鯰の警告

10年ぶりに揺すられる
東京 震度5強

慌てておきる
よろけながら 玄関扉を開け ストッパー
吊り下げランプ 手で押さえる

お風呂の湯 ポッチャポッチャ
猫の風・雷 猛ダッシュ 押し入れに逃げ込む


もしかして 次は大鯰
 


大鯰要石1要石2要石3要石4鎮石鹿島神宮鯰が暴れると地震が起こる鯰に対する誤解鯰大地震の前兆地震予知鯰と地震地震を鯰と結びつけ鯰絵の世界鯰のかば焼地震の前兆とされる魚の伝説大鯰秀吉の天下を倒す世直し鯰繪・・・
断層と鯰大明神鯰を叱る大鯰後の生酔紀の川の大鯰大鯰は実在するかしゃべる鯰鯰は地震を予知するか鯰岩地震蟲鯰絵にみる地震観の変遷龍蛇ナマズ鯰と地震と要石要石地震鎮める石地震と神様・・・
聖獣伝説首都直下型地震日本天変地異記神無月藁の大蛇那珂川伏見神阿曇磯良と祇園祭深海魚は大地震の前触れいわしが大地震の予兆電気製品の不調や耳鳴り上空の電離層乱れ前兆の自然現象地震前兆伏見宮と伏見稲荷大社神功皇后地震なまず首都直下地震近況・・・
 

 

   発生時刻 2021/10/7 22:41頃
   震源地  千葉県北西部 
   規模   M 6.1
   震度   5 強
        埼玉県 川口市、宮代町 
        東京都 足立区

 

●大鯰 (おおなまず) 
巨大なナマズの姿をした、日本の伝説の生物。地下に棲み、身体を揺することで地震を引き起こすとされる。 古くは、地震を起こすのは日本列島の下に横たわる、あるいは日本列島を取り囲む竜だといわれていたが、江戸時代ごろから、大鯰が主流になった。 
鹿島神宮の祭神武甕槌大神は、大鯰を要石で押さえつけることで地震を鎮めるという。ただしこれは要石が鹿島神宮にあったことによる後代の見付で、武甕槌大神は本来は地震とも大鯰とも無関係である。

●大鯰
巨大なナマズの姿をした、日本の伝説の生物。地下に棲み、身体を揺することで地震を引き起こすとされる。
地震にまつわる古代の世界観として、地底には巨大な毒蛇が棲んでおり、このヘビが身動きをするのが地震である、という「世界蛇」伝説が、アジア一帯において共通して存在していた。これは日本も同様で、江戸時代初期までは、竜蛇が日本列島を取り巻いており、その頭と尾が位置するのが鹿島神宮と香取神宮にあたり、両神宮が頭と尾をそれぞれ要石で押さえつけ、地震を鎮めている、とされた。しかし時代が下り江戸時代後期になると、民間信仰からこの竜蛇がナマズになり、やがてこれが主流になった。
安政地震の後には200種を超える鯰絵が出回った。特にこの地震は黒船の来航中の出来事であったため、黒船自体がナマズに比類するものとみなされたとされる。
ただし、ナマズと地震の関係について触れた書物としては古く『日本書紀』にまで遡ることができるといわれる。安土桃山時代の1592年、豊臣秀吉が伏見城築城の折に家臣に当てた書状には「ナマズによる地震にも耐える丈夫な城を建てるように」との指示が見え、この時点で既にナマズと地震の関連性が形成されていたことが伺える。
主な伝承​
大村神社には、天平神護3年(767年)に武甕槌大神と経津主神が常陸・下総の国より奈良の三笠山遷幸の途次、大村神社に御休息し地下の大鯰を鎮める要石を奉鎮したと伝わる。
福岡県筑紫野市には、道を塞いでいた大鯰を通りかかった菅原道真が退治し石になったと伝わる鯰石がある。
阿蘇山の湖では昔、健磐龍命が開田のため外輪山の現在の立野あたりを蹴破り湖の水を外に出し、その時湖の主の大鯰が引っ掛かり水がスムーズに流れ出なかった。健磐龍命が大鯰を説得すると、おもむろに流れていきその跡が今の黒川、白川であり、流れ着いたところが、上益城郡嘉島町の「鯰」になったという。この地方には他にも鯰の伝承・信仰が数多く残っている。
『竹生嶋縁起』には、竹生島で海竜が大鯰に変じて大蛇を退治した伝説がある。竹生島は金輪際の島であり、大鯰に取り囲まれて守られているという。 

●大鯰
鎌倉時代、幕府の実力者だった北条時頼は諸国めぐりの際、橋本の利生護国寺に滞在した。ある日、地元・隅田党の代表らが時頼を紀の川の川狩りへ招いた。その日は好天で大漁だったが、突然暗天の雲が空を覆ったかと思うと、地鳴りと共に大鯰が現れた。
時頼らは果敢に槍を投げつけた。暴れる大鯰は真っ赤な血を噴出させ、まるで縄のようによじれながら川下へ流れていった。
大鯰の出た深みは今でも和歌山県橋本市隅田町中下あたりにあり、「血縄の渕」と呼ばれている。

●ナマズと地震との関係 
犬やカラスやミミズなど、様々な動物の異常行動が世界各国で報告されている中で、日本では「地中の巨大ナマズが怒れば地面が揺れる」、古くからナマズと地震との関係には因縁ようなものがあります。鯰と地震の俗信が生まれたのは江戸時代の初期頃、人口の多い江戸で地震の被害が大きくなるとともに、ナマズの不思議な行動と地震との関係に関する言い伝えが生まれたようです。江戸時代末期には世間一般に信じられていたようで、現在でもその伝説に基づく民話が残されています。 
とくに、安政2年(1855)の安政江戸地震の直後には、鯰をモチーフにした錦絵が出まわりました。これは鯰絵と呼ばれ、鹿島大明神が「要石」で大ナマズを押さえている絵などがあります。鹿島の神が、大地に要石を打ちつけて、大鯰または大蛇の首を押さえこんでおり、鹿島の神が時折留守をしたり、気をゆるませたりすると、大地震になるという言い伝えが、鹿島の要石と鯰の関係で表現されるなどしています。茨城県鹿島神宮には今でも、「要石」という石があり、鯰の民芸品が観光用に売られているようです。 
安政江戸地震の状況を書いた安政見聞誌には次のような記事が書かれています。 
「本所永倉町に篠崎某という人がいる。魚を取ることが好きで、毎晩川へ出かけていた。二日(地震当日)の夜も数珠子という仕掛けでウナギを取ろうとしたが、鯰がひどく騒いでいるためにウナギは逃げてしまって一つも取れぬ。しばらくして鯰を三匹釣り上げた。さて、今夜はなぜこんなに鯰があばれるかしら、鯰の騒ぐ時は地震があると聞いている。万一大地震があったら大変だと、急いで帰宅して家財を庭に持ち出したので、これを見た妻は変な事をなさると言って笑ったが、果たして大地震があって、家は損じたが家財は無事だった。隣家の人も漁が好きで、その晩も川に出掛けて鯰のあばれるのを見たが、気にもとめず釣りを続けている間に大地震が起こり、驚いて家に帰って見ると、家も土蔵もつぶれ、家財も全部砕けていたという。」 
安政江戸地震の3-4時間前に地震を予知した話です。 
さて、地震と鯰の関係、一体どんな関係があるのでしょうか?
 

 

●要石 (かなめいし) 1 
要石が地震を起こす地底の大鯰の頭を押さえているから、鹿島地方では、大きな地震がないと伝えられています。 
要石は見かけは小さいが、実は地中深くまで続いている巨岩です。地上の部分は氷山の一角です。 
水戸の徳川光圀公(みつくに)が、要石の根本を確かめようと、七日七晩この石の周りを掘りました。でも、掘れども掘れども、掘った穴が翌日の朝には元に戻ってしまい、確かめることできませんでした。さらに、ケガ人が続出したために掘ることをあきらめた、という話が「黄門仁徳録」に伝えられています。 
現在は、要石の下には鯰がいると言われていますが、江戸時代の始めごろまでは龍(りゅう)がいると言われていました。 
万葉集に、香島の大神(おおかみ)がすわられたと言う、石の御座(みまし)とも古代における大神祭(おおかみほうさい)の岩座(いわくら)とも伝えられる霊石(れいせき)です。 
「 ゆるぐとも よもや抜けじの 要石 鹿島の神の あらんかぎりは」 
 

 

●要石 2
茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、千葉県香取市の香取神宮、三重県伊賀市の大村神社、宮城県加美町の鹿島神社に存在し、地震を鎮めているとされる、大部分が地中に埋まった霊石。
茨城県の鹿島神宮の境内などにある石。根は深く、地震をしずめるといわれている。仮名草子・かなめ石(1663)下「ゆるぐともよもやぬけじのかなめいしかしまの神のあらんかぎりは」。歌舞伎・暫(1714)「動かぬ鹿島の要石(カナメイシ)、なまづがうっつひ姉ヱゆゑ」。浄瑠璃・神霊矢口渡(1770)二「是ぞお留守の要石(カナメイシ)、動かぬ胸のしめくくり、南瀬の六郎宗澄出仕の上下さはやかに、金作りの大小も流石お家の家老職」。囲碁で、彼我の攻防の要点を形成する重要な石。石造りまたはれんが造りのアーチの中央(頂上)に入れる石。剣石。楔石(くさびいし)。キーストーン。〔日本建築辞彙(1906)〕
謡曲。脇能物。廃曲。天保一五年(一八四四)水戸の徳川斉昭の作。鹿島神宮参詣の奉幣使の前に建御雷神(たけみかずちのかみ)が現われる。
地震を抑えると称される石。これを称する石は各地の神社にみられる。なかでも、茨城県鹿嶋(かしま)市の鹿島神宮の境内にあるものが著名である。直径25センチメートル、高さ15センチメートルほどの丸い石で、頭の部分がわずかにくぼんだ形をしている。地中に深く根を張っているといわれる。古来、地震をおこすナマズの頭を抑えているとの伝説をはじめ、数々の俗信に結び付いている。『鹿島宮社例伝記』には、鹿島の大明神が降臨したときにこの石に座ったとある。古くは御座(みまし)の石とよばれていたことからもわかるように、要石は元来、神の依(よ)りきたる磐座(いわくら)であった。各地に知られている腰掛石や影向(ようごう)石の信仰と同じ性格である。
茨城県鹿島神宮の境内にある石。根が深いところから、地震をしずめるとされる。ある物事の中心となる重要な場所や人など。「医学界の要石として重きをなす」。石・煉瓦造りのアーチの最頂部に差し入れて、全体を固定する楔形(くさびがた)の石。キーストーン。剣石。楔石。囲碁で、彼我の攻防の要点を形成する重要な石。
建築用語。アーチ、ボールトの頂部を飾る迫石 (せりいし) 。アーチの両側の力の持合う部分で、壁面から突き出していることが多く、また装飾的な彫刻が施されているのが普通である。アーチやボールトの安定性はこの石にかかっており、これを抜取るとくずれるのでこの名がある。
茨城県の鹿島神宮境内にある石。祭神たるタケミカズチノカミが降臨したとき坐した石で、地震を防ぐと伝えられる。
…東南アジアや東アジアには、世界魚または世界蛇が多い。茨城県鹿島地方の鹿島神宮には要石(かなめいし)があって、鹿島明神が世界魚である鯰(なまず)の頭と尾を押さえつけているという俗信がある。要石が鯰を押さえている釘(くぎ)で、これがゆるくなると鯰が動き地震が起こるというのである。…
…地震や天候変化に敏感なため、地震を起こす力があるとか、地震の予知能力があるなどという伝承がある。安政の地震の際にはナマズがさわいだという記録があり、これをおさえているのが常陸鹿島神宮の要石(かなめいし)であるともいわれているが、ナマズを瓢簞でおさえること、つまり粘りがあるものを丸いものでおさえることの困難さを諷した〈瓢簞鯰〉から転じて、安定させることの困難なものとして地震が考えられ、それを生物化したものとして地震の発生をナマズに付会したとも考えられる。近世末の社会的動揺と江戸人のしゃれとが合体して生まれたものとみるべきであろう。…
…あるものを空間的に閉じこめ、内外の空間の間の相互干渉を遮断するためのしるし。この空間は、文書の封のように物理的に設定されたものもあれば、たとえば地震鯰を封じこめるために鹿島神宮の要石によって作られたそれのように、呪術的に設定されたものもあった。文書の場合、現在の封筒のようにして作られた空間の封じ目に、〆や封などのしるしを印判や手書きで加えることによって封が完成するが、このしるし自体に空間を守る呪力がそなわっており、したがって封印で守られる空間も単なる物理的なそれではないと意識されていたところに、前近代の封の特質がある。…
鯰と要石 / 安政の大地震後、「鯰絵(なまずえ)」がよく描かれた。「鯰絵」は地震から身を守る護符として、あるいは不安を取り除くためのまじないとして庶民の間に急速に広まりました。地震は地中の鯰が動くことで起こると信じられていたことから、安政地震の後、鯰を素材とした戯画「鯰絵」が大量に出版され、人々にもてはやされました。地震のあった10月は、神無月(かんなづき)とも呼ばれ、全国の神々が出雲に集まるため不在となる月です。茨城県鹿島神宮境内の地震を鎮めるとされた要石に寄りかかっているのは、留守居役の恵比寿と推察され、その恵比寿が居眠りした間に大鯰が暴れたということを表しているようです。日頃、要石で鯰を押さえている鹿島大明神が、「早く行ってかたをつけなくては」と馬を急がせている様子も描かれています。
要石歌碑 徳川斉昭 (茨城県水戸市 弘道館)
「行く末もふみなたがへそ 蜻島(あきつしま) 大和の道ぞ 要(かなめ)なりける」
 

 

●要石 3
鹿島神宮の要石には、「地震をおこす大鯰の頭を押さえている」との伝説もあり、江戸時代後期の安政の大地震(1855年)の後には、江戸で “ 地震鯰をこらしめる鹿島様の絵図 ” 「鯰絵」が大流行しています。
鯰絵
「地震太平記」では、各地の地震なまずが鹿島大明神にわびを入れている様子が描かれています。右の「あんしん要石」では、民衆が要石に手を合わせて拝んでいます。文字部分には、「年寄」「大工」「新造」「瀬戸物屋」「芸人」「医師」などそれぞれの立場の人々の願い事が面白おかしく書かれています。この他にも、沢山の面白い鯰絵が発行され、ブームとなりました。
年寄
要石大明神、このたびの大地震を逃れることができ、ありがとうぞんじます。私はもう年寄で長く生きることもないでしょうが(中略)どうぞもう二三百年生きているうちには地震の無いようお守りください。
大工
私のお得意さんの方々から、「来てくれ」「来てくれ」とやかましく言われて気が狂いそうです。どちらもお得意様ですからどちらの仕事もきちんとはたせるよう、どうか十人前に働ける体になりますように守ってください。
新造(若い女性)
私の願いは、去年も長々と芝居が休演になってしまって今年もいつ見に行けるかわからず悲しくてたまりません。どうぞこれからは地震と火事のないようにお守りください。きっとでございますよ。
瀬戸物屋
何卒、この地は地震のないようにお願いします。もし、ある時は事前にちょっとお知らせくだいますようお願い申し上げます。(原文でも「ちょっとおしらせ下さるやうねがひ上げます」と書かれています。)
芸人
わたしどもは遊芸の稼業なので、世間が穏やかでないと暮らしていけません。この度のようなことになって、三味線にバチが当たるともわたしどもに罰があたる覚えはありません。どうぞこれからは世界が平穏でありますように。
吉原の人
この度は本当に急変してしまって、建物は揺り潰れ焼け出されてしまって、とても難儀をしています。(中略)どうか早く収まり、地震のないようにお守りください。
医師
この度の騒ぎ(地震)で、手足をけがをした人が沢山治療にきます。骨をおって治療をしていますが、日数がかかり手がまわりませんので、早く治って私の手から離れるようお願いいたします。
理屈者
「このような地震があるのを見ると神も仏も無いようだ。そのうえ鹿島の神様は地震を押さえて守る神というのにどういうことでございましょう。」と言っていると不思議なことに石から声が聞こえた。「いかにもだ。この道理を明らかにするのは簡単なことではない。天意と思って諦めよ。今度少しでも動いたら石がえしをしてやる。」とのお言葉で、いずれの皆さんも安心し平和に戻ってめでたいめでたい。
(※「石がえし」と「意趣返し」と掛けており、意趣がえし=仕返しをしてやると言っています。)  
 

 

●要石 4
要石神社 沼津市
大きな安山岩が露出していて、この石よりは高潮が来ないとか、安政の大地震の時は被害が少なかったといわれている。寛永の初め頃(江戸時代17世紀)一本松新田の開拓者大橋五郎左衛門が祀った。
言い伝えによると「要石は地上に顕れたる部分はわずかであるが、地中に隠れたる部分は実に大である。祠より北三町をへだてる、大橋源太郎氏宅地井戸端辺の間に広がった一面の巌石で、太古地中に大鯰が居て数々動きて地震を起こし人畜を害した、依って此の大岩石を彼の鯰の頭上に載せ以て自由に動くことが出来ないようにした。因ってこれを要石という。」そうである。要とはもともと扇子の骨をまとめるための金具で、転じて、鯰の動きを押さえるのもまた要であるという意味からこの名がついた。
また、要石神社は、耳の悪い者はここに祈願して穴あきの石をあげると必ず治るともいわれている。
黄門 要石を掘る
鹿島神宮の奥宮の近くに要石があります。直径四十センチメートルほどの円型の小さな石です。神様が地上に降りた時すわられた石で、根が地下深く通じ、終わる所なく、大地震のもとである鯰を押さえているといわれています。
ある時、徳川光圀が、この話を聞き、本当かどうか掘って確かめようといいだしました。家来たちは神罰をおそれ反対したのですが、光圀は聞き入れませんでした。
さっそく、人夫を集め、一日で五メートルほど掘り下げました。
次の朝、人夫の一人が光圀のもとへきて、昨日掘った穴がきれいに埋めつくされているというのです。怒った光圀は、昨日以上の深さに穴を掘らせた上に、そばに見張り小屋を建て、寝ずの番をさせました。
ところが次の朝も同じでした。光圀は、すぐ現場にかけつけて確かめましたが、誰一人としてうそをついている様子はありません。「埋められるのは、作業をやめるからだ。今日から昼も夜も掘り続けるのじゃ。」光圀の声がかりで、さらに沢山の人夫が集められ、昼夜交替で七日間掘り続けました。
その夜のこと、眠っている光圀の耳に不思議な声が聞こえてきました。「光圀。要石を掘りたい気持はわかるが、物には限度というものがあるぞ。人間、それを忘れると、いつか禍いがふりかかるものだよ…。」光圀はびっくりしてとびおきました。
次の朝、光圀は家来や人夫を集め、「これだけ掘り続けてもビクともしない要石は、間違いなく地中の根に達しているにちがいない。もう穴を掘るのはやめにしよう。」といったそうです。
「要石」を祀る由来 鹿島神社 (宮城県加美郡加美町)
古歌に 「ゆるげども よもや抜けじの 要石 鹿島の神の あらん限りは」
要石に鹿島の大神が降臨して守護っているから日本の国土はぐらぐらしないと云う意味です。要石は鹿島神社以外の神社には祀られていません。俗に要石を拝むと云う事は家庭的にも社会的にも精神的には、どんな地震が起きるともびくともしない不動の精神を養うと云う信仰の精神は、すなわち人間の 「へそ」であり其の「へそ」が要石とも云えます。現在鹿島神社境内に祀られている要石は昭和四十八年故事来歴により奉納された「約十トン」の要石で往古の要石と共に祀られています。
鹿島神社の境内にある要石は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)※1 の象徴として国家の鎮護の石剣として祀られている事は有名です。
この要石は国を鎮める意想で日本国をとりまく「リュウ」を鎮める石剣とされています。「リュウ」龍は古代では海水を意味し、日本をとりまく「リュウ」が転化してナマズ(鯰)になりました。 地震は地下にもぐった鯰の寝がえりだとされてこの要石は地震ナマズを永遠におさえていると云う 信仰をうんだのです。(日本民族学全集より) 加美町鎮守鹿島神社社殿の西御山下の老杉の根元に要石というのがあります。
安永書上の風土記にも高さ一尺二寸余、廻り四尺八寸余(住古より要石と申伝候事)とあり、頭の方一尺余り出ているが地下の大鯰の背中に達していると云われて来たもの、これは常陸の鹿島神宮の要石に模したものと伝えられます。
常陸(茨城県)鹿島神宮の要石の伝説によれば昔その地方にしばしば地震があり、それは地下に大鯰がいてあばれるからだと云うので、鹿島の神々達が相談の上大きな石の棒(石剣)で鯰の頭を釘刺してしとめました。それが即ち要石で地震の際にはこの要石は殊の外大いに揺れるが どうしても抜くことが出来ないと云われて来ました。
我が地方においても大地震はくるけれども鹿島神社には要石が祀られているから昔から大きな災害がないと語り伝えられています。
※1 古事記では建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)
掘っても掘っても根元が見えない「要石」 大村神社
近鉄大阪線「青山町」から南東へ10分、と言うより伊勢への参宮道である初瀬(はせ)街道の阿保(あお)宿の東端、「宮山」に大村神社は鎮座している。主神である大村神は、11代垂仁天皇の皇子・息速別命(いこはやわけのみこと)と伝える。
奈良時代、藤原氏は常陸の鹿島から武甕槌(たけみかづち)神、下総の香取から経津主(ふつぬし)神、河内の枚岡から天児屋根(あめのこやね)命と比売神を勧請して、大和の御蓋(みかさ)山麓に春日大社を創建した。大和の地に東国の神々を遷幸する際、当地に立ち寄ったとされる。この時から大村神社でも鹿島・香取の神を祀るようになったとか。
新たに祀った鹿島・香取には地震を抑える要石がある。鹿島の要石は水戸黄門が七日七夜掘っても掘りきれず、香取の要石もやはり黄門が掘らせたが根元を見ることができなかったと。当地では鹿島・香取の神とともに、彼の地で祀られていた土地を鎮める神も合わせて奉斎したのである。
大村神社の本殿脇には一抱えほどの丸石、要石が祀られている。この要石の起源について地元の地誌『三国地志』(1763年)に見られないことから、安政の大地震(1855年)以降に注目されるようになったのでは、との見方もある。
大村神社の要石の起源はともかくも、ナマズの背中に乗っているような日本列島。現代の科学をもってしても抑えられない地震。要石様のお力にすがりたくなる。 
 

 

●高千穂宮の鎮石 (しずめいし)
高千穂神社の境内には「鎮石」と呼ばれる石があります。この石に触れ祈ると悩みや世の乱れが鎮められるという言い伝えがあり、人によっては触れた時に「電気が走ったようにビリビリ感じた」そうです。
第11代垂仁天皇の勅命により、我国で初めて伊勢神宮と当高千穂宮が創建された際、用いられた鎮石と伝えられます。尚住古関東鹿島神宮御社殿造堂の祭、高千穂宮より鎮石が贈られ同宮神域に要石として現存します。

●鎮石
本殿東後方に「鎮石(しずめいし)」と呼ばれる石が柵に囲まれています。伊勢神宮を建立したといわれる第11代垂仁(すいにん)天皇の勅命によって、高千穂神社建立の際に用いられたと伝わっている石です。
古事記では、垂仁天皇の時代は紀元前13年から西暦70年ごろとされています。およそ2000年の間、この石はここで何を見てきたのだろうという思いがふと頭をよぎります。
鎮石は、祈ると個人の悩みだけではなく世界の乱れまで鎮められるといわれるパワーストーンで参拝客の注目を集めています。石に触れた時に「ビリビリと電気が走ったように感じた」とか「掌が温かくなった」などと感じる人もいるので、ぜひ祈りをこめて触ってみてください。平穏な日々を祈りながら触れれば悩みも吹き飛ぶのではないでしょうか。また、鎮石の画像をスマホなどの待ち受けにしているだけでも開運につながるともいわれています。
高千穂地方の神社の中心である高千穂神社は、神話の生まれた地にふさわしい荘厳な社殿とパワー宿る杉、そしてパワーストーンがある神社です。パワーを授かり心身を癒してはいかがでしょうか。

●高千穂神社の鎮石
第11代垂仁天皇の勅命により、我国で始めて伊勢神宮と当高千穂宮が創建せられた際、用いられた鎮石と伝えられます。尚往古関東鹿島神宮御社殿御造営の際、高千穂宮より鎮石が贈られ同宮神域に要石として現存しています。またこの石に祈ると人の悩みや世の乱れが鎮められると言われています。
高千穂といえば、日本神話の一場面「天孫降臨」と神秘的かつ荘厳な「高千穂峡」の渓谷美で知られるところ。九州屈指の観光地として年間140万人(2018年の推計)を超える観光客が訪れる。
記紀に語られている天孫降臨神話は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受けて、地上界を支配すべく、高天原(たかまがはら)から天降(あまくだ)ったというお話し……。
その降臨地が日向(ひむか)の襲(そ)の高千穗峯(たかちほのみね)であったと伝えられている。この「高千穗峯」の比定地については、古くから2つの候補地が挙げられている。一つは、宮崎県と鹿児島県の県境にある霧島山系の高千穂峰で、もう一つが、今回訪ねた現高千穂町である。どちらも有力な候補地とされ、国学者・本居宣長も頭を悩ませたが、いまだにはっきりとした決着はついていない。
高千穂町は、古くは知鋪(ちほ)郷と呼ばれていた。高千穂神社の神名として、平安時代の『続日本後紀』『日本三代実録』に高千穂皇神(たかちほすめがみ)とあり、従五位下に列していた。天慶年間(938〜947)には高千穂の領主となり、三田井家を興した大神政次(おおがまさつぐ、高千穂太郎)の時代から「十社(じっしゃ)大明神」とよばれるようになり、高千穂郷八十八社の総社として人々の篤い信仰を集めてきたという。明治6年(1873)に「三田井神社」と改称、同28年(1895)に「高千穂神社」に改められ現在に至っている。
高千穂皇神は日向三代と配偶神の総称で、十社大明神は三毛入野命(みけいりののみこと、神武天皇の兄)および妃神の鵜目姫命(うのめひめにみこと)とその御子神たち10柱の総称とされている。社伝によれば、三毛入野命が神籬を建てて祖神の日向三代とその配偶神を祀ったのが創まりとされ、社殿の創建は垂仁天皇の時代と伝えられているが、詳細については明らかでない。

高千穂神社の本殿は、 安永7年(1778)に再建されたもの。この本殿の右横に「鎮石(しずめいし)」とよばれる鏡餅状の丸い石が、瑞垣のなかに納まり鎮座している。形状は茨城県の常陸国一宮・鹿島神宮の「要石(かなめいし)」にそっくりで、案内板には「往古関東鹿島神宮御社殿御造営の際、高千穂宮より鎮石が贈られ同宮神域に要石として現存しています」と記されている。鹿島の要石の起源が高千穂にあったとは、にわかに信じがたい話だが、昔からの伝承説話には、どこかに無視できない史実が残されているとも考えられる。
鹿島の要石といえばナマズの伝承だが、となりの阿蘇国にナマズに関わる興味深い伝承が残されている。江戸時代中期の地誌『肥後国誌』によると、大昔、阿蘇のカルデラは満々と水をたたえた湖沼だった。阿蘇大明神(健磐龍命(たけいわたつのみこと))が湖を干して平野にしようと、阿蘇の外輪山を蹴ったが、山が二重になっていて、水が外に出なかった。そこで火口瀬である立野を蹴破って水を流し、やっと平地をつくることに成功した。この時、湖の主であった大鯰が流れ出し、遠く嘉島村に流れつ着いた。そこでこの村を鯰村という。とある。阿蘇神社の祭神・健磐龍命が、阿蘇を開拓する以前、この谷は先住民の「鯰」に支配されており、これを退治して健磐龍命は阿蘇を支配することができた。というのが、この伝承の意味するところだろう。ちなみに、阿蘇神社の社家の人々は、いまなおナマズを食べないといわれる。
このナマズの伝承は、阿蘇国と高千穂に伝わる「鬼八(きはち)」の伝説につながっているように思う。本殿右側の脇障子に、高千穂神社の祭神・三毛入野命が、荒ぶる神「鬼八」を退治している像がある。「鎮石」がそのすぐ傍らにあることから、てっきりこれは「鬼八」の霊を鎮める石かと思ったが、案内板の記載には「この石に祈ると個人の悩みから世の乱れまでの一切が鎮められるという」とひどく漠然としたもので、鬼八に関わる記載は見られない。鬼八への鎮魂は「個人の悩みから世の乱れまでの一切」のなかに含まれているのだろうか。

●高千穂の鬼八伝説
高千穂の「鬼八」は、足が早く「走健(はしりたける)」ともよばれていた。鬼八には阿佐羅姫という美しい妻がおり、またの名を「鵜目姫(上記で解説した三毛入野命の后神)」といった。ある日、三毛入野命が水鏡に写る美しい姫の姿を見て、鬼八からその妻を奪わんとする。命は姫を解放するように迫るが、鬼八はこれに応じない。命は44人の家来を引き連れて鬼八を退治する。ところが、鬼八は何度殺されても一夜のうちに蘇ってしまう。魔性のものは一か所に埋めては、もとの姿にもどるという。そこで命は、鬼八を首、胴、手足の3つに切り離し、3ヶ所に分けて埋めてしまう。それでも鬼八の怨念は深く、凶作の原因と成る早霜を降らせて農作物に害を与えるなど、さまざまな祟りを起こした。困り果てた人々は、毎年、16歳になる少女を「生贄」として捧げ、これを鎮めたという。伝承では、人身御供はじつに天正年間(1573〜92)までつづき、その後、人間の代わりに、猪肉を供えるようになった。のちにこの神事は鎌倉時代から続く「猪々掛(ししかけ)祭り」(毎年旧暦の12月3日に開催)となって、現在に至っている。
鬼八の伝説は、阿蘇国(熊本県)にも伝えられている。阿蘇国においては、鬼八は健磐龍命(ナマズを退治した阿蘇大明神)の従者として登場する。健磐龍命は阿蘇山から弓を射るのを日課にしていた。その矢を拾ってくるのが鬼八の役目だが、連日の矢拾い疲れ果てて、ある日、百本目の矢を足の指にはさんでを投げ返した。命はこの無作法に激怒する。鬼八は逃げるが、結局、捕らえられ首をはねらてしまう。するとその首は天に昇り、早霜を降らせる祟りをなす。人々は霜宮を建立して鬼八の霊を祀ることになった。というもの。
阿蘇と高千穂に、同類の伝説が残されているのは、古代、両地方に色濃い交流があったためだろう。高千穂町は現在宮崎県に属しているが、古くは、肥後国(熊本県)阿蘇郡知保郷に属していたという。実際、肥後国の阿蘇郷にも知保郷があって、こちらは「下高千穂」とよばれ、日向国の智保郷は「上高千穂」とよばれていたという記載が、平安時代に成立した「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に残されている。
両地方に残る鬼八伝説は、この地方にやってきた天孫族が、先住民であった鬼八一族を討ち滅ぼし、 そこの支配者に成り代わる抗争劇の悲哀を、今に伝える物語だと思われる。

高千穂峡の渓谷美は、阿蘇山から噴出した火砕流が、五ヶ瀬川沿いに流れ出し、冷却されて柱状節裡が生じ、長い年月の侵食を受けできあがったものである。渓谷には、約1kmの遊歩道が整備されており、「槍飛橋」の東に、鬼八が投げたと伝えられる「鬼八の力石」がある。石の高さは約3m、重さ200トンともいわれることから、鬼八に古来の「だいだらぼっち(巨人)」 伝承が受け継がれていることがわかる。
また、高千穂町大字上野字鬼切畑には鬼八を切った場所とされる「鬼切石」があり、大字向山椎屋谷の竹之迫には「鬼八の膝付き石」、ホテル神州前に「首塚」、神仙旅館西50mの田の畦に「胴塚」、高千穂高校裏淡路城中腹に「手足塚」がある。
 

 

●鹿島神宮の御由緒・御祭神
鹿島神宮の御祭神「武甕槌大神」は、神代の昔、天照大御神の命を受けて香取神宮の御祭神である経津主大神と共に出雲の国に天降り、大国主命と話し合って国譲りの交渉を成就し、日本の建国に挺身されました。
鹿島神宮御創建の歴史は初代神武天皇の御代にさかのぼります。神武天皇はその御東征の半ばにおいて思わぬ窮地に陥られましたが、武甕槌大神の「韴霊剣」の神威により救われました。この神恩に感謝された天皇は御即位の年、皇紀元年に大神をこの地に勅祭されたと伝えられています。その後、古くは東国遠征の拠点として重要な祭祀が行われ、やがて奈良、平安の頃には国の守護神として篤く信仰されるようになり、また奉幣使が頻繁に派遣されました。さらに、20年に一度社殿を建て替える造営遷宮も行われました。そして中世〜近世になると、源頼朝、徳川家康など武将の尊崇を集め、武神として仰がれるようになります。
現在の社殿は徳川二代将軍の秀忠により、また奥宮は徳川家康、楼門は水戸初代藩主徳川頼房により奉納されたもので、いずれも重要文化財に指定されています。
鹿島神宮の例祭は毎年9月1日に行われますが、うち6年に一度は天皇陛下の御使である勅使が派遣される勅祭となり、さらにそのうち2回に1回、すなわち12年に一度の午年には、水上の一大祭典である御船祭も斎行されます。

●鹿島神宮の要石の謎                         
常陸国一ノ宮は鹿島神宮、下総国一ノ宮は香取神宮である。それぞれ国府は石岡市と市川市である。この両神宮における共通点を見てみると非常に興味深い一致点があることに驚かされます。
両神宮(神社)ともに創建は古くて記録ははっきりしませんが、鹿島神宮は神武天皇元年の紀元前660年の創建とされ、香取神宮も神武天皇18年(紀元前643年)と伝えられています。これは神社の総元締めである伊勢神宮が垂仁天皇26年(紀元前4年)(内宮)とされており、これより600年以上前です。当時の日本は卑弥呼が3世紀始めであり、大和朝廷の成立が4世紀頃と思われているので、はっきりした記録がないのも当然とも言えるでしょう。また平安時代の延喜式によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の3社だけが神宮の称号で呼ばれており、これは江戸時代まで続いています。それだけ特別の神社なのです。
要石に秘められた謎
この両神宮は武道の神様を祀っていることで知られています。鹿島神宮が武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)であり、香取神宮は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)です。これらの神は日本書紀・古事記にでてくる出雲の国譲りの神話にて日本での支配を古代出雲から大和朝廷(天皇)へ譲るために大変重要な神であるのです。この二神に反対した建御名方神(たけみなかたのかみ)(大国主命の第二王子)は諏訪まで追われて逃げ込みそこで忠誠を誓ったので諏訪神社の神として祀られたのです。これは神話の世界であるがそれぞれの神社の置かれた位置を考えるのに非常に興味深いと考えます。それぞれの神社の関係をレイライン(光の道)ととらえて研究しているサイトもあるので興味のある方は調べてみると良いと思います。
ここでは、この二つ神社に共通した「要石」について、お話したいと思います。この要石は地表に出ている部分はほんの少し(高さ15cm位、直径40cm位)で、地下の部分が非常に大きくけして抜くことができないと言われています。鹿島側は上部中央部が凹形で香取側は凸形をしています。昔水戸黄門(徳川光圀)が七日七夜掘り続けても底が見える様子がなく、さすがの光圀公もあきらめて作業を中止したといわれており、鹿島神宮の要石と香取神宮の要石は下でつながっているとも言われています。大昔、神様が天からこの地にお降りになった時、最初にお座りになった石であると伝えられています。しかし、この石は地震を抑える石であるとしての信仰が続いてきました。
昔から、この地方は地震が多く、これは地中に大なまずがいて暴れるからだと信じられており、鹿島・香取の両神様がこの要石でなまずの頭を釘のように打ち付けて動けなくしているといわれているのです。このため、この地方では地震は起きるが大きな被害はないといわれています。この石が有名になったのは江戸時代の安政の大地震(1885年10月)のとき、江戸の下町を中心に町民の4300人の死者を出し1万戸以上の家屋が倒壊したと伝えられていますが、江戸の町中が大騒ぎとなりました。この時に地震から家を守るお札が流布しました。このお札に鹿島神宮のなまずの絵がモチーフに使われたのです。地震が10月(神無月)であり、鹿島の神様は出雲に出掛けていて留守であったとの話も説得させるものがあったようです。
「揺ぐともよもや抜けじの要石、鹿島の神のあらん限りは」
地震は地中の蟲(むし)の仕業?
しかし、なまずは大昔からこの地方にいたという記録はないのです。関東地方になまずが知られたのは江戸時代になってからだとも言われています。また、地震神として鹿島神宮が記録に現れるのは12世紀半ば以降との文献もあるようです(「地震神としての鹿島信仰」「歴史地震」8号1992年)。鎌倉時代の伊勢暦には地震蟲(むし)の想像図が載っています。頭が東で尾が西を向いており、10本足です。目には日と月を備え、5畿7道を背の上に乗せ、鹿島大明神が要石で頭部を抑えるさまであり、地震神としての鹿島神宮の起源は12世紀頃と考えてよいでしょう。地震を起こすものが鯰(なまず)となったのは、江戸時代以降であると考えられます。しかしこの要石の信仰はもっとずっと昔からあったと考えても良いのではないでしょうか。ではこの要石が地震抑止信仰となる前はどのような役割を担っていたのでしょうか。右のような地中に住む怪物蟲の仕業であるとの解釈もされていたようです。その蟲がいつのまにか地震を予知できるなまずに置き換えて考えられるようになっていったものと考えられます。

●鹿島神宮・要石
香取神宮、息栖神社(いきすじんじゃ)とともに東国三社に数えられるのが鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)。香取神宮同様に境内には要石と呼ばれる霊石があり、この石が地震を鎮める石として信仰されています。古来「御座石」(みまいし)や「山の宮」とも呼ばれた霊石で、江戸時代の錦絵『鹿島要石真図』にも描かれています。
地震は鯰(ナマズ)が引き起こされるという考えがあり、その大鯰を押さえつけるための石がこの要石。要石は大鯰の頭と尾を抑える杭という信仰で、地上には直径30cm・高さ7cmほどしか出ていませんが、地中には巨石が埋まっているのだとか。『水戸黄門仁徳録』には、水戸藩主・徳川光圀が要石の周囲を7日7晩掘り起こしても、穴は翌朝には元に戻ってしまい根元には届かなかったと記されています。神無月(かみなづき=旧暦10月)に起こった地震は、祭神の武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ)が出雲に行って不在のために発生した(武甕槌大神が要石を押さえているという信仰から)とも。
『鹿島要石真図』は、安政2年10月2日(1855年11月11日)に発生した安政江戸地震後に描かれた地震鯰絵。鹿島神が地震を起こす大鯰を剣で押さえつけています。よく見ると、鹿島神の周囲には材木、金槌(かなづち)や鉋(かんな)などの大工道具、小判が散らばる様子も描かれ、復興バブルの風刺画、あるいは災い転じて福となすという教えにもなっているのです。
出雲の国譲り神話の中で、出雲に赴いたとされるのも武甕槌命(鹿島神)と、経津主命(香取神)。その武神たる神の武威に、出雲を支配する大国主命が従うことになったとされ、大和朝廷の東北平定に際して、鎮座したのが鹿島神宮、香取神宮。
鎮護国家の神として大和朝廷の東国経営の一翼を担うにあたり、懸案だったのが地震鎮護。そのため、神の武威を示すためにもこの要石が重要な役割を担ったと推測できます。鹿島神宮の要石は凹型ですが、香取神宮は凸型。ペアになっていることからも、両神が大鯰を抑えるという古代の地震鎮護の図式がよくわかります。

●香取神宮・要石
千葉県香取市香取にある全国にある香取神社の総本社で、古代には大和朝廷の東国経営の一翼を担った香取神宮。香取神宮境内西方に配された霊石、要石(かなめいし)は、下総国に数多い地震を鎮めるために置かれた凸型の石。鹿島神宮には凹型の要石があり、対になっています。
古来、地震は地中に棲む大鯰(おおなまず)が起こすものと考えられ、地中に深く石棒を差し込み、大鯰の頭から尾を刺し通したのがこの要石。見た目は小さいのですが、貞享元年(1684年)、徳川光圀が香取神宮を参拝した際、要石の周囲を掘らせましたが根元には届かなかったと伝えられ、かなり奥深くまで石が延びていると推測できます。
平城京(奈良の都)の守護と国民の繁栄を祈願するために創建され、中臣氏・藤原氏の氏神を祀る、春日大社。第一殿の祭神・武甕槌命(たけみかづち=藤原氏守護神、常陸国鹿島の神・鹿島神宮の祭神)、春日大社第二殿に祀られる経津主命(ふつぬしのかみ=藤原氏守護神、常陸国鹿島の神・香取神宮の祭神)という関係があり、香取神宮本殿に祀られているのは、経津主命。
武甕槌命(鹿島神)と、経津主命(香取神)が、地中に深く石棒を差し込み、大鯰の頭尾を刺し通して地震を起こす大鯰を制したと伝えられています。
出雲の国譲り神話の中で、出雲に赴いたとされるのも武甕槌命(鹿島神)と、経津主命(香取神)。その武神たる神の武威に、出雲を支配する大国主命が従うことになったとされ、大和朝廷の東北平定に際して、鎮座したのが鹿島神宮、香取神宮。鎮護国家の神として大和朝廷の東国経営の一翼を担うにあたり、懸案だったのが地震鎮護。そのため、神の武威を示すためにもこの要石が重要な役割を担ったと推測できます。 

●息栖神社・忍潮井
息栖(いきす)神社は、鹿島神宮(鹿嶋市)、香取神宮(千葉県香取市)とともに『東国三社(とうごくさんじゃ)』と呼ばれ、古くから信仰を集めてきました。岐神(くなどのかみ)を主神とし、相殿に天鳥船神(あめのとりふねのかみ)、住吉三神を祀っています。天鳥船神は交通守護のご霊格の高い神様で、鹿島大神の御先導をつとめられた神様です。大鳥居が常陸利根川沿いに建てられ、江戸時代は利根川の河川改修で水運が発達したため遊覧船も行き来し、庶民の間で東国三社を参詣するのが流行となりました。水郷の風景を楽しむ人や文人墨客など多くの参拝者で賑わっていました。現在も、息栖神社を含めた東国三社は、関東屈指のパワースポットとしてテレビや雑誌など各種メディアで取り上げられ、東国三社巡りバスツアーなどが頻繁に行われています。
息栖神社で隠れたスポットなのが、常陸利根川沿いの大鳥居(一の鳥居)の両脇に設けられた二つの四角い井戸「忍潮井(おしおい)」です。それぞれの井戸の中に小さな鳥居が建てられ、水底を覗くと二つの瓶(かめ)がうっすらと見えます。この二つの瓶は「男瓶(おがめ)」と「女瓶(めがめ)」と呼ばれ、1000年以上もの間、清水を湧き出し続けてきたとされています。この忍潮井は、伊勢(三重)の明星井(あけぼのい)、山城(京都)の直井と並び、日本三霊泉の一つに数えられています。しかもこの清水には、女瓶の水を男性が、男瓶の水を女性が飲むと二人は結ばれるという言い伝えがあり、縁結びのご利益もあるとされています。現在忍潮井の水を直接飲むことはできませんが、境内の手水舎の奥にある湧き水は、忍潮井と同じ清水で、お水取りをすることができます。
 

 

●「ナマズが暴れると地震が起こる!」ことわざが生まれたワケ
日本人にとって地震はとても身近な自然現象だ。昔からなぜ地震が起こるのか?と多くの人が疑問に思ってきたことだろう。地震は地下深くの岩石が断層を境として揺れ動くのが現在の科学的見解である。しかし、地球の内部で何が起きているのかを突き止めることは容易ではない。江戸時代には「大ナマズが暴れるから地震が起こる」と信じられていた。なぜ、ナマズ?と思われる方もいるだろう。第一、大地を揺らすほどの体を持ったナマズがいるとは想像しがたい。まずナマズと地震がどう結びついたのかについて、触れておきたい。
ナマズが暴れると地震が起こる?
江戸時代は人口が急激に増えた時期で、地震が起こると被害も大きくなった。そのため、地震に対する関心も高かったと考えられ、地震に関する記録が多数残っている。『安政見聞誌』などによれば、地震に先行してナマズが暴れたことが記述されている。ナマズが地震を誘発するのか、あるいは地震前に何かを察知しているのか。その科学的な根拠は現代でもよくわかっていない。ただ、その様子を見た江戸時代の人々は、釣りをしている時などに「ナマズが暴れているから地震が起こったんだ」と解釈したのかもしれない。
鹿島信仰における大ナマズ
ナマズと地震を関連づけるのは、信仰上の経緯もある。茨城県の鹿島神宮に伝わる神話によれば、雷神タケミカヅチと海神フツヌシが「要石(かなめいし)」を大地にうちたてることにより、大ナマズを鎮めたとされる。これは、大ナマズ(動くもの)と要石(不動のもの)を統合することで、秩序をもたらしたことを意味する。これを実世界に置き換えてみれば、混沌とする世の中が統一されたという見方もできる。
実際に鹿島神宮に行くと、「要石」の実物が見られるという。きっと大きい石に違いないと想像する方も多いだろうが、実際には地上にちょこんと顔を出す石にすぎない。しかし、地下深くまでその石は続いていると言われており、その底を見た者はいないという。
江戸時代にナマズ絵が大流行
鹿島信仰における大ナマズの話が広まったのは江戸時代。1855年の安政の大地震では、大都市・江戸を中心に甚大な被害が広がった。その際に、ナマズ絵という風刺画が大流行。大きな被害が広がったのにも関わらず実態が捉えられない地震を、ナマズに例えて想像力豊かに描いている。中には、吉原の遊女たちがナマズを懲らしめている絵や、ナマズが地震の復興作業で潤った大工・左官たちに小判を与える絵などユーモラスなものばかりだ。
地震は人々の生活に打撃を与え苦しめる一方で、建築物の建て替えや都市の復興などによって経済的な潤いをもたらした。地震が起きて間もない時期に、地震の肯定的な側面まで描いてしまうナマズ絵の風刺力には驚かされる。これができたのも、ナマズ絵は無許可の出版物で規制が及ばないところで出回っていたという背景があるからだ。私たちはナマズ絵から、人々が地震に対してどう向き合っていたのかをストレートに読み取ることができる。
現代人にとっての地震
さて、現代は地震が起きた際に、携帯電話で緊急地震速報が鳴るご時世。地震発生のメカニズムに関する研究が進み、誰もが地震の発生を事前に知ることができるようになった。しかし、2011年の東日本大震災地震では、地震のみならず津波や原発の倒壊なども発生し、自然の脅威が人々の予想を超えてきたというのも事実である。科学で解明できる世界ばかりではない現代において、見えないものに対する想像力を掻き立てる瞬間は少なからず存在する。そのような時に人々は脅威を感じ、精神的な支柱を求め、無限に広がっていくイメージの中に祈りや絵画の題材を見出すのかもしれない。 
 

 

●ナマズに対する誤解
「ナマズ」と聞くと、大方の人が「地震を感じますか。地震予知に役立ちますか。」と地震との関連を尋ねてくる。生物学的知見に乏しい門外漢ならともかくも、こともあろうに生物研究者までがそうであるからいささか困ったことである。これは、「ナマズが騒ぐと地震が起る」との古い言い伝えがあることから、異変に先立つ前兆現象としての生物の異常行動が異変予知に役立つのではないかとの、想像するだに恐ろしい天変地異に対する不安に加速された、社会的な強い期待の素朴なる反映に他ならない。その意味でこの問題の解明は自然科学に課せられた重要なことがらの一つではある。しかしながら生物学的側面からは異変に先立つ物理的、化学的過程としての前兆現象の諸要素を生物が如何様に感知するかという点に問題が収歛するであろう。換言すれば、地震なら地震の地質学的過程の解明によって浮上する様々な環境要素の変動に対して生物がどう反応するかということであり、地震そのものの研究の進展を待たなければ、我々の側からは明確な回答を提示することはできないわけである。つまり、地震予知は地震学者の問題であり、我々生物研究者はそれに対して若干の助力となるだけである。それ故に私は、かかる質問に対して、「さあどうでしょう。ナマズが地震を起すわけではありませんから。」と、特に生物研究者に対してはこう答えることにしている。そして彼らは憮然となる。
そこで、少なくとも、水界の生物をその直接の対象とする水産研究者にだけは、このような皮肉を言わずに済むように、ナマズのいささか特殊な能力についてその誤解を解いておきたい。
地震の間際になると振動刺激に対してナマズが興奮状態を示すという実験的観察はHataiら(1932、1934)が行なったが、それ以前にParkar&VAN Heusen(1917)により、同科に属するヨーロッパ・ナマズが高い電気感受性を持つことが発見されていたところから、地震時の地電流変化がこの興奮状態をひき起す重要な要因であるという示唆を行なった。彼らによると、電気的に大地とつながった水槽では、地震の間際に震動刺激に対してナマズが敏感になるが、そうでない水槽ではこのようなことは起らないということである。この研究の意義は、刺激−感覚−行動という生物学的に立証され得る一般的法則に基づき、それまで神秘的に考えがらであった生物の予知的行動に科学的根拠を与え、また、我々人間が持たない感覚に媒介された環境世界が、これら生物種に対して展開していることを示した点にあると言えよう。
しかしながら一歩退いて、この問題を生物学的視点から捉えかえしてみると、いささか異なった側面から解かねばならないことに気付くはずである。つまり、ナマズとその電気的環境とのより基本的な関係の解明である。
そもそも、電気に対する高い感受性がナマズにあるとすれば、それは何も地震などのような何時起こるともわからない現象を感知することにあるはずはなかろうというものである。一般に動物の感覚系の意義を考えてみるならば、それは進化過程において与えられた環境の内で、その動物種が自ら保身に必要な情報を感覚系を通して得、これに対して適切な行動をとるところにある。この保身のための行動は、さまざまであるが、基本的には餌をとること、そして、外敵から逃れることがまずあげられる。動物の行動が直接に、間接に餌に結びつき、逃避行動との複雑な絡み合いの中で、摂・索餌行動として発現していることは、行動学の指摘するところである。
ナマズの習性に着目すると、これは水の停滞しがちな河川や湖沼に生息し、日中は水草の繁った泥底などに潜み、夜間や増水などで水が濁ったときに行動して小魚などの小動物を捕食している。同じ生息域に棲む他の魚種と違って、特に夜行性でありかつ肉食性であることは、この習性を可能とする感覚機能の存在を示唆していることになる。従って、ナマズが同じ生活圏に棲む魚種の中で、例外的に電気に敏感であるならばその感覚機能こそ、夜間の捕食活動のために特別に発達したものと考えてしかるべきであるし、また、一方捕食対象である小魚などの水生生物から、何らかの電気発生のあろうことも当然に推察されてくる。
結論から述べてしまうならば、この論理的予想はズバリ“アタリ”であった。ナマズは、魚などの水生生物が生理的に不可避に発生する電気を感知して、これを正確無比に捕えるのである。つまり、わかりやすく言えば、ナマズは視覚の効かない状況下にあって視覚に代わる感覚系を持ち、それが電気感覚であるということである。
ここで、この感覚の感度がどれほどのものなのか、という疑問が呈されよう。この疑問はナマズの電気に対する敏感さが果して感覚系と呼び得るかという問題にもかかわってくる。
習性を利用してナマズを自ら塩ビ管に潜入させ、その管内にあらかじめ装着しておいた電極により、呼吸運動に同期する水中電位変動を観察しながら、水槽壁にとり付けた刺激電極を通じて数段階の周波数の矩形波を魚の体軸方向に与える。すると、有効な刺激電圧に対して反射的に呼吸運動が停止したり、あるいは緩徐となるが、この応答は餌を与えることで容易に強化される。そこで、電気刺激を与え、応答が得られたときに餌を与えるという刺激を繰返しつつ刺激電庄を下げて行くと、やがて反応が認められない電圧に行きつく。こうして反応率が50%となる電圧を閾値とすると、4尾の平均がDCでは0.17μX/cm、1Hz−0.05、3Hz−0.05、10Hz−0.04、30Hz−0.17、100Hz−4.2μX/cmとなった。ナマズは乾電池の数千万分の一の電位差を感知し、特に1〜10Hzの低周波電位変化によく応ずるのである。体表の全面に分布する小孔器と呼ばれる感覚器に対して電気生理学的に調べてみたところ、その感覚細胞にかかわる神経放電は、低周波刺激ならば弱い電圧でも同期するが、周波数が高くなるにつれて強い電圧が必要となり、個体レベルでの周波数応答特性とピタリ符合する特性が得られた。従って、ナマズの電気に対する敏感さというものは感覚系の存在によることが明らかとなったわけである。比較のために、ナマズと同じ淡水域に生息するウナギやコイについて、同じような方法で調べたが、こちらは体側筋の痙攣が起る高い電圧まで何らの反応も見せなかった。
ならば、捕食対象の魚の電気発生如何が問われよう。魚類の周囲の水中に電極を置くと、その呼吸運動に同期した電位変動(以下“呼吸波”と呼ぶ)を捉えることができる(図1)。そして、この呼吸波の発生や発生源は、鰓において主に行なわれる浸透圧調整機構とかかわっていることが判明した。
軽く麻酔したコイの周囲水中を、水流によって電極電位が乱れないように工夫した電極で探査し、電場形状を調べてみると、口および外鰓孔へ向けて電極を近づけるに従って、無限遠に対する0電位から指数関数的な電位上昇が観察され、それぞれの近傍で1〜3mVの正電位に達した。一方、他の体表では逆に電位が下降し、近傍では1〜3mVの負電位となった。このような測定をもとに電場形状を描くと図2が得られる。明らかに電流は口および外鰓孔から流出し、他の体表部分へと流入している。
ついで、呼吸波を調べてみると、図3にL(0)で示した線を境界に、頭部側の領域(S)では変動の位相が鰓付近のそれに一致し、尾部側の領域(R)では逆転している。L(0)上では電位変動は殆どない。外鰓孔が開くときの電位変動は頭部領域では上昇、尾部領域では下降であるから、口および外鰓孔の開閉により、電流が制限される結果、呼吸運動に同期した電位変動、すなわち、呼吸波が生じているというわけである。
この電場や呼吸波をもたらすそもそもの電流の源は、少し手の込んだ実験によって、魚類が生理的に体液の塩類濃度を一定に保つ機構(能動的なイオン輸送)とその結果として生ずる体内外の塩類濃度差による物理化学的な「液間電位差」との微妙なる組合わせであることが示された。
以上のことから、ナマズは電気感覚を具有し、その食対象たる魚類から生理的に電気の発生があることがわかり、ここに役者がそろったようである。ならば、ナマズは電気的情報をたよりに捕食活動をするのであろうか。
ナマズは照明下では殆ど行動を示さない。そこで、眼球摘出した個体を1尾ずつガラス水槽で飼育しながら、捕食行動に着目して観察、実験を行なった。ただし、水槽中に放した1尾の小魚を捕食するに要する時間が、眼球摘出の前後で有意に違わず、従って、視覚の有無が捕食行動にあまり影響を与えないことを、あらかじめ確かめておいた。
ナマズは一日の大半、水槽の隅で、じっとして動かないが、水面の振動や餌の臭いに敏感に反応して“身構える”。このような状態では、1)生きた小魚が体表から約5cm以内の距離に進入すると、これを正確に一瞬のうちに捕食する、2)帯電体を水槽外で動かすと、それを追う。3)局所電流を生ずる金属棒に対して攻撃するが、ガラス棒に対しては、それが体表に触れるまで何の反応も示さない。4)小魚周囲の電場、すなわち呼吸波を電極を通じて水槽中に再声すると、電極にかみつく、5)この電場を強くすると、逃避行動を示す。6)大きなコイを水槽に入れると、それに近付かないなどの行動を示す。また、コイ肉片を5〜6pの間隔で2個つるし、その一方に電極を装着して小魚の呼吸波を再声したところ、ナマズが電極付きの肉片を捕食する回数は、全試行回数に対して、6尾平均76.7%であった。この結果から、ナマズの捕食行動に際して、餌魚周囲に存在する電場が有効な手掛りを与えていることが確認できるだろう。しかも、大型魚周囲におけるような強い電場に対しては、ナマズは逆に逃避行動を示すのである。
一日をノタリ・ノタリと過し、地震となるとあわてふためく、怠け魚の代表のように思われているナマズであるが、実はこのような特殊な能力を持っていたのである。ナマズに対する認識を一新されたであろうか。地震−ナマズというのは、生物研究者としてはいささか的外れの容認され得ない発想である。
  

 

●ナマズが暴れる、イワシ大漁… 動物の「異常行動」は大地震の前兆なのか
古くから日本では「ナマズが地震を起こす」と信じられてきた。実際に、ナマズと地震の関連性は科学的な研究が積まれてきたという。日本地震予知学会会長で、東海大学海洋研究所客員教授の長尾年恭氏はこう話す。
「1976〜1992年の16年間、東京都水産試験場はナマズの行動を調査し、東京都で震度3以上の地震を観測した10日以内にナマズが異常行動を起こした割合は31%だったと報告しました。ただし、異常行動の判定基準を変更すれば結果が変わるとの指摘がありました。その他の研究結果を見ても、関連性を証拠づける満足な結果は得られているとは言い難い」
吉村昭がレポートしていた、3.11でも観測された「イワシの大漁」
東日本大震災と、その115年前の明治三陸地震では、ともに魚の大量発生が観測された。
明治と昭和の三陸地震をルポルタージュした作家の吉村昭は、震災の1か月前の青森県の漁港で〈海面は鰯の体色で変化して一面に泡立ち、波打ち際も魚鱗のひらめきでふちどられた〉と記した(『三陸海岸大津波』)。
東日本大震災直前の2011年2月にも、マイワシの月間漁獲量の異常が東北6漁港で観測された。
「3.11と漁獲量との関連性は、2005年からのマイワシの漁獲量を見ると、計12か月にわたり異常が報告された。そのうち、漁獲異常が観測されてもM7〜8級の地震が発生しなかったケースもあった。この結果から、マイワシの大漁が大地震の前兆だと判断するのは早合点だといえます」(長尾氏)
イルカ、クジラの集団座礁
2011年3月4日、茨城県鹿嶋市の海岸で、イルカの一種であるカズハゴンドウ54頭の集団座礁が観測された。東日本大震災の1週間前だったため、SNSで「前兆現象だったのでは」と騒ぎになった。
「日本鯨類研究所が公開しているイルカ、クジラなどの海棲哺乳類の座礁情報によると、2005〜2010年まで年間200件以上打ち上げが観測されており、カズハゴンドウも含めて、直後に地震が発生しなかった事例のほうがはるかに多い。イルカやクジラの集団座礁と地震は一般には関係ないと考えるべきでしょう」(長尾氏)  
 

 

●ナマズは「地震予知」できるのか
人類は昔から予知できない未来の出来事をどうにかして知ろうとしてきた。地震予知もその一つだが、動物の持つ人類にはない能力が地震の予兆を感知するという伝承も広く流布している。そうした研究も多く、それら研究から動物の地震予知能力について改めて検証する論文が出た。
地震とナマズの関係とは
地震の多い日本では、地震に関する研究に多額の予算を投入してきた。その額はざっと年間数百億円ともいわれているが、地震の予知にはあまり多くの研究予算が割かれていないようだ。
この地震予知に関しては、1990年代の終わり頃から科学雑誌上で研究者らにより盛んに議論がなされてきた(※1)。地震については、それが起きるメカニズムなどの研究は多く歴史も長い。だが、こと地震予知では、過度な期待を市民国民に抱かせるべきではないと主張する研究者も少なくない。
日本の地震予知研究と政治行政の関係については別の問題もあるが、この記事では動物が地震を予知するという伝承について考える。すでにこの伝承に対しては科学的に懐疑的な意見もあるが、地震の前兆に関する錯覚や思い込みの代表的な例とする研究者も多い。
日本では巨大なナマズが地中深くにいて、そのナマズが暴れると地震が起きると長く信仰されてきた。こうした伝承は、地震の前にナマズが暴れたり不自然な挙動をしたという考え方によるものだ。そのため、江戸時代には地震を起こすナマズ退治の様子を描いた鯰絵というものが広まったりした(※2)。
1855年に起きた安政江戸地震の際に民間に広まった鯰絵。「地震よけの歌」とある。Via:早稲田大学博物館所蔵
地震の予知に関し、ナマズが本当に異常な行動をするかどうかの研究がある。戦前に東北帝国大学教授として多くの研究成果を挙げた生物学の大家、畑井新喜司は、自身が青森県に1924(大正13)年に創設した東北帝国大学理学部付属浅虫臨海実験所において、ナマズ(Parasilurus asotus)を使った実験を1932(昭和7)年に行った(※3)。その結果、ナマズは地震発生の6〜8時間前に普段とは違う敏感な行動を見せることがわかったという。
戦前に限らず同様の報告や研究結果は意外にも多い。例えば、1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災の前日、大阪大学の実験用マウスが異常行動を示していたという報告(※4)があったり、2009年4月6日にイタリアで起きたラクイラ地震の数日前からヒキガエル(Bufo bufo)が異常行動を示したという研究(※5)があったりする。
地震体験と心理状態
これらの行動については、生物が微弱な地震波動や電磁波を感知するのではないかという仮説はあるが、はっきり理由はわかっていない。一方、我々の間に流布しているこの種の伝承についていえば、地震という異常事態の体験が生物の行動と結びつき、より強調した記憶になるという認知バイアス的な心理状態(錯誤相関)による影響が考えられている。
つまり、生物は時として我々が知らない行動をとることがあり、たまたま地震の前にそうした行動があったことを地震と関連づけて強く記憶してしまうというわけだ。確率的にはありふれたものと強く印象づけられた体験との間の因果関係に、ついついヒューリスティックなヒモ付けをしてしまう。
大きな地震の前に、中小群発地震が増えたり地下水の水位に変化が起きたり電磁波に異常な事象が観察されるのは確かだ。これを宏観(こうかん)異常現象(Electromagnetic anomalies、Microscopic and macroscopic physics of earthquakes)というが、地球内部物理学などの実証的な観察研究と前述した心理的因果関係による錯誤相関が混在し、地震の予兆を探る上での障害になることもある。
最近、米国の地震学会誌に過去に発表された生物の異常行動と地震予知に関する160の研究論文を比較し、生物が地震予知できるかどうかを分析したシステマティックレビューが出された。ドイツにあるヘルムホルツ協会GFZドイツ地質科学研究センターの研究者によるもので(※6)、生物が地震を予感するという宏観異常現象の研究報告には多くの不備や欠点があり、仮にこうした研究をするなら基準を設けるべきとしている。
このシステマティックレビューでは2014年までに発表された160論文に729件の事例が報告されているが、これらと国際地震センターの地震カタログ(※7)の地震データを比較したところ、時系列を含めた生物行動の観察方法、異常行動の基準や定量性などデータの評価、天候や気温といった地震以外の環境要因、比較対象の有無、データの処理や解釈の方法などの点で科学的な検証に耐えうるものが少ないことがわかったという。
例えば前述した畑井新喜司の実験については、実験期間の7ヶ月間に178件の地震が起き、そのうち149件(約80%)でナマズの異常行動が観測されたという内容だが、観察スパンは1日に2回だけであり観測期間の85%に地震が発生した可能性があるため、単なる偶然と区別できないとする。また、閉ざされた水槽内での観察であり、空間時間的な異常行動について比較できる情報が示されていないのも問題と指摘する。
特に重要な問題点は、ほとんどの研究で事後的に異常行動の観察が報告されていることと、それら生物の個体や集団の健康状態について記録がないことだ。このシステマティックレビューを出した研究者は、生物が地震予知できることを否定しているわけではない。だが、少なくとも2つ以上の事例で同じ観察があったかどうかという再現性や異常行動の基準(閾値)、時系列で地震前からの観察かどうかなどの評価項目をそろえてから研究報告すべきとしている。
地震研究の研究者でさえ地震予知に関しては懐疑的だ。現実的には、起きた後の被害をどれだけ軽減できるかという方向で議論すべきだろう。困ったときの神頼みならぬナマズ頼りでは、せっかくの人類の叡智が宝の持ち腐れだ。 
 

 

●なまずと地震
江戸は災害の多い町でした。富士山の噴火(1707年)、寛保の大水害(1742年)、安政の大地震(1855年)、江戸大風(1856年)などはその代表的なものでしょう。特に地震は、火事に次いで人々が恐れたものでした。
安政(あんせい)の大地震
1855年(安政2年)10月2日午後10時ごろ。震源地は現在の亀有と亀戸の線上あたりといわれています。
マグニチュード6.9の直下型の大地震で、余震は29日まで続きました。最も被害が大きかったのは、地盤の弱い上野、浅草、本所、深川あたり。
地震発生とともに30か所以上から出火しましたが、さいわい風が弱かったため、火事はそれほど大きくはなりませんでした。死者1万人以上、倒壊家屋1万4000戸以上、消失家屋多数をだした大地震でした。
瓦版(かわらばん)
江戸時代に登場した新聞です。江戸や全国のニュースをすばやく人々に知らせました。火事や地震など、災害のニュースは、瓦版でよく取り上げられた話題です。
最初に瓦版が発行されたのは1615年、大阪落城のときですが、その後、八百屋お七の火事、赤穂浪士の討ち入り、大火や水害、黒船来航など、さまざまな事件や災害、うわさ話などがのった瓦版は大いに売れました。安政の大地震のときも、約600種類もの瓦版が発行されたということです。
「瓦版」という名は、瓦をつくる粘土に字や絵を彫り、それを焼いて版にしたからついたといわれていますが、実際には木に彫ったものが多く残っています。当時は内容をおもしろおかしく読み上げながら売ったので、「読売」ともよばれていました。
なまず絵の流行
地震は地底にいる大きななまずが起こすものだから、そのなまずを鹿島神社(茨城県)の要石(かなめいし)で押さえつけようという信仰は古くからありました。また、なまずは日本民謡のなかでは「物いう魚」で、災害が起こる前に人間に警告を発するといわれていました。安政の大地震の前にもなまずが騒いだという記録があります。
このように、なまずは地震と関係の深いものと考えられていましたので、安政の大地震の後、「なまず絵」は地震よけのお守りになりました。また「こんなひどい災害が起こるのは政治が悪いからだ、世の中すべてを新しく変えよう」という世直しの考えが生まれ、「地震をきっかけになまずが世直しをしてくれる」という願いを込めて「なまず絵」が売り出され、大流行しました。
 

 

●地震をナマズと結びつけた話はいつごろ生まれたのか… 2018/6/18
18日朝、大阪市北区などを襲った最大震度6弱の地震は、都市機能のもろさをあらわにした。通勤・通学客が駅で長時間足止めされ、高速道は通行止めになり一般道も混雑。水道や通信などインフラにも被害が及び、経済活動も混乱した。甚大な被害が想定される南海トラフ巨大地震は30年以内の発生確率が70〜80%と推定され、対策が急がれる。
地震をナマズと結びつけた話はいつごろ生まれたのか。その最古の文書は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の手紙という。以前の小欄も触れたが、1596年の大地震で倒壊した伏見城の築城の際「なまづ大事」と地震対策を指示したのだ。天下人の指示も大地震には無力で、秀吉は命からがら幼い秀頼(ひでより)を抱いて裸で逃げた。この伏見地震で大坂でも町家の大方が崩れ、死者は数知れないとの記録がある。現在の大阪府茨木市の総持寺(そうじじ)の観音堂、箕面市の瀧安寺(りゅうあんじ)も倒壊した。この地震は大阪平野の北縁を通る有馬−高槻断層帯が動いたものだった寒川旭(さんがわ・あきら)著「地震の日本史」)。そしてきのう、高層ビルの林立する現代大阪の通勤時間帯を直撃した最大震度6弱の地震もこの断層帯との関係が疑われている。
政府の調査委の推計では、有馬−高槻断層帯で大地震が今後30年間に起きる確率は0・1%未満とされていた。また大阪では震度6の地震は1923年の観測開始以来初めてとなる。だが地下のナマズはそんな人の計数に遠慮しない。人間の側も建物の耐震化は進めたが、きのうは学校のブロック塀の倒壊で女児の命が奪われ、やはり塀の倒壊や家具の転倒でお年寄りが亡くなっている。ひと揺れあればまだまだ凶器に変わる構造物にかこまれた都市の暮らしである。地盤の緩みが心配な大阪地方はこれから雨がひどくなるという。復旧作業にあたる人々にとっても、なんとも無慈悲な梅雨である。せめてナマズよ、地震をすぐ止め、水神(すいじん)に頼んで大雨を降らすな。 
 

 

●鯰絵の世界
はじめに
安政2年(1855年)10月2日の夜、江戸安政地震が発生した。地震直後から、「地震は、鹿島大明神の要石に抑えられている地下の大ナマズが暴れて起こすjという俗説に基づいた『 鯰絵』が多数出版され、爆発的なブームとなる。現在、鯰絵は二百数十点が確認されているが、図像としては、安政地震を起こした地震鯰を鹿島大明神が叱責しているもの、地震で被害を受けた人々が地震 鯰を打擲しているものが目に付く。一方それらとは逆に、大工・左官などの職人や雑多な職業の人々が、地震鯰を歓待している図像のものも多く知られている。この様な、「鯰絵の世界Jとも呼ぶべき図像の多様さは、一体何を表しているのだろうか。
地震鯨が「悪者」の鯰絵
江戸安政地震の余震は昼夜を問わず約一ヵ月間続き、家財を失った被災者たちは不安な日々を過ごした。鹿島神が叱責する鯰絵には、「地震よけのまじない・呪歌」が描かれていることもあり、明らかに地震よけの護符としての側面が見られるのである。また、 鯰を打擲する図像には、鬱憤晴らしの;意が込められている。このように、地震の張本人たる地震鯰が明確に「悪者 」に描かれている鯰絵は、余震が続いている時期に好まれたと考えられる。
地震鍛が「善者」の鯰絵
さて、地震直後から始まった江戸の復興は、次第に本格化していく。 瓦礫の撤去や土運びの為に多くの労働需要が生まれ、特に大工・左官などの職人層は引く手あまたとなり、普段の何倍もの高賃金を得て大いに潤った。彼らの儲けは、屋台店での飲食や仮宅などの遊廓でも浪費され、俄景気となった。一方、普段は儲けている富裕な商人は、家や蔵を失って大きな打撃を受けた。また富裕者は地震・大火などの緊急時には「施行」という、被災者への施しが義務となっていた。これを風刺して、地震 鯰が金持ちから黄金を吐き出させている鯰絵もある。富裕者の財産が貧しい者に施されて、復興景気も盛り上がっていくと、多くの人々が「安政地震は世直しである」と感じるようになった。すると 鯰絵には劇的な変化が見られ、悪者扱いされていた地震鯰は、「世直し鯰」として描かれ、地震鯰を懲らしめていた鹿島神や要石は、鯰絵の中から姿を消す。ついには、地震鯰を「流行神 」(一時的に人々の爆発的信仰を受ける、にわか神様)のように描いた鯰絵すら現われたのである。
鯰絵の終わり
このように鯰絵の図像は、安政地震の余震が収まり江戸が復興していく中、まさに百八十度変化した。江戸の人々は次々と出される鯰絵を見ることで「安政地震は世直しである 」と感じ、震災のダメージから立直っていったと考えられる。一方で、俄景気を謳歌する人々に対して、地震で亡くなった者を思い起させたり、俄景気の終焉を暗示する鯰絵もあり、 鯰絵の世界をより深いものとしている。
ところで、全ての鯰絵は、幕府の検聞を受けていない違反出版物であった。大部分の鯰絵は、普段は美人画・風景画などの錦絵(多色刷りの浮世絵版画)や草双紙などの軟派本を販売する、地本問屋と呼ばれる業者が作成していたと推定される。当初 鯰絵の出版を大自に見ていた幕府も、安政地震発生から約2ヵ月後の12月15日、全ての鯰絵の版木を破棄させた。幕府は、鯰絵などの情報操作による、世論の更なる盛り上がりを危険視し、封じ込めてしまおうと考えたのだろう。 
 

 

●鯰のかば焼大ばん振舞
この絵は「鯰絵」の1種で、画題は「鯰のかば焼大ばん振舞」とあります。絵の上部の小字の文章は判読できませんが、大きな鯰を前にして左側の鹿島大明神が包丁を持ち、中央の讃岐金比羅さまが皿を拭き、右側の西の宮の恵比寿さまが炭火を起こしています。左上の酒樽に書かれた要石(かなめいし)は、常陸国の鹿島神宮の境内にあって、地底の地震鯰を押さえつけて地震を防いでいるとされる石の名です。地震は地底の大鯰が暴れて起きるという俗信は、江戸時代以前からありました。
安政の大地震は、安政2年(1855)の10月2日夜半に起こった、江戸の直下型地震で、マグニチュード6.9といわれています。全壊と焼失家屋は14000戸余りで、死者は7000人以上と推定されています。鯰絵は地震鯰を題材にした錦絵(多色刷版画)で、余震が収まる頃から売り出されて人気があり、地震後1ヶ月頃には400種も売られていたといいます。
地震は鯰が暴れると起きるというのは俗信ですが、鯰が地震を予知する能力を持っているとする見方もあります。『魚の博物事典』(末広恭雄著)には、安政の大地震の少し前に川で鯰が騒いでいたという記録、大正12年の関東大震災の前日に池の鯰が騒いでいたという新聞記事が紹介されており、鯰をはじめ多くの魚が地震に先だって異常な行動をとることは事実と考えられるとあります。ただし、鯰が騒いでも必ず地震が起こるとは限らないと断わり書がついています。
江戸時代の料理書にある鯰の料理は、蒲焼のほか、汁・蒲鉾・なべ焼・杉焼などです。室町時代の『宗吾大草紙』には「かまぼこはまなず本也。蒲のほをにせたる物なり」とあり、蒲鉾の原料は最初は鯰だったようです。姿が異様なので摺り身にしたのでしょうか。  
 

 

●日本沿岸で発見相次ぐ「地震の前兆」とされる魚の伝説
日本では昔から、様々な動物の行動が地震に関連づけられている。その中でもよく語られるのが、地震を引き起こす巨大なナマズである大鯰(おおなまず)の存在だ。大鯰は地下に潜み、時々尾を振ることで地震を起こすとされてきた。
このナマズにまつわる伝承は、地震の直前にナマズが普段と違う行動をとることに基づいているとされている。しかし、背景はもっと複雑だという説もある。一部の地域では、ナマズは洪水や豪雨から人々を守る、川の神とされてきた。しかし、一方でこのナマズが巨大化し、大鯰という妖怪になると信じられてきたのだ。
ナマズ以外にも、日本では一部の魚類が災害の前兆を示す存在と考えられてきた。その一例とされるのが、水深200〜1000メートルの深海に生息するリュウグウノツカイだ。全長4メートルほどに成長する巨大なこの魚は、地震や津波が差し迫っていることを人々に教えるために、竜王が差し向けると考えられてきた。
2月1日には富山湾の沖合で、相次いでリュウグウノツカイが定置網に引っかかっているのが見つかり、気がかりなニュースとして伝えられたばかりだ。
2011年の東日本大震災の1年前にも十数匹のリュウグウノツカイが見つかり、地震との関連を疑う記事が多数書かれた。米国でも2015年7月に、南カリフォルニア沖のサンタカタリナ島付近で、この魚が相次いで発見された。一部のメディアはサンアンドレアス断層の地震活動との関連を調べたが、特に目立った関連は見つからなかった。
通常は深海にいるリュウグウノツカイが浮上したり、死骸が漂着する理由について、生物学者たちは様々な説をあげてきた。海流の変化で海面付近に押し上げられてしまい、疲労から息絶える、などと言った説だ。
また、一部ではリュウグウノツカイが海底の亀裂から放出されるガスや、化学物質によって死ぬという説もある。しかし、この魚の行動と地震活動の間の科学的な関連性は、現在のところ確認されていない。  

●日本沿岸でリュウグウノツカイの発見相次ぐ 「地震の前兆」と恐れる声も 2019/2
日本沿岸で最近、珍しい深海魚リュウグウノツカイが相次いで見つかった。この魚は「地震の前兆」という言い伝えもあり、インターネット上で心配の声も上がっているが、科学的な関連性は確認されていない。
富山湾では1日、定置網にかかったリュウグウノツカイ2匹が見つかった。富山県では昨秋以降、すでに射水市沖で全長4メートルのリュウグウノツカイが定置網にかかり、魚津市の海岸に全長3.2メートルの1匹が打ち上げられるなど、計5匹が確認されていた。
リュウグウノツカイは銀色の体と赤いひれが特徴で、水深200〜1000メートルの深海にすむ。地震の前兆を知らせるという言い伝えもあるが、科学的な関連性は確認されていない。
魚津水族館の飼育員、西馬和沙さんはCNNの取材に対し、「リュウグウノツカイが大地震の前後に現れるという説に科学的な裏付けは全くないが、可能性を100%否定することもできない」と語った。発見が相次いでいる理由として、地球温暖化や未知の要因による影響も考えられるという。
2011年3月に起きた東日本大震災の前には、日本の沿岸に1年間で十数匹が打ち上げられたと報告されている。西馬さんは、地震発生前に海底で起きるわずかな地殻変動によって海流が変化し、その影響でリュウグウノツカイが海面近くまで浮上してくるのかもしれないと指摘する。
稲村修館長によれば、リュウグウノツカイはえさになるオキアミが海面まで浮上するとそれを追って移動し、沿岸部に姿を現すという。

●リュウグウノツカイ 古くからの伝説
リュウグウノツカイは、神秘的な見た目と、めったに遭遇できない珍しい存在であることから、さまざまな伝説と関わりがあります。ここでご紹介するのはあくまでも「伝説」であり、科学的な根拠や証拠となる文献が存在しているわけではありませんので、おもしろ話のひとつとしてお楽しみください。
リュウグウノツカイが海面付近に現れると災害が起きる
リュウグウノツカイは通常、水深200〜1,000mに生息しているため、海面付近で目撃されたり、捕獲されたりするのは非常に稀なケースです。そのせいか、リュウグウノツカイが海面付近に現れるのは災害が起こる前触れとされており、日本では忌み嫌われることも少なくありませんでした。今のところリュウグウノツカイと災害の関わりは解明されていませんが、東日本大震災が起こる1〜2ヵ月前や、2018年に発生した大阪北部の地震の前日にリュウグウノツカイが目撃されていることから、災害と関連づけて考える人も多いようです。
リュウグウノツカイを食べると不老不死になる
日本には、古来より人魚の肉を食し、不老不死になった女僧「八百比丘尼(やおびくに)」の言い伝えが残されています。比丘尼が食した人魚の正体については諸説ありますが、鎌倉時代に編まれた世俗説話集「古今著聞集」にて、「人魚なのかもしれない」と描かれた大魚の特徴がリュウグウノツカイと似ていることから、人魚=リュウグウノツカイとする説もあるようです。ちなみに漁網にかかり、リュウグウノツカイを食べた人の話では、水分が多く薄味のため、味はイマイチだということです。
リュウグウノツカイが網にかかると豊漁になる
災害の前触れとされるリュウグウノツカイですが、その一方で、網に掛かると豊漁の兆しと喜ぶ人もいます。普段は深海にいるリュウグウノツカイが海面近くまで浮上するのは、エサとなる魚がたくさんいるから…というのが主な理由のようです。実際、ノルウェーなどでは、ニシンが大量に釣れるときにリュウグウノツカイが目撃されることがあるため、「King of Herrings(ニシンの王)」という異名が付けられています。国や地域によって吉兆にされたり、凶兆にされたりする不可思議さも、リュウグウノツカイの神秘性を高める要因になっているのかもしれません。

●リュウグウノツカイ 1
[ 竜宮の使い、学名:Regalecus glesne ] アカマンボウ目リュウグウノツカイ科に属する魚類の一種。リュウグウノツカイ属における唯一の種。特徴的な外見の大型深海魚。発見されることがほとんどなく、目撃されるだけで話題になる場合が多い。
形態​
リュウグウノツカイは全身が銀白色で、薄灰色から薄青色の線条が側線の上下に互い違いに並ぶ。背びれ・胸びれ・腹びれの鰭条は鮮やかな紅色を呈し、神秘的な姿をしていることから「竜宮の使い」という和名で呼ばれる。全長は3 mほどであることが多いが、最大では11 m、体重272 kgに達した個体が報告されており、現生する硬骨魚類の中では現在のところ世界最長の種である。
体は左右から押しつぶされたように平たく側扁し、タチウオのように薄く細長い。体高が最も高いのは頭部で、尾端に向かって先細りとなる。下顎がやや前方に突出し、口は斜め上に向かって開く。鱗・歯・鰾を持たない。鰓耙は40 - 58本と多く、近縁の Agrostichthys 属(8 - 10本)との鑑別点となっている。椎骨は143 - 170個。
背びれの基底は長く、吻の後端から始まり尾端まで連続する。全て軟条であり、鰭条数は260 - 412本と多く、先頭の6-10軟条はたてがみのように細長く伸びる。腹びれの鰭条は左右1本ずつしかなく、糸のように長く発達する。腹びれの先端はオール状に膨らみ、本種の英名の一つである「Oarfish」の由来となっている。この膨らんだ部分には多数の化学受容器が存在することが分かっており、餌生物の存在を探知する機能を持つと考えられている。尾びれは非常に小さく、臀びれは持たない。
分布・生態​
リュウグウノツカイは太平洋、インド洋、大西洋など、世界中の海の外洋に幅広く分布する。海底から離れた中層を漂い、群れを作らずに単独で生活する深海魚である。
本来の生息域は外洋の深海であり、人前に姿を現すことは滅多にないが、特徴的な姿は図鑑などでよく知られている。実際に生きて泳いでいる姿を撮影した映像記録は非常に乏しく、生態についてはほとんどわかっていない。通常は全身をほとんど直立させた状態で静止しており、移動するときには体を前傾させ、長い背びれを波打たせるようにして泳ぐと考えられている。
食性は胃内容物の調査によりプランクトン食性と推測され、オキアミなどの甲殻類を主に捕食している。本種は5 mを超えることもある大型の魚類であり、外洋性のサメ類を除き、成長した個体が捕食されることは稀と見られる。
卵は浮性卵で、海中を浮遊しながら発生し、孵化後の仔魚は外洋の海面近くでプランクトンを餌として成長する。稚魚は成長に従って水深200 - 1000 mほどの、深海の中層へ移動すると見られる。
2018年(平成30年)12月、沖縄県読谷村の沖合で雌雄の個体が網に掛かった。2匹から精子と卵子を取り出して沖縄美ら島財団総合研究センターが人工授精、人工孵化させたところ20匹が孵化した。このリュウグウノツカイの人工授精と人工孵化は世界初の事例となった。
分類​
リュウグウノツカイ科は2属2種からなり、Nelsonによる魚類分類体系において、本種はリュウグウノツカイ属を構成する唯一の種となっている。
リュウグウノツカイ属の分類には様々な見解があり、日本近海からも報告のある Regalecus russelii を Regalecus glesne とは別種とみなし、こちらに「リュウグウノツカイ」の和名を与える場合もある。本稿では両者を R. glesne にまとめ、R. russelii をシノニムとして扱うNelsonの体系に基づいて記述しているが、本属の分類については再検討の必要性も指摘されている。
人間との関わり​
リュウグウノツカイはそのインパクトの強い外見から、西洋諸国におけるシーサーペント(海の大蛇)など、世界各地の巨大生物伝説のもとになったと考えられている。その存在は古くから知られており、ヨーロッパでは「ニシンの王 (King of Herrings)」と呼ばれ、漁の成否を占う前兆と位置付けられていた。属名の Regalecus もこの伝承に由来し、ラテン語の「regalis(王家の)」と「alex(ニシン)」を合わせたものとなっている。中国と台湾では「鶏冠刀魚」や「皇帯魚」と呼ばれる。
人間との関わり​・日本​
人魚伝説は世界各地に存在し、その正体は海牛類などとされるが、日本における人魚伝説の多くはリュウグウノツカイに基づくと考えられている。『古今著聞集』や『甲子夜話』『六物新誌』などの文献に登場する人魚は、共通して白い肌と赤い髪を備えると描写されているが、これは銀白色の体と赤く長い鰭を持つ本種の特徴と一致する。また『長崎見聞録』にある人魚図は本種によく似ている。日本海沿岸に人魚伝説が多いことも、本種の目撃例が太平洋側よりも日本海側で多いことと整合する。 日本近海では普通ではないものの、極端に稀というわけでもなく、相当数の目撃記録がある。漂着したり漁獲されたりするとその大きさと外見から人目を惹き、報道されることが多い。
サケガシラなど他の深海魚の浅海での目撃や海岸漂着を含めて、天変地異、特に地震の前兆(宏観異常現象)の一つとされることもあるが憶測に過ぎず、東海大学の研究でも否定されている。こうした日本の伝承・俗説は、インドネシアでも知られている。
2014年1月に兵庫県豊岡市に漂着した個体では、市内の環境省の学習施設の職員らが解剖調査を行った後に調理して試食しており、身に臭みや癖がないことや、食感が鶏卵の白身のようであること、内臓の部位によっては味が濃厚であることなどを報告している。生きたリュウグウノツカイを漁師が銛で突き、極めて新鮮なうちに食べた記録が、長崎県壱岐諸島の『壱岐日日新聞』519号(2010年1月29日付)にある。全長約5メートル、40 - 50キログラムの個体で「刺身で食べたらゼラチン質がプリプリして、甘みがいっぱい。まるでエビの刺身」という。また、鍋で食べても、「身が甘くてツルッとした口触りで柔らかく、鍋一杯がアッという間になくなるほど好評だった」という。
富山県では冬になると本種がしばしば定置網にかかり、漁師から「おいらん」と呼ばれている。また新潟県の柏崎では「シラタキ」と呼ばれる。

●リュウグウノツカイ 2
リュウグウノツカイとは?
   ヘビのような深海魚
リュウグウノツカイは比較的知られている深海魚です。深海魚を図解した書物には間違いなく載っている代表的な深海魚で、ヘビのような特徴ある姿を見たことあるという人は多いはず。竜宮城に由来したとされるネーミングも覚えやすく、深海魚といえば、最初にリュウグウノツカイを思い浮かべる人も少なくないでしょう。
   まだまだ謎が多い
リュウグウノツカイは生きた状態のものを見ることが難しい魚です。捕獲されることが珍しく、捕獲して水族館に移しても、数時間しか生きていないのです。もし、その短いタイミングで見られたのなら、とんでもなくラッキーなことだといえます。飼育法は現在もまったく確立されていません。そのため、生態調査なども進んでいない謎の多い魚です。
リュウグウノツカイの形状
   最長の硬骨魚類
リュウグウノツカイは非常に大きな魚です。一般的には3m程度ですが、5mにもなる個体も珍しくなく、過去には全長11mという記録も残っています。これはサメやエイなどの軟骨魚を除く、硬骨魚類の中では現存する魚として最長です。ただし、生体が見られるのは稀で、ほとんどは死骸が浜に漂着することで確認されます。
   尾びれがほとんどない
とにかく特徴的で、インパクトのあるリュウグウノツカイ。細長い胴体と、頭から尾にかけてヒラヒラとした赤い尾びれという姿は、普段浅瀬で見られる魚とはまったく違います。上向きの口で、胴体は白っぽい銀色。側面には青い模様がライン上に並びます。胴体は尾に向かって細くなり、尾びれがほとんどないので、ヘビのようです。
   トサカを持つ不思議なスタイル
縦に平べったいリュウグウノツカイで、特に目立つのは鶏のトサカのような頭部に近い背びれ。最初の数本から十本が特に長いのです。ひれは柔らかく、背びれは毛のように背部から最後部まで続いています。胸びれも優雅なループタイのように長いです。なんと歯もウロコもウキブクロもなく、かなり変わった魚といえるでしょう。
リュウグウノツカイを動画で見よう
   泳ぐリュウグウノツカイ
他の魚とはまったく似ていないリュウグウノツカイの姿は、文章だけではなかなか伝わりにくい。しかし、最近は動画サイトで生きた、泳ぐリュウグウノツカイが見られます。滅多に見られない深海魚なので、こういう動画でその美しさを確認してみてください!
   海水浴場のリュウグウノツカイ
海水浴で出会ったというリュウグウノツカイが撮影されています。まだ成長しきっていないリュウグウノツカイで、華やかさは少々といったところです。でも、海水浴できる場所で見られたという、かなり貴重な動画といえるでしょう。
   リュウグウノツカイを解体
こちらはリュウグウノツカイの解体動画です。短い動画ですが、リュウグウノツカイの大きさや、体の構造がよくわかるでしょう。アップで見ると顔はあまり可愛いほうではありません。でも、口が飛び出すなどの生態や、白身の肉の感じが見られます。
リュウグウノツカイの名前の由来
   竜宮城からやって来た?
リュウグウノツカイは漢字では「竜宮の使い」と書き、浦島太郎の話に出てくる竜宮城から来た深海魚という意味であると考えられますが、はっきりした由来はわかりません。しかし、リュウグウノツカイという名前はロマンチックで、羽衣が舞うような神秘的な姿にふさわしく、この魚がよく知られる理由なのは間違いありません。
   英語では櫂の魚
英語でリュウグウノツカイは「oarfish」。Oarは船のオール、つまり櫂のことで、大きめの頭から尾に向かって先細りする形が由来です。「ribbonfish」――リボンのような魚と呼ばれることもありますが、リボンフィッシュはリュウグウノツカイの近種のサケガシラなどフリソデウオ科を指す言葉で、厳密には違う魚のことです。
   高貴なイメージから命名
リュウグウノツカイは世界各地で知られており、ヨーロッパでは王冠を被ったような姿に由来して「ニシンの王」と呼ばれていました。中国では「皇帝魚」「鶏冠刀魚」と書き、これも王冠状のひれが由来でしょう。和名のリュウグウノツカイもそうですが、どこか華やかな貴族を彷彿とさせるイメージは共通しているようですね。
リュウグウノツカイの分布
   世界中に分布。日本にも多い
リュウグウノツカイは死んだ個体が打ち上げられることが主で、その特徴的な姿からニュースになることも多いのです。打ち上げられた場所は広く、日本でも北から南、太平洋から日本海に関わらず打ち上げや目撃が数多くあります。このことから太平洋、大西洋、インド洋、世界中の各地の外海に幅広く生息していると考えられています。
   深海から浅瀬にも浮上
さて、リュウグウノツカイは深海魚ですから、生息するのは深さが200〜1,000mの間です。だから普段は見られないのですが、浅海に浮上してくることもあります。漁師さんやダイバーなどは海面近くにいる生きたリュウグウノツカイを見ることもあります。しかし、これも稀で、後述しますが災害の予兆と不吉がられてもいるのです。
リュウグウノツカイの生態
   プランクトン食性で温和
リュウグウノツカイは単独で行動する生態です。食性は以前は不明でしたが、胃の内容物を調べたところ、オキアミや甲殻類を食べていることが判明しました。歯もありませんから、肉食の獰猛魚でないことは確実です。大型魚であることから、捕食されることはまずありません。天敵は深海の大きなサメくらいでしょう。
   普段は立ち泳ぎ?
リュウグウノツカイに似たサケガシラなどもそうですが、水中では縦になっている生態も知られています。泳ぐときも進行方向に向かって体を斜めにして進みます。スピードは遅いです。アンカーなどの人工物があると、それに沿って浅海まで浮上してくることがあり、そういう施設ではリュウグウノツカイがよく見られる傾向があるといいます。
   尻尾を切って体力温存
面白い生態として、トカゲのように尻尾を切るというのがあります。この生態は敵に襲われたとき切って逃げるとか、栄養が不足した場合に尾を切り離してエネルギー消費を減らすと考えられています。見つかるリュウグウノツカイはほとんど尻尾が切れているので、深海では食生活が厳しく、それに合わせた生態なのでしょうね。
リュウグウノツカイは食べられる?
   食べるチャンスがないわけでもない
リュウグウノツカイは稀に漁網に引っかかるという深海魚なので、市場に出回ることはまずありません。漁港の近くでたまに売っていることもありますが、味は今一つということで、個人が購入することもないでしょう。飲食店が変わったメニューで出すくらいです。お店のほうが美味しく調理してくれて、味わえるのでしょうね。
   水っぽくて美味しくない白身
気になる味ですが、食べた人の意見をまとめると、「水分が多い白身」「味は薄い」「甘味がある」「骨は柔らかい」のだとか。アカマンボウに近い種であるリュウグウノツカイですが、アカマンボウはマグロの味に近い特徴があります。そのため、味わいはマグロとタラに近いのですが、癖があって美味しいとはいえる魚とはいえません。
   向く料理と向かない料理
リュウグウノツカイの食べ方はいろいろです。切り身で手に入れられたら、バターでソテーにするのが簡単で美味しいでしょう。味が薄いので、煮付けにして醤油味をよく染み込ませるのもおすすめの食べ方です。逆に向かないのは刺身。味の好みは人それぞれでしょうが、水っぽくてフニャフニャとした食感で、不味いです。
リュウグウノツカイは地震を予知する?
   災害前に見られる特徴がある
深海魚は地震の予兆とよくいわれます。リュウグウノツカイも天変地異の予兆を告げるとされており、日本では忌み嫌われてきました。生物の行動と、地震などの関連性は解明されていませんが、予兆として生物が普段と違う行動をすることは事実あります。リュウグウノツカイも何かの異変を感じている可能性は否定できません。
   地震との関連はわからない
2011年の1〜2月に日本各地でリュウグウノツカイが目撃されました。その3月に東日本大震災があったのはご承知の通りです。2018年に大阪北部で起こった地震の前日にも、リュウグウノツカイが目撃されています。このような事例はいくつか見つけることができます。これを予兆といっていいのかは意見が分かれるところでしょう。
   地震とは関係ないらしい
リュウグウノツカイと地震は関係ないというのが一般的な意見です。日本は地震の多い国なので、リュウグウノツカイが見つかるという珍しいことと、地震のタイミングが合いやすいだけなのです。なので、リュウグウノツカイが捕獲、あるいは打ち上げられたといっても、それが災害の予兆といって怖れることはないと思ってください。
リュウグウノツカイの伝説
   実は豊漁を予兆していた?
「リュウグウノツカイが海面で見られれば大量になる」と喜ぶ漁師さんもいます。深海魚が海面に浮上するということは、海面付近に餌が豊富にあるということだから、豊漁になる予兆だという理屈です。これも関連性ははっきりとしないのですけれど、災いの予兆という不吉な言い伝えだけではないということも知ってほしいです。
   大ウミヘビの由来になった
西洋には海の大ウミヘビの伝説があり、シーサーペントと怖れられているのですが、その正体が実はリュウグウノツカイではないかといわれています。確かに海でヘビのような形をした、10mもの生物といえばリュウグウノツカイが疑わしいでしょう。シーサーペントの噂の由来はリュウグウノツカイなのかもしれませんね。
   人魚とリュウグウノツカイ
リュウグウノツカイは、日本の人魚伝説と関連があるという説があります。人魚といえば上半身は人間で、下半身は魚という格好ですが、昔の文献には下半身が異様に長い、ヘビのような人魚が描かれています。その特徴がリュウグウノツカイに酷似しているのです。これも想像の域を出ませんが、海の怪物はリュウグウノツカイが由来になっているのも多そうです。
まとめ
   不思議な美しさを持つ深海魚
特徴的な姿と、よくわからない生態。謎は多いですが、リュウグウノツカイには一度見れば、つい心が惹かれてしまう魅力があります。こんな不思議な魚が、日本の近海にもたくさん生息しており、時には浅瀬で見られたり、浜に打ち上げられるのですから面白いですね。不吉の予兆ともいわれますが、見られたら相当ラッキーなのは間違いないでしょう。
 

 

●大ナマズ秀吉の天下を倒す…歴史を変えた大地震
崩れ落ちた建物、ひび割れた道路、悲鳴を上げて逃げ惑う人々…。大地震の発生直後ほど、人の無力を思い知らされる場面はない。豊臣政権が長続きしなかった要因の一つに、16世紀末に日本を襲った2つの大地震があった。最新の地震学を基にそのメカニズムと、歴史学との接点を探ってみると――。
地震の謎に古文書で挑む
6月18日朝、大阪府の北部を中心とする最大震度6弱の地震があり、大きな被害が出た。千葉県の房総半島では「スロースリップ」によるとみられる地震が続いた。群馬県でも大阪の地震の前日、県内を震源とする地震で初めて震度5弱の揺れを観測した。
「深層NEWS」でも大阪で地震があった日に、日本地震学会会長で名古屋大学教授の山岡耕春こうしゅんさんをお招きして、多発する地震についてじっくり解説してもらった。
古文書などの記録から過去の大地震の時期や規模を推定し、最新の観測データと重ねあわせてその周期やメカニズムを探る研究が、徐々に成果を上げつつある。歴史家の磯田道史さんは『天災から日本史を読みなおす』(中公新書)で、最新の研究成果を分かりやすく紹介している。最新の地震学と歴史学は、今回の大阪の地震をどうとらえているのか。
「中央構造線」が引き起こす連動地震
日本で起きる地震には、太平洋プレートの沈み込みによって起きる「海溝型地震」と、内陸部で活断層が動く「内陸型(直下型)地震」がある。今回の大阪の地震は内陸型地震で、震源の近くには有馬−高槻断層が走っている。1596年(文禄5年)に「慶長伏見地震」を引き起こしたとみられる断層だ。
この地震の規模を示すマグニチュード(M)は7.5前後と推定され、豊臣秀吉(1537〜98)が隠居用の城として築城し、完成したばかりの伏見城天守が倒壊した。イエズス会宣教師がローマ教皇庁にあげた報告には、秀吉は愛児の秀頼(1593〜1615)を抱いて庭に飛び出し、九死に一生を得たとある。加藤清正(1562〜1611)が伏見城など被災地の復旧にあたり、その際に得た知識を熊本城の耐震化に役立てたとみられることは、以前にも紹介した。
記録をたどると、この地震の1週間前から大分県の別府湾付近で慶長豊後地震、愛媛県で慶長伊予地震という推定M7.0以上の大地震が続いている。発生した時の年号は文禄なのに「慶長〇〇地震」と呼ばれるのは、短期間に大きな地震があまりに続いたため、直後に改元されたからだ。
3つの地震の震央はいずれも日本最大の断層帯である中央構造線に近く、最初の地震が中央構造線を動かし、次々に直下型の地震を誘発する「連動地震」だった可能性が指摘されている。こうした連動が起きるなら、18日の大阪の地震の導火線は2016年4月に中央構造線の西端で起きた熊本地震なのではないか。中央構造線は群馬県下も走っており、17日の群馬の地震との関連を指摘する向きもある。
だが、山岡さんは「中央構造線が導火線の役割を果たしたなら、熊本から近い九州北部や四国北部でも大きな地震が起きていたはず。一足飛びに大阪北部に伝播でんぱすることはない」という。また「中央構造線は紀伊半島より東ではこれまでほとんど地震を起こしていない」。群馬の地震との関連もないようだ。
ただ、山岡さんは、西日本での中央構造線による連動地震のメカニズム自体は否定していない。四国北部などで今後、連動地震が起きる恐れは残る。 
 

 

●“世直し鯰繪”の話
安政大地震の後で売出された鯰繪の図柄は、多種多様で番付形式のものや、報道的なもの、お守札にしなさいといっているもの、被害情報を中心としたものなどが見られるが、この時に発売された鯰繪の最大の見所は、なんといっても、この鯰繪のような“世直し”という幕末期の庶民の総てが持っていた、幕府の政策に対する社会批判、政治批判を鯰に置替えて、言わせるという手法の“世直し鯰繪”ではないだろうか。
徳川幕府の政策は、政権維持と威信の確立のために、大名政策に重点がおかれ、士農工商の社会制度が厳然と守られ、工、商などにたづさわる庶民などは、社会の底辺にいつしか追いやられて省みられることが少なかった。
こゝに庶民が持った不平不満は、何時しか潜在意識となって蓄積され始めたが、これという力を持たない人々は、わずかに洒落や諷刺でうっ噴を晴らしていた。このような潜在意識は、大事件、大災害などをきっかけとしてこの鯰繪のような形となって、俄然爆発したもので、安政時代になると、公然と“世直し”などと直接的な表現で、当局の施策を批判するようになったものである。
さらに、安政大地震を転機に世相は大きく転換の方向へ動き出し、武家の衰退が商人の実力に屈し、外国勢力の圧力などが加わり、わが国の世情は、ようやく騒然とした様相を呈し始めることになった。
この絵の見所は、これまた鯰を善人、正義の味方、庶民の味方と擬人化して、地震で苦しむ庶民に特別の施策をはからなかった、当局に対する痛烈な皮肉を込めて画かれている。
そのことを、庶民と鯰との対話調に書き記し、庶民が、地震の時に諸人を助けたのは“御神馬(ごしんめ)”が駈けめぐって救助したもので、その証拠は着物についていた白い毛であり、有難いことだと言わせている。そこへ鯰がやって来て、今の話は違っていて、本当はおれ達の仲間が救ったのだというと、庶民の一人が、鯰がそんなことをできるものか、足元の明るいうちにとっとと消えろとおどかすと、また、鯰は、おれ達がよってたかっても、地震なぞ起せるものか、地震は“陰陽の気”でおれ達の仕業じゃないが、鯰を悪く言うやつ(役人や地震で損をする人々)は救わないで、おれ達のことを歓迎してくれる人々(地震で大儲けする人々、弱い立場の人々)を助けるのだ。といい、これを聞いた人々は、鯰にはそんな情けがあったのか(これも世直し批判)、というと鯰は、“魚心あれば水心”と洒落でこの会話を終らせている。
これでわかるように、この鯰繪は、鯰が地震そのものを起すというこれまでの発想の鯰繪と、大きく異る部類のもので、鯰は“世直し”のために人助けをするので、鯰を悪くいうやつは助けないといわせて、暗に当局の庶民政策の無策ぶりを批判したものである。
そのことは、難儀をしている庶民の中から助けられるのは、大工や鳶や左官屋といったような、職人達であり、倒れても助けてもらえないのが、金持、分限者といわれるような人だという風態を画いて、そのことを現わしており、痛烈な政治批判の極めつけである。
皮相的にたゞこの鯰繪を見ただけでは、その意味はわかりにくいが、このような見方で鯰繪を鑑賞することにより、歴史的な時代背景を理解することができよう。 
 

 

●断層と鯰について
私は建築分野の中でも、建築構造、耐震工学を専門としており、地震動の特性、建物の揺れ方と損傷、揺れを抑える免震構造・制振構造などを、観測、実験、解析に基づいて研究しています。最近では4月に熊本で大きな被害をもたらす地震が発生し、熊本県を東西に横切る断層を中心として余震が続いています。
地震は地殻プレート運動によって発生し、東北地方を例にすると、東日本・北日本が載っている陸側のオホーツクプレートと海側の太平洋プレートがぶつかり合う日本海溝付近で、プレートに蓄積されたひずみが一気に解放されるときに地震と津波が発生します。1978年宮城県沖地震(M7.4)や2011年東北地方太平洋沖地震(M9.0,東日本大震災)、発生が懸念されている東海地震、南海地震などがこのようなプレート型の地震です。また、陸側のプレートに蓄積されたひずみに耐えられなくなって地盤が割れる断層が原因となる地震もあり、この場合は直下型で震源が浅いため、小規模でも大被害となる可能性があります。 今回の熊本地震(M7.3)や1995年兵庫県南部地震(M7.3,阪神・淡路大震災)、2004年新潟県中越地震(M6.8)などは断層による地震で、宮城県では、利府長町断層による直下型地震が懸念されています。ところでマグニチュードMは地震そのものの大きさ・規模を表す指標ですが、Mの数値の違いと地震の規模の違いの関係をご存知でしょうか。 地震のエネルギーは、係数×(10の1.5M乗)、と計算されますので、Mが1.0大きくなるとエネルギーは(10の1.5乗)倍、つまり約32倍となり、Mが0.1大きくなるとエネルギーは(10の0.15乗)倍、つまり約1.4倍となります。
地震を引き起こす断層は、時として地上に現れて、そのエネルギーのすさまじさを見せつけることがあります。愛知県、岐阜県一帯に大被害をもたらした1891年濃尾地震(M8.0)の根尾谷断層(岐阜県本巣市水鳥)では、上下6m,水平2mのずれが地表に現れました。下の写真は左が地震当時、右が現在のものですが、当時の写真は断層近くの丘の案内板に掲示されていて、見比べると現在でも断層がよく分かります。この地震のM8.0は日本の内陸地震では最大級であり、東日本大震災を引き起こしたM9.0の地震の32分の1の巨大なエネルギーを持つ地震が直下型で起こったことを考えると、そのすさまじさは想像を絶します。
下左写真は阪神・淡路大震災を引き起こした野島断層(兵庫県淡路市小倉)で、現在はその上に断層記念館が建設されて保存されています。右の写真の住宅は断層からわずか1mの場所に建っていましたが、建物自体の損傷は少なく、住民の方は地震後4年間居住し、現在はメモリアルハウスとして保存・公開されています。
ところで、日本では鯰が地震を起こすといわれ、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)には鹿島大明神(武甕槌大神、たけみかづちのおおかみ)が大鯰を封じ込めたという要石(かなめいし)があります。下左写真の木の根元に見える直径40cm程度の石ですが、実は地中は巨大で、徳川光圀が七日七晩掘らせ続けても全体が見えず、ついにあきらめたとの史料があります。境内には鹿島大明神と大鯰の碑もありました。
地震と鯰の関係については、豊臣秀吉が前田玄以に送った書簡の記述が最古のものといわれていますが、1855年安政江戸地震(M7.0〜7.1)の際に鯰絵と呼ばれる瓦版が多種発行されたことからイメージが広く定着しました。この地震は旧暦の10月、つまり神無月に発生したので、出雲に出張していた鹿島大明神や留守を任されながら大鯰を抑えられなかった恵比寿様を揶揄するような絵、地震で儲けた材木商、大工、左官などに対する非難、袋叩きにされる鯰や復興景気で金をばらまく鯰、鯰による歌舞伎や相撲のパロディなど、多種多様な鯰絵があります。当時は不況や裕福な商人に対する不満、黒船来航による世情不安など、不安定な社会情勢で、また、前年の安政東海地震(M8.4)、安政南海地震(M8.4)など、比較的地震も頻発していました。滑稽な鯰絵は、悲惨な震災を笑い飛ばし、不満のはけ口とし、ストレスに負けずに生きていくための江戸っ子のバイタリティの表れだったのではないでしょうか。
 

 

●大明神、地震を起こした鯰を叱る
おふざけかユーモアか?江戸の奇妙な鯰絵
安政大地震の際、江戸の庶民に「正しい情報」を伝えるため、下世話な儲け主義だったはずのかわら版屋が大活躍し、ジャーナリズムの萌芽を感じさせました。
しかし、地震の直後に登場したのは「鯰絵(なまずえ)」とよばれるかわら版や錦絵でした。擬人化したした鯰が世直ししたり、大暴れして鹿島大明神に叱られたり、一見ただのおふざけのような、深読みするとじわじわ染み込むブラックユーモアにあふれた鯰絵は、江戸の庶民には大うけだったそうです。そんな鯰絵はどのような目的で作られ、どのような点が江戸の庶民の心に響いたのでしょうか? 大阪学院大学、准教授の森田健司さんが解説します。
とにかく笑えて、バカうけだった鯰絵と江戸っ子気質
1855(安政2)年10月2日、多くの人々が眠りについた午後10時頃に発生した安政江戸地震は、江戸中の建物に被害を与え、数え切れないほどの人命を奪い去った。愛別離苦の深さは、今も昔も変わるものではない。人々の嘆きや悲しみは、160年近く後の世に生きる我々にも、容易に想像できる。
しかし、この地震の直後に流行したある刷り物は、現代人の目には、おそらく奇異に映ることだろう。その刷り物は、後に「鯰絵(なまずえ)」と呼ばれることになる。
その名の通り、鯰絵には、魚類である鯰の絵が描かれていた。巨大地震のすぐ後に売られた刷り物であると聞くと、おまじないに使うものや、お守りの類を想像するかも知れない。そう思って鯰絵を見ると、拍子抜けすること請け合いである。鯰絵の多くは、深刻さの欠片すらない、ユーモラスな雰囲気を醸し出す一枚刷りなのだ。実に、絵柄も今の漫画に繋がるものが多い。これは一体、何なのか。
オランダの人類学者、C・アウエハントは、鯰絵について次のように述べている。
当時の社会状況のなかで考えてみると、鯰絵がねらっていたことの一つは、明らかに、嘲笑、下品な冗談、泣き笑いを絵の中に折り込んで、都市に住む民衆の生活にもっと潤いを与えることであった。
つまり、鯰絵とは、震災直後の江戸に「笑いを提供する商品」だった。冒頭に掲載した「世直し鯰の情」は、擬人化された鯰3匹が被災者を助けている様が描かれたものだが、悲壮感がないどころか、滑稽にしか思えない。ここに込められた思いについては後述するが、とにかく、感傷的とは程遠い、ユーモラスな一枚刷りであることだけは間違いがなさそうだ。
鯰絵は、その多くが多色刷りだが、普通の錦絵とは違って、ほとんどが非合法出版だった。幕府の許可を受けずに売られたので、多くには、改印がなく、絵師名も出版元も明記されていない。その意味でも、鯰絵はかわら版の一種だった。
地震直後から企画され、数日後には完成した鯰絵は、驚くほどの数が売れた。どんどん発行し、鯰絵で一財産築いた者もいたぐらいである。現在確認されているだけでも、軽く200種を超えている。震災から2カ月半が経って、幕府が禁令を出し、版木を没収するまで、鯰絵の流行は続いたようである。
それにしても、震災後の混乱時に、笑いを求める人々のたくましさには驚かされる。しかし、これこそが当時の江戸に生きた庶民の精神性だった。いわゆる、江戸っ子気質である。さっぱりしていて、どこまでも前向きな江戸っ子は、悲惨な状況にも屈することなく、泣き笑いしながら復興に勤しんだのだ。
「鯰が地震を起こす」という俗信
鯰絵を読み解くためには、まず江戸時代に生きた人々の「常識」を知る必要がある。
当時、「地震は地底にいる大鯰が暴れることによって起きる」という俗信があった。その大鯰は、普段は鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の鹿島大明神が、要石(かなめいし)によって押さえており、動くことができない。ところが、安政江戸地震が起きた10月は、神無月である。この月は、諸国の神々が出雲に参集する月と考えられていた。鹿島大明神も、その例外ではない。この鹿島大明神が留守にした隙を衝いて、大鯰が動き、大地震が起きたのだ。人々は、俗信に基づき、そのように理解したという。
地震の後に、鯰を描いた一枚刷りが流行したことには、このような背景がある。よって、最も単純な鯰絵は、「地震を起こした鯰を懲らしめる」というものとなる。実際に、これに類する鯰絵は、極めて多く確認されている。
例えば、鹿島大明神が鯰を叱り付けているもの、叱るだけではなく瓢箪(ひょうたん)で押さえ付けているものなどが、その代表例である。神々の留守居役である、恵比寿や大黒などが、鯰を瓢箪で押さえ付けている絵も多く見られた。
なお、瓢箪を使っている理由は、「ヌルヌルの鯰をツルツルの瓢箪で押さえるにはどうすれば良いか」という、禅問答における問いにちなむ。「瓢箪で鯰を押さえる」(要領を得ないことの意)ということわざも、同じルーツを持つものである。だから、当時から鯰を懲らしめる道具として、瓢箪が描かれることがよくあった。
次に掲載する鯰絵「地震方々ゆり状の事」も、この「地震を起こした鯰を懲らしめる」カテゴリーに分類できるものである。
絵を見ると、真ん中に鯰、右に瓢箪、左に要石が、それぞれ擬人化して描かれている。いわゆる「奉公人請状(うけじょう)」、つまり「奉公人の契約書」のパロディーで、瓢箪が保証人となり、鯰を要石の元に奉公に出す、という内容が書かれている。
絵の雰囲気からもわかるように、全体的に滑稽な内容で、「天災ざん年(残念の駄洒落)鹿島の神無月二日」という日付表記に至っては、少々不謹慎な感じさえある。しかし、こういったブラックなユーモアさえ許容する文化が、当時は確かに存在していた。
地震で儲かった人々
次に掲載する鯰絵「地震節用難字尽」は、創作漢字を並べて、安政江戸地震を風刺する一枚である。
創作漢字を、いくつか紹介してみたい。1番目は、「凶」偏に「災」で「なまず」と読むらしい。これは、地中の大鯰が暴れることで、「凶事」であり「災難」な大地震が起きたという、先の俗信を知っていれば理解できる。
次の二つは、この大地震でお金を儲けた職業を教えてくれるものである。11番目を見てもらいたい。ここでは、「木」偏に「手間」と書いて、「はんじょう」と読ませている。木を用いて仕事をする、大工の仕事が急激に増えたことを表すものである。言うまでもなく、倒壊した家々を、建て直さなくてはならなかったからだ。12番目は、「小手」偏に「塗る」で「いそがしい」と読ませている。これは、壁を塗る仕事、つまり左官が忙しくなったことを表すものである。
大工や左官とは逆に、仕事がなくなってしまった人たちもいた。5番目がそれで、「人」偏に「芸」で、「こまる」と読ませている。芸人への需要が、一気に低減してしまったのだろう。笑いは求めていても、芸人が活躍する小屋もなくなり、道も瓦礫で埋もれてしまっているからである。18番目は「役」偏に「者」で、「をあいだ」と読み、役者が「御間(=不用)」となってしまった状況を表している。「披露する場所」を必要とするエンターテインメントが、一気に不景気に陥ったのだ。
なお、16番目の創作漢字を見ると、鯰絵のブラックさが了解されるだろう。なんと、「人」偏に「焼」と書いて、「こんがり」と読ませているのである。地震によって発生した火事で、多くの焼死者が出た中、ちょっと信じられないセンスに思える。不謹慎極まりないが、過激なものほど売れるのも、かわら版の世界の常だった。
最後に、初めに掲げた鯰絵「世直し鯰の情」に戻りたい。この一枚は、絵や本文以上に、タイトルが意味深だ。現代人が普通に読むと、なぜ「世直し」などという言葉が、大地震に関連した刷り物の名となっているのか、理解に苦しむはずである。しかし、当時の人々にとって、「世直し」と「大地震」は、決して縁の遠い言葉ではなかった。
そう、地震は硬直化し、多くの問題を抱えた世の中を破壊し、再生させる現象とさえ考えられていたのである。当時の俗信における用語を使えば、「滞った気を、正しく流すための現象」として、地震をとらえたということになる。
もちろん、大多数の人にとって、安政江戸地震は悲劇以外の何物でもなかった。だが、この地震によって大儲けした大工や左官、そしてかわら版屋は、ある意味、その悲劇を天恵とすらとらえたのだろう。また、大地震によって財産を全て失った「かつての大金持ちたち」を見て、ほくそ笑み、地震を「世直し」と感じた貧困層の人々もいたのである。
鯰絵は、江戸っ子気質が生み出したユーモラスな刷り物であると同時に、人であれば誰もが持つ、嫉妬や憎悪などの負の感情も織り込まれたものだった。幕末という特殊な時代背景も手伝って、ほかに類を見ない奇妙な「商品」となった鯰絵は、今も多くの人々の関心を引いている。
 

 

●「大鯰後の生酔」の話
この鯰繪は、地震で大暴れした大鯰を魚板の上にひっくり返し、鹿島太神宮が腹を立てゝ「おれの留守中に世界を騒がせ、よくも暴れおったな」と取おさえて地震をおさめたことを意味し、これを中央に大きく画くことによって、上段のわらいの止まらぬ儲連中と、下段の泣くに泣けない大損連中とに区別して、地震の後の庶民達の明暗を画きわけている。
この点で〔其ノ壹〕の「地震出火後日角力」と全く同一の意図を絵にしたもので、その意味は同様のものである。この意味合を更に強調するために、上段の大儲け連中は、笑がとまらないが、鹿島太神宮の前だけに、ぐっと押えてもっともらしい人相に画いている。陽気な顔とまでいかなくてももっともらしい顔に画き、その脇で“おいらん”(女郎)と“夜たか”が客待ち顔に画かれている一方、下段の泣くに泣けない大損連中は、何れも渋い顔に画きたてて上段と下段の人相を対象的にしている。
また、鹿島太神宮を腹立ち上戸と表現しているのと、宝剣で大鯰をひっくり返して、その腹を断ち切ることで“腹立ち”を引っかけた洒落で、江戸の文書、史料、絵画の中で、特に市井に出廻ったこの手の史料を見る時は、洒落を見落しては意味のない、唯の絵になってしまうことだろう。これがこの鯰繪の見所で、この洒落を入れて、人間よりはるかに巨大に大鯰を画いて、これをひっくり返して人々を驚かすことで、この鯰繪を売らんとした意図をみることができる。この絵を見て直ぐに連想することは、鰻屋が商売でする仕草を、大鯰に置替え、見ただけで腹をさかれてしまう情景を構図としたところなど、売らんかなという作者と版元の商魂を見ることができる。
さて、この鯰繪に画かれた「儲連中」と「損連中」のそれぞれの職業を紹介しておこう。さらに、〔其ノ壹〕の見立番附と対比して、鑑賞されると一層と興味を引かれることであろう。
 

 

●紀の川の大鯰
ナマズちゅうのは、なかなかおもしやい魚やな。
立派なヒゲを生やして、地震を起こすといわれてらしょ。
今時、そんなアホなこと信じる人はないけど、実際にこのナマズは、地震の予知能力はあるらしいで。
そいで一生懸命に研究してる学者もいてるくらいやもんな。
紀ノの川にもそら大きなナマズが棲んでて、二メートル近いよな怪物もおったらしいわ。
鎌倉時代の昔、幕府の実力者だった北条時頼が諸国をめぐっていたが、紀州へもやってきて橋本の利生護国寺に滞在してたそうな。
そこで地元の武士集団である隅田党の代表らが出かけて行って、ある日のことに時頼を紀ノ川の川狩りに招いたんや。
さて当日、川漁師や腕に覚えのある侍たちが集まって、あちこちの深みに網を入れたんやが、コイやフナがおもしろいはどとれた。
天気もええし、時頼らは小舟に乗って楽しそうに見物してたが、その時、突然ど〜うという地鳴りが聞こえてきたんや。
そして目の前にまるで海坊主のような大ナマズが姿を見せたんや。
小舟は大ゆれにゆれて、何人かの人が水の中に投げ出されたが、いずれもこの大ナマズにパクリと吸いこまれてしもうた。
「こ、これこそ紀ノ川のヌシと云われている大ナマズに相違ありません」と付添っていた武士が震え声で答え、他の警護の侍たちはそらもう必死になって、大ナマズめがけて槍を突っこんだんやしょ。
大ナマズは暴れまくったな。
背中から赤い血がドクドクと吹き出して、その血はまるでナワのようによじれながら川下の方へ流れていったと。
いっとき台風の時のように荒れ狂った川面は、やっとのことに落ち着いてきたんで、時頼らの一行も生気を取り戻した。
この大ナマズの出現した深みは、血がナワのようによじれて流れたことから「血縄の渕」と呼ばれるよになり、おとろしとこやといわれて、ここに近づく人もなかったとい。
今でも紀ノ川は美しい流れをたたえて、多くの人から「母なる河」と呼ばれて親しまれているけど、このナマズの棲んでたという橋本市隅田町中下のあたりに「血縄の渕」というところがあり、そこは深い淀みとなってるで。
 

 

●大鯰は、実在するか?
日本の民話には、とてつもなく大きい鯰(ナマズ)が登場することがありますね。例えば、茨城県の鹿島神宮にまつわる話で、語られます。「ヒトが乗れる大きさがある」などと言われたりします。そのような大型のナマズは、日本にいるのでしょうか?
日本で、最も普通に見られるナマズの仲間は、「ナマズ」という種名のものです。他種のナマズと区別するために、マナマズと呼ばれることもあります。この種は、言われるほど大きくなりません。せいぜい、60cmくらいです。
もっと大きくなるナマズの仲間が、日本にいます。日本に分布するナマズで、最大なのは、ビワコオオナマズという種でしょう。この種は、全長1mほどになります。
ビワコオオナマズは、民話の大鯰のモデルなのでしょうか? そうとは限りません。「オオナマズ」といっても、全長1mでは、ヒトが乗るには、小さすぎますね。
加えて、ビワコオオナマズは、分布が限られています。日本国内でも、琵琶湖と、淀川水系にしか分布しません。前述の鹿島神宮の場合などは、そもそも、ビワコオオナマズが分布しない地域です。話が成り立ちませんね。
じつは、江戸時代より前には、普通のナマズ(種名ナマズ)も、鹿島神宮付近には、分布しなかったのではないかといわれます。
種名ナマズは、本来、西日本にしか分布しなかったようです。種名ナマズの分布は、ヒトによって、広げられました。食用になるためです。東日本の人々にとっては、見慣れぬ不気味な魚だったのかも知れません。そのため、民話の材料にされたのでしょうか。
民話や伝説の大鯰は、誇張されたものでしょう。あくまで「お話」です。
それでも、ビワコオオナマズは、日本の淡水魚では、最大級の種の一つに入ります。ビワコオオナマズと同等か、それ以上に大きくなる淡水魚と言えば、日本の在来種では、イトウ、チョウザメ、オオウナギ、コイくらいしかいません。
 

 

●しゃべるナマズがいる?
魚は、普通、声を出さない生き物ですね。ところが、釣り上げたり、たもですくったりした魚が、「鳴く」ことがあります。彼らは、本当に、声を出しているのでしょうか?
魚は、哺乳類や鳥類のように声を出すのではありません。体内の鰾【うきぶくろ】を震わせたり、鰭【ひれ】を体にこすりつけたりして、音を立てます。どんな魚でも、音を出せるわけではありません。特定の種だけが、「鳴く」ことができます。
有名なのは、ギギとギバチですね。どちらも、日本の淡水に棲むナマズの仲間です。鰭をこすりつけて「鳴く」魚たちです。「鳴き声」は、ギーギーとか、ギュウギュウといった感じに聞こえます。ギギやギバチという種名は、これらの「声」から来ています。
ギギやギバチは、なぜ「鳴く」のでしょう? おそらく、敵を脅すためです。
ギギとギバチは、同じナマズ目ギギ科に属します。この仲間には、共通する特徴があります。背鰭【せびれ】と胸鰭【むなびれ】に、鋭い棘【とげ】を持つことです。この棘には毒があり、刺されるとたいへん痛いそうです。
「鳴く」ことにより、彼らは、「手を出すと危険だぞ」と知らせます。釣った魚が鳴きだしたら、ヒトでもびっくりしますよね。気味悪がって、逃がしてくれるかも知れません。
ギバチの脅し効果について、面白い説があります。江戸の本所【ほんじょ】七不思議の一つ、「置いてけ堀」の正体は、ギバチだというものです。
置いてけ堀で魚を捕ると、誰もいないのに「置いてけ」という声がしたそうです。無視しても、声はしつこく付きまといます。結局、魚を置いていくことになります。この謎の声を、ギバチが出すというのですね(ギギは関東に分布しません)。江戸時代の暗い夜は不気味です。その中でなら、ギバチの出す音も、人の声に聞こえた、というわけです。
個人的には、この説には無理がある気がします。けれども、完全に否定はできません。外国に、talking catfishと呼ばれる「鳴くナマズ」がいるからです。「しゃべるナマズ」という意味ですね。彼らも、ギギやギバチと同様の音を出します。それを「しゃべる」と表現したのは、外国でも、置いてけ堀のような伝説があったのかも知れません。
 

 

●鯰は地震を予知するか?
先日、インドネシアのジャワ島で、大きな地震がありました。現在わかっているだけで、五千人を越える死者が出たようです。
このような地震があると、「地震を予知できないのか?」という声が上がりますね。日本には、「ナマズが地震を予知する」という俗信があります。これは本当でしょうか?
結論を先に書けば、「まだわかっていない」です。日本では、ナマズと地震との関係が、七十年ほども前から研究されているそうです。なのに、なかなか結果が出ません。実際に研究するとなると、難しい問題が山積みだからです。
ナマズの行動を観察するには、長期間、ナマズを飼育する必要があります。飼育するには、ナマズの体の仕組みや、生態を知らなければなりませんね。野生生物の生態を知るのは、難しいことです。野生での生態を再現できるように飼うのは、もっと難しいことです。
もし、ナマズが地震を予知するとしたら、なぜ、そんなことができるのでしょう? これは、「電気の異常を感知するからではないか」と推測されています。
ナマズは電気に敏感です。ナマズの皮膚には、電気を感じる感覚器がたくさんあります。水は電気を通しやすいので、電気に敏感であることは、いろいろと有利です。ナマズは、周囲のちょっとした「電気環境」の違いを知って、食べ物を見つけるようです。この「電気感覚」が、地震の予知に使われるのかも知れません。
地震の前には、地中で電気的変化が起こります。ナマズにしてみれば、普段と違う「電気環境」になるでしょう。何かがおかしいと感じて、異常行動を起こすかも知れません。
ここまで書いてきたのは、日本のナマズについてです。全てのナマズの種に、前記のことが当てはまるわけではありません。ナマズ目に属する魚は、世界に二千種以上もいます。そんなに多くの種が、同じ「電気感覚」を持つはずはありませんよね。
日本だけでも、十種ほどのナマズが分布します。地震研究に使われるのは、日本語で普通に「ナマズ」と呼ばれる種です。お馴染みの長いひげを持つ魚です。
地震国である日本の「電気環境」は、彼らにとってはどんな感じなのでしょう。
 

 

●鯰岩 1 筑紫野市二日市
その昔、葦が茂る沼だったこの辺りには大鯰がいて通行人を困らせていました。ある日ここを通りかかった道真の前に大鯰が立ちはだかり行く手を阻みました。道真が、太刀を振って、頭、胴、尾と3つに切って退治したところ、それぞれが飛び散って3つの岩になったということです。現在でも頭、胴、尾の部分と伝えられる3つの岩が残っています。
その後、日照りの時に、この石を酒で洗えば雨が降ると言われ「雨乞い」の石として大事にされるようになったということです。また、太宰府天満宮所蔵の菅公御縁起絵第7幅に、この鯰岩の伝説の場面が描かれています。

●鯰岩 2
筑紫野市の鬼の面(きのめん)のバス停の付近の二日市北8-12-14の住宅地には、鯰岩と伝えられる頭・胴・尾の3つの岩がある…かつて葦が茂る沼だったこの辺りには大鯰がいて通行人を困らせており、ある日ここを通りかかった道真の前に大鯰が立ちはだかり行く手を阻んだが、道真が太刀を振って頭・胴・尾と3つに切って退治したところ、それぞれが飛び散って3つの岩になったということらしい。
その後は日照りの時に、この石を酒で洗えば雨が降ると言われ、「雨乞い」の石として大事にされるようになったそうだ…道真は鯰岩の先の高尾川と呼ばれていた川に差し掛かった折、橋がなくて渡れずに困っていると、その時通りかかった農夫がとっさに鍬の柄(くわのえ)を差し出して、橋の代りにして道真を渡したということで、それから高尾川は「鍬柄川」とも呼ばれるようになり、後に架けられた橋は「鍬柄橋」と呼ばれているようだ。
 

 

●地震蟲 (むし) 1
江戸時代の地震御守りはなまずが地震を起こすとされていますが、なまずは大昔からこの地方にいたという記録はないのです。関東地方になまずが知られたのは江戸時代になってからだとも言われています。
また、地震神として鹿島神宮が記録に現れるのは12世紀半ば以降との文献もあるようです。
鎌倉時代の伊勢暦には地震蟲(むし)の想像図が載っています。頭が東で尾が西を向いており、10本足です。目には日と月を備え、5畿7道を背の上に乗せ、鹿島大明神が要石で頭部を抑えるさまであり、地震神としての鹿島神宮の起源は12世紀頃と考えてよいでしょう。
地震を起こすものが鯰(なまず)となったのは、江戸時代以降であると考えられます。しかしこの要石の信仰はもっとずっと昔からあったと考えても良いのではないでしょうか。
ではこの要石が地震抑止信仰となる前はどのような役割を担っていたのでしょうか。地中に住む怪物蟲の仕業であるとの解釈もされていたようです。その蟲がいつのまにか地震を予知できるなまずに置き換えて考えられるようになっていったものと考えられます。

●地震蟲 2
現在は大鯰が地震を起こす原因だという民間伝承が有名だが、これが広がったのは実は江戸時代以降のことである。それまでは、地震虫のせいだとされることが多かった。
鎌倉時代の伊勢暦によると、頭は常に東を向いており、脚は10本、目は太陽と月を秘め、背に日本列島が載ってしまうほど巨大だとされる。地震鯰を押さえつける責務で知られる鹿島大明神の要石も、元は鯰ではなく地震蟲を鎮めるためにあったと考えられている。 

●伊勢暦 1
昔から暦は各地方で作られていましたが、全国的に有名になった暦に「伊勢暦(いせごよみ)」があります。
鎌倉時代頃から「伊勢御師」と呼ばれる人たちの活躍により、伊勢信仰は庶民にまで広がることになりました。この御師が神宮で御札をいただき、全国各地の檀家へ配布する時、伊勢の土産物として伊勢暦も配布したそうです。 このようにして、伊勢暦が神宮の御札とともに全国津々浦々に広がって有名となったわけです。
当時の人たちは、暦を手にするまでは、一年の日数も月の大小配列もわからなく、暦はとても貴重な存在でした。伊勢暦は日常生活に密着し、八十八夜、二百十日などはもちろん記されており、神宮の暦であるという信仰と信頼に裏付けされ、御師達によって確実に配布されたため、人気が高かったように思われます。
伊勢暦は、中世に水銀の産地である多気郡丹生において、伊勢の国司北畠氏が京都の土御門家の暦案を申し受けたものを、江戸時代に入り、神宮祭主藤波家が入手して宇治・山田の暦陰陽師が製造したのが始まりだそうです。
伊勢暦は土産物という性格上、配られる檀家の家格や初穂料の多少によって、一枚刷の略暦から極上の暦までと多種多様であり、その種類の多いことが一つの特色となっています。
しかし、伊勢暦は明治新政府による諸政策の一新の波を受け、明治4年(1871) に御師の制度が廃止されたため、暦の配布も打切りとなりました。
再び姿を現したのは明治16年になってからのことで、現在では「神宮暦」として毎年発行されています。

●伊勢暦 2
伊勢暦は、江戸時代の代表的な暦の一つで、伊勢神宮の神官の藤波(ふじなみ)家が刊行した細長い折本の暦です。御師(おし)が、伊勢詣の土産として御札(御祓大麻 おはらいたいま)に添えて全国的に配りました。
伊勢暦は地方暦(ちほうれき)の一つで、地方暦とは中世以降、各地の暦師によってつくられた暦です。
暦は、朝廷によって編暦、頒布されるのが建前でしたが、朝廷の力が衰えて一方で地方における暦の需要が増加しました。また、漢字が読めない人のために仮名文字を主体とした仮名暦は需要が高く、これを版木に彫って印刷した摺暦(すりごよみ)=版暦(はんれき)が誕生しました。
地方暦の多くは仮名版暦であり、最古の例は鎌倉時代、鎌倉幕府と縁の深い伊豆国三島大社から発行の三島暦(みしまごよみ)です。そののち奈良で南都暦、会津暦、常陸鹿島神宮の鹿島暦が誕生。江戸時代に入ると伊勢暦、江戸暦、仙台暦などが誕生し全国に普及しました。
地方暦は、貞享(きょうほう)改暦(1684)以降、幕府天文方の統制下に置かれ、内容の統一が図られたので伊勢暦と他の地方暦には見た目にも大きな差はありません。
よって伊勢暦をスラスラ解読できるようになれば、他の地方暦もスラスラ解読できます。然しながら仮名版暦は印刷にあたって、経済的見地から文字の幅を狭くして、多くの日数を彫り込むようにした結果、仮名版暦独特の書体・様式が発生し非常に文字が細かいのが特徴です。

●伊勢暦 3
江戸時代に伊勢神宮の門前である宇治および山田の暦師が製作し頒布していた暦であり、今日の神宮暦の前身である。
伊勢暦は伊勢の御師(おんし)が年末に伊勢神宮の御神札とともに伊勢暦を配るようになり、全国に知られるようになった。山田(外宮)の暦師は時期によって14から20軒程度であり、宇治(内宮)の暦師は1軒であった。
1871年(明治4年)御師制度が廃止され、伊勢暦の頒布も中止された。1882年4月の太政官布告で、1883年(明治16年)からの官暦は神宮司庁が発行することになり、神宮暦として暦の刊行が行われることとなった。

●御師 (おし)
御祈祷師(おんきとうし)、御詔刀師(おんのっとし)の略称で、詔刀師や祈師(いのりし)ともいい、師檀関係にある檀那(だんな)の願意を神前に取り次ぎ、その祈願を代表する神職をさす。伊勢(いせ)地方では「おんし」と読む。当初は寺院の僧侶(そうりょ)や霊場の先達(せんだつ)の名称であったが、平安中期、その風習が熊野(くまの)三山や出羽(でわ)三山、伊勢神宮、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)、日吉(ひえ)神社などにも波及し、神職の一とされた。伊勢神宮では古くから私幣禁断の厳制が敷かれてきたが、一般の崇敬が高まるにつれて、個人的な祈祷や報賽(ほうさい)の要求が生じるとともに伊勢神宮の御師の活動が盛んになった。『太神宮(だいじんぐう)諸雑事記』の長暦(ちょうりゃく)元年(1037)9月条に、太神宮司詔刀師種光の名がみえ、その起源がうかがえる。初めは神社の事務のかたわら禰宜(ねぎ)たちがこれを行うにとどまったが、室町時代以後、専門的かつ組織的な宗教活動となり大いに発展した。伊勢の御師のおもな機能は、まず檀家(だんか)・檀那とよばれる施主や願主と師檀関係を結び、諸願成就(じょうじゅ)の祈祷を行うことである。そして年ごとに祈祷の験(しるし)である祓麻(はらえのぬさ)や伊勢土産(みやげ)をもって諸国を巡歴する。土産の品目は熨斗鮑(のしあわび)はじめ伊勢暦、鰹節(かつおぶし)、伊勢白粉(おしろい)など多彩であった。また檀那の参宮には御師の自邸に宿泊せしめ、神楽殿(かぐらでん)において太々(だいだい)神楽を奏行、両宮参詣(さんけい)や志摩の遊覧などに便宜を図った。概してその活動は内宮(ないくう)側の宇治(うじ)より外宮(げくう)側の山田が隆昌(りゅうしょう)を極め、三日市大夫(みっかいちだゆう)、竜大夫(りゅうだゆう)、福島みさき大夫などは、その規模が大きく代表的なものであった。また山田の御師数では寛文(かんぶん)期(1661〜73)に391軒、文政(ぶんせい)期(1818〜30)に385軒を数えたという。これら御師の活動が師檀関係の強化や新たな檀家の獲得を目ざすことはもとより、全国的にみて伊勢信仰の普及や教化、あるいは伊勢講の組織に大きな役割を果たしたのである。しかし、1871年(明治4)の神宮改革に関する太政官(だじょうかん)布達により、いっさいの活動が停止されるに至った。
…1632年(寛永9)から始まる。伊勢暦は御師という神職にまとめて売り渡され,御師は手代を使って神宮のお札とともに全国に配った。暦師は単に出版元であった。…
 

 

●鯰絵にみる日本人の地震観の変遷
太古の日本人と地震
私たち日本人の祖先が自然と一体となって暮らしていた太古の時代には、地震はどのようにとらえられていたのでしょうか。近畿地方では縄文時代の終わりから古墳時代にかけて数多くの大地震がありました。これは活断層の調査や、考古遺跡で発見された地割れや噴砂の跡の年代を知る方法(地震考古学)などからわかります。活断層の近くでは古墳時代以前や古代・中世の遺跡も多く見つかっていますが、大地震の前後で、これらの遺跡の立地に大きな変化は認められません。また雷、大雨、山火事などの自然現象や自然災害を記述した神話は残っていますが、地震を表す神話は残されていません。こうしたことから、太古の日本人が地震をほとんど意識していなかったことがうかがわれます。
いっぽう古代の中国では、地震の原因は、大地に蜂の巣のようなすき間があり、そこで陰の気(水)と陽の気(火)が接触すると大激動を起こし、地震を生じるという陰陽説で説明されました。地震はあやまった政治を行った為政者への天の怒り(天罰)と考えられ、地震と社会を結びつける思想が広まっていました。
   >>> 張衡の地動儀の復元模型(国立科学博物館所蔵)とその断面図 地動儀の中央にある倒立振り子が、地震動で倒れて龍につながる棒を押すと、その口にくわえられている銅の玉ががまの口に落ち、地震があったとわかるしくみになっている。
こうした思想があった古代中国でも地震を科学的にとらえる試みがなされています。後漢時代の西暦 132 年に、張衡という学者が地動儀という世界最初の地震計(感震器)を考案しています。古くから都市が発達して多くの地震被害を受けてきた中国では、震源地をいち早く知って対策をとることが大切であったのでしょう。
古代・中世の日本人の地震観
日本でも飛鳥・奈良時代になると、古事記や日本書紀に地震の記述が登場します。最初の地震記録は日本書紀にある 416 年大和地震で、「地震(なゐふる)」とのみ、あります。その後、推古天皇七(599)年には、「地動きて、舎屋悉(しゃやことごと)く破れぬ。則ち四方に令して、地震神(じしんがみ)を祭らしむ。」と書かれています。古代には、天変地異の一つである地震も神様のしわざとされ、地震が起こると神様の怒りを鎮めるため祭りをして祈るだけでした。
平安時代になるとそれまで「なゐふる・なゐ・なへ」とよばれていたものが、「地震」と記されるようになります。かの学問の神様・菅原道真も、登第の試験(上級官僚への昇級試験)で「弁二地震一(じしんをわきまふ)」という問いに答えています。この頃には地震という言葉とともに、中国から仏説や儒教思想、あるいは陰陽学にもとづいた地震観が日本へと伝えられ、漢文を読める知識人の間に広まっていたのです。
いっぽう民衆の間では、地震は神の起こす天変地異の中で、もっとも恐ろしいものであると考え続けられていました。方丈記を残した鴨長明も恐ろしいものをあげる中で、「羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか。」と書いています。鎌倉時代には、こうした地震への恐れと、風・水・火とか陰陽の気といった地下の何らかに地震の原因を求める中国の地震観が、日本古来の地震神信仰と結びつき、地下に潜む竜や大魚が暴れることで大地震が起こるという、日本独自の地震観に変わっていったと思われます。
この地震観は、鎌倉時代の初めに描かれ、江戸時代の伊勢暦の表紙に使われた地震虫の図や、江戸時代の初めに描かれた大日本国地震之図からおしはかることができます。これらの図では、日本列島を取り囲む異様な姿の動物を龍とも鯰ともよんでいません。しかし、とぐろを巻き二本の角を持ったその姿から、地下に潜むこの生物を龍と考えても良さそうです。地理学者もこうした日本図を「龍絵日本図」とよんで、ひとまとめにしています。
   >>> 右:大日本国地震之図 1624(寛永元)年刊(原田正影所蔵) 現存する最古の日本図。江戸がなく鎌倉が誇張されており、中世の要素が残されています。龍のひれには月毎の地震占いが、その周りには天の高さ、京都から本州の両端までの距離、寺社の数などが書かれています(日本の古地図、1969 より)。左:江戸時代の「いせこよみ」に描かれた地震の虫(和本・地震考より) 日本を取り囲む龍のような動物が描かれており、右上の「ゆるぐとも よもやぬけじのかなめいし かしまの神のあらんかぎりハ」の地震歌から、地震神としての鹿島信仰がわかります。
1855(安政二)年江戸地震の直後に出版された地震考という本は、「鯰が尾ひれを動かすときに地震が起こるという俗説」のよりどころを探るため、次の地震観を紹介しています。1198(建久9)年の暦の表紙に、「地震の虫」として地震を起こす異形の生物と日本国 66州の名前が描いてあることを述べ、さらに仏教では地震を起こすのは龍のしわざであるとされることに触れています。残念ながら、この暦は 1198 年以降に作られた贋物であることがわかりました。このため今では、地震虫や地震龍の起源がどこまで古くなるかはわかりません。しかし地震鯰以前に、多くの人々が地下に潜む龍が地震を起こすと信じていたことだけは、まちがいないことでしょう。
地震鯰の登場−1855(安政 2)年江戸地震と鯰絵
天下人・豊臣秀吉が、伏見城の築城について京都所司代にあてた手紙で「なまつ(なまず)大事にて 候まま…」と、地震を鯰にたとえた話が残されています。しかし一般には、地震の原因とされた龍が鯰に変わったのは、江戸時代中頃と考えられています。松尾芭蕉が1679(延宝七)年によんだ句に、「大地震つづいて龍やのぼるらん 似春、長十丈の鯰なるらん 桃青(芭蕉)」とあり、これが、龍が鯰に変化することを示した最初の史料とされているからです。その後、地震鯰の確立にはさらに百年以上の年月が必要でした。
江戸時代も二百年を過ぎると、幕藩体制が揺らぐ一方で商人たちは富を貯え、町民を中心とした江戸文化の華が咲きます。この時代には、異常気象が日本列島をおそい、天保の飢饉で多くの餓死・病死者が出ました。江戸の街でもコレラなどの疫病が流行り、多くの命が失われました。こうした混乱の中で、日本列島の大地もおおいに揺れ動きました。
1830(文政三)年に京都地震が起こり、人々を不安におとしいれます。1847(弘化四)年には、ご開帳の最中の信濃国・善光寺を大地震が直撃します。全国から集まった 6 千人以上の参拝客が亡くなり、「死にたくハ信濃へござれ善光寺うそじゃない物本多善光」などと唄われました。この地震の直後に、鯰の姿を書き込んだ災害瓦版が江戸で発行されます。江戸庶民の間に地震の到来をつげる「鹿島の鯰男」の伝説があったこともあり、この地震鯰が注目を集めはじめます。
大津波が太平洋岸を洗った 1854(嘉永七)年の東海・南海地震に続き、1855(安政二)年 11 月 11 日、百万人都市・江戸でマグニチュード 6。9 の直下地震が起こりました。これが安政江戸地震で、四千人以上の命が奪われました。地震直後には、瓦版の色刷り技術が発展したこともあって、地震鯰をモチーフに世の中を風刺する色刷り瓦版(鯰絵)が大量に出まわり、江戸庶民に地震を起こす鯰=地震鯰のイメージが定着しました。
こうして息を吹き込まれた地震鯰は、幕末の激動期をへて明治時代の中頃まで、庶民の間で生き続けることになります。鯰絵から生まれた「世直し」や「万歳楽」という大地震に対するイメージも庶民の間に深く根付き、明治・大正の世になっても大地震が起きると、人々は「世直り」とか、「万歳楽」と叫んで外へ逃げ出したということです。
   >>> 1854(嘉永七)年の東海・南海地震の後に年号が「安政」に改められたので、この2つの海溝型地震を、安政の東海・南海地震とよぶこともあります。南海地震前後の 10 年間に内陸で7回の直下型地震が発生しており、まさに大地動乱の時代であったことがわかります。赤線は陸域の活断層。
江戸庶民の息吹を伝える鯰絵
安政江戸地震の直後に大流行した鯰絵は、鯰をモチーフとして当時の江戸庶民の文化を描き出したものともいえます。さまざまな鯰絵の一部を、ここに紹介しましょう。
地震鯰:地震の象徴としての鯰は 1847(弘化四)年善光寺地震直後の瓦版で初めて描かれ、この地震の後の色刷り瓦版で大ブレイクしました。地震を起こした鯰が、雷や火事と比べて描かれたりしています。(1 地震・雷・過事・親父、6 鯰涅槃、8 江戸鯰と信州鯰)
こらしめられる鯰:地震で被害を受けた人々が鯰をこらしめたり、蒲焼にしたりしています。鯰絵の最大の功績は、姿の見えない地震の張本人をひょうきんな鯰に仕立てた点でしょう。人々はこの鯰をこらしめ笑い飛ばすことで、地震のうっぷんを晴らすのです。(9 万歳楽鯰の後悔、10 太平の御恩沢に、15 江戸前かばやき鯰大火場焼)
要石:古来より鹿島大明神は、要石で地下の龍蛇(地震鯰)を押えて、地震が起きるのを防ぐとされました。このため鹿島大明神・要石・鯰は、鯰絵を構成する三大要素となっています。(3 自身除妙法、11 あら嬉し大安日にゆり直す、13 鯰を押える鹿島大明神)
世直し鯰:鯰は悪役として描かれたばかりではありません。江戸庶民は、天地をめぐる「気」の流れが 滞ると、地震が起きて「気」の巡りが回復するのだと考えました。この「気」を「金」と見て、地震後の復興景気をはやし立てる鯰絵も表れています。(12 鯰の掛軸、16 世直し鯰の情)
損をした金持ち・儲けた職人:江戸地震では、損をしたのは金を貯めこんだ持丸(金持ち)で、儲けたのは、復興景気で仕事が増え、手間賃がはね上がった職人たちでした。鯰絵は、これら両者を皮肉たっぷりに洒落とばしています。(5 世ハ安政民之賑、7 鯰めをはなし大きにゆすられて、14 持丸たからの出船)
歌舞伎と流行唄:芝居(歌舞伎)は江戸庶民の最大の娯楽でした。また大津絵節、拳唄、すちゃらかなどは、当時の流行歌の一つでした。これらを鯰絵の作者たちが見逃すはずはなく、いろいろな題材が鯰絵に採用されています。(2 地しんどう化大津ゑぶし、4 雨には困り□(ます)野じゅく しばらくのそとね、)
1 地震・雷・過事・親父  2 地しんどう化大津ゑぶし  3 自身除妙法  4 雨には困り□野じゅく しばらくのそとね  5 世ハ安政民之  6 鯰涅槃  7 鯰めをはなし大きにゆすられて  8 江戸鯰と信州鯰 9 万歳楽鯰の後悔  10 太平の御恩沢に 11 あら嬉大安日にゆれ直す  12 鯰の掛軸  13 鯰を押える鹿島大明神 14 持丸たからの出船  15 江戸前かばやき鯰大火場焼  16 世直し鯰の情
地震鯰から官僚鯰へ−明治・大正の鯰絵
明治時代になると、地震の象徴としての鯰は姿を消します。しかし、鯰絵のように擬人化された動物を通して世の中を風刺する技法は、明治時代になっても生き残っていきます。明治 6 年〜7 年には、うさぎを擬人化した錦絵、いわゆる「兎絵」が大ブームとなりました。この兎絵も 100 種類以上が出版されたといわれます。江戸末期の鯰絵作者たちも、兎絵に負けていたわけではありません。彼らは明治の世になると、新時代のエリートである高級官吏を鯰で象徴的に描き出し、世相を風刺し始めます。当時の政治家や官僚たちは鯰ひげ(やどじょうひげ)をはやしたて、黒服をまとっていたため、鯰に描かれたのでした。こうした鯰絵は、1891 年濃尾地震や 1923 年関東大地震の直後にも、大災害を忘れないようにとの目的もあり、数多く描かれています。
1891 年濃尾地震(マグニチュード 8。0)は、岐阜県や愛知県でたいへん大きな地震災害−濃尾震災を引き起こしました。この地震の直後には、被災者の救済のため、明治天皇をはじめ、国や企業、多くの個人から義捐金が集まりました。しかしその配分をめぐり、愛知県と岐阜県で一悶着があったのです。これを描いた鯰絵では、尾張・美濃と描かれた大鯰が首引き(勢力争い)をしています。この鯰絵からは地震後の世相だけでなく、江戸時代からあった尾張(愛知県)と美濃(岐阜県)の長い確執の歴史が、みごとに描き出されているように感じられます。
   >>> 義捐金をめぐる愛知県・岐阜県の争いを描いた鯰絵(岐阜市歴史博物館所蔵) 左:ドン二分前の地震が権兵衛ドンの内閣を生んだ(北沢楽天、『時事漫画』大正 12 年 10 月 7 日号) 加藤友三郎首相の病死後、後任の山本権兵衛が組閣中の 9 月 1 日に関東大震災が発生しました。右:米俵のさし持(小林清親、『団団珍聞』明治 24 年 11 月 14 日号) 米俵を鯰と猪がかついでおり、濃尾震災で米価が高騰したことを風刺しています。 (いずれも鯰絵−震災と日本文化から抜粋)
世ハ平成、民の賑い
私たちの祖先は大地震とともに生き、その経験を糧として、「震災文化」を残してきました。地震鯰をモチーフにした鯰絵は、その象徴といえるでしょう。この鯰絵の中に、「平」という文字を記し、世の中の平穏無事を願ったものがあります。今の「平成」の年号も、同じ願いを込めて作られました。しかし皮肉なことに平成の時代は、次の地震活動期の序章であるといわれています。鯰絵の登場から 150 年以上の時をへて、私たちは地震のしくみを知り、自らの命と財産を守る知恵を生み出しました。南海地震をはじめ、迫り来る大地震への備えを忘れずに、新しい文化の華を咲かせていきたいものです。 
 

 

●龍蛇 (りゅうじゃ)
龍と蛇。また、そのようにうねり曲がるもののたとえ。りょうじゃ。りゅうだ。りょうだ。
・・・「いせこよみ」では国土を取り囲んでいるのが龍蛇であったが、「和漢三才図会」によれば、龍蛇が鯰に変身し、琵琶湖の主になったとの話がある。また、8月15日の月夜に竹生島の砂の上で数千匹の鯰が転げまわったとの記述があるが、これは恐らく月の変若水との関係を伝えるものだろう。要は、鯰は龍蛇と同じ水神の使いであると。・・・
読本・椿説弓張月(1807‐11)続「鬣松(ごえうのまつ)天(そら)をかすめて、龍蛇(リウジャ)の勢あり」。
正法眼蔵(1231‐53)画餠「これによりて竹声を聞著して大悟せんものは、龍蛇ともに画図なるべし」。
太平記(14C後)一七「中黒の旗三十余流山下風に吹れて、龍蛇(レウジャ)の如くに翻り」。
龍蛇神講大祭(りゅうじゃじんこうたいさい) 旧暦10月は一般に「神無月」ですが、出雲地方では全国の八百万神がお集まりになられることから「神在月(かみありづき)」と呼ばれます。神々は旧暦10月11日から17日までの7日間は出雲大社へ集われ、大国主大神の御許において神々による縁結びのお話し合い(神議かみはかり)がなされます。この折、神々の先導役をお仕えされる御使神として、古くより「龍蛇神(りゅうじゃじん)」の信仰があり、この神様を信仰される方々の組織として「龍蛇神講」が結ばれています。そして、旧暦10月11日に御本殿で斎行される「神在祭」の後、神楽殿において「龍蛇神講」に加入された方々が参集して「龍蛇神講大祭」がお仕えされます。「龍蛇神」は海蛇の神様で、水に住む“龍”の信仰からは火難除け、水難除けの守護神と仰がれ、地に住む“蛇”の信仰からは土地の災難除けの守護神と仰がれます。この二つの信仰が融合し、現在では広く家内安全や除災招福などの守護神として崇敬されています。[出雲大社]    
 

 

●ナマズ
[鯰・鮎、魸、学名 Silurus asotus ] ナマズ目ナマズ科に属する硬骨魚類の1種。日本・中国・朝鮮半島・台湾など、東アジアの河川や湖沼に生息する肉食性の淡水魚である。別名としてマナマズ、琵琶湖周辺地域での地方名としてヘコキとも呼ばれる。2005年に特定外来生物に指定されたアメリカナマズ(チャネルキャットフィッシュ)と区別して、ニホンナマズと呼ばれることもある。以降本種を「マナマズ」と表記する。
マナマズ(S. asotus)は日本に分布する4種のナマズ属種の1種である。他の3種のうち、ビワコオオナマズとイワトコナマズが琵琶湖と関連水系のみに生息、タニガワナマズが愛知県、長野県、岐阜県、静岡県の川において確認されている日本固有種であるのに対し、マナマズの分布は東アジア広域にわたり、日本においても現代では沖縄などの離島を除く全国各地の淡水・汽水域に幅広く分布している。
日本在来の淡水魚は雑食のものが多いため、在来魚としては数少ない大型の肉食魚である。大きな体をくねらせてゆったりと泳ぎ、扁平な頭部と長い口ヒゲ、貪欲な食性を特徴とする。
日本におけるナマズは、古代から食用魚として漁獲されたほか、さまざまな文化に取り入れられた歴史をもつ。神経質でデリケートな性格から暴れたり飛び跳ねることも多く、日本では中世以降地震と関連付けられ、浮世絵をはじめとする絵画の題材にされるなどして、人間との関わりを深めてきた。
なお日本では通常、ナマズに「鯰」の字を当てるが、中国では(日本語でアユを意味する)「鮎」を当てる(「鯰」はナマズに当てるために日本で作られた国字である。)。大きなナマズは「鯷」と記し、『漢書』地理志と『後漢書』東夷伝に現れる「東鯷人」は倭人との関係で注目される。
分布​
マナマズは中国大陸東部・朝鮮半島などの大陸部に加え、台湾や日本など島嶼域を含めた東アジア全域に幅広く分布している。ユーラシア大陸での分布は、アムール川・シベリア東部からベトナム北部まで。流れの緩やかな河川・湖沼から水田・用水路などに生息し、岩礁域よりも水草の繁茂する泥底域に多くみられる。
現代の日本ではマナマズは沖縄諸島などの離島を除く全国に分布しているが、本来の生息域は西日本に限定されていたとみられている。縄文時代の貝塚など全国各地の遺跡から、ナマズ目魚類の骨格が出土しているものの、古い時代のものは滋賀県より西の地域に限られている。一方で、『本朝食鑑』など複数の文献記録や、愛知県と東京都における江戸時代の遺跡から遺存体が見つかっていることなどから、マナマズは人為的な移植によって江戸時代中期には関東地方に、後期には東北地方に順次分布を広げていったと推察されており、大正期に北海道にも移入された。
マナマズは水質汚濁には比較的強いが、河川や用水路の護岸化により繁殖場所を失い、日本での生息数は年々減少しているものとみられている。
形態​
マナマズの外観は大きく扁平な頭部と幅広い口、および長い口ヒゲによって特徴付けられ、これらはナマズ目の魚類全般に共通する特徴である。体は全体的に左右に平たく側扁するが、頭部は上下につぶれたように縦扁している。鱗がなく、体表はぬるぬるとした粘液で覆われている。目は小さく背側寄りについており、腹側からは見えない(イワトコナマズの目は側面寄りで、腹側から見える)。体色や斑紋は変異に富み、個体によってさまざまである。全長60cm - 70cm程にまで成長し、一般に雌の方がやや大きい。
口ヒゲは上顎と下顎に1対ずつ、計4本ある。仔魚の段階では下顎にもう1対あり、計6本の口ヒゲをもつが、成長につれ消失する。下顎は上顎よりもわずかに長く突き出す。背鰭は小さいが(4-6軟条)、臀鰭の基底は非常に長く(71-85軟条)、尾鰭と連続する。外見だけで雌雄を鑑別することは難しいが、雄の尾鰭は中央部がやや凹んでいる。
全身に味覚があることで知られ味蕾と呼ばれる器官が約20万程ありこれは全生物の中でも最多である。
生態​
基本的に夜行性で、昼間は流れの緩やかな平野部の河川、池沼・湖の水底において、岩陰や水草の物陰に潜んでいる。感覚器として発達した口ヒゲを利用して餌を探し、ドジョウやタナゴなどの小魚、エビなどの甲殻類、昆虫、カエル、亀、蛭などの小動物を捕食する。日本の淡水域の生態系では、食物連鎖の上位に位置するとみられる。一般的な活動水温は10-30℃の範囲とされ、冬期は泥の中や岩の間に隠れ、ほとんど動かない。
日本での繁殖期は5-6月が中心である。この時期になると群れをなして水田や湖岸など浅い水域に集まり、雄が雌の体に巻きつくという独特の繁殖行動の後、水草や水底に産卵する。卵の大きさは約3mmで黄緑色をしており、およそ2-3日で孵化する。仔魚は孵化の翌日にはミジンコなどの餌をとるようになり、個体密度が高い場合は仲間の仔魚にも攻撃を加えるなど共食いが起こる。雄は2年、雌は3年程度で性成熟に達する。
利用​
   漁獲​
東アジア地域では古くから、マナマズを食用魚として利用してきた。世界のナマズ目魚類の総漁獲量は1990年代以降急激に増加しており、その大半はアジア地域でのナマズ類養殖業の普及によるものである。マナマズもまた主要な養殖魚種の一つであり、国際連合食糧農業機関(FAO)の統計によれば、2006年のアジアでの総漁獲量(養殖分)145万トンのうち、30万トン余りを本種が占めている。
   食文化​
ナマズは中国料理でもよく使用される。大型ナマズの浮袋を干したものも中国料理でよく用いられる食材である。
ベトナムでもナマズは煮つけなどに用いられるポピュラーな食材となっている。
マナマズは白身魚で、日本では天ぷら・たたき・蒲焼き・刺身などにして利用される。ただし、顎口虫などが寄生しているため生食をした場合、顎口虫症への感染の恐れがある。かつては農村部などを中心に、主に自家消費のための小規模なナマズ漁が行われていたが、近年では琵琶湖周辺地域(滋賀県・京都府)や、濃尾平野、埼玉県南東部など特定の地域での漁獲が中心となっている。寺嶋(2014)によれば、岐阜県で1988年 102t 、琵琶湖で1994年に 1.4t の漁獲高があった。
ナマズ食の歴史は古く平安時代末期の文献(今昔物語)に調理をしていた記述が残るほか、江戸時代に商業取引が行われた記録が残る。しかし、現代の日本では必ずしも一般的な食材とは言えない。群馬県邑楽郡板倉町板倉にある雷電神社や、鳥取県鳥取市吉岡温泉町(旧国因幡国)にある吉岡温泉など特定の地域で郷土料理として、ナマズ料理が有名。
日本産のナマズ科魚類3種の中では岩礁域に暮らすイワトコナマズが、泥臭さが少なく最も美味で、マナマズはこれに次いで味が良いとされる。ビワコオオナマズは大味で独特の臭みがあり、ほとんど利用されることはない。
ナマズの食味や利用に関しては江戸時代以降の資料がいくつかあり、本草学者である人見必大が著した『本朝食鑑』(1697年)によれば、ナマズは味は良いものの、膾や蒲鉾として利用されるに過ぎないとされる。一方で、シーボルトらによる『日本動物誌』(1850年)には、ナマズはあまり食用にされず、むしろ薬用に用いられるとの記述がみえる。
埼玉県吉川市は「なまずの里よしかわ」として、特産のナマズ料理をアピールしている。
   食用ナマズ養殖​・国内
埼玉県では1970年代から水産試験場(農林総合研究センター水産研究所)が種苗生産と養殖の技術開発を行っているほか、茨城県でも養殖技術の開発が行われている。当初、ふ化後40 - 50日の稚魚期の共食いによる消耗が問題となったが、2000年代には共食いを抑制する給餌方法、飼育密度、飼育条件を見いだし、安定した種苗生産が行える様になった。育成された稚魚は養殖業者によって育成される他、霞ヶ浦や印旛沼など自然の水系に放流され漁獲後、市場出荷されている。西日本にては和歌山県新宮市内にても養殖が実施されている。
また、近畿大学がマナマズの養殖方法を工夫することによって、食味をウナギの味に近付けた「ウナギ味のナマズ」の養殖研究を行なっている。食味の調整として「餌のコントロール」と「水質のコントロール」の2点が重要であることを特定し、それらのコントロール方法を開発した。ウナギは天然種が絶滅の危機にありながら、養殖技術も確立されていないため、近い将来一般の人は食べる事すら出来なくなることが懸念されているが、この研究が商業化に発展すれば、代用としての養殖ナマズ食が普及する可能性もある。今後は直営の料理店「近畿大学水産研究所」や提携した料理店などで「ナマズの蒲焼き」のような形で不定期に客へ提供し、商業化を目指す。
   食用ナマズ養殖​・海外
生産量1位である中国、2位ベトナムなどメコン川周辺地域、バングラデシュ、アフリカ、アメリカなどで大量に養殖されている。消費地としては1位がヨーロッパ、2位がアメリカでヒスパニック人口増とファーストフードなどで食用にされた。
ナマズ戦争 2002年、ベトナム産の安価なナマズ(チャー、バサ)が米国に輸入されたことについてアラバマ州などのナマズ養殖業者協会がダンピングであると指摘、2003年8月に認定され、アメリカ商務省によってセーフガードとして関税が適用された。その後も8回にわたりほぼ毎年定期的に見直して税率を上げ、ベトナム水産物輸出加工協会は同国側の生産者に悪影響を与えていると指摘している。一連の動きを俗にナマズ戦争、米越ナマズ戦争と言われる。
   釣り​
ナマズを釣りの対象とする場合、その貪欲な性質を利用した「ぽかん釣り」と呼ばれる方法が用いられる。ぽかん釣りでは小型のカエルを釣り餌として、片足から吊り下げる形で釣り針に通して付け、水面で上下に動かすことでナマズを誘う。他にドジョウ、ハヤ、金魚などの小魚を使っての泳がせ釣り、エビなどの甲殻類、昆虫などの生き餌を使った釣り方が知られる。ハツやササミといった肉類などでも釣れる。
ルアー釣りの場合は、夕方や朝まずめの時刻はスプーンやワーム、あるいはミノーを利用するとよい。夜間にはノイジー等の音を出すトップウォーター系のプラグがよい。さらにケミホタルと呼ばれるケミカルライトにより光る発光体をルアーに貼り付ければ夜間でも視認しやすい。また、近年はナマズ専用のルアーも登場している。
餌を丸呑みにする性質があるので、針が喉の奥に刺さる場合が多く、針を抜くのが非常に困難である。したがって、針のカエシを潰した(バーブレス)うえで、ペンチなどを利用すると針を抜きやすい。昼にも釣ることができる。
雨の降った後は昼でも比較的釣りやすい。
   飼育​
以下はマナマズ(一般的な日本ナマズ)の飼育法について述べる。なお外来種の取り扱いについては特定外来生物法などで規定されており、過去にアメリカナマズが琵琶湖などに生息して生態系への悪影響を及ぼしたことから注意が必要である。
飼育器具 / 隠れ場所に潜むナマズ水槽:ガラスとアクリル樹脂があるが、マナマズでも40cm程度まで成長すると突進力も強くなるため、耐衝撃性のあるアクリル水槽がより適している。稚魚なら45cm水槽での飼育を開始し、35cmを超えたあたりで90cm - 120cm水槽へと移すといったように、順次大きさを切り替える。直射日光を避け、静かで安定した場所に設置する。ろ過器:与える食料にもよるが、肉食性で糞の量も多いため、ろ過容量が大きい上部式ろ過器が適している。飼育水:塩素を含んだ通常の水道水を使用すると、鰓に炎症が起こる可能性がある。飼育水のカルキ抜きは必須で、水道水を使用する場合はハイポを入れるか、1-2日くみ置いてから使用する。雨水の使用は避ける。隠れ家:ストレスを与えないため、体の半分以上が隠れる管などを入れる。夜行性のため、ライトを使う場合は照射量に注意する。高温に弱くヒーターは基本的に不要で、底砂(砂利)の使用も適宜でよい。
環境 / 混泳すると共食いの危険があり、基本的に単体飼育が望ましい。餌は慣れると、水面に餌を落としただけで反射的に食いつくようになる。生餌を使用する場合は感染症を防ぐため、一週間ほど別水槽で薬浴させてから投入するとよい。与える餌の量にもよるが、1週間に1度、1/3程度の水換えを行う。日光や騒音を好まないので静かで暗い場所に水槽を設置するのが適している。水草や浮草があると良い。
病気 / 擦り傷や白点病、尾腐病などに罹患した場合、早めの塩水浴を行う、0.5%程度の食塩水で殺菌効果が見込める。専用の魚病薬を用いる場合は、薬品の影響を考慮して規定量の1/4-1/3程度の使用に留めた方が良い場合もある。感染症を予防するためには水の約0.1%ほど塩分を入れると良いが入れすぎると食欲が減るので注意を要する。また魚病薬に弱い性質を持つ。
餌 / 市販の底生肉食魚用人工餌や、金魚等の粒状の人工餌、ハツやササミといった肉類を適量与える。新しい環境に慣れるまで数日は餌を食べないことが多い。野生魚に関しては人工餌や動かない肉類には反応せず、生餌の方が食いつきが良いが、感染症を防ぐために生餌は推奨されない。
文化​
日本では、その独特な外観と生態から古くから親しまれ、さまざまな文化・伝承に取り込まれてきた。伝統的な郷土玩具にも、「鯰押さえ」などナマズを題材にしたものが見られる。
   地震とナマズ​
日本では、地震の予兆としてナマズが暴れるという俗説が広く知られている。地面の下は巨大なナマズ(大鯰)がおり、これが暴れることによって大地震が発生するという迷信・民俗も古くからある。
ナマズが地震の源であるとする説は江戸時代中期には民衆の間に広まっていたが、そのルーツについてはっきりしたことはわかっていない。ナマズと地震の関係について触れた書物としては古く『日本書紀』にまで遡ることができるといわれる。安土桃山時代の1592年、豊臣秀吉が伏見城築城の折に家臣に当てた書状には「ナマズによる地震にも耐える丈夫な城を建てるように」との指示が見え、この時点で既にナマズと地震の関連性が形成されていたことが伺える。江戸時代の『安政見聞録』には安政大地震前にナマズが騒いでいたことの記述がある。安政大地震の直後には200種を超える鯰絵が出回った。
一般には地震とナマズの関係は俗信とされてきた。ただ、魚類は音や振動に敏感で、特にナマズは電気受容能力に長けており、電場の変化にも敏感であることから地震予知能力があることも考えうるとされ、今後の研究に委ねられている。一方で、大地震の際に普段ほとんど動かないナマズが頻繁に動き出すことがあるという。
   日本の伝統絵画に描かれたナマズ​
瓢鮎図 / 日本におけるナマズを題材とした絵画のうち、代表的な1枚が室町時代の画僧、如拙による「瓢鮎図」(ひょうねんず、「鮎」は中国式の表記)である。ぬめった皮膚のナマズを滑らかなヒョウタンでいかに押さえるか、という禅問答のテーマを描いた水墨画であり、現在では国宝に指定されている。本図に描かれた瓢箪とナマズの組み合わせは、後世のナマズ画にも多大な影響を与えている。
大津絵​ / 瓢箪とナマズ、というユニークな画題は後年の民画や浮世絵にも取り入れられた。滋賀県大津宿の民俗絵画である大津絵では、ヒョウタンを持った猿がナマズを押さえつけようとする姿を滑稽に描いた作品が数多く作られている。ほとんどが作者不詳であるこれらの作品は「瓢箪鯰」と総称され、「大津絵十種」(大津絵の代表的画題)の一つとして親しまれた。
鯰絵​ / 瓢鮎図から大津絵という系譜を経たナマズが、最も多種多彩な構図で描かれたのが幕末の江戸で流行した鯰絵である。鯰絵とはナマズを題材にした無届の錦絵(多色刷りの浮世絵の一種)で、1855年に関東を襲った安政の大地震の直後から、江戸市中に広く流布した。地震の原因と考えられた大鯰を懲らしめる図や、復興景気に沸く職人たちの姿など、地震直後の不安定な世相をさまざまな視点から滑稽に描き出した鯰絵は庶民の間で人気を呼び、少なくとも250点以上の作品が出版された。
   鯰山車​
岐阜県大垣市の大垣八幡神社の例祭、大垣祭では鯰軕(なまずやま)と呼ばれる山車が参加する。金の瓢箪をもった老人がナマズを押さえつけようとするからくりが乗せられており、同市の白鬚神社例祭においても、同様の山車がみられる。両祭の鯰山車は、岐阜県の重要有形民俗文化財に指定されている。
   ナマズの伝承
ナマズにまつわる伝承が日本各地で知られている。琵琶湖の竹生島にある都久夫須麻神社(竹生島神社)には、ナマズが龍に変身して(あるいは龍から大鯰となって)島と神社を守護するという縁起(言い伝え)が古くからある。島の守り神であるナマズを安易に捕ることは許されないという当時の考えにより、同じく竹生島にある宝厳寺(神仏習合の思想に基づき、明治時代以前は竹生島神社と一体であった)から湖岸の村役に対し毎年「鯰免状」が与えられ、ナマズを食用とすることを許可されていた。免状の発行そのものは例祭的な意味合いが強く、漁業権との実際的な関わりは薄かったとみられている。
中国地方では、ナマズギツネという老いたナマズが、夜に小川で魚が昇ってくるような音をたて、人が音に近づくたびに上流へ上流へと逃げて行くという。また群馬県前橋市の清水川にはオトボウナマズという主が住んでおり、「おとぼう、おとぼう」と言いながら釣り人を追いかけるという説話がある。
九州でも、ナマズが神格化されている地方がある。熊本県阿蘇市に総本社をおく阿蘇神社の氏子はナマズを神の使いとして信仰し、捕獲・食用はタブーとされている。また、佐賀県では淀姫神社の使いとされ、ナマズを食べると病気になるとして食用にしない風習がある。
   愛称・マスコットとしてのナマズ​
近代以降、ナマズの名前や姿を、愛称・マスコットとして用いることも増えている。小学館発行の雑誌(現在ではビッグコミックとその派生雑誌、週刊少年サンデーといった漫画雑誌。かつては「FMレコパル」「テレパル」等も)ではナマズを象ったシンボルマークが用いられ、表紙などに描かれている。また、1937-88年に名古屋鉄道(名鉄)で運用されていた850系電車は、その姿形から「ナマズ」と呼ばれ親しまれた。「Namazu」は日本で広く用いられている、コンピュータ用の全文検索システムである。前項にもある通り地震との繋がりがあるために地震・災害関係のマスコット(緊急地震速報利用者協議会のゆれるん・上記看板にある緊急交通路のキャラクター)としてナマズが取り上げられることも多い。
埼玉県吉川市は、ナマズをモデルとした「なまりん」を市のイメージキャラクターとしている。
 

 

●鯰と地震と要石
東日本大震災は東北三県と鹿嶋・香取神宮のある茨城・千葉県に大きな被害をもたらしました。 本年に入っても、 震度5を超える地震が頻繁に起こっています。 江戸の庶民の間では、地震は地中の大鯰が暴れて引き起こすものと信じられていました。 地震が起きないようにと、この大鯰を地中に押さえ込んでいるとされる「要石」が鹿島神宮と香取神宮に祀られています。また、大村神社(伊賀市)にも祀られています。
要石
要石は鹿島・香取の両神宮に有ります。要石の由来について、鹿島・香取神宮の説明板などを参照しますと・・・
『古伝によればその昔、鹿島神宮の武甕槌(タケミカヅチ)神、香取神宮の経津主(フツヌシ)神の二柱の大神は天照大神の大命を受け、芦原の中つ国を平定し、常陸・下総付近に至った。しかし、この地方はなおただよえる国であり、地震が頻発し、人々はいたく恐れていた。
これは地中に大きな鯰魚(なまず)が住みつき、荒れさわいでいるせいだと言われていた。大神たちは地中に深く石棒をさし込み、鯰魚(なまず)の頭尾を押さえ地震を鎮めたと伝わっている。(その石棒が要石と呼ばれる)
鹿島神宮の要石は凹形、香取神宮の要石は凸形で地上に一部だけをあらわし、深さ幾十尺とされている。貞享元年(1664)三月、徳川光圀公が当宮に参拝の折、これを掘らせたが根元を見ることが出来なかったと伝わる。』
鹿島神宮の要石の説明には、要石は大神の御座、磐座(いわくら)とも伝えられる霊石とも記されています。
鹿島神宮の要石は大鯰の頭、香取神宮の要石は尾を押さえているとか、両者の石は地中で繋がっているとも言われます。ただ、記紀には要石の記載はなく、要石が一般に広く知られるようになったのは、安政の大地震(1855)で「鯰絵」(下掲)が大量に出回った頃だと思われます。
鹿島神宮 茨城県鹿嶋市宮中 祭神:武甕槌(タケミカヅチ)大神=鹿島大明神 境内・大鯰の碑
香取神宮 千葉県香取市香取 祭神:経津主(フツヌシ)大神
鯰絵
江戸時代、恐れられた災害は、地震、雷、火事、おやじと言われるように、地震がトップでした。安政二年(1855)10月の「安政の大地震」で江戸市中は甚大な被害を蒙りました。この直後から、地震を引き起こすと信じられていた大鯰を描いた、「鯰絵」と呼ばれる版画(多色刷り浮世絵)が市中に大量に出回りました。それらは多種多様で、地震後の世相を風刺したものでもありました。
1 鹿嶋要石真図 要石は、鹿島大明神が地下の鯰を押さえ込んでいる姿を表すもの。上掲の鹿島神宮境内の「大鯰の碑」はこの図柄を参照したものと思われます。     
2 あんしん要石 地震守護を願って大鯰を押さえている要石に祈る
3 鹿島大明神地震御守 江戸の地震をおこした鯰が鹿島明神に剣でおさえられ、その前で日本各地で地震をおこした鯰があやまっている。
4 要石 あら嬉し大安日にゆり直す 要石で大鯰は押さえ込まれ、各地の鯰は詫びを入れ、地震のない日々に戻ったと喜ぶ。添文は地震除けの呪文?
5 鹿島太神宮と要石と大鯰と人々 鹿島大明神の威光を受けて要石に扮した役者が地震を起こした大鯰を押さえつけている。鯰を取り囲んで、大地震で被害を蒙った者(注A)が、手に手に得物を持って鯰を懲らしめている。一方、少し離れた左上には、地震の復興景気で儲けた者(注B)が手を出さずに控えて、小さめに描かれている。
 注A(地震の被害者) 親-子の恨み、子供-親のかたき、女房-夫のかたき、地主、坊主、座頭、武士、芸人など
 注B(地震で儲けた者) 土方、吉原-女郎、金物屋、材木屋、かや葺屋根、大工、左官、屋根屋、名倉(接骨医)など
6 鯰と鹿島大明神の首引 地震で儲けた建築工事関連の職人などを後ろ楯にした鯰と鹿島大明神の首引き
7 鯰を押える鹿島大明神 地震を引き起こすとされる大鯰が鹿島大明神に押さえつけられている図だが、添字には、復興景気で儲かる職人のたちの地震歓迎の文言もある。
大村神社の要石と鯰
伊賀市の大村神社にも要石があります。( 大村神社 三重県伊賀市阿保 )
当社は延喜式神明帳に載る古社で、祭神の大村神は伊勢神宮を奉鎮した倭姫命の弟君にあたる。相殿配神として、常総の、鹿島神宮の武甕槌神、香取神宮の経津主神の二柱が神護景雲元年(767)に奉祀されています。
当社境内の要石社には、要石(かなめいし)が奉斎されており、地震守護の社として知られます。要石は、鹿島・香取の両神宮に祀られていて、地震を引き起こす大鯰(おおなまず)を押さえ込んでいる霊石とされます。この社の配神である武甕槌命・経津主命が、常陸下総を発って三笠山(春日大社)へご遷幸の途次、当社にご宿泊され、「要石」を奉鎮せられたと伝わります。
要石  要石社の正面の格子の中には、地面に埋まった要石が祀られています。
なまず 社前の左右には鯰の石像が奉納されていて、鯰に水をかけて祈るとご利益があるとされます。

要石は、鹿島神宮の武甕槌大神、香取神宮の経津主大神の二神が出雲へ出かけて留守になる神無月(旧暦10月)には鯰を押さえ込む霊力が弱まって、地震が起こるとの風評もありました。でも、東北大震災は、大神が社におられたはずの3月11日でした・・・。 
 

 

●要石
鹿島神宮本殿。平安時代後期に編纂された『大鏡』に、中臣鎌足は鹿島神宮の神官だったと記されており、中臣氏(藤原氏)は常陸国出身とする説が有力視されている。春日大社(奈良県奈良市)には、鹿島・香取の二神を勧請し一族の氏神として祀られている。
利根川を挟んで南北に対峙する鹿島・香取の両神宮に「要石」は鄭重に祀られている。鹿島の要石は鏡餅状で、径約30cm、高さ約7cm、中央が少し凹んでいる。香取の要石は、丸みを帯びた頭頂状をなし、径約30cm、高さ約30cm。どちらも瑞垣に囲まれて、地表から突き出た出臍のようにチョコンと頭をのぞかせている。
これがあの名高い霊石かと思うと、拍子抜けしてしまうほどの小さな石だが、伝承によれば、見えているのは氷山の一角で、地中に隠れている部分は測り知れない大きさであるという。かの水戸黄門が家来に掘らせてみたが、鹿島の要石は「七日七夜」、香取の要石は「三日」掘っても根元を見ることができなかったという逸話もあり、見かけによらぬやんごとない石といえる。
鹿島神宮にはもう一つ、「鏡石」と呼ばれる霊石がある。本殿裏のご神木(大杉)の後方にあり、境内マップにも記されているが、なぜかそこは一般の見学者は立ち入れない区域となっている。社務所に寄って鏡石について聞いてみると、大きさは約80cmほどの平たい円盤状で、上部が鏡のようにつるつるしており、由来についてはあきらかでないという。本殿裏という場所からみて、要石に劣らぬ重要な霊石と思われるが、見ることがかなわず残念だった。

両神宮の創建はともに神代の昔とされ、社伝によると鹿島神宮は神武天皇元年の紀元前660年、香取神宮は神武天皇18年の紀元前643年と伝えられるが、これでは卑弥呼の時代より800年以上も前となり、史実としてはそのまま受け入れられない。
養老年間(717〜724)に撰進された『常陸国風土記』の香島郡条に、大化5年(649)孝徳天皇の時代に、中臣氏らに命じ「神の郡」を置かせ、「天の大神の社、坂戸の社、沼尾の社」の三社を合わせて「香島の天(あま)の大神(おおかみ)」と称したとある。また、天智天皇(在位668〜671)の時代に、初めて使人をつかわし神の宮を造ったとあり、これらの記載から、鹿島神宮の創建は7世紀ころ、香取神宮も同時期に創建されたものと思われる。
鹿島神宮の祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)、香取神宮は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)である。二神ともに、イザナギが火の神・軻遇突智(かぐつち)を斬ったときに流れ出した血から生まれた神で、国譲りの神話ではペアとなって出雲へ降りたち、オオクニヌシに国譲りを強要する神である。古事記では、タケミカヅチの別名がトヨフツと呼ばれることから、もともとは同一の神とする説(谷川健一・日本の神々)もある。

タケミカヅチとフツヌシが、なぜ大和から遠く離れたこの地に祀られなければならなかったのか。両神がこの地に現れたのは、鹿島から約70km北の大甕に住む甕星香々背男(みかぼしのかがせお)と称する悪神を討伐するためだった。『鹿島神宮』(学生社)の著者・東実氏(元宮司)は、タケミカヅチが鹿島に入ったルートとして、「行方郡を通った模様で、いまの潮来町大生原(おうはら)に大生(おう)神社があり、社伝に鹿島より早くタケミカヅチが見えられたとあり、経由された地と推定できる」と述べている。大生神社は、鹿島神宮の西北西約10km、潮来市大生に鎮座し「鹿島の本宮」とも呼ばれる古社である。
「大甕倭文神社」で記したように、「天津甕星(甕星香々背男)は、東国地方の陸地はおろか、海上にまで一大勢力をもっており、鹿島・香取の神も、この勇猛なる大勢力の前に為すすべがなかった。鹿島・香取は、8世紀以降の蝦夷征討の水軍の発信基地であり、東国経略の拠点であった。大和朝廷の東国制圧に際し、天津甕星は真っ先に封じ込めねばならない神だったである。」
当初、鹿島の神は『常陸国風土記』にある「香島の天の大神」であり、タケミカヅチとは結びついていなかったが、大同2年(807)に成立した『古語拾遺』には、祭神はタケミカヅチで、フツヌシを下総の香取神宮にいます神と記されている。記紀にもタケミカヅチが鹿島に祀られたという記載がないことから、ヤマト王権の東国進出の際、鹿島・香取の重要性が増すことで、タケミカヅチ・フツヌシの両神は、東方制覇成就のために朝廷側から送り込まれた神であったと考えられる。

鹿島神宮 タケミカヅチの荒御魂(あらみたま)が祀られている。『延喜式』神名帳のなかで、鹿島・香取の両社は、伊勢神宮とともに「神宮」の称号を与えられている。神名帳のおいて「神宮」と呼ばれるのはこの三社のみであるから、鹿島・香取の両神宮が東国を代表する社として、朝廷から特別に扱われていたことがわかる。海をはさんで霞ヶ浦の出入りを監視するような位置にある鹿島・香取の両神宮。

要石は地震を起こす大鯰の頭を押さえ込んでいる霊石として知られているが、この伝承はいつ頃から広まったものなのか。残念ながらそのルーツはつまびらかになっていない。「ウィキペディア」などの一部資料に、「ゆるげども よもや抜けじの要石 鹿島の神のあらん限りは」という地震歌が『万葉集』に詠まれており、あたかも7〜8世紀から、鹿島の神が地震の神であったとみられる記載があるが、この歌の初見は『万葉集』ではなく、江戸時代初期に書かれた『仮名草子』のまちがいである。
鎌倉時代、無住道暁(1226〜1312)によって書かれた『沙石集』の拾遺に、鹿島の社に参詣した右大弁の藤原光俊が、三日間平な石をさがしたが見あたらなかった。そこで、古老の神官に問うたところ、神官は丸くて平な二尺ばかりの石を御殿のうしろの竹林の中から見つけた。それをみた光俊は「尋ねるかね 今日見つるかなちはやぶる 深山の奥の石の御座(みまし)を」と詠み、「これは大明神天よりあまくだり給ひて、時々座禅せさせ給石なり 万葉集のみましと云これなり」と、感涙したとある。この記述から、要石は別名「石の御座(みまし )」「座禅石」「思惟石」とも呼ばれ、この時代は神が降臨する磐座として認識されており、地震との関わりは見られない。
要石が広く知られるようになるのは、江戸時代の安政の大地震(1854年10月4日・マグニチュード8.4)の時とされている。この時に、鹿島神(タケミカヅチ)─地震鯰─要石の組み合わせが生まれ、これを題材として描かれた「鯰絵」が大量に出版されている。これを鹿島事触(ことぶれ)と呼ばれる御師集団が、鹿島の神託と称して告げ歩き、各地に広めたといわれている。右に掲げた「鹿島要石真図」では、タケミカヅチが、大鯰の頭を刀剣で押さえつけているが、本来はタケミカヅチ、フツヌシともに地震・大鯰とは無関係の神である。ちなみに安政地震が起きた10月は神無月であり、鹿島の神は出雲に出掛けていて留守であったから、その隙に地震が起きたという取って付けたかのような伝承もある。

鹿島神宮の宝物館に「悪路王の首」と称される木像が展示されている。説明には「平安時代、坂上田村麻呂将軍が奥州に於て征伐した悪路王の首を寛文年間に口伝により木製で復元奉納したもの。悪路王は大陸系の漂着民族とみられるオロチョン族の首領で、悪路(オロ)の主(チョン)とみる人もいる」とある。
「悪路王の首」はもう一つ、茨城県城里町高久の鹿嶋神社にも残されている。岩手県平泉町の達谷窟(たつこくのいわや)で成敗した悪路王の首を都に持ち帰る途中、この鹿島神社に奉納したものと伝えられている。実際に首のミイラがあったといわれるが、現在見られるのは高さが50cmほどの首像である。悪路王の首像が二つも鹿島に残されていることは、鹿島・香取が武神タケミカヅチ・フツヌシを祀り、蝦夷征討の軍事上の前線基地として、征夷の「要」役を担ったことによるものだろう。
古くは磐座と認識されていた霊石が、蝦夷を鎮める「要」の石となり、江戸期に至って地震を治める要石に変わっていった……。荒れさわぐものを封じ込めるのに、石の大きさは関係ない。むしろ小さな石であるからこそ、そのギャップを埋めるべく見る側のイメージは喚起され、壮大深遠な霊石となって、伝承も膨れあがっていったと思われる。もちろん、鹿島・香取の神宮としての重みがあってこその芸当であるが。 
 

 

●なぜ、要石は地震を鎮める石なのか?
要石を知っていますか。要石は地震を鎮める石とされ、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、千葉県香取市の香取神宮、三重県伊賀市の大村神社、宮城県加美町の鹿島神社にあります。鹿島神宮の要石は凹形、香取神宮は凸形で、言い伝えによると地震を起こす大鯰(なまず)の頭(鹿島)と尾(香取)を押さえているとされています。なぜ、要石は地震を鎮める石なのか?をみてみましょう。
なぜ、要石は地震を鎮める石なのか?
香取神宮小史によれば、鹿島神宮の武甕槌(タケミカヅチ)神、香取神宮の経津主(フツヌシ)神の二柱の大神は天照大神の大命を受け、葦原中津国平定(あしはらのなかつくにへいてい)において香取ヶ浦付近に至った。しかし、ここは地震が頻発する地域で人々はいたく恐れていまいた。これは地中に大きな鯰魚(なまず)が住みつき、荒れ騒いでいるためだと言われていました。
ちなみに日本で一番古い地震の記録は、 『日本書紀』巻13にある416年7月に、遠飛鳥京(とおつあすかのみや)付近で起きた允恭地震です。また、日本神話や伝説は日本の自然現象・自然災害をモチーフに描写されているという説があります。
そこで香取と鹿島の大神は地中に深く石棒をさし込み、鯰魚(なまず)の頭と尾を刺し通し、地震を鎮めたと伝わっています。この石棒が要石と呼ばれています。
   図:[地中に深く石棒を刺す]
このような「鯰絵」は、安政の大地震後(1855年)、よく描かれた絵の一つです。神話・伝承では、地震は地中の鯰が動くことで起こると信じられていたので、安政地震の後も、鯰を素材とした戯画「鯰絵」が大量に出版され、それらは多種多様で、地震後の世相を風刺したものでした。
   図:[鯰と要石]安政2年(1855)刊 
「地震のあった10月は、神無月(かんなづき)とも呼ばれ、全国の神々が出雲に集まるため不在となる月です。茨城県鹿島神宮境内の地震を鎮めるとされた要石に寄りかかっているのは、留守居役の恵比寿と推察され、その恵比寿が居眠りした間に大鯰が暴れたということを表しているようです。日頃、要石で鯰を押さえている鹿島大明神が、「早く行ってかたをつけなくては」と馬を急がせている様子も描かれています。」
鹿島神宮と香取神宮の要石は地表に出ている部分はほんの少し(高さ15cm、直径40cm)で、地下の部分が非常に大きく、抜くことができないと言われています。
鹿島側は上部中央部が凹形で香取側は凸形をしており、鹿島神宮と香取神宮の要石は地中でつながっているとも言われています。
地震の原因は鯰?
これらのように要石が地震を起こす巨大な「鯰」を抑えているとする伝承がありますが、本来は「龍」や「地震蟲(むし)」と考えられていたようです。
例えば、地震と鹿島神宮の要石の関連を示した寛永元年(1624)の『大日本国地震之図』では、鯰ではなく龍が描かれています。
当時は、地底に潜む超巨大な龍が地震をもたらし、要石はその龍の頭部と尾部を武甕槌命で押さえていると考えられていました。
また、鎌倉時代の伊勢暦には地震蟲(むし)の想像図が載っていて、頭が東で尾が西を向いており、5畿7道を背の上に乗せ、鹿島大明神が要石で頭部を抑えるさまがあります。
同じく、東大地震研究所が所蔵する建久年間(1190〜1199年)の暦では、日本を取り巻く生物は「地震虫」と名づけられています。
一方で、地震と鯰を関連づけた最古の記録は、1586年天正地震で被災体験した豊臣秀吉だという説があります。
大津の坂本城で大地震に遭遇した秀吉は、琵琶湖の湖面で鯰が飛び跳ねる様を観察し、地震発生は鯰が原因だと考えたそうです。ここから地震を起こすものが鯰となり、江戸時代以降広く知れ渡るようになったと考えられています。  

●允恭地震 (いんぎょうじしん)
『日本書紀』に記された記録の残る日本最古の歴史地震。
『日本書紀』允恭天皇5年7月14日(ユリウス暦416年8月22日、グレゴリオ暦8月23日)の条項に「地震(なゐふる)」の記述が登場する。
允恭天皇は先に玉田宿禰に反正天皇の殯を命じていたが、地震があった日の夜に尾張連吾襲に殯宮の様子を探らせたところ玉田宿禰だけがいなかった。玉田宿禰はこの時酒宴を開いており、尾張連吾襲を殺して武内宿禰の墓地に隠れた。允恭天皇が玉田宿禰を呼び出したところ衣の下に鎧を付けて参上したため捕えて殺したという。このようにこの地震の記事は政治的事件の発端として記されており、地震そのものの状況や被害の様子は記されていない。また西暦506年以前は日本暦が明らかでないため厳密に西暦には換算できず、西暦換算が416年であるかも疑わしいとの見方もある。
   『日本書紀』巻第十三
「允恭天皇五年秋七月丙子朔己丑。地震。先是命葛城襲津彦之孫玉田宿禰。主瑞歯別天皇之殯。則当地震夕。遣尾張連吾襲。察殯宮之消息。時諸人悉聚無闕。唯玉田宿禰無之也。吾襲奏言。殯宮大夫玉田宿禰、非見殯所。則亦遣吾襲於葛城。令視玉田宿禰。是日。玉田宿禰方集男女而酒宴焉。吾襲挙状、具告玉田宿禰。宿禰則畏有事。以馬一匹授吾襲為礼幣。乃密遮吾襲、而殺于道路。因以逃隠武内宿禰之墓域。天皇聞之喚玉田宿禰。玉田宿禰疑之。甲服襖中而参赴。甲端自衣中出之。天皇分明欲知其状。乃令小墾田釆女、賜酒于玉田宿禰。爰釆女分明瞻衣中有鎧。而具奏于天皇。天皇設兵将殺。玉田宿禰。乃密逃出而匿家。天皇更発卒囲玉田家。而捕之乃誅。」
『熊野年代記』にも諸国で大地震であったと記され、『豊浜町誌』にも讃岐国で地震があったことが記されているが、これらは『日本書紀』よりも遥か後世に記されたものであり出典や詳細は不明である。
   『熊野年代記』
「丙辰五 七ノ十四諸国大地震是始。」
   『豊浜町誌』
「讃岐の国に地震(七・一四)。」
地震像​
『大日本地震史料』は「河内国地震フ」としているが、これは地震記録が記された当時の都が河内国にあっただけのことであり、その震源が河内国であるか他国にあったかを知る由は無い。允恭天皇の皇居は遠飛鳥宮であるがこれは現・明日香村とも考えられている。
大森房吉は『本邦大地震概表』の冒頭に本地震を大地震の部に入れているが、今村明恒はこの地震の記録は次の推古地震まで約200年間に大地震の記述が一回も現れないとはいうものの、揺れの強度や家屋の倒壊に言及しておらず、殯殿に異状なきか否かが問題となる程度の地震と解釈され、大地震と分類することに異議を唱えている。

●西暦416年 允恭地震記録をどうとらえるか
『日本書紀』允恭天皇5年7月14日(ユリウス暦416年8月22日、グレゴリオ暦8月23日)の条項に「地震(なゐふる)」の記述が登場する。これが日本で最古の地震記事である。
ただし・・・。『日本書紀』記述を読み解く場合、まず第一に『日本書紀』という書物が、中国的な天命事変の繰り返しで大王や天皇が代わるのだという認識である。ゆえに、天変地異を、このようにさらりと「地震あり」としている場合は、その地震が実際に起こったかどうかわからないと思うほうがよろしかろう。
一方、『続日本紀』貞観大地震の記事のように、極めて具体的で詳細な事後報告がある場合は、正真正銘それは起きたと判断できることになる。そこの見極めをちゃんとしておく必要がある。貞観大地震は、その後の時代にまで和歌になって語り継がれており、まず事実であったと判断できる。しかし允恭年間となると、記紀編纂時代からあまりにも遠く離れた時代であり、果たして地震が語り継がれたかどうか、いや允恭という天皇がいたかどうかも定かではない。なんとなれば、これらの河内王朝は、大和の王権の前の政権として「滅ぶべきもの」として置かれている可能性の方が大きい。それこそが『日本書紀』の中に厳然として隠されている「藤原政権下王権が正統である」ことを言うがための前置詞であっただろうとするのが正しい把握法である。
結論としては、416年に地震があったかどうか定かではない。というよりも、極めて政治的書物としてはっきりしている『日本書紀』の記述を信じることにこそ問題がある。かつて日本はその失敗を犯し、国を亡国にしていることをお忘れなく。ここには玉田宿禰すなわち葛城政権を大王が滅ぼすという事件のための前ふり、正統性としての天変地異=地震があったとしか書かれていないということである。

●允恭天皇 (いんぎょうてんのう)
記紀によれば第19代天皇。雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさづまわくごのすくねのすめらみこと)ともいう。『宋書(そうじょ)』にみえる倭王(わおう)の済(せい)にあたるとされている。仁徳(にんとく)天皇第4皇子。母は磐之媛(いわのひめ)。大和(やまと)の遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)(奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村付近)に都する。忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)を皇后とし、刑部(おさかべ)を定める。允恭天皇4年、氏姓の混乱を正すため味橿丘(あまかしのおか)で盟神探湯(くかたち)を行った。のち皇后の妹で容姿絶妙の衣通郎姫(そとおりのいらつめ)を妃とし、藤原宮を建て藤原部を定めた。このため皇后はねたみ、雄略(ゆうりゃく)天皇を産むときに産殿(うぶどの)を焼き、死のうとしたといわれる。在位42年で崩じ、河内(かわち)長野原陵に葬られた。
記・紀系譜による第19代天皇。在位は5世紀中ごろ。父は仁徳天皇。母は磐之媛命(いわのひめのみこと)。「日本書紀」によると、履中・反正(はんぜい)天皇の同母弟で、安康・雄略天皇の父。氏姓の乱れをただすため、盟神探湯(くがたち)を実行したという。「宋書」倭国伝の倭王の済とされる。允恭天皇42年1月14日死去。78歳。墓所は恵我長野北陵(えがのながぬのきたのみささぎ)(大阪府藤井寺市)。別名は雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさづまわくごのすくねのすめらみこと)。【格言など】花ぐはし桜の愛(め)で同(こと)愛でば早くは愛でず我が愛づる子ら(「日本書紀」允恭天皇8年)
生年:生没年不詳。『古事記』『日本書紀』にみえる5世紀半ばの天皇。雄朝津間稚子宿禰ともいう。記紀によれば、仁徳天皇と葛城襲津彦の娘磐之媛の子。兄に反正天皇、皇后は忍坂大中姫、子に安康・雄略両天皇、木梨軽皇子がいる。都を大和遠飛鳥(奈良県明日香村)に置き、皇后のための刑部(生活の資を貢納する農民)の設置、氏姓の混乱を糺すための盟神探湯を行い、さらに反正天皇の殯に奉仕しない玉田宿禰を滅ぼしたという。天皇は在位42年で死に、河内の長野原(藤井寺市)に葬られたと伝える。中国の歴史書『宋書』倭国伝に登場する倭の五王の済に比定されている。
第19代に数えられる天皇。名はオアサヅマワクゴノスクネノミコト。仁徳天皇の第4皇子、母は皇后イワノヒメノミコト。大和遠飛鳥宮(→飛鳥)に都し、皇后はオサカノオオナカツヒメノミコトという。兄反正天皇に次いで即位。氏姓の混乱を正すため、盟神探湯(くかたち)を行なったと伝えられる。陵墓は允恭天皇陵、市野山古墳とも呼ばれる大阪府藤井寺市国府の恵我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)で、2019年世界遺産の文化遺産に登録。
5世紀前半の在位。仁徳天皇皇子。名はオアサヅマワクゴノスクネ。大和の遠飛鳥(とおつあすか)宮を宮居とし、盟神探湯(くかたち)により氏姓の乱れを正したという。《宋書》倭国伝の倭(わ)王済(せい)にあてるのが定説。
第一九代天皇。仁徳天皇の第四皇子。名は雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)。「古事記」によれば大和遠飛鳥宮(やまととおつあすかのみや)に都を定めた。「宋書」の倭の五王の「済」にあたるとされている。
記紀で、第19代の天皇。仁徳天皇の第4皇子。名は雄朝津間稚子宿禰(おあさづまわくごのすくね)。皇居は大和の遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)。宋書にみえる倭の五王の一人、済とする説がある。
生没年不詳。5世紀中ごろの天皇。仁徳天皇第4皇子。氏姓の混乱を正すため盟神探湯 (くがたち) を行ったという。『宋書』倭国伝にみえる倭の五王の一人、済 (せい) に比定される。
…仁徳天皇の皇子で、母は磐之媛(いわのひめ)皇后。難波宮を焼き同母兄の履中天皇殺害を謀るが、天皇は物部大前宿禰、漢直阿知使主(あやのあたいあちのおみ)らに助けられ大和の石上(いそのかみ)神宮に入る。一方、皇子は瑞歯別皇子(みずはわけのみこ)(後の反正天皇)に指嗾(しそう)された隼人(はやと)の刺領布(さしひれ)に刺殺される。《日本書紀》は謀叛の原因に皇子が天皇の婚約者、羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)の娘の黒媛を姦したことをあげる。…  

 

●地震にまつわる神様を知っていますか?
要石で有名な鹿島神宮と香取神宮
茨木県鹿島市にある鹿島神宮と千葉県香取市にある香取神宮には、要石があります。鹿島神宮と香取神宮の要石が、それぞれ大鯰の頭と尾を押さえる杭だと言われていて、鹿島神宮の要石は凹型、香取神宮の要石は凸型の形をしています。鹿島神宮では地震・災難除けの要石守を頂くことができます。香取神宮でも「要石」という字が入った災難除けのお守りを頂くことができます。両神宮の神様が出雲に出かけて留守になる神無月(かんなづき)に大きな地震が起きるということで、1854年安政江戸地震のときには、大鯰と要石を描いた瓦版やお札が人気を集めたそうです。
官幣大社にも列せられる由緒正しい神宮
鹿島神宮と香取神宮は、ともに平安時代に編纂された延喜式神名帳に記載された式内社の名神大社で、それぞれ、常陸国一宮、下総国一宮でもある由緒正しい神社です。ちなみに、延喜式で「神宮」と記されたのは伊勢神宮と両神宮だけで、藤原家の氏神の春日大社に鹿島神宮と香取神宮の祭神が祀られていることもあり、別格の扱いになっているのかもしれません。また、両神宮は、茨木県の息栖神社とともに東国三社の一社になっています。さらに、一年の最初に天皇が宮中で行う儀式の「四方拝」で拝する四方の神々や天皇陵の一つにもなっています。
ちなみに、四方拝の対象となっているのは、伊勢神宮、天神地祇(天津神・国津神の総称)、神武天皇陵、伏見桃山陵(明治天皇)、多摩陵(大正天皇)、武蔵野陵(昭和天皇)、氷川神社(武蔵国一宮)、賀茂別雷神社と賀茂御祖神社(いずれも山城国一宮)、石清水八幡宮、熱田神宮、鹿島神宮(常陸国一宮)、香取神宮(下総国一宮)です。ちなみに、三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)、や八尺瓊勾玉(さかにのまがたま)は、それぞれ、伊勢神宮、熱田神宮、皇居吹上御所にあるとされており、石清水八幡宮は伊勢神宮と共に二所宗廟(にしょそうびょう、皇室が先祖に対して祭祀を行う二つの廟)の一つになっています。
鹿島神宮と香取神宮は大和朝廷が支配する地域の東端に位置し、蝦夷に対峙する重要拠点だったようです。また、両神宮の祭神は、武甕槌神(たけみかづちのかみ)と、経津主神(ふつぬしのかみ)で、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する神様です。そのこともあって、武芸の神様として、色々な武道の道場などに両神様の掛け軸がかけられているようです。
鹿島神宮・香取神宮とご縁のある大村神社
三重県伊賀市にも要石のある神社・大村神社があります。大村神社も延喜式神名帳に記された由緒ある式内社で、小社として位置づけられています。調べてみると、この神社は、春日大社や鹿島神宮、香取神宮と深い関係があるようです。
春日大社は中臣氏(後の藤原氏)の氏神を祀った奈良県奈良市にある式内社・名神大社ですが、その祭神は、鹿島神宮の武甕槌命、香取神宮の経津主命、藤原氏の祖神の天児屋根命、天児屋根命の妻の比売神の4神です。その祭神の武甕槌命と経津主命が、768年に鹿島神宮と香取神宮から春日大社のある三笠山に遷幸した際に、休息を取ったのが大村神社で、その際に「要石」を奉鎮したことに由来があるようです。このため、大村神社では、大村神・息速別命(いこはやわけのみこと)を主神としつつ、春日大社の武甕槌命・経津主命・天児屋根命を配祀神として祀っているようです。大村神社では、鯰の絵馬や可愛い鯰のお守りを頂くことができます。
伊賀市のお隣の名張市には名居神社という式内社があります。「なゐ」は地震を意味することから、地震の神を祀る伊賀国の神社だったのではないかという説もあるようです。
明応地震の津波で流されて漂着したご神体を祀る細江神社
細江神社は、浜松市北区細江町にある神社です。この神社は、元は浜名湖入口の守護神として鎮座していた角避比古神社(つのさくひこじんじゃ)との関わりで地震に関わる神様と言われています。角避比古神社は名神大社にも列せられた式内社でしたが、明応7年8月25日(ユリウス暦1498年9月11日、グレゴリオ暦1498年9月20日)に起きた明応地震で津波によって流出しました。細江町の赤池の里に漂着した御神璽を、仮宮で奉祭していたようですが、1510年に新しく社殿を作ったようです。細江神社でも地震除けの絵馬やお守りを頂くことができます。
明応地震は、南海トラフ地震の一つと言われている地震で、大きな津波を伴ったようです。浜名湖と太平洋との間の砂州が切れて「今切」ができたとか、当時の三津の一つ安濃津(三重県津市)が津波で大きな被害を受けたとか言われていますが、余り定かではありません。鎌倉の大仏の大仏殿もこの地震の津波で流されたとの説もありましたが、最近では直前に発生した1495年の地震との関わりが指摘されており、大仏殿ではなく他の堂舎屋が流されたとも考えられています。
地震の神様を通して、古事記や日本書紀に現れる神々にも親近感を感じます。皆様も、一度これら地震の神様を訪れては如何でしょうか。私も一通りお参りしてお守りを頂き、我が家の神棚に地震除けの御神札をお祀りしています。  

●大村神社 1
三重県伊賀市阿保(あお)にある神社。式内社で、旧社格は県社。
祭神​
祭神は次の21柱。
   主祭神
大村神(おおむらのかみ) 社伝では、第11代垂仁天皇皇子の息速別命(いこはやわけのみこと/おきはやわけのみこと)をこれにあてる。
   配祀神
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
経津主命(ふつぬしのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
   合祀神
応神天皇など計17柱
祭神について​
祭神は、『延喜式』神名帳では1座とする。一方、嘉吉元年(1441年)の『興福寺官務牒疏』では「大村神 二座」とあり、春日神が神護景雲2年(768年)に常陸(鹿島神宮)から三笠山(春日大社)に遷幸する際に休息した地であるとしている。現在の配祀神である武甕槌命・経津主命・天児屋根命ら春日神3柱はこの遷座伝承に由来するが、その史実性は明らかでない。
これらに対して、現在大村神にあてられている息速別命は、古代史料に阿保地域との関わりが見られる人物である。まず『続日本紀』延暦3年(784年)11月21日条では、息速別命は伊賀国阿保村に住み、その四世孫の須禰都斗王(須珍都斗王)が「阿保君」姓を賜ったという。また『新撰姓氏録』右京皇別 阿保朝臣条においても、垂仁天皇により伊賀国阿保村に宮室が作られて息速別命に封邑として授けられ、その子孫が阿保朝臣(阿保氏)になる旨が記されている。大村神社付近には息速別命の宮内庁治定墓も存在するが、こちらは近年の考古学では6世紀に下ると見られているため、大村神社境内の古墳(宮山古墳群)の1つを息速別命の墓に比定する説がある。
以上のほか、祭神については由気忌寸や大名草命(大村直祖)にあてる説もある。なお合祀神17柱は、明治23年から41年(1890年-1908年)の間に行われた旧阿保町28社・旧種生村3社の合祀になる。
創建​
創建は不詳。前述の通り、神護景雲2年(768年)の春日神遷幸伝承が存在するほか(史料上初見は1441年)、当地を本貫とした阿保氏(息速別命後裔氏族)の関わりを想定する説が知られる。社名については、古来「大森社/大森明神」と見えることから社叢を表す「大森」から「大村」への転訛とする説や、地名「阿保村」から「大村」への転訛とする説があるが不詳。
概史​
国史では、貞観5年(863年)に「大村神」の神階が正六位上から従五位下に昇叙された旨の記載がある。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では伊賀国伊賀郡に「大村神社」と記載され、式内社に列している。また『和名抄』に見える地名のうちでは、現鎮座地は伊賀郡阿保郷に比定される。
『三国地志』によれば、社殿は永正年間(1504年-1521年)の火災に遭い、さらに天正9年(1581年)の天正伊賀の乱で焼失したが、天正15年(1587年)に再建されたという。この時造営された本殿は、現在も宝殿(国の重要文化財)として残されている。この天正15年の棟札では社名は「鹿嶋大明神」とあり、元和7年(1621年)・安永8年(1779年)の棟札では「鹿嶋宮」とも見えることから、この時期には春日神遷幸伝承が定着していたことが知られる。なお、天正15年以降は秋永氏が神職を担っていた。
明治維新後、明治17年(1884年)8月7日に近代社格制度において郷社に列し、明治39年(1906年)12月に神饌幣帛料供進神社に指定、昭和5年(1930年)11月27日に県社に昇格した。かつて別当寺は禅定寺であったが、明治初年に廃寺となっている。
神階​
貞観5年(863年)3月16日、正六位上から従五位下 (『日本三代実録』) - 表記は「大村神」。
境内​
現在の本殿は、明治23年(1890年)の造営。春日造で、屋根は檜皮葺である。
現本殿以前に使用された旧本殿は、宝殿として現本殿の西側に隣接する。この宝殿は、安土桃山時代の天正15年(1587年)の造営になる。一間社入母屋造、妻入で、屋根は檜皮葺。その形式とともに彫刻や彩色等においても造営当時の様子を残すとされ、国の重要文化財に指定されている。
そのほか境内には、霊石として信仰される要石や、奇鐘「虫喰鐘」がある。「虫喰鐘」の名は化学変化により表面の瘤が落ちたことに由来するが、元々は禅定寺(旧別当寺)の梵鐘で明暦2年(1656年)の完成になる。また境内の参道から社殿付近には、「宮山古墳群」と称される円墳数基が分布する。

●大村神社 2
ご由緒
大村神社は「延喜式」(九二七年)の神名帳に社名が記載されています。神名帳には、当時全国に無数にある神社の中から御由緒が正しく、 かつ朝廷の崇敬の厚い神社が選ばれています。又、それ以前の「三代実録」(九〇一年)に、八六三年に神位が正六位上から一階級昇進し従五位下に叙せられたことの記載があり、 当時からこの地方きっての古社であることがうかがえます。当社の主神、大村の神の御名は、現存する日本最古の書物「古事記」(七一二年)や 「日本書紀」(七二〇年)に「伊許婆夜和気命」「池速別命」とそれぞれ記されています。
大村の神
大村の神は、第十一代垂仁天皇の皇子で、今から凡そ二〇〇〇年程前にこの阿保の里にみえられました。伊勢の神宮を奉鎮せられた倭姫命の弟君にあたられ、 日本武尊の叔父君にあたられます。県下には倭姫命・日本武尊のゆかりの地や伝承が多く残っています。町内には、大村の神(息速別命)いこはやわけのみことの陵墓が阿保の西方にありヽ 俗に「親王さん」と呼ばれています。羽根には倭姫命の巡行の伝承があります。 又、当社の鎮座する地は、大村の神(息速別命)の宮室が築かれていたと言われています。 大村の神は、この地域一帯を開発・開拓された土地り守り神様として、また土地の鎮め・地震除災の守り神様として、 古今御神威を発揮され、遠き近きから多くの信仰を集めてきました。
社名
社名は、「延喜式」(九二七年)の神名帳に「大村神社」と記されています。俗に「大森ノ社」と称されたことが「三國地志」などに見えます。 本居宣長の 「菅笠日記」に、「岡田 別府などいふ里を過て、左にちかく、阿保の大森明神と中ス神おはしますは、 大村神社などをあやまりて、かくまうすにはあらじや」と記されています。神社境内が、大きな木々に覆われているために、 「大森」といふ俗称で称されたのではないかと思われます。又現存の棟札には「鹿嶋大明神」(大正十五年)、「鹿嶋宮」(元和七年、安永八年)などと記されています。 当時、大村の神と共にお祀りしている鹿嶋神に対する崇敬か厚かったため、この様に称されたものと思われます。
土地の鎮めの「要石」
拝殿の西に「要石」が奉斎されています。創始は、 神護景雲元年(767年)、御本殿相殿祭祀の武甕槌命・経津主命は、常陸・下総の国より奈良の 三笠山遷幸の途次、大村神社に御休息、「要石」を奉鎮せられました。この霊石は、地下深く広がり、大地を揺るがす大なまずをしっかりと押さえていると伝えられています。又大村の森全体が大きな岩盤におおわれ、この地域をしっかりと護っていると伝えられています。毎年、9月1日の防災の日に地震除災祈願大祭が斎行され、又秋祭り には大なまずが街中に引き出されます。
要石
一、 創祀 神護景雲元年 武甕槌命経津主命は常総から御宇の際御鎮祭申し上げ 地震除災の御霊験あらたか で要石を神石と崇められた
当時の咒文 「ゆるぐとも よもやぬけまじ 要石 大村神のあらんかぎりは」 と唱え多くの信仰をあつめた
一、 御霊験 
安政元年 伊賀上野 四日市
大正十二年 関東
昭和二年 奥丹後
昭和十九年 北伊勢湾沿岸

●欄干にかわいいナマズが並ぶ地震の神様 3
延喜式にも記されている古社、大村神社は見所たくさんです。地震を防いでくれるという言い伝えがある「要石」、日本三大奇鐘の一つ「虫喰鐘」、入母屋造・桧皮葺で華麗な桃山様式の建築物で、国指定重要文化財の「宝殿」などなど。
この大村神社は、地震の守護神として全国各地からたくさんの参拝客が訪れます。
欄干に並んでいるなまずはお守りの「願掛けなまず」が願いをかなえて奉納されたものだそうです。
春は駐車場の隣にある桜山公園の桜がとてもきれいで、ここから阿保(あお)の町並みが一望できます。
秋祭りは毎年11月2日、3日に行われ、2日の宵宮には三地区の獅子神楽が集い踊りを奉納し。夜遅くまでにぎわっています。3日の例大祭にはなまずの花車や獅子神楽が町を練り歩きます。

●細江神社 1
静岡県浜松市北区細江町気賀
式内社 遠江國濱名郡 角避比古神社 名神大
式内社 遠江國引佐郡 大神社
旧郷社
御祭神 建速素盞嗚尊 奇稻田姫尊
静岡県浜松市細江町にある。JR気賀駅の北300mの気賀に鎮座。浜名湖の北西岸に近く、井伊谷川と都田川が合流する河口近く。362号線に南面して境内があり、道路に面して薄い朱の鳥居。参道や境内には、五百年の夫婦楠など、楠の巨木が多く、鬱蒼とした雰囲気。参拝当日は天気も良く、朝日の木漏れ日で、写真は一様に斑模様だ。天気の良い日は、青空が綺麗だが、木々の多い境内撮影にはむかないのだ。参道を進むと正面に拝殿。拝殿の後方、垣の中には流造の本殿がある。境内には、多くの境内社が鎮座しており、中には立派な社殿のものも。
創祀年代は不詳。一説には、永正七年(1510)の創建といい、また天正十二年(1584)十二月とも。牛頭天王を祀る神社で、通称は、気賀のお天王さま。また、式内・角避比古神社の論社の一つ、というより、後継社という表現の方が正しいかもしれない。明応七年(1498)の大地震・大津波で、浜名湖口に鎮座していた角避比古神社が流出し、村櫛へ漂着。一時期、仮宮で奉祭されていたが、再度の地震・津波により、赤池(当社の東南300m)に漂着し、翌年、当社へ祀られたという。『特選神名牒』によると、「角避比古神は津の幸彦の神にして湖口の開塞を知りて民の幸福を知ります神と云義にて実は水門の功徳を称へ奉れる御名ならん」とある。角避(つのさく)は、津の幸らしい。角避比古神社は、遠江国の大社として、明治四年に国幣中社に列せられたが、その論社の中から特定できず、鎮座地不明のため社格は除かれた。一般には、地震や海嘯のため、海中に没してしまったと考えられている。さらに、当社は、式内社・大神社の論社でもあるが、こちらに関しては、あまり有力ではない様子。
細江神社御由緒
一、 御祭神
   素盞嗚尊 奇稲田姫尊
一、 例祭日
  七月第三土曜日
一、 御由緒
名神大社 角避比古神社(元国幣中社)は浜名郡新居町 に御鎮座、第五十五代文徳天皇嘉祥三年(八五〇年)官社 に列せられた立派な神社で、浜名湖入口の守護神として氏 子の方々に厚く信仰されていたが、第百三代後土御門天皇 明応七年(一四九八年)八月二十五日、大地震、大海嘯が おこり、神殿、建造物がことごとく流没したが、奇跡的に ご神体は、村櫛をへて、伊目の十三本松に漂着、里人は隠 岐大明神の地に仮宮を建てて祀った。しかし十二年後再び地震による大津波のため、気賀の赤 池へと漂着された。気賀の里人はこの地に仮宮を建てて祀 り、翌月九月現今の地に社殿を建て、牛頭天王社と称え祀 ることとなった。以来気賀の総鎮守としてあがめられ、明 治六年三月、神社の社格が郷社となったが、戦後はこの制 度は廃止となった。赤池の里は当社より約三百米東南にあり、例祭日には神 輿の渡御が行われる。
一、 御神徳
清く、正しく、睦まじく、強く、すべてのものを生かし 伸ばし育てる。これが神様の御教えであります。人間の罪穢れや、悲しみ、喜び、そして生死といった、 自然界、人間界のさけがたい運命を一身に負いながら、そ れを良い方向に導くために苦労された神様です。悩める人、苦しめる人は胸中を知り、その人々に起る災 厄、疫病を除くに喜んで救の手を差しのべられる神様です。そして人々の罪を償われようとする御神徳により、疫病 除けは勿論、豊作、大漁、招福、開運、万民守護、縁結び の神様として信仰されています。
一、 地震災難消除
御由緒の中に書いてありますように、当社は明応七年の 大地震により御神璽が一番安全な所として、この気賀の里 に着御し、地元の人々が地震にも負けない尊い神様だと創 立した神社です。いつ発生するかわからない災難を最小限でありますよう に、又最小限ですむように祈祷する神社です。
御由緒
細江神社は古くは牛頭天王社と申し、今日なお一般に気賀のお天王さまと尊称されております。 社伝によれば、名神大社角避比古神社、元国幣中社、は浜名郡新居町に御鎮座、第55代文徳天皇嘉祥3年8月( 850年) 官社に列せられた立派な神社で、浜名湖入口の守護神として氏子の方々に厚く信仰されておりましたが、第103代後土御門天皇、明応7年(1498年)8月25日、大地震、大海〓がおこり、社殿、建造物がことごとく流没し、御神璽が当地赤池の里に着御、里の人々が尊んで御仮宮を建てて、年年お祭りをしておりましたが、永正7年(1510年)新しく社殿を現今の所に建てて奉遷し、牛頭天王社と称え、気賀の郷の総氏神様としてお祀りをして来ました。 明治元年9月社名を細江神社と改め、明治6年3月郷社に列せられましたが戦後この制度は廃止となりました。 赤池の里は当社より約300メートル東南にあり、例祭当日、御神輿の神幸祭を盛大に執行致して居ります。『平成祭データ』

鳥居をくぐって、すぐ右手には、小さな祠・市神社(大市比賣命)。境内の右手には、藺草神社が鎮座。宝永四年(1707)十月、の大地震・大津波によって被害を受けた当地に稲作農家を救済するため、領主・近藤縫殿助用隨公が豊後の藺草(井草)を取り入れ、復興させたことに由来する神社。祭神は、その近藤縫殿助用隨公。 藺草神社の前には、根元に大きなムロのある楠があり、案内板によると、大蛇と大蝙蝠が、決闘を行ったムロであるらしい。決闘の血の跡が残っているということだが。境内の左手にも境内社が並んでいる、拝殿に近いところから、小祠・鍬大神宮(大年神)。素盞嗚尊の御子八柱を祀った八柱神社には、居森殿(素盞嗚尊の幸魂)と弥五郎殿(大己貴命・武内宿禰命)が合殿。その左に三つ並んだ祠。四所神社(八幡大神・稻荷大神・秋葉大神・徳川家康)、天王稲荷神社(倉稻魂命)、細江天満宮(菅原道眞公)。境内の左端には、八幡神社(應神天皇・玉依姫命)がある。

「むかし話」 大蛇と大蝙蝠の戦い むかしむかしの話しですがこのクスノキの大穴の中で大蛇と 大蝙蝠が「このクスノキの主はおれだ…」とたがいに言いはりま した。そのために大蛇と大蝙蝠はしだいになかがわるくなり ついにおおげんかとなってしまいました。大蛇は長い体で大蝙蝠をぐるぐると強く巻つけ、大蝙蝠も負け てはいません。するどいキバで大蛇のからだに食いつき… この戦いは三日三晩もつづいたと言はれています。大蛇も大蝙蝠も血だらけになり、ついに力がつきはててしまい ました。クスノキの空洞の中には、そのときに流したと思われる 血のあとがあります。境内案内板より
藺草神社 1
宝永四年(一七〇七年)の十月、遠州地方で 大地震があり、押し寄せた高潮のため、浜名湖 沿岸の田には塩が入り、稲は全滅の状態でした。困り果てた村の庄屋達は、当時の気賀の領主 近藤縫殿助用隨公に、その苦境を訴えました。領民のためを思う名君であった用隨公は、今 後の稲作の事を、領民と共に思い悩みました。それからしばらくして、用隨公は、大阪での 会議で隣り合わせた豊後の国(現在の大分県) の領主松平市正に、領内の窮状を相談したとこ ろ、市正は、「ほう、それはお困りじゃな。で は、余の領内の豊後の藺草を植えたらどうじゃ。 これは、塩に強いということでな」と言い、国 元から琉球藺の苗を取り寄せてくれました。 大いに喜んだ用隨公はこれを持ち帰り、領内の 田に植えさせました。これが、浜名湖岸一帯 の名産物、琉球藺の始ま りです。その後、琉球藺 は周辺の各村に広まり藺 草を使った畳表の製織は、 冬の農家の副業として、 この地方を潤しました。この藺草神社は、藺草 をこの地方に初めて広め てくれた用隨公の徳をた たえて造られたものです。境内案内板より
藺草神社 2
御祭神( 気賀領主) 近藤縫殿助用随公
浜名湖及び引佐細江の土地は応永、明応、宝永の4度にわたる大震災の為に陥没し、 今切口に於て太平洋と直結し淡水湖が塩水とかわり肥沃田が塩田となり悲惨の極に おちいりました。時の領主近藤用随公(御祭神)はこの災害復旧に全力を傾注した のですが、一旦浸透した塩分の為、稲作等の作物が成育しませんでしたが、琉球藺 草なら塩田にも成育する由を聞いて九州豊後国(現大分県)の領主松平公より藩外 移出禁止の藺草の苗を特に頒けて戴き、自から庭内に試植研究せられ自信を得て后 普く領民に頒ち産業として奨励されたのであります。生業を与えられた領民等は意気大いに揚がり200年の長い間生産努力精励した結果、 之を原料とした畳表がこの気賀の特産として全国に遠州表の声価を伝へ広めたのであ ります。御祭神用随公没後領民一同御祭神の大徳を偲びこの大恩に報ゆる為、産業の神として、 又禍を転じて福となす( 転禍為福) 神として此の細江神社の境内に神社を建て藺草神 社と称え奉斎す。御祭神の御法名を活民院殿( 民を活かす) と申し上げるも正に以上 の事由と拝察致します。平成祭データ

●細江神社 2度の地震と津波乗り越えたご神体 2
浜名湖の北岸近くにある細江神社(浜松市北区細江町気賀)は、全国的にも珍しい地震の神様を祭る神社です。
一四九八(明応七)年、推定マグニチュード8・2以上、舞阪(浜松市西区舞阪町)や三ケ日(浜松市北区三ケ日町)などの推定震度が6といわれる明応地震が太平洋沿岸を襲いました。
それまで淡水の湖であった浜名湖の南岸が崩れてなくなり、遠州灘とつながりました。この時できた今切口から浜名湖に海水が入り、海水と淡水の混ざった汽水湖になりました。地震の後、舞阪周辺で六〜八メートル、奥浜名湖の津々崎(浜松市北区三ケ日町)でも三〜四メートルと推定される大津波が浜名湖沿いの村々に襲いかかり、一万人以上が亡くなったといわれています。
この大津波で浜名湖沿いにあった家や田畑などは流され、大きな被害を受けました。湖の南西部にあった角避比古神社(今の湖西市新居町)は社殿ごと全てが流されてしまいました。
不幸中の幸いにも、御神体は浜名湖の対岸の伊目(浜松市北区細江町)に漂い着きました。伊目の人々は、地震の災難を乗り越えた御神体をありがたく祭ったそうです。
伊目に着いて十二年後のことです。再び起きた大地震と大津波で、御神体は流されてしまいました。そうして流れ着いたのが気賀の赤池です。二度の大地震と大津波を乗り越えた「奇跡の御神体」を大切に祭ったのが、細江神社の始まりといわれています。
当初、赤池の地に建てた御仮屋に祭られた御神体は、翌月、流れ着いた場所から西北に三百メートルほどにある今の細江神社の位置に新しく社殿を建て、気賀の総氏神様として祭られるようになりました。
藤野信幸さん(細江神社宮司)は「細江神社は、大地震と大津波を乗り越えた奇跡の御神体が祭られている地震厄除けの神社として、市内をはじめ全国各地から参拝者がお見えになります。皆さまもぜひお出掛けください」とお話ししてくれました。

●地震の神様を祀っている細江神社 3
全国でも珍しいと言われる地震の神様を祀っている細江神社。なぜ地震の神様を祀るようになったのか?という歴史がおもしろいです。
「静岡県・浜名湖の北岸近く、浜松市北区にある細江神社は、天変地異をきっかけに創建された。一四九八(明応七)年の旧暦八月、後に「明応地震」と呼ばれる推定マグニチュード8・0〜8・4の大地震が太平洋沿岸を襲った。淡水の浜名湖では南岸が陥没して切れ目(今切口)ができて遠州灘とつながり、湖に海水が流入。遅れて大津波が発生した。この津波により、浜名湖周辺では一万人以上が亡くなったと伝わる。浜名湖南西部の同県湖西市新居町にあった角避比古(つのさくひこ)神社は社殿もろとも流されたが、ご神体だけは対岸の伊目(浜松市北区)に漂着した。そこで地元民が祭ったが、十二年後の地震でまたもや流され、今度は気賀(同区)の赤池にたどり着いた。地元民が「奇跡のご神体」として大事に祭ったのが、細江神社の始まりとされる。」
2度の地震から残った「ご神体」まさに地震の神様というのに相応しいですよね?
細江神社は、またパワースポットとしても知られています。推定樹齢500年といわれる「夫婦楠」をはじめとする御神木があるそうです。
中には「大蛇と大蝙蝠(おおこうもり)の戦い」の伝説もある楠もあります。このクスノキの大穴の中で、大蛇と大蝙蝠が「このクスノキの主はおれだ」と互いに言い張りました。そのため大蛇と大蝙蝠は次第に仲が悪くなり大喧嘩になってしまいました。この戦いは三日三晩も続き、お互い血だらけになり、ついに力が尽き果ててしまったというお話です。このクスノキの空洞の中には、その時に流したと思われる血のあとがあるそうです。

●細江神社 4
細江神社(ほそえじんじゃ)は、静岡県浜松市北区細江町気賀にある神社。『延喜式神名帳』にある「角避比古神社(遠江国・浜名郡)」に比定される式内社(名神大社)の後継社の論社。
近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。
戦国時代の明応7年(1498年)、大地震による大津波で、浜名湖口に鎮座していた式内名神大社「角避比古神社」が流失し、村櫛へ漂着した。
一時期、その地で仮宮で奉祭されていたが、再度の地震・津波により、当社の東南300メートルの赤池に漂着し、当社で併せて祀られるようになったという。
創建は、一説に永正7年(1510年)、また天正12年(1584年)12月とも。
御祭神は、建速素盞嗚尊・奇稲田姫尊で、近世を通じて牛頭天王を祀った。通称は、気賀のお天王さま。素戔嗚尊奉祀神社「全国清々会」にも加盟している。
現在は地震厄除の神として知られ、7月第3日曜日は御神体が浜名湖上を船で渡る祇園祭りがある。
細江神社祇園祭は、1日目、当社から神輿と「出引き」という飾り屋台が、御神体が漂着した赤池様に行く。
そこで神事を行った後、そろいの浴衣姿の青年らが町内を練り歩きながら当社に戻る。
2日目、御神体は「神輿舟」に乗せられ、出引きを乗せた船を数隻伴って、奥浜名湖を優雅に渡る。
西気賀までの約4キロの湖上を渡御し、その後は出引きの提灯をともし、お囃子をはやしながら、当社までゆっくりと戻ってくる。
なお、当社は引佐郡の式内小社「大敏神社」の論社でもあるが、あまり有力視はされていない。
式内名神大社「角避比古神社」の後継社の論社としては他に、湖西市新居町の湊神社や諏訪神社、浜松市古人見町の若御子神社がある。
昭和になって、当社も含め、角避比古神(角避比古命)の合祀が神社本庁に認められたのは、若御子神社のみだという。
 

 

 

 

●中国古代の聖獣伝説 ─龍思想─ 
序章
古代中国に発祥する思想のひとつに四神思想というものがある。四神とはすなわち、青龍、白虎、朱雀、玄武(亀と蛇とがからみ合ったもの)と言われる4種の神獣を指し、それをそれぞれ東西南北に配して守護神とし、四方から中央を守るのである。古くは前1世紀頃の古代中国の経書『礼記』曲礼篇上に「朱鳥を前にして玄武を後にし、青龍を左にして白虎を右にし、招搖上に在り」 1と記されている。また『淮南子』天文訓には五行思想に基づき、中央に黄龍を配したものが加えられている2。さらに時代は遡り、戦国時代前期、曾国の乙という名の国君の墓から出土した漆器の箱の蓋3には、中央に北斗、周囲に二十八宿にあたる星名とともに、両端に龍と虎の図案が描かれていた。その後、前漢時代末期には器物や壁画に、後漢時代に入ると四神鏡や画像石4は盛んに用いられるようになる。
四神思想は東アジア地域にまで影響を及ぼし、5世紀前半の高句麗では、死者を守護するように墓室装飾に四神図がみられるようになる。高句麗古墳の天井壁画には星宿とともに、四神図が描かれている5。高句麗を通して四神思想、四神図が伝来することとなった古代日本でも、墓室装飾として用いられる。奈良県に所在するキトラ古墳、1972年に発掘された7世紀末から8世紀初め頃と推定される高松塚古墳からは、ともに壁画に描かれた四神図が発見された。また墓室装飾のみならず、薬師寺如来像の台座には四神図が鋳出されており、最も古い文献としては『続日本紀』に、「文武天皇の701(大宝元)年正月に大極殿で行われた朝賀の儀において、正門の左に日像、青龍、朱雀、右に月像、玄武白虎を飾った幡を立てた」6という記載があり、この時代の日本文化に四神思想の影響をみることができる。また現在でも、四神旗は神社で祭場、社頭の装飾などに用いられている。
古代中国には青龍、白虎、朱雀、玄武を四神として信仰の対象とするだけでなく、龍、亀、麒麟、鳳凰、想像上の動物4種を四霊とみなし信仰する思想があった。『礼記』礼運篇には「麟・鳳・亀・龍、これを四霊と謂う」7と記載があり、『家語』ではこの四霊に中央として聖人を加え、五霊と称している。また四霊は四瑞とも称される。四瑞とは聖人が出現する前兆、すなわち瑞祥として現れると考えられていた4種の神獣を指し、孔子が誕生した際には、麒麟が出現したとされている。
私は、空想上の動物を神獣として信仰する古代中国の思想に関心があり、その中でも龍は四神、四霊ともに含まれており、それのみならず空想上の動物として唯一、十二支信仰のなかに数えられていることに興味を覚えた。そこで、世界各地に分布する龍伝説のなかでもインドのナーガとヨーロッパのドラゴンを。中国ではどのように龍が成立し、信仰されているのか。そこから導き出されるであろう中国の古代思想、自然観について考察を試みたいと思う。
第一章 世界各地に分布する龍
第一章では、前述した通り、中国の龍に類似する代表的なものとして西洋のドラゴン及びインドのナーガを取り上げようと思う。三者ともそれぞれ想像上の動物であり、蛇に似た形態を持つという特徴がみられる。そこで中国の古代思想、自然観を考察する上で、ドラゴン、ナーガがそれぞれどのように信仰されてきたのか、相違点を比較してみたい。
(一) 悪の化身 西洋のドラゴン
序章で前述したように、龍は古代中国において四神・四霊などの一つに数え挙げられ、神獣や瑞獣とみなされてきた。また中国では、龍は天子を意味するものであり、天子に関する事柄に用いられ、さらには英雄や豪傑をたとえるものでもあり、特に優れていることを指している。ところがヨーロッパにおいては、伝説上の怪獣・ドラゴンは中国の龍に近い形態を持つ動物であるにもかかわらず龍とは異なる立場に位置し、強い力・暗黒・暴力を象徴するものとされている。ヨーロッパで描かれる典型的なドラゴンは、頭に角を持ち、胴は緑や黒っぽい色の鱗におおわれた蛇、あるいはトカゲのような爬虫類のもので、西洋における龍の名「ドラゴン」はギリシア語の「ドラコーン」を由来とし、「ドラコーン」とはすなわち蛇を意味している。獅子の前脚と鷲の後ろ足、サソリの尾などを持つものとして描かれており、また特徴として、コウモリのような翼を有している。この翼を用いて天空を飛翔し、口から火と煙を吐くとされている。また太古の昔、人類登場以前に存在していた恐竜に似た姿をしてもいる。このようにドラゴンはいくつかの動物が組み合わされた形態を持っていた。
強い力・悪を象徴する西洋の龍=ドラゴンは、神話や物語、伝説の中では神々と対立する存在として登場する。その多くが神々の敵として悪魔視されており、その姿を変えることなく人間を襲うドラゴンは、聖人・英雄に悉く退治されてしまうのである。ギリシア神話の中ではヘラクレス、ゼウス、アポロンをはじめとする多くの神々・英雄たちによるドラゴン退治の話が語られている。特にキリスト教では、ドラゴンは秩序を乱す悪(=異教徒)として邪悪、醜悪なものと見なされていた。『新約聖書』ヨハネの黙示録には、巨大な龍または年を経た蛇が天上で天使ミカエル等と戦った末に敗れ、全人類を惑わす者、悪魔・サタンと呼ばれ、地上に投げ落とされ、地下深くに閉じこめられたと記されている。この中に登場する龍は、火のように赤い大きな龍で、七つの頭、七つの冠に十本の角を持ち、一度に天の星の三分の一をなぎ払ってしまうような尾を有する強大な怪物であった。聖書においてのドラゴンは、何か実在の生き物を表わす言葉として使用されているのではなく、むしろ邪悪・悪魔といったイメージの象徴的な意味を表わすものとして描かれている。その他、イタリア、スペイン、ドイツ、北欧などヨーロッパ各地の至るところに神々・英雄によるドラゴン退治の物語が残っているのみならず、数多くの絵画や彫刻などにもモチーフとして用いられてきた。
ヨーロッパより以前、古代オリエント文明においても龍退治の話が存在している。龍退治は主に天地創造において語られているが、バビロニア8の叙事詩『エヌマ・エリシュ』の中においては、英雄マルドゥークが龍とされるティアマトを殺し、天と地を創造したと記している。さらにティアマトが大蛇、巨大な龍などの様々な怪物を産み出したとも書いている。後のキリスト教に影響を与えたペルシャのゾロアスター教9の経典『アヴェスタ』には、三頭に六つの眼と三つの口を有し、千の超能力を持つ、邪悪な龍、アジ・ダハーカが登場する。ゾロアスター教は善神と悪神との対立を説いており、善神の勝利を信ずる。アジ・ダハーカは終末における善と悪の戦いで、神の敵対者であるアンラ・マンユの配下として、ともに最後まで善に抵抗する悪として登場している。さらに『アヴェスタ』においても龍を退治する英雄が、ペルシャの英雄叙事詩『シャー・ナーメ』でも勇者ロスタムが荒野に棲む龍と戦う話が書かれている。神々は強い力の象徴とされるドラゴンを退治することによって、自らの権力、力の強さを誇示することに利用したのである。また龍であるとは断言できないが、エジプト神話においては、天の支配者・太陽神ラーとその協力者である天候神セトによって、淵ヌンに住む冥界の大蛇で暗黒の象徴とされるアポピスが征服される話が語られている。
ドラゴンは海や川の水中を始めとし、池や泉にまで至る水際や地中、洞窟などを棲み家とする水棲の動物とされ、「水」に関連づけられることがあるが雨を降らすことはできず、神々が自らの能力を示威するかのように、ドラゴン退治を行った結果、大地に恵みの雨をもたらすことができるのだと考えられていた。その上、稲妻や大雨による洪水などの災害は龍がもたらすものと考えられていたため、嵐・天候を司る神が、最強とされる巨大な龍・イルルヤンカシュを退治する話がヒッタイト10に残っており、その話をモチーフにしたものが石灰岩に刻まれている。
悪の象徴と否定的な存在としてみなされる一方で、古代ローマでは龍の描かれた軍旗が用いられていた。強い力を象徴する龍を軍旗に用いることは広い地域で見られるもので、東はエジプト、西ではケルト族11において特に盛んに使われていた。船に龍頭をかたどったものや、イギリスでは、ワイヴァーンと称される二本の足と翼を持ったドラゴンが霊力を持つ聖なる動物として扱われており、旗に用いられただけでなく、現在でもロンドン市の紋章にワイヴァーンが使用されており、イギリス王室の紋章にも見られる。その他柱、鉄道会社などの紋章として彫られたワイヴァーンを至るところで見ることができる。ドラゴンと似た形態を有してはいるが、性格は全く異なるものである。さらに古代イランにおいては、尾をくわえ輪になったウロボロス型の龍が、永遠を象徴するもの、また墓の守護者として墓石に使用されていた。
またドラゴンは中世ヨーロッパで行われていた錬金術において、水銀と結びつく、神聖な第一物質とみなされ、「錬金術師たちが獅子、鷲、鴉(または一角獣)と併せてドラゴンを四性の一とした。」12とあり、ドラゴンはサラマンダー(火蜥蜴)とともに四元素13のうち火を象徴するものとされている。以上のように、肯定的な象徴として捉えられていたドラゴンの例がいくつか残ってはいるが、およそ西洋においてのドラゴンは邪悪な悪の化身とみなされ、神々・英雄によって退治される対象者であるという思想が主流である。
(二) 善悪二面性を併せ持つ インドのナーガ(龍神)
インドのナーガは神の協力者である。ナーガは龍神または蛇神、龍蛇ともされている。ナーガは大蛇を神格化したもので、半蛇半神の姿で、時に多頭で現され、聖獣とされる。インドに棲息する毒蛇コブラの神であり、四肢はなく、角と髭いずれも有しておらず、合成獣である龍やドラゴンと違って、動物との混成はみられない。ナーガは仏教において重要な役割を持つ。ナーガは仏法の守護神であるとともに、雨を恵む水の神でもあり、時に雲を起こし、雨を降らせて五穀豊作をもたらす。竜宮に住み、神通力を持ち、変幻自在で、人間の姿に変わることも可能とする。ナーガとは古代インドの文章語、サンスクリット語で、蛇を指す。しかし、仏典が中国に持ち込まれ漢語に訳された際に「龍」、ナーガ・ラージャは「龍王」と訳され、ナーガが中国における龍と同一視されるに至った。
その一方でインドにはヴリトラと呼ばれる悪龍が存在し、人々に危害を及ぼし、人畜五穀に大きな災禍を加えるものとして恐れられていた。仏教以前の古代インドでは、当時インドを支配していたバラモン族を中心とするアーリア人14によって、多神教であるバラモン教が信仰されていた。バラモン教はヒンズー教の前身とされている。バラモン教の経典の一つ、『リグ・ヴェーダ』にヴリトラ龍とインドラ神との戦いが述べられている。その中でヴリトラ龍はアヒと呼ばれており、アヒとはすなわち蛇を指し、アヒは世界の始まりと同時にその身体に全世界の水を巻き付かせ、流れを止めてしまった。そのアヒを稲妻によって殺したインドラ神が水を穿ち、大地に雨を降らせたのである。アヒは水の神であったにもかかわらず、それ自体が信仰されることはなく、ヨーロッパにおけるドラゴン退治を行った神々・英雄と同様に、アーリア人の主神であった武勇の神・インドラが雨を恵むのであり、人々はインドラ神に雨を祈願し、信仰の対象としていた。後にインドラ神は仏教にも取り入れられ、梵天15と並ぶ仏教の護法神・帝釈天となる。
邪神とみなされた龍であったが、アーリア人の侵入以前にはインドの原住民によって樹木、リンガ(性器)崇拝などと併せて蛇神崇拝が行われていた。その後インドに侵入してきた異民族は蛇神を龍神信仰として取り入れ、龍王はアイラーヴァタまたはマニバドラなどと称され、龍神は尊神として信仰されるに至る。また西北インドを征服したクシャーナ族16においても民間信仰から取り入れられた龍神は崇拝の対象とされていた。蛇神崇拝は後の仏教、主に西インドで広く信仰されているジャイナ教17の民間信仰に大きな影響を与えている。
インドの民族宗教であるヒンズー教は多神教であり、バラモン教から多くを受け継ぐとともに、仏教や民間信仰から多くの影響を受けている。バラモン教において、さして高い地位に位置していなかったシヴァ(ルドラ)神、ヴィシュヌ神がヒンズー教では最高位の主神として迎え入れられた。シヴァ神崇拝は蛇神、特にリンガ崇拝をその中に取り入れている。さらにインド神話には、シヴァに従わない修験者によって猛毒のコブラ蛇を投げつけられたが、シヴァはそれを恐れもせずに身体を装飾するかのように巻き付け、修験者から崇められたと語られている。シヴァ神は大自在天として仏教の中に姿を見せている。
一方ヴィシュヌ神は、七つや五つまたは九つといった頭を持つアナンタもしくはシェーシャなどと称される多頭の蛇を使者のようなものとし、モンスーンの期間中には長円形にとぐろを巻いたアナンタの上に眠り続け、雨を降らせる。その後、ヴィシュヌ神はアナンタに座し、その頭上には多頭の蛇がヴィシュヌ神を守護するかのように首をもたげる。この姿に似たものは仏教の中にも見られ、アナンタはアナンタ竜王(難陀竜王)と名を変え、仏陀の守護神として登場する。
さらにヴィシュヌ神、アナンタと切り離せないものとして、神鳥ガルーダが挙げられる。ヴィシュヌ神は横たわり、座す時にはアナンタを用いるが、移動を行う時にはガルーダの背に乗って天空を飛翔するとされ、ガルーダも後に迦楼羅として仏教に取り入れられている。ガルーダは鷹のような鋭い爪と嘴、大きな翼と尾を有し、悪をくじく戦いの神と信仰され、ナーガの天敵であり、蛇を喰らうといわれる。ガルーダとナーガはともにヒンズー教の中で聖獣とみなされており、一対となって正と悪、天界と冥界、東と西、男性と女性をそれぞれ象徴している。ヒンズー教の美術品として、ナーガを背にしたガルーダ像や多頭のナーガにまたがったガルーダ像が東南アジア、主にインドネシア、アンコール・ワットに残されている。
聖獣としての龍のみならず、『リグ・ヴェーダ』のヴリトラ龍とインドラ神の戦いと同様に、ヒンズー教においても毒龍カーリヤとクリシュナ神の戦いの物語が存在している。カーリヤ龍は蛇の王とされ、ガンジス川または海に棲み、五つの頭と毒気を持ち、五つの口から炎とともに吐き出す。クリシュナ神はヴィシュヌ神の化身のひとつであり、ヒンズー教の二大叙事詩のひとつ『マハーバーラタ』に牧童として登場する。同じく仏教の中にも悪龍が登場する。仏法に従わず、雨を呼び起こして五穀に大きな災害をもたらすとされる龍王が存在しているのである。
ナーガ信仰はインドのみならず、東南アジアを中心とした地域にその姿をみることができる。イスラム教の伝播によりヒンズー教の衰退を余儀なくされた東南アジアでは、ナーガやガルーダをモチーフにした美術品がインドネシアやカンボジアのアンコール・ワットなどの遺跡に残されているように、以前はヒンズー教徒がその多くを占め、それとともに仏教もが取り入れられ、それぞれ独自の文化が息づいていた。またネパールにおいてもナーガ信仰が行われており、ヒンズー教や仏教からの影響を多く受けている。首都カトマンズはナーガが住まう地といわれ、ナーガをカトマンズ盆地の守護神として祀っている。ネパールはインドからの移住者によって支配され、その王朝が栄えた。当時の王宮跡や寺院にはモチーフとなったナーガが多く刻まれており、今日でも五穀に恵みの雨をもたらす水の神として信仰の対象となっている。さらにラオスでもナーガが信仰され、やはり、昔栄えた王宮や寺院などにナーガを刻んだものが見受けられる。ナーガは河や海、水源の支配者であり、雨を自由に操る能力を有すると考えられ、今日でもラオス、タイの龍船祭を始めとして、ネパールなど各地で降雨を祈願する祭りが行われている。
各地でナーガを対象とする雨乞いが行われているように、ナーガ信仰は善の性質をより多く持つ。インドに棲息する猛毒コブラは人々に死をもたらす動物として恐れられていたが、古代人はそれを崇めることで危険を遠ざけられると考えていた。インドの原住民18によって行われていた蛇神崇拝などの民間信仰は、徐々に異民族の中に取り入れられていったが、当初、侵入者であるアーリア人にとって敵対する原住民の信仰は邪悪なものとして扱われていた。そのため、悪としての性質を持つ龍も神話や伝説とともに生き続け、ナーガが善悪二面性を有するに至ったのだろう。
第二章 中国の神獣・龍
第二章では、中国において龍がどのように捉えられ、信仰されてきたのか。第一章で西洋の龍、アジアの蛇について取り上げたと同様に、中国の龍の形態、性質、自然との結びつきを中心に考察していきたい。
(一) 皇帝のシンボル
すでに序章で述べたことだが、中国における龍は四霊、四神思想を始めとするように、聖獣、守護神などとみなされ、信仰対象として親しまれている。中国の聖なる神獣・龍、西洋の邪悪なる怪獣・ドラゴンといった通り、対照的な性質であることを両者の相違点における特徴とする。龍とドラゴン、全く異なる性格を有しているにもかかわらず、一般的に西洋のドラゴンは龍と訳され、同一の動物として認識されている。このことからも推測できるように、両者とも似通った形態を有している。まずここで混乱を避けるためにも、この章では西洋の龍を「ドラゴン」、中国のものを「龍」と呼ぶことに統一する。ドラゴンと同様に中国の龍もいくつかの動物を組み合わせた複合動物である。鋭い爪のついた四本の足を持つ、鱗でおおわれた蛇のような胴体を基本とし、頭には二本の角と髭をそなえている。龍の形態に関して、「九似説」と称される鹿の角やみずち19の腹、鬼または兎の眼、虎の掌など、九つの動物のある部分を併せ持つともいわれている20。当然のことながら神獣・龍も天を自由に飛翔する能力を有する。しかし、その多くの龍は胴体に翼をつけていることはない。翼を持つ龍は応龍と称され、分類される。さらに空を飛ぶ龍を飛龍ともいう。龍は飛翔できるだけではなく、水中深くに潜り、さらには自由自在に姿を変えることができるという。複数の動物を合成し、多くの能力を持ち、吉祥とされ、人々の様々な願望を表した姿をしているのである。さきに序章で述べた『家語』においてはあらゆる生きものを虫と称し、鳳・麟・亀・龍・人を五霊と定めた上で、それぞれに中央を含めた五方位を配して諸虫の首としており、その中でも龍は鱗虫の長であると記している21。鱗虫とは魚類のことである。また、『淮南子』では龍をあらゆる生き物の祖とし、それぞれの祖を羽虫は飛龍、毛虫は応龍、鱗虫はみずちの意も持つ咬龍、介虫は先龍であると記載している。羽虫は鳥類、毛虫は獣、介虫はかたい外皮をもった動物を指す。
龍は強い力を象徴しており、ドラゴン、ナーガ三者ともに共通していることだが、龍は神の配下である。中国の古代神話、伝説には禹の行った治水についての話が語られている。禹の父は鯀といい、父子は帝であった堯と舜に仕えていたとされている。死んだ後三年を経ても鯀の死体は朽ちることなく、その腹の中から様々な神力を身につけ、龍となって禹が誕生したと伝えられている。黄河などの大河を抱える中国にとって、河の氾濫は生活を脅かす大問題であり、政を行う上で治水は重要なことで、そのためか、禹が治水を成功させたことにより舜は帝の位を譲ったのである。ここで中国初の王朝とされる夏王朝が幕を開ける。禹が行った治水には、その助けとして応龍や一群の大龍小龍が登場し、また龍は禹一族のトーテム22とされている。
さらに中国神話において伏羲・女 という二人の神が天地を創造したとされるが、この神々の上半身は人、下半身は蛇の胴体を持つという。古代人にとって龍は鳳とともに重要な地位に位置していた。同じことはその後、漢代以降の皇帝にもみられるようになる。天子の顔を例えて龍顔、龍犀と称し、龍母という皇太后の尊称、天子の即位を龍飛というように、中国では龍は専ら皇帝のシンボルとされている。特にその中でも二つの角と五つの爪を持つ龍は皇帝を象徴するものとして神聖視されており、民間で用いることを禁じ、龍袍ともいわれるように皇帝の衣服や紫禁城の至るところ、さらには殿内に残されている皇帝の所有物とされる様々なものに二本角と五本爪の龍が使用されていた。龍は皇帝自身そのものでもあり、皇帝もしくは王朝の守護神でもある。第二章で、仏典に記載されたナーガが中国に持ち込まれた際に、龍と訳されたと述べたが、ナーガが仏教の守護神とみなされているように、中国でも龍が似た性格を持ち、その上ナーガ、龍の両者が大蛇に似た形態をしているために龍と同一の聖獣として認識されたと考えられる。
日本においてもよく使用されているが、「逆鱗に触れる」「画龍点睛」「登龍門」などといったように龍の字のついた言葉がたくさん存在している。上に挙げた三つは中国で生まれた言葉である。「逆鱗に触れる」は中国の故事によるもので、龍の喉の下に逆さに生えた鱗が一枚だけあり、もし人がこれに触れると、龍は必ずその人を殺したということから、君主や目上の人の激しい怒りをかう意を持つ。「画龍点睛」は物事を完成させるための大切な一点の意味だが、やはり中国の絵の名手が描いた龍に最後に睛(ひとみ)を描き入れると、たちまち龍が天に昇ってしまったという故事から、「登龍門」は立身出世のための関門の意であり、黄河の上流にある龍門を登ることに成功した鯉が龍になったという故事によるものである。このように、中国には龍に関する説話や物語などが数多く言い伝えられている。
聖なる獣・龍ではあるが、中国においても龍退治の物語が存在している。『淮南子』には、空に穴が開き、天地のバランスが崩れてしまったときに、女 が五色の石を練り上げて作ったものを用いて空を修繕した。それとともに大雨を降らせていた黒龍を殺し、大洪水を止め、冀州を救ったと記されている。民話には黒い龍が村の谷川の水をすべて飲み干し、涸らしてしまったためにその龍は殺され、岩に姿を変えたという。また中国には四海や河、湖などを守護するとともに暴れ者として河を氾濫させるといわれる龍王が存在し、その龍を退治する英雄が登場するのである。とはいえ、その多くの龍は神の配下や吉兆を示す神聖なものであり、さらには長寿、円満など人々の願いを象徴した、信仰の対象としてみなされているのである。
(二) 龍の信仰
第二項では、龍が実際にどのように信仰されているのかを見ていきたい。
龍もドラゴン同様、水中や海、河川、湖などを棲処とする。ただ物語やファンタジーに登場するドラゴンは、その多くが暗いイメージのまとわりつく洞窟を棲処とするが、龍にはあまりみられない。水棲の動物であるためか、龍も「水」と結びつけられる。西洋ではドラゴン退治を行った神々が雨を降らせる存在であるのに対して、中国では龍が雲を起こし、恵みの雨をもたらす神であり、雨乞いの対象とされる。龍は水のシンボルともいわれ、人々のみならず総ての生き物にとって死活問題である海や河川の支配者として水や雨を自在に操り雨を呼び起こし、さらには洪水の原因となると考えられている。そのため龍を敬い、崇めるのである。仏教では龍王を祀る王廟をつくり供物を供え、ヒンズー教や密教にも雨乞いが行われているが、中国においても古くから農民によって龍の踊りや呪文を唱えることで雨を祈願したという。乾いた土に水をかけその泥で龍型をつくり、その土龍に降雨を祈り、唐の玄宗皇帝は大干魃時に、龍だけを描いている絵描きに龍を描かせ雨乞いをしたと伝えられる。
また中国各地で龍に関する行事が行われ、一年を通してみることができる。旧暦一月龍灯、旧暦二月龍抬頭、旧暦五月分龍節、雲南省では旧暦五月に龍王を祭って供物を捧げ、旧暦七月には龍母の昇天を、旧暦の八月には龍公の昇天を見送る。ラオス、タイ同様に、中国の大河でも夏の始まる頃に龍頭祭が催される。青海省の省都西寧は、かつてのシルクロード南ルートであり、チベット族やモンゴル族、回族の人々が多く生活している。この地には黄河という大河が流れ、青海湖がある。ここにおいても旧暦の七月に龍に関する祭祀、「海祭り」が行われている。ラマ僧によって楽が催され、海に捧げる供物が用意され、「赤、青、白、黄色の「龍達」とよばれる紙片もこの炎に向かってなげいれるや、炎のいきおいで空高く舞い上がる。うまく舞い上がると五穀豊穣や家畜の繁栄などが約束される兆しとして喜ばれる」23。その後「法舞」という舞が行われる。虎や龍、牛などの動物をかたどった面をつけたラマ僧によって舞が舞われ、護法神としての役割を持つ。チベット族でも「龍舞祭」が行われる。ここでも火が燃え、そこに龍達(ロンダー)や供物の五穀が人々の手によって投げ入れられる。「火炎の気流にのって空高く舞い上がる龍達は、龍が天に昇るようにさえ見える」24という。さらに龍舞、「大きな円形を描き龍がとぐろを巻いているように龍の舞」25が舞われ、龍女を意味する女体像が登場する。また、湖南省や貴州省に暮らすミャオ族では龍王が信仰されている。秋の稲収穫後または春の耕し前に、龍を呼び出す儀式を行う。そこには伝統的な色と方位との関係がみられる東の青龍、南の赤龍、西の白龍、北の黒龍、中央の黄龍が登場するのである。黄色は中国にとって特別な意を持つ色であり、神話に語られる禹の姿は龍であったと先に触れたが、その龍は黄龍であった。
龍は長寿または不死と結びつき、天高く飛翔することから天地を行き来することができ、天上への乗り物と考えられた。龍は春分には地上から天に昇っていき、秋分には下りてきて淵に入るという。このことは空に瞬く星と関係しているのだろう。序章で記述した戦国時代前期の曾候乙墓から出土した漆箱の蓋には、北斗七星にあたる星名とともに二十八宿26がみられ、東方と西方に青龍七宿と白虎七宿が対として表わされ、その後南方と北方に朱雀七宿と玄武七宿がそれぞれ加えられたが、四方にわけた天に四神をあてはめる思想の原型がすでにあったことを示している。文献に関しては漢代に司馬遷によって書かれた『史記』律書には、四方に配された二十八宿についての記載がある。この東方の青龍にあたる七宿は西洋においてはサソリが連想された。その中でも一番明るい光を放ち、サソリの心臓とされるアンタレスは中国では心(なかご)とも大火あるいは火とも称されているが、特に春分のころに空に輝き、秋分のころには姿を見せなくなった故に、淵に入るとされたのではないだろうか。すなわちこの季節は農業にとって作物を生育させるために必要不可欠な恵みの雨がもたらされるために、龍と雨乞いとが関連づけられたのだろう。
「十二支は殷代にさかのぼれる」27という。その中でも唯一十二支に登場する、想像上の動物である、辰。「辰」は北極星や北斗七星を指し、また東方青龍七宿のひとつである房(そい)星のことでもあり、青龍の本体のことを指している。このことからも四神思想と星宿が密接に関わりを持っていることが推測できる。「四神」という思想は曾候乙墓の漆箱からもみてとれるように、その原型はおよそ戦国時代に成立していた。様々な造形に表現され、現存の動物を土台にしてイメージした「四神」を象徴する神獣として青龍、白虎、朱雀、玄武が配されるのは、漢代の中期、武帝以降のことである。武帝は神秘主義的性格の強い儒教を国教とし、陰陽五行説に基づく四神図像が成立した。それ以前の漢代には四神ではなく、三神の例が多くある。「戦国末から前漢初の図像資料のなかには、亀と蛇の交尾形である玄武が描かれていないものも多く、玄武が最後に四神の仲間入りしたことだけは明らかである」28という。四神は天体で、もともと天の四方に配された星宿の名であり、それが徐々に下へとさがり、地の四方の守り神となった。中国人は中央を加えた五方を基本として考えており、四神思想は五行思想29に基づいている。また方格規矩四神鏡からは、四角い大地と円い天がその上にあるとする「天四地方」が見てとられ、大地の四方に柱=四極が天を支えているという思想が反映されている。
第三章 龍の起源説
第三章では、古代中国人がどのような思想に基づき、どのように自然と接していたのか結論を導くために、龍がどういった経緯で成立したのか、明確な答えが得られる問題ではないと思われるが、様々な起源説が存在する中でも、特に蛇、ワニ、恐竜など爬虫類を中心とする動物を起源とするもの、また河や雷など自然現象を起源とする説を取り上げる。
(一) 龍と蛇
現存する動物の中で、龍に一番近い形態を持つとされるものは蛇であろう。ドラゴンについて述べた項にあるように、西洋の龍・ドラゴンは一般的に緑や黒っぽい色の鱗におおわれた蛇、もしくは蜥蜴のような爬虫類の胴体を持つとされる。『新約聖書』に登場するドラゴンは年を経た蛇として書かれ、エジプト神話のアポピスは大蛇で蛇の王であった。また「ドラゴン」の由来とされる「ドラコーン」はギリシア語で蛇を意味する言葉であるし、その多くは蛇が変化したものとして表わされている。さらにエジプトで発掘されたツタンカーメン王の黄金のマスクには蛇が装飾されており、「エジプトの象徴のハゲワシとコブラ」30とあるように蛇は信仰の対象でもあった。わたしは第一章でエジプトを地理的に捉えた上で西洋のものとして扱ったが、エジプトにはウラエウスという蛇形の聖獣がおり、「エジプトではウラエウスが中国の龍とおなじように王権のシンボルであった」31とあるように毒蛇コブラを神格化し、信仰の対象としていた。善のウラエウスと悪のアポピス、それぞれの性質を持つ蛇がエジプトには存在し、そのままの姿のコブラを信仰する文化は西洋には見られないもので、ドラゴンというよりも、善悪二面性を共有するインドのナーガに共通点が多く見られる。同じくナーガも毒蛇コブラを神格化したものであり、インドを始め東南アジアに広く分布するナーガ信仰は、インドの原住民によって民間信仰として行われていた蛇神信仰が徐々に龍神信仰として形を変え、取り入れられた結果による。ヒンズー教の神、シヴァ神が身体に巻き付けたもの、ヴィシュヌ神が従えているものは蛇であり、ヒンズー教に登場する毒龍カーリヤも蛇の王であった。
ドラゴン、ナーガと同様に中国の龍も基本体は蛇の胴体に似た、鱗におおわれたものとして描かれている。洪水になると、河を生きたまま流れる姿がみられたため、蛇が洪水を起こすとも考えられていた。龍の形態に関して九似説に蛇の項とみずちの腹とあるように、みずちは蛇に似た形態を持つ想像上の動物であり、龍はその身体に蛇の部位を多く持つ。さらに中国において天地の創造神である伏羲・女カの下半身は蛇であった。
蛇に関する信仰は世界各地で見られるもので、日本も例外ではない。中国の四神思想や龍信仰から多くの影響を受け、それらを吸収するとともに他地域と同様に独自の文化をも誕生させている。日本神話においても蛇退治の話が存在する。素佐之男命(すさのおのみこと)と八岐大蛇(やまたのおろち)との一戦である。大蛇は年を経て巨大化した蛇で、ここに登場する大蛇は、身体に四肢を持たず、蛇形を保ったまま頭のみが龍と化したものとして描かれる。「この神話は、異文化の部族同士の争いを神格化したもので、大蛇の尾から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を得たということは、一方を鉄文化を持った部族とする説もある」32という。この神話は『リグ・ヴェータ』に書かれた、インドの侵略者アーリア人によるインドラ神と原住民による蛇神崇拝がアヒとして描かれ、対立した物語に類似点があるように思われる。
以上に示した通り龍の起源は蛇にあり、龍は正当さを主張するために用いられ、「龍は政治化された蛇である」33とする説がある一方で、「蛇にあると思っていた龍の起源はまったくの誤りであった。龍は馬や猪あるいは鹿などのトーテムを中心として形成されたものであった。蛇が龍の中に取り入れられた部分もあるが、蛇がその中心的母体となって龍になったわけではない」34といった説もある。ナーガの起源は蛇であるのは明らかである。龍の起源をドラゴン、ナーガの両者と同一のものと見なすのであれば、龍の起源は蛇であろう。しかし、ナーガは中国に伝播するにあたって、龍と類似する性質を有していたことも関係して同一のものと認識されただけであって、中国の龍とナーガは異なるものである。アジアにおける龍神崇拝は蛇神崇拝を基としたものであるが、仏法がもたらされるより以前にすでに中国には龍が存在していた。とする一方、蛇そのままの形態を持つナーガが中国において龍と同一視されたのは、龍もナーガ同様、蛇を起源とする動物だからだろうか。また形態こそ類似するものではあるが、善と悪、全く異なった性質を持つ龍とドラゴンは同一のものではない。それぞれ独自の起源を持つのだろうか。
(二) 恐龍とワニ
次に挙げるのは、主に中生代に繁栄した大型爬虫類、恐龍を起源とする説である。「近代になって恐竜の化石の発見が多くなるにつれて判明したことは、この巨大な爬虫類が竜の基本形態に似ているし、その怪異な姿は西洋人の想像した竜とよく似ている」35ことによる説で、その巨大な生物は様々な能力を持つと考えられ、信仰されるに至った。「たかだか今より二千年か三千年くらい前までは、たとえ稀であっても、恐龍が出没しなかったとは言い切れないはずだ。五千年前や、一万年前には、もっとひんぱんに出現していたとしたなら、遅く登場した人類は目撃しえたはずで、人類の遺伝子へきっちりその恐怖とともにインプットされていても、おかしくはない」36という。恐龍を起源とする説においても信仰理由はそのものに対する恐れであり、畏怖によって神格化された。インドで毒蛇コブラがその危険さゆえに崇められた理由と同様であると言える。龍が恐龍であるならば、序章で十二支の中で辰は唯一の想像上の動物であると述べたが、すでに絶滅し、実在しない生物ではあるといえ、「かつては確実に存在していた故に、十二支の中に数えられ」37たのである。
同じく爬虫類のワニを龍の起源とした説がある。絶滅した恐龍に一番近い形態を持つ動物はワニであろう。特にドラゴンは恐竜に似た形態をしており、四肢を持つといった特徴が共通点としてみてとれる。とするならば、ドラゴンはワニを起源としていると言うことができる。古代エジプトでは蛇を始めとする様々な動物が神聖なものとして扱われており、ワニもその中のひとつであった。そのエジプト文明を栄えさせたナイル川には凶暴なナイルワニが棲息している。インドやエジプトのコブラと同様に、「ナイルではワニの存在が恐怖の具現者として絶大であったために、そのまま神格化したのである」38中国にも揚子江流域あたりにワニが棲息していたとされ、龍の起源となったとも言われている。『ワニと龍』の中では、「蛟」39はすなわちワニを指し、後漢時代になり気候の寒冷化が進む以前には揚子江にも棲息していたが、姿を消したために、龍へと変化したのだと述べている。このような理由を挙げ、「ワニが「龍」であって十二支の中の動物だ」40とも言っている。とすると、龍の起源が恐竜であれ、ワニであれ、全くの想像上の動物だとは言い切ることができない。実在していたからこそ、十二支のひとつに数えあげられたのだと言うことができる。
以上のように生物を起源とするものをいくつか取り上げてみたが、その他にも同じ爬虫類では蜥蜴、ほ乳類では馬や牛、鹿、猪、または魚類など様々な動物を起源とする説が数多くある。わたしは龍の起源は、次に取り上げる自然現象から生まれたのではないか、という説が有力であるように思われる。いくつかの動物を組み合わせた形態を持つ龍は、人々の願望、あこがれの象徴であり、様々な能力を付与するためにも複合されるに至ったのだろう。
(三) 自然現象
自然現象を起源とする説で、まず取り上げるものはその起源を河とする説であり、「中国では、蛇行する長大な河が、竜、龍のイメージを」41持ったことから龍思想が生まれたという。ナイル川がエジプト文明を育んだように、中国においても中国北方を流れる広大な黄河が古代文明を築いた。河は生活や農業、人類の営みと密接に関わりを持つ。洪水が起これば全てのものは水に流され失われてしまう。逆に河が枯渇してしまっても人間は生きていくことができない。自然は恵みをもたらすとともに、脅威でもあった。伝説の中で夏の始祖、禹が治水を行ったことから帝の地位についたように、古代の政治においては治水を成功させることが最重要課題であった。そのため、水・河の神を崇め、河が常に平穏であり、恵みをもたらしてくれることを願ったのだろう。
大河は文明の繁栄において重要な役割を持ち、黄河文明よりも早くに誕生した、人類初とされるシュメール人が築いた古代メソポタミア文明もティグリス、ユーフラテス河と切り離して考えることはできない。やはりこの河も恵みを与えもし、氾濫も引き起こした。シュメールの印章42には龍退治をモチーフにしたとされる図が描かれている。その後この神話は第一章で記した、「南メソポタミアの覇者となったバビロニアに引きつがれ」43て、英雄マルドゥークと龍ティアマトとして登場している。
次に龍の起源を雷とする、古代の人々は空に閃く稲妻から龍をイメージしたのであろうとする説である。気の遠くなるような時間を経た今日でも、自然のシステムが変化することはなく、稲妻、雷鳴と同時に雨がもたらされ、この現象は春分から秋分にかけて特に多くみられる。雷と雨は結び付いた自然現象であり雷すなわち龍が雨を呼ぶと考えられ、稲妻の形が龍の姿を連想させ、雷鳴は龍の吠える様子とも想像されたのではないか。また雷はときに嵐と伴い、河を氾濫させる原因でもあり、自然の脅威の力は恐怖でもあった。そのため、龍は人々に恵みをもたらすと同時に畏怖の念をも抱かせる神として崇められ、雨乞いの対象、雨・水の神となるに至った。さらに雷は神鳴りの意味も持っている。とすると、西洋のドラゴンは雷を起源とはしないのだろうか。ドラゴンは雨を降らす能力は持っておらず、そのドラゴンを退治した神々が雨をもたらすのである。バビロニアの英雄マルドゥークは雷と嵐を武器としていた。その一方、ヒッタイトでは稲妻や嵐は龍がもたらすものと考えられていた。雷が立ち去った後には、必ずといって良い程太陽が顔を覗かせる。ペルシャのゾロアスター教やエジプトでは水の神ではなく、太陽を神として信仰していた。
雷と同様に、自然現象である龍巻を起源とする説では、「竜巻は雷雨にともなわれる場合が多いし、地表の地物を巻きあげたり、水面では魚類などを巻きあげて魚などの雨を降らせたりする」44ことによって龍が生まれたという。しかし、龍巻はめったに見られるものではない。また雷、龍巻と関連して、千変万化である雲を起源とする説がある。「地上の水蒸気が天上の雲を生み、雨または豪雨となって地上にもどる。この豪雨は巨大な土石流をひきおこし山野を疾駆する。雲はときに雷雲となって、稲妻を閃かせ雷鳴を轟かす。また雲は風をよび龍巻となって大地を移行する」45
次に「竜の機能すなわち、竜の天に昇り、われわれの生活にもっとも関係の深い農業に必要な雨を降らす霊物として天然現象を竜の原型として考えられる」46とされる天上の星を起源とする説である。すでに第二章、龍の信仰で述べたが、四神は天の星としての守護者から地に下り、四方の守護者となった。春分から秋分にかけて姿を表わす一等星、アンタレスが古代中国では龍と連想され、農作物の生育において必要とされる雨が降雨する季節に出現する星でもあり、雨をもたらす神として雨乞いの儀式が行われるようになったという。また人々は天上世界にあこがれを抱いていた。龍は天上への乗り物とされ、不老長寿、不死延命を願う神仙思想と結びつけられた。すなわち天に輝く星々が天上へ導くもの、龍であった。しかし、「星座を竜に見立てるには、まずその前に竜の観念がなければならない」47とされ、空に輝く龍が雨・水の神となった理由としては認められるが、そこから龍が生み出されたとは言い切れず、「議論が逆である」48と考えられる。
龍の飛翔や変幻自在といった能力は自然に由来するものであり、人間を超越した自然の力が人の想像力を掻き立たせ、龍を生み出した。あらゆる生き物にとって水は生きていく上で最も重要なもので、よって信仰の対象となり得たのだろう。ここに似た形態を持つ蛇などの動物が結び付き、さらに様々な動物の形態が組み合わされていき、その動物の特徴までもが取り込まれ、現在にみられる龍が誕生したのだろう。
第四章 結論
世界各地至るところで「龍」に関する神話や伝説、物語などが数多く存在する。ドラゴン、ナーガ、龍、三者それぞれが起源を持ち、各地で似たような形態を有する動物が想像された。ナーガおよびエジプトの蛇信仰はコブラが神格化した姿であり、ドラゴン、龍の起源が蛇やワニを始めとする爬虫類のものであれ、河や雷の自然現象であれ、すべてに共通することは、崇拝されるに至った理由はそのものに対する恐怖と畏怖が背景に存在していることである。また強大な力を持つ動物であることも共通点であると言える。そのため、龍を退治することで西洋の神々・英雄は自らの力を示すことに利用し、中国においては皇帝を守護する者として、その存在を認められた。退治される対象であっても嵐や稲妻とともに洪水をひきおこす原因として、神獣であっても雨をもたらすものとして、水をシンボルする動物であり、水・雨と関連して考えられている。第三章で前述した通り、人類文明の繁栄において河は重要な役割を担い、文明の栄えた地には必要不可欠なものとして大河が流れている。四大文明と定義されるメソポタミア文明にはティグリス、ユーフラテス河が、エジプト文明にはナイル川が、インダス文明、黄河文明にもそれぞれ、その文明の名を持つ大河が横たわる。
では、なぜドラゴンは邪悪と悪魔視され、龍は神獣として、全く異なった信仰が行われるに至ったのだろう。それは西洋世界を中心とする人々と古代中国人との自然に対する考えの違いが原因である。退治されるドラゴンはすなわち、人間が自然をも支配しようとした考えの表われであり、河を象徴するドラゴンは敵対者とみなされた。中国においても河の氾濫をひきおこす龍は恐れられてはいたが、その恐怖は畏敬の対象となり神として崇められたのである。古代中国人は、人間をはるかに超越した力を有する自然を征服しようとはせず、自然の法則に従い、自然とともに共存し生を営んできた。『老子』においては「自然の存在を総体的にとらえて、いわば自然の意味とか精神と言ってもよいような一種の自然界の理法を尊重している」49、「中国では、天は自然であると共に主宰者でもあって、そういうものとしてまた人と密接に関係しているという形で、長い歴史をつらぬいてきた」50、このような思想を生み出してきた中国では自然を象徴する龍が敵対者とみなされることはなかったのである。
またドラゴンと龍の捉えられ方が異なるに至った理由には、古代においては生活そのものであった、それぞれの土地で行われてきた農業の状況が大きく関わっている。「東洋の灌漑水に依存する稲作・漁撈51地帯では、ドラゴンは神であり、そこでは人々は自然を畏敬し、異なるものと共生融合し、あらゆるものは再生と循環をくりかえすと考えた」52が、「これに対し、天水に依存するドラゴンを殺す麦作・牧畜地帯の西洋文明は、自然を支配し分析する近代科学を発展させ、人類に幸せをもたらした」53。しかし、人類が発展したことにより地球の自然は壊れ始め、今日では様々な環境問題を抱えている。自然を敬い、共生してきた中国古代の思想に、今こそ立ち返り、見つめ直すときがきている。
 

 

●首都直下型地震はいつ起こる?
日本は地震大国ですが、いつどこで大きな地震が発生するかは予測がつきません。昨今懸念されている大地震の1つに首都直下型の大地震があります。これまでの大きな地震災害を受け、国も様々な対策や啓蒙活動を行っています。しかし、地震の発生自体を防げるわけではありませんので、不安を解消することは難しいでしょう。実際は、どの程度の発生リスクがあるのでしょうか?ここでは、首都直下型地震が発生する可能性と、今からできる備えについて紹介します。
30年以内に大地震が起こる可能性は70%って本当?
日本は阪神・淡路大震災を契機に、地震防災対策への取り組みを本格化しています。震災を通して浮き彫りになった課題を踏まえて、平成7年6月に『地震防災対策特別措置法』を制定し、さらに政府機関『地震調査研究推進本部』が設置されました。地震調査研究推進本部の主な活動は、地震の発生確率を長期的に評価することです。公式サイト内では、主要断層ごとの地震発生確率を評価・公開しています。また、予測評価だけではなく、過去にあった大きな地震もまとめられています。たとえば、相模トラフで起こったマグニチュード8クラスの巨大地震は以下の3件です。
・1293年:永仁地震
・1703年:元禄地震
・1923年:大正地震(関東大震災)
1703年の元禄地震から関東大震災までの開きは、およそ220年。そこから現在まで、まだ100年弱しか経っていません。よって、「近い将来に同タイプの地震が発生する可能性は低い」と結論付けられています。ただし、マグニチュード8クラスの巨大地震のほかに、マグニチュード7クラスの地震も多数発生していることも考慮すべきという声もあります。地震調査研究推進本部地震調査委員会で実施した評価においては、「今後30年以内に、南関東でマグニチュード7クラスの地震が起きる確率は70%」と推定しており、これはきわめて高い値といえます。また、地震調査研究推進本部の調査によりますと、南海トラフでマグニチュード8~9の巨大地震が今後30年で起きる確率も70〜80%とされており、関東以外にお住まいの方でも安心は出来ません。
過去に起きた地震の被害
過去、関東圏では大きな地震が何度も発生しています。被害が大きな地震もありましたが、そのたびに人々は協力し合い、現在では世界に誇る大規模な都市が形成されているのです。過去に関東圏で発生した大きな地震について、詳しく見ていきましょう。
   1703年 元禄地震
元禄地震は、1703年11月23日の未明に発生した地震で、規模はマグニチュード7.9〜8.2と推定されています。家屋の全壊被害が22,424軒、死者数は10,367名と、被害規模も甚大なものでした。この地震では津波も同時に発生しており、津波が「被害を拡大させた」という見方もあります。発生後は復興と同時にさらなる発展をとげ、葦の生い茂る湿地帯が開拓されました。大規模な埋め立て工事や堤防工事が行われ、多くの人々が埋め立てられた隅田川の東側に住むようになったのです。
   1855年 安政江戸地震
安政江戸地震は、1857年11月11日に関東平野を中心として広範囲にわたって発生した地震です。江戸市中の死者は約10,000名。大名屋敷は116家(266家中)で死者があったそうです。町人地では家屋が約14,000軒倒壊するなど、大きな被害が発生しました。
首都直下型地震が起きると、首都圏はどうなる?
過去に起きた地震からは、多くを学ぶことができます。ここでは近年発生した大地震を振り返り、実際にあった被害の内容について解説します。
   阪神・淡路大震災における被害は?
1996年の阪神・淡路大震災では、死者約6,400名、負傷者は43,000名以上にのぼる被害をもたらしました。港湾埠頭の沈下、山陽新幹線高架橋の倒壊・落橋がありました。ほかにも電車が止まり、道路が通行止めになるなど、交通機能は著しく低下。救助や消火活動はもちろん、物資の輸送にも大きな影響を及ぼしました。ライフラインでは、約130万戸の断水、約260万戸の停電、約86万戸のガス供給停止が発生。固定電話は設備障害が約30万件、家屋の倒壊やケーブルの焼失による障害が約19万件にのぼりました。当時はまだ携帯電話が普及していない時代なので、連絡手段を失った人が後を絶ちませんでした。また、河川には堤防の沈下や亀裂などの被害が多数あり、西宮市の仁川百合野町では地すべりによる犠牲者が34名出ています。農林水産業関係の被害では、農地やため池なども甚大な被害が発生し、その被害総額は約900億円にのぼりました。
   東日本大震災における被害は?
東日本大震災では東北地方から関東地方の広い範囲において、東向きの地殻変動が発生しました。地面の沈降なども確認されていて、地形が変わってしまうほどの大規模地震であったことがうかがえます。岩手・宮城・福島県を中心とした太平洋沿岸部には、巨大津波が襲来。これにより、青森・岩手・宮城・福島・茨城・千葉の6県62市町村で合計561平方キロメートルもの範囲が浸水しました。死者・行方不明者の合計は25,000名以上で、この数字は関東大震災に次ぐものです。ライフラインの被害は、地震発生直後で停電が約850万戸、都市ガスは供給停止戸数約46万戸、水道は約160万戸、下水処理施設は最大被災施設数120施設となっています。固定電話は不通が約100万回線、携帯電話基地局の停波局数は12,000基地局にも及びました。鉄道や道路の被害も多数発生し、阪神・淡路大震災と同様に交通機能は大きく麻痺しました。首都圏においては帰宅困難者が数多く発生。建物や人的被害がなくても、自宅に帰れない人が続出しました。政府試算では、この地震による被害総額は16兆〜25兆円にのぼると推定されています。
   首都圏で想定される被害は?
今後発生が予測されている首都直下型地震ですが、実際にマグニチュード7クラスの大規模な地震が首都圏で発生した場合、どのような被害が出るおそれがあるのでしょうか。内閣府の試算では、死者は最大で23,000名、家屋の全壊や焼失は61万戸にのぼる見通しとなっています。津波の発生も想定されていて、広い範囲に被害が及ぶとみられています。避難者数は約339万名、帰宅困難者は約517万名も出ると予測されています。また、「内閣府防災情報のページ」によるとライフラインの面では以下のような被害が想定されています。
   
(1)電力:発災直後は約5割の地域で停電。1週間以上不安定な状況が続く。
(2)通信:固定電話・携帯電話とも、輻輳のため、9割の通話規制が1日以上継続。メールは遅配が生じる可能性。
(3)上下水道:都区部で約5割が断水。約1割で下水道の使用ができない。
(4)交通:地下鉄は1週間、私鉄・在来線は1か月程度、開通までに時間を要する可能性。主要路線の道路啓開には、少なくとも1〜2日を要し、その後、緊急交通路として使用。都区部の一般道はガレキによる狭小、放置車両等の発生で深刻な交通麻痺が発生。
(5)港湾:非耐震岸壁では、多くの施設で機能が確保できなくなり、復旧には数か月を要する。
(6)燃料:油槽所・製油所において備蓄はあるものの、タンクローリーの不足、深刻な交通渋滞等により、非常用発電用の重油を含め、軽油、ガソリン等の消費者への供給が困難となる。
首都直下型地震に向けて、今からできること
首都直下型地震が発生すると人的被害はもちろん、生活インフラ全般が寸断されかねません。また、食料や日用品も交通インフラの麻痺によって流通が滞り手に入りづらくなり、さらに生活支援物資の配給を待たなければならない状況も想定されます。これらに備えて今できることは、大きく2つあります。1つ目は住んでいる地域の避難場所を確認しておくことです。大きな地震が発生したとき、避難場所がわからないようでは安全に逃げることは当然できません。あらかじめしっかりと確認して、家族でも認識をすり合わせておくようにしましょう。2つ目は防災バッグの準備です。中身は医療用品やラジオなどのほか、水と非常食を数日分用意しておきます。備蓄の目安は3日分です。飲料水は1人1日3リットル必要となりますので、9リットルを人数分用意しておきましょう。非常水と非常食にはそれぞれ賞味期限があるので、使用しない場合は消費して買い替える必要があります。また、電気が寸断された場合に備えて、家庭内では非常用ライトをすぐ使える場所に置いておきましょう。電池の補充ができるとは限らないので、電池式よりも手回し式のものがおすすめです。最後に、地震保険への加入有無もチェックしておきましょう。火災保険だけでは地震による被害は補償されません。地震による被害が発生したとき、地震保険は大きな支えとなってくれるでしょう。
まとめ
首都直下型地震は、高い確率で発生するといわれています。しかし、正確な発生の時期は誰にもわかりません。なので、いつ起きても慌てなくていいように準備しておくことが何よりも大切です。常に災害が発生する可能性があることを念頭において、日々生活を送るようにしましょう。 
 

 

●日本天変地異記  
序記 国土成生の伝説
大正十二年九月一日の大地震及び地震のために発したる大火災に遭遇して、吾吾日本人は世界の地震帯に縁取ふちどられ、その上火山系の上に眠っているわが国土の危険に想到して、今さらながら闇黒な未来に恐怖しているが、しかし考えてみれば、吾吾は小学校へ入った時から、わが国土が地震と火山とに終始していて、吾吾国民の上には遁のがれることのできない宿命的な危険が口を開いて待っているということを教えられていたように思われる。それは日本歴史の初歩として学ぶ国作りの伝説である。
国作りの伝説は、「古事記」や「日本書紀」によって伝えられたもので、荒唐無稽な神話のように思われるが、わが国土が地震帯に縁取られ火山脈の上にいるということから考え合わすと、決して仮作的な伝説でないということが判る。「日本書紀」には、「伊弉諾尊いざなぎのみこと、伊弉冉尊いざなみのみこと、天の浮橋の上に立たして、共に計りて、底つ下に国や無からんとのり給ひて、廼すなはち天あめの瓊矛ぬぼこを指しおろして、滄海を探ぐりしかば是ここに獲き。その矛の鋒さきより滴したたる潮凝こりて一つの島と成れり。磤馭盧おのころ島と曰ふ。二神是に彼の島に降居まして、夫婦して洲国を産まんとす。便ち磤馭盧島をもて国の中の柱として、(略)産みます時になりて、先づ淡路洲を胞となす。(略)廼ち大日本豊秋津洲を生む。次に伊予の二名洲を生む。次に筑紫洲を生む。次に億岐おき洲と佐渡洲を双子に生む。(略)次に越洲を生む。次に大洲を生む。次に吉備子洲を生む。是に由りて大八洲国と曰ふ名は起れり。即ち対馬島、壱岐島及び処処の小島は皆潮沫の凝りて成れるなり。亦また水沫の凝りて成れりと曰ふ。次に海を生む。次に川を生む。次に山を生む。次に木祖句句廼馳を生む。次に草祖葺野姫を生む」としてあって、歴史家はこれを日本民族が日本島国発見の擬人化神話としているが、私はそれを地震と火山の活動による土地の隆起成生とするのである。
今回の地震には、房総半島の南部から三浦半島、湘南沿岸、鎌倉から馬入ばにゅう川の間、伊豆の東部などは、土地が二尺乃至三四尺も隆起したということであるが、それはアメリカの西海岸からアラスカ群島、千島群島をかすめて、表日本の海岸に沿うて走っている世界最大の地球の亀裂線、専門家のいわゆる外測[#「外測」はママ]地震帯の陥没から起ったもので、元禄十六年の地震は、その地震帯の活動の結果であると言われている。要するにわが国は、こういうふうに外側地震帯及び日本海を走っている内側地震帯の幹線に地方的な小地震帯がたくさんの支線を結びつけているうえに、火山脈が網の目のようになっているから、その爆発に因る地震も非常に多く、従って土地の隆起陥没もまた多い。天武天皇の時大地震があって、一夜にして近江の地が陥没して琵琶湖が出来ると共に、駿河に富士山が湧出したという伝説も、その間の消息を語るものである。安永八年の桜島の爆裂には、その付近に数個の新島嶼とうしょを湧出した。「地理纂考」によると、「安永八年己亥十月朔日、桜島火を発し、地大に震ひ、黒烟天を覆ひ、忽たちまち暗夜の如し、五日経て後、烟消え天晴る、十四日一島湧出す、其翌年七月朔日水中に没す、是を一番島と言ふ、同十五日又一島湧出す、是を二番島と言ふ、俗に猪子島と称す、己亥十月化生の故なり、同十一月六日の夜、又一島湧出す、是を三番島と言ふ、同十二月九日夜、又一島湧出す、是を四番島と言ふ、三四の両島は硫黄の気あり、因て俗に硫黄島と称す、同九年庚子四月八日、二島相並び又湧出す、五月朔日に至つて自ら合して一島となる、是を五番島と言ふ、今俗に安永島と称す、同六月十一日又一島湧出す、是を六番島と言ふ、同九月二日又一島湧出す、是を七番島と言ふ、同十月十三日又一島湧出す、是を八番島と言ふ、後七八の両島合して一島となれり、因て併せ称して六番島と言ふ、(略)炎気稍退き、五島全く其形を成す、即ち其二番三番四番五番六番の五島、併せて新島と名づく、其中五番島最大にして其周廻二十町、高さ六丈なり、草木発生し、水泉迸出す、於是ここに寛政十二年閏四月、島(桜島)民六口を此島に移す」としてあって、大小こそあれ八島の湧出したことは、大八洲成生の伝説を髣髴ほうふつさすものではないか。
こうしてシナ朝鮮の大陸を根の国として、遊ぶ魚の水の上に浮ける如きわが日本の国土は成生したのであるが、それと共にこうした伝説の下に成生した国土には、一番島と背中合せの運命を担っているという不安さを感ぜずにはいられない。天武天皇十二年、俗に白鳳の地震と言っている地震に、土佐の田苑五十万頃けいが陥没して海となったという伝説のあるなども、それを裏書してあまりあるように思われる。
一 斉衡元暦の地震、安元の火事
日本の地震で最初に文献にあらわれているのは、「日本書紀」の允恭天皇の五年七月、河内国の地震で、次が推古天皇の七年四月の大和国の地震である。西紀は河内の地震が四百十六年で、大和の地震が五百九十九年である。そのうちで大和の地震はかなり大きかったと見えて、「書紀」にも「七年夏四月乙未朔、辛酉、地動き、舎屋悉く破る、即ち四方に令し、地震の神を祭らしむ」と言ってある。
日本の地震は允恭天皇の五年から今日に至るまで約千五百年間の歴史を有し、回数約千四百回をかぞえることができる。そのうちで上代の地震は、後鳥羽天皇の元暦文治のころにかけて三百七八十回の地震の記録があるが、その十分の九は山城地方、わけて京都がそれを占有している。それは文化の中心地として記録の筆が備わっていたためであろう。
その京都の地震で天長四年七月に起った地震は、余震が翌年まで続いた。斉衡三年三月八日の大和地方もひどかったと見えて、「方丈記」にも「むかし斉衡の比かとよ、大地震おほなゐふりて、東大寺の仏のみぐし落ちなどして、いみじきことども侍りけれ」と奈良の大仏の頭の落ちたことを記載してある。貞観十年七月の地震は、京都というよりは山城一円と播磨とに跨っていた。元慶四年十月の地震は、京都と出雲が震い、同年十二月には、京都付近が震うた。仁和三年七月の地震は山城、摂津をはじめ五畿七道にわたった大地震で、海に近い所は海嘯つなみの難を被ったが、そのうちでも摂津の被害は最も甚だしかった。元慶元年四月の地震には、京中を垣墻悉く破壊し、宮中の内膳司屋顛倒して、圧死者を出した。陰陽寮で占わすと東西に兵乱の兆があると奏した。天慶は将門純友の東西に蜂起した年である。貞元元年六月の地震は、山城と近江がひどく、余震が九月まで続いた。延久二年十月の地震は、山城、大和の両国が強く、奈良では東大寺の巨鐘が落ちた。山城、大和の強震は、その後寛治五年にも永長元年にも治承元年にもあって、東大寺に災してまた巨鐘を落した。
元暦二年七月の地震は「平家物語」に「せきけんの内、白川の辺、六せう寺皆破れくづる、九重の塔も、上六重を落し、得長寺院の三十三間の御堂も、十七間までゆり倒す、皇居をはじめて、在在所所の神社仏閣、あやしの民屋、さながら皆破れくづるる音はいかづちの如く、あがる塵は煙の如し、天暗くして日の光りも見えず、老少共に魂を失ひ、調咒ことごとく心をつくす」と言ってある。「大日本地震史料」にこれを文治元年七月九日と改めてある。この地震は九月まで余震が続いた。区域は、山城、近江、美濃、伯耆の諸国に跨っていた。これには宇治橋が墜落し、近江の琵琶湖では湖縁の土地が陥落し、湖の水が減じたらしい。
近畿以外の地では、天武天皇の六年十二月に筑紫に大地震があって、大地が裂け、民舎が多く壊れた。同十二年十月には諸国に地震があって、土佐が激烈を極めた。これがいわゆる白鳳の地震で、土佐では黒田郡の一郡が陥没したと言い伝えられている。霊亀元年五月には、遠江国に大地震があって、山が崩れて麤玉河を壅いだが、続いてそれが決潰したので、敷智、長下、石田の三郡の民家百七十余区を没した。天平六年四月には、畿内七道皆地震がし、同じく十七年四月には、美濃、摂津両国に地震があった。この両国の地震は美濃がひどく、多く人家を壊ったが、これは明治二十七年の濃尾の地震を思い合わせるものがある。天平宝字六年五月になって、また美濃をはじめ、飛騨、信濃の諸国に地震があった。天平神護二年六月には、大隅国神造新島、弘仁九年七月には、相模、武蔵、下総、常陸、上野、下野の諸国、天長七年一月には、出羽に地震があった。その他、三河、丹波、伊豆、信濃、出羽、越中、越後、出雲にも大きな地震があったらしい。
貞観六年七月には富士山の噴火に伴うて大地震があって、噴出した鑠石は本栖、剗の両湖をはじめ、民家を埋没した。富士山は既に延暦二十年三月にも噴火し、その後長元五年にも噴火したが、この噴火とは比べものにならなかった。貞観六年十月には、肥後の阿蘇山が鳴動して、池の水が空中に沸きあがったが、その九年五月になって噴火した。豊後の鶴見山もその年の一月に噴火した。貞観は天変地異の多い年であった。十一年五月には、陸奥に地震があって海嘯が起り、無数の溺死人を出したが、これは明治二十九年の三陸海嘯の先駆をなす記録であろう。元慶二年九月に相模、武蔵をはじめ関東一円に地震があった。仁和二年五月二十四日の夜には、安房国の沖に黒雲が起って、雷鳴震動が徹宵止まなかったが、朝になってみると小石や泥土が野や山に二三寸の厚さに積んでいた。この現象は海中の噴火か、それとも三原山の噴火か、その原因は判らない。
この不可思議にしてはかられざる自然の脅威に面して、王朝時代の人はいかに恐怖したことであろう。いかに無智の輩でも地震がどうして起るかぐらいのことを知らない者のない現代においてさえ、一朝今回のような大地震に遭遇すると、大半は周章狼狽為なすところを知らなかった。世の終りを思わすような激動が突如として起り、住屋を倒し、神社仏閣を破り、大地を裂き、その裂いた大地からは水を吹き、火を吐き、海辺の国には潮が怒って無数の人畜の生命を奪うのに対して、茫然自失、僅かに地震の神を祭ってその禍を免れようとしたのは無理もないことである。後世からは、和歌連歌に男女想思の情を通わして、日もこれ足りないように当時の文華に酔うていたと思われる王朝時代の人人も、そうした地震に脅かされる傍、火に脅かされ、風に脅かされた。「方丈記」にも、「去にし安元三年四月二十八日かとよ、風烈しく吹きて静かならざりし夜、亥の時ばかり、都の巽より火出で来りて、乾に至る。はては朱雀門、大極殿、大学寮、民部省まで移りて、一夜の程に塵灰となりにき。火本は樋口富小路とかや、病人を宿せる仮家より出で来たりけるとなん。吹き迷ふ風に、とかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如く末広になりぬ。遠き家は煙にむせび、近き辺はひたすら焔を地に吹きつけたり。空には灰を吹きたれば、火の光を映じて普く紅なる中に、風に堪へず吹き切られたる焔、飛ぶが如くにして、一二町を越えつつ移り行く、その中の人現心あらんや。或は烟にむせび倒れ伏し、或は焔にまかれて忽ちに死に、或は又僅かに身一つ辛くして遁れたれども、資財を取り出づるに及ばず。七珍万宝、さながら灰燼となりにき」と書いてある。火は時時皇居も焼いた。その火は失火もあるが盗賊が掠奪のための放火もあった。その盗賊は綱紀の緩んだのに乗じて京都の内外に横行した。袴垂、鬼童、茨木、一条戻橋の鬼なども、その盗賊の一人であろう。
二 地震海嘯の呪いある鎌倉
地震の記録をあさってみると、地震は政権に従って移動しているような観がある。藤原氏の手から政権を収めていた平氏が破れて、源氏が鎌倉に拠ると、元暦元年十月を初発として鎌倉に地震が頻発した。それは王朝時代には僻遠の地として、武蔵、相模の名で大掴みに記されていたものが、文化の発生と共に細かなことまで記される余裕ができたためか、それとも武蔵、相模方面の活動期になっていたのに偶然に遭遇したためであるか。その鎌倉には幕政時代の終りごろまで百四五十回の地震があって、骨肉相食あいはんだ鎌倉史の背景となって、陰惨な色彩をいやがうえにも陰惨にして見せた。
その鎌倉の地震のうちで大きかった地震は、建保元年五月の地震で、それには大地が裂け、舎屋が破壊した。この建保年間には、元年から二年三年と続けて十数回の強震があった。安貞元年三月にも大地震があって、地が裂け、所所の門扉築地ついじが倒れた。古老はこれを見て、去る建暦三年和田佐衛門尉義盛が叛逆を起したころにも、こんな大地震があったと噂しあったということである。仁治元年四月の地震には海嘯つなみがあって、由比ヶ浜の八幡宮の拝殿が流れた。建長二年七月の地震は余震が十六度に及んだ。
正嘉元年八月の地震は、最もひどい地震で、関東の諸国にも影響を及ぼしている。それには神社仏閣、人家はもとより立っている建物の一軒もないように潰れ、山が崩れ、地が裂け、地の裂け目からは、泥水を吹き、青い火を吹いて、余震は月を越えた。そしてその翌年の八月に大風があり、三年に大飢饉があり、正元に入ってから二年続けて疫病があったので、日本全国の同胞は大半死につくしたように思われた。日蓮の立正安国論はこの際に出たものである。
永仁元年四月の地震も、正嘉の地震に劣らない地震であった。そのころは怪しく空が曇っていて、陽の光も月の光もはっきり見えなかったが、その日は墨の色をした雲が覆いかかるようになっていた。そして榎島の方が時時震い、沖の方がひどく鳴りだした。これはただごとではない、また兵乱の前兆か、饑饉疫癘の凶相かと、人人が不思議がっていると、午の刻になって俄かに大地震となり、海嘯が起った。倒壊した主なものは政庁、鶴岡若宮、大慈寺、建長寺であったが、建長寺からは火が起った。その時の死者は二万三千余であったと言われている。王朝時代のことは判らないが、これによって見ても鎌倉は昔から地震の呪いのある土地であるらしい。
三 天正の災変、慶長の地震
鎌倉幕政時代の末期、即ち後醍醐天皇の即位の前後から吉野時代、室町時代、安土桃山時代にかけては、戦乱に次ぐに戦乱を以てして、日本全国戦争の惨禍に脅かされて、地震の記録も閑却せられていたかの観があるが、それでも慶長のはじめにかけて約六百回の地震の記録がある。
正中二年十月と言えば、後醍醐天皇が、藤原資朝、藤原俊基等の近臣と王政の復古を謀はかって、その謀はかりごとの泄もれたいわゆる正中の変の起った翌月のことであるが、その二十一日に、山城、近江の二箇国に強震があって、日吉八王子の神体が墜ち、竹生島が崩れた。そして元弘元年七月には、紀伊に大地震があって、千里浜の干潟が隆起して陸地となり、その七日には駿河に大地震があって、富士山の絶頂が数百丈崩れた。この七月は藤原俊基が関東を押送せられた月で、「参考太平記」には、「七月七日の酉の刻に地震有りて、富士の絶頂崩ること数百丈なり、卜部宿禰うらべのすくね大亀を焼いて卜うらなひ、陰陽博士占文を開いて見るに、国王位を易かへ、大臣災に遇ふとあり、勘文の面穏かならず、尤も御慎み有るべしと密奏す」とあって、地震にも心があるように見える。
正平年間は非常に地震の多い年で、約百回も地震の記録があるが、そのうちで大きかったのは、五年五月の京都の地震で、祇園神社の石塔の九輪が墜ちて砕けた。十六年六月には山城をはじめ、摂津、大和、紀伊、阿波の諸国に大地震があって、摂津、阿波には海嘯つなみがあった。そして最後の二十四年七月にも京都に大地震があって、東寺の講堂が傾いた。それから応永年間も地震の多い年で、約八十回にわたる記録が見える。そのうちで七年十月には伊勢国に大地震があって、京都の地も震うた。三十二年十一月には京都ばかりの大地震があった。
永享五年一月には、伊勢、近江、山城に、同年九月には相模、陸奥、甲斐に、宝徳元年四月には山城、大和に、文正元年四月には山城、大和に、明応三年五月にはやはり大和、山城に大地震があったが、明応三年五月の地震は大和が最も強く、奈良の東大寺、興福寺、薬師寺、法花寺、西大寺の諸寺に被害があった。同七年八月には、伊勢、遠江、駿河、甲斐、相模、伊豆の諸国に大地震があって、海に臨んだ国には海嘯があった。この海嘯には伊勢の大湊が潰れて千軒の人家を流し、五千の溺死人を出したが、鎌倉の由比ヶ浜にも二百人の犠牲者があった。また遠江の地が陥没して浜名湖が海と通じた。この月は京都にも奈良にも、陸奥にも会津にも強震があって、余震が月を重ねた。その明応には九年六月にも甲斐の大地震があった。文亀になってその元年十二月越後に、永正になってその七年八月に、摂津、河内、山城、大和に大地震があって、摂津には海嘯の難があった。
大永五年八月には鎌倉に、弘治元年八月には会津に、天正六年十月には三河に、同十三年十一月には、山城、大和、和泉、河内、摂津、三河、伊勢、尾張、美濃、飛騨、近江、越前、加賀、讃岐の諸国に大地震があって、海に瀕した国には海嘯があった。
「豊鑑」には「天正十二年霜月廿九日子の刻ばかりにやおびただしくなゐふりけり、その様いはん限りなし、いにしへもたびたび大なゐふりけると記しをれども、眼あたりかかることなんめづらかなる。伊勢、尾張、美濃、近江、北陸、道分てありけりとなん、浦里などは、さながら海へゆり入り、犬雞などの類まで跡なくなりし所所ありとなん、家などひしげし内にありながら、さすが死にもやらざりしに、火もえつきて焼死、さけぶこゑ哀など思ひやるさへたへがたくなん、此のわざはひにあひて、国国里里、命を失ふ者際限なかるべし、常のなゐなどのふる事、明る春二月まで、そのなごりたえざりけり」としてある。
その天正十三年は秀吉が内大臣となった年で、国内の紛乱がやや収まって桃山時代の文化が生れたところであった。その十七年二月にも、駿河、遠江、三河にまた大地震があった。慶長に入るとその元年閏七月になって、二回の大地震が起った。はじめの地震は、豊後、薩摩の二箇国がひどく、豊後の府内の土地が陥没して海嘯が起った。その日は京都にも地震があった。「梅園拾遺」には、「ちかく慶長元年七月、大地震速見高崎山なども石崩れ落ち、火出たるよし、府内の記事に見えたり。この時かのあたり人七百余も損じたりとあり」と書いてある。つぎの地震は、山城、摂津、和泉の諸国の大地震で、伏見城の天守が崩壊して圧死者が多かった。この伏見の地震は、河竹黙阿弥の地震加藤の史劇で有名な地震で、石田三成等の纔者ざんしゃのために斥しりぞけられて蟄居ちっきょしていた加藤清正は、地震と見るや足軽を伴れて伏見城にかけつけ、城の内外の警衛に当ったので、秀吉の勘気も解けたのであった。
慶長も非常に地震の多い年であった。十九箇年間に約八十もあった。そのうちで大きかったのは元年の二回の地震の他に、九年十二月と十六年十月と十九年十月の大地震である。九年の地震は、薩摩、大隅、土佐、遠江、伊勢、紀伊、伊豆、上総、八丈島などで、海には海嘯つなみが吼えた。
「土佐国群書類従」に載せた「谷陵記」には、「崎浜談議所の住僧権大僧都阿闍利暁印が記録略に曰く、慶長九年災多し、先づ一に七月十三日大風洪水、二に八月四日大風洪水、三に閏八月二十八日又大洪水、四に十二月十六日夜地震、同夜半に大潮入つて、南向の国は尽く破損す、西北向の国は地震計りと言ふ、当所(崎浜)には五十人溺死、西寺東寺の麓には四百人、甲浦には三百五十余人、宍喰(阿波領)には三千八百六人溺死す、野根浦へは潮入らず、不思議と言ふべしと」。土佐の東部と阿波の一箇所の被害を記してあるが、関係諸国の溺死人は夥しい数にのぼったことであろう。十六年の地震は、三陸の地震で、仙台、南部、津軽及び松前の諸領にまで海嘯があった。十九年の地震は、越後、相模、紀伊、山城で、越後に海嘯があった。
四 元禄大地震、振袖火事、安政大地震
慶長五年の関ヶ原の役で、天下の権勢が徳川氏に帰すると共に、江戸時代三百年の平和期が来たが、その間慶長五年から慶応二年に至るまで、全国にわたって四百七八十回の大小の地震があり、地震に伴う海嘯があり、火事があって、市民にかなり深刻な脅威を刻みつけている。
慶長年間の地震のことは既に言った。元和二年七月には、仙台に大地震があって城壁楼櫓が破損した。寛永七年六月には江戸に大きな地震があり、同十年一月には、江戸をはじめ、相模、駿河、伊豆に大地震があったが、わけて小田原は城が破損して、町は一里の間一軒の家もないように潰れてしまった。そして熱海に海嘯があった。その寛永には十六年十一月に越前にも大きな地震があった。
正保元年三月には日光山、同年九月には羽後の本荘、同三年四月には陸前、磐城、武蔵、同四年五月には、また武蔵、相模に大きな地震があった。慶安には元年四月に相模、武蔵、山城、同二年二月に伊予、安芸、山城、その六月に武蔵、下野、この翌月に武蔵の大地震があったが、六月の地震には江戸城の石垣が崩れ、諸大名の屋敷町屋が潰れたので、江戸の人心に動揺の兆があった。由比正雪の隠謀の露われたのは、それから中一年を置いた四年の七月であった。
万治二年二月には、岩代、下野、武蔵に大きな地震があった。寛文年間も大きな地震の多い年であった。元年十月には土佐、同二年三月には京都、江戸、同年五月には山城、大和、伊賀、伊勢、近江、摂津、和泉、丹波、丹後、若狭、美濃、信濃、肥前、同年九月には日向、大隅、同三年七月には胆振いぶり、同年十二月には山城、同四年六月には紀伊の新宮、京都、同五年五月には京都、同年十一月には越後、同八年七月には仙台、同十年六月には相模の大住、というように大きな地震があったが、そのうち日向、大隅の地震には海嘯があり、胆振の地震には有珠岳が噴火した。温泉岳も寛永三年に噴火し、阿蘇山は王朝時代から思いだしたように時時噴火している。
延宝四年六月には石見、同五年三月には陸中の南部に地震と海嘯があった。元和三年五月には江戸と日光山、同年九月には日光山、貞保元年二月には伊豆の大島に地震があって、三原山が噴火した。貞保二年九月には周防、長門、同三年八月には遠江、三河、山城、元禄七年五月には羽後の能代、同十年十月には相模、武蔵に、それぞれ地震があった。そして元禄十六年十一月二十三日には、武蔵、相模、安房、上総に大地震があったが、その地震には江戸と小田原がひどく、江戸には火事があり、小田原、鎌倉、安房は長狭、朝夷の両郡、上総は夷隅郡に海嘯があった。新井白石もこの地震に逢ったので、「折り焼く柴の記」の中には、その夜の江戸の地震の光景を精細に叙述してある。この地震は安政の地震に匹敵する大地震で、その数日前即ち十一月十四日の外には、その前ぶれのように四谷塩町から出た火が、青山、赤坂、麻布、品川を焼いて、元禄の豪奢に酔うていた江戸市民に警告を与えたが、地震の後でもまた火事があって、怯えている市民の心をいやが上にも怯えさした。それは地震のあった月の二十九日で、本郷追分から出火して、谷中まで焼き、一方は小石川の水戸邸から出火して、上野湯島天神、聖堂筋違橋、向柳原、浅草茅町、南は神田から伝馬町、小舟町掘留、小網町、それから本所へ飛火して、回向院の辺、深川。そして永代橋の西半分を焼いて翌朝になって鎮まった。それには千三百の焼死者があった。
江戸ではその火事を地震火事と言った。江戸の火事のことを言うと、その以前寛永十八年正月にも大火があり、明暦三年正月十八、十九の両日にも大火があった。わけて明暦の大火は江戸未曽有の大火であったから、市民は由比丸橋の残当の放火であろうと言って恐れ戦おののいた。それは明暦三年正月十八日の未の刻で、本郷丸山の本妙寺の法華宗の寺から出火して、折りからの北風に幾派にも分れた火は、下谷の方は神田明神から駿河台へ飛火し、鷹匠町の辺、神田橋の内へ入って、神田橋、常盤橋、呉服橋などの橋も門も番所も焼き払い、西河岸から呉服町、南大工町、檜物町、上槇町、それから横に切れて大鋸町、本材木町へ移り、金六町、水谷町、紀国橋の辺から木挽町を焼き、芝の網場まで往った。下町の方は、須田町、鍛冶町、白銀町、石町、伝馬町、小田原町、小船町、伊勢町を焼き、川を越えて、茅場町、同心町、八丁堀に及んだ。その火が伝馬町に移った時、伝馬町の獄では囚徒を放った。その囚徒は東へ走って浅草門を出た。浅草門の門番は囚徒を逃がしてはならんと思って門を締めたので、火に追われて逃げて来た市民はそこで無数に焼け死んだ。東の方の火は、佐久間町から柳原を一嘗めにして、浜町、霊岸島、新堀から鉄砲洲てっぽうずに移って、百余艘の舟を焼いたがために、佃島、石川島に燃え移り、それから深川に移り、牛島、新田にまで往った。その火は翌日の辰の刻になって止んだが、その日の午の刻になって、昨日から吹き止まない大風に吹き煽られて小石川伝通院前の鷹匠町から発火した。そしてその火は北は駒込から南は外曲輪に及んだが、日暮ごろから風が変ったために曲輪内の諸大名の邸宅を焼き、数寄屋橋の内外、日本橋、京橋、新橋を焼いて鎮まった。しかしその一方、未の刻に麹町から出た火があって、雉子橋、一つ橋、神田橋に及び、また北風になった風に煽られて、八重洲河岸、大名小路を嘗め、西丸下桜田に至って二つに別れ、一方は通町に出で、一方は愛宕下から芝浦まで往った。この火に江戸城の本丸並びに二三の丸も焼けたので、将軍家綱は西の丸に避難した。この火には諸大名の邸宅五百軒、神社仏閣三百余、橋梁六十、坊街八百を焼失したが、市民の屋舎の焼失した数は判らない。その時の死人は、「本庄に二町四方の地を賜ひ、非人をして死骸を船にて運ばしめ、塚を築きて寺院を建て、国豊山無縁寺回向院と名づけしめ給ふ」と武江年表に書いてあるが、これが回向院の起りである。その明暦の大火は俗に振袖火事という名があって、奇怪な因縁話がまつわっている。
寛永四年十月には、山城、大和、河内、摂津、紀伊、土佐、讃岐、伊予、阿波、伊勢、尾張、美濃、近江、遠江、三河、相模、駿河、甲斐、伊豆、豊後の諸国にわたって大地震があって、人畜の死傷するもの無数。そして土佐、阿波、摂津、伊豆、遠江、伊勢、長門、日向、豊後、紀伊などの海に面した国には海嘯があったが、そのうちでも土佐などは海岸の平地という平地は海水が溢れて被害が大きかった。「基凞公記」などには、「四国土佐大震国中十に七つ破損、人民四十万人死」としてあるが、実際は二千人ぐらいであったらしい。その大地震の恐怖のまだ生生している十一月に、駿河、甲斐、相模、武蔵に地震が起ると共に、富士山が爆発して噴火口の傍に一つの山を湧出した。これがいわゆる宝永山である。山麓の須走村は熔岩の下に埋没し、降灰は武相駿三箇国の田圃を埋めた。その宝永の五年十一月に浅間山が噴火し、享保二年一月三日には日向の鶴鳴山が噴火した。
正徳元年二月には美作、因幡、伯耆、山城、同四年三月には信濃、享保三年七月には信濃、三河、遠江、山城、同年九月には信濃の飯山、同十年九月と十月には長崎、同十四年七月には能登、佐渡、同年九月には岩代の桑折こおり、宝暦元年四月には越後、同五年三月には日光、同十二年九月には佐渡、明和三年一月には陸奥の弘前、明和三年二月にも弘前、同六年七月には日向、豊後に大きな地震があり、安永七年七月には伊豆大島の三原山の噴火があった。安永八年十月には桜島の大噴火があって、山麓の村落に火石熱土を流して、死亡者一万六千余人、牛馬二千余頭を斃たおした。この噴火のために島の付近に新島嶼が湧出したことは序記に言ってある。
天明二年七月には、相模、江戸に大きな地震があった。三年七月には、浅間山の大噴火があった。寛政四年一月には、肥前温泉岳の普智山の噴火があった。同十一年五月には、加賀の金沢に地震があって、宮城浦に海嘯。享和二年十一月には、佐渡に地震があって、小木湊に海嘯。文化元年六月には、羽前、羽後に地震があって象潟きさがたに海嘯。また文化九年十一月には、武蔵に地震があった。文政四年十一月には、岩代の地震。同五年閏一月には胆振いぶりにあって、それには有珠嶽が噴火した。文政にはまた十一年十一月に越後の地震があった。
天保元年七月には、山城、摂津、丹波、丹後、近江、若狭、同二年十月には肥前、同四年十月には佐渡、同五年一月には石狩、同七年七月には仙台、同十年三月には釧路、同十二年には駿河、同十四年三月には釧路、根室、渡島、弘化四年三月には信濃、越後、嘉永六年二月には相模、駿河、伊豆、三河、遠江に大きな地震やそれに伴う海嘯があって、次に来る安政大変災の前駆をなしている。
有名な安政の地震は、元年十一月四日と二年十一月二日の二回あって、江戸に大被害を蒙らしたのは二年の地震であった。安政には既に元年六月十五日になって、山城、大和、河内、和泉、摂津、近江、丹波、紀伊、尾張、伊賀、伊勢、越前の諸国にわたって大きな地震があった。
十一月四日の地震は、その日に東海、東山の両道が震い、翌日になって、南海、西海、山陽、山陰の四道が震うたが、海に沿うた国には海嘯があった。この地震は豊後海峡の海底の破裂に原因があって、四国と九州が大災害を被っている。
二年の地震は、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、豊前、豊後、筑前、筑後、壱岐、出雲、石見、播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、摂津、河内、若狭、越前、近江、美濃、伊勢、尾張、伊豆一帯が震うて、摂津、紀伊、播磨、阿波、土佐、伊豆の諸国には海嘯があったが、この地震は江戸の地震と言われるだけに江戸が非常にひどかった。武江年表には「十二月細雨時時降る、夜に至りて雨なく天色朦朧たりしが、亥の二点大地俄に震ふこと甚しく須臾にして大厦高牆を顛倒し倉廩を破壊せしめ、剰さへその頽れたる家家より火起り熾に燃えあがりて、黒煙天を翳め、多くの家屋資財を焼却せり」と言って、地震と共に二十四箇所から火が起って惨害をほしいままにしたことを書いてある。その焼け跡は長さ二里十九町で幅が二町余であった。変死人は七千人。この地震に水戸の藤田東湖と戸田忠太夫の二名士が斃れた。
火事は江戸の花と言われるくらい、江戸時代には地震以外にもたくさんの火事があった。享保五年三月にも同九年二月にも、寛政四年七月にも安永元年十二月にも、文化三年三月にも同十二年三月にも、天保九年四月にも弘化元年正月にも、同三年十二月にも慶応二年にも恐ろしい火事があった。
五 維新以後の災変
安政元年二月の大地震後、大きな地震はその年の十月と三年の十月に江戸にあった。そして安政三年七月には渡島、胆振にあって、それには海嘯つなみがあった。同四年閏五月に駿河、相模、武蔵、同年七月に伊予、同五年二月に越中、越前、同年三月に信濃、松代、同六年に武蔵の槻にあって、それが江戸時代のしんがりをしている。
明治では五年二月に浜田、二十二年七月に熊本、二十四年十月に濃尾、二十七年六月に東京、同年十月に庄内、二十九年六月に三陸、同年八月に陸羽、三十九年三月に台湾の嘉義、四十二年八月江州に大地震があったが、その内で濃尾の地震には七千余人の死人を出し、三陸の海嘯には二万余の死人を出した。大正になって三年三月に秋田の仙北、それから今回の十二年九月一日の関東の大地震で、それには約十万の犠牲者と約五十万の家屋とを失った。允恭天皇以来平均三年半に一回の大地震に逢うことになっている地震国に、七千万の人間がいて年年人口の過剰に苦しんでいるとは嘘のようである。
 

 

●「神無月」 それは冥府にくだった地母神の神話を意味していた?
今日から10月です。今の時代、10月といえば気候も穏やかで寒くも暑くもなく、文化活動をするにもスポーツをするにも、一年のうちで最適な時期になります。ですが、旧暦時代の十月はすでに初冬。新暦でいうと、10月末から12月前半ごろにあたります。おなじみ和風月名では十月は「神無月」。他の月と同様、そのあらわす意味については諸説ありますし、印象的な名称のせいもあって比較的多くの人が神無月の意味について他の月名よりも関心や薀蓄をもっているようです。ここでは一般的通説からもう一歩ふみこんで、「かんな(かみな)月」のあらわす意味をさぐっていきたいと思います。ちょっと複雑ですがお付き合いください。
「神の無い月」説と「神の月」説。実はどちらもおかしい!
「神無月」の意味については、
(1) この月、全国各地の神社に祭られる神々が、一部(恵比寿、諏訪明神)を除いて出雲に参集して留守になるので「神の無い月」。だから出雲だけは特別にこの月を「神在(かみあり/じんざい)月」と言う。
(2) 神無月の「無」は、助詞の「な(の)」であり「神の月」という意味である。本来この月に、神に神饌を捧げる重要な収穫祭「新嘗」が行われていたためである。
という相反する説があり、(1)(2)とも、メディアなどで薀蓄として語られるのでご存知の方も多いことでしょう。
しかし、(1)については、和風月名とは、「海外渡来文化が流入する以前の日本独自の口承文化時代から受け継がれてきた古い独自の月名」とされていて、もともと日本の神々は神社を必要とせず山や川、石や木々、動物であるとするアニミズム(精霊信仰)ですから、「神社を留守にするから神さまがいない」という解釈は、和風月名のコンセプトと矛盾しています。出雲の「神在月」に関しては「神在=じんざい」はこの月、出雲で行われる鎮齋(ちんさい)=古い形の新嘗に先立つ斎戒の儀礼が語源とされています。中世、伊勢神宮や出雲(杵築)大社では、現代のツアコンのような存在である御師が全国をまわり、参拝ツアーをうながす宣伝を行っていました。「わが神社にこの時期あらゆる神々が集まるのですからご利益絶大。是非おいでなさい」と伊勢神宮が宣伝しているがうさんくさいことだ、と『徒然草』(兼好法師)にも、記述されています。つまり、「神の無い月」という解釈自体が中世頃からの語呂合わせと考えられます。
(2)については、当コラムの「水無月」の解釈編でも述べたことと重複するのですが、「無」が「の」ならば、なぜ他の月には「無」がつかないのでしょう。水無月と神無月のみに「無=の」がつく理由、あるいは法則について古から説明がなされていません。また、十月が「神の月」というのなら、神を我が家にお迎えする正月(一月)、田の神を降ろす四月、夏越の祓のある六月、来訪神が多くやってくる八月や十二月はなぜ「神の月」ではないのでしょうか。ですので、十月を特別に「神の月」とする解釈は無理があるように思われます。「な」は助詞ではなく意味があって挿入されていると考えるべきです。『倭訓栞』(谷川士清 1777〜1887年にかけて刊行・完成)では、「神嘗月の義なるべし、我邦の古へも西土にも、神嘗祭は十月なりし事其證多し」とあり、「神嘗(かんなめ)」が語源である、としています。実際十月は古くは神嘗(新嘗)の月だったのですから説得力があります。同書では続けて出雲國造家の唱える説として、大物主神が八十萬神を引き連れて天に昇っていなくなった月だから「神無し月」とするもの、雷が鳴ることがなくなる=「雷無月」からとする説を紹介しています。
世界系神話類型「冥府下り」。ナギ・ナミ神話が意味する季節の移ろい
とはいえ、中世から近世にかけて隆盛となった国学による「神嘗」という稲作絶対主義の解釈を鵜呑みにするのも誤解の危惧があります。和風月名は稲作文化伝播より以前に起源を求めるべきだからです。十月の異名は多くの名が伝わります。元冬(げんとう)、孟冬、始冬などの初冬をあらわすもの、時雨(しぐれ)月、小春月、雷無月、などの旧暦十月ごろの気候と関係したもの、玄英(げんえい)、建亥月(けんがいげつ)、応鐘(こたえるかね/おうしょう)などの漢籍由来と考えられるものなどです(「応鐘」とは中国音楽十二律の一音)。しかしそんな中で目を引く月名は「御忌(おいみ)」でしょう。古神道を伝える卜部家の伝承では、神無月は日本神話の神々の母であり冥府の女王であるイザナミの命日の月だからとされています。なぜ十月はイザナミの神去った月とされているのでしょう。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を追ひて、黄泉(よみのくに)に入りて、及(し)きて共に語る。時に伊弉冉尊の曰(のたま)はく、「吾夫君(わがなせ)の尊、何ぞ晩(おそ)く來(いでま)しつる。吾已(すで)に湌泉之竃(よもつへくい)せり。然れども、吾當(さき)に寝息(ねやす)まむ。請ふ、な視ましそ」とのたまふ。伊弉諾尊、聴きたまはずして、陰(ひそか)に湯津爪櫛(ゆづつまぐし)を取りて、其の雄柱を牽き折(か)きて、采炬として、見しかば、膿沸き蟲(うじ)流(たか)る。(中略)時に伊弉諾尊、大きに驚きて曰はく、「吾、意(おも)はず、不須也凶目(いなしこめ)き汚穢(きたな)き國に到(き)にけり」とのたまひて、乃(すなは)ち急(すみやか)に走(に)げ廻歸(かへ)りたまふ。時に、伊弉冉尊、恨みて曰はく、「何ぞ要(ちぎ)りし言(こと)を用ゐたまはずして、吾に恥辱(はち)みせます」とのたまひて、乃ち泉津醜女(よもつしこめ)八人、一(ある)に云はく、泉津日狭女(よもつひさめ)といふ、を遣して追ひて留めまつる。(『日本書紀』神代上 第五段 一書第六)
神去ったイザナミを追い、冥界にやって来たイザナギ。妻と再会し、なつかしく語り合いますが、「もう寝る」というイザナミの「寝ている姿を見ないでください」という請願を破って火をともし、腐敗した凄惨な妻の姿を目撃してしまい、あわてて逃げ帰って恨みを買う、という筋書きです。この後、次々に来る黄泉の追っ手を逃れ、ついにはイザナミ自身が追いすがるのをイザナギは泉津比良坂(よもつひらさか)まで逃げ帰り、千人所引磐石(ちびきのいわ)で坂道をふさぎ、黄泉と現世とに結界を設け、イザナミが現世に現れ出ないよう封印してしまいます。
この神話は、冥府下りの類型として、世界各地に類似した物語が伝わります。特にギリシャ神話のペルセフォネーの物語は典型例です。大地母神デーメーテルの娘ペルセフォネーを冥府の王ハーデスが連れ去り妻としたのを、デーメーテルが嘆き悲しんだために世界中は生気を失ったので、天帝ゼウスはヘルメスを使いに出し、ペルセフォネーを帰してやるようハーデスに依頼します。ハーデスは聞き入れますが、帰る間際に、冥府に実ったザクロを与えます。ペルセフォネーは12粒のうち4粒を食べてしまいます。神々の合議で冥府の食べ物を口にした者は冥府に留まらねばならないという取り決めがあったので、ペルセフォネーは冥府に帰属する運命から逃れられなくなりました。ただ、全てではなく1/3を食べたのみなので、それにあたる期間を冥府で、残りの期間を地上で過ごす、ということになりました。こうしてペルセフォネーが冥府に降りる期間は、デーメーテルは地上に実りをもたらすことを取りやめ、「冬」という不毛の季節がこの世にもたらされるようになった、という神話です。
ペルセフォネー神話が冬という季節の起源を語る物語になっているのと同様、イザナミの死が旧暦十月、つまり孟冬に設定されているのも冬の到来を象徴したものといえます。
「かむな」とは冬の到来を意味する?
旧暦十月十日の夜には「十日夜(とおかんや)」と称する民間行事があります。東日本、特に新潟、長野、山梨から北関東にかけて盛んで、春の耕作の開始時期から田畑に立って作物を見守ってきた案山子(かかし)を引き上げ、作物神の依代として、畑の作物や餅を供えます。また村落の子供たちが「藁鉄砲」と呼ばれる稲藁を束ねて縄でぐるぐると縛って棒状にした呪具をもち、村の道を叩いてまわります。十日夜は別名「大根の年取り」と言い、西日本にはほぼ同じ行事が旧暦十月の亥の日の「亥の子」として伝わります。こちらは藁鉄砲ではなく、石で道を叩いてまわります。藁鉄砲や石で道を叩く理由は、民俗学では「大地の精霊に活力を与える」などと説明されていますが、そうでしょうか。悪霊ならともかく、精霊(神)をひっぱたいて活力を与えるなどという乱暴な信仰はあまり聞いたことがありません。古語で「なふ(なう)」とは「平ふ/均ふ/正ふ/直ふ」であり、でこぼこの土地を平らにならす、もとの状態に復元する、という意味になります。十日夜の地面を叩く行事は、春以来土を掘り起こし、耕作をして大地を荒らした営みの終わりに、土を均(なら)し、自然本来の状態にリセット(掃除)する意味ととらえるべきではないでしょうか。
「神(かみ)」(カミ/クマ/カム)という和語の語源は、「被(かむ)る」「隠(くま)る」などの意味で、山や森、谷の奥や洞窟などの人の足が及ばぬ奥地に隠れていて、水や光などの霊力を送り込む力/作用のことでした。「山」「闇」「谷津」に隠れているカミは、卯月八日、村人たちの迎えに応じて里に降りてきて歓待を受け、田畑に留まり、耕作の手助けをすると信じられていました。そして十日夜、亥の日をもって、丁重に送られて山へと帰って行くのです。
つまり「神=隠+直る」で「かむな(かんな)」です。わざわざ里に降りてきて人のために手を貸していた隠=カミが、この行事をもって本来の隠れた聖所に「直る(戻る)」のです。古語ではヤドカリのことも「かむな」と言います。巻貝の秘所にひきこもるこの小さな甲殻類のように、神が本来の見えない聖なる存在となる、その時期を「かんな」とあらわしたのではないでしょうか。そしてそれはそのまま、生物の活動が停止・低下する冬の季節の到来を意味したので、神々の母であるイザナミの命日も、この月になったと言えるのではないでしょうか。

●出雲に神々が集まって、全国から神様がいなくなるから神無月ってほんと?
10月の古い呼び名は神無月。旧暦では今年は10月31日より神無月となります。よく語られる薀蓄に、「神無月は出雲(島根県)では神在月(かみありづき)で、全国から主だった神様が集合して人間の縁結びの相談をするのだ」というものがありますね。事実島根では「神在月」といわれ、出雲大社や佐陀神社で祭りが行なわれます。でも、「神無月」を「神の無い月」と読み解くこと自体がこじつけで、「水無月」が「水の月」という意味であるのと同じく「神(の)月」の意味というのが定説です。この時期、神々は縁結びのために出雲に集まるのでしょうか?それとも?
兼好法師 「おまえら神無月に神々が集まるとかいってるけど何の根拠もない」
まずは現在言われている「出雲の神在月」の概略を整理してみましょう。
出雲で旧暦の10月を「神在月」というのは、出雲大社の大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)の元に全国から神々が集まるため、神々がひしめいて「神が在る月」で「神在月(かみありづき)」という。神々は稲佐の浜から上陸し、竜蛇神の扇動で出雲大社の神楽殿に導かれる。ただし伊勢神宮の天照大御神(あまてらすおおみかみ)と諏訪大社の建御名方神(たけみなかたのかみ)だけは参集しない。
そして出雲大社に集まった神々が「神議(かむばかり)」という会議をして、来年の人々の縁、仕事運などを差配する。
と、おおよそこのように言われています。でも実はこれは中世以降に出雲大社(明治以前までは杵築神社といわれていました)の御師(おし/昔のツアーコンダクター、観光宣伝係)が盛んに全国に広めたいわば俗説、作話です。
あの「徒然草」の吉田兼好も、「十月を神無月と言ひて、神事に憚るべきよしは、記したる物なし。(中略)この月、万の神達、太神宮に集り給ふなど言ふ説あれども、その本説なし。(第202段)」つまり、「十月には大神宮(伊勢神宮)に神様たちが集まるとか言う説があるが全然根拠ない話だよね」と記しています。ここでは、神無月の神々の集合を否定するばかりではなく、出雲大社ではなく伊勢神宮に集まるという説がある、と書かれています。当時、伊勢の御師も似たような客寄せの口上を広めていたとも考えられますが、中には吉田兼好の勘違い、と言う者もあります。が、兼好は実は占部家という名門神官の家系であり、神道の風習については一般人よりはるかに詳しかったといわれ、知らなかったとか勘違いと言うことはないでしょう。ここで出雲大社(杵築神社)に触れていないのはおそらく意図的で、杵築神社の客寄せ口上など話題にすらしてやらん、という意思のように読み解けます。
起源は神々の母・伊弉冉尊を偲ぶ「お忌さん(おいみさん)」と新嘗の斎戒
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
本来の「神在月」の「神在」とは「じんざい」と読み、鎮齋(ちんさい)すなわち斎(いつ)き鎮まる=物忌みをし、厳しく斎戒をする月、という意味でした。これは新嘗祭(にいなめさい)の古来の姿だといわれています。これを相新嘗(あいにいなめ)といい、その年の新穀を神に献ずる儀式で、それに先立ち心身を清めるための厳しい斎戒を行ったのです。大宝律令が制定されて以降、伊勢神宮のみを尊重の意味をこめて先行して新嘗祭を9月に繰りあげ、その他の神社では11月に繰り下げられたために新嘗祭と言うと今や11月というイメージです(現代では新嘗祭にあわせて11月23日が勤労感謝の日という祭日になっていますよね)が、本来は旧暦10月におこなわれていたのです。そして出雲国ではこの古来の新嘗の祭が固守されていました。
また、旧暦10月は多くの神々を産み落としたとされるイザナミノミコト(伊弉冉/伊邪那美/伊弉弥)が神去った(亡くなった)月であるという伝承があります。古事記では「かれその神避りし伊弉那美の神は、出雲の国と伯伎の国の堺、比婆の山に葬りき」とあり、現在の鳥取県との境、島根県安来市伯太町横屋の比婆山の山頂に埋葬されたとされ、現在は比婆山久米神社が、山頂に奥の宮、山麓に下の宮の社殿が建てられています。そしてそのことから、以降八百万の神々は毎年この月になると出雲に集い母神を偲ばれるのだとされ、つまり、父神イザナキにより母神イザナミの殯(もがり・死者を悼み、その死体の腐敗を見届ける儀式)をおこなった出雲の地に神々が由縁の月に集うという伝説と、人々の新嘗の斎戒=忌み行事が重なって、「お忌さん」と呼ばれる神在月の祭りと信仰が形成されたのが実態なのです。
神在祭の期間中は、歌舞音曲や喧騒はもちろん、造作等も慎む禁忌の祭でした。祭は陰暦10月11日から25日までの15日間で、11日から17日までが上忌で準備期間としての散祭(あらいみ)、18日から25日までが下忌で致祭(まいみ)とされ、重んじられたのは下忌の方で、25日の神等去出(からさで)神事が終わるまで特に厳しい謹慎斎戒に服しました。
この上忌と下忌を、今では神々がまず出雲大社にお立ち寄りになり、そのあと佐陀神社においでになる、というふうに言い換えられてしまっていますが、これは出雲大社では上忌が残り、佐陀神社は下忌が残った為に作られた後付のストーリーです。
大国主神がゆずった「国」とはどこの「国」なのか
それにしても、どうして出雲だけが特別に古来の神在祭が残り、また神話にたびたび登場するのでしょうか。スサノヲがおいおいと泣いて「妣(はは/亡くなった母親を表す言葉でここではイザナミを指します)の国根の堅州国(かたすくに)に罷(まか)らむと欲ふ」とうったえた根の堅州国と言うのも、出雲を指します。「根の国」の「根」は、今でも「島根県」という名前に残存していますよね。
とりわけ有名で重要な逸話は「大国主神の国譲り」ではないでしょうか。
この大国主神とはどんな神なのでしょうか。
日本書紀本文ではスサノヲの息子とも、古事記、日本書紀の一書(異伝)ではスサノオの六世の孫、または七世の孫などとされ、大穴牟遅神(おおなむぢ)・大穴持命(おおあなもち)・大己貴命(おほなむち)・大物主神(おおものぬし)・八千矛神(やちほこ)・葦原色許男神(あしはらのしこをのかみ)など数々の異名を持ち、またその子供は何と180有余ともいわれる子沢山。子沢山のゆえに大国主神を祭る出雲大社は縁結び・子孫繁栄のご利益の神社となっているわけです。
大国主神は外来神の少彦名命とともに葦原中国(あしはらのなかつくに)を史上初めて平定した国づくりの偉大な神といわれています。そして高天原からの天孫降臨により国を明け渡せとせまられて、「隠れた(この世から去った)」と伝えられています。
この葦原中国(あしはらのなかつくに)は現在の西日本一帯、北九州から中国・近畿・紀伊半島までもふくめた広い地域の統一国家もしくは連合国を指し、その首都もしくは首長国が「出雲」だったのです。今の日本で言えば東京都にあたる地域が、古代では出雲だったのでした。
神話の中では、「黄泉の国」と同定される(厳密に言えばまったく違うのですが)こともある「根の国」のことも指し、出雲地方一地域のことも指し、また古代統一国家「出雲大国」の意味であった出雲。異なる意味合いがこめられていることが混乱の元。
これは、その出雲の首長であり創始者である大国主神についてもいえることでした。
タケミナカタは負けていなかったし国をゆずったのもオオクニヌシではなかった?
大国主神がスサノヲの息子とか何代後の子孫などと言われているのは「大国主」というのが固有名詞ではなく、「皇帝」や「大統領」と同じく、引き継がれた古代国家の支配者の尊称でもあったことを示しています。多くの異名があるのも、時代ごとに習合された神があるためです。
因幡の白兎や、スサノヲの元から物部の十種の神宝を強奪した大国主神と、フツヌシもしくはタケミカヅチに国譲りを迫られた大国主神は代替わりしていると考えられます。だからこそ、「息子の事代主(コトシロヌシ)に聞いてくれ」とわけの分からないことを言っているのです。つまり、このときもはやもとの偉大なる大国主神はすでにおらず祖霊となっていて、支配者はコトシロヌシだったのです。「代(しろ)」と言うのは息子とか跡継ぎの意味です。つまり「事」の跡継ぎ。「事」とは、尊称である初代「大国主神」の固有名、本当の名前だという説があります。
そして抵抗してタケミカヅチにやっつけられてしまうタケミナカタの神とは、まったくオオクニヌシの系譜に出てこないため、古事記の創作だと思われます。記紀が編纂された当時の最高権力を握っていた藤原氏の氏神であるタケミカヅチを活躍させるために登場させられたわけです。高天原の神の武力が上であることを示すために利用してしまったタケミナカタの神様に申し訳ないと怖れる気持ちが、現在の八百万の神大集合伝承の中でもアマテラスとともに「タケミナカタはおいでにならない」という免責・遠慮事項に現れていて面白いですよね。
出雲の神在月の祭りには神社社殿を造営しなかった古い時代の信仰の名残としての神奈備信仰の地として、出雲の神名樋山(かんなびやま)に神々が去来するという信仰にも関わりがあります。由緒や起源は書き換えられていても、「神々が集う」という信仰自体は古くから正真正銘受け継がれてきたものです。
特に、出雲国二の宮「佐陀神社」の祭・行事は古代の姿をとどめているといわれます。佐陀神社の祭神は出雲四大神の一柱、佐太大神。現在は猿田毘古大神(サルタヒコ)と同一神とされていますが、明治時代に佐太大神を猿田毘古大神に変えよと命じられた際、神官・氏子たちが断固拒否したという曰くの神です。実際サルタヒコは伊勢の神様で、佐太大神とはちがうのですが・・・これはまたいつかの機会に。
今年2016年の神在月の期間日程は、出雲大社が11月9日〜11月16日、佐陀神社が11月20日〜25日です。
特に25日の夜の神事は必見。境内の灯りが消された中で500年以上変らず伝えられてきたという神事が行なわれます。
古代の神様の姿を垣間見られるかもしれません。

●神無月
[ かみなづき、かんなづき(「かむなづき」とも表記される)] かみなしづき、かみなかりづき)は日本における旧暦10月の異称。今日では新暦10月の異称としても用いられる場合も多い。「神無」を「神が不在」と解釈するのは語源俗解である。また、この俗解が基になって更にさまざまな伝承を生じることになった。
「神無月」の語源は不詳である。有力な説として、神無月の「無・な」が「の」にあたる連体助詞「な」で「神の月」というものがあり、日本国語大辞典もこの説を採っている(後述)。「水無月」が「水の月」であることと同じである。
(伊勢神宮・内宮に居る天照大御神以外の)神々が出雲に集まって翌年について会議するので出雲以外には神がいなくなるという説は、平安時代以降の後付けで、出雲大社の御師が全国に広めた語源俗解である。なお、月名についての語源俗解の例としては、師走(12月)も有名である。
御師の活動がなかった沖縄県においても、旧暦10月にはどの土地でも行事や祭りを行わないため、神のいない月として「飽果十月」と呼ばれる。
日本国語大辞典は語義の冒頭に、「「な」は「の」の意で、「神の月」すなわち、神祭りの月の意か。俗説には、全国の神神が出雲大社に集まって、諸国が「神無しになる月」だからといい、広く信じられた」とし、語源説として次の11説を列挙している。
1.諸神が出雲に集合し、他の地では神が不在になる月であるから〔奥義抄、名語記、日本釈名〕
2.諸社に祭りのない月であるからか〔徒然草、白石先生紳書〕
3.陰神崩御の月であるから〔世諺問答、類聚名物考〕
4.カミナヅキ(雷無月)の意〔語意考、類聚名物考、年山紀聞〕
5.カミナヅキ(上無月)の義〔和爾雅、類聚名物考、滑稽雑談、北窓瑣談、古今要覧稿〕
6.カミナヅキ(神甞月)の義〔南留別志、黄昏随筆、和訓栞、日本古語大辞典=松岡静雄〕
7.新穀で酒を醸すことから、カミナヅキ(醸成月)の義〔嚶々筆語、大言海〕
8.カリネヅキ(刈稲月)の義〔兎園小説外集〕
9.カはキハ(黄葉)の反。ミナは皆の意。黄葉皆月の義〔名語記〕
10.ナにはナ(無)の意はない。神ノ月の意〔万葉集類林、東雅〕
11.一年を二つに分ける考え方があり、ミナヅキ(六月)に対していま一度のミナヅキ、すなわち年末に誓いミナヅキ、カミ(上)のミナヅキという意からカミナヅキと称された〔霜及び霜月=折口信夫〕
「神無」が基になった伝承​
出雲に神々が集まるから「神無月」と呼ぶという民間語源が元になって、逆に出雲地方には神々が集まるだろうという俗信が生じ、出雲地方では、10月が神在月(あるいは神有月)と呼ばれるようになった。したがって、これも一種の民間語源である。 この俗説も、中世には唱えられていた。
   神迎えから神送り​
○出雲​ 
出雲では、出雲大社ほかいくつかの神社で旧暦10月に「神在月」の神事が行われる。
旧暦10月10日の夜、記紀神話において国譲りが行われたとされる稲佐浜で、全国から参集する神々を迎える「神迎祭」が行われる。その後、旧暦10月11日から17日まで出雲大社で会議が行われるとして、その間「神在祭」が行われる。旧暦10月18日には、各地に帰る神々を見送る「神等去出祭」が出雲大社拝殿で行われる。出雲大社の荒垣内には、神々の宿舎となる「十九社」がある。
日御碕神社(出雲市大社町)・朝山神社(出雲市朝山町)・万九千神社(出雲市斐川町)・神原神社(雲南市加茂町)・佐太神社(松江市鹿島町)・売豆紀神社(松江市雑賀町)・神魂神社(松江市大庭町)・多賀神社(松江市朝酌町)でも神在祭にまつわる神事が行われる。
この他、島根県西部(石見地方)では、同時期に多数の社中が地元の各神社において、神迎えの祭事として石見神楽を奉納する。
○飯綱山​
長野県小諸市の飯縄山では、神無月に小諸や佐久地域の神々を出雲へ送る「神送り」を行った。また、出雲から帰ってきた神々を迎える「神迎え」も盛大に挙行された。神送りや、神迎えの時に松明を燃やす伝統があった。その火により明治時代に火災が発生し、この行事は中断されたままになっている。
   参集する神々と留守神​
出雲に行くのは大国主神系の国津神だけであるという説や、天照大神を始めとする天津神も出雲に行くという説もあり、この考えと一致するような、「出雲に出向きはするが、対馬の天照神社の天照大神は、神無月に出雲に参集する諸神の最後に参上し、最初に退出する」と言う伝承もある。
○諏訪大社​
伝承によれば、諏訪大社の祭神の諏訪明神が龍(蛇)の姿を取り出雲へ行ったが、あまりにも巨大であったため、それに驚いた出雲に集まった神々が、気遣って「諏訪明神に限っては、出雲にわざわざ出向かずとも良い」ということになり、神無月にも諏訪大社に神が有ることから神在月とされている。
○鍵取明神​
能登では、10月に神々が出雲に集っている間にも、宝達志水町の志乎神社の神だけはこの地にとどまり能登を守護するという。そのためこの神社は「鍵取明神」と呼ばれる。なお、志乎神社は素盞嗚尊・大国主命・建御名方神を祭神とするが、能登にとどまるのは建御名方神である。
○留守神​
伝承で神無月には家に祀られている荒神も含めて出雲に旅立つとする地域がある(東京都世田谷区など)。
一方で出雲には出向かない祭神が存在するとしている地域もあり「留守神」と呼ばれている。留守神には荒神や恵比須神が宛てられることが多く、10月に恵比須を祀る恵比須講を行う地方もある。
山口県相島では竈の神様である荒神を留守神としている。
群馬県大泉町では荒神と恵比須神を留守神としており、伝承では荒神は子が多く連れていけないため留守番をしているという。
群馬県大胡町では荒神には子が多いため出雲には行かないという伝承があり留守神となっている。
福島県石城地域では荒神には眷族(けんぞく)が多いため遠慮して出かけないという伝承があり留守神となっている。
江戸時代、地震は地中の大鯰(おおなまず)が動くことが原因と考えられていたが、鹿島神宮では安政の大地震が10月に起きたことから、要石で大鯰を押さえつけていた祭神の鹿島大明神が不在で、さらに留守番をしていた恵比須神が居眠りをしたために起きたという伝承があり鯰絵にも描かれている。  
 

 

●奈良盆地における藁の大蛇 ─日本・中国における龍蛇信仰の比較研究に向けて
要旨
5,6月、奈良盆地に藁の大蛇が登場する民俗行事が行われてきたが、これまでは「野神祭り」の範疇に入れて研究し、発生についても綱掛け行事との関連を中心に考えられてきた。本稿では現地調査に基づいて藁の大蛇行事の構造・信仰対象の性格を考察し、先学の研究を踏まえながら藁の大蛇行事に含まれる諸要素を整理・検討した。行事は予め豊作祈願・災厄駆除の目的で行われたものであるが、信仰対象は祟り神的一面を持ち、それによって行事に特異性を呈するようになる。また信仰対象を顕在化し、その生態を演じることから芸能的性格も帯びる。藁の大蛇と共通的要素を持つ近隣地域の信仰や行事と比較分析し、さらに日本全国の雨乞い習俗と比較しながら、その発生・展開過程において、不定期の行事から定期的行事へと定着する可能性を提示した。最後にはこれまで日本の研究者が確認できなかった中国における藁の龍蛇行事を取り上げ、比較研究の将来性を展望した。
第一章 はじめに
日本と中国において、藁などの材料を用いて龍蛇を作って、祭ったり巡行したりする民俗行事が多くあり、行事が行われる期日・行事の目的・龍蛇の形態・用いた材料・行事の内容などによってさまざまな分類ができる1。またこの龍蛇信仰及び雨乞い習俗の分野において、日本と中国の比較研究は十分可能である。本稿ではこれまで行ってきた調査に基づきながら、奈良盆地の藁の大蛇行事の構成や展開における特質を考察し、これを将来のさらに詳細な比較研究に向けての土台にしたいと思う。
奈良県などの農耕地域では、村から少し離れた場所や水路・池の脇にある塚・小さい森・大木などに祭られる神を信仰対象に、「野神祭り」という行事が行われてきた。「ノガミ」という言葉は、行事の名前として使われたり、信仰の対象を表したり、神を祭る場所を指したりして、多くの意味が含まれ、かつ広い地域にわたって分布している2。奈良盆地において「野神祭り」は地域的特徴から、奈良盆地の北部と奈良盆地の中南部の二つに分けられている。前者は野神塚や神木に飼牛を連れて参ったりすることが行事の主な内容になっており、後者は藁の大蛇を作りノガミの神木に巻きつけたりすることが行事の主な内容になっている。
この中、藁の大蛇が登場する行事は、最も早く研究者に注目されたものでもある。大正13年の『郷土趣味』三月号には「大和の綱掛けの神事」(田中俊次)が掲載され、昭和5年の『諸国奇風俗を尋ねて』では「大和蛇穴の汁掛祭」(松川三郎)が紹介されている。昭和8年の『旅と伝説』(崎山卯佐衛門)においては高市郡眞菅村五井・北妙法寺・地黄の事例が紹介された3。その後の調査報告や研究は、昭和19年の辻本好孝の『和州祭礼記』(磯城郡川東村大字鍵・大字今里等6つの事例)、昭和30年の保仙純剛の「大和ノガミ[野神]資料」(『近畿民俗』17号−9つの事例)、昭和32年の笹谷良造の「シャカシャカ祭」(『近畿民俗』22号)などがある。
これらの資料で紹介された事例は、いずれも奈良盆地の中部と南部のものであり、いずれも特異性をもった行事として扱われている。昭和32年以降は保仙純剛をはじめ、笹谷良造・栢木喜一・米田豊等の研究者が精力的に調査と研究を展開し、考察範囲も次第に奈良盆地全体や滋賀県へ広がり、四国などの事例とも比較をしながら進めている。これらの研究によって野神祭りの全体像が見えるようになった。また無形文化財としての調査が進むにつれて、昭和60年に奈良県教育委員会は資料集『大和の野神行事』を完成させた。
最近の重要な研究として松崎憲三の「ノガミ(野神)信仰再考─奈良盆地における地域的展開」4と樽井由紀の「奈良盆地のノガミ行事の民俗学的研究」5を掲げることができる。この二つの論考では、それまでの研究の問題点を指摘している。つまり、野神の概念をはっきりせずに調査研究を進めてきたこと。野神信仰は地域的特徴があり、その受容・展開過程をトレースすることは史(資)料的に難しいこと。祖霊信仰や祟り神信仰などをもって奈良盆地の野神信仰を解釈することができず、地域的特徴を重視すべきことなどである。
第二章 巡行する藁の大蛇の特質
(一)今里の事例からみた行事の構造
奈良盆地のノガミ行事に藁の大蛇が登場する事例は、その行われる時期によって大きく二つのグループに分けられる。5,6月のグループと1,2月のグループである。5,6月のグループの事例には藁の大蛇の形態がより顕著に表現されている。ここでは田原本町今里の事例を通してこれらの行事の基本構造を把握する。以下2008年に調査を実施した時の様子である。
行事の期日は、昔は旧暦の5月5日だったが、現在は毎年6月の初めての日曜日になっている。毎年3戸の当屋を中心に行事が行われ、昨年の当屋と来年の当屋もこれに加わって、9戸が行事をつとめる。村は90戸からなっているので、30年に一回の順番で回ってくることになる。大人の当屋は世話役で、主役は12歳から15歳までの「頭もち」と呼ばれる子供たちである。巡行の際は蛇体作りを手伝う大人や12歳以下の子供も参加する。
去年安置した蛇体は新しいものに替えるため、前日までに去年の蛇体を木から下ろして燃やす。前日の晩に子供たちは柳の木を切って、鋤、鍬、梯、槌などの農具の模型を作る。
当日の午後1時ごろになると、当屋を始め、蛇体作りをする大人や行事に参加する子供たちは青の法被に白いズボン姿で村の杵築神社に続々と集まってくる。一同は拝殿前に立ち並んで礼拝し、大人たちは蛇作りを開始する。材料は12束の麦わらである。まずは大人たちだけで蛇の頭を作り、その後行事に参加する子供たちも加わって胴体を作る。作り上げた蛇体は18メートルもあり、これを16本の稲かけの足で支え、16本の女竹をもたげる。蛇の頭には葉っぱがついた樫の木の枝を数本差し込む。蛇体は蛇の頭を神社に向けた形で祭られる。
神社の前に長机が置かれ、その上に左から順番に、味噌煮わかめ、お米・お塩・お水、神酒二本、生節・タコが供えられている。拝殿内では頭もちは神社に向けて礼拝し、蛇の頭に神酒を振りかける。それから少年たちは拝殿の中で用意された御膳をいただく。拝殿の外では当屋の家から運んできたわかめの味噌煮を周りの観光客に振る舞う。
午後4時ごろ、4人の頭もちは蛇の頭を担ぎ、5,6人の大人と10数人の子供たちは蛇の胴体を担いで、村中を回る。各家の玄関に蛇の頭を突き出し、みんな一斉に「おめでとう」と叫ぶ。道のやや広い所にくるとみんなが蛇体で巻きあう。子どもたちは巻かれて下敷きになりながら楽しく戯れる。このように一軒一軒村すべての家を回り、最後神社に戻るときは夕暮れ近くになる。
続いて蛇の頭を上に、胴体を下にして神社境内にある榎の木に巻きつける。蛇の頭は今年の「アキ」の方向へ向ける。蛇体組みたてのときに使われた女竹は榎の根元の周りに立てられ、蛇のしっぽで巻きつける。蛇の頭は上に向いているので、これを「昇り竜」と呼んでいる。
この作業が終わると、榎の根元にある祠の前で最終の祭典を行う。供え物には前日作った10種類の農具木型、墨で描いた馬と牛の絵馬、スルメがある。この祠は八大竜王さんと呼ばれ、すぐ横にある小さい祠は初王神と呼ばれる。当屋および頭もちは、祠の前に敷いたシートに座って、祠に向かって礼拝し、清酒にスルメを肴にして直会をする(子供たちにはお茶)。これで行事が終了する。
上の行事は当屋という農村祭祀組織によって主催され、端午の節句の日に子供を主体に行われたものである。「八大竜王」と「初王神」を信仰対象としているが、当日の行事は藁の大蛇を登場させることが主な内容になっており、大きく「藁蛇の製作と祭り」、「大蛇の巡行」、「大蛇の安置」という三つの部分から構成されている。
(二)5,6月に行われる行事の比較
今里の事例に照らしてその他の事例をみる場合、同じような構造を呈していることがわかる。ここではいくつかの項目に分けてみることにする。
   (1)行事の名称:
「ジャマキ」と呼ばれるのは今里・鍵だけで、藁の蛇を担いで村を回る時、互いに巻きつけたり通行人を巻きつけたりすることに由来する。地黄町では作った藁の蛇を円形に巻いて固定するが、これも「ジャマキ」と呼ばれている。上品寺の「シャカシャカ」は藁の摩擦の音から来たという。地黄町の「スミツケ」は蛇を組み立てる前に子供たちが墨で付け合うことに由来する。石見・平等坊では「ノガミさん」と呼んでいるが、信仰対象の名称でもある。小綱・蛇穴の「ノグチサン」は信仰対象の大蛇を呼ぶものである。矢部の「ツナカケ」は最後に綱を大木に掛けることからきている。下永の「キョウ」の意味は不明である。名称の多くは行事における藁の形態と藁蛇に象徴される信仰対象から名づけられたものである。
   (2)行事の期日:
5,6月の5日、または第一・第二の日曜日になっているが、これは新旧暦の使用によるもの、または行事の主体である子供の都合で生じたものである。かつては端午の節句の日に行われた。
   (3)信仰対象:
大きく八大竜王信仰(八王寺・ハッタさん)、大蛇信仰(ノガミ・ノーガミさん・ノグッツアン・巳さん)、塚信仰(塚・野神塚・ノガミサンの塚)、大木信仰(ヨノミの木・ナツメの木・樫の木)に分けられる。八大竜王は仏教の護法の神で、雨と水を司る。平安時代から宮廷における雨乞いの祈願対象になっている。大蛇は水の神であり、特に霊験のあるのは白蛇である。大木(ヨノミの木が多い)は蛇の分身、または蛇の住処として意識されている。
   (4)藁の蛇についての呼称・材料等:
作られた藁の蛇を「ジャ」と呼ぶのは6例、「綱」と呼ぶのが2例ある。また漢字の「蛇」と書いたのも3例があって、読みは明らかではない。用いられている材料は麦藁と稲藁とがあるが、ほとんどの事例では稲藁を使っている。
   (5)行事の内容:
藁で作られた龍蛇の形と長さはまちまちである。しかしいずれも水神の龍蛇を形として表現されたものである。作られた藁の龍蛇は一旦作られた場所で神霊として祭られ、その後村はずれの小さい森や木のあるところまで移動して木に巻きつけたり、掛けたり、あるいは木の元に置いたりする。用意された供え物と一緒に牛・馬などを描いた絵馬や小さい農具の模型を供える。そして簡単な食事を取ったり、儀式を行ったりして村へ帰る。藁の龍蛇を目的地まで運ぶ過程における様相によって大きく二つのグループに分けることができる。
1 目立った行動を取らずに藁の龍蛇を目的地まで移動する事例:
○ 橿原市地黄町の「スミつけ祭り」では、夕方、稲藁を使って約5メートルの「ジャマキ」を作り、絵馬・農具の模型を、供え物と一緒に「ジャマキ」の前に供えておく。そして次の日の早朝子供たちは「ジャ」を塚(小さい森)に持っていく。ジャはヨノミの木の根元にとぐろを巻かせ、かま首を上げて木に登らせる。
○ 橿原市小綱町の「ノグチサン」では、もちわらを使って、約5メートルの「ジャ」を作って竹の輪にとぐろ巻きに置き、画用紙に牛と農具の絵を書く。大人二人でジャを担いで塚に持っていき、榎木に絵を貼り付け、蛇綱をそのままで置く。
○ 三宅町石見の「ノガミサン」では、稲藁を使って約3メートルの「ジャ」を作る。ジャを梯子の上に乗せてノガミ塚まで担いでいき、塚にある祠の裏側に置く。
○ 磯城郡川西町下永東城と西城の「キョウ」では、前日じゃじゃ馬(ヘビ)・コモクサ(餌)などを作る。栴檀の小枝で葺いた籠に収めて塚へ運び、ヨミノ木の前に据える、または木に掛ける。
2 一定の行動を伴いながら藁の龍蛇を目的地まで移動する事例:
○ 上述田原本町今里の「蛇巻き」の例。
○ 田原本町矢部の「綱掛け」では、藁の綱を作り、藁の丈ほどに藁を一面に吊る。そして綱を担いで村中を練り回り、綱掛けの木に掛ける6。
○ 田原本町鍵の「ジャマキ」では、稲藁と麦藁を使って「ジャ」を作り、供え物を供える。子供たちがジャを担いで村落の主な道路を巡行し、慶事のある家を訪問する。最後は村の外れにある榎木に巻きつける。
○ 橿原市上品寺町の「シャカシャカ祭り」では、子供たちは作った「ジャ」を担いで村を巡回するが、幾つかの池に「ジャ」を漬けて水を飲ませたり、「ジャ」 を池に漬けたまま子供たちは一緒に戯れ遊ぶ7。最後は村の南にある榎に巻きつける。
○ 天理市平等坊町の「ノガミサン」では、蛇を担いで塚に向かう途中、川・用水路に蛇を担いだまま飛び込み、泥まみれになりながらいく。最後は木に巻き付けるが、頭をアキの方に向ける。
○ 御所市大字蛇穴の「ノグチサン」では、前日蛇頭を組み、当日蛇綱を組む。青年団員が村中の家を歴訪し、祝儀を受ける。その後子供たちは蛇綱を担いで巡行し、各家の前で蛇綱を揺さぶる。最後は神社の木に巻きつける8。
(三)信仰対象の性格
野神の信仰をめぐって、先学は奈良盆地のすべての事例を視野に入れながら水神・牛の守護神・農神との関係を論じてきた。桜井徳太郎は「水神的性格をもつと同時に、牛を守護するための守り神、ないし農神的性格をもっているということができよう。そして両者は、終極的に農業神として合致する。すなわち野神の性格は発展して、農業の守護神、牛の守護神になる」と論じた9。これにたいして、保仙純剛は「わらの蛇体(水神)は、牛の守護神として現れるのではなく、降雨の祈願を受け取る水神として現れるのではないか」と述べている10。ここの「牛の守護神」とは奈良盆地北部地域の行事に見られる信仰であって、中部と南部地域には顕著なものではない。また保仙純剛が述べた内容は藁の大蛇と供物としての牛の絵馬との関係から引き出したものである。しかし、藁の大蛇が登場する事例に限ってみる場合、顕著に見られるのは水神的性格である。
田原本町今里では蛇巻き行事をめぐって次の伝説がある。昔、雄の竜がいて村中の若い娘を食い、赤ん坊も食い、果ては農作物まで食い荒らした。一人の僧が通りかかり、村人たちに「五月の節句に、菖蒲で太刀を作って家々に飾るとよい」と教えた。竜は驚いて中街道のエノキの上に隠れた。また鍵の村では、大きなムジナが現れて人をとり、田畑を荒らした。そこへ今里の竜がきて東の藪でムジナとけんかして殺した。村人は喜んでその藪に竜を祭り、「蛇巻き」を行った11。この伝説から信仰対象は竜神であること、竜は善と悪の両面性を持っていることなどが読み取れる。
橿原市上品寺町のシャカシャカ祭り行事の由来について次の言い伝えがある。この村には長男が生まれると、五月五日の晩にノガミさんに人身御供として差し出す習慣があった。ある時、九州から来た青年がいて、ノガミは神ではなく魔性のものであるという。予想通りそれは大蛇であったので、村人は一緒にこれを退治した。それで人身御供の代わりに、大蛇の命日に藁で大蛇をかたどり、葬った場所に連れて行って供養するようになった。ここの人身御供は川の神にささげる犠牲であり、この伝説の背後にはやはり治水、または雨乞い習俗が隠されている12。
藁の大蛇をめぐる言い伝えや行事の意味についての認識は、他の藁の蛇を作る村にも伝えられている。
○ 橿原市小綱町では、野神塚には白い蛇が棲んでいるという。
○ 三宅町石見では、ノガミは農家のカミサンで、御神体はミーサン(巳さん)であるという。
○ 橿原市見瀬町では、神社には大きな蛇がいるといって、それが信仰対象で、同じ形のものをワラで作り、鳥居前の樫の木にかけ渡すという。
○ 御所市大字蛇穴では、野口行事は豊作祈願であり、当屋で祭る蛇体は水神であるという。
○ 磯城郡川西町下永(東城)では、野神さんは五穀豊穣の神。塚にはミーサンがいるという。
○ 磯城郡川西町下永(西城)では、ヨノミの木に巻き上らせたジャジャ馬の目玉が早く落ちると雨が多く、両方早く落ちると大水になるという。
ここの「白い蛇」「大きな蛇」「ミーサン」「蛇」「ジャジャ馬」は水神を意味するものであり、五穀豊穣の神である。行事は豊作祈願をするためのものである。橿原市地黄町の墨付け行事において、蛇を木に巻きつけ、上らせるのは雨乞いの祈りであると古老達はいう。また天理市平等坊町では藁の蛇は雨の龍であって、この行事は田植えのための祈雨であるいう13。
藁の大蛇が象徴するのは水神であり、行事は雨乞いとして意識されているのである。一方藁の大蛇は又「守り神」的性格を帯びており、その巡行は慶事のある家、またはすべての家々を回って祝福するものであり、今里の言い伝えが象徴するように、邪悪なものを退治する役割を果たしている。さらに「この神事を取りやめると、その年は田が荒れて不作になり、悪疫が流行すると言い伝えられている」のは14、祟り神的性格を反映したものである。このような複合的な性格は大蛇という信仰対象の性格そのものである。
藁の大蛇が巡行する過程において川や溝に飛び込んで泥まみれになったり、巻き付けをしたりする行動を「暴れ」という言葉で表されているが、これは信仰対象の「暴れ」である。かつては今里では、住民から嫌われる家の前では、蛇体はその門口に突っ込んだままなかなか動こうとしなった。隣村の鍵では、もし祝儀が足りなくて気に入らなかったら、大きな蛇体はその家の門口に抛り込まれ、子供たちはわっと喊声をあげて引き揚げる。甚だしいときには座敷の上へ投げ込まれる。その蛇体を勝手に持ち運びできないので、当屋に泣きすがって解決をしてもらう。祝儀の値上がりはもちろんである。また蛇体を田んぼの中へ投げ込んだりして散々に暴れるが、暴れる動作が激しいほどその年は豊作だという。大蛇の生命力が旺盛なほど、豊作になるので、この巡行は水神の霊力を発散する過程でもある。またその「暴れ」の過程に一部の村民に対する制裁の性質を帯びたものもあるが、大蛇の祟り神的性格を利用したものである。これらの行事が特異性を呈しているのは、まさにこの水神の性格によるものと言える。
神社や当屋の家で作られたばかりの藁の「ジャ」にはまだ神としての性格は帯びていない。それが祭られたり、女竹にもたげられたり、樫の若枝が差し込まれるなど飾られることで神としての身なりが整えられ、さらに神酒が振りかけられることによって、生命を持つようになる。そして担ぎ出され、村を練り歩き、揺さぶられたり、田んぼで暴れたり、川や池で水を飲んだりするのだが、命のある水神の生態を演じており、一種の芸能的要素を帯びたものとして解釈することも可能である。
第三章 藁の大蛇行事の影響関係について
奈良盆地における藁の大蛇が登場する行事の発生を考える上で、文献による追及は難しいと先学が述べている。しかし関係の行事との比較から、ある程度その発生・変遷過程を推測することは可能である。
(一)綱掛け行事
米田豊は、ノガミ(藁蛇)の性格を「田の神」「水霊の象徴」「予祝的要素」「魔除け・祓えの機能」「通過儀礼」などの面から考察し、東部地域のカンジョウカケ行事と藁蛇の行事と共通的特徴がみられることから「カンジョウカケ」から「藁蛇」へ変容し、さらに「藁蛇」→「藁牛」→「飼牛」という変遷を描いている15。
「カンジョウカケ」は「カンジョウナワ」「綱かけ」とも呼ばれ、日本全国にみられる道切り行事である。一般的には藁で太い綱を綯い、村の入り口などの境のところに吊るすのだが、中に蛇の形をしたものもある。機能としては災厄を村外に追い出す、または侵入を防ぐものであるが、藁の霊力に基づいた信仰とされている。現在見られる奈良盆地の「綱掛け」は自分の特徴をもっている。
○ 奈良盆地東南の山地に近い明日香村の稲淵と栢森の綱掛けは、川の上をまたがって掛けており、オスとメスの綱として意識されている。
○ 桜井市江包と大西の両村ではそれぞれ藁で男女のシンボルを象徴する綱を作り、村の主な道路を練り歩いたり、若者たちは田んぼに入って相撲を取ったりしながら、スサノオ神社の鳥居の前に担いできて合体させる。そして男綱の片方は鳥居の東の木に巻きつけ、雌綱の片方は西にある大和川を渡って川岸の榎木に巻きつける 。
○ 大和郡山市八坂神社の綱掛け行事において、雄綱と雌綱を絡ませて一本の綱を作り、人柱を巻きつけてから竹の棒を通し、東明寺川の綱掛け場まで運んで掛ける。
○ 生駒平群町金勝寺では稲藁で作った40メートルの雄綱と12メートルの雌綱を和合した形で、椣原の集落を流れる龍田川をまたいで張り渡す。
これらの行事で作られた綱は「オス」「メス」の区別があり、明らかに大蛇として意識されている。また川をまたがったり、人柱を巻きつけたりするところには水神との関連が認められる。
また、同じく「ツナカケ」や「ツナクミ」などと呼ばれ、ノガミ行事の範疇に入れられた事例もある。行事は1,2月に行われる。その内容をみると、上の「綱掛け」とほとんど変わらないが、しいて区別すれば、綱をはっきりと「蛇」と認識した点にあるだろう16。つまり、ノガミ行事の部類に入る一部の「綱掛け」は、藁の龍蛇を作り、村の外れにある大木にかける形態をなしており、5,6月の龍蛇の巡行行事と類似している。
○ 橿原市北妙法寺町の「ノガミ」では、藁の蛇を組み、半紙に農具の絵を書いて蛇の頭に差し込む。そして「へび」を担いで村の田の畔を練り歩き、最後は八釣川のほとりの大木につりさげる。
○ 橿原市五井の「ノガミ」では、オスとメスの二匹の蛇を作り、頭を梢の方へ向けるようにしてヨノミの木に巻きつける。そして神酒一升と肴を供える。
○ 橿原市四条の「ツナクミ」では藁を集めて綱を作る。そして蛇がとぐろを巻いている形にして神社の境内におく。
○ 橿原市見瀬の「綱掛け」では、太い綱をない、コモを編み、フングリを作る(フングリは綱の真ん中に吊す)。そして樫の古木にかけ渡す。
○ 橿原市五条野の「綱掛け」では、農具の模型を作り、小麦藁に新ナワを編みこんで蛇の形のものを作る。森の樫(昔は松)の木に蛇体を吊る。
北妙法寺町の行事は米田が「カンジョウカケ」から「藁蛇」への変容を主張する際あげた事例であるが、松崎憲三は「行事内容が類似しているからといって、片方から他方へ一方的に変遷したとは必ずしも言えない」と指摘し、その理由の一つとして「祭日が異なれば行事の目的・内容にもそれなりの相違があり、樽井が指摘するように、双方の影響関係も当然認められようし、また例外があるもののツナカケとノガミ行事は一応別物としておきたい。そうでなければ他地域に広がるツナカケをすべて網羅しなければならなくなるからである」と述べている。
筆者も松崎の観点に賛成するが、この「例外」事例をもう少し考察する必要があると思う。北妙法寺町の場合は1月に行われる行事であるが、行事の内容は5,6月のものと同じである。地理的に見れば、北妙法寺町は藁の大蛇行事の分布圏内入っているので、近隣の地黄町と小綱町の藁の大蛇行事の影響を受けた可能性が存在する。同様に、天理市箸中の「ノガミサン」は、5,6月に近い7月に行われるものであるが、内容は1,2月のノガミ行事と共通している。これは同じように、「綱掛け」行事の分布圏に入っているので、江包と大西の綱掛け行事の影響を受けた可能性がある 。
上に挙げた、奈良県内の一般的な綱掛け行事、ノガミ行事としての「ツナカケ」「ツナクミ」、そして5,6月に行われる藁の大蛇行事の三種類の行事は、その形態からみれば、藁の綱・藁の綱と蛇・藁の大蛇という違いがあり、三者において蛇の外部特徴がだんだん顕著になっていく傾向がある。こうしてみれば、確かに米田が唱える「カンジョウカケ」から「藁蛇」への変容の可能性は存在する。しかし三種類の行事の根底にはいずれも水神の意識が流れている。旱魃が多い奈良盆地の環境によって水神信仰が早くから発達した背景を考えると、逆方向の変容の可能性も排除できないだろう。すなわち次項で述べる雨乞いが盛んに行われる環境の中、雨乞いをするための藁の龍蛇の形態が定着して現在みられる藁の大蛇行事になり、さらにその影響で綱掛け行事に水神の要素を付与したことも考えられる。
(二)雨乞い習俗
雨乞いの形態 水神を象徴する藁の龍蛇を作って祭り、村の中を練り歩き、最後には水神の居場所に送るという構造は、雨乞いの形態と共通しており、これらの行事の形成には雨乞い習俗の影響があった可能性は十分考えられる。
高谷重夫は『雨乞習俗の研究』において日本の雨乞い行事を網羅しているが、その中、龍蛇の象徴物を作って雨乞いをする事例は123例にのぼっており、北の青森県から南の宮崎県まで分布していることがわかる。これらの事例の中、蛇体を作る材料を明らかにしていないものも多くあるが、明示されたのを見ると実にさまざまである。しかし稲藁を材料にした例は大多数を占め、麦わらを使ったのも11例ある。大蛇を作って、池・川・海に漬ける、または流すのは71例、木・神社などに安置するのは14例、状況不明なのは38例である。また民俗芸能を伴ったり、水をかけたりするなど、一定の行動を伴いながら龍蛇を目的地まで移動するのは75例、目立った行動を取らずに龍蛇を目的地まで移動する、または不明なのは48例である。一定の行動を伴いながら移動する事例の中、田んぼの畦を巡回するのは数例あり、村の中を巡行するのも8例がある。
ここでは高谷重夫が掲げた事例を一つ引用しながら見ることにしよう。
○ 茨城県鹿島郡大洋村大蔵:青年三人が代表となって相熊の雷神に御幣をうけにゆく。村では福泉寺に藁を持ち寄り、代参の帰りを待って一斉に竜をつくる。直径30センチ、長さ5メートルの大竜である。これを裸で担ぎ、掛け声も勇ましくもみ合ったのち、本堂に入って天井裏に描かれた竜に水をかけ、村中を練り歩く。家々ではこれを待ち受けて水をかける。散々暴れた後、水で重くなった竜を引きずって二十三夜塔の四本松の下に納めた。
これらの雨乞い事例の基本的特徴をあげると、次のようにまとめられる。地域によって行事の主体は女性であったり、子供であったり、若者であったりすること。作られた藁の龍は一匹の場合と雌雄の二匹の場合があること。竜を担いで町や村の中を練り歩き、その過程で水をかけられたり、暴れたりすること。最後は川に流したり、池に投げ込んだり、木の下に納めたりすることなどである。水神を龍蛇の形にして村に出現させることで、現実的にも神が現れて雨をもたらさせるといった呪術的構図が見える。奈良盆地の雨乞いにおいても藁の大蛇が用いられ、また他の象徴物が用いられている。やはり高谷重夫の『雨乞習俗の研究』で挙げた事例を見よう。
1 藁の大蛇を用いた事例:
○ 高市郡明日香村坂田では、氏神で藁の竜をつくり、僧を招いて心経百巻を繰り、これを担いで飛鳥川の淵に漬けたうえ、心経を唱えつつ再び氏神に帰る。
○ 同村島庄では大蛇を、松明を持って祝戸川まで送り、そこに漬けておく。
この2例は旱魃の時に行われたものであるが、5,6月に行われた藁の大蛇行事と形式、内容に違いは見られない。僧侶を招いて経文を唱えた形式は、5,6月の行事においてもかつて採り入れられたものである17。
2 藁の大蛇以外の象徴物を用いた事例:
○ 奈良市の旧平城村押熊ではコウズイサンという雨の神(石神)を田の中に投げ込む。
○ 奈良県天理市萱生では、宮さんにある竜王の屋形を池の中へ担ぎこみ、泥水をかける。または竜王を池に投げ込む。
○ 奈良県吉野郡天川村和田では永豊寺の雨乞い仏を背負って寺の後ろの川に漬け、子供たちが裸で水を浴び、仏にもかける。
○ 奈良県礒城郡三宅町但馬ではタドさんの祠を持ち出し、水をかけ、四人で担いで「雨下されタドさん」云々と唱えて村を廻る。
この中の「コウズイサン」「竜王の屋形」「仏」「タドさんの祠」は藁の大蛇と同じく水神の象徴物であり、その水神に対する扱いも藁の大蛇の巡行過程で見られる「暴れ」と同じ性格のものである。
実際5,6月の行事も雨乞いとして意識された事例もあるのだから(天理市平等坊町・橿原市地黄町)、水が絶対的に不足な奈良盆地に毎年のように行われた雨乞いが、5,6月の行事として定着したことが考えられる18。『大和の民俗』では、奈良盆地が古くから雨が少なかったので、水利慣行が発達したことを紹介し、「県下全般1万3千余のタメ池や大小幾多の井ぜきは、長い歴史時代を通じて多くの資材と労力を費やして築造したにもかかわらず、用水はなお不足し、その分配にあらゆる工夫をしていることは全国でもまれにみる特異な地域である」と述べている19。龍蛇信仰及び雨乞いはこの地域において重大な意味を持ち、農耕を営む人々の中に深く浸透していたことは十分想像できる。昔の野神行事を紹介した資料では、労力と経済の面で負担がかかるため、行事を取りやめたのを、行事から快楽を経験した村の若者たちは様々な行動を取って、無理やりに行事を行わせる境地に大人たちを追いこんだことを述べている。また行事を取りやめると疫病がかかり、あるいは不作になるなどといった言い伝えも、定期的な行事として固定する過程に生まれたものであり、その一助けになったかもしれない。
野神塚・神木信仰 5,6月の藁の大蛇行事において、最後は藁の大蛇を塚・森・木に安置するが、具体的な場所はヨノミの木(榎木)〈8例〉、ナツメの木〈1例〉、樫の木〈1例〉、祠の裏〈1例〉になっている。榎木について日本各地に様々な伝説が伝えられ、神木として意識されている。柳田国男の「争ひの樹と榎樹」ではこれを取りあげ、奇異な現象として、榎の木を切るとタタリがある、木から血が出る、切り痕がなくなるなど様々な怪異が起こること。猿のような頭をした蛇が住んでいること。榎の空洞に涸れぬ泉があることなどを挙げている20。榎木と蛇、榎木と水は深い関係が存在することが分かる。奈良盆地においても榎木は龍蛇の住処になっているので、そこに藁の大蛇を安置することは、日本全国の雨乞い行事の中、最後藁の龍蛇を川・池に入れることと同じような意味を持つ。また藁の大蛇以外の野神行事においても、野神塚・「一本木さん」を水神の住処として認識されるものがあり、「一本木さん」と呼ばれる以外の場合においても木と関係する事例が多く、また実際の塚(石)の場合でも水神と関係し、雨乞いの対象になっているものがある。たとえば、東坊城町のノガミ行事は水の豊富を祈るものであり、今里町・岩室町・油坂・京終ではノガミを対象に雨乞いをしている。木は水神の分身として扱われ、石(塚)やノガミの森は蛇のすみかになっており、そこに水神の白蛇(大蛇・ミーさん)が住んでいて雨乞いの対象になっているのである。奈良盆地のノガミ行事において、雨乞いと関連する事例が広く分布していることがわかる。藁の大蛇行事と同様、雨乞い習俗の影響下に形成されただろう。
第四章 まとめ
以上のごとく考察した奈良盆地の藁の大蛇行事を整理すると次のとおりである。
(1)田植えが開始する前の5,6月(昔は端午の節句)に、「当屋」という農村祭祀組織の元で、子供を主体にして行われた行事である。
(2)各村の行事には自分なりの特徴をもっているが、基本的には大蛇の製作と祭り、村中の巡行、大蛇の安置という三つの部分からなっている。
(3)信仰対象は水神的性格・守り神的性格・祟り神的性格の多重的性格を持ち、五穀豊穣をもたらし、人々を災厄から守ると同時に、不敬な行為があると祟るといった横暴な一面もある。
(4)行事はあらかじめ雨水豊富を祈願する目的で行われ、水神を顕在化してその生態を演じるといった芸能的要素も帯びている。
(5)藁の大蛇及びその行事の発生・展開過程において、関係行事との比較を通して、ある程度その源流を辿ることができる。すなわち、綱掛け行事から変容した可能性もあり、雨乞い習俗から変容した可能性もあるが、後者の可能性が高いとのことである。同じ奈良盆地の野神塚・神木にも水神的性格を持つものがあり、雨乞い行事として行われたものがあるので、同じく雨乞い習俗の影響を受けたものと見ることができる。
高谷の雨乞い研究では奈良盆地におけるノガミ行事の藁の大蛇に触れていない。完全に別の性格のものとして扱われているようである。奈良盆地のノガミ信仰を研究する研究者も藁の大蛇に触れる際「水神」「水霊」を象徴したものと述べ、風雨順調の意味が含まれていると指摘しているが、雨乞い習俗からの影響は言及していない。雨乞いは旱魃のときに行われるもので、定期的に行われる藁の大蛇行事とは異なるものとして意識されたかもしれない。
しかし上で述べたように奈良盆地の自然環境によって、水神信仰が発達し、雨乞いも盛んに行われてきたのであり、関係行事との比較からも藁の大蛇行事の発生・形成過程において、雨乞い習俗の影響はかなり大きかったことがうかがえる。現在定期的行事になっているものもそれが定着するまで、不定期で行われた時期があったはずである。旱魃の時の解決策として藁の大蛇を作って雨乞いをするものと、あらかじめ雨水豊富を祈願する予祝的性格を持つという違いはあるが、いずれも雨乞い習俗として見ることができ、奈良盆地における藁の大蛇行事は地域的特色を持つものとして位置づけることができる。
高谷の研究によると、平安時代に竜神を信仰対象とした祈願祈雨法が確立し、中国の土龍祈雨法も宮中で実施されたとのことである21。また茅で竜神をかたどった祈雨法も早くから存在したようである22。これらの記録から仏教的祈雨法が効果のない時に、この呪術的祈雨法が用いられたことが分かる。中世において竜神信仰はますます普及し、雷神が蛇形をもって現れるとする古代の観念はこの時代にも引き継がれる。武蔵荏原郡大森村岩正寺の第二世法密上人は法力の勝れた僧であったが、永享元年(1429年)日照りに藁で竜頭を作って祈願し、これを海上にはなったところ、忽ち雨が降ったとある23。おそらく雨乞いに藁の竜頭が用いられた例として、この記録は最も古いだろう。文化・文政(1804〜1829)の成立とされる『大和高取藩風俗問状答』には、奈良盆地葛上郡蛇穴村の事例が紹介されており24、嘉永7年(1854年)銘の『野口大明神社記』にも蛇穴の野口行事の由来や行事の様子を紹介している25。この時期、ほかの地域においても藁の大蛇に関する記録がみられるので26、近世の雨乞い主体が農民であった点と大きく関係していると思われる。藁の龍蛇を作って巡行する形はこのように近世の農民の手で作られ、現在まで伝承されてきたのであろう。
第五章 日本と中国における龍蛇信仰及び雨乞習俗の比較研究展望
龍は中国の古代に生まれた空想上の霊獣であり、川や池などに住み、雨を降らす能力を持ち、空を飛ぶ能力を持って、時には雨を降らせたり、時には神仙の世界を行き来したりすると信じられてきた。蛇を基本モデルにしながら、多くの動物の特徴を融合したものである。歴史的変遷の中で、龍は多様な性格を持つように展開していくが、雨の神・水の神としての性格は変わらずに生き続けてきた。
殷代の甲骨文に龍を作って雨乞いをした記録があり27、漢代には土龍を作って雨乞いをする方法が確立する28。東漢以降、仏教の伝来につれて、仏教と道教による宗教形式の祈願祈雨法が確立し、土龍による祈雨法は民間だけで用いるものになっていき、近代になっても確認されている。藁の龍蛇を作って雨乞いをする方法はいつから始まったか、確かな記録は見えないが、四川省の『栄県志』には県内の五龍山に唐の乾符元年(874年)に立てた石碑に、当時「舞龍」を行った結果雨が降ったと刻まれたことを挙げている29。この地域は旱魃の多い地域で、古くから藁などの材料で龍蛇を作って雨乞いをする「水龍」と呼ばれる祭りが盛んであった。土龍は担いで舞うことができないので、唐代の「舞龍」に用いられた龍は藁などの材料で作られた可能性がある。
藁で龍蛇を作って雨乞いをする中国の事例は、高谷をはじめ、日本の研究者はその存在を確認できなかったが、実は中国の長江流域やその南に広く行われたことが清代・民国時代の地方誌などに散見する。また中国の各地に行われる「舞龍」はよく知られ、現在はお正月や慶事の時に舞うものになっているが、藁などで作られた「草龍」(藁も「草」と呼ぶ)から発展したものであり、元来は雨乞いのために舞ったことが調査資料などから伺える。
筆者が2008年広西チワン族自治区龍勝県平等郷広南村で調査をした時、藁の龍を作って巡行する行事の存在を知った。この村では年に二回この行事が行われていた。一回目はお正月の二日から十五日までで、もち米の藁で長さ24メートルの龍を作り、「龍珠」を持つ者の引率で、付近の村の家々を回りながら「舞龍」をしたという。その時は各家の「堂屋」に祭られた先祖に向けて礼をし、それから「龍歌」を歌う。最後は川辺に持って行って、藁や飾りを剝して焼き、竹で作った枠組みだけを持ち帰って鼓楼などの場所に保管し、翌年に使うようにした。二回目の行事は6月6日であるが、このときは藁で長さ10メートルぐらいの龍を作る。舞いながら田圃を巡回し、山頂の水神を祭るところで舞をして山を下りる。最後は川辺で「草龍」を焼き、「海」へ送る。このときの行事は雨乞いと害虫駆除のために行うものであるという。
広南と同じように、運よく伝承が続けられたところも少なくない。雨乞い行事は迷信として禁じられ、それを舞踊として改造されたものも少なからずある。その一部は20世紀80年代から全国規模で行われた舞踊調査の際に収集され、『中国民族民間舞蹈集成』「舞龍」の部類に収められた。また1995年に編纂が始まった『中華舞蹈志』は同じような趣旨のもので、古老から聞いた話や言い伝えなども収められている。この二つの資料からわかるように、「草龍」行事の伝承地域は、基本的には長江流域及びその南の地方であり、稲作が行われる地域とも一致している。途絶えた行事を古老たちの指導を受けながら復活した地域もあり、現地調査は可能である。今後は中国における現地調査を実施しながら、日本との比較を進めていきたいと思う。
主要参考文献
1、島本一『高取藩風俗問状答』、昭和14年、大和国史会
2、辻本好孝『和州祭礼記』、昭和19年、天理時報社
3、山田熊雄等『大和の年中行事』、昭和44年、大和タイムス社
4、岩井宏實『奈良祭事記』、昭和47年、山と渓谷社
5、田原本町史編纂委員会『田原本町史』、昭和61年、田原本町役場
6、奈良県史編纂委員会『奈良県史』、昭和61年、名著出版
7、奈良県教育委員会『大和の野神行事』、昭和60年
8、高田健一郎『大和の祭り』、平成3年、向陽書房
9、奈良県立民俗博物館『龍蛇のまつり・伝説』、平成4年
10、加藤健司『日本祭礼民俗誌』、2005年、おうふう
11、高谷重夫『雨の神』、1984年、岩崎美術社
12、高谷重夫『雨乞習俗の研究』、2004年、法政大学出版局
13、笹間良彦『龍の歴史大事典』、2006年、遊子館
14、宮崎清『藁』T・U 、1985年、法政大学出版局
15、中国民族民間舞蹈集成編集部『中国民族民間舞蹈集成』、20世紀80年代〜現在、中国舞蹈出版社
16、中華舞蹈志編集委員会『中華舞蹈志』、1995年〜現在、学林出版社

1 中国において、龍は蛇と混同する場合が多く、同じ類の意味で古くから「龍蛇(long she)」という言葉が使われた。日本においても古くから「竜」と「蛇」を同類として見る傾向があった(『「然元杲唱和詩集』「然の詩に「無熱蛇竜尚有霊」とある)。また中国の龍の信仰が日本に伝わり、日本古代の雷の神「タツ」のイメージと重なり、タツの当て字である「竜」が使われるようになったが、日本では固有の蛇の信仰も生き続け、雷神と一体であると意識されてきた。奈良盆地の事例において藁の大蛇はそれであり、「ジャ」と訓読みすることからも、龍と対等の「神格」を持つと意識されたことが読み取れる。本稿では各事例に即して現地の呼び方を使うが、日本と中国の事例を包括する場合は「龍蛇」という言葉を使うことにする。
2 文化庁の「国指定文化財等データベース」において、「大和の野神行事」の解説では、野神は全国的に広く信仰され、とくに大和盆地や琵琶湖周辺に顕著な分布を示すと述べている。『全国年中行事辞典』(三隅治雄編、今泉弘勝発行、平成19年)には、奈良盆地に分布した野神の「塚」の数が40か所近く確認できたとしている。
3 ほぼ同じ内容は『中和郷土資料』にも収められている。
4 『日本常民文化紀要』27号、成城大学大学院文学研究科、2009年。
5 博士論文、奈良女子大学大学院、平成21年。
6 村の中を巡行する途中、村の役職の家を訪問し、その一家の人を取り巻く形で一周回る。
7 2010年の調査では、昔の池が埋め立てられ、巡行する途中数回バケツの水を蛇に「飲ませる」ような形になっている。
8 現在は藁の大蛇を神社にある井戸の上にとぐろを巻く形で納めている。
9 桜井徳太郎『民間信仰』、昭和49年、塙書房。
10 保仙純剛「野神の信仰」『日本民俗学』98号、1975年、日本民俗学会。
11 山田熊夫等『大和の年中行事』、昭和44年、大和タイムス社。
12 中国の歴史書『史記』に西門豹が地方官吏として鄴という地方に派遣され、毎年河伯(黄河の水神)のために若い娘を河に沈める習俗を廃止したことが記されている。枚方市にも淀川の堤防を築くため、人柱を犠牲として水神にささげる伝説があり、日本各地に人柱の伝説が残されている。
13 奈良県教育委員会の『大和の野神行事』。以下出所を示していない部分はいずれもこの資料集による。
14 辻本好孝『和州祭礼記』、昭和19年、天理時報社。
15 米田豊「野神についての一試論」『近畿民俗』76号、昭和53年、近畿民俗学会。
16 ここでは「綱掛け」行事の中、「ジャ」として意識された事例だけを挙げた。
17 今里の場合は1944年、1969年、1972年の資料に「般若心経三巻を読誦する」との記録がある。
18 奈良県に昔から盛んに雨乞いを行った事実があり、その痕跡が多く残されている。高谷重夫の『雨乞習俗の研究』に載せたものを拾い上げると、「龍穴」「龍池」と呼ばれる龍の住処といわれるところがあり、そこで雨乞い行事が行われた事例、人里からやや離れた自然の山や池などが雨乞いの対象になった事例、寺の起源にかかわる話として竜にちなんだ伝説などがある。『大和高取藩風俗問状答』にも6月に行われる雨乞い踊りなどの行事が紹介されている。
19 近畿民俗学会『大和の民俗』、昭和34年、大和タイムス社。
20 『定本柳田国男集』第十一巻、昭和38年、筑摩書房。
21 高谷『雨乞習俗の研究』(望月『仏教大辞典』)。
22 966年元杲が神泉苑で7日間祈雨の修法をしても雨が降らなかったので、茅竜を作り供養祈請したところたちまち雨が降り、雷雨が来たとの記録があり(成賢筆『祈雨日記』、平安時代、祈雨の過程を記録したもの)、1152年空海と修円が験力比べの場面で「美濃国間落草竜。今案是大師以茅作竜呪上也」という記録がある(『弘法大師伝』第一、長谷寶秀編、1977年復刻)。
23 高谷『雨乞習俗の研究』−『新編武蔵風土記稿』巻6。
24 中山太郎編著『諸国風俗問状答』、昭和14年、東洋堂。
25 谷川健一『日本庶民生活史料集成』第26巻、1983年、三一書房。
26 『相生集』には磐城の郡山の話として、藁で竜を作り数人にてこれを担ぎ、篠で水を撒きながら市中を回るとある(天保12年[1841]年に完成。高谷『雨乞習俗の研究』)。
27 「其乍龍凡田、又雨」(裘錫圭「説卜辞的焚巫尫与作土龍」『甲骨文与殷商史』、1983年、上海古籍出版)。
28 『山海経・大荒東経』には「旱而為応龍之状,乃得大雨」があり、郭璞は「今之土龍本此」と注を施している。漢の董仲舒の『春秋繁露・求雨』には四季折々に土で龍を作って雨乞いをする方法が記録されている。その他の文献からも、漢代には広くこの土龍による祈雨法が行われたことが分かる。
29 『中華舞蹈志』四川巻、2007年、学林出版社。 
 

 

●ナマズ 那珂川伏見神社 福岡県那珂川市
ご祭神は「淀姫命」「須佐之男命」「大山祇神」「神功皇后」そして「武内宿禰」。
那珂川伏見神社の由来 / 主祭神の「淀姫命」は「神功皇后」の姉姫で、もともとは、「川上大明神」として佐賀県に鎮座していたけれど、この地に遷座。のちに「神功皇后」そして「武内宿禰」と共に「京都伏見御香宮」を合祭。そして『伏見大明神』と称すようになりました。また「須佐之男命」は、博多の戦火を逃れるため、櫛田祇園神社のご神体をこの『伏見神社』へ遷したものです。その時、博多の住民もこの地へ移り住んだといいます。そうした縁もあり伏見神社では祇園祭が行われます。
神功皇后の三韓征伐の折、ナマズが群れをなして水先案内をしたことから、ナマズは神様の使いとして崇められている。

●伏見神社 那珂川市 
那珂川市の山田地区、国道385号線沿いにある「伏見神社」は、神功皇后の姉(あるいは妹)である淀姫命(よどひめのみこと)をお祭りするお社で、毎年7月14日に行われる祇園祭で奉納される“岩戸神楽”の舞台として有名となっています。その能面を神楽に用いる珍しい伝統行事は全18番からなる見所で、特に“荒神”という鬼が子どもをさらう舞では、その鬼に抱かれると無病息災のご利益があることから、毎年県内外の子づれの参拝客でにぎわっています!
「伏見神社」は、神功皇后(じんぐうこうごう)の姉(あるいは妹)である淀姫命(よどひめのみこと)をお祭りするお社で、毎年7月14日に行われる祇園祭で奉納される “岩戸神楽(いわとかぐら)” の舞台として有名となっています。ナマズが神様の使いとして崇(あが)められており、拝殿にはナマズの絵馬が多数奉納されています。神社の呼び名は、その昔、異国の襲来に備えて京都伏見の御香宮(ごこうぐう)を合祀したことが始まりと言われています。
また、豊臣秀吉の九州・島津氏の征伐の際、現在の博多区にある櫛田神社(くしだじんじゃ)にも戦火が及んだことからご神体をこのお社に遷し、博多住民も避難して移り住んでいたことが現在の祇園祭に繋がっています。その中でも能面を神楽に用いる珍しい伝統行事「岩戸神楽」は全18番からなる見所で、特に“荒神(あらがみ)”という鬼が子どもをさらう舞では、その鬼に抱かれると無病息災のご利益があることから、毎年県内外の子づれの参拝客でにぎわっています!
 

 

●阿曇磯良と祇園祭
神功皇后の三韓征伐において、阿曇磯良がその水先案内人となった話は『わたつみ』のクセの部分にも描かれております。神功皇后が諸神を招く際に、阿曇磯良だけがなかなか姿を現しませんでした。それは海底に住むがために顔に鮑や牡蠣がくっついて醜いことを恥じていたのです。そこで住吉明神が磯良が好む舞を奏したところ、ようやく磯良は姿を現すのです。間狂言で舞われる『細男(せいのお)』の舞は、まさしくその様子を表しています。顔に覆面をかけるのもそのことを表しています。
実は京都の祇園祭にもこのことを題材にした鉾があります。『船鉾』と『大船鉾』。元々この二つは先祭と後祭に分かれて巡行していたため(今現在もその形が復活している)、同時に見ることはなく、『船鉾』が征伐に出向く時を表す『出陣船鉾』、『大船鉾』が勝利して帰還した時を表す『凱旋船鉾』と言い分けられていました(当初はその区別もなく、どちらも船鉾と呼ばれていた)。
船鉾には三体の神(神功皇后、住吉明神、鹿島明神)と龍神・阿曇磯良が潮満瓊・潮干瓊の宝珠を持った姿で祀られています。室町時代の中期には「祇園社記」の記録に両船鉾の名がありますから、その歴史もなかなか古いと言えます。写真を御覧頂くと判りますが、右の赤い髪が磯良で、先頭に立って案内をする様子が見て取れます。因みに左に写っているのは舵取り役の鹿島明神です。

●阿曇磯良 1
[あづみのいそら、安曇磯良とも書く] 神道の神である。海の神とされ、また、安曇氏(阿曇氏)の祖神とされる。阿度部磯良(あとべのいそら)や磯武良(いそたけら)とも。神楽に誘われて海中より現れ、古代の女帝神功皇后に竜宮の珠を与えたという中世の伝説で知られる。
石清水八幡宮の縁起である『八幡愚童訓』には「安曇磯良と申す志賀海大明神」とあり、当時は志賀海神社(福岡市)の祭神であったということになる(現在は綿津見三神を祀る)。同社は古代の創建以来、阿曇氏が祭祀を司っている。
「磯」と「渚」は共に海岸を指すことから阿曇磯良は豊玉毘売命の子で、日子波限建(ヒコナギサタケ:鵜葺草葺不合命の別名)と同神であるとする説がある。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。
『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』(愚童訓より)
阿曇磯良は「阿曇磯良丸」と呼ぶこともあり、船の名前に「丸」をつけるのはこれに由来するとする説がある(ほかにも諸説ある)。宮中に伝わる神楽の一つ「阿知女作法」の「阿知女(あちめ)]は阿曇または阿度部のことである。
伝説​
『太平記』には、阿度部磯良の出現について以下のように記している。神功皇后は三韓出兵の際に諸神を招いたが、海底に住む阿度部磯良だけは、顔にアワビやカキがついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。そこで住吉神は海中に舞台を構えて阿度部磯良が好む舞を奏して誘い出すと、それに応じて阿度部磯良が現れた。阿度部磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠・潮乾珠を借り受けて皇后に献上し、そのおかげで皇后は三韓出兵に成功したのだという。
海人族安雲氏の本拠である福岡県の志賀海神社の社伝でも、「神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、阿曇磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護した」とある。北九州市の関門海峡に面する和布刈神社は、三韓出兵からの帰途、阿曇磯良の奇魂・幸魂を速門に鎮めたのに始まると伝えられる。
海神が干滿の珠を神功皇后に献じたという伝説は広く見られ、京都祇園祭の船鉾もこの物語を人形で表わしている。
舞い​
阿曇磯良の伝説をもとにした舞として、志賀海神社国土祭の磯良の舞、奈良春日大社の春日若宮おん祭の細男(せいのう、ほそお、ほそおのこ)の舞などがある。春日大社のそれは、筑紫の浜で老人から「細男の舞をすれば、磯良が出てきて干珠・満珠を授ける」と聞いた神功皇后が舞わせたところ、貝殻のついた醜い顔を白布で隠した磯良が現れたという物語を表現したもので、白布の覆面姿の男たちが舞う。細男は、平安期の記録に「宮廷の神楽に人長(舞人の長)の舞いのあと、酒一巡して才の男(才男)の態がある」と次第書きがあり、この才の男から転じた言葉で、滑稽な物真似のような猿楽の一種であろうと推測されている。『風姿花伝』では、天の岩戸に隠れた天照大神を誘いだすために神楽に合わせて行なった滑稽な演技「せいのう」を猿楽の起源のひとつとして挙げている。
また、大分県中津市の古要神社には、操り人形による細男の舞があり、同様に白布で顔を隠した磯良の人形が使われる。同様のものは、福岡県吉富町の八幡古表神社にも伝わる。

●安曇磯良 2
 [あずみのいそら] 別名 / 磯武良:いそのたける / 阿曇磯良:あずみのいそら / 阿度部磯良:あとべのいそら
海部の祖神として筑前志賀島を中心に、海路の要所に祭られているが、記紀には登場しない神。
磯武良とも呼ばれ、磯(イソ)の武良(タケル)は、 『古事記』に波限(ナギサ)建(タケ)、『日本書紀』に波瀲(ナギサ)武(タケ)とされる 鵜葺草葺不合尊(彦火火出見尊と海神族の子)に対応する。ともに海神族の長という意味だろう。
磯武良は、神功皇后の軍船を導く海人である。 海を渡る軍船が、海路の要所に海神(磯武良)を祭り、海路の安全と、戦争の勝利を祈願したと考えられている。 また、磯武良が琴崎の海辺で、水底に潜って碇をあげた話や、 志賀の海で、神功皇后に暇を賜った磯武良が、水中に帰って行つたという話があるらしい。
対馬の琴崎大明神の縁起には、海神の姿を「金鱗の蛇」と表現してみる。 仁位の海宮に、磯良明神(磯良恵比須)と呼ばれる(磯良の墓ともいう)岩があるが、それが渚に横たはり、恰も龜甲のやうで、 鱗状の龜裂がある。これは神話の豐玉姫が、蛇体で出産したことに対応する。
安曇磯良は長く海中に住んでいたため、牡蠣などが顔面に貼りついて、醜い姿であったという。
『太平記』に、神功皇后が三韓征伐に際し、 天神地祇を常陸の鹿島に招いて軍評定を行ったが 阿度部の磯良一人だけ来なかった。 諸神が神遊の庭をもうけ、「風俗・催馬楽」を歌わせたところ、 磯良は感にたえかねて姿を現した。 その容姿は貝類や海藻に包まれた怪物であったため、それを恥じて遅れたのだといい、 竜宮城の干珠・満珠を用いて、神功皇后の遠征の水先案内となった、とある。
安曇磯良は、筑前国では志賀大明神。常陸国では鹿島大明神。大和国では春日大明神とも称され、 志賀島(シカノシマ)を鹿島と考える伝承がある。
袋中上人の『琉球神道記』には「鹿島の明神は。もとはタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。 常州鹿島の海底に居す。一睡十日する故に顔面に牡蠣を生ずること、磯のごとし。故に磯良と名付く。 神功皇后、三韓を征し給うときに、九尾六瞬の亀にのりて、九州にきたる。 勅によりて、梶取となる。また筑前の鹿の島の明神。和州の春日明神。この鹿島。おなじく磯良の変化なり」とある。
 

 

●「深海魚は大地震の前触れ」は迷信
深海魚の出現は、大地震の前触れ――。こんな言い伝えは「迷信」で根拠がないと、東海大海洋研究所と静岡県立大のグループが26日発表した。各地で捕獲されたり海岸に漂着したりした事例と、その後に近くが震源となった地震の発生状況を調べ、相関関係は確認されなかったという。
深海魚のリュウグウノツカイやサケガシラが漁の網にかかったり、浜辺に打ち上げられたりすると地震が起こる、という言い伝えは各地にある。地震直前に海底から出てくるガスや電磁波のようなものを嫌がり、海面近くに逃れてくるという説もあった。
グループは、リュウグウノツカイなど地震の前兆とされる8魚種について、文献や地方紙の記事などで1928年11月〜2011年3月に確認された336件を調査。それから30日後までに、発見場所から半径100キロ以内が震源となったマグニチュード6以上の地震を調べたところ、07年7月の新潟中越沖地震以外は起きていなかった。
同研究所の織原義明特任准教授は「言い伝えが事実であれば防災に有益だと考えたが、そうではなかった。信じられている地方もあるが、地震の予知に役立つとは言えない」と話した。  

●「深海魚が打ち上がると地震が来る」は本当か?
深海魚は「地震の予兆」!?
深海魚の一種「リュウグウノツカイ」。成長すると全長5m以上にもなり、「人魚のモデル」とされる魚だ。大型の個体が海岸に打ち上げられると、その特異な姿から多くの人々の目を引き、「地震の前兆現象では?」と話題になる。実際のところ、深海魚と地震にはどんな関係があるのだろうか?最新情報を追ってみた。
壊滅的な被害を生んだ深海魚の「たたり」
江戸時代中期に出版された『諸国里人談』(しょこくりじんだん)という本に、こんな話が出てくる。若狭国(現在の福井県南西部)で、岩の上に人魚がいるのを漁師が見つけた。もっていた櫂(かい)で殴ったら、人魚は死んでしまった。海に投げ込んで帰ったところ、そのあと大風が起きて海鳴りが17日間も続き、30日ほどすると大地震が起きた。山から海辺まで地面が裂け、村がまるごとなくなってしまった──。この物語中に登場する人魚は、「鶏冠(とさか)のごとくひらひらと赤きもの」を身にまとっていたとされる。赤みを帯びたひれをゆらめかせて泳ぐ、「リュウグウノツカイ」を彷彿させる表現だ。深海魚をいじめたら、その「たたり」で地震が起きた。そんなふうに読み解くことができる物語なのだ。この『諸国里人談』の記述からは、昔の人々も「深海魚の出現」と「地震の発生」を関連づけて考えていたらしいことがうかがえる。
群発地震時に現れた深海魚
珍しい深海魚に遭遇しやすい人々として、まず挙げられるのは漁業者だろう。それ以外では、日々海に潜りつづけているダイバーたちもまた、「深海からの使者」を間近で目撃する機会がある。沿岸の浅い海で潜水している最中に、ふだんは見かけないような「珍客」にダイバーが出くわすと、その証拠として水中写真が撮影されるケースも多い。たとえば、どことなく神秘的な雰囲気を漂わせる「シャチブリ」。地震との関連がささやかれてきた深海魚のひとつだ。1993年1月に静岡県・伊豆半島東方沖で群発地震が発生。その前後の時期に全長30〜60cmのシャチブリの個体が、浅い海にたくさん姿を現して注目を集めた。埼玉県在住で、潜水経験が約3500回というベテラン・ダイバーの山内まゆさんの印象に強く残っているのは、2013年1月のできごとだ。伊豆半島の大瀬崎に潜りにいったところ、同じ日に「シギウナギ」と「ホンフサアンコウ」が、相次いで出現した。いずれも、ふだんのダイビングでは見かけない深海系の珍魚だ。山内さんは、岩手県で祖父から聞いた言葉を思い出した。「地震や津波が起こる何日か前には、見たこともない奇妙な魚が網に入ることがある。そういうときは、注意しないと……」その日集まったダイバーどうしで、「こんなに浅い海に出てくるなんて、地震が来るのかね?」「なんらかの地殻変動の影響では?」といった会話が交わされたという。
3.11の1ヵ月前に現れた深海魚
大瀬崎では2011年2月13日に、通常は水深600〜1200mほどに生息する深海魚「チョウチンアンコウ」が出現した。地元のダイビング店「はまゆうマリンサービス」のインストラクター・相原岳弘さんは、潜水経験が1万回以上、25年のキャリアをもつが、「チョウチンアンコウを見たのはこのときが最初で最後。まさに一期一会です」と振り返る。そして、チョウチンアンコウが出現してから約1ヵ月後の3月11日、東日本大震災が発生した。「やっぱり、あれは地震の前兆だったのでは……?」相原さんは、ダイビング店のスタッフやお客さんたちと、そう話し合った。
深海魚と地震の関係
「深海魚と地震の関係について、以前から関心をもっていました」そう語るのは、東京学芸大学の織原義明・非常勤講師(地球物理学)だ。織原さんは、全国の深海魚の出現事例と地震の発生について、2011年から本格的な調査を開始した。未曾有の被害をもたらした東日本大震災が、そのきっかけだった。深海魚の出現と地震の関連性を明確に示すことができれば、今後発生する大地震について、防災につながる情報が発信できるのではないか──。そんな動機から始めた研究だ。しかし、実際の作業はきわめて手間のかかるものだった。全国各地で報告された珍しい深海魚の出現に関する過去の学術文献、新聞記事、水族館のホームページに掲載されていた情報などを、片っ端から調べ上げた。そして、必要に応じて、情報源への問い合わせもおこなった。
地震との関係が噂される8種類の魚たち
深海魚の出現記録には、(1)海岸への打ち上げ、(2)漁業での混獲、(3)海岸近くでの目撃情報、という3つのジャンルがある。そうした出現時の状況や年月日、場所などのデータを一覧にした「深海魚出現カタログ」をまとめるのに7年間かかった。収集した深海魚の出現記録は、1928年11月26日〜2011年3月11日の392件、深海魚の種類は45種にのぼる。このうち、新聞の記事で地震との関連性が言及されたことがある「リュウグウノツカイ」や「サケガシラ」など8種類に絞り込んで、解析を進めることにした。
M6.0以上の地震に注目
地震が起きたとき、「震度」がそれぞれの場所における揺れの大きさを表すのに対し、地震の規模を示すのが「マグニチュード(M)」だ。死者・行方不明者が6000人を超えた1995年の「阪神・淡路大震災」(兵庫県南部地震)は、最大震度が7、マグニチュード(M)は7.3だった。そして、2万2000人を超える死者・行方不明者を出し、東京電力福島第一原発事故を招いた2011年の「東日本大震災」(東北地方太平洋沖地震)では、国内史上最大となるM9.0を記録した。地震は、地下で起きる岩盤のズレによって発生する「破壊現象」だ。そのエネルギーの大きさは、Mの値が1大きくなると約32倍に、2大きくなると約1000倍になる。そして、「大規模な地震は発生の回数が少なく、逆に、規模の小さな地震ほどその数は桁違いに多い」という基本的な法則が存在する。つまり、被害を起こさず規模も小さな地震は、発生数が非常に多いのだ。防災を目的に前兆現象を調査・研究する際には、これらの小さな地震については除外して考える必要がある。こうした理由から織原さんは、被害につながりやすい「M6.0以上」の地震に絞って分析を進めた。
深海魚の出現後に地震が発生した実例
「深海魚出現カタログ」のデータのうち、新聞で地震との関連が言及されたことのあるリュウグウノツカイなど8種類の魚の記録は計336件。集めたデータを月別で集計すると、地震の発生件数は年間を通してほぼ同様なのに対し、深海魚の出現記録は冬から春に多かった。それぞれの深海魚の出現日から30日後までに、半径100km以内で地震が発生していたかどうかを調べた。分析対象の地震はマグニチュード(M)6.0以上で、震源の深さは100kmより浅いものとした。その結果、深海魚の出現後に実際に地震が発生したケースは、2007年7月16日の新潟県中越沖地震(M6.8)の1件のみだった。地震の27日前に、震央から約30km離れた新潟県柏崎沖で、深海魚の「サケガシラ」が漁網に入ったという記録だ。しかし、この事例以外には、深海魚の出現と地震の発生を結びつけられるようなケースは存在しないことが判明した。
防災に役立てたかったが…
東海大学海洋研究所に勤務していた2019年、織原さんの研究結果をまとめた論文が米地震学会の学会誌に掲載された。深海魚の出現は大地震の発生に必ずしも結びついていない。「深海魚の出現は地震の前触れ」といった伝承は、迷信と考えられる──。これが、日本全国から集めた情報を分析した結果から、織原さんらの研究グループが導き出した結論だ。つまり、珍しい深海魚が出現しても、それをもとに事前避難などを促すことはできないという結果である。自らの研究について織原さんは「もしかしたら、深海魚の出現情報を防災に役立てられるかもしれないと考えていたので、とても残念な結果です」と語る。織原さんは「魚を含めた動物の異常行動については、地震との関係について科学的な検証がなされていなかったり、研究が中途半端に終わっていたりするケースが多い。地震の前兆とされる言い伝えについて、今後も科学的な検証を進めていきたい」と話す。研究の進展に期待したい。
 

 

●いわしが大地震の予兆に?
2014年11月3日に、北海道勇払郡むかわ町の海岸で大量のいわしが打ち上げられているのが発見されたことは知ってますか?しかもこの日には、11時28分に北海道・胆振(いぶり)地方でM4.6の地震があり、むかわ町などでは震度4だったようです。さらに11月5日から6日にかけて、むかわ町から80キロほど東方の浦河町の港でも、イワシが大量に打ち上げられ、さらにさらに日高町や新ひだか町でも大量のいわしが打ち上げられたようなんです。
ちなみに、日高町や新ひだか町は位置的には浦河町とむかわ町の間に位置します。また、むかわ町ではその後もいわしの大量打ち上げが続いているようです。これって、地震の予兆?
実は、いわしが大量に発生した後には、大地震が過去に起こっているようです。
この周辺に起こる可能性がある大地震は十勝沖地震。現在に近い過去には1843年(M8.0)、1952年(M8.2)、2003年(M8.0)と3回もいわし大量打ち上げ後に発生しているんですよ。
さらに場所は違いますが、明治三陸地震津波(1896年)と昭和三陸地震(1933年)の前には、目を疑うほどの豊漁が起き、イワシの大群が海岸一帯を埋め尽くしたと伝えられているそうです。
でも、役所の見解は冷たい海水が流れ込んで、いわしが冷たい水を避けるため温かい浅瀬に大量に逃げ込んで、その結果酸欠で死んでしまったということのようです。
たしかに、的を得ています。が、いわしの大量発生や大量打ち上げ後に大地震が起こっていること、その後もいわしの大量打ち上げが発生していることを考えれば、いわしの大量発生と大地震の発生を無関係と切り捨てるのは「何だかなあ〜」って気になりますね。
地震の予測の1つは、これまでの経験則によって成り立っています。例えば、○○地方の地震は約100年毎に発生しているというようなものです。
なので、いわしの大量打ち上げと地震発生を全く関係がないとするのは、少し危ないような・・・
そしてあるサイトでは、松原照子氏も「根室沖と十勝沖が気になる」と書いています。
松原照子氏はあの東日本大震災を何と一か月間に予測したことで有名な人なんです。ブログには、その予測したことが書かれています。
今回のいわし大量打ち上げと大地震の間に何も関連がないなら、それこそ幸いですよね。ただ、やっぱり可能性がある限りは、十分注視した方が良いのかもしれませんね。今回打ち上げられた大量のいわしですが、やっぱり自治体が処分したんでしょうね。廃棄物処理の仕事をやっているなら想像つくと思いますが、やっぱり焼却処分でしょうか? でも、北海道には大型のコンポスト施設があったような・・・
 

 

●電気製品の不調や耳鳴りは地震の前兆現象か?
大地震の発生後に「前兆現象」の報告は後を絶たない。犬がよく吠えた、カラスの大群が飛んだ、深海魚が浅瀬に出現したなどの「動物の異常行動」から、いわゆる「地震雲」、電気製品の不調、そして耳鳴りやめまいといった人間の異常など、その種類は様々だ。
こうした地震計などの機器によらず、人が感知した現象は「宏観異常現象」といい、大地震の前兆といえるのか研究されてきた。
この分野は未解明なことが多い一方、信じている人が多いとのアンケート結果もある。東海大グループが山形県内の中高生を対象に実施した調査では、少なからず動物の異常行動があると思う人は81%、地震雲は51%、電気製品の異常は33%が信じているという結果が出た。占いで少なからず予知できると回答した人も23%いた。
日本地震予知学会会長で東海大学海洋研究所客員教授の長尾年恭氏は、こうした前兆現象の情報に注意を促す。
「宏観異常現象は、予知の中でも一般の方々にとって最も身近な分野です。それゆえ関心は高い一方で、人が観測する現象ですから、観測者の“思い込み”で結果が歪められるケースが多いことに注意すべきです。現代ではインターネットで前兆現象の情報があふれていますが、こうした情報を投稿する人はそもそも地震に関心があり、宏観異常現象を信じている可能性が高いため、情報にバイアスがかかっていると考えられます。また、地震発生後の証言だけでなく、定期的な観測に基づいた調査も必要です。そうした精査された情報であるか否か、各自で見極めることが大切です」
宏観異常現象の収集はこれまで何度も行なわれてきたが、予知に成功した事例は少ないのが現状だ。
「1970年代の中国で起きた海城地震では、宏観異常現象で事前に避難を呼びかけて減災に成功したとされますが、そうしたケースは非常に稀です。動物の異常現象については、未だに『地震の前にこんなことがあった』ということばかりが注目されていますが、そうではなく、地震前からの定期的な観測が必要です。地震が起きた後に集められた証言は、やはり関心の高まりによるバイアスがかかります。また、季節の変化や、同じ動物でも個体差があることも加味し、最低でも2年以上、複数の個体を観察してから検討すべきです。100年や1000年に一度起こる災害に対し、大地震直前の数日、数週間のデータだけで前兆とは判断できないのです」(長尾氏)
 

 

●大地震、5〜6日前に「前兆」 上空の電離層乱れる
多くの地震学者が予想していなかった東日本大震災だが、その5〜6日前に「明瞭な前兆」を電気通信大学の研究グループが確認していた。同グループが注目するのは地震の前に現れる大気上空の電離層の乱れ。地震学者にはない視点で独自の観測網を整え、東海地震など巨大地震の予知に成功したいと話している。
地震が起きた3月11日午後2時46分過ぎ。電通大の研究グループを率いる早川正士名誉教授は、東京都調布市の同大学の研究室で、棚が倒れないよう必死に押さえながら自問していた。「なぜ東京がこんなに揺れるのか……」
研究グループの観測網では東京に大きな地震が起こるとは予測していなかったためだ。やがて震源が関東付近ではなく東北沖のマグニチュード(M)9クラスの超巨大地震だったと知り、納得した。「あれが前兆だったに違いない」
早川氏によると、大きな地震の約1週間前に震源上空にある電離層が何らかの原因で乱れ、大気圏との境界面(高度約80キロ)が一時的に低くなる。この現象は地表と電離層の間を反射しながら進む超長波電波の到達時間を正確に測ることでとらえることができる。
研究グループはこの方法が内陸の直下型地震の予知に有効とみて、宮崎と福島の送信局からの電波を観測してきた。加えて今年、米ワシントン州からの電波を日本で受け、太平洋上の電離層のチェックを始めていた。
太平洋上の電離層の異常が観測されたのは3月5〜6日にかけて。調布、春日井(愛知県)、高知の3カ所の受信局で、電波の夜間の平均振幅が極端に短くなるという「明瞭な前兆」(早川氏)が現れていた。
3日後の3月9日午前、M7.3クラスの地震が三陸沖で発生した。「当初はこの地震の前兆だと思った。しかし、(観測から地震発生までの時間が)通常は約1週間なのに3日というのは短く、疑問に思っていた」と早川氏。その2日後の11日に超巨大地震が起きた。
地震と電離層異常の関係についての研究は阪神・淡路大震災の翌年の1996年から5年間、宇宙開発事業団(現・宇宙航空研究開発機構)が実施。早川氏が研究リーダーを務めた。同プロジェクトでは、ギリシャでの地震予知成功で有名になった地電流を観測する「VAN法」も別のグループで研究。早川氏らの試みはこうした研究の蓄積をベースにしている。
早川氏らは予知情報を企業などに有償で提供する会社を設立、近く事業を始める。「予知研究の資金を賄うのが会社設立の目的」(早川氏)だ。内陸型の地震を中心に情報提供を始めるが、今回の経験から、海底を震源とするプレート境界型の地震の予知にも使えると判断。東海・東南海・南海地震の想定震源域をカバーする電波を受信できるよう、三宅島に受信局を近く設ける。
地震の直前予知について多くの地震学者は懐疑的だ。98年に文部省(当時)の測地学審議会は直前予知の困難さを認める報告をまとめている。早川氏は「地震のメカニズム研究と地震予知は全くの別物」と反論。地震学とは一線を画す独自の方法で予知の実現を目指している。
 

 

●地震の前兆の可能性がある自然現象
1 前震
大きな地震の数日〜数カ月前(短期前震)または数カ月〜数年前(長期前震)に、本震の震源周辺の地域で小さな地震が頻発することがある。例としては、1872年の浜田地震の際、島根県東部では本震の発生4、 5日前から西方に鳴動が聞こえ、地震を感じた。当日も11時頃に微震が3回あり、16時頃と17時頃にも地震があって、17時過ぎに本震が来た。また、1930年の北伊豆地震では、その年の3月をピークとして2月〜5月に伊東沖で3000回以上の有感地震を含む群発地震があったが、その後も完全には収束せず、11月中旬になってまた頻発するようになった。11月25日には東京でも揺れを感じる地震が3回あり、翌26日に本震が来た。
実際上は、1〜2回の前震があっても、大地震が来る前にそれを前震と判断するのは不可能であり、群発地震も大きな地震に至らずに収束することが多いので、これらを根拠にして大地震を予報することはできない。ただし、とにかく小さな地震を感じたら、大きな地震に対する身の回りの備えを確認する習慣をつけるのは賢明だろう。また、大地震の後は、1ヵ月程度にわたって必ず余震が続き、地域によっては、本震よりも余震の方が大きな揺れになることがあるので、余震域やその周辺地域では、本震による被害が少なかった場所でも、これを前震と考えて、大きな余震への対策を準備すべきである。イタリアで300人が死亡した2009年のL’Aquila地震では、群発地震が続いていたのに当局が「安全宣言」を出したことが、その後に起きた本震の被害を大きくした、として裁判沙汰になっている(この件の参考資料)。
2 鳴動(地鳴り)
上の浜田地震の例のように、前震に伴って鳴動(地鳴り)が聞こえることがある。1854年の伊賀地震では本震の3日前から鳴動が始まり、2日前にはかなり強い前震が2回あって鳴動が盛んになり、27回の小地震があった。前日には午後2時頃に強い地震を1回感じただけで、比較的静かになったが、当日の午前2時に本震が来た。なお、地震の直前(数秒〜数十秒前)に聞こえる地鳴りは、本震の大きな揺れ(S波)が来る前に到着する初期微動(P波)による音だろう。
3 地盤の隆起・沈降またはそれらの傾向の変化
1964年の新潟地震の震源(粟島付近)に面する日本海沿岸地域では、1940年頃から隆起が顕著になり、1960年には1900年と比べた隆起量が最大16 cmに達したが、1962年には隆起が止まり、1964年の地震の際に一挙に10〜20 cm沈降した。一方、新潟市付近では1900年以後ゆるやかな沈降が続いていたが、1955年頃から隆起に転じ、1962年頃にはその隆起も停止して、1964年の地震では数cm沈降した。地震の数年前から隆起・沈降の長期的な傾向が大きく乱されていたことがわかる。関東大地震についても、三浦半島三崎の地盤は、1900年の観測開始以来、年1 cmの割合で沈降していたが、1921年から逆に年3 cmの割合で隆起するようになり、1923年の大地震で1。4 mほど隆起した。
4 海面の変動(潮が引くなど)
日本海は干満の差が少ない(数cm程度)ので、漁業者や住民が地震前後の地盤の上下変動に気がつく場合があった。例えば、1927年の丹後地震では、3月7日18:28の地震発生の数時間前に、今まで表れたことのない岩が海面上に露出していた。この隆起量は1m程度と考えられる。この一時的隆起は、地震で出現した郷村断層の東側の地域で顕著だったが、地震後はもとに戻った。しかし断層の西側の地域では地震によって80 cm程度隆起し、その後もとにもどっていない。このような地震直前の隆起現象は1793年の西津軽地震、1802年の佐渡地震、1872年の浜田地震でも記録されている。2007年の能登半島地震では、門前を通る断層の南側の海岸が地震後に50 cm程度隆起したが、地震の直前に隆起・沈降があったかどうかはわからない。
5 井戸水や温泉の混濁、枯渇、異常湧出、温度変化、化学組成変化など
1943年の鳥取地震は、3月4日と5日、そして9月10日に発生した。鳥取市の吉方温泉では3月4日19:40の地震の30分前に、無色の湯が米汁のように白濁し、湧出量が平常の1。5倍になったが、温度は大差なかった。また、9月の地震のときは、特に変化はなかった。吉岡温泉では、3月、9月の地震の前日に、無色から濃い米汁のように白濁し、浴槽内で自分の足が見えないほどであった。1961年から71年まで続いた長野県の松代群発地震では多量の地下水が湧出し、これによって多くの地すべりが発生した。1995年の阪神大震災では、地震の数カ月前から六甲山地で地下水の湧出量の増加や化学組成(塩素の量など)の異常な変化が見られた。また、地下水や大気中に含まれる放射性元素であるラドンの量が、阪神大震災の8日前に著しく増加した。ラドンは岩石中のウランやトリウムの放射壊変で生成する気体で、地下水とともに移動すると考えられる。ただし、地下水の量や化学組成の変化が必ず地震発生と結び付くわけではない。
6 石油の滲出
秋田平野などの油田地帯では、地震の前後に石油がしみ出してくることがある。1810年の男鹿地震では、10日前から前震が頻発した他に、1ヶ月ほど前から、八郎潟の湖底に石油が滲出したらしく、湖水の色が赤や黒に変化し、魚が大量死したという記録がある。1939年の男鹿地震でも、地震の前日に八郎潟でフナやコイが岸の近くに押し寄せて、多数捕獲され、一部の場所では手捕りができるほどだったという。ただし、地震の当日には来なくなった。また、海岸では地震の前日の午後から当日の午前(地震発生は14:58)に多数のイイダコが酔ったような状態で砂浜にはい上がってきた。これらも石油の滲出によるのかもしれない。また、天然ガスの噴出によって臭いを感じたり、ガスが燃焼して「火の玉」が飛んだりすることもあるらしい。
7 ナマズなどの生態異常
上の男鹿地震の例は、地震の前日〜当日に魚類やタコに異常な行動が見られたことを示している。1923年の関東大地震の前日に湘南の鵠沼海岸の池で、投げ網を用いて30 cm大のナマズをバケツ3杯分ほど漁獲した人がいた。ナマズは、昼間は池の底に潜んでいるはずなのに、泳ぎ回っていて容易に捕獲されたことは、地震の前兆の何らかの刺激による異常行動かもしれない。関東大地震の直前に、向島の料亭において、池の水面から頻繁に小魚が跳び上がるのを見て、店の者に何という魚か聞いたところ、ナマズの幼魚で2〜3日前からこのように跳ね上がっていて不思議なことだと答えたという。その他、犬、猫、鳥など様々な動物について、大地震の前に落ち着きをなくす、異常な鳴き声を出すなどの変化を示すことが報告されている。
8 発光現象(光りもの)
地震に伴う顕著な発光現象が、科学者を含む多くの人によって観察されたのは、1930年の北伊豆地震である。伊東で観測していた地震研究者が未明の地震に際し箱根方面(この地震で活動した丹那断層の北方延長)に顕著な発光現象を観察した。他にも多数の人が光を目撃したが、この現象が発生した時刻は、地震の前というよりも、地震と同時だったらしい。この地震に伴う発光現象については、武者金吉氏や寺田寅彦氏の研究論文がある。 1751年の越後高田の地震では、夕暮れから海に出た名立の漁師が沖でボラやカレイを釣っていたが、名立の村の方向が一面に赤くなり、火事だと思って急いで帰ったところ、何事もなかった。しかし、夜半過ぎになって大地震が起こり、裏山が崩れて海になだれ込んだため、名立の村は全滅した(これは海を漂流していて救助された村の主婦の話)。つまり、この時の赤い光は、地震の数時間前に発生したことになる。ただし、このような光は微弱であり、昼間は見えないだろう。
9 火山の噴火
地震活動と火山活動の関連を示す事例は多々ある。例えば、平安時代の869年の貞観三陸地震、878年の元慶関東地震、887年の仁和関西地震に先だって、864年から866年に富士山が大噴火し、青木ヶ原溶岩を噴出した例がある。しかし、いつも富士山の噴火が地震に先行するわけではなく、1703年の江戸地震、1707年の東海・南海地震(10月28日)の場合は、その直後(1707年12月16日)に富士山が噴火した(宝永噴火)。そして、1854年の東海・南海地震、1944・46年の東南海・南海地震の際には、富士山は噴火しなかった。歴史上初の木曽御嶽の噴火(1979年)の5年後(1984年)に直近で長野県西部地震が発生したことも、それらの関連を示唆する。
10 電磁気異常
多くの人が電波を利用するようになったのは1950年代以後なので、それ以前の地震についての電磁気異常の報告は少ない(1855年の江戸地震における「地震の直前に磁石についていた鉄が落ちた」などの報告は疑わしい)。1995年1月17日の阪神淡路大震災では、地震の2週間程度前から数時間前にかけて、ラジオやテレビの雑音、リモコンや携帯電話などの動作異常があったという多数の報告が、地震の後でなされている。同様なラジオの雑音などは、1970年代に中国で起きたいくつかの大地震の前にもあったことが報告されている。兵庫県立西はりま天文台(佐用町)では阪神淡路大震災の40〜20分前と地震発生から45分間、地表からと思われる異常な電波放射を観測しているが、中国でもレーダーが地震の前に擾乱を受けたことが報告されている。
【追記1】明治と昭和の三陸地震津波の前兆現象について
明治29(1896)年6月15日と昭和8(1933)年3月3日の三陸地震津波の前兆現象
1.井戸水の枯渇、混濁(前日から)
2.イワシ・マグロ・ウナギ・アワビなどの豊漁(数カ月前〜数日前)。
3.大砲を打つような音(津波の直前)
4.海面上の発光(津波の直前。ただしどちらも津波は夜間に来襲)
【追記2】2011年東日本大震災の前兆の可能性について(アンケート開始前までに集めた情報)
今回の2011年3月11日14:46の地震の前兆の可能性がある現象について
   1.短期的な前震 2日前の3月9日11:45に宮城県はるか沖でM7.2の地震があった。
宮城北部で震度5強。大船渡で60cm、石巻で50cmの津波。緊急地震速報は不発。
   2.長期的な前震と関連地震
2003/05/26 宮城県沖地震M7.1   
2003/07/26 宮城県北部地震M6.4
2005/08/16 宮城県沖地震M7.2   
2008/06/14 岩手宮城内陸地震M7.2
2008/07/24 岩手県沿岸北部地震M6.8
   3.気になる関連地震
2010/11/30 小笠原諸島西方沖、深さ480km、M6.9、東北地方の広い範囲で震度3。
2010/12/22 小笠原父島の東北東130km、深さ10km、M7.4、父島・母島で震度4、八丈島で津波60cm。
2011/01/13 小笠原諸島西方沖、深さ520km、M6.6、震度は父島・母島2、東北地方1。
2011/01/31 東伊豆で震度4の地震。震源は伊豆大島近海の浅所。
2011/02/22 ニュージーランドのクライストチャーチでM6.3の地震。3月3日現在死者161、不明約60、日本人留学生28人が死亡または不明。前年9月にも。
2011/03/10 中国雲南省でM5.8の地震。死者24、負傷207。
   4.火山・地熱・温泉
福島県の安達太良火山の沼ノ平火口では1996年から泥熱水噴出、1997年に有毒火山ガスにより登山者4人死亡。2000年と2010年にも噴気が活発化。現在も水蒸気噴出続くが3/11の地震による変化はない。福島県の吾妻山は2009年から噴気活動が活発になっているが、3/11の地震後は夜間に火口付近が明るくなる現象が見られるようになった。2010年10月17日、宮城県鬼首火山の地熱発電所で地中から水蒸気と熱水が噴出し1人死亡、1人負傷。秋田駒ヶ岳では2009年から2010年12月にかけて地熱域拡大。岩手山と秋田駒ケ岳では3/11の地震後しばらく火山性地震の回数が増加。このように東北地方のいくつかの火山で3/11の地震の2年前くらいから地震後にかけて火山活動の活発化が見られる(気象庁の火山情報や新聞報道に基づく)。また、2011年1月26日から霧島火山の新燃岳が噴火開始、189年ぶりに溶岩ドーム出現。2月中旬には鹿児島の桜島も活動が活発化。
   5.海洋生物関係(地元紙の新聞記事に基づく)
2010/12/07 仙台港にクジラが迷い込む。その後発見できず。松島水族館によると仙台湾周辺では年に数件クジラの目撃例がある。
2010/12/22 サンマ棒受網漁終了。前年と比べ女川港58%、気仙沼港77%と不漁。
2011/01/10 秋サケ漁終了(南三陸町)。海水温が高い状態が続いたため不漁(前年の53〜57%)。河川に上ってくるサケも不漁。山形県も2010年は過去最低の不漁。
2011/01/14 七北田川河口にクジラが迷い込む。29日現在松島水族館に移して治療中。
2011/02/23 牡鹿半島で天然ヒジキ刈り取り解禁。収穫は去年の倍以上、品質もよい。
【追記3】2011年東日本大震災地震津波前兆アンケート中間まとめ
東日本大震災の前兆現象に関するアンケート回答(※)とネット上及び新聞紙上(地震後)の情報のまとめ(2011年7月13日現在)(7月15日追記)
   1.前震や地震活動の変化など
3月9日(本震の2日前)から地震活動が顕著に活発化(ユーチューブなどに動画)
東日本大震災の前兆すべり観測できず(地震予知連絡会)(4月26日、朝日新聞)
22年前から震源域で地震が静穏化。北海道大地震火山研究観測センターの勝俣啓准教授の研究(産経新聞6月16日)
   2.その他の自然現象など
2月17日昼の12:02 地震雲? 山形県山形市から太平洋の方向へ直線的に伸びる帯状の幅の広い雲?が2列見えた(ユーチューブ動画)
2月28日午前4時頃 UFO?  光る物体を見た。左右に動いてすぐ消えた(場所不明)(ネット上)
3月8日午後5時頃、神奈川県で車から見た沈む夕日が、虹に取り囲まれたような、見たこともない太陽だった。(この夕日と思われる写真が複数のページに掲載されている)(ネット上)
3月10日夜 発光現象 岬の先で光の柱が空に伸びた(宮城県南三陸町、4月23日の毎日新聞)
3月11日午前8時頃 宮城県塩釜市の御釜神社で、鉄製の「神釜」の水が普段と異なり澄んでいた。4台の釜のうち、奥の2台で、いつもはごみやサビで赤褐色に濁る水が澄んでいた(女性管理人の話。4月23日毎日新聞)
   3.陸上・陸水生物関係
1月 八戸市内の五戸川で今年1月に大量のなまずが獲れた(東奥日報3月24日)※
2月10日頃から ? 陸前高田市では約1ヶ月前から、朝夕、カラスの群れが空を覆い、市民の間でちょっとした話題になっていた ※
数日前から カラスが消えた(宮城県南三陸町、毎日新聞4月23日)
3月11日午前1:50頃 宮城県石巻市湊地区の公園でカラス50羽ほどが騒いでいた (読売新聞7月2日)
3月11日午前10時頃 同地区でトンビが数10羽飛びながら鳴き騒いでいた(以上2件、読売新聞7月2日)
3月11日昼頃、宮城県でカラスの大群が鳴きながら移動していた (ネット上)
3月11日13:00頃、千葉県でいつもは地上で餌を探しているカラスが高い建物の上に多数集まっていた (ネット上)
   4.海洋生物関係
1〜2月頃、紀伊水道周辺でイカの漁獲量が通常の数倍に(読売新聞5月1日)
3月4日夜、茨城県鹿嶋市でクジラ50頭が浜に打ち上げられた(54頭説もある。体長2〜3mのカズハゴンドウらしい)(3月5日の読売新聞)
数日前から? タコが異常に獲れた(岩手県久慈市)、マダラが岸辺に寄らなかった(岩手県野田村)(4月23日の毎日新聞)
3月11日午前中 福島県浪江町でアイナメが予想以上に獲れた( ネット上、okwave)
   5.電磁気関係
3月5〜6日 東京電気通信大学の早川正士名誉教授(地震電磁気学)、震源域上空の電離層の乱れを観測。(5月3日の日経新聞)
東日本大震災40分前に、震源地上空の電子急増。北大理学研究院の日置(へき)幸介教授(地球惑星物理学)(3月28日の北海道新聞)
地震雲について
地震雲の写真や地震雲を見たという報告はネット上に沢山あるが、発見の年月日と時刻、継続時間、場所、見えた方向などのデータがはっきりしない場合が多い。地震雲と普通の雲を見分ける基準もあいまいで、写真を見た人から「飛行機雲だ」、「普通の雲だ」などの批判が書き込まれていることが多い。結局その人が地震雲だと思うかどうかが唯一の基準のようである。例えば、空の半分が雲でその境界が直線になっている場合(断層型)、筋状や幅広い帯状で直線的に長く伸びる雲、細長い雲が平行に多数並ぶもの、同心円状に並ぶもの、放射状に並ぶもの、弓や鎌(かま)のような弧状の雲、竜巻型、ラセン状、レンズ状など珍しい形の雲、色つきの雲などが地震雲とされやすいようである。他の雲と違って低いところにあるが、風に流されず、しばらく同じ場所にあることを判断基準とする人もいる。
クジラ・イルカの集団座礁に関して
この記事は、ニュージーランドでも今年2月22日のクライストチャーチ地震の2日前にクジラ107頭が浜に打ち上げられたという話と結びつけて、地震の前兆であることを示唆している。しかし、クジラやイルカが浜に打ち上げられる事件は日本だけでも毎年100件以上あり、数10頭以上の群れが座礁することも毎年のようにあるが、その度に大地震が起きるわけではない。例えば、2002年1月26日に鹿児島県大浦町にマッコウクジラ14頭が座礁し、長さ10m、重さ15トン以上ある大物ばかりだった。同年2月24〜25日には茨城県波ア町の海岸にカズハゴンドウ85頭の群れが座礁した。同町には2001年2月にも約50頭の群れが打ち上げられた。しかし、日本では2001年3月24日の芸予地震から2003年5月26日の宮城県沖地震までの間に大きな地震は起きていない。集団座礁の原因は不明で、集団心理説、社会的自殺説、伝染病説、エサ追い説、天敵説、地磁気説、音響説などいろいろな仮説が考えられている。 
 

 

●巷でいわれる地震前兆
緊急事態宣言は解除されたものの、第2波への懸念もあり、新型コロナウィルスの脅威はいまだ収まっていません。そんな中、SNS上では「最近、地震多くない?」「また地震が起きた」など不安が広がっています。気象庁の震度データベースで検索すると、5月1日〜22日までの間に、震度3以上の地震は26回発生しています。 確かに、1〜3月に比べると4月以降の発生は多めではあるものの、過去数年と比較すると今年だけが 格段に多いわけではありません。とはいえ、いずれ発生すると言われている「南海トラフ地震」「首都直下地震」など、大地震の発生を事前に知ることができれば、的確な備えをすることが可能になりますが、地震の予知や前兆について、巷で言われる様々なものを具体的にご紹介していきます。
そもそも地震予知は可能なのか?
地震の予知とは、「地震の起こる時、場所、大きさの三つの要素を精度よく限定して予測すること」とされています。予知も含めた地震の研究を進めている公的機関は、東京大学地震研究所や防災科学技術研究所など、複数存在します。また、個人が独自の手法を用いて予知を行い、SNS上での発信、更には会員を募っているものもあります。一方で気象庁は、「現在の科学的知見からは確度の高い地震予測は難しい」としています。
地震の前兆といわれているもの
地震の前兆とされる言い伝えは、古いものでは江戸時代に書かれた書物にも記載があるといいます。科学的には関連性が実証されていないものの、前兆ではないか?といわれているものをまとめました。
   地震雲
地震雲といわれるものは、いくつかあります。
断層型 一面に広がっている雲のエリアと青空が、あるラインを境にくっきりと分かれるような雲
筋状 帯状 地面と平行に細長く伸びる雲
放射状 ある一点から四方八方に広がった雲    など
日本では、昔から雲の形や動き、風の向きや強さから天気を予想することが行われていたため、この説は定着しやすかったとも考えられます。地震雲発生メカニズムについて典型的な仮説としては、地震が発生する前、震源地周辺から発生する電磁波が、雲の生成に影響を与えるというものです。
   地鳴り
東日本大震災後の2011年4月11日に福島県いわき市を襲った震度6弱の直下型余震では、 多くの住民が地鳴りを感じていたといいます。
「揺れと地鳴りは3月11日の本震以降に多くの住民が感じていた。 ―中略― 市田人支所には4月11日以前に住民から地鳴りなどの相談があり、不安があれば支所などに避難するよう呼び掛けていた。しかし、職員の1人は「当時は原発事故の影響で混乱していた。原因を探るまでは手が回らなかった」と明かす。「爆発音のような地鳴りや突き上げるような揺れが続いている」。田人町の西に隣接する古殿町役場にも住民から情報が寄せられていた。町は福島地方気象台に連絡し、「いわき市西部の山間地で直下型地震が頻発している」と回答を受けた。町は問い合わせがあった住民には事実を知らせたが、防災無線などで積極的には広報しなかった。町職員は「大地震を予知できない以上、不安をあおるだけ」と判断していた。」
   火山の噴火
地震と火山活動の関連を示す事例は多々あります。 例えば平安時代の大地震(869年の貞観三陸地震,878年の元慶関東地震,887年の仁和関西地震)前の864から864年には富士山が大噴火をしています。ただ逆のパターンもあり、1700年代の大地震(1703年の江戸地震,1707年の東海・南海地震)の際は、その直後の1707年年末に富士山が噴火しています。環太平洋火山帯では、これまで地震が多く発生しており、何らかの繋がりはあると予測されるものの、 他の前兆と同様、「火山Aが噴火したので、B地域で大地震が発生する」と言えるまでは地球科学は発達していないようです。
   電磁気異常
1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災では、その数週間前から「ラジオからノイズ音が聞こえた」「携帯電話の動作異常があった」等の報告が、地震発生後に多数あったといいます。
   発光現象
YouTubeなどの動画サイトでは、2008年四川大地震や2011年のクライストチャーチ大地震の前に撮影されたとされる発光現象がたくさん投稿されています。 また、アメリカの研究チームは、この現象の原因を解明したとの研究結果を出しています。
   動物の異常行動
動物達は、人間よりも優れた感覚を持っています。イヌは人間の100万倍以上の嗅覚を持ち、またイヌ・ネコの耳は人間には聞こえない超音波の領域まで聞き取ることができるといわれています。 そのため私たち人間では感じ取ることができない変化を本能的に察知し、いつもとは違う行動を起こすことも考えられます。
これまで報告されているものは、家から出たがる、または外に出たがらない / いつも以上に地面のにおいを嗅ぐ / 吠え方がいつもと異なる /  震える・落ち着きをなくすなどが見られるようです。
イヌネコ以外でも、海から川にイワシの大群が遡上する / 町からカラスがいなくなる / ミミズが大量発生するなど、様々な例が挙げられています。
   深海魚が水面に出てくる
深海魚の中でも、特に「リュウグウノツカイ」が見つかり、地震が来るのか?という記事を読まれたことがある方も多いかと思います。この言い伝えは古くからよく知られているものですが、2019年に東海大学海洋研究所と静岡県立大学のグループが、「迷信で根拠がない」と断定する調査結果を発表し話題になりました。
まとめ
今回紹介した前兆現象以外にも、ネット上では様々なケースが挙げられています。現時点で科学的根拠がないものでも、先人からの言い伝えには、もしかしたら真実が眠っているかもしれません。 
 

 

●淀姫を祀る那珂川の伏見宮と伏見稲荷大社
「福岡県那珂川の市ノ瀬・日吉神社は元宮であった」の続きとなります。那珂川の地は正八幡・大幡主の奴国の奥地となります。「那珂川」はその以前は「灘の川 なのかわ」「儺河」と呼ばれました。「奴」→「灘」→「灘の津」。河内の「難波 なにわ」も奴国の地名の移動とみます。仁徳天皇の難波高津宮も那珂川の「高津神社」に由来するのかもしれません。ここ那珂川の奥地は、大幡主、天御中主神、大国主、彦火々出見命、開化天皇、神功皇后、崇神天皇、仁徳天皇、菟道稚郎子に因む神社が狭い地域にひしめくのです。「天御中主神」も白族の尊称から「那珂主」だったかもしれません。市ノ瀬の日吉神社から那珂川を下り、平地に出たところが「山田」で山田の「一の井手堰」の近くに伏見神社(本宮)が鎮座です。「山田」は事代主を代表する所縁の地名称でもあります。
1.伏見神社(本宮)
那珂川の鯰渕・山田の「一の井手堰」の近くに鎮座です。
所在地:福岡県那珂川市山田879
祭 神:淀姫命
合 祀:神功皇后、須佐之男神、武内宿禰、大山祇神
伏見神社の社伝によれば、主祭神は「淀姫命」、合祀は神功皇后、須佐之男神、武内宿禰、大山祇神となっています。「淀姫命」は通称名で、正式名「豊姫 ゆたひめ」は、鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と阿蘇の奈留多姫命との間の生まれの姫君で、後に安曇磯良の妃となられます。また、豊姫は開化天皇とは系図上での縁者で、神功皇后とは義姉妹となりますが、豊姫は神功皇后よりかなりの歳上です。神功皇后が格では最高位であり、姉妹関係では皇后が年下でも「お姉様」となられるのです。
淀姫命は神功皇后の姉姫で千珠満珠を求め給う神徳の姫で、欽明天皇25年佐賀の県に川上大明神として鎮座されたが、託宣によって此の地に遷座された。
豊姫は佐賀県佐賀市大和町の川上神社(與止日女神社)から遷座されたとあります。社号は「川上神社」か「與止日女神社」となるべきでしょうが、今は伏見神社(本宮)です。社伝に「異国襲来(元寇)にそなえ神功皇后(武内宿祢と共に)京都伏見御香宮(ごこうのみや)を合祭して伏見大明神と称す。」とあり、京都伏見御香宮の神功皇后を鎌倉時代に合祀したのが由来のようです。これからすると伏見大明神は神功皇后となります。しかし、「神功皇后」を勧請されるのであれば、「京都伏見御香宮」である必要はありません。近くに祭神・神功皇后を祀る「裂田神社」が安徳に鎮座です。しかも、開化天皇共に所縁の地です。まるで、「伏見神社」の「伏見」の名称が京都から持ち込まれたかのようなイメージを受けます。佐賀の豊姫(ゆたひめ)の遷座であれば、古宮は「川上神社」か「淀姫神社」でしょう。
(注) 海神族・豊玉彦に因む名は「○美」「○見」「○海」「○実」「○水」「○ミ」というふうに「み」の字が付くことが多いようです。(岬、峯、緑、碧、聡、都)
豊姫の兄「川上タケル」は、クマソの統領となって反旗を起こし、ヤマトタケルに佐賀県背振の広滝(廣瀧神社)で成敗降服して命は助けられます。その逆賊の妹の豊姫は忠臣となって、15歳年上の異母兄の安曇磯良と一緒になって天皇家を助けられます。神功皇后崩御後、佐賀県大和町川上の與止日女神社に、豊姫は河上大明神として鎮座されます。また、福岡県糸島の志摩半島の二見ヶ浦にある夫婦岩は安曇磯良と豊姫を祀るものであり、この糸島の夫婦岩は紀伊半島伊勢の二見ヶ浦の夫婦岩のモデルになっています。多くの人は誤解されていますが、糸島の二見ヶ浦は伊弉諾命、伊弉冉命を祀るものではありません。その近くに桜井神社が鎮座です。現在の桜井神社は筑前福岡藩第2代藩主によって創建され、祭神は警固三神となっていますが、神額は「與止妃宮(よどひめ)」のクマソ神額が掲げられています。安曇磯良と豊姫の夫婦神を祀る神社です。神殿(本殿)の千木は外削ぎの男千木、鰹木は七本で、主祭神は男神です。
また、社伝に「須佐之男命は天正年間、秀吉島津征伐の時、博多市街が兵火に罹り、櫛田祇園社にも兵火及ばんとするや御神体を当社に遷し奉り、博多住民も避難移住して祇園祭行わる。」とあり、須佐之男命はこの時、一時的に避難されたようです。しかし、櫛田神社の主祭神は「正八幡・大幡主」です。その名前がありません。ここでも大幡主の名前が消されています。でも、遷座の証拠が本殿(神殿)の彫刻に残されていました。それが「ふくろう」の彫刻です。大幡主ここにありの鳥です。
武内大臣の合祭のことは不明なり、とあります。大山祇神は字原の無格社神社を合祀、とあります。
本殿(神殿)には「波乗りうさぎ」の彫刻がありますが、大山祇、大国主の名が見当たりません。上流の日吉神社主祭神は、天御中主神、大己貴神(大国主)、彦火々出見命です。もしかすると、この伏見神社(本宮)の古宮は、大幡主・大山祇の「田の神様 タノカンサー」を祀る田(でん)神社または天(てん)神社だったのかもしれません。その後、佐賀大和町の川上神社の淀姫が遷座された。でも、その遷座の動機が明確でありません。
   伏見神社の社伝
鎮座地 福岡県那珂川市山田879(旧筑紫郡那珂川町大字山田)
祭神 淀姫命
合祀 神功皇后、須佐之男神、武内宿禰、大山祇神
由緒 / 淀姫命は神功皇后の姉姫で千珠満珠を求め給う神徳の姫で、欽明天皇25年11月朔日佐賀の県に川上大明神として鎮座されたが、託宣によって此の地に遷座され、後異国襲来にそなえ神功皇后武内宿祢と共に京都伏見御香宮を合祭して伏見大明神と称す。須佐之男命は天正年間秀吉島津征伐の時博多市街兵火に罹り櫛田祇園の社にも兵火及ばんとするや御神体を当社に遷じ奉り博多住民も避難移住してより祇園祭行はる。
   與止日女神社
鎮座地 佐賀県佐賀市大和町大字川上
祭神 淀姫(豊姫 ゆたひめ)、大明神(安曇磯良)
由緒 欽明天皇25年(564)創祀
2.岩戸神楽
伏見神社には県指定無形民俗文化財の「岩戸神楽」があります。この一帯は旧筑紫郡岩戸村です。神楽の出場者は淀姫、鈿女、思兼、事代主、須佐之男、天児屋根、武内宿禰、赤鬼黒鬼となっています。鈿女は「天鈿女命」、思兼は「豊玉彦」となります。神楽に天鈿女命が出られるからには、彦火々出見命も出られてよいのかもしれません。ライバルの天児屋根命・海幸彦がおられるからです。
近くの糸島の志摩半島の白木神社(福岡市西区西浦)の祭神彦火々出見命(山幸彦)は、「ヒョウガリィライ、ピンホーリィライ」(黎族のくそ野郎来るなら来てみろ、この野郎来るなら来てみろ)といって、東の隣接地区・福岡市西区宮浦の大歳神社の海幸彦と、かつての嫁さん・天鈿女命の取り合いを、祭りで喧嘩をされています。
社頭の那珂川の鯰渕には、那珂川から境内への上がり口が設けられています。これは、海神・豊玉彦を祀る名残でしょう。「鯰」の境内置物も豊玉彦を祀る神社によく置かれています。
先に述べました「桜井神社」の本当の祭神は豊姫(ゆたひめ)・安曇磯良の夫婦神ですが、祭神名が完全に消されています。しかし、その痕跡は「與止妃大明神」として残されています。神殿(本殿)の作りは男神が主祭神です。また、本殿と一体となって後ろにある古墳の入り口の岩が開いたという「岩戸宮」が祀られています。この宮号も岩戸神楽から付けられた名かもしれません。その祭神は社伝に「大綿積神 おおわたつみのかみ」と書かれています。志賀海神社(しかうみじんじゃ 福岡市東区志賀島877) の祭神である綿津見三神の一柱「安曇磯良」の可能性があります。
佐賀の與止日女神社の祭神は淀姫と大明神と表記され主祭神は男神です、大明神の神格が不明確です。安曇磯良と推察します。淀姫(豊姫)と安曇磯良は夫婦です。佐賀でも安曇磯良は消されかけています。また、那珂川の伏見神社が佐賀の與止日女神社から遷座であれば、安曇磯良も祀られてもよいはずです。しかし、名前がありません。安曇磯良と豊姫は玉垂命(開化天皇)と共に消された神様です。
また、豊姫が淀姫に変えられ、京都伏見に移られ、淀川の名前の起源となられたのか、興味のあるところです。豊姫(ユタひめ)→ヨタひめ→ヨドひめ→淀姫 との訛りから淀川名の起源を考えるのです。
   與杼神社(よどじんじゃ)
鎮座地 京都市伏見区淀本町167
祭神 豊玉姫命、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)
由緒 愛宕念仏寺などを再興した千観内供が応和年間(961-964)頃に肥前国(現在の佐賀県)佐賀郡河上村の與止日女神社より淀大明神を勧請して建立。
(注) 祭神の豊玉姫命は豊姫の間違いです。豊姫の母は阿蘇の奈留多姫命で高皇産霊神(高木大神)の系列となります。
   岩戸神楽
『岩戸神楽』と『岩戸神楽古道具一括』 / 岩戸神楽の演目は「神宮」に始まり、最後の「岩戸」まで全部で十八番あります。中でも盛り上がりをみせる舞といえば「荒神」でしょう。「荒神」に出てくる鬼は、参拝に来た子どもを誰かれなしに抱えて拝殿に入れます。鬼に抱かれた子どもは病気をせず、丈夫に育つという言い伝えがあるため、毎年七月十四日の祇園祭の夜は子ども連れの参拝者で境内がいっぱいになります。なお、この神社に残されている古い神楽面は、江戸時代の中期から後期にかけて作られたと思われ、その多くが能面の形式を伝えています。このように能面系の面を神楽面として多く使った例は珍しく、神楽面の成立を考える上で貴重な資料といえるでしょう。   那珂川町教育委員会
神楽面の名前 淀姫(豊姫)、鈿女(天鈿女命)、思兼(豊玉彦)、事代主、須佐之男、天児屋根、武内宿禰
   伏見神社 福岡県神社誌 
鎮座地 筑紫郡岩戸村大字山田字茶屋前
祭神 淀姫命
合祀 神功皇后、須佐之男神、武内宿禰、大山祇神
由緒(社伝) / 欽明天皇の御宇肥前国佐賀郡川上大明神(祭神淀姫命也)の託宣に依り此地に鎮座し後(年代不詳)山城国伏見御香宮(祭神神功皇后也)を勧請合祭し伏見大明神と称し奉れり。須佐之男命は天正年中博多市街兵火に罹り櫛田祇園の社にも火災の及はんとするより祇園の御神体(素盞嗚尊也)は当社に遷し奉り(櫛田の御神体は早良郡野芥に遷せりと云ふ)博多住民も此地に避難移住せり其後博多市街再興のとき御神体は当社に鎮祭の儘博多に遷ささりしと言ふ。武内大臣合祭のことは不明なり本社従前は轟ケ丘(書紀神功皇后の巻に爰定神田面佃之時引儺河水云々とある地なり)に神幸ありしも今絶えたり、附記筑前国続風土記同附録同拾遺も凡そ同様の記事なり、慶安元年(1648)までは社辺なる儺河前岸の地にありしを時の地頭津田市之凾茂貞(筑前国主黒田家の臣也)今の地に社殿を造営し同年八月十六日遷座鎮祭せり。明治五年十一月三日村社に定めらる。祭神大山祇神は字原に無格社神社として祭祀ありしを明治四十二年十一月十五日合併許可。
氏子区域及戸数 岩戸村大字山田、岩戸村大字井尻、120戸
   御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)
鎮座地 京都府京都市伏見区御香宮門前町
式内社で、旧社格は府社。通称御香宮、御幸宮。伏見地区の産土神である。神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀る。神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集める。初めは「御諸(みもろ)神社」と称した。創建の由緒は不詳であるが、貞観4年(862年)に社殿を修造した記録がある。伝承によるとこの年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。本殿には、菊の御紋や五七の桐紋、葵の御紋が見られる。貞観時代に香水が湧き出したことから名づけられた、御香水は環境省名水百選の一つとなっている。
(注) 神社名・御諸(みもろ)、菊、五七桐、葵の紋と諸氏から想定できる祭神は、開化天皇、神功皇后、仁徳天皇が上げられます。
3.伏見稲荷大社の概要
伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は京都府京都市伏見区深草にあり、旧称は稲荷神社。現在は神社本庁に属さない単立神社。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。主祭神である宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦大神を中社、大宮能売大神を上社に据え、明応8年(499)に本殿に合祀された左右の摂社、田中大神・四大神とともに、五柱の神を一宇相殿(一つの社殿に合祀する形)に祀っている。
   宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)下社(中央座)
   佐田彦大神(さたひこのおおかみ)・・・・・・・・中社(北座)
   大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)・・上社(南座)
   田中大神(たなかのおおかみ)・・・・・・・・・・・・下社摂社(最北座)
   四大神(しのおおかみ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・中社摂社(最南座)
稲荷神社の総本宮は伏見稲荷大社とされる。
三大稲荷神社(祭神は神社公表による)
   1.伏見稲荷(京都市伏見区深草藪之内町68)
    - 宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神
   2.笠間稲荷神社(茨城県笠間市)- 宇迦之御魂神
   3.祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市)- 倉稲魂大神、大宮売大神、猿田彦大神
稲荷神社の神額の額縁はクマソ物部の性格を表しています。
田中大神は高良玉垂命・開化天皇で、伏見稲荷の額縁には半割り門光紋が打ってある。四大神(しのおおかみ)は四公様の猿田彦大神ですが、稲荷神社の祭神は天鈿女命と猿田彦大神が基底にあるようです。天鈿女命と猿田彦大神は夫婦神です。佐田彦大神は「猿田彦大神」、大宮能売大神は「豊玉姫」で、夫婦神です。
4.稲荷神社創建の縁起
「山城国風土記」逸文に秦氏の祖霊として稲荷を創建とあります。稲荷大社の起源説に、秦氏の祖先である伊呂具公が餅的を弓矢で射る話があります。秦氏は瀛(いん)氏であり、秦の始皇帝(嬴政)の流れで、金山彦が太祖となります。
伊奈利(いなり)と稱ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利(いねなり)生ひき。遂に社の名と為しき。其の苗裔(すえ)に至り、先の過ちを悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖えて祷(の)み祭りき。
(現代語) / 秦中家忌寸などの遠い祖先の秦氏族「伊侶具」は、稲作で裕福だった。ところが餅を使って的として矢を射ったところ、餅が白鳥に代わって飛び立ち、この山に降りて稲が成ったのでこれを社名とした。後になって子孫はその過ちを悔いて社の木を抜き家に植えて祭った。
※伊奈利(いなり)が「稲荷」と表記されて、稲荷神は穀物神とされたようです。
佐賀県の脊振の村の神社の祭事では、餅を鬼の的に仕立てて、鬼を射抜く祭事があります。「餅を鬼の的に仕立てる」のは大きな間違いで、持統天皇のたくらみで、天鈿女命を餅(保食神うけもちのかみ)に仕立て、天鈿女命を追い払う祭事だったのです。
稲荷の祭神は「天鈿女命」となりますが、持統天皇の手前、天鈿女命を表記することができず、宇迦之御魂(うかのみたま)と祭神の実態が想定できないような名前になっています。
持統女帝の古事記、日本書記編纂の隠れた意図は、皇位の孫への継承の正統化(ニニギノミコトの天孫降臨)、罔象女神・天鈿女命の親子の春日神を消すこと。九州王朝関係の神を消すこと。(大幡主、豊玉彦、玉垂命、安曇磯良等)であるとされる。
天鈿女命の件では、春日大社の祭神にも及びます。春日大社の祭神の四神(柱)は、
武甕槌命 - 藤原氏守護神(常陸国鹿島の神 茨城県鹿嶋市宮中 鹿島神宮)天忍穂耳命
経津主命 - 同上(下総国香取の神 千葉県香取市 香取神宮) 彦火々出見命
天児屋根命- 藤原氏祖神(河内国平岡の神 大阪府東大阪市出雲井町枚岡神社) 天忍穂耳命
比売神 - 天児屋根命の妃(同上)
となりますが、「比売神」とは誰でしょう。一般の人には、さっぱり分りません。今の春日大社の元宮は枚岡(ひらおか)神社で、祭神は天児屋根命、比売神(天鈿女命)の若き夫婦神となります。
春日大神(かすがのおおかみ)といえば、一般の方々は奈良県三笠山の麓の春日大社の主祭神・天児屋根命(あめのこやねのみこと)ととらえられるでしょう。しかし、春日大社の元々の本当の祭神は罔象女神様(みずはのめのかみ)=龍神様=水神様であり、罔象女神(別名・神大市姫 かむおちひめ)を春日神(かすがのかみ)と称しました。罔象女神を祭神とする春日神社が本来の春日神社ですが、奈良の春日大社は、この春日神社に祭神三柱を追加したものです。祭神三柱とは海幸彦、山幸彦、姫神(天鈿女命)です。しかも、海幸彦は天児屋根命と武甕槌命(たけみかつちのみこと)の二つの名前と社殿で祀られています。天児屋根命と武甕槌命は海幸彦の異名同神です。今の春日大社は罔象女神が消されていますが、罔象女神は春日大社のもう一つ格上の祭神とされます。
5.稲荷神社のもう一つの顔
稲荷神社の祭神は宇迦之御魂→天鈿女命を主祭神としますが、彦火々出見命(猿田彦・山幸彦)も祀られています。彦火々出見命と天鈿女命は夫婦神であり、物部族の太祖です。ウマシマジノミコトと壱与様がその子で物部の祖となります。壱与(いよ 細姫)→天鈿女命(母)→罔象女神(祖母)は大山祇・大国主の血筋です。トルコ系匈奴物部の流れです。倭国大乱の後期、大国主は「ヒミコ宗女イヨ」様を孝霊天皇の后に紹介します。つまり、大国主は孝霊天皇・壱与夫婦の仲人といった立場です。これにより、次代の孝元天皇から物部を称されます。天皇家と物部族は強い連合体となり、倭国大乱は終息へと向かいます。その物部関係は、孝元天皇、開化天皇、仁徳天皇、草香(くさか)皇子と続きます。この草香皇子の流れを汲むのが日向日下部氏(日向諸氏)となります。物部氏です。それで、稲荷神社は物部族の隠れた斎祭神社であるということです。一般神社の境内に稲荷神社が鎮座する神社は物部関係の神社とみてよいでしょう。
稲荷神社のもう一つの顔として、伏見稲荷大社の本当の祭神は神大市姫(かむおちひめ)=罔象女神となります。
そして、その後ろに夫の豊玉彦がおられます。これも表から消された神々と言えましょう。京都男山から伏見にかけては、豊玉彦・罔象女神の領域なのです。
本来の伏見稲荷は
1.豊玉彦・罔象女神
2.彦火々出見命・天鈿女命
3.猿田彦大神(彦火々出見命)・豊玉姫
4.開化天皇・神功皇后
の夫婦神を祀る神社と言えましょう。
これらの「多くの御魂」が「ウカノミタマ」という名称です。抽象名詞です。「多くの」を熊本弁で「うーかのー」と言います。「宇迦之」は当て字です。よって、伏見稲荷神社は「多くの御魂」祀る神社となるのです。これらの神々を一地域に祀るのが、福岡県那珂川の伏見神社を中心とした那珂川の奥地なのです。そして、伏見神社の位置を古宮の西寄りに修正しますと、裂田神社、伏見神社、乙子神社がラインに乗り、関連が見られるのです。すると、伏見稲荷の祭神に淀姫(豊姫)と安曇磯良の夫婦神を追加してよいのかもしれません。
   神社研究会百嶋先生講演 2011年5月28日
伏見稲荷大社、ここは時代によって、ご祭神が変わるのです。本当のご祭神は神大市姫=罔象女神です。ところが、あとで勢力争いがあって、現在では伏見稲荷のご祭神はウカノミタマとか勝手に書いています。これは当て字にも度が過ぎた昔の熊本弁を連想なさったらいい。熊本では多いということを「うーかなー」といいますが、「うー」とは多いという意味です。次は、これが大事なんです。こんなことを言うたら怒る、プリプリ怒る人がいます。伏見稲荷のご祭神に『佐田彦大神』というのがあります。ここで皆さんだまされないように『佐田大神』と『佐田彦(猿田彦)大神』は違うのです。というのは、出雲の国の佐田大神は現在では猿田彦に変わっているのです。これは間違っているのです。佐田大神と佐田彦大神を間違えているのです。佐田彦大神といったら猿田彦です。佐田大神は佐田で彦はないのです。佐田大神は、誰の事かといいますと、宇佐の佐田村でお生まれになったから佐田なのです。その方が、佐田の地名をもって、朝倉郡佐田村(現在の朝倉市)に転勤してこられた。その方が最も出世なさったお姿の神社が出雲の佐田大社です。ところが、出雲佐田大社は大社から格下げされてしまいました。その理由は、佐田大神(福岡・熊本では大山咋の神といいます)の長男坊主(稲飯命)がこともあろうにクマソとタイアップして神功皇后に喧嘩を仕掛けたのです。それで、息子の馬鹿騒ぎによって大神の大を消されたのです。それで出雲の佐太神社となったのです。挙句の果てに、猿田彦大神に勘違いされています。
 

 

●神功皇后
古代、朝鮮半島を服属下に置いたとされる「三韓征伐」(さんかんせいばつ)伝説を持つ「神功皇后」(じんぐうこうごう)。卑弥呼(ひみこ)と並び、古代日本の象徴的なヒロインのひとりであり、古代日本における女将軍の象徴とも言える人物です。
朝鮮を帰属させたと伝わる謎多き古代ヒロインのひとり
神功皇后は、日本武尊(やまとたけるのみこと、以後ヤマトタケル)の第2子・14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后で、15代応神天皇(おうじんてんのう)の母とされる人物。神と交感する能力を持つ巫女的な女性であったとされ、神功皇后についてのエピソードは、どれも非常に神がかっています。なかでも、「朝鮮の新羅(しらぎ)を帰服させよとの神託を受けた」ことに始まる「三韓征伐伝説」(新羅征討説話)は、その最たるもので、急逝した夫の仲哀天皇に代わり、神功皇后は女将軍として軍を率いて朝鮮半島に出兵。見事、新羅を征し、百済(くだら)、高句麗(こうくり)の三韓を帰服させたと伝わります。このエピソードは伝説の域を出ないものではありますが、古代日本の歴史を大きく彩る事柄です。興味深いのは、神功皇后だとされる絵画には、刀剣や弓矢を持った姿がはっきりと描かれていること。彼女自身、刀剣や弓矢で戦った女武将だったのでしょうか? まずは、神功皇后の人物像を紹介しましょう。
   古代日本の二大歴史書 古事記と日本書紀に登場する神功皇后
神功皇后の逸話は、主に西日本各地の神社を中心に数多く伝承されていますが、その人物像を具体的に知ることができるのは、古代日本の二大歴史書とされる「古事記」(こじき:712年成立)と「日本書紀」(にほんしょき:720年成立)です。この2つは総称して「記紀」(きき)と呼ばれていますが、ともに奈良時代に編纂された物。前段が少し長くなりますが、神功皇后像を知るうえでのポイントでもある記紀を簡単にご紹介しましょう。編纂を命じたのはともに天武天皇(てんむてんのう:在位673〜686年)です。諸家が所有していた「帝紀」(ていき:天皇の系譜の記録)や「旧辞」(きゅうじ:日本古代の口承された神話・伝説を記録した物、各氏族伝来の歴史書)には多くの誤りがあり、歴史を正しく改めて後世に伝えようと決意し、編纂事業に乗り出したと言われています。非常に興味深いのが、編纂にあたり取った手順。類まれな記憶力を持った稗田阿礼(ひえだのあれ:性別不明)という舎人(とねり:古代に天皇・皇族の身辺で御用を務めた者)に原資料の帝紀や旧辞を暗記・暗誦させ、その誤りを正しつつ進めたというのです。記紀は主となる資料が同じであるため、重複する内容も多々ありますが、その性格には少し違いがあります。端的に言うと、主に国内向けに天皇家を中心とする国家統一の正当性を訴えるために作られたのが古事記で、国外に国家としての日本をアピールする目的で、帝紀や旧辞だけでなく豪族の墓記や政府の公的記録、個人の手記や覚書、海外(主に百済)の文献など、その他多くの資料を参考に作られたのが日本書紀というのが、一般的な解釈です。そのため、古事記は物語風でどちらかと言うとドラマチックな書き方がされており、一方の日本書紀は「日本の正史」という扱いで淡々と記されています。そして、神功皇后は、この記紀どちらにも神秘的なエピソードとともに登場している訳ですが、特筆すべきは、彼女について書かれた量の多さもさることながら、その位置付け。日本書紀は、最初の「神代」の上・下巻を除き、歴代の天皇ごとにまとめられ構成されていますが、その中に神功皇后編もあるのです。これは天皇ではない人物がひとつの編を形成している唯一の例で、ますます興味がそそられます。
※ 古事記:全3巻。天地初発〜33代推古天皇まで。40代天武天皇の勅命で稗田阿礼が暗記・暗誦した神話・伝承を太安万侶(おおのやすまろ)が聞き取り記録した物。43代元明天皇(げんめいてんのう)に受け継がれ、712年に完成。現存する日本最古の歴史書。
※ 日本書紀:全30巻+系図1巻。天地開闢(てんちかいびゃく)〜第41代持統天皇まで。天武天皇が命じ、舎人親王をはじめとする皇族、官人らが中心となって編纂。720年に完成。編年体(起こったできごとを年代順に記載)で書かれた、現存する日本最古の正史(国が編纂した歴史書)。
   父が不思議がるほど叡智にあふれていた「オキナガタラシヒメ」
神功皇后の名は、日本書紀では「気長足姫」(おきながたらしひめ)、古事記では「息長帯比売」(おきながたらしひめ)と記されています。第9代開花天皇(かいかてんのう)の曾孫(ひまご)にあたる氣長宿禰王(おきながすくねのおおきみ)の娘で、母は朝鮮からの渡来人(一説には新羅王子)の玄孫(やしゃご)の葛城高顙媛(かつらきのたかぬかひめ)。幼少の頃から非常に聡明で叡智にあふれ、かつ容貌も壮麗な姫であった神功皇后のことを、父はどこか人間離れしていると感じていたとも記されています。
   ヤマトタケルの子・仲哀天皇の后に
神功皇后が活躍したとされる時代は、諸説ありますが、天皇を長とする「大和朝廷」(やまとちょうてい)がその勢力範囲を徐々に拡大していこうとしていた時代。ヤマトタケルの父で12代景行天皇(けいこうてんのう)が崩御したあと、息子の成務天皇(せいむてんのう)が皇位に就きますが、子宝に恵まれず、成務天皇の異母兄弟であるヤマトタケルの子が皇太子となります。これが神功皇后の夫となる14代仲哀天皇です。神功皇后は、仲哀天皇の即位後2年のとき、皇后として迎えられています。
   神功皇后は3〜4世紀ごろに活躍?
神功皇后は、日本書紀によると100歳まで生きたとされ、未詳ながら170〜269年をその一生とする記述もありますが、息子の応神天皇の在位が5世紀初頭前後とされていることから、3〜4世紀頃の人物ではないかと考えられています。
神功皇后の三韓征伐が、多くの渡来人の来日のきっかけに?
   「荒れてやせた熊襲より、優れた宝のある国をめざせ」
皇后という立場にありながら、神功皇后を一躍、時の人としたのは、海の向こうの異国・新羅への出兵を行ない、朝鮮半島の広い地域を服属下においた三韓征伐によるところです。三韓とは、当時、朝鮮半島にあった新羅・高句麗・百済の3国のこととも言われますが、もともと古代朝鮮半島南部を割拠した朝鮮民族(韓族)の呼称で、3世紀半ば頃、朝鮮半島南部が「馬韓」(ばかん)、「辰韓」(たっかん)、「弁韓(べんかん)または弁辰(べんしん)」の3つの国に分かれていたことがその名の由来とされています。実はこの三韓征伐、天皇を長とする当時の中央組織・大和朝廷によって計画されたものではありません。もともとは神功皇后の夫・仲哀天皇が、大和朝廷に抵抗する九州の熊襲(くまそ)を討伐するため、儺県(ながあがた=福岡市博多)の香椎宮(かしいぐう)を訪れたことに始まります。神と交感する能力を持っていた神功皇后は、「熊襲より朝鮮の新羅を帰服させよ」との神託を受けます。日本書紀によれば、神託は次のようなものでした。「熊襲は荒れてやせた地である。どうして兵を挙げて討つ価値があろう。この国よりも優れた、まばゆいばかりの宝であふれた国がある。その名は、新羅国という。もし、私をよく祀ってもらえるならば、刀を血で汚すことなく、その国を必ず帰服させることができるだろう。そして熊襲もまた、服属するであろう」
   「西に国など見えない」と神託を信じず急逝した仲哀天皇
しかし、仲哀天皇は、これを疑います。「先代の天皇達は、天つ神と国つ神、ことごとく天神地祇(てんじんちぎ=すべての神々)をお祀りしてきている。どうしてまだ残っている神がおられるものか」と。そして、高い丘の上に登り、遥か大海を望みますが、そのような国は見えず、「あまねく見まわしても海だけがあり、西に国など見えない」と信じなかったのです。そこで、神は再び神功皇后に乗りうつり、「天上から、水に映る影のように鮮明に、その国を見下ろしている私の言葉をどうして誹謗(ひぼう)されるのか。あなたが最後まで信じないのであれば、あなたがその国を得ることはできないだろう。たった今、皇后は子を身ごもられた。その御子がその国を得ることになろう」と神託を下すのですが、仲哀天皇はなおも信じず、強引に熊襲征討を実施したものの、結果、勝つことができずに帰還。そして神の怒りを受けた仲哀天皇はしばらくして病に襲われ、崩御。52歳だったと伝わります。
   「ことが成功すれば群臣の功績に、成就しなければ罪は私一身にある」
神功皇后は、夫の死に心を痛めながらも、「天皇の急逝を知ったなら、人民の心に隙が生じてしまうであろう」と仲哀天皇の崩御を秘します。一方で、祟(たた)りの神を知り、その上で神の言う「優れた宝のある国」を求めたいと思い、群臣らに命じて罪を祓って過ちを悔い改めるため、小山田邑(おやまだむら=福岡県古賀市小山田)に斎宮(いつきのみや)を造らせ、神功皇后自らがその神主となって、さらに神託を聞こうと努めたとされています。そして、神の教えにしたがって神々を祀った結果、まず熊襲征討を成し遂げます。その後、香椎宮に帰り、西方(新羅)への征討を決意。髪をほどいて頭髪を海水にすすぐと、霊験によって髪は2つに分かれ、神功皇后はその髪を男子のように結い上げたと。そうして男装した神功皇后は、神の心にしたがって大三輪社(おおみわのやしろ=福岡県朝倉郡)を建て、刀剣や矛を奉って軍兵を集めます。日本書紀が伝える、新羅征討に際して群臣を集めたときの神功皇后の決意の言葉に心が打たれます。「今、征討軍を派遣しようとしている。このことを群臣に託すが、もし、成功しなかったら、罪は群臣にあることになってしまう。それははなはだ心痛むこと。私は婦女であり、そのうえ不肖の身であるが、しばらく男性の姿となり、強いて雄大な計略を起こすことにしよう。上は天地地祇の霊力をこうむり、下は群臣の助けによって軍団の士気を奮い起こし、険しき波を渡り、船舶を整えて財宝の土地を求めよう。もしことが成功すれば、群臣よ、ともにそなた達の功績となろう。ことが成就しなければ、罪は私一身にある」天下のために国家を安らかに運ぶ手立てを考え、一方で罪は臣下に及ばないと語る神宮皇后の言葉に、群臣はみなともに戦う決意を固めます。
   天地地祇の後ろ盾を得て
亡くなった夫に代わり、自ら将軍となり軍を率いて新羅へと渡海する神功皇后。出航するや、風の神、波の神に助けられ、さらには大小の魚が寄り集まって船の進行を助け、帆船は舵や櫂を労せずたちまち新羅に到着したと日本書紀は伝えます。そして新羅の王は、この天地地祇の後ろ盾を得た神功皇后軍の勢いに圧倒され、戦わずして降参。さらに神功皇后は百済、高句麗も帰順させ、三韓征伐を成し遂げるのです。
   女武将として軍を率いるため、「石」をお腹に当て出産を遅らせた逸話も
この神功皇后の三韓征伐には、もうひとつ、神功皇后のすごさを物語る逸話があります。実は神功皇后、崩御した天皇の御子(のちの応神天皇)をお腹に宿したまま朝鮮へと出向いており、臨月を迎えたときには、お腹に「月延石」(つきのべのいし)や「鎮懐石」(ちんかいせき)と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされているのです。そして、無事に帰還したのち、筑紫の地(福岡県)で応神天皇を出産。現在、この神功皇后伝説に由来した石は、「月読神社」(つきよみじんじゃ=京都市西京区)、「鎮懐石八幡宮」(ちんかいせきはちまんぐう=福岡県糸島市)、そして壱岐(いき)の「本宮八幡神社」で祀られています。また、鎮懐石は、筑紫地方において実在が伝えられており、8世紀初頭の歌人・山上憶良(やまのうえのおくら)の歌に、具体的な寸法とともに人々が盛んに参拝していた様子が描かれています。そして、神功皇后はその後、大和で御子(のちの応神天皇)を皇太子に立てて後見し、反乱の企てを制圧しながら大和王権を確立していったと伝わります。
   夫亡きあと、神功皇后は摂政的な立場で皇子を支える
記紀において、神功皇后が皇位に就いた記述はないものの、先に紹介したように天皇に準じた扱いがされていることから、応神天皇が即位するまでの神功皇后は、平安前期に職名として登場する「摂政」(せっしょう:君主に代わって政治を執り行なうこと)と同じような立場であったと考えられています。そして何と、その摂政としての在任期間は、100歳で亡くなるまでの69年間にも及んでいます。
日本初の肖像入り紙幣に抜擢された神功皇后のモデルとは?
実は、神功皇后は、明治期に再び大きな脚光を浴びるのですが、ご存知でしょうか。1881年(明治14年)に日本で本格的な肖像入りの紙幣が登場した際、それに使われた最初の人物となったのです。また、明治から太平洋戦争敗戦までは教科書にも掲載され、実在の人物として教えられていました。しかし、多くの神がかった逸話は事実とは考えにくいとして、現在では神功皇后の存在自体も実在説と非実在説が並存している状態です。非実在説のひとつとしては、次のようなエピソードが神功皇后伝説のもとになったのではないかと言われています。
   7世紀に新羅出兵を指揮した斉明天皇がモデル?
7世紀半ばの飛鳥時代、日本史における一大政治改革として知られる「大化の改新」が起こります。この中心人物のひとり・中大兄皇子 (なかのおおえのおうじ=天智天皇)と、その弟・大海人両皇子(おおあまのおうじ=天武天皇)の母であり女帝であったのが、第37代斉明天皇(さいめいてんのう=在位 655〜661年)です。一説には、神功皇后の三韓征伐伝説は、この斉明天皇が新羅・唐連合軍に滅ぼされようとしていた同盟国の百済への救援軍派遣を指揮し、自ら九州へと行幸した事績がモデルとなっているのではないかと言われています。
   日本史上初の譲位を行ない、大化の改新にも深くかかわった斉明天皇
斉明天皇は、女性でありながら、その2代前にも第35代皇極天皇(こうぎょくてんのう=在位594〜661年)として皇位についていた人物。夫の舒明天皇(じょめいてんのう)の死後、継嗣となる皇子が定まらなかったため、49歳で即位。その後、大化の改新が始まった大化元年に弟の孝徳天皇(こうとくてんのう)に譲位しますが、孝徳天皇が在位わずか10年で没してしまったため、斉明天皇として復位したのです。斉明天皇(皇極天皇)は、日本の歴史上、大きく2つの特徴を持った天皇です。一度退位した天皇が再び皇位につくことを「重祚」(ちょうそ)と言いますが、この重祚は現在まで斉明天皇を含め2例(もう1例は46代孝謙天皇→48代称徳天皇)しかありません。しかも、譲位をした天皇としても初です。そしてもうひとつの特徴は、彼女が皇極天皇時代、天皇家をしのぐ力を持ち実権を掌握していたのが、大臣であった蘇我蝦夷(そがのえみし)の子・蘇我入鹿(そがのいるか)です。蘇我氏はその勢いのまま権力集中を目指しますが、645年、官僚制的な中央集権国家を目指した中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによって殺され(乙巳の変)、これにより大化の改新へと進むのです。そして、日本書紀によると、斉明天皇として復位したのちは、飛鳥に巨大な宮を作り、さらには、658年、65歳のときに阿倍比羅夫(あべのひらふ)に蝦夷地(北海道)平定を命じ、水軍180隻を率いた遠征まで実施させて帰順を成功させています。
   斉明天皇の事績を神功皇后の三韓征伐のモデルとする説の根拠は、
     「息長」にあり?
こういった背景を持つ斉明天皇は、在位5年目の660年、百済が新羅に敗北し、その遺民が抗戦を続けていることを百済の使者より知らされると、人質として日本に滞在していた百済王子の豊璋(ほうしょう)を百済に送るとともに、百済遺民を援護するため、筑紫(福岡県)の朝倉宮に遷幸し戦争に備えたとされています。しかし、翌年の661年、遠征の軍が出立する前に、朝倉宮にて68歳で崩御。斉明天皇亡きあと、朝鮮へと向かった大和朝廷(倭国)の軍は、百済遺民と連合し、唐(中国)・新羅連合軍と戦いますが、敗北します。この戦いが、663年の白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)です。そして、この事績が三韓征伐伝説のモデルではないかとされる説の根拠は、神功皇后の息長帯比売という名にあると考えられています。「息長」は、古代近江国坂田郡(滋賀県米原市)を本拠とした豪族「息長氏」に由来する名で、6世紀後半に在位した第30代敏達天皇(びだつてんのう)の皇后・広姫(ひろひめ)は、この息長一族の娘。その血を引くのが第34代舒明天皇で、正式な名を「息長日足広額」(おきながたらしひひろぬか)と言います。この舒明天皇の后が斉明天皇(皇極天皇)であり、神功皇后の三韓征伐伝説は、7世紀の舒明朝〜斉明朝時代に起こった事績をもとに、資料も不確かな神功皇后の時代(3〜4世紀頃)に思いを馳せ、脚色されて8世紀になって成立した古事記や日本書紀に掲載されたのではないかと考えられているのです。
   神功皇后は、実在したか否か
また、古事記や日本書紀は、奈良時代に律令制を整備したことで知られる40代天武天皇が、正しい国史を後世に残そうと編纂したと伝わる物ですが、天皇家の起源は神話から始まっており、ちょうど神功皇后の夫である仲哀天皇と、神功皇后の子である応神天皇との間が、実在性の分岐点ではないかとも言われています。つまり、神功皇后もその狭間の人物ということになります。例えば、仲哀天皇の身長を「十尺(約3m)もあった」(日本書紀)と記載するなど、特に仲哀天皇までの記載においては、その信ぴょう性に、どうしても疑問符を付けざるを得ないエピソードも満載。しかしこれは、ギリシャ神話同様、「そうであったのかもしれない」と物語のエピソードのひとつとして受け入れるのも、歴史の楽しみ方としてあるのではないでしょうか。
   神功皇后は、日本に技術革新をもたらせた応神天皇時代の土台を築いた?
また、こういった見方も。古事記や日本書紀において、かなり史実性が高い記載がされていることからも実在性の分岐点とされる応神天皇の時代は、農地の耕作を目覚ましく進めた鉄製の農具や武器が普及したことが考古学的にも確認されています。そしてこれは、多くの渡来人が来日し、大陸の優れた文物や技術が導入されたからだと。百済から渡来した学者・阿直岐(あちき)は、駿馬と太刀をもたらし、同じく学者の王仁(わに)により、「論語」(ろんご=中国の儒教の根本文献)や「千字文」(せんじもん=中国・六朝時代の教科書)がもたらされたと。さらには、縫女(ぬいめ)や酒造りの技術者も来日し、日本の社会に技術革新を引き起こしたとも(「歴代天皇総覧」中公新書参考)。神功皇后の三韓征伐は、それにまつわる数々のエピソードの有無はさておき、この応神天皇の時代の土台を、母として、また大和朝廷の長として築いた事績であったのかもしれません。それを裏付けるひとつの刀があります。「七支刀」(しちしとう=全長74.8cm)と呼ばれる物で、奈良県天理市の「石上神宮」(いそのかみじんぐう)の社宝で国宝の鉄剣です。4世紀頃、百済が倭に対し進呈した物とされ、日本書紀に神功皇后摂政52年に百済から進呈されたと記載されている「七枝刀」(ななつさやのたち)にあたると推測されています。
神話か? 実在か? その境界線上のロマンあふれる神功皇后伝説を訪ねる
   神功皇后の墓とされる「神功皇后陵」(五社神古墳)
神功皇后の墓とされる「神功皇后陵」は、遺跡名としては「五社神古墳」(ごさしこふん)と呼ばれ、全長275mの前方後円墳です。大和王朝の王墓が多くある佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)のひとつで、4世紀末〜5世紀初めの古墳とされています。所在地:奈良市山陵町(みささぎちょう)
   神功皇后の三韓征伐を加護した神を祀る「住吉大社」
住吉大社は、全国に約2,300社余りある住吉神社の総本社で、神功皇后摂政11年の建立。神功皇后の三韓征伐(新羅遠征)の際、その昔、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎ)により海中から出現したとされる「底筒男命」(そこつつのおのみこと)、「中筒男命」(なかつつのおのみこと)、「表筒男命」(うわつつのおのみこと)の三神の加護で船団が導かれたとされ、神功皇后が帰還後、この三神を祀ったのが起源とされています。のちに、三神を鎮斎した神功皇后も併せて祀られるようになり、この四神を総称して「住吉大神」と呼ばれるようになりました。住吉大神は、航海安全をはじめ多くの神徳がありますが、神功皇后ゆかりのものとしては、「弓の神」があり、住吉大社では、三韓征伐のとき、「神功皇后自らも弓鉾をとり、大いに国威を発揚せられた」と伝えられています。また、神功皇后は住吉大神の鎮斎に際し、その警護のために土師弓部(はじのゆみべ)16人を当社に置いたとされ、その故事にちなんで、邪気退散・天下泰平を祈願し、御結鎮神事(お弓始め)が、新春に行なわれています。所在地:大阪府大阪市住吉区
   新羅遠征の神託を下した神を知るため、神功皇后が籠った「小山田斎宮」
日本書紀において神功皇后は、夫・仲哀天皇が神の怒りにより崩御したのち、その神の存在を明らかにするために、小山田邑に斎宮を造らせ、7日7晩祈ったと伝えられており、その宮が「小山田斎宮」(おやまださいぐう)だとされています。斎宮については、もうひとつ粕屋郡久山町にもあり、こちらも日本書紀に書かれた斎宮だとされています。所在地:福岡県古賀市小山田
神功皇后軍が武器を研いだ「砥上神社」(中津屋神社)
神功皇后が、新羅征討を決意したのち、諸国の群衆を招集し、兵器を研ぎ磨かせ、武神の武甕槌神(たけみかづち)に武運を祈ったとされるのが、「砥上神社」(とがみじんじゃ)です。研ぎ磨かせた刀剣はどのような物だったのでしょう。考古学的には、日本には同時期に銅と鉄が入ったと言われており、銅剣は歳祀用となって巨大化し、鉄剣は実用品として普及していきます。おそらく神功皇后軍は鉄剣を持っていたと考えられています。また、武神の武甕槌神を祀ったのは砥上岳を登っていった場所だと言われ、登山道には神功皇后にちなんだ「ひづめ石」、「禊(みそぎ)の原(はる)」、「兜石」(かぶといし)などが伝わっています。所在地:福岡県朝倉郡筑前町
   鎮懐石を祀る「鎮懐石八幡宮」
お腹に御子を身ごもったまま新羅へ出兵した神功皇后は、2個の鎮懐石を肌身に抱いて出産を遅らせました。この逸話のゆかりの神社のひとつが鎮懐石八幡宮です。神功皇后は安産を喜び、「径尺の璧石(たまいし)を、子負ヶ原(こぶがはら)の丘上にお手ずから拝納されてより、世人は鎮懐石と称して、その奇魂(くしみたま)を崇拝するようになった」と伝わっています。以降、鎮懐石八幡宮は子授け・安産の子宝神社として信仰が継続。また、この神社は深江海岸の高台に建っており、美しい夕日を眺望できる神社としても有名です。所在地:福岡県糸島市
   月延石を祀る「月読神社」
神功皇后の鎮懐石の逸話については、壱岐の本宮八幡神社と京都の月読神社もそのゆかりの地とされています。月読神社は、松尾大社の摂社で、境内には「聖徳太子社」、「御船社」とともに月延石が鎮座。月延石は、安産石とも言われており、34代舒明天皇が月読尊(つきよみのみこと=天照大御神の弟神)の神託を受け、神功皇后がお腹を撫でて安産された石を筑紫(福岡県)より求められ、月読神社に奉納したとされています。現在では「戌の日」に安産の特別祈祷が行なわれ、祈祷後、「安産祈願石」に名前を書き、月延石の前に、お供えをしてお参りをするという風習が残っています。所在地:京都市西京区
   神功皇后への百済からの進呈物か? 国宝「七支刀」を社宝とする「石上神宮」
日本最古の神社のひとつとされる石上神宮。古代、武門の棟梁とされた物部(もののべ)氏の総氏神であったとされ、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されています。この石上神宮の神庫(ほくら)に長く伝わる古代の遺品の中に、社伝では「六叉鉾」(ろくさのほこ)と称されてきた物がありましたが、その刀身に記された銘文により、現在では七支刀と呼ばれ、1953年に国宝に指定されています。そしてこれが、日本書紀に神功皇后摂政52年に百済から進呈されたと記載される七枝刀にあたると考えられているのです。身の左右に各3本の枝刃を段違いに持つ特異な形をした鉄製の剣で、全面が鉄さびに覆われていますが、剣身の棟には表裏合わせて60字ほどの銘文が金象嵌(きんぞうがん)で現わされており、それによると、制作年は369年ではないかと考えられています。所在地:奈良県天理市布留町 
 

 

●地震なまず 武者金吉  
まえがき  
この本の著者は、今村明恒、寺田寅彦両先生ご指導のもとに、多年日本地震史の研究に従事して来た。この本に書いてあることは、地震史研究の副産物とも言うべきものである。すなわち、昔の地震の記録におりおり見い出される記事から暗示を得て、地震と深い関係がありそうに見えて、しかも今まで学者が手をつけなかった特殊の自然現象について、少しばかり調べて見た結果が通俗的に記されてある。
この本に書いてある自然現象は、いずれも見かけ上奇怪きわまるもので、したがって正統派の地震学者からは、あるいは毛ぎらいされ、あるいは余り関心をもたれない性質のものである。しかし、ある人が言ったように、「自然現象は自然の言葉である。自然の言葉でわれわれの研究に価しないものは一つもない」はずである。
著者がこれらの現象を研究対象として取り上げたのは、決して物好きからではない。またある人によって非難されたように一時の思いつきからでもない。いまだ解読されない自然の言葉のほんの一部でも明らかにしたいと言う念願からであったことを、公言してはばからない。
しかし、著者は前に記したごとく地震史の一研究家であって、物理学者でも生物学者でもない。したがって著者の調査研究がはなはだ不完全不徹底であることは、著者自身がもっともよく認めている。
要するに、著者は荒地を開墾して種子を蒔いたところである。その種子は、将来すぐれた科学者によって育成されるならば、かならず立派な実を結ぶであろう。
「地震雑筆」の中に収めた五篇の随筆は、「今村明恒先生素描」をのぞき、一度雑誌に発表したものであるが、この本に収めるに当たって全部書き改めた。記事の重複をさけるため、またある場合には紙数に制限されて思うように書けなかったためである。
この本をまとめるに当たって、著者は出来る限り平易に、また出来る限り肩のこらぬようにと心がけたが、はたしてその意図がどれほど実現されたか、心もとなく思うのである。
昭和三十一年八月   暑さと病気になやみながら   著者  
第一部 地震なまず  

 

一 地震の予言者……鯰
   地震虫から地震鯰の誕生まで
昔の人は地下に住んでいる大鯰が体を動かすと地震が起こると考えていた。安政二年の江戸大地震の後に出版された錦画には鯰の画が沢山かいてある。「昔の人」と言ったが、地震を鯰のしわざと考えるようになったのは、昔は昔でも大昔ではなさそうである。
静岡県加茂郡松崎のある寺で唐紙を張りかえた時、下張したばりに使われていた古い暦が発見された。この暦は建久年間(西暦一一九〇―一一九八)のものだったが、それに「地震の虫」という奇怪な動物が印刷されてあると言う。私はこの画をみたことはない。しかしジョン・ミルンの書いた本に、「大きな地中に住む蜘蛛、すなわち地震虫」と記してあるところから推測すると、多分江戸時代の書物にのっている、得体の知れぬ怪物が日本全国を背負っている画と同じものであろう。これによると鎌倉時代には地震を鯰のしわざと考えていなかったことが分かる。
茨城県鹿島かしま神社の境内に要石かなめいしという石がある。地上には丸っこい頭だけが出ているが、全部掘り出したら、多分石器時代の石棒に似た形のものではないかと想像される。「常陸国誌」には「伝説によると、大きな魚が日本を取り巻き、頭と尾が鹿島の地で重なり合う。その頭と尾を鹿島明神が釘で刺し貫いて、魚が動かぬようにしている。要石はすなわちその釘だ」という意味のことが書いてある。この本には「大魚」とあって鯰とは書いてない。
右の要石の伝説はアイヌの神話によく似ている。地下に大きな魚がいて、その魚が多量の水を吐き出すと津浪が起こるという。地震と津浪の違いはあるが、魚のしわざとする点でよく似ている。
元禄三年(西暦一六九〇)に日本に来て、同五年に帰国したドイツ人ケムプヘルは、「日本記事」という著書の中に、「日本には地震が非常に多い。日本人の地震を恐れることはちょうどヨーロッパ人が雷を恐れるのに似ている。地震は大きな鯨が地下を這い歩くために起こるのだと、日本人は言っている」と書いてある。多分ケンプヘルは地震を起こす怪物はこれだと言って示された大鯰の画を見て、てっきり鯨だと思ったのであろう。体は大きいし色は真黒だから鯨と思ったのも無理はない。もし私の想像が当たっているとすれば、元禄ごろにすでに地震鯰の俗説が行われていたことが推測される。
地震研究所の二代目の所長であった石本巳四雄博士がもっと年代の古いものを発見された。それは意外にも芭蕉の俳諧だったのである。次に石本博士の「地震と芭蕉」という文の一節をかかげる。
「古来地震に関した歌、俳句類の極めて少ない事は不審に堪えぬ事であるが、俳聖芭蕉も同じく地震には縁遠い方といわなければならない。ただし芭蕉も寛文二年五月朔日の近江大地震には、伊賀の上野で遭っているはずであり、年表によると、当時芭蕉は十九歳であるからおそらく感傷的の眼をもって倒れ家、土塀の崩れ等を打ち眺めたことであろう。この地震はおそらく芭蕉の貴重な体験として、一生の間幾度か思い出し、小地震に出あうごとにその追憶を新たになしたとも想像出来る。もしそうであるならば、彼の多くの俳諧の中に地震に関する句が二、三はあってもよいようである。もとより地震は俳味に通ずる事の少ないために顧みられなかったと言えばそれまでである。ともあれ芭蕉生涯の作中、江戸三吟(延宝六年)の中に次の句を見い出す事はせめてもの心遣りであろう。
寂滅の貝ふき立る初嵐      似春
 石こづめなる山本の雲      桃青
大地震つづいて竜やのぼるらん 似春
 長十丈の鯰なりけり       桃青
似春によって地震が余りに美化され過ぎたのを、芭蕉は龍を鯰に見立てて諧謔化したわけである。(中略)なお地震と言う文字は直接句の中には見出せないが、延宝四年の百韻(種彦校合江戸両吟集)の中に、
瀬戸の土菎輪際こんりんざいをほりぬきて   信章
 弁才天に鯰ささぐる       桃青
とあるは、当時地下深い所には鯰が住んでいると考えていた証拠ともなるであろう。」
延宝四年は西暦一六七六年であるから、石本博士のお蔭で、地震鯰の俗説を十七世紀後半まで追跡することが出来た。しかし十二世紀の地震虫と十七世紀の地震鯰の間には約五百年の空白がある。この五百年の間に地震虫がいつどうして鯰に変わったか、この点は私には現在のところ全くわからない。  
   地震前の鯰のダンス
鯰が地震を起こすなどと言う馬鹿げた事を信じる者は今日一人もない。しかし地震と鯰とは全く無関係かと言うと、あながちそうも言われないのであって、安政二年の十月二日の江戸大地震の状況を書いた「安政見聞誌」と言う本に、こう言う話が出ている。
本所永倉町に篠崎某と言う人がいる。魚を取る事が好きで、毎晩川へ出掛けた。二日の夜も数珠子ずずごという仕掛けでウナギを取ろうとしたが、鯰がひどく騒いでいるためにウナギは逃げてしまって一つも取れぬ。しばらくして鯰を三匹釣り上げた。さて今夜はなぜこんなに鯰があばれるかしら、鯰の騒ぐ時は地震があると聞いている。万一大地震があったら大変だと、急いで帰宅して家財を庭へ持ち出したので、これを見た妻は変な事をなさると言って笑ったが、果たして大地震があって、家は損じたが家財は無事だった。隣家の人も漁が好きで、その晩も川に出掛けて鯰のあばれるのを見たが、気にもとめず釣りを続けている間に大地震が起こり、驚いて家に帰って見ると、家も土蔵もつぶれ、家財も全部砕けていたと言う。
事の真偽は保証致しかねるが、「安政見聞誌」は相当に信用の出来る本だから、おそらくでたらめではなかろうと思われる。しかし昔の話は信用しかねると言う人もあろうから、近年の地震の時の例をあげて見る。
大正十二年九月一日の関東地震の前日、木下成太郎氏が赤司文部次官とある相談をしていた。何分にも残暑がひどいので、向島の水神すいじんに出かけて凉りょうを納いれていると、池の中で何かしきりに跳ねている。コイでも跳ねるのかと思って女中に尋ねると、この間からむやみに鯰がはねるのですと答えたので、よく見ると如何にも鯰だった。その時は格別気にもかけなかったが、翌日大地震が起こったので、さてはと思ったそうである。
その後岸浪静山という画家にこの話をすると、静山氏は帝展に出品する鯰の画の参考に二、三匹の大鯰をたらいに飼って置いたが、これも跳ね廻って困ったという話だった。
なお一つの例を加えると、当時文部省建築課長であった柴垣鼎太郎氏は、同じ地震の前日鵠沼海岸のある池で投網を試みると、取れるわ取れるわ、一尺くらいの鯰がバケツに三杯も取れたということである。
大正十二年の関東地震の直後に、「日比谷公園の池に鯰を飼っておいた方が、地震学者に頼るより確かかも知れない」と悪口を書いた新聞があった。これはもとより新聞記者の冗談だが、それからわずか数年の後に、鯰と地震の関係についての斬新奇抜な一大発見が、しかも日本の学者によってなされたのは、実に愉快なことであった。その学者というのは東北大学の畑井新喜司博士であった。  
   鯰の地震予知
畑井博士の鯰に関する研究を、博士自身の筆をかりて、次に紹介することにする。
「日本には昔から『地震鯰』の俗説が流布されております。この俗説の由来及びいつごろからそれが流布したかについては、私は一向知りませんが、しかしながら鯰の異常な動作から大地震を予知したり、また大震の起こった後に、鯰の動作が地震前に変であった事が思い出されたというような記事が相当に多いのであります。」
「しかし一般からも、また特に科学者からは、地震鯰の俗説は、根も葉もない笑い話として取り扱われ、結局鯰は地震舞台の道化役者として、絵草紙の紙面を飾るに過ぎませんでした。伝書鳩の動作には感服し、また地震前のキジの鳴き声に頭をひねる学者もあるらしいのに、鯰だけ笑い草にされるのは、ちょっと不思議にも思われます。果たして地震鯰の伝説は取るに足らない迷信であるか、それとも鯰が地震の前にせっかく暗示してくれている骨折りを笑いと拍手に埋没しているのではないでしょうか。私は偶然の関係から、その点を調査する機会に接しました。ところが調査が進むにつれ、地震鯰の伝説は、決して全然根拠のない迷信と同一視することが出来ないばかりか、むしろ今更のように古人の観察眼の高いのに驚かされたのであります。」
「地震の際、鯰が如何なる動作を示すかを知らんとする目的をもって、私は阿部襄氏と共に浅虫臨海実験所構内の全く孤立した四坪ばかりの建物の中で観察を試みました。まず一つの水槽に二匹または三匹の鯰を入れ、水槽の底には泥土を入れ、水草を植えつけ、出来るだけ自然の状態に近い状態で飼育しました。」
「観察しましたところ、はじめ想像したように地震の直前直後において、水面に浮かび又は泳ぎ廻るようなことは見受けませんでした。しかし地震の十五、六時間前に水槽をのせてある机の表面に、人差指の曲がり角で軽い響きを与えますと、鯰はその響きに応じて直ちに体を動かすか、また時には居所から浮かび上がり泳ぎ廻ります。しかしこれに反して幾時間かの後に地震の起こらない時は、同じ響きに対して何らの反応をも示さないことを確かめました。」
「以上の観察は果たして鯰が地震前に示す不変の反応か否かを確かめるため昭和六年五十倍の地震計をすえつけ、組織的に観察を行う計画を定めたのであります。」
「かくして鯰の反応を日に三回ずつ観察記録し、同時に地震計の記録と比較しましたところ、敏感反応後十五時間以内には、地震が地震計に記録され、一日三回とも鈍感反応の場合には、十五時間以内に地震の起こらない事が確実となりました。そこで同年十二月十日から臨海実験所の構内に『十五時間以内に地震あるべし』または『十五時間以内に地震なし』と掲示して、翌朝地震計の記録と比較しましたところ、予報適中率がいちじるしく高く、鯰の敏感度と地震との間には何らかの密接な因果的関係があるものの如く、決して偶然の適中とは考えることが出来ないようになりました。とにかく、地震が記録される十五時間も前に、すでに我々人類の知覚しがたい、また五十倍の地震計に記録を止めないほどの微細な変化が、鯰の感覚神経を有効に刺戟したのを示したのであります。」
「しかし、もう少し正確に、何時間前に鯰が地震の起こることを予知し得るかを知るために、さし当たり、鯰の敏感後何時間後に、最も多く地震が記録されるかを調べて見たのですが、地震の最大数は、鯰の敏感後八時間目に起こる場合が最も多数であります。この事実から見ますと、浅虫地方では、地震の起こる八時間前に、すでに鯰が何物かの刺戟を感じていると言い得るのであります。」
「反応の強弱は必ずしも地震の振幅の大小に比例せず、むしろ震源地の距離に比例するようであります。故にたとえ震源地で強震であっても、もし震源地と浅虫との距離が余り遠い場合には鯰の反応が弱く、これに反してたとえ微震であっても、震源地が近い時はいちじるしい反応を示します。振幅の大きい地震で遠距離に震源地を有する地震は、概して鯰の敏感直後または短時間に起こる場合が多く、近距離に震源地のある場合には、弱震といえども数時間前から鯰の反応がいちじるしくなります。」
「鯰が一ミクロアンペア程度の電流を知覚し、しかもその微量の電流に対し明白な反応を示すこと、及び鯰が水底に棲息している事から考えれば、地震の起こる数時間前に鯰の感受し得るものは、おそらく地電流の変化ではないかと想像するに難くありません。そこで鯰を入れてある水槽の中の電圧の変化を調べて見ました。」
「電圧の差は一時間ごとに昼夜にわたって観測し、同時に鯰の敏感度も一時間ごとに試みましたが、この実験は二週間で打ち切り、その後は写真装置で電圧の変化を記録しています。二週間にわたって行った結果を見ると、鯰が敏感を示す場合は、鯰を入れた水槽内の電圧の大きい時に相当しますが、しかし電圧の最高の時に常に敏感を示すのではなく、むしろ電圧が急に降りつつある時、又は急に昇るような時に敏感を示すようです。要するに鯰の反応は地電流の急激な変化に関係があるのではないかと推測されます。」
「以上述べましたように、地震の起こる数時間前に、鯰はすでに何ものかを感受していることは疑うことの出来ない事実でありまして、私どもは未だ鯰の感受したのは何物であるかを明白にすることの出来なかったのは遺憾とするところですが、少なくとも地電流の電圧の変化もその一つの原因であると言えるようであります。たとえその感受物の何であるかを明言出来なくても、我々人類の全く感受しがたい何物かを鯰が感受し得ることは事実であって、しかもこのような感受力は、おそらく鯰において特に発達しているのではないかと思われます。」
「東洋特に日本においては、古来鯰の寝返りによって地震が起こると称せられていますが、これは普通の迷信とは趣きを異にし、むしろ大震の起こる数時間又は数日前に、何らかの刺戟を感受し、平常泥中に棲息する鯰も水面近くに出現した場合が多くあるのを、多年の観察によって注意するに至り、その結果として鯰と地震とが関係づけられるようになったのではないかと考えられます。おそらく鯰以外にも、地震の前に敏感になる魚類はあるだろうと想像されますが、実際調査した後でなければ、何とも申し上げるわけには参りません。」
以上は畑井博士が「改造」に寄稿されたものの大要だが、省略した部分の方が多かったので、博士のご研究を十分に伝えられなかったかも知れない。博士の海容を願う次第である。  
二 地震と動物の異常行動  

 

   見のがせぬ魚類の異常行動
鯰と地震の関係を研究した畑井博士によると、鯰以外の魚類にも地震に先立って敏感になるものがあるかも知れないと言う。そのような魚類は確かにあるらしい。と言うのは、鯰以外の魚類が地震の発現する前に平素と異なる行動を示した例が、筆者の手許に集まっているだけでも少なくないからである。
この問題は最近に至るまで、少なくとも日本においては、学者の注意するところとならなかった。雉と地震の関係については、関谷清景せきやせいけい・大森房吉両博士の研究があるが、魚類と地震の問題に至っては、明治二十一年にジョン・ミルンが、「下等動物に及ぼす地震の影響について」と題する論文を発表してから四十余年を経て今村明恒博士が再びこの問題を取り上げるまで、一人の学者もこの問題に手を染めなかったようである。これは筆者の寡聞のためかも知れない。今村博士の論文(と言うよりむしろ随筆)は「振動に対する動物の受感性について」と題し、魚類についてはわずかに触れる程度である。
その後畑井博士によって前記の鯰の研究が発表され、昭和八年には末広恭雄博士の重要な研究が発表された。この事は後に詳しく記す機会があるであろう。また昭和十四年には今村博士が「男鹿地震と海水及び魚族の異常状況」と題する論文を発表するなど、ようやくこの方面に学者が注意を払うようになってきた。  
   地震に先だつ魚類の異常行動の種々相
地震の起こる前に観察された魚類の異常行動の例を集めて調べて見ると、前記の安政・大正両地震の鯰をも含めて、大体次の四つの場合に分類することが出来るようである。
(1) 地震の前に平素姿をみせない魚が現れる。
(2) 地震の前に魚が水面に群がり、またさかんに跳ねる。
(3) 地震の前に多くの魚が岸の近くに集まる。
(4) 地震の前に魚類が全く姿をかくす。
材料の増加にともなって多少の変更を余儀なくされるかも知れないが、現在まで集まった材料に基づいて分類すると、大体右の如くなる。以下順を追うて記すことにする。  
   (1) タコ坊主上陸(平素姿を見せぬ魚が現れる)
明治二十四年十月二十八日濃尾大地震の前に、愛知県丹羽にわ郡楽田がくでん村の水を落した田の中から無数のドジョウが出て来た(明治二十四年愛知県震災誌)。
明治二十九年六月十五日三陸大津浪の前に、同地方の海岸にウナギがおびただしく集まり中には一人で二百匹以上取った人もあった。鳥までが砂を掘ってウナギを食った。昼間も体を半分くらい穴から突き出していた(畑井博士その他による)。
安政三年七月二十三日青森県東方沖から発した地震にともなった津浪の前にも、多くのウナギが海岸に寄って来た(伊木常誠、三陸地方津浪実況取調報告、山奈宗真、岩手県沿岸大海嘯取調書、その他)。
大正十二年九月一日関東大地震の前に、ベルギー大使が葉山の海岸で、深海魚らしい赤い透明な魚が海面に浮かんでいるのを目撃した(中村左衛門太郎、関東大震災調査報告)。
同じ地震の前に、伊豆の漁師が「シゲ」と言う深海に棲む魚が浮き上がったのを見たと言う。この事をある水産技師に話したら、それはスケトウダラでしょうと言うことであった(中村左衛門太郎、地震)。
昭和二年三月七日丹後地震の前に、京都府与謝よさ郡栗田湾や島蔭湾で深海の泥砂の中にすむアカエビやミミイカがイワシ大敷網や手繰網でおびただしくとれたと言う(奥丹後震災誌)。
昭和八年三月三日の三陸津浪の前に、明治二十九年の津浪の場合と同じく多数のウナギが穴から出て這い廻り、子供でも手取りにした(三陸地方各地からの報告)。
同じ津浪の前にアワビが浅所に移動した(畑井博士、田中館秀三理学士、その他による)。アワビは魚類ではないが、魚屋で売っているからお相伴の意味で加えておく。
これも昭和八年の津浪の時のこと、津浪の数日前に、宮城県気仙沼けせんぬま湾の一景島の沿岸、干潮時の水深五寸位の泥海に、体長十二センチくらいのマイワシの泳いでいるのが発見された。この辺りでマイワシを見かけるのは珍しいことだそうである。それから二、三日後、この付近にまたも十匹ほどのマイワシが群れをなして泳いでいた(宮城県水産試験場気仙沼分場長竹本正文氏報)。
青森県八戸市字金浜の岸で、同じ津浪の前にサバが釣れた。こんな岸でサバが釣れたことは今回が始めてだと言うことである(八戸市金浜分教場主任報)。
同じく昭和八年三陸津浪の十五、六日前に、岩手県鵜住居うのすまい村の漁師が、縄釣りでアシタカガニをとった。この辺りではこの蟹のとれたことがなかったそうである(鵜住居白浜分教場金児氏報)。これも魚類ではないが、おつきあいで入れておく。
昭和八年の三陸津浪の時には、魚類学者の末広恭雄博士によって重要な事実が発見された。この津浪をひき起こした地震は三月三日午前二時三十分ごろに発したのであったが、その地震が発してから約四時間三十分後、すなわち三月三日午前七時ごろ、神奈川県小田原海岸の波打際で、クモ網で一匹の珍しい魚が捕まえられたのである。その魚はネミクチス・アヴォセックといい、平素は二千メートル以上の深海にすんでいて、きわめてまれに採集される魚だと言うことが判明した。末広博士によると、この魚が深海から波打際まで泳いで来たとすれば、地震の起こる前に棲息場所を去っていなければならない。多分地震が地震計や人体に感じる前に、震源域に何らかの変化が生じ、その刺戟を魚が感受して、遠い遠い海面まで逃げて来たのであろう。右のように解釈するのが最も合理的だと言うことである。
末広恭雄博士の他の重要な発見は、プランクトンに関するものであった。三月三日すなわち三陸津浪を惹き起こした地震の当日、農林省中央水産試験場で試験用に求めたマイワシの腹部が異常にふくれているのを、烱眼の末広博士は見のがさなかった。早速腹部を切開して消化管の内容を顕微鏡で調べて見ると、その大部分は底着性のプランクトンであった。マイワシは表層のプランクトンを餌とする魚である。そのマイワシの腹の中から底着性のプランクトンが発見されたことは実に珍しい現象である。しかも体長十五センチくらいのマイワシの消化管の内容は通例一グラム程度といわれているが、右のマイワシにあっては平均四・九グラムで、平常の約五倍の餌を摂取していたわけである。
右のマイワシは三月二日すなわち三陸津浪の前日の夕方、三崎近海で巻網で漁獲したことが確かめられた。巻網で漁獲されたことは、海の上層で捕まえられたことを意味する。ついで三月六日の夕方同じ水域で同じ方法で漁獲されたマイワシを手に入れ、それについて調べて見ると消化管内のプランクトンもまたその分量も平常と少しも違っていなかった。
この不可思議な現象をどう解釈したらよいであろうか。右の結果から見ると、地震の発現する前に多量の底着性プランクトンが浮かび上がったと考えなければならない。この場合も、前記のネミクチスと同じく、地震の起こる前に現れた何らかの刺戟によって、海底のプランクトンが上層に浮かび上がったと解釈するのが、最も無理のない解釈である。
宮城県北村小学校長斎藤荘次郎氏が筆者にあてて報告されたところによると、津浪の一両日前に同県石巻と野蒜のびるの間の海でとれたイワシが泥を呑んでいたそうである。この泥と称するものはことによると底着性プランクトンであったかも知れない。標本を保存しなかったことはかえすがえすも残念である。筆者は末広博士の研究室で前記のマイワシの消化管の内容を見せて頂いたが、素人が見れば泥とも見えるものであった。
地震の前に深海のプランクトンが浮かび上がった他の一例がある。水産講習所の田子たご教授が大正十二年九月一日すなわち関東大地震の当日の午前、十五名の学生を引き連れて、東京湾口の深い海底からプランクトンを採集する目的で、小舟に乗って出掛けて行った。洲崎沖で中層プランクトン・ネットを下ろして、五十尋ひろの所を二十分ばかり曵いて見たが、曵き上げた網の中には一つの生物も見い出されなかった。折から雨が烈しく降って来たので、中層の採集は中止して、表面採集の網を下ろしわずか五分ほど曵くと、今度は非常に多くのプランクトンが採集された。その中には夜光虫のようなものも沢山見い出されたが、深海性や遠洋性のプランクトンも少ないながらまじっていた(地学雑誌第三十六巻及び科学知識震災地踏査号)。
プランクトンはこの辺で切り上げて、話を魚類の行動に戻そう。
昭和十四年五月一日男鹿地震の前に、平素は決して岸に近づくことのないマグロ(約四貫)が脇本村の海岸まで泳いで来て捕まえられた(今村明恒、男鹿地震と海水及び魚族の異常状況)。
また右の地震の前日から地震当日の午前まで(午前十時ごろまでらしいが確実でない)八森村でタコが続々酔ったようになって陸へ上がって来たと言う。男鹿中村でも地震の当日午前、タコが陸へ上がって来たそうである。この土地では平素はタコが取れないと言う(今村、前掲)。
以上はいずれも地震の前に平素姿を見せない魚類その他の動物が現れた例である。  
   (2) 魚が水面に群がり、さかんに跳ねる
前に記した安政二年の江戸、大正十二年の関東、この両地震の前に鯰があばれ又は跳ねたことは、この種類の異常行動のよい例であるが、この外にも類例が少なくない。
明治二十一年七月十五日福島県の磐梯山が爆発して多くの死者を生じたが、爆発の少し前長瀬川の魚がおびただしく浮かんだので、村民がさきを争ってすくい取り、それを猪苗代の町へ売りに行ったため危難を免れたものが少なくなかった(地学雑誌第一集)。
明治三十一年八月十日福岡県糸島郡に強い地震があり同月十二日再び強震の襲う所となった。これは第一回の地震の時のことである。北崎村大字宮浦のある漁師が玄海沖で漁をしていると、大小の魚が波の上に跳び上がり跳ね廻るので不思議に思って見ている中、東南の方向からさざ波の進行して来るのが見えた。そうすると魚は忽ち姿を消して、それからは全然針にかからないので、釣りを止めて家に帰ると地震が起こったと言う(明治三十一年八月の大震概況)。
大正十二年八月三十一日即ち関東大地震の前日、蒲田の松竹撮影所に勤めている人が早仕舞いで家へ帰る途中、とある小さい池の水面に魚が躍ったり跳ねたりしている。不思議に思ったが元来殺生の好きな男であったから、早速撮影所へとって返し、道具部屋をあさって網を見つけ、居合わせた友人と共にその魚をすくって四斗樽に半分くらい取った。大喜びで家に帰り、その魚で晩酌を傾け、ぐっすり寝込んで翌日の大地震でようやく目を覚ましたと言う滑稽な話もある(科学画報大震災号)。
大正十二年九月一日午前七、八時ごろ、東京千住東町にある約五百坪の池の水面にコイやフナが浮き上がったので、附近の人々が争ってすくい取り、井戸水にいれておいたら、しばらくして元気を回復したと言う(谷江卯八郎報)。
右の二つの例は水中の酸素の欠乏が原因であったかも知れない。
京都府竹野郡間人たいざのある漁師の話によると、昭和二年三月七日丹後地震当日の朝、サバが水面上に跳ねるのを目撃したと言う。この季節にサバが跳ねるのは珍しい事だそうである(中村左衛門太郎、奥丹後地震報告)。
青森県七戸しちのへ辺りではコイを沢山飼っているが、それらのコイが昭和八年三月三日の三陸津浪の前日あばれたと言う。しかし水上に跳ねることはなかった(七戸小学校長北川喜三郎氏報)。
また同じ津浪の前に、青森県久慈くじ湊でフナが地上に跳び出したと言う報告もある(久慈小学校報)。
大阪にモロコを水盤に飼っている人があった。そのモロコがある日異常にあばれて、やがて水盤の中央に集まってしまった。これは昭和十一年二月二十一日河内大和地震の前日のことである(紫雲荘、天災予知集)。
外国にもまた同様の例が見い出される。
中華民国六年(西暦一九一七年)七月三十一日雲南地震の数日前に、川の水が増し、無数の魚が岸に跳ね上がったと、童振藻の「雲南地震考」に書いてある。
またドイツのアルトミュールの地震の前に、多くの魚が水面上一インチくらい跳び上がったとジョン・ミルンはその論文の中に記載した。  
   (3) 多くの魚が岸の近くに集まる
明治二十九年三陸津浪の前に、多くのウナギが岸に寄って来たことは前に書いた。
同じ津浪の前に、イワシが沢山三陸沿岸に来游して、時には塊になって網に入ることもあったと言われる、安政三年の津浪の前にも同様であったと言う(山奈宗真、前掲、風俗画報)。
大正十二年九月一日の関東地震の前に、千葉県鴨川辺ではセグロイワシが多獲されたが、地震の後はさっぱり漁獲がなくなった(水産講習所、激震地方における海洋と漁業)。
山梨県の山中湖は注入河を欠き、湖底湧泉のみによって涵養される湖沼であるが、大正十二年五、六月ごろから水が濁り始め、九月一日の大地震の後十月ごろにようやく旧に復した。そして九月一日の地震の前にフナが多獲されたそうである(中村左衛門太郎、前掲)。
これも同じく大正十二年の関東地震の前に、神奈川県の海岸にイワシが寄って来たと言い(科学画報大震災号)、また同県の川にイワシの大群が溯ったと言う(内田恵太郎博士報)。
大正十二年九月一日関東地震の直前に、千葉県館山湾内沖ノ島附近でカツオが非常に沢山釣れた。この時にはカツオが非常に沢山群がっていて、十余隻の漁船が見ている中に多数のカツオを釣り上げた。この有様を見た水産講習所の田子教授は、この附近はこんなにカツオの釣れる場所ではないのに不思議なことだと首をかしげたそうである(地学雑誌第三十六巻及び科学知識震災地踏査号)。
昭和八年の三陸津浪の前に、安政三年及び明治二十九年の津浪の場合と同じく、イワシが多獲された。三陸海岸地方では、津浪の前にイワシが大漁、津浪の後にイカが多獲されるので、「イワシでやられてイカで助かる」と言われているそうである(三陸沿岸各地よりの報告)。
右の三陸津浪の三時間ばかり前に、岩手県唐丹とうに村の沖でメヌケが多獲され、また縄(延縄はえなわであろう)の位置がいつの間にか変わってしまうので、漁師が不審に思ったと言う(日日新聞釜石通信員談)。
宮古のある人の話によると、その附近では津浪の前にナメダガレイが多獲されたが、津浪後はとれなくなった。
秋田県水産課長岡正幸氏によると、昭和十四年五月一日の男鹿地震の前に、男鹿半島附近でマスの漁獲が多かった。マスは四月中旬以後は余り漁獲されないのが普通である(今村明恒、男鹿地震と海水及び魚族の異常状況)。
同じ地震の前に、男鹿半島北浦町の釣り漁船はタイ、アイナメ、アブラコの漁獲が多かった。平常は漁場によって漁獲物の種類が大体一定しているが、その日は色々の魚が同時にとれた(前に同じ)。
同じ地震の前日、八郎潟の岸に多くのコイやフナが群がり、釣ると幾らでも釣れ、森岳駅の駅長の如きは余りに釣れるので気味悪くなり、釣りを中止したほどであった。森岳・鶴川方面では手づかみで沢山の魚がとれたそうである(前に同じ)。
昭和二十一年十二月二十一日紀伊半島南西沖から発した南海道地震はきわめて大規模な地震であったが、この場合にも各地から異常漁獲が少なからず報告された。
三重県熊野灘沿岸では、地震の二、三日前からサヨリが多獲された(名古屋管区気象台調査)。
三重県尾鷲おわせ附近では、地震の前にカツオが多獲されたので、同地の漁師は昭和十九年の東南海地震の経験からまた地震があると予言していたそうである(水路部、昭和二十一年南海大地震報告)。
志摩半島沿岸では、地震の前にイセエビが多く漁獲され、また紀伊半島沿岸ではイカの漁獲が多かった(前に同じ)。
昭和二十三年六月二十八日福井地震の発震時は午後四時三十分ごろであったが、中央気象台本多技官によると、その日の午後九頭竜川で鮎釣りをした人が八十匹も釣り上げたと言う。平素は三十匹くらいしかとれないのだそうである。
最後に外国の例を二つあげよう。
西暦一〇五八年イタリーのナポリが大地震に襲われた時、その数時間前にナポリ湾の魚が群れをなして岸に集まったと言われる(服部捨太郎、地震の前兆)。
また西暦一七八三年のカラブリア地震の時には、地震に先んじて魚がシシリー島の海岸に群集したと伝えられている(横河民輔、地震)。  
   (4) 魚族逃亡(地震の前に魚類が全く姿をかくす)
地震の前に魚類が全然姿を消し、従って全然漁獲されなかった例もまた多い。
愛知県熱田あつた海岸の漁師の話によると、従来の経験では地震のある前にはキスが釣れない。今度の地震(明治二十四年濃尾地震)の前にも、キスが取れないので、不審に思っていたら、果たして地震があった(明治二十四年愛知県震災誌)。
明治二十九年の三陸津浪の前にはタラやサメが針にかからなかった(畑井博士による)。
北海道の有珠岳うすだけは明治四十三年七月二十五日から噴火を始めたがそれに先だち七月二十一日から噴火の前触れの地震が頻繁に発した。地震の始まる二日前の七月十九日から有珠岳の北にある洞爺とうや湖で魚がぱったり釣れなくなった(今村明恒、振動に対する動物の受感性について)。
大正三年の桜島噴火は一月十二日から始まったが、前触れの地震は二日前から始まり、十二日までに非常に多くの地震が記録された。十一日の午後に桜島の沖で糸を垂れても、一匹も釣れなかったそうである(桜島大爆震記)。
大正十二年の関東地震の数日前から相模湾で魚が釣れなくなったとは、当時湘南地方一帯に言い触らされていた(今村明恒、振動に対する動物の受感性について)。
大正十二年は漁業の成績のよくなかった年で、毎年相模湾の奥に回游して来るカツオやマグロが一度も来なかったと言われている(丸川久俊、震災地相模湾大陥没のあとをめぐりて)。
千葉県姉ヶ崎にある用水堀にいた多くのウナギが九月一日の地震の前に、ことごとくどこかへ逃げて、一匹もいなくなったそうである(東京日日新聞)。
大正十四年五月二十三日但馬たじま地震の直前に大阪府堺水族館で不思議な現象が観察された。毎年六、七月ごろになると、水温が昇って水中の酸素が少なくなるために、魚類は好んで水面を泳ぐものだが、五月二十三日には、地震の十二、三分前に、同館の淡水槽と鹹水槽の魚類がみんな水底に移動したので、丁度館内を見廻っていた末永主事が不思議に思っている途端に、地震が起こった(大阪朝日新聞)。
岩手県宮古附近では、潜水器を使ってナマコをとっているが、昭和八年の三陸津浪の二、三日前から全くとれなくなった(岩手県水産学校金沢重兵衛氏報)。
昭和八年は余寒がきわめて厳しく、一面氷で閉ざれていたので、その氷を割ってウグイをとっていたが、津浪の前にはまるでとれなくなった(青森県三戸さんのへ郡田面木たのもぎ小学校長小井川潤次郎氏報)。
同じ津浪の数日前から、浮游魚群は姿をかくしてしまったと言われる(岩手県綾里小学校報)。
昭和十三年五月二十九日の北海道屈斜路くっちゃろ湖附近から発した地震の時にも、魚類の異常行動が観察された。
同地の小学校長の話によると、屈斜路湖の和琴わこつと半島にしばしば生徒を連れて行くが、湖岸にいつでも魚のおよいでいるのが見える場所がある。地震の前日には魚が一匹も見えないので不思議に思って帰った(田中館秀三、昭和十三年屈斜路地震)。
また別の人は、ノボリオンド山附近の川の石の間に、常にユゴイが沢山いるので、これをとろうとして、地震の前日正午少し過ぎに出掛けたが、一匹もいなかったということである(前に同じ)。  
   魚類はなぜ地震の前に異常な行動をするか
畑井博士は、地震の起こる前に鯰の敏感度が増すのは、地電流の変化が一つの原因であることを明らかにした。水槽に飼ってある魚の場合には、色々の実験をするのに都合がよいが、天然の状態にある魚について、異常行動の原因を、実験的に調べることは容易でない。
水槽の鯰が地電流の変化を感受して敏感になるとすれば、天然の状態にある鯰及びその他の魚類が、同じ原因によって、地震の前に騒いだりあばれたりすることは十分可能であるが、しかし、ここで一つ問題になるのは、魚類のすべての異常行動が地電流の変化によってひき起こされるかどうか、地電流以外の刺戟もあるのではないかと言うことである。
今村明恒博士は「振動に対する動物の受感性について」と言う論文の中に、次のように述べている。
「この現象の基因としては種々のことが想像し得られる。元来魚類は温度の変化にも敏感であって、もし彼等の好まない温度の潮流にでも出会うものなら、全く餌につかなくなるとは、よく経験された事実である。大地震又は噴火前には、海底又は湖底における地下水流出に異常を来すべきことも仮定し得られるから、このために魚が餌につかなくなるものと考え得られる。しかしながら、それよりももっと有り得べく思われるのは、人体に感じないで、ようやく微動計に記録されるほどの微震である。大正十二年九月一日大地震の前数日、湘南の沿岸地方においては、沖の方に鳴動を聞き、同時に魚が釣れなかったことも、明治四十三年七月二十五日有珠山噴火に先だち、およそ六日前から魚が餌につかなくなり、そうして更に三日経過して頻々たる小地震がようやく人体に感じ始めた事実など、この辺りの消息を物語るらしく思われる。また魚とは縁がないけれども、大地震前に人体に感ずるほどの前震はなくとも、微動計には数多の極微震が記録された例もある。大正三年三月十五日秋田県強首こわくび大地震の時、震源地方では何人も前震を感じなかったけれども、およそ百キロの距離にある水沢臨時緯度観測所の百二十倍微動計は、地震前数日の間、数多の極微震を記録したのであって、しかもその記象と問題の大地震の余震記象とはほぼ相似であった。さればこれら極微震は当大地震の前震たりしと認めてよいであろう。」
「かく数多の例をたどって見ると、いわゆる大地震に対する動物の予感なるものは、実際は極めて微小な前震の感覚によるものと思われるのである。」
今村博士は、また「男鹿地震と海水及び魚族の異常状況」という論文の中で、魚類及びタコの異常行動について次のような解釈を試みた。
タコが酔ったようになって陸に上がって来たことについては、「本地震に前震なるものがともなったとすれば、それに感じてかような挙動をしたかも知れぬが、前震のあったことは知られていない。さすれば、海底における地下水(ガスにてもよし)の滲出もしくは迸出によって招来したものと見てよいであろう。この種の流体の放出は海水の温度あるいは塩分に異変を生じ、問題の生物をして己れの棲息個処に晏然としていることが困難になったためであろうが、ことに酔ったような状態になって上陸したところを見るとき、放出の流体にこのような結果を生ずる成分を含んでいたことが想像される。八郎潟の湖底から放出される流体の中には石油のあることが前から知られているが、八森或は男鹿の海底もまた同様であるかも知れぬ。現に半島内に油井がある。」
地震の前に湖底又は海底から地下水が、また特殊の場合には石油が、湧き出すことも、もちろんあり得ることである。しかし右のように、これでタコの陸上がりを説明するのはいかがであろう。可能ではあるが、これが唯一の解釈ではなさそうに思われる。
先年東京大学農学部構内にある防火用水池で、ある実験を行うために、鉄管をさし込んで、それをガンガン叩いてみた。そうすると、しばらくして一匹のウナギがフラフラになって浮かび上がった。これは地下水の湧出でも石油の滲出でもなく、全く鉄管の振動が水に伝わり、水の振動がウナギの神経系に影響を及ぼしたものに相違ない。前記のタコも地震前に発した地震計にも記録されない程度の微動でフラフラになったと考えられないこともない。
地震の前日、八郎潟でフナやコイが岸に寄って来たことも、今村博士は「湖底から流体を放出し、あるいはその中に石油までもまじっていたのではないかと思われる」といって、やはり地下水の刺戟を魚の異常行動の原因と考えた。
しかし一方に、地震の前日北浦で種々の魚類が混獲され、また岩館と八森でマスが平常の数倍も漁獲された事実については、「微細な地鳴りが局所に感じただけでも、そう言う結果になるのではなかろうか」と、微細な振動の効果で説明した。
寺田寅彦博士は、「地震と漁獲との関係」と言う論文で、駿河湾北端にある漁場の漁獲高の日々の変化と、伊豆及び駿河湾附近における地震の日々の頻度の変化との間の関係を調べ、昭和五年の伊豆における群生地震の日々の頻度と、重寺漁場における鰺の漁獲高と比べて見ると著しい相関が認められることその他を論じているが、その中に、この相関に関連して可能と考えられる三つの原因を挙げている。すなわち、(一)地震動又は地震動に関係ある、ある種の器械的刺戟を魚類が感受して、その結果何らかの事情で、魚類が漁場に接近するのかも知れない。(二)地震動が、魚類が餌とするプランクトンを多量に含む水層に影響を与え、間接的に魚類に影響を及ぼすのかもしれない。(三)地震のために地下水系が撹乱されそのために沿岸水の化学的性質が変わり、その結果魚類やプランクトンに間接に影響が及ぶかも知れない。
地震に先立って現れる、人体には感じない、現在使用されている微動計にも記録されぬ程度の微動によって、魚類が刺戟されることは多分事実であろう。地震の前に深層のプランクトンが表層に浮き上がることは、田子教授の観察、末広恭雄博士の研究によって明らかであるが、これも地震前に発する微動のためかも知れない。しかし実験的に証明しなければ、すべての人を納得させることは出来ない。現在のところでは推測の範囲を出ないのは残念である。
地震の前に地下水系が変化することもまた事実である。地震の前に井戸水が増し、減じ、変色し、又は臭気を帯びたと言う報告は沢山ある。大正十二年九月一日の大地震の場合には、その年の七月末から品川漁師町の井戸が涸れ、その附近の春雨庵はるさめあんの井戸は、六、七月ごろから実母散のような臭気を帯びて飲めなくなった。山中湖の水は五、六月ごろから濁り始め、十月に入ってようやく澄んだ。安政元年十一月五日南海道大地震の場合には、紀伊半島の海岸で、地震の前日ある坊さんが海水をなめて見ると、塩分がきわめて少なく井戸水と大差がなかったので、これは津浪の前徴だとさとったと言うことである。このような地下水の変化が魚類に影響を及ぼすであろうことは十分考えられる。
自然界にはまだまだ未知の事実が沢山ある。地震の前に観察される魚類の異常行動の原因も、地電流、微動、地下水の変化だけではなく、まだ外の原因もないとは限らない。いな必ずあるであろう。右に記した所は現在可能と考えられる二、三の原因について述べただけである。  
   魚類だけではない
地震の起こる前に魚類があばれたり姿をかくしたりすることは、前に書いた通りだが、魚類以外の動物はどうであろうか。地震の前に異常な行動をすることはないかというと、そうでない。やはり魚類と同じく地震の前に平素とちがう行動をするようである。そういう例は日本にも少なくないが、欧米にも同様の例がある。他の動物の場合にも、魚類のそれと同じく色々な種類の行動が報告されている。  
   (1) 鼠と猫
日本には鼠が多い。鼠が全然いない家は少ないようである。動物学では二種の異なる動物が一所に仲よく生活することを共生といい、ヤドカリとイソギンチャクやナマコとその尻の穴の中にすんでいるカクレウオなどはその例である。日本人と鼠も共生だといっても過言ではないかも知れぬ。いや共生ではない。傍若無人にあばれまわる鼠の行動を見ると、鼠の家に人間が住まわせて貰っているような心地さえする。
それはさておき地震の前に観察された鼠の異常行動には次のような例がある。
明治二十四年十月二十八日の濃尾大地震の時のことである。名古屋市針屋町に「ねずみ屋」という料理屋があった。この家は家号を「ねずみ屋」というだけあって、平素は白昼でも鼠が家の中を走り廻り、客のそばをも恐れる色もなく跳び歩いていたのに、地震の前日には、夜の更けるにつれて、鼠の数が減ったということである(加藤庸一、大地震の実況)。
明治二十九年八月三十一日の陸羽地震の前日、秋田県大山町ではイタチや鼠がしきりに走り廻るので、何事か起こるのではないかと心配していたら、地震が起こったという(両羽震災誌)。
大正十二年九月一日の関東大地震の前に、急に鼠が騒がなくなったので、変だなと思っていたらあの大地震が起こったといった人があった(佐久間ふさ、動物と地震)。
江戸品川に「土蔵相模」という貸座敷があった。高杉晋作などの維新の志士がよく出入りした家だそうである。この家の表左口に井戸があった。そのそばに勝手口があって残飯があるためか、いつも多くのドブネズミがうろうろしていた。誰も捕まえるものがないので人が来ても逃げもしなかったそうである。
大正時代に「相州楼」という名でこの店を経営していたTという人がこのことを友人に話すと、それを伝え聞いたある新聞社が鼠の写真をとらせてくれといって来た。八月二十八日の朝のことである。ところがその日に限って鼠が一匹もいない。
おかしなことがあるものだとTさんは品川の寄席に来た講談の神田伯竜師に話すと、伯竜師は「てっきり地震だぜ、安政の地震の時もそうだったというから」といったそうである。この予言は見事に適中した(朝日新聞)。
昭和八年三月三日の三陸津浪の前にも同じようなことがあった。
岩手県鵜住居うのすまい小学校の報告によると、二月半ばごろから鼠がいなくなって、二月初めについた餅は少しも鼠にかじられなかったそうである。
岩手県船越ふなこしでは津浪の一週間ぐらい前から鼠がいなくなり、田ノ浜では十日ほど前からいなくなった(船越小学校長鈴木忠二郎氏報)。
宮城県二俣村では津浪の一カ月前から鼠が不思議にいなくなり、津浪の後は再び家の中で物をかじる音がしたという(二俣村東福田分教場吉田氏報)。
鼠についてはまたこういう事実もある。
大正十二年の関東大地震の数日前のこと、神田のある家で大きい鼠取りを仕掛けておいたら、一度に四十匹も入って身動き出来ないでいたという話がある(報知新聞)。
ハンス・フォン・ヘンティッヒによると、鼠やモグラは地震の前に穴から出て、落ちつかぬ様子で辺りを歩き廻るというから、右の鼠も何ものかにおびえてフラフラ出て来て、鼠取りに入ってしまったのかも知れないと思われる。
猫に関しても地震の前に平素と異なる行動をしたことが報告されている。
明治二十四年濃尾大地震の直前、ある家の飼猫が戸外に出たがって騒ぐので、戸をあけてやるとあわてて出て行ったが、その後間もなく地震が起こったと「濃尾震誌」に記してある。
右の話は本当かも知れない。外国にも類例がある。ヘンティッヒの論文には、ロクリスの地震の時、震動の始まる前に必ず猫がないたが、その声は如何にも悩ましそうで聞いていられなかったと書いてある。
またH・D・ワーナーの「都市と地震」にはこういうことが書いてある。南米ヴェネズエラのカラカスの原住民は犬、猫、及び跳び鼠を飼っている。これらの動物は不安の様子で近づきつつある危険を知らせるからである(ミルン、下等動物に及ぼす地震の影響について)。  
   (2) 犬と猿
次には古来仲のわるい動物の代表のようにいわれている犬と猿について述べる。
カラカスの原住民が、犬その他の動物を飼って地震予知に役立てることは前に記した。
ヘンティッヒは、犬や狐は地震の起こる前からそわそわして、吠えたり悲しそうななき方をするといっている。
一八五五年下エジプトの大地震の起こる十五分前からアレキサンドリアでは犬や馬がなき立てて市民は眠りをさまされたという(服部捨太郎、地震の前徴)。
明治二十四年十月二十八日濃尾大地震の場合には、数時間前からしきりに犬が吠えたそうである(加藤庸一、大地震の実況)。
ハミルトンという人も同じようなことを書いている。犬や豚は近づきつつある地震を、他の動物より明らかに示すというのである(ミルン、前掲)。
犬はとも角、見たところ遅鈍の如き豚が鋭い感受性をそなえているとは意外である。人は、いな、獣は見掛けによらぬものである。一八五七年のナポリ大地震を調査したマレットも、一般の獣類特に豚は地震の前十日ほどの間、悩ましげな、そして刻々不安がつのるような様子を示し、また檻に入れてあった八頭の豚がひどく興奮して犬のようにかみ合ったと記載している(ハンス・フォン・ヘンティッヒ、環境の変化に対する動物の反応)。
地震の前に猿の異常行動が観察された例は、筆者の知る限りでは欧米にはないようである。日本にもほとんどない。欧米には野性の猿がいない上に、日本のように猿の棲息している国でも野性の猿の行動を絶えず観察することは不可能といってもよいからであろう。やっとこさ見つけたのは左の一例である。
明治二十一年七月十五日福島県の磐梯山大爆発の四、五日前から大磐梯、小磐梯、櫛ヶ峯などにすんでいる猿がけたたましくなき叫んで騒がしかったので、上の湯、中の湯、下の湯、磐梯の湯などに湯治に来ていた人々は、これは必ず天変地異の前徴に相違ないと急いで仕度を調えて帰宅した人もあったそうである(時事新聞)。
地震前の猿の異常行動については、将来動物園に勤務する人々によって必ず面白い発見がなされるであろうことが期待される。  
   (3) 馬とロバ
丁度日露戦争の真最中であった明治三十八年六月二日、広島県南部に大地震が起こった。芸予地震と呼ばれているのがそれである。この時広島市に百五十頭ばかりの軍馬がつないであった。それらの軍馬が地震の襲来とともに、一斉に馬糞を放射したそうである。
馬は賢い動物であるがまたきわめて驚きやすいことは、前記の馬糞の一斉放射によっても察せられる。驚きやすいということは、要するに感受性の鋭敏なるためであろう。従って地震の前から平素と異なる行動をすることが期待されるが、実際次に掲げるような例がある。
一八二二年のヴェネズエラ大地震の前に、カラカスで馬が廐舎から高地へ逃げ出したということである(ミルン、前掲)。
一八五一年八月十四日イタリーのメルフその他の地方に被害を生じた大地震の時に、平常とは違うなき声を発して、目前に迫っている地震を知らせた最初のものはロバであった(ヘンティッヒ、前掲)。
イギリスの地震学者デヴィソンの「近世地震の研究」の中に次の記事がのっている。
「一八八七年二月二十三日のリヴィエラ大地震の前夜、多くの都市村落の神経質の人々は何となく胸さわぎがし、鳥や獣は明らかに何ものかを感じているように見え、特に地震の数分前にはそれが一層いちじるしかった。馬は飼料に目もくれず、落ちつきがなく廐舎から逃げ出そうとし、犬はけたたましく吠え、鳥類は飛び廻って驚怖の叫びを発した。このような微候はイタリーの百三十カ所で注意された。」
デヴィソンは、この現象は疑いもなく人体に感じないきわめてかすかな震動によってひき起こされたのだといっている。
明治二十一年一月十五日東京湾から発した地震は、相模、武蔵の一部に多少の被害を生じたのみで大したものではなかったが、地震のきわめてまれな国から来ていた京浜在住の外人の驚きは非常なものであった。この地震が契機となってジョン・ミルンその他の人々によって日本地震学会が創立され、これが日本における地震研究の基礎となったのだから、この地震はその意味において重要なものである。
この地震の時、横浜在住のジェームス・ビセットという人の所有していた小馬ポニーの中の一頭が最初の震動の二十秒前に突然立ち上がって廐の中を歩き廻り、明らかに起こりつつあった地震を恐怖するように見えた。同様の事実が東京でも観察されたということである(ミルン・下等動物に及ぼす地震の影響)。  
   (4) さまざまの鳥
鳥類が地震の前に異常な行動をした例も少なくない。
安政二年の江戸大地震の十日ばかり前から、利根川附近の村で、鶏が塒ねぐらに入らず梁の上に上がるので、飼主が困ったといわれる(赤松宗旦、利根川図誌)。
明治二十九年八月三十一日陸羽りくう地震の発する約一時間前に秋田県五城目ごじょうめ町で家々の鶏が声をそろえて鳴き出した(秋田震災誌)。
右はいずれも鶏が何ものかに刺戟されて恐怖した結果であろう。ヘンティッヒも、地震を感じる前に、鶏はそれを予覚して、集まって餌をついばんでいるものは逃げ散るし、バラバラになっていたものは一団になって隅にかくれてやかましく鳴き立てる、川へ跳び込むものさえあると記している。
鵞鳥も地震の起こる前にそれを知って水から上がりガアガア鳴き立てる。カラブリア地震の後、馬や驢馬や鵞鳥がなくごとに、震災地の人々はまた地震かと思って戸外に逃げ出したということである(ミルン、前掲)。
一八二二年と一八三五年のチリ大地震は共に津浪をともなったが、この二回の地震の起こる前に無数の海鳥が陸上に飛来して町の上を飛び廻ったという。この現象についてミルンは海底の擾乱のためといい、ヘンティッヒはそれに反対して瓦斯の発散のためと主張した。
天武天皇七年十二月二十二日にアトリが天をおおって西南から東北に移動したがこの月筑紫国に大地震が発したと「日本書紀」に書いてある。アトリの大群の現れた土地が記してないが、文脈からいうとやはり筑紫であったようである。筑紫は現在の九州で、筑紫国の大地震は島原半島から発した地震であると推定される根拠がある。もしこの推定に誤りがないとすると、次に記す如く千二百四十二年後に再び同じ現象が繰り返されたことになるのである。
大正十一年十二月七日に福岡県朝倉郡高木村佐田の渓谷の上空に、アトリの大群が現れ行きつ戻りつして騒いだといわれるが、その翌日に島原半島から大地震が起こったのである(川口孫次郎、天変地異を予知する鳥類)。
大阪市立動物園長林氏の談話として大阪毎日に左の如き記事が掲載された。
「インコは地震の予言者です。数分なしい二時間くらい前に予覚します。聴覚が非常に鋭敏です。大正十四年の但馬地震などは十数時間前に知らせました。」
「鳩は地震の前に居場所をかえたがる。鳩小舎の中にいるものは飛び出すし、屋根の上にいるものは小舎に戻る。」とヘンティッヒが記載しているが、同じような例が日本にもある。
明治二十四年の濃尾地震の前夜のことであった。愛知県碧海あおみ郡鷲塚村にある寺の鐘楼に二、三年前から鳩が巣を営んでいたが、その晩は一羽も来なかったので寺僧が不審に思っていると、翌朝の大地震でその鐘楼は倒壊したそうである(明治二十四年愛知県震災誌)。
明治二十九年の陸羽地震の前にはカラスその他の鳥が枝をはなれて飛び去ったり鳴き立てたりしたということである(秋田震災誌)。
燕は特に地震を予覚する鳥で、地震の前の晩には巣を捨てて屋根の下に非難場所を求めるとヘンティッヒは記している。
昭和八年三陸津浪の場合にも鳥類の異常行動が報告された。
岩手県大船渡おおふなと町で津浪にあった晩おそくある人が家に帰って来ると、平素は自分の家の近くに来て眠るカモが、その晩に限って自分の家より海に遠い川の橋の下にいるので変なことがあるものだと思ったそうである(大船渡町役場にて聴取)。  
   (5) 蛇と蛙
鼠、モグラ、トカゲ、蛇は地震の前に穴から出て、そわそわとあたりを歩き廻るとビュフォンがいったそうであるが、それは事実のようである。
安政二年江戸大地震の発したのは旧暦の十月二日、太陽暦では十一月十一日であったが、その二日前に利根川下流の左岸にある立ツ崎、羽中などの村々では、ヤマカガシが穴から出て来た。しかし寒くて這い廻ることも出来なかったと、「利根川図誌」に書いてある。
明治二十一年磐梯山爆発の時には数日前から時々鳴動を発したといわれるが、多くの蛇が山麓の村に下って来て家の中を這い廻ったそうである(大塚専一、磐梯山噴火調査報告)。
大正三年の桜島噴火は一月十日から地震が頻発し、十二日に至って噴火が始まったのであるが、噴火の始まる前に蛇や蛙が山から下りて来たということである(桜島大爆震記)。
砂糖で名高い西インドのキューバ島では、蛇を飼育すると災難を免れるという迷信があって、蛇を飼う人が多い。一八五三年七月十五日のヴェネズエラ大地震の前に、飼ってある蛇がぞろぞろ広場へ逃げ出したと、ヘンティッヒの論文に書いてある。  
   結び
以上の資料はその全部が真実とはいわれないかも知れない。あるいは誇張され、あるいは話を面白くするために尾鰭が附加されているかも知れない。それにもかかわらず内外の資料を比較して見ると、大体同じようなことが書いてある。まさか日本人と外国人とが相談して嘘を書いた訳ではないであろう。そうして見ると右に掲げたすべての資料がことごとく虚偽とは考えられないように思われる。
しかし資料に記されている動物の異常行動が地震と関係があるかどうかは別問題である。偶然に地震の前に動物の異常な行動が人々の注意をひいた場合もあるかも知れない。そういう場合も含まれているかも知れないが、しかし全部が偶然といい切ることも出来ないように思われる。
前に記した如く、地震の先ぶれとして現れる地電流の変化、極微動の発生、その他の物理的刺戟によって、魚類その他の動物が平常と異なる行動を示すことが可能と考えられるからには、本文に記載した多くの事実の全部を荒唐無稽として捨て去るべきではない。これらの事実が何らかの役に立つ時期が来るかも知れないと思うのである。  
三 地震の時の怪光  

 

   火の玉出現(昔の記録に見られる地震の発光)
大地震に際して一種の光が空中や地上に出現すると言ったら、大概の人は途方もないことを言う奴だと笑うかも知れない。しかし昔の大地震の記録には、発光を観察したという記事が少なからず見出されるのである。
それらの記事は荒唐無稽としてみだりに捨て去るべきものではない。昔の人がわざわざ嘘を書くこともあり得ないであろう。昔の人は科学知識はもっていなかったがかえってこれが幸いして、自分の観察した現象を、生かじりの知識で否定し去るようなことはなく、ありのままに書き残すことが出来たのである。地震の光などと言うことが、想像で書けるものではない。
多くの読者にとってあるいは迷惑であるかも知れないが、昔の記録に出ている地震の光の記事の主なるものを左に掲げることにする。
地震の光の日本における最古の記事は、「三代実録」に出ている貞観十一年(西暦八六九)陸奥の地震のそれであるが、この発光は津浪にともなったものの如く思われるので、津浪の発光を述べる場合に記すことにしたい。
正嘉元年(西暦一二五七)八月二十三日鎌倉に大地震があり、神社仏閣ことごとく潰れ、山崩れもあり、地割れから水を噴き出し、中下馬橋辺りでは、地割れから青い焔が出たと、「吾妻鏡」に書いてある。
元禄十六年(西暦一七〇三)十一月二十三日の関東大地震の後、毎夜江戸から南東に当たって電光のような光が見えたと、「甘露叢」にある。陰暦十一月二十三日は陽暦の十二月三十一日に当たるからこの光は電光とは考えられない。多分大地震の余震にともなった光であろうと想像される。
宝暦元年(西暦一七五一)四月二十六日越後高田大地震の直前に現れた光象については、橘南谿の「東遊記」に詳しく記されているので、左にそれを引用する。
「越後糸魚川と直江津との間に、名立なたちといふ駅あり。上名立下名立と二つに分かれ、家数も多く、家建やだちも大にして、此辺にては繁昌の所なり、上下ともに南に山を負いて、北海に臨みたる地なり。然るに今年より三十七年以前に、上名立のうしろの山二つに分かれて海中に崩れ入り、一駅の人馬鶏犬ことごとく海底に没入す。そのわれたる山の跡、今にも草木無く、真白にして壁のごとく立てり。余もこの度下名立に一宿して、所の人にその有りし事ども尋ぬるに皆々舌をふるわしていえるは、名立の駅は海辺のことなれば、総じて漁猟を家業とするに、その夜は風静かにして天気殊によろしくありしかば、一駅の者ども、夕暮れより船を催して鱈たら、鰈かれいの類を釣りに出たり。鰈かれいの類は沖遠くにて釣ることなれば、名立を離るること八里も十里も出で、皆々釣り居たるに、ふと地方じかたの空を顧みれば、名立の方角と見えて、一面に赤くなり、夥しき火事と見ゆ。皆々大いに驚き、すわや我家の焼け失せぬらん、一刻も早く帰るべしと言うより、各おのおの我一われいちと船を早めて家に帰りたるに、陸には何のかわりたることもなし。この近きあたりに火事ありしやと問えど、さらにその事なしというに、みなみな怪しみながら、まずまず目出度しなど言いつつ、囲炉裏の側に茶など飲みて居たりしに、時刻はようよう夜半過ぐるころなりしが、いずくともなく唯一つ大なる鉄砲を打ちたるごとき音聞こえしに、その跡はいかなりしや知るものなし。その時うしろの山二つにわれて、海に沈みしとぞ思わる。上名立の家は一軒も残らず。老少男女牛馬鶏犬までも、海中のみくずとなりしに、その中にただ一人、ある家の女房、木の枝にかかりながら波の上に浮かびて、命助かりぬ。ありしことども、みなこの女の物語にて、鉄砲のごとき音せしまでは覚えおりしが、その後はただ夢中のごとくにて、海に沈みしことも知らざりしとぞ、誠に不思議なるは、はじめの火事のごとく赤く見えしことなり。それゆえに、一駅の者ども残らず帰り集まりて死に失せしなり。もしこの事なくば、男子たるものは、大方釣りに出でたりしことなれば、いき残るべきに、一ツ所に集めて後崩れたりしは、誠に因果とや言うべき。あわれなることなりと語れり。」
右の火事の如き光象は、大地震の発現に先立って出現したので、その点においてこの記事は貴重な資料と言わねばならぬ。
文化七年(西暦一八一〇)八月二十七日男鹿半島の大地震に先立って二十四日の日暮れから西北の方向に電光とは異なる光が現れ、海上の雲に反映して物凄かったと、「男鹿地震記」に書いてある。また二十六日、すなわち大地震の前夜には八時ごろから十時ごろまで、赤神山に幾千万の光り物が、万灯まんとうのように赤く輝いたと、「乾坤相克記」に記してある。
天保元年(西暦一八三〇)七月二日京都大地震の前夜には、空一面に光り、地面からも光が出て、昼のようだったと言う(京都地震見聞記)。
弘化四年(西暦一八四七)三月二十四日、善光寺大地震と呼ばれている信濃北部の大地震の場合には、いちじるしい光が多くの人々によって観察された。
この場合にも、地震の前に光を見たと言う人があった。須坂の陶器職人久兵衛は米子村で電光のような光を目撃し、まもなく地震になった(信州丁未茶談)。またある髪結いは、飯綱山の方に火の如き雲が出たので、怪しんで見詰めていると、その雲がくるくる廻って、消えると同時に山鳴りがして大地震になり、道路に揺り倒されたと言う(時雨の袖)。雲がくるくる廻転したと言うことは少々怪しいが、強烈な光を発する物体を見つめていると、廻転するように見えるのかも知れない。昭和五年の伊豆地震の時に、そういう例があった。
地震の時には、各地で電光のような光が観察された。松代藩の月番家老河原綱徳の「虫倉日記」には、
「大地震の時、強く稲妻の如く光りて鳴り、地震しけりと言う。この光は見たる者も見ざるものもあり。その後の光予も三度は見しが、稲妻に似て違たがえり。」と書いてある。
電光に似た光だけではない、火の玉も飛び出した。前記の「信州丁未茶談」に、
「線内村辺りより川中島へ掛け、夜中大なる火の玉折々飛行し候を、足軽丸山熊太郎、田村九十郎たしかに見受候よし。」とある。また地震のあった晩、高田の辺りで、難波山から大釜ほどの光り物が飛び出したと、「見集録」に記してある。
この地震の時、岩倉山が崩壊して、犀川を二カ所で堰止めたが、その山崩れの時もいちじるしい光が見られた。「鎌原洞山地震記事」には、
「岩倉、藤倉の崩落したる時、安庭村明るくなり、屋の隅々まで昼の如く見えしとぞ」と書いてある。また前にも引用した「虫倉日記」には、
「磯田音門、二十七日に西山手を諭し廻りて後、岩倉山の抜場見分として行、安庭村に宿り百姓等と共に小屋の内に臥せしに、十匁玉の鉄砲打つ如くの音折々聞こえたり。鉄砲の音かと聞きしに、一昨夜抜覆りてより後、あの如く夜になれば聞こえ候と答えしとぞ、岩倉抜落ちたる跡より、陽気発出せしなるべし。また村の童らが、いま御奉行殿のおつむりの上へ、火の玉が落ちたと呼びけるを、音門ききてこれは火の玉にてはなし、かようなる大地震の揺るときは陽気というて地中より火の玉の如きもの出ることあり。更にこわき物になし、驚くべからずと諭せしとぞ。」とある。
この地震の時にはまた、地中から火焔が現れた。「鎌原洞山地震記事」に
「城下四、五町隔り往還より三、四町脇、田の中地震にて割れ、冷水出で、その水中にて青き火燃え候由、皆々見物に参り候。」とあり、「信州丁未茶談」には、
「また山辺には、地震に裂け候割れ目より、火気を吐き、乾き候芦藁等差出候えば、火燃え立ち候旨。」このような現象は、越後高田附近や信濃松本近傍でも見られたことが「虫倉日記」や「信州丁未茶談」に書いてある。
安政元年(西暦一八五四)六月十五日伊賀上野うえのを中心とした大地震の時には、奈良南大門のあたりに大きな地割れが生じ、それから火焔を噴き出したと言われる(大阪地震記)。
安政元年十一月五日の南海道大地震の時わが国で始めて余震観測をした土佐藩士細川盈進えいしんは、同年十二月十八日午前四時頃に発した余震の直後に、火の玉が南から北へ飛んだと記している。
安政二年(西暦一八五五)十月二日午後十時頃の江戸大地震の時には、顕著な光り物がところどころで観察された。
この地震の時にも、地震の前に光が観察された。
地震の少し前に、海(東京湾であろう)の方に四斗樽ほどの大きさの光り物が現れ、それが左右に分かれて、一つは房総の方へ、また一つは江戸の方へ飛んで行くように見えたがまもなく大地震になったと、斎藤月岑の「武江地動之記」に書いてある。この本には余りいかがわしい記事は掲げてないから、多分月岑自身が信用の出来る人から聞いたのであろう。
また地震のあった晩、行徳のあたりでは、地中から火が燃え出で、近寄ると見えず、その先に火が見えた。芝森元町の名主鈴木与右衛門も、この晩途中で地中から火の燃え出るのを見たと言われる(武江地動之記)。
地震の時の光の模様は、次の記事によって想像されるであろう。発光地点は一カ所ではなかったようである。
「右地震の節、東に当たり、電の如き光あらわれ、暫時にして消ゆる。」(地震並出火細見記)
「その時漁猟に出でて品川沖にありし人の話に、江戸の方に当たり、電の如く三、四カ所見えけれど、尋常の稲妻なりと思いなしてありけるが、後に聞けば地震なり。」(安政見聞録)
「山王町なる髪結い何がし、外に十、九人相知る友をかたらひ、二日の夕海上へ漁猟に出でたりしが、地震の前東北の方一時に明るくなり、おのおの着たる衣服の染色模様まで鮮やかに見え分かるほどなりしが、やがて海底より鳴り渡りて、船底へ砂利を打ち当てるように聞こえて、恐ろしかりしが、また一団の火炎空中を鳴り渡りしかば、いよいよ恐ろしくなりて、船を陸へつけしが、はや地震の後にて云々。」(武江地動之記)
着物の染色模様まで明瞭に分かるほどの強烈な光を発したのは、「地震の前」でなくて、「地震の発した時」であろう。船中だから地震が分からなかったのである。船底へ砂利が当たるように感じたのはシーショックと思われる。
「この度の地震の時、地下より火気を発す。余が友下谷池の端に居れり。すは地震よと言ふほどに、急ぎ外のかたへ立ち出ずるに、亥子の方の方に当たりて大いに光を発す。ただし電の如くならず、その幅何十丈ともはかりがたきが、一面に火気たちて須臾しゅゆに消ゆる。これ地中の火気発したる光ならんかと言う。」(安政見聞録)
この記事は、地震にともなう発光現象をよく描写している。
「新吉原日本堤震い動くこと、とりわけおびただしく、大地たちまちに裂け破れて、一道の白気発す。その気斜めに飛び去り、金竜山浅草寺の五重の塔なる九輪を打ち曲げ散じて、八方へ散る。その光眼を射てすさまじと言う。」(江戸大地震末代噺の種)
五重塔の九輪の曲がったことは事実だが、それは振動のためで、その点についてこの記事は誤っている。
空中を飛ぶ火の玉であったろうと想像される記事もある。
「友人山田文三郎、号を重山と言う。……この日要用ありて品川宿に至り、夜に入りて帰りける途中、芝神明前を過ぐる時あたまの上よりグーンと言う音響きけるゆえ、何心なく振り向き見れば、張り子の大あたまほどの坊主の首、火のついたる木をくわえて、東より西の方へ飛び行きしとぞ。体半身現れて下の方は見えざる由。重山これを見て面色土の如くになり、道を急ぎける折から、例の大地動揺しけるゆえ、一歩も進むこと能はず、二、三度揺り倒されしが、ようやくにして起き上がりたるゆえ、両側の町家残らず家根瓦を打ち落され、土蔵の壁をふるわれけるが、その音あたかも大山の崩るるが如しとの話なり。この怪異は浅草駒形辺りの人々両三人同刻に見たりと言うことを話すものあり。」(時雨の袖)
以上は昔の記録の中に見出される地震の光に関する記事の中から、主要なものを選び出して掲げたのである。これを見ても地震にともなう発光は、昔から一般の人の注意をひいていたことが察せられる。  
   数丈の大火柱(明治以後の記録)
昔の人々がよい加減のでたらめを書き残したのでない証拠に、明治以後の記録にも少なからず同様の記事が見出されるのである。資料の一部をここにあげることにする。
明治二十四年十月二十八日濃尾大地震の前夜、愛知県中島郡三宅村で、西方に電光の如き光がしばしば観察され、また津島町にある海東郡役所の報告によると、同夜東方に甚しく電光が見えたと言う(愛知県震災報告)。
明治四十二年八月十四日姉川地震(江濃地震とも言う)の時、伊吹山西側にある「白崩れ」及びその南に続く「大富崩れ」が大いに崩壊して、砂煙天をおおい、一時暗黒になったが、その時光を発したことは土地の人々がみな認めたと言う(小藤文次郎、地質学上の見地による江濃地震)。
大正六年五月十八日駿河遠江の地震の場合には、地震と同時に、静岡市の北方二里の龍爪山に数丈の大火柱が立ったと言われる(東京朝日新聞)。
大正七年十一月十一日大町地震の時にも発光が観察された。坪井誠太郎博士は言う。大町の南方約二里にある池田町の人々の話によると、第二回地震の際、西方信飛山中に発光を見たと言うことである(大町地震調査概報)。この地震は午前二時五十八分と午後四時三分と二回あり、後者の方がいっそう強かった。
大正十二年九月一日関東大地震の時、伊豆真鶴の漁夫が房州洲ノ崎沖で、激震ごとに電光を見たと言う噂もある(三雲康臣氏報)。
報知新聞の記事によると、九月一、二日頃相模湾で、海中から数本の火柱が立ったと、房州の漁夫がジャッガー博士に話したそうである。ジャッガー博士はハワイの火山観測所長で、地震の調査に来朝したのである。
右の地震の時、余震にともなって東京湾口で発光が見られたことは、中村左衛門太郎博士によって記載された。
大正十三年一月十五日丹沢山地震の時には、中央気象台の観測者は東京より西方の空に発光を見、またある漁夫は、国府津に近い海上からこの光をみたが、この光で海岸の松の枝まで見えた。この光は丹沢山の南山腹に見えたと言う。これも中村博士によって記載された処である。
昭和二年三月七日丹後地震の場合にも、若干の報告がある。
中村左衛門太郎博士によると、間人たいざ町の漁師で浅茂川沖にいたものは、地震の直前に東方海上に発光を認めた。その色は電光より赤く、ロウソクの火よりも青かったと言う。
京都市の斎藤謙造氏は右の地震に関する興味ある報告を筆者に寄せた。要点だけ摘録すると、
「時あたかも私は神戸より電車にて大阪へ参る途中、何心なく電車の窓より六甲武庫連山の天空を眺めしに、この山脈の北方中空に、遠火事の焔とも言うべきか、かっと一面に照り渡り、平生においては見馴れざる色彩を帯び居り申し候。珍しき現象かなと、ややしばらく眼を放たず見入り候中に、電車は大阪に着し下車致し候。その後二十分か三十分くらいを経て、かの震災を耳に致し、想いをかの現象に馳せて、奇異の念に堪えざりしものに候。」
明治以前、明治以後にわたって、地震の光に関する記載は、ここに揚げただけでも決して少なくはない。それにもかかわらず、この現象の実在を信ずる学者がほとんど一人もいなかったのである。変なものである。  
   怪光の正体は?(地震の光を調査するまで)
古今の大地震の記録に少なからず見出される発光現象なるものは、断じて虚偽でも幻覚でもあるまいと考えたのが、大正五、六年のころであった。しかしうかつに口外は出来ない。もしこのような事をうっかり口をすべらせたら、狂人扱いされる可能性が多分にあった。そこでこの問題に関する限り、約十五年間沈黙を守って、資料の蓄積に努めて来た。
昭和五年十一月二十六日午前四時ごろ、伊豆半島の北部から大地震が起こった、この時、所々で発光が観察されたことが判明したので、好機いっすべからずと、思い切って地震研究所の末広所長に、この現象を調査する許可を求めた(当時筆者は地震研究所で、寺田寅彦博士の指導を受けて日本地震史の調査に従事していた。と言うと立派に聞こえるかも知れないが、実は哀れなる無給の嘱託であった)。所長は頑として筆者の希望を許してくれない。あれは送電線のスパークだ、あんなものを調べても仕様があるまいと言うのである。当時としては所長の言う処は決して無理ではなかった。しかし筆者は、ここで負けては一大事と、古今の例をかつぎ出して、調査の必要をまくしたてた。所長もとうとう根負こんまけして、それでは調べて見るもよかろう。漢方の薬でも効くのがあるからと、やっとのことでお許しが出たのであった。しかしそれだけではまだ大びらで調査をするわけにはゆかない。役人と言うものは実に七面倒臭いものである。筆者は、さらに千里眼や万物還銀の例もあるから(と言っても若い読者には何の事かさっぱり分かるまいが)、私個人の名儀で調査致しましょうかとお伺いを立てると、さすがは末広所長、構わぬ、地震研究所嘱託の資格でやれとキッパリ言って下さった。これで始めて公然調査を始めることになったのだが、どこの馬の骨か分からぬ人間が現れて、突飛な事を言い出したのだからどんな結果を生じたか、大体推察が出来るであろう。未だ時効にかからないから余り露骨な話はさし控えるが、要するに四面楚歌の状態だった。時には「喜怒色に表さず」の「怒」の方はめったに外に表さなかった寺田博士をして、いたく憤激せしめるような事もないではなかった。
幸い寺田博士は、筆者の調査研究に多大の興味を感じて、熱心に指導して下さり、また藤原咲平博士その他の方々からも、陰に陽に援助と激励とを与えられたことは、筆者の感謝に堪えないところであった。これらの諸先生の後援がなかったら、ガリレオと同じ運命に陥ったであろうことは火を見るよりも明らかであった。
筆者が地震の光の調査に取りかかる二十年前に、この現象を詳細に調査して、その結果をイタリー地震学会彙報に発表した学者のあったことを、寺田博士から教示された。それはイタリーのイグナツィーオ・ガリーという人である。ガリーの論文は中々大部である。しかもそれは、多くの日本人にとって苦手にがてであるイタリー語で書いてある。
寺田博士ご自身も、英仏独語は言うに及ばす、後にはロシヤ後まで自由に読みこなしたが、イタリー語は不得手だった。しかしガリーの論文は是非とも参考に供さなければならぬ。博士はこの論文を読むために、独習書によってイタリー語の勉強を始めた。そしてわずか一週間で読書にさしつかえない程度の力がついた。そこで直ちにガリーの大部な論文を読破して、詳細なノートを作製された。
昭和六年一月四日、筆者はこの日を終生忘れることが出来ない。場所は東京会館のロビー、先生は膝の上に右のノートを開き、それを見ながらガリーの論文の内容を、イタリー語の知識のない筆者に、じゅんじゅんと話して下さるのであった。筆者は一言半句も聞き洩らすまいと体中を耳にして聞き入った。当時先生も筆者も、この問題に関して真剣そのものであった。ガリーの論文は筆者の調査にどのくらい役立ったかわからない。  
   外国の学者の見解
   (1) タシツスからガリーまで
地震にともなう発光現象の最も古い記事は、ローマの歴史家タシツスの「年代記」の中に出ているものであろう。西暦十七年小アジアの大地震の時、十二の都市が破壊され、光がひらめいたと書いてある。
この現象が、近世の学者によって始めて注意されたのは、西暦一七五〇年のことであった。この年にイギリスから北ヨーロッパにかけてたびたび地震があり、空中にも地上からも光が現れた。この事がロンドンの王立協会で問題になり、ウイリアム・スチュークレーという学者が、地表を流れる電流で、この現象を説明しようと試みた。
ついでE・クルーゲは、一八六一年に、「一八五〇―一八五七年に起こった地震の原因について」と題する論文の中に、発光現象に関する若干の報告を記載した。
グリースバッハは、一八六九年に、「一八六七―一八六八年の地震」を発表したが、その中でこの現象に言及している。一八六八年八月十三日ボリビア及びチリ大地震の時、チリのタクナその他の土地でしばらくの間空が輝きわたった。その光はアンデス山中の火山の噴火であろうと推測されたが、それは誤りであって、噴火はなかったのである。従って発光の原因を他に求めなければならないとて、山崩れや氷河の崩壊に際して光を発することを述べ、最後に八月十三日の発光は電気と関係のある現象だと言うプレッツナーの意見を参考にしたいと言い、またこのような発光は、流星によって生ずることも不可能ではないかも知れぬといっている。
一八九三年に出版されたルドルフ・ヘルネスの「地震学」には、次の記載が見い出される。地震の時又はその前後に、光が観察されたと言う報告が少なからずあるが、この現象は往々にして懐疑の眼をもって見られ、驚怖による幻覚と考えられた。しかしそれにしては報告の数が多すぎる。この発光が火山地震にともなうものなら理解に難くないが必ずしも火山地震に限らない。思うに地震にともなって現れる、電光の如き光や火球状の光は、多分電気作用に基づくものであろう。しかしこの問題に関して自分は十分な説明をするほどの経験がないからと言って、グリースバッハの論文を引用して代弁させ、そしてこれらの説明の試みに関する批判は必要がないと結んでいる。
K・フッテラーはこの現象の実在を認めない。彼は言う、地震に発光をともなうことは、まだ十分には知られていない、論争の余地がある。一八九六年一月二十二日の地震の時、五カ所で発光を目撃したと言う報告があるが、いずれも不確実で、ある程度まで錯覚に基づくことは確かである。
サイモンス気象学雑誌の一八九七年一月号に、一八九六年十二月十七日イングランドの地震の場合に観察された発光の報告十数例が掲載されているが、この現象に関する証拠は、地震と同時刻に雷雨があったと言う以上の証明にはならぬと書いてある。
一八九八年に刊行されたジョン・ミルンの「地震学」には、大地震の際に発光現象が観察されることはきわめて普通で、一六〇二年のカタニア、一七二七年のニューイングランド、一七五五年のリスボン、一八〇五年のナポリ、各地震の時に例があると書いている。彼は「岩石の摩擦にともなう発光を除き、地震と電気を結びつける仮説は全く支持しがたい」と言う処から見ると、ミルンは地震にともなう光象を摩擦発光と考えたらしい。
一九〇五年八月十七日ライプチッヒの地震の時、クレードナーが、「稲妻のような閃光」又は「瞬間的発光」に関する多数の信憑するに足る報告を蒐集したと言うことである。
 以上の如く、色々の学者が様々な見解を発表しているが、特にこの現象を詳細に調査した最初の人は、イタリーのリッツォー教授であった。リッツォー教授は、一九〇五年九月八日カラブリア地震の時に観察された発光四十二例を蒐集して、これについて調査を試みた。彼は光を見た方向を記載してある五例の報告に基づいて、その方向がマレ・チレノの上で輻合することを発見した。また光の種類とその出現した時間については、次の如く分類した。
一九〇六年八月十六日チリ中部の地震の時、空が異常な色を呈し、また放電が多かったという報告をサンチアゴのウィリアム・ゴーという人が、サイモンス気象学雑誌に寄せている。
一九〇九年に出版されたエドウイン・ヘンニッヒの「地震学」にこう書いてある。この現象は従来地震の研究上継子扱いをされてきた。この現象は、地震に附随する現象として、時に重要な暗示を与えることがある。しかるに従来この現象について充分な観察も行わずに否定して来たため、信憑するに足る報告や発表が少なかったのであるといっている。彼は九つの例を挙げて多少の考察を試みた末、この現象は今まで考えられた以上の価値があることは論をまたぬと結んでいる。
多分前記のリッツォーによって刺戟されたのであろうと想像されるが、リッツォー以上に多数の資料を菟集して、それらについて検討を試みたのはイタリーのイグナツィーオ・ガリーであった。彼は古今の発光現象の資料百四十八例を集め、調査した結果を、「地震に際して観察せられる発光現象の蒐集及び分類」と題して、一九一〇年にイタリー地震学会彙報に発表した(前に記した寺田寅彦博士が苦心して読破したのは、この論文である)。
ガリーの調査の基礎となった資料は百四十八例に過ぎないが、彼の調査は綿密周到で、次に示す光の種類の分類の如きは、精密きわまると言って過言ではなく、筆者の蒐集した、ぼうだいな資料に記載してある光の種類が、ことごとくガリーの分類のいずれかに該当するのは驚くべきことである。
ガリーは光の種類を四大別し、更にそれを十三に細別した。
1 漠然たる瞬間的の光
(a) 閃光
(b) 雨の降り注ぐ如き光
(c) 細い光の帯
2 一定の形を有し且つ動く光体
(d) 火球
(e) 火柱
(f) 火の棒
(g) ラッパ状の光
3 輝ける焔及び輻射
(h) 火焔
(i) 小火焔
(j) スパーク
(k) 光る気
4 空中及び雲の燐光
(l) 拡がった空の光
(m) 光る雲
ついでガリーは十三種の光と地震との時間的関係を調べて、詳細な表を作った。その表によると、すべての種類の光を通じて、地震の最中に光を見たという報告が最も多い。しかるに第一の中の「閃光」及び第四の中の「光る雲」この二種類だけは地震の前に観察された場合の方が多いのである。これは注意すべき事実であって、宝暦元年名立崩れの直前に出現したと伝えられる光象も、ガリーの分類では「光る雲」の中に入るのかも知れないのである。
要するにガリーは地震にともなう発光現象の研究上、空前の業績を残したと言ってよい。また彼の論文はこの現象に関する宝典と言うべきである。  
   (2) ガリー以後
次に、マイロン・L・フラーは、ニュー・マドリッド地震の報文の中に、この現象について少し記載している。彼は「閃光」及び「空焼け」と名づけるべき現象は、多くの地方からの報告がなければ、有り得ない現象として何人も顧みないであろうと前提して、九つの報告をかかげ、ついでこれらの閃光が全然架空的だとは考えられないが多分大多数の閃光は雷雨に起因する現象であろう。また移住民やインディアンによってひき起こされた山火事によるとも考えられる。当時晴天であったニュー・マドリッド地方において、この現象が全く目撃されなかったことは注意に値すると、電光説を主張した。
モンテッシュー・ド・バロールは、地震にともなう発光現象を否定する学者の一人である。彼は一九一二年にパリの学士院で「大地震にともなう特殊な発光現象について」と題する論文を読んだ。彼は言う、発光現象の記事は、真に科学的のものが少なく、この問題は全く混沌たるものである。一九〇六年八月十六日チリの地震は、この問題を研究すべき絶好の機会だったので、調査委員は発光についても調査を試みた。その結果百三十五の回答が集まった。それを分類すると、(一)全く否定的の報告、四十四、(二)暗に否定的な報告、十六、(三)特殊現象にあらざる普通の電光、三十八、(四)漠然たる光、十三、(五)人為的原因による特殊の発光、五、(六)火球、いん石、あるいは大流星の如く思われる特殊の発光、十九、となると言い、最後の結論として、要するに、この地震には特殊の発光をともなわなかったと断定せざるを得ないと記している。
地震の発光を肯定する学者の一人にA・ジーベルグがある。彼は言う。驚愕による錯覚が与って力あることは事実であろうが、しかし地震の時に光り物の出現することは確実である。この現象に関する古い文献によって、その事は確定しているといってよい。ただ問題になるのは、発光が地震の性質と関係があるかどうか、また発光の出現が地震の瞬間であるかどうかである。ついで彼は岩石及び氷河の崩壊、電位差、可燃性ガスによる発光の可能性を論じ、最後に、「要するに発光現象は地震学上最も暗黒な章である」と結んでいる。以上の記述は、一九二三年出版の、ジーベルグ著「地震学」の中にある。
一九一一年十一月十六日中部ヨーロッパに地震があった。この地震の時に観察された発光を一方は発光現象を否定するモンテッシュー・ド・バロール、一方は発光現象を肯定するジーベルグがR・ライスと共に、別々に調査してその結果を発表したのは面白い。
モンテッシューは言う、入手した百十一例の報告を分類すると、(一)いん石及び大流星の落下、十二、(二)流星の落下、十二、(三)普通の電光及びジグザグでない直線状の電光、二十一、(四)天空に拡がった光、五十一、(五)球状の光、七、(六)地上の火焔又はセントエルモ火、十、となる。光は震央から百三十キロの地においても観察され、光の見えた範囲は一万七千平方キロに及んだ。しかしこの光象と地震とは関係がなさそうである。もし両者の間に関係ありとすれば、震央の空中にのみ出現するはずである。また十一月十六―十七日は、天気晴朗であったから、電光とは考えられない、そうかと言って極光でもない。大熊座及び獅子座流星群に属する流星こそ、最も可能的な解釈であろう。
ジーベルグとライスは次のように主張する。地震のための驚愕に起因する錯覚は、この地震の発光の報告の中には全く存在しない。ある場所では地震を感じないで、光のみを見た。雷雨にともなう電光でも説明が出来ない。天気晴朗の地で光を観察した例がある。流星とこの現象を混同するはずがない。高圧線の切断でもこの現象の全部を説明することは出来ない。高圧線のない土地でも、光象が観察されたし、また色の点でも困難がある。電線の銅が焼ける場合には、淡緑色又は淡青色の光を発するはずであるが、大多数の報告は赤色又は黄赤色だと言う。この現象は多分地震の時にいちじるしい電位差が起こるためであろう。そのためにまれには球状の光まで現れるであろう。
同一の地震同一の現象を調査して、しかも調査する人によって、こんなにまで結果が異なるとは、不可思議なことと思われるが、あるいはこれが当然なのかも知れない。
以上は地震にともなう発光に関する欧米学者の見解の大要である。ひるがえって日本の学者はこの現象についてどのように考えたか、それを一べつすることにしよう。  
   日本の学者は?
   (1) 日本の学者はほとんど無関心
前に記したように、わが国には昔から地震にともなう発光の記録がおびただしく存在するにかかわらず、その原因についての考察は全く見当たらない。橘南谿の如きも、名立崩れの前に現れた光象について長々と記述しながら、地震との関係については一言半句も費やしていないのである。物足りなく思うのは筆者ひとりではあるまい。
江戸時代の末期に至って、ようやく二、三の記載が見い出されるがいずれも「陽気発せし故に」、「陽気一時に発したるなるべし」、「地中の火気発したるにや」、「地中の火気発したる光ならんという」という類で、黴の生えた中国古代の学説を借りて来て、一応の説明を試みたに過ぎない。思えば情けないことである。
明治以後になっても、この現象に関する限り、いっこうに進歩が見られなかった。明治になって最初に書物に現れたこの現象に関する記事は、筆者の知る限りでは、明治二十三年に出版された山辺曼遷外史の「外航見聞誌」で、その中に、船中で聞いた話として、一八六〇年ブラジルの大地震の時、空中にいちじるしい光が現れたと言うことが書いてある。
明治二十九年から数年にわたって「地学雑誌」に「地災集覧」と題して地震及び噴火の史料が連載されたが、その中に地震の前徴と見なされる現象十九種を挙げてある。その中に、「火炎空中に鳴る」及び「遠く火炎を望み、之に近づけば則ち失す」と言うのがある。
右の「地災集覧」は白野夏雲氏の編纂したものである。余談にわたるが、同氏は旧幕臣で、維新後は北海道開拓使その他に勤務、その後招かれて鹿児島県勧業課長となり在職中に「麑海魚譜」、「七島問答」、及び「十島図譜」の名著を残し、晩年には札幌神社の官司を勤めた。
白野夏雲氏については、ついでに書いておく事がある。小樽付近の手宮洞窟の壁に異様な文字の如きものが彫りつけてある。手宮の古代文字と言って有名になったが、実は白野氏が北海道開拓使に奉職していた当時、測量隊を率いて巡回中、この洞窟に休んでいる間にいたずらに彫りつけたものだと言うのである。
話を前に戻す。明治以後の日本学者で、この現象について、簡単ながら記載した人は絶無ではなかった。
伊木常誠博士はまだ東大の学生であった時、震災予防調査会の命を受けて明治二十九年の三陸津浪を調査した。その報文の中に、この津浪の前兆として、(一)海水の干退、(二)井戸水の異状、(三)地震、(四)地磁気の変化、(五)その他を挙げ「その他」の中にウナギがおびただしく海岸に寄ったこと、発光の見られたこと、音のしたこと等を掲げ、その中注意すべきは、(一)、(三)、及び(四)で、「(五)はしばらく疑問に属す」と記している。
小藤文次郎博士は、明治四十二年姉川地震(一名江濃地震)の調査報文の中に、「白崩れ」及び「大富崩れ」の山崩れの時、光を発したことを記載したが、「その発光の原因はすこぶる不明なり」と匙を投げている。
大正七年信濃大町地震を調査した坪井誠太郎博士は、「参考のため附記す」とことわって、信飛山中の発光について簡単に記載した。
藤原咲平博士は、大正十二年関東大地震の夜観察した円形の光について、調査報文に記載した。この記述は興味があるので、ここに引用する。
「午前三時ごろ、駿河台ニコライ会堂の直上、雲煙の間一個の火球あり、爛らんとして輝かがやくこと落日の赤き程度にして、周囲暗黒なるがために特に燦然たり、他の火は水平に連つらなりて蕩漾とうようするも、この火球は更に動かず。目測するに、火原よりの仰角十五度もあるべし。火球の下には更に雲煙の層ありて、その下に火焔漲みなぎりたり、千思万考するも、その何たるかを知るに苦しむ、最初ニコライ塔上の窓硝子の火に輝くものならんかと考えしも、それにしては余りに高く、いかに見積るもニコライの丘上に更に丘と塔とを置きたるほどの高さなり。またニコライは既に日中に焼損せり。ゆえにおそらくニコライの背後に、本郷台辺の建物の見ゆるかと考えたるも、翌朝望見すれば、この種のものは更に皆無なり。その後の調査によるに、ニコライ円頂の落ちしは六時ごろにして、火は間もなく収まりしも、ただ塔中には欅けやきの階段、床、鐘を釣りたる梁はり等あり。これらの火は翌朝十時ごろ焔はなきも、燠おきはなほ盛なりという。また塔の中段に丸窓はあるも、硝子なし。ゆえに強いて説明を付すれば、午前三時ごろには、この窓になお硝子ありしか、またはこの窓を通して内部の火が見えしかの二つにて、火の高く空にかかりて見えしは、半ばは幻覚にして、半ばは蜃気楼的現象によりて浮き上りを生じたるものと考え得べし。されども必ずしも然るべき確証はなし。つらつら考うるに、古来天災の際神秘を説く、必ずしも故なしとせず。もし僧侶または教徒にしてこの火球を見しものあらば、必ずや多くは天火東京を焼くと直感せしならむ。その爛々たる、その真円形なる、その一個天に懸かりて動かざる、誠に天火の観をそなえたり。また思うに、この火球のしかく著しきにかかわらず、他に見たりと言うものあるを聞かざるも一奇なり。おそらく逃避または救護等に急にして、見るも心に止まらざりしものか。」(関東大震災調査報告)
右はすぐれた科学者の観察だから、特に重要と思われる。
大正十二年九月一日関東地震、大正十三年一月十五日丹沢地震、昭和二年三月七日の丹後地震にそれぞれともなった発光については、中村左衛門太郎博士によって記載されたが、いずれも単なる記載であった。
昭和三年大橋良一教授は、文化七年男鹿地震の論文の中で、地震の前に出現した光象に言及しているが、地震との関係は全く記されていない。
以上は明治初年から昭和五年まで六十余年の間に、この現象について、日本の学者が記載した多分すべてであろう。
右に述べた処を表に作製すると、次の如きものが出来る。上欄にくらべて下欄がいかにも淋しいのは残念千万である。  
   (2) 昭和五年十一月二十六日伊豆地震の発光
昭和五年十一月二十六日午前四時ごろ伊豆半島北部から発した大地震の時、方々で発光現象が観察され、その調査の許可を得るのが容易でなかったことは前に書いた。ようやく許可されたので、早速調査に取り掛かった。まず各地の役場、学校等に照会して回答を求め、また親しく震災地を巡回して資料を蒐集したことも二回に及んだ。かくして筆者の集めた材料の上に、寺田寅彦博士その他の蒐集も合わせて、資料の総数千五百八十三。これを読み、写し、整理し、分類するのは容易なことではなかった。当時筆者は貧しい一教員であったが、折あしく他人の分まで臨時に受け持たされて、一週の授業時間四十時間その上に尨大な資料の整理をするのだから、眼が廻るどころの騒ぎではなかった。実際四カ月の間、睡眠時間はわずか三時間に過ぎなかった。今から考えると、よくも体が続いたものである。幸い四十時間の授業を担当したおかげで、生活は少しく楽になった。そのために暖炉を買って、厳冬深夜の寒さをしのぐことも出来、また栄養も平素より幾分多く摂取することも出来た。それでもこの仕事を済ませた時には、真に疲労困憊その極に達していた。
蒐集した資料を整理した結果、最も顕著な光を発したのは、箱根山から丹那、浮橋両盆地を連ねる南北に延長した地帯であったことは、各地から送られた報告によって疑う余地がない。この地帯はこの地震の震源地であり、丹那断層と命名された顕著な断層を生じ、また山崩れ及び浅井治平理学士によって「山ずれ」と名づけられた地変も至る所に見られたから、いちじるしい発光を見たのは当然である。
この地震の発震時は午前四時三分ごろであった。光の出現が発震前であったか、揺れている最中であったか、乃至は揺れが止んだ後であったか、これを調べるのは中々困難であった。発震時が早暁であったために、戸外に出ていた人が少なかったのである。しかし少数ではあったが偶然戸外にいた人もあった。たとえば出漁中の漁夫や平塚火薬廠の巡視などがそれであって、それらの人々は地震に先立って光が現れたことを証言している。
網代あじろ沖に出漁していた漁夫は、地震の直前に電光の如き光を認めたと言い、また熱海の沖の初島付近で漁をしていた漁夫は、始め箱根の方から光り出し、天城山の方へ光って行ったのを見て、不思議に思っていると、まもなく船が動揺したと言う。平塚火薬廠の巡視は地震の少し前に箱根の上空と東の上空に光を認めたと報告した。
中でも浜松師範学校教諭佐々木清治氏の蒐集にかかる次の資料は最も重要なものである。
「平野氏の報告によれば、伊東町に大川某という魚商があり、二十六日午前三時ごろ多くの生魚を荷造りし、これを自動車にて修善寺方面に輸送する途中、午前三時半ごろ伊東より北々西に当たる丹那三島の方角に当たって、薄明るい光が現れ、青赤白黄混合した色を呈し、次第に南方に移った。彼が天城山の道にさしかかった時、大地震に遭遇した。この光は地震後にもなおしばらく継続したと言う。この間実に三十分余りにわたっている。この人は地震における発光現象を最初から最後まで観察したよい例である。」
右の如く光が地震に先立って現れたことは疑う余地がない。しかし大多数の人々は地震で目をさまして光を見たのだから、揺れている間と言う報告が最も多い。この事は後に述べるであろう発光の原因から見ても、そうあるべきである。また地震の後まで光が継続したことも事実に相違ない。これもまた発光の原因について記す時に述べるであろう。
報告に記載されている光り具合は千差万別で、最初はそれらを分類するに途方に暮れたが大体左記の九種になるようである。(一)放射状、(二)電光状、(三)線状及び帯状、(四)探照灯状、(五)ラッパ状、(六)雲状、(七)漠然たる瞬間的の光、(八)火球、(九)その他。右の種類の光が実際現れたかどうかには大いに疑いがある。筆者は(一)から(六)までを「放射状」の光として一括すべきではないかと考える。
放射状の光と言うのは、地中から射出する強烈な光である。光の色についての報告は区々として一致を見ないが、青色というのが真実らしい、また青色という報告が最も多い。光度は発光地点に近い所では、目がくらむほどであったようである。丹那盆地では腰の抜けるほどだったと語った人があり、箱根町では光っている間は、用を弁じるのに一向不便を感じることがなく、切断して地面に落ちている電線まで明瞭に見えて、それを避けて歩くことが出来たと言う。個々の光は瞬間的な光であるが、続々発光するので、若干時間の間あたりが明るかったのであろう。
三浦半島の西海岸の秋谷あきやから報告されたところによると、箱根山の左方から光を発したのが見られたが、月夜以上にあたりが明るくなったと言う。箱根の左方を丹那盆地とすると、秋谷から五十五キロである。千葉県君津群巌根村でも、箱根方面に光を認めたが、その光景は「壮観にして名伏しがたきほど」であった。これも発光地点を丹那盆地と仮定すると、約八十五キロになる。この位の距離の地点から見て「壮観」と言うほどのいちじるしい光として見えたのである。漠然たる非瞬間的の光というのは、あたかも遠方の火事を望むような赤味を帯びた光象である。日本内地でまれに見られる極光は多くはこのように見えるので、古い書物には赤気と書いてある。能登のある地方では、現在でも極光を「海火事」と言うそうである。
伊豆地震の時には、この種類の光象は数カ所から報告されたが、その中でも伊東町では多数の人々によって観察せられ、しかも観察した人の中には現在地震研究所長である那須信治博士の如き科学者も含まれているので最も信用が出来るのである。那須博士によると、伊東町から北西と西南西に同時に光象が見えた。前者は沼津方面、後者は原保わらほ方面であった。沼津が大火だろう、修善寺が焼けているのだろうと噂された。しかし伊東の人々の言うところによると、先年沼津の大火を伊東から望見した時の空の色とくらべると少し違う、のみならず沼津大火の時は、赤い空が多少明るくなり暗くなりしたが、伊豆地震の場合の光は、明暗の変化がなかったそうである。
大地震に際して火の玉が現れたことは、前に記した通り、必ずしもまれではなかったが、伊豆地震の場合には、ただ一つの例が報告されたのみであった。静浦の一漁夫が漁をしていると、鷲頭山から大きい火の玉が現れて、南を指して飛び去るのを目撃したと言うのである。
最後に「その他」の中には、右に記したどの部類にもいれられぬ、しかも重要な光象が含まれている。
箱根町考古館長石内九吉郎氏は、三島方面の外輪山の上に円い円が幾つも並んで、それから線香花火のような火花が出るのを目撃した。
石内氏の令息農学士石内吉見氏によると、戸外へ飛び出して木につかまっていると、駒ヶ岳から神山にかけて、中腹に一カ所パッと光ると、次に他の場所が光ると言う風に幾つも光った。光る度に物凄い形の雲や樹木がハッキリ見えた。形は電光とは違い、丸くて大きい。ただし光には大小があった。色は澄んだ青だった。
この地震の時、箱根町東方の沢入山が崩れ、崩土を押し出して麓の万福寺を埋め、寺男一人は生埋めになった。この時万福寺方面に円形の光が横に並び、その中左端のものがクルクル回転した。その時は非常に明るかった。
塔ヶ島離宮の省丁渡辺氏は次のように語った。地震と同時に我々親子三人は寝たまま床板ぐるみ、旧位置から十間ほど離れた湖岸の崖の上に跳ね飛ばされた。目を開いたら星が見えた。その時西南方面の山の中腹を見ると、幾つもの提灯の火が見えた。この提灯の火というのは、実は石内九吉郎氏の目撃した光り物であったと思われる。
伊豆地震の際に観察された光象に関する調査の結果は大体以上の通りであった。さてこのような発光はいかにして起こるか、発光の原因に関する考察は後に述べることにして、他の地震の場合の光について記そう。  
   (3) 昭和六年十一月二日日向灘地震の発光
昭和五年伊豆地震の後、筆者は他の二、三の地震について調査を試みたが、いつも柳の下にドジョウがいるとは限らず、好結果が得られなかった。しかるに昭和六年十一月二日日向灘から発した地震の場合には、伊豆地震についで興味ある多くの資料が得られた。
この地震の場合には、多くの人々が海上に発光を認めた。これはこの地震の特徴であった。
光象の観察された場所は別府湾と日向灘であった。大分新聞の記事によると、大分市弁天島の海上に数本の電光の柱が立ち、大きな光の幕を張ったごとく、わずか十分くらいの間であったが、名状できない光景を呈したと言う。
大分商業学校の今村教諭は、地震の直後大分市塩九升しょくじょう町から、北東の海上と思われる辺りに、淡赤色のあたかも霧の立ちこめた空中に、垂直に探照灯を照射する如き光を、約一分間観察した。このほかに大分市附近で別府湾の方向に見たと言う報告が少なくなかった。
別府湾北岸の日出ひじ町でも、大分市の方向に光を見たと報告された。
右の資料によって、この地震の時大分附近の別府湾内で、いちじるしい光象が現れたことは充分確かといえる。
日向灘における発光地点は一カ所ではなかったように察せられるが、唯一の場合を除いてその地点を確かめることが出来ない。その唯一の場合というのは、那須博士が現地で聴取されたものであって、土々呂村の池田丸乗組員の体験である。この漁船は地震の時内海の沖十二、三里の所で漁をしていた。午後七時ごろになると船が急に揺れ出し、はては船が立って今にも転覆するかと思った。のみならず船が揺れ出すと同時に、目の前の海面から火柱が立った。乗組員は生きた心地がなく、一同口々に御題目を唱えていたと言う。
右のいわゆる火柱は、後に述べる機会があるが、その正体が大体分かっている。  
   (4) 昭和六年十一月四日小国地震の発光
地震の時に、送電線が接触したり切断したりして発光することがある。これは発光現象を調査する者にとって実に邪魔になる。そこではなはだ怪しからぬ話ではあるが、送電線の全然ない土地に、そして夜間に大地震が起こってくれるよう、心ひそかに祈っていた。この願いが天に通じたのか、ちょうど誂え向きの地方に局部的に破壊地震が起こったのである。昭和六年十一月四日岩手県小国村の地震がそれであった。のみならずその際いちじるしい発光が多数の人々によって観察されたのである。
幸いに――ただし筆者にとって――この地方には送電線が絶無であったから、右の光が送電線から発した光でないことは疑う余地がない。そこで発光現象の調査研究には絶好のチャンスと思ったのはつかの間、またも一つの困難に出会うことになった。
小国村及びその附近は炭の産地で、無数の炭焼窯がある。その窯が地震で、小国村で百五十一、隣の金沢村で百三十も崩壊したのである。炭焼作業の途中で窯が崩壊すれば、窯の内容は爆発的に燃え上がって、火光が天に沖するであろうことは想像に難くない。小国村の人々は口をそろえて、炭焼窯の崩壊による火光ではないというが、この証言は余り当てにならぬ。何故かというに、小国村に大地震があったのはその時が最初であり、従って無数の炭焼窯が一時に崩れて燃え上がる光景を目撃した者は一人もいないはずだからである。
惜しいことに明神礁で殉職した田山利三郎博士と筆者とが蒐集した資料を検討して見ると、炭焼窯の火光らしい点もあり、またそうでは無さそうな節もある。弱り切ってその旨を寺田寅彦博士に報告した。先生の言われるには、窯を実際に壊して見たらよいだろう、壊す時間を附近の学校や役場に知らせて置いて、どんな風に見えたか報告して貰えばよい。一つやって見ようではないか。どのくらい費用がかかるか調べて見給え。そこで早速秋田県で山林会社を経営した経験のある友人に問い合わせると、たしか当時の金で二万円位の見つもりだった。それでは余り高価だからという訳で、破天荒の炭焼窯爆破の実験は沙汰止みになった。  
   (5) 昭和十三年五月二十九日屈斜路地震の発光
昭和十三年五月二十九日午前一時四十二分、北海道屈斜路くっちゃろ湖南岸地方から破壊的地震を発した。この地震の場合の発光は田中館秀三理学士によって調査された。このころになると、現地へ調査に行く人々が、この現象をも調べるようになったので、筆者が自ら調査に出掛ける必要がなくなったのである。
この地震の時に観察された光象は、主として屈斜路南岸に位する丸山の方向に見えたことは注意すべきことである。ポントの真田氏の話によると、子供が地震で戸外に飛び出した時、東の空を見て、「お婆さん、火事だ!」と叫んだ。東方がほのかに赤かったが、直ちに消えた。ポントから東は丸山の方向である。
ポントの本願寺派出所の内藤氏は、家から飛び出した時、丸山の方が一帯に赤く見え、約十五分の後パッと消えたと言う。
丸山附近の丸山倉庫の主人の話によれば、丸山のうしろの方が、月の出の如く明るくなり、道路が見えるほどであった。
コタンの山本商店で聞いたところでは、戸外に出て丸山が崩れた。そして丸山の左方が真赤にパァーッと明るくなったが、いくらもたたぬ中に消えた。美留和附近の火事だろう、いや炭焼窯が崩れたのだろうと騒いだ。和琴の噴汽口附近からも火が見えた。
エントコマップのある農家の主婦は、地震の直後、丸山の方が赤く見えたので、山火事だと言っていたが、やがてパッと消えたと語った。
これらの資料によって発光地は丸山方面であったことは多分確かであろう。  
   (6) 昭和十六年七月十五日長野地震の発光
この地震の時も発光が各地で観察されたが、岸上冬彦博士及び矢橋徳太郎理学士の調査の結果、送電線の切断による火花と結論された。  
   (7) 昭和十六年十二月十七日嘉義地震の発光
昭和十六年十二月十七日午前四時二十分、台湾嘉義市附近から発した大地震は、家屋全壊八、六九六戸、死者一、〇九一人を生じたが、この時にも発光現象の興味ある実例が、台湾気象台の川瀬二郎理学士によって蒐集された。川瀬氏から直接聞いたところによると、通訳を連れて聞いて歩かれたそうである。発震時は午前四時二十分であるが、東京の経度では午前三時ごろに相当する。発光の目撃者は農夫に多く、殊に地震直前に光を見たものが多かった。その一部を左にかかげる。
嘉義群水上床中床の東方二キロの地点で、四人が観察したところは次の通りである。地震の前東に向かって進行していると、東の空から野火のごとき色の幕のように拡がった光が下降し、地鳴りが聞こえて震動の始まるころには上昇し始め、震動が最も激しかった時は光は上昇の極点に達し、まもなく消えた。光の強さは前にいる人を識別できる程度であった。
二人の農夫の語るところによると、色は青白く、大きさは拳こぶしくらいで、流星のように上から落ちて来て、急に拡がってブーと音がしたら、地震を感じた。
斗六郡草嶺に大規模な山崩れが起こったが、その附近では、山崩れによる土埃の中に光を認めたものがある。その光は周囲に電灯がついたような弱い明るさであった。
新営郡鳥樹林国民学校の報告によると、地震で戸外に飛び出し校庭に行った。教室附近に青白い光が三、四秒ずつ継続して発した。数カ所からパッパッと発し、震動が終わると光も消えたと言うことである。  
   (8) 昭和十八年三月四日及び五日鳥取地震の発光
昭和十八年三月四日午後七時十三分鳥取県賀露附近から破壊地震を発し、続いて翌五日午前四時五十分同県浜村沖から同じくらいの強さの地震が起こったが、この二回の地震の際にも発光現象が多くの人々によって観察された。この現象を綿密に調査した表俊一郎博士によると、両地震の場合に、大多数の人々の発光を目撃した方向が、いずれも震央の方向であったことは注意すべき事実である。この現象に関連して、地震の際における火事、電光、及び高圧線の切断等を一応考慮しなければならないが、火事は全くなかったし、電光の見られるような天候ではなかった。断線については、五日の地震で三カ所において断線したけれども、光を見た方向を地図上に矢印で記入すると、矢印は震央に近い海上において交わるので、この地震の発光を送電線の切断による光とは考えられないと言うことである。表博士はその他光り具合及び光の色についても調査の結果を報告している。そして発光源においては相当に強力な光が放出されたであろうと推測した。  
   (9) 昭和二十一年十二月二十一日南海道地震の発光
昭和二十一年十二月二十一日午前四時十九分ごろ、東経一三五・六度、北緯三三・〇度の地点、すなわち紀伊半島南方沖から大規模地震が発現した。この大地震の発光は、他の事項と共に中央気象台その他の気象官署及び水路部によって調査されたが、前者の完全な調査報告はまだ出版されていない。
この地震の場合には、火事を遠方から望むような光象も報告されたが、火の玉を見たという報告が甚だ多く、また海上に発光を認めたという報告は更に多かった。
紀伊半島の九鬼では、地震の直後、西方の山地に赤い御光の如き光を数回見た。村の人々は山火事と間違えて騒ぎ立てた(三重県熊野灘沿岸南部踏査概報)。
真柄浩氏の報告によると、三重県多気たけ郡相可口おうかぐち駅前の自宅から西方の山の上に火柱が見えたので、隣村の火事と思ったそうである。
右は遠方の火事の如き光象である。次に火の玉の例を少し挙げて見る。
紀伊半島田辺湾の中央附近に、弧を描いて北から南へ飛ぶ光を見た人が相当に多い(伊吹山測候所調査)。
和歌山県西牟婁むろ郡和深わぶか村江田では、地震の直前に潮岬方向の海中から赤い火の玉が飛び出したのを見たものがあった(中央気象台、南海道大地震調査概報)。
紀州沖でイカ漁をしていた漁夫の話によると、何か光ったものが天から降って来て、海中に没したと思うと、まもなく震動を感じた(水路部、昭和二十一年南海大地震報告)。
ある漁夫の話によると、紀州沖から火の玉が飛んで来て、尾鷲おわせ附近で一たん止まり、北方に飛び去った(水路部、前掲)。
熊野の曽根では、地震の最中に北々西と南東に赤い火球状の光を認めた(三重県熊野灘沿岸南部踏査概報)。
賀田でも地震の後北方と南東に火球状の赤紫色の光を見たと言う(前同)。
高知県野見湾に出漁中の船は、須崎方面に火の玉の飛ぶのを見たと言うことである(水路部、前掲)。
海上に光を認めたと言う報告はきわめて多く、しかも地震の前に観察したという報告も若干含まれている。
岡山県小田郡今井村字絵師の川相末蔵氏の談話によると、地震のあった日の午前四時に用便に起きた時、南方笠岡湾にある木之子島の向こうの海上が、夕焼けの如くボーッと明るくなっていた。それから出勤の仕度をしていると、地震が起こった。光はその時まで続いていたように思われる(岡山県下被害踏査報告)。
和歌山県椿の一老人は地震の前夜、今夜は何か異変があると言っていたが、午前三時過ぎに起床して見ると、はじめ白浜沖、次いで周参見すさみ沖に火柱が立ち、その下の水がえぐれたように見えた。皿のように凹んでいたのである。その後に地震が起こった(水路部、前掲)。
高知県室戸岬に近い津呂の臼掘り職人の話によると、二十日午後六時ごろから、東南東海上にくすんだ灰色の数段の光帯が現われ、虹のようであった(室戸岬測候所調査)。
また高知県の甲かんノ浦うらでは、二十日の夜から地震の前まで、南方沖合が明るかったと言われている(四国地方各県踏査報告)。
以上はいずれも地震の前に海上に光象を見たものである。
岡山県高梁たかはし川河口の乙島にいた警官は、地震の時南東方向の海上が明るく光って、十五メートル位離れている人が分かるほど、一面に明るかったと言う(岡山県下被害踏査報告)。
笠岡湾北方の大井村からも、海上に火柱の立ったのが見えたといい、また児島湾でも、沖の方が明るくなったのが観察された(前同)。
その他和歌山、三重、高知の諸県でも、海上の発光が観察された。  
   寺田、清水両博士の見解
日本の各地で大地震の際に観察された発光がいかなるものであるかは、以上の資料によって大体了解されるであろう。ここに掲げた以外にも資料は沢山あるが、これ以上に資料を羅列する時は、いたずらに読者の倦怠を招くばかりであるから、資料の記載はこのくらいで打ち切って発光の原因について記述することにしよう。
わが国でこの現象について考察を試みた最初の学者は寺田寅彦博士であった。博士は昭和五年十二月地震研究所において、「地震にともなう発光現象について」と題して研究の結果を発表し一層詳細なる論文は翌年地震研究所彙報に掲載された。その論文の要旨は次の通りである。
「この現象の原因について考察した結果は次の通りである。(一)火事と(二)雷雨にともなう電光とはこの際問題にならない。(三)送電線の接触又は切断によるスパークは、現象の一部を説明するとしても、これでは説明されないいちじるしい現象がある。そうしてそれは(四)山崩れ、地すべりによる摩擦発光として説明すれば多くの場合に質的には容易に説明されそうである。しかし著者が行った簡単な実験を基礎として試みた量的の計算(もちろんある仮定の下に)の結果ではこれだけですべての現象を説明するのは困難であるように見える。それで電線のショートと山崩れと両方ですべてを説明すれば一応はもっともらしいようである。しかし充分強力な放電に関する確証が得られないのみならず、また電線の存在しなかった時代における東西両洋の記録の共通圏内に多数に現れる閃光的現象が、今日の場合にショートで説明されるものとほとんど同一であり、しかもそれが雷雨の疑いのない時にでも度々あったと考えられるところに困難がある。以上の原因の外に、従来全く考慮されなかったと思われる一つの可能な原因がある。それは毛管電気現象に関するもので、地殻内における水の運動のために地殻中、従って空中にいちじるしき電位差を起こし、場合によっては高層の空中放電を生ずることが可能であるというのである。」
東京大学教授清水武雄博士は、昭和七年四月日本数学物理学会年会において、寺田博士とは異なる見解を発表された。その大要を記すと次の如くである。
「地震の発光現象は送電線からのアークを誤認したのだと言う説は、多数の人によって提出されたものらしいが、これに対する難点は、震源地方では全く送電線のない方向にも同様な光が認められたこと、並びに全然送電線のなかった古い時代の地震記録にも、確かに同じような発光現象の記事のあることである。がもし昔も今も、またいかなる地方にも送電線があったとすれば容易に解決される。果たしてそのような送電線はないであろうか。それは存在すると信じられる。すなわち地電流がそれである。地電流は地質の相違並びに水分の多少に従って非常に不規則に、あたかも多数の中州をもつ流れのように、大小の網目をなして流れている。しこうして電流の小さい地域に鉛直な地割れが生じても、地電流には何事も起こらないであろうし、電流の流れやすい地域内で地割れが生じても、電流はその部分を避けて流れやすいために余り目立つ現象は起こらないかも知れないが、一つの電流の通路全体にまたがって地割れが生じた場合には、実験室で一つの回路をブレーキした時と同様、その割れ目の数カ所にアークを生じても別に不思議はない。ただ問題となるのは、色々の量の大きさの程度であるが、これは仮定の仕方によって随分大きい範囲内でいろいろになり得る事は明らかである。数学的に最も簡単な一模型について吟味して見るに、微弱な地電流といえども、好都合の場合には強烈なアークを生じ得る可能性のある事がわかる。もし地震にともなう発光現象の大部分が地電流によるアークであるとすれば種々の事実が比較的自然に説明される。地平線の一点から上空に向かって放射する光は地割れにやや直角な方向から見たのであり、柱状の光は地割れの延長線上から見たものと考えられる。またラッパ状に上に向かって拡がった光は、柱状に見える上部に霧があって、その部分が幅広く見えたのかも知れない。多数の球状の光が一直線上に次々現れたのは、小さいアークが一つの亀裂に沿って順次に位置を変えたものと考えられる。亀裂とまで行かなくても、土壌のような不均等な物質では、単に振動を与えただけでも、無線電信のコヒーラーのように抵抗を増すであろうから、地面の表面にアークを生ずるかも知れない。ゆえに強震を感じるような地域で至る所にアークを生じても不思議ではない。人体に感じる振動の止んだ後に発光の生ずるのは、きわめて局部的地層が落ちつく際に起こるものと考えられる。また地震の前に発光現象の起こるのは、地震の前に起こるきわめて繊細な地殻の変化が地電流に鋭敏に感じるに基づくのかも知れない。もしそうとすると、夜間のみに観測される発光現象よりも、地電流そのものを観測する方が有利である。要するに、地電流の急激な振動的変化の実測は、地震予知問題と関連して甚だ重要なるものではあるまいか。」  
   筆者の考え
地震の発光現象の原因に関する寺田・清水両博士の考察の結果は、前述の如く、甲は毛管電気現象として乙は地電流による現象と考えて、全く一致を見ない。いずれが正しい見解であるか、浅学不才の筆者にはこれを批判すべき資格がない。筆者はただ自分の思うままを次に記すだけである。
筆者が地震の発光の調査を開始すると、あれは送電線のスパークだと、さんざんけなされたものである。科学者の中にも同じ考えの人が少なくなかったようである。ある科学者から親しく聞いたところによると、その学者は地震の時に送電線が接触して発光するのを観察したことがあったそうである。その経験を多分唯一の根拠として、地震の発光現象全部を送電線のスパークなりと主張したのであった。先入感は恐ろしいものである。この現象に関する古今の記録を虚心坦懐読んで見れば、そんな事はいわれないはずである。
寺田寅彦博士の言葉を借用すれば、「古い昔から、大地震の時に、空中又は地上にいろいろの不思議な光が現れたと言う記録が日本地震史料のみならず、外国の文献にも沢山ある。イタリアの学者でそういう記録を沢山に集めて現象の種類を分類した人もあった。面白いことにはそれらの外国の記録にあらわれた現象の記述でわが国の古文書中に見出される記述のあるものとほとんど符節を合わせたように一致するのが多数にある。」
「もちろん高圧送電線などというものは夢にも知られなかった昔の話であるから、電線の切断又は接触によるスパークなどは問題にならない。」
地震にともなう発光現象のほんの一部だけが送電線の接触又は切断によるスパークだとすると残りの大部分の発光は一体いかなる機構によって出現するのであろうか。一口に地震の発光といっても、いろいろの種類がある。(一)地表から放射する光もあれば、(二)遠方の火事を望見する如き光象もあり、(三)空中を飛ぶ火の玉もあり、(四)地中から現れる小火焔もあり、また(五)海上の発光もある。
(一)地表から空中に放射する光は、送電線の接触又は切断による光としばしば混同される種類の光象であるが、筆者はこの種類の発光の大部分は山崩れによる摩擦発光であろうと考える。前に記した如く、寺田博士は「著者が行った簡単な実験を基礎として試みた量的の計算(もちろんある仮定の下に)の結果では、これだけですべての現象を説明するのは困難であるように見える。」と記載されたが、「簡単な実験を基礎として」「ある仮定の下に」計算した結果だと言われるからには、周到綿密な実験を基礎とし、他の仮定の下に量的の計算を行ったら、あるいは容易に説明が出来るかも知れないのである。
理論はいかにもせよ、実際山崩れの場合にいちじるしい光を発することは確実と言ってよい。弘化四年善光寺地震の時、岩倉山が崩れ崩土が犀川を閉塞したが、その時昼の如く明るくなったことは前に記した。また「川中島善光寺名所略記」の中に「善光寺大地震の説」と題する一節があり、「震災の夜朝日山なる阿弥陀松より一筋の光明長野を指して照らしけり」と書いてあるが、この朝日山には今なお明瞭な山崩れの跡を留めているので、これまた山崩れによる発光であったことがわかる。
古来の大地震の中でこの善光寺地震ほど山崩れのおびただしく起こった地震はない。山崩れの数は松代領内にて大小四万二千カ所、松本領で一千九百カ所、総計四万三千九百カ所に及ぶ。発光現象のいちじるしかったのは当然である。
明治四十二年姉川地震の時、伊吹山中腹の「白崩れ」及び「大富崩れ」の崩壊に顕著な発光をともなったことも前に述べた。小藤文次郎博士は「その発光の原因はすこぶる不明なり」と記したが、現在ではすこぶる明瞭である。
昭和五年伊豆地震の時には、下狩野村字佐野の梶山が崩れ、何人かの人が崩土の下に生き埋めになり、筆者が同地を訪れた時には埋没された家が地下で焼けていて、その煙が崩土を通して立ち昇っていたのがいかにも哀れであった。この山崩れの場合にもいちじるしい発光をともなったことは、多くの人々の証言によって明らかである。
箱根町で石内九吉郎氏父子及びその他の人々によって観察された光象も、また山崩れの発光であることは疑いない。石内氏が西方外輪山上に見たと言う光球の列は、実は外輪山内側の中腹か下部であったに相違ない。とっさの間の観察だからこのくらいの誤りは止むを得ないであろう。実際この方面一帯に山崩れが起こったのである。石内吉見氏が駒ヶ岳・神山の中腹に見た円形の光もまた山崩れの発光であること寸毫の疑いもない。神山・駒ヶ岳の芦ノ湖に面する山腹を見ると、若干の山崩れの跡を指摘することが出来る。その位置は石内氏のスケッチに示される発光点とほぼ一致する。石内氏は塔ヶ島半島にも一カ所発光点を記入しているが、その部分にも崖崩れが起こり、崩れた跡は滑らかな面を示していたのである。また某氏が万福寺方面に見たと言う一直線に横に並んだ円形の光り物は、万福寺を埋め寺男一名を生き埋めにした山崩れの発光と推定される。この山崩れは旧位置から崩土を数町湖岸に向かって押し出したので、その光の列は多分進行しつつあった崩土の末端であったろうと想像される。
地震に先立って現れた光及び地震の後も引続き観察された光は、すべてこの種類のものである。おそらく地震の発現する前に地盤の緩慢な傾動が起こり、崩れやすい状態にあった山腹がそのために崩落して発光を生ぜしめたのであろう。また主震によって崩れやすい状態になった部分が、続々発する余震によって崩れ落ち、その度ごとに発光したのではないかと考えられる。
また昭和十三年屈斜路地震の場合に観察された光は、いずれも丸山の方向に見えたと言われるが、この丸山に山崩れがあったのである。
右に記載した如く、山地における発光現象の大部分は、山崩れの摩擦発光として大体説明し得られるように思われる。しかし関東平野から発した安政二年江戸地震の場合の同様の光は、いかにこれを解釈したらよいであろうか。この説明は大して困難を感じない。この地震の震源地は、亀有かめあり、亀戸を含む地帯と信ぜられ、特に亀有には土竜もぐら状隆起が現れたと伝えられるが、これは地震断層であったと想像される。地震断層が生じる場合に、山崩れの場合と同様、摩擦によって光を発するであろうことはもちろん可能であろう。当時の記録によると、品川沖から北東に当たって発光を認めているものがあった。これは多分断層生成の時の摩擦発光だろうと思われる(昭和五年伊豆地震の時、著しい地震断層と多くの山崩れを生じた箱根、丹那を連ねる地帯に最もいちじるしい光が見られたのは当然である)。
この地震の時、吉原土手の地割れから光を放射したと当時の記録に書いてある。これも真実であったかも知れない。その場所は沖積層の低地であり、しかも人工で築いた土手であるから、震動によって極度に揉み抜かれ、その摩擦によって光を発したのかも知れないのである。
次は地中から現れる小火焔、これは正嘉元年鎌倉の地震を始め多くの例が記録されているから、幻覚として否定することは出来ない。この現象は多分地中から可燃性ガスが噴出して、それに何らかの原因で火がつくのであろうと考えられるが、何者によって点火されるかという段になると余り話が簡単でなくなる。そのガスをメタンと仮定すると、引火点は摂氏六五〇度ないし七五〇度だという。地震に際してこれだけの熱がいかにして発生するだろうか。筆者にとってまだ解きがたい謎である。
海中から空中に投射される光については、津浪にともなう発光現象の条下に記すから、ここでは触れない。
以上各種の地震にともなう発光現象に関する愚見を記したが、まだ他の二種、すなわち遠方の火事を望む如き光と火の玉とが残っている。この二種の光象については、現在のところ筆者は全然その原因を説明し得ないことを告白する。  
   結び
終わりに、この現象の調査研究について多大の援助を与えられた寺田寅彦博士の言葉を掲げて本文の結びとする。
「これが単に流言であり虚言だとすると、昔の日本人が昔のイタリア人と申し合わせて、同じ嘘をついたことになるわけである。またもしこれが幻覚だとすると、古今東西を通じて多くの人に共通な幻覚だとしなければならない。しかもそういう幻覚は生理学上で知られている普通の錯覚的現象としては、容易に説明することが出来ないのである。」
「またこれがすべての場合に火事や、電光や、電線の故障等だけで説明することは出来ないので、ともかく直接に地震によってひき起こされる一つの発光現象が存在することが明らかになったと思われる。」
「このような発光が主なる地震の前から現れることもありはしないかと疑わせるに足るような若干の例もあるので、この点から見ても、この現象は、地震学上必ずしも無視することの出来ない一つの問題を提供するものであろう。」  
四 津浪の発光  

 

   学界の処女地
地震に発光をともなう場合があり、また筆者の調査した結果を、外国の学者の記載と比較して見ると、よく一致することは、前に述べた通りである。しかるに津浪に発光をともなうということは、筆者の知る限りにおいて欧米各国の報告にも見当たらず、従ってこの現象を調査研究した学者も全くなかったようである。多分欧米には津浪がきわめてまれだから、この現象を観察する機会が乏しいためであろう。従ってこの現象は学界の処女地と言っても過言ではない。
筆者がこの処女地に鍬を入れるようになったのは、地震及び津浪に関する古今の記録を調べている中に、津浪の発光の記事が少なからず見出されたからである。このような記事を見た学者は必ずあったに相違ないが、根拠のない記載として、てんで問題にしなかったのであろう。そこで筆者はこの閑却されていた現象に素っ裸で取り組んで見ようと思い立ったのである。  
   昔の記録にある津浪の光
津浪の光の最古の記事は「三代実録」にある。貞観じょうがん十一年(西暦八六九)五月二十六日、「陸奥の国に大地震が起こり強烈な光が幾度もひらめきわたって、あたりが昼のように明るくなった。人々わめき叫び、立つことが出来ない。あるいは家の下敷きになって圧死し、又は地割れにはさまれて死んだ。その中に雷のような海鳴りがして、大浪が襲来した」と書いてある。この記事を文字通りに解釈すると、地震の光のように思われるが、一方明治二十九年と昭和八年の津浪の場合の光と比較し、他方海岸から内陸までの距離を考え合わせると、あるいは津浪の発光ではなかったと思われる。
延宝五年(西暦一六七七)十月九日陸奥から尾張にかけての海岸に津浪が寄せた時、尾張の海上で、三個の光り物が海中から飛び出して、西北に飛び去ったと、色々の本に書いてある。この津浪は地震津浪でなく、風津浪(高潮)の疑いがある。この光り物は暴風雨の時に往々観察される光象であったかも知れない(暴風雨の時には色々な光が見られ、火の玉が空中を飛んだ例も少なくない。これらの実例は先年筆者が発表した「暴風雨にともなう発光現象について」の中に掲げてある)。
宝永四年(西暦一七〇七)十月四日の大地震大津浪の時、紀伊田辺の附近で、山の上で津浪の襲来を見ていた人が記すところによると、進んで来る大浪の中に、白く円い形の光り物があったと言う(嘉永七年甲寅地震海翻之記)。これと全く同じ光り物が、昭和八年の津浪の時、岩手県釜石湾で観察された。
寛政四年(西暦一七九二)四月一日、島原半島の前山が崩壊し、岩石土砂が有明海に突入したため、大津浪が起こって一万五千人の死者を生じたが、この時にも浪がいちじるしい光を放ったと記されている(西肥島原大変聞録、北窓瑣談)。
安政元年(西暦一八五四)十一月五日南海道大地震大津浪の時、遠方の空が火の燃えるように見えたが、その方向は津浪に襲われた海岸の方向であったと記している人がある(大屋祐義日記)。
同じ地震津浪の時、紀伊田辺附近で観察した人によると、海上に火柱が立つと、たちまち津浪が寄せて来た。また鹿島の山から火の玉が飛び出して、終夜海上に浮かんでいた。火の玉の大きさは遠くから見て、鞠まりほどであった(嘉永七年甲寅地震海翻之記)。
西南の沖で大砲のような音が続けざまに聞こえ北から南へ火柱が移動して来るので、てっきり津浪と思い、子供達をさきに逃がし、自分は後から避難したが、途中まで行って振り返ると、自分の家のあたりは海になっていた(紀州日方町大地震津浪の記)。
同じような記録は、土佐にもあるが、大した違いもないのではぶくことにする。  
   海上一面白色に輝く(明治二十九年三陸津浪)
明治二十九年六月十五日の三陸津浪は、この現象に関する有益な資料を少なからず供給してくれた。
岩手県九戸くのへ郡野田村駐在所の遊佐巡査は、津浪の当夜駐在所をへだたる約十町の地点まで来かかると、海上に異常な鳴動が聞こえたので、怪しみながら歩き続けている中、大浪が襲来した。この時数十の提灯ほどの怪火が民家のあるあたりから背後の山にかけて現れたので、狐か狸のいたずらだろうと思っていると、家屋の倒壊する音がすさまじく、救いを求める声が此処ここ彼処かしこに聞こえるので、さては津浪かと村に入って見ると、部落はほとんど全滅、巡査の妻と二人の愛児は共に無残の最期を遂げていた。後で調べて見ると、怪火の見えた所は浪で洗われたところと一致していた(風俗画報、岩手県沿岸大海嘯取調書)。
小友村の黄川英次と言う人は、清水峠にさしかかった時、遥か遠方に鳴動を聞き、夕立が来るのかと思いつつ峠を越すと、轟然一発大砲の如き音響と同時に、一面の海上煌々と白色に輝き、あたかも雪山が崩れ落ちるようであったので、始めて津浪だと気がついた(風俗画報)。
青森県上北部三川目の故老の話によると、釣りランプが長く揺れてから、三十分くらいたって堀に海水が流れ込んで来た。それから十分ほどたつと二回の浪が来て、邸内にイワシの滓が海水と共に流れ込んで来た。それから約二十五分後に、見上げるような大浪が押し寄せたが、浪頭の飛沫がものすごく輝き、その夜は霧深く暗かったにもかかわらず、逃げ登る足元が見えるぐらい明るくなった(三陸沖強震及津浪報告)。
明治二十九年三陸津浪の光については、以上の外にも資料はあるが、余り長くなるからこの辺で打ち切って、次に移ることにしよう。  
   津浪の発光解明に三陸海岸へ
昭和八年三月三日午前二時三十分ごろ、三陸地方はまたもや大津浪の襲おそうところとなった。この時にも発光が観察されたと言う情報が相次いで筆者のもとに送られて来た。ある日筆者は地震研究所長石本博士からすぐ来きたれと言う電報を受け取った。早速罷まかり出ると、千載一遇の機会だからすぐ現地へ行って発光現象を徹底的に調査して貰いたいと言うご沙汰。わずか二年ばかりの間に、大分ご時勢が変わったものだわいと、腹の中では思ったが、もちろんそんな事は顔には出さない。有難くお受けをして、勇躍出発したが、北上山地を越えた時の寒さ、あるいは大吹雪に遭い、あるいは共産党員と間違えられて(人相のよろしくないせいであろうが)刑事に尾行されたり、辛い事やいやな事もあったが、とにかく出張費が底をつくまで根気よく歩き廻って調べ上げた。
発光は三陸海岸地帯の各地で見られたのだが、その中でも最も強烈な光が観察されたのは釜石の附近らしかった。そこで一つの部落を訪ねるごとに光の見えた方向を指示してもらって、それを地図に記入して行くと、多くの線が釜石湾口あたりで交叉こうさする。これで大体の見当はついたものの、まだ真に眼の前でその光を見た人には出会っていない。これを探すのがまた一苦労だった。とうとうポンポン船に乗って、釜石湾から外洋に突出している御崎半島の白浜しらはまという部落へ出かけた。ポンポン船は陸に横づけにはならない。一同海の中を平気でザブザブ歩いて行く。筆者がためらっていると、一人の土地の人が背中を向けておぶって上げましょうと言う。好意を感謝しておぶってもらったが、四十男がおんぶした格好は余りよいものではない。
分教場の校長さんが、津浪の時光を見たものは出て来いと命令を下すと、現れたのは五十がらみの婦人だった。どの辺で光ったかと尋ねると、あそこだと指す所は正に釜石湾口だ。あそこに火柱が立ったと言うので、手真似でその模様をやって見せてくれないかと言うと、両手を差し上げ、こんな風にモヤーッと光ったのだと言う。こう言うわけでやっとのことで発光地点を確かめることが出来た。帰途は陸路を選んだ。平田へいたと言う部落で、ちょうど釜石湾口を真正面に望む家があったので、早速来意を告げて聞いて見たが、前記のオバサンの話と少しも違わぬ。地震の後に唐丹とうにの方向でドンという音がした。それとほとんど同時に湾口の所に強烈な光を認めたと言うのである。発光地点を確認したのがうれしくて、その日は宿屋の女中にまんじゅうをおごった。しみったれているようだが、何しろ大津浪直後のことだ、まんじゅうのほかには何も買ってやる物がなかったのである。
釜石にいる間におかしな経験をした。筆者が三陸地方へ出張すると聞いて、友人のSと言う男が、釜石に自分の伯父がいるから、立ち寄ったら便宜をはかってくれるだろうと言って紹介状をくれた。釜石に着いた翌朝行って見ると、家はすぐわかったが戸があかぬ。見ると堂々たる構えである。通行人を呼び止めてこの家は何だいときくと、女郎屋だと言う。なるほど早朝に行っては戸がしまっているはずである。Sの奴いやな家を紹介したとは思ったが、午後になって再び訪ねて見た。入口に「T楼」と大きく染め出したのれんが下がっている。気まりが悪かったが、あたりを見廻してからのれんをくぐって入ると、よい鴨でも舞い込んだと思ったのであろう、しどけないなりをした接客婦がゾロゾロ出て来たのには大いに面食らった。結局T楼主人からは何の得るところもなかった。
余談が長くなった。本論に入ろう。  
   又もや三陸津浪の発光
昭和八年の三陸津浪の発光に関する各地からの報告はおびただしい数にのぼる。その上中央気象台の報告の中にも少なからぬ情報が掲かかげてある。それらの資料の全部を、ここに掲載することは不可能であり、また必要もない。
それらの報告に記載してあるところは種々様々であるが、大体次の八種類に分けられるようである。(一)浪頭がボーッと光った。(二)海面が一帯にピカピカ光った。(三)津浪が海岸に打ち当たった時岸の部分が青く光った。(四)津浪の襲来に先立って海水が退いた時海底が青く光った。(五)流星のような光。(六)円い光り物が浪と共に進んで来た。(七)海面に近い空中に現れた光り物。(八)海中から放射した強烈な光。
浪頭がボーッと光ったという報告は数カ所から送附された。たとえば船越村では「浪頭が白く直線になっていた」、また越喜来おつきらい村で高地から津浪の進行を観察した人は、「浪頭が幅四米くらいの帯状をなして真白に光っていた」と言う。
安あん渡の海苔場へ手伝いに行っていた織笠村の人の話によると、地震を感じて後海岸で海を眺めていると、海面が一体にピカピカ光った。それは夜行虫の光とも違うようであった。その状況を見たある老人は、「津浪が来る」と言って自宅へ飛び込んだが、それからすぐに浪が来たと言う。同様の現象は、越喜来村の先浜でも観察されたと言うことである。
釜石湾口の白浜部落で、当時七十七歳の老漁夫にあって話を聞いた。彼は明治二十九年の津浪の時にも浪にさらわれて九死に一生を得たが、昭和八年の津浪にまたもや幼い孫を抱いたまま浪に呑まれ岩礁の上に打ち上げられていたのを救われたのだそうである。彼が海上を漂っていた時岸の方を見ると、岸の部分の海水は煮え返るように見え、また青く光っていたと言う。
釜石水上警察の小野巡査は、地震の約三十分後に海水が退き始め、見る見る中に百メートルくらい退いたが、その時海底の泥の中から、水と共に青い光の噴出するのを観察した。
流星のような光を見たと言う報告をしたのは、大沢小学校の訓導で、地震の後、南方大島の上に生じている樹木の少し上の所に、流星のような光が斜めに飛ぶのを見たと言うのである。
釜石町長小野寺有一氏は、町の背後の山の中腹に避難して、海面を見ていると、浪(多分二回目の浪だろうとのこと)が湾口に近い中根燈台の辺りから、湾の中央部に進んで来る間、浪頭のすぐ下の所に、大きさ菅笠かたらいほどの円形の光り物が三つばかり横に並んで、進んで来るのを見た。色は青味がかった紫色であった。その光がサーチライトのように四辺を照らし、浪頭の折れ返るのや、船の破片などが浪に翻弄されるのがありあり見えた。浪が湾の中央部より奥へ進行すると、浪そのものがグジャグジャになって、光り物も見えなくなった。この光り物を、山上に避難していた多くの人々も見たそうである。
釜石水産試験場の小林忠次氏も、この光り物を見た一人だが、小野寺町長の話とは少し違う。小林氏によると、津浪が湾内に侵入して来た時、浪頭が一直線に黒く見え、浪頭の直ぐ上の所に、数個の円い光り物が、同じくらいの間隔をおいて並び、浪の進退と共に光り物も猛烈な勢いで進退した。その中に光り物は一つ消え二つ消えして、全部見えなくなった。色は提灯の光のようであった。
釜石水上警察の小野巡査はまた次のように語った。「私は地震の後町の人々に海岸で焚火をして警戒するように命じました。寒いのでそのあたりにいた人々はみな焚火のまわりへ集まって来ました。地震があってから三十分ばかりすると、海水が退き始めたので、それ津浪だと二町ばかり山手の方へ逃げて、後を振り向いて見ると、湾口の方で探照燈のように光るのが見えました。そうしている中に、津浪が湾内へ侵入してきましたが、その浪頭の上に、青い明るい玉が数個並んで光っていました。その時足のところまで水が来ました。」
右の三人は同一の現象を観察したことは確実と考えられるが、三人の言うところに、わずかながら一致しない点がある。一人は浪の中と言い、二人は浪頭の上だろうと言う。色についても甲は青紫色、乙は提灯の光に似ていたと言い、丙は青かったと言う。とっさの間に観察が如何に困難なものであるかが、これでもわかるように思われる。
右の光り物の類例が気仙町から報告された。津浪は真黒に見え、「メロメロ」と陸にのし上がったが、陸上に上がった海水の中に、直径五寸ないし一尺くらいの、夜光虫のような青い光が、所々に認められたと言うのである。
この光り物は実に不思議な現象であって、もしこれを報告した人が単数であったとしたら、誰もこれを信用しなかったであろう。しかし何人もの人が、多少のくい違いはあるにせよ、この現象を観察しているからには、これを幻覚とみなすわけには行かない。
またこの光り物と全く同じ現象が、前に記した如く、宝永四年の大地震大津浪の時に、紀伊の海岸で観察されていることは、この光り物が幻覚でも虚偽でもないことの、一つの証拠として役立つであろう。昔の人と現代の人が、申し合わせたような嘘をつくはずがない。
不可思議な現象のもう一つの例は、次に記すところのものである。この事を話してくれたのは、漁船幸栄丸乗組の原田鶴松と言う漁夫であった。彼の言葉は純粋の岩手弁で、筆者にはほとんど一語も通じない。やむを得ず仲間の漁夫に通訳を頼んで、ようやくノートを取ることが出来た始末であった。
漁夫原田の語るところによると、彼は三月三日(津浪のあった日)午前零時ごろ釜石を出港三貫島北東四海里位の海上で、タラの延縄漁を行うために縄を下ろし、下ろし終わって船を縄の真中まで戻した時、船の前面、白崎の方向に、大きな火の玉が出現した。火の玉の大きさは満月くらい、高さは海面から二、三十尺、ちょうど汽船のトップ・ランプの高さだった。てっきり、トロール船が来たのだと思い、面舵おもかじをとったり、取舵をとったりしたが、先方では一向避ける様子がない。ままよと火の玉めがけて船を進めると、火の玉は次第に小さくなり、ついに消滅した。火の玉の色は炭火に似て、やや淡かった。当時空は晴れていた。火の玉は何の音も立てず、また他の異常現象をともなわなかった。そして火の玉が消滅するとほとんど同時に、釜石の火事が見えたと言うのである。右の話は通訳をしてくれた漁夫が、再三再四聞き返した結果だから観察者の言うところを誤り伝えてはいないと思われる。
海中から放射した光は、最も多くの人々によって観察され、従ってこの種類の報告は数が最も多かった。代表的なものを二、三挙げてみる。
宮古の北方に位する田老たろう村は、昭和八年の津浪の時、非常な損害をこうむった所であるが、津浪のあった夜、この村の沖で漁をしていた漁夫によると、海鳴りが聞こえ、サメ縄がパタパタ鳴り、そして南方の沖が夜明けのように明るくなったという(大沢小学校にて聴取)。
船越村は釜石の北方約二十キロの地峡部にある村である。この村の小学校長鈴木忠二郎氏の話によると、地震の後約二十分位たって、同地から東南に当たって、青白い光がパーパーパーと三回続けて、天空に放射された。物凄いものであった。その少し右に、釜石の火事が見えた。
大槌実科女学校長鈴木兼三氏は次のような報告を筆者に送って下さった。光を見たのは津浪襲来の直前である。方向は大槌より南少しく東寄り、釜石沖の方向。光り具合は放射状と言うものと探照燈の光芒のようだと言う人がある。色は黄又は赤味を帯びた青色で、瞬間的な光であった。
鵜住居うのすまい村白浜分教場の宮館金見氏によると、津浪の襲来と同時に、南方の山の彼方に、スパークのような淡青色の光が見えた。電光の如き鋭い閃光ではなかった。一回だけでなく度々光った。ある人は水産指導船岩手丸の探照燈だと言ったが、自分が見たところでは光芒ではなかった。釜石鉱業所のベンブールが爆発したのではないかと思った。
両石りょういしの小島菊松氏は次のように語った。地震があってから二十分ぐらいたって、ドンという大きな音がした。それと同時に一面に青白く光り、人の顔まで見えた。村の人は電光と間違えたが、雷鳴は聞こえなかった。それから十分ほどたって、平常の満潮のところまで潮が上げて、ついで急に退き出した。
鵜住居小学校の小松訓導の報告には、次のように書いてある。
「私は鵜住居村両石部落のものですが、三日の午前二時三十分ごろのあの大地震と共に、海岸に出て警戒致しました。私の部落では、明治二十九年の津浪で約九百五十人の中七百五十人の死者を出し、下閉伊郡の田老村気仙郡の唐丹とうに村と共に、惨禍の大関だったので、地震があれば、夜昼問わず警戒をする慣習になっております。三日の夜も同様四、五十名のものが、海岸で焚火をして警戒していました。三十分もたったと思うころ、沖が鳴りました。ちょうど大砲のような音で、少し余韻をともなっていました。驚いて沖を見ると、真東の方が一面明るくなっています。非常に強烈とは言われませんが、淡緑色で、軍艦の探照燈を幾つも集めたような光景でした。集まっていた人々は、あるものは津浪が来ると言い、あるものは雷だと言います(沖に出ていると、雷雨模様の時には、折々強い光を見ます。これを当地方では「ホデリ」と言います)。この時もホデリがしたのだと主張して譲らない人があったのです。なぜこんな議論になったかと言うと、明治二十九年の津浪の時にはもっと大きな音がしたと言うのです。そこで遠雷説の方が優勢になって来ました。その中に潮がさして来て、陸に引き上げてあった船が飛び上がる様子なので、何だか変だと言い合っている中に、急に潮が退き出したので、そら津浪だと、一同家に飛び込み、全員避難致しました。私も家族と裏の山に駆け登った時、天地も砕けよとばかり狂濤が押し寄せて来ました。」
釜石夜間中学校の報告によると、地震の二十分ぐらい後に、湾口から光を発し海岸の山々に反映した。探照燈をめぐらす如く移動し、連続して発光した。電光に似て青かった。大漏電かとも思われ、また海上の大船が避難を援助するために探照燈を照射するのかとも思った。
釜石鉱山郵便局長の観察したところでは、午前二時五十分ごろの第二回の強震から約六分を経て、真東に光を見た。光るたびごとに発光地点が南に移動した。その直後海水の退く音が聞こえた。光は探照燈より強く、電光よりやわらか味があった。
釜石町の通称「アメリカ徳」と言う人はこう語った。はじめ嬉石うれいしと松原の間で光り、その後強烈な光が出た。女、子どもはそれを見て震え上がった。その光が消えると同時に第一の浪が山際に着いた。
前に一度触れたことのある、釜石湾口白浜部落の佐々木はるのという婦人の話によると、地震があってから、湾口の所がいっぱいにモヤーッと青赤く光った。それからまた地震があった。すると白浪がまくれて来て、その後ろから高い真黒な浪が進んで来た。光った所は馬田岬と鐙岬の中間である。
平田へいた部落の岡田留七という人の語るところはこうである。地震の後でドンという音がした。それから三分か五分すると、サワサワという音がした。それから一、二分の後、自分の兄が戸を叩いた。兄は明治二十九年の津浪の時には錨を入れてある船は流失をまぬがれたので、念のため錨を入れておこうと海岸に出て、綱をほどいていると、潮が引き出した。錨を投げ込んだ時分には退潮が烈しくなったので、津浪が来るのではないかと思ったが、みだりに騒ぎ立てて万一津浪が来なかった場合には、村の人々から非難されるであろうと、決心しかねて自分の家を叩き起こしたのであった。その時電燈が消え、馬田岬の右の所から光を発した。下の方からピカーッと光った。非常に強い光で、何回も光ったようだった。そこで自分は逃げた。村の人たちも「オカタがさきになったりワラシが後になったりして」逃げた。三町ほど逃げた時、岸へ浪が来た。音のしたのも馬田岬の方であった(註、オカタは女房、ワラシは子どものこと)。
大船渡おおふなと小学校長鈴木与吉氏は、左記の報告を筆者に寄せた。時刻は午前二時五十五分から三時までの間で、北方の山の端が光った。最初は電光かと思ったが淡く空をぼかしたようで、瞬間的ではあるが、電光ほど速やかではなかった。色も電光にくらべるとやや赤味を帯びていたようである。
大槌町の漁船海運丸は、広田湾と唐桑の境をへだてる二百メートルの海上で、金華山沖の方向に、探照燈のような光を三回目撃したが、昼間のように明るくなった。  
   強烈な津浪の光
資料全部をあげることが出来ないので、多少不徹底なうらみはあるが、ここにあげただけの資料によって、海中から射出した光の少なくとも輪郭はつかむことが出来るであろう。
資料全部の記載を綜合すると、この種類の発光は、三陸地方沿岸の各地で観察された。その中で最も顕著な発光の観察をされたのは、釜石湾口であった。光の色は青みがかっていたというのが真実であろう。光度がきわめて強烈であったことは、釜石町で女子どもが震え上がったといい、また宮城県の小鯖では、多数の人々が海中に流され、救助を求めていた時、突然海が一面、サーチライトで照射した如く明るくなったので、救出にきわめて便利であったと言う事実によって想像される。この光は一地点から続けて何回も放射されたようである。  
   津浪の発光の原因
津浪の発光の資料はおびただしく集められた。しかしそれ等の資料に基づいて発光の原因を明らかにすることは、実に困難な仕事である。第一、大多数は瞬間的の現象であって、研究の基礎となるべきものは何一つ残っていない。のみならず、観察者の報告は、とっさの間の観察だから誤謬が含まれている事を期待しなければならぬ。従ってこの現象の原因は、現在のところ多分こうであろうという推測の範囲を出ないのは、止むを得ないことである。
筆者はさきに昭和八年三陸津浪の発光を八種に分類した。その中、(一)浪頭がボーッと光った、(二)海面が一帯にピカピカ光った、(三)津浪が海岸に打ち当たった時岸の部分が青く光った、(四)津浪の寄せて来る前に海水が退いた時、海底が青く光った、この四つの場合は、発光生物が、海水の動揺に刺激されて光を発したものと推定して誤らないであろう。発光生物専攻の神田左京氏も、多分夜光虫の発光であろうと、筆者の推定に裏書きして下さった。
(五)流星のような光、これは「流星のような」でなくて、実際に流星だったかも知れない。津浪の夜、流星を見たと言う報告が二、三ある。
(六)円い光り物が浪と共に進んで来たと言うのはきわめて奇怪な現象であって、幻覚と考える人もあるかも知れないが、少なくとも三人の目撃者があり、その中には知識階級の人も含まれていることであり、宝永の津浪の時の記録にも、全く同じ現象が記されてあるから、幻覚でないことは確実である。
円い光り物が浪の上にのっていたか、浪の中にあったのか、目撃者の言いぶんが一致していないが、常識的に考えて、浪の中にあったのであろうと思われる。もしこの推測の通りであったとすれば、これもまた発光生物の発光と考えられないことはない。目撃者は数個の円い光り物が横に並んでいたという。その一つ一つの円い光り物は、発光生物の集団の放った光であったろうと想像される。
その光が円形に見える生物に海螢がある。体長わずか一分ぐらいの甲殻類であるが、ボーッと光ってスーッと消えるところは、ちょうど満月を海中に沈めて、それを明滅させるようである。海螢の光で明るくなる面積は、夜光虫にくらべれば遥かに大きいが、まさか菅笠や盥ほど大きくはない。のみならず海螢の光は静かに明滅するが、釜石湾で観察された光り物は明滅しなかったようである。
明治二十九年の三陸津浪の時、岩手県九戸郡野田村で、遊佐巡査によって観察された、数十個の提灯ほどの「怪火」のことは前に記載した。後になって調べて見ると、「怪火」の見えた所は津浪で洗い去られた部分だけで、「怪火」の見えなかった高地の家は別条なかったそうである。遊佐巡査のこの調査は、この「怪火」の正体を明らかにする上に、きわめて重要である。もし遊佐巡査の観察と調査が誤っていないとすれば、それらの提灯ほどの「怪火」は、陸上にのし上がった津浪の中での発光とみなされねばならない。そうすると、これ等の「怪火」は釜石湾で津浪と共に進行して来たと言われる円形の光り物と、全く同じ性質の現象と考えられ、すなわち発光生物の集団の発光と考えられるのである。
ここで一つ問題になるのは、発光生物――といっても種類が多いが――が、なんらかの刺激を受けた場合、何千何万の個体が、たちまち密集して一塊になる性質があるかどうかと言うことである。この事は、将来観察又は実験によって証明される見込みがないでもない、いや必ずあるだろう。
右に記載した光り物の類例が、宮城県桃生郡前谷地村の鈴木喜代治氏から報告された。その報告には左のように書いてある。
「午前二時ごろでありました。私にはいまだかつて覚えざるほどの強震が起こりましたので、目を覚まし、ある場合にそなえるため、逃げ道を開き置く必要ありと思いまして、起き上がり戸を開いて外を見ました。私は地震に対する恐怖よりも、むしろ次の怪しげなる光景を物凄く感じました。私の家は石巻港をへだたる北々西約四里をへだてたる所にありますが、石巻方面を中心として、東は本吉郡沖合、西は松島湾方面一帯にわたる海上に、あたかも大漏電の如き光色を呈する数十の発光体が盛んに現滅しておりました。一光体の発光時間は一秒ないし二秒くらいと覚えました。その発光体の現出の多少が、地震の強弱に比例し、やがて地震が終わると同時にこの発光現象も止みました。発光体には大小はありましたが、距離の測定が出来ませんので、従ってその大きさについては、お話し致しかねますが、光力は相当強く、当地においてすら事物の見分けがつくほどでございました。」
鈴木氏の報告は、津浪の約三十分前の地震の最中に目撃した発光であるが、この現象も、釜石湾で観察された円い光り物、野田村で観察された提灯ほどの「怪火」と同じく、海水の異常な動揺によって刺激を受けた、発光生物の密集群の発した光と推定して誤らないであろう。
地震研究所彙報に発表した昭和八年三陸津浪の発光に関する報文の別刷を鈴木氏に送附したら、折り返し鈴木氏から手紙が来た。それには、あの現象は夜光虫の光などとは比較にならぬ。実況を見ないで軽率な結論をするのはけしからんと言う意味のお叱りの文句が書いてあった。しかし筆者は今なお自分の推定が誤っているとは思わない。「発光体の現出の多少が地震の強弱に比例し、やがて地震が終わるのと同時に、この現象も止みました」という記載は、発光生物の発光であったことを暗示するようである。また光度については、発光生物の一個体の発する光と大集団の発する光とは、量において比較にならないことは当然である。当時その地方におびただしく出現していた発光生物は、夜光虫であったかそれとも他のプランクトンであったか、今日これを知る術がないが、地震の発する前に、底着性プランクトンの大群が、表層に浮かび上がったと推定される事実が、末広博士によって発見されているから、あるいは非常に強烈な光を発する種類のプランクトンがおびただしく表層に浮かんでいたかも知れない。鈴木氏が観察した光の現れた海で取れたイワシが、泥を呑んでいたと言うことは前に書いておいたが、この事実、すなわちイワシの消化管の中から平素と異なる食物が発見されたと言う事実は、あるいは底着性プランクトンの浮かび上がりを示すものではないかと想像される。とにかく、光度がきわめて強大であったという事実に基づいて、発光生物説を否定することは出来ないとい思うのである。
(七)海面に近い空中に現れた光り物は、筆者のために通訳の労をとってくれた漁夫が、本人からくわしく聞いてくれたのだから、目撃者の語るような光り物が出現したことは、信用してよいと思われる。しかしこの光り物が津浪と関係があったとは考えられない。
このような光り物が海上で観察されることは必ずしもまれではないようである。水産講習所技師小瀬二郎氏は、次のような経験をしたそうである。「明治三十六、七年ごろのことであった。館山からボートに乗って、三崎へ餌を買いに行った途中のことである。十一月ごろでシケの後であった。ガスのある晩だったが、城ヶ島沖から東京湾に向かう大船の舷燈かと思われる赤い光が見えた。その光は異常に大きく、直径一尺ほどもあるようだった。その光が急速度で我々のボートに接近し、まさに衝突するばかりになって消失した。」(気象雑纂)
水産講習所の鎌田技師も海上で不可思議な光り物を観察したことがある。「明治三十八年十一月頃、場所は熊野から三十浬ほどの沖であった。ちょうどシケの最中で、快鷹丸は航海力を失って漂流していた。従って小汽船の出られる日ではなかった。その時風上から赤いぼんやりした赤い光り物が急速度で接近して来て、光が強くなると急に消失する。このようなことを三回繰り返した。最初の光り物が現れた時、水夫が驚怖して報告したから、一同甲板に出て観察した。」(前掲)
藤原咲平博士によると、上記の現象は、一種の蜃気楼的現象だろうという。
須川邦彦氏も、同じような光り物を数回目撃した。大正六年三月、常陸丸で印度洋を航海していた時、ある晩十一時三十分ごろに、前檣の頂きに、直径約一メートルの青白い火の玉が現れた。船がローリングするたびに、火の玉はフラフラ揺れるが、落ちることはなかった。やがて次第に小さくなって消えてしまった(須川氏より聴取、以下同じ)。
大正十一年二月のある夜、北緯十度四十八分、東経五十九度二十七分の印度洋上で、またも火の玉が檣頭に現れた。
明治三十七年六月二十日ごろの夜半、機雷敷設船台北丸の檣の上に、同じような火の玉が現れた。時あたかも日露戦争の最中で、その月の十三日には機雷が破裂して二十一人の死者を生じた直後だから水平達は惨死者の亡霊だと思って恐怖した。須川氏によれば、これらの火の玉はセントエルモの火だと言う。
須川氏はまた明治三十九年日本海において、一種の不可思議な光を見た。敦賀からウラジオストックに向かって航海中、深夜一つの火の玉が、正面から右手四十五度乃至五十度の方向に現れた。その火の玉は非常な速力で、正面から左手五十度くらいの所まで移動して消失した。その火の玉はスーッと飛んだのではなく、消えた瞬間に旧位置の少しさきに現れ、それが消えると、またそのさきに現れるというふうであった。当時北寄りの風がかなり強く吹いていた。最初は漁船の燈光かと思ったが、漁船や鳥にしては余り速度がはや過ぎた。この怪光の正体は今もってわからない。
丸川久俊氏によると、航海者は往々幽霊船に遭遇することがあるという。汽船が夜間航海する時には、左舷に紅、右舷に青のサイドランプをつけるのが規則であるが、幽霊船に出会った海員の話では、幽霊船のサイドランプは、赤と青が反対になっていると言う。それに気づかず、コースを右に転じて衝突を避けようとしたために、かえって岩礁に乗りあげ、沈没した例があるそうである(海をひらく)。
いわゆる幽霊船なるものは霧に投影された自分の乗っている船の姿ではあるまいか。サイドランプの色が逆になっているのは多分そのためであろう。日露戦争の最中に、ある日本の哨艦が、朝霧の中から一大軍艦が姿を現したので、一同部署について戦闘準備を整えたが、間もなくそれは霧にうつった自分の艦だということが判明したそうである。
上記の如く、海上で観察される火の玉には、色々な場合があるようである。藤原博士の言われる如く蜃気楼的現象の場合も、須川氏の語る如くセントエルモ火の場合も、汽船のトップランプもしくはサイドランプの霧に投影される場合もあり、なおそのほかに未知の場合もないとは言われぬ。ともかく昭和八年三陸津浪の時、釜石港外三貫島沖で観察された火の玉は、津浪とは関係のない現象であろう。最後に安政元年南海道大地震にともなった津浪の場合に、紀州田辺附近の山から火の玉が飛び出して、終夜海上に静止していたという記載が、右の火の玉と幾分類似していることを附記して置く。
(八)海上から放射した強烈な光、これは津浪の発光の中で最も多く人々によって観察され、そしてまた最も重要なものであろう。
この種類の発光もまた発光生物による光と考えられる。
発光性プランクトンの中には、きわめて強い光を発する種類がある。その最もいちじるしい例は「オホーツク海の怪光」と呼ばれていた現象である。発見された当時は、正体が不明だったので、怪光と称せられたのである。このいわゆる怪光は水産講習所の練習船雲鷹丸の乗組員によって発見されたもので、丸川久俊氏によると、この光の中に船を乗り入れた時は、八十尺のマストの頂部までその光が反映し、甲板上で新聞が読める程度に明るかったと言う。丸川氏は検鏡の結果、その光はメトリヂア・ロンガと言う橈脚とうきゃく類が、魚群に刺激されて発する光であることを明らかにした。このようなプランクトンによる強烈な発光は、北の海に限って見られるものではなく、日本海でも観察されたことがある。
熊田頭四郎氏が大正四年五月六日、山口県川尻御崎の北方十五浬の地点で観察した発光は、これまたすばらしいものであった。
「わが船はサバ漁の目的で前記の地点に夕方到着した。午後七時、長さ一千メートルの流網はキャンバス・ポラッド及び浮樽二十一個と浮燈三個を海面に留めて、一文字に投ぜられた。…午後十時には海面全く死したる如く、網具のすれる音さえなかった。船首に立って網を見張っている際にはるか東北方に当たって、荘厳なる光の一群を海面に認めた。……遠くこれを望む時は、水平に投射されたサーチライトを遠方から見るようで、しかも柔らかみを持っていた。光芒群は刻々に移動して、ついに網の半部をかすめたと見る間に、光は十数個の煌々たる青白い火柱になった。……最初のこの光群は幅五百メートル、長さ六、七百メートルほどであったと思われる。須臾しゅゆにして第二回の光群が襲来した。その進行方向は確かに本船に向かっていた。遂に光群の三分の一の部分で本船に衝突した。壮絶快絶、船はアーク灯下に照らされるようで、船首、手綱、舷側等は、特に一種名状することの出来ない強い凄い青光を放った。……翌日未明網を揚げて沿岸に走った。採集した材料を昨夜のものと比較して、全く同一種類であることを知った。検鏡の結果、ピロシスチス・シュウドノクチルカのみであることを知った。」
右の二つの例によって、特殊な事情のもとにおいては、顕微鏡的の微生物であるプランクトンが、非常に強烈な光を発することが知られる。遺憾ながら、昭和八年三陸津浪の場合には、津浪襲来直前における三陸沿岸水域のプランクトンの種類とその密度についての資料が全くないのである。従って発光の原因を直ちにプランクトンに帰することは、早計のそしりを免れないであろう。しかしその光が海中から発したことは確実であり、また一方に、寺田寅彦博士の指摘された如く、電光でもなく、いわんや送電線のショートや山崩れの発光でもなく、地下の割れ目の発生による放電や、地下水の移動による電位差に起因する空中放電とも考えられないとすれば、残る一つの可能性は、発光性プランクトン群が、津浪による海水の擾乱のために刺激されて、一斉に発光したということである。
少なくとも釜石の場合には、津浪が湾口に到達した時に、光が放射されたことは疑う余地がない。従って、発光を見て直ちに高地に避難すれば、津浪に流される心配はないはずである。災害防止の方面からも、この現象は閑却すべきでないと思うのである。  
第二部 地震雑筆  

 

一 地震を予知する南米の原住民
   ドイツ人技師の体験
日独協会の機関紙「ヤマト」の一九三一年第六冊に、カルル・ヘーネルという鉱山技師が面白い話を書いている。南アメリカのアンデス高原の鉱山で坑夫をしているクロインディアンは三十分ないし四十五分前に地震を予知して、坑内から逃げ出すというのである。またコルディエラ地方で生活をしているケチナ族も、同様に地震を予知して生命の安全をはかるという。
ヘーネルの記す所によると、地震の起こる前にまず空中に一種独特のキラキラする光が現れ、閃光を発する。極光に似た淡い黄緑色の光が、太陽を薄霧のようにおおい、まるで太陽が薄絹で包まれたように見える。それについで気温がいちじるしくくだり、呼吸が減じる。またこの山地に来てまもない人々やヨーロッパ人が悩まされる鼻血、頭痛、吐気はきけは怱ち拭いてとったように消失し、心臓や肺も静穏になる。それにもかかわらず、何となく気分が悪い。このような徴候が現れると、坑内で働いている原住民は、たちまちそれと気づいて「テレモト! テレモト! (地震、地震)」と叫びつつ坑外へ走り出る。坑外へのがれるのに十分とはかからない。すると必ず三十分から四十五分の後に、地震が起こる、と言うのである。
ヘーネルは、ボリビヤとペルーの高原で、このような現象を、六年間に八回経験したと言う。その中最初の経験は、一九〇六年四月二十六日、チリのヴァルパライソ市を破壊し二万人以上の死者を生じた大地震の時だった。一九三一年一月十四日のメキシコの大地震の前にも、コルディエラ山地で観察される現象と全く同じ現象を認めた。ヨーロッパへ帰った後も、一九三一年六月十九日に、イングランドで、同じような黄緑色の光、磁針の偏向、寒波の現象が、地震の数時間前に観察された。とヘーネルは記している。
地震に先立って現れる特殊な大気中の現象について、ヘーネルの記しているところは、大体右の通りである。右の特殊な現象が実際地震と関係があるかどうか、また地震と関係があるとすれば、どんな機構でこの現象が現れるか、これは現在のところだれにも説明は出来ないであろう。  
   「地気」の上昇で地震を予知した話
日本にも大気中の現象によって地震を予知したという話、特に坑夫が地震を予知して、坑内からのがれたという話がある。真偽は保証出来ないが、南アメリカ原住民の地震予知とかなりよく似ている点が面白い。
「地震考」と言う古い本に、老朽な百姓は畑を耕す時、煙のようなものが地面から出るのを見て、まもなく地震のあることがわかる、また雲の近くなるのは地震の前徴で、これは雲ではなく「地気」がのぼるのだと書いてある。この「地気」とはいかなるものか、「和漢三才図会」や西川如見の「怪異弁断」などにも出ていない。
寛文二年(西暦一六六二)五月一日近畿地方大地震の日には、朝から空が「もうもう」としていたと当時の記録に書いてある。これも「地震考」の筆法でいうと「地気」がのぼったのであろう。
享和二年(西暦一八〇二)十一月十五日佐渡大地震の日に、広島某という人が、小木おぎの町で天候を見るため、船頭と共に丘に登った。その時船頭の言うに、今日の天気は実に不思議だ、あたり一面ぼうっとして、雲が山の腰を包み、中腹から上ははっきり見える。雨の前徴とも違い、風の前徴でもない。今までこんな天気模様を見た覚えがない。広島氏がいうに、これは「地気」がのぼるためで、大地震の前徴だ、こうしては居られないと、支度もそこそこに出立したが、果たして四里ばかり歩くと大地震にあったと、これも前記の「地震考」に書いてある。  
   佐渡金山の坑夫が地震を予知した話
前記の広島氏が、地震後に佐渡の金山きんざんをおとずれ、先日の大地震の時には、さだめし坑内で怪我人も出たであろうと尋ねると、この土地では、地震は前もってわかる、先日の大地震も三日前からわかったので、誰も坑内に入るものはなく、従って怪我人も出なかったと言う。
それでは地震の前にどんな徴候が現れるのかと重ねてたずねると、地震の起こる前には坑内に「地気」が立ちのぼって、近くにいる人々も互いに腰から上はかすんで見えないものだ、と答えたそうである。この話も「地震考」にのっている。  
   星が低く見え冬暖かな年は大地震があると言う話
これは安政二年の江戸大地震の時のことである。ある旗本の門番が、夕方天を仰いでいたが、やがて家へ駈け込んで来て、今夜は必ず大地震があるとて、急いで飯をたき、用意万端整えて待っていると、果たして大地震が起こった。主人が後でその理由を尋ねると、答えて言うには、私は文政十一年(西暦一八二八)に越後三条で大地震にあい、信州で弘化四年(西暦一八四七)の大地震を経験した。三条にいた時、ある物知りから聞いた所では、大地震の前には天がどんより曇って近く見え、星が平素の倍も光り、暖かいものである。それを聞いてから毎晩空を仰いで注意しているが、弘化四年の大地震の前夜には、星の光が大きく見え、スバル星の中の小さい星までよく見えた。しかるにこの一両日この方、空模様が常と異なり、弘化の地震前の状況に似ているので、大地震の前徴だろうと考えたのであると答えたという話がある。
元禄十六年(西暦一七〇三)の関東大地震の前に、天野弥五左衛門という老人が、星が低く見え冬暖かな年は大地震があると言って、家屋を補強したという話もある。
前記のヘーネルは、地震の起こる前に太陽が薄絹でおおわれたように見えると言っているが、同じような例は外にもある。フンボルトは、地震の起こる直前に、赤味がかった霧が現れる、自分もしばしば観察したことがあると言い、また一九〇八年メッシナ大地震の時は、天気模様が甚だ奇怪で、霧が突然メッシナ海峡に立ちこめたといわれている。  
   大気中の現象によって地震予知が出来るか
カルル・ヘーネルの記事とそれと関連した話を右に列挙した。「話」と言ったのはそれらの記載が多少眉唾の気味があるからである。
筆者は大地震に前駆的現象のあることを疑わない。地形変動並びに地下水、地電流、地磁気、土地の傾斜の変化が大地震に先んじて現れることは疑いない。しかし大気中の特殊な現象が地震に先立って現れるということは、我々の現在の知識では考えられないのである。今日でも大気中の特殊な現象によって地震の予知が出来ると称する人があるが、筆者はそれを信ずることが出来ない。念のために附記するがその人は科学者ではない。  
二 地震と「なゐ」  

 

   日本語に地震を表す言葉がない
世界一の地震国である日本に、地震現象を表現する言葉がない、と言ったら多くの人は、そんな馬鹿なことがあるものかと、いきり立つであろう。しかし嘘でも偽りでもない、正真正銘の事実である。中には、たった今貴様が使った「地震」と言う言葉があるではないかと、反駁する人があるかも知れない。こんな事は言うだけ野暮だが、「地震」と言う言葉は、お隣の中国からの借り物で、固有の日本語ではないのである。もし中国の文字や学問が輸入される以前に、日本で使われていた「地震」を意味する言葉があったら、教えて頂きたいものである。
日本には、昔の昔の大昔から、多くの地震が発したに相違ない。また大地震もしばしば起こったに相違ない。日本民族が、最も古い時代から、集団生活を営んでいた北九州、日向、出雲、大和、これらの地方はいずれも有史時代において、少なくとも一度は、大地震のあった土地である。従って上代の日本人は、現在の我々と同様、しばしば大小の地震を経験したはずである。それにもかかわらず、「地震」を意味する言葉がないのは、全くもって不思議千万と言わねばなるまい。  
   「なゐ」の語源
地震の記事が日本の歴史に初めて現れるのは、「日本書紀」の允恭天皇五年(西暦四一六)七月十四日の条で、「五年秋七月丙子朔巳丑地震」と書いてある(丙子朔は七月一日が丙子に当たるという意味、従って巳丑は十四日である)。「日本書紀」では、この「地震」を「ナヰフル」と読ませてある。「ナヰフル」の「フル」が「震う」の意味であることは、言うまでもないが、問題はその上の「ナヰ」である。
この「ナヰ」の意義については、さまざまな解釈が発表されている。「土佐国群書類従」の中に、次の記事が掲げてある。スサノオノミコトが高天原にのぼって行った時、大海がとどろき、山や岡が鳴動したと言う。これは確かに地震である。スサノオノミコトは、平素子どものように泣きわめく癖があったから、地震を「泣きゆり」と言ったのが、転じて「なゐ」となった。これは実に驚くべき珍説で、全く問題にならない。
畑銀鶏の「時雨しぐれの袖」の中に、好徳と言う人の説を紹介しているが、これがまた驚嘆に値する卓説で、「ナヰ」は「なえしびれる」の意味で、大地震の時には、全身が麻痺して立つことが出来なくなるからだというのである。
新井白石の「東雅」には、「ナヰ」は「鳴る」「フル」は「動く」で、すなわち鳴動の義だとある。大槻文彦の「言海」には、白石の説を少し修正して、「鳴り居る」の意かと書いてある。
白石、大槻、この二人の説も筆者は承服しかねる。地震現象の中で最も人の注意をひくのは何と言っても震動であって、鳴動ではない。また鳴動はすべての地震にともなうものではない。他の国の地震を意味する言葉を調べて見ても、たとえば、英語の Earthquake、ドイツ語の Erdbeben、フランス語の Tremblement de terre、イタリー語の Terremoto、中国語の地震及び地動、いずれも地の震動の意味である。日本の「ナヰ」だけが例外とは、どうも合点がゆかないではないか。
国学者の加茂季鷹は「ナヰ」は「ナユリ」のつまったので、「ナ」は「魚」、「ユリ」は「揺り」で、魚が尾鰭を動かすように地面が揺れるからだと言い、また秋山某は、「ナユリ」は「波揺り」の義だろうと言う。いずれも根拠が薄弱である。「ナユリ」が「ナヰ」に転化することは言語学上ありえないそうである。
地震学者の今村明恒博士は、「ナヰ」をアイヌ語で解釈した。今村博士の説によると、アイヌ語の「ナイ」は「平坦な土地」の義で、稚内わっかないはじめじめした平地、シャツナイは乾いた平地、幌内ほろないは広い平地の意味である。このような土地は地震の発現する所であり、また特に強く揺れる所でもある。そこでこの「ナイ」が元になって、地震を「ナヰ」と言うようになった、というのである。
今村博士は、明治二十七年東大を卒業すると同時に、中村清二博士と共に交通極めて不便であった北海道の磁気測量に従事され、その間にアイヌ語を覚えたのだが、「ナヰ」をアイヌ語で解釈するのは無理であろう。第一、アイヌ語の方は「ナイ」で、ここで問題になっているのは「ナヰ」、発音からして違う。失礼な申し分ながら、雉子も鳴かずばの嫌いがないでもない。  
   「なゐ」の語源論に止めを刺した新村博士
「ナヰ」の語源論の中で最もすぐれているのは、新村出しんむらいずる博士の説であろう。その要点を摘記すると、「ナヰ」は地震現象そのものを表すのではなく、「地」又は「地面」と言う意味で、「ナヰフル」で始めて「地面が揺れる」の意味になる。満洲族は土地を「ナ」と言い女真じょしんの言葉でも「ナ」、トゥングース族も大地を「ナ」、樺太のオロッコや黒竜江辺りの住民も土地を「ナ」と言う。朝鮮では「ナラ」と言うが、これは土地よりもむしろある面積をもつ国土又は領土の意味に使われる(奈良も多分この意味であろう)。
次に、「ヰ」は場所そのものの存在を明らかにする場合に使う言葉で、雲を雲井、田を田井、官を官居、本もとをもとゐと言う如く、「ヰ」をそえるのは日本の古語の一つの癖である。
新村博士の説は大体右の通りであるが、おそらくこれは動かしがたいものであろう。
ようやくのことで「ナヰ」の意義が明らかになり、「フル」という動詞がそえてある理由も判明した。上代においては、地震現象を表す名詞がなかったので、「ナヰフル」すなわち「地面が揺れる」と言う子どもじみた表現をしたのである。  
   なぜ日本に地震を表す言葉がなかったろうか
日本のような地震の多い国に、中国から「地震」と言う名詞が輸入されるまで、地震現象を表す言葉がなかったのはなぜだろう。思うに上代の日本人は日蝕、大風、雷電の如き自然現象ほどに、地震現象に対して関心を持たなかったのではあるまいか。日本の神話の中に、地震現象が全く現れないと言う事実は、筆者の想像を裏書きしてくれるように思われる。
日本の神話の中には、自然現象に基づいて作られたと考えられる話が含まれている。例えば、ヒコホホデミノミコトが海神から潮満玉しおみつたまと潮涸玉しおひるたまを授けられた話は、潮汐現象の神話化したものと考えられる。
アマテラスオオミカミの岩戸隠れは、皆既日蝕と解釈するのが最も合理的である。この神話の要点だけを抽出すると、要するに、天地が突然暗黒になった、人々が驚き怖れて宗教的儀式を行ったら、天地が再び明るくなったというのである。明らかに皆既日蝕である。岩屋の外の騒ぎが甚だしいので、アマテラスオオミカミが岩屋の戸を細目に開いてのぞき見たと言う叙述は、皆既が終わって太陽の一端が現れる時の状態そのままである。
北米インディアンの一派のイロコワ族は、太陽をしいたげる悪霊を駆逐すべく、太鼓を打ち鳴らしてわめくという。古代のスカンディナヴィア人は、日蝕は三頭の狼が太陽を食おうとするためと考えて、金属の器物をたたき、大声をあげたということである。また中国では日蝕の時に太鼓を叩く習慣があったことが、荀子に書いてある。後世になると単に儀礼的になったが、始めはイロコワ族などと同じく、太鼓を叩いてわめいたのであろうと想像される。
話が少し横道にそれることを許されるなれば、岩戸隠れの話をもう少し続けたい。
天の岩戸の前で、ウズメノミコトが神がかりの状態になって踊り狂ったと、古事記に書いてある。ウズメの踊りは、北東アジア一帯に行われているシャーマン教の巫女の祈祷の状態そのままである。ウズメの踊りは遊戯的のそれではなくて、真剣な祈祷であったに違いない。
ウズメが体のある部分をさらけ出して踊ったとも書いてある。その部分には霊力が宿っていると信じられていたので、その霊力によって光明を取り戻そうとしたのであろう。
このような事を言うと、信用しない人があるかも知れないが、未開人と現代の文化人とでは、者の考え方が違う。未開人は実際その部分に神秘的な力がそなわっていると考えていたのである。ひいては形態が右の部分と酷似する一種の貝までが尊ばれ、ついには通貨として使われるようにもなったのであろう。
余談が余りに長くなった。話を前に戻すことにする。前に述べた如く、日本の神話の中には、自然現象の要素が含まれている。それにもかかわらず、地震に関しては、全く痕跡も認められないのはなぜだろう。思うに、上代においては、庶民は穴居か掘立小屋、貴人でも「アシヒトツアガリノミヤ」などという粗末きわまる家に居住していたので、たとえ大地震が突発しても、被害と称すべきものはほとんどなかったのであろう。震害がないとすれば、地震を恐怖することもなかったであろう。従って日本の神話の中に、地震に関するあるいは地震現象を暗示するような説話が含まれていないのではないかと、考えられぬこともないようである。  
三 日本の地震鯰はあばれもの  

 

   明治二十七年六月二十日の東京地震
明治二十七年六月二十日午後二時ごろのことである。廐橋に近い浅草三好町のある銭湯の女湯では、何人かの女が体を流しながらよもやまの話に花を咲かせていた。その時である。突然けたたましい響きと共に銭湯の建物ははげしく揺れ出した。すわ大地震と今までののどかさとは打って変わって浴場は阿鼻叫喚の地獄と化した。
ある者は悲鳴をあげて逃げ惑い、ある者は丸裸で外へ飛び出した。その大混乱のうちに一人だけ流し場にペタリと坐って、幼い子を固く固く抱き締めているお神さんがあった。その抱かれていた子供こそ当時わずか三歳四カ月の筆者であり、抱き締めていたお神さんは筆者の養母であった。この時風呂屋が倒壊したら、つぶされた上に生きながら火葬にされたであろうが、幸い倒壊を免れたので、筆者も無残な最期をとげないですんだのであった。その代わり長年苦労をし続けたあげく、六十過ぎた今日なおこんなつまらぬ雑文を書いて生き恥をさらすような仕儀となった。どちらが幸いだったかわからない。
阿鼻叫喚の地獄と言ったが、それは想像で附け加えたおまけである。丸裸で逃げ出した女たちのことも後になって養母から聞かされた話で、筆者自身はいっこうに覚えがない。今でもありあり記憶に残っているのは、浴槽のお湯が怒濤のように数回にわたってザブリザブリ流し場にあふれ出た物凄さと何が何やら訳も分からずにただ怖ろしさに養母の体に固くしがみついていた哀れな自分の姿だけである。
やがて震動がしずまり、迎えに来てくれた養父に抱かれて外へ出ると、隅田川を越してはるか東の方に火事の煙がもうもうと上がっているのが見えた。これが筆者にとって最も古い地震の記憶であり、また最も怖ろしかった経験でもある。  
   東京鯰は幕下級でもおこればこわい
この地震は実は大したものではなかったのである。大地震番附を作るとしたら、たかだか幕下級であろう。この地震は埼玉県鴻ノ巣・岩槻附近から亀有・亀戸辺に至る地帯の地下に潜んでいる地震鯰が少しばかり身震いをしたに過ぎなかった。その少しばかりの身震いのために、東京市内で数十軒の家が破壊され、百八十一人の死傷者を生じたのだから、身震いといっても馬鹿には出来ない。
元来この方面に棲息する地震鯰は大した代物しろものではない。世界中の地震計に記録されるような大規模の地震を起こすほどの威力はない。しかしそんな小鯰でも一たびお冠が曲がって大暴れに暴れ出す段になると、なかなかすさまじい破壊力を発揮する。安政二年十月二日午後十時ごろに発した江戸の大地震などはその最もいちじるしい例で、江戸市中で一万四千戸以上の家がつぶれ、死者は一万人くらいに達したらしい。元和元年及び慶安二年の江戸の大地震は、詳細は不明だがやはりこの地域の鯰の仕業であったようである。  
   日本国中に棲息する大小の地震鯰
東京附近から東京都内にかけて、このような物騒な怪物が地下に棲息しているが、この鯰とは比較にならぬ威力をもっている大鯰が相模湾の海底にすんでいる。この鯰があばれ出すと、関八州はとてつもないばくだいな損害をこうむる。関東地方はこやつのために幾度となくひどい目にあわされた。大正十二年の関東大地震はその一つである。この地震の被害は一府三県にわたり、全壊半壊合わせて二十五万戸、焼失四十五万戸、津浪による流失八百六十八戸、死者と行方不明を合わせると、十四万人、これだけの数字を見てもいかにこの鯰の勢力の偉大であるかがうかがわれる。正に原爆に匹敵する被害である。
大正十二年の大震災についで、翌年一月十五日にも大地震があり東京でも全壊半壊合わせて百戸という被害があったが、これは丹沢山の鯰の仕業で、この鯰は東京に甚大な被害を生ぜしめるほどの力はない。
このような地震鯰が日本全土の陸地内にも海底にも無数に棲息して、機会があれば大地を震撼し人類に脅威を与えようと四六時中待機しているのである。鹿島明神一柱ではとうてい衆寡敵すべくもない。中でも濃尾地方、三陸沖、東海道沖、南海道沖等の地震鯰は、いずれ劣らぬ堂々たる横綱の貫禄をそなえた大物中の大物である。  
   地震鯰は引っ越しはきらい
現在ではそれらの地震鯰の棲息地とそこに棲んでいる鯰の大小強弱は大体見当がついている。従って将来大地震の起こる可能性のある土地とその土地から発現する大地震の最大限度とは、ある程度まで指摘できる。
故大森房吉先生によると、大地震は決して同じ場所から再び起こることはないという。先生は機会あるごとにこの説を反復された。もし先生のお説が誤っていないとすれば、一度大地震の洗礼を受けた土地は、未来永劫大地震から免疫になり安住の地となるはずである。それならば誠に好都合であるが、不幸にして筆者は先生と見解を異にする。筆者は先生の地震学に対する甚大なる貢献に敬意を表する点においては人後に落ちないつもりであるが、そうかと言って先生のお説に盲従することは、筆者の良心が許さない。
筆者の信ずるところでは、各々の地震鯰は常に一定の場所に棲息して、彼らの生命の続く限り時々身震いをし寝返りを打つのである。論より証拠、同一地点から発現したと推定される古来の大地震の例は、お望みとあれば幾つでも取り出してお目にかける。
従って一度大地震のあった土地は、安全な土地どころではなく、おそかれ早かれ再び大地震におびやかされる運命にあることを忘れてはならぬ。
のみならず地震鯰の活動は意外に早く繰り返される場合がある。明治二十九年六月十五日三陸沖の海底から大規模な地震を発しその副産物なる大津浪で二万七千人が溺れ死んだ。この地震津浪は途方もない大きいものであったから、三陸沖鯰は百年くらいは休養して鋭気を養うだろうとたかをくくっていると、意外にもわずか三十七年後の昭和八年三月三日ほぼ同じ地点からほぼ同じ程度の大地震大津浪が起こり、約三千人の溺死者を生じた。油断大敵である。もっとも考えようによっては三十七年後に大津浪が繰り返されたのはもっけの幸いである。もしかの大津浪が、前回の津浪を経験した者が一人残らず死に絶え、津浪の被害が全く忘却された時分に襲来したら、その損害は更にいっそう甚だしかったかも知れないのである。  
   地震鯰は続けてあばれることがある
一度大地震があると少なくともその後数年間か数十年間は大丈夫であろうと誰しも考えるであろうし、また大体においてその通りである。また大地震があると例外なく大小の余震が発生する。余震は、多少の例外はあるが、大体において破壊的なものでない。それなら大地震の後しばらくの間は安心してよろしいかというと、そうもいかないのである。
時として一匹の地震鯰が二回続けて寝返りを打つことがあるのである。振動が止んでやれ安心という時に再び大地震に見舞われるのだから誠に始末がわるい。しかも二回目の地震の方が最初の地震より強いのが普通である。明治三十一年八月の福岡県糸島郡の地震は十日と十二日と二回続発し、大正七年十一月十一日長野県大町の地震の場合には、十三時間の後に二度目の地震が起こった。  
   義理固い鯰のおつき合い
なおその上に、と言うとまだあるのか、いい加減にしろと仰せられる向きもあろうが、あるのだから致し方がない。というのはこういうわけである。ある土地の地震鯰があばれると隣接地域の鯰がつまらぬ義理を立てておつき合いにあばれ出すことが、これまたまれでないのである。
近年の例を一、二あげて見ると、大正十二年九月一日相模湾の大鯰が大あばれにあばれたおかげで東京の二分の一が焼け野原になったが、翌十三年には丹沢鯰、七年後の昭和五年には伊豆鯰が活躍した。そのために芦ノ湖畔の箱根町の如きは二回全壊のうきめを見たのである。
大正十四年但馬北部の鯰があばれ出し、翌々年の昭和二年には東隣の奥丹後半島の鯰が大いにあばれ、その結果両震源地の中間地域では、二年間に二回同じ程度の震害をこうむることになった。
古い例を一つあげると、安政元年十一月四日東海道沖の大鯰が活動し、大津浪をともない、プチャーチンの率いるロシヤ軍艦ディアナが下田で沈没するという騒ぎも起こったが、翌五日正確に言うと約三十二時間の後、今度は南海道沖大鯰が大いにあばれて、この地震にも津浪をともなった。従ってある地方では二日続けて同程度の大地震大津浪に襲われる結果となった。
それだから大地震があった場合に、人心安定のためにもう心配はないとは言うものの、本当のところを言うと、ある大地震の時某村役場に掲示してあったように、「心配するな、ただし油断するな」である。  
   地震鯰は気紛れ
地震鯰の活動が何年目に起こるかということがわかっていると、震災予防の上にきわめて都合がよいが、地震鯰ははなはだ気紛れで、いつ身震いするか、いつ寝返りを打つか、その予想がむずかしい。
中にはかなり周期的に鯰の活動する土地もある。南海道沖の大鯰の如きはその一つで、少なくとも過去においては、約百年に一回の割合で活動を繰り返した。また関東地方に重大な関係のある相模湾鯰は、多少の仮定を許されるならば、約二百年の周期をもって活動が繰り返されたように見える。しかしそれとても、百年内外、平均二百年くらいという頼りない話である。
今村明恒先生が指摘したように、秋田県象瀉きさがた附近の鯰の活動は嘉祥三年と文化元年の二回で、その二つの地震の時間的間隔は九百五十四年である。新潟県高田の鯰は貞観じょうがん五年と宝暦元年に活躍し、間隔は八百八十八年、長野県北部の鯰は仁和三年と弘化四年で、間隔は九百六十年、伊豆の鯰は承和八年と昭和五年で、間隔は千八十九年、播磨の鯰は貞観十年と元治元年で、間隔は九百九十六年、九州島原半島の鯰は天武天皇六年と寛政四年で、間隔は千百十三年である。
このような例を並べ立てると、これらの土地では約千年の周期をもって地震鯰の活動が繰り返されるものの如く見えるであろうが、わずか二回の地震に基づいて周期的に大地震が起こると断定するのは早計である。これが真の周期であるかどうかは、今後数千年間の地震鯰の活動の経過を見きわめた上でなければ、確かなことは言われないはずである。  
   大地震は未然に防ぐことが出来るか
原爆被害者の写真を見ると戦争のむごたらしさを痛感しないわけにはゆかない。戦争は当局者同士の話し合いで避けることが不可能ではあるまいが、地震鯰の活動は今のところ人間の力で防止することが出来ないから誠に始末がわるい。のみならず大地震の被害は時として原爆水爆の被害に劣らないのである。
耐震耐火の家を建てて大地震にそなえるのはもとより必要だが、この方法は消極的である。もし何らかの方法によって大地震の発現する前に叩きつぶしてしまうことが出来れば、それに越したことはない。
藤原咲平博士は中央気象台長の地位にあった時、台風が国土に接近する前に原爆で叩きつぶしたらどうかと言われたことがある。この方法は原爆を所有している国が実行する意志さえあれば可能であろう。
今村明恒博士は、火山の内部に大爆発をひき起こすだけの勢力が蓄積されぬ中に、火口に爆弾を投げ込み、小爆発をうながすことによって、大爆発を未然に防ぐことが出来るだろうと考えた。この方法は可能性の点において前者よりやや劣るかも知れぬが、そうかといって全然望みがないとも言われまい。
幸いに日本に棲息する主なる地震鯰の棲息地は大体見当がついている。この鯰共が大活動をしないうちに撃滅する方法はないであろうか。言葉をかえて言えば、地殻内のある部分に蓄積されるエネルギーを少しずつ小出しに放出させる方法はないだろうか。この問題はもとより困難には相違ないが、やる意志さえあれば不可能ではないかも知れない。研究者が少しはこの方面にも関心をもってもらいたいものである。  
四 東京と大地震  

 

   わが国における近年の地震活動
近年わが国にはやつぎばやに大地震が発生した。最近十数年間に起こった大地震をあげてみると、昭和十四年男鹿半島、同十五年積丹半島沖、同十六年長野、同年日向灘、同十八年鳥取、同年野尻湖附近、同十九年東南海、同二十年三河、同二十一年南海道、同二十三年福井、同二十四年今市、同二十七年十勝沖、同二十八年房総沖とほとんど毎年大地震が発現した。その中でも昭和十九年の東南海地震及び昭和二十一年の南海道地震は、共にその規模が雄大で、広範囲にわたって莫大な被害を生じた。
わが国古来の地震の歴史を調べて見ると、大地震の相ついで発した時期と比較的大地震の発現の少なかった時期があった。今村明恒博士によると、わが国の有史時代に三回の地震活動旺盛期があり、そして弘化四年(西暦一八四七)以後は第三回目の旺盛期に当たるという。しかし右の第三旺盛期はいつまでも継続するのか、それとも既に終わったのであるか、それはもうしばらく地震活動の経過をみなければ、確かなことは言われない。  
   大地震の起こりそうな地域
前に記した如く、近年わが国の地震活動は活気を呈していた。この活動はまだしばらく継続するかも知れず、近き将来にいずれかの地域から大地震の発現を見ることもないとは保証しかねるのである。それでは次の大地震はどの地域から起こるであろうか。この問題に対して正確な解答を与えうる人は、日本国中探し求めてもおそらく一人もいないであろう。
適中率が相当に高いといわれる我が国の天気予報程度の地震予報が公示されることは、本邦の如き地震国ではきわめて望ましいことではあるが、地震の予知予報がその域に到達するのは遠い将来であろう。
そのような正確な予報は今日すぐには望めないとしても、きわめて大ざっぱな予報、すなわち将来かくかくの地方に大地震があるだろう、そしてその規模は最大これこれの程度であろうというくらいのことであれば、現在でも必ずしも不可能ではなさそうである。日本地震史調査の結果から、大地震の発現する可能性のある地域とその地域から発現する大地震の規模はある程度見当がつくように思われるからである。
この本の中に一度書いたことがあるが、大森房吉博士は、大地震は同一地点から決して発現しないという見解を生涯堅持していたようである。しかし日本の地震の歴史をくわしく調べると、同一地点とは言われぬかも知れぬが、少なくも同一地域から大地震が再び発現したことは決してまれでない。むしろ一度大地震のあった地域は、二度も三度も繰り返して大地震に見舞われる可能性があると言う方が真実である。
一々例を挙げることは煩わしい。その上この本の別の所で若干の例を示したから、ここではなるべく重複しないような例をあげることにする。仁和三年(西暦八八七)と弘化四年(西暦一八四七)の信濃北部大地震を比較すると、激震区域といい被害状況と言い、符節をあわす如くである。三陸沖の海底から古来しばしば大規模地震を発し、大津浪をともなった最大級の津浪だけを拾っても、貞観十一年(西暦八六九)、慶長十六年(西暦一六一一)、明治二十九年、昭和八年の四回あり、いずれもほぼ同じ地域から発したようである。南海道沖もまた大規模地震のしばしば起こる所で、天武天皇十二年(西暦六八四)、仁和三年(西暦八八七)、正平十六年(西暦一三六一)、慶長九年(西暦一六〇五)、宝永四年(西暦一七〇七)、安政元年(西暦一八五四)、昭和二十一年に大地震を発したが、これらの場合もほぼ同一地域から発現したようである。
また地震の規模について言えば、これも地域が大体一定している。最大級の大地震の起こる地域は、三陸沖、相模湾、東海道沖、南海道沖濃尾地方等に限られている。それにつぐ大地震は信濃北部、琵琶湖附近、日向灘、北海道東方沖などから発し、その他の地域から起こる地震は、上記の地域の地震にくらべて、比較的規模が小さいようである。  
   将来東京に大地震が起こるか
将来東京の直下又は附近から大地震が起こって、甚大な被害を生じる可能性があるであろうか。それとも東京の地は地震に関して全く免疫になっているのであろうか。これは東京に居住する者にとって大問題でなければならぬ。この問題については、筆者は遺憾ながら将来いつかは大地震に見舞われるであろうと答えざるを得ないのである。なぜこのような悲観的な予言をあえてするかと言うに、東京の地は古来幾度となく大地震によって損害を蒙った経験をもっている。そして前述の如く、過去において大地震の経験のある土地は、将来もまた大地震によっておびやかされる可能性があるからである。
東京に大いなる被害を生ずるような大地震は、東京の直下あるいは附近から発現するだけでない。相模中部及び相模湾から発する大地震によっても損害をこうむる。すなわち東京はこれらの三地域から起こる大地震によって、何年に一度は大なり小なり破壊される宿命をもっている土地と言わなければならぬ。  
   相模湾から発する大地震
過去において相模湾から発現し、関東全域に被害を生じたと推定される大地震は、(一)弘仁九年、(二)永仁元年、(三)永享五年、(四)元禄十六年及び、(五)大正十二年の五回である。
弘仁九年(西暦八一八)の地震は、その詳細は明らかでないが、被害が甚大であったことは、当時の詔勅によって想像される。
永仁元年(西暦一二九三)の地震は鎌倉時代の被害のみが伝えられて、他の地方の被害状況が明らかでないが死者二万人と言われ、また「諸国大地震」などと記されてあることによって、三浦半島から発した局部的地震とは考えられない。多分関東全域にわたる大地震であったろう。
永享五年(西暦一四三三)の地震は、鎌倉に被害があり、利根川の水が逆流したと伝えられる。利根川が逆流したという事実は、相模湾から発した津浪が東京湾に侵入し、更に当時東京湾に注いでいた利根川を遡ったと考えるのが最も合理的な解釈であろう。
元禄十六年(西暦一七〇三)及び大正十二年の地震は、時代が新しいためにその状況が詳しく知られているが、両者の震域、津浪、地形変動等が全く同一で、共に非常な被害があった。将来相模湾から大地震が発現する場合には、大正十二年程度の被害があるものと覚悟していなければならぬ。
右に述べた五回の大地震の時間的間隔を調べて見ると、四百七十五年、百四十年、二百七十年、二百二十年となり、弘仁・永仁両地震の間隔が、他の場合とくらべて、非常に長いことが気づかれる。ことによると、弘仁・永仁両地震の間に洩れた地震が一回あったのではあるまいか。上記の如き仮定のもとに各地震の間をかぞえると、平均二百二十一年となり、元禄・大正両地震の間隔とほぼ等しくなる。もしかりに将来も過去と同様の間隔をおいて大地震がこの地域から発現するものとすれば、百五十年ないし二百年に一回の割合で大地震が起こる勘定になるが、もとより仮定に立脚した議論だから、果たして右の通りになるかどうかはその時になって見なければわからない。予想を裏切って思いのほか早く大地震の発現することもないとは言われぬから、右の結果を過信して、今後百年くらいは相模湾から大地震の起こることはあるまいとのんきにかまえるのは考えものである。  
   相模中部から発する大地震
相模中部から発現する大地震は、相模湾から起こる地震にくらべると、規模が小さく、従って被害の範囲もせまく、その上発現の回数も少ない。しかしこの地域から発する大地震も東京に相当の被害を生じるので、これまた警戒を要する。元慶二年(西暦八七八)及び大正十三年の地震はこの地域から発したもので、前者では相模・武蔵両国の民家がことごとく倒壊破損したと伝えられ、後者の場合には東京市内のみでも全壊二十五戸、半壊七十八戸を生じた。  
   東京及び附近から発する大地震
埼玉県鴻巣こうのすの辺りから岩槻いわつき、越こしヶ谷や、亀有かめあり、亀戸を経て東京湾に延長する一地震帯があって、この地震帯から、小規模ではあるが、強烈な地震が起こる。この地名から容易に知られるであろう如く、この地震帯の南部は東京東部を通過している。従って時として東京都内の直下から大地震の発現することがありうる、いな実際にあったのである。故にこの地震帯は東京に居住する人々にとってきわめて重大な関係を有するものと言わねばならぬ。
江戸時代にこの地帯から発したと推定される大地震は、元和元年(西暦一六一五)、慶安二年(西暦一六四九)、安政二年(西暦一八五五)の三回で、明治時代に入ってから明治二十七年の地震が起こった。
右の四回の大地震はいずれもその被害がはなはだしかったが、とりわけ安政二年十月二日夜の十時ごろに発した大地震は、亀有、亀戸の辺りが震央であったものの如く、すなわち江戸の直下から発した地震であったので、江戸市中は非常なる損害を蒙った。死者の数は関谷清景せきやせいけい博士に従って従来は約七千人といわれてきたが、ことによったら一万人くらいの死者があったかも知れぬ。大正十二年関東地震の場合の東京市における死者は六万人に達するが、そのほとんど全部が焼死であり、警視庁の調査によって明らかに圧死と認定されたものはわずかに二千人に過ぎぬ。それに反して安政地震の場合の死者はほとんど全部が圧死である。震動がいかに激烈であったかはこの一事からも想像し得られる。
明治二十七年六月二十日午後二時ごろに発した地震は、前者にくらべれば被害が少なかったが、それでも東京市内で二十四人の死者を生じた。この地震は前記の地震帯の中の安政地震の震央よりやや北方から発したようである。  
   東京・相模湾・東海道沖・南海道沖大地震の発現順序
十七世紀以後において東京(江戸)、相模湾、東海道沖、及び南海道沖から発した大地震を表にすると次の如くなる。
この表に掲げた十二回の地震がきわめて規則正しく一定の順序に従って発現したことは、一瞥して看取されるであろう。すなわち二回の東京地震に始まり、ついで相模湾から大地震が起こり、最後に東海道沖及び南海道沖の各々二回の大地震で一回の輪廻が終わる如く、再び二回の東京地震から同じ順序で地震が発した。しかも元和・慶安両地震の間隔は三十九年、安政・明治両地震のそれは三十三年、ほぼ等しいのである。これが偶然であろうか。偶然と考えるのはあまりに規則正しいようである。
もし将来もこの順序で大地震が起こるとすれば、東京が安政程度の激震に見舞われるのは遠い将来のこととなって、きわめて望ましいことではあるが、何しろ十七世紀以後という比較的短い期間について調べた結果であるから、今後長い期間における地震活動の経過を見なければ確かなことは言われないのである。  
   地震鯰にご用心
前述の如く東京及び東京附近には大地震の発現する可能性のある地域が三つもある。その中相模中部は比較的重要でないが、他の二つの地域に対してはたえず厳に警戒を続けるべきである。また一方東京に居住する人々は東京の地が地震に関して決して安全でない。いつ何時なんどき大地震に襲われるかわからぬことを充分心得ていなければならないと思うのである。  
五 今村明恒先生素描  

 

今村明恒先生が亡くなられてからかれこれ九年になる。なろうことなら学者としてまた人間としての先生の全貌を後世に伝えたいとは思うが、それは筆者にはとうてい出来ない相談である。誰かやってくれる人はいないかと物色しても、中村清二先生を除いては適任者が見当たらない。といって中村先生はすでに八十何歳、筆をおとりになるのがおっくうかも知れない。そこでせめて自分の知っていることだけでも、関係者にあまり迷惑を及ぼさない範囲で、書き留めておきたいと思い立ったのである。これだけのことでも今の中に書き残しておかなければ、すべてが跡形もなく消えてしまう。それは筆者にとって忍びがたいことである。
先生の先祖今村英生ひでしげは長崎の大通詞だいつうじで、当時オランダ語にかけては通詞の中で英生の右に出るものがなかったという。ローマ法王から日本に派遣された宣教師シドッチを、宝永六年新井白石が取り調べるに当たって、まずオランダ人についてラテン語を学び、その知識によって立派に通訳の大任を果たした功労者はこの人であった。
昭和十四年の夏、先生は日々帝国学士院に通い「出島蘭館日誌」について英生の事績を調べた。「出島蘭館日誌」は長崎出島にあったオランダ商館の記録で、寛永十八年に始まり幕末で終わる非常に大部のものである。原本はハーグのオランダ文書館にあるが、その複写が日本学士院に保管されているのである。いうまでもなくこの日誌はオランダ語で書いてある。先生は「和蘭語四週間」によってオランダ語を独習してこの記録を読んだ、そして英生に関する数十項の重要記事を写しとったのである。その結果今村英生が白石のために通訳を勤めたばかりでなく、博物学特に薬物学に関する知識も豊かで、オランダの書物を翻訳した最初の人であったことも明らかになった。
先祖の英生と末孫の先生とが申し合わせたように新たに一つの国語を修得して、共にそれを使って重要な業績を残したということは、思えば不思議な因縁である。
先生は明治八年満五歳で小学校に入学した。その学校の教務主任三原佐吉という人が先生の家を訪ねて、この子は将来必ず家を興こしお国の役に立つに相違ない、大事に育てなさいと言ったそうである。
先生の叔父に大河平おこうびら某という人があった。この人はひとかどの人物で地方官をしていたが、明治九年突然職をなげうって郷里に帰った。思うに鹿児島の形勢いよいよ切迫したためであったろう(この人は翌年西郷の挙兵に参加して戦死をとげた)。
この叔父がある時先生の母堂に向かって、常は見込みのある子だ、特に大切になさい、と言ったそうである。「常」とは「常次郎」のことで、先生の幼名である。
三原先生や大河平叔父が先生の将来に望みをかけたことから想像すると、幼年時代の先生はいわゆる神童ではなかったが、どこかよい意味で他の子供と違うところがあったのであろう。
先生がある日大河平叔父の家へ行くと、叔母が「フズキ」を一つとってくれという。「フズキ」は「ほおずき」の方言である。先生は「フズキ」なんてものはありませんといっかなきかない。「そこにあるではないか」。「あれはフズキではありません、ほおずきです。」「どうだっていいではないか。」「いけません、ほおずきをとってくれといわないうちはとりません。」先生はとうとう強情を張り通したということである。かげでこの押し問答を聞いていた叔父がおもしろがって、一冊の本をくれたそうである。
相手の欠点を少しも仮借しない先生の峻厳な性格は、生涯を通じて変わらなかった。このような性格の人はともすると敵をつくる。この性格は先生にとって得にはならなかったようである。
明治十年西南戦争当時先生は七歳の少年であった。官軍が郷里鹿児島に迫り砲声が次第に近づくので、先生一家は、厳父一人を残して、宇宿にあった厳父の乳母の許へ避難した。ひとり家を守っていた厳父は、ある日白刃を提げた官兵に襲われ、危いところを辛うじて免れたということである。
官軍の撤退と共に鹿児島に戻ったが、薩軍が続々敗退して来るので、再び宇宿に難を避けることになった。しかしこの地も安全といわれなかった。ある日母堂が先生の弟を連れて川の畔にたたずんでいると、突然銃弾が雨霰と飛来するので、あわてて谷間に身を潜めたということである。
西南戦争の結果厳父は職を失い、先生は真正コレラにかかって九死に一生を得るなど、この年は不祥事の連続であった。
厳父は後になって鹿児島県等外二等出仕に任ぜられた。
先生の幼年時代には今村家は相当裕福で、下女下男も使い何不由なく暮らしていたそうである。それが厳父の過失によってたちまち貧乏のどん底に落ち込むことになった。厳父がある人に有価証券七百円全部を詐取されたのである。この証券は多分士族に与えられた金禄公債であろう。
生活はたちまち窮迫を告げ、教科書代にもことを欠く状態に陥った。明治十四年先生十一歳の時のことである。
明治十六年に先生は首尾よく鹿児島中学に入学したが、その翌年には厳父が依願免官になった。家の暮らしはますます苦しく、家具庭木まで売り尽くした。当時神戸で巡査をしていた長兄から月々二、三円の仕送りはあったが、わずか二十銭の古靴を求めることさえ容易ではなかったそうである。
豆腐の如きも、食べるのは厳父だけで、他のものは一年に数回、それも一片か半片を与えられるのみであった。副食物は明けても暮れても卯の花の味噌汁ばかりだったと言う。当時先生の最大の願望は、早く立身出世して三食とも豆腐を食べられるような身分になりたいということであったそうである。先生が、戦争のため食糧が欠乏するまで、毎朝豆腐と若布の味噌汁を欠かさなかったのは、この少年期におけるはかない望みに由来していたのかも知れない。
明治十八年に厳父が准判任御用掛を拝命して、月俸金七円を支給されることになった時には、家計いよいよ窮迫、赤貧洗うが如き時であったから、家族一同狂喜したということである。
鹿児島中学は県立中学造士館となり、再び変わって高等中学造士館となった。旧制高等学校に昇格したのである。
先生は学力試験に及第して入学の資格は与えられたが、困ったのは従来のように官費ではなくなったことであった。厳父には学資を負担する資力がない。先生は止むを得ず二人の兄君に手紙を書いて援助を乞うた。
次兄の手紙は冷たかった。大言壮語を止めて適当の職につけというのである。それに反して長兄の返事には、自分は甘んじて犠牲になるから初一念を貫けと励ましてくれた上に金六円の為替が封入してあった。当時長兄の月給は金八円に過ぎなかったのである。
先生は造士館入学を取り止め、上京して一高に入った。一高時代には薄手の冬服一着で間に合わせ、夏は網シャツ一枚、冬は小倉の白シャツで調節した。靴下は全然用いなかった。
明治二十四年東京大学理科大学物理学科に入学した。
先生が物理学科を選んだのは、全く鹿児島中学教諭渡辺譲理学士の感化であった。この恩師のおかげで物理学が好きになったのだそうである。良師を得た人は幸福である。この点は寺田寅彦先生も同様であった。
ある日菊池大麓教授の幾何学の講義がまさに始まろうとした時、先輩の大森房吉理学士があわただしく教室に入って来て先生に、濃尾地方に大地震があった。君はすぐ現地へ行ってくれと言う。先生は直ちに震災地に向かったはずでありまたこれが先生にとって最初の地震調査でもあったはずであるが、なぜか先生は当時の行動については一言半句も話されなかった。わずかに岐阜師範の舎監であった名和靖氏に会ったこと、名和氏が地震で負傷していたことを別の話のついでに伺ったに過ぎなかった。思うにこの出張は単に大森理学士現地調査の瀬踏みのためであったろうと想像される。
大森理学士が、震災地を視察して帰り、その報告会が行われた。その時先生は色々の質問を発したそうである。その質問に対する大森先輩の答えはことごとく「まだわかっていない」の一点張りであった。地震に関してこんなにもわからぬことだらけなら、自分は地震学を専攻して未知の領域を開拓してやろう、先生はこの時こう決心をしたそうである。これが先生が地震学者となる第一歩であった。
明治二十六年すなわち大学卒業の前年に先生は昌平学舎という寄宿舎を設けてそれを主宰することになった。郷里から貧書生が続々上京するので、それらの学生の面倒を見るためであった。昌平学舎の位置は始めは駿河台、ついで本郷東竹町、最後が本郷弥生町であった。最後の家だけは今も残っている。東大地球物理学教室の下にある古びた二階家がそれである。
明治二十七年七月先生は東大を卒業した。しかし卒業式には列席が出来なかった。卒業式に先立って磁気実測のため中村清二理学士(後に博士)と共に北海道に出張したからである。
当時交通機関のほとんどなかった北海道を、あるいは馬あるいは徒歩で跋渉した話は、「鯰のざれごと」(後に「地震の国」と改題)の中に「野宿」と題して面白く記されてある。その中の鹿島は先生、中牟田は中村清二先生のことである。
支給された旅費が約十円残ったので、その中から三円を投じて柳原で古着を買い、残りの金で十二月までしのいだ。
東京遊学の費用は直接には長兄から与えられたが、長兄は不足の分を岳父岡留信好氏に仰いだ。遊学五年間の学資は合計三百六十八円であった。
同年十一月三十日附で震災予防調査会から磁力実測結果計算のため、月十五円を支給されることになった。先生は早速その中から十円を厳父に送金した。これが両親に対する仕送りの最初であった。以後郷里への送金は、十円一回、十五円数カ月、令弟たちが成業して送金に参加するまで二十五円を下ることがなかった。その後の分担額十五円、ただし年末や利子支払の月には臨時に増額した。
先生は二十七歳で結婚してから続々子供が生まれて、全部で十一人の子福者であった。それだけでも大変なところに、つぎつぎに上京する弟の扶養と教育を一身に引き受け、なおその上に、両親に仕送りをしなければならなかったのである。家計の苦しさは言語に絶するものがあったに相違ない。
明治三十三年市ヶ谷佐内坂泰宗寺の境内に住んでいた時の如きは、多分井戸水のためであったろうが、夫人、弟明彦少尉、恩人の令息岡留肇の三人が赤痢にかかり、そのためにいよいよ生計に窮して家庭教師までもしなければならなかった。翌年地文学教書や対数表が出版されたが、これも急場を切り抜けるためのアルバイトではなかったろうか。
このような窮乏のうちにあっても、両親に対する仕送りは一月も欠かさず続けられた。
大正七年十二月厳父明清氏は先生の多年の援助に対して感謝状を送ってきた。子が親から感謝状を贈られるということは世間に余り例がない。先生の孝養の並々でなかったことを如実に物語るものはこの感謝状でなければならぬ。
感謝状にはこう書いてある。「ここに其方の功により多年の間安楽に代を送り候のこと、明治二十七年以来卒業の月より御送金なし下され、それがため拙者もこのように長命いたしたるものと存じおり候。……この間一遍の故障もこれなく、誠に感謝の至りに御座候。これのみならず明孝以下明光明徳教育上につきしかも一方ならず御配慮下されたることと、これまた低頭御厚礼申上候。ついては養子にも心配も多々ありし御事と存じ候間、同人にもよろしきよう御願申上候。以上。」
厳父は大正十年、母堂は昭和六年、いずれも満八十七歳で亡くなったが、両親の存命日数が一日も違わなかったそうである。
明治三十八年四月先生は理学博士の学位を授けられた。大学卒業当時の席次は七人中六位であったが、同級生で学位を授けられたのは先生が最初であった。六十人目の理学博士である。
先生の学位論文は、牛込区加賀町のお宅で執筆されたが、この家で生まれて先生の大の秘蔵子であった百合子さんがこの家で亡くなるという悲しい事件が起こった。ある夕方もうお父様がお帰りになる時分だと、二階の手摺りから体をのり出して見ている中に、誤って庭に落ちたのである。百方手を尽くされたがその甲斐がなかった。
先生自身執筆された「悔恨三十年」に次のように書いてある。
「百合子は誠に利巧な子供であった。亡くなったとき、歳はわずかに三年三月であったが、普通の子供のようではなかった。当時余の出勤は早かった。午前七時に授業開始の日が多かった。それでも大てい余と一緒に食事をした。そうして給仕をしてくれた。自分のお碗をよそいかけていても、余のお代わりとなるのを認めるや否や自分の方はすぐ差しおいて、まず余の方の給仕をしてくれるのが普通であった。百合子は聞きわけのよい子供であった。当時不如意がちであったので、玩具や画草紙など買ってやることもまれであったが、ただ雑記帳に絵をかいて貰うことをこの上もなく喜んでいた。そしてそれを大事にしていた。余の忙しそうな様子や不機嫌な風を見ると、無理にせがむようなことは決してしなかった。ただ「あちた書いてね」といって、折角出して来た雑記帳をまた大事にしまうのであった。」
明治三十九年は先生にとって生涯忘れることの出来ない悪い年であった。
これよりさき明治三十二年に先生は明治二十九年三陸津浪の原因に関する見解を発表した。先生は大規模の海底地震にともなって起こる津浪は主として海底の広範囲にわたる地殻変動によってひき起こされると提唱したのである。この説は今では地震学上の常識であるが、当時は猛烈な反撃をうけたのであった。中でも「海底の広範囲にわたる地殻変動」は無理な仮定であると烈しく反対したのは大森博士であった。
明治三十八年雑誌「太陽」に先生は「市街地における地震の損害を軽減する簡法」と題する論文を発表した。この論文ではまず過去の大地震の災害について述べ、慶安二年、元禄十六年、安政二年大地震は平均百年に一回の割合で発生している。そして安政二年以後すでに五十年を経過しているから、今後五十年間にこのような大地震に襲われることを覚悟しなければならぬといい、次に東京が元禄、安政程度の大地震に襲われた場合の災害を予想して、合計十万ないし二十万の死者を生ずるであろうと記し、最後に震災軽減法を詳しく記され、特に石油ランプを廃止することの急務が説かれてある。全文を通読しても、多少の欠点はあろうが、要するに震災予防を論じたもので、少なくとも東京市民は感謝をもって読むべきものであった。  
しかるに厄介なことが起こった。翌三十九年一月に東京二六新聞が「今村博士の説き出せる大地震襲来説、東京市大罹災の予言」と題して、最後の最も重点がおかれている震災軽減法を棚上げにして、ただ大地震襲来の可能性ばかりを書き立てたのである。これが大問題になった。大森博士は先生に取り消しを求め、先生は釈明的の手紙を新聞に載せなければならなかった。
これだけならまだよかった。またもや困ったことが起こった。翌月二十四日の朝東京湾から強震を発して多少の被害があった。その日の午後中央気象台の名をかたって午後三時と五時の間に大地震があると各方面に電話で知らせた人間があったのである。何者の仕業か知れないが、悪いいたずらをしたものである。東京市内では大騒ぎになった。
大地震の予言が如何に大なる影響を及ぼすかを大森博士は痛感したのであろう。それから以後大森博士の攻撃は今村先生の地震予報に向けられた。もとより今村先生は右の地震騒ぎの張本人ではなかったが、さきに発表した東京大地震の予報を憎んだのである。大森先生は機会あるごとに「今村博士の東京大地震の浮説」、「例の二十万死傷説」といって痛烈にまた執拗に攻撃したものである。一方先生の親切な警告は私利をはかるための浮説とそしられ、大法螺吹きと嘲られもした。
先生は恩も忘れないが怨みも忘れない人である。大森先生に対する怨みは骨髄に徹した。自分の死後東京に大地震が起こったら墓前に報告せよと夫人に命じておいた一事でも、先生の憤激の程度がよくわかる。嘘ではない。先生の直話である。
これだけではない。またしても一つの問題が起こった。大正四年十一月大正天皇のご即位式が京都で行われた。ちょうどその時上総の東部から相次いで地震が起こり、数日間に六十五回に達した。大森博士は御大典参列のため不在、留守を預っていた先生は押しかけて来た新聞記者に向かって地震活動の経過を説明した上、「九分九厘までは安全と思うが、しかし精々注意を加えて火の元などは用心するに越したことはない」と当然すぎるほど当然の注意をしたところ、これが意外な反響を起こして中には野宿をした人もあったという。
このために急いで京都から戻った大森博士は先生の不謹慎を責める、先生は躍起となって弁駁する、両先生の間の溝はますます深くなるばかりであった。
さきに記したように、大森博士は先生の東京大地震予言を烈しく攻撃した。それでは大森博士は東京に大地震が起こらぬと確信していたのかというとそうではなかった。大正十二年の関東大地震を大森博士は豪州で知り急いで帰国したが、帰りの船中で自分の予想より六十年はやかったといったそうである。大森博士はまた大地震による水道鉄管の破損について東京市の当局者に再三警告を与えている。これも東京大地震を予想してのことである。要するに大森先生は賢明で今村先生は馬鹿正直ということに帰着するであろうか。正直者が馬鹿を見るのは昔も今も変わりはない。世の中には何をいっても無条件に承認される人もあり、何をいっても非難攻撃を浴びる人もある。大森先生は前者、今村先生は後者であろうか。
ある日筆者は成城のお宅に先生を訪ねた。先生は例の通り書斎兼応接間にどっかと腰掛けていたが、いつになく元気がない。話しかけてもろくに返事もなさらない。どうしたことかと不審に思っていると、やがて「今日は呂昇の祥月命日だ、今日が命日だということを思い出しているのは、親族を除くと私ひとりだろう。」というその言葉にも力がない。いかにも淋しそうである。
呂昇とは明治から大正にかけて、美貌と美声とをもって天下の義太夫愛好者を魅了した豊竹呂昇その人である。
それなら今日は呂昇のレコードをかけて故人をしのぶことにしては如何でしょうと筆者がいうと、先生急に元気づいて、ウンそれがいい、そうしようと、それから何枚ものレコードをきき、はては先生自身が朝顔日記の素語りをする。お暇をする時分には見ちがえるように元気になられた。
筆者が先生のお手伝いをするようになってから、この時ほど先生が心から喜ばれたことはなかったように思われる。いかに先生がお喜びになったかは、この呂昇をしのぶ集いが年中行事の一つになって、お亡くなりになるまで毎年続けられたことによっても想像できる。
話は四十年の昔にさかのぼる。濃尾大地震満二十五周年記念日の夜、先生は広島から大阪に向かう一等車にのっていた。車中に一人の老紳士がうとうと眠っている。どこかで見たことのある顔だなとは思ったが思いだせぬ。その中に銀杏返いちょうがえしの艶めかしい女客が乗り込んで来たが、老紳士を見より「アラ名和先生じゃございませんか」と言葉をかけた。先生はそれをきいて思い出した。その老紳士は昆虫で名高い名和靖氏であった。先生と名和氏とは濃尾大地震当時震災地で顔を合わせた以来の、しかも二十五周年記念日当日の奇遇であった。名和氏が「これが有名な呂昇です」といって女客を先生に紹介した。「ヘエー呂昇は男だと思っていたが女だったのですか」と先生は眼をみはったということである。
先生の先夫人は義太夫が好きで、呂昇をききに行きたいとしきりにせがんだが、先生はどうしても許さなかったという。そういうことがあったから、先生も呂昇の名前だけは聞いていて、一途に男性だと思い込んでいたのであろう。
先生の若いころは娘義太夫の全盛時代であった。しかし生活にゆとりのなかった先生は寄席に通うことも絶えてなかったのであろうが、それにしても当時全盛をきわめていた呂昇を男と思っていたのは少々ひど過ぎるようである。
その先生が一度呂昇その人に会い、夫人にうながされて彼女の義太夫をきくに及んで、たちまちにして義太夫狂になったのだから、思えば不思議な話である。
義太夫に凝り出した先生は呂昇をきくだけでは満足せず、呂昇吹き込みのレコードを買って、それを師匠として稽古を始めた。何しろ声量が豊富の上に大の凝り性ときているから進歩が早い。なおその上に呂昇の前で一段語って(大した心臓である)悪いところを直して貰うのだからめきめき上達したことはいうまでもない。夫人に三味線を習わせてお相手をつとめさせようとしたが、これは呂昇に止められた。家庭の仕事と芸は両立しませんからおよしなさいといわれたそうである。
先生夫妻と呂昇との交際はいつごろからいかにして始められたか、筆者は知らない。しかし汽車の中での初対面からまもなく始まったようである。呂昇の方でも先生を訪問する、先生もまた何回となく呂昇の自宅をたずねた。
東京で呂昇をきくだけでは満足が出来なかった。名古屋に滞在中たまたま呂昇が浜松へ巡業に来たので、わざわざ浜松まで出向いたこともある。欧州行きの船を門司で待ちあわすうち、博多まで呂昇に会いに行ったこともある。
ある年消防協会主催の講演会が大阪で開かれ、先生も講演者の一人として列席したが、帰京する段になって南海電車の駅前まで来ると、ぼくはここで失敬すると、呆気にとられている中村清二先生を置きざりにしてどこかへ姿を消してしまった。後になって呂昇に会いに行ったことが露見したそうである。
名古屋で呂昇の壺坂を聞いた時、語り口が従来と少し違っていた。後で宿屋に呂昇を訪ねて話がそのことに及ぶと、まだ東京でやる自信はありませんが、地方で試しにやって見ているところですという話、先生がその語り口について批判を始めると、呂昇はちょっと待って下さい、弟子を呼んで来ますからといって、弟子たちと一緒に先生の批評をきいたそうである。先生の批評が常に肯綮こうけいに中あたっていたからであろう。
先生が最後に呂昇に会ったのは、彼女の重態が伝えられていた時であった。面会して病気にさわってはという心づかいから、まず隣に住んでいる呂昇の令息をたずねて容体をきいた。令息がお目にかかっても大丈夫でしょうというので座敷に通った。その時令息は引退した後も母を訪ねて下さるのは先生だけですといったそうである。呂昇はすぐ出てきてお夕飯はときく。実はまだ食べていないと先生がいうと、彼女は自分の家に引き返しておかずを持って来てくれたそうである。
先生ご逝去の後、筆者は蔵書その他の整理に当たったが、その際呂昇の手紙十二通が一括して保存されてあるのを発見した。消印を見ると最も古いのが、大正七年、最も新しいのが昭和四年、大部分が巡業先からの短いたよりであるが、大正十五年七月二十六日附の手紙には、「引退後は淋しく暮らしております」と書いてある。この短い文句に当時の呂昇の淋しい気持がにじみ出ているようで哀れ深い。この手紙を書いてから四年後に呂昇は死んだのである。美しい声の持ち主であった呂昇も年にはかてず、声は衰え、一番弟子には背かれ、その上心臓が弱り、引退後は今村先生を除いては誰ひとり訪れる人もなく、多くの芸人の末路がそうであるように、ほんとうに淋しく死んで行ったのである。
先生と呂昇との交際は夫人も認めていた。はじめはむしろ夫人の方が主動的であったようである。先生と呂昇とがますます親密の度を加えていっても、別に家庭争議の種にはならなかった。先生の方では呂昇との間に一線を画していたし、夫人の方でも深く先生を信じていたからであろう。
先生は自から呂昇の弟子と称しそれを誇りとしていたが、実際は師弟の関係ではなくて、芸を通しての親しい友人関係にほかならなかった。二人の間に流れていたのは清らかな美しい友情であった。
とはいうものの、単なる友情とは少し異なる感情が先生の胸底に潜在していなかったともいわれないように思われるのである。
先生のお通夜には、生前のご希望によって、霊柩の前で呂昇のレコードをかけて先生の霊をお慰めした。
大正十二年九月一日先生は東大地震学教室で大地震に遭った。教室は三回も燃え上がったが辛うじて消し止め、搬出物の始末その他を済ませ、東大久保の自宅にたどり着いたのは翌二日の午前一時であった。
「自宅へ数町のところで夜警の青年団にひどい目にあったのはこの時である。それはこうである。自分は団員がどこへ行くかとの問に対して東大久保四十八番地に行きますと答えて通り抜けようとすると、いきなり後ろからえりをつかみ待てと大喝しながら五、六歩引き戻し、帽子を取らせ提灯をつきつけて五、六人の団員がかわるがわる顔を検査する。後ろからやっつけろという声が聞こえたようだったから、やっつけられては大変と考え、正直に地震学専攻の今村ハカセですと名乗った(わざとハクシとはいわなかった)。この名乗りは利き目があったらしく、やっつける気配がなくなったようである。しかし、しばらくいずれも無言であるから、団長たる特務曹長殿に恐る恐るまだ何かお取り調べがありますかときいたら首を振られた。もうよろしいのですかと聞いたらうなずかれた。それでようやく虎口を脱することが出来たのである。」
「大地震調査日記」には右のように書いてあるが、先生から直接伺ったところでは、「正×位勲×等理学博士今村明恒」と名乗ったのだと言う。この方が本当らしい。こんな名乗り方をしてよくやっつけられなかったものである。
大正十二年十二月二十六日東京大学教授に任ぜられた。それまでは本職は陸軍士官学校の教頭で、大学の方は無給の助教授であった。当時のある新聞に、「今村博士がやっと助教授から教授に昇進、地震驚いて、何だ、まだだったのか。」
大正十四年十二月十二日の朝日新聞に次の記事が掲載された。
「十一日夕方の地震で今村博士にお尋ねすると、博士は、こんな小さな地震が何です。こんなのにびくびくされる人々の無理解を私はむしろ憐れむべきだと思います。」
この言葉は何となく相手に好感を与えない言葉である。こういう口のきき方をするのは先生の一つの癖であった。場合によっては敵をつくることになったかも知れない。
かくいう筆者もいささかながらむっとした経験がないでもない。筆者の友人で今村先生の忠実な追従者であるTという人がある。ある時その人に今村先生は何を差し上げたら一番喜ばれるかと聞いて見た。Tのいうにはそれはコーヒーがいい、一番喜ばれるのはコーヒーだ。そこでコーヒーを持参したが、その時は何事もなく済んだ。他の機会に再びコーヒーを差し上げたら、先生じっと見ていたが、やがて口を開いて、「君の家にはコーヒーのなる木でも植えてあるのか。」それ以来筆者は先生にコーヒーを上げるのを止めた。懲りた。
先生は研究のかたわらよく書きよく講演した。大正十二年の震災当時だけでも、通俗雑誌に寄稿したものが四十篇、この外に遺漏がどのくらいあるか分からない。講演は神奈川県五六回、千葉県二三回、名古屋一回、大阪一回、東京に至っては先生自身も覚えていないほどの回数であった。
ある年先生のお伴をして静岡県海岸の某所に調査に行った。その時立ち寄ったある寺の住職は面白い坊主だった。彼いわく、この寺は檀家の数が少ないので住職がいつかない。昔から風呂桶寺といわれてきた。私は住職のかたわら雑貨商をやり易者もやる。こういう才能のない人間にはこの寺の住職はつとまりません。この坊主、来訪者が今村博士と知って、私は大正十二年の地震のお蔭で金儲けをしましたという。そのわけをきいて見ると、その土地の者で東京に行っている人が少なくない。その人々の家族が安否を心配して自分に卜うらなってもらいに来たものが沢山あったからだとのこと。後で先生はあの地震の時の講演料は最低二十円最高千円、原稿料と合わせて××円になったと話されたがその金額は今覚えていない。
ご前講演の光栄をになったことも一再に止まらなかった。昭和二年赤坂離宮において丹後地震調査の結果を講演した時には、両陛下をはじめ各宮様も御臨席になった。講演が終わって茶菓が供せられた時、陛下並びに側近者から色々な質問が出たそうである。ある側近者からつぎの大地震はどこから起こるかという質問を受けて、「それは今村命がけでなければ申し上げられません」と答えたので、陛下をはじめ列席者一同腹をかかえて笑い、皇后様も大きな声でお笑いになったそうである。夢中になってしゃべっている中、ふと気がついて見ると、食べかけのケーキが紅茶茶碗の皿の上にのっているし、卓布の上にはケーキのかけらが散乱している始末で、これには恐縮したそうである。
昭和四年十二月帝国学士院創立満五十年を機会に、会員一同にご陪食を賜った。ご陪食が終わってから桜井院長が一々会員の氏名と専攻学科を述べてご紹介申し上げた。
先生の番になった時、院長が氏名を申し上げようとすると、陛下はそれをお止めになって、「今村は度々地震の話をしてくれたからよく知っている」と仰せられた。先生はそのお言葉をきいて非常に感激して、帰宅してから左の歌を作った。
思いきやなが智利行はいかにぞと玉のみこえのかかるべしとは
身にあまる大御心の畏さをかくとえいわず下りけるかも
あなかしことうとしと思うばかりにてむくいまつらん言の葉ぞなき
最初の歌の中にある「智利行」とは、その年一月チリ公使館からチリ国政府では日本一流の地震学者を招聘して地震観測と震災予防に関する施設をしたいと申し入れがあったことをいったもので、陛下は新聞でご承知になって、これに関するご下問があったのであろう。
チリ行きの話は先方の都合で沙汰止みになった。
先生のおつむりは知る人ぞ知る、令弟明光医博とお名前を交換した方が適当かとさえ思われたが、連合軍総司令部に提出する資格審査調書の「傷痕特徴」の項をこっそりのぞいて見ると“Partially bald”と書きこんであった。「部分的禿頭」というとほんの一部だけが禿げているような印象を与えるが、先生の場合は実はその反対であった。しかも先生はいわく、「禿頭は無毛とは違う。細い毛が生えているんだ。」負け惜しみの強い人であった。
昭和二十一年十二月二十一日、友人の葬式から戻るや否や先生は服も着替えずいきなりラジオのスイッチを入れた。午後三時のニュースは南海道地震の状況を伝え始めた。先生は立ったままニュースにじっと耳をすましていた。ニュースが終わると同時に、「ああ十八年の苦心水の泡となった!」と憮然として長嘆息されたのである。
先生が落胆したのは無理もない。南海道沖から発生する大地震に先立つ数時間あるいは数日前に現れることが期待される前徴を捕らえようと、紀伊、室戸両半島の七カ所に設けてあった私設観測所は、資材欠乏のため観測中止を余儀なくされていた。その隙をねらったかのように大地震が起こったのである。次の機会は百年後でなければ来ない。その場にい合わせた筆者は先生を慰める言葉がなかった。
戦争が苛烈になり食糧事情はますます深刻の度を加えた。しかし先生は闇行為を憎んで断じて闇物資を買うことをしなかった。その代わり二百坪ほどの土地を借りて農耕を始めた。その土地は一面篠笹におおわれた荒地であった。誰一人手助けをするものなく全く独力でこの荒地を開墾することは、七十歳を越した先生にとって非常な重労働であったに相違ない。
研究心の強い先生は農事についても研究を怠らず、後には串竿と称する器具を考案し、それを使って雨天でも南瓜の受精が出来るようになった。
夫人は先生の過労を心配してしばしばとめられたが、先生は頑として聞きいれなかったそうである。たしかにこの労働は先生の体にこたえたに違いない。しかしこの菜園がなかったら、先生の生活は一層悲惨なものであったろうことも事実である。
戦争後の先生の生活は実にお気の毒な状態であった。かつて陸軍教授の職にあったため突然恩給が停止されたのみならず、前年度の恩給までも返納しなければならぬ羽目になった。先生の唯一の収入は少額の学士院の年棒のみになった。これでは先生夫妻が食べてゆかれるはずがない、先生には蓄財がなかったのである。及ばずながら筆者も先生のために奔走もしたが、世間は落ち目になった人には冷たい、にべなく断られてそれを先生に伝える時、先生の落胆した顔を見るのがつらかった。止むをえず、先生は不本意ながら令息等に援助を仰がなければならなかった。貧苦を忍んで長年両親に仕送りを続けた先生が、今や全く逆の立場におかれることになった。
地震予知委員会が成立した時の先生の喜びは大したものであった。非常な期待をもって参加されたが万事意の如くならず、最初の期待が大きかっただけ失望も大きく、ついに筆者に命じて和達委員長に辞表を提出せしめるような結果となった。
地震学会は先生によって創立され、創立後十数年活動を続けて来たが、ある事情によって会長の地位を去らねばならなくなった。そのことが地震学会の総会で決定されるや先生は黙って会場を出た。筆者もそれに続いて退場した。新宿でお別れするまで先生は一言も発しなかった。帰宅しても夫人に向かって「会長をやめたよ」と一言いっただけであったそうである。
文部省震災予防評議会が廃止されたので、先生はその代わりに財団法人震災予防協会を創立して理事長となった。はじめは事業に支障をきたさぬだけの資金を擁していたが、戦後のインフレによる貨幣価値の低落はたちまち協会の経済に大影響を及ぼすことになった。病床にあって先生が悩み続けたのはこの問題であった。
あれほど頑健な、あれほど負けぎらいな先生も、打ちつづく物質的精神的の打撃に疲れはて打ちひしがれてしまったのであろう。十一月下旬からどっと床につくようになった。
ある日筆者がお見舞いに伺うと、「あなたは私の研究も助けてくれた。経済上の心配もしてくれた。私のために防壁の役目もしてくれた。深く感謝します」とていねいに礼を述べた後、著書の未完成の部分を口授するから筆記してくれといわれる。おなおりになってからでもよいではありませんかといったが、五分間でもよいから口授を許してくれといって、「本邦大地震大観」の中の関東地震の部分を筆者に書きとらせた。
寒い冬だったが、病室に暖炉はおろか火鉢さえなかったのである。
十二月三十日に辛うじて床の上に起き上がって人に助けられつつ喜んでソバを食べたのが一生の食べ納めとなった。かくて昭和二十三年元旦の払暁、先生の悪戦苦闘の生涯は終わりを告げた。先生と親交のあった豊竹呂昇の末路と同じく淋しい最期であった。行年七十八歳。
呪うべきは戦争である。かの戦争がなかったら先生はまだ死ぬ人ではなかったと思われる。
昭和十一年に癌の疑いがあってくわしい検査を受けた時、医師は言った。あなたの生理的年齢は五十代であると、その時先生は六十六歳であった。田中館愛橘先生もつねづね俺の長寿の跡継ぎは今村だといっていたそうである。
あの戦争さえなかったならば、先生は恩給で安楽に余生を送ることが出来たであろう。多年の宿願であった南海道地震の前徴も首尾よく捕捉されて地震予知の上に一大貢献をなされたであろう。無理な労働をするにも及ばなかったであろう。また先生の胸を痛めた数々の忌わしい問題も起こらなかったであろう。
先生の死期を早めたものは疑いもなく戦争である。しかも戦争は、皮肉にもかつて陸軍士官学校において先生が親しく薫陶したその軍人たちによってひき起こされたのである。
この小文において筆者は主として「人間今村明恒」について記述して、「地震学者としての今村博士」については余り多く触れることをしなかった。先生の地震学上の業績については、先生の著書論文を見ればわかるし、またその方面の叙述には他に適当な人があると考えたからである。
先生によって発表されたものは、単行本十四冊、論文約六百篇、その他通俗雑誌に寄稿されたものに至っては先生自身も記憶しないほどの多数に上る。精力絶倫とは先生のために作られた言葉のようである。  
 

 

●東京・埼玉で10年ぶりの“震度5強” 首都直下地震との違いは  2021/10/7
7日遅く、千葉県北西部を震源とする地震があり、東京・足立区や埼玉県川口市などで震度5強の強い揺れを観測しました。東京23区で震度5強の揺れを観測したのは10年前に発生した東日本大震災以来で、気象庁は今後1週間程度は同じような揺れを伴う地震に注意するよう呼びかけています。この地震の特徴は、また想定される首都直下地震とはどう違うのか、詳しくお伝えします。
想定される首都直下地震とは違う?
今回の地震と国が想定する「首都直下地震」との関係について気象庁は、「今回の地震は想定されている首都直下地震より深い地震で規模も小さかった」と説明しています。「首都直下地震」は、政府の地震調査委員会が今後30年以内に70%の確率で発生すると推計しているマグニチュード7クラスの大地震です。内閣府の想定によりますと、東京が最大震度7の激しい揺れに襲われるなど関東南部で甚大な被害が発生し、最悪の場合、死者はおよそ2万3000人にのぼると想定されています。
気象庁「首都直下地震はもう少し浅くて大きな地震」
気象庁によりますと、今回の地震はマグニチュード5.9と推定され最大震度が5強だったのに対し、首都直下地震はマグニチュード7クラスで最大震度が7と想定され、一回り規模が小さくなっています。今回の地震と首都直下地震との関係について気象庁の束田進也地震津波監視課長は「想定されている首都直下地震はもう少し浅くて大きな地震で、今回はそれより深い地震で規模も少し小さかったというふうに考えている」と述べました。
プレート境界付近で起きた地震か
気象庁の地震津波監視課の束田進也課長は、今回の地震のメカニズムについて「岩盤が東西から圧縮されて起きた『逆断層型』と呼ばれる地震で、さらに精査する必要があるが、現時点ではフィリピン海プレートと太平洋プレートの境界付近で起きた地震ではないかと考えている」と述べました。その上で、「今回の地震が本震なのか、より大きな地震の前震なのかなどは、全体の地震活動が終わらないとわからない。ただ、過去の地震の評価から今後1週間程度、特に2〜3日の間は、今回と同じ程度の強い揺れを伴う地震に注意して欲しい」と話しています。
なぜ震源と離れた場所で震度5強
今回の地震で、最も大きい震度5強の揺れを観測したのは、震源地の千葉県北西部のある千葉県ではなく、東京・足立区や埼玉県の川口市などでした。これについて気象庁の束田進也地震津波監視課長は、「特別な地震の仕組みで起こったというより地盤が昔の川沿いだったり、周囲に比べて地盤が軟らかい場所のため、震度が大きめに出た」と説明しています。気象庁によりますと、今回の震源となった千葉県北西部では16年前の2005年7月にマグニチュード6.0の地震が発生していますが、この地震でも東京・足立区で最も大きい震度5強の揺れを観測していました。
地盤の“よしあし”どう知る?
「地盤緩いと言われていたけど、こんなに揺れるとは…」「地盤しっかりしているから大したことなかった」SNS上でこうした書き込みが相次いだ今回の地震。揺れを左右したのは震源からの位置に加えて地盤、とくに、地表に近い「表層地盤」でした。でも、地盤の“よしあし”は少し離れただけでも異なること、ご存じですか?最新の調査に基づく詳細なデータを確認してみてください。
「表層地盤」軟らかい粘土層など堆積 揺れ増幅されやすい
防災科学技術研究所が運用しているウェブサイト「J-SHIS」(地震ハザードステーション)はことし3月関東地方について、より現実に近いデータに更新されました。一般に、地震は地震波が届く距離が近いほど大きく揺れます。ただ、地盤の中でも地面に近い「表層地盤」に軟らかい粘土層などが堆積していると、揺れが増幅されやすいことがわかっています。
関東で行われた調査で「揺れやすさ」明らかに
これまでは地形に基づく分析でしたが、防災科学技術研究所はより実態に近づけるため、2014年から17年にかけて関東で調査を実施。「微動アレイ」と呼ばれる高性能な地震計を使いました。合計1万4000か所で行われた調査に、ボーリング調査の結果も加味して分析した結果、表層地盤の地質と、地震波の伝わり方、つまり「揺れやすさ」が明らかになりました。詳細なデータを反映させると、これまで見えてこなかった地域の特性が浮かび上がってきました。
震度5強を観測した足立区周辺も増幅率が大きい
従来のものと比較すると、利根川や荒川といった川沿いの地域で揺れの増幅率が大きくなっているのがわかります。今回震度5強を観測した足立区周辺も増幅率が大きいことが確認できます。一方、川沿いであってもそこまで揺れやすくなかったり、一般的に地盤がかたいとされている台地であっても、揺れが増幅されたりすることもわかったということです。東京の都心、文京区や台東区、荒川区の周辺では地域によって大きな違いが出ています。防災科学技術研究所は、今後ほかの地域でも調査を進めていくことにしています。
見方と注意点
注意しなければならいのは、増幅率がそのまますべての建物の揺れにつながるわけではない、ということです。建物には揺れやすい「周期」というものがあります。例えば、一般に低い建物は“がたがた”とした短い周期の揺れで揺れやすく、高い建物はゆっくりとした長い周期の揺れで揺れやすくなります。地震の揺れにはさまざまな成分が含まれていて、地盤の性質によって、増幅される揺れが異なり、軟らかい地盤が厚いと、周期の長いゆっくりとした揺れが増幅されやすくなります。つまり、固いとされる地盤だったとしても、揺れの周期と建物が持つ周期があう=共振が起きれば、建物の揺れは大きくなってしまうのです。建物の特性を把握しておくことも重要です。
「長周期地震動」 東京23区と千葉県北西部で階級2を観測
気象庁によりますと、今回の地震で、高層ビルなどがゆっくりと大きく揺れる「長周期地震動」が発生し、東京23区と千葉県北西部で4段階のうち下から2番目の階級「2」を観測しました。これらの地域の高層ビルの高層階などでは、物につかまらないと歩くことが難しく、棚にある食器類や本棚の本が落ちることがあるなど大きな揺れになった可能性があるということです。
“盛り土”も被害に影響することも
また、表層地盤以外にも被害を左右するものがあります。盛り土によって造成された宅地です。古い年代を中心に盛り土された宅地では、10年前の巨大地震を含め、これまで大地震で相次いで被害が確認されています。大規模なものなど、一定の条件を満たす場合は自治体が調査し、公開されています。盛り土だからといってすべて危険だというわけではありません。また、マップに示されていない盛り土でも被害が起きていますので、限界があることに注意が必要です。自宅や働いている場所、通っている学校の周辺がどうなっているのか、ぜひ一度確認してみてください。
気象庁「今後1週間程度 特に2、3日 地震に注意」
今回の震源付近では、8日午前5時すぎにもマグニチュード3.6の地震が発生し、東京・練馬区で震度2の揺れを観測しています。気象庁は、今後1週間程度、特に2、3日は、今回と同程度の強い揺れを伴う地震に注意し、倒れやすい家具を固定するなど対策をとるよう呼びかけています。また、揺れの強かった地域では、落石や崖崩れの危険性が高まっている可能性があるので注意してください。 

●関東大震災と酷似…?相模沖・巨大地震発生の予兆とは 2020/6/30
巨大地震が目前に迫っている、のかもしれないーー。
予兆は、6月4日に神奈川県の三浦半島で起きた異臭騒ぎだ。「ガス漏れのようなにおいがする」など500件を超える通報があったが、いまだ原因は分かっていない。「異臭の原因は海底から噴き出たガスだろう」と話すのは、考古調査士の資格を持ち火山や地震活動に詳しいジャーナリストの有賀訓氏だ。
「南関東の地下一帯には国内埋蔵量の8割を占める広大なガス田が広がっています。地殻活動が活発化することで、ガスが噴き出す。三浦半島に接する相模湾が震源だとされる関東大震災(1923年)の際にも、今回と同じ場所からガスが噴き出したことがわかっているんです」
関東大震災の記録を詳細に記した大正震災志(内務省社会局編)には、地震の直後に測量船で行った相模湾の地盤調査に関する地図がある。そこには、三浦半島突端の城ケ島付近と東部の浦賀で海底からガスが噴出したと書かれていた。
相模湾付近には、東日本を覆う北米プレートと西日本の南方に広がるフィリピン海プレートが接する相模トラフがあり、そのトラフは東西で太平洋プレートとユーラシアプレートに繋がる。4つのプレートが複雑に絡み合う場所のため過去に何度も大地震を引き起こしてきたが、いままたその兆候が高まっていると言う。有賀氏が続ける。
「2013年には三浦半島の城ケ島近くで最大6mの海底隆起が見つかり、その2年後には箱根の大涌谷で観測史上初となる噴火が起きました。伊豆半島沖でたびたび発生する群発地震や、最近増えている千葉や茨城などを震源とする地震も相模トラフ付近。ここを震源とする大地震は70年周期で起きるとされ、前回の地震からすでに97年が経過しています。いつ起きても不思議はありません」
立命館大学・環太平洋文明研究センターで災害リスクマネジメントを研究する高橋学氏も、2011年の東日本大震災以来続いてきた北米プレートと太平洋プレート境界での地震の傾向が変化していると言う。
「ここのところ相模トラフ周辺で起きる地震が目立つようになってきました。5月20日から22日にかけて、あまり地震が起きない東京湾で7度立て続けにマグニチュード(M)3前後の地震が発生し、その後、約2週間ずつ間隔を開けて三浦半島の異臭騒ぎ、千葉県南部を震源とするのM4.2の地震があった。その8日後の6月24日早朝に発生したのが千葉県東方沖での震度5弱の揺れです。地下の異常は、すべて地震につながっていると考えるべきです」
高橋氏は、相模トラフ周辺域で7月中旬にも大きな地震が来るかもしれないと予想する。
「あまり地震が起きない場所でM3前後が連続して起き、その後2ヵ月程度の静穏期を挟んだ後に同じ場所でM3程度の地震が起きたら要警戒です。半日から3日後にM6.5以上の地震が起きることが多い。阪神・淡路、新潟県中越、熊本、鳥取県中部地震などもそうでした。
もし7月20日前後に東京湾でM3程度の揺れがあれば、その直後に相模トラフの周辺で大地震が起きるかもしれません」
これらの警鐘が杞憂に終わることを願う一方で、周期を考えれば、巨大地震がいつ起きてもおかしくない状況にあることは確かだ。震災への備えだけは、忘れてはならないのだ。

●活発化する地震活動 「大地変動の時代」に入った日本 2020/4/27
日本全国で毎月のように震度3以上の地震が発生しているため、市民に不安が広がっている。地震が多くなったのは9年前の2011年に起きた東日本大震災からだ。気象庁が発表する地震活動のデータを見ても、昨年1年間に発生した「震度1以上」の地震は1564回と、東日本大震災以降に活発化したままだ。今回は私が専門とする地学の観点から、地震活動の原因と将来予測について分かりやすく解説しよう。
最も懸念されるのが首都圏に暮らす約3000万人を襲う「首都直下地震」である。首都圏の地下には「プレート」と呼ばれる厚い岩板が4枚もひしめいている。東日本大震災によってプレートのあちこちにゆがみが生じ、それを解消しようと地震が頻発している。震災前に比べ内陸地震は約3倍に増えており、我が国は言わば「大地変動の時代」に入ってしまったのだ。
現代と同じ地殻変動は1100年ほど前の平安時代にも訪れたことがある。西暦869年に東日本大震災と同じ東北沖の震源域で、貞観(じょうがん)地震という巨大地震が発生し、その後も全国で地震が頻発した。
その9年後の878年にはマグニチュード(M)7・4の内陸直下型地震(相模・武蔵地震)が起きた。これを現代に置き換えると2011年の9年後は2020年になる。もちろん、歴史年表を単純に足し算しただけで、その通り起きるわけではないが、首都直下地震がいつ起きても不思議ではないことは確かである。
国の中央防災会議は今後30年以内に70%という非常に高い確率で起きると予測しているが、その日時を前もって予知するのは不可能だ。ちまたには年月日を特定した地震予知ビジネスがあるが、日本地震学会は「科学的ではない」と明言している。よって、首都直下地震は不意打ちに遭うことを覚悟しなければならず、言わばロシアン・ルーレットの状況にある。
中央防災会議は、首都直下地震が起きる場所を19カ所特定しているが、その代表は「東京湾北部地震」で、M7・3の直下型地震が起きると予想している。なおMは地震の規模を表す単位で、これは1995年に6434人の犠牲者を出した阪神・淡路大震災と同じ大きさである。
東京湾北部地震は東京の下町付近の直下で発生し、東京23区の東部を中心に震度7の極めて激しい揺れをもたらす(図)。ちなみに、東京湾北部地震は江戸時代にも起きたことがある。幕末の1855年に安政江戸地震(M7・0)が発生し、4000人を超える犠牲者を出した。
こうした甚大災害に対しては、事前に予知できなくても「減災」の発想で被害を最小限に抑える準備を行う必要がある。

●161年前に起きた首都直下地震「安政江戸地震」 2016/11/11
161年前の首都直下地震
1855年11月11日(安政2年10月2日)午後10時ごろに、江戸を強い揺れが襲いました。安政江戸地震です。東京湾北部から江東区辺りを震源とするマグニチュード(M)7程度の直下地震と考えられています。今心配されている首都直下地震の一つです。旧暦の10月は神無月で、全国の神様が出雲大社に集まる月に当たります。大鯰を押さえつける要石で有名な鹿島神宮の祭神の武甕槌神(たけみかづちのかみ)が出かけて留守にしたために、大鯰が暴れて地震が起きたとも言われました。江戸では鯰絵が描かれたお札や瓦版が流行しました。
激動の時代に起きた安政江戸地震
江戸地震の起きたときは、社会も大地も動乱の時代でした。前年1854年には、7月9日に伊賀上野地震(M7.4)、12月23日に東海地震(M8.4)、翌24日に南海地震(M8.4)、さらに26日に豊予海峡地震(M7.4)が、1855年にも3月18日に飛騨地震(M6.8)、9月13日に陸前地震(M6.7)と続発していました。この時期は、黒船が来航し開国要求が行われた直後で、1854年3月31日に日米和親条約、10月14日に日英和親条約、1855年2月7日に日露和親条約が締結され、我が国は長い鎖国時代を終えたところでした。まさに、激動の時代に首都直下地震が発生したことになります。
下町で甚大な被害
地震での死者は、武士・町人合わせ7000人以上とされており、1万人を超えたとも言われています。中央防災会議の「災害教訓の継承に関する専門調査会」がまとめた「1855安政江戸地震報告書」(2004年3月)によると、青山、麻布、四谷、本郷、駒込の辺りの台地部の揺れはゆるく、御曲輪内、小川町、小石川、下谷、浅草、本所、深川の辺りが大きな揺れだったようです。とくに大手町から丸の内の大名小路で大きな被害を出しました。また、30数箇所で火災が発生し、新吉原では廓全体に延焼して1000人以上が死亡したようです。江戸城は堀端の雉子橋の多門櫓のみが大きな被害を受けただけで、日枝神社の被害も無かったようです。現在の紀尾井町に位置していた井伊家上屋敷の外まわりでも破損箇所は少なかったようです。このように武蔵野台地上の被害は軽微なのに対し、かつての大池、平川、ため池、日比谷の入り江だった場所の被害は甚大でした。このことは、大正関東地震(1923年9月1日、M7.9)と共通します。
尊王攘夷派から開国派へ
現在の小石川後楽園にあった水戸藩上屋敷では、屋敷が残らず崩れました。これによって、水戸藩の徳川斉昭を支える両田と言われた藤田東湖と戸田忠太夫が圧死してしまい、水戸の尊王攘夷派も力を失っていきました。そして、開国派の井伊直弼へと力が移っていきます。この背景には、井伊直弼と水戸斉昭の屋敷の地盤条件の違いがあると思われます。安政江戸地震の後、日米修好通商条約や将軍の継嗣問題に関して徳川斉昭と井伊直弼の対立が深まっていきます。そして、1858年に井伊直弼が大老に就任し、直後に、安政大獄事件で吉田松陰を処刑します。その後、徳川斉昭は失脚し、斉昭を推した島津斉彬も急死します。ですが、その井伊直弼も1860年に桜田門外の変で水戸脱藩浪士に命を奪われることになります。この間には、1856年には八戸沖地震が発生、9月23日には江戸を大暴風雨が襲いました。この暴風雨に関しては、「近世史略」に死者10万人余りとの記述もあります。さらに、1857年10月12日に芸予地震、1858年4月9日に飛越地震が発生し、コレラも大流行しました。そして、明治へと移っていきます。中学や高校の日本史の時間に災害の歴史も一緒に教えてもらえれば、私たち日本人の歴史観もずいぶん異なるものになり、災害を未然に防ぐことの大切さを実感できるように感じます。中央防災会議によれば、首都直下地震の予想被害は、最悪、死者23千人、全壊・焼失61万棟、経済被害95兆円と予想されています。2020年東京オリンピックやパラリンピックを控え、首都直下地震が懸念される中、大きな歴史の転換期に発生した安政江戸地震のことを思い起こし、首都の地震対策を一層進めていきたいと思います。
 

 


 
2021/10/7/pm10:41
 
 
 
 
 
                         東京千葉・埼玉 茨城 ・栃木・群馬
●2021
2021年10月07日22時41分頃 千葉県北西部 M5.9 5強
2021年10月06日02時46分頃 岩手県沖 M5.9 5強
2021年09月16日18時42分頃 石川県能登地方 M5.1 5弱
2021年05月01日10時27分頃 宮城県沖 M6.8 5強
2021年03月20日18時09分頃 宮城県沖牡鹿半島の北東20km付近 M6.9 5強
2021年03月15日00時26分頃 和歌山県北部 M4.6 5弱
2021年02月13日23時08分頃 福島県沖 M7.3 6強
●2020
2020年12月21日02時23分頃 青森県東方沖 M6.5 5弱
2020年12月21日02時22分頃 --- --- 5弱 (岩手県内陸北部)
2020年12月18日18時09分頃 伊豆大島近海 M5.0 5弱
2020年12月12日16時19分頃 岩手県沖 M5.6 5弱
2020年11月22日19時06分頃 茨城県沖 M5.7 5弱
2020年09月04日09時10分頃 福井県嶺北 M5.0 5弱
2020年06月25日04時47分頃 千葉県東方沖 M6.1 5弱
2020年03月13日02時18分頃 石川県能登地方 M5.5 5強
●2019
2019年12月19日15時21分頃 青森県東方沖 M5.5 5弱
2019年12月12日01時09分頃 宗谷地方北部 M4.2 5弱
2019年08月04日19時23分頃 福島県沖 M6.4 5弱
2019年06月18日22時22分頃 山形県沖酒田の南西50km付近 M6.7 6強
2019年05月25日15時20分頃 千葉県南部 M5.1 5弱
2019年05月10日08時48分頃 日向灘 M6.3 5弱
2019年02月21日21時22分頃 胆振地方中東部 M5.8 6弱
2019年01月26日14時16分頃 熊本県熊本地方 M4.3 5弱
2019年01月03日18時10分頃 熊本県熊本地方 M5.1 6弱
●2018
2018年10月05日08時58分頃 胆振地方中東部 M5.2 5弱
2018年09月06日03時08分頃 胆振地方中東部 M6.7 7
2018年07月07日20時23分頃 千葉県東方沖 M6.0 5弱
2018年06月18日07時58分頃 大阪府北部 M6.1 6弱
2018年06月17日15時27分頃 群馬県南部 M4.6 5弱
2018年05月25日21時13分頃 長野県北部 M5.2 5強
2018年05月12日10時29分頃 長野県北部 M5.2 5弱
2018年04月14日04時00分頃 根室半島南東沖 M5.4 5弱
2018年04月09日01時32分頃 島根県西部 M6.1 5強
2018年03月01日22時42分頃 西表島付近 M5.6 5弱
●2017
2017年10月06日23時56分頃 福島県沖 M5.9 5弱
2017年09月08日22時23分頃 秋田県内陸南部 M5.2 5強
2017年07月11日11時56分頃 鹿児島湾 M5.3 5強
2017年07月02日00時58分頃 熊本県阿蘇地方 M4.5 5弱
2017年07月01日23時45分頃 胆振地方中東部 M5.1 5弱
2017年06月25日07時02分頃 長野県南部 M5.6 5強
2017年06月20日23時27分頃 豊後水道 M5.0 5強
2017年02月28日16時49分頃 福島県沖 M5.7 5弱
●2016
2016年12月28日21時38分頃 茨城県北部 M6.3 6弱
2016年11月22日05時59分頃 福島県沖いわきの東北東60km付近 M7.4 5弱
2016年11月22日05時56分頃 --- --- 5弱 (福島県浜通り)
2016年10月21日14時07分頃 鳥取県中部 M6.6 6弱
2016年09月26日14時19分頃 沖縄本島近海 M5.6 5弱
2016年08月31日19時46分頃 熊本県熊本地方 M5.2 5弱
2016年07月27日23時47分頃 茨城県北部 M5.4 5弱
2016年06月16日14時21分頃 内浦湾 M5.3 6弱
2016年06月12日22時08分頃 熊本県熊本地方 M4.3 5弱
2016年05月16日21時23分頃 茨城県南部 M5.5 5弱
2016年04月29日15時09分頃 大分県中部 M4.5 5強
2016年04月19日20時47分頃 熊本県熊本地方 M5.0 5弱
2016年04月19日17時52分頃 熊本県熊本地方 M5.5 5強
2016年04月18日20時41分頃 熊本県阿蘇地方 M5.8 5強
2016年04月16日16時01分頃 熊本県熊本地方 M5.3 5弱
2016年04月16日09時50分頃 --- --- 5弱 (熊本県熊本)
2016年04月16日09時48分頃 熊本県熊本地方 M5.4 6弱
2016年04月16日07時23分頃 熊本県熊本地方 M4.8 5弱
2016年04月16日07時22分頃 --- --- 5弱 (熊本県熊本)
2016年04月16日07時11分頃 大分県中部 M5.3 5弱
2016年04月16日03時55分頃 熊本県阿蘇地方 M5.8 6強
2016年04月16日03時03分頃 熊本県阿蘇地方 M5.8 5強
2016年04月16日01時45分頃 熊本県熊本地方 M6.0 6弱
2016年04月16日01時44分頃 --- --- 6弱 (熊本県熊本)
2016年04月16日01時25分頃 熊本県熊本地方長崎の東90km付近 M7.3 7
2016年04月15日01時53分頃 熊本県熊本地方 M4.8 5弱
2016年04月15日00時03分頃 熊本県熊本地方 M6.4 6強
2016年04月14日22時38分頃 熊本県熊本地方 M5.0 5弱
2016年04月14日22時07分頃 熊本県熊本地方 M5.7 6弱
2016年04月14日22時06分頃 --- --- 6弱 (熊本県熊本)
2016年04月14日21時26分頃 熊本県熊本地方 M6.5 7
2016年01月14日12時25分頃 浦河沖 M6.7 5弱
2016年01月11日15時26分頃 青森県三八上北地方 M4.6 5弱
●2015
2015年09月12日05時49分頃 東京湾 M5.2 5弱
2015年07月13日02時52分頃 大分県南部 M5.7 5強
2015年07月10日03時32分頃 岩手県沿岸北部 M5.7 5弱
2015年06月04日04時34分頃 釧路地方中南部 M5.0 5弱
2015年05月30日20時23分頃 小笠原諸島西方沖 M8.5 5強
2015年05月25日14時28分頃 埼玉県北部 M5.5 5弱
2015年05月22日22時28分頃 奄美大島近海 M5.1 5弱
2015年05月13日06時12分頃 宮城県沖 M6.8 5強
2015年02月17日13時46分頃 岩手県沖 M5.7 5強
2015年02月06日10時25分頃 徳島県南部 M5.0 5強
●2014
2014年11月22日22時37分頃 長野県北部 M4.3 5弱
2014年11月22日22時08分頃 長野県北部 M6.7 6弱
2014年09月16日12時28分頃 茨城県南部 M5.6 5弱
2014年09月03日16時24分頃 栃木県北部 M5.1 5弱
2014年08月10日12時43分頃 --- --- 5弱 (青森県三八上北)
2014年08月10日12時43分頃 青森県東方沖 M6.1 5弱
2014年07月08日18時05分頃 石狩地方南部 M5.6 5弱
2014年07月05日07時42分頃 岩手県沖 M5.9 5弱
2014年05月05日05時18分頃 伊豆大島近海 M6.0 5弱
2014年03月14日02時06分頃 伊予灘 M6.2 5強
●2013
2013年12月31日10時03分頃 茨城県北部 M5.4 5弱
2013年11月10日07時37分頃 茨城県南部 M5.5 5弱
2013年09月20日02時25分頃 福島県浜通り M5.9 5強
2013年08月04日12時28分頃 宮城県沖 M6.0 5強
2013年05月18日14時47分頃 福島県沖 M6.0 5強
2013年04月17日21時03分頃 宮城県沖 M5.8 5弱
2013年04月17日17時57分頃 三宅島近海 M6.2 5強
2013年04月13日05時33分頃 淡路島付近 M6.3 6弱
2013年02月25日16時23分頃 栃木県北部 M6.2 5強
2013年02月02日23時17分頃 十勝地方中部 M6.5 5強
2013年01月31日23時53分頃 茨城県北部 M4.7 5弱
2013年01月28日03時41分頃 茨城県北部 M4.9 5弱
●2012
2012年12月07日17時18分頃 三陸沖牡鹿半島の東240km付近 M7.3 5弱
2012年10月25日19時32分頃 宮城県沖 M5.6 5弱
2012年08月30日04時05分頃 宮城県沖 M5.6 5強
2012年08月25日23時16分頃 十勝地方南部 M6.1 5弱
2012年08月12日18時56分頃 福島県中通り M4.2 5弱
2012年07月10日12時48分頃 長野県北部 M5.2 5弱
2012年05月24日00時02分頃 青森県東方沖 M6.0 5強
2012年04月29日19時28分頃 千葉県北東部 M5.8 5弱
2012年04月01日23時04分頃 福島県沖 M5.9 5弱
2012年03月27日20時00分頃 岩手県沖 M6.4 5弱
2012年03月14日21時05分頃 千葉県東方沖 M6.1 5強
2012年03月10日02時25分頃 茨城県北部 M5.5 5弱
2012年03月01日07時32分頃 茨城県沖 M5.4 5弱
2012年02月19日14時54分頃 茨城県北部 M5.1 5弱
2012年02月08日21時01分頃 佐渡付近 M5.7 5強
2012年01月28日07時43分頃 山梨県東部・富士五湖 M5.5 5弱
2012年01月23日20時45分頃 福島県沖 M5.1 5弱
●2011
2011年11月24日19時25分頃 浦河沖 M6.1 5弱
2011年11月21日19時16分頃 広島県北部 M5.4 5弱
2011年11月20日10時23分頃 茨城県北部 M5.5 5強
2011年10月05日23時33分頃 熊本県熊本地方 M4.4 5強
2011年09月29日19時05分頃 福島県沖 M5.6 5強
2011年09月21日22時30分頃 茨城県北部 M5.3 5弱
2011年09月07日22時29分頃 浦河沖 M5.1 5強
2011年08月19日14時36分頃 福島県沖 M6.8 5弱
2011年08月12日03時22分頃 福島県沖 M6.0 5弱
2011年08月01日23時58分頃 駿河湾 M6.1 5弱
2011年07月31日03時54分頃 福島県沖 M6.4 5強
2011年07月25日03時51分頃 福島県沖 M6.2 5弱
2011年07月23日13時34分頃 宮城県沖 M6.5 5強
2011年07月15日21時01分頃 茨城県南部 M5.5 5弱
2011年07月05日19時18分頃 和歌山県北部 M5.4 5強
2011年06月30日08時16分頃 長野県中部 M5.5 5強
2011年06月23日06時51分頃 岩手県沖 M6.7 5弱
2011年06月04日01時00分頃 福島県沖 M5.6 5弱
2011年06月02日11時33分頃 新潟県中越地方 M4.7 5強
2011年05月25日05時36分頃 福島県浜通り M5.1 5弱
2011年05月06日02時04分頃 福島県浜通り M5.3 5弱
2011年04月23日00時25分頃 福島県沖 M5.6 5弱
2011年04月21日22時37分頃 千葉県東方沖 M6.0 5弱
2011年04月19日04時14分頃 秋田県内陸南部 M4.8 5弱
2011年04月17日00時56分頃 新潟県中越地方 M4.8 5弱
2011年04月16日11時19分頃 栃木県南部 M5.9 5強
2011年04月13日10時08分頃 福島県浜通り M5.8 5弱
2011年04月12日14時07分頃 福島県浜通り M6.3 6弱
2011年04月12日08時08分頃 千葉県東方沖 M6.3 5弱
2011年04月12日07時26分頃 長野県北部 M5.5 5弱
2011年04月11日20時42分頃 茨城県北部 M5.9 5弱
2011年04月11日17時26分頃 福島県浜通り M5.6 5弱
2011年04月11日17時17分頃 福島県浜通り M6.0 5弱
2011年04月11日17時16分頃 福島県浜通り M7.1 6弱
2011年04月09日18時42分頃 宮城県沖 M5.4 5弱
2011年04月07日23時32分頃 宮城県沖 M7.4 6強
2011年04月02日16時56分頃 茨城県南部 M5.0 5弱
2011年04月01日19時49分頃 秋田県内陸北部 M5.1 5強
2011年03月31日16時15分頃 宮城県沖 M6.0 5弱
2011年03月28日07時24分頃 宮城県沖 M6.5 5弱
2011年03月24日17時21分頃 岩手県沖 M6.1 5弱
2011年03月24日08時56分頃 茨城県南部 M4.9 5弱
2011年03月23日18時55分頃 福島県浜通り M4.7 5強
2011年03月23日07時36分頃 福島県浜通り M5.8 5強
2011年03月23日07時12分頃 福島県浜通り M6.0 5強
2011年03月19日18時56分頃 茨城県北部 M6.1 5強
2011年03月16日12時52分頃 千葉県東方沖 M6.0 5弱
2011年03月15日22時31分頃 静岡県東部 M6.0 6強
2011年03月14日10時02分頃 茨城県沖 M6.2 5弱
2011年03月13日08時25分頃 宮城県沖 M6.2 5弱
2011年03月12日23時35分頃 新潟県中越地方 M4.4 5弱
2011年03月12日22時15分頃 福島県沖 M6.0 5弱
2011年03月12日05時42分頃 新潟県中越地方 M5.3 6弱
2011年03月12日04時32分頃 新潟県中越地方 M5.8 6弱
2011年03月12日03時59分頃 新潟県中越地方 M6.6 6強
2011年03月11日20時37分頃 岩手県沖 M6.4 5弱
2011年03月11日17時41分頃 福島県沖 M5.8 5強
2011年03月11日16時29分頃 三陸沖 M6.6 5強
2011年03月11日15時15分頃 茨城県沖 M7.4 6弱
2011年03月11日15時06分頃 三陸沖 M7.0 5弱
2011年03月11日14時46分頃 三陸沖 M7.9 7       ――東日本大震災――
2011年03月09日11時45分頃 三陸沖 M7.2 5弱
●2010
2010年10月03日09時26分頃 新潟県上越地方 M4.7 5弱
2010年07月23日06時06分頃 千葉県北東部 M5.3 5弱
2010年06月13日12時33分頃 福島県沖 M6.2 5弱
2010年03月14日17時08分頃 福島県沖 M6.6 5弱
2010年02月27日05時31分頃 沖縄本島近海 M6.9 5弱
2009年12月18日08時45分頃 伊豆半島東方沖 M5.3 5弱
2009年12月17日23時45分頃 伊豆半島東方沖 M5.3 5弱
2009年08月13日07時49分頃 八丈島東方沖 M6.5 5弱
2009年08月11日05時07分頃 駿河湾 M6.6 6弱
2008年09月11日09時21分頃 十勝沖 M7.0 5弱