怪火・鬼火

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言霊
 
 

 

●怪火・鬼火
人の心を惹き付け、時に惑わし時に興奮させる太古からの記憶、それが火。古くから神聖なものとされることが多く、それは暖を取る為の手段であったから、または唯一の灯りであったからなど様々な理由があります。しかし現代では専ら火は恐怖の象徴。暖炉や囲炉裏のある家であればその限りではないのでしょうが、基本的には火は料理をする時ぐらいにしか見ることがありません。故に火のイメージはどうしても火災などに繋がりやすく、古い時代とは別の意味での”恐れ”を抱いてしまいます。
火が極身近にあり、火と共に生きていた時代。そんな我が国日本の古い時代の伝承や伝説を思い出し、改めて火との新しい付き合い方を考えてみましょう。
日本で最も多く伝えられているのが、怪火(かいか)・鬼火(おにび)の類です。
妖怪として扱われることもありますが、簡単に言ってしまえば原因不明の発火現象の事です。また、怪火と鬼火は名前こそ違いますがイコールと考えて大丈夫です。
この怪火・鬼火は日本全国で伝承があり、特に有名なものだと狐火でしょうか。
怪火・鬼火と並んで狐火はその現象だけでもほぼ全国に目撃例がある謎の現象です。
提灯を灯しているかのようにポツポツと点いた灯りが突如現れ(数は1つから列になっている多数の物まで様々)、その原因を突き止めようと近づいても決してその灯りの元に辿り着くことは出来ず、フッと消えてしまうのです。
そのような理解不能な火を、人々は「狐火」と呼んだり怪火・鬼火と呼んでなんとか理解しようとしたわけです。
北海道 狐火(きつねび) / 青森県 もる火 / 秋田県 裾野の火 / 岩手県 大入道の怪火 / 山形県 古籠火(ころうび) / 宮城県 亡霊火(もうれいび) / 福島県 龍燈(りゅうとう) / 茨城県 飛び物 / 群馬県 光玉(ひかりだま) / 埼玉県 狐の嫁入り(きつねのよめいり) / 千葉県 唸り松 / 栃木県 狐火(きつねび) / 東京都 火忌みさま(ひいみさま) / 神奈川県 青火(あおび) / 新潟県 陰火(いんか) / 石川県 海月の火の玉(くらげのひのたま) / 富山県 ふらり火 / 福井県 斑狐(まだらぎつね) / 山梨県 天狗火(てんぐび) / 静岡県 お近火(おちかび) / 長野県 あやしき火 / 岐阜県 風玉(かぜだま) / 愛知県 亡魂(ぼうこん) / 京都府 叢原火(そうげんび) / 滋賀県 油坊(あぶらぼう) / 三重県 いげぼ / 大阪府 姥ヶ火(うばがび) / 和歌山県 釣瓶(つるべ) / 奈良県 蜘蛛火(くもび) / 兵庫県 油返し(あぶらがえし) / 岡山県 ホボラ火 / 鳥取県 チュウコ / 島根県 オショネ / 広島県 海幽霊 / 山口県 根場の怪火 / 徳島県 四ッ屋の怪火 / 愛媛県 船幽霊 / 高知県 遊火(あそびび) / 香川県 牛鬼(うしおに) / 福岡県 マヨイブネ / 大分県 とんとろ落ち / 佐賀県 天火(てんか) / 長崎県 うぐめん火 / 熊本県 不知火(しらぬい) / 宮崎県 筬火(おさび) / 鹿児島県 ウマツ / 沖縄県 イニンビー  
火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ) 
日本神話の中でも比較的序盤にあたる、イザナギとイザナミが神を産む段においてイザナミが産み落とすのが火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)です。
しかし火之迦具土神はなんとも印象深い産まれ方をするのですがご存知でしょうか?それは、産まれた時に自身が火の神であることから、イザナミが陰部をヤケドしてしまうのです。さらにただのヤケドに済まず、イザナミはその陰部のヤケドが原因で死んでしまいます。イザナミの死を悲しみ、激怒したイザナギはなんと火之迦具土神を切り殺してしまうのです。
――この神話上の逸話は、多くの教訓を与えてくれるとされています。
出産により陰部をヤケドし死んでしまうイザナミは、まさに出産の危険性を描いているとも言われていますし、火の神をイザナギが殺すということは人が火をコントロールできるようになったことであるとも言われます。
また、少し踏み込んだ話になってしまいますが、古い時代、火と出産とは相性が良くないとされていた時代があり(ケガレ思想など)、火の神を産むということが縁起の悪いことであるという描写でもあったのかも知れません。
例えば今でも言う言葉として「産後の肥立ち」があります。
これは子供を産んだ後の女性がしっかりと健康を回復していくことを表す言葉ですが、この肥立ち(ひだち)の「ひ」を「火」と掛けて、どうやら肥立ちが悪くなるから火を遠ざける、という解釈がなされていた地域があったようです。
ゲン担ぎというのは一見くだらないように見えて根深いものだったりするので扱いが非常に難しいです。 
かまど神 
台所や囲炉裏の火の神様がかまど神(かまどがみ)です。日本の多くの地域で祀られている神様で、農耕、牧畜だけでなく家族をも守ってくれる神様として信仰されています。
かまど神は割と気性の荒い神様とされることも多いのですが、僕の推測ではキッチンは食材などの命と密接に関わりのある大切なものを扱う場所ですから、そこでの悪行は罰が当たるんだぞ、という戒めの為にかまど神が怒りっぽい神様とされたんじゃないかと思います。
怒れるばあちゃん、かあちゃんは神をも凌駕するのです。食べ物は大切に。 
火伏の神社 
日本における火伏(ひぶせ。防火ほどの意味)のご利益があるとされる神社は有名どころで二社あります。
1つは、先に書いたイザナミから産まれた火之迦具土神を祀る秋葉神社。この神社は火事の頻発していた江戸に、火伏の願いとともに建立された神社で、今の秋葉原の名前の由来にもなっている神社です。
もう1つが、火之迦具土神を産んだ側のイザナミを祀る愛宕神社。火之迦具土神を産むことで死んでしまったイザナミもまた、火を御すことのできる神として祀られているのがなんとも不思議です。 

 

●怪火

 

●狐火 1 
日本各地に伝わる怪火。ヒトボス、火点し(ひともし)、燐火(りんか)とも呼ばれる。
郷土研究家・更科公護がまとめた狐火の特徴によれば、火の気のないところに、提灯または松明のような怪火が一列になって現れ、ついたり消えたり、一度消えた火が別の場所に現れたりするもので、正体を突き止めに行っても必ず途中で消えてしまうという。また、現れる時期は春から秋にかけてで、特に蒸し暑い夏、どんよりとして天気の変わり目に現れやすいという。
十個から数百個も行列をなして現れ、その数も次第に増えたかと思えば突然消え、また数が増えたりもするともいい、長野県では提灯のような火が一度にたくさん並んで点滅するという。
火のなす行列の長さは一里(約4キロメートルあるいは約500〜600メートル)にもわたるという。火の色は赤またはオレンジ色が多いとも、青みを帯びた火だともいう。
現れる場所は、富山県砺波市では道のない山腹など、人の気配のない場所というが、石川県鳳至郡門前町(現・輪島市)では、逆に人をどこまでも追いかけてきたという伝承もある。狐が人を化かすと言われているように、狐火が道のない場所を照らすことで人の歩く方向を惑わせるともいわれており、長野県飯田市では、そのようなときは足で狐火を蹴り上げると退散させることができるといわれた。出雲国(現・島根県)では、狐火に当たって高熱に侵されたとの伝承もあることから、狐火を行逢神(不用意に遭うと祟りをおよぼす神霊)のようなものとする説も根強く唱えられている。
また長野の伝説では、ある主従が城を建てる場所を探していたところ、白い狐が狐火を灯して夜道を案内してくれ、城にふさわしい場所まで辿り着くことができたという話もある。
正岡子規が俳句で冬と狐火を詠っている通り、出没時期は一般に冬とされているが、夏の暑い時期や秋に出没した例も伝えられている。
狐火を鬼火の別称とする説もあるが、一般には鬼火とは別のものとして扱われている。
各地の狐火​
王子稲荷の狐火​
東京北区 王子の王子稲荷は、稲荷神の頭領として知られると同時に狐火の名所とされる。かつて王子周辺が一面の田園地帯であった頃、路傍に一本の大きな榎の木があった。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)の狐たちがこの木の下に集まり、正装を整えると、官位を求めて王子稲荷へ参殿したという。その際に見られる狐火の行列は壮観で、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられている。
狐の嫁入り​
山形県の出羽や秋田県では狐火を「狐松明(きつねたいまつ)」と呼ぶ。その名の通り、狐の嫁入りのために灯されている松明と言われており、良いことの起きる前兆とされている。
宝暦時代の越後国(現・新潟県)の地誌『越後名寄』には、怪火としての「狐の嫁入り」の様子が以下のように述べられている。
「夜何時(いつ)何處(いづこ)共云う事なく折静かなる夜に、提灯或は炬の如くなる火凡(およそ)一里余も無間続きて遠方に見ゆる事有り。右何所にても稀に雖有、蒲原郡中には折節有之。これを児童輩狐の婚と云ひならはせり。」
ここでは夜間の怪火が4キロメートル近く並んで見えることを「狐の婚」と呼ぶことが述べられており、同様に日本各地で夜間の山野に怪火が連なって見えるものを「狐の嫁入り」と呼ぶ。
その他​
岡山県・備前地方や鳥取県では、こうした怪火を「宙狐(ちゅうこ)」と呼ぶ。一般的な狐火と違って比較的低空を浮遊するもので、岡山の邑久郡豊原村では、老いた狐が宙狐と化すという。また同じく邑久郡・玉津村の竜宮島では、雨模様の夜に現れる提灯ほどの大きさの怪火を宙狐と呼び、ときには地面に落ちて周囲を明るく照らし、やがて跡形もなく消え去るという。明治時代の妖怪研究家・井上円了はこれに「中狐」の字を当て、高く飛ぶものを天狐、低く飛ぶものを中狐としている。
正体​
各地の俗信や江戸時代の古書では、狐の吐息が光っている、狐が尾を打ち合わせて火を起こしている、狐の持つ「狐火玉」と呼ばれる玉が光っているなど、様々にいわれている。寛保時代の雑書『諸国里人談』では、元禄の初め頃、漁師が網で狐火を捕らえたところ、網には狐火玉がかかっており、昼には光らず夜には明く光るので照明として重宝したとある。
英語のFoxFire(「朽ちた木の火」の意から、実際にはヒカリゴケなどの生物発光)を直訳した説
元禄時代の本草書『本朝食鑑』には、狐が地中の朽ちた木を取って火を作るという記述がある。英語の「foxfire」が日本語で「狐火」と直訳され、この「fox」は狐ではなく「朽ちる」「腐って変色する」を意味し、「fox fire」は朽ちた木の火、朽木に付着している菌糸、キノコの根の光を意味していることから、『本朝食鑑』の記述は、地中の朽ち木の菌糸から光を起こすとの記述とも見られる。
死体から出るガス等による光説
『本朝食鑑』には、狐が人間の頭蓋骨や馬の骨で光を作るという記述もあり、読本作者・高井蘭山による明和時代の『訓蒙天地弁』、江戸後期の随筆家・三好想山による『想山著聞奇集』にも同じく、狐が馬の骨を咥えて火を灯すとの記述がある。長野県の奇談集『信州百物語』によれば、ある者が狐火に近づくと、人骨を咥えている狐がおり、狐が去った後には人骨が青く光っていたとある。このことから後に、骨の中に含まれるリンの発光を狐火と結び付ける説が、井上円了らにより唱えられた。リンが60度で自然発火することも、狐の正体とリンの発光とを結びつける一因となっている。
反論
しかし伝承上の狐火はキロメートル単位の距離を経ても見えるといわれているため、菌糸やリンの弱々しい光が狐火の正体とは考えにくい。
1977年には、日本民俗学会会員・角田義治の詳細な研究により、山間部から平野部にかけての扇状地などに現れやすい光の異常屈折によって狐火がほぼ説明できるとされた。ほかにも天然の石油の発火、球電現象などをその正体とする説もあるが、現在なお正体不明の部分が多い。  
●狐火 2 
山際や川沿いの所などに現れる怪光の一種。現在なお正体不明の部分が多い。英語でフォックスファイアfox fireという場合のフォックスは、キツネのことではなく、朽ちるとか、腐って色が変わるとかいう動詞、あるいは朽ち木などについたバクテリアの発光をいう。しかしこれは4、5メートルも離れると見えないから、古来、日本で見られた狐火とは違う。更科公護(さらしなきみもり)は、日本における狐火の見え方の特徴を次のようにまとめている(1958)。(1)火の気のない所に火の玉が一列に並んで現れる。(2)色は提灯(ちょうちん)または松明(たいまつ)のようである。(3)狐火はついたり消えたり、消えたかと思うと、異なった方向に現れたりする。(4)狐火の現れる季節は春から秋口にわたっており、蒸し暑い夏、どんよりとした天気の変わり目に現れやすい。(5)狐火の正体を見届けに行くと、途中でかならず消えてしまう。狐火についてはその後、角田義治の詳細な研究(1977)があり、これは山間部から平野部に向かう扇状地などに現れやすい光の異常屈折によってほぼ説明できることが明らかにされた。
狐火の正体として、越後(えちご)(新潟県)のものは天然の石油の発火というようなことも考えられるが、発光の原因としては、このほか球電現象による場合もあったであろう。江戸で有名なのは王子の狐火で、毎年大つごもりの夜にはよく現れ、これをわざわざ見物に出かける人もいた。芝居では『本朝廿四孝(にじゅうしこう)』という狂言の四段目「謙信館狐火の段」で舞台の上で狐火を見せる。この芝居に出る狐は善玉の狐である。狐火と同様の現象はヨーロッパの各地でも見られているが、ドイツではこれをイルリヒトIrrlichtといい、屋根に住む小人コボルトのなす術(わざ)と考えられている。出現する場所が日本と同様、川沿いの所に多いことも興味深い。狐火は冬の季語となっている。
1 (狐の口から吐き出されるという俗説に基づく) 闇夜、山野に出現する怪火。実際は燐化水素の燃焼などによる自然現象。燐火(りんか)。鬼火(おにび)。狐の提灯(ちょうちん)。幽霊火。青火。《季・冬》。実隆公記‐長享二年(1488)二月二日「夜前於二野路一有二狐火一」。俳諧・蕪村句集(1784)冬「狐火や髑髏に雨のたまる夜に」。2 (青白い光が狐火に似ているところから) 芝居で、樟脳火(しょうのうび)をいう。3 植物「のげいとう(野鶏頭)」の異名。4 きのこ「ほこりたけ(埃茸)」の異名。〔重訂本草綱目啓蒙(1847)〕。[語誌](1)狐が火をともすという俗信は「宇治拾遺‐三」をはじめ古くからあった。(2)近世、江戸郊外の王子稲荷に大晦日の夜に狐が集まって官位を定めるとの言い伝えが流布して、大晦日の夜は「王子の狐火」を見に人が集まりその燃え方により新年の豊凶を占ったという。単に「狐火」で冬の季語とするのは「王子の狐火」からの転用であろうが、蕪村などの用例はあるものの歳時記への登録は大正時代まで下る。
(1) 義太夫節の曲名 近松半二らの合作『本朝廿四孝』の4段目。明和3 (1766) 年竹本座で初演された。時代物。いとしい勝頼が討たれると知った八重垣姫が必死の念で法性の兜に祈ると,狐の力が姫に乗移り,あとを追う。曲も人形の動きも華麗でしばしば上演される。(2) 地歌の曲名 元禄年間 (1688〜1704) の三味線の名手岸野次郎三郎の作曲。前半は赤穂浪士の大石内蔵助らの作詞ともいわれる。後半に投節 (なげぶし) が取入れられているほか,他の三味線音楽に,この曲の旋律がさまざまに応用されていることで有名。
夜陰に野原などで火が点々と見えたり消えたりする現象をいう。原因は明らかにされていない。キツネが火を燃やすという俗信から生じたもので,キツネが骨をくわえて口気を吹くときに発するという説もある。地方により,その形状,名称はまちまちに伝えられ,東北地方では狐松明 (キツネたいまつ) と呼ぶ土地もある。菅江真澄の『雪の出羽路』には,秋田県平鹿郡では村になにかよいことのある前兆として狐火が現れると綴られている。この狐火がちょうちん行列のように見える様子を,一般に狐の嫁入りともいう。
《狐の口から吐き出された火という俗説から》1 闇夜に山野などで光って見える燐火りんか。鬼火。また、光の異常屈折によるという。狐の提灯ちょうちん。《季 冬》「—や髑髏どくろに雨のたまる夜に/蕪村」 2 歌舞伎などで、人魂ひとだまや狐火に見せるために使う特殊な火。焼酎火しょうちゅうび。浄瑠璃「本朝廿四孝ほんちょうにじゅうしこう」の四段目「謙信館奥庭狐火の段」の通称。[類語]燐火・火の玉・鬼火・人魂。
植物。ヒユ科の一年草,薬用植物。ノゲイトウの別称
植物。ホコリタケ科のキノコ。ホコリタケの別称
キツネがともすとされる淡紅色の怪火。単独で光るものもあるが,多くは〈狐の提灯行列〉とか〈狐の嫁入り〉とよばれるもので,数多くの灯火が点滅しながら横に連なって行進する。群馬県桐生付近には結婚式の晩に狐火を見ると,嫁入行列を中止して謹慎する風習があったという。江戸の王子稲荷の大エノキの元には毎年大晦日に関八州のキツネが集まって狐火をともしたといわれ,その火で翌年の吉凶を占う風もあった。狐火がよく見られるというのは,薄暮や暗くなる間際のいわゆるたそがれどきとか翌日が雨になりそうな天候の変り目に当たるときであり,出現する場所も川の対岸,山と平野の境目,村境や町はずれといった場所で,キツネに化かされる場所とも一致するようである。  
●狐火 3 
狐が灯すという怪火で、各地に伝承があります。
光を発するのは狐の吐息、狐が尾を打ち合わせて生じた火、馬の骨を燃やした火、光る玉など様々にいわれます。その明かりの有様から「狐の提灯」「狐の松明」と呼ばれることもあります。狐火が集団で現れて移動するときは「狐の嫁入り」が行われているともいいます。江戸の王子稲荷では、大晦日の夜に関八州の狐が官位を貰うために集まるため無数の狐火が舞うといわれました。里人はこの狐火の流れを見て豊作の吉凶を占ったそうです。 
●狐火 4 
様々な伝説を産んできた正体不明の怪光で、狐が咥えた骨が発光しているという説がある。水戸の更科公護は、川原付近で起きる光の屈折現象と説明している。狐火は、鬼火の一種とされる場合もある。
●狂歌百物語・狐火  
嫁入は よき玉姫と 行列の 夜をまつ崎に すゝむ狐火(雛好)
賑はしく 数見ゆるほと 淋しさの まさるは野辺に ともす狐火(草加篠田 稲丸)
はふかれて むれをはなれし 狐火は 何国の馬の 骨やもやせる(和木亭仲好)
くたかけの 油鶏をや 餌にはみし 夜ことに狐は 火をともしけり(幸亭喜多留)
松明を ともし送ると みえつるは 嫁とりをする 夜るのとの達(草加 四角園)
はめなとの 鶏をやくへき 火もみせて 背なか帰りを 化す狐火(千住 茂群)
火ともして 狐の化せし 遊び女は いづくの馬の 骨にやあるらん(青梅 槙住園千本)
人の目を 迷はし鳥や もの言はぬ 口に火ともす 稲荷山道(三輪園甘喜)
挑燈か 松明なるか 疑へば 迷はし鳥の 火をともすらん(下総結城 文左堂弓雄)
宵闇の 廿日鼠の 油揚げ 火をも点して さがす小狐(弓の屋)
闇の夜も 挑燈持てば 迷はぬを 人迷はしに 燃やす狐火(下毛葉鹿 松園其春)
狐火の 燃ゆるにつけて 我魂の 消ゆるやうなり 心細道(鬼面亭角有)
時雨する 稲荷の山の 狐火も 青かりしより 燃え初めにけん(館林 久雄)
末終に 火口とならん 穂薄の 枯れ伏す野辺に 燃ゆる狐火(幸亭喜多留)
挑燈を 灯しつらねて 行列を するかと見るは 夜の殿様(高見)
田鼠は 鶉毛虫は 蝶なれど けして知れざる 闇の狐火(上総飯野 烏柿廼部た成)
小夜時雨 湿る薄の 花火口 見えみ見えずみ 燃ゆる狐火(梅樹園)
狐火に 雨こんこんと 降る夜半は 差してこそゆけ 笠森稲荷(小倉庵金鍔)
狐火の 燃ゆる雨夜の ひとり旅 見つけて汗を 消すばかりなり(尺雪園旧左)
油揚を 喰ひにし口に 燃やす火か 雨にも消えぬ 野狐の業(南勢大淀浦 春の門松也)
稲荷山 三つの燈火 影添ひて 木陰に燃ゆる 夜半の狐火(八王子 檜旭園)
螢影 はや絶々に なりしころ 草の葉末に 燃ゆる狐火(下総結城 文左堂弓雄)
遠近と 飛火の野辺の 狐火は 枯れし尾花に 火のつくが如(南在居美雄)
彼方より いつか此方へ 狐火の 数はひいふう 三廻りの土手(萬々斎筬丸)
狐等の 不知火ともす 筑紫路や 野辺の尾花の 浪のまにまに(下毛小倉 文廼門楳良) 
●尾崎狐 
狐をば ふところにして 尾崎村 腹をふくらす 商人あきうどもあり(月豊堂水穂)
子を産みて 増える狐の 尾崎村 持参金にも まさる婚礼(東風のや)
尻馬に のせて送らん 花嫁の 持参に添へし 尾崎狐を(和風亭国吉)
上つけの 尾崎狐の 玉つむぎ 化かす本場の ふえし疋数(升友)
嫁入りの 釣り合ひ如何いかに 尾崎村 提灯照らす 丑三つの鐘(槙のや)
尾崎村 婚礼の日も 忌まずして 虎の威を借る 狐もてゆく(綾のや)
買ふ人の 袖も袂も 毛の国に 名も高崎の 尾崎狐は(上総大堀花月亭)
売買に 利も算盤そろばんの 玉狐 人を秤の 重みにぞなる(松梅亭槙住)
手品ほど 袖より出して 人目をも 眩くらます玉に 遣ふ小狐(芝口や)
嫁入りに 祝儀は要らじ 尾崎村 持参の狐火を 燈し行く(桃太楼団子) 

 

●狐の嫁入り 1 
日本の本州・四国・九州に伝わる怪異。現象には大きく分けて、提灯の群れを思わせる夜間の無数の怪火と、日が照っているのに雨が降る俗にいう天気雨の、2つのタイプがある。いずれの現象も人間を化かすといわれた狐と関連づけられ、また古典の怪談、随筆、伝説などには異様な嫁入り行列の伝承も見られる。平成以降の現代においても、それらにちなんだ神事や祭事が日本各地で開催されている。
怪火としての「狐の嫁入り」​
宝暦時代の越後国(現・新潟県)の地誌『越後名寄』には、怪火としての「狐の嫁入り」の様子が以下のように述べられている。
「夜何時(いつ)何處(いづこ)共云う事なく折静かなる夜に、提灯或は炬の如くなる火凡(およそ)一里余も無間続きて遠方に見ゆる事有り。右何所にても稀に雖有、蒲原郡中には折節有之。これを児童輩狐の婚と云ひならはせり。」
ここでは夜間の怪火が4キロメートル近く並んで見えることを「狐の婚」と呼ぶことが述べられており、同様に新潟県中頚城郡や同県魚沼地方、秋田県、茨城県桜川市桜川市、同県西茨城郡七会村(現・城里町)、同県常陸太田市、埼玉県越谷市や同県秩父郡東秩父村、東京都多摩地域、群馬県、栃木県、山梨県北杜市武川村、三重県、奈良県橿原市、鳥取県西伯郡南部町などで、夜間の山野に怪火(狐火)が連なって見えるものを「狐の嫁入り」と呼ぶ。
かつて江戸の豊島村(現・東京都北区豊島、同区王子)でも、暗闇に怪火が連続してゆらゆらと揺れるものが「狐の嫁入り」と呼ばれており、これは同村に伝わる「豊島七不思議」の一つにも数えられている。
地方によっては様々な呼び名があり、同様のものを埼玉県草加市や石川県鳳至郡能都町(現・鳳珠郡能登町)では「狐の嫁取り(きつねのよめとり)」といい、静岡県沼津市などでは「狐の祝言(きつねのしゅうげん)」とも呼ぶ。徳島県では、こうした怪火を嫁入りではなく狐の葬式とし、死者の出る予兆としている。
日本で結婚式場の普及していなかった昭和中期頃までは、結婚式においては結婚先に嫁いでゆく嫁が夕刻に提灯行列で迎えられるのが普通であり、連なる怪火の様子が松明を連ねた婚礼行列の様子に似ているため、または狐が婚礼のために灯す提灯と見なされたためにこう呼ばれたものと考えられている。嫁入りする者が狐と見なされたのは、嫁入りのような様子が見えるにもかかわらず実際にはどこにも嫁入りがないことを、人を化かすといわれる狐と結び付けて名づけられた、または、遠くから見ると灯りが見えるが、近づくと見えなくなってしまい、あたかも狐に化かされたようなため、などの説がある。
新潟県の麒麟山にも狐が多く住み、夜には提灯を下げた嫁入り行列があったといわれるが、この新潟や奈良県磯城郡などでは狐の嫁入りは農業と結び付けて考えられており、怪火の数が多い年は豊年、少ない年は不作といわれた。これについては、狐火がリンの発光と考えられていたことから(狐火#正体も参照)、狐火の多い時期には、農作物の生育に必要不可欠なリンが土中に多く生成されていたとも考えられている。
これらの怪火の正体については、実際の灯を誤って見たか、異常屈折の光を錯覚したものとも考えられている。また戦前の日本では「虫送り」といって、農作物を病害から守るため、田植えの後に松明を灯して田の畦道を歩き回る行事があり、狐の嫁入りが田植えの後の夏に出現する、水田を潰すと見えなくなったという話が多いことから、虫送りの灯を見誤ったとする可能性も示唆されている。
天候に関する言い伝え​
関東地方、中部地方、近畿地方、中国地方、四国、九州など、日本各地で天気雨のことを「狐の嫁入り」と呼ぶ。
怪火と同様、地方によっては様々な呼び名があり、青森県南部地方では「狐の嫁取り」、神奈川県茅ヶ崎市芹沢や徳島県麻植郡山類では「狐雨(きつねあめ)」、千葉県東夷隅郡では同様に「狐の祝言」という。千葉県東葛飾郡でも青森同様に「狐の嫁取り雨(きつねのよめどりあめ)」というが、これは、かつてこの地域の農家では嫁は労働力と見なされ、一家の繁栄のために子孫を生む存在として嫁を「取る」ものと考えられていたことに由来する。
天気雨をこう呼ぶのは、晴れていても雨が降るという嘘のような状態を、何かに化かされているような感覚を感じて呼んだものと考えられており、かつて狐には妖怪のような不思議な力があるといわれていたことから、狐の仕業と見なして「狐の嫁入り」と呼んだともいう。ほかにも、天気雨のときには狐の嫁入りが行なわれているとも、山のふもとは晴れていても山の上ばかり雨が降る天気雨が多いことから、山の上を行く狐の行列を人目につかせないようにするため、狐が雨を降らせると考えられたとも、めでたい日にもかかわらず涙をこぼす嫁もいたであろうことから、妙な天気である天気雨をこう呼んだとも、日照りに雨がふるという異様さを、前述の怪火の異様さを転用して呼んだともいう。
狐の嫁入りと天候との関連は地方によって異なることもあり、熊本県では虹が出たとき、愛知県では霰が降ったときに狐の嫁入りがあるという。
古典・伝説での「狐の嫁入り」​
前述までのように嫁入りを思わせる自然現象だけではなく、江戸時代の古書や、地域によっては伝説上にも、実際に嫁入りの痕跡が見られるという話がある。埼玉県行田市では、谷郷の春日神社に狐の嫁入りがよく現れるといい、そのときには実際に道のあちこちに狐の糞があったという。岐阜県武儀郡洞戸村(現・関市)では、怪火が見えるだけではなく、竹が燃えて裂ける音が聞こえるなどが数日続き、確かめてもそんな痕跡はないといわれた。
寛永時代の随筆『今昔妖談集』には江戸の本所竹町、文政時代の草紙『江戸塵拾』には同じく江戸の八丁堀、寛政時代の怪談集『怪談老の杖』には上州(現・群馬県)神田村で、それぞれ奇妙な嫁入り行列が目撃され、それが実は狐だったという話がある。
このように狐同士の婚礼をそれとなく人間たちに見せる話は、全国的に分布している。一例として民間の伝承においては、埼玉県草加市の伝承で、戦国時代、ある女性が恋人と結婚を約束したにもかかわらず病死してしまい、その無念さが狐に乗り移り、女性の葬られた場所の付近で狐の嫁入り行列が見られるようになったという伝説がある。また信濃国(現・長野県)の民話では、ある老人が子狐を助けたところ、やがて成長した狐が婚礼を迎え、老人に礼として引出物を持参したという話がある。こうした嫁入りの話では、前述までのような自然現象および超自然の「狐の嫁入り」が舞台装置のように機能しており、日中の嫁入りは天気雨の中、夜間の嫁入りは怪火の中で行なわれることが多い。
特定の動作を行なうことで狐の嫁入りが見えるという伝承も各地にあり、福島県では旧暦10月10日の夕方にすり鉢を頭にかぶり、腰にすりこぎをさしてマメガキの下に立つ、愛知県では井戸に唾を吐き、指を組み合わせてその穴から覗くと、狐の嫁入りが見えるという。
江戸時代頃には、こうした「狐の嫁入り」の伝承が信じられていたことから、人間が狐に仮装して「狐の嫁入り」を演じたとしても、庶民にはそれを見破ることができなかったとして、人為的な仕掛けで会った可能性も示唆されている。
狐同士の結婚ではなく、人間の男性のもとに雌の狐が嫁ぐ話もあり、代表的なものとしては、人形浄瑠璃にもなり、平安時代の陰陽師・安倍晴明の出生にまつわるものとしても知られる『葛の葉』が挙げられる。このほかにも『日本現報善悪霊異記』や、1857年(安政4年)の地誌『利根川図志』などに同様の話がある。後者は、関東の諸葛孔明と喩えられる実在の武将・栗林義長にまつわるもので、茨城県牛久市の女化町の名の由来でもあり、同県龍ケ崎市に女化神社として狐が祀られている。
また『今昔物語集』や、1689年(元禄2年)の『本朝故事因縁集』、1696年(元禄9年)の怪談集『玉掃木』には、既婚の男のもとに、狐がその妻に化けて現れる話がある。ちなみに1677年(延宝5年)の怪談集『宿直草』では逆に、雄の狐が人間の女性に惚れ、その女の夫に化けて契り、異形の子供が生まれる話がある。
関連作品​
江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎による『狐の嫁入図』では、天気雨のときには狐の嫁入りがあるという俗信に基き、狐の嫁入り行列と、突然の天気雨に驚いて農作物を取り込む人々の様子が描かれている(画像参照)。このように、空想上の情景として狐たちと現実の農村風俗とを同時に絵画の中に描くことは珍しい例と指摘されている。
同時代の俳諧師・小林一茶の句にも「秋の火や山は狐の嫁入雨」とある。明治時代の俳人・歌人である正岡子規は短歌で「青空にむら雨すぐる馬時狐の大王妻めすらんか」と読んでいる。
人形浄瑠璃『壇浦兜軍記』(1732年初演)でも「たつた今までくわんくわんした天気であったが、ええ聞こえた、狐の嫁入のそばえ雨」とあり、戦後では時代小説『鬼平犯科帳』に「狐雨」と題した1篇がある。
そのほかに1785年(天明5年)の『無物喰狐婿入』(北尾政美画)、1796年(寛政8年)の『昔語狐娶入』(北尾重政画)、1799年(寛政11年)の『穴賢狐縁組』(十返舎一九画)などの江戸時代の草双紙や黄表紙、『祝言狐のむこ入』『絵本あつめ草』といった江戸時代の上方絵本にも、擬人化された狐が嫁入りを行なう「狐の嫁入り」が描かれている。これらは擬人化された動物の嫁入りを描いた「嫁入り物」と呼ばれる種類の作品だが、狐たちに江戸の具体的な稲荷神の名前が付けられているという特徴がある。このことは、稲荷信仰と嫁入り物の双方が江戸の庶民に深く浸透していたことを示すものと見られている。
民間では、高知県の赤岡町(現・香南市)などで、「日和に雨が降りゃ 狐の嫁入り」という童歌があり、天気雨の日には実際に狐の嫁入り行列が見られるといわれた。
関連行事​
前述の新潟県の麒麟山の嫁入り行列に由来する祭事として、同県東蒲原郡阿賀町津川地区では「狐の嫁入り行列」が行われている。もとは狐火の名所として、昭和27年頃から狐火に関するイベントが行われており、一度は途絶えたこのイベントが、1990年に嫁入り行列を主体とした観光イベントとして復活されたもので、毎年4万人もの観光客で賑わっている(詳細は狐の嫁入り行列を参照)。
山口県下松市の花岡福徳稲荷社でも、毎年11月3日の稲穂祭で「きつねの嫁入り」が行われている。こちらは同神社で古くから行なわれていた豊作祈願の稲穂祭が、戦後の混乱期に途絶えていたところを、地元の有志たちが、同神社で白い狐の夫婦が失せ物捜しや五穀豊穣・商売繁盛の神として祀られていたことを参考にして、狐夫婦の結婚式を再現したものとも、江戸時代に寺の住職が、夢枕に現れた白い狐夫婦の依頼で供養をしたところ、紛失していた数珠が見つかったという伝説にちなんで、1950年(昭和25年)から始まったともいう。下松市民の中から狐夫婦を演じる市民が選ばれるが、新婦役となった女性は良縁に恵まれることから、同神社は縁結びの利益もあるといわれている。
三重県四日市市海山道の海山道稲荷神社でも、毎年節分に「狐の嫁入り道中」の神事が行われる。こちらも江戸時代に追儺として行われていたものが、やはり戦後に甦ったもので、その年の厄年の男女が、神使の総本家での子狐と、海山道稲荷神社の神使の家の娘の狐に扮し、嫁入りの様子が再現され、大勢の参拝客の賑わいを見せている。 
●狐の嫁入り 2 
狐の嫁入りという気象現象をご存知ですか?いわゆるお天気雨のことを意味しています。この狐の嫁入りには不思議な伝説があるのです。また、狐の嫁入りは大変縁起のいい現象とも言われています。縁起のいい効果についても調べましたのでご紹介します。
狐の嫁入りとは?
狐の嫁入りは自然現象の一つですが、あなたもきっとあったことがあるでしょう。どうして狐の嫁入りというのか、そしてどのようにして起こるのか、気になったことはありませんか? 狐の嫁入りについて調べましたので、ご紹介します。
狐の嫁入りが起こる原因
狐の嫁入りはいわゆるお天気雨のことです。空は晴れているのに雨が降っている自然現象のことを指します。雨は空に浮かんでいる雲が降らしています。この雲から地上までの距離は大変離れていて、雲から落ちた雨粒が地上に落ちてくるまでにはかなりの時間がかかっています。また、雲が浮かんでいる空の風の強さと地上に吹いている風の強さにも大きな違いがあります。多くの場合、空に吹いている風の方が地上で吹く風よりもとても強いのです。そのため、雲は素早く移動していきます。雲から落ちた雨が地上に落ちてくるスピードよりも、雲が上空を移動するスピードの方が遥かに早いのですね。このため、地上で雨が降っているときには、すでに雲は風に吹き飛ばされてはるか遠くに移動していて、お天気雨という現象が起きるのです。
お天気雨が狐の嫁入りと呼ばれている理由
お天気雨を狐の嫁入りと呼ぶのには、狐が持つイメージに深く関係しています。昔から日本では狐は人間を化かす生き物と考えられていました。狐は神様や神様の使いという考えがあったため、不思議な力があるとされていたのでしょう。空は晴れているのに雨が降っているなんて、まるで狐が化かしたみたいだと人々は思ったようです。そこから、お天気雨のことを「狐の嫁入り」と呼ぶようになりました。また、狐には自然現象を操る力もあると考えられていたこともあり、空が晴れていても雨を降らすことができるのだと思っていたということも影響しているようです。
狐の嫁入りにまつわる伝説
狐の嫁入りは、張れているのに雨が降るという不思議な現象から、さまざまな伝説があります。そんな狐の嫁入りにまつわる伝説をいくつかご紹介します。
狐の嫁入りとはもともとは鬼火のことだった
ある夜、村人が山の方を見てみるとたくさんの鬼火が行列を組んで山を登っていく光景を目にしました。こんな真っ暗な山の中を人間が出歩くはずがないと考えた村人たち。また、その山の頂上には狐を祀ったお社がありました。村人たちはお社に祀っている狐の神様のところにお嫁さんが来たのだと考えました。それからというもの、夜には絶対に山には近づいてはならないと言われるようになりました。夜に山へ入ると、狐の神様のお嫁さんとして連れて行かれてしまうと言われたそうです。
天気の日に雨が降るのは宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)様の力
その昔、毎日日照り続きで米ができない土地がありました。その土地では、毎年できた米を宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)様に捧げるという風習があったのですが、米ができなければお供えすることができません。そこで、その村の人たちは宇迦之御魂神様に雨を降らしてくれるように毎日祈りを捧げました。このままではお供えする米も採れないと訴えたのです。すると、宇迦之御魂神の使いである狐がどこからともなく現れ、空に向かって一声鳴き声を上げました。驚いた村人たちが空を見上げると、雲一つない晴れた空にもかかわらず、たくさんの雨が降ったのだとか。村人たちは大変喜び、その年はいつも以上に豊作になったそうです。
狐の嫁入りが縁起がいいとされる理由
狐の嫁入りは縁起がいい自然現象とされています。この理由は珍しい自然現象だからという理由だけではないようです。狐の嫁入りが縁起がいいとされている理由について調べましたので、紹介します。
嬉し泣きの意味
狐の嫁入りには、嬉し泣きの意味があると言われています。空が晴れている状態を喜びと考えた時、雨は涙を意味するので泣くことを意味すると考えられます。空が晴れているのに雨が降るのは、喜びで感極まって泣いてしまったことを意味していると、昔の人は考えたのです。嬉し泣きをするのは、その状況がとても幸運だったり楽しかったりするからです。また、喜ばしい席でも嬉し泣きをする人がいます。それだけ幸せだということを、嬉し泣きで表現しているのですね。
虹が出るから
狐の嫁入りでは、虹が多く見られます。これは、太陽の光が雨にあたることで虹ができやすくなっているためです。虹は昔から大変縁起がいいとされていました。7色という色も縁起がいいと考えられていたのです。虹を見ると幸運になったり、願い事が叶ったりするという考えが根付いていたのですね。そんな虹が多く見られる狐の嫁入りも、虹と同じように幸運が訪れる前触れだという考えが定着したのでしょう。狐の嫁入りは虹の前兆とも考えられます。虹が幸運の象徴なら、その虹の前に降る狐の嫁入りは、幸運の前触れを知らせてくれる喜ばしい現象だということなのです。
豊作をもたらしてくれるから
狐の嫁入りには、数々の伝説や民話が残されています。その中でも最も多く見られるのが、狐の嫁入りのおかげで豊作になったというお話です。農業にとって雨はとても大切な天の恵みです。もちろん晴れている日もとても大切ですが、現在ほど水道設備が整っていなかったため、農家の人たちにとって雨は命の水でもあったのですね。晴天のときにもたらされる雨はまさしく天からの恵みです。狐の嫁入りでもたらされる雨には神様からのご加護がたくさん込められていると考え、いつも以上に豊作になるという言い伝えが生まれたのでしょう。
狐の嫁入りがもたらしてくれる縁起のいい効果とは?
狐の嫁入りは、昔から縁起がいい自然現象と言われていますが、その効果は現在も続いています。狐の嫁入りがもたらしてくれる縁起のいい効果を、スピリチュアルの観点からご紹介しましょう。
人間関係が良くなる
狐の嫁入りに遭遇すると、人間関係が良くなるという嬉しい効果があります。狐の嫁入りでもたらされる雨が、人間関係の悪いエネルギーを洗い流してくれるのです。更に、雨で浄化された美しい太陽のパワーも同時に受け取ることができるため、対人運も一気に上昇します。もし人間関係で悩んでいるときに狐の嫁入りに出会ったら、あなたが抱えている人間関係の悩みは解決するというサインです。信じて状況を静観しましょう。
金運が上昇する
狐の嫁入りには、金運が上昇するという嬉しい効果もあります。狐の嫁入りで降る雨が、お金のエネルギーを浄化してくれるのです。お金は高くて美しいエネルギーに多く集まってきます。あなた自身のエネルギーも美しく浄化されるので、お金を引き寄せる力が強くなるのですね。特にお金で困っているときに狐の嫁入りにあったら、誰かのためにお金を使うことを考えてみましょう。清い心がお金を引き寄せるパワーを更にアップさせてくれるでしょう。 

 

●提灯火 
日本各地に伝わる鬼火の一種。
田の畦道などに出没し、地上から高さ1メートルほどの空中を漂い、人が近づくと消えてしまう。四国の徳島県では、一度に数十個もの提灯火が、まるで電球を並べたかのように現れた様子が目撃されている。化け物が提灯を灯していると言われていたことが名の由来で、狐の仕業とも言われている。
徳島県三好郡などでは、この提灯火のことを狸火(たぬきび)といい、その名の通り狸が火を灯しているものとされる。寛保時代の雑書『諸国里人談』によれば、摂津国川辺郡東多田村(現・兵庫県川西市)の現れた狸火は、火でありながら牛を引いた人の形をしており、その姿は人間とまったく変わりなく、事情を知らない者が正体に気付かずに狸火と世間話を交わしていたという。
大和国葛下郡松塚村(現・奈良県橿原市)では、こうした怪火を小右衛門火(こえもんび)という。主に雨の晩、川堤に提灯ほどの大きさの怪火が、地上から三尺(約90センチメートル)の高さの空中に浮かび、墓場から墓場へと4キロメートルも飛び回るという。曲亭馬琴らによる奇談集『兎園小説』によれば、小右衛門という人物がこの正体を見極めようと、出没地という松塚村へ赴いたところ、目の前から火の玉がやって来て頭上を飛び越えた。小右衛門が杖で殴ると、火は数百個にも分裂して彼を取り囲んだ。小右衛門は驚いて逃げ帰ったが、その夜から熱病にかかり、やがて手当ての甲斐もなく命を落としてしまった。以来、この怪火は人々により小右衛門を病死させたものと噂され、小右衛門火の名で呼ばれるようになったという。また別説では、小右衛門が杖で怪火を殴ったり怪火が分裂したのではなく、小右衛門のもとへ飛んで来た怪火は流星のような音と共に彼の頭上を飛び越えて飛び去ったのみともいう。
江戸時代の怪談小説『御伽厚化粧』には、近江国(現・滋賀県)沼田の小右衛門火の記述がある。それによれば小右衛門という貪欲な庄屋が、悪事が明るみに出て死罪となり、彼の怨みが怪火となって現れるようになったという。あるときこれに遭った旅役者の一座が、試しに怪談芝居に使う「ヒュードロドロ」の笛を吹いたところ、小右衛門火は役者たちの方へ向かってきて、火の中に人間の青い顔が浮かび上がったため、彼らは震え上がってすぐさま逃げ帰ったという。 

 

●大入道 
日本各地に伝わる妖怪。名称は大きな僧の意味だが、地方によって姿は実体の不明瞭な影のようであったり、僧ではなく単に巨人であったり、様々な伝承がある。坊主(僧)姿のものは大坊主(おおぼうず)ともいう。また大きさも人間より少し大きい2メートルほどのものから、山のように巨大なものもある。人を脅かしたり、見た者は病気になってしまうとする伝承が多い。キツネやタヌキが化けたもの、または石塔が化けたとする話もあるが、多くは正体不明とされている。
人に害を成す大入道​
北海道の事例 嘉永年間、支笏湖畔・不風死岳(ふっぷしだけ)近くのアイヌ集落に大入道が出現した。その大きな目玉で睨みつけられた人間は、気がふれたように卒倒してしまったという。
東京の事例 第二次世界大戦最中の昭和12年(1937年)。赤紙を届けに行った人が、赤羽駅の近くにある八幡神社踏切で兵士の姿の大入道に襲われ、4日後にその場所で変死した。大入道の正体は自殺した新兵、もしくは失敗を責められて上官に撲殺された兵士の亡霊と言われた。ちなみにその近辺では、赤紙を受取ったという者は誰もいなかったという。人間の霊が大入道と化す、珍しい事例である。
人を助ける大入道​
阿波国名西郡高川原村字城(現・徳島県名西郡石井町)では、小川の水車に米などを置いておくと、身長二丈八尺(約8.5メートル)の大入道が現れ、それを搗いておいてくれると言われていた。ただし搗いている様子を見ようとすると、脅かされてしまうという。
動物が化けた大入道​
岩手県の事例 岩手県紫波郡に伝わる口碑、鳥虫木石伝「鼬の怪」より。同郡徳田村大字高田(現・矢巾町)の高伝寺に毎夜本堂に怪火が燃え上がって、その影から恐ろしい大入道が現れるので、寺では檀徒を頼んで夜番を行ってもらっていた。何しろ毎夜のことなので人々も不審に思い、キツネだろうタヌキだろうという評判であった。ある冬の小雪のサラッと降った朝、寺の周囲を見て歩くと、イタチが本堂から抜け出していった足跡があった。後を追って行くと隣家の木小屋の薪を積んだ下に入ったので、村人多数で取り巻きつつ、その薪を取り退けて見るとイタチの巣があった。巣の中から古イタチを捕らえて殺した。するとその夜から寺の怪火も大入道も現れなくなった。
宮城県の事例 かつて仙台の荒巻伊勢堂山に、夜毎に唸り声を発する大岩があった。さらにはその大岩が雲をつくような大入道に化けるという話もあった。当時の藩主の伊達政宗はこの怪異を怪しんで家来に調査させたが、戻って来た家来たちは、大入道の出現は確かでありとても手に負えないと皆、青ざめていた。剛毅な政宗は自ら大入道退治に出向いた。現場に着くとひときわ大きな唸り声と共に、いつもの倍の大きさの入道が現れた。政宗が怯むことなく入道の足元を弓矢で射ると、断末魔の叫びと共に入道は消えた。岩のそばには子牛ほどもあるカワウソが呻いており、入道はこのカワウソが化けたものであった。以来、この坂は「唸坂(うなりざか)と呼ばれたという。この唸坂は仙台市青葉区に実在しているが、坂の名を示す碑には、かつて荷物を運ぶ牛が唸りながら坂を昇ったことが名の由来とあり、妖怪譚よりもこちらのほうが定説のようである。
その他の大入道​
富山県の事例 越中国下新川郡黒部峡谷に16体もの大入道が現れ、鐘釣温泉の湯治客たちを驚かせた。身長は5丈〜6丈(約15〜18メートル)で、七色の美しい後光が差していたという。後光という特徴がブロッケン現象における光輪と共通することから、温泉の湯気に映った湯治客の影を正体とする説もある。
愛知県の事例 江戸時代中期、三河国の豊橋近くに、古着商人が商用で名古屋へ行く途中、大入道に遭遇した。身長1丈3〜4尺(約4メートル)と伝えられており、大入道の中では小さい部類に属する。
滋賀県の事例 江戸時代の見聞雑録『月堂見聞集』巻十六に「伊吹山異事」と題して記載されている。ある秋の夜。伊吹山の麓に大雨が降り、大地が激しく震えた。すると間もなく、野原から大入道が現れ、松明状の灯火を体の左右に灯して進んで行った。周囲の村人は、激しい足音に驚いて外へ出ようとしたが、村の古老たちが厳しく制した。やがて音がやみ、村人たちが外へ出ると、山頂へと続く道の草が残らず焼け焦げていた。古老が言うには、大入道が明神湖から伊吹山の山頂まで歩いていったということである。これは大入道の中でもさらに大型の部類に属するとされる。
兵庫県の事例 「西播怪談実記」によれば延宝年間9月、夜中に播磨国で水谷という者が犬を連れて山奥に猟に出かけ、山伏姿の大入道が自分を睨み付けているのを目撃。山を跨ぐほどの巨大さ(数千メートルの巨大さ)であったという。殺生を戒める山の神の化身であったと噂されたという。同様に同地佐用郡にて元禄年間5月、鍛冶屋平四郎という者が夜中に網を持ち、山奥の川に漁にでかけると、3メートルほどの大入道が川上で網をひっぱっているのを目撃、腹の据わった平四郎は脅えず引き合いをやり、数百メートルほど歩いた後に大入道は姿を消したという。また同地佐用郡でも、早瀬五介という者が夕刻時、あたりが暗くなった頃、目の治療の帰りに2人連れで道すがら、道の真ん中で3メートルほどの大入道が立ちふさがっているのを発見、大急ぎで逃げるように駆け抜けていったが、同行者には見えなかったという。
熊本県の事例 熊本県下益城郡豊野村下郷小畑(現・宇城市)の話。ここに「今にも坂」という坂があるが、昔、ここに大入道が現れて通行人を驚かせた。以来、人がその話をしながらこの坂を通ると、「今にも」という声がして、その大入道が現れるという。「今にも坂」の名はこの大入道に由来する。
祭礼の大入道
四日市祭の大入道 三重県四日市市で毎年10月に行なわれる諏訪神社の祭礼四日市祭は、大入道山車(三重県有形民俗文化財)で知られる。これは諏訪神社の氏子町の一つである桶之町(現在の中納屋町)が、文化年間に製作したものとされ、都市祭礼の風流のひとつとして、町名の“桶”に“大化”の字を当てて「化け物尽くし」の仮装行列を奉納していたものが進化したものと考えられているが、以下のような民話も伝えられている。桶之町の醤油屋の蔵に老いた狸が住み着き、農作物を荒らしたり、大入道に化けて人を脅かしたりといった悪さをしていた。困り果てた人々は、狸を追い払おうとして大入道の人形を作って対抗したが、狸はその人形よりさらに大きく化けた。そこで人々は、大入道の人形の首が伸縮する仕掛けを作り、人形と狸での大入道対決の際、首を長く伸ばして見せた。狸はこれに降参し、逃げ去って行ったという。また、反物屋の久六のもとに来た奉公人が実はろくろ首であり、正体を見られ消息を絶った彼を偲び製作したという話もある。高さ2.2メートルの山車の上に乗る大入道は、身の丈3.9メートル、伸縮し前へ曲がる首の長さは2.2メートル、舌を出したり目玉が変わる巨大なからくり人形である。これを模して首の伸縮する大入道の紙人形も地元の土産品となっている。また毎年8月に開催される市民祭の大四日市まつりにも曳き出されるなど、四日市市のシンボルキャラクターになっている。なお四日市市のゆるキャラ「こにゅうどうくん」は彼の息子という設定。 
●狂歌百物語・大入道 
草鞋わらんぢも 引きずりながら 逃げ出しぬ 仁王立ちなる 入道を見て(松梅亭槙住)
文福の 化けし姿か 臍までも 大釜ほどに 見ゆる入道(千住茂躬)
箱根より 東に無しと 入道は 足高あしたか山に 首伸ばすらん(喜樽)
榎ほど 背丈の延びて 堀池の ほとりに夜毎 出づる入道(檮の門久根)
切る跳ねる 逃げる所を 碁盤もて 大入道は 押さへられけり(鶏告亭夜宴)
法のりを説く 法師と化けし 入道は 顔も洗濯盥ほどなり(神風や青則)
また出づる 大入道は 化物の 大将軍の 遊行ゆぎやうするのか(江戸崎 緑樹園)
入日をも 招く薄すすきの穂 手のべて 入道たてる 紅葉もみぢばのもと(緑裘園邦彦)
濡れ仏 とも見えにけり 入道に 惣身へ流す 己が冷や汗(仙台松山 錦著翁)
入道も 人を甘くや 見るならん 塩をつけても 喰はん勢ひ(羽衣)
武蔵坊 よりも一嵩ひとかさ 大入道 弁慶嶋の 着物をや着て(長年)
空向きて 見上ぐるほどの 入道は 目も月と日の 如く光れり(槙住)
其の丈も 雲突くばかり 怖ろしや 大入道の目は 月に似て(仝 千澗亭) 

 

●鬼火・人魂・火の玉・光玉 
人が死ぬとき、魂が人魂になって出て行く。3日前に出て寺に行く事もあるという。長さ3m、幅15p程度。色は青、赤、赤い玉で尾は青、お月様のような色などという。波のように上下しながら飛ぶ、ノロシを曳いてすーっと飛ぶ、ふらふら飛ぶ、などという。  
●鬼火 1 
江戸時代に記された『和漢三才図会』によれば、松明の火のような青い光であり、いくつにも散らばったり、いくつかの鬼火が集まったりし、生きている人間に近づいて精気を吸いとるとされる。また同図会の挿絵からは、大きさは直径2、3センチメートルから20,30センチメートルほど、地面から1,2メートル離れた空中に浮遊すると推察されている。根岸鎮衛による江戸時代の随筆耳嚢巻之十「鬼火の事」にも、箱根の山の上に現れた鬼火が、二つにわかれて飛び回り、再び集まり、さらにいくつにも分かれたといった逸話が述べられている。
現在では、外見や特徴にはさまざまな説が唱えられている。
外観 / 前述の青が一般的とされるが、青白、赤、黄色のものもある。大きさも、ろうそくの炎程度の小さいものから、人間と同じ程度の大きさのもの、さらには数メートルもの大きさのものまである。
数 / 1個か2個しか現れないこともあれば、一度に20個から30個も現れ、時には数え切れないほどの鬼火が一晩中、燃えたり消えたりを繰り返すこともある。
出没時期 / 春から夏にかけての時期。雨の日に現れることが多い。出没場所水辺などの湿地帯、森や草原や墓場など、自然に囲まれている場所によく現れるが、まれに街中に現れることもある。
熱 / 触れても火のような熱さを感じないものもあれば、本物の火のように熱で物を焼いてしまうものもある。
鬼火の種類
鬼火の一種と考えられている怪火に、以下のようなものがある。これらのほかにも、不知火、小右衛門火、じゃんじゃん火、天火といった鬼火がある(詳細は内部リンク先を参照)。狐火もまた、鬼火の一種とみなす説があるが、厳密には鬼火とは異なるとする意見もある。
遊火(あそびび) / 高知県高知市や三谷山で、城下や海上に現れるという鬼火。すぐ近くに現れたかと思えば、遠くへ飛び去ったり、また一つの炎がいくつにも分裂したかと思えば、再び一つにまとまったりする。特に人間に危害を及ぼすようなことはないという。
いげぼ / 三重県度会郡での鬼火の呼称。
陰火(いんか) / 亡霊や妖怪が出現するときに共に現れる鬼火。
風玉(かぜだま) / 岐阜県揖斐郡揖斐川町の鬼火。暴風雨が生じた際、球状の火となって現れる。大きさは器物の盆程度で、明るい光を放つ。明治30年の大風では、山からこの風玉が出没して何度も宙を漂っていたという。
皿数え(さらかぞえ) / 鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』にある怪火。怪談で知られる『皿屋敷』のお菊の霊が井戸の中から陰火となって現れ、皿を数える声が聞こえてくる様子を描いたもの。
叢原火、宗源火(そうげんび) / 鳥山石燕の『画図百鬼夜行』にある京都の鬼火。かつて壬生寺地蔵堂で盗みを働いた僧侶が仏罰で鬼火になったものとされ、火の中には僧の苦悶の顔が浮かび上がっている。江戸時代の怪談集『新御伽婢子』にもこの名がある。
火魂(ひだま) / 沖縄県の鬼火。普段は台所の裏の火消壷に住んでいるが、鳥のような姿となって空を飛び回り、物に火をつけるとされる。
渡柄杓(わたりびしゃく) / 京都府北桑田郡知井村(のちの美山町、現・南丹市)の鬼火。山村に出没し、ふわふわと宙を漂う青白い火の玉。柄杓のような形と伝えられているが、実際に道具の柄杓に似ているわけではなく、火の玉が細長い尾を引く様子が柄杓に例えられているとされる。
狐火(きつねび) / 様々な伝説を産んできた正体不明の怪光で、狐が咥えた骨が発光しているという説がある。水戸の更科公護は、川原付近で起きる光の屈折現象と説明している。狐火は、鬼火の一種とされる場合もある。
考察
まず、目撃証言の細部が一致していないことから考えて鬼火とはいくつかの種類の怪光現象の総称(球電、セントエルモの火など)と考えられる。雨の日によく現れることから、「火」という名前であっても単なる燃焼による炎とは異なる、別種の発光体であると推察されている。注目すべきは昔はそんなに珍しいものでもなかったという点である。
紀元前の中国では、「人間や動物の血から燐や鬼火が出る」と語られていた。当時の中国でいう「燐」は、ホタルの発光現象や、現在でいうところの摩擦電気も含まれており、後述する元素のリンを指す言葉ではない。
一方の日本では、前述の『和漢三才図会』の解説によれば、戦死した人間や馬、牛の血が地面に染み込み、長い年月の末に精霊へと変化したものとされていた。
『和漢三才図会』から1世紀後の19世紀以降の日本では、新井周吉の著書『不思議弁妄』を始めとして「埋葬された人の遺体の燐が鬼火となる」と語られるようになった。この解釈は1920年代頃まで支持されており、昭和以降の辞書でもそう記述されているものもある。
発光生物学者の神田左京はこれを、1696年にリンが発見され、そのリンが人体に含まれているとわかったことと、日本ではリンに「燐」の字があてられたこと、そして前述の中国での鬼火と燐の関係の示唆が混同された結果と推測している。つまり死体が分解される過程でリン酸中のリンが発光する現象だったと推測される。これで多くの鬼火について一応の説明がつくが、どう考えてもリンの発光説だけでは一致しない証言もかなり残る。
その後も、リン自体ではなくリン化水素のガス体が自然発火により燃えているという説、死体の分解に伴って発生するメタンが燃えているという説、同様に死体の分解で硫化水素が生じて鬼火の元になるとする説などが唱えられており、現代科学においては放電による一種のプラズマ現象によるものと定義づけられることが多い。雨の日に多いということでセントエルモの火(プラズマ現象)と説明する学者もいる。物理学者・大槻義彦もまた、こうした怪火の原因がプラズマによるものとする説を唱えている。さらに真闇中の遠くの光源は止まっていても暗示によって動いていると容易に錯覚する現象が絡んでいる可能性も指摘されている。
いずれの説も一長一短がある上、鬼火の伝承自体も前述のように様々であることから、鬼火のすべてをひとつの説で結論付けることは無理がある。
また、人魂や狐火と混同されることも多いが、それぞれ異なるとする説が多い一方、鬼火自体の正体も不明であるため、実のところ区別は明確ではない。 
●鬼火 2 
各地に伝わる怪火です。
鬼火について、『和漢三才図会』は『本草綱目』を引き、土に染み込んだ戦死者や牛馬の血が年月を経て化したものだとしており、同じく霊の変化である人魂や陰火とは別物としています。色は青、形は松明の火のようで、集まったり離れたりしながら人に近付いて精気を吸い、馬の鐙などを打ち合わせて音を立てれば消滅するとされています。炎の色は青とされることが多いようですが、それ以外の鬼火の話も残されています。また、狐火や人の怨念が燃えるもの、正体不明のものをも広く指して鬼火と呼ぶ場合もあります。  

 

●龍燈、龍灯、竜灯 1 
日本各地に伝わる怪火。主に海中より出現するもので、海上に浮かんだ後に、いくつもの火が連なったり、海岸の木などに留まるとされる。
主に龍神の住処といわれる海や河川の淵から現れる怪火であり、龍神の灯す火の意味で龍燈と呼ばれ、神聖視されている。
広島県の厳島神社の例では、旧暦の元旦から1月6日頃まで、静かな夜に社前の海上に現れるというもので、最初に1個現れた火が次第に数を増して50個ほどになり、それらが集まってまた1個に戻り、明け方に消え去るという。厳島では夜に多くの人がこれを見物し、特に島の最高峰である弥山からよく見えたといい、「龍燈」の名は、厳島神社で祀られている厳島明神が海神であるために、海神の住居である龍宮にちなんで名づけられたともいう。
磐城国(現・福島県)も出没地として知られている。磐城国の閼伽井岳山頂の寺から東を見ると、4里から5里(約16から20キロメートル)の彼方に海が見え、日暮れの頃、海上の高さ約1丈(約3メートル)の空中に提灯か花火の玉のような赤い怪火の出没する様子がよく見えるという。毎晩7、8個現れるが、必ず2個ずつ対になって現れ、1個目の龍燈が現れて3、4町(約327から436メートル)ほど宙を漂った後、2個目の龍燈が現れ、1個目の軌跡を沿って宙を漂うという。
寛保時代の雑書『諸国里人談』では、他にも龍が寺に火を献じる例が紹介されている。周防国(現・山口県東南部)上庄熊野権現には大晦日に龍燈が現れるといい、丹後国(現・京都府北部)の天橋立には文殊堂に「龍灯の松」と呼ばれる一本松があり、毎月16日の夜中、沖から龍燈が飛来してこの松に神火を灯すという。
橘南谿による江戸時代の紀行文『東遊記』によれば、越中国(現・富山県)では中新川郡の眼目山(さっかさん)という寺(立山寺(りゅうせんじ)の事)で毎年7月13日の夜、立山の頂上と海中から龍燈が飛来して境内の松の梢に留まるが、立山から飛来するものを山燈、海上から飛来するものを龍燈と称すると記している。その昔、道元の弟子の1人・大徹禅師がこの寺を開いた際、山の神と龍神が協力して神火を寺に献じることになったものといわれ、南谿は山燈と龍燈とが一度に現れるのは全国的に極めて稀なものであるとの当時の評判を伝える。
大阪では沖龍灯と呼ばれ、魚たちが龍を祀るために灯す火と言われている。
新潟県佐渡島新穂村(現・佐渡市)の伝説では、根本寺の梅の木に毎晩のように龍燈が飛来しており、ある者が弓矢で射たところ、正体はサギであったという。
ほかに龍燈の灯るとされる松や杉の伝承も日本各地に存在し、これらは龍神が寺社に神火を献じているといわれているが、更に南方熊楠は中国やインドにも同様の伝承があることを報告している。
常宮神社 - 福井県敦賀市
焼火神社 - 島根県隠岐郡西ノ島町
木余り性翁寺 - 東京都足立区
解釈​
柳田國男は、「龍灯」は水辺の怪火を意味する漢語で、日本において自然の発火現象を説明するために、これを龍神が特定の期日に特定の松や杉に灯火を献じるという伝説が発生したとし、その期日が多く祖霊を迎えてこれを祀り再び送り出す期日と一致することから、この伝説の起源は現世を訪れる祖霊を迎えるために、その目印として高木の梢に掲げた灯火であろうと説き、更に左義長や柱松も同じ思想を持つものと説く。
この説に反論する形で南方熊楠は、龍灯伝説の起源はインドにあり、自然の発火現象を人心を帰依せしめんとした僧侶が神秘であると説くようになって、後には人工的にこれを発生させる方法をも編みだしたが、それが海中から現れ空中に漂う怪火を龍神の灯火とする伝承があった中国に伝わって習合し、更に中国に渡った僧侶によって日本に伝来、同様の現象を説明するようになったものであるとし、また左義長や柱松は火熱の力で凶災を避けるもの、龍灯は火の光を宗教的に説明したもので、熱と光という火に期待する効用を異にした習俗であると説く。 
●龍燈 2 
夜間、海上より火の玉が飛び来り陸上に留まることあり、之を龍燈という。幡多郡足摺山寺本堂の前に「龍燈松天燈松」という二大木あり、暗夜海上より二つの火玉が来てこの松に留まったという、今は枯れたり。其外安芸郡野根村、龍王ガ峰、崎浜の仙崎、唐浜の神峰、これら皆な龍燈の上り来る所と申し伝う。長岡郡大谷の山中に燈籠の畷という所の山の腹に大岩あり、此所へも上るといい伝えらる。又一年安芸郡甲浦白浜にて夜分大風吹き沖の方より龍起りける。一面火の如く成りて通りけるに翌日見れば木など焦げる、龍の火たることいちじるし、これは龍燈とは多少異なるも参考に記す。 
●狂歌百物語・龍燈 
さしのぼる 梢の上の 龍燈に 鱗きらめく 橋立はしだての松(江戸崎 緑樹園)
かんてらも 幾尋いくひろあるか 消えずして 鯨の油 添はる龍燈(和風亭国吉)
のろしほど 軋きしめき出づる 龍燈に 龍たつの宮姫 笑みや含まん(鈍々舎香勝)
龍燈の 夜な夜な上がる 磯辺には 昼も鱗を 見する松が枝え(蟻賀亭皺汗)
眠らざる 魚うをの油や 照らすらん 見る人の目を さます龍燈(升目山人)
一群ひとむれの 螢とや見ん 海草の 腐りし中を 上がる龍燈(水々亭梅星)
龍燈は 鯨の油 添はりけん 七浦照らす 宮嶋の沖(神風や青則)
煙をも 立てゝ鱗を 三保の浦 磯辺の松を 照らす龍燈(水穂)
秋葉山 浮かべる灘の 龍燈は 天狗の業か 蜑あまが焚く火か(守文亭)
空や海 うみや空なる 久かたの 星の光に 紛ふ龍燈(紫の綾人)
法のりの場には 夜毎かゞやく 光明寺 鵜うの木の森に かゝぐ龍燈(五息斎無事也)
時の間に かく増えしとは 不知火の 筑紫の海の 龍燈の数(江戸崎 緑亀園広丸)
魚油 焚きぬる海士あまや 常に見る 沖に折々 龍たつの燈火ともしび(遠江見附 草の舎)
わだつ海みの 龍はあかしを 照らすらん 尾鰭の光る 魚の油に(京 獅々丸)
唐崎の 松に火ともす 龍燈も たちまち闇と 消ゆる一雨(哥居)
松浦潟まつらがた 領巾振山ひれふるやまの 蔦紅葉つたもみじ 昼も火ともす 龍燈の松(上毛板鼻 末広庵老泉) 

 

●海幽霊 
夏から秋の夜にかけて、沖合の海上を怪火が走ることがある。 
●船幽霊・舟幽霊  
日本全国各地に伝わる海上の幽霊が怨霊となったもの。江戸時代の怪談、随筆、近代の民俗資料などに多く見られる。山口県や佐賀県ではアヤカシと呼ぶ。
伝承​
ひしゃくで水を汲みいれて船を沈没させるなどと信じられた幽霊。水難事故で他界した人の成れの果てといい、人間を自分たちの仲間に引き入れようとしているという。その害を防ぐためには、握り飯を海に投げ入れたり、底の抜けたひしゃくを用意したりするなどの方法が伝えられている。土地により亡者船、ボウコ、アヤカシなどとも呼ばれる。同様に海の怪異として知られる海坊主も、地方によっては妖怪ではなく船幽霊の一種とされる。
その姿は地方や伝承によっていくつかに大別され、船と亡霊が水上に現れるもの、帆船など船そのものが亡霊として現れるもの(いわゆる幽霊船)、人の乗っている船の上に亡霊だけが現れるもの、海坊主や怪火として現れるもの、山や断崖などの幻影や怪音現象として現れるものなどがあり、以上の現象のいくつかが組み合わさった例も見られる。海上での伝承が多いが、海のない地方でも河、湖、沼に現れたともいう。高知県に伝わる鬼火の一種・けち火も船幽霊と見なされることがある。
現れるのは雨の日や新月または満月の夜、時化の夜や霧のかかった夜が多い。船として現れる場合は、船幽霊自体が光を発しているので、夜であっても船の細部まで確認できるという。また盆の十六日に操業していると死者が船縁に近づいてき船を沈めようとする。ほかにも霧の濃い晩に船を走らせていると目の前に絶壁、あるいは滑車のない帆船が現れ、慌てて避けると転覆したり暗礁に乗り上げるので、構わず真っ直ぐ突き抜けると自然に消えてしまう。
船を沈ませようとする以外にも、高知県幡多郡大月町では船のコンパスを狂わせるといい、富山県では北海道へ行く漁船に船幽霊が乗り移って、乗員の首を締め上げるという。愛媛県では船幽霊に遭ったとき、それを避けて船の進路を変えると、座礁してしまうという。また、かつては悪天候の日には船が遭難しないよう、陸地でかがり火を焚いたというが、船幽霊が沖で火を焚いて船頭の目を迷わせ、この火に近づくと海に飲み込まれて溺死してしまうという。
船幽霊を追い払う方法も土地によって様々な伝承があり、宮城県では船幽霊が現れたとき、こちらの船を止めてじっとにらみつけると消えるとされる。竿で水をかき回すと良いともいう。海に物を投げ込むと良いという説も多く、神津島では香花、線香、団子、洗米、水など、高知では灰や49個の餅、前述の高知の大月町では土用豆、長崎県では苫、灰、燃えさしの薪を投げこむという。また高知では、「わしは土左衛門だ」と言って自分が船幽霊の仲間と言い張ることで追い払うことができるともいう。愛媛では、マッチに火をつけて投げることで船幽霊を退散させたという。
古典​
江戸時代の奇談集『絵本百物語』では、西海に現れるという船幽霊を平家一門の死霊としている(画像参照)。平家は壇ノ浦の戦いで滅びたことで知られるが、関門海峡の壇ノ浦・和布刈間(早鞆)の沖では甲冑姿の船幽霊が現れ「提子をくれ」と言って船に取りついてきたといわれる。ひしゃくを貸すと船に水を汲み入れられるので、船乗りはこの海を渡るにあたり、椀の底を抜いて供えておき、船幽霊にはそれを渡して凌いだという。あるときに霊を憐れんだ法師が法会を行い、この怪異は失せたという。
江戸時代の知識人・山岡元隣は海上に火の玉や亡霊が現れる船幽霊についても朱子の朱子学を例に持ち言及しており、恨みを抱いて死んだ人が復讐を果たしてなお亡魂を残している例をいくつか挙げ、「かやうの事つねに十人なみにあることには待らねども、たまたまはある道理にして、もろこしの書にもおりおり見え待る」と結論している。煙は手に取れないが、積もって煤になれば手に取れる。気は質のはじめであり、気が滞って、形を成したり声を生じたりするのを幽霊と呼ぶ。もっともこの幽霊も滞った気が散っていくにしたがって消えうせるとしている。
近年の事例​
1954年に戦後最大の海難事故とされる洞爺丸事故が起きた後、事故後に就航した連絡船のスクリューに奇妙な傷跡が見つかるようになり、事故の犠牲者が船幽霊となってスクリューに爪を立てているという噂が立った事例がある(これは後に電蝕による傷と判明した)。この船幽霊は海ばかりか陸にも現れたといい、北海道の七重浜で夜中にタクシーに乗った全身ずぶ濡れの女性が、目的地に着くと姿を消し、洞爺丸の幽霊と噂されたという。また青森駅では、宿直室で寝ていた職員が窓ガラスを叩く音で目を覚ましたところ、窓ガラス越しにずぶ濡れの手が見え、「洞爺丸の犠牲者が救いを求めている」と慌てて逃げ帰り、翌朝にはその窓ガラスに手形が残っていたという。
また1969年には神奈川県の海で、白い人影のようなものが目撃されて「ひしゃくを下さい」と声が聞こえたといわれ、大学のヨット部の遭難した部員が、沈んだヨットから水を汲み出したがっているといわれた。
民俗学からの観点​
民俗学者・花部英雄によれば、船幽霊の出現は風雨や濃霧の晩、急に天候が悪化したときに多く、こうした状況下では事故が発生しやすく話に現実味が加わり、不気味さや不安感をかきたてるため、僅かの怪異も伝承の枠の中に組み入れて幻影・幻想を現実として語ったりするとされる。出現時期に盆が多いのは精霊船のイメージと重なるためとされる。しかしその根底には、祀られることの無い水死者の霊が浮遊していて船幽霊に化して現れる死霊信仰があり、盆や大晦日あるいは特定の日などの禁漁日に海に出てはならない、また近づいてはならない海域に出現する、などの禁忌を犯した場合の戒めにあるとしている。
正体についての学説​
船幽霊が船に取り憑いて動きを阻むともいわれるが、これは現代ではある程度の科学的な説明がなされており、内部波による現象とされている。例えば、大河の河口に近い海域ではその影響により塩分濃度の小さい水域ができるが、塩分濃度の低い水は比重が軽いので通常の海水の上層部(海面)に滞留し、しかも双方の水は簡単に混じり合わず、はっきりした境界面を形成する。その境界面付近に船のスクリュープロペラがある場合、いくら回転させてもエネルギーは水の境界をかき乱し、内部波を作るだけに消費されて、結果として船が進まなくなるというものである。極地方で氷が溶けて海水中に流れた場合にも同様の現象が起こることは極地探検家のナンセンも記録している。このように、塩分、水温、水圧などによる海水の密度の変化に伴う内部波が船の前進を妨げるという説が唱えられている。
各地の船幽霊​
いなだ貸せ(いなだかせ) 福島県沿岸。「いなだ(ひしゃく)貸せ」と船上の人に話しかける。「いなだ」とは船で用いられるひしゃくのことで、これに穴をあけて渡さないと、たちまち船に水を入れられて沈没させられてしまう。
ムラサ 島根県隠岐郡都万村(現・隠岐の島町)。この地では、潮の中に夜光虫が光っている様子をニガシオというが、その中にボーっと光りながら丸く固まっているものがムラサである。船が上に乗りかかるとパッと散らばってしまう。また、夜に突然にして海がチカッと光って明るくなることがあるが、これはムラサにとりつかれたためであり、竿の先端に刀や包丁をつけて海面を数回切るとよいという。
夜走り(よばしり) 山口県阿武郡相島(現・萩市)。船が白い帆をまいて走ると、一緒に走って来る。灰をまいて音をたてると退散する。
ウグメ 長崎県平戸市、熊本県御所浦島などの九州地方。船がこれに取り憑かれると航行が阻まれるといい、平戸では風もないのに突然帆船が追いかけて来るともいう。九州西岸地方では船や島に化けるともいう。この怪異を避けるために平戸では灰を放り込むといい、御所浦島では「錨を入れるぞ」と言いながら石を投げ込み、それから錨を放り込むという。煙草を吸うと消えるともいう。淦取り(あかとり。船底にたまる水を取る器)をくれといって現れるともいい、淦取りの底を抜いて渡さないと船を沈められるという。
迷い船(まよいぶね) 福岡県遠賀郡、同県宗像市鐘崎。盆時期の月夜の晩、海に帆船の姿となって現れるもの。怪火が現れたり、人の声が聞こえることもあるという。
亡霊ヤッサ(もうれんヤッサ) 千葉県銚子市、海上郡(現・旭市)。霧の深い日や時化の日に漁船のもとに現れる船幽霊で、海難事故の水死者の霊が仲間を増やそうとしているものといわれる。「モウレン、ヤッサ、モウレン、ヤッサ、いなが貸せえ」との声が船に近づき、突然海から「ひしゃくを貸せ」と手が飛び出すが、やはりひしゃくを貸すと船を沈められるので、底を抜いたひしゃくを渡すという。「モウレン」は亡霊、「いなが」はひしゃくの意味で、「ヤッサ」とは船を漕ぐ掛け声。妖怪漫画家・水木しげるの著書での表記は「猛霊八惨」(もうれいやっさん)であり、水木の出身地・鳥取県境港市ではこの猛霊八惨を鎮める祭礼も開催されている。
ミサキ 福岡県などでは船幽霊の一種とみなされている。
なもう霊(なもうれい) 岩手県九戸郡宇部村小袖(現・久慈市)に伝わる海に出没する黒い船とともに現れる妖怪で、時化(しけ)の時などに櫂(かい)をよこせと無理をいうが、返事をしたり、櫂を貸してはならないとされる。
日本以外の類似怪異​
『桂林漫録』(寛政12年)の記述として、「覆溺(ふくでき)して死せる者の鬼(ここでは幽霊を指す)を覆舟鬼ということ」、「海外怪妖記に見たりと」とあり、日本人によって船幽霊に当たる怪異が中国にもあったことが記されている。また、中国には、「鬼哭灘(キコクタン)の怪」という怪異の伝承があり、はげた怪物が舟を転覆させようとするとされる(こちらは海坊主に近い)。  
●狂歌百物語・船幽霊 
生魚を 積み来る船も 腐つたる 匂ひたまらぬ 夜半の幽霊(花前亭)
乗りし人 覆さんと 取りつくは 船幽霊の 罪の面楫(和風亭国吉)
襟元へ 水かけらるゝ 心地せり 柄杓貸せてふ 船のこわねに(江戸崎 有文)
底ぬけの 柄杓を借りて 酒船へ 水を割らんと 出づる幽霊(雲井園)
友盛の 姿か何か 白浪に 船を泊めたる 怒り顔にも(於三坊菱持)
落ち入りて 魚の餌食と なりにけん 船幽霊も なまぐさき風(桃江園金実)
幽霊に 投げてやつても 垢柄杓 また底気味の わるき船頭(扇風)
おのが身を 沈めし海を 乗る船に 浮かまんとてか 縋る幽霊(南向堂)
浮かまんと 船を慕へる 幽霊は 沈みし人の 思ひなるらん(下毛葉鹿 其春)
罪ふかき 海に沈みし 幽霊の 浮かまんとてや 船に縋れる(美雄)
傾げたる 重身に海を 浮かばれぬ 怒りの見ゆる 友盛の霊(栄寿堂)
伊勢の海 柄杓の底の 抜参り 船幽霊ぞ 一文も無き(花門改 注連春雄)
船ゆれて 水泡喰へとの 武蔵坊 弁慶祈る 友盛の霊(有恒)
恨めしき 姿は凄き 幽霊の 楫を邪魔する 船の知盛(無多垣壁成)
幽霊は 黄なる泉の 人ながら 青海岸に などて出づらむ(日光 不二門守黙)
沈みては 浮かむ瀬のなき 幽霊の 青錆見ゆる 新中納言(南寿園長年)
沖遠く たゞよふ船は 幽霊に 取らす柄杓も 底しれぬ海(星屋)
南無三と 逃げる船足 早けれど 船幽霊も やはり足なし(近江日野 淡海敬喜)
大物の 浦みの浪に 友盛の 怒りに船を 停むる幽霊(松楳亭槙住)
幽霊は 酒舟に来て わめくゆゑ 出だす柄杓も 底抜け上戸(雛好)
罪ふかき 水屑の中に 染まりけん 出づるも青き 幽霊の顔(南伊勢大淀浦 松也)
幽霊の 叫ぶを聞きて 乗る船の 下は地獄の 思ひありけり(常陸大谷 稜威千別)
弁慶の 数珠の功力に 友盛の 姿も浮かむ 船の幽霊(語吉窓喜樽)
幽霊に 貸す柄杓より いち早く 己が腰も 抜ける船長(結城 椿園)
罪ふかき 海にさまよふ 魂は そも弘誓の船に 乗りかねにけん(常陸大谷 千別)
船底の 板の下なる 地獄より 浮かまんとてや 出づる幽霊(常陸村田 緑洞園菊成)
奈落まで 深く沈みて 恨むなり 波に浮かべる 船の幽霊(上総大堀 可明)
其の姿 錨を負ひて つきまとふ 船の舳先や 知盛の霊(蝶々舎登麻呂)
なうなうと 声もかすかな 幽霊に 艫にひつくり かへる船人(五常亭真守)
西海の 水屑となりて 平らなる 浪も逆立つ 船の幽霊(秋田舎稲守) 
 
 

 

●東北地方
●もる火  青森県五所川原市
青森県五所川原市でいう怪火で、もり火とも呼ばれます。
雨の夜、水死や首吊りのあった場所に現れる真っ青な火で、化物の中で最も恐ろしいものだといわれています。頭から胴にあたる部分は人の指より太いほどで、足に当たる部分がぶらりと下がっています。空中を浮遊しており、悪口を言った人についてまわります。打てば細かく砕けますが、それでも人についてくるといいます。もる火に出会った場合には念仏を唱えるか、灯火のある部屋に入ればよいとされています。  
●モンジャ  青森県津軽地方
青森県の津軽地方の海岸に伝わる怪異で、海で死んだ人間の魂が家に帰って来ることをいう。こうした伝承については、津軽の民俗学者・森山泰太郎の著書『津軽の民俗』などに記述がある。名称は「亡者」を意味する。
東津軽郡石崎ではこの亡霊の帰還を「モジャビ(亡者火の意)」ともいう。これが家へ帰って来る際には、庭で足をたたくような音がして「寒いから火を焚け」などと声がするという。
西津軽郡舘岡村(現・つがる市)では「モレビ(亡霊火の意)」と呼ぶ。夜中に大戸を叩くものであるという。あるとき、漁師が海に流されて死に、その夜中に家の大戸を叩く音がした。家人が外に出ても誰もおらず、モレビの仕業といわれた。
同郡鰺ヶ沢町では「モジャ」ともいい、これが家へ帰って来ると、台所の板の間でバタバタと着物の砂を払う音がして、流しでザーッと手を洗う音がするという。また同町では、「モジャ」は人間に憑くともいう。ある者が夜、全身に水を浴びたように寒くなり、体の震えが止まらないので、ゴミソ(男性の祈祷師)に相談したところ「4人組の海のモンジャが、誰も供養してくれないので、なんとかしてもらいたくて憑いている」とのことだった。
北津軽郡小泊村(現・中泊町)では、浜辺で火を焚くとモンジャが火にあたりに来るといわれた。あるとき、沖合いで漁船が沈没し、漁師の遺族たちが浜辺で火を焚くと、伝承の通りにモンジャが現れたという。
「モジャビ」「モレビ」などは火を意味する名前が付いているものの、『津軽の民俗』にはこれらが火をともなって現れたという記述はない。しかし後述のように、他の地方には同じく「亡霊火」といって、遭難者の霊が海上で火をともなって現れる伝承があるため、『津軽の民俗』は家に帰って来る事例のみが記載されているのであって、津軽のモンジャも海では火となって現れるという可能性も示唆されている。
風習​
モンジャの伝わる地方では、海、山、川で誰かが死んだときなど、人間が不慮の死を遂げた際には、その魂がその場に残るといわれており、遺体をその場から運び去った後に、改めて魂を迎えに行くという風習があった。
遺体が失われた場合でも、死者は手向けを期待して家の近くをさまようといわれたため、必ず遺体のかわりに身代わりのものを葬り、懇切な供養が行われていた。たとえば鰺ヶ沢町では、海で死んだ者の遺体が発見されなかったときは「シルシをヤスメル」といって、煙草入れ、枕、丹前などのように、普段から身に着けていたものを墓に納めて葬った。
西津軽郡田ノ沢でも同様の事故が起きた際や、山中で人が遭難して死んだときなど、家を離れて死んだ者がいるときには、供養のために海岸の丘に後生車を立てており、それを通行人がまわすと、死者は早くに浮かばれるといわれた。また海難者の出たある家では「16日のアカツキボカイ」といい、盆の16日の朝、死者の数だけ人形を作り、小さな舟に乗せて流す風習があった。
類話​
青森県五所川原市では、水死や首吊りのあった場所には、雨の夜に「もる火」または「もり火」という怪火が現れるといわれ、地元ではもっとも恐ろしい化け物といわれている。これに対して悪口を言うと、その人について回る。打てば細かく砕けるが、やはり人について回る。念仏を唱えると去るといい、灯火のある部屋には入ってこないともいう。
宮城県牡鹿郡女川町や鹿児島県でいう「亡霊火(もうれいび)」は船幽霊に類するもので、遭難者の霊が帆船などの姿となり、夜の海を行く漁船の前に急に現れ、漁船がそれを避けようとしてもまた前に現れ、やむを得ず船を止めると、それは船の形を失って燐光となり、遠くへ走り去るという。 
●スウリカンコ  青森県八戸市大館塩入 
青森県八戸市大館塩入に伝わる怪火。名は「汐入村のカン子」の意。かつてカン子という美女が多くの男性から求婚されたが、好きな男がいるために断ったところ、それを不快に思った男たちにより新井田川に生き埋めにされ、以来、この怪火が飛ぶようになった。後にその場所には磐城セメントの工場が建った際、カン子を弔う祠が建てられたという。 
●尻屋埼灯台 1  青森県下北郡東通村 
[しりやざきとうだい] 青森県下北郡東通村の尻屋崎に存在する灯台で1945年に米軍に空襲され運用不能になったにもかかわらず、1946年夏に夜になると光りだすことが確認され、灯台長代理が公文書「灯台の怪火について」として灯台局に報告された。8月に仮復旧し謎の光はなくなった。  
●尻屋埼灯台 2  
青森県下北郡東通村の尻屋崎の突端に立つ白亜の灯台で、日本の灯台50選に選ばれている。「日本の灯台の父」と称されるブラントンによって設計された、二重のレンガ壁による複層構造の灯台となっている。周辺には寒立馬(かんだちめ)と呼ばれる馬が放牧されており、一帯は景勝地となっている。
歴史​
1876年(明治9年)10月20日:東北最初の灯台として初点灯。なお、参考文献での表記は「尻矢崎」となっている。
1877年(明治10年)11月20日:日本で初めて霧鐘が設置される。
1879年(明治12年)12月20日:日本で初めて霧笛が設置される。これを記念して12月20日が霧笛記念日となっている。
1883年(明治16年)10月24日:隕石が落下しガラス損傷。
1889年(明治22年)4月12日:灯明変更。
1901年(明治34年):日本初の自家発電の電気式灯台になる。 11月2日:灯器変換工事のため仮灯点灯。12月20日:工事落成により本灯点灯。
1908年(明治41年)1月1日:船舶通報事務取扱開始。
1923年(大正12年)6月30日:燭光数変更。
1932年(昭和7年)2月11日:無線方位信号所業務開始(無線標識・無線羅針)。
1945年(昭和20年):米軍の攻撃により破壊。運用不能になる。
1946年(昭和21年) 夏:破壊されたはずの灯台が光を放つ怪現象が起こる。8月20日:霧信号舎屋上に仮設の灯火を点灯する。同時に怪現象も消える。11月23日:仮灯の灯質変更。
1947年(昭和22年) 1月18日:仮灯消灯、無線方位信号所業務休止。2月15日:等質変更の上仮灯点灯。3月14日:無線方位信号所業務再開。4月28日:仮灯の灯質変更。
1949年(昭和24年) 6月15日:船舶気象通報放送開始、偶数時の2分から4分まで。9月23日:灯塔が復旧し本灯点灯、仮灯撤去。
1976年(昭和51年):点灯100周年。
2007年(平成19年)4月10日:無線方位信号所(レーマークビーコン)廃止。
2016年(平成28年)9月:気象通報業務の廃止。
2017年(平成29年)6月28日:国の登録有形文化財となる。
2018年(平成30年)6月1日:一般公開が始まり、参観灯台の一つとなる。
2019年(平成31年)3月:ディファレンシャルGPS局を廃止。
まぼろしの灯台​
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)に米軍機の機銃掃射を受けて、当時勤務していた村尾常人標識技手が殉職した。翌1946年(昭和21年)、攻撃を受け破壊しつくされたはずの灯台が光を放ち、その目撃が相次いだ。謎の光のおかげで付近を航行中の漁船が遭難を免れたということもあった。人々は米軍の攻撃時に殉職した村尾標識技手の霊なのではないかと噂した。当時の灯台長が公文書「灯台の怪火について」を灯台局に報告した。同年8月に霧信号舎屋上に仮の灯りを点灯すると同時にこの現象は消えた。なお、灯台には銃撃の跡が今でも残る。 
●古籠火 1  山形県 
[ころうか] 鳥山石燕の『百器徒然袋』にある日本の妖怪。石灯籠の上に座り火を口から吐いているすがたで描かれている。灯籠の火の妖怪として石燕が描いたものであると考えられている。「古戦場には汗血(かんけつ)のこりて鬼火となり、あやしきかたちをあらはすよしを聞(きき)はべれどもいまだ灯籠の火の怪をなすことをきかずと」と石燕は記しており、特に典拠とした古文献はないようである。
古屋敷の古籠火
小説家・山田野理夫の著書には「古籠火」(ころうび)と題し以下のような話が山形県のものとして紹介されている。上之山藩の田村誠一郎という武士が江戸から国もとの勤めに変わり、新しく屋敷が立つまで古屋敷に住むことになった。その古屋敷で家族で夕食をとっていたところ、庭が急に明るくなった。誰かが火を入れたのかと田村が尋ねたが、誰も火を入れていなかった。老いた奉公人が言うには、あれは古籠火というもので、古びた灯籠がしばらく火を入れてもらえないと、ひとりでに火が灯るのだという。
この山田の著書にある話は、水木しげるの著作における古籠火(ころうび)の解説でも引用されている。 
●古籠火 2 
――それ火に陰火(いんくわ)、陽火(やうくは)、鬼(き)火さまざまありとぞ。わけて古戦場(こせんじゃう)には汗血(かんけつ)のこりて鬼火となり、あやしきかたちをあらはすよしを聞はべれども、いまだ燈籠(とうろう)の火(ひ)の怪(くはい)をなすことをきかずと、夢の中におもひぬ。――鳥山石燕『百器徒然袋』
古籠火は、石灯籠が鬼火のような火の妖怪。年月を経た石灯籠が付喪神になったと類推される。
小説家・山田野理夫の著書『古籠火』(ころうび)と題し、山形県の怪談が以下のように述べられている。田村誠一郎という武士が江戸から国許の勤めに変わり、新しく屋敷が立つまで古屋敷に住むことになった。その古屋敷で家族で夕食をとっていたところ、庭が急に明るくなった。誰かが火を入れたのかと田村が尋ねたが、誰も火を入れていなかった。老いた奉公人が言うには、あれは古籠火というもので、古びた灯籠がしばらく火を入れてもらえないと、ひとりでに火が灯るのだという。 
●亡霊火 1  宮城県牡鹿郡女川町・鹿児島県 
亡霊火(もうれいび)は海上遭難者の亡霊が船になったものである。夜間に漁船が航行していた時、前面に帆船が突然現れた。衝突を避けようとして方向を転じると、さらにその前面に現れる。やむなく停船して凝視すると、忽然として船の形ではなくなり、遠くを燐火が走っていくのが見えたという。 
●亡霊火 2 
後述のように、他の地方には同じく「亡霊火」といって、遭難者の霊が海上で火をともなって現れる伝承があるため、『津軽の民俗』は家に帰って来る事例のみが記載されているのであって、津軽のモンジャも海では火となって現れるという可能性も示唆されている。 ...
宮城県牡鹿郡女川町や鹿児島県でいう「亡霊火」は船幽霊に類するもので、遭難者の霊が帆船などの姿となり、夜の海を行く漁船の前に急に現れ、漁船がそれを避けようとしてもまた前に現れ、やむを得ず船を止めると、それは船の形を失って燐光となり、遠くへ走り去るという。 ... 

 

●関東地方
●火の玉・ひかり玉  群馬県利根郡みなかみ町 
群馬県利根郡みなかみ町。ループトンネルのある山で、6人いっぺんに火の玉を見た。1尺(30p)ほどの大きさだった。何かあると思ったが、その日、トンネルの事故で人が死んだ。  
●善導寺  群馬県
特異な形をした岩櫃山の麓に善導寺はある。創建は貞治年間(1362〜1368)、吾妻太郎が開基とされる。この寺には吾妻一族にまつわる怪異があると伝えられている。
永禄6年(1563年)、甲斐の武田信玄は上野国への侵攻を本格化させ、岩櫃山にある岩櫃城攻略を目指した。派遣されたのは主将の真田幸隆以下、約3000の兵であった。
堅城を誇る岩櫃城は力攻めでは落ちない。一旦和議を結び、幸隆は内応に応ずる者を求めて調略を図った。それでも事が上手く運ばないため、再度城を取り囲んで水路を断つ策に出たが、一向に埒が開かない。幸隆は、城内に水を運び入れる場所があるとにらんだ。そこで城との和議に際に交渉役に当たった善導寺の住職に尋ねたところ、水利の秘密をいとも簡単に喋ってしまった。武田勢は水路を断つと、たちどころに城内は動揺。ほどなくして城主が逃亡して落城となったのである。
それからしばらくして善導寺は火事を起こして焼け落ちた。人々は岩櫃城落城の祟りであると噂した。その後、善導寺では本堂を再築するたびに火事が起こった。記録によると慶長4年(1599年)、寛文3年(1663年)、享和3年(1803年)、天保8年(1837年)、明治35年(1902年)と5回も起きている。しかも出火の原因は不明であり“鳥が火のついた物をくわえて飛んできた”とか“火の玉が飛び込んでいった”とかいう怪異の噂が立つばかりであった。明治の大火の時も“本堂から火の玉がいくつも落ちてきたと思ったら、手の着けようもない猛火となった”という話が伝わっているという。
現在は明治の大火以来の本堂が新しく建てられている。 
● 炎石  茨城県・西福寺 
[ほむらいし] 西福寺は寛永9年(1632年)に了学上人の隠居所として建立された浄土宗の寺院である。その山門付近に一基の板碑が置かれている。
この板碑は明治4年(1871年)に廃寺となった妙見寺にあったものを移したとされ、さらにその元を辿ると、同市蔵持にある3基の板碑と並んで神子女引手山にあったものとされる。
建長5年(1253年)、時の執権・北条時頼は民生安定のためにこの地に豊田四郎将基の供養碑を建てた。その際に時頼は、いまだ平将門が祀られていないことを聞き及び、自らが奏上して勅免を得ると、千葉胤宗に命じて将門の赦免と供養のための板碑を建てるように命じたのである。さらに翌年と翌々年には、豊田氏・小田氏といった将門所縁の一族によって板碑を建て、その次の年にも将門の父である良将の供養のために板碑を建てた。この4年続けて建てられた板碑のうち、建長6年の板碑だけが妙見信仰の縁で妙見寺に移され、さらに西福寺に置かれているのである。
この建長6年の板碑には「炎石」の別名が残されている。天保年間(1831-1845)のこと。ある旗本がこの石を気に入り、縄を掛けて持ち運ぼうとした。ところがその夜、突然この石が炎を噴き出したため、旗本は恐れおののいて逃げたという。それ以来、この板碑は「炎石」と呼ばれるようになり、将門公の霊が籠もっていると信じられるようになった。さらにはこの石に縄を掛けると病が治るという言い伝えも出来たという。 
●王子の狐火  東京都北区王子 
江戸郊外、東京都北区の王子に現れる狐火にまつわる民話の伝承のこと。王子稲荷は稲荷神の頭領として知られると同時に狐火の名所とされる。現在では、大晦日の夜に地元の人々によって狐の行列が催されている。
民話​
かつて王子周辺が一面の田園地帯であった頃、路傍に一本の大きな榎の木があった。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)の狐たちがこの木の下に集まり、正装を整えると、官位を求めて王子稲荷へ参殿したという。その際に見られる狐火の行列は壮観で、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられている。
この榎の木は「装束榎」(しょうぞくえのき)と呼ばれ、よく知られるところとなり、歌川広重『名所江戸百景』の題材にもなった。
歴史​
   伝承の描写の初出​
王子と狐とが一緒に登場する最も古い資料は、寛永期に徳川家光の命により作られた『若一(にゃくいち)王子縁起』という王子神社の縁起絵巻である。この絵巻の原本は存在しないが、精巧な模本が紙の博物館にあり、その奥書によれば作成作業は堀田正盛(加賀守)のもとに春日局の甥で斉藤三友(摂津守)をもって遂行されたとある。また文は林道春がかかわり、絵は狩野尚信が描いたことが知られる。絵巻の完成は寛永十八年(1641年)七月十七日だった。
『若一王子縁起』絵巻は王子神社についてのものだが、すぐそばの王子稲荷神社も別当寺金輪寺の持ちであったために、下巻にその社のたたずまいと、その前道筋に集まり来たる諸方の命婦(狐)の絵がある。絵には、稲荷社前の道筋のあちこちに狐火を燈した複数の狐と松の木の下にも二匹の狐が描かれている。そして「諸方の命婦、此の社へ集まりきたる」とあり、下札には「毎年十二月晦日の夜、関東三十三ケ国の狐、稲荷の社へ火を燈し来る図なり、この松は同夜狐集まりて装束すと言伝ふ」と狐の集合が説明されている。なお、大田南畝は『ひともと草』に「むかしは装束松といひしも、今はいつしか榎にかはれり」と書いている。
狐火の絵は、この絵巻を彩るためだけに描かれたものではなく、縁起を作るに先んじて寛永期の幕府の役人が王子の狐火の調査に来たという事実により、当時広く流布していた伝承の表現だったと知れる。
   寛政改革による民話の変節​
絵巻の完成後約150年経った寛政3年(1791年)になって、王子稲荷社が実際に諸国三十三ケ国の稲荷社の総社であったかどうかの社格の是非を幕府が問題にした。寺社奉行の松平輝和が老中松平定信に進達した「王子稲荷額文字之儀ニ付、金輪寺相糾候申上候書付」で始まる文書(以下、「進達文書」と記す)にその内容が示されてある。「進達文書」には、王子稲荷が自社について「東国惣司ト称シ候濫觴」、つまり王子稲荷が東国惣司と自称しているとあり、これは王子稲荷が「関東稲荷惣司」との源頼義の文言を「東国稲荷惣司」(とうごくいなりそうつかさ)と平安時代以来認識し自認してきたことを意味する。王子稲荷社は三十三ケ国伝承にまつわる額や幟(のぼり)などを没収され処罰を受けた。
幕府の王子稲荷神社調査記録の「進達文書」は、王子と狐の民話が古くは「東国三十三ケ国からの狐集合」だったことを示すが、これ以降、世上、王子の狐民話は狭く関八州の物語として伝わるようになり現在に至る。ただし、当の王子稲荷社自身は門石に「康平年中、源頼義、奥州追討の砌(みぎ)り、深く当社を信仰し、関東稲荷惣司と崇む」と刻み、往古と変わらぬ社歴を今に伝えている。
   装束榎の碑と装束稲荷​
狐が集まったとされる榎の木は明治時代中頃に枯死した。昭和4年(1929年)には道路拡張に伴い切り倒され、「装束榎」の碑と「装束稲荷神社」と呼ばれる小さな社が停留所の東部に移されている。一帯は戦前には榎町と呼ばれてもいた。
王子狐の行列​
地元王子では1993年より毎年、大晦日の夜から元日にかけて「王子狐の行列」と呼ばれるイベントが催されている。狐顔メイクまたは狐面を身につけた裃姿で、装束稲荷から王子稲荷へ参詣する。 
●皿数え  東京都 
鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』にある怪火。怪談で知られる『皿屋敷』のお菊の霊が井戸の中から陰火となって現れ、皿を数える声が聞こえてくる様子を描いたもの。  
●狂歌百物語・皿屋舗 
皿やしき 夜も九ツの 時廻り 震へて数も 合はぬ拍子木(花前亭)
九つと 聞くのも凄し 皿の数 お菊がこわす 丑三ツの鐘(宝珠亭船唄)
そこねたる 皿一枚の あやまりに 菊が命ぞ 終りやきなる(善事楼喜久也)
生ぐさき 風に女の 亡き魂の 影は人魚に 似し皿屋舗(守文亭)
聞く夜毎 みな伏柴ふししばの 僂かがなへる 皿に懲りたる 嘆きする声(草加 四角園)
残りたる 其の一念を 不足せし 皿の数にも 合わせてしがな(桃太楼団子)
さらさらに さらに恨みを 晴らせ菊 足らぬ勝がちなる 今の世の中(青則)
怨念の 出でしと聞くは 昔にて 更に気けの無き 今の番町(笑寿堂春交)
古井戸の 底気味わろき 水際に 皿の欠けほど 残る月影(和木亭仲好)
不足した 数に姿を 引きかへて 目も皿のごと 凄き古井戸(仝)
数へつる 皿も九ツ 八ツ過ぎは 身の毛もよだつ 寐ずの番町(狂蝶亭春里)
恨みをも 並べていふか 皿屋鋪 数へては泣き 数へては泣き(青梅 六柿園)
底知れぬ 井戸の声ある 皿屋鋪 深き思ひを 汲みてこそ知れ(駿府 東遊亭芝人)
念仏の なんまいだてふ 破われ声に むかし弔ふ 皿やしき跡(清明堂喜代明)
生臭き 風も吹くらん 皿屋鋪 わりたる魚うをの 香も失せずして(鬼面亭角有)
深きわけ 井戸にあるらん 皿屋鋪 聞けば底気味 悪くこそあれ(有恒)
十枚と 見つれば欠くる 皿屋鋪 いづれ愚昧の 世にぞ有りけり(腹光)
初霜に 枯れゆく菊は 怨念も 朧に白き 袖の見ゆらん(八王子 檜旭園)
目の前に 因果は廻り 車井くるまゐの 去らぬ恨みの 菊が怨念(松梅亭槙住)
さらさらと 言はずに数を 九つと 聞くさへ井戸に 沈む破声われごゑ(無多垣壁成)
恨めしと いふ声菊が 姿かと 見れば尾花の 動く井の本(語実亭人芳)
焼継やきつぎを したなら憂き目 見ざりしを さうとは更に 思はざる菊(石公舎古龍)
屋敷跡 年を経る井に 菊が霊 目を皿にして わめく破れ声(花都堂吉雄)
かぞへぬる 皿の数さへ 九つの かねて恨みを 菊が怨念(喜樽)
瀬戸物の 時代もよほど 古屋敷 皿を数へる 菊が怨念(藤紫園友成)
皿ゆゑに 井戸へ命を 捨て鐘の 音も哀れに 菊が怨念(筬丸)
十枚の 皿を一枚 割る企たくみ その執念ぞ 深き古井戸(文昌堂尚丸)
かぞふれば 数の減りにし 残り菊 はかなく褪せる 霜の剣に(佐野 糸屑)
皿ゆゑに 身を損ねたる 怨念の 恨みの数を 並べてぞ出る(宝市亭)
足らざりし 皿の思ひは 残るとも さらに屋敷の 跡にこそなき(団子)
錦手にしきでの 皿を数ふる 古井戸に 青紅あをくれなゐの 鬼火燃えけり(弓の屋)
さらさらと 雨のふる夜は 消えぬだに 猶袖ぬらす 皿屋敷なり(草加 四豊園稲丸)
皿屋敷 さらに姿は 見えねども 声はなゝ八つ 九つの鐘(於三坊菱持)
ぞつと吹く 秋風寒し 番町に 聞く拍子木の 数も九つ(花の門)
執しふねきの 深き恨みを 皿々に 忘れ兼ねつゝ 出づる魂たまかも(水々亭楳星)
秋草の 錦手染める 皿屋敷 あはれ悲しき 声も聞くかな(桜園春世)
九枚まで 夜ごと数へる 井戸の底 深い謂いはれを 聞く皿屋敷(裏のや宿守)
幽霊の 面影見せて 皿やしき 立てる柳の 色の青山(常陸村田 松風軒村藤)
幾年に なるかとばかり 皿屋敷 指を折りつゝ 数へてぞみる(栃木今泉 東枡亭玉泉)
後の世の おとし咄ばなしに 割れるほど 其の名を残す 皿屋敷かな(谷町山住)
聞くたびに 哀れなりけり 皿やしき 底気味悪き 井の内の色(匂々堂梅袖)
古井戸は 名のみ残れど 皿やしき 八つ九つは 人も通らず(静川亭雪橋)
声凄く 伊予の湯掛ゆがけの 右左みぎひだり 八つ九つと 皿数へけり(上総 大堀可明)
幾度も 数へ数へて 皿やしき 九つよりぞ いとゞ寂しき(青梅 尺雪園旧左)
化けて出る 評ばん町の 皿屋敷 数読む声の 哀れをぞ聞く(記長喜)
かぞへても 数足らじとて 泣く声を 聞くも怖ろし 皿屋敷かな(淡海の屋)
屋敷跡 七つ八つと 数へぬる 更地の井戸の 声の哀れさ(蔭芳)
怖ろしや 人に恨みを かけ皿の 数をかぞへる 闇の番町(豊のや) 
●火忌みさま・亡霊  東京都大島泉津村  
大島の泉津村で一揆が起こったとき、30人あまりが神津島に流されることになったが、1月24日に暴風雨のために全員が海に消えた。その亡霊が泉津村にくるので、24日の晩は海を見てはいけないといわれている。もし、船を見ると祟りがあるといい、この晩は真っ暗にして火をたかない。また、日が暮れると戸を閉じで外出しないのだという。 
● 唸り松・怪火  千葉県成田市  
千葉県成田市。「唸り松」といわれる木が声を発するというので、ある男が確かめに行ったが何もなかった。家に帰ろうとすると大男がついてきたので彼を倒した。家へ着くと怪火が起きたが退治した。それから木が唸らなくなったという。  
●人魂の森  千葉県
千葉県、伝説の地(匝瑳地区大浦)。宮和田(みやわだ)に、こんもりと繁った森がある。 
この森は、人魂(ひとだま)の森と呼ばれて、一本一本の木が人間ではないかと言い伝えられている。
その昔、一人の木こりが、この森へ入っていった。「この森には、ずいぶん良い木があるぞ」 木こりは、吸い込まれるように森の奥へ入って行った。しばらく行くと、何かまっ黒で大きなものにぶつかった。「あれえ、おったまげた。こんなでっけえ松の木は見たことがねえ。よし、これから切ることにしべえ」「ギーコ」、「ギーコ」 木こりは、この森で一番大きな松の木を切り始めた。すると中頃まで切った時、「何だっぺ。何か赤いものが出て来たぞ。うわあっ、血、血、血だあっ」何と、松の木からどろどろとした真っ赤な血が流れ出て来た。木こりは、気味が悪くなり、のこぎりをおいて一目散に家へ逃げ帰って来た。
それ以来、夜になると、この森の上を青白い魂(たましい)が、ふわり、ふわりとさまよい飛んでいたと言われる。また、血の出た松の木の中には、この森の主である大蛇がいたとも伝えられる。
村人は、この森を『人魂の森』とか、『ヘビの森』とか言って、近づかなかったそうだ。おかげで今でもこの森は、ひっそりとした寂しい森のままである。 

 

●中部地方
●猫股の火・猫又の火  新潟県 
[ねこまたのひ] 越後国(現・新潟県)に伝わる怪火。宝永年間の怪談集『大和怪異記』に記述がある。「猫股の火」の名は漫画家・水木しげるの著書によるもので、原典は「猫人をなやます事」と題されている。
ある武家で、毎晩のように正体不明の火の玉が出没していた。大きさは手毬ほどで、床から高さ3寸(約9センチメートル)ほどの空中を漂っていた。寝ている家人の部屋に入り込むこともあった。
また火が現れるだけでなく、人がいないはずの部屋で物がひとりでに動いたり、夜に眠っていた者が、朝になると寝ている姿勢が正反対になっていた、といった奇妙な出来事も起こるようになった。
この武家の主人は、こうした怪事件に怯むような者ではなかった。しかし噂が広まり、それを迷惑に思った主人は、火の玉の正体を暴こうと考えていた。
そんなある日のこと。主人が庭に出ると、年老いた猫が頭に赤い布をかぶって立っていた。これを怪しんだ主人は、弓矢で猫を射落とした。主人が猫の死骸に近づくと、それは5尺(約1.5メートル)もの大きさで、尻尾が二股に分かれた怪猫だった。この怪猫の死後、それまで家で起きていた様々な怪異は一切、起こることはなかったという。  
●狂歌百物語・貍(ねこまた) 
破れ戸樋 笛ふく秋の 夜嵐に はた天蓋も 踊る猫寺(何の舎)
貍を 出す見世物師 看板の 口上書に 尾に尾つけけり(俵舎)
目はさらに 口は耳まで 酒よりも 油昧しと 舐むる猫又(鶴子)
手拭に 天窓かくしつ 尻尾をや 人に見せじと 踊る猫また(千住 茂躬)
貍の 住居となりし 古寺は 山の尾さきの 道もふたまた(宝珠亭舟唄)
あしびきの 山猫の尾の 二股の 長々しきを 引きて踊るや(頓々)
鉄漿かねつける 五倍子ふしの粉さへも 貍の 古くなつたる 破やれ寺の婆(尚丸)
妖しけれ 女に化せし 猫または 下腹に毛も 無きとこそ知れ(語万斎春芳)
御あかしの 油をなめて 燈心の 二また猫も 年をふる寺(山道廼冨茂登)
物凄き 貍見れば 中々に 我が目の色も かはるばかりぞ(常陸大谷 千別)
眼まなこさへ 丸行燈あんどんの 皿の如 湑したみ油を ねぶる猫また(金鍔)
薄雲の 腹へ来る時 ねこまたは ふたまたらしき 汝が心かも(静川亭雪橋)
夜嵐に 時々回る 辻番の 変はり目凄く 見ゆる貍(静洲園)
草も木も 眠るといへど 丑三つの 時をはかりて 出づる猫また(秩父野上 千燈庵小松)
人をしも されて引きこむ 夕まぐれ 腹に毛のなき 貍婆々ア(匂々堂梅袖)
山深く 引きこもるてふ 猫または 尾ふたつにこそ 世をも避けけれ(佐野 糸屑)
見た人も 尾に尾をつけて 咄すらし 嘘を月夜に 踊る貍(銭の屋銭丸)
踊りたる 事はそしらぬ 振をして 日向に丸う 昼もねこまた(青梅 旧左)
ねこまたは 油を舐めて 行燈を 消してかたちは 見せぬ闇の夜(駿府 翠のや松彦)
紫陽花の 影を楽屋に 七度も 目の替はるてふ 猫ぞ踊れる(雪麻呂)
臆病な 杣が小屋へは 猫またも 尾をさけてから 気を引きにくる(上総飯野 部た成)
三味線の 皮となりても 猫または 多くの人を 誑かすらん(常陸府中 檜川楼真淀)
尾のさきは 二つに裂けし 貍の 踊る屋形は 三つ股の川(花林堂糸道)
貍よ 踊らば貸さん 暑さには 汗を絞りの 浴衣なりとも(谷町山住) 
●権五郎火  新潟県三条市本成寺地方 
新潟県三条市本成寺地方に伝わる。五十野の権五郎という名の人物が旅の博打打ちとサイコロの博打で争った末に大勝ちし、良い気持ちで帰っていたところ、夜道を追って来た相手の博打打ちに殺害され、その怨念が怪火と化したものとされる。付近の農家では、この権五郎火は雨の降る前触れとされており、権五郎火を見た農民は稲架の取り込みを急いだといわれている。 
●煤け提灯  新潟県 
[すすけちょうちん] 新潟県に伝わる。雨の夜、湯灌の捨て場から火の玉が飛び出し、ふわふわ飛び回るという。  
●ふらり火 1  富山県富山市磯部町・神通川流域 
鳥山石燕の『画図百鬼夜行』、佐脇嵩之の『百怪図巻』、作者不詳の『化物づくし』などの日本の古典の妖怪画にある火の妖怪。
『百怪図巻』『化物づくし』などには、犬のような顔をした鳥が炎に包まれた姿で描かれている。『画図百鬼夜行』による画も炎に包まれた鳥だが、こちらの顔はインド神話の迦楼羅を思わせる。
解説文がないためにどのような妖怪かは不明だが、火の化身であり、供養をされなかった死者の霊魂が現世をさまよった末、このような姿に成り果てたとする説がある。
類話​
ふらり火の類話として、富山県富山市磯部町の神通川流域の磯部堤で明治初期まで現れていた「ぶらり火」の伝説がある。
天正年間。富山城主の佐々成政に早百合という妾がいた。早百合は大変美しく、成政から寵愛をうけていたため、奥女中たちから疎まれていた。あるとき、奥女中たちは早百合が成政以外の男と密通していると讒言した。成政はこれを真に受け、愛憎のあまり早百合を殺し、磯部堤で木に吊り下げてバラバラに切り裂いた。さらには早百合の一族までも同罪として処刑されることになった。無実の罪で殺されることになった一族計18人は、成政を呪いつつ死んでいった。
以来、毎晩のようにこの地には「ぶらり火」または「早百合火」と呼ばれる怪火が現れ、「早百合、早百合」と声をかけると、女の生首が髪を振り乱しながら怨めしそうに現れたという。また佐々氏は後に豊臣秀吉に敗れるが、これも早百合の怨霊の仕業と伝えられている。 
●ふらり火 2 
ふらふらと現れる火を纏った鳥の妖怪。詳細不明だが、モデルになったのは迦楼羅神(かるらしん)だと言われる。迦楼羅とは、インド神話における「ガルダ」が仏教に取り込まれた神である。英語圏ではガルーダとも言い、多分そっちのほうが馴染みがあるはず。ガルダは、光や熱を放つ炎を纏う神鳥であり、それが仏教に取り込まれ日本に伝わったと考えるのはとても自然で無理がない考え。なぜ「ふらり火」という名が付いたかは解らないが、富山県に伝わる、戦国武将佐々成政にまつわる「ぶらり火」の伝説と関係があるのかも知れない。あるいは、ただ単にフラフラ彷徨う怪火のことをそう名付けた可能性もある。
しかし『百怪図巻』のふらり火も、『画図百鬼夜行』のふらり火も、どことなく情けない顔をしているのが好印象である。もっとシャンとした顔だったのなら名前も変わっていたのかも知れない。 
●ふらり火 3 
『百怪図巻』などの化物尽くし絵巻や『画図百鬼夜行』に絵姿のある妖怪です。化物尽くし絵巻では火炎の中央に犬のような顔をした鳥がいる姿、『画図百鬼夜行』ではより鳥らしさを強調した姿で描かれています。松井文庫の『百鬼夜行絵巻』などでは同じ妖怪が「ぶらり火」と名付けられています。江戸時代に制作された絵巻の中には、同種の絵巻において化物を退散させる尊勝陀羅尼の巨大な火の玉や朝日に相当する存在として、ふらり火と同じ姿の化物を描いているものもあります。
元来絵姿だけの妖怪であるため、この妖怪の性質を説く諸々の言説は後付あるいは想像によるものと考えられます。 
●ぶらり火 4 
化物尽くし絵巻などに描かれる妖怪「ふらり火」の別名のひとつです。
熊本県八代市の松井文庫に伝わる『百鬼夜行絵巻』や、国際日本文化研究センター蔵の『化物尽くし絵巻』(北斎季親筆)ではこの名称が採用されています。
外見は「ふらり火」と大差ないものですが、北斎季親の絵巻では怪鳥の体色が白になっています。 
●磯部の一本榎  富山県 
[いそべのいっぽんえのき] 護国神社のそば、神通川に沿って流れる松川は桜並木で有名であり、「磯部のさくら」と彫られた碑が建てられている。そのすぐそばに1本の榎が植えられている。これが磯部の一本榎と呼ばれ、怪異の伝説が残されている。
織田信長配下であった佐々成政は越中の大名であったが、柴田勝家と共に羽柴秀吉と敵対関係にあった。賤ヶ岳の戦い後、秀吉に与する大名に囲まれた成政は、徳川家康に接近して打倒秀吉を画策した。ところが天正12年(1584年)、小牧長久手の戦いで突如秀吉と家康は和睦する。慌てた成政は家康説得のために、蛮行に近い行動を取った。越中から真冬の立山・北アルプス連峰を縦走して信濃を抜けて、浜松にいる家康に直談判をしようとしたのである。この【さらさら越え】と呼ばれる行動も虚しく、成政の再挙要望を家康は拒否、失意のうちに成政は富山に戻っていった。
ところが富山に戻った成政は信じられない噂を聞く。最も可愛がっていた側室の小百合が小姓・竹沢熊四郎と不義密通、懐妊している子も竹沢のものというのである。怒りに駆られて熊四郎を斬り捨てると、成政は小百合の髪を掴んで神通川のほとりの榎の木まで引きずっていき、髪を逆手に持ち上げてそのまま吊し斬りにしたのである(一説では榎に縄で宙づりにして斬り刻んだとも)。無実の罪で殺される小百合は歯を噛み砕き、血の涙を流して「悪鬼となって、数年のうちに子孫を殺し尽くして家名断絶させる」と罵り叫んだという。また「立山に黒百合が咲いたら、佐々家は滅亡する」とも言ったという。
その後、この榎には怪異が起こるようになった。風雨の夜、この付近に女の生首と鬼火が現れ、それは「ぶらり火」と呼ばれるようになった。またこの榎の下を「小百合、小百合」と七回呼びながら回ると、小百合の亡霊が現れるとも伝えられた。
小百合を斬殺してから佐々家は凋落、成政は秀吉に降伏して越中の太守から秀吉の御伽衆となった。そして後に肥後一国を与えられるが、国人一揆を誘発した罪によって摂津の尼崎で切腹。天正16年(1588年)、小百合が殺されて僅か4年足らずの出来事であった。
小百合斬殺とその後の怪異については、実は、その後に越中の支配者となった前田家が統治の手段として流した噂話であるとの説もある。明治の頃まで人魂が出ると言われた一本榎であるが、戦災によって焼き払われてしまい、現在あるものは2代目ということである。また榎のすぐそばには小百合の霊を慰めるべく早百合観音堂がある。 
●海月の火の玉 1  石川県 
[くらげのひのたま] 日本の妖怪の一つ。鬼火の一種であり、海の近くを飛び回るという。江戸時代の奇談集『三州奇談』に名が見られる。
元文年間、加賀国(現在の石川県)に現れたという火の玉。夜中に武士が全昌寺の裏手を歩いていると、生暖かい風とともに火の玉が飛んできたのでこれを斬りつけたところ、二つに割れて、ねばねばとした糊か松脂のような感触の、赤く透き通ったものが顔に貼り付き、両目を開けてみるとそれを透かして周囲を見通すことができた。土地の古老に訪ねたところ、「それは海月が風に乗ってさまようのだろう」と言ったという。 
●海月の火の玉 2 
江戸時代の奇談集『三州奇談』に記される元文年間の石川県に出現したとされる怪火。
話しによれば、真夜中に全昌寺というお寺の裏手を小原長八という名の侍が歩いていた所、生温かい風と共に火の玉が飛んできたのでこれを切り捨てた。すると火の玉は真っ二つに割れて長八の顔に生臭いねばねばとした糊か松脂のような感触の、赤く透き通ったものが張り付き、両目を掛けてみるとそれを透かして周囲のものを見通す事が出来たという。慌てて顔に張り付いたそれを何とか拭い去った長八は、流石に肝を冷やし、気分が悪くなったので急ぎ足で家路へと就き顔を洗ったが、ねばねばした感触はぬぐい切れず、生臭いに臭いも暫くは取れなかったという。
次の日、近くに住んでいる土地の古老にそれとなく昨日の出来事を訪ねた所、その火の玉の正体は“クラゲ”で、(クラゲは時に)夜中に風に乗って彷徨ことがあると教えてくれたという。 
●そうはちぼん  石川県 
石川県に伝わる怪火のような姿をした謎の物体。別名、ちゅうはちぼん。名称の本来の意味は仏具であり、シンバルのような楕円形の形をした楽器妙八のことであり、怪火のような姿がこの楽器に似ていることが由来とされる。
秋の夜、羽咋市にある眉丈山の中腹を東から西に、不気味な光を放ちながら群れて移動する。羽坂の六所の宮から一ノ宮の六万坊へ移動するともいう。『気多古縁起』によれば神通力を用いて自由自在に空中を浮遊する光の玉であるとの記述が見られ、「江戸時代に現れたUFOのことではないだろうか」などとの意見もある。
UFOの町として名高い石川県羽咋市では『そうはちぼん伝説』が各地に伝承されており、その特徴などからUFOと絡めて扱う書物が多いためか、そうはちぼんは他の一般的な怪火、鬼火などとは異なった捉えられ方をしている。 
●金火  石川県 
[きんか] 江戸時代の奇談集『三州奇談』にあるもの。上使街道八幡や小松で現れるという、火縄のような怪火。 
●三体仏堂  福井県・松龍寺 
[さんたいぶつどう] 松龍寺は奈良時代の養老年間(717〜724年)に泰澄大師が帝釈天を祀ったことから建立された古刹である。現在この寺の山門の脇には簡素な堂があり、左から大日如来・阿弥陀如来・地蔵菩薩の3体の仏像が安置されている。地元では“三体仏堂”と呼ばれており、江戸時代の中頃に近在の人が慰霊のために建てたと言われる。この地はかつて激戦があり、『朝倉始末記』に「越前加賀之一揆蜂起附帝釈堂怨霊之事」という逸話が残されている。
長享2年(1488年)以降「百姓の持ちたる国」となった加賀の一向宗門徒であるが、政治的にも対立する越前朝倉氏とたびたび合戦を繰り広げており、その最大のものが永正3年(1506年)の九頭竜川の戦いである。この戦いで大敗して国外退去を余儀なくされた越前一向宗門徒は、その翌年の7月に加賀の門徒勢と共に越前領内に侵攻し、拠点回復のため朝倉軍と戦った。これが松龍寺付近でおこなわれた“帝釈堂の戦い”である。この戦いでも一揆勢は敗れ、玄任率いる300名余りの軍勢が全滅するなど多数の死者が出たのである。そして戦から30日あまりして、帝釈堂近くの村々に怪しいものが出るようになったという。
ある夜、家の門をほとほとと叩く者があるので家人が戸を開けると、そこには頭のない青白い骸が4、5体立っていた。悲鳴を上げて戸を閉め、後から怖々覗くともう誰もいなかった。
ある時には、突然窓から青色の生首が覗き込むやにっこりと笑いかけてきた。それを見た家の女房が棒立ちになっていると、そのまま掻き消すように見えなくなってしまった。
ある夕刻、3人の禅僧が付近を通りがかると、雲の上に数多くの修羅道に落ちた兵の姿が現れ、鬨の声を上げて合戦を始めた。さらに傘ほどの大きさの光るものが100以上も飛んできて、その後から鬼のような姿をした者が、馬にまたがり火を吐きながら走り寄ってくるのが見えた。僧達は慌てて寺に逃げ帰った。
そして冷たい雷雨の日などは、日中にもかかわらず、合戦がおこなわれているような物音が聞こえてくることまで起こった。
そこで増信上人という僧が豊原寺の僧と共に帝釈堂で追善法要を執りおこなったところ、それからは奇怪なことが起こらなくなったという。
この“帝釈堂の戦い”で松龍寺も当然焼失したが、当時の住職であった霊仁和尚はこの地を去らず、草庵を建ててこの地で亡くなった者の霊を供養し続けたという。その後、承応元年(1652年)に松龍寺は藩命によって浄土宗に転宗し、現在に至っている。境内には、住職の達誉智山が“熊坂長範物見松”で大仏を製作した残りの木屑を使って彫り上げた1000体の阿弥陀仏が安置してある千体仏堂がある。 
●斑狐  福井県 
夜、越前国細呂木から三国への帰り道で、鬼火を照らした狐が踊っていた。それを見た男が近付くと狐は若衆に化けた。男は狐を連れ茶屋に行き飲み食いした後、男は逃げた。狐も茶屋の主人に追いまわされたが逃げのびた。  
●あやしき火  長野県 
信濃国千曲川で、大雨で若者2人が川に落ちて死んで以来、夜になると川のほとりに怪しい火が出て2人の霊が現れると噂されるようになった。ある人が供養したら現れなくなったと言われるが、怖いと思う心の為、霊などが見えたのだろう。 
●山口の一つ火  長野県上田市 
長野県上田市に伝わる怪火で、上田地方の七不思議のひとつとされているものです。
昔、山口村にある美しい娘がいました。娘は松代の男と恋仲になり、太郎山、鏡台山、妻女山などの山々をものともせず、毎晩男の元へと通いつめました。雨風も関係なく、彼女はいつも両手に温かい餅を握って男を訪ねました。恋人の男は、次第にこれらの行動に疑念を抱くようになっていきます。か弱い女の身でありながら、なぜ毎晩あの険しい山を越えられるのか、なぜいつも温かい餅を持ってきてくれるのか、男はあるとき娘に訊いてみました。「あなたに逢いたい逢いたいの一念には、どうして山路の夜が恐ろしいでしょう。そして毎晩あなたに差しあげるお餅は、家を出るとき握ってくる餅米がいつの間にか餅になっているのです」彼女はそう答えますが、男の疑いはますます募ります。この交際がいずれ身の破滅を招くのではないかと危惧した男は、遂に彼女の殺害を企むようになりました。山中の断崖で待ち伏せしていると、疾風のように駆けてくる者があります。このときとばかりに、男は娘を深さも知れない谷底へ突き落としてしまいました。それ以来、この山々には真紅のつつじが咲き乱れ、火の玉が現れるようになったといいます。
別の伝承によれば、娘は村の若い衆によって殺されたことになっています。松代から地蔵峠を越え、曲尾を過ぎて太郎山金剛寺峠を通る美人の噂を聞いた若者たちは、ある晩山の中で女を待ち伏せしていました。すると、たいへんな勢いで娘が走り来たので、若者たちはこれを捕らえようとしました。娘は用心のため携帯していた剃刀で抵抗しましたが、多勢に無勢、とうとう捕えられて袋叩きにされたうえ、谷底に投げこまれてしまいました。
一つ火とはこのような目に遭った彼女の思いが出るもので、特に雨の夜などにはその光がありありと分かったといいます。 
●老人火・老人の火  長野県、静岡県
[ろうじんび・ろうじんのひ] 江戸時代の奇談集『絵本百物語』にある怪火。
信州(現・長野県)と遠州(現・静岡県)の境で、雨の夜に山奥で現れる魔の火。老人とともに現れ、水をかけても消えないが、獣の皮ではたくと消えるという。
一本道で老人火に行き遭ったときなどは、履物を頭の上にのせれば火は脇道にそれて行くが、これを見て慌てて逃げようとすると、どこまでもついてくるという。
別名を天狗の御燈(てんぐのみあかし)ともいうが、これは天狗が灯す鬼火との意味である。
江戸後期の国学者・平田篤胤は、天狗攫いから帰還したという少年・寅吉の協力で執筆した『仙境異聞』において、天狗は魚や鳥を食べるが獣は食べないと述べている。また随筆『秉穂録』によれば、ある者が山中で肉を焼いているところへ、身長7尺(2メートル以上)の大山伏が現れたが、肉を焼く生臭さを嫌って姿を消したとある。この大山伏を天狗と見て、これら『仙境異聞』『秉穂録』で天狗が獣や肉を嫌うという性質が、老人火が獣の皮で消せるという説に関連しているとの指摘もある。 
●陰摩羅鬼  静岡県 
[おんもらけ] 『駿国雑志』巻二十四下で紹介されているものです。
これは駿河国(現・静岡県)安倍郡安倍川原の渡頭、刑場に現れるものだといいます。里人が語るところによれば、陰雨寂寞たる夜、安倍川の仕置場に奇火を見た者がいたといい、その色は青く、人が佇んでいるような形をしていました。この他、古戦場や墳墓のあった場所にもこの火が現れることがあるといいます。名付けて幽霊火というもので、これは土中に凝って長い間消滅しなかった人血がなす陰火で、世にいう陰摩羅鬼(おんもらけ)であろうと記されています。
陰摩羅鬼(おんもらき)は林羅山『怪談全書』などで紹介されている屍の気が変じたという妖怪で、黒い鳥の姿をしているとされます。『駿国雑志』で陰摩羅鬼とされているものは鳥ではなく陰火ですが、死体から出たものの変化という部分に共通点を見出すことができます。 
● 風玉 1  岐阜県揖斐郡揖斐川町  
歴史的な大風に見舞われたとき、盆の周りほどもある風玉が現われた。明るいものであって、大風の吹く間、ずっと山から出て、何度も行き来した。 
●風玉 2 
岐阜県揖斐郡揖斐川町の鬼火。暴風雨が生じた際、球状の火となって現れる。大きさは器物の盆程度で、明るい光を放つ。明治30年の大風では、山からこの風玉が出没して何度も宙を漂っていたという。 
●天狗火  愛知県、静岡県、山梨県、神奈川県 
愛知県、静岡県、山梨県、神奈川県に伝わる怪火。
主に水辺に現れる赤みを帯びた怪火。その名が示すように、天狗が超能力によってもたらす怪異現象のひとつとされ、神奈川県や山梨県では川天狗の仕業とされる。夜間に山から川へ降りて来て、川魚を捕まえて帰るとも、山の森の中を飛び回るともいう。
人がこの火に遭遇すると、必ず病気になってしまうといわれている。そのため土地の者はこの火を恐れており、出遭ってしまったときは、即座に地面にひれ伏して天狗火を目にしないようにするか、もしくは頭の上に草履や草鞋を乗せることでこの怪異を避けられるという。
遠州(静岡県西部)に現れる天狗火は、提灯ほどの大きさの火となって山から現れ、数百個にも分裂して宙を舞うと言われ、天狗の漁撈(てんぐのぎょろう)とも呼ばれている。
愛知県豊明市には上記のように人に害をなす伝承と異なり、天狗火が人を助けたという民話がある。昔、尾張国(現・同県)東部のある村で、日照り続きで田の水が枯れそうなとき、川から田へ水を引くための水口を夜中にこっそり開け、自分の田だけ水を得る者がよくいた。村人たちが見回りを始めたところ、ある晩から炎の中に天狗の顔の浮かんだ天狗火が現れ、水口を明るく照らして様子をよく見せてくれるようになった。水口を開けようとする者もこの火を見ると、良心が咎めるのか、明るく照らされては悪事はできないと思ってか、水口を開けるのを思い留まるようになり、水争いは次第になくなったという。また同県春日井市の民話では、ある村人が山中で雷雨に遭い、身動きできずに木の下で震え上がっていたところ、どこからか天狗火が現れ、おかげで暖をとることができた上、道に迷うことなく帰ることができたという。しかしこの村では天狗火が見える夜に外に出ると、その者を山へ連れ去ってしまうという伝承もあり、ある向こう見ずな男が「連れて行けるものならやってみろ」とばかりに天狗火に立ち向かったところ、黒くて大きな何かがその男を捕まえ、山の彼方へ飛び去っていったという。
松明丸​
松明丸(たいまつまる)は、鳥山石燕の『百器徒然袋』にある天狗火。火を携えた猛禽類のような鳥として描かれている。『百器徒然袋』の解説によれば、天狗礫(天狗が降らせる石の雨)が発する光で、深い山の森の中に現れるとされる。暗闇を照らす火ではなく、仏道修行を妨げる妖怪とされる。  
●勘五郎火  愛知県犬山市 
愛知県犬山市などに伝わる怪火で、「勘太郎火」とも単に「勘五郎」とも呼ばれたようです。
犬山市橋爪では次のように伝わっています。橋爪の村、青木川の辺に、かつて勘五郎という百姓と老母が二人きりで暮らしていました。十八歳の勘五郎は親孝行な正直者で、評判の働き者でした。ある夏、何日も日照りが続いて、勘五郎の田の水も干上がってしまいました。ところが隣の田には少し水が残っていました。これを目にした勘五郎は我慢できなくなり、夜明け前にそっと家を抜け出すと畔を切って落とし、自分の田へ水を引き入れてしまいました。夜が明けて勘五郎の行いが露見すると、殺気立っていた村人たちが彼を取り囲みました。村人の追求からは逃れられず、勘五郎は彼らに打ちすえられて命を落としました。老母は帰らぬ息子を探し求めて家を出ましたが、村人たちは勘五郎の行方を教えてはくれません。事情を悟った母親は、それから食を断ち、勘五郎の名を呼び続けながら死にました。それからは毎年、夏の夜には橋爪の田の上を二つの陰火がさまようようになりました。そのうえ以後四百年にわたって青木川は何度も氾濫し、村人を苦しめました。犬山徳授寺の太陽和尚が勘五郎親子の霊を弔ったことで、ようやく青木川は鎮まったといいます。
岩倉市八釼町では、蛍取りに出かけて行方不明となった勘五郎という子を捜す母の手灯りが勘五郎火だといわれています。これは青みがかった赤い裸火で、年中いつでも見えるものの、田植えの時期に特によく見られたといいます。 

 

●近畿地方
●地黄煎火 1  滋賀県甲賀市 
[じおうせんび] 江戸時代の読本『絵本小夜時雨』にあるもの。江州水口(現・滋賀県甲賀市)で、ある者が地黄煎(飴の一種)を売って暮していたが、盗賊に殺され、金を奪われた。その物の執心が怪火となり、雨の夜を漂ったという。 
●地黄煎火 2 
『絵本小夜時雨』にある怪火です。
(現・滋賀県甲賀市) 江州水口の泉縄手に、膝頭松という大木がありました。そこで地黄煎(地黄を煎じた汁を練りこんだ飴)を売り、少しの金を蓄えている者がいましたが、盗賊に殺害されて金を奪い取られてしまいました。地黄煎売りの執心は死後もその地に留まり、雨夜には松のもとから陰火が飛ぶようになりました。これを地黄煎火と呼んだといいます。
絵には飛び交う怪火のみならず、松の根元から現れた、地黄煎売りの亡霊らしき巨大な化物の姿もあります。 
●蓑火  滋賀県彦根 
[みのび] 近江国(現・滋賀県)彦根に伝わる怪火。
旧暦五月の梅雨の夜などに、琵琶湖を人の乗った舟が渡ると、その者が雨具として身に着けている蓑に点々と、まるでホタルの光のように火の玉が現れる。蓑をすみやかに脱ぎ捨てれば蓑火も消えてしまうが、うかつに手で払いのけようとすれば、どんどん数を増し、星のまたたきのようにキラキラと光る。
琵琶湖で水死した人間の怨霊が姿を変えたものともいわれるが、井上円了の説によれば、これは一種のガスによる現象とされる。
同種の怪火は各地に伝承があり、秋田県仙北郡、新潟県中蒲原郡、新潟市、三条市、福井県坂井郡(現・坂井市)などでは蓑虫(みのむし)、蓑虫の火(みのむしのひ)、蓑虫火(みのむしび)、ミノボシ、ミーボシ、ミームシなどという。信濃川流域に多いもので、主に雨の日の夜道や船上で蓑、傘、衣服に蛍状の火がまとわりつくもので、慌てて払うと火は勢いを増して体中を包み込むという。大勢でいるときでも一人にしか見えず、同行者には見えないことがあり、この状態を「蓑虫に憑かれた」と呼ばれる。逆に居合わせた人々全員に憑くこともあり、マッチなどで火を灯すか、しばらく待てば消え去るという。中蒲原郡大秋村では、秋に最も多く出るという。
北陸地方の奇談集『北越奇談』などには福井県坂井郡の蓑虫の記述があるが、これは怪火ではなく、雨の夜道で傘の水滴が目の前に垂れ下がり、手で払おうとすると脇によけ、次第に水玉が大きくなり、数を増して目をくらますものという。正体は狸の仕業ともいわれ、石屋や大工には憑かないという特徴がある。また秋田県仙北郡角館町(現・仙北市)付近では、蓑虫は寒い晴れの日、蓑や被り物の縁に光が付着して、手で払っても消えないものだという。これらの怪異は新潟県ではイタチ、三条市では狐、坂井郡では狸の仕業とされる。
安政時代の書物『利根川図志』にも、これらと同種の怪火である川蛍(かわぼたる)がある。これは千葉県印旛沼で、主に雨の日、夜中に高さ1-2尺(約30-60センチメートル)の空中にホタルのような光が漂うというものである。沼の上に出した舟の中に入ってくることもあり、力まかせに叩くと船一面に砕け散り、火のように燃えることはないものの、非常に生臭い悪臭と、油のようにぬるぬると気味の悪い感触が残り、洗ってもなかなか落ちないという。 
●化け火  滋賀県大津市堅田 
[ばけび] 近江国堅田村(現 滋賀県大津市堅田)に伝わる火の妖怪である。文化時代の奇談集『周遊奇談』には「化けの火」の名で記述がある。
四季を問わず曇りか小雨の夜、湖の湖岸から出現し、地上から高さ4,5尺(約1.2–1.5メートル)の空中を漂う。最初は小さな火だが、移動しつつ大きさを増し、山の手に辿り着くころには直径3尺(約0.9メートル)ほどとなっている。
この火の玉が人の顔が浮かび上がり、2人の人間の上半身が相撲をとっているような形になることもあるという。
相撲に関する伝承​
かつてある男が、この化け火の正体を暴こうと考えた。田の畦で彼が待ち構えていると、果たして化け火が現れた。田舎相撲の実力者である彼は、大声を張り上げながら化け火に立ち向かって行ったが、逆に5,6間(約9–11メートル)も先へ投げ飛ばされてしまった。
投げられた先には稲穂が実っていたため、男は傷を負わずに済んだ。だが彼を始め、化け火に立ち向かった者は皆、同様に投げ飛ばされてしまうため、遂には村人たちは誰も化け火に関らないようになったという。 
●油坊 1  滋賀県、京都府 
滋賀県や京都府に伝わる怪火、または亡霊。名称は、油を盗んだ僧侶がこれに化けたという伝承に由来する。
滋賀県では、野洲郡欲賀村(現・野洲市)に、晩春から夏にかけて油坊という怪火が現れたと伝えられており、比叡山の灯油を盗んだ僧侶が変化したものといわれた。このような怪火は、寛保時代の雑書『諸国里人談』によれば比叡山の西麓にも現れたという。
滋賀県愛知郡愛荘町の金剛寺では、油坊は油を手にした霊とされる。こちらにも野洲郡のものと似た伝承があり、寺に灯油を届ける役目を持つ僧侶が、遊ぶ金欲しさに灯油を盗んで金を作ったが、遊びに行く前に急病で命を落としてしまい、それ以来、寺の山門に霊となって現れるようになったという。
類話​
油にまつわる怪異は各地に伝承がある。江戸時代の怪談本『古今百物語評判』によれば、比叡山の全盛期に延暦寺根元中堂の油料を得て栄えていた者が、後に没落し、失意のうちに他界して以来、その家から根元中堂へ怪火が飛んでいくようになり「油盗人(あぶらぬすっと)」と呼ばれたという。噂を聞いた者がこれを仕留めようとしたところ、怒りの形相の坊主の生首が火炎を吹いていたという。
摂津国昆陽(現・兵庫県伊丹市)でも同様に、中山寺から油を盗んだ者の魂とされる怪火を「油返し(あぶらかえし)」といい、初夏の夜や冬の夜、昆陽池のそばにある墓から現れ、池や堤を通り、天神川から中山へ登って行くという。狐の嫁入りという説や、墓にいるオオカミが灯す火との説もある。『民間伝承』にはこの怪火の特徴について「この火は、パッ〱〱〱とつくと、オチャ〱〱〱と聲がしトボ〱〱〱とセングリ〱と後へかへらずにせいてとぼる」とある。この文の意味は専門家でも意味不明とされるが、火の中からこのような話し声が聞こえるとの解釈もある。
また新潟県南蒲原郡大面村(現・三条市)では、滝沢家という旧家で、家の者が灯油を粗末に扱うと「油なせ(あぶらなせ)」という妖怪が「油なせ」(「油を返せ」との意味)と言いながら現れたといい、村人たちは病死した滝沢家の次男が化けて出たと噂していたという。この油なせは怪火ではないが、民俗学者・柳田國男はこれを油坊に関連するものとしている。 
●油坊 2 
伝承
滋賀県では野洲郡欲賀村(現・野洲市)に、晩春から夏にかけて「油坊(あぶらぼう)」と呼ばれる怪火が発生すると伝えられています。ただ現れて人を驚かすだけで、それ以上何か危害を加えるということはないようです。また江戸時代中期に成立した菊岡沾涼の『諸国里人談』には、同じような怪火が比叡山の西のふもとにも出現したと記されています。
正体・生まれ
油坊の正体は、昔灯油を盗んで罰せられた比叡山の僧の亡霊といわれています。夜は真っ暗なので明かりがないと生活することができません。電球や電気スタンドがない時代は、行灯や灯台で油を燃やすことで光にしていましたが、油は植物や魚から抽出する限りある貴重なものでした。油を盗んだり粗末に扱うことは重罪であり、「油泥棒は妖怪になる」と戒められたのです。そして
油盗人とも呼ばれる
油坊は「油盗人(あぶらぬすっと)」と同種の妖怪と考えられます。「油盗人(あぶらぬすっと)」とは、江戸時代の怪談本『古今百物語評判』に載っている妖怪です。同書によれば、比叡山延暦寺の油を盗んで富を得た者が、後に破産し、どん底に沈んだまま死んでしまったそうです。それ以降延暦寺に怪火が現れるようになり、油泥棒の霊として「油盗人(あぶらぬすっと)」と呼ばれたといいます。
似た妖怪
姥火
姥火は河内国(現:大阪府)や丹波国(現:京都府北部)に伝わる怪火です。ある老婆が毎晩のように神社の御神灯の油を盗み、自分の家の明かりにしていました。上述したとおり、油を盗むのは大罪ですから、神罰が下り火の玉にされたのです。これが「姥火」の正体です。
油赤子
火の玉の姿でが突然家の中に入ってきて、行灯の油をぺろぺろなめて去って行く妖怪です。油をなめる時の姿が赤ん坊なので「油赤子」と呼ばれるようになったようです。 
●イゲボ 1  三重県度会郡  
伊勢の度会郡では鬼火のことをイゲボという。他では耳にしないので、由来を想像しにくい。  
●イゲボ 2 
三重県度会郡でいう鬼火です。
蜩c國男『妖怪談義』所収「妖怪名彙」で列挙されている妖怪名のひとつで、柳田はイゲボについて「他ではまだ耳にせぬので、名の由来を想像しがたい」と述べています。 
●悪路神の火  三重県度会郡玉城町 
[あくろじんのひ] 『諸州採薬記抄録』や佐々木貞高(為永春水)の随筆『閑窓瑣談』に記されている日本の怪火。伊勢国、あるいは伊勢のうち田丸領間弓村(現・三重県度会郡玉城町)の猪草が淵に現れたとされる。
以下、天保12年(1841年)刊行の『閑窓瑣談』より概略を記す。
猪草が淵は幅十間(約18メートル)ばかりの川に、水際まで十間を越える高さに丸木橋を渡す。水底は深く、さらに周囲には山蛭が多く住む大変な難所であった。このあたりに出没したのが悪路神の火である。雨の降る夜に特に多く現れ、誰かが提灯を灯しているかのように往来する。この火に出会った者は、素早く地に伏して通り過ぎるのを待ち、逃げ出せばよい。このようにせず、うっかり近づけば病に侵され、大変な患いになるという。
閑窓瑣談の典拠​
『閑窓瑣談』はこの話の典拠として、享保年間に幕府の採薬使として諸国を巡った阿部友之進(照任)の採薬記を挙げ、友之進が「眼前に見聞し」たものと記している。阿部照任の著述としては、松井重康とともに口述した『採薬使記』があるが、この書に悪路神の火の記載はない。いっぽう、享保5年(1720年)から、宝暦4年(1754年)まで採薬使であった植村政勝の著す『諸州採薬記抄録』伊勢国の項には、『閑窓瑣談』とほぼ同様の記述が見られる。ただし、『諸州採薬記抄録』では「猪草淵」の次に続けて「悪路神の火」を記すものの、この怪火を猪草淵に現れるものとしているわけではない。
「(猪草淵の記述を略す) 又同国にて悪路神の火とて雨夜には多く挑灯のことく往来をなす、此火に行逢ふ時は流行病を受て煩ふよし、依之此火に行逢ふときは早速に地に伏す、彼火其上を通すへるによつて此病難を逃るゝといへり、」— 諸州採薬記抄録 巻一
『閑窓瑣談』の該当部分。
「(猪草が淵の記述を略す) 又此邊に悪路神の火と號て、雨夜には殊に多く燃て、挑灯のごとくに往來す。此火に行合者は、速に地に俯に伏て身を縮む。其時火は其人の上を通路するなり。火の通り過るを待て迯出す。然も爲ざる時は、彼火に近付て忽ちに病を發し煩ふ事甚しといふ。」— 閑窓瑣談 第三十四
類例​
怪火にあって病を得る例は他書にも見える。古くは『日本書紀』斉明天皇7年(661年)に、宮中に鬼火が現れ大舎人や諸近侍が多数病死したとある。また津村淙庵の見聞録である『譚海』には「天狗火」の記事があり、この怪火は遠州(静岡県西部)の海辺に現れ、これに近づいた者は多く病悩するという。

地上から60〜90センチメートルの高さをふわふわと飛ぶという。 
●逢火  京都府 
逢火(あうひ、あいび、おうび?)は比叡山西麓あたりに出没したといわれる怪火で、山城国の地誌である『雍州府志』などに記述がみられます。
比叡山西麓の相逢の森には五月の夜になるといくつもの隣火が南北より飛来し、集まっては消えていくといいます。梅雨の夜にはことのほか多くみられ、土地の人はこれを逢火と呼んでいました。その昔山門にとある淫僧がいて、北谷の美童が彼から寵愛を受けていました。しかし美童は病死、僧も後を追うように亡くなると、二人の亡魂が火となって森で相逢うようになったのだといいます。
『嘉良喜随筆』はこの逢火について、いろいろと付会する説があるも、その実態は森を飛び交う青鵲(アオサギか)の羽毛が光を発しているに過ぎないとしています。鷺をはじめとして山鳥の類が光を発するという話は広く知られており、目撃談も数多く記録されています。 
●叢原火・宗源火  京都府
[そうげんび] 鳥山石燕の『画図百鬼夜行』にある京都の鬼火。かつて壬生寺地蔵堂で盗みを働いた僧侶が仏罰で鬼火になったものとされ、火の中には僧の苦悶の顔が浮かび上がっている。江戸時代の怪談集『新御伽婢子』にもこの名がある。 
●渡柄杓  京都府南丹市 
[わたりびしゃく] 京都府北桑田郡知井村(のちの美山町、現・南丹市)の鬼火。山村に出没し、ふわふわと宙を漂う青白い火の玉。柄杓のような形と伝えられているが、実際に道具の柄杓に似ているわけではなく、火の玉が細長い尾を引く様子が柄杓に例えられているとされる。  
●墓の火  京都府
鳥山石燕による江戸時代の日本の妖怪画集『今昔画図続百鬼』にある怪火。
画図では、藪に囲まれて荒れ果てた墓所で、梵字の欠けた五輪塔に炎が燃え上がっている様子が描かれている。梵字が欠けているため、梵字によって断たれるべき煩悩が炎となって燃え上がっている、などと解釈されている。
江戸時代の怪談本『古今百物語評判』では「西寺町に墓の燃し事」と題し、西寺町(京都市の仁王門通の仁王門通#西寺町通)で、「墓の火」と同様に切腹した人の墓から炎が燃え出すという怪異が述べられており、人間の体からこぼれ落ちた血が燐火となって燃え上がるものと解説されている。 
●釣瓶火  京都府 
[つるべび] 鳥山石燕の『画図百鬼夜行』にある火の妖怪。
画図には解説文は一切添えられていないが、国文学者・高田衛監修による『鳥山石燕 画図百鬼夜行』(国書刊行会)では、別名を「つるべおとし」「つるべおろし」としており、江戸時代の怪談本『古今百物語評判』で「西岡の釣瓶おろし」と題して京都西院の火の玉の妖怪が描かれたものが原典とされている。石燕がこれを『画図百鬼夜行』に描いた上で「釣瓶火」と命名したものと解釈されている。
昭和・平成以降の妖怪関連の文献での解釈では、釣瓶火は釣瓶落としに類する怪火、または釣瓶落としとは別種の妖怪として扱われることがほとんどであり、四国・九州地方で、木の精霊が青白い火の玉となってぶらさがったもの、または静かな夜の山道を歩いていると木の枝から突然ぶら下がり、毬のように上がったり下がったりを繰り返すものとされ、火といっても木に燃え移ったりはせず、火の中に人や獣の顔が浮かび上がることもあるという。樹木についた菌類や腐葉土に育ったバクテリアによる生物発光といった解釈もある。 
●釣瓶落とし 1  京都府 
木の上から落ちて来て、人間を襲ったり、食べたりする妖怪。その動作が、井戸の水を汲み上げる「釣瓶」に似ているので、この名がついた。
しかし、和歌山の釣瓶落としは少し違っていて、海南市黒江に伝わる話では、古い松の根元にある釣瓶を通行人が覗くと中に光る物があり、小判かと思って手を伸ばすと釣瓶の中へ引き込まれて木の上へ引き上げられ、木の上に住む釣瓶落としに脅かされたり、そのまま食い殺されたり、地面に叩きつけられて命を落としたという。 
●釣瓶落とし 2 
釣瓶落としまたは釣瓶下ろし、京都府、滋賀県、岐阜県、愛知県、和歌山県などに伝わる妖怪。木の上から落ちて来て、人間を襲う、人間を食べるなどといわれる。
伝承​
大正時代の郷土研究資料『口丹波口碑集』にある口丹波(京都府丹波地方南部)の口承によれば、京都府曽我部村字法貴(現・亀岡市曽我部町)では、釣瓶下ろしはカヤの木の上から突然落ちてきてゲラゲラと笑い出し、「夜業すんだか、釣瓶下ろそか、ぎいぎい」と言って再び木の上に上がっていくといわれる。また曽我部村の字寺でいう釣瓶下ろしは、古い松の木から生首が降りてきて人を喰らい、飽食するのか当分は現れず、2、3日経つとまた現れるという。同じく京都の船井郡富本村(現・南丹市八木町)では、ツタが巻きついて不気味な松の木があり、そこに釣瓶下ろしが出るとして恐れられた。大井村字土田(現・亀岡市大井町)でも、やはり釣瓶下ろしが人を食うといわれた。
岐阜県久瀬村(現・揖斐川町)津汲では、昼でも薄暗いところにある大木の上に釣瓶下ろしがおり、釣瓶を落としてくるといい、滋賀の彦根市でも同様、木の枝にいる釣瓶下ろしが通行人目がけて釣瓶を落とすといわれた。
和歌山県海南市黒江に伝わる元禄年間の妖怪譚では、古い松の大木の根元にある釣瓶を通行人が覗くと光る物があり、小判かと思って手を伸ばすと釣瓶の中へ引き込まれて木の上へ引き上げられ、木の上に住む釣瓶落としに脅かされたり、そのまま食い殺されたり、地面に叩きつけられて命を落としたという。
古典​
江戸時代の怪談本『古今百物語評判』では「釣瓶おろし」の名で、大木の精霊が火の玉となって降りてくる妖怪が描かれている。同書の著者・山岡元隣は釣瓶下ろしという怪異を、気が木火土金水の五つの相に変転して万物をなすという「五行説」により説明しており、雨の日(水)に木より降りて(木)くる火(火)、ということで、水-木-火の相生をなすことから大木の精だと述べている。五行の変化は季節の移り変わりようなもので、若い木はまだ生を十分に尽くしておらず木の気を満たしていないので、次の気を生ずるに至らない。大木となってはじめて火を生ずる。その火も陰火なので雨の日に現れるという。
鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』では、『古今百物語評判』で火の玉として描かれた「釣瓶おろし」が「釣瓶火」として描かれている。このことから、昭和・平成以降の妖怪関連の文献などでは釣瓶落としは生首や釣瓶が落ちてくる妖怪、釣瓶火は木からぶら下がる怪火、といったように別々の妖怪として扱われていることがほとんどだが、本来は釣瓶落としも釣瓶火と同様、木から釣瓶のようにぶらさがる怪火だったとする説もある。
類話​
釣瓶落としに類する妖怪はほぼ日本全国に類似例があるものの、ほとんどは名前のない怪異であり、「釣瓶下し」「釣瓶落とし」の名称が確認できるものは東海地方、近畿地方のみである上、釣瓶が落ちるのもそれらの地域のみであり、そのほかは木から火の玉が落ちてくる、焼けた鍋が落ちてくるなど、火に関連したものが多い。
たとえば山形県山辺町では鍋下ろし(なべおろし)といって、子供が日暮れまで遊んでいると、スギの木の上から真っ赤に焼けた鍋が降りてきて、子供をその鍋の中に入れてさらってしまうといわれる。島根県鹿足郡津和野町笹山の足谷には大元神(おおもとがみ)を祀る神木と祠があり、周辺の木を伐ると松明のような火の玉が落ちてきて大怪我をするという記述がある。静岡県賀茂郡中川村(現・松崎町)では鬱蒼とした木々の間に大岩があり、そこに毎晩のようにほうろく鍋が下がったという。青森県の妖怪のイジコも、木の梢から火が降りてくるものとの解釈もある。 
●二恨坊の火・仁光坊の火  大阪府茨木市二階堂 
[にこんぼうのひ] 摂津国二階堂村(現・大阪府茨木市二階堂)、同国高槻村(現・同府高槻市)に伝わる火の妖怪。
3月から7月頃までの時期に出没したもので、大きさは1尺ほど、火の中に人の顔のように目、鼻、口のようなものがある。鳥のように空を飛び回り、家の棟や木にとまる。人間に対して特に危害を加えることはないとされる。特に曇った夜に出没したもので、近くに人がいると火のほうが恐れて逆に飛び去ってしまうともいう。
古書における記述​
   『諸国里人談』(寛保時代の雑書)
かつて二階堂村に日光坊という名の山伏がおり、病気を治す力があると評判だった。噂を聞いた村長が自分の妻の治療を依頼し、日光坊は祈祷によって病気を治した。ところが村長はそれを感謝するどころか、日光坊と妻が密通したと思い込み、日光坊を殺してしまった。日光坊の怨みは怨霊の火となって夜な夜な村長の家に現れ、遂には村長をとり殺してしまった。この「日光坊の火」が、やがて「二恨坊の火」と呼ばれるようになった。
   『本朝故事因縁集』(江戸時代の書物)
二階堂村に山伏がおり、一生の内に二つの怨みを抱いていたために二恨坊とあだ名されていた。彼は死んだ後に魔道に堕ちたが、その邪心は火の玉となって現世に現れ、「二恨坊の火」と呼ばれるようになった。
   『古今百物語評判』『宿直草』(江戸時代の怪談本)
かつて仁光坊という美しい僧侶がいたが、代官の女房の策略によって殺害された、以来、仁光坊の怨みの念が火の玉となって出没し、「仁光坊の火」と呼ばれるようになった。
吹田市の伝承​
大阪府吹田市にも、表記は異なるが読みは同じ「二魂坊」といって、月のない暗い夜に2つの怪火が飛び交うという伝説がある。
伝説によれば、かつて高浜神社の東堂に日光坊、西堂に月光坊という、親友同士の修行僧がいた。2人の仲を妬んだ村人が日光坊のもとへ行き、月光坊が彼を蔑んでいると吹き込み、さらに月光坊のもとへ行き、日光坊が彼を蔑んでいると吹き込んだ。月光坊は疑心暗鬼となり、次第に日光坊を憎み始めた。村人たちはさらに、日光坊が月光坊を殺しに来ると月光坊に告げた。一方で日光坊は、最近の月光坊の心変わりを疑問に思い、誤解を解こうと彼のもとへ赴いた。
月光坊は、ついに日光坊が自分を殺しに来たと思い込み、錫状を彼の胸に突き立てた。日光坊は殺しなどではなく、仲直りに来たとわかったときには、すでに日光坊は息絶えていた。月光坊は罪となり、自分たちを騙した者を取り殺すと叫びながら死んでいった。以来、この村には怪火が飛び交うようになり、村人たちは「二魂坊の祟り」と恐れたという。
また寛政時代の地誌『摂津名所図会』にも「二魂坊」といって、かつて日光坊という山伏が別の山伏を殺して死罪になり、その怨念が雨の夜に怪火となって現れ、木の上に泊まって人々を脅かしたという記述がある。
高浜神社の社伝によれば、河内(現・大阪府東部)の豪族が祖神の火明命と天香山命を祀ったのが神社の起こりとされ、二魂坊や日光坊とは、この2柱の神を指しているとの説もある。  
●古戦場火・古戦場の火  大阪府東大阪市
[こせんじょうび・こせんじょうのひ] 日本の伝承にある鬼火の一種。鳥山石燕の妖怪画集『今昔画図続百鬼』や怪談集『宿直草』などの江戸時代の古書に記述がある。
多くの人間が死んだ戦場に、数え切れないほどの鬼火の集団となって現れ、ふわふわと宙をさまよう。戦場で命を落とした兵士や動物の怨霊とされている。『今昔画図続百鬼』では、死者の血が地面に滴り、そこから発生するとされている。成仏できない怨霊が生者に害を成す話は多いものの、古戦場火は人に害を成すことなく、ただ宙を飛び回るだけと言われているが、これに遭遇した人は念仏を唱えながら帰ったという。ときには怪火とともに、首のない兵士が血みどろの姿で、自分の首を捜してうろつく姿も見られたという。
『宿直草』にある怪談「戦場の後、火燃ゆる事」によれば、大坂夏の陣で豊臣家が徳川家に敗れ、無念の思いで殺された豊臣側の武士が成仏できずに古戦場火となり、戦場となった河内国若江を漂うようになったという。若江で人々が夕涼みをしていると、田の上に1.5メートルほどの大きさの怪火が数個固まり、現れたり消えたりを繰り返しつつあちこちへ移動しており、まるで何かを探してうろつき回っているようだったという。
『宿直草』には「古戦場火」の名は見られず、この怪火のことは単に「火」とのみ表記されている。「古戦場火」の名は石燕が『今昔画図続百鬼』において、合戦のあった場所に現れる怪火の総称として命名したものとされている。 
●姥ヶ火  大阪府、京都府北部 
河内国(現・大阪府)や丹波国(現・京都府北部)に伝わる怪火。寛保時代の雑書『諸国里人談』、井原西鶴の雑話『西鶴諸国ばなし』、江戸時代の怪談本『古今百物語評判』、『河内鑑名所記』、鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』などの古書に記述がある。
『諸国里人談』によれば、雨の夜、河内の枚岡(現・大阪府東大阪市)に、大きさ約一尺(約30センチメートル)の火の玉として現れたとされる。かつてある老女が平岡神社から灯油を盗み、その祟りで怪火となったのだという。
河内に住むある者が夜道を歩いていたところ、どこからともなく飛んできた姥ヶ火が顔に当たったので、よく見たところ、鶏のような鳥の形をしていた。やがて姥ヶ火が飛び去ると、その姿は鳥の形から元の火の玉に戻っていたという。このことから妖怪漫画家・水木しげるは、この姥ヶ火の正体は鳥だった可能性を示唆している。
この老女が姥ヶ火となった話は、『西鶴諸国ばなし』でも「身を捨て油壷」として記述されている。それによれば、姥ヶ火は一里(約4キロメートル)をあっという間に飛び去ったといい、姥ヶ火が人の肩をかすめて飛び去ると、その人は3年以内に死んでしまったという。ただし「油さし」と言うと、姥ヶ火は消えてしまうという。
京都府にも、保津川に姥ヶ火が現れたという伝承がある。『古今百物語評判』によれば、かつて亀山(現・京都府亀岡市)近くに住む老女が、子供を人に斡旋するといって親から金を受け取り、その子供を保津川に流していた。やがて天罰が下ったか、老女は洪水に遭って溺死した。それ以来、保津川には怪火が現れるようになり、人はこれを姥ヶ火と呼んだという。
『画図百鬼夜行』にも「姥が火」と題し、怪火の中に老女の顔が浮かび上がった姿が描かれているが、「河内国にありといふ」と解説が添えられていることから、河内国の伝承を描いたものとされる。
枚岡で神社から油を盗んだ老女は、その罪を恥じて、池に身を投げたという伝説もあり、大阪府東大阪市出雲井町の枚岡神社には、この伝説にちなむ池「姥ヶ池(うばがいけ)」がある。これは、老女の悲嘆を後世に残すべく、大阪のボランティア団体が中心となり、土砂に埋まって失われた池を整備して、復元させたものである。 
●青鷺火  奈良県 
[あおさぎび、あおさぎのひ] サギの体が夜間などに青白く発光するという日本の怪現象。別名五位の火(ごいのひ)または五位の光(ごいのひかり)。「青鷺」とあるが、これはアオサギではなくゴイサギを指すとされる。
江戸時代の妖怪画集として知られる鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』や『絵本百物語』にも取り上げられ、江戸時代にはかなり有名な怪談であったことがわかる。また江戸後期の戯作者・桜川慈悲功の著書『変化物春遊』にも、大和国(現・奈良県)で光る青鷺を見たという話がある。それによると、化け柳と呼ばれる柳の大木に毎晩のように青い火が見えて人々が恐れており、ある雨の晩、1人の男が「雨の夜なら火は燃えないだろう」と近づいたところ、木全体が青く光り出し、男が恐怖のあまり気を失ったとあり、この怪光現象がアオサギの仕業とされている。新潟県佐渡島新穂村(現・佐渡市)の伝説では、根本寺の梅の木に毎晩のように龍燈(龍神が灯すといわれる怪火)が飛来しており、ある者が弓矢で射たところ、正体はサギであったという。
ゴイサギやカモ、キジなどの山鳥は夜飛ぶときに羽が光るという伝承があり、目撃例も少なくない。郷土研究家・更科公護の著書『光る鳥・人魂・火柱』にも、昭和3年頃に茨城県でゴイサギが青白く光って見えた話など、青鷺火のように青白く光るアオサギ、ゴイサギの多くの目撃談が述べられている。サギは火の玉になるともいう。火のついた木の枝を加えて飛ぶ、口から火を吐くという説もあり、多摩川の水面に火を吐きかけるゴイサギを見たという目撃談もある。江戸時代の百科事典『和漢三才図会』にも、ゴイサギが空を飛ぶ姿は火のようであり、特に月夜には明るく見え、人はこれを妖怪と見紛える可能性があるとの記述がある。
また一方でゴイサギは狐狸や化け猫のように、歳を経ると化けるという伝承もある。これはゴイサギが夜行性であり、大声で鳴き散らしながら夜空を飛ぶ様子が、人に不気味な印象をもたらしたためという説がある。老いたゴイサギは胸に鱗ができ、黄色い粉を吹くようになり、秋頃になると青白い光を放ちつつ、曇り空を飛ぶともいう。
科学的には水辺に生息する発光性のバクテリアが鳥の体に付着し、夜間月光に光って見えるものという説が有力と見られる。また、ゴイサギの胸元に生えている白い毛が、夜目には光って見えたとの説もある。
『吾妻鏡』における類似怪異​
『吾妻鏡』13世紀中頃の建長8年(1256年)6月14日条に、「光物(ひかりもの)が見える。長(たけ)五尺余(165センチほど)。その体、初めは白鷺に似ていた。後は赤火の如し。その跡、白布を引くが如し」という記述がある。「本朝においてはその例なし」と記されていることから、光るサギのような怪異という意味では、現存記述として最古のものと見られる。ただし、この怪異は、「サギの形をした怪光」という話である(また、最後には赤くなったとある)。
『耳嚢』
『耳嚢』には、文化2年(1805年)秋頃の記録として、江戸四谷の者が夜の道中で、白衣を着た者と出くわしたが、腰から下がなく、幽霊の類かと思い、振り返ると、大きな一つ目が光っていたので、抜き打ちで切りつけ、倒れたところを刺し殺すと大きな五位鷺であったという話が記述されている。なお、そのサギはそのまま持ち帰られ、調味されて食された。そのため、「幽霊を煮て食った」ともっぱら巷の噂となったという。人が妖怪に食べられる話は多いが、人間に食べられてしまった稀な例といえる。 
●じゃんじゃん火・ジャンジャン火  奈良県
奈良県各地に伝わる怪火。鬼火の一種とされる。宮崎県ではむさ火(むさび)、高知県ではけち火(けちび)ともいう。
「じゃんじゃん」と音を立てることが名の由来。心中者や武将などの死者の霊が火の玉に姿を変えたものとする伝承が多い。
同じ奈良でも地域によって別々の伝承があり、また地域によって独自の別名がある。
奈良市白毫寺町
白毫寺と大安寺の墓地から出現する2つの火の玉を指す。夫婦川で2つの火が落ち合い、もつれ合い、やがてもとの墓地へ帰って行く。人がこの火を見ていると、その人のもとへ近寄ってくるとされ、じゃんじゃん火に追いかけられた者が池の中に逃げ込んだものの、火は池の上まで追って来たという話もある。正体は心中した男女であり、死後は別々の寺に葬られたことから、火の玉となって落ち合っていると伝えられている。
大和郡山市
毎年6月7日に佐保川の橋の上へ訪れる2つの人魂を指す。白毫寺町と同様、男女の霊とされている。かつては6月7日になると、付近の各村からそれぞれ20人ずつ男女が選ばれ、出没地である橋の上で踊り、人魂の主である霊を慰める風習があったという。
天理市藤井町
城の跡から出現し、西へと飛んで行く火の玉を指す。これに遭遇した者は、橋の下などに隠れてやり過ごさなければならない。残念火(ざんねんび)とも呼ばれる。
天理市柳本町、田井庄町、橿原市
雨の近い夏の夜、十市城の跡に向かって「ほいほい」と声をかけると飛来して、「じゃんじゃん」と音を立てると消える。ホイホイ火(ホイホイび)とも呼ばれる。安土桃山時代に松永弾正に討たれた武将・十市遠忠の怨霊とされ、これを見た者は怨霊の祟りによって三日三晩の間、熱病に見舞われてしまうという。遠忠が討たれた際に殺された武士たちが大勢で「残念、残念」と言うために「じゃん、じゃん」と聞こえるともいう。また天理市田井庄町では、首切地蔵という首と胴体の離れた地蔵があるが、かつてじゃんじゃん火に襲われた武士が刀を振り回し、誤って路傍の地蔵の首を刎ねてしまったのだという。その武士は結局、丸焦げになって死んだといわれる。 
●蜘蛛ノ火・死んだ明智の蜘蛛火 1  奈良県桜井市 
江戸時代の展示資料は、大窪舒三郎昌章著『諸国採薬記』(国立国会図書館所蔵)である。天保2年(1831)に書かれたもので「伊吹山採薬記」に「蜘蛛ノ火」の記述がある。
「夜伊吹山ヘ登ルト折節見ル事アリ五六寸廻リニ光ルモノ所所ニ見ユ近ヅケハ遠クトヒ去ト云フ。タイラグモト云四方ヘ足ヲヨセタルクモノ多クアツマリ光リヲナスト云」
夜に伊吹山に登ると、ときどきタイラグモが集まって20センチくらいの光の球となって浮いているのがところどころに見え、近づけば離れていくというのだ。お伽噺のような美しい光景に思える。
「蜘蛛火」は、『日本妖怪大事典』(村上健司編著)に「奈良県磯城郡纏向村(桜井市)でいう怪火。数百の蜘蛛が一塊(ひとかたまり)の火となって虚空を飛行するもので、これにあたると死んでしまうという。岡山県倉敷市玉島八島には蜘蛛の火というものがある」と記されている。「蜘蛛ノ火」は「蜘蛛火」と同種の怪異である。
イヌワシは漢字で「狗鷲」と書く。突出した大きな嘴、発達した視力、広い行動圏、すぐれた飛翔力、大きな翼と扇型の尾羽など、イヌワシは天狗のモデルともいわれている。大窪は同書に伊吹山に連なる弥高山に「天狗多シト云」と記しているところも興味深い。
ところで、『47都道府県・妖怪伝承百科』(丸善出版)にリチャード・ゴードン・スミスの書いた『Ancient Tales and Folklore of Japan』(日本昔話民間説話集)に、「The Spider Fire of the Dead Akechi」(死んだ明智の幽霊の蜘蛛火)の話が載っていた。15センチほどで、舟を難破させたり、航路を間違わせたりするらしい。
伊吹山文化資料館で企画展が行われた「牧野富太郎」は、植物分類学の基礎を築き、日本の植物学の父と称される人物だ。明治14年(1881)に初めて伊吹山を訪れ、その後もたびたび植物探査と採取を行っている。大窪は、尾張藩御薬園御用役を務める江戸時代後期の本草家である。精巧な線画の本草図を得意とし、『蜘蛛類図説』はシーボルトが帰国の際に持ち帰っている(朝日日本歴史人物事典)。意外なところで、明智光秀と蜘蛛ノ火が繫がった。 
●蜘蛛火 2 
奈良県磯城郡纏向村(桜井市)に伝わる怪火。数百匹のクモが一塊の火となって空を飛び、これに当たると死ぬといわれる。似たもので、岡山県倉敷市玉島八島で、クモの仕業といわれる「蜘蛛の火」がある。島地の稲荷社の森の上に現れる赤い火の玉で、生き物または流星のように山々や森の上を飛び回っては消えるという。播州(現・兵庫県)の怪談集『西播怪談実記』のうち「佐用春草庵是休異火を見し事」では、播州佐用郡佐用村(現・同県佐用町)に怪火が出現し、人々が「くも火だったのだろうか」と語ったというが、詳細は明らかになっていない。 
●縁切蜘蛛  奈良県宇智郡 
奈良県宇智郡に伝わる妖怪です。
大和国宇智郡葛城山麓の近内村に「蜘蛛の森」と称する森があり、昔から葛城の大蜘蛛の子孫が棲んでいました。この大蜘蛛は闇夜になると提灯大の光り物と化して森の木々を移動していましたが、明治時代、森の木が本願寺殿堂再建用の材木として買い上げられ伐採されてしまったために住処を失ってしまいました。それ以後、蜘蛛は夜ごとに近内村に現れ、大木がある家々を飛び歩くようになりました。村人はこれを恐れ、やがて夜は誰一人外出しなくなりました。若い男女の密会も途絶えたため、この蜘蛛は縁切蜘蛛という名で呼ばれるようになったといいます。  
● 光玉  奈良県吉野郡吉野町  
[ヒカリダマ] 奈良県吉野郡吉野町。夜道を1人で歩いていたら、山の上のほうから、光玉が飛んだ。赤い色がだんだん柿色になった。高い所を飛んでいたのだが、自分に近づいて来るようで、力が抜けて座り込んでしまった。 
●首切地蔵  奈良県 
[くびきりじぞう] 奈良には“ジャンジャン火”と呼ばれる怪火が現れたという。ただし怪火であればどのような場合でも“ジャンジャン火”と呼び習わしていたようであり、地域によって伝承の内容が異なることが多い。
天理大学の南東角の交差点にある地蔵堂には、胴体と首とが真っ二つになった地蔵が安置されているが、このような姿になった由来にも“ジャンジャン火”が登場する。
この場所から南東に行った場所に龍王山という山がある。戦国時代の末期に、その山腹に龍王山城があった。この城は大和の小領主である十市氏が治めていたのだが、敵対する領主(筒井氏とも松永氏とも)によって攻め落とされた。十市氏の武者達が「残念、残念」と言って自害して果て、その怨念が火の玉となって飛び回ったのが“ジャンジャン火”であるとされる。そしてその火を見ると、病気になるとか死ぬとか言われ、大変恐れられたのである。
昔、大晦日の夜に、このあたりに住む庄右衛門という浪人がこの地蔵堂で休んでいると、いきなりジャンジャン火が飛んできた。恐れおののいた庄右衛門は、手にした提灯で防いだが役に立たず、とうとう刀を抜いて辺り構わず振り回した。しかしもはやどうすることも出来ず、最後には庄右衛門は黒焦げになって死んでしまったという。さらに翌日になると、庄右衛門の焼死体にはびっしりと奇妙な虫が付いていたという。そして庄右衛門の刀が当たったためか、地蔵堂にあった地蔵の首が見事に斬り落とされていたのである。それ以来、この地蔵は首切地蔵と呼ばれるようになったとのこと。 
●打合橋  奈良県 
[うちあいばし] 豊臣秀長が大和郡山を統治していた頃、家老に亀井氏という者があり、その息子に式部と名乗る若侍がいた。ふとしたことから式部は、百姓の娘であった深雪と懇ろとなり、二人は打合橋のたもとで逢瀬を重ねるようになった。ところが藩では侍と他の身分の者との恋は御法度。いつしか噂になった二人の仲も当然罪に問われた。そして式部は死罪と決まったのである。
処刑の場は式部の願いから、打合橋となった。家老の息子とはいえ公序良俗に反する大罪ゆえに斬首を科せられた式部は、従容として橋の上で首を刎ねられた。その首は高く飛び上がると、そのまま橋の下に落ちていった。人々はその首の行方を追って橋の下に向かうと、そこには深雪の亡骸があった。おそらく覚悟の上で式部の後を追ったのであろう。深雪は式部の首を抱きかかえたまま事切れていたのであった。
それから二人の命日に当たる6月7日になると、橋の東西から一対の怪火が橋を渡り、橋の真ん中でジャンジャンと音を立てながらあやしく絡み合う姿が目撃された。人々はそれを式部と深雪の霊であろうと考え、その日は橋のたもとで「ジャンジャン火迎え」と称する慰霊の踊りをするようになったという。
奈良市と大和郡山市の境にある打合橋は、現在でも県道41号線としてかなりの交通量のある場所となっている。既に怪火が現れることもなく、また慰霊の踊りも行われることも絶えて久しい。ただその橋の名前だけが、この悲しい伝承の痕跡となっているのみである。 
●狐に化かされる  兵庫県姫路市 
姫路に伝わる「およし狐」伝説。この話は人に助けられた狐が恩返しとして人の妻となる「狐女房」型の話と言えるが、一般的な狐女房の話は、狐が人の妻となるものの正体を見破られて去っていく、という話が多い。この伝説の「およし狐」は嫁入りを避けて、人間に幸せな結末をもたらしている。こうした筋立ては、一般的な狐女房話よりは新しい時期のものと考えてよいだろう。
ただし、「およし狐」の名前自体は中世末期の文献までさかのぼることができる。天正4(1576)年の奥書がある『播磨府中めぐり』で「梛寺(なぎでら)の小よし狐」と記されていて、少なくともこのころから、姫路で語られ続けてきたことがうかがえる。
寛延3(1750)年の『播州府中めぐり拾遺(しゅうい)』では、梛寺の柱が動くことがあり、これをおよし狐の仕業と伝えている。梛寺は、姫路城下町建設以前には姫山近くの梛本(なぎもと)というところにあった寺で、現在は市内の坂田町(さかたまち)にある善導寺(ぜんどうじ)の前身とされている。
天正4(1576)年の奥書がある『播州故事考(ばんしゅうこじこう)』では、永正10(1513)年のこととして、梛寺にまったく同じ服装をした二人の女性が参詣し、寺僧が不思議と思って見ていると、近くの泉のあたりで一人は消えてしまい、「梛寺の狐」の仕業とされたという。
柱を動かしたり、参詣の女性に化けたり、ここに見える「およし狐」は、一般的な狐の怪異話になっている。おそらくこのほかにも、さまざまな怪異がおよし狐の仕業とされていたのだろう。
また江戸時代以来、およし狐は、紀行文「姫山の地主神」で紹介した姫路城天守閣のおさかべ姫と結びつけられることもあった。寛延3(1750)年の『播州雄徳山八幡宮縁起(ばんしゅうゆうとくさんはちまんぐうえんぎ)』では、「梛寺のおよし狐は女に化けて活動したことが諸書に見える」とし、「ここからおさかべ姫と混同されるようになったのであろう」と述べている。江戸時代の知識人の間でも、両者は本来別物で、後から結びついたものと見られていた。
およし狐がいた梛本には、中世までは梛寺とともに播磨総社(はりまそうしゃ)もあった。梛本の場所は、近世の諸書では一致して、城下町の久長門(きゅうちょうもん)の内側にある岐阜町(ぎふまち)あたりとされている。現在の場所にあてはめると、国立病院機構姫路医療センターや県立姫路東高校の付近になる。当館のすぐ東側である。
さて、およし狐のほかにも、姫路周辺には狐話が多数あった。『播磨府中めぐり』では、「宿村の小六」の話があり、天正3(1575)年の『近村めぐり一歩記』では蒲田(かまた)の「井内源二郎」、才(さい)の「竹次郎」のほか、「福吉狐」、「山本村の鼠狐」、「朝日山大法主の狐」、「又鶴の半まだら狐」、「利生のおしも狐」、「神村の太郎太夫狐」、「管長狐」、「黒岡山のはら斑狐」など多数の狐の名前があげられている。また、天正元(1573)年の成立と伝える『播陽うつつ物語』では、名古山(なごやま)の「万太郎狐」、「黒天狗」、「翠髪」、「釣狐」に化かされた話がある。
こうした狐話の多さは、姫路に限ったことではない。中世末期から江戸時代にかけて、狐の話は全国各地で数多く語られるようになっていた。量的に見れば、狐は江戸時代の妖怪の主役級である。 
●草刈火  兵庫県 
『西播怪談実記』にある怪火です。
元文(1736〜1741)のはじめ、五月雨の頃に、佐用郡佐用村の半七という者が姫路へ赴き逗留していました。本来の用事は思うように進まなかったため、半七はある日の夕方にふと思い立って飾東郡蒲田村の知人を訪ねてみることにしました。
雨が降るか降らぬかの道中、まだ目的地に至らぬ間に日が暮れてしまいました。すると、道の真ん中から突如として一筋の火が燃え出てきました。不思議に思ってじっとしていると、火がもう一筋出てきて、互いにもつれたりよじれたりした後にぱっと消えてしまいました。しばらくすると再び火が出てきて、また同じように消えました。
半七は気味悪く思いながらも火が出た辺りを通過して、知人の家に辿り着きました。そこで先ほど見たもののことを話すと、知人は「以前から時々その火を見る人があり、草刈火と言い伝えている」と言いました。昔、草刈りの子が喧嘩をして、鎌で切り合った末に二人とも死んでしまったことがあり、それが哀れにも今なお修羅の相を見せているのだろうということでした。
これは著者の春名忠成が半七から直接聞いた話であるといいます。 
●油返し 1  兵庫県伊丹市昆陽 
兵庫県伊丹市昆陽に伝わる怪火です。
『民間伝承』通巻53号「妖怪名彙に寄す」(辰井隆)によれば、油返しは初夏の闇夜や寒い冬の夜、昆陽池の北堤辺りに現れるといいます。
池の南にある千僧の墓から出て、昆陽池や瑞ヶ池の堤を通って天神川の畔から中山寺へ行くともいいます。
油返しはパッパッパッパッとつくと、オチャオチャオチャオチャと話し声がし、トボトボトボトボとセングリセングリと後ろへかえらず急いて灯るもので、その正体は中山寺の油を盗んだ者の魂が化したもの、北堤にいる狐の嫁入り、千僧にいる狼が灯す火だなどといわれました。 
●油返し 2 
「油返し」とは、兵庫県の伊丹市昆陽に伝わる怪火の妖怪です。初夏や冬の寒い夜に「昆陽池」の傍にある墓地や堤付近に現れると言われています。
油返しはパッパッと点滅するように現れると、「アチャ、アチャ」声のような物が聞こえ、どこか忙しない様子で灯る怪火と伝えられています。
昔、「中山寺」というお寺から油を盗んでいた者がいたそうです。油返しはこの盗人の魂が化けたものと言われています。また、出現場所である昆陽池の南側には「千僧の墓」があり、油返しはこの墓から現れて池の堤を通り、天神川の畔や中山寺に向かうというお話もあります。
正体はお寺から油を盗んだ人の魂が化けたものと言われていますが、他にも千僧にいる狼の灯火説や昆陽池の北堤で暮らしている妖狐の嫁入り説があります。特徴的には忙しなく灯るせっかちな怪火なので、どうしてそんなに落ち着きがないのか気になる所ではあります。まさか、油を盗んだ人はその油が引火して…は流石に私の考え過ぎですね。 
●青火  兵庫県姫路市 
夜、墓地などに燃え出て空中を飛びまわる、青白い火の玉。鬼火(おにび)。幽霊火(ゆうれいび)。燐火(りんか)。随筆・嘉良喜随筆(1750頃)三「二階町(兵庫県姫路市?)に柳原家の家あり。毎夜青火光る。此所昔寺也」。 

 

●中国地方
●ほぼら火 1  岡山県倉敷市下津井 
サバを積んで市場に運ぶとき、夜中にサバを造りにしていると、帆を捲いた船がものすごいスピードで走ってきて行き過ぎた。「迷い火だな、ほぼらだな」と思った。一旦行過ぎた船が又帰ってきたので、料理していたサバをぶつけると船はおかの方へ行った。ホボラとは幽霊のことという。 
●ほぼら火 2 
岡山県倉敷市下津井に伝わる。魚島(八十八夜から四十日ほどの魚の多い時期)の頃、夜更けに漁船を出したら、タタタッと風の吹く音がして帆を巻いた舟がこちらに走ってきた。料理していたサバを投げつけたら丘の方へ行った。 
●チュウコ  岡山県 
備前(現・岡山県)のチュウコとは空中に見る怪火にして、他地方の狐火きつねび、火ひの玉たまなどを総称した名称である。その原因は狐に帰するからチュウコという。  
●オショネ  島根県松江市八束町遅江 
島根県松江市八束町遅江に伝わる妖怪です。
ある寒い日に、漁師が舟で沖待ち(魚が網にかかるまで待つこと)をしていました。あまりに寒いので釣鐘(炬燵のようなもの)に当たって過ごしていたところ、ふと気付くと目の前に大きな山がありました。流されてしまったのかと思い、艫へ回って錨綱を引いてみましたが、何も異常はみられません。肝の据わった漁師は、そのまま目を瞑って釣竿を引き続けることにしました。暫くして目を開けてみると、艫の竹に横綱のような筋のはった所の上で、手も足もない三人の子供が焚火を囲んでいました。「あの子供は話に聞いたオショネというやつに違いない。とうとうこれは化かされたんだなあ」と思った漁師は、釣鐘にシュシュミ(植物の葉か)を投げ入れました。火にくべられたシュシュミがパチパチと音を立てると、オショネは驚いて、フーッと飛んで嵩山の松で提灯になってぶら下がり、ふらりふらりしていたといいます。 
●牛鬼  島根県北東部
[うしおに、ぎゅうき] 各地で伝承があり、その大半は非常に残忍・獰猛な性格で、毒を吐き、人を食い殺すことを好むと伝えられている。ただし、その中の一部には悪霊を祓う神の化身としての存在もいる(後述)。
伝承では、頭が牛で首から下は鬼の胴体を持つ。または、その逆に頭が鬼で、胴体は牛の場合もある。また、山間部の寺院の門前に、牛の首に人の着物姿で頻繁に現れたり、牛の首、鬼の体に昆虫の羽を持ち、空から飛来したとの伝承もある。
海岸の他、山間部、森や林の中、川、沼、湖にも現れるとされる。特に淵に現れることが多く、近畿地方や四国にはこの伝承が伺える「牛鬼淵」・「牛鬼滝」という地名が多く残っている。
『百怪図巻』など江戸時代に描かれた妖怪絵巻では、牛の首をもち蜘蛛の胴体を持っている姿で描かれることが多い。『百鬼夜行絵巻 (松井文庫)』では同様の絵が「土蜘蛛」という名で記され牛鬼(鳥山石燕『画図百鬼夜行』に似たものが描かれている)と区別されている例もいくつか見られる。
各地の伝承​
三重県 三重県では牛鬼はひどく祟るとされた。かつて南伊勢・五ヶ所浦の洞穴に牛鬼がいるといわれ、五ヶ所城の城主・愛洲重明が弓で射たところ、その祟りで正室が不治の病となってしまった。これがもとで重明は正室を疎んじ、京から来た白拍子を溺愛するようになった。これにより正室の親元である北畠氏は愛洲氏と不仲となり、愛洲氏を滅ぼしてしまったという。
和歌山県 西牟婁郡の牛鬼淵は、底が海にまで通じており、淵の水が濁ると「牛鬼がいる」といわれた。ここの牛鬼は出会っただけで人を病気に至らしめるという。このようなときは「石は流れる、木の葉は沈む、牛は嘶く、馬は吼える」などと逆の言葉を言うと、命が助かるという。またこの地の牛鬼は、猫のような体と1丈(約3.3メートル)もの尾を持ち、体が鞠のように柔らかいので歩いても足音がしないという。上戸川では滝壺に牛鬼がいるといい、これに影を嘗められた人間は高熱を発して数日のうちに死ぬといわれ、それを避けるため毎年正月に、牛鬼の好物である酒を住処に供えたという。三尾川の淵の妖怪譚では、牛鬼が人間に化け、さらに人間を助けるというたいへん珍しい話がある。青年が空腹の女性に弁当を分けたところ、その女性は淵の主の牛鬼の化身で、2ヶ月後に青年が大水で流されたときに、牛鬼に姿を変えたその女性に命を救われた。だが牛鬼は人を助けると身代りとしてこの世を去るという掟があり、その牛鬼は青年を救った途端、真っ赤な血を流しながら体が溶けて、消滅してしまったという。
岡山県 牛窓町(現・瀬戸内市)に伝わる話では、神功皇后が三韓征伐の途中、同地にて塵輪鬼(じんりんき)という頭が八つの大牛姿の怪物に襲われて弓で射殺し、塵輪鬼は頭、胴、尾に分かれてそれぞれ牛窓の黄島、前島、青島となった。皇后の新羅からの帰途、成仏できなかった塵輪鬼が牛鬼に化けて再度襲い掛かり、住吉明神が角をつかんで投げ飛ばし、牛鬼が滅んだ後、体の部分がバラバラになって黒島、中ノ小島、端ノ小島に変化したという。牛窓の地名は、この伝説の地を牛転(うしまろび)と呼んだものが訛ったことが由来とされる。また、鎌倉時代に成立した八幡神の神威を紹介する神道書・『八幡愚童訓』にも塵輪(じんりん)という鬼が仲哀天皇と戦ったことが記されており、先述の伝承の由来とされる。『作陽志』には、美作苫田郡越畑(現・苫田郡)の大平山に牛鬼(ぎゅうき)と名付けられた怪異が記されている。寛永年間に20歳ばかりの村民の娘が、鋳(カネ)山の役人と自称する男子との間に子供をもうけたが、その子は両牙が長く生え、尾と角を備えて牛鬼のようだったので、父母が怒ってこれを殺し、鋳の串に刺して路傍に曝した。民俗学者・柳田國男はこれを、山で祀られた金属の神が零落し、妖怪変化とみなされたものと述べている。
山陰地方 山陰地方から北九州にかけての沿岸では、牛鬼では濡女や磯女と共に海中から現れるといい、女が赤ん坊を抱いていて欲しいなどと言って人を呼びとめ、相手が赤ん坊を抱くと石のように重くなって身動きがとれなくなり、その隙に牛鬼に食い殺されるという。牛鬼自身が女に化けて人に近づくともいうが、姿を変えても水辺に写った姿は牛鬼のままであり、これによって牛鬼の正体を見破ることができるという。石見(現・島根県)でも同様に、釣り人のもとに赤ん坊を抱えた怪しげな女が現れ「この子を少しの間、抱いていて下さい」というので抱き取ったところ、女が消えたかと思うと海から牛鬼が現れ、しかも腕の中の赤ん坊が石に変わり、あまりの重さに逃げることができないでいたところ、彼の家にあった代々伝わる銘刀が飛来して牛鬼の首に突き刺さり、九死に一生を得たという。牛鬼はほかにも地名由来に関わっている場合もあり、山口県光市の牛島などは牛鬼が出たことに由来する。
高知県 明和3年(1776年)の大旱魃の年に岡内村(現・香美市)の次郎吉という男が、峯ノ川で牛鬼を目撃したという。また同県の民話では、ある村で家畜の牛が牛鬼に食い殺され、退治しようとした村人もまた食い殺されていたところへ、話を耳にした近森左近という武士が弓矢の一撃で退治した。村人たちは大喜びで、弓を引く真似をしながら左近の牛鬼退治の様子を話したといい、これが同県に伝わる百手祭の由来とされる。物部村市宇字程野(現・香美市)に伝わる話では、2-3間の深さのすり鉢状の穴に落ち抜け出せずに泣いている牛鬼を、屋地に住んでいる老婆が助け、それ以来牛鬼はその土地の者には祟りをしなかったという。土佐山村にある鏡川の支流である重倉川に牛鬼淵があり、昔、こけ淵と呼ばれていた頃に牛鬼が住んでいて、ある時、長谷集落の猟師が夜間にぬた撃ちに出かけた際、身の丈7尺、身体は牛で顔は鬼のような姿の牛鬼と遭遇して、これを射殺。牛鬼は淵に沈んで7日7夜血を流し、後に7尺ほどの骨が浮かんできたので、小さなお宮を立てて祭り、お宮を「川内さま」、こけ淵を牛鬼淵と呼ぶようになった。
愛媛県 宇和島地方の牛鬼伝説は、牛鬼の伝承の中でも特に知られている。かつて牛鬼が人や家畜を襲っており、喜多郡河辺村(現・大洲市)の山伏が退治を依頼された。村で牛鬼と対決した山伏は、ホラガイを吹いて真言を唱えたところ、牛鬼がひるんだので、山伏が眉間を剣で貫き、体をバラバラに斬り裂いた。牛鬼の血は7日7晩流れ続け、淵となった。これは高知県土佐山、徳島県白木山、香川県根来寺にそれぞれ牛鬼淵の名で、後に伝えられている。別説では、愛媛県に出没した牛鬼は顔が龍で体が鯨だったという。同じ「牛鬼」の名の伝承でも地域によって著しく姿形が異なることから、妖怪研究家・山口敏太郎は、水から上がってくる大型怪獣はすべて「牛鬼」の名で呼ばれていたのではないかと述べている。宇和島藩のお家騒動である和霊騒動を機に建立された和霊神社では、例祭として7月23日と24日に「牛鬼まつり」が行われている。
ツバキの根説 牛鬼の正体は老いたツバキの根という説もある。日本ではツバキには神霊が宿るという伝承があることから、牛鬼を神の化身とみなす解釈もあり、悪霊をはらう者として敬う風習も存在する。またツバキは岬や海辺にたどり着いて聖域に生える特別な花として神聖視されていたことや、ツバキの花は境界に咲くことから、牛鬼出現の場所を表現するとの説もある。共に現れる濡女も牛鬼も渚を出現場所としており、他の場所から出てくることはない。
古典​
民間伝承上の牛鬼は西日本に伝わっているが、古典においては東京の浅草周辺に牛鬼に類する妖怪が現れたという記述が多い。
鎌倉時代の『吾妻鏡』などに、以下の伝説がある。建長3年(1251年)、浅草寺に牛のような妖怪が現れ、食堂にいた僧侶たち24人が悪気を受けて病に侵され、7人が死亡したという。『新編武蔵風土記稿』でもこの『吾妻鏡』を引用し、隅田川から牛鬼のような妖怪が現れ、浅草の対岸にある牛島神社に飛び込み、「牛玉」という玉を残したと述べられている。この牛玉は神社の社宝となり、牛鬼は神として祀られ、同社では狛犬ならぬ狛牛一対が飾られている。また「撫で牛」の像があり、自身の悪い部位を撫でると病気が治るとされている。この牛鬼を、牛頭天王の異名と牛鬼のように荒々しい性格を持つスサノオの化身とする説もあり、妖怪研究家・村上健司は、牛御前が寺を襲ったことには宗教的な対立が背景にあるとしている。
『枕草子』において「おそろしきもの」としてその名があげられており(148段)、また『太平記』においては源頼光と対決した様子が描かれている。
江戸時代初期の古浄瑠璃である『丑御前の御本地』によれば、平安時代の豪族・源満仲の妻が、胎内に北野天神が宿るという夢をみたのち、三年三月と云う長い妊娠期間を経て、丑の年丑の日丑の刻に男児を出生した。この男児は源頼光の弟(原文では「らいくわうの御しやてい」「ただの満中が次男」)にあたるが、牛の角と鬼の顔を持つために殺害されかける。しかし、殺害を命じられた女官が救い出して山中で密かに育て、成長して丑御前と呼ばれるようになる。満仲は妖怪退治の勇者である息子の源頼光に丑御前の始末を命じる。丑御前は関東に転戦し徹底抗戦、隅田川に身を投げ体長約30メートル(十丈)の牛に変身して大暴れしたという。
●怪火としての牛鬼​
関宿藩藩士・和田正路の随筆『異説まちまち』には、怪火としての「牛鬼」の記述がある。それによれば、出雲国(現・島根県北東部)で雨続きで湿気が多い時期に、谷川の水が流れていて橋の架かっているような場所へ行くと、白い光が蝶のように飛び交って体に付着して離れないことを「牛鬼に遭った」といい、囲炉裏の火で炙ると消え去るという。これは新潟県や滋賀県でいう怪火「蓑火」に類するものと考えられている。
また因幡国(現・鳥取県東部)の伝承では、雪の降る晩に小さな蛍火のような光となって無数に蓑に群がり、払っても地に落ちまた舞い上がり着き、やがて蓑、傘ともに緑光に包まれるという。
実在する牛鬼の遺物​
徳島県阿南市のある家では、牛鬼のものと伝えられる獣類の頭蓋骨が祠に安置されている。これはかつてある家の先祖が、地元の農民たちの依頼で彼らを苦しめる牛鬼を退治し、その首を持ち帰ったのだという。
福岡県久留米市の観音寺にも牛鬼の手とされるミイラがある。康平年間(1063年)に現れた牛鬼のもので、牛の首に鬼の体を持ち、神通力を発揮して近隣住民を苦しめ、諸国の武士ですら退治をためらう中、観音寺の住職・金光上人が念仏と法力で退治したものという。手は寺へ、首は都へ献上され、耳は耳納山へ埋められたという。耳納山の名はこの伝説に由来する。
香川県五色台の青峰の根香寺には、牛鬼のものとされる角が秘蔵されている。これは江戸時代初めに青峰で山田蔵人高清なる弓の名手に退治された牛鬼とされ、同寺に残されている掛軸の絵によると、その牛鬼は猿のような顔と虎のような体を持ち、両前脚にはムササビまたはコウモリのような飛膜状の翼があったという。この掛軸と遺物は、現在では諸々の問題により一般公開されておらず、ネット上でのみ公開されている。 
●たくろう火  広島県東部 
「備後国」(広島県東部)御調郡に伝わる火の妖怪。江戸時代の歴史書・地誌である『芸藩通志』などにも記載されている。
夏から秋にかけての夜、海岸に火の玉となって出現する。2つの火が並んで現れることから、比べ火(くらべび)とも呼ばれる。かつては瀬戸内海を重要な交通路とする船乗りたちにとってよく知られた妖怪であったという。
広島中部の伝承によれば、非業の死を遂げた2人の女が、京女郎、筑紫女郎(ちくしじょろう)と呼ばれる2つの石と化し、その霊がたくろう火になったと言われている。
出没したのはかなりの過去であり、微かに古い書物にのみ伝承されているに過ぎず、土地の古老にすらほとんど知られていない。  
●玉の岩  広島県尾道市・千光寺 
[たまのいわ] 尾道の観光ガイドの表紙を飾る最も有名な光景が、この千光寺から海を眺めたものであろう。尾道観光の象徴であるといっても過言ではない。
千光寺は山肌にへばりつくように建てられており、その境内には多くの巨岩がある。そのいくつかには名前が付けられており、それぞれ曰くの伝承がある。中でも“玉の岩”と呼ばれる巨岩には、寺名にまつわる伝承が残されている。
“玉の岩”という名の通り、かつてはその岩の上に如意宝珠があり、夜ごと光を放ち、それは海からもはっきりと見えるほどであったという。ある時、異国人がこの寺を訪れて、この岩を買い取りたいと申し出た。住職は断ったが、異国人はそのやりとりから、住職はこの玉のことを知らないと確信した。そして岩に登ってその玉を盗み出したのであった。しかし玉を持って帰る途中、海にそれを落としてしまったという。
この玉の岩にある如意宝珠が光り輝くことから「大宝山千光寺」、また玉が沈んだ辺りを「玉の浦(現在の尾道港)」と呼ぶようになったとされる。高さ15mの“玉の岩”の天辺には、かつて宝珠があったことを示す窪みが今でもある。また、この宝珠の光を反射させて海を照らしていたとされる「鏡岩」の伝承があったが、平成12年(2000年)にその所在が明らかになっている。おそらく海上の要衝にあって、灯台の役目を果たしていた時期があったものと推察できる。 
●根場の怪火  山口県柳井市平郡島 
山口県柳井市平郡島。防州の平郡島に伝わる怪火で、夜、漁船に乗っている時に明るく火が見えたりするのですが朝、そのあたりに行ってたしかめて見ても、燃えた痕跡が何も見つけられない、といったもの。  

 

●四国地方
●煙の宮  香川県・青海神社  
[けむりのみやおうみじんじゃ] 崇徳上皇の遺体は白峯山で荼毘に付されたのであるが、さらにその時に怪異が起こった。今度は荼毘の時に出た煙が、山のふもとのある一ヶ所に溜まって動かなくなったのである。一説によると、その煙は輪を成し、その中に天皇尊号の文字が現れたとも伝わっている。また煙が消えた場所には上皇のお気に入りの玉があったともされる。その後、この地にも崇徳上皇の霊を慰める青海神社が建立され、【煙の宮】と呼ばれることになる(玉は社宝として保管されているらしい)。
このようにその死に際してとんでもない怪異を連続して起こした崇徳上皇の怨念は、ついには京都をたびたび戦禍に巻き込む源平の合戦を引き起こし、武家が公家を圧倒する世の中を生み出したとされる。つまり上皇の呪詛の言葉は見事に成就されたのである。
上皇の祟りは現在でも続いているのであろうか。それにまつわる一つの事実だけ紹介しておく。
昭和39年9月21日、この日崇徳天皇陵(白峯陵)で八百年御式年祭が執り行われたのであるが、その日の未明に近隣の林田小学校で不審火があり、校舎が全焼している。この林田小学校は、上皇が讃岐へ配流された時の最初の住まいとされた“雲井御所”のすぐそば。そして火事の直後には猛烈な雷雨があったとされる。 
●明の宮  香川県・白峯神社
[あかりのみやしらみねじんじゃ] 日本史上、唯一魔道の者となると公的に宣言した人物がいる。崇徳天皇である。
鳥羽上皇を父に、待賢門院を母に持つ崇徳天皇であるが、実の父は祖父に当たる白河上皇であると、当時から暗黙の事実として言われてきた。それが数奇の運命の最初であった。鳥羽上皇は、父である白河上皇が亡くなると、“叔父子”である崇徳天皇を排斥し始める。上皇は崇徳天皇を退位させ、実子の近衛天皇を据えて院政を始める(院政は天皇の直系尊属、つまり父か祖父でなければ行えない。崇徳上皇は上皇であっても、院政を行うことは不可能なのである)。さらに近衛帝崩御の後には、崇徳上皇の同腹の弟が皇位に就く。1156年鳥羽上皇が崩御すると、崇徳上皇は武力行使によるクーデターを画策する。しかしそれよりも早く仕掛けたのが、実弟である後白河天皇であった。この【保元の乱】であっけなく敗れた崇徳上皇は、厳罰というべき讃岐への配流となる。そこで菩提のために、自らの指先から血を絞り出して大乗経190巻を写経し、京都のいずれかの寺院へ納めてほしいと頼んだ。しかし、後白河天皇はそれを拒否。ここに至ってついに崇徳上皇は、自らを怨霊と化すのである。
「我、日本国の大魔王となり、皇をとって民となし、民を皇となさん」。
送り返された経文の最後に、舌を噛み切ってこう血書した上で海中に沈めた崇徳上皇は、それから髪をくしけずらず、髭も爪も伸ばし放題となり、さながら天狗のような様相となった。そして9年後、京都へ戻ることなく46歳で崩御する。
遺体を荼毘に付すための勅許を得るまでの約20日間、上皇の遺体は“八十場の霊泉”に漬けられ腐敗を防いでいたという。その遺体がおかれていた場所の近くで、毎夜のように神光が現れた所があった。上皇の没年にはこの地に【白峯宮】が建立され、その怪光出現の故事から【明の宮】と呼ばれるようになった。
この白峯神社と同じ敷地には四国八十八ヶ所の七十九番札所の“天皇寺”がある。元は空海建立の寺院であったが、白峯宮創建後はその神宮寺としてこの名前となったという。ちなみにこの辺り一帯は古くは“天皇”と呼ばれており、坂出でも最も上皇ゆかりの地と言ってもいいかもしれない。 
●狸火  徳島県三好郡山城谷村 
狸が灯すとされる怪火で、各地に伝承があります。
徳島県三好郡山城谷村には、次のような狸火の話が伝わっています。大正二年、秋も末頃の夕方のこと、山中から一隊の提灯の火が現れました。その中には梔子燈籠らしき青白い光も混じっていて、明らかに葬列の火だと分かりました。火の行列は山を下り、麓の某家の裏まで来ると、再び山上へ引き返していくうちに消えてしまいました。家から墓地へ行かずに山へ帰ってしまったこと、そして狸火にしては出る時間が早すぎることから、人々は疑問を抱きました。後になって、提灯行列が現れた時刻と、某家の者が山で狸を二匹殺して持ち帰った時刻が一致することが明らかになり、人々は狸が弔いの列を作って眷属を見送ったのだろうと哀れがったといいます。 
●オボラ  愛媛県大三島
愛媛県大三島に伝わる怪火。亡者の霊火とされる。同県越智郡宮窪村(現・今治市)では「オボラビ」といって、海の上や墓地に正体不明の怪火が現れる伝承があり、これらが同一視されていることもある。 
●金の神の火  愛媛県・怒和島
[かねのかみのひ] 愛媛県・怒和島に伝わる。民俗学研究所による『総合日本民俗語彙』に記述がある。大晦日の夜更け、怒和島の氏神(社殿)の後ろに現れる提灯のような火。人がわめいているような音を出すのが特徴で、土地の人々の間では、これの出現は歳徳神の出現の知らせと見なされている。 
●遊火  高知県高知市 
[あそびび] 高知県高知市や三谷山で、城下や海上に現れるという鬼火。すぐ近くに現れたかと思えば、遠くへ飛び去ったり、また一つの炎がいくつにも分裂したかと思えば、再び一つにまとまったりする。特に人間に危害を及ぼすようなことはないという。  
●けち火  高知県香美市、新潟県佐渡市 
高知県、新潟県佐渡市に伝わる怪火。
人間の怨霊が火の玉と化したものとされ、草履を3度叩くか、草履に唾をつけて招くことで招きよせることができるという。火の中には人の顔が浮かんでいるともいう。
海上に現れるともいい、そのことから船幽霊の一種ともいわれる。奈良県に伝わる怪火・じゃんじゃん火と同一視されることもある。
民話研究家・市原麟一郎の著書によれば、大きく二つに大別され、人が死んだ瞬間にその肉体から発生したものと、眠っている人間から発生するものとがあるとされる。
後者の事例としては、明治初期の高知県香美郡(現・香美市)の以下のような民話がある。芳やんという男が夜道を歩いていると、物部川のそばで道端にけち火が転がっていた。近づくところころと転がりだすので、好奇心から追いかけたところ、けち火も逃げ出し、その内に人家に入り込んだ。その家では、うなされながら寝ていた男が目を覚まし、妻に「芳やんが追いかけて来るので必死に逃げて来た」と語ったという。
また同じく明治時代の高岡郡の民話では、斎藤熊兄という度胸のある男がけち火を目撃し、「ここまで飛んで来い」と怒鳴ったところ目の前に飛来して来た。斎藤はけち火を生け捕りにしようとするが、手でつかんだり足で踏みつけようとするたびにけち火は消え、また現れを繰り返した。ようやく両手でつかみ取って家へ持ち帰ったが、家で手を開くと、いつの間にかけち火は消えていた。翌日から熊兄は原因不明の熱病にかかり、そのまま死んでしまったという。
江戸時代の土佐国(現・高知県)の妖怪絵巻『土佐お化け草紙』(作者不詳)では、鬼火と書いて「けちび」とふりがながふられている。
佐渡の外海府村では、人魂のことを「ケチ」と呼んでいた。佐渡の郷土研究者である青柳秀雄の著書『佐渡海府方言集』によれば、ケチは人魂のこととある。 
●潮江山さうれん火  高知県高知市  
高知市街の南方に鏡川あり、其の南方に平田を隔てて孕山あり、蜿蜒として東西に連亘す。此の山に昔「さうれん火」というあり、雨天或は暖味の晩などには必ず現はれ、或は列をなし遊行する如く恰も葬式の行列火などを遠望する様なこともあり、かたがた葬連火とも呼ばれしとも伝えらる、高知市街からは之を打ち眺め、「又今晩もさうれん火が行きよる」といいはやしたと謂う。
参考 
かかる怪火は日本全国所々にありて土佐一国に限らない。近江の国では化けの火といい関西では狐火などとも呼ばれる、之は諸国周遊奇談に、近江国堅田村、中昔より化の火と呼んであやしき火あり、こは曇った夜は四季とも現われ出る、まず湖の岸より少しき火出ればだんだん山手の方へ行きて其火広がり大方三尺ばかり又大小もあり、時により小き時は一尺ばかりもあり火勢強からず、もっとも月夜には出ず、小雨の夜と曇りの夜ばかり、地をはなれること四、五尺にして人の面現れ両人裸で左右の手を組み、相撲など取る形なり云々。其のさま土佐の怪火と全く符号合せり。また曰く、京師の西の河原宗玄火(そうげんび)といふあり、此火は両夜曇り夜はことに出るなり、この火の色青く光り夜中に至れば松の木などの枝にとまり、また人の足元へ来り、それを撃つなどするときは中々撃つこと能はず、終りは水中に入て消える如く失せるなり。洛西の宗玄火、げにも其の名称といい事実といひ何ぞ土佐のさうれん火と相似寄りたる此の如きや。 
●西分怪火  高知県  
弘化の頃(一八四四〜一八四七)香美郡赤岡濱(今の高知県)にて要馬(馬上組討の稽古)の催しあり。和食の大工竹崎茂七というもの朋友三人と連れ立ち見物にゆき、夜に入りて帰途西分村の西岡前と云うところに来りし時、僅か三間ばかり向こうでクワット大火が燃え立ったので、三人は大に驚き眸を定めて之を見れば、身の丈甚だ高くして頭と面はさながら棕櫚毛を以て作りたる如き異形の者が木盆のような物に火の玉を載せて持っているので、三人は益々恐怖し早足でそこを走り去り、まだ十間も過ぎざる内に顧視せしかば、早くも沖の方へ向き濱松近に到り有しが又僅々を行くひまに堀切川に至り堤を上へ来る体にて、さては彼奴又我等が前へ廻る積りかといよいよ急ぎ同村永正寺門(今小学校門)に来り見れば、何時の間にか和食村円城寺門(これも今学校地)の傍の松の梢に留まりしという。茂七は明治二十六年頃七十歳にて健在し此の物語りをなせしという。 
●野火  高知県 
[のび] 土佐国(現・高知県)の長岡郡に伝わる。山中や人里を問わず出現する。傘程度の大きさの火の玉が漂って来たかと思うと、突然弾けて数十個もの星のような光となって地上から高さ4,5尺ほどの空中に広がり、ときにはその範囲は数百間にも渡る。草履に唾をつけて招くと、頭上に来て煌々と空中を舞うという。 
●青鷺の火  高知県  
昔高知城内の鷹屋に飼れたる十寸鏡(ますかがみ)という名鷹あり、其頃日が暮れて後、城南潮江山の方より城山を指し、いと青みたる火の燃つつ空中を飛来る。毎夜にて諸人大に怪となせしを彼の鷹は是を見る見る翼を震い勇み進まんとするので、遂に之を放ちければ忽ち一大怪鳥と組んで地上に落ちたのを火を揚げて見れば年古りたる青鷺だった。このような怪鳥を夜中に知りて進まんとしたのは実に神異の鷹にして、後容堂公の乗馬の逸物に十寸鏡という名をつけたが、此の名鷹の名を継がれしものとぞ青鷺の火光を発すること昔より其の伝あり。 
●七人みさき  高知県・吉良神社 
[しちにんみさき] 豊臣秀吉に屈して土佐一国の主となった長宗我部元親であるが、さらにその身に不幸が訪れたのは、嫡男であった信親の討死であった。我が子討死の報を聞き自害しようと取り乱したとの話が残るほどであり、その嘆きは尋常のものではなかったと言える。そしてそれを端に発して、さらなるお家騒動が勃発する。
新たに家督を継ぐ者として元親が指名したのは、末子の千熊丸(後の盛親)であった。しかも元親は、亡くなった信親の娘を千熊丸に嫁がせると決めたのである。それに真っ向反対したのが、元親の甥であり婿でもある吉良左京進親実である。長宗我部の家督については、既に秀吉から元親次男の香川親和とする朱印状が出されている。そして何と言っても、元親の裁断では叔父姪の間の婚儀となり人倫に背く行いである、と。親実の主張は正論であるが故に、元親の不興を買うことになった。
さらに側近の久武親直が、日頃から犬猿の仲であった親実らのことを讒言したため、遂に元親は意を決して親実及び比江山親興に切腹の沙汰を下したのである。天正16年(1588年)10月のことである。
切腹の命を親実が受けたのは、ちょうど碁を打っている最中であった。屋敷に戻り、作法に則り用意をした親実は「一門の者として君を諫める立場にあったが、佞臣によって忠義の道を絶たれた。当家は間もなく滅びよう」と言い残し、腹を真一文字に切り腸を引き出して死んだのである。
さらに元親は命じて、親実の治めていた蓮池城の留守を守る重臣ら、親族で名のある者たちを自害させるなど根こそぎ誅殺した。その主立った者は、親実の庶兄である僧・宗安寺真西堂(如淵)、同じく姻族で神職の永吉飛騨守宗明、蓮池城を預かる重臣・勝賀野次郎兵衛、その他にも城ノ内太守坊、吉良彦太夫、小島甚四郎、日和田与三右衛門の七名であった。
この事件は人々を怖れさせたが、さらにここに奇怪なことが起こった。親実ゆかりの地で八人の主従の亡霊が出現するようになったのである。主のいなくなった蓮池城下を夜陰に乗じるように呻き声を上げて人馬が宙を駆け回る音がした。また親実の墓や長宗我部の城周辺でも夜ごとに怪火が現れ、それに遭遇した者は命を落とすか大病になったという。さらに仁淀川の渡し船の船頭は姿の見えない数名連れの者を乗せて川を渡ると、その降りがけに「我は左京進の亡霊なり。怨みを晴らさんために一党率いて城に急ぐものなり」という声を聞いたという。
その翌日、親実切腹の讒言をした久武親直の屋敷前に老婆が現れて久武の次男を抱え上げると、次男は人事不省に陥りその晩に急死。その三七日目の忌日に長男が発狂して仏間に籠もり、さらにその三七日後にとうとう仏間で腹を切る。しかも今際の際に「上使二人が来て詰め腹を切らされた」と言い残して死亡。そして七七日には母親も狂死し、親実の祟りであるとまことしやかに言われた。(久武には八人の子があったが、そのうちの七名までがわずかのうちに死んでしまったという話も残る)
そのうち怪火だけではなく、白馬に乗った首のない侍や鉄棒を持った大入道が現れるなどの怪異が城内でも目撃されるようになり、さしもの元親も捨て置けなくなり、親実以下の者の供養をおこなうよう命じた。そして結願の日。身分を問わず多くの者が祈りを捧げ、僧侶が読経する中、突然祭壇に置かれた一党の位牌がガタガタと動き始めたと思うと、そのまま中空に飛んでいってしまったのである。自分たちの怨みはそのようなものでは鎮まりはしないと言わんばかりの様子に、人々は恐れおののいたのである。
その後、寛文6年(1666年)、土佐山内家は親実の墳墓を改葬し、その上に親実を祭神として新たに社殿を建てた。それが現在ある吉良神社である。そしてその本殿脇には、この騒動で亡くなった七名の者を祀る七所神社が置かれており、この七名を以て「七人みさき」とする旨が表示されている。 
●火の玉なんじゃろ  高知県宿毛市
その1
最近火の玉の研究もなかなか熱心にやられるようになり、日本でも早稲田大学の大槻先生など火の玉観測情報センターをつくって研究しているようです。
さてその火の玉、世の中が昔とちごうてそうぞうしくなると出て来るのがいやになるのか、近頃あんまり出会うたという話を聞かんが、 夏の夜など涼み台に集まって聞くお化けの話。そこではたいてい一役買っていたものだし、出会った人もたくさんおった。
お墓の中から燐が飛び出る。たいていの人がそんなことを言うたが、それもおかしなことだろう。
その2
中学生以上のみんななら知っているだろうが、普通では黄燐(おうりん)赤燐(せきりん)、そのうち気温があがって自然に燃えるのは黄燐ということだ。
第二次大戦でアメリカ軍が使った黄燐焼夷弾(おうりんしょういだん)、木造の家を焼く大きなマッチだったと言えるが、たしかに燃える。
墓場の穴から飛び出すことまでは考えられても、それだけの熱をだすなら火の玉の飛んだ所は火事騒動がついて来る。そう考えるとおかしなことだろう。大小、色もさまざまなのもを何度か見たが、わらぐろにさえ火はつかない。
その3
何年か前メタンの様なガス説も出たが、これも同様おかしいとこがある。
光を出す虫のかたまりと言った人もあるそうだが、電線にかかって四方八方に輝きながら飛び散って消えた火の玉。
丁度夜明けの頃だったが、明るくなって調べてもそれらしいものの一つも見当たらない。
舟底を走る火の玉もあるが、それは夜光虫のかたまりだと言うことを否定は出来んが。中には蛍を食ったひき蛙が うごくと火の玉に見えるんだという説まである次第で、今のとこなんともこれだと言い切ることはむつかしそうだ。
火の玉が飛ぶのは夏だとは限らない。墓場とも限らない。
その4
町の中でも出ることがあるし、道路わきから出ることもある。
学生時代に見た営所での火の玉なんか今でもはっきり覚えているが、あるいは小中学生のみんなのおじいさん達の中にはそれを知っている人がおられるかも知れん。
どす黒い様な赤色のバレーボール位の丸い玉。東の空から西に向けて兵舎の上空を飛んで行く。
時間は午前一時すぎ、召集のすこし年のいかれた兵隊さんが、戦地に向うときだけ飛ぶと、お世話になっていた班長さんが話してくれた。憲兵(けんぺい)の一人がスパイの信号ではないことだけははっきりしたが、どれだけさがしても原因は 判らない、と話してくれた。
なんとも不思議な気持ちで見た火の玉だった。
その5
空気の原子や分子がこわれてプラズマ状態になり、言えば稲光(いなびかり)の様なものといった考え方。 自然にある放射線が空気の原子や分子を火の玉にする。こんな考え方が今の所一番進んだ考え方と言われるが、 それにしてもいろいろな火の玉を実際見てくると決まりきった説明がつくもんだろうかとうたがいたくなる。
お化けの話につきもんだったからといって、火の玉に取って食われた人はない。学者はその正体をつかもうと調べ始めた。
お家の人にも聞いてみたら面白い話が出て来るかも知れん。
すこうしかたい話になってしもうたが、若い人達こんな話も頭のすみにちょっとおいてもらうと有難い。
ちょっとちごうた話になって相すみません。 

 

●九州地方
●迷い船  福岡県宗像市 
福岡県遠賀郡玄海町――現在の宗像市の海上に出るという妖怪で、盆の十五日の晩にのみ出るといわれており、そのためその日の夜に海に出るのは禁忌とされている。
ある四人が禁忌を破って出たところ、大量であったが海面に人の首が現れ、笑ったり転がったりしたので恐ろしくなり、急いで帰ったが、大量の魚と思ったものは全て草鞋であり、後に四人は狂い死にしてしまったといわれている。
また風に逆らって行く帆船や何もないのに話し声が聞こえることもあり、その方へ向かうと必ず難破するといわれている。
迷い船が現れるときは必ずタマカゼ――北西の方から吹く悪い風が吹き、大雨になるという。 
●とんとろ落ち  大分県大分市 
大分県北海部郡市坂ノ市町――現在の大分市に伝わる、狸が灯すという怪火。
虫追い松明行列に混ざったり、真っ暗な時化の夜に、赤い灯が野原を彷徨うといわれている。
この怪火を灯すといわれている狸は元々は人間の飛脚だったといわれる。戦国時代、上野遠江守という殿様から密書を託されたが、それを紛失してしまい手打ちとなった。それから飛脚は狸となり、今もその密書を探しているのだといわれている。 
●天火  佐賀県 
[てんか、てんび、てんぴ] 日本各地に伝わる怪火の一種。江戸時代の奇談集『絵本百物語』や、松浦静山の随筆『甲子夜話』などの古典に記述があるほか、各地の民間伝承としても伝わっている。
民間伝承​
愛知県渥美郡では夜道を行く先が昼間のように明るくなるものを天火(てんび)といい、岐阜県揖斐郡では夏の夕空を大きな音を立てて飛ぶ怪火を天火(てんぴ)という。
佐賀県東松浦郡では、天火が現れると天気が良くなるが、天火が入った家では病人が出るので、鉦を叩いて追い出したという。
熊本県玉名郡では天上から落ちる提灯ほどの大きさの怪火で、これが家の屋根に落ちると火事になるという。佐賀県一帯でも火災の前兆と考えて忌まれた。
かつては天火は怨霊の一種と考えられていたともいい、熊本県天草諸島の民俗資料『天草島民俗誌』には以下のような伝説がある。ある男が鬼池村(現・天草市)へ漁に出かけたが、村人たちによそ者扱いされて虐待され、それがもとで病死した。以来、鬼池には毎晩のように火の玉が飛来するようになり、ある夜に火が藪に燃え移り、村人たちの消火作業の甲斐もなく火が燃え広がり、村の家々は全焼した。村人たちはこれを、あの男の怨霊の仕業といって恐れ、彼を虐待した場所に地蔵尊を建て、毎年冬に霊を弔ったという。
天火は飛ぶとき、奈良県のじゃんじゃん火のように「シャンシャン」と音を出すという説もあり、そのことから「シャンシャン火」ともいう。「シャンシャン火」の名は土佐国(現・高知県)に伝っている。
古典​
『甲子夜話』によれば、佐賀の人々は天火を発見すると、そのまま放置すると家が火事に遭うので、群がって念仏を唱えて追い回すという。そうすると天火は方向転換して逃げ出し、郊外まで追い詰められた末に草木の中に姿を消すのだという。
また、天火は雪駄で扇ぐことで追い払うことができるともいい、安政時代の奇談集『筆のすさび』では、肥前国(現・佐賀県)で火災で家を失った人が「ほかの家の屋根に火が降り、その家の住人が雪駄で火を追いかけたために自分の家の方へ燃え移ったため、新築の費用はその家の住人に払って欲しい」と代官に取り計らいを願ったという語った奇談がある。
江戸時代の奇談集『絵本百物語』では「天火(てんか)」として記述されており、これにより家を焼かれた者、焼死した者があちこちにいるとある。同書の奇談によれば、あるところに非情な代官がおり、私利私欲のために目下の者を虐待し、目上の者にまで悪名を負わせるほどだったが、代官の座を降りた翌月、火の気のないはずの場所から火が出て自宅が焼け、自身も焼死し、これまでに蓄えた金銀、財宝、衣類などもあっという間に煙となって消えた。この火災の際には、ひとかたまりの火が空から降りてきた光景が目撃されていたという。  
●うぐめん火  長崎県南高来郡千々石町  
長崎県南高来郡千々石町。海上にぼんやり見える火があった。うぐめん火といい、近くに行っても同じだけ遠くに見える。見えた方向から話し声が聞こえる。海で遭難した人の霊がさまよっているのがこの怪火である。 
●アヤカシ  長崎県 
アヤカシは、日本における海上の妖怪や怪異の総称。
長崎県では海上に現れる怪火をこう呼び、山口県や佐賀県では船を沈める船幽霊をこう呼ぶ[1]。西国の海では、海で死んだ者が仲間を捕えるために現れるものだという。
対馬では「アヤカシの怪火」ともいって、夕暮れに海岸に現れ、火の中に子供が歩いているように見えるという。沖合いでは怪火が山に化けて船の行く手を妨げるといい、山を避けずに思い切ってぶつかると消えてしまうといわれる。
また、実在の魚であるコバンザメが船底に貼り付くと船が動かなくなるとの俗信から、コバンザメもまたアヤカシの異称で呼ばれた。
鳥山石燕は『今昔百鬼拾遺』で「あやかし」の名で巨大な海蛇を描いているが、これはイクチのこととされている。
千葉の伝承​
江戸時代の怪談集『怪談老の杖』に、以下のような記述がある。
千葉県長生郡大東崎でのこと。ある船乗りが水を求めて陸に上がった。美しい女が井戸で水を汲んでいたので、水をわけてもらって船に戻った。船頭にこのことを話すと、船頭は言った。
「そんなところに井戸はない。昔、同じように水を求めて陸に上がった者が行方知れずになった。その女はアヤカシだ」
船頭が急いで船を出したところ、女が追いかけて来て船体に噛り付いた。すかさず櫓で叩いて追い払い、逃げ延びることができたという。 
●狂歌百物語・あやかし 
室むろの沖 くゞつの思ひ 荒浪に あやかし出でて 止むる船足(銭の屋別号 宝山人)
あやかりて 薬罐やくわん頭の 子を産むは 煮え茶をかけし 尨犬むくいぬの罪(花前亭)
あやかしの 附きたる家の 疾風はやちかぜ 吹き返したる 船板の塀(語志庵跡頼)
ふたまたの 猫まね沖の あやかしに 船を取らして あるか高浪(上総大堀 花月楼)
災ひは 下と思ひの 外にまた 上よりおこる あやかしの風(遠江見附 松風琴妻)
あやかしに 逢うたる船は 海神に 怒り沈めて 詫び祈りけり(春の辺道艸)
珠数すりて 影弁慶や 祈るらん 義経ならぬ 船のあやかし(花垣真咲)
あやかしに 逢うたる灘は 遠江 地獄は近き 船板の下(道艸)
吹き荒るゝ 雨夜の浪の あやかしに 影弁慶も ひそむ船底(江戸崎 緑樹園)
ゆくりなく 通りし関の 藤川に 舟足止むる あやかしや何(弓のや)
浜荻の 伊勢の海漕ぐ 舟にしも とりつく声の あやかしうまし(常陸村田 八千代菊成)
年越しに 払ふ悪魔の あやかしの 西国船の 海にたゞよふ(優々閑徳也)
あやかしの 怖さも夢と 思ふまで ほがらほがらと 明けの赭舟そほぶね(江戸崎 緑樹園)
あやかしに 柄杓をかして 汲める時 ほといふ息を 出いだす船人(青則)
あやかしの 筑紫の沖に 黒雲の 巽たつみの風に 船覆ふ浪(升友)
浜荻の 声に目ざめし 楫かぢ枕 置き惑はする 船のあやかし(雨守)
ぬいてかす 柄杓の底も なき魂たまに 手向けてぞやる 船のあやかし(下毛葉鹿 花好) 
●不知火   八代海、有明海 
九州に伝わる怪火の一種。旧暦7月の晦日の風の弱い新月の夜などに、八代海や有明海に現れるという。なお、現在も見え、大気光学現象の一つとされている。
海岸から数キロメートルの沖に、始めは一つか二つ、「親火(おやび)」と呼ばれる火が出現する。それが左右に分かれて数を増やしていき、最終的には数百から数千もの火が横並びに並ぶ。その距離は4〜8キロメートルにも及ぶという。また引潮が最大となる午前3時から前後2時間ほどが最も不知火の見える時間帯とされる。
水面近くからは見えず、海面から10メートルほどの高さの場所から確認できるという。また不知火に決して近づくことはできず、近づくと火が遠ざかって行く。かつては龍神の灯火といわれ、付近の漁村では不知火の見える日に漁に出ることを禁じていた。
『日本書紀』『肥前国風土記』『肥後国風土記』などよると、景行天皇が クマソをせいばつして、九州をまわられた時、ある海岸から船に乗って海にでられた。そのうちまっくらい闇が迫ってきて、どこへ着いて良いかわからなくなってしまった。 すると、突然はるか前方にあかあかと、火の光が現れてきた。天皇は舵を取っている船頭に向かって、「あの火にむかってすすめ。」とおっしゃった。言われるままに船を進めると、やがて無事に海岸に着くことができた。天皇は村の土地のものに向かって「あの火の燃えるところは、なんというところだ。そして、いったいあの火は何の火だ。」「はい、あれは火の国の八代郡の火の村でございます。しかしだれがつけて燃やしているのか、わからない火でございます。」そこで天皇は「あれはおそらく人の燃やしている火ではあるまい。」しらぬひ、しらぬい(不知火)という呼び名は、ここから起こっている。
正体​
大正時代に入ると、江戸時代以前まで妖怪といわれていた不知火を科学的に解明しようという動きが始まり、蜃気楼の一種であることが解明された。さらに、昭和時代に唱えられた説によれば、不知火の時期には一年の内で海水の温度が最も上昇すること、干潮で水位が6メートルも下降して干潟が出来ることや急激な放射冷却、八代海や有明海の地形といった条件が重なり、これに干潟の魚を獲りに出港した船の灯りが屈折して生じる、と詳しく解説された。この説は現代でも有力視されている。宮西道可は熊本高等工業から広島高工の教授であり、専門的な研究をした。彼によると、不知火の光源は漁火であり、旧暦八朔の未明に広大なる干潟が現れ、冷風と干潟の温風が渦巻きを作り、異常屈折現象を起こし、そのため漁火は燃える火のようになり、それが明滅離合して漁火が目の錯覚も手伝い、怪火に見えるという。
また山下太利は、「不知火は気温の異なる大小の空気塊の複雑な分布の中を通り抜けてくる光が、屈折を繰り返し生ずる光学的現象である。そして、その光源は民家等の灯りや漁火などである。条件が揃えば、他の場所・他の日でも同様な現象が起こる。逃げ水、蜃気楼、かげろうも同種の現象である」と述べているまた、丸目信行は文献集『不知火』に、『不知火町永尾剣神社境内から阿村方面へ時間経過による不知火の変化』と題し、多数の写真を載せている。
現在では干潟が埋め立てられたうえ、電灯の灯りで夜の闇が照らされるようになり、さらに海水が汚染されたことで、不知火を見ることは難しくなっている。
昭和8年の藤原咲平の説明​
気象学者の藤原咲平は『大気中の光象』を昭和8年に書いたが、その中で不知火の原因はわかっていないと書き、見物客を喜ばして利潤を得ることと、夜光虫の発光を可能性として示していた。 
●狂歌百物語・不知火 
筑紫潟つくしがた 越路にまさる 一ひと不思議 汐を油に ともす不知火しらぬひ(槙のや)
赤き心 みせし宿禰すくねが 湯起請ゆきしやうを 炊きし事をも 偲ぶ不知火(草加 四角園)
不知火の 数くだくるは 火の国の 二つに分かる 初めなるらん(江戸崎 緑樹園)
筑紫潟 波間に燃ゆる 不知火は 水もつ月の 出いでて消ゆらん(仙台松山 錦著翁)
小町紅の 色や筑紫の 不知火は 波のうねうね 燃え優るらん(上総大堀 花月楼)
筑紫潟 龍たつの都の 御垣守みかきもり 衛士ゑじの焚く火と 燃ゆる不知火(守文亭)
筑紫潟 かゝる不思議を 海松布みるめ刈る 蜑あまに問へども 訳は不知火(花林堂糸道)
物問へば 知らぬ人まで 知り顔に ほどよく嘘を 言ひ筑紫潟(参台)
誰たがなくに 何を種とて 筑紫潟 浪のうねうね 燃ゆる不知火(綾のや)
八汐路やしほぢの 道しるべとも なりぬるを 誰たが不知火と 言ひ始めけん(草加 稲丸)
漁すなどりし 魚うをの油や 燃ゆるらん 筑紫の人も わけはしらぬ火(喜樽)
腰蓑に 心尽しの 蜑人あまびとは 燃ゆともしらぬ 火を払ふらん(在江戸 獅々丸)
是はまた 梅の影かや 飛び飛びに 筑紫の沖に 見ゆる不知火(紫廼綾人)
沖遠み ちらちらと目に つくし潟 蜑の漁あさりの 舟かしらぬ火(下毛葉鹿 花好)
肥ひの海の 魚の油や 添はりけん 夜毎夜毎に 燃ゆるしらぬ火(上毛板鼻 輻湊楼停舫)
飛梅とびうめの 星の光か 闇に見る 目にも筑紫の 沖のしらぬ火(花前亭)
夜もすがら 筑紫の海に 汐煙り 立ちぬる中に 燃ゆる不知火(在明亭月守) 
●筬火 1  宮崎県延岡地方
[おさび] 宮崎県延岡地方で明治時代中期まで目撃談があった怪火。雨の降る夜、延岡の三角池と呼ばれる池に2つ並んで現れる火の玉。ある女が筬(おさ、織機の付属品)をほかの女に貸し、後にその筬を返してもらおうとしたところ、すでに返した、まだ返してもらっていないと言い争いになり、誤って2人とも池に落ち、その怨念がこの怪火となり、その後もなお2つの火が争いを続けていたという。この怪火を見た者には、良くないことが続けて起こるともいわれる。 
●筬火 2 
宮崎県延岡地方に伝わる怪火の一種で、三角池という池に出るといわれています。
これは雨の降る晩に二つ出るもので、明治の半ばまでは折々目撃者がいたといいます。昔、二人の女が筬(おさ。機織の際に折り目を整えるために使う櫛状の器具)の貸借をめぐって、返せ、返したの争いとなって池に落ちて死んだといい、そのため二つの火が現れて喧嘩をするようになったのだと考えられていました。
筬火の名は『延岡雑談』を出典として柳田國男「妖怪名彙」(『妖怪談義』所収)にて紹介されています。ここでは類似する妖怪として名古屋の「勘太郎火」の名も挙げられています。  
●ウマツ  鹿児島県大島郡瀬戸内町 
鹿児島県大島郡瀬戸内町に伝わる海上に出る怪火。赤いウマツは「アハウマツ」、青いウマツは「オーウマツ」と呼ぶという。
ある人が子供の頃、イカ釣りの時にウマツを見た。祖父から教えられていた通りに袖下から見てみると、そこに白衣を着た神様のような姿が見えたという。 
●火玉  鹿児島県永良部島 
[ひざま] 鹿児島県奄美群島の沖永良部島に伝わる妖怪で、呼び名の通り明るい火の玉と伝わる場合もあれば、胡麻塩色の羽で頬の赤い鶏の姿をしているともいわれています。
ヒザマは最も恐ろしい邪神と考えられ、空になっている甕や桶に宿ると信じられていました。そのため、甕や桶は伏せておくか水を入れておくことになっていました。火事はヒザマが引き起こすものとされ、家にヒザマがついたときにはすぐユタ(沖縄・奄美地方の巫女)を招いてヒザマを追い出すための儀式を行ったといいます。 
●イニンビー  沖縄県那覇市 
沖縄県那覇市。タマガイの出現時間は短いが、イニンビーの出現時間は長い。イニンビーは男女の愛につながる伝説を伴うことが多い。妻が浮気したと誤解した夫が金城橋で自殺したとき、妻も後追い自殺した。そのあと、2つの火の玉が飛び交うようになったというものである。 
●火魂  沖縄県 
[ひだま] 沖縄県の鬼火。普段は台所の裏の火消壷に住んでいるが、鳥のような姿となって空を飛び回り、物に火をつけるとされる。 
●遺念火・因縁火  沖縄県
[いねんび・いんねんび] 沖縄地方に伝わる火の妖怪。遺念とは亡霊を指す沖縄の言葉であり、この遺念が火となって現れるのが遺念火とされる。あちこち移動したり飛び回ったりせず、ほとんど同じ場所に現れる。出没場所は山中など、人のいない寂しい場所が多いが、まれに海上にも現れるという。
伝承​
遺念火は多くの場合、駆け落ちの末の行き倒れなどで非業の最期を遂げた男女、恋愛のもつれによる心中した男女などが一組の火となって現れるといわれ、様々な悲恋譚を伴っている。
首里市(現・那覇市)
首里市の南にある識名坂という土地のものは遺念火の中でよく知られ、トジ・マチャー・ビーともいう(トジは妻の意)。昔、ある仲の良い夫婦がいた。妻はいつも街に出て商売をしており、夫は帰りの遅い妻をいつも迎えに出ていた。あるとき2人の仲を妬んだ者が、夫に「お前の妻はいつも浮気をして遊び歩いている」と嘘を言った。夫は生き恥を晒すことを苦とし、識名川に身を投げた。やがて帰ってきた妻はそれを知り、自分も身を投げた。以来、識名坂から識名川へと、2つの遺念火が現れるようになったという。
名護市
昔、大変仲の良い若夫婦がおり、妻はいつも仕事に出て遅くに帰って来た。あるときに夫は魔がさし、妻が不貞を働いているのではと考えた。妻の帰り道、夫は変装して襲い掛かった。妻は必死に抵抗し、かんざしで夫の喉を突き刺した。やっとのことで妻は家に帰ったが、夫の姿はない。もしやと思い引き返すと、夫はすでに死んでおり、あまりの悲嘆に妻は自害した。命がけで貞操を守った妻と、その妻を疑った夫の無念が、2つの遺念火となって夜な夜な現れるという。
名護町(現・名護市)山中
ある女性が人目を忍び、険しい山を通って夜間の山頂で恋人と密会していた。ある暴風雨の夜。男はこの天候では女は来ないだろうと思って山へ行かなかったが、女はやって来ており、男の不実をなじって自殺した。男はそれを知り、自分の薄情さを悔やんで後を追って自殺した。以来、同じ時刻に山頂に2つの火が現れるようになったという。 
 
 

 

●鬼火
鬼火・人魂・火の玉・光玉。 人が死ぬとき、魂が人魂になって出て行く。3日前に出て寺に行く事もあるという。長さ3m、幅15p程度。色は青、赤、赤い玉で尾は青、お月様のような色などという。波のように上下しながら飛ぶ、ノロシを曳いてすーっと飛ぶ、ふらふら飛ぶ、などという。  

 

●人魂 1 
人間の魂が形を現して飛び回るもので、おおむね尾を引いて飛ぶ丸い発光体として伝えられています。その目撃談は古今の様々な書物に残されており、近代、現代の怪談集や体験談にも類例を頻繁にみることができます。
江戸時代の百科事典である『和漢三才図会』は、人魂の特徴を「頭は丸く平たく、尾は杓子に似て長く、色は青白でかすかに赤みを帯びている。地上三、四丈ばかりを静かに飛び、遠近定まらず、落ちると壊れて光を失う。煮ただれした麩餅のようで、落ちた場所には小さな黒い虫が数多くいる」と説明しています。 
●人魂 2 
主に夜間に空中を浮遊する火の玉(光り物)である。古来「死人のからだから離れた魂」と言われており、この名がある。
古くは古代の文献にも現われており、現代でも目撃報告がある。また同様の現象は外国にもあり、写真も取られている。
万葉集の第16巻には次の歌が掲載されている。
「人魂のさ青なる君がただひとり逢へりし雨夜の葉非左し思ほゆ」— 万葉集(尼崎本)第十六巻
鬼火(おにび)、狐火などとも言われ混同されることがあるが、人魂は「人の体から抜け出た魂が飛ぶ姿」とされるものであるので、厳密には別の概念である。
形や性質について語られる内容は、全国に共通する部分もあるが地域差も見られる。余り高くないところを這うように飛ぶ。色は青白・橙・赤などで、尾を引くが、長さにも長短がある。昼間に見た例も少数ある。
沖縄県では人魂を「タマガイ」と呼び、今帰仁村では子供が生まれる前に現れるといい、土地によっては人を死に追いやる怪火ともいう。
千葉県印旛郡川上村(現・八街市)では人魂を「タマセ」と呼び、人間が死ぬ2,3日前から体内から抜け出て、寺や縁の深い人のもとへ行き、雨戸や庭で大きな音を立てるというが、この音は縁の深い人にしか聞こえないという。また、28歳になるまでタマセを見なかった者には、夜道でタマセが「会いましょう、会いましょう」と言いながらやって来るので、28歳まで見たことがなくても見たふりをするという 。
諸説​
19世紀末イギリスの民俗学者セイバイン・ベアリング=グールドは、死体が腐敗して発生したリン化水素の発散が墓の上をただよう青い光を生むということはありそうなことだと考えていた。一説によると、「戦前の葬儀は土葬であったため、遺体から抜け出したリンが雨の日の夜に雨水と反応して光る現象は一般的であり、庶民に科学的知識が乏しかったことが人魂説を生み出した」と言われるが、人や動物の骨などに多く含まれるリン酸は自然発火しないので該当しない。ただし、リン化水素は常温では無色腐魚臭の可燃性気体で、常温の空気中で酸素と反応して自然発火する 。
昔から、蛍などの発光昆虫や流星の誤認、光るコケ類を体に付けた小動物、沼地などから出た引火性のガス、球電、さらには目の錯覚などがその正体と考えられた。例えば寺田寅彦は1933年(昭和8年)に帝国大学新聞に寄稿した随筆の中で、自分の二人の子供が火の玉を目撃した状況や、高圧放電の火花を拡大投影した像を注視する実験、伊豆地震の時の各地での「地震の光」の目撃談に基づき、物理的現象と錯覚とが相俟って生じた可能性を述べている。実際に可燃性ガスで人工の人魂を作った例もある(山名正夫・明治大学教授のメタンガスによる実験、1976年ほか)。
1980年代には、大槻義彦が「空中に生じたプラズマである」と唱えた。
だが、上記の説明群では説明できないものもあり、様々な原因・現象により生じると考えられる。 
●人魂 3 
火の玉ともいい、死者の霊をいう。人が死ぬときに人魂が出るといい、夜分に出ると青色の光を発して空中を飛ぶという。地上に落ちたものを見ると「こんにゃく」のようなものという。人魂が川を越すと本人はよみがえり、あと3年ぐらい生存できるともいう。大分県旧大野郡(現、豊後大野(ぶんごおおの)市など)では、「ぬえ」という鳥が鳴くと人が死ぬのでこの鳥を「ヒトダマ」とよんでいる。青森県下北(しもきた)半島の小川原(おがわら)地区では、人の死ぬ前か死と同時に肉親や知人のところへくる人魂を、「タマシ」または「タマンコ」という。「タマシ」は人によって見える人と見えない人とがある。また前に死んだ人の人魂が、病人を迎えにくることもあるという。病み衰えた老人の人魂は弱々しく、若い者の事故で死んだときなどの人魂は勢いがよいという。人の末期(まつご)に際して魂(たま)呼びということをするのも、この人魂信仰に基づいている。奈良県宇陀(うだ)市菟田野(うたの)区では「タマヨビ」と称して末期の病人を起こして水を与え、死ぬと死者の着物を屋根の上にほうり上げるという。
1 遊離魂。死者の霊。ふつう青白く尾を引いて空中を飛ぶという。死者の霊は四九日間、旧宅を去らないとか、死ぬ直前に出るとか、墓場に出るなどという。鬼火(おにび)。陰火(いんか)。火の玉。人魂火。万葉(8C後)一六・三八八九「人魂(ひとだま)のさ青(を)なる君がただ独逢へりし雨夜の葉非左し思ほゆ」。2 流星の俗称。日本紀略‐昌泰二年(899)二月一日「未時星出レ自二空中一。南東歴行。〈略〉尾長五六尺許。観者奇怪。謂二之人魂一」。3 歌舞伎の小道具の一つ。初めは真鍮(しんちゅう)の色玉、後にガラス玉を真綿で包み、中へ火を入れたりしたが、新しくはぼろや海綿に焼酎を浸みこませ、燃やして陰火に擬し、空中を飛ぶように見せるもの。雑俳・柳多留‐五六(1811)「人魂で草りをさがす楽屋番」。
死の前後あるいは生存中の肉体から遊離して空中を浮遊すると信じられる魂。青または赤,黄色の発光物をいい,その多くは尾をひいて飛ぶといわれる。青魂,飛魂,風魂,飛物,鬼火,幽霊火,火玉,タマセなどの名称がある。科学的には,リンが燃える物理現象にすぎないとされるが,人の体内には霊魂が宿るとする観念と結びついて信じられるようになったと考えられる。
人の死の前後に身体を放れて遊飛するという霊魂。夜間空中を飛ぶ怪火の正体とされ,火の玉と呼ぶ地方もある。《万葉集》にも見え,その色は青白く,球状で尾を引くと考えられている。
夜、空中を飛ぶ青白い火。古くから、死者から抜け出た霊が漂うものとされる。[類語]幽霊・幽鬼・鬼・亡霊・燐火・火の玉・鬼火・狐火。
霊魂が身体から遊離して起きる怪火現象。浮遊している火の玉を人魂とみる例が一般的といえるものの,火の玉と人魂とを区別している例もある。この現象は幻覚の一種であるが,生命の根元が霊魂にあり,その霊魂が肉体より離れることによって死や病気などさまざまな異常な現象が起こるという遊離魂の観念にもとづいている。シャマニズムの観念,魂呼ばい(魂呼び)や沖縄本島のマブイ(霊魂)落しやマブイ込めの習俗などの観念と一連のものといえる。
…怪火の一つで,暗い雨夜に湿地や墓地などで燃えるという火。燐火(りんび),人魂(ひとだま),火の玉ともよばれ,形は円形,楕円形,杓子形などで尾をひいて中空をとび,青色のほか黄色や赤色の火もある。人が死ぬと同時にその家の藪から青白い火の玉が出るとか,人の魂は家から知人の所へまわってから寺へ入るなどともいう。… 
●”ひとだま”の正体 4 
「ひとだま(人魂)−夜空に空中を浮遊する青白い火の玉。古来、死人の体から離れた魂といわれる」(広辞苑)。
「人魂の真青(まさお)なる君がただひとり・・・」(万葉集)。
ぼくが育った当時の東京の杉並はまだ田舎であった。家の近くには人魂が出るという墓場まであったが、ぼくは夜そこをいつも目をつぶって駆け抜けたので、自分で真偽を確かめる機会がなかった。ただ、兄がよくこの人魂を外泊の理由にしたことを覚えている。一般に怪奇現象はウソか錯覚かこじつけのケースが多いが、人魂については古来目撃記録が大変多く、これに比べればUFOなどはまさに新参者である。またその正体は、人間の魂が肉体を離れて活動するという遊魂説が主流であるが、 これについては上記のように、『広辞苑』までもが「……といわれる」と無責任である。
一方、怪奇現象否定派の方も人魂については、流星・土葬死体の燐・夜光虫・蜃気楼説など多彩で、反オカルトの旗手、早稲田大学の大槻教授などは、 すべてプラズマで説明できると唱えている。人魂の形状の記録もまたさまざまだが、それらを総合すると、「色青白く球状で、尾を引いてふわふわと不気味に移動する」ものこそが“本家人魂”らしい。
戦後、当時唯一の昆虫の一般誌であった『新昆虫』(北隆館発行)に、昆虫学者の故春田俊郎氏が、山でガの夜間採集中に人魂に出合い、勇をふるってこれを捕虫網で捕らえた経験を書いている。網の中でなお青白く光っていたそれは、なんとユスリカのような小さい虫の群であった。人魂の形状からこれはおそらくある種の蚊柱と思われる。羽化する時に偶然発光バクテリアを体に付け、オスが群飛してメスを呼び込むための蚊柱を形成したことで人魂と化したのであろう。すべてではないにせよ、 これが人魂の正体のひとつであるに違いない。事実、「人魂が蚊に化けた」という古い記録もある。
蒸し暑いどんより曇った夏の夜、林や墓場の中、地上のあまり高くない場所をふわふわと……蚊柱と人魂の出現条件の何と似ていることか。 もし人魂に出合う幸運に恵まれた読者がおられたら、学術的な見地からぜひ捕獲してぼくに送って欲しい。ただし、ホントの人魂でタタリがあっても責任は負いかねるが……。  
●人魂 5 
家の妖怪。出没地域、和歌山県全域。皆さんが耳にする「火の玉」には人魂、狐火(きつねび)、鬼火(おにび)などの種類があって、人魂は人の体から抜け出た魂が浮遊するものをいう。以前、僕が出演するラジオ番組にこんなお便りが寄せられた。ある日、病床の祖父の元へお見舞いに行ったら、畳の上を火の玉がコロコロと転がっていた。驚いていると、祖父が「すまんが、そこの窓を開けてくれ」と言う。指示通りにすると、火の玉は畳を離れてスーッと窓から外へ飛んでいった。祖父が亡くなったのは間もなくのことであった。これもきっと人魂だったのだろう。 
●人魂の一つの場合 寺田寅彦 6 
ことしの夏、信州しんしゅうのある温泉宿の離れに泊まっていたある夜の事である。池を隔てた本館前の広場で盆踊りが行なわれて、それがまさにたけなわなころ、私の二人の子供がベランダの籐椅子とういすに腰かけて、池の向こうの植え込みのすきから見える踊りの輪の運動を注視していた。ベランダの天井の電燈は消えていたが上がり口の両側の柱におのおの一つずつの軒燈がともり、対岸にはもちろん多数の電燈が並んでいた。
突然二十一歳になるAが「今火の玉が飛んだ」といいだすと、十九歳になるBが「私も見た」といってその現象の客観的実在性を証明するのであった。
そこで二人の証言から互いに一致する諸点を総合してみると、だいたい次のようなものである。
ベランダから池の向こうの踊り場を正視していたときに、正面から左方約四十五度の方向で仰角約四十度ぐらいの高さの所を一つの火の玉が水平に飛行したというのである。その水平経路の視角はせいぜい二三十度でその角速度は、どうもはっきりはしないが、約半秒程度の時間に上記の二三十度を通過したものらしい。
二人の目撃者の相互の位置は一間けんほど離れており、また椅子の向きも少しちがっていたので、私は二人の各位置について、そのおのおのの見たという光の通路の方向を実地見証してみた。そうして、その二人のさす方向線の相会するあたりに何があるかを物色してみた。すると、およその見当に温泉の浴室があり、その建物の高い軒下には天井の周囲を帯状にめぐらす明かり窓があって浴室内の電燈の光に照らされたその窓が細長い水平な光の帯となって空中にかかっている。どうも火の玉の経路がおおよそそれと同じ見当になるらしいのである。
ところで、だんだんによく聞きただしてみると、二人の証言のうちで一つ重大な点で互いに矛盾するところがあるのを発見した。すなわち向かって右のほうにいたAは光が左から右へ動くように思ったというのに左のほうにいたBはそれとは正反対に右から左へ動いたようだと主張するのである。この二人の主張がそれぞれ正しいとすると、これは問題の現象が半分は客観的すなわち物理的光学的であり半分は主観的すなわち生理的錯覚的なものだという結論になる。この事がらがこの問題を解くに重要なかぎを与えるのである。
私は、数年前、高圧放電の火花に関する実験をしているうちに、次のような生理的光学現象に気づきそれについてほんの少しばかり研究をした結果を理化学研究所彙報いほうに報告したことがある。
長さ数センチメートルの長い火花を写真レンズで郭大した像をすりガラスのスクリーンに映じ、その像を濃青色の濾光板ろこうばんを通して、暗黒にならされた目で注視すると、ある場合には光が火花の道に沿うて一方から他方へ流れるように見える。しかし実際はこの火花放電の経過は一秒の百万分一ぐらいの短時間に終了するという事が実験によって確かめられたので、到底肉眼でその火花の生長を認識することは不可能なはずである。それだのにそれが移動するように「見える」というのは、全くわれわれの眼底網膜に固有な生理的効果すなわち一種の錯覚によるものと考えるほかはないのである。そうして、この効果は暗黒にならされた目にあまり強くない光の帯が映ずる場合に特に著しいように思われたのである。
この事実と、前述の二人の見たという火の玉の進行の現象とは何か縁がありそうに思われる。一つの可能性は、上記の浴室の軒の明かり窓の光が一時消えていたのが突然ぱっと一時に明るくなったと仮定すると、その光の帯が暗がりになれていた人の横目には一方から一方に移動する光のように感ぜられたのではないかということである。火花の実験の場合においても、正視するときよりもむしろ少し横目に見るときにこの見かけの移動の感じが著しく、またその移動の方向が目の位置によって逆になるようであった。もっとも、いかなる場合にいかなる方向に動くかという点についてはまだ充分詳しいことを調べたわけではなかったが、ともかくも、実際はほとんど同時に光る光帯が、場合により右から左へ、あるいは左から右へ動くように見えうるという事実がある。これが現在の問題に対して一つの有力な手がかりになるのである。もっとも火花の場合には光帯が現われるとすぐに消えるのに反して現在の場合では点火したきりで消えなかったとすると少し事がらがちがう。それで、後の場合でも同様な錯覚が生ずるかどうかは別に実験を要するわけである。
とにかく、これは一つの可能性を暗示するだけで実際はどうだかわからない。
もう一つの可能性がある。前記の浴室より、もう少し左上に当たる崖がけの上に貸し別荘があって、その明け放した座敷の電燈が急に点火するときにそれをこっちのベランダで見ると、時によっては、一道の光帯が有限な速度で横に流出するように見えることがある。これはたぶんまつ毛のためやまた眼球光学系の溷濁こんだくのために生ずるものかと思われる。それで、事によると「火の玉」の正体がこれであったかもしれないとも思われる。しかしこれだとすると、たいていは光芒こうぼう射出といったようなふうに見えるのであって、どうも「火の玉」らしく見えそうもないと思われる。
そうかと言って、浴室の天井の電燈が一時消えていたというのは単なる想像であって実証をたしかめたわけでもなんでもないから、結局この問題の現象はなんだかわからないということに帰着するのであるが、しかしこの出来事の上記の考察から示唆された一つの実験的研究を、ほんとうに実行してみることはそうむだではあるまいかと思われる。たとえば、暗室の一点に被実験者をすわらせておいて、室のいろいろな場所のいろいろの高さにいろいろな長さや幅で、いろいろの強度と色彩をもった光帯を出現させ、そうしてそれに対する被実験者の感覚を忠実に記録してみたら存外おもしろいかもしれないと思われるのである。
伊豆いず地震の時に各地で目撃された「地震の光」の実例でも、一方から他方へ光が流れたというような記録がかなりたくさんにあったが、これらもやはり前記の生理的効果で実験はほとんど瞬間的に出現した光帯を、錯覚でそういうふうに感じるのではないかと疑われるのである。とにかくそういうこともあるくらいだから、だれか生理光学に興味をもつ生理学者のうちにこの問題を取り上げてまじめに研究してみようという人があったらたいへんにありがたいと思うので、それでわざわざ本紙のこの欄をかりてこのような夢のような愚見を述べてみた次第である。それでこの一編はもちろん学術的論文でもなんでもなくて、ただの随筆に過ぎないのであるが、だれかがこの中からちゃんとした論文の種を拾い上げ培養して花を咲かせるという事についてはなんの妨げもないであろう。
それはとにかく、われわれの子供の時分には、火の玉、人魂ひとだまなどをひどく尊敬したものであるが、今の子供らはいっこうに見くびってしまってこわがらない。そういうものをこわがらない子供らを少しかわいそうなような気もするのである。こわいものをたくさんにもつ人は幸福だと思うからである。こわいもののない世の中をさびしく思うからである。 
●人魂の森 7 
千葉県、伝説の地(匝瑳地区大浦)。宮和田(みやわだ)に、こんもりと繁った森がある。 
この森は、人魂(ひとだま)の森と呼ばれて、一本一本の木が人間ではないかと言い伝えられている。
その昔、一人の木こりが、この森へ入っていった。「この森には、ずいぶん良い木があるぞ」 木こりは、吸い込まれるように森の奥へ入って行った。しばらく行くと、何かまっ黒で大きなものにぶつかった。「あれえ、おったまげた。こんなでっけえ松の木は見たことがねえ。よし、これから切ることにしべえ」「ギーコ」、「ギーコ」 木こりは、この森で一番大きな松の木を切り始めた。すると中頃まで切った時、「何だっぺ。何か赤いものが出て来たぞ。うわあっ、血、血、血だあっ」何と、松の木からどろどろとした真っ赤な血が流れ出て来た。木こりは、気味が悪くなり、のこぎりをおいて一目散に家へ逃げ帰って来た。
それ以来、夜になると、この森の上を青白い魂(たましい)が、ふわり、ふわりとさまよい飛んでいたと言われる。また、血の出た松の木の中には、この森の主である大蛇がいたとも伝えられる。
村人は、この森を『人魂の森』とか、『ヘビの森』とか言って、近づかなかったそうだ。おかげで今でもこの森は、ひっそりとした寂しい森のままである。 
●人魂について 8
昭和40年代の初頭、私は三重県伊勢市の皇學館大学文学部国史学科の学生でした。皇學館大学は全国的にみても珍しい大学でした。それは2年間、基本的に寮生活を送らなければならない全寮生の大学だったからです。
当時、寮と大学は歩いて15分間の距離にありました。しかし大学のある倉田山を駆け下りて、寮がある丘まで駆け上る、約5分間で大学に行ける近道がありました。マムシ谷という名前の通り、夏になればマムシがよく出たところでした。なぜマムシ谷と言うのか先輩に聞きますと、はるか昔の先輩が、近道をするために、この道を通ったときにマムシに足をかまれ、命は助かったけれど、かまれたショックで1年間、頭の中が空っぽになり留年したと言うことでした。それ以後、マムシ谷という名前で呼ばれることになったそうです。また、このマムシ谷の近くに墓場があり、たびたび人魂が出たりしました。私も2年間の寮生活で何回も人魂を見ました。当時の伊勢市は土葬が多かったために、人魂が見られたと思います。
一昔前の葬儀は土葬が主流であったため、遺体から抜け出したリンが雨の日の夜に雨水と反応して光る現象は一般的であり、庶民に科学的知識が乏しかった事が人魂説を生み出したとする説もありますが、早稲田大学の前教授の大槻義彦氏が唱えた高圧電気( プラズマ ) 説などもあります。その大槻説とは、高圧電気が地表にかかり、空気の分子が原子核を電子に分離し、激しく動き回る時に、雷や火の玉が起きる条件が整いますと、それがある量子状態の時に、火の玉となって現れる、と言う説です。また昭和51年に・明治大学元教授のメ山名正夫氏のメタンガスによる実験、人工の人魂を作った例もあります。しかし人魂について実際に説明できないものもあり、様々な現象により生じると考えられています。
記録によれば 人魂 は奈良時代 (710〜794年)から存在していて、「万葉集」16巻(3889) にはそれを詠んだ歌があります。
人魂のさ青 ( あお ) なる君がただひとり、逢えりし雨夜は久しいとぞ思ふ
( 雨の夜に唯 一人歩いていたら、青白い人魂と出遭ったことを思いだします )。
江戸時代の正徳2年(1712) に日本で初の図入り百科事典として和漢三才図会 ( わかんさんさいず)が作られましたが、寺島良安が編纂したものです。万物を図に書いて漢文で解説していますがそれによれば、人魂は地上から3尺(約1メートル)ほどの高さを飛行し、落ちると破れて光を失うとありました。また、煮爛れた( にただれた )餅のようにも見え、人魂の落ちた場所には小さな黒い虫が多くいるとも書いてありました。
いろいろ調べてみると、上記以外にも 火球 という現象が存在することが分かりました。これにも流星などのように高空で発生する天文現象と、雷雲に関係した「光る物」の二種類がありますが、多くの人々により現象が目撃、確認されていて、それ以外にも原因不明な「光り物」があることも昔から数多く目撃されていました。あまり知られていませんが、世界のホンダの創業者、本田宗一郎氏も人魂の研究者の一人でした。
私が見た人魂は、夏ではなく冬の季節で、午後7時すぎ、大学の帰りのマムシ谷で何の気もなしに空を見上げたら、青白く、少し緑っぽい発光体が音もなくすごい勢いで走り抜けていったのです。それはゆらゆら燃えているようであり、20mほどの高さを一定速度で水平に一直線に移動して行きました。驚いたか、と聞かれますと、「おお、あれがリンの燃えている人魂か」、と言うぐらい冷静でした。しかしながら神秘的なものでした。
前述の早稲田大学の大槻教授は、熱心に火の玉の正体はプラズマだと主張して熱心にしておられ、科学者がテレビ番組で「科学的に考えれば・・・・」と言われれば何でも信じる時代ですが、私が人魂を実際に見た、と言うと、「リンが燃えている現象だ、人魂はプラズマだ」と言って済んでしまいます。
先代もよく人魂を見た話しをしていました。「人魂は、人が死んだ直後又は死ぬ直前に体から出る。おじいさんが死ぬときに、部屋が暑いから窓を開けてと言われたので、窓を開けたら人魂が出て行った」。また「生きている人の体から魂が人魂となって抜け出し、その人は人事不省に陥ったが、再び人魂が戻ってきて正気を取り戻した」という話しを先代から何度も聞かされていたので、子供のころは夜に出かれるのが怖かったのです。昔の子供は、このように幽霊や人魂、おばけの話しを年寄りから聞かされているので、夜遊びは怖くて夕方には家に帰っていたものです。 
●狂歌百物語・人魂
誰たれ見しと なくて言ひつく 咄はなしまで 翼を添へて 走る人魂(仙台松山 千澗亭)
一念に 燃やす炎ほむらの 日高川 わたる恨みや 妄蛇なるらん(静洲園)
生ぐさき 風の誘ひて 鰯雲 かゝる絶え間を 過ぐる人魂(海樹園)
煩悩と 迷ひの雲の 中空を ふわりふわりと 出づる人魂(桃実園)
爪にまで 火ともし比ごろは ふはふはと 黄金こがね色なる 人魂の訪とふ(弥彦冨幹)
大神楽だいかぐら 毬の曲すと 見るまでに ひやらひやひや 思ふ人魂(大内亭参台)
千人の 首塚出でて 玉の緒の 百万遍も 行きつ戻りつ(月のや満丸)
犬猫と 同じ譬へに 言はれにし その人魂の 尾を引きて行く(駿府松径舎)
糸をひく 人の玉子の ふわふわは 今際いまはの息の つまり肴か(足兼)
人魂の とんだ咄に 尾が附きて 先から先へ 走り行くらん(月のや満丸)
人魂の とんだ咄を 仕出しいだして はては争ふ 顔の青筋(花林堂糸道)
飛び廻る 夜も深川の 人魂は いかなるものか 霊岸寺前(栄寿堂)
見るうちに ふと火の消えし 人魂は さぞな闇路を 迷ひぬるらん(下毛葉鹿 壺蝶楼花好)
ばつたりと 逢うて逸れ行く 人魂に 我が魂の 消ゆる思ひぞ(上総飯野 一矢亭内志)
二階家やの 棟むねにせまらぬ 人魂は 心広尾の 原や訪ふらん(雲井園)
橋落ちし 時に死にたる 人魂を 永代唱ふ 回向院にて(上総 花月楼)
家の上を とんだ噂に 青ざめし 我が魂も 人に見られむ(伊勢大淀浦 春の門松也)
欲に目の なくて身失せし 人なれや 闇より闇を 迷ふ魂(常陸大谷 千別)
人魂を 見しと見ぬとの 争ひに 額ぬかより青き 筋も引くらん(青則)
人魂に 羽根が生へてや 鳥部山 あちらこちらを 飛び廻るなり(南葉亭繁美)
月花を 愛せし人の 魂とみて 哥の念仏ねぶつも 詠みて手向けん(文左堂弓雄)
下襲したがひの 妻に結ばん きもさめつ 引きし五色の いとも凄さに(駿府 小柏園)
人魂の とんだ所の まがり角 出会がしらの ぞつと襟もと(無事也)
人だまの 光も凄く ぞつとして 心細くも あとを引きけり(下毛葉鹿 壺万楼松寿)
人魂の 飛ぶとひとしく 肝玉の 消えて真黒き ぬばたまの闇(館林 美通歌垣)
うそうそと 言ふを真事まことと 言ひつのり 青筋出して とんだ人魂(上総飯野 部多成)
小夜ふけて 見る人魂に 驚きて 青くなりてぞ 跡を引くらん(芝口屋)
魂を見て 結ぶ処の 下襲したがひの 褄つまをからげて 逃げる女をみなら(高見)
人魂も 無縁の墓を 抜け出でて 石にも筋の 残る青苔(清のや玉成)
結びぬる 下襲の褄 ほつれけん 糸を引きつゝ 見ゆる人魂(駿府 芝人)
青筋を 引きてちりちり 飛び行くは 癇癪持ちの 人の魂かも(尚丸)
酒ゆゑに 果てにし人の 魂かそも 後を引きつゝ 空を飛び行く(下総戸奈良 水彦)
夏草の 青野が原に 夜ごと夜ごと 燃ゆる螢や 鬼火なるらん(梅袖) 
●「人魂乃佐青有公之但独 相有之雨夜乃葉非左思所念」  1
訓読 人魂(ひとだま)のさ青(お)なる君がただひとり 逢(あ)へりし雨夜(あまよ)の葉非左し思ほゆ
意訳 人魂のようなまっ青な君がひとりきりで現れた雨夜の葉非左が思われる。「葉非左」は未詳。
「葉非左」をどう読むか。私案「はひま」と訓ずる。万葉集の個々の歌は一人が作ったものでなく、また、転写の間に多様な表記、改訂がなされたかもしれない。「葉」は「は」と読む。「山葉従(やまのはゆ):16-3803」「久受葉我多(くずはかた):14-3412」の例がある。「非」は「ひ」。「左」は、「左右」が「まで」と読む例(9-1789)があるから、「左」の一字は「ま」を充てられる。
「はひま」を漢字に充てると「駅馬・駅」ができる。広辞苑に「駅・駅馬 はいま(ハヤウマ(早馬)の約 ハユマの転)」とある。万葉集で、「駅馬・駅」に充てるものに、「はゆま」がある。「波由麻(14-3439・18-4110・18-4130)」と表記される。『日本書紀』には、「駅(はいま)に乗りて:岩波文庫4巻352頁。」「駅馬(はいま)に乗りて:同左188頁。」「馳駅(はいま)して:同左202頁。」は、注13に「早馬を馳せて」くらいの意とある。現代風の「はいま」は、「はゆま」と「はひま」から音が変化したものと思われる。
「ゆ」と「い」の音変化は、「行く・往く」、的(いくは=ゆくは)に見られる。万葉集には、接頭語の「い」も多く用いられた。なお、神聖の意を有した接頭語の「ゆ(斎)」の音転語と思われる「い」があり、…「斎垣」「斎串」「斎杭」をはじめ、この時代の文献には多く見られる。(6)
「ひ」と「い」の音変化は、川合(かわひ:播磨風土記、東洋文庫90頁。)、坂合部(さかひべ:日本書紀4巻、岩波文庫344頁。)、問菟(塗?宇とひう:同左350頁。)、使(つかひ:同左30・36頁。)、丹治井(たじひ:摂津名所図会大成巻之一、20頁。)、阿為神社、阿比或は阿井と書り。(摂陽郡談,第11、神社の部221頁。)、堺(さかひ)、念(おもひ)など歴史的仮名遣いに例が多い。
私案の解釈は、「人魂に出会って(人魂のように)まっ青になった君がただひとりで雨夜を行くのは怕(おそろ)しく、早馬があれば一刻も早くこの場所を駈け去りたいと思う(念じる)だろうよ。」
●人魂乃 佐青有公之 但獨 相有之而夜乃 葉非左思所念 2
大和言葉の詠み方は、
人魂の 左青なる君が ただひとり へりし雨夜の 葉非左し念ほゆ。
ひとだまの さをなるきみが ただひとり あへりしあまよの 葉非左しおもほゆ。
「葉非左」が解かれていないが、歌の意味は、凡そ、人魂の青白い君がたった独りで、出逢った雨夜の「葉非左」が思われるとなると、されている。
問題は、最後の句の読みにある、「葉非左し」については、未だに、読み解かれていない。
「葉」は、三通りの訓読みがあり、「は」か「ひら」か「えふ」と読む、さらに「よう」という漢読みがある。「は」は、今でも読んでいる読み方だから説明するまでもないだろう、「ひら」は、葉の数え方の、ひとひら、ふたひらの「ひら」で、平たい物を意味する、「えふ」は、木の葉のように、丸みに先の尖った切り込みやその尖って角をなしているところを意味する、今では、この言葉の使いかはされていない、「よう」は、いまでも使う読みだから説明もいらないだろう。
「非左」だから「右」になり「う」になる、「葉」の右は、「は」は一文字だから該当せず、「ひら」は「ら」、「えふ」は「ふ」、「よう」は「う」、すなわち、「葉非左し」は、「ひらうし」になる。「うし」は、「憂し」と「失し」の掛詞だろう。
人魂の 左青なる君が ただひとり 逢へりし雨夜の 平うし念ほゆ
ひとだまの さをなるきみが ただひとり あへりしあまよの ひらうしおもほゆ
「念」は、念じる、耐える
「ひらうしおもほゆ」では、字余りになるので、「ひらうしおもふ」でいいだろう。
人魂の 左青なる君が ただひとり 逢へりし雨夜の 平うし念ふ
ひとだまの さをなるきみが ただひとり あへりしあまよの ひらうしおもふ
歌の意味を解釈すれば、人魂となった青白い君がただ独り逢いにきた雨の夜、ひたすら苦しく消えてくれとじっと耐えた、よほど、雨の夜に逢いにきた、君の人魂が怖かったのでしょう。
歌を詠んだ男への深い想いがあったのに、逢えない女(死んでしまったのかも知れない)、男がすげなくしたのだろうが、女は人魂となってまで男に逢いに来た、そのことに、男は、ひたすら憂い、消えてくれとじっと耐えていたのです。
●人魂の さ青なる君が ただひとり ・・・  3
・・・今日は「幽霊の日」だそうです。1825(文政8)年の7月26日、江戸の中村座で四世鶴屋南北の作による「東海道四谷怪談」が初演されました。浪人、民谷伊右衛門に毒殺された妻、お岩の復讐譚ですが、これは不義密通をはたらいた男女が殺され、戸板に縛られて神田川に流されたという、実話を基にして作られました。西洋のモンスターは、近頃頻発する殺人事件と同様、相手構わず力づくで襲いかかりますが、日本の幽霊はお上品なことに、直接手を下しません。特定の相手に取り憑いたら、狂死するまで、じんわり、しつこく恐怖を味あわせてゆくのです。寒ぶっ・・・
人魂の さ青《を》なる君が ただひとり 逢へりし雨夜の 葉非左し思ほゆ
〜作者未詳 『万葉集』 巻16-3889 雑歌
( 人魂となった真っ青な君が ただひとり 私と出くわした 雨の夜のこと 震えあがって夢中で逃げたことを思い出すよ )
三行目の訳文は、第5句を前文の流れから類推して、かなり適当に訳したものです。というのも、「葉非左」の語の読みかたも意味も解明されていないから。万葉集は、ひらがなもカタカナも誕生していない時代に、中国から輸入した漢字に音をあてた、いわゆる「万葉仮名」ばかりで書かれた歌集です。したがって、「古来より難読」として、平安期より現在に至るまで、多くの研究者が知恵を絞っても解読できていない歌も多く含まれています。この歌の「葉非左」がわかれば、第4句までの意味も若干変わってくる可能性もあります。この歌集の成立自体が未だにミステリーなのですから、やむを得ないところかもしれませんね。
●人魂のさ青なる君がただひとりあへりし雨夜の葉非左し思ほゆ 4
1.歌
人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜乃 葉非左思所念 (万葉集 巻第16-3889)
=人(ひと)魂(だま)乃(の) 佐(さ)青(を)有(なる)公(きみ)之(が) 但(ただ)独(ひとり) 相(あへ)有(り)之(し)雨(あま)夜(よ)乃(の) 葉(は)非(ひ)左(さ)思(し)所念(おもほゆ)
=人魂乃(ひとだまの) 佐青有公之(さをなるきみが) 但独(ただひとり) 相有之雨夜乃(あへりしあまよの) 葉非左(はひさ)思(し)所念(おもほゆ)
=人魂のさ青なる君がただひとりあへりし雨夜の葉非左し思ほゆ 
2.語句・語意・品詞分解
人魂のさ青なる君がただひとりあへりし
※人魂(ひとだま):〔名詞〕夜、空中を浮遊する陰火。ひとだま。死人から遊離したタマシイ。
※の:〔格助詞〕…で。…であって。この「の」は、同格を表す。同格であるから、人魂=さ青なる君
「さ青なる君」は、ある日、死んだ、その直後、その死体からヒトダマが遊離し、ふわふわ空中を飛ぶ陰火、「さ青なる君」になった。
※さ青(さを・さお):〔名詞〕真っ青(まっさお)。さ青(さあを)=強意の接頭語「さ」+名詞「青(あを)」
※なる:断定の助動詞「なり(=…である)」の連体形。
※君(きみ):〔代名詞〕君。あなた。
※が:〔格助詞〕…が。この「が」は、主格を表す。
※ただ:〔副詞〕ただ。わずかに。たった。
※ひとり(一人・独り):〔名詞〕ひとり。
※あへ(会へ・逢へ・遭ふ・合へ・あえ):ハ行四段活用動詞「あふ(=会う・顔を合わせる・対面する・であう・行きあう・遭遇する・戦う)」の已然形・命令形。
※り:存続・完了の助動詞「り(=…た・…てしまった)」の連用形。
※し:過去の助動詞「き(=…た)」の連体形。
人魂のさ青なる君がただひとりあへりし
=人魂(人魂)の(で、かつ)さ青(真っ青)なる(な《陰火である》)君(君)が(が)ただ(たった)ひとり(ひとりで)あへ(であっ)りし(た)
=人魂であって、かつ、真っ青な君がたった一人でであった、
=人魂の真っ青な君がたった一人で出あった
雨夜の葉非左し思ほゆ
※雨夜(あまよ):〔名詞〕雨の夜。雨が降っている夜。雨の降る夜。夜の雨。
※の:〔格助詞〕…の。この「の」は連体格を表す。
連体格の「の」は、種々の訳になる。以下はその例・・・
   1.死出の(の=の山の麓にある)山路。
   2.金の(の=で出来ている/で作った)頭環。
   3.足の(の=にできた)タコ。
   4.紫式部の(の=の腸にいる)回虫。
   5.絶海の(の=に浮かぶ)孤島。
   6.代返の(の=にかんする)依頼書。
   7.七転八倒の(の=する)結石痛。
   8.ズラカッタの(の=という所に住んでいる)姉。
   9.ニホンアナグマの(の=に所属する・に付いている)シッポ。
   10.養和の(の=の頃の・の頃に起こった)飢饉。
※葉非左(はひさ):〔名詞〕はひさ。葉非左という名のヒトだ。
※し:〔副助詞〕…が。…のことが。…のみ。…ばかり。この「し」は、強意。
※思ほゆ(おもほゆ):ヤ行下一段活用動詞「おもほゆ(=思われる・思い出される)」の終止形。
雨夜の葉非左し思ほゆ
=雨夜(雨の降る夜)の(の)葉非左し(葉非左のことが)思ほゆ(思われる)
=雨の降る夜の葉非左のことが思われる。
3.現代語訳
人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜乃 葉非左思所念
=人魂のさ青なる君がただひとりあへりし雨夜の葉非左し思ほゆ
=人魂(人魂)の(で、かつ)さ青(真っ青)なる(な)君(君)が(が)ただ(たった)ひとり(ひとりで)あへ(であっ)りし(た)雨夜(雨の降る夜)の(の)葉非左し(葉非左のことが)思ほゆ(思われる)
=人魂であって、かつ、真っ青な君が、たった一人で出あった、雨の降る夜の葉非左のことが思われる。
=人魂の真っ青な君がたった一人で出あった、雨の降る夜の葉非左のことが思われる。
4.「人魂乃佐青有公之但独相有之雨夜乃葉非左思所念」の解釈
(1)万葉集古義などによる解釈
万葉集古義は、
   よみかた
人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜葉 非左思所念
=人(ヒト)魂(タマ)乃(ノ)/佐(サ)青(ヲ)有(ナル)公(キミ)之(ガ)/但(タダ)独(ヒトリ)/相(アヘ)有(リ)之(シ)雨(アマ)夜(ヨ)葉(ハ)/非(ヒ)左(サ)思(シク)所(オモ)念(ホユ)
   歌意
「雨夜の闇きに、唯独道行ば、さらでだに心もとなくて、物おそろしきこと、かぎりなきものなるに、まして幽霊の真佐青なる君が行逢たるは、たちまち心肝も消失るようにおぼえて、そのおそろしさは、忘るるおりなく、久しくおもわるるよ。」としている。
万葉集古義の「人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜葉 非左思所念」には、「乃」が無い。
万葉集全釈も、
人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜葉 非左思所念
=人魂の さ青なる君が ただ独 逢へりし雨夜は 久しく念ほゆ
=人魂の真青なその人魂に、唯一人で私が逢った雨の降る夜は、恐ろしくて夜の明けるのが久しく思われる。・・・としている。
ほかに、「非左思所念」の、「非」と「左」を入れ替えて、「左非思所念(さびしくおもほゆ)」とするものもある。「久しく」が、「寂しく」に変わるのである。
さっき、万葉集古義の「人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜葉 非左思所念」には、「乃」が無い。と記したが、万葉集古義は、「雨夜の下、類聚抄に、『乃』の字あり。これによれば、『アマヨノ』と訓みて、『葉』の字は、次の句へつくべきか、猶考ふべし」としている
古葉略類聚抄(こようりゃくるいじゅしょう)「(古葉略類聚抄は)歌書。著者未詳。写本五巻。万葉集の歌を分類したもの。もとは十二巻ばかりあったと思はれるが、現存のものは、建長二年書写の写本五冊。万葉分類書中、類聚古集についで古いのみならず、分類方法は、混雑せず統一された体をなす。大正十二年刊本あり。」
(2)「葉非左思所念」の型
人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜乃 葉非左思所念
万葉集には、名詞+強意の副助詞「し」+思ほゆ(所念・所思・於母保由)の型がある。↓
「人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜乃 葉非左思所念」も、この型である。「思ほゆる」の下に、詠嘆を表す終助詞「かも」が付くこともある。以下の通り。
(1)仮廬し思ほゆ(巻第1-7)
金野乃、美草刈葺、屋杼礼里之、兎道乃宮子能、借五百磯所念。
=秋の野の、み草刈り葺き、宿れりし、宇治の宮処の、仮廬し思ほゆ。
(2)大和し思ほゆ(巻第1-64)
葦辺行、鴨之羽我比爾、霜降而、寒暮夕、和之所念。
=葦辺行く、鴨の羽がひに、霜降りて、寒き夕べは、大和し思ほゆ。
(3)神代し思ほゆ(巻第3-304)
大王之、遠乃朝庭跡、蟻通、島門乎見者、神代之所念。
=大王の、遠の朝庭と、在り通ふ、島門を見れば、神代し思ほゆ。
(4)都(京)し思ほゆ(巻第3-329)
安見知之、吾王乃、敷座在、国中者、京師所念。
=やすみしし、吾が大君の、敷きませる、国の中なる、都し思ほゆ。
(5)手児名し思ほゆ(巻第3-433)
勝牡鹿乃、真真乃入江爾、打靡、玉藻刈兼、手児名志所念。
=葛飾の、真間の入江に、うちなびく、たまも刈りけむ、てごなし思ほゆ。
(6)大和し所念(巻第3-359)
安倍乃島、宇乃住石爾、依浪、間無比来、日本師所念。
=安倍の島、鵜の住む磯に、寄する波、間(ま)無(な)くこのごろ、大和し思ほゆ。
(7)妹が手本し思ほゆるかも(巻第6-1029)
河口之、野辺爾庵而、夜(よ)乃(の)歴(ふれ)者(ば)、妹(いも)之(が)手本(たもと)師(し) 所念鴨。
=河口の、野辺に庵(いお)りて、夜の経(ふ)れば、妹がたもとし、思ほゆるかも。
(8)なぎさし思ほゆ(巻第7-1171)
大御舟(おほみふね)、竟(はて)而(て)佐(さ)守(もら)布(ふ)、高島之、三尾勝野之、奈伎左思所念。
=大御舟、泊(は)ててさもらふ、高島の、三尾の勝野の、渚し思ほゆ。
(9)大和し思ほゆ(巻第7-1219)
若浦爾、白浪立而、奥風、寒暮者、山跡之所念。
=若の浦に、白波立ちて、沖つ風、寒き夕べは、大和(やまと)し思ほゆ。
(10)尾花し思ほゆ(巻第8-1533)
伊香山、野辺爾開有、芽子見者、公之家有、尾花之所念。
=伊香山、野辺に咲きたる、萩見れば、君が家なる、尾花し思ほゆ。
(11)みやこし思ほゆ(巻第8-1639)
沫雪、保杼呂保杼呂爾、零(ふり)敷(しけ)者(ば)、平城(ならの)京(みやこ)師(し)、所念可聞。
=泡雪の、ほどろほどろに、降り敷けば、平城の京し、思ほゆるかも。
(12)川津し思ほゆ(巻第10-2091)
彦星之、川瀬渡、左(さ)小(を)舟(ぶね)乃(の)、得(え)行(ゆき)而(て)将(はて)泊(む)、河津石所念。
=彦星の、川瀬を渡る、さ小舟の、え行きて泊(は)てむ、川津し思ほゆ。
(13)すがたし思ほゆ(巻第11-2684)
笠無登、人爾者言手、雨乍見、留之君我、容儀志所念。
=笠なしと、人にはいひて、あまづつみ(雨障)、とまりしきみが、姿し思ほゆ。
(14)なぐやし思ほゆ(巻第13-3345)
葦辺往、雁之翅乎、見別、公之佩具之、投箭之所思。
=あしべゆく、雁のつばさを、見るごとに、きみがおばしし、なぐや(=なげや)し思ほゆ。
(15)吾家し思ほゆ(巻第18-4065)
安佐妣良妓、伊里江許具奈流、可治能於登乃、都波良都婆良爾、吾家之於母保由。
=朝びらき、入江漕ぐなる、楫(かじ・舵)の音の、つばらつばらに、わぎへ(吾家=わが家)し思ほゆ。
(16)国べし思ほゆ(巻第20-4399)
宇奈波良爾、霞多奈妣妓、多頭我禰乃、可奈之妓与比波、久爾幣之於母保由。
=海原に、霞たなびき、たづ(たづ=鶴)が音の、悲しき宵は、国べし思ほゆ。
以上、万葉集の型、名詞+強意の副助詞「し」+思ほゆ(所念・所思・於母保由)の例を記した。
要するに、「葉非左思所念」のよみかたは、葉非左思所念=葉非左し思ほゆ である。
(3)「人魂乃佐青有公之但独相有之雨夜乃葉非左思所念」の解釈
(2)「葉非左思所念」の型から、葉非左思所念=葉非左し思ほゆ
万葉集古義に、「雨夜の下、類聚抄に、『乃』の字あり。これによれば、『アマヨノ』と訓みて、『葉』の字は、次の句へつくべきか、猶考ふべし」とあるので、「乃」を入れて、人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜乃 葉非左思所念としたが、「雨夜乃(=雨夜の)」も、解釈を混乱させるモトとなっている。
5・7・5・8・8 ではなくて、5・7・5・7・8 ということもある。
それゆえ、せっかく入れた「乃」を削除する。
人魂乃佐青有公之但独相有之雨夜乃葉非左思所念−乃
=人魂乃佐青有公之但独相有之雨夜葉非左思所念
=人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜 葉非左思所念
上記の、「人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜 葉非左思所念」は、万葉集古義「人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜葉 非左思所念」の、「葉」を左側の「相有之雨夜葉」から離して、右側の「非左思所念」の上にひっつけた、「人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜 葉非左思所念」であるが、意味は、まるで異なる。
「人魂乃佐青有公之但独相有之雨夜乃葉非左思所念」の解釈
人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜 葉非左思所念
=人魂乃(ひとだまの) 佐青有公之(さをなるきみが) 但独(ただひとり) 相有之雨夜乃(あへりしあまよ) 葉非左(はひさ)思(し)所念(おもほゆ)
=ひとだまの(5) さをなるきみが(7) ただひとり(5) あへりしあまよ(7) はひさしおもほゆ(8)
つぎに、人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜 葉非左思所念 の中味。↓
ここでは、土地の名・ひとのな的見方をする。
人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜 葉非左思所念
=人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜 葉非左思所念
土地の名(名字):雨夜
名:葉非左
「アマヨ(雨夜)」というのは、土地の名。土地の名前をとって、「葉非左」の名字みたいなものにした。
地名そのものであってもかまわない。いずれにしろ、葉非左は、当時、アマヨに住んでいたか、住んでいるヤツだ。「アマヨ」、作者(詠み人)が、でっち上げた「地名兼姓兼アマヨノ」かも知れん。
〔訳例〕
人魂乃 佐青有公之 但独 相有之雨夜 葉非左思所念
=人魂のさ青なる君が、ただひとりあへりし、雨夜葉非左し思ほゆ。
=人魂(人魂)の(で、かつ)さ青(真っ青)なる(な)君(君)が(が)ただ(たった)ひとり(ひとりで)あへ(であっ)りし(た)雨夜葉非左(雨夜葉非左→よみかたは「アマヨノハヒサ」でもいい)し(のことが)思ほゆ(思われる)
=人魂で、真っ青な君が、たった一人で出あった、雨夜葉非左(よみかたは「アマヨノハヒサ」でもいい)のことが思われる。
=人魂の真っ青な君が、たった一人で出あった、雨夜葉非左のことが思われる。
万葉集は、以上の観点からも見直す必要がある。
 

 

●火の玉 1 
1 丸い火のかたまり。特に、墓地や沼沢などで、夜、燃えながら空中を飛ぶように見える光の塊。おにび。ひとだま。ひだま。雑俳・すがたなぞ(1703)「火の魂が米やの軒をこけあるく」。2 激しく闘志を燃やして事に当たるさまをいう。ロマネスク(1934)〈太宰治〉喧嘩次郎兵衛「数千の火の玉小僧が列をなして畳屋の屋根のうへで舞ひ狂ひ」。3 取引市場で、熱狂的な相場をいう。〔取引所用語字彙(1917)〕。
1 球状の火のかたまり。特に、夜、墓地などで空中を飛ぶという火のかたまり。鬼火。人魂ひとだま。2 激しく闘志を燃やすようすなどをたとえていう語。「火の玉となって戦う」。 
●火の玉の正体って? 2 
人が亡くなったときや、亡くなる2〜3日前に、魂が体から離れて飛ぶことを火の玉(人魂(ひとだま))といいます。この世に心残りがあるために、さまよい出てくると、昔から考えられています。
きもだめし大会のときの怖い話としては定番の火の玉ですが、その正体を科学的に証明しようといろいろな説があるようです。
ひとつは、昔は人が亡くなると土葬(どそう)と言ってそのまま土に埋めていました。そのとき亡くなった人の体からリンという科学物質が出てきて、雨水と反応して光るというものです。
また他にもホタルなどの昆虫や光る植物を見間違えたという説や、電気現象、自然の中でガスが発生したものに火がついたものなど、いろいろな説があります。
このような話を知っておくと、これからはきもだめしで火の玉の話を聞いても、ちょっとは怖くなくなるかもしれませんね。それでもやっぱり怖い・・・かな? 
●火の玉は本当にあるの、正体は何 3 
火の玉というのは本当に存在するのです。しかし、昔からいわれているような、死んだ人のたましいが光っているものとはちがいます。このことは、ようやく最近になってわかってきたことです。最近では、火の玉を実験で作ることに成功した大学の先生もいます。
火の玉は、プラズマという一種の電気のようなものが原因(げんいん)で発生します。この火の玉は、ぼんやり光ったり、ゆらゆらと動いたりするもので、めったに起こる現象(げんしょう)ではないようです。火の玉というのは、雷(かみなり)のように、自然の中で起きる電気のいたずらであると考えられ、おばけやゆうれいとは何の関係もないものなのです。 
●火の玉なんじゃろ 4 高知県宿毛市
その1
最近火の玉の研究もなかなか熱心にやられるようになり、日本でも早稲田大学の大槻先生など火の玉観測情報センターをつくって研究しているようです。
さてその火の玉、世の中が昔とちごうてそうぞうしくなると出て来るのがいやになるのか、近頃あんまり出会うたという話を聞かんが、 夏の夜など涼み台に集まって聞くお化けの話。そこではたいてい一役買っていたものだし、出会った人もたくさんおった。
お墓の中から燐が飛び出る。たいていの人がそんなことを言うたが、それもおかしなことだろう。
その2
中学生以上のみんななら知っているだろうが、普通では黄燐(おうりん)赤燐(せきりん)、そのうち気温があがって自然に燃えるのは黄燐ということだ。
第二次大戦でアメリカ軍が使った黄燐焼夷弾(おうりんしょういだん)、木造の家を焼く大きなマッチだったと言えるが、たしかに燃える。
墓場の穴から飛び出すことまでは考えられても、それだけの熱をだすなら火の玉の飛んだ所は火事騒動がついて来る。そう考えるとおかしなことだろう。大小、色もさまざまなのもを何度か見たが、わらぐろにさえ火はつかない。
その3
何年か前メタンの様なガス説も出たが、これも同様おかしいとこがある。
光を出す虫のかたまりと言った人もあるそうだが、電線にかかって四方八方に輝きながら飛び散って消えた火の玉。
丁度夜明けの頃だったが、明るくなって調べてもそれらしいものの一つも見当たらない。
舟底を走る火の玉もあるが、それは夜光虫のかたまりだと言うことを否定は出来んが。中には蛍を食ったひき蛙が うごくと火の玉に見えるんだという説まである次第で、今のとこなんともこれだと言い切ることはむつかしそうだ。
火の玉が飛ぶのは夏だとは限らない。墓場とも限らない。
その4
町の中でも出ることがあるし、道路わきから出ることもある。
学生時代に見た営所での火の玉なんか今でもはっきり覚えているが、あるいは小中学生のみんなのおじいさん達の中にはそれを知っている人がおられるかも知れん。
どす黒い様な赤色のバレーボール位の丸い玉。東の空から西に向けて兵舎の上空を飛んで行く。
時間は午前一時すぎ、召集のすこし年のいかれた兵隊さんが、戦地に向うときだけ飛ぶと、お世話になっていた班長さんが話してくれた。憲兵(けんぺい)の一人がスパイの信号ではないことだけははっきりしたが、どれだけさがしても原因は 判らない、と話してくれた。
なんとも不思議な気持ちで見た火の玉だった。
その5
空気の原子や分子がこわれてプラズマ状態になり、言えば稲光(いなびかり)の様なものといった考え方。 自然にある放射線が空気の原子や分子を火の玉にする。こんな考え方が今の所一番進んだ考え方と言われるが、 それにしてもいろいろな火の玉を実際見てくると決まりきった説明がつくもんだろうかとうたがいたくなる。
お化けの話につきもんだったからといって、火の玉に取って食われた人はない。学者はその正体をつかもうと調べ始めた。
お家の人にも聞いてみたら面白い話が出て来るかも知れん。
すこうしかたい話になってしもうたが、若い人達こんな話も頭のすみにちょっとおいてもらうと有難い。
ちょっとちごうた話になって相すみません。 

 

● 光玉  
[ヒカリダマ] 奈良県吉野郡吉野町。夜道を1人で歩いていたら、山の上のほうから、光玉が飛んだ。赤い色がだんだん柿色になった。高い所を飛んでいたのだが、自分に近づいて来るようで、力が抜けて座り込んでしまった。 
●火の玉・ひかり玉 
群馬県利根郡みなかみ町。ループトンネルのある山で、6人いっぺんに火の玉を見た。1尺(30p)ほどの大きさだった。何かあると思ったが、その日、トンネルの事故で人が死んだ。  
●金霊 
[金玉、かねだま、かなだま] 日本に伝わる金の精霊、または金の気。厳密には金霊と金玉は似て非なるものだが、訪れた家を栄えさせるという共通点があり、金玉が金霊の名で伝承されていることもある。ここでは金霊、金玉の両方について述べる。
鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集『今昔画図続百鬼』によれば、善行に努める家に金霊が現れ、土蔵が大判小判であふれる様子が描かれている。石燕は同書の解説文で、以下のように述べている。
「金だまは金気也 唐詩に 不貪夜識金銀気といへり 又論語にも富貴在天(ふうきてんにあり)と見えたり 人善事を成せば天より福をあたふる事 必然の理也」
「不貪夜識金銀気」は中国の唐代の詩選集『唐詩選』にある杜甫の詩からの引用で、無欲な者こそ埋蔵されている金銀の上に立ち昇る気を見分けることができるとの意味である。 また「富貴在天」は文中にもあるとおり、中国の儒教における四書の一つ『論語』からの引用で、富貴は天の定めだと述べられている。これらのことから石燕の金霊の絵は、実際に金霊というものが家に現れるのではなく、無欲善行の者に福が訪れることを象徴したものとされている。
同時期にはいくつかの草双紙にも金霊が描かれている例があるが、いずれも金銭が空を飛ぶ姿で描かれている。1803年(享和3年)の山東京伝による草双紙『怪談摸摸夢字彙(かいだんももんじい)』では「金玉(かねだま)」の名で記載されており、正直者のもとに飛び込み、欲に溺れると去るものとされている。
昭和以降の妖怪関連の文献では、漫画家・水木しげるらにより、金霊が訪れた家は栄え、金霊が去って行くと家も滅び去るものとも解釈されている。また水木は、自身も幼い頃に実際に金霊を目にしたと語っており、それによれば金霊の姿は、轟音とともに空を飛ぶ巨大な茶色い十円硬貨のような姿だったという。
東京都青梅市のある民家では、実際に人家に金霊が現れたという目撃例がある。家の裏の林の中に薄ぼんやりと現れるもので、家の者には恐れられているが、その家でも見れば幸運になれるといわれている。
似た仲間に、江戸時代の怪談本『古今百物語評判』に記述されている「銭神(ぜにがみ)」がある。銭霊(ぜにだま)ともいい、黄昏時に世界中の銭の精が薄雲状となって人家の軒を通るもので、刀で切り落とすと大量の銭がこぼれ落ちるという。同書の著者・山岡元隣によれば、これは世界中の銭の精が集まって、空中にたなびいているのだと解説されている。
金玉​
その名の通り玉のような物または怪火で、これを手にした者の家は栄えるという。
東京都足立区では轟音と共に家へ落ちてくるといい、千葉県印旛郡川上町(八街市)では、黄色い光の玉となって飛んで来たと伝えられている。
静岡県沼津地方では、夜道を歩いていると手毬ほどの赤い光の玉となって足元に転がって来るといい、家へ持ち帰って床の間に置くと、一代で大金持ちになれるという。ただし金玉はそのままの姿で保存しなければならず、加工したり傷つけたりすると、家は滅びてしまう。
江戸時代の奇談・怪談集である『兎園小説』では、1825年(文政8年)の房州(現・千葉県)での逸話が語られている。それによれば、丈助という農民が早朝から農作業に取り掛かろうとしていたところ、雷鳴のような音と共に赤々と光り輝く卵のようなものが落ちて来た。丈助はそれを家を持ち帰り、秘蔵の宝としたという。この『兎園小説』では「金玉」ではなく「金霊」の名が用いられているため、金霊を語る際にこの房州での逸話が引き合いに出されることがあるが、妖怪研究家・村上健司はこれを、金霊ではなく金玉の方を語った話だと述べている。また同じく妖怪研究家の多田克己は、この空から落ちてきたという物体を、赤々と光っていたとのことから、隕鉄(金属質の隕石)と推測している。
東京都町田市のある家では、文化・文政時代に落ちてきたといわれる「カネダマ」が平成以降においても祀られているが、これも同様に隕石と考えられている。 
●狂歌百物語・金玉 
塗籠ぬりごめの 窓飛び出だし 金玉は 左官の家に 住替すみかへやしつ(花林堂糸道)
羽根生えて 利足も高く 飛び歩ありく 烏に貸せる 金の玉かも(朝霞亭)
怖ろしと 見し人をもて 言はしむる 天に口なし 色の金玉(和風亭国吉)
爪に火を ともして溜めし 金玉の 飛び行く方へ 指をさしけり(遠江見附 草の舎)
金玉も 爰ここに筋目を 引窓の しめくゝりよき 家に落ちけり(艶芳)
誰たれか腰 冷やし果てゝや 飛びぬらん 寒けだちぬる 夜半の金玉(信濃飯田 清因)
万燈の やうに見えねど いにしへの 長者が跡に 光る金玉(藤紫園友成)
銭でさへ 阿弥陀と光る 諺に 百はい光る 夜半の金玉(升友)
物言はぬ 山吹色の 金だまの 主ぬしは誰たれとも わからざりけり(駿府 松径舎)
瑠璃色を 帯びて光れる 魂たまはしも お歯黒壺に 埋うづむ金かも(尚丸)
きん玉と 称となへは同じ かね玉を 妹いもは褌ふどしを 外してぞ追ふ(春道)
金玉も 蔵の網戸に かゞやきて 光りを放つ 観音びらき(花前亭)
抑へんと すれども出来いでき 金玉に 出す二布ふたぬのも 空色にして(香好)
明け近き 空に三つ四つ 飛びにけり 烏に貸して 溜めた金玉(喜久也)
山吹の 色かあらぬか 金玉は 見とまらざりし 内に消えけり(日年庵)
うなりつゝ 飛びて光は 青山の 長者が丸に 落つる金魂かねだま(南向堂)
積み溜めて いけし茶壺の 金玉も 飛びて出花の 山吹の色(雛の舎市丸)
菜の花の 色に光るは 誰が油 絞りて溜めし 金の玉そも(常陸大谷 緑蔓園)
口なしの 色に光るは 喰ふ物も 食はで溜めにし 金の玉かも(江戸崎 緑樹園)
あれと指 さす間に消えつ 爪に火を 燈して是も 溜めし金玉(常陸村田 菊成)
金玉の 飛びし長者の 明あきやしき 先祖に泥を 塗籠のあと(足兼)
真直ますぐなる 心で見れば 何のその 浮世を横に とんだ金玉(上総大堀 花月楼)
爪に火を 燈せし人の 執念や 凝りて明るく 燃ゆる金玉(京 花兄)
門跡の 家根に光りて 金玉の とんだ噂も 今菊の門(雅学)
飛ぶにさへ 黄金色なる 金玉の 財布の紐や あとを引くらん(星の屋)
見し人も 又聞く人も めずらしと いふ金玉の 飛んだ事をば(金丸)
爪に火を 燈して溜めし 金玉か 闇にも光り かゞやきて飛ぶ(駿府 松径舎)
中空を 真直ますぐに飛んだ 金玉は 利追ひに曲がる 道を嫌ふか(松の門鶴子)
飛び落ちた 処を縁と 草の根を 分けて尋ねて ありし金玉(弥彦庵冨幹)  
 

 

●地震光 
[じしんこう] テクトニクスの力、地震活動、火山噴火が起きている地域もしくはその近くの空に現れるといわれる光の大気現象である。懐疑主義者は、この現象の理解が不十分であり、報告された目撃情報の多くが平凡な説明により説明できてしまうと指摘している。
外観
地震が発生している間に光が現れると報告されているが、1975年のKalapana地震に関する報告書のように地震の前後に光の報告があるものもある。これらは白から青みを帯びた色で、形はオーロラに似ていると報告されているが、時折もっと広い色スペクトルを有すると報告されている。光は数秒間見ることができると報告されているが、数十分続くとも報告されている。震央から見ることができる距離も様々であり、1930年の北伊豆地震では震央から最大110kmの場所で光が報告された。2008年の四川大地震では、震央から北東約400kmに位置する天水市で地震光が報告されている。
2003年のメキシコのコリマ地震では、地震が起こっている間に空にカラフルな光が見られた。2007年のペルー地震では、海上の空で光が見られ、多くの人々により撮影された。この現象は2009年のラクイラ地震や2010年のチリ地震でも観察され、フィルムに収められている。2011年4月9日の桜島の噴火の際にも、これがビデオ映像として記録されている。1888年9月1日に起きたニュージーランドのアムリ地震でも報告されており、このとき光はReeftonで9月1日の朝に観察され、9月8日に再び観察された。
この現象のビデオに記録された最近の出現は、2014年8月24日にカリフォルニア州ソノマ郡、2016年11月14日にニュージーランドのウェリントンで雷のような青い閃光が夜空に見られた。2017年9月8日、チアパス州のピヒヒアパン近くで起きた8.2マグニチュードの地震で、740km離れたメキシコシティで多くの人がこの現象を目撃したことが報告されている。
地震光の出現は、マグニチュード5以上の高いマグニチュードの際に発生すると思われる。また、地震が起こる前に黄色の玉状の光が現れている。
種類​
地震光は出現時刻に基づいて2つの異なるグループに分類することができ、(1)一般に地震前数秒から数週間に発生するプレシーズミックEQL、(2)震央付近(地震誘導応力)もしくは地震波列の通過中、特にS波の通過中の震央から離れたところ(波誘導応力)に発生するコシーズミックEQLがある。
より低いマグニチュードの余震のEQLは珍しいと思われる。
考えられる説明​
地震光の研究は進行中であり、このようにいくつかのメカニズムが提案されている。正孔モデルはその1つである。
いくつかのモデルでは、地震前・地震時に高い応力がかかり、いくつかの種類の岩石(ドロマイト、流紋岩など)のペルオキシ結合が破壊されることにより起こる酸素が酸素陰イオンになるイオン化がEQLの生成に関与していることが示唆されている。イオン化の後、イオンは岩石中の亀裂を通り上に上がる。一度それらが大気に達すると、空気のポケットをイオン化して光を放射するプラズマを形成する。実験室での実験では、高い応力レベルが印加された際に岩石中の酸素がイオン化することが確認されている。研究は、断層の角度が地震光発生の可能性に関係あることを示唆しており、地震光が多く発生する裂け目の環境では副垂直(ほぼ垂直)断層がある。
1つの仮説では、石英を含む岩石の地殻運動により圧電的に作られた強い電場を伴うものもある。
もう1つ考えられる説明は、近く応力の領域における地球の磁場および/また電離層の局所破壊であり、これの結果として低高度および大きな気圧における電離層放射再結合もしくはオーロラとして観測されるグロー効果が生じる。しかし、この効果はすべての地震においてはっきりせず、明確に観察されておらず、未だ実験的には直接実証されていない。
アメリカ物理学会の2014年3月大会では、地震の際に明るい光るが現れることがある理由に可能な説明を与えるための研究が行われた。研究によると、同じ材料の2層がお互いに擦れ合うと電圧が発生すると述べている。調査を行ったラトガーズ大学のTroy Shinbrot教授は、地球の地殻を模すために異なる種類の穀物を用いて実験を行い、地震発生をエミュレートした。「穀物が開いたとき、正の電圧スパイクを測定し、閉じたときに負の電圧スパイクを測定した」この亀裂により電圧が空気中に放出され、空気中に電圧が印加、空気が帯電し明るい電気光が生成される。行われた研究によると、この電圧スパイクは行われた全ての材料で毎回生成された。この事象の理由は明らかになっていないが、Troy Shinbrot教授は摩擦発光という現象を参照した。研究者たちはこの現象の根底に達することで、地震学者が地震をより予測できるようにするための情報を多く提供できることを望んでいる。
批判​
Brian Dunningによると、研究者たちは地震光の「確認された観測」がないことを心配する必要がある。それらが起こった時や場所に一貫性がないのは危険である。それが「1つで、既知で、証明された現象ではない」可能性がある。しかし、YouTubeのようなサイトが現れてから、かなりの量のビデオ映像が上がっている(1つの例として2017年のメキシコ地震)。ただし一貫性のある説明はなされていない。「驚異的な量の文献がある... これらの論文のほとんどは合意点がない... 私はこれらの熱心な研究者のうち何人がハイマンの定言命法『説明するものがあると確信を持つまで、何かを説明しようとするな』を知っているのかと疑問に思わざるを得ない」Dunningの最終的な結論は「ちゃんとした証拠が保留」になるまで地震光の主張に対しては懐疑的である。
Robert Sheafferは、多くの懐疑主義者と科学ブロガーが、主張のソースを調べたり光とは何かについての基礎研究をしたりせずに地震光を本当の現象として受け入れていることに驚いたと書いている。彼のブログBad UFOで、人々が地震光であると主張するものの例が示されており、次に同じように見える彩雲の写真を示している。彼は「『地震光』がどのように変化するかは実に注目すべきことです。時には小さな球体で山を登っているように見え、時に稲妻のように見えます。彩雲のように見えるときもあります。地震光は、あなたが熱心に証拠を求めているとき、まったく同じように見えてしまうかもしれない」と述べている。
Sharon Hillは、地震光には科学がなく、充分な研究がなされていないと書いている。全ての地震が同じではなく、「拡大」と「圧縮」断層が「地表面下と同様に地表面上で異なる挙動」を生じさせる可能性があると述べている。彼女は、懐疑主義者がなぜこの「信頼性がなく、再現性がなく、不十分な説明のために」起こるかもしれないことを確認するのに消極的であるのかを理解している。また、可能性としては「強い地震が電気配線を壊し、変圧器を爆発させている」というものがある。地震に関する電気信号の研究が増えれば、この現象をより深い理解が得られるだろう。 

 

●野宿火 1 
『絵本百物語』にある怪火です。
これは「狐火」でも「草原火」でもなく、田舎道や街道、山中などに出現するもので、人のいないところでほとほとと燃えては消え、消えては燃えを繰り返します。時として人が騒ぎ歌う声などが聞こえることもあるといいます。 
●野宿火 2 
日本の伝承に伝わる怪火の一種。江戸時代の奇談集『絵本百物語』に記載される怪火の一種。
記述によれば、田舎道や街道、山中などで何者かが火を焚いたかの様に出現する、ほとほと燃える細い火で、特に人が集まった後に人気のない場所や遊山に行った人が去った後に現れ、消えたかと思うと燃え上がり、燃えたかと思えば消えるという事を繰り返すとされる。
また、雨降りの後などに木々の間から、そっと野宿火を覗くと、その周囲からは人が騒ぎ歌う声などが聞こえる事もあるといわれている。  
●野宿火 3 
野宿火(のじゅくび)は『絵本百物語』で紹介される怪火。竹原春泉の挿絵ではただの焚き火のような絵が載っている。田舎道、街道、山の中など、どこにでも出没するようで、人がいなくなった後で、誰もいないのに燃えては消え、消えては燃えを繰り返す。人が騒いだり歌ったりする声だけが聞こえてくる。乞食が朝早くに起き出した跡や、野山に遊びに出掛けた人が帰った後、お花見や紅葉狩りなどのイベントの後などに出現するので、もしかしたら、そこにしばらくいた人の気持ちがその場に残って、このような火となって現れるのかもしれない。
「田舎道は更にて、街道山中抔いづこにもあり。誰が焚捨たるとはなしに、人なき跡にほとほとと然上りては消、きえては又もゆ。したじ焚しめたるほむらの消ては然るを野宿火と云。乞食の暁起出てたる跡、遊山に人の去りたる後、何れもものすごし。雨の後抔に然立たるを木の間がくれにみれば、人のつどひてものいふさまなどにことならず。哀に物すごくしてすさまじきものは野宿火也。きつね火にもあらず、草原火にてもなく、春は桜がり、秋は紅葉がりせしあとに火もえあがり、人のおほくさわぎ、うた唱ふ声のみするは野宿の火といふものならん。」『絵本百物語』巻第壱第七「野宿火」より 
●野宿火 4 
江戸時代の奇談集『絵本百物語』にある日本の怪火の一種。
『絵本百物語』本文の記述によれば、田舎道、街道、山中などで、誰かが火を焚いたかのように現れる細い火であり、特に人が集まって去った後や遊山に行った人が去った後に現れ、消えたかと思うと燃え上がり、燃えたかと思えば消え、これを繰り返すとある。
「雨の後(のち)などに然立(もえたち)たるを木(こ)の間(ま)がくれにみれば、人のつどひてものいふさまなどにことならず」とあることから、雨降りの後などに木々の間から野宿火をそっと覗くと、その周囲から人の話し声が聞こえたとする説もある。鬼火の一種であり、火と言っても熱は発さず、周囲の木を燃やしたりすることはないとする解釈もある。
類話​
寛保時代の雑書『諸国里人談』には「森囃」(もりばやし)と題して以下のような話が述べられており、『絵本百物語』の「野宿火」は、この「森囃」を描いたものと考えられている。
享保時代初期。信濃坂(現在の岐阜県中津川市と長野県阿智村の境にある神坂峠)である年の夏、毎晩のようにどこからか囃子の音が聞こえ、笛や太鼓や数人の声が十町(約1キロメートル)四方に響くようになった。それらの音は近くの森の中から音がすることが次第にわかったが、その場所では篝火が焚かれているのみで、人の姿はなく、ただ囃子の音だけがしていた。翌朝にその場所を見ると、木の枝の燃えさし、1尺ほどに切られた竹などが捨てられていた。噂を聞いた人々は、面白がってこの怪異を目にしようと、その地に多くの見物人が集まるようになった。やがて、秋、冬と季節が流れるに連れて囃子の音は弱まっていったが、翌年の春頃には、謎の囃子の原因が一向につかめないことから人々は恐怖心を抱き、囃子の流れる夜になると決して外出しないようになった。春が過ぎると囃子の音は途絶え、ついに正体はわからないままだったという。 

 

●火柱 1
[ひばしら] 空中に赤気が立ち上る姿が火の柱のように見えるという怪奇現象である。高さ7、8尺ないし数丈の火が地上または山上に立つという。俗に大火の前兆であるともいい、火柱の立った家は、娘が人身御供に成らねばならないという。
火柱は『吾妻鏡』(仁治元年2月4日)、『元正間記』、『益軒先生与宰臣書』などに記述があるが、その正体については不明である。『北条九代記』には、「火柱相論条、仁治三年(二年か?)二月四日戌の刻ばかりに、赤白の気三条西方の天際に現じ、漸く消えて後に赤気の一道、その長七尺ばかりに見えて耀けり。陰陽師泰貞朝臣御所に参りて申しけるは、此天変を彗形の気と名付け、俗説に火柱と申習はす。昔村上天皇の御宇、康保年中に出現せしこと旧記に載せられ候と申す」とある。  
●元正間記 / 大火事大地震の事 元禄16年11月23日(1703/12/31) 
其頃江戸に火柱と云もの有たり、晩七ッ過ゟ初北之方ニ見へたり山の根より空へ弐丈斗赤く幅二尺斗ニ見へたり、南の方へ倒れて其火柱日を追て南へ〳〵と廻りけり、火事夫ニ随ひ三月初本郷の末より焼出し小日向を焼、其次に小日向ゟ出て四日市迄焼、其次本村ゟ焼出青山、赤坂迄焼、其次麻布竜土ゟ焼出品川本宿迄焼たり、日数四十日斗火柱に随て北より南へ焼て火柱日柱見へず、勿論其頃は大事繁き江戸なれハ火柱に随ひ焼たるハ気のへりたる事也、南の方ニてハ火事の来るを待て居たり然るに、其年霜月廿三日夜丑の刻江戸大地震ニて諸大名の屋敷〳〵ハ云に不及、町〳〵ゆり倒れ男女死人怪我人夥敷、水戸殿御門前二百間斗倒れたり、浅草観音の塔九輪折れて大地へ落、神社仏閣大きに痛ミ、御城ハ数ケ所御櫓土台より倒れしも有、二重三重目ゟ震ひ崩れしもあり、大手桜田御門大きに傾き鉄を以巻たる御門の柱さけ、弐十間余の棟木震り打御堀水往来へ打上けたり、御本丸西の丸ハ慥ニ不知、惣して江戸中の見付〳〵残りなく御多門ハ崩れたり、此節一位桂昌院様押ニ打れ御逝去なりと云ふ併し深く隠して翌年二月廿三日御逝去の沙汰に及ふ、其夜甲府様外桜田御屋鋪御厩ゟ出火し五十間余里焼失たり御殿ハ別条なし、焼死人大勢の由、此地震ゆり出の強き事右の如くニ而地震止事なく昼夜十五六度也、日数立ニ随ひ少〳〵ゆるといへ共初の地震ニ手こりして上下共庭に仮屋を作りて本家に居られず、箱根にてハ大石抜ケ出往来をふさき、翌年上杉弾正へ往環道作り抜石取捨の御手伝被仰付けり、其節狂哥に
此度ハ箱根の山の御手伝ひ 又大石にこまる弾正
江戸初りての大地震にて人々薄氷を踏む思ひをなしけり、同廿五日水戸宰相殿奥長庵ゟ出火して折節大風烈しく吹立、三方ニ別れ大火と成る。一方ハ鳶坂ゟ本郷江焼上り加賀殿柳原を始として湯嶋天神、神田明神、聖堂やく、其比丘夫ゟ神田残らす東叡山、谷中、三崎、下谷、浅艸雷門を限り夫ゟ駒形、竹町、聖天町、山谷迄焼たり。一方ハ小石川ゟ小石町へ焼、筋違橋へ入須田町、田町ゟ豊嶋丁へ広がり夫ゟ本丁、石丁初め下町残らず、一口ハ八丁堀、鉄炮洲、霊巌嶋、佃嶋ゟ深川八幡迄焼。一口ハ伝馬丁、堺丁、浜丁、河岸残らす両国橋迄焼落死人三万人の余有之、死がいを河岸に積上て見るに身の毛もよたつ斗也、火事ハ本所へ飛、石原、亀戸ゟ四ッ目通り五百羅漢、猿江迄焼たり。五十年已来の大火也、是を水戸様火事と云、狂哥に
猿楽や田楽斗お好ゆへ 水戸宰相味噌を付たり
本郷加賀宰相殿屋敷八丁四方の積りにて広大成る屋敷也、右之通の大火故江戸中の職人諸弟へ頼まれ勿論材木屋も売切たり、加賀殿屋敷早速板かこひ可有所右の通り広大なる屋敷故板材木大工木挽手づかへ半年斗かこひ無之、天下に壱人の大録殊に金持の沙汰を得たるに無其儀又細川越中守殿ハ隠れなき摺切ニ而、出入の町人に一切払無きに付世上の沙汰止時なし、又吉良上野介去年最期の躰甚た未練也笑草也依之其頃のかる口に
いて其頃の恥かきハ梅鉢九やうに桐のとふ加賀ニかこひなし越中ニ払ひなし上野に首なし合せて三人衆行焼に火をとかし辻番かしこまつて候
霜月廿三日ゟ江戸中の騒動大方ならす、如此凶事なれハ翌正月ハ恵方から万歳来ると祝ひ直し、元録十七年の三月朔日ゟ年号改り東叡山の桜も色増り、亀戸の藤の花も時めき替らぬ江戸の繁昌也、然に改元有て間もなく紀州の鶴姫君様御急病ニて御逝去也、将軍秘蔵の姫君故御歎きの(カ)程さこそと思ひ知られたり、江戸ハ申ニ不及諸国鳴物停止元録十七年宝永と改たまるを(下略)  
●火柱 2 
空中に立ちのぼって柱のように見える赤い気。吾妻鏡‐仁治二年(1241)二月四日「白赤気三条出現〈略〉泰貞朝臣最前馳二参御所一。申云。此変為二慧形一、異名火柱也」。柱のかたちに高く空中に燃え上がった火。また、稲妻など空中を走る火。火の柱。世話詞渡世雀(1753)上「火柱にもだき付度折から」。火事の前兆といわれる幻覚。火柱が見えると近いうちに火災があるという。
柱のように空中に高く燃え上がった炎。「ガス爆発で火柱が立つ」。
・・・これだけいって、腰こしの般若丸はんにゃまるをひき抜ぬいたが、その刀身とうしんは、いきなりまっ赤かにひかって見えた。うしろの炎ほのおはもう高い火柱ひばしらとなっていた。・・・吉川英治
・・・その次の瞬間、弦三の眼の前に、瓦斯ガスタンクほどもあるような太い火柱ひばしらが、サッと突立つったち、爪先から、骨が砕けるような地響が伝つたわって来た。・・・海野十三
・・・もっとも敵の地雷火じらいかは凄すさまじい火柱ひばしらをあげるが早いか、味かたの少将を粉微塵こなみじんにした。が、敵軍も大佐を失い、その次にはまた保吉の恐れる唯一の工兵を失ってしまった。・・・芥川竜之介
・・・不斷ふだんは、あまり評判ひやうばんのよくない獸やつで、肩車かたぐるまで二十疋にじつぴき、三十疋さんじつぴき、狼立おほかみだちに突立つツたつて、それが火柱ひばしらに成なるの、三聲みこゑ續つゞけて、きち/\となくと火ひに祟たゝるの、道みちを切きると惡わるいのと言いふ。・・・泉鏡花、泉鏡太郎
・・・かヽる人々ひと/″\の瞋恚しんいのほむらが火柱ひばしらなどヽ立昇たちのぼつて罪つみもない世上せじやうをおどろかすなるべし。・・・樋口一葉
・・・僕の好奇心は火柱ひばしらのようにもえあがったけれど、博士の沈痛ちんつうな姿を見ると、重かさねて問とうは気の毒になり、まあまあと自分の心をおさえつけた。・・・海野十三
・・・炎々たる城頭の火柱ひばしらは、郊外十里の野づらを染めて夜もすがらな城内の人声が、赤い雲間に谺こだましている——・・・吉川英治
・・・いま其その影かげにやゝ薄うすれて、凄すごくも優やさしい、威ゐあつて、美うつくしい、薄桃色うすもゝいろに成なると同時どうじに、中天ちうてんに聳そびえた番町小學校ばんちやうせうがくかうの鐵柱てつちうの、火柱ひばしらの如ごとく見みえたのさへ、ふと紫むらさきにかはつたので、消けすに水みづのない劫火ごふくわは・・・泉鏡花、泉鏡太郎
・・・と、下からまっ赤かな火のかげが、開ひらいたなりに、パッと天井てんじょうへうつった。まるで四角かくな火柱ひばしらのように。・・・吉川英治
・・・そしてほっと一息ついたおりしも、天地もくずれるような音がして、目の前にものすごい火柱ひばしらが立った。第二研究室が、大爆発を起こしたのだった。なにゆえの爆発ぞ。海野十三
・・・おりしも雷鳴らいめいがおこって、天地もくずれるほどのひびきが、山々を、谷々をゆりうごかす。三角岳の頂上に建っている谷博士たにはかせの研究所の塔とうの上に、ぴかぴかと火柱ひばしらが立った。・・・海野十三
・・・と、かれがもらした痛嘆つうたんのおわるかおわらぬうち、遠き闇やみにあたって、ズーンと立った一道の火柱ひばしら、それが消えると、一点の微光びこうもあまさず、すべてを暗黒がつつんでしまった。・・・吉川英治
・・・「あっ、火柱ひばしらだ。湖の中から、火柱が飛出した。あっ、火柱が飛ぶ。火柱が飛ぶ」・・・海野十三
・・・その第一。火柱ひばしらの発見者で、そのために大怪我をした友永千蔵という男は、怪我を・・・海野十三
・・・「ははあ、なるほど。では、親類の方ですね」と、かの青年は、ひとり合点をして、「それなら話してあげましょう。千蔵さんは、ゆうべ火柱ひばしらにひっかけられて、大怪我をしたのですよ」・・・海野十三
・・・なんでも雷かみなりさまを塔の上へ呼ぶちゅう無茶むちゃな実験をなさっているうちに、ほんとに雷さまががらがらぴしゃんと落ちて、天にとどくような火柱ひばしらが立ちましたでな、それをまあ、ようやく消しとめて・・・海野十三
・・・鳥山石燕《百鬼夜行図》にはキツネがくわえた骨から燐火が出ている図が狐火として描かれており,鬼火と結合したものと思われる。なお,川岸によく出現するという火柱も狐火の変形とされるが,こちらはイタチのしわざといわれ,火柱の倒れた方向に火災が起こると信じられている。・・・
・・・もっとも敵の地雷火は凄まじい火柱をあげるが早いか、味かたの少将を粉微塵にした。が、敵軍も大佐を失い、その次にはまた保吉の恐れる唯一の工兵を失ってしまった。これを見た味かたは今までよりも一層猛烈に攻撃をつづけた。――と云うのは勿論事実ではない・・・ 芥川竜之介「少年」
・・・風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、――暫くはさすがの峨眉山も、覆るかと思う位でしたが、その内に耳をもつんざく程、大きな雷鳴が轟いたと思うと、空に渦巻いた黒雲の中から、まっ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました。 杜・・・ 芥川竜之介「杜子春」
・・・その第一行から、すでに天にもとどく作者の太い火柱の情熱が、私たち凡俗のものにも、あきらかに感取できるように思われます。訳者、鴎外も、ここでは大童で、その訳文、弓のつるのように、ピンと張って見事であります。そうして、訳文の末に訳者としての解説・・・ 太宰治「女の決闘」
・・・夜警で一緒になった人で地震当時前橋に行っていた人の話によると、一日の夜の東京の火事は丁度火柱のように見えたので大島の噴火でないかという噂があったそうである。 寺田寅彦「震災日記より」
・・・そればかりでなく、みんなのブラボオの声は高く天地にひびき、地殻がノンノンノンノンとゆれ、やがてその波がサンムトリに届いたころ、サンムトリがその影響を受けて火柱高く第二の爆発をやりました。「ガーン、ドロドロドロドロ、ノンノンノンノン。」・・・ 宮沢賢治「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」 

 

●利欲の心火 1 
[りよくのしんか] 妖怪を題材としたかるたなどに見られる絵柄の一種です。利欲とは利を貪ろうとする欲望、心火は激しい嫉妬や怒りなどの感情のことで、この図は利を貪る心が灯す火を描いたものといえます。
手にある目玉は手目と詐(てめ。イカサマのこと)をかけた洒落で、爪から伸びている火は諺の「爪に火を点す」(蝋燭や油の代わりに、爪に火を点して節約する→非常にけちなことのたとえ)を表しています。同様の発想で爪に火を点した手の絵柄で吝嗇家、金の亡者を揶揄したものには、『化物和本草』の「爪の火」、『画本纂怪興』の「しわん坊」、『怪談模模夢字彙』の「古銭場の火」などがあります。 
●利欲の心火 2 
日本に伝わる妖怪の一種。妖怪を題材としたカルタなどに見られる絵柄の一種。利欲とは利を貪ろうとする欲望、心火は激しい嫉妬や怒りなどの感情の事で、利欲の心火の図は利を貪る心が灯す火を描いたものといえる。利欲の心火の手にある目玉は、手目と詐(てめ。イカサマの事)をかけた洒落で、爪から伸びている火は諺の「爪に火を点す」(蝋燭や油の代わりに爪に火を点して節約する→非常にけちな事のたとえ)を表している。この様に、爪に火を点した手で吝嗇家(リンショクカ)や金の亡者を揶揄している。  

 

 

●陰火 1 
夜間、山野や墓地などで幽霊、妖怪などが出るとき燃えて浮遊するといわれる不気味な火。燐(りん)などが燃えることによるという。きつね火。鬼火。芝居の小道具の一つ、棒の先につけた布片を焼酎にひたしてから燃やした青白い火。幽霊などが現われる場面に用いる。焼酎火(しょうちゅうび)。  
●陰火 2 
亡霊や妖怪が出現するときに共に現れる鬼火。  
●陰火 3 
夜間、山野や墓地などで幽霊、妖怪などが出るとき燃えて浮遊するといわれる不気味な火。燐(りん)などが燃えることによるという。きつね火。鬼火。
芝居の小道具の一つ。棒の先につけた布片を焼酎にひたしてから燃やした青白い火。幽霊などが現われる場面に用いる。焼酎火(しょうちゅうび)。
・・・此地火一に陰火いんくわといふ。かの如法寺村によほふじむらの陰火も微風すこしのかぜの気きいづるに発燭つけぎの火をかざせば風気ふうき手てに応おうじて燃もゆる、陽火やうくわを得えざれば燃もえず。・・・鈴木牧之、山東京山
・・・此地火一に陰火いんくわといふ。かの如法寺村によほふじむらの陰火も微風すこしのかぜの気きいづるに発燭つけぎの火をかざせば風気ふうき手てに応おうじて燃もゆる、陽火やうくわを得えざれば燃もえず。・・・鈴木牧之、山東京山
・・・水中すゐちゆうより青あをき火閃々ひら/\ともえあがりければ、こは亡者まうじやの陰火いんくわならんと目を閉とぢてかねうちならし、しばらく念仏して目をひらきしに、橋の上二間けんばかり隔へだてて・・・鈴木牧之、山東京山
・・・火脉くわみやくの気息いきに人間にんげん日用にちようの陽火ほんのひを加くはふればもえて焔ほのほをなす、これを陰火いんくわといひ寒火かんくわといふ。寒火を引ひくに筧かけひの筒つゝの焦こげざるは、火脉の気いまだ陽火をうけて火とならざる気息いきばかりなるゆゑ也。・・・鈴木牧之、山東京山
・・・此ほとり用水に乏とぼしき所にては、旱ひでりのをりは山に就ついて井を横よこに掘ほりて水を得うる㕝あり、ある時井を掘て横にいたりし時穴あなの闇くらきをてらすために炬たいまつを用ひけるに、陽火やうくわを得えて陰火いんくわ忽たちまち然もえあがり・・・鈴木牧之、山東京山
・・・遠ざかって行く自動車のうしろに、陰火いんかのような二つの蛍火ほたるびが見えていた。[注、当時の自動車は箱型で、後部にすがりつくことができた]・・・江戸川乱歩
・・・静子は可なり面おもやつれをしていたけれど、その青白さは彼女の生地であったし、身体全体にしなしなした弾力があって、芯に陰火いんかの燃えている様な、あの不思議な魅力は・・・江戸川乱歩
・・・そして、次々と恐ろしい作品を発表して行った。私はけなしながらも、彼の作に籠こもる一種の妖気にうたれないではいられなかった。彼は何かしら燃え立たぬ陰火いんかの様な情熱を持っていた。・・・江戸川乱歩
・・・と苦笑にがわらひをして又また俯向うつむいた……フと氣きが付つくと、川風かはかぜに手尖てさきの冷つめたいばかり、ぐつしより濡ぬらした新あたらしい、白しろい手巾ハンケチに——闇夜やみだと橋はしの向むかうからは、近頃ちかごろ聞きこえた寂さびしい處ところ、卯辰山うたつやまの麓ふもとを通とほる、陰火おにび・・・泉鏡花、泉鏡太郎
・・・底に青ずみ漂う血の海。上にさまよう陰火おにびの焔は。罪も報いも無いまま死に行く。精神病者の無念の思いじゃ。聞いて聞こえぬ怨みの数々。聞いた心がクドキの文句じゃ。念仏代りの阿呆陀羅経あほだらきょうだよ。・・・夢野久作
『陰火(尼)』(太宰治) 九月二十九日の夜更け、若い尼が「僕」の部屋を訪れた。尼は、「月夜の蟹が痩せているのは、砂浜に映る自分の醜い月影におびえ、終夜ねむらずよろばい歩くからです」というお伽噺をし、蒲団に横たわって、「私が眠ると、如来様が毎晩遊びにおいでになるので、ご覧なさい」と言う。尼は眠ったまま、にこにこ笑い続け、そのうちだんだん小さくなって、二寸ほどの人形になった。
●狂歌百物語・陰火
つきまとふ 女小袖の 形見物 燃ゆる鬼火や 紅絹の胴裏(何の舎)
音もせず 声も夏野に 燃えあがる 鬼火は蛍 あつまりし如(喜樽)
小夜ふけて 雨降る寺の 荒庭を 草かげ青く 鬼火燃えけり(銭廼舎銭丸)
露とのみ 消えにしあとに 燃ゆる火は 胸のほむらの 残りなるらし(楳星うめぼし)
夜の雨 猶燃えまさる 鬼火こそ 世に消えがたき 思ひなるらめ(高見)
墓場にて 燃ゆる鬼火は 持て行きし 六道銭の 青錆の色(常陸木原 有杉)
雨により 風によりつゝ 柳陰 いと物凄く 鬼火燃えけり(江戸崎 緑錦園有文)
目に見えて 手にも取られず 燃ゆる火は 露と消えにし 人の思ひか(青梅 扇松垣)
ものゝ肉 入れざる寺に なまぐさき 風をおこして 鬼火燃えけり(下毛戸奈良 月潦亭水彦)
綾なしと いふ闇の夜の 折々に 燃ゆる鬼火は いとも怪しな(千住 四耕園茂躬)
糸柳 茂る葉陰に 青々と 燃ゆる鬼火に 気ももつれけり(下毛葉鹿 広瀬舎定段)
光見て みなとゞろくは 奈落なる 東よりたつ 鬼火なるらん(草加 四角園)
戦ひの 昔しのぶか 鬼火さへ 色も青野が 原に燃ゆるは(文栄子雪麻呂)
降る雨に 燃ゆる陰火は 消えやらで 心ばかりは 消ゆるやうなり(喜樽)
松並木 紅葉も交ぢる 縄手道 青くれなゐに 火の燃ゆる見ゆ(吉野楼喜久也)
前にあると 見る間に消えて 後ろ髪 引かるゝやうに 鬼火燃えけり(浅龍園哥根人)  

 

 

●亡魂 1
死んだ人の霊。死人の魂。また、成仏できないで迷っている霊魂。幽霊。  
●亡魂 2
死んだ人の霊。死人の魂。また、成仏できないで迷っている霊魂。幽霊。性霊集‐八(1079)三嶋大夫為亡息女書写供養法花経講説表白文「雖二朝夕流レ涙、日夜含一レ慟、无レ益二亡魂一」。高野本平家(13C前)三「今勅使尋来て宣命を読けるに亡魂いかにうれしとおぼしけむ」〔後漢書‐段伝〕。
亡き人のたましい。死者の霊魂。亡魂。亡霊。多武峰少将物語(10C中)「君がすむ横川の水しにごらずばわがなきたまは常に見せてむ」。
死んだ人の魂。また、成仏じょうぶつできずに迷っている霊魂。幽霊。亡霊。[類語]み霊・英霊・英魂・神霊・祖霊・霊魂・精霊・魂魄・忠霊・尊霊・魂・霊。
死者の霊。晋・潘岳〔寡婦の賦〕氣して胸に乘じ、涕(なみだ)して枕にる。魂きて永なり。時忽(こつ)として其れ(す)ぎて盡く。
・・・九泉に堕つる涙まことこもりて、再び亡魂なきたまをや還しぬべき。しかすがに亡き人の神気すでに散じたれば、猝にはかにわれ等と談かたらひ難くや・・・蒲原有明
・・・お松がいま言うた九重の亡魂なきたまでなければ、竜之助の身の中から湧いて出る悪気あっき。・・・中里介山
・・・住家すみかなく彷徨さまよひ歩く亡魂なきたまの・・・永井荷風
・・・猫間川ねこまがはの岸きしに柳櫻やなぎさくらを植うゑたくらゐでは、大鹽おほしほの亡魂ばうこんは浮うかばれますまい。しかし殿樣とのさまが御勤務役ごきんむやくになりましてから、市中しちうの風儀ふうぎは、見みちがへるほど改あらたまりました。・・・上司小剣
・・・嘘うそか眞まことか、本所ほんじよの、あの被服廠ひふくしやうでは、つむじ風かぜの火ひの裡なかに、荷車にぐるまを曳ひいた馬うまが、車くるまながら炎ほのほとなつて、空そらをきり/\と𢌞まはつたと聞きけば、あゝ、その馬うまの幽靈いうれいが、車くるまの亡魂ばうこんとともに・・・泉鏡花、泉鏡太郎
・・・惜をしみ落延おちのびしは今更後悔こうくわい至極しごくなり然しながら今其方そなたにせよ我にせよ假令たとへ生害しやうがいしたりとも何面目なにめんぼくあつて喜内殿に地下にて言譯が成べきや夫よりも我思ふには敵吾助を尋たづね出て首くび取とつて亡魂ばうこんを祀まつらば少しは罪を・・・作者不詳
・・・相手が兇悪な盗賊とかまたは殺人ひとごろしの罪人とか、そういうものを退治るなら一も二もなくお受けしようが、亡魂ぼうこんとあっては有難くない——これが葉之助の心持ちであった。・・・国枝史郎
・・・○さるほどに源教げんけういほりにかへりて、朝日あけのひ人をたのみて旧来としごろ親したしき同おなじ村の紺屋こんや七兵衛をまねき、昨夜かう/\の事ありしとお菊きくが幽霊いうれいの㕝をこまかに語かたり、お菊が亡魂まうこん今夜こよひかならずきたるべし・・・鈴木牧之、山東京山 
●青火の亡魂 3 山梨県笛吹市 
あおびのぼーこー。山梨県旧東八代郡御坂町に伝わる。
墓場に青火がでるため地元の人間は亡魂だと恐れて昼間も近づかなかった。玉吉はある晩、見届けてやろうと地神の魂の扇をもって出かけた。墓場では確かに青火が燃えており、扇で仰ぎながら近づいてみた。すると墓の土が新しかったので土を掘り棺桶の縄をつかんで引き上げるとそれは棺桶ではなく“ほけい”であった。
ここでいう“ほけい”はおそらく「行器(ほかい)」であると思われる。行器とは平安時代以降に食物を運搬するのに用いた、3本脚の木製の容器であり、一部地域では葬儀の際に白米などを詰めて霊前に備えるために用いられたりするようである。
また、玉吉が扇を手にいれる話もある。六左衛門という長者に出不精の体が不健康の玉吉という20ほどの一人息子がいた。ある晩玉吉の夢枕に地神が立ち「万年橋の下の蛇籠の間に地神の魂である扇がはさまっているので、それで仰げば諸病が治る」と告げた。朝にでかけぼろぼろの扇を手に入れて帰ると家では普段外にでない玉吉がいなくなったと大騒ぎをしていた。大水害の後で地神は祭っていなかったので、屋敷神を祭って地神祭をした。しばらく後、玉吉は体も治り仕事をするようになった。村人も病気になると扇で仰いでもらうようになり、するとすぐに病気は治ったという。
「仰げば治る地神の扇 行器の青火も仰ぎ見る」 

 

●燐火 1 
雨の降る夜や闇夜などに墓地や山野沼沢で燃えて浮遊する青白い火。化水素の燃焼などによる現象という。鬼火(おにび)。人魂(ひとだま)。狐火(きつねび)。幻雲詩藁(1533頃)二・月夜経古戦場「須臾天暗吹成レ雨、火光青白骨城」〔庾信‐連珠〕。
墓地や湿地で発生する青白い火。人魂ひとだま。鬼火。狐火きつねび。[類語]火の玉・鬼火・狐火・人魂 。
戦場の跡によく現れる。出たり消えたりしながら人の精を吸い取る。これを防ぐには馬鎧を叩きながら声を出せばよい。 
●燐火 2 
これは燐火りんかにして物理的妖怪と申すものだが、学理を知らざるものは真に幽霊が地上より現れたごとくに思い、幽霊火と申している。・・・井上円了
何処いずくよりか来りけん、忽たちまち一団の燐火おにび眼前めのまえに現れて、高く揚あがり低く照らし、娑々ふわふわと宙を飛び行くさま、われを招くに等しければ。・・・巌谷小波
横浜の新仏しんぼとけが燐火ひとだまにもならずに、飛んで来ている——成程、親たちの墓へ入ったんだから、不思議はありませんが、あの、青苔あおごけが蒸して、土の黒い、小さな先祖代々の石塔の影に・・・泉鏡花
その大おおきな腹ずらえ、——夜よがえりのものが見た目では、大でかい鮟鱇あんこうほどな燐火ふとだまが、ふわりふわりと鉄橋の上を渡ったいうだね、胸の火が、はい、腹へ入はいって燃えたんべいな。・・・泉鏡花
第三の幽霊 (これは燐火りんくわを飛ばせながら、愉快さうに漂ただよつて来る。)今晩は。何なんだかいやにふさいでゐるぢやないか? 幽霊が悄然せうぜんとしてゐるなんぞは、当節がらあんまりはやらないぜ。・・・芥川竜之介
生なまな眼色めいろは燐火フオスフオラスを吸ふ青びかり・・・福士幸次郎
・・・宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火に過ぎない。況や我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。そう云う・・・芥川竜之介
・・・「鮹の燐火、退散だ」 それみろ、と何か早や、勝ち誇った気構えして、蘆の穂を頬摺りに、と弓杖をついた処は可かったが、同時に目の着く潮のさし口。 川から、さらさらと押して来る、蘆の根の、約二間ばかりの切れ目の真中。橋と正面に向き合う・・・泉鏡花
・・・その時沖を見ていた人の話に、霧のごとく煙のような燐火の群が波に乗って揺らいでいたそうな。測られぬ風の力で底無き大洋をあおって地軸と戦う浜の嵐には、人間の弱い事、小さな事が名残もなく露われて、人の心は幽冥の境へ引寄せられ、こんな物も見るのだろ・・・寺田寅彦
・・・何もない空虚の闇の中に、急に小さな焔が燃え上がる。墓原の草の葉末を照らす燐火のように、深い噴火口の底にひらめく硫火の舌のように、ゆらゆらと燃え上がる。 焔の光に照らされて、大きな暖炉の煤けた・・・寺田寅彦 
●ヲロシヤの人魂 
『怪奇談絵詞』に描かれている妖怪のひとつです。
詞書には「人々恐れをなすといへども全く妄念でやいのたかばたなり。筋引よふなるハ糸なり。風烈しと見る時は早くおろしやおろしやと云」とあり、ヲロシヤ(オロシャ)と颪(冬季に山などから吹き降ろす風)とをかけてロシアを諷刺する意図がこめられていたことがうかがえます。 
 
 

 

●緒話

 

●白蛇姫物語 鹿追町の伝承
鹿追の町は、クテクウシと呼ばれ、アイヌの人達が、鹿を追いこんで、捕えていたころでした。 北の方には、よく似た形をした二つの山が並んで聳え、人々はいつも仲良く座っているように見えるので、 夫婦山と呼んでいました。アイヌ語では、東と西のヌプカウシヌプリというのだそうです。 その裾野に拡がる大地は、今では大きな林を見ることができませんが、昔は何百年も経た柏やナラの大木が密生し、 熊やキツネ、うさぎ、鹿などの野生の動物が自由にとぴまわっていたのでした。アイヌの人達は、その動物を捕ったり、平らな土地を利用して、春に火を入れて焼畑農業という方法で、 麦やヒエを植えて生活をしていました。本当に静かで、食糧も豊富ですから、アイヌ部落の人達は、 酋長さんを中心に楽しい毎目を過ごしていたのでした。
ところが、ある年のことです。寒い寒い冬過ぎ春が来たというのに寒さは少しもおとろえず、 5月になっても6月になっても大地は緑の色を見せませんでした。7月になると、大雨が降り続き、アイヌの人達は、 藁葺きの粗末な家の中で、熊や鹿の皮を身につけ、外にも出ることができず、プルプルふるえているだけでした。8月、9月になっても同じです。もう部落には食糧が無くなり、元気な若者達が、 熊や鹿、うさぎを捕るために山の中を馳けまわりましたが、食物のないところに動物がいるはずがありません。日高とか上川、石狩の方にみんな移動してしまって、一匹の姿も見ることができないのです。 このままではみんな飢え死にしてしまう。毎日毎日部落の人達は相談をくりかえしました。 音更や、帯広のアイヌ部落にも助けを求めに行きましたが、どこも十勝は同じことで人々は困り果てていたのでした。
困り果て、疲れ果てたアイヌの人達は相談の結果、神にお祈りすることになったのです。 アイヌ部落には、神に仕える老人がおり、その老人の指図で神を祭る祭壇をつくり、 人々はもう残り少なくなった食物ですが、少しづつ持ち寄ってお供えし、みんなでお祈りを始めたのです。老いも若きも、男も女も、赤ちゃんまでが、祭壇の前で祈りつづけました。 2日、3日、そして7日目になりました。昼も夜も一生懸命になって祈り続けるアイヌの人達は、 とうとう疲れ果てて倒れるように眠ってしまったのです。
と、その時です。疲れ果て、精も魂もつき果てて、泥のようになって眠っている人々の夢の中に、 女神が現われたのです。「食物もなく、それでいて他の人々と争うことをせず、 ひたすら神に祈るお前達の心をみとめてあげましょう。明日の朝、お前達が目をさました時、 お前達の前に白蛇を見るであろう。これは、私の使いである。 この白蛇の後をついて行くがよい」そう言葉を残して女神の姿は消えました。”アッ”一斉に声を挙げて、アイヌの人達は目をさましました。そして、お互いの顔を見合せ、 みんなが同じ夢を見たことを話しあったのです。「お告げに、神様が私達を助けてくれる、 私達の願いが聞き届けていただけたのだ」みんなは手をにぎり肩を抱きあって喜ぷのでした。 そうしたしばしのざわめきの中で、朝が静かに訪れて来たのです。
キラキラと光る本当に久しぶりの太陽の姿に、アイヌの人達は思わず、手を合わせ頭をさげるのでした。と、その時です!人々のすぐかたわらの草の中に白いものが動くのを見ました。 白蛇です。神のお告げは本当でした。真白い美しい体に真赤な目、そして目からチロチロと細くて紅い舌を出しながら、 白蛇はアイヌの人達を見ているのです。酋長さんが叫びました。「サァー皆さん神は私達の願いを聞いてくれたのです。 代表を選んでこの白蛇様と出かけようではないか」 若くて元気な若者が10人程選ばれました。
若者達は部落の人達から、鹿の肉だとか僅かな塩をもらってでかけることになりました。 若者達は、これから出かけるところが、どんなところか知りません。どんな困難があるかわかりません。 でも、心ははずんでおりました。「私達は部落のみんなのためにやるんだ!どんなに苦しいことがあっても負けるものか、 神は必ず助けてくれる」そう心に誓って、みんなのすがるような願いの声を背に出かけたのでした。
ツッ、ツッと白蛇は身をくねらせながら前に進みます。白蛇は、ヌプカウシの山の方に向っているのです。 「山の方に行って何があるのだろう。食糧は平らなところにあるのじやないか、山はぶどうも、こくわもないし、 熊も鹿もいない筈なのに」一人がつぶやきました。「何を云うか、私達は神に案内されているのだ。神を信じようではないか。 今の私達には、信ずることしかないのだ。さあー頑張って」リーダーがたしなめます。みんなは、肩で息をし、汗びっしょりになりながら、 背丈を越える草を掻きわけ、懸命になって白蛇の後を追うのでした。道らしい道がありません。今まで来たことが一度もありません。 ヌプカウシの山を白蛇は時々後をふり返りながら、先にたっていきます。 部落を出てから、もう1時問にもなります。まだ山の中腹でした。 朝6時に出てきたのですから、昼近くになりますが誰も腹が空いたというものはいません。”ヨイショ、ヨイショ”お互に声をかけ合い手をひきあって山を登ります。 来た道をふり返って見ると、十勝平野が果てしなく広がり、造か彼方に日高の山脈がかすんで見えています。 本当に美しい眺めですが、みんなは、それを気にする余裕はありません。 それから3時間近くたったでしょうか。一行は、山の頂上にたどりついたのです。
”フウー”と、肩で息を切らしながら腰をおろした一行が、ふと前の方を見おろしますと、どうでしょう。 遙か彼方に、キラッキラッと光るものが見えるではありませんか。”オーッ、あんなところに水が見える、山の上に沼があるゾー”一同が一斉に声を挙げました。 そうなんですね。湖とか川は低いいところにあるものとしか考えられないのが、あたり前の話ですもの。 アイヌの人達が不思議がるのも当然のことだったのです。ですが、今の一行は、そのことを改めて考える気待はありませんでした。 ふと見ると白蛇が、その湖の方に向って進むではありませんか。”オイ、白蛇様が前に行くぞ”遅れては大変だ、がんばろう。 疲れた体のことは、もう忘れたように、目の前に見える不思議な沼の出現につかれたように一行は道を急ぐのでした。
「アッ!これは!!」 沼の岸辺にたどり者いた一行の目に水面に跳ねる、おぴただしい魚がとびこんできました。 今まで見たこともない姿です。赤い斑点があざやかで、三十糎以上もある美しい姿です。 そして、水際の浅瀬にザリガニが、うようよといるではありませんか。もう時間は夕方の6時近くでしょうか。沼の向う岸に小さな山が見えます。 その影が、タ陽に映えながら、まるでくちぴるのように見えます。 その横から、もくもくと湧き出るように、かすみでしょうか、水面に流れこんできています。一行は、ヘタヘタと岸辺に腰をおとし、物も言わずこの光景を見入るのでした。30分も無言で座りつづける一行が、ふと気がつくと今まで、いつも目の前にいた、白蛇の姿が見えません。
「神のお告げの場析はここだ。さあーこの魚をとろうではないか」 リーダーの声に一行は一斉に動き出しました。岸辺の白樺の小枝を折って釣り竿のかわりに、 用意、この針に鹿肉の乾かしたのを付けて水面に下しました。と、どうでしょう。針が水に着くか、つかぬ間に魚が飛ぴついてくるではありませんか。 もう夢中でした。一行はあたりが暗くなるまで、空腹も忘れて釣りました。くさっては困ると、一人が腹をさいて塩をつけます。その腹わたを水に捨てますと、 それに向って、また魚が群がるのです。そして水際のザリガニが真黒になって、その腹わたに集ってくるではありませんか。 一行は、もう目の前が見えなくなるまで魚とザリガニを採るのでした。
あたりが真暗になり、一行は焚火で暖をとり、釣り上げた魚を焼いて腹ごしらえをしました。 今までに一度も食べたことのない、おいしい味でした。遇度に脂がのり、あきあじのような味で2匹も食べると、 腹がみちてくるような感じです。「神のおかげだ。これでコタンの人達の飢えを救うことができる。 明日の朝は早く帰ろうではないか」人々は、本当に何ヶ月ぶりの笑顔でした。 腹ごしらえを済ませ、一行がウトウトとした時でした。清みきった夜空にきらめく星の光が、 急にその明るさを増し、辺りが、シーンと静かになりました。ハッ!となって一行が起きあがって、目をこらして空を見上げました。 と、どうでしょう。あの夢枕に立って、お告げになった女神が、大きな大きな白蛇をともなって、 宙に浮かぷように一行を見下ろしているではありませんか。「この魚はオショロコマと呼び、この湖にしか住まぬ魚である。これから後、凶作の時のみ食するがよい。 いたずらにこの魚をとることは、白然の恵みに反し、人の心を失うことになることを忘れてはならぬ」 玉をころがすような美しい声でした。それでいて、一行の心の中にしみとおりどうしてもこれを守らなければ、 と命じる重さも感じるお声でした。一行は、ひざまづき、両手をついてその言薬を聞くのでした。 やがて一行が静かな湖に面をあげた時、もう女神も白蛇の姿も見えませんでした。 一行は、黙って顔を見合せ、たがいの心に、今の女神のおさとしをたしかめ合うのでした。
翌日、一行は更にオショロコマを採り、ザリガニをとって、足も軽くコタンにもどったのです。 そしてその年の苦しい飢えを救われたのです。然別湖は、今も太古の姿そのままに静かに私達を迎えてくれます。 ですが、この尊い女神の教えに反し、和人がこの地を訪れ、 面白半分にオショロコマを釣り始めました。ザリガニもそうでした。そして昭和も40年も遇ぎた時、然別湖のオショロコマは急激に、 その姿を見せなくなったのです。また、ザリガニは、或る日突然のように一匹も見えなくなりました。「困った時の救いにのみ食べよ」という神の教えに背いた報いなのでしょうか。 人と自然は調和しつつ生きなければならない。白然を大切にしてこそ、人は生きつづけることができる。その大切なものを、私達は忘れてはいないでしょうか。私達の故郷に残された白蛇姫の伝説は、 私達に、人としての大切な道を、今もなお語りかけているのです。私達の大切なふるさととしての然別湖の自然を、いつまでも守り統けることを誓おうではありませんか。 

 

●賀茂建角身命・八咫烏伝承 
『古事記』是(ここ)に亦、高木大神の命以ちて覚(さと)し白(まを)しけらく、「天つ神の御子を此れより奥つ方に莫(な)入り幸(い)でまさしめそ。荒ぶる神甚多(いとさは)なり。
今、天(あま)より八咫烏(やたからす)を遺(つか)はさむ。故、其の八咫烏引道(みちひ)きてむ。其の立たむ後(あと)より幸行(い)でますべし。」とまをしたまひき。
『日本書紀』既(すで)にして皇師(みいくさ)、中州(うちつくに)に趣かむとす。
而るを山の中嶮絶(さが)しくして、復行(またい)くべき路無し。乃ち棲遑(しじま)ひて其の跋(ふ)み渉(ゆ)かむ所を知らず。時に夢みらく、天照大神(あまてらすおほみかみ)、天皇に訓(をし)へまつりて日(のたま)はく、「あれ今頭八咫烏を遺す。以て嚮導者(くにのみちびき)としたまへ」とのたまふ。果して頭八咫烏有りて、空より翔(と)び降(くだ)る。天皇の日はく、「此の烏の来ること、自づからに祥(よ)き夢に叶へり。大きなるかな、赫(さかり)なるかな。我が皇祖天照大神、以て基業(あまつひつぎ)を助け成さむと欲せるか」とのたまふ。
伴信友『瀬見小河』一之巻高木大神と申は、高御産巣日神の又の御名なり、八咫烏すなはち建角身命なり、(略)、書紀に天照大神、古事記に高木神(高御産日神の又の御名)とあるは、互に一方を語り伝へたるものにして、まことは天照大御神、高御産巣日神の御慮もて、神産巣日神の孫(みひこ)の建角身命を、豫て天降し置て、(高御産巣日神と神産巣日神とは、相偶(あひたぐひ)ませるがごとく、いとも奇(くす)しき御間(みなか)に坐ますにおもひ合せ奉るべし、かくて此二神の、建角身命の御祖に系りて、きこえ給へる氏々あり、因に下に拳ぐるをみて、それをもおもひ合せ奉るべし)供奉(つかへまつて)せ給へる由を、天皇の御夢に告覚(つけさと)し給へりしなり。
『尋常小学読本』巻五(二年生用)日本ノ一バンハジメノ
天皇ヲ神武天皇ト申シ上ゲマス。コノ天皇ガワルモノドモヲ御セイバツニナツタ時、オトホリスヂノミチガケハシクテ、オコマリノコトガゴザイマシタ。ソノ時ヤタガラストイフ烏ガ出テ来テ、オサキニ立ツテ、ヨイミチノ方ヘ御アンナイ申シ上ゲマシタ。又アル時ドコカラトモナク一羽ノ金色ノトビガトンデ来テ、オ弓ノサキニトマリマシタ。ソノ光ガキラキラトシテ、ワルモノドモハ目ヲアケテイルコトガデキマセン。ソノ光ニオソレテ、皆ニゲテ行キマシタ。
天皇ハ國ノ中ノワルドモヲノコラズオタヒラゲニナツテ、天皇ノオクライニオツキニナリマシタ。ソノ日ハ二月十一日ニアタリマスカラ、コノ日ヲキゲンセツト申シテ、毎年オイハヒヲイタスノデゴザイマス。 

 

●玉依媛命・丹塗の矢伝承 
『続日本紀』風土記逸文 山城國 賀茂社山城の國の風土記に曰はく、可茂の社。可茂と稱ふは、日向の曾の峯に天降りましし神、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)、神倭石余比古(かむやまといはれひこ)の御前に立ちまして、山代河の随(まにま)に下りまして、葛野河と賀茂河との合ふ所に至りまし、賀茂川を見迎(みはる)かして、言(の)りたまひしく、「狭小くあれども、石川の清川なり」とのりたまひき。仍りて、名づけて石川の瀬見の小川と曰ふ。彼の川より上りまして、久我の國の北の山基(やまもと)に定(しづ)まりましき。爾(そ)の時より、名づけて賀茂と曰ふ。
賀茂建角身命、丹波の國の神野の神伊可古夜日女にみ娶(あ)ひて生みませるみ子、名を玉依日子と曰ひ、次を玉依日賣と曰ふ。
玉依日賣、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃(すなは)ち取りて、床の邊に插し置き、遂に孕みて男子を生みき。人と成る時に至りて、外祖父(おほぢ)、建角身命、八尋屋を造り、八戸(やと)の扉を堅(た)て、八腹の酒を醸(か)みて、神集へ集へて、七日七夜楽遊したまひて、然して子と語らひて言(の)りたまひしく、「汝の父と思はむ人に此の酒を飲ましめよ」とのりたまへば、やがて酒杯(さかずき)を挙(ささ)げて、天(さき)に向きて祭らむと為(おも)ひ、屋の甍を分け穿(うが)ちて天に升(のぼ)りき。乃ち、外祖父のみ名に因りて、可茂別雷命(かもわけいかつちのみこと)と號(なづ)く。謂はゆる丹塗矢は、乙訓の郡の社に坐せる火雷神(ほのいかつちのかみ)なり。
可茂建角身命、丹波の伊可古夜日賣、玉依日賣、三柱の神は、蓼倉の里の三井の社に坐す。 伴信友『瀬見小河』二之巻 丹塗神矢の事丹塗矢云々、逐感孕生男子とある丹塗矢は、大仙咋神の玉依日賣に婚(アヒ)給はむ料(タメ)に、神霊を憑給へる物實なり、其は古事記に大仙咋神、亦名山末之大主神、此神者坐近淡海之日枝山、亦坐葛野之松尾用鳴鏑神者也、(用字は桁字としてよむべからず、
其説は下に云ふべし)と見えて、此鳴鏑神者とは、かの云々の時の鳴鏑の神矢なり、其を大仙咋神の霊形として松尾に祀れる由を、因にここに挙げたるなり、(但し玉依日賣に婚給へる事を語はで、ただ鳴鏑神者也とあるは、うちつけなるここちす、もしくは阿禮か遺れて誦み脱せる事のありしにてやあらむ、) 

 

●三重県亀山市 昔話・伝説  
景清松について
景清松は亀山市辺法寺町不動院境内にあり、今から約七百六十年前、平氏悪七兵衛景清の父平忠清が当地に住んでいる七郎兵衛景清兵尉に任じ不動院を再興した。その記念木として堂より五間の地に松樹を指木したのである。しかし、寛保年中落雷し、樹がだんゞ衰えて幹の中心が腐朽して空洞になったところへ天保の初め再び落雷があり、空虚な内側へ引火することを恐れて村人は協力して消火につとめたが、幹が高いので手の施しようもなく、ただ外部から節穴等へ土を塗って空気の入るのを止めて鎮火を待つのみであった。村人は昼夜の区別なく監視にあたり、七日七夜で全く消えたといわれている。しかし、天保七丙申年八月十三日に大暴風のために遂に吹き折られ鐘楼堂に倒れかかり、鐘楼堂ともに倒壊した。翌年正月に再び指木されたのが現存の松である。
長兵衛の手によって植えられたので村人は一名、長兵衛松ともいう。初代景清の松株が一部分保管してある。
  かげきよき この松が根に 行いて
   心うごかぬ みちもとむらん
  ちとせもと 誓うみのりのお 影清き
   しるしにのこる 松のひともと
その他俗謡、踊り歌中にも歌詞があり、現在景清の父忠清、兄忠光の三碑現存され、不動院において後世を弔い冥福を祈っている。
孝子万吉のこと
旧東海道の宿場にあって、関の小万とならび称せられる。鈴鹿坂下宿字古町に生れ、父は市右衛門、母は久米といった。家計が極度の貧窮で田畑など全然ないところから、市右衛門は毎日峻嶮な鈴鹿峠の上り下りの旅人の荷物を運び賃銀を得て辛うじて生計を立てていた。
ところが、万吉が四才の安永八年の春、父は急死したが、健気な妻久米は万吉の弟吉次郎という乳呑児を懐ろに抱き、現今の家政婦のようなことをやって二児の養育にかよわい腕で奮闘努力した。しかし、不幸は続いた。万吉六才のとき弟の吉次郎が病死するに至り、母久米は打続く苦練に遂に病床に倒れ、ただでさえ困窮な家計は益々苦しくなるばかり、万吉は子供心にも深くこれをなげき、夜は里に走って薬を買い、昼は街道に出て旅人の小荷物などを持ち、弱小の身に鞭うって峻嶮な鈴鹿峠を日に幾回となく上下し、僅かに三文、五文の賃銀を得て母の薬料を稼ぎ露命をつないだ。
天明三年万吉が八才のとき全国的大飢饉となり、米麦はもとより雑穀に至るまでその値が平時の十倍、普通の農民でさえ餓死する者が続出した。しかし、万吉は勇を鼓し、心を励ましつつ一生県(ママ)命に働き、半合、一勺の米を得て「母食せざれば自己一粒も食せず」と健気にも母を養った。わずか八才の幼児にしてこのたゆまぬ精神力、艱難辛苦は実に驚嘆のほかない。
しかし、「天は助くる者を助く」この年幕府の旗本で賢者の聞え高い石川忠房公が大阪城代の在勤満ちての帰国道中、盛夏八月十五日の蟹ヶ坂で万吉が縄の刺緒にさした銭四、五文を持ち通りかかったのを認め、「その銭は如何するか」と問うたことから、万吉一家の事情がわかり、石川公は大いに同情し、病女を自ら見舞い、その貞節高きと万吉の孝心を激賞し白銀を与えた。このことが各地に伝わるにおよび天下の同情は続々と寄せられ、はじめて万吉一家に光がさしたのである。
その後天明六年万吉十一才のときに為恭卿の世継冷泉右衛門督為章卿の朝臣が日光山例幣使として下向の帰路に当り、特に万吉を召出し親しくその孝養を賞で、青銅若干を与えた。
さらに、十二才の時には江戸表に召出され勘定奉行から白銀二十枚の褒章、母久米へ一生一人扶持を与えられたのである。
かくて文化十年正月母は他界したのであるが、文政四年万吉四十六才の冬、近江国信楽代官に召出され足軽役として召抱え苗字帯刀を許可された。
万吉は忠誠に終始し万延元年十二月二十八日に享年八十五才の高令で世を終ったのである。
浄源寺の地蔵盆
旧亀山町の三本松に浄源寺という寺がある。この寺では毎年八月(以前は七月だったらしい)に盛大な催しがある。すなわち、この寺にある地蔵の祭りである。
浄源寺は、江戸時代の初期、念仏の行者浄源の草庵を結んだ所で、旧亀山町西町にある善導寺の末寺である。
旧東町の東端に露心庵という建物があった。今は浄源寺に併合されて民家となっている。この建物はその昔教海という坊さんが藩主、石川公のお姫様のいのりとして建てたそうで、この坊さんはここに地蔵を建てようと企て日本中から銅の鏡をあつめはじめて、地蔵を造るだけ集まると地元の(今の三本松)人々を集めてこの銅鏡をとかして地蔵を造ることを手伝わしたそうで、今でも三本松の年老いた人には地蔵を造ることを「たたら踏む」というのだそうである。そして出来上がったのが今の浄源寺にある銅の地蔵で、地蔵のまわりには、当時鏡や、資金を寄付した人の名前がかいてある。
ところが、維新になり姫様(当時石川家)はこの露心庵を手放したので、誰もめんどうをみる者がなくなった。そこで町内の人々はこの地蔵なりともどこかへ安置したいと考え、思いついたのが近くの浄源寺である。
しかし、安置はしたものの、そのまま放っておくわけにもゆかず、そこで町内の人々が毎年七月にお祭をしてやろうと(近年は八月が多い)いうことになって現在に至っているという。これすなわち浄源寺の地蔵祭である。
関の小万
亀山市の歴史という事については、母はあまり詳しい事は知らない。けれども、石川六万石の城下であり、有名な三関所の一つの鈴鹿の関をひかえて、いろゝな昔話、たとえば「関の小万が亀山通い。月に雪駄が廿五足。」との俗謡で有名な孝女小万の仇討も、郷土史の一つに入るんでしょうと、聞かせて呉れた。
小万の父は九州久留米藩の家臣牧藤左衛門といい、代々藩の剣術指南であったが、武道の上から同僚小野元成の遺恨を買い、遂に謀殺された。そのとき妻は妊娠の身だったが、けなげにも亡夫の仇を討つべく藩主の許可を得て旅に出た。敵をさぐるうちに臨月となって身動きもならず、鈴鹿の関町地蔵前の山田屋にとまり、主人吉左衛門に事情をうちあけ、その援助をたのんだところ、吉左衛門は心から同情し、何くれとなく彼女の世話をした。程なく女児を生んだが、産褥熱から吉左衛門一家の手厚い看護も効なく、明和五年秋遂に他界してしまったのだが、彼女の遺言はいうまでもなく愛児の養育と仇討の事であった。吉左衛門夫婦は子供がないのを幸い、小万と名ずけて養女とした。やがて小万が十五となった時、亀山藩士加毛寛斎の道場に通わせて、武術の修業をさせたが、彼女は非常な美人であり、道場通いのあとは鈴鹿越えの旅人に天性のこぼれるような愛敬をもって女中とともに客引きにつとめ、また、家事の手伝いや父母への孝養を怠らなかった。
やがて小万は十八の春を迎え、その武術も大いに上達した。それでも彼女は亀山の道場通いを怠らず、実母の遺言の仇をさぐる心情切々たるものがあった。ところが天祐というか、神助というか、かねてもとめる敵小野が加毛の道場の食客となった。小万はこれを知って養父母にも相談し、師匠寛斎の助勢をも得て仇討を決行することになり、小万は男装して宿場の馬子に化け、両刀をござに包んで亀山城大手前の札の辻で、小野の帰路を待ち伏せ彼の不意を討って遂に、仇討を遂げたのであった。これは天明三年八月の暑い盛りであった。其後も、小万は山田屋の家業を手伝い、養父母へ孝養を尽したが、享和三年正月十六日丗八の若さで病歿した。関町福蔵寺に彼女の墓がある。
亀山市東丸町 牛尾家にまつわる伝説
昔、亀山城の御殿様が家来をつれて野登山へ狩りに行った。その狩の後城へ帰ろうとしていると、突然大きな雷鳴と共に雨が降り、風が吹き大嵐となった。そしてあたりは真暗になり何も見ることができなかった。そこで御殿様はこれは雷の仕業(いたずら)だといって家来に空にむかって鉄砲を打たせた。その後嵐は止み、非常によい天気となったので帰ろうと思って家来を集め点呼したところ一人足らなかった。その人は牛尾太郎兵衛という人であった。そこで家来達はあちらこちらさがし、やっと見付け出したが、牛尾太郎兵衛は野登山の頂上の岩の上に真二つに裂かれて死んでいた。で家来達はこれは天狗の仕業だと考えた。そして牛尾家ではそれ以来野登や神社に参拝しなくなったということである。
その後世間では野登山には天狗が住むといわれるようになり、月のきれいな夜にはどこからともなく天狗の遊ぶ音である笛の音や天狗のいかる音である木を切り倒すような音が聞こえて来たといわれ、これも天狗の仕業だといい伝えられた。
石井兄弟亀山の仇討
亀山藩の時代に、今も残っている石坂で仇討が起こったのです。そのときのたたかいの人物というのが、亀山藩槍術指南番であったところの、赤堀水之助と石井兄弟であったのです。石坂というのは、城から降りてくる所の、急な坂です。そこでの仇討の結果は、石井兄弟によって赤堀は討たれました。
亀山仇討 四十七の さきがけぢやぞな かをるほまれが 石坂なわて なわて桜が ヒラヒラと ナントナント ナントナント ナントナント ナントヨイ ナントヨイ(亀山小唄)
簪かんざし井戸の由来
川崎町柴崎の裏山に、古びた井戸がある。今は木の葉や土に埋もれて、その深さは分からないが、底に金の簪が落ちていて、毎年一月二十五日の晩には、井戸中から琴の音が聞こえてくるという。  今よりおよそ三百八十年前、戦国時代の終り頃、織田信長は、諸国の大名を征服し、城と寺を尽く焼き払おうとした。このとき、伊勢の国の鈴鹿の郡の峰城主は、一向一揆に応援したので、信長は明智、蒲生の武将に大勢の軍勢を付けてさしむけた。かくて攻撃軍は天正元年五月に峰城を囲んだ。
しかし、南、東、北の三方を川に囲まれ、その内側には深い堀があり、更に峻険な自然の城壁の上に立つ峰城は容易には陥らない。攻撃軍もやむなく安楽、八島の川を前にして、兵糧攻めの持久戦ときめこんだが、城兵は時々城門より不意に打ち出で、攻撃軍を悩まし、兵糧を取って引き上げるので織田勢の損害は段々大きくなってきた。しかし織田勢には当時何よりも恐ろしい鉄砲隊がある。それに応援軍も到着したので、明けて天正二年一月二十五日に遂に天守閣は炎上し、一度にどっと攻め込んだので城主は抜穴より桑名に逃れ、奥方は井戸に入って死なれた。このときの城の宝といわれた大きな金の簪をさして飛び込まれたので簪井戸と名づけられ、一月二十五日の晩には悲しい琴の音が聞こえて来るという。そしてこの時の攻撃軍の主将、蒲生氏の恐しい奮闘振りは今でも伝えられて、川崎では「がもじが来る」といえば泣く子もだまる位である。
城兵に近藤という姓の人がいたので、柴崎では皆同じ姓の近藤であり、逃れた兵士が桑名に住み込んだのでたくさんこの姓がある。
椀塚
徳川時代より以前、阿野田に豪農がいて、土地や馬を多く持っていた。その人が「漆器」を造り始めた。その漆器を造るために道を作る必要があったために、道を多く造り、便利になったので、村人から大変尊敬された。その人が死んだ後、人々はその人を埋めた。その塚を「椀塚」という。村人は「寄り合い」があって、お膳やお椀が欲しい時、椀塚へ行って、その数をいってお願いしてあくる日に行ってみると、そのとうりに用意してある。それを返すといつのまにか消えてしまう。というお話です。
親子地蔵
自動車、バスはよく通るが、人通りの少ない淋しい場所に一人の女の子をしっかりと抱いた「親子地蔵」が立っている。この地蔵には次のような話が秘められている。  今から三十七年ぐらい前に旧井田川の下新道というところに巫女をしている家があった。一人娘がいた。親はその娘に後を継がせるために、田村(旧亀山町)から養子を迎えた。その養子は大変怠け者で親と意見が合わなかったので、一人の女の子を残して娘と別れてしまった。両親は少しの間に死んだので、娘は女の子をつれて吉川十兵衛という糸取の家で働き、女の子を養っていた。それから年月がたって、以前別れた田村の男がある日ひょっこり現われて、娘(田村の男の嫁であった人)に合おうとした。糸取り屋の主人は合わせなかったのでその日は帰っていったが、それから二、三日してまた現われた。そのとき娘は丁度和田の自分の親類の家に用事に行っていたため留守であったが、夜中になってもう一度来たときには、娘は女の子を抱いて寝かせていた。男は何んと思ったのか急に窓から家に入って、娘と子供を短刀で一気に殺すというむごい殺し方をして、そのまま立ち去っていった。その後始末は下新道の人々が集まって行い、地蔵を立てて皆んなが親代りに供養を行った。今でもこの供養はつづけられているが、それからは人々は怠け者の男達にこの話を聞かせると改心したといわれている。今度この「親子地蔵」はせきじょう寺に移し変えられるそうである。
龍神湯
龍神湯の謂れは、場所、亀山市南野町、高橋享光宅である。
これは上図にも書かれているように、承平元年のことであると、伝えられているのは全国でも有名である。上図を中心にして、私は書くのであるから、その残されていた高橋様方の書類(系図)の中で必要な部分を写させてもらった。その書類を読めば、大略のことはさっしられると思います。
上図をだいたい説明すれば「先祖は天皇の血筋を引いていられるそうである。残されているのは、人皇五十八代、光孝天皇の代からである。その子(?)光内太子(第五皇子)は、二十七才の時、罪があり駿河に流されたのである。次に光明親王(号は浅間皇子) 承平元年(今から一〇二五年前)卯年正月三日、冨士浅間の神が空より自ら降りて来て、母に子供が生まれると感じて、同じ年の十月十三日、親王が誕生したのである。 又、同月十九日、母は蛇に変じて産室にいた。その時、夫に注意して、産室の戸を開けなかった。がしかし、ひそかに母の産室を見る。夫がいうには、過ぎし日の七日間(一週間)戸を開か(ママ)なかったが、とうとう見てしまった。生れた子(親王)は、体が普通とは変り鉄のように硬かった。云云 故に、子孫は在軍中も、冑を着なくてもよいほど硬かった。
家に伝わっている薬は、これ龍神湯であります。」
と書き示してあった。これは私が訳したのであるから多少誤っているところがあるかもしれない。次に、いろいろうかがってみると、この人が親王をおうみになさる時に、非常に難産であったらしい。
「いつから龍神湯≠ニ呼ばれたのですか?」
「その文の通り承平元年(西暦九三一)だそうです。」
「近所の人々に聞くと安産のために玉≠ニいうものがあるそうですが、その玉というのは、どのような由来があるのでしょうか?」
「現在でも玉はあります。(?)土で作ったもので、立派というほどのものではございませんが。がしかし、その玉というのは、後継者とか、長男だけとかいわれますが、私(高橋様のおばさん)も一度見たことがあります。由来といわれると、ほかに四十八種の薬草と、この玉をけづったもので、その草とまぜて、安産するようにといわれて、薬ができたのだそうです。そして不思議なことにこの玉は、けづってもけづってもへらないのだそうです。
「一番遠い所からでは、どこから買いにこられましたか?」
「全国といってよいほどで、北海道まで広がりました。そして、北海道の方まで買いにこられました。」
「その玉は、一般に見せられますか?」
「いいえ、見せられません。」
「現在ではどうですか?」
「今は売上げの申告でか、わかりませんが、現在はたえています。」
「・・・・・」
「今から四年前の辰の年に、朝日新聞社から龍神湯について話して下さい。といわれても、うちのおじいさん(享光)は絶対に話されなかったのです。という訳ではっきりしたことは、私も聞いておりません。」
又、高橋家の分家にあたる、未亡人、高橋しも(七七才)さんに聞くと。
「何でもずっと昔のことで、男やもめであった。高橋家の人が、池に魚つりに行った。すると、きれいなお姫様が、出てきてそばに座って話しかけた。又、翌日も他の池につりに行ったが、また同じお姫様が、同じようにそばに座って話した。こんなことが一ヵ月も続いて、最後には、とうとう高橋家までついてきて、妻となってしまった。一年程たって、ある日、私は今日はお産をするから、今日から一週間の間は、この部屋へ入ってくれるな。」といって、産室に入った。家人も不思議に思って、おそる?一週間目に部屋を盗み見ると、何んと驚いたり、白蛇となって、生れた子の頭をぺろぺろとなめていたそうである。そのとき白蛇は気付いて、その後、「もう私はこの高橋家にいることはできぬようになった。天の神様となってここを去ります。そのかわり四十八種の薬草の名を書いて、それに玉を一個そえ、どうか、この子(親王)が、またこの家が、一代不自由のないように、家伝として、産前産後の病人に与えてやって下さい。その利益で永久にこの家は、小遣銭に不自由させません。」といって姿を消した。その後、親王の成長した体は、一倍硬く全く鉄のようであったので、戦に出ても、弓矢のあたる心配はない剛健な体であったそうである。その後のうつり変りは、はっきりわからないそうである。」と語られた。
天狗
鈴鹿郡関町加太は、山があるせいか、天狗についての話があります。
この話は中在家というところで聞いたことです。今から約百年程前のこと、中在家の天田川の支流のおとがの谷の山奥の大嶽というところに古い五社の宮(今はありません)がありました。毎年秋になると中在家の人々が野上りのおもちをこの宮へ上げに来たそうです。この山に二人のこびきが入っていました。夜になるとピューピューといいながら五社の宮から天狗が二百間ほど離れたかさね石の上まで飛んだということです。それからずっと後に山の地焼きに行った人がいってたことですが、かさね石の方角から缶をける音が聞こえるので行ってみるとその音は聞こえなくなったそうです。今もまだ、この「かさね石」は残っているということです。
陰涼寺山の狐
亀山陰涼寺山にはキツネが多く住んでいて、キツネおろしを行って、そのキツネおろしをした人に「あなたはどこからきたか」と聞くと、その人は「私は陰涼寺山のきん吉」という人が多かった。という話 亀山神社 山田木水先生にきく。
加太の相撲のおこり
加太字神武の庄兵衛(今の中森幸一)さんところに下男でドツキさんという人がいて、この人は非常に力持であった。ある所の家の普請の時十人ぐらいでもつ字棟を一人で持って一人で十人分の飯をたべたということである。  ある時加太の川俣神社へ大関鎌ヶ岳一行が来たときドツキさんが飛入りする時、フンドシがなかったので竹を切って来て、鎌ヶ岳の前で竹を手でわって、それをフンドシの代りにして土俵へ上ったが、鎌ヶ岳の方がびっくりして相撲を取らなかったそうである。それから有名になり大相撲しか使えない五色の天幕、八丁ぬきが使われるようになったそうである。五色の天幕は赤、黄、青、白と空の色をまぜてである。これは全国で加太と相撲協会と一つは不目、三つしかないのである。それから加太の相撲は三人がかりといわれるのは昔の伊勢の国、伊賀の国、近江の国から集まって来たからだといわれている。五色の天幕は今も神社におさめてある。相撲だけでなく、神社も相当のくらいがさずけられていたのだと思われます。
坂の下・鈴鹿峠の伝説
“行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず” ・・・この文と同じに歴史は止まることなく常に流れている。
死んだ人は再び生き返らぬ。このように永久に生き返らず地に眠っている我々の先祖が、語り伝えられた伝説とは何であろうか。
今年七十六才になるおじいさんに聞いて見た。
「今は畑になっている所がその当時有名な宿屋があった。「大竹屋」といい百万石の殿様が泊るほど大きかった。或るとき、昭憲皇太后が京都から下ってこられ、こう敷の居間にお休みになったとき坪の内にある不断桜を見て、
“おおみ地の 雪の寒さも忘れけり 不断桜の花の坂下”と歌をお作りになった。
又、あるとき馬方うまかたが大竹屋まで入って来て、翌朝その馬方は紺のつつっぽに豆しぼりのてぬぐいを鉢巻して馬のたずなをかたにかけ、おいわけを歌って鈴鹿峠を越えた。
 坂は照る照る 鈴鹿は雲る
 あいの土山雨が降る
 馬が物いうた鈴鹿の坂で
 おさんじょろなら
 乗せるというた。
と歌ったということだ。
鈴鹿峠の頂上に馬の水飲場の上に大きな松の木がはえていた。私の小さい時にその松は切り倒されたが、大きな松でした。
「あの、その松に何かいわれがありますか。」
「えヽ、その松の木に並んで西に鏡岩があって、そのかたわらに山賊の住家があった。」
「それは横が二尺に、たて三尺のべたっと平たい石で、黒色をおびていて松の木の下を旅人が通ると鏡岩にうつるので、それをおそって物をとったといわれている。
「鏡岩は今でも鈴鹿峠の上にありますね。今見ると、あんな石を山賊はたん念にみがいたのですか。」
「いや。岩は天然にみがかれたそうだ。それでその山賊をたいじしたのが田村将軍(田村丸)で、弓でうちとり、例の松の木に弓をかけたので、弓かけ松といわれた。弓かけ松より二丁程昇ったところに田村将軍の神社があって、そこで一生をお暮らしになったということだ。」
「田村将軍はどこから来たか御存知ありませんか。」
「さあ、それは誰も知らないらしい。」
この辺でおわかれをした。おじいさんは自分の代で五代目だそうだ。
蛇の伝説
亀山市和賀町にある藤山の奥の谷になった所に池があり、この池についての伝説である。僕も藤山へは百合の花を取りに行ったことがあるが、なか?淋しい所で、池まで行くには山の中を通って行かねばならない。現在営林署の所有している山で松の木がたくさん植っている。
昔、ある人がこの池に魚を釣りに行った。その日は少々曇っていたが思い切って出かけた。山の中に這入ると昼であっても暗い所であるのに、その日は少し曇っているので非常に暗かった。大きく高い木がたくさん繁っている中を通って奥に向って進んで行って池に出た。誰一人といない淋しい所である。その人が池で魚を釣っていると今まで無風状態で波も少しもなかったが、急に少し風が出て波が出て来たと思うと、池の中からその人が今まで見たことのない真赤な蛇が現われ、その人の方に向ってから???と鳴いて来たので、その人は飛ぶようにして帰って来たという伝説である。
このような蛇についての話はたくさんある。僕も母から蛇は神様の使いである。と聞かされた。蛇についてたくさんの話があるから不思議な動物であると思った。
亀山市野村町の富士山ふじやまの伝説
私の村に伝わるお話。(現在の亀山市野村町)
頃は江戸時代、参勤交代で亀山城主石川氏が家臣とともに、江戸へ上り、江戸滞在中、富士の裾野へ狩りに行った。このとき、この山にすむ大蛇が家臣の一人高橋氏におもいをよせ、大蛇は姫に化け、名を伊都岐島姫となのり、高橋家につかえ、高橋氏の妻となった。そのうち伊都岐島姫は、子供を宿し、分娩する日がきた。そのとき伊都岐島姫は、家の者に七日七夜産室をのぞいてはならぬといいました。だが、あまり不思議だったので七日の朝にとうとう高橋氏がのぞいてしまった。
そのとき、伊都岐島姫は大蛇となって、子供の顔をなめていた。それからは、高橋家にいられなくなり、伊都岐島姫は、もとすんでいた山へ帰ることを決心して、高橋家に手土産に光玉を置いていった。
又、産後の薬として龍神湯をおいていったので、高橋家はそれを売って栄えたといわれ、又、姫はもとの山に帰る途中子供のことを思って近くの山にすむことになった。この山こそ、私の村の西方にある山である。
姫は山の裾にある池にすみ、山に登って頂上で鏡をみながら髪を結っているところを見たという人もあるといわれ、その人は驚きのあまり死んでしまった。この山が後に富士山と名ずけられた。海抜百十三米で亀山町の最高の地点である。又、頂上にはなにもはえていない岩の山である。又、姫の生んだ子供は男子で、戦争に行って頭に矢があたっても頭がわれたり、傷がついたりしなかったといわれ、これは生まれたとき、姫がなめたからだということである。
亀山市川合町の民俗
○お姫井戸の由来
何代前かは分かりませんが、その昔亀山の殿様に攻められて負けたとき、お姫さまとそのそば女という人が“渡辺のツナ”とかいうお城の井戸に入られたのです。何でも戦いに負けたときは、正月であったとかで元旦の朝には毎年お姫さまの泣いておられる声が井戸よりきこえてくると昔から伝えられております。(今、この井戸には“サイセンボ”という木で周囲がおおわれ、井戸は埋まっています。)又、その城のそば(今の里の畑)には民家があって、(畑からは民家の瓦と思われるものが出た)栄えたそうです。現在の川合町はそこより低地の東方へ移動してきています。東海道ができたためらしい。しかし低地に移ったために洪水を恐れて大堤防が築かれたそうです。が、今は何もありません。
○その他
戦国時代の影響として現在薬師堂といわれている土地に大きな森があり、その中にお地蔵様を祀ったそうです。天正の乱のとき、織田信長が天下の実権を握り、神社、寺院を焼き打にして京都へ攻めのぼった。そこで川合の薬師堂もやかれて、薬師堂を略して焼地蔵様と申すようになったそうです。焼かれたとき残った石の鳥居、手洗いばちは現在真宗高田派の檀那寺、西信寺にあります。

 

●振袖火事 
麻布の質屋の娘が、本妙寺に墓参りに行った帰りに寺の小姓に一目ぼれ。恋い焦がれるも娘は病にかかり死んでしまう。娘の両親は生前娘が大切に着ていた振袖を棺に掛けてあげた。供養の物は寺の寺男がもらうことになっていたので、とある寺男が振袖を貰う。その男は罰当たりにもその振袖を転売。振袖を買った娘が最初の娘と同じように病死。不思議なことにまたしても供養の物としてその振袖は本妙寺へ。寺男、またも転売。また違う娘が買い、病死。供養で三度本妙寺へ。
流石にこれはヤバイぞ、と寺でその振袖を焼き清めることに。焼こうとしたところ、突如強風が吹き、火の付いた振袖は人の姿のように風を孕んで江戸中に燃え移る炎の原因となった。というお話。 

振袖火事(八百屋お七)  

 

●縁切榎  東京都板橋区本町 
中山道最初の宿場町として栄えた板橋にあって、名所と呼ばれたのが縁切榎である。その名の通り「縁切り」にご利益があるとされており、特に悪縁を切って良縁を授かるとして庶民の信仰を集めている。願を掛ける者は、この木の樹皮を削り、煎じて飲ませると良いとされている。
この榎の木が「縁切榎」と呼ばれるようになったかについては、定説がある。江戸時代、このあたりに旗本の屋敷があったが、この垣根の際に榎と槻の木が並んで生えていた。この2本の木が目立っていたため、誰が言うともなく「えのきつき」と呼び出し、それがいつしか詰まって「えんつき」、即ち「縁尽き」の語呂合わせが広まり、その後榎だけが残ったということらしい。初代の榎は明治期に焼けてしまい(一部は現地に保存されている)、現在は2代目を経て3代目の榎となっている。
この木にまつわる最も有名な逸話は、和宮降嫁の際に「縁切り」の噂を聞き及んで、この木が見えないように迂回路を造らせて行列を通したという話。この噂にはさらに尾ひれがついて、和宮の行列が通る時には榎を菰筵で覆い隠したもされる。実際、縁切榎については「嫁入りの行列が通ると縁付かない」という言い伝えがあるが、10代将軍徳川家治に嫁いだ五十宮倫子の場合も迂回路を通ったという記録があり、和宮の時だけ特別ということではなかったのが真相らしい。 
●狂歌百物語・縁切榎 
縁切りに 削り呑ません 古榎 我が身の皮も 剝ぎし男を(語吉窓喜樽)
結納の 鰹節かつぶしも仇あだ 背合せの 額をさゝぐる 縁切り榎(豊の屋)
縁切りの 榎を削り 給はれと 三くだり半に 書く頼み状(松梅亭槙住)
縁を切る 為に煎じた 榎の葉 濃き茶に水を 差すたぐひなり(蟻賀亭皺汗)
板橋の くゞつに秋の 風立ちて 縁きりぎりす 榎にぞ鳴く(秋田舎稲丸)
琴を断つ 斧の刃さへも 当てぬ木に 縁の糸筋 切る榎かも(注連しめのや春門)
秋風の 立ちて夜寒の 絵馬さへも 背中合せの 縁切り榎(江戸崎 広丸)
悪縁の 縁切り榎 生木なまきをも 裂くは御神の 刀なりけり(和風亭国吉)
出雲へと 立ちぬる神は 板橋の 縁切榎 わき目してゆく(織人)
削られて さぞ板橋に 幾世経る 縁切榎 名を嘆くらん(有恒)
別れより 惜しむ別れも 立ち枯れて 縁切榎 しげる夜ぞなき(艶芳)
いたはしや 連理の中の 片枝を もがんと祈る 縁切り榎(江戸崎 有文)
中のよき 夫婦めをとは忌みて 縁切りの 夏の木偏は 通らざりけり(甘喜)
縁切りて 背兄せなを遣りつる 別れかな 榎の額に 影は見えねど(信濃飯田 尚友子清因)
縁切りと 聞けば榎の 文字は夏 木偏を去りて 廻る聟嫁(芝口や)
池の名は よしや負ふとも 妹いもと背せの 縁切榎 掘り捨てよかし(槙のや)
夫婦めをとなか 桜の後の 若葉なる 夏木榎に 願ふ縁切り(桃江園)
離れにて 深き仲をも 洞うろにせん 縁切榎 削り飲ませて(駿府 望月楼)
天狗住む 樹より梢は 低けれど 女夫めをと引き裂く 縁切り榎(星のや)
縁切りの 榎にかゝる 切凧きれだこは 中にしやくりし 人もあるらん(曲尺亭直成)
八雲たつ 出雲に結ぶ 縁えにしにも 八重垣をする 榎ありけり(草加 稲丸)
飯盛めしもりと 結びし縁も 切れ兼ねて 榎に願を かくる板橋(大内亭参台)
縁を断つ 榎と婆々が 隠し持つ 中に切れたる 女夫巾着めをときんちやく(足兼)
僧正が 門の榎と 裏表うらうへに 立ちし浮名の 縁は切れけり(幸亭)
身を売りて 夫の縁を 切る榎 そのほとりなる 板橋の駅(菱持)
縁切りの 榎祈れと 中々に 梢は枝の いや交はすらん(駿府 東遊亭芝人)
悪縁の 切れて心の 涼しさよ 未練は夏の 木の利益りやくにて(仝 小柏園)
雲の縁 切れて嬉しと 旅人の 榎のもとに 休む夕だち(羽衣)
女夫仲めをとなか 縁切るために 削らるゝ 榎も皮の 膚はだに別れつ(日年庵)
寐返りて 縁切榎 祈る身を 結ぶの神は さぞや憎まん(装師坐浜松)
指を切り 髪を切りたる 飯盛に 縁切榎 飲ます板橋(春門)
小指にも 誓ひを立てし 縁も今 切るを榎に 願ふはかなさ(楳星) 

 

●生霊 
[いきりょう、しょうりょう、せいれい、いきすだま] 生きている人間の霊魂が体外に出て自由に動き回るといわれているもの。対語として死霊がある。人間の霊(魂)は自由に体から抜け出すという事象は古来より人々の間で信じられており、多くの生霊の話が文学作品や伝承資料に残されている。広辞苑によれば、生霊は生きている人の怨霊で祟りをするものとされているが、実際には怨み以外の理由で他者に憑く話もあり(後述)、死の間際の人間の霊が生霊となって動き回ったり、親しい者に逢いに行ったりするといった事例も見られる。
古典文学​
古典文学では、『源氏物語』(平安時代中期成立)において、源氏の愛人である六条御息所が生霊〔いきすだま〕となって源氏の子を身籠った葵の上を呪い殺す話が「あまりにも有名である」が、能楽の『葵上』もその題材の翻案である。
また、『今昔物語集』(平安末期成立)の「近江国の生霊が京に来りて人を殺す話」では、ある身分の低い(下臈の)者が、四つ辻で女に会い、某民部大夫の邸までの道案内を頼まれるが、じつは、その女がその大夫に捨てられた妻の生霊だったと後になって判明する。邸につくと、門が閉ざされているのに女は消えてしまい、しばらくすると中で泣き騒ぐ音が聞こえた。翌朝尋ねると、家の主人が自分を病にさせていた近江の妻の生霊がとうとう現れた、とわめきたて、まもなく死んだという。下臈が、近江までその婦人を尋ねると、御簾越しに謁見をゆるし、確かにそういうことがあったと認め、礼の品などでもてなしたという。
憎らしい相手や殺したい相手に生霊が憑く話と比べると数が少ないが、恋する相手に取りつく話もある。江戸中期の随筆集『翁草』56巻「松任屋幽霊」によれば、享保14か15年(1729年-30年)、京都に松任屋徳兵衛の14、5歳の息子、松之助に近所の二人の少女が恋をし、その霊が取りついた。松之助は、呵責にさいなむ様子で、宙に浮くなど体は激しく動き、霊の姿は見えないが、それらと会話する様子もくりかえされた(ただし霊の言葉は男の口から発せられていた)。家ではついに高名な象海慧湛(1682-1733)にすがり折伏を試みて、松之助の病も回復したが、巷に噂が広まり好奇の見物人がたかるようになってしまった。
また、寛文時代の奇談集『曽呂利物語』にある一篇では、女の生霊が抜け首となってさまよい歩く。ある夜、上方への道中の男が、越前国北の庄(現福井市)の沢谷というところで、石塔の元から鶏が道に舞い降りたのを見る、と思いきや、それは女の生首であった。男が斬りつけて、その首を府中「かみひぢ」(武生市上市か?)の家まで追いつめると、中で女房が悪夢から目覚めて夫を起こし、「外で男に斬りつけられて逃げまどう夢を見た」と語る。このことから、かつては夢とは生霊が遊び歩いている間に見ている光景という一解釈が存在したことが窺える。
民間信仰​
死に瀕した人間の魂が生霊となる伝承が、日本全国に見られる。青森県西津軽郡では、死の直前の魂が出歩いたり物音を立てるのを「アマビト(あま人)」といい、逢いたい人のもとを訪ねるという。柳田國男によれば、「あま人」と同様、秋田県仙北郡の伝承ではこのように自分の魂を遊離させてその光景を夢見できる能力を「飛びだまし」と称していた。同じく秋田県の鹿角地方では、知人を訪ねる死際の生霊が「オモカゲ(面影)」と呼ばれていたが、生前の人間の姿をして足が生えており、足音を立てたりもする。
また柳田の著書『遠野物語拾遺』によれば、岩手県遠野地方では、「生者や死者の思いが凝って出歩く姿が、幻になって人の目に見える」ことを「オマク」と称し、その一例として傷寒(急性熱性疾患)で重体なはずの娘の姿が死の前日に、土淵村光岸寺の工事現場に現れた話を挙げている。『遠野物語』に関して柳田の主要情報源だった佐々木喜善は、このときまだ幼少で、柳田は目撃現場にいた別の人物からこの例話を収録したとしており、佐々木当人は「オマク」という言葉は知らず、ただ「オモイオマク」(おそらく「思い思はく」)と言う表現には覚えがあることを鈴木棠三が尋ね出している。
能登半島では「シニンボウ(死人坊)」といって、数日後に死を控えた者の魂が檀那寺へお礼参りに行くという。こうした怪異はほかの地域にも見られ、特に戦時中、はるか日本国外の戦地にいるはずの人が、肉親や知人のもとへ挨拶に訪れ、当人は戦地で戦死していたという伝承が多くみられる。
また昭和15年(1940年)の三重県梅戸井村(現・いなべ市)の民俗資料には前述の『曾呂利物語』と同様の話があり、深夜に男たちが火の玉を見つけて追いかけたところ、その火の玉は酒蔵に入り、中で眠っていた女中が目覚めて「大勢の男たちに追いかけられて逃げて来た」と語ったことから、あの火の玉は女の魂とわかったという。
病とされた生霊​
江戸時代には生霊が現れることは病気の一種として「離魂病」(りこんびょう)、「影の病」(かげのやまい)、「カゲワズライ」の名で恐れられた。自分自身と寸分違わない生霊を目撃したという、超常現象のドッペルゲンガーを髣髴させる話や、生霊に自分の意識が乗り移り、自分自身を外側から見たと言う体験談もある。また平安時代には生霊が歩く回ることを「あくがる」と呼んでおり、これが「あこがれる」という言葉の由来とされているが、あたかも体から霊だけが抜け出して意中の人のもとへ行ったかのように、想いを寄せるあまり心ここにあらずといった状態を「あこがれる」というためと見られている。
生霊と類似する行為・現象​
「丑の刻参り」は、丑の刻にご神木に釘を打ちつけ、自身が生きながら鬼となり、怨めしい相手にその鬼の力で、祟りや禍をもたらすというものである。一般にいわれる生霊は、人間の霊が無意識のうちに体外に出て動き回るのに対し、生霊の多くは、無意識のうちに霊が動き回るものだが、こうした呪詛の行為は生霊を儀式として意識的に相手を苦しめるものと解釈することもできる。同様に沖縄県では、自分の生霊を意図的に他者や動物に憑依させて危害を加える呪詛を「イチジャマ」という。
また、似ていることがらとしては、臨死体験をしたとされる人々の中の証言で、肉体と意識が離れたと思われる体験が語られることがある。あるいは「幽体離脱」(霊魂として意識が肉体から離脱し、客観的に対峙した形で、己の肉体を見るという現象)も挙げられよう。生霊は、依存や執着しやすい人・未練がある人が取り憑かれやすいと言われる。 
●狂歌百物語・生霊 
塵ほどの 恨みつもりて 足引あしびきの 病に人を 萎なやす生霊(千住 四耕園茂躬)
石に矢を 通す思ひの 生霊は 梓の弓に 引かれてぞ出る(望止庵貞丸)
占うらかたの おもてに出でて 生霊は 巽そんの卦のたつ 祈禱するらし(東遊亭芝人)
葛の葉の 恨み重なる 生霊は 秋風たちし 人に離れず(檮の門久根)
是までは よもや瞞だましは せまい気の 女の思ひ 懸くる生霊(大内亭参台)
聾みみしいの 人の恨みや かゝりけん 加持も祈禱も 効かぬ生霊(下総古河 記永居)
蠟燭の 炎の赤き 鬼となりて 鼎かなへの角を 見する生霊(花垣真咲)
生霊の 繁き恨みの 重りてや 葛湯ばかりを 好む煩わづらひ(千住 紫竹園茂群)
中々に 我が身なやます 生霊は 胸の檜に 釘や打ちけん(喜樽)
葛の葉の 露とは消えぬ 生御霊なまみたま 憑きし恨みは 人の秋風(菊寿園延麻呂)
ひと口は 悪い女をみなの 深なさけ 思はれすぎて 困る生霊(槙の屋)
二つてふ 穴怖ろしや 人呪ふ 罪の深さは 知らぬ生霊(草加 四角園)
酒好きの 生霊なれや 梓神子あづさみこ 水を向ければ 口も憑よるなり(駿府 芝人)
生霊の 憑きてや首も 垂れ柳 常なき風の 誘ふばかりに(宝船亭升丸)
何の化と 頼みてなせる 笹はたき 竹の不思議に 出づる生霊(菱持)
女をも 口車にて だましたる 罪はたちまち めぐる生霊(花前亭)
身は一つ 心は二つ 生霊の 憑いて身も世も あらぬ苦しさ(道艸)
生霊に 取り憑かれしや 自由にも 身動きさへも ならぬ煩ひ(駿府 望月楼)
秋風の 立ちて付きにし 生霊は 桐の一葉ひとはと ともに落ちけり(道艸)
生霊を 盈みたさんとして 占うら問へる なげ嶋田なる 妹いもがかんざし(喜代喜) 

 

●木霊 
[こだま、木魂、谺] 樹木に宿る精霊である。また、それが宿った樹木を木霊と呼ぶ。また山や谷で音が反射して遅れて聞こえる現象である山彦(やまびこ)は、この精霊のしわざであるともされ、木霊とも呼ばれる。
精霊は山中を敏捷に、自在に駆け回るとされる。木霊は外見はごく普通の樹木であるが、切り倒そうとすると祟られるとか、神通力に似た不思議な力を有するとされる。これらの木霊が宿る木というのはその土地の古老が代々語り継ぎ、守るものであり、また、木霊の宿る木には決まった種類があるともいわれる。古木を切ると木から血が出るという説もある。
木霊は山神信仰に通じるものとも見られており、古くは『古事記』にある木の神・ククノチノカミが木霊と解釈されており、平安時代の辞書『和名類聚抄』には木の神の和名として「古多万(コダマ)」の記述がある。『源氏物語』に「鬼か神か狐か木魂(こだま)か」「木魂の鬼や」などの記述があることから、当時にはすでに木霊を妖怪に近いものと見なす考えがあったと見られている。怪火、獣、人の姿になるともいい、人間に恋をした木霊が人の姿をとって会いに行ったという話もある。
伊豆諸島の青ヶ島では、山中のスギの大木の根元に祠を設けて「キダマサマ」「コダマサマ」と呼んで祀っており、樹霊信仰の名残と見られている。また八丈島の三根村では、木を刈る際には必ず、木の霊であるキダマサマに祭を捧げる風習があった。
沖縄島では木の精を「キーヌシー」といい、木を伐るときにはキーヌシーに祈願してから伐るという。また、夜中に倒木などないのに倒木のような音が響くことがあるが、これはキーヌシーの苦しむ声だといい、このようなときには数日後にその木が枯死するという。沖縄の妖怪として知られるキジムナーはこのキーヌシーの一種とも、キーヌシーを擬人化したものがキジムナーだともいう。
鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』では「木魅(こだま)」と題し、木々のそばに老いた男女が立つ姿で描かれており、百年を経た木には神霊がこもり、姿形を現すとされている。
これらの樹木崇拝は、北欧諸国をはじめとする他の国々にも多くみられる。  
●狂歌百物語・木魂 
分け登る 庚申山の 岨そば道に 立てる木魂は 猿すべりかも(松の門鶴子)
石となる 楠くすの木精こだまに うつ斧の 当てゝ怪しき 火も出でにけり(銭のや)
切り兼ぬる 檜の魂たまに 空をうつ 斧の焼刃も 鈍なまる乱れ火(弓のや)
狐とも 狸とも名の 判らぬは なんじやもんじやの 木魂なるらん(藤園高見)
楠に 木魂あるとは 聞きしかど 見んこと難き 石とこそなれ(雛の舎市丸)
作らざる 眉さへ長く 緑なす 髪や柳の 木霊こだまなるらん(五葉園松蔭)
切らるゝを 知りてか杣そまが 昼寐せし 夢に恨みを 黄楊つげの木魂は(桃本)
行き暮れて 宿を仮寐の 一人にも 物を磐手の 森の木魂は(文語楼青梅)
斧の音ねは 余所よその風とや 神木の 魂は 内にこそあれ(綾のや)
木の魂たまは 何ぞと人の 問ひし時 松とこたへる 嶺の夜あらし(宝鏡園元照)
作らざる 眉さへ長く 緑なす 神や柳の 木魂なるらん(五葉園松蔭)
岩枕 寄りふす妹は 夏の日に 生みし根太ねぶとの 木魂なるかも(槙のや)
朽ちかゝる 榎の虚うろの 光るのは 木の魂の 出づる穴かも(馬遊亭喜楽)
丈高き 杉の股から 産まれけん 心直すぐなる 木魂なりけり(参台)
いざなみの 滝に影さす 光り物 神代の杉の 木魂なるらん(茂住)
朧かげ 分け行く森の 下道に 木の魂や 九つのかね(蟻賀亭皺汗)
碁盤にも 伐らんと寄れば 杣人そまびとを 榧かやの木魂や 撥ね退のけてけり(楽月庵)
人間の 情や受けん 千年ちとせ経る 老木に目鼻 木くらげの耳(南雲舎雨守)
山の気の 凝りてや魂に なりぬらん 擦れあふ樹々に 燃ゆる炎は(惟孝)
行き逢うた 人にもきやつと 言はするは 猿滑さるすべりてふ 木魂なるかも(日年庵)
切られたる 恨みは胸を 通し矢の 的をつらぬく 魂は柳か(空満そらみつや)  

 

●飛竜 1 
空を飛ぶ竜。または、空を飛んでいる竜。「飛竜雲に乗る」などのように、英雄や傑物を譬えて言う場合もある。 
●飛龍 2 
[ひりゅう、ひりょう] 天空を雄飛する龍のこと。カッコいい名前のため、この名をつけられたものは多い。飛龍とは、空を飛ぶ龍のこと。ゆえに、西洋の翼あるドラゴンであるワイバーンの訳語としても用いられている。飛竜とも書く。龍頭鳥身で魚のヒレのような翼を持つ姿で描かれることが多く、水を治めることから寺院の火災避けとして彫刻された。応龍と同一視もされている。養命酒のマークとしても使われている。
東洋の古典『易経』に飛龍という言葉がよく登場する。空を駆けずりまわっているものの意味で、龍がいるのだとか龍の特別な能力のことをいっているのではなく、一種の状態である。例えば、「飛龍天に在り。上にして治むるなり」(『聖獣の竜がその本性のままに六頭打ち揃って自在に天空を飛びめぐって活躍している』というのは、聖人が上位にあって人民を治めることである)など。 
●狂歌百物語・飛龍 
湖に 住みたる鯉や 一夜さに 富士を飛び越す 龍となりけん(花前亭)
浮いた事 とらへて語る 咄にも 尾鰭の増える 鯉の化物(香以山人)
時を得て 今は池にも 忍ばずの 鯉や空飛ぶ 龍と化しけん(栄寿堂)
不忍しのばずゆ 龍立ち昇る 上野山 鯉のうろこの 三十六坊(於三坊菱持)
水や空と 見し湖の 鯉や化す 雲の浪をも くゞる飛龍は(京 楳の門花兄)
終つひに雨 よぶ力をや 得しならん 飛龍の登る 霧降きりふりの瀧(跡頼)
氏なくて 龍の鰓の 玉の輿 乗りてや雲の 上へ登れり(紫の綾人)
湖の 鯉も出世を 駿河なる 富士の嶺ねをこす 龍となりけり(稲守)
碁石出る 那智の瀧壺 撥ね出して 鯉は雲井へ うち登る龍(宝山人)
諏訪の湖うみ ひたぶる鯉は 裏不二を 飛び越す龍と なる沢の音(芝口屋)
降る雨に 風の翅つばさを 添へて空 かけるは足や 飛龍なるらん(有明亭月守) 
蓮はちす生おふ池の鯉もや富士の嶺の砂を飛ばす龍となりけん(草加 四豊園稲丸)
潜まりて翼得る日を松浦川まつらがは龍立ちのぼる領巾振山(宝遊子升友)

 

●柴田宵曲 妖異博物館 1 「怪火」 
惡路王といふのは何人であるか。水戸の西北に祠があつて、大きな髑髏(どくろ)を~體としてゐる。これが惡路王の髑髏だといふのであるが、伊勢の唐子谷にはまた惡路~の火といふものがある。水戸でも已に~に祭られてゐるのだから、惡路王即惡路~と見ていゝかも知れぬが、さう手つ取り早く斷じ得るかどうかわからない。唐子谷の猪草が淵といふのは大難所で、幅十間ばかりの川に杉丸太が渡してある。この橋の高さは水際より十間餘りあり、危險千萬な上に、山蛭が澤山ゐて人を惱ます。こゝに生れて他所に出ぬ人は、老年になるまで米を見たことがないといふ、大變な土地であつた。惡路~の火はこの邊に燃えるので、雨の夜は殊に多く、挑燈のやうに往來する。この火に行き會つた者は、速かに俯伏して身を縮め、火の通り過ぎるのを待つて逃げ出さなければならぬ。さうせずに火に近付けば、忽ちに病を發し、煩ふこと甚しいといふ。髑髏の事を傳へた「一話一言」と、火の事を傳へた「閑窓瑣談」との間には何の連絡もないのだから、倂記して疑問を存するにとゞめる。
[やぶちゃん注:「惡路王」ウィキの「悪路王」によれば、『平安時代初期の蝦夷の首長。文献によっては盗賊の首領や、鬼とされることもある』。しばしばアテルイ(?〜延暦二一(八〇二)年:平安初期の蝦夷の軍事指導者。延暦八(七八九)年に胆沢(いさわ:現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて処刑された)と『同一視されるが、ほかにも異称は多く存在し、それらのどこまでが同じ人物でどこまでが別人なのかは、史料によって異なる。また、伝承が残るのは主に岩手県や宮城県だが、奥羽山脈を越えた秋田県や北関東の栃木県、さらに蝦夷とは何の関係もない滋賀県にもゆかりの地とされる旧跡が存在する』。『どの伝説においても、坂上田村麻呂ないし彼をモデルとした伝承上の人物によって討たれるところは共通している』とある。
「水戸の西北に祠があつて、大きな髑髏(どくろ)を~體としてゐる」これは現在の水戸市の西北の、茨城県東茨城郡城里町(しろさとまち)高久にある鹿嶋神社のことであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「悪路王」によれば、この神社には『悪路王面形彫刻が伝わる。坂上田村麻呂は下野達谷窟で討った悪路王(阿弖流為)の首級を当社に納めた。ミイラ化した首は次第に傷みがひどくなったので、木製の首をつくったという』。『達谷窟の所在地が陸奥国ではなく下野国とされているところが他の伝承と異なる』とある。また、個人サイト「300年の歴史の里<石岡ロマン紀行>」の「鹿嶋神社」の詳しい解説と画像の載るページも是非、参照されたい。
「伊勢の唐子谷」「猪草が淵」ウィキの「悪路神の火」(あくろじんのひ)によれば、現在の三重県度会郡玉城町の内と思われる。川が特定出来ない。地域の識者の御教授を乞う。
「十間」約十八メートル。
「閑窓瑣談」これは同書「後編」の「第三十四 惡路~(あくろじん)の火(ひ)」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示し、挿絵も挿入した。
○第三十四 惡路~の火
伊勢國紀州御領(ごりりやう)の内にて、田丸(たまる)領間弓(まゆみ)村の唐子谷(からこだに)といふ所に、猪草(ゐくさ)が淵(ふち)といふ大難所あり。常の道路(みち)巾十間計(ばかり)の川あり。其河に杉丸太を渡して往來とせり。此丸太橋の高サ水際より十間余有。是を渡る時は甚(はなはだ)危怖(あやうくおそろ)しき事言語に絶(たえ)たり。橋の下は々(あをあを)たる水の面(おもて)其底を知らず。此邊(このへん)山蛭(やまひる)といふ蟲多く、手足に取付(とりつき)て人を悩(なやま)す。寔(まこと)に下品(げひん)の地(ち)にして、男女(なんによ)の形狀(かたち)見分(みわけ)がたき程の所なり。此地に生れて他へ出(いで)ざる人は、老年まで米などを見ざる者多しといふ。又此邊に惡路~の火と號(なづけ)て、雨夜には殊に多く燃(もえ)て、挑灯(てうちん)のごとくに往來す。此(この)火に行合(ゆきあふ)者は、速(すみやか)に地に俯(うつむき)に伏(ふし)て身を縮(ちぢ)む。其時火は其人の上を通路(つうろ)するなり。火の通り過(すぐ)るを待(まち)て迯出(にげいだ)す。然(さ)も爲(せ)ざる時は、彼(か)火に近付(ちかづき)て忽ちに病(やまひ)を發し煩ふ事甚しといふ。這(こ)は享保の年間、阿部友之進といふ名醫、採藥の爲に經歷(けいれき)して彼(かの)地にいたり、眼前に見聞(けんもん)し、歸府の後(のち)諸國の奇事を上書(じやうしよ)せし採藥記にあり。
惡路王の正體がはつきりせぬ以上、惡路~の火の由來もわからない。享保年間に阿部友之進といふ醫師がこの地を經歷して、「採藥記」といふものを書いてゐるさうだが、これは未見の書である。惡路~の火が猪草が淵の邊に現れ、出逢つた人を惱ますには、何か然るべき理由があるに相違ないが、肝腎の點の書いてないのが物足らぬ。そこへ往くと大津の油盜みの火などは至つて明白である。志賀の都に油を賣る商人が、大津の辻の地藏の燈明に上げる油を毎晩盜んだ。その男の死後、迷ひの火となつて、今の世までも消えぬといふ。倂し松明のやうな火が飛び囘るだけで、人に害を與へることはなかつたらしい(本朝故事因緣集)。
[やぶちゃん注:「採藥記」前注で引いた「閑窓瑣談後編」の「第三十四 惡路~の火」には確かにそう書いてあるのであるが、ウィキの「悪路神の火」によれば、「閑窓瑣談」は『この話の典拠として、享保年間に幕府の採薬使として諸国を巡った阿部友之進(照任)の採薬記を挙げ、友之進が「眼前に見聞し」たものと記している。阿部照任の著述としては、松井重康とともに口述した』「採藥使記」なる書があるものの、『この書に悪路神の火の記載はない』。一方、享保五(一七二〇)年から宝暦四(一七五四)年まで採薬使の職にあった植村政勝の著した「諸州採藥記抄錄」の「伊勢國」の項には、「閑窓瑣談」と『ほぼ同様の記述が見られる』とある。但し、「諸州採藥記抄錄」では、『「猪草淵」の次に続けて「悪路神の火」を記すものの、この怪火を猪草淵に現れるものとしているわけではない』とある。以下、「諸州採藥記抄錄」の「猪草淵」の記述を略したものが掲げられてあるので、恣意的に正字化して示しておく。一部の読みは私がオリジナルに歴史的仮名遣で附したもの。
又同國にて惡路~の火とて雨夜には多く挑灯(てうちん)のことく往來をなす、此火に行逢(ゆきあ)ふ時は流行病(はやりやまひ)を受(うけ)て煩ふよし、依之(これによつて)此(この)火に行逢ふときは早速(すみやか)に地に伏す、彼(かの)火其(その)上を通(とほ)すへるによつて此(この)病(やまひ)難を逃るゝといへり、 文中の「通すへる」は「通(とほ)す經(へ)る」か。
「本朝故事因緣集」作者未詳。刊記に元禄二(一六八九)年とある。説法談義に供される諸国奇談や因果話を収めた説話集。全百五十六話。
同じ近江の話ではあるが、少し違ふのが「百物語評判」にある。叡山全盛の時代に、中堂の油料として一萬石ばかり知行があり、東近江の住人がこの油料を司つて、家富み榮えて居つた。その後時代の變遷に伴ひ、この知行がなくなつたのを、本意なく思つた東近江の住人が、その事を思(おも)ひ死(じに)に死んだ。爾來この者の在所から夜每に光り物が飛び出し、中堂の方へ來て、例の油火の方へ行くので、別に油を盜むわけではないが、皆油盜人と名付けた。これはその者の執念が油火を離れぬため、今以て來るのだらう、仕留めようと云ひ出した者があつて、弓矢域砲を持ち出し、衆を恃む鵺退治のやうな形勢になつた。案の如くその時間になると、K雲一むら出る中に光り物があり、瞬く間に若者どもの頭上に來て、弓矢も全く手につかぬ。その時光り物をよく見屆けた者の説によれば、怒る坊主首が火焰を吹いて來る姿がありありと見えたさうである。今から百年ほど以前の話であつたが、次第に絶え絶えになつた。現在でも雨の夜などには時々この光り物が出る、湖水邊の在所の者はよく見るとある。「百物語評判」といふ書物は、山岡元鄰の宅で百物語を催した時、元鄰がその話每に和漢の故事を引いて評したのを、沒後貞享三年に至つて刊行されたものである。元鄰の沒したのは寛文十二年だから、その存生時代に百年以前といふと、どうしても元龜天正前後まで遡らなければならぬ。江戸時代の話ではない。
[やぶちゃん注:「古今百物語評判」(既出既注)のそれは、同書「卷之三」の「第七 叡山中堂(ちうだう)油盜人(あぶらぬすびと)と云ふばけ物付鷺(あをさぎ)の事」である。国書刊行会江戸文庫版を参考に、例の仕儀で加工して同条全文を示す。挿絵も挿入しておく。
第七 叡山中堂油盜人と云ふばけ物付鷺の事
かたへの人の云はく、「坂本兩社權現の某坊(それがしばう)と云へる人の物語に、そのかみ叡山全盛のみぎり、中堂の油料とて壱万石ばかり知行ありしを、東近江の住人此油料を司りて家富みけるに、其後世かはり時移りて、此知行退転せしかば、此東近江の住人世にほいなき事に思ひ、明けくれ嘆きかなしみしが、終に此事を思ひ死ににして死ににけり。其後夜每(よごと)に此者の在所よりひかり物出でて、中堂の方へ來たりて、彼の油火のかたへ行くとみえしが、其さますさまじかりし故、あながち油を盜むにもあらざれど、皆人油盜人と名付けたり。はやりおの若者ども、是れを聞きて、如何樣にも其者の執心油にはなれざる故、今に來たるなるべし。しとめて見ばやとて、弓矢鐡砲をもちて飛び來たる火の玉を待ちかけたり。あんのごとく其時節になりて、K雲一叢出づると見えし。その中に彼の光り物あり。すはやといふ内に、其若者どもの上へ來たりしかば、何れもあつといふばかりにて、弓矢も更に手につかず。中にもたしかなる者ありて見とめしかば、怒れる坊主(なうず)の首(くび)、火焰(くわゑん)吹きて來たれる姿ありありと見えたり。是れ百年ばかり以前の事にてさふらひしが、その後は絶え絶えに來たりて、只今も雨夜などには其光物折々出で申し候ふを、湖水辺の在所の者は坂本の者にかぎらず、何れも見申し候ふ。此事かくあるべきにや」と問ひければ、先生答へていはく、「人の怨靈の來たる事、何かの事に付けて申すごとく、邂逅(たまさか)にはあるべき道理にて侍る故、其油盜人もあるまじきにあらず。しかしながら年經て消ゆる道理は、うぶめの下にてくはしく申せし通りなり。其死ぬる人の精魂の多少によりて、亡魂の殘れるにも遠近のたがひあるべし。また只今にいたりて、其物に似たりし光り物あるは、疑ふらくは鷺なるべし。其子細は江州高島の郡(こほり)などに別してあるよしを申し侍る。鷺の年を經しは、よる飛ぶときは必ず其羽ひかり候ふ故、目のひかりと相応じ、くちばしとがりてすさまじく見ゆる事度々なりと申しき。されば其ひかり物も今に至りて見ゆるは、鷺にや侍らん」。
元鄰センセ、何で「鷺の年を經しは、よる飛ぶときは必ず其羽ひか」るんでしょうか? 理を尽くして私に判るように説明して下され!
「鵺」「ぬえ」。一般には猿の顔・狸の胴体・虎の手足・尾は蛇などとされる本邦では最初期のハイブリッド妖怪である。
「貞享三年」一六八六年。
「寛文十二年」一六七二年
「元龜天正」「元龜」は一五七〇年から一五七三年、「天正」は一五七三年から一五九三年。]
河内國平岡には一尺ばかりの火の玉が飛ぶ。昔平岡社の油を盜んだ姥が死後に燐火になつたので、叡山の西の麓の油坊、七條朱雀の道元の火、皆似たものと「諸國里人談」にある。平岡の姥火の正體は五位鷺で、遠くからは圓い火に見えるのだといふ説もあるが、五位鷺の羽は慥かに光るらしい。山岡元鄰も油盜人の火に就いて、鷺説を持ち出して居つた。油盜人と油坊は同一であるかどうか、よくわからぬ。
[やぶちゃん注:「河内國平岡」は枚岡(ひらおか)が正しく、現在の大阪府東大阪市東部の汎称地名である。
「平岡社」現在の大阪府東大阪市出雲井町にある枚岡神社であろう。
「諸國里人談」は江戸中期の俳人で作家の菊岡沾凉(せんりょう 延宝八(一六八〇)年〜延享四(一七四七)年)の寛保三(一七四三)年刊の随筆。同話は「卷之三」にある「油盜火」(「あぶらぬすみび」と訓ずるか)。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。読みはオリジナルに私が歴史的仮名遣で附した。
○油盜火
近江國大津の八町に、玉のごとくの火、竪に飛行(ひぎやう)す。雨中にはかならずあり。土人の云(いはく)、むかし志賀の里に油を賣ものあり。夜每(よごと)に大津辻の地藏の油をぬすみけるが、その者死て魂魄、炎となりて迷ひの火、今に消(きえ)ずとなり。
○又叡山の西の麓に、夏の夜燐火飛ぶ。これを油坊といふ。因緣右に同じ。七條朱雀(しざく)の道元(だうげん)が火、みな此(この)類ひなり。これ諸國に多くあり。
攝津の高槻には二恨坊の火といふのがあつた。本人は山伏で、生涯に二つの恨みあるにより二恨坊と名付ける。「本朝故事因緣集」に從へば、曇る夜は必ず鳥のやうに飛び、竹木や屋の棟などにとまる、近寄つて見れば火の中に眼耳鼻舌唇を具へ、恰も人面の如くである。男女多く集り見るときは、恐れ辱ぢて飛び去るといふのだから始末がいゝが、何の恨みがあつたかは書いてない。「諸國里人談」は山伏の名を日光坊とし、行力他にすぐれて居つた。村長(むらをさ)の妻が病に臥した時、この山伏に加持をョんだら、閨に入つて祈ること一七日、病は平癒したが、後に至り密通の名を負はせ、平癒の恩も謝せずに殺害した。この恨み妄火となつて長の家の棟に飛び來り、長を取り殺すとある。これだと恨みの點はよくわかるが、恨みが一つしかない。日光坊訛つて二恨坊となるならば、強ひて二の字に拘泥する必要はないかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「攝津の高槻」現在の大阪府高槻(たかつき)市。
「本朝故事因緣集」本話は「卷之四」「九十一 攝津高槻二恨坊(にこんばう)之火」。「国文学研究資料館」公式サイト内のここから画像で読める。
「諸國里人談」のそれは以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。読みはオリジナルに私が歴史的仮名遣で附した。
〇二恨坊火
摂津國高槻庄二階堂村に火あり。三月の頃より六七月までいづる。大さ一尺ばかり、家の棟(むね)或は諸木(しよぼく)の枝梢(ゑだこずゑ)にとゞまる。近く見れば眼耳鼻口のかたちありて、さながら人の面(おもて)のごとし。讐(あだ)をなす事あらねば、人民さしておそれず。むかし此所に日光坊(につかうばう)といふ山伏あり。修法(ずはう)、他にこえたり。村長(むらをさ)が妻、病(やまひ)に臥す。日光坊に加持(かぢ)をさせけるが、閨(ねや)に入(いり)て一七日(ひとなぬか)祈るに、則(すなはち)病(やまひ)癒(いえ)たり。後に山伏と女密通なりといふによつて、山伏を殺してけり。病平癒の恩も謝せず。そのうへ殺害す。二(ふたつ)の恨(ふらみ)、妄火と成りて、かの家の棟に每夜飛來(とびきたり)て、長(をさ)をとり殺しけるなり。日光坊の火というを、二恨坊(につこんばう)といふなり。
柴田の「日光坊訛つて二恨坊とな」ったとするのは、すこぶる腑に落ちる解釈である。]
「諸國里人談」はこの種の火が諸國に多くあると云ひ、千方の火、虎宮の火、分部の火、鬼の鹽屋の火、などを擧げた。千方の火は藤原千方の因緣で、伊勢の川俣川の水上より、挑燈ほどの火が、川の流に沿うて下る事、水より早いといふ。逆臣として誅せられた千方の怨恨であらう。分部の火は同じく伊勢の話で、分部山より小さい挑燈ほどの火が五十も百も現れ、縱に飛び𢌞つた後、五六尺ほど一團となり、塔世川を下る事、水より早しといふのだから、先づ大同小異である。然るに塔世が浦には鬼の鹽屋の火といふのがあり、この火の中には老媼の顏が見える。そこらは二恨坊の火に似てゐるが、これが川上の火と行き合ひ、入れ違ひ飛び返りして戰ふ。やゝあつて一つになり、また分れて、一方は沖へ飛び、一方は川上へ奔るといふのを見れば、山伏の恨みなどとは比較にならぬ問題が含まれてゐるらしく思はれる。火が一團となつて動くのは、大きな爭鬪なり、戰ひなりがあつたものでなければならぬが、その事は亡びて口碑の上にも存せず、火のみ昔の恨みを傳へてゐるのが却つて哀れ深い。
[やぶちゃん注:「千方の火」「ちかたのひ」。後注参照。以下、妖怪(怪火)の固有名にルビを振らない柴田は極めて不親切である。
「虎宮の火」「とらのみやのひ」或いは「こきう(こきゅう)のくわ」。古い地神か。Bittercup氏のブログ「続・竹林の愚人」の「虎宮火」によれば、現在の摂津市の旧味舌(ました)下浜、現在の浜町にあった。今は大阪府摂津市三島の味舌(ました)天満宮に合祀されているという。
「分部の火」「わけべのひ」。「分部」は後に出る通り、山名で、伊勢国安濃津(あのうつ/あのつ/あののつ:現在の三重県津市)にある安濃(あのう)川(本文の「塔世(とうせ)川」はその別称)川上にある。
「鬼の鹽屋の火」「おにのしほやのひ」。
「藤原千方」「ふじはらのちかた」。ウィキの「藤原千方の四鬼」(ふじわらのちかたのよんき)によれば、『三重県津市などに伝えられる伝説の鬼』。『様々な説があるが、中でも『太平記』第一六巻「日本朝敵事」の記事が最も有名』で、『その話によると、平安時代、時の豪族「藤原千方」は、四人の鬼を従えていた。どんな武器も弾き返してしまう堅い体を持つ金鬼(きんき)、強風を繰り出して敵を吹き飛ばす風鬼(ふうき)、如何なる場所でも洪水を起こして敵を溺れさせる水鬼(すいき)、気配を消して敵に奇襲をかける隠形鬼(おんぎょうき。「怨京鬼」と書く事も)である。藤原千方はこの四鬼を使って朝廷に反乱を起こすが、藤原千方を討伐しに来た紀朝雄(きのともお)の和歌により、四鬼は退散してしまう。こうして藤原千方は滅ぼされる事になる』。『他の伝承では、水鬼と隠形鬼が土鬼(どき)、火鬼(かき)に入れ替わっている物もある。また、この四鬼は忍者の原型であるともされる』とある。
「川俣川」「かばたがは」と読むものと思われる。三重県中部の中央構造線沿いを西から東に流れ伊勢湾に注ぐ櫛田(くしだ)川上流の支流。恐らくはこの附近にあるはずである(グーグル・マップ・データ)。
「五六尺」一・五〜一・八メートルほど。
「塔世が浦」現在の櫛田川河口の吹井ノ浦のことか。
「川上の火」先の分部(わけべ)の火のこと。
どうしようかと思ったが、禁欲注ではあるが、原典紹介をせめての旨としてきた以上、やったろうじゃ、ねえか! 「諸國里人談」の「千方の火」・「虎宮の火」・「分部の火」・「鬼の鹽屋の火」(これは前の「分部火」と闘うとする怪火の名)を以下の挙げる。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。【 】は割注。以下は「卷之三」の条々であるが、必ずしも順に並んではいないので、「*」で別個に示した。どれをどう表記挿絵したものかは判然とせぬが、挿絵も入れた。面倒なので、注は附さぬ。
○千万火
勢州壱志郡家城の里川俣川の水上より、挑燈ほどなる火、川の流にそいてくだる事、水よりはやし。これを千方の火といふ。むかし藤原の千方は此所に任しけるとなり。大手の門の礎の跡今に存せり。それより旗屋村、的場村、丸之内村、三之丸、二の丸、本丸といふ村々あり。今凡七千石程の所なり。千方は今見大明~[と云、則此所のうぶすななり]。
○虎宮火
攝津國島下郡別府村の虎の宮の跡といふ所より出て、片山村の樹のうへにとゞまる、火の玉なり。雨夜にかならずいづるなり。これに逢ふ人、こなたの火を火繩などにつけてむかへば、其まゝ消ゆるなり。虎の宮又奈豆岐宮ともいふ。是則前にいふ所の日光坊の一族、其腦(なつき)を祭る~といひつたへたる俗説あり。又云、延喜式に、攝州武庫郡名次~を祭る歟。
○分部火
伊勢國安濃津塔世の川上分部山より、小き挑燈ほどなる火、五十も百も一面に出て縦に飛めぐりて後、五六尺ほど一かたまりになりて、塔世川をくだる事水よりはやし。又塔世が浦に鬼の鹽屋の火といふあり。此火中には老媼の顏のかたちありける。かの川上の火と行合、入ちがひ飛かえりなどして、相鬪ふ風情なり。少時して又ひとつにかたまり。そのゝちまたわかれて、ひとつは沖のかたへ飛、一つは川上へ奔るなり。[やぶちゃん注:下線やぶちゃん。]
「分部山」は恐らく「わけべやま」と訓じ(位置不詳)、「塔世の川」は恐らく「とうせのかは」で現在の三重県津市を流れて伊勢湾に注ぐ安濃川(あのうがわ)の部分旧称か支流と思われる。郷土史研究家の御教授を乞うものである。]
この種の火はとかく恨みに結び付くので、あまり愉快なものではないが、こゝに恨みなどには全然縁のない、天~の火といふのがある。伊勢國雲津川のほとりに天~山といふ山があつて、夏秋のころ日が暮れると、この山の茂みに火が見える。然も戲れに人が呼べば、直ぐその前に飛んで來るのである。里から山まで二里以上も距離があるのに、呼ぶが早いか、矢のやうに飛んで來る。火の大きさは傘ぐらゐで、地上を離れ步くこと一二尺に過ぎぬ。火の中にうめくやうな聲がして、人の步くに從つて迫つて來るだけで、別に怪しい事もなく、害をなす事もない。人は見馴れて怪しまず、子供などは火の中に入つて戲れるほどで、熱氣はなく、普通の火のやうな色をしてゐるが、臭氣があるため、久しく傍にはゐにくい。人が家へ歸れば、この火はそこまでついて來て、一晩中去らず、うめくやうな聲を立ててゐる。誰かまた火を呼んだなと云つて、戸外に出て草の葉を一つ摘み取り、それを額に戴く時は、火は忽ち飛び去つて見えなくなる。必ずしも草の葉には限らぬ、何でも地上にあるものを戴いて見せれば、火はこれを避けて行つてしまふ。「いかなる物といふ事を知らず」と「譚海」は書いてゐるが、これなどは多くの怪火の中に在つて、先づ親しみ易いものと云へるであらう。
[やぶちゃん注:「譚海」「卷之八」の「勢州雲津天~の火の事」。一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを附した。
○勢州雲津川上に天~山といふあり、その山に火あり。里人天~の火といひならはしたり。夏秋のころ日くるれば、天~の山のしげみに此火みゆるを、戲(たはむれ)に人よぶときは其前に飛とび)いたる。里より山までは二里あまりをへだてたるところを、よぶ聲につきてそのまゝ來(きた)る事、端的にして矢よりも早(はや)飛至(とびいた)る。此火からかさの大さほどありて、地上をはなれてありく事一二尺に過(すぎ)ず。火の中にうめく聲のやう成(なる)もの聞えて、人のありくに隨つて追來(おひきた)る、あやしき事なし、害をなす事もなき故、常に人見なれて子供などは火の中に入(いり)て、かぶりたはぶるゝ事をなす。熱氣なくして色は常の火のごとし、ただ臭氣ありて久しく褻(なれ)がたし。家へ歸行(かへりゆく)に、火も人に隨ひ來りて、終夜戸外(こがい)に有(あり)てうめく聲有(あり)てさらず。里人例の戲(たはむれ)に火を呼(よび)たるよとて、戸外に出て草の葉をひとつ摘(つみ)とり額に戴(いただく)時は、此火たちまちに飛(とび)さりてうするなり。地上にあるもの何にてもいたゞきて見する時は、火避(さけ)て飛(とび)さる事すみやかなり、いか成(なる)物といふ事をしらず。
「天~山」不詳。現在の三重県津市を流れる雲出(くもず)川の上流かと思われるが、山の位置を特定出来ない。識者の御教授を乞う。ともかくも、これは実に面白い現実現象であるように思われる。何だろう?] 

 

●柴田宵曲 妖異博物館 2 
「舟幽霊」
「生月(いきつき)というところの鯨組の親方に道喜という者があった。はじめ舟乗りをしていた頃、或夜舟端に白いものが何十も取り付いたので、よく見れば子供のような細い手である。」
「人吉(ひとよし)侯の侍医であった佐藤宗隆という人は、江戸へ出る船中で舟幽霊を見た。播州(ばんしゅう)舞子(まいこ)の浜あたりは、こういう事の稀なところであるが、その夜は陰火が海面を走って怪しく見えた。ほどなく大きさ四尺余りもある海月(くらげ)のようなものが漂って来て、その上に人の形をした者が居り、船頭に向って何か云いかけそうに見えた。」
「異形の顔」
「鈴木桃野(とうや)の祖父に当る向凌という人が若い時分に、独り書斎に坐っていると、忽然として衣冠を着けた人が桜の枝から降りて来た。(中略)衣冠を着けた人などが、この辺に居る筈がない。固(もと)より天から降るべき筈もないから、心の迷いでこんなものが見えるのであろうと、暫く目を閉じてまた開けば、官人は次第に降りて来る。目を閉じては開くこと三四度、遂に縁側のところまで来て、縁端に手をかけた。」
「越中、飛騨、信濃(しなの)三国の間に入り込んだ四五六谷というところがある。神通(じんずう)川を遡り、またその支流を尋ねて行くのに、甚だ奥深くて、これを究め得た者がない。近年飛騨舟津(ふなつ)の者が二人、三日分の食糧を準備して川沿いに行って見たが、その食糧も乏しくなったので、魚を釣って食うことにして、なお幾日か分け入った。或時ふと同行者の魚を釣っている顔を見ると、全く異形の化物である。思わず大きな声で呼びかけたので、魚を釣っている男が振向いたが、その男の眼には此方の男の顔が異形に変じている。お互いに異形に見える以上、この地に変りがあるに相違ないと、急いでそこを逃げ出し、大分来てから見合せた顔は、もう平常に戻って居った。思うにこの谷は山神の住所で、人の入ることを忌み嫌って、こういう変を現したものと解釈し、その後は奥深く入ることをやめたが、飛騨の高山(たかやま)の人の話によれば、それは山神の変ではない、山と谷との光線の加減で、人の顔の異形に見えることがある、飛騨のどこかに人の往来する谷道で、人の顔が長く見えるところがあるが、その谷を行き過ぎると常の通りになる、この道を通い馴れぬ人はびっくりするけれども、所の人は馴れて何とも思っていない、ということであった。」
「猫と鼠」
「「閑窓瑣談(かんそうさだん)」にあるのは遠州御前崎(おまえざき)の話で、西林寺(さいりんじ)という寺の和尚が或年暴風の際、舟の板子(いたご)に乗って流れて来る子猫があったのを、わざわざ小舟を出して救い寺中に養う。十年ほどたって、猫は附近に稀れな逸物の大猫になり、この寺には鼠の音を聞くこともなかった。西林寺は住職と寺男だけという簡素な寺であったが、或時寺男が縁端でうたた寝をしていると、猫も傍に来て庭を眺めている。そこへ隣りの家の猫がやって来て、日和もよし、伊勢参りをせぬかと声をかける。寺の猫がそれに答えて、わしも参りたいが、この節は和尚様の身の上に危い事があるので、外へは出られぬ、と云う。隣りの家の猫は寺の猫の側近く進んで、何やらささやくものの如くであったが、二疋はやがて別れた。寺男は夢うつつの境で、この猫の問答を聞いたのである。その夜本堂の天井に恐ろしい物音が聞える。折ふし雲水の僧が止宿して居ったのに、この物音が聞えても、一向起きて来ない。(中略)夜が明けて後、天井から生血が滴るので、近所の人を雇い、寺男と共に天井裏を見させたところ、寺の猫は朱(あけ)に染まって死んで居り、隣りの猫も半ば死んだようになっていた。更に驚いたのは、それより三四尺隔てて、二尺ばかりもある古鼠の、毛は針を植えたようなのが倒れていることであった。(中略)猫はいろいろ介抱して見たが、二疋とも助からなかった。」
「化け猫」
「佐藤成裕(しげひろ)は「中陵漫録(ちゅうりょうまんろく)」に猫の話をいくつも書いているが、その中に禅僧から聞いたという化け猫の話がある。猫好きの婆さんがあって、猫を三十疋も飼っている。猫が死ねば小さな柳行李(やなぎごうり)に入れて棚に上げ、毎日出して見てはまた棚へ上げて置く。この事已(すで)に尋常でないが、この婆さんは白髪で、猫のような顔をしていたそうである。後に人に殺され、半日ほどして老猫に変った。」
「大鳥」
「ある雪の明け方、新城(しんじょう)の農民が近くの山へ炭焼きに行くと、向うの山にいつも見たことのない大木が、二本並んで立っている。上に物があって、大きな翼を搏って上るのを見れば、前に大木と思ったのは鳥の両脚であったというのである。」
「茸の毒」
「普請をする家があって、黄姑茸を煮て職人に食べさせることにした。時に屋上に在って瓦を葺(ふ)く者が、ふと下を見れば、厨(くりや)には誰も居らず、釜の中で何かぐつぐつ煮えている。忽ち裸の子供がどこからか現れて、釜を繞(めぐ)って走っていたが、身を躍らして釜中に没した。やがて主人が運んで来たのは茸の料理である。屋根屋ひとり食わず、他人に話もしなかったが、食べた連中は皆死んだ。」
「果心居士」
「果心居士の話は「義残後覚(ぎざんこうかく)」に書いてあるのが古いらしい。伏見(ふしみ)に勧進能があった時、果心居士も見に来たが、已(すで)に場内一杯の人で入る余地がない。これはこの人達を驚かして入るより外はないと考えた居士は、諸人のうしろに立って自分の頤(おとがい)をひねりはじめた。居士の顔は飴細工の如く、見る見るうちに大きくなったから、傍にいる人はびっくりして、これは不思議だ、この人の顔は今までは人間並だったが、あんなに細長くなってしまったと、皆立ちかかって見る。遂に居士の顔は二尺ぐらいになった。世にいう外法頭(げほうがしら)というのはこれだろう、後の世の語り草に是非見て置かなければならぬと、誰れ彼れなしに居士の顔を見物に来る。能の役者まで楽屋を出て見に来るに至ったので、居士は忽ちその姿を消し、人々茫然としている間に座席を占め、十分に能を見物することが出来た。
果心居士は長いこと広島に住んでいたが、そこの町人から金銀を大分借りた。そうして一銭も返済せずに京へ来てしまったので、町人はひどく腹を立てた。その後町人も京へ上ることがあって、鳥羽(とば)の辺でばったり果心居士に出逢うと、口を極めて居士を罵倒する。借金をしたのは事実だから、一言の申し開きもしなかったが、居士は例の如く自分の頤をひねりはじめた。今度は伏見の能見物の時と違って、顔の横幅が広くなって、目は丸く鼻は高く、向う歯が一杯に見える、世にも不思議な顔になってしまった。町人もいささか驚いていると、居士はすましたもので、拙者はこれまであなたにお目にかかったことがござらぬが、何でそのように心易げに申さるるか、と反問した。町人が見直すまでもなく、全く別の顔だから、まことに卒爾(そつじ)を申しました、と平あやまりにあやまって別れて行った。」
「「義残後覚」に出ている話は(中略)大体に於て悪戯の程度にとどまっているが、元興寺(がんごうじ)の塔へどこからか上って、九輪の頂上に立ち、著物を脱いで打ち振い、やがてもとの通り著て、頂上に腰掛けたまま四方を眺めている「玉箒木(たまはばき)」の話になると、大分放れたところが出て来る。或晩奈良の手飼町の或家で、客を四五人呼んで酒宴を開いた時、客の中に果心居士をよく知った者が居って、頻(しき)りに幻術の妙をたたえたところ、それなら居士をこの座へ招き、吾々の見ている前で幻術をさせて下さい、お話ほどの事もありますまい、と少し疑惑を懐(いだ)く者もあった。はじめに居士の話をした者が出て行って、間もなく居士と一緒に戻って来たが、その時少し疑惑を持つ一人が進み出て、(中略)どうか私の身について奇特をお見せ下さい、と云った。居士は笑って、(中略)座中の楊枝を手に執り、その人の上歯を左から右へさらさらと撫でた。上歯は一遍にぶらぶらして、今にも脱け落ちそうになったので、その人大いに驚き悲しみ、恐れ入りました、御慈悲にもとのようにして下さい、と歎願に及ぶ。(中略)再びかの楊枝で右から左へ撫でると、歯はひしひしと固まって、もとの通りになった。人々今更の如く感歎し、とてもの事に今夜この座敷で、すさまじい幻術をお見せ下さい、子々孫々までの話の種に致します、と所望する。お易い事と呪文を唱え、座敷の奥の方を扇を揚げて麾(まね)けば、どこからか大水が涌き出して、座敷にあるほどの物が全部流れはじめた。水は忽ちに座敷に充ち満ち、逃げようにも逃げられなくなったところへ、十丈ばかりもある大蛇が、(中略)波を蹴立ててやって来る。皆々水底に打ち伏し、溺れ死んだと思ったが、翌日人に起されて座敷を見れば、平生と変ったところは何もない。」
「その頃大和(やまと)の多門(たもん)城には、松永弾正久秀(だんじょうひさひで)が居住して居った。果心居士の噂を聞いてこれを招き、(中略)自分はこれまで幾度となく戦場に臨み、刃を並べ鉾(ほこ)を交うる時に至っても、終(つい)に恐ろしいと思った事がない、その方幻術を以て自分を脅すことが出来るか、と尋ねた。居士はこれに答えて、畏りました、然(しか)らば近習の人も退け、刃物は小刀一本もお持ちなされず、灯も消していただきとうございます、と云う。久秀はその通り人を遠ざけ、大小の刀を渡し、真暗な中にただ一人坐っていると、居士はついと座を立ち、広縁を歩いて前栽(せんざい)の方へ出て行った。俄かに月が曇って雨が降り出し、風蕭々として、さすがの松永弾正も何だか心細くなって来た。どうしてこんな気持になったかと怪しみながら、じっと暗い外を見ているうちに、誰とも知らず広縁に佇む人がある。細く痩せた女の髪を長く揺り下げたのが、よろよろと歩いて来て、弾正に向って坐ったけはいなので、思わず何者じゃと声をかけた。その時女大息をつき、苦しげな声で、今夜はお寂しゅうございましょう、見れば御前に人さえなくて、と云うのは、五年前に病死した妻女の声に紛れもない。弾正もここに至って我慢出来なくなり、果心居士はどこに居る、もうやめい、と叫ばざるを得なかった。件(くだん)の女は忽ち居士の声になって、これに居りまする、と云う。もとより雨などは降らず、皎々(こうこう)たる月夜であった。」
「命数」
「鯰江(なまずえ)六太夫という笛吹きがあった。国主の秘蔵する鬼一管という名笛は、この人以外に吹きこなす者がないので、六太夫に預けられたほどの名人であったが、何かの罪によって島へ流された。(中略)ひそかにこの鬼一管を携え、日夕笛ばかり吹いて居った。然(しか)るにいつ頃からか、夕方になると、必ず十四五歳の童が来て、垣の外に立って聞いている。雨降り風吹く時は、内に入って聞くがよかろう、と云ったので、その後はいつも入って聞くようになった。或夜の事、一曲聞き了(おわ)った童が、こういう面白い調べを聞きますのも今宵限りという。不審に思ってその故を問うと、私は実は人間ではありません、千年を経た狐です、ここに私のいることを知って、勝又弥左衛門という狐捕りがやって参りますから、もう逃れることは出来ません、という返事であった。そこで六太夫が、知らずに命を失うならともかくも、それほど知っていながら死ぬこともあるまい。弥左衛門が嶋にいる間、わしが匿まってやろう、と云ったけれども、狐は已(すで)に観念した様子で、ここに置いていただいて助かるほどなら、自分の穴に籠っても凌(しの)がれますが、弥左衛門にかかっては神通を失いますので、命を失うと知っても近寄ることになるのです、今まで笛をお聞かせ下さいましたお礼に、何か珍しいものを御覧に入れましょう、と云い出した。それでは一の谷の逆落しから源平合戦の様子が見たい、と云うと、お易い事ですと承知し、座中は忽ち源平合戦の場と変じた。」
「異玉」
「江戸の亀井戸に住む大工の何某が、夏の夜涼みに出たら、どこからか狐が一疋出て来た。その狐が手でころばすようにすると、ぱっと火が燃え出る。不思議に思って様子を窺えば、火の燃える明りで虫を捕るらしい。狐は虫を捕ることに夢中になって、近くに人がいるのを忘れ、別に避けようともせぬので、手許へ玉のころがって来たのを、あやまたず掴む。狐は驚いて逃げ去った。玉は真白で自ら光を放つ。夜人の集まった時など、この玉を取り出してころがすと、ぱっと火が燃えて、付木(つけぎ)なしに明りの用を弁ずる。大工は大いに重宝して、二年ばかり所持して居ったが、その間一疋の狐が大工の身に附き添って、昼夜とも離れない。年を経るに従い、大工も痩せ衰えて来た。多分この玉の祟りだろうと皆に云われるので、漸(ようや)く玉を返そうと思う心が起り、或夜闇の中に投げ遣った。狐は忽ち躍り上ってこれを取り返し、大工の方は何事もなかった。」 

 

●柴田宵曲 続妖異博物館 
「月の話」
「王(おう)先生なる者が烏江(うこう)のほとりに住んで居った。(中略)長慶(ちょうけい)年間に楊晦之(ようかいし)という男が長安から呉楚に遊ぶ途中、かねてこの人の名を聞いていたのでその門を敲(たた)いた。先生は黒い薄絹の頭巾を被り、褐色の衣を著けて悠然と几(つくえ)に向っている。晦之が再拝して鄭重に挨拶しても、軽く一揖(いちゆう)するのみであった。併し晦之を側に坐らせての暢談(ちょうだん)は容易に尽きそうにもないので、晦之は一晩泊めて貰うことになった。先生の娘というのが出て来たが、七十ばかりで頭髪悉(ことごと)く白く、家の中でも杖をついている。これはわしの娘じゃが、惰(なま)け者で道を学ばぬものじゃから、こんな年寄りになってしまった、と云い、娘を顧みて月の用意をせよと命じた。この日は八月十二日であったが、暫くして娘が紙で月の形を切り、東の垣の上に置くと、夕べに至り自ら光りを発し、室内はどんな小さなものでもはっきり見えるので、晦之は驚歎せざるを得なかった。」
「周生(しゅうせい)は唐の太和(たいわ)中の人で、(中略)道術を以て多くの人の尊敬を集めた。或時広陵(こうりょう)の舎仏寺に居ると、これを聞いた人が何人も押しかけて来る。恰(あたか)も中秋明月の夜であったから、皎々(こうこう)と澄み渡る月を見て、自(おのずか)ら月世界の話になり、吾々のような俗物でも、月世界に到ることが出来るでしょうか、と云い出した者があった。周生は笑って、その事ならわしも師に学んだことがある、月世界に到るどころではない、月を袂(たもと)に入れることが出来る、(中略)と云った。或者はこれを妄言とし、或者はその奇を喜ぶ中に、周生は委細構わず、一室を空虚にし、四方から固く戸を鎖(とざ)し、数百本の竹に縄梯子を掛けさせ、わしは今からこの縄梯子を上って月を取って来る、わしが呼んだら来て御覧、と云う。人々は庭を歩きながら様子を窺っていると、先刻まで晴れていた空が忽ち曇り、天地晦冥(かいめい)になって来た。その時突如として周生の声が聞こえたので、室の戸を明けたところ、彼はそこに坐っていて、月はわしの衣中に在る、と云う。どうかその月をお見せ下さい、と云われて、周生が衣中の月をちょっと見せると、一室は俄かに明るくなり、寒さが骨に沁み入るように感ぜられた。」
「大なる幻術」
「唐の貞元(じょうげん)中、楓州(ふうしゅう)の市中に術をよくする妓が現れた。どこから来た人かわからぬけれど、自ら胡媚児(こびじ)と称し、いろいろ奇怪の術を見せるので、これを見物する人が次第に集まるようになり、一日の収入千万銭に及ぶということであった。或時懐ろから一つの瑠璃(るり)瓶を取り出した。大きさは五合入りぐらいのもので、全体が透き通り、手品師のよく云うように、種も仕掛けもないものであったが、胡媚児はこれを席上に置いて、これが一杯になるだけ御棄捨(ごきしゃ)が願えれば結構でございます、と云った。瓶の口は葦(あし)の管のように細かったに拘らず、見物の一人が百銭を投ずると、チャリンと音がして中に入り、瓶の底に粟粒ぐらいに小さく見える。皆不思議がって、今度は千銭を投じても前と変りがない。万銭でも同じである。好事の人が次ぎ次ぎに出て、十万二十万に達しても、瓶は一切を呑却して平然としている。馬はどうだろうと云って投げ込む者があったが、人も馬も瓶の中に入り、蠅のような大きさで動いて居った。その時官の荷物を何十台という車に積んで通りかかる者があり、暫く立ち止って見ているうちに、大いに好奇心が動いたらしく、胡媚児に向って、この沢山の車を皆瓶の中に入れ得るか、と問うた。媚児は笑って、よろしゅうございますと云い、少し瓶の口をひろげるようにした。その口から車はぞろぞろと入って行き、全部中に在って蟻のように歩くのが見えたが、暫くして何も目に入らなくなった。そればかりではない、媚児までが身を躍らして瓶の中に飛び込んでしまったから、ぼんやり口を明いて見物していた役人は驚いた。何十台の荷物が一時に紛失しては申訳が立たぬ。直ちに棒を振って瓶を打ち砕いたが、そこには何者もなかった。媚児の姿もその辺に現れないと思っていると、一箇月余りの後、清河(せいが)の北で媚児を見かけた者がある。彼女は例の数十台の車を指揮し、東に向って進んでいたということであった。」
「眼玉」
「唐の粛宗(しゅくそう)の時、尚書郎房集(しょうしょろうぼうしゅう)が頗(すこぶ)る権勢を揮(ふる)っていた。一日暇があって私邸に独坐していると、十四五歳の坊主頭の少年が突然家の中に入って来た。手に布の嚢(ふくろ)を一つ持って、黙って主人の前に立っている。房ははじめ知り合いの家から子供を使いによこしたものと思ったので、気軽に言葉をかけたけれど、何も返事をしない。その嚢の中に入っているのは何だと尋ねたら、少年は笑って、眼玉ですと答えた。そうして嚢を傾けたと思うと、何升もある眼玉がそこら中に散らばった。」
「離魂病」
「夫婦のうち妻が先ず起き、次いで夫も起きて出た。暫くして妻が戻って来ると、夫は寝床の中に眠っている。夫が起き出たことを知らぬ妻は、別に怪しみもせずにいると、下男が来て鏡をくれという夫の意を伝えた。旦那はここに寝ているではないかと云われて驚いた下男は、寝床の中の主人を見て、慌てて駈け出した。下男の報告によって来て見た夫も、自分と全く違わぬ男の眠っているのにびっくりした。夫は皆に騒いではいけないと云い、衾(ふすま)の上から静かに撫でているうちに、寝ていた男の姿はだんだん薄くなり、遂に消えてしまった。この夫はその後一種の病気に罹(かか)り、ぼんやりした人間になったそうである。」
「「奥州波奈志(ばなし)」に「影の病」として書いてあるのは明かに離魂病である。北勇治という人が外から帰って来て、自分の居間の戸を明けたところ、机に倚(よ)りかかっている者がある。(中略)暫く見守っているのに、髪の結いぶりから衣類や帯に至るまで、まさに自分そのものである、(中略)不思議で堪らぬので、つかつかと歩み寄って顔を見ようとしたら、向うむきのまま障子の細目に明いたところから縁側に出た。併し追駈けて障子を開いた時は、もう何も見えなかった。この話を聞いて母親は何も云わず眉を顰(ひそ)めたが、勇治はその頃からわずらい出し、年を越さずに亡くなった。北の家ではこれまで三代、自分の姿を見て亡くなっている。」
「衡州(こうしゅう)の役人であった張鎰(ちょういつ)に二人の娘があって、長女は早く亡くなったが、下の娘の倩(せん)というのは端妍(たんけん)絶倫であった。鎰の外甥に王宙(おうちゅう)なる者があり、これがまた聡悟なる美少年であったから、鎰も折りに触れては、今に倩娘(せんじょう)をお前の妻にしよう、などと云って居った。二人とも無事に成長し、お互いの志は自ら通うようになったが、家人はこれを知らず、鎰は賓僚(ひんりょう)から縁談を持ち込まれて、倩をくれることを承知してしまった。女はその話を聞いて鬱々となり、宙は憤慨の余り京へ出る。(中略)然(しか)るに宙は船に乗ってからも、悲愁に鎖(とざ)されて眠り得ずに居ると、夜半の岸上を追って来る者がある。遂に追い付いたのを見れば、倩娘が跣足(はだし)であとから駈けて来たのであった。(中略)宙は倩娘を船に匿(かく)して遁れ去ることにした。数月にして蜀(しょく)に到り、五年の月日を送るうちに、子供が二人生れた。鎰とはそのまま音信不通になっていたのであるが、(中略)久しぶりに手を携えて衡州に帰る。宙だけが鎰の家を訪れて、一部始終を打ち明け、既往の罪を謝したところ、鎰は更に腑に落ちぬ様子で、倩娘は久しいこと病気で寝ている、何でそんなでたらめを云うか、と頭から受け付けない。宙は宙で、そんな筈はありません、慥(たし)かに船の中に居ります、と云う。鎰が大いに驚いて、人を見せに遣ると、船中の倩娘は至極のんびりした顔で、いろいろ父母の安否を尋ねたりする。使者が飛んで帰ってこの旨を報告したら、病牀の娘は俄かに起き上り、化粧をしたり、著物を著替えたりしたが、笑っているだけで何も云わない。奇蹟はここに起るので、船から迎えられた倩娘と、病牀から起き上った倩娘とは、完全に合して一体となり、著ていた著物まで全く同じになってしまった。(中略)神仙の徒が人を修行に誘う場合、青竹をその人の丈(たけ)に切って残して置くと、家人などは本人の居らぬのに気が付かぬという話がある。倩娘の本質は宙のあとを追って去り、形骸だけが病牀に横わっていたものであろう。
「壁の中」
「「列仙全伝」の中の麻衣仙姑(まいせんこ)は石室山(せきしつさん)に隠れ、家人達がその踪跡を探し求めても、容易に突き留めることは出来なかった。ところが或日石室山に於て偶然出会った者があり、その棲家を問うと、一言も答えずに壁のように突立った岩石の中に入ってしまった。」
「世を遁れ人目を避ける点は同じであるが、麻衣仙姑とオノレ・シュブラックとでは動機が違う。オノレ・シュブラックの恐れるのはピストルを持った一人に過ぎぬに反し、仙姑はあらゆる人の目から自分を裹(つつ)み去ろうとする。罪を犯した者と仙を希う者との相違である。」
「吐き出された美女」
「許彦(きょげん)という男が綏安山(すいあんざん)を通りかかると、路傍に寝ころんでいた年の頃二十歳ばかりの書生が声をかけて、どうも足が痛くて堪らない、君の担いでいる鵞鳥の籠の中に入れて貰えぬか、と云った。彦も笑談(じょうだん)半分によろしいと答えたら、書生は直ぐ乗り込んで来た。籠には鵞鳥が二羽入れてあったのだが、そこへ書生が加わっても一向に狭くならず、担ぐ彦に取って重くもならぬのである。やがて一本の木の下に来た時、書生は籠から出て、この辺で昼飯にしようと云い、大きな銅の盤を吐き出した。盤の中には山海の珍味がある。酒数献廻ったところで、書生が彦に向い、実は婦人を一人連れているのだが、ここへ呼び出して差支えあるまいか、と云う。彦は異議の唱えようがない。忽ち口から吐き出したのは十五六ぐらいの絶世の美人であった。そのうちに書生は酔払って眠ってしまう。今度はその美人が、実は男を一人連れて居りますので、ちょっとここへ呼びたいのです、どうか何も仰しゃらないで下さい、と云い出した。女の吐き出したのは似合いの美少年で、先ず彦に一応の挨拶をした後、盃を挙げてしきりに飲む。たまたま書生が目を覚ましそうな様子を見せたので、女は錦の帳(とばり)を吐いて隔てたが、愈々(いよいよ)本当に起きそうになるに及んで、先ず美少年を呑却し、何事もなかったように彦に対坐している。書生はおもむろに起きて、大分お暇を取らせて済まなかった、そろそろ夕方になるからお別れしよう、と云い、忽ち女を呑み、大銅盤を彦に贈って別れ去った。」
「死者生者」
「「夷堅志」に出て来る李吉(りきつ)という男は、死んでから十年もたってもとの主人に逢い、一緒に酒を飲んだりしている。彼の説によると、幽霊は随所に見出すことが出来るので、あれもそうです、これもそうですと云って指摘した。(中略)「宣室志」にある呉郡の任生(じんせい)なども、この鑑別の出来る人であった。或時二三人の友人と舟を泛(うか)べて虎丘寺(こきゅうじ)に遊んだが、その舟の中で鬼神の話になり、鬼は沢山いても人が識別出来ぬのだ、と任生は云った。そうして岸を歩いている青衣の婦人を指し、あれも鬼だが、抱いている子供はそうじゃない、と説明した。」
「魚腹譚」
「銭塘(せんとう)の杜子恭(としきょう)が人から瓜を切る刀を借りた。後に持ち主が返して貰いたいと云ったら、あれはそのうち返すよ、と答えた。刀の持ち主が嘉興(かこう)まで行った時、一尾の魚が躍って船中に入ったので、その腹を割いたら子恭に貸した刀が出て来た。これは子恭の秘術であると「捜神後記」に見えている。」 
 
 
 

 



2022/3-
 
 
 

 

●北越雪譜 1 
[ほくえつせっぷ] 江戸後期における越後魚沼の雪国の生活を活写した書籍。初編3巻、二編4巻の計2編7巻。著者は現在の新潟県南魚沼市塩沢で縮仲買商・質屋を営んだ鈴木牧之(京山人百樹(山東京山)増修、京水百鶴(岩瀬京水)画)。雪の結晶のスケッチ(『雪華図説』からの引用)から雪国の風俗・暮らし・方言・産業・奇譚まで雪国の諸相が、豊富な挿絵も交えて多角的かつ詳細に記されており、雪国百科事典ともいうべき資料的価値を持つ。1837年(天保8年)に江戸で出版されると当時のベストセラーとなった。
作品概要​
本書は、初編と二編に大別され、さらに初編は『巻之上』『巻之中』『巻之下』に、二編は『巻一』『巻二』『巻三』『巻四』にそれぞれ分かれている。1837年(天保8年)秋頃に初編各巻が江戸で発行され、1841年(天保12年)11月に二編4巻が発売された。
初編巻之上はまず、雪の成因・雪の結晶のスケッチ(雪華図説からの引用)など科学的分析から筆を起こし、次いで江戸などの「暖国」と雪国の違いを様々な例を挙げて説明していく。雪中洪水や熊が雪中に人を助けた逸話など、「暖国」の人々の興趣を誘う内容が多い。巻之中は、越後魚沼の名産品であった縮(ちぢみ)に関する話が中心となっている。牧之自身が縮の仲買商人であったため、縮の素材や機織り方法、縮のさらし、縮の流通などが詳述されている。また、信濃国境に近い秋山郷(現津南町)の様子も詳しく記載されている。巻之下は、渋海川の珍蝶や鮭に関する考察、越後に伝わる様々な奇譚、山岳地方の方言、など博物学的な内容となっている。
二編巻一は、越後各地の案内に始まり、雪国の一年を正月から概説していく。巻二以下、雪国の一年の詳細を多様な逸話・記録・考察によって描いていく。正月の様子から書き起こし、春から夏へ移るところで二編は終わっている。そのため、夏以降の様子を三編・四編として発刊する構想があったと考えられているが、1842年の牧之の死により本作品は二編までで完結した。
本書は全編を通して、雪国の生活が「暖国」ではまったく想像もつかないものであることを何度も強調している。確かに好事家の目を引く珍しい風習・逸話が数多く載せられているが、この作品のテーマは雪国の奇習・奇譚を記録することにとどまらず、雪国の人々が雪との厳しい闘いに耐えながら生活していること、そして、郷土のそうした生活ぶりを暖国の人々へ知らせたい、という点に求められる。 以上の点から、本作品は雪国越後の貴重な民俗・方言・地理・産業史料と位置づけられている。
出版までの経緯​
牧之が最初に本書の出版を期したのは、文化年間ごろ(1800年代、牧之30代の頃)とされている。縮みの仲買商人である牧之は江戸へ行く機会も多く、何人かの文化人と面識があった。田舎住人の自分では出版不可能と考えた牧之は、知己の関係にあった在江戸の文人山東京伝の協力の下に出版する計画を立てた。京伝も協力的であったが、前例のない著作であるため、費用の問題で出版を引き受ける版元が現れず、計画は沙汰やみとなった。そこで牧之は曲亭馬琴に相談し、馬琴も出版計画に乗り気であったが、京伝との関係悪化を懸念して、出版には至らなかった。
出版をあきらめきれない牧之は、1807年(文化4年)、大坂での出版を目論み、話は順調に進んでいたが、仲介者の死によって振り出しに戻った。さらに1812年(文化9年)、江戸での出版を計画したが、同じく仲介者の死によって計画断念に追い込まれた。京伝が1813年に没すると、牧之は再び馬琴に協力を依頼した。馬琴は出版に前向きであったが、自身が大著『南総里見八犬伝』に取りかかっており、何年経過しても牧之の出版計画は全く進まなかった。そのうち、京伝の弟山東京山が牧之へ協力を申し入れたが、馬琴が原稿を返却しないため、牧之は再度執筆する羽目になった。
1836年(天保7年)、出版準備のため、京山が越後塩沢の牧之の元へ訪れた。そして翌1837年(天保8年)、最初の構想から30余年にしてついに『北越雪譜』が出版された。売上げ700部を超える当時の大ベストセラーとなり、世の読者・書店の要望を受けて1841年(天保12年)に第二編が出版された。牧之は以後の続刊を期していたとされるが、翌1842年(天保13年)5月に牧之が没し、二編で完結することとなった。
牧之の著作ではあるが、出版時に京山が加筆修正しており、そのため「鈴木牧之編撰・京山人百樹刪定」として出版されている。中には牧之の記述について、雪国を知らない京山が「大袈裟だ」として書き改めた箇所もあるが、今では牧之の記述の正しいことが明らかとなっている。ともあれ、この書の版元は幾度か変わったが、木版本は明治末年まで出版され、活字本は1936年岩波文庫から出版されている。 
●鈴木牧之
[すずき ぼくし、明和7年(1770) - 天保13年(1842)] 江戸時代後期の商人、随筆家。幼名は弥太郎。通称は儀三治(ぎそうじ)。牧之は俳号。屋号は「鈴木屋」。雅号は他に「秋月庵」「螺耳」など。父は鈴木恒右衛門(俳号は「牧水」)、母はとよ。
明和7年(1770年)越後国魚沼郡の塩沢(南魚沼郡 塩沢町→南魚沼市)で生まれる。鈴木屋の家業は地元名産の縮の仲買と、質屋の経営であった。地元では有数の豪商であり、三国街道を往来する各地の文人も立ち寄り、父・牧水もそれらと交流した。牧之もその影響を受け、幼少から俳諧や書画をたしなむ。
19歳の時、縮80反を売却するため初めて江戸に上り、江戸の人々が越後の雪の多さを知らないことに驚き、雪を主題とした随筆で地元を紹介しようと決意。帰郷し執筆した作品を寛政10年(1798年)、戯作者山東京伝に添削を依頼し、出版しようと試みたが果たせず、その後も曲亭馬琴や岡田玉山、鈴木芙蓉らを頼って出版を依頼するが、なかなか実現できなかった。
しかしようやく、山東京伝の弟山東京山の協力を得て、天保8年(1837年)『北越雪譜』初版3巻を刊行、続いて天保12年(1841年)にも4巻を刊行した。同書は雪の結晶、雪国独特の習俗・行事・遊び・伝承や、大雪災害の記事、雪国ならではの苦悩など、地方発信の科学・民俗学上の貴重な資料となった。著作は他に十返舎一九の勧めで書いた『秋山記行』や、『夜職草(よなべぐさ)』などがある。また画も巧みで、馬琴に『南総里見八犬伝』の挿絵の元絵を依頼されたり、牧之の山水画に良寛が賛を添えられたりしている。
文筆業だけでなく、家業の縮の商いにも精を出し、一代で家産を3倍にしたという商売上手でもあった。また貧民の救済も行い、小千谷の陣屋から褒賞を受けている。
天保13年(1842年)、死去。享年73。墓は新潟県南魚沼市の長恩寺。 
 
南魚沼市 / 新潟県中越地方に位置する市。平成の大合併により南魚沼郡の3町(六日町、大和町、塩沢町)が合併して誕生した。市役所は六日町におかれている。
塩沢町 / 新潟県の南部、南魚沼郡の町。2005年10月1日に南魚沼市に編入合併したため消滅した。周囲を2,000m級の山々に囲まれ、冬は降雪が多い。「塩沢産・魚沼コシヒカリ」と「スキー」が有名。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い南魚沼郡塩沢村が村制施行し、塩沢村が発足。1900年(明治33年)11月6日 - 町制施行し塩沢町となる。
地理 / 山: 巻機山、割引岳、金城山(ここまで3つは塩沢町編入前の南魚沼市との境界)、飯士山(湯沢町との境界)、古峰山、湯舟山、無黒山。河川: 魚野川、登川。
隣接していた自治体 / 新潟県 南魚沼市、十日町市、南魚沼郡:湯沢町。群馬県 利根郡:水上町。
・・・越後縮は江戸の都を中心に流布し、巾広い着用者層を得て隆盛をきわめたが、その生産形態は特異であった。
わが国、近世の織物業の、問屋制家内工業の方向に発展するのが一般的な傾向だった中で、越後縮布業は農家の婦女子の冬の農閑の副業であり、多くの場合、必嬰な青苧・の代金を借りおいて、自ら絞み撚り、織りあげて換金した上で、その代金を支払うという殆どまとまった資金を必要とすることのない零細な家内工業であった。
当時の様子は天保八年刊の鈴木牧之の『北越雪譜』に次のように記されている。「織物を専榮とする所にては織人を抱へおきて織するを利とす。縮においては別に無き一国の名産なれども、織婦を抱へおきておちする家なし」(中之巻「織婦」)。そして三都呉淑問屋の集る四月の市日には、半年あまりの辛苦の末繊り上げた縮を「遠近の村々より男女をいはず所持のちぢみに名所を記したる紙籏をけて市場に持ちより、その品を買手に見せて売買の値段定まれば鑑符をわたし、その日市はてて金に換う」(下之巻「縮の市」)こととなる。したがρて、縮布はたしかに商品としてつくられていたけれども、賃機制度などのシステムにのった雇傭労働力によって生産されたものではなく、あくまでも農村の婦女子達の主体酌准意志によって個々別々に織られたものであった。
越後縮発展の起因を説いたものに次のまうな文がある。
雪中に籠居婦女等が手を空くせざるのみの活業なり (『北越雪譜』中之巻「織婦」)
単に利益の為に労役に服するにあらずして冬期婦女の空しく…遊食するを防ぐより起れる業なる (『北越機業史』)・・・
・・・すなわち縮織が問屋制家内工業に発展せずに「織入を抱えおきておらす家なし」のままでにすぎたのは、 「縮を一端になするまでに人の手を労する事かぞえ尽しがたし。なかなか手間に賃銭を当て算量事にはあらず」 (『北越雪譜』中之巻「織婦」)と採算の合わない仕事のためであったことがわかる。
それにもかかわらず「ちぢみは手間賃を論ぜざるものゆゑ」(『北越雪譜』中之巻「縮の市」)、 「製織の婦女子等は、其の損益を顧みず、精製の良品を出して」 (『北越機業史』一一九頁) 「利潤を超越して精進した」(『柏崎ちぢみ史』二三頁)とひたすら織ったのは何故であろうか。
・・・織女の想いを、女達自身の手になる文によって読みとることのできないのは残念であるが、 『北越雪譜』らによれば、当時の社会では技術の優劣は、嫁入り条件の善悪しとおきかえて考えていたようにみうけられる。
縮をおる処のものは、婆をえらぶにも縮の伎を第一とし容儀は次とす。このゆゑに親…たるものは、娘の幼より此伎を手習するを第一とす (中之巻「織婦」)
そして娘達は「或はその伎によりて婆にもらはんといはるる娘もあれぱ、利を次にして名を争ふ」であり、それを牧之は「かかる辛苦は僅の価の為に他人にする辛苦也」(中之巻「縮の市」)と批判している。しかし果して娘達は女としての商品価値を高めると云う受け身的な目的のために「利秘次にして名を争うた」のであろうか。・・・
・・・また、機おりの至極上手な女は貴重尊用の縮を織るための「御機屋」をもつことができた。それは次のような場所であった。
家の辺りにつもりし雪をもその心して堀すて、住居の内にてなるたけ姻の入らぬ明りもよき一間をよくノN清あ、あたらしき籠をしきならべ四方に由逸をひきわたし・その申央匹機を建る、是を御機屋と唱へて神の在がごとく畏尊ひ織人の外他人を入れず、織女は別火を食し、御機にかかる時は衣服をあらため塩垢離をとり、盟漱ぎことみNく身を清む。日毎にかくのごとし。 (『北越雪譜』中之巻「御機屋」)
そして「御機屋」をもつ女に対しては「他の娘らなどは今日は誰どのの御機屋を拝にまゐるなどやうにいふ也。至極上手の女にあられば此おはたやを建る事なければ、他の婦女らがこれを羨事、比論ば階下にありて昇殿の位をうらやむがごとし」であった。極品の銚物が「其品に能熟したる上手をえらび、何方の誰々と指にをらるるゆゑ」、女達は「そのかずに入らばやとて各々伎を励み」、「誰がおりたるちぢみは初市に何程に売たり、よほど手があがりたりなどいはるるを誉とし」て市日になると、半年あまり辛苦した縮をもって「兵士の戦場にむかふるがごとし」 (『北越雪譜』中の巻「縮の市」)と勇んで出かけたにちがいない。・・・
・・・牧之はその下品な縮用の夜紆績みの存在をあえて隠そうとしているが、おそらく女達には恰好の公認の娯楽場であり・不揃の委績みながら日ごろの欝憤をはらしあったのではないだろうか。それがまた明日の機織に向うための新たな活力を養っていったのではないだろうか。
勿論、夜紗績みは、裏がえしてみれぱ女に昼・夜兼行の労働が課せられていたことの一つの証拠でもある。 「バサ(姑)は糠火で八反、アネサ(嫁)はタレの陰で九反」と、特に薄暗いタレ(藁か菅で編んだ間仕切り)のかげに坐って績んでいた嫁の立場は、現代の我々の想像をこえるものかもしれない。越後縮にまつわる幾つかの悲話の原因もそこにあったかもしれない。
しかし発狂や自殺の語りの中には往々にして縮に対する執念が感じとれる。
ひとっせある村の娘、はじめて上々のちぢみをあつらへられしゆゑ大よろこび、金匁を論ぜず、ことさらに手際をみせて名をとらばやとて、績はじめより人の手をからず丹精の日数を歴て見事に織おろしたるを(中略)いかにしてか匁ほどなる煤いろの紐あるをみて、母さまいかにせんかなしやとて縮を顔にあてっ斐倒れけるが、これより発狂となり。 (『北越雪譜』中之巻「織婦の発狂」)
そして生活の慣習さえ律している。『越の山都登』には「ここのな与ひにて女の歯をそむることは男をもちて三日にあたる日はしめて鉄漿をふくミはを黒うすれと阿くる日よリハまた白うして染ることなし」とあり、また髪に油をつけず、眉毛も剃らず、に縮織のために備えていた。
女達は、より美しい縮を織るために精根を傾けていた。その美的観点には問題があるかもしれない。しかし織女達は自らの尺度で、その時代の最高の美を求めていたことにはちがいない。縮布のために努力し、そしてまた縮布のために祈った。村々の鎮守神に奉納してある奉掛の、入念に織られた精緻な耕には、女達の織布美への熱意が如実にあらわれている。
我が稚かりし時−におもひくらべて見るに、今は物の模様を織るなど錦をおる機作にもをさノ〜劣ず、いかやうなるむつかしき模様をもおり、縞も飛白も甚上手になりて種々の奇工をいだせり。機織婦人たちの伶倒なりたる故ぞかし。 (『北越雪譜』中之巻「越後縮」)・・・
・・・江戸時代の農民は社会の下層部でひたすら働かなければならなかった。しかし、越後は雪国であり特に縮の主産地魚沼郡は秋雪期間が長かった。牧之の言葉を借りれば、「凡日本国中に於て第一雪の深き国は越後なりと古昔も今も人のいふ事なり。しかれども越後に於も最雪のふかきこと一丈二尺におよぶは我住魚沼郡なり」(『北越雪譜』一之巻「雪の元旦」)、 「風雪九月末より降はじめて雪中に春を迎、正二の月は雪尚深し。三四の月に至りて次第に解、五月にいたりて雪全く消て夏道となる」 (上之巻「雪蟄」)であった。いずれにしても、その長い冬の間は農家の主業である耕作は勿論不可能で、縮織はその期間、農村の女達がいたずらに無為に日を過すことの・ないようにはじめられた慣習という。
歴史の古い越後の麻布が「越後縮」となったのは、俗説によれば宙抑文年間の堀次郎の功拙腿で・あるが、元緑頃(一六八八〜)から「本丸御用縮」の指定地となって発展し、その最盛期の安永〜天明期(一七七二〜一七八九)には年間二十万反位も産出している。果ししてその生産量が全て冬の農閑期に織り得たものであろうか。
宝歴五年(一七五五)の『越後国魚沼郡村村様子大概書』をみると、記載二九四ケ村中、二入○ケ村は「農業之外稼」に女の縮織があり、文化二年(一八〇五)の『十日町組地誌書上帳』によれば記載項目のある十七ケ村の全部が「女之稼は縮織出申候」で、そのうち十日町村を含む三ケ村は「年申縮織出申候」となっている。
たしかに初期においては農耕不能な冬期間の仕事であっただろうが、次第に四季を問わず生産する村のでたことは、片貝村(現在は小千谷市)の庄屋の記録『屋勢可満戸』からもあきらかである。・・・
・・・当魚沼郡村々之義は深山多く谷間之村立二て、他郡と違ひ、御田畑少く土地不相熟、人家人別多く、殊二雪国一毛作故、男女共ニ農業専らニハ難相励、夫喰乏しく候故、御年貢米之内三分一金納、外品々之難儀二て御救石代納二て買請仕、相凌居候義二候処、右代金連も外二可取入品とてハ無之、土地産之縮布専ら二有之候  (「御相談書」)・・・  
 

 

●北越雪譜 鈴木牧之 2

 

初編巻之上
○地気が雪となる:天地と雪の関係
○雪の形状:雪の結晶と顕微鏡図譜
○雪の深浅:暖地と雪国の評価の差
○雪模様:嶽廻(たけまわり)・海鳴り・胴鳴り
○雪の用意:屋根の修理・廊架(ろうか)・食糧
○初雪:長期間の苦の始め
○雪の推量(たかさ):降雪量合計54 メートル
○雪竿:雪の深さを測る装置
○雪を掃う:除雪の苦労
○沫雪(あわゆき):ふわふわで扱いやすく時に扱いにくい
○雪道:交通の苦労
○雪蟄(せっきょ、ゆきごもり)
○胎内潜:雪の中の往復
○雪中の洪水:何故起こるか。その時期
○熊を捕る:手法各種と困難と
○白い熊
○熊が人を助けた話:50 日間の同居
○雪中の虫
○吹雪(ふぶき)の難:赤子だけの生存・凍傷の治療法
○雪中の火:天然ガスの発見
○破目山(われめきやま):隙間だらけの岩石の山
○雪頽(なだれ:雪崩):結晶が六角で雪崩は四角の理由
●地気が雪となる:天地と雪の関係
いったい、空から形を作って落下するものというと○雨 ○雪 ○霰 あられ ○霙 みぞれ ○雹 ひょうがある。
露は地気が固まったもの、霜は地気の凝結したもので、冷気の強弱で形が異なる。
地気が天に上り、形となって雨○雪○霰○霙○雹となるが、その際に温かければ水になる。水は地の全体だから元の地に帰るのだ。地中の深いところには必ず温かい気があって、それが地温で地面はその温かい気を吐き出して天に向って上る。この関係は人の呼吸と似て、昼夜片時も絶えることがない。一方、天も気を吐いて地に下すので、これが天と地の呼吸である。この点、人間の呼吸に似ており、天地も呼吸して万物を育むものである。天地の呼吸が不順になると、暑寒が時期どおりに起こらず、大風大雨などさまざまな天変地異が発生する。
天には段が九つあって、これを九天といふ。九段の内で、地にもっとも近い所を太陰天という。地上から高さ四十八万二千五百里(193 万キロ)だという。太陰天と地との間に境界が三ツあり、天に近いのを熱際といい、中を冷際といい、地に近いのを温際といふ。地気は冷際が限界で熱際までは届かず、冷際と温際の二段は地表からの距離はあまり遠くない。富士山は温際を越えて冷際に近く、絶頂には温かい気が届かず草木は生えない。夏も寒く雷が鳴り、暴風雨を温際の下に見る。雷と夕立は温際の起こすものである。
雲は地中の温かい気から生じる物で、その起る形は湯気に似て、水を沸かして湯気が起るのと同じである。水が温なる気を得ると天に昇り、冷際まで到達すると温なる気が消えて雨になるが、この状況は地上で湯気が冷えて露となるのと同じである。冷際まで到達しなければ雲は散ってしまい雨にならない。
さて、雨露の粒の源は天地の気の中にある。草木の実が円形なのも気中に生じるからである。雲は冷際に達して雨となろうとする時、天の寒気が強い時は雨は氷の粒となりて降ってくる。天の寒気の強と弱によって粒の大小が異なり、霰(あられ)になり霙(みぞれ)になる。
雹(ひょう)は夏のものだが、説明はここでは省こう。地の温度が極端に低い場合、地の気は形をつくらないまま天に昇る。わずかに温い湯気の場合と同じである。天の曇りがこれにあたる。地気がどんどん上ってそれが多い時は、天は灰色になって雪が降りそうになる。雲らしい雲は冷際に達して、そこから雨になる。この時、冷際の寒気が強いと氷を溶かす力が不足して花粉状のまま降ってくるのが雪である。地表でも寒気の強弱で氷がある時は厚くある時は薄いのと似ている。天に温冷熱の三際があり、人でも肌は温で、肉は冷で、臓腑は熱なのと同じ道理である。気中万物の生育はずべて天地の気格にしたがうのだから当然だ。これは私の発明ではなく、多数の書に載っている昔の人の意見である。

地上から高さ四十八万二千五百里(193 万キロ):どういう根拠か不明。実際の数値と比較すると、月までの距離が37 万キロで、金星や火星は4〜5 千万キロ、太陽が1 億5 千万キロである。一方、温際・冷際・熱際の三つに分ける際、富士山は温際でなくて冷際だというので、温際はせいぜい2、3 千メートルを考えている。熱際に関しては記述がないが、どう考えていたのだろうか。著者は気象学や天文学に興味を抱いたようだが、実際に観測し測定した様子はない。
●雪の形状:雪の結晶と顕微鏡図譜
図 雪結晶図. 著者自身の観察ではなく、他の人の観察を写したとしている。訳註参照。
物を見る際、眼力には限界があり、限界の外は見ることができない。だから、人の肉眼で雪をみると一片の鵞毛のようだが、数十百片の雪花を併合して一片の鵞毛となるのだ。雪を顕微鏡で見ると、天の細工した雪の形状は、図の通り実に奇妙である。形が一通りでないのは、寒いところで雪となる時にその条件が一通りでないからで、雪の形も気に応じて違う。しかしながら、肉眼ではみえないほど小さいので、昨日の雪も今日の雪もただ見渡す限りの白いだけである。この図は天保三年許鹿君の高撰雪花図説にあり、雪花五十五品の内から写している。
雪は六角形に突出している。その本の説によると「およそ万物は方体つまり四角で、必ず八をもって一を囲むもので、円体なら丸である。雪のように六を以て一を囲むのは、定理中の定数をあなどってはいけない」云々。雪を六の花というのは、この説からわかる。私の推測だが、円は天の正象、四角は地の実位である。天地の気中に活動する万物は、すべて方か円である。例を挙げよう。人の身体は四角なようで四角ではないし、円いようで円くもない。これは天地の四角と円の間に育つ故で、結局天地の象から脱却することはない。この点は、子が親に似る点と同様である。雪が六角形なのは、物の基本は、偶数は陰で奇数は陽である。人の身体でも、男は陽なるゆえ凸の箇所が9 つある
両耳 両手 両足 男根
女は凸の箇所が10 である。男根がなく両乳がある。九は半(奇数)の陽、十は長(偶数)の陰である。
そうはいうものの陰陽和合して人となるのだから、男にも無用の両乳があり女の陰に似ており、女にも不用の陰舌があって男に似ている。
気中で活動する万物は、この理屈にすべて合致している。雪は生物ではないが、変化する所に活動の気があるから、六角形の陰が多く、ときに陽にあたる円形のもある。水は陰の極端な物質だが、一滴落とす時はかならず円形になる。落ちるところに活動の兆しがあるので、陰なのに陽の円の性質を失わない。天地の気中の機関定理が決まっている点は精妙で、私の筆では書きつくせない。

この顕微鏡図譜は著者のものではなくて、別の書籍からの引用である。原文は、「図は天保三年許鹿君の高撰雪花図説に在る所、雪花五十五品の内を謄写にす」とあり、この許鹿君(きょろくくん)は古河城主土井利位《としつら》)で、『高撰雪花図説』を1832 年(天保3 年)に発行している。土井利位は顕微鏡を所有して、雪の結晶を多数描いたらしい。最初に本書を読んだ時、「江戸時代に雪の結晶をみた人がいるのだ」と感激した。
「天の細工した雪の形状は・・・」の原文は「天造の細工したる雪の形状・・・・」で、この表現は中谷宇吉郎氏の「雪は空からの手紙」との記述を思い出させる。後半の雪が何故6 角かと人体の陰陽の説明は降参。
●雪の深浅:暖地と雪国の評価の差
左伝に(隠公八年)平地で1 尺(30 センチ)以上の雪を大雪というと書いてあるが、これは暖地での話である。唐の韓愈が、雪を豊年の良い前兆だといったのも暖国の理屈だ。いずれも中国の話だが、中国でも寒いところでは雪が八日間も降ると盆見五雑組に載っている。暖国の雪は一尺以下なら、山川村里立地に銀世界となり、雪がひらひら舞うのを観て花にたとえ玉に比べる。そもそも、眺めるなら美景を愛し、酒食には音律の楽を添え、画に写し詞につらねて賞賛するのは日本でも中国でも恒例ではある。いずれにせよ、雪の降ることの少ない土地での楽しみ方である。
越後のように毎年何丈(1 丈は3 メートル)もの雪を見ていると、雪が楽しいなどと言っていられない。雪のためにへとへとになり、金もかけていろいろと苦労するので、その点をこれから説明するからよく認識してほしい。

「左伝」。左氏伝ともいう。中国の古書「春秋」の注釈書の一つ。
●雪模様:嶽廻(たけまわり)・海鳴り・胴鳴り
この土地の雪模様は、暖国とは異なる。九月の半ばから霜が降りて、寒気が次第にきびしくなり、九月末になると冷たい風が肌をさして冬枯で木の葉は落ちてしまい、日光がまったく出ない状況が連日続く。これが雪の季節だ。
薄暗い天気が数日続くと、遠近の高山に白くなり雪が観えるようになる。この地の言い方で嶽廻(たけまわり)と言う。海のある所は海鳴り、山のふかい処は山が鳴り、遠雷のようだ。この地の言い方で、胴鳴り(どうなり)と言う。こんな様子が見え聞こえるようになると、間もなく里にも雪がくる。年の寒暖で時日は明確ではないが、たけまはり・どうなりは秋の彼岸前後で、毎年こんな状況だ。
●雪の用意:屋根の修理・廊架(ろうか)・食糧
雪の用意は前に言った通り、雪が降りそうな状況を推測し、雪に壊されないように屋根を直しておく。家の前の庇をこの地の言い方で「廊架(ろうか)」といい、これも直しておく。
他のにも居室に関係する所など、弱っていればすべて補修する。雪に潰されない用心である。庭の樹木も枝の曲げるべきは曲げて束ね、丸太や竹を杖として補強する。雪で折れるのを避ける狙いである。冬草の類は、菰(こも)や筵(むしろ)で包む。井戸には小屋を懸け、便所は雪中でも内容物を汲み出せるよう備えをする。雪では野菜ができないから、家族の人数分だけの食料を貯える。暖かいように土中に埋め込み、藁に包んで桶に入れて凍らないようにする。雪の用心に各種の処理が必要で、言葉には尽くせないほど多い。
●初雪:長期間の苦の始め
暖国の人が雪を鑑賞するのは、前に述べた通りである。江戸には雪の降らない年もあるから、初雪は格別に美しいと称賛し、雪見の船に芸者を乗せ、雪の茶の湯に賓客を招き、青楼(芸者屋)は雪を居続けの理由とし、酒亭は雪が降れば客の来る兆しと喜ぶ。こんな風に、雪を遊楽の種にする様は数知れない。雪を賞するのに赤い敷物で歓迎するのは、花を楽しむ季節が長いからだ。雪国の人からみると、こんなのは本当に羨しい。これに比べれば、雪国の初雪は苦そのもので暖国の雪とは雲泥の差である。
そもそも越後の国(新潟県)は全体として北方の陰地だが、越後の中にも陰陽がある。本来は、西北には天が不足なので陰で、東南は地が足りないから陽である。ところが越後の地勢は、西北は大きな海に面して陽の気で、東南は高山が連なって陰の気である。だから西北の郡村は雪が浅く、東南の村々は雪が深い。陰陽が入れ替わって反対になっている。私が住む魚沼郡は東南の陰の土地で、南に次の山が連なる。
○巻機山(まきはたやま) ○苗場山(なえばやま) ○八海山(はっかいさん)
○牛が嶽 ○金城山 ○駒が嶽 ○兎が嶽 ○浅草山
この他にも、他国には知られていない山々も加わって波濤のごとく東南に山脈をなし、大小の河川も縦横に流れて、陰気充満して山間の村落だから雪深いのである。冬は太陽が南の方を傾いて回るから、北国は本当に寒い。家の中でも、北は寒く南は暖かいのと同じ理屈である。
この土地で初雪がくるのは、年によって遅速があり気象と寒暖で違う。初雪は、だいたい九月の末から十月の始めである。この地の雪は鵞毛のように大きくはなく、降雪時はかならず粉雪で、しかも風がこの傾向を助長する。よく積る所では、一昼夜に六七尺(1.8〜2.1 メートル)から一丈(3 メートル)に及び、大昔から今までこの国で雪が降らなかったことはない。暖国の人のように初雪を観て吟詠や遊興を楽しむなど夢にも思わず、今年もまたこの雪の中で生きるのかと雪を嘆き、辺境の寒国に生れた不幸を悔やむ。雪を観て楽しむ人たちが、花の豊かな暖地に生きている幸運は実に羨やましい。
●雪の推量(たかさ):降雪量合計54 メートル
隣村六日町に住む俳友である天吉老人の話で、妻有(つまあり)庄(新潟県十日町市、津南町)に旅行した頃に聞いたことで、千隈川(千曲川)の辺の風流人が、初雪から十二月二十五日(天保五年)までの間、雪の降る毎に用意した物差しで深さを量ったら、合計が十八丈(約54m)にもなったという。この話は雪国の者でも信じがたいと思うが、考えてみると、十月の初雪より十二月二十五日まで約八十日間に五尺(約1.5m)ずつ雪が降れば、計算上は二十四丈(約72m)にもなる。下から溶け一部は除雪するので、実際にそれだけ深くはならない。それに地面にあるうちに減る。あれこれ考えて、この土地の深山幽谷で雪の深いのは事実だが測定はむずかしい。天保五年(1834)は、この土地では近年の大雪だったから、これは作り話ではない。
訳註:著者の塩沢も六日町も上越線沿線である。一方、十日町と津南町は信濃川本流の山側(右岸)で、鉄道では飯山線沿線で特別に雪深いところである。
●雪竿:雪の深さを測る装置
高田のお城の広場に、木を四角く削って目盛りをつけて建ててある。雪竿と言い、長さは一丈(3 メートル)である。雪の深浅が、租税に関係するからだろう。高田の俳友の楓石子の手紙に、天保五年の仲冬(11 月)に、この雪竿を見ると、この地の雪はその頃で1 丈を超えていたと伝えている。
雪竿は越後のこととして俳句にもあるが、高田以外に雪竿を建てる処は、昔はあったかも知れないが、越後でも今はない。風雅人も、この土地を旅する方々は、雪の季節を避けて夏にやってくるので、越路の雪のことを知らない。だから、越路の雪を話にする場合、意味を取り違えることがあり、土地の人からみると笑止千万なことも多い。

高田は地図の上では海に近いが、雪は異様に深い。「旅人が夏の越後しか知らない」とは、本書で何個所にも出てくる注釈である。
●雪を掃う:除雪の苦労
図 この絵は4 つのものが集まっている。除雪の絵が2つと雪の歩行具の絵が二つである。後者は第2 編にもっとわかりやすい大きな絵がある。
雪を掃うのは、落花をはらうのに対応して、風雅の一つとして日本と中国で詩や歌に多数詠われている。しかし、こんな大雪では除雪は風雅どころではない。初雪が積ったのをそのままにすれば、次が降ってすぐに雪が一丈(約3m)以上にもなるから、降ったらすぐ除雪しなくてはならない。
降雪がわずかなら、除雪は次に降るのをまつこともある。除雪をこの地の言い方で、雪掘(ゆきほり)と言う。土を掘るのと似ているからこう呼ぶ。掘らないと家の出入り口が塞がれ人家が埋って出入り不能になる。いくら頑丈な家でも、幾万斤(1 斤は約600 グラム)というの雪の重量で押し潰されると大変だから、どの家も除雪する。除雪には、木で作った鋤を使う。土地語では「こすき」と呼び、木鋤である。椈(ぶな)の木で作り、木の質が軽く強くて折れにくい。形は鋤に似て刃は広い。雪中で使うのに一番重要な用具で、山地の人が作って里に売り、家毎に備えておくのが普通で、雪を掘る様子は図に描いた通りである。掘った雪は空地の人の通行を妨げない処へ山のように積み上げ、この地の言い方で掘揚(ほりあげ)と言う。
大きな家では自宅の人だけでなく除雪人を傭い、幾十人の力を合わせて一挙に掘ってしまう。急いで行うのは、除雪しないままで再度大雪が降ると動けなくなり、手に負えなくなるからである。雪掘りの図には人数は省略して描いた。大家の場合はそうだが、小さな家で貧しい場合は除雪の人夫をやとう費用が乏しいから、自力で男も女も一家総出で雪を掘る。どこでも雪が深いところは皆そうする。雪に力をつかい、費用もたっぷりかけ、一日中かけて除雪したところへ、その夜大雪が降って夜が明けて見ると元と同じになる。こんな時、主人はもちろん、使用人まで頭を下げて歎息をつくだけだ。雪が降る度に除雪するのを、この地の言い方で一番掘二番掘と言う。
●沫雪(あわゆき):ふわふわで扱いやすく時に扱いにくい
春の雪は消やすく沫雪(あわゆき)と呼ぶ。日本でも中国でも、春の雪は消えやすい点を詩や歌の材料にしている。しかし、これも暖国のことで、寒い土地では冬の雪を沫雪と呼ぶ。冬の雪は、どんなに積もっても凍って固まらず、やわらかくて扱いやすい。冬は橇(そり)と縋(カンジキ)をつかって往来する。この地の言い方で、「雪を漕ぐ」と言う。水の上を船で渉る様子に似ているからで、深い田を進む姿にも似ている。ところが初春になると、雪が凍って雪の道は石を敷いたように硬くなり、交通は冬よりむしろ易しい。すべらないように下駄の歯にくぎをうって歩く。暖国の沫雪とは、意味がまったく違う。
●雪道:交通の苦労
冬の雪はやわらかく、人の踏み固めた跡なら歩きやすいが、旅人が一晩宿泊した時に大雪が降ると、踏み固めた一条の雪道も雪に埋まって見えず、野原では方向がわかりにくい。こんな時は里人を幾十人か傭い、そりやカンジキで道を踏み固めて貰って後について行く。多額の費用がかかるから、貧しい旅人は他の人が道を開くのを待って空しく時間を過ごすこともある。健足の飛脚でも、雪道を行くのは一日せいぜい10 キロ前後に過ぎない。カンジキを履いても足の動きは不自由で、雪が膝を越えるほど深いから、冬の雪の艱難の一ツである。
春になると、雪は凍って鉄石のようになり、雪車(雪舟とも書く、そり)を使って重いものも運べる。里人は雪車に物をのせ、自分も乗って雪の上を舟のように通行する。雪では牛馬は役立たず雪車を用いる。雪車(橇)は重いものの運搬には、牛馬より優秀である。雪車の作り方は別に記述する。形は大小さまざまで、大きいのを修羅といい、雪国では最高に便利な用具である。ただし、雪が凍っていないと使用しにくく、だから里人は凍った雪の状況を雪舟途(そりみち)と呼ぶ。

修羅:元来は「阿修羅」つまり闘争の神のこと。ここでは大型の橇のこと。
●雪蟄(せっきょ、ゆきごもり)
雪は九月末から降りはじめて雪の中で正月を迎え、正月と二月には雪はまだ深い。三月四月になって雪が次第に融け、五月になると雪は完全に消えて夏道になる。もっとも、寒暖で遅速がある。四五月になると春の花が一斉にひらく。したがって、雪中の生活がほぼ八ケ月で、一年の間に雪のない季節は僅かに四ケ月だが、完全に雪の中にこもるのは半年である。家や周囲の造りはもちろん、万事に雪の処理を主目的とし、費用もかけることは文章には書ききれない。農家は、夏の初めから秋の末までに五穀を栽培して収穫するから、稲刈りが雪の季節にずれこむことがある。大変に忙しくて苦難が多く、暖国の農業に比較すると大変である。
雪国に生れ育った者は幼時からこんな雪の中で成長するから、雪をとくに大変とも思わない。木の中の虫が辛いと思わないようなものだ。暖地の生活がいかに気楽か、味わったことがない故である。女はもちろん男でも同じで、住めば都という通り、華やかな江戸で何年も奉公した後に雪国の故郷に帰る割合は、十人に七人くらいいる。中国の故事や漢詩にもある通り、故郷が忘れられないのは世の常である。
雪中では江戸でいう軒下に、萱で編んだすだれをかけておく。吹雪をふせぐためである。窓にもこれを使用する。雪がふらない時は巻き上げて明るくしておく。雪が降ると、積もって家が埋まり雪と屋根が同じレベルになり、明かりが入らなくなり、昼でも夜のように暗く、燈火を点けて家の内は昼と夜がわからない。雪が止むと除雪して僅かに小窓をひらき、外の明りいれる時、光明が光り輝いて仏の国に生れた気持ちになる。雪に降り込められる苦難は他にもいろいろだが、あまりくどいから書くのを止める。
鳥や獣は雪の中では食糧が乏しいので雪の少ない土地へ移動するものもいるが、必ずそうとも定まってはいない。雪の中に籠って毎日を暮らすのは、熊と人間である。

五穀:米・麦・粟(あわ)・豆・黍(きび)・稗(ひえ)などで、土地によってどれを呼ぶか差がある。また5 種類と限らず「穀物類」の意味にも使う。故郷が忘れられない:外国に長期間住んだ後に、最終的には帰国して日本で暮らし仕事についている例も多い。ここを読みながら、そういう人たちを思った。自分自身もそんな気持ちに無関係ではない。
●胎内潜:雪の中の往復
図 タイトルは「驛中雪積之図」で、驛(駅)は宿場のこと。除雪の様子だが、むしろ除雪して高く積んだ様子である。
家の前に庇(ひさし)を長くのばして、宿揚をつくる、人家はすべてこうする。雪の最中はもちろん、雪のないときも庇の下を往来する。宿揚を往来すると、街道自体は使い道がないので、除雪した雪を街道に積む。これが次第に高くなり両側の家の間に雪の堤を築いたようだ。そうなると所々に雪の洞をひらき、道の向かい側にいくには雪のトンネルを使う。これを土地の言い方に胎内潜という、また間夫とも言う。間夫とは、金採掘の人が使う方言を借りた言い方である。本義は、妻や妾が他の男と通じることをいう。
部落の外で家が続いていないと庇がないから、ここでは高低になっている雪の堤を往き来する。到底歩けない箇所があれば何とか道を一本開き、春になって雪が固まると高い所へは階段を作って通路に使う。形は梯子のようだ。住んでいる者たちは登り下りに慣れているから、踏み外すことはない。他国の旅人などは怖る怖る歩くから、かえって落ちて雪の中に埋まってしまう。それを見て人は笑い、落ちた当人は怒る。
こんな難所を作るのも、他国の人に意地悪しているわけではない。除雪には人手も費用もかかるから、とりあえずは壇を作って途を開くのである。そもそも初雪から正月を越えて雪が消えるまでのことを詳細に記そうとすれば、小さな本では済まない。だから適当に省いて記述しないこともかなり多い。

間夫:普通は既婚女性が他の男性と通じることをいう。ここの意味は不明だが、トンネルを通る様子を「こっそり通う」意味を暗示すると解釈しよう。
●雪中の洪水:何故起こるか。その時期
図 雪中洪水之図である。苦労している人物が何人も描かれている。
大小の川に近い所では、初雪の後に洪水に苦しむことがある。洪水のことを、この地方の方言で水あがりと言う。一年前に関という隣駅の親族油屋の家に私が泊まった時、十月のはじめで雪が3m ほどつもったところ、夜半になって近隣の人たちが叫んで呼び合いながら騒いでいる声に目を覚ました。どうしたのかと、寝ていた部屋から出ると、家主が両手に物を提げ、水あがりだから早く裏の雪山に避難して下さい、と言い捨てながら持物を二階へ運んでいた。
台所に出て見ると、家中の男女が狂気のごとく走りまわり、家財を水に流されまいと手当り次第に移動している。水は低いところをめがけて潮のごとく流れ、すでに部屋にも流入し庭は満杯である。その辺は全部雪と水だらけで、暗夜を照して水の流れる様子の恐ろしさは喩えようもなかった。私は人に助けられて高所に逃げ、そこから宿場を眺めていたが、人々が提灯や松明を灯し手に除雪用の木鋤を持ち、雪を越え水の流れをわたって声をあげていた。水揚のない所の者たちが集まって、川筋を開いて水を落そうとしている。闇夜で姿は見えなかったが、女子供の泣き叫ぶ声が遠く近く、聞くもあわれである。燃え残った松明一ツをたよりに人も馬も首まで水に浸り、流れをわたってゆくのは馬を助けたいからである。女性が帯もしないで小児を脊負い、片手に提灯を提げて高いところへと逃げのぼる様子が、たまたま近くからはっきり見えたが、命と引き換えだから恥しいなどとは言っていられない。可笑しいこと、可哀想なこと、怖いこと、種々さまざまで文章には書ききれない。明け方になって、ようやく水も川に落とせたといって人々は何とか安堵した。
そもそもこの土地の雪中の洪水は、大抵は初冬と仲春(陰暦2 月)とに発生する。この関という宿場は左右人家の前に一筋ずつの流れがあり、最後は魚野川へ落ちる。この流れは、夏の酷暑でも止まらない清流である。だから各家はこの流れをつかって井戸の代りとし、しかも桶でも汲める流れだから、平日の使用には井戸よりずっと便利である。ところが初雪の後十月のころまでに、この二条の小川が雪で埋まってしまい、流水は雪の下になる。そこで家毎に汲むのに便利なように、雪に穴を開けて水をとれるようにしている。この穴も一夜の雪で埋まってしまうと、また穴を開け直す。人家に近い小川でさえこうだから、この二条の小川の水源が雪に埋れると、水がつかえないだけでなく、増水のおそれがあって、付近の人たちは力を併せて流れの合流点で雪に穴をあける。そうはいっても、各人が仕事にかかずらわって時期を失し、または一夜の大雪が水源を一挙に塞ぐと、水が溢れて低い所を狙って流れる。宿場は人の往来の為に雪を踏んで低いから、水が流れて溢れて人家に入り、水難に遭うわけで、それが前述の事件である。何百人の力を尽して水の道をひらかないと、家財を流し溺死することもある。
一方、仲春の洪水発生は大抵春の彼岸前後である。雪はまだ消え残り、山々も田圃も一面に広々とした雪面で、支流の川は雪に埋もれ水は雪の下を流れ、大河でも冬の初めから岸の水がまず凍って、その氷の上に雪がつもり、つもった雪がまた凍って岩のように固くなり、岸の凍った端から次第に雪がつもり、終には両岸の雪が合して陸地と同じ雪の地面となる。
春になって寒気が次第に和らぎ、暖気につれて雪も降り止んだ二月頃、水面に積った雪が下から解けて凍った雪の力も水に近いところは弱まり、流れが雪で塞がれて狭くなっているところへ水勢が烈しく、陽気の加減で雪の軟かいところで下を潜り、堤のきれたように、寝耳に水の災難にあう。
雪中の洪水は寒国の艱難で、暖地の人は憐れんでほしい。ここでは、そうした例を一つだけ述べた。雪中の洪水は地勢によって種々様々で、詳しくは論じられない。

コメント:この項目は実体験の部分があり、なかなかの迫力である。
●熊を捕る:手法各種と困難と
図 熊を捕獲する絵で、二つの絵に1 頭ずついるようだ。
越後の西北は海に面して高い山はない。東南側には険しい山が連なり、越中・上州・信濃・奥州・羽州の五か国にまたがり、高い山が肩を並べて数十里にもなり大小の獣が数多く住んでいる。この獣類は、雪の時期になると雪を避けて他国へ去るものと去らないものがあるが、まったく動かず雪の中の穴で暮らすのは熊だけである。熊の胆は、越後産が上等とされている。雪の中の熊胆は、特に値段が高い。
その価値の高い熊を捕まえようと、春暖かくなって雪の降り止んだころ、出羽(山形県から秋田県)あたりの猟師が五人か七人で相談して、三四頭の猛犬をつれて米と塩と鍋をもち、水と薪は山中にあるのを使って、山から山へと越え、昼は猟をして獣を食糧とし、夜は樹根や岩窟を寝所とし、生木を焼いて寒さを凌ぎつつ灯火にも使い、着のみ着のままで何日も過ごす。頭から足先まで、全身に着る物はすべて獣の皮で作る。遠くから見る姿は猿のようで、顔だけが人間である。鎧を着て過ごすという言葉があるが、この人たちの生活は獣の革を着て過ごすのである。
彼らの狙いは、この土地の熊である。山中に入るとよい場所を見立て、木の枝や藤蔓で仮小屋を作って居所とし、犬をつれて四方に別れて熊を探す。熊が穴に居るとわかれば目印をのこして小屋にかえり、全員の力を合わせて熊を捕える。道具に使うのは柄の長さ四尺(1.2 メートル)ほどの手鎗か、山刀を薙刀(なぎなた)のように作ったもの、それに鉄砲や斧である。刃が鈍れば携帯する砥石で研ぐ。こうした道具も、獣の皮をつかって鞘にする。この者達は、春と言わず冬の時期から山に入るものもいる。
そもそも熊は和獣の王で、勇猛だが義を知る動物である。草木の皮や虫を食し、同類の獣を喰わない、田圃を荒らすことはせず、荒らす場合はよくよく食糧のない状況に限られる。詩経では、熊は男子のめでたい祥だと書き、また六雄将軍と名づけているのもこんな義獣の性格によるのだろう。夏は食をもとめる外に山蟻を掌中に擦着し、冬に穴倉に住む際はこれをなめて飢を凌ぐ。牝と牡が同じ穴にこもることはせず、牝に子がある場合は子と同じ穴にこもる。穴籠りは、大木が雪崩で倒れてくさった洞などを使うことも下にしるす。また、岩間の土穴などにも籠るが、熊の考えていることだからわからない。雪中の熊は、食糧を求めてうろつかないので、胆の性質がよくて功能が大きく、夏の胆に比すれぱ百倍である。この土地では、飴胆 琉珀胆 黒胆と唱え、色で分類する。琥珀を上等品とし、黒胆を下等品とする。偽物は黒胆に多い。
○熊を捕るにはいろいろな手法がある。熊の住む場所により捕えやすい方法を使う。熊は秋の土用から穴に入り、春の土用に穴から出ると言う。一説に、穴に入ってから穴を出るまでずっと眠っているというが、本当に見た人は居らず、信じるわけにもいかない。
沫雪の項目で述べた通り、冬の雪は軟かくて足場が悪い。熊を捕えるには雪の凍る春の土用前から、熊が穴から出ようとする頃が狙う時期である。岩壁の裾や大木の根などで静かに寝ているのを捕えるには圧という術を用い、これは天井釣とも言う。木の枝や藤の蔓で穴の近くに棚を作り、その端は地面に付けて杭に縛っておく。棚の横木に柱があって棚の上に大石を積みならべ、横木より縄を下げ縄に輪をつくって穴のところに置く。これを蹴綱と言う。この蹴綱に引き金の仕掛けがあり、石が落ちるように作る。完成したら、穴に向かって玉蜀やたばこなど熊が嫌うものを燃やして煙をだし、どんどん扇で煽いで煙を穴に送り込む。熊は煙にむせて怒り、穴を飛び出てくる。穴から飛び出る時に引き金に触れると、棚が落ちて熊は大石の下で死んでしまう。この方法は、手を下さずに熊を捕える最高のやり方で、もちろん熊の居場所が重要である。この方法では、樵夫も時に参加する。
熊を何頭も捕えて経験を積んだ剛勇者は、一連の猟師を熊の居る穴の前に待ち伏せさせ、自分がひろろ蓑を頭から被って洞窟に入る。「ひろろ」は山にある草の名で、蓑に作った時にふつうの萱製の蓑より軽いので、猟師が常用する。これを着て熊の穴にそろそろと這って入り、熊の後ろから蓑の毛を触れさせると熊はこれを嫌って前に進む。また後から蓑の毛を触らせる。熊はさらに前に進む。これを繰り返すと、終には熊が穴の口から出てくる。これを見たら、待ちかまえた猟師が手練の鎗や刃物で仕留める。最初の一撃に失敗すると、熊の反撃で命を失う危険もある。そんな危険を冒して熊を捕えるのは、僅かな金の為である。金銭慾が人を過たせる危険は、色慾よりも多い。だからこそ黄金はしかるべき方法で入手すべきで、変な手法で手に入れてはならない。
熊によっては、上に覆いがあってその下には雪が積もらない場所で、土に穴を掘ってこもる場合もある。たとえば、三尺から五尺(0.9〜1.5 メートル)もの雪の吹きだまりでそうする。熊の穴の雪にはかならず細い孔があって管になっており、熊が呼吸して雪が解けている孔である。猟師がこれを見つけると雪を掘って穴の一部を露出し、木の枝や柴の類を穴に挿入すると熊は掻きとって穴にとりこもうとする。こんなことを繰り返すと、孔がふさがって熊が穴の口に出てくるので、そこを鑓でやっつける。突いたと見ると、数疋の猛犬が一斉に飛びかかって噛みつく。犬は人に頼り、人は犬に頼って熊を屠殺する。このやり方は、木の空洞にこもっている熊にも採用する。

詩経:中国の詩集。孔子の編纂という。
●白い熊
熊が黒いのは、雪が白いのと同様に定まっているが、自然は時に白い熊を生み出す。天保三年辰(1832 年)の春、私が住む魚沼郡の浦佐宿から少し離れた大倉村の樵夫が八海山に入った時、どうやってか白い児熊を捕まえた。珍しいので飼っていたところ、香具師(江戸にいう見世物師の古風なもの)がこの子熊を買って、市場や祭りなど人が集まる所へつれてきて見世物にしていた。私自身もある所で見たが、大きさは犬くらいだが姿は完全に熊で、毛が白くて雪のようで光沢があってビロードのようで眼と爪が紅であった。人に馴れてなかなか可愛かった。あちこち持ちあるいていたが、最後はどうなったか知らない。白亀の改元、白鳥の神瑞、八幡の鳩、源家の旗などすべて白で、日本では縁起のいい象徴で、自然が白熊を作り出したのも、世の中に平和が続くようにとの兆しだろう。
山家の人の話で、熊を二三疋殺すと、あるいは年をとった熊では一疋でも殺すと、その山はかならず荒れるので、山で働く人たちはこれを熊荒れと呼んでいる。この故に、山村の農夫は自ら進んで熊を捕えることはしない、という。
熊には霊気があると古書にも載っている。

白い熊:原典のタイトルは「白熊」である。といっても北極熊ではなく、アルビノつまり突然変異で黒い色素を作れずに白くなったふつうの月の輪熊で、記録は他にもある。他の動物にもあり、本書にも白いカラスが登場する。
●熊が人を助けた話:50 日間の同居
図 熊に助けられた話の情景。右上は話している老農夫と紹介の主人と著者。主部は熊が木樵(洞穴から顔を出している)を先導しようとしている様か。
人が熊の穴に墜ちて熊に助られたという話はいろいろな本に載っているが、それを実際に体験した人の話が珍しいので記しておこう。
若い頃、妻有(つまあり)の庄(魚沼郡の内にある)に用があって2、3 日逗留した。季節は夏で、客室の庭の木かげに筵をしいて納涼していた。主人は酒好きで酒肴をこの場所に取り寄せ、私は酒を飲まないので茶を飲んで居た。そこへ、老夫が一人やってきて主人をみて丁寧に挨拶して向こうへ行こうとしたのを、主人が呼びとめて老夫を指して言うには、この男は若い頃に熊に助けられた経験があり、危ないところで命をたすかって今年八十二歳まで元気に長生している見事な老人である、知りあっておいてくださいと言う。老夫はにっこり笑って、再び退去しようとした。それをよびとめて、熊に助けられたとは珍ずらしい、是非話を聞かせで下さいと私が注文すると、主人は私の前にあった茶碗をとってまあ一盃飲め、となみなみと酒をつぐ。老夫は筵の端に坐って、酒をみて微笑しながら続けざまに三杯ほど飲み、舌鼓を打って喜び、それではと話し始めた。
私が20 歳の二月の始め、薪をとるつもりで雪車(そり)を引いて山に入った。村に近い所はどこも伐採が進んで、薪があっても足場が悪いので、山を一つこえてみたら、薪にできる柴が大量にあって自在にきりとり、歌などうたいながら徐々に束ね、雪車に積んで縛りつけ山刀をさし込み、来た道を乗って下っていった。途中で柴が一束だけ雪車から転げ落ちて、谷を埋めた雪の裂け目にはさまってしまった。雪が凍っていても陽気がよくなると、裂けることはよくある。柴一束のことだが、捨てて帰るのも惜しいのでそこまで行って柴の束に手をかけて引き上げようとするが動かない。落ちた勢で、食い込んでしまったのだ。重い側から引き上げようと、這いつくばって両手を延して一声かけて持ち上げようとした時、足を踏ん張る力が不足して自分の力で身体が転倒し、雪の裂け目から遙か下の谷底に落ちてしまった。雪の上をずるずる落ちたので、幸いに怪我はなく、しばらくは夢のような気分だった。ようやく気が付いて上を見ると、雪の屏風を建てたようで、今にも雪崩が発生しそうである。(ちなみに、なだれのおそろしさは別のところで説明する。)
とくかく、生きた心地はせず、暗いので明るい方に出ようと雪に埋まった狭い谷間を伝わって、ようやく空が見える所まできたものの、谷底の雪の中は寒さが烈しく手足も動きが鈍く、一歩動くのもむずかしく、このままでは凍死かと気持ちを励まし、途があるかと百歩ほど進んだろうか。滝のある所について四方を見ると、谷間の途は行き止まりでねずみが甕(かめ)に落ちたようなもので、どうしようもなく呆然としていた。山が深く、何とか解決しようという気持ちさえ起きなかった。
さてここから熊の話ですが、その前に一盃、と手酌でしきりに飲み、腰から煙草をだして煙を吐いている。それでどうしましたと訊くと、老夫の言うには、さて傍を見るとちょうど潜れそうな岩の洞窟があり、中には雪もないので入って見るとすこし温かい。ようやく気づいて、腰をさぐると握り飯の弁当は落としてしまっている。これでは飢死かもしれないが、まあ雪を喰っても五日や十日は生きられよう。その内に雪車歌が聞こえれば村の者だ、大声あげて叫べば助けてくれるだろう、それまではお伊勢さまと善光寺さまに祈るだけと、一生懸命に念仏を唱え、大神宮を祈ると日も暮れかかってきた。まあここで寝ようと、闇の中を探りながら這っていくと次第に温かくなる。さらに探ると手先に触れたのは正しく熊だった。
愕然として肝も凍るような気分だったが、もう逃げようはない。死ぬも生きるも神仏にまかせるほかはないと覚悟をきめ、ところで熊どのよ、私は薪をとりに来て谷に落ちたのだ、帰る道がみつからず生きては居るが喰物もなく、まあどのみち死ぬべき命だ、引き裂いて殺してください。でも、もし情があるなら助けてくださいと怖る怖る熊を撫でると、熊は起き直ったようだったが、すこし動いてきて、私を尻で押しやるので、熊の居た跡へ坐わると温かくてコタツに入っているようで、全身あたたまって寒さをわすれ、熊にいろいろお礼をいってさらに助けてくださいと悲しいことをいうと、熊が手をあげて私の口に何度も柔かく押し当てるので、蟻のことを思いだし舐めてみると甘くてすこし苦かった。しきりに舐めると気持ちが爽かになり喉の渇きもなくなり、熊のほうも鼻息を鳴らして寝たようである。さては私のこと助けてくれるのかと気持ちが落着き、熊と肩をならべて横にはなったものの、家のことばかり思われて眠くもならないと思っていたが、そのうちにいつか眠りこんだ。
そうこうしているうちに熊が身動きして目がさめてみると、穴の口が見えて夜が明けたとわかり、穴を這い出して、あるいは戻る道がないか、山に登る藤蔓でもとないかとあちこち探したがみつからない。熊も穴を出て滝壷までいって水をのんでいる時よく見ると、犬七頭分くらいの大熊である。またもとの洞窟に入ったので、私は洞窟の入り口に居て雪車の歌の声が聞こえないかと耳を澄ましていたが、滝の音だけで鳥の音もきこえない。その日もむなしく暮れて穴で一夜をあかし、熊の掌を舐めて飢をしのぎ、何日たっても車の歌はきこえず、心細いことは言いようがない。一方、熊は次第に馴れて可愛くなってね、などと話しているうちに、主人はほろ酔い加減で老夫にむかって、その熊は牝熊だったろうと冗談をいって三人で大笑いしながら、老人にまた酒をのませた。
盃のやりとりで、話がしばらく途切れたが、そこからさらに先をきくと、人の心は物にふれて変わるものですね、最初熊に逢った時はもうここで死ぬと覚悟をきめ命も惜しくないと思ったのに、熊に助けられると次第に命が惜しくなり、助けにくる人はいなくとも、雪が消えたら木根や岩角につかまって何とか家に戻ろうと、雪の消えるのだけを待ちわび何日経ったかも忘れて毎日暮らしていた。
熊は飼犬のようになってはじめて人間の貴いことを知り、谷間で雪のきえるのも里よりは遅くただ日の経つのだけを嬉しく感じていた。ある日、洞窟の入り口で日のあたる所で虱(しらみ)なぞひねっていた時、熊が洞窟から出て私の袖を口で引っぱるので、どうするのかと引かれるままに歩いてゆくとはじめに滑り落ちたあたりに着き、熊はさらに進んでどんどん雪を掻きわけ道をひらいてゆく。どこまでもついて行くと、さらにどんどん途をひらいて人の足跡のある所にきて、熊は四方を眺めて走り去って行方しれずになった。
さては私を先導してくれたのだと、熊の去った方を遙拝していろいろと礼をのべ、これこそ神仏の御蔭とお伊勢さま善光寺さまも遙拝して、嬉しくて足の踏み場も判らない気分だった。夕方自宅に着くと、近所の人々が集まって念仏を唱えていた。両親はじめ皆が愕然となって幽霊だとさわぎたてた。それもそのはずで、月代(さかやき)は蓑のようにのび顔は狐のように痩せていたのだから。それでも、幽霊だというさわぎは笑いになり、両親はもちろん人々も喜び、私が薪をとりに出てから四十九日目の法会を行っていたという仏事の会合が、急にめでたい酒宴に変更になった。
こんなことを仔細に話したのは、九右工門という小間居の農夫であった。その夜、燈の下に筆をとって話したままを記しておいたが、今は昔のことである。

月代(さかやき):江戸時代の男性が、額から頭の中央部をそり落としていたのを言う。 小間
居の農夫:意味不明。「小間」は、小間使い、小間切れのように、「ちょっとした」、「小さい」意味だから、大百姓でなくて小さな土地をもって働く、という意味だろう。
コメント:熊と暮らしたこの話を信じるだろうか。話している当人や書いている著者の雰囲気からは、デタラメや作り話とは考えにくい。北海道の羆(ひぐま)と比較すると、本州に住む月の輪熊は性格が温厚で人なつこいことは間違いない。だから、こんな風にヒトと仲良くなることも、絶対にありえないとも言えないかも知れない。あのオオカミでさえも、赤ん坊を育てたという記録はある。しかし、本例の他に熊と長期間仲良くした例は知られているだろうか。
熊の冬眠は他の動物と異なり、体温があまり下がらない特殊な状態で、未知な要素も多いようだ。
●雪中の虫
唐土蜀の峨眉山には夏も雪が積もっている。その雪の中に、雪蛆(せつじょ)という虫がいると山海経に載っている。中国書のこの説はデタラメではない。越後でも雪中に雪蛆がおり、この虫は早春の頃から雪の中に生れ雪が消え終ると虫も消えていなくなるので、つまり死生を雪と共に暮らすわけである。辞書によると、「蛆は腐中の蠅」ということで、所謂蛆と蠅である。
蛆は蠆(さそり蠆)の類か、人を刺すというから蜂の類だろう。雪中の虫は蛆の字にしたがって書いたもので、だからこそ雪蛆は雪中の蛆蠅である。木火土金水の五行の中から皆虫が生れる。木の虫・土の虫・水の虫はまでは、よく見かけるので珍しくない。蠅は灰から生じ、灰は火が消えてできる末である、だから蠅は火の虫といえる。蠅を殺して形あるままで灰の中に入れておくと生き返る。また虱は人の熱から生れる、熱は火だから、火から生れた虫である。したがって蠅も虱も共に温かいのが好きだ。金属の中の虫は、肉眼ではみえず大きさも塵のようなもので、私たちにはわからない。そもそも、銅や鉄が腐ると最初は虫が出てきて、虫の生れた所が変色する。この場所をしばしば拭うと、それで虫が殺されるのでそこは腐らない。錆は腐の始めで、錆の中にはかならず虫がいて、ただ肉眼では見えず火にも及ばないので人が知らないだけというのが、オランダ人の説である。金属の中でも虫が住むのだから、雪中に虫がいないとは言えない。しかし、常に見えるわけではなく、中国の古い書物にも奇妙としている。この越後の雪蛆は、サイズがちいさくて蚊に似ている。虫には二種あり、一ツは翼があって飛行し、一ツは翅はあるが飛ばない。共に足は六ツで、色は蠅に似て淡く、一つは黒い。町中にも原野にもおり、この点も蚊に似ている。ただし蚊のように人を刺すことはない。験微鏡で見た様子を図にして、学者の解説を待とう。

蠆:萬の下に虫を書いたこの字は、辞書には「さそり」とある。
●吹雪(ふぶき)の難:赤子だけの生存・凍傷の治療法
図 この遭難の話の絵だが、悲惨な吹雪は描くのがむずかしそうだ。
吹雪は樹などに積った雪が、風に飛散するのを言う。その様子が優美なので花が散るのをなぞらえて「花吹雪」と呼び、昔の歌も多数ある。しかし、暖地で雪があまり降らない状況での描写である。何メートルも雪が積もる我が越後の雪深いところの吹雪は、雪中の暴風雪でいわば雪のつむじ風である。雪中第一の難義で、これで死ぬ人が毎年多数いる。その例を一ツ挙げ、わずかな雪から「吹雪はやさしい」と観ている方々に、雪の深い土地での吹雪の恐ろしい様子を示そう。
私が住む塩沢から遠くない村の農夫の一人が、篤実で親によく仕えていた。二十二歳の冬、二里あまり離れた村から十九歳の嫁をむかえ、容姿は美しく性質もおだやかで、織物の技にも優れて舅や姑にも可愛がられ、夫婦中も睦まじく家内は安泰で、その前年九月にはじめて安産した男児を、掌中の珠として家内みなで悦び、産婦も元気にお産から回復し、お乳も子供一人には余るほどで、小児も十分に肥太りおめでたい名をつけて新春をむかえて新年を祝った。一家の者は全員篤実で畑作や織物もまじめに勤め、小農だが貧しくはなく、息子は孝行で嫁もよくて孫も生まれてと、村の人々は常に羨んでいた。これほどの素晴らしい人たちの一家に、天災が起こるとは何としたことだろうか。
産後に日が経って、連日の雪も降り止み天気も穏やなある日、嫁が夫にむかい、今日は親の里へ行こうとおもうが、どうでしょうかと言う。舅はそばにいて、それはよいことで息子も一緒に行きなさい、実母にも孫を見せてよろこばせ夫婦して自慢せよと言う。嫁は笑顔で姑にそういうと、姑はいそいで土産などをそろえる間に嫁は髪を結い好みの衣類を着て、綿入の木綿帽子を着けた。この服装は寒国の習慣で見にくくもなく、赤子を懐に抱き入れようとすると、姑がそばから乳をよく呑ませてから抱きなさいよ、途中では乳を飲みにくいだろうからという一言にも、孫を愛する情が表れていた。夫は蓑笠と藁沓とすんべを身に着けた。晴天でも蓑を着るのは、雪中の農夫の普段着だからである。土産物を軽荷に担い、両親に暇乞をして夫婦で袂をつらね喜び勇んで出発した。これが親子の一生の別れで、後の悲歎となったのだ。
夫は先に立ち、妻は後からしたがってゆく。夫が妻にいう、今日は特別の日和で、思い立たって本当によかった。今日、私たち夫婦が孫をつれて行くとは親たちは知らないでしょう。孫の顔を見たらさぞかし喜ぶに違いない。お父さまは少し前にいらしたが、お母さまはまだ赤子を見ていないのだから特に喜ぶでしょうよ。遅くなれば一泊してもよいでしょうし、あなたもお泊まりなさいよ。そうはいかないよ。二人で泊ったら家の両親が心配するから、私は帰りますよなどと、話の間に児がなくので乳房をふくませながらつれ立って道をいそぎ、美佐嶋という原中までやってきた時、天気が激変して黒雲が空を覆った。
雪中の常で、夫は空を見て大いに驚き怖れ、これでは吹雪になるかもしれないが、どうしたらいいかと、不安になった。暴風が雪を吹き散らし、まるで巨大な波が岩を越えるようで、つむじ風が雪を巻き上げて白い竜が峯に登るようだ。朗々と明るかった天気も、手掌をかえすように天は怒り地は狂い、寒風が槍のように肌を刺し、冷たい雪は身を射る矢のようだ。夫は蓑笠を吹きとられ、妻は帽子を吹ちぎられ、髪も吹きみだされ、わずかの間に眼・口・襟・袖はもちろん、裾へも雪が吹き込み、全身が凍るようで呼吸もできないくらいで半身は巳に雪に埋められたが、命のかぎりだから夫婦声をあげ、ほういほういと泣き叫んだが、往来する人もなく人家にも遠くて助ける人もなく、手足が凍って枯木のごとく暴風に吹き倒され、夫婦は頭を並べて雪の中に倒れて死んでしまった。
吹雪はその日の夕方には止み、翌日は晴天で近村の者四五人がこの所を通りかると、かの死骸は吹雪に埋められて見えなかったが、赤子の鳴き声を雪の中に聞いて、人々は大いに怪しみながら怖がって逃げようとするものもいた。しかし、気の強い者が雪を掘ってみると、まず女の髪の毛が雪中にみえた。さては、昨日の吹雪で倒れたのだろう。この地のやり方で、皆あつまって雪を掘り、死骸を見ると夫婦は手をとりあって死んで居た。児は母の懐にあり、母の袖が児の頭を覆って児は雪をかぶらなかったので凍死せず、両親の死骸の中でまた声をあげて泣いていた。
雪中の死骸なので姿は生きているようで、見知った者がいて夫婦だと知り、我児をいたわって袖をおおって夫婦は手をはなさずに死んでいった心のうちも思い遣られて、さすがの若者らも涙をおとし、児は懐にいれ死骸は蓑につつんで夫の家に運んで行った。かの両親は、夫婦は嫁の家に一泊したと思っていたのに、死骸を見て一言もなく、二人が死骸にとりつき顔をおしあて大声をあげて泣くのは、見るも憐れである。一人の男が、懐より児を取り出して姑にわたしたので、悲と喜と両方の涙を落としたことであった。
吹雪が人を殺す状況は、だいたいこんな具合である。暖地の人が花の散るのに比べて美しいと賞する吹雪とはまったくちがう。潮の干満で遊んで楽むのと、大波に溺れて苦しむのとの違いだ。雪国の難義を暖地の人は想像してほしい。連日の晴天も、急に変わって吹雪となるのは雪の常である。その力は、大木を引っこ抜き、家を倒す。人も家もこれで苦むことは実に多岐にわたる。吹雪に逢った場合、雪を掘って身体をその中に埋めて隠れれば、雪が暫時に積もって雪の中はかえって温かく、しかも空気も通るので死をまぬがれることもある。雪中を歩く場合、陰嚢を綿でつつんだりする。そうしないと、陰嚢が最初に凍って精気が尽きてしまう。また凍死した人を湯火で温めて助かることもあるが、その際に熱湯を用いてはならない。たとえ、一時は命がたすかっても春に暖かくなってから四肢が腫れて病気となり優秀な医師にも治せない。凍死した場合、まず塩を温めて布で包み、これでくりかえし臍をあたため、弱い藁火ですこしずつ温めれば、助ってから病気が出ることはない。人肌で温めるのがもっともよい。
手足の凍った状態を強い湯や火で急にあたためると、温かくなった時に火傷のように腫れ、ついに腐って指をおとすことになり、こうなると薬は効かない。この点は、私の観察を記しておこう。人の凍死では、手足の凍った状態で毒が血管を塞いでしまう。急に湯や火の熱で温めると人の精気が血をたすけ、毒が一旦はとけるが全く消えたわけではない。陰は陽にかなわないから、陽気が生まれると陰の毒が肉に集まって腐るのである。寒中や雨や雪の中を歩いて冷えた人を、湯火で急に温めてはならない。自分自身の体温でゆっくり温まるのをまつがよく、これが蘇生の方法である。

ふぶきは現代語では「吹雪」と綴るが、本書では一貫して「雪吹」である。本書に記されている凍傷の治療法は、現代でもそのまま通用するのではないだろうか。
●雪中の火:天然ガスの発見
世に越後の七不思議と称するものの一ツ。
蒲原郡妙法寺村の農家炉中の隅石臼の孔から火が出る現象があり、人は皆とても変わったことと口伝して、いろいろな本にも書いてある。この火は寛文(1661-1673)年間に始めて見つかったと古い記録にあるから、今では三百年(訳註)で、その間ずっと絶えずにいるとは実に奇妙な現象である。ところで、世にこうした奇妙な現象は一つとは限らず、同じ越後の国の魚沼郡にもう一ツ同様な奇妙な火が出る。状況は上に述べた妙法寺村の火と同じである。妙法寺村のは人に知られて有名だが、魚沼郡のはよその国の方々は知らないので、ここに述べて話の種に提供する。
越後の国魚沼郡の五日町という宿場に近い西の方に低い山があり、山の裾に小川がある。天明(1781-89)年間の二月、そのほとりに子供たちがあつまって遊んでいて、遊びにあきて木の枝をあつめ焚火にあたっていた。ところが、その焚火からすこしはなれた場所で火が燃えあがったので、子供たちは急に怖くなって逃げてしまった。子供の一人が、家に帰ってこのことを詳しく親に話したところ、この親が気の利いた人間で、早速その場所に行った。火の様子を見ると、まだ雪が残っている雪の中に手が入るくらいの孔があり、その孔から三四寸(10cm)ほど上まで火が燃えている。丁寧に眺めてから、どうやらこれは妙法寺村の火に似ていると考え、火の出口に石を置いて一応火を消して家にかえり人には話さずにおいた。雪が消えてから再度その場所にいって見ると、火の燃えたのは小川の岸である。火燧石でろうそくに火をつけて試しに池の中に投げいれると、池の中から火が出て庭でかがり火を焚くのと似ている。水の上で火が燃えるとは妙法寺村の火より珍しいと、宿場中の人たちが来て眺めた。
その後、金銭に敏い人がこの池のほとりに建物を建て、筧から水をひくように地中の火を引いて風呂の釜を燃やし、また燈火の代用にもした。こうやって、地中の火で風呂を沸かし料金をとって浴場を経営した。この湯には硫黄の気があって疥癬の類を治す効能があるといい、一時流行して多数の人々が集まったこともあった。
ここからは推論だが、地中に水脈と火脈とがある。地は陰だから、水脈が九分で火脈は一分しかない。だから火脈は稀である。地中の火脈が高まるとそれが気を出すわけで、人の呼吸と同じだが、肉眼には見えない。火脈が呼吸して呼気するものに人間が火をつけると燃えて明確な火となり、これを陰火とか寒火と言う。寒火を引いて筧の筒が焦げず、火脈の呼気に火はつかず、明らかな火とはならず自然の呼気だけだった。火をつけると、筒の口より一二寸(3-6 p)ほど上方に火がついた。これで、火脈の気息が燃えるのがわかる。妙法寺村の火もこれと同じである。こんなことは私が考え付いたことではなく、古書を読んで考えついただけである。

この文章の書かれているのは1840 年より前だから、寛文(1661-1673)年間からの期間を300 年としているのは単純な計算違いだろう。当時西暦はおそらく使われていないが、皇紀歴で計算したのだろうか。皇紀歴は神武天皇の即位で始まり、西暦より660 年長く、1940 年(昭和15 年)が皇紀2600 年だった。こういう一つながりの暦がなくては、長期間の年代は数えられない。
コメント:この項目は天然ガスが出たと解釈できる。火脈・陰火・寒火など、ガスが出ているだけでは燃えず、火をつけて燃えるのは現代科学では当たり前だが、これだけ明確に記述しているのは当時としては優れた科学的な見方である。
●破目山(われめきやま):隙間だらけの岩石の山
魚沼郡清水村の奥に山があり、高さは一里あまり、周囲も一里あまりである。山中すべてに大小の隙間があるので破目山という名がついている。山の大半は老樹が多数並び、途中から上は岩石が重なり、形は竜が躍り虎が怒るように奇々怪々で、言葉では表現できない。麓の左右に渓流があって合流して滝となっており、この絶景もまた言葉につくせない。旱魃で水不足の時に、この滝壺で沐浴すると霊験あらたかで雨になる。ある年四月の半ば、雪の消えた頃に清水村の農夫ら二十人あまりが集って、熊狩をしようとこの山にのぼり、岩の隙間の洞窟になった所にはかならず熊がいるに相違ないと、山椒や煙草の茎を薪に混ぜ、洞窟に向かって火を焚いてみたが、熊は一向に出てこない。洞窟が深いので煙が奥まで届かないのかと、翌日は薪の糧を増し山ごと焼こうという勢いで火を焚いたが、やはり熊は出ずに山の岩の破ぶれ目のあちこちから煙が出て雲のように見え、不思議な気持ちになって結局熊狩りは止めて手ぶらで戻ったと清水村の農夫が話していた。
この山は中途から上は岩だけで土は少ししかなく、地脈に気が通って破ぶれて隙間になっているのだろう。自然の妙と不思議さは、ただ考えるだけでは及ばないことである。

「高さは一里あまり」。原文は「高さ一里あまり、周囲も一里あまり也」で、高さ一里(4 キロ)は標高のことではない。後の苗場山にも出てくる表現で、登り道の距離を述べたものと解釈しておく。しかし、周囲が一里はごく小さな山で半径は650 メートル、「登り道の距離が一里」とは登り道の曲折を考慮してもちょっと納得できにくい。
清水村:破目山の場所は不明だが、清水村は清水峠を下った場所で清水トンネルの北東側にあたるから、大体の場所は推測できる。
●雪頽(なだれ:雪崩):結晶が六角で雪崩は四角の理由
山から雪が崩れるのを、この地の言い方でなだれという、また「なで」とも言う。私の推測だが、なだれは「撫下る」意味で、「る」を「れ」というのは活用形が単語になったもので、他にも例がある。ここでは、「雪頽」の字を当てて用いる。「頽」は辞書では暴風と説明しているから合致しているだろう。
なだれは吹雪とともに、雪国の二大難義の一つである。高山の雪は里よりも深く、凍るのも里より激しい。この魚沼の土地の東南の山々は、里に近いところでも雪が深く、一丈四五尺(9〜10m)は浅いほうである。雪が凍って岩のごとくなると、二月になって陽気が地中より出て雪が解けようとする時、地気と天気との為に雪が破れて響きわたる。一箇所が破れると、あちこちが破れて雪崩になる。
その響き方は大木が折れたようで、なだれ開始の前兆である。山の地勢と日の照り方とで、なだれる箇所となだれない箇所があり、またなだれるのは必ず二月に起る。里人は、発生の時期も場所も兆候も知っていて、なだれにうたれて死ぬことは稀である。だが、天の気候は急変するし一定ではないから、雪崩で身を砕かれる場合もある。雪崩の形に関して、その雪の塊は大きいものは十間(20m)以上もあり、小さくても九尺五尺(15×8m)はある。大小数百千すべて四角で、削りたてたように必ず四角になるのは解釈がむずかしいが下に説明する。
これが幾千丈もの高いところから一度に崩れ落ちる時の響きは、百干の雷のような大音響で、大木を折り、大石を倒してしまう。同時に必ず暴風が起こってなだれに力をそえ、さらに一部の雪を砂や礫のようにふっ飛ばし、日中でも暗夜のように暗くなる。その恐ろしさは、描写がむずかしいほどだ。雪崩で命を落とした人、かろうじて命を助かった人など、私が見聞したものを加えて次の項目で述べて暖国の人に話題として提供しよう。
ある人がこう質問した。雪の形が六角形なことは、前に詳しく説明した。雪崩は雪の塊で、砕けた形が雪の六角形の本来の形でなくて4 角なのは何故だろうか、と。私の答えは以下の通りである。地の気が天に上って雪となるのだから、天の円と地の四角を合せて六角になるのだ。六角は円形の裏である。雪が天の陽を離れて降り下って地に戻ると、天の陽の丸い形を失って地の陰の4 角という本来の形に戻るので、だから雪崩はあちこち尖がっている。このなだれも、溶けはじめると角は丸くなるので、つまり太陽に照らされて、天の円に戻るのである。陰の中に陽を包み、陽の中に陰を抱えるのは天地の定理の中の定めである。老子経第四十二章にある通り、万物負陰而抱陽冲気以為和(すべてのものには陰の要素と陽の要素があり、全体はそれでバランスがとれる)と言っている。この理屈では、妻がいつも静かにして夫のいう通りでは陰は陰のままで陽を抱えることができず天の理に叶わない。時には、夫に代って理屈をいって陽にでるほうが家の内は治まるものだ。だからといって、理屈が過ぎて「めんどりときをつくる(雌鳥が明け方に鳴きたてる)」ようでは、これも家内の陰陽が逆転して天の理に反しているから家が廃れる元である。万物の天理はこのように決まって、反論の余地はないと言うと、彼は納得して退散した。
雪崩はすべて四角と決まったものでもないが、十のうち七つか八つは方形であるから、こんな説を説いてみた。雪崩の図は大抵の場合4 角形に描いてあるが、可能性の多い形を採用しているのだろう。

雪頽:「なだれ」は現在では雪崩と書くが、本書では一貫してこの字を当てている。ただし、断り書きにもあるように著者の書き方で、広く常用され確立しているものではないようだ。最後のほうの結晶が六角で雪崩は四角の説明は、あまり明快ではない。原文自体が明快でないので、私の読解力の乏しさの故だけではないと思う。 

 

初編中巻
○雪頽(なだれ)が人に災する例:鶏が雪の下の人を発見?
○寺の雪頽:幸運な僧と念仏の効用
○玉山翁が雪の図:雪の中では馬に乗れない
○越後縮:まず原理と歴史、雪の役割
○縮の種類:色と模様と産出地
○縮の紵と紵績:原料と紡績の問題
○縷綸(いとによる):糸に撚る方法と効用
○織婦:縮をつくる女性たち
○織婦の発狂
○御機屋(おはたや):作業場は神聖
○御機屋の霊威(不思議)
○縮をさらす:製作とは別の過程
○縮の市:製作者の手を離れる
○ほふら:現在用語なら「新雪なだれ」
○雪中花水祝い(雪の中で、花と水で祝う)
○菱山の奇事:雪崩で豊作凶作を占う
○秋山の古風:秘境秋山への紀行の序
○狐火:怪しからんキツネ奴
○狐を捕る:キツネ捕獲法はジョークか?
○雁の代見立:雁は見張りを立てる
○天の網:カスミ網の利用
○雁の総立:番鳥と司令鳥と従卒の関係
○渋海川ざい渉り:一面の氷が溶けて流れる壮観
●雪頽(雪崩:なだれ)が人に災する例:鶏が雪の下の人を発見?
図 雪崩で埋まった被害者を発見するのに、鶏が有用だという話を実行。
私の住んでいる魚沼郡で雪頽(なだれ)で非業の死をとげた例があり、村人の話を記そう。ただし、人の災難なので人名は記さない。
ある村に一家の総勢十人あまりの農家があり、主人は五十歳ほどで妻は四十歳前、長男は二十歳を超え娘は十八歳と十五歳である。いずれも孝行な子供たちとして評判だった。ある年の二月はじめ、主人は朝から用事である所へ出向いたが、夕方4 時になっても帰ってこない。とくに時間のかかる用事でなく、家では不審におもって長男が家僕をつれて用務先の家まで出かけて父のことをたずねると、来ていないと言う。それでは、ここだろうかあそこだろうかと家僕と相談して尋ね回ったが、状況がまったくつかめない。日暮れになり空しく家に戻って母に話すと、不思議なことと心あたりの処へ人を走らせてたずねさせたが、所在がわからない。
夜半、午前1 時になっても、主人は帰らない。近くの人たちも話を聞きつけて、人が集っていろいろ評議していると、ある老人が来ていうには、ご主人の行方がわからないと言うことだが、私に心あたりがあるので知らせに来たと言う。心あたりときいて妻は大よろこびで、子どもも一緒に言葉をそろえてまず礼をのべ、仔細をたずねると、老人の話しはこうである。自分が今朝、西山の峠の中途にさしかろうとした時、お宅のご主人に行逢い、何方へとたずねると稲倉村へ行くと言ってすれ違った。私が自宅へ戻る途中、すれ違って少し経った時になだれの音をきいて、あの山ではないかと峠を無事に通過したのをよろこんだが、ご主人は途中で災難にあったかも知れない、万一なだれに遭わなかったかと心配しながら帰宅した。こんな時間に帰ってこないのは、もしかするとなだれかと眉をひそめた。心あたりときいて、親子は一度安堵したのに逆に心配になり、顔を見あはせ涙ぐんだ。老人は、これを見てそこそこに帰ってしまった。
集っていた若者たちがきいて、それではなだれの場所に行って調べようと、松明の準備など騒ぎだすと、ある老人がいうに、いやちょっと待て、遠くまで出かけた者がまだ帰らない、でも今にもご主人が戻ってこないものでもない。なだれにうたれるような不覚をとる人ではないのに、あの老人がいらぬことを言って親子の心を苦めているというと、親子はこれに励まされ心も慰められ酒肴を出して人々にすすめた。皆にも笑いが戻って、炉辺で酒をかわし、時間が経ち、遠くまで尋ねたものが戻ったが、行方は相変わらずわからない。
夜が明けると、村の人たちだけでなく噂を聞いた人々が加わり、それではと手に木鋤を持ち家内の人々も後について、先の老人がいったなだれの場所に着いた。雪崩を見ると、たいしたこともないわずかなもので、道を塞いでいる距離も20 間(36 メートル)ほどで、雪の土手ができている。まさかこんなところで死ぬとはと思うが、なだれの下をここだと明確に決める根拠もなく、どうしようと人々がぼんやりしていると、例の老人がさあ仕事にかかろうと、若者をつれて近村に行き、鶏を借りあつめ、雪崩の上に放ち餌をあたえながら思いどおりに歩かせた。すると、一羽の鶏が羽ばたいて時ならぬに声を上げて鳴くと、他の鶏も集まって声を合わせて鳴いた。これは、水中で死骸を探す方法を雪に用いた臨機応変の工夫と、後まで人々が話にしたことである。
さて老人が集まった人たちにむかい、あるじはかならずこの下にいる、さあ掘ろうと大勢が一度にかかって雪崩を砕いて掘った。大きな穴を2mほども掘ったが、何もみつからない。さらに力を入れて掘ると、真白い雪の中に血に染まった雪にあたった。さてはとさらに掘り進めると、片腕がちぎれて首のない死骸を掘りだし、やがて腕は見つかったが首がない。これではどうだと、広い穴をさらにあちこち探すとやっと首も出てきた。雪中にあったので、表情は生きているようである。さきほどからこの場にいた妻子は、これを見ると妻は夫の首を抱え、子どもは死骸にとりすがり声をあげて哭いている。人々も誰も彼も、涙をさそわれた。しかし、そうばかりもしていられず、妻は着ていた羽織に夫の首を包んでかかえ、長男は着ていた綿入れを脱いで父の死骸を涙ながらに包んで脊負うとすると、一部のものがさっさと部落から戸板を取り寄せて担ぐ用意を整えたので、妻がもっていた首を死骸に添えて皆で担ぎ、残りの人々は前後につきそい、妻と子どもは涙にくれながら後について帰った。
この物語は、若い頃に当事者の話を記述したものである。なだれで生命を失った例は、これに限らず少なくない。なだれで家をおしつぶされた例もあり、恐ろしさは言語に絶する。今の話で死骸の頭と腕が離断したなどは、なだれの威力と残虐さを示している。
●寺の雪頽:幸運な僧と念仏の効用
なだれは、山で発生するとはかぎらない。山の形になった場所では、思わぬ状況で発生する。文化年間(1804−1818)のはじめ、思川村天昌寺の住職の執中和尚は私鈴木牧之の伯父だが、その彼が遭遇したことである。2 月末、彼は居間の二階で机に座って書き物をしていたが、窓の庇に垂氷(たるひ、つらら)が1 メートル半以上も延びて、明りを妨げて机のまわりが暗いので、軒下に出て家僕が除雪用においた木鋤を手にして、氷柱(つらら)を壊そうと一打ちした。この土地では氷柱を「かなこおり」ともいい、古い言葉では「たるひ」ともいう。
ところが、和尚のこの打撃で誘発されたのだろう。本堂に積もっていた雪の片屋根分がどうとなだれおち、ちょうど土蔵のわきに清水の湧く池があり、この和尚はなだれに押されて池に落ちそうになったが、なだれの勢いで身体は手鞠のように池を越え、大量の雪に半身を埋められた。大声をきいて、丁度台所のあたりで除雪していた若者たちが駆けつけて、使っていた木鋤で和尚を掘りだした。和尚は大笑いしながら身体を調べると何の傷もなく、耳に掛けていたメガネまで無事で助かった。
この和尚は、この時七十歳だったが、前の話に登場した某村の人の不幸に比較すれば、九死に一生をえたので幸運だった。その後、八十歳まで病気もしないで文政(1818−1830)の末に亡くなった。その和尚が何度も私にいったことだが、なだれにあった時に書いていたのは尊い仏典で、一字毎に念仏を唱えながら丁寧に書いていた。なだれで死んでおかしくない状況で、不思議に命が助かったのは字を書きながら念仏を唱えていた功徳だ。だから、人は常に神仏を信心して、悪事と災難を免れようと祈るのがいい、神仏を信ずる心の中からは悪い心は出てこない、悪心のないことが災難をのがれる基本と知った、と述べていたのが今も耳に残っている。
人智を尽していながらつまらない大難にあうのも、因果のしからしむる処ではあろう。ともあれ、凡人には計り知れないことである。人家が雪頽で家を潰され、人が死ぬなど数多く見聞したが、むやみに書いても仕方がないのでこの辺でやめよう。
●玉山翁が雪の図:雪の中では馬に乗れない
図 三国嶺で起きた雪崩の上を人が歩いている様子を描いている。注釈つき。
先年、岡田玉山翁が軍物語の画本を出版したが、その中に雪中にたたかう越後の兵士という図がある。文には深雪とあって、しかも十二月なのに、描いてある軍兵どもの動きはと見ると雪はごく浅い。越後の雪中では、馬は立ってはいられない。だからこそ農民ですら雪中で牛馬は用いないので、まして戦場で軍馬をつかえるはずがない。馬上の戦いとして描いたのは作者のあやまりで、当然挿絵画家も間違えている。雪の少ない土地の人の作品だから、雪の実際を知らないのはもっともである。
つまり、越後の雪中の本当の姿とはまったく違う。しかしながら、画には嘘も加えるものだから状況がうまく合わないのも仕方がないが、差があまり大きいと玉山の玉に疵となるのも残念である。玉山はかねて文通していた相手なので、下手ながら雪の真景をいろいろ写生し、さらにふだん見ない真景も描きたいと春の半ばに三国嶺に近い法師嶺のふもとに在る温泉に旅してその付近の雪を見たところ、高い峯から落ちるなだれは、10m以上もの四角や三角で長さが30〜30mもありそうなのが谷に横たわっていた。そういうものが大小いくつも重なり、雪国に生まれた私の目にさえも、この奇観は言葉では言い表せない。
これらの景色も現場で写生したものを添えて贈ったところ、玉山翁の返事に、北越の雪がまるで机にふりかかりそうでめざましかった、こんな図をもっと数多くあつめて文を加えて例の絵本にした、雪が激しく降り積もるように全国に知らしめるのはまさに貴方の仕事だといわれ、その手紙が今も私鈴木牧之の本箱におさめてある。本書が出版されずに私が死んでしまえば、玉山もあの世で残念がるだろう。

岡田玉山(1732-1812)は大阪の画家で、著者はこの人と親交があった。『北越雪譜』はいろいろな人と出版の交渉をしているが、玉山にも著者が本書の出版を委嘱し、ある程度まで順調に進んだが、玉山が亡くなって立ち消えになった。
●越後縮:まず原理と歴史、雪の役割
ちぢみの文字は、普通の俗用にしたがう。本来「しじみ」と読むべきだが、これも俗用にしたがってちぢみと読んでおく。
縮は越後の名産で、その点は広く世に知られてはいる。ところで、他の地方の方々は越後の国全体の産物と思うかも知れないが、実はそうではなくて、産するのは私の住む魚沼郡一郡だけである。魚沼郡以外で産出される量は少なく、質的にも魚沼産に及ばない。
そもそも縮と呼ぶようになったのはつい最近で、昔はこの付近でもただ布とだけ呼んでいた。布は紵(カラムシ)の繊維で織る物の総称だからだろう。現在でも、私の住んでいる付近では、老女などが「今日は布を市にもってゆけ」などと言う、古い表現が残っている。東鑑(吾妻鏡)をみると、建久三壬子の年に勅使が京都に戻る際に、鎌倉幕府の将軍が作成した餞別のリストに「越布千端」と載っている。これよりさらに古いものもあるらしいが、あまり詳しくは調査していない。その後になると、室町幕府の内部の事柄を記録した伊勢家の書には越後布のことが数多く記述されている。したがって、縮は昔からこの地方の名産だったことが明らかである。
私の勝手な考えだが、昔の越後布は単に上等な布というだけの物だったが、次第に工夫を加えて糸に撚りをつよくかけて汗を吸い取る織物にしたのだろう。それで以前は縮布(ちぢみぬの)といったが、今では省略してちぢみと呼ぶようになったのではないだろうか。こうして年月が経って、さらに工夫が加わり、丈夫だけでなくて美しさも重んずるようになり、今ではちぢみという名が残っているが昔とは違う。自分が子供の頃を思い出してくらべてみると、今では模様を織りこむなど錦を織る方法まで組み込み、どんなむずかしい模様も、縞も絣模様も上手に出せるようになり、いろいろと変わった工夫まで加えている。機織(はたおり)を担当する婦人たちが賢くなった故だろう。

建久三壬子:元号の建久は1190ー1199 年であり、建久3 年は1192 年つまり源頼朝が幕府を開いた年で、これが壬子(じんし、みずのえね)である。壬子の年には水害が多いとか、この年の生まれの男性は気が弱いといった迷信があるという。
●縮の種類:色と模様と産出地
縮を産出するのは魚沼郡全体ではあるが、といっても一通りではなくて、村ごとに産出品が決まっている。この点は、各々の村が昔から決まった製品だけに修熟して他の品に手を出さない故である。場所と産出品の組み合わせは下のようになる。
白縮は堀の内町の周辺の村々
これを堀の内組といい、一部は浦佐組や小出嶋組の村々も担当する
模様類あるいはかすり。藍錆と呼び、塩沢組の村々
藍の縞は六日町組の村々
紅桔梗縞の類は小千谷組の村々
浅黄繊の類は十日町組の村々である。
紺の弁慶縞は高柳郷に限定している。
以上はいずれも魚沼一郡の村々である。この他に、ちぢみを出す所が二三ケ村あるけれども、いずれも単一の製品を扱ってはいないので、特に書かないでおく。
縮は以上の村や部落の婦女子が、雪中に籠っている間に行う手作業の産物である。売ろうという量のちぢみを、前年の十月から糸をつくりはじめて次の年二月半ばに晒しを完了する。白縮は、見た限りでは織りやすそうで、知らない人は手が込んだものとは思わないが、上手下手が現れやすい。村々の婦女たちがちぢみに丹精を尽す有様は、こんな短い文章では書き尽せないが、とりあえず全体の概略を次に記す。
●縮の紵と紵績:原料と紡績の問題
紵 (ちょ:からむし、からむしから織った布)
縮に用いる紵は、奥州の会津や出羽の最上(もがみ)で産出されるものを使用する。白縮では会津産だけを用いる。「影紵」というものが特に極上品で、また米沢の「撰紵」と称するものも上等品である。越後の紵商人がそれぞれの土地に赴いて紵を入手し、越後の当該地に販売するもので、紵をこの地方で「そ」と呼ぶことがあり、これも古い用語である。麻を古い用語で「そ」といったのは、綜麻(へそ)の類である。麻も紵も字の意味は同じで、布に織るべき植物の種類の糸の名前である。紵の皮を剥いで、苧の繊維に作るのがふつうのやり方と辞書には書いてある。
何年か前に江戸に滞在した頃、ある人から、縮に用いる紵をつむぐにはその付近の婦人が誘い合って一家にあつまり、その家で用いる分の紵を績ぎ、それを繰り返して互いに家から家へと移動して紡ぐと聞いたが、そんなものですかとの質問を受けた。これはデタラメで、そんな話を広めたのはどんな人だろうか。とはいうものの、魚沼一郡も広いから、そんなやり方が絶対にないと断言はできない。しかし、それは下等品の縮に用いる紵のことだろう。下等品はとりあえず議論の外におき、中等品以上に用いるものをつむぐには、場所を決め、身を清めて体調も整えて作業する。場所を決めずにあちこち動いて作業すれば、心が落ち着かず糸に太い細いの不均衡が生じて役にたたない。世間並みの紵をつむぐには唾液をぬりつけるが、ちぢみの紵績には茶碗か盥(たらい)に水を入れて使用する。定期的に盥の水を変え、座も清めて作業する。

紵績:績は麻のこともいい、「つむぐ」意味にも使う。原タイトルの「紵並紵績」は「カラムシの問題と、それをつむいで糸にする問題」と解釈する。
綜麻:現在では糸の処理の仕方をいう。
麻と紵の関係:紵(からむし)は特定の植物の品種。一方、麻は紵の他に大麻・黄麻・亜麻・マニラ麻など近縁の植物全体の総称である。
●縷綸(いとによる):糸に撚る方法と効用
繊維を糸に撚って(よって)いくに際し、場所を定め身体を落ち着けて行うのは紡ぎと同じである。糸撚りにも、道具・手法・手順などに応じていろいろな名前があり数が多い。あまり詳しく述べると、細かすぎて煩わしいから省略する。
そもそも、糸をつくりはじめる時点から布として織り上がるまでの作業はすべて雪中で行う。上等品に用いるものでは、毛髪より細い糸を縮めたり伸ばしたりして扱うので、雪中に籠り天然の湿気がなければ仕事の達成は困難である。湿気がないと糸が折れてしまう。折れると、そこは弱くなり切れやすい。だからこそ、上等品の糸をあつかう場合、強い火は近付けず、時期をみて織り進める。二月の半ばになって、暖かくなって湿気が下がってくると、大きな鉢に雪を盛って織機の前に置き、湿気を補って織り進めることもある。このことについてよく考えると、絹を織る場合は蚕の糸なので温かいほうが好く、縮布を織るには麻の糸なので冷たいほうが好いと解釈できよう。それで絹は寒い時に身につけて温かく、縮は暑い時に着て冷たくて快い。自然に陰陽の気運に合致しているといえそうだ。ともあれ、こんな風に雪中に糸をつくり、雪中に織り、雪の水で洗い、雪の上にさらす。
雪あっての縮であるから、越後縮は雪と人と気力が補いあってはじめて名産品なのである。魚沼郡の雪は縮の親というべきものだ。雪の少ない土地で布の名産があるとすれば、糸の作りによることで、この点を越後縮に比べて承知すべきであろう。
●織婦:縮をつくる女性たち
織物を専業とする場合、織る専門の人を雇って織らせるのが合理的である。ところが縮の場合は別で、一国の名産ではあるものの、専門の織婦を雇って織りを担当させる例はない。何故なら、縮を完成に仕上げるまでに人の手を労する段階があまりに多くて数えきれないからである。この仕事は、手間に対して賃銭を払って賃仕事で簡単に進められることではなく、雪中に籠る婦女が手を尽くしてはじめて可能である。
縮の糸四十綫(すじ)を一升(よみ)と言う。極上品のちぢみは経糸(たていと)が二十升より二十三升にも達する。しかも筬(おさ)には二本ずつ通すから、一升の糸は八十すじである。布幅四方に横糸もこれに随ってあわさないと布ができない。よこ糸はなお多いだろうが、たしかではない。
したがってわずか一尺織るにも、九百二十回手を動かすわけで、一端を二丈七尺(8m強)として、その間に2 万4 千4 百84 回手を動かしてようやく一端が織り上がる。これはふつうの長さの表現法だが、ちぢみの場合は鯨尺で表現するから一端は三丈(10m)である。 糸のつむぎはじめから、織上げて完成するまで苦心がいかに大変か、こんな説明でも想像できよう。ちぢみと限らず織物製作はすべて同じ苦労が伴うが、ちぢみでは私が実見しているのでわざわざ述べた。こんな風にして完成する縮だが、購入する価格はたいしたこともなく、それだけ支払えば勝手に着用できるのだから、考えようによっては安いものである。
縮を織る家では、妻をえらぶにも縮の技を第一とし、容貌は第二である。だから、親は娘が幼い頃よりこの技術を身につけさせることを第一に考える。十二三歳になれば、本格的に太布を織ることを教え込み、十五六歳から二十四五歳までの女性は気力が盛んなので上等品の縮の製作に適するが、高齢になると布の表面の光沢が乏しくなって品質も下がってしまう。高貴な方面からの注文はもちろん、極上の誂物には製作に修熟した上手な女性をえらぴ、何方の誰々と指名も受けるから、そういうレベルに達したいと各自が技をみがくことになる。これほどの辛苦も、実は僅かな価格の為の努力の賜物である。唐の秦韜玉の村女の詩に、年々金線をつかって他人のために嫁入り衣裳を作るのがとても恨めしいというのがあるが、まったくもっともである。

布の量の単位をここでは「一端」と書いている。「一反」という書き方も多い。
●織婦の発狂
図 本文にある、織女発狂を描いている
先年、ある村の娘が、はじめて上々のちぢみの注文を受けた。大変に喜び、金銭の問題ではなく、特に見事な出来栄えをみせて評判になりたいと、糸のつむぎからはじめて人手を借りることもなく、すべて自分一人で頑張った。こうして見事に織上げたものを、さらし屋から母が持ってきたと聞いて、娘は早く見たくて他の用事を止めて開いてみた。ところがどうしたことか、小銭ほどの煤色のくもりが出てしまった。それをみて、母上さまどうしたことでしょう、無念なことといって縮を顔にあてて泣き崩れたが、そこから発狂してしまい、変な言葉を発しては家中を走りまわったりするようになった。両親も娘が心を込めたその心の中を思いやって一緒に泣いたことで、それを見た他の人々もあわれに思ってみな涙をさそわれたという。友人某から聞いた話である。
●御機屋(おはたや):作業場は神聖
特に貴重で大切な縮をおるには、家の周辺につもった雪もそのつもりで掘りすて、住居内でなるべく煙の入らない明りもよい一間をよく拭き清め、新しい筵(むしろ)を敷きならべ、四方にはしめ縄を引き渡し、中央に織機を設置する。これを御機屋と呼んで神様がいるかのように扱い、織る人当人の外は他人を入れず、織る女性は別の火をつかって調理した料理を食し、機織りを開始する際は衣服をあらため、塩垢離をとり、盥(てあらい)漱ぎ(くちすすぎ)などで身を清める。これを毎日実行する。月経の際は仕事をせず、勿論部屋にも入らない。他の娘たちは、今日は誰々が御機屋を拝みに参るなどの言葉で仕事を表現する。特別上手な女性だけが、このように特に機屋を建てるのだから、他の女性がこれを羨やんで、いわば階下にいて昇殿の位をうらやむような感じだ。

「塩垢離」、塩水で身を清める意味だろう。塩には霊的な作用があると考えるようだ。
●御機屋の霊威(不思議)
神様は敬(うやま)うほど力をますというが、なるほど有難いことである。ちょっとした物でもお守りとして敬い信じれば霊験が現れることがある。たとえば人の履きすてた草鞋にしても、それを多くの人が信じて、のちのちは草鞋天王として祭ったという例が五雑組(中国、明時代の書籍)に載っている。ましてや本来神々しいものを敬えば、霊威あるお天道様が応じるのは当然で、この点は人知では計り知れないものがある。
ある村の娘が、例の機屋に入って心を平静に保ち、機を織っていたところ、傍の窓をとんとん叩くものがいた。心当たりがあったので、立って開いて見ると、思った通り心を通わせた男である。たまたま人目に触れる状況でなかったので、とても嬉しく感じて機屋を出て家の裏へ行き、窓辺に立っていた男をひきつれて木小屋に入った。そこへ娘の母が戻って、機屋に娘がいないので不思議に思い、何度も娘の名を呼んだ。木小屋にいた二人がそれを聞いて、男は急いで逃げ去り、娘は動転して身がけがれているのも忘れて機屋に駆けこみ、そのまま機について織り続けようとしたが、突然仰向けに倒れて、血を吐いて気絶してしまった。
母親はこれを見て大変驚き急いで走りよって助け起し、まず機屋から連れだしていろいろ介抱したが、息はあるものの意識がはっきりせず死んだようにみえる。
父親が同じ村の某氏の家に行っていたのを急いでよび戻し、医師を呼んで薬を与えたが効果がなく、両親はもちろん、近所から寄ってきた人たちも娘の傍に集まって涙を流しながら手のうちようもなく、まるで死を待つばかりであった。そこへ男が一人やって来て、恥しそうに人の後に座って無駄なことはいはず、頭を低く垂れて涙を落としていた。同じ村の某の次男坊であった。
この男がやがて膝をすすめて娘の母親に向かって小声で言うには、今はなにも隠さず申し上げます、私はお嬢様と二世の約束をしたものです、つい先ほど周りに人がいなかったのでお嬢様を誘い出し、母上様の帰ったとの声に怖くなって、私は逃げ去りました。お嬢様がこのような悪災に遭ったと聞いて考えてみると、けがした身をわすれて大切な機にかかり仕事を再開した罰かも知れません。元来は私が犯した罪ですから、たとえ人には知られなくても私からみればおそろしいことで、命をかけて契った言葉にも反していると思います。お嬢様の命の代りに、私が是非神罰を受けてお詫びしましょう。それにしても、このままお嬢様が亡くなるようなら私の命もとってください、ここにいらっしゃる皆様方は是非証人をお願いしますと言って、服装を解き裸になって髪をさばいて井戸端に行き、たっぷりと水を浴び、雪の上にうずくまって何か唱えて祈ったのであった。
真冬のことで、寒さは厳しく肌を刺すような時期だから、そんなことをすれば凍死しそうである。両親はもちろん、居並ぶ人々もはじめてそれを知り、本当にその通りと自分たちも水を浴びて祈りに参加した。神がこの男の真心を憐れんだものか、人々の祈りを受けいれたのか、娘が目を覚して起きあがり母親をよんだので、皆が不思議なことと感じて、娘の側にあつまってどうだったと質問攻めにした。
娘は、この様子を見ていったいどうしたの、と言う。母親は嬉しくて起こった事情を説明すると、娘は機に走り寄ったのは覚えているけれど後は分からなくなったと言う。母親はあまり嬉しく例の男にも会わせようとしたが、男はいつのまにか立ち去っていた。
四五日は娘の体調は不良だったが、やがて健康体に戻った。歳も十七歳だから、そろそろ聟をと思っていたので、例のしのび男の真心を買って早速媒酌人をたて、婚礼もめでたく整い間もなく男の子が生まれた。この家は今も栄えている。神罰というが、この場合は夫婦の縁となったので奇偶といえよう。この話は私が幼かった時のことだが、筆のついでに記述して、機屋の霊威のことを後世に伝えようと考えて書いた。
ああ畏れ多いこと。身はくれぐれも慎むべきである。
●縮をさらす:製作とは別の過程
図 雪の中で縮みを晒している図
さらし屋(晒屋)はさらすことを仕事とするので、時には織った家でさらすこともあるがそれは稀である。
さらし屋は家の辺りや程よい所を判断して備え、そこに仮小屋を造り必要品も置き、また休息場としても使用する。さらし人(晒人)には男女が混ざるが、身を清める点は織り仕事の女性と同様である。さらすのは正月よりは二月中で、この頃は田圃も畑も一面に雪が積もっているから、田や畑をさらし場とする場合もある。日中にさらし場が踏み乱されている場合、板に柄をつけた道具で雪の上を平にならしておく。そうしないと、夜の間に凍って、尖った箇所が布に固まって始末に負えなくなる。さらし場には一点の塵もないようにするので、白砂の塩浜(塩田)のようである。
白ちぢみは織りが完了した状態でさらす。一方、他のちぢみは糸につくったものを拐(かい、かせ)にかけてさらす。この拐とは細い丸竹を三四尺ほどの弓にして、弦にあたる箇所に糸をかけ、拐と一緒に竿にかけわたしてさらすのである。白ちぢみは平地の雪の上にもさらし、また高さ三尺あまり(1m)で長さは布の状態で決めてさらし、横幅はいろいろだから雪を土手のようにつくり、その上にちぢみを伸ばし並べてさらすこともある。こうして、犬などが踏んでちぢみを汚す危険を避ける。ここに拐をならべてさらす。場所の便利に応ずるから、やり方は一通りではない。
次に晒しの手順だが、縮でも糸でも、一晩灰汁(アク)に浸して、次の朝何度も水で洗い絞りあげて前と同様にさらす。特に貴重な縮をさらす場合は、さらし場を別に準備し、その他万事に注意を払ってさらすので、この点は機をおる際の注意と同じである。この土地では、地中の水気は雪のために出てくることがなく、また雪の時期には雨はまれで、春も雨は降らない。それ故、晴がつづくことを見極めてさらす。灰汁にひたしてはさらし、これを毎日くりかえして幾日か経って真っ白になればさらしが完了する。さらしが完了に近い時期の白ちぢみをさらす時は、朝日があかあかと昇って小さな玉が平らに並び、水晶が白布が紅に映る景色は実に見事で、たとえようがない。この光景は、雪のまれな暖国の風雅人にも見せて上げたい。ちぢみを晒す手順にはいろいろな段階があり、ここでは大略を述べただけである。
●縮の市:製作者の手を離れる
市場でちぢみの市がたつのは、前にいった堀の内・十日町・小千谷・塩沢の四ケ所に限られる。初市をこの地の言い方ですだれあきと言い、雪がこいのすだれを開いて明りを入れる意味で、四月はじめの行事である。堀の内が最初で、小千谷、十日町、塩沢の順に、いずれも三日ずつ間をおいて開く。もっとも、毎年同じとは限らない。この四ケ所以外には市場はない。十日町には三都(訳註)呉服問屋の定宿があり、縮を買いつけている。市場の日には遠近の村々から男女がやってきて、それぞれ所持のちぢみに名所(住所氏名)を記した簽(ふだ、タグ)をつけて市場に持ちより、その品を購買人に見せて売買の価格が決まれば約束の札をわたし、その日の市の終わりに金に換える。およそ半年間も縮のことで辛苦するのはこの初市が狙いだから、縮を売る人はもちろん、ここに集まる人は大勢で波のようで、足を踏んだり踏まれたり、肩をぶつけ合ったりする。縮以外の品も、ここに店をかまえて販売する。遠くから来て宿をとる人もおり、どの家にも人が集まり、祭りの香具師が見世物を準備し、薬売は弁舌を誇り、参加者も足をとめるので立錐の余地もない。初市の賑わいは、繁華な場所での騒ぎにも満更劣らない。上記の四つの市が終わった後も、いたるところで毎日問屋へ来てちぢみを手に入れ、逆に仲買の人があちこちに出かけて買う場合もある。
六月十五日迄を夏ちぢみといい、翌六月十七日より翌年の初市までを冬ちぢみという。縮の精疎の位を一番二番と言う。価の高低にある程度の定めはあるが、年によって少しずつ違う。相場は、市の日に気運につれて自然にさだまる。相場がよければ三番のちぢみが二番になり、二番が一番へと位が上がる。前にも言ったことだが、ちぢみは手間賃を論じないもので、誰が織ったちぢみが初市でどんな値段で売れ、ずいぶん技術が上達したなどといわれるのを名誉とし、その技術によって嫁に貰おうという言われたい娘もあり、金銭よりも名を争うものである。だからこそ、市にちぢみを持ってゆくのは兵士が戦場に向かう状況に似ている。
ちぢみの相場は、一見穀物の相場と似るようで、状況は逆である。凶作なら穀物の値は上り縮の値は下る。豊作なら縮が上り穀物は下る。豊凶がいろいろに関係してくる点は、これだけでもわかる。だからこそ、誰もが豊年を祈るに決まっているのだ。

堀の内・小千谷・十日町・塩沢:JR 上越線と関越自動車道では、塩沢・堀之内・小千谷の順に南から北へ並び、十日町だけは西へはずれて飯山線とほくほく線の交点にある。
三都呉服問屋:三都は、京都・大阪・江戸の三都市を指す。
名所:住所氏名
簽:価格や品質を示す「ふだ」 
●ほふら:現在用語なら「新雪なだれ」
私の住む塩沢の方言に、ほふらというのがあり雪頽に似ているが違う。発生は十二月前後に限る。高山に雪が深く積って凍った上にさらに雪が降り積り、気象の状況からまだ凍らず泡状で、山の頂の大木につもった雪が、風などの影響で一塊り枝から落ちると、山の高低に随って転がって、転がりながら周りの雪を加えて次第に大きく成長し、何十トンもの重さになって何メートルもの大石も倒してしまう。この新雪におされて雪が洪水のように大木を倒し、大石も落として人家も潰すことさえ起こる。
この時は暴風が雪を吹きちらし、雲が空にかかって白昼も急に暗くなって夜のようになる点は、雪頽と同じである。
なだれは、前にも言った通り少しは前兆があって発生が予測できるが、ほふらは前兆がなくて突然起こり、不意をうたれて逃げようにも、周辺の雪が軟らかで深くて走れず、十人に一人も助からない。何十メートルもの雪は人力では除雪できず、三月か四月に雪が消えてようやく遺体が見つかることもある。場所によっては、ほふらを別の言葉で○をほて ○わや ○あわ ○ははたりなどとも呼ぶ。山村では、なだれやほふらを避けるため、災のない場所を選んで家を建てる。ほふらで村ごとつぶれた話も以前は多数聞いたが、細かすぎて煩わしいので、記述はやめておく。

:「ほふら」は、今の用語で新雪なだれにあたる。春先の雪崩は底が地熱や雨水で解けて滑るいわゆる「全層なだれ」で、一方新雪なだれはすでに固まった雪の上に新たに積もった部分が滑る「表層なだれ」である。
●雪中花水祝い(雪の中で、花と水で祝う)
図 祭りの絵で本文に詳しい説明がある。絵の中にも説明があるが、こちらは訳者の能力では読めない。
魚沼郡の内宇賀地の郷、堀の内の鎮守様の宇賀地神社の本社は八幡宮で、かなり昔からある社だという。縁起の文章は多いからここには記さないが、霊験あらたかなことは知られている。神主宮氏の家には貞和(1345-1350)文明(1469-1487)の頃の記録が今も残っているという。当主は文雅を好み、吟詠にも優れ、雅名を正樹という。私も同じ趣味なので交友である。
幣下と呼ぶ神社があちこちにある大きな神社である。この神社の氏子、堀の内で嫁を迎え婿をとった場合、神勅として婿に水を賜るので、これを花水祝いといい、毎年正月十五日の神事である。新婚のある家毎に神使を派遣するから、そうした家が多い時は早朝に始めて夕方までかかることもある。
友人の黒斎翁(堀の内の人、宮治兵衛)の言うには、花水祝いは淡路宮瑞井で井戸に橘(たちばな)の落ちた瑞祥があったと日本紀に載っているのが起源で、花水の名はこれが始めだという。だから、新婚の婿に神水を灌ぐのが当社の神事である。
さて、当日は新婚者のいる家に、神使を派遣する。神使の役の人は、百姓の内から旧家で門地の正しい人を選んで定める。基準としては、喪に服していないこと、やもめでないこと、家に病人のいないこと、親類縁者に不祥事がないこと、そんな人を除いて家内に支障なく平安無事な人を選ぶ。神事の前の朝は、神主が斎戒沐浴し斎服をつけて本社に昇り、選んだ人々の名をしるして御籤にあげ神慮を頂き、神使とする。神使に当った人は、潔斎してこの役を勤める。これを大夫という。黒斎翁の話では、これが本来の浄行神人で、大夫は里言の呼び名である。
当日正月十五日に神使が本社を出る服装は大名行列式で、まず先箱をたて次に二本の槍がつき、台笠・立傘・弓が二張・薙刀などが先行し、神使侍は烏帽子(えぼし)と素襖(すおう)を身に着け、次に太刀持・長柄持・傘をさしかける供侍・二人草履取・跡鎗一本などで行列する。これらの品々は、神社の保管庫にある。次に、氏子の人々が大勢で麻上下を着けて随う。こんな服装で新婚の家に到着する。家のほうでは、前から雪中に道を作り、雪で山みちのような所は雪を石壇のようにつくり、あるいは雪で桟敷のように作って見物の場所にもしている。こんなことにも、人夫の費用がたくさん必要である。
さてその家では家内を清め、とりわけ当日正殿の間として祭りの主役の場となる一間は塩垢離できよめて神様のお使の席とし、花筵や布を並べ上座には毛氈をしき、上段の間に一応は刀掛をおく。次の間には親族はもちろん、親しい人々からの祝義のおくり物を並べる。嶋台に賀咏をそえたものなど、思い思いに種類多く飾る。門には幕を準備し、適当な箇所をしぼりあげてここに沓脱の壇をおき、玄関の式台を真似る。家内の人たちは、全員よそ行きの衣服を着けて神使をまち、神使がきたときけば、親あるものは親子で麻上下にて地上に出て神使を迎える。
神使の草履とりが最初にきてまず暴れまわり、正一位三社宮使者と大声を出す。神使を見て亭主は地上に平伏し、神使を連れて例の正殿に座らせる。行列は家の左右で隊列をつくって並んでいる。さて神使にたばこ盆・茶・吸物・食事の膳部を差し出し、数献をすすめる。その年のあら婿(婿入りしたばかりの人)に、盃を与える。三方とお皿の肴をはさみ、献酬は七献までである。盃ごととして、祝義の小謡をうたう。こうして神事が終ると神使は退出する。他に新らしい婿の出た家があると、そこへ行って前のことを繰り返す。
この神使は、例の花水を賜わることを神より氏子へ告げるお使である。神使が社頭へ帰る時に村長の家に立ち寄って酒肴の饗応を受ける。神使が社内へ戻ったのを見ると、踊りの行列がくりだす。一番に傘と矛と錦にみずひきをかけて端に鈴をつけ、また細工の物をいろいろと下げる。傘矛の上には、お祝いの言葉を述べた太鼓を飾る。これを二人で持って紫ちりめんで頬をつつんでむすび下げ、同じ紅絞りなどを片襷にかける。
黒斎の話では、祭礼に用いる傘矛には昔は羽葆葢(うほうかい)という字をつかい、所謂繖(さん)であって、「きぬかさ」と呼んだ。神輿鳳輦(いずれも高貴な人を担ぐ輿のこと)を覆って奉るもので、「錦蓋」である。いろいろな説があるが、長くなるから省く。
さて二番に仮面を着けて鈿女(螺鈿でかざった女性)に扮する者一人、箒のさきに紙に女陰を描いたものをつけて担ぐ。次にこれも仮面で猿田彦に扮した一人が、麻で作った幌か帽子のような物を冠り、手杵のさきを赤く塗って男根を表示したものを担ぐ。三番に法服を美しくかざった山伏が法螺貝をふく。四番に小児の警固がそれぞれの身なりで随う。次が大人の警固で、麻上下に杖を持ち非常に備える。五番に踊の者が、大勢花やかな浴衣を身に着けている。正月で寒い時期だが、人勢が多く熱気にあふれるので浴衣である。この人たちは色付きの細帯を締めて群をなして行進し、この地の言い方にこれを「ごうりんしょう」というが、おそらく「降臨象」という意味だろう。つまり、皇孫が日向の高千穂の峯に天降った際の姿を真似る気持ちだろうと老人が述べていた。いろいろな説があるが、議論は省略する。
婿の方では、そのおどり場も我が家の前に準備し、新しい筵をしき、新しい手桶二つに水をくみいれ、松葉と昆布とを水引にてむすびつけ、筵の上において、銚子と盃をそえておく。水取といって婿に水をあびせる役が二人、副取というのが二人、おのおのたすきを結って、凛々しそうにして出発する。婿は浴衣と細帯で、おどりのくるのを待つ。おどりが家にちかづいたら、行列をひらいて、踊る人がこの筵のまわりにむらがって歌いながら踊る。その歌に『めでためでたの若松さまは、枝も栄ゆる葉も茂る』『さんやめでたい花水さんや、せな(脊)にあびせんわが(我)せな(夫男)に』をくりかえしくりかえして旋律をかえて歌いながら踊る。事に慣れた踊りの警固、例の水とりなども状況を見て婿に三献を祝わせ、かの手桶の水を二人して左右より婿の頭へ滝のごとくあびせる。これを見て周囲の人たちが躍り上がって、めでたしめでたしと祝う。婿はそのまま自分の家に走って入り、踊りはさらに家にもおし込んで七八遍ほど踊り歌ってからどろどろと立ちさり、再びはじめのごとく列をなして他の婿の家に向かう。ことが終わっても、おどりは宿役の家や単に馴染みというだけの家にも侵入して踊り歩いたりする。田舎の生活は変化が乏しいので、この日は遠近の老若男女がこれを見ようと蟻のごとく集まり、行事が進んで周囲が熱狂する様子はなかなか描写しきれない。
婿に水を灌ぐのは、男の陽の火に女の陰の水をあびせて子をつくらせようというおまじないで、妻の火をとめるという祝事でもある。この風習は室町時代に武家の俗習として発生し、農商もこれを真似て少しずつ行はれるようになったらしい。貝原先生の歳時記には、松永弾旺の結婚の際に起ったと書いてある。江戸では宝永の頃までも世の中で正月十五日にこの行事を行い、祝義のように大流行し、婿に恨がある時などは水祝いを口実にいろいろな狼籍を働いて、しばしば殺人にまで発展し、正徳の頃に国禁となって以後断絶した。くわしくは、昔むかし物語という作品に載っている。国初以来のことを記した写本で、元禄中を盛りにしてその後は衰えた人の晩年の作品である。問題の花水祝いは神秘ともいえようが、別に理由もあるだろう。
ああ畏れ多いこと。雪のついでにその大略を記したが、お好きな方はどうぞ話の種に。

烏帽子と素襖:いずれも古風な衣装で、烏帽子は頭につける帽子、素襖は古風な衣服。
繖:柄の長い傘
手杵:杵(きね)だが、取っ手がなくて中央がくびれているもの。月のウサギが搗くのがこれか。
宝永(1704〜1711) 正徳(1711〜1716) 
●菱山の奇事:雪崩で豊作凶作を占う
越後の頸城郡松の山は一庄の総名で、多数の村落を併せた大きな庄である。いずれも山間の村落で、一村の内に平地はない。ただ松代という所だけが平地で、農家が軒を連ねている。外百番の謡に載っている松山鏡もこの土地である。その謡にある鏡が池の古跡もここにあり、今は池とはとても言えない程度に埋められて小さいけれど、跡はのこっている。推測だが、松山鏡の謡は鏡破の絵巻を源として作ったもので、この絵巻にも右の松の山のことが載っている。
松の山の庄内に菱山という山があり、山の形が三角形だからついた名前だろう。山に近い所に須川村があり、こちらは川でついた名である。菖蒲村というのもある。
この菱山では、毎年二月に入り夜中に限定して雪崩があり、その音響が一二里(4〜8 キロメートル)離れても聞える。話によると、白髪白衣の老人が幣をもってなだれに乗って下ると言う。このなだれが須川村の方へ二十町(2 キロ)の距離を真直に下る年は豊作で、菖蒲村の方へ斜に落ちる年は凶作である。この占いは絶対に狂わないという。ある年の豊作凶作が雪崩に関係しているというのもこの山だけで、不思議だ。
ついでに述べておこう。旧友で寺泊に住む丸山氏(医家で、祖父は博学で評判の高い人であった)のお宅に、二十年前に私が滞在した時、祖父が宝暦の頃に著述したとして、越後名寄という書物を見せられた。三百巻に及ぶ自筆の写本である。題名は名寄だが、実際は越後の風土記である。一国の神社仏閣・名所旧跡・山川・地理・人物・国産薬品の類まで、こまかく部に分け図に描いてわかりやすく解説した優れた作品である。この書物に、上に述べた菱山の説も簡単に載っているが、詳しくないので引用しない。菱山を述べてこの書物を思い出したが、このような大部の名作が個人の所蔵で大切にされるだけで世に知られないのが残念でここに述べておく。

庄:部落の単位。「村」よりは小さい場合が多い。「荘園」との関係ともいう。
幣:ぬさ。神主さんがお祓いに振る紙か布のひらひらしたもの。
宝暦(1751−1764)
名寄:名前の通り、本来は人名や地名を集めたもの。 
●秋山の古風:秘境秋山への紀行の序
信濃と越後の国境に秋山という場所があり大秋山村というが、全体で十五の村を合わせて秋山とよんでいる。秋山の中央に中津川が流れ、下流は魚沼郡妻有の庄を流れて千曲川に入る。川の東西に十五ケ村ある。
東側(右岸)に在る村
印は越後に属す
印は信濃に属す
清水川原村 人家は二軒だけだが一応村と呼んでいる。
三倉村 人家三軒
中の平村 二軒
大赤沢村 九軒
天酒村 二軒
小赤沢村 二十八軒
上の原 十三軒
和山 五軒
酉側(左岸)にある村
下結東村
逆巻村 四軒
上結東村 二十九軒
前倉村 九軒
大秋山村 人家八軒あり
大秋山村はこの土地の中心の村で、代々伝わった武器などの持ちものもあったが、天明卯年の凶年にすべて売却して食糧として消費し、それでも結局維持できず、一村のこらず餓死して今は草原の地となっているという。
屋敷村 十九軒
湯本 温泉あり
この土地の東には苗場山が高く聳えてそこから山脈が延び、西には赤倉の高山が雲の上に出るようにそびえ、山がいくつか並んでいる。清水川原は越後側の入り口で、湯本は信濃に越える嶮しい路につらなっている。こちらは、武人が一人いれば1 万人の攻撃も支えられそうな山間の僻地である。
里の人たちの伝えによると、この土地はむかし平家の人の隠れた所だと言う。私の推測だが、鎮守府将軍平惟茂から四代の奥方の血筋の奥山太郎の孫で、城の鬼九郎資国の嫡男の城の太郎資長の代まで、越後高田の付近の鳥坂山に城を構え、一国に威をふるったという。しかし、謀叛の評判がたって鎌倉から佐々木三郎兵衛入道西念が討伐にきて、しばし戦って終に落城した。この時に一部の落人らが、この秋山に隠れたのかも知れない。話に平氏の落人部落を聞くのと似ている。
この秋山には昔の風俗がそのまま残っていると聞き、一度は訪れたいと考えていた。たまたま、この土地をよく知っている案内人と知り合い、急に思い立ち案内の人に教わりながら、米・味噌・醤油・鰹節・茶・蝋燭など用意して従者にもたせて出発した。それが文政十一年(1828 年)九月八日だった。その日は秋山に近い見玉村の不動院に宿泊し、次の日には桃源を訪問する気分で秋山に入った。入り口に清水川原という場所があり、ここにいく道の傍に、丸木の柱を建て、注連(しめなわ)を引きわたし、中央に高札がついている。
一体何だろうと立ちよると、子どもが書いたような仮名文字で「ほふそふあるむらかたのものはこれよりいれず」(疱瘡のある他国の方はここから入らないで下さい)と書いてある。案内の人の話では、秋山の人は疱瘡(天然痘)をまるで死をおそれるように極端に恐れるという。たとえば、疱瘡とわかると自分の子どもでも家におかず、山に仮小屋を作って隔離し、食糧を運んで養う決まりである。すこし豊かな人は、里から山伏を呼んで祈らせるが、結局十人中九人は死んでしまう。だから、秋山の人は他の場所へ行って疱瘡と聞くと、どんな用事でも捨てて逃げかえる。したがって、この土地では疱瘡の患者が稀れで、十年に一人あるかないかだと語った。
さて清水川原の村に着くと、そこには家が二軒あり、家の作り方は他と違う。この問題は後で説明しよう。とにかく、ここで少し休んで出発したが、案内の人が最初に猿飛橋を見せましょうと先にたってゆく。この秋山の道は、すべて土地の人が通る目的で開削した道で、牛馬はまったくつかわないから、極端に狭く小笹など深くてやっと道とわかる程度の箇所も多い。こうして、中津川の岸に到着した。
図 猿飛橋の様子。橋を渡る人だけでなく、藤蔓につかまっている人が描かれている。これは山東京水のものではなくて、鈴木牧之の絵である。
岸の対岸の逆巻村にいく所に橋があり、これが猿飛橋である。その橋の様子を見ると、たとえ猿でも翼がないから飛ぶわけにはいかず、両岸は絶壁で屏風をたてたようで、岸より一丈(3 メートル)あまり下に両岸から向かい合っている岩の出っ張りがあり、これを使って橋を架けている。橋の場所へ下るために梯子がつけてあり、橋は真直ぐな丸木を二本ならべて、細木を藤蔓で編んだだけである。橋自体の長さは二十間(36 メートル)余で、橋の幅は三尺(0.9 メートル)もなく、欄干はもちろんない。橋を渡った対岸には、藤綱を岸の大木にくくりつけてぶら下げてあり、これにつかまって岸にのぼる。見ているだけでも危っかしく、"蝶も居直る笠の上"と芭蕉が述べている木曾の桟(かけはし:渓谷を渡る高い橋)にも引けはとらない。この橋を渡らなくてはいけないのかと訊くと、案内人が今日はこちら側(川の右岸つまり東側)の村を見てまわり、小赤倉村までいって頂きますという。そこは道がよくなり、小赤倉には知人がいて、宿を頼めると思いますと言う。橋をわたらなくていいと聞いて気持ちが落ち着いた。
岩にこしかけて墨ツボをとりだしで橋を写生して四辺を見わすと、雁が峯を越えて雲に字をならべ、猿が梢をつたっている様子と川を画に写し、珍しい樹木が崖に生えて竜が眠るようで、大きな気味悪い岩が途を塞いで虎が休む姿のようだ。
図 秋山の絶壁を描いた図。崖に伝わり歩きをしている人が3 人はいるが、他にもいるだろうか。
山林は遠く色づいて錦を開いたようで、川の水は深く激しく流れ、しかも藍を流したように美しい。金色の壁と緑色の山が連なる様子は、画にも描けない見事な光景である。見ていて飽きることもなく、しばらく休んでいると、農夫が二人やってきておのおの荷物入れを脊負って問題の橋をわたろうとしている。岸に立ってみていると、例の梯子を石壇のようにとんとんと歩いて降り、橋はまるで平地を歩くように進み、橋の中ほどでは橋がゆらゆら揺れてひどく危なそうで、見ているだけで身の毛もよだつようである。対岸に着くと、例の藤綱に掴まって岸にのぼる様子はまるで猿のようで、偶然にも人のわたるのを見て眼を見開く気持ちであった。
さてここを離れて細道をたどり、登ったり下ったりして、ずいぶん歩いてようやく三倉村に到着した。ここには人家が三軒あり、今朝見玉村から用意してきた弁当を開こうとある家に入ると、老女がよくいらっしゃいましたと言いながら、木の板の上に長い草をおいて木櫛のやうなもので、掻いて解き分けようとする。それは何で、何をするものかと訊くと、山にあるいらという草で、これを糸にしてあんで衣を作るのだという事である。「あみ衣」という名が珍しいので、さらに訊いてみると、老女は笑って答えない。案内人が脇から「あみ衣というのはこの婆々どのが着ているもののこと」と説明する。それを見ると、布のやうなものを袖なし羽織のやうにした物である。茶を貰いたいというと、老女は果して最初に疱瘡のことを質問した。
案内人が説明して、自分たちは塩沢から秋山を見にきたもので、塩沢には去年来ほうそうはない言った。老女がいうには、村内のものが今年は井戸の中の蛙のやうに小さくかがんで里へは一度も出ようとしないといいながら出してくれた茶をみると、煤(すす)を煮だしたようなので遠慮して、それとは別にただの白湯(水を温めただけのもの)をもらって食事をおわり、ゆっくりこの住居を見ると、基礎の土台に柱を載せるのではなくてただ地面に柱をたててそれに貫(横棒)を藤蔓で縛りつけ、菅(かや)をあみかけにして壁につくり、小さい窓があり、戸口は大木の皮一枚をひらいて横木をわたして補強し、藤蔓でとめて特に閾(しきい)もつかわずに扉にしている。屋根は茅葺でいかにも小さな家である。いわば、ただかりそめに作った草屋だが、里地より雪は深そうだから頑丈に作ってはあるようだ。家内を見ると、筵のちぎれたものを敷き並べ、むしろは古い。稲や麦のできない土地で藁が乏しいのだろう。納戸も戸棚もなく、ただ菅(かや)の縄でつくった棚しか見当たらなかった。
囲炉裏は五尺(1.5 メートル)あまりで、深さは灰までが二尺(0.6 メートル)ほどある。薪は豊富にあるので、火は十分につかえる。家の様子の割に立派なものとして、大きな木鉢が三ツ四ツあり、これも自分のところで作れる故だろう。薬鑵(やかん)・土瓶(どびん)・雷盆(すりばち)などはどの家にもなかった。秋山の人家は、すべて同様である。今日秋山に入り、ここまでに家を五軒見せてもらったが、時期的に粟と稗を収穫する頃で家には男性はいなかった。こんな風に休んでいるうちに、栃の実をひろって山から帰ったという娘を見ると、髪は油気もなくただ丸めて束にしてそれをカラムシで結び、古びた手拭いを頭に巻き、着ているのは木綿袷の垢だらけのもので普通よりは一尺(0.3 メートル)もみじかく、巾二寸(6 センチメートル)ほどのもめんの帯を後ろにむすんでいる。女性が鉢巻をしているのと、帯の巾が狭い点は昔の絵で多数見た姿である。着るものの短い点も、昔でも下々のものの格好である。秋山の女性は、みなこんな格好をしている。老女に土地の風俗などを訊いてみたが、どうも要領をえず気持ちが通じないようで一向にわからなかった。一応は、お礼のものをさし上げて退去した。
こうして中の平村で九軒、天酒村で二軒、大赤沢村で九軒の家によった。道はどこも嶮しい山路で、その日申(午後4 時頃)の下刻(5 時近く)やっと小赤沢に着いた。ここには人家が二十八軒あり、秋山の中で二ケ所ある大村の一つで、他に上結東に二十九軒ある。この村に市右ェ門という村で第一の大家があり、幸い案内人の知人なので宿を頼んで入って見ると、四間(7m)に六間(11m)ほどの住居である。主人夫婦は老人で、長男は二十七か八、次に娘が三人いる。奥の方に四畳ほどの一間があって、境には筵を下げている。筵をたれて境とするのは昔の公家の家のようで、古い絵に数多く描かれている古風な住み方である。勝手の方には日用の器などが多数ちらかっている中に、ここにも木鉢が三ツ四ツあった。囲炉裏は、例の通り大きく深い。さて用意してきた米味噌をとりだし、今朝清水河原村で入手した舞茸にこの地の芋など加えて、案内人が料理しようと雷盆(すりばち)を頼むと、末の娘が棚のすみからとり出した。見ると、ひどく煤けてふだんは使っていないようであった。あとで聞くと、秋山ですりばちのあるのはこの家と本家だけだという。
この土地で、最近になって豆を作りはじめて味噌もつくるが、麹を入れずに、ただかき混ぜて汁にするだけですり鉢はつかわないという。それに、この家でも竈(かまど)はなくてすべて囲炉裏で何でも煮る。やがて夜になって暗くなると、姫小松を細く割ったものを灯火としている。なかなか明るくて、ふつうのロウソクより優れている。案内人が調理した料理をバラバラの食器に盛り、山折敷(お盆の一種)に載せて出した。ご主人のもてなしとして、芋と蕪菜を味噌汁にした具として変なモノがある。案内の人が心得て説明したところだと、これが秋山名物の豆腐だと言う。豆を挽いてはあるもが、オカラの部分を分けていないので味がない。
食事が済んた後にご主人が次のように述べた。
茶の間の旦那:秋山のことばで「茶の間の旦那」というのは敬語だという。茶の間をまもっている人ということだろうか。
どつふりに入らずという。この「どつふりに入らず」というのの意味がわからないので、案内の人に訊くと、風呂に入りなさいということである。据風呂をどつふりまたは居り湯ともいう。
秋山で据風呂式の風呂桶があるのは、この家とその本家だけという。この土地の人はあまり風呂に入らず、冬でもときどき掛け湯を浴びるだけである。外から帰っても足を洗うことはせず、何しろむしろの上で生活するのでこれでいいと言っていた。風呂に入ったが特に変わったこともなく、旅の疲れもとれて良い気持ちになって元の囲炉裏の横座に戻った。囲炉裏は横が上座で、この点は田舎一般の礼儀である。ここには銅鑵(どうかん)もあり、用意の茶を従者が煮たのを喫み、持参の菓子を例の三人の娘にも与えると、三人は炉に腰かけて箕居して、足を灰のなかへふみ入れる形で、珍しそうに菓子を食べた。炉では柱にもなりそうな太い木を、惜気もなく燃やしている。火が照すのを見ると、末の娘は色黒く肥って醜い。ときどき裾をまくりあげて虫をつかまえるのが見ぐるしいが、それを恥らう様子もない。二人の姉は色白で玉を並べたような美人で、菓子を食べながら顔を見合わせて微笑し合っている風貌と愛嬌はこぼれるばかりである。これほどの美人二人を、秋山の田舎ものが妻にするのは可憐ながら勿体なくて、琴を薪としてかまどで燃やすようで残念である。ここのご主人は他の土地のことをもよく知って話もわかる老人なので、その風俗を尋ねたので話してくれたことの概略を以下に記そう。
○ この土地は最近税金のことを聞いてはいるが、米麦の生産がないので僅かな労役を負担するだけである。信濃と越後との二つの村名主の支配をうけて旦那寺も定めたが、冬には雪が二丈(6 メートル)以上も積もって人の往来もなくなり、雪の時に死者が出ても寺に送れない。この村で山田を氏とする助三郎というものの家に、昔から伝わっている黒駒太子と称する軸画があり、これを借りて死人の上を二三回振って、これを引導として私的に葬っている。寺を定める以前は、昔からこれで済ませてきた。秋山には山田と福原の姓しかない。上に述べた助三郎は山田の総本家で、太子の画像というのは太子のように見える姿がくろい馬に乗って雲の中に歩いている内容という。私は、助三郎の家に出かけて、問題の軸画を見せてほしいと懇願したが、正月と七月以外は見せないと許しが出なかった。
○この土地の人は、上等な食事としては粟(あわ)に稗(ひえ)・小豆もまぜて食べる。やや下等な食事としては粟・糠(ぬか)に稗・乾菜(ほしな、乾燥野菜)をまぜて食べる。また栃の実を食べることもある。
○婚姻は秋山十五ケ村の中に限定し、他所の土地とは婚姻を結ばない。婦人が他所で男をもつ場合、親族は関係を絶って二度と面会しないのが昔からの習慣である。
○秋山に寺院は一切存在せず、僧の住む庵室もない。八幡の小社が一ツだけある。寺がないので、住民はみな無筆である。たまたま賢い人が、他の土地から手本を入手していろは文字をおぼえた場合、その人を物識りとして尊重する。
○山中なので蚊はいない。蚊帳(かや)を見たものはほとんどいない。
○深山幽僻の地だから、蚕はつくらず木綿の栽培もせず、衣類が乏しい事は推測できよう。
○山に、「いら」と呼ぶ草があり、その皮を製して麻の代用として衣類用に使う。
○翁がこんな風に話してくれた時、私は「いら」の形状を詳しく訊かなかったが、後で考えてみると「いら麻」の事に違いない。「いら麻」は植物図鑑に載っている草の名で、麻の字がついていて、麻の代わりに使えるのだろう。ただし、毒草と書いてある。また山韮(やまにら)というのも図鑑に載っている。これも麻のかはりになる。もしかすると、「にら」を「いら」と呼ぶのかも知れない。草の形状を聞かなかったので、今さら確かめようがない。
○秋山の人は、冬でも夜も昼間の服装のままで寝る。夜具というものはこの土地にはない。冬は、一晩中囲炉裏に存分に火を炊いて、その傍で眠る。極端に寒い場合は、他の土地から藁を入手して作っておいたカマスに入って眠る。妻がある場合は、かますを大きく作って夫婦で同じかますに入って寝る。
図 秋山郷ではカマスで寝ることを示している(訳註参照)。
○秋山で夜具を持っている家は、この翁の家とほかに一軒あるだけである。それも例のいらで織った布にいらのくずを入れ、布子のすこし大きなものとして宿り客用につかうだけだろう。私はここに一泊して、この夜具で寝たが、例の糸くずが裾におちて具合のわるいところが多く、とうてい気持ちよく寝られたとはいえない。
○藁が乏しいので草鞋ははかない。男女とも裸足で、山ではたらく時もそのままである。
〇病気になれば、米の粥を喰べさせて薬としている。重病なら、山伏を連れてきて祈ってもらう。病気をお祈りで治すのは、源氏物語にも載っている古風なやり方である。
○女性で鏡を持っている人は、秋山全体で五人いるという。松山鏡の故事が思い出される。
○この土地の人は、すべて篤実温厚で人と争わず、色慾が少なく博突をしらない。酒屋がないから、酒を飲むこともない。昔から、藁一本盗んだ人もいないという。こうした面では、実に仙境である。
○こうして、次の日はやぶつの橋というのをわたって湯本に泊まって温泉に入り、次の日は西の村々を見て上結東村に泊り、猿飛橋をわたり、その日見玉村に泊まって家にかえった。いろいろと書きたいことがあるが、長くなるので載せない。別に、秋山記行二巻を編纂して家に仕舞っておく。
○栃は、本字では橡(とち)と書く。この実の食べ方を翁に聞いたので、ここに記して凶年の心得としよう。栃の実は八月に熟して落ちるから、これを拾って煮てから乾燥し、手でもんで粗い篩(ふるい)にかけて渋皮を除去し、簀(すだれ)に布をしいて粉にしたものをおき、よくならし水をかけて湿めらせ、敷いておいた布につつんで水にひたしておく。そうして四五日後にとりだし、絞って水分を除いて乾し上げる。真白な粉になるので、これを粟や稗にまぜて食べるか、あるいは栃だけを食べる。栃餅にもするが、この餅にする栃は種類が違うという。栃だけでなくて、楢(なら)の実も食べる。食べ方は栃に似ているという。
○この秋山に類した山村は他国にもあるという話を聞いたことがあり、珍しいことでもないかも知れないが、秋山は自分で体験したので詳しく記述した。
○秋山の産物といえば、木鉢・まげ物類・山おしき・すげ縄板類などである。秋山では良材が多く得られるが、村を流れる中津川は屈曲が多く、また深かったり浅かったりして筏を流しにくい。牛馬をつかわないから、せっかくの良材も搬出困難で、結局金銭をうる方法がむずかしいので天然の貧地である。

天明:1781−1789 年、天明卯年は天明3 年1783 年で大きな飢饉の年である。
下刻:一刻(約2 時間)を3 等分した最後の40 分ほどをいう。
雷盆:すり鉢。語源は不明だが、現在でも「する」を忌み語として、「すり鉢」を「あたり鉢」、「するめ」を「あたりめ」と呼ぶ風習は一部に残っている。「雷」にはそんな意味があるのかも知れない。
姫小松:松の一種で「五葉松」ともいう。葉が2 葉ではなくて、名前の通り数が多い。
山折敷:下の板の周りに薄い板を折り回したお盆のようなものを「折敷」という。山折敷は、「山式の」という意味だろうか。細工物で縁を上に曲げたのかもしれない。
すげ縄板:菅を編んで板状につくったものの意味だろう。
据風呂:下にカマドがついて火をたけるようになっている風呂。また移動式ではなくて固定式の意味もある。
銅鑵(どうかん):鑵(かん)は湯をわかす道具。銅鑵は銅製で、もちろん錆を防ぎ熱伝導のよさで温めやすい狙いだろう。
箕居:両脚を出す座り方。つまり、正座ではなくて椅子に座る形。
太子:皇太子のことでもあるが、ここは聖徳太子のことか。
栃の実:外観は栗に似て美しい。ただし外殻にイガはなく、また外殻内に一個しかない。
栃餅は地方で食べられる場合があるが、ここにもあるように大変に手間かかるらしい。
カマス:筵を二つ折りにして両側を縫って袋状にしたもの。農作物などを詰めるのに使うの通常の用途。ここでは、それを寝袋(登山者のシュラーフ)として使うわけである。
松山鏡:越後松山の少女が、鏡に写る自分の姿で母をしのんだという伝説。能にもある。

秋山地区の地名について:国土地理院の2 万5 千分の1 の地図を調べた結果。
逆巻村
上結東村
前倉村
の三つが後に書いてあるのは、訪問の順序がそうなったからである。一行は、中津川右岸(東岸)を湯本まで行き、やぶつの橋で左岸に移って逆巻村まで戻り、例の猿飛橋で右岸に戻って帰路についている。
中津川について:中津川は、地図にしっかり掲載されて、なかなかの大河である。この川の水源である野反湖(のぞりこ)は群馬県内にあり、そこから長野県に入って小赤沢までは長野県内で、大赤沢村から新潟県に入る。群馬県から日本海に出る唯一の川で、群馬・長野・新潟の3 県を流れる。信濃川(千曲川)の本流は大河だが、長野県と新潟県の2 県にわたるだけなのと比較して意外で、興味深い。流れは真北に向かう。
苗場山と赤倉山の関係:東の苗場山は記述の通りだが、「西には赤倉の高山」という文章が現在の地図とは合致しない。赤倉山は苗場山の南側だから秋山地区の西側にはない。西側に「高倉山」というのがある。
見玉:地図に表示されている。清水川原より6 キロほど北。秋山郷への入口という。
清水川原と清水川原橋:地図に表示されている。猿飛橋はおそらく現在の清水川原橋に近いか、もう少し下流かも知れない。現在は立派な吊り橋があるらしい。
逆巻:地図に表示されている。清水川原よりわずかに北で、川の左岸(西岸)である。
結東:地図にあって川の左岸である。清水川原の南西。2 か所に表示されて両者が離れている。本書の説明に上結東と下結東があるから、それに対応するのかも知れない。
三倉:地図には清水川原の上流に「見倉」という地名がある。同一かもしれない。
中の平:地図には地名はないが、「中の平沢」があって右岸から中津川に流れ込んでいる。
前倉:地図に前倉と前倉橋が表示されている。橋は清水川原橋より数キロ上流(南)。前倉は中津川左岸で橋より下流だが、川からやや離れている。
大赤沢:地図に表示されている。前倉橋に近い。新潟県内で、長野県の県境に近い。
小赤沢:地図に表示されている。大赤沢より1.5 キロ南。こちらは長野県内で、本書でも「信濃」となっている。清水川原よりずっと南で、少し南に「秋山郷」の表示もある。「秋山郷」の表示は他にもあるようだ。
屋敷:小赤沢のすぐ南、右岸
上の原:小赤沢の南、左岸
和山:小赤沢の南、左岸
湯本は信濃に越える嶮しい路につらなる:「湯本」の地名が、地図では見つからなかった。中津川の支流で雑魚川が西の志賀高原のほうから流れてくる。この雑魚川が中津川に合流する地点に「切明」という地名があって、温泉の印がついている。これが近いのかも知れない。牧之は湯本まで来て引き返しており、ここだとすれば清水川原から川沿いに道があったとしても地図の上で20 キロ近い。実際には、はるかに長距離を歩いたことになるだろう。
コメント:それにしても、この秋山の記録は素晴らしい。私の評価ではこれと苗場山登頂記が本書の双壁である。 
●狐火:怪しからんキツネ奴
中国の怪奇書「酉陽雑俎」に、狐が髑髏をかぶって北斗七星を拝み尾で火を出して鉄砲のように撃つという話が載っている。中国ではどうか知らぬが、私がみたのはかなり違っていて、その話を下に書く。狐は寒さを嫌う動物で、この塩沢では冬はごく稀にしか見かけない。春になって雪が降らなくなると、雪で食糧不足で飢えているので夜中に人家にちかづき、あたりの物を盗んで食い大変に怪しからんことをする。
こんなことは人間にもわかっており、狐が少しぐらい盗みを働いても気を効かせて放置しておくが、それにしてもわずかの機会をとらえて盗んで食ったりするのをみると、まるで妖術のようで奇々怪々と言える。時として、現れたり消えたりするのは鼠のようだ。というわけで、狐を妖怪扱いするのは日本でも中国でも当然である。
私は雪の時期には、二階の窓の近くに机をよせてあかりをとっている。ある時亡くなった鵬斎先生から菓子一折を頂いた。その夜寝ようとして、ふと狐のことを考えてその菓子折を丈夫な縄でしっかり縛って天井に高く釣って、こうすれば狐も手が出ないだろうと自惚れていた。さて朝になって見ると、しばった縄は依然として元通りだが、菓子折は消えていた。憎らしいことに、問題の菓子折はまるで人が置いたように机の上に載ってかけてあった紙もそのままである。ところが開いてひらいて見ると、中身の菓子は全部食べ尽くしていた。まるで妖術のような不思議さである。
ある時は猫の声を出して猫を誘い出して遊んで、その上に食ってしまった。老狐は婦女を騙して遊ぶ場合もあり、その場合に遊ばれた女のほうはかならず髪をみだしそこに寝ていて熟睡していたようである。何が起こったのか訊いてみても、状況を説明できたものがない。だれも皆、前後不覚の状態だったという。知らないはずはないが、恥ずかしくて言えないのかも知れない。
これも、前の酉陽雑爼の話だが、狐は氷を聴く能力があると言う。こちらは日本でもいうことで、現在も諏訪湖では狐が渡ったのをみて人も氷の上を歩きはじめる由で、この点は越後も信濃も同じである。一方、狐が火を扱うという説もいろいろあるが、どれも信じるに足りない。
私が実見したのは、ある夜真夜中に、自宅の二階の窓に火の映る様子で不思議に思って隙間から覗いてみると、雪を積んだ小山の上に狐がいて口より火を吐いていた。よくみると呼気が燃えている。その状況は、口よりすこし上で燃えて、前に述べた寒火のようである。面白いのでしばらく見物していたが、火が出る時と出ない時があり、狐の体内の「気」によるのだろう。狐の呼吸が常に火を吐いているというものでは勿論ない。博物学者木内石亭が雲根志の中で、狐の玉のひかることを述べているが、狐火は玉が光るものではなさそうである。狐の玉が光るという話と、ふつうに見る狐火とは別のものだろう。

酉陽雑俎(ゆうようざっそ):怪奇な話をあつめた中国の唐の時代に書かれた作品。
雲根志:博物学者木内石亭著。1770〜1800 年ころに出版。「奇石」を整理解説したもの。
コメント:この項目の話は狐が人間の女性とセックスするという部分も、呼気で火を噴くという部分も支離滅裂で、牧之らしくない。 
●狐を捕る:真面目な捕獲法かジョークか?
友人の話だが、彼の親しい友人が隣村へ夜話に出かけて帰る途中、道傍に茶釜が落ちていた。ちょうど夏のことだったので、畑で働いた農民が置き忘れたものだろうが、このままでは変な人に拾われてしまうかも知れない、持ち帰って持ち主を探してやろうと、この茶釜を手にさげて二町(200 メートル)ほど歩くと急に重くなり、茶釜の中から声がして俺をどこへ連れて行くのだという。拾った人のほうはびっくりして茶釜を捨てて逃げたが、狐は草の中へ走り込んだという話である。狐がちょっといたずらをしただけだろうが、こんな妖術をそなえながら時に人に欺されて捕まるのは何故だろうか。この質問に対する私の回答はこうである。
鉄砲に打たれたりするのは論外で、これは仕方がない。一方、ウマそうな餌に捕まるのは、人間が騙すことを狐も知ってはいるものの、慾を捨てて慎むことがいつも可能とは限らない。ダマされると知りながら餌にかかって、人を騙そうとして逆に捕ってしまうのだろう。狐のよこしまな知恵による。もっとも、この点は狐とは限らず人間も似たようなものだ。よこしまな知恵があると、相手の悪企みと知りながら、こうやればバレないだろうと自分のたくらみのほうを信じて、結局は身を亡すことになる。セックスも強欲も、結局身を亡すのは甘い汁を吸おうという心掛けである。
本物の善人は、路端に大金が落ちていても部屋で美人と対面していても、心が邪(よこしま)に動くことがない。心が安定して、止るべき時は止まると知っているからである。こういう人は心のなかに明るい鏡があって、善悪を照して正しく判断して身を慎むので、之を明徳の鏡と言う。鏡はお天道さまが誰にも授けて下さっているのだが、鏡だから磨かなければ光らないと、若い時ある儒学の学者から教を受けた。
狐の話に関係つけ大学の話にかけて諌めたのは、質問した人が若くてしかも身もちの崩れかかった人だったからで、このあたりは要らぬ長口上だが、丁度思い出したのでそのまま書いておく。
さてこの辺で狐を捕るやり方がいろいろある中で、懐手で簡単に捕る手法がある。その手法を説明しよう。春になって少し暖かくなるとつもった雪が昼の内は軟かくなる。夜間に狐が俳徊する場所を選んで、麦用の杵などを雪の中へさして杵の穴を二ツ三ツ作っておく。夜になるとこの穴も凍って岩の穴のように固くなる。狐が好きな油滓などをその辺に撒き、さらに穴の中にも入れておく。夜ふけに人が静まったころ、狐がここにやってきて、撒いてある油滓を食べ尽し、当然もっと食おうと例の穴の中のにも手を出す。そのために、頭を突っ込んで倒さになりて穴に入って中のもの食うわけだが、さあ穴から出ようとしても尾がやっとすこし出る程度に小さく作った穴だから、方向転換できず穴から出られない。
雪は深夜になればしっかり凍って、狐の力では穴を広げることもできず、何とか出ようとして結局くたびれ果ててしまう。さて狐を捕える側は、これを見つけて水を汲んできて穴に入れる。凍った雪の穴だから水は簡単には漏れず、狐は尾を振って水で苦しむ。あとは見ていればいい。狐は死に際に屁をひる癖があるから、狐が尾を揺さぶらなくなれば溺死したとわかり、あとは尻尾を掴まえて大根を抜くようにして狐が捕まる。穴は二ツも三ツも作っておくから、運がよければ二疋も三疋も狐を引き抜いて捕まる。この方法は、雪の穴が凍って岩のようになるから可能で、土の穴で同じことを試みても、土は狐の得意技だから逃げてしまうだろう。
まあ、これは雪国だけで出来ることなので、雪の話のついでに記しておく。

コメント:お談義の部分:本書は著者の道徳談義が少ない点が読みやすいのだが、ここでは珍しくお談義をしている。それでも「要らぬ長口上だが、丁度思い出したので」と照れている。
特殊な捕獲法:このキツネ捕獲法が本当の話か、著者がみたことや体験したことがあるのか、まったくのジョークなのかわからない。事実として信用するには面白過ぎる。 
●雁の代見立(だいみたて):雁は見張りを立てる
この土地は雪の盛りには食糧は何もないから、冬には山野の鳥は稀である。春になって雪が降りやむといろいろな鳥がやってくる。二月になっても野山一面に雪の中だが、清水のながれは水気が温かいので雪のすこし消える箇所も出現し、ここに水鳥が下りてくる。これを見ると雁も二三羽がここに降りて自分でまず食事を求め、ついで糞を残して食糧のある場所の目印にする。方言で、これを「雁の代見立」と呼ぶ。
雁がこんな行動をとるのは仲間の鳥を集めて、仲間にも食事を与えようという意図である。仲間を信じるこの態度は、人も見習いたい。ところが、人間のほうはこのがんの糞を探して、代見立の糞があれば種々の手法で雁のくるのを待って捕まえる。雁のほうもたびたび捕まってこれを知るからだろう。人にしらせまいと、糞に土をかけて隠してしまう。
代見立の具合が悪く、あまり食糧がない箇所へは、糞に土をかけず再来もしないので、雁の知恵も人のそれに似ている。ところが、人間のほうは知ったことをそのままにせず、糞に土をかけたのを見つけると、その近くで矢を射やすい所へ、人が一人入れる程の雪山をつくって、後に入り口をつけて中は空洞にし、雁のいるべき方角に穴を開けて雁のくるのをまつ。雁は勝手にくるのでなく、くる時がきまっている。それで雁がくるとこの穴から鉄砲の銃口を出して撃つ。このやり方を、土地の言い方で「ゆきんだう」というが、これは「雪ン堂」のことである。他にもいろいろなやり方があり、雁が住み処を替えるのは夕暮から夜半や明け方で、人はこの時を狙っていろいろな工夫をして雁を捕える。
この土地は雪の為にさまざまの難義や災難に遭うことを前に詳しく述べたが、雪を利用する例もあり、大小雪舟の便利、縮の製作など重要だが、他に以下のようなのがある。
○雪ン堂
○田舎芝居の舞台桟敷花道を雪で作る。
○辻売の居るところ、売物の架台も雪で作る。この地の言い方で「さつや」と言う。
○獣狩、追鳥。
○積雪で家が埋まると、かえって極端な寒さは防いでくれる。
○夏も山間の雪で魚や鳥肉を囲っておくと必要なときに食べられる。
○雪が水となって水源を豊かにする
他にも詳しく検討すれば、いろいろあるだろう。考えてみると、天地の万物にはムダはない。ただ人間の邪悪だけはごめんだ。
●天の網:カスミ網の利用
そもそも人が悪いことをすると天罰があたるもので、ちょうど魚が網にかかるように確実で、これをたとえて天の網という。新潟より三里(12 キロ)上ったところに赤塚村があり、山のところどころが凹になっている。ここに支柱をたてて細糸の網をはって鳥をとるのだが、土地の言い方で赤塚の天の網と呼ぶ。この村には干潟があり、水鳥がこれを狙ってやってきて、山の凹んだ箇所を飛んできて、天の網にかかってしまう。大抵はアジという鴨に似た鳥で、美味しいので赤塚の冬至鳥といって遠いところまで知られている。本来、アジカモというべき名前を省略して呼ぶのだろう。あじかもは、古歌にも多数詠まれている。
●雁の総立:番鳥と司令鳥と従卒の関係
一般的に、陸鳥は夜になると盲になって眼がみえず、水鳥は夜中も眼がみえる。雁は特に夜もよく見えるのでその度合いが強い。他国ではどうか知らないが、この土地の雁は大抵昼に眠り、夜に飛び回る。眠る時は、人家から離れた箇所に集って眠る。この時は首をあげて四方を見ている雁が二羽いて、これを番鳥と呼ぶ。番だけでなく、食物を探す際もやはり先導がいる。飛ぶ時に列をなすのを雁行といい、兵書にも載っていて知られている。
雁は、ただ居る際も序列を決めて勝手に行動しない。食糧を求める時は皆で一斉に飛び、遊ぶ時も皆で遊ぶ。雁の中に司令官がいて、他の雁はこれに随って行動する。大将と兵卒の関係である。
人が来たとか変な状況に気づくと、例の番鳥が羽ばたいて、他の鳥はこれを聞くと食糧を探している時でも、この羽ばたきを間違いなくとらえて、飛びあがるときは乱れているが、やがて隊列をつくって飛び去る。土地の言い方で、これを雁の総立と言う。雁の備え方は軍陣に似ている。他の種類の鳥ではみられないことながら、雁では他の土地でも同じだろう。こん なことは田舎のものには珍しくないが、都会の人の話題として提供しておく。
●渋海川(しぶみがわ)ざい渉り:川一面の氷が溶けて流れる壮観
しぶみ川というのは信越の境を水源として、越後の中を三十四里(136 キロ)流れて千曲川(信濃川)に合流して海に入る。この川は越後の
○頸城 ○魚沼 〇三嶋 ○古志
の四郡を流れるので、「四府見」という意味の命名かと思ったが、これは間違いである。
昔の書物をみると、渋海あるいは新浮海と書いてある。この川は屈曲が激しく、広くなったり狭くなったりする様子は描写がむずかしい。冬は一面に凍って閉じてしまい、その上に雪がつもると平地のようである。ところが、急流が岩に激しくぶつかり水勢が急なところは雪もつもらず、浪が立つことさえある。舟を渡す箇所は斧で氷を砕いて渡すが、それでも結局氷厚くなって力がおよばなくなり、船は陸に上げて人は氷の上を歩いて渉る。この地の言い方で、ざいわたりと言う。この土地の方言ではすべて物の凍るのを、
○ざい ○しみる ○いて
など言う。いては古い単語である。
正月の末から二月のはじめに陽気がよくなると、この川の氷が自然に裂けて流れる。大きなものは七八間(13〜14 メートル)で、形はさまざまで大きさも一様ではなく、川の広い所と狭いところにしたがって流れる。通常は、明け方に裂けはじめて夕方には流れ終わる。継続するのは日中一日かせいぜい一昼夜で、この三十四里の氷は全部砕けて流れて北の海に出る。この時に轟音を発して、響きは千雷のようで、山も震える感じである。
その日は、川の付近の村々は慎んで外に出ないことにしている。一方、よそからは渋海川の氷見物といって、花見のやうに酒肴を持参して岸に花筵や毛氈などを敷いて見物する。大小幾万の氷片や水晶の盤石のようなのが、藍色の浪に漂って流れる様子は目ざましい荘観である。氷を観て楽しむという趣向は、暖国では絶対にないだろう。この川には「さかべつたう」という奇談があり、これに関しては次の巻で述べよう。

コメント:この「渋海川ざい渉り」の項目は、川一面にはった氷が溶ける見事な風景を楽しむ話である。井上靖の名作『おろしや国酔夢譚』で、レナ河の氷が解けるシーンは小説でも映画でもドラマティックなシーンで全編の白眉部分である。似た光景が日本でも北海道北部ならありそうと考えていたが、意外に近いところに類似の箇所があったとは初めて知った。

 

初編巻之下
○渋海川さかべつたう:蝶の大量発生
○Cの字の考察:Cと鮭の関係
○Cの食用:食べ方各種、頭骨と卵と
○Cの生産地:主に北海道だが越後も
○Cと鮭の問題のすべて
○鮭を捕る仕掛けの例:打切とつづ
○掻網:Cを網で掬いとる
○漁夫の溺死:冬の漁の危険
○総滝:漁が危険か世渡りが危険か
○C漁のやり方各種
○Cの洲走り(すばしり):Cが地面を走って逃げる
○垂氷(つらら):雪国ではスケールが違う
○笈掛岩(おいかけいわ)の垂氷:雪国でも特別の巨大つらら
○雪中の寒行者:水垢離と無言と
○寒行の威徳:傲慢武士を無力化した話
○雪中の幽霊:幽霊の剃髪と見物
○関山村の毛塚:幽霊から入手した毛髪で供養
○雪中に鹿を捕まえる話:鹿は雪の中では鈍足
○泊り山の大猫:お盆ほどの足跡、日本にも虎が居た?
○山の言葉:泊り山では特殊な用語を
○子供たちの雪遊び:雪ン堂つまりカマクラ
○雪から坐頭が降ってきた:頓智で危機を脱して土産をせしめる
●渋海川さかべつたう:蝶の大量発生
図渋海川の蝶の大発生を描いている。蝶を何羽描いているだろうか。
この土地の方言で、蝶を「べつたう」という。渋海川の沿岸では、「さかべつたう」という。蝶はいろいろな虫の羽化したもので、大きなのを蝶、小さいのを蛾と呼ぶ。本草によれば、種類はとても多い。草花が変化して蝶になると本草にも書いてある。蝶の日本名を「かはひらこ」というのは新撰字鏡にも載っているが、「さかべつたう」という名はこの本では扱っていない。
前にいう渋海川で春の彼岸の頃、幾百万という多数の白蝶が水面より二三尺(0.6〜0.9メートル) の高さをは互いに羽もすれあうほどに群がり、高さは一丈(3 メートル)あまり、両岸に限定して川下から川上へ飛び、花ふぶきと見違いそうだという。何キロにも及ぶ川の流れに霞をひいたように、朝からタ方まですべてが川上へと続き数は無数で、川の水も見えないほどである。そうして日暮になると、みな水面に入って流れ下っていく。その様子は、白い布を流すようだ。蝶の形は燈蛾ほどだが、種類は白蝶である。この土地に川は大小いくつもあるが、この現象の起こるのは渋海川だけで、毎年必ず発生するのも不思議である。ところが、天明の洪水以来発生しなくなってしまった。
本草を調べると、石蚕あるいは別名を沙虱というものがいて、山川の石上について繭をつくり、春夏に羽化して小さい蛾となり、水上に飛ぶと書いてある。問題のさかべつたうは、渋海川の石蚕にあたるものだろう。それが洪水で全部流れてしまって、絶滅したのだろう。他の土地で石蚕を生む川があれば、同じ蝶がいるかも知れない。私自身はこの蝶を見たことはないが、近隣の老婦人で若いころに渋海川付近から当地に嫁入りしてきた人に尋ねたところ、その老婦人が語ってくれた話をそのまま記述した。

「べつたう」:発音は「べっとう」だろうが、ここは本来の表記のまま残した。
本草:植物一般を指す単語だが、ここでは「本草綱目」という中国の書物や「本草図譜」という日本の書物を指すのだろう。「辞書や図鑑によれば」と解釈する。
新撰字鏡:900 年頃にできた漢和辞書。
燈蛾:蛾は灯火に集まるので、こういう表現をする。
天明:1781-1789 年、いわゆる「天明の大飢饉」の時代である。北越雪譜は1840 前後の刊行だから、この蝶の大発生はもう絶滅している。 
●Cの字の考察:Cと鮭の関係
新撰字鏡という字書(漢和辞書)は、日本の僧で昌住という人が、今より940 年余り前の寛平昌泰(889-901)の年間に作ったもので、文字を詳しく検討する書物である。そんな昔から、世の学者たちが伝えて写して重宝してきていた。ところが最近、村田春海大人はこの本を京都で入手して、享和三年(1803 年)の春に版木をつくって出版し、世の人々が入手しやすくなり、その後は学者が机に置いて使えるのは、この春海先生のお蔭である。ところで、上の辞書ができてから20 年後に、源順氏が今度は「和名類聚抄」を編纂した。これも字書で、元和年間に那波道円先生が版木にほって刊行した。その後、別の版もできている。
さて上記「和名類聚抄」ができて後500 年ほど経って、文安頃(1445 年前後)に下学集という字書ができて、これも元和三年(1617 年)に版木で刊行された。下学集から53 年後の明応5 年(1496 年)に、堺の町人の林宋二氏が節用集を作り、文亀のころの活字本がある。これは引節用集の発端である。その後、180 年経って元禄11 年(1698 年)に槇嶋照武氏(別名、駒谷山人)が作った江戸の人書言字考、一名合類節用集という版木による出版書がある。前に述べた林宗二氏がつくった節用集を大成した物で、いろはで引ける本である。その他に、字類抄などがいろいろあるが、下に引用しないものはここでは省く。日本の字書というと、まずこの位だろう。現在世間で広く用いる節用集は、新撰字鏡 和名抄を元祖として、その後のものはみなそこから発展したものである。こんな能書きを述べているのは、そもそも鮭の字のことを言うつもりで、事情に暗い方々の為にあらかじめ説明した。
新撰字鏡の魚の部に「鮭」、「佐介」とあり、和名抄には本字は「C」で、俗に「鮭」の字を用いるが、これは間違いだと述べている。新撰字鏡は900 年頃の成立だから、「鮭」の字の使用もそこまで遡る。同じ本に崔禹錫が食経を引用して「Cの類の子は苺に似て赤く光り、春生れて年の内に死ぬので年魚と呼ぶ」と載っている。新撰字鏡に鮭の字を出して、Cと鮭と字が似ているから伝写の誤りを伝えたものだろうが、明確ではない。「鮭」は河豚のことかも知れない。下学集にも鮭・干鮭と並べて出している。宗二の文亀本の節用集でも、塩引干鮭とならべて出している。こちらも、Cと鮭との伝写のあやまりかも知れない。駒谷山人の習言字考には○鱖○石桂魚○水豚○鮭と書いており、いずれも「さけ」と読み、注に和名抄を引いて本字は鮭と述べている。大典和尚の学語編には鱖の字を出しており、鱖(き)はあさぢと読みをつけている。唐の字書には鱖は口が大きくて鱗が細かいと書いてあるから、Cの類だろう。字彙にはCは鯹の本字で、魚臭(なまぐさい)という字だと述べている。推測だが、Cの鮮鱗(とりたて)は特に魚臭いものだからだろう。鮭は鯸鮐(こうち)の一名ともいうが、そうなるとCからはますます遠くなる。ともかく、Cが本字と承知して俗用として鮭を用いるのが妥当だ。上に述べたように鮭の字も昔から使っているので、たいていの文章では鮭の字を用いており、Cの字では逆に広くは通じにくい。ここではとりあえず、Cが正しいことにしておく。

寛平昌泰:寛平(かんぴょう)は889〜898 年、昌泰(しょうたい)は898〜901 年
村田春海(むらたはるみ):国学者 1748-1811。賀茂真淵の弟子で著作もある。「大人」は「うし」と読み、学者・師匠への敬称。
板本:版木に彫って出版すること。一部ずつ写すのと比較すると、多数がつくれて普及しやすい。
享和(きょうわ):1801〜1804 年。享和3年は1803 年である。
源順(みなもと の したごう):(911〜983)、平安中期の歌人・学者で、「倭名類聚鈔」を編纂した。ここでは「和名類聚抄」と書いている。「朝臣」は位の名前で、姓名の後に「社長」とか「大臣」とか「教授」と書くのに当たる。
元和(げんな、げんわ):1615-1624 年、江戸初期である。「元和元年」が大阪夏の陣。
文安(ぶんあん、ぶんなん):1444-1449 年
下学集:上記の通り室町時代でできた辞書。カタカナで読みのついているのが特徴。
明応(めいおう):1492-1501 年。室町時代だが応仁の乱が終わり、戦国時代である。
節用集:日本語の辞書。イロハ順にかなで引ける点が特徴。
文亀:1501-1504 年:できたのが1496 年で、この年代に「活字本」になっているのだから10 年以内に出版されたことになる。
元禄:1688-1704 年。5 代将軍綱吉の時代。柳澤吉保、赤穂浪士の討入りなど。
人書言字考:これはわからなかった。
河豚:今は「ふぐ」のことだが、淡水魚のかじか(鰍)も指す。ここではどちらか不明。
コメント:この項目は、「さけ」の文字の考察だが「C」という字は現在ではまったく使わないのに、これが本字だというのが面白い。 
●Cの食用:食べ方各種、頭骨と卵と
Cを生で食べるのは、○魚軒(さしみ)○鱠(なます)○鮓(すし)である。
○烹る(=煮る、煮魚)○炙(あぶる=焼き魚)、などその料理法は他にもあるかも知れない。醃(しおづけ)にしたものを塩引または干Cというのも昔からで、前に引用した本に載っている。延喜式には「内子C」というのが載っているが、今でいう「子持ちC」のことだろう。同書で、脊腸を「みなわた」とふり仮名をつけている。丹後(京都北部)信濃(長野)越中(富山)越後(新潟)から税として納めたとあるから、古代はCをお偉方にも奉ったものだろう。都から遠いところから献納するので、塩引だったろう。
頭骨のすきとおるところを氷頭(ひづ)とよんで鱠として旨い。子を鮞(はららご)という。これを醃(しおづけ)にしたものも美味である。子をもったままで塩引にしたものを子籠りといい、以前「すはより」と呼んだのもこれだろう。本草に、Cの味はかなり甘くやや温かく毒はなく、身体を温ため気を活発にするが、食い過ぎると痰が出ると述べている。私の土地の塩沢付近では、塩引にしたものを大晦日の頃には必ず食べる習慣で食べない家はない。病人も食べる。他国で腫物などの病気では避けるというが、慣れていないからだろう。

延喜式:法律に施行細則、905 年頃から編纂がはじまり、927 年に完成して967 年に施行という。ずいぶんのんびりした話だ。 
●Cの生産地:主に北海道だが越後も
Cは、現在では五畿内や西国では生産する話を聞かない。東北の大河が海に通じている付近でCがとれ、松前と蝦夷地で最多である。塩引にして諸国へ通商するのはこの土地に限られている。次には、この越後で多い。その他に、信濃越中出羽陸奥で産し、常陸にもあるときいている。これらの国のCは、その場所で食用にあてるだけで、他国へ売るほどは獲れない。江戸は利根川に面しているが、ここでは稀で、初Cは初鰹並に高価だという。
越後塩沢付近では、毎年7 月27 日、あちこちに諏訪の祭りがありその翌日からCの漁をはじめ、十二月に寒が明けるとCの漁も終える。古志郡の長岡と魚沼郡の川口(現在の越後川口)あたりで捕獲した一番の初Cを漁師が長岡の殿様に献上すると、慣習としてC一頭に(一頭を一尺とよぶ)米七俵の褒美を賜わったという。それも第五番までで、しかも献上するCには大きさの規定があり、小さいと俵数が減る。Cの大きいのは3 尺4〜5 寸(約1 メートル)、小さいのは2 尺4〜5 寸(70cm)である。もちろん、もっと小さいのもある。男魚と女魚があり、女魚(めな)は子を抱いているから、男魚(おな)よりは値が高い。5番までは奉って後は販売するのだが、初Cの値が高いことは十分に推測できよう。初Cを貴重品扱いするのは、江戸で初鰹を貴重品扱いするのと同様である。初Cは銀色に光ってわずかな青みがあり、肉の色は紅をぬったように赤い。2 月頃になると、身体に斑の錆色が出て、肉も紅の色が薄くなり味もやや悪くなる。この地方では、川口や長岡のあたりを流れる川で捕れたのが上等品で、味は他に比べると十倍もよい。この土地から少し離れると味はぐっと低下するが、美味なのは北の海から川を延々と遡って苦労した故だろう。魚は一般に、激しい波に遭って苦労すると味は必ず美味になる。北の海の魚の味が濃くて旨く、南の魚の味は淡白だという差があるようだ。

五畿内:大和、山城、河内、和泉、摂津の5 国を指す。いずれも歴代の皇居が置かれた。
江戸は利根川に面している:利根川は江戸時代には東京湾に流れていた。
松前と蝦夷地で最多:この書き方によると、松前を蝦夷地の一部とはせず別格に扱っていたようだ。たしかに松前には藩があって、幕府の支配が及んでおり、北海道の残りの部分はこの時点では放置されていたということだろう。
●Cと鮭の問題のすべて
図 C(鮭)の絵。わかりやすい。
越後のCは初秋に北の海を出て、千曲川と阿加川(阿賀野川)の両大河をさかのぼる。ここで子を産む目的である。女魚と一緒に男魚ものぼる。さかのぼる距離は約五十里(200キロ)で、河にいる期間は約5 ヶ月である。その間の8、9、10、11、12 月に人が捕まえる。捕まらなければ海へ帰るから、それによって寸法に大小が生じる。子を産みつける場所は、魚の心で決まるから一定ではないが、千曲川と魚野川の二つが合流する川口というあたりは、川の砂に小石がまじって、この付近を産卵場所とし、水が途切れずしかも特に急流でなくて水がきれいな場所なのでここに産卵する。
卵を産もうとしてCがぶつかり合って群がっている様子を、漁師の言葉で「掘につく」とか「ざれにつく」と言う。砂を掘るのにさまざまのかたちをするので、ざれこと(いたずら)のざれの意味だろう。女魚も男魚も一緒になって、尾で水中の砂を掘る。その広さは一尺(30cm )あまり、深さは七八寸(25cm )、長さ一丈(3m)余りで、数日でこれを作る。つくり終わると、女魚はそのなかへ卵を一粒ずつ産む。女魚が卵を産むのを見て、男魚は自分の白子(精液)を弾着させ、直ちに女魚と男魚が共同して掘っておいた小石を左右から尾鰭ですくってかけて卵を埋める。一粒も流さないようにする。こうして一箇所に産みおわると、その近くに並んでまた掘っては産み、産んではまた掘り、幾条もならべて掘って終には八九尺(2.5〜2.7m)四方の砂の中へ行義よく腹の子をのこらず産みおわる。時には、場所を替えて産むこともある。砂に小石が交っている所を選ぶという漁師の話である。その辺のやり方は、人間の知力に決して劣るものではない。出産が終るまでの苦労のために、尾鰭が傷つき身体も疲れ、ながれに任せて下り深い淵がある所にくるとそこに沈んで身体を休め、もと通り元気が出ると再び流れをさかのぼる。
掘に入って出産している時は漁師も捕獲しない。偶然捕まえることはあっても、無理には捕らない決まりである。女魚さへ捕らなければ、男魚はその場所から離れることはない。Cが川をさかのぼるのは子を産むためである。女魚に男魚が従ってのぼるのは子の為に女魚を助けるためで、この点も人の気持ちに似ている。
不思議なことに、河の広い場所で卵を産んだ場所が洪水などで流れが変わって河原となった場合、何年かたっても産まれた卵は腐らず、ふたたび流れるようになるとその卵から孵化してCとなる。何年か前に、私の住む塩沢の近くで魚野川のほとりに住む人が、井戸を掘ったところ、鮞(はららご)の腥(生きているの)を掘り出したことがあったと、友人が話していた。
卵が孵化するのを、漁師言葉では、「やける」とか「みよける」と言う。「早化る」・「身ヨ化る」だろうか? 卵が水中にいて14〜15 日すると魚になる。形は糸のようで、身長は一二寸(3〜6cm)、腹が裂けていて腸ができていないので、ゆえに佐介と呼ぶのだといい伝えている。春になると成長して三寸(10 センチ)あまりになるが、この稚魚は捕ってはならない決まりである。この子C(稚魚)は雪が消えて流れる水に乗って海に入る。海に入ってのち、裂けていた腹部が合して腸になる、という漁父の話である。
前にもいった通り、Cの漁は寒中までで、寒が明けてから捕ると祟りがあると言い伝えられている。私が若い頃の事だが、水村のある農夫が、寒が明けた後に獺(かわうそ)が捕まえたCを横取りして食ったところ、発熱して苦しみ三日で死んだことがあり、だから祟りがあるとの言い伝えも間違いではない。また、Cが産んでおいたたまごをとれば、とった人の家は断絶してしまうとの言い伝えもある。
Cの大きいのは3 尺4,5 寸(1 メートル)以上もあり、こんなのは何年も網にかからず成長したものだろう。私が若かったころは、Cが多数とれたので値段も安かったが、最近では漁獲量が減って、価格も当時と比べると2 倍になっている。毎年工夫しては漁をするのだから捕りすぎてどんどん減っているのだろう。大きな女魚からは卵が1 升(1.8 リットル)もとれるが、小さいと3,4 合(0.6 リットル)にすぎない。江戸で数多く売買される塩引は鯵C(あぢさけ)というもので、越後のCとは品が異なり種類の違うと、ある物産家が説明してくれた。
Cは河で生まれ海で成長するが、何故か海で網にかかることはない。そんな状況を考えると、Cは鱗のある魚としては奇魚というべきだろう。
私牧之が常に思うことだが、真冬に捕った女魚の卵と男魚の白子とをまぜて、Cが住む川の砂石で包み、瓶のようなものにうつして入れ、Cのいない国の海に通ずる山川の清流に、この瓶にうつした受精卵を砂石と一緒に鮭がうみつけたままの形式に整理しておくと、この川でCが得られるだろう。3 年間は捕えることを禁じておけば、Cが定着するかも知れない。実現すれば、その国の利益となるはずだ。江戸の白魚は、むかしこんな風に種をうつして生産できるようになったと聞いた例もある。

コメント:「祟り」について:単純に迷信なのか、あるいは時期が遅くなると実際に毒性が出たり、感染症の危険がましたりするのかも知れない。興味深い。
コメント:最後の部分の養殖の提案が興味深い。著者牧之の科学的なものの見方の面目躍如で感心する。この手法が実際に完成するのは大正から昭和になっての由だが、それにしても100 年近く前に案を提出しているのだ。 
●鮭を捕る仕掛けの例:打切とつづ
図 鮭を獲るのに使う打切という仕掛けの図
新潟の海に流れこむ大河は、阿加川(阿賀野川)と千曲川の二つである。阿加川のことはここでは除外しておく。千曲川は別名を信濃川ともいい、千隈と書くこともある。千曲川の水源は信濃・越後・飛騨の大小の多数の川を流れ寄せてこの大河となる。越後では、妻有と上田の二庄を流れて魚野川の急流を形成し、これが魚沼郡藪上の庄の川口宿の端で千曲川と合して、古志郡蒲原郡の中央を流れて海に入る。信濃からの水は濁り、越後の流れは清流である。信濃からの水は、犀川の濁水が加わる故である。
図 鮭を獲るのに「突き道具」を使う。
一方、Cは初秋には海を出てこの流れをさかのぼる。蒲原郡の流れは底が深く河が広いので、大網を使用してCを捕える。やや上流の川口より上田妻有付近では、打切というものを使ってCを捕る。その手法は夏の終わりから準備を開始して、岸から川の中へ向かって丸木の杭を並べて建ててこれに横木をそえ、さらに隙間なく竹の簀をわたして垣根のようにつくり、川の石を寄せて固定する。長さは百間〜2 百間(180〜360 メートル)にもなる。その周囲や形は、川の都合でいろいろである。
船の通路の部分は、垣根を除いて邪魔にならないようにし、夜間に船が通れるよう常夜灯を準備しておく。この仕掛けに「つづ」という物を垣根の下にならべ、Cが入れるようにする。杭のところには、つづの端を縛っておく。このつづの作り方は、竹を垣根状に編んで端を縛り、Cの入る口の方には竹の尖ったものを作りかけて腮(あぎ)とし、底につく側は平らにして上は丸くし、胴は膨らませて、長さは五尺ばかりである。Cが入りやすいように口が広く作ってある。「つづ」と呼ぶのは筒が訛ったものだろう。田舎言葉には昔の用語を言い伝えてわかるものもあるが、清音と濁音が入れ替わって名がかわる場合も多い。阿加川のことを、場所によってはあが川というのも同じ例である。
ところでこの打切を作るにはけっこう費用がかかり、漁師たちは話しあって参加する。打切を敷設した岸には仮小屋をつくり、漁師たちは昼夜ここに泊り夜も寝ずにCのかかるのを待つ。7 月から作業をはじめて12 月の寒の明けまで、仲間が交代で小屋にいてCをとる。打切は川口を1 番とし、上流へ15 番まである。どこが誰の担当かは、川に境目があって厳重に管理する。
さてCは川下より流を遡って打切までくると、船の通路は流れが打切で狭まって急流から小さな滝になっており、Cは滝を超えるのを嫌うからだろう、大抵は打切のよどみのほうへ移動し例の垣に近づき、潜って超えるところがあるかとあちこち探索して、つづを仕掛けてある所に着き、通り抜けようとここに入ると行き止まりで、逆行しようとしても口には尖りの腮があって脱出できない。
一方、小屋で見張る漁師は魚がかかったと思える頃を見計らって、はなかますという舟を乗り出す。これは大木を二ツに割ってくりぬいた舟である。浅い所では舟を使わず、雪の降る寒夜でも漁のため寒さもかまわず、裸になって水に飛びこんでつづをはずし、Cがいれぱつづのまま舟に入れてCをとりだす。大Cは三尺あまりもあり、それが大暴れするので、魚揆(なつち:魚用の槌)を使って頭を一撃すると即座に死んでしまう。不思議なことに、この魚揆は、馬の爪をきった槌を使わないと鮭が死なない。勝手につくった槌ではいくつ殴っても死なない。また、Cの頭のどこを打つか場所も決まっているとは漁師の話である。Cをとる所では、どこでもこんな槌を用いるが、みな馬の爪きり槌を使うという話だ。そこへ「すけご」という漁をしないCの仲買専門人が、この小屋にきて鮭を買う。「すけご」は助賈のことだろう。

魚揆:原書では「揆」が木扁になっている。「揆」は「一揆」などように「はかりごと」の意味だから、原書の意味とは違うようだ。木扁の字もパソコンで探したが見つからなかった。
助賈:「賈」は「あきない、商売」あるいはそれをする人つまり商人の意味の字 
●掻網:Cを網で掬いとる
かきあみとは掬い網で、Cを掬い捕るをものを言う。その掬い網の作りかたは、股のある木の枝を曲げあはせて飯櫃のような形に作り、これに網の袋をつけ、長い柄を着けて掬いやすくする。川の岸が険しい所でははCは岸の近くを遡上するもので、岸に身体を置けるだけの棚のような場所をつくって、ここに居て腰に魚を掬う網をさしCを掻き探ってすくいとる。岸が絶壁の場合は、木の根に藤縄をくくりつけて棚をつくって身を固定し、ここにから掻網をする場合も稀にある。何メートルもあるような深淵の上にこの棚をつって身を置き、一本の縄で身体をつなぎとめて仕事をするのに怖いと思もわないのは仕事になれているからだろう。
●漁夫の溺死:冬の漁の危険
図 タイトルは単なる「鮭絶壁掻網図」だが、上に女性を配しているので、「漁夫の溺死」の箇所に載せた。
縁起の悪いことなので場所の詳細は省くが、ある村に住み夫婦で母一人を養い、5 歳と3歳の男女の子持ちの農夫がいた。毎年、Cの季節になると漁をして家計の助けとしていた。この辺りは岸がみな険しく、村の人たちは各自岸に例の棚を作って掻網をしていた。けれども絶壁の箇所は棚を作るものもなくCもよくあつまるので、この農夫はここに棚をつりおろし、縄一本を命綱としてCをとっていた。十月になり、雪の降る日はCも多く収穫が多いので、雪が一日降っても厭わずに蓑笠に身をかため、朝から棚に降りて鮭をとり、籠が満杯になるとその籠にも縄をつけおく。自分がまず棚を鉤のついた綱に縋って絶壁を登り、次に籠を引きあげる手順である。綱に掴まって登り下りするが、慣れていて猿のようだ。食事も登って済ます。
この日も、夕暮れから荒れ模様の雪になった。こういう天気では逆にCが獲れやすい。食後に再度あの棚に行こうとすると、雪がひどくなったからと母も妻も止めるのをきかず、炬燵を用意して棚に登って掻き網をすると、予想とおり鮭が多数捕れて、鵜飼の謡曲でもうたうように罪も報も後の世も忘れて、いい気分で時間が過ぎていった。
一方、妻は母も寝床に入り子供も寝かしつけたので、この吹雪の中を夫は凍えそうだろう、行って連れ帰ろうと、蓑を着け藁帽子をかぶり、松明(たいまつ)を一本つけ、ほかに二本用意して腰にさし、当の場所に着くと松明をあげて覗き、川の下にいる夫に声をかけた。どんなにか寒いでしょう、宵の口も過ぎましたよ、もうやめて帰りましょう、飯もあたたかく炊けているし酒も買ってあります、さあ帰りましょう、松明も乏しくなったのではないですか、雪が積もってカンジキが要りそうで持って来ましたよと呼びかけた。けれども、西風の吹雪でよくは聞こえない。さらに声を上げて呼びかけると、夫はこれを聞いて、よろこびなよCが沢山とれた、明日は家でうまい酒を飲めそうだ、今日はもう少し捕ってかえるから、あんたは先にかえれと言う。それでは松明はここにおきますよといって、点けたまま棚をつりとめて綱を縛ってある樹のまたにはさんで、別の松明に火をうつして帰った。でも、これが夫婦の今生の別れだった。
妻は家にかえって炉に火をつけ、あたたかい食事を夫に食わせようと用意して待って居たが、時間が経っても夫は戻らない。待ちかねて、再度例の場所にきてみると、はさんでおいた松明が見えず、持っている松明をかざして下を見るが、光も届かず夫の姿もはっきりしない、声のかぎり呼んだが返事がない。棚にはいないのだろうか、それにしてもおかしいと気にかけて松明をふって辺りをてらし、雪に登った跡がついていないか探すと、先ほど木の股に挟んだ火が燃え落ちている。これに気づいて手に持った松明で念入りに見ると、棚に縛っておいた命綱が焼け残っている。これを見て妻は胸が一杯になり、ここにおいた松明が焼け落ちて綱をやききり、棚が落ちて夫は深淵に沈んだに違いない、いくら泳ぎを知っていても闇夜の早瀬に落ちて手足が凍えては助るすべもないだろう。どうしたらよかろう。姑に言い訳のしようもないと涙を流して泣き、自分も夫と一緒にと松明を川へ投げ入れて身を投げようとしたが、気をとりなおして、自分が死んでしまったら老いた母と稚ない子どもを養ってくれるものがない。母は子供の手をひいて路頭に迷ってしまう。死ぬわけにもいかない、夫よゆるしてくださいと雪にひれふし、やけた綱にすがりつき声をあげて泣いた。そのまましているわけにもいかないので、焼け残った綱を証拠にもち、暗い夜に松明もなく吹雪に吹かれながら涙も凍るようにして泣きながら帰宅したが、夫の死骸も結局見つからなかったと、その場所に近い所の友人が最近のことと話してくれた。

コメント:この漁夫の溺死の項目は、「吹雪(ふぶき)の難」の項目(若夫婦が吹雪で行き倒れ、赤子だけ助かった話)と共に雪国の悲惨さをあらわす話の双壁と感じる。牧之が、物語の能力にも長けていることを示している例である。 
●総滝:漁が危険か、世渡りが危険か
総滝というのは新潟の河口から四十里(160 キロ)上流で、千曲川のほとりの割野村に近い所の流れにある。信濃の丹波島から新潟まで流れる間に、流が滝になっているのはここだけである。この総滝は、川幅がおよそ百間(180m)近くもあり、大きな岩石が竜のねているように水中に突出し、流れてくる水がこれにぶつかって滝となる。Cはここまでくると激浪を登れずためらうので、漁師はここに仮に柴の橋を架橋し、岸に近い岩の上の雪をほりすて例の掻網をする。しかし命は惜しいから、各自おのおの自分の腰に縄をつけこれを岩の尖りなどに縛っておく。ここまで往来するには、岩の上で足の踏み場をかろうじて作り、岩に掴まって登り下りする。一歩でも足を外せば、身が粉々に砕けて滝に落ちそうで、危っかしいことは喩えようもない。
私が前年江戸にいた時、このことを前に述べた山東翁に話したところ、翁の言うにはそもそも世わたりの危険は総滝よりも危っかしい、でも世わたりの際に足もとを見て渡るものでもなかろうと笑っていた。なるほどもっともな話だと記憶にとどめたが、偶然おもい出したので記録しておこう。
○当川:三角形の網でとるのをいう。
○追い川 水中に杭をたて網をはり、水を打ってCをおいこむ
〇四ツ手網 他国のものと同じ
○金鍵 水中のCをかぎにかけてとる、その手練はなかなか絶妙である
○流し網 さしあみともいい、網の長さは二百間(360m )余で、蒲原郡で行っている
○やす突 水中の鮭を見すまし、やす(やす:先の分かれた槍)で突く。一ツものがさない。この手練も実にみごとだ
他にもいろいろあるが、あまり詳しく書くとかえってつまらないので、中心的なことだけにする。

総滝と割野村:現在総滝という地名は見当たらないが、「割野」という地名が残っている。中津川が信濃川に合流する箇所の少し下流、飯山線の津南駅に近い地点である。 
●C漁のやり方各種
●鮭の洲走り(すばしり):Cが地面を走って逃げる
さけの洲走りは、雪の前の季節に河原でおこる。鮭が網にせめられ人にも追はれると、水を飛び離れて河原にのぼり、網のある所をこえて水に飛び込んで網を逃れるのである。この時は、大Cが先頭をきって水をはなれ、小Cたちが後に従い、河原を走る距離は4〜5間(7.2〜9 メートル)に過ぎないが、走り方は矢のようで人の足では追いつけない。先頭の大Cが、もし物にぶつかって横に倒れると、したがうCも同様に倒れて起き上がれず、簡単に捕まってしまう。居合わせた人は、偶然とはいえ手も濡さずに2,3 頭の鮭が手に入る。鮭は足が無いのに地面を走り、倒れると起きないなど、まったく他に例のない奇魚だ。
図 Cの洲走りの図。砂浜をCが走るのを漁師が追っている。
●垂氷(つらら):雪国ではスケールが違う
何年か前、江戸に行って名人の文筆家や書画家に会って書画を所望した時、前の山東庵(山東京伝)と仲好くなり訪問を重ねていたが、京山翁のほうは当時まだ若かった。ある時雪の話に関係して京山翁の言うのに、正月友人らと梅見に出かけて帰途に吉原へより、暁に雨が降りだした。やんだので芸者屋を出て日本堤までくると、堤の下に柳が2,3 株あり、この柳にかかった雨が垂氷(つらら、氷柱)となって数センチずつ枝毎にびっしり下がり、青柳の糸が白玉を貫いて、しかもちょうど朝日があたって何ともいえず見事で、茶店で休んで眺めながら、思わず詩作した。寒い朝に、雨が降って止んだことによる偶然で、こんな珍しい景色に出会ったと話した。暖かい江戸では珍しいとしても、塩沢での垂氷に比較すれば「水虎の一屁」のようでつまらないことに感心すると、心のなかで滑稽に感じた。
この土地の垂氷というと、まず我家の氷柱の話をしよう。表間口16 メートルの屋根の軒先に、初春の頃の氷柱が何本もならんでぶらさがり、長いのは2 メートルもあり、根の部分は周囲が2 尺(60cm)ほどに太く、水晶で格子をつくったようにみえる。でも、この土地では子供の時から見慣れて特に珍重せず、垂氷を詩歌の材料にすることもない。垂氷は明りを妨げるので、木鋤で毎朝打ちおとす。また屋根がへこんで谷になった所を方言で「だぎ」といい、溶けた屋根の雪が滴って集まるので、つららが巨大になり、下に物がないと二丈(12 メートル)にも達する。巨大になっても邪魔でないと放置すると後が大変で、力自慢の男が激しく叩いて、何とか折って落としたのが5 尺(1.5m)もあり、子供たちが雪舟にのせて引きまわして遊んでいた。この程度は我家の氷柱でも起こるが、神社やお寺のつららはさらに大きく、山の中ならさらに巨大に成長する。

日本堤:隅田川から吉原に向かって「山谷堀」という掘割の川があり、吉原へ向かう路の一つで、川岸を日本堤という。掘割の堤である日本堤の地名は、明治年間以降たとえば漱石の『猫』にも登場し、現在も残っている。山谷堀そのものは、戦後に埋められて消滅した。
つらら:ここでは「垂水」と「氷柱」という二種類の用語と仮名表記の3 種類をつかっているが、区別は不明。 
●笈掛岩(おいかけいわ)の垂氷:雪国でも特別の巨大つらら
図 巨大なつららの絵:この絵は、「寒行者威徳の図」と組んでおり、そこから切り出したもの。
私が住んでいる塩沢から南東三里(12 キロ)のところに清水村の所有する山に笈掛岩というのがあり、高さが10 丈(30m)以上で横幅が25 間(45m)ある。下の谷川が登川という川で、その水源である。この岩は形が屏風を開いて建て廻したようで、岩の頂上が反転して川に覆いかぶさり、下は40 人か50 人くらいの人が坐れるくらいで、屋根のようになっている。上越後には名前のついた奇岩が数多くあって、これもその一つである。この笈掛岩の氷柱は、越後の人でさえ見たらおどろくだろう。つららが数多くできるが、最大は長さ10 丈で太さが二た抱もある。下がった形はロウソクの流れたようで、街中のつららと違って屈曲さまざまで水晶細工のようで、玲瓏として透き通って朝日が暉くと比べものがないほど美しいと、清水村の庄屋の阿部翁が話していた。こんなつららでも、特に珍しくないから私を含めてわざわざ見に行く人もいない。清水村の阿部翁は、昔有名だった阿部右衛門尉の子孫で、代々清水峠の関守で、ここには長尾伊賀守の城跡がある。

笈掛岩(おいかけいわ):笈は行者などが背負う箱で、役割はリュックサックに等しい。高さに丈(10 尺、3m)を、横幅に間(6 尺、1.8m)を使うのは慣用だろうか。
二た抱:両手で抱える太さ。一人が両手を広げると150〜170mだからその2 倍になる。
登川と清水峠:登川は塩沢付近で魚野川に合流する支流。笈掛岩はみつからなかった。同名の岩が全国に多数あるようだ。清水村を地図で見ると、清水峠を越えてここに降りて登川ぞいに下る。「清水峠の関守」というのも納得できる。実際の清水トンネルや新幹線のトンネル、関越トンネルはいずれも本物の峠より少し西側を通って魚野川の本流の上流に達している。旧国道(三国街道)だけは、はるかに西側の三国峠を通過してまったく違う経路で越後湯沢に出る。江戸時代の経路が清水峠でなくて三国峠を通った理由や、鉄道がそれと違う清水峠に近い経路を通っている理由などが知りたいものだ。 
●雪中の寒行者:水垢離と無言と
我家に、2 年ほど江戸に住んだ下男がいる。彼の話で、江戸では寒念仏といって寒行をするお坊さんがおり、寒の30 日間に限定して毎夜鈴が森と千住に行って刑死の回向をする。その姿は股引草鞋で、着るものはあたたかいものを着て行をする。一方、寒中裸参りというのもあり、こちらは家作りに関係するすべての職人の若人らの活動である。ふつうより長く作った提灯に、日参などの文字を太く書いて持ち、裸でロ(れい)をふりながら走ってそれぞれの考える神社や仏閣にお参りする。お参りでは、かならず水をかぶる。寒中の夜は、何人もの人が西へ東へと走り歩くという話である。
塩沢での寒行は、基本は似ているが細部は違う。この土地の寒中はどこも雪だらけで、その上に寒気がはげしい。雪を踏んで毎夜寒念仏や寒大神まいりといって、寒中7 日〜21日、自分の気持ちで日数を限って神社やお寺を参詣する。参加するのは若い農民か商家の雇用人で、昼は働き参詣は夜である。昼の仕事の合間に、ふつうは水を三度浴びるが、これ以上は当人の考えである。水を浴びたら身体を拭わず、濡れたまま衣服を着ける。その際、稲藁の穂の方をしばったものを扇のやうに開いて坐るのは、身を引き締める気持ちという。ただぼんやりとはしていない。束ねた藁は帯にはさんで身からはなさない。行の途中は沈黙して口を一言もきかず、母以外は妻でも女性の手から物を受けとらず、精進潔斎する。他の人たちも、彼が腰にはさんでいる藁で行者と知り、無言が必要なので言葉をかけず周囲も協力する。理由は、行者に言葉をかけて、行者が間違って口を利くと行が破れて、始めからやり直しの必要がある故である。時には、沈黙の行はしない場合もある。
夜になると千回の垢離を行い、百回に一回は頭から水を浴びるので合計十回水浴する。身を拭わず着るものをあらため雪が降らなくても蓑笠をつける。どんな吹雪でも避けず、鉦を鳴らしながら歩く。必ず同行者がいて、家に着いたら鉦を鳴らすと同行者も家の中で鉦を鳴らして挨拶して家から出でくる。家に入らない場合、行者は女性にゆきあうと身のけがれとして川に入り、または井戸で前のように水を浴びて身を清めてから参詣する。行者の鉦の音をきいたら、女性は門から外へ出ず、道では遠くで音が聞こえると隠れる。
行の最中に誰か人が死んだことを聞くと、二里三里(8 キロ〜12 キロ)と遠い所でも、知っている人でも知らない人でも区別せず、そのお宅に伺って丁寧に回向する。これも行の一ツである。したがって、不幸があって間もない家では、接待しようと神妙に行者を待つ。寒念仏寒大神まいりの苦行の概略はこんなところで、他の国はわからないが、江戸の寒念仏裸参りに比べるとかなり違う。こんな苦行の結果の歴然たるご利益を次にしるそう。苦行して祈れば、神仏も感応してくれることを子供たちに示したい。

鈴が森と千住に行って刑死の回向:鈴が森は東京の南南西、品川の先。千住は東京の北北東に位置する。いずれも刑場があった。鈴が森は講談や落語に数多く登場する。一方、杉田玄白の『蘭学事始』によると刑死人の解剖を観察したのは千住小塚原である。千回の垢離を行い、百回に一回は頭から水を浴びる:原文は「千垢離をとり、百度目に一遍づゝかしらより水をあぶる」となっている。「垢離」が水を浴びる修行の意味と解釈すると、訳者にはこの部分の意味が解釈できない。 
●寒行の威徳:傲慢武士を無力化した話
図 寒行者威徳図:本文にある行者が武士を懲らしめた図である。この図の左上が欠損しているのは、タイトルに残した通り、ここには「笈掛け岩」の図がはめ込まれており、それは別に扱ったので切り取った故である。
私の住む塩沢から10 町(1 キロ)あまり西南に田中村というのがあり、この村に最近寒行者がいた。ある日、米俵を脊負って5、6 町離れた中村というところへでかけた。この道は三国街道で、人通りが多い。雪道の往来は人の踏みかためた跡に限るので、どんな広い所も道は一条に限られ、そこを外れると腰までも雪にふみこんでしまう。重い荷物を持った人がいると、お武家さんでも一足退いて道を譲るのが雪国の慣習でる。
この田中の人が、途中で武士にゆきあい、重荷を背負いながら自分から一歩横へ避けたが、武士は大声を出して脇へよれと言う。しかし、もう一歩よると重荷を背負って雪に落ちてしまうと思って、どうしようかとためらっていると、無礼ものと肩を突いたので、俵を脊負った者は頑張れず雪の中へ横に倒れたが、相手の武士も反動で投げられたように倒れてしまった。田中の者は、さっさと起きて後も見ずに急いで立ち去った。この直後、同じ田中の者がもう一人きて、武士が雪の中に倒れて起き上れないのを不審に思い、なにか病気かと訊いた。武士は小さい声で起こしてくれと言う。顔色は異常だが、病人とも見えない。ところが、手をとって引き起そうとすると手をのぱさず、抱えておこそうとしても一向に起きない。さらに力を入れて起こそうとしても大石のように重くて身体が動かない。不思議だと驚ろいているのを見て、武士はこんなことがあって、身体がすくんでしまって動かないと説明した。
後からきた田中村の人は、米俵を脊負ったものと武士がいうのを聞いて、先行の若者を知っていて何が起こったのか気づき、きっと行者の罰だと行者関係の問題点を話してきかせ、自分も彼が行った中村へ行くので、あの行者を連れてこよう、お詫びをしなさい、すぐだから待っていなさいと急いで行って、すぐに行者を連れてきた。武士は手をついて、ゆるしてくれと言う。行者は特に怒った様子もなく、何ともいわずに衣服を脱いでかたわらの柳の木にかけ、裸になって水を浴び寒詣りの方を拝み、武士の手をとって引起したところ簡単に起き上がり、武士は恥ずかしいという様子で礼をのべて立ち去ったという。よく我家に来る田中村の人の話である。
●雪中の幽霊:幽霊の剃髪と見物
図 文字通り幽霊の絵である。
塩沢宿の隣が関という宿で、となりが関山村で、この村に魚野川を渡る橋がある。流れが急で僅かの出水でも橋が流れるので、仮橋をかけてあるが川が広いので橋もけっこう長い。雪の頃は、住民たちが橋も除雪して道を作るが、一夜の内に三尺も五尺も積もると、毎日除雪しても雪の積もった狭い橋を渡ることになり、渡り慣れていても過って川におちて溺死する事件も起こり得る。
この関山村に、源教という念仏乞食坊主がいて、独りで草庵をつくって住んでいた。年は60 歳あまり、念仏三昧だけを唱える僧で、学は乏しいが行は学問を極めた僧に劣らない。この僧は、毎年寒念仏の行を勤め、言葉はあまり話さず毎夜念仏を唱えて鉦を打ちならし、お参りの帰りに二夜に一度はこの橋に立って溺れた者を長年回向していた。今夜は満願という夜、この橋で特に念入りに回向し、鉦をならして念仏を唱えたところ、皎々と冴えていた月が突然曇ってぼんやりして見えなくなった。
これは不思議と見ていると、水中から青い火がもえあがったので、亡者の陰火かと目を閉じてかねを鳴らし、しばらく念仏して目をひらくと、橋の上の二間ほど先に、年齢三十歳過ぎの女性が青ざめた顔に黒髪をみだし、水から出たばかりの様子で濡れた袖をかきあはせて立っていた。普通ならあっと言って逃げ出すところだが、流石にそうしないで身体を向けてよく見ると、こんなに暗いのによく見えるもののふつうの人ではない。おまけに、身体が透き通っていて向こう側のものが少し見えている。腰から下は、あるのかないのかはっきりしない。これは幽霊だと一生懸命に念仏すると、歩く様子でもなく何となく前に進んできて、細いかすかな声でいうには、私は古志郡何村(村名は聞きもらした)の菊といい、夫にも子にも先立たれ独りだけ後に残り、生活も苦しくなったので、ここから近い五十嵐村に縁者があって助けを頼もうとこの橋を渡ろうとして、あやまって水に落ちて溺死しました。今夜は四十九日の待夜ですが、世に捨てられた立場で一掬の水を手向けてくれる人もいません。御坊様は時々ここで回向してくださってありがたいことですけれど、私は頭の黒髪が邪魔になって人間界に迷い出てはあさましい姿をさらしています。おねがいですから、この頭髪を剃って頂きたい、何とかお願いしますと言って、顔に袖をあててさめざめと泣いていた。
源教は答えて、それは簡単だが、あいにくここには頭髪を剃る道具はない。あすの夜に私の住んでいる関山の庵へいらっしゃい、望みを叶えて上げようと言うと、嬉しそうに頷き煙のように消えて、月は皎々として雪を照らしている。
さて源教は自分の僧坊に戻り、翌日は以前から親しい同じ村の紺屋七兵衛を呼んで、昨夜のお菊の幽霊のことを詳しく話し、お菊の魂が今夜は必ず現れる、それを仏に関心の薄い人に聞かせて教化の役に立てようと思うが、たしかに見たという証人がいないと人々は嘘だと思うだろう。貴君は正直者で通っているから幽霊の証人に頼みたい、世の人のためだと話した。七兵衛も僧と同じ年頃で、しかも念仏の信者だから同意して、お坊様の頼みにもちろん同意しますから夕方参りましょう、どこか適当な場所に隠れて見とどけますよという。僧は、隠れ場所には仏壇の下がよい、でも絶対に他人に話すなよ、話すと幽霊を見ようと村の若者があつまりそうだから、と念を押す。わかりましたと、七兵衛は一度家に帰った。
さて夕方になり、源教はいつも以上に念入りに仏を供養し、あたりを清潔に整えてお経を唱えていた。七兵衛も早々にやってきた。お経が終わると七兵衛に食事をさせ、日も暮れたからと仏壇の下の戸棚に隠し、覗くのに具合のよい節孔を確認し、それから仏のともし火も家の灯火もわざと弱くし、仏の前に新しい筵を敷いて幽霊の出場所とし、入り口の戸もすこし明けて、よく砥いだ剃刀二丁を用意して今か今かと幽霊を待っていた。夜になって雪が降り出し、少し開けた戸口から吹きこんでくる風に灯火も消えそうになるので、戸を閉めて炉の端に座り、戸棚の七兵衛には蒲団は敷いてあるが眠ってはだめだぞ、と命じた。七兵衛は、眠るどころか幽霊を見ようと心に念仏を唱えています、お坊様こそいつものくせで居眠りなんぞしなさんな、ああ声が高い、もう少し小声で、幽霊を見ても我慢して音をたてないで、などと言いあって手にもった煙草を自前で粗く刻んだのを詰めて吸っていた。やがてそれも止めて、念仏を口のなかで呻くようにもぞもぞ言い、ついでに顎を撫でて髭なぞ抜いていた。雪よけの簾に雪があたってさらさらと音がするだけで、近所に家はなく静かで物音もせず、時間が経っていった。
幽霊の影も見えず、源教は炉で温って眠気をもよおし、居眠りでつい倒れそうになって目を見ひらいた時、お菊の幽霊が何時の間にか来て、敷いてあった新しい筵の上に坐って仏に対して頭を下げている。さすがの源教も怖いようでぞっと身を震わせたが、何とか落ち着いて、よく来てくれたと言うと、幽霊は何も言わず黙ったまま、姿は昨夜見たのと同じだった。源教は手を洗い盥に水をくみ剃刀を持って立ち上がると、乱れた髪から露がたれそうにぬれている。でも雪の降る中をきた様子にも特にみえない。源教は心の中で、この女性の髪の毛を保存して後の証拠にしたいと注意して剃刀を動かすと、剃りおとす毛髪がまるで糸をつけて引いたように女性の懐に入ってしまう。女性だから髪の毛を惜むのかと毛を指にからんで剃ったが、自然に懐に移動して手の中にとまってくれない。何とか剃り終り、わずかな量の毛だけがやっと手元に残った。幽霊は白く痩せた掌を合せ、仏を拝みながら次第に薄くなるように消えていった。
●関山村の毛塚:幽霊から入手した毛髪で供養
紺屋七兵衛は隠れていた戸棚から這い出し、とても怖しいものを見たことですな、いくらお坊様とはいいながらよくぞ剃刀をあてましたな、見ているだけでおそろしかったのに。独りで帰宅するのも気味が悪いから、今夜はここに泊めてくださいという。源教も、どうぞお泊り、待っていた人は帰ったからもう特に用はありません、これをごらんなさい、後の証拠にしたいと髪の毛をやっと少し残しました、幽霊も残したかったのでしょうと見せると、七兵衛は覗きこんだが手は出さない。僧は紙に包んで仏壇におき、夕暮れの酒も少し残っている、肴はないがまあ一杯とわずかな残りをとりだし、二人で炉端にあぐらをかいて酒をのみながら七兵衛がいうには、幽霊の話はきいたことはあるが見たのは今夜が始めてで、袖擦り合うも他生の縁というので、ただ見ただけでは残念です、今夜こそ仏法のありがたさが身にしみたので、明日はこの庵で百万遍を唱えてお菊さんの成仏を祈りましょうという。源教は、そはよい功徳だ、古志郡のお菊さんの幽霊を見とどけたと人々に話してください、愚僧も貴君の証人として幽霊の話をして教化の話題にしましょう、と言う。そう言えば、昔もこんなことがあったと砂石集に載っていることなど、人に聞いたのをおぼろげに思い出して一ツ二ツ語りきかせて、夜もふけたので一ツの夜具を二人でかぶって眠った。
さて翌日、七兵衛は源教を連れて家に戻り、近所の人を集めてお菊の幽霊のことを話すと、今度は源教が懐から例の髪の毛を出して見せる。これを見た人は、奇異の気持ちになった。さて七兵衛が百万遍のことを話すと、集まった人たちは、それはよいことだ、早速今夜やりましょう、茶菓子類はこちらからお持ちします、お坊様は茶の用意をお願いします、数珠も庵にはないでしょうから、お寺のを借りて持って行きます、他の人々もさそいあって大勢で行きますと言うことになった。七兵衛の妻も脇にいて、夫にむかって、大切な事ですから餅をつきましょうと進言した。それはいい考えだというわけで、急に大きな催しになった。
こうして、その夜は源教の草庵に大勢あつまり、みんなで念仏を唱えたので、けっこうににぎやかな仏事となった。この話があちこちに伝わって話題になったが、そのうちに仏心の強い人が、源教さんが持っているあの髪の毛を埋めて上に石塔を建てて供養すれば、お菊の魂もあの世で喜ぶだろうといい出すと、同意する人が多数いて計画が実現し、終に石塔を建てる事になった。源教がいうに、これほどの事業の中心になるのは自分には荷が重すぎるので、最上山関興寺の上人を招請しましょうと言う。人々はなるほどと言って出かけ、ことの次第を話してお菊の戒名をつけてもらい、お菊が溺死した橋の傍に髪の毛を埋め石塔を建て、人を葬るのと同じ手順で仏事を行い、皆が集まって丁寧に行事を進めた。例の紺屋七兵衛は、ここから急に気持ちを改め、後に出家したという。この事はひとむかし前のことだが、関山の毛塚として今も残っている。

皎々と:白いことを描写する語で、月の光によく使われる。
砂石集:沙石集とも書く。1279〜83 年に書かれた仏教説話集。後に加筆されているという。 
●雪中に鹿を捕まえる話:鹿は雪の中では鈍足
よその国の方は、越後はどこも雪が深いと思うだろうが、それは違う。前にも言ったとおり、海辺は雪が少ない。雪の深いのは魚沼・頸城・古志の三郡、それに苅羽・三嶋の二郡は場所によって違う。蒲原は郡として大きく、全体としては雪が深くはないが、東南の地域は奥羽に隣接して高山が並び、雪の深い所がある。
雪の深い所では、雪中では牛馬をつかえない。人は雪でも便利なはきものを使えるが、牛馬には使えないからである。雪中に牛馬を使おうとしても、首まで雪に埋まって使いものにならない。10 月から正月を越えて4 月の始めまで、牛馬は何の役にもたたないまま飼っておくだけで、この点は暖国にはない難儀の一ツである。
獣類は前にもいったように、初雪を見ると山を超えて雪の少ない地方に移動するが、ときに移動しそこなって雪で動きが鈍って、狩りの対象になる。熊のことは上巻で述べた。猪は獰猛で、雪が深くても捕まえにくい、鹿・羚羊(かもしか)は弱いので、雪の中では捕まえやすい。鹿は特に脚が細長く、雪の中を走るのは人より遅い。鹿は深い山を嫌い、大抵は端山(連山の端の山、あさい山)に住む。何でも慣れば面白く、猟に慣れた者は雪の足跡を見て獣の種類を見分け、さらには今朝の足跡とか、今行ったばかりのなどと時間まで見分ける。三国山脈から北へ続く二居という峠にある場所の人たちに、鹿を追う様子を訊いてみた。
まず鹿を捕まえにいこうと話し合い、各人それぞれ雪の中を漕ぐ(深い雪中を進むのを、その地の言葉で「漕ぐ」という)必要があり、履物で身をかため、山刀・鉄砲・手鎗・棒を持って山に入り、例の足跡をみつけて追跡すると必ず見つかる。鹿は人を見て逃げようとするが、走るのが人より遅く、深田を進むようにモタモタして終には追いつめられて殺されてしまう。時には、剛勇の人が角を持ってねじふせ、山刀で刺殺するという。こんなのは暖国にはない事柄だろう。
●泊り山の大猫:お盆ほどの足跡、日本にも虎が居た?
私の住む塩沢の隣の宿場の関に近い飯士山にの東に続く阿弥陀峯(あみだぼう)は、木を切り出す山で、村毎に持分が決まっている。二月になって雪が降り止んだ頃、農夫がこの山で木を切りだそうと話しあい、山篭りの食物を用意して場所を見つくろって仮小屋を作って寝泊りし、毎日あちこちの木を気の向くままに伐採して薪につくり、小屋の脇に大量に積んで、満足なだけ手に入るとそのままそこに積んで帰宅する。こういうのを泊り山と言うが、山に泊まって夏用の仕事をするのである。こうして夏から秋になり、積んでおいた薪も乾き、牛馬をつかって薪を家に運んで使う。雪の深い所では、雪の時期に山に入って木を切り出すのは不可能なので、人々が雪に対して工夫したやり方である。
ところで、上に述べた阿弥陀峯には水がない。谷川はあるが、山から数丈(何十メートル)も下を流れ、翼でもない限りは水を汲むのも難しい。年月の経た藤蔓が大木にからまって谷川にぶら下がっている所があり、泊り山をして水を汲む場合は樽を背負って藤蔓につかまって谷川へ下り、水を汲んだら樽の口をしめて背負って、ふたたび藤蔓につかまってのぼる、つまり山の釣り橋を渡るのに似ている。泊り山の場合、この藤蔓がないと水を汲めず、縄では藤の強度には敵わない。泊り山をする人たちは、この藤の蔓を宝のように尊ぶという。
泊り山をした人の話だが、ある年の二月に、一同七人があちこちに散らばって木を伐っていると、山々に響くほどの大声で猫が鳴いた。一同おそれおののいて、全員小屋に集まり、手に斧をかまえて耳をすまして聞いていると、声は近くなったり遠くなったり、また近くなる。猫が何匹もいるのかとおもうと、声はどうもたった一匹である。しかし、姿は一向に見えないまま鳴きやんだ。後で七人がおそるおそる鳴いていた付近にいって見ると、凍った雪に踏み入れた猫の足跡があり、大きさは巨大で丸盆ほどあったという。
そんな生き物がいるはずがない、と否定するわけにはいくまい。私の友人で信州の人が聞いた話で、知人が夏に千曲川へ夜釣に行った時、人が三人ほど乗っても具合のよい岩が水から半ば出ており、よい釣場だと登って釣り糸をたれていた。少したってその岩に手鞠ほどの大きさで光るものが二ツ並んでいた。月が雲間から出て明るくなってよく見ると岩ではなくて大きな蝦蟇(がま、ひきがえる)で、光っていたのは目だった。人々は生きた心地もせず、何もかもすてて逃げ帰ったという。
●山の言葉:泊り山では特殊な用語を
泊り山は、この土地にかぎらず外でもする。小出嶋というあたり、上越後山根の在でもするようだ。どんな深山でも何か事柄を行う際は、山ことばというものがあってつかう。それを忘れて、里の言葉をつかうと、山の神の崇りがあると言い伝えている。他国のことは知らないが、その山言語とは、
○米を 草の実 ○味噌を つぶら ○塩を かへなめ
○焼飯を ざわう ○雑水を ぞろ
○天気が好いのを たかがいい ○風を そよ
○雨も雪も そよがもふと言う。 ○蓑を やち ○笠を てつか
○人の死を まがつた又はへねた
○男根を さつたち ○女陰を 熊の穴
他にも多数あるが、全部書いても無意味なので書かない。女陰の熊の穴から考えたことだが、この種の単語は商家の符調に似ている。山でこんな言葉を使わないと山の神の崇りがあるとは信じがたいが、神様の事は人間が軽々しくデタラメなどいうべきでもない。
●子供たちの雪遊び:雪ン堂つまりカマクラ
図 雪ン堂つまりカマクラの絵である。左端に雪山があり、中に人の顔がみえる。
何度も述べたとおり、この辺は10 月から翌年3 月末までの半年は雪である。雪の中に生れ、雪の中で成長するから、子どもの雪遊ぴにもいろいろあり、暖国にはないものも多い。中には、暖国の人には思いもよらないのもある。まず除雪した雪を高く積んだ上を、子供が集まって遊び用の木鋤で平らにしてふみつける。
雪国の常として、子供も雪の中では藁沓(わらぐつ)を履く。雪を集めて塀を作るように大きな囲いをつくり、その間にも雪で壁をつくり、入り口を開いて隣の家とし、すべての囲いにも入り口をつける。中にお宮のような所を作り、前に階段を備え宮の内に神の御体も見えるように供えて天神さまと称し、恵比寿大黒などもつくる。莚を敷きつめ物を煮る場所も作る。以上、すべて雪で作る。雪の凹んだ箇所に糠(ぬか)をしいて火をたくと、消えにくい。これを雪ン堂とか城とも言う。
子供はこの雪ン堂の中にあつまり、物を煮て神様にささげ、みんなで食べる。間に境の壁を作ってとなりの家を真似て、いろいろに遊ぶ。倦きれば、作ったものを今度は叩いて壊すのも遊びである。別の子が同じように作った城を、攻撃といって壊し合うのもあり、そのままにしておくこともある。そういう私自身も、子供のころはこの遊ぴのガキ大将だったが、むなしくも齢をとって今は夢である。
●雪から坐頭が降ってきた:頓智で危機を脱して土産をせしめる
図 本文にある雪窓から座頭が家の中に降ちた様を描いている。
前にも言ったように、新年も雪の中だから、大晦日正月はどこの家もわざわざ除雪して窓から明りが入るようにし、掘った雪は年越し行事の忙しさにまぎれて取除かず、掘揚が高く屋根の高さを超えて雪道が歩行に不便な箇所もできる。
ある年の大晦日の夜、採点した俳諧の書類を懐にいれて、俳友兎角子君と一緒に、催主のところへ行って書類を主人に差し上げたところ、主人はよろこんで、今夜はめでたい夜だからゆっくり語り会おうと、主人の妻や娶娘(息子の嫁)も加わってもてなしてくれた。
雑談しているうちに、主人の妻女が私に、年越しの夜は鬼が来るといって江戸では厄払いというものをして鬼を追い払うことを行事にして物乞いもするときいていますが、以前からそんなことをしましたか、鬼が来るという空言も古い言い伝えだろうかと質問した。私は、このことはご主人が所蔵されている年浪草に吾山がだいたい書いていて、その本をご覧なさいと答えた。
ところが、俳友兎角君は酒にも酔っていて冗談をいうように、鬼がくるというのはデタラメではないぞ、女性の集まりは鬼が特に大好きで、その鬼がくるからこそ年越しの豆まきを鬼退治というので、俳諧の季語集にも載っていると説明した。母の脇にいた13 歳の娘が、あなたはその鬼を見たことがありますかと聞くと、もちろん見たぞ見たぞ、鬼にもいろいろいて、青鬼赤鬼はあたりまえ、顔が白くてやさしい白鬼で、黒くて肥太っている黒鬼なんぞもいる。俺が江戸にいた時、厄払いが鬼を掴まえて西の海へポンと投げたのを見たことがあり、この鬼は黒かった。江戸の年越しでも、夜は鬼が歩くのだから、この辺の年越しでは鬼はいくらでもいる。あかり窓からのぞいてみようかと、いたずら心で脅かすと、嫁も娘も冗談を言わないで、と口では言いながら、母の左右にくっついて恐怖に駆られている。
ちょうどその時、人々が座っている後の高いあかり窓で激しい音がして、掘あげてあった雪がガラガラとと崩れ、窓をやぶって人が降ってきた。女たちはみなアッといって下をむいて愕然となり、男たちはみな立あがって驚いた。下僕もこの音にみな駆け寄って、崩れ落ちた雪まみれの人を見ると、この家へもときどき来る福一という按摩の小座頭だ。幸いに疵もなく、頭を撫でまはして腰をさすっている。これは福一ではないかと、みなが笑うので私も笑った。下男らは散らかった雪を掃除し窓も一応修復した。ご主人の妻は腹を立てて、福一さんよ、兎角どのが鬼の話をしていたところだったので鬼かと思って皆が胆を冷やしましたよ、めでたい大晦日に盲が窓から降ってくるなんて縁起が悪い、さっさと退散しなさいと激しく叱る。ご主人はそんなに叱るなよ、それにしても福一よ、どうして窓から落ちたのだね、どこか怪我はないかと言う。
福一はにっこりしながら、怪我はないようです、年末のおめでたを言うつもりで家を出たのですが、掘りあげた道が昨日とは違って足元が悪く、まちがって転んだところで窓まで壊して落ちてしまいました、いたずらをしたのではないのでお許しくださいと言う。嫁も娘も口をそろえて、鬼じゃないかとひどく怖かった、憎い盲だと腹を立てて言う。ご主人の妻はまだ怒っており、しかも今年の吉方にあたる窓をやぶって目のないものが入ってきたのは、つくづく縁起が悪い、早く出て行けと叱りつける。
兎角が脇から、福一よまあここは一度帰ってまたおいで、そのうちに詫びておこうというと、福一は頭を下げて考え込んでいたが、やがて兎角にむかい、歌を一首詠みますので書いて下さいと言う。この福一は、年は若いが俳諧も狂歌も詠むので、主人の兎角は面白いといって記録したものを読んでみると、その歌は
吉方から福一というこめくらが 入りてしりもちつくはめでたし
(吉方の方角から、福という名前のついた米倉がとびこんで、餅を搗くとはめでたい)
この歌で、皆がめでたしめでたしと楽しくなり、手を打って全員でよろこぴ、また盃を廻して楽しんだ。ご主人は紋付の羽織を嫁さんに出させて、歌のご褒美として福一に進呈したので、福一はそれを膝にのせてさすり、間違いが良いことになったと笑って喜びながら、めでたい年越に着始めしようといって、羽おりを着て手でなでながら、もっともらしい格好をしてさらに喜ろこんだ。実際、これがよい兆しだったのか、この年この家の嫁の初産で男児を授かり、特別の病気もなく成長し、三歳で疱瘡に罹ったが軽症で済み今年は七歳になっている。福一はこんな風に賢く、今は江戸にいて位も上がっているといい、めでたい話である。

年浪草:「華実年浪草」という俳諧関係の書籍。
吾山:越谷吾山、会田吾山ともいう。江戸中期の俳人 

 

二編巻一
○越後の城下
○古歌にある旧蹟:初君の歌など
○雪の元日:江戸の町との比較
○雪の正月:雪を掘る雑煮
○玉栗:雪合戦
○羽子擢(はごつき:羽根つき)
○吹雪に焼飯を売る:生命の値段
○雪中の演芸場
○家内の氷柱(つらら):何故屋内につららができるか
○雪中歩行の用具:藁沓・深沓・ハツハキなど
○橇(または輴;そり):橇の種類と橇歌
○春寒の力
○シガ:霧氷のこと?
○初夏の雪:雪の消える過程
○削氷(けずりひ):三国峠の夏の氷
○雪の多少:地形との関係
○浦佐の堂押:毘沙門堂の押しくらまんじゅう
●越後の城下
越後の国は、昔は出羽の一部と越中の一部に分かれていたと国史に載っている。現在では一国となって七郡からなっている。
東に岩船郡 昔は石船と書いた。海側である。
蒲原郡 新潟の湊がここに属している。
西に魚沼郡 海から遠い。
北に三嶋郡 海に近い。
刈羽郡 海に近い。
南に頸城郡 海に近い処もある。
古志郡 海から遠い。
以上七郡である。
城下は岩船郡の村上に内藤侯五万九千石、蒲原郡に柴田 溝口侯五万石、黒川 柳沢侯一万石陣営、三日市 柳沢弾正侯一万石陣営、三嶋郡に与板 井伊侯二万石、刈羽郡に椎谷 堀候一万石陣営、古志郡に長岡 牧野侯七万四干石、頸城郡に高田 榊原侯十五万石、糸魚川 松平日向侯一万石陣営。
以上の城下の外に特に豊饒な処として、魚沼郡に小千谷、古志郡に三条、三嶋郡に寺泊と出雲崎、刈羽郡に柏崎、頸城郡に今町などがある。
蒲原郡の新潟は北海第一の港で、特別豊かな土地であることは議論の余地がない。私の暮す塩沢付近の豊かな点はまあ省略しよう。越後は十月から雪が降り、雪の深いのと浅いのとは地勢で異なる。この点は、後に考察する。

陣営:通常は軍隊が駐屯するテントやバラックをいうが、ここでは「土地」という意味か。
●古歌にある旧蹟:初君の歌など
蒲原郡の伊弥彦山
伊弥彦社を当国第一の古跡としている。祭るところの御神は饒速日命(にぎはやのみこと)の御子天香語山命(あまのかぐやまのみこと)である。元明天皇の和銅二年(703 年)が垂跡(起源)で、社領は五百石である。この山は特に高い山ではないが、越後の海辺の全長八十里(320 キロ)の中ほどに独立しており、山脈をつくって他の山につながることがない。右に国上山、左に角田山を擁して、一国の諸山がこれに従っているようで、どの山からでも見えて実に越後の中心の山としてはこれよりほかにないと思える。だからこそ、命もここにお出でになったのだろう。この御神の縁起や霊験神宝で記すべき事柄はいろいろあるが、とりあえずここでは省略する。
さてこの山を詠んだ古歌に以下のものがある
いや日子のおのれ神さび青雲の たなびく日すら小雨そぼふる よみ人しらず 万葉集
いや彦の神のふもとにけふしもか かのこやすらん かはのきぬきて つぬつきながら 大伴家持(訳註)
(弥彦山の麓には、今日も鹿がかしこまっているだろうか 毛皮を着て 角を頭に着けて)
長浜:頸城郡に在り。三嶋郡とする説もある。
ゆきかへる雁のつばさを休むてふ これや名におふ浦の長浜 大伴家持
名立:同郡西浜にあり、今は宿の名でよんでいる。
順徳上皇が承久の乱で、佐渡に流された折の御製として
都をばさすらへ出し今宵しも うき身名立の月を見る哉
直江津:今の高田の海浜を言う。 やはり順徳上皇の御製に
なけば聞ききけぱ都のこひしきに この里すぎよ山ほととぎす
越の湖: 蒲原郡には「潟」とよぶ処が多い。この地の言い方では、湖を潟と言う。特に大きいのが福嶋潟といい、三里四方である。この潟から遠くないところに五月雨山(さみだれやま)がある。紀貫之の歌に
潮のぼる越の湖近ければ 蛤(はまぐり)もまたゆられ来にけり
とあり、また藤原俊成卿の歌に
恨みても なににかはせんあはでのみ 越の湖みるめなければ
とあり、また藤原為兼卿の歌に
年をへてつもりし越の湖は 五月雨山の森の雫か
というのがある。
柿崎: 頸城郡にある宿駅である。親鸞聖人が詠ったとして口碑に伝える歌に
柿崎にしぶしぶ宿をもとめしに 主(あるじ)の心じゆくしなりけり
私の考えでは、親鸞聖人は御名を善信といい、三十五歳の時に他の人から讒言を受けて、越後に流された。これが承元元年(1207 年)二月である。五年後に赦免の勅許がおりたが、法をさらに広めようと越後に五年滞在したことになる。したがって、親鸞聖人の旧跡は越後の各地に残っている。聖人は合計廿五年間各地を布教して、六十歳の時に京都に帰った。越後に五年、下野に三年、常陸に十年、相模に七年滞在した。弘長2 年(1262 年)11 月28 日に90 歳で亡くなっている。上記柿崎の歌も、布教の行脚の時の作であろう。
この外に有明の浦岩手の浦勢波の渡井栗の森越の松原 などでいずれも古歌があるが、他国にも同名の名所があるから、確実に越後とは決められない。
さて今年は天保十一年子(1840 年)だから、今から541 年前の永仁六年(1298 年)戌の年に藤原為兼卿が佐渡へ左遷されて、三嶋郡寺泊の駅で順風を待っていた時、初君という遊女を呼んだところ、その初君が
ものおもひ こし路の浦の白浪も 立かへるならいありとこそきけ
(ものおもいしながらやってきた越路の港の白浪ですが、波ですから戻るものです。あなた様もきっと京にもどれることでしょう)
という歌を詠んだ。
この歌が良い兆しとなったのか、5 年後の嘉元元年に為兼卿は無事京都に戻り、九年の後正和元年玉葉集を撰んだ。その時に、この初君の歌を採用している。越後で随一の優れた作品と言えよう。初君の古跡は現在も寺泊にあり、里では俗に「初君屋敷」と呼んでいる。貞享元年(1684 年)釈門万元記という初君の歌の碑があったが壊れてしまったのを、享和年間(1801-1804)に里の人が修理して現在も残っている。

和銅:702-715 年
越後の海浜八十里(320 キロ):越後の国の海浜が八十里の意味。弥彦山自体は海からは10キロしか離れていない。
弘法:元号ではなくて「布教」を意味する。原文は「弘法25 年に60 歳で京都に戻る」となっているが、布教の年数が25 年に及んだとの意味。
弘長 1261-1264
天保 1830-1844
垂跡:この語は、辞書には「仏や菩薩が一時的に神の姿で現れて教えを垂れる意味」となっている。これでは意味が辻ないので、一応この神社の起源を表すと解釈した。
コメント:「いや彦の神のふもとに・・・・・・」の歌:この歌は「575 777」の構造で、仏足石歌という形式である。この歌を、著者は大伴家持作としている。私の手元にある万葉集の資料では、家持の歌とはせず、「読み人知らず」になっている。16/3884 即ち16 巻の3884 目である。万葉集の分類と著者がどういう根拠で家持としたかの事情は不明。仏足石歌形式は、万葉集ではこれが唯一ということになっている。
●雪の元日:江戸の町との比較
そもそも、日本国中で一番雪の深い国は越後だとは昔も今も人がみとめている。とはいえ、私の住むこの魚沼郡はその越後でも特別に雪がふかく一丈二丈(3〜6 メートル)にもおよぶ。次が古志郡でその次が頚城郡である。その他の4 郡は、以上3 郡より雪は比較的浅い。したがって、私の住む魚沼郡は日本一雪の深い所である。私はその魚沼郡塩沢に生れ、毎年十月頃から翌年三月四月まで雪を見る生活がすでに六十年余、最近この雪譜を作っているのも雪で籠居する際の手慰みである。
さてこの塩沢だが、江戸から僅ずか五十五里(220 キロ)しか離れていない。それも道なりの距離で、直線距離はもっと短いだろう。雪のない時期なら健脚の人は四日で到着する。その江戸の元日の様子を聞くと、高貴富貴のお屋敷は知らないが、市中ではどの家も千歳の門松をかざり、まっすぐな竹をたて、太平のしめ飾りを引き、年賀の客は麻着の上下をつらねて往来し、中には万歳(三河万歳)もまじっている。女太夫や鳥追いの三味線でめでたい歌をうたい、女児は羽子を突き、男児は凧を揚げ、見るもの聞くものめでたい中で、初日の出の光がはなやかに昇り、これこそ実に新年の春だ。この雪国の元日も同じ元日だが、大都会の賑わいと華やかさに比べて、辺鄙な雪の中の光景は雲泥の差である。
塩沢の地の元日は、野も山も田圃も里も一面に雪で埋まり、本来なら春を知らせる庭先の梅や柳も、去年雪の降る前の秋の終りに雪で折れないようにと丸太を立て縄で縛ったままで、元日の春らしくない。そもそも、梅の花は三月四月にならないと咲かない。翁が俳句で「春もやや景色ととのふ月と梅」 と詠んだのは大都会の正月十五日であり、「山里は 万歳遅し梅の花」というのは、ここ越後なら三月にあたる。門松は雪の中に建て、しめ飾りは雪の軒に引きわたす。新年の年始回りには木履(あしかた、きぐつ)をはき、従う者は藁靴である。雪道に階段があると、主人もわらぐつに履きかえる。この木げたとわらぐつは年始廻りにかぎらず、誰も皆同様である。雪が完全に消える初夏の頃まで、草履は履けない。したがって、元日の初日の出の光も一面の銀世界を照すものである。春らしい景色など一ツもない。古歌に「花をのみ待らん人に山里の 雪間の草の春を見せばや」というのがあるが、これは雪といってもごく浅い都の雪のことだろう。雪国の人は、春といいながら春にならない状況を毎年経験しながら生涯を終る。存分に繁栄し何でも豊かな大都会に住んで、毎年梅が咲き柳の芽の出る春を楽めるのは、実に天幸の人というべきだ。

七五三:これは注連縄(しめなわ)かしめ飾りのことだろう。七五三縄で「しめなわ」。
麻着の上下:羊毛はもちろん存在しない。綿花も絹も高価で、麻着がふつうの衣服だ。
万歳:「ばんざい」ではなくて「万才」のこと。次の女太夫などから判断。 
●雪の正月:雪を掘る雑煮
図 「駅中正月積雪図」というタイトルで、その雪の高さ。
初編でも述べたが、この土地の雪は鵞毛のように大きくひらひらするのは稀で、大抵は白砂を撒くような感じだ。冬の雪はそれ以上凍って固まることはなく、春になると凍って鉄か石のようになる。冬の雪が凍らないのは、湿気がなく乾いた砂状の故で、この点は暖地の雪と異なる。だから、凍ってかたくなるのは、雪が解けはじめる兆しである。年によっては、春になっても雪の降ること自体は冬と同じだが、それでも積るのは五六尺(1.5-1.8 メートル)に過ぎない。天地に温気があるからだろう。したがって、春の雪は解けるのも速い。とはいっても、雪の深い年は春も屋根の除雪が必要なこともある。
除雪を「雪掘」といい、椈(ぶな)の木で作った木の鋤で土を掘るように雪を掘って捨る作業をそう呼ぶので、すでに初編で述べた。怠ると雪の重みで家が潰れる。したがって、家毎に冬に除雪した雪と春に降り積った雪とで道路が山になるのは、描いた図を見てわかって欲しい。どの家でも雪は家よりも高く、新年の春を迎える頃には日光を気持よく引き入れるべく、明をとる場所の窓を遮えぎっている雪を他処へ取り除く。時としては、一夜のうちに三四尺の雪に降りこめられて、家中どこも薄暗く、心も朦々と暗い気持ちで雑煮を祝うこともある。
越後はもちろん、北国の人はすべて雪の中で正月をするのが毎年の例である。こんな正月を暖国の人に是非見せてあげたいものだ。
●玉栗:雪合戦
江戸の子供たちは、正月の遊びとして、女児は羽子をつき、男児は凧を揚げるなどで例外はない。ところがこの土地の子供は、春になってもどこも雪で、歩行自体が大変で路上で遊ぶことが少ない。
それでも、玉栗という子供の遊びがある。正月とかぎらず雪中の遊びである。始めは雪を円形につくって鷄卵の大きさに握りかため、上へ上へと雪を何度もかけて足で踏んで固め、柱にぶつけて圧してかため、これを「肥」と言う。そうして手毬の大きさになった時点で、他の子供が作った玉栗を軒下などに置いて、自分の玉栗をこの玉栗にぶつけると、頑丈な玉栗がひ弱な玉栗を砕くから、これで勝負を争う。この遊びは、場所によって、○コンボウ ○コマ ○地独楽 ○雪玉などと呼ぶ。 里のなまりでは、雪を「いき」という○ズズゴ ○玉ゴショ ○勝合などともいう。
この玉栗を作る際に、雪に塩を少し入れると石のように堅くなるので、塩を入れるのは禁ずることもある。これでわかる通り、塩は物を固める性質がある。物を堅実にするからこそ、塩にすれば肉類も腐らず、朝夕のうがいに塩の湯水を使うと歯がかたくなって歯の寿命が延びる。玉栗は子供の遊びだが、塩が物を堅くする証拠なので、ここに記述する。子供の遊びに雪ン堂というのがあるが、そちらは初編ですでに説明した。
●羽子擢(はごつき:羽根つき)
この地の言い方で、はねをつくといはずに「はねをかえす」というのは、「打ちかえす」意味だろう。
江戸で正月を過ごした人の話に、市中で見上げるように松竹を飾ったところで、美しく粧った娘たちが美しい羽子板を持って並び立って羽子をつく様子は、いかにも大江戸の春らしいという。この塩沢の地の羽子擢は、辺鄙な田舎だからこんな美しい姿は見かけない。正月は、女の子たちも少しは遊んでいいという許しがでるので羽子をつこうと、まず場所を決めて雪をふみかためて角力場のようにし、羽子は溲疏(うつぎ:中空の材木)を3 センチの筒切にし、ヤマドリの尾を三本さしいれる。江戸の羽子よりずっと大きい。打つものとしては、雪を掘るのに使う木鋤を使う。力を入れて打つからとても高くあがる。
これほど大きな羽子だから子供の遊びではなく、あらくれ男や女がまじり、脚袢をつけ藁沓を履いて遊ぶ。一ツの羽子を皆でつくので、あやまって取り落すと、罰はあらかじめ定めたとおり、頭から雪をあびせる。その雪が襟や懐に入って冷たく切ないのを周囲が笑う。窓からこれを見るのも、雪の生活の一興である。
山東京伝翁が骨董集(上編ノ下)に下学集を引用して、羽子板は文化十二年より三百七十年ばかりの前、文安の頃すでにあったが、それ以前にあったかは明確でないといっている。また下学集には羽子板にハゴイタ、コギイタと二種類の読み仮名がつき、こぎの子というのは羽子のことだとある。この塩沢でも、江戸のように児女が羽根をつくこともある。

骨董集:山東京伝が編纂した風俗解説集。1813 年刊行
下学集:室町時代の国語辞書。2 巻。1444 年(文安1)完成。
文安(ぶんあん):1444〜1449。つまり室町時代である。
溲疏(うつぎ):庭木などにもする灌木。幹の材質が堅いが中空で、こんな用途になる。
ヤマドリの尾:ヤマドリは雉(きじ)に似た大きな鳥。尾の羽も雉のそれと同様に大きい。 
●吹雪に焼飯を売る:生命の値段
図 峠越えで吹雪に遭い、焼飯(お握り)2 個を1 万円余で買った人は助かり、売った人は生命を落とした話だ。
雪国で恐ろしいのは、冬の吹雪と春の雪崩である。この状況は、初編でもすでに説明した。今回、興味深い話を聞いたのでここに述べて暖国の方々に話題を提供しよう。
金銭の貴いことは、魯氏が神銭論でいろいろ説明しており今さら言うまでもない。年の凶作はもちろんだが、何かあって空腹の時小判を噛んでも腹はふくれず、空腹時の小判一枚は飯一杯の価値もない。五十何年か前の饑饉の時、餓死した人の懐に小判が百両あった例の話をきいた。
ある時、魚沼郡藪上の庄の村から農夫が一人で柏崎の宿場にむかった。旅程は五里(20キロ)ほどである。途中で麻を扱う商人と出会い、道連れになった。時期は十二月のはじめで、数日来の雪もこの日は晴れており、二人は肩をならべて朗らかに話しながら塚の山という小嶺にさしかかった時、雪国の常として晴天から急に雲が増えて、暴風が吹いて四方の雪を吹き飛ばして太陽は見えなくなり、視界が効かなくなった。袖や襟に雪が入って全身が凍るようで呼吸も困難で、あちこちから強風が吹き雪を渦に巻き揚げる。
雪国では、地吹雪と言う。この吹雪は不意にくるので、晴天でも冬の季節に遠くへ出かける際は必ず蓑笠を着るのがこの土地の常識である。二人はカンジキで雪を漕ぎつつ(雪の中を歩くのを、この地の言い方で「漕ぐ」という)互に声をかけ助けあって辛うじて嶺(塚山嶺)を超えた。その時、商人が農夫にいうには、今日は晴天で柏崎までの道程は何とも思わなかったので弁当をもたずにきた。今空腹になって寒くて堪らない、こんな状況では貴殿と一緒に雪を漕いで行けそうもない、さきほどの話では貴方は懐に弁当を持っているという。それを私にくれないだろうか。いや、ただ貰うのではない、ここに銭が六百文ある。死ぬか活きるかの際には、こんな銭なぞ何の用にも立たない、この六百文で弁当を売って下さいと頼んだ。農夫は貧乏だったので、六百文ときいて大いによろこび、焼飯(握り飯)二ツを出して六百文と交換した。商人は懐にあって温かい大きな焼飯を二ツ食い、雪でのどを潤して心身ともに元気になり雪をこいで前進した。
こうして急ぐうちに吹雪はますますひどく、カンジキを履いた旅だから足も遅く日も暮れそうになった。この時になって焼飯を売った農夫は腹が減って倒れてしまい、商人は焼飯で腹を満して進んでいった。後れた農夫を終には棄てて独りで先の村に着き、知り合いの家に入って炉辺で身を温めて酒を飲み、ようやく蘇生した気持ちになった。
しばらくして、ほういほういとの呼声が遠くで聞えるのを家内の者がききつけた。吹雪にほういほういとよぶのは助けを乞う言葉で、雪中の常である。吹雪倒れだ、それ助けろと近隣の人たちをよび集め手に手に木鋤を持って走って行った。木鋤を持つのは雪に埋った吹雪にたおれた人をほり出すためで、これも雪国のふつうのやり方である。やがて、少し経って大勢が一人の死骸を家の土間へ運び入れた。あの商人も寄って見ると、つい先ほど焼飯を売ってもらった農夫であった。
この麻商人の話は、ある時私がある俳友の家に逗留した際にこのことを聞いた。あの時六百文の銭を惜しんで焼飯を買わなかったら、あの農夫のように吹雪の中に餓死したろう、今日何とか生きているのもその銭六百文のお蔭だと笑っていたと俳友が語ったことである。

六百文:江戸の話に蕎麦一杯が16 文という。現在300 円とすると、600 文は1 万1 千円になる。1 両は現在の10 万円くらいで、1 両=4 千文から計算すると1 万5 千円となる。お握り二個1 万〜1 万5 千円は高価だが、生命の値段とすればたしかに安い。
●雪中の演芸場
図 雪中の演芸場の絵である。本文で、山東京山らが演芸場に出かけているが、こちらは雪のない季節の話である。
五穀が豊かに実って年貢も順調に納め、村人が気分上々で春になった時、氏神の祭などに合わせて芝居を興行する。役者は皆この地や近くの村・近くの宿場の素人が参加する。師匠には田舎芝居の役者をやとう。始めに寺に群がって狂言をさだめ、次に役を決める。大勢の議論だから、紛々と沸騰して一度ではなかなか終わらない。計画が定まると寺に集まって稽古をはじめる。演技が修熟すれば初日を決め、衣裳やかつらの類はこれを貸す職業があって物の不足は起きない。芝居を二月か三月頃にする場合、まだ雪の消えない銀世界である。したがって、芝居を造るところも役者の家も、親類縁者朋友からも人を出し、あるいは人を傭って芝居小屋の地所の雪を平らに踏みかため、舞台花道楽屋桟敷などすべて雪をあつめて形にし、格好よく造る。その点は図で見て欲しい。この雪で造ったものは、天がここでも人工をたすけて一夜で凍って鉄石のようになり、大入りでも桟敷の崩れる心配はない。3 月になると雪も少し稀になり、春色の空を見て家毎に雪囲を取りはずす頃だから、あちこちから雪かこいの丸太や雪垂といって茅で幅八九尺広さ二間ばかりにつくった簾を借りあつめて日覆にする。舞台と花道は、雪で作った上に板をならべる。この板も一夜のうちに凍りつくと釘を打って固定したより頑丈で、暖国ではできないやり方である。物を売るお茶屋も作る。どこも一面の雪で、物を煮る処は雪を窪めて糠をちらして火を焚けば、不思議に雪が溶けることはない。
演芸場の造作が完成しても春の雪がふりつづいて連日晴れず興行の初日が延びる時、役者になった家はもちろん、この芝居を見ようと逗留している客も多く、だれもが毎日空を見上げて晴れるのを待ち、客のもてなしにも倦きて、終には役者仲間が相談して、川の氷を砕いて水を浴びて水垢離して晴れを祈るようなこともあり、それはそれで楽しい。以下は百樹の注釈である。
私が丁酉の夏北越に旅して塩沢にいた時、近村に地芝居あると聞いて京水と一緒に出かけた。寺の門の傍に杭を建てて横に長い行燈があり、これに題が書いてあり、「当院の屋根普請の寄進をお願いする為、本堂において晴天七日の間、芝居興行する。名題は仮名手本忠臣蔵役人替名」とあり、役者の名は多くは変名である。寺の境内には仮店ができて物を売り、人が群れている。芝居には、戸板を集めて囲った入り口があり、ここを守る者がいて一人前いくらと入場料を取り、屋根普請の寄進である。本堂の上り段に舞台を作り、左に花道があり、左右の桟敷は竹牀簀薦張である。土間には筵をならべる。旅の芝居は大概こんなものだと、市川白猿の話でもきいた。桟敷のあちこちに真っ赤な毛氈をかけ、うしろに彩色画の屏風を立てて、今日の晴れ舞台である。四五人の婦女がみな綿帽子をかぶっているのは、辺鄙に古風を失しない狙いである。見物人が群をなして大入りで、子供たちは猿のように樹に登って観るのもいる。小娘が笊を提げて氷々と叫んで土間の中で売っている。みると、笊のなかに木の青葉をしき雪の氷の塊である。ふつうなら茶を売るところだが、氷を売るのは珍しい。この氷のことは、後で削氷の項目で触れよう。
さて口上を言うものが出てきて寺へ寄進の物、役者への贈物、餅や酒の類一々人の名を挙げ、品を説明して披露し、さあ忠臣蔵七段目のはじまりで幕が開く。おかるに扮しているのは岩井玉之丞という田舎芝居の役者で、なかなかの美形である。由良助に扮しているのは、私が旅で文雅関係から識っている人で、若いからこんな戯もするのだろう。普段と違って今の坂東彦三郎に似て、演技も観る価値がある。寺岡平右ヱ門になったのは私の客舎にきた髪結いで、これもいつもとちがって関三十郎に似て音声もけっこう関三のようだ。私が京水と顔を見合わせて感心し、京水はふざけてイヨ尾張屋とほめたが、尾張屋は関三の家号だとは知るものがいないようで、尾張屋と声をかけたものは他には一人もいなかった。一幕で帰ろうとすると、木戸を守る者が木戸から出してくれない。便所は寺の後にあり、空腹なら弁当を買いなさい、取次をしましょうと言う。私たちを出さないだけでなく、他の人も出さなかった。おそらくは、人がいなくなると演芸場の雰囲気がこわれるのを嫌うためだろう。出口がどこかにないか調べたが、この寺の四方に垣をめぐらして出る隙はない。たまたま子供が外から垣を壊して入ってきたので、その穴から二人でくぐりぬけて、これもまた一興であった。

百樹:岩瀬百樹、別名は山東京山で、山東京伝の弟。「北越雪譜」の出版に力があった人。京水という同行者は、京山の息子で本書北越雪譜の絵を描いている。原画は牧之自身が描いているが、実際に出版されたのは京水の描いたものが多い。
2 編(この巻)の始めに、この人が詳しい解説を書いている。北越雪譜の1 編にはなかったが、2 編には「百樹曰」として、山東京山が注釈ないし追加説明を大量に加えている。
●家内の氷柱(つらら):屋内に何故つららができるか
昨年来降り積もった雪が家の棟よりも高く、春になっても家の中が薄暗いので、高窓を埋めた雪を掘りのけて明をとることは前にも述べた。この屋根の雪は冬の間に何度も掘ってどける度毎に、木鋤で思いがけず屋根を傷つけることがある。この土地の屋根は大抵の場合に板葺で、屋根板は他国にくらべれば厚くて広い。屋根を葺いた上に算木という物を作り、添石を置いて重石とし風で飛ばされるのを防ぐ。これ故に、雪をほって除雪するといっても完全に除去するのがむずかしく、その雪の上に早春の雪がふりつもって凍るので屋根が破れてもわからない。春が少し進むと雪も日のあたる箇所は融け、屋内でも「焼火の所」でも雪が早く融ける。すると、屋根の傷ついたところは板の下をくぐり雪水が漏れて、夜中に急に畳をどかしたり、桶や鉢の類を動員して漏水を受けたりする。漏れる箇所を修理したいが、雪が完全にきえていないので手をくだすのも難しく、漏れが凍って座敷の内にいくすじも大きな氷柱(つらら)ができることもある。こんなのも、是非暖国の人に見せたいものだ。
以下も百樹の注釈意見である。
私が越の国に旅して大家の造り方を見ると、中心の柱の太いことは江戸の土蔵のようだ。天井が高く欄間も大きいのは、雪の時に明をとるためである。戸障子も骨が太く丈夫で、閾や鴨柄も広く厚い。太い材木の使用に目をみはる。以上は皆、雪に潰れないようにとの用心だという。江戸の町でいう軒下を、越後では雁木(がんぎ)または庇(ひさし)という。雁木の下は広くつくって小さい荷車も動かせるほどで、雪中にこの庇下を往来する狙いである。越後から江戸へ帰る時に高田の城下を通ったが、ここは北越第一の都会である。各種の店が並び、何でもそろっている。両側に一里ほど庇下が続き、その下を歩くのは、とても気分がよかった。文墨の雅人も多いときいたが、旅行中に凶年に遭い、帰宅を急いで余裕がなく面会を求めなかったのは今もって残念である。

焼火の所:煙突のことか、あるいは「下が囲炉裏(いろり)になっている所」の意味か不明。とにかく、「火を炊く場所」
●雪中歩行の用具:藁沓・深沓・ハツハキなど
図 雪中歩行具の図。むずかしいけれど、読める箇所もありそうと感じて、説明を切り捨てずに掲載した。
雪中歩行の用具類は、初編に図を示したが製作法は書かなかったので、ここで再度詳しく示す。
(この個所は、藁沓・深沓・ハツハキ・ぬねあて・シブガラミ・かじき・すかり の7 つの絵に対応している)
○藁沓(わらぐつ):藁だけであんだ靴。はじめは藁のもとを丸くしてあみはじめ、終わりの方ではわらを増やして二筋に分けて折りかえし、終りはまん中で結んでとめる。これこそは、雪中で最高のはきものである。子供もこれをはくのがふつうである。上等なものは、あみはじめに白紙を用い、足でふむ所にたたみ表を切って入れる。
○深沓(ふかぐつ):藁を打ってやわらかくしたもので作って編む。常の足袋のままこれをはいて雪中を歩行しても、よそのお宅に入って坐につく時に足を洗わないで済む。編み方はなかなかむずかしく、この図は大体の略図を描いているだけである。
○深沓は、他国では革で作ったのを見たことがある。泥の中を歩くにはきっと便利だ。この土地で雪の時には途に泥はないから、はき物は下駄以外には藁でつくる。げたにも、駒の爪牛のつめなど、さまざま名もあり、男女の用い方でその形もかわるが、そこまではと考えて図は描かない。
○ハツハキ:ハツハキというのは里俗の名前で、ふつう書けば裏脚(はばき)である。藁のぬきこか、蒲でも作る。雪中にはかならず用いる。山で働く人は常用する。作り方は図から概略わかるだろう。簡単にいえば藁の脚袢(きゃはん)である。わらは寒をふせぐ狙いで、雪のはきものは大抵わらで作る。(野球の捕手のレガースに似る。)
○むねあて:シナ皮という深山にある木の皮でつくり、大きさは身体に応じる。大抵は縦二尺三寸幅二尺ほどで、胸あてとも言う。前より吹きつける雪をふせぐために用い、農業には特に有用で使用頻度が高い。他国にも似たものはあろう。
○シブガラミ:シブガラミはあみはじめの方を踵にあて、左右のわらを足頭へからんで作る。里の言葉でわら屑の柔らかいのをシビと言う。このシビで作り、足にからめてはくから、本来シビガラミというべきだが訛ってシブガラミという。(註:藁沓のかかとの部分を補強するものか)
○かじき:「かんじき」ともいうがこれは古い名前で、里の言葉ではかじきと言う。縦一尺二三寸横七寸五六分、形は図のようで、ジヤガラという木の枝で枠を作り、鼻の部分はクマイブという蔓かカヅラというつるを使用する。山漆の肉付きの皮で巻いてかためる。前に図で描いた沓の下に履き、雪にふみこまないように使用する。
図 こちらは、「すかり」をつかって雪中を歩く様子を示している図である。
○すかり(縋):すかりは縦二尺五六寸から三尺くらいで、横一尺二三寸。山竹をたわめて作る。かじきの大きなもの。絵の通り、紐をつけて手で引っ張りながら歩く。
○かじきとすかりの二ツは、冬の雪のやはらかなる時にふみこまないように使う。はきなれない人では一足でも歩けないだろう。一方、なれた人はこれをはいて獣を追うこともできる。
右の外、男女の雪帽子雪下駄、その他にも雪の中を歩く用具があるが、雪が深くない土地でも用いる物に似たものはここでは省いておく。
以下も百樹の注釈である。
以前北越を旅して、牧之老人(本書の著者)の家に滞在した時、老人が家僕に命じて雪を漕ぐ形を見せてもらった。京水が傍にいてこの図を描いた。その時の履物は、
○かじきと○縋(すかり)である。
いたずらに履いてみたが一歩も歩けるものではなかった。当の家僕が歩く様子は、まるで馬を御するように見事だった。(京水の絵に百樹が書き込んでいる)
●橇(または輴;そり):橇の種類と橇歌
中国の辞書である字彙によると、禹王水を治めた時に有用だとした物が四ツあり、水には舟、陸には車、泥には橇、山にはカンジキだという。 これは書経にも説明してある。
したがって、橇というものは中国には昔からあったのだろう。泥の中で使うものだから雪で使うのとは製法が違うかもしれない。橇の字は、○毳○輴○秧馬、などいろいろな書き方で登場する。時に、雪車とか雪舟の字を用いることもあるが、これは俗用である。
そもそもこの橇という物、雪国では一番重要な用具である。人力の助けとしては船や車と同じで、作りかたが簡単で作り易い点は図を見ればわかるだろう。堀川百首兼昌の歌に、「初深雪降にけらしなあらち山 越の旅人輴にのるまで」というのがある。この歌をみても、この土地ではずっと昔から橇をつかってきたとわかる。前にも何度か述べたが、この土地の雪は冬には凍らないから、冬に橇をつかうと雪に踏み込んでしまい役に立たない。春になって、雪が鉄石のように凍る正月から三月の間に橇を用いる。その時になるのを、里言葉では「橇道になった」と言う。
俳諧の季語集では雪車を冬としているが、これは間違いである。といって雪中で使う物だから、春の季節には相応しくない。古歌でも、多くは冬によんでいる。実際とは違うけれども、冬としてまあよかろう。
橇は作り易い物で、大抵の農家や商家はどこも備えている。何を載せるかで大きさは大小いろいろあるが作り方は皆同じで、名前も同じである。特に大きいものを、里言葉で修羅というのは、大石や大木を載せるからである。
山々の喬木(背の高い木)も春二月の頃までは雪に埋っているが、梢の雪がだんだん消えて遠目にも見えるようになる。この時期には、薪を伐りに行き易いので農人等おのおの輴を引いて山に入るか、あるいは輴は麓に置く場合もある。雪がなければ見上げるような高い枝も、雪を天然の足場として思い通りに伐りとり、大かたは六把を一人前とする。下に三把、中に二把、上に一把の計六把で、これを縄で強く縛って麓にむかって滑らすと、凍った雪の上だから幾百丈の高度差も一瞬の間に麓についてしまう。もちろん橇にのせて引いてくる。山道が曲りくねっている場合、例のごとくに縛った薪の橇に乗り、片足をあそばせて舵をとり、船を操るようにして難所を突破して数百丈の麓まで降下する。その間、少しも間違えない。この技術は学ぶよりは自然に身に着けるところが面白い。
橇を引いて薪を伐りにいく時、相談して二三人の食糧を草で編んだ袋にいれて橇に縛っておくこともある。山烏(カラス)がこれを知ってむらがってきて、袋をやぶってこの食糧を食べてしまう。樵夫は知らずにいて、今日の仕事はこれで十分だ、さあ食事と見ると一粒ものこっておらず、食った烏のほうは樹の上で啼いている。人はむなしく烏を睨んでこん畜生と罵り、空腹をかかえて鼻歌も出ず、橇を引いて空しくかえったこともあったとは、彼らの話であった。
橇をひく際にはかならず歌をうたう。橇歌というが、要するに樵夫の歌である。歌の節も古雅なものである。親や夫が山に入り橇を引いてかえると、遠くから橇歌が聞こえて親や夫のかえるのを知って、途中まで迎えに出て、親や夫を橇に積んだ薪にまたがらせ、代わりに妻や娘が橇をひいて、彼女らも橇歌をうたってかえる。質朴な昔風のやり方だが、今日でも実際に行われている。華やかではない田舎なりの風雅である。
春もすこし進むと、梅も柳も雪にうずもれて、花も緑もあるかないか程度に進む。それでも二月の空はさすがに青くなり、明るい窓のところで読書していると遠くで橇歌の聞えるのはいかにも春らしい気分で快い。何も私と限らず、雪国の人は誰もが抱く感情だろう。
以下は百樹の注釈である。
私が子供の頃、元日の朝は扇と叫んで市中を売り歩く声や白酒を売る声などが聞こえて、いかにも春らしく心も朗らかになったが、今はこの声は聞かれない。鳥追の声はもちろん、武家のつづく町では遠所には江鰶(こはだ)の鮨・鯛のすしと売る声は今もあり、春の雰囲気をもたらしている。三月になると桜草を売る声に花をおもい、五月なら鰹を売る声が垣根越しに聞こえる。七夕の竹を売る竹ヤという声は心涼しく、師走の竹を売る竹ヤの声は同じ声でも、煤払いの竹うりに聞えて忙しい。いろいろな物がそれぞれ季節に応じた声となり、人情に入ること天然の理である。胡笳(芦笛)の悲しい音も同じである。
ここまでは人の声だが、さらに春の鶯や蛙、夏の蝉、秋の初雁、鹿、虫の音、冬の水鵲(ちどり)などはさらに季節を思わせる。本編で橇歌をきいて春を感じて嬉しいというのは本当に文人の真心で、私もそんな風に感じてここに少し書いたわけだ。橇歌で春を感じることは、江戸の人には思いもよらない感情ではあるが、似たようなことはどこの場所でもあろう。(ここまで百樹の注釈)
糞(こやし)をのせる橇がある。これを載せられる程度に小さく作った物である。二月三月の頃も地面は全面が雪に覆われ、見渡す限りの田圃も雪の下にあって持分の地面の境もわかりにくい。しかるにかの糞のそりを引いて来て、雪のほかに一点の目標もないのに除雪して井戸を掘るかのように狙った箇所に肥料を入れる際、自分の田の場所に正確に投入する。一尺とは間違えない。これが農民の活動である。一面の雪の上で何を目標にしてそうできるのかと尋ねると、目標物は特にないが、ただ心でここだと思うとその場所が外れることはないという。こんな活動は一見つまらないことのようだが、芸術の極意もここにあるべきだと思え、そう書いて初学の方々の精進の方向の一助ともと考える。
橇の特に大きいのを、この地の言い方で修羅と呼ぶことは前に述べた。大きな材木や大きな石をのせて移動するのを、大持(だいもち)と言う。ある年、京都本願寺の普請の時、末口(細い側の切り口の直径)が五尺(1.5m)あまりで長さ十丈(30 m)あまりのケヤキを引き出したことがあった。こんな時は修羅を二ツも三ツも使う。材木は雪のふらない秋に伐採してそのまま山中におき、雪が積もって時期がきたら橇を使ってひきだす。こんな大きな材木も橇でひけるのだから、雪の堅さがわかろう。田圃も一面の雪だから、橇はまっすぐ進めばよいのでなかなか便利である。修羅に大綱をつけ左右に枝綱を何本もつけ、まつさきには本願寺御用木という幟(のぼり)を二本持ち、信心の老若男女童等までも蟻の如く集まって引いた。木やり音頭取が五人か七人で花やかな色木綿の衣類に、彩帋(いろがみ)の麾採を手にして材木の上に乗って木やりをうたう。その歌の一ツに、
ハァ うさぎうさぎ児兎ハァ、 わが耳はなぜながいハァ
母の胎内にいた時に 笹の葉をのまれてハァァ それで耳がながい
大持がうかんだ ハァァ 花の都へめりだした
そこで皆が同音に
いいとうとう そのこえさまさずやつてくれ いいとうとうとう
と歌う。
図 上の絵は子供が橇につららを載せて遊んでいるもの。下は橇の略図。
子供らが遊びに使う橇もあり、氷柱の六七尺もあるのを橇にのせて大持の真似をして、木やりをうたい引きあるいて遊ぶなど、暖国では聞いたこともない。他にも橇にはいろいろの話があるけれども、全部は不要だから、ここらで止めておこう。

訳文では、現在の慣用にしたがって「橇」を中心に使用した。北越雪譜の原書では、主として「輴」を使っている。意味は同じ。
字彙:中国明時代の字書
●春寒の力
春になると、寒気が地中より氷結(いて)あがる。その力は強力で、家の基礎を持ちあげて椽(縁側)を曲げ、あるいは踏石をも持ちあげてしまう。冬はどんなに寒くともこんなことは起きない。だからこそ、雪も春は凍って橇も使えるのだろう。屋根の雪を除雪してつみ上げおくのを、この地方の言い方で前にも述べたように掘揚と言う。往来にも雪を積みあげて山ができ、春に雪が凍るようになると、この雪の山に箱梯子のように階段を作って往き来しやすくする。こんな所があちこちにでき、下駄の歯に釘をならべて打って滑って転ばないようにする。中国では「るい」といって山にのぼる際にすべらない履物として使う。るいは、日本語の訓読みではカンジキとある。

氷結(いて)あがる:霜柱のようにも読めるが、冬にはなくて春に起こるとはどういう意味か、想像できない。雪が多いと強烈な霜柱は立たないとは想像できる。「いてる」は「凍る」の意味。
カンジキ:この説明は、カンジキよりは登山者が使う「アイゼン」に近い。
●シガ:霧氷のこと?
冬春とかぎらず雪の気は物にふれると霜をおいたようになり、この地の言い方でシガと言う。戸障子の隙間から雪の寒気が室内に入って座敷にシガを生じることもあり、一方でこのシガが朝日などの温気を受けて解けて落ちる。春の頃、野山の樹木の下枝は雪にうずもれているが、梢の雪は消えて、シガがついてまるで玉で作った枝のように見えることもある。川辺などはたらく者には、髪の毛にシガがつくことがある。このシガは、私の住む塩沢ではまれである。同じ郡でも、中小出嶋あたりには多い。大河に近いので、水気が霜となる故ではないだろうか。

シガ:現代の気象用語では霧氷にあたるだろうか。つららの一種とも解釈できるが。
●初夏の雪:雪の消える過程
この土地の雪は、里地では三月頃になると次第に消え、朝は凍って鉄石のように堅いが、日中は上からも下からもきえる。月末になると目でみてわかるほど、昨日より今日と雪の量が少なくなり、もう雪も降るまいと雪囲いもはずし、家の近くの庭の雪も、掘ってすてるのに凍って堅いので雪を大鋸で(大鋸は、この地の言い方で「大切」(だいぎり)という)引き割ってすてる。四角い雪を脊負ったり担ったりする点は暖国の雪とは大いに違う。それでも、雪に枝を折られないようにと杉丸太をそえて縛りからげおいた庭樹も、ほどけば梅には雪の中でも蕾がついて春待ち顔であり、もう春の末である。この時期になると、去年十月以来暗かった座敷も明くなり、盲人の眼が開いた気持ちになる。とはいえ、雛は飾るものの桃の節句は名前だけで桃の花は未だ蕾である。四月になると田圃の雪もまだらに消え、前年秋の彼岸に蒔いておいた野菜の類が雪の下に芽を出す。梅は盛りをすぎて、桃と桜が夏の季節にやっと春の花として咲く。雪に埋っていた池の泉水を掘り出すと、去年初雪以来二百日余りも暗闇の水のなかにいた金魚や緋鯉も嬉しそうに泳ぎだし、こちらもやれ嬉しやだ。五月になっても人が手をつけない日蔭の雪は依然としてそのまま残り、ましてや山林幽谷の雪は夏の酷暑でも消えない所がある。
●削氷(けずりひ):三国峠の夏の氷
図 6 月に三国峠を越えた際に、氷を売っていたので楽しんだという絵
以下は百樹の注釈である。(この項目は全体が山東京山の文章である)
丁酉の年(ひのととり、1837 年)の晩夏に、私は豚児京水をつれて北越に旅をした時、三国嶺(みくにとうげ)を越えたのが六月十五日だったが、谷の底に鶯をきいて、
足もとに鴬を聞く我もまた 谷わたりするこしの山ぶみ
と詠った。作品としては拙いが、実際の気持ちなので記しておく。
この山は距離およそ四里(16 キロ)あり、山路の登り降りがはげしく平坦な路はまったくなかった。浅貝という宿場で泊まってから二居嶺(ふたいとうげ) 二里半 を越えて三俣という山の宿場で泊まり、芝原嶺を下って湯沢に達する道の向こうに一軒の茶店があった。軒下に床があって浅い箱に白いものを置いて、遠目には石花菜(さっかせい、テングサつまりトコロテン)でも売っているのか、口には上らずと思いながら、山を下って暑さもはげしく汗ダクダクで足もつかれて茶店が嬉しく、京水と一緒に走りこんで腰をかけ、例の白い物を見るとトコロテンではなくて雪の氷であった。
六月に氷があるとは、江戸の人間には珍しいので立ちよって眺めていると、深さ五寸(15センチほど)の箱に水をいれその中に小さな踏石ほどの雪の氷をおいた。茶店の翁に訊くと、山蔭の谷にあり、召し上がってご覧なさいと言う。それではと頼むと、翁は包丁をとって、お皿にさらさらと音をさせて削りいれ、豆の粉をかけて出した。氷に黄な粉をかけたのは、江戸の目には見慣れず可笑しく、京水と目くばせして笑いをしのびつつ、今度はもう一皿ずつ黄な粉をかけないのを貰い、旅行の箱に持参した砂糖をかけて削氷を食べると、歯もうくようで暑さをわすれ、今までに経験のないことだった。
けずり氷を珍味とするのは古書に散見されるが、その中に定家卿の明月記に曰く『元久二年(1205 年)七月廿八日途より和歌所に参る、家隆朝臣唐櫃二合を取寄らる、○破子O瓜O 土器○酒等あり、又寒氷あり自刀を取って氷を削る、興に入ること甚し』 (1205 年7月28 日、途中で和歌所(和歌を扱う役所)によった。藤原家隆が唐櫃を二台取寄せており、中身は破子(弁当箱)・瓜・土器・酒で、また冷たい氷が入って刀で氷を削って、大変に面白かった)とある。
もっともこの明月記は漢文である。それにしても元久二年乙丑から今の天保十一年(1840年)まで約630 年も経過して、昔の人と同様に氷を削って越後の山村で賞味したのはまことに珍しいことである。昔を思って楽しんだ。

豚児:息子を謙遜していう単語、「愚息」と同じ用法。
口には上らず:意味不明なので無理に訳さなかった。「好物ではない」という意味か。
定家卿の明月記:藤原定家の作品で、和歌・日記・エッセイの組み合わせ

百樹の注釈がつづく
私(百樹、山東京山)の推測だが、「ひ」とは冰の本来の読み方で、こおりという読み方は寒凝(にこごり)の意味だと士清翁が和訓栞で述べている。氷室は、俳諧の歳時記にも載っているから誰でも知っており、周礼にも出ていて中国には昔からあった。 日本では仁徳紀にも載っていて、由来がわかる。延喜式に、山城国(今の京都府南部)葛城郡に氷室五ケ所を載せている。6 月1 日に氷室から氷を出して朝廷に献上すると、これを家来たちにも分与したのが毎年の例だという。前に引用した明月記の寒氷は、朝廷からの賜わりものではないだろう。なぜなら、削氷を賞味したのが7 月28 日だからで、6 月1 日に貰った氷が7 月28 日まで消えないはずがない。明月記は多数の人が筆写した書物だから'7 は6の誤記としても、氷室を出た氷は6 月では1 晩も持たないはずだ。推測だが、氷室の担当者が個人的に出したのかもしれない。
さて氷室とは、厚氷を山影などの極く寒く気温の低い地中に貯蔵し、屋根を作って守らせるもので、昔の歌にも出てくる氷室守というのが担当者である。この氷室は水からつくった氷を収納すると書籍の注釈にも書いているが、水の凍ったものは不潔で、こんな不潔なものを献上品としては使用できない。それに水からつくった氷は地中においても消え易く役に立たない。水は極陰の物だから、陽に感じ易いのが理由である。越後地方での削氷の話などから考えると、例の谷間に在ったというのは天然の氷室である。昔の氷室は、雪の氷の室だったのだろう。極陰の地に穴を作り、屋根をかけ、特に清浄の地に垣根をめぐらして、人に踏みこませず、鳥や獣にも穢させず、雪を待ち、雪が降ったらこの土地の雪をこの穴に撞きこんで埋め、あとは適当に人間が守り、6 月1 日に開いて、最も清浄な所を選んで献上したのだろう。自分で推測した理屈で昔の氷室を解釈したものである。
氷室の昔の歌は枚挙に暇がない。削氷を賞味したという定家に 拾遺愚艸「夏ながら秋風たちぬ氷室山 ここにぞ冬をのこすとおもへば 」(この氷室山には、夏なのに秋風が吹いているようだ。なにしろここには冬が残っているのだから)と歌っている。
また源仲正に 千載集「下たさゆる 氷室の山のおそ桜 きえのこりたる雪かとぞ見る」(下たさゆる氷室の山の桜は満開が遅いので、雪が残っているのかと見ちがえそうだ)というのがある。この歌は氷室山のおそ桜を消え残った雪に見たてたる意味だが、この氷室は雪の氷のことではなかろうか。加州侯が毎年6 月1 日に雪を献じるというのも、雪の氷である。これからみても、昔の氷室とは雪の氷だったのだろう。
ところで、かの茶店では雪の氷を珍しいと思ったが、翌日から塩沢の牧之老の家に泊まっていると、毎日氷々と叫んで山家の老婆などが売りに来る。握り拳くらいのものが三銭である。二三度賞味してみたが、やがて氷なんぞ特に貴重とも思わなくなった。何でも手に入りにくいからこそ珍しいので、手に入れやすいと珍しく思わないのが人情である。塩沢に居て6 月の氷も特に珍しくなかったことを考えると、吉野の人は吉野の花を特に珍重せず、松島の人は松島の月を何とも思わない。いつまでも飽ない物というと、孝心なる我子の顔と、蔵置黄金の光だといえようか。

嶺:この文字は現代では山頂や山脈を表すが、本書では「峠」の意味にも使っている。
和訓栞(わくんのしおり):谷川士清(ことすが)著の国語辞書。1777 年(安永6)刊行。
周礼:周の時代の官制を述べたもの。周は中国の国で時代は西暦以前。
仁徳紀:記紀(古事記と日本書紀)の仁徳天皇の部分の記述。大体5 世紀前半。
延喜式:前出。905 年頃に編纂がはじまり、最終的には960 年以降に完成した。
コメント:この削氷の項目は全部が百樹(山東京山)の文章で、牧之の文章はない。
●雪の多少:地形との関係
越後の国の南部は魚沼郡で、上州(群馬県)と境を接している。東部は蒲原郡と岩船郡で、奥州(福島県)と羽州(山形県)と境を接している。国境はいずれも連山が波のように連なって雪が多い。越後の東北は鼠が関まで岩船郡でここが出羽との国境、西は頸城郡の市振部落が越中との国境、鼠ケ関から市振までの距離八十里(320 キロ)が越後の北側の海辺である。海岸は海からの暖かい空気に入るので、雪は一丈(3 メートル)も積もることはなく、年によって差はあるものの、一般には消えるのも早い。頸城郡の高田は、海から遠くないが雪が深い。文化のはじめの大雪の時、高田の市中は町の長さ一里全体が、雪に埋まって闇夜のようで、昼も暗くて昼夜がわからない状況が十日以上続き、町中で燈火につかう油がなくなって難義した。御領主が、家毎に油を御下賜下さったことがあった。
この時は私の住む塩沢も大雪で、昼も夜も家は雪に埋まって日光を見ない状況が十四五日も続き、しかも連日吹雪で除雪作業もできず家に籠って暗かった。住民たちは意気阻喪して、病気になるものもあった。
以下も百樹の注釈である。
牧之老人の本書(北越雪譜)の原稿に就いて増修の説を添え、いよいよ出版の為に版下用の一書を作った際も、牧之老人から受けた手紙に、「今年は雪の降るのが遅く、冬至になっても本宿場の雪は一尺(30 センチ)もない。この分なら、今年中は雪が少なくて済みそうと皆で悦んでいたところ、11 月24 日の夕方より降りだし、25 日から29 日まで実に5日間も毎日毎晩降り続いて、結局1 丈5 尺(4.5 メートル)ほどにもなりました。毎年のことながら、これだけ突然大雪になると27 日から29日まで宿場はどの家も除雪で混雑し、軒下はどんどん雪が溜まり、戸外に出るのも難しくて困っております。今日もまた大へんな吹雪で、家の中は暗くロウソクの灯火でこの手紙を書いております。どれだけ降るものやら推測できず、一同心痛しております」下略
これが今年天保十亥年(1839 年) 11 月29 日に塩沢発の書簡で、この文を見ても越後の雪がわかるというものである。
私は越後には夏に伺ったので、穀物も野菜も生育の様子には雪の影響は気付かなかった。山野の景色も雪があったとはみえず、雪の少ない土地と同じだった。五雑組の天の部に、一体草は雪を畏れないが霜を畏れる。雪は雲から生じるから陽で、霜は露から生じるから陰の故と述べている。越後の夏を見て、五雑組の編者の謝肇制のこの説に納得した。

山東京山は、1837 年に息子の山東京水をつれて越後を訪れて著者の鈴木牧之と何日か過ごしている。その際に、北越雪譜の試し刷りを持参したという。それが1 編で、山東京山が帰京して翌1838 年秋に第1 編が出版されたらしい。したがって、鈴木牧之は第1編の出版を見届けたのはたしかである。ここの手紙の話は出版から2 年後で、第2 編の試し刷りのことだろう。牧之は第2 編の出版は見届けずに亡くなったらしい。
●浦佐の堂押:毘沙門堂の押しくらまんじゅう
図 浦佐の毘沙門堂の堂押の絵である。
私が住んでいる塩沢から北北東へ六日町、五日町と宿場を二つ越えると浦佐という宿場がある。ここに普光寺という真言宗の寺があり、寺中に七間四方の毘沙門堂がある。伝説では、この堂は大同二年(807 年)の造営というから古い。修復の度毎に棟札が残り、現在も歴然としている。毘沙門像の身長は三尺五六寸(1 メートル強)、むかし椿沢という村に椿の大木があったのを伐採してこの像を作ったというが、作者名は伝わっていない。像の材木が椿だから、この土地では椿を薪とすると崇りがあり、椿を植えないことになっている。また霊魂が鳥を捕えるのを嫌っている。したがって、寺内には鳥類が群をなして人を怖れず、土地の人が鳥を捕獲し食すると神罰があたる。たとえ遠地へ聟入嫁入して何年も経過しても、鳥を食べると必ず悪い反応があり、霊験あらたかなことが、この一つでもわかるだろう。したがって、信心している人が遠くからも近くからも数多くやってくる。
昔からこの毘沙門堂では毎年正月三日の夜に限って堂押しという礼があり、敢祭式の礼格ではないが、長い歴史のある神事である。正月三日はもちろん雪道だが、十里二十里(40〜80 キロ)という遠方から来て浦佐に一宿し、堂押を見物し参加する人もいる。近くの村の人たちが参加するのはもちろんである。
堂押に来た男女は、まず普光寺に入って衣服を脱ぐ。身に持った物も平気でその辺に置き去りにする。婦人は浴衣に細帯だが、まれには裸もあり、男はみな裸である。燈火を点ずるころ、例の七間四面の堂にゆかた裸の男女が押し込んで、立錐の余地もない。私も若かったころ一度この堂押に参加したが、手を上にあげただけで下げることもできないほどの混雑であった。「押」というのは、誰ともなく皆でサンヨウサンヨウと大音に叫ぶ声を合図に、堂内に溢れている老若男女を、サイコウサイと大声で北から南へどろどろと押し、また似たような声で西から東へ押しもどす。この一押しで男女ともに元結が自然にきれてざんばら髪に乱れるから、ひどく変わっている。七間四方のお堂の中に裸の人が大勢入って手もおろせない混雑だから、人の多さも想像できよう。大勢の人数の激しい呼吸が、正月三日の寒気で煙か霧のようになって照らしている神燈もこの霧で暗いくらいで、人の呼気が屋根うらに昇ったのが凝縮して水滴になって雨のように降り、この蒸気が破風部分からもれて雲が立ちのぼるようだ。婦人で稀には子供を背中にむすびつけて押しに参加する人もおり、子供が泣くのも当たり前に扱っているのも不思議である。
不思議なことに、この堂押で怪我したという者は昔からいない。婦人の中には浴衣だけつけている人もいるが、闇に乗じてみだりがましいこともしない、参加者各自が毘沙門天の神罰を怖れる故だろう。裸になるのは、熱で堂内の温度が上がって燃えるように熱いからである。
参加者はこれを願い、遠く一里二里の所から正月三日の雪中で肌をさすほどの寒気もいとわず、なかには氷柱を裸身で脊負ってくるものさえある。押しを繰り返して、二押し三押しとなるとだれも熱くなって真夏の気分になり、堂の脇にある大きな石の盥盤に入って水を浴びてまた押に戻る人もいる。一度押しては息をやすめ、七押し七踊りで止めるのが規定である。踊といっても桶の中で芋を洗うようなものだ。だから、参加者全員が全身に汗をながしている。
第七おどりになると、普光寺の山長(農夫の長をいう)が手に簓(ささら)を持ち、人の手車に乗って人のなかへおし込んで大声で叫ぶ。「毘沙門さまの御前に黒雲が降った。 モゥ」。これに対して参加者全員が声を合わせて「なんだとて さがったモゥ」 また山長が「米がふるとてさがった モゥ」と叫んでささらをゆすって鳴らす。このささらは内へゆすると凶作だといって、外へ外へとゆすって鳴らす。また志願する者があらかじめ普光寺へ申し出て、小桶にお神酒を入れ、盃を添えて献上する。山長は先頭者に提灯をもたせ、人をおしわける者二十人ぱかりが先にすすんで堂に入る。この盃を手に入れると幸運があるといって、参加者が波のようになって押し寄せて取りあう。お神酒は神様に供える形だが、実際は人に散いてしまい、盃も人の中へなげる。これを手に入れた人は自宅にお宮を造って祭ると、その家には予想外の幸福がある。提灯も争ってとりあうので、奪う前にかならず破れてしまう。
その提灯の骨一本だけでも手に入れて田の水口へさしておくと、この水のかかる田は収穫時に虫がつかない。こんな風に霊験あらたかなことを、全員が知っている。神事がおわると人々は離散して別々に普光寺に入り、初め置いた衣類や懐中物を身につけるが、鼻紙一枚でも無くなるようなことはない。掠めとれば即座に神罰があると承知しているからである。
○さて堂内から人がいなくなって後、かの山長が堂内に苧幹(おがら)を散らしておく習慣である。翌朝山長が神酒と供物を備え、後向きに歩いて捧げる。前向きに歩くのは神様が嫌う故という。昨夜散らしておいた苧幹は朝には寸断されているのは、参加者がいなくなってから今度は神様が大勢ここに集って踊って、苧幹(おがら)を踏み潰したのだと言い伝えている。神事はいずれも子供の戯びに似たものが多い。だからといって、常識で軽んじてはいけない。こんな堂押に似たことは他の土地にもあるだろうが、ここにとりあえず記述して例として示した。

塩沢と浦佐の位置関係:上越線も上越新幹線も道路も北北東に向かっている。
大同:806-810 年
棟札:古い建造物を改修した際に、棟梁などが行った事項を記録して残す札。
七間四面:七間四方つまり12.5メートル四方あるいは160平方メートルということになる。
簓(ささら):竹の先を割って束ねて、振るとサラサラ音をたてる楽器。
苧幹(おがら):麻の繊維を剥いた茎の部分をいう。繊維を剥いでおり、脆くこわれやすい。
コメント:最後の「こんなのは他の土地にもあるだろうが・・・」の書き方は本書の特徴で、著者が健全な常識人であることを示す一方で、照れているのかもしれない。  

 

二編巻二
○雪頽(なだれ、雪崩)で熊を手に入れた話
○雪崩の難:雪崩とホウラ(新雪なだれ)
○雪中の葬式:雪国の苦労の例
○竜燈:不知火との関係は?
○芭蕉翁の遺墨:芭蕉の偉さと風貌
○化石渓:何でも鍾乳石にする川
○亀の化石
○夜光玉
○餅花:小正月の行事と蚕玉(まゆだま)
○斎の神の勧進
○斎の神の祭
○「てんぶら」の語の起源:山東京伝の命名の自慢
○煉羊羹の起原
○雪中の狼:空腹オオカミの狼藉
●雪頽(なだれ、雪崩)で熊を手に入れた話
酉陽雑俎によると、熊胆(くまのい)は春には首に、夏には腹に、秋には左の足、冬には右の足に移動すると書いてある。この点を猟師に確認してみると、そんなのはウソで熊の胆は常に腹部にあって四季のいつでも同じということである。それとも、中国の熊は酉陽雑俎の書いてある通りなのだあろうか。
そもそも、熊は猟師が山に入って捕まえたがる最高の獲物である。熊一頭で、大きさで差はあるが、皮と胆で大体五両以上になるから、猟師の欲しがるのも当然である。そうはいうけれど、熊は獰猛でしかも賢く捕まえるのは容易ではない。雪中の熊は、普段よりも皮が厚く胆も大きい。したがって雪の穴に入っている熊を探し出して、猟師たちが力を合わせて捕えるためにいろいろ工夫することも初編に記述した。うまく一頭掴まえても、大勢で分けると個人の取り分は少ない。といって、雪中の熊は一人の力で到底捕まえられるものでもない。
ところで私の済む塩沢の近在の后谷村というところで、弥左ヱ門という農夫が、高齢の両親の長年のねがいを聞いて、秋のはじめに信州の善光寺に参詣した。ある日所用で二里ばかりの所へ行って留守の間に、隣家からの失火が自分の家に燃え移った。弥左ヱ門の妻は子供二人をつれて何とか逃げて、命は助かったが、家財はのこらず燃えてしまった。弥左ヱ門は村で火災ときいて急いで戻ったが、今朝出発したわが家はもう灰になって妻子の無事を喜ぶだけであった。この夫婦は正直者で親にも孝行なので、周囲の人は同情してとりあえず自分のところにと言ってくれる富農もいたが、自分は他家の下僕となって恩に報いるべきとしても、両親まで他人の家にお世話になるのでは気分も休まらないと、申し出を断った。
ひそかに田地を分けて一部を質に入れ、その金で仮に家を作り、親も戻って住んでいた。草を刈る鎌まで購入する必要があるなど火事で貧しくなったが、火元の隣家に対して恨みもいわず、以前通り交際していた。年が明けて翌年の二月のはじめ、この弥左ヱ門が山に入って薪を取ろうとすると、谷に落ちた雪崩の雪の中に目立つ黒い物が有り、遠くからこれを見て、もしや人がなだれにうたれて死んでいるのではと、苦労して谷まで下りたところ途方もない大きな熊が雪崩に打たれて死んでいた。雪崩のことは、初編にも詳しく記述したが、山に積った雪で二丈(12 メートル)にもあるのが、春の陽気で温かくなって自然に砕け落ちるので、大きな岩を転がし落とすようなものである。これに遭遇すると、人馬はもちろん大木や大石でも打ち落とされてしまう。この熊も、雪崩にやられたのである。弥左ヱ門は良いものをみつけたと大悦びで、皮も胆もとりたいと思ったが、その日は太陽が西に傾いていたので明日来ようとして人に見つからないように山刀で熊を雪に埋めて隠し、目じるしをして家にかえり親にも話してよろこばせ、次の朝に皮を剥ぐ用意をしてこの場所に戻った。
胆が普通の倍も大きく、弁当の桶に入れて持ちかえり、購入者がいて皮は一両、胆が九両で買ってくれた。弥左ヱ門は偶然にも十両の金を手に入れて、質入れしてあった田地も受け戻し、その後さらに幸運も続いて間もなく家も作り直し、それまで以上に家は栄えた。弥左ヱ門が雪崩で熊を見つけたのは、金の釜を掘り出した孝子の話にも似て、年来の孝行を神様が褒めたのだろうと人々も賞賛したと、友人谷鶯翁が話したことである。

酉陽雑俎:上巻中に既出。中国唐時代の怪奇書。
コメント:熊の胆の位置を猟師に訊いて確認しているのは、本書と著者の科学性を示しており、私はこの態度に大いに共感を覚える。
●雪崩の難:雪崩とホウラ(新雪なだれ)
私の住む塩沢郷は下組六十八ケ村の郷元だから、郷元担当の家には古来の記録も残っている。その古い記録の中に、元文五年庚申(元文は1736−1741、5 年は1740 年で、記述時の約100 年前) の正月二十三日暁に、湯沢宿の枝村掘切村の後の山から雪崩が急に起こってその音響は雷が百も鳴るようで、百姓彦右ヱ門浅右ヱ門の二つの家が雪崩にうたれて家がつぶれ、彦右ヱ門と馬が一頭即死、妻と息子は半死半生。浅右ヱ門父子は即死、妻は梁の下に圧されたが何とか死はまぬがれた。この時は、御領主から彦右ヱ門の息子と浅右ヱ門の妻とに各々米五俵が下賜されたと記している。
魚沼郡は大郡で、元来は会津侯御預りの土地である。元文の昔も今も、御領内の人民を大切にしてくださるのはありがたい事である。ありがたさの点を後にも伝えようと、筆のついでに記しておく。
近年は山に近い家の人も、家を作る際にこの雪崩を避けて土地を選ぶのでその種の難はまれだが、山道を往来する時になだれにうたれ死ぬことは時にある。初編にも述べたとおり、ホウラ(新雪なだれ)は冬に発生し、通常の雪崩は春に発生する。他の国から越後に来て山下を往来する際は、ホウラとなだれには用心が必要で、他国の人がこれで死んだという慰霊の石塔が今も所々にあり、本当におそるべきことである。
●雪中の葬式:雪国の苦労の例
この越後で雪吹(ふぶき、吹雪)というのは、猛風が不意に起って高山や平原の雪を吹き散らし、その風が四方に吹いて寒雪が百万の弓矢を飛ばすようで、寸隙の間をなく吹きまわる。往来を通行する人は全身雪にやられ、短時間で半身が雪に埋れて凍死する点、前にも述べたとおりである。
吹雪は晴天でも急に発生して、二日も三日も荒れ狂うこともあり、毎年これで交通が途絶する。こんな時にたまたま死者がでると、雪の止むのを待つのがふつうだが、都合で仕方なく暴風雪を犯して棺を出すこともある。施主側は何とか頑張るにしても、関係者の苦労は見るも気の毒で、雪国の生活の苦難の一ツである。私が江戸に滞在していたころ、宿の近くで亡くなった人がいて葬式の日に大嵐になった。宿の主人も、この葬儀に行くので雨具を厳重に身につけながら、今日の仏様は何とまあ因果で、こんな嵐で他人に難義をかけるようではとても極楽へは行けない、などとつぶやきながら出かけるのを見て、でも故郷の吹雪に比較すれば楽だと思ったことであった。
●竜燈:不知火との関係は?
筑紫(今の福岡県)のしらぬ火(不知火)というのは、古歌にも数多く詠まれ、昔から有名でよく知られている。その様子は、春暉が西遊記にしらぬ火を見たとして、詳しく記録している。このしらぬ火は、世にいう竜燈の類ではなかろうか。この土地、蒲原郡に鎧潟(よろいがた)といって(この土地の言い方で、湖を潟と云う) 東西一里半、南北へ一里の湖水があり、毎年二月の中の午の日の夜、酉の下刻より丑の刻頃まで水上に火が見えるのを、鎧潟の万燈といって里人が大勢集まって見物する。私の友人が見たというのを聞いてみると、あの西遊記に書いてある筑紫のしらぬ火と同じようである。近年、湖水を北の海へおとし新田となったので、以前は湖中にあった万燈も、今では人家の億燈となってしまった。またこの土地の八海山は山頂に池が八ツあり、それでこの名がついている。頂上に八海大明神の社があり、8 月1 日の縁日にこの山にのぼる人が多い。この夜にかぎって竜燈が見えるのに、その出現状況を見た人はいないと言う。およそ竜燈は、大抵は春夏秋に発生する。諸国のいろいろな記録を見ると、いずれも同じ様子で海からも出るし、山から下がっても来る。しかし、毎年日にちと時間が決まっている点が怪奇奇異である。竜神より神仏への供だというと云うのが普通の説だが、ここに珍しい竜燈の話があり、竜燈の由来を解釈できる説なので、とりあえず記述して好事家に話題を提供しよう。
この土地、頸城郡米山の麓にある医王山米山寺は、和同年間(708-715 年)の創立である。山のいただきに薬師堂があり、山中は女性の侵入を禁止している。この米山の腰(麓近く)を米山嶺といって越後北海の街道で、この辺には古跡が多い。私が先年その古跡を尋ねようと下越後に旅をした時、新道村の長である飯塚知義氏からこんな話を聞いた。
ある年の夏に雨乞いの為に、村の者が集まって米山に登った。薬師に参詣する人が山ごもりするために御鉢という所に小屋が二ツあり、その小屋で一泊した。この日は6 月12日で、御鉢に竜燈のあがる夜であった。思いもよらず竜燈をみえそうだと人々がしずまった頃に、酉の刻(午後6 時前後)とおもう頃、どこからともなく光がきて、大きいのは手鞠くらい、小さいのは鷄卵くらいであった。大小ともにこの御鉢のあたりを離れずに、ゆっくり飛行したり、急速に動いたり、様子は心があって遊んでいるかのようだった。光り方は、螢の光の色に似ていた。強くなったり、弱くなったりする。いろいろ飛び回っていて、しばらくでも止まるということはなく、多数で数は数えきれない。はじめから小屋の入り口を閉めて、人々は黙って覗いて眺めているので、観察者がいるとは思わないようで、大小の竜燈二ツ三ツ小屋の前を七八間先に進んできたりした。光ですかしみると、形は鳥のやうに見えて光りは煙の下より出るようである。なお近くよって形もよく見とどけたいと思ったが、近くには来ないでゆっくりと飛び回っていた。
この夜は山中で一泊の予定だったが、何かに役にたつかと鉄砲をもっていた手練の若ものがいて光りを的に打とうとしたが、一人の老人がいやそれはヤメロとおしとどめ、何ともったいない、この竜燈は竜神より薬師如来へ捧げ下さるものであるぞ、罰あたりめと叱った声と共に、はるか遠く飛さったとは知義氏の話である。

頸城郡米山:著者の塩沢は魚沼だが、米山はずっと西で柏崎の南西である。標高は1000メートル未満で、上越国境の山々よりずっと低い。
女性の侵入を禁止:日本の山は、以前は女性の侵入を禁じていたものが少なくなかった。
2008 年夏に奈良県大峰山に登ったところ、ここは霊山扱いで女人禁制の掟を守っているのを知って驚いた。少なくとも、私が往復している数時間の間は女性を見なかった。
竜燈と不知火:不知火は漁船の漁火が蜃気楼として見えるものと結論が出ている。ここに登場する竜燈は、様子がずっと複雑で種類が多い。一部は蜃気楼だろうが、全部を同等には解釈できないかも知れない。
●芭蕉翁の遺墨:芭蕉の偉さと風貌
図 芭蕉が奥の細道で、細井昌庵(青庵、凍雲とも)を訪れた様子を描いたもの。
越後の雪を詠んだ歌は数多いが、実際に越の雪を目前して詠んだのはまれである。西行の山家集、頓阿の草菴集にも越後の雪の歌はない。歌詠みの僧たちでも、越地の雪は知らないのだろう。俊頼朝臣が「降雪に谷の俤うずもれて 梢ぞ冬の山路なりける」(降雪で谷の様子は埋まっており、梢の寂しさだけに冬がみえる山路だ)と歌っている。これはたしかに越後の雪の真景だが、この朝臣自身は実際に越後にきておらず、俗にいう歌人は名所を訪れずして名所を知る例である。
伊達政宗卿の御歌に「ささずとも誰かは越えん関の戸も 降り埋めたる雪の夕暮」(これほどの雪の夕暮れでは、越の国への関所の戸はわざわざ閉ざさなくても、越えていく人はいないだろう)や「なかなかにつづらおりなる道絶えて 雪に隣のちかき山里」(すぐ隣の山里といっても、その曲がりくねった道が雪に閉ざされて往来はままならないことよ)というのもある。
伊達政宗卿は令名高い歌よみだから、こんなめでたい歌もあって人の口から口へと伝わっている。雪の実境をお詠みになっているのは、ご自分の国も雪深いところだからこそである。芭蕉翁が奥の細道の行脚の復路で越後に入り、新潟で「海に降る雨や恋しきうき身宿」とよみ、寺泊では「荒海や 佐渡に横たう天の川」とよんでいるが、いずれも夏秋の旅路で、越後の雪は見ていない。近年も越地に来遊した文人墨客は数多いが、秋の末になると雪をおそれて故郷へ逃げ帰るから、雪の詩歌も紀行文もない。稀には他国の人が越後に雪の時期にくることもあるが、風雅の道をもたない人では詩歌や文章に残ることもない。
越後三条の人で崑崙山人が北越奇談を出版したが、これが六巻絵入の仮名本で文化八年(1811 年)刊行なのに、雪のことは一言も書いていない。現在は学問文物が盛んになって新しい本が湧き出るように出版されているのに、日本第一の大雪の越後の雪を記述した本がない。だからこそ、私が無学も省みずにこの土地の雪の奇状奇蹟を記して将来の方々に示し、同時に関係することは広く載せて面白い話題として提供するわけである。
さて元禄時代に、高田の城下に細井昌庵という医師がいた。青庵ともいい、俳諧好きで号を凍雲ともいった。ある年、芭蕉翁が奥の細道の復路にこの凍雲をたずねて「薬欄にいずれの花を草枕」と発句したので、凍雲はとりあえず「萩のすだれを巻きあぐる月」とつけた。
この時の芭蕉の肉筆が二枚あって一枚は書き損じで淡い墨でちょっと直した痕があり、二枚ともに昌庵主の家に伝わっていた。それを後に、正しいほうの書は崎屋吉兵衛の家につたえ、書き損じは同所の五智如来の寺に残した。ところが文政年間に、この土地の国主が風雅を好んで、例の二枚を持主から奉ったので、吉兵衛に狩野常信の屏風三幅対と白銀五枚、寺にもたくさんのものを下賜され、今では二枚とも君主の蔵に入ってしまったと友人葵亭翁が語っていた。葵亭翁は、蒲原郡加茂明神の修験宮本院で名は義方吐醋と号し、無方斎という号もあり、隠居して葵亭と呼んでいる。和漢の知識が広く、北越の知識人である。芭蕉の例の句の記録が、現在は見ることができないので著しておく。
以下は百樹の注釈である。
芭蕉居士は、寛永20 年(1643 年)に伊賀(今の三重県西部)の上野藤堂新七郎殿の藩に生まれた。次男である。寛文6 年(1666 年)に24 歳で宮仕えを辞して、京に出て北村季吟翁の門に入り、書を北向雲竹に学んだ。はじめ宗房と名乗り、季吟翁の句集のものにも宗房の名で載っている。延宝年間(1673-1681)の末にはじめて江戸に出て、小田原町鯉屋藤左ヱ門のところの杉山杉風の家に寄宿して、剃髪して素宣と名乗った。桃青は後の名である。芭蕉とは、草庵に芭蕉を植えたから人が呼ぶようになった名で、後には自分でも号として使うようになった。翁の作に、芭蕉を移辞(移植する言葉)という文があり、その終りの言葉にこういうのがある。
「たまたま花さくも花やかならず、茎太けれども斧にあたらず、かの山中不材の類木にたぐへてその性よし。僧懐素は是に筆を走らし、張横渠は新葉を見て修学の力とせし、とである。予その二ツをとらず、ただこの蔭に遊びて風雨に破れ易きを愛す」
はせを野分して 盥に雨をきく夜哉
この芭蕉庵の旧蹟は深川清澄町万年橋の南詰所在で、現在はしかるべき方のお庭の中にあり、古池の趾が今も残っているという。私が自分用の芭蕉年表、別名「はせを年代記」というものを作成したところ、出版社は本にしたいと言ってきたが、考証が不満足なので印刷は許していない。芭蕉翁は世俗を離れて全国をあちこち旅し、江戸には長く住んでいない。終には元禄七年(1694 年)甲戌十月十二日に「旅に病んで 夢は枯野をかけ廻る」の一句をのこして浪花の花屋という旅館で客死した。ここまでは世によく知られている。
芭蕉翁の臨終のことは、江州(近江の国、滋賀県)粟津の義仲寺に残っている榎本其角の芭蕉終焉記に詳しく、目前にみるように詳細な記述である。この記録によると翁は細菌の毒(きのこ毒)にあたって病気になり、九月末日より病床につき、僅が十二日で亡くなられた。この時病床にいた門人としては、木節が、芭蕉翁に薬をあたえた医師であった。他に、○去来○惟然○正秀○之道○支考○呑舟○丈草○乙州○伽香
以上十人が付き添っていた。其角はこの時和泉(大阪府南部)の淡の輪という所にいたが、芭蕉翁が大阪にいるときいて、病気と知らずに十日に到着して十二日の臨終に遭遇したので、運がよかったといえる。以上終焉記を簡単に要約した。其角の終焉記の文中に、 『遺体を義仲寺に移動して、葬礼を十分にとりおこない、京都・大阪・大津・膳所の俳諧仲間・家臣・従者まで、この芭蕉翁の心を慕って特に招待もなくかけつけた人がおよそ300 人ほどである。浄衣その外智月と百樹の話では、大津の米屋の母、翁の門人の乙州の妻が縫上げて着せた』という。
なお、其角の記録は義仲寺に版木として存在し、お願いすれば頂戴できる。俳人はかならずみるべき書である。
また『二千私が人の門葉辺遠ひとつに合信する因縁の不可思議はいかにとも理解がむずかしい』という。私(百樹)の意見では、孔子には門人が3 千人いて、そこに特に優れた弟子が10 人いて「十哲」と呼ばれた。芭蕉には同宗の人たちが2 千人いて、やはり十哲とよぶ優れた門人がいた。孔子の導く大道と芭蕉の俳諧という遊芸の小さい領域と重要度の差は大きいが、孔子は七十歳で魯国の城北泗上に葬られて心喪に服した弟子が三千人、芭蕉は五十二歳で粟津の義仲寺に葬られた時に特に招かれなかったのに集まった人が300 人余で、それだけで芭蕉に師としての徳があったと評価してよかろう。つまり芭蕉のつくりあげたものは、孔子のつくったものと共通している点を指摘したい。
芭蕉にはうつろな心の様子や軽薄な態度が少しもなかった点は、吟咏と文章から十分にわかる。この人は、其角のいう通り、人が慕いよることが多く現在からみても不思議な人である。だからこそ、一句一章などわずかでも、他の人がこれを句碑に作って不朽のものとして伝えていることが多く、芭蕉の句碑のない土地はなかろう。
俳句の世界で、この人の右に出る者はいない。だからこそ、本文にも述べたとおり、ちょっと書いただけの薬欄での一句の墨痕も百四十年後の文政の今になって、白銀の光りをはなつわけで、論外の不思議である。蜀山先生が前に述べたことだが、およそ文筆で世に立つ人は現在のことを問題にせず、死後になって一字一百銭に評価される身となるならその人の文筆は幸福の極みだという。芭蕉の場合、まさにこの幸福の状況にある。それにしても、一字一百銭と評価されるのはむずかしい。
さてまた芭蕉の行状や小伝は、いろいろな書物に散見されて広く人に知れわたっている。しかしながら、翁の容貌は、世間の方々はあまり知らないようだ。ここに私は知る機会があったので、この雪譜に記載して将来のために示そう。こんなちいさな事柄でも世間に埋もれてしまうのが惜しく、何とかしようと雪のついでに筆を進めた老婆心である。
二代目市川団十郎は、初代段十郎(のちに団十郎と改名) の俳号を嗣いで才牛といい、後に柏莚とあらためた。これが元文元年である。この柏莚は、○正徳○享保○元文○寛保を通じて世に名をはせた名人である。妻はおさいといい、俳名を翠仙という。夫婦ともに俳諧を好み、文筆を愛した。この柏莚が日記のように書き残した老の楽という随筆は、二百四五十枚の自筆書である。最近まで柏莚女史が自分のものとして外部にはみせなかったが、狂歌堂真顔翁が珍しい作品だからとお願いして当の柏莚のお宅の所蔵品を借りた時に私も真顔翁と一緒に拝読した。
その中に、芝居が土用休みのうち柏莚が英一蝶の引船の絵の小屏風を虫干しする際に、人参をきざみながらこの絵で昔を思い出して独言を言ったのを記した文に「私は幼年の頃にはじめて吉原を見た。その時、黒羽二重に三升の紋つけた振袖を着て、右手を一蝶にひかれ左手を其角にひかれて日本堤を歩いたのを今も忘れられない。この二人は世に名をひびかせたけれど、今は亡くなってしまった。私は幸にまだ現世にあって名もかなり知れ渡っている。(中略) 今日小川破笠老がいらっしゃった。昔話の中に、芭蕉翁は細面で、少しあばたがあり色白で小柄である。常に茶のつむぎの羽織をきて、嵐雪よ、其角の所へいってくるぞ、とものしずかにいったと話した」
この文を読むと芭蕉を眼前に見るようだ。芭蕉翁の門人の惟然の作という翁の肖像あるいは画幅の肖像、世に流伝するものとこの説とを付き合わせて視るべきだろう。 小川破笠は俗称を平助といい、壮年の頃放蕩で嵐雪と共に(俗称服部彦兵ヱ) 其角の堀江町のところに食客をしていたと、件の老の楽にも、また破笠の自記にも載っている。
破笠は、笠翁とか卯観子、夢中庵等の号がある。絵を英一蝶に学ぴ、俳諧は宝井其角を師とした。私が蔵する画幅に、延享三年丙寅仲春夢中庵笠翁八十有四筆とある。描金(蒔絵)が見事で人の真似を嫌い、独立で一風変わった仕事をした。破笠細工として現代も賞賛されている。吉原の七月にはじめて機(からくり)燈を作って今もその余波が残り、伝記は明確ではないので、それ以上は述べず、ここで打ち切ろう。

薬欄:薬草の囲い、薬園。
芭蕉居士は寛永20 年(1643 年)生まれ:別の記録では1644 年生まれとなっている。
「翁は細菌の毒(きのこ毒)にあたって病気になり」:ここの原文は、「翁いさゝか菌毒にあたりて痢となり」となっている。元禄当時、現代でいう「細菌」の概念はないが、きのこ中毒は知られていた。
蜀山先生:大田南畝(おおた なんぽ)。江戸後期の狂歌師・戯作者。(1749〜1823)
狂歌堂真顔翁:鹿都部真顔(しかつべの まがお)の別名。江戸後期の狂歌師・黄表紙作者。(1753〜1829)
一蝶:英一蝶(はなぶさ いっちょう)。画家。独自の軽妙洒脱な画風を創始。俳諧も達人。(1652〜1724)
小川破笠:(おがわ はりつ)。画家・工芸家。俳諧を芭蕉に、画を英一蝶に学ぶ。破笠細工という蒔絵の特殊技法を開発。(1663〜1747)
惟然:広瀬惟然(ひろせ いぜん)。芭蕉の門人。(?〜1711)
コメント:この項目は芭蕉の話だが、「百樹曰」という山東京山の薀蓄が長い。北越雪譜の本筋とは無関係で、百樹山東京山が知識をひけらかしてうっとうしい印象だが、テーマが芭蕉だから当然で、百樹自身もそういう意識だろう。
●化石渓:何でも鍾乳石にする川
東游記をみると、越前国大野領の山中に化石渓という場所があり。この流れに浸しておくと、どんな物でも半月か一ケ月ほどでかならず石になってしまう。器物はもちろん、紙一束でも藁で縛ったものでも、石に化けたのを見たと述べている。実は、この越後にも化石渓があり、魚沼郡小出のはずれにある羽川という渓流に蚕の腐ったのを流したら一夜で石に変化したと友人葵亭翁が話していた。
越前の大野領の化石渓は東游記に載っていて有名だが、越後の化石渓は世に知られていない。また近江の石亭執筆の雲根志の変化の部(前編)に、「人あり語りて云う、越後国大飯郡に寒水滝というあり、この場所は深山幽谷で凍寒の土地である。この滝壺へどんな物でも投げこんでおくと百日以内に石になってしまうとの話である。滝壺の近所では、木の枝葉や木の実その他や生物類も石になってしまうという。少し前にこの滝の石を取よせた人から見せて貰ったが、これは普通の石ではなくて全部鍾乳石で、木の葉などを石の中に含んでいる。雲林石譜にいう鐘乳が転化して石になるかならないか云云」 とある。
雲根志はそうなっているが、私(牧之)の考えでは、越後に大飯郡という場所はないし、また寒水滝の名もきいたことはない。人がそう話したというのは、伝聞の誤りだろう。また北越奇談にも、会津に隣接する駒が岳の深い谷に三里ほど入ると化石渓と名づける場所があり、虫も羽も草木なども流れに入って一年経つとみな石に変化してしまう。この川はとても冷たくて夏でも渡るのがむずかしいようだ。蘇門岳の北下田郷の深谷にも化石渓があるとかないとか。雲根志の記録はこんな話を聞き違ったものだろう。

東游記:橘 南谿(たちばな なんけい:1753-1805 年)、江戸後期の医者。紀行『東遊記』、『西遊記』.
木内石亭(きのうち せきてい):博物学者、石の蒐集家。考古学の先駆者という。近江生まれ。(1724〜1808)
雲根志(うんこんし):木内石亭著の博物学書。1773 年〜1801 年に刊行。雲根は石の意。
北越奇談:1812 年刊行の橘崑崙による随筆集。柳亭種彦が監修、崑崙の絵から葛飾北斎が絵を担当。本書『北越雪譜』の「北越」は、このタイトルを意識したと書いてある。
コメント:この化石渓の話は、石灰分が強くて鍾乳石にすると解釈したが、それでいいのだろうか。厳密には自信が持てない。
●亀の化石
図 右は亀の甲羅の化石。左はそれを見せている絵か。
私の住む塩沢は魚沼郡で、その郡の岡の町の旧家で村山藤左ヱ門というのは私の婿の兄である。この家に先代より秘蔵する亀の化石があり、伝承では近い山間の土中より掘り出したという化石の珍品で、ここに図を挙げて石の鑑定家に提供して鑑定をお願いしよう。
以下も百樹の注釈である。
問題の図をみるとふつうの亀とは形が少し違う。そこで考えると、図鑑類に「秦亀」とか「筮亀」とか「山亀」といって、俗には石亀と呼ぶものだろう。秦亀は山中に居り、だから山亀と呼ぶ。春夏は渓流の水で遊び秋冬は山にこもるので、極端に長寿な亀だという。一方、筮亀と呼ぶのは周易によると亀を焼いて占ったのがこの亀だという。問題の亀の化石は、本草家の鑑定で秦亀ならば本当の珍物ということになる。山で掘り出したというので、秦亀に近いようである。化石は多数見たが、小さものが多く、このように身体全体のものは稀である。図の化石は身体全体でしかも大きい点から見て、まさしく珍品である。先年俗にいう大和めぐりをした際に、半月あまり京都に滞在し、旧友の画家春琴子にしたがって諸名家をたずねて、学者として名高い頼山陽氏(通称頼徳太郎)を訪問し、話が化石のことになると、頼先生が私に蟹の化石一片を下さった。その色は褪めることなく、生きているようで、しかも堅さはまさに石である。潜確類書又本草三才図会等にいう石蟹とは泥沙とともに変化して石になったものだからだろう。盆においた石の菖蒲の下におくと、まるで水中で動いているようだ。亀の徒者として、その図も示す。これも今は名家の形見となっている。(ここまで百樹の注釈)

筮:めどき。占いで使う筮竹のこと。
周易:周の古書。「易経」のこと。
本草家:博物の専門家。
鴻儒(こうじゅ):偉い儒学者。単なる大学者にも使う。
●夜光玉
図 兄弟が夜光玉を獲る状況を描いたもの。
雲根志の異の部に以下の話が載っている。
わが家の隣家に若い元気な人がおり、儀兵衛と言う名である。ある時、田上谷という山中に行って夜遅く帰ろうとすると、向うの山の谷底で青い光が虹のように昇って先は天に届いていた。この男は勇敢なので、強引に草木を分けて山を越え、谷をわたって光の根元をさぐってみると、何の変わったこともない只の石であった。拾い取って背負って帰る途中でやはり前と同じように光っている。お蔭で夜道を歩くのにたすかり、明け方に家に着いた。そこで問題の石を軒の外に直し置き、朝飯など摂ってからその石を見ようとすると石がなくなっており、何が起こったのかいろいろ訊き詮索もしたが、結局行方不明だった。本国(近江の国)甲賀郡石原潮音寺の和尚の話だが、近くの農民が畑を掘って居たところ拳ほどの大きさの石をほりだした。この石はふつうよりとても美しいので持ち帰った。夜になると、この石が光って流星のようだ。友人から、これは霊石で、人が持っていてはいけない、家においておくときっと災いが起こる、はやく壊してすてるのがよいと言われた。これをきいて、斧で打ち砕いて竹やぶに捨てた。ところが、その夜竹林一面に光り輝き螢が数万匹もいるようだった。この話を、近くの人がきいて集り、翌朝竹林をたずねみたが石は消滅して、カケラさえ残っていなかった。
筑后国(福岡県南部)上妻郡の人が所用で夜中に近村へ行ったところ小川を渡ろうとして、光る物があるので拾ったところ小石で、翌日ある方に献上したが、しばらくして消滅したという。
以上一条全文(ここまでは雲根志の記述だが、以下は著者自身の見聞の意味)
ここまでは他国のことだが、越後にも夜光の玉があった話がある。新発田から蒲原郡東北の加治という所と中条という所の間路の傍田の中に庚申塚があり、この塚の上に大きさ一尺五寸(45 センチ)ほどの丸い石をおいて拝礼する。石のいわれは、以前にある農夫が自宅の後ろの竹林を掃除して竹の根を掘ってこの石を掘り出した。色は青味を帯びて黒くなめらかで、農夫はこれを藁をうつ板として自宅に持ち込んだ。その夜、妻が庭に出てみると燦然と光り輝く物があり、妻は妖怪だとして驚いて叫んだ。家主が元気な若者など数人を連れてやってきて、この光る物を打ってみるとただの石で、皆が妖怪だとして石を竹林に捨てた。この石は、毎夜光り続け、村人はおそれて夜は外出を避けた。それで、この石を庚申塚に祭って上に泥を塗って光を遮断し、今では苔むしている。好事家がこの石を欲しがったが、村人は崇りがあるかも知れないとおそれて許さなかったという。
これと別に、駒が岳の麓の大湯村と橡尾村の間を流れる渓流に佐奈志川があり、ある年渇水になったところ水中に一点の光があり、螢が水中にあるようにみえた。数日間そのままにしておいたら、ある日豪雨になって増水してこの光は消失し、その後四五町(4,5 百メートル)川下に光る物があってやはり螢火のようだった。この土地は山中なので村の住民は物知らずで、夜光の玉という存在を知らず、特に尋ねたり欲しがる人もいなかったところ、その秋の洪水で夜光の玉はさらに流れて所在が分からなくなった。これは、北越奇談に載っている。
一方、夜光珠(夜光る玉)の少し本当らしい話がある。私が文政二年卯の春に下越後を歴訪した際、三嶋郡に入って伊弥彦明神を拝み、以前からの知り合いの高橋光則翁を訪問したところ、翁は大変によろこんで一泊させて頂いた。翁は和歌の名人で同時に昔話を好んで、話が湧き出るように卓越して興味深いので、予定外に四五日滞在した。
高橋光則翁の話で、今から四五十年前三島郡の中の吉田で大鳥川という渓川に夜になると光るものがあるという評判で、人が怖れて近づかないようにしていた。この川の近くの富長村に鍛冶屋の兄弟がいて、母を養っていた。家はごく貧しかったが、この兄弟は剛気で例の光る物を見きわめて、もし妖怪なら退治して村の人たちを感心させてやろうと、ある夜兄弟で例の場所にでかけた。ちょうど秋で増水した川面は、暗くてただ水の音が聞こえるだけだ。二人は松明をふって照らしながらあちこち探したが、光るものは一向にみえず、他にも特に怪しい様子もなかった。まあデタラメだろうからと帰ろうとすると、水上でにわかに光がみえた。あったぞと言って、二人は衣服を脱ぎすて水に飛び込んで泳ぎついて例の光る物を探ってみると、枕ほどの石であった。手に入れて家に帰り、最初かまどの下に置くとよく光って部屋の明かりになった。事情を母に話すと、不思議な宝を得たといって親子でよろこんで近隣からも来て見物するものもいたが、特に物知りでもない人達で、特別貴重な璧とか珠とは思わずそのままにしておいた。
少し後に、弟が別家する時に家の物は二ツに分けて弟に与えようと母がいうと、弟が家財は要らないから光る石が欲しいと言う。これに対して兄の言い分は、光る石を拾ったのは自分の計画で、弟は自分に協力しただけである。だから、光る石は親の資産を譲る問題ではなく自分の物だ。親からの財産は分けるが、この石に関しては分けるわけにはいかない、という。これに対して、弟が石は自分のだ、兄貴は光る石を拾おうと考えたのではなく、妖怪を退治しようと川に行き、実際には兄貴より先に自分が川に飛び込んで光る石を探りあて、かつぎあげたのも自分だ、だから自分が拾ったものを自分が持って出るのは当然、と主張した。二人は、兄のだ、弟のだと口論がやまない。終にはつかみあい殴りあいになったので、母がそれを何とか押し鎮めて、それなら光る石を二ツに割って分けようと言う。弟はそれならと明玉をとりいだし鍛冶で使うかなとこ(台座)の上にのせ金槌で力にまかせに打つと、惜しいことに光る玉は砕け、その石の中に白玉が入っていたがそれも砕け、水が四方へ飛散ってしまった。その夜、水のかかった場所は光り暉いて螢の群のようだったが、二三夜にしてその光も消えたという。愚か者の行動とはいいながら、稀世の宝玉が一槌で亡びたのは、玉も人も共に不幸だったとして、話に残ったことである。
牧之が考えるに、橘春暉が書いた北窓瑣談(後編の二)の蔵石家(石の蒐集家)の項目にこんな話がある。江州(滋賀県)山田の浦の木之内古繁、伊勢の山中甚作、大阪の加嶋屋源太兵ヱ、その他にも三都の中の好事家侯国の逸人などなど、石の専門家として有名な人が近年数多い。私も諸家の奇石を見たが、所蔵する石は三千種か五千種に達し、五日十日の日数を尽してやっと一覧できた。まあ、それだけ多くても格別におどろくような珍しい物はなかった。加嶋屋源太兵ヱの話で、何年か前に北国から人がきて拳大の夜光の玉があり、よく一室を照すので、価格が適当なら売ろうといわれた。即座にその人に頼んで、その玉が欲しい、暗いところで玉を入れた箱の内が白く見えるなら五十両、その玉で大きな文字が一字でも読めるなら百両、手紙が読めるなら三百両、部屋全体を照らすなら身代全部を力の限りを尽して差し出すから仲介して欲しいと伝えたが、その後は何の音沙汰もなくそのままになった。まあ、嘘だったと思う云々。
この部分は、天明年間に蔵石が世に流行した頃に加嶋屋の話をそのまま春暉が後に記録したのだろう。さてまた、私が上の鍛冶屋の玉の話しをきいたのは文政二年の春で、今から四五十年前で、鍛冶屋が玉を砕いたのは安永の末か天明のはじめだ。それなら蔵石の流行した頃で、例の加嶋屋の話に北国の人一室をてらす玉の売り物と言ったのは、越後の縮商人が鍛冶屋の玉の話を聞いて儲け口として話したのかも知れない。しかし、玉はくだいてしまい加嶋屋への話を進めようがなかったろう。歴史に残る「卞和が玉」(へんくわがため)も楚王が入手したからこそ世に出た。上に書いた夜光の話は五ツあり、その中の三ツは越後だった。いずれも世に出ることがなく、残念である。
以下は百樹の注釈である。
五雑組の物の部に、鍛冶屋の話に似たのが載っている。明の万暦の初めに、閩中連江という所の人が蛤を割いていて玉を手に入れたが知らずに煮てしまった。この珠は釜の中で踊りまわり、火の光は天に燃えるようで、近隣の人たちは火事ではないかと驚いて集まって救った。玉を煮たものは、話しを聞いて釜の蓋をあけてみると玉は半分しぼんでいた。この珠は直径が一寸(3 センチ)ほどで、本物の夜光明月の珠である。凡人がムダにしてしまって残念と記録している。
ついでに、これも百樹の注釈だが、五雑組の続きである。魏の恵王が直径1 寸の珠で前後車を照らしたという十二乗とは昔のことで、今は宮中でも夜光珠は所有していないと明人謝肇せつが五雑組に書いている。
○神異記○洞冥記にも夜光珠の話があるけれども、いい加減な話である。
古今注には、特に大きな鯨の眼は夜には光かって珠のようだと述べている。卞和が玉も剖之中果有玉というから、石の中に玉を内蔵していた点は、鍛冶屋の砕いた玉は卞和の玉に類似している。
趙の恵王が夜光の玉を、秦の照王が城十五に替えてやろうといったと言うが、北国の明玉を加嶋屋が身代を傾けてまで買おうと約束したのに似ている。さてまた癸辛雑識続集(巻下)に、機織りの女性が糸を水にひたしておいたところ、夜中に白い大きな蜘蛛がきてその水をのむと身が光りを発するようになり、当の婦人はこれを見て大変に驚いて、鷄の籠を伏せてその蜘蛛を捕まえた。腹に夜は光る珠があり、大きさは弾丸くらいだったと記述している。
このことが、上に牧之老人が引用した北越奇談玉の部に越後にあったと書いた事柄に対応している。内容は癸辛雑識と同一で、推測だが癸辛雑識は中国の書物でなかなか簡単には入手できない本だから、北越奇談の作者は一般読者に面白い話を提供しようと越後の話として書き替えたのかも知れない。しかし、癸辛雑識続集は江戸でも入手困難で本自体を見たのではなくて、どこかからの伝聞で知識を手に入れたのだろう。
また増一阿含経(第卅三。等法品第卅九)に転輪聖王の徳にそなはった一尺六寸の夜光摩尼宝は、彼国十二由旬を照すと書いてあり、これは紹介してある本が多いからこれ以上は説明しない。しかし、一由旬は異国の四十里で、十二由旬は日本の距離で六十六里である。一尺六寸の玉が六十六里四方を照すとはすごい。転輪王がこの玉を入手して、試しに高い幟りの頭に着けたところ、人民等は玉の光りともしらず夜が明けたと思い、各自仕事をはじめたと書いている。このことは大学者として名高い了阿上人の話をきいて、お経を借りて読んだものだが、これこそ夜光の玉の親玉とも言える凄い話だ。

庚申塚(こうしんづか):道端に青面金剛(庚申)を祭ってある塚。普通名詞だが、一部では固有名詞である。東京にも巣鴨の近くに、この地名がある。
古今注:ここはおそらく中国の百科全書を指しているだろう。同名で、「古今集の解説書」というのもあるけれど。
コメント:ところで、この項目の記述は全体として科学的には解釈困難である。かすかに光るなら、燐光というのもあり、また蛍光も否定できないけれど。著者にならって、「自然界には理解できないことも多い」としておこうか。
●餅花:小正月の行事と蚕玉(まゆたま)
餅花や夜は鼠が吉野山
一にねずみが目にはとあり、要するに其角の例のいたずらである。
江戸などの餅花は、十二月餅搗の時に餅花を作り歳徳の神棚に捧げるという。年末だから、俳諧の季は冬である。
一方、越後の餅花は新年の春である。正月十四日までを大正月といい、十五日より二十日までを小正月といい、これが当地の里での習慣である。正月十三日か十四日に門松やしめかざりを取り除くが、同じ越後でも長岡あたりでは正月七日にかざりをはずし、けずりかけ(木片製の御幣)は十四日までかけておく。餅花を作り、大神宮と歳徳の神である恵比須とのおのおのに餅花を一枝ずつ神棚に捧げる。その作り方は、みず木という木か川楊の枝に、餅を三角か梅か桜の花形に切って枝にさし、時には団子をまぜる。これを蚕玉(まゆたま)と言う。稲穂かあるいは紙で作った金銭、縮商人なら縮のひな形を紙で作り、農家では木をけずって鍬鋤の類の農具を小さく作ってもちばなの枝にかける。それぞれ自分の家業に関係したものの雛形をかけて、仕事の順調なことをいのる祝いである。
餅花を作るのは、大抵は若者たちの手作業である。祝いだから男女がまじって声よく田植歌をうたうが、この声をきくと夏が恋しく、家の軒先を超えるような雪も早く消えて欲しいと思うのも雪国の人情である。
餅花は俳諧の古い歳時記にも出ているから二百年来諸国にも当然あるだろう。ちかごろ江戸では特に季節を決めずに、小児の遊び用に作って売っていると聞いた。

餅花や夜は鼠が吉野山:「ざれ俳句」の一種だろうか。家の中に餅花が飾られているわけだから、夜になるとネズミが花見のように喜んで食べにくる、という意味に解釈したが。
蚕玉:「まゆたま」と振り仮名がついている。繭玉(まゆだま)という言い方は、最近まであるいは現在でも、あちこちに残っている。元来は、養蚕の盛んな土地の風習と解釈する。
●斎の神の勧進
この塩沢近辺の風俗として、正月十五日前に七、八歳から十三、四歳までの男児を対象に斎の神勧進ということをする。少し豊かな家の子供がこれをする時は、ぬるでの木を上下より削って掛けて鍔の形を作り、これを斗棒(とぼう)と言う。これを大小のように二本さし、上下を着て、お供に一升ますをもたせるか紐で頸にかけたりする。五六寸ばかりの木で頭だけの人形を作り、目鼻をえがき、二ツつくって女神男神とし、女神は頭に綿を載せ、紙で作った衣服に紅で梅の花などをえがく。男神には烏帽子を載せ、木を一部けずって髭とする。紙の衣服に若松などをえがく。この二ツをこの升の中におき、「斎の神勧進」と大声で歩きまわる。貢物が特に欲しいわけでもなく、正月あそびの一つである。もちろん一人でするのではなく、児童たちがみな集まって遊ぶ。一方、大人たちはこの子供に切餅や金銭も与える。貧しい家の子供たちは五人、七人、十人と集まって、茜木綿の頭巾に浅黄のへりをつけたものをかぶり、かの斗棒を一本さし、二神を柳こうりに入れて首にかけ、「さいの神かんじん、銭でも金でもください、どうぞ」と家々の前を押し歩く。これには銭を与え濁酒をのませ、さらに顔に墨をぬって大笑いする、よく行う習慣である。
また長岡あたりでは、例の斗棒のけずりかけの三尺ばかりのものに、宝づくしなどを描いたのをさして勧進するが、こちらは小児ではなく、大人のいやしいやり方である。勧進のことばに「銭でも金でもください、来年の春は嫁でも聟でもとるように、泉のすみから湧くように、すつくらすわいとおいやれ」
こんな風に勧進の銭をあつめて、斎の神を祭る費用にあてる。さいの神のまつりは次に述べる。また去年婿や嫁をむかへた家の門に、未明より児童が大勢あつまり、かの斗棒をもつて門戸をたたき、嫁をだせ婿をだせと大声で声をそろえてたたく。これも里俗の祝いだからどこも怒る家はなく、子供を家に入れて物を食わせたりする。まあこんな俗習は、他の土地にも数多くあるだろう。
さてこんなことはたあいもない子供の戯れと思い過ごしてきたが、醒斎山東京伝翁の骨薫集を読んで詳しい根拠を見つけた。骨董集上編下、粥の木の条に、
○粥杖○祝木○ほいたけ棒という物は、前にいう斗棒に同じだという。
京伝翁の説では、粥の木とは正月十五日粥を炊いた薪を杖とし、子どものない女性の尻を打つと男児を孕むという祝いごと
○枕の草紙○狭衣○弁内侍の日記
その外の多数の書を引用して、上代の宮裏から近世の市中粥杖のことなどを挙げて、存分に詳しく考証している。現在この郡などでいう斗棒は、つまり昔からの粥杖の遺風だと確認しており、この土地にも祝木あるいは御祝棒という所もある。これも七八百年前より正月十五日にするとは、京伝翁が引用した書でわかる。この引用書の中にも、中国の明の人が書いた「日本風土記」にあるのはこの土地の行事に特によく似ている。この書籍は、今から三百年ほど以前の日本の風俗を明の人が聞いて伝えたものだから、今この土地で子供たちが悪戯していることも、三百年ほど以前の風俗が遠い地方にも移って残ったものだろう。京伝翁が引用しているのは、日本風土記 巻の二時令の部とあり、漢文のまま引用だがここには仮名交じり文にしよう。
「街道郷村の児童で、年十五歳から十九歳さらに上に及ぶ者、それぞれ柳の枝を取り皮を剥いで木刀に彫成する。皮は刀の外套にして身に着け、火で焼いて黒くして皮をとって黒白の花に分ける。これを名づけて、荷花蘭蜜(こばらみ)と言う。荊棘の枝を取り、香花を挿して神前に供える。次に、集る児童たちは手に木刀をもって隊列を組み、結婚していながら子供のいない女性を木刀で打って、荷花蘭蜜と唱える。この婦人は、かならずその年には身ごもって男児を生む」
この土地にて児童等が人の門を斗棒でたたき、嫁をだせ聟をだせと大声でさわぐのは、右の風土記の俗習の遺りだろう。
以下は百樹の注釈である。
例の風土記に再び荊棘の条を取り香花神前に挿すというのは、餅花を神棚へ供ずることを聞いて粥杖のことと混同して記したのではなかろうか。とすれば餅花も古い祝事である。

この項目は、山東京伝が注釈したものを牧之が説明し、それに山東京伝の弟の山東京山が注釈をつけるという複雑な構造である。
この項目の原題の「斎の神勧進」の「勧進」は、金品の寄進を願うことを意味する。ここでも、子供たちが一応それを要求している。
○枕の草紙○狭衣○弁内侍:以上の三つの日記は、各々枕草子、狭衣物語、弁内侍日記で、いずれも平安時代の作品だが、私は枕草子しか読んでいない。
●斎の神の祭
図斎の神の祭の情景
越の国で正月十五日に斎神のまつりというのは、所謂左義長である。唐土で爆竹という唐人除夜の詩に、竹爆千門のひびき、燈が燃えてどの家も明るいという句があるから、かの国では爆竹は大晦日の催しである。日本では正月十五日、清涼殿の御庭で青竹を焼き正月の書始めをこの火に焼いて天に奉るのがやり方である。十八日にもまた竹をかざり扇を結びつけ、同じ御庭で燃やすのを祝い事とするようだ。民間でもこれに習って、正月十五日には正月に飾ったものをあつめて燃やす、これを左義長として昔から行っている。これを斎の神祭りともいい、これも古いことである。爆竹と左義長の故事は、俳諧の歳時記の年浪草に諸書を引用して詳しく述べている。
吾が郡中で、小千谷は人家千戸以上の豊かな場所で、それだけ斎の神の(斎あるいは幸とも) まつりも盛大である。この祭りは、町毎におのおの毎年決まっている場所があり、その場所の雪をふみかため、直径三間(5.5 メートル)ほどで高さ六七尺の円い壇を雪で作り、これに二箇所の階段をやはり雪でつくり、里俗名では城と呼ぶ。壇の中央に杉のなま木をたてて柱とし、正月かざったものを何でもこの柱にむすびつけ積みあげて、しめ縄を上からむすんで蓑のようにつくり、萱を加えてかたちをつくる。この頂上に大根注連といい左右に開いた扇をつけて飛鳥の状を作りつける。壇の上には席を備えて神酒を献上し、町の長が礼服をつけて参拝し、村の繁昌と幸福をいのる。これが終わると清めた火を四隅から移し、油滓などを加えて火がうつり易いようにしておくので、炎々と燃えあがり、この火で餅を焼いて食うと、病気になりにくいと昔から言い伝えている。これが爆竹左義長で、他の土地でも行う。人から聞いた話では、百年くらい前までは江戸でも行ったが、火災を恐れて禁令が出て中止になったという。
さてまた、おんべという物を作ってこの左義長にかざして火をうつらせ焼くのを祝事とする。おんべは、御幣の訛りである。作り方は白紙と色紙とを数百枚つきあはせたものを細い幣束のようにきりさげ、末端には扇の地紙の形を切残しておく。これを数千あつめて、青竹に結ぶ。大小長短は作る家の勝手で、大きいものはもちろん自慢になる。棹の末に扇の開いたのを四ツ集めて、扇には家の紋などを描き、色紙で作るから美しい。これを作って、それを自宅の門へ建てておくのは五月の幟のあつかいである。十五日になると例の場所へもってゆき、左義長にかざして焼捨てるのを祝いとして楽しむ。観る人も群をなすのは勿論、ことが終わるとあちこちで祭りの酒宴をひらく。みな国君盛徳のお蔭である。この左義長行事は、他所にもあるけれども何と言っても小千谷のが盛大だ。
ここも以下は百樹の注釈である。
私が息子の京水を連れて越後に旅した時、八月にこの小千谷の人岩淵氏(牧之老人の親族である) の家に実に十四日もお世話になった。あるじの嗣子は二十四、五歳くらいで、号を岩居といい書の名人で、私は大変な厚遇を受けた。小千谷は北越第一の町で、商家が立ち並び何でも揃っていた。海からの距離も僅か七里(28 キロ)だから魚類も乏しくはない。私が塩沢にいたのは四十日ほどだが、塩沢は海から遠いので夏は海魚に乏しく、江戸者の私が魚肉を四十日も摂れなかったが、小千谷にきてやっと生鯛が食えてもちろん美味だった。またすでに鮭の時期で、小千谷の前の川は海に流れ込む大河だから、今捕ったものをすぐに調理するので、その味は江戸以上である。ある時、鮭をてんぶらという物にして出してくれた。私が岩居にむかって、これそこの土地では名を何とよぶかと質問すると、岩居氏はテンプラだという。しかし、自分(岩居氏)は長年この名前の意味がわからず、古老にもたずねたが誰も知らないので、先生(百樹)の説を伺いたいと言う。私は、とりあえず先にテンプラを食ってから、名前の由来を話そうなどといいながら、鮭のてんぷらを飽きるほどに食った。

左義長(さぎちょう):小正月の火祭りの行事を指す。「三毬杖」とも書いて、やはり「さぎちょう」と読む。要するに、杖をたてて場をつくり、正月の松飾りなどを燃やす祭り。
小千谷と塩沢:海までの距離は、小千谷からは柏崎へ道がついて28 キロである。小千谷から塩沢へは、直線距離では小千谷⇔柏崎くらいだが、実際の道は魚野川沿いで1.5 倍くらいあるだろうから、海からの距離は70 キロくらいだろうか。
●「てんぶら」の語の語源:山東京伝の命名の自慢
岩居に話したのは以下の事柄である。
今から五十年余り前天明の初年、大阪で家僕を四五人もつかうほどの大家の次男で二十七、八歳ばかりの利助というものがいた。2 歳年上の芸者をつれて出奔し、江戸に出てきて私の家( 京橋南街第一番地)の向いの裏屋に住んでいた。常に出入して家僕のように走り使いなどさせていたが、花柳界に身をおいただけに話がおもしろく小才も効いてよく用が足りた。よくできるが金がなくて気の毒だと、亡兄(山東京伝)が世間話をしていた。
その利助がある日言うには、江戸には胡麻揚の辻売は多いが、大阪にはつけあげという魚肉の揚げ物があってとても旨い。江戸には魚のつけあげを夜店で売る人はいないから、私はこいつを売ってやろうと思うがご意見を伺いたいという。亡兄 京伝 がいうには、そいつは素晴らしい思いつきだ。一応やってみろとその場で調理させると、実に美味い。利助がいうには、これを街角の夜みせで売りたいが、その行灯に「魚のごま揚げ」と書くのは回りくどい、何か名をつけて下さいと頼んだ。亡兄はしばらく考えてから筆をとって天麩羅と書いてみせると、利助は腑に落ちない顔で天麩羅とはどういう意味かと訊く。亡兄はにっこり笑って、貴殿は天下の浪人者ではないか、ぶらりと江戸へきて売るために創るのだから天ふらだ、これに麩羅といふ字を当てたが麩は小麦の粉でつくり、羅はうすものとよむ字だ。小麦粉をうすくかけたといい意味だと冗談を云うと、利助も酒落た男で、天竺浪人のぶらつきだから天ふらはおもしろいとよろこび、やがて店をだす時あんどんを持ってきて字を書いて欲しいといので、私が子供の字で天麩羅と大書して与えた。このてんぷらが、一ツ四銭で毎夜うりきれるようになった。一月もたたないうちに、近辺のあちこちでテンプラの夜店が出て、今では天麩羅の名が世間に広まり、この小千谷までテンプラの名を聞くとは実に愉快だ。しかし、この天ぷらというのが、京伝翁が名づけ親で利助が売りはじめたとはさすがの大学者大先生も知らないだろう、てんぷらの講釈ができるのは世の中で私一人だと冗談をいうと、岩居も手をうって楽しく笑った。
先年、このてんぷらの話を友人の静廬翁に話すと、翁はさすがに和漢の博達時鳴の知識人で、その翁の話では、事物紺珠 明人黄一正作廿四巻 夷食の部にてんぷらに似た名があるというので、その本を借りて読んでみると、○塔不刺とあって注に○葱○椒○油○醤を煮て、後から鴨か鶏か鵞鳥をいれ、とろ火でゆっくり炊くとあった。蟹をあぶらげにするとも書いてある。
●煉羊羹の起原
さて天麩羅が広まる経緯に似ている事があるので、ついでに記しておく。
橘菴漫筆に 享和元年京の田仲宜作「京師下河原に佐野屋嘉兵衛というもの、享保年中長崎より上京して初めて大碗十二の食卓を料理して弘めた。これが、京師浪花に卓袱(しっぽく)料理の元祖だという。当時、嘉兵衛の娘さんだった人が老婆となって近頃まで存命で、それが今の佐野屋の元祖である。大阪で卓袱料理はあれこれ数多く広まったが、野堂町の貴徳斎ほど久しく続いている例はない」とある。
岩居がてんぷらをふるまった夜、その友蓉岳が来て、桜屋という菓子と、私が酒を飲まないのを聞いて自家製といって煉羊羮も持参し、味は江戸と同じであった。私は越後で練羊羹を賞味して大いに感嘆して、思い出して岩居に話した。
この練羊羹も近年のもので、ふつうの羊羹にくらべると味は数段上である。私が幼かった頃は、普通の羊羹も一般の人たちの口には入らなかったが、江戸からこれほど遠いこの地でも出来合いの練羊羹があるのは実に大平のお蔭だというと、蓉岳も書画を好み文筆にも熟達している好事家だから膝をすすめ、菓子は私の家の業務だが、練羊羹を近来のものという由来をお聞かせくださいという。私の話の内容はこうである。
寛政のはじめ、江戸日本橋通一町目横町で字を式部小路といふ所に、喜太郎という夫婦が丁稚一人をつかい菓子屋とは見えない格子造で、特に看板もかけずに仕事をしていた。この喜太郎、以前は貴人に御菓子を調進する家の菓子杜氏だったという。奉公をやめてここに住み、特別製の菓子だけをつくって茶人や富家だけを対象に商売をしていた。さてこの者が工夫して、はじめて煉羊羮と名づけて売ったところ(羊羮の本字は羊肝だと事芸苑日鈔に書いてある) 喜太郎の練羊羹として人々が珍しがってもてはやすようになった。しかし、一人一手で作るのだから、今日は売り切れといわれて、使いのものは重箱を空のまま帰る事が多かった。ここまでが、私が見たところである。こうして一二年の間に菓子屋二軒で喜太郎をまねて練羊羹を製造し、それも珍しかったので今では江戸の菓子屋はもちろん、どんどんひろまってこの小千谷にもあるのだから、にぎやかな都会なら必ずあるはずで、他の諸国にもあるだろう。そういうと、蓉岳は笑って小倉羮もあり八重なりかんもあり、あすはお持ちしましょうといった。これらの事柄は、雪譜とは無関係で不似合いだが、小千谷の話で思い出したので話題として記しておく。なお近古食類の起原がいろいろあるが、別に書いた食物沿革考に昔からのことを挙げて書いたので、ここには載せない。
●雪中の狼:空腹オオカミの狼藉
図 狼が家を襲って数人を殺した情景である。
初編にも書いたが、この土地の獣は冬になると雪の少ない土地に移動避難する。雪が深いと食物が乏しいからである。春になれば、もとの棲家にかえる。けれども雪がまだ消えないから食物は不足で、ときには夜中に人家に近かよって犬をやっつけ、人を襲うこともあるが、もちろん山村のことである。里には人が多いから、人をおそれて来ないのだろう。雪の中で穴に住むのは熊だけである。熊は手に蟻をなすりつけ、これを舐めて穴に籠る際の食糧とすると言い伝えられている。
この話は私の住む魚沼郡の山村の事件だが、不吉な内容なので地名と人名ははぶいておく。貧しい農夫がおり、老母と妻と十三歳の女児と七歳の男児がいた。この農夫は、篤実で母によくつかえていた。ある年の二月はじめ、用事で二里ほどの所へ出かけた。みな山道である。母は、山の中は用心が必要だから鉄砲を持っていけという、たしかにそうだと鉄砲をもって出かけた。この点は、農業の一方で猟をもする土地の習慣である。予想以上に時間がかかり、日暮れの帰りみち、やがて自分の村へ入ろうとする雪の山蔭に狼が物を喰っているのを見つけ、ねらって火蓋をきるとあやまたず打ち倒した。近ずいてみると、食っていたのは人の足であった。農夫は大変驚き、さては狼が村近くやってきたと、我家を気にして狼はそのまま放置して急いで戻ると、家の前の雪が血で赤く染まっている。それでますます驚き、急いで家に入ると狼が二疋逃げ去った。あたりをみると、母は囲炉裏の前であちこち食い散らされ、片足は食い取られていた。妻は窓のところで喰い伏せられ血で真っ赤に染まり、その傍にはちぢみの糸が踏み散らかされている。七ツの男の子は庭におり、死骸は半ば喰われてしまっていた。妻は少し息があって夫をみると起きあがろうとしたが力がでず、狼が・・・・と言っただけで倒れてしまった。農夫は夢とも現実ともわからなくなり、鉄砲をも持って立ち上がりかけたが、それにしても娘はと思っていると、泣き声で呼びながら床の下から這い出して親にすがりつき声をあげて泣き、親も娘を抱いて泣いたことであった。
山中の家は住居も個々に離れており、この事件に気付いたものは他にいなかった。農夫はほんのわずかな時間で六十歳の母、三十歳の妻、七歳の子を狼の牙で殺され、歯を食いしばって口惜しがり、親子二人で、繰り言を言っては声をあげて泣いた。村の人たちも、ようやくききつけてきて、この惨状をみて驚き叫びながら少しずつ集まった。娘に様子を訊くと、窓をやぶって狼が三疋走りこんできたが、自分は竈で火をたいていたのですぐに床の下へにげ込み、お婆さんとお母さんと弟が泣く声をきいて念仏を唱えていたと言う。一部始終をしかるべき所へつげるべく人をはしらせ、次の日の夕ぐれには棺一ツに妻と童をおさめ、母の棺と二ツ野辺おくりをしたので、涙をそそがないものはなかったという。
たまたま母が鉄砲をもてといったので、母の片足を雪の山蔭で食っていた狼は撃ち殺して母の敵はとったものの、二疋を打ち漏らしたのはどうにも口惜かしかったろう。この後、農夫は家を棄て、娘をつれて順礼に出たという。最近のことで、他の人たちもよく知っている話である。
ここも以下は百樹の注釈である。
日本の狼は化けるという話がないが、中国の狼は化けることが多く、狐と似ている。宋人李ム等が太平広記畜獣の部に 四百四十二巻 狼が美人に化けて少年と通じ、あるいは人の母にばけて七十歳になってはじめて正体をあらわして逃げさり、あるいは人間の父を喰殺してその父に化けて何年も経過し、ある時その子が山に入って桑を採っていると、狼がきて人間のように立って裾を咥えたので斧で狼の額を切り、狼がにげ去ったので家にかえると、父の額に傷の痕があるをみて狼とさとり、殺してみると果して老狼であった。
一応は親を殺したことになるので、自ら役所に名乗りでてことの次第をつげたことなど○広異記○宣室志を引用して書いてある。
性悪のことに狼の字をあてるものが多い。残忍なのを豺狼の心といい、声のおそろしい様を狼声といい、毒の甚しきを狼毒といい、ことの猥(みだり)なのを狼々、反相のある人を狼顔、義に乏しいのを中山狼、ほしいままに食うことを狼食、激しい病を狼疾といい、ほかにも狼籍、狼戻、狼狽など、皆おおかみになぞらえて言う単語である。
文海披沙によると、獣の中で最も憎らしいのは狼である。しかし私がひそかに考えるに、狼自体はたしかに狼で、しかし少なくとも狼の形をしている。しかし、人間でありながら狼なのは狼の形はしていなくて、見かけ上は狼とわからない。それで狼の毒を出す人がいる。人間でいて狼なのは本物の狼よりも恐ろしく、もっと悪い。篤実を外面として、奸慾を隠すのを狼者といい、嫁をいびるのを狼ばばあと言う。狼心をたくみにかくすかも知れないが、識者の心眼は明鏡である。人間の狼は、恐ろしく恥ずべきものだ。

 

二編巻三
○鳥追櫓(とりおいやぐら)
○雪霜
○地獄谷の火:天然ガスを浴場と遊技場に
○越後の人物
○無縫塔:石が僧侶の死を予言する話
○北高和尚:化け物退治の豪傑
○年賀の歌:巡礼の見事な趣向
○逃入村(にごろむら)の不思議:菅原道真と藤原時平
○田代の七ツ釜:絶壁を造る不思議な岩石群  
●鳥追櫓(とりおいやぐら)
図鳥追櫓の絵。絵のお蔭でイメージがはっきりする。
農家や市中で正月の行事に、鳥追いをする。他の土地にもあり、内容は場所によりいろいろ異なると本に載っている。江戸の鳥追いは、非人(ひにん)の婦女が音曲するのを女太夫が木綿の衣服を美しく着こなし、顔に化粧して編笠をかむり、三味線や胡弓など鳴らし、めでたい歌をおもしろくうたい、家の門々に立って金銭を乞うものをいう。元日からはじまり、松の内までが原則だが、松の内をすぎても行う所もあった。
越後の場合、正月十五日以後を小正月といい、その小正月に鳥追櫓をつくる。大量の雪をあらかじめ年末から取り分け、この雪を使って高さ八尺から一丈(2.4〜3 メートル)の高さに雪の山つまり櫓(やぐら)を立てる。壊れないように底は広く、先細りにつくる。さらに昇降用の階段も雪でつくり、頂上は平らにして松竹を四隅に立て、しめ縄を張りわたす。広さは決まっていない。集まれるようにむしろを敷きならべ、子供たちが集まって物を喰ったりして遊び、鳥追歌をうたう。
鳥追歌の例は以下のようである。
「あのとりは、どこから追ってきた、信濃の国から追ってきた、何をもって追ってきた、柴をぬくべて追ってきた、柴のとりも樺のとりも、立ちやがれ ほいほい引」
「おらが裏の早苗田のとりは、追っても追っても雀、鳩、立ちやがれほいほい引」
あるいは、例の掘揚という雪をすてた山に上に、雪で四角い堂を作り、雪で物をおく棚をつくり、むしろを敷き、鍋・薬缶・お膳・お椀・杯などを雪の棚におき、物を煮焼きし、どぶろくを飲み、子供たちは大勢で雪の堂(訛りで「いきんだう」)で遊び、声をそろえて鳥追歌をうたい、終日出入りして遊びくらす。雪をつかったこんな遊戯は、暖国にはない正月である。この鳥追櫓を部落のあちこちに作り、子供たちは群れてあそぶ。

非人:江戸時代に、士農工商の下におかれた最下層の身分。人のいやがる仕事に従事した。「穢多(えた)」や「部落民」などもこれ。転じて、乞食や現代のホームレスを指すか。
鳥追歌:この歌の歌詞は意味がわからない。まあ、こういうのは伝承されているうちに変
形してわかりにくくなるものではある。
●雪霜
前にも述べたように、越後は北国でも第一の雪国である。中でも魚沼・古志・頸城の三郡は雪が多い。毎年一丈(3 メートル)以上の雪の中で冬を暮らすが、寒気自体は江戸とさほど変わりはないと、江戸で寒中を過ごした人は述べている。霜は五雑組に載っているとおり、露が固まったもので陰である。一方雪は、雲から生まれるので陽だというのはわかりやすい。雪中でも、夏のうちに準備として種を蒔いた野菜も雪の下で芽を出して役立つ。遅い時と早い時があるが、この点も暖国と特に変わりはない。遅いとは、梅の花の咲くのが三月の始めで、瓜や茄子の初物が出るのは五月である。山中になると、山桜の盛りは四月の末から五月になる所さえある。
●地獄谷の火:天然ガスを浴場と遊技場に
前編上の巻の雪中の火の項目で、魚沼郡六日町の西の山手に地中から火が出て燃えることを述べた。そこでは、地獄谷の火の話は述べなかったので、それを記述する。
そもそもこの越後で名高い七不思議の一つとして数えるものに、蒲原郡の如法寺村百姓荘右エ門と七兵衛孫六の家で地面から生ずる火がある。この家にある地中から燃え出る火は広く知られているが、魚沼郡小千谷のはずれの地獄谷の火は、これよりも盛大である。中国でもこういうのを火井と言い、井戸から火がでる意味の命名である。最近、この地嶽谷に家を作り、地下から出る火を使って湯をわかして客を入浴させ、夏から秋のはじめまで客が多数訪れるようになった。この種の火井は他の土地にはなく、越後だけに多い。先年、蒲原郡内のある家で井戸を掘ったところ、その夜医師が来て井戸を掘ったと聞き、家に帰る時提灯を井戸の中へ入れ、その火で井戸の中を見て退去したところ、井戸の中から突然火が出て、火勢が強くなって燃えあがり、近隣のものたちが火事だといって駆けつけて、井戸の中から火が出るのを見て、こんな井戸を掘ったからこんな火が出たと村の人たちが口々に主人を罵って恨み、当の主人も火をおそれて井戸を埋めてしまった。
このように土地から生じる火を陰火と言う。例の如法寺村の陰火も微風の気が出てロウソクの火をかざすと、それに応じて燃える。火をつけなければ燃えない。寛文の昔、如法寺村の荘右エ門の庭で鞴(ふいご)をつかった時から燃えはじめたという。前にいう井中の火も、医者が提灯を井戸の中へ下げて、その陽火で燃え出したのだろう。
さて、頸城郡の海辺に能生(のう)宿という場所があり、これは北陸道の正規の公の街道の宿場である。この宿から二里ほど山手に入ると、間瀬口という村があり、ここの農家で地下から火が出て如法寺村の地下の火と同じだという。付近で用水の乏しい所では、旱魃の際には山に出かけて井戸を横に掘ってそこから水を手に入れるという。ところが、ある時に井戸を掘って横に進んだ時、奥が暗いのをてらそうと松明を使ったところ、この火が燃えあがり、人が焼死したという。これらの事を考えてみると、越後には地面から火が出る火脉の地が多く、たまたま火をつけないから燃えないでいるだけの例も多そうだ。
ここからは百樹、山東京山の注釈である。
私が小千谷にいた時、岩居(がんきょ)氏が地獄谷の火を見せようと、友人五人を連れ酒食の用意を従僕二人に持たせ、自分と息子の京水と同行十人で小千谷を出て西に向かい、新保村藪川新田などの村を通って一宮という村に着いた。山間の道は曲がりくねり、ここまで一里半ほどあった。この日は特に快晴で、村落の秋景色が見事で目を見張るようだった。さて山一ツを越えると地獄谷だった。上からみると、茅屋が一つあって、これが入浴場であった。私たちが坂の中間まできた時、茅屋の楼上に美女が四五人出て、おのおの手すりに寄り掛かって、はるかにこっちを指さして笑い、名前を呼び手を叩き、手招きしている。周りは全部山で大木が堂々としている中でこんな美人を見て愕然とし、狸か狐かなどというと、岩居が友だちと顔を見合わせて、手をたたいて笑っている。これは小千谷の下た町という所の酒場に居る酌婦の芸者たちで、岩居が友人と計画してこっそり招いて私たちを楽しませようと企んだのだった。要するに、化かしたのはキツネでなくて岩居が一杯食わせたのである。地獄谷に下り皆で楼にのぼった。岩居は自分と京水を連れて、例の火をみせてくれた。
そもそもこの谷は山桜が多くて桜谷と呼んでいたが、地火が出るので四五十歩(一歩は六尺)四方(25〜30m 四方、600〜900m2、 6〜9 アール)を開削して平坦地とし、地火を借りて浴室と遊び場にしたという。桜谷と呼んでいたところに火が出て地獄と変名したので、花は残念がっているだろう。
問題の火を見ると、浅い井戸を一つ作ってそこから火が燃えている。燃え方は普通の風呂屋の火よりも激しい。上に釜があり一間四方の湯槽があり、細い筧があって後ろの山の清水を引いて湯槽に入れている。湯槽の四方に、湯が溢れている。この湯はぬるくも熱くもなく、地中から出る天然の火が尽きない限りこの湯も尽きることはない。見るからに清潔な事も言うまでもない。風呂場のとなりに厨房があり、かまどにもこの火を引いて炊事をして、薪の代わりに使う。次の間があり、床の下から竹筒を出し、口に一寸ほど銅をはめて火を出している。上に自在鉤をさげ、酒の燗をし茶をいれ、夜は燈火にもつかう。火をよく眺めると、銅の筒から一寸ほど離れて燃えている。扇であおぐと陽火のように消える。消えた状態で筒の口に手をあてると、少し風が出ているだけだが、そこにツケギの火をかざすと、再び立派に燃えて前と同じになった。主の翁が言うには、この火は夜のほうが昼より烈しく、人の顔が青くみえるという。翁の妻が、水の中で燃える火を見せようといって、湯屋の裏手の僅かばかりの山の田に行き、田の水の中に少し湧いているところにツケギの火をかざすと、水中から火が燃え上がった。老婆の話では、火のもえる場所は他にもあり、夜にはあちこちで火をもやすから獣がこないという。私のように江戸のものには、実に奇妙である。唐土ではこれを火井と呼び、博物志や瑯琊代酔(ろうやだいすい)に書いている雲台山の火井もこの地獄谷の火と同じだろうが、壮大な点ではこの谷の火が勝っている。唐土と日本の双方を検討して、火井としては最高だろう。今回の越後旅行で、特別の観光だった。唐土で火井のある所は北の蜀地に属しており、日本の火井も北の越後にあるわけで、自然の地勢によるのだろう。
さて芸者が一人、欄干に出てしきりに岩居を呼ぶので、皆で楼にのぼった。自分は京水と一緒に湯に入った。楼上では早くも三弦を鳴らしている。湯から出て楼にのぼると、酒が出て既に狼藉状態である。美しい芸者たちが袖をつらね、手をかざし三味線を鳴らし、美しく歌う。外面如菩薩の様子が興を添えて、地獄谷がたちまち極楽世界となった。この芸者たちの主人もここにいて、雇っている料理人につくらせた魚菜を調味させて宴を開いた。この主人は俗人だが雅の心があり文人との交際を好むので、この日も自分と面識したいと岩居に約束してわざわざここへ来たという。自分が反っ歯なので、自ら双坡楼と号し、彼の洒落気分はこれだけでもわかる。飄逸酒落で人からも愛される上に、家の前後に坡(さか:坂)があるので、双坡の字をつけたのも面白い。この双坡楼が、扇を出して自分に句を頼んできた。芸者たちもそれぞれ扇を出した。そこで、京水が画を描き、自分が即興に何か書いた。これを見て岩居をはじめ、参加者それぞれが壁に句を題し、さらに風雅の興ともなった。
日も少し傾いたのでそろそろ帰ろうということになり、芸者たちは草鞋(わらじ)で来ていてどれがわたしのだとか、これがとかあれがとか履き捨て草鞋のあれこれを争って履き、みな酔っぱらって騒々しく歩き出した。小川がある所では、おしゃれをした芸妓たちが着物の裾をからげて尻をはしょって渉る。花姿柳腰の美人等が、わらじを履いて川をわたるなどは自分のように江戸の目には特別珍しく一興だった。酔った客が甚句を歌うと、酔った芸妓が歩きながら踊る。古縄をみつけて蛇だぞと脅すと、脅された芸妓はびっくりして片足を泥田へふみこんで皆で大笑いする。この途はすべて農業通路だから、途中には茶店はなく、半分きたところで古い神社に入ってやっと休憩した。芸者が一人、社の後ろへいって戻ってきて、石の水盤にわずかに残る水を掬って手を洗ったのは、私用だったのだろう。そのまま樹の下に立っている石地蔵菩薩の前に並びたちながら、懐中から鏡を出して白粉を塗りなおし、口唇もさして化粧を直していた。このとき、化粧道具をちょっと石仏の頭に置いた。外面女菩薩内心如夜叉とのいましめもあり、菩薩様はどう思ったにせよもったいないことであった。日もすでに七つ下り(午後4 時過ぎ)になったので、どんどん歩いて小千谷へ戻った。この紀行は別に本に書き、自分の北越旅談に入れておいた。(ここまで百樹、山東京山の注釈)

能生(のう):現在も北陸本線に同名の駅がある。間瀬口村はみつからなかった。
地獄谷:こちら現存して、「霧の宿」というのがある。他の地名は不明だった。
●越後の人物
板額女は、加治明神山の城主長太郎祐森の夫人で、古志郡の生まれである。酒顛子(酒呑童子)と言えば三歳の小児も知っている話だが、蒲原郡沙子塚村の生まれで、今でも屋敷跡が残っている。始めは雲上山国上寺の行法印の弟子であった。玄翁和尚は、伊夜彦山の麓にある箭矧(やはぎ)村の生まれである。近世になると徳僧や高儒や和歌や書画の人がないわけでもないが、遠く越の国を超えて全国に有名になった人は少ない。画人呉俊明は、のち江戸に出たので有名になった。
近年の相撲の力士では、越海・鷲ヶ浜が新潟の生まれで、九紋竜は高田今町の生まれ、関戸は次第浜の生まれである。ふつうの人で特に大力なのは、頸城郡の中野善右エ門、立石村の長兵衛、蒲原郡三条の三五右エ門などが無双の力自慢で有名になっている。また鎧潟に近い横戸村の長徳寺、谷根村の行光寺も怪力で有名である。ここに述べた人たちは、誰でも釣り鐘を一人で楽々と掛けたりはずしたりするほどの怪力の持ち主である。
一方、孝子としては古くは村上小次郎、新発田の菊女、頸城郡の僧知良、最近では三嶋郡村田村の百合女(百姓伊兵衛のむすめ)、新発田荒川村門左エ門(百姓丑之介がせがれ)、塚原の豆腐売の春松(鎌介がせがれ)、蒲原郡釈迦塚村百姓新六など、いずれも孝子の名が一国に高かった。現存する人々もいそうである。
ここからは百樹、山東京山の注釈である。
越後に行ったら板額や酒顛童子の旧跡をたずね、新潟を一覧し、有名な神仏を拝み、寺泊に残る順徳天皇の鳳跡、義経、夢窓国師、法然上人、日蓮上人、為兼卿、遊女初君等の古跡など、訪れたいと考えていた場所は多かった。しかし実際には、越後に着いてからは時勢の流れが悪く、時が過ぎるにつれて景気が悪くなり、穀物の価格が日々高騰し、気風も落ち着かなくなった。家に戻りたくなって風雅の気持ちを失い、古跡があっても通りすぎて、ごく平凡な旅人となり、聞いていた文雅の方々を訪れなかったのは、今から思うと遺憾至極である。ああ、年とって寿命の乏しくなるのはどうしようもない。
●無縫塔:石が僧侶の死を予言する話
蒲原郡村松から東一里の来迎村に寺があり、永谷寺といい曹洞宗である。この寺の近くに早出川と言う川がある。寺から八町(800 メートル)ほど下に観音堂があり、その下を流れる所を東光が淵と呼ぶ。僧が住職となって永谷寺に奉職すると、この淵へ血脉を投げ入れることになっている。さてこの永谷寺の住職が亡くなる前年には、この淵から墓の石として使うのに具合のよい丸い自然石が一ツ岸に現れて、これを無縫塔と名づける。この石が出ると、翌年には必ず住職が病死する定めで、昔から一度も例外がない。この墓石が、大きさなどで住職の気持ちに合致せず淵に返却すると、その夜に淵にはげしい波がたち住職の好む石を淵が自然に排出したことも何度もある。先年、ボンクラな僧が住職になり、この石を見て死を恐れて寺を離れたが、結局翌年他国で病死したという。
推測だが、この淵には霊が住んで死を暗示するのだろう。友人北洋主人は、蒲原郡見附の旧家の勉強好きで字も上手な人だが、この寺について話してくれた。寺は、本堂間口十間、右に庫裏、左に八間×五間の禅堂があり、本堂に登っていく坂の左側に鐘楼があり、禅堂の裏側に蓮池がある。その上に坂があって、登ると住職の墓所がある。問題の淵から出た円石を、人が作った石の脚つき台にのせて墓としている。中央のものが寺の開祖ので、左右に合計二十三基並んでいる。大きいのは直径一尺二三寸(36〜39 センチ)で、六寸〜九寸(18〜27 センチ)のもあり、大きさは和尚の徳に応じて決まる。台の高さはいずれも一尺ほどである。例の淵に霊があるというのは、むかし永光寺のほとりに貴人某が住んで、奥方が色恋沙汰で夫に嫉妬して恨み、東光が淵に身を沈め、成仏できずに他人まで苦しめていたのを、永光寺を開山した僧(名はききもらした)が血脉をこの淵に沈めて迷っている霊を教え導いた。それで悪霊は無事に死の世界へと旅立ち、その礼としてあの墓石を淵に放出して死期を示すようになったという。故に、現在も住職に就任する僧侶は、淵に血脉を投げ入れるよう寺の教えとしているという。
さて越後の隣国信濃(長野県)にも、無縫塔がある。近江の石亭が雲根志の前編の異の部で解説しているとおり、信濃国高井郡渋湯村横井温泉寺の前に星河という幅三町の大河があり、温泉寺の住僧が亡くなる前年に、この河に高さ二尺ほどの自然石でできた美しい四角の石塔が流れきた。彫刻したようにも見えるが、天然物である。この石が出た時、土地の人が温泉寺に知らせる習慣で、すると翌年必ず住職が亡くなる。そこで、そのしるしにこの石を立てる。九代前より始まったが、代々九代の石塔は同石同様で少しも違わずに並んでいる。ある年の住僧は、この塔が出た時に天を拝してこう祈った。「私は法華経を千部読経する願をかけている。あと一年で満願になるので、どうか生命をあと一年延して欲しい」と念じ、かの塔を川中の淵に投げこんだ。無事一年経過して千部読経の終了した月に、例の石がまた川中にあらわれ、その翌年予定どおりに亡くなったという。その次の住僧は、塔が出できた時に何のねがいもせず、ただ淵に投げ返した。何度投げてもすぐその夜に石は出てしまい、結局翌年病死したという。この辺ではこれを無帽塔と名づけている。以上一条の全文、越後では永光寺、信濃では温泉寺、二つの現象がよく似ているのは奇怪である。
以下は百樹、山東京山の注釈である。
牧之老人のこの草稿を見て、無縫塔の「縫」の字の意味が通じないので誤字ではないかと手紙で問い合わせて訊いたが、無縫塔と書き伝えられていると確認した。雲根志には無帽塔とあるが、無帽の字も意味が通じない。おそらくは「無望塔」ではなかろうか。住僧の心には、死にたくないから、無望塔なのだろう。何の根拠もない推測を一応述べて、どなたか博識の方が確実な論拠を提出されるのを期待する。

永谷寺と早出川:新津から分かれた磐越西線の最初の大きな駅が五泉で、近くにこの永谷寺と早出川が現存する。早出川は阿賀野川の支流である。
永谷寺と永光寺:この文章は「永谷寺」とはじまって、途中で「永光寺」に入れ替わっている。永谷寺は現存するが、永光寺はこの付近にはみつからない。文章の内容からは、寺が二つある理由はなく、永光寺は書き違えと推測するが、手元の資料はどれにも二種類書いてある。
血脉(けちみゃく):仏教で教えをとく文書の一つ。
●北高和尚:化け物退治の豪傑
図 北高和尚が化け猫を退治している情景の絵。
魚沼郡雲洞村雲洞庵は、越後国では四大寺の一つである。ここで四大寺とは滝谷の慈光寺(所在は村松)、村上の耕雲寺、伊弥彦の指月寺、雲洞村の雲洞庵の四つを指す。十三世通天和尚は霜台君(上杉謙信のこと)の縁続きで、高徳の名が高く今も言い伝えがのこっている。景勝君(謙信の養子)もこの寺で学んだという。一国の大寺として、古文書や宝物も多く残り、その中に火車落の袈裟というものがある。香染の麻らしいが、血の痕がのこっている。火車落と名づけて宝物とする理由は、以下のとおりである。
むかし天正の頃、雲洞庵の十世で北高和尚という学徳を備えた方がいた。この寺に近い三郎丸村の農家で死者が出たが、冬で雪が降りつづき吹雪もやまず、晴をまって数日葬式をのばしていたが晴れないので強行した。旦那寺なので北高和尚を迎えて棺を出し、親族はもちろん列席の人々はみな蓑笠で雪をしのぎ野辺送りした。雪の道が半ばにきた時、猛風がおこり、黒雲が空に満ちて闇夜のようになり、どこからともなく火の玉が飛んで棺の上を覆った。火の中に、尾は二股に裂けた巨大な大猫が牙をならし鼻から火を噴き棺を略奪しようとした。人々は棺を捨て、転んだり滑ったり逃げまどった。この時、北高和尚は少しも恐れず、口に呪文を唱えて大声で一喝し、鉄如意をふるって飛びつく大猫の頭を打った。すると猫の額が破れて血がほとばしって衣をけがしながら、妖怪はただちに逃げ去り、風もやみ雪もはれて葬式は無事に終わったと寺の旧記に残っている。この時に着ていたものを、火車落の法衣として今も伝えている。
以下は百樹、山東京山の注釈。
私が越の国に旅して塩沢にいた時、牧之老人と一緒に塩沢から一里離れた雲洞庵に行き、寺の住職と話して、この火車落しの袈裟やその外の宝物古文書の類を拝観した。さすがに大寺で、祈禱二字を大書した竪額は順徳上皇のお筆だという。佐渡へ流される際に書いたものだろう。門前に直江山城守という制札があり、放火私伐を禁ずる意味の文である。庭の池のほとりに智勇の良将宇佐美駿河守刃死の古墳が在るのを、先年牧之老人が施主となって新たに墓碑を建たという。不朽の善行である。本文に火車というのは所謂夜叉で、夜叉の怪は中国の書物にも多数載っている。

雲洞庵:この場所は、百樹の注釈にもあるように塩沢から近く魚野川の右岸にあり、ほんの数キロの距離に現存する。
●年賀の歌:巡礼の見事な趣向
私が六十一歳になって還暦を迎えた時、年賀の書画を集めた。越後はもちろん、諸国の文人や京都・大阪・江戸の名家・妓女・俳優・来舶清人の作品も入手した。みな牧之に贈と記されている。人より人ともとめて結局千幅ほどになり、綴じて帖にして所蔵している。ある時、虫干しのため店につづく座敷の障子をひらき、年賀の帖を開いて並べておいた所へ友人が来て、年賀の作意書画の評など話した際、順礼の夫婦が軒下に立った。当地の表現では、この軒下を廊下ともいう。私の家では常に草鞋をつくらせて巡礼者に施しており、この時は小銭もあたえたが、この順礼の翁は立ちさらず散らかっている年賀の帖を気にするように見入りながらこう述べた。およばずながら、私も順礼の下手な腰おれ(訳註)を書かせていただきましょう、短冊を頂きたいと言う。乞食のような姿に似つかわしくなくて納得できないまま、短冊と硯(すずり)を差し出すと、
三途川わたしは先へ百年も 君がむかいをとどめ申さん 五放舎
(私は先に三途川を渡っていきますが、これから百年もあなたが来ないように祈ります)
と記した筆のはこびは見事だった。年賀として、一風かわった趣向で、順礼に五放舎と戯れた名もおもしろく、友人と共に驚き感嘆し、是非お泊りください、ゆっくりお話ししたいと、友人も一緒にすすめたけれど、巡礼はそのまま立ち去った。国は西国とだけ言っていたが、どんなお方だったのだろうか。

来舶清人:江戸時代に中国から日本に往来していた人たち。船主でありながら、文人や書画骨董などに詳しい人たちが多かったという。
腰をれ:「下手な作品」ということを謙遜していう用語。
●逃入村(にごろむら)の不思議:菅原道真と藤原時平
小千谷より一里あまりの山手に逃入村という場所があり、逃げ入りを里言葉で「にごろ」と呼んでいる。この村に、大塚小塚という大小二ツの古墳が並んでいる。伝えによると大きいほうは時平の塚で、小さいほうは時平の夫人の塚と言う。時平大臣夫婦の塚がこの土地に所在する理由もなく、議論の余地もない俗説である。しかしながら、一ツ不思議な事実を考えると、時平にゆかりの人が越後に流されてこの土地で亡くなったのかも知れない。
不思議とはこうである。昔からこの逃入村の人は、文字を習うと天満宮の崇があるとされ、一村全員文字の読み書きができず、いわゆる無筆である。他の土地に移って学習すれば、崇りはない。しかし村に帰ると日が経つに連れて字を忘れ、終には無筆に戻ってしまう。そこで文字が必要な時は、他の村の者にたのんで書いてもらう。またこの村の子どもたちは、江戸土産に錦絵をもらった中に天満宮の絵があると、かならず神の崇りの兆しがあったとの事件が発生している。
だから、この大塚小塚を時平大臣夫婦の古墳と昔から言い伝えているのも、何か由縁があるのだろう。菅原道真が筑紫(福岡県)で亡くなったのは、延喜三年(903 年)二月廿五日で、今から915 年前である。
百樹の注:ここで今というのは、牧之老人がこれを書いた文政三年(1821 年)で、そこからは915 年の昔である。それにしても、これほどの年月後に神霊の祟りなどがあるとはおそるべきことで蔑ろにできない。
これに似たことがある。南谿の東遊記を見ると、南谿が東を旅して津軽に居た時、風雨が六七日もつづくと、役人が丹後の人が居ないかと旅館毎にきびしく詮索していたので、南谿が主人に理由を尋ねた。主人の話では、当国岩城はあの有名な安寿姫と対王丸の生国で、だから昔の人がこの二人を岩城山(岩木山)の神に祭った社が今もある。
この兄弟は丹後(京都府北部)をさまよい、三庄太夫に苦しめられて丹後の人を忌み嫌い、丹後の人がこの地を訪れると必ず大風雨になって何日も続く。丹後の人がこの土地の境界から出れば風雨は治まるので、風雨の際は丹後の人がいないか捜すそうだ。南谿氏がこれに遭ったと記録している。この兄弟の父の岩城判官正氏が在京の時に讒言で家が亡びたのは永保年中(1081-84 年)で、今から750 年以上前である。兄弟の怨魂が今も消えていないとは、人知では説明できない。
百樹の注:安寿は対王の妻だと塩尻22 巻には載っている。
なお、西遊記 前編によると、景清の墓は日向にあると世に知られている。共母の塚は肥後国求麻の人吉の城下より五六里ほど東、切幡村にまつられている。この場所に景清の娘の墓もあり、一村の氏神にまつる、この村は盲人を嫌い、盲人が他の場所から入ると必ず崇りがある。景清は後に盲人になったので、母の霊が盲人を嫌うのが理由だと記している。こんなのが、逃入村の不思議に似ている。けれども上の二ツは神社があって丹後の人を嫌い、墓があって盲人をきらうのに対して、逃入村は墓がある故に天満宮の神霊がこの土地を嫌うのだろう。そうすると、例の古墳はたしかに時平に縁のある人なのだろう。
以下は百樹、山東京山の注釈である。
旅行で小千谷にいた時、土地の人が逃入村のことを話して、例の古墳をご覧になるならご案内しましょうと言ってくださった。天神様が嫌う所へ文墨の者である私が強いてゆく理由もないので、話をきいただけで行かなかった。天神様といえば三歳の幼児も尊び、時平はこの天神様を讒言した悪人として、その悪業は昔から議論して歌舞妓狂言にも作られ、婦女子も含めて広く知られるが、児童たちはその本当の話は知らない。このような小冊子に天神様のことを書くのは畏れ多いが、逃入村との関係でここに記しておく。
菅原の本姓は土師氏で、土師の古人といったが、光仁天皇(奈良時代最後の天皇)の時に、大和国菅原という所に住んで姓を菅原に改めた。天神菅原道真は、字は三、童名を阿呼という。阿呼の名前には私も意見があるが、長くなるのではぶく。仁明天皇(在位は833-850)に仕えた文章博士参議是善卿の第三子として、承和12 年(845 年)に生れた。七歳の時に紅梅をみて「梅の花 紅脂の色にぞ似たる哉 阿古が顔にもぬるべかりけり」と詠み、十一歳の春に父君より月下梅という詩の題をもらうと、「月輝如晴雪梅花似照星可憐金鏡転庭上玉房馨」と即座に詠んでいる。祖父の清公や父の是善卿の学業を継ぎ、文芸と武芸とに優れていた。
清和天皇の貞観元年(859 年)十五歳で元服し、四年に文章生に昇進し、下野(栃木県)の権掾(ごんのじょう)になった。同十四年の28 歳の時母が亡くなり、陽成天皇の元慶四年(880 年)には父の是善卿も69 歳で亡くなった。この時点で、道真は41 歳である。
寛平四年(892 年)48 歳の時に、類聚国史二百巻を撰した。和歌は菅家御集一巻、詩文は菅家文草十二巻同後草一巻があり、このうち後草は筑紫での作品で、現在も伝わっている。大納言公任卿が朗詠集に入れた菅家(道真)の詩に「送春不用動舟車唯別残鶯与落花若使韶光知我意今宵旅宿在詩家」(春を送るに舟車を動かすことを用いず ただ落花とともに残る鶯と別る 若し韶光を使わしめ 我が意を知らしめば 詩歌をよんで今宵の旅宿としよう)とある。延喜天皇(醍醐天皇の別名)が皇太子だった時に命令して、一時の間に十首の詩を作ったうちの一ツである。
さて若い頃よりいくつかの官職を経て、寛平九年53 歳で権大納言右□将を兼ねた。この時、時平も大納言に任ぜられ左□将を兼ね、菅神と並び立つ執政であった。この時点では大臣の官はなかったので、大納言が執政の役である。この年七月三日、宇多天皇が位を太子敦仁親王に譲りって朱雀院に入って亭子院となり、仏門名では寛平法皇となった。敦仁親王が醍醐天皇で、後には延喜帝とも呼ぶが、この時点では13 歳、年号を昌泰と改元した。昌泰二年(899 年)時平公が左□臣、菅神が右□臣として二人一緒に帝を補佐する立場であった。時平は27 歳、菅神は54 歳である。両者は官位では左右同格だが、才徳と年齢では双璧とは言えず、当然くいちがっていた。それが、菅神が讒訴を受ける原因だった。
時平公は大職冠九代の孫照宣公の嫡男で、代々□臣の家柄である。しかも、延喜帝(醍醐天皇)の皇后の兄である。だからこそ、若年なのに□臣という重い職についた。この人の乱行の一ツに、叔父の大納言国経卿が高齢で、叔母の北の方は年若く業平の孫女で絶世の美人だったが、この女性に時平が恋をし、夫人も老いた夫を嫌っていた。時平が国経のところで食事して、酔興にまぎらして夫人を貰い受けたいというと、国経も酔って冗談としてゆるした。国経が酔ったのを見て叔母を抱いて車で自分の元に連れ帰り、こうして中納言敦忠が生まれた。時平の不道徳は、これだけでも十分にわかる。こんな悪者だから、天皇の父寛平法皇は、時平を止めさせて菅神道真一人に国政をまかせようと考えていた。延喜元年(901 年)正月三日、帝亭子院へ朝覲の時にそんな予定を示し、天皇も菅神を亭子院に呼んで予定を述べると、菅神は固辞したが天皇は許さなかった。同月七日従二位にすすんだ。この秘密がどうしてか時平の耳に入り、時平が先手を打って天皇に讒言した。内容は、君の御弟斉世親王は道真の女を夫人として寵遇が厚い、そこで君を廃して親王を立て、国柄を一人の手に握ろうとの密謀しており、法皇もこれに応じているとの風説があると言葉巧みに述べた。この時点で、醍醐天皇は17 歳で、妻の皇后は時平の妹だから、内外より讒毒を流して若い天皇の心をゆさぶったのである。
時平の毒奏はすぐさま的中し、同月廿五日左遷の宣旨が下り、右□臣の職を剥奪し、従二位はもとのままで太宰権帥とし(文官)筑紫に移動と定めた。寛平法皇はこれを聞いて大変に驚き、車にも載らずに徒歩で清涼殿に行って、問題を議論しようとしたが警固が固くて不可能だった。時平一味の計らいである。こうして、法皇は草の上で終日座して、晩になってむなしく本院へ帰還した。
菅神道真には、子供が23 人いた。うち男子四人はあちこちへ流されたのは時平の毒舌による。娘たちは都にとどまったが、幼き女児二人は筑紫へ同道した。年頃愛した梅にも別れを惜しみ「東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春な忘れぞ」と詠った。この梅がつくしへ飛んだことは世に知られている。また桜を「桜花主を忘れぬものならば 吹こん風にことつてはせよ」と詠っている。
こうして延喜元年辛酉二月朔日京の高辻の御舘を出発して、摂津の国(兵庫県)須磨の浦で日を過ごした後に筑紫へと移動した。家を出てからつくしに到着するまでのことを、菅神が筆記したものを須麻の日記として今も世にのこっているが、一説に偽書とも言う。
筑紫太宰府にて「離家三四月 落涙百千行 万事皆夢のごとし 時々彼蒼を仰ぐ」
御歌に「夕ざれば野にも山にも立烟り なげきよりこそもえまさりけれ」
また雨の日に「雨の朝かくるる人もなければや きてしぬれ衣いるよしもなき」と詠っている。ここで、ぬれぎぬとは無実のつみにかかるをいっている。
筑紫についてからは、不出門行という詩を作り、寸歩も門外へでなかった。朝廷を尊し恐れ、自分の身が罪を得た人間であることをつつしんだ故である。
御句に「都府楼纔看瓦色 観音寺只聴鐘声」とある。
(都府楼はわずかに瓦の色を見、観音寺は只鐘の声を聴く:都府楼は瓦の色を看るだけで 観音寺は只鐘の音だけを聴いている。都府楼も観音寺もわずかな距離だが、訪れないとの意味。)
道真は延喜元年二月一日に都を出発して、筑紫には八月に到着した。これより前の詩文を菅家文草といって十二巻あり、左遷より後のを菅家後草として一巻で、今も世に伝わっている。後草に、九月十三夜の題にて
「去年今夜侍清涼 秋思詩篇独断膓 恩賜御衣今在 捧持毎日拝私香」
(去年の今夜は天皇を清涼殿に伺いました。秋を思う詩篇は独り断膓の思いです。その際に頂いた恩賜の御衣は今ここにあって、捧げ持って毎日香りを拝んでいます。)
この御作には注があり、その内容は、去年とは昌泰三年で、つまり延喜元年の一年前で、その年の九月十三夜、清涼殿に侍候した時、秋思という題を頂いて、詩の意にことよせて御いさめましたが、そのいさめを喜んで下さって御衣を頂きました。御衣をこの配所にも持ってきて、毎日その御衣に残る香を頂いていますと、帝をしたい御恩を忘れていない心の誠を述べている。この一詩からも、無実の流罪に対して帝を恨んでないことがわかる。朝廷を怨んで魔道に入り、雷になったという俗世間の間違った説は次に述べる。
高辻の御庭の桜が枯れたと聞いて、「梅は飛び 桜は枯るる世の中に 松ばかりこそつれなかりけれ」
さて太宰府に謫居すること3 年で、延喜三年(903 年)正月の頃より心身に異常を生じ、2 月25 日太宰府で亡くなった。59 歳であった。墓は府に近い四ツ辻という所に定め棺を出したが途中で止まって動かなくなり、その位置に葬ったのが今の神社である。
2 年後の延喜五年八月十九日同所安楽寺に、始めて菅神の神殿を建てることになり、味酒の安行という人が担当し、同九年に神殿が完成した。その前に、四人の子は配流をゆるされ、おのおの元の位に戻った。
道真公が亡くなったのち、水害旱魃暴風雷などの天変地異が頻回に起こって人心が不穏になった。これが菅公の崇だとの風説がたった。
道真が死んで7 年後の延喜九年四月、左□臣藤原時平公が39 歳で死んだ。また子供の八条の大将保忠、その弟の中納言敦忠、時平の女で延喜帝の女御、孫の東宮まで次々死んだ。時平の讒毒に加担した菅根の朝臣も延喜八年十月に死んだ。こうしたことを菅神の崇と世に流布したのは、菅公の無実の罪を世の人が悲しんだからだろう。
延長元年(923 年)三月保明太子が死亡した。時平の孫で、前に東宮といった人である。
同年四月廿日、菅原道真に正二位本官の右□臣に復すという贈位があった。死亡から20年後である。
一条院の御時正暦四年五月廿一日、菅神に正一位左□臣を贈られた。菅神死後百年にあたる。
同年閏十月十九日大政□臣を贈られた。したがって、御神の位は正一位大政□臣である。後年神霊の赫々とした兆候が何度もあり、天満宮や自在天神の贈称もある。
そもそも醍醐天皇は在位32 年と長く、百廿代の皇統の中でも殊に徳が高いと評価されて延喜の聖代と称し、在位が長かったので延喜帝とも呼ぶ。若かった時とはいいながら、時平の讒を信じて真実を極めようともせず、賢者の評判の高かった重臣の菅公を即座に左遷したのは失徳である。一方で、菅神がこれを特に恨まなかった点は配所の詩歌でわかる。菅神は恨まなくても、天は怒って水旱風宙の異変、讒者奸人の死亡などを起こしたのだろう。これを菅神の怨恨とするのは、菅神の賢行をきずつけることになる。しかしひそかにいうに、賢者は旧悪を思わずといっても事と次第により、冤罪を恨んで讒言の首唱者時平大臣を腹の中で深く恨んだかはわからない。本編にいう逃入村を、神が嫌うのもその証拠の一ツとも言えよう。
道真の死から28 年後の延長八年六月二十六日、清涼殿に雷が落ちて藤原清貫(大納言)平稀世(右中弁) その外したがっていた人々多数が雷火で即死した。延喜帝は、常寧殿に移動して雷火を避けた。これも菅神の崇りとするのはとんでもない間違いだと、安斎先生(伊勢平蔵)の菅像弁にも述べている。
太宰府より一里西に天拝山がある。菅神がこの山に登って朝廷を怨む告文を天に捧げて祈り、雷神となったというのは、賢徳道真の心を知らない俗人の妄説を現代に伝える例である。この場面を和漢三才図会にも本当らしく載せているのは、不出門行の御作に心を深めないことになる。
法性坊尊意が叡山にいた時、菅神の幽霊が来て、私には流された恨みを償いたいという気持ちが抜けない、お願いですから師の道力で解決してほしいと述べた。これに対して尊意が答えて、われわらは皆王の民である。私が皇の詔をうければ避けることはできない。菅神はこれを聞いて恥じたようであった。ここで柘榴を食べるようにいうと、菅神はこれを吐き出して焔を噴いたという故事がある。これは元亨釈書の妄説が起源である。これは現在の天保十年から五百廿年前、元亨二年東福寺の虎関和尚の作である。こんな奇怪なことを記すのは仏者の筆癖だと、安斎先生も言っている。
白太夫は伊勢渡会の神職で、菅神文墨で特別の懇友で、ゆえに北野に祀られて今も社がある。この御神のことを作った俗曲に梅王松王桜丸の名があり、例の梅は飛びの歌からつくった名である。
北野神社は、天慶五年(942 年)に勅命で創設された。起源は西の京七条に住んでいた文子という女に神託があったことによると、北野縁起に詳細に書いてある。
世に渡唐の天神と言って、唐服を着けて梅花一枝を持っている絵を描いたものがある。故事は、仏鑑禅師(聖一国師のおくり名があり、東福寺の開山国師号の始祖)が、博多に住んでいた跡の地中から掘り出した石に菅神の霊が唐土に渡って経山寺の無凖禅師(聖一国師の師)から法を受けて日本に帰ったと、問題の石に彫りつけてあったと古書にあるのを根拠として、渡唐の神影を画いたものである。これもデタラメだと、安斎先生の菅像弁に主張している。
菅家聖廣伝暦という書の附録に、菅神渡唐説があるがデタラメに近いと沙門師嵩が述べている。
菅神左遷の実跡を載せたものとして、
○日本紀略 抄録に巻序を失意せり
○扶桑略記 巻卅三〇日本史 百卅三 の列伝 五十九
〇菅家御伝記
神統菅原陳経朝臣御作正史によれば証となるだろう。
その他、虚実混合の古今の書籍は枚挙にいとまがない。
本朝文粋に挙げた大江匡衡の文に「天満自在天神あるいは塩梅於天下輔導一人 帝の御こと 或日月於天上照臨万民就中文道之大祖風月之本主也」云云。大江家は菅原家と共に朝廷に累世する儒臣である。しかるに菅神を崇称たること件の文のようだ。これからみて、およそ文道に関係する者はこの御神を崇めよう、信じよう。
およそ菅神を祀る社には、大抵は雷除の護府という物がある。御神雷の浮名を受けたからで、神霊は雷を嫌うから、このお護りは有効だろう。
こんなことを詳しく述べるのは、本編にいう逃入村の神霊問題に関係して実跡の本を調べて天神の略伝を子供たちに示したいからである。無学の自分が書くことだから、大切なことを落とし間違った説を紹介しているかも知れない。その点はお許し願いたい。
再考すると、孔子様の聖人ぶりはその霊は生きている時より死んでから明確になり、その墓十里に荊棘を生ぜず、鳥も巣をむすばなかったという。関羽(蜀漢の武将)の賢についても、死んで神となって祈に応じている。つまり生は形でめぐり、死んでからは神としてめぐる故だというのが文海披沙の説である。菅神の場合もこれに近い。逃入村のことをみても、千年にちかき神霊がいまだに効果があるとは、敬うべきである。そもそも、黄泉の国では年月が経たないから百年も一日のようなものである。菅公の神霊に類すること和漢に多い。もうこれ以上は止めよう。

時平と天満宮:時平は藤原時平。彼の讒言によって、菅原道真が九州に流されたという。天満宮はもちろん道真を祀る神社。
「筑紫」の発音:今の福岡県である。本書で「つくし」と読ませており、一般にもそう読む。ところが意外にも、福岡市と周辺では「ちくし」と発音するようで、博多駅や高速道路の標識のローマ字表記がそうなっているのを知って少し驚いた。
註:この項目の終りまで、菅原道真の話はすべて「百樹曰」の注釈である。自分でも言い訳しているが、この「逃入村の不思議」で官神の話の部分は冗漫で、ちょっと退屈と感じる。そうは言いながら、道真の死後に京都で何が起こって、皇室を始め周囲が怖れてその後の贈位などに結び付いたという大筋は知っていたが、詳しい内容は本書で初めて知った。この北越雪譜の巻2 は分量が少ないので、出版社の要求にそって「百樹曰」で無理に水増ししたという評価もあり、そうすると山東京山の注釈を「うるさい」と一方的に非難するのは気の毒なのかも知れない。
●田代の七ツ釜:絶壁を造る不思議な岩石群
図 七ツ釜と呼ぶ岩石群の絵である。川を隔てて、向かって右側(左岸)は石が縦に並び、反対側(右岸)は石が横に並んでいる。
魚沼郡の官駅十日町の南七里ほどに、妻在の庄の山中(この辺はすべて上つまりという)に田代という村がある。村から七八町離れて、七ツ釜という場所がある。俗な呼び方で、滝つぼを釜と呼んでいる。この田代の滝は、七段あるので七ツ釜とよぶ。銚子の口とか不動滝などというのも七ツ釜の中であり、素晴らしい景色と不思議な様子は筆では云いあらわせない。第七番目の釜の景色を図でお見せするが、それで基本がわかるだろう。
この場所の絶壁を、竪御号と横御号という。ふつう、伊勢から御師の持ってきたおはらい箱を「おごうさま」といい、この絶壁の石がその箱の形に似ているので、「たておごう、よこおごう」と呼ぶ。似ているという意味は、この絶壁の石が落ちているをみると、厚さ六七寸ほどで平ら、長さは三四尺ほどで長短は一様ではない。しかし、石工が作ったように見事な形である。この石の数百万を竪に積み重ねて、この数十丈の絶壁ができる。頂上は山につづいて老樹が鬱蒼と茂り、この右の方が竪御号(たておごう)である。左側はこの石と寸尺たがはない石を横に積みかさねて数十丈にもなっているが、その他の点は右と同じである。その様子は、人が手を加えて行儀よくつみあげたようで斜になっているところは全くない。天然の奇工奇々妙々は実に不可思議である。
この石の落ちたのを、この田代村の人たちはいろいろな用途にする。ところが、小さな破片でも他所へ持ち出して使うと崇りがあるという。私が文政三年辰七月二日に、この七ツ釜の奇景を訪問して目撃したことを記述した。世の中は広いから、他の土地にも似た所があるかも知れないが、とりあえず例として示しておく。
○百樹の付記:私が仕(つかえ)にいた時、同藩の文学の関先生の話に、君侯封内の丹波笹山に天然に磨いた形の石をつみあげて柱のようなのが並んで絶壁になり、山中全部がこの種の石だと話していた。西国の山に、人が作ったような磨いた石を産する所があると春暉が随筆で読んだこともある。残念ながら、今それがどこだったか思いだせない。
○百樹の付記続: 尾張の名古屋の人吉田重房が著した筑紫記行巻の九に、但馬国(兵庫県北部)多気郡納屋村から川船で但馬の温泉に行く途中を記したる項目に、「舟にのって行く。右の方に愛宕山、宮島村、野上村、石山(地名)などが続いている。この石山の川岸に不思議な石がある。形は磨磐(ひきうす)のようで、上下は平で周囲は三角四角五角八角で、石工が切り出したようで、色は青黒い。一部掘出した跡もあって洞穴になっている。天下は広くて珍奇なことが実にいろいろだ云云」とある。是も奇石の一類だから、筆のついでに記述した。

田代の七ツ釜:釜川は信濃川の支流で、秋山郷の面する中津川の一つ東側を流れ、現在も「七ツ釜キャンプ場」があり、観光地になっているようだ。石の様子は不明。

 

二編巻四
○異獣:サルかヒトかあるいは?
○火浣布(かかんぷ:石綿の布):源内より大型化に成功
○弘智法印:470 年前にミイラ化?
○土中の舟:外国船が何故海から遠くに?
○白烏(しろからす)
○両頭の蛇
○浮嶋:13 の嶋がついたり離れたり
○石打明神:いぼを落として石が丸くなる?
○美人:北の国の美貌の女性たち
○蛾眉山下橋柱:実は道標
○苗場山:1800 年代初期の登頂記
○三四月の雪:冬から春へ、そして夏へ
○鶴が恩に報いる話:稲の新種を提供
●異獣:サルかヒトかあるいは?
図 異獣の絵で、山東京水が描き直さず著者の牧之の絵のようである。
魚沼郡堀の内から十日町へ越える道は七里あり、途中に村はあるが山中の間道である。ある年の夏のはじめ、十日町のちぢみ問屋から堀の内の問屋へ白縮をけっこうな量を急いで送る用事があり、昼すぎに竹助という屈強の男を選び、荷物を背負わせて向かわせた。ほぼ半分きた頃、日ざしは七ツ(午後4 時)に近く、竹助はちょっと休もうと道端の石に腰かけて焼飯(焼きおむすび)を食っていると、谷間の根笹をかき分けて来る者がいた。近よってきたのを見ると、猿に似ているが猿ではなかった。頭の毛は長く脊中にたれて半分は白髪で、身長はふつうの人より高く、顔は猿に似ているが赤くはなく、眼は大きく光っていた。竹助は気丈な男で、用心用の山刀をさげ、寄ってきたら斬り捨てよう身がまえたところ、このものは逃げる様子もなく、竹助が石の上においた焼飯に指さして、欲しいと乞うらしい。竹助はお安い御用と投げ与えると、嬉しそうに食った。これで竹助も気を許しもう一つ与えると、近くにきてこれも食った。竹助が、俺は堀の内から十日町へ行く途中で、明日もここを戻る予定だ、欲しければまた焼き飯をやるぞ、急いでいるので今日はもう行くといって、おろしておいた荷物を背負おうとすると、彼は荷物を持って軽がると肩にかけて先にたって歩いた。竹助は、こいつは焼き飯のお礼に荷物を運んでくれるのかと後についてゆくと、彼は肩の荷物を気にしないようにどんどん行く。竹助はお蔭で、この嶮しい道を楽に越えた。およそ一里半(6 キロ)の山道をこえて池谷村の近くにくると、彼は荷物をおろして自分は山へかけ登って行ったが、速くて風のようだったと、竹助が十日町の問屋で詳しく語ったのが現在まで伝わっている。今から四五十年前のことで、その頃は山で働く人たちが、ときどきこの異獣を見たという。
前に挙げた池谷村の者の話で、村の娘で機の上手なのが問屋から指名されてちぢみの注文を受けた。まだ雪がすっかりは消えずに残っている窓のところで機を織っていると、窓の外に何か立っていた。見れば猿のようだが顔は赤くはなくて、頭の毛は長くたれて人より大きい生き物が覗き込んでいた。この時、家内の者はみな山に出かけて、娘が独りだったのでこわくなり、逃げようとしたが機織りの最中で腰にまきつけた物もあり思うようにならず、ぐずぐずするうちに窓から離れた。ところが、今度は竈(かまど)のところにきて、飯櫃(めしびつ)を指して欲しいという様子をする。娘は異獣のことを以前から聞いていたので、飯を握って二ツ三ツ与えると嬉しそうに持って去って行った。その後も家に人がいない時にときどき来て飯をねだり、後には馴れてこわいとも思わなくなった。
さてこの娘が、大切な注文を受けて急いで縮をおっていて、たまたま月経になって機の仕事を休まざるを得なくなった。この点は、初編に委しく記した通りである。といって仕事をしないと日限に後れてしまう。娘はもちろん、両親も気にして歎いていた。月経がはじまって三日目の夕ぐれ、家内の人たちが畑仕事より戻らないことを知ったのか、例の異獣が久しぶりにやってきた。娘は、人に話すように月経の悩みを話しながら粟飯をにぎってあたえると、異獣はいつものようにすぐ退去せず、少し考え込んでいたが、やがて行ってしまった。ところが娘はこの夜より月経が急にとまり、不思議と思いながら身をきよめて機の仕事を再開して完了し、父親が問屋へ持っていった。この用事が終わったと思う頃に、娘が時期はずれの月経になり、さては私が歎いたのを聞いて例の異獣が私を助けてくれたのかと、聞く人々も不思議に感じたという。
当時は山中でこの異獣を見たものが時折おり、一人でなくて連れがある時は形を見せないという。また高田の藩士が材木の用事で樵夫をつれて、黒姫山に入って小屋を作り山に何日も滞在した時、猿に似て猿ではないものが、夜中に小屋に入って火にあたっていた。身長は六尺(180 センチ)ほどで、髪は赤く、身は裸で、全身は灰色で毛の脱けたように見えた。腰より下には枯草を着けていた。この異獣は人の話にしたがい、のちにはよく人に馴れたと高田の人は述べている。推測だが、和漢三才図会寓類の部に、飛騨・美濃や西国の深山にもこんな異獣の話が載っている。だから、あちこちの深山にいるのだろう。

コメント:話が伝聞なので、著者も戸惑っているようだ。雪の季節なら「雪男」と呼びたいところだが。言葉を解するのだから、普通の人間が何かの理由で世間から疎外され、時々人と接すると解釈するのが無難だろうか。
●火浣布(かかんぷ:石綿の布):源内以上の大型化に成功
宝暦年中に平賀鳩渓源内氏が火浣布を創り、火浣布考という書物を書き、和漢の古書を引用し、日本最初の工夫として流布した。しかし、源内が死んだ後は製法がつたはらず、好事家が残念がっている。ところで、越後には火浣布を作る元の石が産出する。場所は、○金城山 ○巻機山 ○苗場山 ○八海山などで、他にもある。この石は軟弱で爪で壊れるほど軟かい。いろは青黒く、くだくと石綿になる。この石を入手して試めしてみると、石中にある石綿は、木綿の綿を細くつむいだのを数センチにちぎったようなものである。その紡績に特殊な技術が必要で、それで火浣布が造れるのだから、この秘術さえわかれば女や子供でも火浣布は織れる。
ところで塩沢の稲荷屋喜右エ門というものが、石綿を紡績することに工夫を加え、終にこの技術を完成して、最近火浣布を織るのに成功した。同じ頃に、近村の大沢村の医師で黒田玄鶴も同じように火浣布を織る技術を達成した。二人とも、秘密にしてやり方を他の人に伝えなかったが、同じ時に同じ村で二人が火浣布という特殊物の製法を完成したのも面白い。文政四、五年のことである。両人の説によると、頑張れば一丈以上のものも織れるが、容易ではないという。源内のものは五六尺程度だと彼の火浣布考に述べている。玄鶴の仕事が源内にまさる点として、玄鶴は火浣布の外に火浣紙火浣墨の二種を造っている。火浣墨をつかって火浣紙に物をかき、烈火にやけたものをしずかにとりだし、火気がさめると紙も字も元の通りである。
とは言うものの、火浣布も火浣紙も火災の準備としては役立たない。何故なら、火にあうと同じように火となるから、誰かが火の中より取り出さないとやがて砕けて形がなくなる故である。ただ灰にはならないという利点しかない。玩具としての使い道は、いろいろあるだろう。源内が死んで不思議な技術は失われたが、上に述べた二人のおかげで火浣布の技法が再生された。でも残念ながら、この二人も技術をつたえずに死んだので、火浣布は世間からまた消えた。源内は豊かな江戸で織ったので有名になったが、上記の二人は辺境の越後で織ったので知られていない。火浣布の件を、記述して好事家の話題に提供する。
●弘智法印:470 年前にミイラ化?
図 弘智法印のミイラを遠くから描いたと書いてある。
弘智法印は、児玉氏下総国(千葉県)山桑村出身の人である。高野山で密教を学び、生れたところに戻って大浦の蓮花寺に住み、諸国を行脚して越後に来て、三嶋郡野積村(この地の言い方で「のぞみ」村)の海雲山西生寺の東の岩坂という所に錫杖をとめて草庵をつくって住み、貞治二年(1363 年)癸卯十月二日この庵で亡くなった。辞世として口伝に伝わっている歌に「岩坂の主を誰ぞと人問わば 墨絵に書きし松風の音」と詠んでいる。遺言で、死骸は埋められていない。今の天保九年(1838 年)から数えると477 年になるが、かたまった亡骸が生きているように見える。越後では、24 不思議の一つに数えている。いくつかの本に少し書いてあるが、図はないので、ここに図を載せる。この図は私が先年下越後を旅行した時に目撃して描いた図である。見えるのは顔面だけで、手足は見えない。寺法で近よって観ることも許されなかったが、眼を閉じて眠ったようであった。頭巾や法衣は昔のままではないだろう。他の土地では聞いたことのない越後の奇跡の一つである。
百樹の注釈:中国にも弘智に似た話がある。唐の世の僧の義存が死んだのち屍を函の中に置き、毎月宗徒たちが函から出して爪と髪の伸びた分を切っていた。百年後にも残っていたが、その後に国が乱れて結局火葬にしたという。また宋人彭乗が作墨客揮犀に述べた話では、鄂州の僧乏夢も屍を埋めず、爪と髪が伸びる点も同様であったが、婦人が手を触れるようになると爪も髪も伸びなくなったという。五雑組に枯骸の確論があるが、釈氏をなじるような話になるからここには書かない。高僧伝に義存の事が書いてあったと記憶しているが、特に重要とも思わないので追求しない。
●土中の舟:外国船が何故海から遠くに?
蒲原郡五泉から一里(4 キロ)離れたところに、下新田という村がある。ある時、村の者が用事で阿賀野川の岸を掘って、土中から長さ三間ほどの船を掘り出した。全体は少しも腐っておらず、形は今の船と異なるだけでなく、ふつうなら金具を用いる箇所をみな鯨の髭を使って、金属はまったく使っていない。木自体も材木の種類が誰にも判別できず、おそらくは外国の船だろうということになった。私が下越後に旅した時、杉田村小野佐五右エ門の家で、問題の船の木で作った硯箱を見たが、木質は中国産ともおもわれた。昔、漂流してきた外国の船だろうか。
●白烏(しろからす)
本書は雪譜と題するから、他のことをいうのは前にもいったように歌でいえば落題(題意を読み違えていること)にあたるが、雪の話はまた出てくるので、とりあえずは思い出したことを書く。
天保三年(1832 年)辰四月、私が住む塩沢の中町の鍵屋某の家に高い木があった。この樹に烏が巣をつくり、雛が少し頭を出すころ、巣の中に白い頭の鳥が見えた。主人は不思議に思って人に命じて捕えさせた。形は烏だが真っ白で、嘴と眼と足は赤い雛であった。珍しいので、人々が集って見物した。主人は籠を作って気をつかって養育し、少し成長すると鳴声も烏と同じだった。私も近所なので、朝夕観ていた。珍しいと欲しがる人も多く、江戸へ連れて行って見世物にとの話もあったが、主人は惜しがって許さなかった。雪の時期になると、山のいたちや狐の餌が乏しくなって人家に降りて、食物をぬすむようになる。おそらくはそういう類のものの仕業だったのだろう、雪の季節に籠が壊れて白烏は羽だけ縁の下に残っていたと聞いた。初編に白熊のことを載せたので、白烏もまたここに記した。

白熊も白烏も「アルビノ」、つまり突然変異で黒い色素を作る能力を失った体質の個体で、動物では他にも例が多い。白ウサギも茶色の野ウサギのアルビノを固定したものという。
●両頭の蛇
文政十年(1827 年)亥の八月廿日隣の宿場六日町のはずれで、川村の農人太左エ門の軒端に、両頭の蛇が出てきたのを捕えた。長さは一尺(30 センチ)未満で、頭が二ツ並んで枝になっている。その他の点では、色も形もふつうの蛇と同じであった。その辺にあった古い箱にいれ、餌もいれて飼っていたが、二三日で逃げてしまい、付近を捜したがみつからなかったという。
●浮嶋:13 の嶋がついたり離れたり
小千谷から西一里(4 キロ)のところに芳谷村があり、ここに郡殿(こおりとの)の池という四方二三町(2,3 百メートル)の池に、浮嶋が十三ある。晴天で風のない時は日が出ると十三の小嶋はおのおの離散して池中を遊ぶように動き、日没後は池の中心部にあつまって一ツになる。この池には、変わったことがいろいろあるが長くなるので述べない。羽州(山形県)の浮嶋は記録があって人にも知られているが、この郡殿の池の浮嶋はあまり知られていない。
●石打明神:いぼを落として石が丸くなる?
小千谷の農民某の土地に小社があって、石打明神と呼んでいる。昔から祀っているというが、縁起は聞いていない。余分ないぼなどできるとこの神にお祈りし、小石でいぼを撫でて社の縁の下の格子の中へ投げいれておくと、数日していぼが落ちる。一方、投げ込んだ小石は、元来元の形から丸い石となる点も不思議である。そんなわけで、社の縁の下は大小の丸石で一杯である。
○百樹の注釈
私が小千谷に旅行した際、この石をみて話の種に一ツ持ち帰ろうとしたが、土地の人は、神様がこの石を惜しんでいるというので一度拾い取ったのを元の所へ戻した。数万の石が人の磨いた玉のようである。神の行うことは、人間の知では測れないことが多い。

「石打明神」は瑞玉神社ともいい、所在は石打ではなく記述の通り小千谷近郊である。
地名の石打は塩沢より南で、小千谷からは40 キロほども離れている。
●美人:北の国の美貌の女性たち
この項目は、全体が百樹山東京山の記述である。
小千谷での話である。私が小千谷の岩居の家に旅宿した天保七年(1836 年)八月、筆をとる仕事に倦きたある日、山水の秋景色でも観ようと歩いて、小千谷の前を流れる川に向かう丘に登り、用意の手紙など書いていた。
毛氈を老樹の下に敷き煙草を吸いながら眺めていると、引舟は浪に遡らってうごかないようにゆっくりと、下る舟は流れにのって矢のように飛んでいった。雁が字をならべたように飛び、きこりの姿も画のようである。木々は霜に染って少し紅葉し、遠くの連山には僅かに雪がきて白くみえた。寒国の秋景色は江戸の私には目新らしく、思わず一休みして少し眺めていると、十六七の娘が三人各自柴籠を背負って山を登ってここで休み、なにか話をして笑うのが聞こえた。
山水に目を奪われていると、「火をかしてください」といって煙管が出てきた。顔を見ると、髪はみだれ特に化粧もしていないのに、生まれつきの美形ぶりは花とも玉とも言えそうである。着ているものは粗末だが、中身は璧のようである。私はびっくり驚いて山水の眺めるのをやめてこの娘たちをみていると、お礼を述べて向こうへ行き、樹の下の草に坐って足をなげだし、きせるの火をうつしてむすめ三人みな吸っていた。これほどの美人と話すのは、つたない芝草が美しい樹木の傍らに育つようで、白い歯をこぼしてにっこり笑う様は白芙蓉の水を快い微風に揺らすようである。
残念ながら、これほどの美人もこんな辺境に生れ、田舎者の亭主の妻となり、素晴らしい妻がまずい夫と一緒に眠り、荊棘と共に朽ちてしまうのはまことに憐れである。江戸に連れて行けば、富貴の家で美人として暮らし、あるいは繁華街で町を揺るがす栄華をきわめて、隣国出羽で生れた小野小町のような美人の名を欲しいままにするかも知れないのに。こんな美人をこの僻地に出生させるとは、神様はことを理解していないと独りため息をついていると、娘は来たときと同様にふたたび柴籠を背負って連れ立って去っていった。
見送ってから考えてみると、越後には美人が多いと言うがその通りである。他でもない、水が良い故だろう。だから織物の清白な点で、越後の白縮以上のものはなく、この辺は白縮を産するのも、水が優れていることによる。河の水が清ければ女性も美しいと、謝肇淛が言ったのも当然と思いながら宿に帰った。これこれで美人に会ったと岩居に語ると、彼のいうには、この女性たちはこの辺で有名な美女で、先生を他国の人とみてたばこの火を借りたのでしょう、ちょっと憎いですね、という。私の反応は、いやいやにくいどころか、私からたばこの火を借りて美人とえんを(煙と縁を掛けた)むすんだのだ」と冗談をいうと、岩居手をたたいて大いに笑い、先生違いますよ、あれは屠者の娘ですと聞いて再び愕然となった。汚い土壌から妖花が出るとはこんなことかと、話したことである。
もう一度考えてみると、小野の小町は出羽の国(山形県)の郡司小野の良実の娘である。楊貴妃は蜀州の司戸元玉の娘である。日本も中国も北国の田舎娘が世に美人として名を馳せている。美人は北方にあるというのも、北は陰位だから女性が美麗になるのだろうか。二代目の高尾は(万治1655-1661)野州(栃木県)に生れ、初代の薄雲は信州に生まれて、両者とも吉原で有名だった。だから、越後にこんな美人を見るのも北国だからだろう。

屠者の娘:「屠者(としゃ)」は、動物を殺して肉や皮を扱う仕事で、江戸時代にはふつうの人は行わず、エタ(穢多)という特殊階級の人が行っていた。「部落民」という言い方もする。島崎藤村の名作『破戒』は、このテーマを扱っている。この言葉や考え方は、現代でも一部の地域や社会では完全には払拭されずに残っている。
●蛾眉山下橋柱
図 峨眉山道標と思われるものが越後に流れ着いたのを偶然拾って描いたもの。
文政八年(1825 年)乙酉十二月、越後の苅羽郡椎谷の漁師が、ある日椎谷の海上で漁をしていて、一本の木の漂っているのを見て薪にでもしようと拾って家にかえり、乾かそうと庇に立てかけておいた。椎谷は堀侯の領内である。椎谷の好事家が近くを通って、これはとんでもない性質のものだとよく見ると、峨眉山下橋という五つの大きな字が刻んであった。そうすると中国の物と判断し、漁人には代わりの薪を与えてこの木を貰い受けたという。さて私の旧友の観励上人は、椎谷の少し離れたところの田沢村浄土宗祐光寺にいて、学問の深いことで知られ、以前から好事の癖があって例の橋柱の文字を活字に彫って同好者たちにおくり、その上に橋柱に題する吟詠をお願いし、これも版木に彫って、世に流布させようとしたが、何か理由でまだ実現しないでいる。
問題の橋柱は、後に領主の所蔵品となって眼に触れなくなった。椎谷は私と同じ国の中だが、距離が遠く実物はみる機会がなかったのが今になってみると残念である。写しの図を、ここに載せておく。
百樹の注:(この項目は、ここから以下はすべて「百樹の注」で、牧之の文章は上で終わっている。)
牧之翁がこの草稿にのせた図を見て考えたことがあり、実説を詳しく検討してみると次のようである。
了阿上人の和歌の友相場氏が椎谷侯の殿人ときいて、上人の紹介をもつて相場氏に対面して件の橋柱のことを尋ねてみると、これは橋柱ではなくて道しるべ(道標)だという。書翰入れを出して、その図を見せてくれた。私の友の画人千春子が真物を傍において縮図を描き、峨眉山下橋という五字は相場氏みずから心をこめて写したという。下に描いた図がこれである。彫った人の頭を左に向かせ、その下に五字を彫りつけたのは、蛾眉山下橋はここから左にあるとの方向を示す道標だと話してくれた。これで理路整然としている。現在も、指を描いてその下に進むべき場所名を記すのをみることがあり、日本も中国も考え方は共通している。
さてこの道標を入手した経路から、私の推測は以下のとおりである。北の海は、どこも冬には北風が烈しく、これによって物が磯に打ち上げられる。椎谷は焚き物にとぼしい所で、貧民は漂流物を拾い取って薪にする。ところが文政八年酉の十二月に、例の如く薪を拾いに出で、柱のようなものが波に漂うのをみると人の頭のようで気味が悪い。貧民がおそれてたちさったのを、ものかげから見ていたら磯にうちあげられたので拾った。文字は書いてあるが読める者はなく、何だろうといろいろ話し合っていたところへ、ちょうど近くの西禅院の僧が通りかかり、唐詩選で記憶していた蛾眉山の文字を読み、中国の物だと話した。持ちかえった人も、さすがに中国の物ときいて薪にしなかったので、伝わってついに主君の所蔵となったと語ってくれた。
想像すると、蛾眉山は唐土の北に在る険しい山で、富士のような高山である。絶頂の峯が二つあって八字なので、蛾眉という名がついている。この山の道標が日本の北海へながれきた水路を詳究しようと「唐土歴代州郡沿革地図」をみて、清国の道程図中を検索した。蛾眉山は清朝の都から四百里(1200 キロ)ほど北にあり、この山に遠くないところに一条の大河が東に流れ。蛾眉山の麓の河はすべてこの大河に入る。
この大河は瀘州を流れ三峡のふもとを過ぎて江漢につき、さらに荊州に入り、○洞庭澗 ○赤壁 ○潯陽江 ○楊子江の四大江を経て、江南を流れ下って東シナ海に入る。
水路全体は五百里(2000 キロ)ある。さて問題の道標は、洪水でもあって川に流れ込み、○洞庭○赤壁○潯陽○楊子という四大江を流れて沈まなかったのだ。滔々と流れる水路五百里を流れて東海に入り、大波に何度ももまれ風波に転々したものの断れたり折れたり砕けたりせず、そのまま真っ直ぐの姿で日本近海を漂い、北の海の海岸に近よって、椎谷の貧民に拾われて始めて水から離れ、あやうく薪となって燃えてしまうところを、幸いに字の読める識者にあって灰になるのをのがれ、文学者たちの題材となって題咏のテーマとされて詠われた上に、ついには椎谷侯の愛をうけて身を宝物殿に安置され、不朽の名品として保管された。実に奇妙不思議な天の幸で、稀世の珍物である。
*縮図は左のようだ。長さは一丈余で、周囲二尺五寸余。木質は何とも判明しない。
推測してみると、蛾娥同韻(五何反)なら意味が通じて時々本で見る。橋が違う文字になっていて(橋の字が木扁でなくて、つくりの上に木が書いてある)、かなりの異体文字である。だから明人黄元立が〔字考正誤、清人顧炎武が亭林遺書中に在る〔金石文字記や〔碑文摘奇 藤花亭十種之一あるいは楊霖竹菴が〔古今釈疑中の字体の部など通巻一遍捜索したれどもこの字はない。蛾眉山のある蜀の地は、都から遠く離れた辺境の地である。推測すると、田舎製の道標だから学者が書いたものではなく、ふつうの俗人が書いたものだろう。だから日本でも竹の字を人扁に書いたりする類の誤りかもしれないが、この点については博識の方の議論をまちたい。

蛾眉山:中国四川省の高山、高度は3000m 強。
異体字:この文字はみる通り、橋の字が木扁でなくて、つくりの上に木が書いてある。この字は、パソコンではみつからなかった。
「椰子の実」との類似性:百樹の説明を読んでいて、島崎藤村の名詩と大中寅二の名曲で知られる『椰子の実』にかかわる逸話を思い出した。こちらは、後に民俗学者として名をはせた柳田國男氏が伊良湖岬で椰子の実を拾い、それを友人の藤村に話したのがきっかけと判明している。藤村自身は伊良湖を訪れていない。
●苗場山:1800 年代初期の登頂記
図 苗場山登頂時の絵である。千曲川の他に、佐渡・能登などが描かれているが、本文にある富士山は見当たらない。
苗場山は越後第一の高山で、魚沼郡にあって登り二里と言う。山頂に天然の苗田があり、昔からこの名がついた理由である。峻しい山の頂上に苗田があること自体、とても変わっている。この奇跡を実際に見たいと年来考えていたところ、文化八年(1811 年)七月に思い立って嘯斎擷斎扇舎物九斎の友人四人と、他に従僕等に食品類その他必要な物をもたせ、同月五日未明に出発して、其日は三ツ俣という宿場に泊まり、翌日暁から頑張ってこの山の神社につき、各自お祓をうけ案内人を傭った。
案内人は、白衣をつけ幣(ぬさ)を捧げて先にすすんだ。清津川を渡渉し、やがて麓についた。がけの道を踏み嶮しい路を登ると、ぶなの木が森となって日を遮り、山篠が生い茂って路を塞いでいる。枯れた老木が折れて路に横たわるのを乗り越えるのが、寝ている竜を踏み越える気持ちだ。渓流をわたり、さらに半里(2 キロ)ほど、右に折れてすすみ左に曲ってのぼる。奇木怪石のいろいろな姿や様子は、筆には描写しきれない。半分ほど来て鳥の声もきこえず、東西の方向もわかりにくく道もない。案内人はよく知っていてどんどん進み、山篠をおしわけ幣を捧げて道を示す。藤蔓が笠にまとい、竹が茂って身を隠し、石が高く道は狭く、平坦なところは一歩もない。正午過ぎにやっと半分きたと言われ、僅かの平地をみつけて用意の茣蓙を木蔭に敷いて食事し、暫らく休んでからまたどんどん登って神楽岡という所に到着した。
ここを過ぎると他の木はほとんどなくなり、俗に唐松(訳註)という背の低い森があちこちにある。梢は雪や霜で枯れるからだろうか。登っては少し下って御花圃という所では、山桜が盛かりに咲き、百合・桔梗・石竹(せきちく)の花などが咲いて、その様は人が植えて丹精したかのようだ。名もしらない異様な草も多数あり、案内人に訊くと薬草だという。さらに登ると桟道に出て、岩にとりつき竹の根につかまって進み、一歩毎に声を上げながら気を張り、汗をながし、千辛万苦しながら登りが終わりに近づいて、馬の背という所についた。両側は千丈の谷で、歩く路は僅かに二三尺(60〜90 センチ)、一歩間違えば木っ端微塵になるだろう。各自おそるおそる歩いて、ようやく頂上に到着した。
一行十二人は、まず草に座って休んでいると、すでに午後4 時である。登り二里の険しい山道で、はじめから一日で往復は不可能で、頂上に小屋があって、苗場山に登る人は必ずその小屋に一泊すると案内人は述べていた。今その小屋をみると、木の枝・山笹・枯草などを取りあつめ、藤桂で何とか這って入れるように作って、乞食の住まいのようである。これが今夜の宿とは切ないといって、みな笑った。
下僕たちは枯枝を拾い、石をあつめて仮のかまどをつくり、もってきた食物を調理し、一方で水を手に入れて茶を煎れ、上戸は酒の燗を急ぐのも面白い。さて眺望すると、越後はもちろん、浅間の煙・信濃の連山などみな眼下に波うってみえる。千曲川が白い糸のようで、佐渡は青い盆石をおいたようである。能登半島は蛾眉(三日月型の美しい眉)の姿で、遠い越前の山は青くかすんでいる。さて眼を拭って、日本一の富士を見つけた。その様子は、雪を一握り置いたようだ。みな手を拍ち、不思議だといい、美しいと称讃した。どちらをむいても素晴らしい景色で、応接に忙しい。雲が脚の下から湧くかと思うと、急に晴れて日光が眼を射る。身体が天の外にでもある気分だ。この頂上は周囲が一里と言う。広々として雑草が茂り、ほとんど高低がない。山の名にいう苗場という所が、あちこちにある。この状況は、人がつくった田の中に、人が植えた苗に似た草が生えているようである。苗代を半分とりのこした感じの所もある。これは不思議だとおもうと、田には蛙もいて普通の田とこの点も変わりがない。どんな日でりでも、田の水が乾いて枯れることはないという。二里も登った山の頂上で、こんな奇跡を観るとは不思議な霊山である。
案内人の言うには、前にいった御花圃から別に道を行くと、竜岩窟という所があり、洞窟内に一条の清水が流れそのほとりに古銭が多く投げ込まれていて、鰐口が二ツ掛って神を祀るという。昔からそう言い伝えている。もっともこの道は、現在では草木で塞って通行困難だという。頂上の石に苗場大権現と刻してあり、案内人はこの石は人が作ったものではなく、天然の物というが、これは単なる俗説だろう。あちこち見てまわるうちに日がくれたので小屋に入り、内は提灯を下げてあかりとし、外では火を燃やして食事の準備をして、食事を済ませて酒を飲んだ。六日の月が皎々と輝らして空も近い気分で、桂の枝を折って神に祈りたい気持ちになった。各人、詩作し歌をよみ、俳句を吟ずる人もおり、時が過ぎると、寒気が次第に烈しくなり、用意した綿入れをつけても我慢できないほどで一晩中焚き火にあたって夢をみることもなく、明け方の空を待っていると、晴れ渡ってさあ御来迎を拝み下さいとの案内人の言葉で、拝所にいって日の昇るのを拝み、それから支度を整えて山を下った。別に紀行を書いたので、ここでは簡単に述べた。
百樹注:私が越の国に旅した時、牧之老人からこの苗場山の地勢を委しく聞き、実景の写生図も見た。頂上の平坦な苗場の不思議、竜岩窟の古跡など、水も入手しやすい山なので、おそらくは大昔に誰かがこの山を開山し、絶頂を平坦にし、馬の背の天険をたよりにここに住居を構えて住み、耕作もしたが、その人たちが亡くなって魂がここにとどまって苗場の不思議を生んだものと想像した。歴史を詳しく探究すると、これに関係するヒントくらい見つかるかもしれないが、学者たちの意見を知りたいものだ。

幣(ぬさ):紙や布でつくったひらひらしたもの。お祓いにつかう。
三ツ俣:現在もスキー場があって使われる地名で、おそらく近い個所だろう。
コメント:
1)現在の登山でも、お祓いの儀式を受けることがある。奈良県大峰山のことは別に述べたが、2005 年に白山に登頂した時は麓の白山神社と山頂の神社の両方でお祓いをうけた。白山の場合、「必要」ではなくて1994 年にはふつうに登山した。日本の山は「霊山」とされ、富士山をはじめ麓と頂上に神社があるものが少なくない。
2)苗場山は、上越国境の谷川岳などからは少し北に離れて信越国境にある。この連山中では横手山の2300m に次ぐ高峰で、標高は2145m である。横手山は長野県と群馬県の境だから、この連山では苗場山が越後の最高峰である。ただし、「苗場山は越後第一の高山」との本文に敢えて異を唱えると、越後の山では妙高山が2456m と高く、長野・新潟・富山にまたがる白馬岳2932m はさらに高い。
3) 「俗に唐松という背の低い森が-----」。原文は「俗に唐松といふもの風にたけをのばさゞるが」となっている。現在言う唐松は背が高い。たけの低いのは「這松」である。著者が混同しているのか、呼び方が当時と今と異なるのか不明。
4) 著者牧之は1770 年生まれだから、苗場山登頂時の1811 年は42 歳くらいの壮年であった。雪との関係は乏しいが、記述が具体的で詳細で江戸時代の登頂記として興味深く、本書全体の中でも出色の印象を受ける。実体験だけに、伝聞や講釈とは別格の迫力である。「苗場」に関して、百樹氏が昔実際に水田として耕作されたと推測するのは面白いが、否定されているようだ。私自身が苗場登頂の経験のないのが残念である。
●三四月の雪:冬から春へ、そして夏へ
図 4 月の雪解けのムードを描いた絵で、凧揚げや馬の走りが素晴らしい。京水の絵ではなく牧之自身の絵のようである。
この土地では、冬はもちろん、春になっても二月頃までは雨が降ることはない。雪が降るからである。春の半ばになると小雨の日もあり、この頃には晴天はもちろん、雨でも風でも、去年来積もった雪が次第に消える。それでも、家の付近で乾(いぬい、北東の間:訳註)にあたる方はきえるのが遅い。山々の雪は里地より消えるのがおそく、春陽の天然につれて雪解けに水が増え、毎年水難の災いがある。春の末になると、人の住んでいる付近の雪は自然に消えるのをまたず家毎に雪を取捨て、あるいは雪を籠にいれて捨てる。鋸で雪を切り裂いてすて、また日向の所へ材木のように積み重ねておく。こうすると早く消える。少しの雪なら、土や灰をかけると消えるのが早い。
そもそも、前年の冬のはじめから雪が降らなくとも空は曇り、快く晴れた空を見ることは稀で、家の周りを雪に埋められて手もとが暗かった。この土地に生れて慣れてはいるが、雪に籠るのは当然気が滅入って楽しくない。しかし春の半ばになって雪囲をはずすと日光が明るく、始めて人間世界へ戻った気持ちになる。
ある年の夏、江戸から来た行脚の俳人を泊めたところ、この地方をいろいろ見物してこんな質問を受けた。豊かな家の庭は手をつくしているが、垣根のつくりがどれも粗末なのは何故かという質問である。答は簡単で、変に思うのも無理もないが、粗末に作っておくのは雪のためである。いくら頑丈につくっても、一丈(3 メートル)を越える雪で必ずつぶされるから、簡単につくって雪の降り始めにとりはずすのだと話した。つまり、三月の末になると我先にこの垣を作り直すのである。
雪の中では馬は足がたたず耕作もせず、百日あまりも空しく厩で遊ばせておく。雪がきえる時になると馬も知っていて、しきりに嘶いて外に出ようとする。人間もまた長期間ちぢめてきた足をのばそうと馬をひきだすから、馬もよろこんではねあがったりする。胴縄だけつけた裸馬に跨って、雪の消えた場所を走らせる。馬は冬ごもり中の飼い方で痩ることと肥ることがあり、やせた馬では馬主の貧さがわかってしまう。馬だけではない、子供たちも雪の間は外で遊べず、夏の始めになると冬に履いた藁沓を捨てて、草履やセッタ(雪駄:訳註)になり、凧などで駆け廻るのも本当に嬉しさうである。桃桜もこの頃がさかりで、雪で花を見ることになる。

乾(いぬい):著者鈴木牧之はわざわざ「北東の間」と注釈しているが、乾(いぬい)は北西である。北東は丑寅(うしとら;「艮」とも書く)をいう。著者の勘違いだろう。
雪駄:竹の皮の草履に牛皮をつけたもの。「雪」の字があるが、雪では使わない。
●鶴が恩に報いる話:稲の新種を提供
天保七年丙申の春、魚野郡の小千谷の縮商人芳沢屋東五郎で俳号を二松という人が、商いで西国に行ってある城下に逗留している間、旅宿のあるじがこんな話をした。近在の農夫が、自分の田地で病気の鶴が死にそうなのを見つけ、貯えてあった人参などで療養して病を治したところ、何日もたたずに治って飛去っていった。さて翌年の十月、この農家の庭近く鶴が二羽舞いおり、稲二茎を落し一声ずつ鳴いて飛びさった。主人が拾って見ると長さが六尺(1.8 メートル)以上もあり、穂もそれだけ長く、穂の一枝に稲が四五百粒ついている。さては去年の病気の鶴が恩に報いようと異国から咥えてきたのだろう、とにかくとても珍しい稲だと主人は考えて領主に献上した。領主はしばらく預かったのち、そのまま農夫に賜った。領主がうまく育てるようにとおっしゃったので、苗代に気をつけて植えつけ、実際によく生えて実ったので、国守へも奉ったと言う。その人にも尋ねて訊くと、鶴を助けた人は東五郎が縮を売った家だから、その家に行ってさらに詳しい話を聞いた。
それでは国の土産にしよう、穀種を一二粒頂きたいとお願いすると、越後は米のよいところときいているから成長もよいだろうと、もみを五六十粒くれたので、それを国に持ちかえって由来を述べて主君に奉ったところ、御城内に植えさせ、東五郎には御褒賞などを賜ったと小千谷の人がその頃に話していた。考えてみると、私のような下層階級の人間でもこれほどよい時代に生れたからこそ平穏に暮らして、こんな筆もとれるのだ。さてこれから千年の平和を祈って、鶴の話を締めくくりとしよう。
なお雪の奇談その他いろいろ珍しい話でこれまで載せなかったのも多いから、仕事の暇をみて次の話を続けたいものである。
図 本文の最後に載っている絵。本文との関連がわからない。
コメント:中の文章は私には読めない文字が多いので、読めた限りを記す。
タイトルは「阪額野陣図」
長の太郎(改行)讒に遭い(改行)鎌倉より(改行)討手来たもう?(改行)阪額女大将(改行)として遠く(改行)いて軍に勝て(改行)野陣を張る(改行)事は本文に(改行)あり文?(改行)今(改行)一図を(改行)のこし(改行)
児曹の(改行)観た供(改行)軍器(改行)の時代は(改行)棄て(改行)訂(改行)となっている。
絵の中の文章を読もうとして、まったく読めないのに我ながら呆れた。はずかしいが実力不足は如何ともしがたい。意味はとれていない。
岩波文庫では、この絵を「越後の人物」の項目に載せている。そこに、百樹の注で「板額」という文字が出ている。一方、野島出版の書では末尾に載せている。

京樹のコメントにもある通り、著者は「まだこの後も書き続けたい」と述べて本書を終わっている。実際には、北越雪譜自体がこれ以上書かれることはなかった。

 

附1 元号のリスト簡略版
本書に登場する元号と、他の事柄との関係で私が知って有名と考える元号だけ抜き出して注釈を書きました。元号は歴史の学習には不便で不合理です。江戸時代はともかく、それ以前は元号の数が多い割に参照する事件が少なく、イメージがほどんどありません。
元号 使用年 備考
1 大化 たいか 645 〜 649 大化の改新
4 大宝 たいほう 701 〜 703 大宝律令
6 和銅 わどう 708 〜 714 和同開珎
8 養老 ようろう 717 〜 723 養老律令
10 天平 てんぴょう 729 〜 748 天平文化
平安遷都:平安時代の約300 年間に90 代
18 延暦 えんりゃく 782 〜 805 延暦寺
30 寛平 かんぴょう 889 〜 897 本書で新撰字鏡を参照
31 昌泰 しょうたい 898 〜 900 本書で新撰字鏡を参照
32 延喜 えんぎ 901 〜 922 延喜式
34 承平 じょうへい 931 〜 937 承平天慶の乱
35 天慶 てんぎょう 938 〜 946 (平将門、藤原純友の乱)
93 保元 ほうげん 1156 〜 1158 保元の乱
94 平治 へいじ 1159 平治の乱
鎌倉開府:140 年ほどで45 代
108 建久 けんきゅう 1190 〜 1198 本書に縮みで登場。1192 年が建久三壬子。
136 弘長 こうちょう 1261 〜 1263 本書に親鸞上人に関して登場
137 文永 ぶんえい 1264 〜 1274 文永の役(蒙古襲来)
139 弘安 こうあん 1278 〜 1287 弘安の役(蒙古再来)
室町開府:240 年に40 代だが南北朝の問題が加わってわかりにくい
156 建武 けんむ 1334 〜 1335 建武の親政
170 文安 ぶんあん 1444 〜 1448 本書に下学集(国語辞書)のことが登場
177 応仁 おうにん 1467 〜 1468 応仁の乱
181 明応 めいおう 1492 〜 1500 本書に節用集のことが登場
190 天正 てんしょう 1573 〜 1591 天正大判
191 文禄 ぶんろく 1592 〜 1595 文禄の役(秀吉の朝鮮出兵)
関ヶ原の合戦、江戸開府:260 年間に35 代ほど
192 慶 長 けいちょう 1596 〜 1614 慶長大判
193 元和 げんな 1615 〜 1623 大坂夏の陣
194 寛永 かんえい 1624 〜 1643 寛永通宝・寛永寺・寛永御前試合・寛永三馬術
196 慶安 けいあん 1648 〜 1651 慶安の変(由井正雪らの幕府転覆計画)
198 明暦 めいれき 1655 〜 1657 明暦の江戸の大火
200 寛文 かんぶん 1661 〜 1672 本書で雪中の火を記述された年と
204 元禄 げんろく 1688 〜 1703 元禄時代、赤穂浪士の討入り
205 宝永 ほうえい 1704 〜 1710 富士山宝永山生成。本書に江戸風俗を説明。
206 正徳 しょうとく 1711 〜 1715 本書に、江戸の風俗を禁止したと説明。
207 享保 きょうほ 1716 〜 1735 享保の改革
215 天明 てんめい 1781 〜 1788 天明の大飢饉、浅間山の噴火。本書にも登場。
216 寛政 かんせい 1789 〜 1800 寛政の改革
217 享和 きょうわ 1801 〜 1803 本書で新撰字鏡を村田春海が版木にしたと。
218 文化 ぶんか 1804 〜 1817 文化文政時代
219 文政 ぶんせい 1818 〜 1829
220 天保 てんぽう 1830 〜 1843 天保の改革、本書出版
222 嘉永 かえい 1848 〜 1853 ペリー来航
223 安政 あんせい 1854 〜 1859 安政の大獄
227 慶応 けいおう 1865 〜 1867 大政奉還
明治以降
228 明治 めいじ 1868 〜 1912
229 大正 たいしょう 1912 〜 1926
230 昭和 しょうわ 1926 〜 1989
231 平成 へいせい 1989 〜
附2 度量衡のリスト
本文中にも一部書き込みました。
長さの換算(曲尺)
尺貫法(曲尺) メートル法
1 里=36 町 3.93 km(ほぼ4km)
1 町=60 間 109.09 m (ほぼ110m)
1 丈=10 尺 3.03 m
1 間=6 尺 1.818 m
1 尺=10 寸 0.303 m
1 寸=10 分 3.030 cm
1 分=10 厘 3.030 mm
1 厘=10 毛 0.303 mm
1 毛 30.3 μm
この他に、鯨尺という少し大きいものがあります。織物関係で使用します。
【度】面積・広さの換算(尺貫法)
尺貫法 メートル法
1 町=10 段 0.992 ha 1 ヘクタールに非常に近い
1 段(反)=10 畝 9.917 アール
1 畝=30 坪 0.9917 1 アールにほぼ等しい(=10m 四方)。
1 坪=10 合、36 平方尺(6 尺四方) 3.3 m2
【量】体積・容積 大きさの換算(尺貫法)
尺貫法 メートル法
1 石=10 斗 180.39 l
1 斗=10 升 18.039 l
1 升=10 合 1.8039 l
1 合=10 勺 1.8039 dl
【衡】質量、重さの換算(尺貫法)
尺貫法 メートル法
千貫=1000 貫 3.75 t 15/4 t
1 貫=1000 匁 3.75 kg 15/4 kg
1 斤 160 匁 0.6 kg b 3/5 kg
1 匁= 10 分 3.75 g 現代でも、金(キン:gold)の換算には稀れに使うようです。
1 尺や1 貫などは、明治に入ってメートルに合わせて決め直したので、割合にすっきりし
た数値と比率です。
附3 地図:本書の概略の関係
一部、場所が同定できたものを書き込みました。地図の源はその下に書いてあるものを使
用して少し変更を加えました。