人付き合い

年寄りの人付き合い  
狭まるばかり

自分から飛び込む  誘われたら断らない

自分の考え 意見
ちょっと控えめ その場の風を読む ・・・

 


 
 
 
 
●社会人
神谷町・ 商店・独立・神田橋1・オイルショック
吸収合併・神田橋2・バ゛ブル崩壊・リストラ
横浜(福浦・野島・稱名寺・金沢文庫)・大塚・茗荷谷・五反田
銀座・亀戸・大塚
最近の街の風景 ネットで写真を見る
様変わり 昭和は遠くに・・・ でした
平成初頭も同じ 
 
 
 
 
男の平均寿命 あと何年
社会人 辞めて9年
辞めてからの付合い ごく僅か
三途の川 渡る人も増えました
 
 
 
 
●友達
幼友達
中学の同窓会
限られた人たちになりました
高校 友達なし
一応 進学校 なんとなく3年間
家は徒歩通学と自転車通学の境界 3年間歩きました
 
 
 
 
大学の友達
普段会えるのは一人
賀状の付き合い 数人
 
 
 
 
●地域社会
誘われて 自治会
地域社会のお付き合い 大事さを知りました
物事の決定 多数決が全てではないことを理解 人の心と妥協
3.11 救われて災害協力隊結成
毎年春秋訓練 安否確認 ドア叩き
お付き合い拡がる
 
 
 
 
お遊びのお手伝い
麻雀 面子不足の穴埋め
夏の納涼祭
照明・施設係
(コロナ禍で3年間お休み)
3.11 住まいの酒屋さんで買っていた 広島のお酒 入らなくなった
お燗・辛口・安いお酒 スーパーで探す 3-4 種の日本酒買い飲み比べ
「秋田富士」に辿りつく 〜いまも 
 
  
 
 
ノッポ  外見が目立つのか
普段 皆さんからご挨拶
名前は思い出せませんが ご挨拶に応えます
 
 
 
 
会う機会が少ない人
顔から名前 名前から顔 思い出せなくなりました
ボケの始まり
大昔 順番こ 管理組合理事に
バブル崩壊 会社も暇でした
まじめに 組合の運営改革に取り組んでしまいました
今もいくつか生きている
注意
何かの説明に 自分の経験を話す
他人には 「自慢話」に聞こえることがある
 
 
 
 
●新聞契約
3ヶ月ことの更新 「金麦」ビール缶1ダース
元気な契約更新のお兄さん 持ってくる
契約書に捺印
いつの間にか 顔が見たくて 3ヶ月こと更新に落ち着く
 
 
 
  
●お医者さん
毎月 お医者さん巡り
近況報告
いつものお薬 だして貰う
内科 胃炎
眼科 緑内障
耳鼻咽喉科 外耳炎
脳神経外科 認知症 (まだ物忘れ程度)
内科 大腸 (ポリープ切除で終了)
整形外科 (整体で緩和し終了)
皮膚科 (ビタミンE問題で終了)
歯科 (総入れ歯で終了)
 
 
  
 
 


2022/4
 
 神谷町
 
 
 
 
 
 
 
 神田橋 1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 神田橋 2
 
 
 
 
 
 福浦
 
 
 
 
 野島
 
 
 
 
 
 
 稱名寺
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 金沢文庫
 
 
 琵琶島神社
 
 
 
 
 
 
 
 
 
治承4年、源頼朝が三島明神を勧請して瀬戸神社を創建した時に、夫人の北条政子が夫にならって、日頃信仰する琵琶湖の竹生島弁財天を勧請して、瀬戸神社の海中に島を築いて創建したと伝えられています。祭神は立ち姿なので「立身弁財天」、また、島の形が琵琶に似ているので「琵琶島弁財天」とも呼ばれています。
参道入口の右側に金沢四石の一つ「福石」があります。もともと左側の海中にあったものが、昭和41年の国道16号線拡幅工事の際に現在地へ移設されました。源頼朝が瀬戸神社参拝のため、平潟湾で禊(みそぎ)をした時に衣服を掛けた石なので「呉服石」とも、「福石」とも呼ばれたと伝えられています。
また、境内には佐羽淡齊(さばたんさい)の詩碑「総宜楼(そうぎろう)の詩碑」があります。文化5年(1808)、隣接の料亭東屋(あずまや)の庭に置かれていたものが、復元され移されたものです。この地に遊んだ際の楽しい友人との宴会の様子や瀬戸の風景が詩に詠まれています。広重の版画「金沢八景」の一景である「瀬戸の秋月」は、この辺の夜景の美しさを描いたものです。
創建:治承4年(1180) 祭神:市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) 
 大塚
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 茗荷谷
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 五反田
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 銀座 
 
 
 
 亀戸
 
 
 
 
  
 
 大塚
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
●「降る雪や明治は遠くなりにけり」 中村草田男
「降る雪や明治は遠くなりにけり」
この句は、有名な俳人「中村草田男」が詠んだ句です。この句は昭和6年、作者は30歳のときに詠まれたものと考えられています。
季語
この句に用いられている季語は「雪」です。「雪がパラパラと降っている寒い冬の日」だということがわかります。雪を見ると子供の頃を思い出す人は少なくないと思います。雪が降るだけでみんな外を見て休み時間に遊びにいこうと約束する。そんな童心をこの句に詠まれている雪で感じることができます
意味
この俳句の意味は、以下の通りです。「雪が降ってきた。その時小学生たちが外套をきて外へ飛び出していく。自分が小学生の時である明治時代にいるような気持ちになったが、その時からもう20年も経っているのかと、しみじみ痛感した。」この句を詠んでいる時、作者は自分の母校である東京青山の青南小学校へ20年ぶりに訪れていました。その時、沢山の雪が降り始め、外に小学生たちが外套を着て飛び出していく。そんな様子を見て作者は自分の小学生の頃をしみじみと思い出しているのです。明治という時代は過ぎ去り、明治、大正、昭和と時代が進むごとにどんどんと活気に溢れていく街。そんな様子を見て作者は明治という時代が遠くなってしまったことに少し寂しさを覚えたのでしょうね。
表現技法と鑑賞
この句の特徴は切れ字が2回使われているところです。まず、上の句の「降る雪や」に出てくる「や」。これは、松尾芭蕉が読んだ「古池や 蛙飛び込む 水の音」などと同じように「余韻を残す役割」を持っています。しんしんと降る雪のイメージや雰囲気をより強く感じさせようと、降る雪の後に「や」をつけたと考えられます。そして最後、下の句についている「けり」。これは、断言するような「〜した。」という過去を表す意味を持っています。そのためこの俳句をそのまま訳すと「雪が降っている。明治が遠くなっていた。」と詠んでいることになります。当たり前のことですが、時間はかならず進みます。明治は過去のもの。それが遠くなっていっていることをしっかり読み手に表現するために、「けり」を用いたと考えられます。
中村草田男
この句を書いた作者は中村草田男。本名は中村清一郎と言います。父は外交官をしていたため、領事していた中国のアモイで明治34年(1901年)に長男として生まれました。3歳で日本に帰りますが、松山、東京と転居を繰り返します。そして11歳から松山で暮らし、中学時代に伊丹万作、伊藤大輔らの回覧同人誌「楽天」に参加しました。そのあと、東京帝大文学部独逸文学科を休学中に本格的に俳句づくりを始め、高浜虚子に弟子入りしました。のちに、水原秋桜子の指導を受け、「ホトトギス」にて4句入選を果たすなど才能を発揮していきました。その後成蹊大学政経学部教授に就任し、国文学を担当したり、新たに俳人協会を設立して初代会長に就任したりと文学の道を進みました。1936年に縁談を経て福田直子さんと結婚。2人の間には4人の娘が生まれました。中村草田男は1983年8月5日、82歳の時に急性肺炎のため東京都世田谷区北烏山の病院で息を引き取りました。
その他の俳句
• 蟾蜍(ひきがえる) 長子家去る 由もなし
• 冬の水 一枝の影も 欺かず
• 秋の航 一大紺 円盤の中
• 葡萄食ふ 一語一語の 如くにて
• はまなすや 今も沖には 未来あり
●昭和は遠くなりにけり 1 
「降る雪や 明治は遠くなりにけり」
俳人、中村草田男の有名な句です。草田男がこの句を詠んだのは、昭和6年(1931年)のことです。明治は45年(1912年)までですから、それから約20年後です。というか、20年しか経っていないのです。そこで、「遠くなりにけり」と詠んだのです。20年間のうちに、明治、大正、昭和と元号と時代が変わったことの、感慨があったのでしょう。
彼は、明治34年(1901年)の生まれ。明治45年には11歳、尋常小学校でした。そしてこの句は、母校を訪ねて詠んだようです。その時には、30歳です。私は、この事実を教えてもらったときに、びっくりしました。もっと時代が経ってから、そして老人が詠んだ句だと思っていたのです。草田男の表現力の素晴らしさとともに、その早熟なことにも驚きました。江戸から明治。日本は特に東京は、大きく変貌しました。草田男は、江戸時代を直接知りません。江戸時代を知っていた人は、もっと大きな変化を見ています。
来月には、平成が終わり、令和になります。明治時代の変化、また敗戦と高度成長時代の変化に比べれば、平成の30年間の変化は大きくないかもしれません。さはさりながら、昭和30年(1955年)生まれ、高度成長以前の村の暮らしを知っている私にとっては、この半世紀の変化はびっくりするものがあります。
そこで、草田男の句を借りて、一句。
「散る桜 昭和は遠くなりにけり」
芭蕉の句に「さまざまのこと思い出す桜かな」があります。桜は、日本人に様々なことを思い浮かべさせます。その中でも、散る桜は、特に深い思いを引き出させてくれます。東京は、いま桜が満開です。
●昭和も遠くなりにけり 2
〈降る雪や 明治は遠くなりにけり〉は昭和6年、中村草田男の句だが、本書を読むと、昭和もまた、歴史になりつつあることがしみじみと感じられる。
昭和10年生まれの芸能・演劇評論家の著者が、交流のあった文人、芸人たちを描いた近年のエッセーを収めた。俳優の小沢昭一は「生きてきた昭和という時代の記憶だけで充分商売していける」と言ったそうだが、ひとつの時代を生きた矜持なのだろう。著者が描くのも、デジタルでは割り切れない、アナログな手触りのある世界だ。
銀行振り込みどころか〈いつもピン札の原稿料が現金書留で送られてきた〉時代が、生き生きと語られる。現代人が「電子マネーでキャッシュレスに」何でも手に入れることへの違和感を示唆するようだ。
〈わが人生で最高の学舎だった〉という「東京やなぎ句会」は小沢や作家、タレントの永六輔ら12人が44年につくって以来50年、今も毎月例会が開かれている。落語家、作家、大学教授…創立メンバーは全員男、書記だけが女性、というのもいかにも昭和である。
句会だから俳句も作るが、各人が持ち寄る噂話や悪口が無類に面白かったのだという。悪口がSNSで拡散することもなかった。その面々も、一人、二人と鬼籍に入り、今では著者と柳家小三治の二人になった。
評論家として芸を外側から見つめ続けてきた著者は、かつて一般社会と、女遊びや派手な金遣いなど奔放無頼な生き方が許容される芸人世界の間には一線があった、と繰り返し書く。芸人たちは、ある意味差別された社会にいることをエネルギーに変え、芸を磨いてきたのだと。だがその一線も消え、「芸能人」にも〈世間的な常識が求められ、逸脱のぐあいによっては制裁が加えられる〉ようになってしまった。
そう言われて振り返ると、元号をひとつ飛び越えた昭和は別世界の顔を持って見えてくる。現在と昭和の間にも、気軽に行き来できない一線が引かれつつあるということなのか。
●昭和は遠くなりにけり 3 
昭和期に活躍した俳人・中村草田男(なかむら・くさたお、1901〜1983)の代表作の一句「降る雪や明治は遠くなりにけり」。草田男がこの句を詠んだのは昭和6(1931)年、30歳の折で、「明治」が終わって約20年後のことだ。
今の人口比率では、「昭和」「平成」「令和」と三つの時代を生きている方が圧倒的に多い。テレビなどで懐かしい風景が若いタレントなどに「昭和っぽい!」と言われるが、日本で一番長い元号「昭和」がその幕を閉じたのは1989年、31年前のことになる。時あたかも「バブル経済」の終焉に近く、今の感覚では信じられないような事態が数多く起きていたと同時に、エネルギーに満ちていた時期でもあった。しかし、泡沫(うたかた)のように消えた「泡」は、のちの日本経済に大きな爪痕を残すことになった。
もはや戦後生まれが圧倒的な比率を占める昨今、いたずらに昔を偲ぶつもりはない。言葉をはじめ考え方や行動が、時代と共に変容するのは歴史の宿命に他ならない。その中で、今までにも折に触れ「温故知新」の大切さに触れてきたが、先人の知恵は豊かな財産である。
間もなく「令和三年」を迎えようとしている今、昭和元(1926)年生まれの方は94歳になる。戦地へ召集されたかどうかは別に、「戦争」体験者だ。こうした貴重な経験や「記憶」をお持ちの方々がどんどん少なくなり、曖昧なまま、あるいは何も語られぬままに歴史の彼方に消えてゆく。
ことは戦争に限らない。64年という長い期間の中で、「昭和20年8月15日」を境に、物の考え方は大きく変化を遂げた。昭和6年生まれの映画監督の篠田正浩氏は、「私は『軍国少年』として、敗戦までは『国のためにいかに死ぬか』を教わった。敗戦後は『いかに生きるかを教わった』と語った。終戦当時14歳だった篠田氏の体験は、その後の思考に大きく影響を与えていることは想像に難くない。
こうした「生きた談話」が聞けなくなるのは、残念ながらそう遠い話ではないだろう。後6年で、昭和元年生まれの方は100寿を迎える。戦争体験だけではなく、90年以上にわたる人生の経験で得た「智慧」は、単なる「知識」ではなく、それを活かし実践した経験からくるものだ。豊かで深い、時に哀しみや苦しみを伴う先人の経験を、単なる「むかし話」や「懐古譚」と片付けてしまうのはあまりにももったいない話だ。
幾つからを「老人」と呼ぶかは意見の分かれるところだが、最近は、老人を敬い尊ぶ気持ち、敬われるような振る舞いをする老人、共に少なくなっているような気がする。「暴走老人」という、耳障りの悪い言葉も生まれる一方で、遡って考えれば、敬老や労わりの気持ちを持っていらば、電車に「シルバーシート」をあえて設置する必要もなかっただろう。
昭和の高度成長期を必死で牽引し、支えてきた年代の人々の体験に基づく話の中には、今のビジネスに活かせる話題やきっかけが豊富にあるはずだ。後は、それを引き出し、現在のビジネスに活かす発想を持ち、実践に移せるかどうか、だろう。無常に時が流れるのは誰の身にも同じで、日々の仕事に忙殺されている間に「昭和」もどんどん遠くなる。
意外にも、昭和を知らない世代の若年層は、感覚的な部分で昭和が持っていた豊かさや優しさ、幅の広さや厚みなどを感じ取り、そこにシンパシーを感じているのかもしれない。もちろん、すべてがバラ色の時代だったわけではないが、学ぶべき点が少なからずあるのは事実だ。
同じ昭和生まれでも「何年代」に生まれたかにより、眼にした光景は大きく変わる。私は昭和37年の生まれだが、40年代はじめに、今もある新宿駅の東口と西口をつなぐトンネルの入り口に「傷痍軍人」の姿を見かけことは少なからずある。子供にはその意味はわからなかったが、後年、戦後20年以上経っても癒えない傷跡があることを知った。それは、戦後75年を経た今もなお、数は少なくなりつつも厳然と残っている。
学校教育から抜け落ちている近・現代史から学ぶべきことは実に多く、無闇に歴史上の出来事の年号を暗記するよりも遥かに「生きた」学問だと言えよう。今や、日本とアメリカが戦争をしたことを知らない、習わない大学生も存在する冗談のような時代だが、それを一律に断罪することはできず、嘆いてばかりもいられない。
ただ、組織のトップ、あるいは多くの人々をまとめるべき立場にいる方々は、改めて「昭和」がどんな時代だったのかに想いを致し、歴史的事実や流れを俯瞰的な視野で眺めた上で、若い人々に教える「義務」がある、とも思う。
古臭い繰り言だと批判をされるのは構わない。しかし、学び得るものの大きさを考えれば、そんな言葉は一向に気にならない。むしろ、自分に新しい「眼」を開かせてくれる機会があることに遅蒔きながら気付いたことに感謝したいとも考えている。そんな感覚で過ぎ去った「昭和」を考えることができるのは、昭和生まれの特権ではないだろうか。過去の膨大な事象の数々は、歴史の中で沈黙を守っているが、こちらが気付き、近寄って教えを乞えば、重い口を開いて我々が知らなかった「事実」や「真実」を語ってくれるはずだ。しかし、それができる時間はもはや数えるのも怖いほどに短い。
その中で、鳥のように高い視点から、若い世代に何を伝えるべきなのか。昭和生まれに課せられた宿題は大きく、重い。 
 滝不動