人口は国力

少子高齢化
人口減少期に入りました
当然 国力も低下します

「成長と分配」 夢物語です
政治家の先生方 
現実から目をそらさないでください
 


若者を取り巻く社会経済日本の人口総人口86万人減人口減少止まらぬ日本人口推移「働く」ことへの影響・・・
人口問題雑話 / 少子高齢化増加したお年寄り高齢者人口推移人口2100年に7496万人世界人口ランキング人口11年連続減23カ国で世紀末人口半減アジアで進む人口減人口減少対処を江戸に学ぶ人口減少減退期人口減少への視点成熟社会に生きる人口減退期人口減少期を迎えた日本・・・
生産年齢人口近世中期の人口減少現代の人口減少・・・
 
 
 

 

若者を取り巻く社会経済状況の変化
●1 人口構造の変化
人口減少・少子高齢化の進展
戦後、我が国の総人口は増加を続け、1967年には初めて1億人を超えたが、2008年の1億2,808万人をピークに減少に転じた。国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、我が国の人口は2048年に9,913万人と1億人を割り込み、2060年には8,674万人まで減少すると見込まれている(図表1)。人口の推移をより長期的に見ると、明治時代後半の1900年頃から100年をかけて増えてきた我が国の人口が、今後100年のうちに再び同じ水準に戻ることが見込まれ、我が国はこれから、これまでの歴史を振り返っても類を見ない水準の人口減少を経験することになる(図表2)。
   図表1 我が国人口の推移
   図表2 我が国人口の長期的な推移
若者の数は、1970年に約3,600万人、2010年に約3,200万人だったものが、2060年にはその半分以下の約1,500万人になると推計されている。また、全人口に占める若者人口の割合を見ると、1970年の35.0%(約3人に1人)から2010年には25.1%(約4人に1人)へと減少しており、2060年には更に17.4%(約6人に1人)にまで減少することが見込まれている。
このような若者人口の減少の背景には、出生率の落ち込みがある。戦後の出生数の推移を見ると、1940年代後半の第1次ベビーブーム、1970年代前半の第2次ベビーブームを経た後、出生数は減少し、特に1970年代から1980年代にかけて大きく減少した。その後も減少は続き、2011年には過去最低の出生数(105万人)となった。合計特殊出生率(当該年次の15歳から49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもので、一人の女性が仮にその年次の年齢別出生率で一生の間に生むとしたときの子どもの数に相当)は、1947年に4.54だったものが1975年には1.91へと減少し、さらに、2005年には過去最低の水準となる1.26となった(図表3)。
   図表3 出生数及び合計特殊出生率の推移
圏域別に人口の変化を見ると、2010年から2040年にかけての全年齢の人口の変化率は、地方圏で-20.9%、大阪圏で-16.5%、名古屋圏で-11.7%、東京圏で-9.3%と見込まれており、都市圏よりも地方圏において人口減少が急速に進行していくことが分かる注1(図表4、5)。20代の人口については、全年齢と同様、地方圏における減少率が最も高く、大阪圏、東京圏、名古屋圏と続いている。30代の人口については、東京圏における減少が目立つが、これは、前後の世代と比較して大きな人口ボリュームを持つ第2次ベビーブーム世代(1971〜1974年生まれ)が2010年時点では36〜39歳となっており、2010年時点でその多くが東京圏に居住していたことと関連しているものと考えられる(世代ごとの居住地の動向については第2章第2節で詳述する)。20代人口と30代人口の減少率は、いずれの圏域においても全年齢人口の減少率よりも高くなっており、人口減少が進展する中で、特に若者人口の減少が急速に起こることが分かる(図表6、7、8、9)。
   図表4 圏域別の人口(全年齢)の推移(2010年=100)
   図表5 圏域別の人口(全年齢)の変化率(2010年→2040年)
   図表6 圏域別の人口(20代)の推移(2010年=100)
   図表7 圏域別の人口(20代)の変化率(2010年→2040年)
   図表8 圏域別の人口(30代)の推移(2010年=100)
   図表9 圏域別の人口(30代)の変化率(2010年→2040年)
また、我が国の若者人口の減少は、国際的に見ても早いスピードで進展している。我が国では1950年代から若者人口比率が上昇し、1970年にはピークとなる35%を記録した。その後、1990年までに若者人口比率は急速に低下し、1990年から2005年にかけては27%前後の水準で横ばいとなったものの、その後再び減少を始め、2035年以降は20%を下回り、2090年まで長期的に減少を続けることが見込まれている。諸外国の若者人口比率は我が国とは異なる動きをしており、1960年代後半頃にそれまで減少傾向にあった若者人口比率は底を打ち、日本の若者人口比率が減少傾向に入った1970年頃から上昇を続け、その後1990年前後から減少段階に入ることとなった。諸外国においても今後長期的な若者人口の減少が見込まれているが、若者人口比率は長期的には20%台前半に収束すると見込まれており、我が国と比較して、若者人口比率の減少のスピードも減少幅も緩やかと言える(図表10)。
   図表10 各国の若者人口比率の推移
単身・夫婦のみ世帯の増加と世帯の小規模化
人口減少・少子高齢化が進展する中で、世帯構成も変化している。我が国の総人口が減少を始めた一方で、一般世帯総数は、1960年の2,216万世帯から2010年の5,184万世帯まで継続的に増加している。国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、我が国の一般世帯総数は今後2019年まで増加が続き、5,307万世帯でピークを迎えるが、その後は減少に転じ、2035年には4,956万世帯まで減少すると見込まれている。
世帯数の増大の内訳としては、単身世帯、夫婦のみの世帯、ひとり親と子の世帯の増加が大きい。単身世帯は1960年の358万世帯(16.2%)から一貫して増加していたが、高齢者の単身世帯の増加や未婚化・晩婚化の進展による未婚単身者の増加等を受け、1990年代以降、特に増加が進んだ。単身世帯は2010年には1,678万世帯(32.4%)となったが、この増加傾向は一般世帯総数が減少に転じる2020年以降も継続し、2030年に1,872万世帯(36.5%)となるまで続くものと見込まれている。夫婦のみの世帯については、1960年の163万世帯(7.4%)から増加が続いており、2010年には1,027万世帯(19.8%)となった。今後、2020年まで増加した後は減少に転じると見込まれているが、一般世帯総数に占める割合としては上昇傾向にあり、2010年の19.8%から2020年の20.8%、2035年の21.2%と上昇が見込まれる。
かつて一般世帯総数の40%超をしめた夫婦と子の世帯は、1985年の1,519万世帯をピークに既に減少傾向に入っているが、今後それが加速し、2010年の1,447万世帯(27.9%)から2035年の1,153万世帯(23.3%)にまで減少すると見込まれている。
また、人口減少局面において世帯構成の変化と世帯数の増加が継続する中で、世帯規模は縮小し、平均世帯人員は長期的に減少傾向にある。平均世帯人員は1960年には4.14人であったが、2010年には2.42人となり、2035年には2.20人になると予想されている(図表11)。
   図表11 世帯構成の推移(全年齢)
特に30代が世帯主の世帯構成について見ると、一般世帯総数は1985年の806万世帯から減少し、1995年には640万世帯となったが、第2次ベビーブーム世代が30代となったことや、その中でも単身世帯が増加したこと等により、その後増加に転じ、2005年には771万世帯となった。その後は再び減少に転じ、2035年には509万世帯となると見込まれている。
30代の世帯構成の推移で特徴的なのは、夫婦と子供から成る世帯の割合の減少と単身世帯の割合の増加である。夫婦と子供から成る世帯は、1985年の470万世帯から1995年の327万世帯まで減少した後増加に転じ、2005年には337万世帯となった。その後は減少局面に入り、2035年には200万世帯まで減少すると見込まれている。夫婦と子供から成る世帯の世帯数はこのように増減を繰り返し推移しているが、一般世帯総数に占める割合は一貫して減少しており、1985年の58.3%から1995年の51.0%、2005年の43.7%と減少し、2035年には39.3%となることが見込まれている。また、単身世帯については、世帯数自体は2010年の248万世帯をピークに減少していくと予想されるが、その割合は長期的に増加傾向にあり、1985年の15.0%から2010年には32.2%へ、さらに2035年には35.3%まで上昇すると予想される(図表12)。
   図表12 世帯構成の推移(世帯主が30代)

 

●2 長期的な経済の低迷
経済成長率の低迷
我が国の経済は、第二次世界大戦の戦後復興と高度経済成長期を経て大きな成長を遂げ、1960年代の終わりには世界第2位の経済大国となった。しかしながら、1990年初めのバブル崩壊を受け、1988年度に6.4%だった実質経済成長率は1993年度に-0.5%まで減少するなど、我が国の経済成長はそれまでと比べ大きく落ち込むこととなった。2002年からは長期の景気拡張過程に入っていたが、2008年にはリーマンショックを契機とした世界経済の低迷の影響を受け、我が国の経済成長率はマイナス成長に転じ、その後も低成長を続けている(図表13)。
   図表13 実質GDP、実質経済成長率の推移
このようにマクロ経済が変化する中で、これまでの若者はそれをどのように体感していたのだろうか。若年期に経験した経済成長率を世代別に見てみると、現在の若者は、以前の若者世代が経験したよりも低い経済成長率を経験していることが分かる。2012年時点で69歳(1943年生まれ)の人々が20代・30代の頃に経験した経済成長率の平均が6.59%だったのに対し、59歳(1953年生まれ)の人々は3.99%、49歳(1963年生まれ)の人々は2.55%、39歳(1973年生まれ)の人々は0.83%、29歳(1983年生まれ)の人々は0.84%と、おおむね、近年になればなるほど、若年期に経験した経済成長率の平均が低くなる傾向にある(図表14)。
   図表14 各世代の若年期の経済成長率
失業率の上昇
次に、完全失業率の推移を見てみる。年齢別の完全失業率は、どの年齢層でも上昇しているものの、20〜24歳では特に上昇幅が大きく、1970年には2.0%だった失業率が2012年には7.9%となるなど、現在の若者は以前の若者と比較して高い水準の失業率に直面している(図表15)。
   図表15 若者の失業率の推移
世代ごとに、各年齢で経験した完全失業率を見てみても、同一の年齢時点で比較した場合、若い世代ほどより高い失業率を経験していることが分かる。例えば、20〜24歳時点では、1953〜1962年生まれの世代では3.5%、1963〜1972年生まれの世代では4.3%、1973〜1982年生まれの世代では7.8%、1983〜1992年生まれの世代では8.2%の失業率を経験しており、その後、25〜29歳、30〜34歳と年齢を重ねた際に、それぞれの世代において20〜24歳時よりも失業率はおおむね低下しているものの、若い世代ほど、より高い水準のまま推移している(図表16)。
   図表16 世代別にみた完全失業率の推移
デフレーションの進行
また、物価水準の推移を見てみると、1970年から長期的に物価の上昇が続いていたが、1998年をピークに下落傾向に転じることとなった。1999年以降、2012年までは物価の下落が続いており、現在の若者は若年期のほとんどをデフレーションの中で過ごしていると言える(図表17)。
   図表17 消費者物価指数の推移(全国)(2010年=100)
このように厳しい経済状況を経験してきた影響もあり、国土交通省が2013年3月に実施した国民意識調査(以下「国民意識調査」という。)注1において、10年後の社会に対するイメージを尋ねたところ、「不安がある社会」、「暗い社会」等と答えた者の割合は他の年齢層よりも高くなっている(図表18)。
   図表18 10年後の社会に対するイメージ

 

●3 国際化の進展
各国経済の結びつきが強まり、輸送手段や情報通信技術などが発達する中で、国境を越える人、モノ、サービス、資本、情報等の移動がますます活発になっている。
人流・物流の増大
人の動きについて見ると、訪日外客数は長期的に増加傾向にあり、直近では800万人を超える水準となっている(図表19)。その中で、米国の占める割合が減少する一方、中国の占める割合が1998年は6.5%、2012年は17.1%となり、倍以上に増加している(図表20)。
   図表19 訪日外客数の推移
   図表20 地域別の訪日外客数の割合の推移
また、我が国から海外への旅行者数の推移を見ても、1964年にそれまで業務渡航や留学のみに限られてきた海外旅行が観光目的でも自由化されて以来、日本人の出国者数は増加を続けている。特に、1980年代後半から1990年代にかけての増加が著しく、1990年には出国者数が初めて1,000万人を超えた。その後、2001年は米国同時多発テロ等の影響により、2003年はSARSやイラク戦争の影響等により一時的な落ち込みがあったものの、現在までおおむね1,500万人を超える水準で推移している(図表21)。
   図表21 日本人の出国者数の推移
また、我が国から海外の大学等に入学した日本人の数は、1990年代から2000年代に大きく増加しており、ここ数年は留学者数の落ち込みが見られるものの、現在も若者(18〜29歳)人口1,000人当たり3.7人が留学するなど、高い水準にある(図表22)。
   図表22 日本から海外への留学者数の推移
モノの動きとして、諸外国との貿易の状況を見てみると、日本の貿易は、1960年当時は、輸出が約1兆5,000億円、輸入も約1兆6,000億円程度の規模で推移していたが、1973年からは輸出入とも10兆円の大台に乗り、1980年には輸出入ともに約30兆円と拡大した。2012年には輸出が約64兆円、輸入が約71兆円となっている(図表23)。貿易相手別に見ると、これまで長期にわたり米国が我が国の第1の貿易相手となっていたが、2002年以降は中国が米国を抜いて我が国の第1の貿易相手国となっている(図表24)。
   図表23 我が国の輸出入総額の推移
   図表24 1995年〜2011年の相手国別貿易額の推移
国際的な分業体制の構築
資本の動きとしては、国際競争が激化する中、製造業では海外に生産拠点を置くことにより、グローバルな規模で最適な分業体制をとろうとする動きが進んでいる。製造業の海外生産比率(海外現地法人売上高を海外現地法人売上高と国内法人売上高の和で除したもの)は増加基調にあり、2011年度は18.0%となっている(図表25)。
   図表25 海外生産比率の推移(製造業) 
 
 
 

 

日本の人口
日本の人口統計は、総務省統計局がまとめる国勢調査(国調)または各都道府県による人口統計値を表したもの。日本の総人口は、2020年10月1日の時点で125,708,382人である。これは世界11位に相当し、1億人以上の人口を抱える14か国のうちの一つである。
日本の総人口は2008年に1億2,808万人でピークを迎え、この年以降人口減少社会に突入した。これは工業化に伴う出生率の低下と、移民流入の少なさが大きく影響している。2020年時点で合計特殊出生率は1.34、普通出生率は6.8となっており、共に世界の中で低位にある。国民全体に占める外国人の割合は、年々増加傾向にあるものの2.5%(2019年)にとどまっている。出生率の低さと移民流入の少なさは高齢化にも大きく影響しており、世界トップクラスの平均寿命の長さも相まって、日本は2021年時点でOECD諸国の中で最も高齢化率が高い(29.0%)。

 

●人口の推移
日本の人口統計は、明治5年(1872年)に壬申戸籍を編纂した際、総人口は3311万人と集計されたが、役所の戸籍簿の集計で直接の人口調査ではない。また1919年(大正8年)までの人口統計は、壬申戸籍に対する増減をもとに算出したものであるため正確性に疑問があり、1920年(大正9年)の第1回国勢調査で初めて直接調査が行われた。
明治の初めまでは、約3,000万人程度で推移していた。貧しい農民たちが間引き(子殺し)を行っていたことが人口抑制の原因とみられる。
開国後に日本の人口の急増が始まった。1872年(明治5年)の段階では3480万人だった日本の人口は1912年(明治45年)に5000万人を突破し、1936年(昭和11年)には6925万人に達していた。これは間引きが罰せられるようになったことで大家族の家庭が多くなったのに加え、明治以降の保健・医療など公衆衛生水準の向上、農業生産力の増大、工業化による経済発展に伴う国民の所得水準の向上と生活の安定などの要因により発生した人口爆発だった。
日本の出生率低下は戦前から始まっていたが、戦時中の出産先送り現象のため終戦直後の1940年代後半にはベビーブームが起き、出生数は年間約270万人に達した。ちなみに、1947年(昭和22年)の合計特殊出生率は4.54。1948年(昭和23年)に人口8000万人だったのが、1956年(昭和31年)には9000万人、1967年(昭和42年)に1億人を超えた。当時において日本は中国、インド、アメリカ、ソ連、インドネシア、パキスタンに次ぐ第7位の人口を有する国となった。100年の間に総人口が3倍に増えた計算となる。その後も人口増加を続け、2008年に1億2808万人でピークを迎えている。
しかし、この間の出生数でみると、1950年代には希望子供数が減少し、1948年(昭和23年)に合法化された人工妊娠中絶の急速な普及をバネに出生数は減少し、1961年(昭和36年)には、出生数159万人(合計特殊出生率1.96)にまで減少した。
その後、出生数が若干回復傾向を示し、1960年代から1970年代前半にかけて高度成長を背景に出生率は2.13前後で安定する。このとき、合計特殊出生率はほぼ横ばいであったが、出生数は増加し、200万人以上となったため第二次ベビーブームと呼ばれた。
1973年(昭和48年)がピーク(出生数約209万人、合計特殊出生率 2.14)で。1974年(昭和49年)には人口問題研究会が主催し、厚生省(現:厚生労働省)と外務省が後援して世界人口会議に先駆けた第1回日本人口会議では、人口爆発により発生する問題への懸念から「子どもは2人まで」という趣旨の大会宣言を採択するなど人口抑制政策を進めた。国際連合総会では1974年(昭和49年)を「世界人口年」とする決議をし、ルーマニアのブカレストで開催された世界人口会議では主として発展途上国の開発との関連において人口対策を論議し、先進国、発展途上国共に人口増加の抑制目標を定めて人口対策を実施する旨の「世界人口行動計画」を満場一致で採択した。第一次オイルショック後の1975年(昭和50年)には出生率が2を下回り、出生数は200万人を割り込んだ。以降、人口置換水準を回復せず、少子化状態となった。
その後さらに出生率減少傾向が進み、1987年(昭和62年)には一年間の出生数が丙午のため出産抑制が生じた1966年(昭和41年)の出生数約138万人を初めて割り込み、出生数は約135万人であった。1989年(昭和64年・平成元年)の人口動態統計では合計特殊出生率が1.57となり、1966年(昭和41年)の1.58をも下回ったため「1.57ショック」として社会的関心を集めた。同年、民間調査機関の未来予測研究所は『出生数異常低下の影響と対策』と題する研究報告で2000年(平成12年)の出生数が110万人台に半減すると予想し日本経済が破局的事態に陥ると警告した。一方、厚生省(現・厚生労働省)の将来人口推計は出生率が回復するという予測を出し続けた。1992年度(平成4年度)の国民生活白書で「少子化」という言葉が使われ、一般に広まった。さらに、1995年(平成7年)に生産年齢人口(15-64歳)が最高値(8,717万人)、1998年(平成10年)に労働力人口が最高値(6,793万人)を迎え、1999年(平成11年)以降、減少過程に入った。
その後も出生率の減少傾向は続き、2005年(平成17年)には、出生数が約106万人、合計特殊出生率は1.26と1947年(昭和22年)以降の統計史上過去最低となり、総人口の減少も始まった。2005年(平成17年)には同年の労働力人口は6,650万人、ピークは1998年(平成10年)の6,793万人であったが、少子化が続いた場合、2030年には06年と比較して1,070万人の労働力が減少すると予想された。
その後、若干の回復傾向を示し、2010年(平成22年)には出生数が約107万人、合計特殊出生率が1.39となった。なお、2011年(平成23年)の概数値は、出生数が約105万人、合計特殊出生率が1.39であった。
しかし15歳から49歳までの女性の数が減少しているため合計特殊出生率が上昇しても出生数はあまり増加せず、2005年(平成17年)に出生数が110万人を切って以降、出生数は110万人を切り続けていたが2016年(平成28年)の出生数は推計で98万人で、1899年(明治32年)の統計開始以降初めて、100万人を割り込み2017年(平成29年)の出生数が94万人、2018年(平成30年)の出生数が91万人、2019年(令和元年)の出生数が86万人と100万人の割り込みが続いている。

 

●出生数と死亡数
厚生労働省の人口動態統計によると、1980年(昭和55年)以降20代の出生率は低下し、30代の出生率は上昇しているが、全体の出生率は下がり続けている。また、1980年(昭和55年)ごろまでは、20代後半で産む割合が5割以上であったが、それ以降減少し、2003年(平成15年)には30代前半よりも低くなり、2009年(平成21年)には、約3割にまで減少している。さらに、30代後半で産む割合が増加傾向であり、2009年(平成21年)には約2割にまで上昇している。1980年(昭和55年)以降、未婚率、平均初婚年齢、初産時平均年齢は上昇している。1972年(昭和47年)から2002年(平成14年)までの調査では、完結出生児数は2.2人前後と安定した水準を維持しており、合計特殊出生率は低下しても、結婚した女性に限れば産む子供の平均の数は変わらなかったが、2005年(平成17年)の調査から出生児数の低下がみられ、2015年(平成27年)の完結出生児数は1.94人まで低下した。
2002年(平成14年)の第12回出生動向基本調査によると、結婚持続期間が0-4年の夫婦の平均理想子供数と平均予定子供数は上の世代より減少しており、少子化の加速が懸念される。
2017年の人口推計では、沖縄県以外のすべての都道府県で死亡者数が出生数を上回り、自然増減率がマイナスに転落した。2018年の推計では、沖縄県は自然増減、社会増減ともプラス、南関東4県、愛知県、福岡県は自然減少を社会増加で補ってプラスを維持しているが、大阪府や島根県など8府県は社会増加よりも自然減少の方が大きい。それ以外の32道県は自然増減、社会増減ともマイナスとなっている。
日本の合計特殊出生率​
1971年(昭和46年)-1974年(昭和49年)のベビーブームを含め、ほぼ2.1台で推移していたが、1975年(昭和50年)に2.00を下回ってから低下傾向となり、2005年(平成17年)には1.26にまで落ち込んだ。その後、2006年(平成18年)には1.32と6年ぶりに上昇し、2017年(平成29年)現在では1.43となっている。
ただし、厚生労働省は、2000年代後半に30代後半であった人口の多い団塊ジュニア世代の駆け込み出産や、景気回復などを上昇の要因に挙げており、景気の悪化による影響に注意したいと述べている。
地域特性と少子化​
厚生労働省の1998年(平成10年)から2002年(平成14年)までの人口動態統計によると、市区町村別の合計特殊出生率は東京都渋谷区が最低の 0.75 であり、最高は沖縄県多良間村の 3.14 であった。少子化傾向は都市部に顕著で、2004年(平成16年)7月の「平成15年人口動態統計(概数)」によれば、最も合計特殊出生率が低い東京都は全国で初めて 1.00 を下回った(発表された数字は 0.9987 で、切り上げると1.00となる)。一方、出生率の上位10町村はいずれも島(島嶼部)であった。
首都圏(1都3県、東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県)については、20-39歳の女性の約3割が集中しているにもかかわらず、出生率は低く次の世代の再生産に失敗している。そのため、「都市圏の出生率が低くても地方から人を集めればいいという安易な発想は、日本全体の少子化を加速させ、経済を縮小させる。」との指摘がある。
2005年以降は、都市部で低い傾向に加え、西日本を中心に合計特殊出生率が大幅に改善したことを受けて、西日本で高く東日本で低い傾向が新たに表れている。2018年の都道府県別合計特殊出生率では、上位10県のうち6県を九州沖縄地方が占め、残りも島根、鳥取、香川と西日本に集中した。これらを受けて、九州各県は人口予測を上方修正している。
一方で、出生率下位の都道府県を見ると、北海道がワースト2位、宮城県がワースト4位に入ったほか、都市部とは言えない秋田県がワースト6位の1.33で、埼玉県や千葉県、大阪府を下回り、神奈川県並の水準となった。他の東北地方も総じて低水準となっている。西日本で特に高い水準にある島しょ部の出生率も、北日本では低くなっている。このような傾向がみられる要因として、西日本の方が東日本よりも女性の社会進出率や女性の幸福度が高いことなどが挙げられている、が明確なことはわかっていない。
2018年の都道府県別合計特殊出生率が最も高かったのは沖縄県で1.89、次いで島根県1.74であり、上位県でも人口置換水準を下回っている。一方、最下位の東京都が1.20、次いで北海道1.27であった。
なお、戦前の1925年の統計では、合計特殊出生率上位5県が東北北海道で占められ、沖縄県が全国最低水準、その他下位も三府を除けば、兵庫県、岡山県、福岡県、高知県、山口県であり、現在とは逆の傾向であった。

 

●年齢別人口
年齢3区分別の人口は、年少人口(0-14歳)は1502万8千人で前年に比べ18万5千人の減少、生産年齢人口(15-64歳)は7449万2千人で57万9千人の減少となっているのに対し、老年人口(65歳以上)は3619万1千人で30万6千人の増加となった。
総人口に占める割合は、年少人口が12.0%、生産年齢人口が59.3%、老年人口が28.8%となり、前年に比べ、年少人口が1.22ポイント、生産年齢人口が0.77ポイントそれぞれ低下し、老年人口が0.85ポイント上昇している。
総人口に占める割合の推移は、年少人口は、1975年(昭和50年)(24.3%)から低下を続け、2020年(令和2年)(12.0%)は過去最低となっている。生産年齢人口は、1982年(昭和57年)(67.5%)から上昇を続けていたが、1992年(平成4年)(69.8%)をピークに低下している。一方、老年人口は、1950年(昭和25年)(4.9%)以降上昇が続いており、2020年(令和2年)(28.8%)は過去最高となっている。

 

●平均寿命
最新の生命表である「平成27(2015)年完全生命表」によると、平均寿命(0歳における平均余命)は、男性:80.75年、女性:86.99年で、前回2010(平成22)年の完全生命表と比較して、男性は1.20年、女性は0.69年上回った。
平均寿命の年次推移をみると、第二次世界大戦前は50年を下回っていたが、戦後初の1947年(昭和22年)の第8回生命表の平均寿命は男性:50.06年、女性:53.96年と50年を上回った。その後、約60年経過し、男は28.50年、女は31.56年延びている。65歳における平均余命は、男性:19.41年、女性:24.24年となっており、平均余命の年次推移をみると各年齢とも回を追うごとに延びている。

 

●将来の人口推計
日本の総人口は今後長期的に減少していくが高齢者人口は増加を続け、2042年に3878万人でピークを迎え、その後は減少に転じると推計されている。  
 
 
 

 

総人口1億2622万人、5年前より86万人減 国勢調査速報 2021/6 
総務省は2021年6月25日、2020年(令和2年)国勢調査人口速報集計結果を公表した。日本の総人口は1億2,622万7,000人。5年前の2015年と比べると、86万8,000人減少した。もっとも人口が多いのは東京都で、1都3県の東京圏が全体の約3割を占めている。
国勢調査は、日本に住んでいるすべての人と世帯を対象とする国のもっとも重要な統計調査で、5年ごとに実施される。人口速報集計とは、市区町村から提出された要計表をもとに人口と世帯数を速報値として集計したもの。
2020年国勢調査人口速報集計によると、2020年10月1日現在の日本の人口は1億2,622万7,000人。2015年の前回調査と比較すると、86万8,000人(0.7%)減少している。
5年ごとの人口増減率の推移をみると、1945年〜1950年はいわゆる第1次ベビーブーム等により15.3%と高い増加率となったが、その後は出生率の低下にともない増加率が縮小。第2次ベビーブームにより1970〜1975年は増加幅が拡大したもの、1975〜1980年には増加幅が再び縮小に転じた。2010〜2015年は0.8%減と、1920年の調査開始以来初めての人口減少となり、2015〜2020年も0.7%減と人口減少傾向が続いている。
国際連合の推計によると、2020年の世界の人口は77億9,500万人。各国の人口は、中国14億3,900万人、インド13億8,000万人、アメリカ3億3,100万人と続いており、日本の人口は世界11番目となっている。
都道府県の人口をみると、もっとも多いのは東京都の1,406万5,000人。東京都、神奈川県、埼玉県等の9都府県で人口が増加している。増加率がもっとも高いのは東京都4.1%で、沖縄県2.4%、神奈川県1.3%と続いた。
東京圏(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県)の人口は3,693万9,000人と、全国の29.3%にのぼる。人口上位8都道府県(東京都、神奈川県、大阪府、愛知県、埼玉県、千葉県、兵庫県、北海道)の人口は6,402万6,000人で、全国の50.7%を占めている。
市町村の人口をみると、人口が減少したのは1,416市町村と全体の82.4%。特に5%以上人口が減少した市町村は50.9%と半数を超えている。人口増加数がもっとも大きいのは、23区をまとめて1市として扱った東京都特別区部47万2,000人、ついで福岡県福岡市7万5,000人。人口減少数がもっとも大きいのは福岡県北九州市2万2,000人、ついで新潟県新潟市2万人であった。
一方、世帯数は2015年に比べて227万1,000世帯(4.2%)増加し、5,572万世帯。都道府県別では、41都道府県で世帯数が増えており、増加率は沖縄県の9.3%がもっとも高かった。1世帯あたりの人員は2.27人。近年、減少傾向が続いており、すべての都道府県で2015年より減少した。  
 
 
 

 

「人口減少止まらぬ日本」に残された2つの選択肢 2021/6 
6月4日、厚生労働省が発表した2020年の人口動態統計によると、合計特殊出生率は1.34で5年連続の低下、出生数は84万832人と過去最低を記録しました。死亡数は137万2648人で、差引き53万1816人の人口減。今後も毎年、「鳥取県1つ分」に相当する人口減少が続きます。日本だけでなくいま世界の多くの国で、合計特殊出生率が低下し、出生数が減り、人口減少が開始あるいは加速しています。今後も合計特殊出生率が人口置換水準の2.07を下回って推移すれば、最終的に多くの国家が消滅します。英オックスフォード人口問題研究所が2006年に「人口減少によって消滅する最初の国は韓国」と発表し、波紋を呼びました。消滅の時期を「22世紀」と予想していますが、韓国ではこのところ出生率が急低下しており、この時期がかなり早まりそうです。今回は、最近の人口動態を確認した上で、人口減少によって地球上で最初に消滅する国はどこか、国家消滅を避けるにはどういう対策が必要か、という大問題について考えてみましょう。
中国が「2人っ子政策」を緩和した理由
世界各国でコロナが収束に向かい、いま人口問題が脚光を浴びています。中でも最も大きな注目を集めているのが、世界最大の人口を抱える中国です。5月に発表された国勢調査によると、中国の昨年の出生数は約1200万人で、2016年の1800万人から大幅に減少し、1960年代以降で最も少なくなりました。中国社会科学院は「2027年から総人口が減少に転じる」という予測を2019年に公表しましたが、今回の調査結果を受けて中国共産党系メディアの環球時報は、「2022年にも人口減少が始まる」という人口統計学者の分析を伝えました。2022年と言えば来年、ピークは今年というわけです。中国政府は5月31日、産児制限を緩和し、夫婦1組に3人目の出産を容認する方針を発表しました。少子高齢化が進む中国では、1979年から続いた「1人っ子政策」を2016年にを廃止し、2人目を容認しました。しかし、出生数の増加につながらず、わずか5年で方針転換したわけです。人口減少に対する政府の強い危機感と焦りがうかがえます。アメリカは、2019年7月から2020年7月の人口増加率は0.35%と、統計が存在するこの120年間で最も低い数字にとどまりました。アメリカは、主要国では唯一今後も人口増加が続くとされていますが、出生率の急低下とトランプ政権下の移民制限の影響で、人口減少に転じるという見方が増えています。このほか、ベトナムなど従来は人口増加が国家的な大問題だった発展途上国でも出生率が急低下し、人口減少が懸念されるようになっています。
コロナ収束しても「人口減少」は止まらない
こうした人口減少を伝える最近の報道では、決まってコロナの影響が指摘されます。たしかに、アメリカではコロナでこれまで約60万人の死亡者が出ていますし、大半の国でコロナによる経済不安や接触制限が出生数に影響したことは間違いありません。では、コロナが収束し国民生活が正常化したら、人口減少が緩やかなペースに戻るのでしょうか。それはありえないでしょう。なぜなら、コロナが猛威を振るうようになった昨年よりも以前から、多くの国で少子化・人口減少が加速していたからです。中でも加速が顕著なのが、韓国です。韓国の合計特殊出生率は元々1.2前後と低かったのですが、文在寅大統領が就任した2017年から急低下し、2018年はついに人類史上初めて1.0を下回る0.98を記録しました。2019年には0.92、2020年は0.84と史上最低をさらに大幅に更新しました(2020年の第4四半期は0.75)。そして韓国の総人口は、昨年から減少に転じました。政府や専門家の想定をはるかに上回るスピードで少子化・人口減少が進行し、制御不能になっています。韓国政府は5年おきに長期の人口推計を行っており、2016年の推計では、出生率と寿命を低く見積もる低位シナリオ(悲観シナリオ)で総人口のピークを2023年と予想していました。しかし、そのわずか3年後に悲観シナリオの想定より4年も前倒しでピークを迎えたわけです。生産・消費といった経済活動は、コロナが収束すればいずれ元の水準に戻ります。しかし、人口はいったん合計特殊出生率が低下すると、子どもを産む女性の数が減ってしまうので、少子化が加速し、総人口が自然に元の水準に戻ることはありません。「コロナのせい」「コロナだから仕方ない」と考えるのは、あまりにも楽観的・近視眼的です。
韓国は22世紀を迎えられるのか?
定説では、人口減少で国家を維持できなくなり地球上から最初に消滅するのは韓国だと言われています。冒頭に紹介したオックスフォード人口問題研究所だけでなく、国連人口部やサムスン経済研究所など韓国内外の専門機関が同様の分析を公表しています。これらの推計は消滅時期を「22世紀」としていますが、近年の合計特殊出生率の急低下を織り込んでいません。そのため最近「韓国は22世紀を迎えられるのか?」という超悲観論まで出始めています。この異常事態に対して日本では、「韓国の経済政策・人口政策は完全な失敗だった」「文政権は反日とかやってる場合じゃないだろ」といった突き放した論調をよく見かけます。しかし、その論調を真っ向から否定する可能性もあります。なぜなら、韓国には南北統一という切り札があるからです。北朝鮮の疲弊しきった経済、金正恩氏の不健康そうな姿を見ると、これから30年以上、北朝鮮が正常に存続できるかどうかは怪しいもの。早ければ数年後、遅くとも2050年までには韓国が北朝鮮を併合する未来もありえます。南北統一が実現すれば、単純計算で2500万人近くの人口が増加。南北統一は政治的・経済的には大きな苦難を伴いますが、こと人口問題については韓国にとって強力なアドバンテージになるわけです。韓国以外で合計特殊出生率が日本の1.34よりも低いのは、台湾1.05・香港1.05・シンガポール1.14・スペイン1.24・イタリア1.27などです(日本以外は2019年のデータ)。ただ、現状では台湾・香港は国家ではありませんし、シンガポール・スペイン・イタリアは国外から移民を受け入れています。抜本的な解決策を持たない日本が、このままだと韓国よりも一足早く地球上から消滅する可能性だって否定できません。
日本の人口減少を防ぐ「2つのタブー」への挑戦
政府は「1.57ショック」に見舞われた1990年から30年以上にわたって子育て世代の支援を中心にした少子化対策を進めてきました。しかし、成果は上がらず、すでに手遅れ状態になってしまいました。今後は従来の少子化対策にこだわらず、タブーに挑戦する必要があります。1つめの挑戦は、人口の地方分散です。合計特殊出生率は東京都1.15に対して沖縄県1.82で、少子化問題はかなりの程度、都市問題です。遷都・分都などで地方に人を誘導する方法が検討されます。ただ、全都道府県で合計特殊出生率が2を下回っている状況で、地方分散は根本的な問題解決にはなりません。そこで必要なもう1つの挑戦は、移民の受け入れです。いま日本だけでなく多くの国で移民は厄介者ですが、近い将来、欧州諸国が移民を積極的に受け入れる姿勢に転じ、移民の大争奪戦が始まると予想されています。早く方針を転換しないと、金を積んでも移民が日本に来てもらえないという事態になりかねません。もちろん、これらは大きな痛みを伴う改革であり、国民の理解・合意が欠かせません。そのためにまずは、少子化・人口減少を「コロナのせい」の一言で終わらせず、問題を直視することから始めるべきなのです。 
 
 
 

 

国内人口推移 2030年の「働く」ことへの影響 
2030年、実に人口の1/3近くが65歳以上の高齢者になる
2030年の「働く」を考えるにあたって、まず初めに、日本国内の人口推移予測が労働環境にどのように影響するかを考えてみたい。人口推移は、中長期の未来を考える際、最も予測が立てやすく、予測幅の小さい事象の1つである。しかも、経済環境や労働環境への影響は大きい。2030年の「働く」を考える上で欠かせない要素である。
国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、2010年には約1億2800万人だった日本の人口は、2030年には1億1600万人あまりに減少する(出生中位・死亡中位の場合/平成24年1月推計)。
また、年齢ごとの人口数を年齢順に表した人口ピラミッドは、上が大きく下が小い「逆三角形型」への傾向が絶えず強まる(図1)。また、年齢区分別の人口を見ると、減るのは64歳までで、65歳以上の高齢者は人口減少にもかかわらずしばらく増え続ける(図2)。
このような日本の人口構成の変化スピードは、世界屈指である。人口学では、65歳以上の高齢者率が人口全体の7%を超えると「高齢化社会」、14%超を「高齢社会」と呼ぶが、日本が高齢化社会になったのは1970年、高齢社会を迎えたのは1994年だ。たった24年しかかかっていない。
ドイツは40年、イギリスは46年、アメリカは72年、フランスは126年かかっている。韓国(18年)や中国(25年)は日本より速いかあるいは同程度だが、どちらも2010年の時点では14%を超えておらず、問題は表面化していない。先進国のほとんどは高齢者が増える傾向にあるが、その先頭を突き進んでいるのが日本なのである。2010年、日本の高齢者率は20%を超えており、早くも2024年には30%の大台に乗ると予測されている。(以上、図3)
問題は、年々、老人を支える働き手世代の割合が減っていくこと
このような急速な人口減少と高齢者増加の大きな要因は、第1次・第2次ベビーブームと、第1次ベビーブームの後に行われた大規模な産児制限にある。すなわち、人口の急峻な「山」のすぐ下に「谷」が来て、また山が来て谷が来る、という日本特有の人口構造によるところが大きい(図1参照)。なお、高齢化が進む国では出生率もおおむね下がる傾向にあるし、「昭和の初めからすでに80年以上にわたり、一貫して、かつほぼ同じ速度で低下してきた」出生率が、今後大きく改善するとは考えにくい。それも踏まえると、日本の人口が減り、高齢者率が上がり続ける状況は避けられないと思われる。
人口推移のうち、経済・労働環境を考える上で特に問題になるのは、「生産年齢人口(15〜64歳の人口)」である。2010年には8000万人以上の生産年齢人口は、2030年に6700万人ほどになり、「生産年齢人口率」は63.8%(2010年)から58.1%(2030年)に下がる。つまり、人口の減少以上に、生産年齢人口が大幅に減るのである。これに伴い、老年人口指数は36.1(2010年)から54.4(2030年)に上がる。(以上、図4)この指数は、老年人口を生産年齢人口で割って100をかけたものである。2010年には生産労働人口約2.8人で高齢者1人を扶養する計算になるが、2030年には約1.8人で1人を扶養することになることを意味している。つまり、年々、高齢者を支える働き手世代の割合が減っていくのだ。
生産年齢人口が減少すれば、GDPも低下する可能性が高い
当然ながら、15歳から64歳の働き手の減少は経済規模や労働市場の縮小に直結する。その影響を、具体的にGDP(国内総生産)で考えてみたい。
GDPとは国内で1年間に生産されたモノやサービスの付加価値の合計数のことで、大雑把には「労働力人口×労働時間×労働生産性」と考えることができる。つまり、労働者が増えるか、労働時間が増えるか、労働生産性が増えればGDPは上がる。逆に減れば、GDPは減少する。
これまでの予測から生産年齢人口が大幅に減るのは確実であり、対策がないままでは、労働力人口も減ると考えるのが自然である。さらに言えば、生産年齢人口率が減るのだから、人口減の割合以上にGDPが下がってもおかしくない状況だ。また、労働時間については世界的に減少しており、日本も減っているという資料もあれば、1986年と2006年では「日本人の有業者1人当たりの週当たり平均労働時間は統計的にみて有意に異ならない」という報告もあり、一概には判断できないが、増えるという見方は少ないようだ。
そうすると、GDPを現状のまま維持するためには、労働生産性の上昇が欠かせないだろう。しかし、日本の名目労働生産性は1995年度からほとんど変わっておらず、2008年度以降はむしろ減少している(図5)。この資料を見る限り、今後も労働生産性が大幅に上昇するとはなかなか考えにくい。
以上を鑑みると、今後の日本はGDPの現状維持すら難しい状況で、経済成長が続くとは考えにくい。その大きな原因は、生産年齢人口の減少にある。
労働力人口の減少を和らげるには、女性や高齢者の活用などが必要
このような労働力人口の減少に対する方策は、すでにさまざまなところで議論されている。最も盛んに議論されているのは、少子化対策、出産・育児で職場を離れる30〜40代女性の活用、高齢者の活用、そして外国からの移民の受け入れである。
まず少子化対策は、総人口を増やすために今後間違いなく必要だが、出産適齢期の女性が減っていくことが予想されるなか(20〜44歳女性人口 2010年/2020万人→2030年/1457万人)、さまざまな施策を講じたとしても、今後数十年で子どもが急速に増えるとは考えにくい。
女性の活用に関しては内閣府でもすでに議論され、対策も行われてきている。その結果、図6のように女性の労働力率は高まる傾向にある。たとえば、30〜34歳の女性では、労働力率は平成7年(1995年)の53.7%から平成24年(2012年)は68.6%に上昇。仕事と家庭の両立支援施策によって、この率をさらに高めることもできるだろうが、ここから先、女性活用が劇的に労働力人口を増やすと考えるのは難しい。
今後の施策として有力なのは、高齢者の活用である。高齢者そのものの定義を変えてしまい、65歳ではなく70歳、あるいはそれ以上に引き上げることで、労働力人口を増やすことができるだろう。またこの施策は、労働力人口対策だけでなく、年金支給額を減らし、さらに仕事による生きがいづくりから医療・介護費を減らす効果まで見込める。平均寿命が延び続けている現代社会では、高齢者の上限が上がるのも決して不自然ではないはずだ。実際、すでに団塊の世代の多くが高齢者を70歳以上とイメージしており、彼らのうち50%を超える人々が65歳以降も働きたいと考えていることを踏まえると、十分に現実的な施策だと思われる。
高齢者の再定義は、国の医療費や年金給付の削減にも波及する問題であるので、簡単には行えない。しかし、人口推移や国の財政状況などを踏まえれば、いずれは避けられなくなるのではないだろうか。またこのことは、2013年4月に始まった厚生年金の支給開始年齢の段階的引き上げが、中長期的に見て、さらに延びる可能性も示唆している。
外国からの移民受け入れについては、他の先進国がすでに行っている施策だが、賃金の低下、失業の問題、治安の問題などがあり、すぐに答えが出せるテーマではない。 
 
 
 

 

人口問題雑話
●少子高齢化はどれくらい進むの? 
日本の人口減は2011年に始まったとされ、今後も長期にわたり人口の減少が見込まれています。また、日本においては少子高齢化が顕著で、全人口に占める15歳未満人口の割合は12.5%(2015年)から10.7%(2045年)に減少する一方で、65歳以上人口の割合は26.6%(2015年)から36.8%(2045年)に大きく増加します。
日本の社会保障制度は現役世代が高齢者を支える面もあります。例えば、公的年金制度では、自分が負担した保険料を積み立てて自分が受け取るのではなく、現役世代が負担した保険料が年金受給世代の年金として活用される世代間扶養の仕組みです。2045年には1人の高齢者を1.4人の生産年齢人口(15-64歳)で支える時代の到来が見込まれます。社会保障制度以外に目を向けても、老後の過ごし方や老後を支える家族、地域、社会のあり方などが今後変化していく可能性があります。
1人の高齢者を支えるための生産年齢人口(15-64歳)
   2015年 2.3 人
   2030年 1.9 人
   2045年 1.4 人
日本における年代別人口構成には特徴があり、全体では減少する方向ですが、65歳以上人口は増加の一途をたどり、2015年を100とした場合に2045年には約116%と増加します。一方で少子化に伴い15歳未満人口は2015年対比で約71%程度へ落ち込むと予想されています。 
 

 

●総数3640万人・総人口比は29.1%にまで増加した日本のお年寄り 
総務省統計局が明日の「敬老の日」に合わせて発表した報告書「統計トピックスNo.129 統計からみた我が国の高齢者−「敬老の日」にちなんで−」によると、最新の統計値として日本の高齢者(65歳以上)数は3640万人(2021年9月15日現在)となった。これは総人口比の29.1%にあたり、前年の3618万人・28.7%からさらに増加し、数・総人口比ともに過去最高の値を示している。
今回の公開値は高齢者数・総人口比は人口推計から取得(5年区切りの国勢調査実施年の値は国勢調査の結果を反映)、その他各種値は総務省統計局収録の各種データを用いて精査分析したもの。それによれば2021年9月15日時点で高齢者人口は3640万人。単純対象比較ができる1年前の2020年分・3618万人から22万人も増加している。
高齢者の増加ピークとなる「団塊の世代」(1947年〜1949年生まれ、第一次ベビーブーム期)のうち最後の年となる1949年(昭和24年)生まれの人が高齢者層に仲間入りした2014年では同一基準で前年比110万人も増加したが、それと比べると前年比の増加数は少なくなっている。
2013年では初めて、総人口に占める高齢者の割合が25.0%を超え、「4人に1人以上が高齢者の時代」が到来したが、今年2021年はその状態を継続しただけでなく、比率は前年の2020年分にあたる28.7%からさらに上乗せ、29.1%に達している。例えば100人の人口の村があれば、そのうち約29人がお年寄りである。さらにいえば75歳以上ならば15人(15.0%)、80歳以上ならば約10人(9.6%)が該当する。
今レポートでは他にも各種統計結果から、高齢者の動向が多彩な切り口で語られている。概要をまとめると次の通りとなる。
・総人口は51万人減少したが高齢者は22万人増加した。
・女性の高齢者人口は2057万人で、男性の1583万人より474万人も多い。
・女性100人に対する男性の数は15歳未満では105.0人、15〜64歳では102.6人と男性が多いが、高齢者では76.9人となり女性の方が多い。
・70歳以上人口は2852万人で総人口の22.8%。
・高齢者の就業率は男性34.2%、女性18.0%(2020年時点、以下同)で男女とも前年比プラス。就業者数は男女合わせて906万人となり、比較可能な1968年以降では過去最多人数。15歳以上の就業者総数に占める高齢者の就業者割合は13.6%、こちらも比較可能な1968年以降では過去最高比率。
・役員を除いた高齢雇用者(高齢者で雇用されている者)の非正規率は76.5%(うちパート・アルバイトが52.5%)。非正規雇用者の現在の雇用形態についた主な理由は「自分の都合のよい時間に働きたいから」が最多で男性は30.4%、女性は38.6%。正規雇用を望んでいるが該当する仕事が無いからとする人は男性で11.0%、女性で5.1%。
・日本の高齢者人口の割合は、欧米諸国などと比べてももっとも高い。日本の29.1%に対し、第2位の比率のイタリアでも23.6%、ポルトガルで23.1%、フィンランドで23.0%。
・主要国では日本の高齢者就業率は25.1%で、韓国の34.1%に次いで高い。アメリカ合衆国は18.0%、カナダは12.8%、イギリス10.5%、ドイツ7.4%などが続く。
「団塊の世代」の高齢者層入りは2014年までのため、高齢者人口、総人口に占める高齢者の比率の加速的増加は2014年で終わりを告げている。しかしそれでもなお、高齢者の総人口比率が上昇していることに違いはない。社会福祉をはじめとした各種の国や地方自治体の行政施策に関し、現状を正しく認識し、将来を見据えた上でのかじ取りが求められよう。 
 

 

●半世紀で首都圏では高齢者数が8割増・地域別高齢者人口推移 2013/8 
国土交通省では2010年9月27日付で国土審議会・政策部会の第一回長期展望委員会を開催、以降定期的に同会を開催し、日本の中長期的な動向推測やその推測に対する施策検討を、同省の政策視点を中心に行っている(現時点で第三回までの開催が確認できる)。今回はその各会で提示された資料を基に、今後の日本における高齢者(65歳以上)の人口推移推計を確認していく。
高齢者人口は半世紀で2600万人から3800万人に増加
同会内で配布された資料においては、2005年までは確定値(国勢調査によるもの)、それ以降は同省推計値による、2050年までの日本の人口推移の他に、高齢者の人口推移が掲載されている。まずはそれを元に、確定最新値の2005年分、そして推測値のもっとも未来の値を示した2050年分を併記した、全国及び各地域圏の人口を併記したグラフを創生する。約半世紀でどの程度の増加が生じるのかが分かる。
2050年における日本全土の高齢者人口は3764万人。先行記事で記した通り、同年の人口推計は9515万人だから、約4割が高齢者という試算になる。半世紀の経過でも高齢者数の順位に変化は無く、首都圏1348万人、近畿圏607万人、中部圏502万人と続く。このグラフでも特に首都圏の増加ぶりが目に留まるが、他地域も合わせ増加「率」はやや把握しづらい。
そこで増加率を算出したのが次のグラフ。全体では46.6%。つまり45年で高齢者人口は1.5倍ほどに増加するという試算になる。近所のおじいちゃん・おばあちゃんが2人だったのが3人に増える、と表現すれば分かりやすいだろうか。
沖縄県がずば抜けて増加率が高く、ほぼ倍になっている。先の人口そのものの記事でも唯一増加を示した地域(圏)だが、その増加分の多くは高齢者であったことがあらためて確認できる。
また沖縄県以外でも首都圏や中部圏、近畿圏など、人口減少率が緩やかな地域における高齢者人口増加率が大きく、「大都市圏は高齢者人口増加率が大きい」「地方圏では小さい(減少しているわけではない)」傾向があるのが分かる。地方では「高齢化」の進行と共に「人口そのものの減少」も並行して起きている一方、都市部では「人口そのものの減少よりも高齢者の増加の動きが著しい」傾向があり、単に「人口に関する都市部と地方の二極化」と表現するのは難しい、多ベクトルの動きが生じているのが分かる。
この増加推移を折れ線グラフで記述したのが次のグラフ。対象エリアが多く、煩雑なものとなったので、合わせて全国・東京圏・名古屋圏・大阪圏に限定したものも併記する。
上記の棒グラフからも推測できるように、沖縄県は一様に急上昇のカーブを継続し、増加を続けている。一方でその他地域は首都圏の大きな上昇ぶりが目立つが、いずれも2040年前後をピークとして、それ以降は横ばい、ゆるやかな低下を示すようになる。地方圏では2020年あたりから横ばい・さらに一部地域では減少に転じるのに対し、首都圏と近畿圏・中部圏(両圏はほぼ同率で推移している)では2040年まで増加を続ける動きを示すのが興味深い。
ざっくばらんにまとめると「日本の高齢者人口は増加傾向にある」という事象は、その内訳として「主要圏の急激かつ継続的な増加」と「地方圏の増加と、2020年前後からの横ばい、漸減」という、二極化の中で起きていることになる。
なお主要圏では東京圏の伸び方が著しく、大阪圏では全国平均に近い値に留まっている。大阪圏の人口減少推移が他の主要圏と比べて大きかったのも、これが一因である。
増加の中でさらに特定地域に集中する高齢者人口
全体人口は増加するが、その過程で増加傾向も一様では無く、二極化する。当然、時間の経過と共に増加率が高い主要圏の高齢者人口が占める、高齢者全体の比率は高くなる。2005年時点では45.3%だった「東京圏」「名古屋圏」「大阪圏」合わせての高齢者人口比率は、2050年には52.9%にまで増加する。高齢者の過半数が、この3主要圏に集まっているという計算になる。
特に東京圏に限れば、23.3%から29.8%と、6.5%ポイントもの増加となる。
高齢者が都市圏に集中するのにはいくつかの理由がある。元々都市圏に住む人が多かったのに加え、地方圏に住む若者が少なくなり、そのまま歳を経ることで高齢者が死去し、若年層が高齢者にスライドするのが一点。さらに人口減少に伴い、地方では生活サービスの供給をはじめとした居住環境が悪化し、人口密集地帯に引っ越す人が増えるのが一点(昨今問題視されている「買物困難者」「過疎化」「無人地域問題」もその一端)。
今後日本では(というよりは先進諸国共通の傾向だが)、高齢者人口の増加に加え、地域的な高齢者の集中化がさらに進むことになる。高齢者に配慮したインフラの整備が必要になるが、特に地方では財源や費用対効果の面で課題は大きい。そしてこれらの問題の多くは、解決策を立案できたとしても、その実施には大きな予算や長い年月が必要不可欠になる。多方面の状況を突き合わせた上で、可及的速やかな手立てを講じる必要があろう。 
 

 

●日本の人口は2100年には7496万人…国連による日本人口の推移予想 2019/7 
少子高齢化に伴う日本の人口の減少と年齢階層別構成比率の変化は、日々話題に上り、論議の対象となり、対策の提案が行われる。人口の減少は国力の減少に他ならず、生産に携わる年齢層の減少と高齢層の増加は、社会福祉のバランスを危ういものとする。今回は国連の公開データを用い、日本の将来人口の推移予想を確認していく。
今回抽出、精査するデータは国連の公式サイト内の「World Population Prospects 2019(世界人口の見通し、2019年改訂版)」(国連事務局経済社会局の人口部局による、人口統計学的な推計によるデータ)。2020年から2100年までの推定人口値に関して、3年齢階層区分(14歳以下、15〜64歳、65歳以上)に区分し、さらに精査がし易いよう5年単位で整理を行い、グラフ化・精査を行う。
総人口は公開されている値でもっとも古い推定値となる2020年から一定率で減少を続けていく。65歳以上の高齢者人口の増加は2045年がピークとなり、それ以降は漸減。現役労働となる15〜64歳や未就労世代の14歳以下が2020年以降一様に減少していくのとは対照的である。
年齢階層別構成比で見ても、高齢年齢階層人口が増加を終える2045年から15年ぐらいをピークとし、再びわずかずつだが、それより若い年齢階層の比率が増加していくようすがうかがえる。ただしその足並みはかなり緩やかなもの。
総人口比に占める比率としては、14歳以下の減少率はほぼ一定、むしろ2040年以降は少しずつだが増加する動きを見せる。一方で15〜64歳は2050年まで減少率が大きく、2050年でようやく横ばいに推移する。65歳以上は2055〜2060年をピークに少しずつ比率が減少。しかし37%台で安定したまま、その後はほぼ動きを止めてしまう。国連統計の予想値は2100年までだが、恐らくはこれ以降の動向もこの比率から大きく動くことはあるまい。
無論今数字はあくまでも推定値であり、予想の仕方や前提条件で、特に年代を重ねる毎にぶれが大きくなる。国連が発表した同様の調査結果の2年前の2017年版と比較しても、年齢階層別構成比の変移や人口そのものの点で、多少ながらも違いが確認できるため、あくまでも「予想」よりはむしろ「予報」レベルのモノとして認識した方が無難だ。また今件は「中位推計」(出生率がそこそこの状況)の上での計算のため、経済や社会、政治、文化などの変化に伴い、今件値とは大きな違いが生じる可能性はある。
とはいえ、今件予想による人口構成比を見る限り、高齢化社会・少子化社会の観点において、多分に問題が発生する・深刻化することは容易に想像できる。いかに子育てがしやすい社会を作り上げていくかを最優先課題とし、その検証と対策の実施が急務であることに違いはない。 
 

 

●最新世界人口ランキング 日本は前年比40万人減、高齢化がより顕著に  
「世界人口白書2021」によると、世界の総人口は78億7500万人で、日本は前年と変わらず11位(1億2610万人)だった。本記事では、1位から190位まで2021年版の世界人口ランキングを紹介。さらに新型コロナウイルスが世界人口に与えた影響について考察する。
世界人口は78億7500万人、前年から8000万人増加
国連人口基金(UNFPA)が発表した「世界人口白書2021」によると、2021年の世界人口は78億7500万人。前年に比べて8000万人増加しており、世界の総人口は毎年増加傾向にある。最新の世界人口ランキングの上位10カ国は前年から変動がなく、人口が1億人を超えている国は14カ国という結果だ。国連が2019年に発表した予測によると、世界人口はアフリカやアジアを中心にこのまま増加を続け、2050年には97億人に達するとされている。世界人口ランキングでいうと、インドは2027年頃、現在1位である中国を抜いてもっとも人口が多い国となる見通しだ。一方で、2020年7月には、英医学誌「ランセット(The Lancet)」に、2100年の世界人口は88億人となり国連の予測よりも少なくなるという旨の論文が掲載された。今後、出生率の低下や高齢化などにより、地域によって人口増減の動きがわかれていきそうだ。
日本では人口減少が加速
「世界人口白書2021」の発表によると、日本の人口は1億2610万人、前年に比べて40万人減少した。2015年以降、毎年平均で0.2%ずつ減少しており、日本は人口減少の一途をたどっている。総務省発表の「人口推計(2021年8月報)」をもとにした、日本の世代別人口比率は以下のとおりだ。
    年齢   人口(万人)  割合
    0-14歳   1484    11.8%
   15-64歳   7409    59.1%
   65歳以上   3637    29.0%

日本の人口の内訳を見てみると、14歳以下の子どもは11.8%であるのに対し、65歳以上は29.0%。子どもより高齢者のほうが多い年齢構造になっている。「世界人口白書2021」によると、年齢別人口内訳の世界平均は、0-14歳は25.3%、15-65歳は65.1%、65歳以上9.6%だ。日本は、この数値とかけ離れた年齢構造になっている。日本では高齢化が加速すると同時に、出生率が低下しており、ますます高齢化が進んでいる。
新型コロナウイルスによる世界人口への影響
2019年12月初旬に中国で感染者が報告され、わずか数ヶ月で世界規模のパンデミックを引き起こした新型コロナウイルス感染症(COVID-19)。WHOの報告によると、2021年8月30日現在、世界における累計感染者数は2億1630万人に達し、世界人口への影響が懸念されている。
新型コロナによる死者数は450万人(2021年8月30日時点)。この新型コロナが世界人口に与える影響は、単純に感染者数や死者数が増加しただけに限らない。感染エリアによってさまざまな要因が考えられ、とくに先進国と後進国・発展途上国とでは懸念事項が異なっているのが特徴だ。
先進国では、新型コロナの影響による産み控えが進んだといわれている。2020年の日本における出生率は1.34で、5年連続で前の年を下回った。出生数に関しては、前年比2万4407人減で84万832人。1899年に統計をとりはじめて以降、もっとも少ない結果となった。2021年上半期の出生数の速報によると、2021年1月から2月の出生数は前年同期比12.6%減と大きく減少。上半期全体でも、2020年同時期より6%減少している。新型コロナの感染やワクチン接種への不安はもちろん、外出自粛による家事や育児負担の増加など、多数の懸念事項が産み控えにつながったといえるだろう。とくに解雇や雇い止めの問題が深刻だ。日本の完全失業率は2.9%(2021年6月時点)で、2021年7月時点での解雇・雇い止めの累計見込み人数は11万人を超えた。事業主都合の離職が増えており、仕事が減った・なくなったなどの経済的な不安が、産み控えの一因になっていると考えられる。同様の産み控えは、アメリカやイギリス、イタリア、台湾などをはじめ、世界的に見られる。アメリカ国勢調査局によると、アメリカの2019年7月〜2020年7月における人口増加率は0.35%で過去120年間でもっとも低かった。これは死者数のみならず、出生率の低下も要因の一つとされている。イタリアのジェノヴァ大学によると、イタリア北部での出生率も大幅に下がっているという。移動の自由が制限されたことや将来への不安、不妊治療の先延ばしが要因と考えられている。
2020年に世界の飢餓が劇的に悪化したことがわかった。(※7) 世界人口の約10分の1、最大で8億1100万人が栄養不足に陥ったと推定されている。また23億人以上が年間を通して適切な食料を入手できず、中度または重度の食料不安に陥っている。新型コロナのパンデミックが深刻な不況の引き金となった。UNDP(国連開発計画)のデータによると、先進国の病院のベッド数は55床で、人口1万人に対して医師が30人以上、看護師が81人いる一方、発展途上国では同じ人数の人々に対して、ベッド数が7台、医師は2.5人、看護師は6人と極めて少ない。きれいな水や石鹸といった基本的な生活必需品でさえ、多くの人にとって贅沢品となっているのだ。 
 

 

●人口減最大、50万人 11年連続減 外国人最多286万人 2020/8 
総務省は5日、住民基本台帳に基づく人口動態調査を発表した。1月1日時点の日本人は1億2427万1318人と前年から50万5046人減った。減少幅は1968年の調査開始以来最大で、11年連続で減った。外国人は7.5%増えて過去最多の286万6715人となった。
15〜64歳の生産年齢人口は日本人全体の59.3%と3年連続で6割を切って過去最低を更新した。今後も経済成長を続けるには、定年延長など高齢者が働き続けることができる環境を官民で整備していく必要がある。
死亡数と出生数の差の「自然減」は51万1998人で減少幅は過去最大になった。
外国人全体に占める生産年齢人口は85.3%だった。外国人は留学生や技能実習生など20歳代が多く、若年労働者の重要な担い手になっている。
都道府県別に人口の変化をみると、日本人が前年に比べて増えたのは東京、神奈川、沖縄の3都県しかない。東京都は0.5%増の1325万7596人だった。
外国人は島根県を除く46都道府県で増えた。最も外国人が多いのは東京の57万7329人で都の総人口の4%程度を占めている。増加数のトップ3は東京都、愛知県、大阪府で都市部に集中する。
全国の世帯数は0.9%増の5907万1519世帯、外国人住民の世帯数は10.5%増の169万993世帯だった。
住基台帳に基づく人口動態調査は住民票に記載のある人の数を調べ、総務省が毎年発表する。人口に関する統計では、人口や国民の就業実態などを把握するために5年に1度実施する国勢調査や、同調査を基に月ごとや年ごとの数字を示す人口推計がある。厚生労働省が出生数や死亡数などを使って毎月集計する人口動態統計もある。 
 

 

●世界の出生率、驚異的な低下 23カ国で今世紀末までに人口半減 2020/7 
出生率の低下により、世界の人口は2064年にピーク(約97億人)を迎えた後、今世紀末には約88億人にまで減少するという予測を、米ワシントン大学の研究チームが発表した。研究者たちは、社会に「仰天するほどの」衝撃をもたらすことになる出生率の低下に対して、世界は準備不足だと指摘している。出生率の低下は、今世紀末までにほぼ全ての国が人口減少に直面する可能性があることを意味している。そしてスペインや日本を含む23カ国では、2100年までに人口が半減すると予測されている。また、出生数と同じくらいの人数が80歳を迎えることになり、各国で劇的に高齢化が進むという。
何が起こっているのか
出生率(女性1人が出産する子どもの平均人数)が低下している。この数字がおおよそ2.1を下回ると、人口の規模は小さくなり始める。1950年には、1人の女性が生涯に産む子どもの人数は平均4.7人だった。米ワシントン大学の保健指標評価研究所(IHME)の研究者たちは、2017年には世界の出生率が2.4と、ほぼ半減したとしている。2100年までには1.7を下回ると予測している。出生率の低下により、世界の人口は2064年ごろには約97億人に達してピークを迎えるが、今世紀末までには約88億人にまで減少すると、研究者たちは予測している。「これはかなり重大なことだ。世界のほとんどの場所で人口の自然減へと推移しつつある」と、IHME研究員のクリストファー・マリー教授はBBCに述べた。「このことをじっくり考え、どれほど大きな問題なのかを認識するのは非常に難しいと思う。これは異常事態であり、社会を立て直さなければならない」
なぜ出生率が低下しているのか
出生率の低下は、精子の数とも、生殖能力について議論する際に頭に浮かぶありきたりな事とも、何ら関係ない。そうではなく、教育を受け仕事をする女性が増え、避妊がもっと簡単になったことで、女性がより少ない子ども数を選択するようになったのだ。いろんな意味で、出生率の低下は成功談(サクセス・ストーリー)なのだ。
最も影響を受ける国は
日本の人口はピーク時の2017年には約1億2800万人だったが、今世紀末までに5300万人以下に減少すると予測されている。イタリアでも日本と同様に、同時期に約6100万人から約2800万人へと劇的に減少するとみられている。日本とイタリアに、スペインやポルトガル、タイ、韓国などを加えた計23カ国で、人口が半数以上減少すると予測されている。マリー教授は「仰天するほど驚くべきこと」だと私に語った。現在世界で最も人口の多い中国は、今後4年でピークの約14億人に達し、その後は2100年までに半数近く減少して約7億3200万人になると見込まれている。そしてインドが人口で世界一になるという。イギリスは2063年に約7500万人となってピークを迎え、2100年までに7100万人へと減少する見通し。しかし、これはまさに世界的な問題となるだろう。195カ国中183カ国で出生率が人口置換水準(人口が増加も減少もしない均衡した状態となる合計特殊出生率)を下回ることになるからだ。
なぜ問題なのか
これを環境にとって素晴らしいことだと考える人がいるかもしれない。人口が減れば二酸化炭素排出量が減り、農地のための森林伐採も減る。「年齢構造の逆転(若者より高齢者の方が多い)や、年齢構造の逆転がもたらす一様にマイナスな結果を除けば、そうかもしれない」と、マリー教授は言う。IHMEの研究による予測は次の通り。
・5歳未満の人口: 2017年の約6億8100万人から2100年には約4億100万人へと減少
・80歳以上の人口: 2017年の約1億4100万人から2100年には約8億6600万人にまで急増
マリー教授は、「巨大な社会的変化をもたらすだろう。私には8歳の娘がいるので、世界がどうなるのか心配だ」と付け加えた。とてつもなく高齢化が進む世界で、誰が税金を払うのだろうか? 誰が高齢者のための医療費を払うのだろうか? 誰が高齢者の世話をするのだろうか? これまで通り定年退職できるのだろうか?「我々はソフトランディング(大きな衝撃を伴わないよう着地)する必要がある」と、マリー教授は主張する。
解決策は
イギリスを含む国々は、人口を増やし出生率の低下を補うために、移民を活用してきた。しかし、ほぼすべての国の人口が減少してしまえば、この方法は解決策にはならない。「国境を開くか開かないかを選択する時代から、移民をめぐる露骨な競争をする時代へと移行することになる。移民の数は十分ではないので」と、マリー教授は主張する。一部の国は女性の産休や父親の育休の拡充、無料の保育制度、奨励金、雇用における権利の拡充といった政策を試みてきたが、明確な答えはない。スウェーデンは出生率を1.7から1.9へと引き上げたが、「ベビー・バスト」(出生率の激減)対策に力を入れてきたほかの国々は苦戦を強いられている。シンガポールの出生率は1.3前後のままだ。マリー教授は、「こうした状況を笑い飛ばす人たちがいる。本当に起きていることだと想像もできず、女性がもっとたくさん子どもを産むことを決心さえすればいいと考えている」と指摘する。「(解決策を見つけられないなら)最終的に人類は消滅する。数世紀先の話だが」研究者たちは、女性の教育や避妊へのアクセスをめぐる前進を逆戻りさせないよう警告している。IHMEのスタイン・エミル・ヴォルセット教授は、「人口減少への対応は、多くの国で最優先の政策課題となる可能性が高い。しかし、女性のリプロダクティブ・ヘルス(性と生殖に関する健康)あるいは女性の権利の進歩を推し進める努力は妥協してはならない 」と述べた。
アフリカの状況は
サハラ砂漠以南のアフリカ地域の人口は2100年までに、3倍の30億人超になると予測されている。IHMEの研究によると、ナイジェリアの人口は世界第2位の多さの約7億9100万人に達するという。マリー教授は、「このような状況が続けば、より多くの国でアフリカ系の人たちがさらに増えるだろう」と話す。「多くの国で多数のアフリカ系の人々が暮らすことになれば、人種差別をめぐる問題への世界的な認識がいっそう重要なものになっていく」
なぜ出生率の基準値が2.1なのか
2人の親が2人の子どもを持てば人口規模は同じままになるのだから、基準値は2.0のはずだと、あなたは思うかもしれない。しかし、優れた医療が受けられても全ての子どもが成人まで生き延びるわけではない。また、赤ちゃんが男である可能性がわずかに高くなっている。そのため、先進国での人口置換水準は2.1になる。子どもの死亡率が高い国では、出生率もより高くなければならない。
専門家の見解は
英ユニヴァーシティ・コレッジ・ロンドン(UCL)のイブラヒム・アブバカー教授は、「これらの予測が半分でも正確であれば、移民はすべての国にとって選択肢ではなく不可欠な存在となる」と述べた。「成功するためには、世界政治を根本的に再考する必要がある」「生産年齢人口の分布は、人類が繁栄するか衰退するかということにおいて極めて重要になる」 
 

 

●アジアで進む人口減と少子化 2021/5 
同時発生する人口減少問題
コロナ禍で人口減少に悩むのは日本だけではない。中国も人口減少に頭を悩ましている。台湾、韓国も2020年に初めて人口減少に転じた。これは、まだコロナ禍の影響が表れたというよりも、従来の流れが強まったのだろう。家計が豊かになると、若い人たちは若い年齢で子供をつくらなくなる。豊かさの代償として、少子化は進んでいく。こうした共通の原理が、日本・中国・台湾・韓国で共通して起こっている。アジア以外では、米国でも人口の伸び率が低下してきた。移民の勢いが落ちてきて、特に白人の伸び率が低調になっているとされる。今後、コロナ禍の影響は、2021年の出生数をさらに下押しするかたちで表れるだろう。そのことは、少子化による人口減の加速を東アジア各国に強く警戒させる。老いていく社会への恐怖である。
中国の未来
中国では、10年毎に行われる国勢調査の2020年データが発表された。2010年と2020年を比較すると、人口は5.7%増加、つまり年平均0.57%の微増である。これをIMFのデータベースで単年で確認すると、2018年0.38%、2019年0.33%、2020年0.31%と漸減していた。国連の推計では、2032年に人口の伸び率がマイナスに転じる見通しである(コロナ以前の2019年予測)。ただし、台湾、韓国の人口増加率が前年比減少に転じたタイミングが数年単位で前倒しされている。国連の推計では、台湾が2030年だったマイナス転化が10年早まっている。韓国は2025年が5年早まっている。そのことを勘案すると、中国の人口減少は2032年よりも、もっと早まる可能性がある。2020年の国勢調査でのもうひとつのショックは、出生数の大幅な減少だった。出生数1,200万人を平均寿命の76歳で掛けると、9億1,200万人になる。たとえ現在の出生数が未来にずっと維持されたと仮定すると、76年後は2020年の人口14億1,177万人に比べて総人口が35%も減ってしまう計算になる。コロナ禍では、人と人との接触には感染リスクがあり、さらに若者たちが結婚相手を見つける出会いの場が少なくなる。中国でも、日本ほどは極端にひどくはないと思うが、コロナ禍の後遺症として少子化や結婚減が起こる可能性がある。すでに、一人っ子政策は見直されて、2016年から二人っ子政策へとシフトしている。将来、少子化のトレンドを転換させるような積極的な政策へと大きく舵を切ることだろう。もっとも、少子化の背後にある「豊かさの代償としての少子化」は深刻だ。中国では、農村から都市への人口流入は、豊かな人の割合を高めてきた。中国の都市人口割合は、2020年でまだ61.4%と低い(日本91.8%、韓国81.4%、国連データ)。今後、都市への人口流入が進んでいることによって経済成長は継続するだろうから、「豊かさの代償」はまだ続きそうだ。
ますます厳しい日本
中国や台湾、韓国の心配をする前に、日本自身の心配をすべきだと指摘されるかもしれない。確かに、その通りである。日本こそ、コロナ禍の収束に手間取って、2021年だけではなく、2022年以降も少子化・結婚減少が深刻化しそうだ。多くの識者は、まだその重大さに気が付いていないと筆者は思う。まず、コロナ禍が始まって、人口推移がどう変化したかを確認しておこう。総務省の人口推計で、月初人口の対前年比の推移である。概数値での対前年比は、2021年5月は0.425%までマイナス幅が拡大した。コロナ禍が始まった2020年3月は前年比0.227%だったから、約0.2%ポイントほど14か月間に下ぶれしたことがわかる。単月の変化には、確率的変動も大きいはずだから、この0.2%ポイントは幅を持ってみる必要はあろうが、数年かけてゆっくりと進むはずの減少ペースが一気に加速した事実を楽観的にみてはいけないと思う。
人口減少と経済成長
今から約10年前に、「デフレの犯人は人口減少なのか、技術進歩の停滞なのか」という論争が識者の間で交わされた。ここでのデフレとは、物価下落というよりも、低成長率を指していたと思う。論争の是非はともかく、経済停滞の原因には人口減少が絡んでいることは間違いない。国内市場のパイは、人数減少によって確実に縮小するからだ。しかし、1人当たりの消費量が増えると、人口減少圧力があったとしても、国内市場を膨らませることは可能だ。このことは、生産性上昇の問題とも重なっている。生産性上昇→1人当たり所得増加→1人当たり消費増加が可能だからだ。生産性を政策的に上昇させられるとすれば、人口減少による経済停滞は必然ではなくなる。
マクロの生産性を論じると、次のような算式がわかりやすい。
   生産性上昇率 = 1人当たり就業者の実質GDPの伸び率
   国民1人当たり実質GDPの伸び率 = 実質GDPの伸び率−総人口の伸び率
   1人当たり就業者の実質GDPの伸び率
             = 国民1人当たり実質GDPの伸び率−就業率の変化
     ↓
   生産性上昇率 = 実質GDPの伸び率−総人口の伸び率−就業率の変化
となる。よって、式を変形して
   実質GDPの伸び率 = 総人口の伸び率+生産性上昇率+就業率の変化
となる。言いたいことは、人口減少圧力によって、低成長にならないためには、(1)生産性を上げること、(2)就業率を上げること、が突破口になるということだ。日本の場合、シニアの定年延長、再雇用、再就職が行われても、シニア労働者はそれ以前の仕事に比べて、生産性を発揮できない仕事になってしまうことが多い。そのことは、単に見かけ上、就業率を上げても、就業者1人当たり平均の生産性を下げてしまうことになる。これは、停滞を脱せないという政策的インプリケーションを教えてくれる。女性の活躍についても同様である。女性を生産性を高めやすい仕事に就くことができ、スキルを形成できなくては、やはり生産性は持続的に上昇しない。人口減少の圧力が強まるほど、人材の力、働き手の活躍が重要になる。果たしてわが国はそれができているだろうか。
アジア諸国と日本との違い
上記の事情は、日本だけではなく、各国とも共通している。人口減少圧力にさらされている中国は、今後、日本のような低成長の罠にはまってしまうのだろうか。日本と中国、韓国、米国の間で、国民1人当たり実質GDPの伸び率の比較を行ってみると、やはり日本の伸び率の低さが目立っている。日本は、1人当たり就業者数の実質GDP(生産性)の伸び率でみても、同様に低いのが実情である。その点、中国の方は、生産性上昇率は高く、未だ人口減少に伴う「低成長の罠」は、起こっていない。とはいえ、趨勢的にみると、中国も成長ペースは鈍化している。これは、人口減少だけではなく、高齢化による社会保障負担や労働者がシニアになると成果を発揮し続けるのが難しいなどの課題がじわじわと表れてきているのだろう。また、1人当たりの生産性を上昇させるためには、技術進歩がより重要性を増す。中国は、習近平体制になって、「中国製造2025」を推進し、テクノロジーの発展を目指してきた。最近になって、トランプ・バイデン政権は、中国に技術覇権を奪われないように、分断化=デカップリングを強力に推進するようになった。その点は、人口減少圧力にさらされていく中国にとっては、自前で先端技術を磨いていくことになり、技術進歩による成長は、従来以上に厳しくなるだろう。 
 

 

●「人口減少」時代への対処は江戸に学ぶといい 2019/4 
8年連続で人口が減少し続けています。総務省が4月12日に発表した日本の人口推計によると、2018年10月現在の外国人を含めた日本の総人口は1億2644万人。2011年以降8年連続の減少となりました。今後も、2100年まで人口は減り続け、国立社会保障・人口問題研究所によれば、現在の半分以下である人口5972万人にまで下がると推計されています。残念ながら、出生率が多少改善されたところで、この大きな流れは止まらないでしょう。
人口減少期は過去3度あった
こうした人口減少は、日本史上未曾有の出来事ではありません。歴史をひもとくと、日本の人口減少期は過去3度ありました。最初は縄文時代の中後期。次に、平安後期から鎌倉時代にかけて。そして、江戸中期から後期にかけてです。そのいずれも、直前に人口が大きく増加した後に発生しています。だとすると、次に来る4回目の人口減少も、歴史の必然なのかもしれません。現代と江戸時代とは、非常によく似ていることがわかります。江戸時代に人口が停滞した要因は、気候変動や食料問題だけではありません。それまで新田開発によって面積を拡大し、同時に労働力としての子どもの数を増やして、それが人口増と経済力の双方を上げていきました。しかし、その伸びしろがなくなり、それ以上成長が見込めなくなると、いわゆる「人口支持力の限界点」に到達し、社会構造的に出産力が弱まったと考えられます。当時は、農作業のほかに、織物や糸紡ぎなど女性が活躍する仕事が増加しました。それにより、貴重な労働力としての女性の晩婚化が進みます。都市への人口流入もまた未婚化の原因ともなりました。誤解があるのですが、明治初期まで日本の庶民は皆婚ではありません。晩婚化・未婚化・人口の都市集中……なんだか今の日本と、とてもよく似ています。未婚も多ければ離婚が多いという点も似ています。江戸期の離婚率の高さについては、あまりの離婚の多さに幕府が離縁禁止令を出すほどでした。江戸時代はこの享保年間以降、幕末まで人口はほとんど増えない人口静止状態になります。
人口が急増したのは元禄バブル
江戸幕府開始からと明治維新以降の日本の人口動態をスタート時点100として比較したグラフをご覧ください。江戸時代も1657年の明暦の大火を契機として人口の急激な増加が始まっています。この大火事は幕府開設から54年後でした。くしくも、1923年に起きた関東大震災も明治元年から55年後です。江戸時代に人口が最も急上昇したのは、徳川綱吉の頃で、これは「元禄バブル」と言われる好景気でした。それは現代にすれば戦後の高度経済成長期と合致します。元禄バブル後、長きにわたって続いたデフレもまた、今の経済に通じるものがあります。2015年には、日本の人口は減少傾向になりましたが、江戸時代もまた享保年間あたりで人口停滞期を迎えました。江戸では男が女の2倍人口があり、男余り現象であったことも今とそっくりです(現在、未婚男女人口差は300万人の男余り)。それだけではありません。江戸時代に花咲いた市場の大半は、享保から天保にかけての時代に集中して誕生しています。現代のアニメや漫画に当たる「浮世絵」や「黄表紙」などの出版市場はまさにそうで、シェアリングエコノミーもアイドル商法ですら江戸時代から存在していました。その中でも、最も栄えたのが食産業です。もともと江戸時代初期まで、武士も庶民も外食という習慣は存在しませんでした。食事とは家でするものだったのです。当然、江戸の町にも食材屋はあっても飲食店というものはありませんでした。飲食店ができたきっかけは、前述した明暦の大火以降と言われます。明暦の大火で江戸の町は3分の2が焼失、10万人以上の死者を出しました。その復旧作業のために、諸国から職人が集結しましたが、そのほとんどはソロの男性です。彼らは肉体労働者であり、食欲も旺盛です。さりとて、自炊する能力もありません。そんな彼らの需要と胃袋を満たすために、おふくろの味としての惣菜を売る「煮売り屋」ができました。この「煮売り屋」は大繁盛し、やがて「居酒屋」へと発展していきます。
居酒屋はもともと酒屋だった
居酒屋は当初、酒を売る酒屋でした。酒屋で酒を買ったせっかちな男たちが、そのまま店先で飲み始めたことから、つまみのサービスが始まり、そこから「酒屋に居たまま飲む」という意味の居酒屋業態が生まれたのです。今でいえば、コンビニで缶ビールと惣菜を買って、そのままイートインで食するようなものでしょう。当時から、江戸のソロ男たちはソロ飯スタイルをとっていたのです。ちなみに、当時の居酒屋の店員はほとんど男性で、客もまたほぼ男性。グループ客だけではなく、1人で酒を飲むソロ酒客も多かったようです。料金は、安い酒ならば1合8文(200円)程度から飲めたので非常にリーズナブルです。現代、下町界隈には1000円でベロベロに酔っぱらえるまで飲める立ち飲み屋を「センベロ」と言いますが、当時の居酒屋もそうした庶民の味方でした。当時、長屋に住むソロ男たちは、自炊はほぼしないため、そもそも鍋や調味料などの料理に必要な道具を持っていませんでした。それも火事の多かった江戸ならではのリスク回避です。モノを所有したとしても、火事で焼けたら終わりだからです。とはいえ、彼らが外食だけだったわけではない。家で米を炊くこともありました。おかずは煮売り屋から惣菜を買ってきたり、「棒手振り(ぼてふり)」という行商から買ったりしていました。棒手振りとは、天秤棒に荷をかついで売り歩く行商人です。野菜や魚、貝類、豆腐や納豆、みそ・しょうゆ・塩などの調味料、のり、漬物、ゆで卵、焼きトウモロコシなどバラエティー豊かな棒手振りが町中を闊歩していました。江戸だけに見られたものとして、茶飯売りというものがあり、しょうゆ飯やあんかけ豆腐、けんちん汁などの食事そのものを売る棒手振りも存在しましたし、アメ、ようかん、カリントウ、お汁粉などといったデザート売りもいました。食だけではなく、薬、おけ、ほうき、苗木、花、金魚、鈴虫まで売られていました。1659年の幕府の調査で、棒手振りは江戸北部だけで5900人、50業種もあったそうです。まさに、今でいう宅配サービスであり、Uber Eats(ウーバーイーツ)のようなものです。
江戸の町はコンビニ・タウンだった
杉浦日向子氏の「一日江戸人」には、幕末に日本に来た外国人が、「一歩も戸外に出ることなく、いっさいの買い物の用を足すことができる」と驚いたという記述がありますが、まさにそのとおりで、江戸の町は大きなコンビニ・タウンであり、多くのソロ生活者で成り立っていたソロ活経済圏だったと言えます。とかく、昔の日本人は集団主義で、家や組織の共同体の原理に従い、個人としての主張を差し控える民族であると思われがちですが、そうでもないのです。江戸期、一部の上級武士や高級商人を除けば、「家」の意識より「個人」の意識が強かったと言えます。もともと江戸という町自体が、家を飛び出して個人が個人として集まった町でもあるわけです。一人暮らしも多いし、結婚しても離婚も多かった。ソロ飯は当たり前だし、個人として経済的に自立するために、それぞれが起業しました。出版や芝居など娯楽産業が栄え、祭りがエンターテインメント化し、ときにはコスプレまでして、お伊勢参りなど旅や観光も盛んでした。今で言う「ぐるなび」のような飲食店のランキングなどもありました。そんな情報インフラが栄えたのも、個人として生きていくために必要な機能だったからです。つまり、これから日本が迎えるだろう人口停滞期とソロ経済社会というものは、すでに一度江戸時代に経験している社会でもあり、もしかすると日本人としての原型なのかもしれません。1人で暮らす人たちが多い社会だからこそ、個人単位で人とつながる意識を大事にする。そこにこそ、これから訪れるソロエコノミー時代を生き抜くヒントがあるのでは?と考えます。  
 

 

●日本は史上四度目の人口減少・減退期を迎えている 2016/5 
1974年の時点で、日本は人口減少を予測していましたが
 1990年代まで、何の対策も行いませんでした
現代の少子化は、いつ頃から始まったのでしょうか。
1975年です。その年に特殊合計出生率が2.0を切り、少子化がスタートしました。ただもっと重要なのは、その前年、1974年に出された戦後2回目の「人口白書」で、「昭和85年=2010年」に日本の総人口がピークを迎え、その後は減少することを予測していたことです。この予測はほぼピタリと当たっており、国勢調査の総人口は2010年をピークに下がっています。日本に人口減少時代が来ることは、実は40年以上前から分かっていたのです。しかし、少子化対策が本格的に始まったのは1990年代に入ってからでした。人口が減少する未来を知っていたにもかかわらず、国は出口戦略を何も考えておらず、しばらく対策をとらなかったのです。また、マスコミが大きく取り上げたのも、1989年に特殊合計出生率が1.57を下回り、「1.57ショック」を迎えてからのことでした。
ただ、これには理由があります。人口白書が出された1974年には、「日本人口会議」も開かれました。当時学生だった私は3日間、会議に通いましたが、そこでは実は、今とは逆に「人口抑制」「出生抑制」の必要性が強調されていたのです。1974年といえば、第一次オイルショックの混乱の真っただ中で、地球の資源が有限であると誰もが痛感しているときでした。また、発展途上国の経済成長と人口爆発がどんどん進行していました。資源の有限性や人口爆発を踏まえて、これからは人口を抑制しなくてはならないというのが当時の世界的な論調で、日本もその流れに乗っていたのです。事実、人口白書にも出生率を下げるのがよいという趣旨のことが書かれていました。つまり、少子化が悪いといわれるようになったのはごく最近のことで、それ以前は、むしろ人口増加の方がよくないこととされていたのです。現在の人口減少はそうした出生抑制の成果ともいえるもので、本当はそれほど驚くことではありません。
もう少しさかのぼると、1972年が世界的な転換点でした。その年、ローマクラブが有名な『成長の限界』の報告書を出し、資源の枯渇や環境の悪化に警鐘を鳴らしました。また、ノーベル物理学賞を受賞したガボールが『成熟社会』という本を出して、今後は量的拡大ではなく、質的向上を最優先する社会に向かう必要があると訴えています。そして、この辺りから世界中の先進諸国が一斉に少子化トレンドに入り、1975〜1980年には、スペインを除く先進諸国の特殊合計出生率が軒並み2.0を割り込んだのです。
私は、その数年前、1968年に、世界が転換するきっかけになった出来事が起きたと考えています。はるか宇宙の「アポロ8号」から、クリスマスプレゼントとして、1枚の写真が送られてきたのです。月の周回軌道上から地球を撮影した「地球の出」の写真です。これが、当時の新聞や雑誌で大々的に掲載されました。この写真と、1972年に撮影された地球全球の「ザ・ブルー・マーブル」が、人々の意識に大きな変化をもたらしたといわれています。つまり、これらの写真を見ることで、地球がいかにちっぽけで、有限で、孤独な存在なのかを、多くが初めて知ったのです。そして、たった2枚の写真が、ものの見方、考え方、行動様式を変えていったのです。
現代を含めて、日本にはこれまで「4度の人口減少・減退期」がありました
先生の専門は「歴史人口学」ですが、日本には、これまでも少子化や人口減少があったのでしょうか。
はい、ありました。実は、現代を含めて、日本は大きく「4度の人口減少・減退期」を体験しています。最初は縄文時代の中期から後期で、どうも人口が1/3くらいに激減したようです。次に、奈良時代から平安時代に人口が増えて、平安後期で停滞し始め、鎌倉時代に減少したことが分かっています。それから、室町時代から江戸初期に人口が増えた後、江戸中期から後期にかけて、およそ1世紀にわたってほとんど人口が増えませんでした。そして今、日本は4回目の人口減少・減退期を迎えているのです。
これらの時期に人口が減少・減退した理由として、これまでは主に「気候変動」が挙げられてきました。確かに、縄文後期は寒冷化が進んで東日本の人口が急減していますし、鎌倉時代は逆に温暖化のせいで日照りの害が多かったといわれています。江戸時代の18世紀は寒冷化によって飢饉が頻発しました。
こうした気候変動の影響は確かにあったのですが、私は、根本的にはもう1つ他の理由があると考えています。それは「人口支持力」です。人口支持力とは、環境や技術などによって規定された人口の限界量です。『人口論』を書いたマルサスは、最終的に食糧が足りないという制限によって、人口増加はどうしても規定されてしまうと考えました。歴史を見る限り、マルサスのいうとおりになっています。つまり、さまざまな技術発展のおかげで食糧生産量が増えると、人口支持力が上がり、人口が増える。そして、人口支持力が限界を迎えると、必ず人口停滞期がやってくるのです。その停滞期に飢饉などが起きて死亡率が短期的に上がると、人口を回復できなくなり、人口減少が起きてしまう。これが人口減少のメカニズムだと考えられます。
人口停滞期・減少期には、共通の特徴があるのでしょうか。
江戸の話をすると面白いかもしれません。江戸初期の17世紀は、新田を開発する余地が大きかったため、農民たちは子どもを増やして一族を大きくし、経済水準を上げていきました。ところが18世紀になると、当時の環境や技術では経済をなかなか大きくできなくなりました。人口支持力が限界に突き当たったのです。そこで彼らは出生力を落としました。具体的には、1つ目に「晩婚化」が進みました。晩婚化といっても、3〜4歳ほど婚期が遅れただけですが、それで1人か2人、子どもの数を減らすことができました。晩婚化がなぜ進んだかといえば、1つには、織物や糸紡ぎなど、女性が活躍できる仕事が増えたためです。また、食糧が行き渡って栄養状況が改善され、子どもの死亡率が下がったことも大きく影響しています。晩婚化、女性の活躍、死亡率の低下。まるで現代のようですね。
出生力を落とす2つ目の方法は、間引き、堕胎や捨て子(迷子)でした。日本各地にはさまざまな間引き、堕胎、捨て子の慣行があったようです。明治以前の日本には「7つまでは神のうち」という考え方がありましたが、この言葉は、7歳までの子どもが死にやすいのを諦める方便でもあり、生まれ変わってくるから間引いてもよいという意味でもあったのです。他方では、ヨーロッパの教会が捨て子を収容したように、日本でも、捨て子や迷子をお寺の子、町の子として育てた地域もありました。さまざまな制度や伝統があったことが分かっています。
それから、出生率を下げるために、さまざまな工夫がなされたことも判明しています。例えば、18世紀初頭の元禄期のお医者さんは、授乳期間を長くすると、次の子どもを妊娠しにくくなることをすでに知っており、長期間の授乳を勧めていました。最後に、都市が人口抑制の役割を果たしていた面があります。今も昔も、都市には独身者が多い。特に大阪の商家などは、出世しないと結婚ができない厳しい世界でした。このような多面的な動きのなかで、全体として人口が停滞していたのが日本の18世紀だったのです。
 

 

●「人口減少への視点」 2013/7 
1 投資を増やす・生産性を上げる
「日本は人口が減るので経済の先行きには悲観的にならざるを得ない」という意見をよく聞く。こうした意見は人々の口から日常的に出てくるし、マスコミもそう流す。それは株価の長期的な先行きに対する悲観論にもつながっている。しかし本当にそうだろうか。もしそうだとしたら我々や企業は何をしても駄目なのだろうか?
人口は大きな要素だが・・・
経済の成長(拡大)において“人口”がとても大きな要素であることは確かである。人口が多いということは、それだけ潜在的な消費者が多いことを意味している。中国やインドなど人口の多い国(共に日本の10倍以上)はその他の国々から「成長が期待でき、輸出先として有望な国」と、世界から一目置かれる存在になる。インドの国民10人に1人が一台車を買っただけで、世界の自動車産業は活況を呈するだろう。ある国の経済成長率は一般的に「人口」「投下資本」「生産性」の三つの要素から成っている。人口が増えた方が、投下資本が大きい方が、生産性の伸びが大きい方が、経済成長率は高くなり、人々の生活は豊かになるとされている。実際にその通りで、戦後の日本が「驚異的な成長」と言われてきた大きな要因は人口の増加にあった。これは筆者も調べて驚いたのだが、戦争が終わった1945年の日本の人口はたった7300万人ほどだった。今が1億2700万人である。戦後の正味50年ほどの間に5400万人も増えたことになる。この人口の伸びが、資本投下の増加と特に製造業における生産性の著しい伸びと相まって、日本を一流の先進国に導いたのである。
投資を増やす
日本の人口は、ここ数年は減少傾向になっている。日本の出生率(日本では一般的に“合計特殊出生率”を指す)はここに来て若干だが上がってはいるが、それでも直ちに、人口が本来的に減らない出生率2.1%になることはないだろう。今の日本の出生率は1.41%だ。現実的に日本の今後の経済成長率を考える時には、「少なくともしばらくは人口の増加に期待はできない」と考えざるを得ず、その他の成長率アップの要因を探すことが必要だ。ただし、人口は増えなくても働く人の数を増やすことはできる。それは経済成長率の引き上げにつながる。例えば、日本では女性は子どもができると働くことを辞める人が相変わらず多い。保育所などの子ども預かり施設の増加や育児休暇を取っても不利にならない人事制度の普及などによって、人口を増やすと同時に一家庭当たりの所得を増やすことは十分に可能である。またいったん退職した高齢者の社会参加を促すことにも意味がある。もともと人口の少ない北欧諸国などが高い生活水準を保っているのは、そうした努力を怠っていないからだ。また、経済成長率には他の二つの要因があることに注目してほしい。「投下資本」と「生産性」である。この二つの要因では、まだ日本は成長率を上げられる余地が十分にある。投下資本の観点から言うと、依然として民間の設備投資が対前年同期比で減少を続けている状況を改善しなくてはいけない。そのためには各種の投資優遇措置などが求められる。財政状況から国が公共投資をする余地は少なくなっているが、キャッシュリッチな企業が投資すれば、職場も増え、働く人の労働賃金も総体として増え、それがまた消費を増大させる。
生産性を上げる
もっと改善の余地があるのは、生産性の向上である。日本の製造業の生産性が高いことはすでに記したが、自動車に限らず、日本の生産現場の生産性の高さは世界からの注目の的である。筆者は数多くの企業の生産現場を見てきたが、ロボットと人間がそれぞれの特徴を生かして高品質の製品をつくり出している姿は美しいと思う。しかし、製造業以外の生産性は高いとは言えない。具体的な例になるが、デパートなど小売りの現場で言うと、米国の小売業における「少ない人手での販売方式」には賛否あるかもしれないが、驚くことが多い。広いフロアに販売員が数人というケースもある。対して日本は販売員の数が多く、むしろ買う方がへきえきとすることもある。日本の小売り現場の人たちの商品知識の高さは素晴らしいが、「もっと生産性を上げられそうだ」と思う。また、日本ではコンピューターなどの導入は進んでいるが、「それらが本当に生産性の向上につながっているか」と問われると、「怪しい」と思わざるを得ない。使いこなせない役員なども多く、紙とデジタルの“二重”の情報システムとなってコンピューター投資が生産性の向上につながらないケースが多いからだ。人口が減っても投資が増え、社会の仕組みを変えることで生産性を上げれば、人口が増えているときより容易ではないにせよ、成長を高めることはできるということである。世界にはそれに成功した国が結構ある。人口が減少し始めた国でも多くが依然としてプラス成長を達成しているのは、そうした努力をしているからだ。「三本の矢」を中心に据えたアベノミクスの真価は、民間投資を促し、生産性を引き上げる措置をどのくらい組み込めるかにかかっている、といえる。
2 GEが進めていること・日本企業の可能性
今回は、「少子高齢化についての日本人の全般的な考え方はそもそも後ろ向き過ぎるのではないか」という話を書く。この問題に対する日本での代表的な見方といえば“悲観論”である。しかしその悲観論を横目に、人口1億人以上の大国として最初に少子高齢化が進みつつある日本で、ビジネスにおけるグローバルな将来ビジョンをしたたかに描いている海外の有力企業がある。今、支配的な“悲観論”に惑わされることなく、「(少子高齢化を)どのような視点で捉えるのが正しいのか」を考える題材を提示したいと思う。
GEが進めていること
「GE」という会社を知っているだろうか?正式名称をゼネラル・エレクトリックという。当初からダウ工業株30種平均の構成銘柄になっている、米国を代表する企業だ。また、東京電力・福島第一原発事故後にGEの名前が頻繁に登場したのは同原発の設計など基幹部分を担った会社だからだ。しかしGEは1970年代に起きたスリーマイルアイランドの原発事故以降、原子炉関連事業を大幅縮小している。「複合企業」という呼び名にふさわしく重工業や航空宇宙など多くの事業を持つが、勢いがあるのは医療機器製造事業である。例えばコンピューター断層撮影装置(CT)などだ。そのGEの子会社であるGEヘルスケアが今年(2013年)の春、興味深い発表会を東京で開催した。その内容は、「日本をグローバルな中核的研究開発拠点(center of excellence)にする」というものだった。米国の企業が日本を研究開発の中核にするというやや風変わりな発表だ。「日本企業が研究開発部門を日本に残すのはまだ分かるが、でもなぜ米国企業が・・・?」と普通の人は考える。そこが“逆転の発想”だ。GEヘルスケアは日本で何をするのか。同社はかねて「日本のニーズに対応した製品を開発し、それを世界に展開していく」という方針を持つ。それを「IJFG(In Japan for Global)」と呼んでいるが、この発表会でその方針を今後ますます強化していくと内外に公表したのだ。最新事例の一つとして紹介されたのが、画面レイアウトの学習機能を搭載するWebベースの医療用画像閲覧ビューワ「Centricity Universal Viewer」の日本での開発である。米国ではなく、人口が減り始めたこの日本でだ。なぜだろうか。
GEの論理
2年ほど前になるが、筆者は東京郊外の日野市にある同社の開発拠点、工場を取材した。科学番組の取材だったが、そこで日本企業とは全く違う同社の発想に驚いた。GEの担当者は、「世界でも一番、高齢化が進んでいる日本で様々な医療機器を開発すれば、これから高齢化を迎える韓国・中国は言うに及ばず、世界中で高齢者向け医療ニーズの高まりに対応できます」と言ったのだ。この瞬間、筆者は頭を叩かれたようなショックを受けた。発想が日本人、日本企業と真逆だったからだ。日本では、少子高齢化は日本の弱点のように思われている。「もう日本に将来はない」といった話がまん延している。経済も駄目になるし、生活水準も低下するだろう・・・といった発想だ。しかしGEは「少子高齢化は世界の趨勢(すうせい)、日本はその先頭を走っているだけ。だとしたら、少子高齢化の日本でどのような医療機器を開発すればよいのかを研究・開発するのは当然」と考えた。実にまっとうな見方だと思う。(日本での)根拠なき悲観論をあざ笑うかのような見事な、しかし考えてみれば当然な発想だ。その時から筆者は「GEの発想には学ぶべき点がある。それは日本企業にも当てはまるはずだ」と考えるようになった。
日本企業の可能性
日本は世界に先んじて高齢化社会を経験している。これは世界にとって大きな実験が日本で始まっているといえる。「人口の高齢化」とは医療の世界にとって何を意味するのか、今までと違うどのような機器を開発すればよいのか。それはCTのような大型機器から、ほかの医療器具にまで当てはまるはずだ。高齢者は若者とは違う行動パターン、体型、体力を持っている。これは調査・企画し、そして製造するに値する。これは医療に限らない。身の周りの様々な商品、道路などインフラの形状といったあらゆる面にわたる。少子高齢化が進む中で、今までの「若者向け商品」とは違うものをつくる必要があるということだ。食べるものも違ってくるだろうし、旅行のパターンも違うはずだ。その膨大なデータが日本で形成されつつあるのだが、日本企業はそれらのデータを十分に蓄積し、海外展開の中で生かそうとしているだろうか。発想の違いは大きい。日本人は「少子高齢化」という言葉で思考停止している。それではいけない。少子高齢化で世界の先頭を走るということは、「現場でそれを見られる」「対処法が分かる」という意味で、日本企業にとっては実は大きなメリットだ。逆に言えば、それができている日本の企業には未来がある、ということだ。
3 江戸時代に人口の低迷期・同じように“改革”が叫ばれた・故に“特産品”が生み出された
「人口減少」と騒いでいるが、そもそも日本の人口は歴史的に見るとどのような推移をたどったのだろうか。大まかな推移を示すと次の通りである。
   江戸時代の初め(1600年頃):1260万人
   江戸時代の終わりから明治維新(1867年頃):3300万人
   1920年初め:5800万人
   1970年初め:1億人
   最新統計:1億2800万人
江戸時代に人口の低迷期
推計ではあるが、日本の人口は比較的正確に補足されている。日本では昔から徴税のためなどもあってお寺などによって「宗門人別改帳」が作成されてきたからだ。400年前の日本の人口は、今の10分の一であったことにビックリする。ここ数百年の世界各国の人口の増加はすさまじい。上記の数字を見ると、日本の人口は17世紀初頭以降一貫して増加してきているように見えるがそうではない。この期間に人口が急増した時期も、横ばいないし減少した時期もあった。まず「人口急増期」といえば戦後の復興期が代表的だが、江戸時代にもあった。それは関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、江戸に幕府を開府してから最初の100年余だ。このとき日本の人口は大幅に増えて3300万人前後に達した。これは兵農分離が進み、戦いがなくなって農地開拓が進んで農業生産力が著しく増加したからだ。つまり食糧生産が増えて、養える人口が増えたのである。しかし江戸時代も100年を過ぎると農業生産力の伸びが止まってくる。開拓できる土地がなくなってしまったからだ。その後130年間に渡って、つまり江戸時代が終わり明治維新が始まるまで人口はほぼ横ばいを続けた。この間に、享保の飢饉、天保の飢饉などがあり人口減少の期間(10年〜20年のタームで)もあったといわれる。
同じように“改革”が叫ばれた
では人口が低迷した江戸時代の130年間の日本はどうだったか?やはり“デフレ期”のように、人口が増えた時代の経済から大きな転換を余儀なくされた。豊かな税収をベースに拡大基調だった組織(藩、幕府)はリストラを迫られ、しばしば武士の生活は困窮した。農地が増え、藩内の人口が増えた時期は完全に終わり、増える富を享受する時代から、富を分け合うべき時代に入った。各藩や幕府の財政は著しく切迫した。今の日本の赤字漬けの財政状況と似ている。そこで実施されたのが、「享保の改革(1716〜1745年)」「寛政の改革(1787〜1793年)」「天保の改革(1841〜1843年)」という三大改革だ。ここ30年の日本も“改革”を何回もやっているが、これは歴史を見れば珍しいことでも何でもない。江戸時代の最初の100年が戦後でいうところのバブルまでだとすると、その後は成長率が落ち、消費の著しい伸びが止まった。人口が伸びなくなったし、江戸時代の庶民はそれほど貯蓄を持っていたわけではないからだ。各藩(今でいう企業や官庁)は“緊縮”を余儀なくされ、それでも足りずに藩や幕府は商人から借りて負債を増やし(今の国債・地方債の増発に相当)、一定のインターバルで改革を打った。では、その当時の江戸時代の人々はどう商売したのか。これは参考になるかもしれない。なぜなら、日本はこれから少なくとも、最低数十年は続く人口の横ばいから減少時期に入るからだ。学ぶことはあるはずだ。
故に“特産品”が生み出された
いくつかの事例を手短かに紹介しよう。まず江戸時代の人はそれぞれの地域、商店ごとに「特産品」をつくった。需要喚起だ。興味を持ってもらい、買ってもらうためには、今までと同じ仕様では駄目だ。だからお菓子でも漬け物でも魚の処理法でも、いろいろ工夫した。実は日本の各地に残る特産品のほとんどはこの江戸時代の人口低迷期にできたものだ。だから特産品は、それぞれの地方や商店の「人口低迷期の商売における知恵の結晶」といえる。増えなくなった耕地面積を冬の間も有効に使って、各地の特徴がある生産品をつくって加工した特産品にし、収入を増やそうとした。財政が切迫した藩もこれを奨励した。これは今でもそうだろう。日本中で「その土地独自の産品」の生産・製造が始まっている。最大の理由は、昭和の人口急増期が過去のものとなったからだ。例えば“牛”にちなんだものだけでも、この10年ほどでいくつ銘柄が増えたことか。沖縄から北海道まで、ざっと数えただけで数十はある。人口が減るときは「知恵の時代」ということだ。一方で、商売は一人ひとりの消費者を大切にするものとなった。なにせ人口は増えないのだから、お客をしっかりつかまなければならない。家族構成や、いつごろに何が必要かを把握し、商店はそれに対応する。人口の急増期とはおのずから商売(ビジネス)の仕方は違ってくるのだ。人口が増える時代は、客が来るのを待っていればよい。しかし横ばい、減少の時期はそれでは駄目だ。多分、江戸時代の商店は今よりも店の周りの家(消費者)を詳しく把握していた。米屋や味噌屋は、どこの家がいつ、どのくらい買っていったかを記録していたはずだ。そして時期が来たときには奉公人(御用聞き)を走らせただろう。
4 奉公人は走った・買う方に歩かせる時代・売る方が歩く時代へ
前回はマーケットの様相が少し変わったのでカレントな話題に戻ったが、今回から再び「人口減少への視点」の連載に戻る。今回はそのPART4だ。PART3で「人口が増えない江戸時代の末期こそ、今に残る日本各地の名産品が生まれた時期だった」という話を展開し、その最後に“奉公人を走らせた”江戸時代の商人について少し触れた。今回はこの話を詳しく展開する。
奉公人は走った
人口が増えなかった江戸時代の商人はなぜ奉公人を走らせたり、江戸時代の風景画でよく見るような、自ら天秤棒を担いで魚や豆腐を売り歩いたのか。これは現在の商売の仕方、つまり店舗を構えて「消費者が買いに来てくれるのを待つ」という方式と大きく異なっている。江戸時代の商人が考えたのは、「人口が増えないということは、自分の店の商圏に住む人も増えない。他店との競争で重要なのは、増えない顧客をどう確保して、囲い込むか。だから自ら売り歩くのだ」ということだ。交通手段も発達していない。待っていてもだめ、自分が売りに歩かなければ客はつかめない。だから小魚や塩、醤油まで、ほとんどの物が売り歩きの対象だった。反物もそうだ。丁稚(でっち)が担いで大店の奥様や大名屋敷に持ち込んだ。そもそも、奥様がふらふらと買い物に出る風習などなかったのだ。
買う方に歩かせる時代
ところが戦後が終わってしばらくしてからの日本では、「買う方が歩く」のが普通になった。我々も自らが歩いてデパートに行き、車を使って大規模スーパーで日用品を購入している。それを不思議に思わない。江戸時代の人が見たら、「おやおや、自分で行くのかい?来てもらえばよいのに」と言うだろう。なぜ、「売る方が歩く時代」から「買う方が歩く時代」に変わってしまったのか。ひとえに「人口動態」に帰することができる。戦争が終わった1945年の日本の人口は調べてみると7300万人である。今より5000万人も少ない。5000万人といえば今の韓国の総人口だ。いかに戦後の人口急増が激しかったかが分かる。日本で人口が一番増えたのは1947年から10年ほどだ。1947年からはベビーブームが始まり、4年間ほど年間約250万人が生まれている。それらの若者が自らの購買力を持ったのは1970年頃からだ。学校を卒業し、就職して定期収入を得た。かつ高度成長期で毎年大幅に労働賃金は増加した。若い彼らは自らの足で歩き、電車に乗り、車を運転し、レジャーを楽しんだ。そして店を構えている人にとっては黙っていても自分の商圏の消費者が劇的に増えた時代、彼らが移動してくる時代となった。売る方が歩く必要は全く無くなった。黙って店をきれいにして、美しい女性を店員にし、自ら動いてくれる消費者を待っていればよい時代が到来したのである。その恩恵を最も受けたのはデパートだった。今でも「デパートは商品の博物館で、見ていて楽しい」という人がたくさんいるが、人々はそこで買い物することを憧れのライフスタイルとした。だからデパートは“小売りの王様”だった。しかし今は違う。日本の街を見ても分かるが、都心のごく一部を除き、いつも人がぞろぞろ歩いている場所は少ない。お年寄りは家から出るのもおっくうになっている。そして人口は減少期に入っている。恐らく1970年の日本人の平均年齢と、現在のそれとは10歳ほども違いがあるだろう。今の方が全体的に年老いているのだ。
売る方が歩く時代へ
現在でも特定の人気店が大勢のお客さんを集めているといった現象はあるだろう。しかし総じて言えることは、売る方が歩かねばならない時代、つまり江戸時代後期の商売方式が再び日の目を見る時代になったといえる。筆者が小学生の頃(長野県の諏訪に住んでいた)には、毎年冬になると富山の薬売りが我が家に来ていた。「昨年はこれをお宅は買ったが、今年はこれもどうでしょう」という商売だった。彼らは詳細な顧客データを持っていたのだ。それはある意味、現代より進んでいた。多分これからの商売の基本は、人口急増期の買う方が歩く商売から江戸時代後期に見られた“富山の薬売り”方式をベースにした売る方が歩く商売の時代にかなり戻る。人口動態がそれをやむなきこととしている。ということは、商売をしている人すべてがそれを念頭に置き、今までの常識を切り替えないといけないということだ。デパートやスーパーが苦戦する中で、売る方が歩く商売を既に実行している会社がある。昔のように人が余っているわけでもないし、人を雇用するコストも高いから人海戦術は無理だ。しかし今はITという新しい“御用聞き”のシステムがある。売る方がテレビやインターネットを通じて御用聞きをし、宅配便を使って配達をしている。デパートの売り上げが落ちても日本のGDPに占める消費の割合(6割)が変わらないことは、人々(消費者)がお金を使う場所が変わっただけのことを意味している。最近では高度成長期の東京や大阪では考えられなかった商売が「街歩き」「売り歩き」を再開している。豆腐やスイーツなどまで売り歩く人が増えた。これは新しい傾向ではなく、商売の“先祖返り”だといえる。人口の減少を嘆いているだけではビジネスは伸びない。環境が異なる時代には、環境に合ったビジネスをしなければならない。それにどのくらい敏感に気がつくかが問われる時代だということだ。
5 所与の設計・システム変更の促進・統計のポイント変更を
「人口減少への視点」シリーズの最終回として、「戦後の成長志向からの脱却」「新しい価値観の構築」について書く。過去4回の連載で、「人口の減少」という今の日本が直面している状況が、日本の歴史から見ても類似例がないわけではないこと、むしろその時期にこそ今後の日本に通じる商売の形=「売る方が歩く」が出来上がり、日本各地で名産品が作り出されたこと、人口減に対応したビジネスの形の変化や社会制度の改革が世界の先例になることを見てきた。しかし、我々が戦後の考え方や制度を変えなくてよいというわけではない。
所与の設計
戦争が終わった1945年の日本の人口は約7300万人だった。そこからピーク時の2008年の1億2808万4000人まで、最初は急速に、そしてその後はペースを徐々に落としながら増え続けた。それにしても、63年間という人の一生(日本人の平均寿命は2011年で82.59才)よりはるかに短い間によく増えたものである。重要なのは、日本のほとんどの戦後システムが、この人口の増加期、特に急増期に「人口増加を所与の事」として設計されたことだ。それは人間のある意味での「社会知の限界」と言えるものだが、10年、20年もトレンドが続くと、それが“永遠の傾向”と考えられてしまう。そして社会の全ての制度やシステムが、「人口は今のように増え続ける」という前提で出来上がってしまったのだ。考えてみれば、日本の退職金制度にせよ、年金制度にせよ、「人口が増え続ける」ことが前提だった。年金制度の受益者が全人口の中で占める割合が今のように高くなることなど想定もしていなかったと思われる。商売のシステム=「買う方が歩く」から、大都市近郊におけるベッドタウン建設まで、人口が増え続けることが大前提だったのである。
システム変更の促進
現状はどうか。2012年は厚生労働省の人口動態統計の年間推計では、前の年に比べて日本の人口は過去最大の21万2000人の減少になった。出生数は統計の残る1899年以降で最少の103万3000人。一方で死亡者数は124万5000人で、東日本大震災の影響で戦後最多だった11年と比べて減ったものの、少子高齢化による人口減はひときわ目立つ数字になってきている。すでに日本の人口はピークの2008年と比べると約60万人も減少している。さらに年当たりの減少ペースは今の出生率1.41(2012年)が大きく上がらないとすれば、2030年代には年間100万人に達すると予想される。国立社会保障・人口問題研究所の予測によれば、日本の人口が1億人の大台を割るのは2048年で、2050年には9700万人、2060年には8700万人になる。それでもまだ1945年の人口(7300万人)を上回っているし、出生率が一貫して下がり続けるわけではないかもしれない。出産・育児をサポートする各種の制度も整備されるとすれば、人口減少ペースが鈍化し、場合によっては増加する可能性もある。しかし、一つ明らかなことがある。それは、今でもその努力は進められているが、人口が増加する時代に考えられた“時代遅れのシステム”は完全に変える必要があるということだ。すでに社会保障システムの変更などには政治が着手している。民間でも旧来の退職金、年金システムの更改が進む。民間が商売の仕方を変えるのも、大きな意味で人口動態に合わせてのシステム変更である。
統計のポイント変更を
筆者は一つ提案をしたい。それは今の各種経済統計が「国全体の動向を示す指標」となっているのを、「国民一人一人にとっての価値」に引き直すことである。例えばGDP(国内総生産)を考えてみよう。今は来春からの消費税率の引き上げ論議が活発なので、「成長率が何%になった」と注目が集まっている。高いのは良いことだ。しかも最近の日本のGDPは人口が減少を始めた中での大幅プラス(先進国の中で最高クラス)だから価値がある。しかし、総人口が1億人を割るような時代環境の中で年間100万人も人口が減るとすると、GDPをプラスにすることはとても難しい。GDPに占める人口の比重が非常に大きいからだ。戦後の高度成長は、急激な人口増加があったからこそ可能だった。考えてみれば、経済は国家にとって重要だが、それ以上にそこに住む国民一人一人にとって大切だと思う。中国はGDPで日本を抜いて世界第2位の経済大国になった。それは国家にとっての一つの力の象徴ではあるが、中国に住む国民一人一人にとってみれば、依然として貧富の格差は大きく、かつ日本の国民一人当たりGDPと比べてみると十分の一に過ぎない。それは「中国は貧しい国である」という国民一人一人にとっての意味合いしかない。例えば、2015年から日本が国全体のGDP統計と一緒に「国民一人当たりのGDPの対前年同期比伸び率」を発表するようになるとする。そのころには、日本の年間の人口減少ペースは30〜40万人になっているかもしれない。その場合、国全体のGDPはマイナスになる可能性が高い。しかし「国民一人当たりのGDPの対前年同期比伸び率」は十分プラスになってもおかしくはない。GDP総体が多少のマイナスでも、少ない人口で割れば、それは前年よりプラスになっていてもおかしくないからだ。地球の人口が爆発的に増えたのは産業革命が始まって以降だといわれる。18世紀以降、生産力が劇的に増え、養える人口が増えたからだ。しかし「今のまま地球の人口が増え続けてよい」という議論をする人は少ない。だとしたら、日本の人口の減少は他国に先立つ大きなトレンドの兆しかもしれない。経済というものを「国家力の観点のみで考える」 ことが正しいのかどうか。それよりも筆者は「一人一人にとっての価値」という観点が必要であり、そのためには「経済統計」の組成に対するポイントの置き方を変えることが一つだと思う。 
 

 

●「人口減少社会は希望だ」 成熟社会に生きる私たちのこれから 2020/4
私たちは人口減少というテーマを、ネガティブな側面だけで捉えていないだろうか。「成長社会」から「成熟社会」へと移行した今、新たに訪れるチャンスについて考える。
厚生労働白書によれば、日本の人口は、2008年をピークに減り続けている。このまま進むと2050年には1億人を切る見通しで、医療・年金・介護といった現行の社会保障システムにも大きく影響する。そのせいか、人口減少と聞くと厳しい未来を想像する人が多い。
そうした世の中の論調に一石を投じたのが、京都大学こころの研究センター 広井良典教授。2019年に上梓した『人口減少社会のデザイン』では、「日本の人口はある程度減少してもよい」と論じ、現代を未来への転換期と捉えて様々な観点から「持続可能な社会」へと進む道を提言している。そこで今回は、広井教授が捉える人口減少社会の本質を伺い、これからの時代にどう向き合うべきかのヒントを探った。
歴史的に見ると、人口が急激に増大した20世紀は特殊な時代
――はじめに、広井先生が「日本の人口はある程度は減少しても良い」と論じられた背景を教えてください。
歴史的に見れば人口が右肩上がりに上昇を続けてきたこの100年間は、むしろ特殊な時代でした。日本の人口は、794年に都が平安京に遷都して以降、ほぼ横ばいで推移していました。江戸時代に入り若干人口は増えたものの、3、000万人程度に落ち着き再び横ばいに。それが明治時代から急激に増加をはじめ、太平洋戦争時に一時的に減少しましたが、戦後の復興と高度経済成長期に再び爆発的に増加。グラフにすると、ほぼ垂直に伸びているような図になります。また、他の先進国と比較しても、私は日本が1億数千万人でなければならない合理性はないと考えています。例えば、イギリス・フランス・イタリアはいずれも人口6、000万人程度で、ドイツは8、000万人。国土の面積が異なるため単純比較はできないものの、1億人を割るから国が維持できなくなるとは必ずしも言えません。
――現代の私たちが人口減少に危機感を覚えるのは、高度経済成長期を前提に考えているからで、大局的に見てみると、むしろ近年の人口規模の方が珍しい状態にあると。
もちろん、減り続けるべきでもないですよ。2018年の日本の合計特殊出生率は1.42。このまま少子化が進めば、若者が少なく高齢者が多い社会構造が続き、様々な問題に発展します。国として出生率を上げる取り組みは必要でしょう。ただ、どんな手を打ったとしても、今すぐ急激に上昇するとは考えにくい。出生率がゆるやかに上昇し、やがて人口が下げ止まって横ばいになる時代を目指しつつ、当面は人口が減少していくことを前提に社会を考えるべきでしょう。
――急激な人口増加が特殊な時代だったと捉えると、むしろ人口が減ることで解消される問題もあるのではないでしょうか。
そうですね。人口減少は、日本が高度経済成長期に生んでしまった"歪み"を解消するチャンスです。たとえば、東京一極集中。地方から東京への人口移動がもっとも大きかったのは1960年代で、"集団就職"という言葉が象徴するように、全国から多くの若者が東京に働きに出ていき、地方は過疎化。現代の地域格差を引き起こしました。この課題に対して、私も参加した日立京大ラボの研究では、AIを活用した「2050年の日本の持続可能性」についてシミュレーションを実施しました。そこでは「社会を都市集中型か地方分散型のいずれに進めるか。それが日本の未来にとってもっとも本質的な分岐点になる」という結果が出ています。それと同時に、格差・健康・幸福度といった観点で見ると、地方分散型の方が望ましいという予測がはじき出されました。このことからも、人口減少時代は都市集中型の社会モデルを見直すチャンスだととらえています。
一致団結で山登りをしていた時代から、山頂の平原で自由に遊ぶ時代へ
――広井先生は、日本が人口増加期に都市集中型の社会を加速させ、高度経済成長を実現したことを、「集団で一本の道を上る時代だった」と例えられています。人口減少時代に突入した今の社会で「多様性」が重視されはじめたことは、この一本道とは真逆の現象ですが、この状況をどうお感じですか。
人口増加期は、「みんなで一致団結して経済的な豊かさを実現する」という時代で、集団で山の頂上へ急いで上るようなものでした。それに対して、人口減少時代はいわば山頂に上った後の時代だと考えられます。山の頂上にたどり着いたのなら、各自が好きなように過ごしても良いし、下り道は360度の方向に開かれており、道は人それぞれですよね。今の日本は、成長社会の先にある「ポスト成長社会」や「成熟社会」とも呼ばれる時代に移行しているのです。「多様性」という言葉が近年よく言われますが、現状は「なぜ多様性が大切なのか」を深く考えないままに動いている印象が強い。周りがそう言っているから、海外ではそうだからと動いてしまうのは、まさしく人口増加時代に一本道を上ることで生まれた"同調圧力"です。「忖度」「空気を読む」などといった言葉が流行するように、今はまだ人口増加時代の価値観から人々が完全には解放されていない、過渡期なのでしょう。
――真に多様性を認め合えるように、私たちの価値観が変わるにはどうしたら良いでしょうか。
希望を込めて言えば、現代の若者たちの「ゆるく繋がる」動きに注目しています。つまり集団の枠を越えて人と人が個人として繋がっていく。家族や学校・会社といった既存の集団だけでない、新しいコミュニティが百花繚乱のように生まれています。家と仕事の往復だけだった人口増加時代とは明らかに異なる動きで、様々なコミュニティに属することは多様な価値観の肯定にも繋がるはずでしょう。また、これは日本とりわけ人口過密な東京都心で顕著な「社会的孤立」を解消するヒントだとも考えられます。
――たしかに、東京は人が多く物理的には近いはずなのに、マンションの住人同士でも挨拶をしないほど繋がりは希薄ですね。
これも人口増加時代が生んだ現象で、なぜなら戦後の日本人が信じてきた心の拠り所は、経済成長ただ1点だったからです。それが、会社の終身雇用が崩れ従来の共同体が流動化したときに、集団の枠を越えて人と共感しあえるような他の心の拠り所を持っていないから、より一層孤立してしまうんです。
――どうしたら集団の枠を越えて繋がれるような心の拠り所を持てますか。
今日本の各地で個人・NPO・企業が連携した地域再生の動きが出ていますよね。彼らは持続可能な社会を実現するためという、従来の利益至上主義ではない思想でコミュニティを形成しています。そうした集団の枠を越えたつながりや拠り所を考える場合に、私は「自然」がひとつのポイントになると思っています。これは、日本で古来より存在していた自然信仰とも共通点が多い。私は「鎮守の森コミュニティプロジェクト」という企画をささやかながら進めていて、「鎮守の森コミュニティ研究所」を運営しています。「八百万(やおよろず)の神様」という発想ですが、いわゆるパワースポットへの関心もあってか、各地の神社などを訪れると、意外にも高齢世代より若者の姿を多く見かけます。人口減少時代とはそうした伝統文化をもう一度発見していく時代でもあると思います。
経済的な豊かさだけを追求しても、結果的に豊かになれない時代
――今のお話にもあったように、SDGsをはじめ「持続可能性社会」への転換の必要性がここ数年で強く叫ばれるようになりました。その一方で、人口増加期の価値観のもとに育った私たちは、分かってはいても経済的な豊さや利便性を優先しがちです。それが人口減少を悲観的にとらえることにも繋がっていると感じるのですが、こうした発想を転換するにはどうしたら良いでしょうか。
人口増加時代に構築された社会モデルのバラドックスを、私たち自身が自覚した方が良いでしょうね。先に挙げた日立京大ラボのAIシミュレーションで、地方分散型が望ましいと導き出された根拠の一つは、全国の都道府県の中で「東京が群を抜いて出生率が低い」という事象でした。つまり、日本のGDPを牽引しているはずの東京が、中長期的には労働人口を減らしGDPを下げる要因になっている。「Japan as No.1」と呼ばれていた時代は、人口が増えていく=生産や消費のパイが自然と増えていくからこそ、大都市にあらゆるリソースを集中させ経済成長を最優先することがすべての問題を解決してくれるという発想でした。しかし、その成功体験はもはや今の時代のお手本にはならないのです。
――経済的な豊かさのみを追求すると、巡り巡って経済が低迷する。一つのゴールに向かってみんなで走ってきた時代とは大きな違いですね。
そうですね。私はそういった意味でも、人口減少時代は個人がのびのびと自由に多様な幸福を追求すべき時代だと考えています。また、人生100年時代と言われていますが、"生涯現役"とは何も一生労働を強いられることではないはず。会社人間という発想にとらわれず、ライフステージの移り変わりとともに各自がいろんな活動に進んでいくような、"ハッピーリタイアメント"がもっと広がってもいいはずです。また学生を見ていても、人口減少時代の若者は都心一極集中の負の側面に気づき、ローカル志向を持つ人が増えています。特に地元志向の強い高学歴層が増えたのは、上の世代との明らかな違いでしょう。かつては都心から地方への移住といえば50〜60代が中心でしたが、最近では20〜30代の希望者が増えています。こうした点を含めて、人生における個人の自由度が広がり肯定されるのが、人口減少時代にあるべき幸福の形ではないでしょうか。 
 

 

●“都市=蟻地獄”だった…江戸時代からみる 日本の人口減退期 2016/12
人口減少時代に入った日本。厚生労働省がまとめる人口動態統計の年間推計でも2016年に生まれた子どもの数が1899(明治32)年の統計開始以来、初めて100万人を割り、98万1000人にとどまる見通しであることが明らかになりました。
過去に日本の人口が減退したときにはどのようなことが起こっていたのか。人口動態の資料が残る江戸時代にスポットを当て、静岡県立大学長の鬼頭宏氏(歴史人口学)が「人口減退期とはどのような?―江戸時代の場合―」をテーマに解説します。
日本列島では、過去に何度か人口が減退する時期があった。縄文時代後半、平安・鎌倉時代、それに江戸時代後半である。人口減少の原因としては、一般に気候変動が指摘される。確かに縄文後半と江戸後半は寒冷期に当たっていた。逆に平安から鎌倉時代にかけての12〜13世紀には、温暖化と夏季の乾燥化が進んだ時代であった。しかし事実はそれほど単純でも明確でもない。むしろ人口減退の真の原因は、それまでの持続する人口増加を支えてきた文明システムの成熟化にあったと考えるべきなのだ。いずれも資源や環境の制約から、人口と経済の量的拡大が困難になった時代であった。そして文明のパラダイムシフトが準備される時代でもあった。今回は、詳しい人口動態を知ることができる江戸時代についてみることにしよう(図1)。
江戸時代の少子化
   [図1]近世の人口循環
縄文時代や平安・鎌倉時代に関しては未だ解明されていないが、江戸時代後半については「少子化」が起きていたことが明らかにされている(図2)。東日本各地の町・村及び関東・東北7県の出生率をまとめた研究によれば、17世紀半ばには一人の女性は5人以上の子供をもったが、18世紀に入ると急激に縮小して4人を割ってしまう。出生数が再び4人以上に回復するのは19世紀後半になってからだった。
   [図2]「東国」の出生率
江戸時代農村の出生率は地域によって大きな格差があった。しかし1700年頃から、全国各地で出生率は著しく低下したことは共通している。江戸時代には乳幼児の死亡率が高かったので、少なくとも4人、できれば5人の子供を生まなければ、家の継承や村落の人口規模を維持することはできなかった。人口が増加していた17世紀には、女性は一人あたり5〜6人は生んでいたのである。それが18世紀になると多くの地域で4人を下回るようになった。授乳期間を延ばして妊娠を防ぐとか、堕胎や間引きなどの手段を通じて出生抑制が行われたと推測される。
出生率を引き下げたのは出生抑制だけではない。各地で女性の晩婚化が起きたこともわかっている。結婚が遅くなったと言ってもせいぜい3年程度だが、子ども数を1人程度は少なくさせる効果があった。
江戸中期から後期は「小氷期」と呼ばれるほどの世界的な寒冷期で、日本では冷害による凶作がたびたび大きな飢饉を引き起こしていた。とくに東北から北関東にかけて、飢饉の被害は大きかった。しかし江戸時代後半に各地でみられた人口減少や増加率の低下は、死亡率の上昇というよりも、出生率の低下が根本的な原因であったことが、シミュレーションからも明らかにされている。
資源の制約・環境の制約
結婚を遅らせたり、子供数を減らしたりした背景には、資源の制約や環境の制約があったと推測される。必ずしも土地がなくなったわけではない。居住地の近隣に適当な土地がなくなったり、開発に高度な技術が必要になったり、コストがかかるようになったりしたのだろう。それに加えて、営農に必要な森林、草地、水などの環境資源が不足するようになったことが出生抑制の原因になったと考えられる。
農村では一般に、経営規模が大きい世帯ほど早婚、多産の傾向があり、子ども数が多くなる傾向があった。経営規模に合わせて子供数を決めていたと考えられる。17世紀は大開墾の時代で、耕地面積は大きく拡大した。子供数は多くても問題ではなかっただろう。しかし17世紀末期から18世紀初期にかけて「分地制限令」が発せられるようになった。耕地を相続する際に、自作農として経営を維持できる最低水準を守るように命じたことは、耕地の相対的不足を物語るものである。子供数をむやみに増やすことは困難になったのだ。
1666年には「諸国山川掟」が発令されている。川筋の森林伐採や新規の焼畑が禁じられ、はげ山への植林が奨励したもので、山林が荒廃しつつあったことが知られる。城郭や神社仏閣の建築のために調達された材木の産地が、1700年になると北は蝦夷地(渡島半島)から南は種子島、屋久島まで拡大したことも、このころに森林資源が制約されるようになったことを物語っている(タットマン『日本人はどのように森を作ってきたのか』)。
農村は食料と原料作物、山林は木材と燃料、海村は水産物と塩、都市は工業生産物の供給、商業、流通、サービスの提供を行うことにより、生態学的に日本列島の閉じた空間の中で活発な市場取引が行われたのが、江戸時代であった。
土地に依存し、しかも事実上の鎖国により資源を国外からの輸入に依存できないという条件のもとで、人口3千万人の徳川日本は8代将軍吉宗の時代に成長の限界を迎えたのである。
地方の発展・都市勢力の交替
江戸時代は市場経済化が進んだ農耕社会である。当然、経済成長にともなって都市化が進んだ。しかし都市人口も全国人口の停滞に歩調を合わせるように頭打ちになった。斎藤誠治氏の調査によると、都市人口は17世紀半ばから18世紀半ばまでは大きく増加したが、19世紀半ばにかけて減少している。その間、農村人口は17世紀にはおよばないものの、増加を続けた(斎藤誠治「江戸時代の都市人口」)。
   [表1]江戸時代の都市人口
江戸時代後半に起きた都市人口の停滞には、主に2つの理由があったと考えられる。
第1は都市環境である。都市=墓場説、あるいは都市=蟻地獄説と呼ばれる現象が存在した。都市の衛生環境が農村より格段に悪く、通常の年でも農村部より死亡率が高かったことである。天然痘、麻疹、結核、インフルエンザ、下痢・腸炎、梅毒などが蔓延しやすく、幕末にはコレラが何度も襲った。過密な居住環境とともに、消毒されていない水道が感染症の温床になっていた。
また現在と同様に、都市では家族を持つことが困難であり、出生率は農村より低かった。しばしば死亡率は出生率よりも高く、20世紀に近づくまで都市部では自律的に人口を維持することが難しかった。そのため都市人口を維持するためには、常に農村部からの人口流入に頼るほかなかった。その結果、大都市の存在は、地域人口を抑制する機能を果たすことになった。
第2に江戸・大坂・京都の三都と多くの城下町で人口停滞が顕著だったが、地方都市ではわずかながら増加していた(図3)。その理由は経済発展の停止ではなく、反対に17世紀とは異なった経済発展の結果としてみることができる。
   [図3]都市人口の変化
経済史家のトーマス・スミスの調査によると、三都を含む多くの城下町で、江戸時代後半に人口規模を縮小させたが、人口が激減した都市の多くは、当時の経済先進地域である畿内・瀬戸内海地方に集中していた(スミス「前近代の経済成長―日本と西欧―」)。また三都のうち大坂と京都の人口減少が大きかった。都市の規模別分布の変化を見ると、1750年から1850年にかけて、既存の大都市では人口が停滞したが、1万人未満の地方都市では都市的発展が起きていたことがわかる。このような変化の背景には、17世紀とは異なる地域間の経済循環構造への転換と、経済発展の内容に変化が生じたことが指摘されている。
新たな成長の始動
農村人口と都市人口の変化が物語るのは、江戸時代後半における新たな経済発展への転換である。18世紀前期までの経済成長は、耕地拡大と土地生産性の上昇による農業発展が中心であった。それは土地によって強い制約を受けたので人口は停滞に向かわなければならなかった。市場経済の浸透と拡大によって都市的発展は起きたが、非食料生産人口である都市人口は農業生産によって制約されたので、やがて都市人口も頭打ちになったと考えられる。
18世紀半ばから総人口は停滞的になったが、必ずしも経済成長がなかったわけではない。「プロト工業化」と呼ばれる、農村を舞台にした非農業生産活動が活発化したのである。18世紀に入って、海外に頼らざるを得なかった白糸(絹糸)や砂糖の輸入が制限されると、それを国内で生産することが奨励されるようになった。木綿、アブラナなどの原料生産だけではなく、農民がみずから綿糸、綿布、種油の加工を行うことも盛んになった。酒や味噌、醤油などの醸造、製紙も活発に行われるようになり、各地に特産物が生まれた。
農民自身が加工や流通に副業、兼業として携わるようになると、家計所得を拡大させることができた。地方では問屋、金融業者、流通業者などが集まる、在郷町とよばれる人口数千人程度の町場が形成されるようになった。一方、地方の経済活動が活発化して地方市場間の直接的な取引が盛んになると、経済先進地帯であった大坂や京都は、加工や商品の入荷が減少して中央市場としての機能が低下し都市の衰退につながった。ただし江戸は参勤交代制度によって50万とも60万とも言われる武士人口が幕末まで住み続けたので、大きな衰退は起きなかった。むしろ経済後進地域であった関東農村で、江戸向けの繊維、醸造業が活発化することによって、新たな中央市場として成長していった。
ではどうして江戸時代後期の経済発展はすぐに人口増加に結びつかなかったのだろうか。ひとつの回答は、農村工業の経営の特徴にあった。多くの地域で、養蚕、紡績、織布を中心に、労働力となったのは農家の子女であった。かれらは耕地が少なくても非農業に従事することで生活することができた。家計にとっても貴重な稼ぎ手となったので、むしろ結婚が遅れる傾向が出てきた。それでも出生率はじわじわと上昇していき、18世紀半ばの開港前後には17世紀後半の水準に回復した。幕末から明治初期にかけて、人口は着実な上昇に転じた。新たな人口波動の始まりであった。
2015年、23の構成要素からなる「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産に登録された。これら多くはその起源を開港以前まで遡ることができる。欧米の生産技術の模倣によって近代化の試みが他のアジア諸国に先駆けて実現した背景には、広く農村で展開していた工業化の経験があった。資本蓄積、経営能力、読み書きそろばんのリテラシーの普及、労働規律などが培われていたことを見逃すことはできない。産業文明を受容する準備は、人口減退の18世紀に、すでに始まっていたのである。
 

 

●人口減少期を迎えた日本 2007/7
毎年74万人が消えていく!
日本の人口問題を語るとき、2005年は一つのターニングポイントとして長く人々に記憶されるだろう。この年、厚生労働省が人口動態統計をとり始めてから、初めて日本は人口の自然減を体験したからだ(1941年から1943年までは統計がない)。
統計によると、出生数と死亡数の差である自然増加数は2004年がプラス8万2119人であったのに対し、2005年はマイナス2万1266人であった。国勢調査でも、2005年10月1日現在の総人口は1億2776万8000人で、前年を約2万20000人下回っており、日本が人口減少時代に突入したことを裏付けている。少子化の影響で日本がいずれ人口減少に転じることは、以前から予想されていた。しかし、当初は2006年が"減少元年"になるとみられていた。現実はその予測を追い越し、1年前倒しにしてしまったのである(図1)。
   図1 総人口の推移
ではこれから日本の人口はどうなっていくのか。国立社会保障・人口問題研究所は2006年12月、新たな人口推計を発表した。合計特殊出生率の見方で高・中・低という三つの仮定に基づく推計をしているが、中位の推計では日本の人口は2030年に1億1522万人になり、2050年には1億人を切って9515万人になるとしている。今後44年間で3260万人減るということで、1年平均にすると約74万人になる。これは静岡市の人口よりやや多い数になる。人口が減っていくと聞いてもあまりピンとこないかもしれないが、これから先は、静岡市規模の都市が毎年一つずつ減っていくようなものと聞けば、事の重大さを実感できるのではないだろうか(図2)。
   図2 総人口の推移―出生中位・高位・低位(死亡中位)推計
実は人口が減っていくのは日本だけではない。米国を除くと多くの先進国が今後、人口減少時代に入っていくとみられている。イタリアやロシアはすでに減り始めているし、ドイツやフランスも出生率が低下して、早晩、人口減少局面に入るのは確実だ。また人口の減少は必ずしもマイナスではなく、プラス面も大きいという楽観論もある。通勤ラッシュが緩和される、道路の渋滞が減少する、住宅面積が広くなる等々で、要するに今よりゆとりのある社会になるということだ。欧米と比べて日本人が豊かな暮らしを満喫できないのは、狭い国土に密集して暮らすために、不動産など居住にまつわるコストが必要以上にかかり、余暇や遊興にお金を回しにくいことが一因だという主張もある。人口が減ってエネルギー需要が減少すれば、環境面ではプラスに働くかもしれない。人口1000万人以上の国では、日本の人口密度は世界第4位。たしかにこの国は人が多すぎる。
経済規模もダウンサイジング
しかし経済成長率は、労働者数の増減率と労働生産性の上昇率によって決まるので、労働力人口の減少は経済成長率にマイナスの影響を及ぼす。1人当たりの労働生産性が現状のまま推移するとすれば、GDP(国内総生産)は確実に縮小していくことになるはずだ。すでに日本の労働力人口(15〜64歳の人口)は1998年から減り始めている。しかも今後はただ減っていくだけではない。出生数の減少により若年労働者は減りつつある。労働力人口はどんどん高齢化しながら減っていくことになる(図3)。
   図3 労働力人口の推移と見通し
人口が減っていけば当然、マーケットも縮小していく。人口増加→モノ・サービスの普及→市場拡大、というこれまでのようなマーケティングは通用しなくなる可能性がある。経済的な需給面からみると、人口の減少に伴って食糧、衣料、住宅などを中心に商品への需要が数量ベースで減少することが予想される。特に子ども関係の商品や若年層向けの商品は競争が一段と激化していくことになりそうだ。高齢者向けの商品やサービスは多様化し、参入企業も増えていくのではないだろうか。年金も税金も支払う人間が減っていくのだから、今の生活レベルを維持しようとすれば一人ひとりの負担は重くならざるを得ない。
日本の総人口は減少し始めているが、東京の人口は増えている。2005年の場合、神奈川、愛知、大阪、埼玉、千葉なども人口は増えている。こうした不均衡な人口構成そのものは問題だが、視点を変えれば都市型のビジネスや大都市の消費マーケットをターゲットにしたビジネスはこれからさらに発展する可能性が高いともいえる。
大手百貨店の大丸と松坂屋は統合を目指している。イオングループとダイエーも資本・業務提携することを正式に発表した。こうした大企業同士が連合を決断した背景には、人口の減少があるといわれる。消費マーケットの縮小による競争の激化に備え、規模の拡大による体力強化を図ろうというのである。人口減少時代には業界再編が進むということもあるかもしれない。人口の減少が日本の社会にどのようは影響を与えるかはまだ不透明な部分も大きいが、ビジネス社会においてこれから新しい経営戦略、新しいビジネスモデル、新しいマーケティングが求められるようになることは間違いない。
 
 
 
  
 

 


 
2021/11
 
 
  

 

生産年齢人口とは? 労働力人口と何が違う? 日本の現状 2020/3  
●1.生産年齢人口とは?
生産年齢人口とは、生産活動の中心にいる人口層のことで、15歳以上65歳未満の人口がこれに該当します。日本国内の生産年齢人口は1990年代がピークで、それ以降は減少傾向が続いており増加の見込みもないのが現状です。また、生産年齢人口のうち、労働の意思と能力を持ついる人口を労働力人口と呼びます。
15歳以上65歳未満の生産活動の中心にいる人口のことを生産年齢人口といい、1990年以降は減少傾向にあります

 

●2.労働力人口とは?
労働力人口とは、労働の意思と労働可能な能力を持った15歳以上の人のこと。就業者と完全失業者の合計からなりますが、生産年齢人口から非労働人口を差し引くことでも算出できます。非労働人口とは専業主婦、学生など労働能力はあってもその意思を持たない人、病弱者・老齢者など労働能力を持たない人のこと。日本における労働力人口の基礎的な統計として、国勢調査や毎月実施されている労働力調査が挙げられます。
労働力人口の内訳
総務省が行っている労働力調査では、労働力人口の内訳が定められています。具体的な内容を見ていきましょう。
   就業者
就業者とは、「従業者」と「休業者」の合計です。総務省統計局によると、従業者と休業者は以下のように説明されています。
従業者:調査週間中に賃金、給料、諸手当、内職収入などの収入を伴う仕事(以下「仕事」という。)を1時間以上した者。なお、家族従業者は、無給であっても仕事をしたとする
休業者:仕事を持ちながら、調査週間中に少しも仕事をしなかった者のうち、雇用者で、給料・賃金の支払を受けている者又は受けることになっている者
   追加就労希望就業者
追加就労希望就業者とは就業者のうち、次の4つの条件に該当する人のことです。
1 就業者である
2 週35時間未満の就業時間である
3 就業時間の追加を希望している
4 就業時間の追加ができる
追加就労希望就業者が従事する産業は、卸売・小売業、飲食店、サービス業、製造業の4業種が特に多く、職業別に見ると、サービス、販売、事務などが多数を占めているのです。ここから、追加就労希望就業者の多くはパートタイム労働の主婦などで構成されていると考えられます。
   完全失業者
次の3つの条件に当てはまる人たちを、総務省は完全失業者と定義しています。
1 仕事がなくて調査週間中に少しも仕事をしなかった(就業者ではない)
2 仕事があればすぐ就くことができる
3 調査週間中を含む1カ月間に仕事を探す活動や事業を始める準備をしていた(過去の求職活動の結果を待っている場合を含む)
また関連して、完全失業率とは、労働力人口(就業者と完全失業者の合計)に占める完全失業者の割合のことで、以下の計算式で求められます。
失業率(完全失業率)=(完全失業者÷労働力人口)×100
非労働力人口
非労働力人口は、15歳以上でかつ「就業者」と「完全失業者」以外の人を指し、労働意欲を軸に次の3つに区分されます。
• 就業希望者 : 就業を希望している者
• 就業内定者 : すでに仕事が決まっている者
• 就業非希望者 : 就業を希望していない者  
   潜在労働力人口
「潜在労働力人口」とは、非労働力人口に分類される人たちのうち、拡張求職者と就業可能非求職者のいずれかに該当する人たちのことです。
   拡張求職者
拡張求職者は、以下の2つの条件に該当する人たちのことです。
1 1カ月以内に求職活動を行っている
2 ただちに就業できるわけではないが、少し後(2週間以内)に就業できる
これらの人たちは、失業3要件といわれる「就業していない」「求職活動を行っている」「就業可能である」のすべてに該当するものではないため、日本においては失業者として扱われず、潜在労働力人口のひとつとして数えられているのです。
   就業可能非求職者
就業可能非求職者とは、次の3つの条件を満たしている人のことです。
1 すぐに働くことができる
2 仕事を始めるための活動を1カ月以内に行っていない
3 仕事をしたいと思っている
2018年に総務省が行った労働力調査によると、このような就業可能非求職者は日本国内で33万人に上ることが分かっています。また、求職活動を行っていない理由を「出産・育児のため」「介護・看護のため」とした人が多いことも判明しました。

 

●3.生産年齢人口の推移と割合、予測
少子高齢化が急速に進展した結果、日本では2008年をピークに総人口が減少しており、未曽有の人口減少時代を迎えています。国立社会保障・人口問題研究所の将来推計によると、生産年齢人口(15歳〜64歳)を見ると2017年時には7、596万人(総人口に占める割合は60.0%)いたものが、約20年後の2040年では5、978万人(53.9%)まで減少すると推測されているのです。今後は、経済規模の縮小や労働力不足、国際競争力の低下や社会保障制度の給付と負担のバランスの崩壊など、さまざまな課題の深刻化が懸念されます。
出生数の減少が進む日本
少子化が加速する日本では、出生数の減少は今後も進むと推測されています。2050年には日本の総人口は1億人を下回ることが予測されており、そのような中で、2065年には出生数が56万人になるとの見込みになっているのです。また、人口構成も変化しています。1997年には65歳以上の高齢人口が14歳未満の若年人口の割合を上回るようになり、2017年には3、515万人、全人口に占める割合は27.7%と、高齢者増加の一途をたどっています。これにより生産年齢人口は2029年時点で7、000万人を切るといわれているのです。
少子高齢化に伴い、生産年齢人口減少の問題が加速化しています。この対策は日本にとって急務といえるでしょう

 

●4.生産年齢人口が減少した原因
高齢化が進む中、出生数の減少により生産年齢人口が減少しています。なぜ出生数が減ったのでしょうか。そこにはさまざまな要因が複雑に絡み合っていると考えられます。「女性の社会進出に伴い、仕事と家事の両立が難しく結婚や出産を諦める女性が増えている」「男女共に結婚する気がない人が増えている」「非正規雇用の増加によって収入が不安定な人」が増えているのです。中には、「お金がなくて結婚できない」「子育てできるほどの余裕がない」と考える人もいるとされています。
生産年齢人口が減少した原因はさまざまで、それぞれ複雑に絡み合っています。東京など人口が集中している大都市が子育てに適した環境ではないことも、理由のひとつと考えられるでしょう 。

 

●5.生産年齢人口の減少で起こる問題、影響
今後生産年齢人口が減ることで、どのような社会的・経済的な問題が起こると考えられるのでしょうか。
経済の成長が鈍くなる
人口の減少に伴って人手不足がさらに深刻化することは想像し難くありません。現在でも社会問題として取り沙汰される「人手不足倒産」などの増加も見込まれます。倒産までいかずとも、業績は低下しやすくなるため日本全体の経済成長が鈍くなると想定されます。さらに人口そのものの減少によって、働き手だけではなく買い手、すなわち消費者の数も減り、日本経済全体の縮小につながると考えられているのです。
地方の過疎化が進む
地方の過疎化が進むことも懸念されています。地方での人口減少は、産業の衰退や伝統文化が継承できないなどさまざまな問題が勃発することが予想されるのです。今すでに問題視されている学校の閉校、農林水産業の衰退や森林・農地の荒廃、商業・商店街の衰退などにより、地域住民の生活に不可欠な生活サービスの確保が難しくなると考えられます。また、高齢者増加に伴い医療や介護などのニーズが増大することも予測されますが、サービスを担う人材が追い付かなくなる可能性も高いでしょう。
社会保障制度の保持が難しくなる
人口が減るということは、すなわち社会保障を支える人口も減るということ。高齢化に伴って年金・医療・介護等の社会保障支出は伸び続けており、今後も増大が見込まれています。財源は保険料と税により賄われている社会保障給付費ですが、このまま人口が減少し少子高齢化がさらに進めば、現役世代(生産年齢人口)の全世代に占める割合がますます減少するでしょう。そして増え続ける社会保障給付費を賄えるだけの保険料収入や税収の確保が困難になると考えられます。
生産年齢人口が減ることで、経済の縮小、地方の過疎化、社会保障制度の崩壊などさまざまな問題が起こると想定されます。

 

●6.生産年齢人口の対応、対策、対処法
生産年齢人口の減少に対して、国や社会が行うべき対策や対処法はどのようなものがあるのでしょうか。
次世代を育てる
次世代育成のためには、まず親となる世代の就労、育児の両立や家庭における子育ての支援など、子育てしやすい社会・街づくりを進めることが肝要です。子どもの教育や医療はもちろんのこと、子どもそのものを増やすための施策も必要でしょう。これは子どもを産みたいが収入的に迷っている人の支えとなるような施策が考えられます。将来を担う子どもの育成と同時に、子育て世代の教育面での不安感や経済的な負担の軽減が重要です。
人材の成長
少子化が進む中、今後はさらに自立した人材の確保が重要視されます。政府は、そのような人材の礎は基本的には初等・中等教育段階で築かれるものであるとし、教員の指導力や実践力などの衰退、子どもの学力・思考力の低下など、教育現場が抱える問題の解決に向けて取り組みを進めているのです。このようにすべての人材の育成を考慮しているため、生産年齢人口が減っても人材の能力は底上げされるでしょう。さらに、外国人を含めた世界中の成長能力を取り込むことも必要と考えられています。
女性の活躍
女性や若年者、高齢者、障害者など、潜在的な労働力を秘めた人材への見直しが進められているのです。特に重要な戦力である女性がその能力を最大限に発揮し、活躍の場を広げていくことは生産年齢人口を取り巻く問題の突破口として欠かせないとされています。女性活躍推進法のもと、女性の活躍を推し進めることが必要と考えられますが、日本では依然として家庭と仕事の両立など、さまざまな問題からキャリアを断絶せざるを得ない女性が多いです。これらの対策にも取り組む必要があるでしょう。  

 

●生産年齢人口・労働力人口・就業者数の推移
           生産年齢人口 
           15-64歳人口   労働力人口   就業者数

1985年

8、231

5、963

5、807

1986年

8、315

6、020

5、853

1987年

8、395

6、084

5、911

1988年

8、478

6、166

6、011

1989年

8、552

6、270

6、128

1990年

8、609

6、384

6、249

1991年

8、654

6、505

6、369

1992年

8、670

6、578

6、436

1993年

8、692

6、615

6、450

1994年

8、697

6、645

6、453

1995年

8、697

6、666

6、457

1996年

8、686

6、711

6、486

1997年

8、697

6、787

6、557

1998年

8、689

6、793

6、514

1999年

8、676

6、779

6、462

2000年

8、655

6、766

6、446

2001年

8、624

6、752

6、412

2002年

8、576

6、689

6、330

2003年

8、540

6、666

6、316

2004年

8、512

6、642

6、329

2005年

8、462

6、651

6、356

2006年

8、404

6、664

6、389

2007年

8、333

6、684

6、427

2008年

8、276

6、674

6、409

2009年

8、209

6、650

6、314

2010年

8、170

6、632

6、298

2011年

8、149

6、596

6、293

2012年

8、055

6、565

6、280

2013年

7、939

6、593

6、326

2014年

7、831

6、609

6、371

2015年

7、740

6、625

6、401

2016年

7、665

6、673

6、465

2017年

7、604

6、720

6、530

2018年

7、552

6、830

6、664

2019年

7、510

6、886

6、724

 

●労働力人口
15歳以上の人口に労働参加率を掛けたもの。日本の労働力人口は1960年代の後半に5000万人を超え、98年に6793万人となった後は減少し始めていたが、2006年には6657万人となり前年より7万人増加した。男女別に見ると、男性は前年と比較して3万人減少、女性は9万人もの増加が記録された。変動パターンを年率ベースで見ると、60〜80年には年率1.3%で増加したが、80年代には1.1%、90年代に入ると0.8%となり、増加ぺースが鈍化している。これは主として長期的出生低下に加え、若年層での労働参加率の低下による影響だ。さらに、バブル経済の崩壊やリストラの影響で労働需要が減少したが、近年の景気回復や女性の職場進出によって98年以降連続的に減少傾向にあったが、05年、06年と増加傾向を示している。労働力の中での就業者数(失業者を除いた数)も増加し、産業別構成が変化している。50年には50%近くの人が第1次産業に就業していたが、06年ではわずか4.3%まで低下、75年以降、就業者の半数以上が第3次産業に従事している。第2次産業は75年の34.1%をピークに近年減少傾向にある。これら就業者の平均年齢は確実に上昇し、その上昇ぶりが産業間で著しい相違を見せている。産業計では、73年から06年で34.9歳から41.0歳へ6.1歳も上昇、鉱業が全期間を通じて最も高くなっており、製造業においても労働力の高齢化が急速に進行している。また、06年には労働力人口の中の完全失業者数は275万人、失業率は4.1%で、前年に比べ失業者数は14万人の減少、失業率も0.3ポイント低下。年齢別で見ると15〜24歳が最も高く、次いで25〜34歳となっている。特に、男性の15〜24歳は8.8%と高く、次いで25〜34歳が5.2%となっている。
労働力は、一国における働く意思と能力を持つ人々が供給できる労働サービスの総量を人数表示したもの。統計調査上の概念として、「労働力調査」(総務省統計局)では、15歳以上の人口のうち就業者(休業者も含む)と失業者の合計を指す。具体的には、労働力調査期間である毎月末の1週間に就業、休業あるいは求職中であった15歳以上の人口。15歳以上で働く意思や能力のない者、病弱者、学生、専業主婦などは非労働力人口とされる。2006年の日本の労働力人口(年平均値)は、6657万人。
15歳以上の人口から、通学者、家事従事者、病弱者、高齢などで生産活動に従事しないなどの非労働力人口を差し引いた人口。いいかえれば、働く意志と能力をもつ人口のこと、また、就業者と完全失業者とをあわせたものでもある。生産年齢人口に占める労働力人口の比率を労働力率(日本の2013年平均59.3%)といい、それは所得水準、人口年齢構成(高齢化など)、進学率、社会保障制度(厚生年金など)、女性の社会進出の度合いなどに左右される。また、労働力人口に対する失業者の比率が失業率(2013年平均4.0%)である。これらの統計は、国勢調査および労働力調査(総務省)が提供する。
15歳以上で、労働する能力と意思をもつ者の数をいう。 15歳以上の人口を生産年齢人口 (14歳以上 64歳までをいう国もある) というが、そのなかには主婦、学生など労働能力はあってもその意思をもたない者、あるいは病弱者、老齢者など労働能力をもたない者も存在する。こうした層を非労働力人口といい、労働力人口は生産年齢人口から非労働力人口を差し引いて得られる。したがって労働力人口には失業者も含まれる。日本における労働力人口の基礎的な統計としては、国勢調査および毎月実施されている労働力調査がある。
労働力人口とは、労働に適する15歳以上の人口のうち、労働力調査期間である毎月末の一週間に、収入を伴う仕事に多少でも従事した「就業者」(休業者を含む)と、求職中であった「完全失業者」の合計を指します。一国における働く意思と能力を持つ人の総数であり、国の経済力を示す指標の一つとされます。
総務省統計局(もと総理府統計局)の労働力調査で使われる人口区分の一つ。総人口を満一四歳以上と一三歳以下に分け、一四歳以上をさらに労働力人口と非労働力人口に分ける。労働力人口とは経済的活動に結びつく人で、就業者(休業者を含む)と完全失業者との合計。
労働の意思と能力をもっている人口。日本の労働力調査(1946年以降総理府が毎月発表)では、生産年齢人口のうち、就業者(休業中の者を含む)と完全失業者の合計をいう。生産年齢人口−労働力人口を非労働力人口という。
15歳以上の人口のうち、就業者と完全失業者の合計。
15歳(義務教育終了年齢)以上の人口を生産年齢人口と呼ぶが、このうち労働の意思と能力をもっている人口を労働力人口という。したがって労働力人口は、意思と能力をもち実際に労働に従事している就業者と、意思と能力をもちながらなんらかの事情により就業できずにいる完全失業者の二つに分けられる(〈失業人口〉〈就業人口〉の項参照)。労働力人口を把握する方法、調査としては、労働力調査(毎月)、国勢調査(5年に1度)のように調査期間中における状態でとらえようとする労働力方式あるいは現在方式(アクチュアル方式ともいう)と、就業構造基本調査(3年に1度)のように調査時点を離れて平常の状態でとらえようとする有業者方式あるいは平常方式(ユージュアル方式)の二つがある。
…この労働力調査によれば〈完全失業者〉とは、(1)仕事がなくて、調査週間中に少しも仕事をしなかった者のうち、(2)就業が可能でこれを希望し、(3)かつ仕事を探していた者、および仕事があればすぐに就ける状態で過去に行った求職活動の結果を待っている者、と定義されている。簡単にいえば、収入を伴う仕事をしていれば就業者、仕事がなく、これを探していれば失業者、仕事もせず、探してもいなければ非労働力人口として分類される。そして就業者と失業者が生産年齢人口(日本の場合は義務教育を修了した15歳以上人口)のなかで労働力人口を構成している。…  
 
  
 

 

近世中期の人口減少と少子化対策
江戸時代中期は、全国的に人口数が停滞しており、特に東北地方の太平洋側ではそれが顕著であった。 このため、藩など地域レベルにおいて、現代と同様に労働力人口の増加策が必要と考えられた。 社会増加面からは他領からの移入を図った。 そして、自然増加面からは出生数の増加、あるいは堕胎・間引きの禁止を目的として 「赤子養育仕法」 を実施した。赤子養育仕法は、藩からの御用金と豪商からの拠出金を基金とし、これを運用した利子を用いた。 運用では、仕法の目的に添い、出生数を上昇させるような貸出策を講じた。 施策の効果の程は定かではないが、自然増加を伴う人口増加は、最終的には地域レベルでの経済水準の上昇によって可能となったといえる。
●T 女性労働と出産
1 労働強度・栄養水準と妊孕力
現在、「少子化」 が問題とされる中で、よく、「昔は子どもが多かった」 という意見を耳にする。だが、その場合の 「昔」 とは、人びとが実体験している時期か、あるいはその父母が体験している「昔」 あたりではないだろうか。 しかし、もう少し時代をさかのぼってみると、意外に一夫婦あたりの生存子ども数は多くなかった。 たとえば、近世東北地方における 1 人の女性の出産子ども数は、現代の合計特殊出生率 1. 29 と比べると高いものの、3 人から 4 人程度であった1) (表 1)。 そして、このうち成人まで生き残った者となるとさらに少なくなり、家系の維持さえ困難な場合もあった。このような低出生力の背景には、女性が家事ばかりではなく、農作業などにおいても労働力として活用されており、さらに、栄養水準も高くなかったために流産が多かったり、妊孕力が低くなったりしたことが影響していると考えられている。
2 労働・社会環境と出産
今回具体例として取り上げる陸奥国安積郡 (二本松藩に属する) の農村の場合には、結婚後に奉公 (一般には、住み込み労働) に出る者も多く、その場合には出産子ども数が抑えられたと思われる。この地域では、天保飢饉 (1833-36) 後の 1840 年代あたりから出産子ども数が増えており、人口が増加傾向となっている。 これは、養蚕業の制限緩和など藩政改革の影響により、村レベルでの地域の経済状況が向上したことによる。 すなわち、農村から外へ奉公に出なくても人びとが暮らしていけるようになった。 そして、夫婦が共に暮らせるようになったことにより、子どもを持つ機会が増え、家計上も育てていけるようになった。
●U 江戸時代における人口趨勢
1 幕府調査国別人口表
近世における日本全国の人口趨勢は、「幕府調査国別人口表」 によって、知ることができる2)。それまでも、地域ごとの人口調査は存在したが、八代将軍徳川吉宗は享保 6 (1721) 年に全国の国別人口調査を始めた。 これは、それまで国別に行ってきた人口調査の結果を、幕府に報告するように命令したものである。 2 回目の調査である享保 11(1726) 年からは、6 年ごとの子午の年に、弘化 3(1846) 年まで調査が行われた。 しかしながら、この数字には、武士人口などが含まれておらず、藩による相違がある。 たとえば、8 歳以下の子どもは含まれていない藩も存在する。
これによってみると、享保 6 年が 2600 万人 (武士・公家や前述した子どもなどの除外人口分、約 500万人を加えると 3100 万人)、弘化 3 年が 2690 万人であるから、120 年間に 90 万人と、ほとんど人口は増加していないに等しい (図 1)。 近世中期におけるこのような人口停滞は、環境破壊を押しとどめたり、文化的な繁栄をもたらしたりするなどの利点も持ったが、現代と同様に人口停滞を 「危機」 と考える人びとも存在した。 そして、そのような人びとによって人口増加策が思案された。
残念ながら、幕末期、弘化 3 年から明治 5(1872) 年までの人口趨勢は得られない。 しかしながら、この間の人口趨勢はミクロレベルの史料から推察することが可能である。 すなわち、各地域に残された宗門人別改帳などの人口が判明する史料によって、村や町ごとの人口趨勢を追っていくのである。
   表 1 合計特殊出生率
2 人口増減の地域差
前述のように、全国人口は近世中期において停滞していたといわれていた。 しかしながら、これを地域別に分けてみるとかなり多様であることが、速水融氏によって指摘されている3)。 すなわち、東北から関東地方にかけては減少ないし停滞、中央日本では停滞、北陸地方および西日本南では増加となっている (図 2)。
   図1 江戸時代の人口趨勢
   図2 1721─1846年の人口増加率
●V 陸奥国二本松藩における人口趨勢
1 二本松藩全体の人口趨勢
さて、ここで地域を絞り、陸奥国二本松藩の人口をみていきたい。 この地域は、人口に関する近世史料 (人別改帳) が長期にほぼ毎年残存する町村が存在し、歴史人口学的研究が国際的にも進んでいる。 もちろん、史料が残存するということ自体が、この地域の特徴に由来することは認識する必要がある。 すなわち、史料の連続性およびそれが残存するという点においては、制度上の利点があった。 具体的には、猪苗代湖南の地方などの若干の村替を除いては、基本的に丹羽氏の支配が寛永 20 (1643) 年から幕末まで続き、領主の移封が行われなかったこと、町村レベルでも役人 (名主)の交代が少なかったために、村控えの史料が残存していることなどである。 また、人口に関する調査が行われていたことの背景としては、郡山町などの町場を除き、藩全体では人口減少に悩まされていたこと、その問題を領主レベルの者が重要と考えていたことなどがある。
さて、図 3 をみると、天明の飢饉 (1781-89)で人口が減少している。 この時、領内人口は 7 万5000 人強から約 1 万人減少し、6 万 5000 人程度となった。 天明の飢饉の原因は冷夏であり、東北地方の太平洋側での被害は大きかった。 藩政府は、人口増加施策と経済の立て直しとの必要に迫られた。 為政者は、人口に関して、移入者数から移出者数を減じた 「社会増加」 と、出生者数から死亡者数を減じた 「自然増加」 との両面で施策を立てた。 また、経済的にも、従来は米作の妨げになるという理由で取り締まってきた養蚕業を認めるなど、方向を転換して対策を講じた。 地域レベルでの経済水準の向上が人口施策とあいまって、やがて 19 世紀の第 1 四半世紀を過ぎたころから、二本松藩の農村地域では徐々に史料に記録される出生者数も増え、人口数の回復が始まった。
2 都市と農村の差
次に、二本松藩内の町村レベルにおける人口趨勢をみていこう。 二本松藩は北部の安達郡と南部の安積郡とから構成される。 町村レベルでは、人口趨勢が多様であったことを確認するために、ここで安積郡の下守屋村と郡山上町を比較してみたい。 人口趨勢からは、下守屋村で人口が減少傾向にあるときにおいても、郡山上町では人口が持続的に増加していることがわかる。 これは、主として社会増加によるものであり、自然増加に関しては大きな差はみられない。 社会増加が常に増加を続けるというのは、労働需要の存在する町場の特徴である。 また、近世においては、天明の飢饉、天保の飢饉などによって人口が大きく減少する。ただし、これは死亡数が増えたということばかりではなく、飢饉時には出産数が減少することによる。 なお、この地域の村の中には養蚕業で栄えたところがあり、このような村は、純農村とは若干異なり町場に近い人口趨勢を持つ可能性が明らかにされつつある。
   図3 二本松藩領内人口
●W 近世の人口増加施策 赤子養育仕法
1 赤子養育仕法とは?
近世における税 (年貢) は、個人や世帯単位にではなく村にかけられていた (村請制)。 だが、村の中において、税は高持百姓が応分に負担し、さらに、持高の無い水呑百姓も小作などの形態で農地を耕作し、税の元となる米などを生産する必要があった。 すなわち、農地を耕す人手が存在しなくなると、領主も困窮に陥ることになる。 そこで、領主側としても、領民の減少に対して策を講ずる必要性があるという認識を持つことになる。
二本松藩では、藩全体の人口減少をくいとめるため、いくつかの人口増加施策が考えられた。 人口増加を達成するためには、社会増加と自然増加との 2 つの手段がある。 社会増加面では 「越百姓(他領からの引越百姓) の奨励」 を行い、領地以外からの人口移入を図った。 そして、自然増加面では 「赤子養育仕法」 を採用したのである。 東北地方一帯では、子どもに恵まれても、経済的事情などから育てられない人びとが堕胎や間引きなどの手段によって、子どもを持たないことを選択するといわれてきた。 そして、それを食い止めるためにとられたのが、この赤子養育仕法であった。 因みに、幕府からは明和 4 (1767) 年に堕胎・間引きを行わないようにという触れが出されている5)。
赤子養育仕法は、東北諸藩のように出産子ども数に応じて米や金などを支給するという 「出産奨励策」 である場合と、岡山地方で見られるように、堕胎や間引きに罰則を課すなどの 「出産取締まり策」 である場合とがあった6)。 また、赤子養育仕法は藩の施策であると同時に、実務は村役人レベルもかなり担うという、町村レベルの施策でもあった。 二本松藩で赤子養育仕法が行われたのは、他の地域よりもかなり早く延享 2 (1745) 年のことであった (表 2)。 そして、天保 3 (1832) 年までの数次にわたり、改正された。
   図4 郡山上町と下守屋村の人口趨勢
   表2 東北・北関東諸藩での赤子養育仕法開始時期 (年代順)7)
施策は、兄姉の数やその年齢、母親の状態 (存命か否か、奉公中か否かなど) に従って細かい規定が設けられ、必要に応じて改正が行われた。 二本松藩では、天明 6 (1786) 年に藩政改革の中で赤子養育仕法にも大きな改正が行われ、右のように定められた15)。
この施策においては、対象者にいわゆる 「所得制限」 がある。 具体的には奉公人を雇っている場合には、給付しないというものである。 しかしながら、この天明 6 年の施策では、「奉公人がいても貧しい者もあるだろうから、その場合は手当を与える」 と受給対象に緩和傾向が見られる。 しかし、奉公人を 2 人以上雇っている場合にはどのような場合であっても給付しない、と付け加えることも忘れていない。 また、奉公人を雇っていなくても裕福な者には与えない、とも定めている。 ただし、裕福かどうかの判定は 「村役人が吟味の上、その子細を別紙で申し立てるべし」 とされていた。さらに、手当の効果の箇所で後述するが、天明 6年の手当からは、奉公中の女性が出産した場合には並の手当よりも高い手当を支給することや双子の場合も高い手当を支給する17) など、養育の困難さに応じて高額の手当を支給するように定められていた。 また、対象者は原則として領民であるが、他領からの移入者についても移入 4 年目からは手当を支給した。 しかしながら、領民が養子として呼びよせた者の子どもについてはすぐに手当を支給すると規定されていた。
また、対象となる子ども数については、子どもを養子に迎えたために子ども数が増えた場合にも手当計算の子どもに入れる。 その代わりに、他領へ自分の子どもを養子として出してしまったり、あるいは出生後 1 カ月以内に死亡してしまったりした赤子の数は計算に入れない。 さらに、赤子が出生したときに兄姉がいて手当対象となった場合に、子どもが死亡しても、死亡したのが赤子ではなく兄姉の場合には手当を与えるとされている。これは、赤子の養育が困難であること、あるいは人びとが困難と考えることに依拠した施策といえよう。 また、養育の困難さに関していえば、両親、とくに母親が死んでしまったような場合は大事と考えられており、別途報告するように規定されていた。

「赤子出生養育御達書」 (永世の基本とした)
〈藩主〉 9代 丹羽長貴
〈施策者〉 成田頼綏 (御用人)
〈財源〉 藩からの下賜金と豪商豪農からの献金を一般領民へ貸し付け、その利子で買い付けた米を養育手当とする
〈対象〉 裕福な者は除外。 引越移入者は居住 4年目から適用
〈養育手当資格〉 11 歳未満の子供が 2 人以上
〈手当〉
1 2 人の場合 その年のみで米 5 斗入り 1 俵
2 3 人か 4 人になった場合 半人扶持 (1 日 2 合5 勺の玄米) を 2 年間
3 5 人以上の場合 半人扶持を 3 年間 その他、衣類および金を支給
〈支給日〉 4 月と 10 月の 2 回、大・小の月数を計算して支給
〈支給場所〉 安積三組 (郡山組・大槻組・片平組)16)は郡山町の郷蔵場

そして、施策実行に関して当初は代官と名主がその任に当たっていたが、やがて藩は郡奉行から独立した 「生育御用掛」 および 「生育掛」 を、町村レベルには 「生育才判人」 をおいた。 また、出生の赤子があると、それが手当に該当するかしないか、する場合にはどの手当に該当するのかも含めて村ごとに毎月書き上げさせ、町村の属する組ごとにとりまとめて代官所に届けさせた。
支給は年 2 回に分けて各町村が属する組ごとに行われ、支給場所も原則として居住する町村に近い場所と定められていた。 だが、組によって希望があれば別の場所での支給であり、その場合は事前に申し出ることとされていた。 また、二本松城下から遠方の山中の村々など、米で受け取るのが困難である場合には、金で支給することも可能である旨も定められていた。
しかし、赤子養育仕法の興味深い点は、単にその表面的な施策のみではない。 すなわち、赤子養育仕法のために必要とされる資金調達方法も人口増加策の一面を持つのである。 ここでは、元手を一般領民に貸し付けてその利子を赤子養育仕法に運用すると定められているが、どのような場合に貸付を受けられるのかみていこう18)。
1 質物奉公人など
金を借りて、その形として奉公をしているような場合である。 この借金分を赤子養育仕法の積立金から借り受けて奉公先 (もともとの貸主) に返却する。 この地域の奉公形態は夫婦で共に奉公先に住み込む場合もあり、必ずしも夫婦の別居を意味しない。 しかし、そうではあっても、奉公に出ずに済むということは、子供を持つ機会を増加させることにつながろう。
2 困窮にて貳拾歳頃女房呼取兼候者
貧しいため、20 歳ごろまで嫁が来ない場合である。 男性の 20 歳という年齢は、現在ならば結婚していない者のほうが多いと考えられる。 だが、近世東北地方の平均初婚年齢は男性で 20. 8 歳であり、そろそろ結婚したほうがよいと考えられる年齢であった19)。 彼らに金を貸し、結婚を奨励することは、出産を増加させることにつながろう。さらに、越後出身の女性は子どもに恵まれることが多いという考えがあり、縁組が奨励された。
3 新竃立候者
新しく世帯をたてた者である。 新世帯となる者の年齢や構成にもよるが、新世帯の形成を援助するということも、出産を増加させることを見越した施策といえる。
以上のような場合に、元金から金を借りることができ、その利子を運用することによって、制度の永続性が図られた。 具体的には、表 3 に示したとおりであり、各ケースにおいて、利子率などもいくら借りると毎月いくら返済すると細かく規定されていた。 表 4 は、実際に史料に記された天明6 年の 10 月に元金 1 両を 7 年期で借りた場合の例である20)。
2 赤子養育仕法の効果
それでは、赤子養育仕法は、出産奨励をなしえたのか。 残念ながら、施策とその効果の関係は、いつの時代でも明瞭ではない。 たとえば、施策と史料から得られる 「合計特殊出生率」21)の変化からは、確かに 「合計特殊出生率」 が下がったときに施策が再検討される傾向はうかがえる。 しかしながら、その逆、すなわち施策がとられたことによって 「合計特殊出生率」 がすぐに上昇したとは考えにくい22)。 また、支給が赤子の生育が困難な家庭に対してなされたのであれば、効果は出生数にではなく当初は乳幼児死亡率の低下として表れると考えられる。
それでは、施策の効果が全くなかったかというと、そうとも言い切れない。 すなわち、仕法の存在が効力を発揮するためには、仕法を個人レベルまで浸透させる必要があり、たとえ仕法の存在を知ったところで、人びとがすぐに従来の慣習を変化させるとは考えにくい。 ただし、仕法では、村の人数に応じて出生数の多い村には褒美を取らせるという規定もあり、「仕法の効果があったので、その遂行に携わっていた村役人などへ藩から酒の振る舞いをする」 という史料も存在する23)。
また、仕法の存在は、出産環境にいくつかの変化をもたらした。 ひとつは、出産管理である24)。子どもを身ごもると村役人に届け出ることが順達され、村役人側でも身ごもった女性がいないか目を光らせ、「懐妊書上」 が行われた。 さらに、出産にあたっても 2 月と 8 月の年 2 回に出産を書き上げるという、「赤子改」 が行われた。 これらのことは、堕胎・間引きを行いにくくした。 また、出産・生育が本当に困難であろうと思われる、双子の出産や奉公人として働いている女性の出産にも仕法は光をあてており、そこでは若干ながら以前よりは子どもが生まれて育った可能性がある。少なくとも、それまでは闇に葬られた可能性のある、双子として生まれた子どもが史料に記録されるようになった (表 5)。
   表 3 赤子養育基金からの貸出
   表 4 借金返済割合例
郡山上町においては、人別改帳で追える 1708年から 1870 年までの全出生件数 6162 件の内、双子の出生は 29 件確認される。 これらはすべて、天明 6 年の赤子養育仕法の改正が行われた後である。 また、母親が奉公中の手当についても、実に細かく決められており、母親が 「出生後養育のために奉公から戻った場合は普通の手当に切り替える」 という規定さえある。
   表 5 郡山上町の史料に表れた双子の出生
3 現代の各地域の施策と赤子養育仕法
さて、現代 「少子化」 が問題とされ、地域レベルでも様々な施策がとられている。 例えば、東京都練馬区においては、平成 18 年度から第 3 子以降の出産に 20 万円の祝い金が支出されているし、中央区では妊娠すると 3 万円の出産支援タクシー券が助成されている25)。 これらは、まさに近世の赤子養育施策と類似といえよう。 しかしながら、近世の方が若干優れていた点もある。 それは、赤子養育金が、出産時のみの単発のものではなく、兄姉の数によっては、数年にわたって支給されている点である26)。
労働力人口の減少を憂えて、対策を講じようと考えるのならば、やはり子どもを産んで育てていける、子どもを持つことが人生においてプラスになるという、絶対的かつ長期的な社会経済的安心感が必須である。 そして、江戸時代においても現代においても、人びとの行動習慣が施策によってすぐに変化するとは考えにくい。 施策の効果は徐々に現れてくるものである。 効果を出すためには、単発的な施策ではなく、social net をも十全に備えた、人びとの暮らしに魅力的な地域社会造りが必要とされるだろう27)。

1) 二本松藩の仁井田村、下守屋村、郡山町の事例である。 出生 1 カ月以内の新生児死亡は記録から漏れることが多かったから、これより若干高かった可能性はある。
2) 速水融 (2001) 『歴史人口学で見た日本』 文春新書、pp. 56-64. また、近世マクロ人口に関する先駆的な研究として、関山直太郎 (1958) 『近世日本の人口構造』 吉川弘文館、がある。 なお、近世初頭の人口数に関しては諸説あるが、速水氏の推計 1200 万人を採用すれば、近世前期はかなりの人口増加があったといえる。
3) 速水融、同上。
4) 二本松藩および奥羽地方人口に関する全体像に関しては、速水融 (1982) 「近世奥羽地方人口の史的研究序論」 『三田学会雑誌』 75 巻 3 号、pp.70-92、下守屋村に関しては、成松佐恵子 (1985) 『近世東北農村の人びと 奥州安積郡下守屋村』ミネルヴァ書房、仁井田村に関しては、同 (1992) 『江戸時代の東北農村 二本松藩仁井田村』 同文舘、郡山町に関しては、橋美由紀 (2005) 『在郷町の歴史人口学 近世における地域と地方都市の発展』 ミネルヴァ書房、を参照されたい。
5) 二本松市編 (1999) 『二本松市史 1 原始・古代・中世・近世 通史編 1 』 二本松市、p. 710。
6) 沢山美果子 (1998) 『出産と身体の近世』 勁草書房。
7) 東北における赤子養育仕法の地域分布に関しては、遠藤久江・菊池義昭 (1991) 「近世の東北における救済の実態史U東北及び北関東における赤子養育制度の状況と会津藩の事例を中心に」 『会津短期大学研究年報』、pp. 201-226、福島県立会津短期大学の p. 204 を参照されたい。
8) 享保 18 (1733) 年に間引きを禁止し、毎月管内の妊婦を調べ、養育できないときは調査の上、手当を与える触を出す(遠藤・菊池、同上、p. 205)。 また、文政 4 (1821) 年に赤子養育仕法の元金を作ろうとする動きがあったが、飢饉などにより奏功しなかった。
9) この養育手当は地域の豪商による。
10) 遠藤・菊池 (同上) では、桑折代官領、および守山藩、会津藩に関し和暦と西暦が 1 年ずれているが、和暦のほうを正しいと考えてここではそちらを記載した。
11) 水戸藩支藩。
12) 間引き問題に最初に取り組んだのは、会津藩 (遠藤・菊池、同上、p. 211)。
13) 浅野源吾編 (1936) 『東北産業経済史 第三巻 秋田藩史』東洋書院、によれば、寛政 11 (1799) 年には荒蕪地を再墾し、その収益を貸し付けて 「生育金」 を作った。 これは、功を奏したと書かれている。 また、米沢藩では独身者への配偶者の世話も行った。
14) 秋田藩では、捨子に関しても、撫育料を定めた (浅野編、同上)。
15) この地域の赤子養育仕法に関しては、二本松市編 (1999)同上、pp. 710-715、郡山市編、同上、pp. 67-70、成松佐恵子 (2004) 『名主文書にみる江戸時代の農村の暮らし』 雄山閣、pp. 119-128 などを参照されたい。
16) 郡山組は 13 カ村、片平組は 11 カ村、大槻組は 7 カ村。 ちなみに、郡山町は郡山組に、下守屋村は大槻村に属する。
17) 天明 6 年から奉公中の手当については規定されているが、双子に関しては別途申し出るべし、とされており、その後具体的に手当に含まれるようになった。
18) 郡山歴史資料館所蔵、今泉文書、支配 476、午年 (天明 6年と思われる)。 なお、この文書は麗澤大学オープンカレッジ 2006 年度後期古文書クラスで史料として使用し、受講生の方々から貴重なご意見をいただいた。
19) Kurosu、Satomi、Noriko O. Tsuya and Kiyoshi Hamano、1999、‶Regional Differentials in the Patterns of First Marriage in the Latter Half of Tokugawa Japan"、  、Vol.36、No.1.
20) これらは、すべて前掲今泉文書、支配 476 から、そのままあるいは加工して用いている。
21) 合計特殊出生率は、1 人の女性が生涯に産む子ども数ということで、現代問題にされている数値である。 ここでは、史料から得られる数値であるため、完全に現代と同じと考えることはできない。 しかし、同一史料内の増減傾向を見ることは可能である。
22) この関係については、橋、同上、p. 121、図 4-3 を参照されたい。
23) 郡山歴史資料館所蔵、今泉文書、支配 744、年不詳。
24) 沢山美果子、同上にも指摘がある。
25) http://www. gikai. metro. tokyo. jp/gijiroku/yotoku/2006/d6216319. htm http://www. city. nerima. tokyo. jp/kucho/1801/#07 http://www. city. chuo. lg. jp/kurasi/syusan/syussan/Taxi /index. html など。
26) もっとも、生活補助など従来からとられている政策を加味すればその限りではない。
27) これらのことに関して、浜野潔(2006) 「歴史から見た人口減少社会」 『環』 Vol. 26、藤原書店、pp. 34-141 も参照されたい。  
 
 
  

 

現代の人口減少と近世中期の人口減少 
2005 年の人口動態統計確定数によれば、年間の死亡数が 108 万 3796 人、同出生数が 106 万 2530人と死亡数がおよそ 2 万人上回って、人口の自然減時代に入ったことが明らかにされた。 いわゆる日本の人口減少時代の幕開けである。 一国あるいは一地域において人口減少が引き起こされる人口学的要因は三つである。 第一に、死亡率上昇により死亡数の増加が発生し引き起こされる人口減少である。 第二に、出生率が人口置換水準1)以下の水準へと低下し、出生数が実際に減少することによって発生する人口減少である。 そして第三に、国外 (地域の外) への人口転出の超過が起きる場合である。 現在、これらの要因の動向は、長寿化とよばれる寿命の改善が引き続き、また国際間の人口移動は日本人人口転出超過はあるものの外国人人口の転入超過が大きく超え、死亡と人口移動要因による人口減少はほぼ起きていないと見られる。 しかしながら、出生率は極めて長期にわたって低い水準にあり、このことに起因して今後大きな人口減少が発生するものと考えられている。
   図1 日本の長期人口趨勢
歴史人口学が明らかにしている近世中期の人口減少と現代の人口減少を対比し、類似性の有無についてみることにしよう。 現在確かに日本社会は人口減少局面に入ったとみられるが、実際の人口減少自体は自然増減で 2 万人減に過ぎず、観察されている規模からみれば近世中期の人口減少規模が大きい。 また橋美由紀論文の二本松藩領内人口の趨勢からも当時 1 割近くの人口減少が指摘されており、相当大きな規模の人口減少が地域的に起きたことを示している。 また、そうした人口減少がみられた地域では現在でいう 「少子化対策」が行われ、きめの細かな出産奨励策が実施されていたことが明らかにされている。
こうしたことから、人口減少という歴史上の出来事が現代の人口減少との間で共通性あるいは類似性があるのかどうかを検討することは極めて意義深いものであると考えられる。 現在、始まったばかりの日本の人口減少は今後大規模に起きることが予見されており、その規模は近世中期の地域的な人口減少と比較し、歴史上経験したことのない人口減少になるものと推計されている (図 1 参照)。 したがって、今後の人口趨勢を考慮に入れると人口減少の大きさに関しては必ずしも共通性・類似性があるわけではないが、これらの検討から近世中期と現代の人口原理に違いが見いだせるのかも知れない。 類似性にかかわるもう一つの点は、天明の飢饉を端緒とする二本松藩の人口減少は同時に出生率低下を伴っている点である。 後に述べるが、現代の少子化は 1970 年代から始まっており、三十数年後の現在、人口減少の兆しが見られ始めたところである。 また、近世中期の人口減少が、「やがて 19 世紀の第 1 四半期を過ぎたころから (中略) 人口数の回復が始まった。」 というように、もともと人口減から立ち直る潜在的な力を温存していたことが考えられる。 しかしながら、現代の人口減少については、人口数の回復の兆しもみることはできない。 この点については近世中期と現代の出生力の差異という観点から論じることにしたい。
現代の出生率低下の人口学的構造
現代の少子化は、1973 年のオイルショックの翌年から始まり、すでに三十数年を経過した。 出生率水準を表す代表的な統計指標である合計特殊出生率2)は 1973 年の 2. 14 から翌年に 2. 05 へと低下した。 いわゆる人口置換水準以下の出生率への低下であり、潜在的に人口減少を生み出す水準へと割り込んだ。 1980 年代中頃に一時的な反転現象が見られたものの、その後も持続的な出生率低下が続き、2005 年現在で年次別に観察される合計特殊出生率は 1. 26 の水準にまで低下してきている。
この極めて低い水準への出生率低下の特徴を人口学的な観点から整理しておくことにしよう。 まず、出生率の低下を年齢別に比較すると日本の少子化がどの年齢で引き起こされたかがわかる (図 2)。
1975 年から 2005 年の間に、大きく縮小したところは、20 歳代の出生率である。 逆に 30 歳代の出生率は若干拡大してきている。 とくに出生率の年齢のピークは、25 歳から 28 歳を経て、いまや30 歳である。 このことからも分かるように、日本の少子化は、出産子育て期のエイジング、すなわち晩婚・晩産化をともなっている。
図2 女性の年齢別出生率
さて、人口学的にみて出生率低下には、二つの要因があり、第一に結婚の変化 (未婚率の上昇)そして第二に夫婦の出生行動の変化 (夫婦が産む子ども数の減少) によるものである。 実際のところ日本の出生率低下期において、結婚した女性は平均二人強の子どもを産んでいたにもかかわらず、合計特殊出生率が低下した。 1990 年代までの出生率低下は、そのほとんどが 20 歳代から 30 歳代前半女性の未婚率上昇により、結婚している女性の割合が減少することによって起きていた。
未婚化を国勢調査から確認すると、1970 年代の 25〜29 歳の女性の未婚率はおよそ 2 割で、5人に 1 人が未婚という状態であった。 ところが1980 年代に入ると急速に未婚率は上昇に向かい、1985 年の 25〜29 歳の未婚率は 30. 6%と上昇した。その後、2005 年には 59. 0%を記録するに至った。さらに、30 歳代前半の女性の未婚率も 1985 年の10. 4%から 2005 年には 32. 0%へと上昇し、実に女性のほぼ 3 人 1 人が未婚という状態にある。 その結果、結婚している女性達の減少を生み出し、そのことが年齢別出生率でみた 20 歳代出生率の大幅な縮小をもたらしたのである。
しかしながら、1990 年代に入ると出生率の低下は、1960 年代前半に生まれた女性達の結婚年齢の上昇とともに、結婚後も従来のペースで子どもを生んでいないという調査結果が得られるようになった。 国立社会保障・人口問題研究所の 『出生動向基本調査』 によると 1983〜87 年に結婚した夫婦の平均出生子ども数は 2. 23 人であったが、1986〜90 年に結婚した夫婦では 2. 09 人と、長らく 2. 2 台にあった夫婦出生力に縮小がみられた。このように、結婚の変化だけでなく夫婦の出生行動の変化も少子化の要因として重要になってきた。
そうした未婚化や晩婚化という結婚変動、ならびに 1990 年代以降の夫婦の出生行動の変化をもたらしている社会経済的背景はどのようなものであろうか。 その理由の一つは、日本経済の変化、すなわち経済のサービス化と女性就業の進展がある。 日本の経済は、1973 年のオイルショック後、高度経済成長期を終え低成長期に入った。 この頃から第二次産業中心の経済から第三次産業を中心とする経済への転換が徐々に始まった。 とくに、1980 年代に入ると、日本の経済政策は輸出主導型の経済構造から内需主導型の経済へと構造転換が進められた。 その結果、経済のサービス化が進展し、未婚女性の就業化・雇用労働力化が大きく進展し、この女性の就業状況の変化が、日本社会の未婚率の上昇と晩婚化を生じさせ、出生率の低下につながったと考えられている3)。
現代の少子化と近世中期の少子化
現代の少子化がもっぱら結婚行動の変化とそれに加えて夫婦出生力 (夫婦の産む子ども数) の低下によってもたらされ、それが人口置換水準から大きく下回った出生率を生み出した4)。 一方、江戸時代は全期を通じて寒冷な時代であったといわれ、そのため数十年に一度の凶作や飢饉が絶えなかったとされる。 橋美由紀論文が明らかにしているように、とくに江戸時代の中期、18 世紀に入ると人口増加は停滞したが、人口増減には地域的な差異が生じたと指摘されている。 とくに、東北日本は天候不順に見舞われ、農業生産の低下は天明の大飢饉をもたらした。 地域農業経済の基盤に危機的状況を生み出した凶作と飢饉は、多くの人々の栄養状態を劣悪な状態に陥れた筈である。 その結果、多くの人々が、死流産を経験し、また一時的な不妊の増加によって妊孕力そのものが低下し、出生率そのものも低下した筈である。 近世江戸中期の人口減少の第一の理由として、凶作と飢饉を原因とする 「栄養状態の低下」 を挙げることができよう。 第二の理由として橋美由紀論文が指摘している点として、農作業などを通じた過酷な「女性労働」 や夫婦奉公等による出生抑制要因の存在がある。 上記の出生率を抑制する要因には異論がない。
一方、近世中期の出生力については、二本松藩の町場と農村の合計特殊出生率でみると、低い時期で 2. 61、高い時期で町場の 4. 21 が記録されている。 天明の飢饉前後で低い出生力が観察されている。 おそらく、凶作と飢饉の時期においては、低栄養状態から妊孕力そのものも低下したのであろう。 ここで重要な点は、当時の人口置換水準に対する確かなデータはないが、凶作と飢饉によって一時的な人口置換水準以下の状態があらわれた可能性がある。 すなわち、人口学でいうピリオッド効果である。 そして、その後の合計特殊出生率の水準は人口置換水準を上回る水準にあったとみることができよう。 また、近世中期の日本の結婚は、生涯独身比率の高い西ヨーロッパの結婚形態と異なり、皆婚が一般化した社会であったと指摘されている5)。 合計有配偶出生率の水準が夫婦の出生力水準を意味するものと解釈できるとするなら、皆婚化社会における比較的高い水準の出生率は、その後の人口回復を潜在的に支える原動力であったであろう。
近世中期と現代の少子化対策
橋美由紀論文は、近世中期の東北・北関東諸藩の 「赤子養育仕法」 を詳細に分析し、近世中期における 「少子化対策」 として評価を行っている。藩という地域政府が独自に、「赤子養育仕法」 という現在の児童手当法に相当する法を定め、現代の 「少子化対策」 とも言える施策をなぜ行ったのであろうか。 これを探ることは、現代の少子化対策が時代を超えて正当性を持つ理由が探れるのではないであろうか。
近世における税 (年貢) は村請負制であったと指摘されているが、このことは人口減少ならびに人口再生産の縮小 (少子化) は、収穫高が減少することを意味する。 したがって、生産高を維持して行くには、人口の維持と増加が不可欠となる。江戸時代中期の凶作と飢饉による人口危機は、藩政を司る領主はもとより村落社会にとって人口増加策は極めて高い政治的動機をもっていたであろう。 そのことは 「子ども」 の存在が公共財としての意味を持ち、藩の存続発展にとって赤子養育仕法による 「出産奨励策」 が社会の正当性を持っていた。 また、制度や仕組みが細かく出来ており、当時の村役人組織を基礎として長期にわたり運営されていたことは、現代の少子化対策とは大きく異なり、「懐妊書上」 にみられるように、藩政の出生政策、ひいては人口増加に対する強い意志が
読み取れる。
現代の少子化対策は、「少子化社会対策大綱(平成 16 年閣議決定)」 に基づく実施計画である「子ども・子育て応援プラン」 があり、そこには129 の施策が掲げられているが、いまだ出生率は回復基調にない。 1970 年代から始まる日本の少子化の主因が未婚化によるものであり、出産・子育てが 「公共財」 としての子どもという観点から施策として成り立っても、結婚行動という人々の自由な選択の上に行われる私的行為には、そもそも政策が馴染むのかどうかという問題も含んでいる。 近世中期の人口減少が皆婚化する社会における凶作や飢饉による一時的な人口減と社会経済の困窮であると考えられ、少子化対策が及ぼす効果も当時の方がはるかに大きかった筈である。
現代社会は、未婚労働力に対する労働需要が極めて高く、一方で既婚労働力に対する労働需要は主として非正規雇用である。 また同時に、結婚後の出産・子育てと仕事との両立の問題は解消されておらず、未婚状態から結婚・出産へのライフステージの移行が難しい。 こうしたライフコースの段階の移行が女性就業時代に未婚化となってあらわれており、歴史人口学研究の中にみられた皆婚化とは全く異なる特徴であることに留意したい。

1) 人口置換水準の出生率とは親世代の人口規模と子世代の人口規模がほぼ等しく入れ替わる水準の出生率のことで、現代においては期間合計特殊出生率でおよそ 2.07 前後である。
2) 出生率水準を表す代表的な統計指標として合計特殊出生率がある。 この指標は、一人の女性がある年に観察された年齢別出生率にしたがって仮に一生涯にわたって出生行動をとるものと見立てた場合の期待平均子ども数である。
3) 現代の少子化に関する社会経済要因について論じる紙幅がないが、以下の文献を参考にされたい。橋重郷 「結婚・家族形成の変容と少子化」 大淵・橋編著『少子化の人口学』 原書房、2004 年、133-162.頁。
4) 人口置換水準を示す指標の一つである 「純再生産率」 は2005 年で 0. 61 である。 母親世代の 100 人の女性が次の世代の成人女性を 61 人再生産していることを示している。
5) 鬼頭宏の研究によれば、「十六・十七世紀は、婚姻革命と呼んでよいほど大きな変動が起きた時代である。」 とし、有配偶率の上昇、すなわち皆婚化を指摘している (鬼頭宏 『人口から読む日本の歴史』 講談社、2000 年)。