消ゆるかな 萩原麦草 麦嵐
蟲けらの壁からも出る五月雨 富田木歩
行燈で来る夜送る夜五月雨 服部嵐雪
詮なさの昼念仏や五月雨 河野静雲 閻魔
起き伏しの蔦の緑や五月雨 碧雲居句集 大谷碧雲居
踏切にいつまで貨車や五月雨 雑草 長谷川零餘子
道灌の墓五月雨を聴くばかり 高澤良一 さざなみやっこ
郵便夫の鞄郵便溢れて五月雨の中来る 人間を彫る 大橋裸木
酒つくる猿もぬれてや五月雨 会津八一
釜中魚を生ずしぎなり五月雨るる 龍岡晋
長病の床向きかへぬ五月雨 島村元句集
門川の藻がにほふなり五月雨 篠田悌二郎
閉山の赤旗を焼く五月雨 宮下邦夫
降うちに降出す音や五月雨 玉束
限りなき海のけしきや五月雨 正岡子規
雁門や鯨さばしる五月雨 露沾 選集「板東太郎」
雨乞は山下りけり五月雨 会津八一
雪にせば何丈積ん五月雨 十捨
青首徳利挿す花のなく五月雨るる 石川桂郎 四温
音立てて川波くらし五月雨 飛鳥田[れい]無公 湖におどろく
馬で行け和田塩尻の五月雨 正岡子規
馬子のさす五月雨傘の破れやう 高橋淡路女 梶の葉
馬鹿びきの出でゝかへらず五月雨るゝ 幸田露伴 拾遺
骨太き傘借りつ五月雨 会津八一
髪はえて容顔蒼し五月雨 松尾芭蕉
髪剃や一夜に金精(さび)て五月雨 野澤凡兆
髪生えて容顔青し五月雨 芭蕉
鬼蓮の水嵩を知らず五月雨 安斎櫻[カイ]子
鰻ともならである身や五月雨 木歩句集 富田木歩
鳶の子の濡れて落ちけり五月雨 四明句集 中川四明
ころしもやけふも病む身にさみだるる 正岡子規
はしり咲くさみだれ萩や開山忌 西岡荘人
傘滴晩翠の詩碑さみだるゝ 小林康治 玄霜
厩に生ふる草も見て濾し井さみだるゝ 廣江八重櫻
声かけて墓に撒く酒さみだるる 高井北杜
大き鳥さみだれうををくはへ飛ぶ 田中裕明 花間一壺
弾圧続くさみだれは江東区を低くして降る 橋本夢道 無禮なる妻抄
戦争よあるな路地さみだれて鯖食う家 橋本夢道 無禮なる妻抄
格子より見るさみだれの格子かな 高橋睦郎 荒童鈔
江東区さみだれ電車鯨のようにゆく 橋本夢道 無禮なる妻抄
石人に吾に一日さみだるゝ 工藤 信子
轟々さみだれの河汽車は一汽笛にて渡る 安斎櫻[カイ]子
雲こめて帰る鵜遠しさみだるゝ 渡辺水巴 白日
馳け廻る用に大阪さみだるゝ 大場白水郎 散木集
鯉うごくたびの原色さみだるる 高井北杜
鳩の巣に蒼き鳩の子さみだるる 毛塚静枝 
 
 

 

●五月雨 2
さみたれやいつもの窓に琴もなし 正岡子規 五月雨
さみだるるやわが体臭のただよふ 種田山頭火 自画像 落穂集
さみだるる一燈長き坂を守り 大野林火 早桃 海風抄
さみだるる夜の山手線森へひびき 大野林火 海門 昭和十三年
さみだるる竹の根もとのよごれつつ 大野林火 冬青集 雨夜抄
さみだるゝさゞ波明り松の花 渡邊水巴 白日
さみだるゝとも真珠育ち汐澄めり 阿波野青畝
さみだるゝ軒の重さよほどきもの 及川貞 夕焼
さみだるゝ鳥居のさきは蚕神 飴山實 花浴び
さみだるゝ鵜に伴ありぬ山の湖 渡邊水巴 白日
さみだれて苔蒸すほどの樒かな 飯田蛇笏 霊芝
さみだれに夕のはなやぎいたりけり 上田五千石『琥珀』補遺
さみだれのあまだればかり浮御堂 阿波野青畝
さみだれのかけたる月を束の間に 大野林火 早桃 太白集
さみだれのみだれつつしむけふきのふ 上田五千石 風景
さみだれのみづく家路や誘蛾燈 阿波野青畝
さみだれの墓域の眺め遺されし 上田五千石『天路』補遺
さみだれの夕波鳥やかいつむり 森澄雄
さみだれの夜の閑散の湯の深さ 日野草城
さみだれの夜半の目覚めの御声する 中村汀女
さみだれの松なし天に松おもふ 山口青邨
さみだれの毛越寺みち田鴫鳴く 山口青邨
さみだれの水旺んなる水車 日野草城
さみだれの池や玩具の鳥浮び 山口青邨
さみだれの池をめぐりて驥尾に附す 山口青邨
さみだれの浚渫作業輪中守る 阿波野青畝
さみだれの濁流のみが常に似ず 山口誓子
さみだれの猿の腰掛干るまなし 阿波野青畝
さみだれの荷の豌豆の真青なる 日野草城
さみだれの雨だれたまりたるに降る 篠原梵 年々去来の花 雨
さみだれの露おもしろき黎かな 日野草城
さみだれやのぼりくだりの神楽坂 山口青邨
さみだれやわが煮る粥の味如何に 日野草城
さみだれやサロメ疲れゐる楽屋風呂 日野草城
さみだれや一蝶とんで旅人に 山口青邨
さみだれや呼ばれて犬のかへりみる 中村汀女
さみだれや平泉村真の闇 山口青邨
さみだれや庵の下道人通ふ 西島麦南 人音
さみだれや手賀も印旛も見えぬ汽車 阿波野青畝
さみだれや杉から杉へ白小蝶 渡邊白泉
さみだれや瑠瑞光院は杉の中 山口青邨
さみだれや痺れおぼゆる腕枕 日野草城
さみだれや船がおくるる電話など 中村汀女
さみだれや襦袢をしぼる岩魚捕り 渡邊水巴 白日
さみだれや露盈つ松葉眼にあふれ 渡邊水巴 富士
さみだれ萩てふ名のやさし紅紫 細見綾子
さみだれ萩ときどき油断してをりぬ 岡井省二 前後
さみだれ萩咲き続け七月尽 細見綾子
 

 

五月雨が侘びよ寂びよと降りをれり 相生垣瓜人 明治草
五月雨が合歓に止む時虹かゝる(富雄なる暮石居にて) 細見綾子
五月雨にいよいよ青し木曽の川 正岡子規 五月雨
五月雨に一筋白き幟かな 正岡子規 五月雨
五月雨に向ふの見えぬ老馬かな 正岡子規 五月雨
五月雨に御幸を拝む晴間哉 正岡子規 五月雨
五月雨に濡れて飛び行く魂もあらん 内藤鳴雪
五月雨に瀬のかはりてや鷺の足 正岡子規 五月雨
五月雨に火種の消えし不動哉 正岡子規 五月雨
五月雨に燭して開く秘仏かな 内藤鳴雪
五月雨に笠のふゑたる田植かな 正岡子規 田植
五月雨に菅の笠ぬぐ別れ哉 正岡子規 五月雨
五月雨の*(白+)生ゆらんか蝶の羽 正岡子規 五月雨
五月雨のかびや生ゆらん鯉の背 正岡子規 五月雨
五月雨のともし少き小村かな 正岡子規 五月雨
五月雨のどしゃぶりに根の抜けんとす 正岡子規 五月雨
五月雨のはだしでのりて渡し哉 正岡子規 五月雨
五月雨のはだしで乗りし渡し哉 正岡子規 五月雨
五月雨のふらんとすなり秩父山 正岡子規 五月雨
五月雨のふり潰したる藁家かな 村上鬼城
五月雨のみぐるし山とぬかしけり 正岡子規 五月雨
五月雨の中に天山星が岡 正岡子規 五月雨
五月雨の二月堂出で来し女人 村山故郷
五月雨の傘ばかりなり仲の町 正岡子規 五月雨
五月雨の化物やしき古にけり 正岡子規 五月雨
五月雨の合羽つゝぱる刀かな 正岡子規 五月雨
五月雨の合羽を出たる刀かな 正岡子規 五月雨
五月雨の哀れを尽す夜鷹哉 正岡子規 五月雨
五月雨の天へふるびし竹梯子 平井照敏 天上大風
五月雨の宿借りし家に娘あり 正岡子規 五月雨
五月雨の小草生えたる土俵哉 正岡子規 五月雨
五月雨の岩並びけり妙義山 正岡子規 五月雨
五月雨の崩れもやらぬほこら哉 正岡子規 五月雨
五月雨の旱のと菊の手入れかな 正岡子規 五月雨
五月雨の晴れなんとして靄深し 正岡子規 五月雨
五月雨の晴間や屋根を直す音 正岡子規 五月雨
五月雨の木の間に暗し大伽藍 正岡子規 五月雨
五月雨の木曽は面白い処ぞや 正岡子規 五月雨
五月雨の森の中なり塔一重 正岡子規 五月雨
五月雨の水につと見る鯰かな 山口青邨
五月雨の水口にゐる田鯉かな 右城暮石 句集外 昭和二年
五月雨の泥を流して海黄なり 正岡子規 五月雨
五月雨の泥炭池に墜ちるなよ 西東三鬼
五月雨の狐火うつる小窓かな 内藤鳴雪
五月雨の眠るが如くふりにけり 正岡子規 五月雨
五月雨の石切り出だす深山哉 正岡子規 五月雨
五月雨の竹を羨む檜哉 正岡子規 五月雨
五月雨の茶からもたまる日数哉 正岡子規 五月雨
五月雨の草に沈みて仏達 山口青邨
五月雨の荷物著きたる戸口かな 内藤鳴雪
五月雨の足駄買ふ事忘れたり 正岡子規 五月雨
五月雨の降るも晴るるも石に影 野見山朱鳥 愁絶
五月雨の隅田見に出る戸口哉 正岡子規 五月雨
五月雨の雲やちぎれてほとゝぎす 正岡子規 五月雨
五月雨の雲を巻きこむ早瀬哉 正岡子規 五月雨
五月雨の雲許りなり箱根山 正岡子規 五月雨
五月雨の雲這ひわたる那須野哉 正岡子規 五月雨
五月雨の馬の渡舟といふとかや 高野素十
五月雨の鳥啼く木立庭広し 正岡子規 五月雨
五月雨の鳩が水のむ屋根の下 平井照敏 猫町
五月雨は人の涙と思ふべし 正岡子規 五月雨
五月雨は杉にかたよる上野哉 正岡子規 五月雨
五月雨は腹にもあるや腸かたる 正岡子規 五月雨
五月雨は藜の色にしくれけり 正岡子規 五月雨
五月雨は藜の色を時雨けり 正岡子規 五月雨
五月雨も頻に声を大にせり 相生垣瓜人 明治草抄
五月雨やくたびれ顔の鹿の妻 正岡子規 五月雨
五月雨やけふも上野を見てくらす 正岡子規 五月雨
五月雨やしとゞ濡れたる恋衣 正岡子規 五月雨
五月雨やだまつて早苗とる女 正岡子規 五月雨
五月雨やちひさき家の土細工 正岡子規 五月雨
五月雨やともし火もるゝ藪の家 正岡子規 五月雨
五月雨やながめてくらす舞扇 正岡子規 五月雨
五月雨やわつかに月のあり処 正岡子規 五月雨
五月雨やインコの瑠璃も黄もぬるる 山口青邨
五月雨や一日つぶす探し物 村山故郷
五月雨や三味線をひく隣哉 正岡子規 五月雨
五月雨や上野の山も見あきたり 正岡子規 五月雨
五月雨や下駄屋の前で下駄をきる 正岡子規 五月雨
五月雨や亀はひ上る早苗舟 正岡子規 五月雨
五月雨や五月雨や碑文二千年 正岡子規 五月雨
五月雨や五里の旅路の桑畠 正岡子規 五月雨
五月雨や仮橋ゆるぐ大井川 正岡子規 五月雨
五月雨や傾城のぞく物の本 正岡子規 五月雨
五月雨や善き硯石借り得たり 正岡子規 五月雨
五月雨や墨田を落す筏舟 正岡子規 五月雨
五月雨や大木並ぶ窓の外 正岡子規 五月雨
五月雨や天にひつゝく不二の山 正岡子規 五月雨
五月雨や宿屋の膳の干蕨 正岡子規 五月雨
五月雨や小き虫落つ本の上 正岡子規 五月雨
五月雨や小牛の角に蝸牛 正岡子規 蝸牛
五月雨や小牛の角の蝸牛 正岡子規 五月雨
五月雨や小膝にあまる文の丈 正岡子規 五月雨
五月雨や少女の温き銭を受く 岸田稚魚 負け犬
五月雨や岡長々と王子迄 正岡子規 五月雨
五月雨や庄屋にとまる役人衆 正岡子規 五月雨
五月雨や我執に籠り暮れにける 石塚友二 磯風
五月雨や戸をおろしたる野の小店 正岡子規 五月雨
五月雨や月出るかたの薄明り 正岡子規 五月雨
五月雨や月出る頃の薄明り 正岡子規 五月雨
五月雨や朝日夕日の少しつゝ 正岡子規 五月雨
五月雨や松笠燃して草の宿 村上鬼城
五月雨や棚へとりつくものゝ蔓 正岡子規 五月雨
五月雨や榛の木立てる水の中 正岡子規 五月雨
五月雨や檐端を渡る峰の雲 正岡子規 五月雨
五月雨や水にうつれる草の裏 原石鼎 花影
五月雨や水汲みに行く下駄の跡 正岡子規 五月雨
五月雨や泥鰌ふつたる潦 正岡子規 五月雨
五月雨や泥鰌湧たる井戸の端 正岡子規 五月雨
五月雨や流しに青む苔の花 正岡子規 五月雨
五月雨や浮き上りたる船住居 村上鬼城
五月雨や漁婦ぬれて行くかゝえ帯 正岡子規 五月雨
五月雨や炭俵積む深廂 日野草城
五月雨や牛に乗たる宇都の山 正岡子規 五月雨
五月雨や田蓑の島の草枕 正岡子規 五月雨
五月雨や畠にならぶ杉の苗 正岡子規 五月雨
五月雨や畳に上る青蛙 正岡子規 五月雨
五月雨や疳高ち寝らぬ汝は吾子か 石塚友二 光塵
五月雨や神経病の直りぎは 正岡子規 五月雨
五月雨や筏つなぎし槻の幹 原石鼎 花影
五月雨や築地をかくす八重葎 正岡子規 五月雨
五月雨や簀の子の下の大茸 正岡子規 五月雨
五月雨や簑の裡にて腰屈む 山口誓子
五月雨や簑笠集ふ青砥殿 内藤鳴雪
五月雨や糊のはなるゝ花がるた 正岡子規 五月雨
五月雨や背戸に落ちあふ傘と傘 正岡子規 五月雨
五月雨や芳原の灯のまばら也 正岡子規 五月雨
五月雨や葎の中の古築地 正岡子規 五月雨
五月雨や蕗浸しある山の湖 渡邊水巴 白日
五月雨や薄生ひそふ山の道 正岡子規 五月雨
五月雨や虫落来る本の上 正岡子規 五月雨
五月雨や蟹の這ひ出る手水鉢 正岡子規 五月雨
五月雨や覚えた謡皆になり 正岡子規 五月雨
五月雨や起き上りたる根無草 村上鬼城
五月雨や足駄岩を踏で滝を見る 正岡子規 五月雨
五月雨や金の小笠の馬印 正岡子規 五月雨
五月雨や青葉のそこの窓明り 正岡子規 五月雨
五月雨や鬼の血剥る羅生門 正岡子規 五月雨
五月雨や鴉草ふむ水の中 河東碧梧桐
五月雨や鴨居つかんで外を見る 渡邊白泉
五月雨や鶏上る大々鼓 正岡子規 五月雨
五月雨を思ふてなくか子規 正岡子規 時鳥
五月雨三味線を引く隣哉 正岡子規 五月雨
五月雨三百人の眠気なり 正岡子規 五月雨
五月雨人居て舟の煙りかな 正岡子規 五月雨
五月雨大井の橋はなかりけり 正岡子規 五月雨
五月雨晴や大仏の頭あらはるゝ 正岡子規 梅雨晴
 

 

あうたりわかれたりさみだるる 種田山頭火 草木塔
あひふれしさみだれ傘の重かりし 中村汀女
いたつきに名のつきそむる五月雨 正岡子規 五月雨
うつくしき棺行くなり五月雨 正岡子規 五月雨
かけ橋や五月雨雲を笠の端 正岡子規 五月雨
かけ橋や水より上を五月雨 正岡子規 五月雨
かしこさに禰宜も痩せけり五月雨 正岡子規 五月雨
かち渡る人流れんとす五月雨 正岡子規 五月雨
きりもなきさみだれ鳰の長潜り 大野林火 方円集 昭和五十年
くすぶりてをれよをれよとさみだるる 相生垣瓜人 明治草抄
この二日五月雨なんど降るべからず 正岡子規 五月雨
この祭いつも卯の花くだしにて 正岡子規 五月雨
ころしもやけふも病む身にさみだるゝ 正岡子規 五月雨
さし連るゝ五月雨傘のその一つ 清崎敏郎
ずりさがり五月雨雲や関ケ原 阿波野青畝
つき當り路地の朧や乱籠 佐藤鬼房
つくねんと大仏たつや五月雨 正岡子規 五月雨
なすべりそ湯殿参りのさみだるる 阿波野青畝
はたごやに蝿うつ客や五月雨 正岡子規 五月雨
もつれあふ鳩激しがり五月雨 阿波野青畝
もりそめしさみだれ傘に身をまかせ 阿波野青畝
ゆるぎなき五月雨空に漁舟出ず 阿波野青畝
わぎへには五月雨雲よ立ち来ざれ 相生垣瓜人 負暄
をなごらもどてら着ぶくれさみだるゝ 日野草城
をみなたち毛越寺泊さみだるる 山口青邨
一人居る編輯局や五月雨 正岡子規 五月雨
一村は杉の木の間に五月雨 正岡子規 五月雨
三井寺や湖濛々と五月雨 正岡子規 五月雨
世の中のどこも断層の五月雨よくふる 荻原井泉水
並杉のくさるかと思ふ五月雨 正岡子規 五月雨
人並ぶ寮の廊下や五月雨 正岡子規 五月雨
今日は又足が痛みぬ五月雨 正岡子規 五月雨
今日も亦君返さじとさみだるゝ 正岡子規 五月雨
何もなき水田の上や五月雨 正岡子規 五月雨
傘さして港内漕ぐや五月雨 前田普羅 普羅句集
傘滴晩翠の詩碑さみだるゝ 小林康治 玄霜
傾城の文とゝきけり五月雨 正岡子規 五月雨
傾城や年よりそむる五月雨 正岡子規 五月雨
冷飯ぽろぽろさみだるる 種田山頭火 自画像 落穂集
出女のなじみそめけり五月雨 正岡子規 五月雨
出水して橋守る声や五月雨 内藤鳴雪
古くさき咄の多し五月雨 正岡子規 五月雨
君が身に五月雨晴れぬきのふけふ 正岡子規 五月雨
土手杭あらはさみだるゝ砂のこぼれやまず 種田山頭火 自画像 層雲集
地虫なくさみだれ水の虚空にて 百合山羽公 故園
地車の轍の跡や五月雨 正岡子規 五月雨
城跡の石垣はかり五月雨 正岡子規 五月雨
塩湯や朝からけむる五月雨 村上鬼城
壁をもる牛の匂ひや五月雨 正岡子規 五月雨
夏萩をさみだれ萩と言ひ直す 後藤比奈夫
夜の客匆々に去りぬ五月雨 村山故郷
夜を濡るるレール百条五月雨 中村汀女
大仏やだらりだらりと五月雨 正岡子規 五月雨
大和川さみだれの水流れけり 日野草城
大家や降るとも知らず五月雨 正岡子規 五月雨
大海のぺたり〜と五月雨 内藤鳴雪
大瀧の仰ぎてくらき五月雨 飯田蛇笏 心像
大空やどこにたゝへて五月雨 正岡子規 五月雨
大粒になつてはれけり五月雨 正岡子規 五月雨
天毒といふものならむさみだるる 相生垣瓜人 負暄
太陽に干せばさみだれ傘ならず 阿波野青畝
女客ありさみだれはぎのゆれること 山口青邨
子は危篤さみだれひびきふりにけり 飯田蛇笏 白嶽
定めなき身を五月雨の照り曇り 正岡子規 五月雨
家居することを楽しみ五月雨るる 稲畑汀子
寺による村の会議や五月雨 河東碧梧桐
就中おん蒔柱五月雨るる 高野素十
山吹の余花に卯の花くだし哉 正岡子規 五月雨
山池のそこひもわかず五月雨るゝ 飯田蛇笏 霊芝
山門や木の枝垂れて五月雨 正岡子規 五月雨
峯仰ぐ五月雨傘を傾けて 右城暮石 句集外 昭和四十四年
川に佇つ五月雨傘の裏に蛾が 波多野爽波 鋪道の花
左丹塗の廟びしよびしよにさみだるる 阿波野青畝
庖丁に砥石あてをり五月雨 鈴木真砂女 生簀籠
心置く一歩の土もさみだるゝ 石塚友二 光塵
悲しみの五月雨傘は深くさす 稲畑汀子
折からの木曽の旅路を五月雨 正岡子規 五月雨
折りもをり岐岨の旅路を五月雨 正岡子規 五月雨
抜道は川となりけり五月雨 正岡子規 五月雨
抜道は草露けしや五月雨 正岡子規 五月雨
控木に五月雨の茸並びけり 正岡子規 五月雨
提灯の出迎へ頼み五月雨 上野泰 佐介
敷きのぶるさみだれの夜の臥床かな 中村汀女
新しき柄杓が水に五月雨 下村槐太 光背
日の中に昼も夜もあり五月雨 正岡子規 五月雨
昏々と病者のねむる五月雨 飯田蛇笏 白嶽
暮れかけて又日のさすや五月雨 正岡子規 五月雨
更闌けて降り昂りぬ五月雨 日野草城
木曽三日山の中也五月雨 正岡子規 五月雨
根だ搖く川辺の宿や五月雨 正岡子規 五月雨
桐の葉にさみだれ濺ぐひもすがら 日野草城
桑海に伏屋溺れて五月雨るる 富安風生
桟や水へも落ちず五月雨 正岡子規 五月雨
梯や水にもおちず五月雨 正岡子規 五月雨
椎の舎の主病みたり五月雨 正岡子規 五月雨
椽側に棒ふる人や五月雨 正岡子規 五月雨
榧一本という御堂と榧の大樹がさみだれ 荻原井泉水
橋杭のいとゞ短し五月雨 正岡子規 五月雨
橋杭のいよゝ短し五月雨 正岡子規 五月雨
毛蟲焼きゐしがさみだれ夫となる 三橋鷹女
水くゞる鳰見えずなりぬ五月雨 河東碧梧桐
水中やさみだるゝ嶋の薄紅葉 渡邊水巴 白日
水底の雲もみちのくの空のさみだれ 種田山頭火 草木塔
水泡立ちて鴛鴦の古江のさみだるゝ 村上鬼城
水瓶に蛙うくなり五月雨 正岡子規 五月雨
泥川の海にそゝぐや五月あめ 正岡子規 五月雨
洋傘の柄をつたふさみだれ腕をつたふ 大野林火 早桃 太白集
海苔粗朶の腐しもやらずさみだるる 阿波野青畝
清水のともし火高し五月雨 正岡子規 五月雨
渓橋に傘して佇つや五月雨 飯田蛇笏 椿花集
温泉烟の田にも見ゆるや五月雨 河東碧梧桐
湖の魚糶るをさみだれ傘に見る 大野林火 方円集 昭和五十年
湯の窓のたかけれや山さみだるる 大野林火 海門 昭和十年
溝川に枝覆ひかゝる五月雨 正岡子規 五月雨
潮騒やさみだれ晴るゝ天心居 及川貞 榧の實
濛々と老の坂路のさみだるる 相生垣瓜人 負暄
濡れそぼつさみだれ傘をひろげ出づ 中村汀女
濡れそぼつ松の幽さよ五月雨 日野草城
牛若の鞍馬上るや五月雨 正岡子規 五月雨
牛追ふて行く藪陰や五月雨 正岡子規 五月雨
牧晴れて五月雨蝶の名を負はず 上田五千石『琥珀』補遺
玉簾の瀧の五月雨来て見たり 松本たかし
生垣にさす灯ばかりや五月雨 渡邊水巴 白日
田植見る二階の窓や五月雨 正岡子規 五月雨
男またさみだれ傘をかしげさし 中村汀女
留守の人の机上の花や五月雨 村山故郷
病みてよりはだへのあつし五月雨 村山故郷
病人に鯛の見舞や五月雨 正岡子規 五月雨
病人の枕ならべて五月雨 正岡子規 五月雨
目さませば今日も朝からさみたるゝ 正岡子規 五月雨
目さむれば今日も朝からさみたるゝ 正岡子規 五月雨
碁の音に壁の落ちけり五月雨 正岡子規 五月雨
碁丁々荒壁落つる五月雨 正岡子規 五月雨
社参せぬ身に降りまされ五月雨 渡邊水巴 白日
私とはなれて私の首がさみだれているは 荻原井泉水
窓掛のがらすに赤し五月雨 正岡子規 五月雨
竹を前机定まりさみだるる 大野林火 月魄集 昭和五十四年
筆につく墨のねばりや五月雨 正岡子規 五月雨
翁童や犀もろともにさみだるる 岡井省二 鯨と犀
老僧に五月雨の客相ついで 高野素十
老若の見境も無く五月雨るる 相生垣瓜人 負暄
胃袋と腹綿となくさみだるる 相生垣瓜人 負暄
船車さみだれぬやうに行きたまへ 正岡子規 五月雨
苑の橋あはれ水漬きてさみだるる 山口青邨
苫の上に苔の生ひけり五月雨 正岡子規 五月雨
草鞋はいて傘買ふ旅の五月雨 正岡子規 五月雨
荘や今十宜のうちの五月雨 富安風生
蓮池の浮葉水こす五月雨 正岡子規 五月雨
蓮生の髯ものびけり五月雨 正岡子規 五月雨
蝸牛の喧嘩見に出ん五月雨 正岡子規 五月雨
蝸牛の角のぶ頃や五月雨 正岡子規 五月雨
行雲や五十三亭さみだるゝ 内藤鳴雪
街道に馬糞も見えず五月雨 正岡子規 五月雨
裏も見通し放哉の墓さみだるる 松崎鉄之介
見えぬ富士天を蔽ひてさみだるる 野澤節子 八朶集
言ひのこす詞のはしぞ五月雨るゝ 正岡子規 五月雨
訪ねよる静かなる戸も五月雨れて 村山故郷
貝作業さみだれ傘をかしげ見つ 阿波野青畝
赤き薔薇白き薔薇皆さみだるゝ 正岡子規 五月雨
退屈や糸の小口もさみだるゝ 正岡子規 五月雨
透視室すぐ出でたれどさみだるる 阿波野青畝
道ふさぐ竹のたわみや五月雨 正岡子規 五月雨
野の道の沙を洗ふ五月雨 山口誓子
野の道を傘往来す五月雨 正岡子規 五月雨
金魚屋にわがさみだれの傘雫 中村汀女
鋪道なるさみだれの空の中に立つ 篠原梵 年々去来の花 皿
限りなき海のけしきや五月雨 正岡子規 五月雨
雪院に黒き虫這ふ五月雨 正岡子規 五月雨
雲か山か不二かあらぬか五月雨 正岡子規 五月雨
雲こめて帰る鵜遠しさみだるゝ 渡邊水巴 白日
雷の声五月雨これに力得て 正岡子規 五月雨
青首徳利挿す花のなく五月雨るる 石川桂郎 四温
面白や牛のうたひも五月雨 正岡子規 五月雨
風吹て晴れんとす也五月雨 正岡子規 五月雨
馬で行け和田塩尻の五月雨 正岡子規 五月雨
駅頭のデジタルにじみさみだるる 阿波野青畝
鷺飛で牛居る沢や五月雨 正岡子規 五月雨
鼻もしずくする自分のブロンズさみだれ 荻原井泉水 
 
 

 

●五月雨 3
さみだれがやめば屋ね掘る鴉哉 井上士朗
さみだれて我宿ながらなつかしき 夏目成美
さみだれとみえけり草の葉末より 完来
さみだれにいざ帰らふや旅芝ゐ 支考
さみだれにやがて吉野を出ぬべし 其角
さみだれに南天の花のうるみける 井上士朗
さみだれに小鮒をにぎる子共哉 野坡
さみだれに星も瀬ぶみや天の河 露川
さみだれに流れありくやかゞ見草 露川
さみだれに猶ぬれ色ぞたふとけれ 芙雀
さみだれに角もつぶれず矢倉跡 桜井梅室
さみだれに顔ぬらしたり桜の実 吏全
さみだれに鴬なくや何のひま 夏目成美
さみだれのまたをとつ日に似たりけり 夏目成美
さみだれのみだれもくはし熊野道 千那
さみだれの三日三夜降たりけり 露川
さみだれの中に三度のけぶり哉 夏目成美
さみだれの名も心せよ節句哉 其角
さみだれの夜は音もせで明にけり 高井几董
さみだれの尻をくゝるや稲びかり 去来
さみだれの果ぬ匂ひや茗荷竹 桜井梅室
さみだれの水鶏鴬尾長鳥 松窓乙二
さみだれの漏て出て行庵かな 炭太祇
さみだれの猿と見られん旅姿 露川
さみだれの石に鑿する日数哉 黒柳召波
さみだれの空や月日のぬれ鼠 高井几董
さみだれの終歟海のくらくなる 完来
さみだれの美濃へおもむく男かな 浪化
さみだれはつらし若衆の馬合羽 旦藁
さみだれは喰ふてはこするたとへ哉 夏目成美
さみだれも伽になるほど老にけり 桜井梅室
さみだれも後の五月の小文哉 支考
さみだれも湊になりぬうつぼ草 鈴木道彦
さみだれやかい日の暮の牛の鞍 昌房
さみだれやさみせん聞ば月夜らし 寥松
さみだれやだまつて通る子規 露川
さみだれやつき上窓の時あかり 曽良
さみだれやとなりへかける丸木橋 素龍 炭俵
さみだれやとなりへ懸る丸木橋 素龍
さみだれやぬれ塩あぶる草の庵 許六
さみだれやふしぎに烟る山の家 成田蒼虬
さみだれやまだ朔日の大井河 許六
さみだれやわすれて居りし淡路島 成田蒼虬
さみだれや三線かぢるすまひ取 露印
さみだれや兎網干す家に弥陀 鈴木道彦
さみだれや匂ひ袋のひたしもの 支考
さみだれや君がこゝろのかくれ笠 其角
さみだれや吾かつしかは蕗の蔭 成美 成美家集
さみだれや夕食くふて立出る 荷兮
さみだれや夜の心のをもしろき 早野巴人
さみだれや夜半に貝吹まさり水 炭太祇
さみだれや夜明見はづす旅の宿 炭太祇
さみだれや夢かとおもふ宇津の山 馬場存義
さみだれや大河を前に家二軒 与謝蕪村
さみだれや妹と月見は久しぶり 東皐
さみだれや岸の山吹ふりしづめ 加藤曉台
さみだれや川を隔し友心 望月宋屋
さみだれや布へるやうに子規 野紅
さみだれや常来る人を思ひ出す 望月宋屋
さみだれや座敷立切客所帯 寂芝
さみだれや座頭の袴水をうつ 三宅嘯山
さみだれや庵のうしろは旅籠町 鈴木道彦
さみだれや是にも外を通る人 其角
さみだれや枯なん松に普門品 加舎白雄
さみだれや棹にふすぶる十団子 左柳
さみだれや植田の中のかいつぶり 泥足
さみだれや橙半黄なる時 支考
さみだれや死なぬ木曽路の丸木橋 早野巴人
さみだれや湯の樋外山に煙けり 其角
さみだれや焙炉にかける繭の臭 〔ブン〕村
さみだれや築地の内に霧の海 三宅嘯山
さみだれや美豆の小家の寝覚がち 与謝蕪村
さみだれや耳に忘れし鳶の声 三宅嘯山
さみだれや蓋して淋し荷ひ売 野坡
さみだれや蚯蚓の徹す鍋のそこ 服部嵐雪
さみだれや蜘出て見ても〜 三宅嘯山
さみだれや賀茂の社のみほつくし 三宅嘯山
さみだれや足弱連の物もらひ 三宅嘯山
さみだれや金魚飽るゝ煤の漏 鈴木道彦
さみだれや雲雀啼ほど晴て又 支考
さみだれや風つれて来て戸を扣ク 吾仲
さみだれや鯲作りか潦 挙白
 

 

五月雨せんかた尽て馴にけり 田川鳳朗
五月雨て黄鳥啼きぬ加賀やしき 長翠
五月雨となりて音なき日数かな 玉宇 新類題発句集
五月雨に*ほくたる状や嶋問屋 木導
五月雨にかたよる声や不断鶴 怒風
五月雨にかゝるや木曽の半駄賃 許六
五月雨にさながら渡る仁王かな 上島鬼貫
五月雨にしづむや紀伊の八庄司 去来
五月雨につらき詠や大井川 魯九
五月雨にながめ出したる屑屋哉 蘆本
五月雨ににごらぬ梅の疎影哉 支考
五月雨にぬれつくゞつゝ猫の恋 諷竹
五月雨にぬれてやあかき花柘榴 野坡
五月雨にもてあつかふははしご哉 里東
五月雨に一ト口わりなし虎が雨 蓼太 発句題叢
五月雨に何と思ふて飛蛍 十丈
五月雨に名月ありとしらなんだ 支考
五月雨に家ふり捨てなめくじり 凡兆
五月雨に心おもたし百合の花 破笠
五月雨に我は簑着て粽哉 中川乙由
五月雨に水の手切し小寺かな 鈴木道彦
五月雨に焼てへげたる石の面 杉風
五月雨に硯の水も濁りけり 木導
五月雨に筌ながるゝ瀬田の下 泥足
五月雨に胡桃かたまる山路かな 園女
五月雨に船で恋するすゞめかな 助然
五月雨に蛙のおよぐ戸口哉 杉風
五月雨に袖おもしろき小夜着哉 支考
五月雨に足こそ野辺の道しるべ 舎羅
五月雨に金はしめらぬ手わざかな 上島鬼貫
五月雨に針の印や三輪の杉 りん女
五月雨に関の岩角鳴わたれり 千那
五月雨に隣も遠く成にけり 如行
五月雨のあすは檜もたのみかな 夏目成美
五月雨のいせに鐘なき夕かな 井上士朗
五月雨のけしきを聞や一夜庵 野紅
五月雨のしめり暮てや置火燵 千川
五月雨のはなれ座敷や屋形船 越人
五月雨のよそに蕗のはながら蓮の池 杉風
五月雨の仕舞は竹に夕日哉 支考
五月雨の卒都婆何かは間の山 百里
五月雨の名をけがしたる日照哉 正秀
五月雨の夕日や見せて出雲崎 支考
五月雨の恋やもれなんあこや貝 りん女
五月雨の日数に切るゝ堤哉 亀洞
五月雨の晴間は麦のはしか哉 尚白
五月雨の晴間を不二の雪見かな 馬場存義
五月雨の汐屋にちかき焼火かな 支考
五月雨の爰ぞ噺の無尽蔵 露川
五月雨の猶も降べき小雨かな 高井几董
五月雨の空をくゞりて月夜哉 風国
五月雨の端居古き平家ヲうなりけり 嵐雪
五月雨の簑にはあらで猿衣 中川乙由
五月雨の色やよど川大和川 桃隣
五月雨の芒むら〜夜の明る 松窓乙二
五月雨の覚悟もなしや芦火焚 成田蒼虬
五月雨の道も見えけり杉の色 素行
五月雨の長き泪や誰が実 露川
五月雨の降埋めてやせとの汐 成田蒼虬
五月雨の雲かと立るいその松 野坡
五月雨の雲に針さす所なし 北枝
五月雨の雲も休むか法の声 其角 五元集
五月雨の音を聞わくひとり哉 加舎白雄
五月雨はただ降るものと覚けり 上島鬼貫
五月雨は下へながれて川もなし 知足
五月雨は傘に音なきを雨間哉 亀洞
五月雨は烏のなかぬ夜明哉 介我
五月雨まけた守敏が執ならん 鈴木道彦
五月雨も月漏りかはれ板庇 寥松
五月雨やうき世揃はぬ大布子 百里
五月雨やきのふ見廻はでけふははや 北枝
五月雨やけぶりは出ず家の内 白雪
五月雨やさ川でくさる初茄子 其角
五月雨やつぶれてのきし岩のかど りん女
五月雨やながう預る紙づゝみ 杉風
五月雨やひとりはなるゝ弓の弦 加藤曉台
五月雨やひと夜嵐のかへし雲 加舎白雄
五月雨やひろふた鯉も鵜の觜目 洒堂
五月雨やふり草臥し空のいろ 木導
五月雨やまくら借たる桑の奥 建部巣兆
五月雨やまたも人とる田むら川 露川
五月雨やみだれみだるゝ藪の中 寂芝
五月雨やむかし井筒の有し跡 馬場存義
五月雨や一声売し物の本 兀峰
五月雨や一日の髪の儘で居ル 浪化
五月雨や三日見つめし黒茶碗 夏目成美
五月雨や上へ様領の渡し守 許六
五月雨や両国橋の股へつく 可圭 梨園
五月雨や乾くものには塩烟 吐月 発句類聚
五月雨や二階の曲も滝おとし 中川乙由
五月雨や使者馬の尾をなげ嶋田 白雲 太郎河
五月雨や傘に付たる小人形 其角
五月雨や又一しきり猫の恋 白雪
五月雨や合羽の下の雨いきり 北枝
五月雨や君が心のかくれ笠 其角
五月雨や品はかはらぬ浦の舟 路健
五月雨や土人形のむかひ店 野坡
五月雨や夕日しばらく雲のやれ 魯九
五月雨や夜かと思へば炊ぐ音 望月宋屋
五月雨や奇特に竹の朝雀 桜井梅室
五月雨や奥は手を打客模様 助然
五月雨や富士の煙の其後ハ 其角
五月雨や富士の高根のもえて居る 椎本才麿
五月雨や山もかくれてなごの海 蝶羽
五月雨や川うちわたす蓑の裾 炭太祇
五月雨や折〜出る竹の蝶 三浦樗良
五月雨や挑灯消しの顔の皺 野坡
五月雨や日の有ものをねぶの花 寂芝
五月雨や昼の鶏聞もしほ草 釣壺
五月雨や昼寐の夢にうつの山 黒柳召波
五月雨や昼寝の夢と老にける 望月宋屋
五月雨や晴て並木の馬の沓 程已
五月雨や晴て茶の木の二番摘み 句空
五月雨や月は通さぬ不破の関 越人
五月雨や木魚も登る滝の音 中川乙由
五月雨や本船町のあらひ桶 素丸 素丸発句集
五月雨や枕もひくき礒の宿 成田蒼虬
五月雨や梅の葉寒き風の色 椎本才麿
五月雨や浮言物語かりにやる 木節
五月雨や淀の小橋は水行灯 西鶴
五月雨や滄海を衡く濁水 与謝蕪村
五月雨や火燵の明て茶のにほひ 寂芝
五月雨や煮売におつるさくら鯛 完来
五月雨や猫かりに来る舩の者 卓池
五月雨や田舟の中に啼く蛙 馬場存義
五月雨や真菰見てのみくらす家 鈴木道彦
五月雨や真野の長者の菅を刈 建部巣兆
五月雨や硯箱なる蕃椒 嵐雪
五月雨や竜頭揚る番太郎 桃青 江戸新道
五月雨や色紙はげたる古屏風 園女
五月雨や芝居屋ぐらの麾二本 嵐青
五月雨や苔むす庵のかうの物 凡兆
五月雨や草鞋の緒迄笑縄 濁子
五月雨や葉守の神もおはす庭 松窓乙二
五月雨や蚓の潜ル鍋の底 嵐雪
五月雨や西もひがしも本願寺 夏目成美
五月雨や親の建たる家の内 三宅嘯山
五月雨や請合ツてやる京足駄 之悦 江戸名物鹿子
五月雨や踵よごれぬ磯伝ひ 沾圃
五月雨や躰身はらふ青葛 野坡
五月雨や軒より落るあやめ草 井上士朗
五月雨や雲雀鳴ほど晴て又 支考
五月雨や露の葉にもる*やまごぼう 嵐蘭
五月雨や顔も枕もものゝ本 岱水
五月雨や馬でつけ出す馬の沓 木導
五月雨や馬屋はあれど茶の匂ひ 路健
五月雨や鮓の重しもなめくじり 上島鬼貫
五月雨や鼻ひる音も麦の中 沙明
五月雨を何とかしまの御斎 鈴木道彦
五月雨を甲出す日にわかれけり 水颯
五月雨を跡に置つつ有馬菅 上島鬼貫
五月雨槎キ流れん天の川 三宅嘯山
 

 

あせくさき簑の雫や五月雨 木導
あやめ真菰夏さだまりて五月雨るゝ 長翠
いざ古茶の名残惜まん五月雨 露川
いとゞ袖ぬるゝ日もあり五月雨 桜井梅室
いろ〜にとふふも烹たり五月雨 長翠
うしの子の鍋を飛越ス五月雨や 琴風
うたゝねのかほのゆがみや五月雨 釣壺
うちあげるぬれたる桑や五月雨 木導
くさ斗あふひほこへし五月雨 土芳
けふともに幾日降ぞや五月雨 芙雀
この比は小粒になりぬ五月雨 尚白
さく〜と篶苅音もさみだれぞ 寥松
さしまぜて屋根のふるびや五月雨 卓袋
せめてもの鳥きく夜あり五月雨 望月宋屋
つゆの身をもてあつかふや五月雨 夏目成美
つれ〜に水風呂たくや五月雨 炭太祇
つゞくりもはてなし坂や五月雨 去来
にくまれて川越人や五月雨 りん女
ねる事はたれにもまけじ五月雨 舎羅
はゝ木々や人馬へだつる五月雨 其角
ひた〜と着物身につく五月雨 高桑闌更
ひとりかつ鷺の白さよ五月雨 井上士朗
ひね麦の味なき空や五月雨 木節
ふっと出て関より帰ル五月雨 曽良
ぼん〜と荷をうつ音や五月雨 牧童
もたれあひてみなもろかづらさみだるゝ 加舎白雄
ゆり若も起てしかるや五月雨 露川
わづかなる青雲ゆかし五月雨 怒風
わや〜と人足宿や五月雨 木導
をし鳥のきたなく成ぬ五月雨 尚白
一夜さに植田澄すや五月雨 露川
一日は物あたらしき五月雨 炭太祇
一隅も昼の空なし五月雨 田川鳳朗
三味線や寝衣にくるむ五月雨 其角
三味線や芳野の山を五月雨 曲翠
世の無常けふぞ覚えて五月雨 十丈
乗合の舟のいきれや五月雨 木導
人いづこ竹のさみだれ竹の月 支考
俤のひたとゝぎるゝ五月雨 梢風尼
傘も化るは古し五月雨 荻人
八専のうちぞともいふ五月雨 加舎白雄
其枝やその名ばかりに五月雨 荻人
別かなし身は五月雨の菰一ッ 三浦樗良
君しばしさみだれの中の夕立ぞ 加舎白雄
呑みし乳をかへすぞ目より五月雨 田中常矩
味噌水もさみだれくさくなりにけり 夏目成美
咄しさへうちしめりけり五月雨 木導
唐崎の松は見えけり五月雨 桜井梅室
四月より土用前まで五月雨 許六
塩鮭のあぶらたるなり五月雨 加藤曉台
声白し石町の鐘五月雨 濯資 富士石
夜は猶おもひゆられて五月雨 松岡青蘿
夜までの意味は誰しる五月雨 凉菟
大名も膝に娘や五月雨 露川
天の浮橋水辺に成べし五月雨 牧童
女房のみのり覗や五月雨 鼠弾
好里に来て五月雨に降れけり 魯九
富土に目はやらでも寒し五月雨 池西言水
寝る事を覚えてみばや五月雨 一笑(金沢)
居所のほこりはらふや五月雨 玄梅
山ありて舟橋ありて五月雨 浪化
山寺や鼠めし曳五月雨 杜国
山鳥のおろ〜なきや五月雨 嵐雪
川音の入組にけり五月雨 卯七
戸羽川や夕立ならば五月雨 蘆文
折〜や雷に寝なをる五月雨 乙訓
挑灯の底ぬかしけり五月雨 田川鳳朗
搗臼の尻の重さや五月雨 許六
旅びとや曽我の里とふ五月雨 炭太祇
日をまてや幾日五月雨鈍り節 其角
昼寐する畳あたらし五月雨 旦藁
枇杷の葉は市に濡れけり五月雨 沾徳 其便
梦(ゆめ)にみるものゝ暗みや五月雨 五明
椽側の片搗麦や五月雨 東皐
模様せぬ酒のしこりや五月雨 玄梅
毛氈を達磨に着ルや五月雨 白雪
気のくさる空や〜の五月雨 傘下
水に浮豆腐や曇る五月雨 杉風
水汲に傘侘し五月雨 土芳
水海を見ばや田植の五月雨 路健
沼田への七里や楢にさみだるゝ 鈴木道彦
洗ひ屋の藍の濁りや五月雨 許六
海を鏡さみだれ山も雪の時 吾仲
海山に五月雨そふや一くらみ 凡兆
湖の水まさりけり五月雨 向井去来
湖へ不二を戻すか五月雨 田川鳳朗
濁江の影ふり埋め五月雨 露印
灰ふきや下水つかへて五月雨 山夕 板東太郎
無病さや物うちくふて五月雨 史邦
無縁寺の土も沈むや五月雨 朱廸
焼刃焼く天気も見えず五月雨 許六
燕もかはく色なし五月雨 其角
牛ながす村のさはぎや五月雨 諷竹
物あぶる染どのふかし五月雨 炭太祇
畳売て出られよ旅へ五月雨 洒堂
皃につく*蚊帳のしめりや五月雨 黒柳召波
皃ぬぐふ田子のもすそや五月雨 其角
相娵の中に立名や五月雨 路青
短夜のうらみもどすや五月雨 千代尼
砂漉の水のわるさや五月雨 許六
空も地もひとつになりぬ五月雨 杉風
立のぼる霧の日数や五月雨 卯七
笹の葉に風もをさまり五月雨 露川
筆結ひの心もほそる五月雨 北枝
縫物や着もせでよごす五月雨 羽紅女
蔵の戸をあはせて淋し五月雨 桜井梅室
虹立や寐た内すぎし五月雨 助然
蛙子もおよぐ手出来て五月雨 中川乙由
蝶に羽のあるも不思義や五月雨 桜井梅室
行方なき蟻のすさびや五月雨 加藤曉台
行燈で来る夜送ル夜五月雨 嵐雪
見たい顔橋も落たり五月雨 りん女
観音の頬杖はなを五月雨 露川
質にやる月さへ持ぬさみだれや 寥松
道端を真虫のをよぐ五月雨 車庸
里の子の五月雨髪や田植笠 許六
鉦の緒の握りごゝろや五月雨 許六
隅に巣を鷺こそねらへ五月雨 其角
雪の日にいづれ山家の五月雨 桜井梅室
雪解も果なし利根の五月雨 桜井梅室
青のりの色も替や五月雨 許六
青海苔の色もかはるや五月雨 許六
頭をさげて馬も歩むや五月雨 荊口
飼鳥の目にもつ露や五月雨 三宅嘯山
髪剃や一夜に金精て五月雨 凡兆
鬼門射る弓もゆがみぬ五月雨 兀峰
鳥の子の卵出しより五月雨 加藤曉台
麦めしに寐起も安し五月雨 吾仲
龍宮でつく鐘の音歟五月雨 松窓乙二 
 
 

 



2022/6
 
 
 

 

●瀬戸内寂聴
[1922/5/15 - 2021/11/9] 日本の小説家、天台宗の尼僧。俗名:晴美(はるみ)。僧位は権大僧正。1997年文化功労者、2006年文化勲章。位階は従三位。学歴は徳島県立高等女学校(現:徳島県立城東高等学校)、東京女子大学国語専攻部卒業。元天台寺住職、同名誉住職。元比叡山延暦寺禅光坊住職。元敦賀短期大学(当時は敦賀女子短期大学)学長。徳島市名誉市民、京都市名誉市民、二戸市名誉市民。作家としての代表作は、『夏の終り』『花に問え』『場所』など多数。1988年以降は『源氏物語』に関連する著作が多く、新潮同人雑誌賞を皮切りに、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞などを受賞した。大正・昭和・平成・令和と4つの時代を生きた作家である。
経歴​
徳島県徳島市塀裏町(現・幸町)の仏壇店(瀬戸内商店)を営む三谷豊吉・コハルの次女、三谷晴美として生まれる。体が弱く、本を読むのが好きな子供だった。後に父が従祖母・瀬戸内いとと養子縁組したため、晴美も徳島高等女学校時代に三谷から瀬戸内姓に改姓。
東京女子大学在学中の1942年に20歳で酒井悌(1913-1992 徳島市生)と見合いして婚約。1943年2月に結婚し、10月に夫の任地北京に渡る。1944年8月1日、女の子を出産。1945年6月夫が召集、8月終戦と共に帰宅。1946年、8月に一家3人で徳島に引き揚げ、夫の教え子の文学青年と不倫、夫に打ち明ける(晴美25歳 夫34歳 相手21歳)。1947年秋に一家3人で上京。
1948年に夫と3歳の長女を棄て家を出て京都で生活。大翠書院などに勤めながら、初めて書いた小説「ピグマリオンの恋」を福田恆存に送る。
1950年に正式に離婚(長女とは後年出家後に和解したという)。上京して本格的に小説家を目指し、かつての本名であった三谷晴美のペンネームで少女小説を投稿、『少女世界』誌に掲載され、三谷佐知子のペンネームで『ひまわり』誌の懸賞小説に入選。少女世界社、ひまわり社、小学館、講談社で少女小説や童話を書く。また丹羽文雄を訪ねて同人誌『文学者』に参加、解散後は『Z』に参加。
本格的に作家デビュー​
1956年、処女作「痛い靴」を『文学者』に発表、1957年「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞を受賞。その受賞第1作『花芯』で、ポルノ小説であるとの批判にさらされ、批評家より「子宮作家」とレッテルを貼られる。
その後数年間は文芸雑誌からの執筆依頼がなくなり、『講談倶楽部』『婦人公論』その他の大衆雑誌、週刊誌等で作品を発表。
1959年から同人誌『無名誌』に『田村俊子』の連載を開始。並行して『東京新聞』に初の長編小説『女の海』を連載。この時期の小田仁二郎や元夫の教え子との不倫(三角関係)の恋愛体験を描いた『夏の終り』で1963年の女流文学賞を受賞し、作家としての地位を確立する。
1966年、井上光晴と高松へ講演旅行、恋愛関係になる。1973年、井上との関係を絶つために出家。
以後数多くの恋愛小説、伝記小説を書き人気作家となるが、30年間、純文学の賞、大衆文学の賞ともに受賞はなかった。
人気作家となって以降​
1988年に出した『寂聴 般若心経』は1年で43万部を売るベストセラーとなる。1992年、一遍上人を描いた『花に問え』で谷崎潤一郎賞を受賞した。『源氏物語』の現代日本語文法訳でも、その名を知られている。
2007年8月11日、館長を務める徳島県立文学書道館(徳島市)での講演で、加齢黄斑変性のため右目が大部分見えなくなったことを明かした。
2008年には、いわゆる「ケータイ小説」のジャンルにも進出。スターツ出版が運営するケータイ小説サイト「野いちご」に、小説「あしたの虹」を「ぱーぷる」のペンネームで執筆していたことを、9月24日の記者会見で明らかにした。
2010年に脊椎を圧迫骨折し、半年間寝たきりの生活を余儀なくされる。
2014年、2度目の圧迫骨折治療中の検査で胆嚢がんが発見されたが、医師からは90歳を過ぎて手術をする人はいないと言われたものの、瀬戸内は「すぐに取ってください」とその場で決断、手術は成功。通常使用量の倍の薬でも収まらなかった腰の痛みは、がん騒動のうちに忘れていたという。その後復帰。
2015年11月4日には、テレビ朝日「徹子の部屋」に出演。入院中には激痛に耐えかね、「もう神も仏もない」と語った逸話が明かされた。番組では、がんは完治、痛みも全くなく酒を飲んでいると語った。
死去​
2021年11月9日6時3分、心不全のため京都市内の病院で死去。99歳没。訃報は同月11日に公表された。法名は「Y文心院大僧正寂聴大法尼」。亡くなる約1か月前から体調不良のため、入院療養していた。日本国政府は死没日をもって従三位に叙した。12月9日、寂庵で「偲ぶ会」が行われた。
出家​
1973年に51歳で今春聴(今東光)大僧正を師僧として中尊寺において天台宗で得度、法名を寂聴とする。当時は、出家しても戸籍名を変えなくてもよくなっていたため、銀行の手続きなど俗事の煩わしさを嫌い、戸籍名はそのままにし、仏事の面だけで法名を併用。作家としては出家後も俗名を名乗り続けたが、1987年、東北天台寺住職となった時点で戸籍名を寂聴に改め、寂聴名義での執筆活動を開始した。
1974年、比叡山横川の行院で60日間の行を経て、京都嵯峨野で寂庵と名付けた庵に居す。尼僧としての活動も熱心で、週末には青空説法(天台寺説法)として、法話を行っていた。満行後の行院の道場の板の間での記者会見に臨んだ時、初めて尼僧になったことを実感したという。
40人余りの行院生の中で尼僧は寂聴を含め5人であった。うち2人には夫があり、髪があった。5人の尼僧の中で霊感のないのは寂聴だけであった。得度に際し、今春聴より髪はどうするのかを聞かれ、即座に「落とします」と答えた。次に「ところで、下半身はどうする?」と聞かれ、「断ちます」と答えたところ、今は「ふうん、別に断たなくてもいいんだよ」とつぶやいたが、その後2人の間ではその話が交わされることはなかった。寂聴が頭を剃り、性を絶つと答えたのは、自信がなく将来に不安があったためで、その時は多分に気負っていたと後に書いている。
寂聴にとって、護摩焚きは非常にエロティックなものだった。密教の四度加行での護摩焚きの際には、印をエロティックな型だと思い、観想のための文から不動明王の怒張した男性器を連想するなどする。仏教の目指す究極の境地、至境は、いずれも秘教であることは寂聴に勇気を与えた。密教の行では、再生する命を感得し、先の1か月の顕教の行では味わえなかった宇宙の生命の輝き、それに直結し一体化する自己の無限の拡充、恍惚を味わう。寂聴はかねてより、岡本かの子の晩年に小説を花開かせたものが、浄土真宗でも禅宗でもなく密教の宇宙の大生命賛歌の思想ではないかと睨んでいたことを、横川で確認できた。
密教の行に入り10日くらいした頃、風呂場の掃除のために湯殿の戸を開けた途端、誰もいないと思っていた脱衣場に濡れた全裸の男が寂聴の方に向いて仁王立ちしていた。行院生の中でもずば抜けて背の高く、誰よりも大声でお経を怒鳴る若者であった。寂聴の目に臍下の黒々とした密林とその中からまさしく不動明王の如くにそそり立つ怒れる剣のごときものがまともに目に入る。次の瞬間、顔を真っ赤にした男と寂聴は声を合わせて大笑いした。精力の有り余る男は、早朝の作務に入る一時を盗んで全身に水を浴びていたのだった。寂聴がその裸体に動じなかったのは、枯れていたわけでも修業で心が澄んでいたわけでもなく、そのもの自体がグロテスクなだけで、美的でもかわいいものでもなかったということだったと書いている。
思想・信条​
原子力発電にも反対の立場であり「反原発運動に残りの生涯は携わりたい」とインタビューで述べていた。2012年5月2日、脱原発を求める市民団体が脱原発を求めて決行したハンガーストライキに参加。ハンガーストライキは日没(半日程度)まで行われた。
2000年には岡村勲の手記に感銘を受けて犯罪被害者の会の設立に関与したが、2016年10月6日、日本弁護士連合会が開催した死刑制度に反対するシンポジウムにて、瀬戸内がビデオメッセージで死刑制度を批判した上で「殺したがるばかどもと戦ってください」と発言し、批判を受けた。この発言に対して会場にいた全国犯罪被害者の会(あすの会)のメンバーや犯罪被害者を支援する弁護士(「あすの会」顧問の岡村勲ら)らは「被害者の気持ちを踏みにじる言葉だ」と抗議した。また、この言葉について闇サイト殺人事件の被害者遺族(実行犯3人全員に対する死刑を求めたが、この事件の裁判で死刑が確定したのは1人のみだった)は2016年12月17日に犯罪被害者支援弁護士フォーラムが東京都千代田区の星陵会館ホールで開いたシンポジウムで基調講演した際にこの言葉を非難し「(なぜ死刑制度に賛成する我々被害者遺族が)『殺したがるバカども』と罵倒されなければならないのでしょうか。この言葉は(実際に人を殺した)加害者に向けるべき言葉ではないでしょうか」と真っ向から反論した。なお、後に『殺したがるバカども』とは政府や国に向けた言葉であり、当然被害者家族に向けての言葉ではない、とした上で『言葉足らずで、僧侶が使うべき言葉ではなかった。バカは私。』と著書にて語っている。
「一人歩き続け、野に果てる人生を」 瀬戸内寂聴さん現世に別れ 2021/11/9
作家として、尼僧として時代を駆け抜けた瀬戸内寂聴さんが9日、現世に別れを告げた。結婚、出産、駆け落ち、そして出家。自身の生き方と重ね合わせた多くの小説、エッセーを発表する傍ら、社会的な運動にも積極的にかかわった。波瀾(はらん)万丈の人生は、小説に人間的な血肉を通わせ、多くの読者の共感を得た。
瀬戸内寂聴さんの著作リストベストセラー作家として波に乗っていた時期の突然の得度は、世間を仰天させた。得度式の5日後、瀬戸内さんは本紙に手記「念願成就」を寄せている。てい髪の瞬間を「いささかの不安も危惧もなかった」と振り返り、「私の生きて来た50年の歳月のすべてに出家の動機の仏縁は御仏(みほとけ)の手でひそかに結び付けられていたのであろう。私の今後の生き方でしか、それは人に示すことが出来(でき)ないのではないだろうか」とつづった。そして瀬戸内さんは、「今後の生き方」で見事に出家の意味を示した。功績の一つが「源氏物語」現代語訳の完成だ。13歳で与謝野晶子訳に出会って以来、「源氏」は座右の書だった。瀬戸内さんは、光源氏と関係を持った女性の多くが出家していることに着目。さらに、宮中の権力争いを現代の出世競争などに置き換え、自らの出家体験を踏まえて現代社会にうまく照らし合わせた。その作業、足かけ約6年。「今までの現代語訳の中で最も分かりやすい」と大ベストセラーになった。
また、忘れてならないのが、瀬戸内さんの社会活動だ。「徳島ラジオ商殺し事件」では、容疑者とされた被害者の妻、故・冨士茂子さんを支援。故・市川房枝さんらと支援組織を結成し、死後再審、無罪となるまで26年間、冨士さんとその親族を励まし続けた。事件現場と実家がすぐ近くという同郷の縁だけでなく、冨士さんの犯行動機を「内縁の夫の女性関係に対する嫉妬心と将来への不安」と決めつけた検察への不信が、瀬戸内さんを立ち上がらせた。連合赤軍事件の永田洋子元死刑囚(故人)との書簡交流を通して、死刑廃止論の立場を唱えた。著書には「なぜなら、自分もまた表だって罪をおかさないだけで、心は罪でみちみちているからだ」(「罪をも許す」)と書かれている。出家して悟った心の表れだった。
●文学賞 瀬戸内晴美(寂聴)  
●1956年11月 第3回 / 同人雑誌賞 / 「女子大生・曲愛玲」 / 受賞
●1961年 第1回 / 田村俊子賞 / 「田村俊子」 / 受賞
●1963年 第2回 / 女流文学賞 / 「夏の終り」 / 受賞
1963年07月 第49回 / 直木三十五賞 / 「あふれるもの」 / 候補
 ――「あふれるもの」書評 (『新潮』昭和38年/1963年5月号)――
川口松太郎「将来のあるどころか、既に流行児にもなっているし、なお一そう励ます意味で入選させてもいいではないかといったが、これも否決。」
村上元三「いろんな作家が扱い古した男と女の話で、いまさらうまいとも新しい、とも感じない。」
源氏鶏太「「あふれるもの」よりも、私には、「夏の終り」がよかったし、「夏の終り」という単行本が対象になったら、やすやすと通ったのでなかろうか。」
木々高太郎「この人の癖がわるいままに出ているのではないか。その癖はまだそのまま売れる癖だと思う前に、一度癖を改めてみることである。」
海音寺潮五郎「男の目から見れば、馬鹿な、そのくせ可愛さをそそり立てる女の一面が実にあざやかに書けている。」「そんなものの書ける女流の作家の出て来たことを、よろこびたい。」
松本清張「手馴れた確かさはあるが、それだけに作品がうすい感じがした。」「瀬戸内氏にはこのシリーズものでない別な作品を求めたい。」
小島政二郎「一番心を引かれた」「外の人の作品を抜いてうまいし、女でなければ書けない世界を書いている点、新鮮だった。」「しかし、この作者は直木賞にするには余りに有名すぎる。」
1970年 第6回 / 谷崎潤一郎賞 / 『蘭を焼く』 / 候補
1971年03月 第3回 / 日本文学大賞 / 『遠い声』 / 候補
1972年10月 第26回 / 毎日出版文化賞 / 『余白の春』 / 候補
1979年 第32回 / 野間文芸賞 / 『比叡』 / 候補
1984年 第37回 / 野間文芸賞 / 『ここ過ぎて――白秋と三人の妻』 / 候補
●1992年 第28回 / 谷崎潤一郎賞(寂聴名義) / 『花に問え』 / 受賞
1995年10月 第23回 / 泉鏡花文学賞(寂聴名義) / 『愛死』 / 候補
●1996年03月 第46回 / 芸術選奨文部科学大臣賞(寂聴名義) / 『白道』 / 受賞
●2001年 第54回 / 野間文芸賞(寂聴名義) / 『場所』 / 受賞
●2006年 / 文化勲章 / 受章
●2011年10月 第39回 / 泉鏡花文学賞(寂聴名義) / 『風景』 / 受賞
●2018年 / 星野立子賞 / 『句集ひとり』 / 受賞 
 
 
 
 

 

●白寿で亡くなった瀬戸内寂聴さんを偲ぶ――「愛し、書き、祈った」
瀬戸内寂聴さんが亡くなりました。享年99。2022年5月15日には100歳の誕生日を迎えることになるがわずかに届かなかった。宇野千代と同じ99の白寿です。
東京女子大学国語専攻部卒業。代表作には『夏の終り』や『花に問え』『場所』など多数。新潮同人雑誌賞、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞などを受賞している。1997年文化功労者、2006年文化勲章。
『寂聴 九十七歳の遺言』(朝日選書)を読んだ。500冊近くの本を刊行している。89歳のインタビューを聞いていたら、作品は、「300か、400近いわね」と言っていたから、この10年で100から200冊になっている。怒涛の仕事量だ。どこまで積み上がっていくのだろうか。見ものである。
「百冊の本を読むよりも、一度の真剣な恋愛の方が、はるかに人間の心を、人生を豊かにします」「4歳年下の作家、井上光晴と8年間の不倫は43歳から51歳まで。
出家することは生きながら死ぬ事。井上光晴の娘について「井上荒野(あれの)の方がずっと才能があります」と語っている。荒野は「切羽へ」での直木賞をとっている作家だ。出家は、4つ年下の井上光晴との関係の清算が動機だったという説がある。5月15日は井上光晴生まれた日であるが、実は寂聴の誕生日でもある。二人は同日生まれだ。これも小説的だ。
「男は代えれば代えるるほど悪くなる」「何が一番嬉しいかと考えたら、やはり自分の本が世にでることなんです」「発見する。もっと違うことが書けるかもしれない」「私なんか、ではなく、私こそ」「百歳近くになってもやはり人間は変わる」「書くことが生きること」。
日本経済新聞に毎週連載していた「奇縁まんだら」という読み物があった。瀬戸内寂聴の筆になる著名作家たちとの交友録で、意外で面白い人間的なエピソードが込められており、読むのを楽しみにしていた。この好評連載が一冊の本になっている。
21人の登場人物のうち一人を除いて全員が寂聴よりも年上でそれぞれが文壇の大家たちだ。1872年生まれの島崎藤村から1923年生まれの遠藤周作までである。順番に並べてみると、島崎藤村、正宗白鳥、川端康成、三島由紀夫、谷崎潤一郎、佐藤春夫、舟橋聖一、丹羽文雄、稲垣足穂、宇野千代、今東光、松本清張、河盛好蔵、荒畑寒村、岡本太郎、壇一雄、平林たい子、平野謙、遠藤周作、水上勉。それぞれが一家をなす歴史的人物といってもよい人たちだ。
当時86歳の寂聴は、長かった茫々の歳月で愉しかったことは人との出逢いとおびただしい縁だったと述懐している。長く生きた余徳は、それらの人々の生の肉声を聞き、かざらない表情をじかに見たことだっという。先にあげた作家たちにこの言葉を当てはめるとそれは愉しい人生だっただろと深く納得する。
寂聴は、毎回それぞれの人物の業績、その人と自分との縁、創作の秘密、そして自分の人生行路を重ね合わせながらユーモアたっぷりに健筆をふるっている。また美男の作家たちの容姿をややミーハー的に活写したり、女流作家についても赤裸々にその行状を書くなど、またそれぞれの運命的な、あるいは濃密な男女関係をあたたかい目で観察していて、読んでいて豊かな気分にさせてくれる。
たとえば「惚れ惚れするような美男ぶりであった。鼻筋が通って、、、、、白鶴のような、すがすがしい姿であった。そこだけ涼しい風が吹いているよに見えた」は島崎藤村の描写である。「小説家というより、現役の女優のように見えた。、、まわりには虹色のオーラが輝き、どの作家たちよりも美しく存在感があった」。
豊かな恋愛体験の中でどなたが一番お好きでしたかという問いに、「尾崎士郎!、二番目も、三番目も四番目も尾崎士郎!」と言ったのは、宇野千代だ。
これほどの人たちとの親交がなぜできたのだろうか。人懐っこい性格、機敏な駆動力、世話好き、そして本人の言うように美人でないことが警戒心を解き、幸いしたのだろう。また初対面の人には手相を観ることで一気に相手の懐に飛び込んでいくという若いころからの手練も中で明らかにしている。
寂聴は、娘時代に藤村を見て小説家を志し、28歳で小説家になることを決心し、35歳で最初の小さな賞をもらっている。それぞれの節目には必ず、この本であげた作家たちとの縁がある。
寂聴は、大作家たちとの交友、旅行などを楽しみながら、同業の先輩たちの創作の方法や秘密を鋭く観察している。松本清張の講演の見事さは口述筆記の訓練によるものだった。舟橋聖一は63歳で書いた「好きな女の胸飾り」以降、すべての作品は、口述筆記になった。岡本かの子の作品は、夫の一平や同居者の手が入っている。その子の岡本太郎は、書斎を獣のように歩き廻りながら言葉を発し、養女の敏子がペンで口述筆記し、できあがった作品は敏子の名文で整えられ、わかり易く、高尚になっていく。それは合作といってよかったと書いている。そして絵もこの敏子との合作だった様子がわかる。これは岡本家の芸術造りの方法だったという観察である。
51歳で出家のお願いに行ったときの今東光とのやりとりもすさまじい。「頭はどうする?」「剃ります」「下半身はどうする?」「断ちます」それだけであった。今東光からもらった寂聴という法名は「出離者は寂なるか梵音(ぼんのん)を聴く」という意味だそうだ。
寂聴の書くものは、常に人物がその対象になっているようだ。興味ある人物を調べ、取材し、それを評伝という客観的な形ではなく、作者の想像と創造が許される小説という形式に仕上げていく。これが瀬戸内寂聴の小説造りの方法だということもわかった。
自分を中心に縁のあった大きな人物たちが幾重にも取り囲んでいる姿が寂聴の頭の中にあり、それは「まんだら」であり、この本のタイトルとなった。この本を読み切ったあとに感じるのは「奇縁まんだら」というタイトルそのものの内容であるということだ。横尾忠則の人物絵も楽しめる。
「続」は、2008年の1月12日から12月28日にわたって連載されたエッセイをまとめたものだ。前作は、島崎藤村、川端康成、三島由起夫、谷崎潤一郎、宇野千代、松本清張、遠藤周作、、と絢爛豪華だったが、「続」は時代が少し下がっていて、そういう意味では私にも馴染みがある作家たちが並んでいる。寂聴より年上の人が多いが、年下もいる。そして全員がすでに鬼籍に入っている。その人たちを米寿を迎えた寂聴が愛情を持って描いて赤裸々に描いている。
各人の紹介では、必ず生年と没年と、享年が書かれている。また本文でも寂聴との上下の年齢差が記してあり、寂聴の立ち位置がわかる。また、それぞれの前作で異常な人気を博した横尾忠則の肖像画に加え、墓の写真と霊園の名前と場所が記されているなど、編集の統一がとれている。
この本は人物論の一種であるが、書き出しもうまい。
「正月になると思いだす人がいる。菊田一夫さんである」「開高健さんは、親しくなった頃からすでに肥っていた」「城夏子--何だか宝塚のスターのようなロマンチックで、オトメチックな名を覚えたのは早かった」「柴田錬三郎さんは誰もフルネームで呼ぶ人はいなかった。「シバレン」で天下に通っていた」「江国さんは、、、、。ほとんど笑顔など見せないので、老成した感じがした」 (江国先生とは、私のビジネスマン時代に何度かお会いしている。ある雰囲気のいい料理屋で見事な手品を見せてもらったことを思い出した)。「黒岩さんはハンサムだった」「島尾敏雄さんはハンサムだった」「一度何した女とは別れたあとも、旅の度土産物を届けることにしている」のは、菊田一夫。「残寒やこの俺がこの俺が癌」「おい癌め 酌み交わさうぜ秋の酒」と詠んだのは、江国滋。「ゆく春や身に幸せの割烹着」「蛍火や女の道をふみはづし」と詠んだのは、鈴木真砂女。「私と瀬戸内さんは男の趣味が同じなのね。、、」続いてCの話をして、Cに目下一番興味があると言った。その時、私はCとはそういう関係だったので、思いがけない不快さを感じた、と寂聴に書かせた大庭みな子。
「あんたのようなわがままな人と長くつきあえる人間はおれくらいのもんだ」と威張ったが、私の側にも言わせてもえらえば、同じ言葉になる。と寂聴に書かせた井上光晴。
88年の歳月を必死に生きて、小説を書いて、多くの作家たちと交流した寂聴の自伝でもあり、文壇史でもある正と続のこの本は、人物論としても、文壇外史としても、一級のエンターテイメント性を備えている。多作な寂聴ではあるが、これは代表作として後世にも読まれ続ける息の長い本となるだろう。
25歳、娘を残し家出する。瀬戸内寂聴句集『ひとり』には、「子を捨てしわれに母の日喪のごとく」というすさまじい句がある。「人が生きるということは、命と同時にその人にのみに授けられた才能の芽を心をこめて育て、大輪の花を咲かせることにつきると思います」「人間って守りに入った瞬間から年をとるんじゃないかしら」などの名言もある。
岩手に用意してある墓には 「愛し、書き、祈った」と刻まれている。寂聴の長い波乱の生涯は、この短い一言に尽きているのだろう。執筆と並んで、講話を行い多くの女性に勇気と希望を与えたことも素晴らしい。瀬戸内寂聴は100歳の百寿者、センテナリアンにはわずかに届かなった。 

 

●瀬戸内寂聴の言集 
一日一日を大切に過ごして下さい。そして、『今日はいい事がある。いい事がやってくる』『今日はやりたい事が最後までできるんだ』この事を思って生活してみて下さい。
今日も一日これでがんばれます!
心を込めて看病してきた人を亡くし、もっと何かしてあげればよかったと悲しみ悔んでも、亡くなった方は喜びません。メソメソしているあなたを見てハラハラしていることでしょう。早く元気を取り戻して下さい。
「もう十分看病してくれましたよーありがとうー」って思ってますよーきっと
人に憎しみを持たないようにすると、必ず綺麗(きれい)になりますよ。やさしい心と奉仕の精神が美しさと若さを保つ何よりの化粧品なのです。
これ、女性だけでなく男性にとっても大事なことだと思うのです。
妻は、やさしくされることを望んでいるだけではない。やさしい心で理解されることを望んでいる。
男性の方、女心わかりますか???
年を取るということは、人の言うことを聞かないでいいということだと思います。あとちょっとしか生きないんだからと好きなことをしたらいいんです。周りを気にして人生を狭く生きることはありません。
おじいちゃんおばあちゃんには好きなことをしてもらいたいですねー老後は楽しく生きましょう!!!
心の風通しを良くしておきましょう。誰にも悩みを聞いてもらえずうつむいていると病気になります。信頼できる人に相談して、心をすっとさせましょう。
心にもやもやをためてはいけませんね!窓をあけて、いつも気持ちよいこころでいたいですねー
人間は万能の神でも仏でもないのですから、人を完全に理解することもできないし、良かれと思ったことで人を傷つけることもあります。そういう繰り返しの中で、人は何かに許されて生きているのです。
相手の気持ちが正確に読めたらなぁ、と思ったりもするのですが、こればかりは仕方ありませんねー
大抵の人間は自分本位です。特に女性は、自分中心に地球が廻っていると思っていて、思い通りにならない現実に腹を立てて愚痴ばかり言うのです。思い当たることはありませんか。
自己中はよくありません!もっとまわりのことも考えなくてはですねー
人は所詮(しょせん)一人で生まれ、一人で死んでいく孤独な存在です。だからこそ、自分がまず自分をいたわり、愛し、かわいがってやらなければ、自分自身が反抗します。
自分も大事にしなくてはいけないのですねー!!!
人間は生まれた時から一人で生まれ、死ぬ時も一人で死んでゆきます。孤独は人間の本性なのです。だからこそ、人は他の人を求め、愛し、肌であたため合いたいのです。
やっぱり、ひとりはさみしいです。。。だれか! 
もし、人より素晴らしい世界を見よう、そこにある宝にめぐり逢おうとするなら、どうしたって危険な道、恐い道を歩かねばなりません。そういう道を求めて歩くのが、才能に賭(か)ける人の心構えなのです。
もっと苦労しなくちゃ!って思います。
人生にはいろいろなことがあります。しかし、悲しいことは忘れ、辛(つら)いことはじっと耐え忍んでいきましょう。それがこの四苦八苦(しくはっく)の世を生きる唯一の方法ではないかと思います。
四苦八苦しながら、楽しいこと嬉しいこともっとたくさんみつけて生きていこうと思います。
別れの辛(つら)さに馴(な)れることは決してありません。幾度繰り返しても、別れは辛(つら)く苦しいものです。それでも、私たちは死ぬまで人を愛さずにはいられません。それが人間なのです。
出会いがあるから別れがあって、別れがあるから出会いがあるのです!
あらゆる戦争は悪だと思っています。戦争にいい戦争なんてありません。私たち老人は、そのことを語り継がなければなりません。
「いい戦争」って、けっきょくはエゴな気がします。戦争がもたらす悲劇は戦争の形態や大小に関係なく、あってはいけないものだと思うのです。
「念ずれば花開く」という言葉があります。私は何かをするとき、必ずこれは成功するという、いいイメージを思い描くようにしています。
いいイメージはいい行動につながっていい結果にもつながるのだと思います!
いろんな経験をしてきたからこそ、あなたの今があるのです。すべてに感謝しましょう。
よい経験も悪い経験も、みんないまの自分を作り上げてくれた要素。ほんとうに感謝!
相手が今何を求めているか、何に苦しんでいるかを想像することが思いやりです。その思いやりが愛なのです。
愛は思いやり。お互いにできたら素晴らしいですねー
あなたはたった一つの尊い命をもってこの世に生まれた、大切な存在です。
みんな命は一個しかないのだから、ほかにおんなじ物は存在しないのだから、大切に生きなくてはと思うのです。
人間は善悪両方を持っています。それを、自分の勉強や修行によって、善悪の判断をし、悪の誘惑に負けずに善行(ぜんこう)を積んでいくことが人間の道なのです。
日々勉強!日々修行!悪に負けないようにがんばりましょー
与えられた限りある時間に、思い残すことなく人をたっぷり愛しておかなければとしみじみ思います。
「もっと愛しておけばよかった」と後悔しないように生きたいですねー 
相手の立場を想像する力、相手の欲することを与えることが「愛」です。相手が何を欲しているかを考えて下さい。相手の身になってしたいことをしてあげればいいのです。
「愛」ってすごいものだと思うのです。「自己犠牲」とか「利他的であること」とか。気が利く、気が遣えるそんな愛のひとになりたいです。
私は「元気という病気です」とよく言います。ある講演会の司会者が、「
瀬戸内さんの元気という病気が、ますます重症になるようにお祈りします」と挨拶して、会場が爆笑の渦となりました。
「元気?」って聞かれると、元気でなくても「元気!」ってつい答えてしまう。。。それも病気なのかしらー?
一日に一回は鏡を見る方がいいです。できればにっこりと笑ってみて下さい。心にわだかまりがない時は、表情がいきいきしているはずですよ。
鏡はしょっちゅう見ちゃいますねーでも、意外と自分の表情は気にしてないんですねー疲れた顔じゃあ、美人になれませーん!にっこり素敵なスマイルで!
人とつきあうのに秘訣があるとすれば、それはまずこちらが相手を好きになってしまうことではないでしょうか。
はい。頑張ります・・・でもたしかにそうです。いい面を見るようにします。
若き日にバラを摘め
バラというのは恋。バラには棘がある。摘めば指を傷つけてしまう。恋をすると人は必ず傷つく。それが怖くて恋に臆病になる。若い時は、傷はすぐに治る。だけど年を取るとなかなか治らない。だから若い時に思う存分バラを摘んでおきなさい。ということらしいです!
お子さんに「何のために生きるの?」と聞かれたら、「誰かを幸せにするために生きるのよ」と答えてあげて下さい。
そう子どもに言える親はかっこいいですねー
お返しを期待しない、感謝の言葉も求めない。それが本当の奉仕です。
ついつい期待してしまいますね。。。いけませんねー
あなたは苦しんだ分だけ、愛の深い人に育っているのですよ。
同じ苦しみをほかの人には味わってほしくないと思うから、優しくなれるのでしょうか?
人は、不幸のときは一を十にも思い、幸福のときは当たり前のようにそれに馴れて、十を一のように思います。
これ、よくないですねー!
どんな悲しみや苦しみも必ず歳月が癒してくれます。そのことを京都では『日にち薬(ひにちぐすり)』と呼びます。時間こそが心の傷の妙薬なのです。
時がたてば忘れられるのでしょうか??? 
おしゃれの女は、掃除が下手と見て、だいたいまちがいない
外側ばっかりきれいにしていても、内側がきれいじゃないと意味がないですねー
愛とは現在にしかないものだ。
過去でもなく、未来でもなく、「現在」。大事なのは今の愛ということですねー
恋を得たことのない人は不幸である。それにもまして、恋を失ったことのない人はもっと不幸である。
失恋することも、大事なことなんですねー
男女の恋の決算書は あくまでフィフティ・フィフティ
寂聴さんの恋愛経験って、すごいらしいですねー
私は自分の手で探り当て、自分の頭で考えて納得したことでないと信じない
人の言うことに左右されないように、自分というものを強く持ちたいですねー
戦争はすべて悪だと、たとえ殺されても言い続けます。
こちらも、寂聴さんの強い思いが込められていますねー
戦争はいかなる名目をつけようと人殺しであり、悪である。
戦争反対を訴える寂聴さんの強い思いが伝わりますねー
健康の秘訣(ひけつ)は、言いたいことがあったら口に出して言うことです。そうすると心のわだかまりがなくなります。
こころのゴミを掃き出す作業をしないとトイレみたくつまっちゃうということなのですねー
人間として生まれると、他の動物にはない誇りが心に生じるのだと思います。学校の成績より、他者の苦しみを思いやれる想像力のある人間こそ素晴らしいのです。
大事なのは頭が良いかどうかではなく、心が良いかどうかなのだと思うのです。
愛に見返りはないんです。初めからないと思ってかからないと駄目です。本当の愛に打算はありません。困ったときに損得を忘れ、助け合えるのが愛なのです。
だんだん「愛」というものがわかってきましたー!!! 
夫婦の間でも、恋人の間でも、親子の間でも、常に心を真向きにして正面から相手をじっと見つめていれば、お互いの不満を口にする前に相手の気持ちがわかるはずです。
わかればよいのですが、なかなかうまくいきません。。。
私は、全ての苦労を喜びに変えてからこなします。それが一番の健康法と美容法です。ストレスがたまらなくなりますよ。
ストレスフリーが一番健康に良いらしいですねー
どんなに好きでも最後は別れるんです。どちらかが先に死にます。人に逢うということは必ず別れるということです。別れるために逢うんです。だから逢った人が大切なのです。
恋愛とかじゃなくても、すべての出会いを大切にしたいと思う今日この頃です。
愛する者の死と真向きになったとき、人は初めてその人への愛の深さに気づきます。「私の命と取り替えてください」と祈る時の、その純粋な愛の高まりこそ、この世で最も尊いものでしょう。
それくらい愛せる相手が早く見つかりますようにー
最近、自分の酒を飲む仕草(しぐさ)が父に似ているとふと気づきました。あの世へいったら、どの縁のあった男よりも一番早く父に逢い、ゆっくり二人で酒を酌(く)み交わしたいと思います。
親に似てしまうものなのですかねー!?
世間的に申し分のない夫や妻であっても、相手が欲していなければ、それは悪夫、悪妻です。そんな時はさっさと別れて、自分の良さを認めてくれる相手を探すことです。
さすが、寂聴さーん!言ってくれますねー!!!
男女の間では、憎しみは愛の裏返しです。嫉妬(しっと)もまた愛のバロメーターです。
ケンカするほど仲が良い!は間違いではない!?
みんなのために良かれと思ってやっていることを、冷たい目で見る人たちがいます。そういう人は、"縁なき衆生(しゅじょう)"と思って放っておきましょう。あなたはあなたで正しいことを、自信を持ってすればいいのです。
正しいことは、堂々とやりたいのですが、でもやっぱりまわりの目が気になってしまうのはよくないですねー
悩みから救われるにはどうしたらいいでしょうという質問をよく受けます。救われる、救われないは、自分の心の問題です。とらわれない心になれば救われます。
あるひとにとっては大きな悩みでも、ほかのひとにとっては大したことがなかったりして、要は気持ちの問題なのだと思います。
大好きな人が死んだのに悲しくないと悩む人がいますが、当初は悲しみが大きすぎて死んだと思えないことがあるのです。その人は、あなたの中に生きているのですから、安心して下さい。
こころの中ではきっと涙で洪水ができているのだと思います。 
人の話を聞く耳を持つことは大事です。もし身の上相談を受けたら、一生懸命聞いてあげればいいのです。答えはいりません。ただ聞いてあげればいいのです。
何も言わなくても、聞いてくれるだけでうれしかったりしますよねー
「私が一人で母を介護した」という人は、それだけお母さんと縁(えん)が深かったということでしょう。
老人介護はそれこそ愛がなければむつしいことのように思います。
夜の熟睡を死んだように眠ると譬(たと)えるのは、適切な表現かもしれません。人は夜、眠りの中に死んで、朝目を覚ます時は死から甦(よみがえ)るのだと考えられるからです。「日々これ新たなり」ですね。
毎朝新鮮な気持ちで一日をスタートできるようにこころがけたいですねー
誰の中にでも仏さまがいるのだと思って、相手に手を合わすような気持ちで接して下さい。
だれにでも優しい気持ちで接することができるようになりたいものです。
本当に苦しんでいる子どもに、いろんな理屈を言っても駄目。まずは、子どもを抱きしめてやることが大切なんです。
言葉でなく行動あるのみ!ですねー
人生とは、出会いと縁と別れです。出会ってから別れるまでの間に、嬉しいことや悲しいことがあって、それを無事に越えていくことが生きるということなんです。
人生いろいろありますよねーいろんな人に出会いますよねーそれは縁なのですねー悲しい別れもありますねーそれが人生ってやつなのですねー
とにかく人のことが気になって気になってしょうがない、これが物事にとらわれている心です。そういう心を無くさない限り、心は安らかになりません。
でもやっぱり気になっちゃう。。。のです!はぅ
私は物心ついた時から職人の娘でした。盆暮れしか休みが無いのが当然でしたから、人間は働くものだと思って育ちました。これは無言の躾(しつけ)だったのでしょう。
親が子どもに与える影響ってやっぱり大きいのですねー
人間は生まれる場所や立場は違っても、一様に土にかえるか海に消えます。なんと平等なことでしょう。
死ぬ時は平等でも、生きている時不平等なのはちょっといやだなぁと思うのですが。。。
学校の成績なんて気にすることはありません。何か好きなことが一つあって、それを一生懸命できるということが人生の一番の喜びなんです。
なにかひとつ長けているものがあればよいですねー 
いくつになってもおしゃれ心を失わないこと、好奇心を失わないこと、若い人と付き合うこと。これが、若さを保つ秘訣(ひけつ)です。
気持ちから若くあることが大切なのですねー
私たちの生きているこの世で起きることにはすべて原因がある、これが因(いん)です。起こった結果が果(か)です。因果応報(いんがおうほう)というように、必ず結果は来るのです。
蒔いたものは刈り取らなきゃいけないのですねー
木々の緑や紅葉や美しい花が地球から消え去ったら、人間の暮らしは殺風景になり、感動することがなくなってしまうでしょう。
自然の美しさ雄大さ、ほんとうに素晴らしいものです!でも、自然を見て「素晴らしい」と思う気持ちの余裕も大事だと思うのです。感動できるこころを持ち続けたいです。
心のこだわりをなくそうとするなら、まず人に施(ほどこ)すことから始めて下さい。施すのが惜しい時はなぜ惜しいかを徹底的に考えてみることです。
こころに余裕がないと、ひとに対して優しくなれないような気がします。
人生はいいことも悪いことも連れ立ってやってきます。不幸が続けば不安になり、気が弱くなるのです。でも、そこで運命に負けず勇気を出して、不運や不幸に立ち向かってほしいのです。
不運や不幸も気の持ちようなのかもしれません。くよくよしてばかりだといいことがなかなかやって来なくなっちゃう気がします。
理解できないと投げ出す前に、理解しようと相手と同じレベルに立って感じることを心がけましょう。
なにごとも努力です!理解すれば、よい友達になれるかもしれませんしねー
老人も中年も若者も、自分たちが一番正しいという誤った自信を捨て、無垢(むく)な感性を取り戻し、自分をもっと柔軟にしていけば、滑(なめ)らかな人間関係が生まれてくるはずです。
人間関係に悩んでいるのなら、まずは自分から変わってみるのもよいのかもしれませんねー
人間は、元々そんなに賢くありません。勉強して修行して、やっとまともになるのです。
だから、日々勉強!日々修行!なんだなぁ
人間はいつも無いものねだりなのです。そして心はいつも満たされない思いで、ぎしぎし音を立てています。欲望はほどほどに抑えましょう。
あんまり欲がありすぎるのはよくない。けれど、欲がなければ前に進めない気もします。だから「ほどほど」に!
教師を養成する時、「この職業は聖職です」と是非教えて欲しいのです。未来を担(にな)う素晴らしい魂に直接向き合う、それこそが聖職というものです。
「先生」という職業はほんとうに大変だと思うのですが、でもこの社会においてほんとうにすごい役割を果たしているのだと思うのです。尊敬に値します! 
子どもと目線を同じにして対等に話をして下さい。大人は皆、上から物を言い過ぎます。そして、世の中は生きる価値があると感じてもらえるように大人が努力しましょう。
子どもと同じ目線で物事を考えるのはすごくむつかしいことだけれど、子どもから見てかっこわるい大人にはなりたくないと思うのです。あんな大人になりたいと思ってもらえる大人になれますように。
時代と共に世間の風俗、風習は変化し、それにつれて、人々の思想も道徳も法律も変わっていきます。革新して良くなる場合もあれば、改悪して後退する時もあるのです。
変わるのは大事。でもそれがよくなるか悪くなるかは、そのひとしだいな気がするのです。
私が毎月の法話で話すことはいつも同じ、唯(ただ)一つです。「皆さん、どうぞ心を安らかにして下さい」。これしかありません。
こころ安らかに暮らしたいものです。
「同床異夢(どうしょういむ)」とは、同じ布団で寝ていても同じ夢は見られないことです。愛の情熱は三年位しか続きません。夫婦は苦楽を共にして愛情を持ち続けるのです。
なるほど!苦しい時も楽しい時も仲良く一緒に!ちょっとした努力なしには夫婦のきずなってつづかないものなのかもしれませんねー勉強になります!
人間が好きで小説書きになった私にとっては人との出会いが、たとえそれが苦痛や悲哀を伴(ともな)っても、生きている何よりの証(あかし)として、有難いことに思われます。
「人との出会い」ってどんなものにしても、大事だと思うのです。
結局、人は孤独。好きな人と同じベッドで寝ていても、同じ夢を見ることはできないんですもの。
みんながそうなんだよってことを思うだけでも、気が楽になりませんか?孤独で悲しむのはもったいない!外に出たくなる言葉ですね!
死というものは、必ず、いつか、みんなにやって来るもの。でも、今をどのように生きて行くか、何をしたいか、生きることに本当に真剣になれば、死ぬことなんて怖くなくなるもんです。
「死んでも悔いはない」って思える日がくるだろうか・・・。毎日を大切に生きていきたいです。
人間に与えられた恩寵に「忘却」がある。これは同時に劫罰でもあるのですが。たとえ恋人が死んでも、七回忌を迎える頃には笑っているはず。忘れなければ生きていけない。
忘れなければ生きていけない・・・。悲しいのは分かるけど、それをずっと引きずっているわけにはいきませんね。そのために「忘却」がある。
自分が孤独だと感じたことのない人は、人を愛せない。
孤独を知って、人のありがたみって分かりますよね。苦労は買ってでもしろ!ってのに通じるところがあります。
生かされているのですから素直に有り難いと思いましょう。生きている値打があるから生かされているのですもの。
生きてる意味はみんなある。

 

●寂聴と塩野七生「人生、愛を語る」
その日、瀬戸内寂聴さんは得度して35年目の記念日だった。ローマから飛んできた塩野七生さんは静寂で美しい寂庵の庭に見惚れていた。「遠くに見えるあのお山が比叡山です。35年前わたしが買ったときは、ここは何もなかったんですよ。こうしてみんなが木を持ってきて植えたりして、何とか見られるようになったんです。」と瀬戸内さんは感慨深そうに説明した。「苔が優雅ですね。ここのお庭、大好きになりました。凄く落ち着きます。瀬戸内先生のお人柄が出ています」「先生はやめてください。寂聴さんでいいです」「いやいやわたしにとって年長者ですから、やっぱり瀬戸内先生です」世紀の対談はこんなふうにして始まった。 
瀬戸内 ついさっきまで新潮社の編集者がいて、「塩野さんの本は売れて売れて、わが社のドル箱です」といっていました。
塩野 そんなことありません。ある編集者が話していましたけど、瀬戸内先生が全国区なら
塩野七生は地方区だってーー。『源氏物語』はどれくらい売れたんですか。
瀬戸内 全10巻でわたしが覚えているだけで260万部こえています。講談社の新社屋の階段の一つくらいはわたしの『源氏物語』でつくれたでしょう(笑)。あなたの『ローマ人の物語』はもっと凄いでしょう。
塩野 いえいえ、わたしのは15巻ですが、そんなことはありません。
瀬戸内 『ローマ人の物語』は売れたでしょう。わたしたちはシーザーとかクレオパトラをちょこっと知ってるけど、通しての物語としては知らないでしょう。15年かけてあれだけの大作をお書きになったのはほんとに立派です。やっぱり男の読者が多いんですか。
塩野 ところがこのごろ女の人も読んでくれます。昔は4対1くらいだったんですが、いまでは5対5なんです。先生は人前でしゃべることって何ともないんですか。
瀬戸内 それはもう自分でいやになるくらい慣れています。
塩野 羨ましいですね。わたしはどうもみんなの前でのおしゃべりが苦手なんです。とくに瀬戸内先生のように8千人とか1万人とかの前ではとてもわたしにはできません。そういう人たちって先生に何を求めているんですか。
瀬戸内 それがこっちはわからないの。例えば天台寺という東北(岩手県二戸市)の荒れ寺を引き受けましたでしょう。そこはまったくお金がないんですよ。とにかく人が来てくれなきゃ困ると思って法話ということを考えたんです。わたしは50すぎてから仏門に入ったのでお経は下手ですが、話すことなら講演してるからできると始めたんです。そしたらマスコミが頼みもしないのに動いてくれて、ふたを開けたら山に千人も人が来たんです。次の月はもっとワーッと宣伝してくれたから、5千人、6千人と、あっという間に多いときはあの狭い境内に1万人を超す人が集まるんですよ。
塩野 なんかローマ法王みたいじゃないですか(笑)。
瀬戸内 その町の人口はたったの5千人。そこへ倍以上の人たちがバス150台で全国からやって来るんです。外国からも来る人がいます。寺があるのは本当に気の毒なくらい何もない田舎なんですけれど。
塩野 そういうとき先生のお話を一対一で聞きたいという人がいますか。
瀬戸内 います、います。だけどその暇がない。だから法話を一時間やったあとで、会場で手をあげてもらって一対一の一問一答の時間を持つんです。
塩野 なるほど。
瀬戸内 そしたら何千人もいるのに、平気で訊いてくるんです。他の質問者が目には入らないのね。まわりに他人がいるのを忘れて、「うちの亭主は浮気して、また浮気してます。どうしましょう」なんてそういう恥ずかしいことを質問してくる。それから「姑が嫌いで嫌いでたまりません。一緒に墓に入りたくありません」とか堂々と訊いてくるんです。その人はそのとき精神的には私と一対一なんです。
塩野 一万人の人が先生のお話を聞いている。そのときはどんなお気持ちでお話なさるんですか。一万人にそれとも一人一人に。
瀬戸内 会場には赤ん坊を抱えている人から90歳の人までいるんですよ。それをみんな満足させるなんて神業です。だからわかる人だけ聞いてくれればいいと思って話すんです。難しいことは言っちゃダメ。政治のことや仏教の難しいことは話さない。来た人は何か悩みがあるんですね。だから最初はみんな暗い顔をしてるんです。本堂の階段に立ってやりますから、そこからみたら表情がわかるんです。それが帰るときはホントに明るい顔になっているの。
塩野 それは国民栄誉賞もんです。いま日本人みんなを政治家や財界人が揃って暗くしているなかで、人の心をちょっぴりでも明るくすることは大変なことです。先生はそういう人たちにギブだけなんですか。それともテイクはーー。
瀬戸内 それがね、もう何年もやっていたら疲れてしまってね。あるとき何千人もの人に、この小さい体から精気を吸い取られているような気がしたんですよ。そうするとしんどーくなって、くたびれてわたしもう続かない、もうダメだと思ったんですよ。でもふっと視点を変えて考えてみたら、このわたしの小さな体が何千人の人から逆に精気をいただいているかもしれないと気がついたんです。そしたらまた体も気も元気になってきたの。
塩野 だってわたしたち物書きは、やっぱり読んでくれる人が一人でも多いほうが読者から元気をもらって、やる気が出てくるものです。
瀬戸内 たくさん読んでくれた証拠が売れるってことでしょ。
塩野 そうです。
瀬戸内 それが物書きにとっていちばん嬉しいんですよ。あ、これだけの人が読んでくれていたと。やっぱりそうでなければ書けないわね。
塩野 同感です。映画監督のフェデリコ・フェリーニをインタビューしたとき、彼が話していたわ。「映画をつくりたいようにつくるのは少しも難しくない。しかしつくりたいと考えているテーマをつくりたいようにつくりながら、かつコマーシャルベースにのせるのが難しい」って。そしてわたしはふーんと思いながら日本に帰って黒沢明監督にいったんです。そしたら黒沢さんは例の口調で「あったりまえじゃないか。客が入んなきゃ、なぜつくる気になんだよ」って答えたんです。
瀬戸内 まったくそうです。
塩野 もう一つ、読まないのは読者が悪いってよくいう作家がいます。でもわたしだって読まれないのは書き方が悪いんじゃないと反省くらいしますけどーー。ただ単に売れない売れないといってないで、書く側はもっと考えるべきではないかと思うんです。
瀬戸内 わたしもそう感じますね。また反対に売れる作家は低級だという。これは日本の文壇にずっとあったんですよ。売れる作家はバカにされていた。逆に売れない作家は純文学作家って祭りあげられたのね。
塩野 そうそう、ありましたね。
瀬戸内 有吉佐和子さんなんか売れていたでしょう。だから凄くいじめられたのよ。『群像』なんかに有吉佐和子、瀬戸内晴美なんてだれが書かせるかって、ずっと低級扱いされたんです。
塩野 わたしの処女作は中央公論に連載した『ルネサンスの女たち』で3千部でした。瀬戸内先生の最初の本は何部くらいでしたか。
瀬戸内 最初の本は小さな出版社が出してあげますっていってきたので、こっちはいそいそと書いて渡したたら、そこが刷ったのが5千部。そのころ5千部って多いんです。
塩野 そうですね。
瀬戸内 そしたらすぐ千部増刷しましたっていうの。でもお金を一銭もくれないうちに、ちょっとお金貸してくださいっていわれた。わたしは出版社と付き合うのは初めてだからわからなかったので、無理して貸してあげたんです。すぐ返してくれると思ってね。とうとうそれっきり。そこはそれから潰れたの。『白い手袋の記憶』ってわたしの処女作は結局まぼろしの処女作だったんです。
塩野 強烈なスタートだったんですね。
瀬戸内 そのあと『田村俊子』を同人誌で書いたのを読んでくれた文藝春秋のお偉いさんの車谷弘さんが「これはとてもいいから最後まで書いたらうちで出しましょう」といってくれた。文藝春秋から本が出るなんて嬉しくてすぐ書いた。そしたら車谷さんが本当に本にしてくれたの。そのとき「1万2千部でやりましょう」って。
塩野 凄いじゃないですか。 
瀬戸内 わたしも本当? って思ったの。でも実際に売れたのは4千部でした(笑)。当たり前のことですが、きっと販売部は、こんな名もない人を使ってと思ったんでしょう。
塩野 第3作の『神の代理人』のとき、「中央公論」の編集長だった粕谷一希さんに「やっと2百万円になりました」っていったら、「月ですか」って応じるから、「そんなはずないじゃないですか。年ですよ」と返すと、粕谷さんは気の毒そうな顔をして黙ってしまった。
瀬戸内 そう、若いとき筆一本でやっていくって大変です。明治の作家は、筆は一本、箸は二本ってやせ我慢していたんです。
塩野 わたしはどんなふうに作家生活を始めるか知りませんでした。古井由吉はわたしの高校時代の同級生で、彼がいうには「きみはだいたい同人誌の経験がないというのがすぐわかる。あんな長々と平然と書く」。
瀬戸内 だいたいあなたはスタートから違うのね、まさにサラブレッドね。
塩野 いつか山田詠美と対談したとき、顰蹙を買ったんですが「わたしたちは原稿売り込んだ経験がない」っていったんです。
瀬戸内 わたしもないの。ただ少女小説を執筆していたころ、奇特な出版社の社長がいて「あなた小説書いてても、うちの原稿料は安いしほかにあまり注文もなさそうだし、ほかの仕事をしながらされたらどうですか」といわれて、高校の先生になる試験を受けなさいって勧められたんです。でも勉強なんかしてないから、何が出るかわからない。試験場に行ったら大勢の人が並んでる。前の人に「ちょっとあなた悪いけどそのノートを覗かして」って見たのが出て、ヤマが当たって受かっちゃたんです。
塩野 わたしは、試験は弱いんです。瀬戸内先生は強運な人なんだ。
瀬戸内 教師になることを勧めた出版社の人が「せっかく通ったんだからいい学校紹介します」といって、いい女学校に赴任することになった。そのときわたしははっと気付きました。だいたいわたし、先生という仕事が好きなんです。女学校に行ったらいい先生になろうと夢中になってしまうから、もう小説は書けなくなると思って、土壇場で断わったの。
塩野 人生の岐路というか、どっちに曲がればいいかっていう瞬間はありますよね。わたしもある時期、特派員にならないかって誘われたことがありました。そうすれば生活は安定するなって思ったけど、やっぱり断わりました。
瀬戸内 岡本太郎がわたしに教えてくれたなかでいちばんいい言葉があるのね。それは人生の岐路に立ったとき、普通の人なら楽なほうを選びなさい。でも自分が芸術家になりたいなら危険なほうを選びなさいって。
塩野 危険ね。背水の陣ってことですか。
瀬戸内 あえて危険な道を選べって。それでわたし、それをわりあい守っているの。そうするとうまくいくんですよ。
塩野 寂聴先生の偉いところは公職について適度なお金をもらったりしないことですね。そういう人はいっぱいいますでしょう。
瀬戸内 ダメなの。ひとつのところにいるとそこの精気を全部吸い取ってしまうような気がするんです。わたし、年齢と同じくらい引っ越しているんです。男はそんなに替えられないから仕方ないですけど、でもそうしなきゃ前に進めない。
塩野 そう。男はあんまり替えられないから、わたしは作品の中の男を替えるわけです。それだったらわたしの心次第。
瀬戸内 でも結婚なさって息子さんもいるんでしょう。わたしは娘を四つのときから育ててないんです。ほかに何も後悔することはないんですが、これだけが悔いです。そういうといま六十いくつになった娘が怒るんですね。「みっともない、あんなこといって。いわないでちょうだい」って娘に叱られるんですけど、でも本当にそう思っているんです。
塩野 そうですか。それはーー。
瀬戸内 だって孫がもう30いくつになっているんですからね。でもね。一人子供を産んどいてよかったと思います。
塩野 いやーあ、絶対子供はいたほうがいいですね。
瀬戸内 絶対いたほうがいい。
塩野 結婚しないと、男に対する夢が残りすぎますね。
瀬戸内 そうそう。
塩野 子供を育てる喜びというのは、毎日毎日変わっていく動物を見ているような感じかな。言葉が通じるから猫とはちょっと違うのね。そう、わたしは子供を産んでおいてよかったと思います。ただ残念なのは3人か4人産んどきゃよかった。一人息子じゃスペアがきかない(笑)。
瀬戸内 でも孫ができますよ。あなたの息子さんは知的な方なんでしょうね、きっと。
塩野 そんなことありませんけど。わたしは息子のガールフレンドに一切会ったことがないんです。そしてもし彼が結婚したら、これだけは息子の奥さんに頼もうかと思っているんです。「あらゆることは一切、わたしはやる暇がないから、姑を持ったなんて思うな。そのかわり年に一回、息子と二人だけで食事をさせてくれ」って。
瀬戸内 うん、いいわね。家族はいらないとーー。
塩野 だって親はいかに上手にコミュニケーションが取れるようになるか考えながら子供を育てるでしょう。ところがお嫁さんというのはいかにして人間関係を保つかにこだわる。だから同じ愛情といったってやっぱり違うんです。
瀬戸内 たしかにわたしが育てていたら、こんなことはいわせないとか、こんなことはさせないということはありますね。そのたびにこれはすべてわたしが悪かったんだと思って、絶対子供にはいわないことにしているの。高校からずっとアメリカで暮らしているから、日本語があまり読めない。だからわたしの小説もわからないの。それでやれやれと思うんだけど。
塩野 そんなことはないですよ。わたしは息子に英訳を読んでもらっています。
瀬戸内 それは上等なものばかり残していらっしゃるじゃない。わたしは読まれたら困ることばっかり書いているから。
塩野 ただわたし、離婚した前の亭主に恨みを持ったことは一度もないんです。むしろ感謝しています。だってイタリア人医師である彼を通じて地中海文明に入れたんです。彼にとって地中海世界というのは体内に流れている血みたいなのね。だけどわたしみたいな奥さんが身近にいたら大変だったんでしょう。
瀬戸内 でも何年も一緒にいたんでしょう。
塩野 東京で産婦人科の学術会議があって、日本側の議長をした東大の教授が「きみたちはなんたることか。優秀な作家をイタリアの同業者に奪われて」っていったわけ。そしたらうちの彼が立って「いえ、あなた方は実に賢い選択をなされたんです。あなた方はうちの奥さんの書いたものを読んでいるだけ。ぼくはそれがつくられている過程を見てるんです」と反論した。ここまではよかったんですが、わたしはステーキみたいな女ですから、彼は、毎日はちょっと耐えられなくなったのでしょう。だから私のほうから本と原稿用紙とペンと息子とメイドを連れて出たんです。だからわたし離婚して2度とーー結婚は一度で結構だと思っています。瀬戸内先生はどうですか。
瀬戸内 だっていまさら考えてどうするの。
塩野 違います。離婚したあとの若いときはどう思われたのですか。
瀬戸内 わたしももう結婚はしたくなかった。だってね、相手が可愛そうだもの。いや最後の男と付き合っているときに、どうしても同棲しなきゃ相手が納得しなかったんです。本当は男のほうは結婚したかった。でもわたしはもう結婚はしたくなかったの。じゃあ一緒に住みましょう。表札も出しましょう。そこまでいったんですよ。すると初めは嬉しがっていたんだけど、だんだん夜、帰って来なくなる。真夜中に戻ってくるんです。わたしは仕事しているからいいんだけど、ちょっと気になって、「あなた、毎日毎日、夜遅いけどどうして? もうちょっと早く帰宅して早く寝たほうは体にいんじゃない」なんていったの。そしたらこの家に帰って来ると、わたしが仕事していてビーンと空気が張りつめていて、厚いガラスの戸をトンカチでぶち破って入らなければ入れないっていうの。それでつい飲んで酔っぱらった勢いで帰るんだっていった。
塩野 目に浮かびますね、その光景は。わたしは午前中しか書かないけれど、やっぱりそういう感じだったのかも。
瀬戸内 それでまだ彼はわたしより若いし、普通の結婚して子供をつくったほうがいいからと思い「あ、じゃ、もう別れよう。出て行っていいよ」といったけど、なかなかそうしないから、わたしが家出したの。
塩野 先生も出るほうなんだ。
瀬戸内 うん。
塩野 山田五十鈴は男と別れるとき、全部置いて裸一貫で出ていったそうです。何だかわたしたち似ていますね。
瀬戸内 少なからず作家は一人の時間がいります。一人の時間を持つということは孤独なこと。だからそれに耐えられなければ芸術家にはなれません。
塩野 だから、離婚するか初めから結婚しないかどちらだけど、まあ一回くらいは結婚したほうがいいですよね。
瀬戸内 一回はしたほうがいい。子供の一人でも産んだほうがいい。
塩野 わたしもそう思う。これはやっておいたほうがいい。
瀬戸内 女に出来て男ができないのは、子供を産むことだけなのよ。だから、経験になると思う。
塩野 わたし、(トルストイの小説で知られる)アンナ・カレーニナが少しずつ狂っていくのは、子供と会うことを拒絶されたからじゃないかと思ったんですけど、旦那なんて別れたってどうってことない。わたしの場合は別れるとき、あらゆるものは全部あげました。ただ子供はわたしが育てますといいました。すると向こうは、子供をイタリアで育てろ、そうでなきゃ許さんっていう。それで、日本に連れて来ることができなくなったわけです。
瀬戸内 そのためだったんですか。イタリアに居座ったのはーー。
塩野 でもね、わたしは犠牲になるなんていう言葉くらい大嫌いな言葉はないんです。だけどあのときはたしかにそうだったかもしれない。しかしあとで考えてみれば、イタリアにずっと居続けたことは、仕事をするためにはいちばんよかったんです。結局、わたしは何も犠牲にしていないんです。わたし、いつもそういうふうに考えるのね。
瀬戸内 あなたもわたしも好きなようにしているのよ。結局、二人とも自分本位でわがまま。自分の都合のいいように生きてきているんです。だから、周りは気の毒だけどしょうがないわね。
塩野 そうかもしれません。でも、ほかの人が享受していることは享受していないんです。
瀬戸内 でもあなたはまだわたしよりずっとお若い。だから、離婚をいつなさったか知らないけど、そのあと、結婚はしたくなくても男がいなくてはつまらないでしょう。
塩野 それは当たり前ですよね。でも、この話はやめておきましょう(笑)。 
何もかも本当は面倒くさい
塩野 男っ気がなかったら、歴史上の人物だって生き生きと書けません。わたしは2000年以上も前の男に恋情を抱けるんです。書いているときは、彼の胸の筋肉の感触まで感じましたね。
瀬戸内 えーっ!わたしはやっぱり現実の男のほうがいいわ。だって死んでしまった人間は恋情をかきたてても性愛は不可能でしょ。でもきっとローマ時代の男たちは魅力的なんでしょうね。塩野さんの本を読んだだけでも惚れ惚れする男がいっぱいいますよね。
塩野 わたし、男を見る場合、欠点よりもいいところはどこなんだろうと探すんです。そうすると大抵の男はいい男になってくる。
瀬戸内 たしかにそうね。でもイタリアの男は女に徹底的にサービスしてくれるんでしょう。
塩野 そんなことはありません。あれは伝説です。
瀬戸内 そう?でも映画に出てくるイタリアの男はみんな恋愛のテクニシャンじゃないですか。
塩野 イタリアに77歳でノーベル医学賞をもらった100歳の女の人がいるんです。さすがにしわくちゃだけど、お洒落なんです。頭の回転もきちんとしている。言葉遣いもちゃんとしていて理論的に話す。そして生涯独身だった。その彼女がニュース・キャスターの「どうしてあなたはこういう状態を保っていられるのか」という質問に、「わたしはね、明日やることがわかってるの」と堂々と答えたんで、イタリアの連中は仰天したわけです。
瀬戸内 凄いわね。それはわたしも負けますね。日本でも作家の野上弥生子さんや宇野千代さんは100歳前まで現役で仕事をして立派でしたよ。
塩野 そこでわたしも考えたんです。あんなに長生きして立派にいられるのは、常人じゃない。ただごとではない。だから凡人のわたしは体に悪いことをいっぱいして早く死んでやろうって。タバコは吸うわ、お酒は呑むわ、何はやるわ。わたしはあと10年書けたら本望と思っているんです。でもそのあと介護されるなんてまっぴら。若い介護の人に幼稚園児みたいな口調でいろいろいわれたら、わたし憤死するんじゃないかと思ってるんです。
瀬戸内 わたしもそうなったら、相手のおでこんで死にたいね。憤死したい。だけど人間には定命があって、そう思うように死ねないのよ。長生きして老残のみじめをさらすのも人生です。
塩野 寂聴先生は100歳まで生きそうですね。
瀬戸内 いや、もういや。みんな100まで生きるっていうんです。じっさいそうなったらどうしようかと思ってます。いま満で87歳ですよ。この正月で、数えで89歳です。
塩野 だから死ぬようなこと、体に悪いことを全部やればいいんですよ。でも先生はずっとお話しになるのよね。わたしは書くならちょっと自信があるけど、話すことってとてもいや。
瀬戸内 わたしももういや。何もかも本当は面倒くさい。
塩野 でも書いているとき、じっさいはわたし一人なんだけど、自分が書こうとしている人物がいっぱいそこにやってきて一人じゃないんです。
瀬戸内 それは書いて欲しい人があなたに乗り移るからですよ。そういうときは手が勝手に動くでしょう。それがいいのよ。自分の頭で書いているうちはまだ普通なんです。
塩野  あんまり考えないほうがいいみたい。
瀬戸内 あなたはあれだけの大作を書いているのよ。正気じゃ無理でしょう。あれは乗り移っているんです。わたしが『源氏物語』を書いていたときにも、このあたりに紫式部や源氏が来るのよ。何か肩のあたりがほうっと温かくなる。
塩野 たしかにそういうことってありますよね。
瀬戸内 書き出したら、さーっとくっついてくれるの。それで本当にちゃんと自分の思い通りに書けたときには、変な言葉だけどイッた!って感じない?(笑)。それで一気に疲れが飛んでしまう。
塩野 だけどわたしが書いた(ローマの将軍)ユリウス・カエサルは、ガリアに10年くらい遠征していますが、戦争をしている間はセックスが必要ではなかったと思うんです。
瀬戸内 ずーっと精神がイッてるから(笑)。 
慎重になりすぎていませんか
塩野 わたし、原稿に向かうと男になっちゃうんです。先生は書き上げたときには、編集者がお祝いしてくれるんですか。
瀬戸内 編集者によりますね。
塩野 それは脱稿したときより書店に並んだときですか。
瀬戸内 やっぱり売れたときじゃない(笑)。担当の女性編集者が泊まり込みで原稿を待ってくれたときは、なんとか仕上がると思わず抱き合って泣いたりする。そのあと、シャンパンで乾杯!
塩野 わたしは先生も師匠もいないし、文壇も関係ないんですが、寂聴先生は丹羽文雄一門なんていわれていましたよね。
瀬戸内 一門って言葉はいやだけれど、丹羽さんのところへ「文学者」の同人にしてもらって行っていました。丹羽さんはお金を出して「文学者」という同人誌をつくって後進の育成をされていたんです。作家でそんなことをされたのは丹羽さん一人です。そこは書き手がお金を出さないでも原稿を載せてくれました。そんなとこってないですよ。
塩野 偉いですね。
瀬戸内 丹羽さんは偉かったのよ。あそこから作家になった人はたくさんいるんです。河野多惠子さん、津村節子さん、吉村昭さん、竹西寛子さん、新田次郎さん、立原正秋さんでしょ。それにわたしでしょ。随分出ているんです。だけどわたしは丹羽さんを一度も文学の先生だと思ったことがないの。文学の世界には師も弟子もないのよ。盆暮れに挨拶に来ていないって、いわゆる弟子たちから悪くいわれていたらしいけれど、行かなかった。
塩野 ああ、なるほどね。そういうことってよくありますよね。
瀬戸内 そのうち、わたしが女流文学賞をもらったんです。丹羽さんも選者の一人として授賞式で挨拶してくれたの。「瀬戸内君はぼくの『文学者』の同人だけど、ぼくを師匠と思ったことは一度もありません」って(笑)。その意気がいいってほめてくれた。
塩野 わたしは丹羽文雄さんってゴルフばかりやっている作家だと思っていたのですが、大した男だったんですね。そういう鷹揚な人ってなかなかいませんよね。
瀬戸内 そうなの。授賞式のとき、わたしの気持ちをわかっていてくれたんだなと思って、胸が熱くなりました。尊敬できる人格の方でした。あなたはずっとイタリアに住むようになられて、何年になるんですか。
塩野 もう40年以上になります。
瀬戸内 外から見ると日本という国がかえってよく見えてくるんだと思うんですよ。どうですか、日本というところは非常に見苦しいでしょう。
塩野 そうですね。何かここではっきりいったほうがいいんじゃないかというときにはっきりいわない。事を荒立てないほうがいいというのが官僚の論理ですけど、それがすべてを支配しているような気がします。だから元気がないように見えます。慎重になりすぎているので、すべてはちっとも前に進まないのです。
瀬戸内 慎重というか、臆病というかね。
塩野 まあ臆病ですね。 
小沢さんは容貌コンプレックス
瀬戸内 昨年11月、オバマさんが日本に来たじゃないですか。そのテレビを見ていたら、鳩山由紀夫さん、オバマと遜色なくやっているんですね。まあ、よかったと思っていたら、そのうち鳩山さんがお母さんのお金をもらってたとかでワーッとみんなで叩き出したでしょう。自分たちで選んでおいてすぐダメだダメだといって落とそうとする。あれじゃ政治は続かないですよ。少しやらせてみたらいい。
塩野 減点主義というんですかね。そうじゃなくて、いい面をもっと見たらどうでしょう。よいところもやっぱりありますよ。いまの日本には寛容の精神がこれっぽっちもない。
瀬戸内 そうです。マニフェスト全部をすぐ実現しろといったって、それは無理ですよ。あの中の三つでも四つでもできたら大したものです。だからもうちょっと見てあげなければね。
塩野 マスコミは批判勢力であらねばならないということに縛られている。批判をしないとなんだか自分たちの存在理由がなくなると考えている。それが怖いんでしょう。外国から見て、日本の首相が1年ごとに替わるというのはみっともないことです。小泉政権は5年半持ったんですから、今度も衆議院議員の任期の4年くらいは続けてほしいと思います。
瀬戸内 わたしもそう思います。
塩野 まず鳩山さんは下品ではない。あとは知りません(笑)。でもそれは重要なプラスの面でしょう。
瀬戸内 第一、他国の首脳と並んだとき、背がちゃんと高いからいいですよ(笑)。
塩野 日本人としては高いほうでしょうが、もうちょっと背筋を伸ばしていただきたい。
瀬戸内 それはありますね。
塩野 外国人の中に入るとあれくらいの身長の人はたくさんいますから。
瀬戸内 奥さんが怖いから縮こまっているんじゃないかしら。
塩野 とにかくビシッとしてください。もしかしたら、そうすれば肉体的なことだけではなく日本の政治も背筋がビシッとするかもしれません。
瀬戸内 いつだったか、小沢一郎さんが、寂庵に来たことがあるんです。わたしのことだから、初対面なのに「あなたは容貌コンプレックスがおありなんですか」って訊いてしまったの。そしたら向こうはもじもじして困ってるのよ。
塩野 なんで、そのとき小沢さんは「あります」っていわなかったんだろう。
瀬戸内 でも、「あなたは非常にたくましいし、いい男です。あなたは豪快に笑ったら親しみが出ます。いつも怖い顔して睨んでると票が集まりませんよ。和顔施でいきましょう」っていってあげたんです。そしたらその翌日のテレビに出てにこにこ笑ってるの。それがまだ慣れてないから硬い笑顔でした。でもこのごろは随分笑うようになったわね。
塩野 日本の政治家は肉体的にも精神的にも背筋をもうちょっと伸ばして、笑顔を忘れないでいただきたいですね。民衆は必ずリーダーを見ていますから、その姿勢がいいと自分たちもだんだんそうなるものです。
瀬戸内 なりますね。
塩野 わが日本にいちばん求められているのは、背筋をピシッとすることじゃないでしょうか。
瀬戸内 とても重要なことですね。じっさいわたしの歳になると、油断するとすぐ猫背になってしまう。
塩野 いや、わたしだってそうですよ。
瀬戸内 だからいつも意識しているんです。 
わたしたちの死に方は
塩野 着物のときは、わたしみたいな着慣れてない人は帯揚げをのせる台を帯に通すの。あれやるとどんな人でも背筋はピシッとします。ローマでの外国人が集まるパーティのときは、母親のお下がりの着物を着て行きます。
瀬戸内 昔のものはいいからね。
塩野 なぜそれがいいかというと、わたしたち日本の女って洋服よりも着物のほうが背筋がしゃきんとするんです。
瀬戸内 着物は美しい。洋服だと宝石がいるでしょう。着物はそれがいらない。
塩野 わたしたちだけでも死ぬまで背筋をピシッとしていきませんか。
瀬戸内 あなたとわたしはすでに自然にそうしてますよ。
塩野 2000年前のローマの賢人たちは、年老いてちょっと危ないなって感じたときには、ひたすら水ばかり1〜2ヵ月呑んで眠るがごとく死んでいったそうです。先生もわたしも最後は、これでいくしかないですかね。
瀬戸内 天台宗の行に9日間、食事も水もとらないのがある。人間は水だけでも1月や2月生きられます。でも9日間、水も飲まないと死ぬんです。あなたのいう最後の水に葡萄酒をちょっと入れてはダメなの。
塩野 先生の大好きなどぶろくなんて入れたら、また元気になっちゃうじゃないですか(笑)。
瀬戸内 はっはっは。 

 

●寂聴の辻説法
二股をかけていた彼に復讐をしたいと思うことは間違いでしょうか?
私の彼はオーストラリアに暮らしているイギリス人で、一年半の付き合いになります。私は日本にいるので遠距離恋愛です。彼に別の女性がいることを知ったのは、彼とつきあい始めた直後のことです。その彼女はオーストラリア在住で、もちろん私の存在は知りません。もちろん、私はそのことにショックを受けましたが、もう身体の関係もあり、気持ちものめりこんでいたので、彼と別れることができず、ずるずるとつきあってきました。しかし、最近、ちょっとしたことからオーストラリアにいる彼女が彼が二股をかけていることに気付きだしたようで、それで彼は私を敬遠するようになりました。「罪のない彼女を傷つけたくないから」と、ぬけぬけと言うのです。そんな彼を見て、私は別れることに決めました。私に対しては「君は二番目なんかじゃない」と言いながら、隠し通せるならば二股を続けたいと思っていた彼に失望してしまいました。しかし、ここで私がそのまま身を引いてしまうのも納得がいきません。このまま彼は何事もなかったようにオーストラリアの彼女と幸せになってしまうのは許せないのです。できるものならば、オーストラリアの彼女に彼の本当の姿を知らせて、彼女も私と同じように彼と別れてもらいたい。「二兎を追う者は一兎をも得ず」という言葉を彼に思い知らせてやりたいと思うのですが、このような復讐の思いを持つのは間違っていますでしょうか。私の考えていることは醜いことだとは知っていますが、このままで引き下がるのでは悔しくてなりません。(30代女性)

復讐をせずにはいられない、というのであれば、やっておしまいなさい。今のままだと、どうせあなたは彼に対して未練を持ったまま、ずっと引きずって生きていくことになります。元はといえば二股をかけた彼も悪いのですし、そんな彼とつきあっているオーストラリアの女性もいずれ同じような目に遭うに決まっています。ですから、どんどんやって、彼を懲らしめてやればいいのです。
こんな回答をすると、世の中の常識人は「坊さんのくせに不謹慎な」と言うかもしれませんが、しかし『源氏物語』を読めば分かるように、1000年の昔から女性たちは、男の勝手な理屈で苦しんできたのですから、この程度の煽動をしたってちっとも罰は当たらないと私は思っているのです。
もちろん紫式部の書いた『源氏物語』はフィクション、作り事です。しかし、上質なフィクションはフィクションでありながら、世の中の真実を伝えてくれます。
『源氏物語』の中に出てくる姫君たちはみな魅力的でありながら、誰一人として幸せになれませんでした。それともいうのも、彼女たちは光源氏というたぐいまれなハンサムの、しかし身勝手な男に惚れてしまったからでした。
光源氏は口先では、それぞれの女性たちに甘い言葉を投げかけ、生活の保障もしますが、しかしながら、一人の女性に満足することはできずに、さまざまな逢瀬を楽しんでいく。そんな源氏の行状に対して、平安時代の、男性上位が当たり前だった社会に暮らしていた女性たちでさえ、嫉妬から自由になれなかったのです。あなたが青い目の「源氏もどき」に対して復讐を考えるのは当たり前の気持ちです。
もちろん、そうやってオーストラリアの彼女に対して、告げ口をするのはけっして美しいこと、褒められたことではありません。あなたの言うとおり、醜いことでしょう。でも、そうでもしないと気が済まないあなたの気持ちも本当でしょう。だから、私は止めません。不謹慎かもしれませんが、「懲らしめておやりなさい」と言ってしまいます。
でも、そうしたから胸がすくとは保証しませんよ。そんなことをした自分がいやになるかもしれません。でも、黙ってウジウジしているよりも、やってしまったほうがケリがつくというものです。
あなたの未練を断ち切るためにも、彼を懲らしめておやりなさい。 
借金返済のため、子どもの養育のため、風俗で働きたいのですが、これは罰当たりですか?
子持ちのバツイチの会社員ですが、借金があります。会社の給料が少ないので、借金返済のため、風俗でのアルバイトを考えています。人に言えないようなバイトですし、精神的に辛くなる時があるでしょうが、子どものためにも覚悟を決めるしかないかなと思っています。仏さまはこのような人間のことをどう思われるのでしょうか。(30代女性)

はっきり言いますが、そうやって身体を売ってお金を稼いだところで、あなたの借金は減らないでしょう。むしろ簡単にお金を稼ぐことを覚えたことで、ますます金遣いが荒くなり、生活がさらにすさむことになるでしょう。その結果、もっともっとひどい状態に堕落することは目に見えています。
それを昔の人は「悪銭、身につかず」と言ったのです。もちろん、仏様もそのようなことはお認めになるわけがありません。
かといって、借金が多すぎて、いくら耐乏生活をしても返せるあてがないというのでは困りますね。どういう理由で借金が増えたか、その事情は分かりませんが、しかし、結局はあなた自身が蒔いた種であるのだろうと思います。
体を売るだけの覚悟があるのであれば恥をかいても、ここは弁護士さんや司法書士さんに相談して、自己破産をするなり、借金の整理をしてしまうなりして、ゼロからおやり直しなさい。そして、子どものためにも身を慎んで、借金のない生活を送るようにしてください。
「お金さえあれば問題が解決する」と思っているかぎり、あなたは不幸の連鎖から抜け出せません。 
主人の稼ぎがまったく増えず、将来が心配です。
6歳と3歳の子どもを持つ専業主婦です。子どもが成長し、何かとお金がかかるようになってきたのですが、主人の稼ぎがまったく増えません。私がパートに出ればよいのですが、最近近所で物騒な事件があったこともあり子どもを置いて働きに行く事はとても心配です。この先まともな生活をしていけるのでしょうか。(35歳女性)
仕事のできない夫に不安を感じています。
夫がいつ会社をクビになるか分かりません。結婚前は私の稼ぎの方が多かったので、いっそのこと私が働き彼が、子育てをしたほうが良いのではないかと考えています。しかし私の提案を、夫が素直に受け入れてくれるとは思いませんし、彼を傷つけたくありません。どうすればよいでしょうか?(32歳女性)

似たような悩みが二つ来ているので、一緒にお答えしましょう。
この悩みもさきほどの女性(相談8)と同じことです。いろいろ心のうちに悩みを溜め込んでしまわずに、ご主人にあらいざらい現状を伝えて、「このままでは暮らしていけないから、どうしたらいいだろう」「私が働きに出たほうがいいと思うけれども」と相談してみることです。こういうことは一人で悩んでいても、何の解決にもなりません。
夫には相談せずに、実家に援助してもらうという考え方もあるかもしれませんが、まずは夫婦の間でちゃんと向き合って、徹底的に話し合ってからでないと、それではかならず後悔することになりますよ。お二人の家庭、お二人のお子さんのことですから、とにかく夫婦で話し合うことが先決です。
そういえば、こんな話をつい先日ありました。
私が昔からよく利用していたホテルなのですが、そこが経営難に陥って、とうとうリストラをせざるをえなくなりました。私が泊まるたびにお世話をしてくれたホテルマンの男性も──その人は実に優秀な人だったのですが──リストラの対象になったというので、私のところに退職の挨拶に来られたのです。
ところが、その人はあんまり困ったような顔をしていなくて悠然としています。
そこで「仕事がなくなって、おうちの方はびっくりしたのじゃないの?」と聞いてみると、その話を聞いた奥さんも娘さんもお父さんを責めるどころか。「お父さんもずいぶん長い間、休みもなく家族のために働いてきたんだから、休みを取るちょうどいいタイミングじゃない」と言ってくれ、娘さんなどは「お母さんもずっとお父さんを支えてきたから疲れたでしょう。せっかくだから二人で旅行でも行ってきたらどうなの?お金くらいは私が出してあげるから」と言ってくれたそうなのです。
そのホテルマンの人も、会社を首になったと聞けば奥さんも娘さんも大騒ぎをするだろうと暗い気持ちになっていたのに、かえってそうやって優しい言葉をかけられて、自分は幸せ者だとつくづく思ったそうです。
もし、このホテルマンの男性が悩みを抱え込んでしまって家族に相談しなかったら……いったいどうなっていたか分かりません。
最近聞いたところでは、その人は前の職場よりもずっといいホテルに転職できたそうですよ。もちろん、優秀なホテルマンだったからこそ、そうしたスカウトもあったのでしょうが、しかし「自分には支えてくれている家族がある」という自信がその人の中にあったから、幸運が訪れたのだと私は思っているのです。
一人で悩みを抱え込んでいると悪いほうに悪いほうに考えてしまいがちです。お金が足りないのは事実なのですから、それを思い切ってご主人に伝えて、二人で一緒にどうやって乗り越えていけばいいか考えてみてください。一人で考えるよりは、二人で考えたほうがまだいいアイデアが出るかもしれません。
それに何も夫婦は、夫のほうが仕事をして家庭を支えなくてはいけないというわけではありません。女性が外で働いて、男性が「内助の功」を発揮しているカップルは昔からいました。
私が直接知っている範囲でも、つい先年(2007年)、他界なさった作家の大庭みな子さんのご家庭はそうでした。
大庭さんのご主人の利雄さんは東大の工学部を出たエンジニアで、立派な会社の重役をなさっていましたが、「妻のほうが私よりもずっと才能があるから」と、大庭さんの秘書役を務めるため、進んで自分からさっさと会社をお辞めになりました。私たちが大庭さんのご自宅にうかがうと、ご主人の利雄さんが台所に立ってリンゴを剥いたり、お茶を出してくださったことを思い出します。そんな利雄さんに対して奥さんの大庭さんは「それが当然」という顔をされているのですが、利雄さんのほうもとても幸せそうになさっている。
この情景を見て、私は「こういう形の夫婦の幸せもあるのだな」とつくづく思ったものでした。相手の才能を伸ばしてあげるためには自分を犠牲にしてもいいというのは、男でも女でも変わらないのでしょう。大庭さんは晩年、病気で寝たきりになってしまいましたが、ご主人が車いすを押し、大庭さんの小説を口述筆記して、本当に最後の最後まで作家・大庭みな子の才能を支えておられました。
話が長くなってしまいましたが、たとえ収入が少なくて、ご主人が内助の功に徹して、奥さんが働くことになろうと、それで夫婦が納得しているのであれば、世間がなんと言おうとかまわないではありませんか。大事なのは夫婦が真正面から向き合って、会話をすることです。何かと不景気な世の中ですが、だからこそ、二人で支え合って生きてほしいと思います。
世間の目なんて関係ない。大事なのは夫婦が真正面から向き合うことです。 
人と仲良くなれない私。このままではダメですよね。
両親の仲が悪く、愛情関係の薄い家庭で育ったせいか、子どものときから人の好き嫌いが激しい自分のあり方に悩んでいます。ことに嫌いな人に対しては、口も利きたくないし、目も合わせたくないというくらいの状態です。こういう性格ですから、会社に勤めていてもうまくは行きません。特に初対面の人との会話は苦痛に感じるくらいです。「このままではいけない」とは思っているのですが、なかなか変わることができません。(40代女性)

詳しくは書かれていないので分かりませんが、きっとあなたは子ども時代から何事も斜に構えて見る性格で、他人のいいところよりも欠点のほうが先に目についてしまうタイプなのでしょう。
だから、ひとたび他人の嫌なところを見つけると、その人が許せなくなるし、そばにもいたくないと思ってしまう。
そうしたあなたの気持ちは間違いなく相手にも伝わっているはずですから、相手だってあなたに好意的に接してはくれません。これでは悪循環の繰り返しで、心の許せる友人ができなくてもしょうがありませんね。
人間というものは、相手が自分に好意を抱いていると感じると、好意でお返ししたくなるし、逆に悪意を抱かれていると思うと、悪意でお返しをしたくなる性質を持っているのです。猫や犬だって、動物が嫌いな人間のところには近寄ってこないじゃありませんか。人間もそれと同じです。好かれているか、嫌われているか、すぐ分かるものです。
だから、これからのあなたは世間の人に対して、できるかぎり好き嫌いのハードルを下げて生きていくようにしてください。あなたも私も含めて、人間というのは欠点だらけの生き物です。あなたのように他人の悪いところ、ダメなところばかり探していれば、たとえ最初はあなたに対して好意的に接していた人でも離れてしまうのは当然です。
さらに言えば、あなたからすれば欠点にしか見えないことでも、他の人から見れば美質になることだってあります。あなたの「秤」の尺度がつねに正しいとは限らない。そのこともよく心に刻んでほしいと思います。
とはいえ、世の中にはどうしても「この人は苦手」という人間はいるものです。そういう人に対してまで好意的に接しなさいとまでは言いません。むしろ、苦手な人、嫌いな人と一緒にいると、知らず知らずのうちにあなたの中に悪意という毒が溜まってきます。ですから、なるべくそのような相手には近寄らないようにしましょう。
そのように心がけたうえで、多少は他人を見る目を甘くして、今までは嫌いな人が七で、好きな人が三というくらいの割合であったとしたら、それを五分五分にするくらいの努力をしてみてください。
相手のいいところ、長所だけを見るようにして、あえて欠点には目をつぶるようにしてください。そうしていけば、やがて相手もあなたのいいところを見つけてくれるはずです。
あなたはきっと子どものときから繊細で、だからこそ相手の嫌なところも見えてしまうたちだったのでしょうが、その繊細さを今度は相手を思いやる方向にむかって使っていけば、きっと人間関係もがらりと変わっていくと思いますよ。自分だって、人から嫌われているかもしれないでしょう。でも、それを許されて生きているのです。
人はみな許されて生きている──そのことも覚えていてください。
どうしても嫌いな人ならば、つきあうことはありません。でも、多少は他人に寛容になってみましょう。世界が変わります。 
会社の先輩のイジメに苦しんでいます。でも会社は辞めたくありません。
自分は文句を言うだけで、仕事を人に押しつけてばかり──ところが皮肉なことに、そんな先輩から押しつけられた仕事で上司に褒められました。それ以来、彼女からの風当たりが強いのです。いわれのない陰口も叩かれ、精神的に辛いものがあります。それ以外は会社に不満はないので、辞めたくありません。お局様からのいじめはどうしたら回避できますか?(23歳女性)

どんな職場にも、そんな人がいるものです。自分も努力をすればいいのに、あなたのように仕事ができる後輩や同僚がいると、それに嫉妬をして陰湿ないじめをする下劣な人は、昔からいるのです。
もちろん、あなたは辞める必要はありません。一番簡単なのは、そんなお局様なんて、相手にしないことです。きっと彼女にいじめられているという同僚はほかにもいるはずですから、逆にみんなで結束して反撃するくらいでも悪くはないと思います。
とにかく大事なのは辛抱しないこと。黙って我慢していると体や心の調子が悪くなってしまいます。もし、それでも彼女がいじめを辞めたりしなければ、上司にはっきりと伝えて対処をしてもらうのも一つの手段かもしれません。
ただ忘れてほしくはないのは、あなたも仕事を続けていれば、いずれはこのお局様みたいに煙たがられる存在になる、ということです。
今、あなたをいじめている先輩にしても、同じように先輩からいじめられた過去があるのかもしれないし、また、先輩から見るとあなたは生意気で、礼儀を知らない後輩に見えているもかもしれない。せっかくあなたは仕事ができるのですから、そうしたことをちょっとだけ想像するゆとりも持ってほしいと思います。そうでないと、やがてはあなたも、そのお局様と同じようになってしまいかねません。
そんな先輩に負けてはダメ。でも、あなたもやがては「嫌われる先輩」になることを忘れないで。 
好きな仕事に就いていますが、収入がなくてぎりぎりの暮らし。それでも働きつづけるべきですか?
仕事のことで相談させてください。あと数年、今の仕事を続けたのちに独立したいと考えていますが、それまではずっと服も化粧品も買えず、惨めな生活が続くのかと思うと心配で仕方がありません。転職さえすれば経済面は好転しますが、今の仕事は好きなのでそれも諦めたくありません。それでも今の仕事を続けることに価値はあるでしょうか。(28歳女性)

今の世界は不安に満ちあふれていますね。
世界的な不景気で職を失う人が増えているし、日本の社会も少子高齢化でこの先、どうなるのか分からない。あなたが「まだ27歳だというのに、ろくにお化粧やおしゃれも愉しめない生活で大丈夫だろうか」と悩む気持ちはよく分かります。
しかし、そうした暗い面だけを見つめていると、ますます不幸になっていくばかり。お釈迦様は人生は苦に満ちているとおっしゃいました。人は誰もが苦しみや悩みを抱えていますが、けっして不幸なことばかりではありません。
ご相談をお聞きすると、あなたも自分のやりたい好きな仕事に就いているということですね。この就職難の時代に、自分の好きな仕事ができるということは、それだけでもとても幸福なことではないですか。不安や心配はたくさんあるとしても、その幸運をまず感謝するようにしてください。そうやって感謝の心を持っていれば、自然ともっと幸せになれると思います。
たしかに、お給料が少ないのは何かと不自由でしょうが、他人と比べたりせずに「若いうちはみんなそういうもの」と思えば、苦にならないのではないかとも思います。もうちょっとだけ辛抱して、好きな仕事に集中してごらんなさい。きっと、もっといいことが起きるはずです。また、お化粧しないで、スッピンでも仕事ができているあなたの若さにも自信を持ってください。
不幸を嘆くよりも、自分の幸せを感謝してごらんなさい。きっと、もっといいことが起きるはず。 
夫の愚痴に疲れ果てました。
今年から主人の転勤で、とある田舎町に引っ越してきました。休日に気分転換をしようにも周りには娯楽などいっさいなく、友人や親戚も近くにおりません。夫は夫で会社での悩みを家庭に持ち込み、私の話を聞いてくれるどころか、愚痴しかこぼしません。どうすればこのような毎日から抜け出すことが出来るでしょうか。(24歳女性)

夫婦といえども、しょせんは他人。
あなたが環境の変化に苦しみ、夫の愚痴を聞くのに疲れ果てていても、それをはっきりと口に出して言わないかぎり、相手が分からなくてもしょうがありません。
ご主人は、あなたに甘えきっていて、だからあなたの悩みに気がつかないのです。世の男性の多くは、自分の奥さんのことをまるで自分の母親のように思っていて、いくらでも甘えていいと考えているのです。しかし、そんなことは女性からすれば、たまったものではありません。
あなたは「はっきり言わなくても、いつか夫は私の悩みに気付いてくれるのではないかしら」と期待しているのでしょうね。でも、ご主人が気付くころにはあなたのほうがきっとダメになってしまいますよ。
だから、はっきりと「あなたの愚痴につきあわされるのはもう真っ平よ」と言ってしまいましょう。多少の摩擦を恐れるようでは、本当の愛情関係は築けません。「イヤなことはイヤ」とはっきり伝えるのも、ときとして大事なことです。
もし、それでご主人が怒って、あなたのつらさに同情してくれないようならば──まだ、あなたは若いのですから、いくらでもやり直しがききます。昔ならば、離婚すれば女性は傷物扱いされたものですが、今はそんな時代ではありません。じっと我慢したりせずに言ってしまいなさい。おたがいに本音をぶつけあってこそ、夫婦というものです。あとは「雨降って地固まる」という結果になるかもしれませんよ。
夫婦といえども、しょせんは他人。黙っていたら、あなたの気持ちは伝わらない。 
死後の世界はあるんですか?
中三男子です。僕は死後の世界のことが頭から離れなくて、すごくしんどいです。僕には両親も祖父母も全員いますが、「その人たちが死んでしまうと無になってしまうのか」と思うと辛いこと、この上ないのです。でも、そんなことは死んでみないと分からないと思うと、悩んでいる自分がバカに思えて、いらいらします。前世や来世があるんだというスピリチュアリストの人の話を信じたときもありますが、小さな子どもが「空からお母さんが見えたから、僕はお母さんのお腹に入ったんだ」みたいなことを言った、だから前世はあるんだといった話を聞くと、やはり疑わしい気がします。それに死んで無になるのも怖いですが、死んでも来世があって「魂は永遠に生きる」と言われると、それもすごく怖いです。ここまで読んでくだされば分かるでしょうが、僕はいつも他人の意見に流されてしまうのです。でも、僕は未熟者なので精神的な支えがないと強く生きられなくて辛いのです。どうか、今を真剣に生きられるようにアドバイスをください。できれば、死後の世界について信じられるような意見を教えてください。お願いします。(10代男性学生)

死後の世界は、はたしてあるのか──あなたはまだ若いからご存じないでしょうが、少し前の日本では、インテリを自称する人たちの間では「死後の世界なんか、ない」という思想がずいぶん流行ったものでした。宗教などは麻薬のようなもので、そんなものにかぶれるのは堕落だというわけです。
『多情仏心』などの数々の名作を遺した里見ク先生は、志賀直哉や川端康成といった人たちと一緒に文学活動をなさっていた作家ですが、その晩年、私はずいぶんこの里見先生に親しくしていただきました。里見先生も戦前の東京帝国大学文学部を出たようなインテリですから、やはり「死んだら無である」という考えの持ち主で、すでに出家していた私に対しても、そう断言しておられました。
その里見先生は、お良さんという、以前は芸者をしていた素敵な女性と一緒に暮らしておられました。先生には本妻、つまり戸籍上の奥様もおられたのですが、ずっとそのお良さんと暮らしていたし、それを世間にも公開しておられた。
私が里見先生と知り合ったころには、そのお良さんはすでに亡くなっておられました。お良さんと死に別れても、先生がお良さんのことを今でも愛しておられるのはよく存じていましたから、「人間は死んだら無になるとおっしゃるのならば、先生はあの世でお良さんと再会することもできないのですか」とお聞きしました。
すると里見先生は即座に「うん、たとえお良であろうと会えるわけはない。死んだら無だ」と断言されたのです。
さて、それからどのくらい経ってからでしょうか、里見先生が京都にお越しになって、私にご馳走してくださるとおっしゃいます。
招かれたのは「大市」というすっぽん料理屋さんでしたが、店に上がったところで、里見先生が「おい、お前さん、そこでチンしてやれ」とおっしゃいます。
「チンしてやれ」とは何だろうと思ったら、その大市の玄関を入ったすぐのところには、なぜか大きな仏壇がある。そして、その仏壇にはちょうどそのころ亡くなった大市の先代の女将の真新しい位牌があった。
ああ、なるほど「お前さんは出家者なのだから、亡くなった女将さんの回向をしてやれ」ということなのかと合点して、私がそのお仏壇の前に座って、鐘を叩いて拝むと里見先生はにっこりと微笑まれた。そのときの笑顔を私は今でもよく覚えています。
さて、このときの里見先生をあなたはどう思いますか?
私は、普段から「人間は死んだら無になるのだ」と断言していた里見先生が「大市」の玄関で私に「チンしてやれ」とおっしゃったことはちっとも矛盾したことではないと思っているのです。
たしかに私もあなたも、まだ死んだことがないのですから、果たして本当に天国や極楽があるかどうかは分かりません。ひょっとしたら、里見先生がおっしゃるとおり、死後の世界などはなくて、人間は死んだら無になってしまうのかもしれません。
しかし、かりに死んだら無になるとしても、亡くなった人の記憶は私たちの中にずっと生きています。それは断言できます。
私ももう90近くになって、たくさんの人たちをあの世に見送って来ましたが、その人たちの思い出は私の中に今でも鮮やかです。すでに里見先生もその中のお一人になられましたが、あの「大市」の玄関で、私が仏壇の前で拝んでいるのを見ておられた里見先生の笑顔は今でも私の脳裏に鮮やかに焼き付いています。
私たちが仏壇やお墓に向かって手を合わせるのは、単純に死後の世界や霊があると信じているからだけではありません。亡くなった人たちの記憶を私たち自身が大切にしたいと願うからこそ、お墓や仏壇を作るのです。
そしてもし、私やあなたが死んで無になったとしても、私たちのことを覚えている人がいて、ときどき思い出してくれてお墓参りをしてくれるのだと思えば、それで少しは心が安まるというものではないかと思うのです。
里見先生が私に「チンしてやれ」とおっしゃったのも、霊魂があるかないかとは関係なく、亡くなった人に対しては礼を尽くすのが当然だと思われたからでしょう。知った人の仏壇やお墓があれば、そこに手を合わせてお参りするのは宗教以前の問題です。
それにしても、まだ中学生になったばかりなのに、あなたがこうした哲学的、宗教的なことに興味を持つというのは素晴らしいことだと思います。せっかくですから、思いを定めて、今のうちから思想家や宗教家になることを目指して勉強してみたらどうでしょうか。
といっても、それには本を読むだけではなく、お寺に行って参禅をするとか、あるいはキリスト教会に行って神父さん、牧師さんのお話を直接聞くということが大事です。
今のように一人で引きこもって考え込んでいたら、きっとノイローゼになります。とりあえず今は一つの宗教、思想に決めずに、いろんな人に会って、たくさんの本を読んで、いろんな人生の疑問をぶつけることをお薦めします。そうしていくうちに、自然にあなたの道が拓けていくはずです。
私は小説家ですが、小説家を志したのは、たくさんの本を読み、その魅力に惹かれたからです。私の読んだ本を書いた人は生きている人もありましたが、死んでしまった作家もたくさんいたのです。死んだ人の書いたものが、若い私の精神を揺さぶったということは、その人の命が続いているということではありませんか。
私も死んだことがないので死後の世界があるかどうかは知りません。でも、かりに死後の世界がなくても、亡くなった人たちの記憶は私たちの中に生きています。 
会社を辞めてでも、余命いくばくもない母親の側にいるべきでしょうか?
母親が末期癌で「余命半年」と宣告されました。父親は定年退職しているので母親のそばにいることはできるのですが、やはり年老いた父だけに任せるのは心配です。しかし、私も仕事の都合で長期の休みをとる事ができません。介護のために今の会社を辞めようかとも考えましたが、その後の再就職ができるかどうかが心配で、なかなか踏み切れません。仕事を辞めて母親のそばに居ることが正しいのでしょうか?(34歳女性)

日本もいよいよ本格的な高齢化社会に入ったので、このごろはこうした相談を受けることが多くなりました。病気で苦しんでいるお年寄りも気の毒ですが、その面倒を見る子どもたちもみな苦労をしています。本来ならば、社会全体でこうした介護の問題を解決していくべきなのでしょうが、残念ながら今の日本にはそうした仕組みがよくできていません。
癌の宣告を受けたお母さんの介護をしたいというあなたの優しい気持ちはよく分かりますが、しかし、お母さんはきっと「あなたのその気持ちだけで十分」とおっしゃるに違いありませんし、ここで仕事を辞めてしまったとしたら、やはりあなたは後悔すると思います。
相談のお手紙では、どんな会社に勤めているかは分かりませんが、せっかく10年近くも勤めてきたキャリアです。たとえ介護のためとはいえ、ここで会社を辞めてしまったら、今のご時世では再就職はむずかしいと思います。
それにあなたのお父さんはすでに退職なさっているのですから、たとえ蓄えがあったとしても、入院費用などがかかります。仕事を辞めたら、そうした費用をどこから得るつもりですか。また、あなた自身の生活費だってかかることでしょう。そのお金だってバカになりません。
ご両親に対して孝養を尽くしたいというあなたの気持ちは尊いものですが、もうちょっと落ち着いて考えてみてください。
どんなに深い思いがあっても、人間のできることには限りがあるものです。冷たいようですが、あなたが会社を辞めて看病したとしても、いつかはご両親はあの世に旅立ってしまわれます。しかし、あなたにはその後の人生が待っているのですから、軽々に会社を辞めるという選択はしないほうがいいと思います。
ましてやあなたのような優しい人は、きっとお母さんを見送られたあとは深く気落ちをして、「もっと看病をしておけばよかった」「こういうことをしてあげばよかった」と自分自身を責めるに違いありません。そんなふうに思い詰めないためにも、仕事という心の支えがあったほうがいいのではないでしょうか。
世間ではとかく「親の介護は当たり前」と無責任に言ったりもしますが、そんな簡単な話ではありません。どれだけ手厚く介護をしても、介護をした配偶者や子どもたちに後悔は残るものですし、また、後に残された人たちにはその後の人生が待っているのです。介護の相談はたくさん私のところにも持ち込まれてきますが、簡単に答えが出るものではありません。本当にむずかしい問題と思います。
人間のできることには限界がある。あなたのできる範囲で親孝行をしなさい。 
教師も生徒もやる気のない学校に失望しています。
私は今、昔からの夢である教師になる為に、大学の教育学部に通っています。しかし周りには真面目に通っている友人はおらず、授業中に電話するような学生さえいます。しかし、そんな学生に対して大学の先生も何の注意もせずに淡々と講義を進めているだけ。学校の先生からは何の情熱も感じません。「この大学から教師になるのはかなりむずかしい」と言っている先生もいるくらいです。いっそのこと、こんな大学は辞めてしまって、通信教育などで教員免許を取ったほうがいいのかもしれないとも思いますが、親に苦労をかけてまで入った大学を簡単に辞めるのも申し訳ないと悩んでいます。寂聴先生、どうしたらいいと思われますか?(19歳男性学生)

あなたには「教師になりたい」という明確な夢と志があるのですから、他の人が何をしようとどうだっていいではないですか。なぜ他人のことを気にする必要があるのでしょう。むしろ、周りの人たちがそれだけ堕落しているというのであれば、「せめて自分だけは立派な先生になろう」と、高い志を持ってください。
たしかに授業中に携帯電話をする同級生や、自分が奉職している学校の悪口を言う先生は困ったものだと思いますが、そんな人たちの存在に心を乱す時間がもったいないというものですよ。大学の先生たちも頼りないのであれば、大学の図書館に行って自分で勉強なさい。そして、そこにある古典や名著を片端から読んで、自学自習すればいいのです。
そうすれば道はおのずから拓けます。せっかく入った大学なのですから、わざわざ辞めて回り道することはありません。
教授の中にも、かならず立派な人も一人や二人はいるはずです。そういう人を見つけて体当たりで教えてもらいなさい。
「親に苦労をかけてまで」という言葉を聞き、涙が出ました。あなたは真面目なだけでなく、実にやさしい心根の青年なのですね。あなたのために祈ります。
周りと自分を比べないこと。自分の高い志と夢を信じて、一人で進みましょう。 
やはり女性は「見た目」でしか評価されないのでしょうか?
保険会社で生命保険のセールスをしています。入社5年目で仕事もすっかり覚えてきて、それなりに結果も出してきたつもりですが、上司が昨年入社したばかりの可愛い女の子にばかり、いい仕事をふり、私にはチャンスを与えてくれません。周りにも相談しましたが、誰も理解をしてくれません。どうすればよいでしょうか?(27歳女性)

あなたの言うとおり、世間では──特に男性たちは──少々おつむが弱くても、見た目のかわいい女性をかわいがるものですから、見た目のいい女性のほうが得をしているように見えます。
しかし、そうやって周囲からちやほやされて、それに甘えていた女性は、結局のところ、鍛えられることがないから仕事で伸びていくことはない。それに比べて、理不尽な扱いに悔しい思いをした女性は自分なりに勉強し、努力をしていくから才能が伸びて、結局は周囲が認めてくれるものです。だから、今、あなたの後輩が職場の男たちに甘やかされていたとしても、そんなことで心を乱している必要はありません。
入社五年であなたはそれなりの成果を上げているのですから、すばらしいことではないですか。あなたの誠実さが人の心を打った証拠です。他人と比べず、「自分は自分」というプライドを持って、胸を張って生きてください。
それに、あなたのように若いうちに世の中で苦労した人のほうが、恵まれてぬくぬくと育った人よりも、他人の心の痛みが分かる人になれます。「友だちにするならば、不幸を味わった人のほうがいい」という言葉をあなたにプレゼントしましょう。どうかこれからも好きな仕事に打ち込んでください。
友だちにするならば、不幸を味わった人のほうがいい。 

 

●寂聴の言集 仏さまの慈悲
祈り。幸せな時にはありがとう。苦しいときには力を下さい。淋しいときには聞いて下さい。いつも地球のすべての人が幸福で平和でありますように。
初鏡ひめごともなく拭き清め
何事も、感謝されたいと思って何かをするのではなく、そうさせてもらえることを自分自身で感謝することが大事です。
心和らぎ、気平らかなる者は、百福自ずから集まる。
和やかな心の人のまわりには人が集まり、自ずと多くの幸せが集まってくる。
人間はたいてい笑ったときの表情がいちばん美しい。誰に会っても、まずニッコリ微笑みましょう。それが和顔施(わがんせ)です。
人間は、自分しかもっていない個性と資質に誇りをもって、わが道を独りでも行くという気概をもつことです。
人間が他の動物と違うところは、心に誇りをもつことです。いまの日本は人々が土地や国に対する誇りを忘れ、だめな国になっています。
「耐え忍ぶことこそ、最上の行。苦しさに耐え忍ぶことこそ、この上なく涅槃なり。」法句経184番
仏教では、悪事をせず、善を行ない、ただ耐え忍べと教えています。私たちは苦しいことにであったとき、この教えを思い出しましょう。 
ひたすら耐え忍ぶしかない苦に出会うのは、この世の定めだからです。しかし、その忍耐の彼方に、必ず涅槃の喜びがあることを信じよと、釈尊はさとされています。
仏教の教えに「殺すな、盗むな、嘘をつくな」というのがあります。しかし、日常生活において嘘をつかないというのは、とてもむずかしいことです。
「さあいそいで、自分のより所をつくること。早くいそいで努めること。知恵を身につけ、汚れをはらい、罪科を清めなさい。そうすれば老と死は遠ざかる。」法句経238番
「心は虚空に似ている。知らないうちに汚れてしまっているから。心は猿に似ている。いつももの欲しげで、様々な業をつくるから。心は怨敵に似ている。すべての苦悩を引き起こすから。」大乗仏教「大宝積経」「迦葉品」
心は移ろい易く、捕らえ難く、なかなか自分のものでありながら、自分の思うように動かない。ままならぬ心から、さまざまな人生の哀歓が生まれるのである。
人間はいつ死ぬかわかりません。だから明日のことで思い悩まない。今日できることは今日してしまうこと。美味しいものをもらったけれど、今日は我慢して明日食べようなどとは思わず、今日食べてしまいましょう。それでいいのです。
巡礼は非日常の時間と空間のたびです。非日常の空間と時間は、どこかで浄土につながっています。だから歩いているうちに心が洗われ、悩みや悲しみも薄れてくるのです。
自分が世の中にたった一人しかいない、ということを自覚してください。地球上の一人ひとりがかけがえのないたった一つの命を生きているのです。
人間には誇りがありまう。誇りとは、自分が自慢できることです。自分は他人とは違うということに誇りをもってください。そして他人の誇りを傷つけず、いいところを認めて尊敬してください。
「涅槃」とは「火を吹き消す」という意味で、煩悩の火を吹き消した全く迷いのない悟りの境地という意味です。 
つねに心が緊張し、神経を研ぎ澄ましていなければ、いくら人生の転機がサインをよこしてくれても、それに気づかないで見逃してしまうでしょう。
日本人は「道」という言葉が好きだ。道をきわめるというのはただ歩くのではなく、道の心を体得し、修行をつんで、その技の究極まで達することである。
道元は「若し道有りては死すとも、道のうして生くることなかれ」といい、孔子は「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」といっている。
鉄の錆は、鉄から生じ鉄を損なう。人の悪も、自分の業が自分を追い地獄へ追いやってしまう。「法句経」240番
私たちは自分自身の心や身体が犯す悪の汚れによって病気になったり、自分自身の運命を狂わせたりする。自分の身についた悪は、ついたその瞬間に清めていくしかない。
いい宗教か悪い宗教かを区別するのは、たった一つ。それはお金を取るか取らないかです。どんな宗教を信じるのも自由ですが、祟るなどといって信者を脅し、お金を要求するのは、すべてインチキです。
世の中には悩みのない人なんてほとんどいません。もしあなたがいま悩みを抱えているなら、少し気持ちに余裕をもって、同じように苦しんでいる人に優しい言葉をかけてあげてください。
人の悩みを聞いて、「よかった、あの人ほど不幸じゃなくて」と思ってはいけません。今の自分の幸福に感謝し、健康に感謝することを忘れないように。
お年寄りは孤独です。若い人は敬遠して近寄らず、同年代の友達は先に死んでしまっている。老人は淋しいのです。若いあなたも必ず老人になります。
「明日のことは、いくら考えてもまからない。過去のことを悔やんでもはじまらない。だから今日を、今を悔いなく切に生きなさい」とお釈迦さまは説いています。 
不愉快の原因は、たいてい自分自身にあります。
「いたましきかな、世の中の人、名利の酒に酔いて、ついに正念なく、財宝の縄につながれて、一生自由ならず」江戸時代の僧、鉄眼道光の「化縁の疏」にある言葉
私たちは死ねば必ず彼岸に行きます。しかし、生きているうちに彼岸に行けないものかと思うのが人の常です。仏教には「六波羅蜜」という教えがあります。六波羅蜜は、生きながら向こう岸(彼岸)に渡るための六つの修行を意味します。
六波羅蜜とは布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧で、在家の人が彼岸へ渡るための六枚の切符です。
布施(施すこと)、持戒(してはいけない戒律を守ること)、忍辱(辛抱すること)、精進(努め励むこと)、禅定(心の迷いの炎を鎮めること)、智慧(物ごとを正しく判断すること)、この六波羅蜜を行なえば在家の人でも生きながら彼岸に行けると、仏教では説いています。
出家した人の行なうべき修行に八正道があります。八正道とは、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定で、これを行なうと煩悩が消え、彼岸に渡ることができるといわれます。
正見(正しいものの見方)、正思(正しい考え)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行ない)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい気づかい)、正定(正しい精神統一)。これらが出家した人の守るべき八つの正しい行ない、八正道です。
無限大の宇宙も、極微小の素粒子も、摩訶不思議な存在ですが、それを認識することの出来る人間の頭脳は、さらに摩訶不思議。
この世は、涯しない流浪の旅に通りすぎる、かりそめの宿りの一村にすぎない。
「好きこそものの上手なれ」といいます。好きなものに挑戦していくことが人生です。 
坐禅とは、結跏趺坐といって脚を組んですわり、組んだ脚の中心に両手の掌を上に向けて重ねますが、そのとき、右の手を下に、左の手をその上に置きます。そして、心を左の掌に乗せて観念しなさいといいます。
悪事は天網恢恢、必ずばれるものなのです。万一、ばれずにしてやったりとうぬぼれていtも、あの世で悪事の報いを受けて地獄へ堕ちるというのが仏教の考え方です。
第253世点台座主の山田恵諦師は、いつも「忘己利他」を説かれた。「いかなる宗教においても、そのもっとも基本となり、尊い行ないというのは、常に『己を忘れて他を利する』ということにある。表現の仕方はいろいろあるでしょうが、世界宗教の中で、これを否定するものはりません。」
「自分の利益なんてことは忘れて他の人々の役に立ち、幸せにすることを日常的に考え、実行することができれば、それは慈悲のきわみ、つまり仏と同じ働きをするのです」山田恵諦師の言葉
あらゆる宗教の究極は、ゆるすことを学ぶことに尽きるのではないだろうか。ゆるすということは、超越的なものがゆるして存続させているこの現世のすべての生々流転を、かなしみの目で見守れるようになることかもしれない。
世の中が悪くなったのは、物質ばかりに目が走って、お金や物を欲しがる生活態度が増え続けたせいです。私たちは敗戦でボタンをかけ違ったのです。思い切って、最初のボタンからかけ直しをしなければ、私たちのゆがんだ服は直りません。
私たちは、目に見える物質やお金より、目に見えない大切なものに心の目を向けるべきなのです。目に見えない大切なものとは、心です、神です、仏です、宇宙の生命、エネルギーです。
少年少女よ、あなたたちの若い体と清らかな精神が、国や世界の未来を背負い、新しい時代を切り開いていくのです。あなたたちこそ、この世の宝物なのです。
少年少女よ!あなたたちが今やらなければならないことは、勉強です。勉強というのは一生懸命しないといけません。よく遊び、よく勉強し、よく食べ、よく眠る生活をしてください。
なぜ青少年は勉強しなければならないのか。勉強することによって自分の好きなことを見つけ、その才能を伸ばして、人間としての誇りをもつようになるからです。 
誰でもいい、自分のまわりの誰かひとりを幸福にする人間になってください。そういう使命をもってこの世に送り出された自分という人間に誇りをもってください。
死ぬときはきれいさっぱり無一物になっておきたいものです。でもいきている間は前向きに、死ぬまで現役で書きつづけたい。どうせ定命まで死ねないのですから、定命の尽きるまで仏まかせで働きつづけるつもりです。
芸術家は人生で岐路に立たされたとき、あえて困難な路を選ぶのだと岡本太郎氏は教えてくれた。私はいつでも迷ったときは、この言葉を護符のように信じ、躊躇なく困難な路を選んできた。
健全な身体に健全な心が宿るといわれてきたが、そうとばかりはいえないと思う。健康な人間の思い上がりと自信ほど、愚かで醜いものはない。
長生きしたいなどと私は一度も思ったことがない。少女の頃は三十代で死ねばいいなあと憧れてきた。しかし美人薄命という言葉を知ってからは、これはとても自分には無理だと思った。
私はいつでも情熱につき動かされて生きてきた。人の踏みかためてくれた道を歩くのは退屈すぎるし、その道の風景には魅力を感じなかった。
いくら計画を立てて、間違いのないように努力しても、思い通りにならないことが、世の中にはたくさんある。
物事が思い通りにならないとき、絶望したり、諦めたりするのではなく、「どうかお助けください。力をお貸しください」と仏さまにお祈りしなさいというのが、仏教の教えです。
私は、若い頃はちっとも仏さまを信じてなどいませんでした。しかし今は、仏さまはおられると信じています。なぜなら、人間の能力の限界に気づいたからです。
巡礼の旅は、日常を離れて非日常の時間に入ることです。思いがけない新鮮な時間に、身も心もよみがえります。 
昔、巡礼装束といえば、決まって死に装束である白衣でした。人間は巡礼に行くことで生まれ変わるためには一度死ななければならないということから、白い衣を着たのです。
仏はいつも私たちを見守っていてくれます。この仏を、死んで仏になった人と思ってもいいでしょう。死んだ人の魂、つまり仏は、いつも愛する者のそばにより添ってくれているのです。気がつかないのは生きた人間の傲慢さのせいでしょう。
人がたとえ 百年生きようと 行い悪く心乱れるなら 徳をつみ 心静かな人が 一日生きるのにも及ばない 「法句経110番」
無為にだらしない生き方をするより、真剣に生きるほうが、たとえ短命でも値打ちがあります。
日蓮は、釈尊の教えはただ正直に生きよということだといっています。正直とは、心が正しくすなおなこと、いつわりのないことです。
人間は生に執着するのが本能であり、自然なのです。釈尊は、生に執着するなとは教えていません。生を有意義に生きよと教えられているだけなのです。
苦しんでいる人、悲しんでいる人には一緒に泣いてあげて、相手が落ち着いたら和顔施をしましょう。和顔施とはいい顔をあげること、ニコニコすること。笑顔は人をいい気持ちにさせます。
人間が渇愛を脱して慈悲に向かうのは、決して楽な道ではありません。人は誰でも仏になれる種をもっていると信じて、忘己利他の行をつむこと、それが割愛から離れるための第一歩です。
「家出」と「出家」は、字面が同じなのが面白い。しかもその内容たるや両極に分かれる。共通なのは、もっているものを捨てるという点である。
「火宅の人」という檀一雄さんの小説があります。「火宅」とは「三界無安、猶如火宅」という「法華経」の言葉からとったもので、煩悩と苦しみに満ちたこの世を、火に焼けている家にたとえていったものです。 
良寛は、終日托鉢をしたところで鉢は空のまま帰庵する日も多いと詩に詠んでいる。しかしむしろ、鉢いっぱいの布施で満たされるよりも、空の鉢を抱いてとぼとぼ山径を帰るときのほうが。詩魂も禅魂も澄みきっていたのではないだろうか。
パンドラの箱の底にただ一つ残った「希望」は、今のような絶望の時代こそ、箱の底から取り出されるのを待っているのではないでしょうか。
私たちは死の瞬間まで、絶望の中に希望の光を見出す智慧の、栄養になるものを残していきましょう。私は書くことと祈りをこの世への置き土産にします。愛しい若い人々のために。
「知足」とは足ることを知るということです。不知足の者は、富んでいても心が貧しい。「法句経」には「足ることを知るのが極みのない財産である」とあります。
「人間は無になると神通力が出る」と一遍上人はいいました。一遍上人は空を飛ぶわけでもなく、人の病気を治すわけでもないのに、彼の生き方に共感して、行動をともにする人がたくさんでてきました。それも一種の神通力でしょう。
「捨ててこそ」ということばが大好きです。何もかも捨てることができたら、はじめて宇宙のエネルギーとつながるのではないでしょうか。
たとえ 髪を剃ったところで 戒を守らず 嘘つきならば 修行僧なんかで あるものか 欲望と貪りにまみれ それで僧侶と呼べようか 「法句経264番」
許すということ、これが仏教の極意です。人を恨んでいたら、自分の心も醜くなります。心が醜ければ顔も醜くなります。美人でいたければ、温かい心、優しい心をもつように。
お釈迦さまは悟られた時、内容をご自分では言葉にしていません。文字などには表せないものだったのでしょう。仏教ではそれを「無上甚深微妙法」と表現します。
禅に「吾、常にここにおいて切なり」という言葉があります。一つの物事に成り切るということです。私はこの言葉をつぶやくと、心の中に涼しい風が起こり、雑念が吹き払われるのです。 
性が人間の重要な位置を占めることはいうまでもないが、人間が他の動物と違うことは、性をコントロールできることだろう。
「自由自在」の自由(自らに由る)とは、自我を投げ捨てて宇宙の大生命の中へ没入したときに生まれる思いのままの姿であり、自在とは、自ずから天地の法則に合致した「欲するまま」であることです。
白楽天が高名な禅師に聞きました。「仏教の極意とは何か」。答えは「諸悪莫作 衆善奉行(悪いことはしない。善いことをいっぱいしなさい)」。そして禅師はいいました。「三歳の子どもが知っていても、八十歳の老人ですら実行できない」と。
うずたかくあふれる花で たくさんの花飾りをつくるように 死すべき人として生まれたからには 生きている間に 多くの善を行うこと 「法句経53番」
花の香は風の流れにさからわない 栴檀も伽羅もジャスミンも けれど善い徳のある人々の香は風にさからっても進む 四方八方にその徳の香は 流れていく 「法句経54番」
人の心は変わるもの、無常そのものという覚悟がなければ、人を信じて裏切られたと、年中泣いたり、悔しがったりしていなければならない。
人生というのは、努力や計算だけではない。どんなに緻密に計算して計画を立て、努力しても、予期した結果が得られないことが多い。そこに人生の味が生まれる。
相思相愛の恋愛でも結婚でも、歳月が過ぎれば情熱は冷め、互いの心が離れていく。これが無常というものです。同じ状態はつづかない。
昨日までうまくいっていたのに、今日になると突然悪くなってしまう。どんなに頑張ったところで、今日が昨日の続きになることはないし、明日が今日の続きになることはない。世の中は無常だからです。
人間の努力や知恵には限界がある。どんなに頑張っても人生はどうにもならない。そう知ったとき、人は信仰心に目覚めるのです。 
出家してから、人のために祈らなければならない機会が多くなり、そこにたしかな霊験を感じるようになった。自分自身のことを祈ってかなえられたことは一度もない。
霊験の多くは、心を無にして人のために祈ったときにだけ現れる。あるいは人が何かを信じきり、任せきったときに現れるものだ。
何をするにも人間の努力は必要だ。しかし、努力の果てに何か人間の力以上のものの扶けが加わったとき、自分でも信じられない能力が発揮される。それこそ宇宙の生命と才能の感応の瞬間であろう。
あなたはもはや、枯葉のようなもの 閻魔王の使者も ほら、そこに来ている あなたはもはや 死出の門口に立っている けれどもあなたは 旅の食糧さえ持っていない 『法句経』235番
「生者必滅 会者定離」は仏教の根本真理の「無常」を表していますが、この原則を私たちはともすれば忘れがちになります。
出家したあとも私は昔からの付き合いの人と、昔と同じ口調でしゃべり合う。けれどもそんなときにも、私の目の前には幻の川がしらじらと横たわっている。あちらは世。こちらは世の外。
お釈迦さまは、自分が死んでも自分の銅像を拝めとか、一番弟子のいうことを聞けとはおっしゃいませんでした。自分自身を灯りとしなさいとおっしゃたのです。このお釈迦さまの遺言のことを「自灯明」といいます。
お盆は、もともと、亡くなった人がどうか極楽浄土に行けますようにとお祈りするためのものです。
いま、仏教は亡くなった人を弔うための宗教だと思われていますが、本来は、生きている人の苦をなくし、楽を与える「抜苦与楽」のための宗教です。
本当なら、お寺は「いかに生きるべきか」を伝える場所であるはずなのに、亡くなった方にお経をあげるだけの場所だと思われているのは残念です。いま悩みを抱えている人にこそ、来て欲しいものです。 
戒名は本当にいるのかとよく質問されます。もしあなたが仏式で葬儀をあげてもらいたいなら、やはり戒名は必要です。戒名は、出家する際に行われる「受戒」にちなんでいます。「今後は仏教の戒律を守ります」ということを誓った人の名前だから、戒名といいます。
私は在家出家を勧めています。なによりいいのは、戒名にさほどお金がかからない点です。
在家出家とは、在家信者のままで受戒し、戒名をもらうことです。戒名はキリスト教のクリスチャン・ネームと同じようなものです。在家出家者も戒律を守るように努めなければなりません。
なぜ死んだ人に戒名をつけるのかというと、死んだ人をあの世に送るためにまず仏教に帰依してもらわなければなりません。ブッダの弟子にならなければお寺で葬儀をすることはできないのです。
葬儀のときに戒名をいただくと、どうしても高くなります。だから、生前に戒律を受け、戒名をもらっておけばいいのです。在家出家なら自分の出せる範囲のお布施をすればいいのですから。
仏壇は家庭における信仰の中心です。仏壇に向かい、お経をあげたり、先祖のご冥福を祈ることによって心を静めるというのが仏壇をまつる目的です。仏壇の大小や値段は関係ありません。
仏壇でお祈りするときは、お花、水(お茶)、仏飯を供え、お香を焚き、ロウソクに火を灯します。この五つを「五供」といいます。灯明は仏の智慧と救いをあらわし、お線香はその場所を清め、自分の心の中も清めるためのものです。
線香は、死者のために立てるのであれば一本。二本ならそのうち一本は死者に話しかけるものだとされます。三本立てると、そのうち一本は懺悔のためといいます。
親切で、慈しみ深くありなさい。あなたに出会った人がだれでも、まえよりももっと気持ちよく、明るくなって帰るようになさい。親切があなたの表情に、まなざしに、ほほえみに、温かく声をかけることばに表れるように。『マザー・テレサのことば』(女子パウロ会刊)
三途とは、地獄道、畜生道、餓鬼道の三つの途をいいます。死後、初七日に、冥途への途中にある三途の川を渡るという説があります。 
私は多く傷つき、多く苦しんだ人が好きです。挫折感の深い人は、その分、愛の深い人になります。
自由に生きるとは、心のこだわりをなくすことです。自分の心を見つめて、ひとつでもふたつでも、そこに凝り固まっているこだわりをほぐしていくことが大切です。
誰の中にも仏さまがいるのだという気持ちで、相手に手を合わせるような気持ちで接してください。
もともと人間は、命とともに自然治癒力を与えられているのに、文明が進むにつれて、その力を見失ってきているのです。
南無阿弥陀仏の「南無」は、サンスクリッド語の「ナーム」という言葉に漢字を当てたものです。これは「あなたにお任せします」ということです。阿弥陀仏にすべてをお任せします、という意味です。
南無阿弥陀仏という念仏を中世の日本人に広めたのは浄土宗を開いた法然上人や、浄土真宗をつくった親鸞聖人でした。
お釈迦さまはこの世におられて彼岸に行く人の後押しをしてくださり、阿弥陀さまは「こちらへおいで」と彼岸へ招いてくださる仏さまです。
墓地に墓石を置いて弔う習慣は、江戸時代以降のこと。それまでの庶民は土に亡骸を埋め、その上に石を乗せただけでした。立派な墓石がなければ罰が当たるというなら、その時代に日本は滅びていたはずです。
おろかな者も 自分をおろかだと思えば その人はもうかしこい おろかなのに 自分をかしこいと思えば その人こそ ほんとにほんとに おろか者 『法句経』63番
涅槃入られたお釈迦さまの遺体は、在家の人たちによって火葬にされ、遺骨は八分されて各国の王が持ち帰り、ストゥパを建てて崇拝しました。これが、お墓の原点です。 
お釈迦さまの開いた仏教は葬式仏教ではなく、この世をいかによく生きるかというための真理を追究して修行することです。
人は思い出をすべて忘れずにいたら、記憶の海に溺れてしまうでしょう。溺死しないように、人間には記憶の多くを忘却するという能力が与えられています。忘却とは神仏の与えてくださった恩寵なのかもしれません。
忘却という能力によって、人は決して忘れてはならない大切なことも、歳月とともに忘れ去ってしまうことがあります。忘却とは神仏の与えた劫罰なのかもしれません。
反省と懺悔の中で善いことばかりをするように心がけていたなら、ちょうどジャスミンの花が咲ききって萎れたら、いつまでも枝にしがみついていないように、人も自然に貪欲の心や執着心が身から落ちていくだろう。
戦争のない地球とは、実現しない夢なのだろうか。あらゆる宗教の宗祖はそうではないと教える。
釈尊はインドの激動の戦乱時に生き、自然に心の中に戦争』否定の立場が固まったようです。釈尊は一貫して、徹底した反戦思想の持ち主で、無抵抗主義者でした。
人間は希望を捨ててはいけない。絶望するというのは、人間として傲慢なことです。
勝者は怨みを招き、敗者は怨み苦しむ。そのいずれでもなく、ここ寂静な者こそ、日々の暮らしは、平安そのもの。『法句経』201番
病気は神さまの与えてくださった休暇だと思って、ありがたく休養するのが一番いい。
美しいもの、けなげなもの、可愛いもの、または真に勇ましいものに感動して、思わず感情がこみあげて、涙があふれるというのは若さの証しです。ものに感動しないのがと年をとったということでしょう。 
日本人はよく年をとると枯れるのが美徳のようにいいますが、とんでもない間違いです。とくに芸術家は、死ぬまで枯れたりは出来ません。
あさねすべからず、ひるねをながくすべからず、みにすぎたことすべからず、おこたるべからず、良寛さんの「戒語」の一つです。
もしひとが、自分を愛するなら、つつしんで、自分を守ろう。賢い人なら、夜の三つの時の、一つだけでも、目ざめて自分を、反省しよう。『法句経』157番
兼好法師は「大事を思い立ったなら、あれも片づけ、これも片づけてからと思っては実行できない、今すぐ実行にうつれ」といっています。
いくら医学が進んで、人の身体を内臓の隅々まで説明してくれても、人の心はどこにあって、どんな形をしているのか、誰もおしえてくれません。
せいぜい長くて百年ほどの現世なんて、永遠の過去世と無限の来世に挟まれたサンドイッチのハムよりも薄い時間にすぎない。そんなに短い現世で、あくせく生きている人間のいのちは、蟻の生のようにはかないものです。
菩薩は、他人の苦しみを自分の苦しみとし、他人の悲しみを自分の悲しみと受け取る。日蓮は菩薩道を実践しているから、世を憂い、人の苦悩をわが事のようにj悲しむのである。
想像力でもって、相手の悲しみや苦しみを察してあげる。これが思いやりであり、愛です。
仏教では愛を二つに分けます。一つは渇愛、もう一つは慈悲です。渇愛は凡夫のセックスを伴った愛、これに対して慈悲とは仏さまの無償の愛です。
渇愛は、お返しを期待する愛です。しかも利息のついたお返しを期待するから、苦しむのです。 
自分を愛してもらいたいから、相手を愛する、それが渇愛です。自分を忘れて他人に尽くす仏さまの慈悲とは正反対ということです。慈悲はお返しを求めません。
大空にいようと 大海にいようと または山奥の 洞窟に入ろうとも およそこの世に 死の力の届かぬ所はない 法句経128番
八正道にある正語とは、悪い言葉である妄語、両舌、悪口、詭語などを話さないということです。両舌とは二枚舌のこと、詭語おべんちゃら、無駄口の類です。言葉を正しく使うのは、大事な修行です。
自分が悪行をすれば 自分がけがれる 自分が悪行をしないなら 自分は清らかだ けがれも清らかさもみんな自分自身がもと だれだって 他人を清めたりはできない 法句経165番
釈尊は亡くなるとき、「自らを灯明せよ」と教えられました。自分で自分を磨くことが、人の生き方だということでしょう。
地球の上にはさまざまな人種が、さまざまな文化・習慣の中に生きています。自分の文化・習慣だけを最上と思い、他者の生き方を認めないという我の強さが、戦争の危機を引き起こすのです。
「他は己ならず」、道元禅師の言葉です。自己を客観視できる目で、他者をも冷静に客観視して認めるところに和が生まれ、平和が保たれるのです。
人は自分の背中の表情が見えない。生活力盛んで、ばりばり仕事をしている人の背中の表情が、はっとするほど頼りなく淋しいのによく驚かされる。
私が出家したのは、小説を書く上で、もっと自分を見つめたかったからで、偉大な宗教家になりたいなど、一瞬も考えたことはない。
私は死ぬまで凡夫で迷いの無明にあえぎ続けるであろう。今でも、はるかかなたの天上からさしてく。 
うすい細い光を仰ぎ見て、私の拙い小説に憧れの灯をともそうとしている。
心を無にすると私たちはこの大宇宙と一体になれます。ふだんの私たちは、大宇宙のなかで一人ぼっちで生きています。しかし、自分を捨て去ると大宇宙につながることができるのです。
自分こそ自分の主人 どうして他人が主人であろう 自分をよくととのえたなら 自分こそ得がたい主人になるだろう
しょせん。人は他人に頼ってもダメなのです。独りで生まれ独りで死んでいく人間は、自分を頼れるものとして鍛え上げるしかないのです。
私たち現代人の不幸は、目に見えいものを信じなくなったことにあると思います。それは想像力がないということです。
仏教ではお釈迦さまが悟りを開いた瞬間のことを「成道」といいますが、その日は十二月八日であったと伝えられています。
人間は愚かな、過ちばかり犯す動物です。それを認めたうえで、あらゆる宗教は救世主を思い描くのです。
私は死の瞬間まで、自分を失いたくない。私は私の生まれ出るところを知らない。しかし、せめて私の死は自分の意識でみとどけたい。
また一年が過ぎ去っていく。この一年実に忙しかったと思いかえされるが、忙しいとは、心を失うことである。出家者としては軽々しくいっては恥ずかしい。
孤独で淋しいと思うときは、旅をするのが何よりです。疲れた心と体を自然がやさしく包み込んでくれ、気分転換も出来、思いがけない縁で、いいお友達にも恵まれます。淋しいときこそ、旅にお出でなさい。
眠れない者には 夜はとても長い 疲れきった者には 道はとても長い 愚かな者には 一生はとても長く 人生の正法を ついに知ることはない 『法句経』60番
釈尊は、時という概念を物理的にとらえず、その人の感じ方、活用の仕方によって心理的にとらえようとなさった。同じ「時」なら、その時を精一杯生ききって、一生をたっぷりと意義のあるものとして過ごせよと教えているのでしょう。 

 

●瀬戸内寂聴「葬儀委員長は横尾忠則さんしかありません」 2019/10
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。『場所』で野間文芸賞。著書多数。『源氏物語』を現代語訳。2006年文化勲章。17年度朝日賞。
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。『場所』で野間文芸賞。著書多数。『源氏物語』を現代語訳。2006年文化勲章。17年度朝日賞。
横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。(写真=横尾忠則さん提供)
横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。(写真=横尾忠則さん提供)
半世紀ほど前に出会った97歳と83歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。
横尾忠則「初の口述筆記、しゃべり続け疲れた」
セトウチさん。書けなければ口述筆記にしなさい、と言って下さるのは嬉しいんですけどね、何となく病人の僕のために一週休載ということになっているようですが、違(ち)ゃいます。セトウチさんが僕の「往」に対して「復」の原稿が遅いので、とうとう休載することになったというのが事実で、編集者の木元さんがこっそり教えてくれました。
僕はセトウチさんに比べると、すぐ書くので編集部は喜んでくれています。(エヘン!)問題はセトウチさんなんです。セトウチさんが、僕の往に対してすぐ反応してくれればいいのが遅いんです。僕は素人だから、今でもすぐ書けるんですがセトウチさんは作家なので、文章や内容を吟味して文学者として恥ない文を書こうとされるから、かえって、時間がかかって書けないのか、文章の仕事を沢山かかえておられるせいか、それともマナホとおしゃべりが過ぎたり、ステーキを食ったりで執筆時間がなくなっているんじゃないでしょうか。この企画のいい出しっぺはセトウチさんです。だから僕はすぐ対応しています。僕のことグズだと思っているでしょうけど、とんでもないです。文章は下手だけれど驚異的に早書きです。ウソだと思われるなら木元さんに聞いてみて下さい。木元さんは、いつも横尾さんは、驚くほど早く書いてくれると喜んでくれています。問題はセトウチさんです。忙しいセトウチさんこそ口述筆記にした方がいいんじゃないでしょうか(笑)。この原稿を入れて、すでにセトウチさんに2本を書いて送っています。僕は病気を理由に休載などしたくないのです。あとは木元さんが、セトウチさんの尻を叩いて、どんどん書くように仕向けて下さい。
この間、病院の超音波検査のベテラン看護師さんが、この週刊朝日の連載を読んでくれていて、その看護師さんは「横尾さん、セトウチさんに負けちゃいけませんよ。97歳であのパワーでしょう。横尾さんはまだ若いんです。食っちゃうくらいにガンバッテ、セトウチさんには絶対負けないで下さい」と病人を激励してくれました。この文章はセトウチさんのお望み通りの口述筆記です。
口述筆記など生まれて一度もしたことがないので難しいというか、しゃべり続けるのが、かえって病人には体力がいります。またしゃべり言葉と書き言葉はセトウチさんには変りはないと思いますが、僕にはやりづらいです。いっそのこと関西弁でしゃべった方がええような気がします。次の口述筆記は関西弁にします。2人共関西弁ができるので、きっと面白いでしょう。でもセトウチさんの関西弁は王朝のみやびの高級お公家関西弁。僕は、大阪の河内出身の荒くれ者の言葉か、または西脇弁のへなへなした骨のないタコの足のような話しかできません。
でも関西弁はどこか身体的なものとひとつになった言葉ですから、どうしても肉体的パフォーマンスを伴います。身体をグネグネタコみたいに動かしながらしゃべるさんまや鶴瓶みたいです。関西人はラテン系で、いきあたりバッタリなところがあります。あまり、色々計画などたてません。なるよーにしかならへんで、しゃーないやんけというあの刹那主義です。その内元気になります。ホナまた。
瀬戸内寂聴「葬儀委員長はヨコオさんしかありません」
ヨコオさん。第八回と第九回のヨコオさんのゲラを、まなほが怖い顔をして、私がだらしなく朝から横になっているベッドに運んできて、ゲラで私の顔をパンパンと叩き、
「ホラ! ヨコオさんの律義なこと! 病人のヨコオさんに恥しいと思いなさい! このなまけ者め!」と、尚もパンパンと叩きつづけます。
「そんなこと、胎教に悪いぞ!」と、尚も寝ころんだままの姿勢で私がどなってやります。いきり立っていたまなほは、たちまち、シュンとおとなしくなります。
つい、この間、六月に結婚式をあげた彼女は、もうお腹に赤ちゃんがいるのです。ウエディングドレスを二度、お色直しをした結婚式のまなほは、それは美しかったですよ。
花婿は、まなほより三歳若いまだ二十代のサラリーマンで、舞台の人になった方がいいようなイケメンです。お腹の赤ちゃんは男の子だそうで、鼻が高いそうです。クリスマス前に産まれるので、クリステルさんより一ヶ月ほど早いお産みたいです。
今は、早々と、鼻が高いか低いかなんて解るんですね。そんなわけで、まなほが私のだらしなさを偉そうにとがめる度、「胎教に悪いぞ!」とおどしつけると、シュンと静かになります。いい気味!
実は私もヨコオさんほどでないまでも、最近、体調がいちじるしく弱ってきて、起きているのがこたえられない程、躰じゅうがだるく痛い。三ヶ月毎に病院に通っているし、週に三回は、リハビリの名人が通ってきてくれているのに、老衰の度がとみに進んでいる感じがします。呆けも出はじめたかと不安になりますが、まなほに言わせると呆けは、もうとっくから出はじめていると断言します。昨日と今日が入れちがってこんがらがったり、朝と夜がひっくり返ったりします。「遂に来た!」という感じが切実で、いささかショゲています。何しろ満九十七歳だものね、数えだと、というと、六十六も若いまなほが、
「“数え”なんて知らないっ! そんな死語、もう使わないで!」
とわめく。ヨコオさんならわかってくれるでしょ。数えって、なつかしいよね。満になった時は、いきなり二歳若くなって、私たち娘どもは得したみたいに、大喜びしたものでしたよ。最近、
「百歳のお祝いは、どんな型にしますか?」
など大真面目な表情で訊いてくれる長いつきあいの編集者もあらわれました。もっと親しい人は、
「葬儀委員長は、どなたにお願いしますか?」
と訊いてくれます。約束出来ていた梅原猛さんが先に亡くなってしまったので、もうヨコオさん、あなたしかありませんよ。伏してお願いしておきます。辞世の句を一つと、内心あせっているけれど、これがなかなか出て来ない。でもこんなことを夢うつつに考えているのは、思いがけず優雅な心境で悪くありません。
この原稿が遅れているのは、すべて私のせいです。ハイ、認めます。心からヨコオさんにも、早くもこの原稿を愛読してくれているベテランで美人の看護師さんにも深く深くおわび申しあげます。ではくれぐれもお大切に。寂聴 

 

●瀬戸内寂聴さん 俳句 2018/7
7月29日のNHK俳句は、瀬戸内寂聴さん、《増刊号「ひとり〜瀬戸内寂聴の俳句と人生〜」》と題した企画でした。瀬戸内寂聴さんは一昨年5月、句集『ひとり』を出版され、この句集で「星野立子賞」を受賞されました。「星野立子賞」は、今なお多くの俳人から愛される星野立子を顕彰し、「今後の俳句界における女流のさらなる文芸の飛躍、若手人材の育成を目指す」という趣旨のもの。
今日の出演者は、聞き手に桜井洋子アナウンサー、黒田杏子さん。場所は京都の寂庵。
NHK俳句のHPには《『ひとり』は、恋、出家、生死などを句に詠み、俳句による自叙伝のような趣きを持っている。》と書いてありました。
最初、桜井洋子さんが「どうして句集を出されたのですか?」と尋ねておられましたが、寂聴さんは、「入院した時に、うつになるのはイヤ、元気でいたい。小説には自信があるが、それは今はムリ、そこで思いついたのは、句集、句集ならばやれる、そして残せる、と思った。そしてその作業をしていたら、実際楽しく、元気でいられた。」と答えておられました。
以下、放送された寂聴さんの俳句を紹介したいと思います。
むかしむかしみそかごとありさくらもち
寂聴さんご自身では一番好きな句だそうです。「出家した51歳以降はない」とも仰っていました。
骨片を盗みし夢やもがり笛
「実際に盗んできてくれた人がいた。今でも小さな壺に入れて仕事場に置いている。」んだそうです。
子を捨てしわれに母の日喪のごとく
寂聴さんは、25歳の時に、4歳の娘さんとご主人を捨てて家出されています。その時のお相手は年下の男性だったそうです。でも今ではその娘さんとは普通に交際出来ておられる、とのこと。
二河白道駈け抜け往けば彼岸なり
※「二河白道」=極楽浄土に行く間には一筋の白い道があり、南には火の川、北には水の川があるという。両側から水火が迫って危険、後ろからも追っ手が迫っていて退けない、一心に白道を進むしかない…というもの。でも念仏一筋に努めれば彼岸に至ることができる、という仏教語。
生ぜしも死するもひとり柚子湯かな
以下、続けて画面に5句。
柚子湯して逝きたるひとのみなやさし
はるさめかなみだかあてなにじみをり
鳥渡る辛い手紙を読みさして
神の留守森羅万象透きとほり
火葬炉の鉄扉の奥に虎落笛(もがりぶえ)
黒田杏子さんが来られてからは、寂聴さんと黒田さんとの出会いや寂庵で開かれるようになった「あんず句会」などの話などがありました。
黒田杏子さんは、寂聴さんの東京女子大学の後輩。黒田さんが勤めていたのメディアの博報堂、「寂聴さんがいろいろ噂されているがひとつ調べてこい」と言われて初めて取材で会われたそうです。それがきっかけで寂聴さんも俳句を始められ、また寂庵で句会も行われるようになった。
あは、もう30年以上も前ですからお二人とも若い❗ですね。
あんず句会には永六輔さんをはじめたくさんの有名人も来られたりして黒田さんも「お陰様で私も有名になった(笑)」と仰っていました。
「どなたかに、給料をもらい餌付けされたような人には本物の俳句は出来ない、と言われたことがある」(黒田)
「句をまとめて、私が死んだ後一周忌ぐらいに披露してもらえばいいと思っていたが、生前に出せた」(寂聴)
「『ひとり』は、寂聴さんの人生の絵巻だね。寂聴さんの句には『無頼精神…がある。」(黒田)
紅葉燃ゆ旅立つ朝の空や寂
(岩手県天台寺。寂聴さんは約20年位天台寺の住職を勤められた。月に一回京都から通われた)
御山のひとりに深き花の闇
夜になれば狼や狐の出す音や声が聞こえたそうですよ。
「どこにも言葉のムダがない句」(黒田)
「俳句は息を引き取るまでやれる。『ひとり』は辞世の句だと思っている。でももう一冊句集を出したい。これより少しうまくなっているかもしれない(笑)」(寂聴)
たどりきて終の栖や嵯峨の春 

 

●俳句 瀬戸内寂聴
春逝くや 鳥もけものも さぶしかろ 
むかしむかし みそかごとあり さくらもち
骨片を 盗みし夢や もがり笛
子を捨てし われに母の日 喪のごとく
二河白道(にがびやくどう) 駈け抜け往けば 彼岸なり
   生ぜしも 死するもひとり 柚子湯かな
   この句は、寂聴さんが好きな一遍上人の言葉から生まれました
   生ぜしもひとりなり 死するもひとりなり
   されば人とともに住すれども ひとりなり
   添いはつべき人 なきゆえなり
柚子湯して 逝きたるひとの みなやさし
はるさめか なみだかあてな にじみをり
鳥渡る 辛い手紙を 読みさして
神の留守 森羅万象 透きとほり
火葬炉の 鉄扉の奥に 虎落笛
   紅葉燃ゆ 旅立つ朝の 空(くう)や寂
   御山(おんやま)の ひとりに深き 花の闇
   たどりきて 終の棲や 嵯峨の春
   小さき破戒ゆるされてゐる柚子湯かな 
   寂庵の男雛は黒き袍を召し
氷柱燦爛(さんらん)訪ふ人もなき草の庵
秋時雨烏帽子に似たる墓幽か
ひと言に傷つけられしからすうり
仮の世の修羅書きすすむ霜夜かな
雪清浄奥嵯峨の山眠りけり
   小春なり廓は黄泉の町にして
   雛の間に集ひし人のみな逝ける
   独りとはかくもすがしき雪こんこん
   寂庵に誰のひとすぢ木の葉髪
   生かされて今あふ幸や石蕗の花
春逝きてさてもひとりとなりにけり
湯豆腐や天変地異は鍋の外
天地にいのちはひとつ灌仏会
おもひ出せぬ夢もどかしく蕗の薹
人に逢ひ人と別れて九十五歳
   花おぼろ第二の性を遺し逝く
   初恋も海ほほづきの音も幽か
   ぼうたんのうたげはをんなばかりなり
   落飾ののち茫茫と雛飾る
   もろ乳にほたる放たれし夜も杳(くら)く
星ほどの小さき椿に囁かれ
鰭酒や鬼籍となりしひとのこと
雲水の花野ふみゆく嵯峨野かな
ひとり居の尼のうなじや虫しぐれ
ほたる抱くほたるぶくろのその薄さ 

 

●瀬戸内寂聴さんが語る「いきいきと生きるための10の秘訣」
写経とは?
写経は、波だち騒ぐ心を沈静させ、正しい智恵の働きをうながしてくれる何よりの方法です。
言いたいことを言いなさい。
嫁にも姑にも亭主にも。言いたいことを言った方が胸がすっとします。穴掘ってでも言った方がいい(笑)。
それが健康法の一つです。
“和顔施(わがんせ)”といって、笑顔もお布施になるんです。
物をあげる“物施”や、人に親切にする“心施”というお布施もありますが、なかなかできませんね。でも和顔施ぐらいはできるわよ。人に会ったらにっこりすればいいんですからね。
出会いというもの、縁というものはね、生きてる時に大切にしなきゃだめですよ。
明日はあなたが死んでるかもしれない、相手が死ぬかもしれない。だから、今日好きだと思ったら、今日言ってくださいね。
もう済んだことは、忘れましょう。
私たちは「忘却」という能力を生まれた時から与えられているんですね。日にちが経てば、どんな嫌なことも辛いことも自然に薄らぎ、忘れることができます。だから人間は生きていかれるんですよ。
何か物事を始める時は、「これは必ず成功する」というプラスイメージを持ってください。絶対に幸せになるぞっていう夢を描けば、本当にそうなるのよ。
私が初めて歌舞伎の脚本を書いた時ね、もし失敗してしまったら、せっかく今まで80年もかけて築いてきたものがすべて崩れますからね、とても怖いことなんだけど、そうは考えないの。必ずできると思ってね、歌舞伎座の三階席まで満員のお客様が、ワーって手を叩いてるところをイメージするんですよ。そうしたらその通りになったの。
笑顔を忘れないでくださいね。憂うつな悲しそうな顔をしてると、悲しいことが寄ってきます。いつも朗らかに明るくしていれば、いいことが寄ってくるんですよ。
生きていれば、悲しいことも苦しいことも、腹の立つことも起こります。その度に姿勢を悪くしてしまったら、悲しいことや苦しいことがもっともっと重くなるんです。ですから、「負けるものか」と上を向いて、気持ちを前向きにしていればね、自然とまたいいことが起こるんです。
自分の身の丈にあった望みをいだくことですね。そうすれば欲求不満にならない。
私たちはそれを忘れて、到底自分の手に入らないものを欲しがるんですね。小さな欲望でも満足することがあれば幸せなんですから、そのことに感謝してください。
人間は、幸せになるためにこの世に送り出されてきたのだと思います。そして幸せとは自分だけが満ち足りることではなくて、自分以外の誰かを幸せにすることだと考えてください。
自分自身の可能性をできるだけ大きく切り開いて生きること、これもひとつの幸せです。しかし、あなたがこの世に生きて送り出されたのは、誰かを幸せにするためなんですよ。自分の命は誰かの役に立つためにあるのだと考えれば、この世はむなしいという気持ちもなくなるでしょう。
やっぱり自分が楽しくないと、生きててもつまらないですよ。だから何でもいいから、自分のために喜びを見つけなさい。そうすると生きることが楽しくなりますよ。
苦しい苦しい、辛い辛いばかりじゃあ、生きがいがないですからね。喜びを見つけてくださいね。内緒の喜びの方が楽しいですね。楽しくないとつまらないじゃないの。もうどうせ死ぬんですからね、あなたたちも死ぬのよ、やがてね(笑)。だから生きてる間は全力を尽くして生きましょう。 

 

●今年はパソコン元年になるかしら 瀬戸内寂聴 2012/1
――今年の5月15日は90歳のお誕生日ですね
メディアの方々は、「90」ということを強調されますが、私はそんなこと、まるで考えていません。数字で人間の在り方、生き方が決められることなんて全然ありません。
――400字詰め原稿用紙で、一日どのくらい書きますか
調子がのれば、25枚くらいです。でも、徹夜してですよ。
――えっ、そんなに!
「そんなに」って、若い時は、50枚書いたこともあります。作家の方で、「骨身を削って一日、4枚。それ以上書いてはいけない」なんて言う方もいらっしゃるけれど、「プロならそんなこと言ってられない」って思います。
――何で書きますか?
ペン。万年筆です。色々試したけれど、ペンが一番。指先から頭の神経の隅々まで、刺激が届く感じ、ね。でも、昨年末、生まれて初めて、右親指の付け根が痛くなって、酷使の果ての腱鞘炎(けんしょうえん)かな。今年は私のパソコン元年になるかしら。私の直筆が読めない若い編集者さんが多くなって。その人たち喜ぶわ。
――背中も痛めたそうですね
一昨年暮れに、東京で仕事中に突然、背骨が痛くなった。診察を受けたら、下から3番目の骨が折れていた。「圧迫骨折。治るのに半年くらい」と医者に言われ、寝たきりになってしまった。全身、ものすごい激痛に襲われ、自宅(寂庵〈じゃくあん〉)で寝たきりでした。
――お体が大変なさなか、東日本大震災が起きたのですね
原子力発電所の事故が発生した時。テレビで福島第一原子力発電所の爆発の白煙が映された。あの瞬間、大変なことが起きたと思い、寝たきりだったのに、思わずベッドを出て立っていました。ショック立ちです。原発事故は戦争と同じで人間がつくりだしてしまった人災ですもの。原発は、もうやめなくては。
――「五山送り火」で京都市は陸前高田市の薪(まき)を放射能汚染の疑いがあるといって拒否しました
バカなことをしました。私は、あの騒動で、抗議し、後で陸前高田を訪問して、京都に住む僧侶として、頭を下げておわびしました。同時に、被災地で法話を行い今の日本に希望も感じました。
――希望?
ボランティア活動に来ている若者たちです。髪の毛を鶏冠(とさか)のように逆立てた男の子、まつ毛をクルッと長くしているお嬢さんが一生懸命に手ずからがれきと奮闘しているんです。みんな心根が良くて、前向き。今時のそういう若者に希望を感じました。 

 

●瀬戸内寂聴 追悼 文学者として仏教者として貫いた生涯 
瀬戸内寂聴が99歳で世を去って半年。いまだに追悼企画や新刊の関連書が途切れない。誰もが知る作家がめっきり少なくなったこの時代に、突出した親しまれ方をした「寂聴さん」。しかし、その本業がどこまで理解され、評価されてきたのか。女性であり、宗教者でもあるこの作家が、日本の社会と現代文学に与えた真の影響とは何か。30年近く取材し、批評してきた元読売新聞文化部長で早稲田大学文化構想学部教授の尾崎真理子氏が振り返る。
例外的な長い命脈を保った作家
1922年、大正11年生まれの瀬戸内寂聴は、文学世代としては「第三の新人」と重なる。中でも一つ年下の遠藤周作とは交遊が深かった。文学性の高い硬質なテーマの長編小説に力を注ぐ傍ら、エッセイを通じて読者に語りかけ、テレビ出演も拒まなかった姿勢も遠藤と似ている。
60年代から北杜夫、吉行淳之介、阿川弘之ら「第三の新人」をはじめ、司馬遼太郎、五木寛之、田辺聖子、山崎豊子らと共に、出家前の瀬戸内「晴美」の活躍も始まった。これらの作家は絶えず新聞、雑誌に話題作を連載し、次々に単行本化されてはベストセラーリストを賑わせた。それが広範な読者を獲得した昭和の“活字文化”であり、この時代の小説、エッセイというメディアは、多忙な日常に憩いと潤いを提供する、社会の精神安定剤ともなっていただろう。
80年代半ばからのバブル期は、多様な現代作家が並び立った時期でもあった。村上春樹、吉本ばななから日本語小説の海外進出が始まり、94年には大江健三郎がノーベル文学賞を受賞。出版業界は96〜97年までバブル期が続くが、インターネットの普及によって、特に雑誌は多大な打撃を受けたのは周知の通り。漫画などのコンテンツ事業が電子化して軌道に乗ったごく最近まで、大手出版社にとっても長い低迷期が続いた。そうした状況下でも例外的に作品が読まれ、長く命脈を保った作家こそ、瀬戸内寂聴だった。
活躍の理由の一つを、「日本経済新聞」の連載「奇縁まんだら」シリーズ(2007〜11年)に探すこともできるだろう。東京女子大の在学中にその姿を垣間見た島崎藤村に始まり、直接、対話を果たした谷崎潤一郎、小林秀雄、田中角栄……物故した135人の人物描写からは、戦前から働かせ続けた好奇心と行動力、運の強さが如実にうかがわれる。
大きな影響を受けた女性作家の系譜
その中で、瀬戸内が同時代の目標とし、盟友とした作家は、先人では円地文子、宇野千代、同時代では河野多惠子、大庭みな子という、いずれも実力派の女性作家だったと筆者は考えている。有吉佐和子、曽野綾子の活躍も1950年代から早々と始まり、70年代には共に新聞小説で環境、医療の問題に踏み込み、時代の要請に応えた。それでもなぜか、文壇や文学賞から遠い出来事とされ続けたのが彼女らの仕事だった。対照的に、古典に造詣が深かった円地文子、小説の完成度で一目置かれた宇野千代らを、近代文学に連なるものとして文壇は大事にした。瀬戸内も二人を敬愛し、ずいぶん励ましてもらったと何度も語っていた。
昭和も末の1987年、芥川賞の選考委員に初めて大庭みな子、河野多惠子が加わり、ようやくこの時から、女性作家が日本文学の中核へ互角な立場で参入したと考えることもできるだろう。長く流行作家と呼ばれてきた瀬戸内も、もともとは河野多惠子と共に同人誌で腕を磨いた仲間であり、徐々に軸足を純文学を扱う文芸誌に移す。同時に瀬戸内は大庭みな子と共に、古典と現代をつなぐ仕事に力を入れる。大正生まれの瀬戸内は古文を苦もなく読みこなし、明治期の樋口一葉、大逆事件に連座した管野(かんの)須賀子らをはじめとする多くの伝記小説を書くために、資料の蒐集(しゅうしゅう)、読解の能力にも磨きをかけていった。80年代には西行、良寛、一遍上人らの生涯も独自の歴史観、宗教観をもって描き、男性読者も増えていく。
その上で臨んだ念願の『源氏物語』現代語訳は、1998年に全10巻が完結すると、たちまち200万部を超えた。最新の学問的成果を採り入れた上で原文に忠実、かつ分かりやすい“瀬戸内源氏”は、与謝野晶子訳や谷崎潤一郎訳を凌駕(りょうが)し、今後も現代の決定版として読み継がれていくはずだ。
出家後、ますます旺盛で多様な活動
また、1973年に51歳で出家して天台宗の僧侶となり、「寂聴」を名乗った後は、宗教者としての活動時間も増えている。読者の恋愛や離婚、家族との死別などの相談にもできる限り応じ、エッセイを通じて女性や若者に自立をうながし、その発言力は徐々に旧弊な通念の変革につながりもしただろう。それは瀬戸内自身が戦後まもなく、4歳の子供を置いて出奔(しゅっぽん)した、その悔恨に苛(さいな)まれての行動でもあった。
87年からは岩手県浄法寺町の天台寺の住職となり、境内で説法の行われる日には全国から観光バスが列を成す光景を、同行取材の折に何度も目にした。京都・嵯峨野の寂庵(じゃくあん)を拠点に、天台寺への往復、全国各地での講演。80代半ばまでの体力も健脚もすさまじかった。説法では訪れる人々の生老病死に寄り添いながらも、常に政治や国際問題と連動した内容で啓蒙し、こころ、人命を第一とする仏教者として、背を折り、声を振り絞っていた様子は忘れ難い。集まる人々は当然、熱心な読者でもあり、先に触れた遠藤周作がカトリックの作家を代表したとすれば、瀬戸内「寂聴」の小説を、現代流に進化した仏教の精神性に貫かれた文学と考えることもできる。
91年の湾岸戦争時に抗議の断食を行ったのも、やはり仏教者としての行動だろう。義援金と私財、計1300万円余りで大量の医薬品を購入し、同年4月にはバグダッドまで自身で届けに出向いている。同行したのは講談社の担当者。当時の文芸編集者はそこまで作家と一心同体になるのが使命だった。2001年の9・11(米国同時多発テロ事件)後にも、アフガニスタンで勃発した報復戦争の即時停戦を願って断食している。医師・中村哲(故人)とも終生、親交を保った。
さらに10年後の11年、東日本大震災後には痛む身体を押して東北各地まで慰霊の行脚をし、世界遺産に登録されたばかりの平泉中尊寺では、同い年の故ドナルド・キーンと対談を行った。筆者はこの対談を「読売新聞」に掲載するために企画したのだったが、文化勲章を受章し、90歳を目前に控えた2人は、実はこの時、車椅子を必要とするほどの状態でもあった。にも関わらず、カメラの前では直立し、笑みを見せ、憔悴(しょうすい)した人々を激励しようと長く語り合う姿に、深く感銘を受けた。
死の直前まで新作を発表
ケータイ小説を「ぱーぷる」の筆名で発表したり、自身のインスタグラムをいち早く開設するなど話題も振りまきながら、現役で新しい作品を亡くなる年まで発表し続けた。そして、第2期5巻を追加した全25巻の『瀬戸内寂聴全集』の刊行を伝える冊子に、「私にとっては、生きることはひたすら書くことにつきます。今、数えを百歳になった私は、前の全集のつづきの作品をまとめ、全巻を前に、ああ、もう死んでもいいとため息をついています」。2021年11月にそう記した直後、生涯を閉じた。2000年以降に書かれた新たな5巻の解説者は、川上弘美、平野啓一郎、田中慎弥、伊藤比呂美、高橋源一郎。いずれも故人と親しく、遺志を受け継ぐに十分な一線の作家である。70年にわたって書き続けた瀬戸内寂聴は出家を選んで自ら性を手放し、いつしか時代も「女流」から女性作家と呼ばれるように変わったが、もう女性でも男性でもなく、性別を冠することもない時代が始まっている。瀬戸内は確かにそれを感じ取るところまで生き抜いたことが、5人の解説者の顔ぶれからもうかがわれよう。
平安期から千年にわたる日本文学の伝統を受け継ぎ、現代に花開かせた過程では、作家と宗教者、両者の相克も激しくあっただろうが、その矛盾が瀬戸内を強くし、その作品を深め、面白くした。人生百年を生きるとはどういうことか。私たちに体現して見せた。
まだ、瀬戸内作品に触れたことのない読者に、400作を超える著作の中から代表作である3作を挙げてみたい。まずは瀬戸内が80歳を前に自身の生涯を振り返り、野間文芸賞を受賞した長編小説『場所』(2001年刊、新潮文庫)。大正期の天才的な作家、歌人であり、画家の岡本太郎の母としても知られる、岡本かの子の真実に容赦なく迫った伝記小説『かの子繚乱』(1965年刊、講談社文庫)。そして、『美は乱調にあり 伊藤野枝と大杉栄』(66年、岩波現代文庫)は、女性解放のための雑誌「青鞜」最後の編集者と大正期を代表するアナーキスト夫婦の実録的な長編。恋愛や倫理に関わる価値観は移り変わっても、生を燃焼した人間を描いたこれらの作品は、末永く読み継がれることになるだろう。 

 

●作家 瀬戸内寂聴さん
向日葵の花が咲いたようだった。ぱあっと大輪の花が咲いたような笑顔が眩しかった。とても華奢で小柄な瀬戸内さんなのに、圧倒的な存在感がある。瀬戸内さんは僧侶と作家という2つの職業を、いつしかひとすじの道に重ねてきた。
瀬戸内さんの作品である「いずこより」を読むと、自分自身を誤魔化さず正直に生きることを全うするための勇気と、心の奥底から絞り出すような力を自ら沸き起こすことの凄みで、胸が張り裂けそうになってくる。自分に向けた誤魔化しが最初は小さなシミのようでも、少しずつ波紋のように肉体や魂に広がっていったら、己というのはいったいどうなっていくのだろう。この世に生まれてきたのは、自分を生きること・・・。「いずこより」には、何事からも逃げずにひたすらに信じた道を生きていくことが表現されている。
「いずこより」は「瀬戸内晴美」としての作品である。45歳のとき、著者の生まれてからそれまでを575ページという大作に表した。自分を誤魔化さないで生きることの45年間が克明に描かれているから、読後は息もつけないほど苦しくなる。けれどもしばらくすると、なんとも言えない爽快感に包まれる。どんなに高い山でも地面を踏みしめて前に進む、そういうひとりの人間の潔い生き方が透徹されているからではないだろうか。
その作品の6年後に瀬戸内さんは奥州平泉中尊寺で受戒し、「瀬戸内寂聴」となった。それまでもその後も、瀬戸内さんはひとすじの道を歩み続けているのだろう。
このインタビューでは、こどもの頃の瀬戸内さんに焦点を絞って語っていただいた。

『私は、1922年5月15日に徳島市に生まれました。父は指物職人をしていて、一代で神仏具商を作りました。私が生まれたときには父の弟子が10人くらいいまして、木の神仏具を作って売っている家でした。
朝から晩まで職人として働いている父がいて、母が姉と私を育てながら弟子の面倒を見ていました。そういう環境で育ったものですから、両親からちやほやされるようなことはなかったのです。姉は祖母に可愛がられて二年間の幼稚園の行き帰りを面倒みてもらったりしたらしいのですが、私が2歳のときに祖母が亡くなったので私はほとんど放ったらかしにされていました。
幼稚園に私も二年通いたかったのに、親から「送り迎えの人手がないから来年からにしましょう」と言われて、放ったらかされているような感じで少し悔しい思いをしていました。5月頃、こどもの足で40分くらいかかるようなところにある幼稚園にひとりで歩いて行きまして、「入園しにきました!」と言いました。これには、幼稚園の先生も母もびっくり仰天してしまって・・・。入園許可をすぐにいただけたのです。
姉が同じ構内にある小学校にいたものですから、いつも姉にくっついていて、幼稚園が終わると、姉の教室に行っていました。姉の担任の先生から自分の机をいただいて最前列におとなしく座っていました』
物怖じすることのない瀬戸内さんは、小学校に上がると活発さにますます磨きがかかっていた。走るのも速くてダンスを踊るのも得意。運動も勉強も人並み以上の能力だったから、自然とリーダーとして同級生を引っ張っていく場面が増えていった。
『「鼻たれマッちゃん」と呼ばれているみんなより知能の低い子がクラスにいて、年は3つか4つ上で身体がとても大きかったのです。先生がマッちゃんと私の席を並ばせて、「面倒見てあげてね」と言うのです。運動会でもマッちゃんと組まされるのですが、マッちゃんは大きくてなかなか動かないのです。だから私が一生懸命マッちゃんを動かしてダンスをするのですが、見物の人たちが可笑しがって笑っていました。私は笑われる理由がないから憤慨してしまいました。マッちゃんの面倒を見るのも、「貴方だからできる」と先生から言われると、しなければいけないんだなあと思いましてね、そういうことが嫌ではなかったのです。
もうひとり、てんかんの子がいて、発作を起こすと私が家まで連れて帰る役が廻ってきました。なにかそんな風に、責任を負わせられるようなことが多かったように思います。今でも人の面倒見がいいのは、こどものときからの癖なのかもしれないですね。鼻たれマッちゃんにも、てんかんの子にも、情が湧いてしまって、だから何か面倒を見たかったのです。
成績はと言うと、甲乙丙丁で評価される時代で、私はどの教科も甲でしたから、内心とても得意になっていました。それなのに家では、得意気に通信簿を両親に見せても見向きもしてくれなかったのです。
「全甲だから、見て」と言っても、「全甲をとれないような馬鹿な子は生んでいない」と言って、親は当たり前の顔をしています』
お父さんは香川県の讃岐、お母さんは徳島市の南の村の、穏やかな土地に生まれ育った。 
人よりも抜きんでて何でもできてしまった瀬戸内さんは、このお母さんからいつも必ず「増長してはいけない」と言われていたという。自惚れることなく謙虚であり続けてほしいという思いを、そのひと言に示されていたのだろう。
それでも、こどものことを守らなければいけないここぞという本質的な場面では、ご両親は真っ正面から何事にも向かっていってくれたのだ。
『担任の先生が産休になって、代理の先生が担任になった時期があったのです。その先生が私の書いた作文を読んで、「どこからとってきたの?」と言われました。誰かが雑誌に書いたものを私が真似したと思ったのでしょうね。「私が書いたのです」と言っても、せせら笑っていて信じてくれないのです。その日は悔しくて悔しくて、家まで泣いて帰りました。
母親に泣いている理由を聞かれたので、「私の書いたものを、誰かのを盗んだって先生に言われた」って言いましたら、母親が着けていたかっぽう着をかなぐり捨てて私の手をぐいっと引っ張って、学校まで一目散に走って行ったのです。教員室に飛び込んでいって、先生にものすごい剣幕で「うちの子は生まれつき頭がいいんです!だから人のものなんか盗まなくてもできるんです!どうして先生は、はじめから疑ってかかるんですか?!」って、教室中に響き渡る声で怒ってくれたのです。
そのときはじめて私は、(お母さんってなかなか偉いんだなあ)って思いました。自分のことを心の底から思ってくれているのが、そのことでよくわかりました。
母は高等小学校、父は小さい頃に家が没落して小学校4年しか出ていません。母は進歩的な人で、どこで覚えたのかサンガー夫人のバースコントロールを覚えて、「貧乏な家ではこどもはたくさん生んじゃいけない。少なく生んで十分な教育をしなさい」と言って自分も実行しました。
父は、こどもに対して放任主義で、「アホは生んでいない。成績が良いのは当たり前だ」というような人で一切干渉しない人でした。
私が学芸会のスターでしたから、劇にはいつも出演していたんです。母はいつも観に来るのに、父は全く来ないのです。
母が「お父さんもたまには観に行ってやってください」と頼むと、父は、「あんなにこまい(小さい)子たちが、教えられたダンスや劇をしている姿はとてもいじらしくて涙が出て観られない」って・・・。
そういう父や母は、こどもに教育をつけることを嫌がりませんでした。姉に家を継いでもらいたいという考えが父にはありましたので、姉は女学校だけでしたけれど。あの時代に私は女子大に行かせてもらえて、今になってみればとてもありがたかったと思います』
職人の家は、働かなければ食べていくことができない。こどもの頃から働くのが当たり前と思って瀬戸内さんは育ってきた。けれどもこども心に、自分の家庭よりもっと貧しい家の子は平等に教育を受けることができないという事実に、言いようのない憤りを感じていた。
『クラスの中で半分くらいだけ女学校を受験する子がいて、あとの半分の人たちはほとんど家が貧しくて行けないのです。その人たちは放課後に行われる受験勉強のための授業に出られないのです。
クラスの中でとても仲のいい子が2人いたのですが、2人とも非常に勉強ができるのに家が貧しいために受験組に入れませんでした。世の中の不公平というのをそのときにはじめて感じました。あれだけ優秀な人たちが上の学校に行けなくて、そんなにできない子が受験できるということが悲しかったのです。
貧しい家の子以外は、当たり前のように学校に残って勉強を教えてもらえる。貧しい家の子だって本当は残って勉強をしたいのにできない。今はもう、猫も杓子も大学に行きますよね。それが本当に良いのか悪いのかわかりませんよね。
女学校から更に上の学校に進む人はそのころは少なかったですから、1学年で200人くらい生徒がいたらその中から4〜5人だけでした。東京へは2人、後は大阪に進学しました。日本女子大にひとり、私は東京女子大に入りました。女の子は女学校で十分。勉強なんかしたら嫁のもらい手がないという時代でしたから、「あんな器量の悪い子を上の学校なんかにやってどうするんだ」と、親類から母が非難されたらしいのです』
学ぶことを強要されたり、ましてや道を作られたわけではない。進みたい道に小さいけれども確かな灯りをともしてくれるご両親の姿勢は、より大きな安心感と真っ直ぐ前を見ていける自信を与えたのではないだろうか。
そして、生き生きとした土壌に実りのある種を蒔いてくれたのはある先生との出会いだった。
『小学校3年の頃、私に特別な教育をしてくれた広田しげ先生との出会いは大きかったと思います。私が授業をつまらなそうにしていたのでしょうね。「つまらないの?」って聞いてくださったのです。授業では知っていることばかりしか教えてもらえなかったので、退屈でつまらなかったのです。
広田先生と居残りをして、1対1で白秋や藤村やアンデルセンを読んだりしました。それは非常にありがたかったことです。どういう本が良いかということを分かるようになりましたから。その頃から小説家になりたいと思うようになっていました。
「無記名で将来何になりたいか書きなさい」と言われました。「髪結いさん」、「お嫁さん」、「学校の先生」、という答えがとても多かったのです。私は「小説家になりたい」と書きました。名前を書いていないから誰が書いたかもわからないはずなのに「小説家になりたい」と先生が読み上げたら、みんなが一斉に私を見るのです。そんなことを書くのは私だけだと、みんなから思われていたのでしょうね。
5つ上の姉は無口でおとなしくて文学少女でした。だから、家では本を買うことだけは自由に許してくれました。両親がインテリではなかったので家には大した本の数はなかったのですが、姉の担任の先生のお宅に「世界文学全集」や「日本文学全集」が揃っていて、私も先生のところでお借りして読ませてもらっていたのです。
同じクラスの子の家に行くと児童文学全集がありましたから、それを読ませてもらって、あとは町の図書館を利用していました。
幼稚園のころから姉の読む物を一緒になって読んでいましたから、知らず知らずにませますよね。少女クラブを読んでいたら私もという風に、なんでも姉と一緒に読んでいたのです。そのことはとても得していたんじゃないかしら。
世界文学全集を読んでいても、理解できていたかどうか本当のところはわかりません。だけど6年生くらいまでには世界文学全集はひと通り読んでいました。
覚えているのは、トルストイの「復活」で、カチューシャが男の部屋にしのんでゆく時、その後、たしか氷の割れる音がするのです。そういう感覚的な一場面を覚えています。あらすじをしっかり覚えているわけではないのです。
私の読み方は、手当たり次第の乱読でした。でもそうしているうちに、こどもは自分で本を選べるようになると思うのです。面白くないものは読まなくて、自分にとって面白いものだけを選べるようになると思います。
今のこどもたちも、もっと本を読んだほうがいいのではないでしょうか。小学生の教育審議法というのを、今、検討されていますが、教科書を改めるのなんてとんでもないことだと思います。「ゆとりの教育」というのは、以ての外だと私は思うのです。小さいときでないと駄目なのです。鉄は熱いうちに打てと言う言葉があります。こどものうちに鍛えておかなければ。明治の人たち、鴎外などは4、5歳で論語の素読をやっていたそうですが、意味が分かる分からないは別にしても読んでいたらしいのです。それで神経衰弱になってしまうなんてありませんよね。ゆとりなんていらないと思うのです。こどものときに覚えた事って、ずっと年をとっても覚えていますから』
本を読むことは、好奇心いっぱいの少女だった瀬戸内さんを、遠くて未知な世界へ誘っていく。町にやってくるサーカスも活動写真も、同じように刺激的なものだった。
『近所に広場があって、そこにサーカスがやって来ました。テントが張られると嬉しかったのです。毎日、観に行っていました。通い詰めていたから、いつのまにかただで観せてくれるようになったのです。あのころは、こどもがサーカスを観に行くとさらわれて身体を軟らかくするためにお酢を飲まされて何処かに連れて行かれると言われていました。行ったことがわかったら叱られますから、親には内緒で行っていました。でも、私はサーカスが大好きでしたから、連れて行かれてもいいという気持ちで行っていたのかもしれないです。
その頃は活動写真と呼ばれていた映画も、学生は行ってはいけなかったのです。映画なんて行ったら不良と言われた時代でした。学校の先生たちが映画館の入り口で見張っていましたから。それでも、姉が映画好きだったから私はいつもくっついて行きました。帽子を深くかぶってマスクをして、変装して行ったのです。観てきたものを、家に帰って近所の子たちを集めて真似していたのです。
こどもの頃から、どんなことでも、表現することが好きだったのです。その中でも「劇」は大好きでした』
表現のひとつでもある、お洒落をすることも大好きだった。そしてそれはやはり、粋でセンスの良いお母さん譲りのものだった。
『小さいときから私はお洒落でした。母がとてもお洒落な人でしたからね。私たちが小さい頃は貧しかったので母は服も買わなかったのですが、買えるくらいに経済が安定してからはいつも綺麗にしていたのです。
母は戦時中に空襲で防空壕で亡くなったのですが、その晩は自分で縫ったデシンのふわっとしたドレスを着ていて、逃げ遅れて亡くなったらしいのです。「国防婦人会会長がもんぺを履いていないのはまずいでしょう」と周りからは囁かれていたようです。本当にお洒落な人だったのです。
徳島にパーマネントが入ってきたころ、町で一番早くかけたのは母だったのです。そのときの言い訳は、「働いているから髪を結う時間がもったいない」ですって。本当はお洒落でかけていましたのにね。
その当時、こども服というのはあまり売られていなかったので、姉と私の服は母の手製だったのです。編み物が上手でしたから、婦人雑誌の編み物の付録に載っているモデルと同じ服を私に編んでくれました。それを着せてくれるのですが、「モデルが着ているのとお前が着るのでは、どうも何かが違う」って・・・。仕方ないですよね、モデルと比べられてもね。
それから、帽子を遠足に間に合うように編んでくれると約束していたのですが、母は忙しくて編めなかったのです。私が、「いつも私たちに約束を守らなきゃいけないって言ってるのに、お母さんが約束を守らないとはなにごとですか。明日の朝までに編んでくれるって言ったじゃないの」と、すごく怒ったのです。そうしたらその晩、母は徹夜をして編んでくれました。朝起きたら枕元に緑色のしゃれた毛糸の帽子が置いてあったのです。そのときも、(やっぱりこの人は偉いんじゃないかなあ)と思いました。
母は愛情深いというよりも、筋を通す人なのです。約束を破るな、嘘をつくなって日頃娘たちに教えているのに、自分で約束を破ってはいけないと思ったのではないかしら。
その帽子の形は今でもはっきりと覚えています。
こんなこともありました。私が幼稚園くらいのときに父が人の保証をして、その人の借金を背負いこみ、破産してしまって、父の弟子もみんないなくなり、商売ができなくなりました。
お正月に着る晴れ着まで持って行かれてしまったのです。母が可哀想だと思って、古着を買って来て、着せてくれました。でもそれが古着か新かなんて、私にはわからなかったのです。喜々として友達のところに見せに行きました。姉は私よりも5つ年上だから古着だということがわかるのです、姉は泣いていました。(なんで泣いているのかな?)と、私は思いました。そういうことがありましたね』
遠くへ遠くへと好奇心が更に広がっていく毎日が、200人の生徒のうち1〜2人しか進まない東京の女子大へと気持を動かす。女学校に貼られていたポスターの中の、東京女子大のキャンパスの美しさに惹かれて受験することを決心した。
『女子大というと日本女子大と、みんなが思うような時代だったのです。私も女子大がふたつも存在するなんて知らなかったのです。お金持ちのお嬢さんが女子大に行くというと、日本女子大でした。でも、(こんなにきれいな学校があるならこっちに行こう)と思って、東京女子大を受験したのです。
数学の先生に「あなた、東京女子大を受けるの?」と聞かれて、「はい」と答えたら、「このままではとても受からない。予備校が東京の渋谷にあるからそこに行きなさい」と言われたのです。12月の冬休みに塾に入って1月の女子大の試験を受けるようにしないと、とても無理だと言われました。
初めて行く東京で、何もわからないまま塾に入りました。そうしたら、全国から来ている人たちが、秀才ぞろいなのです。塾の先生の講義なんて、私にはちんぷんかんぷんで、全然わかりませんでした。英語もわからなければ数学もわからない、もうこれはあかん!と思いました。逃げて帰ろうと思ったのですが、せっかく東京にやって来たのだから挑戦してみようと思ったのです。
寄宿舎に泊まり込んでいるから、一部屋に5〜6人で生活するのです。日本全国あちらこちらから、優秀な人ばかりいました。私は勉強もできないし、もうどうでもいいやと思っていました。でも、せっかく東京に来たからには試験を受けなければ申し訳ないので、試験だけでも受けて帰ろう、学校を見学しておこうと思ったのです。地図を頼りに行ってみると、冬でしたから震撼としているのです。それでとてもきれいでした。「入れないから、学校を見ておくだけ・・・」、そう思いながらとぼとぼと帰りました。試験を受けても、落ちてると思っていました。そうしたら忘れた頃に通知が来て、受かっていました。通知が届いたときは本当に嬉しかったです』
瀬戸内さんの学生時代の話はどれもが昨日のことのように新鮮で瑞々しく映る。弾むような明るさと華やぎを感じる。
『女学校時代は楽しかったです。戦争中だったから楽しくないはずなのですが、生まれたときから戦時中でしたから。非常時っていうのが日常だったから馴れていたのです。
例えば、女学校の卒業旅行で満州に行きました。私たちが戦争前で最後の時代でした。女子大で関西のお寺周りをしたのも最後でした。クリスマスで七面鳥が出たのも最後でした。勤労作業にも行っていません。私の時代は佳き時代の最後だったのです。英語も勉強できましたし、華やかな女子大時代だったように思います。皆、お洒落もしていました。代返を頼んで学校を抜け出して歌舞伎に行ったりもしていました。寮に住んでいて規則が厳しかったので、時間はちゃんと守らなければいけなかったのですけれどね。
日本が一番戦争の激しかったときは北京にいました。学徒動員の少し前に学生結婚をして北京に住んだのです。だから幸せなことに空襲の怖さを私は知らないのです。
北京は美しいところで毎日のように空が青くて、きれいでした。でも向こうで終戦を迎えたので恐ろしかったのです。絶対に殺されると思っていましたから。それまで北京では日本人が本当にやりたい放題にひどいことをしていたのですからね。
その後の人生は、本当にいろいろなことがありましたね・・・・・・』
女性が「1個の人間」として生きるのが難しい時代に瀬戸内さんはひとりの人間として正直に生きていた。そしてそれは、ずっと変わらない。
『女の業なんて書いていません。人間を書いているだけです。人間の持つ矛盾相剋を追求しているだけです』
「いずこより」の一説にあるこの言葉は、いつまでもいつまでも強く心に残った。

『日本は文化を大切にしたほうがいいと思うのです。日本は憲法で武器を捨てたのですから、世界と対等に交わるとすれば、もう、文化しかない。
それから、若い人に公憤がないのは日本だけではないでしょうか。おかしいですよね。一番正義感がなければいけないときなのに、学生運動が無い国というのは日本だけじゃないかしら。学生の頃というのはいろいろなことに敏感で、最初に血が騒ぐはずなんですけれど。
心にわだかまりを持っていれば血の巡りが悪くなって病気にもなります。だから心にわだかまりを持たないことが健康の秘訣なのではないでしょうか。自分に信念があれば権力と闘っていい。そういうことをいくつになっても恐れないほうがいいと思います』 

 

●能を支える人びと
源氏物語の世界を新作能に描いて 瀬戸内寂聴
「今日でもう終わりじゃないかしら」散り積もった紅葉を見ながら、そうおっしゃった。「焚いてお芋でもふかしますか」といたずらっぽく微笑まれる。晩秋の寂庵に、切れ切れの雲間から、柔らかい陽が射し込んできた。
瀬戸内寂聴さんは、お能にもゆかりを持っていらっしゃる。源氏物語千年紀の2008年に、寂聴さんが書き、再演を重ねている新作能「夢浮橋」を観た。身を焦がす恋愛と生々しい煩悩の昇華される物語を純粋に楽しんだ。そして、世阿弥の晩年を描いた小説、「秘花」を読んだ。深井の底より、あの世から語りかける声が幾重にも連なって、色濃い襲(かさね)の着物に織り込まれている。そんな重層的な物語の深みと重みを感じた。
お会いできたら、いいな。憧れの思いが募る。私たちの小さな願いを、かの人は聞き逃さずにいてくださった。常ならぬ旅の気分に包まれて京の都に上り、冬の門に立つ嵯峨野の寂庵を訪れた。そこは21世紀の今も、平安の昔も同居する不思議なところ。みずみずしい花の笑顔いっぱいの寂聴さんは、「さ、中へどうぞ」の声とともに、くるりと背を向け、ひょいと飛石をスキップされた。娘さんのように……。
能はいつでもおもしろい
──(編集部)能と関わりを持つようになったのはいつごろのことでしょうか。
瀬戸内寂聴さん(以下、寂聴) お能は、女子大の頃に少し手ほどきを受けたんですよ。私の出た東京女子大は、わりと能の好きな学校で、喜多流の先生がみえていまして、謡や仕舞を習っている人が結構多かったんです。私はほんの少しかじったくらいですが、本格的に舞台に立って舞う人もいました。その頃から親しんでいました。
それに能は何といっても古典ですからね。謡曲そのものも、わりあいに古典文学を素材にしているでしょ。私も古典文学を勉強して、やはり惹かれるところがありました。後年には新作能を書いて、少しは能がどのようなものかわかっていますから、今はどんな能を観ても前よりおもしろく、感動しますよ。好きな能、といって決められるわけではなく、何を観ても感心します。
所作や舞、謡、すべてが美しい
──能の魅力はどういうところにありますか?
寂聴 能役者は訓練、鍛錬がものすごい。もう稽古、稽古、稽古ですからね。世阿弥も書いていますが、本当に稽古を積み重ねてきた人たちが舞台に立つわけです。私たちが、こう手を伸ばす動きとはわけが違いますね。手を伸ばしたり、曲げたりする、その動きがもう美しい所作になっています。見ただけで美しい。それに、能装束も素晴らしいでしょ。役者さんのもとの外見がどうあれ、実際に、たとえば小面をかけて唐織を羽織ると綺麗な女の人に見えるじゃないですか。訓練による所作、舞の美しさ、声の張りがそう見せるのでしょう。現実の世界から連れ出されて、能の描く夢幻の世界に魂を遊ばせてくれる。その魅力が深く美しい。
言葉がわかるようになれば、おもしろさは格別
寂聴 初めて観たとして、何を言っているのか謡のことばがちっともわからなくても、舞台そのものが美しいし、簡素だから際立って訴えかけてくるものがありますね。そのうちに何を語っているのか、言葉がわかるようになってきたらね、そのおもしろさは格別だと思います。
それから同じ能でもね、流儀や演者によって演出の違いがあります。同じ人が演じても、また違ってくるし。でもどんな解釈の違いがあって、どう演じても、そこには完成した美しさが現れる。だんだんそれが深く解釈されていって、一回ごとに違う。だから何度でも見られるんです。また、能の場合はシテにしても誰にしてもあまりしゃべらないでしょ。しゃべったとしても凝縮したことしか言わない。
そしてあの面の中から聞こえてくる声といったら、もう男だか女だかわからない。不思議な声になりますからね。いくらリアリスティックな場面を演じていても、そこには幽玄が現れるんですね。何ともいえないほどの不思議さ。それも魅力じゃないでしょうか。
新作能を書いて
──私たちも観させていただいたのですが、新作能で「夢浮橋(ゆめのうきはし)」を書かれていますね。
寂聴 この能は、梅若六郎(現・梅若玄祥)さんの引き合いがあって書きました。あの方は新しいものに興味がおありなんですよ。源氏ものをやりたいと思われて、私が源氏物語を書いたからと、起用してくださったんです。怖いもの知らずで、おだてられて「はいはい」と書いていきました。「夢浮橋」のほかにも「虵(くちなわ)」といった新作能も薦められて書いています。
それはおもしろかったですよ。お能は短くなければいけないとは知っていました。梅原猛さんが歌舞伎をはじめて書いたとき、とても長くなったそうです。それを、依頼した市川猿之助さんが削っていったら、東京都の電話帳くらいあった原稿が、週刊誌くらいまで縮まったそうですよ(笑)。それを聞いていましたから、歌舞伎よりしゃべらない能だからと、はじめから短く書いたんです。それを、六郎さんが「拝見します」とご覧になった。すると「少し削らせてください」とおっしゃいました。「どうぞ、どうぞ」と申し上げたら、ぱっぱ、ぱっぱと削っていかれて……週刊誌の半分くらいだったものが、往復はがきに収まる長さになってしまったの(笑)。六郎さんもニヤリと笑っていましたね。
横尾忠則さんが描いたポスターも評判に
寂聴 でもそうやって削ったところが舞台にかかると生きてくるんですね。私の書いていたことを、言葉で説明するんじゃなく、きちんと演じてくださるんですよ。短い詞章なのに、演じられると非常に膨らんで、謡の節、囃子が入るとまた素晴らしく豊かになる。自分が書いたものとは思えない世界が出現するんですね。すごいなあ、と見上げました。
ポスターは横尾忠則さんにお願いしたんです。思い切ったポスターをお描きになるから能にはどうかな、と思っていたんですが、ご本人が「やるやる」と乗り気になって。六郎さんもできたものを見てこれはいい、とおっしゃいましたね。このポスターもとても評判がよかった。すると今度は横尾さんが能の世界に夢中になって、「瀬戸内さんが能をやるなら、僕は狂言をやる」と言い出して梅原猛さんが大蔵流茂山家に書いた狂言の舞台装置、小道具、衣装まで、全部横尾さんがなさった。またそれも大当たりで横尾さんもどっぷりとはまってしまいました(笑)。
オペラと能と歌舞伎と
──能はどんどん削ぎ落としていくものですが、「夢浮橋」もそうですね。
寂聴 私は、かつて頼まれて「愛怨」というオペラも書きました。オペラも役者が歌って踊るというのはお能と同じなんですけど、お能は凝縮して、凝縮して、とことん凝縮していく。ところがオペラは非常に饒舌に語らせて、歌詞も物語も複雑にしたほうがおもしろいんですね。両方やってみて、その違いがよくわかりました。歌う(謡う)、踊る(舞う)というかたちで見せるのは同じなのに、その違いが大きく際立つところがおもしろいなと思いました。
また歌舞伎も書きましたが、たいてい長いセリフがあって、語ってわからせようとします。でも能は喋らないでわからせようとする。そういう違いがありますね。泣く姿でも歌舞伎は声を上げてよよと泣くじゃないですか。それはそれでわかりやすいけれども、お能は手を顔の前に持ってくる(シオリ)だけ。それのみで泣いているとわかるのだから、すごいですね。
新作も古典も時代に合うように
──「夢浮橋」は、国立能楽堂の委嘱を受けた作品で、初演が2000年(平成12年)だそうですね。その後十数回も上演されていると聞きます。新作能はなかなか再演にかかることが少ないのに、異例ですね。
寂聴 今の人にわかりやすいんじゃないかと思います。だから何度もやっていただけるんじゃないかしら。普通、新作能は一回やると何年もやってもらえないらしいですね。私の書かせていただいた能はどれも、一年のうちに2回演じていただいて。「夢浮橋」はもう何回やったかしら。いろいろな場所で演じていただきましたよ。
能は古典だから「新作能なんていらない」という考え方もあります。でも、時代がどんどん進んでいきますと新しい能が出てきてもいいと思うんですよね。また、古い能でも演出によって変えていけるところがあると思います。
小説『秘花(ひか)』をめぐって
──「寂聴さんは、主に世阿弥の晩年を取り上げた『秘花』という小説を書いておられます。登場人物の重層的な存在感に魅力を感じました。どういう思いで書かれたのでしょう。
寂聴 能に関係しましたからね。世阿弥をもっと知ろうと思って調べるうちにだんだんおもしろくなって。72歳で佐渡に流されたでしょ、本当に都へ帰ったかどうかわからないんですよ。お墓は京都にあるんですけどね。私も参ったんですが、その中に入っている感じがしないのね。ずっと後で作られていますし、世阿弥の墓と感じない。それで果たして帰ってきたかというと文献には何も記録されていない。おそらく帰ってきただろうと皆思っているんですけど、私は帰らなかったんじゃないかと見ています。もし私が世阿弥だったら帰らなかったんじゃないかな、と思うんですよ。
──佐渡に眠るという場所もないですよね。
寂聴 お墓はないんですけど、世阿弥のいたところは佐渡にあります。そのほか関係のあるところは全部行きました。佐渡にはいろんな人が流されて、おもしろいところですよ。
佐渡はね、行ってみてわかったんですが、非常に食べ物が豊富なんです。山海の珍味があります。海に囲まれて、暖流も寒流も流れている。だから魚もいろんなものがあるでしょ。島の中は山になっていて、山のものも採れる。いいお米もできる。そして水がいいんですね。するとお酒がおいしいでしょう。本当においしいんですよ、今もずっと。食べ物が豊富なところの人は心が広い。誰でも受け入れるんです、陽気でね。佐渡もそう。食べ物がたくさんあるから心がとっても豊かなんですよ、そしてやさしい。すべてを受け入れて、流人も受け入れるんです。だから流された人たちも皆ひどい目にはあってない。それは、佐渡に行って土地の人と仲良くなってわかったんですよ。
85歳では、まったく老いを感じていなかった
寂聴 世阿弥も尊敬されていましたからね、あまり困ってなかったんじゃない。唯一残った資料でわかるのが、娘婿の金春禅竹が必ずお金を送っていたこと。そのお金もちょっとやそっとじゃない。莫大なお金です。そのことに感謝する世阿弥の直筆の手紙もあります。それを見ますと、おかげで体面が保てたと書いてある。食べ物に困らなかったというレベルじゃない。体面を保てるほど豊かな生活を送っていたことが窺われます。
そこに82歳までいたんですかね。それは、年を取りますよ。今の70、80とは違います。私が『秘花』を書いたのは、84、85歳でした。その頃の私は、まだまったく老いを感じていなかった。86歳が大変で、源氏物語千年紀に忙しく駆り出されて(笑)。それが終わって87歳になった今、ああ年取ったな、そう思っているんですよ。それまで老いというのは本当に感じていなかった。けれども、耳はもう遠くなっていたし、眼も白内障の手術をしました。それも今は簡単に治りますけど、老いた証拠でしょ。だからこういうふうに老いは来るのかな、と思ったけれど、ちっとも暗くなかったですよ、私は。まだいける、老いてもまだ仕事ができると思っていた。
世阿弥も、82歳まで生きたということは、非常に体が丈夫だったんでしょう。だから最期まで何がしかの活動をしていたんじゃないかなと思ったんです。ただ目が見えなくなっていたら困ったでしょうね。それに耳が遠くなったら補聴器もないでしょ。私と違って、すべてが音楽的な人じゃないですか。そのあたりが不便だったのかなと思いますよね。
──『秘花』で描かれる、鶯が来ているのによく見えず、鳴く声も聞こえないで、「鳴いていたのか」と、ぽつんと言うところが印象的でしたね。
寂聴 今こうして私たちに見えているものが見えないわけですからね。書いていたら、だんだんと、そういうことが出てきてとてもおもしろかったんです。
花と幽玄を見守りながら
寂聴 世阿弥は将軍に色を売って世に出たわけです。そういうことは、長くは続かないですね。彼らは浮気だし。もっと若いのが出るとそっちにすぐ移るでしょ。非常に不安定ですよね。世阿弥は小男だったというから、かわいがられるほうでしょうね。美少年だったでしょうが、私たちが思うかわいいとか綺麗とかいうのとは違うような気がします。私は、お父さんの観阿弥がとてもいい男だったように思います。堂々としていてね。考え方もしっかりしている。
──男性的ですよね。
寂聴 観阿弥は、男っぽくて色っぽい。観阿弥が世阿弥を演出して、作り上げていったんですよね。わりと早く亡くなりましたが。
──観阿弥は、自分の一座が絶頂に向かうのと同じく歩んだ幸せな人生で、世阿弥は苦労の連続だったのかも知れません。
寂聴 だけどここまで能が残っているし、理論づけています。やっぱりたいした人ですね。
──『秘花』の中で、花と幽玄をスパッとお書きですね。
寂聴 小説の最後のほうは、寝ずに書いていましたからね。ぱっとひらめいて出てきたんですよ。世阿弥の花を一言でいえば「色気」になる。だってそうでしょう? 舞台で、あの役者は花があるというときは、色気があるということですもの。そうですよ、花は色気ですよ。でも、やっぱりびっくりするかしら、人は。
能は残ると思います
──能楽関係者にお話を聞くとかなり将来に危機感をもっていらっしゃいます。寂聴さんは能の将来をどう思われますか。
寂聴 私は、能は残ると思いますね。歌舞伎も文楽も残るでしょう。強いと思いますよ、日本のそういう伝統芸能は。ただ祇園みたいなところはだんだんなくなっていくでしょうね。個人でやる踊りなんかは廃れるかもしれません。でも歌舞伎や能は残ると思います。あと外国の方が好きになるんじゃないかしら。私たちがオペラに夢中になるように。ヨーロッパの人はオペラに飽きているでしょう(笑)。だから団十郎なんかが行くとびっくりするじゃないですか。
──能の好きな外国人のグループもありますね。お話を聞くと「自分たちから見ると驚きの演劇だ」と言っています。
寂聴 外国人で能を観て、感動する人は、リピーターになってまた来ますよ。日本人よりも感動が強いんじゃないでしょうか。鍛錬に鍛錬を重ねた美しさがあるし、言葉だって短いでしょ、能は。訳しても短くてすむ。その短いのを読んで、見てればいいんだから。長いセリフの演劇を訳されても嫌になるけど、能は何か勝手にわかるんじゃないですか。
──その人は「羽衣」を観たけれども、セリフがわからなくてもおもしろかったと言っていました。
寂聴 羽衣はいいですよ、あれは傑作だと思いますよ。「いや疑いは人間にあり。天には偽りなきものを」ということばはいいですね。
──そういうセリフじゃないですが、能には仏教の考えや言葉が入ってきています。
寂聴 重なっていますね。お経の言葉、仏教が入っている。なんといっても幽霊が出てきますよね。死んでも生きるということを信じている。だからすごいんじゃないですか。

時を忘れてお話を伺った。最後まで私たちに丁寧にお付き合いくださり、あまつさえ、望外のおもてなしまでいただいた。寂聴さんの生き生きとしたお姿に、思わず「健康の秘訣は何でしょう」と言葉が出る。音楽につれて、人形がそれぞれのパートを演奏するジャズバンドのおもちゃを動かしながら、「こんな遊びをやっているから、元気なのよ」と返してこられた。小説は『秘花』でやめようと思っていたが、書きたいものは次々と出てきて、次なる作品ももう用意されているそうだ。能も依頼さえあれば、と意欲を示される。また作品に会うのが楽しみである。
寂聴さんとお話をしていると、中年の自分のほうが硬直した考えではないかと気づかされる。そして寂聴さんの中には、しばしば柔らかく溌剌とした娘のイメージが見えた。世阿弥は年齢を重ねるごとに宿すべき花を説いたが、きっと寂聴さんは、時を越えてどんなところにも咲く花をいっぱい携えていらっしゃるに違いない。“ぱーぷる”になってケータイ小説をものにできるのも、多くの人に親しまれ、頼りにされるのも、少しわかったような気がした。(2009年12月2日)  

 

●瀬戸内寂聴さん、焼け跡残る東京で「自分がばかだった」…「青春は恋と革命よ」
作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが11月9日、99歳で亡くなりました。本紙は2015年、戦後70年に合わせた終戦記念日特集で、寂聴さんのインタビューを掲載しました。夫の赴任先の中国・北京で終戦の日を迎え、「絶対負けない」と教えられた軍国教育のむなしさを焼け跡残る東京でかみしめた寂聴さんは決意します。「これからは自分の手で触って、手のひらに感じたものだけ信じて生きよう」。寂聴さんのご冥福をお祈り申し上げます。 (2015年8月15日付東京新聞朝刊に掲載、年齢・肩書きは当時)

今も青春の炎を命に宿すような言葉が心に迫る。戦後70年の終戦記念日を機に、93歳の作家、瀬戸内寂聴さんにインタビューした。戦時中、神風を信じた優等生は中国・北京で敗戦を告げる「玉音放送」を聞き、帰国後、母と祖父が空襲で亡くなったことを知る。「手のひらで感じたものだけを信じる」ことから戦後を始め、非戦や被災地支援へと、活動の幅を広げた。若い世代から安全保障法制反対の波が広がる中、送るエール。「青春は恋と革命よ」(社会部長・瀬口晴義)
<6月18日夜、寂聴さんは安全保障関連法案への抗議が続く国会前にいた。背骨の圧迫骨折や胆のうがんで昨年春から約1年はほぼ寝たきりの状態で、この日も車いすでの登場だった。「どうせ死ぬならここに来て、『このままでは日本はだめだよ』と申し上げて死にたかった」「戦争に良い戦争は絶対ない」と声を振り絞った>
――国会前での訴えは大きな反響を呼びました。東京新聞のホームページで2015年6月に1番読まれた記事でした。訴えのもととなった、ご自身の戦争体験を教えてください。
敗戦の時には中国にいました。女子大を繰り上げ卒業になり、婚約者と結婚して北京に行ったとたん、物価が毎日上がる貧乏生活。母親がたくさん持たせてくれた着物を売ってなんとか暮らしていたの。1945年6月、師範大学や北京大学などで教えていた31歳の夫に召集があってね。生後1歳にならない赤ん坊を抱えて、まさかと思いました。働き口を探したけれど断られ続け、ようやく北京の城外にある運送屋で働くことが決まり、うれしくて大喜びで出て行ったのが8月15日だったの。
お昼になったら大きなラジオの前に集められ、直立して聞きなさいと言われました。ガーガーという波の音の中に甲高い声が時々入るのね。それが天皇陛下の敗戦の詔勅でした。でも、まったく意味が分からない。店の主人は分かったらしく、「日本が負けた」と泣きだしたんですよ。
それを聞いてあいさつもせずに飛び出しましたよ。夢中になって走って帰ろうとしたの。日本人はみな殺されると思ったから。預けていた子どもが心配で。北京では日本人は中国人に威張ってましたからね。食べるものも違っていて配給も日本人は白米、中国人はコーリャン(雑穀の一種)。そんな生活だったのです。金稼ぎに大陸に来たような人は特に威張っていてね。本当に好きなように中国の人をいじめていたのを見ていました。
家に帰って、門の戸をしっかり閉めて、息を潜めていたの。翌日そっと戸をあけてのぞいて見ると、路地の向かいの壁に真っ赤な紙がいっぱい張ってあるんです。「仇あだに報いるに恩を以もってす」。そう書いてありました。蔣介石の軍隊が張って回ったと思うのですが。ひどい目にあっても仕返しせず、優しくしなさいという意味です。われわれ中国人は戦争に勝ったが、日本人に報復してはいけないといさめる内容ですね。さすがに孔子様の国だなと思いましたね。こんな国と戦争して負けるのは当たり前と思いました。
だけど、一般の市民は分からないでしょ。怖かった。赤ん坊を連れて日本に帰りたかった。
<引き揚げ船を待つ天津の塘沽タンクー貨物場では日本人たちが一緒に暮らした。そこは、貧富の差も戦前の職業も関係ない、力が支配する世界だった>
貧乏な人は、引き揚げ者が捨てていった山のような荷物から布団袋をひっぱり出してリュックサックなんか作る。シーツや下着も。たちまち飯ごうなんか磨いて、必要なものをそろえちゃった。金持ちはそれまで自分の力で生活なんかしてないから、何もできない。だんだんお金持ちじゃない人が威張りだした。モーパッサンの小説で「脂肪の塊」という傑作がある。戦争中で敵方が女を出せと言ってくる。1人の娼婦しょうふが行って朝帰ってくるというそれだけの短い小説。それと同じことが起こった。1番威張っていた男が女を出せと。
集団の中に、きれいで派手な格好の女性がいた。そういう商売をしていた人だと奥さん連中は見くびってばかにしていた。いじめていた。その女性が(男性の相手を)やるよ、と立ち上がって。奥さん連中がびっくりして「お願いします」と。夜の12時ごろ帰ってきた。何も言わない。皆「ありがとうございます」と。何があったか怖くて聞けなかった。
ある日、日本人の慰安婦が歩いてとぼとぼ来た。気がついたら部隊がみんないなくなってたと。ワンピースでパンツもはいていない。ならず者たちがシーツを洗って縫ったパンツをはけ、と。気のいい人で子ども好きで抱かせてくれとよく来ていた。日本人の慰安婦もたくさんいたんですよ。
<結局、帰国できたのは敗戦から約1年後の46年7月。お盆前に長崎県佐世保市に引き揚げ船が着いた>
日本に戻ると、身体検査の上、白い粉をかけられました。驚いたのは汽車の窓ガラスが壊れてなくなっていたこと。そんな汽車は初めて見ました。真っ暗な中で女の人が炊き出しをしてくれた。(原爆が投下された)広島を列車で通過したときには真夜中で、何かが落ちたとは聞いていたが、遠い話に思えた。でも真っ暗でも何もないと分かりました。すごい怖かった。郷里の徳島駅に着いたら焼け野原です(注1)。徳島が空襲で焼けているなんて思ってもなかった。間にあった建物がみんな焼けちゃったから、眉山びざんが駅のすぐ近くに感じました。
ぼんやりしていたら小学校の友達だったすみちゃんという女の子が話し掛けてきました。「あなたのお母さん防空壕ごうで焼け死んだのよ。かわいそうね」って。母の死を初めて知らされました。でも何を言っているのか分からなくて。
姉が自転車で迎えに来てくれてその晩から私たち夫婦と娘と3人で実家に居候です。でも、空襲で亡くなった母と祖父のことは怖くて父に聞けなかった。死に目に会わないと生きているような気がするんです。母はこんな徳島の田舎町にもしも空襲があったら、日本が負けることだ、と日ごろから言っていたそうです。そういう人なのね。もう生きてもしょうがないと思っていたんじゃないかな。どんな死に方だったのか、いろいろ言われたけど、本当のことは分かりません。
姉の夫は、満州に出征し、戦後シベリアに6年間、抑留されました。どんなにきつかったか、帰国後も具体的なことは何も言わなかったですよ。真っ昼間も戸を閉めて暗くしてうずくまって泣いているのね。シべリアで戦友が死んでいった。自分が生き残っていることが申し訳ないと言って泣くの。本当にかわいそうでしたよ。
――焼け跡の廃虚の中から戦後日本は奇跡的な復興を遂げました。
徳島で長く居候してたんですが、夫が東京で職を得て上京しました。女子大時代は、東京のいい時を見ているから、焼けてしまった街を見て怖かったですよ。ぞっとしました。徳島は小さい町だから帰国した時にはこぎれいに片付いていたけど、東京は手付かずの場所もあった。生き残った人から話を聞いて、初めて空襲の恐ろしさを知りました。その時感じたのは「自分がばかだった」ということ。教えられたことを真に受けてよくぞ今まで生きてきたなと。
物心ついたころから「非常時」でしたからね。私にとっては「非常時」が普通だったのね。大正から昭和になる頃は世界中が不景気でした。
戦前の小学生は日本は強くて戦争には絶対負けなくて、危なくなったら神風が吹くと教えられていたの。先生の言うことを丸のみして信じるような優等生でした。母はかまどの前に座って、私に教育勅語(注2)を覚えさせるんですよ。子どもは覚えるんですね。それで先生にほめられて。教育されることを全部信じていたんですよ。「良妻賢母」を育てることを目的とした県立の女学校でも優等生だったのね。
授業を休んで戦地の兵隊さんに送るチョッキを作ったり、戦場をしのんで、おかずなしで梅干しも入れない弁当を食べたりする日もありました。だんだん戦争が日常になってくるんです。
ニュースは大本営発表だけ。負けていても勝ったというでしょ。みんなこの戦争は良い戦争だ、天皇陛下の御おんために命をささげる、東洋平和のための戦争だ、と大本営発表だけを聞かされていたから。負けてるのにちょうちん行列していた。そんなおばかちゃんでしたね、私も国民も。
戦後、焼け跡の残る東京を見て、これからは自分の手で触って、手のひらに感じたものだけを信じて生きようと思いました。それが私の革命です。
――戦争はもう嫌だという民衆の思いが、戦争放棄の9条を盛り込んだ憲法の支持にもつながったんじゃないでしょうか。寂聴さんは、新憲法をどのように受け止めたんですか。
小説を書くまでは憲法のことはあまり考えたことはなかったんです。国で起きていることなど、耳に入らなかった。(夫と子どもを残して)家を飛び出して、父親に「鬼になったんだから、また帰ってきたり謝ったりしないでくれ」と怒られて。憲法を意識したのは田村俊子(注3)や岡本かの子(注4)など、大正時代、時代に抗して激しく生きた女性作家のことを書いていたときです。彼女たちがどういう時代を生きたのかを調べているうちに大逆事件にたどりついた。
大逆罪で幸徳秋水(注5)らと一緒に処刑された管野須賀子(注6)のことを徹底的に調べるうちに、日本の政治とか裁判のいいかげんさがよく分かりました。憲法の大切さも学びました。新しい憲法は敗戦後、米国に押しつけられたと言うけれど、負けて勝ち取ったものですよ。すごい犠牲の上にできた憲法なんだから。もしも、日本が9条を守らないようなことがあれば、世界を欺き、うそをついたことになる。戦争しません、しませんって言ってきたのだから。みっともないことだと思う。
政府の中には戦争体験者は1人もいませんね。やはり人間の想像力には限界があるから。病気してつらい目に遭わないと病人の苦しさは分からない。年をとってみないと年寄りの寂しさは分からない。それと同じことです。戦争が起こったら子どもや孫が兵隊になる。その恐ろしさを想像できない。分かっていない。
<1991年の湾岸戦争直後、寂聴さんはイラクに薬品などを届けに行く。以降、2001年の米中枢同時テロや米国のイラク武力攻撃などには断食行や意見広告で反対の意思を明らかにし、阪神大震災や東日本大震災など災害が起きれば被災地に駆け付ける。寂聴さんの手のひらからの「革命」は広がっていく>
阪神大震災の翌日には歩いて神戸まで行きました。そばにいた人が「空襲と同じ目にまた遭った」と独り言を言っていました。敗戦を北京で迎え、空襲直後を知らない私にとって、焦土を初めて目の当たりにした思いでした。
圧迫骨折で寝込んでいた時に3・11の東日本大震災があり、原発事故が起こりました。思わず跳び起きましたよ。6月にやっと自分で歩けるようになって東北に向かったんですよ。その時に見たのもどの街もどの街も全部流されていて空襲の後と同じようだった。これが戦争の後なんだなと思いました。人間は自然に勝てません。もっと本気になって災害の手当てを考えなきゃいけないと思いますよ。
なぜ立ち上がるか。小説家というだけだったらできません。出家したでしょ。51歳でね。知らなかったけどお坊さんには義務がいっぱいあるんです。「亡己利他」といって人のために何かをしなきゃいけないんですよ。もともとが素直だからお坊さんになった以上、やらなければいけないと思っている。
災害が起きたら有り金持って現地に飛んでいくんですよ。何もできなくても僧衣の私が行ったらみんな喜びます。何もできないので、みんな疲れているでしょうから肩をもんであげると言うの。本当にうまいのよ。女学校では卒業の時に本職を呼び肩をもむ実習があったの。1番うまいと言われた人が校長先生の肩をもむんですよ。校長先生の頭をたたいて卒業したのが私。本職が感心したくらいうまいのよ。
避難所にいる人の体はかちかちに凝っているの。最初は恥ずかしそうにしているけど、うれしそうな顔をするの。ふと気付いたらずらーと並んでいて。全部もんであげて。それしかできないの。「政府が何もしてくれない」とか話を聞いてあげると、心が休まるんじゃないですか。
寂聴というより、尼さんがきてくれたと喜んでくれる。お友達になった被災者が毛糸で帽子と肩かけを編んで送ってくれる。今も付き合っています。人間の本質は、どういう立場にあっても性善説だと私は思うの。
――日本の社会の雰囲気が「戦前と似てきている」と、いろいろなところで話をされています。
女子大にいた頃はのんきそうだったけれど、世の中がだんだん戦争の雰囲気がしてきて、軍靴の音がそこまで聞こえてきたという感じでした。小説なんかでもいろいろなことが不自由になり、書く場所を奪われる人が出てくる。(戦前プロレタリア作家だった)平林たい子さん(注7)、佐多稲子さん(注8)がそうでした。お2人の話をじかに聞いていますからね。牢屋ろうやにいれられて拷問にあった話も聞いてます。
18歳で親元を離れて今93歳。こんな元気な私が今年93歳なんてどうしても信じられないのね。70年どころか、93年なんて振り返ってみたらあっという間。みんな、その時、その時で一生懸命生きてきたんですよね。
政府は民を幸せにしなきゃいけない。そのためには民意を、民の心を聞かなきゃいけないでしょ。聞くことが政治家なのに、現在の政治家、安倍さんたちはまったく聞かないでしょ。(米軍新基地建設が予定されている沖縄県名護市)辺野古だって日本なのよ。それなのに、日本じゃないみたいな扱いをしている。米国との約束なのか、あんなに嫌だって言っているのに「それしか方法がない」と言う。そんなことないじゃないですか。どうして沖縄だけがあんな目に遭わなくてはならないの? 民の心を聞き、少しでもそれに沿ってやるのが政治じゃないですか。自分の立場や所属する政党を守ろうとする。それだけですよ。今の政治家は。
――戦後の日本は豊かになった。戦争体験のある世代は少なくなり、若い人は戦争を想像することは難しい。それでも、寂聴さんの訴えに呼応するように、安保法案に反対する大学生や高校生をはじめとする若い世代が声を上げ始めています。
安保法案が衆院で可決される結果は想像していたわよ。それでも反対しなきゃならないと思ったの。いくら言ってもむなしい気もするけれど、それでも反対しなければならないの。歴史の中にはっきり反対した人間がいたということが残るの。そのときは「国賊」だとか言われても、どちらが正しかったかを歴史が証明する。一生懸命、小説を書いてきて分かりました。
若い人が立ち上がってくれたことは本当に力強いことです。法案は参院でも可決されるかもしれない。もしそうなったとしても力を落とさないでほしい。立ち上がったという事実はとても強い。負けたんじゃない。いくらやってもだめだとは思わないでほしい。闘い方が分かったんだからこの次もやっていこうと思ってほしいわ。運動に参加した人は、その分の経験が残ります。
若い人たちは行動する中で自分が生きているという実感があると思う。未来は若い人のものです。幸せも不幸も若い人に襲い掛かるんだから。われわれはやがて死んでいく人間だけれども経験したことを言わずにいられない。法案を通した政治家も先に死ぬのよ。残るのはあなたたち。闘ったことはいい経験になると思います。むなしいと思われたら困るのよ。どっかでひっくり返したいね。
いい戦争はない。絶対にない。聖戦とかね。平時に人を殺したら死刑になるのに、戦争でたくさん殺せば勲章をもらったりする。おかしくないですか。矛盾があるんです。戦争には。
今、いろんなところから呼ばれます。若い人たちの前で、「青春は恋と革命」と言ったら、みんな「わーっ」と盛り上がりましたよ。若い人もうれしいらしい。それだけでいい。革命は死ぬまでできる。自分の革命をしていけばいい。戦争を知っている世代は伝えていかなくてはならないわね。ぼけてるひまなんかないのよ。
2015年6月18日 国会前スピーチ要旨
瀬戸内寂聴です。満93歳になりました。きょうたくさんの方が集まっていらっしゃったが、私よりお年寄りの方はいらっしゃらないのではないか。去年1年病気をして、ほとんど寝たきりだった。完全に治ったわけではないが、最近のこの状態には寝ていられない。病気で死ぬか、けがをして死ぬか分からないが、どうせ死ぬならばこちらへ来て、みなさんに「このままでは日本はだめだよ、日本はどんどん怖いことになっているぞ」ということを申し上げて死にたいと思った。私はどこにも属していない。ただ自分1人でやってきた。もし私が死んでもあくまでも自己責任だ、そういう気持ちで来た。だから怖いものなしです。何でも言って良いと思う。
私は1922年、大正11年の生まれだから、戦争の真っただ中に青春を過ごした。前の戦争が実にひどくって大変かということを身にしみて感じている。私は終戦を北京で迎え、負けたと知ったときは殺されると思った。帰ってきたらふるさとの徳島は焼け野原だった。それまでの教育でこの戦争は天皇陛下のため、日本の将来のため、東洋平和のため、と教えられたが、戦争に良い戦争は絶対にない。すべて人殺しです。殺さなければ殺される。それは人間の1番悪いことだ。2度と起こしちゃならない。
しかし、最近の日本の状況を見ていると、なんだか怖い戦争にどんどん近づいていくような気がいたします。せめて死ぬ前にここへ来てそういう気持ちを訴えたいと思った。どうか、ここに集まった方は私と同じような気持ちだと思うが、その気持ちを他の人たちにも伝えて、特に若い人たちに伝えて、若い人の将来が幸せになるような方向に進んでほしいと思います。

(注1)徳島大空襲 1944年7月、米軍の焼夷(しょうい)弾攻撃によって徳島市街の62%が焦土となり、1001人が亡くなった。
(注2)教育勅語 1890(明治23)年、明治天皇の言葉として発表され、戦前の教育方針の根幹となった。国に危機があったときには力を尽くすことなどを求めている。
(注3)田村俊子(1884〜1945) 流行作家。男女間の相克を主題とした。
(注4)岡本かの子(1889〜1939) 小説家、歌人、仏教研究家。
(注5)幸徳秋水(1871〜1911) 評論家、思想家。非戦運動を展開。1910年、天皇暗殺を企てたとして逮捕され(大逆事件)、翌年処刑された。
(注6)管野須賀子(1881〜1911) 社会運動家。幸徳秋水と結婚、離婚。大逆事件で死刑となる。
(注7)平林たい子(1905〜1972) 小説家。1937年、国体変革などを目的に人民戦線の結成を呼び掛けたとして大学教授らが大量に検挙された事件で、半年以上勾留された。
(注8)佐多稲子(1904〜1998) 作家。 

 

●「年取っても心の運動を止めない」寂聴さんからの薫陶 監督・中村裕さん
多くの国民に愛され、2021年11月に99歳で亡くなった作家、瀬戸内寂聴さんの晩年の「素の姿」に迫ったドキュメンタリー映画「瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと」が全国で公開中です。受け継いでいくべき寂聴さんの言葉、生き方とはどういったものでしょうか。17年間の長きにわたりカメラを回し続けた映画監督の中村裕さんに聞きました。
泣きじゃくるシーンも さらけ出してくれた寂聴さん
映画では、寂聴さんの晩年の日常が描かれていきます。あの破顔一笑、肉をたいらげる姿、病気で入院するも退院後に前向きにリハビリに取り組む様子、リモート収録がうまくいかず、中村監督に迷惑をかけたと泣きじゃくる場面、安保法制改正に反対して車いすで国会前のデモに加わる行動。これまでもNHKなどのテレビ番組で寂聴さんにカメラを向けてきた中村監督は、寂聴さんと自分の「奇妙な関係」は何なのかを探ろうともします。
――17年間、寂聴さんを撮影し続けることができたのは、信頼関係のたまものとは思いますが、改めて、どうして長期間撮影できたのでしょうか。
中村裕さん(以下中村):これは、先生が僕を受け入れてくれたということに尽きると思います。僕がいくら撮りたい撮りたいといってもだめで、先生は、プライベートを撮られるのは嫌がる人でしたから。ちゃんと法衣を着て、ぴしっとライティングがある中で、ニコッとして受け答えするということ以外は、あまりしたくない人でした。
2008年か2009年頃から、先生の日常を撮りたいという気持ちが強まりました。先生の中では、本当は「嫌だな」という気持ちがあったのかもしれないですけど、僕と会うという時は、カメラがあるというのが一つの前提になっていたので、途中から先生はあきらめたんじゃないかと思います。「しょうがない、もうすべてさらけ出すしかない」と。
撮影は、百科事典などを積んで、上にカメラを回しっぱなしで置くというスタイルだったので、最後は、カメラが回っていることも意識せず、カメラは空気のようになっていました。先生自身はどんなものが撮れているのか、つながったものを見ないと全く分からなかったと思うんですね。
――寂庵のある京都に行く時の監督のお気持ちはどんなでしたか。
中村:やっぱり、わくわくしていました。日常、電話やメールのやりとりはしていましたので、最後の2年くらいは、指がうまく動かなくなって、メールより電話の方が増えましたけれど、常に先生とのチャンネルはありました。会いに行くときは、「どんなことを聴こうかな」とか、「最近何があったのかな」とか、楽しみにしていました。仕事という意識がないわけではなく、毎回、撮るものの見当は多少つけていくのですが、先生のコンディション次第という要素もありましたし、「とにかく行ってみて考えよう」という感じでした。
もう一つは、瀬戸内寂聴さんに会いたいという人が日本中にものすごくいるわけで、そういう中で、会うことが許されているのは意識しないといけない、と思っていました。尊い機会を大切にしなくては、という気持ちでした。
――世代を超えてアイドルのように社会に受け入れられた寂聴さんの魅力とは、どんなものだったのでしょうか。映画にはそれが映り込んでいますか。
中村:もともとチャーミングな方なので、普通にカメラが回っていけばおのずとその魅力は撮れていくものだと思っていました。リモートのテレビ収録がうまくいかなくて、僕に恥をかかせたといって尋常でなくエンエン泣くシーンがあったのですが、あれは先生の一番かわいいところが出ていて、先生には「あんな恥ずかしいところ出して」って怒られるかもしれないんですけど、感動的なシーンでもありました。
少女のように、落ち込んだり心が動いたりしているんですね。心が動いているということだけでも、何かすごいことだなと思いました。泣いているかと思うと合間にニコッと笑う場面もあって、千両役者だな、大変な人だなと思いました。
寂聴さんと共感した死生観「野垂れ死」、死は怖くない
――寂聴さんの人生を通し、人はいかに生き、老い、死ぬかということも考えさせられる映画でもあります。監督ご自身は、どうしていこうと思いますか。
中村:僕は、おのずと薫陶を受けているところがあると思います。改めて振り返ると、泣いているシーンの話でも明らかなのですが、先生はリモートと聞いたらとりあえずやってみる。それで失敗したら落ち込んで泣く。失敗を恐れずに新しいことをやってみようという気持ちです。これを忘れずにいた方がきっと人生が楽しいだろうと思うんですね。年を取ったからといって、失敗しない、なるべく安定した、波風立たない方向を選択していくと、心が老いていく。心の運動を止めないことがすごく大事です。
――死生観のようなものは影響を受けましたか。
中村:先生と会って一番共感したのが、「野垂れ死」に憧れるという点でした。絶対的孤独の中で、誰も知らないところで死ぬというようなもの。絶対的な絶望感の中で死ぬというのを最後に味わうのはいいんだろうな、という気がしています。僕は、死ぬことは怖いと思ったことが全くないんですよね。重病を宣告されてじわじわ死んでいく場合でも、そこで自分の生き様が決まると思う。死んでいく時の生き様って一番大事なところなので、人間が試されますよ。
死ぬのが怖くないっていうのは、これから先、そんなに今までより良いことがあるという気もしないので、だんだん弱っていくんだったら、今できることを精一杯やっていって、それで明日目が覚めなくても全然かまわないということです。病気になったら、生きたいと取り乱して叫ぶかもしれませんけど、その時は、僕が問われるわけです。先生も「明日死んでも悔いはない」と言っていて、うそはないと思いますし、そこは影響を受けたのではないかと思います。
寂聴さんからの教え、「危なくても、やりたいと思ったらやる」
――監督は「寂聴先生も、どこかでこの映画を見ているかもしれない」とおっしゃっていましたが、そういう感覚は信じられますか。
中村:2014年くらいの取材の時に、「私が死んだら、あなた、さみしいわよ」っておっしゃって、普通なら先に行く方が、「あなたと別れるのはさみしいわ」というのでしょうが、先生は逆に心配している。それが実際、亡くなっていく人のリアルな感情なんだろうという気がしています。
亡くなった後、もっと喪失感にさいなまれるだろうと思っていたのですが、それがないというのは、たぶん先生のおかげだろうな、と思います。ここで先生だったら何て言うだろうなとか、今のウクライナの問題でも何か突拍子もないことをしたのではないかなとか、四六時中、先生と一緒に考えているということはあるのかもしれないです。
――現代の社会の中で寂聴さんが心配していたのは、どういう点だったのでしょうか。
中村:「私はみんなより先に死ぬんだから、もう知ったこっちゃない」ともいっていましたが、コロナなどもあって、すごく不寛容な空気が蔓延していることを、先生は憂えていました。
例えば、不倫は個人的なことなのに、世の中がよってたかってバッシングするというのは、やっぱり過剰反応だと思う。怒っていいのは当事者だけだと思うんですよ。寂聴先生は「不倫も純愛だったらいいけど、こっちもとりたいし、家庭も捨てたくないというのは、地獄に落ちる」と言っていました。「何かを得ようと思ったら何かを捨てるという覚悟がないなら最初からやめなさい」とも言っていました。自分のしたことにどういう風に落とし前をつけるのかというのは、どんな方でも、自分の生が続いている間は考えなくてはいけないですね。
先生は「自由」と「愛」という人間にとって大事だけれど、非常に厄介なテーマを求めた方です。これらは、すべての人に共通するテーマですよね。自由に生きるには、また愛に生きるにはどうしたらいいか。それぞれの人が厄介な問題を抱え込んで自分なりに考えていくしかないですよね。それが先生が残した宿題なのかもしれないです。
過去何百年と、文学、映画、音楽、絵画などの中で扱われてきたことで、その中に先生がいる。時代が変わっていく中で、愛と自由を考え、自分の子供や教え子や部下に引き継いで、少しずつ変化したり発展したりするのがいいのではないかな、とも思います。
――中村監督が、寂聴さんから承継したい考え方があれば教えていただけますか。
中村:「危ないなと思っても、やりたいと思ったらやってみる」という言葉、考え方です。特に日本では、親は、子どもが失敗しないようにと考えるケースが多くて、「人に迷惑をかけるな」と子どもに言い聞かせる親も目立ちます。
僕は、迷惑はかけあうものという方が社会の本質のような気がしています。さすがに迷惑をかけっぱなしというのはだめですが、かけたりかけられたりするというのが、これから、いろんな人が共生していく社会では必要な考え方なのではないでしょうか。そのためには、人を思う心、気持ちの強さが大事で、それを先生が示してくれました。皆がそれを考えて実践していくことが、この不寛容な時代の空気を変えていくためにも、少しは必要かな、と思います。 

 

●いまを切に生きる 瀬戸内寂聴さん 
愛と苦悩の99年
先週、99歳で亡くなった作家の瀬戸内寂聴さん。自立する新たな女性の生き方を作品で生き生きと描きながら、各地で行う法話では弱者に寄り添い、愛することの大切さを説いてきた。老いと病を乗り越え、活動を続けたエネルギーの源とは何だったのか。そこには若き日に体験した戦争と、幼い娘を捨てて家を出たことへの深い悔いがあった。瀬戸内さんの生きざまに影響を受けた人たちのことばから、作家の残したものを見つめる。
私を支えた"あの言葉" 瀬戸内寂聴のメッセージ
俳優の南果歩さん。離婚や乳がんの手術などを経験する中、瀬戸内さんのもとを何度も訪ね、悩みを打ち明けていたといいます。
俳優 南果歩さん「1人で抱えきれないことだとか、そういうことをお話しさせていただくと、本当に明るい笑顔で背中をぽんと押すように励ましていただいたし、笑い飛ばしてくださったので。『何を言っているの。生きているんだから、あなた大丈夫なのよ』って。『人生はいろんなことが起きて当たり前なんだから』、『その先にもっといいことが待っているんだから、大丈夫よ』って」
南さんは瀬戸内さんのことばの裏に、乗り越えてきた人生の苦しみを感じとったといいます。
南果歩さん「本当の修羅場を経験した人の優しさというか、温かさというか。それが伝わるからこそ、本当に素直にそのことばが心に入ってきた」
34歳で文壇デビューした瀬戸内さん。その人生は波乱に満ちたものでした。
不倫の果てに、夫と幼い娘を捨てたことに批判を浴びながらも、400を超える本を執筆。その後、得度し、各地で法話を行って心に傷を抱える人たちに寄り添ってきました。
<2011年 岩手 二戸>
瀬戸内寂聴さん「結局はでもね、人間はひとりなんですよ。ひとりで生まれて、やがてひとりで死んでいく。ひとりはさみしいけれども、でも一緒に死ぬことはできないね」
夫を亡くした女性「(夫が)遺体にしていた時計」
瀬戸内寂聴さん「きょう、あなたがここにいらしたのは、ご主人がここに連れてきてくださった。ひとりでさみしいれけども、やがてあなたも逝くんだからね。大丈夫よ。向こうで会えますからね、一緒に逝きましょう」
鬼ではなく"大鬼"に 瀬戸内寂聴の原点とは
自由に生き、人を励ますことに力を尽くした瀬戸内さん。その原点はどこにあったのか。30年以上親交がある、作家の林真理子さんが指摘するのは敗戦の体験です。
作家 林真理子さん「戦後の混とんとした時代の、何もかも失ってしまった喪失感と、異様な高まりの時代のその虚脱感の中で新しいものを得なければ生きていけないと思った先生の気持ちは、私はちょっと想像することができるんですよね」
瀬戸内さんは23歳のとき、中国・北京で敗戦を迎えます。
夫と娘の3人でふるさとの徳島に引き揚げたとき、目の当たりにしたのは一面の焼け野原でした。母と祖父は防空ごうで亡くなっていました。
当時の思いを語ったインタビューです。
<NHKスペシャル「敗戦 その時日本人は 私にとっての8月15日」(1998年8月15日放送)>
瀬戸内寂聴さん「天皇陛下の御ために、死んでもいいという考えをたたき込まれた。しかし天皇陛下の御ために死んだけれど、あと何もないわけですから。それまで信じていたものは何だったんだろうということを考えました。ただ教えられたとおりに素直に信じて生きてきましたけど、もうこれからは教えられたとおりのままじゃなくて、自分で考えて、自分の心と肌で感じたものだけしか信じちゃいけないんだってね、そのときに私の人生で一大転換があったわけですね」
自分の意思だけを頼りに生きていく。瀬戸内さんが決意したのは、当時女性としては珍しかった小説家になることでした。
林真理子さん「今みたいに、ちょっと気楽に新人賞に応募する時代じゃないんですよ。女性作家がさげすまれていた時代に"書く"ことをするためには、まったく人生を捨てなければいけなかった。とにかく新しい場所に行かなければ自分は書くことができないし、新しい人生も始められない。ものすごい覚悟はあったと思いますけれども」
自分の道を突き進む中で瀬戸内さんは、年下の男性と恋に落ち、幼い娘を残して家を出ます。
<「AERA」2014年3月31日号>
"小説を書きたい、才能を生かしたい、無知な女のままでいたくない。そういう一心で、不倫相手のもとに向かった。子どもを捨てることはやってはいけない。本当は連れて行きたかったけれど、女が一人で食べさせることはあの時代にできなかった。いまでも後悔は尽きない"
林真理子さん「お父さまが病床から『もうお前は鬼だ』、『だが鬼になるなら大鬼になれ』とおっしゃたと。これは何か先生を貫くものだったんじゃないですかね。もうここまでのことをしたんだったら、とことんやってやると思ったんじゃないか。内側から湧き出ることによって、そういうことをせざるを得なかった何人かの人は当時いたわけで、寂聴先生はその1人だったと思います。そして"大鬼"になることを決心されたわけでね」
瀬戸内さんが描いたのは、時代にあらがい、愛を求めて自由に生きる女性たちの姿。大正、昭和を生きた歌人で作家の岡本かの子や、弾圧に屈せず女性解放のために闘った伊藤野枝などをモデルに、数々の作品を世に送り出してきました。
林真理子さん「汗臭くて、やぼったくてね。だけど本当に強い人。向上心を持っていて、男の人を引きつける。こういうヒロイン像って私が初めて目にするもので、すごく衝撃を受けましたね。自分の考えをもって、まっすぐに生きていけば、女性も頭をもたげて一生懸命生きていけば、必ず道は開けることを教えてもらった気がするんですよ」
私を支えた"あの言葉" 瀬戸内寂聴のメッセージ
瀬戸内さんの作品と生き方は、多くの人の人生に影響を与えてきました。瀬戸内さんの業績を紹介している資料館の学芸員、竹内紀子さんです。40年にわたり、瀬戸内さんと交流を続けてきました。
学芸員 竹内紀子さん「これは私がまとめかけているものの、一例なんですよね。誰と会ったか、どんな講演をしたか」
全国をまわった講演のスケジュールや対談した相手など、竹内さんは段ボール40箱分の資料を瀬戸内さん本人から託されました。激動の足跡を資料でたどる中で、瀬戸内さんの姿勢に心を打たれていったといいます。
竹内紀子さん「やっぱり(瀬戸内さんの)自立した生き方が好きだった。初めの結婚から別れて、作家になって、ペン1本で生きていこうという。途中で半同棲(せい)の恋人ができるんですけれども、その人にも全く依存せずにね、自分のペン1本でずっと生き抜いたようなところですね」
中学校の教師となったものの、自分が本当にやりたいことは何か、悩みを抱えていた竹内さん。そんなとき参加した勉強会で、瀬戸内さんが語ったことばが強く記憶に残っています。
竹内紀子さん「先生がその生き方っていうんですか、自分が信じたことを突き進めて生きなさい。大輪の花を咲かせなさいとよく言ってましたね。誰にも才能があるから、好きなことをして、才能を伸ばして花を開かせなさいというのはよく言いましたね」
竹内さんは43歳のとき、思い切って教職から離れ、現在の学芸員の仕事に就きました。限られた人生を何にささげるのか。その覚悟を瀬戸内さんから学んだといいます。
竹内紀子さん「悔いのない生き方をしようと進んだと思います、私自身」
取材班「できましたか?」
竹内紀子さん「まあ頑張ってるというんじゃないかしら」
"人は愛するために生まれてきた" 瀬戸内寂聴のメッセージ
多くの人たちが耳を傾けた、瀬戸内さんのことば。最後まで語りかけていたのは、"人を愛すること"でした。
瀬戸内寂聴さん(Instagramより)「99歳、もうすぐ100歳になるんですけど、それまで生きてきて最後に思うことは、何のために生きてきたんだろうと。人を愛するために生まれてきたのね。愛に始まり、愛に終わる」
「愛することとは何か」。その真の意味を、瀬戸内さんから教えられたという女性がいます。出版社の編集者、宮田美緒さん(37)です。
20代の頃、恋愛で深く傷つく経験をした宮田さん。瀬戸内さんの「女人源氏物語」を読み、愛のとらえ方を根底から覆されました。
出版社の編集者 宮田美緒さん「女の業(ごう)みたいなものを描ききった作品だと思うんですよ。もちろん愛することの喜びも含めて、そこに伴うつらさ、絶望感、いろんなものをひっくるめてすべて描かれている。自分が今まで愛だって信じていたものが、実は自己愛だったんじゃないかなっていうことを思いました。相手を愛そうとしている自分の姿を愛していただけなのではないか」
本当の愛とは、見返りを求めない愛。ことし、憧れていた瀬戸内さんの書籍を出版しました。
瀬戸内さんが書き下ろしてくれた、直筆の前書きです。
"人は愛するために生まれてきたのです。99歳まで生きてきて、つくづく想うことはこの一事(いちじ)です"
宮田美緒さん「もう本当に寂聴さんらしい。彼女の人生をある意味凝縮したような原稿だなと。原動力になっていたものが、愛のひと言に尽きるのだと。その根っこには愛があったということですよね」
なぜ、瀬戸内さんはここまで愛にこだわるのか。
5年前に出産した宮田さんは、子どもを持って初めて感じたことがあるといいます。それは、瀬戸内さんがかつて幼い子を捨てたときの痛みでした。
宮田美緒さん「自分が子どもを持ったからこそ、どんなにつらかったかと、かわいい盛りの子どもを家に置いてきたことが。自分自身の体の一部を失うような、大きな悲しみがあったと思うんですよ」
恋人のもとへと走り、作家への道を選んだ瀬戸内さん。幼い娘を捨てた悔いを、生涯抱え続けてきました。
瀬戸内寂聴さん「まだ子どもが『お母さん行っては嫌』ってことばが言えないときですからね。むごいことしましたよ、本当に。それだけが、後悔している。申し訳ないと思っている」
大きな痛みを抱えていたからこそ、人の痛みに寄り添い、愛し続けていたのではないかと宮田さんは感じています。
宮田美緒さん「愛にこだわる理由、『究極の愛とは、あげっぱなしの愛だ』。そのことばの内側にはですね、自分が背負ってきたとてつもない悲しみ、痛みがあったからこそ、他人の痛みに対しても思いをはせることがそこで初めてできたんじゃないかなと」
瀬戸内さん 最後の願い 次世代を生きる人たちへのメッセージ
東京都内にある、小さな一軒家。ここを訪れるのは、さまざまな事情で家や学校に居場所がなくなった若い女性たちです。
取材班「どんなときに、ここ来るの?」
利用者「しんどくなったときですね。家にいたくないとき」
利用者「居心地のいい場所って感じですかね」
「まだやりのこしたことがある」。晩年、瀬戸内さんは、虐待やDVなどの被害者を支えるプロジェクトを立ち上げます。専門のスタッフが相談に乗り、生きる手助けをしています。
「若草プロジェクト」代表理事 大谷恭子弁護士「『そろそろ終活、終活ということで自分も女性のために何かを残したい』、『いま成長過程の少女たちもひとりぼっちになっているよ』ということで、その子たちの居場所を一生懸命つくろう」
「若草プロジェクト」と名付けました。コロナ禍で直接会うことが難しい中でも、瀬戸内さんはビデオメッセージを送っていました。
瀬戸内寂聴さん「若草に入って元気ですか?よかったと思う?私はあなたたちのように、女に生まれて、女であるがためにしなくていい苦労した人がこの世にまだいっぱいいると思ったらね、99にもなって死ぬに死ねないのよ」
プロジェクトに救われた女性です。小学生のころから両親による虐待に苦しみ、17歳のときに保護されました。
女性「父親から性的なことされたりとかして、それを母親に行ったときに『胸が大きい、だから被害を受けて当たり前だ』と言われたときに精神的に耐えがたくて。リストカットしちゃったり、タバコで自分の腕焼いたり、自殺しちゃうんじゃないかと」
虐待を受けたのは自分のせいだと、みずからを責め続けていた女性。今も死にたくなる気持ちが込み上げるとき、瀬戸内さんのある言葉が支えとなっています。
"愛することはゆるすこと"
女性「自分のことがゆるせなくて、虐待を受けたのも全部自分のせいだってまだ思っているところがあって、(瀬戸内さんのことばが)すごい響いて、自分のことをゆるさないと、自分のことを大事に出来ないのかなと思って。せっかくここまで生きたから、つらいことがあっても耐えて生きないともったないなと思って」
二十歳になった今、プロジェクトの支援を受けて大学に通っています。自分のように苦しむ子どもたちを守りたいと、将来は弁護士になることを目指しています。向かうのは、瀬戸内さんが長年執筆に使っていた机。今年の春、プロジェクトの女性たちに贈られました。
瀬戸内寂聴さん「希望を失わないでほしいのね。今つらいこととか、いろいろあるけど、絶対変わると思ってね、変えようと思って生きてください。私の、もうまもなく死ぬ私の最後のお願いです、遺言です。頑張ってください」
人は何のために生きるのか。最後の連載となった随筆に記されていた言葉です。
<随筆「その日まで」より 講談社>
"戦争も、引揚げも、おおよその昔、一通りの苦労は人並にしてきたが、そんな苦労は、九十九年生きた果には、たいしたこととも思えない。人間の苦労は究極のところ、心の中に無限に死ぬまで湧きつづける苦痛が、最高ではないだろうか。生きた喜びというものもまた、身に残された資産や、受けた栄誉ではなく、心の奥深くにひとりで感得してきた、ほのかな愛の記憶だけかもしれない。結局、人は、人を愛するために、愛されるために、この世に送り出されたのだと最期に信じる"
瀬戸内寂聴のメッセージ 直木賞作家がみた素顔と魅力
井上:小説家の井上荒野(あれの)さんに伺っていきます。30年にわたって交流を続けてきた井上さんから見て、激しく生きた情熱の源には何があったと思いますか。
井上さん:寂聴さんにとっては生きるというか、生きていくということが「善」だったと思うんです。善悪の「善」です。つまり彼女にとっての唯一、絶対的な善というのが「生きていく」ということではなかったのかと。それはやはり先ほどのVTRにあったような戦争体験、中国から引き揚げてきたらご家族が防空ごうの中で亡くなっていたこととか、そして、そのときにもう私は何があっても生きていく。そういうふうに決めたんじゃないかなと思うんです。生きていくというのも、ただ漫然と生きていくのではなくて、何かを諦めて生きていくのではなくて、誰かの言いなりになって生きていくのではなくて、自分の意志で、自分の心に従って生きていく。それが彼女にとっての善で、その善を全うするために情熱を持っていたのではないかなと思います。
井上:井上さんは瀬戸内さんをモデルにした小説、「あちらにいる鬼」で、ご自身の父親と瀬戸内さんが不倫関係にあったことを描かれていますけど、それにもかかわらず家族ぐるみの交流を続けられてきたのはなぜでしょうか。
井上さん:複合的な理由があって、私の母のありようとか、私の家のありようなんかもあるのですが、いちばん大きい理由というのは寂聴さんがとても魅力的な方だったからだと思うんです。もう本当にチャーミングとしか言えないような方で、今本当にそういうふうに思っているんですけど、やはり若いときはあまりにも寂聴さんに会うたびに圧倒されて、自分が小さく思えて、そしてもう自分は何かふらふらして、何にも足場がないなということはいつも思い知らされていて。だから若いときは会うのに緊張していて嫌だったりしたんですけど、だんだん自分も小説家になって、それなりに自信も出てきて、そういうときにお会いすると「ああ、やっぱりこの方はものすごくチャーミングな魅力的な方だな」というのが分かるようになってきました。その魅力というのは何だろうってずっと考えてたんですけど、やっぱり「自由」ということだと思うんです。本当に自由さ、自由とは何かということを体現していたのが寂聴さんだと思っています。自由というと皆さん、好き勝手やるとか、やりたいようにやるとか、何かすごく楽なこと、楽に流れることのように思っている方もいるみたいですが、本当の自由というのは自由と同じ分量の、自由に対する責任というのが必要だと思うんです。自由にする分、いろいろ言われることも引き受けなければいけないし、やったことについて考えなければいけないし。自由でいるためには、やっぱり強くないといけないと思うんですよ。寂聴さんはその強さを持っていらした。あるいは強くいるために、強くあるために奮闘していらした。そういう方だったと思います。
保里:瀬戸内さんは高齢になっても最後まで徹夜をして執筆活動を続けて、最後の最後まで「書く」ということにこだわっていました。99年の人生で追い求めていたことは何だったと感じていますか。
井上さん:私も小説家だから分かるんですけど、小説を書くということは、書くことによって分かることというのがあるんですよね。自分は何を考えていたのかとか、この世界と自分との関係とか、何で自分はあのときにあんなことをしてしまったのかとか。それを書くという作業によって、正解が得られるわけではないけれど、正解に向かって近づいていくということができるんです。寂聴さんは本当に間際まで小説を書いていらして、結局彼女はこの世界とか、自分自身にずうっとずうっと興味を持ち続けていたと思う。知りたかったんだと思うんですよね。それを知るためにずっと書き続けていた、そんなふうに思ってます。
保里:もっとお話を聞きたかったと思ってしまいますが、残してくださったことば、作品はこれからも残り続けて私たちの心を照らしてくれると思います。ありがとうございました。

 

●瀬戸内寂聴さん 世の中に愛してはいけない人はない
作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが99歳で亡くなりました。60年あまりにわたって書き続けた作品数は400以上。「書くこと」「愛すること」を追い求め、問い続けてきた寂聴さんの人生に迫ります。
寂聴さんに憧れた女性作家
「99歳まで書き続けられたというのは奇跡のようなこと。その年齢まで原稿がほしいという依頼がないとできないことですから。作家にとっては理想的で、まさに大往生。生き抜いて、書き抜いた人生だったと思います」
瀬戸内寂聴さんと30年以上の付き合いがあったという、作家の林真理子さん。寂聴さんは、憧れの存在であり、日本の女性の作家の精神的な支柱のひとりだったと言います。
林真理子さん「作家としてだけでなく、人間臭さや欠点も含めて魅力的だった。尊敬ということばでは足りない、大きすぎる方でした」
女性作家の先駆け
1957年に「女子大生・曲愛玲」で文芸雑誌の賞を受賞し、作家として本格的にデビューした瀬戸内寂聴さん。
そのあと発表した小説「花芯」では過激な描写が批判の的となって不遇の時期を過ごしますが、1963年には「夏の終り」で女流文学賞を受賞。その後は独自の恋愛観や人生観を描く作家として活躍しました。
さらに、田村俊子や岡本かの子、伊藤野枝など、旧習にとらわれず自立した人生を歩んだ女性たちを次々と小説として取り上げていきます。
その背景には、当時まだ少数だった女性作家として理不尽な思いや苦労を重ねた経験があるのではないかと林さんは指摘します。
林真理子さん「(当時は)いまだに石をぶつけられていたような女性を救いたい、という思いがあったんじゃないでしょうか。その女性たちが幼少期からどんな苦労を経験してきたかを綿密な取材にもとづいて描くことで、時代を越えて読者に共感してもらいたいという思いがあったのではないでしょうか。みずからも挫折や失敗をしたからこそ、真実が書けるんです。実力さえあれば上に立てるということを教えてくれた寂聴先生は、女性作家の隆盛の礎を築いていただきましたね」
「書くこと」の原動力は 戦争と出奔の罪意識
80を過ぎてからも、オペラの台本を手がけたり、携帯小説を発表したりと創作意欲は衰えず、書くことにこだわり続けた寂聴さん。
その原動力について林さんは、価値観が一変する戦争を経験し、終戦直後には夫と子どもを残して家を出て、作家として生きる決断をしたことにあるのではないかと言います。
林真理子さん「ご主人と子どもを置いていったことの負い目はあったと思います。お父様から『おまえは鬼だ。鬼になるなら大鬼になれ』と言われたことを、先生は貫いたのだと思います。『ここまでしたのだから、とことんやってやる』という決意があったのでしょう。戦争によって全く違う価値観や情熱を与えられ、内面から湧き出るものを抑えられなかった人が当時はいたわけで、寂聴先生はその1人だった。敗戦後の虚脱感の中で、新しいものを得なければ生きていけないと思った先生の気持ちというのは、私はちょっと想像できるんですよね。そういった人生を文学に昇華させ、自分の犯した罪、苦しめてしまった人々への罪滅ぼしというのはちゃんと先生はされたと私は思っています」
ことし6月には、寂聴さんから自分の伝記を書いてほしいと依頼されていたということですが、それがかなわぬまま、別れを迎えることになりました。
林真理子さん「最後にお会いした時に先生から『伝記を書いて』って言われたんですけど、無理だなって思ったんですよ。だって先生ほど自分のこと書いた人はいませんから。それでも先生は『まだ喋っていないことがいっぱいある』とおっしゃっていました。それが何なのか、知りたかったですけどね。
先生は私にとって心の支えで、かわいがってくれる最後の先輩でしたので、本当に悲しいです」
自分が信じたことを突き進みなさい
「本当に安らかなお顔で、ほっとしました」
亡くなった日に、寂聴さんと対面した竹内紀子さん(63)。寂聴さんの故郷・徳島の県立文学書道館の学芸員です。竹内さんは、19歳の時に寂聴さんの本を読んで衝撃を受け、ファンになりました。
22歳で寂聴さんが徳島で開いた、小説などを学ぶ私塾「寂聴塾」に入門。塾では毎月寂聴さんから作品執筆の宿題が出され、寂聴さんが添削して返していました。
竹内紀子さん「仕事の合間だったり、徹夜したりもしたと思うんですよね。翌月にはそれを返してくれるんですから。そのころって新しい連載を3本か4本始めてるんですよ。しかも大作をね。だから本当に、利他の精神でずっとやって来たと思いますね」
添削してもらった小説の中で竹内さんが大事にしている作品は、妻子ある男との恋仲がばれ、男とともに木につるされて死にゆく女を描いた短編です。寂聴さんは「今までの中でいちばんいい」と評価してくれたと言います。
竹内さんは、寂聴さんが、よく語っていたある言葉に突き動かされ、それまで務めていた国語の教師をやめて夢だった学芸員に転職しました。
竹内紀子さん「『自分が信じたことを突き進みなさい。みんなそれぞれに才能があるんだから、その才能を突き詰めて大輪の花を咲かせなさい』とよく言ってました」
竹内さんは、今は、学芸員として働き、寂聴さんから託された原稿やメモ用紙、それに日々の予定をつづったスケジュール簿など、段ボール40箱分の資料整理を行い、寂聴さんの99年の生涯をまとめる仕事を続けています。
「『世の中に愛してはいけない人はない』とおっしゃっていたのが印象に残っています。何にでも情熱を注いで、全身全霊で前を向いて進む生き方ですよね。最後まで人を愛し、100%生ききったと思います。私にとって憧れの存在であり、生き方のお手本でした」
コロナ禍で思うように寂聴さんに会うことができない中、最近、電話でこんな会話があったといいます。
竹内紀子さん「ある女性のことを、『すばらしい女性だから、最後に彼女のことを書きたい』と言ってました。彼女が生まれたところに行きたいと。寂聴さんは、その人の生まれた場所、育った場所を大事にする、必ず自分で行ってみて、そこに自分が立ってみる、そういう方法をとる人なんですけど、『でももう行けないや』と言っていました。まだまだ書きたいものがあったんだと思います」
「必ず書きますから」
担当の編集者として寂聴さんをそばで見続けてきたのが、講談社の嶋田哲也さんです。原稿をパソコンで書く作家が主流となる中、今でも手書きでつづられる寂聴さんの原稿を正確に解読できる編集者として担当を任されたのが始まりでした。
担当になってまもなく、嶋田さんにとって忘れられない出来事がありました。書き下ろしの原稿を受け取るため、寂聴さんが暮らす「寂庵」に泊まり込むことになった嶋田さん。しかし、想定していた期間を過ぎても原稿が仕上がりませんでした。
講談社「群像」編集次長 嶋田哲也さん「いよいよ締め切りが迫ってきた時に、急に瀬戸内さんが厳しい目でこっちを見て、『出ていってちょうだい』って言われたんですよ。それを聞いて『もう原稿もらえないのかな、これは終わりかなと』思ってしばらく黙ってたら、『必ず書きますから』って言われたんですね。そしたら1か月で作品を書き上げていただいたんです。本当に、終わったときの晴れ晴れとした顔というのは今でも忘れられないですね。お互い、涙が浮かんでいました。あんな厳しい目で見られたことはそのときだけですね。やっぱりいろんな修羅場をくぐった方が長年書き続けた上での言葉ですから、いよいよ覚悟を決めた瞬間だったんだなって今になって分かりますね」
寂聴さんからは「もう書き下ろしは最後。こんなにしんどいことはもうできない」と言われたそうですが、それからも10年近くにわたり作品を書き続けたのです。
最期をどう迎えるか
そして3年前、文芸誌で新たな連載を執筆してもらうことになりました。タイトルは「その日まで」。人生の最期となる「その日」をどう迎えるかがテーマの随筆です。
嶋田哲也さん「タイトルはっていうことになったときに、瀬戸内さんの方から『その日まで』っていうのでどうかしらと。『その日』というのは、まさにXデーといいますか、死ぬまで書くわよっておっしゃっていただきました」
“人口のあるだけ、その人たちの「その日」は様々な形で訪れるのであろう。
私は既に近い将来に迫った自分の「その日」を、どのような形で迎えるのであろうか。誰がその時、私の手を握り、「逝け」と、あるいは「逝くな」と、つぶやいていくれるのであろうか。”(講談社「群像」の連載 「その日まで」より)
連載が始まって1年ほど経ったある時、締め切りギリギリになってFAXで送られてきた原稿に、寂聴さんからのメッセージが添えられていました。
「大変今月はご迷惑かけました。すみませんでした。ほんとに体がきついです。誕生日まで持つかな?」
めったに弱音を吐かない寂聴さんのことばに慌てた嶋田さん。同じく連載を持っていた別の出版社の編集者と相談し、月ごとに連載を書いてもらうことを決めました。
嶋田哲也さん「『ありがとう』って言われるかと思ったら、『なに勝手なことしてるの』って怒られました(笑)。年齢が年齢なのでこちらとしては心配だったのですが、書いてる時が一番幸せなのっていう風に、時折おっしゃるんですね。だから幸せなことを取り上げてしまったのかなと、反省しました。その後、少しずつ休載することもありましたが、『年齢には勝てないわね』なんておっしゃることも全くないんですね。それが本当に驚きで。書くのをやめたいと言われたことは1度もありませんでした」
「十二分に生き通した」
寂聴さんは晩年の連載で次のようにつづっています。
“戦争も、引揚げも、おおよその昔、一通りの苦労は人並にしてきたが、そんな苦労は、九十九年生きた果には、たいしたこととも思えない。人間の苦労は究極のところ、心の中に無限に死ぬまで湧きつづける苦痛が、最高ではないだろうか。生きた喜びというものもまた、身に残された資産や、受けた栄誉ではなく、心の奥深くにひとりで感得してきた、ほのかな愛の記憶だけかもしれない。結局、人は、人を愛するために、愛されるために、この世に送りだされたのだと最期に信じる。 (中略) 充分、いや、十二分に私はこの世を生き通してきた”(講談社「群像」の連載 「その日まで」より)
もう一度寂聴さんと話ができるなら、嶋田さんはこう声をかけたいといいます。
嶋田哲也さん「本当にお礼しかないのですが、それを言ったら『死ぬと思われているのかしら』と思われると思うので、『先生、良くなったら次は何を書きますか』と申し上げるのが編集者としての務めだと思っています」

 

●瀬戸内寂聴さんの人生の名言
人は、不幸のときは一を十にも思い、幸福のときは当たり前のようにそれに馴れて、十を一のように思います。
いったいなぜでしょうね。人は何か不幸は起きた時、強いショックを受けるのにも関わらず、幸せな時はそれをあたりまえだと思ってしまう。それをわかりやすく言葉にしている名言ですね。やはり今持っていないものではなくあるものを数え、それを感謝に変えていくことができればもっと温かい穏やかな心でいられるかもしれませんね。
一日に一回は鏡を見る方がいいです。できればにっこりと笑ってみて下さい。心にわだかまりがない時は、表情がいきいきしているはずですよ。
自分がどうあるか日々チェックすることは大事ですね。鏡で見ている姿以外に見えるものは・・・
あなたはたった一つの尊い命をもってこの世に生まれた、大切な存在です。
時々、自分がすごくダメだー。なんて思うことはありませんか。きっとそんなことはないはずです。
「念ずれば花開く」という言葉があります。私は何かをするとき、必ずこれは成功するという、いいイメージを思い描くようにしています。
何か新しいことをする時、人は不安になるものですよね。そんな時、寂聴さんのように成功するイメージや自分は成功するんだという自信を持つことが新たな道を作るかもしれません。
もし、人より素晴らしい世界を見よう、そこにある宝にめぐり逢おうとするなら、どうしたって危険な道、恐い道を歩かねばなりません。そういう道を求めて歩くのが、才能に賭(か)ける人の心構えなのです。
新しい世界に入ることは簡単でスムーズなことではありません。自分自身の才能を信じる人は不安という大きなハードルはあたりまえ、そういう覚悟も必要です。
一日一日を大切に過ごして下さい。そして、『今日はいい事がある。いい事がやってくる』『今日はやりたい事が最後までできるんだ』この事を思って生活してみてください。
一日一日短いようでも、その365日が一年を作っています。悲しい気分の365日にするか明るい気持ちの365日にするのか。全部同じポジティブな気分で過ごすのは難しいかもしれませんが、心がけは大事です。
私は、全ての苦労を喜びに変えてからこなします。それが一番の健康法と美容法です。ストレスがたまらなくなりますよ。
どんなことでもポジティブな考えを持って取り組むこと。それが、自分の心と体の健康に直接つながるのでしょうね。
みんなのために良かれと思ってやっていることを、冷たい目で見る人たちがいます。そういう人は、”縁なき衆生(しゅじょう)”と思って放っておきましょう。あなたはあなたで正しいことを、自信を持ってすればいいのです。
冷たい目で見られるのって本当に嫌ですよね。ですが色々な考えを持つ人がいてあたりまえ。やはり人の目が気になりますが、自分で自分を信じてあげること、しっかりした芯を持ちたいですね。
女性でもね、男性でもね、自分が幸運な時ね、運が向いている時はね、必ず悪口を言われるの。悪口を言われるということはね、悪口を言いたくなるほどね、その人が幸運なのよね。
なるほど。新しい発見です。こういったうまくいっていたり、誰かのできないことを実現していたりすると、悪いように言う人がいますよね。その人の言葉が気になる時は、「自分が幸運だからだ。」と自分に言い聞かせましょう。
落ち込む時は楽しいことを一生懸命考える努力をした方がいい。嫌なことが多い世の中に負けてはダメ!
世の中に負けてはダメです!楽しいことで思いっきり頭をいっぱいにしましょう。 

 

●「不倫の何が悪いのか」“恋多き女”瀬戸内寂聴の、秘書への“真剣な怒り”の言葉
99年の生涯にわたって、女性の恋愛や生き方を描く小説を書き続けた作家・瀬戸内寂聴さん。秘書の瀬尾まなほさんは、2011年に寂聴さんが営む寺院・寂庵に就職して以来、誰よりも近くで寂聴さんと過ごしてきました。
ここでは、瀬尾さんが寂庵で「先生」と過ごした日々を綴った『寂聴先生、ありがとう。』より一部を抜粋。正反対の二人の恋愛観が伝わってくる「忘れられない、先生の一言」を紹介します。
忘れられない、先生の一言
「人生は恋と革命だ」と先生は常に言う。先生は自身が恋多き女であり、不倫も繰り返してきた。過去のすべての男の人をいい男だったと言い、死んであの世で会うとき誰に最初に声をかけようかなど迷っている。
先生は私たちに貞操観念がないと言う。先生の時代では男女が目を合わせるだけでも注意されたという。恋愛結婚なんてほとんどなく、お見合いでみんな結婚していた。
先生は、北京に行けることと、お見合い時の相手の白のスーツがかっこよかったという理由で、9歳年上の学者の卵と結婚した。その結婚は5年も続かなかった。家を出るきっかけになった4歳年下の男性とも結婚に至らず、そのあと誰とも再婚せず恋愛を繰り返していた。世間では波瀾万丈の人生を送ったと言われているが、当の本人はそうでもないという。
「大変苦労されたでしょう」とよく言われるけれど、自分ではそう思ったことが一度もないそうだ。いつでも必死だったから、そのとき大変だとか思う余裕がなかったと。
先生は私を見て思うことがたくさんありそうだ。私が来てから、どんな真新しい恋愛事情が聞けるかと楽しみにしていたのに、全くさっぱりで。
確かに先生の時代に比べて私たち若者はとても自由。なにしたってかまわない。
「人生は恋と革命だ」と大声で叫ぶ人の一番そばに私はいるのに、何も革命できていない。「100冊の本を読むよりひとつでも本気の恋愛をしなさい」と言う先生のそばで恋愛より本を読んでいる。
寂庵に来たころは、大学のときから付き合っていた彼がいて、先生が会ってくれたこともある。その彼とはほどなくしてお別れし、私も何度か「好きかも」と思える人がいたけれど、考えすぎて何も行動が起こせずじまい。私のこの煮え切らない性格は、先生をイライラさせた。
「あんたは本当に腕がないね」
憧れの人とバレンタインデーに会えた時も、手作りのチョコレートが渡せず、何も言えなかった。先生には大いに呆れられた。私もあのときのことはものすごく後悔している。
どうしてか、傷つきたくないと思って、自分を守ることを優先してしまう。プライドが高いのか、思いっきり相手にぶつかることができない。結局相手の気持ちなんてわからないのに、あれこれ考えて答えをだして、やめてしまう。考えても結局、悪いほうにしか考えられないのに。
私は一見あっけらかんとしているように見えるけれど、とってもネガティブで悪い方向にしか考えられず、自己肯定感がものすごく低い。ぐずぐずしている私に先生は、「まさかこんなにダメだとは思わなかった」と何度もあきれていた。そして、いつも「あんたは本当に腕がないね」と言われる。きっと先生は、次々と相手が変わるぐらい積極的なほうが、見ていて楽しいのだと思う。
クリスマスも何度先生と過ごしただろう。尼寺にクリスマスなんておかしいね、と言いながらターキーを頬張った。私はそのとき先生がサンタさんの顔の刺しゅうが入った靴下を履いていたのを見逃さなかった。
先生の前で何度か泣いたことがある。恋愛で苦しい思いをしたときや、別れたときは必ず先生に慰めてもらった。「もう飲むしかない!」と言って昼からウイスキーをすすめてくれて、「あんたはいい女だよ、私が認めるくらいなんだから! その男はあんたに怖気づいたんだよ!」と何度も励ましてくれた。
その度に、私には先生がいて本当によかったと心から思えた。
私が心底傷ついて悲しんでいるときは、忙しくても励ましてくれるし、一緒にお酒も飲んでくれる。「私には先生がいるんだから、あんな奴いらない!」と思える。
でも先生はおしゃべりなので、話したことをすぐ他人に言いふらす癖がある。人に言われたくないことは毎日のように、「内緒ですよ」とくぎを刺した。言い過ぎかというくらい口止めしないと本当にばらされる。私のプライベートは見世物じゃない! 先生に言ったことを何度後悔しただろう。
「寂庵ニュースっていってね、ここではすべて公になるんだよ」
「言わないでって言ったことは、言ったらダメなんです。わかります?」
「そんなに言われたくないなら、ここを辞めたら?」
と極端なことを言ってきたりする。先生、ずるいよ。先生だから本音を話す人ってたくさんいると思うのに、こんなにツーツーになっているの知ったらショックだろうなぁ、と幾度となく思った。昔の編集者も「瀬戸内さんに話すということは、マイクの前で話すのと一緒」と言っていて、「うまいこと言うなぁ」と共感した。
瀬戸内寂聴先生の恋愛観
一度、ある男の子と仲良くしていることを内緒にしていたことがあった。先生は私が何もかも言うと信じて疑っていなかったので、その彼とお別れして泣きついたときは、慰めとともに少しショックを受けていた様子だった。それから、「この子は何しているかわからないから」と疑われるようになってしまった。
先生は不倫の何が悪いのかと言う。恋はカミナリと同じ。自分に落ちてしまったら仕方ないじゃない、と。ただ、不倫相手に妻との別れを迫ったりすることはダメだと言う。相手に家族がいることを知ったうえで付き合うのだから、それは図々しいとのこと。
先生は基本ダメ男が好きで、どうにかしてあげたくなるような人がタイプだとか。一人でも生きていけそうな人には関心がないようだ。先生は男らしい性格なんだと思う。そこらの男の人よりたくましいし、かっこいい。そして小さいことにはこだわらないし、細かくない。優しいし、尽くすし、よく働くしと、まるで男性にとっての理想の女性! 女性のかがみ!
先生は不倫相手の妻にも、嫌われたり、憎まれたりすることがない気がする。不倫相手の子どもにとっては目の敵なはずの先生が、その子どもたちと仲良くしていたりもする。その子が今は才能ある小説家になり、自分の父と母、そして父と不倫していた先生のことを書いた(井上荒野『あちらにいる鬼』)。先生はやっぱり言い表せない程の魅力があるんだ。
「基本、相手に期待しないのよね」とさらっと言った先生に、私は「かなわないな」と思った。本当にさっぱりしている。私なんて勝手に期待して、勝手に落ち込んでいるから。
瀬尾さんを救った先生の一言
先生はいつも何事にも全身全霊で挑んでいたし、中途半端なことはしなかった。後先考えず突進していく強さもあったし、行動力もあった。それに比べて私は……。先生のそばにいると自分のダメなところがどんどん浮かび上がってきて、なんとも言えない気持ちになる。先生のそばにいるのに、こんなダメダメな自分が時々ものすごく嫌になる。
就職活動で一気に自尊心や自信をぺちゃんこにされた私は、先生によって救い出された。秘書という立場を与えてもらい、テレビや新聞にも出させていただく機会も増えた。先生によって私が輝ける機会を何度もいただいた。なのに自分に自信が持てずにいた。
「私なんか……」とあるとき言った瞬間、先生の目つきが急に変わった。
「私なんかというような子はここにはいらない。私という人間はこの世に一人しかいないのよ。たった一人の自分に対して『私なんか』なんて言うのは失礼。そんなこともう二度と言わないで!」と怒られた。
その瞬間すごくびっくりしたけれど、それと同時にとてもうれしかった。涙がでそうなくらいうれしかった。自分のことを粗末にしたことを怒ってくれたこと、心がじんわりした。怒られてうれしかったのは、この時が最初で最後かもしれない。
この言葉は私の頭から一生離れないだろう。こんなにうれしいと思った言葉を言われたのは初めてで、自分のために真剣に怒ってくれたことも、めちゃくちゃ幸せに思えた。
あ、私また先生に救われた、そんな瞬間であった。 

 

●秘書を苦しめた心ない言葉… “バッシング経験者”瀬戸内寂聴の反応は?
99年の生涯にわたって、女性の恋愛や生き方を描く小説を書き続けた作家・瀬戸内寂聴さん。秘書の瀬尾まなほさんは、2011年に寂聴さんが営む寺院・寂庵に就職して以来、誰よりも近くで寂聴さんと過ごしてきました。
ここでは、瀬尾さんが寂庵で「先生」と過ごした日々を綴った『寂聴先生、ありがとう。』より一部を抜粋。テレビ出演などの露出が増えて、心ないバッシングに晒された瀬尾さんの心境の変化を紹介します。
私のことを傷つけられるのは…
先生がテレビに出演するとき、「若い秘書」ということで、私もテレビに出演することがある。周りからは66歳年の離れた私が秘書をしていること、そしてそんな私がとても図々しく先生に物を申したりからかったり、またそれを先生が楽しんでいることがおもしろいようだ。
25歳のときからバラエティなどに先生のおまけとして出るようになり、世間からどう思われているのかが気になった私は、自分のことをインターネットで調べるエゴサーチをした。褒めてくれるコメントもありホクホクしていたら、「ああいう顔嫌い」「うざい」などのコメント見て私は固まってしまった。
こ、こわい……。すぐさまその画面を閉じ、恐怖で落ち込んでしまった。「もうテレビなんて出ない」と静かに決めた。妹に愚痴ると、「勝手なこと言う人のことは、ほっとけばいい」と、もっともな意見を言われたけど、私のもやもやが消えることはなかった。
「もうテレビには出ない」と決めたものの、そのあとも何度か懲りずにテレビに出た。私一人で出演した番組もあった。そこでまた世間の反応が気になる私。妹に頼んで代わりにエゴサーチをしてもらった。私に密着し、先生との関係などを紹介してくれた番組について。
妹が見つけてくれたツイッターの良いコメントを読んで、私はただただ泣いた。うれしくて。それらのコメントをノートに書きこんだ。そのときから不安になったり自信がなくなったりすると、そのページを開き、励まされている。
テレビ出演に「なんだかめんどくさい」
『おちゃめに100歳! 寂聴さん』を出版してから、先生は「まなほのためならなんでもするよ!」と言ってくれた。そして同じ時期に先生の小説『いのち』も出版されたことで、一緒にテレビや雑誌などの宣伝に力を入れた。「先生は自分のためにはテレビに出ないのに、まなほさんのためならってすごくテレビに出てるね」と『いのち』の前に小説を出版した編集者が悔しがっていた。
テレビに出るとその瞬間、本の売り上げが動く。何百位だったランキングが10位以内に急上昇する。テレビの凄さをあらためて感じた。
先生は「秘書のまなほが私の悪口を書いた本です」と宣伝してくれた。テレビの撮影では本の内容にそって、先生と私のやりとりや、先生がお肉を食べ、お酒を飲むところ、私が先生のメイクをするところ、私が不慣れな様子で料理を作るところなどが希望された。
最初はなるべくそれに応えていた。ただどこも同じようなことを希望するので、だんだん毎回対応するのが負担になった。テレビでは演出なのか、まるで私一人が必死になって料理をしたり、掃除をしたりするように映っている。
しかし、寂庵にはスタッフが3人いて、料理がうまいベテランのスタッフもいる。それを知る人が他のスタッフたちのために、「まるで、まなほさん一人でしているようだ」と先生に伝えた。先生はそれ以降、「まなほはなんもしないの。他のスタッフがするの」と、他のスタッフを気遣って撮影時にあえて言うようになった。私も「密着は負担になるので、密着以外でお願いいたします」と返事をするようになった。なんだかめんどくさいなって思った。
「秘書は人前に出るべきではない、影武者でいろ」と公衆電話から電話をかけてきた年配らしき男性の声。はがきで、「まなほさんは顔もキツそうなので性格もきっとキツイのでしょう」と書いてくる女性。寂庵に実際に来て、「あんたいつか祈り殺されるよ」という年配男性。私はその都度、傷ついていた。
私の本が売れ、露出が増えると身近な人間からも嫌がらせをされた。「この人が?」と思うような人からも……。
バッシングが怖い
もちろん本が出たことを自分のことのように喜んでくれる人も多くいて、お祝いのメッセージやプレゼントもたくさんいただいた。でも、嫌なことをされるたびに「なんだかなぁ」と、もともと気にしがちな私は悪いことに目が向いてしまい、苦しくなった。
「この人も私がいなければこんな思いにならなかったのでは」と自分が存在するだけで、誰かを傷つけるのではないかと思った。そして、中途半端な自分に気づいた。
スターになるため、有名になるため、覚悟を決めて表に出ているわけでもなく、自分の思いとは裏腹に、あれよあれよというまに、今の環境にいる。その変化に戸惑いが隠せなかった。心を打ち明けられる人にこの思いを話すと、「妬かれるまでの人になったってことだよ」と言われた。
そもそも本を出す前から私はバッシングを恐れていたのだった。自分の名前、顔を世間にさらすことで自分がどうなるか。「Yahoo!ニュース」で先生と私の記事がアクセス数1位になった瞬間、一気に恐怖が襲ってきた。友人から連絡はくるし、そこから急に私の「まとめサイト」はできるし、そこに姉や妹、また出身校などの情報も勝手に書かれていた。恐ろしくなってスマホを遠くへ投げ、布団にくるまった。
バッシングが怖いなら表に出なければいい、そう何度も思った。けれども、たくさんの人に私の本を読んでもらいたい、先生のことをもっとたくさんの若い人に知ってほしいと強く思う気持ちがあった。先生と若い人との懸け橋になりたい――そんな思いの間で揺れていた。
さまざまなジャンルの職業の女性に密着する番組「セブンルール」に出演したとき、私は素直にその思いを話した。「知らない人の悪口に私が傷つく必要はない。私を傷つけられるのは私の大切な人だけ」。
私のことを知りもしない人にどんなに好き勝手言われたって、それにいちいち傷つく必要はない。どうして私はいいことを言ってくれる人のほうが圧倒的に多いのに、少数の悪い意見の人にこんなに振り回されるのだろう。そこに気持ちを持っていかれること自体、無駄ではないか。そして、その言葉に傷つく必要はないんだと思えた。
「顔がキツイから性格もキツイだろう」。そんなはがきがきたときは先生にすぐさま見せた。すると先生は、「ほっときなさい。きっとこの人ブスに決まってるから」と言ってくれた。そのとき「先生って本当に最高!!」って思えた。
「経験者」である先生の反応は…
周りがどんなに「秘書は引っこんでろ」と言っても、先生は私を表に出そうとする。影武者でいろ、と先生に言われたことは一度もない。「先生がいいと言っているんだからいいでしょう」と私たちをよく知る人が言ってくれた。
先生は小説家として書き始めた『花芯』に「子宮」という言葉を使ったことで、「ポルノ小説」「自分のセックスを自慢している」などとバッシングされ、4年も文壇から干された。その経験があるために、「そんなこと気にするな。私なんてもっともっとひどい悪口言われていたんだから」と言う。
先生は私がこういうことを書くこと自体、本当は「みっともない」と思っている。いちいちそんなくだらないことを書くなと。
共同通信で連載している「まなほの寂庵日記」でこのことを書くと話すと、先生は気に入らなかった。ただ、私はこれも本を出したことによる経験だと、どうしても書きたかった。だってこれが私の感じたことだから。
今でもいちいち傷ついてめそめそしてしまう。そんなときは家族や友人に相談したり、愚痴ったりして対処している。友人が私以上に怒ってくれるから、逆に驚いてしまうこともある。私のことをわかってくれている人がたくさんいる。また、本を読んでくれた人たち、そして応援してくれる人たちがたくさんいる。それが本当に本当にありがたい。
私がするべきことは、「普通にしている」ことだ。それに尽きる。
こうした経験も、私の人生をより濃くしてくれるエッセンスだと今は思う。何かが欠けるとその大切さに気付くし、嫌なことがあると良いことが倍にうれしく感じる。私は人によって生かされているということ。どんな経験も糧にする。
でもまたうじうじしちゃって、そのことで頭が一杯になってしまう。そんな日々をきっとこれからも繰り返すのだろう……なんだか「トホホ」と情けないような気持ちにもなる。けれど絶対負けない! ちょっと泣いたらまた笑顔でがんばる! そんな私。 

 

●寂聴さん享年99「あの世で岡本太郎さんに逢ったら最初にかける言葉」
私は人間が大好きだ。人間ほど興趣尽きない動物はない。自分ひとりを眺めてみても、こんなおかしなおもろい人間はめったにいないと、呆れかえってしまう。
人間が好きだし、興味があるからこそ小説家になったのだと思う。
(中略)この世に唯一つしかない自分だと思えば、もったいなくて、自分を粗末になんか出来ない。わがままという言葉は、否定的に使われてきて、子供の頃から「わがままをいうな」と叱られてきた。しかしつい、うかうかと八十七年も生きてきて、いつ死んでもおかしくない今になってみると、自分の生涯、わがままを通してよかったと悔いはない。
せっかく自分というこの世でたった一つの個性を与えられて生きてきたのだから、自分の心の声をよく聴いてやって、したいことをがむしゃらにでも押し通した方が、ああ、生きたという実感を味わって死んでゆけるような気がしてきた。今更、自分の過去の過失を列挙して、あの時、ああしておけばよかったなど思っても、もはや死も必ず遠からずやってくる今となっては後悔は追いつかない。
「迷ったら困難な方を選べ」
と私に教えたのは岡本太郎さんだった。私は太郎さんに逢って以来、それを信奉して生きてきた。その選択の先には、ずいぶんと辛い目にも遭ったが、それを一度も後悔したり、太郎さんを恨んだりしたことはなかった。
今度、あの世で太郎さんに逢ったら
「おかげさまで」
と、まずお礼を言うつもりでいる。どんなに用心したって、良い人生には困難辛苦の全く訪れないということはない。
その時、自分の独自の個性を信じ、自分の往くべき道に誇りを持って踏みだすことこそ生甲斐というものではないだろうか。
まあ、もし今夜死んでも、私はこう生きてきた自分に不満はない。
寂庵だより「我が道こそ」(2009年筆)より 

 

●瀬戸内寂聴 66歳下秘書・瀬尾まなほと400人を前にマジ喧嘩
瀬戸内寂聴さん(95)の秘書をつとめる瀬尾まなほさん(29)が11月15日、初の著書『おちゃめに100歳!寂聴さん』(光文社)を上梓。発売を記念して、27日に大阪の阪急うめだホールで「阪急 生活学校×朝日新聞 中之島どくしょ会『瀬戸内寂聴・瀬戸まなほ特別講演会』を実施した。
11年3月から寂聴さんのもとで秘書として働き始めたまなほさん。当時は寂聴さんが小説家であることも知らず、小説自体も読んだことがなかったという。だが寂聴さんは「文学少女は使い物にならない。むしろ『あ、この子いいな』と思って」と採用を決意したのだ。
その関係性がみごとにはまった。2人の年齢差は66歳だが、息ぴったり。掛け合い漫才のような会話を繰り広げることから、出版関係者の間でも“寂庵名物”と呼ばれるほど。実際、この日の講演会でも司会者に「ケンカはするのでしょうか?」と聞かれたところ、400人を前に“マジ喧嘩”を始めることに……。
まなほ「もう今日もしましたよね?」
寂聴「そう、今日も数珠と扇子をもってくるのを忘れてね。まなほがあれこれと急き立てるものだから、私はそれで全部忘れちゃうの」
まなほ「いえいえ、そもそも先生は何も準備してなかったんです!朝だって『早起きした』と自慢していましたけど、しっかり二度寝している。それだと一緒ですよね(笑)」
寂聴「ちがうの。着物もきてね、持っていくものをちゃんとそろえて準備しているの。それを全部わすれるぐらい、まなほが朝からギャーギャーと。すごいんです」
まなほ「ちがうの!私に朝持っていくものをちェックさせないから……」
慌てて司会者が「すみません、おふたりはいつも寂庵でこんな感じなのでしょうか?」と聞くと、まなほさんはハッとした後で恥ずかしそうに「まあ、こんな感じです……」と回答。会場からは笑いが起きていた。
ときに“タメ口”になるほどのやりとりを交わすという2人だが、それも絆があればこそ。寂聴さんは「まなほが来てから、よく笑うようになった」と語っている。
寂聴「上手にお化粧をしてくれるんですよ、この人。でもお化粧の前にね、『先生、どうしてこの鼻は低くて、鼻筋がないんでしょうね』って言うの。わざわざ鼻筋がないなんて、本人にいうもんじゃないでしょう。でも、なぜか腹がたたない(笑)」
まなほ「こけたとしても、ほっぺたを打っても鼻はうたないねって(笑)」
寂聴「たしかに、鼻は打ったことはないわ(笑)。本当に化粧が上手なんですよ。だからね、うちをクビになったら美容師になったらいい(笑)」
まなほ「えっ!? 先生、私クビになるんですか?」
会場からはまたしても笑いが。司会者からの「寂庵をやめようと思ったことはないのですか?」との質問に、まなほさん「一度もない」と言う。
まなほ「いやなことを周りの人からいわれたりしたこともあったんですが、それでも先生がすきだし、先生といると楽しいし、すごくやさしいんで、いつも“自分はここにいてていいんだ”と思わせてくれる場所なんですね」
寂聴「そんなこといったってね。私もうすぐ死ぬかもしれないじゃないですか」
まなほ「先生、また“死ぬ死ぬ詐欺”ですか?死ぬと言いながら、ずっと生きていますからね(笑)」
寂聴「でも私が死ぬときには、まなほにそばにいてほしいわね。やさしいからね」
そんなまなほさんは今回の著書で、最後に「先生へ」と題し手紙を寄せている。
まなほ「手紙を一生懸命書いたんです。でも書くときに思いがあふれすぎて、すごく長文になってしまって。それを先生に見せたら『つまらない』と言われてしまいました。先生にそんなことを言われたことが初めて。そうしたら『これはいつものあなたの手紙じゃない。自分に酔っている』と言われて。たしかに読み返してみると、そうでした。それで書き直したところ、先生から『よくなったね』って言われて。ほっとしました」
寂聴「私はね、優しさがその人の値打ちだと思っているんですね。いつも変なことばっかり言っているけど、根は優しいんです。それが彼女の最高の魅力だと思いますね」 

 

●寂聴vs.20代インフルエンサーと人生問答
今年96歳という僧侶で作家の瀬戸内寂聴が、「若い人と話したい」とスタートしたこの番組企画。京都・嵐山にある曼荼羅山・寂庵に、司会を務める田村淳(44)をはじめ、トークゲストとして、ゆんころ(28)、有村藍里(26)、紗蘭(20)、ぺえ(26)、Usuke(23)、ミチ(20)&よしあき(18)、そして、5月27日に開催されたライブオークションでこの席に座る権利を648,000円で落札したIT企業、株式会社BLAM代表取締役・CEOの杉生遊(28)――という8人の若きインフルエンサーが集結。寂聴の秘書で『おちゃめに100歳! 寂聴さん』(光文社刊)の著者、瀬尾まなほ(30)も列席した。
番組の進行は、まず田村がトークゲストたちに4つの質問を順に投げるところから。トークゲストたちはパネルに自分なりの答えを書き、発表する。その中で、寂聴が最もいいと思った答えを書いた人に、「1寂聴」として湯飲みを進呈。これが一番多く集まった優勝者には、寂庵にある秘密のバー「パープル」で、人生経験豊かな寂聴と二人きりでお話ができるというご褒美が待っている。
1つ目の質問は、「その人がどんな人間かは〇〇を見ればわかる」。杉生は「友達」、ゆんころは「スマホケース」、ぺえは「手の動き」、紗蘭は「インスタ」……と、個々の職業やタイプを表すような答えが集まる。寂聴は「やっぱりお友達を見ればわかるわね。私なんか、はたち前からのお友達が2人いて、今もずっと続いてるんですよ。3人とも96歳。仲良し3人組。人生でそういうお友達が残ったことが宝ですね」と、驚きのコメントをした。
2つ目の質問は、「浮気はしてもいい?絶対だめ?なぜなら〇〇だから」。1つ目の質問で湯飲みを獲得した杉生は、「浮気は絶対だめ。妻が悲しむから」と答えると、寂聴は「なんか、つまんない人ね。『1たす1は2』みたいな答えね」とバッサリ。ぺえは「してもいい。1回2回は許そうというスタンス。本当の愛なら戻ってくる」という答え。ミチは「浮気してもいい。時には試食も必要」と答えて、司会の田村を驚かせる。それに対する寂聴の総括が冴えていた。
「浮気についてこんなに一生懸命言ってるけれどね、それこそ時間の無駄よ。恋は雷が落ちて来るようなものなの。だから論じても意味がないの。人を不幸にしてまで自分の欲望を通すのはみっともない。人の不幸の上に幸せは成り立たない……」。ここまで言うと、なんと、ドドーンと大きな雷鳴が……。「ここね、雷の通り道なの」と、たじろぐことなく寂聴はニコニコ。続けて、「朝目覚めてね、『ああ、あの人どうしてるかなあ』って思えるのはいいことよ」と恋する心の純粋さを語った。山あり谷ありの人生を渡り歩いた小説家ならではの、心豊かな表現だ。
さらに、「人間が犯す最も愚かなことは○〇である」「人はなぜ生きて来たのか。それは〇〇だから」と、哲学的な問答が用意され、一生懸命考えてフリップに解答を書くインフルエンサーたち。寂聴はユーモアも交えて優しい言葉でゲストたちを包み込むように人生を説き、収録後の記者会見では、「何を言っても(寂聴さんが)受け止めてくれるので、すごくリラックスして司会ができました」(田村)、「すごく前向きになれました。悩んでたことがすごくちっぽけに思えた」(ぺえ)、「こんな機会をいただいて、(落札価格の)648,000円は安かったと思いました」(杉生)と、寂聴と話した経験を通して、みな、何か大きなものをもらった様子。寂聴も「若い命をたくさんいただいて、100まで生きそう。こんなふうにいいエネルギーが生まれているのを見ると、勢いのある世界がまた生まれて、人間の未来はあると思いましたね」と笑顔で締めくくった。 

 

●瀬戸内寂聴 コロナ不安の日々へ「どういう思いでいればいいのか」
コロナウィルス感染拡大の中、緊急事態宣言も出て不安な気持ちで生活せざるおえない中、瀬戸内寂聴さん(97)が公式アプリ『まいにち寂聴さん』と公式インスタグラム上で「このようなとき、どういう思いでいたらよいか」強いメッセージを送っている。
今回は
「緊急事態宣言が出ているということは異常な状態ってことだからね」
「自分一人の命を守ることが 他の人の命を守ることに 繋がる」
「ルールを破って自分だけはいいだろう、というのは大間違い」
と色々話した中、強いメッセージになるようにと、
「自分の命は自分一人のものだけではない、ということを自覚して自分を大切にしましょう」
という一言に込めました。
先生の描いた絵に「切に生きる」
一瞬一瞬を大切に生きよう、ということです。
寂聴さんも「こんなこと100年近く生きてきた中でなかった」と言っているそうだ。秘書の瀬尾まなほさんも先生にまずうつさないように、マスク必須、手洗いうがい、寂庵と自宅の行き来のみにしている。 

 

●寂聴 緊急法話!コロナ時代の「心がまえ」と「本当の幸せの掴み方」
「目に見えない敵」新型コロナは「大きな変わり目になる」という寂聴先生。100年近く生きてきた先生は、今回のコロナ危機を、作家として、宗教者として、どう見て、どう感じているのか―――。
「100年近く生きてきた最晩年にこのような悲惨なことが身の回りに起こるとは、夢にも思わなかった。あの酷い戦争と匹敵するくらいの大事件である―――」
5月15日、例年ならば途切れない来客と溢れんばかりのお花でにぎやかな寂庵。今年の98回目の誕生日はスタッフだけでつつましくお祝いをした。先生は変わらず6本の連載の締め切りに追われる日々を送っているが、毎月開いていた法話や写経の会も2月から中止となった。
秘書の瀬尾まなほさんは「いつになればコロナは消えてくれるのか? 寂庵にも先生宛に、この漠然とした現状を不安に思う声がたくさん寄せられました。こんなときだからこそ、先生の、先生の言葉を待っている人がたくさんいると強く実感しました」。
コロナ自粛の毎日、何をされていましたか? 
人と会わない生活は先生の心にも何か影響ありましたか? 
戦争や3.11と今回の新型コロナは何が違いますか?
コロナ後の未来へ、子供にどう声をかけていけばいいですか?
収束が見えず法話も再開できない今、『寂聴先生、コロナ時代の「私たちの生き方」教えてください!』を緊急出版!「先生、私たちはいったいどうすればいいのでしょうか?」家族、仕事、お金、子育て、教育、政府、芸術、愛、夢、孤独……昨年末、母親になったばかりの瀬尾まなほさんが、ひとりの人間として母親として率直に問いかけた対談集だ。
思いやる、信じる、革命を起こす……先生から教わった「本当の幸せを掴む」ための13の“心がまえ”には、コロナ時代だけでなくどんな時代にも共通している答えがあった。 

 

●寂聴が若者たちに 「コロナはあの戦争と匹敵するくらい、大きな変わり目になる」
新型コロナの感染者数は、連日1000人を超したまま増え続けている。コロナ禍をいかにやり過ごすかと世界中が苦悩する中、奔放にして、自身に忠実に生き続けた、作家であり宗教家でもある瀬戸内寂聴さんと、そんな先生をサポートする、秘書であり一児の母でもある瀬尾まなほさんによる緊急法話『寂聴先生、コロナ時代の「私たちの生き方」教えてください!』(光文社刊)が出版された。このコロナ禍のことを98歳にして初めて迎えた“地獄”という先生は、果たしてどれほどの衝撃を感じたのだろうか。
連日TVでは増大する感染者数に一喜一憂し、それを見る国民は嘆め息を漏らす。この、未知のウィルスに対する為政者の無為と無策に身悶える中、人は何者かの口から光ある言葉を聞きたいと切望しているのではないだろうか。語るべき何者かとして、寂聴さんは最もふさわしい一人だと思う。
そんな先生に無心に問いかける秘書・瀬尾まなほさんとの心の距離感が絶妙だ。決してビジネスライクではなく、ましてや宗教的でもなければ、弟子と師匠の問答でもなく、さりとて母と娘でもない、互いを大切に思う2人が慈しみをもって語り合う様子が本書の中に溢れている。極めて柔らかなタッチで琴線に触れてくる一冊だ。
「100年近く生きてきて、初めて出逢った目に見えない敵。あの酷い戦争と匹敵するくらい、大きな変わり目になる―――」
とは、本書の冒頭に掲げられた先生の言葉。齢100を迎えようとする先生が見つめるWITHコロナの時代とは、果たしてどのような社会なのだろうか? そしてその社会では、私たちは、そして子どもたちはいったいどのように生きればいいのだろうか?
「いつだって17時にはあなたたちスタッフはみんな帰ってしまう。それからは、夜中もずっとひとり。その時間がとてもいい。ひとりでいることはとても心が落ち着く。寂しくなんかない」と「ひとり」を礼賛する。そこに「お一人様ストレス」などの懸念は無用なのだとエールを送られた気がする。そして、「だいたいみんな大丈夫なんですよ。」と、いかにも先生らしい慰め方をしてくださる。
ご自身の戦争体験などを交えながら、最悪と思える時をいかに過ごすか、そしていかに立ち上がるか、そのバイタリティとエネルギーは何によって発動するかを、さらに優しく語り聞かせてくれる。
しかし、そんな先生の語り口調が変化したのが、現政権についての一言だ。「安倍内閣は口ばっかりね! もう変わったほうがいい。一生懸命やっているんだけど、なんかピンとこないわね」
コロナ危機が唱えられて、およそ半年を経て政府が打ち出したのが「10万円支給」と「2枚の布マスク」である。これをもって国民に「戦え」という、まさに「空襲に竹やり」戦術にしか聞こえない(苦笑)。
それでも生きていかなければならない愛児を抱く瀬尾まなほさんが、先生に何度も答えを求めて語りかける。まるで娘が母に、ありもしない子育ての秘訣を問い質すかのように……。そして先生は、不確かながらも、やがて100年を数えようとする経験則と思いを込めて、これまた懸命に言葉を紡いでいく。
まなほ 「いままでは街に近いほうが便利だと思っていたんですが、新型コロナになって必要なのはスーパーと郵便局くらいしかなかった。毎日オシャレする必要もなく、外食にも行けないなら、街の中心に住まなくてもいいんじゃないかって」寂聴「確かにそうね。住む場所や働き方など、『こうでなければならない』という固定観念が崩されて、新しいスタイルを選択できるようになったのかもしれない。ただし、何を選んだとしても、この先が、いまよりよくなるかはわからないわね」
口調こそ優しいが、そこに安心は担保されていない。俗世を離れてまでも思索と執筆に身を捧げる先生ですら、アフターコロナに光明は見出せないのかも……。
「大自然の驚異に対して、知識は限界があるんです」2011年3月11日に発生した東日本大震災の折、地震・津波、そして福島第一原発のメルトダウンと被災者を襲う、相次ぐ災害に先生はそう感じたと語る。
そして、今後どうなるかわからない現代社会を「無常」にたとえながらも、「無常」とはマイナスの言葉ではないと。「無常」とは、「いまは悲しくてもやがて慰められるときが必ず来るということ。どんな困難な不安も、あきらめない。人間の知恵で必ず収められる」と語る向こうに、人間の英知を信じる先生ご自身の葛藤が見て取れる気がした。
対岸の火事としていたアメリカの惨状こそが、その最たる見本ではないだろうか。「対価を支払える者だけが受けられる医療システム」では防ぎようがないのが感染症。なぜなら、どんなに自分ひとりが注意していても、どこかの誰かが感染した時点で等しく危機にさらされるからだ。そんな感染症が、SARS、MERS、インフルエンザと、不規則ではあるけれど定期的に出現しているから怖い。そしてそれは、今回の新型ウィルスに止まることなく、今後も確実に襲来するに違いない。にもかかわらず、医療先進国・日本は何らの対抗手段を持っていなかった。
感染症に対する備えは、それに対応する十分な資源と設備の備蓄以外にはない。けれども、このいつ来るかわからない感染症に対する備蓄を、「医療費削減」の施策と「コスパ」の風潮が少しずつ少しずつ削っていく。果たして私たちは、この、いまだに「成長経済」を唱える国家システムを、来るべきアフターコロナに備えて整備していけるのだろうか。これからの時代を生きる私たちに突き付けられた、大きな課題なのだろう。
この本の中で、先生が一つの解決策を提示している。それは、このコロナ禍における政治の不手際を目の当たりにした若者たちが政治に興味を持つこと。
「ひとりでは戦えない。だから同じ望みをもっている人が集まって、力を結集して戦うしかないんじゃないかしら。もしくは志の高い思想を持った優秀な人が革命を起こしたらいいのよ(中略)若い人にはそういう風に感動する力がある!」
コロナ禍を乗り切るべく、今の社会システムを変革するには、若者たちによる革命が必要だと、昭和の文壇に革命を起こした98歳の作家・瀬戸内寂聴が吼える。
それは、21世紀に生きる若者たちへのエールだ。 

 

●瀬戸内寂聴さんが語っていた不安な時代の生き方 2003
日本は定年が早い
瀬戸内寂聴氏、80歳。作家にして僧侶。法話を行えば、1万人もの人が押し寄せる。若い女性から、年配のビジネスマンまで、瀬戸内氏の著作をむさぼるように読み、話に耳を傾ける。混迷の時代だからこそ、人は真理を求めるのだ――。
――瀬戸内さんは岩手県の天台寺で、住職をなさり、4月から11月まで毎月法話をされています。JR東北線の二戸駅からタクシーで20分もかかるお寺に、数多くの人が訪れるそうですね。
多いときで1万5000人、北海道から沖縄まで、海外からいらっしゃる方もいます。共通の話題は「死」です。近親者に死なれた人、あるいは、逆縁という子供に死なれた人が最近多いです。
そういう人たちはもう慰めようがないですよ。だから「この中で、近い過去に愛する人に死なれた方は手を挙げてください」と言うと、ワーッと手が挙がります。それを見て「ほら、みんなの問題よ」と言うと、ちょっとホッとするようです。
それから、お父ちゃんがリストラされた家庭の親や子供たち、奥さん、あるいはリストラされた本人が来ている場合もあります。そういう人たちには、「元気を出しましょう」と言うしかないですね。
日本は定年が早いと思います。私は80歳なのに、こんなに仕事をしているじゃないですか。だから60歳で定年なんてかわいそうです。
――最近出版された『釈迦』は、今多くの男性に読まれていますね。
そうなんです。それだけ世のお父ちゃんも悩んでいるのかと思いますね。ビジネスマンでも、40代後半から50代の男性が買いに来てくれて、今までにはない現象です。とてもうれしいです。この本は、もしかして自分の最後の作品になるかなと思って書きました。
この本を書くために釈迦のたどった道をすべて歩きました。私は必ずものを書くとき、その場所に立つんです。本で調べただけではダメ。やはりそこに行かないと。
土地には、「大地の記憶」というものがあります。大地がそこで起こったことを記憶していて、その大地の記憶が足の裏から伝わってくるんです。そうすると、「あ、書ける」と思います。
――たとえば、不良債権処理のように、つねに問題を先送りにして決断をしない社会になっていると思われます。瀬戸内さんの本の中で、今を一生懸命に生きるという意味で「切に生きる」という言葉がよく出てきますが、この言葉から考えると、今の世の中は「切に生きてない」ということになりますね。
先送りするのは、今を切に生きていないから。
今日の問題は今日にでも解決しないといけないのに、面倒くさいとか怖いとかで先送りにする。やらなければいけないことは、とにかく早くしたほうがよい。ウミは早く出したほうがよいんです。
――これは日本社会や日本人の特色なんでしょうか。
要するに、決断力がないんです。
まだ日本社会は何といっても男社会ですよ。女性がそうとう強くなっているけど現状はまだ男社会。男性に決断力がないということは、男が男らしくなくなったということです。
それと、決断するのはその場の「長」ですよね。役がついた人ですよ。決断しないといけない人たちが決断しないということは、責任感がなくなったということです。嫌なことは他人にしてもらって、よいことは自分の手柄にしたいなんてやっぱりダメです。
人の上に立つ者は、それだけの苦労はしないといけない。逆にそれができるのが、人の上に立つ人です。部下の失敗も、長が負わなければいけない。それは当たり前のこと。そのために部下より高い月給もらっているんですから。
一触即発の危険な状況
―― 一時、週刊誌で小泉首相を評価されていましたが、今現在の小泉さんを、責任感という面ではどうご覧になっていますか。
せとうち・じゃくちょう/1922年、徳島県生まれ。東京女子大学国語専攻学部卒。1957年、『女子大生・曲愛玲』で新潮社同人雑誌賞受賞。1973年11月平泉中尊寺で得度。法名、寂聴。京都嵯峨野に寂庵を結ぶ。1987年天台寺住職に就任。小説、随筆など幅広く執筆した。写真は2003年撮影(撮影:梅谷秀司)
責任感はあるのかもしれないですが、われわれの目には訴えてきません。
発言することやゼスチュアはとてもりりしいですが、いろんなことを先送りしたり丸投げしたりしている。やはり公言したことは守って実行してくれないと困りますね。
それと、柔軟な判断力がないと、政治家の長にはなれません。私はどうして世界中が嫌がっている、靖国神社参拝問題にあんなにこだわるのかよくわかりません。頑固は老人の特徴です。あの人はまだ若いのに。
――日本ではイラク、北朝鮮問題にしても、勧善懲悪の世界で、報道していますが、瀬戸内さんはつねに想像力の大切さを訴えていますね。
私はマスコミの報道をあまり信じていません。私は湾岸戦争のときに、反戦の断食をしてイラクに行っています。この目で見て、いかに報道がうそかということがわかりました。
われわれが受けている報道は、多国籍軍側の報道です。イラクの国民が受けている報道は、昔の日本の大本営発表と同様の、フセイン側だけの報道でした。両方見ないと判断できない。
とにかく戦争はいけません。どんな美辞麗句をつけても、戦争は集団人殺しです。そして、本当に被害を被るのは、非戦闘員である老人や子供です。ですから、戦争は絶対反対。私はブッシュ大統領は嫌いです。彼は好戦的ですから。
――今の世の中の空気は、戦前と似ているといえませんか。
私の記憶によれば、昭和17、18年の、すべてが戦争に向いている状況に似ています。当時、「一触即発」という言葉がはやりました。今もまさに一触即発の危険な状況ですよね。
――ひるがえって渋谷や新宿を歩いてみると、一触即発の世の中であるにもかかわらず、みんな無関心で太平楽ですよね。
でもいざ戦争が始まると慌てふためく。自分のことしか考えてないから平気でいられるのでしょうね。
やはり、自分が生きている地球の上のすべての人が飢えず、すべての子供が学校に行ける、そういう時代が来ないと、本当の幸せとはいえません。自分は健康で、おいしいものを食べ、自分だけよい気分で、それでけっこうという思想が、戦後の日本に広まってしまいました。
戦後、日本は知識だけを教育しました。この薬とこの薬を併せればサリンができる。それは知識です。それを使って殺人していいか、その判断をするのが知恵です。
知識偏重教育の結果が現在の荒廃です。知恵を教えずに、知識だけを教えてきた。その教育をまだ守り続けている。これは問題です。
――想像力の大切さも訴えておられます。想像力がなければ、思いやりもないということでしょうか。
そうです。「想像力」のなさです。
相手が何を欲しているのかわからない。だから、戦争をしたらどういう悲惨なことが起こるかという想像力があれば、とても恐ろしくて戦争なんてできないはずです。
人生をゆっくりと考え直す
――60歳から80歳、90歳、100歳と、どのような気持ちで迎えればいいのでしょうか。
年代が変わるときに、1つの節目と考えなければいけません。
小説家の岡本かの子、現代美術家・故岡本太郎さんの母親ですが、彼女は、「40歳になったら根に返る」という言葉を残しています。40歳になったら一度人生をゆっくりと考え直しましょうということだと思うんです。
ただ、現代は寿命が延びているので、岡本かの子がいう40歳は、今の50歳だと思います。私が出家したのが51歳です。私はそのとき根に返ったわけです。
でも今、定年は60歳ですよね。ですから、働いているときから、自分がリタイアしたらどうしたいのか考えておくことが大切だと思います。
私は自分では80歳だと思ったことはありません。私が人に自分の年齢を教えるのは、相手が若いですねと驚いた声を返してくれるのが面白いからです(笑)。
人間は、生まれたときに沢山の可能性をもらっているのに、人生でそれを使えるのはほんのチョット。大方は使わずじまいで死んでいく。だからいつでもあきらめないで可能性を追求していくことが大事。
本当の才能は、若いときに出るものですが、年齢にとらわれずに、出てくる才能もあります。
誰かを好きになると、優しくなれる
――宇野千代さんの言葉で「長生きすると、苦しみが少なくて死ねる」とありますが、こういうことを考えると長生きしてやろうって勇気が湧いてきますね。
「今を完全燃焼して生きるしかない」と語った。写真は2003年撮影(撮影:梅谷秀司)
あのときこうしていればよかったと考えても仕方がない。選択してしまったものにクヨクヨしない。どんなに大きな銀行でも潰れるじゃないですか。今を完全燃焼して生きるしかないですよね。
年をとって恋愛をするのも、私はいいと思いますよ。「老いらくの恋」なんてありますけど、誰かを好きになると、優しくなれる。
だから、若い人は年をとった人に「いいかげんにしなさい」と言うべきではないです。たとえば、おじいちゃんが恋愛したら、「よかったね」と言って祝福してあげればいい。
――出家をして他人に対する見方も変わりましたか。
たとえば、「戒律」ってありますよね。「ものを盗むな」なんてわかっていても、私は他人の亭主を盗んでいますよ(笑)。これも盗んでいることでしょ。「うそをつくな」といっても私は小説家ですから、うそをいかにほんとらしく書くかが小説家なので、一日もうそをつかない日はないです(笑)。守れないことが多い。私は戒律一つ守れないのかなと思いますね。
出家して、戒律一つ守れない自分を自覚して、つくづく自分はダメ人間だと思いました。そうすると他人を責める気がなくなります。他人が少々気に入らないことをしても、怒ることができなくなり、許すことができるようになりました。
これはやはりありがたいと思っています。 

 

●寂庵で、瀬戸内寂聴さんの法話を聞いたときの話
2012年に京都・嵯峨野にある寂庵で、瀬戸内寂聴さんの法話を聞いたときの印象に残った話を書きます。
「無」の話。
「無」とは、無しっていう意味ではなくて悪いことは続かない。もちろん、良いことも続かないっていうこと。
常に変化しながら似たような事象は起こるが、全く同じことは起こらないということなのだそうです。
愛する人が亡くなったら、1年間は本当に毎日、毎日、泣きながら悲しむ。
でも2年目になると悲しいけど、1年目よりはほんの少しだけ楽になる。ほんとちょっとです。(悲しいのは変わりません・・・)
3年目、4年目・・・
悲しいかもしれないが、同じ状態はずっと続かないということを「無」という表現で話されていました。
あと、若いときにお母様を亡くされた女性が、寂聴さんの本を読んで「救われた」とお礼を言ったあとに、寂聴さんは、定命(じょうみょう)について話されました。
人間は生まれたときに、もう寿命は決まっているとのこと。(仏教の考えかな?)
そして、それを知らない恩恵もあると。また、業だったかな?いつ命が終わるってわかったら怖いし、でもわかったら、それまでに自分のやるべきことをやろうと思う人もいるだろうし、それはわからない。
そうやって亡くなった人を想い、思い出し、感謝し、考え、成長する・・・
世の中は矛盾することばかり。
この世は苦。
お釈迦様はこの世は苦だとおっしゃった。
矛盾する世の中で、そうやって哲学が生まれ、文学が生まれると。
寂聴さんは、質問した人たちを決して否定せず、「良かったね〜」とかあったかい言葉を返していたことが印象に残りました。
常にジョークで笑わせ、対機説法(その人の心の段階に応じた話)をやっていました。
寂聴さんは当時90歳
すごくしっかりしていて、途中まで立って話されてました。
泣きながら質問していた方を見ていたまなざしは本当に優しくて、それを見て僕も涙がでそうになりましたが、ガマンしました。
あと、般若心経を日本語訳したものが何故無いのか?という質問には、「やりたかったけど、もう今からでは遅いの!」とおっしゃっていました。
お墓や戒名のお話もありました。
お墓は故人のためにあるのではなく、故人を思い出して忘れないように私たち生きてる人にあるもの。
故人を思い出して忘れないことが、一番の供養で、ご先祖様にはうれしいことのようです。
戒名は法名とも呼ばれていて、お葬式を出すのには出家した人間しかできないということなんですね。仏教においては。。。
だから戒名・法名を頂くと出家したいうことになるようです。
生きてるうちに戒名を頂いてもいいそうなんですね。(在家出家とも言われるそうです。)
ほかにもいろんな話、質問がありました。いろいろ考えさせられた1日でした。
嵯峨野はすごく素敵なところでした。雪化粧がなんともいえない情緒をかもしだしていました。 

 

●寂聴さん曰く「男はつくづく純情だと思います」 2017
95歳にしていまも毎日執筆活動を行い、法話を行う作家の瀬戸内寂聴さんと、テレビ、雑誌、新聞、書籍、インターネットとあらゆるメディアで活躍される池上彰さん。今回『95歳まで生きるのは幸せですか?』で対談されたおふたりには、共通点がありました。50歳を過ぎたころに、「第二の人生」を自ら選んだのです。
寂聴さんは、51歳で出家をされました。池上さんは、54歳でNHKから独立されました。「人生100年時代」と言われるいま、50歳からどう生きるか、は、あらゆるビジネスパーソンの課題でもあります。おふたりに、「50歳からの生き方」について、御指南いただくことにいたしましょう。 まず、最初に登場するのは瀬戸内寂聴さん。彼女の元には、いまも多くの迷える男女が法話を聞きに訪れます。ところが、問題は「男のほう」でした。
――新刊『95歳まで生きるのは幸せですか?』では、ジャーナリストの池上彰さんと対談されました。
池上さんとお会いしたのは2回目です。今回は、京都・嵯峨野の私の寂庵にいらしていただき、世の中のお話をうかがいました。何歳になってもわからないことばかり。池上さんのような博学の頼れる大先生にお話をうかがえるのは、またとないチャンスでした。
――1章を割いて、なぜ米国でドナルド・トランプが大統領になったのか、池上さんにご質問されていましたね?
自分が生きている世界に起こるあらゆることに、無関心ではいられません。テレビや新聞を通じて知るトランプさんの言うことはなんだかむちゃくちゃで、戦争がおきたら困るなあ、と思っているんです。
昭和18年に渡航
――寂聴さんは、第二次世界大戦のときにどんなご経験を?
私は今年95歳で、生まれたのは大正11年(1922年)です。第二次世界大戦のときはもう大人で結婚していましたから、戦前のことも、戦中のことも、戦争直後のこともよく覚えています。私は戦時中、東京女子大学の学生だったのですが、昭和18年(1943年)の9月に繰り上げ卒業させられました。21歳のときでした。
――繰り上げ卒業?
当時、大学4年の3月に卒業するところを、半年繰り上げてその前の年の9月に卒業となっていたんです。男の学生を早く卒業させて兵隊にして戦場に送るための急な制度だったのね。それに伴って、私たち女学生も一緒に繰り上げ卒業させられました。
このとき、私は婚約をしていました。相手は支那古代音楽史を勉強している学者の卵。学者に憧れていましたので、良縁だわ、と。彼は外務省の留学生として中国に渡り、北京で暮らしていました。留学期間を延ばして北京に居たのです。これ幸い、半年儲けたわ、と思って、卒業式もそこそこに10月、婚約者と一緒に北京に渡りました。新婚でいきなり海外生活です。喜んで渡航しました。
――昭和18年の日本ってもっと緊迫した状況だと思っていました。
戦場は大変なことになっていたはずだけど、本土にいた私たちはそれを知りませんでした。本土空襲もまだ本格化していませんでしたし。
戦争が終わり、中国から引き上げてきてしばらくした頃、たまたま入った映画館で流れていたニュース映画で、私が北京に渡ったのと同じ年の10月の雨の降る日、繰り上げ卒業した男子大学生たちが全部兵隊になって行進する映像が流れてきました。ああ、あのとき同い年の男の子たちがこんなにたくさん無理やり兵隊にされたのか。映画館で1人、泣いたのを覚えています。
――戦時中の北京で、瀬戸内さんはどんな新婚生活を?
北京に渡って私はすぐに身ごもりまして、娘を産みました。北京大学で研究を続けていた夫は当時32歳。さすがにもう招集されないだろう、と思っていたら、なんと赤紙が来ちゃった。しかも、「日本刀と飯ごうは持参しろ」っていうの。ひどいでしょ。国は何にもしてくれないわけ。しょうがないから有り金はたいて、日本刀と飯ごうを買い揃えて夫に渡して、そのまま出征しました。どこに行ったかはまったく知らされずに。
娘と2人残された私は、さてどうしようか、と呆然としていました。すると、お手伝いに来ていたアマさんが、「働きに行きなさい!」って背中を押すのよ。中国では「アマ」というお手伝いさんを雇うのが一般家庭でも当たり前で、うちに来ていたのは70歳くらいのおばあちゃんのアマさん。とってもいい人で、「あたしはもう年寄りだから、孫に手伝ってもらうわ」と16歳のチュンニンちゃんがうちの赤ん坊の面倒をみてくれるようになった。すると「あなたはまだ若くて教養がある。食べ物は私の田舎から送らせるから心配なし。赤ちゃんはチュンニンに任せて一日も早く働きにいきなさい!」って言うわけです。
中国で迎えた終戦
――中国の方とは仲良しだったんですか。
ええ、とっても。夫は中国の音楽の研究者だったし、私もこんな性格でしたから。中国の人たちと戦時中仲良くしていたのは、あとでとっても役に立つことになります。
アマさんに背中を押された私は、じゃあ、働きに行こう、と思って、街に出て仕事を探しました。でも、20歳過ぎの日本人の女が働く場所なんかなかなか見つかりません。夏の暑い盛りに、へとへとになりながら毎日職探しをしていたら、日本人の運送屋さんが「うちで働くかい?」って声をかけてくれました。
すぐにこの運送屋さんで働くことに決めて、出勤したら店番を任されました。
お店ではラジオが流しっぱなしになっていました。
すると、誰かが演説しているのが聴こえる。電波が悪くって、ざあざあいっていて、ほとんど聞こえない。すると、運送屋のご主人がわっと泣き始めた。
「日本が負けた。戦争に負けた」って泣く。
8月15日の、昭和天皇の玉音放送だったんです。
私はすぐに無我夢中で店を飛び出して、そのまま家に走って帰って赤ん坊を抱きしめました。働いて半日もたってないときのことです。あ、半日働いたのに、結局給料はいただかなかったわね。
――すごいタイミングでしたね。
そのあと、夫がひょっこり戻ってきました。その彼が、「もう日本に戻りたくない、中国人になってこっちで暮らそう」っていうので、家族3人終戦後も北京にとどまっていました。もちろん非合法です。でも、結局見つかっちゃって強制送還に近いかたちで日本に戻りました。幸いなことに、戦時中から私たちは中国の人たちととっても仲良しだったから、戦争が終わってからも、幸いにして危ない目に遭うことはありませんでした。
――戦後、寂聴さんは、瀬戸内晴美として人気作家になります。そして、51歳になって出家された。いまでいうところの「第2の人生」を歩み始めますね。
本でも明かしたように、いろいろありました。夫と子供がいながら恋をして、そう、不倫ですね。家を出て、作家になって。そのあと出家して。出家してからもう44年もたっちゃいました。こんなに長生きするとは思わなかった。何度か病気もしたけれど、ちゃんと治りましたし、いまも毎日執筆活動を行い、法話も毎月しております。このままだと100歳までは生きそうね。
――これからは多くの人が寂聴さんのように長生きする「人生100歳時代」になる、と言われています。一方で寂聴さんが出家された50代前半くらいで、うつ病になったり、自殺したりする日本人、とりわけ男性がとっても多いんです。
よくわかります。私の法話を聞きにいらっしゃる方たちの中にも、うつっぽくなった中高年の男性、多いですから。
実は、私、うつになりかけたら治す方法を自分で見つけたんです。
そもそも、人間、歳をとったら、だいたいうつ状態になりやすくなります。なぜかというと人生に面白いことがどんどんなくなるから。そしていったん、うつになっちゃうとそこから逃げ出すのはとっても大変です。
私も出家する直前、40代のころにうつになったことがあるんです。そのとき診てくださったのが、古沢平作さんという日本の精神分析の権威の先生でした。古沢先生はなんと戦前のウィーンであのフロイトに直接習った、フロイトのお弟子さんなんです。古沢先生の、私は最後の患者さん。その古沢先生のやり方がとってもユニークでした。とにかく褒めるの、患者の私のことを。
うつになるってことは、自信を失っている。だからひたすら一生懸命褒めてあげる。
ああ、あなたは着物の趣味がいいなあ。性格がいいなあ。
古沢先生は、徹底的に私のことを褒めてくださいました。
そうしたらね、治ったの、私のうつ。
褒められてひとは元気になる
――褒めちぎるのがいい、と。
歯が浮くような台詞を並べて褒めても大丈夫。そのくらい盛大に褒めるのが、うつには一番効くんです。古沢先生に教わった「うつの人は褒めてあげよう」は、その後の私の人生の指針のひとつになりました。
いま、私のところには、法話を聞きにたくさんの人々が訪れます。法話を聞きたい人には、人生がつらいって人がとても多い。だから、私はそんな人たちのことを徹底的に褒めます。お話をうかがって、とにかく褒めてあげる。するとね、ちゃんと治るのよ。いままで何人のうつを治したか数えきれないほどです。
――どうやって褒めるんですか?
うつ状態のひとはとにかく自信を失っています。その自信を取り戻すのが目的ですから、褒める内容はなんでもいいんです。あなたはとってもチャーミングよ、今日の洋服の色はとっても素敵だわ、いい声しているわよね。ほんとうにたわいもないことでいいから、そのひと自身の個性を褒めてあげる。会うたびに褒めてあげる。すると何度か顔を合わせるうちに、だんだん元気を取り戻してくるんです。
――「日経ビジネスオンライン」の読者でもある、中年以上の男性も褒められると元気になるんでしょうか?
なりますよ。こうやってお話しすると「バカみたい」って思うかもしれないけど、大人になると、ましてや50歳以上にもなると、人に褒められることってほとんどなくなります。褒められるのって、ほんとうに元気が出るの。元気がなくなっていたり、鬱っぽくなっている人が周りにいたら、ぜひ褒めてあげてくださいな。
――その瀬戸内さんも、近年に病気になられたとき、うつになりかけたと本書では明かされています。
その通りです。80歳代後半になってからガンになったり、背骨を圧迫骨折して歩けなくなったりと、けっこうな大病をしました。それまで元気が取り柄だったから、余計に歳をとってからの病気はこたえました。何がつらいって、寝たきりになることです。散々、人を褒めてうつを治してきた私でしたけど、正直まいりました。身体の自由が効かなくなること、身体中が痛いことが、これほどつらいとは。
――どうやって克服されたんですか?
いまの自分が何をしたら楽しいかを頭の中で積極的に探しました。元気になったら、おいしいご飯を食べに行こう、あれをやろう、これをやろう、とあれこれ未来に向けて想像する。一生懸命楽しいことを考えて、うつを自分で退治しました。私の場合、なによりやりたかったのは、小説を書くこと。いまでも毎日書いている。ほんとうに好きなんです、書くことが。だから、次に書く小説のことをずっとずっと考え続けました。こんな小説を書こう、そして出版しよう、って。
幸いにして、ガンも骨折も克服することができました。おかげでいまも小説を書き続けることができます。
いまの週刊誌はつまらないことをやっています
――寂聴さんは、結婚も、子育ても、恋も、不倫も、出家も、老いてから病気にかかったつらさも、もしかすると普通の人だったら「これをやったらたぶんこうなるだろうな」と脳内でわかったつもりになることを、ご自身が経験してから実感として言葉にされていらっしゃいます。
やっぱりね、なんだって我が身で経験しないとわからないのよ。でも、そのせいかしら。私小説作家だと思われてきたんです。そうじゃない小説を書こうと思っていたのにね。私の私生活と小説とがごっちゃに批評されて、それはそれはひどい目にあいました。だったら、逆手にとってやれ、と思ってわざと私小説風に書いたりもしましたが、ほんとうじゃないの。私は物語をゼロから作るほうですから。伝記ものも手がけましたが、あれも私小説ではありません。
――いまだと週刊誌の格好の標的になりそうな。
いまの週刊誌がやっていることはつまらないですね。人を好きになるなんていうのは雷が落ちるようなものですから、防げないんですよ。それを糾弾するほうが間違っているんです。人を好きになるのはもう理屈じゃないんだから。相手に妻子があろうが、好きになるときは好きになる。だいたい世界の名作文芸作品の多くは、不倫の話ですから。
不倫がどんなものか、自分で経験するとほんとうに身に染みていろいろなことがわかる。週刊誌やインターネットの記事を眺めて、他人の不倫をとやかく言っても、それは身に染みていないわけだから、ほんとうの意味はわからない。
いまの時代は、言葉だけが歩いています。不倫にしたって、いまは言葉では糾弾されるけれど、昔のほうが内実は厳しかった。命がけです。見つかったら、市中引き回されて首をはねられたわけですから。
ほんとうの恋愛は、してはいけないことをするときに生まれる。お見合いして結婚して娘が生まれて、というのは幸せかもしれない。それと、ほんとうの恋愛とは別。命がけで殺されるかもしれない、というのがほんとうの恋愛です。私は、何度もやってしまいました。夫と幼い娘を捨てて家を出て。だから、私は幸せになってはいけない。ほんとうの恋愛とはそんな代償を払うものですし、それが私の自分に対する戒めです。私は幸せになっちゃいけないって。
でも、年老いてから、その娘がアメリカに渡っていて、現地で子供を産んで、その子供たちがさらに子供を産んで。いま、ひ孫が3人いるんです。みんな海外にいます。そして向こうから私を訪ねるようになりました。
――幸せじゃないですか。
そうね、不思議なものね。95歳まで生きるってそういうことなのかもしれない。毎日文章を書き、頻繁に法話をしています。たくさんのひとの悩みを聞く機会がたくさんあります。
亡き妻を思って泣き崩れる男たち
――50代60代の男の人も来たりするんですか。
来ますね。法話を聞きにきたその世代の男の人たち、多いですよ。男は、女みたいに自分の悩みを口に出して私に伝えたりしません。でも、悩みは伝わってきます。もう定年で職場を去らないといけない。でも、そのあとの人生の希望や展望が見えない。僕はどうすればいいんだろう。
つくづく男は純情だと思います。歳を取っても変わりません。
昔、体が丈夫だったとき、たくさんの信者さんを連れて巡礼に行きました。そのときに妻を亡くした男がいっぱいついてきました。みんな、道中ずっと泣いてばかりいるんです。何も楽しいことをしてやれなかったって、亡くなった妻の写真を持ってね。
――そういう男性に、寂聴さんはどうお声をかけるんですか?
慰めの言葉なんてかけるとますます泣き出すから、そっとしておくの。一方、同じ巡礼の旅で、夫を亡くした妻もけっこういるわけです。彼女たちも初日はめそめそしているの。でも、翌日になると道中一緒になった女たちできゃっきゃと笑って巡礼を楽しみ始めるわけ。あっという間に女は元気になる。それで、いつまでも泣いている男たちの肩をぽんと叩いたりするわけです。あんた、なんでいつまでもめそめそしてるの!って。
―― ……50歳からの人生は、どううかがっても女性が主人公のような。
女のほうがすぐに諦めて、今日と明日のことを考えますね。男は昔を振り返って泣いてばかり。男のひとたち、もっと楽しいこと、やりたいことを考えなさいな。 

 

●瀬戸内寂聴、不倫相手の妻と懇意に 「井上光晴さんよりずっと才能があった」
作家の井上荒野が、父・井上光晴と母・郁子、そして光晴の愛人だった瀬戸内寂聴をモデルにした長編『あちらにいる鬼』を上梓。不思議な三角関係について、瀬戸内寂聴と語り合った。
瀬戸内寂聴(以下寂聴):この作品を書く前、もっと質問してくれて良かったのよ。
井上荒野(以下荒野):『あちらにいる鬼』はフィクションとして書こうと思ったので、全部伺ってしまうよりは想像する場面があったほうが書きやすかったんです。
寂聴:そうでしょうね。荒野ちゃんはもう私と仲良くなっていたから。そもそも私は井上さんとの関係を不倫なんて思ってないの。井上さんだって思ってなかった。今でも悪いとは思ってない。たまたま奥さんがいたというだけ。好きになったらそんなこと関係ない。雷が落ちてくるようなものだからね。逃げるわけにはいきませんよ。
荒野:本当にそうだと思います。不倫がダメだからとか奥さんがいるからやめておこうというのは愛に条件をつけることだから、そっちのほうが不純な気がする。もちろん大変だからやらないほうがいいんだけど、好きになっちゃったら仕方がないし、文学としては書き甲斐があります。大変なことをわざわざやってしまう心の動きがおもしろいから書くわけで。
寂聴:世界文学の名作はすべて不倫ですよ。だけど、「早く奥さんと別れて一緒になって」なんていうのはみっともないわね。世間的な幸福なんてものは初めから捨てないとね。
荒野:最近は芸能人の不倫などがすぐネットで叩かれますが、怒ったり裁いたりしていい人がいるとしたら当事者だけだと思うんですよね。世間が怒る権利はない。母は当事者だったけれど怒らなかった。怒ったら終わりになる。母は結局、父と一緒にいることを選んだんだと思います。どうしようもない男だったけど、それ以上に好きな部分があったんじゃないかって書きながら思ったんです。
寂聴:それはそうね。
荒野:母は父と一緒のお墓に一緒に入りたかった。お墓のことはどうでもいい感じの人だったのに。そもそも寂聴さんが住職を務めていらした天台寺(岩手県二戸市)に墓地を買い、父のお骨を納めたのも世間的に見れば変わっていますよね。自分にもう先がないとわかったとき、そこに自分の骨も入れることを娘たちに約束させました。
寂聴:私が自分のために買っておいた墓地のそばにお二人で眠っていらっしゃるのよね。
荒野:私には、母が父を愛するあまり何もかも我慢していたというより、「自分が選んだことだから、夫をずっと好きでいよう」と決めたような気がするんです。だから『あちらにいる鬼』は、自分で決めた人たちの話なんです。
寂聴:そうね。
荒野:そもそも母は、寂聴さんのことはもちろん、ほかの女の人がいるってことを私たちの前で愚痴を言ったり怒ったりしたことは一度もない。父が何かでいい気になっていたりすると怒りましたけどね。
寂聴:思い返すと私はとても文学的に得をしたと思いますよ。以前は井上さんが書くような小説を読まなかったの。読んでみたらおもしろかったし、彼の文学に対する真摯さは一度も疑ったことがない。だから、井上さんは力量があるのにこの程度しか認められないということが不満でしたね。井上さんは文壇で非常に寂しかったの。文壇の中では早稲田派とか三田派とかいろいろあって、彼らはバーに飲みに行っても集まる。学校に行ってない井上さんにはそれがなかった。みんなに仲良くしてもらいたかったんじゃなかったのかしら。孤独だったのね。だから私なんかに寄ってきた。
荒野:父はいつもワーワー言ってるから場の中心にいたのだと思っていましたが、違ったんですね。確かに父にはものすごく学歴コンプレックスがありました。アンチ学歴派で偏差値教育を嫌っていたのに、私のテストの点数や偏差値を気にしていましたね。相反するものがあった。自分のコンプレックスが全部裏返って現れている。女の人のことだってそうかも。
寂聴:「俺が女を落とそうと思ったら全部引っかかる」って。
荒野:女遊びにも承認欲求があったのかもしれない。寂聴さんから文壇では孤立していたと伺ってわかる気がしました。そういえば以前、「寂聴さんがつきあった男たちの中で、父はどんな男でした?」とお尋ねしたら、「つまんない男だったわよッ」とおっしゃいましたよね(笑)。
寂聴:私、そんなこと言った? ははは。いや、つまんなくなかったわよ。少なくとも小説を書く上では先生の一人だった。
荒野:『比叡』など父とのことをお書きになった作品でも設定は変えていらっしゃいますね。父の死後はお書きにならなかったですが。
寂聴:もうお母さんと仲良くなっていたからね。井上さんは「俺とあんたがこういう関係じゃなければ、うちの嫁さんと一番いい親友になれたのになあ」と何度も言っていた。実際にお会いしたら、確かに井上さんよりずっと良かった。わかり合える人だったし。
荒野:最終的には仲良くしていただきましたよね。いちばんびっくりしたのは死ぬ前に母がハガキを寂聴さんに書いたということ。私にも黙っていたから。
寂聴:ハガキは時々いただきましたよ。私が書いた小説を読んでくれて、「今度のあの小説はとても良かった」って。自分ではよく書けたと思っていたのに誰も褒めてくれなかったから、すごく嬉しかった。本質的に文学的な才能があったんですよ。だから井上さんの書いたものも全面的に信用してなかったと思う。
荒野:小説についてはフェアな人でした。私の小説もおもしろいときはほめてくれるけど、ダメだと「さらっと読んじゃったわ」ってむかつくことをいう。父は絶対けなさなかったのに。
寂聴:井上さんはあなたが小さい頃から作家になると決めていたの。そうじゃなかったら「荒野」なんて名前を誰がつける?
荒野:ある種の妄信ですよね。
寂聴:今回の作品もよく書いたと思いますよ。売れるといいね。テレビから話が来たら面倒でも出なさいよ。テレビに出たら売れる。新聞や雑誌なんかに出たって誰も読まないからね。
荒野:はい(笑)。

 

●瀬戸内寂聴と不倫関係だった作家・井上光晴 口説き文句は美人妻の自慢?
この2月、作家の井上荒野が長編『あちらにいる鬼』を上梓した。モデルは戦後派作家の父・井上光晴と母・郁子、そして光晴の愛人だった瀬戸内寂聴。不思議な三角関係を女たちの視点から描いた井上が、瀬戸内と語り合った。
井上荒野(以下荒野):『あちらにいる鬼』は編集者に「ご両親と寂聴さんとのことを書いてみませんか?」と勧められて書いたものです。最初は寂聴さんもご存命だし、とても怖くて書けないと思っていましたが、江國香織さんや角田光代さんと寂庵をお訪ねして父の話を伺ってから、「私が書かないといけない、お元気なうちに読んでいただきたい」という気持ちに変わりました。
瀬戸内寂聴(以下寂聴):私はなんでも書いていい、何を聞いてくれてもいいと思っていたので、ようやく本になってよかったわ。よく書けていましたよ。そもそも私と井上光晴さんとの関係は一緒に高松へ講演旅行をしたことがきっかけ。夜、井上さんが旅館の私の部屋に来て帰らないの。編集者が困ってね。で、何を言うかというと、「うちの嫁さんはとても美人で外を歩くとみんな振り返る」とか「料理がうまくてなんでもできる」とかそんなことばかり(笑)。
荒野:それで口説いてた(笑)。
寂聴:そのうち私の作品を見てもらうようになった。私はもう作家として立っていたから、そんな立場じゃなかったんだけど、書くものを純文学寄りに変えたいと思っていた時期で、井上さんに見てもらわないと不安だったのね。締め切り間際に書き上がると電車に乗って井上さんの家の近くへ行き、わざわざ見てもらっていた。井上さんも締め切りの時だから気の毒だったけど、見せないと機嫌が悪い。
荒野:いつ頃まで続けてたんですか? 父が病気になるまで?
寂聴:出家してからはなかったわね。そもそも出家だって井上さんとの長い関係を終わらせようと思ってしたんですよ。「出家しようかな」と言ったら井上さんが「あ、そういう手もあるな」ってホッとした顔をしたの。ああ、それしかないなって。完全に切れたわけじゃないの。中尊寺で出家した日も、奥さんが「行ってやれ」と言って来てくれましたしね。ただ、それ以来、男と女という関係じゃなくなっただけ。
荒野:母には文才もありました。父の死後、母から自分が書いて父の名で出た短編があると告白された時には驚きましたけど、すぐに「あれがそうだ!」と思い当たりましたね。「眼の皮膚」とか「象のいないサーカス」とか。
寂聴:締め切りで苦しんだ時に書かせたのよ。でも井上さんは妻の才能を知っていて、小説家になられるのが嫌だったのね。旅行記みたいな随筆の話があると受けさせましたけどね。私には「彼女も相当のことが書けるけど、自分がノートに書いた作品を原稿用紙に清書させてきて、変な文章の癖が移っているからよくない」と言っていましたけれど。
荒野:書いていくうちに直ったのに。書けばよかったと思います。それは母の意思だったのか、父が止めたせいなのか。
寂聴:それはお父さんよ。書けないように仕向けるの。そういうのがうまいのよ。あんなわがままな人の面倒をみていたんだから時間もなかったでしょう。何しろ当時の編集者の間では、「井上光晴の奥さんが作家の妻の中で一番美人」「一番の料理上手」って評判だったもの。私も井上さんに「来い来い」といわれるものだから、行ってお宅でお昼をご馳走になった、奥さまお手製の(笑)。
荒野:自慢したかったんでしょうね。よく編集者に「昼飯食べていって。うどんしかないけど」と勧めていましたが、そのうどんは母が自分で打っていた(笑)。
寂聴:お父さんの作に、家庭のことや実のお母さんのことなど、とても自分で書いたとは思えない小説があることは私にもわかってた。これはあやしいと思い、「これ書いたのは奥さんね?」って言ってたの。彼、すごく怒ったけど当たっていたわね。
荒野:今でもわからないのは、母が本当は自分の名前で出したかったのかどうかということなんです。
寂聴:そりゃあ、あれだけの才能があったら書きたかったわよ。絶対自分よりも良くなるとわかっていたからお父さんが書かせなかった。ヤキモチよ。
荒野:私にはあれほど書け書けと言っていたのに。

 

●瀬戸内寂聴さん「奥さまお手製のお昼をご馳走に」 不倫相手の娘と対談
作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが9日、死去した。99歳だった。瀬戸内さんは、作家として数々の小説を書き上げた一方で、恋愛にも命を燃やした。かつて、瀬戸内さんは作家の井上光晴と不倫関係にあった。光晴の娘である荒野さんはやがて小説家になり、19年2月には長編小説『あちらにいる鬼』(朝日新聞出版)を上梓。そのモデルに選んだのは、父・井上光晴と母・郁子、そして光晴の愛人だった瀬戸内さんだった。
『あちらにいる鬼』刊行に際して、瀬戸内さんは荒野さんと対談。出家を選んだときに光晴がホッとした顔をしたこと、出家した日に妻・郁子が「行ってやれ」と光晴を寺に送り出したことなどを明かしていた。その対談を紹介する。
井上荒野(以下荒野) 『あちらにいる鬼』は編集者に「ご両親と寂聴さんとのことを書いてみませんか?」と勧められて書いたものです。最初は寂聴さんもご存命だし、とても怖くて書けないと思っていましたが、江國香織さんや角田光代さんと寂庵をお訪ねして父の話を伺ってから、「私が書かないといけない、お元気なうちに読んでいただきたい」という気持ちに変わりました。
瀬戸内寂聴(以下寂聴) 私はなんでも書いていい、何を聞いてくれてもいいと思っていたので、ようやく本になってよかったわ。よく書けていましたよ。そもそも私と井上光晴さんとの関係は一緒に高松へ講演旅行をしたことがきっかけ。夜、井上さんが旅館の私の部屋に来て帰らないの。編集者が困ってね。で、何を言うかというと、「うちの嫁さんはとても美人で外を歩くとみんな振り返る」とか「料理がうまくてなんでもできる」とかそんなことばかり(笑)。
荒野 それで口説いてた(笑)。
寂聴 そのうち私の作品を見てもらうようになった。私はもう作家として立っていたから、そんな立場じゃなかったんだけど、書くものを純文学寄りに変えたいと思っていた時期で、井上さんに見てもらわないと不安だったのね。締め切り間際に書き上がると電車に乗って井上さんの家の近くへ行き、わざわざ見てもらっていた。井上さんも締め切りの時だから気の毒だったけど、見せないと機嫌が悪い。
荒野 いつ頃まで続けてたんですか? 父が病気になるまで?
寂聴 出家してからはなかったわね。そもそも出家だって井上さんとの長い関係を終わらせようと思ってしたんですよ。「出家しようかな」と言ったら井上さんが「あ、そういう手もあるな」ってホッとした顔をしたの。ああ、それしかないなって。完全に切れたわけじゃないの。中尊寺で出家した日も、奥さんが「行ってやれ」と言って来てくれましたしね。ただ、それ以来、男と女という関係じゃなくなっただけ。
荒野 母には文才もありました。父の死後、母から自分が書いて父の名で出た短編があると告白された時には驚きましたけど、すぐに「あれがそうだ!」と思い当たりましたね。「眼の皮膚」とか「象のいないサーカス」とか。
寂聴 締め切りで苦しんだ時に書かせたのよ。でも井上さんは妻の才能を知っていて、小説家になられるのが嫌だったのね。旅行記みたいな随筆の話があると受けさせましたけどね。私には「彼女も相当のことが書けるけど、自分がノートに書いた作品を原稿用紙に清書させてきて、変な文章の癖が移っているからよくない」と言っていましたけれど。
荒野 書いていくうちに直ったのに。書けばよかったと思います。それは母の意思だったのか、父が止めたせいなのか。
寂聴 それはお父さんよ。書けないように仕向けるの。そういうのがうまいのよ。あんなわがままな人の面倒をみていたんだから時間もなかったでしょう。何しろ当時の編集者の間では、「井上光晴の奥さんが作家の妻の中で一番美人」「一番の料理上手」って評判だったもの。私も井上さんに「来い来い」といわれるものだから、行ってお宅でお昼をご馳走になった、奥さまお手製の(笑)。
荒野 自慢したかったんでしょうね。よく編集者に「昼飯食べていって。うどんしかないけど」と勧めていましたが、そのうどんは母が自分で打っていた(笑)。
寂聴 お父さんの作に、家庭のことや実のお母さんのことなど、とても自分で書いたとは思えない小説があることは私にもわかってた。これはあやしいと思い、「これ書いたのは奥さんね?」って言ってたの。彼、すごく怒ったけど当たっていたわね。
荒野 今でもわからないのは、母が本当は自分の名前で出したかったのかどうかということなんです。
寂聴 そりゃあ、あれだけの才能があったら書きたかったわよ。絶対自分よりも良くなるとわかっていたからお父さんが書かせなかった。ヤキモチよ。
荒野 私にはあれほど書け書けと言っていたのに。

 

●瀬戸内寂聴が「あんなに男運のない人はいないね」という女優とは
週刊朝日と同じ年生まれの作家・瀬戸内寂聴さんに、95年の人生を振り返って語っていただきました。お相手は同じ作家の林真理子さんです。
瀬戸内:だって、生きるってことは、それだけじゃない。
林:まあ、ステキ!
瀬戸内:あなただってそうでしょ?
林:先生は得度なさるまでいろいろあったでしょうけど、私なんて……。
瀬戸内:隠してるだけじゃないの? エッセーに書いてるみたいに、ご主人は本当にあんなにうるさいの?
林:ホントにうるさいんです。
瀬戸内:そんなら別れなさいよ。なんでヘイコラしてるのさ。
林:このあいだ占いの人に見てもらったら、向こうの先祖が私を手離さないと言われましたよ。こんなにいいお嫁さんはいないから。
瀬戸内:アハハハ。だってあなたは養ってもらってるわけじゃないのに、朝早く起きてお弁当作ったりしてるんでしょう? 普通そんなことしないわよ。それであれだけの仕事して、本当につくづく偉いと思うわ。
林:私もそう思います(笑)。
瀬戸内:あなたには悪いけど、私は女の作家は結婚しないほうがいいと思ってるの。でもあなたをここまで書かせたんだから、そんなに悪い亭主じゃないのかもしれない。
林:今日は私のことより先生のお話を(笑)。先生は得度された後も、ものすごくお忙しかったでしょう。先生の人生で暇なときって……。
瀬戸内:ない。
林:今も引っ張りだこですもんね。
瀬戸内:今の若い秘書が賢くて、「こんなに働いたら死んでしまう」と、近頃は何でもかんでも断ってしまうの。私は「ああ、惜しいな」と思って、後でひそかに電話をかけて引き受け直したりして怒られてる(笑)。
林:昨年の10月には有馬稲子さんと公開対談されてましたよね。有馬さんもすごくおもしろい方。
瀬戸内:ものすごく生真面目な人なの。今でも美しいし。でもあんなに男運のない人はいないね。
林:先生は男運がよかった?
瀬戸内:外から見たらいい男じゃなくてもね。私が若い男と一緒にいるときに、有吉佐和子さんが来たんです。そしたら後で「瀬戸内さんの男を見た。どうしてあんなにつまらない男と一緒にいるんだろう」って言いふらしたんですよ(笑)。でも私はいいと思ってたの。今でも一番心に引っかかるのは、その男ね。
林:まあ。
瀬戸内:だって私と別れた後、自殺したんだもん。私と別れてしばらくして首吊ったの。もしも私とそうならなかったら、普通に生きて穏やかな一生を送っただろうなと思って。

 

●瀬戸内寂聴さん、小学校の校長室みたいに恋人の写真を並べて貼る!?
まもなく創刊100周年を迎える週刊朝日。中でも、25年以上の歴史を持つ作家・林真理子さんの「マリコのゲストコレクション」は、スタート以来、数々のゲストにご登場いただいてきました。
昨年11月、99年の生涯を閉じた瀬戸内寂聴さん。女性の新しい生き方を描いた数々の小説や『源氏物語』の現代語訳など、多くの功績を残し、世に与えた影響は計り知れません。週刊朝日と同じ1922年生まれで、創刊95周年、99周年のときは、表紙を飾ってくださったことも。マリコさんとは、公私ともにつきあいがあり、深い絆で結ばれていました。5年前の対談では、京都の寂庵で、その人生を振り返って──。
林:先生、お元気そうで何よりです。週刊朝日95周年号の表紙を飾られるんですよね。最高齢のカバーガール(笑)。
瀬戸内:よく写るよう、まなほ(寂聴さんの秘書)が朝から一生懸命お化粧してくれたの。キレイでしょ。
林:お肌ツヤツヤですよ。先生と週刊朝日は、ほぼ年代を共にしているわけですよね。
瀬戸内:同じ1922年生まれですからね。日本共産党とも同い年。 *中略*(以下、*)
林:そしてご主人とお嬢さんと3人で故郷の徳島に戻られて、そこで年下の男性を好きになって出奔したことで、先生の作家人生が始まるわけですよね。当時のことを描いた私小説『夏の終り』が映画化されましたが(2013年公開)、いまの若い人たちも先生の行動にはびっくりなんじゃないですか。
瀬戸内 まさか! でも当時はそんなこと案外あったのよ、「あそこの奥さん、出ていったよ」というのが。「女は夫に仕えるもの」と教育されてきた女性たちが、戦争が終わって「なんで辛抱してたんだろう」と思った。日ごろおとなしい人がどんどん家を出ていったの。
林:そうなんですか。先生、映画はいかがでしたか? 満島ひかりさんが先生の役でしたが。
瀬戸内:すごくいい人が出てくれたみたいだけど、自分のことを書いたものが映像になると、やっぱり違うのね。小田仁二郎が玄関脇の1畳ぐらいの狭い場所に机を置いて仕事をしてるの。私、そんなところに男を置かないわよ。
林:もっといいところに置く?
瀬戸内:大きな机を買って、一番日当たりのいい場所に置きましたよ。そう言ったらみんなゲラゲラ笑ってましたけど。 *
林:小田さんっていい男だったんですね。
瀬戸内:いい男だったのよ。それに惚れたんだもん(笑)。
林:先生、面食いですもんね(笑)。一時期、代々の男の人の写真を書斎の壁に飾ってたんですよね。小学校の校長室みたいに。
瀬戸内:その下で『源氏物語』(現代語訳『源氏物語』全10巻)を書いてたの(笑)。よくあんなことしたわね。ホントはね、これは一世一代の仕事だから守ってね、というつもりで。
林:校長先生は何代まで?
瀬戸内:ハハハ……、そんなにはいないよ(笑)。
林:先生の人生って、恋と書くことと……。
瀬戸内:だって、生きるってことは、それだけじゃない。
林:まあ、ステキ!
瀬戸内:あなただってそうでしょ?
林:先生は得度なさるまでいろいろあったでしょうけど、私なんて……。
瀬戸内:隠してるだけじゃないの? エッセーに書いてるみたいに、ご主人は本当にあんなにうるさいの?
林:ホントにうるさいんです。
瀬戸内:それなら別れなさいよ。なんでヘイコラしてるのさ。
林:このあいだ占いの人に見てもらったら、向こうの先祖が私を手離さないと言われましたよ。こんなにいいお嫁さんはいないから。
瀬戸内:アハハハ。* あなたには悪いけど、私は女の作家は結婚しないほうがいいと思ってるの。でもあなたをここまで書かせたんだから、そんなに悪い亭主じゃないのかもしれない。

 

●瀬戸内寂聴さん99歳で死去 生前にホリエモンと対談「あなたは悪くない」
作家瀬戸内寂聴さんが11月11日、亡くなっていたことがわかった。99歳だった。朝日新聞デジタルが報じた。故人をしのび、堀江貴文さんとの対談を再掲する。※肩書や年齢等は当時。 
今年3月に仮釈放され、再びメディアに登場している元ライブドア社長・堀江貴文氏が、以前から交流のあった作家で尼僧の瀬戸内寂聴氏と約3年ぶりの再会を果たした。堀江氏はライブドア事件を振り返った。
堀江:いまはスマホが普及して、LINEとか他人とつながるためのツールも増えています。だからあまり寂しくないんですよね。昔はそういうツールが少なかったので、家族とか会社の存在が大きかった。いまはネット上にもコミュニティーをつくれますし、精神的な拠り所がいっぱいあります。インターネットが世の中を変えたんです。
瀬戸内:そういうインターネットの世界で名を馳せて、当時はあなたをいじめる人が多かった。それで捕まって牢屋に入れられたけど、やっぱり有罪になるような悪いことをしたの?
堀江:ああいうのって有罪にできちゃうんですよね。
瀬戸内:でも優秀な弁護士はつけたんでしょ。
堀江:それがつけられなかったんですよ。
瀬戸内:え? なぜ?
堀江:いきなり強制捜査に来られて、1週間で逮捕されたんで余裕がなかったんです。テレビ局と喧嘩をしたので、世の中から一気に総攻撃を食らった。その状態で刑事裁判をちゃんとできる優秀な弁護士が誰かとか冷静に選別できなかった。まさか自分がそんな世界に放り込まれるとは思ってなかったですから。
瀬戸内:ひどい状態だったのね。
堀江:今では誰が優秀なのかわかりますけどね。今一番優秀なのは弘中惇一郎先生ですね。郵便不正事件で村木厚子さんの無罪を勝ち取った人です。最近は小沢一郎さんもそうですね。その弘中先生に、最高裁でようやく頼んだんですよ。紹介してくれたのが「ロス疑惑」の三浦和義さんだったんで、なかなか素直に「はい」と言えなくて時間がかかってしまいました。
瀬戸内:今でも自分が不当な扱いを受けたと感じてる?
堀江:もう忘れました。
瀬戸内:忘れられるの!
堀江:はい。もうどうでもいいです。
瀬戸内:私はあなたが悪かったとは思ってないの。世の中がね、あなたの悪口ばかり言ってたでしょ。あのころから味方でしたよ。私なんかじゃ何をするのか予測がつかない天才的なところが好きなの。今流行の「倍返し」ってやればいいじゃない。
堀江:僕自身のことはもう本当にどうでもいいんです。ただ、おかしいことはおかしいと言い続けますよ。捜査機関って維持するためにはやっぱり捜査をしなくちゃいけない。組織を維持するために、昔は犯罪にならなかったことを犯罪にするのはエゴでしかない。
瀬戸内:なんだか怖いわねえ。私は「徳島ラジオ商殺し」の冨士茂子さんの冤罪事件に関わって20年以上も彼女の闘いを応援したので、裁判の怖さといい加減さを知ってます。それに「幸徳秋水事件」も書いたので、牢屋の中のこともよく研究してます。まだ入ったことないけど。
堀江:確かに、いい加減ですね。
瀬戸内:私はもういろんな冤罪を見てきたからわかるの。だから、あなたの件も一種の冤罪なんじゃないかって。何かに嫌われたのね、あなたは。
堀江:フジテレビですよ。
瀬戸内:目障りだったのね。自分たちの予測できない人間が出てきて、どんどんお金を儲けてね。そういうことが起こると凡人は困るのよ。みんな迷惑するの。それでやっつけろってなった。まあ、世の中を変える人は、世の中から嫌われるものよ。あなたは政治にはもう興味ないの?
堀江:ん〜微妙ですね。
瀬戸内:政治だけはやめときなさい!
堀江:(笑)

 

●ホリエモンも田中康夫も…瀬戸内寂聴さんはバッシングされた人の味方だった
99年の生涯の中で、多くの人と交流した瀬戸内寂聴さん。世間からたたかれている人も、自分と意見が違う人も、懐深く心を開き受け入れた。そんな寂聴さんの姿を心に刻む人たちに、ありし日の思い出を聞いた。
「みんなの味方が、亡くなった」
瀬戸内寂聴さんの訃報が流れた11月11日、親交のあった黒柳徹子さんはこのようなコメントを発表した。
みんなの味方。それは瀬戸内寂聴さんの生き方そのものだった。傷ついた人に手を差し伸べ、世間からどれほど批判を受けても見放すことはなかった。そんな生き方は、自らの過去から生まれたものだった。
20歳で結婚したが、5年後に夫の教え子と恋に落ち、3歳の娘を置いて家を出た。
小説家を目指し、1957年に「女子大生・曲愛玲」で新潮社同人雑誌賞を受賞。だが、その後に発表した「花芯」が大胆な性愛の描写で物議を醸し、一時は不遇を味わった。51歳で出家するまでに、2度の不倫も経験した。寂聴さんと20年以上の付き合いがあった小説家の平野啓一郎さんは、こう話す。
「瀬戸内さんは、多くの人に愛されましたが、自分に向けられる批判もよく知っていました。支持する人もいるけど、悪く言う人もいる。浮世の面白さとやるせなさを、文学者として、仏教者として、よく知っていました。自由に生きた分、いろいろな苦労をされて、自分が人を傷つけてきたという自覚もありました。特に、幼いお子様を置いて家を出たことについては、ずっと後悔されていました」
寂聴さんは、京都大在学中に芥川賞を受賞した平野さんの作品を高く評価し、新作が出るといつも励ましの連絡をしていたという。
「大学卒業後しばらくは京都に住んでいたので、京都で有名な料亭や祇園には一通り瀬戸内さんに連れていってもらいました。仏教徒としてはよくないのでしょうが、お酒も肉もよく召し上がりました。『私は破戒僧だけど、自分が一番守れそうにない淫戒だけは守ろうと決めて、実際守ってきた』と笑ってらっしゃいましたね。コロナの影響で最近は電話でしかお話できず、20年以上にわたる感謝を伝える機会がないまま亡くなられてしまったのが残念です」
寂聴さんは一貫して、世間からバッシングされた人の味方になってきた。
「青春は恋と革命」と語り、連合赤軍事件の永田洋子元死刑囚(故人)や元日本赤軍リーダーの重信房子受刑者とも手紙でやりとりを続けた。2016年には「STAP細胞」で一躍有名になったものの、論文の不正で批判された小保方晴子さんと雑誌で対談したこともある。
本誌でも、ライブドア事件で有罪になった堀江貴文さんと13年に対談。そのときも堀江さんに「私はあなたが悪かったとは思ってないの」と励ました。一方で二人は、原発問題で激しく対立。「あなたの原発論にはぜんぜん賛成できない。(中略)幽霊になって原発賛成のホリエモンに取り憑いてやる」とヒートアップする寂聴さんに、同席した編集者も肝を冷やしたが、それでも最後には、二人は打ち解けた。堀江さんは寂聴さんの訃報を受け、自身のYouTubeチャンネルで当時の思い出をこう話した。
「原発問題で反論すると、瀬戸内さんは『私が今から意見を変えることはできないけど、堀江さんの言っていることはわかりました』と理解していただいたんです。とても柔軟な方でした。寂聴さんの生き方に批判的な人もいますが、功績のほうが大きかったと思います」
00年の長野県知事選に当選した作家の田中康夫さんには、政治家になることを勧めた。阪神・淡路大震災の際に、田中さんがボランティア活動に積極的に参加していたことを知っていたからだ。寂聴さんが、田中さんに頼まれて長野県のアドバイザーになりかけたこともある。田中さんは言う。
「県知事になったとき、寂聴さんを含めた数人の方に県内で講演をしてもらおうと思って、謝礼は少なかったけどアドバイザーになってもらおうと考えたんです。結局は、県議会で否決されて実現できなかったのが苦い思い出です。寂聴さんは、会うたびに『もっと痩せなさい』と言われていましたが、私が批判されてもいつも応援してくれていました」

 

●「自然体」「おどけたしぐさ」…瀬戸内寂聴さんを篠山紀信、鎌田慧らが悼む
11月11日に99歳で亡くなった瀬戸内寂聴さん。寂聴さんを知る人は、表と裏のない自然体の人柄に惹かれていた。写真家の篠山紀信さんは言う。
「作家には、威厳があるように撮ってもらいたいという人がけっこういるんです。反対に、威張っているイメージがあるから、そんなふうに撮ってほしくないという人もいます。寂聴さんは、そのどちらでもない。自然に笑っているだけ。『自分は人と違う才能の持ち主だ』と思われたいという気持ちはまったく感じませんでした」
自身の戦争体験から、平和運動に積極的に参加。特に、日本がおかしな方向に向かっていると感じたときは積極的に闘った。
12年には関西電力大飯原発の再稼働に反対し、作家の澤地久枝さんやジャーナリストの鎌田慧さんと一緒にハンガーストライキを決行した。鎌田さんはこう振り返る。
「ハンストの日は雨が降っていたんですが、瀬戸内さんがタクシーで到着してちょうど席に着く前に、雨がやんだんです。すると、瀬戸内さんは手のひらを出して『雨なんか、ひょいっ』と投げ捨てるようにおどけてみせたんですよね。それがとても印象的でした」
後日に開かれた脱原発の集会では、ちょっとしたハプニングもあった。
「壇上に変な男女二人が突然現れて演説を始めて、その二人はすぐに降ろされたんです。その後しばらくしてから瀬戸内さんから電話があって『二人が会いに来たので話しましたよ。女の尻にしかれた男だったわねえ』と。連絡なしに寂庵を訪れたらしいですが、そういう人たちにもちゃんと応対したそうです」(鎌田さん)
寂聴さんの法話には、芸能界のファンも多かった。俳優の松原智恵子さんも、その一人だ。
「新幹線でお見掛けしてご挨拶をしたら、快く受け入れていただいて話し込んでしまったのが出会いでした。法話は素晴らしくためになるお話なのに、楽しくて面白い。撮影がお休みのときに寂庵を訪ねたらとても喜んでくださり、お茶やお菓子をいただいたうえ、法話のとき『今日はお客様が来てくださっています』と紹介までしていただいた。お会いするたびに前以上に好きになってしまう。そんな方でした」
寂聴さんは、「書くことは私にとって最高の快楽」と話していた。その言葉どおり、生涯で400冊以上の本を出版し、10月に体調を崩すまで執筆活動を続け、時には徹夜をすることもあった。寂聴さんが生まれた1922年は、週刊朝日が創刊された年でもある。創刊99周年となる今年2月26日号のインタビューでは表紙を飾り、衰えることのない創作活動について、こう話していた。
「死ぬまでにもう一本、長編小説を書きたいのよ」
別の機会には、自らの死後についてこんなことも話していた。
「私の方が絶対みなさんよりも先に、あの世に行くでしょうから、向こうでこの世にメールが届くように運動します。いつになるかわからないけれど、『寂聴極楽メール』の着信をどうぞ楽しみに待っていて下さい」
今ごろ寂聴さんは、過去に愛した人たちと一緒に、あちらでも忙しくしているのだろう。

 

●瀬戸内寂聴さんを17年間追った映像の軌跡 中村裕監督「ある種の恋愛とも言える」
昨年11月に99歳で亡くなった瀬戸内寂聴さんを追ったドキュメンタリー映画が5月27日に公開された。17年間瀬戸内さんを追い続けた中村裕監督と、「寂庵」の秘書・瀬尾まなほさんに聞いた。
「はじめて(瀬戸内)先生にお会いしたのは2004年でした。瀬戸内寂聴というお名前はもちろん知っていましたが、それほど興味はありませんでした。元気なおばあさんというイメージで、いざお会いするとなったとき、とてもコワイ人ではないかと思い、おじけづきました。僕は当時オドオドしていました。それが映像にも出ていますね」
「瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと」の監督・中村裕さんは、初めての出会いについてそう話した。
そのときの撮影で新幹線で一緒に移動しているとき、瀬戸内さんに「私が書いているところ撮らなくていいの?」と話しかけられた。もちろん作家が執筆しているところは撮りたいに決まっているので、改めて秘書やスタッフの人に聞くと、もう何年も書いているところを撮らせていないので無理だと言われた。
「でも、先生は『撮りにいらっしゃい』とおっしゃって、何だか僕は気に入られているのかもしれないと思いました」
その出会いの翌年、NHKの旅番組の海外取材を瀬戸内さんに打診することになった。
「恐る恐る話を切り出すと、先生はフランソワーズ・サガンが好きだと話し、すぐに行き先はフランスと決まり、1カ月先のスケジュールを空けてくれ、現地に行きました。その後、世阿弥に関する取材で佐渡島にもご一緒したのですが、そこで本当に親しくなった感じですね」
中村さんは、瀬戸内さんに受け入れられた理由を、何も求めなかったからではないかと分析する。
瀬戸内寂聴を撮影するとなると、いろいろとオーダーしたくなる。中村さんはそういうことを一切しなかった。
「この人、私に何も言わないけど大丈夫かなと心配したんじゃないでしょうかね」
その言葉どおり、瀬戸内さんは何かにつけ中村さんを気にかけるようになった。06年に「私に何でも聞いて番組を1本作りなさい」と言われ、09年には「死ぬまで撮りなさい」となり、以来、機会があるごとに瀬戸内さんを撮影するようになった。撮影スタイルはクルーを引き連れてというのではなく、自分ひとりでカメラを持ち、京都の寂庵を訪れ、プライベートで会うかのようであった。
映画の話が出たのは19年ごろだった。どんな内容にするかは決まっていなかったが、「映画にしようと思います」と伝えた。
「どうぞ、おやんなさい、私が死んだら何をやってもいいよと話されました。でも、先生が亡くなってから好き勝手にやるつもりはないですともお伝えしました。100歳の誕生日である今年の5月15日に公開して先生に見てもらおうと漠然と考えていました」
だが、その願いはかなわず、瀬戸内さんは100歳の誕生日を迎えることなく、この世を去った。
「先生が亡くなったと聞いて、実感はなかったのですが、モチベーションがなくなったのは事実です。それでも(昨年)6月8、9日の、結果的に最後の撮影となった映像素材を見ていたら、先生が僕を叱責していたのです。『もっと計画的にやりなさい。あなたがやるなら本気でやりなさい。臨終のシーンを撮りたいなら、今から手配しますよ。私、あなたが思っているほどそんなに長生きしないわよ』と。それで、これはやらねばと改めて思いました」
瀬戸内さんは、なぜここまで中村裕という人物に心を許したのだろう。13年から寂庵で瀬戸内さんの秘書を務めてきた瀬尾まなほさんは、中村さんについてこう話す。
「中村さんは、私のような同性では埋められないところを異性として埋めることができて、慰められたと思いますね。それでいて中村さんが独り身であることを心配したり……。心のよりどころのような存在だったのでしょうね」
中村さんがアポも取らずひょっこり寂庵を訪ねた際には、満面の笑みで出迎えていた。
完成した映像を見た瀬尾さんが映画についての感想を話してくれた。
「実は瀬戸内が亡くなったあと、ニュースや追悼番組などが見られなかったのです。つらいし、悲しいし、悔しい。亡くなったことを認められなかった。でも半年経ってこの映画を見たら、また会えたような気がしました。そうそう、こんな感じで動いて、お話して、それでよく笑って……。なんだか懐かしい感じもしました。というのも、映画で瀬戸内が話す場面は、私がいつも座っていた場所から撮影したもので、私の定位置からの視線なのです」
印象的なのはスクリーンに映る瀬戸内さんは終始笑っていることだ。瀬戸内さんが笑うと周りの人もおのずと笑顔になる。体操をするシーンでは寝ている状態から起き上がろうとするが、なかなか起き上がれない。最後にはなんとか成功する。
「先生は負けん気が強くて、諦めないですね。ニコニコ笑いながら、いつも復活していました」と中村さんは懐かしそうに振り返る。
瀬戸内さんは作家の顔も見せる。中村さんに毎日のようにある原稿の締め切りの一覧を見せ、迷いなくペンを走らせる。そのときは作家として凜とした空気を感じた。中村さんは言う。
「瀬戸内さんに以前『末期の眼』という話をしましたねと話したとき、生と死の間で揺れていることを強く感じました」
「末期の眼」とは川端康成が書いた随筆の題名である。死を目の前にした人の眼には、世の中のものが美しく見えるという意味のようで、もとは芥川龍之介が遺稿「或旧友へ送る手記」で使った言葉だ。川端の随筆の中にはこう書かれている。
「あらゆる芸術の極意は、この『末期の眼』であろう」
瀬戸内さんはもう長くない、だから今見るもの聞くものを「末期の眼」で見ている、と中村さんに話した。しかし、瀬戸内さんは作家になって以来ずっと、あらゆるものを川端の言う「末期の眼」で見て、小説という芸術に昇華させてきたのではないだろうか。瀬戸内さんの笑顔は、この世を「末期の眼」で見た覚悟とそれを乗り越えた姿なのかもしれない。
作家・瀬戸内寂聴について中村さんは、「書くことはある種の告白であり、懺悔(ざんげ)であると。傷口を広げてペン先に血をつけて書くことが自分の文学だとお話しされました。作家としてそこまでの覚悟があったのですね。何事にも期待に応えようと、真剣に取り組んでいる姿には心を打たれました」と静かに話した。
一遍上人のように全国を回りたいとも話し、東日本大震災ではいち早く現地に出かけた。自分の足で立ち、何でも目で見ることが作家としての矜持だと中村さんに告白したこともある。
常に近くで見ていた瀬尾さんはこう話した。
「瀬戸内は最後まで書くことを諦めていませんでした。ニコニコしているおばあちゃんというだけでなく、作家なのです。そんな瀬戸内と私は10年一緒にいました。結婚して子どもができても一番の存在で、四六時中考えてきました。自分の人生を変えてくれた人です。瀬戸内のことがちょっとでも気になったらこの映画を見てほしいですね」
改めて中村さんに瀬戸内さんとの関係について聞いた。
「失礼かもしれませんが、親友という感じですかね。最も大切な人、一番大切な存在、ある種の恋愛とも言えますね。僕のことを一番心配してくれた人でもあります。もっと先生のお話をしたいです。先生の話をしていると終わらないですね……」 
●むごい筆だけど――瀬戸内寂聴「命あれば」 
収められているのは新聞にいまも連載中の随筆のうち、一九九七年から二〇一六年までのもの。世紀をまたいでなお、作家は様々なことに興味を向け、時には各分野で活躍する人たちを応援し、寿ぎもするが、いまを生きる日本人、人類への嘆きや落胆の方にこそ重みがある。瀬戸内さんほどのキャリアがあれば、時代や国家や為政者には目もくれず、世界がどうなろうが、自らの小説の道をひたすらストイックに進めばいいだけなのに、と私などは思ってしまう。瀬戸内さん、どうか小説のみに力を注いで下さい、と。
だが、この随筆集に書かれてあるように世の中を全方位的に見つめ、時に有罪判決を受けた人物と向き合ったり、時にはまた犯罪被害者支援の活動もする、といった多面性こそが、瀬戸内さんを僧侶としてだけでなく作家たらしめてきたのだろう。
「川端康成氏が『美しい日本』と自慢した日本の自然も人も、今や風前の灯だというのは言い過ぎだろうか。」「今、人々は目に見えないものへの畏敬を失っている。その為、どんな浅ましい偽りを犯しても恐れも恥も感じない不感症な怪物に、人間を変えてしまったのである。」といった現代への批判に対しては、いえいえ、人間はまだまだ捨てたものでもないと思いますが、と私は小声で反論したくもなるのだが、ではそういう自分自身が、現代にあっていったいどれほどのことをしてきたのかと省みれば、黙るしかない。
本は読者に届いてこそ大きな意味を持つ。だから、ここに展開される現代批判は、この随筆集を読む一人一人に突きつけられたもの、ということになる。一見すると大物作家が気ままに書き綴った、と思えなくもなく、勿論そういった要素もここにはあるのだろうが、だからといって読んだ方も、さすがは瀬戸内さん、なかなかいいこと仰いますな、などと悠長に構えている場合ではない。瀬戸内さんにこれ以上耳が痛いことを言われないように、懸命に各々の仕事をしてゆかなければならない。この私自身も。
全六章のうち第三章「なつかしい人たちの俤」を、作家として興味深く読んだ。宇野千代、水上勉といった文豪が次々に登場する。作家というものは小説を書いてナンボ、作品こそ全てであり、作家本人がどんな人物であったかはどうでもいい、と私は日頃思うことにしているのだが、それは、ともすると作品よりも作家の人生の方に興味を引きずられそうになることへの戒めだ。瀬戸内さんしか知り得ないようなエピソードも出てくるから、よけいによからぬ興味をかき立てられてしまう。
特に大庭みな子が亡くなった時の話などは、こんなこと書いちゃっていいのか、と読んでいるこちらが焦る。瀬戸内さんの筆は、冷酷なまでにその場面を描写してみせるのだ。他の作家には真似の出来ないやり方であり、書くということの、そして書かれるということの残酷さを見せつける。たとえ思い出話に過ぎないのだとしても、作家が作家を描く時、懐かしさや悲しみを踏み越えて、作家のなんたるかを暴かずにはおかない。いなくなってしまった人たちの生前の姿を生き残った作家が書く、そのことへの批判もあるだろう。死者は生きて書く作家の筆を止めようがない。むごい筆だとも言える。それは、長命を保ってなお現役であり続ける作家の宿命みたいなものだろうか。私は自分が九十歳を過ぎて書き続けることを、ほとんど想像出来ない。そういう時がもし来るのなら、こんなこと書いちゃって大丈夫ですか、と遠い後輩たちから思われてしまうようなものを、果して書くのか、書かないのか。
ところで第六章の中に登場する「新しい男友だち」というのは私のことである。自分の書いた掌編集に対し、「『やられた!』と私はうなった。」と書いて下さり、こちらとしてはしてやったりだが、私の本などに刺激を受けてか、瀬戸内さんはその後、掌編集『求愛』を刊行されている。生きながらにしてむごい筆のエジキに、私はされてしまったのか。戦いている暇はない。大先輩をさらにうならせるものを、立ち止らずに書かねばならない。