これも生き方

瀬戸内寂聴 逝く

愛情 恋愛
不倫 浮気 女の性

女の業


正直に生きました
 


寂聴の墓石人間の業書ける喜び恋愛や歴史小説青空法話さようなら寂聴先生理想の最期出家秘話私たちに残したものユーモアの裏で貫いた信念50代60代が持つべき矜持前進する生き方痛烈安倍批判秘書瀬尾さん寝たきり生活煩悩の作家出家の理由愛することは許すこと自分がばかだった寂聴の名言格言源氏物語の世界58年前の手記生きるための10の秘訣瀬戸内寂聴・・・
女の業業が深い紅絹に感ずる女の業寂聴の娘・・・
 
 
 

 

●瀬戸内寂聴さん、99歳死去 墓石には「愛した、書いた、祈った」と刻む
小説「夏の終り」などで知られる作家で天台宗の尼僧の瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう、旧名・瀬戸内晴美=せとうち・はるみ)さんが9日午前6時3分、心不全のため京都市内の病院で死去した。99歳だった。10月に体調を崩し入院していた。自らの不倫経験や性愛も包み隠さず著書につづり、流行作家として活躍するさなか、51歳で得度(出家)。執筆の傍ら尼僧としても精力的に活動し、ユーモラスな法話でも人気を博した。葬儀は近親者のみで営まれ、後日都内で「お別れの会」を開く予定。
人間の業と愛を描き、波乱万丈の人生を駆け抜けた寂聴さんが極楽浄土への旅に出た。
寂聴さんは14年に胆のうがんを患うも回復。しかし、昨年ごろから体調を崩し、コロナ禍の影響もあり京都・嵯峨野に構える自坊「寂庵」を一時的に閉め、同所での法話や写経なども休んでいた。
亡くなる直前まで新聞や雑誌に複数の連載を抱えるなど、執筆意欲は衰えなかったが、今年5月には脚の血管が詰まり手術。一度退院したが10月から再び体調不良で入院していた。週刊誌「AERA」の誌面で美術家・横尾忠則さんとの往復書簡連載も同月から休み、秘書や担当編集の代筆が続いていた。
徳島県の神仏具商の家に生まれた。東京女子大在学中に見合いした男性と1943年に学生結婚。長女をもうけるも、学者だった夫の教え子と不倫し、48年に家族を残し駆け落ち。少女小説家として活動し、57年「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞を受賞し、本格的に作家の道へ。翌年「花芯」で描いた奔放な性描写が「子宮作家」とバッシングを受け、5年ほど文壇から遠ざかった。
63年に妻子持ちの年上作家と、かつて家出を決意した年下の男との間で揺れる女性の心理を描いた自伝的小説「夏の終り」が再評価され作家として復活。「かの子撩乱」「美は乱調にあり」などの伝記文学でも、実在した人物をダイナミックに描いた。73年、51歳のときに岩手県の中尊寺で得度し、本名の晴美から法名・寂聴を名乗るように。98年には「源氏物語」全10巻の現代語訳を完結させ、平成の源氏物語ブームの火付け役となった。
執筆の傍ら、尼僧としても精力的に活動。寂聴さんの法話は、戦争の経験や道ならぬ恋など自らの経験を土台に、仏の教えをユーモラスに語る内容で、抽選の申し込みが殺到する人気ぶりだった。晩年は66歳差の秘書・瀬尾まなほさん(33)との家族さながらのやりとりも話題に。新しいものにも積極的で、18年からはインスタグラムも始めていた。
義理堅い人柄でも知られ、俳優の萩原健一さんが83年、大麻事件を起こした際には判決翌日に萩原さんを寂庵でかくまい、知人の寺で修行をさせたことも。連合赤軍事件の永田洋子元死刑囚との交流を続けるなど、社会的な活動も多かった。東日本大震災後には原発再稼働に反対しハンストを行い、15年には国会前の安全保障関連法案反対集会に参加。母親と祖父を亡くした戦争体験から、平和の尊さを訴え続けた。
名誉住職を務める岩手・天台寺にすでに墓を購入。墓石には「愛した、書いた、祈った」と刻むことを決めていた寂聴さん。100歳を前に、愛と自由を謳歌(おうか)した人生に幕を下ろした。
 
 
 

 

●瀬戸内寂聴さん(99)死去 “人間の業”見つめ続け・・・ 
作家として活躍した僧侶、瀬戸内寂聴さんが今月9日、亡くなりました。99歳でした。瀬戸内寂聴さんは9日、心不全のため、京都市内の病院で死去しました。
瀬戸内寂聴さん「自分はただ一人、同じ人がいないって、すばらしいことだと思いませんか。自分と同じようなのが、向こうから来たら気持ち悪いでしょ」
僧侶として恋の悩みや病への恐怖など、人々の苦悩に寄り添い続けた寂聴さん。1922年に徳島県で生まれました。作家を目指して上京後、お見合い結婚。太平洋戦争のさなか、夫とともに北京へ渡り長女を出産します。しかし、帰国後、夫の教え子の男性との不倫が原因で離婚。家族をすてて恋の道に走りましたが、その関係も長くは続きませんでした。
瀬戸内寂聴さん「だめ男すきなの。(Q.なぜ)なぜかしらね、自分がしっかりしているから」
30代からは、女性の性や恋愛を描く作家として頭角をあらわします。
瀬戸内寂聴さん(1963年、当時40歳)「非常に愚かなことの繰り返しをしておりますから、自分のことを通して女の業というふうなもの、そういうことを追い求めていかれたらいい」
そして、51歳で出家。自らの人生の紆余曲折を赤裸々に語る講演なども積極的にこなしました。
瀬戸内寂聴さん「私たちは自分が健康だったら、健康のありがたさなんて思ったことないのね。自分が病気になって初めて、健康ってありがたいなと思う」
2006年には作家として文化勲章を受章しています。市民運動にも精力的に参加してきました。
瀬戸内寂聴さん「戦争にいい戦争はありません。戦争はすべて人殺しです。殺さなければ殺されます。こんな事は人間の一番悪いこと」
終戦後、中国から命からがら日本に引き揚げた経験や空襲で母を失ったことなどが、その後の平和運動への原動力になったといいます。
瀬戸内寂聴さん「我々の戦争を知っている人間がね、黙っていたから、こういうことになった。だからやっぱり年寄りは、引っ込んじゃいけないんじゃないかな」
かつて自身の最期については、このように語っていました。
瀬戸内寂聴さん「もうそれは何度も何度も考えてる。書斎でね、仕事してペン持って、原稿用紙置いてね、もう疲れ果ててね、こうやって死にたい」
夏以降、入退院を繰り返しながらも、つい先月までは、雑誌の連載の執筆を続けていたという寂聴さん。後日、都内でお別れの会が行われるということです。
 
 
 

 

●瀬戸内寂聴「今年99歳。夜中に転倒し入院しても、いまだ書ける喜び」
価値観を変えれば次の道が開ける
世界中で新型コロナウイルスの感染が拡大するという思わぬことが起きた2020年が終わり、2021年を迎えました。
最近の寂庵はとても静かです。出かけることもできないし、人様に「いらっしゃい」とも言えませんから。毎月行っていた法話や写経の会を開くこともできません。それをすればお堂はいつも人でぎゅうぎゅうになるので、まだ当分は難しいでしょう。
そういうわけでいつもは静かな寂庵ですが、秘書の瀬尾まなほが子どもを連れて来た日には、賑やかになります。1歳になったばかりの男の子ですが、本当にかわいいの! 将来、ものすごいイケメンになるんじゃないかしら。
子どもの成長というのは、本当に早い。ついこの前生まれたばかりだと思っていたのに、もう小さな歯が2本生えて、髪の毛も、ふさふさしてきました。一方、私は髪の毛がないので、子どもは最初は不思議そうな表情で私のことを見ていましたよ。でも今はすっかり慣れたようで、仲良く一緒に遊んでいます。
私は若い頃、4歳の娘を置いて婚家を飛び出してきたため、自分の孫を抱く機会がありませんでした。それなのに今、こうして身近にいる赤ん坊と、無心になって戯れているのですから、つくづく人の巡り合わせは不思議なもの。
5月に誕生日を迎えれば、私は99歳になります。もう99年も生きてきたのかと、自分でも驚いてしまいます。
今から100年ほど前、世界中でスペイン風邪という感染症が流行しました。ちょうど私が生まれた頃、日本でも大勢の人が亡くなり、今と同じように、みんな病気に怯えて暮らしていたのです。
スペイン風邪によって恋人を亡くし、失意の時にやさしくしてくれた中国人の留学生と半ばヤケになって結婚したという日本人女性を知っています。その方とは、私が夫とともに北京で暮らしていた時にもまた出会い、いろいろ親切にしていただいたのです。とても思いやりのある旦那様との間に、かわいらしいお嬢さんが2人生まれていました。当時はそんなふうに、感染症がきっかけで、人生が変わった人がずいぶんいたものです。
人の運命というのは、どう動くかわかりません。人生の総決算は、死ぬ瞬間にしかできないのではないでしょうか。どんなに貧しい家に生まれても、チャンスを掴んで成功する人もいれば、恵まれた家庭に生まれても、辛苦を経験する人もいます。
不幸だと思ったできごとが、実は思いがけない幸福への入り口になることだってあるのですから、コロナ禍の間に暮らしを見直し、価値観を変えることで、次の道が開けるかもしれません。
失ったものを数え出したらきりがない
昨年10月には、夜中に寂庵の廊下で転んでしまい、けっこうひどい怪我をしました。足の先が痛むので杖をついて歩いていたら、杖が滑ってしまったのです。頭から廊下に打ちつけたので一瞬気絶して、気がつくと、全身の痛みで声も出ないほど。
朝になるのを待っていると、出勤してきたまなほが気づいてくれて助けられました。顔もぶつけたので、目の上に大きなたんこぶができ、まぶたも腫れ上がってしまい、ひどいありさまでした。それこそ、化けて出たお岩さんのようなひどい顔!
もともと、脚の血管の詰まりを治す手術を受ける予定があったのですが、転倒のために急遽入院を早めて検査を受けることに。CTを撮ってもらった結果、骨折などはしておらず、脳に異常も見られませんでした。ついでに予定していた脚の血管を拡げる手術も済ませてもらいました。
入院直後はとにかく全身が痛くて、身動きもできない状態。まぶたが腫れているから、読み書きもできません。顔の傷は紫色から青、赤、黒と変色して、目も当てられない。やっと治ってきましたが、鏡を見て「なにかおかしいな」と思ったら、眉毛が片方なくなっているんです。(笑)
リハビリと脚の治療を終え無事退院しましたが、さすがに夜中に一人でいるのは危ないということで、交替でスタッフの誰かが泊まってくれるようになりました。ですから今は、夜も安心して過ごせます。執筆も再開していますし、こうして取材を受けられるくらい元気になりました。
たしかに、まったくつらくなくなったと言えば嘘になります。スタッフはみんな、とてもよくやってくれるけれど、痛みを代わってもらうことはできませんしね。でも私は今、とても幸せですよ。原稿が書けるし、本はいくらでも読めますから。
歳を重ねれば、なにかしら体に悪いところが出てきます。私も90歳頃から、腰椎圧迫骨折や胆のうがんの手術などで、何度も入院しています。もちろん痛みで苦しんでいる時は、「神も仏もあるものか」といった気持ちにもなる。でも快復すると、また心が元気になるのです。
人間、悪いところや失ったもの、手に入らないものを数え出したらきりがありません。逆に、今持っているものに目を向けると、それが幸福につながるはず。
私は今、目が見えて、書くことができるので、それで満足。片方の耳はかなり遠くて補聴器が必要ですし、若い頃のようにさっさと歩けませんから多少は不便を感じるけれど、ちっとも不幸せではないと思います。私にとって、本が読めて原稿が書けるというのは、本当に幸せなことです。
仕事の依頼が元気の源に
ありがたいことに、この歳になっても原稿を依頼してくださる方たちがいます。不思議なことに、注文があるといくらでも書くことが湧いて出てくる。今も締め切りとの闘いです。
退院後も時々、仕事で徹夜をしていますよ。私の原稿を待っていてくださる人がいるというのが、元気の源になっているのかもしれません。
読みたい本も山ほどあります。2020年は三島由紀夫さんが亡くなってちょうど50年たったから、いい機会だと思い、三島さんの本を読み返しました。やっぱり三島さんの作品は面白い。読み出したらやめられなくなり、時間がたつのも忘れてしまいます。気がつくと、一日中読み続けていることも。それで慌てて、夜になってから原稿用紙に向かうことになるのですが。(笑)
私は三島さんとは、一時期かなり密接なおつき合いをしていました。知り合ったのはずいぶん昔で、私がまだ作家としてデビューする前。三島さんの作品に感激してファンレターを送ったら、面白がって返事をくださったのがきっかけです。それから文通が始まり、私が作家になってからはお顔を合わせる機会も増えました。
もし今、三島さんが生きていらしたら、世の中についてどんなふうに思ったか。ちょっと聞いてみたかったですね。三島さんが割腹自殺を遂げた事件から、もう50年。そう思えば、100年なんてあっという間だという気がします。
どうしたら女性が幸せに生きていけるか
『婦人公論』は私よりもちょっとだけお姉さんで、今年創刊105周年を迎えるそうですね。私は、デビュー直後でまだ無名の作家だった頃、「徳島ラジオ商殺し事件」の現地ルポルタージュを書く機会をいただいたことがあり、とても貴重な経験となりました。
この100年ほどの間に、女性の地位は大きく変わりました。私が若い頃は、女は男に従属するしかないし、人権も認められていませんでした。働く場所も、電話交換手くらいしかなかった。
でも今では、自分が働いて家族を養っているというような頼もしい女性がたくさんいますね。秘書のまなほも、普段は子どもを保育園に預けて仕事をしてくれていますが、昔は子どもを預けて働くなんて考えられませんでした。女性が働く環境は、まだ不十分な点はあるかもしれないけど、100年の間に大きく進歩したと思います。
日本よりは男女同権が進んでいるはずのアメリカでも、女性大統領はまだ誕生していませんが、今年カマラ・ハリスさんが歴史上初の女性副大統領に就任します。これをきっかけに、たくさんの女性が後に続くことでしょう。
日本の女性政治家も、決して数は多くありませんが、頑張っている人が少しずつ増えてきています。20年の4月、私の出身地の徳島市で、36歳の内藤佐和子さんが史上最年少で市長に当選しました。徳島県内の長に女性が就くのは初めてのことだとか。やはり皆さん、若い女性の柔軟な発想に期待する気持ちがあるのでしょう。
私は作家になって以来、一番力を入れた仕事は近代女性の伝記でした。田村俊子をはじめ、岡本かの子や『青鞜』の女性たちを次々書きました。伊藤野枝を書いたのは、自分でも誇らしい仕事をしたと思っています。『源氏物語』の現代語訳をしたおかげで、王朝の女性たちの素晴らしい生き方も教えられました。
100年生きてつくづく思うことは、日本の女性の資質の素晴らしさです。その末端に生きた自分はなんと幸福だったかと思います。
 
 
 

 

●瀬戸内寂聴さん死去 99歳 恋愛や歴史など題材に数々の小説発表  
恋愛や歴史、そして老いなどをテーマに数々の小説を発表し、法話を通じて多くの人たちに生き方を説いた作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが9日、心不全のため京都市内の病院で亡くなりました。99歳でした。
瀬戸内寂聴さんは徳島市出身で、大学を卒業後、本格的に小説の執筆をはじめ1957年に「女子大生・曲愛玲」で文芸雑誌の賞を受賞して文壇デビューしました。
1963年にはみずからの波乱万丈な恋愛経験をつづった私小説「夏の終り」で女流文学賞を受賞するなど、恋愛小説や伝記小説を次々と発表し、経済的にも精神的にも自立する新たな女性の生き方を生き生きと描いて多くの女性の読者から圧倒的な支持を受けました。
1973年、51歳のときに作家として新しい生き方を模索したいと岩手県の中尊寺で得度しました。
その後も、愛や芸術に生きる女性や信仰の道を求める人などの姿を通じて「性」や「老い」など人間の本質を鋭く描き出す作品を数多く執筆し、1992年には一遍を描いた「花に問え」で谷崎潤一郎賞を受賞しました。
また、「源氏物語」の現代語訳は、当時、ブームの火付け役となり、光源氏を取り巻く女性に焦点を当てた新しい視点と読みやすい表現で高い評価を受けました。
1997年には文化功労者に選ばれ、2006年には文化勲章を受章しています。
瀬戸内さんは作家としての執筆活動の一方、僧侶としても30年以上にわたって各地で法話を続け、多くの人々の悩みや苦しみに耳を傾け、みずからの思いをことばにして伝えてきました。
また、東日本大震災のあとには、東北の被災地を回って多くの被災者を励ましました。
2012年には関西電力大飯原子力発電所運転再開に反対するハンガーストライキに参加したほか、2015年には安全保障関連法に反対する国会前のデモに京都から駆けつけてマイクを握るなど、社会的な活動にも積極的に参加していました。
瀬戸内さんは、90歳をすぎていた2014年5月に背骨を圧迫骨折して入院したほか、同じ年には胆のうがんでも手術を受けましたが、療養後、執筆や講話の活動を再開していました。2017年には、小説家としての自身の生涯と闘病の体験を題材にした長編小説『いのち』を95歳で刊行し、体力的にもこれが「最後の長編小説になる」と語っていました。
出版社などによりますと、瀬戸内さんは先月から体調を崩して病院に入院していたということで、瀬戸内さんは9日、心不全のため京都市内の病院で亡くなりました。99歳でした。
葬儀は近親者で執り行われ、後日、都内でお別れの会を開く予定だということです。
 

 

 

●二戸・天台寺「青空法話」で人々勇気づける 瀬戸内寂聴さん死去
訃報です。岩手県二戸市の天台寺の名誉住職を務める、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが9日、心不全のため京都市内の病院で亡くなりました。99歳でした。徳島市出身の瀬戸内寂聴さんは伝記小説や恋愛小説で人気作家となり、数々の文学賞を受賞。2006年には文化勲章を受章しました。その一方で1973年には平泉町の中尊寺で得度し、本名を晴美から法名の寂聴に改めました。1987年には二戸市浄法寺町にある天台寺の住職に就任。毎年、春の例大祭に合わせて境内で行ってきた説法「青空法話」には多くの人が足を運びました。その後も、名誉住職として天台寺や東北に心を寄せ続けた寂聴さん。東日本大震災直後には沿岸の避難所を訪れ、被災者を励ましました。
(瀬戸内寂聴さん/2011年6月 野田村)
「がっかりしないで、希望を見失わないで」
(瀬戸内寂聴さん/2015年10月 天台寺)
「大切なものはね、目に見えないの。目に見えるものは大したことないの。本当にその人がどんな人かは目に見えないの。それが分かるようになるのが長く生きているということなんですよ」
(瀬戸内寂聴さん/2016年5月 天台寺)
「何のために生きるかというのはね、愛するために生きるんですよ。何かを愛するために。だからね、どうかみなさん惜しみなく何にでも愛を注いでください。生きることは愛することです。私の最後のご挨拶、覚えておいてください」
岩手での法話は2017年が最後となりましたが、この時もユーモアあふれる「寂聴節」は健在で、生きる意味を説いた説法は多くの人を勇気づけました。また、寂聴さんはおよそ35年間住職を務めた天台寺にお墓を設けたと、深い思いを示していました。
(瀬戸内寂聴さん/2017年5月 天台寺)
「私もそこへ入るんです。ちゃんとお墓を買ってあるんです。ちゃんとお金出して買ったんです。一緒に入りませんか?ハハハ。もう来られないと思いますけど、私の魂はずっと天台寺に留まります」
瀬戸内寂聴さんの訃報を受け、天台寺の菅野宏紹住職は「天台寺の復興、寺の運営に尽力いただいたご恩に感謝するとともに謹んで哀悼の意を捧げたい」と話しました。また中尊寺の奥山元照貫首は「東日本大震災では物心両面にわたり復興にご尽力いただき、被災地東北の人々に多大なるお力添えを賜りました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます」とコメントしています。
 
 
 

 

●「さようなら、瀬戸内寂聴先生」 
某月某日、いつか、この日が来ることは分かっていた。
そして、訃報というのはだいたい、目覚めと同時に、訪れる。
文芸誌「すばる」のかわさきちえこさんから、先生の訃報の詳細と追悼文の依頼がメールボックスに入っていた。
自然とパソコンに向かっているのだけど、なんでだろう、あふれ出るように、言葉が出てこない。
言いにくいことではあるが、悲しみはなく、むしろ、これで先生、楽になられますね、とぼくは間違いなく、どこかで思っている。
自分の気もちがまだよくわからない。
先生が亡くなられた正確な時間はわからないけど、亡くなられたと報道されている時間から推察するに、ぼくはその日、フランスの西の浜辺にいた。
今は、我が息子が大学生になった後、人生の終の棲家にしたいと思って買った海辺のアパルトマンで一人暮らしの訓練をはじめている。
なぜか、胸騒ぎがして、家から出て、目の前に広がる浜辺で沈む夕陽を見ていた。
その時間に亡くなったかどうかはわからないけど、あとで、旅立たれた日と聞いて、納得した。
それが、かつて一度も見たこともない、寂しい太陽だったからだ。
その時、別れというものはこうやって、日々に教えられていることだ、と思った。
「さようなら、この日はもう永遠にさようなら」
先生にもっと長生きしてほしかった、と思われた方は大勢いらっしゃるだろう。
先生に励まされた皆さんならば当然であるし、ぼくも寂庵などの法話の会に何回か参加させてもらったことがあるので、多くの方が先生に救いを求めてそこに集まっていたのを知っている。
でも、だからか、先生は今、肩の荷がおりているのではないか、と想像もしている。
「やだなぁ、ぼくは先生の追悼文だけは書きませんからね」
と大昔、先生に暴言を吐いたこともあった。
百歳まで生きてほしかったというどなたかの優しいメッセージを読んだが、それは、有難い想いではあるけれど、もう、あっちへ渡られた先生には、百という数字は意味がないのかもしれない。
「辻さん、またね」
出会った頃、寂庵から去る時に、玄関口で先生は笑顔で寂しそうに言ったものだ。
ぼくは何を覚えているというのであろう。
先生に厳しくされたことしか、思い出せない・・・。
そうやって、手を差し伸べてくれた時より、厳しく突き放された時のことばかり、思い出す。
30年以上のお付き合いだからかもしれない。
私の息子のような子だ、と人に紹介された時もあるけど、本音で叱られた時の方が多かった。
ちょっと前から、先生が亡くなられる気がしてならず、何度も先生の携帯に電話をいれていた。
珍しく返事もなく、寂庵にかけても、受付の人は出るのだけど、なぜか、繋がらなかった。
お別れが出来そうにないな、と実は覚悟していた。
コロナが世界的に流行ってから、多分、もうお会いできない、と諦めていた。
そういえば、ぼくが瀬戸内先生とあまりに仲がいいものだから、母さんに、私には会いにこないくせに、また京都にいるのか、と焼きもち焼かれたこともあった。
先生の仕事場で飲み明かしたことがある。2人で一升瓶をあけた。豪快な人だった。
でも、酔って寝てしまったぼくが、次に目を覚ました時、先生は机に向かっていた。
鉛筆の芯が原稿用紙をこする音が響き渡っていた。
ぼくが知る先生は、あの笑顔の瀬戸内寂聴さんではない。
ぼくの中で昭和がやっと終わった。
先生は、寂しさを常に横に置いている方でもあった。
宗教と小説はどちらが大切ですか、と訊いたら、即答で、小説に決まってるでしょ、と戻ってきて、静かな笑いに包まれた。
ある意味、創作の鬼みたいな人だった。
書けなくなることの方が、生きられなくなることよりも、寂しいのかもしれない。
涙がとまらない皆さんは、先生の名前を思い出してほしい。
寂しく聴く、と書く。それは人間のことである。
生きている人が生きている間に精一杯生きることが、先生がやってこられたことだと思う。
 
 
 

 

●瀬戸内寂聴さんが3年前に語っていた理想の“最期”
作家の瀬戸内寂聴さんが亡くなった。99歳だった。瀬戸内さんは1922年、大正11年生まれ。『花心』『夏の終り』など多数の代表作があり、数々の文芸賞を受賞してきた。1997年には文化功労者に、2006年には文化勲章を受章。近年は体調不良と戦う日々ではあったが、つい最近まで筆を執り、意欲的に創作活動を続けていた。
女性セブンでは3年前、元外交官の小池政行さんが瀬戸内さんにインタビューした模様を掲載(2018年4月19日号)。そこで瀬戸内さんは「理想の最期」を語っていた。瀬戸内さんの元気なご生前のお姿を偲び、当時のインタビューを再掲載する。

瀬戸内寂聴さんは、1956年に処女作『痛い靴』を発表した。それから60年を超える小説家生活の間には、女性の性愛を赤裸々に描いたことで「子宮作家」と揶揄され文壇から消されかけた期間も存在する。出家したのは51才のときだ。そんな瀬戸内さんに、元外交官の小池政行さんが、瀬戸内さんが今の世の中に抱く思いに迫った。
「お坊さんには、守らなければいけないことがたくさんあるんです。“嘘をついてはいけない”とか、“人の悪口を言うな”とかね。でもね、小説家というのは嘘を書くのが職業ですよ。悪口言いながら食べるご飯は、本当においしいの。そんなのやめられないじゃない(笑い)。
だから、“人がいちばん守れないものを守ろう”と思って、それでセックスを絶ったんですよ。51才のときから、そういったことは1回もありません。誰も信じてくれませんけどね(笑い)。でも、仏さまはちゃんと見てくださっているからそれでいいんです」(瀬戸内さん・以下「」内同)
──恋愛感情を抑え込んだわけですか。
「いいえ、今でも恋愛はしています。長生きをするエネルギーの源は、やっぱり恋愛をすること。あの人素敵だな、お話ししたいなって思う気持ちは、生きる糧になります。恋愛すれば心がみずみずしくいられる。心がみずみずしいと、体もシワシワにならないのよ」
──人生の終わりをどう迎えるかは、寿命が延びた現代人の大きなテーマです。私の身内にも、介護が必要で施設に入っている人間がいます。
「私もね、きっと介護度4くらいじゃないかと思ってるんですよ。自分で」
──またご冗談を。頭は?
「はっきり」
──耳は?
「聞こえます」
──足は?
「歩けます」
──どこにも問題ないじゃないですか!(笑い)
「あらそう? 今はまだ、お風呂に入るのも、着物を着るのも全部自分でできます。もちろん、おトイレなんかも誰の世話にもならなくて済んでいます。でもね、もし仮に認知症になったり、介護が必要になったりするんだとしたら、その前に死んでしまいたいと思っているんです。
私の昔からの知り合いに、奥さんに先立たれてから、少しずつ弱ってしまった人がいました。気位が高くて、とても洒落た人だったのですが、それこそ下の世話まで誰かにやってもらわないといけなくなってしまって。
その後その人が亡くなったとき、ちょっとホッとした自分がいたんです。“これで、やっとあの人のプライドが守られる”って。特に女性は、最後まで美意識を保っていたいと思うでしょう?
だから私は、最後の最後まで意識がはっきりしてて、“みんな、本当にお世話になったね。さようなら”って言って、パタッと“その時”を迎えたいと願っています」

長く「青空説法」として法話の会を続け、多くの人を笑顔にしてきた瀬戸内さんの在りし日の姿が目に浮かぶようなインタビューだ。ご冥福をお祈りいたします。
 
 
 

 

●瀬戸内寂聴さん出家秘話 背負い続けた人間の業 51歳で人生最大の転機
今月9日、心不全のため99歳で死去した作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん。女性の心の深淵(しんえん)を描く小説で人気を博し、晩年は心に寄り添い、励ます法話で多くの人から親しまれた。自分の心と正直に向き合い、愛に生きた壮絶な半生を振り返ると、人間の業を背負い続けた生き方がみえてくる。
10月から体調不良で入院し、『週刊朝日』で連載していた美術家、横尾忠則氏(85)との往復書簡も秘書らによる代筆が続いていた。11月5日号では「体力を戻すために歩き始めたりしているので、ご安心ください」と回復傾向にあることを報告していたが、再び筆を執ることはできなかった。
まさに波瀾(はらん)万丈の人生だった。東京女子大在学中の1943年に、教師をしていた14歳上の男性と結婚。長女をもうけたが、25歳のとき、夫の教え子と不倫関係となり、家族を捨てて駆け落ちする。
その後も妻子持ちの年上作家と恋に落ち、さらに年下男性も加わっての三角関係を続けるなど、その奔放な愛の遍歴をもとにつづった『夏の終り』で世間を驚かせる。しかし、そこに貫かれているのは、人間として抱き続ける純粋な愛の姿だった。
73年11月、51歳にして最大の転機を迎える。すべての生活を捨てて出家したのだ。このときの様子を、夕刊フジはこう伝えた。
寂聴さんが、作家で天台宗大僧正の今東光(こん・とうこう)さんに弟子入りを志願したのは同年9月ごろ。最初は取り合わなかったが、本気で出家を考えていることを知り、10月初め、弟子になることを許した。
今さんは自身の法名「今春聴」から、「春」の字を生かそうとしたが、「“春”ではなまめかしすぎるので、“聴”の字をいただけないかしら」といわれ、寂聴に決めた。法名を知らされると「うれしい。よく“寂”の字を思いつかれた」と感激したという。
得度式を終えて、尼僧姿となった寂聴さんの言葉をこう報じている。
《「得度してみて僧正以上にさわやかで荘厳で、しあわせな感じです。カミソリをあてられたときも別に悲しいといった気持ちはありませんでした。(ふだんも衣を着るのかと聞かれ)これまでの着物には手を通しません。こんなカッコじゃ洗濯がしにくいですね」と屈たくなく笑い「しばらくここ(中尊寺)においてもらうつもり」と話していた》
 
 
 

 

●瀬戸内寂聴さんが、私たちに残してくれたもの
いつもどおり朝のニュースチェックをしていたら、ある見出しがふと目に留まった。瀬戸内寂聴さんが、心不全のため京都市の病院で死去したという。半信半疑で該当リンクをクリックし、記事の中身を確かめたが、それはどうも本当らしい。彼女は99歳だった。
私はもちろんご本人とは一切面識はなく、ただ単に遠くからその華々しい活躍を見つめてきたファンの1人にすぎない。しかし、寂聴さんはもう筆を執ることはないと思うと、無性に悲しみがこみ上げてくる。何度かラジオやテレビ越しで耳にした、相手の心に語りかけるような、静かな声、ウイットに富んだ会話も聴けなくなるのか、としみじみに思う。
携帯の待ち受けは「寂聴さん」
ほかのニュースにさっと目を通して、インターネットのブラウザを閉じる。携帯のホーム画面を埋め尽くしているアプリアイコンの隙間から壁紙がちらりと垣間見て、そこにはまさに寂聴さんの姿がある。赤と黄色の模様をバックに、満面の笑みをたたえる先生のお顔が浮かび上がっているのだ。その画像がお気に入りの1枚で、数年前から待ち受けに使っているけれど、なんとなく優しく見守られているような感じがする。
瀬戸内寂聴さんは、瑞々しくて細やかな筆致で愛、性、老いといったテーマを描き続けて、文学を通してさまざまな女性の声を伝えてきた作家である。
1922年に徳島市で生まれ、東京女子大学在学中に結婚。いったん北京に渡るが、敗戦で帰国してから離婚に踏み込み、学生時代より夢を見ていた執筆活動を本格的に開始。1956年に処女作『痛い靴』を発表して、後に『田村俊子』、『女徳』、『花に問え』などといった名作を次々と出版。
とはいえ、彼女が歩んできた人気作家への道は決して平坦なものではなかった。
出家前の「瀬戸内晴美」時代、若き頃に書いた『花芯』という作品が過激であるとの非難にさらされ、批評家により「子宮作家」というレッテルを貼られるきっかけとなる。その後、一時的に文壇から追放されてしまい、沈黙を余儀なくされたわけだが、ボイコットされても、彼女はめげなかった。大衆雑誌や週刊誌に活躍の場を広げて、まっすぐ突き進んだのだ。
懲りずに、1963年に女流文学賞を受賞した『夏の終り』で再び物議を醸す。2人の男性の間に揺れ動く女性の苦悩を切実に描いたその作品は、作者本人の実体験に基づいていることが広く報じられ、話題を集めた。
それよりはるか前に、森鴎外、田山花袋、谷崎潤一郎、太宰治をはじめ、数々の文豪たちが自らの私生活をベースとした小説を綴り、恋愛体験、家庭内問題や不倫などについて公言したりしていたが、やはり女性作家が同じように愛と性という問題に真っ向から向き合おうとすると、世間の風当たりが強い。
今それが少しでも変わっているのであれば、寂聴さんのこれまでの大胆さや勇猛果断な行動にもいくらか感謝をしなければならないのかもしれない。
複雑な心理を的確に捉える感受性、恋に対する計り知れないパワーがあったからこそ、彼女の視線は、才能豊かで奔放な人生を送った近代の女性たちに向けられ、その姿を生き生きと蘇らせた。そして、次第に古典文学にも注目していった。
「源氏ブーム」の立役者に
瀬戸内寂聴が著した『源氏物語現代語訳』(全10巻)の刊行が始まったのは1996年12月からだった。準備に5年、翻訳完成までに5年、あしかけ10年という月日を捧げた力作は、滑らかな「です・ます」調が特徴的だ。
文章がすっと頭に入ってくるその読みやすさのおかげで、「寂聴源氏」は普段から古典文学にあまり寄り付かない読者層の心までつかんで、評判となった。彼女は2000年代のいわゆる「源氏ブーム」の立役者の1人でもあり、『源氏物語の女君たち』『源氏物語男君たち』などといった入門書も数多く手がけた。
古典、特に『源氏物語』に対する思いについて、「それは、もっと多くの若者にこのすばらしい日本の誇りの物語を読んでもらい、日本の文化遺産のすばらしさを知ってほしい」と、ご本人が自ら説明している。
平安文学を題材とした作品が多いなか、私は特別に印象に残っているのは、2004年に刊行された『藤壺』という1つの短い小説。
それは藤原定家の手による『源氏物語』の注釈書、『奥入』にも言及されている「かかやく日の宮」と題された幻の帖から着想を得たものだ。
光源氏より5歳ほど年上の義母、帝の妃でもある藤壺宮は、幼い時になくなった生母・桐壺に酷似しているという。時間を共に過ごしているうちに親密な関係となり、切ない恋心を募らせている2人は、やがて結ばれることになるが、奇しくも、その最初の逢瀬は『源氏物語』において描かれていない。そこで、永遠に失われた「かかやく日の宮」の巻のなかでその内容が記されていたのではないか、と寂聴さんが推測する。そして、『藤壺』という作品では、それについて空想をめぐらせる。
許されぬ恋に手を貸した女性の心境
『源氏物語』が作成された当時、高貴な女性のいる屋敷、ましてや妃が暮らす後宮、に忍び込むのはけっして容易いことではなかった。だからこそ手ほどきをしてくれる女房の役割が非常に重要だったわけだが、寂聴さんは藤壺宮の心の機微ばかりではなく、許されぬ恋の成就に手を貸した女性の心境にまで思いを馳(は)せる。
「・・・源氏の君の手をしっかりと自分の胸に押し当て、眦をさけるほど見開いて、真正面から男君の双の目の中を見据えました。「ようございますか。この企ては、人倫の道にも仏の道にも叛いた極悪道でございます。生きて露見すれば只事ではおさまりますまい。万に一つもあの世まで秘密が保たれたなら、無間地獄へ投げこまれましょう。今はまだ思い返すことはできます。いかがなさいますか」瀬戸内寂聴『藤壺』」
作者が想像した王命婦がこうして、状況の危険さを懸命に訴えているものの、光源氏をけっして止めようとしない。藤壺宮に忠実だからなのか、光源氏に惹かれていたからなのか、それともどんな形であれ、恋を求める者を見捨てられないからなのか、あえて危ない橋を渡ろうとする理由は明らかではないが、その背景には奔放に生きた寂聴さんご本人の横顔が透けて見えるのは私だけなのだろうか。
外国語より難しく感じてしまう古典文学を、現代の言葉に置き換えるばかりではなく、その舞台に登場する更衣、女御、中宮など、無数の人々に新たな命を吹き込んで、物語の奥底深くに隠されている力を引き出すことに成功したのは、作家としての寂聴さんの大きな魅力の1つとなっている。
道徳や常識というのは所詮人間に作られた脆いものである。その窮屈な枠からはみ出すほどの情熱と自由さを持ち、文学をこよなく愛した彼女の作品は今後も読まれることだろう。ただ、寂聴さんが織りなす情緒豊かな物語を、今あるものより、少しでも多く読みたかったものだ。
 
 
 

 

●「殺したがるばかどもと戦ってください」 瀬戸内寂聴さん、ユーモアの裏で貫いた信念
2021年11月9日に亡くなった瀬戸内寂聴さんの大きな特徴は、世間から指弾されているような人にも目配りを続けたことだった。
戦前の無政府主義者に光を当てた『美は乱調にあり』などの作品群だけでなく、実生活でも、早くからそうした姿勢を貫いた。一方で幅広い交友でも知られ、各種メディアを通じた大衆的な人気では、作家の中で群を抜いていた。信念とユーモア、あけっぴろげな人間味が同居した稀有な人だった。
「恐怖の裁判」を告発
作家生活の初期に力を入れたのは、「徳島ラジオ商殺し」の犯人とされた富士茂子さんの救援活動だった。53年、徳島市でラジオ商の男性が殺され、内妻の富士さんが逮捕される。無実を訴えたが、有罪になり服役、再審請求中に死去した。
検察側証人が偽証を告白し、真犯人を名乗る人物が自首したにもかかわらず、判決が覆らない異例の事件だった。
瀬戸内さんは60年、「婦人公論」2月号に「恐怖の裁判」という題で事件を詳しく書いた。5年後には同誌に「富士茂子の獄中の手紙」を発表する。地元出身の有名作家が、捜査のズサンさを告発し続けたことで、事件への関心は高まった。富士さんの遺族が再審を請求し、85年、ついに無罪判決。死後再審の初のケースとなった。
連合赤軍事件の永田洋子死刑囚とも往復書簡『愛と命の淵に』という共著を出版している。あるとき永田死刑囚から、瀬戸内さんの著書への感想文が届き、文通が始まった。何度か面会し、裁判では証言台にも立った。永田死刑囚が2011年に病死後、「婦人公論」で、「出家者として、誰もが非難するあなたを放っておけなかった」との思いを公表している。
連続射殺魔の永山則夫元死刑囚(1997年死刑執行)ともやりとりを続けていた。大麻などで何度も事件を起こした俳優の萩原健一さんとも親身につき合い、共著で『不良のススメ』を出している。STAP細胞の小保方晴子さんとも雑誌で対談している。
冤罪事件に深く関わったこともあり、死刑には強く反対する立場。日本弁護士連合会(日弁連)が2016年10月6日、福井市内で開いた死刑廃止に関するシンポジウムに、「殺したがるばかどもと戦ってください」というビデオメッセージを寄せ、物議をかもしたこともあった。
立場の違う論者とも共著
瀬戸内さんのもう一つの特徴は「幅の広さ」。日経新聞で長期連載したエッセイ「奇縁まんだら」には実に136人もの著名人が登場する。先輩、同輩の作家はもちろん、田中角栄、美空ひばり、淡谷のり子、ミヤコ蝶々、勝新太郎など多彩だ。
そうした交友の広さをさらに裏打ちするのが「共著」の多さだ。タッグを組んだのは梅原猛、五木寛之、加藤唐九郎、水上勉、永六輔、稲盛和夫、荒木経惟、安藤忠雄、日野原重明、山田詠美、玄侑宗久、鶴見俊輔、ドナルド・キーン、平野啓一郎、美輪明宏、田辺聖子、さだまさし、藤原新也・・・。
空襲で母と祖父が焼死したこともあり、筋金入りの護憲派だが、櫻井よしこ、石原慎太郎ら立場の違う論者とも共著を出している。出家したときの導師、作家の今東光(中尊寺貫主)は自民党の参議院議員でもあった。
こうした奥行きの深さもあって、月1回、京都の寂庵で開かれる法話には毎回定員の数倍の申し込み。新聞社が無料で大きな講演会を企画すると、数万通の応募はがきが集まる。新聞、雑誌の連載はもとより、ラジオやテレビからもひっきりなしに声がかかり、当代の作家の中ではずば抜けた大衆性があった。
「あなたのためなら何でも書きます」
不倫・家出が発覚し、父親から、「お前は子を捨てた人でなし」と激しく糾弾され、勘当の宣告。「出家するとは生きながら死ぬこと」「出家とはすべてを捨離することである」と心得て、「忘己利他」の精神で生きようとした。
だが、瀬戸内さんのユニークさは、出家してもなお俗世との縁が切れていないように見えたことだった。畢生の大作『現代語訳「源氏物語」全10巻』に取り組んだときは、書斎の壁に、自身の「歴代の男」の写真を飾っていたという。深い関係にあった男性作家の娘が女性誌の編集者になったときは、頼まれてその雑誌にエッセイを連載した。「あなたのためなら何でも書きます」と言って。(「週刊朝日」2017年3月3日号、林真理子さんとの対談による)。
自らの過去に、いわば大きなバッテンをつけ、潔い後半生を選択したはずだが、けっして世捨て人になり、隠遁したわけではなかった。
常人には測りがたい茶目っ気、おおらかさ。捨て身になったのに、なお煩悩と背中合わせ。そんな破天荒な「人間力」に多くの人が引き寄せられ、有名人の中にも寂聴ファンが多かった。
 
 
 

 

●瀬戸内寂聴さんが語る、50代60代が持つべき矜持 2012/8
僧侶で作家の瀬戸内寂聴さんは、現在98歳。かつて90歳になった年に人生を振り返りつつ、「50代60代こそ女の花盛り」と語りました。自分自身の体の変調や子育ての終了、夫の会社の異動など、変化の多い50代60代を生きるために、必要なのは「自分の改革」だと説きます。
今の50代以上の女性は、みんな若くてきれい
今、私の法話に来てくれる50代以上の人々は、みなさんとても若くてきれい。昔の感覚で言えば、すでに老人の仲間入りの年代かもしれませんが、今の50代や60代というのは、女の花盛りのように見え、開花しきった魅力にあふれています。
ただ、一方で寂庵に悩みを相談に来る人もまた、50代からが多い。その年代になると、夫はある程度の地位になり、余裕ができて若い子の方に目がいき、妻をないがしろにするようになる。子どもも手を離れ、時には邪魔者扱いされてしまいます。すると、自分は何のために一生懸命に夫や子どもの世話をしてきたのかと、虚しく感じてしまうのです。
働いている人は、まだまだ働き盛りなのであまり思い悩みませんが、家にいて家庭を守る主婦にとっては、その頃がもっともつらいのではないでしょうか。
加えて、女性にはその頃にちょうど更年期が訪れます。日本の男性は思いやりがないので、「もう女じゃない」などと平気で言う。医師に相談すれば、薬を処方してもらってラクになれるのに、その年代の人たちは体の変化までまともに受け止めてしまい、悪くするとうつになってしまうのです。
50歳を過ぎたら、自分の中に改革を
ですから私は、女性も50歳を過ぎたら、自分の中に革命を起こせばいいと思います。考えてみると、私も51歳のときに出家という革命を起こしました。
出家した当初は「なぜ出家したのか」といろいろな方に聞かれましたが、それがわかれば、出家などしません。正直、そうした質問に答えようがなくて、あるときふと「更年期のヒステリーではないかしら。だから、どうでもいいことを深く考えるのよ」と言ったんです。するとみんなが「なるほど」と納得するの(笑)。
以来、めんどうくさいので、質問されるたびにそう答えてきましたが、後から考えると、実際にそうした面もあったのかもしれませんね。
出家は極端にしても、革命は自分の中で十分に起こせます。主婦であれば、例えば洗濯をすべて洗濯屋さんに頼んだらいくらかかるだろう、ご飯も作る人を専門に雇ったらいくらかかるだろうと、すべて計算してみる。そして、夫にその分を全部ちょうだいと言ってみるのです。夫はまず払えませんよ、高くって(笑)。でもそれだけの仕事を主婦はしているのです。
家にいると、外で働く人をうらやましく思いがちですが、外で働くばかりが偉いわけではない。主婦という仕事も、誰でもできることではないのです。主婦ができる人は、主婦の才能があると思ってください。私なんてできないから家を出たくらいなんですから、主婦って偉いんです。子育てについても、子どもに邪魔者にされる前に、ここまで立派に育ててあげたと、いばればいいのです。
家族に見返りを求めない。それが慈悲ということ
ただし、感謝の言葉がないという恨み言や、年を取ってから子どもに頼ろうといった気持ちは捨てること。というのも、誰かのために何かをするときは、自分の中でもまた、義務ばかりではなく、そのことを喜びにしていたはずだからです。
10をしたから、12返してほしいというのはさもしいのであって、与えたら与えたきりの無償のもの。それを慈悲と言うのです。
主婦をしている人も、働いている人も、子育てをしている人も、まずはもっと自分の立場を自覚し、自分にプライドを持ちましょう。プライドは、自分の中の革命につながり、自ずと態度や物言いまで変わってくるはずです。
 
 
 

 

●瀬戸内寂聴が語る、変化を怖れず前進する生き方とは。 2017/1
2017年には数え年で96歳になる瀬戸内寂聴さんが京都・寂庵でスペシャルインタビューに応じてくれました。生き方に迷い、先行きへの不安を感じたとき、突き進むための勇気の源は? いくつもの人生を見て、生きてきたからこそ語れる、生き方指南をお届けします。

さあ、お菓子を食べて。この栗羊羹、季節になったら届けてくれるのよ。御倉屋さんという老舗の和菓子屋さんが。今年もいい出来でしょう。私は最近、お菓子をよくいただいてます。私の部屋にお掃除に入ると、お菓子の紙ばかり散らかってるって、うちの若い秘書たちに叱られます。でも、甘いものばかり食べてるわけじゃないのよ。
九十二歳で胆のうがんの手術をしましたが、今でも、日本酒もシャンパンもお肉も大好き。好きなだけ飲んで食べてます。食欲があるんです、笑われるくらい。ただし、食事は一日二回。私は五十一歳で出家しましたけれど、飽きっぽいんですね。同じ所や同じ状態で満足していればいいのに、そんなのは嫌なの。変化するほうがいい。違った場所に行くのが大好き。
私が一番変わったのは戦争に負けたからです。結婚した学者の卵の夫について中国に行き、北京のフートン胡同で暮らしていた。そうしたら、終戦の二カ月前に夫に召集令状が来た。子どもができて間もなくで、まだ一歳にもなってなかったから、びっくり仰天しましたよ。心の準備が何もなかったけれど、夫を送り出してからとにかく働かなければと思っていろいろ就職活動したあげく、日本の運送屋さんが雇ってくれました。初出勤の日に電話番をしていたら、かかってくるのが全部「そちらに預けた荷物は発送しないでください」というキャンセルの電話。この店、潰れるんじゃないのと思ってたら、お昼にみんな集まれと社長に言われて、社長の部屋でラジオを聞かされた。
キーキー言うばかりで何を言っているのかさっぱりわからない。でも店の主人はわかったみたいで、「ニッポンが負けた」って大声で泣き出してね。それを聞いたとたん、私はその運送店を飛び出した。だって子どもが心配でしょう。子守と二人でいるだけだったから。一生懸命走って帰った。それが私の終戦の日ですよ。それまで私は本当に「忠君愛国」一点張りだった。大人に教えられたものや、読まされたもので生きていた。日本はいい戦争をしていると思ってた。でももう、なんにも信じまいと思ったの。これからは自分の目で見て、自分の手で触って感得したものだけを信じて生きていこう、と。
日本に帰ってきてからも苦労が多くてね。非常に頼もしい人だと信じていた九つ上の夫のことを、実際は頼りないと感じるようになって、若い男と恋愛して、四歳になる娘を置いて婚家を出奔しました。正式に離婚が成立したのは二十八歳のときです。もちろん、若い男との間も続かない。私が家を出たことを、人は大変なことをしでかしたみたいに言いますが、終戦の後ではおとなしくて貞淑だと思われてた女性が、あっちでもこっちでも家を出て行ってたんですよ。それまで辛抱していた女性が、反乱を起こした。国が全部ひっくり返ったときは、そういうことが起きます。幸福になりたいというのが人間の生きる目的でしょう。みんな幸福になりたいと思っています。じゃあ、幸福って何かって言ったら、丈夫で稼ぎのいい亭主がいて、いい子どもがいて、男の子ならいい学校を出ていい会社に勤めて、女の子なら玉の輿に乗って、自分は着たいものを着てって思うけど、それが幸福じゃないんですよ。
向こうの国に難民が山ほどいて、自分の幸福のために、それを見捨てる。自分だけが幸福でも、それは幸福じゃないのね。同じ時代に同じ地球という所に生まれ合わせてきたすべての人間が、すべての子どもたちが、食べられて、学校へ行けて、勉強ができて、幸せな結婚ができる。自分の国がいいから難民は嫌だなんてね、そんなこと言っていられない。
作家は自分に正直でなければならない。自分が信じていることは黙っていないで、言わなければならない。しかも私は出家者ですからね。出家者としての責任があるじゃないですか。だから信じてることは言わなきゃならない。今の政府が好まないことも平気で言うんですよ。私は何も怖くない。言える人が口に出して言わないといけない。牢屋に投げ込まれても言わないといけない。牢屋が女でいっぱいになっても女たちが手をつないで、「戦争をやめましょう!」って言わなきゃいけないの。中国のタンカーで日本への引き揚げ船を待っていたとき、こんなことがありました。「女を出せ」と言われたの。中国が言ったのか、アメリカが言ったのかはわからない。だけど、そういうことがあったのですよ。みんな震えて「誰が行く」って真っ青になっていると、そのとき「行ってあげるよ」と立ち上がった女がいた。派手なお化粧をして、「あの人は何をしていたかわからない」なんて、みんなに嫌がられてた女の人が、ですよ。立ち上がって行ってくれたの。翌日帰ってきました。これと同じようなことが書かれたフランスの有名な小説、モーパッサンの『脂肪の塊』と同じでした。
みんな自分を守ることしか考えないでしょ。自分だけ守ったって、しょうがないんですよ。考えてごらんなさい。みんな死んで自分一人が助かったら、今より怖い。私は前の戦争で、それをよく思いました。
どうしていいかわからないなんてことはないんです。まともに見たら、どうすべきかわかりきっている。だけど、みんなまともに見ようとしないの。わかりきっていることを言うと、今の政府では具合が悪いから叩かれる。今の政府の親分のことだけを聞こうとするからね。でも私は、大逆事件で唯一の女性として死刑になった管野須賀子のこと(『遠い声』)や、大杉栄や甥とともに殺された甘粕事件の伊藤野枝のこと(『美は乱調にあり』)、政府に反対して、それで殺された人たちのことを書いていますから。怖くないのです。たくさんの人に会って、つらい身の上話などをいっぱい聞いてきました。そうするといつの間にか直感力ができるのね。小説家は直感力がないといけない。そういう直感力が、変わることを怖れず、どんどん前に進むときの私のエネルギーになっていると思いますね。私ね、若い人に言うんです。若いときは「恋と革命だ」って。もっと言えば、生きることは「恋と革命」、女は死ぬまで「恋と革命」ですよ。そう言うと、うちの若い秘書は「恋なんて言ったって、先生はダメ。男の趣味が悪いんですもの」って言う。失礼でしょう。笑っちゃう(笑)。最晩年に、こんないい子が秘書に来てくれて、私は守られていると思いますよ。お釈迦さんはいます。
新年が来たら数え年だと九十六歳、書くことはまだまだあります。ついこの間は、連載の仕事で、完徹したのよ。まだ大丈夫。
 
 
 

 

●大メディアが報じない 瀬戸内寂聴さん、晩年の痛烈安倍批判 
作家の瀬戸内寂聴さんが9日に亡くなった。99歳だった。1922年、徳島市生まれ。東京女子大在学中の20歳の時、大学教師と結婚。中国で長女を出産。敗戦を北京で迎えている。1946年に帰国。25歳の時、夫の教え子と恋に落ちて出奔し、1950年に離婚、文筆活動をはじめている。
大新聞テレビはまったく報じていないが、晩年の寂聴さんは“アベ政治”を痛烈に批判していた。市民活動「アベ政治を許さない」の呼びかけ人にも名前を連ねていた。
日本の右傾化を推し進める安倍政権に、よほど強い怒りと危機感を持っていたのだろう。
7年前、本紙(2014年4月4日付)のインタビューでも、安倍批判を展開していた。ちょうど、安倍政権が「集団的自衛権の行使容認」に向けて突き進んでいる時だ。
<戦争を知っている人が安倍政権にはいないんじゃないですか>と語り、<戦争なんてすれば、国はなくなるんですよ。それなのに政治家は日本は永久に続くと思っている>と、日本を“戦争できる国”に変えようとしていることに憤っていた。
寂聴さんは、<あっという間に国って変わるんですよ>とも語っていた。
<当時もね、われわれ庶民にはまさか戦争が始まるという気持ちはなかったんですよ。のんきだったんです><真珠湾攻撃の日は女子大にいたんです。ちょうど翌日から学期試験で勉強していた。そうしたら、みんなが廊下を走ってきて「勝った」「勝った」と騒いでいる。私は明日は試験がなくなると思って「しめた」と思って寝ました。試験はちゃんとありましたけど、こうやって国民が知らない間に政府がどんどん、戦争に持っていく。そういうことがありうるんです>
リアルな戦争体験が原点
インタビューは、およそ30分間だった。淡々と話していたが、言葉には迫力があり、本気度が伝わってくるものだった。
寂聴さんの原点にあったのは、リアルな戦争体験だ。母親は防空壕の中で焼け死んだそうだ。当時、国会前のスピーチでもこう語っていた。
「1922年生まれの私は、いかに戦争がひどくて大変か身に染みている。戦争にいい戦争はない」「最近の日本の状況を見ておりますと、なんだか怖い戦争にどんどん近づいていくような気がいたします」
だからだろう。平和憲法に対する思いも強かった。本紙のインタビューでも、<日本にはせっかく、戦争しないという憲法があるんですよ。それを戦争できる憲法にしようとしているんですよ。米国から与えられた憲法だって言うけど、その憲法で戦後70年間、誰も戦死していないんです>と、日本の戦前回帰を懸念していた。
もうひとつ、寂聴さんが大事にしていたのが「自由」だ。「人間の幸福とは自由であること」と法話でも語っていた。異論を排し、この国を一色に染めようとしている“アベ政治”に対して、強い危惧を抱いていたに違いない。1932年生まれの政治評論家・森田実氏はこう言う。
「私は、瀬戸内さんの10歳下ですが、共感するところが多い。右翼政治家のなかには『民主主義を守るためには、正義の戦争も必要だ』などと訴える者もいますが、リアルな戦争を知らないのでしょう。いい戦争など絶対にない。私の10歳上の長兄は戦死している。瀬戸内さんの周囲でも亡くなった方は大勢いたはずです。もちろん、戦争がはじまったら自由などない。戦争を体験した者は、ほぼ全員、戦争に反対するはずです」
結局、憲法違反だと指摘された「集団的自衛権の行使」を容認する安保法案は、安倍政権の手によって強行成立してしまった。寂聴さんは、開戦前夜に似た雰囲気を感じ取ったに違いない。
「改憲」「軍拡」に一直線
この国の劣化を憂えていた寂聴さんは、本紙インタビューで<私はすぐ死ぬからどうでもいいけど、子供たちにこのまま、この国を渡して死ねない>とも語っていた。
あれからこの国は少しはマトモになったのだろうか。安倍晋三は消え去ったが、岸田政権が誕生し、ますます戦前回帰の動きに拍車がかかっているのが実態である。
リベラル集団である「宏池会」出身の岸田首相は、本来“改憲”や“軍拡”とは無縁のはずである。ところが、安倍元首相の支持を得るために、急ピッチで右旋回を進めている。
改憲については「自分の総裁任期のうちにメドをつけたい」と明言。憲法違反の疑いが強い「敵基地攻撃」まで容認するつもりだ。防衛省はきのう(12日)、「防衛力強化加速会議」なる物騒な名称の組織を新設し、敵基地攻撃能力の保有について議論を始めた。
防衛費も2倍にする方針だ。これまで防衛費は「GDP比1%以内」が不文律だったのに、「GDP比2%以上も念頭に増額を目指す」と政権公約に掲げている。
「宏池会」出身の歴代首相は、池田勇人も大平正芳も宮沢喜一も全員、戦争を嫌い、平和憲法を大切にしていた。
いまごろ、3人とも草葉の陰で激怒しているのではないか。
実際、岸田政権が進める「改憲」「防衛費2倍」「敵基地攻撃」の3点セットが実現したら、この国の形は完全に変わってしまう。
ヤバいのは、野党勢力が弱体化し、衆参とも改憲勢力が3分の2を超えていることだ。あっさり通ってしまう危険がある。
政治評論家の本澤二郎氏がこう言う。
「恐らく、岸田首相には確固たる政治信念がないのだと思う。総裁選の時に掲げていた“令和版所得倍増”も、いつの間にか口にしなくなった。芯のない、こういうタイプが一番危ない。状況に流されてしまうからです。安倍元首相がやりたくてもやれなかったことを、代わりに全部やってしまう恐れがあります」
「大きな新聞は書きませんね」と嘆息
それにしても、情けないのは大メディアだ。晩年の寂聴さんは、あれほど日本の右傾化を危惧していたのに、訃報でそれについて詳細に報じたメディアはほとんどなかった。
寂聴さん本人も本紙に、大手メディアの報道姿勢について〈本当に大きな新聞はあまり書きませんね〉と嘆いていた。毎日新聞(15年6月12日付)のインタビューでも、集団的自衛権の行使容認に突き進む安倍政権について「どうしてみんなもっと早く立ち上がらないんですか! 新聞もあまり書かないでしょ」と憤っていた。
岸田政権が戦前回帰の動きを強めていることについても、ハト派の宏池会出身だから甘く見ているのか、ほとんど報じようとしない。
「大メディアの幹部は、安倍・菅政権で、首相と一緒に食事をするほど“親密”になってしまった。逆に圧力をかけられることも多く、権力に飼いならされている状態です。会見などでは、記者が首相に『○○総理』『お疲れさまです』と、恭しく呼びかけているのだから情けない。権力と対峙する姿勢があれば、訃報を伝えるとき、瀬戸内さんの“アベ政治”に対するメッセージにも焦点を当てたはずです」(本澤二郎氏=前出)
「聞く力」を自慢する岸田首相は、寂聴さんのメッセージに耳を傾けるべきだ。
 
 
 

 

●寂聴さんの晩年 秘書、瀬尾さんに支えられ 長男をひ孫≠フようにかわいがり 
作家で僧侶の瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)さんが9日午前6時3分、心不全のため京都市内の病院で死去したことが11日、分かった。99歳だった。「夏の終り」「かの子撩乱」など愛と人間の業を見つめた小説や人々の心に寄り添う法話で知られ、2006年に文化勲章を受章。体調面では今年5月に脚の血管の詰まりを改善する手術を受け、10月から体調不良で入院していた。葬儀は近親者で行い、後日、東京都内でお別れの会を開く予定。
寂聴さんの晩年は66歳下の美人秘書が支えた。瀬尾まなほさん(33)は大学卒業後に「寂庵」のスタッフとなり、2013年から寂聴さんの秘書に。年の差コンビの掛け合いは話題となり、そろってテレビ番組に出演。瀬尾さん自ら2人の関係を「おちゃめに100歳!寂聴さん」「寂聴先生、ありがとう」などの著作にまとめたほか、共著もある。
瀬尾さんには子供もおり、寂聴さんはひ孫≠フようにかわいがっていた。体調を崩してインスタグラムを更新できなかった寂聴さんに代わり、瀬尾さんは自身のインスタでたびたび近況を報告。9月20日の投稿では「先日、私が泊まりの日、7時半ごろに息子の寝かしつけを先生としました」と明かし、就寝前の瀬尾さんの長男をかわいがる寂聴さんの動画を添えていた。
 
 
 

 

●瀬戸内寂聴さん。寝たきり生活、がん手術を経験して 2017/12
88歳から病気がちになり、90代になってがん手術を乗り越えた瀬戸内寂聴さん。2017年(※取材当時)に95歳を迎えた寂聴さんは「病を経験した日々は、老いや死、そして幸福とは何かを考えることの連続だった」と語りました。その死生観とは?
88歳で圧迫骨折、93歳でがんが見つかりました
私が住む京都・嵯峨野の冬はとても寒く、ときどき雪が降ります。でも、そんな寒さを感じないくらい、毎日忙しく過ごしています。
月に1度、寂庵(じゃくあん)で行われる法話では、150人ほどの前でお話をします。立ちっぱなしで1時間から2時間、語り続けています。
こうして元気な私ですが、ここ数年、いくつかの病気を経験しました。88歳のとき、背骨の圧迫骨折で半年間、寝たきりの生活を送りました。その4年後には、突然また背中と腰に痛みが走り、腰椎圧迫骨折で入院しました。体の中をいろいろ調べましたら、胆のうがんも見つかりました。
そのとき私は93歳。普通、こんな年になったおばあさんは、手術はしないみたいです。放っておいても死は間近ですから。
でも私は、がんと一緒にいるのはまっぴらでした。ですから「すぐ取ってください!」とお医者様にお願いしたんです。すると「わかりました」と手術をしてくださることになって、胆のうごとすぐ取ってくださったんです。
結局がんを意識したのは、1日だけ(笑)。今振り返ると、あまりにもあっけない「がん告知」と短過ぎる「がん体験」でした。順調に回復し、今もなんともありません。
女性の人生には、2度、体の危機がある
95歳になって実感していることは、女性の長い人生には2度、体の危機があるということです。1回目は、いわゆる更年期の50歳前後です。その頃合いの女性は、ほとんどといっていいほど、心身を病むんですね。私が出家したのは51歳でしたから、今考えると、更年期の影響だったのかもしれません。
作家の有吉佐和子さんも、あんな明るくて売れっ子ですごく華やかだったんですけれど、ちょうどこの頃、病気がだんだん重くなって、亡くなったでしょう。ただ、50代の頃はお医者さんに行って、注射をしてもらったりすれば、たいていはよくなるものです。
そして2回目が、88歳。この年から「本当の老後」がやってきました。よく後期高齢者になる75歳からが老後とかいう話を聞きますね。でも、私の実感からして87歳までは、多少の不摂生をしても、まだまだ体が丈夫です。でも88歳からは、何が起きるかはわかりません。
死もいずれ確実にやってきます。でもお迎えのときは、自分でいつかはわかりません。お釈迦様は、こうして死を身近に感じながら生きていくことを、人間が抱える根源的な「苦」であると説かれました。このような根源的な哲学を突きつけられるのが、88歳以降だといえるのだと思います。
死後のことより、今をしっかり生きることが大切
みなさんは、死が気掛かりですか? 法話をしていますと、たびたび「死んだらどうなりますか?」という質問をされます。一番気になることなのかもしれません。
でも、私はいつも「まだ死んだことがないから、わからない」と、答えています。お釈迦様は、死後の世界について、何もおっしゃらなかったからです。大切なのは、今この世で悩み苦しんでいる人を救うことだからと。死後のことを答えてもしょうがないと思われていたようです。
死後の世界について、作家の里見ク(さとみ・とん)先生と対談をしたことがあります。里見先生は当時93歳で、今の私と同じくらいで、親しい友人たちも、次々に亡くなっていっていた頃のことでした。「人間、死んだらどうなるんですか?」という私の質問に、里見先生が即座に「無だ」とおっしゃいました。
三途(さんず)の川があるって、よく言われるでしょう? あれだって、あるのかどうかもわからないんです。川のこっちはこの世、あっちはあの世。あの世には、いいことがあるのよ、なんて言ったりしますけど、わからないです。
だから私、法話では三途の川をこんな笑い話にしているんです。「今はね、高齢者人口が増えて、渡し船じゃ入りきらないからフェリーよ」って。向こう岸には、前に死んだ人が並んでいて、「あら、遅かったわねー」なんて言ってくれて、その夜は歓迎パーティーを開いてくれる(笑)。そんなこと、あり得ないとは思いますけどね。
でもその通りかもしれないし、行ってみないとわからない。なんとでも想像できるでしょう。結局、誰も知らない死後のことより、今という貴い瞬間をしっかり生きることが大切ということです。
書斎の机の上に、うつ伏して息絶えたい
私の場合、書いているときが、やっぱり生きていることを実感します。背骨が丸くなり、目も片目しか見えなくなり、ペンを持つ指の骨も曲がってしまいました。でも、最期の瞬間まで書いて、命を燃やしたい。もしかしたら、ペンを握ったまま、乱雑極める書斎の机の上にうつ伏して息絶えている。そんな憧れの死に様も、夢ではないかもしれません。
先だって、最後になるかもしれない小説を書き上げました。『いのち』という題名は、書く前から決めていました。今自分が考えていることと、仲が良かった河野多惠子さん、大庭みな子さんとの交流も書きました。
2人とも才能あふれる作家で、私より若いのに先に逝ってしまいました。もうこの世にいない。そう考えること自体、つらいとか、悲しいとか、そういう次元ではないんです。早くあちらへ行き、3人で一晩中しゃべり明かしたい。それくらい大好きな2人でした。
河野さんとは64年ものお付き合いがありました。まだ駆け出しの頃、ご両親から「仕送りを止める」と言われてしまった河野さんの大阪のご実家へ行き、「彼女は芥川賞を必ず取りますよ。続けてやってください」とご両親を説得したこともありました。その後、河野さんは本当に『蟹』で芥川賞を取りました。私たちは感性に加え笑いのツボが一緒で、よく長電話で笑い合っていました。
大庭さんは、私が40代半ばの頃に、『三匹の蟹』で芥川賞を受賞し、「天才現る」と評された作家です。その作品は詩情にあふれ、読後にはいつもおいしいごちそうを食べた後のような満足感がくる。私はそんな大庭作品のファンでした。作品は詩的なのに茶目っ気がある大庭さん。最期はベッドの上でご主人の口述筆記に頼り執筆を続けていました。2人とも波瀾万丈の人生でしたが、好きなことをやりきって、幸せだったと思います。
人として最高の行い「陰徳」を積んだ円地文子さんの言葉
私にとっての幸福はもちろん書くことではありますが、もう一つ、いろんな人とのつながりもあると思っています。普段は体力の許す限り、年齢や考え方の違う人たちと積極的にお話をするようにしています。誰だって自分と同じタイプの友人と一緒にいるのが心地よいものです。でも、自分と違うタイプの人との交わりを通して、人生という難題を乗り越えるための新たな視点が養われます。
思い出すのは、円地文子(えんち・ふみこ)さんです。円地さんは、源氏物語の現代語訳を私より前に完成させた大ベテラン作家です。私とは全然タイプが違い、周囲の方のために黙って良行を重ねる「陰徳(いんとく)」も積まれる方でした。
あるとき、円地さんは私を呼んで「河野さんの手術費に使うよう計らってください」と、相当の金額を包んだものを私に手渡しました。「ただし、このことは決して人にしゃべらないこと」と、付け加えられたのです。当時、河野さんは自身の病気の手術代がなく困っていました。今振り返ると、円地さんの計らいは、私と河野さんしか知りません。河野さんはどれほど救われたことでしょう。
人間にとって、「陰徳」ほどハードルが高いものはありません。おしゃべりな私にはなかなかできないことです。でも、年を重ねたからでしょうか。私とはまるでタイプが違う円地さんの言葉が今、なぜか軽やかに心に響いてくるのです。
 
 
 

 

●瀬戸内寂聴さん死去 「煩悩の作家」、出家後も旺盛な活動
作家として多方面で活躍し、文化勲章も受賞した瀬戸内寂聴(せとうち じゃくちょう=俗名・晴美)さんが死去した。2021年11月11日、各紙が報じた。99歳だった。
天台宗の尼僧でもあり、ラジオやテレビ、新聞、雑誌にはしばしば登場。法話や人生相談、講演などに引っ張りだこで、自身の人生体験をもとにした本音トークで絶大な人気があった。死刑廃止や脱原発など社会性の強い行動にも積極的に参加していた。
1922年、徳島市生まれ。東京女子大卒。同人誌などで下積み時代を経て57年1月、『女子大生・曲愛玲』で新潮同人雑誌賞を受賞。61年『田村俊子』で田村俊子賞、63年『夏の終り』で女流文学賞を受賞し、作家としての地位を固めた。
その後も92年、一遍上人を描いた『花に問え』で谷崎潤一郎賞、96年『白道』で芸術選奨文部大臣賞、2001年『場所』で野間文芸賞、08年安吾賞、11年『風景』で泉鏡花文学賞受賞を受賞した。
『田村俊子』のほか、作家の岡本かの子を主人公にした『かの子撩乱』、恋と革命に生きた伊藤野枝を扱った『美は乱調にあり』、大逆事件の管野須賀子や朴烈事件の金子文子などの伝記的作品、婦人運動家の平塚らいてうを中心とした『青鞜』など、時代に挑み、信念を持って果敢に人生を駆け抜けた「新しい女」「多情な女」を主人公にした作品群で際立った。06年に文化勲章を受章した時の受章理由では、「近代の自我に目覚めた女性たちの姿を描いた」ことが高く評価された。
1973年、今春聴(作家の今東光)大僧正を師僧として天台宗得度。87年、寂聴に改名した。小説、エッセイ、人生論、仏教関係書など200冊をはるかに超える多数の著書がある。『源氏物語』の現代語訳でも知られている。
小学校3年のころ、すでに小説家になろうと思っていた早熟の文学少女。5歳上の姉の文学全集などを乱読していた。父親は徳島市の中心部で神具仏具商を営み、小学校の校区には色街もあった。地唄舞の武原はんさんや、抒情画の中原淳一さんは同じ小学校の先輩にあたる。
成績はいつもトップで、女学校を出て東京女子大へ。卒業直前の1943年、9歳年上の中国研究者と見合い結婚。夫の任地の北京に同行する。それまでは貞淑で「処女と童貞の結婚」(日経新聞「私の履歴書」)だったが、46年に帰国後、4歳年下の夫の教え子と不倫し、夫と3歳の長女を残して突然家出、京都で暮らし始めた。
相手が文学青年だったこともあり、文学への情熱が呼びさまされる。少女雑誌などの投稿が採用され上京。丹羽文雄さんの門下に入り、ここでまた新たに、芥川賞候補にもなったが売れない作家と不倫関係になって8年続く。その後に、13年前に切れていた夫の教え子と復活し、生活の面倒を見たが、再び別れる――など、40代にかけては「完全なアウトロー」「無頼の徒」として「煩悩地獄」に苦しんだ。
出家したのは、あるとき、「仏が私を、引っぱりよせた」からだという(「私の履歴書」)。やがて離婚した夫も、不倫相手の文学青年も、芥川賞候補作家も先立ったが、後年、それぞれの冥福を独り祈りつつ、「心の底から、出家していてよかった」という境地に達した、と述懐している。
友人の哲学者梅原猛さんは、「煩悩のままに生きている作家は瀬戸内さんだけ」「人生を懺悔する『懺悔の文学』を作った稀有な人」(朝日新聞による)と評していた。
 
 
 

 

●恋バナ好きだった寂聴さん、心に秘めた出家の理由
恋に生き、女性の生き方に向き合い、慈愛を説いた99年だった。小説執筆、社会活動、説法で注目を集め続けてきた瀬戸内寂聴さんが9日、亡くなった。幅広い活動で、文化、芸能を中心に各界の人々を魅了する一方、記者にかわいらしい素顔をのぞかせる一面もあった。
寂聴さんは、恋バナ(恋愛話)をするのが好きだった。
私は、寂聴さんが70歳代のころに本紙で連載した「寂庵あんこよみ」と、90歳目前で連載した「この道」、その翌年から「足あと」を担当した。寂聴さんが東京に来るとよく、宿泊先のホテルで食事やお茶をご一緒した。
食事の席では、同席した親しい編集者や私の恋愛経験を興味津々で尋ねた。当然、こちらは寂聴さんの話を聞き返す。「人生の晩年に振り返ったとき、印象に残る恋の相手はせいぜい1人か、2人ではないですか?」と質問したことがある。すると寂聴さんは「2人か、3人ね」と返した。
寂聴さんの恋愛遍歴でよく話題になったのは「夏の終り」のモデルとなった2人と、作家の井上光晴さんだ。井上さんと寂聴さんの関係については、井上さんの娘の荒野さんが小説「あちらにいる鬼」にも描いている。
後日、自作を振り返るエッセー「足あと」で「吊橋つりばしのある駅」について書いた時、電話で寂聴さんはその作品を「私の一番好きな小説なの」と言い、その物語のように突然、恋人と車で京都の保津峡駅に行った思い出を楽しそうに語った。その時私は「ああ、先生にとって一番印象深い人は、この時一緒にいた男性なんじゃないか、そしてその相手は、時期からして井上さんではないか」と感じた。
この作品の執筆は、51歳で出家する前の49歳。寂聴さんは出家の理由を「いろんな人に何十回、何百回と聞かれてきた」といい、そんな場面に私が居合わせたこともあったが、寂聴さんは「自分でもよくわからない」と言葉を濁していた。90歳を超えてからは「出家は更年期だったからかも。最近、そう言うと周りが納得するのよ」などと話していた。理由は1つではないだろうが、私は、恋人との関係も影響したのではないか、と邪推する。
「源氏物語の女たちも出家しているのよね」と話していたこともある。源氏物語の登場人物になぞらえるなら、恋する男性への思いに身を焦がしながら、その執着を断ち切り自由になるための出家があるということだろう。
自分の恋愛体験を果敢に、赤裸々に小説やエッセーに書いてきた寂聴さんだが、書かないで心に秘めたまま、お墓へ持っていきたい思いもあったのかもしれない。
寂聴さん、本当のところはどうですか?

●僧侶でもあった作家の今東光は法名を春聴といった。出家を申し…
僧侶でもあった作家の今東光は法名を春聴といった。出家を申し出たその女性の法名に、自らの一文字を授けようとしている。「春」であったが、女性は辞した。「おそれいりますが、春に飽きて出家するのです」。当時五十一歳だった作家、瀬戸内晴美である。東光が三時間座禅を組んで、浮かんできた「寂」の文字に、「聴」のほうを添えて、心静かに世の中の声を聞く−そんな境地を思わせる「寂聴」が生まれたそうだ。あまたの恋愛に、文学賞受賞や作家としての人気…。人生の春を経験する一方で、「幼い恋」をして夫や娘のもとを去っている。胸に「生涯の悔い」も秘めていたという。作品が酷評される苦境もあった。寒風の冬も味わってきた人が出家とともに「人のため、文学のため」を思わせる後半生に向かうのに、よく合う法名であったようだ。平和を唱えてきた。温かい言葉で、悩んでいる名もない人にも向き合った。家族を捨てて後悔している自分の顔が、相談者の表情に重なることもあったという。それでも「この世は生きるに足る」。波瀾万丈(はらんばんじょう)の人生から聞こえてきた思いを多くの人に伝えて、瀬戸内寂聴さんが九十九歳で亡くなった。源氏物語の現代語訳は後世に残ろう。出家は世を驚かせたが、王朝時代の文学者に通じる生き方でもあった。寂しくなりそうだ。仏教の「寂滅」の言葉も浮かんでくる。

●瀬戸内寂聴さん死去 51歳で出家“波乱の人生”
作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが9日、亡くなっていたことが分かりました。99年の「波乱の人生」を振り返ります。瀬戸内寂聴さんは先月から体調不良のため入院していましたが、9日午前6時3分、心不全により京都市内の病院で亡くなりました。99歳でした。5月に99歳の誕生日を迎えた寂聴さん。白寿のお祝いの様子を自身のSNSで公開していました。この時、99年が経った人生について、こう振り返っています。
瀬戸内寂聴さんインスタグラムから(5月26日):「99歳まで生きて、長すぎた一生だと思います。様々なことを人の何倍もしてきました。すべてに今は悔いがありません。十分に生きた我が一生でした。死に様は考えません。自然に任せます」
瀬戸内寂聴さん(当時94):「死んだら仏教徒ですから、あの世があって、仏さまが守って下さると思っているから死ぬのはあまり怖くない」
99年、波瀾(はらん)万丈の人生…。1922年、徳島県で生まれました。結婚して女の子をもうけますが、不倫の末、夫と3歳の娘を残して家を出て作家を目指します。1963年には代表作となる「夏の終り」で女流文学賞を受賞。1973年に51歳で出家し、寂聴となりました。
瀬戸内寂聴さん(当時91):「出家する時に『お前さんは小説を書くために出家するんだから、よりよい小説を書くために出家するんだから死ぬまでペンを捨てちゃいけないよ』と。師匠の言葉だから守っている」
生涯現役を貫いた寂聴さん。この夏には、リハビリの後に大きなスイカをほおばる元気な姿も…。亡くなる前、インスタグラム最後の投稿は8月。マスクを頭に着け、笑顔で伝えたのは…。
瀬戸内寂聴さんインスタグラムから(8月30日):「私は風邪も引かずコロナに感染することもなく元気にしています。おかげさまで仕事がたくさんあり、連載の締め切りやらで夏休みは私にはありません」

●夫の教え子と恋に落ち、3歳の娘残し家を出た瀬戸内さん…
激しく愛し、生きた――。作品に描いた女性たち同様、情熱のままに生きた瀬戸内寂聴さんが9日、99歳で亡くなった。作家、僧侶の枠にとどまらぬエネルギッシュな活動と発信力で、最晩年まで現役として活躍していたが、10月中旬から体調を崩して入院していたという。
原点にあったのは戦争体験だった。終戦を迎えたのは中国・北京。夫と故郷の徳島に引き揚げて初めて、母親が防空 壕ごう の中で焼け死んだと知った。
悲しみと敗戦国の惨めさを味わう一方、日本は民主国家に生まれ変わり、「書きたかった小説を書いて、新しく生き直したい」との思いがわき起こる。学者だった夫の教え子と恋に落ち、「小説家になります」と告げて家を出た時、残した娘はまだ3歳。後に「戦争がなかったら、夫以外の人を好きになることも、娘を捨てることもなかった」と語った。
51歳、すでに売れっ子作家だった時の突然の出家は、公私ともに行き詰まった末の行動だった。「良い小説を書くため、文学の背骨になる思想が必要」というのが理由だ。「寂聴」の名を授けたのは、大僧正だった作家の 今東光こんとうこう 。「森羅万象から出る音を、心をしずめて聴く」という意味の「出離者は 寂じゃく なるか 梵音ぼんのん を聴く」の言葉にちなんだという。
僧侶としての後半生は新たな境地に入る。京都・嵯峨野の自坊「 寂庵じゃくあん 」で続けた法話や写経の会では、様々な人の思いに耳を傾け、励ました。連合赤軍事件の永田洋子元死刑囚、大麻事件で逮捕された俳優の萩原健一との交流なども話題になった。
昨年2月以降、寂庵での法話の会はコロナ禍で中止。外出の機会は減ったものの、新聞や文芸誌の連載を続け、最近も秘書のインスタグラムでは、秘書の子供と一緒に遊ぶ写真などが公開されていた。
来年1月には、新潮社から「瀬戸内寂聴全集 第二期」が出版される予定だ。その内容を紹介する文章には、「私にとっては、生きることはひたすら書くことにつきます。(略)全巻を前に、ああ、もう死んでもいいとため息をついています」とつづられていた。
 
 
 
 
●瀬戸内寂聴さんの言葉『苦しみはやがてもっと良いことに』『愛することは許すこと』
僧侶の瀬戸内寂聴さんが亡くなりました。99歳でした。今年10月から体調不良のため入院して治療を受けていましたが、11月9日に京都市内の病院で亡くなったということです。
1922年、徳島市で生まれた瀬戸内寂聴さん。1950年代から「瀬戸内晴美」の名で小説家として活動し、源氏物語の現代語訳をはじめ、伝記小説や恋愛小説で数々の文学賞を受賞。1997年には文化功労者に選ばれました。
(瀬戸内寂聴さん 1997年)
「賞にはあまり縁がないと思っていたから本当にびっくりしております」
1973年に僧侶になると、京都の嵯峨野に曼陀羅山寂庵を開き、定期的に法話の会を開催するなど各地で法話を行いました。
(瀬戸内寂聴さん 2004年)
「苦しいことがずっとずっと死ぬまで続くわけじゃないです。必ず苦しいことが続いたら、それはやがてもっと良いことに変わるんですよ」
90歳を過ぎていた2014年に背骨を圧迫骨折して入院。その際にがんも見つかり、療養生活を送りながら執筆などを再開していました。来年1月には全集が刊行予定だったということです。
MBSに残された最も古い寂聴さんの映像は、1974年に51歳で比叡山延暦寺を訪れた際のものでした。寂聴さんは、愛と人間の業を見つめた小説を次々と発表する一方、人々の心に寄り添う法話を行ってきました。チャーミングな人柄でも知られ、1986年にはふるさとの「阿波おどり」を楽しそうに踊る映像も残っています。
また平和への思いは強く、1991年には湾岸戦争に抗議して断食をしたこともありました。このとき68歳でした。
(瀬戸内寂聴さん 1991年)
「いてもたってもいられない気がしてきたんですね。僧侶ですから祈るしかないと思いましたけれども、私程度の祈りがパワーにならないと思ったから、それじゃあ自分の身を削って極限状態までやって祈れば、いくらかパワーが高まるんじゃないかなという気持ちで、断食しようと思ったんです」
2004年には新潟県中越地震を支援する一環として青空説法を行いました。
(瀬戸内寂聴さん 2004年)
「思いやりなんですね。相手に何をしてあげたら喜ぶか。この思いやりがなければ世の中うまく行きません。苦しいことがずっとずっと死ぬまで続く訳じゃない。必ず苦しいことが続いたら、それはやがてもっと良いことに変わるんですよ」
そんな寂聴さんといえば著名人たちとの対談です。日本赤軍の元最高幹部・重信房子受刑者と手紙のやりとりをしていて、こうした縁もあって、娘の重信メイさんと対談する様子がMBSの番組「映像’12」で放送されました。
(瀬戸内寂聴さん 2012年放送「映像’12」)
「(重信房子受刑者は)いまの政治家のように自分の党のためにとか、自分が選挙で通るためにとか、そういうちゃちなことは考えていないですよ。やっぱりそれは命がけよね。だって命をかけないとできないんだもの。だって世間が全部敵なんだから」
(重信メイさん)
「メディアで見るイメージと私が知っている本人のイメージはすごく離れているんですよね。やっぱり全然違うんです。言われているキャラクターの在り方とか捉え方とか」
無実の罪を着せられた厚生労働省の元事務次官・村木厚子さんとともに、貧困や家庭内暴力などに苦しむ10代〜20代の女性を救う『若草プロジェクト』も立ち上げていました。
(瀬戸内寂聴さん 2019年)
「罪もないのに捕まって苦労した人のことを調べていて本当に心配していたんですよ。どうなるかと思って。(村木さんは)実にさわやかだから驚いちゃってね。尊敬しているの。似たようなこと(女性支援)をしたことがあるんです。でも1人でするからそんな十分なことはできないでしょ。その思いがあったから。私が一番日本で信頼しているのがこの方なの。だからくっついて活動すれば間違いないと思って」
2019年、寂聴さんは「生きること」について、こう語っていました。
(瀬戸内寂聴さん 2019年)
「“いい人間”として、私なんかしてきたことは全部反対ですから。だから人がどう思おうが自分のしたいことをする。(Qいま言葉の力で最も伝えたいことは?)やっぱり生きるということは、なんで生きるかというと、愛するために生まれてきて、愛するために生きている。愛するということは、究極は許すことなんですよね」
そして訴え続けた反戦について。
(瀬戸内寂聴さん 2019年)
「朝、目が覚めたらまだ生きていたって思う。いつ死ぬかなってそればっかり考えるんですけれどね。我々の世代は、書き残す、言い伝えて残す、その義務があると思いますね。自分だけの小さな平和を守るのではなくて、後世に伝える義務があると思います」
瀬戸内寂聴さんの葬儀は近親者のみで執り行うということです。
 
 
 

 

●瀬戸内寂聴さん、焼け跡残る東京で「自分がばかだった」… 
作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが11月9日、99歳で亡くなりました。本紙は2015年、戦後70年に合わせた終戦記念日特集で、寂聴さんのインタビューを掲載しました。夫の赴任先の中国・北京で終戦の日を迎え、「絶対負けない」と教えられた軍国教育のむなしさを焼け跡残る東京でかみしめた寂聴さんは決意します。「これからは自分の手で触って、手のひらに感じたものだけ信じて生きよう」。寂聴さんのご冥福をお祈り申し上げます。(2015年8月15日付東京新聞朝刊に掲載、年齢・肩書きは当時)

今も青春の炎を命に宿すような言葉が心に迫る。戦後70年の終戦記念日を機に、93歳の作家、瀬戸内寂聴さんにインタビューした。戦時中、神風を信じた優等生は中国・北京で敗戦を告げる「玉音放送」を聞き、帰国後、母と祖父が空襲で亡くなったことを知る。「手のひらで感じたものだけを信じる」ことから戦後を始め、非戦や被災地支援へと、活動の幅を広げた。若い世代から安全保障法制反対の波が広がる中、送るエール。「青春は恋と革命よ」 (社会部長・瀬口晴義)
<6月18日夜、寂聴さんは安全保障関連法案への抗議が続く国会前にいた。背骨の圧迫骨折や胆のうがんで昨年春から約1年はほぼ寝たきりの状態で、この日も車いすでの登場だった。「どうせ死ぬならここに来て、『このままでは日本はだめだよ』と申し上げて死にたかった」「戦争に良い戦争は絶対ない」と声を振り絞った>
──国会前での訴えは大きな反響を呼びました。東京新聞のホームページで2015年6月に1番読まれた記事でした。訴えのもととなった、ご自身の戦争体験を教えてください。
敗戦の時には中国にいました。女子大を繰り上げ卒業になり、婚約者と結婚して北京に行ったとたん、物価が毎日上がる貧乏生活。母親がたくさん持たせてくれた着物を売ってなんとか暮らしていたの。1945年6月、師範大学や北京大学などで教えていた31歳の夫に召集があってね。生後1歳にならない赤ん坊を抱えて、まさかと思いました。働き口を探したけれど断られ続け、ようやく北京の城外にある運送屋で働くことが決まり、うれしくて大喜びで出て行ったのが8月15日だったの。
お昼になったら大きなラジオの前に集められ、直立して聞きなさいと言われました。ガーガーという波の音の中に甲高い声が時々入るのね。それが天皇陛下の敗戦の詔勅でした。でも、まったく意味が分からない。店の主人は分かったらしく、「日本が負けた」と泣きだしたんですよ。
それを聞いてあいさつもせずに飛び出しましたよ。夢中になって走って帰ろうとしたの。日本人はみな殺されると思ったから。預けていた子どもが心配で。北京では日本人は中国人に威張ってましたからね。食べるものも違っていて配給も日本人は白米、中国人はコーリャン(雑穀の一種)。そんな生活だったのです。金稼ぎに大陸に来たような人は特に威張っていてね。本当に好きなように中国の人をいじめていたのを見ていました。
家に帰って、門の戸をしっかり閉めて、息を潜めていたの。翌日そっと戸をあけてのぞいて見ると、路地の向かいの壁に真っ赤な紙がいっぱい張ってあるんです。「仇あだに報いるに恩を以もってす」。そう書いてありました。蔣介石の軍隊が張って回ったと思うのですが。ひどい目にあっても仕返しせず、優しくしなさいという意味です。われわれ中国人は戦争に勝ったが、日本人に報復してはいけないといさめる内容ですね。さすがに孔子様の国だなと思いましたね。こんな国と戦争して負けるのは当たり前と思いました。
だけど、一般の市民は分からないでしょ。怖かった。赤ん坊を連れて日本に帰りたかった。
<引き揚げ船を待つ天津の塘沽タンクー貨物場では日本人たちが一緒に暮らした。そこは、貧富の差も戦前の職業も関係ない、力が支配する世界だった>
貧乏な人は、引き揚げ者が捨てていった山のような荷物から布団袋をひっぱり出してリュックサックなんか作る。シーツや下着も。たちまち飯ごうなんか磨いて、必要なものをそろえちゃった。金持ちはそれまで自分の力で生活なんかしてないから、何もできない。だんだんお金持ちじゃない人が威張りだした。モーパッサンの小説で「脂肪の塊」という傑作がある。戦争中で敵方が女を出せと言ってくる。1人の娼婦しょうふが行って朝帰ってくるというそれだけの短い小説。それと同じことが起こった。1番威張っていた男が女を出せと。
集団の中に、きれいで派手な格好の女性がいた。そういう商売をしていた人だと奥さん連中は見くびってばかにしていた。いじめていた。その女性が(男性の相手を)やるよ、と立ち上がって。奥さん連中がびっくりして「お願いします」と。夜の12時ごろ帰ってきた。何も言わない。皆「ありがとうございます」と。何があったか怖くて聞けなかった。
ある日、日本人の慰安婦が歩いてとぼとぼ来た。気がついたら部隊がみんないなくなってたと。ワンピースでパンツもはいていない。ならず者たちがシーツを洗って縫ったパンツをはけ、と。気のいい人で子ども好きで抱かせてくれとよく来ていた。日本人の慰安婦もたくさんいたんですよ。
<結局、帰国できたのは敗戦から約1年後の46年7月。お盆前に長崎県佐世保市に引き揚げ船が着いた>
日本に戻ると、身体検査の上、白い粉をかけられました。驚いたのは汽車の窓ガラスが壊れてなくなっていたこと。そんな汽車は初めて見ました。真っ暗な中で女の人が炊き出しをしてくれた。(原爆が投下された)広島を列車で通過したときには真夜中で、何かが落ちたとは聞いていたが、遠い話に思えた。でも真っ暗でも何もないと分かりました。すごい怖かった。郷里の徳島駅に着いたら焼け野原です(注1)。徳島が空襲で焼けているなんて思ってもなかった。間にあった建物がみんな焼けちゃったから、眉山びざんが駅のすぐ近くに感じました。
ぼんやりしていたら小学校の友達だったすみちゃんという女の子が話し掛けてきました。「あなたのお母さん防空壕ごうで焼け死んだのよ。かわいそうね」って。母の死を初めて知らされました。でも何を言っているのか分からなくて。
姉が自転車で迎えに来てくれてその晩から私たち夫婦と娘と3人で実家に居候です。でも、空襲で亡くなった母と祖父のことは怖くて父に聞けなかった。死に目に会わないと生きているような気がするんです。母はこんな徳島の田舎町にもしも空襲があったら、日本が負けることだ、と日ごろから言っていたそうです。そういう人なのね。もう生きてもしょうがないと思っていたんじゃないかな。どんな死に方だったのか、いろいろ言われたけど、本当のことは分かりません。
姉の夫は、満州に出征し、戦後シベリアに6年間、抑留されました。どんなにきつかったか、帰国後も具体的なことは何も言わなかったですよ。真っ昼間も戸を閉めて暗くしてうずくまって泣いているのね。シべリアで戦友が死んでいった。自分が生き残っていることが申し訳ないと言って泣くの。本当にかわいそうでしたよ。
──焼け跡の廃虚の中から戦後日本は奇跡的な復興を遂げました。
徳島で長く居候してたんですが、夫が東京で職を得て上京しました。女子大時代は、東京のいい時を見ているから、焼けてしまった街を見て怖かったですよ。ぞっとしました。徳島は小さい町だから帰国した時にはこぎれいに片付いていたけど、東京は手付かずの場所もあった。生き残った人から話を聞いて、初めて空襲の恐ろしさを知りました。その時感じたのは「自分がばかだった」ということ。教えられたことを真に受けてよくぞ今まで生きてきたなと。
物心ついたころから「非常時」でしたからね。私にとっては「非常時」が普通だったのね。大正から昭和になる頃は世界中が不景気でした。
戦前の小学生は日本は強くて戦争には絶対負けなくて、危なくなったら神風が吹くと教えられていたの。先生の言うことを丸のみして信じるような優等生でした。母はかまどの前に座って、私に教育勅語(注2)を覚えさせるんですよ。子どもは覚えるんですね。それで先生にほめられて。教育されることを全部信じていたんですよ。「良妻賢母」を育てることを目的とした県立の女学校でも優等生だったのね。
授業を休んで戦地の兵隊さんに送るチョッキを作ったり、戦場をしのんで、おかずなしで梅干しも入れない弁当を食べたりする日もありました。だんだん戦争が日常になってくるんです。
ニュースは大本営発表だけ。負けていても勝ったというでしょ。みんなこの戦争は良い戦争だ、天皇陛下の御おんために命をささげる、東洋平和のための戦争だ、と大本営発表だけを聞かされていたから。負けてるのにちょうちん行列していた。そんなおばかちゃんでしたね、私も国民も。
戦後、焼け跡の残る東京を見て、これからは自分の手で触って、手のひらに感じたものだけを信じて生きようと思いました。それが私の革命です。
──戦争はもう嫌だという民衆の思いが、戦争放棄の9条を盛り込んだ憲法の支持にもつながったんじゃないでしょうか。寂聴さんは、新憲法をどのように受け止めたんですか。
小説を書くまでは憲法のことはあまり考えたことはなかったんです。国で起きていることなど、耳に入らなかった。(夫と子どもを残して)家を飛び出して、父親に「鬼になったんだから、また帰ってきたり謝ったりしないでくれ」と怒られて。憲法を意識したのは田村俊子(注3)や岡本かの子(注4)など、大正時代、時代に抗して激しく生きた女性作家のことを書いていたときです。彼女たちがどういう時代を生きたのかを調べているうちに大逆事件にたどりついた。
大逆罪で幸徳秋水(注5)らと一緒に処刑された管野須賀子(注6)のことを徹底的に調べるうちに、日本の政治とか裁判のいいかげんさがよく分かりました。憲法の大切さも学びました。新しい憲法は敗戦後、米国に押しつけられたと言うけれど、負けて勝ち取ったものですよ。すごい犠牲の上にできた憲法なんだから。もしも、日本が9条を守らないようなことがあれば、世界を欺き、うそをついたことになる。戦争しません、しませんって言ってきたのだから。みっともないことだと思う。
政府の中には戦争体験者は1人もいませんね。やはり人間の想像力には限界があるから。病気してつらい目に遭わないと病人の苦しさは分からない。年をとってみないと年寄りの寂しさは分からない。それと同じことです。戦争が起こったら子どもや孫が兵隊になる。その恐ろしさを想像できない。分かっていない。
<1991年の湾岸戦争直後、寂聴さんはイラクに薬品などを届けに行く。以降、2001年の米中枢同時テロや米国のイラク武力攻撃などには断食行や意見広告で反対の意思を明らかにし、阪神大震災や東日本大震災など災害が起きれば被災地に駆け付ける。寂聴さんの手のひらからの「革命」は広がっていく>
阪神大震災の翌日には歩いて神戸まで行きました。そばにいた人が「空襲と同じ目にまた遭った」と独り言を言っていました。敗戦を北京で迎え、空襲直後を知らない私にとって、焦土を初めて目の当たりにした思いでした。
圧迫骨折で寝込んでいた時に3・11の東日本大震災があり、原発事故が起こりました。思わず跳び起きましたよ。6月にやっと自分で歩けるようになって東北に向かったんですよ。その時に見たのもどの街もどの街も全部流されていて空襲の後と同じようだった。これが戦争の後なんだなと思いました。人間は自然に勝てません。もっと本気になって災害の手当てを考えなきゃいけないと思いますよ。
なぜ立ち上がるか。小説家というだけだったらできません。出家したでしょ。51歳でね。知らなかったけどお坊さんには義務がいっぱいあるんです。「亡己利他」といって人のために何かをしなきゃいけないんですよ。もともとが素直だからお坊さんになった以上、やらなければいけないと思っている。
災害が起きたら有り金持って現地に飛んでいくんですよ。何もできなくても僧衣の私が行ったらみんな喜びます。何もできないので、みんな疲れているでしょうから肩をもんであげると言うの。本当にうまいのよ。女学校では卒業の時に本職を呼び肩をもむ実習があったの。1番うまいと言われた人が校長先生の肩をもむんですよ。校長先生の頭をたたいて卒業したのが私。本職が感心したくらいうまいのよ。
避難所にいる人の体はかちかちに凝っているの。最初は恥ずかしそうにしているけど、うれしそうな顔をするの。ふと気付いたらずらーと並んでいて。全部もんであげて。それしかできないの。「政府が何もしてくれない」とか話を聞いてあげると、心が休まるんじゃないですか。
寂聴というより、尼さんがきてくれたと喜んでくれる。お友達になった被災者が毛糸で帽子と肩かけを編んで送ってくれる。今も付き合っています。人間の本質は、どういう立場にあっても性善説だと私は思うの。
──日本の社会の雰囲気が「戦前と似てきている」と、いろいろなところで話をされています。
女子大にいた頃はのんきそうだったけれど、世の中がだんだん戦争の雰囲気がしてきて、軍靴の音がそこまで聞こえてきたという感じでした。小説なんかでもいろいろなことが不自由になり、書く場所を奪われる人が出てくる。(戦前プロレタリア作家だった)平林たい子さん(注7)、佐多稲子さん(注8)がそうでした。お2人の話をじかに聞いていますからね。牢屋ろうやにいれられて拷問にあった話も聞いてます。
18歳で親元を離れて今93歳。こんな元気な私が今年93歳なんてどうしても信じられないのね。70年どころか、93年なんて振り返ってみたらあっという間。みんな、その時、その時で一生懸命生きてきたんですよね。
政府は民を幸せにしなきゃいけない。そのためには民意を、民の心を聞かなきゃいけないでしょ。聞くことが政治家なのに、現在の政治家、安倍さんたちはまったく聞かないでしょ。(米軍新基地建設が予定されている沖縄県名護市)辺野古だって日本なのよ。それなのに、日本じゃないみたいな扱いをしている。米国との約束なのか、あんなに嫌だって言っているのに「それしか方法がない」と言う。そんなことないじゃないですか。どうして沖縄だけがあんな目に遭わなくてはならないの? 民の心を聞き、少しでもそれに沿ってやるのが政治じゃないですか。自分の立場や所属する政党を守ろうとする。それだけですよ。今の政治家は。
──戦後の日本は豊かになった。戦争体験のある世代は少なくなり、若い人は戦争を想像することは難しい。それでも、寂聴さんの訴えに呼応するように、安保法案に反対する大学生や高校生をはじめとする若い世代が声を上げ始めています。
安保法案が衆院で可決される結果は想像していたわよ。それでも反対しなきゃならないと思ったの。いくら言ってもむなしい気もするけれど、それでも反対しなければならないの。歴史の中にはっきり反対した人間がいたということが残るの。そのときは「国賊」だとか言われても、どちらが正しかったかを歴史が証明する。一生懸命、小説を書いてきて分かりました。
若い人が立ち上がってくれたことは本当に力強いことです。法案は参院でも可決されるかもしれない。もしそうなったとしても力を落とさないでほしい。立ち上がったという事実はとても強い。負けたんじゃない。いくらやってもだめだとは思わないでほしい。闘い方が分かったんだからこの次もやっていこうと思ってほしいわ。運動に参加した人は、その分の経験が残ります。
若い人たちは行動する中で自分が生きているという実感があると思う。未来は若い人のものです。幸せも不幸も若い人に襲い掛かるんだから。われわれはやがて死んでいく人間だけれども経験したことを言わずにいられない。法案を通した政治家も先に死ぬのよ。残るのはあなたたち。闘ったことはいい経験になると思います。むなしいと思われたら困るのよ。どっかでひっくり返したいね。
いい戦争はない。絶対にない。聖戦とかね。平時に人を殺したら死刑になるのに、戦争でたくさん殺せば勲章をもらったりする。おかしくないですか。矛盾があるんです。戦争には。
今、いろんなところから呼ばれます。若い人たちの前で、「青春は恋と革命」と言ったら、みんな「わーっ」と盛り上がりましたよ。若い人もうれしいらしい。それだけでいい。革命は死ぬまでできる。自分の革命をしていけばいい。戦争を知っている世代は伝えていかなくてはならないわね。ぼけてるひまなんかないのよ。
2015年6月18日 国会前スピーチ要旨
瀬戸内寂聴です。満93歳になりました。きょうたくさんの方が集まっていらっしゃったが、私よりお年寄りの方はいらっしゃらないのではないか。去年1年病気をして、ほとんど寝たきりだった。完全に治ったわけではないが、最近のこの状態には寝ていられない。病気で死ぬか、けがをして死ぬか分からないが、どうせ死ぬならばこちらへ来て、みなさんに「このままでは日本はだめだよ、日本はどんどん怖いことになっているぞ」ということを申し上げて死にたいと思った。私はどこにも属していない。ただ自分1人でやってきた。もし私が死んでもあくまでも自己責任だ、そういう気持ちで来た。だから怖いものなしです。何でも言って良いと思う。
私は1922年、大正11年の生まれだから、戦争の真っただ中に青春を過ごした。前の戦争が実にひどくって大変かということを身にしみて感じている。私は終戦を北京で迎え、負けたと知ったときは殺されると思った。帰ってきたらふるさとの徳島は焼け野原だった。それまでの教育でこの戦争は天皇陛下のため、日本の将来のため、東洋平和のため、と教えられたが、戦争に良い戦争は絶対にない。すべて人殺しです。殺さなければ殺される。それは人間の1番悪いことだ。2度と起こしちゃならない。
しかし、最近の日本の状況を見ていると、なんだか怖い戦争にどんどん近づいていくような気がいたします。せめて死ぬ前にここへ来てそういう気持ちを訴えたいと思った。どうか、ここに集まった方は私と同じような気持ちだと思うが、その気持ちを他の人たちにも伝えて、特に若い人たちに伝えて、若い人の将来が幸せになるような方向に進んでほしいと思います。

(注1)徳島大空襲 1944年7月、米軍の焼夷(しょうい)弾攻撃によって徳島市街の62%が焦土となり、1001人が亡くなった。
(注2)教育勅語 1890(明治23)年、明治天皇の言葉として発表され、戦前の教育方針の根幹となった。国に危機があったときには力を尽くすことなどを求めている。
(注3)田村俊子(1884〜1945) 流行作家。男女間の相克を主題とした。
(注4)岡本かの子(1889〜1939) 小説家、歌人、仏教研究家。
(注5)幸徳秋水(1871〜1911) 評論家、思想家。非戦運動を展開。1910年、天皇暗殺を企てたとして逮捕され(大逆事件)、翌年処刑された。
(注6)管野須賀子(1881〜1911) 社会運動家。幸徳秋水と結婚、離婚。大逆事件で死刑となる。
(注7)平林たい子(1905〜1972) 小説家。1937年、国体変革などを目的に人民戦線の結成を呼び掛けたとして大学教授らが大量に検挙された事件で、半年以上勾留された。
(注8)佐多稲子(1904〜1998) 作家。
 
 
 

 

●瀬戸内寂聴の名言・格言
瀬戸内寂聴の名言には「私は多く傷つき、多く苦しんだ人が好きです。挫折感の深い人は、その分、愛の深い人になります」、「いろんな経験をしてきたからこそ、あなたの今があるのです。すべてに感謝しましょう」などがあります。 小説家であり、天台宗の尼僧でもある瀬戸内寂聴(1922〜2021)の名言をご紹介します。
元気
一日一日を大切に過ごしてください。そして、「今日はいい事がある。いい事がやってくる」「今日はやりたい事が最後までできるんだ」この事を思って生活してみてください。
健康の秘訣は、言いたいことがあったら口に出して言うことです。そうすると心のわだかまりがなくなります。
一日に一回は鏡を見る方がいいです。できればにっこりと笑ってみてください。心にわだかまりがない時は、表情がいきいきしているはずですよ。
いくつになってもおしゃれ心を失わないこと、好奇心を失わないこと、若い人と付き合うこと。これが、若さを保つ秘訣です。
夢・努力・勇気
「念ずれば花開く」という言葉があります。私は何かをするとき、必ずこれは成功するという、いいイメージを思い描くようにしています。
人生はいいことも悪いことも連れ立ってやってきます。不幸が続けば不安になり、気が弱くなるのです。でも、そこで運命に負けず勇気を出して、不運や不幸に立ち向かってほしいのです。
もし、人より素晴らしい世界を見よう、そこにある宝にめぐり逢おうとするなら、どうしたって危険な道、恐い道を歩かねばなりません。そういう道を求めて歩くのが、才能に賭ける人の心構えなのです。
生きるということは、死ぬ日まで自分の可能性をあきらめず、与えられた才能や日々の仕事に努力しつづけることです。
無為にだらしない生き方をするより真剣に生きるほうが、たとえ短命でも値打ちがあります。
たくさん経験をしてたくさん苦しんだほうが、死ぬときに、ああよく生きたと思えるでしょう。逃げていたんじゃあ、貧相な人生しか送れませんわね。
恋愛・結婚
男女の間では、憎しみは愛の裏返しです。嫉妬もまた愛のバロメーターです。
男女の恋の決算書はあくまでフィフティ・フィフティ。
夫婦の間でも、恋人の間でも、親子の間でも、常に心を真向きにして正面から相手をじっと見つめていれば、お互いの不満を口にする前に相手の気持ちがわかるはずです。
妻は、やさしくされることを望んでいるだけではない。やさしい心で理解されることを望んでいる。
同床異夢(どうしょういむ)とは、同じ布団で寝ていても同じ夢は見られないことです。愛の情熱は三年位しか続きません。夫婦は苦楽を共にして愛情を持ち続けるのです。
世間的に申し分のない夫や妻であっても、相手が欲していなければ、それは悪夫、悪妻です。そんな時はさっさと別れて、自分の良さを認めてくれる相手を探すことです。
恋を得たことのない人は不幸である。それにもまして、恋を失ったことのない人はもっと不幸である。
人間関係
理解できないと投げ出す前に、理解しようと相手と同じレベルに立って感じることを心がけましょう。
人間は万能の神でも仏でもないのですから、人を完全に理解することもできないし、良かれと思ったことで人を傷つけることもあります。そういう繰り返しの中で、人は何かに許されて生きているのです。
人の話を聞く耳を持つことは大事です。もし身の上相談を受けたら、一生懸命聞いてあげればいいのです。答えはいりません。ただ聞いてあげればいいのです。
人とつきあうのに秘訣があるとすれば、それはまずこちらが相手を好きになってしまうことではないでしょうか。
どんなに好きでも最後は別れるんです。どちらかが先に死にます。人に逢うということは必ず別れるということです。別れるために逢うんです。だから逢った人が大切なのです。

相手が今何を求めているか、何に苦しんでいるかを想像することが思いやりです。その思いやりが愛なのです。
お返しを期待しない、感謝の言葉も求めない。それが本当の奉仕です。
愛に見返りはないんです。初めからないと思ってかからないと駄目です。本当の愛に打算はありません。困ったときに損得を忘れ、助け合えるのが愛なのです。
幸福になるためには、人から愛されるのが、いちばんの近道です。
自分を愛してもらいたいから、相手を愛する、それが渇愛です。自分を忘れて他人に尽くす仏さまの慈悲とは正反対ということです。慈悲はお返しを求めません。
人は、人を愛していると思い込み、実は自分自身だけしか愛していない場合が多い。
人間として生まれると、他の動物にはない誇りが心に生じるのだと思います。学校の成績より、他者の苦しみを思いやれる想像力のある人間こそ素晴らしいのです。
愛する者の死と真向きになったとき、人は初めてその人への愛の深さに気づきます。「私の命と取り替えてください」と祈る時の、その純粋な愛の高まりこそ、この世で最も尊いものでしょう。
あなたは苦しんだ分だけ、愛の深い人に育っているのですよ。
人生
私たちの生きているこの世で起きることにはすべて原因がある、これが「因」です。起こった結果が「果」です。因果応報というように、必ず結果は来るのです。
人間は、元々そんなに賢くありません。勉強して修行して、やっとまともになるのです。
いろんな経験をしてきたからこそ、あなたの今があるのです。すべてに感謝しましょう。
あなたはたった一つの尊い命をもってこの世に生まれた、大切な存在です。
死というものは、必ず、いつか、みんなにやって来るもの。でも、今をどのように生きて行くか、何をしたいか、生きることに本当に真剣になれば、死ぬことなんて怖くなくなるもんです。
人間は生まれる場所や立場は違っても、一様に土にかえるか海に消えます。なんと平等なことでしょう。
人間は善悪両方を持っています。それを、自分の勉強や修行によって、善悪の判断をし、悪の誘惑に負けずに善行を積んでいくことが人間の道なのです。
生かされているのですから素直に有り難いと思いましょう。生きている値打があるから生かされているのですもの。
年を取るということは、人の言うことを聞かないでいいということだと思います。あとちょっとしか生きないんだからと好きなことをしたらいいんです。周りを気にして人生を狭く生きることはありません。
夜の熟睡を死んだように眠るとたとえるのは、適切な表現かもしれません。人は夜、眠りの中に死んで、朝目を覚ます時は死から甦るのだと考えられるからです。「日々これ新たなり」ですね。

人は、不幸のときは一を十にも思い、幸福のときは当たり前のようにそれに馴れて、十を一のように思います。
人間はいつも無いものねだりなのです。そして心はいつも満たされない思いで、ぎしぎし音を立てています。欲望はほどほどに抑えましょう。
とにかく人のことが気になって気になってしょうがない、これが物事にとらわれている心です。そういう心を無くさない限り、心は安らかになりません。
自由に生きるとは、心のこだわりをなくすことです。自分の心を見つめて、ひとつでもふたつでも、そこに凝り固まっているこだわりをほぐしていくことが大切です。
心のこだわりをなくそうとするなら、まず人に施すことから始めてください。施すのが惜しい時はなぜ惜しいかを徹底的に考えてみることです。
心の風通しを良くしておきましょう。誰にも悩みを聞いてもらえずうつむいていると病気になります。信頼できる人に相談して、心をすっとさせましょう。
人に憎しみを持たないようにすると、必ず綺麗になりますよ。やさしい心と奉仕の精神が美しさと若さを保つ何よりの化粧品なのです。
人は所詮一人で生まれ、一人で死んでいく孤独な存在です。だからこそ、自分がまず自分をいたわり、愛し、かわいがってやらなければ、自分自身が反抗します。
美しいもの、けなげなもの、可愛いもの、または真に強い勇ましいものに感動して、思わず感情がこみあげて、涙があふれるというのは若さの証しです。ものに感動しないのが年をとったということでしょう。
木々の緑や紅葉や美しい花が地球から消え去ったら、人間の暮らしは殺風景になり、感動することがなくなってしまうでしょう。
孤独
人間は生まれた時から一人で生まれ、死ぬ時も一人で死んでゆきます。孤独は人間の本性なのです。だからこそ、人は他の人を求め、愛し、肌であたため合いたいのです。
この世は変化するものだと思っていれば、どんな事態に直面しても度胸が据わります。孤独の問題も同じです。お釈迦様は人間は一人で生まれてきて、一人で死んでいくとおっしゃいました。最初から人間は孤独だと思っていれば、たとえひとちぼっちになったとしても、うろたえることはありません。
結局、人は孤独。好きな人と同じベッドで寝ていても、同じ夢を見ることはできないんですもの。
自分が孤独だと感じたことのない人は、人を愛せない。
悲しみ・苦しみ
どんな悲しみや苦しみも必ず歳月が癒してくれます。そのことを京都では『日にち薬(ひにちぐすり)』と呼びます。時間こそが心の傷の妙薬なのです。
私は多く傷つき、多く苦しんだ人が好きです。挫折感の深い人は、その分、愛の深い人になります。
悩みから救われるにはどうしたらいいでしょうという質問をよく受けます。救われる、救われないは、自分の心の問題です。とらわれない心になれば救われます。
心を込めて看病してきた人を亡くし、もっと何かしてあげればよかったと悲しみ悔んでも、亡くなった方は喜びません。メソメソしているあなたを見てハラハラしていることでしょう。早く元気を取り戻してください。
人間に与えられた恩寵に「忘却」がある。これは同時に劫罰でもあるのですが。たとえ恋人が死んでも、七回忌を迎える頃には笑っているはず。忘れなければ生きていけない。
別れの辛さに馴れることは決してありません。幾度繰り返しても、別れは辛く苦しいものです。それでも、私たちは死ぬまで人を愛さずにはいられません。それが人間なのです。
病気は神さまの与えてくださった休暇だと思って、ありがたく休養するのが一番いい。
人生にはいろいろなことがあります。しかし、悲しいことは忘れ、辛いことはじっと耐え忍んでいきましょう。それがこの四苦八苦の世を生きる唯一の方法ではないかと思います。
女性
おしゃれの女は、掃除が下手と見て、だいたいまちがいない。
大抵の人間は自分本位です。特に女性は、自分中心に地球が廻っていると思っていて、思い通りにならない現実に腹を立てて愚痴ばかり言うのです。思い当たることはありませんか。
子供・教育
子どもと目線を同じにして対等に話をしてください。大人は皆、上から物を言い過ぎます。そして、世の中は生きる価値があると感じてもらえるように、大人が努力しましょう。
私は物心ついた時から職人の娘でした。盆暮れしか休みが無いのが当然でしたから、人間は働くものだと思って育ちました。これは無言のしつけだったのでしょう。
本当に苦しんでいる子どもに、いろんな理屈を言っても駄目。まずは、子どもを抱きしめてやることが大切なんです。
学校の成績なんて気にすることはありません。何か好きなことが一つあって、それを一生懸命できるということが人生の一番の喜びなんです。
お子さんに「何のために生きるの?」と聞かれたら、「誰かを幸せにするために生きるのよ」と答えてあげてください。
戦争
あらゆる戦争は悪だと思っています。戦争にいい戦争なんてありません。私たち老人は、そのことを語り継がなければなりません。
戦争はすべて悪だと、たとえ殺されても言い続けます。
 
 
 

 

●源氏物語の世界を新作能に描いて 瀬戸内寂聴  2009/12
──(編集部)能と関わりを持つようになったのはいつごろのことでしょうか。
瀬戸内寂聴さん(以下、寂聴) お能は、女子大の頃に少し手ほどきを受けたんですよ。私の出た東京女子大は、わりと能の好きな学校で、喜多流の先生がみえていまして、謡や仕舞を習っている人が結構多かったんです。私はほんの少しかじったくらいですが、本格的に舞台に立って舞う人もいました。その頃から親しんでいました。それに能は何といっても古典ですからね。謡曲そのものも、わりあいに古典文学を素材にしているでしょ。私も古典文学を勉強して、やはり惹かれるところがありました。後年には新作能を書いて、少しは能がどのようなものかわかっていますから、今はどんな能を観ても前よりおもしろく、感動しますよ。好きな能、といって決められるわけではなく、何を観ても感心します。
──能の魅力はどういうところにありますか?
寂聴 能役者は訓練、鍛錬がものすごい。もう稽古、稽古、稽古ですからね。世阿弥も書いていますが、本当に稽古を積み重ねてきた人たちが舞台に立つわけです。私たちが、こう手を伸ばす動きとはわけが違いますね。手を伸ばしたり、曲げたりする、その動きがもう美しい所作になっています。見ただけで美しい。それに、能装束も素晴らしいでしょ。役者さんのもとの外見がどうあれ、実際に、たとえば小面をかけて唐織を羽織ると綺麗な女の人に見えるじゃないですか。訓練による所作、舞の美しさ、声の張りがそう見せるのでしょう。現実の世界から連れ出されて、能の描く夢幻の世界に魂を遊ばせてくれる。その魅力が深く美しい。
初めて観たとして、何を言っているのか謡のことばがちっともわからなくても、舞台そのものが美しいし、簡素だから際立って訴えかけてくるものがありますね。そのうちに何を語っているのか、言葉がわかるようになってきたらね、そのおもしろさは格別だと思います。それから同じ能でもね、流儀や演者によって演出の違いがあります。同じ人が演じても、また違ってくるし。でもどんな解釈の違いがあって、どう演じても、そこには完成した美しさが現れる。だんだんそれが深く解釈されていって、一回ごとに違う。だから何度でも見られるんです。また、能の場合はシテにしても誰にしてもあまりしゃべらないでしょ。しゃべったとしても凝縮したことしか言わない。そしてあの面の中から聞こえてくる声といったら、もう男だか女だかわからない。不思議な声になりますからね。いくらリアリスティックな場面を演じていても、そこには幽玄が現れるんですね。何ともいえないほどの不思議さ。それも魅力じゃないでしょうか。
──私たちも観させていただいたのですが、新作能で「夢浮橋(ゆめのうきはし)」を書かれていますね。
寂聴 この能は、梅若六郎(現・梅若玄祥)さんの引き合いがあって書きました。あの方は新しいものに興味がおありなんですよ。源氏ものをやりたいと思われて、私が源氏物語を書いたからと、起用してくださったんです。怖いもの知らずで、おだてられて「はいはい」と書いていきました。「夢浮橋」のほかにも「虵(くちなわ)」といった新作能も薦められて書いています。それはおもしろかったですよ。お能は短くなければいけないとは知っていました。梅原猛さんが歌舞伎をはじめて書いたとき、とても長くなったそうです。それを、依頼した市川猿之助さんが削っていったら、東京都の電話帳くらいあった原稿が、週刊誌くらいまで縮まったそうですよ(笑)。それを聞いていましたから、歌舞伎よりしゃべらない能だからと、はじめから短く書いたんです。それを、六郎さんが「拝見します」とご覧になった。すると「少し削らせてください」とおっしゃいました。「どうぞ、どうぞ」と申し上げたら、ぱっぱ、ぱっぱと削っていかれて……週刊誌の半分くらいだったものが、往復はがきに収まる長さになってしまったの(笑)。六郎さんもニヤリと笑っていましたね。
でもそうやって削ったところが舞台にかかると生きてくるんですね。私の書いていたことを、言葉で説明するんじゃなく、きちんと演じてくださるんですよ。短い詞章なのに、演じられると非常に膨らんで、謡の節、囃子が入るとまた素晴らしく豊かになる。自分が書いたものとは思えない世界が出現するんですね。すごいなあ、と見上げました。ポスターは横尾忠則さんにお願いしたんです。思い切ったポスターをお描きになるから能にはどうかな、と思っていたんですが、ご本人が「やるやる」と乗り気になって。六郎さんもできたものを見てこれはいい、とおっしゃいましたね。このポスターもとても評判がよかった。すると今度は横尾さんが能の世界に夢中になって、「瀬戸内さんが能をやるなら、僕は狂言をやる」と言い出して梅原猛さんが大蔵流茂山家に書いた狂言の舞台装置、小道具、衣装まで、全部横尾さんがなさった。またそれも大当たりで横尾さんもどっぷりとはまってしまいました(笑)。
──能はどんどん削ぎ落としていくものですが、「夢浮橋」もそうですね。
寂聴 私は、かつて頼まれて「愛怨」というオペラも書きました。オペラも役者が歌って踊るというのはお能と同じなんですけど、お能は凝縮して、凝縮して、とことん凝縮していく。ところがオペラは非常に饒舌に語らせて、歌詞も物語も複雑にしたほうがおもしろいんですね。両方やってみて、その違いがよくわかりました。歌う(謡う)、踊る(舞う)というかたちで見せるのは同じなのに、その違いが大きく際立つところがおもしろいなと思いました。また歌舞伎も書きましたが、たいてい長いセリフがあって、語ってわからせようとします。でも能は喋らないでわからせようとする。そういう違いがありますね。泣く姿でも歌舞伎は声を上げてよよと泣くじゃないですか。それはそれでわかりやすいけれども、お能は手を顔の前に持ってくる(シオリ)だけ。それのみで泣いているとわかるのだから、すごいですね。
──「夢浮橋」は、国立能楽堂の委嘱を受けた作品で、初演が2000年(平成12年)だそうですね。その後十数回も上演されていると聞きます。新作能はなかなか再演にかかることが少ないのに、異例ですね。
寂聴 今の人にわかりやすいんじゃないかと思います。だから何度もやっていただけるんじゃないかしら。普通、新作能は一回やると何年もやってもらえないらしいですね。私の書かせていただいた能はどれも、一年のうちに2回演じていただいて。「夢浮橋」はもう何回やったかしら。いろいろな場所で演じていただきましたよ。能は古典だから「新作能なんていらない」という考え方もあります。でも、時代がどんどん進んでいきますと新しい能が出てきてもいいと思うんですよね。また、古い能でも演出によって変えていけるところがあると思います。
──「寂聴さんは、主に世阿弥の晩年を取り上げた『秘花』という小説を書いておられます。登場人物の重層的な存在感に魅力を感じました。どういう思いで書かれたのでしょう。
寂聴 能に関係しましたからね。世阿弥をもっと知ろうと思って調べるうちにだんだんおもしろくなって。72歳で佐渡に流されたでしょ、本当に都へ帰ったかどうかわからないんですよ。お墓は京都にあるんですけどね。私も参ったんですが、その中に入っている感じがしないのね。ずっと後で作られていますし、世阿弥の墓と感じない。それで果たして帰ってきたかというと文献には何も記録されていない。おそらく帰ってきただろうと皆思っているんですけど、私は帰らなかったんじゃないかと見ています。もし私が世阿弥だったら帰らなかったんじゃないかな、と思うんですよ。
──佐渡に眠るという場所もないですよね。
寂聴 お墓はないんですけど、世阿弥のいたところは佐渡にあります。そのほか関係のあるところは全部行きました。佐渡にはいろんな人が流されて、おもしろいところですよ。佐渡はね、行ってみてわかったんですが、非常に食べ物が豊富なんです。山海の珍味があります。海に囲まれて、暖流も寒流も流れている。だから魚もいろんなものがあるでしょ。島の中は山になっていて、山のものも採れる。いいお米もできる。そして水がいいんですね。するとお酒がおいしいでしょう。本当においしいんですよ、今もずっと。食べ物が豊富なところの人は心が広い。誰でも受け入れるんです、陽気でね。佐渡もそう。食べ物がたくさんあるから心がとっても豊かなんですよ、そしてやさしい。すべてを受け入れて、流人も受け入れるんです。だから流された人たちも皆ひどい目にはあってない。それは、佐渡に行って土地の人と仲良くなってわかったんですよ。
世阿弥も尊敬されていましたからね、あまり困ってなかったんじゃない。唯一残った資料でわかるのが、娘婿の金春禅竹が必ずお金を送っていたこと。そのお金もちょっとやそっとじゃない。莫大なお金です。そのことに感謝する世阿弥の直筆の手紙もあります。それを見ますと、おかげで体面が保てたと書いてある。食べ物に困らなかったというレベルじゃない。体面を保てるほど豊かな生活を送っていたことが窺われます。そこに82歳までいたんですかね。それは、年を取りますよ。今の70、80とは違います。私が『秘花』を書いたのは、84、85歳でした。その頃の私は、まだまったく老いを感じていなかった。86歳が大変で、源氏物語千年紀に忙しく駆り出されて(笑)。それが終わって87歳になった今、ああ年取ったな、そう思っているんですよ。それまで老いというのは本当に感じていなかった。けれども、耳はもう遠くなっていたし、眼も白内障の手術をしました。それも今は簡単に治りますけど、老いた証拠でしょ。だからこういうふうに老いは来るのかな、と思ったけれど、ちっとも暗くなかったですよ、私は。まだいける、老いてもまだ仕事ができると思っていた。世阿弥も、82歳まで生きたということは、非常に体が丈夫だったんでしょう。だから最期まで何がしかの活動をしていたんじゃないかなと思ったんです。ただ目が見えなくなっていたら困ったでしょうね。それに耳が遠くなったら補聴器もないでしょ。私と違って、すべてが音楽的な人じゃないですか。そのあたりが不便だったのかなと思いますよね。
──『秘花』で描かれる、鶯が来ているのによく見えず、鳴く声も聞こえないで、「鳴いていたのか」と、ぽつんと言うところが印象的でしたね。
寂聴 今こうして私たちに見えているものが見えないわけですからね。書いていたら、だんだんと、そういうことが出てきてとてもおもしろかったんです。
世阿弥は将軍に色を売って世に出たわけです。そういうことは、長くは続かないですね。彼らは浮気だし。もっと若いのが出るとそっちにすぐ移るでしょ。非常に不安定ですよね。世阿弥は小男だったというから、かわいがられるほうでしょうね。美少年だったでしょうが、私たちが思うかわいいとか綺麗とかいうのとは違うような気がします。私は、お父さんの観阿弥がとてもいい男だったように思います。堂々としていてね。考え方もしっかりしている。
──男性的ですよね。
寂聴 観阿弥は、男っぽくて色っぽい。観阿弥が世阿弥を演出して、作り上げていったんですよね。わりと早く亡くなりましたが。
──観阿弥は、自分の一座が絶頂に向かうのと同じく歩んだ幸せな人生で、世阿弥は苦労の連続だったのかも知れません。
寂聴 だけどここまで能が残っているし、理論づけています。やっぱりたいした人ですね。
──『秘花』の中で、花と幽玄をスパッとお書きですね。
寂聴 小説の最後のほうは、寝ずに書いていましたからね。ぱっとひらめいて出てきたんですよ。世阿弥の花を一言でいえば「色気」になる。だってそうでしょう? 舞台で、あの役者は花があるというときは、色気があるということですもの。そうですよ、花は色気ですよ。でも、やっぱりびっくりするかしら、人は。
──能楽関係者にお話を聞くとかなり将来に危機感をもっていらっしゃいます。寂聴さんは能の将来をどう思われますか。
寂聴 私は、能は残ると思いますね。歌舞伎も文楽も残るでしょう。強いと思いますよ、日本のそういう伝統芸能は。ただ祇園みたいなところはだんだんなくなっていくでしょうね。個人でやる踊りなんかは廃れるかもしれません。でも歌舞伎や能は残ると思います。あと外国の方が好きになるんじゃないかしら。私たちがオペラに夢中になるように。ヨーロッパの人はオペラに飽きているでしょう(笑)。だから団十郎なんかが行くとびっくりするじゃないですか。
──能の好きな外国人のグループもありますね。お話を聞くと「自分たちから見ると驚きの演劇だ」と言っています。
寂聴 外国人で能を観て、感動する人は、リピーターになってまた来ますよ。日本人よりも感動が強いんじゃないでしょうか。鍛錬に鍛錬を重ねた美しさがあるし、言葉だって短いでしょ、能は。訳しても短くてすむ。その短いのを読んで、見てればいいんだから。長いセリフの演劇を訳されても嫌になるけど、能は何か勝手にわかるんじゃないですか。
──その人は「羽衣」を観たけれども、セリフがわからなくてもおもしろかったと言っていました。
寂聴 羽衣はいいですよ、あれは傑作だと思いますよ。「いや疑いは人間にあり。天には偽りなきものを」ということばはいいですね。
──そういうセリフじゃないですが、能には仏教の考えや言葉が入ってきています。
寂聴 重なっていますね。お経の言葉、仏教が入っている。なんといっても幽霊が出てきますよね。死んでも生きるということを信じている。だからすごいんじゃないですか。
 
 
 

 

●瀬戸内寂聴 58年前の手記 2020/3
1 「でたらめなスキャンダル記事の中の私」
私の全く知らない私の数奇な半生
2年ほど前のある日、私はN町から西武線に乗っていた。何気なく見上げた電車の吊り広告の文字が目に入ってきた。四流どころの週刊誌の広告だ。
「或る女流作家の奇妙な生活と意見」
白ぬきの文字は他のどの見出しよりも大きく、ビラの真中におどり出るように浮き上っている。やれやれ、気の毒に、また誰かが変な記事に書かれたんだな、私は全く他人事だと思って、のんきにそのビラを見上げ、仕事仲間の気の毒な被害者に心から同情した。どうせ、当人にとって名誉な記事でないことは、その雑誌の性格からいっても十分想像出来た。
新宿へ着き、私は人と待ち合わせるため、喫茶店に入った。ちょうど目の前に、店のそなえつけの週刊誌が何冊かなげだされてあり、電車のビラで見て来たばかりのそれが、一番上にのっていた。私はヤジ馬根性と好奇心からそれをとりあげてめくっていった。
呆れたことに、私自身の大写しの顔がある頁の真中からいきなりとびだして来た。ぎょっとして目を据えると、まぎれもない、電車の広告の文字がその頁の見出しにでかでかとのっている。私の写真の斜め下には、御丁寧にも、私の愛人のJの顔までのっていた。両方とも、いつとられたか自分では覚えもない写真だった。そこまで見てもまだその記事が自分のこととはピンと来ず、私は文字を拾いはじめた。
怒るよりも思わず吹きだしてしまうようなでたらめな話がそこにはまことしやかに書き並べてある。私の全く知らない私の数奇な半生が描かれていた。それによれば、私は夫の家をとびだし、京都で京大の学生の子供を産んだのだそうだ。
また私は妻子あるJと公然と同棲し、最近Jがさる週刊誌に連載小説を書きだし、「作家として一人前になったので、もう私の役目は終ったから、身をひいて奥さんにかえしていい」とインタビューされた記者に語ったのだそうである。
読み終り、私は思わずふきだしてしまった。私の半生なるものは、私の小説のあれこれから何行かずつ拾いあつめて、つぎあわせつくったものらしい。それにしても、私は小説の中でも京大生の子供を産む女の話など書いたことは一切ない。また私は、その時まで、そんな記事のためにインタビューをされたことなど一切ない。電話さえかかっては来ていない。
私はその「奇妙な女流作家の生活と意見」を拝見し、電車の中でビラを見上げていた自分の顔を思いおこしまるで漫画だと自嘲した。家に帰った頃、次第に怒りがこみあげて来て、電話でその社にどなりつけたけれど、そんなことには馴れているらしい相手はぬけぬけと平気だった。
それほどひどい例は少いけれど、似たようなことは何度かある。自分の云った覚えのないことばやしたことのない行動が、無責任な活字で流布される不愉快は、そんな目にあった人間でなければわからないだろう。
けれどもその記事にも一分の真実はあった。私が夫と子供のある身で恋人をつくり、夫の家をとびだしたこと、後に妻子あるJを識り、恋愛関係になり公然と彼との仲をつづけていることであった。そのどちらも道徳のわくをはみだした行為であり、それだけでそういう雑誌のスキャンダル面に扱われるようなネタの持主にはちがいなかった。
それらのことを私はすでに小説の中でいくらか書いている。私小説の手法を使ってはいるが、それらの私の小説はいわゆる純粋な私小説ではなかった。どの場合も私は現実と虚構をないまぜて全然別個のもう一つの小説の世界をつくりあげていた。そういう方法が私には私の内面の真実をより一層確かに描けると思っていたからであった。
「私は後悔しない」「私は彼を責めない」…
この1年程前から、8年つづいたJとの関係を清算したいと考えはじめたころから、私はこの問題をテーマに秘かに小説を書きつづけてきた。自分の内部に充満した血嘔吐をはきちらすような切ない作業をつづけながら、私はむきだしにされていく自分の醜さや、愚さや、度し難い矛盾相剋(そうこく)の網目に身も世もない情けなさを味っている。迷いこんだ穴から書くことによってぬけ出るなどいうことは、とうてい出来ない作業だったのだ。
それでも小説に書くことによって、自分を客観視し、自分がどうにもならないと決めていた「関係」をどうにかしなければならないという前進的な方向に持っていけるようになったのはたしかであった。
ちょうどそんなころ、この雑誌で「妻の座なき妻」の特集があった。私はそこに私の悩みと同じ悩みをつづけている何人かの同類を見た。その人たちのペンが書ききれないもっと深いため息や、悶えが聞えるように思った。
彼女たちは申しあわせたように経済的自立を得、社会的にも自主性をかち得ている人たちであった。
「女の可能性とかその将来とかをとりあげる時問題にすべきはこういうひとたちである」と、ボーヴォワールにいわしている「めぐまれた女性」たちであった。男に養われながら、選挙権だけを看板のようにふりまわし依然として本質的には男の隷属物にすぎない女の地位にあきたらず、すでに、意識するとしないにかかわらず、そこからぬけ出ている、解放された「自由な女」たちであった。
にもかかわらず、彼女たちの心を引き裂いている悩みの、依然として何と女らしく、女そのものの問題であることか。
「私は後悔しない」
「私は恥じていない」
「私は彼を責めない」
彼女たちが必死に自分にいいきかせ、世間に叫んでいることばの一つ一つが私には他人の声には聞えなかった。8年の彼との歳月の中で、私自身、何度そううめいてきたかしれないなじみ深いことばであっただろう。
経済的に男や、男の家庭に負担をかけていないというのが自分の行為の云いわけの何より強い自負なのだ。むしろこうした立場の女たちは、かえって、自分の愛の純粋さを強調し正当化したいため、経済的に男の分まで積極的に分けもとうとさえする。
「彼がもし、妻や子を捨てて私の許に来るようなら……そんな冷酷な彼は私は愛さないだろう……」
こんな意味のことばをそれらの手記の中に見出した時、私は苦笑しながら涙をこぼしていた。恋する女でなければ決して口に出来ない、その一見謙虚で優しさにみちたいじらしいことばもまた、8年間の私の恋の支えでもあった。
私は小説の中で自分の恋を責めさいなんでいる時、このことばにつき当り、そのことばにかくされている傲慢さと、自分勝手な言い分に愕然と気づいた直後であったからだった。
こういうことばを口に出来るのは、男の愛が自分にあると確信と自信にみちている時である。
「彼は……私がそう望みさえすれば、必ず、妻子を捨て、私の許にやってくる。けれどもあえて、私はそんなことを彼にさせない。なぜなら、彼のそんなむごいことの出来ない人間的な、優しさを私は十分理解しているから……」
一見筋の通ってみえるそんな理屈に自己満足しながら、私は8年間唯の一度も彼に妻と私のどちらを選ぶかという一番大切な問題を聞いてみたこともなかった。そんなひとりよがりの思い上りが、膝づめ談判の解決を迫るより、どれほどひどく、彼の妻を侮辱している傲慢さにみちたものかに、私は8年間一度も気づかなかったのだ。
そして「優しさ」という手触りのいい美しいことばで二人の女のどちらをも選べない、男の愛のあいまいさに掩(おお)いをかけ、一度もその正体をつきとめてみようとはしなかったのだ。
むしろ、
「夫を守るということ、これは一つの仕事である。恋人を守るということ、これも一種の聖職である」
こんなことばを自分に都合のいいように解釈して私は世間に自分の恋を誇示して来さえした。
2 「良妻賢母の座から一挙に不貞な悪女の座に堕ちて」
内助の功をつくす妻になるのが夢であった
8年前、私と彼がめぐりあった時、両方とも最悪の絶望状態におちこんでいた。
すでに私は「世間を気にしない女」になっていた。というより、とっくに「世間の評判を落してしまった女」であった。貞淑な良妻賢母の座から一挙に不貞な悪女の座に堕ちて世間の道徳の枠からはじき出されてみると、そこには想像も出来なかったのん気さと自由があった。
けれどもまた「うるさい世間の目」の外の世界は、ともすれば、ずるずるとひきずりこまれるような虚無の淵が足元におとし穴をつくってもいた。
あらゆる自分の美徳の名や保証されていた社会的地位や、子供と引替えに自分で選んだ恋愛に、もののみごと惨めな失敗をとげたあとでは、私はもう虚無の泥沼にずるずるおちこんでいく自分をどうする力も持っていなかった。25歳の人妻が21歳の青年とした恋が、その女にとっては初恋だったといったら、こっけいだろうか。
夫とは見合結婚だった。厳格な県立高女でスパルタ式の教育を受けた私は、先生に気にいられる善良な優等生だった。御法度の男友達をつくるなど考えもしなかった。第一私は美しく生れあわせていなかった。女子大に入っても寮と教室を往復するだけの学生で、お茶をのむボーイフレンドもなかった。
きりょうの悪い娘を女子大に入れ、ますます婚期を失うはめにしたという世間の噂を苦にした母が必死に奔走してチャンスをつかんだ見合の席に、私は夏休みのある日、着なれない着物に苦しい帯をしめ、しとやかな娘らしく装って出席した。退屈な学校生活にもあきあきしていたし、日一日と色濃くなる戦争の匂いもいやだったし、北京に嫁げるという魅力もあって、私は出来るだけこの見合にパスしたいと望んでいた。
見合という形式が、男が女を選ぶ場であって、女が男を選ぶなど思いもかけない田舎の風習に、私は別に抵抗も感じない意識のない平凡な娘だった。私は見られて、うまく選ばれたいと、その時思っていただけだ。見合が成功した時、私はたちまち、その相手を、私が少女時代から描いていた理想の男性像に頭の中で仕立てあげてしまった。女子大の寮で私は北京の彼に毎日ラブレターばかり書いて暮した。自分の書く恋のことばに自分で酔い、私はこの幻の恋に陶酔した。
結婚して北京へ渡り、翌年女の子を生んだ時も、私は愛する夫の子供を産む女の味うであろう幸福感を人並に十分味った。私はしたことのない台所仕事に次第に熟練するのが楽しく、不如意な家計のやりくりが上手だとほめられるのが得意であった。夫を偉大な学者の卵だと信じ、彼のかげでつつましく人目にたたず、内助の功をつくす妻になるのが私の当時の夢であった。
内ごう地しょが空襲にさらされ、郷里が一夜で焦土になり、母が防空壕で焼け死んだのも知らず、私は劫初のけがれなさで輝きつづけているような北京の碧空の下でのんきに暮していた。天皇の写真ののった新聞を破っただけで罰が当るという教育のされ方をして来た私は、その頃でも骨の芯から忠良な臣民であり、日本の敗戦など夢にも考えたことがなかった。
戦争が私に直接結びついて来たのは、二十年六月の夫の現地召集からだ。誕生日が来ない子供をかかえ、私は親類一人ない北京に無一文でとりのこされた。夫の職場が輔仁(ほじん)大学から北京大学に変ったばかりで、内地からの任命がいつ来るかわからず、従って北京大学の給料が出ないという不安な状態の中である。内地からもう手紙も通じなくなっていた。
私たちの間に本当の会話はなかった
私はその日から俄然活動的になった。七つの行李(こうり)につめて母が持たせてくれた嫁入支度の着物を、一枚のこさず中国人に売った。しつけもとらないまま、一度も手を通すひまもなかった着物が、それから2年の私達親子の生命を支えてくれることになろうとはまだ想像もしなかった。
札束を畳の下に敷きこみ、私は職探しに奔走した。赤ん坊をかかえた女の就職の難しさは、どんな時代にも変ることはない。ようやく私に与えられたのは、家からさして遠くない城壁の真下の運送屋の事務員の口であった。少女の阿媽(あま)に赤ん坊と留守をあずけ、私は生れてはじめて就職した。その日が8月15日だった。
電話を4、5本とりついだだけで私はその店の応接間で主人や使用人と最敬礼をしながら天皇の声を聞いた。ザアザアという雑音にまぎれこんだ天皇の声は歯切れの悪い濁った頼りない声であった。意味もとれないほど雑音でかきけされていた。後につづいた現地司令官の声で、はじめて私は事態を納得した。
どんなふうにその店をとびだしたのか覚えていない。気がつくと私は人気もない大通りの商店の軒下で雨宿りをしていた。しのつくような雨が視界をさえぎっていた。となりに若い少年のような俤(おもかげ)の兵隊がやはりぼんやり雨を見つめていた。見るまに雨は上り、簾(すだれ)を巻きあげるようにするすると雨脚が上っていった。城門のかなたで遠雷が走るのが聞えた。
その時、私は自分が深い真暗な水の底から不意に浮き上り、大きな息をしたように思った。雨上りの大気が真実肺の奥までひりひりしみとおってきた。見なれた北京の町並が見知らぬ国の未知の町筋のようにきらきら目に映って来た。私は次の瞬間、悲鳴に似た声で子供の名を叫び、気が狂ったように子供のいる胡同(フートン)の方へ走りだしていった。
夫が帰って来た。内地へ帰りたくないという夫に従い、私も終戦の翌年まで北京に残った。終戦の日を境に、私の内部に一つの変化がおこったことに夫は気づかなかった。その時になって、私は夫と結婚以来何ひとつ話らしい話をしていないのに気づいた。日常生活はあったが、私たちの間に本当の会話はなかった。今になって心の中のもどかしさを伝えようとしても通じあうことばのないのを発見した。
私はもう過去に教えこまされ信じこまされた何物をも信じまいとかたくなに心わらをとざしていた。教えこまされたことにあれほど無垢な信頼を寄せていたことを無知だと嘲うなら嘲われてもいいと思った。無知な者の無垢の信頼を裏ぎったものこそ呪うべきだと私は考えていた。もう自分の手で触れ、自分の皮膚で感じ、自分の目でたしかめたもの以外は信じまいと思った。その頃私に確実に信じられるのは日一日と私の腕の中で重みを増す子供の量感だけだった。
着物の金を使い果たし、命からがら引揚げて来た内地で見たものはもう一度私を叩きのめした。私は飢えていたものがとびつくようにあらゆる活字にとびついていった。それらの活字のもつ意味を私はかわいた海綿のようにじくじく吸収していった。私の内部には次第に新しい自分が生れはじめていた。なじみのないよそよそしい自分だったけれど私はその新しい細胞の一つ一つに自我という文字が灼きつけられているのを息をつめて見守っていた。
そんな頃、私に恋がふりかかった。それからの経験やJとの愛を通してみても私には恋愛は不測の事故だと思えてしかたがない。彼に恋を打あけもしないで私は夫に自分が恋におちたと告白していた。
25歳の私の恋は、年より幼稚で、狂気じみていて、まわりじゅう傷だらけにして拾収もつかなかった。
後で考えれば全くノイローゼになって、私は家出という形をとった。ませていてもたかだか21歳の青年にこんな重荷な女が受けとめられるはずはなく、半年あまりで私たちは一日も一緒にすごさず、私が惨めな裏切りをして、彼から離れていった。
3 「目をそらして来た彼の妻の影像に向き合う」 
成長したいのに!成長したいのに!
25歳にもなって女一通りの生活体験を経ながら、ようやく16、7歳の文学少女の立っているような精神的地点に立ち、気がつくと私は色の恋のといっている沙汰ではなかった。
夫に衣類と配給票を押えられ、京都へ友人を頼って行きその下宿に転がりこんでしまった生活なので、私はとにかく「生きなければ」ならなかった。その時以来「生きなければならない」という最底線との闘いで、私の足元を歳月は目ざましい速さで流れてしまったのだ。
惨めな生活との闘いの空疎さに、気力も体力も萎えはてる時、私は「人の生肝をたべても成長したい」という平林たい子さんの小説のことばをお題目のようにとなえつづけて来た。けれども私の現実は、人の生肝をたべても露命をつながねばならぬ線から一向に向上せず、とても「成長したい」という高尚な願望までとどかない情けない有様であった。
京都から東京に舞いもどり、しゃにむにペン一本で子供雑誌の原稿を書きちらしてどうにか女一人の生活をささえられるようになったころ、私は自分が底のない虚無の淵にどっぷり腰までつかってしまっているのに気づいた。
「こんな生活とはちがう、こんなはずじゃない」私は自分のだらしない状態に悪態をあびせながら、酔っぱらって深夜の雪道に膝をつき、犬のように哭(な)きながら、私は成長したいのに!成長したいのに!と身をもんでいた。
Jと識り、彼にさそわれた時、私はまるで無貞操な女のようにすぐ彼と旅に出た。私はその旅で誘われれば心中してもいいような深い倦怠を、疲労をもてあましていたのだ。一、二回しか口をきいたこともないJについてその時私の識っているのは、彼が私以上に何者かに絶望しているということと、感覚的に合う人間だといういいかげんなおくそくだけだった。
金のない二人の旅はみじめで貧しいものだった。お酒をのみすぎた彼はその夜私を抱けなかった。私たちはそんなこととは別に、その一夜で二人がお互いに今、必要な人間どうしだということを感じあった。
私は彼を生かしたいと思い、彼を生かすことにもうどうでもいい私の生命をかけることで私も生きていいと思いはじめた。彼の方でも私を生かすことで、自分の絶望状態から目をそらしたいと思った。いいかえれば溺死しかけた者同士がお互いを藁でもと思ってしがみつき合ったのだとも云える。
私たちは死を選ばず、旅から帰って来た。何かしら自分の足に地をふみしめている力強さがみなぎってきた。
彼を死なせまいとみはることが私の生きがいに
それからの8年を今、本当に短いものに思う。
私たちははじめから、愛や永遠や、同棲を誓ったりはしなかった。何ひとつ契約もしなかった。ことばは不要な理解が、お互いに交流するのを感じたのだ。
はじめから、私は彼に妻子のあることは知っていたし、その人たちの場にふみこもうなどとは考えてもいなかった。彼を死なせまいとみはることが私の生きがいになっていた。私の内部にもやもやとおしつまり、出口がわからずうずまいていた文学への願望が、彼にはっきり出口を教えられ、道筋をさし示された。
私ははじめて彼がたった一冊出した彼の作品集『触手』を読み、強烈な文学的感動を受けた。そういう作品を一冊でも書いた彼を尊敬し、彼の文学を信頼することが出来た。彼に励まされ、私は私の内部に眠っていたさまざまな可能性を少しずつ光りの中にひきずりだすようになっていった。
いつのころからか、彼は湘南の海辺の町にある彼の家と私の下宿を小まめに勤勉に往復するようになっていた。8年間それはほとんど乱されることなく、まるで電気じかけのように正確に繰りかえされた。
恋のある時期、私にもやっぱり、彼の不在の間に嫉妬になやまされた時はあった。それでも私は嫉妬だけにかかずらっていられるほど閑がなかった。と同時に、私に対する彼の愛の確信のようなものが次第に強まり、傲慢な愛の自信から、みじめな嫉妬は解放された。もともと私は嫉妬心は人並より薄いのかもしれなかった。
妻の座というものに私は全然魅力もなかった。一夫一婦の結婚の形態にも私は私なりの疑問を持つようになっていたし、世間の夫婦をみまわしても心底から羨ましいと思うような家庭もなかった。私はまた、孤独な時間が好きでもあった。
彼といる時間の充実と温さと、安堵感は幸福そのものだったけれど、彼の不在の時の何物にも犯されず、孤独な時間のすがすがしさもまた私には幸福そのもののずしりと手ごたえのある時間であった。宿題を出された勤勉な小学生のように、私は彼の不在の時間に彼が組んでおいてくれた仕事の山をこなし、読むべき本を読み、観るべきものを観に走らねばならなかった。
彼が来た時、息せききってそれらの身心の経験のすべてを彼に告げると、私ははじめてそれらのひとりでした経験が血肉となって自分の内部に定着するのを感じるのであった。
彼の描いた軌道にのって私が走りはじめると、彼の生活費まで私がみているのだという噂がたちはじめた。そんなことは彼も私も問題にしなかった。私は私のものは彼のものだと思っていたし、事実、私の働いて得る金や物にしても、彼の精神的な助力がなかったら、とうてい得られないものだった。
けれども事実は、私は彼の生活費などみたことはなかった。最小限でも彼はずっと彼のペンで稼ぎつづけて来たし、妻子も養って来ている。また彼の奥さんも決して夫に依存しているだけの無能な人ではない。自分の芸術への夢は、彼との恋が結婚にすすんだ時、きっぱりあきらめて、彼の内助の妻となる道を選んだ人であった。彼にいい仕事をさせるため、内職をしつづけて、彼の負担を少くして来ているような人だ。
ある時期、彼に降ってわいたように華やかな週刊誌の連載物の仕事が来て、それを引受けてしまった。彼の今まで不如意をこらえつづけ守って来た文学の道からいえば、絶対引受けられる仕事ではなかったけれど、彼は長い奥さんの献身と苦労にむくいたくてそれを引受けたのだとしか私には思えない。その間、私にも彼ははにかみながら、生活費をさしだした。私はその期間くらい、そわそわと居心地の悪い想いをしたことはなかった。
「まるでお妾さんみたいだ」
私はぐあいの悪い表情でその金を受けとる時、出来るだけ早く費い果そうとした。幸か不幸か、そんな時期はとうてい彼にはつづかず、またもとのすがすがしい貧しさがおしよせて来た。妻子を飢えさせても自分の文学を守り通すのが、真の芸術家なのか、どうか、私には今もって答えはわからない。
ただその時以来、彼が私の部屋で、妻子を養うことだけが目的の仕事のペンを走らせ、その成果の金を持って妻子の許へ帰っていくという生活になった時、私はある失望を感じないわけにいかなかった。
彼の妻の影像との対決
8年の歳月は、本当に短いものだった。
けれども彼の小学生だった女の子がすでに大学に入るまでに成長した。とすれば、その子と偶然、同じ名をもつ私の夫の許にいる子も、別れた時四つだったのにもう、高校を卒業しそうな年ごろになっているはずだ。
彼と奥さんは、私が加った奇妙な状態の8年間もあわせて、すでに20年をこす結婚生活を送って来たのだ。
彼によって引きあげられ、彼によって導かれ、成長させられた私の、ものを書く人間の眼が、「生活におわれて」上すべりに見すごして来たものを、もう一度見つめ直さなければというようになって来た。
全く思いがけない角度から、私に結婚問題がおこった。私が「結婚出来る立場」にあるという発見は、誰よりも私自身を驚かせた。その気になりさえすれば、あなたは誰に遠慮もなく結婚していい立場のはずだ。そういわれて見て、はじめて他人事のように自分の周囲を見まわした。
私は8年間強いられたわけではないが彼に貞操をたて通して来た。彼が彼の家庭に帰っている時でも、私は自分の行動を彼を辱めないようにと手づなを引きしめる気持だった。何かを彼の不在に決裁したり決断しなければならない時、
「宅に相談してみまして」
という世間の妻たちのことばは口にしないまでも、彼の欲するよう、彼がそうするであろうような物のはからいを無意識のうちにしていた。
私の部屋にたまった彼の下着や彼の着物、足ぐせのついた彼の下駄やクリーニングからかえってきた季節外れの外套……そのどれをみても彼は私の部屋では情夫や恋人ではなく、れっきとした夫の風格をもつ「影」であった。私の彼への無遠慮、横暴、甘え、献身……そのどれをとっても、私は彼の情婦や恋人ではなく、れっきとした妻であった。
それなら、彼の家にいる彼は、そこで何の役をつとめ、彼の妻は何(ど)ういう役割をもつのだろう。
無意識にそこから目をそらして来た彼の妻の影像に、私は、むりやり自分の目を凝らすようにしつけはじめた。8年間、唯の一度も不平がましいことをいわず、唯の一度も私を訪ねても来ず、うらみごとの一つ云っても来ないその人……無神経なのか、生きているのか、もしかしたら、神のような人なのか……。
8年間、彼が一言も悪口などいったことはなく、むしろ、言葉のはしばしに、尊敬と愛をこめて思わずもらし語りしたその人……。
「あの人も私知ってるのよ、悪いけど、あなたよりずっといいわよ。きれいで、やさしくて、かしこくて……」
遠慮のない正直な友人が、はっきりそう私に聞かしたその人……。そしてついに唯の一度も顔をみたこともないその人……。
彼女を堪えさせる力は何なのか。それは、彼の愛以外にあるはずはなかったのだ。私が彼の愛を信じられたように、彼女も、彼女の前に坐る時の彼の愛を信じられるものがあったのだ。
来いと云えば全部来るに決っていると単純に決めこんできた私の稚い思い上りは何ということだっただろう。全部来てしまうなら、私はいつでも引受ける……そんな思い上りも私の中には長い間あった。
彼がどこにいても、私の身体につけた糸の端をしっかりと掌中に握っていて、糸の長さの範囲で、私を自由に踊らせていたように、彼のからだにつけられた糸のはしは、決して私の掌中にではなく、20年間彼の悲惨も、我ままも、許し難い不貞までふくめて許容して来た彼の妻の掌の中にしっかり握られているのだ。
夢に見てものっぺらぼうの顔とか、後姿でしかあらわれたことのないその人が、私には急に、怪物のようにふくれ上り、巨大なものになって、ずっしりと私の前に坐るのを見た。本当に別れた方がいいのだ、と思ったのはこの時からだった。
小説の中に8年間を再現する作業をはじめてみたら、私の見すごして来たつもりの小さな痛みや傷あとが、心の深みで決して消えてしまわず、毒々しく芽をふいているのを次々発見もしていくのであった。
普通の夫婦なら、話しも出来ず聞きも出来ないようなことまでしゃべったり聞いたりする私たちの間では、私の気持の経緯も何ひとつかくす必要はなかった。彼への思いがけないうらみつらみがふきだしている小説も見せながら、
「そっちのいい分も聞かせてよ」と、私は、膝をすすめていく。
男と手を切ると、たとえそれが双方の話し合いのうえでしたときでも、女は傷つけられるとも、女がむかしの恋人を友情をこめて語るのをきくのは、男がむかしの愛人のことをそうするよりはるかに稀だともいう。
けれども今、私は、彼との8年に訣別し、彼の机の並んでいない自分ひとりの部屋で、これを書きながら、やはりまだ、彼に深い友情と感謝と、なつかしさを感じずにはいられない自分を見つめている。
彼との8年に深いうらみや後悔や、かくされていた嫉妬や、憎悪や、待つことの切なさや、愛の不如意が、私の自分でも気づかぬ私の内部からえぐり出され、書かれることがあるとすれば、それは小説という別個の私の創作の世界の中でこそ、リアリティをもって定着づけられるのではないだろうか。
  
 
 

 

●瀬戸内寂聴さんが語る いきいきと生きるための10の秘訣
世界中が幸せであるようにと願うなら
世界中が幸せであるようにと願うなら、まずは、あなたの隣にいる人を笑顔にしましょう。それが幸せの一歩です。
言いたいことを言いなさい。
嫁にも姑にも亭主にも。言いたいことを言った方が胸がすっとします。穴掘ってでも言った方がいい。それが健康法の一つです。
“和顔施(わがんせ)”といって、笑顔もお布施になるんです。
物をあげる“物施”や、人に親切にする“心施”というお布施もありますが、なかなかできませんね。でも和顔施ぐらいはできるわよ。人に会ったらにっこりすればいいんですからね。
出会いというもの、縁というものはね、生きてる時に大切にしなきゃだめですよ。
明日はあなたが死んでるかもしれない、相手が死ぬかもしれない。だから、今日好きだと思ったら、今日言ってくださいね。
もう済んだことは、忘れましょう。
私たちは「忘却」という能力を生まれた時から与えられているんですね。日にちが経てば、どんな嫌なことも辛いことも自然に薄らぎ、忘れることができます。だから人間は生きていかれるんですよ。
何か物事を始める時は、「これは必ず成功する」というプラスイメージを持ってください。絶対に幸せになるぞっていう夢を描けば、本当にそうなるのよ。
私が初めて歌舞伎の脚本を書いた時ね、もし失敗してしまったら、せっかく今まで80年もかけて築いてきたものがすべて崩れますからね、とても怖いことなんだけど、そうは考えないの。必ずできると思ってね、歌舞伎座の三階席まで満員のお客様が、ワーって手を叩いてるところをイメージするんですよ。そうしたらその通りになったの。
笑顔を忘れないでくださいね。憂うつな悲しそうな顔をしてると、悲しいことが寄ってきます。いつも朗らかに明るくしていれば、いいことが寄ってくるんですよ。
生きていれば、悲しいことも苦しいことも、腹の立つことも起こります。その度に姿勢を悪くしてしまったら、悲しいことや苦しいことがもっともっと重くなるんです。ですから、「負けるものか」と上を向いて、気持ちを前向きにしていればね、自然とまたいいことが起こるんです。
自分の身の丈にあった望みをいだくことですね。そうすれば欲求不満にならない。
私たちはそれを忘れて、到底自分の手に入らないものを欲しがるんですね。小さな欲望でも満足することがあれば幸せなんですから、そのことに感謝してください。
人間は、幸せになるためにこの世に送り出されてきたのだと思います。そして幸せとは自分だけが満ち足りることではなくて、自分以外の誰かを幸せにすることだと考えてください。
自分自身の可能性をできるだけ大きく切り開いて生きること、これもひとつの幸せです。しかし、あなたがこの世に生きて送り出されたのは、誰かを幸せにするためなんですよ。自分の命は誰かの役に立つためにあるのだと考えれば、この世はむなしいという気持ちもなくなるでしょう。
やっぱり自分が楽しくないと、生きててもつまらないですよ。だから何でもいいから、自分のために喜びを見つけなさい。そうすると生きることが楽しくなりますよ。
苦しい苦しい、辛い辛いばかりじゃあ、生きがいがないですからね。喜びを見つけてくださいね。内緒の喜びの方が楽しいですね。楽しくないとつまらないじゃないの。もうどうせ死ぬんですからね、あなたたちも死ぬのよ、やがてね(笑)。だから生きてる間は全力を尽くして生きましょう。
 
 
 

 

●瀬戸内寂聴
[1922〈大正11年〉 - 2021〈令和3年〉] 日本の小説家、天台宗の尼僧。俗名:晴美。 僧位は権大僧正。1997年文化功労者、2006年文化勲章。学歴は徳島県立高等女学校(現:徳島県立城東高等学校)、東京女子大学国語専攻部卒業。学位は文学士(東京女子大学)。元天台寺住職、同名誉住職。元比叡山延暦寺禅光坊住職。元敦賀短期大学学長。徳島市名誉市民、京都市名誉市民、二戸市名誉市民。
作家としての代表作は、『夏の終り』『花に問え』『場所』など多数。1988年以降は『源氏物語』に関連する著作が多く、新潮同人雑誌賞を皮切りに、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞などを受賞した。 大正から令和まで四世代を生きた作家でもある。
経歴
徳島県徳島市塀裏町(現・幸町)の仏壇店(瀬戸内商店)を営む三谷豊吉・コハルの次女、三谷晴美として生まれ、体が弱く、本を読むのが好きな子供だった。後に父が従祖母・瀬戸内いとと養子縁組したため、晴美も徳島高等女学校時代に三谷から瀬戸内姓に改姓。
東京女子大学在学中の1942年に20歳で酒井悌(1913-1992 徳島市生)と見合いして婚約。1943年2月に結婚し、10月に夫の任地北京に渡る。1944年8月1日、女の子を出産。1945年6月夫が召集、8月終戦と共に帰宅。1946年、8月に一家3人で徳島に引き揚げ、夫の教え子の文学青年と不倫、夫に打ち明ける(晴美25歳 夫34歳 相手21歳)。1947年秋に一家3人で上京。
1948年に夫と3歳の長女を棄て家を出て京都で生活。大翠書院などに勤めながら、初めて書いた小説「ピグマリオンの恋」を福田恆存に送る。
1950年に正式な離婚をし(長女とは後年出家後に和解したという)、東京へ行き本格的に小説家を目指し、かつての本名であった三谷晴美のペンネームで少女小説を投稿し『少女世界』誌に掲載され、三谷佐知子のペンネームで『ひまわり』誌の懸賞小説に入選。少女世界社、ひまわり社、小学館、講談社で少女小説や童話を書く。また丹羽文雄を訪ねて同人誌『文学者』に参加、解散後は『Z』に参加。
   本格的に作家デビュー
1956年、処女作「痛い靴」を『文学者』に発表、1957年「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞を受賞。その受賞第1作『花芯』で、ポルノ小説であるとの批判にさらされ、批評家より「子宮作家」とレッテルを貼られる。
その後数年間は文芸雑誌からの執筆依頼がなくなり、『講談倶楽部』『婦人公論』その他の大衆雑誌、週刊誌等で作品を発表。
1959年から同人誌『無名誌』に『田村俊子』の連載を開始。並行して『東京新聞』に初の長編小説『女の海』を連載。この時期の小田仁二郎や元夫の教え子との不倫(三角関係)の恋愛体験を描いた『夏の終り』で1963年の女流文学賞を受賞し、作家としての地位を確立する。
1966年、井上光晴と高松へ講演旅行、恋愛関係になる。1973年、井上との関係を絶つために出家。
以後数多くの恋愛小説、伝記小説を書き人気作家となるが、30年間、純文学の賞、大衆文学の賞ともに受賞はなかった。
   人気作家となって以降
1988年に出した『寂聴 般若心経』は1年で43万部を売るベストセラーとなる。1992年、一遍上人を描いた『花に問え』で谷崎潤一郎賞を受賞した。『源氏物語』の現代日本語文法訳でも、その名を知られている。
2007年8月11日、館長を務める徳島県立文学書道館(徳島市)での講演で、加齢黄斑変性のため右目が大部分見えなくなったことを明かした。
2008年には、いわゆる「ケータイ小説」のジャンルにも進出。スターツ出版が運営するケータイ小説サイト「野いちご」に、小説「あしたの虹」を「ぱーぷる」のペンネームで執筆していたことを、9月24日の記者会見で明らかにした。
2010年に脊椎を圧迫骨折し、半年間寝たきりの生活を余儀なくされる。2014年2度目の圧迫骨折治療中の検査で胆嚢がんが発見されたが、医師からは90歳を過ぎて手術をする人はいないと言われたものの、瀬戸内は「すぐに取ってください」とその場で決断、手術は成功。通常使用量の倍の薬でも収まらなかった腰の痛みは、がん騒動のうちに忘れていたという。その後復帰。2015年11月4日には、テレビ朝日「徹子の部屋」に出演。入院中には激痛に耐えかね、「もう神も仏もない」と語った逸話が明かされた。番組では、がんは完治、痛みも全くなく酒を飲んでいると語った。
   死去
2021年11月9日6時3分、心不全のため、京都市内の病院で死去。99歳没。訃報は同月11日に公表された。亡くなる約1か月前から体調不良のため、入院療養していた。
出家
1973年に51歳で今春聴(今東光)大僧正を師僧として中尊寺において天台宗で得度、法名を寂聴とする。当時は、出家しても戸籍名を変えなくてもよくなっていたため、銀行の手続きなど俗事の煩わしさを嫌い、戸籍名はそのままにし、仏事の面だけで法名を併用。作家としては出家後も俗名を名乗り続けたが、1987年、東北天台寺住職となった時点で戸籍名を寂聴に改め、寂聴名義での執筆活動を開始した。
1974年、比叡山横川の行院で60日間の行を経て、京都嵯峨野で寂庵と名付けた庵に居す。尼僧としての活動も熱心で、週末には青空説法(天台寺説法)として、法話を行っていた。満行後の行院の道場の板の間での記者会見に臨んだ時、初めて尼僧になったことを実感したという。
40人余りの行院生の中で尼僧は寂聴を含め5人であった。うち2人には夫があり、髪があった。5人の尼僧の中で霊感のないのは寂聴だけであった。得度に際し、今春聴より髪はどうするのかを聞かれ、即座に「落とします」と答えた。次に「ところで、下半身はどうする?」と聞かれ、「断ちます」と答えたところ、今は「ふうん、別に断たなくてもいいんだよ」とつぶやいたが、その後2人の間ではその話が交わされることはなかった。寂聴が頭を剃り、性を絶つと答えたのは、自信がなく将来に不安があったためで、その時は多分に気負っていたと後に書いている。
寂聴にとって、護摩焚きは非常にエロティックなものだった。密教の四度加行での護摩焚きの際には、印をエロティックな型だと思い、観想のための文から不動明王の怒張した男性器を連想するなどする。仏教の目指す究極の境地、至境は、いずれも秘教であることは寂聴に勇気を与えた。密教の行では、再生する命を感得し、先の1か月の顕教の行では味わえなかった宇宙の生命の輝き、それに直結し一体化する自己の無限の拡充、恍惚を味わう。寂聴はかねてより、岡本かの子の晩年に小説を花開かせたものが、浄土真宗でも禅宗でもなく密教の宇宙の大生命賛歌の思想ではないかと睨んでいたことを、横川で確認できた。
密教の行に入り10日くらいした頃、風呂場の掃除のために湯殿の戸を開けた途端、誰もいないと思っていた脱衣場に濡れた全裸の男が寂聴の方に向いて仁王立ちしていた。行院生の中でもずば抜けて背の高く、誰よりも大声でお経を怒鳴る若者であった。寂聴の目に臍下の黒々とした密林とその中からまさしく不動明王の如くにそそり立つ怒れる剣のごときものがまともに目に入る。次の瞬間、顔を真っ赤にした男と寂聴は声を合わせて大笑いした。精力の有り余る男は、早朝の作務に入る一時を盗んで全身に水を浴びていたのだった。寂聴がその裸体に動じなかったのは、枯れていたわけでも修業で心が澄んでいたわけでもなく、そのもの自体がグロテスクなだけで、美的でもかわいいものでもなかったということだったと書いている。
思想・信条
原子力発電にも反対の立場であり「反原発運動に残りの生涯は携わりたい」とインタビューで述べていた。2012年5月2日、脱原発を求める市民団体が脱原発を求めて決行したハンガーストライキに参加。ハンガーストライキは日没(半日程度)まで行われた。
2000年には岡村勲の手記に感銘を受けて犯罪被害者の会の設立に関与したが、2016年10月6日、日本弁護士連合会が開催した死刑制度に反対するシンポジウムにて、瀬戸内がビデオメッセージで死刑制度を批判した上で「殺したがるばかどもと戦ってください」と発言し、批判を受けた。この発言に対して会場にいた全国犯罪被害者の会(あすの会)のメンバーや犯罪被害者を支援する弁護士(「あすの会」顧問の岡村勲ら)らは「被害者の気持ちを踏みにじる言葉だ」と抗議した。また、この言葉について闇サイト殺人事件の被害者遺族(実行犯3人全員に対する死刑を求めたが、この事件の裁判で死刑が確定したのは1人のみだった)は2016年12月17日に犯罪被害者支援弁護士フォーラムが東京都千代田区の星陵会館ホールで開いたシンポジウムで基調講演した際にこの言葉を非難し「(なぜ死刑制度に賛成する我々被害者遺族が)『殺したがるバカども』と罵倒されなければならないのでしょうか。この言葉は(実際に人を殺した)加害者に向けるべき言葉ではないでしょうか」と真っ向から反論した。
年譜
1943年 東京女子大学国語専攻部卒業
1956年 『女子大生・曲愛玲』で新潮同人雑誌賞を受賞
1961年 『田村俊子』で田村俊子賞を受賞
1963年 『夏の終り』で女流文学賞を受賞
1973年 岩手県平泉町の中尊寺で得度、尼僧となり瀬戸内寂聴に
1987年 岩手県浄法寺町(現・二戸市)の天台寺住職に就任
1988年 敦賀女子短期大学学長就任
1992年 『花に問え』で谷崎潤一郎賞を受賞、敦賀女子短期大学学長退任
1996年 芸術選奨文部大臣賞(文学部門)※小説『白道』の成果による
1997年 文化功労者に選ばれる
1998年 NHK放送文化賞受賞。『現代語訳 源氏物語』全20巻完結
2000年 徳島県徳島市名誉市民
2001年 『場所』により野間文芸賞受賞
2002年 徳島県立文学書道館が竣工し、館内に瀬戸内寂聴記念室が設置される。同時に母校の徳島県立高等女学校(現徳島県立城東高等学校)が100周年を迎え寂聴奨学金を設立。
2005年6月 天台寺の住職を引退
2006年
 2月 オペラ『愛怨』(作曲/三木稔)の台本を手がける
 3月 第73回NHK全国学校音楽コンクール高等学校の部の課題曲「ある真夜中に」を作詞(合唱曲。作曲/千原英喜)
 11月 3日 文化勲章を受章
    1日 源氏物語千年紀のよびかけ人となる
 12月31日 第57回NHK紅白歌合戦の特別審査員になる
2007年3月 延暦寺の直轄寺院「禅光坊」の住職に就任
2008年 憲法9条京都の会(代表世話人) 結成。新潟市主催の第3回「安吾賞」受賞
2011年 『風景』で泉鏡花文学賞受賞
2018年 2017年度朝日賞受賞、句集『ひとり』で第6回星野立子賞受賞、第52回蛇笏賞候補。
2019年 第11回桂信子賞受賞
2021年 死去。99歳没。
 
 
 

 
 

●女の業
鹿母精舎の寄進
このお話は、ベシャキャという名前の女性在家信者のお話です。彼女は、大富豪の娘で、鹿母(かしも)精舎を、仏陀サンガーに寄進されました。
精舎とは、仏陀とそのお弟子が滞在する施設で、仏陀の説法が行われ、比丘、比丘尼が修行をする場所をいいます。寄進とは、精舎を建設して、仏陀に使っていただくように布施(プレゼント)をすることをいいます。平家物語で有名な祇園精舎は、現在のインド北部にあり、当時、スダッタ(須達、すだつ)長者によって、寄進されました。ベシャキャは、仏典では、ヴィサーカー・ミガーラ・マーター、毘舎佉(ヴィサクハ)、鹿子母(ろくしも)などの名前で、登場しているようです。鹿母(かしも)精舎は、そのベシャキャによって、寄進されました。高橋信次先生が、著わされたこの「人間・釈迦」のご本は、先生の霊感によって出来上がったものだと、「人間・釈迦」の「はしがき」にあります。「……こうした創作は、作者の人生経験が基礎となり、主題についての綿密な資料と、現地調査、長い時間をかけた構想が作品の背景をなしているといわれます。ところが、本書に関しては、こうした過程を全部省略し、いわば霊的な示唆と、手の動きにしたがって、書いたものです。その意味では頼りない、真実を伝え得ない、といわれるかも知れません。が、仏教書や聖書を学んだ人たちにきいてみると、これを手にして、これまでの不明な点が明らかになった、仏典の意味が、よく理解できたと喜ばれています。……」

……ウパテッサ(注、舎利弗のこと)の案内で、スダッタと連れの女がブッタの部屋に入ってきた。
「ブッタ、この女性は山一つ越えた隣の町のマーハー・ヴェシャーでございざいます。ブッタにぜひお会いしたいと申されるのでご紹介します」
スダッタは丁重に紹介した。
スダッタのうしろに控えていた女は深々と頭を垂れ、なかなか顔を上げようとしない。
「ああ、そうか、よく来てくれました。さあ、さあ顔を上げ楽にして下さい」
ブッタは気軽に、応接した。
女は気さくなブッタの言葉に、ゆるやかに顔を上げると、ブッタをまぶしそうに見ながら、
「ありがとうございます。私は、ベシャキャと申す者でございます。ブッタのお話は度々聞かせていただいていますが、いつも心が洗われ、感謝してるものでございます。
本日は、私の念願を叶えさせて下さいまして、本当に有難うございます。スダッタ様、ありがとうございました」
ベシャキャはあくまで謙虚に、ブッタに礼をいい、はじめて笑顔をみせた。
明るい日差しが彼女を映し出している。
軽く塗った化粧の肌に、ほんのりと赤みがさし、彼女は幾分緊張気味であった。
ベシャキャはつとめて冷静にと心していたが、やはりブッタの前に出ると心がひきしまり、上気してしまう。
ベシャキャは多少うわずった調子で言葉をつづけた。
「ブッタの説法をお聞きしたいので、私たち一家はシラバスティーの都に引越して参りました。いつも遠くからブッタの説法を聞き、心が静まり、喜びが胸の中からこみ上げてくるのでございます。
できることなら私たちにもお手伝いをさせていただきたく、お伺いしたわけでございます」
ブッタはベシャキャの心の中をすでに読みとっていた。
「あなたは奇特な方です。よく来てくれました。あなたの気持ちはよく分かりますが、その前に、あなたの幼少の頃から一人娘として育てられ、甘えて生きてこられた。あなたは両親をはじめとして、召使いに、いまなにをしてお返しをしておりますか」
言葉はやさしいが、いっている内容は厳しいものであった。
彼女はぐっとこたえたが、
「はい、ブッタのお話を聞いてから一生懸命に親孝行を致しております。召使いにも感謝し、報いるよう努めています」
「それならばよい。いつもそのことを忘れぬように」
「ありがとうございます」
といい、あとの言葉がつづかなかった。
ブッタのいわんとするところは、サンガーに対する布施もいいが、その前になすべきことをなせ、ということである。
ベシャキャにとって、いちばん痛いところをやんわりと衝かれた形であった。
彼女はおそるおそる来訪の目的を告げた。
「私に、ブッタのお弟子の、毎日の食事を布施させていただきたいのです。いかがでしょうか」
「どうしてなされるのかな」
「はい、遠くまで食を求めて修行しているサロモンたちに、近くで容易に食が求められればそれだけ修行の時間が多くなるし、そうして、迷える衆生を導く時間も多くさいていただくこともできると思いまして……」
「そうですか、それはありがたいことだ。では、そのお布施はありがたく頂戴することにしましょう」
「ありがとうございます。それからまた、病人や、看護している人びとに対しても同じように薬や食事の布施をしたいと思います」
「それはどうしてか」
「私は、その病人になにもしてやれないのです。せめて私にできることは、薬や食事の布施しかありません。そうして、病人の方々が早く健康になられ、衆生を救っていただきたいと考えるからです」
「その布施は、そなたの心に、より以上の安らぎと、光明を満たすことになるでしょう」
「ブッタ、ありがとうございます。
それからもう一つ。それは過日、大雨の時に多くのサロモンたちが裸体でガンガーの川岸を歩いていました。私は始め裸行僧かと思いました。しかし、川岸で生活している娼婦たちが、年若いソロモンたちに、若いうちに楽しまなくては老いてからは遊べないよ。あたしたちと一緒に遊ぼうよ。そんな修行は年老いてからやればいいんだよ、といっておりました。私は驚き、悲しくなりました。娼婦の前を裸で通ることはやめてほしいと思い、雨の時に着る僧衣を布施させて下さいませ」
ベシャキャは真剣な眼差しであった。
ブッタは彼女の言葉にいたく感じた。
人びとが本当に心を裸にして、布施心を持つようになれば、この世はそのまま仏国土になってしまう。
ベシャキャの心を無駄にしてはならないと思った。
わきで聞いていたスダッタは、ベシャキャの美しいまでの心根に、いちいちうなずき、自分がなしてきた布施などはまだまだ小さなものだと考えさせられた。
布施の中身は大きさではなく真実かどうか、である。心のこもった布施ほど、多くの人を感動させ、人の心を浄化するものはない。
自分の布施も決して無駄ではなかった。人びとに喜びと希望とを与え、明るい社会への基礎づくりにもなっている。
これからも、ブッタの教えが広く深く伝わるよう、最善の便宜をはかるべく努めなくてはならない、と思うのだった。
ブッタはいった。
「ベシャキャよ。そなたの布施によって多くの弟子たちが、心からそなたに感謝をするだろう。その功徳は、そなたの心の中に光明となって満たされるだろう。病人は薬を飲むごとにそなたを思い出し、健康が回復すればするほどに、そなたに感謝するだろう」
「ブッタ、私は報いを求めて布施するのではありません。布施したいからそうするのです。そして、私のできることはこれぐらいしかありません」
「ベシャキャよ。その通りだ。それでよいのだ。あの太陽は熱や光を与えても報いを求めるものではない。しかし、人びとの感謝は、こちらがそれを求めようと思わなくても、光明となって残されるということだ。そなたの家の庭園には美しい草花が咲いているだろう。その美しい草花は、実をつけては散っていくが、季節がくるとその種は、また美しい花を咲かせ庭園を飾ってくれる。そなたの蒔いた布施の種は、そなたの心の中に安らぎとなって永遠に残されるということである」
「ブッタ、ありがとうございます。それからもう一つお聞き届けくださいませ。どうぞブッタ・サンガーのために、私にも精舎をつくらせて下さい。シラバスティーの北側に、非常に環境の良い土地があり、修行場としては得難い場所柄だと考えております。そうして、私の村びとにもブッタの説法を聞かせてやりたのです。恵まれた環境に生まれた私の勤めだと思っています。ブッタ、どうぞ私の願いをきいて下さい」
ブッタはベシャキャの願いを受け入れることになった。
ブッタは、モンガラナー(コリータ、仏典では、目犍連(もくけんれん))を呼ぶと、精舎建設の打ち合わせをベシャキャとするように命じた。
ベシャキャの献身で、やがて、ミガラー・マター(鹿母精舎)が完成されていくのである。
ここはその名の通り、鹿が住み。風も少なく、修行場としては格好の土地柄であった。
ベシャキャは自分の考えが、すべて叶えられたので、晴々とした気持でブッタの許を辞した。

その時、仏陀は、生まれ故郷のカピラ城(ネパール)に近い祇園精舎(インド)におられました。祇園精舎を寄進されたスダッタ(須達長者)に連れ添われて、ベシャキャが仏陀のもとを訪れます。仏陀は、素晴しいお弟子さんに恵まれたばかりでなく、多くの素晴しい在家の信者からも、帰依を受けました。
ベシャキャは、スダッタが、祇園精舎を寄進されたことに習い、精舎の寄進を願い出ました。ベシャキャのその美しいまでの心根には、本当に心を打たれました。涙がこぼれました。仏陀も、その心根からあふれ出てくる、女性ならではの細やかな心遣いの布施を、すべて、その場で、受け入れます。ベシャキャの精舎の寄進も、即座に受け入れて、直ちに、モンガラナー(目犍連)を呼び、建設の指示を出されます。
2,500年前の当時のインドは、聖者に対して、民衆が喜んで布施をする習慣がありました。私たちも、その心根を見習っていきたいものですね。
女の業
ベシャキャは、鹿母(かしも)精舎を寄進して、ますます仏陀の正法に、身も心も捧げ、布施の毎日を過ごすようになります。
ベシャキャは、マーハーベシャー(大富豪)の娘で、今であれば、さしずめ、男勝りの辣腕女性経営者といったところでしょう。仏陀に帰依したからといって、仕事がおろそかになる事はありませんでした。使用人を厚遇していたこともあり、彼女が現場にいなくても、稼業は立派に回っていました。仏陀が在世された当時、女性の人権は、今のようには認められていませんでした。女性は業が深い、”女は三界に家無し”という仏教の言葉は、当時の女性の置かれていた立場、つまり、女性が生きていくうえで、男性より困難が多かったことが、反映されています。
仏陀は、人間は、男でも女でも、祭祀階級(バラモン)でも、奴隷階級(シュドラー)でも、平等であるとしておられました。「仏陀と婦女子の出家」のブログで書かせていただいたのですが、仏陀は女性も男性と平等であるべきとお考えになり、女子の出家を認められて、女性の修行者の比丘尼が誕生しました。仏陀は、女性の業(カルマ)、在り方について、どのような説法をされたのでしょう。

ある時、彼女(ベシャキャ)はブッタに直接指導をうけた。
「ブッタ、私のような女が尊いお方の前に出てご指導をお受けするのは失礼とは思いますが、女の道というものを教えていただければ仕合せです」
「ベシャキャよ、そなたは女でありながら、多くの使用人に慈悲の心で接している。
お互い心が通じ合い、むさぼることなく、愚痴もなく、正しく仕事をしているようだ。
働く使用人の生活を守り、あの太陽のような心で、みな平等に仕事をしているので商売も繁盛しているはずだ。
多くの女性の中には、何事にもすぐ腹を立て、気まぐれでたることを知らない欲深き者であっても、苦しい人びとに対しては施すことを知っている者もある。
また一方で、心が丸く豊かで、怒ることもなく常に心を正し、一切に足ることを知ってはいるが、苦しい人びとに慈悲の心を与えない者もある。
そうかと思ううと、心が豊かで広い心を持ち、心の中に怒りもなく、欲望に足ることを悟り、そうして、他人の幸福を喜び、苦しい人びとには自らの慈悲をもって奉仕している者もある。 この三者の形のうち、正法に適った生き方はどれかといえば、最後の女性がそれに当たるだろう。
法を心の糧として生活している女性は、よく自らの偽我を支配し、一切の執着から離れ、安らぎの心の中に住んでいる女性である。
男女は平等であっても、その働きは剛と柔であり、両者の調和が大事な要件となろう。
女は家庭にあって光明を満たす大事な役割を果たさなくてはなるまい。
男女は肉体的には平等とはいえないが、心は平等である。真実は、男女の性別に関係なく、均等に与えられているからだ。
女性が他家に嫁して行けば、やがて子供が生まれよう。妻は家にあって子供を守り育ててゆく。
良い子を育てるには、夫婦の対話と信頼がいちばんである。たがいに相助け、相譲り、心の豊かな健康な子どもを育てて行かなければならない。
こうした家庭が多くなればなるほど、地上の調和は促進されよう。
嫁にゆけば夫の両親がいて、孝養をつくさなければならないが、この間にあって、いかなる理由がそこにあろうとも、自らの心の中に怒りや愚痴の種を蒔くことなく、忍辱の二字を忘れず、明るく、豊かな生活を忘れないことが大事だ。
心の中の苦悩は、自らがつくり出すということを忘れてはならないだろう。
言葉や行動を通して、自分の都合が悪いからといって、怒りや、ねたみ、恨みの心があると、その種が心の中で発芽し、ぐるぐるとその渦中に自分をおとし入れてしまうことになる。
調和を忘れた家庭は、ついには争いになり、破壊へとつながって行く。
それゆえ、家庭に対立があってはならない。夫の仕事をよく理解し、それを助け、そうして自らも教養を高めるようにするのが女の道といえよう。
家族に対しても、召使いに対しても、慈悲深く、親切な心と行いが大事である。
家の外で得た夫の収入は、自分のために使うのではなく、緊急の場合に備えて貯えることも必要であろう。決して、自分の欲望のために使ってはならない。
夫婦は家庭という、いわば社会の中の協同生活者であって、また、偶然によって一緒になったものではない。転生輪廻の過程における深い縁生の絆によって結ばれたものである。
夫婦は一つの家に住みながら、社会全体に調和をもたらしていくものだ。
それだけに、夫婦は、相和し、心から愛し、愛される関係を持続しなければならない。また、そうした縁生のつながりで結ばれている、といえるのだ。
夫婦の縁生をよりよく前進させるには、法を正しく理解し、行うことだ。それによって、ますます価値の高い調和へと導かれていくものだ。
女は、顔が美しいがゆえに、女は増上慢になり、他人を見くだし、優越感に浸る。
このような女性が男を誘惑しても、正しい法を学んでいる者たちは、その誘惑に乗ることはないだろう。誘惑に心を乱す男性は愚かな男性しかいない。
増上慢や愚かさに支配された男女は心ない情欲のとりことなり、身を修めることなく、不幸な一生を終えることになろう。
心ない女性は、自分をより美しく見せようと躍起になり、虚栄心が心の中を占領し、それを満たすために苦労をする。
こうした女性は男の玩具になり易く、常に悩み、苦しみから抜けることはできない。
ともあれ、女性は、幼少から子供の時代にかけて、両親から保護されるという立場からその自由を妨げられ、成人して他家に嫁げば夫から自由を妨げられ、老いては子どもに自由を奪われる。
女にはこの三つのさわりがあるといえよう。
また、女性は、男性とちがって、誕生してもあまり喜ばれない。まず婚姻で両親に心配をかける一方で、常に心は他人をおそれる。他家に嫁げば出産の苦しみが待ち、夫をおそれて生活をする。このため、自在の境涯はなかなか得られないばかりか、心は常に不安定である」
いわれてみると、女性には女性特有の業というものがあり、それは男性のそれとは大分異なっているものであった。
どんなに男を向こうに回して華々しく仕事をし、使用人を使ったとしても、やはり、女という性のためか、また、無意識のうちにそれが出てしまうためか、なにをするにも、結局は男性の保護の下に生活をしてきていた。
商用で旅をする場合でも、男子なら一人で出掛けることもできるが、女性ではそうはいかなかった。必ず何人かの男が彼女のまわりを護衛し、旅をした。
また、女であるがため、他人の目も、自分自身にも甘えというものがあって、男と同等のきびしさを求めようとしてもできない相談だった。
女は常に保護されて生きている。また、保護されることを無意識のうちに求めている。
また、人を愛するということより、愛されたいとする気持ちの方が強い。
万事が受動的で、それだけに、心は平等でありながらも、女という性ゆえに、男とは違った弱さ、業というものを身につけてしまう、といえる。
ベシャキャはブッタの厳しいまでの真実の言葉をかみしめていた。
そうして、女の性を超えてゆくにはどうすればよいかと思った。
今までの彼女は、男にもできない仕事をしてきた。自負心もあった。
しかし、ブッタの前では、そうした仕事も、自負心も、あと形もなく消え失せて、やはり、そこに座っているのは、間違いなくベシャキャという一個の女性であることに彼女は気づくのであった。
「女の性(さが)を超えるにはどうすればよいのでしょうか」
彼女は、おそるおそる訊ねた。
だが、ブッタはそれに答えようとはしなかった。
微笑をうかべ、ベシャキャの顔をみつめているだけだった。
ベシャキャは大富豪の一人娘として育てられ、それだけに男を見くだす悪い感情がなかなかぬぐい切れなかった。
ブッタの前では頭を低くし、素直にきく心を持っていたが、召使いや多くの男たちの前では、やはり対等に、あるいはそれ以上に自分をおき、命令調の言葉や、とげとげしい言葉が口をついて出がちであった。
彼女はたしかに召使いたちに慈悲の心で接していたが、その慈悲心が時おり優越感と混ざり合い、自己満足に陥っていることに気付かなかったのである。
女の性を超えるにはどうすればよいかという前に、彼女にとっての大事なことは、そうした優越感の感情を整理し自分の置かれた立場から離れて、まず一個の人間に立ちかえることだった。

仏陀は、ここで、特に、女性の在家信者に対して、修行の在り方を説いておられます。出家者の修行は、山中の静かな環境で、正しい法を物差しとして、思念と行為を見直し、煩悩に振り回されない自分をつくるということを最大の目的としています。一方、在家信者は、日常生活のなかで、自分自身の仕事・役割を果たしていきながら、周りの人たちに慈悲の心で接して、世の中に対して、社会貢献をしていくことが、大きな目的です。
ベシャキャは、在家の信者として、その役割を、立派に果たしていました。
彼女は、仏陀から、女には、「三つのさわり」があるが、それを乗り越えて、夫の両親に対して、孝養を尽くして、夫と協力しながら、良い子供を育てることが、女の義務であると教えられます。さらに、仏陀は、女性は、受動的な態度、甘えといった、男性とは違う業(カルマ)を、身につけてしまうと指摘されます。
ベシャキャは、その女の性(さが)をどうしたら越えられるかを、仏陀に問いますが、仏陀は微笑むばかりで、お答えになりません。そして、ベシャキャは、多くの召使いたちに命令をする立場上、優越感をもち、自己満足に陥っていたことに、気付かされます。
業(カルマ)とは、「わかっちゃいるけどやめられない」という悪いくせのようなものです。「夫婦の縁生をよりよく前進させるには、法を正しく理解し、行うことだ。それによって、ますます価値の高い調和へと導かれていくものだ。」と、いう言葉があります。男も女も、金持ちも、貧乏な人も、すべの人が、法を正しく理解し、行うことこそ、世界が調和されてる礎になるのです。
 
 
 

 
 

●「業が深い」
「業が深い」という言葉を聞いたことはありますか? 「欲深い」や「運が悪い」という、ネガティブな表現をする際に使われる言葉です。今回はそんな「業が深い」の意味や語源、使い方などについて、株式会社櫻井弘話し方研究所の櫻井弘さんに解説してもらいました。
「業(ごう)が深い」と聞くと「情が深い」と似ているので、良いイメージで解釈している人もいるかもしれません。しかしそれは全く違っていて、「業が深い」とは、「欲深い」「運が悪い」という意味となります。「業(カルマ)」という仏教用語からも由来している「業が深い」の言葉について、学んでいきましょう。
「業が深い」の意味・由来
まずは、「業が深い」の意味や由来について解説していきます。
   「欲深い」や「運が悪い」を意味する
「業が深い」は、主に「欲深い」や「運が悪い」という意味で用いられます。この「業が深い」は、「前世での欲深さによる悪行によって、報いを受けているさま」というのが本来の意味です。現代ではこの意味が転じて「欲深い」「運が悪い」という意味となり、基本的にはネガティブな表現の際に使われるようになりました。
   「業が深い」の語源・由来
「業が深い」の語源は、仏教用語の「業(カルマ)」といわれています。「業(カルマ)」とは、「行為」を意味します。人は良い行いも悪い行いも積み重ねながら生きていて、それらの行為の結果は蓄積されていきます。つまりカルマとは、良いことをすると良い結果が、悪いことをすると悪い結果がもたらされる、という因果応報の法則のこと。「自分が行った行為は、いつか自分に返ってくる」ということです。仏教の世界では、この「業(カルマ)」に基づき、生前(前世)での生き方や行いの結果によって、生まれ変わる世界が決まるといわれています。この仏教の考えが「前世で多くの罪深いことをして、その悪行の報いを現世で多く背負っている」という、「業が深い」の由来となっています。
「業が深い」の使い方・例文
次に、「業が深い」の使い方や例文について紹介していきます。
   「業が深い」とはどういう人?
「業が深い」とは、基本的には、「欲深い」「運が悪い」というマイナスのイメージで使うため、ネガティブな意味合いで使われる言葉です。例えば、「自分を強く見せたい!」「お金や権力を保持し誇示したい!」などの欲望がにじみ出ている人や、嫉妬深い人、ブランド物などへの執着心が強い人などに対して、「あの人は業が深い」と表現されることがあります。
   「業が深い」の例文
ここでは、「業が深い」の例文を3つ紹介していきます。
(1)「○○は業が深い生き物(人)だ」 「○○」には、「人間」や「女」「男」、自分や相手など、さまざまなワードが入ります。「欲深い」という意味合いを示す場合に使うことが多いです。
(2)「彼の顔からは業の深さがにじみ出ている」 基本的に、この「業が深い」という言葉を使う対象は人物ですが、「表情」に対しても使うことがあります。こちらも欲深さを表現する際に使う言い回しで、あまりポジティブな意味合いでは使われません。
(3)「こんなに悪いことが続くなんて、よほど前世の業が深かったんだろうか」 「運が悪い」という意味合いを示す場合の表現です。ここでは、「前世での行いによって、多くの報いを受けている」という意味が含まれます。

●女は業が深いのか
「女ほど業の深いものはない」と、亡くなった祖母がよく言っていましたが、どういう意味でしょうか。
これは、女性は男性より劣っているという考えを当然として、何の疑問も持たなかった時代に、よく語られる言葉です。それは、決して遠い昔のことではありません。あなたのお祖母さん、お母さん、そしてあなたが育って来られた数年前までのことです。
女性は男性よりも欲が深く、また嫉妬深く、造る罪も多い、だから、女性は男性より劣っているのだといったり、他にもいろいろ不当な理由をあげて、女性を差別してきたのです。
女性は、そのような考え方を正当とする社会の中で、長い間忍従の生活を押し付けられてきました。長い不当な忍従を強いることを正当化するために、さらに、女性は前生(この世に生まれてくる前の生)で、男性に生まれてきたものより多くの罪を造ってきたので、この世では、男性の下位に置かれ、忍従するしかないという理論が考えられたのです。このような女性にとって全く不当な理論を、女性自身もいつのまにか、そういうものだと受け入れてしまいました。いや、その考えを受け入れなければ、女性が生きられないような状況を作ってきたのです。
ですから、「女がこのように扱われるのも、女がこんなつらい人生を生きなければならないのも、みんな私自身の身から出たこと、前生の種まきが悪いから、こうなったこと」と、自らの人生を、自らに言い聞かせながら、女性はつらい人生を耐えたのです。この「前生の種まき」を「前生の因縁」とか「業」という仏教用語で正当化したのです。
ですから、「女ほど業の深いものはない」という時、「女は、今生ではどうしようもないほど重い罪を前生で造った、だから、今生では耐えるしかない、誰を恨むこともない、すべて自分自身の罪である」という深い悲しみと、諦めがそこにはあります。
「女ほど業が深い」とい時「業」は女性に諦めを強いる言葉として使われているのです。「業」は仏教の言葉ですが、釈尊は人間に諦めを強いるために、「業」という言葉を使われたわけではありません。
では、釈尊は「業」という言葉を、どのように使われたのでしょうか、
比丘たちよ、いま応供・正等覚者である私も、業論者であり、行為論者であり、精進論者である。比丘たちよ、愚人マッカリは、業は存在しない、行為は存在しない、精進は存在しないと言って、私を排斥している。
というように、釈尊は「行為」「精進」ということと一つにして、「業」という言葉を使われているのです。ですから「業」は、「行為」・「精進」ということとは別のことではないのです。すなわち「業」は「行為」ということですが、それはひとつ「行為」の継続である「精進」に於いてより明らかになるのです。「業」とは、行為と共に、行為及びその行為の継続によって蓄積される「力」をいいますが、その「エネルギー」をも含めた内容をもつ言葉です。
釈尊は「業」という言葉で、人生は「行為」の積み重ねであり、一つ一つの行為を大切にし、一つ行為の継続である「精進」を大切にすることを教えて下さったのです。もっと言いますと人間の努力は決して無駄にならないことを教えて下さったのです。文字通り、継続は力である事を明らかにして下さったのです。
また、前生、後生ということですが、前生というものがまずあって、前生の行為の結果で、今生の全てが決まるということを言うために、前生が説かれたのではありません。
今生のあり方、すなわち、善導大師の二種深信のお言葉を借りますならば「自身現是罪悪生死凡夫」(今、ここにいる私は、罪悪の重い、生死の深い悲しい人間)
というあり方を、み教えに照らされて知らされる時、私の今生のあり方は今生だけでは説明がつかないのです。私の罪悪の重さ、生死の深さは、今生だけでは到底説明しきれないほど重く深いのです。その重さ、深さを説明するためには、どうしても前生まで遡って考えなければ説明がつかないのです。このように今生のあり方を、より明らかにするために、前生は説かれたのです。前生は、今生の内容として説かれたのです。
後生についても同じことです。後生が独立してあるのでなく、今生のあり方、私たちの場合ですと、その罪悪の重さ、生死の深さです。それは焼いても煮ても、どうにもならないほど重く深いものであることを、後生を語ることで明らかにして下さったのです。
よく「私はこの根性は、焼かな直らない」という人がいますが、焼いたぐらいではどうにもならないものを持っているのが、今、ここにいる私であるということが、後生を語る意味ですから、後生も、今生の内容として語られたわけです。
このような、今、ここにある私の「いのち」のあり方が、今生・前生・後生の言葉で語られるのです。このように深く「いのち」のあり方を見つめて行くのが仏教なのです。
それを、前生がまずあって、前生の行為によって、今生が決まり、今生のあり方によって、後生が決まるというような表層的、一方的な受け取りをしたのが、間違った「業」という考え方です。
それがさらに、男性中心の社会の要請もあって、「女は業が深い」という間違った考え方になりました。

女性は いわゆる 業が深いと いわれますが 業とは どういう 意味ですか? そして 女子と子供は 養いがたし と 何処か共通点があるのでしょうか。
業ということばはあまりよいイメージを持っていない。「業が深い」「自業自得」など、悪い意味で使われている。業とはサンスクリット語のカルマンで、単に「行為」という意味である。古代インドでは、人間が良いことをすれば、現世や来世で良いことが起き、悪いことをすれば悪いことが起ると信じられていた。そして、現世における幸福や不幸は前世における善行や悪行に左右されていると考えられた。
良い行いをすれば来世は良いことがあるということで、この業思想は人間に道徳的な行為を勧める役割を果たすことになる。しかし一方では、人間の運命は前世の行為の善悪によって決定されるのならば、いくら努力しても報われないという消極的な宿命論に発展していくのである。
このように、インド文化一般では業思想は多大な影響を及ぼしつづけた。そして、積極的な一面と消極的な一面が相反する性格をあわせ持ち、その思想は仏教にも取り入れられるようになっていくのである。
女性は男性より劣っているという考えを当然として、何の疑問も持たなかった時代に、よく語られる言葉です。それは、決して遠い昔のことではありません。あなたのお祖母さん、お母さん、そしてあなたが育って来られた数年前までのことです。
女性は男性よりも欲が深く、また嫉妬深く、造る罪も多い、だから、女性は男性より劣っているのだといったり、他にもいろいろ不当な理由をあげて、女性を差別してきたのです。

●女の性
女性が生まれながらにして備えている、女性ならではの、容易には抗いがたい種類の欲求を指す意味合いで用いられることのある言い方。たとえば、幼い子どもを庇護したい、愛しい男性との間に子をもうけたい、といった母性的な衝動を指して用いられる場合がある。

「女の性(さが)」は、どちらかといえば、遊び好き、男好きな女性に限る言葉として使われます。「どうしてもイケメンに目が行ってしまうのが女の性」「強く抱き締められると弱いのは女の性」という例文を聞き、賛同する女性と否定する女性と半々でしょう。自分が女性だと強く意識する時に「女の性」を感じます。「せい」も「さが」も同じ漢字ですが、意味は違います。今挙げた例文を「せい」と読んでしまうと意味として成立しません。「性(せい)」と「性(さが)」ではニュアンスが違います。
 
 
 

 
 

●紅絹に感ずる女の業
私にとって、最も古い記憶といえば、大正十二年九月一日の関東大震災である。それ以前のことは、全く記憶に残っていない。
その日の衝撃が、あまりにも大きかったので、他のことは、すべてがかすんでしまったのかもしれない。あれから、もう八十余年経つ。しかし、あの震災は、日本の地震史の最大級に位するものと、私には、いまだに鮮烈な記憶なのである。
正午に近かった。ちょうど、家族そろって昼食をとろうとした途端、食卓がひっくり返った。びっくりして立ち上がったがよろよろして歩けない。五歳の私と九歳の姉、三歳の妹の三姉妹は、泣き出したいのをじっと我慢して、父と母に抱きついていった。
第一震、第二震 ──
どのくらい続いたかは覚えていない。ただ恐ろしさのみで震えていた。やがて、その地震は止まったが、ホッとする間もなく、何か周囲がガヤガヤしてきた。
「あそこが火事、ここも危ない。どこかへ避難しなくては・・・・・」と、大人たちが騒いでいる。今までに感じたことのない、切迫した気配であった。
私たち子供三人は、ひとまず母と一緒に、すぐ裏の広徳寺の墓地へ避難した。一応、恐ろしさがおさまってみると、母と一緒に行動する連帯感が、この緊迫した情況とは裏腹に、何となく面白くなってきた。
あやしい雲が空を覆い、無気味だった。そのうちに、父があたふたと駆けてきて、「ここにいても危ない。すぐ、上野の山へ行こう!」といった。
母と子供たちは、荷物を整えるためにいったん家に戻った。すでに父は、どこからか大八車を三台都合をつけてきており、丁稚(見習い店員)に手伝わせ、これに家財道具を積み始めていた。
私は、着物の残り布で作った小さなカバンを提げた。中には絵本と鉛筆と帳面(ノート)が入っていた。それだけが、私には大切な宝物であった。
上野の屏風坂に、四方を箪笥や戸棚で囲んだ仮の宿をしつらえ、母と子供三人はうずくまった。母のお腹が目立った。母は懐妊していたのである。
夜がふけて行くのと共に、空の赤さが鮮明になり、深夜十二時の頃には、空も下界も一面火の海となった。その火の粉が、ときどき頬にかかってくる。
「大丈夫か?布をかぶって寝なさい」
箪笥の壁の外側から、父が案じてくれた。
妹と私は、いつの間にやら深い眠りに落ち、目覚めたときには、もう夜はすっかり明けていた。周囲の情況は、また一変していて騒々しい。
夜明けと共に、人々は右往左往していた。むやみに歩き、また走り回る人人人で、ちよっと箪笥の壁の外側へ出て行くことも困難な混雑さであった。ああ、私の家も焼けてしまった。
しかし、それは子供のことだ。あまり寂しい気はしなかった。それよりも、お腹がすいていてたまらない。
「もう少し、我慢していてね。おとなしく待っていれば、今にきっと、おじいちゃんが何か持ってきてくれるよ」
母がいった。どういう訳か必ず来ると信じているのだった。
祖父は、当時すでに隠居していたが、昔は浅草で一、二を争う大工の棟梁だった。腕もよかったが気っ風もよく、特に義侠心に富んでいたのである。
しばらく待つと、案の定、全身汗ぐっしょりで、ゆでダコのような顔のおじいちゃんが、人混みの中から現れた。尋ね尋ねてきたものらしく、ふうふう荒い息をしている。祖父はかついでいた木の箱を下ろし、まず、私たち子供にいった。
「おむすびだ。みんなお腹をすかしていたろう。さあ、早く食べなさい」
私をはじめ、みんな飛びついていただいた。しかし不思議なことに、箱の中にはおむすびの山が半分、あと半分のスペースには、銅貨、銀貨、札がいっぱい入っている。
「おじいちゃん、このお金、どうしたの?」
「このお金か、これはな・・・・・」
おじいちゃんの話によれば、祖父は来る途中で、私たちと同じ避難民にせがまれ、とうとう、おむすびの山の半分をみんなにやってしまったという。お金は、そのお礼に、みんなが入れたものだということであった。
満腹の後、“焼け出され”の私たちは、祖父の家へ引き取られていくことになった。再び大八車に、母や私たちの着物の入った箪笥などの家財道具を積み、丁稚たちの引くその荷車を先頭にして上野の山を下りた。
根岸の電車通りを、真っ直ぐに千住へ向かった。一、二百メートルおきに、真っ黒に焦げた無惨な電車の姿があった。「チンチン電車も、こんなに焼けてしまった」と、私は初めて心細さに襲われた。お腹の大き母は、右手に妹をとり、左手に私をとっていた。姉はその後ろから、これも押しだまったついてくる。
やがて、空がどんよりしてきたと思うと、たちまち篠つく雨となった。着ていた浴衣がぐしょぬれになり、脚にまとわりついて、何とも歩きにくかったことを、今もはっきり覚えている。
早く、おばあちゃんが待っていてくれるという、おじいちゃんの家にたどり着きたかった。私達ばかりでなしに、前も後も同じように、体中濡れた人々が口をきく元気もなく歩いていた。
大雨の中を、何時間歩き続けたことか、ようやく祖父の家に到着したときには、もう日はとっぷり暮れていた。母は、私達の無事に安堵し、涙を流して迎えてくれた。母も目に涙をためて、「どうぞ宜敷くお願いします」ときちんと手をついて、しばらく顔も上げなかった。
丁稚たちが、大八車の荷物を下ろし始めた。雨にぬれて箪笥が一層重くなったのか、それとも私たち同様、祖父の家にたどり着いて、今までの疲れがどっと出たせいか、家の中に運び込む足どりが大儀そうであった。
とっさに、母は何を思いついたのか、急いで箪笥に駆け寄ると、すごい勢いで引き出しをあけた。母の口から「あっ!」という声がもれ、血相が変わった。
私は、ただならぬ母の様子に驚き、慌ててそばへ寄った。見ると、胴裏の紅絹(もみ)の色が雨にぬれて、全部表地にしみ出しているのだった。まるで血がにじみ出たようである。
私の、三歳のお宮参りの折の別染の友禅も赤くにじみ出て、無惨な姿をさらしていた。母は、今こそ精も根も尽き果てたもののように、くず折れてしまった。
そういえば、雨の中を歩きながら箪笥の覆いを気にして、何度も何度も直していた母である。こんなにみじめな結果を招こうとは、全く信じられなかったに違いない。私は母の落胆に、幼心にも胸を刺されるような痛みを感じた。
以来私は、今でも妖しく赤い紅絹に触れるとこの痛恨事を思い出し、不思議な女の業を感じるのである。

●「妖恋」 北原亞以子
永遠に変わらざる人間の業
『妖恋』(集英社)は時代小説作家として知られる北原亞以子さんの、新境地を示す現代小説だ。しかも多くの日本人になじみの深い民話の視点で人間の内奥を透視しようとしており、そこから見えてくるものは、永遠に変わらざる人間の業だ。作品は2篇、「雪女」と「道成寺」。
「こういう着想は二十数年も前からあって、温めてきたのです。民話には子供の頃から関心があって、講談社の絵本などで親しんでいたんです。それに少女時代、戦争で東京から千葉の田舎に疎開して暮らすようになって、生活の中に民話があるような、民話的な風土の中で暮らしたことも大きいですね。満月が出ればムジナが化けて月になったという話などを聞きながら育ったんですから」
「雪女」は冷たい雪の精といわれる伝説中の妖女に仮託して展開される。主人公は雪深い北陸の山あいの小さな温泉場で喫茶店のアルバイトをして暮らす若者と、レイコという女のコンビ。
若者は日本での生活に絶望して大学を中退、人魚姫に一目会いたくてデンマークを訪ね、そこでレイコと知り合った。レイコは失恋中だった。2人はロスキレという小都市が気に入り、近い将来2人でこの町に住もうと約束する。
そして帰国後、その夢を実現させるため、東京の下町で銀行の現金輸送車を2人で襲い、首尾よく7千4百万円の大金を手にする。そして、そのほとぼりが冷めるまで、北陸の町に身をひそめているのだ。
だが、それから先が計画どおりにはいかなかった。レイコの心が男から離れていくのだ。人魚姫の場合は裏切ったのは王子だが、この場合、裏切ったのは女。しかもかの女は奪ったカネの半分を分け前として要求する。男の内部に次第に殺意が高まってくる……。
〈僕は足許に落ちていた石でレイコの頭を殴り、倒れた彼女の首を手で押えて息をとめた〉。だが男も生き延びることができなかった。雪の中で白い影のような女が近づいてくる。「キスして」。白い影が肩に触れる。熱(あち)――。だがそれはとび上がるほど冷たい感触だった。白い影にくるまれて男は――。
「雪女は男を殺すのです。私はここで女の本性みたいなものを伝えたかったのです」
北原さんはこの作品を書くためにデンマークへ行って人魚姫に会い、ロスキレの町も訪ねたというから、相当な念の入れようだ。
現代の男女の業を仮託して描く「道成寺」
もう1篇、「道成寺」は、安珍・清姫の悲恋物語として知られているが、作者はこの物語に現代の男女の業を仮託して描いている。
歌舞伎や能にも劇化されているこの民話は、美僧安珍に裏切られた清姫がどこまでも後を追い、蛇身と化し、道成寺に逃げ込んで助けを求める安珍が大きな釣り鐘の中にかくまわれれば、蛇身となった清姫がその鐘に巻きつき、ついには炎と化すのだが、現代版道成寺に登場するのは、晶子という結婚に失敗した女と村松真哉という年下の学生。ある機会から、一緒に「道成寺」の能を見たことから親しくなり、真哉は晶子の家に通いつめるようになる。晶子は活花と茶道の師匠をしている一人暮らしだ。
だが、たちまち真哉の熱はさめる。晶子のもとに寄りつかなくなり、携帯電話も通じなくなる。晶子は清姫の心境となって追い廻し、真哉がクルマでキャンパスに来ていることを知って近づいていく。その瞬間、真哉のクルマは急発進し、晶子はハネ飛ばされて重傷を負う。
裕福な真哉の両親からは丁寧な見舞いがあるものの、晶子は真哉を断念しきれず、ますます執着していく。大学も中退し、就職した真哉の先々に現れて、かれの人生を狂わせていくのだ。
「雪女」が幻想的な世界なのに対し、「道成寺」は現実にありそうな、迫力に満ちた作品だ。真哉の人生を狂わすだけでなく、晶子自身の人生も共に狂ってしまう。家も手放し、貯えも払底する。だが、〈後悔はない。未練もない。ただ、一つだけわからないことが、まだ胸の片隅にひっかかっている。なぜ、あなたはそこまで必死に逃げたの?〉
本書のサブタイトルには、「日本民話抄」とある。というからには、2篇だけでは物足りなさを禁じえない。
「実は、シリーズで書いていこうという腹積りはあるんです。単なる時代小説や現代小説では描けない世界が民話を重ねると見えてくるんです」北原さんの新境地、これからも楽しみだ。

●女と男の業ものがたり
業(ごう)とはカルマ(梵語)に由来する仏語で、解釈は宗教用語であり中々難しい。
前生の善悪の行動に依って現れる現世の報い。輪廻、因果、因縁、宿命等とも言われているようです。一般には業が深いとか、業の報いとか罪深いというような悪のイメージが強いかと思います。
今回のテーマの業は、男と女の深く激しい執着による行為の為す処を題材とした曲です。
波乱に満ちた人生を渡る人間は、誰しも理性では処せない行動に走るようです。
恋しい安珍を追う清姫。悪事を重ねる五右衛門。共に背負った因業に翻弄されて、妄執と悪道に魂を捧げ突き進む。清姫の業は嫉妬の炎、いずれは愛する安珍を焼き殺す。泥棒を生業とする五右衛門の業は殺戮の血と、家族の血縁因果、幼子を道ずれに京都七条河原に於いて釜ゆでの極刑に散る。
前世の因果宿命に動かされた男「五右衛門」と、女「清姫」の二人の激しい業物語です。
新内のイメージとは違ったストーリー性豊かな浄瑠璃をお聴き下さい。

●「後妻業の女」
“婚活”は、もはや独身のモア世代のものだけではありません。今回紹介する映画『後妻業の女』は、シニア世代の婚活事情がテーマ。そもそも、なぜ今シニア世代の婚活が盛り上がっているかと言うと、年金制度改革や長寿化などにより熟年離婚が劇的に増加し、2010年時点で65歳以上の一人暮らしは約600万人。男性の5人に1人、女性は2人に1人が未婚、もしくは離婚や死別によってパートナーを失った独身者なのだそう。ひとりぼっちで暮らす寂しさや経済的・健康上の不安は、アラサーとはくらべものになりません。そのため、還暦を過ぎての婚活も珍しいことではないのです。
ただし興味深いのは、男女が婚活で求める条件の差。男性は若い頃とさほど変わらず、若くて可愛いなど、いわゆる“色”を求め、女性は一生住める家と経済力、つまり“金”を求める傾向にあるのだそう。見た目の良さなど腹の足しにもならない無駄な願望は削ぎ落とされ、純粋な欲望だけが残る。高齢女性が行き着いた究極の潔さに圧倒されてしまいます。大竹しのぶさん演じるヒロインの小夜子も、もちろん金目当て。豊川悦司さん演じる結婚相談所所長と共謀して孤独な老人から金をせびり取る結婚詐欺を働いているのですが、婚活パーティでは「好きなことは読書と夜空を見上げること……。私、尽くすタイプやと思います」と上目遣いでアピールし、その控えめな淑女っぷりで次々と老人たちをイチコロにしていきます。
結婚詐欺はもちろんいけないことですが、高齢男性に若さと可愛げで元気を与える小夜子と、お金を墓場まで持って行くことができない資産家男性との利害は意外にも一致。相手の求める女性像を軽やかに演じて自分の欲求を満たす、合理的かつ華麗なテクニックはさすがのひと言です。ちなみにこの映画で一番怖いのは、小夜子の悪女ぶりではなく女同士のバトル。結婚した男性が脳梗塞で倒れた際、小夜子はその娘たちに「自分が全財産を相続する」と言い渡して猛反発を食らいます。尾野真千子さん演じる娘と小夜子が焼き肉屋で生肉を投げつけて取っ組み合いをする壮絶なシーンは、財産の問題以上に、「見ず知らずの他人に負けたくない!」というプライドが透けて見え、背筋が凍るほど。いくつになっても、どんな状況でも、やっぱり女の敵は女……!? 女の業と人間の滑稽さを突きつけられる、ちょっと怖いけど笑えるコメディです。

●戸田恵梨香「大恋愛」
初回平均視聴率10.4%と好スタートを切り、第2話10.6%、第3話10.9%、第4話9.6%と好調をキープしている秋ドラマが、『大恋愛〜僕を忘れる君と』(TBS系)だ。
主演の戸田恵梨香(30)は、10月1日に過去のインスタグラムの投稿をすべて削除。
「今までの考え方や持っているものを出来る限り捨てる。更に進化する為にリセットする」とコメントを添え、30歳で抱いた覚悟が並々ならぬことを窺わせている。
そんな彼女を「大人の女性を演じられるようになった」と評するのは、ドラマ評論家の成馬零一氏だ。
「戸田さんは、もともとはアイドル女優のような立ち位置でした。ですが、いまはそこから脱却し、同世代の30代の女優のなかでも、過去のある大人の女性を演じられる女優になっている。“女” を演じられる演技派になってきたと感じます。きっかけになったのは、2013年のNHKドラマ『書店員ミチルの身の上話』ではないでしょうか。このときの演技の評価は高く、今回の『大恋愛』の脚本家である大石静さんも、『書店員〜』の演技を絶賛しています。あの演技を見たからこそ、大石さんは『彼女なら「大恋愛」を演じられる!』と思ったのではないかと思います」
『大恋愛』は、恋人役のムロツヨシ(42)との掛け合いにも注目が集まる。
「『運命の出会い』から始まり、最後には『病気』と、ここまでベタベタで王道の恋愛ドラマは久しぶりで新鮮ですね。戸田さんとムロさんという配役にも好感が持てます。20代の頃に比べて、よりスレンダーになられた戸田さんは、肝が座っている大人の女性を演じることが多くなったような気がします。ぜひ “女の業” を演じてほしいですね」

●「紙の月」に見る“女の業”
90 年代。まだ子どもはなく、夫とふたり暮らしをしている梨花は、銀行の契約社員として渉外係を任されている。ある日、顧客の孫である光太と惹かれあった彼女は、ふと手を付けてしまった銀行のお金を、彼のために使うようになっていく。角田光代の同名小説を、『桐島、部活やめるってよ』の次回作が待たれていた吉田大八監督が映画化した『紙の月』。デビュー作の『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』や『パーマネント野ばら』など、これまでもフラットでありながらも濃密に“女の業”を見つめてきた監督が、本作で描き出したものとは何なのか。ヒロインの梨花と、銀行で働くふたりの女性の生き方から探ってみたい。
何不自由なく見えても心に渇望感を抱えている梨花。ちゃっかりと現実をサバイブしていく窓口係の相川。支店を支える事務員として実直に働き続けてきた隅。3人のキャラクターから見える“女の業”を、吉田監督のコメントともに紹介。
女の業1 欲望に忠実に、自由を求めるヒロイン
夫がありながら、勤め先の銀行から横領したお金を年下の男に貢ぐ。この行動だけを聞くと、寂しさや心の隙間を埋めるために年下の不倫相手に走ったのでは? と思ってしまうが、そう簡単には片づけられないのが梨花という女性の業の深さだろう。まるで自分の強固な意志で能動的に堕ちていくかのような彼女を見ていると、年下の彼氏もお金も彼女が本当に欲しかったものではなく、ただひたすらに自分の欲望に忠実に、自由を求めて駆け抜ける女性像が浮かび上がってくる。吉田監督はこのヒロインについて「自分ではたどり着けない場所に、女性たちにはたどり着いてほしいという願いや祈りが、僕の中にきっとあるんだと思うんです。託すのは都合がいいかなと思いますし、女性たちから“いい加減、私たちに押し付けるのはやめて”って言われそうな気もしますけど(笑)」と語っている。
女の業2 “天使と悪魔”の顔を持つ、上司と不倫する窓口係
わかば銀行の窓口係として働く相川は、ロッカー室で梨花と顔をあわせるたびに、彼女がドキリとするようなことを口にする女の子だ。上司と不倫していることを突然告白し、「ストレスでカードの支払いがやばいけど、もう色々我慢してんの馬鹿みたいで。やりたいことはやりたいじゃないですか」と語り出す。ロレックスを買ってくれる不倫相手との交際を続けながら、しっかり結婚相手を探す堅実さもある。そんな現代的でちゃっかりとしたところのある相川を、吉田監督は「梨花が道を踏み外していく時に、無意識に彼女を導くような存在」と語っている。「相川は意識していないでしょうが、梨花の転落を加速させていく小悪魔的な女の子なんですね。無邪気に口にした言葉が梨花の心にトゲのように刺さって、彼女の行動を操っていく。“天使と悪魔”の両方を持つ存在です」。
女の業3 堅実に生きてきたお局 OL が、心に秘めているもの
ベテランの事務員としてわかば銀行で働き続けてきた隅より子。まだ女性の総合職での入社が少なかった時代に、銀行での仕事にプライドを持ちながら、人一倍努力しながら働き続けてきたのだろう。いわゆるお局と呼ばれる存在で、きっちりと切り揃えられた前髪からも彼女の真面目な性格が伝わってくる。ひたすら堅実に生きてきた彼女だが、もしかすると梨花のように、“自由”に憧れる気持ちを持っていた人なのではないか――。梨花が道を踏み外した時に、隅が自分の心に潜んでいた欲望と直面するシーンは、この映画のクライマックスともいえる。吉田監督いわく「隅は言ってみれば“宿敵キャラ”なのですが、梨花の合わせ鏡ともいえるキャラクター」。生き方はまったく違っても、秘められた女の業の部分では密かに心を響き合わせている、そんな存在といえるのかもしれない。

●「あるスキャンダルの覚え書き」
ジュディ・デンチとケイト・ブランシェットの共演によるサスペンス・ドラマ「あるスキャンダルの覚え書き」が、11月2日にDVDリリースされる。
特典はリチャード・エアー監督による音声解説、3種類のメイキング映像(「あるスキャンダルの覚え書き」2つの執着の物語/ビハインド・ザ・シーン/キャラクター分析:ケイト・ブランシェット)、8種類のインタビュー集(スキャンダルの裏側/小説から脚本へ/ジュディ・デンチ/ケイト・ブランシェット対談:ケイト・ブランシェット&ビル・ナイ/キャスティング/善人の悪事/現場の雰囲気/初日の撮影)、オリジナル劇場予告編を収録。
ロンドン郊外の中学校で歴史を教えているベテラン教師のバーバラは、いつも批判的な態度の上、歯に衣着せぬ物言いで周囲から疎まれていた。孤立しているバーバラは、美しく上品な新任の美術教師シーバに強い親近感を覚える。そして、密かに彼女を観察し、夜ごと日記に書き綴っていた。
ある日、シーバの受け持つクラスで騒動が起き、バーバラがこれを収拾。シーバは感謝の気持ちとして、バーバラを自宅に招く。一見、幸せを絵に描いたようなブルジョワ家族。ところが、シーバから日々の不満を打ち明けられ、バーバラは彼女に必要なのは自分だと確信する。それからしばらくして、バーバラは、シーバと男子生徒との情事の現場を目撃、次第に2人の友情のバランスが崩れていく……。
原作は英国ブッカー賞の最終候補にも残ったゾーイ・へラーのベストセラー小説。米シアトルで児童強姦の末に妊娠・出産した女性教師の実話に着想を得た物語だが、主軸となるのは女性教師2人の歪んだ関係だ。
シーバ役のケイト・ブランシェットは危なっかしくも妙に色っぽい。対するオールドミスの先輩教師を演じたジュディ・デンチは、ある意味、どんなホラーキャラクターよりも怖い。相手を勝手に親友だと思い込み、裏切られたと勝手に勘違いし、握った弱みを盾に、友情以上のものを要求する。その姿にゾッとさせられる。
いやはや、女の業の深さを見せられたような気がして、同性ながら、女は怖いと思ってしまう。とはいえ、バーバラの気持ちが分からないでもない。ストーカーまがいの行為は異常だが、彼女の孤独ゆえの執着心は、怖いと同時に、悲しくもあるからだ。

●「鬼龍院花子の生涯」
宮尾登美子の著した長編小説である。『別冊文藝春秋』145号から149号に連載された。大正、昭和の高知を舞台に、侠客鬼龍院政五郎(通称・鬼政)とその娘花子の波乱万丈の生涯を、12歳で鬼政のもとへ養女に出され、約50年にわたりその興亡を見守った松恵の目線から描いた作品。
宮尾の土佐の花街を舞台にした小説は、置屋の紹介人だった宮尾の父が残した14冊の日記、営業日記、住所録を主に参考として取材し創作されている。鬼龍院政五郎は父の日記にあった父にお金を借りに来た親分の話で、モデルになった人物が当時まだ存命で取材に協力してくれ、話を聞いたそのままの実話だという。

「土佐に熱血の志士は出ても男稼業の侠客は育たぬ」と言われた高知で、大正4年春、鬼政こと鬼龍院政五郎は九反田上市場の納屋堀に男稼業の看板を掲げた。大正7年春、子だくさんの白井家に生まれた数え年12歳の松恵は、弟の拓(ひらく)と鬼政の家にもらわれるが、拓は翌日逃げ出し、松恵だけが養女となる。松恵は子分たちのいる主家の向かい家で、正妻の歌、妾の〆太、笑若、つると暮らすことになった。
翌年、18歳のつるが妊娠し、長女・花子を出産。鬼政は初めての子に喜ぶが、〆太、笑若は家を去る。学業優秀な松恵は、学費の工面に苦労しながら女学校に進学するが、歌が腸チフスで死去。鬼政は労働運動家の安芸 盛(あき さかん)を迎えて高知県初の労働者組織を発足させたが、高知刑務所から出所した安芸が松恵と結婚したいと聞くと激怒し、安芸の小指を詰めて決別する。松恵は鬼政に体を求められて逃げ出し、絶望するが、昭和2年、念願の小学校教員となり、自活する。
鬼政は高知のやくざ荒磯と相撲の興行権を巡って対立する。花子は鬼政と家事の苦手なつるに甘やかされ、わがままに育つ。松恵は鬼政の姉・加世の下宿人で京大に進学した田辺恭介と文通を始め、卒業後の結婚を約束する。荒磯は鬼政の家をダイナマイトで爆破。鬼政の子分たちが報復に向かうも荒磯を討てないまま、鬼政ともども逮捕される。松恵は自主退職を余儀なくされる。
鬼政は服役。地元の名士・須田保次郎からも絶縁され、鬼龍院家は衰えていくが、花子のわがままはあいかわらずだった。松恵は大阪で技芸学校の舎監に就職し、田辺恭介と結婚しようとするが、獄中の鬼政、田辺の両親から反対され、別居する。昭和11年3月、出所した鬼政は松恵を呼び戻す。鬼政は衰えた鬼龍院家を建て直そうとするが、中風に倒れる。方々に借金をしたあげく、昭和15年1月、再び倒れ68歳で他界する。松恵は高知を出ようとするが、神戸の山口組に挨拶にいったつるが39歳の若さで急死する。
つるを看取った山口組の権藤哲夫と花子が急遽結婚し、鬼龍院家は代替わりする。松恵は再び家を出ようとするが、神戸に行く権藤から留守を頼まれる。8月、権藤は浅草で抗争事件に巻き込まれ死去。遺骨を届けに来た山口組の辻原喜八郎は花子に手を出し、二人の結婚が決まる。9月、花子は神戸に移り住む。松恵は仕送りをする条件で田辺家から結婚を許され、高知に念願の新居を構える。昭和18年1月、花子は長男を出産するが、祝いに行った松恵は散らかり放題の屋敷にあきれる。終戦後、田辺が故郷の徳島で脳溢血で急死。葬式に駆けつけた松恵は、田辺の父親から罵倒されるが、密かに分骨した夫の遺骨を持って高知に戻る。鬼龍院家は瓦解していた。昭和25年、松恵は地元の裁縫女学校の教員となる。翌年、辻原に捨てられた花子と長男・寛が帰ってくる。素行の悪い寛をよそに預け、ようやく花子は働きだすが、仕事が続かず、職を転々とする。
昭和39年、58歳の松恵は再び上京して学校で学ぶことを決意する。準備を進めていた3月16日、旅館の女中として働く花子が心臓麻痺で45歳で死去。上京する前日、松恵は花子の遺骨を墓所に葬り、本名の林田ではなく、「鬼龍院花子」と書いた卒塔婆を立てる。鬼龍院家の盛衰を見届けた松恵から花子への手向けであった。
 
 
 

 

 

●瀬戸内寂聴の娘は現在アメリカ在住で孫もいる!捨てた理由に3度の不倫も
作家で僧侶の瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう)さんは、25歳の時に捨てた娘が一人います。当時3歳の娘を捨てた理由は、瀬戸内寂聴さんが不倫相手を選んだからです。しかも、その後も不倫をして計3度の不倫をしていました。
瀬戸内寂聴さんは「子どもを捨てて後悔した」と著者や講演の場でも度々発言していますが、娘さんからは関係を拒絶された時期もありました。瀬戸内寂聴さんの娘さんは「現在どうしているのか?」「二人は和解できたのか?」気になりますね。結論から言うと、瀬戸内寂聴さんと娘さんは和解ができて、2012年にはひ孫にも会うことができています。
瀬戸内寂聴の娘は現在アメリカ在住で孫もいる!
瀬戸内寂聴さんの娘さんは、現在77歳でアメリカに住んでいます。娘さんは結婚して家庭も築いており、瀬戸内寂聴さんにとっての孫とひ孫もいます。瀬戸内寂聴さんは、2012年に「娘、孫、ひ孫に会った」と話していました。
昨年、孫とひ孫と一緒に娘がアメリカから帰国。「ひ孫が帰り際に『ばーば、バイバイ』と言ってくれました」
瀬戸内寂聴さんは、生前には娘さんと和解済みでしたが、娘さんに結婚祝いを贈っても拒絶されるなど、絶縁状態の時期もありました。
瀬戸内寂聴が娘を捨てた理由
瀬戸内寂聴さんは1943年・21歳のときにお見合い結婚をしました。相手は酒井悌(さかいやすし)さんで、中国古代音楽史が専門の外務省留学生→国立北京師範大学の講師になったエリートです。
   条件付きでお見合い結婚
瀬戸内寂聴さんが退屈な大学生活に飽きていた頃のことです。結婚することで中国の北京に嫁げるという魅力もあり、酒井悌さんとのお見合い結婚をしました。
   北京で娘を出産
結婚して中国北京に移住した後、1944年に娘を出産します。1945年に終戦を迎えた頃、瀬戸内寂聴さんは「夫婦間に会話がない」ことに気づきました。
会話が無いことで心が寂しかったでしょうね。瀬戸内寂聴さんは、夫婦間の会話は大事だとも話していました。
   1948年 娘と旦那を捨てる
終戦の翌年1946年に瀬戸内寂聴さん一家は日本へ強制送還され、徳島県徳島市で生活を始めます。この徳島で、瀬戸内寂聴さんは夫の教え子と不倫関係になってしまいます。学生時代は恋愛をしたことが無い瀬戸内寂聴さんにとっては、これが初恋でした。
不倫関係に激怒した夫に連れられて一家で東京へ引っ越しましたが、引き離されたことで瀬戸内寂聴さんの想いは募ります。気持ちを抑えられない瀬戸内寂聴さんは、1948年、当時3歳だった娘と旦那を置いて家を出てしまいました。
「娘を連れて行っては金銭的理由から生活できない」という考えもあったようですが、実の子供よりも初恋(不倫)を優先してしまったのですね。
   出家後に娘と和解
瀬戸内寂聴さんが出て行った後、夫は娘に「お母さんは死んだ」と伝えていました。しかし、家を出た数年後に瀬戸内寂聴さんが娘の顔を見に行った際、母親だと名乗らなくても娘は「お母さんが来た」とわかっていたそうです。胸が痛くなるエピソードですね。
瀬戸内寂聴さんが作家として成功してからのこと。結婚したことを聞いて瀬戸内寂聴さんが嫁入り道具一式を娘へ贈りましたが、送り返されてしまいました。
拒絶された過去もありましたが、1973年、瀬戸内寂聴さんが51歳の時に和解をしています。娘さんに子供が生まれ、瀬戸内寂聴さんに孫の顔を見せるためだったそうです。
娘さんはアメリカで家庭を築いていて、子供、孫まで生まれています。2012年には、瀬戸内寂聴さんは「孫、ひ孫をアメリカへ見送った」と話していましたので、和解後は良好な関係を築けていたようですね。
瀬戸内寂聴の3度の不倫
瀬戸内寂聴さんは、人生で3度も不倫をしています。その不倫体質を断ち切るために、1973年に岩手県の中尊寺で仏門に入り出家しました。
   1度目の不倫 夫の教え子
1946年、瀬戸内寂聴さんが25歳、夫は34歳の時。夫の教え子である21歳の青年と恋に落ち、不倫関係になりました。
夫と娘を置いて不倫相手の元へ行った後は、瀬戸内寂聴さんが重すぎて破局に終わっています。
   2度目の不倫 小説家の小田仁二郎 → 三角関係
1952年、瀬戸内寂聴さんが30歳の時。瀬戸内寂聴さんは正式離婚した後ですが、妻子持ちの小説家/小田仁二郎さんと不倫関係になりました。執筆活動で一緒になるうちに不倫関係になってしまったそうです。
さらには、元夫の教え子とも不倫関係になり、三角関係にまでなりました。
   3度目の不倫 小説家の井上光晴
1966年、瀬戸内寂聴さんが44歳の時。妻子持ちの小説家/井上光晴さんと不倫関係になりました。
井上さんの娘・井上荒野(いのうえあれの)さんは小説家で、当時の父と瀬戸内寂聴さんの不倫を題材にした小説「あちらにいる鬼」を執筆しています。
執筆にあたり、井上荒野さんは瀬戸内寂聴さんに会って直接取材もしたそうです。凄いストーリーですね。

●瀬戸内寂聴さん「奥さまお手製のお昼をご馳走に」 不倫相手の娘と対談
作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが9日、死去した。99歳だった。瀬戸内さんは、作家として数々の小説を書き上げた一方で、恋愛にも命を燃やした。かつて、瀬戸内さんは作家の井上光晴と不倫関係にあった。光晴の娘である荒野さんはやがて小説家になり、19年2月には長編小説『あちらにいる鬼』を上梓。そのモデルに選んだのは、父・井上光晴と母・郁子、そして光晴の愛人だった瀬戸内さんだった。
『あちらにいる鬼』刊行に際して、瀬戸内さんは荒野さんと対談。出家を選んだときに光晴がホッとした顔をしたこと、出家した日に妻・郁子が「行ってやれ」と光晴を寺に送り出したことなどを明かしていた。その対談を紹介する。

井上荒野(以下荒野) 『あちらにいる鬼』は編集者に「ご両親と寂聴さんとのことを書いてみませんか?」と勧められて書いたものです。最初は寂聴さんもご存命だし、とても怖くて書けないと思っていましたが、江國香織さんや角田光代さんと寂庵をお訪ねして父の話を伺ってから、「私が書かないといけない、お元気なうちに読んでいただきたい」という気持ちに変わりました。
瀬戸内寂聴(以下寂聴) 私はなんでも書いていい、何を聞いてくれてもいいと思っていたので、ようやく本になってよかったわ。よく書けていましたよ。そもそも私と井上光晴さんとの関係は一緒に高松へ講演旅行をしたことがきっかけ。夜、井上さんが旅館の私の部屋に来て帰らないの。編集者が困ってね。で、何を言うかというと、「うちの嫁さんはとても美人で外を歩くとみんな振り返る」とか「料理がうまくてなんでもできる」とかそんなことばかり(笑)。
荒野 それで口説いてた(笑)。
寂聴 そのうち私の作品を見てもらうようになった。私はもう作家として立っていたから、そんな立場じゃなかったんだけど、書くものを純文学寄りに変えたいと思っていた時期で、井上さんに見てもらわないと不安だったのね。締め切り間際に書き上がると電車に乗って井上さんの家の近くへ行き、わざわざ見てもらっていた。井上さんも締め切りの時だから気の毒だったけど、見せないと機嫌が悪い。
荒野 いつ頃まで続けてたんですか? 父が病気になるまで?
寂聴 出家してからはなかったわね。そもそも出家だって井上さんとの長い関係を終わらせようと思ってしたんですよ。「出家しようかな」と言ったら井上さんが「あ、そういう手もあるな」ってホッとした顔をしたの。ああ、それしかないなって。完全に切れたわけじゃないの。中尊寺で出家した日も、奥さんが「行ってやれ」と言って来てくれましたしね。ただ、それ以来、男と女という関係じゃなくなっただけ。
父の名で出た母の小説
荒野 母には文才もありました。父の死後、母から自分が書いて父の名で出た短編があると告白された時には驚きましたけど、すぐに「あれがそうだ!」と思い当たりましたね。「眼の皮膚」とか「象のいないサーカス」とか。
寂聴 締め切りで苦しんだ時に書かせたのよ。でも井上さんは妻の才能を知っていて、小説家になられるのが嫌だったのね。旅行記みたいな随筆の話があると受けさせましたけどね。私には「彼女も相当のことが書けるけど、自分がノートに書いた作品を原稿用紙に清書させてきて、変な文章の癖が移っているからよくない」と言っていましたけれど。
荒野 書いていくうちに直ったのに。書けばよかったと思います。それは母の意思だったのか、父が止めたせいなのか。
寂聴 それはお父さんよ。書けないように仕向けるの。そういうのがうまいのよ。あんなわがままな人の面倒をみていたんだから時間もなかったでしょう。何しろ当時の編集者の間では、「井上光晴の奥さんが作家の妻の中で一番美人」「一番の料理上手」って評判だったもの。私も井上さんに「来い来い」といわれるものだから、行ってお宅でお昼をご馳走になった、奥さまお手製の(笑)。
荒野 自慢したかったんでしょうね。よく編集者に「昼飯食べていって。うどんしかないけど」と勧めていましたが、そのうどんは母が自分で打っていた(笑)。
寂聴 お父さんの作に、家庭のことや実のお母さんのことなど、とても自分で書いたとは思えない小説があることは私にもわかってた。これはあやしいと思い、「これ書いたのは奥さんね?」って言ってたの。彼、すごく怒ったけど当たっていたわね。
荒野 今でもわからないのは、母が本当は自分の名前で出したかったのかどうかということなんです。
寂聴 そりゃあ、あれだけの才能があったら書きたかったわよ。絶対自分よりも良くなるとわかっていたからお父さんが書かせなかった。ヤキモチよ。
荒野 私にはあれほど書け書けと言っていたのに。
寂聴 この作品を書く前、もっと質問してくれて良かったのよ。
荒野 『あちらにいる鬼』はフィクションとして書こうと思ったので、全部伺ってしまうよりは想像する場面があったほうが書きやすかったんです。
寂聴 そうでしょうね。荒野ちゃんはもう私と仲良くなっていたから。そもそも私は井上さんとの関係を不倫なんて思ってないの。井上さんだって思ってなかった。今でも悪いとは思ってない。たまたま奥さんがいたというだけ。好きになったらそんなこと関係ない。雷が落ちてくるようなものだからね。逃げるわけにはいきませんよ。
荒野 本当にそうだと思います。不倫がダメだからとか奥さんがいるからやめておこうというのは愛に条件をつけることだから、そっちのほうが不純な気がする。もちろん大変だからやらないほうがいいんだけど、好きになっちゃったら仕方がないし、文学としては書き甲斐があります。大変なことをわざわざやってしまう心の動きがおもしろいから書くわけで。
寂聴 世界文学の名作はすべて不倫ですよ。だけど、「早く奥さんと別れて一緒になって」なんていうのはみっともないわね。世間的な幸福なんてものは初めから捨てないとね。
荒野 最近は芸能人の不倫などがすぐネットで叩かれますが、怒ったり裁いたりしていい人がいるとしたら当事者だけだと思うんですよね。世間が怒る権利はない。母は当事者だったけれど怒らなかった。怒ったら終わりになる。母は結局、父と一緒にいることを選んだんだと思います。どうしようもない男だったけど、それ以上に好きな部分があったんじゃないかって書きながら思ったんです。
寂聴 それはそうね。
荒野 母は父と一緒のお墓に一緒に入りたかった。お墓のことはどうでもいい感じの人だったのに。そもそも寂聴さんが住職を務めていらした天台寺(岩手県二戸市)に墓地を買い、父のお骨を納めたのも世間的に見れば変わっていますよね。自分にもう先がないとわかったとき、そこに自分の骨も入れることを娘たちに約束させました。
寂聴 私が自分のために買っておいた墓地のそばにお二人で眠っていらっしゃるのよね。
荒野 私には、母が父を愛するあまり何もかも我慢していたというより、「自分が選んだことだから、夫をずっと好きでいよう」と決めたような気がするんです。だから『あちらにいる鬼』は、自分で決めた人たちの話なんです。
寂聴 そうね。
荒野 そもそも母は、寂聴さんのことはもちろん、ほかの女の人がいるってことを私たちの前で愚痴を言ったり怒ったりしたことは一度もない。父が何かでいい気になっていたりすると怒りましたけどね。
文学的師だった光晴
寂聴 思い返すと私はとても文学的に得をしたと思いますよ。以前は井上さんが書くような小説を読まなかったの。読んでみたらおもしろかったし、彼の文学に対する真摯さは一度も疑ったことがない。だから、井上さんは力量があるのにこの程度しか認められないということが不満でしたね。井上さんは文壇で非常に寂しかったの。文壇の中では早稲田派とか三田派とかいろいろあって、彼らはバーに飲みに行っても集まる。学校に行ってない井上さんにはそれがなかった。みんなに仲良くしてもらいたかったんじゃなかったのかしら。孤独だったのね。だから私なんかに寄ってきた。
荒野 父はいつもワーワー言ってるから場の中心にいたのだと思っていましたが、違ったんですね。確かに父にはものすごく学歴コンプレックスがありました。アンチ学歴派で偏差値教育を嫌っていたのに、私のテストの点数や偏差値を気にしていましたね。相反するものがあった。自分のコンプレックスが全部裏返って現れている。女の人のことだってそうかも。
寂聴 「俺が女を落とそうと思ったら全部引っかかる」って。
荒野 女遊びにも承認欲求があったのかもしれない。寂聴さんから文壇では孤立していたと伺ってわかる気がしました。そういえば以前、「寂聴さんがつきあった男たちの中で、父はどんな男でした?」とお尋ねしたら、「つまんない男だったわよッ」とおっしゃいましたよね(笑)。
寂聴 私、そんなこと言った? ははは。いや、つまんなくなかったわよ。少なくとも小説を書く上では先生の一人だった。
荒野 『比叡』など父とのことをお書きになった作品でも設定は変えていらっしゃいますね。父の死後はお書きにならなかったですが。
寂聴 もうお母さんと仲良くなっていたからね。井上さんは「俺とあんたがこういう関係じゃなければ、うちの嫁さんと一番いい親友になれたのになあ」と何度も言っていた。実際にお会いしたら、確かに井上さんよりずっと良かった。わかり合える人だったし。
荒野 最終的には仲良くしていただきましたよね。いちばんびっくりしたのは死ぬ前に母がハガキを寂聴さんに書いたということ。私にも黙っていたから。
寂聴 ハガキは時々いただきましたよ。私が書いた小説を読んでくれて、「今度のあの小説はとても良かった」って。自分ではよく書けたと思っていたのに誰も褒めてくれなかったから、すごく嬉しかった。本質的に文学的な才能があったんですよ。だから井上さんの書いたものも全面的に信用してなかったと思う。
荒野 小説についてはフェアな人でした。私の小説もおもしろいときはほめてくれるけど、ダメだと「さらっと読んじゃったわ」ってむかつくことをいう。父は絶対けなさなかったのに。
寂聴 井上さんはあなたが小さい頃から作家になると決めていたの。そうじゃなかったら「荒野」なんて名前を誰がつける?
荒野 ある種の妄信ですよね。
寂聴 今回の作品もよく書いたと思いますよ。売れるといいね。テレビから話が来たら面倒でも出なさいよ。テレビに出たら売れる。新聞や雑誌なんかに出たって誰も読まないからね。
荒野 はい(笑)。
 
 
 
 
 
 
 
 

 


 
2021/11