季節の言葉
梅雨入り
「五月雨」
何となく じめじめした語感
シーズンのイメージ
どんな夏になるのやら
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●五月雨 [さみだれ・さつきあめ] 1 | |
五月雨(さみだれ)は旧暦(陰暦)の5月頃に降る長雨のことであり、おおむね「梅雨」の別名。陰暦五月は今日用いられている新暦(陽暦)の6月前後(5月下旬から7月上旬あたり)に相当する。転じて、物事を少しずつ断続的に行うさまが「五月雨(式)」のように表現される。
五月雨の「さみだれ」とよむ難読字であるが、この「さみだれ」は「さつき(皐)の水垂れ」に由来すると言われている。なお五月雨は「さつきあめ」とも読める。「さみだれ」も「さつきあめ」も正しい読み方とみなされている。 ちなみに「五月雨」は夏の季語である。 「五月雨」は、物事を一気に行い終えるのではなく、断続的に(だらだらと)繰り替えすようなさまを指す表現でもある。労組(労働組合)が長期間にわたって行う交渉や闘争は「五月雨戦術」や「五月雨スト」などと呼ばれる。ビジネスシーンでは、電子メールなどで連絡する際、一度に要件を伝えきれず何度も追伸を送ってしまうような状況を「五月雨式」といい、送信する側が「五月雨式ですみません」と断りを入れることが半ば定番の作法となっている。 |
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●五月雨 [さみだれ] 2 | |
●陰暦5月に降る長雨。梅雨と同じであるが、梅雨は主として五月雨の降る季節をさし、五月雨は雨そのものをさすことが多い。雨の降り方としては、前期はしとしと型、後期は集中豪雨型のまとまった降り方をする。「五月雨」の語は上代の用例にはみられず、平安時代に入ってからの語だが、『万葉集』巻19の大伴家持(おおとものやかもち)の「卯(う)の花をくたす長雨(ながめ)の始水(はなみづ)に寄る木屑(こつみ)なす寄らむ子もがも」は、五月雨の異称「卯の花くたし」の早い例であり、「いとどしく賤(しづ)の庵(いほり)のいぶせきに卯の花くたし五月雨ぞ降る」(『千載(せんざい)集』夏・藤原基俊(もととし))などと詠まれた。「五月雨にもの思ひをれば時鳥(ほととぎす)夜深(よぶか)く鳴きていづち行くらむ」(『古今集』夏・紀友則(きのとものり))、「さみだれはもの思ふことぞまさりけるながめの中にながめくれつつ」(『和泉(いずみ)式部集』)のように、「長雨(ながめ)」はもの思い(「眺(なが)め」)をかきたて、歌の贈答の折でもあり、「徒然(つれづれ)」の慰めとして「雨夜の品定め」(『源氏物語』帚木(ははきぎ))なども催された。夏の季語。「五月雨を集めて早し最上川(もがみがわ)」(芭蕉(ばしょう))。
●陰暦五月頃に降りつづく長雨。また、その時期。つゆ。梅雨(ばいう)。さつきあめ。《季・夏》※古今(905‐914)夏・一五四「五月雨に物思ひをれば郭公夜ふかくなきていづちゆくらむ〈紀友則〉」※俳諧・奥の細道(1693‐94頃)最上川「五月雨をあつめて早し最上川」。(「さみだれ」が少しずつ繰り返し降ることから) 継続しないで、繰り返す行動などについていう。「さみだれ式」[語誌](1)「さ」は「さつき(五月)」の「さ」と同根。「万葉集」など上代の文献には確認できない。上代では季節にかかわりなく「三日以上(の)雨」〔十巻本和名抄・一〕をいう「なが(あ)め」に包含されていたと思われる。(2)歌題としては「長元八年関白左大臣頼通歌合」が早く、その後「堀河百首」、そして「金葉集」以後の勅撰集で多く立てられ、夏季の代表的素材となった。 ●〘自ラ下二〙 さみだれが降る。和歌では、多く「さ乱る」の意をかけて用いる。《季・夏》※宇津保(970‐999頃)内侍督「さみだれたるころほひのつとめて」※和泉式部日記(11C前)「おほかたにさみだるるとや思ふらむ君恋ひわたる今日のながめを」 ●[さつきあめ] 〘名〙 =さみだれ(五月雨)《季・夏》※金槐集(1213)夏「五月あめ降れるにあやめぐさを見てよめる」※俳諧・猿蓑(1691)二「日の道や葵傾くさ月あめ〈芭蕉〉」 ●[さみだれ] 《「さ」は五月さつきなどの「さ」、「みだれ」は水垂みだれか》 陰暦5月ごろに降りつづく長雨。梅雨。つゆ。さつきあめ。《季 夏》「―を集めて早し最上川/芭蕉」。断続的にいつまでもだらだらと続くことのたとえ。「五月雨式」「五月雨戦術」。 |
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●五月雨 3 | |
「五月雨」や「五月雨式」は、その意味や由来を知ると心を和ませる効果があることが分かり、 使わないともったいないものです。そこで、漢字の読み方・ふりがなや意味、使い方を例文とともに解説します。また、類義語や俳句、梅雨にまつわる言葉もあわせてご紹介します。知っておくとプライベートからビジネスシーンまで役立つでしょう。
●読み方 「五月雨」の読み方は「さみだれ」です。「さ」は旧暦五月の「皐月(さつき)」などに、「みだれ」は「水垂れ」に由来します。「さつきあめ」という読み方もありますが、意図的にそう読ませる場合が多いので、ふりがながついていない場合には、一般的に「さみだれ」と読みます。 ●語源・由来 さみだれの「さ」は、「皐月(さつき)」や「早苗(さなえ)」などと同様に、耕作を意味する古語「さ」。「みだれ」は、「水垂れ(みだれ)」である。古くは、動詞で「五月雨る(さみだる)」と使われており、五月雨はその名詞形にあたる。「五月雨る(さみだる)」は、和歌で「乱る」の意味にかけて用いることが多い。 ●意味1 / 旧暦五月頃に降り続く長雨、梅雨 「五月雨」とは、旧暦の五月頃に降り続く長雨のことで、梅雨のことをさしています。旧暦の五月は、現在用いられている新暦では六月前後にあたるので、梅雨の季節です。旧暦の五月には、「皐月」のみならず「五月雨月」という異称もあります。五月雨は夏の季語です。梅雨といえば、うっとうしい、憂鬱な季節といったイメージが伴いがちですが、「五月雨」といえば、言葉の響きも手伝い美しい情景が浮かぶかもしれません。言葉ひとつで気分が変わるから不思議ですね。ちなみに、人気のブラウザゲーム「艦隊これくしょん〜艦これ」に登場するキャラ「五月雨」は、駆逐艦「五月雨」(現在はそれを受け継いだ護衛艦「さみだれ」が活躍中)からきており、梅雨の雨に由来しています。 ●意味2 / 断続的にいつまでもだらだらと続くこと 五月雨は、物事が一度で終わらず、断続的にだらだらと続くことのたとえでもあります。梅雨の雨が降ったり止んだりする様子になぞらえた表現です。労働組合が長期間にわたって行う交渉や闘争は「五月雨戦術」「五月雨スト」などと呼ばれます。また、とくによく使われるのは「式」をつけた「五月雨式」という表現です。ビジネスシーンでは日常的に使われているので、意味や使い方を押さえておきましょう。 ●「五月雨式」の意味・使い方・例文 ビジネスシーンでは、一度だけで終わらず何度も追加して行う状態のことを表すときに使います。例えば、電子メールで連絡事項や資料を一度にまとめて送らず、後から追加するかたちで小刻みに連絡する格好になってしまっていることを詫びる意味で、送信する側が「五月雨式ですみません」といった表現を用います。しかし、ネガティブなこととは限りません。「五月雨式」は、一度に全てを行うのではなく、部分的に少しずつ行っていき順次対応を期する方法をさすので、あらかじめ合意が得られていれば、準備できた部分から進めていけます。 <例文> •五月雨式にメールをお送りし申し訳ございません。 •五月雨式で恐縮です。これが最後の質問なのでご回答よろしくお願いいたします。 •五月雨式で失礼します。先ほどの資料をお送りいたします。 •完成したものから五月雨式に納品させていただきます。 •五月雨式で構いませんので、進捗状況を報告してください。 •本件の資料は五月雨式に届くので、まとめておいてください。 •会議が五月雨式に行われており、メンバーにも疲労の色が見えます。 |
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●五月雨 [さみだれ] 仲夏 4 | |
●子季語
さつき雨、さみだる、五月雨雲 ●解説 陰暦五月に降る雨。梅雨期に降り続く雨のこと。梅雨は時候を表し、五月雨は雨を表す。「さつきあめ」または「さみだるる」と詠まれる。農作物の生育には大事な雨も、長雨は続くと交通を遮断させたり水害を起こすこともある。[仲夏は、夏の三ヶ月を初夏、仲夏、晩夏と分けたときの半ばの一ヶ月で、ほぼ六月にあたります。二十四節気では芒種、夏至の期間(六月六日頃から七月六日頃)になります。] ●例句 五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉「奥のほそ道」 五月雨の降残してや光堂 芭蕉「奥のほそ道」 さみだれの空吹おとせ大井川 芭蕉「真蹟懐紙」 五月雨に御物遠や月の顔 芭蕉「続山の井」 五月雨も瀬ぶみ尋ぬ見馴河 芭蕉「大和巡礼」 五月の雨岩ひばの緑いつまでぞ 芭蕉「向之岡」 五月雨や龍頭揚る番太郎 芭蕉「江戸新道」 五月雨に鶴の足みじかくなれり 芭蕉「東日記」 髪はえて容顔蒼し五月雨 芭蕉「続虚栗」 五月雨や桶の輪切る夜の声 芭蕉「一字幽蘭集」 五月雨にかくれぬものや瀬田の橋 芭蕉「曠野」 五月雨は滝降うづむみかさ哉 芭蕉「荵摺」 五月雨や色紙へぎたる壁の跡 芭蕉「嵯峨日記」 日の道や葵傾くさ月あめ 芭蕉「猿蓑」 五月雨や蠶(かいこ)煩ふ桑の畑 芭蕉「続猿蓑」 さみだれやとなりへ懸る丸木橋 素龍「炭俵」 さみだれや大河を前に家二軒 蕪村「蕪村句集」 五月雨や魚とる人の流るべう 高浜虚子「五百句」 さみだれや青柴積める軒の下 芥川龍之介「澄江堂句集」 |
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●五月雨 吉江喬松 5 | |
五月雨さみだれが音を立てゝ降りそゝいでゐた。
屋根から伝つて雨樋に落ち、雨樋から庭へ下る流れの喧しい音、庭の花壇も水に浸つてしまひ、門の下から牀ゆか下まで一つらに流れとなつて、地皮を洗つて何処へか運んで行く。 夜の闇の中で、雨も真黒い糸となつて落ちて来るやうに思はれる。泥がはね上り、濁水が渦巻いて流れ、空も暗く、何処を見ても果てがつかない。家の中に籠つて電灯の下で、ぢつとその音を聞いてゐても不安が襲つて来る。牀とこを敷いて蒲団の中へもぐり込んでも安眠が出来ない。 うと/\として宵から臥てゐたが、私は妙に不安な気がして眠れなかつた。大地の上を流れてゐる水が、何処か一ヶ所隙を求めて地中へ流れ込んで行つたらば、其処から地上の有りたけの水が滝のやうになつて注ぎ込んで行つたらば、人間の知らずにゐる間に、地球の中が膿んで崩れて不意に落ち込みはしないかといふやうな気がせられた。 と思ふと、また何者かその地中から頭を上げて、地上の動乱の時機に際して、地上を覆つてゐる人間の家屋を、片端から突き倒しでもしはしないか。何ものかの巨きな手が、今私の臥てゐる家の牀下へ伸ばされて、家を揺り動かしてゐるのではあるまいか。 夢のやうに現のやうに、私ははつと眼が醒めると、たしかに家のゆさ/\揺すぶられたのを感じた。耳を立てると、ごう/\いふ水の音が地中へ流れ込んでゐるやうに思はれた。地中の悶えと、地上の動乱とが、少しも私に安易を与へなかつた。 さういふ不安が幾晩もつゞいた。 五六日経つと五月雨が止んだ。重い雲が一重づゝ剥げた。雲切れの間から雨に洗はれた青空が見えて来た。日の光が地上に落ちた。地の肌からは湯気が立ち上る。ぐつたり垂れてゐた草の葉が勢好く頭を上げる。樹々の芽が伸びだした。 戸障子を開け放つて、雨気の籠つた黴臭い家の中へ日の光を導き入れると、畳の面に、人の足痕のべと/\ついてゐるのも目にはひつた。不図気がついて見ると、畳と畳との間から何か出かゝつてゐるのが目にはひつた。何とも初の間ははつきりしなかつた。傍へよつてよく見ると竹の芽のやうだ。私はぞつとして急いで畳を上げて見た。牀板の破れ目から竹の芽が三四寸伸びて出てゐた。或ものは畳に圧せられて、芽の先を平らにひしやげられたやうにして、それでも猶ほ何処かへ出口を求めよう/\と悶えてゐるやうな様をしてゐた。或ものは丁度畳の敷合せを求めてずん/\伸び上らうとしてゐた。 私は畳を三四枚上げて、牀板ゆかいたを剥がして見た。庭から流れ込んだ水が、まだ其処此処にじくじく溜つてゐる中から、ひよろひよろした竹の芽が、彼方にも此方にも一面に伸び出て、牀板に頭をつかえて、恨めしさうに曲つてゐた。水溜の中を蛇のうねつてゐるやうに、太い竹の根が地中を爬はつてゐた。日の光が何処からか洩れて、其処まで射し込んで、不思議な色に光つてゐた。 私は怖ろしくなつた。竹の芽を摘み取るのさへ不気味に思つて、そのまゝ牀板を打ち付けて畳を敷いた。けれど畳の間に出てゐる芽が気になつて、其処へ臥る気にもなれなかつた。牀下の有様を思ふと、その上へ平気で臥てゐる気にもなれなかつた。 縁さきへその芽は五六寸伸びて、幾本も頭を出した。その頭は家の中を覗き込むやうにした。玄関の土間からはむく/\地を破つて、頭を上げて来た。上げ板などは下から幾度となくこつ/\突つかれた。家全体が今にも顛覆させられさうに思はれた。 私は冬からかけて二三ヶ月ゐたその家を早速移ることにした。其後も私は二三回その家の前を通つたが、何人も住んでゐる人がなかつた。 私は、その家の中に、竹の芽が思ふまゝに伸びて、戸障子や襖ふすまのゆがんでゐる有様を思ひ浮べて、こそ/\その家の前を通り過ぎた。 |
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●五月雨 6 | |
関東「梅雨入り」を迎えました。雨が降り続いたかと思うと、一時の「梅雨の中休み」もあります。この梅雨前線の気まぐれに一喜一憂する日々を過ごされているのではないでしょうか。この梅雨時期の雨のことを、古人は「五月雨」と名付けました。そして、この雨の降り方になぞらえて、とぎれながらも何度か続けて行う様を、「五月雨式に」という表現まで、誕生しています。
「五月雨」は、「さみだれ」と読むことは周知の事実。これほどの難読漢字を「ごがつあめ」と読む方が少ないほど、我々日本人に定着している不思議な言葉だと思いませんか。五月雨は梅雨のことを指し示すのですが、5月に梅雨?という違和感を差し置いて、不思議なほどに違和感なく受け入れている面白い言葉です。 明治時代に旧暦(月の周期)から新暦(太陽の周期)へ移行する際に、1か月ほどもズレの生じる誤差がありながら、六月雨と書き換えずにそのまま残すあたりは、「漢字」そのものよりも「読み」に大切な意味があるからなのか。「五月」を「さつき」読みます。ところが、漢字の語源辞典を紐解いてみても、「五」に「さ」の読みはありません。「さ」の月が、5番目の月だった…はて、「さ」の月とは? 古人は、田の神を指し示す言葉を、いや口にする音を「さ」としていたようです。以前にも書きましたが、「すわる場所」のことを「座(くら)」といい、田の神が山より舞い下りる場が、「さ・くら」です。農耕民族である日本人が、桜の開花を待ち望む理由は、古人より連綿と受け継がれてきた「田の神」信仰が、知らず知らずにDNAに刻み込まれているからだと考えています。田の神が舞い降りたことへの感謝の気持ちと、豊穣を祈念する「お祭り」こそ、「花見」のルーツなのだといいます。 収穫の源でもある、田植えのための稲を「早苗(さ・なえ)」と呼び、田植えを担う女性を「早乙女(さ・おとめ)」と言います。過ぎ去りし五月五日は「端午の節句」でした。今では三月三日の「ひな祭り」と対をなす男の子のお祝いとして定着していますが、かつては女性のための日でした。 今では、田植え機の登場で、過去とは比べ物にならないほどスピーディーになった「田植え」ですが、かつては手植えであり、途方もない時を要しました。家族はもちろん、親族や、村仲間も含め、一丸となって取り組まねばならなかったはずです。そして、この重労働の主たる担い手が、前述した「早乙女」です。 実りをもたらす神聖なる「田」に、田の神の息吹のかかる「早苗(さ・なえ)」を「早乙女(さ・おとめ)」が手植えをしてゆきます。そこで、田植えを前に「穢(けがれ)をおとす」ために、早乙女たちが身を清め「何もしない」日が必要になります。それが、5月5日でした。この日は、村中の田植えの担い手である、女性たち「早乙女」は、家事など一切何もしてはいけない安息日であり、その代わりに、男共があくせく働かなければいけない日なのです。まさに、「女性天下の日」だったのです。そして、翌日から「田植え」が始まります。 五月は、大いなる実りを得るための大切な「田植えの月」であるということ。「早苗月(さ・なえづき)」ともいわれますが、これほど重大イベントであるからこそ、余計な言葉を省き、「さ」の月と命名した。旧暦の中で5番目が、その「さ」の月に当たったのです。だから五月を「さ・つき」と読みようになったのだと。もちろん、異論諸説があるかと思いますが、自分のように余計な知識が無い分、素直に受け取れるのがこの説でした。 「水田」というほどに、稲作には豊富な水資源を必要とします。古人は、この水資源確保のために、果敢に灌漑に挑戦し続けてきた歴史があります。特に、田植え時には豊富な水を必要とします。山間を流れる清流はもちろん、降り続ける雨もまた、貴重な水資源です。 灌漑用水路が整うまでは、田植え時期に降り続ける大量の雨は、まさに恵みの雨であったはず。そこで、「さ」の月の雨を、「さ・みだれ」と命名しました。「さ」は前述の通り、「みだれ」は「水垂れ」と書き記すといいます。「さ・みだれ」は、五月に降る雨なので、「五月雨」である。 「五月(さ・つき)」も「五月雨(さ・みだれ)」も、かくも美しき響きをもっていることでしょうか。 |
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●五月雨 7 | |
五月雨という言葉の意味をご存知ですか?「さつきあめ」と読むこともありますが、ここでは「さみだれ」です。
その昔、松尾芭蕉が「五月雨を集めて早し最上川」という句を詠みました。芭蕉が最上川を舟で下っていたとき、五月雨の大量な雨水を全てひとつに集めたかのように感じて作った句です。 雨という漢字が使われているくらいですから、五月雨とは文字通り「雨」です。それでは一体、どんな雨のことを指しているのでしょうか。 ●意味 一番間違えられやすいのが、雨の降る時期です。五月の雨とは書きますが、実際には5月に降る雨を指しているのではありません。旧暦の5月の雨です。 つまり、新しい現在の暦では、梅雨の時期に当たります。 「だらだらと降り続く梅雨の長雨」という意味だとしたら、芭蕉が大量の川の水を「五月雨」に例えたのも頷けますね。 また、そこから転じて、梅雨の長雨のようにいつまでもだらだら続いていく様子を例えて使われることもあります。「五月雨式」という言葉を耳にしてことはありませんか? ●由来 意味を確認したところで、次は「五月雨」という言葉の由来を見てみましょう。このまま読むと、「ごがつあめ」とで読んでしまいそうですが、実際の読み方は「さみだれ」です。 「さ」は「皐月・五月(さつき)」や「早苗(さなえ)」という言葉に共通しており、古語では「神に捧げる稲」を表します。「みだれ」とは「水垂れ(みだれ)」のことです。 つまり、雨が降るという意味の言葉だと言われています。 梅雨に降る雨であるため、梅雨と同じ意味で使われる場合もあります。しかし、季節を意味する梅雨に対して、五月雨は長雨そのものを示しています。 |
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●五月雨 8 | |
●「五月雨」とは“梅雨に降る雨”のこと
五月雨を集めて早し最上川 これは江戸時代の有名な俳人、松尾芭蕉(まつおばしょう)が詠んだ俳句です。松尾芭蕉の作品の中でも有名な一句なのでご存知の方も多いでしょう。ちなみに意味はこんな感じ「五月雨を集めてきたように最上川は流れがすごいなー」。最上川は山形県を流れる川です。 ここでいう「五月雨」ですが、現在の5月に降る雨ではないことはご存知でしょうか。「五月雨」とは梅雨に降る雨のことを指します。梅雨といえば6月ですよね。なぜ“六月雨”ではなく「五月雨」なのでしょう。答えは簡単。ここでいう“五月”は旧暦の5月だからです。旧暦5月は現在でいう6月頃を指します。 ●「五月雨」の読み方 今更ですが、「五月雨」は何と読むでしょう。「さみだれをあつめてはやし…」と俳句を思い出せばスッと出てきますが、「五月雨」だけ見て一瞬、「ごがつあめ?」「さつきあめ?」と迷ったことがある人はいませんか。 「五月雨」は“さみだれ”と読みます。「さ」は旧暦5月を指す「五月・皐月(さつき)」から。「水垂(みだれ)」には「雨が降る」という意味があります。 「さつきあめ」と読む場合もありますが、一般的に「ごがつあめ」とは読まないので注意。 ●「五月雨式」とは 芭蕉の俳句ぐらいでしか耳にしない「五月雨」よりも、「五月雨式(さみだれしき)」の方がビジネスパーソンにとっては馴染み深いかもしれません。 「五月雨式にすみません」というフレーズを聞いたことはないでしょうか。 「五月雨式」とは物事をまとめてではなく、小出しにして断続的に行っていくこと。「五月雨」が表す梅雨の雨のように、少しずつ断続的に続いていく様に例えています。 ビジネスシーンではEメール等で質問や依頼、情報などをまとめてではなく小出しに送信、連絡していく様を表す言葉として使われています。また、商品や書類などを小出しに納品、提出するような際も使用します。 「五月雨式にすみません」とは、まとめて連絡や情報提供できないことを謝罪する際の言葉です。 ●「五月雨式」の例・使い方 ビジネスシーンでの「五月雨式」とは具体的にどのようなものなのでしょうか。以下の例文で見ていきましょう。 「五月雨式」のEメール A社との打ち合わせの件です。B案とC案だったらB案の方がいいといっていました。 オッケー。次回の打ち合わせまでにB案をもっと詰めておいて C案も条件によってはありとのことでした。 B案を前提に進めつつ、C案も準備しておいて でも、やっぱりまったく新しいD案を持ってきてといってました 結局どうだったの!?一度にまとめてよ(怒) 「五月雨式」の悪い例ですね。あらかじめ「五月雨式にすみません」と断っておけば怒らせることはなかったかも。とはいえ、この表現を知っている人であれば、あえてだらだらしたEメールは送らないですよね。 「五月雨式にすみません」と断るのは、事情があって断続的にならざるおえない場合です。例えば以下のような場合。 ・送信した後に新情報が出て、追加送信 ・完成したものから順次納品していく ・相手の様子を見ながら情報を小出しにして渡す 事情がある場合に「五月雨式にすみません」、「五月雨式になってしまいますが…」と断りを入れておけば相手を怒らせることはないでしょう。 「五月雨式」の例文 ・五月雨式にすみません。 ・五月雨式に申し訳ありません。 ・五月雨式ではございますが… ・五月雨式に失礼いたします。 ●「五月雨」の類語 「五月雨」を言い換えるとしたら「梅雨」「大雨」「長雨」「じとじと雨」「6月の雨」などでしょうか。「5月の雨」と言い換えるのは間違いです。「旧暦5月の雨」ならいいかもしれません。 「五月雨」と似た言葉で「五月晴れ(さつきばれ・ごがつばれ)」はご存知でしょうか。 「はいはい、これも「五月雨」と同じで5月の晴れた天気のことじゃなくて、6月の晴れ日のことなんでしょ」 と考えたあなた!半分正解で半分外れです。たしかに「五月晴れ」は以前は梅雨の合間の晴れ日のことを指しましたが、現在では5月の晴れ日のことも指すようになっています。 その証拠に気象庁のサイトを見ても「五月晴れ」の意味は「5月の晴天」とあります。備考には「本来は旧暦の5月(さつき)からきたことばで、梅雨の合間の晴れのことを指していた」とあるように、誤用が一般的になり浸透していったようです。 ニュースや新聞で見聞きする「五月晴れ」は基本的に「5月の晴天」であると覚えておきましょう。 「さつきばれ」と読むと「梅雨の合間の晴れ」、「ごがつばれ」と読むと「5月の晴天」と使い分ける説もあります。 ちなみに、「五月雨」は気象庁では使用を控えるべき言葉として「予報、解説には用いない」と記載されています。 ●「五月雨式」の類語 「五月雨式」を言い換えるとしたら、「断続的」「だらだら」「絶え間なく」などが挙げられます。 「五月雨式にすみません」というフレーズごと言い換えるのであれば、「まとめてお渡しできず申し訳ありません」といった言い回しが可能です。 ●「五月雨式」は断りを入れてから 誰でも連絡は、まとめてスマートに行いたいですよね。報告や納品も同じです。小出しにして提出するよりも、一度で終わらせた方が何だかできるビジネスパーソンっぽい… とはいえ、いつでもそんな風にうまくできるわけではありません。自分の意思に反して「五月雨式」にならざるおえないこともあるでしょう。また、戦略的に「五月雨式」にする場合もあります。 だらだらと理由もわからず「五月雨式」に連絡されたら腹を立てる人もいますが、あらかじめ「五月雨式になるかもしれません」といえば問題ないでしょう。「五月雨式」になりそうなときは断りを入れておけばスマートです。 |
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●奥の細道 | |
●「序章」
月日は百代という長い時間を旅していく旅人のようなものであり、その過ぎ去って行く一年一年もまた旅人なのだ。船頭のように舟の上に生涯を浮かべ、馬子のように馬の轡(くつわ)を引いて老いていく者は日々旅の中にいるのであり、旅を住まいとするのだ。西行、能因など、昔も旅の途上で亡くなった人は多い。私もいくつの頃だったか、吹き流れていくちぎれ雲に誘われ漂泊の旅への思いを止めることができず、海ぎわの地をさすらい、去年の秋は川のほとりのあばら家に戻りその蜘蛛の古巣をはらい一旦落ち着いていたのだが、しだいに年も暮れ春になり、霞のかかった空をながめていると、ふと【白河の関】を越してみたくなり、わけもなく人をそわそわさせるという【そぞろ神】に憑かれたように心がさわぎ、【道祖神】の手招きにあって何も手につかない有様となり、股引の破れを繕い、笠の緒をつけかえ、三里のつぼに灸をすえるそばから、松島の月がまず心にかかり、住み馴れた深川の庵は人に譲り、旅立ちまでは門人【杉風(さんぷう)】の別宅に移り、 草の戸も 住み代わる世ぞ 雛の家 (戸口が草で覆われたこのみすぼらしい深川の宿も、私にかわって新しい住人が住み、綺麗な雛人形が飾られるようなはなやかな家になるのだろう) と発句を詠み、面八句を庵の柱に書き残すのだった。 ●序文(じょぶん) 月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人(たびびと)なり。 舟の上に生涯(しょうがい)をうかべ、馬の口とらえて老(おい)をむかふるものは、日々(ひび)旅(たび)にして旅(たび)を栖(すみか)とす。 古人(こじん)も多く旅(たび)に死(し)せるあり。 よもいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊(ひょうはく)の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(こうしょう)の破屋(はおく)にくもの古巣(ふるす)をはらひて、やや年も暮(くれ)、春立てる霞(かすみ)の空に白河(しらかわ)の関こえんと、そぞろ神(がみ)の物につきて心をくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて、取(と)るもの手につかず。 ももひきの破(やぶ)れをつづり、笠(かさ)の緒(お)付(つ)けかえて、三里(さんり)に灸(きゅう)すゆるより、松島の月まず心にかかりて、住(す)める方(かた)は人に譲(ゆず)り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移(うつ)るに、 草の戸も 住替(すみかわる)る代(よ)ぞ ひなの家 面八句(おもてはちく)を庵(いおり)の柱(はしら)にかけ置(お)く。 |
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●「千住」
二月二十七日、夜明け方の空はおぼろに霞み、有明の月はもう光が薄くなっており、富士の峰が遠く幽かにうかがえる。上野・谷中のほうを見ると木々の梢がしげっており、これら花の名所を再び見れるのはいつのことかと心細くなるのだった。親しい人々は宵のうちから集まって、舟に乗って送ってくれる。千住というところで舟をあがると、これから三千里もの道のりがあるのだろうと胸がいっぱいになる。この世は幻のようにはかないものだ、未練はないと考えていたが、いざ別れが近づくとさすがに泪があふれてくる。 行春や鳥啼魚の目は泪 (意味)春が過ぎ去るのを惜しんで鳥も魚も目に涙を浮かべているようだ。 これをこの旅で詠む第一句とした。見送りの人々は別れを惜しんでなかなか足が進まない。ようやく別れて後ろを振り返ると、みんな道中に立ち並んでいる。後ろ姿が見える間は見送ってくれるつもりなんだろう。 ●旅立ち(たびだち) 弥生(やよい)も末(すえ)の七日、あけぼのの空朧々(ろうろう)として、月はありあけにて光おさまれるものから、富士(ふじ)の嶺(みね)かすかに見えて、上野(うえの)・谷中(やなか)の花の梢(こずえ)、またいつかはと心ぼそし。 むつましきかぎりは宵(よい)よりつどひて、舟に乗(の)りて送る。 千じゆといふ所にて舟をあがれば、前途(せんど)三千里(さんぜんり)の思い胸(むね)にふさがりて、幻(まぼろし)のちまたに離別(りべつ)の泪(なみだ)をそそぐ。 行(ゆ)く春や 鳥啼(なき)魚(うお)の 目は泪(なみだ) これを矢立(やたて)の初(はじめ)として、行(ゆ)く道なを進まず。 人々は途中(みちなか)に立(た)ちならびて、後(うし)ろかげの見ゆるまではと見送(みおく)るなるべし。 |
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●「草加」
今年は元禄二年であったろうか、奥羽への長旅をふと気まぐれに思い立った。この年で遠い異郷の空の下を旅するなど、さぞかし大変な目にあってさらに白髪が増えるに決まっているのだ。しかし話にだけ聞いて実際目で見たことはない地域を、ぜひ見てみたい、そして出来るなら再びもどってきたい。そんなあてもない願いを抱きながら、その日草加という宿にたどり着いた。何より苦しかったのは痩せて骨ばってきた肩に、荷物がずしりと重く感じられることだ。できるだけ荷物は持たず、手ぶらに近い格好で出発したつもりだったが、夜の防寒具としては紙子が一着必要だし、浴衣・雨具・墨・筆などもいる。その上どうしても断れない餞別の品々をさすがに捨ててしまうわけにはいかない。こういうわけで、道すがら荷物がかさばるのは仕方のないことなのだ。 ●草加(そうか) ことし元禄(げんろく)二(ふた)とせにや、奥羽(おうう)長途(ちょうど)の行脚(あんぎゃ)ただかりそめに思ひたちて、呉天(ごてん)に白髪(はくはつ)の恨(うら)みを重(かさ)ぬといへども、耳にふれていまだ目に見ぬ境(さかい)、もし生(いき)て帰らばと、定(さだめ)なき頼(たの)みの末(すえ)をかけ、その日ようよう早加(そうか)といふ宿(しゅく)にたどり着(つ)きにけり。 痩骨(そうこつ)の肩(かた)にかかれるもの、まずくるしむ。 ただ身(み)すがらにと出(い)で立(た)ちはべるを、帋子(かみこ)一衣(いちえ)は夜の防(ふせ)ぎ、ゆかた・雨具(あまぐ)・墨筆(すみふで)のたぐひ、あるはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは、さすがに打捨(うちすて)がたくて、路頭(ろとう)の煩(わずらい)となれるこそわりなけれ。 |
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●「室の八島」
室の八島と呼ばれる神社に参詣する。旅の同行者、曾良が言うには、「ここに祭られている神は木の花さくや姫の神といって、富士の浅間神社で祭られているのと同じご神体です。木の花さくや姫が身の潔白を証しするために入り口を塞いだ産室にこもり、炎が燃え上がる中で火々出身のみことをご出産されました。それによりこの場所を室の八島といいます。また、室の八島を歌に詠むときは必ず「煙」を詠み込むきまりですが、それもこのいわれによるのです。また、この土地では「このしろ」という魚を食べることを禁じているが、それも木の花さくや姫の神に関係したことだそうで、そういった神社の由来はよく世の中に知られている。 ●室の八島(むろのやしま) 室(むろ)の八嶋(やしま)に詣(けい)す。 同行(どうぎょう)曽良(そら)がいわく、「この神(かみ)は木(こ)の花さくや姫(ひめ)の神(かみ)ともうして富士(ふじ)一躰(いったい)なり。 無戸室(うつむろ)に入(い)りて焼(や)きたまふちかひのみ中に、火火出見(ほほでみ)のみこと生れたまひしより室(むろ)の八嶋(やしま)ともうす。 また煙(けむり)を読習(よみならわ)しはべるもこの謂(いわれ)なり」。 はた、このしろといふ魚を禁(きん)ず。 縁記(えんぎ)のむね世(よ)に伝(つた)ふこともはべりし。 |
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●「仏五左衛門」
三月三十日、日光山のふもとに宿を借りて泊まる。宿の主人が言うことには、「私の名は仏五左衛門といいます。なんにでも正直が信条ですから、まわりの人から「仏」などと呼ばれるようになりました。そんな次第ですから今夜はゆっくりおくつろぎください」と言うのだ。いったいどんな種類の仏がこの穢れた世に姿を現して、このように僧侶(桑門)の格好をして乞食巡礼の旅をしているようなみすぼらしい者をお助けになるのだろうかと、主人のやることに心をとめて観察していた。すると、知恵や分別が発達したということでは全くなく、ただひたすら正直一途な者なのだ。論語にある「剛毅朴訥は仁に近し」という言葉を体現しているような人物だ。生まれつきもっている(気稟)、清らかな性質(清質)なんだろう、こういう者こそ尊ばれなければならない。 ●仏五左衛門(ほとけござえもん) 卅日(みそか)、日光山(にっこうざん)の梺(ふもと)に泊(とま)る。 あるじのいいけるやう、「わが名を仏五左衛門(ほとけござえもん)といふ。よろず正直(しょうじき)をむねとするゆえに、人かくはもうしはべるまま、一夜(いちや)の草の枕(まくら)もうとけて休みたまへ」といふ。 いかなる仏(ほとけ)の濁世塵土(じょくせじんど)に示現(じげん)して、かかる桑門(そうもん)の乞食順礼(こつじきじゅんれい)ごときの人をたすけたまふにやと、あるじのなすことに心をとどめてみるに、ただ無智無分別(むちむふんべつ)にして、正直偏固(しょうじきへんこ)の者(もの)なり。 剛毅木訥(ごうきぼくとつ)の仁(じん)に近きたぐひ、気禀(きひん)の清質(せいしつ)もっとも尊(とうと)ぶべし。 |
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●「日光」
四月一日、日光の御山に参詣する。昔この御山を「二荒山(ふたらさん)」と書いたが、空海大師が開基した時、「日光」と改められたのだ。大師は千年先の未来までも見通すことできたのだろうか、今この日光東照宮に祭られている徳川家康公の威光が広く天下に輝き、国のすみずみまであふれんばかりの豊かな恩恵が行き届き、士農工商すべて安心して、穏やかに住むことができる。なお、私ごときがこれ以上日光について書くのは畏れ多いのでこのへんで筆を置くことにする。 あらたふと青葉若葉の日の光 (意味)ああなんと尊いことだろう、「日光」という名の通り、青葉若葉に日の光が照り映えているよ。 ●日光(にっこう) 卯月(うづき)朔日(ついたち)、御山(おやま)に詣拝(けいはい)す。 往昔(そのむかし)この御山(おやま)を二荒山(ふたらさん)と書きしを、空海大師(くうかいだいし)開基(かいき)の時、日光と改(あらた)めたまふ。 千歳未来(せんざいみらい)をさとりたまふにや。 今この御光(みひかり)一天(いってん)にかかやきて、恩沢八荒(おんたくはっこう)にあふれ、四民安堵(しみんあんど)の栖(すみか)穏(おだやか)なり。 猶(なお)憚(はばかり)多くて筆(ふで)をさし置(おき)ぬ。 あらたうと 青葉若葉(あおばわかば)の 日の光 |
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●「黒髪山」
古歌に多く「黒髪山」として詠まれている日光連峰のひとつ、男体山(なんたいざん)をのぞむ。霞がかかって、雪がいまだに白く残っている。 剃捨てて黒髪山に衣更 曾良 (意味)旅に出発する時に髪を剃って坊主の姿となった。今また四月一日衣更えの時期に、その名も黒髪山を越え、この旅にかける決意を新たにするのだった。 曾良は河合という姓で名は惣五郎という。深川の芭蕉庵の近所に住んでいて、私の日常のことを何かと手伝ってくれていた。今回、有名な松島、象潟の眺めを一緒に見ることを喜び、また旅の苦労を労わりあおうと、出発の日の早朝、髪をおろして僧侶の着る墨染の衣に着替え、名前も惣五から僧侶風の「宗悟」と変えた。こういういきさつで、この黒髪山の句は詠まれたのだ。「衣更」の二字には曾良のこの旅にかける覚悟がこめられていて、力強く聞こえることよ。二十丁ちょっと山を登ると滝がある。窪んだ岩の頂上から水が飛びはねて、百尺もあうかという高さを落ちて、沢山の岩が重なった真っ青な滝つぼの中へ落ち込んでいく。岩のくぼみに身をひそめると、ちょうど滝の裏から見ることになる。これが古くから「うらみの滝」と呼ばれるゆえんなのだ。 暫時は滝に籠るや夏の初 (意味)滝の裏の岩屋に入ったこの状況を夏行(げぎょう)の修行と見立ててしばらくはこもっていようよ。 ●黒髪山(くろかみやま) 黒髪山(くろかみやま)は霞(かすみ)かかりて、雪いまだ白し。 剃捨(そりすて)て 黒髪山(くろかみやま)に 衣更(ころもがえ) 曽良 曽良(そら)は河合氏(かわいうじ)にして、惣五郎(そうごろう)といへり。 芭蕉(ばしょう)の下葉(したば)に軒(のき)をならべて、よが薪水(しんすい)の労(ろう)をたすく。 このたび松島(まつしま)・象潟(きさがた)の眺(ながめ)ともにせんことを悦(よろこ)び、かつは羈旅(きりょ)の難(なん)をいたはらんと、旅(たび)立つ暁(あかつき)髪(かみ)を剃(そ)りて墨染(すみぞめ)にさまをかえ、惣五(そうご)を改(あらため)て宗悟(そうご)とす。 よって黒髪山(くろかみやま)の句(く)あり。 「衣更(ころもがえ)」の二字(にじ)力(ちから)ありてきこゆ。 廿余丁(にじゅうよちょう)山を登つて瀧(たき)あり。 岩洞(がんとう)の頂(いただき)より飛流(ひりゅう)して百尺(はくせき)、千岩(せんがん)の碧潭(へきたん)に落(お)ちたり。 岩窟(がんくつ)に身(み)をひそめ入(い)りて瀧(たき)の裏(うら)より見れば、裏見(うらみ)の瀧(たき)ともうし伝(つた)えはべるなり。 しばらくは 瀧(たき)に籠(こも)るや 夏(げ)の初(はじめ) |
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●「那須」
那須の黒羽という所に知人がいるので、これから那須野を超えてまっすぐの道を行くことにする。はるか彼方に村が見えるのでそれを目指して行くと、雨が降ってきて日も暮れてしまう。百姓屋で一晩泊めてもらい、翌朝また広い那須野の原野の中を進んでいく。そこに、野に飼ってある馬があった。そばで草を刈っていた男に道をたずねると、片田舎のなんでもない男だが、さすがに情けの心を知らないわけではなかった。「さあ、どうしたもんでしょうか。しかしこの那須野の原野は縦横に走っていて、初めて旅する人が道に迷うことも心配ですから、この馬をお貸しします。馬の停まったところで送り返してください」こうして馬を借りて進んでいくと、後ろから子供が二人馬のあとを慕うように走ってついてくる。そのうち一人は女の子で、「かさね」という名前であった。あまり聞かない優しい名前だということで、曾良が一句詠んだ。 かさねとは八重撫子の名成べし 曽良 (意味)可愛らしい女の子を撫子によく例えるが、その名も「かさね」とは撫子の中でも特に八重撫子を指しているようだ。 それからすぐ人里に出たので、お礼のお金を馬の鞍つぼ(鞍の中央の人が乗るくぼんだ部分)に結び付けて、馬を返した。 ●那須(なす) 那須(なす)の黒ばねといふ所(ところ)に知人(しるひと)あれば、これより野越(のごえ)にかかりて、直道(すぐみち)をゆかんとす。 遥(はるか)に一村(いっそん)を見かけて行(ゆ)くに、雨降(ふ)り日暮(く)るる。 農夫(のうふ)の家に一夜(いちや)をかりて、明(あく)ればまた野中(のなか)を行(ゆ)く。 そこに野飼(のがい)の馬あり。 草刈(か)る男の子(おのこ)になげきよれば、野夫(やふ)といへどもさすがに情(なさけ)しらぬには非(あら)ず。 「いかがすべきや。されどもこの野は縦横(じゅうおう)にわかれて、うゐうゐ(ういうい)しき旅人(たびびと)の道ふみたがえむ、あやしうはべれば、この馬のとどまる所にて馬を返したまへ」と、かしはべりぬ。 ちいさき者ふたり、馬の跡(あと)したひて走る。 独(ひとり)は小姫(こひめ)にて、名をかさねといふ。 聞きなれぬ名のやさしかりければ、 かさねとは 八重撫子(やえなでしこ)の 名(な)成(な)るべし 曽良 やがて人里(ひとざと)にいたれば、あたひを鞍(くら)つぼに結付(むすびつ)けて、馬を返(かえ)しぬ。 |
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●「黒羽」
黒羽藩の留守居役の家老である、浄坊寺何がしという者の館を訪問する。主人にとっては急な客人でとまどったろうが、思いのほかの歓迎をしてくれて、昼となく夜となく語り合った。その弟である桃翠という者が朝夕にきまって訪ねてきて、自分の館にも親族の住まいにも招待してくれた。こうして何日か過ごしていたが、ある日郊外に散歩に出かけた。昔、犬追物に使われた場所を見て、那須の篠原を掻き分けるように通りすぎ、九尾の狐として知られる玉藻の前の塚を訪ねた。それから八幡宮に参詣した。かの那須与一が扇の的を射る時「(いろいろな神々の中でも特に)わが国那須の氏神である正八幡さまに(お願いします)」と誓ったのはこの神社だときいて、感動もいっそう大きくなるのだった。日が暮れると、再び桃翠宅に戻る。近所に修験光明寺という寺があった。そこに招かれて、修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)をまつってある行者堂を拝んだ。 夏山に足駄を拝む首途哉 (意味)役小角(えんのおづぬ)のお堂を拝む。この夏山を越せばもう奥州だ。小角が高下駄をはいて山道を下ったというその健脚にあやかりたいと願いつつ、次なる門出の気持ちを固めるのだ。 ●黒羽(くろばね) 黒羽(くろばね)の館代(かんだい)浄坊寺(じょうほうじ)何(なに)がしの方(かた)におとずる。 思ひがけぬあるじの悦(よろこ)び、日夜(にちや)語(かた)りつづけて、その弟(おとうと)桃翠(とうすい)などいふが、朝夕(ちょうせき)勤(つと)めとぶらひ、自(みずから)の家にも伴(ともな)ひて、親属(しんぞく)の方(かた)にもまねかれ、日をふるままに、日とひ郊外(こうがい)に逍遙(しょうよう)して、犬追物(いぬおうもの)の跡(あと)を一見(いっけん)し、那須(なす)の篠原(しのはら)をわけて玉藻の前(たまものまえ)の古墳(こふん)をとふ。 それより八幡宮(はちまんぐう)に詣(もう)ず。 与一(よいち)扇(おうぎ)の的(まと)を射(い)し時、「べっしては我国氏神(わがくにのうじがみ)正八(しょうはち)まん」とちかひしもこの神社(じんじゃ)にてはべると聞けば、感應(かんのう)殊(ことに)しきりに覚(おぼ)えらる。 暮(くるれば桃翠(とうすい)宅(たく)に帰る。 修験光明寺(しゅげんこうみょうじ)といふあり。 そこにまねかれて行者堂(ぎょうじゃどう)を拝(はい)す。 夏山(なつやま)に 足駄(あしだ)をおがむ かどでかな |
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●「雲巌寺」
下野国の臨済宗雲巌寺の奥の山に、私の禅の師である仏頂和尚が山ごもりしていた跡がある。「縦横五尺に満たない草の庵だが、雨が降らなかったらこの庵さえ必要ないのに。住まいなどに縛られないで生きたいと思ってるのに残念なことだ」と、松明の炭で岩に書き付けたと、いつか話してくださった。その跡を見ようと、雲巌寺に杖をついて向かうと、ここの人々はお互いに誘い合って案内についてきてくれた。若い人が多く、道中楽しく騒いで、気付いたら麓に到着していた。この山はだいぶ奥が深いようだ。谷ぞいの道がはるかに続き、松や杉が黒く茂って、苔からは水がしたたりおちていた。さて、仏頂和尚山ごもりの跡はどんなものだろうと裏山に上ると、石の上に小さな庵が、岩屋にもたれかかるように建っていた。話にきく妙禅師の死関や法雲法師の石室を見るような思いだった。 木啄も庵はやぶらず夏木立 (意味)夏木立の中に静かな庵が建っている。さすがの啄木鳥も、この静けさを破りたくないと考えてか、この庵だけはつつかないようだ。 と、即興の一句を柱に書き残すのだった。 ●雲巌寺(うんがんじ) 当国(とうごく)雲巌寺(うんがんじ)のおくに佛頂和尚(ぶっちょうおしょう)山居跡(さんきょのあと)あり。 竪横(たてよこ)の 五尺(ごしゃく)にたらぬ 草(くさ)の庵(いお) むすぶもくやし 雨なかりせば と、松の炭(すみ)して岩に書き付(つ)けはべりと、いつぞや聞こえたまふ。 その跡(あと)みむと雲岸寺(うんがんじ)に杖(つえ)をひけば、人々すすんでともにいざなひ、若(わか)き人おほく、道のほど打(う)ちさはぎて、おぼえずかの梺(ふもと)にいたる。 山はおくあるけしきにて、谷道(たにみち)はるかに、松(まつ)杉(すぎ)黒く、苔(こけ)しただりて、卯月(うづき)の天今なお寒(さむ)し。 十景(じっけい)つくる所(ところ)、橋(はし)をわたつて山門(さんもん)に入(い)る。 さて、かの跡(あと)はいづくのほどにやと、後(うし)ろの山によぢのぼれば、石上(せきじょう)の小庵(しょうあん)岩窟(がんくつ)にむすびかけたり。 妙禅師(みょうぜんじ)の死関(しかん)、法雲法師(ほううんほうし)の石室(せきしつ)を見るがごとし。 木啄(きつつき)も 庵(いお)はやぶらず 夏木立(なつこだち) と、とりあへぬ一句(く)を柱(はしら)に残(のこ)しはべりし。 |
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●「殺生石・遊行柳」
黒羽を出発して、殺生石に向かう。伝説にある玉藻前が九尾の狐としての正体を暴かれ、射殺されたあと石に変化したという、その石が殺生石だ。黒羽で接待してくれた留守居役家老、浄法寺氏のはからいで、馬で送ってもらうこととなった。すると馬の鼻緒を引く馬子の男が、「短冊をくれ」という。馬子にしては風流なこと求めるものだと感心して、 野を横に馬牽むけよほとゝぎす (意味)広い那須野でほととぎすが一声啼いた。その声を聞くように姿を見るように、馬の頭をグーッとそちらへ向けてくれ。そして馬子よ、ともに聞こうじゃないか。 殺生石は、温泉の湧き出る山陰にあった。石の姿になっても九尾の狐であったころの毒気がまだ消えぬと見えて、蜂や蝶といった虫類が砂の色が見えなくなるほど重なりあって死んでいた。また、西行法師が「道のべに清水ながるゝ柳かげしばしとてこそたちどまりつれ」と詠んだ柳を訪ねた。その柳は蘆野の里にあり、田のあぜ道に残っていた。ここの領主、戸部某という者が、「この柳をお見せしなければ」としばしば言ってくださっていたのを、どんな所にあるのかとずっと気になっていたが、今日まさにその柳の陰に立ち寄ったのだ。 田一枚植て立ち去る柳かな (意味)西行法師ゆかりの遊行柳の下で座り込んで感慨にふけっていると、田植えをしているのが見える。(私は?)田んぼ一面植えてしまうまでしみじみと眺めて立ち去るのだった ●殺生石・遊行柳(せっしょうせき・ゆぎょうやなぎ) これより殺生石(せっしょうせき)に行(ゆ)く。 館代(かんだい)より馬にて送(おく)らる。 この口付(つ)きの男の子(おのこ)、短冊(たんじゃく)得(え)させよとこう。 やさしきことを望(のぞ)みはべるものかなと、 野(の)を横(よこ)に 馬(うま)ひきむけよ ほととぎす 殺生石(せっしょうせき)は温泉(いでゆ)の 出(い)づる山陰(やまかげ)にあり。 石の毒気(どくけ)いまだほろびず。 蜂(はち)蝶(ちょう)のたぐひ真砂(まさご)の色の見えぬほどかさなり死す。 また、清水(しみず)ながるるの柳(やなぎ)は蘆野(あしの)の里にありて田の畔(くろ)に残(のこ)る。 この所(ところ)の郡守(ぐんしゅ)戸部(こほう)某(なにがし)のこの柳(やなぎ)見せばやなど、おりおりにのたまひ聞こえたまふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳(やなぎ)のかげにこそ立ち寄(よ)りはべりつれ。 田(た)一枚(いちまい) 植(う)えて立ち去(さ)る 柳(やなぎ)かな |
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●「白河の関」
最初は旅といっても実感がわかない日々が続いたが、白河の関にかかる頃になってようやく旅の途上にあるという実感が湧いてきた。平兼盛は「いかで都へ」と、この関を越えた感動をなんとか都に伝えたいものだ、という意味の歌を残しているが、なるほどもっともだと思う。特にこの白河の関は東国三関の一つで、昔から風流を愛する人々の心をとらえてきた。能因法師の「霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白川の関」という歌を思うと季節は初夏だが、秋風が耳奥で響くように感じる。また源頼政の「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関」を思うと青葉の梢のむこうに紅葉の見事さまで想像されて、いっそう風雅に思えるのだった。真っ白い卯の花に、ところどころ茨の白い花が咲き混じっており、雪よりも白い感じがするのだ。陸奥守竹田大夫国行が白河の関を越えるのに能因法師の歌に敬意を払って冠と衣装を着替えて超えたという話を藤原清輔が書き残しているほどだ。 卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良 (意味)かつてこの白河の関を通る時、陸奥守竹田大夫国行(むつのかみたけだのだいふくにゆき)は能因法師の歌に敬意を表して 衣装を着替えたという。私たちはそこまではできないがせめて卯の花を頭上にかざして、敬意をあらわそう。 ●白河(しらかわ) 心もとなき日かず重(かさ)なるままに、白河(しらかわ)の関(せき)にかかりて、旅心(たびごころ)定(さだ)まりぬ。 いかで都(みやこ)へと便(たより)求(もと)めしもことわりなり。 中にもこの関(せき)は三関(さんかん)の一(いつ)にして、風騒(ふうそう)の人、心をとどむ。 秋風を耳に残(のこ)し、紅葉(もみじ)を俤(おもかげ)にして、青葉(あおば)の梢(こずえ)なおあはれなり。 卯(う)の花の白妙(しろたえ)に、茨(いばら)の花の咲(さ)きそひて、雪にもこゆる心地(ここち)ぞする。 古人(こじん)冠(かんむり)を正(ただ)し、衣装(いしょう)を改(あらた)めしことなど、清輔(きよすけ)の筆(ふで)にもとどめ置(お)かれしとぞ。 卯(う)の花を かざしに関(せき)の 晴着(はれぎ)かな 曽良(そら) |
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●「須賀川」
このようにして白河の関を超えてすぐに、阿武隈川を渡った。左に会津の代表的な山である磐梯山が高くそびえ、右には岩城・相馬・三春の庄という土地が広がっている。後ろを見ると常陸、下野との境には山々がつらなっていた。かげ沼という所に行くが、今日は空が曇っていて水面には何も写らなかった。須賀川の駅で等窮というものを訪ねて、四五日やっかいになった。等窮はまず「白河の関をどう越しましたか(どんな句を作りましたか)」と尋ねてくる。「長旅の大変さに身も心も疲れ果てておりまして、また見事な風景に魂を奪われ、懐旧の思いにはらわたを絶たれるようでして、うまいこと詠めませんでした」 風流の初やおくの田植うた (意味)白河の関を超え奥州路に入ると、まさに田植えの真っ盛りで農民たちが田植え歌を歌っていた。そのひなびた響きは、陸奥で味わう風流の第一歩となった。 何も作らずに関をこすのもさすがに残念ですから、こんな句を作ったのです」と語ればすぐに俳諧の席となり、脇・第三とつづけて歌仙が三巻も出来上がった。この宿のかたわらに、大きな栗の木陰に庵を建てて隠遁生活をしている何伸という僧があった。西行法師が「橡ひろふ」と詠んだ深山の生活はこんなであったろうとシミジミ思われて、あり合わせのものに感想を書き記した。「栗」という字は「西」の「木」と書くくらいだから西方浄土に関係したものだと、奈良の東大寺造営に貢献した行基上人は一生杖にも柱にも栗の木をお使いになったということだ。 世の人の見付ぬ花や軒の栗 (意味)栗の花は地味であまり世間の人に注目されないものだ。そんな栗の木陰で隠遁生活をしている主人の人柄をもあらわしているようで、おもむき深い。 ●須賀川(すかがわ) とかくして越(こ)え行(ゆ)くままに、あぶくま川を渡(わた)る。 左に会津根(あいづね)高く、右に岩城(いわき)・相馬(そうま)・三春(みはる)の庄(しょう)、常陸(ひたち)・下野(しもつけ)の地をさかひて、山つらなる。 かげ沼といふ所(ところ)を行(ゆ)くに、今日は空(そら)曇(くもり)て物影(ものかげ)うつらず。 須賀川(すかがわ)の駅に等窮(とうきゅう)といふものを尋(たず)ねて、四、五日とどめらる。 まず白河(しらかわ)の関(せき)いかにこえつるやと問(と)う。 「長途(ちょうど)のくるしみ、身心(しんじん)つかれ、かつは風景(ふうけい)に魂(たましい)うばはれ、懐旧(かいきゅう)に腸(はらわた)を断(た)ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。 風流(ふうりゅう)の 初(はじめ)やおくの 田植(たうえ)うた 無下(むげ)にこえんもさすがに」と語(かた)れば、脇(わき)・第三(だいさん)とつづけて、三巻(みまき)となしぬ。 この宿(しゅく)のかたわらに、大きなる栗(くり)の木陰(こかげ)をたのみて、世(よ)をいとふ僧(そう)あり。 橡(とち)ひろふ太山(みやま)もかくやとしづかに覚(おぼ)えられてものに書き付(つ)はべる。 其詞(そのことば)、 栗(くり)といふ文字(もんじ)は西の木と書きて 西方浄土(さいほうじょうど)に便(たより)ありと、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の一生(いっしょう) 杖(つえ)にも柱(はしら)にもこの木を用(もち)いたまふとかや。 世(よ)の人の 見付(つ)けぬ花や 軒(のき)の栗(くり) |
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●「あさか山」
等窮の家を出て五里ほど進み、檜肌の宿を離れたところにあさか山(安積山)が道のすぐそばにある。このあたりは「陸奥の安積の沼の花かつみ」と古今集の歌にあるように沼が多い。昔藤中将実方がこの地に左遷された時、五月に飾る菖蒲がなかったため、かわりにこのり歌をふまえて「かつみ」を刈って飾ったというが、今はちょうどその時期なので、「どの草をかつみ草というんだ」と人々に聞いてまわったが、誰も知る人はない。沼のほとりまで行って「かつみ、かつみ」と探し歩いているうちに日が山際にかかって夕暮れ時になってまった。二本松より右に曲がり、謡曲「安達原」で知られる鬼婆がいたという黒塚の岩屋を見て、福島で一泊した。 ●安積山(あさかやま) 等窮(とうきゅう)が宅(たく)を出(い)でて五里(ごり)ばかり、桧皮(ひわだ)の宿(しゅく)を離(はな)れて安積山(あさかやま)あり。 路(みち)より近(ちか)し。 このあたり沼(ぬま)多し。 かつみ刈(か)るころもやや近(ちこ)うなれば、いづれの草を花かつみとはいふぞと、人々に尋(たず)ねはべれども、さらに知(し)る人なし。 沼(ぬま)を尋(たず)ね、人に問(と)ひ、かつみかつみと尋(たず)ねありきて、日は山の端(は)にかかりぬ。 二本松(にほんまつ)より右にきれて、黒塚(くろづか)の岩屋(いわや)一見(いっけん)し、福島(ふくしま)に宿(やど)る。 |
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●「しのぶの里」
夜が明けると、忍ぶもじ摺りの石を訪ねて、忍ぶの里へ行った。遠い山陰の小里に、もじ摺りの石は半分地面に埋まっていた。そこへ通りかかった里の童が教えてくれた。もじ摺り石は昔はこの山の上にあったそうだ。行き来する旅人が麦畑を踏み荒らしてこの石に近づき、石の具合を試すので、こりゃいかんということで谷に突き落としたので石の面が下になっているということだ。そういうこともあるだろうなと思った。 早苗とる手元や昔しのぶ摺 (意味)「しのぶ摺」として知られる染物の技術は今はすたれてしまったが、早苗を摘み取る早乙女たちの手つきに、わずかにその昔の面影が偲ばれるようだ。 ●信夫の里(しのぶのさと) あくれば、しのぶもぢ摺(ずり)の石を尋(たず)ねて、忍(しの)ぶのさとに行(ゆ)く。 遥(はるか)山陰(やまかげ)の小里(こざと)に石なかば土に埋(うず)もれてあり。 里の童(わら)べの来たりて教(おし)えける。 昔(むかし)はこの山の上にはべりしを、往来(ゆきき)の人の麦草(むぎくさ)をあらして、この石を試(こころ)みはべるをにくみて、この谷(たに)につき落(お)とせば、石の面(おもて)下ざまにふしたりといふ。 さもあるべきことにや。 早苗(さなえ)とる 手もとや昔(むかし) しのぶ摺(ずり) |
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●「佐藤庄司が旧跡」
月の輪の渡しを舟で越えて、瀬の上という宿場町に出る。源平合戦で義経の下で活躍した佐藤継信・忠信兄弟の父、元治の旧跡は、左の山のそば一里半ほどのところにあった。飯塚の里、鯖野というところと聞いて、人に尋ね尋ねいくと、丸山というところでようやく尋ねあてることができた。「これが佐藤庄司の館跡です。山の麓に正門の跡があります」など、人に教えられるそばから涙が流れる。また、かたわらの古寺医王寺に佐藤一家のことを記した石碑が残っていた。その中でも佐藤兄弟の嫁(楓と初音)の墓の文字が最も哀れを誘う。女の身でありながらけなげに佐藤兄弟につくし、評判を世間に残したものよと、涙に袂を濡らすのだった。中国の伝承にある、見たものは必ず涙を流したという「堕涙の石碑」を目の前にしたような心持だ。寺に入って茶を一杯頼んだところ、ここには義経の太刀・弁慶の笈(背中に背負う箱)が保管されており寺の宝物となっていた。 笈も太刀も五月にかざれ紙幟 (意味)弁慶の笈と義経の太刀を所蔵するこの寺では、端午の節句には紙幟とともにそれらを飾るのがよいだろう。武勇で聞こえた二人の遺品なのだから、端午の節句にはぴったりだ。 ●佐藤庄司が旧跡(さとうしょうじがきゅうせき) 月の輪(わ)のわたしを超(こ)えて、瀬(せ)の上といふ宿(しゅく)に出(い)づ。 佐藤庄司(さとうしょうじ)が旧跡(きゅうせき)は、左の山際(やまぎわ)一里半(いちりはん)ばかりにあり。 飯塚(いいづか)の里鯖野(さばの)と聞きて尋(たず)ね尋(たず)ね行(ゆ)くに、丸山(まるやま)といふに尋(たず)ねあたる。 これ、庄司(しょうじ)が旧跡(きゅうせき)なり。 梺(ふもと)に大手(おおて)の跡(あと)など、人の教(おし)ゆるにまかせて泪(なみだ)を落(お)とし、またかたはらの古寺(ふるでら)に一家(いっけ)の石碑(せきひ)を残(のこ)す。 中にも、二人の嫁(よめ)がしるし、まず哀(あわ)れなり。 女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、袂(たもと)をぬらしぬ。 堕涙(だるい)の石碑(せきひ)も遠(とお)きにあらず。 寺に入(い)りて茶(ちゃ)を乞(こ)へば、ここに義経(よしつね)の太刀(たち)、弁慶(べんけい)が笈(おい)をとどめて什物(じゅうもつ)とす。 笈(おい)も太刀(たち)も 五月(さつき)にかざれ 帋幟(かみのぼり) 五月(さつき)朔日(ついたち)のことなり。 |
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●「飯塚」
その夜は飯塚に泊まった。温泉があったので湯にはいって宿に泊まったが、土坐に莚を敷いて客を寝かせるような、信用できない感じのみすぼらしい宿だった。ともしびもたいてくれないので、囲炉裏の火がチラチラする傍に寝所を整えて休んだ。夜中、雷が鳴り雨がしきりに降って、寝床の上から漏ってきて、その上蚤や蚊に体中を刺されて、眠れない。持病まで起こって、身も心も消え入りそうになった。短い夏の夜もようやく明けてきたので、また旅立つことにする。まだ昨夜のいやな感じが残ってて、旅に気持ちが向かなかった。馬を借りて桑折の宿場に着いた。まだまだ道のりは長いのにこんな病など起きて先が思いやられるが、はるか異郷の旅に向かうにあたり、わが身はすでに捨てたつもりだ。人生ははかないものだし、旅の途上で死んでもそれは天命だ。そんなふうに自分を励まし、気力をちょっと取り直し、足取りも軽く伊達の大木戸を越すのだった。 ●飯塚の里(いいづかのさと) その夜飯塚(いいづか)にとまる。 温泉(いでゆ)あれば湯(ゆ)に入(い)りて宿(やど)をかるに、土坐(どざ)に筵(むしろ)を敷(しき)て、あやしき貧家(ひんか)なり。 灯(ともしび)もなければ、ゐろりの火(ほ)かげに寝所(ねどころ)をまうけて臥(ふ)す。 夜(よる)に入(い)りて雷(かみ)鳴(なり)、雨しきりに降(ふり)て、臥(ふせ)る上よりもり、蚤(のみ)・蚊(か)にせせられて眠(ねむ)らず。 持病(じびょう)さへおこりて、消入(きえいる)ばかりになん。 短夜(みじかよ)の空(そら)もやうやう明(あく)れば、また旅立(たびだち)ぬ。 なお、夜(よる)の余波(なごり)心すすまず、馬(うま)かりて桑折(こおり)の駅(えき)に出(い)づる。 遥(はるか)なる行末(ゆくすえ)をかかえて、かかる病(やまい)覚束(おぼつか)なしといへど、羇旅(きりょ)辺土(へんど)の行脚(あんぎゃ)、捨身(しゃしん)無常(むじょう)の観念(かんねん)、道路(どうろ)にしなん、これ天の命(めい)なりと、気力(きりょく)いささかとり直(なお)し、路(みち)縦横(じゅうおう)に踏(ふん)で伊達(だて)の大木戸(おおきど)をこす。 |
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●「笠島」
鐙摺、白石の城を過ぎて、笠島の宿に入る。藤中将実方の墓はどのあたりだろうと人に聞くと、「ここから遙か右に見える山際の里を、箕輪・笠島といい、藤中将がその前で下馬しなかったために落馬して命を落としたという道祖神の社や、西行が藤中将について「枯野のすすき形見にぞ見る」と詠んだ薄が今も残っているのです」と教えてくれた。このところの五月雨で道は大変通りにくく、体も疲れていたので遠くから眺めるだけで立ち去ったが、蓑輪、笠島という地名も五月雨に関係していて面白いと思い、一句詠んだ。 笠島はいづこさ月のぬかり道 (意味)実方中将の墓のあるという笠島はどのあたりだろう。こんな五月雨ふりしきるぬかり道の中では、方向もはっきりしないのだ。 その夜は岩沼に泊まった。 ●笠嶋(かさじま) 鐙摺(あぶみずり)・白石(しろいし)の城(じょう)を過(すぎ)、笠嶋(かさじま)の郡(こおり)に入(い)れば、藤中将実方(とうのちゅうじょうさねかた)の塚(つか)はいづくのほどならんと人にとへば、これより遥(はるか)右(みぎ)に見ゆる山際(やまぎわ)の里をみのわ・笠嶋(かさじま)といい、道祖神(どうそじん)の社(やしろ)・かたみの薄(すすき)今にありと教(おし)ゆ。 このごろの五月雨(さみだれ)に道いとあしく、身(み)つかれはべれば、よそながら眺(ながめ)やりて過(すぐ)るに、蓑輪(みのわ)・笠嶋(かさじま)も五月雨(さみだれ)の折(おり)にふれたりと、 笠嶋(かさじま)は いづこさ月の ぬかり道 |
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●「武隈」
武隈の松を前にして、目が覚めるような心持になった。根は土際で二つにわかれて、昔の姿が失われていないことがわかる。まず思い出すのは能因法師のことだ。昔、陸奥守として赴任してきた人がこの木を伐って名取川の橋杭にしたせいだろうか。能因法師がいらした時はもう武隈の松はなかった。そこで能因法師は「松は此たび跡もなし」と詠んで武隈の松を惜しんだのだった。その時代その時代、伐ったり植継いだりしたと聞いていたが、現在はまた「千歳の」というにふさわしく形が整っていて、素晴らしい松の眺めであることよ。門人の挙白が出発前に餞別の句をくれた。 武隈の松見せ申せ遅桜 (意味)遅桜よ、芭蕉翁がきたら武隈の松を見せてあげてください 今それに答えるような形で、一句詠んだ。 桜より松は二木を三月超シ (意味)桜の咲く弥生の三月に旅立ったころからこの武隈の松を見ようと願っていた。三ヶ月ごしにその願いが叶い、目の前にしている。言い伝えどおり、根元から二木に分かれた見事な松だ。 ●武隈の松(たけくまのまつ) 岩沼(いわぬま)の宿(しゅく) 武隈の松(まつ)にこそ、目覚(さむ)る心地(ここち)はすれ。 根(ね)は土際(つちぎわ)より二木(ふたき)にわかれて、昔(むかし)の姿(すがた)うしなはずとしらる。 まず能因法師(のういんほうし)思ひ出(い)づ。 その昔(かみ)むつのかみにて下(くだ)りし人、この木を伐(きり)て、名取川(なとりがわ)の橋杭(はしぐい)にせられたることなどあればにや、「松(まつ)はこのたび跡(あと)もなし」とは詠(よみ)たり。 代々(よよ)、あるは伐(きり)、あるひは植継(うえつぎ)などせしと聞くに、今将(いまはた)、千歳(ちとせ)のかたちととのほひて、めでたき松(まつ)のけしきになんはべりし。 「武隈(たけくま)の松(まつ)みせ申(もう)せ遅桜(おそざくら)」 と挙白(きょはく)といふものゝ餞別(せんべつ)したりければ、 桜(さくら)より 松(まつ)は二木(ふたき)を 三月(みつき)越(ご)し |
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●「宮城野」
名取川を渡って仙台に入る。ちょうど、家々であやめを軒にふく五月の節句である。宿を求めて、四五日逗留した。仙台には画工加衛門という者がいた。わりと風流を解する者だときいていたから、会って親しく話してみた。この加衛門という男は、名前だけ知れていて場所がわからない名所を調べる仙台藩の事業に長年携わっていた。案内役には最適なので、一日案内してもらう。宮城野の萩が繁り合って、秋の景色はさぞ見事だろうと想像させる。玉田・よこ野という地を過ぎて、つつじが岡に来るとちょうどあせび咲く頃であった。日の光も注がない松の林に入っていく。ここは「木の下」と呼ばれる場所だという。昔もこのように露が深かったから、「みさぶらいみかさ」の歌にあるように「主人に笠をかぶるよう申し上げてください」と土地の人が詠んだろう。薬師堂・天神のやしろなどを拝んで、その日は暮れた。それから加衛門は松島・象潟の所々を絵に描いて、持たせてくれる。また紺色の染緒のついた草鞋二足を餞別してくれる。なるほど、とことん風流な人と聞いていたが、その通りだ。こういうことに人物の本質があらわれることよ。 あやめ草足に結ん草鞋の緒 (意味)加右衛門のくれた紺色の草鞋を、端午の節句に飾る菖蒲にみたてて、邪気ばらいのつもりで履き、出発するのだ。実際にあやめ草を草鞋にくくりつけた、ということでなく、紺色の緒をあやめに見立てようという、イメージ上のことです。 ●仙台(せんだい) 名取川(なとりがわ)を渡(わたっ)て仙台(せんだい)に入(い)る。 あやめふく日なり。 旅宿(りょしゅく)をもとめて四五日(しごにち)逗留(とうりゅう)す。 ここに画工加右衛門(がこうかえもん)といふものあり。 いささか心ある者(もの)と聞きて知(し)る人になる。 この者(もの)、年比(としごろ)さだかならぬ名どころを考(かんがえ)置(おき)はべればとて、一日(ひとひ)案内(あんない)す。 宮城野(みやぎの)の萩(はぎ)茂(しげ)りあひて、秋(あき)の景色(けしき)思ひやらるる。 玉田(たまだ)・よこ野(の)・つつじが岡はあせび咲(さく)ころなり。 日影(ひかげ)ももらぬ松(まつ)の林(はやし)に入(い)りて、ここを木(き)の下(した)といふとぞ。 昔(むかし)もかく露(つゆ)ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。 薬師堂(やくしどう)・天神(てんじん)の御社(みやしろ)など拝(おがみ)て、その日はくれぬ。 なお、松嶋(まつしま)・塩竃(しおがま)の所々(ところどころ)、画(え)に書(かき)て送(おく)る。 かつ、紺(こん)の染緒(そめお)つけたる草鞋(わらじ)二足(にそく)餞(はなむけ)す。 さればこそ風流(ふうりゅう)のしれもの、ここにいたりてその実(じつ)を顕(あらわ)す。 あやめ草(ぐさ) 足(あし)に結(むすば)ん 草鞋(わらじ)の緒(お) かの画図(がと)にまかせてたどり行(ゆけ)ば、おくの細道(ほそみち)の山際(やまぎわ)に十符(とふ)の菅(すげ)あり。 今(いま)も年々(としどし)十符(とふ)の菅菰(すがごも)を調(ととのえて)て国守(こくしゅ)に献(けん)ずといえり。 |
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●「壷の碑」
加衛門にもらった絵地図にしたがって進んでいくと、奥の細道(塩釜街道)の山際に十符の菅菰の材料となる菅が生えていた。今も毎年十符の菅菰を作って藩主に献上しているということだった。壷の碑は市川村多賀城にあった。壷の碑は高さ六尺、横三尺ぐらいだろうか。文字は苔をえぐるように幽かに刻んで見える。四方の国境からの距離が記してある。「この砦【多賀城】は、神亀元年(724年)、按察使鎮守符(府)将軍大野朝臣東人が築いた。天平宝字六年(762年)参議職で東海東山節度使の恵美朝臣アサカリが修造した」と書かれている。聖武天皇の時代のことだ。昔から詠み置かれた歌枕が多く語り伝えられているが、山は崩れ川は流れ、道は新しくなり、石は地面に土に埋もれて隠れ(「しのぶの里」)、木は老いて若木になり(「武隈の松」)、時代が移り変わってその跡をハッキリ留めていないことばかりであった。だがここに到って疑いなく千年来の姿を留めている歌枕の地をようやく見れたのだ。目の前に古人の心を見ているのだ。こういうことこそ旅の利点であり、生きていればこそ味わえる喜びだ。旅の疲れも忘れて、涙も落ちるばかりであった。 ●多賀城(たがじょう) 壷碑(つぼのいしぶみ) 市川村(いちかわむら)多賀城(たがじょう)にあり。 つぼの石ぶみは高(たか)さ六尺(ろくしゃく)あまり、横(よこ)三尺(さんじゃく)斗(ばかり)か。 苔(こけ)を穿(うがち)て文字(もじ)かすかなり。 四維(しゆい)国界(こっかい)の数里(すうり)をしるす。 この城(しろ)、神亀(じんき)元年(がんねん)、按察使(あぜち)鎮守府(ちんじゅふ)将軍(しょうぐん)大野朝臣東人(おおのあそんあずまひと)の所置(おくところ)なり。 天平(てんぴょう)宝字(ほうじ)六年(ろくねん)参議(さんぎ)東海(とうかい)東山(とうせん)節度使(せつどし)同(おなじく)将軍(しょうぐん)恵美朝臣(えみのあそんあさかり)修造(しゅぞう)而(読まない文字)、十二月(じゅうにがつ)朔日(ついたち)とあり。 聖武皇帝(しょうむこうてい)の御時(おんとき)に当(あた)れり。 むかしよりよみ置(おけ)る哥枕(うたまくら)、おほく語(かたり)伝(つた)ふといへども、山崩(くず)れ川流(ながれ)て道あらたまり、石は埋(うずもれ)て土にかくれ、木は老(おい)て若木(わかぎ)にかはれば、時移(うつ)り代(よ)変(へん)じて、その跡(あと)たしかならぬことのみを、ここにいたりて疑(うたが)いなき千歳(せんざい)の記念(かたみ)、今眼前(がんぜん)に古人(こじん)の心を閲(けみ)す。 行脚(あんぎゃ)の一徳(いっとく)、存命(ぞんめい)の悦(よろこ)び、羈旅(きりょ)の労(ろう)をわすれて、泪(なみだ)も落(お)つるばかりなり。 |
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●末の松山
それから野田の玉川・沖の石など歌枕の地を訪ねた。末の松山には寺が造られていて、末松山というのだった。松の合間合間はみな墓のの並ぶところで、空にあれば比翼の鳥、地にあれば連理の枝「比翼連理」という言葉があるが、そんな睦まじく誓いあった仲でさえ最後はこのようになるのかと、悲しさがこみ上げてきた。塩釜の浦に行くと夕暮れ時を告げる入相の鐘が聞こえるので耳を傾ける。五月雨の空も少しは晴れてきて、夕月がかすかに見えており、籬(まがき)が島も湾内のほど近いところに見える。漁師の小舟が沖からこぞって戻ってきて、魚をわける声がする。それをきいていると古人が「つなでかなしも」と詠んだ哀切の情も胸に迫り、しみじみ感慨深い。その夜、目の不自由な法師が琵琶を鳴らして、奥浄瑠璃というものを語った。平家琵琶とも幸若舞とも違う。本土から遠く離れたひなびた感じだ。それを高い調子で語るから、枕近く感じられてちょっとうるさかったが、さすがに奥州の伝統を守り伝えるものだから興味深く、感心して聴き入った。 ●末の松山・塩竃(すえのまつやま・しおがま) それより野田(のだ)の玉川(たまがわ)・沖(おき)の石を尋(たず)ぬ。 末(すえ)の松山(まつやま)は寺を造(つく)りて末松山(まっしょうざん)といふ。 松(まつ)のあひあひ皆(みな)墓原(はかはら)にて、はねをかはし枝(えだ)をつらぬる契(ちぎ)りの末(すえ)も、終(ついに)はかくのごときと、悲(かな)しさも増(まさ)りて、塩(しお)がまの浦(うら)に入相(いりあい)のかねを聞く。 五月雨(さみだれ)の空いささかはれて、夕月夜(ゆうづくよ)かすかに、籬(まがき)が嶋(しま)もほど近(ちか)し。 あまの小舟(おぶね)こぎつれて、肴(さかな)わかつ声々(こえごえ)に、「綱手(つなで)かなしも」とよみけむ心もしられて、いとど哀(あわ)れなり。 その夜、目盲(めくら)法師(ほうし)の琵琶(びわ)をならして奥(おく)じょうるりといふものをかたる。 平家(へいけ)にもあらず、舞(まい)にもあらず。 ひなびたる調子(ちょうし)うち上(あ)げて、枕(まくら)ちかうかしましけれど、さすがに辺土(へんど)の遺風(いふう)忘(わす)れざるものから、殊勝(しゅしょう)に覚(おぼ)えらる。 |
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●「塩釜」
早朝、塩釜(塩竃)神社に参詣する。伊達政宗公が再建した寺で、堂々とした柱が立ち並び、垂木(屋根を支える木材)がきらびやかに光り、石段がはるか高いところまで続き。朝日が差して朱にそめた玉垣(かきね)を輝かしている。このような奥州の、はるか辺境の地まで神の恵みが行き渡り、あがめられている。これこそ我国の風習だと、たいへん尊く思った。神殿の前に古い宝燈があった。金属製の扉の表面に、「文治三年和泉三郎寄進」と刻んである。父秀衡の遺言に従い最後まで義経を守って戦った奥州の藤原忠衡(ふじわらただひら)である。義経や奥州藤原氏の時代からはもう五百年が経っているが、その文面を見ていると目の前にそういった過去の出来事がうかぶようで、たいへん有難く思った。俗に「和泉三郎」といわれる藤原忠衡は、勇義忠孝すべてに長けた、武士の鑑のような男だった。その名声は今に至るまで聞こえ、誰もが慕っている。「人は何をおいても正しい道に励み、義を守るべきだ。そうすれば名声も後からついてくる」というが、本当にその通りだ。もう正午に近づいたので、船を借りて松島に渡る。二里ほど船で進み、雄島の磯についた。 ●塩竃神社(しおがまじんじゃ) 早朝(そうちょう)塩竃(しおがま)の明神(みょうじん)に詣(もうず)。 国守(こくしゅ)再興(さいこう)せられて、宮柱(みやばしら)ふとしく彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仞(きゅうじん)に重(かさ)なり、朝日(あさひ)あけの玉(たま)がきをかかやかす。 かかる道の果(はて)、塵土(じんど)の境(さかい)まで、神霊(しんれい)あらたにましますこそ、吾国(わがくに)の風俗(ふうぞく)なれと、いと貴(とうと)けれ。 神前(しんぜん)に古(ふる)き宝燈(ほうとう)あり。 かねの戸(と)びらの面(おもて)に文治(ぶんじ)三年和泉(いずみの)三郎(さぶろう)寄進(きしん)とあり。 五百年来(ごひゃくねんらい)のおもかげ、今目の前(まえ)にうかびて、そぞろに珍(めずら)し。 かれは勇義(ゆうぎ)忠孝(ちゅうこう)の士(し)なり。 佳命(かめい)今にいたりてしたはずといふことなし。 誠(まことに)人能(よく)道(みちを)を勤(つとめ)、義(ぎ)を守(まも)るべし。 名もまたこれにしたがふといえり。 日すでに午(ご)にちかし。 舟をかりて松嶋(まつしま)にわたる。 その間(あい)二里(にり)あまり、雄嶋(おじま)の磯(いそ)につく。 |
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●「松島」
まあ古くから言われていて今さら言うことでもないのだが、松島は日本一景色のよい所だ。中国で絶景として名高い洞庭・西湖と比べても見劣りがしないだろう。湾内に東南の方角から海が流れ込んでいて、その周囲は三里、中国の浙江を思わせる景色をつくり、潮が満ちている。湾内は沢山の島々があり、そそり立った島は天を指差すようで、臥すものは波にはらばうように見える。あるものは二重に重なり、またあるものは三重にたたみかかり、左にわかれ右につらなっている。小島を背負っているように見える島もあり、前に抱いているようなのもあり、まるで親が子や孫を抱いて可愛がってるようにも見える。松の緑はびっしりと濃く、枝葉は汐風に吹きたはめられて、その屈曲は自然のものでありながら、人が見栄えいいように意図的に曲げたように見える。蘇東坡の詩の中で、西湖の景色を絶世の美人、西施が美しく化粧した様子に例えているが、この松島も深い憂いをたたえ、まさに美人が化粧したさまを思わせる。神代の昔、山の神「大山祇(おおやまずみ)」が作り出したものだろうか。自然の手による芸術品であるこの景色は、誰か筆をふるい言葉をつくしても、うまく語れるものではない。雄島の磯は陸から地続きで、海に突き出している島である。瑞巌寺中興の祖、雲居禅師の別室の跡や、座禅石などがある。また、世の喧騒をわずらわしく思い庵を建てて隠遁生活をしている人の姿も松の木陰に何人か見える。落穂や松笠を集めて炊いて食料にしているようなみすぼらしい草の庵の静かな暮らしぶりで、どういう来歴の人かはわからないが、やはり心惹かれるものがあり立ち寄りなりなどしているうちに、月が海に映って、昼とはまたぜんぜん違う景色となった。浜辺に帰って宿を借りる。窓を開くと二階作りになっていて、風と雲の中にじかに旅寝しているような、表現しがたいほど澄み切った気持ちにさせられた。 松島や鶴に身をかれほとゝぎす 曾良 (意味)ここ松島ではほととぎすはそのままの姿ではつりあわない。鶴の衣をまとって、優雅に見せてくれ。 曾良は句を詠んだが私は感激のあまり句が出てこない。眠ろうとしてもワクワクして寝られない。深川の庵を出る時、素堂が松島の詩を、原安適が松が浦島を詠んだ和歌を餞別してくれた。それらを袋から取り出し、今夜一晩を楽しむよすがとする。また、杉風・濁子の発句もあった。十一日、瑞巌寺に参詣する。この寺は創始者の慈覚大師から数えて三十二代目にあたる昔、真壁平四郎という人が出家して入唐(正しくは入宋)して、帰朝の後開山した。その後、雲居禅師が立派な徳によって多くの人々を仏の道に導いた、これによって七堂すべて改築され、金色の壁はおごそかな光を放ち、極楽浄土が地上にあらわれたかと思える立派な伽藍が完成した。かの名僧見仏聖の寺はどこだろうと慕わしく思われた。 ●松島 そもそもことふりにたれど、松島(まつしま)は扶桑(ふそう)第一(だいいち)の好風(こうふう)にして、およそ洞庭(どうてい)・西湖(せいこ)を恥(はじ)ず。 東南(とうなん)より海を入(い)れて、江(え)の中(うち)三里(さんり)、浙江(せっこう)の潮(うしお)をたたふ。 島々(しまじま)の数(かず)を尽(つく)して、欹(そばだつ)ものは天を指(ゆびさし)、ふすものは波(なみ)に匍匐(はらばう)。 あるは二重(ふたえ)にかさなり、三重(みえ)に畳(たた)みて、左にわかれ右につらなる。 負(おえ)るあり抱(いだけ)るあり、児孫(じそん)愛(あい)すがごとし。 松(まつ)の緑(みどり)こまやかに、枝葉(しよう)汐風(しおかぜ)に吹(ふ)きたはめて、屈曲(くっきょく)をのづからためたるがごとし。 そのけしき、よう然(ぜん)として美人(びじん)の顔(かんばせ)を粧(よそお)ふ。 ちはや振(ぶる)神(かみ)のむかし、大山(おおやま)ずみのなせるわざにや。 造化(ぞうか)の天工(てんこう)、いづれの人か筆(ふで)をふるひ、詞(ことば)を尽(つく)さむ。 ●雄島 雄島(おじま)が磯(いそ)は地(ぢ)つづきて海に出(い)でたる島(しま)なり。 雲居禅師(うんごぜんじ)の別室(べっしつ)の跡(あと)、坐禅石(ざぜんせき)などあり。 はた、松(まつ)の木陰(こかげ)に世(よ)をいとふ人も稀々(まれまれ)見えはべりて、落穂(おちぼ)・松笠(まつかさ)など打(うち)けふりたる草(くさ)の庵(いおり)、閑(しずか)に住(すみ)なし、いかなる人とはしられずながら、まずなつかしく立寄(たちよる)ほどに、月海にうつりて、昼(ひる)のながめまたあらたむ。 江上(こうしょう)に帰りて宿(やど)を求(もと)むれば、窓(まど)をひらき二階(にかい)を作(つく)りて、風雲(ふううん)の中(うち)に旅寝(たびね)するこそ、あやしきまで、妙(たえ)なる心地(ここち)はせらるれ。 松島(まつしま)や 鶴(つる)に身(み)をかれ ほととぎす 曽良(そら) よは口をとぢて眠(ねむ)らんとしていねられず。 旧庵(きゅうあん)をわかるる時、素堂(そどう)松島(まつしま)の詩(し)あり。 原安適(はらあんてき)松(まつ)がうらしまの和歌(わか)を贈(おく)らる。 袋(ふくろ)を解(と)きて、こよひの友(とも)とす。 かつ、杉風(さんぷう)・濁子(じょくし)が発句(ほっく)あり。 ●瑞巌寺(ずいがんじ) 十一日、瑞岩寺(ずいがんじ)に詣(もうず)。 当寺(とうじ)三十二世(さんじゅうにせい)の昔(むかし)、真壁(まかべ)の平四郎(へいしろう)出家(しゅっけ)して入唐(にっとう)、帰朝(きちょう)の後(のち)開山(かいざん)す。 其後(そののち)に雲居禅師(うんごぜんじ)の徳化(とっか)によりて、七堂(しちどう)甍(いらか)改(あらた)まりて、金壁(こんぺき)荘厳(しょうごん)光(ひかり)を輝(かがや)かし、仏土(ぶつど)成就(じょうじゅ)の大伽藍(だいがらん)とはなれりける。 かの見仏聖(けんぶつひじり)の寺はいづくにやとしたはる。 |
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●「石の巻」
十二日、いよいよ平泉を目指して進んでいく。あねはの松・緒だえの橋など歌枕の地があると聞いていたので、人通りもとぼしい獣道を、不案内な中進んでいくが、とうとう道を間違って石巻という港に出てしまった。大伴家持が「こがね花咲」と詠んで聖武天皇に献上した金花山が海上に見える。数百の廻船(人や荷物を運ぶ商業船)が入り江に集まり、人家がひしめくように建っており、炊事する竈の煙がさかんに立ち上っている。思いかけずこういう所に来たものだなあと、宿を借りようとしたが、まったく借りられない。ようやく貧しげな小家に泊めてもらい、翌朝またハッキリしない道を迷いつつ進んだ。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱原など歌枕の地が近くにあるらしいが所在がわからず、よそ目に見るだけで、どこまでも続く川の堤を進んでいく。どこまで長いか不安になるような長沼という沼沿いに進み、戸伊摩というところで一泊して、平泉に到着した。その間の距離は二十里ちょっとだったと思う。 ●石巻(いしのまき) 十二日、平和泉(ひらいずみ)と心ざし、あねはの松(まつ)・緒(お)だえの橋(はし)など聞き伝(つたえ)て、人跡(じんせき)稀(まれ)に雉兎(ちと)蒭蕘(すうじょう)の往(いき)かふ道そこともわかず、終(つい)に路(みち)ふみたがえて、石巻(いしのまき)といふ湊(みなと)に出(い)づ。 「こがね花咲(さく)」とよみてたてまつりたる金花山(きんかさん)、海上(かいしょう)に見わたし、数百(すひゃく)の廻船(かいせん)入江(いりえ)につどひ、人家(じんか)地をあらそひて、竈(かまど)の煙(けむり)立ちつづけたり。 思ひがけずかかる所(ところ)にも来たれるかなと、宿(やど)からんとすれど、さらに宿(やど)かす人なし。 漸(ようよう)まどしき小家(こいえ)に一夜(いちや)をあかして、明(あく)ればまたしらぬ道まよひ行(ゆ)く。 袖(そで)のわたり・尾(お)ぶちの牧(まき)・まのの萱(かや)はらなどよそめにみて、遥(はるか)なる堤(つつみ)を行(ゆ)く。 心細(こころぼそ)き長沼(ながぬま)にそふて、戸伊摩(といま)といふ所(ところ)に一宿(いっしゅく)して、平泉(ひらいずみ)にいたる。 その間(あい)廿余里(にじゅうより)ほどとおぼゆ。 |
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●「平泉」
藤原清衡・基衡・秀衡と続いた奥州藤原氏三代の栄光も、邯鄲一炊の夢の故事のようにはかなく消え、南大門の跡はここからすぐ一里の距離にある。秀衡の館の跡は田野となり、その名残すら無い。ただ、秀衡が山頂に金の鶏を埋めて平泉の守りとしたという【金鶏山】だけが、形を残している。まず義経の館のあった高台、【高舘】に登ると、眼下に北上川が一望される。南部地方から流れる、大河である。衣川は秀衡の三男和泉三郎の居城跡をめぐって、高舘の下で北上川と合流している。嫡男泰衡の居城跡は、衣が関を境として平泉と南部地方を分かち、蝦夷の攻撃を防いでいたのだと見える。それにしてもまあ、義経の忠臣たちがこの高舘にこもった、その巧名も一時のことで今は草むらとなっているのだ。国は滅びて跡形もなくなり、山河だけが昔のままの姿で流れている、繁栄していた都の名残もなく、春の草が青々と繁っている。杜甫の『春望』を思い出し感慨にふけった。笠を脱ぎ地面に敷いて、時の過ぎるのを忘れて涙を落とした。 夏草や 兵どもが 夢の跡 (意味)奥州藤原氏や義経主従の功名も、今は一炊の夢と消え、夏草が茫々と繁っている。 卯の花に 兼房みゆる 白髪かな 曾良 (意味)白い卯の花を見ていると、勇猛に戦った義経の家臣、兼房の白髪が髣髴される) かねてその評判をきいていた、中尊寺光堂と経堂の扉を開く。経堂には藤原三代頭首の像、光堂にはその棺と、阿弥陀三尊像が安置してある。奥州藤原氏の所有していた宝物の数々は散りうせ、玉を散りばめた扉は風に吹きさらされボロボロに破れ、黄金の柱は霜や雪にさらされ朽ち果ててしまった。今は荒れ果てた草むらとなっていても無理は無いのだが、金色堂の四面に覆いをして、屋根を覆い風雨を防ぎ、永劫の時の中ではわずかな時間だがせめて千年くらいはその姿を保ってくれるだろう。 五月雨の 降りのこしてや 光堂 (意味)全てを洗い流してしまう五月雨も、光堂だけはその気高さに遠慮して濡らさず残しているようだ) ●平泉(ひらいずみ) 三代(さんだい)の栄耀(えいよう)一睡(いっすい)の中(うち)にして、大門(だいもん)の跡(あと)は一里(いちり)こなたにあり。 秀衡(ひでひら)が跡(あと)は田野(でんや)になりて、金鶏山(きんけいざん)のみ形(かたち)を残(のこ)す。 まず、高館(たかだち)にのぼれば、北上川(きたかみがわ)南部(なんぶ)より流(なが)るる大河(たいが)なり。 衣川(ころもがわ)は、和泉が城(いずみがじょう)をめぐりて、高館(たかだち)の下(もと)にて大河(たいが)に落(お)ち入(い)る。 泰衡(やすひら)らが旧跡(きゅうせき)は、衣が関(ころもがせき)を隔(へだ)てて、南部口(なんぶぐち)をさし堅(かた)め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。 さても義臣(ぎしん)すぐつてこの城(じょう)にこもり、功名(こうみょう)一時(いちじ)の叢(くさむら)となる。 国破(やぶ)れて山河(さんが)あり、城(しろ)春(はる)にして草(くさ)青(あお)みたりと、笠(かさ)打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪(なみだ)を落(お)としはべりぬ。 夏草や 兵(つわもの)どもが 夢(ゆめ)の跡(あと) 卯の花(うのはな)に 兼房(かねふさ)みゆる 白毛(しらが)かな 曽良(そら) かねて耳驚(おどろか)したる二堂(にどう)開帳(かいちょう)す。 経堂(きょうどう)は三将(さんしょう)の像(ぞう)をのこし、光堂(ひかりどう)は三代(さんだい)の棺(ひつぎ)を納(おさ)め、三尊(さんぞん)の仏(ほとけ)を安置(あんち)す。 七宝(しっぽう)散(ちり)うせて、珠(たま)の扉(とびら)風(かぜ)にやぶれ、金(こがね)の柱(はしら)霜雪(そうせつ)に朽(くち)て、すでに頽廃(たいはい)空虚(くうきょ)の叢(くさむら)と成(なる)べきを、四面(しめん)新(あらた)に囲(かこみ)て、甍(いらか)を覆(おおい)て雨風(ふうう)をしのぐ。 しばらく千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり。 五月雨(さみだれ)の 降(ふり)のこしてや 光堂(ひかりどう) |
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●「尿前の関」
南部地方へ続く遠い南部街道を目の前にして、岩手の宿に泊まった。小黒崎・みづの小島という歌枕の地を過ぎて、鳴子温泉から尿前の関にかかって、出羽の国に越えようとしたのだ。この街道はめったに旅人など通らない道なので、関守に不審がられて色々きかれ、やっとのことで関を越すことができた。鳴子から羽前に出る中山越えの山道をのぼったところ、もう日が暮れてしまったので、国境を警護する人の家をみつけて、一夜の宿をお願いした。三日間嵐となり、することもない山中に足止めされてしまった。 蚤虱馬の尿する枕もと (意味)こうやって貧しい旅の宿で寝ていると蚤や虱に苦しめられる。その上宿で馬を飼っているので馬が尿をする音が響く。その響きにさえ、ひなびた情緒を感じるのだ。 宿の主人の言うことには、これから出羽の国にかけては険しい山道を越えねばならず、道もはっきりしないので案内人を頼んで超えたがよかろうということだった。ではそうしようと人を頼んだところ、屈強な若者が反り返った脇差を横たえて、樫の杖を持って私たちを先導してくれた。今日こそ必ず危ない目にあうに違いないとびくびくしながらついて行った。主人の言ったとおり、高い山は静まり返っており、一羽の鳥の声も聞こえない。うっそうと繁る木々の下は、まるで夜道のように暗い。杜甫の詩に「雲の端から土がこぼれるようだ」とあるが、まさにそんな感じで、篠の中を踏み分けつつ進んでいき、渓流を越え岩につまづいて、肌には冷たい汗を流し、やっとのことで最上の庄についた。例の案内してくれた男は「この道を通れば必ず不測の事態が起こるのですが今日は何事もなく送ることができ幸運でした」と言ってくれ、喜びあって別れた。そんな物騒な道と前もってきかされていたわけではなかったが、それにしても胸がつまるような心持だった。 ●尿前の関(しとまえのせき) 南部道(なんぶみち)遥(はるか)に見やりて、岩手(いわで)の里に泊(とま)る。 小黒崎(おぐろさき)・みづの小嶋(こじま)を過(すぎ)て、なるごの湯(ゆ)より尿前(しとまえ)の関(せき)にかかりて、出羽(でわ)の国に超(こ)えんとす。 この路(みち)旅人(たびびと)稀(まれ)なる所(ところ)なれば、関守(せきもり)にあやしめられて、漸(ようよう)として関(せき)をこす。 大山(たいざん)をのぼつて日すでに暮(くれ)ければ、封人(ほうじん)の家(いえ)を見かけて舎(やどり)を求(もと)む。 三日(みっか)風雨(ふうう)あれて、よしなき山中(さんちゅう)に逗留(とうりゅう)す。 蚤(のみ)虱(しらみ) 馬(うま)の尿(ばり)する 枕(まくら)もと あるじのいふ、これより出羽(でわ)の国に大山(たいざん)を隔(へだ)てて、道さだかならざれば、道しるべの人を頼(たの)みて越(こゆ)べきよしをもうす。 さらばといいて人を頼(たの)みはべれば、究境(くっきょう)の若者(わかもの)、反脇指(そりわきざし)をよこたえ、樫(かし)の杖(つえ)を携(たずさえ)て、我々(われわれ)が先に立ちて行(ゆ)く。 今日こそ必(かなら)ずあやうきめにもあふべき日なれと、辛(から)き思ひをなして後(うしろ)について行(ゆ)く。 あるじのいふにたがはず、高山(こうざん)森々(しんしん)として一鳥(いっちょう)声きかず、木(こ)の下闇(したやみ)茂(しげ)りあひて夜る行(ゆ)くがごとし。 雲端(うんたん)につちふる心地(ここち)して、篠(しの)の中踏分(ふみわけ)踏分、水をわたり岩に蹶(つまずい)て、肌(はだ)につめたき汗(あせ)を流(なが)して、最上(もがみ)の庄(しょう)に出(い)づ。 かの案内(あんない)せしおのこのいふやう、この道かならず不用(ぶよう)のことあり。 恙(つつが)なうをくりまいらせて仕合(しあわせ)したりと、よろこびてわかれぬ。 跡(あと)に聞きてさへ胸(むね)とどろくのみなり。 |
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●「尾花沢」
尾花沢にて以前江戸で知り合った清風という人を訪ねた。この人は大富豪なのだが金持ちにありがちな品性のいやしさなどまるでない。江戸にも時々出てきているので、さすがに旅人の気持ちもわかっているようだ。何日か逗留させてくれ、長旅の疲れを労ってくれ、いろいろともてなしてくれた。 涼しさを我宿にしてねまる也 (意味)この涼しい宿にいると、まるで自分の家にいるようにくつろげるのだ。 這出よかひやが下のひきの声 (意味)飼屋の下でひきがえるの声がしている。どうかひきがえるよ、出てきて手持ち無沙汰な私の相手をしておくれ。 まゆはきを俤にして紅粉の花 (意味)尾花沢の名産である紅の花を見ていると、女性が化粧につかう眉掃きを想像させるあでやかさを感じる。 蚕飼する人は古代のすがた哉 曾良 (意味)養蚕する人たちのもんぺ姿は、神代の昔もこうだったろうと思わせる素朴なものだ。 ●尾花沢(おばねざわ) 尾花沢(おばねざわ)にて清風(せいふう)といふ者(もの)を尋(たず)ぬ。 かれは富(とめ)るものなれども、志(こころざし)いやしからず。 都(みやこ)にも折々(おりおり)かよひて、さすがに旅(たび)の情(なさけ)をも知(しり)たれば、日ごろとどめて、長途(ちょうど)のいたはり、さまざまにもてなしはべる。 涼(すず)しさを 我(わが)宿(やど)にして ねまるなり 這(はい)出(い)でよ かひやが下(した)の ひきの声 まゆはきを 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花 蚕飼(こがい)する 人は古代(こだい)の すがたかな 曽良(そら) |
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●「立石寺」
山形藩の領内に、立石寺という山寺がある。慈覚大師の開基で、特別景色がよく静かな場所だ、一度は見ておくべきだ。人々がこうすすめるので、尾花沢から引き返した。その間、七里ばかりである。まだ日暮れまでは時間がある。ふもとの宿坊に泊まる手はずを整えて、山上の堂にのぼる。多くの岩が重なりあって山となったような形で、松や柏など常緑の古木がしげり、土や岩は滑らかに苔むしている。岩の上に建つどの寺院も扉を閉じて、物音がまったく聞こえない。崖から崖へ、岩から岩へ渡り歩き、仏閣に参拝する。景色は美しく、ひっそり静まりかえっている。心がどこまでも澄み渡った。 閑さや岩にしみ入る蝉の声 (意味)ああ何という静けさだ。その中で岩に染み通っていくような蝉の声が、いよいよ静けさを強めている。 ●山寺 山形領(やまがたりょう)に立石寺(りゅうしゃくじ)といふ山寺(やまでら)あり。 慈覚大師(じかくだいし)の開基(かいき)にして、殊(ことに)清閑(せいかん)の地なり。 一見(いっけん)すべきよし、人々(ひとびと)のすゝむるに依(より)て、尾花沢(おばなざわ)よりとつて返(かえ)し、その間(かん)七里(しちり)ばかりなり。 日いまだ暮(くれ)ず。 梺(ふもと)の坊(ぼう)に宿(やど)かり置(おき)て、山上(さんじょう)の堂(どう)にのぼる。 岩に巌(いわお)を重(かさ)ねて山とし、松栢(しょうはく)年旧(としふり)土石(どせき)老(おい)て苔(こけ)滑(なめらか)に、岩上(がんじょう)の院々(いんいん)扉(とびら)を閉(とじ)てものの音きこえず。 岸(きし)をめぐり岩を這(はい)て仏閣(ぶっかく)を拝(はい)し、佳景(かけい)寂寞(じゃくまく)として心すみ行(ゆ)くのみおぼゆ。 閑(しずか)さや 岩にしみ入(い)る 蝉(せみ)の声 |
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●「最上川」
最上川の川下りをしようと思い、大石田という場所で天気がよくなるのを待った。かつてこの地に談林派の俳諧が伝わり、俳諧の種がまかれ、それが花開いた昔のことを、土地の人は懐かしんでいる。葦笛を吹くようなひなびた心を俳諧の席を開いて慰めてくれる。「この地では俳諧の道を我流でさぐっているのですが、新しい流行の俳諧でいくか、古い伝統的なものでいくか、指導者がいないので決めかねています」と土地の人がいうので、やむを得ず歌仙を一巻残してきた。今回の風流の旅は、とうとうこんなことまでする結果になった。最上川の源流は陸奥であり、上流は山形である。碁点・はやぶさなどという、恐ろしい難所がある。歌枕の地、板敷山の北を流れて、最後は酒田の海に流れ込んでいる。左右に山が覆いかぶさって、茂みの中に舟を下していく。これに稲を積んだものが、古歌にある「稲船」なのだろうか。有名な白糸の滝は青葉の間間に流れ落ちており、義経の家臣、常陸坊海尊をまつった仙人堂が岸のきわに建っている。水量が豊かで、何度も舟がひっくり返りそうな危ない場面があった。 五月雨をあつめて早し最上川 (意味)降り注ぐ五月雨はやがて最上川へ流れこみ、その水量と勢いを増し、舟をすごい速さで押し流すのだ。 ●大石田 最上川(もがみがわ)のらんと、大石田(おおいしだ)といふ所(ところ)に日和(ひより)を待(ま)つ。 「ここに古(ふる)き誹諧(はいかい)の種(たね)こぼれて、忘(わす)れぬ花のむかしをしたひ、芦角(ろかく)一声(いっせい)の心をやはらげ、この道にさぐりあしして、新古(しんこ)ふた道にふみまよふといへども、道しるべする人しなければ」と、わりなき一巻(ひとまき)残(のこ)しぬ。 このたびの風流(ふうりゅう)ここにいたれり。 ●最上川(もがみがわ) 最上川(もがみがわ)はみちのくより出(い)でて、山形(やまがた)を水上(みなかみ)とす。 ごてん・はやぶさなどいふ、おそろしき難所(なんじょ)あり。 板敷山(いたじきやま)の北を流(ながれ)て、果(はて)は酒田(さかた)の海に入(い)る。 左右山覆(おお)ひ、茂(しげ)みの中に舟を下(くだ)す。 これに稲(いね)つみたるをや、稲舟(いなぶね)といふならし。 白糸(しらいと)の瀧(たき)は青葉(あおば)の隙隙(ひまひま)に落(おち)て仙人堂(せんにんどう)岸(きし)に臨(のぞみ)て立(たつ)。 水みなぎつて舟(ふね)あやうし。 五月雨(さみだれ)を あつめてはやし 最上川(もがみがわ) |
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●「羽黒」
六月三日、羽黒山に登る。図司左吉というものを訪ねて、その手引きで山を統括する責任者の代理人(別当代)である、会覚阿闍梨に拝謁した。阿闍梨は南谷の別院に泊めてくださり、色々と心をつくしてもてなしてくださった。四日、本坊若王寺で俳諧をもよおし、こんな発句を詠んだ。 有難や雪をかほらす南谷 (意味)残雪の峰々から冷ややかな風が私のいる南谷まで吹いてくる。それはこの神聖な羽黒山の雰囲気にぴったりで、ありがたいことだ。 五日、羽黒権現に参詣する。この寺を開いた能除大師という方は、いつの時代の人か、わからない。「延喜式」に「羽州里山の神社」という記述がある。書き写す人が「黒」の字を間違って「里山」としたのだろうか。「羽州黒山」を中略して「羽黒山」といったのだろうか。「出羽」という言い方については、「鳥の羽毛をこの国の特産物として朝廷に献上した」と風土記に書いてあるとかいう話である。月山、湯殿を合わせて、「出羽三山」とする。この寺は江戸の東叡山寛永寺に所属し、天台宗の主な教えである「止観」は月のように明らかに実行されている。「円頓融通」の教理を灯火をかかげるようにかかげ、僧坊(僧が生活する小さな建物)が棟を並べて建っている。僧たちは互いに励ましあって修行している。霊山霊地のご利益を、人々は尊び、かつ畏れている。繁栄は永久につづくだろう。尊い御山と言うべきだと思う。 八日、月山に登る。木綿しめを体に引っかけ、宝冠に頭をつつみ、強力という者に導かれて、雲や霧がたちこめる山気の中に氷や雪を踏みながら八里の道のりを登っていく。太陽や月の軌道の途中にある、とてつもなく高い位置にある雲の関に入っていくのではないかという思いだった。息は絶え、体は凍えて、ようやく頂上にたどり着くと、太陽が沈んで月があらわれる。笹や篠の上に寝転んで、横たわって夜が明けるのを待った。太陽が昇り雲が消えたので、湯殿山に向けて山を下っていく。谷のかたわらに、鍛冶小屋と呼ばれる場所があった。ここ出羽の国では刀鍛冶は霊験あらたかな水を選んで、身を清めて剣を打ち(作り)、仕上げに「月山」という銘を刻んで世の中からもてはやされてきた。中国でも「竜泉」という泉で鍛えた剣がもてはやされたというが、同じようなことなのだ。月山の刀鍛冶たちも古代中国の有名な刀鍛冶、干将・莫耶夫婦のことを慕って、そのような工法をするのだろう。一つの道に秀でた者は、そのこだわりぶりも並大抵のことではないのだ。岩に腰掛けてしばらく休んでいると、三尺(90センチ)ほどの桜のつぼみが、半分ほど開いていた。降り積もる雪の下に埋もれながら、春の訪れを忘れず遅まきながら花を咲かす…花の性質は実にいじらしいものだと感心した。中国の詩にある「炎天の梅花」が、目の前でに香りたっているように思えた。「もろともにあはれと思へ山桜」という行尊僧正の歌の情をも思い出した。むしろこちらの花のほうが僧正の歌より趣が深いとさえ感じる。いったいに、この山中で起こった細かいことは修行する者の掟として口外することを禁じられている。だからこれ以上は書かない。宿坊に戻ると阿闍梨に句を求められたので巡礼した三山それぞれの句を短冊に書いた。 涼しさやほの三か月の羽黒山 (意味)ああ涼しいな。羽黒山の山の端にほのかな三日月がかかっている。 雲の峰幾つ崩て月の山 (意味)空に峰のようにそびえる入道雲が、いくつ崩れてこの月山となったのだろう。天のものが崩れて地上に降りたとか思えない、雄大な月山のたたずまいだ。 語られぬ湯殿にぬらす袂かな (意味)ここ湯殿山で修行する人は山でのことを一切口外してはいけないというならわしがあるが、そういう荘厳な湯殿山に登って、ありがたさに涙を流したことよ。 湯殿山銭ふむ道の泪かな (意味)湯殿山には、地上に落ちたものを拾ってはならないというならわしなので、たくさん落ちている賽銭を踏みながら参詣し、そのありがたさに涙を流すのだった。 ●羽黒山(はぐろさん) 六月三日、羽黒山(はぐろさん)に登る。 図司左吉(ずしさきち)といふ者を尋(たず)ねて、別当代(べっとうだい)会覚阿闍利(えがくあじゃり)に謁(えっ)す。 南谷(みなみだに)の別院(べついん)に舎(やどり)して憐愍(れんみん)の情(じょう)こまやかにあるじせらる。 四日、本坊(ほんぼう)にをゐて誹諧(はいかい)興行(こうぎょう)。 ありがたや 雪をかほらす 南谷(みなみだに) 五日、権現(ごんげん)に詣(もうず)。 当山(とうざん)開闢(かいびゃく)能除大師(のうじょだいし)はいづれの代(よ)の人といふことをしらず。 延喜式(えんぎしき)に「羽州(うしゅう)里山(さとやま)の神社」とあり。 書写(しょしゃ)、「黒」の字を「里山」となせるにや。 「羽州(うしゅう)黒山(くろやま)」を中略(ちゅうりゃく)して「羽黒山(はぐろさん)」といふにや。 「出羽(でわ)」といへるは、「鳥の毛羽(もうう)をこの国の貢(みつぎもの)に献(たてまつ)る」と風土記(ふどき)にはべるとやらん。 月山(がっさん)・湯殿(ゆどの)を合わせて三山(さんざん)とす。 当寺(とうじ)武江東叡(ぶこうとうえい)に属(しょく)して天台止観(てんだいしかん)の月明(あき)らかに、円頓融通(えんどんゆずう)の法(のり)の灯(ともしび)かかげそひて、僧坊(そうぼう)棟(むね)をならべ、修験行法(しゅげんぎょうほう)を励(はげ)まし、霊山(れいざん)霊地(れいち)の験効(げんこう)、人貴(とうとび)かつ恐(おそ)る。 繁栄(はんえい)長(とこしなえ)にして、めでたき御山(おやま)といいつべし。 ●月山(がっさん) 八日、月山(がっさん)にのぼる。 木綿(ゆう)しめ身(み)に引きかけ、宝冠(ほうかん)に頭(かしら)を包(つつみ)、強力(ごうりき)といふものに道びかれて、雲霧山気(うんむさんき)の中に氷雪(ひょうせつ)を踏(ふみ)てのぼること八里(はちり)、さらに日月(じつげつ)行道(ぎょうどう)の雲関(うんかん)に入(い)るかとあやしまれ、息絶(いきたえ)身(み)こごえて頂上(ちょうじょう)にいたれば、日没(ぼっし)て月顕(あらわ)る。 笹を鋪(しき)、篠(しの)を枕(まくら)として、臥(ふし)て明(あく)るを待(ま)つ。 日出(い)でて雲消(きゆ)れば湯殿(ゆどの)に下(くだ)る。 谷の傍(かたわら)に鍛治小屋(かじごや)といふあり。 この国の鍛治(かじ)、霊水(れいすい)をえらびてここに潔斎(けっさい)して劔(つるぎ)を打(うち)、終(ついに)月山(がっさん)と銘(めい)を切(きっ)て世に賞(しょう)せらる。 かの龍泉(りゅうせん)に剣(つるぎ)を淬(にらぐ)とかや。 干将(かんしょう)・莫耶(ばくや)のむかしをしたふ。 道に堪能(かんのう)の執(しゅう)あさからぬことしられたり。 岩に腰(こし)かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半(なか)ばひらけるあり。 ふり積(つむ)雪の下に埋(うずもれ)て、春を忘れぬ遅(おそ)ざくらの花の心わりなし。 炎天(えんてん)の梅花(ばいか)ここにかほるがごとし。 行尊僧正(ぎょうそんそうじょう)の哥(うた)の哀(あわ)れもここに思ひ出(い)でて、猶(なお)まさりて覚(おぼ)ゆ。 そうじてこの山中(さんちゅう)の微細(みさい)、行者(ぎょうじゃ)の法式(ほうしき)として他言(たごん)することを禁(きん)ず。 よりてて筆(ふで)をとどめて記(しる)さず。 坊(ぼう)に帰れば、阿闍利(あじゃり)のもとめによりて、三山(さんざん)順礼(じゅんれい)の句々(くく)短冊(たんじゃく)に書く。 涼(すず)しさや ほの三か月(みかづき)の 羽黒山(はぐろさん) 雲の峯(みね) 幾(いく)つ崩(くず)れて 月の山 語(かた)られぬ 湯殿(ゆどの)にぬらす 袂(たもと)かな 湯殿山(ゆどのさん) 銭(ぜに)ふむ道の 泪(なみだ)かな 曽良(そら) |
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●「酒田」
羽黒をたって、鶴が岡の城下で長山氏重行という武士の家に迎えられて、俳諧を開催し、一巻歌仙を作った。図司左吉もここまで送ってくれる。川舟の乗って酒田の港へ下る。その日は淵庵不玉という医者のもとに泊めてもらう。 あつみ山や吹浦かけて夕すヾみ (意味)ここあつみ山から吹浦(海)を見下ろす。「あつみ山」と名前からして暑さを思わせる山から涼しい風を思わせる吹浦を見下ろすのは、しゃれた夕涼みだ。 暑き日を海にいれたり最上川 (意味)最上川の沖合いを見ると、まさに真っ赤な太陽が沈もうとしている。そのさまは、一日の暑さをすべて海に流し込んでいるようだ。 ●鶴岡・酒田(つるおか・さかた) 羽黒(はぐろ)を立ちて、鶴(つる)が岡の城下(じょうか)、長山氏重行(ながやまうじじゅうこう)といふもののふの家にむかへられて、誹諧(はいかい)一巻(ひとまき)あり。 左吉(さきち)もともにに送(おく)りぬ。 川舟(かわぶね)に乗(の)りて酒田(さかた)の湊(みなと)に下(くだ)る。 淵庵不玉(えんあんふぎょく)といふ医師(くすし)のもとを宿(やど)とす。 あつみ山や 吹浦(ふくうら)かけて 夕すずみ 暑(あつ)き日を 海にいれたり 最上川(もがみがわ) |
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●「象潟」
海や山、河川など景色のいいところをこれまで見てきて、いよいよ旅の当初の目的の一つである象潟に向けて、心を急き立てられるのだった。象潟は酒田の港から東北の方角にある。山を越え、磯を伝い、砂浜を歩いて十里ほど進む。太陽が少し傾く頃だ。汐風が浜辺の砂を吹き上げており、雨も降っているので景色がぼんやり雲って、鳥海山の姿も隠れてしまった。暗闇の中をあてずっぽうに進む。「雨もまた趣深いものだ」と中国の詩の文句を意識して、雨が上がったらさぞ晴れ渡ってキレイだろうと期待をかけ、漁師の仮屋に入れさせてもらい、雨が晴れるのを待った。次の朝、空が晴れ渡り、朝日がはなやかに輝いていたので、象潟に舟を浮かべることにする。まず能因法師ゆかりの能因島に舟を寄せ、法師が三年間ひっそり住まったという庵の跡を訪ねる。それから反対側の岸に舟をつけて島に上陸すると、西行法師が「花の上こぐ」と詠んだ桜の老木が残っている。水辺に御陵がある。神功后宮の墓ということだ。寺の名前を干満珠寺という。しかし神功后宮がこの地に行幸したという話は今まで聞いたことがない。どういうことなのだろう。この寺で座敷に通してもらい、すだれを巻き上げて眺めると、風景が一眼の下に見渡せる。南には鳥海山が天を支えるようにそびえており、その影を潟海に落としている。西に見えるはむやむやの関があり道をさえぎっている。東には堤防が築かれていて、秋田まではるかな道がその上を続いている。北側には海がかまえていて、潟の内に波が入りこむあたりを潮越という。江の内は縦横一里ほどだ。その景色は松島に似ているが、同時にまったく異なる。松島は楽しげに笑っているようだし、象潟は深い憂愁に沈んでいるようなのだ。寂しさに悲しみまで加わってきて、その土地の有様は美女が深い憂いをたたえてうつむいているように見える。 象潟や雨に西施がねぶの花 (意味)象潟の海辺に合歓の花が雨にしおたれているさまは、伝承にある中国の美女、西施がしっとりうつむいているさまを想像させる。蘇東坡(蘇拭)の詩「飲湖上初晴後雨(湖上に飲む、初め晴れ後雨ふる)」を踏まえる。「西湖をもって西子に比せんと欲すれば 淡粧濃沫総て相宜し」 汐越や鶴はぎぬれて海涼し (意味)汐越の浅瀬に鶴が舞い降りた。その脛が海の水に濡れて、いかにも涼しげだ。衣が短くすねが長く見えているのを「鶴はぎ」と言うが、まさに鶴はぎだなぁと感心した。 ちょうど熊野権現のお祭りに出くわした。 象潟や料理なに食ふ神祭り 曾良 (意味)熊野権現のお祭りにでくわす。海辺の象潟であるのに、熊野信仰によって魚を食べるのを禁じられ、何を食べるのだろうか。 蜑の家や戸板を敷て夕涼 みのの国の住人低耳 (意味)漁師たちの家では、戸板を敷き並べて縁台のかわりにして、夕涼みを楽しんでいる。風流なことだ。 岩の上にみさごが巣を作っているのを見て、 波こえぬ契りありてやみさごの巣 曾良 (意味)岩場の、いかにも波が飛びかかってきそうな危うい位置にみさごの巣がある。古歌に「末の松山波こさじとは」とあるが、強い絆で結ばれたみさごの夫婦なんだろう。 ●象潟(きさがた) 江山(こうざん)水陸(すいりく)の風光(ふうこう)数(かず)を尽(つく)して、今(いま)象潟(きさがた)に方寸(ほうすん)を責(せ)む。 酒田(さかた)の湊(みなと)より東北の方(かた)、山を超(こ)え礒(いそ)を伝(つた)ひ、いさごをふみて、その際(きわ)十里(じゅうり)、日影(ひかげ)ややかたぶくころ、汐風(しおかぜ)真砂(まさご)を吹上(ふきあげ)、雨朦朧(もうろう)として鳥海(ちょうかい)の山かくる。 闇中(あんちゅう)に莫作(もさく)して、「雨もまた奇(き)なり」とせば、雨後(うご)の晴色(せいしょく)またたのもしきと、蜑(あま)の苫屋(とまや)に膝(ひざ)をいれて雨の晴(は)るるを待(ま)つ。 その朝(あした)、天よく晴れて、朝日(あさひ)花やかにさし出(い)づるほどに、象潟(きさかた)に船をうかぶ。 まず能因嶋(のういんじま)に船をよせて、三年(さんねん)幽居(ゆうきょ)の跡(あと)をとぶらひ、むかふの岸(きし)に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜(さくら)の老木(おいき)、西行法師(さいぎょうほうし)の記念(かたみ)をのこす。 江上(こうじょう)に御陵(みささぎ)あり。 神功后宮(じんぐうこうぐう)の御墓(みはか)といふ。 寺を干満珠寺(かんまんじゅじ)といふ。 このところに行幸(みゆき)ありしこといまだ聞かず。 いかなることにや。 この寺の方丈(ほうじょう)に座(ざ)して簾(すだれ)を捲(まけ)ば、風景(ふうけい)一眼(いちがん)の中(うち)に尽(つき)て、南に鳥海(ちょうかい)天をささえ、その陰(かげ)うつりて江(え)にあり。 西は有耶無耶の関(うやむやのせき)、路(みち)をかぎり、東に堤(つつみ)を築(きず)きて秋田(あきた)にかよふ道遥(はるか)に、海北にかまえて浪(なみ)打(う)ち入(い)るる所(ところ)を汐越(しおこし)といふ。 江(え)の縦横(じゅうおう)一里(いちり)ばかり、俤(おもかげ)松嶋(まつしま)にかよひてまた異(こと)なり。 松嶋は笑(わろ)ふがごとく、象潟はうらむがごとし。 寂(さび)しさに悲(かな)しみをくはえて、地勢(ちせい)魂(たましい)をなやますに似(に)たり。 象潟(きさかた)や 雨に西施(せいし)が ねぶの花 汐越(しおこし)や 鶴(つる)はぎぬれて 海涼(すず)し 祭礼(さいれい) 象潟(きさかた)や 料理(りょうり)何くふ 神祭(かみまつり) 曽良(そら) 蜑(あま)の家(や)や 戸板(といた)を敷(しき)て 夕涼(ゆうすずみ) みのの国の商人(あきんど) 低耳(ていじ) 岩上(がんしょう)に 雎鳩(みさご)の巣(す)をみる 波(なみ)こえぬ 契(ちぎ)りありてや みさごの巣(す) 曽良 |
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●「越後路」
酒田の人々との交流を楽しんでいるうちに、すっかり日数が経ってしまった。ようやく腰を上げてこれから進む北陸道の雲を眺めやる。まだまだ先は長い。その遙かな道のりを思うと心配で気が重い。加賀国の都、金沢までは百三十里ときいた。奥羽三関の一つ、鼠の関を越え、越後の地に入ってまた進んでいく。そして越中の国市振の関に到着する。その間、九日かかった。暑いのと雨が降るので神経が参ってしまい、持病に苦しめられた。それで特別書くようなこともなかった。 文月や六日も常の夜には似ず (意味)七夕というものは、その前日の六日の夜でさえなんとなくワクワクして特別な夜に感じるよ。 荒海や佐渡によこたふ天河 (意味)新潟の荒く波立った海の向こうに佐渡島が見える。その上に天の川がかかっている雄大な景色だ。 ●越後路(えちごじ) 酒田(さかた)の余波(なごり)日を重(かさ)ねて、北陸道(ほくろくどう)の雲に望(のぞ)む、遙々(ようよう)のおもひ胸(むね)をいたましめて加賀(かが)の府(ふ)まで百卅里(ひゃくさんじゅうり)と聞く。 鼠(ねず)の関をこゆれば、越後(えちご)の地に歩行(あゆみ)を改(あらため)て、越中(えっちゅう)の国市振(いちぶり)の関(せき)にいたる。 この間(かん)九日(ここのか)、暑湿(しょしつ)の労(ろう)に神(しん)をなやまし、病(やまい)おこりてことをしるさず。 文月(ふみづき)や六日(むいか)も常(つね)の夜には似(に)ず 荒海(あらうみや)や 佐渡(さど)によこたふ 天河(あまのがわ) |
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●「市振」
今日は親不知・子不知・犬もどり・駒返しなどという北国一の難所を超えて体が疲れたので、枕を引き寄せて寝ていたところ、ふすま一枚へだてて道に面した側の部屋から、若い女の声が聞こえてくる。二人いるようだ。それに年老いた男の声もする。聞くともなしに聞いていると、この二人の女は越後の国新潟という所の遊女なのだ。いわゆる「抜け参り」だろう。伊勢参りのため主人に無断で抜け出してきて、この関まで男が送ってきたのだ。明日女の故郷へ返す手紙を書いてこの男に託し、ちょっとした伝言などをしているようだった。白波の寄せる渚に身を投げ出し、住まいもはっきりしない漁師の娘のように波に翻弄され、遊里に身を沈めて遊女というあさましい身に落ちぶれ、客と真実のない夜毎の契りをして、日々罪を重ねる…前世でどんな悪いことをした報いだろう。いかにも不運だ。そんなことを話しているのを聞く聞く寝入った。次の朝出発しようとすると、その二人の遊女が私たちに話しかけてきた。「行き先がわからない旅は心細いものです。あまりにも確かなところがなく、悲しいのです。お坊様として私たちに情けをかけてください。仏の恵みを注いでください。仏道に入る機縁を結ばせてください」そう言って涙を流すのだ。不憫ではあるが、聞き入れるわけにもいかない。「私たちはほうぼうで立ち寄ったり長期滞在したりするのです(とても一緒に旅はできません)。ただ人が進む方向についていきなさい。そうすれば無事、伊勢に到着できるでしょう。きっと神はお守りくださいます」そう言い捨てて宿を出たが、やはり不憫でしばらく気にかかったことよ。 一家に遊女もねたり萩と月 (意味)みすぼらしい僧形の自分と同じ宿に、はなやかな遊女が偶然居合わせた。その宿にわびしく咲く萩を、こうこうと月が照らしている。なんだか自分が萩で遊女が月に思えてくる。 このあらましを曾良に語ると、曾良は書きとめた。 ●市振(いちぶり) 今日(きょう)は親しらず子しらず・犬もどり・駒返(こまがえ)しなどいふ北国一(ほっこくいち)の難所(なんじょ)を超(こ)えてつかれはべれば、枕(まくら)引(ひ)きよせて寐(ね)たるに、一間(ひとま)隔(へだ)てて面(おもて)の方(かた)に若(わか)き女の声二人(ふたり)ばかりと聞こゆ。 年老(としおい)たる男(おのこ)の声も交(まじり)て物語(ものがたり)するを聞けば、越後(えちご)の国新潟(にいがた)といふ所(ところ)の遊女(ゆうじょ)なりし。 伊勢(いせ)参宮(さんぐう)するとて、この関(せき)まで男(おのこ)の送(おく)りて、あすは古郷(ふるさと)にかへす文(ふみ)したためて、はかなき言伝(ことづて)などしやるなり。 「白浪(しらなみ)のよする汀(みぎわ)に身(み)をはふらかし、あまのこの世(よ)をあさましう下(くだ)りて、定(さだ)めなき契(ちぎ)り、日々(ひび)の業因(ごういん)いかにつたなし」と、ものいふを聞く聞く寝入(ねいり)て、あした旅立(たびだつ)に、我々(われわれ)にむかひて、「行衛(ゆくえ)しらぬ旅路(たびじ)のうさ、あまり覚束(おぼつか)なう悲(かな)しくはべれば、見えがくれにも御跡(おんあと)をしたひはべらん。衣(ころも)の上の御情(おんなさけ)に、大慈(だいじ)のめぐみをたれて結縁(けちえん)せさせたまへ」と泪(なみだ)を落(お)とす。 不便(ふびん)のことにははべれども、「我々(われわれ)は所々(ところどころ)にてとどまる方(かた)おほし。ただ人の行(ゆ)くにまかせて行(ゆ)くべし。神明(しんめい)の加護(かご)かならずつつがなかるべし」といひ捨(すて)て出(い)でつつ、哀(あわ)れさしばらくやまざりけらし。 一家(ひとつや)に 遊女(ゆうじょ)もねたり 萩(はぎ)と月 曽良(そら)にかたれば、書(かき)とどめはべる。 |
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●「那古の浦」
黒部四十八が瀬というのだろうか、数え切れないほどの川を渡って、那古という浦に出た。「担籠の藤浪」と詠まれる歌枕の地が近いので、春ではないが初秋の雰囲気もまたいいだろう、訪ねようということで人に道を聞く。「ここから五里、磯伝いに進み、向こうの山陰に入ったところです。漁師の苫屋もあまり無いところだから、「葦のかりねの一夜ゆえ」と古歌にあるような、一夜の宿さえ泊めてくれる人はないでしょう」と脅かされて、加賀の国に入る。 わせの香や分入右は有磯海 (意味)北陸の豊かな早稲の香りに包まれて加賀の国に入っていくと、右側には歌枕として知られる【有磯海】が広がっている。 ●越中路(えっちゅうじ) 黒部(くろべ)四十八ヶ瀬(しじゅうはちがせ)とかや、数(かず)しらぬ川をわたりて、那古(なご)といふ浦(うら)に出(い)づ。 担籠(たご)の藤浪(ふじなみ)は春ならずとも、初秋(はつあき)の哀(あわ)れとふべきものをと人に尋(たず)ぬれば、「これより五里(ごり)いそ伝(づた)ひして、むかふの山陰(やまかげ)にいり、蜑(あま)の苫(とま)ぶきかすかなれば、蘆(あし)の一夜(ひとよ)の宿(やど)かすものあるまじ」といひをどされて、加賀(かが)の国に入(い)る。 わせの香(か)や 分入(わけいる)右は 有磯海(ありそうみ) |
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●「金沢」
卯の花山・くりからが谷を越えて、金沢に着いたのは七月二十五日であった。金沢には大阪から行き来している何処という商人がいて、同宿することとなった。一笑というものは俳諧にうちこんでいる評判がちらほら聞こえてきて、世間では知る人もあったのだが、去年の冬、早世したということで、その兄が追善の句会を開いた。 塚も動け我泣声は秋の風 (意味)一笑よ、君の塚(墓)を目の前にしているが、生前の君を思って大声で泣いている。あたりを吹き抜ける秋風のように激しくわびしい涙なのだ。塚よ、私の呼びかけに答えてくれ! ある草庵に案内された時に、 秋涼し手毎にむけや瓜茄子 (意味)瓜や茄子という秋野菜でもてなしをうけた。いかにも秋の涼しさがあふれる。みなさん、それぞれ瓜や茄子をむこうじゃないですか。その手先にも秋の涼しさを感じてください。 道すがら吟じたもの あかあかと日は難面もあきの風 (意味)もう秋だというのに太陽の光はそんなこと関係ないふうにあかあかと照らしている。しかし風はもう秋の涼しさを帯びている。 ●金沢(かなざわ) 卯(う)の花山・くりからが谷をこえて、金沢(かなざわ)は七月中の五日(いつか)なり。 ここに大坂(おおざか)よりかよふ商人(あきんど)何処(かしょ)といふ者(もの)あり。 それが旅宿(りょしゅく)をともにす。 一笑(いっしょう)といふものは、この道にすける名のほのぼの聞えて、世(よ)に知人(しるひと)もはべりしに、去年(こぞ)の冬早世(そうせい)したりとて、その兄追善(ついぜん)をもよおすに、 塚(つか)も動(うご)け 我(わが)泣(なく)声は 秋の風 ある草庵(そうあん)にいざなはれて 秋涼(すず)し 手ごとにむけや 瓜(うり)茄子(なすび) 途中吟(とちゅうぎん) あかあかと 日はつれなくも 秋の風 |
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●「小松」
しほらしき名や小松吹萩すゝき (意味)「小松」という可愛らしい名前のこの地に、萩やススキをゆらして秋の風が吹いている。 ここ金沢の地で、太田の神社に参詣した。ここには斉藤別当実盛の兜と錦の直垂の切れ端があるのだ。その昔、実盛がまだ源氏に属していた時、義朝公から賜ったものだとか。なるほど、普通の平侍のものとは違っている。目庇から吹返しまで菊唐草の模様を彫り、そこに小金を散りばめ、竜頭には鍬形が打ってある。実盛が討ち死にした後、木曽義仲が戦勝祈願の願状に添えてこの社にこめた次第や、樋口次郎兼光がその使いをしたことなど、当時のことがまるで目の前に浮かぶように、神社の縁起に書かれている。 むざんやな甲の下のきりぎりす (意味)痛ましいことだ。勇ましく散った実盛の名残はもうここには無く、かぶとの下にはただ コオロギが鳴いている。 ●小松(こまつ) 小松(こまつ)といふ所(ところ)にて しほらしき 名や小松(こまつ)ふく 萩(はぎ)すすき この所(ところ)太田(ただ)の神社(じんじゃ)に詣(もうず)。 真盛(さねもり)が甲(かぶと)・錦(にしき)の切(きれ)あり。 往昔(そのむかし)源氏(げんじ)に属(しょく)せし時、義朝公(よしともこう)よりたまはらせたまふとかや。 げにも平士(ひらさむらい)のものにあらず。 目庇(まびさし)より吹返(ふきがえ)しまで、菊唐草(きくからくさ)のほりもの金(こがね)をちりばめ、龍頭(たつがしら)に鍬形(くわがた)打(う)ったり。 真盛(さねもり)討死(うちじに)の後(のち)、木曽義仲(きそよしなか)願状(がんじょう)にそへてこの社(やしろ)にこめられはべるよし、樋口(ひぐち)の次郎(じろう)が使(つかい)せしことども、まのあたり縁記(えんぎ)にみえたり。 むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす |
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●「那谷」
山中温泉に行く道すがら、白根が岳を背にして歩んでいく。左の山際に観音堂がある。花山法皇が西国三十三か所の巡礼をおとげになって後、人々を救う大きな心(大慈大悲)を持った観世音菩薩の像を安置されて、「那谷」と名付けられたということだ。三十三か所の最初の札所である那智と最期の札所である谷汲から、それぞれ一時ずつ取ったということだ。珍しい形の石がさまざまに立ち並び、古松が植え並べられている。萱ぶきの小さなお堂が岩の上に建ててあり、景色のよい場所である。 石山の石より白し秋の風 (意味)那谷寺の境内にはたくさんの白石があるが、それより白く清浄に感じるのが吹き抜ける秋の風だ。境内にはおごそかな空気がたちこめている。 ●那谷(なた) 山中(やまなか)の温泉(いでゆ)に行(ゆ)くほど、白根が嶽(しらねがだけ)跡(あと)にみなしてあゆむ。 左の山際(やまぎわ)に観音堂(かんのんどう)あり。 花山(かざん)の法皇(ほうおう)三十三所(さんじゅうさんしょ)の順礼(じゅんれい)とげさせたまひて後(のち)、大慈大悲(だいじだいひ)の像(ぞう)を安置(あんち)したまひて、那谷(なた)と名付(なづけ)たまふとなり。 那智(なち)・谷組(たにぐみ)の二字(にじ)をわかちはべりしとぞ。 奇石(きせき)さまざまに、古松(こしょう)植(うえ)ならべて、萱(かや)ぶきの小堂(しょうどう)岩の上に造(つく)りかけて、殊勝(しゅしょう)の土地なり。 石山(いしやま)の 石より白し 秋の風 |
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●「山中」
山中温泉に入る。その効用は、有馬温泉に次ぐという。 山中や菊はたおらぬ湯の匂 (意味)菊の露を飲んで七百歳まで生きたという菊児童の伝説があるが、ここ山中では菊の力によらずとも、この湯の香りを吸っていると十分に長寿のききめがありそうだ。 主人にあたるものは久米之助といって、いまだ少年である。その父は俳諧をたしなむ人だ。京都の安原貞室がまだ若い頃、ここに来た時俳諧の席で恥をかいたことがある。貞室はその経験をばねにして、京都に帰って松永貞徳に入門し、ついには世に知られる立派な俳諧師となった。名声が上がった後も、貞室は(自分を奮起させてくれたこの地に感謝して)俳諧の添削料を受けなかったという。こんな話ももう昔のこととなってしまった。曾良は腹をわずらって、伊勢の長島というところに親戚がいるので、そこを頼って一足先に出発した。 行行てたふれ伏とも萩の原 曾良 (意味)このまま行けるところまで行って、最期は萩の原で倒れ、旅の途上で死のう。それくらいの、旅にかける志である。 行く者の悲しみ、残る者の無念さ、二羽で飛んでいた鳥が離れ離れになって、雲の間に行き先を失うようなものである。私も句を詠んだ。 今日よりや書付消さん笠の露 (意味)ずっと旅を続けてきた曾良とはここで別れ、これからは一人道を行くことになる。笠に書いた「同行二人」の字も消すことにしよう。笠にかかる露は秋の露か、それとも私の涙か。 ●山中温泉(やまなかおんせん) 温泉(いでゆ)に浴(よく)す。 その功(こう)有明(ありあけ)につぐといふ。 山中(やまなか)や 菊(きく)はたおらぬ 湯(ゆ)の匂(におい) あるじとするものは久米之助(くめのすけ)とていまだ小童(しょうどう)なり。 かれが父誹諧(はいかい)を好(この)み、洛(らく)の貞室(ていしつ)若輩(じゃくはい)のむかしここに来たりしころ、風雅(ふうが)に辱(はずか)しめられて、洛に帰(かえり)て貞徳(ていとく)の門人(もんじん)となつて世(よ)にしらる。 功名(こうみょう)の後(のち)、この一村(いっそん)判詞(はんじ)の料(りょう)を請(うけ)ずといふ。 今更(いまさら)むかし語(がたり)とはなりぬ。 |
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●「全昌寺・汐越の松」
加賀の城下町【大聖持】の城外、全昌寺という寺に泊まる。いまだ加賀の国である。 曾良も前の晩この寺に泊まり、一句残していた。 終宵秋風聞やうらの山 (意味)裏山を吹く淋しい秋風の音を一晩中きいて、眠れない夜であったよ。一人旅の寂しさが骨身にしみる。 今まで一緒に旅してきたのが一晩でも離れるのは、千里を隔てるように淋しく心細い。私も秋風を聞きながら僧の宿舎に泊めてもらった。夜明け近くなると、読経の声が澄み渡り、合図の鐘板をついて食事の時間を知らせるので食堂(じきどう)に入った。今日は越前の国に越えるつもりである。あわただしい気持ちで食堂から出ると、若い僧たちが紙や硯をかかえて寺の石段のところまで見送ってくれる。 ちょうど庭に柳の葉が散っていたので、 庭掃て出ばや寺に散柳 (意味)寺の境内に柳の葉が散り敷いている。寺に泊めてもらったお礼に、ほうきで掃いてから出発しようよ。 草鞋ばきのままあわただしく句を作った。推敲する余裕もなく書きっぱなしだ。加賀と越前の境、吉崎の入江で船に乗って、汐越の松を訪ねた。 終宵嵐に波をはこばせて 月をたれたる汐越の松 西行 (意味)夜通し打ち寄せる波が松の木にかぶさって、松の梢に波の雫がしたたっている。それに月光がキラキラして、まるで月の雫のようだ。 この一首の中に、すべての景色は詠みこまれている。もし一言付け加えるものがあれば、五本ある指にいらないもう一本を付け加えるようなものだ。 ●全昌寺 曽良(そら)は腹(はら)を病(やみ)て、伊勢(いせ)の国長嶋(ながしま)といふ所(ところ)にゆかりあれば、先立(さきだち)て行(ゆ)くに、 行行(ゆきゆき)て たふれ伏(ふす)と も萩(はぎ)の原 曽良 と書置(かきおき)たり。 行(ゆ)くものの悲(かな)しみ、残(のこ)るもののうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。 よもまた、 今日よりや 書付(かきつけ)消(け)さん 笠(かさ)の露(つゆ) 大聖持(だいしょうじ)の城外(じょうがい)、全昌寺(ぜんしょうじ)といふ寺にとまる。 なお加賀(かが)の地なり。 曽良(そら)も前の夜この寺に泊(とまり)て、 終宵(よもすがら) 秋風(あきかぜ)聞くや うらの山 と残(のこ)す。 一夜(いちや)の隔(へだ)て、千里に同じ。 われも秋風(あきかぜ)を聞きて衆寮(しゅりょう)にふせば、明(あけ)ぼのの空近(ちこ)う、読経(どきょう)声すむままに、鐘板(しょうばん)鳴(なり)て食堂(じきどう)に入(い)る。 今日は越前(えちぜん)の国へと、心早卒(そうそつ)にして堂下(どうか)に下るを、若(わか)き僧(そう)ども紙・硯(すずり)をかかえ、階(きざはし)のもとまで追(おい)来たる。 折節(おりふし)庭中(ていちゅう)の柳(やなぎ)散(ち)れば、 庭(にわ)掃(はき)て 出(い)でばや寺に 散(ちる)柳(やなぎ) とりあへぬさまして草鞋(わらじ)ながら書(かき)捨(す)つ。 ●汐越の松(しおこしのまつ) 越前(えちぜん)の境(さかい)、吉崎(よしさき)の入江(いりえ)を舟に棹(さおさ)して汐越(しおこし)の松を尋(たず)ぬ。 終宵(よもすがら)嵐(あらし)に波(なみ)をはこばせて月をたれたる汐越の松 西行(さいぎょう) この一首(いっしゅ)にて数景(すけい)尽(つき)たり。 もし一辧(いちべん)を加(くわう)るものは、無用(むようの)の指を立(たつ)るがごとし。 |
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●「天竜寺・永平寺」
丸岡の天竜寺の長老は古い知人だから訪ねた。また、金沢の北枝というものがちょっとだけ見送るといいつつ、とうとうここまで慕いついてきてくれた。その場その場の美しい景色を見逃さず句を作り、時々は句の意図を解説してくれた。その北枝ともここでお別れだ。 物書て扇引さく余波哉 (意味)金沢の北枝としばらく同行してきたが、いよいよお別れだ。道すがら句を書きとめてきた扇を引き裂くように、また夏から秋になって扇をしまうように、それは心痛む別れなのだ。 五十丁山に入って、永平寺にお参りする。道元禅師が開基した寺だ。京都から千里も隔ててこんな山奥に修行の場をつくったのも、禅師の尊いお考えがあってのことだそうだ。 ●天龍寺・永平寺(てんりゅうじ・えいへいじ) 丸岡(まるおか)天龍寺(てんりゅうじ)の長老(ちょうろう)、古き因(ちなみ)あれば尋(たず)ぬ。 また金沢の北枝(ほくし)といふもの、かりそめに見送(みおく)りて、このところまでしたひ来たる。 ところどころの風景(ふうけい)過(すぐ)さず思ひつづけて、折節(おりふし)あはれなる作意(さくい)など聞こゆ。 今すでに別(わかれ)に望(のぞ)みて、 物書(ものかき)て 扇(おうぎ)引(ひ)きさく なごりかな 五十丁(ごじっちょう)山に入(い)りて永平寺(えいへいじ)を礼(らい)す。 道元禅師(どうげんぜんじ)の御寺(みてら)なり。 邦機(ほうき)千里(せんり)を避(さけ)て、かかる山陰(やまかげ)に跡(あと)をのこしたまふも、貴(とうと)きゆへありとかや。 |
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●「等栽」
福井までは三里ほどなので、夕飯をすませてから出たところ、夕暮れの道なので思うように進めなかった。この地には等裁という旧知の俳人がいる。いつの年だったか、江戸に来て私を訪ねてくれた。もう十年ほど昔のことだ。どれだけ年取ってるだろうか、もしかしたら亡くなっているかもしれぬと人に尋ねると、いまだ存命で、けっこう元気だと教えてくれた。町中のちょっと引っ込んだ所にみすぼらしい小家があり、夕顔・へちまがはえかかって、鶏頭・ははきぎで扉が隠れている。「さてはこの家だな」と門を叩けば、みすぼらしいなりの女が出てきて、「どこからいらっしゃった仏道修行のお坊様ですか。主人はこのあたり某というものの所に行っています。もし用があればそちらをお訪ねください」と言う。等裁の妻に違いない。昔物語の中にこんな風情ある場面があったなあと思いつつ、すぐにそちらを訪ねていくと等裁に会えた。等裁の家に二晩泊まって、名月で知られる敦賀の港へ旅たった。等裁が見送りに来てくれた。裾をおどけた感じにまくり上げて、楽しそうに道案内に立ってくれた。 ●福井(ふくい) 福井(ふくい)は三里(さんり)計(ばかり)なれば、夕飯(ゆうめし)したためて出(い)づるに、たそがれの道たどたどし。 ここに等栽(とうさい)といふ古き隠士(いんじ)あり。 いづれの年にか江戸(えど)に来たりてよを尋(たず)ぬ。 遥(はるか)十(と)とせあまりなり。 いかに老(おい)さらぼひてあるにや、はた死(しに)けるにやと人に尋(たず)ねはべれば、いまだ存命(ぞんめい)してそこそこと教(おし)ゆ。 市中(しちゅう)ひそかに引入(ひきいり)て、あやしの小家(こいえ)に夕顔(ゆうがお)・へちまのはえかかりて、鶏頭(けいとう)はは木々(ははきぎ)に戸(と)ぼそをかくす。 さてはこのうちにこそと門(かど)を扣(たたけ)ば、侘(わび)しげなる女の出(い)でて、「いづくよりわたりたまふ道心(どうしん)の御坊(ごぼう)にや。 あるじはこのあたり何がしといふものの方(かた)に行(ゆき)ぬ。 もし用あらば尋(たず)ねたまへ」といふ。 かれが妻(つま)なるべしとしらる。 むかし物がたりにこそかかる風情(ふぜい)ははべれと、やがて尋(たず)ねあひて、その家に二夜(ふたよ)とまりて、名月(めいげつ)はつるがのみなとにとたび立(だつ)。 等栽(とうさい)もともに送(おく)らんと、裾(すそ)おかしうからげて、道の枝折(しおり)とうかれ立(たつ)。 |
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●「敦賀」
とうとう白根が嶽が見えなくなり、かわって比那が嶽が姿をあらわした。あさむづの橋を渡ると玉江の蘆は穂を実らせている。鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越えると、木曽義仲ゆかりの燧が城があり、帰る山に雁の初音を聞き、十四日の夕暮れ、敦賀の津で宿をとった。その夜の月は特に見事だった。「明日の夜もこんな素晴らしい名月が見れるでしょうか」というと、「越路では明日の夜が晴れるか曇るか、予測のつかないものです」と主人に酒を勧められ、気比神社に夜参した。仲哀天皇をおまつりしてある。境内は神々しい雰囲気に満ちていて、松の梢の間に月の光が漏れている。神前の白砂は霜を敷き詰めたようだ。昔、遊行二世の上人が、大きな願いを思い立たれ、自ら草を刈り、土石を運んできて、湿地にそれを流し、人が歩けるように整備された。だから現在、参詣に行き来するのに全く困らない。この先例が今でもすたれず、代々の上人が神前に砂をお運びになり、不自由なく参詣できるようにしているのだ。「これを遊行の砂持ちと言っております」と亭主は語った。 月清し遊行のもてる砂の上 (意味)その昔、遊行二世上人が気比明神への参詣を楽にするために運んだという白砂。その白砂の上に清らかな月が輝いている。砂の表面に月が反射してきれいだ。清らかな眺めだ。 十五日、亭主の言葉どおり、雨が降った。 名月や北国日和定なき (意味)今夜は中秋の名月を期待していたのに、あいにく雨になってしまった。本当に北国の天気は変わりやすいものなのだな。 ●敦賀(つるが) 漸(ようよう)白根(しらね)が嶽(だけ)かくれて、比那(ひな)が嵩(だけ)あらはる。 あさむづの橋をわたりて、玉江(たまえ)の蘆(あし)は穂(ほ)に出(い)でにけり。 鴬(うぐいす)の関(せき)を過(すぎ)て湯尾峠(ゆのおとうげ)を越(こゆ)れば、燧(ひうち)が城(じょう)、かへるやまに初鴈(はつかり)を聞きて、十四日の夕ぐれつるがの津(つ)に宿(やど)をもとむ。 その夜、月ことに晴(は)れたり。 「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路(こしじ)のならひ、なお明夜(めいや)の陰晴(いんせい)はかりがたし」と、あるじに酒すすめられて、けいの明神(みょうじん)に夜参(やさん)す。 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の御廟(ごびょう)なり。 社頭(しゃとう)神(かん)さびて、松の木(こ)の間(ま)に月のもり入(はいり)たる、おまへの白砂(はくさ)霜(しも)を敷(しけ)るがごとし。 「往昔(そのむかし)遊行二世(ゆぎょうにせ)の上人(しょうにん)、大願発起(たいがんほっき)のことありて、みづから草を刈(かり)、土石(どせき)を荷(にな)ひ、泥渟(でいてい)をかはかせて、参詣(さんけい)往来(おうらい)の煩(わずらい)なし。 古例(これい)今にたえず。 神前(しんぜん)に真砂(まさご)を荷(にな)ひたまふ。 これを遊行(ゆぎょう)の砂持(すなもち)ともうしはべる」と、亭主(ていしゅ)のかたりける。 月清(きよ)し 遊行のもてる 砂の上 十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず雨降(あめふる)。 名月(めいげつや)や 北国(ほっこく)日和(びより) さだめなき |
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●「種の浜」
十六日、空が晴れたので西行の歌にある「ますほの小貝」を拾おうと海上を七里舟を走らせ、色の浜を目指した。天屋なにがしという者が弁当箱や酒の入った竹筒を心細かに用意してくれ、下人を多く案内のために舟に乗せてくれた。追い風だったので普通より早く色の浜に到着した。浜にはわずかに漁師の小家があるだけだ。侘しげな法華寺があり、そこで茶を飲み、酒を温めなどした。この浜の夕暮れの寂しさは格別心に迫るものだった。 寂しさや須磨にかちたる浜の秋 (意味)光源氏が配流された須磨は淋しい場所として知られるが、ここ種の浜は須磨よりはるかに淋しいことよ。 波の間や小貝にまじる萩の塵 (意味)波打ち際の波の間をよく見ると、小貝に混じって赤い萩の花が塵のように散っている。 ●種の浜(いろのはま) 十六日、空(そら)霽(はれ)たれば、ますほの小貝(こがい)ひろはんと種の浜(いろのはま)に舟を走(は)す。 海上(かいじょう)七里(しちり)あり。 天屋(てんや)何某(なにがし)といふもの、破籠(わりご)・小竹筒(ささえ)などこまやかにしたためさせ、しもべあまた舟にとりのせて、追風(おいかぜ)時のまに吹(ふ)き着(つ)きぬ。 浜(はま)はわづかなる海士(あま)の小家(こいえ)にて、侘(わび)しき法花寺(ほっけでら)あり。 ここに茶を飲(のみ)、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ感(かん)に堪(たえ)たり。 寂(さび)しさや 須磨(すま)にかちたる 浜(はま)の秋 波の間(ま)や 小貝にまじる 萩(はぎ)の塵(ちり) その日のあらまし、等栽(とうさい)に筆(ふで)をとらせて寺に残(のこす)。 |
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●「大垣」
路通もこの港まで迎えに出てきて、美濃の国へ同行してくれた。馬に乗って大垣の庄に入ると、曾良も伊勢から来て合流し、越人も馬を飛ばしてきて、如行の家に集合した。前川子・荊口父子、その他の親しい人々が日夜訪問して、まるで死んで蘇った人に会うように、喜んだりいたわってくれたりした。旅の疲れもまだ取れないままに、九月六日になったので、伊勢の遷宮を拝むため、また舟に乗って旅立つのだった。 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ (意味)離れがたい蛤のふたと身が別れていくように、お別れの時が来た。私は二見浦へ旅立っていく。もう秋も過ぎ去ろうとしている。 ●大垣(おおがき) 露通(ろつう)もこのみなとまで出(い)でむかひて、みのの国へと伴(ともな)ふ。 駒(こま)にたすけられて大垣(おおがき)の庄(しょう)に入(い)れば、曽良(そら)も伊勢(いせ)より来たり合い、越人(えつじん)も馬をとばせて、如行(じょこう)が家に入(い)り集(あつ)まる。 前川子(ぜんせんし)・荊口父子(けいこうふし)、そのほかしたしき人々日夜とぶらひて、蘇生(そせい)のものに会ふがごとく、かつ悦(よろこ)び、かついたはる。 旅(たび)のものうさも、いまだやまざるに、長月(ながつき)六日(むいか)になれば、伊勢(いせ)の遷宮(せんぐう)おがまんと、また舟にのりて、 蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ 行(ゆ)く秋ぞ |
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●「跋」
枯れて侘しい情緒も、力強いのも、か弱い感じも、「奥の細道」を読んでいくと思わず立ち上がって感激に手を叩いたり、また坐ったまま感動に胸が熱くなったりする。私も一度は蓑をきてこのような旅をしたいものだと思い立ちったり、またある時は座ったままその景色を想像して満足したりする。こういった様々な感動を、まるで人魚の涙が結晶して玉となったように、文章の力によって形にしたのだ。「奥の細道」の旅の、なんと素晴らしいことか。また芭蕉の才能のなんと優れていることか。ただ嘆かわしいことに、このように才能ある芭蕉が健康にはめぐまれず、かよわげなことで、眉毛にはだんだん白いものが増えていっている。 元禄七年初夏 素竜しるす |
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●本当はいつ?「五月雨(さみだれ)」、「五月晴れ(さつきばれ)」と梅の実の熟すころ | |
なにげなく使っている季節の言葉、五月のお天気の良い日は「五月晴れ(さつきばれ)」、雨の日は「五月雨(さみだれ)」などと言いますね。さて、「五月」とつくからには6月になったら使えなくなるのでしょうか?
ところがそうでもない…旧暦の皐月(さつき)の語源と、使い方についてお話しましょう。 五月の異称のおさらい「皐月」のほかにもある呼び方は…? 私たちは旧暦の呼び名を、五月は「さつき」と呼ぶと習いましたね。漢字では「皐月」と書くとも習いました。そしてもう一つ、あまり使われていませんが「早苗月(さなえづき)」という異称があることをご存知でしょうか? 「早苗月(さなえづき)」は、その文字どおりに『田植えを始める月』を由来としています。そして「皐月(さつき)」は「さなえづき」が転じて「さつき」となったという説と、耕作のことを古語で「さ」と言うため「稲を植える月」として「さつき」という音がうまれ、『神にささげる』という意味を持つ漢字「皐」が当てられて「皐月」となったとも言われています。 また、狩りに行くのに良い時期であったことから「幸月(さちづき)」、橘(たちばな)の花が咲くことから「橘月(たちばなづき)」という異称もあります。 橘は着物の文様では吉祥模様(きっしょうもよう)と言い、お祝いに相応しい花です。いずれにしても、田植えを行う月であること。その稲は神様へのささげものであること。それを祝う意味を込めた言葉が使われていることがうかがえますね。 そして、旧暦の五月は『梅の実が熟すころ』でもあります…。 ●梅の実が熟すころ…と「五月晴れ」「五月雨」の関係 では、「五月晴れ」と「五月雨」はいつ、どう使いましょうか? 本来は旧暦の五月の言葉です。今で言うと、6月〜7月にあたりますので、実は「梅雨(つゆ)」の頃の言葉となります。つまり、五月晴れ=梅雨晴れ、五月雨=梅雨の雨…という意味があるというクセモノです。 例えば、五月晴れは「(1)さみだれの晴れ間。梅雨の晴れ間。(2)5月の空の晴れわたること」(広辞苑)「(1)五月雨(さみだれ)の晴れ間。つゆばれ。(2)5月のさわやかに晴れわたった空。さつきぞら」(日本国語大辞典・小学館) と、辞書にも二つの意味の記載があるのです。俳句や短歌など、季語の世界ではもっとはっきりしていて、それぞれ旧暦に準じています。ですから、季語に親しんでいる方には、五月に「五月晴れ」「五月雨」という言葉を聞くとちょっと違和感を感じることもあるのではないでしょうか。 放送の世界では、「五月晴れ」は五月の晴天に使い、「五月雨」は季語に準じて、梅雨に降る雨に使われているようです。 緑が色鮮やかになる頃の「五月晴れ」という表現とはそろそろお別れですが、「五月雨」はこれからがまさにシーズンです。 |
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●「五月雨を集めて早し最上川」 芭蕉 | |
松尾芭蕉の『奥の細道』は有名で、教科書などにもよく採用されています。そのため事実が書かれていると信じている人も少なくないようです。でもこれは文学作品ですから、当然虚構も含まれています。そのことは、同伴した門人の河合曽良が書いた旅日記(奥の細道随行日記)と比較すればすぐにわかります。
それだけではありません。俳句や和歌・漢詩は推敲するのが当たり前です。本人が改めるだけではありません。後人の手もしばしば入ります。芭蕉など、門人たちに自詠の句の是非を議論させることを、教育の一環としていました。だからこそ推敲の過程を辿る面白さがあるのです。 さて掲載した句ですが、曽良の旅日記によると、元禄2年(1689年)5月28日に大石田(山形県)に到着し、29、30日とそこに滞在している間に句会を催しています。その句会の発句として芭蕉は、 五月雨を集めて涼し最上川 と詠じました。みなさんの知っている句と少し違いますね。 一般に知られている句は、「涼し」が「早し」になっています。ですがこれは間違いではありません。芭蕉は最初「涼し」と詠んだのです。その理由は簡単です。その年の東北・北陸は異常に暑く、芭蕉も暑さに閉口していたからです。だから最上川の川風を受けて、素直に「涼しい」と詠んだのでしょう。それもあって、今でも山形県大石田では「五月雨を集めて涼し最上川」の方がよく知られているとのことです。 ところが『奥の細道』を見ると、 五月雨を集めて早し最上川 となっています。いつの間にか「涼し」が「早し」に推敲されているのです。これについては、発句を詠んだ後、芭蕉は六月三日に実際に最上川の川下りを体験したようです。 五月雨は現在の梅雨に相当します。大量に降り続いた雨によって、川は増水します。京都の保津川下りでさえスリル満点ですから、日本三大急流(他は富士川・球磨川)に数えられている最上川であれば、きっと恐怖の川下りだったでしょう。そのことは『奥の細道』にも、「水みなぎって、舟あやふし」と記されています。 当初、夏の暑さと句会への配慮から、無難に「涼し」と詠じた芭蕉でしたが、実際に奔流となって流れる最上川の川下りを体験したことで、後に「早し」に推敲したのです。たった二文字の改訂ですが、これだけで句の趣は大きく変わりました。穏やかな流れが激流に変貌したのです。そして最終的に芭蕉は、この形をよしとしたようです。 ところで、歌枕ともいわれている「最上川」には、どんなイメージが付与されていたのでしょうか。代表的な古歌としては、 最上川のぼればくだる稲舟のいなにはあらずこの月ばかり(古今集東歌1092番) があげられます(万葉集には見当たりません)。これによれば、川を上り下る稲舟のイメージが一番印象的だったことがわかります(稲舟はこれが初出)。これは最上川が舟運(しゅううん)に利用されていたからです。また「否」を導く同音の序詞という技法も認められます。 そのことは『奥の細道』にも、「茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いなぶねとは云ならし」とあるので、芭蕉も古今集歌を念頭に置いていたことがわかります。ただしそこに急流のイメージはありません。どうやら最上川を「早し」と詠んだのは、芭蕉が嚆矢だったようです(もちろん「涼し」も同様です)。 もともと最上川を詠じた歌はそんなに多くありませんが、その中で兼好法師の詠んだ、 最上川はやくぞ増さる雨雲ののぼればくだる五月雨のころ(兼好法師家集) は「五月雨」が読み込まれている点が共通しています。また季節は異なりますが、斎藤茂吉の、 最上川逆白波の立つまでに吹雪く夕べとなりにけるかも(白き山) は、最上川の自然の猛威を詠じている点が特徴です。歌枕のイメージが徐々に広がっている(くずされている)のがわかりますね。芭蕉の句は決して伝統的な詠みぶりではなかったのです。最上川に行ってみたくなりませんか。 |
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●梅雨 [ばいう] 1 | |
● 〈つゆ〉とも。6月から7月にかけて中国の揚子江流域から日本の南部にかけて特に顕著に現れる季節的な雨。年によりその期間に長短があり,入梅,梅雨明けの日付も一定しない。暦の入梅は太陽が黄経80°を通過する日(6月11〜12日)で,特に気象学的意味はないが,日本の南岸の地方ではこのころに梅雨に入ることが多い。梅雨明けは日本の南岸では通常7月中旬ごろ,東北地方で7月下旬。北海道は梅雨がはっきり現れる年とそうでない年がある。梅雨現象は気象学的にみると梅雨前線が南岸沿いに停滞することに対応する。梅雨前線帯は通常,5月ごろ台湾と硫黄島を結ぶ緯度帯に現れ,一進一退しながら季節的に北上し,盛夏季には沿海州方面まで北上する。したがって梅雨は南ほど早く始まり,早く明ける。沖縄の梅雨は〈夏ぐれ〉と呼ばれる。小笠原の梅雨も5月が最盛期。梅雨の語源は梅の実の熟するころの雨,または〈黴雨〉でカビの雨を意味するという。〈つゆ〉は露,あるいはカビなどのため物が〈ついゆ(わるくなる)〉に由来するといわれ,陰暦5月ころの雨なので五月雨(さみだれ)の称もある。 | |
● 春から夏への季節の変わり目に東アジアから東南アジアにかけてみられる長雨や曇天。太陽が黄経80度を通る日が暦の上の入梅で、6月11日頃。気象上の梅雨入りは、南西諸島で5月中旬、南九州で6月初め、西日本から東北地方にかけては6月上旬から中旬頃。本州南岸では、オホーツク海高気圧からの冷湿な北東風(やませ)と太平洋高気圧からの暖湿な南寄りの風が衝突して、梅雨前線が停滞する。やませが吹き続けると、低温・日照不足・梅雨寒(つゆざむ)をもたらす。7月中旬から下旬にかけて太平洋高気圧の勢力が強まると梅雨前線が北上または消滅して梅雨明けとなる。梅雨明け後に再び前線ができる場合が戻り梅雨。梅雨のない北海道では、年によっては、えぞ梅雨という梅雨に似た現象が現れる。菜の花が咲く3月中旬から4月にかけての長雨が菜種梅雨(なたねづゆ)で、春霖(しゅんりん)とも呼ぶ。この頃の雨が春雨(はるさめ)、梅雨入り前の長雨が走り梅雨。8月後半から10月にかけて現れやすい長雨は秋雨(あきさめ)で、秋霖(しゅうりん)とも呼ぶ。 | |
● 日本の春から夏に移る時期に本州,四国,九州,沖縄地方でみられる雨の季節。つゆともいう。統計では,梅雨入りは沖縄地方が 5月8日で,しだいに北上し,東北北部が 6月12日頃である。これは暦の雑節の一つである入梅(太陽が黄経 80°を通過する日)とも符合する。梅雨明けは,沖縄地方が 6月23日頃で,最も遅い東北北部が 7月27日頃である。梅雨は秋霖とともに日本の二大雨季であり,秋霖が秋雨前線に起因するのに対し,梅雨は梅雨前線による長雨で,湿潤高温な気候はカビ害,食中毒などを招きやすく,古来一般に嫌われてきた。しかし,この雨季があるために稲作農耕文化が起こったという点でも重要な気象現象であるといえる。梅雨はインド方面の夏の季節風(モンスーン)と連動した気象現象で,同様の長雨は,朝鮮半島南部,中国の華南や華中の沿海部および台湾など東アジアの広範囲でもみられる。 | |
● 6月上旬から7月上・中旬にかけて、本州以南から朝鮮半島、揚子江流域に顕著に現れる季節的な雨。梅雨前線上を小低気圧が次々に東進して雨を降らせるもの。入梅の前に走り梅雨づゆの見られることが多く、中休みには五月晴さつきばれとなることもあり、梅雨明けは雷を伴うことが多い。つゆ。さみだれ。《季 夏》「草の戸の開きしままなる―かな/虚子」。[補説]梅の実が熟するころに降る雨の意、または、物に黴かびが生じるころに降る雨の意か。[類語]梅雨つゆ・五月雨・空梅雨・菜種梅雨・走り梅雨・戻り梅雨・返り梅雨。 / つゆ【梅雨/黴雨】6月ころの長雨の時節。また、その時期に降る長雨。暦の上では入梅・出梅の日が決められているが、実際には必ずしも一定していない。北海道を除く日本、中国の揚子江流域、朝鮮半島南部に特有の現象。五月雨さみだれ。ばいう。《季 夏》「―ふかし猪口にうきたる泡一つ/万太郎」。[類語]梅雨ばいう・五月雨・空梅雨・菜種梅雨・走り梅雨・戻り梅雨・返り梅雨。 | |
● 〈つゆ〉ともいう。太陰太陽暦では梅雨の時期が5月にあたるので,五月雨(さみだれ)ともいった。梅雨は東アジアだけにみられる雨季で,6月上旬より7月上旬にかけて日本の南岸から中国の長江流域にかけて前線(梅雨前線)が停滞して長雨を降らせる現象である。梅雨は南寄りの季節風が直接あたる九州,四国,近畿,東海地方で顕著であり,この期間の降水量は年降水量のほぼ1/3(平年値は那覇で520mm,福岡で507mm,東京で260mm,仙台で265mm)に達する。 | |
● つゆ。梅の実の熟するころの長雨。〔五雑組、天部一〕江南三四、霪雨(いんう)止まず、百物黴腐(ばいふ)するにしむ。俗に之れを雨と謂ふ。蓋(けだ)し子の時に當ればなり。徐・淮よりして北、六七のに至り、〜俗之れを雨と謂ふ。 | |
● …〈つゆ〉ともいう。太陰太陽暦では梅雨の時期が5月にあたるので,五月雨(さみだれ)ともいった。梅雨は東アジアだけにみられる雨季で,6月上旬より7月上旬にかけて日本の南岸から中国の長江流域にかけて前線(梅雨前線)が停滞して長雨を降らせる現象である。… / 【前線】…このときは,前線の所に大きな低気圧はない。梅雨期にはこの前線を梅雨前線と呼ぶ。この時期には既に大陸の空気は暖かく,寒冷な空気はオホーツク海と三陸沖にある。… | |
● 夏至(げし)(6月22日ごろ)を中心として前後それぞれ約20日ずつの雨期。梅雨(つゆ)ともいう。これは極東アジア特有のもので、中国の長江(ちょうこう)(揚子江(ようすこう))流域、朝鮮半島南部および北海道を除く日本でみられる。中国ではMéi-yú、韓国では長霖(ちょうりん)Changmaというが、日本語のBai-uは国際的にも通用する。ウメの実の熟するころの雨期なので「梅雨」と書くが、カビ(黴)の生えるころの雨期でもあるので、昔は「黴雨(ばいう)」とも書かれた。梅雨はまた「つゆ」ともいう。旧暦では五月(さつき)ごろにあたるので「五月雨」と書いて「さみだれ」と読ませた。この流儀でいうと五月晴れ(さつきばれ)は元来はつゆの晴れ間をいったので、現在の新暦の5月の晴天を「さつきばれ」というのは誤用である。梅雨期間の雨量は、西日本では年降水量の4分の1程度、東日本では5分の1、北日本や日本海側では5分の1から10分の1程度となっている。梅雨末期の集中豪雨はさまざまな水害をもたらすことがあるが、梅雨全体としての雨量は冬の日本海側の雪とともに、日本のたいせつな水資源となっている。 | |
● 梅雨の期間 梅雨期は走り梅雨(はしりづゆ)、梅雨前期、梅雨後期に分けられることが多い。それぞれの期間の特徴は次のとおりである。(1)走り梅雨 5月中旬〜下旬ごろから走り梅雨に入るが、このころはオホーツク海の高気圧はあまり顕著でなく、日本付近を寒帯前線がしだいに北上していくのに伴って雨が降る。年により走り梅雨がないこともあるが、普通は「走り」のあることが多い。(2)梅雨前期 この期間の特徴は、梅雨前線の活動が弱いことである。走り梅雨による雨と、梅雨前期の雨をはっきりくぎることのむずかしい年も多く、毎年、いつから梅雨入りとするかが問題になる。梅雨前期と走り梅雨による雨量は一般に少ない。(3)梅雨後期 前期と後期の境目はちょうど夏至のころにあたる。これが梅雨の中休みで、この中休みが前後に長引くと空梅雨(からつゆ)(涸梅雨とも書く)となる。中休みのころは一時、真夏の青空が現れ、地平には雄大な積雲がわくが、普通は長続きせず梅雨後期に入る。梅雨後期の雨はまとまって降る大雨や集中豪雨となる型で、前期よりは雨量がずっと多く、本土では6月末が一年中でもっとも雨の降りやすいころとなる。梅雨明けは7月中旬になることが多く、数日の差で比較的一斉に真夏の晴天を迎える。梅雨明けは、梅雨入りと比べると、よほどはっきりした季節のとぎれた変化である。梅雨後期には中国南部から日本の東の海上へ伸びる梅雨前線が顕著になる。梅雨前線には南西モンスーン(季節風)や太平洋の高気圧から湿潤な気流が流れ込む。ときには発達したオホーツク海高気圧におおわれて、北日本などにやませが吹きつけ梅雨寒をもたらすことがある。梅雨後期には熱帯地方で発生した低気圧(この発達したものが台風である)が北上し、これに伴われた湿潤な大気が梅雨前線を刺激して大雨をもたらすことがある。梅雨後期にはその期間中にも雷がしばしば発生する。したがって「雷が鳴ると梅雨(つゆ)が明ける」というのは間違った表現であり、「梅雨(つゆ)明けは雷を伴うことが多い」というべきである。 | |
● 梅雨と生活 日本人の生活の一つのくふうは、6〜7月の高温多湿の条件をいかに克服するか、利用するかであり、この面を強調して日本の文化を湿度文化という人もある。たとえば防湿の知恵としては、唐櫃(からびつ)などによる木箱内の保存があるが、木箱内では木質が湿気を出し入れすることにより、湿度はおよそ70%くらいに保たれ、保存に適する小空間がつくりだされているのである。また正倉院の建築法で有名な校倉(あぜくら)造、高床(たかゆか)式なども、乾燥した空間をつくりだすのになにがしかの貢献をしていると思われる。黴雨(ばいう)とよばれたことがあったことからもわかるように、高温多湿の梅雨期はカビの繁殖の好条件である。このため古来、日本ではカビを取り除いたり、また反対に利用したりする知恵が発達した。たとえば、漢方薬は生薬(しょうやく)であるためかびることによって著しくその効き目が減ずる。そのため漢方薬は乾燥した環境に保存しなくてはならないのであるが、そのため蒼朮(おけら)(和蒼朮(わのそうじゅつ))をたくことが行われる。蒼朮は雑草の一種の根であるが、その根を燻蒸(くんじょう)すること(焚蒼(たきそう)という)により、室内の湿気を取り除くことができるのである。梅雨期は各種のカビなど微生物が発生しやすく、食品などの腐敗しやすい時期であり、そのため食中毒などには注意しなければならない。他方、微生物は日本の食物の基本となるみそ、しょうゆ、酒、納豆などをつくりだすのに重要な働きもしているのであり、これらの利用も巧みに取り入れたのが日本文化の一つの特徴といえるであろう。 | |
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●梅雨 [つゆ・ばいう] 2 | |
北海道と小笠原諸島を除く日本、朝鮮半島南部、中国の南部から長江流域にかけての沿海部、および台湾など、東アジアの広範囲においてみられる特有の気象現象で、5月から7月にかけて来る曇りや雨の多い期間のこと。雨季の一種である。 | |
●東アジアの四季変化における梅雨
気候学的な季節変化を世界と比較したとき、東アジアでは春夏秋冬に梅雨を加えた五季、また日本に限るとさらに秋雨を加えた六季の変化がはっきりと表れる。 東アジアでは、春や秋は、温帯低気圧と移動性高気圧が交互に通過して周期的に天気が変化する。一方、盛夏期には亜熱帯高気圧(太平洋高気圧)の影響下に入って高温多湿な気団に覆われる。そして、春から盛夏の間と、盛夏から秋の間には、中国大陸東部から日本の東方沖に前線が停滞することで雨季となる。この中で、春から盛夏の間の雨季が梅雨、盛夏から秋の間の雨季が秋雨である。なお、梅雨は東アジア全体で明瞭である一方、秋雨は中国大陸方面では弱く日本列島方面で明瞭である。また、盛夏から秋の間の雨季の雨の内訳として、台風による雨も無視できないほど影響力を持っている。 梅雨の時期が始まることを梅雨入りや入梅(にゅうばい)といい、社会通念上・気象学上は春の終わりであるとともに夏の始まり(初夏)とされる。なお、日本の雑節の1つに入梅(6月11日頃)があり、暦の上ではこの日を入梅とするが、これは水を必要とする田植えの時期の目安とされている。また、梅雨が終わることを梅雨明けや出梅(しゅつばい)といい、これをもって本格的な夏(盛夏)の到来とすることが多い。ほとんどの地域では、気象当局が梅雨入りや梅雨明けの発表を行っている。 梅雨の期間はふつう1か月から1か月半程度である。また、梅雨期の降水量は九州では500mm程度で年間の約4分の1・関東や東海では300mm程度で年間の約5分の1ある。西日本では秋雨より梅雨の方が雨量が多いが、東日本では逆に秋雨の方が多い(台風の寄与もある)。梅雨の時期や雨量は、年によって大きく変動する場合があり、例えば150mm程度しか雨が降らなかったり、梅雨明けが平年より2週間も遅れたりすることがある。そのような年は猛暑・少雨であったり冷夏・多雨であったりと、夏の天候が良くなく気象災害が起きやすい。 東アジアは中緯度に位置している。同緯度の中東などのように亜熱帯高気圧の影響下にあって乾燥した気候となってもおかしくないが、大陸東岸は夏季に海洋を覆う亜熱帯高気圧の辺縁部になるため雨が多い傾向にある。これは北アメリカ大陸東岸も同じだが、九州では年間降水量が約2,000mmとなるなど、熱帯収束帯の雨量にも劣らないほどの雨量がある。この豊富な雨量に対する梅雨や秋雨の寄与は大きい。梅雨が大きな雨量をもたらす要因として、インドから東南アジアへとつながる高温多湿なアジア・モンスーンの影響を受けている事が挙げられる。 時折、梅雨は「雨がしとしとと降る」「それほど雨足の強くない雨や曇天が続く」と解説されることがある。これは東日本では正しいが、西日本ではあまり正しくない。梅雨の雨の降り方にも地域差があるためである。特に西日本や華中(長江の中下流域付近)では、積乱雲が集まった雲クラスターと呼ばれる水平規模100km前後の雲群がしばしば発生して東に進み、激しい雨をもたらすという特徴がある。日本本土で梅雨期にあたる6-7月の雨量を見ると、日降水量100mm以上の大雨の日やその雨量は西や南に行くほど多くなるほか、九州や四国太平洋側では2カ月間の雨量の半分以上がたった4-5日間の日降水量50mm以上の日にまとまって降っている。梅雨期の総雨量自体も、日本本土では西や南に行くほど多くなる。 |
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●名称
漢字表記「梅雨」の語源としては、この時期は梅の実が熟す頃であることからという説や、この時期は湿度が高くカビが生えやすいことから「黴雨(ばいう)」と呼ばれ、これが同じ音の「梅雨」に転じたという説、この時期は「毎」日のように雨が降るから「梅」という字が当てられたという説がある。普段の倍、雨が降るから「倍雨」というのはこじつけ(民間語源)である。このほかに「梅霖(ばいりん)」、旧暦で5月頃であることに由来する「五月雨(さみだれ)」、麦の実る頃であることに由来する「麦雨(ばくう)」などの別名がある。 なお、「五月雨」の語が転じて、梅雨時の雨のように、物事が長くだらだらと続くことを「五月雨式」と言うようになった。また梅雨の晴れ間のことを「五月晴れ(さつきばれ)」というが、この言葉は最近では「ごがつばれ」とも読んで新暦5月初旬のよく晴れた天候を指すことの方が多い。気象庁では5月の晴れのことを「さつき晴れ」と呼び、梅雨時の晴れ間のことを「梅雨の合間の晴れ」と呼ぶように取り決めている。五月雨の降る頃の夜の闇のことを「五月闇(さつきやみ)」という。 地方名には「ながし」(鹿児島県奄美群島)、「なーみっさ」(喜界島での別名)がある。沖縄では、梅雨が小満から芒種にかけての時期に当たるので「小満芒種(スーマンボースー、しょうまんぼうしゅ)」や「芒種雨(ボースーアミ、ぼうしゅあめ)」という別名がある。 中国では「梅雨(メイユー)」、台湾では「梅雨(メイユー)」や「芒種雨」、韓国では「장마(チャンマ)」という。中国では、古くは「梅雨」と同音の「霉雨」という字が当てられており、現在も用いられることがある。「霉」はカビのことであり、日本の「黴雨」と同じ意味である。中国では、梅が熟して黄色くなる時期の雨という意味の「黄梅雨(ファンメイユー)」もよく用いられる。 |
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●メカニズムと経過
●気団 梅雨の時期には、以下の4つの気団が東アジアに存在する。 ・揚子江気団 / 中国北部・モンゴルから満州にかけての地域に存在。暖かく乾燥した大陸性の気団。移動性高気圧によって構成される。 ・オホーツク海気団 / オホーツク海に存在。冷たく湿った海洋性の気団。 ・熱帯モンスーン気団 / インドシナ半島・南シナ海から南西諸島近海にかけての地域に存在。暖かく非常に湿った海洋性の気団。インド洋の海洋性気団の影響を強く受けている。 ・小笠原気団 / 北太平洋西部に存在。高温・多湿で海洋性の気団。 春から夏に季節が移り変わる際、東アジアでは性質の違うこれらの気団がせめぎ合う。中国大陸方面と日本列島・朝鮮半島方面ではせめぎ合う気団が異なる。 ・中国大陸方面:北の揚子江気団と南の熱帯モンスーン気団が接近し、主に両者の湿度の差によって停滞前線が形成される。 ・日本列島・朝鮮半島方面:北のオホーツク海気団と南の小笠原気団が接近し、主に両者の温度の差により、停滞前線が形成される。 性質が似ていることや、距離が離れていて干渉が少ないことなどから、北側の気団同士・南側の気団同士の間には、前線は形成されない。 北と南の気団が衝突した部分には東西数千kmに渡って梅雨前線(ばいうぜんせん)ができ、数か月に渡って少しずつ北上していく。この前線付近では雨が降り続くが、長雨の期間は各地域で1か月–2か月にもなる。これが梅雨である。 ●梅雨前線の最初 冬の間、シベリアから中国大陸にかけての広範囲を冷たく乾燥したシベリア気団が覆っている。シベリア気団はしばしば南下して寒波をもたらし、日本の日本海側に大雪を降らせるが、チベット高原では高い山脈が邪魔して気団がそれ以上南下できない。そのチベット高原の南側、インド-フィリピンにかけての上空を亜熱帯ジェット気流が流れる。 冬が終わり春が近づくにつれ、シベリア気団は勢力が弱くなり、次第に北上していく。代わって中国大陸には暖かく乾燥した揚子江気団ができ始め、勢力を強めていく。春になると、揚子江気団は東の日本列島や朝鮮半島などに移動性高気圧を放出し、これが偏西風に乗って東に進み、高気圧の間にできた低気圧とともに春の移り変わりやすい天候を作り出している。 春が終わりに差し掛かるにつれて、南シナ海付近にある熱帯モンスーン気団が勢力を増し北上してくる。すると、揚子江気団と熱帯モンスーン気団が衝突し始める。地上天気図でみると、揚子江気団からできた高気圧と熱帯モンスーン気団からできた高気圧が南シナ海上でせめぎあい、その間に前線ができていることがわかる。これが最初の梅雨前線である。 例年、華南や南西諸島南方沖付近では5月上旬頃に、梅雨前線のでき始めである雲の帯(専門的には準定常的な雲帯と呼ぶことがある)が発生する。 ●明瞭になる梅雨前線 5月上旬には南西諸島も梅雨前線の影響を受け始める。5月中旬ごろになると、梅雨前線ははっきりと天気図上に現れるようになり、華南や南西諸島付近に停滞する。 一方、初夏に入った5月ごろ、亜熱帯ジェット気流も北上し、チベット高原に差し掛かる。ただし、チベット高原は上空を流れる亜熱帯ジェット気流よりもさらに標高が高いため、亜熱帯ジェット気流はチベット高原を境に北と南の2つの流れに分かれてしまう。 分かれた亜熱帯ジェット気流のうち、北側の分流は、樺太付近で寒帯ジェット気流と合流する。さらにこの気流は、カムチャツカ半島付近で南側の分流と合流する。この合流の影響で上空の大気が滞ると、下降気流が発生して、その下層のオホーツク海上に高気圧ができる。この高気圧をオホーツク海高気圧といい、この高気圧の母体となる冷たく湿った気団をオホーツク海気団という。 同じごろ、太平洋中部の洋上でも高気圧が勢力を増し、範囲を西に広げてくる。この高気圧は北太平洋を帯状に覆う太平洋高気圧の西端で小笠原高気圧ともいい、この母体となる暖かく湿った気団を小笠原気団という。 5月下旬から6月上旬ごろになると、九州や四国が梅雨前線の影響下に入り始める。このころから、梅雨前線の東部ではオホーツク海気団と小笠原気団のせめぎあいの色が濃くなってくる。一方、華北や朝鮮半島、東日本では、高気圧と低気圧が交互にやってくる春のような天気が続く。 ●北上する梅雨前線 北上を続ける梅雨前線は、6月中旬に入ると、中国では南嶺山脈付近に停滞、日本では本州付近にまで勢力を広げてくる。 次に梅雨前線は中国の江淮(長江流域・淮河流域)に北上する。6月下旬には華南や南西諸島が梅雨前線の勢力圏から抜ける。7月に入ると東北地方も梅雨入りし、北海道を除く日本の本土地域が本格的な長雨に突入する。また同じころ、朝鮮半島南部も長雨の時期に入る。 7月半ばを過ぎると、亜熱帯ジェット気流がチベット高原よりも北を流れるようになり、合流してオホーツク海気団が弱まってくる。一方で、太平洋高気圧が日本の南海上を覆い続けて晴天が続くようになり、日本本土や朝鮮半島も南から順に梅雨明けしてくる。 こうして北上してきた梅雨前線は最終的に、北京などの華北・中国東北部に達する。例年、この頃には前線の勢力も弱まっており、曇天続きになることはあるが前線が居座り続けるようなことはほとんどない。また、8月中旬・下旬を境にしてこれ以降の長雨はいわゆる秋雨であり、前線の名前も秋雨前線に変わるが、前線の南北の空気を構成する気団は同じである。ただし、秋雨は中国大陸方面ではほとんど見られない。西日本でも秋雨はあるものの雨量はそれほど多くない。一方、東日本、および北日本(北海道除く)では梅雨期の雨量よりもむしろ秋雨期の雨量の方が多いという傾向がある(ただし、秋雨期の雨量には台風によるまとまった雨も含まれる)。 ●梅雨前線の性質 性質の違う2つの空気(気団という)がぶつかる所は大気の状態が不安定になり、前線が発生する。梅雨前線を構成する気団はいずれも勢力が拮抗しているため、ほぼ同じ地域を南北にゆっくりと移動する停滞前線となる。 梅雨前線の南側を構成する2つの気団はともに海洋を本拠地とする気団(海洋性気団)のため、海洋から大量の水蒸気を吸収して湿潤な空気を持っている。ただ、北側の気団と南側の気団とではお互いの温度差が小さいため、通常はほとんどが乱層雲の弱い雨雲で構成される。そのため、しとしととあまり強くない雨を長時間降らせる。 しかし、上空の寒気や乾燥した空気が流入したり、台風や地表付近に暖かく湿った空気(暖湿流)が流入したりすると、前線の活動が活発化して、積乱雲をともなった強い雨雲となり、時に豪雨となる。 2つの高気圧がせめぎあい、勢力のバランスがほぼつり合っているとき、梅雨前線はほとんど動かない。しかし、2つの高気圧の勢力のバランスが崩れたときや、低気圧が近づいてきたり、前線付近に低気圧が発生したりしたときは一時的に温暖前線や寒冷前線となることもある。梅雨前線の活動が太平洋高気圧の勢力拡大によって弱まるか、各地域の北側に押し上げられ、今後前線の影響による雨が降らない状況になったとき、梅雨が終わったとみなされる。 ●梅雨入りの特定なしの年 年によっては梅雨入りの時期が特定できなかったり、あるいは発表がされないこともある。東・西日本(特に四国地方・近畿地方・北陸地方)ではこのパターンが数年に一回の割合で起こる。これは、太平洋高気圧の勢力が強いために梅雨前線が北陸地方から北上して進みそのまま夏空に突入し、南の高気圧となって次第に南下していくパターンである(小暑を境にして、小暑以降はそのまま梅雨明けになる)。この場合でも、四国地方、近畿地方、北陸地方では高温や晴天がやや多くなるものの、概ね晴天が続く「夏」が訪れている。このことから、年によっては、近畿地方における(本当の)夏は北陸地方よりも長いとされている。 ●梅雨明けの特定なしの年 年によっては梅雨明けの時期が特定できなかったり、あるいは発表がされないこともある。東北地方(特に青森・岩手・秋田の北東北3県)、関東甲信地方ではこのパターンが数年に一度の割合で起こる。これは、オホーツク高気圧の勢力が強いために梅雨前線が東北地方から北上できずにそのまま秋に突入し、秋雨前線となって次第に南下していくパターンである(立秋を境にして、立秋以降の長雨を秋雨とする)。この場合でも、北の北海道では低温や曇天がやや多くなるものの、概ね晴天が続く「夏」が訪れている。このことから、年によっては、東北地方における(本当の)夏は北海道よりも短いとされている。 ●アジアモンスーンと梅雨 梅雨前線は、気象学的にはモンスーンをもたらす前線(モンスーン前線)の1つである。インドをはじめとした南アジアや東南アジアのモンスーンは、インド洋や西太平洋に端を発する高温多湿の気流が原因である。世界最多の年間降水量を有する地域(インドのチェラプンジ)を含むなど、この地域のモンスーンは地球上で最も規模が大きく、広範囲で連動して発生していることから、総称してアジア・モンスーンと呼ばれる。またこの影響を受ける地域をモンスーン・アジアという。 アジア・モンスーンの影響範囲はさらに東にまで及んでおり、南シナ海を覆う熱帯モンスーン気団にも影響を与えている。具体的には、南西諸島や華南の梅雨の降雨の大部分が熱帯モンスーン気団によってもたらされるほか、太平洋高気圧の辺縁を時計回りに吹く気流が、この熱帯モンスーン気団の影響を受けた空気を日本・朝鮮半島付近まで運んできて雨を増強する。このような関連性を考えて、気象学では一般的に、梅雨がある中国沿海部・朝鮮半島・日本列島の大部分をモンスーン・アジアに含める。 また、梅雨前線付近の上空の大気をみると、冬の空気と春・秋の空気の境目となる寒帯前線、春・秋の空気と夏の空気の境目となる亜熱帯前線が接近して存在していて、梅雨は「季節の変わり目」の性質が強い。 |
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●各地の梅雨
●日本 ●沖縄〜東北 日本では各地の地方気象台・気象庁が、数個の都府県をまとめた地域ごとに毎年梅雨入り・梅雨明けの発表をする(北海道を除く)。まず、梅雨入り・梅雨明けしたと思われるその日(休日の場合は、以降最初の平日)に「速報値」として発表が行われ、その発表に従って「梅雨入りしたとみられる」・「梅雨明けしたとみられる」と報道される。その後、5月から8月の天候経過を総合的に検討し、毎年9月に最終的な梅雨の時期を「確定値」として発表する。その際、速報値での梅雨入り・梅雨明けの期日の修正が行われたり、最終的に「特定せず」という表現になることもある。一般に、南の地域ほど梅雨の到来は早く、沖縄は5月中旬から6月下旬、東北・北陸では6月下旬から7月下旬頃となるのが平均的である。 梅雨入りや梅雨明けの発表は通常、次のようにして行われる。各気象台は主に、1週間後までの中期予報とそれまでの天候の推移から、晴れが比較的多い初夏から曇りや雨の多い梅雨へと変わる「境目」を推定して、それを梅雨入りの日として発表している。端的には、管轄地域で曇りや雨が今後数日以上続くと推定されるときにその初日を梅雨入りとする。梅雨明けの場合は逆に晴れが数日以上つづくときである。中期予報の根拠になるのは、誤差が比較的少ないジェット気流などの上空の大気の流れ(亜熱帯ジェット気流と梅雨前線の位置関係は対応がよい)の予想などである。ただ、この中期予報自体が外れると、発表通りにいかず晴れたりする。梅雨入りや梅雨明けの発表は、確定したことを発表するのではなく、気象庁によれば「予報的な要素を含んでいる」ので、外れる場合もある。 ただし、梅雨前線が停滞したまま立秋を過ぎると、梅雨明けの発表はされない。立秋の時期はちょうど、例年梅雨前線がもっとも北に達するころであり、これ以降はどちらかといえば秋雨の時期に入る。しかし、この場合でも翌年には通常通り「梅雨入り」を迎えるが、「梅雨明けがないまま一年を越して重畳的にまた梅雨入りとなる」わけではない。つまり、梅雨明けがない場合は「はっきりと夏の天気が現れないまま梅雨から秋雨へと移行する」と考える。 梅雨期間の終了発表のことを俗に梅雨明け宣言という。基本的に、梅雨前線の北上に伴って南から北へ順番に梅雨明けを迎えるが、必ずしもそのようにならない場合もある。前線が一部地域に残存してしまうような場合には、より北の地方の方が先に梅雨明けになる場合もある。過去に、先に梅雨入りした中国地方より後に梅雨入りした北陸地方が先に梅雨明けしたり、関東地方の梅雨明けが西日本より大幅に遅れたりした例がある。 梅雨の末期は太平洋高気圧の勢力が強くなって等圧線の間隔が込むことで高気圧のへりを回る「辺縁流」が強化され、暖湿流が入りやすくなるため豪雨となりやすい。逆に梅雨明け後から8月上旬くらいまでは「梅雨明け十日」といって天候が安定することが多く、猛暑に見舞われることもある。 梅雨の期間はどの地方でも40日から50日前後と大差はないが、期間中の降水量は大きく異なる。本土では西や南に行くほど多くなり、東北よりも関東・東海・近畿、関東・東海・近畿よりも九州北部、九州北部よりも九州南部の方が多い。一方南西諸島では、石垣島や那覇よりも名瀬の方が期間降水量は多く、総合的に日本付近の梅雨期の雨量は九州南部が最も多い。 ●北海道 実際の気象としては北海道にも道南を中心に梅雨前線がかかることはあるが、平均的な気象として、つまり気候学的には北海道に梅雨はないとされている。これは、梅雨前線が北海道に到達する梅雨末期は勢力が衰え、北上する速度が速くなっていて、降水が長く続かず前線がかかっても曇りとなるだけで雨が降らないようなことが多いためである。しかし、記録的猛暑となった2010年を境に、近年は北海道南西部を中心にゲリラ豪雨や梅雨前線が弱まらずに勢力を保持したまま北海道付近に停滞するといった例が顕著に現れるようになり、中でも2018年には、梅雨前線の停滞による大雨で河川の氾濫など平成30年7月豪雨となって北海道各地で被害を及ぼした。 北海道の中でも南西部太平洋側(渡島・胆振・日高)では本州の梅雨末期に大雨が降る事がある。また、北海道の広い範囲でこの時期は低温や日照不足が起こりやすいほか、釧路など東部で海霧の日数が多くなるのも、東日本の梅雨と同じくオホーツク海高気圧の影響を受けている。特に、5月下旬から6月上旬を中心として見られる一時的な低温は、北海道ではリラ(ライラック)の花が咲く時期であることから俗に「リラ冷え」とも呼ぶ。また、このようにぐずついた肌寒い天気が、年によっては2週間程度、本州の梅雨と同じ時期に続くことがあり、「蝦夷梅雨」(えぞつゆ)と呼ばれることがある。 ●小笠原諸島 小笠原諸島が春から夏への遷移期にあたる5月には、気団同士の中心が離れているため前線が形成されず、雨が長続きしない。そして初夏を迎える6月頃より太平洋高気圧の圏内に入ってその後ずっと覆われるため、こちらも梅雨がない。 ●中国 中国中部・南部でも梅雨がみられる。中国では各都市の気象台が、梅雨入りと梅雨明けの発表をしている。ある研究では、1971年 - 2000年の各都市の梅雨入り・梅雨明けの平均値で、長江下流域の梅雨入りは6月14日、梅雨明けは7月10日、淮河流域の梅雨入りは6月18日、梅雨明けは7月11日となっている。 目安として、華南では5月中旬ごろに梅雨前線による長雨が始まり6月下旬ごろに終わる。時間とともにだんだんと長雨の地域は北に移り、6月中旬ごろから7月上旬ごろに華東(長江中下流域)、6月下旬ごろから7月下旬ごろに華北の一部が長雨の時期となる。長雨はそれぞれ1か月ほど続く。 ●朝鮮半島 朝鮮半島では6月下旬ごろから7月下旬ごろに長雨の時期となり、1か月ほど続く。北にいくほど長雨ははっきりしないものになる。 |
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●梅雨の気象の特徴
梅雨入り前の5 - 6月ごろ、梅雨に似た天候がみられることがあり、これを走り梅雨(はしりづゆ)、梅雨の走り(つゆのはしり)、あるいは迎え梅雨(むかえづゆ)と呼ぶ。 梅雨入り当初は比較的しとしととした雨が連続することが多い。梅雨の半ばには一旦天気が回復する期間が出現することがある。この期間のことを梅雨の中休み(つゆのなかやすみ)という。 梅雨の時期、特に、長雨の場合は、日照時間が短いため、気温の上下(最高気温と最低気温の差、日較差)が小さく、肌寒く感じることがある。この寒さや天候を梅雨寒(つゆざむ)または梅雨冷(つゆびえ)と呼ぶ。一方、梅雨期間中の晴れ間は梅雨晴れ(つゆばれ)または梅雨の晴れ間と呼ばれ、特に、気温が高く、湿度も高い。そのため、梅雨晴れの日は不快指数が高くなり過ごしにくく、熱中症が起こりやすい傾向にある。 梅雨末期には降雨量が多くなることが多く、ときとして集中豪雨になることがある。南および西ほどこの傾向が強く、特に、九州では十数年に1回程度の割合でこの時期に一年分の降水量がわずか一週間で降ることもある(熊本県・宮崎県・鹿児島県の九州山地山沿いが典型例)。逆に、関東や東北など東日本では梅雨の時期よりもむしろ秋雨の時期のほうが雨量が多い。 梅雨末期の雨を荒梅雨(あらづゆ)あるいは暴れ梅雨(あばれづゆ)とも呼ぶ。また、梅雨の末期には雷をともなった雨が降ることが多く、これを送り梅雨(おくりづゆ)と呼ぶ。また、梅雨明けした後も、雨が続いたり、いったん晴れた後また雨が降ったりすることがある。これを帰り梅雨(かえりづゆ、返り梅雨とも書く)または戻り梅雨(もどりづゆ)と呼ぶ。これらの表現は近年ではあまり使われなくなってきている。 梅雨明けが遅れた年は冷夏となる場合も多く、冷害が発生しやすい傾向にある。 梅雨は日本の季節の中でも高温と高湿が共に顕著な時期であり、カビや食中毒の原因となる細菌・ウイルスの繁殖が進みやすいことから、これらに注意が必要な季節とされている。 ●空梅雨 梅雨の期間中ほとんど雨が降らない場合がある。このような梅雨のことを空梅雨(からつゆ)という。空梅雨の場合、夏季に使用する水(特に稲作に必要な農業用水)が確保できなくなり、渇水を引き起こすことが多く、特に青森、岩手、秋田の北東北地方においては空梅雨になる確率がかなり高く、また、秋季〜冬季の降水量が少ない北部九州や瀬戸内地方などでは、空梅雨の後、台風などによるまとまった雨がない場合、渇水が1年以上続くこともある。 ●陰性・陽性 あまり強くない雨が長く続くような梅雨を陰性の梅雨、雨が降るときは短期間に大量に降り、降らないときはすっきりと晴れるような梅雨を陽性の梅雨と表現することもある。陰性の梅雨を女梅雨(おんなづゆ)、陽性の梅雨を男梅雨(おとこづゆ)とも呼ぶこともあり、俳句では季語として使われる場合がある。 傾向として、陰性の場合は、オホーツク海高気圧の勢力が強いことが多く、陽性の場合は、太平洋高気圧の勢力が強いことが多いが、偏西風の流路や、北極振動・南方振動(ENSO、エルニーニョ・ラニーニャ)なども関係している。 ●台風との関連 台風や熱帯低気圧は地上付近では周囲から空気を吸い上げる一方、上空数千m-1万mの対流圏上層では吸い上げた空気を湿らせて周囲に大量に放出している。そのため、梅雨前線の近くに台風や熱帯低気圧が接近または上陸すると、水蒸気をどんどん供給された梅雨前線が活発化して豪雨となる。また、梅雨前線が、勢力が弱まった台風や温帯低気圧とともに北上して一気に梅雨が明けることがある。 ●梅雨の豪雨パターン 梅雨の時期の大雨や豪雨の事例をみていくと、気圧配置や気象状況にある程度のパターンがあるといわれている。日本海側で豪雨になりやすいのが日本海南部に停滞する梅雨前線付近を低気圧が東に進むパターンで、低気圧に向かって南西から湿った空気が流れ込み、その空気が山脈にぶつかって局地的な豪雨となりやすい。 太平洋側で豪雨になりやすいのが、梅雨前線が長期的に停滞するパターンや、太平洋側付近に梅雨前線、西側に低気圧がそれぞれ停滞するパターンであり、南 - 南東から湿った空気が流れ込み、同じようにその空気が山脈にぶつかって局地的な豪雨となりやすい。 このほか、梅雨前線沿いにクラウドクラスター(楕円形の雲群をつくる降水セルの一種)と呼ばれる積乱雲の親雲が東進すると、豪雨となりやすいことが知られている。上空の大気が乾燥している中国大陸や東シナ海で形成され、日本方面へやってくることが多い。 ●海洋変動との関連 統計的にみて、赤道付近の太平洋中部-東部にかけて海水温が上昇・西部で低下するエルニーニョ現象が発生したときは、日本各地で梅雨入り・梅雨明け共に遅くなる傾向にあり、降水量は平年並み、日照時間は多めとなる傾向にある。また、同じく中部-東部で海水温が低下・西部で上昇するラニーニャ現象が発生したときは、沖縄で梅雨入りが遅めになるのを除き、日本の一部で梅雨入り・梅雨明けともに早くなる傾向にあり、降水量は一部を除き多め、日照時間はやや少なめとなる傾向にある。 |
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●梅雨予想の目的
日本の気象庁が梅雨入り・梅雨明けの情報提供を始めたのは1955年ごろとされ、「お知らせ」として報道機関に連絡していた。気象情報として発表を始めたのは1986年になってからである。 梅雨の時期を発表することにより、長雨・豪雨という水害・土砂災害につながりやすい気象が頻発する時期としての「梅雨」を知らせることで防災意識を高める、多雨・高温多湿が長続きする「梅雨」の時期を知らせることで生活面・経済面での対策を容易にする、「梅雨」という一種の季節の開始・終了を知らせることで季節感を明確にする(春一番、木枯らし、初雪などの発表と同様の役割)といった効果が期待されている。 |
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●類似の気象現象
●菜種梅雨 おもに3月下旬から4月上旬にかけての連日降りつづく寒々とした降雨を、菜の花が咲くころに降るため「菜種梅雨(なたねづゆ)」という。梅雨のように何日も降り続いたり、集中豪雨をみたりすることは少ないが、やはり、曇りや雨の日が多く、すっきりしない天気が何日も続くことが多い。 また、「春の長雨」や「春霖(しゅんりん)」、「催花雨(さいかう)」とも言う。「春霖」の「霖」は長雨を表す漢字であり、春の長雨を表している。「催花雨」は、桜をはじめいろいろな花を催す(咲かせる)雨という意味である。「春雨(はるさめ)」も、このころの雨を指して言う場合が多く、月形半平太の名せりふ「春雨じゃ、濡(ぬ)れてゆこう」も、草木の芽を張らせ花を咲かせる柔らかい春の雨だからこそ、粋(いき)に聞こえる。なお、NHKで「菜種梅雨」を言うときには、必ず説明を付けるようにしている。冬の間、本州付近を支配していた大陸高気圧の張り出しや、移動性高気圧の通り道が北に偏り、一方で、その北方高気圧の張り出しの南縁辺に沿って、冷湿な北東気流(やませ)が吹いたり、本州南岸沿いに前線が停滞しやすくなるために生ずる。そのときには南岸に小低気圧が頻繁に発生しやすくなるのもまた特色である。そのため、西 - 東日本太平洋沿岸部にかけていう場合が多く、北日本にはこの現象はみられない。近年は、暖冬傾向および、温暖化の影響もあり、菜種梅雨が冬に繰り上がるきらいがあり、気候の変動が懸念される面もある。また、菜種梅雨は梅雨のようにずっと続くということはなく、期間は一日中あるいは数日程度のことがほとんどである。 例としては、1990年2月は月の後半を中心に曇雨天続きで、東京での同・月間日照時間は僅か81時間しかならず、大暖冬を象徴するかのようだった。また、1985年には3月は月全体を通して関東以西の太平洋側地方では冷たい雨の連続で、東京では同年月での快晴日数は0(梅雨期である6、7月を除いては初のワースト記録)、日本気象協会発行の天気図日記では「暗い3月」と評される程であった。その他、1986年、1988年、1991年、1992年、1995年、1999年と3月が比較的長いこと曇雨天が持続した影響で、月間日照時間は北日本を除いてかなり少なかったため、20世紀末にかけての3月は、「菜の花の上にお日様無し」、「行楽受難・鬼門の月」、「花見には 傘など雨具が 必需品」、「卒業式、終業式、離任式はいつも雨」などと不名誉なレッテルが貼られたこともあった。その他、2002年、2006年には2月おわりから3月初めにかけて、南岸前線が停滞したり、朝晩中心に雨の降りやすいすっきりしない空が続いて、お天気キャスターの一部では「菜種梅雨の走り?」と評されたりもした。 ●走り梅雨 おもに5月下旬から梅雨本番前ぶれのように雨が降り続く状態をいう。ちょうど、その時期が卯の花が咲くころにあたり、卯の花を腐らせるような雨ということから、「卯の花腐し(うのはなくたし)」とも呼ぶことがある。「走り」とは「先駆け」を意味し、「走り梅雨」とは梅雨に先駆けて降り続く雨と解釈することもある。「梅雨の走り」ともいう。沖縄など南西諸島の梅雨期にあり、南西諸島付近にある梅雨前線が一時的に本州南岸沿いに北上したときに多くみられる。また、オホーツク海高気圧が5月前半に出現した場合に北東気流の影響を受けやすくなるため、関東以北の太平洋側で低温と曇雨天が長続きすることがある。その他、メイストームなど、日本海や北日本方面を通過する発達した低気圧の後面に伸びる寒冷前線が本州を通過して、太平洋側に達した後、南海上の優勢な高気圧の北側に沿って、そのまま停滞前線と化して、太平洋側、おもに東日本太平洋沿岸部でしばらくぐずつき天気が続くケースもそのたぐいである。 ●秋雨 おもに8月後半頃から10月頃にかけて(地域によって時期に差がある)降り続く長雨の時期をいう。「秋霖(しゅうりん)」、「薄(すすき)梅雨」などとも呼ぶ。 ●山茶花梅雨 おもに11月下旬から12月上旬にかけての、連続した降雨を「山茶花(さざんか)梅雨」という。山茶花が咲くころに降るためこの名前がある。 |
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●季語「五月雨」の句 | |
●さみだるる大僧正の猥談と 鈴木六林男
雑誌「俳壇」(95年5月号)。筑紫磐井編「平成の新傾向・都市生活句100」より。妙におかしい句である。すべてがつながっているような、いないような。大僧正の猥談はだらだらととめどもない。「猥談」の使い方が絶妙。鈴木六林男、大正八年大阪生まれ。西東三鬼に師事。出征し中国、フィリピンを転戦し、コレヒドール戦で負傷、帰還する。戦後「天狼」創刊に参加。無季派の巨匠であるが「季語とは仲良くしたい」といい、有季句も作る。「遺品あり岩波文庫『阿部一族』」は無季句の傑作。 |
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●五月雨の降のこしてや光堂 松尾芭蕉
旧五月十三日、芭蕉と曽良は平泉見物に訪れ、別当の案内で光堂(正式には金色堂)を拝観している。「おくのほそ道」の途次のことだ。句意を岩波文庫から引いておく。……五月雨はすべてのものを腐らすのだが、ここだけは降らなかったのであろうか。五百年の風雪に耐えた光堂のなんと美しく輝いていることよ。とまあ、これは高校国語程度では正解であろうが、解釈に品がない。芭蕉はこのように光堂の美しさをのみ詠んだのではなくて、光堂の美しさの背景にある藤原氏三代やひいては義経主従の「榮耀一睡」の夢に思いを馳せているのだからである。有名な「夏草や兵どもが夢の跡」はこのときの句だ。ところで光堂であるが、現在は鉄筋コンクリートの覆堂(さやどう)で保護されている。たとえば花巻の光太郎山荘と同じように、元々の建物をそっくり別の建物で覆って保護しているわけだ。家の中の家という感じ。芭蕉の時代にも覆堂はあり(と、芭蕉自身がレポートしている)、学者によれば南北朝末の建設らしいが、いずれにしても五月雨からは物理的に逃れられていた。『おくのほそ道』の文脈のなかではなく、こうして一句だけを取り出して読むと、光堂はハダカに見える。また、ハダカでなければ句が生きない。その意味からすると状況矛盾の変な句でもあるのだが、覆堂の存在を忘れてしまうほどの美しさを言っているのであろう。昔の句は難しいデス。 |
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●さみだれを集めて早し最上川 松尾芭蕉
知っている人もいると思うが、この句の原形は「さみだれを集めて涼し最上川」であった。泊めてくれた船宿の主人に対して、客としての礼儀から「雨降りのほうが、かえって涼しくていいですよ」と挨拶した句だ。それを芭蕉は『おくのほそ道』に収録するに際して、「涼し」を「早し」と改作した。最上川は日本三大急流(あとは富士川と球磨川)のひとつだから、たしかにこのほうが川の特長をよくとらえており、五月雨の降り注ぐ満々たる濁流の物凄さを感じさせて秀抜な句に変わっている。ところで、実は芭蕉はこのときにここで舟に乗り、ずいぶんと怖い目にあったらしい。「水みなぎつて舟あやうし」と記している。だったら、もう少し句に実感をこめてくれればよかったのにと、私などは思ってしまう。単独に句だけを読むと、最上川の岸辺から詠んだ句みたいだ。せっかく(?)大揺れに揺れる舟に乗ったのに、なんだか他人事のようである。このころの芭蕉にいまひとつ近寄りにくい感じがするのは、こういうところに要因があるのではなかろうか。もしかすると「俳聖」と呼ばれる理由も、このあたりにあるのかもしれない。そういえば、実際にはおっかなびっくりの旅だったはずなのに、『おくのほそ道』の句にはまったくあわてているフシがみられない。関西では昔から、こういう人のことを「ええカッコしい」という。 |
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●五月雨や人語り行く夜の辻 籾山庭後
五月雨(さみだれ)は旧暦五月の雨だから、梅雨と同義と読んでよいだろう。そぼ降る小雨のなかの夜の辻を、何やら語り合いながら行く人ふたり。それぞれの灰色の唐傘の表情が、ふたりの関係を示しているようだ。だが、もとより作者の関心は話の中身にあるのではなく、情景そのものが持つ抒情性に向けられている。さっとスケッチしているだけだが、情緒纏綿たる味わいがある。籾山庭後は、子規を知り、虚子を知り、永井荷風の友人だった出版人。この句は大正五年(1916)二月に自分の手で出版した『江戸庵句集』に収められている。なぜ、そんなに古い句集を、私が読めたのか。友人で荷風についての著書も多い松本哉君が、さきごろ古書店で入手し、コピーを製本して送ってくれたからだ。「本文の用紙、平綴じの針金ともに真っ赤に酸化していて崩壊寸前」の本が、八千五百円もしたという。深謝。いろいろな意味で面白い本だが、まずは荷風の長文の序文が読ませる。この句など数句を引いた後に、こう書いている。「君が吟詠の哀調はこれ全く技巧に因るものにあらずして君が人格より生じ来りしものなるが故に余の君を俳諧師として崇拝するの念更に一層の深きを加へずんばあらず」。 |
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●五月雨や大河を前に家二軒 与謝蕪村
1 画家でもあった蕪村のの目が、よく生きている。絵そのものと言っても、差し支えないだろう。濁流に押し流されそうな小さな家は、一軒でも三軒でもなく、二軒でないと視覚的に座りが悪い。一軒ではあまりにも頼りなく、すぐにでも流されてしまいそうで、かえってリアリティに欠ける。濁流の激しさのみが強調されて、句が(絵が)拵え物のように見えるからだ。逆に三軒(あるいはそれ以上)だと、にぎやかすぎて流されそうな不安定感が薄れ、これまたリアリティを欠く。このことから、蕪村にはどうしても「二軒」でなければならなかった。考えてみれば、「二」は物のばらける最小単位だ。したがって、不安定。夫婦などの二人組は、「二」を盤石の「一」にする(つまり「不二」にしたい)願望に発しているので、ばらける確率も高いわけである。ついでに書いておけば、手紙の結語の「不一」。あれは、「一」ではないという意味で、「以上、いろいろ書きましたが、「一」のように盤石の中身ではありませんよ」と謙遜しているのである。これが一方で、「三」となると「鼎」のように安定するのだから面白い。ところで「大河」の読みだが、専門家は「たいが」と読むようだ。でも、この句をまず言葉として読む私は、「おおかわ」に固執したい。「たいが」だなんて、日本の河じゃないみたいだからだ。もっとも、蕪村自身は「たいが」派でしょうね。そのほうが、墨絵風な味がぐっと濃くなるので……。 |
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●五月雨や大河を前に家二軒 与謝蕪村
2 梅雨が降り続いて氾濫しそうなほど増水した大河のほとりにぽつんと心細く家が二軒寄り添っている。 ●註 / 明治の俳句・短歌の巨人・正岡子規が、当時所属し担当していた「新聞日本」紙上の文芸欄で、こともあろうに芭蕉の代表的名句の一つ「五月雨をあつめて早し最上川」を引き合いに出した上で、こちら蕪村に軍配を上げて絶賛し世間に衝撃を与えたことは、司馬遼太郎「坂の上の雲」にも描かれた事実だが、今その主張を聞いても、おそらく贔屓目に見ても贔屓の引き倒しだろうと思われ、今でいう「褒め殺し」(?)に近いものさえあると思う。確かに、「あつめて」の主語は「最上川」ということになるだろうから擬人化であり、発想がやや平凡で俗に堕ち、陳腐であるといった反発を感じる研ぎ澄まされた感覚があり得るのは首肯できるのだが、この場合、ちょっと格が違うだろう格が〜(・・・ほんかくてきよ、ほんかくてき〜)と思うのが正直なところである・・・とはいうものの、俳句・短歌革新の実作者であると同時に、いわば新時代を切り拓く志を高々と掲げたアジテーター(煽動者)でもあった子規の時代背景を見れば、この一句の持つ近代文学的な写実・リアリズム的な側面に感応し、その辺を強く評価したのだろうと、今の目では評価しうるのだろう。 |
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●五月雨や御豆の小家の寝覚がち 与謝蕪村
季語は「五月雨(さみだれ)」で夏。陰暦五月に降る雨だから、現代の「梅雨」と同義だ。ただ同じ季節の同じ長雨といっても、昔のそれについては頭を少し切り替える必要がある。昔は、単に鬱陶しいだけではすまなかったからだ。「御豆(みず)」は、淀川水系の低湿地帯の地名であり、今の地図に「(淀)美豆」「水垂」と見える京都郊外のあたりだろう。周辺には淀川、木津川、宇治川、桂川が巨大な白蛇のようにうねっている。長雨で川が氾濫したら、付近の「小家(こいえ)」などはひとたまりもない。たとえ家は流されなくても、秋の収穫がどうなるか。掲句は、いまに洪水になりはしないかと心配で「寝覚がち」である人たちのことを思いやっている。蕪村にしては珍しく絵画的ではない句であるが、それほどに五月雨はまた恐ろしい自然現象であったことがうかがわれる。風流なんてものじゃなかったわけだ。似たような句が、もう一句ある。「さみだれや田ごとの闇と成にけり」。「田ごとの」で思い出すのは「田毎の月」だ。山腹に小さく区切った水田の一つ一つに写る仲秋の月。それこそ絵画的で風流で美しい月だが、いま蕪村の眼前にあるのは、長雨のせいで何も写していない田圃のつらなりであり、月ならぬ「闇」が覆っているばかりなのである。こちらは少しく絵画的な句と言えようが、深読みするならば、これは蕪村の暗澹たる胸の内を詠んだ境涯句ととれなくもない。いずれにせよ、昔の梅雨は自然の脅威だった。だから梅雨の晴れ間である「五月晴」の空が広がったときの喜びには、格別のものがあったのである。 |
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●船頭も饂飩うつなり五月雨 泉鏡花
特にヘソマガリぶるつもりはないけれど、芭蕉や蕪村の五月雨の名句は、あえて避けて通らせていただこう。「広辞苑」によれば、「さ」は五月(サツキ)のサに同じ、「みだれ」は水垂(ミダレ)の意だという。春の花たちによる狂躁が終わって、梅雨をむかえるまでのしばしホッとする時季の長雨である。雨にたたられて、いつもより少々暇ができた船頭さんが、無聊を慰めようというのだろうか、「さて、今日はひとつ・・・・」と、うどん打ちに精出している。本来の仕事が忙しいために、ご無沙汰していたお楽しみなのだろう。雨を集めて幾分流れが早くなっている川の、岸辺に舫ってある自分の舟が見えているのかもしれない。窓越しに舟に視線をちらちら送りながら、ウデをふるっている。船頭仕事で鍛えられたたくましいウデっぷしが打っていくうどんは、まずかろうはずがない。船頭仲間も何人か集まっていて、遠慮なく冷やかしているのかもしれない。「船頭やめて、うどん屋でも始めたら?」(笑)。あの鏡花文学とは、およそ表情を異にしている掲出句。しかし、うどんを打つ船頭をじっと観察しているまなざしは、鏡花の一面を物語っているように思われる。鏡花の句は美しすぎて甘すぎて・・・・と評する人もあるし、そういう句もある。けれども「田鼠や薩摩芋ひく葉の戦(そよ)ぎ」などは、いかにも鏡花らしく繊細だが、決して甘くはない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。 |
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●五月雨や上野の山も見あきたり 正岡子規
明治三十四年、死の前年の作。子規は根岸の庵から雨に煙る緑の上野の山を毎日のように見ていた。病臥の子規にとって「見あきたり」は実感だろうが、人間は晩年になると現世のさまざまの風景に対してそんな感慨をもつようになるのであろうか。「見るべきほどのことは見つ」は壇ノ浦で自害する前の平知盛の言葉。「春を病み松の根つ子も見あきたり」は西東三鬼の絶句。三鬼の中にこの子規の句への思いがあったのかどうか。この世を去るときは知盛のように達観できるのが理想だが、なかなかそうはいかない。子規も三鬼も「見あきたり」といいながら「見る」ことへの執着が感じられる。思えば子規が発見した「写生」は西洋画がヒントになったというのが定説だが、この「見る」ということが「生きる」ことと同義になる子規の境涯が大きな動機となっていることは否定できない。生きることは見ること。見ることの中に自己の瞬時瞬時の生を実感することが「写生」であった。『日本の詩歌3・中公文庫』(1975)所載。 |
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●三つといふほど良き間合帰り花 杉阪大和
帰り花、とただいえば桜であることが多いというが、いまだ出会ったことがない。上野の絵画展の帰りに、桜並木を見上げて探したこともあるが、立ち止まって一生懸命見つけるというのもなんだか違うかなあ、と思ってやめた。枯れ色の庭園を歩いていて、真っ白なつつじの帰り花がちょこんと載っているのに出会うことはよくある。いかにも、忘れ咲、という風情で、個人的にはあまり好きでないつつじの花にふと愛着の湧く瞬間だ。掲出句の帰り花は、桜なのだろう。花をとらえる視線を思いうかべると、一つだと点、二つだと線、三つになると三角形、つまり面になって、木々全体にふりそそぐ小春の日差が感じられる。確かにそれをこえると、あちらにもこちらにも咲いていてまさに、狂い咲き、の感が強くなりそうだ。以前、俳句の中の数、について話題になった時、蕪村の〈五月雨や大河を前に家二軒〉は、調べの問題だけでなく、一軒ではすぐ流されそうだし、三軒だと間が抜ける、という意見になるほどと思ったことがある。そのあたり、ものによっても人によっても微妙に違いそうだ。「遠蛙」(2009)所収。 |
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●五月雨ややうやく湯銭酒のぜに 蝶花楼馬楽
五月雨は古くから俳諧に詠まれてきたし、改めて引用するのもためらわれるほどに名句がある。五月雨の意味は、1.「さ」は稲の植付けで「みだれ」は雨のこと、2.「さ」はさつき、「みだれ」は水垂(みだ)れのこと――などと説明されている。長雨で身も心もくさくさしている売れない芸人が、湯銭や酒を少々買う金に不自由していたが、なんとか小銭をかき集めることができた。湯銭とか煙草銭というものはたかが知れている。さて、暇にまかせて湯へでも行って少々の酒にありつこうか、という気持ちである。貧しいけれど、むしろそのことに身も心も浸している余裕が感じられて、悲愴な句ではない。さすがは噺家である。「銭(ぜに)」は本来、金や銀で造られた「お金」ではなく、小銭のことを意味した。「銭ぁ、こまけえんだ。手ぇ出してくんな…」で知られる落語「時そば」がある。芭蕉の「五月雨の降り残してや光堂」のような、立派で大きな句の対局にある捨てがたい一句。晩年に発狂したところから「気違い馬楽」とも呼ばれた三代目馬楽は、電鉄庵という俳号をもっていた。妻子も弟子もなかったが、その高座は吉井勇や志賀直哉にも愛された。「読書家で俳句をよくし(中略)…いかにも落語家ならではの生活感にあふれた句を詠んでいる」(矢野誠一)と紹介されている。他に「ご無沙汰の酒屋をのぞく初桜」がある。矢野誠一『大正百話』(1998)所載。 |
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●駅前のだるま食堂さみだるる 小豆澤裕子
これから一週間ほど、東京地方には雨模様の予報が出ている。いよいよ梅雨入りだろうか。今日は旧暦五月三日だから、降り出せば正真正銘の「五月雨(さみだれ)」である。この句が何処の駅前の情景を詠んだものかはわからないが、私などにはとても懐かしい雰囲気が感じられて好もしい。現今の駅前はどんどん開発が進み、東京辺りではもうこのような定食屋っぽい食堂もなかなか見られなくなってしまった。昔の駅前といえば、必ずこんな小さな定食屋があって、小さなパチンコ屋だとか本屋などもあり、雨降りの日にはそれらが少しかすんで見えて独特の情趣があった。まだ世の中がいまのようにギスギスしていなかった頃には、天気が悪ければ、見知らぬ人同士の心もお互いに寄り添うような雰囲気も出てきて、長雨の気分もときには悪くなかった。そこここで「よく降りますねえ」の挨拶が交わされ、いつもの駅、いつもの食堂、そこからたどるいつもの家路。この句には、そうしたことの向こう側に、昔の庶民の暮らしぶりまでをも想起させる魅力がある。さみだれている名所旧跡などよりも、こちらの平凡な五月雨のほうがずっと好きだな。この情景に、私には高校通学時のまだ小さかった青梅線福生駅の様子が重なって見えてくる。あれからもう半世紀も経ってしまった。『右目』(2010)所収。 |
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●目の覚める時を朝なり五月雨 炭太祇
つまり、朝になったから起きるのではなく、目が覚めたその時が朝なのだよと、そのような意味なのでしょうか。起きて行動を起こすための眠りではなく、眠りそのもののための眠りを、しっかりととった後の目覚めです。句を読んでいるだけで、長い欠伸が出てきそうです。そういえば、眠りの中でずっと聞こえていた音は、窓の外に途切れることなく降る雨の音だったかと、目覚めて後に布団の中で気づくのです。なんだかこの雨も、そんなにあせって生きることはない、もっと体を休めていてもいいのだよという、優しい説得のようにも聞こえてきます。もちろん、いつもいつもでは困りますが、たまには、五月雨の許可を得て、目を閉じ、そのまま次の夢へ落ちて行ってもいいのかもしれません。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。 |
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●幾度も寝なほす犬や五月雨 木下杢太郎
この俳句は「いくたびも……さつきあめ」と読みたい。「さみだれ」の「さ」は「皐月」「早苗」の「さ」とも、稲の植付けのこととも言われ、「みだれ」は「水垂(みだれ)」で「雨」のこと。梅雨どき、降りつづく雨で外歩きが思うようにできない飼犬は、そこいらにドタリとふてくされて寝そべっているしかない。そんなとき犬がよくやるように、所在なくたびたび寝相を変えているのだ。それを見おろしている飼主も、どことなく所在ない思いをしているにちがいない。ただただ降りやまない雨、ただただ寝るともなく寝ているしかない犬。いい加減あがってくれないかなあ。梅雨どきの無聊の時間が、掲句にはゆったりと流れている。杢太郎は詩人だったが、俳句も多い。阿部次郎らと連句の輪講や実作をさかんに試みたそうである。その作風は、きれいな自然の風景を描くといった傾向が強かった。他に「湯壷より鮎つる見えて日てり雨」「杯の蟲取り捨てつ庭の秋」などがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。 |
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●五月雨や庭を見ている足の裏 立川左談次
左談次は1968年に談志の弟子になった、立川流の古参。五月雨の時季、OFFの芸人が無聊を慰めているという図かもしれない。自画像か否か、どちらでもかまわない。雨の日はせかせかしないで、のんびり寝そべって足の裏で雨の庭をただ眺めている、そんな風情はむしろ好もしい。それが芸人ならなおのこと。足の裏に庭を眺めさせるなんて、いかにも洒落ている。そのとき眼のほうはいったい何を見ていたのだろうか? 「足の裏」が愛しくてホッとする。錚々たる顔ぶれがそろう「駄句駄句会」の席で、左談次はさすがによくしゃべり、毒舌も含めてはしゃいでいる様子である。ちなみに、この句に向けられたご一同の評言を列挙してみよう。「よそに出しても通用する」「いかにも怠惰な男の句です」「『浮浪(はぐれ)雲』みたい」「毎日寝ているひとじゃないと詠めない」「足の裏がいい」「この表現が落語に生きたらすごい」「古い日本人共通のノスタルジーだ」……みなさん勝手なことを言っているようだけれど、ナルホドである。左談次の俳号は遮断鬼。句会では、他に「三月の山おだやかに人を呑み」がある。『駄句たくさん』(2013)所載。 |
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●この子らに未来はありや七五三 清水昶
七五三に限らないけれど、着飾ってうれしそうな子どもたちを見るにつけ、昶ならずとも「未来はあるか」という懸念が、身うちでモグモグしてしまうことが近年増えてきた。こちらがトシとって、未来の時間がどんどん減ってきていることと、おそらく関係しているのだと思う。それにしても、先行き想定しようのない嫌ァーな時代が仄見えている気がする。私などが子どもの頃、わが田舎では「七五三」といった結構な祝いの風習などなかった。いわんや「ハッピーバースデイ」なるものだって。だから、わが子の「七五三」や「ハッピーバースデイ」などといった祝い事では、むしろこちとら親のほうが何やら妙に照れくさかったし、落着かなかった。子どもに恵まれなかった昶の句として読むと、また深い感慨を覚えてしまう。もちろん「この子ら」の未来だけでなく、自分たち親の未来や人類の未来への思いを、昶は重ねていたはずである。掲句は、サイト「俳句航海日誌」の2010年11月15日に発表されている。亡くなる半年前のことである。亡くなる一週間前の句は「五月雨て昏れてゆくのか我が祖国」である。「子らの未来」や「我が祖国」などが、最後まで昶の頭を去ることはなかったかもしれない。『俳句航海日誌』(2013)所収。 |
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●ヘッドホンのあはひに頭さみだるる 柳生正名
ヘッドホンというのだから、たしかに「あはひ(あいだ・間)」には「頭」がある。しかし私たちは普通、そこには「頭」ではなく「顔」があると認識している。だからわざわざ「頭」があると言われると、理屈はともかく、「え?」と思ってしまう。そしてこの人は、顔を見せずに頭を突きだしているのだろうと想像するのだ。つまり、ヘッドホンを付けて下うつむいている人を思い浮かべてしまうというわけだ。ヘッドホンからはどんな音楽が聞こえているのかはわからない。が、さながら「さみだれ」のように聞こえている音楽が、その人の周囲に降っている五月雨の音に、溶け込むように入り交じっているようである。そう受け取ると、おそらくは青年期にあるその人の鬱屈した心情が思われて、読者はしんと黙り込むしかないのであろう。『風媒』(2014)所収。 |
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●菜屑など散らかしておけば鷦鷯 正岡子規
鷦鷯(ミソサザイ)は雀よりやや小さめの日本最少の小鳥である。夏の高所から冬の低地に移り住む留鳥である。根岸の子規庵は当時の状態に近い状態で保存されている。開放されているので訪れる人も多い。そこに寝転んで庭を眺めていると下町の風情ともども子規の心情なんぞがどっと胸に迫ってくる。死を覚悟した根岸時代の心情である。病床の浅い眠りを覚ましたのはミソサザイのチャッツチャッツと地鳴き。これが楽しみで菜屑を庭に撒いておいたのだ。待ち人来るような至福の喜びがどっと襲う。ここでの句<五月雨や上野の山も見あきたり><いもうとの帰り遅さよ五日月><林檎くふて牡丹の前に死なん哉>などが身に沁みる。高浜虚子選『子規句集』(1993)所収。 |
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●細胞はこゑなく死せり五月雨 柳克弘
五月雨は陰暦五月の雨、梅雨のこと。湿度の高さに辟易しながら、人は半分以上水分でできているのに…、人間は水の中で生まれたはずなのに…、とうらめしく思う。暑ければ暑いで文句が出、寒ければ寒いで文句が出る。声とは厄介なものである。しかしこの文句の多い体を見つめれば、その奥で、細胞は声もなく静かに生死を繰り返している。降り続く雨のなかでじっと体の奥に目を凝らせば、生と死がごく身近に寄り添っていることに気づく。新陳代謝のサイクルを調べてみると「髪も爪も肌の角層が変化してできたもの、つまり死んだ細胞が集まったものです(花王「髪と地肌の構造となりたち」)」の記述を発見した。体の奥だけではなく、表面も死んだ細胞に包まれていたのだ。衝撃よりもむしろ、むき出しの生より、死に包まれていると知って、どこか落ち着くのは、年のせい、だろうか。〈一生の今が盛りぞボート漕ぐ〉〈標なく標求めず寒林行く〉『寒林』(2016)所収。 |
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●与謝蕪村 | |
[享保元年-天明3年12月25日 (1716-1784/1/17)] 江戸時代中期の日本の俳人、文人画(南画)家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩『帰去来辞』に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」「謝寅(しゃいん)」など複数ある。
●経歴 摂津国東成郡毛馬村(けまむら)(現:大阪府大阪市都島区毛馬町)に生まれた。京都府与謝野町(旧丹後国)の谷口家には、げんという女性が大坂に奉公に出て主人との間にできた子供が蕪村とする伝承と、げんの墓が残る。同町にある施薬寺には、幼少の蕪村を一時預かり、後年、丹後に戻った蕪村が礼として屏風絵を贈ったと口伝されている。 20歳の頃、江戸に下り、早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事して俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このときは宰鳥と号していた。俳諧の祖・松永貞徳から始まり、俳句を作ることへの強い憧れを見る。しかし江戸の俳壇は低俗化していた。 寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(現:茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて東北地方を周遊した。絵を宿代の代わりに置いて旅をする。それは、40歳を超えて花開く蕪村の修行時代だった。その際の手記で寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。 その後、丹後に滞在した。天橋立に近い宮津にある見性寺の住職・触誉芳雲(俳号:竹渓)に招かれたもので、同地の俳人(真照寺住職の鷺十、無縁寺住職の両巴ら)と交流。『はしだてや』という草稿を残した。宮津市と、母の郷里で幼少期を過ごしたと目される与謝野町には蕪村が描いた絵が複数残る(徐福を画題とした施薬寺所蔵『方士求不老父子薬図屏風』、江西寺所蔵『風竹図屏風』)。一方で、与謝野町の里人にせがまれて描いた絵の出来に後悔して、施薬寺に集めて燃やしてしまったとの伝承もある。 42歳の頃に京都に居を構え、与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。45歳頃に結婚して一人娘くのを儲けた。51歳には妻子を京都に残して讃岐に赴き、多くの作品を手掛ける。再び京都に戻った後、島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には夜半亭二世に推戴されている。 現在の京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明、68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされている。辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)。 ●作家論 松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。また、俳画の大成者でもある。写実的で絵画的な発句を得意とした。独創性を失った当時の俳諧を憂い「蕉風回帰」を唱え、絵画用語である「離俗論」を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。 絵は独学であったと推測されている。 ●後世からの評価 俳人としての蕪村の評価が確立するのは、明治期の正岡子規『俳人蕪村』、子規・内藤鳴雪たちの『蕪村句集講義』、昭和前期の萩原朔太郎『郷愁の詩人・与謝蕪村』まで待たなければならなかった。 旧暦12月25日は「蕪村忌」。関連の俳句を多く詠んだ。 ・蕪村忌に呉春が画きし蕪かな 正岡子規 ・蕪村忌の心游ぶや京丹後 青木月斗 2015年10月14日、天理大学附属天理図書館が『夜半亭蕪村句集』の発見を発表した。1903句のうち未知の俳句212句を収録。 |
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与謝蕪村は松尾芭蕉と双璧を成すと言われているほど、評価の高い江戸時代の俳人です。画家としても有名で池大雅と共に、日本の文人画(南画)の大成者とされています。彼の本業は画家であり、絵を売って、妻と娘の三人の生活を支えていましたが、その生活は楽ではなく、絵を描くことに追われることもあったようです。
その作風は描写的でありますが、句の風景は現実をそのまま書き表すというより、理想化された空想世界的なものです。 「五月雨や大河を前に家二軒」 これは蕪村が62歳の時に作った有名な作品です。五月雨が降り続いて勢いを増した川が流れている。そのほとりに家が二軒、ぽつりと建っているよ、という意味です。 明治を代表する俳人・正岡子規は、新聞『日本』の文芸欄で松尾芭蕉の名句「五月雨をあつめて早し最上川」とこの句を比べて、蕪村の方が優るとして人々に衝撃を与えました。正岡子規に言わせると、芭蕉の句は技巧的にうますぎて、おもしろくないのだそうです。 明治に至るまでは、松尾芭蕉の方が圧倒的に知名度が高かったですが、正岡子規が芭蕉が神格化されているのに危機感を持ち、「蕪村だって、すごいんだぞ!」とその功績を讃えたことから、よく知られるようになりました。 正岡子規の俳句革新に大きな影響を与えた人物です。 与謝蕪村は、享保元年(1716年)摂津の毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれました。家は、村の有力者であったそうです。ただ、十代の頃に父と母を亡くし、家を失って、20歳で江戸に出ました。その二年後、江戸で、夜半亭巴人(やはんていはじん)という俳人に弟子入りします。巴人は、松尾芭蕉の高弟、宝井其角(たからいきかく)と服部嵐雪(はっとりらんせつ)から俳諧(俳句)を学んだ人で、このためか蕪村は芭蕉を尊敬していました。 27歳の時に、師匠の巴人が亡くなります。その後、蕪村は江戸を出て、茨城県結城市(下総結城)に住む同じ巴人の弟子の元に身を寄せます。それから、十年もの間、東北地方、関東地方を旅して周り、絵や俳句を作って過ごしました。芭蕉の旅した「奥の細道」を歩いたりもしました。 36歳になると、京に上りました。東山の麓に居を構えて、そこに定住するかと思いきや、三年後に、宮津に赴き、画題となる自然の豊かな地で、絵を描き続けました。その後、香川県(讃岐)なども遊興し、45歳で結婚すると、それ以後は、京に住み続けることになります。蕪村、炭太祇(たんたいぎ)、黒柳召波(くろやなぎしょうは)らは、三菓社という俳句結社を作り、俳句作りに励みました。 その後、55歳で、師匠の名である夜半亭を継承します。画家としても俳人としても蕪村は有名になり、彼の主催する発句会には多くの人が集まるようになりました。 この頃、俳諧(俳句)の世界は、独創性を失って行き詰まっており、蕪村は松尾芭蕉を祖とする蕉風の流派を復興させようと、旗印を振りました。 68歳の時、持病が悪化し、妻子や弟子たちの必死の看病にも関わらず、この世を去りました。 「さみだれや仏の花を捨に出る」 降りしきる雨の中を花を捨てる、という寂寥感のつよい句です。「仏の花」とは仏壇に供えていた花でしょう。亡くなったのは誰でしょうか。愛しい想いがつよいほど、長くつづく慟哭……その悲嘆にさえ、雨は降り注ぎつづけています。 |
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鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉
寝ごゝろやいづちともなく春は来ぬ 罷出たものは物ぐさ太郎月 初午や物種売に日の当る 池田から炭くれし春の寒さかな 關の戸の火鉢ちひさき余寒かな 野とゝもに焼る地蔵のしきみかな しのゝめに小雨降出す焼野かな 暁の雨やすぐろの薄はら 二もとの梅に遅速を愛すかな さむしろを畠に敷て梅見かな 鶯に終日遠し畑の人 草の戸や二見のわかめもらひけり 暖簾に東風吹く伊勢の出店かな 春の水山なき国を流れけり なつかしき津守の里や田螺あへ ぬなは生ふ池の水かさや春の雨 わか鮎や谷の小笹も一葉行 蘆塞で立出る旅のいそぎかな 春雨やゆるい下駄借す奈良の宿 耕や鳥さへ啼ぬ山陰に 枸杞垣の似たるに迷ふ都人 古井戸のくらきに落る椿かな 垣越にものうちかたる接木かな 捨やらで柳さしけり雨のひま 裏門の寺に逢著す蓬かな 折もてる蕨しほれて暮遅し 旅人の鼻まだ寒し初ざくら よし野出て又珍らしや三月菜 梨の花月に書よむ女あり 誰ためのひくき枕ぞはるのくれ 肘白き僧のかり寝や宵の春 春月や印金堂の木の間より 花ぐもり朧につゞくゆふべかな 春の海終日のたりのたりかな 菜の花や月は東に日は西に なの花や笋見ゆる小風呂敷 菜の花や鯨もよらず海暮ぬ 菜の花や皆出払ひし矢走船 春風や堤長うして家遠し 春風のつまかえへしたり春曙抄 春風のさす手ひく手や浮人形 凧きのふの空のありどころ 花を踏し草履も見えて朝寝哉 難波女や京を寒がる御忌詣 海棠や白粉に紅あやまてる ゆかしさよ樒花さく雨の中 よもすがら音なき雨や種俵 苗代や蔵馬の桜散りにけり 一とせの茶も摘にけり父と母 今年より蚕はじめぬ小百姓 閣に座して遠き蛙をきく夜かな 蓮哥してもどる夜鳥羽の蛙かな つゝじ野やあらぬ所に麦畑 山もとに米踏む音や藤の花 ゆく春や逡巡として遅ざくら 行春や撰者を恨む歌の主 ゆく春やおもたき琵琶の抱ごゝろ 返哥なき青女房よくれの春 いとはるゝ身を恨寝やくれの春 春をしむ人や榎にかくれけり 遅キ日や雉子の下りゐる橋の上 遅き日のつもりて遠き昔哉 遅き日や谺聞ゆる京のすみ 春の夕はへなむとする香をつぐ 山寺や撞そこなひの鐘霞む 色も香もうしろ姿や弥生尽 風声のおり居の君や遅桜 朧夜や人彳るなしの園 暮んとす春をゝしほの山ざくら みよし野ゝちか道寒し山桜 まだきともちりしとも見ゆれ山桜 牡丹散てうちかさなりぬ二三片 御手打の夫婦なりしを更衣 小原女の五人揃うてあはせかな 粽解いて蘆吹く風の音聞かん 薬園に雨降る五月五日かな ねり供養まつり皃なる小家かな なつかしき夏書の墨の匂ひかな 三井寺や日は午にせまる若楓 蚊帳を出て奈良を立ちゆく若葉かな 浅間山煙の中に若葉かな 掘食ふ我たかうなの細きかな 卯の花のこぼるゝ蕗の広葉かな 蚊の声す忍冬の花の散るたびに 梢より放つ光やしゆろの花 花いばら故郷の路に似たるかな 愁ひつつ岡にのぼれば花いばら 麦の秋さびしき貌 の狂女かな みじか夜や枕にちかき銀屏風 渋柿の花ちる里と成にけり 口なしの花さくかたや日にうとき 雷に小屋は焼れて瓜の花 さみだれや大河を前に家二軒 来てみれば夕の桜実となりぬ 青梅に眉あつめたる美人かな 葉を落ちて火串に蛭の焦る音 飛び石も三つ四つ蓮のうき葉かな ぬなはとる小舟にうたはなかりけり 河骨の二もと咲くや雨の中 藻の花や小舟よせたる門の前 夏河を越すうれしさよ手に草履 鮎くれてよらで過行夜半の門 川狩や楼上の人の見しり貌 水深く利鎌鳴らす眞菰苅 飛蟻とぶや富士の裾野ゝ小家より 蚊遣して宿りうれしや草の月 青のりに風こそ薫れとろゝ汁 おろし置笈に地震ふるなつ野かな 若竹や夕日の嵯峨となりにけり 夕風や水青鷺の脛をうつ かりそめに早百合生けたり谷の房 渡し呼草のあなたの扇かな 朝風に毛を吹れ居る毛むしかな 夏山や通ひなれたる若狭人 細脛に夕風さはる簟 床涼笠著連歌のもどりかな 宗鑑に葛水たまふ大臣哉 ところてん逆しまに銀河三千尺 鮓おしてしばし淋しきこゝろかな 草いきれ人死にゐると札の立つ わくら葉に取ついて蝉のもぬけかな かけ香やわすれ貌なる袖だたみ 兄弟のさつを中よきほぐしかな 酒を煮る家の女房ちよとほれた 腹あしき僧こぼし行く施米かな あふみ路や麻刈あやめの晴間哉 水の粉もきのふに戻るやどり哉 初秋や余所の灯見ゆる宵の程 梶の葉を朗詠集の栞かな 魂棚をほどけばもとの座敷かな 大文字や近江の空もたゞならぬ 攝待へ寄らで過行く狂女かな 三徑の十歩に尽きて蓼の花 雨そゝぐ水草の隙や二日月 住む方の秋の夜遠き火影かな 葛の葉の恨み顔なる細雨哉 蓑虫や笠置の寺の麁朶の中 待宵や女あるじに女客 蜻蛉や村なつかしき壁の色 秋の幮主斗りに成りにけり 狩衣の袖より捨つる扇かな 鯊釣の小舟漕ぐなる窓の前 おのが葉に月おぼろなり竹の春 野路の秋我後ろより人や来る 紅葉してそれも散行く桜かな 心憎き茸山超ゆる旅路かな 新米にまだ草の実の匂ひかな 毛見の衆の舟さし下ダせ最上川 落し水柳に遠く成にけり 行秋のところ/" ̄\や下り簗 鮎落ていよ/\高き尾上かな 小鳥来る音うれしさよ板庇 鵯のこぼし去りぬる実の赤き 子狐のかくれ皃なる野菊かな うれしさの箕にあまりたるむかごかな 落日の潜りて染る蕎麦の茎 さればこそ賢者は富まず敗荷 落穂拾ひ日当る方へ歩み行く 掛稲に鼠啼なる門田かな 梅もどき折るや念珠をかけながら 冬近し時雨の雲もこゝよりぞ 紅葉見や用意かしこき傘二本 から堀の中に道ある照葉かな 打返し見れば紅葉す蔦の裏 ひつぢ田の案山子もあちらこちらむき 行秋やよき衣着たるかゝり人 山雀や榧の老木に寝にもどる 戸を叩く狸と秋を惜みけり 銀杏踏みて静かに児の下山かな 茯苓は伏し隠れ松露は露れぬ 腹あしき僧も餅食へ城南祭 口切や小城下ながら只ならぬ 夜泣する小家も過ぬ鉢叩き 麦蒔の影法師長き夕日かな 鷹狩や畠も踏ぬ国の守 御火焚や霜うつくしき京の町 顔見世や夜着をはなるゝ妹が許 水鳥やてうちんひとつ城を出る 鴛や池におとなき樫の雨 冬ざれや小鳥のあさる韮畠 葱洗ふ流もちかし井手の里 我のみの柴折りくべるそば湯かな 妻や子の寝貌も見えつ薬喰 既に得し鯨は逃て月ひとつ 乾鮭や琴に斧うつひゞきあり 炭団法師火桶の窓から窺けり 炭がまの辺しづけき木立かな 炭俵ますほのすゝき見付たり 炭売に鏡見せたる女かな 我骨のふとんにさはる霜夜かな 狐火や髑髏に雨のたまる夜に 年守るや乾鮭の太刀鱈の棒 細道になり行く声や寒念仏 寒声や古うた諷ふ誰が子ぞ 氷る燈の油うかがふねずみかな 雪沓をはかんとすれば鼠行 雪折も聞えて暗き夜なりけり 寒月や枯木の中の竹三竿 冬の梅きのふやちりぬ石の上 子燈心ことに御燈の光かな 宿かせと刀投出す吹雪かな にしき木の立聞もなき雑魚寝かな 夜興引や犬のとがむる塀の内 闇の夜に終る暦の表紙哉 三椀の雑煮かゆるや長者ぶり 朝日さす弓師が店や福寿草 藪入や浪花を出て長柄川 |
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●最上川の俳句 | |
最上川は山形県内を流れる川で、日本三大急流の一つと呼ばれている流れの早い川です。最上川の急流の激しさは俳人の心を掴むのか、俳句の中でも「最上川」というモチーフは多く使われています。俳句の中で一番有名な句と言っても過言ではない、芭蕉の「五月雨を あつめて早し 最上川」も最上川の句ですね。 | |
●最上川で有名な俳句 五月雨を あつめて早し 最上川 松尾芭蕉 勢いの増してきた梅雨の最上川を詠んだ句です。梅雨の雨で最上川の水かさが増し、水の流れの勢いも増し怖いくらいだと詠っています。松尾芭蕉は最上川の川下りを体験して感じた、最上川の急流の激しさを表現しています。 暑き日を 海にいれたり 最上川 松尾芭蕉 暑い夏の1日の終わり、夕暮れ時に詠まれた句です。真っ赤な夕日が最上川によって海に流し込まれたように見える、日が沈み太陽と共に暑い1日も終わりを迎えられた。「海にいれたり」で擬人法を使っています。 ずんずんと 夏を流すや 最上川 正岡子規 夏の最上川の、勢いよく流れる様を見て詠まれた句です。最上川の水の水量はすごく、夏という季節を乗せて流れているように思えるという意味。ずんずんという擬音語が、水の勢いを表しています。 夏山の 襟を正して 最上川 高浜虚子 夏山の木々の重なりあっている襞の凛とした美しさを、襟を正していると表現してます。かつて最上川を見て名句を詠んだ、松尾芭蕉と正岡子規と同じ最上川を見て、木々の様に襟を正す思いだ、という尊敬の気持ちを表した句です。 毛見の衆の 舟さし下せ 最上川 与謝蕪村 「毛見」というのは、米の出来高からその年の年貢の量を決定する作業の事で、査定する役人の事を毛見の衆と呼んでいました。毛見の作業をするのが秋のため、毛見が秋の季語となっています。高く年貢を取ろうとする厄介な役人を、最上川が船ごと流してくれという句です。 |
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●斎藤茂吉 最上川を詠った斎藤茂吉の作品で有名なのは、俳句ではなく短歌です。短歌は俳句とは違い季語がなく、五・七・五・七・七のの五句体の和歌になります。俳句ではありませんが、俳句と同じく自分の感情や感動などを表現する斎藤茂吉の「最上川」の有名な短歌について見ていきましょう。 「最上川の 上空にして 残れるは 未だうつくしき 虹の断片」 最上川上空に残る虹を見て歌った短歌で、最上川上空の虹が、完全な形から時間が経過して断片のみとなってしまった情景を詠っています。虹は完全な形ではなくても美しい、断片となっても美しいままでいようとする虹の懸命な美しさに感動している心情を表しています。表現技巧としては、この歌は意味や内容、調子の切れ目である「句切れ」ではありません。最後の「虹の断片」が体言止めとなっており、詠んだ後に余韻が残る終わり方になっています。 |
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●小林一茶 小林一茶の俳句で、「最上川」の有名な俳句はありません。「最上川」の俳句で一番有名な「五月雨を あつめて早し 最上川」と同じ季語「五月雨」を使った、有名な句があります。 「五月雨や 胸につかへる 秩父山」 秩父山を見ると、梅雨の雨が胸につかえるような気持ちがするという句です。住み慣れた江戸を離れて故郷の信州に戻る事になった一茶が、秩父山を見て故郷に近づいてきた事を感慨深く思っている様を詠いました。 |
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●蕪村 蕪村も小林一茶と同様、「最上川」の有名な俳句はありません。同じく「五月雨」をつかった有名な俳句があります。 「五月雨や 大河を前に 家二軒」 梅雨の激しい雨で水の勢いが増している川のほとりに、家が2軒立っている様を詠った句です。大河の勢いにのまれそうな家という、心細い気持ちを表現しました。 |
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●五月雨 1 | |
さみだるる一燈長き坂を守り 林火
さみだるる中発電所顫動す 佐野良太 樫 さみだるる大僧正の猥談と 鈴木六林男 さみだるる尿道造影剤検査 高澤良一 鳩信 さみだるる心電車をやり過す 中村汀女 さみだるる沖にさびしき鯨かな 仙田洋子 雲は王冠以後 さみだるる灯が遠くより坂にさす 加倉井秋を 午後の窓 さみだるる等身大の穴である 増田まさみ さみだるゝさゞ波明り松の花 渡辺水巴 白日 さみだるゝたそがる祇園長楽寺 正岡子規 さみだるゝ小家河童の宿にもや 石井露月 さみだるゝ軒の重さよほどきもの 及川貞 夕焼 さみだるゝ鵜に伴ありぬ山の湖 渡辺水巴 白日 さみだれてゐること知らず下り佇ちぬ 高木晴子 晴居 さみだれて此処に友住む薔薇くれなゐ 林原耒井 蜩 さみだれて翁このかた光堂 山本歩禅 さみだれて苔蒸すほどの樒かな 飯田蛇笏 霊芝 さみだれて黎明ながし額の花 佐野青陽人 天の川 さみだれにうたるる草のほととぎす 瀧春一 菜園 さみだれにふた月ぬるる青田かな 芳山 閏 月 月別句集「韻塞」 さみだれにやがて吉野を出ぬべし 榎本其角 さみだれに小鮒をにぎる小供哉 野坡 さみだれに濡れにぞ濡れし海女の墓 福村青纓 さみだれの*かや垂れて不平なき妻か 清原枴童 枴童句集 さみだれのあまだればかり浮御堂 青畝 さみだれのうつほ柱や老が耳 蕪村 夏之部 さみだれのさゞなみ明り松の花 渡辺水巴 さみだれの傘さしもどる故郷かな 橋本鶏二 年輪 さみだれの夕波鳥やかいつむり 森澄雄 さみだれの夜の母に針煌々と 大井雅人 龍岡村 さみだれの夜は音もせで明にけり 高井几董 さみだれの大井越たるかしこさよ 蕪村 夏之部 さみだれの奥にさみどり刷毛目壺 萩原久美子 さみだれの漏て出て行庵かな 炭 太祇 太祇句選 さみだれの田も川もなく降り包み 内田百間 さみだれの畳くぼむや肱枕 森鴎外 さみだれの空や月日のぬれ鼠 高井几董 さみだれの空吹きおとせ大井川 芭蕉 俳諧撰集「有磯海」 さみだれの雨だれたまりたるに降る 篠原梵 雨 さみだれはつぶやきつづけ焼豆腐 鍵和田釉子 さみだれやけぶりの籠る谷の家 加舎白雄 さみだれや三線かぢるすまひ取 大魯 五車反古 さみだれや仏に花をあふれしめ 林原耒井 蜩 さみだれや仏の花を捨に出る 與謝蕪村 さみだれや入日いり日を見せながら 横井也有 蘿葉集 さみだれや名もなき川のおそろしき 蕪村遺稿 夏 さみだれや夜半に貝吹まさり水 炭 太祇 太祇句選後篇 さみだれや夜明見はづす旅の宿 炭 太祇 太祇句選後篇 さみだれや大河は音をたてずゆく 須藤常央 さみだれや大河を前に家二軒 蕪村 夏之部 さみだれや平泉村真の闇 山口青邨 さみだれや庵の下道人通ふ 西島麦南 人音 さみだれや我宿ながらかかり舟 竿秋 五車反古 さみだれや棹にふすぶる十団子 左柳 俳諧撰集「有磯海」 さみだれや浮き桟橋へ歩み板 吉野義子 さみだれや焙炉にかける繭の臭(かざ) ぶん村 五 月 月別句集「韻塞」 さみだれや石噛んでゐる火喰鳥 佐野青陽人 天の川 さみだれや船がおくるる電話など 中村汀女(1900-88) さみだれや船路にちかき遊女町 高井几董 さみだれや薔薇冴えまさる雲の中 横光利一 さみだれや襦袢をしぼる岩魚捕り 渡辺水巴 白日 さみだれや門をかまへず直ぐ格子 久保田万太郎 流寓抄 さみだれや露盈つ松葉眼にあふれ 渡邊水巴 富士 さみだれや青柴積める軒の下 芥川龍之介 さみだれや鼠の廻る古葛籠 闌更 さみだれを集めて早し最上川 松尾芭蕉 さみだれ萩てふ名のやさし紅紫 細見綾子 |
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五月雨が侘びよ寂びよと降りをれり 相生垣瓜人
五月雨が合歓に止む時虹かゝる 細見綾子 花寂び 五月雨さらに名の有る川もなし 玄貞 選集古今句集 五月雨と我儘ぐらし芸術家 京極杞陽 くくたち上巻 五月雨にさながら渡る仁王かな 上島鬼貫 五月雨にざく〜歩く烏哉 一茶 ■文化十一年甲戊(52歳) 五月雨にとらへられたるわが行方 小川かん紅 五月雨にぬれてやあかき花柘榴 野坡 五月雨にもてあつかふははしごかな 里東 俳諧撰集「有磯海」 五月雨に一つ淋しや水馬 水原秋櫻子 五月雨に大きな口を開けし池 木暮陶句郎 五月雨に室の八嶋やたぱこ好き 調鶴 選集「板東太郎」 五月雨に家ふり捨ててなめくぢり 凡兆 五月雨に御幸を拝む晴間哉 正岡子規 五月雨に御物遠(おんものどほ)や月の顔 松尾芭蕉 五月雨に浅間も見えぬ別れかな 高木晴子 晴居 五月雨に濡れたる髪をほどき度く 稲畑汀子 五月雨に火の雨まじる蛍哉 守武 五月雨に父の血を知る珊瑚かな 五島高資 五月雨に田よりも径の光りけり 関塚康夫 五月雨に籠り薬を點檢す 石井露月 五月雨に胡桃かたまる山路かな 斯波園女 五月雨に葵押しきる流かな 会津八一 五月雨に軽みの傘を授かりぬ 佐々木六戈 百韻反故 わたくし雨 五月雨に金はしめらぬ手わざかな 上島鬼貫 五月雨に降りこめられる程でなく 高木晴子 晴居 五月雨に隠れぬものや瀬田の橋 芭蕉 五月雨に鳰の浮巣を見に行む 芭蕉 五月雨に鶴の足短くなれり 松尾芭蕉 五月雨のうたかたをみて遊びけり 高橋淡路女 梶の葉 五月雨の何をか隔てゐたりける 八木林之介 青霞集 五月雨の傘のうちなる山青し 伊藤柏翠 五月雨の傘の中にて莨吸う 田川飛旅子 花文字 五月雨の再び昏し滝の堂 五十嵐播水 播水句集 五月雨の又降りかくす東山 五十嵐播水 播水句集 五月雨の名をけがしたる日照かな 水田正秀 五月雨の四窓にたるゝ簾かな 比叡 野村泊月 五月雨の大川白し幌のひま 会津八一 五月雨の大河へあけし障子かな 比叡 野村泊月 五月雨の天へふるびし竹梯子 平井照敏 天上大風 五月雨の山国川の瀬鳴りの夜 河野扶美 五月雨の山霧暗し枯つゝじ 中島月笠 月笠句集 五月雨の島々を見て船は航く 高濱虚子 五月雨の徴発駄馬を今や引 森鴎外 五月雨の憂きをも忘れ舞台終へ 荻江寿友 五月雨の憂さに鼓を焙りけり 谷活東 五月雨の或夜は秋のこkろ哉 永井荷風 五月雨の晴れて犬なく日和かな 徳元 五月雨の晴間や屋根を直す音 正岡子規 五月雨の木曾は面白い処ぞや 正岡子規 五月雨の瀬に三人が鮴の漁 瀧井孝作 五月雨の猶も降べき小雨かな 高井几董 五月雨の町掘りかへす工事かな 寺田寅彦 五月雨の空吹き落せ大井川 芭蕉 五月雨の窓にかぶさる舳かな 比叡 野村泊月 五月雨の端居古き平家ヲうなりけり 服部嵐雪 五月雨の竹に隠るゝ在所哉 一茶 ■享和三年癸亥(41歳) 五月雨の竹の緑や朝のパン 碧雲居句集 大谷碧雲居 五月雨の蔦の芽喰ひに守宮かな 碧雲居句集 大谷碧雲居 五月雨の蝙蝠草をいでにけり 萩原麦草 麦嵐 五月雨の蟹這ひよれり草川居 四明句集 中川四明 五月雨の西湖に舟はなかりけり 比叡 野村泊月 五月雨の輿で見にゆく西湖かな 比叡 野村泊月 五月雨の遥かに吾をぶちのめす 各務麓至 五月雨の降のこしてや光堂 松尾芭蕉 五月雨の降り込む椎と槇の間 高澤良一 さざなみやっこ 五月雨の降るも晴るるも石に影 野見山朱鳥 五月雨の降残してや光堂 芭蕉 五月雨の隅田見に出る戸口かな 子規句集 虚子・碧梧桐選 五月雨の雲に針さす所なし 立花北枝 五月雨の音を聞わくひとり哉 加舎白雄 五月雨の音聴きに来よ須摩舞子 山西商平 五月雨の馬の渡舟といふとかや 素十 五月雨はただ降るものと覚けり 上島鬼貫 五月雨は滝降り埋むみかさ哉 松尾芭蕉 五月雨もひと月のぴよ閏月 エド-石菊 閏 月 月別句集「韻塞」 五月雨も楽しきものと知りて旅 近江小枝子 五月雨も瀬踏み尋ねぬ見馴河 松尾芭蕉 五月雨も頻に声を大にせり 相生垣瓜人 明治草抄 五月雨やある夜ひそかに松の月 蓼太 五月雨やおのづと思ふかの古江 尾崎迷堂 孤輪 五月雨やかくて枯れゆく串の鮒 碧雲居句集 大谷碧雲居 五月雨やから駕籠戻る杉木立 蘇山人俳句集 羅蘇山人 五月雨やきのふ見廻はでけふははや 立花北枝 五月雨やけふも上野を見てくらす 正岡子規 五月雨やももだち高く来る人 夏目漱石 明治四十二年 五月雨や三味線かちるすまひ取 太祇 五月雨や三日見つめし黒茶碗 成美 五月雨や上野の山も見飽きたり 正岡子規 五月雨や二軒して見る草の花 一茶 五月雨や二階住居(ずまひ)の草の花 小林一茶 (1763-1827) 五月雨や人なき岸の一軒家 墨水句集 梅澤墨水 五月雨や人伺候してかいつぶり 秋色 俳諧撰集玉藻集 五月雨や人語り行く夜の辻 籾山庭後 五月雨や今日も勘文奉る 蝶衣句稿青垣山 高田蝶衣 五月雨や仏の花を捨に出る 蕪村 五月雨や作務僧だまり賑やかに 池上不二子 五月雨や傘さして汲む舟の淦 比叡 野村泊月 五月雨や傘に付たる小人形 榎本其角 五月雨や兄の形見の老の杖 滝青佳 五月雨や写本の欲しき嵯峨日記 小澤碧童 碧童句集 五月雨や十里の杉の梢より 句佛上人百詠 大谷句佛、岡本米蔵編 五月雨や危くなりし多々良橋 河野静雲 五月雨や古家解き売る町はづれ 井月の句集 井上井月 五月雨や合羽の下の雨いきり 立花北枝 五月雨や噴水の桶鯉の桶 会津八一 五月雨や四つ手繕ふ旧士族 夏目漱石 明治三十年 五月雨や土佐は石原小石原 寺田寅彦 五月雨や垢重りする獄の本 和田久太郎 五月雨や堂朽ち盡し屋根の草 寺田寅彦 五月雨や夏猶寒き箱根山 蘇山人俳句集 羅蘇山人 五月雨や夜の山田の人の声 一茶 ■寛政年間 五月雨や夜もかくれぬ山の穴 一茶 ■寛政三年辛亥(29歳) 五月雨や大河のエコのしもり舟 幸田露伴 拾遺 五月雨や大河を前に家二軒 蕪村 五月雨や天下一枚うち曇り 宗因 五月雨や天水桶のかきつばた 一茶 ■文政元年戊寅(56歳) 五月雨や富士の高根のもえて居る 椎本才麿 五月雨や寫し物する北の窓 寺田寅彦 五月雨や小袖をほどく酒のしみ 夏目漱石 明治三十年 五月雨や尾を出しさうな石どうろ 泉鏡花 五月雨や居ねむり顔の傷の痕 横光利一 五月雨や山少しづゝ崩れゐる 野村喜舟 小石川 五月雨や岐れの水の激ちゆく 行徳すみ子 五月雨や川うちわたす蓑の裾 炭 太祇 太祇句選後篇 五月雨や年々降るも五百たび 松尾芭蕉 五月雨や廂の下の大八ッ手 楠目橙黄子 橙圃 五月雨や御豆の小家の寝覚めがち 蕪村 五月雨や怒濤常住室戸岬 東洋城千句 五月雨や思はぬ川瀬桐油舟 沾葉 選集「板東太郎」 五月雨や息交すかに木偶並び 植田 桂子 五月雨や悲み事に森の家へ 尾崎迷堂 孤輪 五月雨や我宿ながらかゝり舟 竿秋 五月雨や戸口までなる桑畠 野村喜舟 小石川 五月雨や扉の外の蔵草履 楠目橙黄子 橙圃 五月雨や折々出づる竹の蝶 樗良 五月雨や拾うた鯉も鵜の嘴目 浜田酒堂 五月雨や暗きに馴れて支那美人 比叡 野村泊月 五月雨や月夜に似たる沼明り 小川芋銭 五月雨や朝行水のたばね髪 洛翠 俳諧撰集「藤の実」 五月雨や根を洗はるゝ屋根の草 寺田寅彦 五月雨や桶の輪切るる夜の声 芭蕉 五月雨や梅の葉寒き風の色 椎本才麿 五月雨や棹もて鯰うつといふ 鏡花 五月雨や汗うちけぶる馬のしり 会津八一 五月雨や沈みもやらず十二橋 東洋城千句 五月雨や泥より起きて豆の蔓 八十島稔 筑紫歳時記 五月雨や泪羅の水のうす濁り 蘇山人俳句集 羅蘇山人 五月雨や浪打際の葱坊主 佐野青陽人 天の川 五月雨や淀の小橋は水行灯 井原西鶴 五月雨や湯に通ひ行く旅役者 川端康成 五月雨や滄海を衝く濁り水 蕪村 五月雨や漁婦ぬれて行くかゝえ帯 子規句集 虚子・碧梧桐選 五月雨や漁家の軒端の地蔵尊 楠目橙黄子 橙圃 五月雨や潮来の家のうしろ向き 小杉余子 余子句選 五月雨や灯して透明エレベーター 長崎小夜子 五月雨や猫かりに来る船の者 卓池 五月雨や玉菜買ひ去る人暗し 芥川龍之介 蕩々帖〔その一〕 五月雨や田中に動く人一人 蓼太 五月雨や疳高ち寝らぬ汝は吾子か 石塚友二 光塵 五月雨や真菰かくれの附木舟 尾崎紅葉 五月雨や眼帯かけしまゝ眠る 大場白水郎 散木集 五月雨や硯箱なる番椒(唐辛子) 服部嵐雪 五月雨や窓を背にして物思ふ 寺田寅彦 五月雨や立ち眠りして座敷犬 島村元句集 島村元 五月雨や竹おほまかに光りをり 中島月笠 月笠句集 五月雨や筏組行く日傘 丸露 選集「板東太郎」 五月雨や紗幕隔てゝ持仏の灯 比叡 野村泊月 五月雨や美豆(みづ)の寐覚の小家がち 與謝蕪村 五月雨や肩など打く火吹竹 一茶 ■文政四年辛巳(59歳) 五月雨や背戸に盥の捨小舟 也有 五月雨や胸につかへる秩父山 一茶 五月雨や船路に近き遊女町 几董 五月雨や色紙はげたる古屏風 斯波園女 五月雨や色紙へぎたる壁の跡 芭蕉 五月雨や苔むす庵の香の物 野澤凡兆 五月雨や蕗浸しある山の湖 渡邊水巴 五月雨や蚓の徹す鍋の底 服部嵐雪 五月雨や蚕わづらふ桑ばたけ 翁 五 月 月別句集「韻塞」 五月雨や蚯蚓の潜(くぐ)る鍋の底 服部嵐雪 五月雨や蠶煩ふ桑の畑 松尾芭蕉 五月雨や起上りたる根無草 鬼城 五月雨や軒を煙のたよりなく 小杉余子 余子句選 五月雨や醜の小草を歌にして 野村喜舟 小石川 五月雨や野厠出づる蓑の人 比叡 野村泊月 五月雨や鉄の匂ひの歩道橋 下山宏子 五月雨や雨の中より海鼠壁 芥川龍之介 五月雨や雪はいづこのしなの山 一茶 ■寛政三年辛亥(29歳) 五月雨や雲の中なる山崩 故郷 吉田冬葉 五月雨や飯台立つる一燈下 金尾梅の門 古志の歌 五月雨や館晝灯し廂深 松根東洋城 五月雨や髭といふもの男らに 小澤克己 五月雨や鮓の重しもなめくじり 上島鬼貫 五月雨や鰌は畦へよぢのぼり 野村喜舟 小石川 五月雨や鴉草ふむ水の中 河東碧梧桐 五月雨や鶏の影ある土間の隅 木歩句集 富田木歩 五月雨や鼠の廻る古葛籠 闌更 五月雨るゝ柳橋とはこのあたり 野村梅子 五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉 五月雨を跡に置つつ有馬菅 上島鬼貫 五月雨を集めて早し最上川 松尾芭蕉 五月雨大井の橋はなかりけり 正岡子規 五月雨浅間の煙絶えにけり みそ萩(古屋夢拙俳句抄第一集) 古屋夢拙 五月雨盛りいちごの雫かな 轍士妻-留里 俳諧撰集玉藻集 五月雨花の絶え間をふりにけり 久保田万太郎 草の丈 五月雨軒に茶がらの山出来たり 調和 選集「板東太郎」 五月雨鉄瓶さめし夜風かな 碧雲居句集 大谷碧雲居 |
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あか汲で小舟あはれむ五月雨 蕪村遺稿 夏
いたつきに名のつき初る五月雨 子規 かたむきし八阪の塔や五月雨 妻木 松瀬青々 かち渡る人流れんとす五月雨 子規句集 虚子・碧梧桐選 この二日五月雨なんど降るべからず 正岡子規 すててゆくかりの伏家や五月雨 吉武月二郎句集 つれ〜や双ケ岡の五月雨 竹冷句鈔 角田竹冷 つヾくりもはてなし坂や五月雨 向井去来 とても霽れぬ五月雨傘をさして去ね 竹下しづの女 [はやて] にはとりを三和土に飼ふや五月雨 高橋睦郎 舊句帖 ぬけ落る瓦のおとや五月雨 橘田春湖 のみさしの茶の冷たさよ五月雨 光太郎 ひきにくき心の舵や五月雨 久保田万太郎 流寓抄 ほつ〜と二階仕事や五月雨 一茶 ■享和三年癸亥(41歳) われに沸く風呂の浮蓋五月雨 松村蒼石 春霰 をけら焚く香にもなれつつ五月雨 居然 ストに入る前五月雨の河ながる 萩原麦草 麦嵐 一日は物あたらしき五月雨 炭 太祇 太祇句選後篇 三井寺や湖濛々と五月雨 正岡子規 上戸衆の物が降けり五月雨 丸石 選集「板東太郎」 二階下りぬ一日暮れし五月雨 碧雲居句集 大谷碧雲居 亡き父の蓑で水見や五月雨 石島雉子郎 人も斧も入らずの杜の五月雨 佐藤春夫 能火野人十七音詩抄 今日は又足が痛みぬ五月雨 正岡子規 仏の灯神にわかつや五月雨 金尾梅の門 古志の歌 仮初にふり出しけり五月雨 加舎白雄 保(も)つまいとおもふ空から五月雨 高澤良一 素抱 傘さして港内漕ぐや五月雨 前田普羅 新訂普羅句集 傘させば五月雨の冷えたまりくる 八木絵馬 傘持つて傘さしゆくや五月雨 会津八一 剃刀や一夜に金精(さび)て五月雨 野沢凡兆(?-1714) 十團子を売る日売らぬ日五月雨るる 金久美智子 命は一度五月雨小熄み光堂 草田男 (中尊寺にて) 土間に積む紫蘇の香高し五月雨 雉子郎句集 石島雉子郎 堤より低きに家し五月雨るゝ 四明句集 中川四明 塩鮭の油たるらん五月雨 暁台 夜は猶おもひゆられて五月雨 松岡青蘿 大欅かぶる灯や五月雨 碧雲居句集 大谷碧雲居 大河渡る小舟けなげや五月雨 比叡 野村泊月 大粒になつてはれけり五月雨 正岡子規 太綱に繋げる亭や五月雨 比叡 野村泊月 家一つ蔦と成りけり五月雨 一茶 ■享和三年癸亥(41歳) 寺による村の会議や五月雨 河東碧梧桐 小説に飽き五月雨に飽く机 副島いみ子 就中おん蒔柱五月雨るゝ 高野 素十 山池のそこひもわかず五月雨るゝ 飯田蛇笏 霊芝 山門や木の枝垂れて五月雨 子規句集 虚子・碧梧桐選 山間ヒに現はるゝ山や五月雨 雑草 長谷川零餘子 山鳥のおろおろ啼きや五月雨 服部嵐雪 川に佇つ五月雨傘の裏に蛾が 波多野爽波 鋪道の花 川越して五月雨の月おちにけり 萩原麦草 麦嵐 庖丁に砥石あてをり五月雨 鈴木真砂女 生簀籠 座敷まで山羊のにほひや五月雨 比叡 野村泊月 怒る渦泣く渦鳴門五月雨渦 橋本夢道 無類の妻 急ぎ来る五月雨傘の前かしぎ 高浜虚子 我と我が息吹聴き寝る五月雨 富田木歩 提灯の出迎へ頼み五月雨 上野泰 佐介 新しき柄杓が水に五月雨 下村槐太 光背 旅びとや曽我の里とふ五月雨 炭 太祇 太祇句選後篇 旅人もロダン青銅も五月雨るゝ 清水基吉 寒蕭々 旅笠に又五月雨の暗さ添ふ 比叡 野村泊月 日の道や葵傾く五月雨 松尾芭蕉 昏々と病者のねむる五月雨 飯田蛇笏 朝寝昼寝夏の夜長し五月雨 調盞子 選集「板東太郎」 椎の舎の主病みたり五月雨 子規句集 虚子・碧梧桐選 椎槇に朽つる堂宇や五月雨 雑草 長谷川零餘子 毎年の長逗留や五月雨 三角 水中にゆるゝ柳や五月雨 菅原師竹句集 水中の青蘆ほのと五月雨 西山泊雲 泊雲句集 水傷に好けん水灸五月雨に 内田百間 海山に五月雨そふや一くらみ 野澤凡兆 海棠の朽ち葉をふるふ五月雨 蘇山人俳句集 羅蘇山人 渓橋に傘さして佇つや五月雨 飯田蛇笏 温泉の宿の謡はずなりぬ五月雨 石島雉子郎 温泉烟の田にも見ゆるや五月雨 河東碧梧桐 湖の水まさりけり五月雨 向井去来(1651-1704) 湯の湖の湯気這ふところ五月雨るゝ 森田峠 避暑散歩 濁り江のあやめに澄みぬ五月雨 古白遺稿 藤野古白 灰ふきや下水つかへて五月雨 山夕 選集「板東太郎」 灰汁桶の澄みて溢るる五月雨 西山泊雲 泊雲 無病さや物うちくうて五月雨 中村史邦 燕もかはく色なし五月雨 榎本其角 牛若の鞍馬上るや五月雨 正岡子規 物あぶる染どのふかし五月雨 炭 太祇 太祇句選後篇 生垣にさす灯ばかりや五月雨 渡辺水巴 白日 畳売つて出られよ旅へ五月雨 浜田酒堂 病みてよりはだへのあつし五月雨 村山古郷 病蚕に焼酒を吹く五月雨 萩原麦草 麦嵐 眼を病んで灯ともさぬ夜や五月雨 夏目漱石 矢取丁稚声のやすめや五月雨 調泉 選集「板東太郎」 短夜のうらみもどすや五月雨 千代尼 磯はたや蟹木に上る五月雨 森鴎外 社参せぬ身に降りまされ五月雨 渡辺水巴 白日 空も地もひとつになりぬ五月雨 杉風 立ちつくす五月雨傘や古帝廟 比叡 野村泊月 竹育つ白光の径五月雨 長谷川かな女 花 季 竹隠の君子を訪ふや五月雨 寺田寅彦 竹馬や軒の下闇五月雨 調幸子 選集「板東太郎」 笠叩く松の雫や五月雨 比叡 野村泊月 筆結ひの心もほそる五月雨 立花北枝 簔張や枕にひびく五月雨 立独 選集「板東太郎」 紫陽花の葉に早き蚊や五月雨 癖三酔句集 岡本癖三酔 縁側に棒ふる人や五月雨 子規句集 虚子・碧梧桐選 縫物や着もせでよごす五月雨 野澤羽紅女 舟小屋に薺花咲く五月雨 佐野青陽人 天の川 舟著くや五月雨傘を宿の者 星野立子 船頭も饂飩打つなり五月雨 泉鏡花 芭蕉堂の緋布団に座し五月雨るる 原 コウ子 苫の香の舟にあきけり五月雨 徳野 荷に添はぬ合羽掛けゝり五月雨 雉子郎句集 石島雉子郎 葉を合せて楓広葉や五月雨 雑草 長谷川零餘子 葉籠りの青き葡萄や五月雨 五十嵐播水 播水句集 葛城やあやめもわかぬ五月雨 青々 蓮池の浮葉水こす五月雨 子規句集 虚子・碧梧桐選 藪打つて五月雨はやく止みにけり 萩原麦草 麦嵐 虫けらの壁からも出る五月雨 木歩句集 富田木歩 蛇の尾に五月雨の花消ゆるかな 萩原麦草 麦嵐 蟲けらの壁からも出る五月雨 富田木歩 行燈で来る夜送る夜五月雨 服部嵐雪 詮なさの昼念仏や五月雨 河野静雲 閻魔 起き伏しの蔦の緑や五月雨 碧雲居句集 大谷碧雲居 踏切にいつまで貨車や五月雨 雑草 長谷川零餘子 道灌の墓五月雨を聴くばかり 高澤良一 さざなみやっこ 郵便夫の鞄郵便溢れて五月雨の中来る 人間を彫る 大橋裸木 酒つくる猿もぬれてや五月雨 会津八一 釜中魚を生ずしぎなり五月雨るる 龍岡晋 長病の床向きかへぬ五月雨 島村元句集 門川の藻がにほふなり五月雨 篠田悌二郎 閉山の赤旗を焼く五月雨 宮下邦夫 降うちに降出す音や五月雨 玉束 限りなき海のけしきや五月雨 正岡子規 雁門や鯨さばしる五月雨 露沾 選集「板東太郎」 雨乞は山下りけり五月雨 会津八一 雪にせば何丈積ん五月雨 十捨 青首徳利挿す花のなく五月雨るる 石川桂郎 四温 音立てて川波くらし五月雨 飛鳥田[れい]無公 湖におどろく 馬で行け和田塩尻の五月雨 正岡子規 馬子のさす五月雨傘の破れやう 高橋淡路女 梶の葉 馬鹿びきの出でゝかへらず五月雨るゝ 幸田露伴 拾遺 骨太き傘借りつ五月雨 会津八一 髪はえて容顔蒼し五月雨 松尾芭蕉 髪剃や一夜に金精(さび)て五月雨 野澤凡兆 髪生えて容顔青し五月雨 芭蕉 鬼蓮の水嵩を知らず五月雨 安斎櫻[カイ]子 鰻ともならである身や五月雨 木歩句集 富田木歩 鳶の子の濡れて落ちけり五月雨 四明句集 中川四明 ころしもやけふも病む身にさみだるる 正岡子規 はしり咲くさみだれ萩や開山忌 西岡荘人 傘滴晩翠の詩碑さみだるゝ 小林康治 玄霜 厩に生ふる草も見て濾し井さみだるゝ 廣江八重櫻 声かけて墓に撒く酒さみだるる 高井北杜 大き鳥さみだれうををくはへ飛ぶ 田中裕明 花間一壺 弾圧続くさみだれは江東区を低くして降る 橋本夢道 無禮なる妻抄 戦争よあるな路地さみだれて鯖食う家 橋本夢道 無禮なる妻抄 格子より見るさみだれの格子かな 高橋睦郎 荒童鈔 江東区さみだれ電車鯨のようにゆく 橋本夢道 無禮なる妻抄 石人に吾に一日さみだるゝ 工藤 信子 轟々さみだれの河汽車は一汽笛にて渡る 安斎櫻[カイ]子 雲こめて帰る鵜遠しさみだるゝ 渡辺水巴 白日 馳け廻る用に大阪さみだるゝ 大場白水郎 散木集 鯉うごくたびの原色さみだるる 高井北杜 鳩の巣に蒼き鳩の子さみだるる 毛塚静枝 |
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●五月雨 2 | |
さみたれやいつもの窓に琴もなし 正岡子規 五月雨
さみだるるやわが体臭のただよふ 種田山頭火 自画像 落穂集 さみだるる一燈長き坂を守り 大野林火 早桃 海風抄 さみだるる夜の山手線森へひびき 大野林火 海門 昭和十三年 さみだるる竹の根もとのよごれつつ 大野林火 冬青集 雨夜抄 さみだるゝさゞ波明り松の花 渡邊水巴 白日 さみだるゝとも真珠育ち汐澄めり 阿波野青畝 さみだるゝ軒の重さよほどきもの 及川貞 夕焼 さみだるゝ鳥居のさきは蚕神 飴山實 花浴び さみだるゝ鵜に伴ありぬ山の湖 渡邊水巴 白日 さみだれて苔蒸すほどの樒かな 飯田蛇笏 霊芝 さみだれに夕のはなやぎいたりけり 上田五千石『琥珀』補遺 さみだれのあまだればかり浮御堂 阿波野青畝 さみだれのかけたる月を束の間に 大野林火 早桃 太白集 さみだれのみだれつつしむけふきのふ 上田五千石 風景 さみだれのみづく家路や誘蛾燈 阿波野青畝 さみだれの墓域の眺め遺されし 上田五千石『天路』補遺 さみだれの夕波鳥やかいつむり 森澄雄 さみだれの夜の閑散の湯の深さ 日野草城 さみだれの夜半の目覚めの御声する 中村汀女 さみだれの松なし天に松おもふ 山口青邨 さみだれの毛越寺みち田鴫鳴く 山口青邨 さみだれの水旺んなる水車 日野草城 さみだれの池や玩具の鳥浮び 山口青邨 さみだれの池をめぐりて驥尾に附す 山口青邨 さみだれの浚渫作業輪中守る 阿波野青畝 さみだれの濁流のみが常に似ず 山口誓子 さみだれの猿の腰掛干るまなし 阿波野青畝 さみだれの荷の豌豆の真青なる 日野草城 さみだれの雨だれたまりたるに降る 篠原梵 年々去来の花 雨 さみだれの露おもしろき黎かな 日野草城 さみだれやのぼりくだりの神楽坂 山口青邨 さみだれやわが煮る粥の味如何に 日野草城 さみだれやサロメ疲れゐる楽屋風呂 日野草城 さみだれや一蝶とんで旅人に 山口青邨 さみだれや呼ばれて犬のかへりみる 中村汀女 さみだれや平泉村真の闇 山口青邨 さみだれや庵の下道人通ふ 西島麦南 人音 さみだれや手賀も印旛も見えぬ汽車 阿波野青畝 さみだれや杉から杉へ白小蝶 渡邊白泉 さみだれや瑠瑞光院は杉の中 山口青邨 さみだれや痺れおぼゆる腕枕 日野草城 さみだれや船がおくるる電話など 中村汀女 さみだれや襦袢をしぼる岩魚捕り 渡邊水巴 白日 さみだれや露盈つ松葉眼にあふれ 渡邊水巴 富士 さみだれ萩てふ名のやさし紅紫 細見綾子 さみだれ萩ときどき油断してをりぬ 岡井省二 前後 さみだれ萩咲き続け七月尽 細見綾子 |
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五月雨が侘びよ寂びよと降りをれり 相生垣瓜人 明治草
五月雨が合歓に止む時虹かゝる(富雄なる暮石居にて) 細見綾子 五月雨にいよいよ青し木曽の川 正岡子規 五月雨 五月雨に一筋白き幟かな 正岡子規 五月雨 五月雨に向ふの見えぬ老馬かな 正岡子規 五月雨 五月雨に御幸を拝む晴間哉 正岡子規 五月雨 五月雨に濡れて飛び行く魂もあらん 内藤鳴雪 五月雨に瀬のかはりてや鷺の足 正岡子規 五月雨 五月雨に火種の消えし不動哉 正岡子規 五月雨 五月雨に燭して開く秘仏かな 内藤鳴雪 五月雨に笠のふゑたる田植かな 正岡子規 田植 五月雨に菅の笠ぬぐ別れ哉 正岡子規 五月雨 五月雨の*(白+)生ゆらんか蝶の羽 正岡子規 五月雨 五月雨のかびや生ゆらん鯉の背 正岡子規 五月雨 五月雨のともし少き小村かな 正岡子規 五月雨 五月雨のどしゃぶりに根の抜けんとす 正岡子規 五月雨 五月雨のはだしでのりて渡し哉 正岡子規 五月雨 五月雨のはだしで乗りし渡し哉 正岡子規 五月雨 五月雨のふらんとすなり秩父山 正岡子規 五月雨 五月雨のふり潰したる藁家かな 村上鬼城 五月雨のみぐるし山とぬかしけり 正岡子規 五月雨 五月雨の中に天山星が岡 正岡子規 五月雨 五月雨の二月堂出で来し女人 村山故郷 五月雨の傘ばかりなり仲の町 正岡子規 五月雨 五月雨の化物やしき古にけり 正岡子規 五月雨 五月雨の合羽つゝぱる刀かな 正岡子規 五月雨 五月雨の合羽を出たる刀かな 正岡子規 五月雨 五月雨の哀れを尽す夜鷹哉 正岡子規 五月雨 五月雨の天へふるびし竹梯子 平井照敏 天上大風 五月雨の宿借りし家に娘あり 正岡子規 五月雨 五月雨の小草生えたる土俵哉 正岡子規 五月雨 五月雨の岩並びけり妙義山 正岡子規 五月雨 五月雨の崩れもやらぬほこら哉 正岡子規 五月雨 五月雨の旱のと菊の手入れかな 正岡子規 五月雨 五月雨の晴れなんとして靄深し 正岡子規 五月雨 五月雨の晴間や屋根を直す音 正岡子規 五月雨 五月雨の木の間に暗し大伽藍 正岡子規 五月雨 五月雨の木曽は面白い処ぞや 正岡子規 五月雨 五月雨の森の中なり塔一重 正岡子規 五月雨 五月雨の水につと見る鯰かな 山口青邨 五月雨の水口にゐる田鯉かな 右城暮石 句集外 昭和二年 五月雨の泥を流して海黄なり 正岡子規 五月雨 五月雨の泥炭池に墜ちるなよ 西東三鬼 五月雨の狐火うつる小窓かな 内藤鳴雪 五月雨の眠るが如くふりにけり 正岡子規 五月雨 五月雨の石切り出だす深山哉 正岡子規 五月雨 五月雨の竹を羨む檜哉 正岡子規 五月雨 五月雨の茶からもたまる日数哉 正岡子規 五月雨 五月雨の草に沈みて仏達 山口青邨 五月雨の荷物著きたる戸口かな 内藤鳴雪 五月雨の足駄買ふ事忘れたり 正岡子規 五月雨 五月雨の降るも晴るるも石に影 野見山朱鳥 愁絶 五月雨の隅田見に出る戸口哉 正岡子規 五月雨 五月雨の雲やちぎれてほとゝぎす 正岡子規 五月雨 五月雨の雲を巻きこむ早瀬哉 正岡子規 五月雨 五月雨の雲許りなり箱根山 正岡子規 五月雨 五月雨の雲這ひわたる那須野哉 正岡子規 五月雨 五月雨の馬の渡舟といふとかや 高野素十 五月雨の鳥啼く木立庭広し 正岡子規 五月雨 五月雨の鳩が水のむ屋根の下 平井照敏 猫町 五月雨は人の涙と思ふべし 正岡子規 五月雨 五月雨は杉にかたよる上野哉 正岡子規 五月雨 五月雨は腹にもあるや腸かたる 正岡子規 五月雨 五月雨は藜の色にしくれけり 正岡子規 五月雨 五月雨は藜の色を時雨けり 正岡子規 五月雨 五月雨も頻に声を大にせり 相生垣瓜人 明治草抄 五月雨やくたびれ顔の鹿の妻 正岡子規 五月雨 五月雨やけふも上野を見てくらす 正岡子規 五月雨 五月雨やしとゞ濡れたる恋衣 正岡子規 五月雨 五月雨やだまつて早苗とる女 正岡子規 五月雨 五月雨やちひさき家の土細工 正岡子規 五月雨 五月雨やともし火もるゝ藪の家 正岡子規 五月雨 五月雨やながめてくらす舞扇 正岡子規 五月雨 五月雨やわつかに月のあり処 正岡子規 五月雨 五月雨やインコの瑠璃も黄もぬるる 山口青邨 五月雨や一日つぶす探し物 村山故郷 五月雨や三味線をひく隣哉 正岡子規 五月雨 五月雨や上野の山も見あきたり 正岡子規 五月雨 五月雨や下駄屋の前で下駄をきる 正岡子規 五月雨 五月雨や亀はひ上る早苗舟 正岡子規 五月雨 五月雨や五月雨や碑文二千年 正岡子規 五月雨 五月雨や五里の旅路の桑畠 正岡子規 五月雨 五月雨や仮橋ゆるぐ大井川 正岡子規 五月雨 五月雨や傾城のぞく物の本 正岡子規 五月雨 五月雨や善き硯石借り得たり 正岡子規 五月雨 五月雨や墨田を落す筏舟 正岡子規 五月雨 五月雨や大木並ぶ窓の外 正岡子規 五月雨 五月雨や天にひつゝく不二の山 正岡子規 五月雨 五月雨や宿屋の膳の干蕨 正岡子規 五月雨 五月雨や小き虫落つ本の上 正岡子規 五月雨 五月雨や小牛の角に蝸牛 正岡子規 蝸牛 五月雨や小牛の角の蝸牛 正岡子規 五月雨 五月雨や小膝にあまる文の丈 正岡子規 五月雨 五月雨や少女の温き銭を受く 岸田稚魚 負け犬 五月雨や岡長々と王子迄 正岡子規 五月雨 五月雨や庄屋にとまる役人衆 正岡子規 五月雨 五月雨や我執に籠り暮れにける 石塚友二 磯風 五月雨や戸をおろしたる野の小店 正岡子規 五月雨 五月雨や月出るかたの薄明り 正岡子規 五月雨 五月雨や月出る頃の薄明り 正岡子規 五月雨 五月雨や朝日夕日の少しつゝ 正岡子規 五月雨 五月雨や松笠燃して草の宿 村上鬼城 五月雨や棚へとりつくものゝ蔓 正岡子規 五月雨 五月雨や榛の木立てる水の中 正岡子規 五月雨 五月雨や檐端を渡る峰の雲 正岡子規 五月雨 五月雨や水にうつれる草の裏 原石鼎 花影 五月雨や水汲みに行く下駄の跡 正岡子規 五月雨 五月雨や泥鰌ふつたる潦 正岡子規 五月雨 五月雨や泥鰌湧たる井戸の端 正岡子規 五月雨 五月雨や流しに青む苔の花 正岡子規 五月雨 五月雨や浮き上りたる船住居 村上鬼城 五月雨や漁婦ぬれて行くかゝえ帯 正岡子規 五月雨 五月雨や炭俵積む深廂 日野草城 五月雨や牛に乗たる宇都の山 正岡子規 五月雨 五月雨や田蓑の島の草枕 正岡子規 五月雨 五月雨や畠にならぶ杉の苗 正岡子規 五月雨 五月雨や畳に上る青蛙 正岡子規 五月雨 五月雨や疳高ち寝らぬ汝は吾子か 石塚友二 光塵 五月雨や神経病の直りぎは 正岡子規 五月雨 五月雨や筏つなぎし槻の幹 原石鼎 花影 五月雨や築地をかくす八重葎 正岡子規 五月雨 五月雨や簀の子の下の大茸 正岡子規 五月雨 五月雨や簑の裡にて腰屈む 山口誓子 五月雨や簑笠集ふ青砥殿 内藤鳴雪 五月雨や糊のはなるゝ花がるた 正岡子規 五月雨 五月雨や背戸に落ちあふ傘と傘 正岡子規 五月雨 五月雨や芳原の灯のまばら也 正岡子規 五月雨 五月雨や葎の中の古築地 正岡子規 五月雨 五月雨や蕗浸しある山の湖 渡邊水巴 白日 五月雨や薄生ひそふ山の道 正岡子規 五月雨 五月雨や虫落来る本の上 正岡子規 五月雨 五月雨や蟹の這ひ出る手水鉢 正岡子規 五月雨 五月雨や覚えた謡皆になり 正岡子規 五月雨 五月雨や起き上りたる根無草 村上鬼城 五月雨や足駄岩を踏で滝を見る 正岡子規 五月雨 五月雨や金の小笠の馬印 正岡子規 五月雨 五月雨や青葉のそこの窓明り 正岡子規 五月雨 五月雨や鬼の血剥る羅生門 正岡子規 五月雨 五月雨や鴉草ふむ水の中 河東碧梧桐 五月雨や鴨居つかんで外を見る 渡邊白泉 五月雨や鶏上る大々鼓 正岡子規 五月雨 五月雨を思ふてなくか子規 正岡子規 時鳥 五月雨三味線を引く隣哉 正岡子規 五月雨 五月雨三百人の眠気なり 正岡子規 五月雨 五月雨人居て舟の煙りかな 正岡子規 五月雨 五月雨大井の橋はなかりけり 正岡子規 五月雨 五月雨晴や大仏の頭あらはるゝ 正岡子規 梅雨晴 |
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あうたりわかれたりさみだるる 種田山頭火 草木塔
あひふれしさみだれ傘の重かりし 中村汀女 いたつきに名のつきそむる五月雨 正岡子規 五月雨 うつくしき棺行くなり五月雨 正岡子規 五月雨 かけ橋や五月雨雲を笠の端 正岡子規 五月雨 かけ橋や水より上を五月雨 正岡子規 五月雨 かしこさに禰宜も痩せけり五月雨 正岡子規 五月雨 かち渡る人流れんとす五月雨 正岡子規 五月雨 きりもなきさみだれ鳰の長潜り 大野林火 方円集 昭和五十年 くすぶりてをれよをれよとさみだるる 相生垣瓜人 明治草抄 この二日五月雨なんど降るべからず 正岡子規 五月雨 この祭いつも卯の花くだしにて 正岡子規 五月雨 ころしもやけふも病む身にさみだるゝ 正岡子規 五月雨 さし連るゝ五月雨傘のその一つ 清崎敏郎 ずりさがり五月雨雲や関ケ原 阿波野青畝 つき當り路地の朧や乱籠 佐藤鬼房 つくねんと大仏たつや五月雨 正岡子規 五月雨 なすべりそ湯殿参りのさみだるる 阿波野青畝 はたごやに蝿うつ客や五月雨 正岡子規 五月雨 もつれあふ鳩激しがり五月雨 阿波野青畝 もりそめしさみだれ傘に身をまかせ 阿波野青畝 ゆるぎなき五月雨空に漁舟出ず 阿波野青畝 わぎへには五月雨雲よ立ち来ざれ 相生垣瓜人 負暄 をなごらもどてら着ぶくれさみだるゝ 日野草城 をみなたち毛越寺泊さみだるる 山口青邨 一人居る編輯局や五月雨 正岡子規 五月雨 一村は杉の木の間に五月雨 正岡子規 五月雨 三井寺や湖濛々と五月雨 正岡子規 五月雨 世の中のどこも断層の五月雨よくふる 荻原井泉水 並杉のくさるかと思ふ五月雨 正岡子規 五月雨 人並ぶ寮の廊下や五月雨 正岡子規 五月雨 今日は又足が痛みぬ五月雨 正岡子規 五月雨 今日も亦君返さじとさみだるゝ 正岡子規 五月雨 何もなき水田の上や五月雨 正岡子規 五月雨 傘さして港内漕ぐや五月雨 前田普羅 普羅句集 傘滴晩翠の詩碑さみだるゝ 小林康治 玄霜 傾城の文とゝきけり五月雨 正岡子規 五月雨 傾城や年よりそむる五月雨 正岡子規 五月雨 冷飯ぽろぽろさみだるる 種田山頭火 自画像 落穂集 出女のなじみそめけり五月雨 正岡子規 五月雨 出水して橋守る声や五月雨 内藤鳴雪 古くさき咄の多し五月雨 正岡子規 五月雨 君が身に五月雨晴れぬきのふけふ 正岡子規 五月雨 土手杭あらはさみだるゝ砂のこぼれやまず 種田山頭火 自画像 層雲集 地虫なくさみだれ水の虚空にて 百合山羽公 故園 地車の轍の跡や五月雨 正岡子規 五月雨 城跡の石垣はかり五月雨 正岡子規 五月雨 塩湯や朝からけむる五月雨 村上鬼城 壁をもる牛の匂ひや五月雨 正岡子規 五月雨 夏萩をさみだれ萩と言ひ直す 後藤比奈夫 夜の客匆々に去りぬ五月雨 村山故郷 夜を濡るるレール百条五月雨 中村汀女 大仏やだらりだらりと五月雨 正岡子規 五月雨 大和川さみだれの水流れけり 日野草城 大家や降るとも知らず五月雨 正岡子規 五月雨 大海のぺたり〜と五月雨 内藤鳴雪 大瀧の仰ぎてくらき五月雨 飯田蛇笏 心像 大空やどこにたゝへて五月雨 正岡子規 五月雨 大粒になつてはれけり五月雨 正岡子規 五月雨 天毒といふものならむさみだるる 相生垣瓜人 負暄 太陽に干せばさみだれ傘ならず 阿波野青畝 女客ありさみだれはぎのゆれること 山口青邨 子は危篤さみだれひびきふりにけり 飯田蛇笏 白嶽 定めなき身を五月雨の照り曇り 正岡子規 五月雨 家居することを楽しみ五月雨るる 稲畑汀子 寺による村の会議や五月雨 河東碧梧桐 就中おん蒔柱五月雨るる 高野素十 山吹の余花に卯の花くだし哉 正岡子規 五月雨 山池のそこひもわかず五月雨るゝ 飯田蛇笏 霊芝 山門や木の枝垂れて五月雨 正岡子規 五月雨 峯仰ぐ五月雨傘を傾けて 右城暮石 句集外 昭和四十四年 川に佇つ五月雨傘の裏に蛾が 波多野爽波 鋪道の花 左丹塗の廟びしよびしよにさみだるる 阿波野青畝 庖丁に砥石あてをり五月雨 鈴木真砂女 生簀籠 心置く一歩の土もさみだるゝ 石塚友二 光塵 悲しみの五月雨傘は深くさす 稲畑汀子 折からの木曽の旅路を五月雨 正岡子規 五月雨 折りもをり岐岨の旅路を五月雨 正岡子規 五月雨 抜道は川となりけり五月雨 正岡子規 五月雨 抜道は草露けしや五月雨 正岡子規 五月雨 控木に五月雨の茸並びけり 正岡子規 五月雨 提灯の出迎へ頼み五月雨 上野泰 佐介 敷きのぶるさみだれの夜の臥床かな 中村汀女 新しき柄杓が水に五月雨 下村槐太 光背 日の中に昼も夜もあり五月雨 正岡子規 五月雨 昏々と病者のねむる五月雨 飯田蛇笏 白嶽 暮れかけて又日のさすや五月雨 正岡子規 五月雨 更闌けて降り昂りぬ五月雨 日野草城 木曽三日山の中也五月雨 正岡子規 五月雨 根だ搖く川辺の宿や五月雨 正岡子規 五月雨 桐の葉にさみだれ濺ぐひもすがら 日野草城 桑海に伏屋溺れて五月雨るる 富安風生 桟や水へも落ちず五月雨 正岡子規 五月雨 梯や水にもおちず五月雨 正岡子規 五月雨 椎の舎の主病みたり五月雨 正岡子規 五月雨 椽側に棒ふる人や五月雨 正岡子規 五月雨 榧一本という御堂と榧の大樹がさみだれ 荻原井泉水 橋杭のいとゞ短し五月雨 正岡子規 五月雨 橋杭のいよゝ短し五月雨 正岡子規 五月雨 毛蟲焼きゐしがさみだれ夫となる 三橋鷹女 水くゞる鳰見えずなりぬ五月雨 河東碧梧桐 水中やさみだるゝ嶋の薄紅葉 渡邊水巴 白日 水底の雲もみちのくの空のさみだれ 種田山頭火 草木塔 水泡立ちて鴛鴦の古江のさみだるゝ 村上鬼城 水瓶に蛙うくなり五月雨 正岡子規 五月雨 泥川の海にそゝぐや五月あめ 正岡子規 五月雨 洋傘の柄をつたふさみだれ腕をつたふ 大野林火 早桃 太白集 海苔粗朶の腐しもやらずさみだるる 阿波野青畝 清水のともし火高し五月雨 正岡子規 五月雨 渓橋に傘して佇つや五月雨 飯田蛇笏 椿花集 温泉烟の田にも見ゆるや五月雨 河東碧梧桐 湖の魚糶るをさみだれ傘に見る 大野林火 方円集 昭和五十年 湯の窓のたかけれや山さみだるる 大野林火 海門 昭和十年 溝川に枝覆ひかゝる五月雨 正岡子規 五月雨 潮騒やさみだれ晴るゝ天心居 及川貞 榧の實 濛々と老の坂路のさみだるる 相生垣瓜人 負暄 濡れそぼつさみだれ傘をひろげ出づ 中村汀女 濡れそぼつ松の幽さよ五月雨 日野草城 牛若の鞍馬上るや五月雨 正岡子規 五月雨 牛追ふて行く藪陰や五月雨 正岡子規 五月雨 牧晴れて五月雨蝶の名を負はず 上田五千石『琥珀』補遺 玉簾の瀧の五月雨来て見たり 松本たかし 生垣にさす灯ばかりや五月雨 渡邊水巴 白日 田植見る二階の窓や五月雨 正岡子規 五月雨 男またさみだれ傘をかしげさし 中村汀女 留守の人の机上の花や五月雨 村山故郷 病みてよりはだへのあつし五月雨 村山故郷 病人に鯛の見舞や五月雨 正岡子規 五月雨 病人の枕ならべて五月雨 正岡子規 五月雨 目さませば今日も朝からさみたるゝ 正岡子規 五月雨 目さむれば今日も朝からさみたるゝ 正岡子規 五月雨 碁の音に壁の落ちけり五月雨 正岡子規 五月雨 碁丁々荒壁落つる五月雨 正岡子規 五月雨 社参せぬ身に降りまされ五月雨 渡邊水巴 白日 私とはなれて私の首がさみだれているは 荻原井泉水 窓掛のがらすに赤し五月雨 正岡子規 五月雨 竹を前机定まりさみだるる 大野林火 月魄集 昭和五十四年 筆につく墨のねばりや五月雨 正岡子規 五月雨 翁童や犀もろともにさみだるる 岡井省二 鯨と犀 老僧に五月雨の客相ついで 高野素十 老若の見境も無く五月雨るる 相生垣瓜人 負暄 胃袋と腹綿となくさみだるる 相生垣瓜人 負暄 船車さみだれぬやうに行きたまへ 正岡子規 五月雨 苑の橋あはれ水漬きてさみだるる 山口青邨 苫の上に苔の生ひけり五月雨 正岡子規 五月雨 草鞋はいて傘買ふ旅の五月雨 正岡子規 五月雨 荘や今十宜のうちの五月雨 富安風生 蓮池の浮葉水こす五月雨 正岡子規 五月雨 蓮生の髯ものびけり五月雨 正岡子規 五月雨 蝸牛の喧嘩見に出ん五月雨 正岡子規 五月雨 蝸牛の角のぶ頃や五月雨 正岡子規 五月雨 行雲や五十三亭さみだるゝ 内藤鳴雪 街道に馬糞も見えず五月雨 正岡子規 五月雨 裏も見通し放哉の墓さみだるる 松崎鉄之介 見えぬ富士天を蔽ひてさみだるる 野澤節子 八朶集 言ひのこす詞のはしぞ五月雨るゝ 正岡子規 五月雨 訪ねよる静かなる戸も五月雨れて 村山故郷 貝作業さみだれ傘をかしげ見つ 阿波野青畝 赤き薔薇白き薔薇皆さみだるゝ 正岡子規 五月雨 退屈や糸の小口もさみだるゝ 正岡子規 五月雨 透視室すぐ出でたれどさみだるる 阿波野青畝 道ふさぐ竹のたわみや五月雨 正岡子規 五月雨 野の道の沙を洗ふ五月雨 山口誓子 野の道を傘往来す五月雨 正岡子規 五月雨 金魚屋にわがさみだれの傘雫 中村汀女 鋪道なるさみだれの空の中に立つ 篠原梵 年々去来の花 皿 限りなき海のけしきや五月雨 正岡子規 五月雨 雪院に黒き虫這ふ五月雨 正岡子規 五月雨 雲か山か不二かあらぬか五月雨 正岡子規 五月雨 雲こめて帰る鵜遠しさみだるゝ 渡邊水巴 白日 雷の声五月雨これに力得て 正岡子規 五月雨 青首徳利挿す花のなく五月雨るる 石川桂郎 四温 面白や牛のうたひも五月雨 正岡子規 五月雨 風吹て晴れんとす也五月雨 正岡子規 五月雨 馬で行け和田塩尻の五月雨 正岡子規 五月雨 駅頭のデジタルにじみさみだるる 阿波野青畝 鷺飛で牛居る沢や五月雨 正岡子規 五月雨 鼻もしずくする自分のブロンズさみだれ 荻原井泉水 |
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●五月雨 3 | |
さみだれがやめば屋ね掘る鴉哉 井上士朗
さみだれて我宿ながらなつかしき 夏目成美 さみだれとみえけり草の葉末より 完来 さみだれにいざ帰らふや旅芝ゐ 支考 さみだれにやがて吉野を出ぬべし 其角 さみだれに南天の花のうるみける 井上士朗 さみだれに小鮒をにぎる子共哉 野坡 さみだれに星も瀬ぶみや天の河 露川 さみだれに流れありくやかゞ見草 露川 さみだれに猶ぬれ色ぞたふとけれ 芙雀 さみだれに角もつぶれず矢倉跡 桜井梅室 さみだれに顔ぬらしたり桜の実 吏全 さみだれに鴬なくや何のひま 夏目成美 さみだれのまたをとつ日に似たりけり 夏目成美 さみだれのみだれもくはし熊野道 千那 さみだれの三日三夜降たりけり 露川 さみだれの中に三度のけぶり哉 夏目成美 さみだれの名も心せよ節句哉 其角 さみだれの夜は音もせで明にけり 高井几董 さみだれの尻をくゝるや稲びかり 去来 さみだれの果ぬ匂ひや茗荷竹 桜井梅室 さみだれの水鶏鴬尾長鳥 松窓乙二 さみだれの漏て出て行庵かな 炭太祇 さみだれの猿と見られん旅姿 露川 さみだれの石に鑿する日数哉 黒柳召波 さみだれの空や月日のぬれ鼠 高井几董 さみだれの終歟海のくらくなる 完来 さみだれの美濃へおもむく男かな 浪化 さみだれはつらし若衆の馬合羽 旦藁 さみだれは喰ふてはこするたとへ哉 夏目成美 さみだれも伽になるほど老にけり 桜井梅室 さみだれも後の五月の小文哉 支考 さみだれも湊になりぬうつぼ草 鈴木道彦 さみだれやかい日の暮の牛の鞍 昌房 さみだれやさみせん聞ば月夜らし 寥松 さみだれやだまつて通る子規 露川 さみだれやつき上窓の時あかり 曽良 さみだれやとなりへかける丸木橋 素龍 炭俵 さみだれやとなりへ懸る丸木橋 素龍 さみだれやぬれ塩あぶる草の庵 許六 さみだれやふしぎに烟る山の家 成田蒼虬 さみだれやまだ朔日の大井河 許六 さみだれやわすれて居りし淡路島 成田蒼虬 さみだれや三線かぢるすまひ取 露印 さみだれや兎網干す家に弥陀 鈴木道彦 さみだれや匂ひ袋のひたしもの 支考 さみだれや君がこゝろのかくれ笠 其角 さみだれや吾かつしかは蕗の蔭 成美 成美家集 さみだれや夕食くふて立出る 荷兮 さみだれや夜の心のをもしろき 早野巴人 さみだれや夜半に貝吹まさり水 炭太祇 さみだれや夜明見はづす旅の宿 炭太祇 さみだれや夢かとおもふ宇津の山 馬場存義 さみだれや大河を前に家二軒 与謝蕪村 さみだれや妹と月見は久しぶり 東皐 さみだれや岸の山吹ふりしづめ 加藤曉台 さみだれや川を隔し友心 望月宋屋 さみだれや布へるやうに子規 野紅 さみだれや常来る人を思ひ出す 望月宋屋 さみだれや座敷立切客所帯 寂芝 さみだれや座頭の袴水をうつ 三宅嘯山 さみだれや庵のうしろは旅籠町 鈴木道彦 さみだれや是にも外を通る人 其角 さみだれや枯なん松に普門品 加舎白雄 さみだれや棹にふすぶる十団子 左柳 さみだれや植田の中のかいつぶり 泥足 さみだれや橙半黄なる時 支考 さみだれや死なぬ木曽路の丸木橋 早野巴人 さみだれや湯の樋外山に煙けり 其角 さみだれや焙炉にかける繭の臭 〔ブン〕村 さみだれや築地の内に霧の海 三宅嘯山 さみだれや美豆の小家の寝覚がち 与謝蕪村 さみだれや耳に忘れし鳶の声 三宅嘯山 さみだれや蓋して淋し荷ひ売 野坡 さみだれや蚯蚓の徹す鍋のそこ 服部嵐雪 さみだれや蜘出て見ても〜 三宅嘯山 さみだれや賀茂の社のみほつくし 三宅嘯山 さみだれや足弱連の物もらひ 三宅嘯山 さみだれや金魚飽るゝ煤の漏 鈴木道彦 さみだれや雲雀啼ほど晴て又 支考 さみだれや風つれて来て戸を扣ク 吾仲 さみだれや鯲作りか潦 挙白 |
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五月雨せんかた尽て馴にけり 田川鳳朗
五月雨て黄鳥啼きぬ加賀やしき 長翠 五月雨となりて音なき日数かな 玉宇 新類題発句集 五月雨に*ほくたる状や嶋問屋 木導 五月雨にかたよる声や不断鶴 怒風 五月雨にかゝるや木曽の半駄賃 許六 五月雨にさながら渡る仁王かな 上島鬼貫 五月雨にしづむや紀伊の八庄司 去来 五月雨につらき詠や大井川 魯九 五月雨にながめ出したる屑屋哉 蘆本 五月雨ににごらぬ梅の疎影哉 支考 五月雨にぬれつくゞつゝ猫の恋 諷竹 五月雨にぬれてやあかき花柘榴 野坡 五月雨にもてあつかふははしご哉 里東 五月雨に一ト口わりなし虎が雨 蓼太 発句題叢 五月雨に何と思ふて飛蛍 十丈 五月雨に名月ありとしらなんだ 支考 五月雨に家ふり捨てなめくじり 凡兆 五月雨に心おもたし百合の花 破笠 五月雨に我は簑着て粽哉 中川乙由 五月雨に水の手切し小寺かな 鈴木道彦 五月雨に焼てへげたる石の面 杉風 五月雨に硯の水も濁りけり 木導 五月雨に筌ながるゝ瀬田の下 泥足 五月雨に胡桃かたまる山路かな 園女 五月雨に船で恋するすゞめかな 助然 五月雨に蛙のおよぐ戸口哉 杉風 五月雨に袖おもしろき小夜着哉 支考 五月雨に足こそ野辺の道しるべ 舎羅 五月雨に金はしめらぬ手わざかな 上島鬼貫 五月雨に針の印や三輪の杉 りん女 五月雨に関の岩角鳴わたれり 千那 五月雨に隣も遠く成にけり 如行 五月雨のあすは檜もたのみかな 夏目成美 五月雨のいせに鐘なき夕かな 井上士朗 五月雨のけしきを聞や一夜庵 野紅 五月雨のしめり暮てや置火燵 千川 五月雨のはなれ座敷や屋形船 越人 五月雨のよそに蕗のはながら蓮の池 杉風 五月雨の仕舞は竹に夕日哉 支考 五月雨の卒都婆何かは間の山 百里 五月雨の名をけがしたる日照哉 正秀 五月雨の夕日や見せて出雲崎 支考 五月雨の恋やもれなんあこや貝 りん女 五月雨の日数に切るゝ堤哉 亀洞 五月雨の晴間は麦のはしか哉 尚白 五月雨の晴間を不二の雪見かな 馬場存義 五月雨の汐屋にちかき焼火かな 支考 五月雨の爰ぞ噺の無尽蔵 露川 五月雨の猶も降べき小雨かな 高井几董 五月雨の空をくゞりて月夜哉 風国 五月雨の端居古き平家ヲうなりけり 嵐雪 五月雨の簑にはあらで猿衣 中川乙由 五月雨の色やよど川大和川 桃隣 五月雨の芒むら〜夜の明る 松窓乙二 五月雨の覚悟もなしや芦火焚 成田蒼虬 五月雨の道も見えけり杉の色 素行 五月雨の長き泪や誰が実 露川 五月雨の降埋めてやせとの汐 成田蒼虬 五月雨の雲かと立るいその松 野坡 五月雨の雲に針さす所なし 北枝 五月雨の雲も休むか法の声 其角 五元集 五月雨の音を聞わくひとり哉 加舎白雄 五月雨はただ降るものと覚けり 上島鬼貫 五月雨は下へながれて川もなし 知足 五月雨は傘に音なきを雨間哉 亀洞 五月雨は烏のなかぬ夜明哉 介我 五月雨まけた守敏が執ならん 鈴木道彦 五月雨も月漏りかはれ板庇 寥松 五月雨やうき世揃はぬ大布子 百里 五月雨やきのふ見廻はでけふははや 北枝 五月雨やけぶりは出ず家の内 白雪 五月雨やさ川でくさる初茄子 其角 五月雨やつぶれてのきし岩のかど りん女 五月雨やながう預る紙づゝみ 杉風 五月雨やひとりはなるゝ弓の弦 加藤曉台 五月雨やひと夜嵐のかへし雲 加舎白雄 五月雨やひろふた鯉も鵜の觜目 洒堂 五月雨やふり草臥し空のいろ 木導 五月雨やまくら借たる桑の奥 建部巣兆 五月雨やまたも人とる田むら川 露川 五月雨やみだれみだるゝ藪の中 寂芝 五月雨やむかし井筒の有し跡 馬場存義 五月雨や一声売し物の本 兀峰 五月雨や一日の髪の儘で居ル 浪化 五月雨や三日見つめし黒茶碗 夏目成美 五月雨や上へ様領の渡し守 許六 五月雨や両国橋の股へつく 可圭 梨園 五月雨や乾くものには塩烟 吐月 発句類聚 五月雨や二階の曲も滝おとし 中川乙由 五月雨や使者馬の尾をなげ嶋田 白雲 太郎河 五月雨や傘に付たる小人形 其角 五月雨や又一しきり猫の恋 白雪 五月雨や合羽の下の雨いきり 北枝 五月雨や君が心のかくれ笠 其角 五月雨や品はかはらぬ浦の舟 路健 五月雨や土人形のむかひ店 野坡 五月雨や夕日しばらく雲のやれ 魯九 五月雨や夜かと思へば炊ぐ音 望月宋屋 五月雨や奇特に竹の朝雀 桜井梅室 五月雨や奥は手を打客模様 助然 五月雨や富士の煙の其後ハ 其角 五月雨や富士の高根のもえて居る 椎本才麿 五月雨や山もかくれてなごの海 蝶羽 五月雨や川うちわたす蓑の裾 炭太祇 五月雨や折〜出る竹の蝶 三浦樗良 五月雨や挑灯消しの顔の皺 野坡 五月雨や日の有ものをねぶの花 寂芝 五月雨や昼の鶏聞もしほ草 釣壺 五月雨や昼寐の夢にうつの山 黒柳召波 五月雨や昼寝の夢と老にける 望月宋屋 五月雨や晴て並木の馬の沓 程已 五月雨や晴て茶の木の二番摘み 句空 五月雨や月は通さぬ不破の関 越人 五月雨や木魚も登る滝の音 中川乙由 五月雨や本船町のあらひ桶 素丸 素丸発句集 五月雨や枕もひくき礒の宿 成田蒼虬 五月雨や梅の葉寒き風の色 椎本才麿 五月雨や浮言物語かりにやる 木節 五月雨や淀の小橋は水行灯 西鶴 五月雨や滄海を衡く濁水 与謝蕪村 五月雨や火燵の明て茶のにほひ 寂芝 五月雨や煮売におつるさくら鯛 完来 五月雨や猫かりに来る舩の者 卓池 五月雨や田舟の中に啼く蛙 馬場存義 五月雨や真菰見てのみくらす家 鈴木道彦 五月雨や真野の長者の菅を刈 建部巣兆 五月雨や硯箱なる蕃椒 嵐雪 五月雨や竜頭揚る番太郎 桃青 江戸新道 五月雨や色紙はげたる古屏風 園女 五月雨や芝居屋ぐらの麾二本 嵐青 五月雨や苔むす庵のかうの物 凡兆 五月雨や草鞋の緒迄笑縄 濁子 五月雨や葉守の神もおはす庭 松窓乙二 五月雨や蚓の潜ル鍋の底 嵐雪 五月雨や西もひがしも本願寺 夏目成美 五月雨や親の建たる家の内 三宅嘯山 五月雨や請合ツてやる京足駄 之悦 江戸名物鹿子 五月雨や踵よごれぬ磯伝ひ 沾圃 五月雨や躰身はらふ青葛 野坡 五月雨や軒より落るあやめ草 井上士朗 五月雨や雲雀鳴ほど晴て又 支考 五月雨や露の葉にもる*やまごぼう 嵐蘭 五月雨や顔も枕もものゝ本 岱水 五月雨や馬でつけ出す馬の沓 木導 五月雨や馬屋はあれど茶の匂ひ 路健 五月雨や鮓の重しもなめくじり 上島鬼貫 五月雨や鼻ひる音も麦の中 沙明 五月雨を何とかしまの御斎 鈴木道彦 五月雨を甲出す日にわかれけり 水颯 五月雨を跡に置つつ有馬菅 上島鬼貫 五月雨槎キ流れん天の川 三宅嘯山 |
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あせくさき簑の雫や五月雨 木導
あやめ真菰夏さだまりて五月雨るゝ 長翠 いざ古茶の名残惜まん五月雨 露川 いとゞ袖ぬるゝ日もあり五月雨 桜井梅室 いろ〜にとふふも烹たり五月雨 長翠 うしの子の鍋を飛越ス五月雨や 琴風 うたゝねのかほのゆがみや五月雨 釣壺 うちあげるぬれたる桑や五月雨 木導 くさ斗あふひほこへし五月雨 土芳 けふともに幾日降ぞや五月雨 芙雀 この比は小粒になりぬ五月雨 尚白 さく〜と篶苅音もさみだれぞ 寥松 さしまぜて屋根のふるびや五月雨 卓袋 せめてもの鳥きく夜あり五月雨 望月宋屋 つゆの身をもてあつかふや五月雨 夏目成美 つれ〜に水風呂たくや五月雨 炭太祇 つゞくりもはてなし坂や五月雨 去来 にくまれて川越人や五月雨 りん女 ねる事はたれにもまけじ五月雨 舎羅 はゝ木々や人馬へだつる五月雨 其角 ひた〜と着物身につく五月雨 高桑闌更 ひとりかつ鷺の白さよ五月雨 井上士朗 ひね麦の味なき空や五月雨 木節 ふっと出て関より帰ル五月雨 曽良 ぼん〜と荷をうつ音や五月雨 牧童 もたれあひてみなもろかづらさみだるゝ 加舎白雄 ゆり若も起てしかるや五月雨 露川 わづかなる青雲ゆかし五月雨 怒風 わや〜と人足宿や五月雨 木導 をし鳥のきたなく成ぬ五月雨 尚白 一夜さに植田澄すや五月雨 露川 一日は物あたらしき五月雨 炭太祇 一隅も昼の空なし五月雨 田川鳳朗 三味線や寝衣にくるむ五月雨 其角 三味線や芳野の山を五月雨 曲翠 世の無常けふぞ覚えて五月雨 十丈 乗合の舟のいきれや五月雨 木導 人いづこ竹のさみだれ竹の月 支考 俤のひたとゝぎるゝ五月雨 梢風尼 傘も化るは古し五月雨 荻人 八専のうちぞともいふ五月雨 加舎白雄 其枝やその名ばかりに五月雨 荻人 別かなし身は五月雨の菰一ッ 三浦樗良 君しばしさみだれの中の夕立ぞ 加舎白雄 呑みし乳をかへすぞ目より五月雨 田中常矩 味噌水もさみだれくさくなりにけり 夏目成美 咄しさへうちしめりけり五月雨 木導 唐崎の松は見えけり五月雨 桜井梅室 四月より土用前まで五月雨 許六 塩鮭のあぶらたるなり五月雨 加藤曉台 声白し石町の鐘五月雨 濯資 富士石 夜は猶おもひゆられて五月雨 松岡青蘿 夜までの意味は誰しる五月雨 凉菟 大名も膝に娘や五月雨 露川 天の浮橋水辺に成べし五月雨 牧童 女房のみのり覗や五月雨 鼠弾 好里に来て五月雨に降れけり 魯九 富土に目はやらでも寒し五月雨 池西言水 寝る事を覚えてみばや五月雨 一笑(金沢) 居所のほこりはらふや五月雨 玄梅 山ありて舟橋ありて五月雨 浪化 山寺や鼠めし曳五月雨 杜国 山鳥のおろ〜なきや五月雨 嵐雪 川音の入組にけり五月雨 卯七 戸羽川や夕立ならば五月雨 蘆文 折〜や雷に寝なをる五月雨 乙訓 挑灯の底ぬかしけり五月雨 田川鳳朗 搗臼の尻の重さや五月雨 許六 旅びとや曽我の里とふ五月雨 炭太祇 日をまてや幾日五月雨鈍り節 其角 昼寐する畳あたらし五月雨 旦藁 枇杷の葉は市に濡れけり五月雨 沾徳 其便 梦(ゆめ)にみるものゝ暗みや五月雨 五明 椽側の片搗麦や五月雨 東皐 模様せぬ酒のしこりや五月雨 玄梅 毛氈を達磨に着ルや五月雨 白雪 気のくさる空や〜の五月雨 傘下 水に浮豆腐や曇る五月雨 杉風 水汲に傘侘し五月雨 土芳 水海を見ばや田植の五月雨 路健 沼田への七里や楢にさみだるゝ 鈴木道彦 洗ひ屋の藍の濁りや五月雨 許六 海を鏡さみだれ山も雪の時 吾仲 海山に五月雨そふや一くらみ 凡兆 湖の水まさりけり五月雨 向井去来 湖へ不二を戻すか五月雨 田川鳳朗 濁江の影ふり埋め五月雨 露印 灰ふきや下水つかへて五月雨 山夕 板東太郎 無病さや物うちくふて五月雨 史邦 無縁寺の土も沈むや五月雨 朱廸 焼刃焼く天気も見えず五月雨 許六 燕もかはく色なし五月雨 其角 牛ながす村のさはぎや五月雨 諷竹 物あぶる染どのふかし五月雨 炭太祇 畳売て出られよ旅へ五月雨 洒堂 皃につく*蚊帳のしめりや五月雨 黒柳召波 皃ぬぐふ田子のもすそや五月雨 其角 相娵の中に立名や五月雨 路青 短夜のうらみもどすや五月雨 千代尼 砂漉の水のわるさや五月雨 許六 空も地もひとつになりぬ五月雨 杉風 立のぼる霧の日数や五月雨 卯七 笹の葉に風もをさまり五月雨 露川 筆結ひの心もほそる五月雨 北枝 縫物や着もせでよごす五月雨 羽紅女 蔵の戸をあはせて淋し五月雨 桜井梅室 虹立や寐た内すぎし五月雨 助然 蛙子もおよぐ手出来て五月雨 中川乙由 蝶に羽のあるも不思義や五月雨 桜井梅室 行方なき蟻のすさびや五月雨 加藤曉台 行燈で来る夜送ル夜五月雨 嵐雪 見たい顔橋も落たり五月雨 りん女 観音の頬杖はなを五月雨 露川 質にやる月さへ持ぬさみだれや 寥松 道端を真虫のをよぐ五月雨 車庸 里の子の五月雨髪や田植笠 許六 鉦の緒の握りごゝろや五月雨 許六 隅に巣を鷺こそねらへ五月雨 其角 雪の日にいづれ山家の五月雨 桜井梅室 雪解も果なし利根の五月雨 桜井梅室 青のりの色も替や五月雨 許六 青海苔の色もかはるや五月雨 許六 頭をさげて馬も歩むや五月雨 荊口 飼鳥の目にもつ露や五月雨 三宅嘯山 髪剃や一夜に金精て五月雨 凡兆 鬼門射る弓もゆがみぬ五月雨 兀峰 鳥の子の卵出しより五月雨 加藤曉台 麦めしに寐起も安し五月雨 吾仲 龍宮でつく鐘の音歟五月雨 松窓乙二 |
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