ブルース

年寄りの楽しみ
演歌 艶歌 怨歌 歌謡ブルース

仕事がら 出入りした記憶
銀座 赤坂 六本木 ・ すすきの ・ 青葉 国分 ・ 栄 ・ 南 北新地 ・ 中洲 ・ 新宿

仕事・遊びのついで 立ち寄った記憶
函館 ・ 釜石 ・ 三崎 焼津 ・ 高松 ・ 長崎

やはり 懐かしい 昔を思い出す 
私の港町は ヨコハマ 横浜 ・・・ 中華街
盛り場は 銀座クラブ ・ 薫さん ・・・ 新宿スタンドバー ・保坂さん
 


 
 
 
 
 
 
●港町ブルース
背のびして見る海峡を 今日も汽笛が遠ざかる 
あなたにあげた 夜をかえして 港、港 函館 通り雨  
 
 
 
 
 
 
   流す涙で割る酒は だました男の味がする 
   ・・・ 港、宮古 釜石 気仙沼  
 
 
 
 
 
 
   出船 入船 別れ船 あなた乗せない帰り船 
   ・・・ 港、三崎 焼津に 御前崎 
 
 
 
 
 
 
   別れりゃ三月 待ちわびる 女心のやるせなさ 
   ・・・ 港、高知 高松 八幡浜  
 
 
 
 
 
   呼んでとどかぬ人の名を こぼれた酒と指で書く
   ・・・ 港、別府 長崎 枕崎  
 
 
 
 
 
 
   女心の残り火は 燃えて身をやく桜島 
   ここは鹿児島 旅路の果てか 港、港町ブルースよ 
 
 
 
 
 
 
●函館ブルース
泣けるものなら 声あげて 泣いてみたいの 思いきり
漁火よりも 小さなあかり 消された哀しみ 誰が知ろ
ああ つきぬ未練の函館! 函館ブルース ・・・
霧が重たい こんな夜は 鐘も泣いてる トラピスト
運命と言えば なおさらつらい 悲しみ多い 恋でした
ああ つきぬ恨みの函館! 函館ブルース  
 
 
 
 
 
 
●気仙沼ブルース
白い鴎を連れながら 今日は出船か十一時
七つの海に生命を賭ける 海の男が暮らす港町
好きよどこより この港町が あなた手を振る 恋待ち港
帆待ち 帆待ち 風待ち 風待ち 気仙沼ブルース
   二度の炎に焼かれても 不死鳥のように蘇える
   時代の姿がそこかしこ 不思議な形で残る港町
   船を誘う 西風憎し 涙で佇(たたず)む 恋待ち橋よ
   ・・・
夜の静寂に抱かれて 優しく点(とも)る入江の灯よ
森は海の恋人と 里の歌人詠んだまち
好きよリアスの 綺麗な港町が 肩寄せ歩く 恋待ち坂よ
・・・
気仙沼ブルース
 
 
 
 
 
 
●御前崎ブルース
金目のつまみに 飲む酒も
愚痴を並べて 酔い潰れ
女将呆れて つまみ出す
ああ〜〜 明日の行くへを 照らしてる
御前崎灯台よ〜
   駿河湾より 吹く風は
   心優しい 磯の香り
   遠州灘へと 想い寄せ
   ああ〜〜 砂に埋もれた 思い出の
   浜岡大砂丘よ〜 ・・・ 
 
 
 
 
 
 
●別府ブルース
今夜はわたしの あなたでも
明日のあなたは 誰のもの
湯けむりよりも 頼りない
恋に身をやく 別府の夜
港の灯りも 泣いている
   まっ赤な血の池 地獄より
   わたしは恐いの お別れが
   湯もやにぬれて いつまでも
   離れたくない 別府の夜
   夜風の南の 花がちる ・・・ 
 
 
 
 
 
 
●長崎ブルース
逢えば別れが こんなにつらい 逢わなきゃ夜がやるせない
どうすりゃいいのさ 思案橋 丸山せつない恋灯り
ああ せつない長崎ブルースよ ・・・
石のたたみを 歩いたときも 二つの肩がはなれない
ザボンのかおりの うす月夜 死んでも忘れぬ恋すがた
ああ 忘れぬ長崎ブルースよ 
 
 
 
 
 
 
●鹿児島ブルース
風の噂を 新幹線(さくら)にのせて
思い巡らせ この街へ
小雨そぼふる 中央駅に
かすむ想いで 遠い夢
男ごころに 侘しくしみる
も一度逢いたい 鹿児島ブルース
   愛の名残を やさしく灯す
   夜の城山 遠灯り
   あの日ふたりで 歩いた道も
   霧の向こうに 見えかくれ
   夢が切ない 心が寒い
   夜風が身にしむ 鹿児島ブルース ・・・ 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
●横浜ブルース
霧笛せつなく 泣き出しそうな 夜霧が漂う 港の酒場
愛はかなしい かなしいものね あなただけに かけていたのに
わたしひとりに させないで ああ 横浜 横浜ブルース ・・・
恋の命は 煙草のけむり 港をはなれる 外国航路
せめて今宵は 一緒にいてね 琥珀色の グラスかたむけ
飲んで明かして ほしいのよ ああ 横浜 横浜ブルース  
 
 
 
 
 
 
●横浜ブルース
港の雨は 夜の涙か ここまでたずねて来た 俺を泣かせる
横浜 さみしい秋がただよう お前の噂の 糸をたぐれば
きっと逢えると 信じているから 愛は今もここにあるよ 横浜ブルース
   港に続く 道の向こうは 馬車道あたりなのか 何故かひかれる
   横浜 この街雨に打たれて 歩いたお前の 気持ち思えば
   抱いてやりたい 思いの限りに ・・・
・・・ 胸が初めて 悲しみふるえた 愛は今もここにあるよ 横浜ブルース 
 
 
 
 
 
 
●よこはまブルース
鎌倉街道 南へ走る 港よこはま 通り雨
あなたの生まれた この街が いつかわたしの故郷になる
ついて来いと言ってくれるまで わたし泣かない
いつも心にふる よこはま 別れ雨ブルース
   山手の境界 ウェディングベル 港ゆうやけ ワシン坂
   あなたと歩いた この街に いつかわたしの唄が流れる
   声をかぎり叫んでみても あなた見えない ・・・
・・・ いつも女ひとり よこはま 別れ雨ブルース 
 
 
 
 
 
 
●YOKOHAMA blues
YOKOHAMA blues 潮の風に乗って
君の香水の香りがした気がして 振り返る君のいないこの街
   君と離れてどれくらいだろう  いつも会うのは横浜だった
   あれから僕も少し変わって 大変だけどなんとかやれてる
あの頃話した夢も叶って 幸せなのかと思ったけれど
やっぱりそうはいかなかったみたい 僕は今、立ち止まってる
   名が売れていいこともあったけど悲しいこともあった
   受け入れてるし、仕方ないことだから
   今更何か言うこともないけど
   ただちょっと疲れただけだと思うんだ ・・・ 
 
 
 
 
 
 
●ヨコハマブルース
港の風が 涙の胸に しみるよ切なく やるせなく
バイバイ バイバイ 走り行く船を 鴎なぜ呼ぶ
あゝ泣きながら ・・・
なんにも言わずに 波間に流す 涙の花びら 胸の花
バイバイ バイバイ 泣くなよ鴎 どうせはかない
あゝ恋ならば  
  
 
 
 
 
 
●ヨコハマブルース
肩に小雨が しみるこんな夜(よ)は ひとり伊勢佐木 思い出たどる
好きと言って 抱きしめた あんた信じて 夢見てた
なんで なんで なんでどうして あんた あんた あんた あんた恋しい 
ヨコハマブルース ・・・
濡れた舗道に 映るネオンには ひとり馬車道 面影にじむ
外国船(ふね)の灯りが 消えるよに こんな別れが 来るなんて
なんで なんで なんでどうして あんた あんた あんた あんた恋しい 
ヨコハマブルース 
 
 
 
 
 
 
●錦糸町ブルース
夜の下町 恋の町 女泣かせの 灯がゆれる
男心の 薄なさけ ああ・・・ 泣いて別れた 隅田川
   好きにならなきゃ いいものと 涙かみしめ 決めたのに
   今夜も今夜も 痛む胸 ああ・・・ 一人淋しい 帰り道 ・・・
風が身に泌む(にじむ) 錦糸町 濡れたまつげに 泣きぼくろ
こんな女に 誰がした ああ・・・ 花の咲かない ひかげ花
 
 
 
 
 
 
●深川ブルース
粋な男の 面影が 浮かんで消えてく 隅田川
渡りきれない 渡れない 江戸の名残の 永代橋で
木遣り一筋 心に響く ここは仲町 恋の町 涙町
   揃い浴衣で 牡丹町 両手を合わせる 不動さま ・・・
   スカイツリーに 寂しさ揺れる ここは富岡 出逢い町 別れ町
寒い心に 灯をともす 檜の香りの ママの店
忘れられない 忘れたい 酔えば切ない 洲崎の灯り
胸の痛みに ぬくもり沁みる ここは深川 恋の町 情け町
 
 
 
 
 
 
●門前仲町ブルース
夜の門仲 なみだ雨 弱い女の 恋なんて
見てはいけない 夢なのね あれからどこに 行ったやら
ゆれる暖簾に ふりむけば 風のいたずら 風のいたずら 門仲ブルース ・・・
どうせ私(あたし)を 捨てるなら なぜにぬくもり 置いて行く
泣けて来るほど 惚れたのは ささいな事に 目をつむり
許す男の 恰好よさ そっと溜息 そっと溜息 門仲ブルース
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
●盛り場ブルース
咲いて流れて 散って行く 今じゃ私も 涙の花よ
どこにこぼした まことの涙 さがしたいのよ 銀座 赤坂 六本木 
 
 
 
 
   お酒飲むのも なれました ・・・
   小雪はらって 今夜もひとり 酔ってみたいの洞爺 すすきの 定山渓  
 
 
 
 
   酔ってもえてる この腕に ・・・
   想い出させる 七夕の夜 恋の細道 青葉 国分 一番町
 
 
 
 
   泣けぬ私の 身がわりに ・・・
   夜のお城の つれない風に 髪も乱れる 栄 今池 広小路
 
 
 
 
   通り雨には すがれない ・・・
   すがるこいさん 涙にぬれて 帰るあてなく 南 曾根崎 北新地  
 
 
 
 
   路地のひかげの 小石でも ・・・
   願いをかけた チャペルの鐘が 今日もせつない 薬研 八丁 本通り  
 
 
 
 
   グラス片手に 酔いしれて ・・・
   ぐちも言います 人形だって 誰がなかせる 中洲 天神 柳町 
 
 
 
 
   流れたくない 流れたい 愛したくない 愛していたい
   何を信じて 生きてく女 春はいつくる 渋谷 新宿 池袋  
 
 
 
  
●東京ブルース 1
雨が降る降る アパートの 窓の娘よ なに想う
ああ 銀座は暮れゆく ネオンが濡れるよ
パラソル貸しましょ 三味線堀を 青い上衣(うわぎ)でいそぐ君
   ラッシュ・アワーの 黄昏を 君といそいそ エレベーター ・・・
   二人で夢見る 楽しい航路(ふなじ) 仰ぐ南極 十字星
だれも知らない 浅草の 可愛い小(ちい)ちゃな 喫茶店 ・・・
私を待ち待ち 紅茶の香り 絽刺(ろざし)する夜を 鐘が鳴る
   昔恋しい 武蔵野の 月はいずこぞ 映画街 ・・・
   更けゆく新宿 小田急の窓で 君が別れに 投げる花 
●東京ブルース 2
酒場横丁を 横目で抜けりゃ 花のネオンも 嘲笑(わら)ってる
酔うてよろめく 寂しい肩に 霧が沁みこむ 銀座裏 
ああ東京 東京ブルース ・・・  
泣きに帰ろか 浅草(ロック)の隅は あぶれ仲間の 吹き溜り
消えちゃいないよ 男の夢は 熱い血潮の 底にある 
ああ東京 東京ブルース 
●東京ブルース 3
泣いた女が バカなのか だました男が 悪いのか
褪せたルージュの 唇噛んで 夜霧の街で むせび哭く 
恋のみれんの 東京ブルース ・・・
月に吠えよか 淋しさを どこへも捨て場の ない身には
暗い灯(ほ)かげを さまよいながら 女が鳴らす口笛は 
恋の終りの 東京ブルース 
 
 
 
 
 
 
 
●銀座ブルース
たそがれゆく銀座 いとしい街よ 恋の灯つく銀座 夢買う街よ
あの娘の笑顔が 可愛い ちょっと飲んで いこうかな
ほんとにあなたって いい方ね でもただそれだけね
たそがれゆく銀座 いとしい街よ 恋の灯つく銀座 夢買う街よ ・・・
あの娘の気持ちは どうだろう ちょっと聞いて みようかな
目と目で交したお話しが ピンと来るのよ
今宵ふけゆく銀座 たのしい街よ ふたり消えゆく銀座 夜霧の街よ 
 
 
 
 
●赤坂ブルース
田町通りにたたずめば 夜風が寒い 思い出すのはあなたとの 楽しい日々ね
別れがこんなに 苦しいものと 知らないはずでは なかったけれど
雨 雨 なみだ雨 わたしが泣いてます ・・・
みすじ通りの宵灯り ネオンもにじむ ワイングラスに面影が 浮かんで消える
わがまま云わなきゃ よかったものを 悔やんでみたって 帰らぬ恋よ
雨 雨 なみだ雨 わたしが泣いてます   
 
 
 
 
●すすきのブルース
あなたを愛したあの夜から 私は淋しい女になりました
忘れはしない霧降る街で 初めてふれた男の心 
ああ… すすきのの夜が切ない ・・・
この夜の運命を恨んでも 私はあなたを憎んでいやしない
逢えなくなって今更知った 諦められぬ心のつらさ 
ああ… すすきのの夜が切ない 
   
 
 
 
●仙台ブルース
俺のあしたを 気遣いながら 冷たい雨に 消えた女
お前の指の か細さを 思えば胸が また痛むのさ
今日もしぐれる 名掛丁 ああ 仙台 仙台ブルースよ
   同じ訛りの 身の上ばなし 温め合った 宵の酒
   ひとりは慣れて いるからと 強がり言った あの泣きぼくろ
   街に灯が点く 一番町 ああ 仙台 仙台ブルースよ ・・・
 
 
 
 
●青葉ブルース
一番町に明かりが灯る 背中ばかりが夕暮れをゆく
杜の都で立ち尽くしてる 砂漠の出口探してる
   ・・・ 風に盗まれた 恋も終わるわ
ゆるしてなんて言わない 一人あおばブルース 
 
 
 
 
●名古屋ブルース
遊びなれてる 人なのに 燃えたお酒に ついまけて
今夜だけよと 許したわたし 花が散ります
花が散ります 栄町
   夜が来るたび 泣かされて ほどく女の 名古屋帯
   一度だけなら 忘れもしようが 忘れられない
   忘れられない 柳橋 ・・・
今日は逢えても このつぎは あてにならない あなたなら
せめて二人で いるときだけは あまえさせてね
あまえさせてね 広小路 
 
 
 
 
●広小路ブルース
あなたに甘えて 飲んだ酒 別れがつらいと 泣いた酒
東新町の ネオンの花に すがる私は 夜の蝶
あゝ涙がうたう 広小路ブルースよ
   黙って二人で 飲んだ酒 心のどこかに 残る酒
   栄二丁目で 捨てった恋に すがる私は 夜の蝶 ・・・
好きでも嫌いと 云わす酒 どうにもならなく させる酒
熱い情に 流されながら 愛を感じて しまったの ・・・ 
 
 
 
 
●大阪ブルース
あんな男と 言いながら あんな男が 忘られぬ
ネオンのにじむ窓 夜ふけて雨がふる
あなた寒いわ 抱きしめて あーあああ 夢に泣く 大阪ブルース ・・・
肩にしぐれが 似合うよな よわい女に 誰がした
も一度あたためて あなたのその胸に
ふたり生きたい この街で あーあああ 春はいつ 大阪ブルース   
 
 
 
 
●曽根崎ブルース
浪速の空を 見上げていたら お前の顔が 眼に浮かぶ
涙溢れた うつろな瞳 何も言わずに すすり泣き
俺の旅立ち 見守るだけ 曽根崎 曽根崎 曽根崎ブルース ・・・
別れた時の お店を訪ね 探してみたが どことなく
街を離れて 何處へ行ったか 彷徨うお前 眼に映つる
俺にその顔 見せておくれ 曽根崎 曽根崎 曽根崎ブルース  
 
 
 
 
●広島ブルース
お酒もタバコも やめました 化粧も薄めに かえました
広島おんなは 素直じゃけん あなたの色に すぐ染まる
薬研堀から流川 恋の噂の 恋の噂の 浮き沈み
   恋人同士で いつまでも つづいてくれたら 嬉しいの
   広島おんなは けな気じゃけん あなたに負担 かけないわ ・・・
途中はいろいろ あったけど 最後が決まれば それでいい
広島おんなは 一途じゃけん あなたのあとに ついてゆく
中新地から薬研堀 恋の波間の 恋の波間の 夢まくら 
 
 
 
 
●博多ブルース
泣いてた泪のかれた 私にも 流す泪が 残っていたのか――
酒場の隅で 東京の 言葉を聞けば 死ぬほど逢いたい
ああ 博多の夜も 泣いている ・・・
つらい悲しい嘘を ついたのも 恋にすがって 生きたいばかりに――
酒場の窓に 咽び泣く 東京行きの 夜汽車のあの汽笛
ああ 博多の夜も 泣いている 
 
 
 
 
●中洲ブルース
女ひとりで生きてきた ネオン灯りの酒場街
花で過ごした年月は ふり返る間もないままに
あゝお酒飲んで酔って あゝ飲まれないように
酔ったふりしてみても 芯から酔えない 中州女は強かとよ
   雨が降る日も風の日も 通いなれてる裏通り
   女を忘れちゃいないけど 本気で惚れた傷あとが ・・・
 
 
 
 
●柳町ブルース
影も形もない 面影もなんにもない 柳町 柳町ブルース
夢も希望もない 秋風と野良犬の 柳町 柳町ブルース
あの娘を追いかけていった 夕暮の帰り道
恰好つけて言えなかった さよならを言いたかった
   あの娘は消えてしまった 放課後の帰り道
   あの日のまま そのまま さよならが宙に舞ってる
・・・ 柳町 柳町ブルース 柳町ストリート フォーエバー 
 
 
 
 
●渋谷ブルース
夜が明けたセンター街で 遊び疲れて駅へと向かう
路肩の生ゴミが少し破れて 夢の残り物 カラスたちが狙う
   悪いことをしてたんじゃない 親に言えない秘密が欲しい
   「メールか電話くらいできるでしょ?」
   そう叱られたって どこで何してたか 言わない ・・・
渋谷 渋谷 渋谷だけが いつも私の話を聞いてくれるから
今日も 今日も 今日もここで なぜだか泣けて来るんだ
   交差点の人の流れと 逆に歩いて孤独に気づく
   スカートのプリーツがしわしわで バレてる朝帰り 
   でも反省なんかしてない
 
 
 
 
 
●新宿ブルース
恋に切なく 降る雨も ひとりぽっちにゃ つれないの
夜の新宿 こぼれ花 涙かんでも 泣きはせぬ
   あんな男と 思っても 忘れることが 出来ないの
   惚れてみたって 夜の花 ・・・
西を向いても 駄目だから 東を向いて みただけよ
どうせ儚い なみだ花 ・・・
   こんな私に うまいこと 云って泣かせる 憎いひと
   追ってみたって はぐれ花 ・・・
生きて行くのは 私だけ 死んで行くのも 私だけ
夜の新宿 ながれ花 いつか一度を 待ちましょう 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
●別れのブルース
窓を開ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風のせて 今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ 踊るブルースの 切なさよ
   腕にいかりの 入れずみほって やくざに強い マドロスの
   お国言葉は 違っていても ・・・
●雨のブルース
雨よ降れ降れ 悩みを流すまで 
どうせ涙に濡れつつ 夜毎嘆く身は
ああ帰り来ぬ 心の青空 すすり泣く 夜の雨よ
   暗い運命(さだめ)に うらぶれはてし身は
   夜の夜道を とぼとぼ ひとり さまよえど
   ・・・ 降りしきる 夜の雨よ 
●想い出のブルース
誰が捨てたバラやら 濡れた舗道に踏まれて
更けゆく今宵の狭霧のつめたさ なんとなく好きなあの歌よ
思い出のブルースよ 忘られぬあの日よ
   君と別れ とぼとぼ 霧の舗道を歩めば
   見知らぬ他国の旅ゆく心よ ・・・
なぜか今宵しきりに 過ぎたあの日の旅路が
心に浮かびて懐かしの思い出よ ・・・  
●東京ブルース
雨が降る降る アパートの 窓の娘よ なに想う
ああ 銀座は暮れゆく ネオンが濡れるよ
パラソル貸しましょ 三味線堀を 青い上衣(うわぎ)でいそぐ君
   ラッシュ・アワーの 黄昏を 君といそいそ エレベーター
   ・・・ 二人で夢見る 楽しい航路(ふなじ) 仰ぐ南極 十字星
だれも知らない 浅草の 可愛い小(ちい)ちゃな 喫茶店
・・・ 私を待ち待ち 紅茶の香り 絽刺(ろざし)する夜を 鐘が鳴る
   昔恋しい 武蔵野の 月はいずこぞ 映画街
   ・・・ 更けゆく新宿 小田急の窓で 君が別れに 投げる花 
●満州ブルース
楡の並木の 夕月に 泣いたとて 泣いたとて
花は花ゆえ 風に散る 若い涙を 胡弓に寄せて
今宵歌おうよ 満州ブルース
   そよぐ高粱 野の涯に 呼んだとて 呼んだとて
   夢は夢ゆえ 帰りゃせぬ 胸の嘆きを せつない夜を ・・・ 
嬉しなつかし ハルピンの 赤い灯よ 青い灯よ
あすは別れて 旅の鳥 今度逢う日を 希望にかけて ・・・ 
●君忘れじのブルース
雨降れば 雨に泣き 風吹けば 風に泣き
そっと夜更けの 窓をあけて 歌う女の 心は一つ
ああ せつなくも せつなくも 君を忘れじの ブルースよ
   面影を 抱きしめて 狂おしのいく夜ごと
   どうせ帰らぬ 人と知れど 女ごころは 命も夢も
   ああ とこしえに ・・・  
●忘れられないブルース
雨にうるんだ 夜の灯が 恋を失くした 身にしみる
消えた あのささやき 消えた 頬の火照りを
やさしい あの眼差し 忘れられなくて あなたが恋しくて
ああ 夜毎の涙
   雨を含んだ 夜の嵐が 恋に破れた 身をせめる
   沈むこの心よ 胸にうずく あなたの残した この傷跡
   ・・・ ああ 私は一人 
●灰色のリズム&ブルース
あなたと別れ 旅立つあたし 望みも夢も 今は消えうせ
生きてることも めんどくさくて どかの海で 死にたいあたし
ムー 心でくちずさむ 灰色のブルース
   淋しい女 淋しい男 広い世界の 小さな恋さ
   愛するなんて まぼろしなのに おぼれたあたし 自分が馬鹿なの
   ムー 心でくちずさむ 灰色のブルース
あたしが死ねば 誰かが笑い どうにもならぬ 世の中だけど ・・・ 
●星降る港のブルース 
星降る港の あの波止場で さよならも 言わずに別れたが
ああ この胸に この腕に あの人の囁きは そっと残っているよ
   愛しているのよ 忘れられぬ 呼んだとて 返るは波ばかり
   ああ この涙 渇くまで ・・・ 
星降る港の あの波止場で 泣いていた 一人で泣いていた
ああ あの人と別れたら ・・・  
 
 
 
2022/6/1 
やはり いつの間にか 演歌の歌詞情報HP 激減
文字情報は 時勢ではなくなったのでしょう
まして 演歌の歌詞情報など 見るのは高齢者
YouTube の時代か 画像情報はてんこ盛り
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


2022/6
 
 
 
歌謡ブルース
●歌謡曲としてのブルース考
8月12日は「ブルースの女王」と呼ばれた淡谷のり子(1907 - 1999年)が生まれた日だそうだ。「別れのブルース」が大ヒットしたのは日中戦争が勃発した1937年。その後、戦中・戦後を通じて、日本人を癒してきた「ブルース」。日本人は「ブルース」が好きである。何にでもブルースをくっつけて歌にしてしまう。人から自然現象からご当地名まで手当たり次第である。「男のブルース」、「女の・・」、「あなたの・・」、「雨の・・」、「別れの・・」、「夜霧の・・」、「大阪・・」、「中之島・・」、「港町・・」、「赤と黒の・・」、「一番星・・」、「黒い傷痕の・・」、「昭和・・」、「しのび泣きの・・」、「恍惚の・・」、「一人ぼっちの・・」・・、ああ、きりがない。さてそれでは、何をもって「ブルース」というのかというと、歌謡曲の世界では、その定義を聞いたことが無いので、これがさっぱり分からないのである。
洋楽における「ブルース」の定義というのは、はっきりしている。ブルース(Blues)は、米国深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽のひとつ、またはその楽式のことである。その特徴は、A・A・Bの形式をとるワンコーラス12小節形式 (ブルース形式)で綴られる詩が多いということ。そして、二つ目は循環コードの一種である定型のコード進行(ブルース・コード)をとることが多いということ。三つ目には、旋律に独特の節回しがあり、一般にブルー・ノートと呼ばれる独特の音階が使われる。つまり、日本の歌謡曲のスタイルとして「ブルース」と、ここで言う洋楽の「ブルース」とはまったく関係がないのである。
しからば、どうして歌謡曲に「ブルース」と呼ばれるスタイル?ジャンル?ができたのであろうか。まったくの私見で根拠は無いのであるが、私はこんな風に考えている。正式な名称かどうか分からないが、社交ダンスのステップに4/4拍子の「ブルース」というのがある。娯楽の乏しかった日本で社交ダンスの普及とともに、その踊りの雰囲気を最大限盛り上げるための曲として、スロー・テンポで、チークダンスや感情移入がしやすい短調(マイナー)の曲、歌謡曲が好まれていった。これが日本の歌謡曲の「ブルース」の発祥となって、その「ブルース」という言葉が持つモダンで哀調の語感が歌謡曲のウェットな世界にぴったりなため、強く結びついていったのではないかという勝手な持論を持っている。強いて定義してみれば、短調(マイナー)のスロー目の曲で、これが一番重要であるが、「・・・のブルース」というタイトルがついていることという極めて大雑把なところであろうか。まあ〜、目くじらを立てて議論するほどのことはないのであるが・・・。 
先ほどあげた日本の「・・・ブルース」がついた歌をみると、「ブルース」というよりは、「エレジー(哀歌)」といったほうがいいのではないかと思う。私は、歌うほうはJAZZと違って、日本のエレジーいえる曲が好きで、「この歌は私のエレジー」と勝手に定義してカラオケなどで歌っていた。その条件は、「マイナー(短調)」、「ドロドロ、ベタベタな歌詞」、「抑えた感情、やがて迎える山場、絶唱」、「私がカラオケでうたえること」であった。これが「私の哀歌、おやじのエレジー」の条件で、それに当てはまる次のような歌をあげれば、なんとなく気分が伝わるでしょうか・・・。
「あんたのバラード、悲しい色やね、月のあかり、酒と泪と男と女、あなたのブルース、粋な別れ、大阪で生まれた女、石狩挽歌、想い出ぼろぼろ、ルビーの指輪、別れのサンバ ・・・・」。これもきりがないのですが・・・。
これを見ると、私はまさに、どんぴしゃ正統派の「オヤジ」ですね。  
●歌謡曲とブルース
歌謡曲という言葉は今では殆ど使われていない。かつてそういう歌のジャンルがあった程度の認識しかない懐かしの音楽で60年代から80年代にかけて日本の音楽産業の栄華を支えてきたのが歌謡曲だと思っている。時代は平成から新しい年号に変わっていく中、歌謡曲=昭和歌謡と認識する人も少なくはない。
「音楽は好きでも嫌いでもない」とこのブログで何度も述べてきたが実は歌謡曲もそれほど愛着があるわけではない。テレビが好きで子供時代はテレビっ子でありそこで放映されていたのが歌謡曲であり自然と体に染みついたというのが正直なところである、子供時代から青春時代はそれほど良かったとは思っていないが歌謡曲を聴くとその時代を思い出す、楽しい事もあったがつらい事や悲しい事の方がどうしても思い出として残っている。60年代から70年代の歌謡曲は歌詞もそうだが曲想も悲しみ、悲哀を帯びたものが多かった、それは当時の日本人は何事にも我慢する、その為には「諦め」が必要でありその諦めの行き場のなさが何とも言えない哀愁や怒りのようなものに変わり、そのはけ口のひとつとして歌謡曲が代弁していたのではないかと思える。
昔の歌謡曲は作詞家と作曲家そして歌い手と分業しており中でも歌手より詞と曲に重きを置いていた、歌手の個性は歌声であるがそれ以上に歌詞や曲の影響が大きかったように感ずる。それが70年代終り頃からシンガーソングライターとして一人の人が曲と詩を作りさらに歌ってしまうスタイルを確立し現在はそのスタイルは当たり前のようになってきた。そして歌謡曲からニューミュージックとなりJ-POPSと変わり現在はどういう名称、ジャンルに変貌したのだろうか?それとも冒頭に書いたように使われていないのでその流れは断ち切れたのか?最近の歌は殆ど聴いていないので分からない…。
ジャズはブルースと同義語として捉えられるが黒人音楽として成り立っていたものがヨーロッパ音楽との接触によりどんどん白人化していった、パーカーやコルトレーンもヨーロッパ音楽寄りにひたすら傾いていき、そこには本来のブルースの姿は無くなりかけていた、無くなりかけてはいたが完全に無くなっていたわけではない、その流れを止めたのが60年頃から始まるフリージャズである。これまでのヨーロッパの規範とは全く異なる黒人音楽本来の姿がそこに見受けられる、ブルースがジャズの要素として重要である事を再認識するきっかけになったのもフリージャズのおかげであると思っている。
ブルースの根源は貧しく物がない中、更には自由がない立場にあった黒人が唯一心の叫びまでは自由を奪われなかったという事である。日本の戦後の音楽、歌謡曲も含めこのブルースがつくものが多い、物資がなく制約が多い中、我慢をする事が美徳としてきたその心の叫びを歌で表現するブルースはその時代に合っていたからだと思う。
作詞家も作曲家も戦前、戦中、戦後間もない頃の不自由な時代の人が多かった、諦めによる悲哀と怒りが行き場のない状況のまま爆発したのが昭和の歌謡曲で70年代終り頃までのものがブルース感覚を帯びている。80年代からは物が増え自己中心的な世の中になってきた、それに伴い歌謡曲も歌や歌詞は快楽を求めるだけのものになってしまった…同じブルースを歌うにしても時代が違うとこうも違うのかと落胆することが多い。
オーディオで歌謡曲を聴く人は少ない、クラッシック、ジャズが大半を占めている。昭和歌謡にあるブルースを表現するには高級なオーディオ装置で心地よさが伴う、いわゆるバランスが取れた音は自分的にはあり得ない、時代を経験してきた人、貧しさと死を身近に感じた人でないと本当の歌謡曲再生は難しいと思う。ただし例外はある、歌謡曲と思わないで時代のBGMとして捉えるならば思い出は蘇りその時代の風景の写真として感じられると思っている、現に自分自身の思い出の風景として楽しんでおり音楽としてはみていないのである、ゆえにその再生は自由であり制約はない、80年を過ぎた作品であるのでブルースは感じられない。学生時代彼女が16歳の頃のポスターを下宿先のボロアパートの部屋に貼っていた…冬場こたつはあったが暖房聴器具がなかったので時々ガスコンロで暖をとっていた、銭湯に行く金も惜しんでいたぐらいの時期だった。一応アイドルの立場だが生き方はかなりロックがかっておりファンキーな人である。 
●日本人のブルース
日本の歌謡界のブルースがどうしてブルースなのか、ずっと謎であった。ブルースを辞書で引くと「奴隷制下のアメリカ黒人の間に、宗教歌・労働歌などを母体に生まれた歌曲。のちダンス音楽やジャズなどにも取り入れられた」(大辞泉)と全く歌心のない記述である。大辞林では「四分の四拍子の哀愁を帯びた歌曲。のちジャズに取り入れられてジャズの音楽的基盤ともなった」とあり、少しは音楽的特徴を述べている。広辞苑もほぼ同様の記述だが、ちなみに正式にはBLUESはブルーズと発音するので、広辞苑にはブルーズとも表記されている。ポイントは四分の四拍子と哀調を帯びた楽曲ということで、その他独特の節回しでブルーノートと呼ばれる音階(いわば「訛り」)を使って即興的に演奏される。12小節ワンコーラスというのが基本形である。
さて、日本人のブルースである。世相が戦争へと向かう1937年(昭和13年)、服部良一が作曲した“別れのブルース”を淡谷のり子が歌い、その後続けて“雨のブルース”や“東京ブルース”などのヒット曲を飛ばし、淡谷のり子は「ブルースの女王」と呼ばれるようになった。ブルースという言葉自体よく知られていない時代に、地方巡業に行くと「ズロースの女王」と看板に書かれていたこともあったそうだ。淡谷のり子自身は、自分の歌が本物のブルースではないことをよく知っていて、本物のブルースとは例えば“セントルイス・ブルース”のような曲だと断言していた。演歌嫌いで、「エフリコキ」(恰好を気にする人、イイカッコシイ)だった彼女は、自分の出世作とはいえその演歌的世界が好きではなかったようだ。
多くの日本人にとってブルースとは「哀しい雰囲気をもつムード曲」を意味している。歌謡曲や演歌などでタイトルにブルースとついた曲はほとんど音楽的にはブルースとは無縁の代物である。ブルーノートはなくて、代わりにもの悲しい歌詞と大抵はサックスのソロが多用されるアレンジが施されているという共通点があるようだ。
写真は、後年、淡谷のり子から「ブルースの女王」の名を承継した感のある青江三奈の真面目に?いい出来のジャズアルバム『The Shadow Of Love』(1993)である。彼女は高校在学中から「銀巴里」のステージに立っていたそうだからキャリア、実力は半端ではない。彼女の声は、ハスキーでジャズ向き、ブルース向きと言えるかも知れない。カタカナ英語?もそんなに気にならない。このアルバムはジャズのスタンダード曲を中心に歌っているが、“Bourbon Street Blues”というタイトルで彼女のヒット曲“伊勢崎町ブルース”を取り上げている。これはとても黒っぽくて、とてもファンクしている。例の原詞の「デュ・デュビ・デュビ・デュビ・デュビ・デュビ・デュワー…」というスキャット部分をうまく英語詩の間に挟んで盛り上げている。このほか“本牧ブルース”も歌っているが、参加ミュージシャンが超豪華なのにまた驚いてしまう。ナット・コールの実弟のフレディー・コール、グローヴァー・ワシントン・ジュニア、エディ・ヘンダーソン、テッド・ナッシュ、マル・ウォルドロン、ジョージ・ムラツ、ビリー・ハートほかと錚々たる布陣である。いったいどうしたことだろうか?
こんなに日本人度が高い歌手なのに、ブルース・スピリットを感じてしまうのが不思議である。 
●歌謡ブルース  
「ブルース(Blues)」というものが、黒人音楽のジャンルを意味する言葉だとは知らなかった時代が、自分にあった。 歌謡曲のタイトルにつく、なんかの記号。例えば、「フォルテシモ(ごく強く)」とか、「アレグロ(陽気に)」とか「アダージョ(ゆるやかに)」みたいなものだと無邪気に思い込んでいた。そんな時代に聴いていたブルースには、次のようなものがある。
   西田佐知子 『東京ブルース』
   美川憲一  『柳ヶ瀬ブルース』
   藤圭子   『女のブルース』
つまりブルースとは、「この楽章を歌い込むときは、フラれた気持ちで … 」 … ってな感じで、作家が演奏家に指示を出すときの言葉であって、それがいつしか歌謡曲用語に転化したものだと思ったのだ。
恋人とか、愛人とかにフラれた歌だから、メロディは哀しい。去っていた人を、遠いところでしのぶわけだから、歌い方は、ちょっと物憂い。ブランデーグラスを置いたカウンターに座り、お客が来るまでの時間をつぶしているドレス姿のママさんが、頬杖をついてつぶやく鼻歌。それが自分の原初の「ブルース」像だった。
だから、高石ともやの『受験生ブルース』(1968年)を聞いたとき、ギャグだと思った。全然、 “酒場っぽくねぇ” と感じ、しかも “夜っぽく” もねぇし、これは、作者が確信犯的に「ブルース」の用法をわざと間違えた例だと解釈した。
しかし、そのうち岡林信康が『山谷ブルース』を歌うわ、ジャガーズが『マドモアゼル・ブルース』 を歌うわ、ゴールデン・カップスが『本牧ブルース』を歌うわで、訳がわからなくなった。
ところで、本来の「ブルース」とは、どんなものであるのか? あえて、詳しくは説明しないけど、一言でいうと、「一定の音楽形式を持ったアメリカ黒人音楽の一種で、ロックンロール、R&B 、ジャズなどの母体となった音楽スタイル」とでもいっておけばいいのだろうか。B・B キング、アルバート・キング、オーティス・ラッシュなどのメジャープレイヤーは、世界的な人気を誇っているし、日本人でも大木トオル、ウエストロード・ブルース・バンド、憂歌団といった黒人ブルースを根幹において活躍するミュージシャンがいっぱいいる。
ロックの分野では、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、エリック・クラプトンなども、初期の頃はこぞってブルースの演奏スタイルを採り入れていた。そういった意味で、世界のポピュラーミュージックの原点には、「ブルース」があるともいえる。
しかし、日本の歌謡ブルースは、黒人ブルースとはリズムもテンポも違う。歌われる歌詞の内容も違う。日本の歌謡ブルースは「ロマン的」「詠嘆的」「未練たらたら的」だが、黒人ブルース…特にシカゴなどのアーバンブルースは、「現実的」「能動的」「脅迫的」である。「俺の可愛いベイビーちゃん、ベッドでたっぷり楽しませてくれれば、いつかはキャデラックを買ってやるからよ」ってな歌詞を、ンチャチャ ンチャチャ … と いうギターの小気味いいカッティングに乗せて軽快に歌っていく。
黒人ブルースというと、「人種差別で虐げられた黒人たちの嘆き節」という解釈が浸透しているけれど、もちろんそういう歌も多いけれど、けっこうヤケクソ的に明るい歌も目立つ。男が、ちょっとマッチョに自分の性的魅力を誇示するなんて歌も多いのだ。
そうなると、同じ “ブルース” でも、ブルース・リーとか、ブルース・ウィルスの世界に近くなる。
いつの時代でも、開き直ったビンボー人は明るい。黒人ブルースには、差別社会や格差社会の底辺を生き抜く人間たちの苦渋がベースにはあるけれど、「そんなことで、くよくよしてもしょうがねぇじゃねぇか」という開き直りのたくましさと優しさも備わっている。
そういうことが分かってきて本場モノのブルースを聞き出すと、もうあっさり、そっち一辺倒になったけど、ふと『港町ブルース』(森進一)って何だろう? と思い始めると、これもなかなか興味深いテーマに思えてくる。
「ブルース」という名前で、日本人の頭の中に刷り込まれた歌謡曲は、実にたくさんある。
   美川憲一 『柳ヶ瀬ブルース』(1966年)
   青江三奈 『恍惚のブルース』(1966年)
   青江三奈 『伊勢崎町ブルース』(1968年)
   森進一  『港町ブルース』(1969年)
   平和勝次とダークホース 『宗右衛門町ブルース』(1972年)
   クールファイブ 『中の島ブルース』(1973年)
これらの曲は「ブルース」という言葉で飾られてはいるけれど、黒人ブルースの楽曲スタイルや歌詞の指向性とはまったく交わらない。日本人独特の感性と情緒感に彩られた、純度100%のドメスティック歌謡曲だ。
では、なんでそういう純和風の歌謡曲に、「ブルース」と名づけられる歌が登場するようになったのか。これに関して、自分はまったく素人なので、突っ込んだところまでは何も分からないが、Wiki どを読むと、「日本の歌謡曲のスタイルとして『ブルース』と呼ばれるものもあるが、それは『憂鬱=Blue な気持ちを歌った曲』という意味合いが強いため、音楽形式としてのブルースとは関係ない」という説明がなされている。
これだけでは、まだよく分からない。詳しそうな解説がなされているいくつかのサイトを覗いてみると、多くの人が挙げているのが、淡谷のり子(1907年〜1992年)。
彼女はもともとはシャンソン歌手で、クラシック音楽の素養もあり、「10年に一度のソプラノ」などと評された実力派シンガーだった。彼女に「ブルース」を歌わせたのは、服部良一という稀代の作曲家。服部の念頭にあったのは、アメリカの『セントルイス・ブルース』だったという。
その曲をヒントに、「ブルースの小節の数や長さをきちんと勘定して」作られたのが、『本牧ブルース』(後のゴールデンカップスの曲とは別物)だった。ところが、これを淡谷のり子に歌わせようとしたところ、ソプラノの音域で歌っていた淡谷のり子には難しく、アルトの音域にまで下げるため、彼女はそれまで吸ったことがなかったタバコを一晩中吸い、声を荒らしたままレコーディングに臨んだとか。
この『本牧ブルース』が、タイトルを変えて『別れのブルース』(1936年=昭和12年)になり、大ヒットする。淡谷のり子は、その後『雨のブルース』(1938年)、『思い出のブルース』(1938年)、『嘆きのブルース』(1948年)など、立て続けのヒットを飛ばし、「ブルースの女王」という異名をとる。これが、いろいろなサイトから集めた情報による「歌謡ブルース」の誕生である。
もちろん、淡谷のり子以前にも「ブルース」を名乗る歌謡曲がけっこうあったらしいが、日本人の脳裏に「ブルース」という呼び名がしっかり刻み込まれたのは淡谷のり子から、というのが定説のようだ。
ただ、これらの曲を聞くと、やはり黒人ブルースの影響を受けたという感じはしない。それよりも、社交ダンスの「ブルース」がヒントになっているのではないか、という人もいる。社交ダンスの世界には「ブルース」というステップがあり、それは「フォックストロット」のテンポを遅くしたものだという。(ブルースもフォックストロットも、社交ダンスを知らないので、どんなものかよく分からない)。
『別れのブルース』を吹き込むとき、淡谷のり子は、ディレクターから「ブルースらしく歌わないでフォックストロットみたいに歌うように」と指示されていたという記述をどこかで読んだことがあるから、「歌謡ブルース」が、ダンス経由のブルースだったという説は正しいのかもしれない。ダンスにおける「ブルース」は、チークを踊るためのステップだったから、スローテンポで、情感たっぷりのマイナーコードの曲が演奏されることが多かったという。たぶん、ここらあたりで、その後の「歌謡ブルース」の方向性が定まったようだ。
1960年代に入ると、いよいよその「歌謡ブルース」が全面開花する。この時代、個人的に好きだったのは西田佐知子。彼女は、『メリケン・ブルース』(1964年)、『博多ブルース』(1964年)、『一対一のブルース』(1969年)など、「ブルース」を語尾に持つ曲をけっこう歌っているが、最大のヒット曲は『東京ブルース』(1963年)だった。
この曲にみるようなビブラートを押さえたクールな歌い方は、なかなかお洒落で、ちょっとしたアンニュイも漂っていて、歌謡ブルースが “都会の歌” であることを印象づけるには十分だった。
その後、「新ブルースの女王」となったのは、青江三奈。なにしろデビュー曲が『恍惚のブルース』(1966年)「あとはおぼろ、あとはおぼろ …」と、恋におぼれた女性の官能の極致を描いた歌だった。
彼女の歌で有名なのは、『伊勢崎町ブルース』(1968年)。青江三奈は、これでその年の日本レコード大賞歌唱賞を獲得する。その後も、彼女の歌謡ブルースは快進撃を続けた。
   『札幌ブルース』(1968年)
   『長崎ブルース』(1968年)
   『昭和女ブルース』(1970年)
   『盛岡ブルース』(1979年)
最後は、清水アキラとのデュエットで、『ラーメンブルース』(1991年)なる歌までうたっている。(残念ながら聞いたことがない)
歌謡ブルースが、歌謡曲シーンの中で決定的な存在感を持ったのは、美川憲一の『柳ヶ瀬ブルース』(1966年)だったかもしれない。120万枚を記録する大ヒットだった。
「雨、夜、ひとりで泣く女、酒場のネオン」歌謡ブルースの定番となるシチュエーションは、すべてここに出尽くしている。
美川憲一はその1年前に、『新潟ブルース』を発表している。この頃から、歌謡ブルースは『伊勢崎町ブルース』(青江三奈)、『宗右衛門町ブルース』(平和勝次とダークホース)などのヒット曲に恵まれ、ご当地ソングの代名詞のようになっていく。
   鳥羽一郎 『稚内ブルース』
   ロス・プリモス 『旭川ブルース』
   小野由紀子 『函館ブルース』
   森雄二とサザンクロス 『前橋ブルース』
   扇ひろ子 『新宿ブルース』
   北島三郎 『湯元ブルース』
   ロス・プリモス 『城ヶ崎ブルース』
   小松おさむとダークフェローズ 『庄内ブルース』 ……
まだまだ地元の観光業とタイアップしたようなローカルブルースがいっぱいあると思うが、以上挙げた曲は、しっかりレコード化・CD化されているようだ。
演歌歌手の森進一をいちやくスターダムに伸し上げたのも、ブルースだった。『港町ブルース』(1969年)。演歌ではあるが、クールファイブにも共通するような、奇妙な “洋楽性” があって、非常にしゃれた、あか抜けしたメロディーラインを持つ曲だった。
森進一は、その後もブルースをタイトルにつけた歌をいくつか歌っている。
   『波止場女のブルース』(1970年)
   『流れのブルース』(1971年)
内山田洋とクールファイブといえば、 『中の島ブルース』(1975年)が有名。これは、秋庭豊とアローナイツが自主制作した同名曲(1973年)と競作になったが、前川清のなじみやすい 唱法がウケて、クールファイブ版の方がヒットした。
なんといっても、歌謡ブルース最大のヒットは、平和勝次とダークホースが歌った『宗右衛門町ブルース』(1972年)ではなかろうか。200万枚という大ヒットを記録し、いまでも中高年が巣くうカラオケスナックでは、必ずこれを歌いたがるオヤジがいる。(私もそのひとり)
マイナー(短調)を条件とした歌謡ブルースが、メジャー(長調)の曲調でもぴったり合うことを実証したのが、この曲だった。
覚えやすいメロディ。たわいない歌詞。歌う人間に解放感をもたらすノーテンキ性。
まさに鼻歌として楽しむ歌謡曲の極北に位置する歌ではないか! 事実、「日本フロオケ大賞」(風呂場で歌う鼻歌の1位)を受賞した曲らしい。
フォーク系から出た歌謡ブルースのヒット曲としては、岡林信康の『山谷ブルース』(1968年) がある。楽曲形式は黒人ブルースとはほど遠いが、初期のデルタブルースのような素朴さと切実感があり、労働者目線に徹したところが歌謡ブルースとは一線を画したリアリティを獲得していた。
グループサウンズ(GS)も、歌謡ブルースに乗り遅れまいと、いろいろトライしたようだ。ジャガーズの『マドモアゼル・ブルース』(1968年)。ゴールデンカップスの『本牧ブルース』(1969年)などがその代表曲。
カップスといえば、横浜・本牧で黒人兵たちも唸らせた実力派バンドだったから、ブルースのなんたるかも当然分かっていただろうが、この曲は、完全に日本マーケットを意識した作りになっている。デイブ平尾が、もう少しこぶしを利かせれば、演歌の方にも近づいたかもしれない。
最後に、あまり有名ではないかもしれないけれど、個人的に好きなブルースを挙げれば、次の二つ。
   荒木一郎 『君に捧げるほろ苦いブルース』(1975年)
   高山厳  『握りこぶしのブルース』(1993年)
荒木一郎の歌には、「都会の片隅に住む人間の喪失感」のようなものがあって、夜明けの酒場のカウンターで、半分眠りながら聞いたりしていると、けっこうジーンと来るものがある。特に、『君に捧げるほろ苦いブルース』は、女が去っていった後の部屋で、コーヒー豆をひきながら聞いたりしていると、ジワジワっと心がうずく。詩人が作った歌だなと思う。
高山厳の『握りこぶしのブルース』を知っている人は少ないだろう。しかし、大ヒット曲の『心凍らせて』のカップリング曲だから、CDを買った人は、この曲も聞いているかもしれない。
もうほんと、元祖 “負け犬”の歌。うだつの上がらない独身サラリーマンの日常生活が克明に描かれていて、身につまされるときがある。
このように、探してみたら日本の歌謡曲には、『〇〇ブルース』という歌が、けっこう多いことに驚く。しかし、その大半は1960年代の中頃から後期に集中し、70年代になると下火になり、75年以降はほとんど消え去っている。
何が起こったのか。
歌謡ブルースが消えていった時代は、「ニューミュージック」の台頭期と重なる。たぶん日本人の多くが、この頃から、黒人ブルースでもないのに「ブルース」を名乗る歌謡曲に、ちょっと違和感を感じ始めたのではないかと思う。タイトルに「ブルース」をつけることによって “都会性” やら “おしゃれ感” を盛り込もうとした曲作りが、荒井由実(松任谷由実)のような本格的な都会志向を持つ歌の前で、急激に古びたものなってしまったのだ。
「ニューミュージック」ムーブメントは、日本の都市や郊外が、あっという間に乾いた抽象的な空間になっていった時代に呼応している。そのような新しい都市空間では、新しい美意識を求める人たちが育ち、変貌を遂げていく現代都市を埋める新しい音楽が求められるようになっていた。どこの都市も、おしゃれで清潔な意匠に装われるようになり、いかがわしい面白さを秘めた「裏町」とか「場末」といわれるような空間がどんどん消えていった。
そういう変貌の時代に、歌謡ブルースは、もうそのタイトルだけで、古くて泥臭い音楽のレッテルを貼られることになり、商業的な音楽シーンから脱落していかざるを得なかった。
そういった意味で、歌謡ブルースは、「昭和の頂点」を示す音楽だったのかもしれない。昭和の高度成長が終わり、昭和の停滞が見えてきたときに、歌謡ブルースは眠りについた。   
●天使はブルースを歌う 
ブルースの街のもうひとつの戦後史、横浜アウトサイド・ストーリー 1996年の暮れ、著者は横浜の繁華街にある雑居ビルで、全身白一色の老女を見る。彼女は「メリーさん」と呼ばれる老街娼で、横浜では伝説的な存在の女性だった。戦後、どこからともなく横浜に現れ、外人専門に身を売っていた。そのような女性はほかにもたくさんいた。でもそうした女性達はどこへ消えたのだろう。彼女達が生んだかもしれない混血児たちは? メリーさんに心惹かれた著者は、1960年代の末、全員混血というキャッチフレーズで売り出した人気GS「ゴールデン・カップス」のメンバー達と会う。そこから根岸外国人墓地という未知の場所へと、不思議な糸に導かれた著者は、墓地にまつわる奇妙な噂を追うことに…。
戦後横浜の鬼っ子(エイリアン)を通して、ブルースの街の光と影を描くノンフィクション。

山崎洋子 1947年、京都府宮津市生まれ。コピーライター、児童読物作家、脚本家などを経て第32回江戸川乱歩賞を『花園の迷宮』で受賞し、作家デビュー。横浜を描く作家として名高い。現在は、小説だけでなく、ノンフィクション、戯曲なども手がける。2010年、NHK主催の地域放送文化賞を受賞。  
天使 1
この本を手にした理由は、ゴールデン・カップスについて詳しく書いてあるからだった。だが、これは、ゴールデン・カップスのバイオグラフー本というわけではない。彼らと横浜で伝説化していた白塗りの街娼、横浜のメリーを二本の柱に戦後の横浜の裏面を追いかけた本なのだ。
結婚してから横浜に住むようになって横浜をテーマにした著作も多い筆者に、平岡正明が「書くものにブルースが足りない」と評して、ある日エディ藩を紹介してくれた。この時点で筆者は、かつてのGS時代のゴールデンカップスの活躍をどうにか覚えている程度にすぎなかった。この日からエディ藩のライブやCDを聴きはじめ筆者の横浜のブルースへの旅は、はじまるのだ。
その著者が、音楽以外に、ブルースを感じていたものが、戦後の混乱時代を生き残った亡霊のような白塗りの異色の街娼「ハマのメリー」だった。この二つが本書でつながるのは、エディ藩に、「根岸の外人墓地」に埋葬されてといわれる遺棄された、たくさんの混血の嬰児達の慰霊碑を建設するためチャリティで作るCDの曲の作詞をたのまれたからだ。
数多くのメリーさんたちが産んだであろう幻の子供たち…エディ自身は、これらの嬰児と直接関係あるわけではない。しかし彼も筆者も、この世を見ることなく消されていった嬰児たちとほぼ同年代にあたるだけに他人事ではないという思いがあった。そして筆者は、ゴールデン・カップスのメンバーと共有しているのは、この同じ世代という一点からなんとか彼らを自分のほうへたぐりよせようとしている。こうして一見無関係な二つの出来事は、戦後のヨコハマをテーマにからみあってゆく。
かつてゴールデンカップスが全員ハーフや日系人だといって売り出されたのもこういう横浜の時代背景の産物に他ならない。タイガースは、京都出身、テンプターズは、埼玉出身だが、ゴールデンカップスほど出身地と切り離せないイメージをもったGSは、いなかった。それも彼らのイメージは横浜というより、第2次大戦後米軍が駐留したヨコハマそのものだったのだ。
それは、彼らが、もともと本牧のクラブで、米兵相手にライブをやって腕をみがいてきたせいもあるだろう。そして、この本の中で加部正義は、外人相手の娼婦を母にもっていたという衝撃的な事実も明かされている。彼こそひとつ間違えばその、嬰児の仲間入りをしていたかもしれないのだ。
だが、この慰霊碑も当局側は、あくまで根岸の外人墓地全体の慰霊碑として認めただけで、多数の嬰児が埋葬されている事自体を公式には、認めていない。前後のいきちがいもあり、建立までには、いろんな紆余曲折があった。慰霊碑を実現させるために奔走する一方で、筆者は、ゴールデンカップスの過去から現在までを追いかけ横浜の戦後の裏面史を読み取ろうとしている。この中で、メンバーの口からは、あまり語られてこなかったこともあかされているのは、非常に興味深い。
GOLDEN CUPS  にもかかわらずこの本に、今一つのめりこめないのは、作者の彼らの音楽に対する理解がいささか付け焼刃だからかもしれない。本来小説家として才能のある人なだけに、このようなドキュメンタリーでは、客観的な説得力に物足りなさが残る。それでもこのような形で、あの時代を生きたゴールデン・カップスの事がまとめられたのは、非常に貴重だと思う。カップスのファンだけでなく、GSに興味ある人には、ぜひ読んでほしい。
カップス最大のヒットになった「長い髪の少女」のカバーの写真で他のGSのように、にっこり笑うこともなく、こちらを射すくめるかのように強いまなざしをむけている彼らが写真を撮った場所は、ほかならぬ外人墓地の十字架の下だった。
天使 2 
" ヨコハマ " という地名の響きに惹かれたのはいつの頃だっただろうか。
たぶん、まだ家にテレビも無かった頃、ラジオから流れてきた童謡「赤い靴」のなかの「ヨコハマの埠場から船に乗って・・・」という歌詞だったような気がする。その後、いしだあゆみの「ブルーライト・ヨコハマ」が大ヒットして小学生だったオレもよく口ずさんだ覚えがある。その頃から何故か横浜には漠然とした憧れを持っていた。平山三紀の「ビューティフル・ヨコハマ」も好きだったし、原由子の「ミス・ヨコハマダルト」のレコードも持っていた。赤い煉瓦の倉庫が立ち並び、外国船が行き来するお洒落で、異国情緒たっぷりで、どこか哀愁を湛えた街・・・ヨコハマ。
まぁ田舎に住んでる人間が描く横浜のイメージなんて月並みだけどこんなものだ。
そしてもうひつ、ゴールデン・カップスを生んだ基地の街・・・ヨコハマ。
山崎洋子という作家を知ったのは十数年前である。ミステリー小説にも目の無いオレは、行きつけの本屋で面白そうなタイトルの本を見つけた。それが「ヨコハマ幽霊(ゴースト)ホテル」だった。この本の紹介はまた後日にして、この作品のストーリーも良かったのだが、ここに描かれたヨコハマの雰囲気がなかなか素晴らしく、この時、山崎洋子という作家の名前はオレの頭の中に刻み込まれた。
彼女が書いたカップスがらみの本がある。タイトルは「天使はブルースを歌う」(1999)。京都生まれの彼女が、現在横浜在住である事は知っていたし、読んではいないが他にも横浜を舞台にした作品を数多く書いていることも知っていた。けれど、ゴールデン・カップスのメンバーと親交があるとは全然知らなかった。
この本からは、三つのブルースが聞こえてくる。
一つめは、もちろん「ザ・ゴールデン・カップス」。ゴールデン・カップスがいかにハチャメチャでスキャンダラスなバンドだったかは、もはや伝説となっているので、ここで登場するカップス時代のエピソードにも大して驚きはしなかったが、彼等の生い立ちや、解散後の彼等がそうとうキツイ状態に置かれていたことがメンバー自身の口から語られる部分には本当に身につまされる思いがする。そして中国人であるエディ藩との出会いからカップスにのめりこんでゆく著者の姿が、根岸外人墓地に慰霊碑を建てるのために奔走する著者の姿にオーバーラップしてゆく。
そして二つめが、その根岸外人墓地に眠るとされる900余体の「GIベイビー」である。終戦直後の横浜にはGHQが置かれ、基地の街としての歴史がスタートする。おびただしい数の米兵が占領軍として街に溢れ、極貧状態におかれた女性たちは好むと好まざるとにかかわらず、米兵たちに身体を売って日々の糧を得なければならなかった。また、今も沖縄でたびたび繰り返される米兵によるレイプ事件などは日常茶飯事だったようだ。その結果、望まれずに生まれてきた嬰児900余体もの亡骸が、人知れず根岸外人墓地に捨てられたという。これはショックだった。今でも横浜市はこの嬰児遺棄を公式には認めていないようだが、著者は綿密な取材と関係者の証言でその事実を明らかにしていく。
三つめは、真っ白な孤高の娼婦「ハマのメリーさん」。このメリーさんの話は何かの記事で読んだ記憶がある。昭和30年代中頃からたった一人で街角に立ち始め、年老いてからもその姿は多くの人の目に留まっている。とにかく身に着けているものは上から下まで白尽くしだという。この本では、森日出夫というカメラマンによる年老いたメリーさんの写真も掲載されているが、背中も曲がった老婆が、真っ白な化粧を施し、全身を真っ白な衣装に包んで座っている姿はどこか崇高で、人間の気高さが感じられる。根岸外人墓地に眠っている嬰児たちの魂をやさしく包み込む母のような・・・。凄い女性だと思う。 
どの話もとても哀しい話である。オレが今まで抱いていた横浜のイメージがいかに軽薄で一面的だったのかを思い知らされた。だからどうだという事も無い。ただ読み終わった後に不思議な爽快感に満たされた。それはこの三つのブルースが大袈裟に言えば「生きる」というのはどういう事なのかをさり気なく語っているような気がしたからだ。このブルースを引き出した山崎洋子の筆力にオレは感服した。そしてゴールデン・カップスの音楽(ブルース)が何故オレをこんなに惹きつけるのかが少し分かったような気がした。 
天使 3
山崎洋子の「天使はブルースを歌う〜横浜アウトサイド・ストーリー」(1999年・毎日新聞社)を知ったのは、本当に偶然だった。あるタレント本を探しに紀伊国屋書店新宿本店6階の芸能コーナーを訪れた際、ふと目に留まったのだ。なんとなく手に取って読み始めたら、ページを繰る手が止まらなくなった。全く私の知らないヨコハマが、そこにあった。
横浜在住のミステリー作家である山崎は、ある日、白塗りの老娼婦「メリーさん」を目撃し、彼女の姿に「ブルース」を感じたことをきっかけに、横浜の裏の顔に気付いてゆく。そして、メリーさんを調べるうち広がった人脈の一人である評論家・平岡正明の「あなたの小説にはブルースが足りない」という一言がきっかけで、彼女は伝説のブルースアーティスト・エディ藩と知り合う。彼は中華街に生まれた華僑であり、60年代横浜本牧出身のGSバンド・ゴールデン・カップスのギタリストとして一世を風靡した存在だった。彼の音楽に魅了されつつも「歳月の泥がびっしり詰まったような」彼の存在感にたじろぐ山崎。
やがて彼女はエディ藩から、横浜根岸外人墓地に眠るという、混血の嬰児たちの慰霊碑建立のためのチャリティーソングの作詞を依頼される。山崎は、彼ら嬰児たちを「メリーさんの子ども達」とイメージングし、チャリティーソング「丘の上のエンジェル」の詞を手がけた。しかし、墓地を管理する行政側は、墓地への嬰児たちの埋葬の事実を頑として認めようとしない。それがきっかけで彼女は、敗戦後の米軍駐留期から始まる横浜戦後史の光と影を、そしてメリーさんやゴールデン・カップスの面々をはじめとする、時代を彩った横浜のアウトサイダーたちの歴史と現在を追いかけ始めることになる・・・。
同じヨコハマの外人墓地でも、山手墓地に比べるとはるかに知名度の低い根岸墓地に眠る嬰児たちの多くは、敗戦後様々な形で、米兵や軍関係者たちと、日本人の女性たちー例えばその中にはメリーさんの様な米兵相手の娼婦女性も多かっただろうーの間に生まれた混血児、所謂GIベイビーだったと思われる。ゴールデン・カップスのメンバーの一人であり、後に「ピンク・クラウド」などでも名を馳せるベーシスト/ギタリストのルイズルイス加部も、そんなGIベイビーの一人であった。(因みに山崎は初めてライブで加部を目撃した際、中年になっても衰えぬ彼の混血ならではの美貌に目を奪われ「キリストのよう」な「メランコリックな美しさ」とまで書いている。)
そして1960年代、加部やエディ藩、デイヴ平尾ら、のちのゴールデン・カップスメンバーが出演するようになったのが、本牧のライブハウス、その名も「ゴールデン・カップ」だった。当時本牧地区は米軍に接収されており、ベトナム戦争から一時帰休した米兵たちがつかの間の休暇を楽しむ場所だった。米兵相手の店が立ち並び、東京よりも早くアメリカの音楽や文化が入ってくる、当時日本で一番「ホット」な地区が本牧や中華街だった。華僑の息子であり比較的経済的に恵まれていたエディをはじめとして、メンバーらはごく自然に最先端の音楽に親しんでいたのだ。「ゴールデン・カップ」には、彼らの演奏を見に、東京から内田裕也やスパイダースの面々らも訪れたという。
バンドはまもなくスカウトされ、ライブハウスの名を冠し、全員がハーフという売り文句で(実際には違う)1967年にデビューする。「ついこの間まで差別の対象でさえあったのに、成長した混血児は欧米礼賛の風潮にのり、容姿の欧米っぽさ,リズム感の良さなどで、今度は憧れの対象になったのである。全員ハーフということにされてしまったゴールデン・カップスは,まさしくあの時代の象徴と言えるだろう。」ゴールデン・カップスは「いとしのジザベル」「長い髪の少女」などプロの作家が作った歌を歌いヒットを飛ばし一躍アイドルになるが、ライブでは日本語詞を決して歌わず、本場のブルース・ロックを指向した。プロ意識も希薄で、喧嘩も絶えなかったという。そしてGSブームは長く続かず、バンドは1971年限りで解散し、各メンバーの流転が始まる。そしてそれは、それまで日本におけるファッションや音楽の最先端であったヨコハマの凋落を予言するものでもあった・・・。
60〜70年代にかけてのゴールデン・カップスのメンバーの栄光と流転の軌跡を追いながら、山アは自らの割と平凡な青春時代を重ね合わせる。エディ藩らと同世代の戦後ベビーブーマーの1人として地方都市に生まれ、東京に憧れながら育ち、わりと平凡な青春時代を送った山崎。しかし、そんな山崎だからこそ、彼女は冷静に、戦後の横浜の繁栄が、朝鮮戦争・ベトナム戦争という米軍とアジア民族との戦いによる特需に支えられたものであり、また音楽やファッションなど横浜の独自の文化的優位性に見えたものが、日本人がアメリカ文化に憧れた時代ゆえのものであったことを記している。そしてその時代の終焉も・・・。
「1975年、サイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終結した。本牧の米軍住宅地も返還され、米兵相手の店は次々と撤退し、アメリカ色は一気に薄らいだ。同時に、横浜は只の、言ってしまえばありふれた大都市でしかなくなっていた。太陽のおかげで月が輝くように、アメリカの光を受けて横浜は輝いていたのだ。戦後、というより、幕末の開港以来ずっと−。ゴールデン・カップスも同じである。彼らは「アメリカ色の横浜」ブランドで売り出した。しかしそのブランドはマジカル・パワーを発揮しなくなってしまった。」山アがミステリー作家としてデビューした80年代には、横浜はその磁力をほぼ失っていたという。
一方で山崎は、彼女と対照的であるが故に、同世代の日本の栄光と悲惨と矛盾を一身に背負った、エディ藩やルイズルイス加部、メリーさん、そしてエンジェルたちの来歴や現在を調べ書き残すことに使命感を感じ執念を燃やす。それは彼ら彼女らへの山崎なりの愛を込めたラブレターでもあり、彼女なりの「ブルース」となっている、とでも言えば良いのだろうか。(尤も私は山崎以上に「ブルースが足りない」人間なので、迂闊なことは言えないのだが。)
そして、話の発端であった根岸外人墓地の嬰児たちの慰霊碑は、曲折を経て、すべての埋葬者の慰霊碑という名目で、何とか建立された。しかし、建立記念式典では、エディ藩作曲・山崎作詞の「丘の上のエンジェル」を流す許可は下りなかった。ついに行政側は埋葬された嬰児たちの存在を認めようとはしなかったのだ。しかし山崎は式典後も様々な関係者への取材や聞き取りを行い「エンジェル」らの存在の傍証を提示している。根岸墓地の現状や、片翼の天使を型どったという慰霊碑を見てみようと思い立ち、私も先日、残暑の中、横浜・山手を訪ねた。JR根岸線山手駅を降り、暫く迷った挙句、ようやく墓地の入り口に辿りついたが、そこは鉄の扉に固く閉ざされていた・・・。
本書の刊行から10年余が過ぎている。エディ藩やルイズルイス加部は現在も精力的に活動しているようだ。ゴールデン・カップス自体も2003年に再結成されたが、2008年ボーカルのデイヴ平尾をがんで失っている。山崎にエディ藩の存在を教えた平岡正明も鬼籍の人となった。そしてあの「メリーさん」はどうなったのだろうか。ここまで触れなかったが、本書内で山アはかなり克明に戦後のメリーさんの足跡を追い、そして彼女が1996年に横浜から姿を消すまでを記している。その後は?
天使 4
私にとって団塊の世代とはマルキストかヒッピーか、大別すればいずれか二つに属してしまう種族になってしまう。中学生の頃などは、何故、あの世代の人たちは機動隊とぶつかり合っているのか理解できなかった。革マル派、連合赤軍といっても、主義主張を理解してない私は、何をそんなに死に物狂いでやっているのか分からず、そこへ持ってきて三島の割腹自殺。世の中の動きを理解するにはまだ若すぎた。
どちらかといえばヒッピー路線への傾向を強めていた私は、革命なんかは考えず、好きな音楽を聴いて、映画鑑賞、読書と平和裏に過ごしたいという怠け者。そんな怠け者にGSサウンドはピッタリフィットして、将来の洋楽嗜好への土壌に種バラマキ、僅かな活動期間だったが殆どのヒット曲を50年ほど経った今でも歌える。
一方、この世代の人たちは私にとっては怖いお兄さんで、中でもその筆頭がゴールデン・カップス。あの当時、ただでさえ音楽を演る人は、どこか取っ付きにくく何となく不良っぽいところがあって、ちょっと強面で委縮しちゃう。
然し、そのゴールデン・カップスは一番本格的なロックバンドだったんだろうか。先日、本屋に行くと購入を決めていた物を取りやめ、急遽、帯にゴールデン・カップス、エディ・潘の名前を見つけたので読みたい、買いたい、欲しい病炸裂で迷わず購入してしまった。
東京生まれの名古屋育ちの私は外国人を初めて見たのはいつだったか記憶にない。海外旅行などは夢の夢で、昭和39年まで日本人は自由に外国へ行けなかった。そんな夢を満たしてくれたのは精々『金高かおる世界の旅」を見る程度だろうか。然し、デイブ平尾だけは違った。何の不自由もなく育った彼は、翌年、つまり昭和40年にアメリカ旅行とあるから、かなり裕福な家の息子だった。
そんなデイブ平尾をリーダーとする、ザ・ゴールデンカップスのデビューは1967年の「いとしのジザベル」で、彼らGSのメンバーは同世代の学生が機動隊と角材を持ってぶつかり合っているのをどのように見ていたのか分からないが、著者も同じ団塊の世代で、こう書いている。
「 学生運動が暴力を伴いつつも前進しようとする革命運動だとすれば、一方で、後退しようとする革命運動というべきヒッピーという存在があった。ヒッピーはもともと、平和、非暴力、自由といったことから始まったのだが、日本に入ってくるとだんだん退廃的な色合いが濃くなり、一日中、シンナーを吸って、新宿駅周辺などで呆けたように座り込んでいる若者を指すようになった。 」
はい、新宿東口ですよね。昭和48年になっても彼らはあそこでたむろしていました。私は遅れて来たヒッピーだったがシンナーだけはやらなかった。本書は戦後、GIベイビーと言われ、墓地に葬られた約900体の嬰児たちを知ることによって、横浜で娼婦となった女たちの哀しい歴史など掘り下げるノンフィクションで、その数は横浜だけで15,000人といわれる。
昨日まで鬼畜米英と叫んでいた女性が、生きて行く糧としてパンパンと呼ばれる人生を選んだのか私には分からないが、彼女らが産んだ混血の数が26年までで15万というから凄い。その中のひとりがザ・ゴールデンカップスの天才ベーシスト、ルイズルイス加部で、彼がどんな境遇であれ、若くして自らの道を切り開き、今日もライブハウスで活躍していることは誇らしい。
因みにサイドギターのケネス伊東が脱退してハワイに帰ったのをきっかけに、ミッキー吉野がキーボード奏者として加入したのは1968年、ミッキーはまだ16歳だった。
今現在、15万の混血児の人たちがどうしているのか分からないが、困難な人生を歩んでこられたのだろうか。
然し、GSのメンバーも多くは世を去り、同世代の星野仙一も先達て旅立った。本書は約20年ぶりの復刻版らしいが、本当に再販されて良かった。
横浜や本牧の歴史を知ることと悲哀に満ちた女性たちの人生。
忘れてはならない戦後史の一ページなのだから。
メリーさん
(本名不詳、1921 - 2005) 神奈川県横浜市の中心部でしばしば目撃された女性。歌舞伎役者のように白粉を塗り、フリルのついた純白のドレスをまとっていた。第二次世界大戦終戦後、進駐軍兵士相手に身体を売っていた「パンパン」と呼ばれる娼婦だと噂され、「皇后陛下」「白狐様」「クレオパトラ」「きんきらさん」などの通り名で呼ばれていた。。1980年代に入った辺りから「(港の)マリーさん」と呼ばれ出し、同じく80年代の後半から「メリーさん」と呼び名が変化したようである。。そして後年ドキュメント映画がヒットした影響から「ヨコハマメリー」「ハマのメリーさん」などと呼ばれることが多くなった。
岡山県出身。実家は農家で、女4人、男4人のきょうだいの長女として生まれる。
実弟の話によると、地元の青年学校を卒業後に国鉄職員と結婚。その後、戦争が始まり軍需工場で働きに出るが、人間関係を苦に自殺未遂騒動を起こす。この出来事が原因で結婚からわずか2年で離婚。子供はいなかったという。戦後、関西のとある料亭(実際は米兵相手の慰安所だった)で仲居として働いた後、そこで知り合った米軍将校の愛人となる。彼に連れられ東京へ出るが、朝鮮戦争勃発後、現地へ赴いた彼は戦争が終結するとそのまま故郷のアメリカ合衆国へ帰り、日本には戻らなかったという。
取り残された彼女はその後、横須賀を経て横浜へと移動し、米兵相手の娼婦としての生活を始める。以後は在日米軍基地に数十年間と長期にわたり居住した。中村高寛監督の映画『ヨコハマメリー』によると来浜の時期は1963年とのことだが、檀原照和著『消えた横浜娼婦たち』によれば1955年には既に横浜の伊勢佐木町で目撃されていた、という。
彼女の存在が注目されだしたのは、1980年代に入ってからである。折しも「なんちゃっておじさん」や「歌舞伎町のタイガーマスク」など、町の奇人たちがメディアに取り上げられていた時期と重なる。
1990年代の半ばに、横浜の街から姿を消した。その時期は映画『ヨコハマメリー』では1995年初冬(『朝日新聞』は「関係者の話」として同年12月に故郷の中国地方へ帰ったとしている)、書籍『消えた横浜娼婦たち』によると1996年の11月だという。
晩年は「故郷の老人ホームで暮らした」とされるが、実際は故郷に居場所を見いだせず、数十キロメートル離れた津山の老人ホームで余生を送った。2005年1月17日、死去。84歳没。
●「歌謡曲は私たちの時代のブルースである」 寺山修司 
幼くして父を戦争でなくした寺山修司は、終戦を迎えた10歳の頃からいつもひとりぼっちだった。青森県三沢市にある米軍基地で働いていた母親が家を空けることが多くなり、いつしか自宅で自炊をする生活になったという。
寺山はそのことが表現者への道を用意したのではないかと、後にこんなことを述べている。
「 親が側にいなくて兄弟もなく、ひとりでいる時間が多かったから、物を書いたという気がする。現実で満たされていないと、現実以外でもう一つの世界を作って、作ることで満たされようという気になるのではないか 」
テレビがまだ家庭に普及していなかった1950年代から60年代にかけて、歌謡曲が果たした役割は現在とは比べものにならないほど大きかった。空襲による焼け跡から復興していく日々のなかで、戦争によって肉親や親族をなくした子どもたちと、子どもを失った親たちがそれぞれに黙って孤独に耐えていたのだ。寺山は著書「書を捨てよ、街へ出よう」のなかで、”歌謡曲は私たちの時代のブルースである”と書き記している。なりふり構わず必死になって生きていた昭和の時代に、余裕のない生活の中でひとときのうるおいを与えたり、乾ききった心を慰めてくれたり、あるいは励ましてくれたのが、どこかから聴こえてくる歌謡曲であった。ラジオや映画館、商店街の街頭スピーカーなどから流れてくる歌や音楽は、もっとも身近な娯楽になった。寺山のお気に入りは自分と同世代で、2歳年下の少女スターだった美空ひばりだった。
初期の美空ひばりのヒット曲は、親を亡くして身寄りのない子や、もらわれてきた子どもという設定が多かった。戦争で多くの人たちが生命を奪われたことを背景にして、大切な家族や友達を亡くした喪失感や哀しみを歌った楽曲が、名もない若者や庶民たちに支持されのである。
また、寺山は歌謡曲の何よりの特質が、“合唱できない歌だ”というところにあると指摘していた。“合唱できない歌だ“というのは、戦後の歌謡曲の特徴を鋭く言い当てている。
子どもも大人も、お年寄りも、みんな先々が不安で孤独だった。そんな寄る辺のない人間が哀切な歌を聴いて、ひとりずつ心を慰めるということが、戦後の歌謡曲には役割として求められていたのである。
都会では生命力があって明るく力強い「東京ブギウギ」や「銀座カンカン娘」がヒットしていても、青森県に住む寺山にはどこか遠い世界であった。
だが美空ひばりは、そうした寂しさにも答えてくれたのだ。
「リンゴ追分」や「津軽のふるさと」といったローカル色が強い歌は、復興から取り残されされがちだった地方の人たちから、圧倒的に支持されていった。
そうした歌謡曲のあり方が変わり始めたのは1964年に東京オリンピックが開催されて、その2年後にビートルズが来日公演を行ったことで、若者たちが身近な楽器で好きな楽曲を演奏し、仲間たちと一緒に歌を唄う時代になってからのことだ。
もっとも手軽なフォーク・ギターが人気を集めて普及し、新しい時代の気分を唄う伴奏楽器として広まった。
ハーモニーの豊かさや心地よさ、あるいは一緒に体を動かして音楽を楽しむことの喜びに気づいた人が増えた。
そこから学生たちを中心にフォークのブームが起きて、自作自演で唄うことが特別のことではなくなっていく。
京都の大学生でアマチュアだったザ・フォーク・クルセダーズが、卒業をひかえてグループを解散することになり、その記念コンサートで販売するために自主制作盤のレコードを作って販売したのは1967年の秋だった。
そのアルバムに入っていた「帰って来たヨッパライ」が、神戸の民放局で取り上げられて、ローカル・ラジオ局から火がついて東亰にまで飛び火した。そして12月25日に東芝レコードから発売されたシングル盤は、またたく間に200万枚を越えるヒットを記録した。
主要メンバーだった北山修と加藤和彦はアマチュアならではの自由な発想から、1年間の期間限定でプロとして活動していくことを決めた。
そして京都のフォーク仲間だった端田宣彦を、正式なメンバーに加えている。彼らが目ざしていたのは<みんなの音楽>として、多くの若者たちと歌を共有して楽しむことだった。
そんな彼らが発見してレパートリーに加えていた楽曲の中に、寺山修司が最初に作詞した叙情的な歌謡曲の「戦争は知らない」(作曲:加藤ヒロシ)があった。
これは1968年11月10日にライブ・ヴァージョンが、シングル盤のB面で発売された。
もちろん彼らはその曲にハーモニーをつけて、みんなで一緒に唄っていたのである。
加藤和彦と北山修に加えて、はしだのりひこの代わりを務めるアルフィーの坂崎幸之助が参加して、ザ・フォーク・クルセダーズが再々結成されたのは2002年11月だった。
その後に彼らはふたたび解散したのだが、解散記念コンサートで披露された「戦争は知らない」は見事なものだった。
そんなふうにして、この世に生まれた歌のなかでも、ひとたび確かな命が宿った作品は、作者の思いや意図とは関係がないところで、スタンダード曲としてひとり歩きしていくのである。
なお寺山修司が手がけた歌謡曲は多いが、もっとも初期の「戦争は知らない」と、18歳のカルマン・マキに書いてヒットした「時には母のない子のように」が、21世紀になっても歌い継がれている。 
●ムード歌謡 
第二次世界大戦後、特に1952年(昭和27年)の連合国の占領軍の撤退以降の日本で独自に発達したポピュラー音楽のスタイル、ジャンルの一つである。広義では歌謡曲に含まれ、コーラスを主体としたものをムードコーラスと呼ぶことがある。
ハワイアン、ジャズ、ラテンをベースにした歌謡曲であり、いずれもダンサブルな音楽である。
1950年代(昭和20年代後半)、主に連合国の占領軍(の中でも主にアメリカ軍)を相手に活動していた歌手やバンドが、東京の銀座や赤坂のナイトクラブに移り、客の要望に応じてムードのあるダンス音楽を演奏し始めたのが、「ムード歌謡」の始まりといわれる。
もともとこの当時に流行していたハワイアン音楽のバンドや進駐軍相手にジャズを歌っていた歌手が中心となり、スティール・ギター、ファルセットといったハワイアン音楽の特徴や半音進行を織り交ぜたジャズ音楽のテイストは、そのままムード歌謡にも引き継がれた。第一人者といわれるフランク永井や和田弘とマヒナスターズ、松尾和子らの人気とともにムード歌謡は流行、レコードデビューするバンドや歌手も増加し、1960年代には一大ジャンルを形成した。
日本語による歌詞は、独特の世界観を持っている。楽曲の演奏されるステージであった「ナイトクラブ」や酒場が存在した歓楽街や繁華街を舞台にしたものが多く生まれ、銀座や赤坂のほか、横浜の伊勢佐木町、札幌のすすきのや中の島、大阪の御堂筋や宗右衛門町、岐阜の柳ヶ瀬、神戸の新開地や福原、長崎の思案橋等の「盛り場」の地名や、それらを有する札幌、東京、岐阜、大阪、神戸、長崎等、都市名を冠した楽曲タイトルをもった。これら地名は、「ムード」を表現する要素となり、とくに地方都市を舞台としたものは、のちに「ご当地ソング」とも呼ばれた。
また、歌詞世界の描く時間帯はおもに「夜」であり、繁華街のある「港」や別れの舞台である「空港」をも描いた。男性ヴォーカルを有するグループが多い反面、女性の視点から女言葉で書かれた歌詞も多く、女性歌手をゲストに迎えた楽曲もつくられた。
俳優の石原裕次郎が歌手としても活躍し、ムード歌謡のヒット曲を連発した。1950年代 - 1960年代(昭和30年代 - 昭和40年代前半)には、特に演奏スタイルの定義にこだわらなければ、ムード歌謡こそが歌謡曲の本流だったといえる。森進一・五木ひろし・八代亜紀といったのちの演歌界の大御所も、デビュー当時はムード歌謡色が濃かった。大相撲の増位山太志郎は、「そんな女のひとりごと」などのヒットを飛ばしている。
1970年代(昭和40年代後半)から、伝統的な大人の社交場としてのナイトクラブやキャバレーの文化が衰退していく。それにあわせて、ムード歌謡の描く歌詞世界はどこか非現実的で古くさいものと感じられるようになる。また、演歌と愛好者層が重なることから演歌と混同されて捉えられる事も多くなる。上記の森、五木、八代だけでなく、ジャズに憧れてプロ入りし、この分野の第一人者でもあった前川清も、ソロ転向後は演歌歌手として扱われるケースが多くなってきた。同時期には、一方でフォークソングなどニューミュージックなどの台頭もあり、ムード歌謡は徐々に衰退していったが、1970年代後半(昭和50年代)にカラオケスナックが流行、時代に合わせたスタイルでヒットを飛ばす例もあった。
現在の「ムード歌謡」はポップス色の強い楽曲はシティ・ポップスと呼ばれ、旧来の「ムード歌謡」および演歌ポップスやニューアダルトミュージックの一部を指すジャンル用語となっている。
コーラス・グループ​
秋庭豊とアローナイツ(「中の島ブルース」「ぬれて大阪」「献身」「さだめ」など)
今井まさるとフェニックス(「ダンディ・ナイト」「恋させて」)
内山田洋とクール・ファイブ(「長崎は今日も雨だった」「逢わずに愛して」「噂の女」「そして、神戸」など)
黒沢明とロス・プリモス(「ラブユー東京」「たそがれの銀座」「札幌の星の下で」など)
沢ひろしとTOKYO99(「愛のふれあい」「さよならまた明日」「陶酔」「好きなの」「朝日のくちずけ」など)
ジャッキー吉川とブルー・コメッツ(「雨の赤坂」)
中井昭・高橋勝とコロラティーノ(「思案橋ブルース」)
鶴岡雅義と東京ロマンチカ(「小樽のひとよ」「君は心の妻だから」「ああ北海道には雪が降る」など)
敏いとうとハッピー&ブルー(「星降る街角」「わたし祈ってます」「他人じゃないの」「よせばいいのに」など)
原みつるとシャネル・ファイブ(「稚内ブルース」)
平和勝次とダークホース(「宗右衛門町ブルース」)
三浦弘とハニーシックス(三浦京子とハニーシックス)(「お嫁にゆけないわたし」「よせばいいのに」など)
南有二とフルセイルズ(「おんな占い」)
森雄二とサザンクロス(「意気地なし」「足手まとい」「好きですサッポロ」など)
ロス・インディオス(「知りすぎたのね」「コモエスタ赤坂」「別れても好きな人」(withシルビア)など)
和田弘とマヒナスターズ(「夜霧の空の終着港」「誰よりも君を愛す」「お百度こいさん」「お座敷小唄」など)
ヒロシ&キーボー(「3年目の浮気」)
純烈(「キサス・キサス東京」)
歌手​
アイ・ジョージ -「硝子のジョニー」「赤いグラス」
愛田健二 -「京都の夜」「琵琶湖の少女」
青江三奈 -「恍惚のブルース」「長崎ブルース」「伊勢佐木町ブルース」「池袋の夜」など
朝丘雪路 -「雨がやんだら」
天知茂 -「昭和ブルース」
石原裕次郎 -「ブランデーグラス」「恋の町札幌」など
五木ひろし -「よこはま・たそがれ」「港の五番町」など
内田あかり(大形久仁子) -「浮世絵の街」
欧陽菲菲 -「雨の御堂筋」「ラヴ・イズ・オーヴァー」など
扇ひろこ -「新宿ブルース」
角川博 -「雨の赤坂」「伊豆の雨」「大阪ものがたり」など
佳山明生 -「氷雨」
キム・ヨンジャ -「北の雪虫」「命火」
黒木憲 -「霧にむせぶ夜」
桂銀淑 -「夢おんな」「都会の天使たち」など
斎条史朗 -「夜の銀狐」
坂本スミ子 -「夜が明けて」
島和彦 -「雨の夜あなたは帰る」
島津ゆたか -「ホテル」「花から花へと」
朱里エイコ -「北国行きで」
城卓矢 -「骨まで愛して」
園まり -「何も云わないで」「逢いたくて逢いたくて」など
平浩二 -「バス・ストップ」
立花淳一 -「ホテル」
田辺靖雄 - 「よせばいいのに」「おれでよければ」など
ちあきなおみ -「四つのお願い」「喝采」など
鶴田浩二 -「好きだった」「赤と黒のブルース」など
テレサ・テン -「つぐない」「時の流れに身をまかせ」など
中条きよし -「うそ」など
西田佐知子 -「アカシアの雨がやむとき」「女の意地」など
バーブ佐竹 -「ネオン川」など
箱崎晋一朗(箱崎晋一郎) -「熱海の夜」
日野美歌 -「氷雨」「男と女のラブゲーム」
藤圭子 -「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」など
フランク永井 -「君恋し」「おまえに」など
マルシア -「ふりむけばヨコハマ」
増位山太志郎 -「そんな女のひとりごと」「そんな夕子にほれました」など
松尾和子 -「再会」「東京ナイト・クラブ」など
美樹克彦 -「花はおそかった」「もしかしてPART II」
水原弘 -「黒い花びら」「君こそわが命」
美川憲一 -「柳ヶ瀬ブルース」「釧路の夜」など
森進一 -「年上の女」「港町ブルース」など
森本英世 -「わたし祈ってます」「よせばいいのに」「ホテル」など
八代亜紀 -「なみだ恋」「雨の慕情」など
矢吹健 -「あなたのブルース」「うしろ姿」
李木蘭(リー・ムーラン) -「雨の日の花嫁」
作曲
吉田正 - 「東京ナイト・クラブ」「誰よりも君を愛す」
川内康範 - 「誰よりも君を愛す」「伊勢佐木町ブルース」「逢わずに愛して」
吉田佐 - 「中の島ブルース」
彩木雅夫 - 「長崎は今日も雨だった」「逢わずに愛して」「港の五番町」
中川博之 - 「ラブユー東京」「わたし祈ってます」「さそり座の女」
川原弘 (コロラティーノ) - 「思案橋ブルース」
鶴岡雅義 (東京ロマンチカ) - 「小樽のひとよ」「君は心の妻だから」「二人の世界」
平田満 (シャネル・ファイブ) - 「くやし泣き」
池田進(池田進とグリーンアイズ) ‐ 「愛びき」 
●違和感たっぷりのムード歌謡、令和の担い手?! 「純烈」 
歌手としての活動だけでなく、前山田健一名義では、ももいろクローバー、AKB48といったアイドルから、SMAP、郷ひろみなどのビッグアーティスト、さらに、はやぶさへアニソンを楽曲提供するなど、ジャンルに一切とらわれない幅広い音楽活動を展開するヒャダイン。そんな彼が心から愛する往年の名曲やいま注目の歌手など、歌謡曲の魅力を徹底考察する連載。テーマは「ムード歌謡」!
ムード歌謡
昭和をデフォルメする際の記号としてとても使いやすい音楽ではないでしょうか。スローなテンポにマイナーキー、ギターのスライド奏法の上に乗るのは湿っぽい歌詞とボーカル。メインボーカルがいて、コーラスが一本マイクで「ワワワー」と歌う姿はCMやコントでもよく見たものです。
今回ムード歌謡について考えてみようと思うのですが、正直、変ですよね、このジャンル。”違和感”が満載です。日本ならではの音楽なんだけど和楽器が入っているわけでもなく、それどころかハワイアン音楽の要素が。
さらに夜の街を舞台にした世界観の歌詞を、かなりクセのある「しゃくり」やビブラートのテクニックでボーカルが歌い上げる。世界的に見てもこんな楽曲が流行ったのは日本だけですよ。主に流行したのが1960年代。僕は1980年生まれなので完全に後追いなのですが、好きなんですよ、ムード歌謡。
なので今回は僕が好きなムード歌謡の曲を挙げながら分析、さらに令和のムード歌謡の担い手「純烈」についても考察していきます。
強烈な“艶”を放つハスキーボーカル
まず青江三奈さんの「池袋の夜」。これは強烈だ!
ムード歌謡の特徴として“地名が入る”、“夜の街を描く”、“恋”とあると思うのですが、全部クリアです。イントロからリバーブたっぷりのスライドギター、そしてストリングス。Aメロはもはや浪曲なんですよね。拳の回し方やビブラートが浪曲。それをハスキーな青江三奈さんがちょっと音符から後ろノリ(以下・レイドバックと表現します。)で歌うと、なぜかしら情感たっぷりになるんですよね。サビの「夜の池袋〜♪」の【よ】の発声は本当に見事。当時28歳の青江三奈さん。何をどう経験すればあの発声になるんでしょうね。
さらに青江三奈さんといえば「伊勢佐木町ブルース」。印象的なストリングスのフレーズを受けるようにさらに印象的な青江さんの喘ぎ声。サビのスキャットのレイドバックよ! 「デュデュブデュビデュビデュビデュワー!!」こんなのボーカルディレクションでどうにかなるもんではないでしょう。当時のレコーディングは楽器と“せーの”で一発録音だったと聞きます。表現はアレですが楽器隊の演奏とセックスをしているような艶っぽさは、今のミュージシャンでは残念ですが表現できないなあと思ってしまいます。
しかもこのタイトルも最高ですよね!「ブルース」。アメリカ発祥の黒人哀歌で12小節単位のループで作られる音楽なんですが、そう!ムード歌謡における「ブルース」は全くブルースではないんですよね!ループもしていなければアメリカっぽさもない。クレイジージャパニーズ。
で。今回ムード歌謡を語る上でのキーワードが”違和感”だと思っています。ハワイアンなのに浪曲だったり、ブルース進行を全く使わないのにブルースだったり、違和感がたっぷりなわけです。
ねっとりボーカルと5声コーラスの独特な歌唱法
次に内山田洋とクール・ファイブの「長崎は今日も雨だった」。こちらも“地名”、“夜”、“恋”、全てクリアしていますよね。勘違いされやすいことですがメインボーカルは前川清さんです。内山田洋さんはリーダーですね。前川さんのビブラート強め、しゃくり、レイドバックな歌声の伴奏は、6/8拍子のミディアムテンポのストリングスとギター中心のトラックです。結構軽やかなトラックなんですが上に乗るボーカルがねっとり重めなんですよね。まずそこに違和感。
そして歌唱法もいいですよね。前川清さんが一人マイクを持って棒立ちでメインボーカルを歌っている遠くで、5人が一本マイクでコーラスをするという。余談なんですが、昨年私がプロデュースした山崎育三郎さんのアルバム収録「君といつまでも」。 加山雄三さんの楽曲をムード歌謡にアレンジしたものなのですが、そのレコーディングの際プロのコーラスの方3人に来ていただきました。すると、普通は1人1本マイクで録るところを「俺たちこれがいいから」と、1本マイクを囲んでコーラスを歌うんです。三声コーラスなのでかなり難しいのですが、「ここはちょっと俺が離れたほうがいいね」とか、「ここは近づくわ」とか、所謂“マイキング”と呼ばれるテクニックを使ってキレイなハモリをご披露いただきました。このテクニックはクールファイブやマヒナスターズから連綿と続くものなのでしょうね。
話を戻します。内山田洋とクール・ファイブは、先程の青江三奈さんと同じく「ブルース」を量産しています。「中の島ブルース」「西海ブルース」などなど。これも先程と同じく本場のブルースのかけらも入っていないあたりが最高です。
違和感こそが“ムード歌謡”
まだまだありますがこれくらいにしておきましょう。
ここまででムード歌謡には”違和感”が重要だという僕の説はわかっていただけたでしょうか。“素晴らしいミュージシャンたちが最大のテクニックをもって、ふざけず茶化さず真面目に違和感のあることをやる”という、このスピリットこそがムード歌謡の真髄ではないでしょうか。そこの違和感だけがフィーチャーされると「奇抜なもの」となり、冒頭に書いたような昭和をデフォルメする記号として時に揶揄される存在になってしまったのでしょう。
あえての違和感で“新化”する純烈
ここで令和にムード歌謡を復活させて「新化」させたと言われる純烈を取り上げてみましょう。純烈は4人組、メインボーカル1人、コーラス3人という構成です。楽曲は“地名”、“夜”、“恋”を扱った当時のムード歌謡の完コピのような作品もありますが、支持されている「プロポーズ」や「愛をください〜Don’t’ you cry」は、ムード歌謡というか80年代歌謡曲といったほうが親しいかもしれません。「純烈のハッピーバースデー」にいたってはサウンド的にはラテン音楽のルンバです。従来のムード歌謡のハワイアン要素はあまり見当たりません(南国音楽という部分では共通点があるかもしれませんが)。しかし、僕はそれこそが純烈の「新化」させたムード歌謡なのだと考えています。 1960年代のムード歌謡をまんまトレースして新曲として発表することは可能ですし、そっちのほうがまあ楽でしょう。しかしそれは所詮トレース。「ムード歌謡のパロディ」の域から超えるのは難しい。ただでさえデフォルメされた昭和の記号なわけですから、お笑い要素がかなり強くなります。(純烈の皆さんは意図的にそれをやっている時もありますが!)
ここで皆さんに思い出していただきたい。ムード歌謡の真髄はなにか、を。そう。違和感なんです!違和感。
「僕たち、ムード歌謡グループです!」と言って、そのまんまのムード歌謡を歌う人たちに何の違和感がありますか? 「そのまんまじゃないか、ふーん」となったらそれは既にムード歌謡ではないんですね。音楽的な制約にとらわれず、情感たっぷりの歌詞を湿っぽいボーカルで歌うのが平均身長185センチのイケメン4人組で苦労人という違和感こそが、純烈の「新化」させたムード歌謡なのでしょう。
“違和感”という点で純烈を改めて考えると、本当に変なグループですよね。元力士、元戦隊ヒーローたちが令和の世で歌謡曲を歌い、しかしクールファイブやマヒナスターズと違いバッチリ振り付けを踊り、しかしスーパー銭湯や温浴施設の宴会場で“ゼロ距離”で会えるという。
前例がなさすぎる。しかもデカイし。
今冗談っぽく言いましたが、ご年配の女性を虜にする要素として「デカイ」は結構重要な気がしています。ムード歌謡といえば石原裕次郎さん、流し目の色男・杉良太郎さん、ご年配を少女にさせたスター氷川きよしさん、さらにはご年配を熱狂させたペ・ヨンジュンさん、皆さん約180cmなんですね。身長が色っぽさに直結するとは思いませんが、やはり高身長から醸し出されるスター感は特にご年配の皆さんにはわかりやすい指標のようなものであるのかもしれませんね。
苦労に苦労を重ねてついにお茶の間のスターになった純烈の皆さんですが、このまま「一般的」なものに集約されていくのではなく、違和感満載の「新化」させたムード歌謡を魅せていってもらいたいです!