底なし沼

全国の底なし沼

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底なし沼伝承の面白さ 引きずり込まれました
 


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外国童話底なし沼諸話神社と神様の雑話・・・
 
 北海道

 

●アイヌ伝説・水神龍王神社 旭川市忠和
ある家に代々伝わる妖刀がありました。
その刀が急に暴れだし、家々を襲ってはケガ人を出したそうで、山に捨てても川に捨てても、刀は家に戻ってくるので、巨大な立石のそばの崖の上にあるチャシ(聖地)で刀を鎮める祈りの儀式をしたのです。
立石のそばに底なし沼の跡があり、その底なし沼に刀を沈めると沼は泡立ち、恐ろしい様子に変わったそうです。
その時、立石の上にエゾテンの姿になったカムイ(神様)が現れました。
それを見た人々が「祈りが届いたのなら、力をお示し下さい。」と云うと、巨大な石は二つに割れました。
人々がカムイに「底なし沼に、この妖刀の魔力を捧げます。」と云うと、沼は刀を受け入れてブクブクとした泡は、無数の蛇となり静かになったのです。
刀には悪いカムイが宿っていたのでしょう・・・

●底なし沼 旭川市
昔、ある集落に代々先祖から受け継がれてきた妖刀があり、「どんなことがあっても開いてはいけない」と言われていました。
しかしある日、その妖刀が光りだし、集落に災いが続くようになったんです。
人々は神の助言を受け、底なし沼の近くにある大きな岩の上に祭壇を作り、祈ったそうです。
そこに山の神が現れ、人々は「この魔力をあげるから災いをなくしてほしい」と、妖刀を沼に投げ込みました。
すると災いは起こらなくなったんだとか。

●龍神沼 稚内市
坂ノ下神社のすぐ横には沼が横たわっています。
昔、材木屋が付近から切り出した材木を沼に入れておいたところ、数日後、ひとつ残らず消え失せてしまいました。ところがその材木が、海を隔てた利尻島の姫沼に浮かんでいたというのです。つまり、竜神沼は底なし沼で、姫沼と繋がっているのだ、と。

竜神沼は底なし沼なのか、否か。実は答えはすでに出ています。竜神沼は、残念ながら底なし沼ではありません。以前調査したところ、水深3メートルほどしかなかったということでした。とはいえ、丘の中腹に建つ坂ノ下神社と竜神沼は、そんな伝説が残っていてもおかしくない独特の雰囲気を醸し出しています。利尻富士が見える絶景にも出会えるので、近くを通りかかったら立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

●カムイコタン 旭川市・神居古潭
昔、カムイコタンに住んでいた魔神《ニッネカムイ》が、山の上から大岩を転げ落として石狩川を堰き止め、鮭の遡上を止めて上流に住むアイヌ民族を困らせました。
これを見ていた山の神が大急ぎで、《ニッネカムイ》の転がした岩の半分を爪で引掻いてこわし、どうにか水流れるようにしました。山に戻った《ニッネカムイ》はアイヌ民族たちが困っているだろうと見下ろすと、せっかくの岩を山の神がこわしているので、真っ赤になって怒り、山の神に襲いかかりました。
これを近くで見ていた《サマイクルカムイ》の妹が、空知に行っていた兄に大急ぎで知らせました。これを聞いた《サマイクルカムイ》は怒って駈け戻り、山の神に加勢して大岩を取り除こうとしたので争いになりました。《ニッネカムイ》はついにたまりかねて逃げ出しましたが、泥にぬかってしまいます。その足跡が《オラオシマイ》(鬼の足跡)、そのときに《サマイクルカムイ》が刀で切りつけた跡が、《エムシケシ》(刀の傷)として残っています。さらに逃げる《ニッネカムイ》を追って《ハルシナイ》(食料のある沢)を過ぎて《パンケアッウシナイ》(川下のオヒョウニレ群生する沢)の川口でとうとう首を切り落としました。《ニッネカムイ》の胴体はそこで大岩になって残っています。切り落とされた首はその対岸に飛んでサイクリングロード下に奇怪な形の大岩となってどかっと坐っています(ニッネカムイサパ魔神の頭)。《ニッネカムイネトパケ》(魔人の胴体)は、落石の危険防止のためとなっている。また、その前の川の中には低い岩が散らばっており、これが魔神のあばら骨です。《サマイクルカムイ》は、《ニッネカムイ》が投げ込んだ大岩を取り除き、川には再び鮭が上れるようになりました。

●イペタム・スマ(人食刀岩)と、アサムサクト(底なし沼) 上川地方
昔、上川コタンの《コタンコロクル》(首長)の家に、一つの刀が《キナ》(ゴザ)に包まれて《カムイ・プヤラ》(神窓)の上に吊り下げられていましたが、代々先祖から「これは妖刀である。どんなことがあっても開いてはならない」と言い伝えられていました。
ところがある夜、怪しい光とともに妖刀は《カムイ・プヤラ》(神窓)から音もなく姿を消し、朝になると刀は何事もなかったように《キナ》(ゴザ)の中に収まっていました。このようなことが何日も続き、《コタン》(集落)では、人々が不可解な切り傷によって死ぬという事件が続きました。
途方に暮れた《コタンコロクル》(首長)が妖刀を山深くもっていって捨てても、カムイコタンの深みに沈めても、刀は家に戻り相変わらず人々を襲いました。
《コタンコロクル》(首長)は、《カムイ》(神)へ祈りながらも疲労のためいつしか眠りについてしまいました。すると、夢の中に、白髪の神と黒髪の神が現れてこう言ったのです。
「妖刀から《コタン》(集落)を守るには、《チウペッ》の《ホトゥイェパウシ》(いつも大声で呼びつけている所)の崖下に沼があり、その岸に赤い岩がある。その大岩の下に《ヌサ》(祭壇)を設けて妖刀を祀って心こめて祈りなさい。そうすれば、私たちが助けよう」
早速、《コタンコロクル》(首長)は夢のお告げの通りに《ヌサ》(祭壇)を作り、刀を祀って命がけで祈りました。すると、ものすごい轟音とともに岩が二つに割け、沼には湧きかえって白波がたち、異様な気配が漂ったのです。そのとき、《コタンコロクル》(首長)が「この刀が《コタン》(集落)にあってはアイヌ民族が滅びてしまう。アイヌ民族のために、この魔力を水神であるあなたに預けるから、しっかりと預かっていただきたい。もしこの願いを聞き入れてくださるなら、この刀を投げ入れるから、今、風もないのに沼に立っている波を消して誓って下さい」と言って、刀の包みを沼に投げ入れました。すると、異様な気配はすっかりなくなり、白波だと思っていたものは幾千としれぬ白蛇でした。それから、《コタン》(集落)には平和が戻りました。
夢に現れた白髪の神は竜神のお使い、黒髪の神は山の神のお使いであったことを悟った《コタン》(集落)の人々は、以後、この赤岩でお祭りをするようになりました。
そして妖刀を呑んだ沼を《アサム・サク・ト》(底なし沼)、赤岩を《イペ・タム・シュマ》(人食い刀の岩)と呼ぶようになったのです。

●まりも 釧路市・阿寒湖
昔、阿寒湖に《ペカンペ》(水・の上に・あるもの=菱の実)が群生していました。《ペカンペ》(菱の実)はアイヌ民族にとって、大事な食料でした。ところが、《トコロカムイ》(湖・の・神)は、《ペカンペ》(菱の実)が湖一面にはりつめると、湖が汚れて見苦しくなり、アイヌ民族が《ペカンペ》(菱の実)を取りにきて汚れるからと、《ペカンペ》(菱の実)を快く思わず、絶えず虐待しました。
《ペカンペ》(菱の実)は、「仲間を増やしてアイヌ民族の役に立ちたいから」と懇願しましたが、《トコロカムイ》(湖の神)に、にべもなく断られてしまいました。それで、《ペカンペ》(菱の実)は大いに怒って、そこら一帯の藻をかきむしり、それを丸めて湖の神向けて投げつけて、自分たちはさっさと塘路湖《トー・オロ》(湖・のところ)に引っ越してしまいました。その丸めた藻が、今日言うところのマリモ(鞠の形をした藻)となったのです。

●有珠山の噴火 伊達市洞爺湖町・有珠山
昔から静かな大地、静かな村を領していました。ある日、地震が起こって大地が揺れるに揺れました。私は山の様子をみていましたが、何日も、何日も、地震がおさまらないので、村の住人である子どもや《フッチ》(おばあさん)、《エカシ》(おじいさん)たちを避難させました。しかし、《アブタ》(虻田)のかしら(村長=むらおさ)は「わたしが避難させた」と言っても村人を避難もさせないでいたのでした。ところが恐ろしいことに真夜中に噴火が起こり、熱湯が村中を飲み込み、岩とともに火が下り、《アブタ》の村を飲み込んでしまいました。村は破壊され、一人の人間も避難させなかったことから、全部消されてしまい何もかもが無くなりました。噴火が起きて《アブタ》の村から逃げ、海に逃げたものは、あわてて海へ飛び込み頭が焼け、海の底に潜ったものは哀れにも海水を飲んだのか腹を膨らませて死にました。死んだものたちが浜一面に引き上げられ、《ウソロ》(有珠)の村はひどく破壊され、めちゃめちゃに焼かれ、家は燃えた木片が半分ぶら下がり、跡形もなく燃えてしまったものもあって、《アブタ》の村はすっかり消えました。
そのようななか、《アブタ》の村、《フレナイ》(虻田)の村を治めるかしらが見つからないのを私は不思議だと思って、毎日、かしらを探しましたがわかりません。《フレナイ》(虻田)の住人で逃げきれたものたちも、かしらが生きているのか死んでいるのかわからないので、皆で泣いて《リミムセ》(叫び声)をしましたが、どうしたものか行方がわからないのです。そうしているうち、《ペペ》(ベンベ/豊浦)という村に逃げた人たちも自分の村に二人帰り、三人帰り、次々と村に戻りました。村へ戻ると《フレナイ》(虻田)の村のかしらが、生前の姿のままで山へ向きながら座っていました。座って神に祈っていたのです。アイヌ民族も和人もびっくりして口をおさえ、鼻をおさえ、哀れみました。和人が近くに寄って「かしらよ、達者でいたのか」と言いながら杖で突きましたが、そのまま座っています。灰だらけで座っているのです。いつ、焼けたのか、生きているものと同じように、かしらも奥さんも座っています。虻田の村がどうなったのかと心配したアイヌ民族たちや助かったアイヌ民族たちが泣きながら威嚇行進をおこないました。《ペペ》(豊浦)の村、《レプンケ》の村の焼け殺された人びと全員の魂が、死んだ魂が神のところにいけるよう長老たちが神に語り、神に呼びかけました。
そうしていると、山(有珠山)を鎮めるために《ウェイシリ》の上から神が立ち上がりました。その神に続き《フレスマ》から《レプンケプ》から《ペぺ》(豊浦)の岬からと、辺りの山の上、岬の上からたくさんの神々が立ち上がって山へ攻撃しています。稲光とともに宝刀が大きく揺れ、切り合ってでもいるように神々が戦いました。山の神が弱まったらしく、何の音もなく地震もすっかりおさまりました。
《アブタ》や《ウソロ》(有珠)の村も噴火ですっかり消えましたが、新しいかしらが仲間を分けて、方々に村をつくりました。アイヌ民族たちは《フレナイ》(虻田)の村に集まり、村をもってたくさんの酒を造り、神に返礼し、方々の神々に祈りを捧げました。噴火によって死んだアイヌ民族たちの魂、その留まる魂の鎮魂のためにも酒を造り祈りました。「だから私は今でも《ウェイシリ》の神に祈りますよ。《レプンケプ》の神々、方々のたくさんの神々全部に祈ります。だからお前たちも覚えておきなさい。今は長いこと山が噴火することもないが、おまえたちも気をつけなさい」と。私はもう死ぬので、仲間たち、子孫たちに教えたのだと《フレナイ》(虻田)の村長が言いました。
※『物語虻田町史』によると、有珠の再噴火は、1663(寛文 3)年、1768(明和 5)年、1822(文政 5)年、1853(嘉永 6)年、1910(明治 43)年、1943(昭和 18)年、1977(昭和 52)年が記録されており、1822( 文政 5)年文政の噴火の頃に「この時の噴火で、今の新漁港を中心としてあった《アブタ》は壊滅的な打撃を受けて《トコタン》(廃村)と呼ばれるようになり、会所も今の神社の横に移り、ここは本来《フレナイ》の《コタン》(集落)のあった所であるが、名前は前の《アブタ》をそのままとって現在の地名《アブタ》とした」とあります。遠島氏の伝承でも噴火のために《アブタ》のコタンがすっかり消されてしまったと謡われていることから、文政の噴火を知る先祖から伝えられた話だと思われます。

●「カムイラッチャコ(御神火)と登別温泉の神 登別市・登別温泉
白老《コタン》(集落)から見て西方、登別温泉の方向に当たって、昔は時々不思議な火が見えることがありました。アイヌ民族は《カムイラッチャコ》(御神火:ごしんか)と呼び、悪疫流行のお告げとしてとても警戒しました。登別温泉の神は病を治す神でありますから、悪疫流行の兆しがあれば山に火を点じ、あらかじめ知らせてくれるのだと言い伝えられ、この火を見れば疫病除けの祈りをしたといいます。白老アイヌは登別温泉の神を《ヌプルペッカムイタプカシエヌプルカムイ》「登別の聖なる山頂を守る神」と称し、神の中でも特に大切な神として《ヌサ》(祭壇)に祀ったといいます。
昔、《アイヌモシリ》(人間の国)に一人の女の子が生まれました。その子は世にも珍しいほど神々しく上品で綺麗な子どもで、両親の愛もまた一通りでありませんでした。村の人たちもこの子が成長したらどんなに美しい《ピリカメノコ》(美しい娘)になるかと、寄ると触るとその噂で持ちきりでした。しかし、6、7歳の頃からガンベ(皮膚病の一種)にかかり頭から顔まで一面にひろがり、いろいろと手当てもし、あらゆる薬もつけましたが、治る様子もなくひどくなる一方で、両親はもちろん村の人びとも《カムイノミ》(神への祈り)を続けましたが、それも効き目がなく、後には目まで腐ってしまい二目と見られない形相となりました。
この女の子が 17、18 歳になる頃、ある日、神隠しにでもあったように姿を消してしまいました。手を尽くして方々探したが、どこへ行ったか杳として消息がわかりません。多分醜い自分の容姿を恥じて行方をくらましたのだろうということになり、両親も泣く泣く諦めていました。しかし、これは神があまりに女の子が綺麗なため、このままにしておいて人間の垢をつけられるのは惜しいと思い、病気でもガンベでもないのに他の人々の目にはガンベに見えるようなさったことで、行方不明になったのも神の国に呼び寄せられ、その神の妻になったからだったのです。
神の国で 6 人の女の子を生み、やがてその子たちが大きくなって、それぞれ神様の所にお嫁に行きました。長女は《ヌプルペッ》(登別)の奥の高い山にいてこの付近を守る神様となり、母が人間世界にいるとき、病気と見られ長い間苦労したのを思って、この登別温泉の主となり、世の多くの人たちのあらゆる病気を治してやる神となりました。以来、アイヌ民族はヌプルペッ温泉に入浴する場合、必ずこの神に《イナウ》(御幣)を捧げ、病気全快を祈祷した後、入浴するのが習慣となりました。登別温泉はこの神のご利益で何病にも効きますが、ことに母神の病気であった皮膚病には効験が一層あらたかであると言い伝えられています。
なお、妹たちも、次女は小樽の祝津、三女は積丹のお神威、四女は《エンルム》(室蘭の絵鞆)、五女は室蘭の地球岬、六女は《ヤンゴウシ》(矢越)に皆それぞれ嫁ぎ、そこの守護神となったといいます。

●日高地方に伝わるアイヌの民話 日高地方
プクサの神の怒り
ある村に心がけの良い働きものの娘がいました。
畑で仕事をしていると、萩(はぎ)の神が娘に、村長(むらおさ)の家に行くようにささやきました。急いで行ってみると、村長の妻は重い病気になり、たったいま亡くなったばかりのところでした。すると今度は、その家の鍋(なべ)の神が娘に、村長の妻が死んだ理由をそっと教えてくれました。
それは、村長の妻が、山で《プクサ》(ぎょうじゃにんにく)やほかの山菜をとるときに、いつも根だやしにとりつくしたので、《プクサ》(ぎょうじゃにんにく)の神が怒り、誤りに気づかせようと重い病気にしたからだというのです。
これを聞いた娘が、鍋の神が教えたとおりのおまじないをし、《プクサ》(ぎょうじゃにんにく)の神の怒りをしずめると、村長の妻を生き返らせることができました。
助かった村長の妻は、娘の話を聞き、自分がしたことを悔いあらためました。
また、そのあと、娘はとても豊かになり、一生幸せに暮らしたということです。
娘はよく働くうえに心がけも良く、山に山菜をとりに行っても、《プクサ》(ぎょうじゃにんにく)などをとりつくすようなことは決してしなかったので、いろいろな神が助けてくれたのでした。
だから、山菜とりに行っても、全部を根だやしにとるようなことをしてはいけませんよ。
このように、アイヌ民族の昔話には、自然を大切にする精神を教えるものが多いのです。みなさんも、村長の妻のようには、ならないようにしましょうね。
キツネのチャランケ(談判)
サケが川をたくさんのぼってくるようなった秋の夜のこと、《アイヌコタン》(村)の長(おさ)が川辺を歩いていると、なにやら声がします。だれだろうと月明かりをたよりに目をこらすと、そこにいるのは一匹のキツネでした。キツネは村長に何かを訴えたがっている様子です。不思議に思いながらも耳をすましてよく聞くと、キツネが言いたいことがわかってきました。それは、こういうことだったのです。
「アイヌよ。人間よ。よく聞け。きょうのひるごろ、おまえたちアイヌがとっておいたたくさんのサケの中から一匹だけちょうだいした。それに気づいた一人のアイヌが、聞いたこともないような悪い言葉でののしった。それは、人間が言えると思うありったけの悪口だった。そのひどい言葉は、まるでどす黒い炎のようにおそいかかってきたのだ。
それにしても、サケは人間がつくったものではあるまいし、キツネがつくったものでもあるまい。川辺で暮らしている生き物たちのために、神がたくさんのぼらせているものを、腹をすかせたキツネが一匹とったからといって、あの仕打ちはひどすぎるのではないか」
これを聞いた村長は、キツネの言い分ももっとだと思いました。そして、朝になるとキツネの悪口を言った者を呼び、キツネの話を伝えてしかり、これからはそのようなひどいあつかいをしないように教えさとしました。また、村人が皆で《イナウ》(御幣)とお酒をキツネの神に捧げて、ていねいなお祈りをし、サケを自分たちだけのもののようにしたことをわび、これからはそのような振る舞いをしないことを誓いました。
「だから今いるアイヌたちよ、魚や木の実は決してわたしたち人間だけが食べるものと考えてはいけない、と年老いた村長が語りながらこの世を去りました」。昔話の多くが、このような言い方で教訓を伝えながら終わります。
サケなどの自然の恵みをほかの動物たちとも共有しようという、また一匹のキツネの主張に対してもまともに耳を傾けようとする、アイヌ民族の伝統的な精神を伝えているお話の一つですね。
また、このような守るべき精神道徳をそなえた人を《アイヌ ネノアン アイヌ》、つまり「人間らしい人間」と呼んで尊敬するのが、アイヌ民族の考え方なのですよ。
 

 

●北海道の伝承
神威岩
ニセコ積丹小樽海岸国定公園にある神威岬は、北海道の観光スポットの中でも指折りの存在である。岬の付け根に位置する駐車場からは、岬の尾根伝いに続く遊歩道を経て突端に達する。日本海に面した岬から見える海の青さは格別で、通称「積丹ブルー」と呼ばれる。その美しい青い海の中にそそり立つ奇岩が神威岩である。この自然の造りだした奇跡のような岩には、当然のように不思議な言い伝えが残されている。平泉で自害したとされる源義経であるが、実は生き延びて北へ逃れ、津軽から蝦夷地に渡ったという伝説がまことしやかに残されている。この神威岩にまつわる言い伝えも、この義経にまつわるものである。蝦夷に渡った義経主従は、平取(びらとり。現在の沙流郡平取町)のアイヌの長の許に身を寄せた。その長の娘であるチャレンカは義経と恋に落ち、将来を誓い合うのであった。しかし義経は蝦夷に留まる意思はなく、遙か彼方の中国大陸を目指して新たな旅に出ようとしていた。そこで義経はチャレンカに黙って平取を去り、海伝いに積丹半島へと移動したのである。チャレンカは義経がいないことに気付くと、その後を追って積丹半島へ向かった。そしてようやく神威岬にまでたどり着いたが、義経一行は既にそこから船に乗って中国大陸へと旅立ってしまっていたのである。それを聞いたチャレンカは泣き崩れると、もはや平取に戻ることもなく、そのまま神威岬の突端から身を投げた。すると、その遺体は石と化したのである。それが神威岩が出来た由来であるとされている。チャレンカの義経に対する愛情は、激しい嫉妬の執念となって人々に危害を加えた。この岬を女性を乗せた船が通りかかると、海が荒れて船そのものを転覆させるという伝説が広まった。そのために、この岬一帯は女人禁制の地とされるようになった(駐車場から遊歩道に入る入口にある古めかしい門が、女人立ち入りを禁止として設けられた門である)。また同様に和人を乗せた船もこの近くを通ると転覆すると言われていた。いずれもチャレンカが死の間際に叫んだ呪いの言葉によるものとされている。
源義経の北行説 / 平泉で死んだされる義経であるが、平泉から北の各地に義経一行が北へ向かって逃避行を続けたという伝説が残されている。そして北海道にも渡ったとされ、平取町や積丹半島にその伝説が残っている。さらに義経は中国大陸に渡って、その後、チンギス・ハンとなったという説が、大正時代以降に小矢部全一郎によって提唱された。
萬念寺 お菊人形
“髪の毛が伸びる人形”という怪異の1ジャンルを確立したと言っても間違いない「お菊人形」が安置されている。ただ寺そのものは、北日本でよく見かける、ごくありふれた建物であり、この物件がなければ集落の檀家だけが訪れるだけの何の変哲もない寺院だったろうことは想像に難くない。お菊人形にまつわる寺の公式な由来は、以下の通りとなる。大正7年(1918年)8月に札幌で開かれた大正博覧会で、当時17歳だった鈴木永吉が、3歳の妹の菊子のためにおかっぱ頭の人形を買ってやった。菊子はそれを気に入って、寝床まで持って一緒に寝るほど可愛がった。しかし翌年1月に菊子は風邪が元で急死する。人形は、棺に納められるのを忘れたため、遺骨と共に仏壇に飾られたのであるが、いつしかおかっぱのはずが肩まで髪の毛が伸びてしまっていた。昭和13年(1938年)になって、鈴木家は北海道を離れ樺太に移ることとなり、萬念寺にこの人形を預けた。戦後、追善供養のために戻ってくると、人形の髪の毛はさらに伸びており、菊子の霊が宿ったものとしてそのまま萬念寺に納めて永代供養を頼んだのである。ところが、小池壮彦のレポート(宝島別冊415『現代怪奇解体新書』所蔵)によると、この人形にまつわる怪異譚の初出は上のものとは全く異なる。昭和37年(1962年)8月6日号の『週刊女性自身』によると、この人形は昭和33年(1958年)に鈴木永吉の父の助七が寺に預けたものであり、その後助七は本州へ出稼ぎに行って帰ってこなかったという。また人形の髪の毛が伸びているのを発見したのは住職で、預かってから3年ほどして夢枕にずぶ濡れの助七が現れて「人形の髪の毛を切って欲しい」と伝えたため、不審に思って見つけたということになっている。しかもこの人形を大切していた子供の名前は菊子ではなく清子となっている。ところが昭和43年(1968年)7月15日号の『ヤングレディ』では、上の週刊誌記事を書いた同一の記者が最初とは全く異なる来歴を紹介している。大正7年(1918年)大正博覧会で鈴木助七が買った人形を娘の菊子が可愛がっていたが、娘は急死。昭和13年(1938年)に樺太の炭鉱に出稼ぎに行くことになった助七が萬念寺に人形を預けた。そして昭和30年(1955年)になって、住職が掃除をしている最中に、髪の毛の伸びていた人形を発見して供養したという展開になっている。最終的に、萬念寺公式の由来と同じ内容となるのは昭和45年(1970年)8月15日付の『北海道新聞』に掲載されたコラムからであり、それ以降は異説は全く登場してこなくなる。“髪の毛が伸びる”という事実に対しても、合理的な理由が考えられ、超常現象ではないという見解も採られている。特に有名のものは、この種の日本人形の植毛方法は1本の長い人毛を半分に折って2本の髪の毛としてくっつけるために、経過年によって折られた髪の毛がずれて一方だけが長くなるという推論がある(ただしこの論が正しいと、人形の髪の毛の総数そのものが減り、見た目の髪の量が減るはずである)。また寺によると、髪の毛が伸び続けるので年に1回の割りで供養として髪を切って揃えているとしている。しかし、残念ながらその切り揃えられた人形の写真が公開されたという話は聞かない。さらに過去と最近の写真を比較すると、伸びている髪の毛の長さが変わっていないと判断せざるを得ないものが殆どである(近年になって髪の毛の伸びる速さがかなり鈍っているという説明がなされているが)。率直に言うと“髪の毛が伸び続けている”という説明はかなり厳しいものがある。そしてお菊人形の怪異として挙げられるもう1つの特徴は“口がだんだんと開いていく”という内容である。写真で見ても判るように、お菊人形の口はわずかに開いている。本によっては“開いた口から歯のようなものが見える”という記述まである。こちらも初めは口を閉じていたとされるが、それに類する写真は見たことがない。写真によって口の開き方が若干異なるように見えるものがいくつかあるが、果たしてどこまでが真実かを判定するには少々難しいところである。萬念寺を訪れて実物を見ると、写真で見た時よりも愛くるしい人形という印象を受けた。魂が入っているため“写真に撮られることを嫌って”写りが悪くなるそうである(それ故写真撮影も禁止である)。最早合理的な説明がつけられたからといって、お菊人形は伝説の域の存在であることに変わりない、というのが正直な感想である。
泣く木跡
現在の栗山町の歴史は、明治21年(1888年)に仙台藩士であった泉麟太朗によって入植をおこなわれたのを初めとする。その翌々年から、この地では幹線道路や鉄道路の開発がおこなわれた。これには市来知集治監の政治犯が多数駆り出され、寒さと飢えの中を酷使された。そのため多くの囚人が亡くなり、その遺体は掘削工事の進むトンネルのそばにある巨木の下に埋められたという。この巨木が伝説の“泣く木”である。“泣く木”はハルニレの木で、樹齢は約300年ほどのものとされた。その不気味な名が流布しだしたのは昭和7年(1932年)である。室蘭本線の栗山トンネルに沿ってあった道路を拡張する工事が始められた頃、道路を直線にしようとすると邪魔になる木があった。ハルニレの巨木である。そこで伐採してしまおうとすると、その木がキューキューと音を立てる。それがまるで人が泣く声のように聞こえたために、噂が広まった。しかもこの巨木を鋸で挽こうとしてもなかなか伐れない。そのうち鋸が折れて大怪我をする者が出てきて、さらに引き抜こうと馬車を使ったところロープが切れて馬が即死、作業員も大怪我をする事故まで起きた。結局、この部分だけは道路を迂回して拡張せざるを得なくなったのである。この事件の前後から「泣く木で首を吊った飯場の女」の怨念という噂も立った。この土地に流れてきた女性が、道路工事をおこなっていた飯場の飯炊きに雇われたが、作業員の慰み者にされた挙げ句それを悲観して首を吊ったというのである(後日、道内の霊能者の霊視によって、この女性は“上野キヨ子”という名であるという話まで広がった)。あるいは、昔、アイヌの娘が和人の若者と恋に落ちるが叶わず、二人してこの木で首を吊ったという話も現れた。“泣く木”の名は「伐ろうとすると祟りがある」という内容で、道内で知らぬ者はないほど有名になったのである。またこの部分だけカーブになっているせいもあるかもしれないが、自動車事故の多発地帯となり、死亡者も複数出ている。そして昭和29年(1954年)の洞爺丸台風の時に木の上半分が折れたが、地元の人々は怖れて手をつけることはしなかったという。昭和45年(1970年)8月22日の夜。川の護岸工事と、道路の舗装工事がおこなわれていたさなか、工事の下請けで現場で寝泊まりしていた小林という若者が、酒に酔った勢いで15000円の賭のために、チェンソーで一気にこの木を伐り倒してしまったのである。倒された木は安全面を考慮して細かく切られた処分された。しかしこの木の切れっ端を自宅に持ち帰った者がその夜にうなされたとか、ストーブの薪として燃やした者が病気をしたり急死したりするという噂が流れた。またオカルトブームに乗って、この祟りの伝承は週刊誌などで全国的に知られるようになったのである。かつて“泣く木”のあった場所には石碑が建てられ、おそらく“泣く木”の種子から育ったであろう若木が二代目として大切に育てられている。そして今もなお、国道234号線はこの木のあった部分を避けるようにカーブしたままである。
“泣く木”の伝説 / 現在流布している話は昭和7年頃に成立したと考えられるが、この木の怪談めいた噂そのものはもっと古くからあったと考えられ、大正5年(1916年)に発行された『婦人倶楽部』にこの木の怪談が紹介されている。そしてこの木の存在が全国的なものになるのは、上に挙げた通り、昭和50年(1975年)前後のオカルトブームの頃である。この時には強制労働で亡くなった囚人の話ではなく、飯場の女性の霊のなせる怪異であるとの紹介が圧倒的である。おそらく「泣く=女性の仕草」というイメージが先行したのであろう。また木を伐った男性についての噂も喧伝され、伐った後しばらくして死亡したと紹介されていた。しかし『栗山・泣く木物語』(著:坂井菊二郎)によると、この男性はその後も生存しており、治療院の経営者として15年後に新聞で紹介されている。
光善寺 血脈桜
天文2年(1543年)創建の光善寺は桜の名所としても有名であるが、本堂前にある桜の巨木は“血脈桜”と呼ばれ、北海道指定記念樹木として屈指の名木と言われている。樹齢約300年とされるこの古木には、名前の由来に関する不思議な伝説が残されている。松前の鍛冶屋・柳本傳八は、娘を伴って上方見物に出掛けた。そして桜が満開の吉野をいたく気に入った親子は、しばらくの間逗留することに。娘の静枝は吉野のある尼寺を訪ね、尼僧と懇意となった。やがて松前に戻る日が来て、尼僧は吉野の思い出にと一本の桜の苗木を手渡しくれた。そして親子は郷里に戻ると、苗木を菩提寺の光善寺に寄進して植えたのであった。年月が経ち、桜は立派な大木となった。ところが十八世・隠誉上人の代となって、寺の改修をおこなうためにこの桜の木が邪魔となり、伐採することと決めた。その伐採の前夜、寺を訪ねてきた若い女性があり、「明日にも死ぬ身なので、血脈を授けて欲しい」と上人に頼み込んだ。夜も遅いので明日にと言う上人に対して、女は今日でなければならないとせかし、渋々上人は血脈の証を授けたのであった。翌朝、庭に出た上人は、今日切り倒す桜の木の枝に何かがぶら下がっているのを見つけた。それは昨夜自らが授けた血脈の証であった。ここで上人は昨夜の女が桜の助命に来たのだと悟り、伐採を取りやめると同時に供養を執りおこなったのである。この伝説により、この桜の古木は“血脈桜”と呼ばれるようになったという。上人の許を訪れた若い女性であるが、桜の精であるとも、苗木をもらってきた静枝の霊であると言われている。また光善寺には「義経山」と刻まれた石碑が置かれている。これはかつて松前にあった義経山欣求院の山号であると言われており、源義経自身が矢尻で刻んだとの伝承が残されている。源義経北行伝説の有力な証拠の1つとされている。
源義経北行伝説 / 源義経主従は平泉で死んだのではなく、身代わりを立てて逃亡して蝦夷地(北海道)を目指して行ったという伝説。平泉以北に複数の義経ゆかりの寺社がある。さらに義経一行は蝦夷地から中国大陸へ渡り、その後チンギス・ハンとなったという伝説もある。
神居古潭 (かむいこたん)
旭川市内の南西部、国道12号に沿って石狩川が流れる景勝地が神居古潭である。その名はアイヌ語の「カムイ=神」と「コタン=村」が合わさったものであり、アイヌにとっての聖地である。この付近は石狩川が上川盆地から石狩平野に抜け出る部分であり、川幅が細く急であるために水上交通の難所であり(行き来する船が遭難することが多く、アイヌはここで祈りを捧げてお供えするらしい)、またその流れによって両岸に大きな奇岩や甌穴群(浸食によって丸い穴が開く)が多数見られる。そのような地形であることから、次のような伝承がアイヌに伝わったと推測される。はるか昔、この地にニッネカムイ(「ニッネ」は悪の意)という魔神がいた。ある時ニッネカムイは、人々が平和に暮らしていることを妬み、川に巨石を投げ入れて鮭の遡上を止め、人々の村に洪水が起こるよう仕向けた。それを見た山の神の熊は阻止しようとして、ニッネカムイと争った。しかし山の神は劣勢に立たされる。そこへ妹神から知らせを聞いた、英雄神サマイクルが山の神の応援に駆け付け、激闘となった。はじめはサマイクルの刀をかわしていたニッネカムイであったが、やがて砦に追い詰められてしまう。そして窮地に立った魔神は川に向かって飛び降りたのだが、両足がめり込んでしまって身動きが取れなくなる。サマイクルはここぞとばかり刀を振るうが、魔神は深手を負いながらも上流へと逃げていく。だが、ほとんど抵抗する力を失ったニッネカムイは、少しばかり上流でついに首を刎ねられてしまったのである。首は川岸に落ちて岩と化し胴体も立ち尽くしたまま石化してしまった。ニッネカムイの砦と言われる巨岩が、吊り橋から臨める「カムイ岩」である。また魔神の首と呼ばれる岩も残されている。しかしながらニッネカムイが飛び降りた際につけられたという2つの巨大な穴(甌穴)とサマイクルの刀傷の残る岩は国道の拡幅工事のために土砂に埋まってしまったとのこと。また魔神の首の対岸にあった魔神の胴体も同じ工事で削られてしまったという。
サマイクル / アイヌ伝承の創造神。オキクルミと共に英雄神とされる(兄弟・一族であったりライバルであったりとさまざまなシチュエーションで語られるが、定説はない)。またオキクルミよりも粗野で愚昧とされるが、これもエリアによっては異なる。旭川周辺の伝承では、サマイクルが創造神であり、英雄神とみなされている。
義経神社
寛政11年(1798年)に近藤重蔵によって創建された、比較的新しい神社である。しかしその来歴は古い。史実として源義経は平泉で自害したとされるが、不死伝説として主従揃って蝦夷地へ逃れたとする説がまことしやかに伝えられている。それを裏付ける証拠として、平取のアイヌの間では義経の来訪に関する伝承が残されている。社伝によると、義経主従は蝦夷地白神(現・福島町)に着岸するとその西海岸を北上、羊蹄山を越えて平取の地に辿り着いた。そこで義経は現地のアイヌに対して造船・機織・農耕・狩猟などの技術を伝え、「ハンガンカムイ」という名で呼ばれた。つまりアイヌ伝承の創造神であるオキクルミの再来とみなされたとされる。この伝承を聞いた近藤は、平取に義経を祭神とする神社を建てたのである。そこにはアイヌに対する徳川幕府の政治的思惑が根底にあるのは想像に難くないが(徳川氏は源氏を祖としており、その祖先に近い人物を祀ることによって懐柔を試みているのは明らかだろう)、史実として全く接点があるはずもないこの地に義経の名が残されていること自体、ある種の不思議さを感じるところである。
義経の北行説 / 源義経は1189年に31歳で平泉に自害したとされるが、その死の直後より生き延びて蝦夷地へ渡ったとの伝説が流布する。東北地方にもその足跡が残されており、蝦夷地へ渡ったとされる青森県三厩をはじめ、義経を祀る社寺も存在する。大正時代になると、この説をさらに拡張、義経は蝦夷から大陸に渡りモンゴル帝国の初代ジンギスカンとなったとする「義経=ジンギスカン説」が小矢部全一郎によって主張され、著作がベストセラーとなる。
オキクルミ / アイヌ伝承(ユーカラ)における国土創造神。天上より初めて人間界(沙流郡平取町と比定される)に降り立った神とされ、人間に対して害悪をもたらす魔物を退治し、さまざまな文化や産業技術を伝えたとされる。しかし後に人間の心が堕したため去ってしまったという。別名アイヌラックル、オイナカムイ。また各地の伝承によって出自や事跡がかなり異なっており、正確な定説と言われるものはない。
松前城
江戸時代、北海道に唯一あった藩が松前藩である。藩は幕末まで松前氏が代々務めており、その居城が松前城であった。この城には、この松前氏にまつわる2つの負の遺産が残されている。それが「闇の夜の井戸」と「耳塚」である。この2つの伝承はいずれも5代藩主矩広の治世の時のものであり、元は城の前の方にあったのだが、現在は2つとも人気の少ない裏手に並べて残されている。「闇の夜の井戸」は、矩広の乱行を諫めた丸山久治郎兵衛が悪臣に謀られて生き埋めにされた井戸である。ある時、丸山は「殿の鉄扇が井戸に落ちたので取ってきて欲しい」と言われ、それが謀り事であることを承知で応じた。そして悪臣達は丸山が井戸に入ると、その上から大石を投げ込んで殺してしまった。その後、矩広の子が早世するなどの怪異が続き、祟りを怖れて井戸を埋めようとしたが、いくら土砂を流し込んでも埋まる気配はなかったという。さらに月のない夜になると、今なお井戸から呻き声が聞こえてくると言われる。「耳塚」は、寛文9年(1669年)に起こったシャクシャインの戦いで処刑されたアイヌ側の首謀者14名の首の代わりに持ち帰った耳を埋めたものである。ただ塚と言っても、さして大きくない3つの黒石が残されているだけである。松前藩の横暴に対して立ち上がったシャクシャインであったが、東北諸藩の援軍を仰ぎ、鉄砲を多用する圧倒的な松前藩の戦力の前に劣勢となり、長期戦に持ち込もうとした。しかし和議を結ぶ宴席で騙し討ちに遭い、謀殺される。そしてシャクシャインの遺体は松前城門前に磔にされたという。松前城には他にも、7代藩主・資広の正室がもののけを退治して皿を手に入れたという「手長池」の怪異などの伝承が残されている。
シャクシャイン / ?-1669。日高地方に拠点を置くアイヌの首長。松前藩の不当な交易に対して蜂起を呼びかけ、戦いを起こす。戦いは不利となり長期戦を画策するが、和睦を受け入れる。しかしこれは松前藩の罠であり、和睦の宴席で謀殺される。
セタカムイ岩
国道229号線は、小樽から積丹半島を経て江差まで通じる道である。古平(ふるびら)町は余市と積丹半島との間にある町であり、海岸線に沿って国道が続くエリアである。そしてその海岸線には多数の奇岩があることでも有名である。セタカムイ岩は、余市町と古平町の町境に位置する豊浜トンネルの入り口近くにある。高さは約80メートル、このエリアの中でも一際有名な奇岩である。セタカムイという言葉は、アイヌ語で“犬の神”という意味を持つ。遠くからだと、ちょうど犬が首を挙げて遠吠えしているような姿に見える。この形が名前の由来であることは間違いない。現地の案内板で紹介されているものは以下の通りである。昔、ラルマキという若い漁師が犬と一緒に暮らしていた。ある日ラルマキは漁に出かけるが、大時化のために遭難して還らぬ人となってしまった。しかしそれを知らない犬は、飼い主の帰りを待って嵐の中を鳴き続けた。そして嵐がやんだ後、その犬は岩と化していたという。また別の伝承がある。文化神であるオキクルミが狩りをした後に犬を置き去りにして去っていった。犬は後を追ったが、海に阻まれてしまいそこで主人恋しさに泣き続け、とうとう石になってしまったという。さらにこんな伝承もある。源義経がこの地を去る時に飼っていた犬を置いていった。犬は後を追いすがったが、結局海辺で岩となってしまったという。この岩の伝承は、飼い主はそれぞれ変わるが、いずれも飼い主に置き去りにされた犬が悲しさのあまり石と化してしまったというパターンとなっている。それだけ、海に向かってそそり立つこの岩が悲しく鳴き続ける犬の姿にそっくりであり、幾世代に渡って人々のイメージとして固着し続けた結果が、複数のバリエーションとして伝播されてきたことに繋がったのだろう。 
 
 東北地方

 

 青森県
●影沼 上北郡六戸町
折茂新田に影沼と呼ばれている場所がある。今は、その沼はないが、昔この沼は大きく、底が深く、底なし沼だともいわれた。その岸辺には老柳が茂っており、おばけが出そうな薄暗い場所であった。
そして、岸辺を通る者がいて、もしその者の影が沼面に映ったならば、その者の生命は沼に吸い込まれ、死んでしまうという恐ろしい場所であった。したがって、そこを通る時には影が映らないように夜間に通ればよいというが、夜は夜で、沼に吸い込まれた者たちの霊が出たり、泣き叫ぶ声も聞こえたという。
『藤坂村誌』には、この影沼が紹介されており、次のように記されている。「この近くでは六戸の折茂にも影を水にうつせば死ぬと傅へる影沼といふのがある。馬が主であるといふから、鹿毛沼であったのであらう。ここらはもと往昔木崎の牧の中に入ってゐた所だったのである」。

●橘公塚(きっこうづか) 上北郡六戸町
舘野公園入り口に鎮座する熊野神社は、出雲大社様式の堂々たる社殿である。その社殿に向かって左側の一角に、金の鳥居が建ち、ブロックで囲まれた聖地がある。囲いの中は、1.5メートル四方の土まんじゅうの塚が築かれ、その上に50センチメートルほどの卵形の石が安置されている。石は苔むして、何も刻まれていないが、昔から「橘公塚」と呼んでいる。当地方に伝わる『六戸郡姉戸沼崎観世音縁起』による次のような物語が展開されている。

白雉5年(654年)のころ、橘中納言道忠という公家が、世をはかなんで東北行脚の旅へ出た。そして、小川原湖の倉内付近に草庵を営み、自ら観音像を彫刻して、読経三昧の日々を送っていたという。そのころ、都には道忠公の娘、玉世・勝世という姉妹がいた。姉妹は、父恋しさに、進藤織部・駒沢左京之進という家来を従え、小川原湖へやって来た。ところが、すでに父は亡く、悲しさのあまり、玉世姫は姉沼へ、勝世姫は小川原湖へ入水し、沼の主となったという。したがって、今日の姉沼は玉世姫のことを指し、小川原湖は勝世姫で、妹沼とも呼んでいる。そして、進藤・駒沢らは、彼女たちを供養するため、この地に住みついたのである。
その後、道忠公の奥方が、織笠兵部・根井正近らの家来を引き連れて小川原湖へやって来た。奥方は道忠公の草庵跡へ海向山専念寺という寺院を建立し、尼となり、現在の天ケ森(尼ケ森)に住みついた。そのため、小川原湖近辺には、この物語に登場する進藤(新堂)・駒沢・織笠・根井ら、家来たちの名が、地名として今日も残っている。
ところが、その長い歴史の間には、寺へ賊が入ることもあった。ある時、住職は、難を避けようとして、道忠公が彫った観音像を背負い、近くの湖沼へ入水した。現在、その沼を仏沼と呼んでいる。
その後、村人によって2体の観音像が仏沼から引き揚げられ、一体が現在、五戸の専念寺へ、もう一体は六戸の民家(杉山家)へ納められるようになったという。
その石は道忠公が、都を思い出して、舘野のさつき沼の霊水を使い、石へ思いのままを書きつけたところ、その文字が都の屋敷の庭石に浮き出たという。それを見た奥方が逆に、庭石へ字を書いたところ、橘公塚の石へ文字が浮き出てきたという逸話も橘公塚伝説として残っている。
 

 

●青森の伝承
上皇宮/白山堂
第98代長慶天皇は南朝の第3代天皇とされるが、その史料の乏しさから長らく天皇としての在位について疑問が持たれていた。正式に98代目の天皇として認められたのは大正15年(1926年)10月のことであり、その在位は正平23年(1368年)の後村上天皇崩御から、弘和3年(1383年)頃とされる(弘和3年に綸旨が、翌年には院宣が出されたとの史料が残っているため)。ただその詳しい事績は南朝衰退期と重なっているために明確に記録されておらず、特に上皇となった後については崩御されたのが応永元年(1394年)との史料が残されるだけで、実際のところは不明なことばかりと言える。ただ、長慶天皇はその在位期間に北朝との和議が全く進まなかったことから(先代後村上天皇の時には交渉はあったとされ、次代後亀山天皇の時には南北朝が統一されている)、南朝存続の強硬派であったと推測されている。そのため上皇となってからは北朝打倒のため全国各地に潜幸されたという伝説が生まれ、その地で崩御されたという伝説地は100近くあるとも言われいる。その中でも「御陵参考地」として挙げられた場所が、弘前市(旧・相馬村)の紙漉沢にある。紙漉沢の陵墓は小高い丘の上にあり、その丘の麓あたりに上皇宮と呼ばれる神社がある。言うまでもなく、主祭神は長慶天皇である。この地には次のような伝説が残されている。北朝打倒のために陸奥国浪岡に身を寄せた上皇一行であったが、元中2年(1385年)に南部信政によって襲われ、上皇も傷を負ったために、家臣の新田宗興(新田氏の一族とも類推出来るが、史実には登場しない)が守っていた紙漉沢の地に移り住んだとされる。そして最終的に応永10年(1403年)にこの地で崩御されたというのである。上皇宮の近くには、白山堂という祠があり、ここが長慶天皇の后であった菊理姫(菊子姫・菊代姫とも)の墳墓であるとされる。案内板によると、菊理姫は新田宗興の養女であり、伊勢国で宗興が討死して以来(上皇宮での説明と矛盾するが)上皇と行動を共にしてこの地に至り、ここで盛徳親王(長慶天皇陵を造営し、上皇宮の前身を創建したとされるが、それ以外の事績および生没年は不明)をもうけたとされる。そして応永23年(1416年)に亡くなるまでこの地で紙漉きの技術を教えたとされ、そのため“紙漉沢”という地名となったという伝説も残される。
長慶天皇の陵墓 / 長慶天皇陵として現在認定されているのは、京都市右京区の天龍寺塔頭の1つであった慶寿院跡に設けられた嵯峨東陵である。これは、南北朝統一後に南朝の皇族が京都へ戻っていること、慶寿院が長慶天皇の皇子である海門承朝が住んでいた場所であることから推断されたものであり、決定的な根拠はない。むしろ昭和19年(1944年)に決定が下されるまで、この地以外に2箇所が“陵墓参考地”とされており、有力な陵墓地とみなされていた。それが和歌山県九度山町にある旧河根陵墓参考地と、紙漉沢にある旧相馬陵墓参考地である。ただいずれも嵯峨東陵確定後に陵墓参考地から除外されている。
久渡寺 (くどじ)
津軽三十三観音霊場の第一番札所。開山開基は不詳であるが、一説によると坂上田村麻呂が阿闍羅山に建立した寺院を、鎌倉時代に円智法印が再興。さらに時を経て津軽藩の庇護を受け、慶長18年(1613年)に現在地に移転。そして寛永10年(1633年)に久渡寺という名に改められている。弘前の市街地から少し離れた場所にあり、さらに200段を超える長い階段を上ったところに寺がある。静寂な霊場の印象が強いが、ここには霊的なものと深く繋がった伝承がいくつか存在する。平成11年(1999年)に国の無形民俗文化財に指定された「オシラ講(王志羅講)」がある。“オシラ様”の信仰は東北各地にあるが、津軽のというか久渡寺のオシラ様信仰は非常に独特のものがある。その最も際立った特徴は、各家に祀っているオシラ様を5月15日・16日に大祭という名目で久渡寺に集めて遊ばせる方法である(しかも毎年参ることでオシラ様の“位が上がる”システムらしい)。またオシラ様自体も異色で、他の地域よりもかなり大きく、1m近い大きさとなっている。さらにオセンダクとして着せていく衣装も派手なものが多く、頭の部分には冠などの装飾品も着けられる。ただこの行事自体はさほど古いものではなく、明治30年頃に住職によって始められたとされている。それでも今や津軽のオシラ様といえば、この久渡寺の方式が代表である。久渡寺の年中行事には、他にも不思議なものがある。旧暦の5月18日に1時間限定で行われる、「幽霊画の公開」である。この絵は円山応挙の作で、彼の妻の幽霊であるとされる。寺伝によると、実際の幽霊を見たことがない夫に対して妻が自ら命を絶って幽霊となり、応挙が目の前に現れた姿を写しとったのだという。しかもこの公開日には必ず雨が降ると言い伝えられており、実際わずかの時間でも雨が降るらしい。そして境内にはまことしやかな怪異の伝承も残る。階段を上りきった正面にある観音堂があるが、その隣に名もない小さな池がある。言い伝えによると、この池のほとりで亡くなった親族や友人の名を呼ぶと、水面にその人物の顔が映し出されるという。あるいは池を覗き込むと、自分の死に際の顔が見られるという。
阿闍羅山 / 弘前市の南東、大鰐町に位置する山。平安初期には山腹に阿闍羅千坊と呼ばれる一大修行場があった。現在は冬スキーのメッカとして有名である。
オシラ様 / 東北地方の農家を中心に信仰されている神様。蚕の神、馬の神、女性の神と言われている。一般的なオシラ様については「遠野伝承園 御蚕神堂」のページを参照のこと。
唐糸塚
現在は「唐糸御前史跡公園」として整備されているが、その一画に塚がある。大きな松の木と周辺の板碑に目を奪われるが、松の木の根元にわずかばかりの土盛があり、塚であることが判る(公園内において塚のある場所は、柵で囲まれているため容易にわかる)。鎌倉幕府5代執権の北条時頼には、一人の愛妾があった。名を唐糸といった。時頼が唐糸を寵愛することは格別であったが、その一身の愛情は逆に他の側室の嫉妬を駆り立てることになった。その憎悪の烈しさのため、唐糸は時頼のそばに居ることに耐えられなくなり、鎌倉を去ることに(あるいは無実の罪を問われて鎌倉から追放されたとも)。離れがたい時頼はいずれかの再会を約束し、そして唐糸は陸奥国の藤崎の地にたどり着き、そこでわびしい暮らしをすることになった。それから歳月が過ぎ、時頼は出家すると旅の僧に身をやつして諸国を巡回する。やがて陸奥国にも時頼が訪ねてくるという噂が流れた。それを聞いた唐糸は、己の容貌の衰えたことを改めて感じ、この姿で時頼に再会することは叶わないとして、柳の池に自ら身を投げて命を絶ったのである。その後、時頼は藤崎の地を訪れ、唐糸の最期を聞くと、懇ろに供養して一寺を建立したという。
大石神社/赤倉神社
岩木山の北東側の麓にある神社である。徐々に山の中に入る舗装路を道なりに進むと、やがて大きな鳥居が見えてくる。その扁額には【大石大神 赤倉大神】の名がある。大石神社は岩木山信仰によって成立している。岩木山頂にある奥宮に対する下居宮(里宮)が坂上田村麻呂によって北麓の十腰内の地に創建され、岩木山登山道の入口である赤倉沢にあった巨石も信仰の対象となった。それから下居宮は寛治5年(1091年)に南麓の百沢に遷され、現在の岩木山神社となる(十腰内の社は巌鬼山神社となる)。この遷宮によって、赤倉沢の巨石は“巨石大石明神”としてますます信仰の対象となったのである。そして慶長17年(1612年)、津軽藩2代藩主の津軽信牧が赤倉山御祈願所として勧請したのが大石神社である。御神体は言うまでもなく巨石であり、いわゆる陰陽石として子授けや安産、縁結びの神とされた。後年には農耕や牛馬の神ともされ(境内には神馬を奉納した祠が多数)、水神や竜神なども祀られている。本殿の後ろに石垣で隠すように囲まれた御神体の巨石は、結界を意味する「千曳岩」という名で呼ばれている。ここで言うところの“結界”とは、この神社の奥にある赤倉神社を中心とする“赤倉霊場”を指す。大石神社の鳥居前には、この霊場を案内した地図が掲げてある。岩木山登山から発生した霊場であるが、その歴史はそれほど古くなく、明治から大正にかけての頃より始まり、地図にある社やお堂が建てられたのは昭和30〜40年代にかけてのことらしい。これらは、地元で言うところの“カミサマ”、いわゆる御託宣を行う霊能者が個々に造営したものである。彼らはこの赤沢に縁あって修行し、神を祀るのである。(この霊場は国有林なので、社やお堂は土地を借り受けて運営しているらしい。ただし借り受けられた時期は建築ラッシュのあった昭和中期だけであり、現在はこの地に造営が許可されることはない。)奥まで進入することはなかったが、舗装道が途切れる寸前の、霊場の一番手前にある菊乃道神道教社まで足を運んでみた。
赤倉沢 / 岩木山神社が岩木山信仰の表の顔とするならば、赤倉沢が裏の顔と言われる。古代の山岳信仰の形が色濃く残っているとされ、大石神社や赤倉山神社などには神仏習合の概念が残されている。また“赤倉の大人(おおひと)”と呼ばれる鬼神がこの地に住み着いており、里にやって来ては農作業などを手伝ったという伝承がある。
善知鳥神社 (うとうじんじゃ)
「青森市発祥の地」と言われるほどその歴史は古く、創建の伝説は第19代允恭天皇の時代にまで遡る。陸奥国の外ヶ浜という地に、勅勘を受けた善知鳥中納言安方(烏頭大納言藤原安方とも)が住むようになり、やがて宗像三女神を祀る祠を建てたのが始まりとされる。その後、善知鳥中納言が亡くなると、どこからともなく見慣れぬ鳥が飛んでくるようになった。その鳥は、親鳥が「ウトウ」と鳴くと、雛鳥が「ヤスカタ」と鳴き、そのことから善知鳥中納言の魂が変化したものであり、“善知鳥”という名が付けられたとされる。その後は荒れるに任せていたが、大同年間(806-810年)に坂上田村麻呂が社を再興。それからは各時代の領主の崇敬を受けて庇護され、現在に至っている。ウトウという鳥は上にあるように親子の情が強い鳥として知られ、それ故に特別な鳥であると考えられたようである。さらに言えば、雛を捕られた親鳥は血の泪を流してあたりを飛んで探し回るという言い伝えまで残されている。そしてそれらの習性を巧みに織り交ぜ、外ヶ浜の地を舞台とした能の演目が『善知鳥』である。越中国立山で一人の僧が、猟師の亡霊と会う。亡霊は陸奥国外ヶ浜にいる妻子に供養を頼むと蓑笠と着物の片袖を僧に渡す。それを持って僧が外ヶ浜を訪ね、供養を行うと、再び猟師の亡霊が現れる。生前、猟師は善知鳥を捕らえて生計を立てており、親鳥が「ウトウ」と鳴くと雛鳥が「ヤスカタ」と鳴くのを利用して、親鳥の鳴き真似をして雛を捕っていたという。生きるための糧とは言え、その報いのために猟師は地獄に堕ちて、化鳥となった善知鳥に責め苛まれ続けると訴える。そして我が子の元へ歩み寄ろうとするが、己の罪の深さ故か姿を捉えることが出来ないまま、消えてしまうのである。
ウトウ / ウミスズメ科の海鳥。北日本の沿岸部に棲息する(南限は宮城県とされる)。繁殖期にはつがいで生活し、1個だけ卵を産んで育てる。親鳥は雛のために夜明け前から餌を採りに行き、日没直前に帰巣する習性がある。また子育てをしている期間である夏には、目の後ろから長く白い羽状のものが生える。
允恭天皇 / 第19代天皇。中国の史書である『宋書』に登場する「倭の五王」の一人である“済”であるとされている。その説に従えば、在位は5世紀中頃のこととなる。
一本杉
東北自動車道黒石インターチェンジそばに、一本の杉の巨木がある。自動車道建設の際に邪魔になるとして伐られるところ、地元の反対の声によって数十メートル移動して保存されることになった、曰く付きの木である。この黒石インターチェンジあたりに、戦国時代末期まで浅瀬石城という城があった。城主は千徳氏。陸奥国を支配していた南部氏の庶流である。この千徳氏最後の当主となった千徳政氏の菩提寺にあったのがこの一本杉であったと伝えられている。天正10年(1582年)、南部氏24代当主の晴政とその嫡男の晴継が相次いで亡くなると、南部氏は後継者争いが激しくなる。その隙に乗じて津軽地方で独立を企てたのが大浦為信(後の津軽為信)であった。この為信の盟友として南部を離反したのが千徳政氏であった。後の津軽氏の記録によると、為信と政氏は南部家から津軽を簒奪して二分するという約定を取り交わしていたとされる。しかし天正13年(1585年)に南部氏が浅瀬石城を攻めた時に為信が援軍を送らなかったことをきっかけにして、両者の関係は微妙となる。そして豊臣秀吉の天下統一を経た慶長2年(1597年)、津軽を治めていた津軽為信は、浅瀬石城の千徳氏を滅ぼす。息子の政康が討死したのと同時期に政氏も亡くなったとされ、あるいは父子共々為信によって謀殺されたともいわれる。直後に浅瀬石城は落城し、菩提寺も津軽兵によって蹂躙された。だが、杉の木だけは残され、いつしかこの杉の木には滅ぼされた千徳氏の怨念が宿っていると言い伝えられるようになった。東北自動車道建設の際の移動も、この伝説に基づくものとされている。
十和田神社
十和田湖畔に建つ古社である。社伝によると創建は大同2年(807年)、坂上田村麻呂によるものとされる。祭神は日本武尊であるが、かつては熊野権現・青龍権現と呼ばれていたという。しかしこの神社創建にまつわる伝説にはもう1つあって、そちらは北東北一帯に広がる、三湖伝説と呼ばれる壮大な話となる。十和田神社を創建したのは、南祖坊という修験僧であったという。父親は藤原是真、熊野権現に祈念して生まれた子とされる。南祖坊は熊野権現で修行した折、神より鉄の草鞋と錫杖を授かり「百足の草鞋が破れたところに住むべし」とのお告げを聞く。そして百足の草鞋が破れた地がこの湖のほとりであった。しかしこの湖には、八頭の大蛇である八郎太郎が既に住み着いていた。そこで南祖坊は法華経の霊験によって自らを九頭竜に変化させて八郎太郎と戦い、そして勝利の末にこの湖に住み着き、青龍権現として崇められるようになったのである。境内の奥へと入り、絶壁を下りると湖面に辿り着く。ここが占場と呼ばれる場所であり、南祖坊が入水した場所であるとされる。社務所でわけていただける「おより紙」を湖面に浮かべて吉凶を占うことができる。
三湖伝説 / 十和田湖・八郎潟・田沢湖にまつわる伝説。マタギをしていた八郎太郎は、ある時掟を破って仲間の岩魚まで食べてしまったために大蛇となってしまい、十和田湖を造って住み着いた。その後十和田湖に来た南祖坊が八郎太郎を追い出し、八郎太郎は今度は八郎潟を造り出して住み着いた。一方、辰子という娘は、年老いて容色が醜くなることを恐れ、観音菩薩に祈念してその結果、竜となって田沢湖に住み着いた。その後、八郎太郎は辰子を見そめて、毎冬田沢湖へ通うようになったが、また南祖坊が邪魔に入った。しかし今度は八郎太郎が勝利した。
日本中央の碑
日本古代史の中でも屈指の謎を持つのが「日本中央の碑」である。その典拠は意外に古く、歌学者の藤原顕昭が出した『袖中抄』に <陸奥には“つぼのいしぶみ”という石碑があり、蝦夷征討の際に田村将軍(坂上田村麻呂)が矢筈を使って“日本中央”という文字を刻んだものである> という一説がある。それ以降、東北の歌枕として和歌の中に使われ、また幻の遺跡として考えられてきたのである。江戸時代には宮城県の多賀城の碑が“つぼのいしぶみ”と目されていたが、明治9年(1876年)の天皇の東北行幸に際して、宮内省から青森県に“つぼのいしぶみ”発見の要請があった。そこで田村麻呂が石を埋めたという伝承の残る千曳神社で大掛かりな発掘作業が行われたが、結局発見には至らなかった。ところが昭和24年(1949年)6月に、その千曳神社近くの青森県東北町石文(いしぶみ)という所から突如として「日本中央」と刻まれた石碑が出土してきたわけである。発見された場所が“石文”であり、またそのすぐそばには“都母(つぼ)”と呼ばれる地域があることが“つぼのいしぶみ”という別名と一致するなどの根拠もあって、現在のところ最有力候補という位置付けをされている。しかしこの碑の最大の謎は、ここに刻まれた文字「日本中央」である。なぜこのような文字が日本の最北部に当たる青森県に置かれたのか。蝦夷征討の際に刻まれたという逸話から考えると、まだここは「日本」の領土ではなく、しかも「日本」という国号が使われていなかった時代である。さらに付け加えると、この碑を刻んだとされる坂上田村麻呂はこの地まで遠征していない(後任の征夷大将軍・文屋綿麻呂がはじめてこの地域一帯まで足を運んだのが史実である)。一説によると“田村麻呂はこの先にある北海道や千島列島までを日本の領土とみなして、ここを中央と確定したのだ”という、国威発揚的発想が結構幅を利かせているらしい。だが実際のところ、ここに刻まれた“日本”という文字は“ひのもと”と読ませ、平安初期の文献によると“東北地方”一帯を指す言葉として使われていたらしい。つまり、この「日本中央」とは、坂上田村麻呂以下の蝦夷征討軍が敵地の中央部分に当たる場所としてマークしたポイントという意味と捉えるのが妥当だろう。
つぼのいしぶみ / 歌枕。和泉式部・寂蓮・西行・慈円などが詠む。「遠くにあるもの」や「どこにあるか分からないもの」という意味で使われることが多い。
キリストの墓
青森県新郷村の戸来(へらい)地区にキリストの墓(十来塚)とその弟のイスキリの墓(十代墓)がある。“高貴なる人物”の塚と言われていたが、これを昭和10年(1935年)に調査してキリストの墓と断定したのは、『竹内文書』の竹内巨麿である。『竹内文書』によると、21歳から約12年間、キリストは日本でさまざまな学問を学び、ユダヤへ一時帰国したらしい(この12年間は、キリスト教世界においても“謎の空白期間”とされている)。そしてその教えのためにユダヤで不興を買い、イスキリを身代わりにして再度日本へ舞い戻る。再来日後はこの戸来村に定住、地元の女性と結婚し【十来太郎大天空】と名乗ったという。布教活動こそしなかったが、たびたび日本各地を探訪したらしく、その姿はまさに“天狗”のイメージで語られている。そして106歳という長寿を全うして、戸来村で亡くなったという。その子孫は沢口姓を名乗り、現在も当地に住んでいる。またこの地区の風習として、初めて戸外へ出る赤ん坊の額に十字架を描くというものが残されている。これが魔除けの呪文らしいが、近隣はおろか国内で例を見ない異質の風習である。さらにこの地方では父のことを「アダ」、母のことを「エバ」と呼ぶ。まさに「アダム」と「イブ」の呼び名なのである。そしてこの土地の名である“戸来”自体が“ヘブライ”に酷似している。極めつけは、この地に伝わる盆踊りの歌である。「ナニャドヤラー、ナニャドナサレノ、ナニャドヤラー」という歌詞はヘブライ語に訳すと「汝の聖名を讃えん、汝は賊を掃討したまい、汝の聖名を讃えん」というものらしい。とりあえず現在では、6月に行われる祭りの際に、この2つの墓の周りを浴衣姿の人々がこの唄を歌いながら踊るらしい。エルサレム市からの「友好の証」なるものがこの2つの墓の前に置かれている。
『竹内文書』 / 武内宿禰の孫にあたる平群真鳥が、25代武烈天皇の勅命を受けてまとめた文書とされ、真鳥の子孫を称する竹内巨麿が昭和3年に公開。神武天皇以前にも100代に及ぶ皇統があり世界を治めていた(宇宙生成よりも早くから存在したことになっている)、また歴史上に名を残す宗教指導者は全て日本で修行し、天皇に仕えたとする。キリストだけではなく、モーゼや釈迦も来日していることになっている。当然であるが、偽書として黙殺されている。
「ナニャドヤラー」の歌詞 / 上のヘブライ語説を唱えたのは、神学者の川守田英二。それに対して“方言がさらにくずれたもの”と主張したのは柳田國男と金田一京助。ただ、この歌詞は戸来地区固有のものではなく、旧・南部藩領内に広く伝わっている。
恐山冷水 (おそれざんひやみず)
むつ市街から県道4号線を道なりに進むと、その途中に冷水峠という場所を通る。そこにはコンコンと湧き出る水場がある。この湧き水は、遠い昔から恐山へ参拝する人々の喉を潤す役目を負っている。現在は3本の樋から流れ出る水を“不老水”と呼び、霊験あらたかな水とみなしている。実際、この水場を霊場の入り口とみなして手水舎としての役割もあるとし、この峠を俗界と霊界との境界線として認知している説もある。そのせいか、この場所で水を求めるのは人間だけではなく、恐山へ集まってくる霊もあると考えられている。
恐山
恐山は比叡山・高野山と並ぶ三大霊山の一つである。開基は慈覚大師円仁。円仁が唐で修行をしているとき、夢に聖人が現れ「国に帰り、東方へ三十余日行ったところに霊峰がある。そこで地蔵菩薩を一体刻み、その地に仏道を広めよ」というお告げを聞き、帰国後さっそく東方を目指し、見つけたのがこの恐山であったという。その後、戦国時代に大乱で壊滅状態となったが、むつ市内にある円通寺の宏智覚聚によって再興された。恐山の入口を越えると、真っ赤な太鼓橋が現れる。この橋は宇曽利湖から流れる三途の川に架かっている橋であり、ここからが恐山の“地獄”の始まりである。悪人がこの橋を渡ろうと思うと、橋が急に糸のように細く見えるという言い伝えがある。山内に入って一番最初に目に飛びこんでくる異様な光景は、荒涼とした岩場である。これが恐山の象徴である【地獄】である。活発ではないにせよ活火山の指定を受けており、ところどころから白い煙が立ちのぼっている。それに対して強酸性の宇曽利湖の岸辺は【極楽浜】と呼ばれ、絶妙のコントラストを見せている。このエリアでは「死ぬと魂は恐山へ行く」と信じられており、地蔵菩薩を本尊とした、死者の供養をおこなう霊場として信仰の対象とされている。また7月の大祭の時には、境内にイタコが常駐して「口寄せ」がおこなわれる。
 
 岩手県

 

●ツブ沼 奥州市
「雨乞いにツブ沼をかき廻すと、雨が降る」という話も、干ばつに悩まされた人びとの祈りがうかがえる。
昔、市野々近くの八郎という若者は、川で小魚や貝を捕って生活の糧にしていた。ある日、お寺の凡鐘ほどのツブ貝を捕ったが、なかなか売れなかった。金持ちの多い秋田へ売りに行く途中、背中でツブがクツクツと声を発するので、気味が悪くなり原野に投げ出すと、にわかに大雨となって沼ができた。数年、都の人が大ツブを捕ろうとしたが、網を入れると大雨になり、捕ることができなかった。以来その沼をツブ沼と云った。干ばつの年の雨乞いには、農民たちが沼をかきまわし、ツブを怒らせて雨を降らせたといわれている。
*雨ごい・・・降雨を神仏に祈ること。
*ツブ・・・・昔の方言で「タニシ」こと。 

●底なし沼 (ごまうなぎ) 花巻市
土沢の細谷地に底なし沼と称する沼がある。その辺りは、柳・さんなし・芦・がま等叢生して水面をおおい、また二十間程南に北方傾斜地の畑の西隅の小杉立には、狐穴数洞あって、白昼も狐が彷徨するという気味の悪い所があった。鮒はたくさんすんでいても、人気のない所、釣をしようとも一人ではいやな場所、盆には青年連が申合せて、山椒の皮をおしもんで、鮒や鯰などを捕える位のもので甚だ淋しい所であった。
ある年の盆に、一人の旅僧が瓢然と土沢に現れた。時に平蔵沢・土沢の青年等六・七人で盛んに山椒の木の皮を、日盛りの天日で乾していた。僧は一青年に向い何をするのかと問うた。青年答えて、この皮の粉と木灰とをまぜ、それを流せば、水中の雑魚はみな死ぬこれから盆の休日に雑魚捕りをするのだという。僧曰く、その雑魚とりを何処でするや。青年曰く、細谷地の沼でとると。僧曰く、何ものか生を欲せざる。一草一木みな生を遂げて子孫繁栄を願っている、況や動物においておや。生物を愛し、慈しみ、育み育て、決して之を苦しめたり、殺したりするものでないと言葉をつくして戒めた。
血気にはやる青年らは耳にも入れず、やかましき小言を並べるなまぐさ坊主。この土沢で餓死されては甚だ迷惑、この赤飯でも食べて腹をこしらえここから去って死ねといった。旅僧は止むなく退去、山椒の皮は乾燥し終っていた。
明日は地獄の釜の蓋もあくという七月十五日、空は朝からからりと晴れ一点の雲なき好天気、昨日の青年ら旅僧の言をきかずに底なし沼にかけつけ、山椒の皮と木灰とを上流からもみ流した。鮒・すずもろこ・果ては鯰・銀魚など背負いきれぬ程とれた。青年共これに力をえて粉のあらん限りもんだら、その辛味に堪えかねて大きさ五尺ほどの「ごまうなぎ」半身を現わして泥中を泳ぐ。青年らは力を合せ半時ほどもかかって漸くこれを陸に引上げた。喜び勇んで持ち帰り、平蔵沢の人々にも分配せんと料理にとりかかる。ところが人間の鮮血そっくりのものがとめどもなく流れ出るのにいささか面食いたるも勇をふるって切断したるに、これいかに臓腑中より昨日の赤飯色も変らず出たのには一同顔を見合せた。強いて元気を出し之を焼き、あるいは煮、舌鼓を打って食べたが、中には病気にかゝり永々苦悶せしもあり、あるいは養生叶わで死せるもあった。あの旅僧は人間ではなく古鰻で、今日殺されることを予感し、しばし人間の姿に替えて慈悲を説いたものであろう。

●蟇沼 八幡平市
古寺の和尚夫婦に蝶よ花よと育てられた長い黒髪につぶらな瞳の美しい娘いた。年頃になり自室に篭もりもの思いにふけるようになる。日増しに青ざめやつれてゆく娘は、夫婦の詰問に見知らぬ美成年が夜毎訪ねてくることを告げる。夫婦は計を案じ、衣に仕掛けた針と糸を頼りに青年の正体にたどり着く。なんと、それはこの沼の主である大蟇ガエルであった。ことの仔細を娘に告げて別れを説得する。やがて娘は容色を取り戻し、一段と美しくなって良家に嫁ぎハッピーエンドとなる。
松尾には「がま沼」が二つある。八幡平は「ガマ沼」とカタカナ表記、畑の沼は「蟇沼」と漢字表記で区別している。故瀬川経郎氏は「八幡平のがま沼は本来火口湖なのだから「釜沼」であり、今後は「釜沼」と呼ぶことを推奨したい」と、その著書『新いわて風土記』で述べている。畑の沼も火口湖であるかもしれないが、植物の蒲も多いし、動物の鴨の飛来も多く蟇ガエル(ヒキガエル)も多く棲む。ここに伝わる伝説はこの蟇ガエルに因むもので、畑が舞台であろう。

●八の太郎 八幡平市
源流 野駄・田中の住人八の太郎はマンダの皮剥ぎが商売。前森で仲間と作業中にイワナ(味噌田楽)の盗み食いをして巨人(八つの頭を持つ大蛇)に変身する。アセ沼を飲み干した八の太郎は、大量の水と棲み処を求めて東北各地を彷徨うことになる。
この物語、飲み干したイワナは語り人によってイモリやサンショウウオだったり、単に美味な霊水だったりするが、アセ沼川は密林を潜り抜ける清流で岩魚の宝庫である。ここでは、八郎が分け前だけでは我慢できなくなるほど美味なイワナとして売り出すのがいいだろう。岩魚の加工食品から、釣り人をターゲットにしたグッズ(マンダの皮で作った魚篭やコダシ、岩場用藁ぐつなど)も考えられる。
ちなみに、岩手山の雪形は、後述する大鷲と種まき坊主以外にもイワナ、蛇竜、ウナギ、イモリ(いずれも地域の伝説と結びつく)などに見立てることができる。

●女護沼 岩手県八幡平市
殿様夫妻に食された松川御護沼の主のゴマウナギが、奥方の胎内を借りて再生、曲折を経て名湯松川温泉への湯治を口実に、再び御護沼の主に納まるという物語。女護姫(百合姫)、実はゴマ鰻の化身という。

●赤沼 八幡平市
岩大名誉教授の吉田稔氏によれば、赤沼(別名五色沼)は流入水が全くない湖で、形は茶筒のような円筒形。水深10〜11メートル、平な湖底の一部から湧いてくる湧水が溢れて隣の御在所沼に注ぐ。松尾鉱山の硫黄の鉱床と温泉湯脈の影響で、強酸性の特殊な水質で、湖水の上層下層の循環や停滞、気温や化学反応などによる他に類を見ない複雑な変色のメカニズムを持つという。「五色」の名のつく沼は各地にあるが、一つの湖でこれほど顕著な変化を示す湖は全国唯一であるという。
さて、この赤沼にまつわる伝説である。釣と猟を無常の楽しみとする畑浅左ェ門という風流人が、と、ある密林の中でたどり着いた沼は、あたりの蒼然を映し青々と輝く不思議な湖面の沼だったという。そこに鴨らしきものを見てとり矢を放とうとするが、鴨は一瞬にして大波と化し浅左ェ門に襲いかかる。「今後は鴨射ちはしないし何人にもさせない。」との誓いを立てて難を逃れた浅左右ェ門であったが、襲いかかった大波は鳥獣殺生の戒めだったのか、自然破壊への警鐘であったのか。

 

●岩手の伝承
磐神社/松山寺
水田が広がる中に、整えられた杉木立に守られるようにしてあるのが磐神社である。遠くからでも赤い屋根の拝殿が目立つが、これが出来たのが明治30年(1897年)頃のことであり、それまでは御神体のみが祀られていた。その御神体は、東西10.2m、南北8.8m、高さ4.2mという巨大な岩であり、拝殿の裏手に今なお鎮座している。この御神体の巨石はいわゆる“陽石”であり、この神社も別名を“男石大明神”とも称される。そしてこの陽石に対する陰石があるのが、この神社から北西に1km弱ほど離れた場所にある松山寺である。この寺の境内にある“女石神社”の御神体が対となっているとされる。こちらの石は周が約5m、高さも2mと、磐神社の男石と比べると小ぶりである。磐神社の説明によると、この一対の陰陽石で二柱の神(日本武尊と稲葉姫命)を祀るが、男石大明神が本社となるという。この磐神社から南西へ約500m離れた場所には、かつて奥州阿倍氏の居館があった。この安倍氏が崇敬していたのがこの神社という。さらに安倍氏が信仰していた神が“アラハバキ神”であり、かつてこの神社はこの神を守護神としていたとされる。また延喜式内社としても記載されており、古来より信仰されてきた場所であることは間違いないだろう。このアラハバキ神は蝦夷土着の神と認識されているが、その正体は不明な点が多い。さまざまな性格を持つ神と解釈されているが、その中に“塞の神”とみなす説がある。つまり境界を守る神=道祖神ということになるが、その一形態として“陰陽石”が挙げられる。かつてアラハバキ神を祀ったとされる磐神社の御神体が陽石となっているのは、果たして偶然の産物なのか、あるいは意図的なものであるのかは謎である。ただ一説では、松山寺の女石と合わせて陰陽石とみなしたのは、安倍氏がこの地にあった時代よりもはるかに後の話であるとも言われている。
盲神
岩手県道35号線は通称“大槌街道”と呼ばれ、昔から釜石から遠野へ抜ける主要道路として人の往来があったとされる。その釜石から遠野への道のちょうど中間地点あたり、県道に面した場所に一つの社がある。それが、『遠野物語拾遺』第27話に残る盲神の社である。昔、共に盲目の夫婦が幼い子供を連れてこの街道を歩いていた。ところがこの地に来た時、子供が誤って橋から落ちてしまう。目の見えない二人はそうとは知らず、子供を呼ぶが返事がない。そのうち二人は子供が橋から川へ落ちて流されてしまった事実を知ってしまう。二人の悲しみぶりは尋常ではなく、子供を失ってしまったら最早生きている意味がないとばかりに、二人とも橋から身を投げて死んでしまったという。そしてこの親子を哀れんだ村人は、祠を建てて祀るようになり、その祠を“盲神”と呼ぶようになった。今ではこの祠近辺の沢の水は、眼病にご利益があると言われている。
遠野伝承園 御蚕神堂 (とおのでんしょうえん おしらどう)
遠野市の観光地でも屈指の知名度を誇る施設が、遠野伝承園である。遠野地方の農家の生活様式を再現した施設であり、国指定の重要文化財である菊池家曲り家を中心に、井戸や湯殿・雪隠などが展示されている。その中に「オシラ堂」と呼ばれる建物がある。曲り家から廊下伝いに中に入る構造となっているが、わずか6畳ほどの狭い室内には、壁一面に“オシラ様”と呼ばれる神様の御神体が並べられている。その数は約1000体。その圧倒的な威圧感は、時に見学者の体調にまで影響を与えるほどとも言われている。オシラ様は、主に東北地方の農家を中心に信仰されてきた神である。蚕の神とも農業の神とも言われ、あるいは女性の神、馬の神ともみなされている。この地方の農家に関係する事柄全てに関わる神であると言ってもおかしくない。その御神体は、約30cmほどの桑の木を棒状にしたものの先端に、顔が彫ったり描いたりしてかたどられており、それに着物のように布が幾重にも重ねられている。そして御神体は2体一組とされ、それぞれ男女であったり、あるいは馬と女性の組み合わせであったりする。代々家に祀られており、現存する最古の像で制作年が判っているものは大永5年(1525年)となっている。オシラ様を家に祀るに当たっては、かなり厳格で細かな掟が存在する。“命日”と呼ばれる祭りの日は、旧暦1・3・9月16日と定められている。その日は御神体を神棚から下ろし、布を着重ねさせ(地元では“オセンダク”と呼ぶ)、家人(主に本家の最長老の女性)が祭文を唱え、少女が御神体を背負ったりして“遊ばせる”という一連の行事がおこなわれる(あるいはイタコが祭文を唱えて遊ばせる場合もある)。そして禁忌も数多い。例えば、二足四足の動物の肉を食べると、顔が曲がるとされる。また一度オシラ様を家で祀ると拝むことを止めることが出来ないとされ、また粗末に扱うと祟ると言われている。オシラ様の始まりに関する伝説は何種類かあるが、最も有名なものは『遠野物語』第69話に収められたパターンである。ある時、父と娘の二人暮らしの農家があった。その家では牡馬を一頭飼っていたが、娘と馬は仲が良く、娘が馬小屋で馬と一緒に寝ることもよくあった。そのうち娘と馬は相思相愛の関係となり、夫婦の契りを交わすまでとなった。そのことを知った父親は、怒りに任せて馬を桑の木に吊り下げて殺してしまった。事の次第を知った娘は、吊り下げられた馬の首に取りすがって泣き叫ぶ。それを見てさらに憎悪を募らせた父は、斧で馬の首を斬り落としてしまったのである。すると馬の首は天へと飛んでいき、娘もそれに取りすがったまま彼方へと消え去っていった。それがオシラ様の始まりであるとされる。
さらに『遠野物語拾遺』第77話には、次のような話も残されている。
馬の首と共に消え去る直前に、娘は父親に「3月16日の朝、夜明けに庭の臼の中を見たら、父を養うものがある」と告げる。その日になって父が臼の中を見ると、馬のような頭を持った白い虫がいっぱい湧いていた。それに桑の葉を与えて養った。それが蚕であるという。オシラ様の伝説は、中国の“馬娘婚姻譚”を踏襲し、養蚕の起こりを伝えたものであると考えられている。しかしその伝承に留まらず、独自の信仰形態を獲得して土着している点では、オリジナルを遙かに凌駕した存在であると言える。現在でも遠野市内の個人宅に祀られているオシラ様を公開しているケースもあるが、やはり伝承園のインパクトと圧倒感は別格であり、その脈々と重ねられてきた信仰の強さや深さを実感することが出来ると言えるだろう。
オシラ様について(補足) / オシラ様は漢字で“御白様”と表記する場合がある。これは同時に蚕の尊称でもあり、養蚕と関連性が高い名称であるとも考えられる。一方、オシラ様は“お知らせの神”という側面があり、命日にオシラ様を遊ばせることで託宣する、また狩に出る時にオシラ様が獲物のいる方角を教えてくれる(『遠野物語拾遺』第83話)ような実例がある。単純に蚕の神と決定付けられず、むしろオシラ様の神としての祀られ方を推察するほど、念を引き継いで溜め込むことで一定の霊力を帯びることとなった強力な家憑き神という性格が出てくるようである。
馬娘婚姻譚 / 古代中国より伝わる伝説で、馬と娘が融合して蚕となり、養蚕がもたらされるという展開となる。最も古い記述が残る『捜神記』(4世紀頃成立)では、戦争に行った父を連れて帰ってきたら嫁になるという娘の言葉に対して、飼い馬が実行した。しかし馬の様子のただならぬのを見て、娘から事情を聞いた父が激怒して、馬を射殺して皮を剥いで晒した。その後、娘がその馬の皮のそばで遊んでいると、いきなり皮が娘に巻き付くとそのまま飛び去ってしまった。数日後、馬の皮と一体となった娘が発見されたが、既に蚕となり、桑の大木で糸を吐いていたという。状況などの細部は異なるが、オシラ様の伝説の原型と考えられる内容である。
陣ヶ岡/蜂神社
陣ヶ岡は標高136m、南北になだらかな丘陵である。周囲には他の高台などはなく、この陣ヶ岡だけが独立している。その地形故に、この地は虚実取り混ぜさまざまな戦いの場面で何度も攻め手が陣を敷いている。特に古代から中世にかけては錚々たる武人が名を連ねており、戦国時代末期までその絢爛たる歴史を織りなしている。現在、当地に掲げられている案内板にあるものを並べてみると
蝦夷討伐のため、日本武尊が宿営。この地で妻の美夜受比売(宮簀姫)が産気付いて皇子が生まれるが、結局3日目に亡くなったので墓を築いた。これが当地にある王子森古墳とされる。 / 斉明天皇5年(659年)、蝦夷討伐に赴いた阿倍比羅夫が宿営。 / 天応元年(781年)、蝦夷討伐に赴いた道嶋嶋足が宿営。 / 延暦20年(801年)より蝦夷征討に赴いた坂上田村麻呂が宿営。 / 康平5年(1062年)、前九年の役の終戦時に、源頼義・義家親子が本陣として宿営。その後、後三年の役の時期にかけて数々の遺構を残す。 / 文治5年(1189年)、奥州藤原氏討伐のために出陣した源頼朝が本陣として宿営。 / 天正16年(1588年)、南部信直が高水寺城の斯波氏を攻める時に本陣とした。 / 天正19年(1591年)、九戸政実の乱を鎮圧するために出陣した蒲生氏郷が宿営したとされる。
これで多くの武将が関係する地であるが、とりわけ深いゆかりのあるのが源頼義・義家父子である。まずこの地を“陣ヶ岡”と呼ぶようになったのは、この父子が本陣を構えたことから始まるとされる。この地に野営した折、月明かりに照らされた源氏の“日月の旗”が金色に輝いて堤に映えたのを見て、源義家が勝利の吉兆として大いに士気を揚げた故事にちなんで造営された「月の輪形」がある。さらに源義家が大江匡房から伝授された“八門遁甲”の兵法を実践して極めたとされる陣形の跡とされるものが残されている。そして頼義・義家がこの地に建立したのが、陣ヶ岡の中心に置かれた蜂神社である。これは大和の春日大社にある三日月堂より勧請されたと伝えられている。その一方で、敵の安倍貞任を攻略する時に藪の中の蜂の大群に悩まされていた義家が、逆に夜のうちに蜂の巣を袋に詰めて、翌朝それを敵陣に投げ込んで敵を混乱させて散々に討ち果たしたため、蜂を祀る神社を建立したという伝説も残されている。前九年の役の終戦時にこの地が本陣であったことから、この地には気味の悪いものも残されている。戦いに勝利した頼義・義家父子はここで首実検をおこなった。その時に敵の首領である安倍貞任の首級を晒し置いた場所が今もなお残されている。しかもこの場所は、義家の直系の子孫である源頼朝が奥州藤原氏を攻め滅ぼした際に、その最後の当主である藤原泰衡の首級を晒すためにも使われているのである(陣ヶ岡のそばにはこの泰衡の首を洗った井戸も残されている)。
上の橋擬宝珠 (かみのはしぎぼし)
盛岡の町を流れる中津川に掛かる上の橋には、日本最古級の青銅製擬宝珠が18個取り付けられている。銘によると慶長14年(1609年)に造られたものが8個、同16年(1611年)に造られたものが10個となっている。ちょうど南部利直が盛岡(当時は不来方と呼んでいた)を藩庁として建設していた頃である。この擬宝珠は盛岡建設の際に新たに造られたものではあるが、それが取り付けられた由来を紐解くと、さらに300年ほど時代を遡ることになる。三戸南部家の12代当主である南部政行が京都在番中のこと。その年の春になって鹿の鳴き声が都で聞かれるようになった。季節外れの鳴き声は不吉であるとして、歌を詠むことで凶兆を抑えようと“春鹿”の題で広く歌を求めた。政行はそれに応じ、
春霞 秋立つ霧に まがわねば 想い忘れて 鹿や鳴くらん
と天皇の御前で詠じると、鹿の鳴き声が止んだ。天皇は大層喜ばれ、松風の硯を下賜し、さらに都の風情を在所に持ち帰るようにと、鴨川に架かる橋の擬宝珠を模すことを許された。そこで政行は所領の三戸に戻ると、熊原川に黄金橋を架けて擬宝珠をあつらえたという。この故事にならい、27代目の利直が新しい城下町を築く際に、擬宝珠を鋳直したのである。その後、何度かの洪水で橋は流されたが、擬宝珠は残った。そして戦時中の金属供出の際には、盛岡出身の太田孝太郎の尽力によって急遽国の重要美術品に指定され免れたという逸話も残る。
続石
柳田國男の『遠野物語拾遺』第11話に、この続石に関する伝説が集約されている。この不思議な石の造型は自然のものではなく、弁慶がこさえたものであるという。初め弁慶は近くにある別の石の上に、笠となる石を乗せた。ところが、乗せられた石は「自分は位の高い石なのに、その上に石を乗せられたままとなるのは残念である」と言って一晩中泣き続けた。ならばと弁慶は別の石を台石として、その笠石を乗せ直したという。そして泣き続けた石もこの続石のそばにあり、泣石と呼ばれている。またこれらの巨石がある場所に少しだけ開けた平地があるが、ここは“弁慶の昼寝場”と伝えられている。上の乗せられた笠石の大きさは、幅7m、奥行5m、厚み2mという巨石であり、弁慶が持ち上げる時に付いたという足形が残っているとされる。奇異な巨石を見た人々が怪力の伝説の持ち主である弁慶が造ったものとして、ある種合理的な説明を残したのであろう。間近で見ると、その偉容に圧倒される。柳田國男も『拾遺』で指摘しているように、形から見て続石は人為的なドルメンの一種ではないかという説がある。その説を強くさせるような奇怪な話が『遠野物語』第91話にある。この本が出される十余年ほど前、ある鷹匠が続石の少し上の山の岩陰で赤い顔の男女と出会った。男女は手を広げて制止するよう警告したが、鷹匠は戯れに腰に下げていた刀を振りかざした。その途端、男の方に蹴られて気を失ってしまった。意識を取り戻した鷹匠は「多分今日の出来事で自分は死ぬかもしれない」と言い、果たして病死した。不審に思った家人が寺に相談すると、それは山の神であり、祟りを受けて死んだのだと告げたという。人工物であるか、自然の為せる奇跡かは定かではないが、この続石の存在がこの一帯を神秘的で神聖な場所であると認識させていることに間違いがないと言えるだろう。
ドルメン / “支石墓”と言われる。数個の支柱となる巨石の上に天板状の巨石を乗せたもので、墓とされる。起源はヨーロッパであるが、紀元前500年頃に朝鮮半島に伝播したと考えられる。日本へは縄文時代晩期に伝わったとされるが、北九州の限られた地域で見られるぐらい、弥生時代の初め頃には途絶えてしまったとされる。そのため続石についてはドルメンのような人工的な遺物ではなく、土石流などによって偶然に巨石が重なり合ったものであるという考えが一般的である。
長安寺
真宗大谷派の寺院であり、この地域では指折りの古刹である。平安時代末期に気仙郡司一族の正善坊によって開基され、室町時代前半に浄土真宗に改宗したとされる。戦国時代に全伽藍が焼失し、その後再建された。真正面にある山門は、高さが約20mもあり、それだけでもこの寺院の勢力を推し量ることが出来るだろう。しかしよく見ると、この山門は上部の壮麗さに比べて、何となく下部が貧弱に見える。実は、この山門は未完成であり、このような状態でそのままになっているのには、珍妙な曰く因縁がある。この山門が再建されたのは、寛政10年(1798年)のこと。ところが、当時この地を支配していた仙台・伊達藩では建築物にケヤキ材を使用することは御法度であり、にもかかわらず、この山門は総ケヤキ造りであったために大問題となったのである。藩は禁制であるが故にこの山門を取り壊すように命じた。それに対して住職は、これは仏殿であるので取り壊せないと突っぱね、最終的には取り壊しを免れた。しかしながら、これ以上の工事はおこなわないことが暗黙の条件であったため、山門は未完成のまま工事を中止。藩も黙認という形で決着したのである。結局、山門は扉もなく、袖塀もないまま、現在に至っているのである。
南面の桜
紫波町にある志賀理和気(しがりわけ)神社は、延喜式の式内社として最北にあるとされている古社である。創建は延暦23年(804年)、坂上田村麻呂が香取・鹿島の神を勧請したのが始まりとされる。この神社の長い参道の途中にあるのが“南面の桜”と呼ばれる桜の巨木である。樹齢は500年以上とされている(岩手県下では最古の桜の木とされる)。この木には次のような恋の伝説が伝わっている。元弘年間(1331〜1334年)にこの地に下った藤原頼之は、地元の豪族・川村少将清秀の娘・桃香姫と知り合い、相思相愛の仲となった。そこで二人は、志賀理和気神社の参道に桜の木を植えて、行く末を誓ったのである。ところが、しばらくして頼之は急に都に戻るように命ぜられる。二人は別れを惜しみ再会を誓ったが、あっという間に数年の歳月が流れた。ある年の春、桃香姫はかつて二人で植えた桜の木を訪れた。すると咲き誇る桜の花は、全て都のある方角である南を向いていたのである。この様子を見た姫は想いを一  首の歌に託して、頼之の許へ文を出したのである。
南面(みなおも)の 桜の花は 咲きにけり 都のひとに かくと告げばや
この文を受け取って間もなく、頼之は迎えの使者を送った。そして桃香姫は都へ上り、頼之の妻となったという。この伝説から、この桜の木は“南面の桜”と呼ばれるようになり、縁結びのご利益をもたらすものと信じられている。
弁慶の墓
平泉は奥州藤原氏の本拠地であり、源義経主従終焉の地でもある。国道4号線沿いの、中尊寺へ行くための駐車場入り口付近に、弁慶の墓と呼ばれるものがある。義経を庇護していた藤原氏の当主・泰衡が、源頼朝の圧力に屈して義経を自害に追い込んだのは、文治5年(1189年)のことである。数百騎で衣川館へ攻め込んだ泰衡の手勢に対して、義経は抵抗することなく持仏堂に籠もり、妻子を手に掛けると自害して果てた。わずかにいた義経の家来も全て討ち取られたという。伝承によると、武蔵坊弁慶は攻め入る敵を前にして、持仏堂の前に立ちはだかって侵入を防いだとされる。敵は容赦なく矢を浴びせ掛けたが、弁慶は決して倒れることなく、堂を守るように立ったまま死んだとされる。これが有名な“弁慶の立ち往生”である。
寒戸の婆 (さむとのばば)
『遠野物語』8話にある、「神隠し」と題される話に登場するあやかしが寒戸の婆である。 ……寒戸のある家の娘が、梨の木の下に草鞋を残したまま行方知れずとなった。三十数年後、親類などが家に集まっていると、老いさらばえた姿でその女が戻ってきた。どうして戻ってきたのかと尋ねると、女は人々に会いたかったからだと答え、また去って行った。その日は風が激しかったため、遠野の人は、風の強い日は「寒戸の婆が帰ってきそうな日」と呼ぶそうである。…… 上の話を柳田國男に語ったとされる佐々木喜善が、昭和5年(1930年)刊の『民俗文芸特輯』第2号に、ディテールの異なる同じ筋の話を発表している。 ……松崎村の登戸(のぼと)というところに茂助の家があった。その家の娘が、梨の木の下に草鞋を残したまま行方不明となった。幾十年経ったある風の強い日、家の人に会いたくなって、山姥のような姿になった娘が帰ってきた。肌に苔が生え、爪は二三寸に伸びたような姿であった。娘は一晩泊まると帰って行ったが、それから毎年その時期になると山の土産を持って訪れた。家の者も餅を持たせてやったりしていたが、来る時の数日が大風になるために村方より掛け合いがあって、山姥が来ないようにまじないをおこなった。その後、その山姥が来ることはなかったという。大風のある時は「今日は、登戸の茂助婆様が来る日だ」と老人が言っていたのを覚えている。山の物に攫われた娘が老齢になって、里に帰っても安心だとなった時初めて里帰りを許されて、人々に会いに行けるのであろう。…… 実は、遠野には“寒戸”という地名はない。しかし、柳田國男の著作があまりにも有名になりすぎたために、いつしか“寒戸の婆”の名が正式なものになったようである。寒戸の婆にまつわる伝承は口碑だけだったが(佐々木喜善の作品によると「婆が来ないように封じた石塔が六七年前まであったが洪水で流された」とある)、現在は『遠野物語』の観光名所として石碑が、登戸橋のたもとに置かれている。
太郎淵
「淵」と名が付いているが、現在は改修工事の結果、池のようなものになってしまい、さらに様々な施設も加えられて、全くの公園のようになってしまっている。案内板によると、この淵には太郎河童が住んでおり、女性が洗濯などで川辺にしゃがみ込むと、水面から顔を覗かせて腰の辺りをじーっと見ていたという。また下流に住んでいる女河童に好かれており、言い寄られていたともいう。まさに好色そのものである。しかしこれだけでは済まない。案内板に参考的に掲示されている『遠野物語』55話の中には、微笑ましさの欠片すら微塵もないような凄まじい話が書かれている。 ……松崎村の川べりの家には、二代続けて河童の子を孕んだところがある。生まれた子は醜悪で、切り刻んで一升樽に詰めて土中に埋めたという。女の婿の里である主人の話によると、ある時、女が汀で川に向かってにこにことしているのを目撃した。翌日もそうであったが、そのうち夜に女の元に誰かが寄っているという噂が立った。最初は婿の不在の時だけだったが、しまいには婿と一緒の時すら来るようになった。河童の仕業と言われるようになり、一族が守ったが効果はなく、婿の母親が一緒に寝た時は金縛りに遭って、笑い声を聞くだけで何も出来なかった。お産の時は難産となったが、馬桶に水を張ってその中で産めば易いということで試すとその通りだった。生まれた子供には水掻きがあった。この女の母親も河童の子を産んだことがあるという話である。……
千貫石堤 おいし観音
千貫石堤は天和2年(1682年)に着工された、灌漑用の溜め池である。完成は元禄4年(1691年)であり、10年の歳月が掛かっている。この堤を作るにあたって、人柱が立てられている。1000貫で買い取られた、「おいし」という19歳の娘であった。釜石あたりに住んでいた、器量は良いとは言えない娘であったと言われている。また嫁の貰い手があると騙されて連れて来られたという説もある。その娘を生きたまま子牛と共に石棺に押し込めて、100年の年季を限り人柱としたのである。地名ともなっている「千貫石」は、銭1000貫で買われたおいしが埋められた地ということで付けられたとも言われている。経緯を見れば、明らかに本人が望んでなったものでもなく、人柱になる覚悟も諦めもなかったことは間違いない。工事の責任者であった伊達藩の普請奉行・川田勘祐の屋敷では、人柱を立ててから毎夜のごとく「暗いぞ、暗いぞ」と声がしたという。さらに川田一族はことごとく死に絶えたとも言われた。またおいしと関わりのあった家々でも代々実子が生まれず、血の繋がりのない人間が家を継いでいくこととなったともいう。これらは全ておいしの祟りであると噂されたのである。そして100年の年季に近づいた安永6年(1777年)、7日7晩降り続いた雨のために千貫石堤は決壊した。多くの被害を出したが、この決壊の際にも約36mの青い光が流れ出たのが目撃され、これもおいしの祟りであるとされた。時代はくだり昭和50年(1975年)、地元の複数の人の夢枕に、おいしの幽霊とおぼしき女性が立ったという噂が流れた。それを機に、おいしの供養を目的としておいし観音が建立されることとなり、翌年に完成した。おいし観音は、千貫堤を見下ろす小高い山の頂上に置かれている。ただ、今なおこの付近では女性や牛と思われる幽霊の目撃情報があるそうである。
大籠キリシタン殉教史跡
藤沢町大籠は、現在でも自動車を使わないとアクセスが難しい、ある意味秘境の地のような場所である。そのような土地に江戸時代初期のキリシタン弾圧の遺跡が点在している。大籠の地は、キリシタンとは関係のない製鉄から始まった。千葉土佐(初代)という者が、砂鉄を使う「たたら製法」で鉄を生産していたのだが、生産量が増えないために、永禄元年(1558年)に備中国から千松大八郎・小八郎の兄弟を呼び寄せた。この兄弟が熱心なキリシタンであったため、仕事のかたわら布教に専念し、またたく間にキリシタンの数が増えたのである。その数は伝承によると、最盛期には3万人に達したと言われていた。慶長17年(1612年)、江戸幕府は禁教令を出し、キリスト教の本格的な弾圧が始まった。元和の大殉教では全国各地で大がかりな処刑がおこなわれた。大籠を領有していた仙台伊達藩でも拷問による殉教者を出したが、大籠での徹底的な弾圧は10年以上も後のこととなる。寛永16年(1639年)から約3年ほどの間に、大籠でキリシタンの大量処刑がおこなわれた。処刑された数は309名。そして今なおその処刑にまつわる史跡が、街道沿いに点在する。さすがに処刑そのものに関係した物はないが、後年に造られた供養碑(江戸時代に作られているので仏式である)と案内板が置かれているだけの、何の飾りもない殺風景な場所である。しかし簡素であるが故の生々しさ、ここで人が次々と刑死したのだということを否が応でも思い起こさせる雰囲気があった。最も多くの殉教者を出した場所が「地蔵の辻」である。2年にわたって178名が処刑された。地蔵の辻と県道を挟んで置かれてあるのが「首実検石」。伊達藩の役人が、この石に腰掛けて、処刑の検分をしたと伝えられる。さらにその近くには94名が処刑された「上野処刑場」、集落の入り口あたりには12名が処刑された「トキゾー沢処刑場」がある。その他にも、斬られた首を晒して埋めたとされる「架場首塚」。上野処刑場に晒されていた遺体を約60年後の元禄年間に埋葬した「元禄の碑」。地蔵の辻に晒された首を親族が取り戻して埋めたとされる「上の袖首塚」。そして絵踏をおこない、キリシタンを捕らえた「台転場」など。これらの地のほとんどは、毎夜のように男女の泣き叫ぶ声が聞こえたり、幽霊が彷徨い出てきて、住民を恐れおののかせたという。
東北のキリシタン活動 / 大籠にキリスト教を広めたのは千松兄弟とされているが、実際に布教が活発になるのは、江戸幕府が禁教令を出してから以降であると推測される。幕府に対抗する形でキリシタンに対して接近していたのが伊達政宗であり、家臣に欧米使節となった支倉常長や、藤沢ゆかりの人物で熱心なキリシタンであった後藤寿庵らがいる。禁教令によって西日本や京都・江戸の大都市から逃げてきた信者が、キリスト教に対して理解があると思しき伊達藩の辺境の地であり、比較的流れ者が紛れ込みやすい鉱山のある大籠へ集まってきたのが真相ではないかと考えられる(それでも信者3万人という数はかなりの誇張であると言える)。ちなみに伊達政宗は、大籠でキリシタンの大量処刑がおこなわれる3年前までは存命であった。
元和の大殉教 / 元和5年(1619年)に京都で52名を処刑。同8年(1622年)長崎で55名を処刑(これが狭義の「元和の大殉教」)。同9年に江戸で55名を処刑。同10年に東北一帯で108名、平戸で38名を処刑。これまではキリシタン取り締まりでは、国外追放などが主な刑罰であったが、この時期より拷問や処刑などの残虐行為が常態化していく。
達谷窟 (たっこくのいわや)
達谷窟は坂上田村麻呂ゆかりの地である。延暦20年(801年)この地を平定した田村麻呂は、戦勝は仏の加護であるとして、遠征前より祈願していた京都の清水寺に模した堂宇を建立し、そこに毘沙門天を祀った。それが達谷窟毘沙門堂である。その後も崇敬篤く、奥州藤原氏や伊達氏が堂宇を建立している。また文治5年(1189年)に源頼朝が平泉平定後に立ち寄ったことが『吾妻鏡』に記録されている。元々この窟には、悪路王という鬼が住み着いていたという。悪路王は赤頭・高丸などの仲間とともに近隣を荒らし、また京の都にまで現れては姫君を攫っていったのである。その悪行は当然、時の帝の聞き及ぶところとなり、坂上田村麻呂が遣わされることとなったのである。達谷窟の他にも、悪路王の伝承地が近隣にある。近くを流れる太田川に“姫待滝”という小さな滝がある。京から攫ってきた姫らを上流で幽閉していたのだが、隙を見て逃げ出す者があった。すると悪路王はこの滝で待ち伏せをして捕らえたのだろいう。さらにはその滝の下流には“髢石(かつらいし)”という巨石がある。逃げ出して再び捕らえられた姫は、見せしめのために長い髪を切られ(あるいは首を切られたとも)、その髪(首)が川を流れてこの石のところで塞き止められたのだという。悪路王はその名前から、蝦夷の族長であったアテルイの存在がモチーフとなっている推定されている。悪路王の悪逆非道ぶりは、最終的な支配者となる朝廷に対する頑強な抵抗を行った史実の裏返しであることは容易に想像できる。“悪路王の首”と称される木像が、鹿島神宮に納められている。東国に睨みをきかすように派遣された天津神の武神を以てして封じ込めていると見るべきだろう。
アテルイ(阿弖流爲) / ?-802。胆沢地方(現在の奥州市)を支配していた蝦夷の族長。延暦8年(789年)に征東将軍・紀古佐美が率いる朝廷軍を打ち破ったことが『続日本紀』にある。延暦21年(802年)に坂上田村麻呂の許に、モレ(母礼)と共に500人余りの者を引き連れて降伏する。その後2人は京都へ入り、田村麻呂の助命嘆願の甲斐なく、河内国で処刑された。
カッパ淵
柳田國男の『遠野物語』には、何話か河童に関する伝承が記載されている。厳密に言えば、古の伝承というよりも、実際の体験者から採話したような次元の体験談である。それによると、遠野の河童は、一般的な河童とは異なり、赤ら顔であるという。それ故に柳田は遠野の河童と猿との関連性を唱えている。遠野の河童といえば、今や観光地となっているカッパ淵が最も有名である。「河童狛犬」のある常堅寺の裏手を流れる川にカッパ淵はある。かつてはこの淵にも河童が住んでいるとされ、たびたび目撃されていたらしい。現在、このカッパ淵には、河童を祀った祠がある。この淵で悪さをしていた河童を諭し、神として祀ったものであると推測される。なぜか乳の神であり、赤い布で乳をかたどった供え物を奉納すると、母乳の出がよくなると伝わる。このカッパ淵の近くには、東北の豪族・安倍氏が構えていた安部屋敷跡が残っている。この安倍氏の末裔にあたり「カッパじいさん」と呼ばれていたのが安部与市氏である(2004年にお亡くなりになっている)。氏自身も幼少期にこの地で河童を目撃している、生き証人であった。
むかで姫の墓
南部利直の正室・於武の方は先祖がむかで退治した時に使った矢の根を持参してきたが、その亡くなった時に、遺体の下にむかでを連想させる模様が現れた。むかでの祟りを恐れた利直は、むかで除けの堀をめぐらせた墓を作るように命じた(むかでは水が苦手なため)。だが、その墓へ行くための橋を堀に架けたのだが、一夜にして破壊されてしまった。そして何度も付け替えようとするのだが、むかでが現れてそれを破壊した。墓から大小のむかでが這い出てくるし、さらに於武の方の髪も片目の蛇に変化して石垣の隙間から出てきたという。そこで於武の方を“むかで姫”、その墓を“むかで姫の墓”と名付けたという。この於武の方は蒲生氏郷の養妹、つまり先祖は近江国でむかで退治をした俵藤太(藤原秀郷)である。このむかで姫の伝説は、まさにこの俵藤太の伝説が発端となって広まったものであることは間違いないだろう。
俵藤太の百足退治 / 近江の瀬田の唐橋に大蛇が横たわり人が通れなくなったが、俵藤太だけはそれを踏みつけて渡った。その夜娘が訪れ、大蛇は自分の化身であり、琵琶湖に住む龍王の娘と名乗る。三上山の大百足に悩まされており、助けて欲しいと頼む。快諾した俵藤太は、山を七巻半する大百足に矢を放つが効果がなく、最後の一本の矢じりに唾を付けてようやく退治したとされる。
大泉寺 おかんの墓
盛岡市内のほぼ中心部にある大泉寺には、不思議な墓石がある。“カンカラ石”という名で呼ばれる墓石なのだが、材質が花崗岩にもかかわらず、石で叩くと高い金属音のような音が出る。これだけでもかなり奇妙な石なのだが、この音が鳴るようになったいきさつの伝承も、それ相応に不思議な因果話になっている。秀吉による天下統一の末期、九戸政実は反乱を起こし、南部家によって滅ぼされた。その重臣・畠山氏の息女であった“おかん”は、家来であった三平と夫婦となり、盛岡に住み着いた。三平は盛岡城築城の現場で働いていたが、事故によって働けなくなった。そのような状況でおかんに言い寄ってきたのが、建設現場で夫の直接の組頭であった高瀬軍太であった。高瀬はおかんの気品の高さに思いを寄せ、夫の事故の件を境にして、露骨に関係を迫るようになってきた。これ以上拒絶すれば夫の身にも累が及ぶと感じたおかんは、夫を殺すならば身を任せると言って欺き、自ら夫になりすまして高瀬の手に掛かって貞死した。己の非を悟った高瀬は自ら仏門に入り、おかんの菩提を大泉寺で弔ったという。この貞女おかんの墓が、この不思議な音の鳴る墓石なのである。そしてカンカンと鳴る甲高い音は、おかんの泣き声であるとか、夫の三平の唱える念仏であるとか、そのような伝説になっている。あるいはこの不幸な夫婦二人の声が合わさっているとも言われている。ほとんど戒名すら判読できないほど磨滅した墓石の上には、墓石を叩くための石が置かれている。しかもこの石が置かれている部分は、叩かれたために、自然のうちにくぼみができているのである。300年以上、数知れぬほど多くの人々がこの墓石を叩いてきた証なのだが、この行為がおかんに対する賞賛や供養を意味しているように感じるのである。
大泉寺 / 盛岡築城時に三戸より移転。本堂は宝形式反り屋根を持ち、盛岡の文化財に指定されている。寺宝に“お菊の皿”がある(8月16日のみ公開とのこと)。
三ツ石神社 鬼の手形
昔、この地に<羅刹(あるいは羅教)>という名の鬼が棲んでおり、悪事の限りを尽くしていたという。困り果てた人々がこの地で崇拝されていた<三ツ石様>という自然石に祈願したところ、たちまち鬼はこの巨石に縛り付けられた。さすがの鬼もこの神聖な威力に恐れをなし、二度とこの地に現れないと約束し、この巨石に自分の手形を押して立ち去ったという。この伝説によって、この地は鬼が二度と来なくなった場所という意味の「不来方(こずかた)」と呼ばれるようになり、また鬼が岩に手形を押したということから「岩手」という名前が出来たと言われている。そして盛岡の代表する夏祭りである<さんさ踊り>の由来も、羅刹という鬼がこの地から去ったときの民衆の喜びを表現したものであると伝えられている。三ツ石神社の入り口に立つと、その問題の3つの巨石が出迎えてくれる。調査によると、この岩は元来1つの岩だったらしいが、年月と共に3つに割れてしまったのだという。さらに岩手山で噴火が起こった際にとんできたものであろうと推測されている。その唐突にそびえ立つ岩を見ていると、その巨大さゆえに信仰の対象となり得たことが十分理解できる。しめ縄を張られた岩の表面は苔むしており、今でも鬼が手形を押した場所だけは苔が生えないので、手形らしきものが見えるという。
不来方の地名 / 南部藩が居城を構えた時も「不来方」の名前であったが、その名が縁起がよくないと忌避することとなり、その後「森ヶ岡」さらに「盛岡」と改称された。この新しい名称は、城下の鬼門にあって鎮護の役目を果たした永福寺の山号“宝珠盛岡山”から取られたものであり、元禄時代以降に付けられたと言われる。
田村麻呂伝承 / この手形の伝承として、三ツ石神=坂上田村麻呂、羅刹=蝦夷という組み合わせで、全く同じような話が残されている。おそらく東北一円に広がる田村麻呂伝承が、この鬼の話を巧みに取り込んで完成させて流布したものであると推測する。この三ツ石神社が屈指の古社であることを裏付ける証拠であるだろう。  
 
 秋田県

 

●安兵衛茶屋 阿仁町
阿仁は山に囲まれて阿仁川の上流にある。部落を開いた人たちは仙北の方から山越えして来ている。
昔は、戦いに敗れると一族郎党が四散して阿仁にも落ちてきている。阿仁鉱山が発見されてから、山師たちや鉱夫たち、それに商人と、人の出入りが多くなって、米代川を上ったり山を越えて来ていたもので、鉱山住民の食物は仙北からも運ばれたから、自然と山道が開かれて、大覚野街道が出来たのである。郡境の大覚野峠は、海抜582mにあって、仙北市西木村に通じていて、現在国道105号線として比立内から南5キロメートル程進んでいる。いま茶屋の跡ははっきりしないが、郡境から少し西木村の方に入ったところに、池の跡は残っている。

昔、阿仁鉱山が盛りになって人の往来が多くなった頃、この大覚野峠に一軒の茶屋があって、安兵衛と言う60歳くらいのおじいさんが独り住んでいた。この茶屋の泉は非常にきれいで、すごく冷たいし、夏でもかれることなくこんこんと湧いているので、旅人から賞味され、それに安兵衛はお客にたいへん親切なので、すこぶる評判のよい茶屋であった。それで誰いうとなく安兵衛茶屋と愛称されていた。茶屋の裏の方には、大きな沼があって底なし沼と言われていたという。
さて、ある日のこと、1人の旅人が大覚野街道を登ってくるうち、日がとっぷり暮れて夜の山道になってしまった。とぼとぼ歩く夜の道は淋しい、心細くなって一心に向こうを見つめると、ポツンと明かりが見える。これは神の助けと、元気付いて着いてみたのはその安兵衛茶屋で、主はこれまた大変親切なおじいさんであった。安心して一夜の宿をとることになり、心づくしのもてなしを受けて、商人は奥の間に案内され、疲れ果てた身を横たえると、たちまちぐっすり眠り込んでしまった。この様子をかいま見た安兵衛は、ガラリと人が変わって、恐ろしい形相、奥の部屋には「つり天井」の仕掛けがあるので、それを外すと、ものすごい音を立てて天井が落ちるとともに、商人の断末魔の叫びも、静寂な夜の山々にこだまするだけで、誰あって知る由もない。安兵衛は商人の財物を取り上げ、死体は裏の底なし沼に投げ捨てるという恐ろしい強盗であった。
またある日、父の敵を探し求めて、六部姿(巡礼の姿)のまだ若い一人の娘がこの峠にさしかかった時は、日も暮れて夜道をこの先行くことができないので、この茶屋に休んで一夜を泊めてもらうことにした。安兵衛じいさんは、例の通り、六部を親切にもてなして、身の上話などを聞いたりしてから、床につかせた。六部の娘はゆっくりした気持ちでスヤスヤと眠りに入ると、夜中に安兵衛は恐ろしい顔つきになって、六部を揺り起こすと、刀を振り上げて襲いかかる。意外な強盗に声もなく、ようやく「金は差し上げますから、父の敵を探すまでは死ぬことはできない、命だけは助けてください。」と泣き叫びながら一心に懇願しても、鬼の安兵衛は、この哀れな娘の六部を、遂に殺して金品を巻き上げたうえ、死体は例の底なし沼へ投げ込んだことであろう。
その後、鬼の安兵衛とて、毎夜悪い夢に悩まされたに違いない。どのような死に様をして、茶屋もいつのまにか無くなったことか誰も知る者はないが、大覚野峠を通る旅人は、茶屋のあったあたりを通るたびに「助けてください、助けてください」という哀れな女の声が聞こえたものだと語り伝えられている。

●安兵衛茶屋​ 2
東北東から望む。湿地帯の右側に街道があり、中央部の湿地帯が突出している部分の先に大覚野峠があった
桧木内川の水落、かくら沢(赤倉沢?)の源流域にある御役屋の下の池の傍らに、安兵衛茶屋という往来の旅人相手の茶屋が建っていた。弘化3年(1846年)、この安兵衛茶屋の近くで殺人事件があった。阿仁町の『越後谷文書』に収録されている「万歳日記」の弘化3年の項にそれが記述されている。角館宇左衛門が殺され衣類や金まで奪われ、子供が阿仁まで探しに行ったが、阿仁の帰りにかくら沢で砂に半分埋まった状態で発見したものであった。犯人らしき人は捕まったが、証拠不十分のため解き放たれたとある。民話には次のような話が伝わっている。
阿仁鉱山が盛りになった頃、大覚野峠に安兵衛茶屋と呼ばれる一軒の茶屋があった。表向きは親切なお爺さんが一人で営んでいる茶屋であったが、本当は旅人を吊り天井の部屋に泊めて殺し、金品を奪って死体は裏の底なし沼に捨てる強盗であった。ある日、六部姿の若い娘がここに泊まったが、夜中に娘を襲うと、金は全部渡すが、親の敵を取るまで命だけは助けてくれと命乞いをしても、殺して池に捨てた。それからこの峠の茶屋のあたりを通るたびに、「助けてくれ」という女の叫び声が聞こえてきたという。その後鬼の安兵衛とて、毎夜悪い夢に脳まされてに違いない、どのような死にざまをして、茶屋もいつのまに無くなったことか誰も知る者はないが。

●八郎太郎 南秋田郡大潟村
みなさんは「八郎太郎」という名前を聞いたことがありますか? 八郎太郎は、八郎潟の龍神です。大潟村唯一の神社である「大潟神社」には、天照大神と豊受大神とともに、八郎太郎大神が祀られています。その龍神八郎太郎を、大潟村の初代村長である嶋貫隆之助さんはこう述べていました。「八郎太郎は、八郎潟干拓事業の最高の理解者であり、協力者である。」 大潟村の住民にとってはとてもなじみの深い八郎太郎ですが、実は八郎潟だけでなく、青森・秋田・岩手の北東北3県に、八郎太郎に関する壮大な伝説が分布しています。これらは「めでたしめでたし」で終わるものではありません。八郎太郎の悩みや苦しみ、喜びが、大潟村を始め北東北の各地には連綿と語り継がれているのです。ここでは、各地に分布する八郎太郎伝説について、伝説の舞台を含めて紹介します。ぜひ八郎太郎伝説の舞台を訪ね、八郎太郎に思いを馳せてみませんか。ひょっとしたら八郎太郎に会えるかもしれませんよ。
1 鹿角の里で、八郎太郎は産声をあげた
むかしむかしのことです。比内の独鈷(とっこ)1)に了観(りょうかん)というお坊さんがいました。しかしある日、お坊さんらしくない行いをしたため、お寺の近くの沼に住んでいた大蛇のたたりを受けてしまいました。それから間もなく、了観の妻は身ごもりました。子が生まれるとき、天地が激しく鳴り響き、嵐となりました。こうして生まれた子は久内(くない)と名付けられ、後に鹿角の草木(くさぎ)に移住し、その家は代々久内と名乗ったのでした。それから長い年月がたったある日のこと、草木の地2)で9代目の久内が生まれました。先祖からの血を受け継いでいるためか、成長すると身の丈6尺あまりの大男になりました。彼はとても力が強く、気立ても優しい若者であり、八郎太郎と呼ばれていました。そんなある日、「マダ」という木の皮を剥ぐため、八郎太郎は仲間と3人で十和田の山奥へと入っていきました。
1) 現在の大館市比内独鈷にある大日堂。大蛇は大日堂の裏にある北沼に棲んでいたといわれています。大日堂、北沼ともに現存しています。
2) 現在の鹿角市草木字保田(ぼった)。地元住民が「八郎太郎生誕の地」碑を建立しています。また、近くには、産湯に使われ、八郎太郎が飲んで大きくなったという「桂の井戸」があります。なお、八郎太郎生誕の地にはここ以外にも諸説があります。
2 八郎太郎は龍に姿を変え、仲間に別れを告げた
八郎太郎が、仲間3人と十和田の山奥に入って数日が経ちました。その日は八郎太郎が炊事当番でした。水を汲みに沢におりると、おいしそうなイワナが3匹泳いでいました。八郎太郎はおかずにしようと、3匹のイワナを捕まえ、串に刺して焼きました。やがておいしそうな香りが漂い始めました。八郎太郎は我慢できず、自分の分を食べてしまいました。あまりのおいしさに我を忘れ、仲間のイワナを全部食べてしまったのでした。まもなく、八郎太郎は喉が渇いてひりひりするようになりました。汲んだ水を飲んでも足りず、沢に行って水を飲み続けました3)。やがて、沢に映った自分の姿を見て、八郎太郎は驚きました。なんと、大きな龍に変わっていたのでした4)。戻った仲間は八郎太郎の変わり果てた姿に驚きました。八郎太郎は涙を流し、仲間に別れを告げました。そして沢の流れをせき止め、湖とし、その主となったのでした。こうしてできた湖は十和田湖といいます。
3) 七日七晩飲み続けたとも言われています。
4) 「仲間を置き去りにしない」「食べ物は必ず分かち合う」「収穫は平等に分配する」といった掟を、八郎太郎が破ってしまったためと考えられています。
3 諸国を巡った修行僧の南祖坊が、八郎太郎に戦いを挑んだ
八郎太郎は、美しい十和田湖で暮らしていました。そんなある日のこと、南祖坊という修行僧が十和田湖のほとりにやってきました。南祖坊は南部の出身5)であり、紀州(今の和歌山県)の熊野で修行をしていました。そして権現様から鉄の草鞋(わらじ)を授かり、「これを履いて諸国を修行し、草鞋が切れたところをすみかとせよ」というお告げを受けたのでした。南祖坊は諸国を巡り、十和田湖に着いたそのとき、鉄の草鞋が切れたのでした6)。南祖坊は目の前に広がる十和田湖を、権現様からお告げのあった永住の地と考え、喜びました。そのとき、南祖坊の前に八郎太郎が姿を現しました。「私はこの湖の主の八郎太郎だ。おまえはいったい何者だ!」「私は南祖坊。熊野権現のお告げに従い今日からこの湖の主となる。」こうして、八郎太郎と南祖坊の激しい戦いが始まったのです。
5) 青森県三戸郡南部町の斗賀神社の裏に十和田神社があり、ここが南祖坊生誕の地といわれています。
6)「鉄の草鞋の切れたところ」ではなく、「片方の鉄の草鞋を発見したところ」と記している文献もあります。十和田湖畔には十和田神社があり、その、境内社として熊野神社も設けられ、鉄の草鞋が奉納されています。
4 七日七晩の戦いの末、八郎太郎は敗れ去った
南祖坊は、十和田湖のほとりの岩山に座り、八郎太郎に向けて法華経8巻を取り出しました。そして経文を唱えると、お経を八郎太郎に向けて投げつけたのです。するとそのお経は八龍となり、八郎太郎に挑みかかりました。一方八郎太郎は、自分の住みかである湖を取られてなるものかと、八つの頭をもつ龍に姿を変え、南祖坊に挑みました。静かであった湖は急に荒れ狂い、雷が鳴り響き、山々が鳴動し、それは凄まじい光景でした。この戦いはなかなか決着がつかず、七日七晩続きました。南祖坊は最後の力をふりしぼり、最後の法華経のお経を八郎太郎に向けて投げつけました。すると、経文の一字一字が鋭い剣となり、八郎太郎の体に突き刺さったのでした。とうとう八郎太郎は力尽き、十和田湖を自らの血で真っ赤に染め、体を引きずりながら十和田湖を去ったのでした。そして、八郎太郎に勝った南祖坊は、静かに十和田湖へと入っていきました。南祖坊が十和田湖の主となったのでした7)。
7) 十和田湖の主となった南祖坊は、青龍権現として祀られました。十和田湖に向かう道路沿いには「十和田青龍大権現」碑が現在も残っており、かつてはその碑より奥は女人禁制の十和田の神域でした。
5 八郎太郎は、鹿角の里を追われた
十和田湖を追われた八郎太郎は高台に腰掛け、鹿角の里を見下ろしました。小坂川、大湯川、米代川が合流する雄神(おがみ)と雌神(めがみ)8)の間をせき止めれば、鹿角の盆地は大きな湖となり、ここを安住の地にできると考えたのでした。そこで八郎太郎は毛馬内(けまない)の茂谷(もや)山9)に縄をかけて背負い、川の合流地点をせき止めようとしました。この計画に驚いたのは、鹿角の43体の鎮守の神様たちでした。神様は大湯のお宮10)に集まり八郎太郎を追い出すための相談をしました。そして鹿角の花輪地区の鍛冶屋に金槌などをつくらせ、牛で運ばせ11)、八郎太郎がせき止めた場所を壊したのでした。鹿角の神様たちの反撃に遭い、住みかを失った八郎太郎は、再び安住の地を求めて米代川沿いに下って行ったのでした。
8) 雄神と雌神の間は峡谷となっています。雄神と雌神は米代川を挟んで向かいあっており、それぞれ祠と御神像があります。
9) 茂谷山には、八郎太郎が縄をかけた跡が残っているといわれています。
10) 神様が集まったお宮を集宮(あつみや)といいます。
11) 牛は運んでいる途中であまりの重さに血を吐いたといいます。その土地を「血牛(ちうし)」といい、現在は「乳牛(ちうし)」の地名となっています。
6 八郎太郎は、七座(ななくら)の天神様と力比べをした
鹿角を追われた八郎太郎は、米代川沿いに下り、きみまち坂付近で蛇行している米代川をせき止めて湖にし、住み家にしました。それに驚いたのは七座(ななくら)山12)の神様たちでした。そこで、いちばんかしこい天神様が八郎太郎に声をかけました。「八郎太郎よ、力持ちと聞いているが、私も負けない。大きな石を投げて力比べをしてみないか。」 八郎太郎は、そばにあった大きな石を投げました。その石は、米代川の中ほどに落ちました。一方天神様は、もっと大きな石を軽々と投げ、それは米代川をはるか越えていきました。驚いている八郎太郎に、天神様はすかさず言いました。「この川の下流の男鹿半島のほうに、もっと広い場所がある。そこを住み家にしてはどうだ。」 そこで天神様は、米代川をせき止めた堤防を、たくさんの使いの白ネズミに穴を開けさせました13)。八郎太郎は、その水の勢いに乗って下流へと行ったのでした。
12) 現在の能代市二ツ井町にある、七つの峰をもつ山。各峰には神が鎮座しており、米代川は七座の山をう回するように蛇行している。
13) 喜んだのは猫たちで、白ネズミをつかまえようとしました。そこで天神様は猫にノミをつけないと約束し、猫を繋いでおきました。この地が猫繋で、現在は「ね」が取れて小繋の地名となっています。
7 鶏が鳴くと同時に大地が割れ、八郎潟が誕生した
米代川を下った八郎太郎は一夜の宿を求めて歩き回りました。そして天瀬川(現在の三種町天瀬川)で、年老いた心優しい夫婦が宿を提供してくれたのでした。八郎太郎はお爺とお婆に、泊めてくれたことのお礼を述べ、自分が龍であることを伝えたのでした。そして明日の朝、鶏が鳴くと同時に大地が割れ、ここが大きな湖になると老夫婦に言ったのでした。老夫婦は大変驚きながらも、八郎太郎のお話を信じ、鶏が鳴く前に逃げようと荷物をまとめたのでした。翌朝、鶏が鳴くと同時に轟音が響き渡り、水が溢れました。八郎太郎の姿は龍になり、そして大地は瞬く間に湖となったのでした。そのとき、八郎太郎は溺れているお婆を発見しました。お婆は裁縫道具を家に忘れ、取りに戻ってしまったのでした。八郎太郎はお婆を助けようと、尾ではじきました。お婆は、天瀬川の反対側の芦崎(あしざき)(現在の三種町芦崎)に飛ばされてしまいました。お爺とお婆は助かりましたが、離ればなれになってしまいました。後に、お爺は天瀬川の南の夫殿権現(おどどのごんげん)に、お婆は芦崎の姥御前神社(うばごぜんじんじゃ)に祀られるようになりました。そして、この両地域では鶏を禁忌とし、鶏を飼うことを禁じるだけでなく、鶏や卵を一切食べませんでした。こうして、現在の位置に八郎潟が誕生し、八郎太郎はここを永住の地としたのでした。
8 八郎太郎は、一の目潟の女神に逢いに行こうとした
八郎潟を安住の地とした八郎太郎でしたが、八郎潟は冬に凍る湖でした。冬も凍らない湖はないかとあちこち訪ね、男鹿の北浦に冬も凍らない一の目潟があることを聞いたのでした。そして、一の目潟を冬の間の棲み家にしようと考えたのでした。困ったのは一の目潟の女神様でした。自分一人では八郎太郎にはかないません。そこで、京都出身の弓の名手であった武内弥五郎真康(たけのうちやごろうまさやす)に八郎太郎を追い払ってくれるように頼んだのです。さらに女神様は真康に、八郎太郎を追い払うことができるのであれば、雨乞いのお札を授ける約束をしたのでした。真康は女神様に、八郎太郎を追い払うにはねらいをどこに定めたらよいか尋ねました。女神は、八郎太郎は寒風山の上から黒雲に乗って現れるので、それを目当てに矢を放てば良いと答えました。真康は先祖伝来の弓矢を携え、一の目潟のほとりの三笠の松に姿を隠し、八郎太郎が現れるのを待ちました。そして黒雲が現れたそのとき、武内真康は矢を放ちました。矢は八郎太郎に当たりました。怒った八郎太郎は体から矢を抜き、「この恨みは子孫七代まで必ず片眼にする」といいながら矢を真康めがけて投げ返したのです。矢は真康の左目にあたり、以後、七代目まで左目が不自由だったといわれています。
9 辰子は、永遠の美しさを求め、大蔵(おおくら)観音に願をかけた。
八郎太郎が八郎潟で暮らしていた頃、西木村(現在の仙北市)神成沢(かんなりざわ)16)には、辰子という美しい女性がいました。辰子は永遠の美しさを手に入れようと、神成沢と田沢湖との間の山の中腹にある大蔵(おおくら)観音17)に毎晩願掛けをしました。そして成就の夜、観音様から田沢湖のそばの泉を飲めば、永遠の美しさを得られるというお告げを受けました。辰子は泉を探し求め、ついに発見し、水をすくって飲んだのでした18)。すると辰子は、龍の姿に変わってしまいました。母は戻らない辰子を何日も探しました。ついに湖のほとりで母は龍になった辰子と会ったのでした。母は泣く泣く辰子と別れたのでした。後に、辰子は田沢湖の主になりました。
16) 辰子姫生誕地が神成沢にあります。
17) 辰子が願をかけた大蔵観音は老朽化により山の麓に移され、かつての跡には祠があります。
18)永遠の美しさを得ようと訪れた泉は、現在は「潟頭(かたがしら)の霊泉」といい、田沢湖北部の御座石神社(ござのいしじんじゃ)のそばにあります。なお、御座石神社には下半身が龍の辰子像があります。
10 八郎太郎は身だしなみを整え、辰子姫に会いに田沢湖へ向かった。
ある日のこと、八郎太郎は、八郎潟にやってきた渡り鳥から、田沢湖に辰子という美しい娘がいることを聞きました。そして冬も押し迫ったある日、ついに辰子に会いに行こうと決心したのでした。八郎太郎は潟のほとり19)で身だしなみを整えた後、新関(潟上市)、久保田(秋田市)、船沢(大仙市)、西明寺(仙北市)などで一夜の宿を求めながら、川伝いに田沢湖へと向かったのでした。大仙市や仙北市のある宿では、泊めたお礼にと、八郎太郎は薬のつくりかたを宿の主人に授けてくれました。潟上市や仙北市のある宿では、八郎太郎の寝ている姿を、その家のおばあさんが見てしまったため、後に滅びてしまいました。
19) 潟上市天王塩口には、八郎太郎が身だしなみを整えたという「足洗の井戸」があります。
11 八郎太郎は、辰子がいる田沢湖に入っていった
八郎潟を発った八郎太郎は、辰子姫に逢うために川沿いに一夜の宿を求めながら田沢湖に向かいました。そして桧木内川から潟尻川を経て、霜月の9日(旧暦の11月9日)に、現在の潟尻地区から田沢湖に入っていきました。辰子姫は八郎太郎の来訪を喜び、想いを受け入れたのでした。それ以来、八郎太郎は冬になるたびに田沢湖を訪れ、辰子と共に暮らすようになりました。そのため、主の八郎太郎がいない八郎潟は冬に凍るようになり、八郎太郎と辰子姫の二龍神が暮らす田沢湖は、逆に冬も凍ることなくますます深くなった20)といわれています。八郎太郎が田沢湖に入った場所には現在、浮木神社が建立されています。なお、かつて潟尻の人々は、八郎太郎が田沢湖に入る音を聞いたり姿を見たりしないようにと、その日は一晩中賑やかに飲んで騒いだといわれています。
20) 田沢湖は日本一深い湖で、水深が423mもあります。

●空素沼 秋田市
寺内字高野の聖霊短大裏にある空素沼。ここはその昔、狼沢(おいぬさわ)と呼ばれ、沢水が流れ、田や畑が広る場所でした。
この田畑を耕していた男がある日、沢の奥で大蛇を見つけました。男はその場を逃れましたが、大蛇がはきつけた毒が原因で三年後に亡くなります。その頃から、沢の源にあった小さな池がしだいに大きくなり、一夜にして満々と水をたたえる空素沼が生まれたといいます。その日の夜、ある村人の枕もとに白髪の老人が現れて、「私は沼の主である。狼沢の田畑の場所をしばらく借りることになった」と告げて姿を消したそうです。
この空素沼のなりたちに関する伝説には、他にも「日中、瞬く間に大きな沼ができた。それを見た人がいる」というような話もあります。これらの話は、まったく、荒唐無稽なものなのでしょうか? 同じ高清水の丘にある史跡秋田城跡の発掘調査の成果と栗田定之丞の功績から、この伝説を考えてみたいと思います。
秋田市教育委員会の発掘調査によって、古代秋田城の歴史解明が進んでいますが、同時に高清水の丘の土の堆積状況もわかってきています。その結果、場所によっては、風によって運ばれてきた砂が数メートルの厚さで降り積もっている状況が確認されています。空素沼は、高清水の丘を流れていた小さな川が、このような飛び砂によって、いつの頃か、せき止められてできた沼なのではないでしょうか? 別の古い資料には、「狼沢に砂山ができた」という記述があることもそれを裏づけています。
一夜でできた 遠く江戸にも知られる
それでは、川がせき止められて少しずつ大きくなったはずの沼に、どうして「一夜にしてできた」という伝説が生まれたのでしょうか?
一つは、狼沢が「帰らずの沢」とも呼ばれ、人々があまり訪れない場所であったため、沼が大きくなっていった様子が人の目に触れなかったこと。また、植林に人生を捧げた栗田翁の功績により飛び砂の被害が少なくなり、「短期間の間に砂が飛んできて川がせきとめられる」という自然現象がイメージしずらくなっていたこと。そして何よりも空素沼が、厚い信仰を集めていた場所であったことが神秘的な伝説が生まれた理由ではないでしょうか。
江戸時代、日照りの時には、空素沼の主に雨乞いし、雨を降らせたとも伝えられています。人々の空素沼への信仰の深さを物語るエピソードであり、その雨乞いの状況を記録した「法壇の図」が現在、天徳寺に所蔵され、市の文化財に指定されています。また江戸の有名な読本作家である滝沢馬琴の随筆にも紹介されていることから、空素沼は遠く江戸にも知られていた場所であったことが伺われます。
空素沼には、他にも多くの伝説が伝えられ、また同じような内容でも細かい部分が異なっている例もいくつか見られます。まさに伝説に包まれた空素沼。賑やかな国道からわずかな距離に、こんなにも緑豊かで神秘的な場所があることに、秋田市の自然と歴史の奥深さを感じます。
 

 

●秋田の伝承
唐松神社 (からまつじんじゃ)
古代史の異説を書いた書物として、『物部文書』という文書の一部が昭和58年(1983年)に初公開された。この文書を一子相伝として代々受け継いできたのが唐松神社の宮司家である物部氏であり、この文書は出羽の地に移った物部氏に関する来歴をはじめ、唐松神社創建にまつわる由来が書かれている。唐松神社にまつわる伝承で最も古い内容は、物部氏の祖神である饒速日命が秋田と山形の県境にある鳥海山に天磐船に乗って降臨、さらにそこから唐松岳(現在の唐松神社の隣接地)の頂上に“日の宮”を建て、持参した“十種の神宝”を収めたというもの。つまり神武東征よりも前の神代の伝説が残されている。次に登場するのは、神功皇后とその臣である物部膽咋(饒速日命から数えて9代目)である。三韓征伐の凱旋時にこの地に寄った神功皇后は唐松岳の“日の宮”に参詣、さらに膽咋は神功皇后より下賜された腹帯を奉納し、「韓(から)国を服(まつ)ろわせた」という意を含んだ“韓服”神社を建てたとされる。そして宮司家の直接の祖先となる物部那加世が、父の物部守屋が敗死した直後、捕鳥男速に匿われてこの地へやって来たのが用明天皇2年(587年)のことである。当地へたどり着いた時、櫃が動かなくなったため、土地の者から神功皇后の由来を聞いて社殿を修復した。これ以来、物部氏はこのあたりに定住したという(実際には天元5年(982年)に物部氏第24代・長文の時に唐松岳に定住し、社殿を建立したことになっている)。その後、源義家が前九年の役の際に、唐松神社の神の化身に助けられたため、社殿を再建して神殿を寄進したという記録も残されている。時代が下り、延宝8年(1680年)に唐松岳の頂上にあった社殿を現在地に遷したのが、久保田藩3代藩主の佐竹義処である。この時、義処は神社の前を下馬しなかったために神罰として落馬した。これに怒った義処は社殿を窪地に当たる土地の底部に建てた(さらに神罰が下って再度落馬するなどしたらしい)。現在でも唐松神社の拝殿は、他の神社とは異なり、一段低い窪地に置かれているが、古来からの伝承に関連するものではないようである。また御神体が神功皇后の腹帯とされることから、唐松神社は安産のご利益のある神社として有名である。特に、娘の難産を見かねて祈願したところ無事に男児が生まれたことを喜んだ佐竹義処が「女一代守神」に指定したとの伝説があり、参拝者が近県だけではなく全国から安産祈願に訪れるという。さらに境内にあるのが、他に類を見ない建造物として知られる“天日宮(あめひのみや)”である。周囲に濠を巡らせた中央に直径20mの石積みががあり、その上に社殿が置かれている。これは唐松神社の宮司家である物部氏の邸内社であり、饒速日命が祀られている。一説では『物部文書』に記された様式の建造物を忠実に再現したものであるとされている。文書の真偽を度外視して、このような不思議な建造物を目の当たりにすると、この土地に実際何かがあったのではないかという気にさせられる。
饒速日命 / 『日本書紀』などでは、天孫降臨に先立ち、天照大神より“十種の神宝”を授かり、天磐船に乗って河内国に降臨したとされる神。神武東征に抵抗した長髄彦の妹婿であったが、神武に味方して長髄彦を討ち取った。『物部文書』でも、唐松岳に社殿を建てた後、畿内へ行き神武に協力したとされる。
物部膽咋 / 仲哀天皇が崩御した後、神功皇后がその死を秘匿することを告げた4人の臣下の一人として『日本書紀』に登場する。
物部守屋 / 仏教を巡る対立から蘇我氏と敵対し、用明天皇2年(587年)に敗死した。守屋の子息については具体的な記録は残されていないが、敗死後に各地に潜伏した可能性はある。ただし那加世の実在性は全く不明である。
水門龍神社
能代の町の鎮守とされる八幡神社の敷地内にある池の中ほどに境内社がある。水門龍神社。一名、住吉龍神社とも呼ばれるこの神社は、明治元年(1868年)に能代に入った奥羽鎮撫副総督の沢為量以下、参謀・大山格之助、隊長・桂太郎が、秋田藩の多賀谷家知らと密議をおこなった史跡としても有名である。しかしこの神社の創建由来には、あやしい伝説が残されている。能代は日本海側の交易港として江戸時代に大いに栄えた。交易のための商家は当然であるが、船乗りのための施設も栄えた。その中には遊郭もあった。享保年間(1716〜1736年)の頃の話。播磨国から1隻の船が能代にやって来た。船は荷物の積み卸しなどのため、1ヶ月近くは港に停泊する。その間に、船乗りの一人がとある遊郭の女と懇ろになった。特に女の方が男にぞっこんとなってしまったから、始末が悪くなってしまった。船乗り達は当然の如く、荷を積めば郷里の港へ戻る。男も出航の日を待つばかりとなったが、女の方がいきなり自分も播磨国へ連れて行って欲しいと言い出した。ところが男には郷里に妻があったらしい。あまりに女がしつこく言い寄ってきたため、やむなく「船に乗せてやる」と女を誘い出して小舟に乗せて沖に出ると、その場で首を絞めて殺してしまったのである。そして重しを付けて港近くの米代川の河口辺りに投げ捨ててしまったのである。(一説では、男が妻子持ちであると告げたために、女が逆上して、そのまま河口に身投げして死んでしまったとも)素知らぬ顔で男は他の者と一緒に船に乗り込んで、能代の港を出ようとしたその時、いきなり大風が吹き荒れだした。帆を揚げたばかりの船はたちまち風に煽られて、港に引き返そうとしたが河口辺りで転覆し、結局乗り合わせた船頭は全員溺れ死んでしまった。それ以来、能代の港では播磨国の船が来ると必ず大荒れになるため、これは遊女の祟りであろうと、元文3年(1738年)に河口付近に龍神を勧請して社を建てた。それが水門龍神社の始まりであるとされている。その後嵐でたびたび社が流失するため、現在地に移転し、今に至っている。この神社が出来てからは遊女の祟りはおさまったと言われるが、時折港で変事が起こると播磨国の船があるためだという話はその後も残ったとされる。
八幡神社 / “能代鎮守”を称す。創建は斉明天皇4年(659年)。阿倍比羅夫が蝦夷征伐の際に海岸沿いに建立したとされる。その後、米代川の流れの変化などで移転、元禄9年(1696年)に現在地に鎮座。秋田藩佐竹氏の崇敬を受ける。
能登山の椿
この椿地区には、海岸線に面して能登山という小高い丘がある。この丘は春になると一面椿の花に覆われる。能登山は椿の自生群の北限として大正11年(1922年)に天然記念物に指定されている。そして次のような伝説が残されている。男鹿の港は、昔から遠方からの商船が停泊し、船乗り達が一時上陸する土地であった。ある年の春、能登から来た若い男が初めて男鹿の港に上陸した。そしてその初めての土地で、一人の美しい娘と出会った。二人が相思相愛の仲になるのには、さほどの時間は掛からなかった。しかし男が男鹿の土地に居られるのは僅かであった。再び船に乗って西国へ向かうことになった男は、2年後の春に嫁に迎えに来ると、娘との再会を約束した。「その時には、綺麗な椿の実を持ってくる」という言葉を残して、男は男鹿の港を後にした。娘は毎日のように海の見える小高い丘に登って、愛する人の言葉を思い出して帰りを待った。やがて約束の2年後の春が来たが、男は戻ってこなかった。それでも娘は待ち続けた。周囲の者は、男は余所で所帯を持ったとか、どこかで嵐に遭って既にこの世の人ではないとか噂した。そしてさらに1年、次の年の春が訪れた。娘の姿は港から消えた。もはや男と会えないと悲観したのか、海に身を投げて自ら命を絶ってしまったのであった。それから間もなく、男は約束の地に戻ってきた。良い所帯を持とうと稼ぎを多くするために遠方まで足を運んで遅れて戻ってきたのであった。男は娘が死んだことを聞かされると、毎日のように娘が海を見に登っていた丘を訪れた。そして約束して持参してきた椿の実を埋めると、港を去って行った。やがて椿は芽吹き、美しい赤い花を咲かせ、丘を覆い尽くすほど増えていった。この丘はいつしか男の生国から能登山と呼ばれるようになり、集落も椿と呼ばれるようになったという。
鹿島様
鹿島様は、大雑把に言えば、道祖神の一種である。ただ秋田県中南部の一帯を中心に見ることが出来るが、その他の地域では殆ど見られない、非常に特殊な“人形道祖神”ということになる。道祖神とみなされるのは、集落の境に置かれ、疫病などの災厄が集落に入ってこないように設けられているためである。湯沢市岩崎地区には、現在3体の鹿島様がある。2体は岩崎八幡宮の本殿奥にあり(1体は雨ざらし、もう1体は小屋の中に安置されている)、残りの1体は国道に面した場所にある。いずれも大きさは3〜4mで、大人の背丈の倍ぐらい。恐ろしげな木の面を付けており、藁で出来た胴体部分は鎧をまとったように見え、さらに大小2本の刀を帯びている。まさに武神のようである。そして2体には、道祖神の特徴である“男根”が付いている。この特異な道祖神の謎を深めるのは、この神の名である「鹿島」という名称の由来である。武神のような姿から、この名は鹿島神宮の祭神である武甕槌神であるという説がかなり有力である。この推察からさらに、鹿島様の名前は江戸初期に常陸国から移封されてきた秋田藩・佐竹氏に関係があるという説がある(鹿島神宮は常陸国一之宮)。あるいは、同じ武甕槌神を祭神とする古四王神社との関連性も考えられる。だがいずれも推測の域を出ず、どういう経緯で鹿島様が秋田の特定の地域で信仰の対象となったのかは、謎のままである。そして藁を使って集落の者が総出で毎年造り直して受け継がれてきた鹿島様は、人口減少のあおりを受けて徐々にその姿を消していっている。
武甕槌神 / 『古事記』及び『日本書紀』に登場する神。「出雲国譲り」の際に、高天原の使者として大国主命に直談判を行い、さらに力比べを挑んできた息子の健御名方神を破って諏訪まで追い詰めたとされる。また国譲りの後に関東へ赴き、この地を平定したとされる。雷の神、剣の神、武神として信仰される。
古四王神社 / 崇神天皇の代に四道将軍として北陸に派遣された大彦命が、武甕槌神を祭神として祀ったのが始まりとされる。秋田県下に複数の古四王神社があり、古くから信仰されてきた神であると考えられる。
芦名(葦名)神社
「鹿角三姫」の一人に数えられる芦名姫にまつわる神社である。幹線道路や鉄道からかなり離れた小さな集落にあるが、かつては馬の神様として多くの参詣者があったと伝わる。奈良時代の頃、このあたりに長者と豪族の2つの家があった。なぜか昔からこの家同士は仲が悪く、ことある度に諍いが絶えなかった。ところが、長者の息子と豪族の娘が相思相愛の仲となってしまった。当然、両家ともども二人の仲を認めず、互いに会わさないようにしたのである。やがて豪族の娘は恋の病で寝たきりになってしまった。それを聞いた長者の息子は居ても立ってもおれず、ある夜、闇に紛れて豪族の屋敷を巡りながら、中の様子をうかがった。だが豪族の家来は、その不審な者の姿を見逃さなかったのである。翌日、豪族の家では葬儀が執りおこなわれた。前夜に賊が忍び込み、病気の姫を殺害した。賊はその場で捕らえられ、打ち首にしてしまったという。豪族は娘の墓を造り、さらにそばに賊の墓も築いたのである。一方、これらの話を聞いた長者は、この賊の正体が自分の息子であると悟った。しかし仲が悪いとはいえ、他家の娘を殺してしまった以上は抗議をするわけにもいかず、泣き寝入りするしかなかった。それから月日が経ち、二人の墓のそばに寺が建ち、そこに一人の女性が毎日経を上げに訪れるようになった。それは死んだはずの豪族の娘であった。あの夜、長者の息子は捕らえられたが、二人の思いを理解した豪族が夫婦となることを認め、その代わり遠くへ旅に出て暮らすように命じたのである。さらに二人が死んだことにするために、実際に2頭の馬を生き埋めにして墓を築いたのであった。一方、若い二人は旅立ち、しばらく仲むつまじく楽しく暮らしていた。しかし、息子の方が病気となり、亡くなってしまった。そこで娘は夫の葬儀を済ますと、結局故郷へ戻ってきたのである。そして事の真相を聞くと、自分たちの身代わりになって死んだ馬を憐れに思い、亡き夫の菩提を弔うと共に、馬の供養のために寺を建てて日参するようになったのである。しばらくして娘も病に倒れて亡くなった。死の間際に、この寺を詣でた者には良い馬を授け幸せになれるようにしたいと言い残した。その後、全てを知り寺を訪れるようになっていた長者は、都へ行って十一面観音菩薩の像を求めた。そして像を本尊として堂宇を建立したのである。それが「芦名沢の観音様」と呼ばれ、良馬に恵まれるように参拝する者で賑わい、多くの絵馬が奉納されたという。
鹿角三姫 / 鹿角地方に残る伝説の主人公である3人の女性。「だんぶり長者」の娘である吉祥姫、「錦木塚」伝説の政子姫、そして芦名姫である。この3つの伝説に関連性はなく、鹿角地方に伝わる話として観光振興のために一括りにされたようである。
小町堂
小野小町の出自については諸説あり、全国各地にその生誕地や死没地(墓碑)が存在する。その中でも有力な出身地として挙げられるのが、出羽国の小野である。小野篁の息子である小野良真が出羽郡司として赴任中に、地元の娘との間に出来たのが小町であり、13歳まで出羽の小野で過ごしたとされる。その後に都に上り、約20年間宮中の女官として務め、再び故郷へ戻ったと言われる。最終的に出羽における小町は92歳で没するまでこの地に留まり、その霊を祀るために建てられたのが小町堂である。またその周辺には、小町ゆかりの寺院や岩屋が存在する。この小野の地にも小町にまつわる伝承が残されている。小町の後を追って都から来たのが深草少将であり、その求愛に対して小町は100日間芍薬を1株ずつ植えてくれれば受け入れるとした。しかし少将は最後の日に増水した川に転落して亡くなってしまったという。
深草少将 / 小野小町の「百夜通い」伝説の主人公であり、世阿弥などの能作者によって作られた架空の人物。この秋田の伝承も、おそらく後世の二次創作であると考えられる。
蚶満寺
かつての景勝地・象潟の蚶満寺は、円仁の創建であるが、それ以前に神功皇后が三韓征伐の途上でシケに遭ってこの地に流れ着き、皇子(後の応神天皇)を出産したという伝承が残されている。安土桃山時代に曹洞宗に改められ、以後、名僧を輩出。また松尾芭蕉をはじめとする文人墨客も多数訪れている。蚶満寺には“七不思議”と呼ばれるものが存在する。とりわけ有名なものは「夜泣きの椿」と呼ばれるもの。寒中の夜中に花を咲かせ、寺の周辺で凶事が起こる前後に夜泣きするという言い伝えが残る。他には「猿丸大夫姿見の井戸」「弘法投杉」「あがらずの沢」「木登り地蔵」「北条時頼咲かずのツツジ」「血脈授与の木」がある。また七不思議以外にも、島原から移転の際に象潟沖で漂着して置かれたという「親鸞上人腰掛け石」がある。
象潟 / 「東の松島、西の象潟」と称された、入り江に大小の小島が浮かぶ景勝地。しかし文化元年(1804年)に起こった大地震によって土地が隆起して、干潟となった。現在でも小島だった部分は小さな山状となって残されている。干潟を開墾しようとした本荘藩に対して蚶満寺住職が反対し、閑院宮家に祈願寺許可を働きかけ、土地を保全したためである。
與次郎稲荷神社
関ヶ原の戦いにおいて旗色不鮮明であった、常陸の大名・佐竹義宣は慶長7年(1602年)に秋田に転封となった。その時に築かれたのが久保田城である。築城が始まってから、義宣の許を訪れたのは大きな白狐であった。今度の城造りによって自分達の住処がなくなってしまう。新しい住処を与えてくれるならば殿のお役に立とう、と言う。ならばと義宣は、城内の茶園のそばに住処を与えた。それからこの狐は「茶園守の与次郎」と呼ばれ、佐竹家の飛脚となって秋田と江戸を6日間で往復して、重宝された。しかしその働きは長く続かず、山形の六田村(現・東根市)で狐と見破られた上、罠を仕掛けられ殺されてしまった(現在でも東根市には與次郎稲荷神社があり、その死についていくつかの話が残されている)。この死を哀れんだ義宣は城内に祠を建て與次郎狐を祀ったのである。
黒又山
どこから見ても綺麗な円錐形に見える黒又山は、標高280mの小高い山である。この整った形であるが故に、この山は日本の超古代史におけるピラミッドの一つであると言われている。黒又山は地元では「クロマンタ」と呼ばれている。この名前の由来であるが、一説ではアイヌの言葉で“神々のオアシス”という意味の“クルマッタ”が転訛したとされる。またこの山は昔“クルマンタ”と呼ばれており、やはり“クル”は「神」を意味し、“マンタ”は「野」を意味する“マクタ”が訛ったものとも言われる。いずれにせよ、神聖視された山であると考えてよいかもしれない。この山は平成4年(1992年)に黒又山総合調査団によって学術調査がおこなわれた。その結果、この山は現在土に覆われているが、麓から山頂までが7〜10段の階層を持った人工物であることが分かった。さらに山頂の地下10mの部分に空洞があり、何者かを埋葬している可能性が高いことも明らかになった。つまり、この形状は中南米に見られる階段型ピラミッドを彷彿させるものであり、日本における人工的なピラミッドの存在を裏付けるものと言えるかもしれない。さらにこの山の周辺には、大湯環状列石をはじめとする遺跡や古社が多くあり、これらの多くは黒又山を中心として正確に東西南北の方角に位置していたり、また夏至や冬至の日の出・日の入りの方角にあることが判っている。少なくとも、この黒又山を中心に据えた祭祀システムがあったと推測できるだろう。
日本のピラミッド / 昭和9年(1934年)に酒井勝軍によって、広島県葦嶽山が日本のピラミッドであると認定されたのが始まり。酒井によると、日本のピラミッドはエジプトのものとは異なり、自然の山を利用して人為的に作り上げられたものであるとし、風化によって元の山の形に戻ってしまっていると説く。その特徴として、三角形の山であること、頂上付近に巨石遺構があることを挙げている。 
 
 山形県

 

●最上白髭沼の龍神 新庄市
鮭川村の日下から清水坂を下り、槙新田に行く道端の田んぼに、白髭沼という小さな沼があった。深さは底知れず、隣村までつながっているとのことである。この沼に主がいて、酒樽や徳利を投げ入れて祈ると、どんな日照りでも雨を降らせると伝えられていて、「雨乞いの沼」ともいわれていた。

昔、香雲寺様という新庄の殿様がそのことを聞いて、「その沼を干して、主の正体を見とどけてやる」ということになり、新庄藩の家来の見守る中で大勢の人夫達が七日間にわたって沼の水を汲み上げたが、一向に水は減らず七日目を迎えた。すると突然空が暗くなり、雷鳴が轟き天を返したかと思われる大雨が降って来て、何やら得体の知れない声が聞こえて来た。
殿様は何かを悟り、「沼の主の正体は予が見とどけた、みなの者、休め」と命ずると、今までの嵐が止み元の空になった。殿様は馬に乗って帰る途中、沼の主が龍神となって追いかけて来たため、宝刀を抜いて難を逃れたが、馬は龍にかまれて死んでしまった。この場所を今も乗馬長嶺と呼んでいるそうで、水の神を龍にたとえてそれを崇める、古くから伝わる最上地方の伝説です。
白髭神社(鮭川村)
白髭神社の創建年などは分かりませんでしたが、神社の下手にある小さい沼が古来からの自然崇拝の対象になっていたと思われます。現在でもその沼は白髭と呼ばれ、神社の奥の院となっています。伝承では、この沼に竜が住んでいると言われ、御神酒を捧げると願いが叶うと伝えられています。又、古来からの雨乞いの儀式が行われ、江戸時代の古記録にも掲載されるなど当時からの民俗信仰が続いているようです。
白髭沼の伝説
鮭川村に伝わる伝承によると白髭沼には竜神が棲み、酒を捧げると雨が降ると言い伝えられてきました。その話を聞いた、新庄藩2代藩主戸沢正誠(法名:香雲寺荘海慧巌・通称:香雲寺様)が是非、その竜神を見てみたいと申し、周囲の家臣や村人が止める中、大勢の人夫を集め沼の水をかき出しました。その行為は7日7晩続き、ようやく、沼の底が見え始めると、急に空が暗くなり雷鳴が轟くと今ままで見た事も無い程の大雨が降り一瞬で沼の水が元に戻りました。さらに、天から沼に向かい紫雲が降り始めると、それを見ていた見物人や立会人は竜神の祟りと恐れ戦きました。正誠も身に危険を感じ、全員にこの場から離れるように指示しましたが、怒った竜神は正誠に向かって襲ってきた為、自ら愛馬に跨り新庄城に戻ろうとしました。しかし、猿鼻峠で竜神に追いつかれ、何とか宝刀の霊力により振り払う事が出来ましたが、愛馬は無残に食いちぎられ命を落としたと伝えられています。

●龍神沼 西川町岩根沢
昔、ある沼の主だった龍が、村に住む一人娘をさらった。元武士だった老いた父親は怒り、娘を救わんと沼深く潜り斬りこみ、一太刀を浴びせたが逃がしてしまった。
そこで父親は栗の木の皮を剥ぎ、沼いっぱいに投げ込むと、沼の水は栗渋で真っ黒になった。龍はこの渋攻めに耐え切れず、牛首に変身し、大空を目指し飛び去った。
しかし悪事をはたらいた龍は、神々に咎められ、行く先々を厚い雲で覆われてしまい、あてどもなく大空をさまよった。
龍は飛ぶ力もなくなり、気力も失い始める中で、これまでの罪を悔いた。すると雲のわずかな切れ目から、神々の慈悲の、青々としたこの龍神沼が見えた。
龍はこの龍神沼に舞い降り、沼の主となり、その後は心を改め、干ばつには雨を、長雨には晴天をもたらし、世のために尽くした。
人々はこの沼の主を、稲作、養蚕の守り神として崇めるようになり、文政13年(1830)、この地に龍王神社が祀られた。

●笛吹き沼 新庄市
新庄市の最上川に沿う畑村の近くに笛吹き沼という沼があります。昔、この沼のそばを侍が通りかかり、大きな岩に腰を下ろして笛を吹きました。すると、どこからか美しい娘が現れ、「私はこの沼の主です。笛の音をもう一度聞かせて下さい」と頼みました。曲が終わると、娘は「あなたから離れることはできません。私とここで暮して下さい」と言いました。困った侍は「来年の春には必ず戻るからそれまで待っていて下さい」と告げ、その場を立ち去りました。春になり、京都から戻ってきた侍が最上川を下っていると、本合海上流の「蛇喰見の淵」で船が止まってしまいました。船頭が侍に「あなたは沼の主に見込まれています。川に入ってみんなを助けて下さい」と言うので、侍は川に入り、川面のかすみの中を沼の方へ消えて行きました。それからというもの、月のよい晩には沼の底から美しい笛の音が聞こえるようになり、この沼を「笛吹き沼」と呼ぶようになりました。

●与蔵沼 最上郡鮭川村
大芦沢・羽根沢と飽海郡との境に与蔵峠というところがある。標高685メートルで、昔は庄内越えの要路であった。峠の頂上には直径200メートルほどの沼がある。深さは底知れず、あるとき村の若者が筏をつくって沼の真ん中にいき、深さを計ろうとして縄一把におもりをつけて下ろしたが、底にとどかなかったという。この沼には主の大蛇が棲んでいるといわれているが、大蛇にかかわる物語が伝えられている。

昔、この峠で炭焼きをしていた与蔵という若者がいた。ある秋の日のこと、与蔵はかまに入れる薪背負いをしていた。汗を流したせいか、喉がからからにかわいたので、筧(木や竹でつくったといで、水を引くしかけ)から流れてくる水に口をつけてごくごく飲んだ。ふと見ると、筧に小さな魚が二尾流れてきていた。与蔵は喜んでその魚を捕らえ、焼いて昼飯のおかずにした。ところがどうしたことか喉がかわいてきはじめた。筧の水を続けざま飲んだが、それでもたまらない。与蔵は大急ぎで沢に下りていき、沢水に口をつけて飲んだ。
その日も暮れ、夜中になっても与蔵が帰らないので母親が心配して、村人たちと迎えに峠に上った。炭小屋のところまでくると、そこには満々と水をたたえた大きな沼になっていた。みんなびっくり仰天したが、それよりも与蔵はどうしたものかと、みんなで探しまわったが、みつからない。
母親は気がふれたようになって、『与蔵やーい、与蔵やーい』と叫んだ。すると、今まで静かに月光に輝いていた沼の水面が急にざわめいて、大きな渦がもり上がったと思うと、そのなかから、にゅと鎌首をもちあげた1匹の白い大蛇が、真っ赤な口を開けて『おーい』と返事をした。
与蔵はあまりに喉がかわいたので、谷をせきとめて沼をつくり、そこにはいり水を飲んでいるうちに、大蛇の姿に変わってしまったのである。大蛇は1回姿を現しただけで、いくらよんでも二度と現れなかった。母親は泣く泣く村に帰ってきた。
そこからこの沼を与蔵沼、峠を与蔵峠と呼ぶようになったという。それからのち、この峠を通る人はときどき白い大蛇が沼で遊んでいるのをみかけるという。
 

 

●山形の伝承
椙尾神社 (すぎのおじんじゃ)
一本に延びる石段、そして高台にある境内は広く、社殿も相当に立派で大きい。言い伝えによると欽明天皇の治世(539〜571年)に創建され、鎌倉時代以降の中世には庄内地方を治めていた武藤(大宝寺)氏が崇敬、その後もこの地を領有した大名が寄進をおこない、明治になって県社に列した経歴を持つ。よく整備された石段の途中の左右両脇には、簡素な覆屋をされて阿吽の犬の像がある。この神社の例大祭である“大山犬祭”の主役である“めっけ犬”である。かつて、この神社の裏山となる高舘山に化け物が棲み着き、毎年祭りの日に若い娘を差し出さないと田畑を荒らし回るため、白羽の矢が立った家では泣く泣く娘を生贄としていた。そのような祭りの時に旅の六部がその話を聞いて、化け物の正体を確かめようと、真夜中の神社の境内に隠れて様子を見ていた。生臭い風が吹くと、大入道が2体現れた。お互いを“東の坊”“西の坊”と呼び合い、早速娘を籠から引きずり出すと、「このことを丹波の“めっけ犬”に聞かせるなよ」と上機嫌で言いながら、俎の上で真っ二つにしてしまった。そして“東の坊”が娘の頭の方を、“西の坊”が足の方をそれぞれもらうと「また来年」と言いながら消えていった。大入道の弱点が“めっけ犬”であると悟った六部はすぐに丹波へ赴き、その名を持つ犬を探した。そして何とかその犬を見つけた時には、間もなく祭りが始まる頃であった。急いで六部は“めっけ犬”を連れて戻り、事情を話して娘の代わりに“めっけ犬”を籠に入れて神社の境内に置いて夜を待ったのである。翌朝、村人達が境内にやって来ると、“めっけ犬”が血まみれで息絶えていた。そしてその横には2匹の大狢が噛み殺されていた。化け物の正体は大狢で、見事に“めっけ犬”が退治したのであった。村人は命懸けで戦い死んだ“めっけ犬”を丁重に葬り、神社と村の守護神として崇敬することとしたのである。この伝説に基づいておこなわれる“大山犬祭”は300年以上の歴史を持ち、“めっけ(滅怪)犬”をかたどった犬の像を曳きながら大名行列などが練り歩く、庄内地方を代表する祭となっている。
珍蔵寺
創建は寛正元年(1460年)。初めは金蔵寺という名であったが、後に現在の名となった。この寺には創建伝説として“鶴女房”の話が残されており、この種の伝承の中でも最も古いものの一つとされている。正直者の金蔵という男が、ある時、1羽の鶴が縛られているところに出くわした。憐れに思った金蔵は、有り金をはたいて鶴を解き放して助けてやった。するとその夜、若くて美しい女が訪れ、一夜の宿を請うた。そして女はそのまま金蔵の家に居着き、やがて夫婦となった。しばらくして、妻は金蔵に「今からご恩返しにあるものを差し上げたいと思います。これから7日間部屋を覗かないで下さい」と言って、そのまま籠もってしまった。部屋からは昼も夜も織物をする音がするだけであったが、金蔵はだんだんと妻が何を織っているのかを見たいと思うようになった。そしてとうとう約束を破って、こっそりと部屋の中を覗いた。部屋の中にいたのは、1羽の鶴。その鶴が自分の羽をむしり取り、それを織物にしていたのであった。金蔵が覗いていることに気付いた鶴は、自分が助けてもらった鶴であり、恩返しのために人間に化けたのだと正体を明かした。そして今織っているものは“曼荼羅”であり、これが自分の形見であると告げると、そのまま消えてしまった。金蔵は妻との約束を破ったことを恥じて出家した。そして残された布を納める寺院を建てた。それが金蔵寺であり、鶴の織った布を寺宝とするために“鶴布山珍蔵寺”という名となったとされる。
若松寺 ムカサリ絵馬 (じゃくしょうじ)
山形の民謡“花笠音頭”の冒頭部分に登場する「めでためでたの若松様よ」は、この若松寺を指していると言われる。和銅元年(708年)に行基が開山し、後に慈覚大師が中興したとされる古刹であり、最上三十三観音札所の第一番札所でもある。特に縁結びのご利益で有名であり、“西の出雲大社、東の若松観音”とも称されている。この縁結びのご利益のためなのか、この若松寺には数多くのムカサリ絵馬が奉納されている。かつては観音堂に掲げられていたが、重要文化財に指定されたために、現在では絵馬堂が設けられて保管されている。古いもので明治時代のものが存在するという。ムカサリという言葉は、山形の方言で“婚礼”を意味する。「迎える、去る」が語源とも「む(娘)が去る」からきた言葉であるとも言われる。そしてムカサリ絵馬はこの婚礼の様子が描かれた絵馬であるのだが、これの奉納の目的は追善供養である。【冥婚】という風習が、中国を中心に東アジアにはある。結婚する前に亡くなった子供のため、親などが死後の結婚を執りおこなうのである。日本では主に青森・山形両県で残る風習であり、幸薄かった子供を供養することが主たる目的である(中国などでは故人の供養であると同時に、一族の繁栄を願う側面もあるという)。死後の婚礼の様子を絵馬に描いて奉納するムカサリ絵馬の風習は、山形県の村山地方に集中しており、若松寺だけではなく、いくつかの寺院にも奉納されている。しかし納められた絵馬の数や残された絵馬の古さなどをを考えると、やはり若松寺がムカサリ絵馬の風習の中心的役割を果たしていると言えるだろう。現在でもムカサリ絵馬の奉納はおこなわれており、若松寺のホームページでも告知されている。絵馬堂に納められている古い絵馬は婚礼の様子が多く描かれており、花婿と花嫁以外にも媒酌人などの立会人が描かれているものが多い。それに対して最近の絵馬は、花婿と花嫁の二人が立ち並ぶスナップ写真のような構図のものが主流のようである。また昔は親兄弟が描いた絵を納めるのが普通であったが、今では専門の絵師が描くものになっている。時代によって絵馬も変遷していくのである。ただし、今も昔も変わらない禁忌がある。生きている実在の人物の名前や肖像を使うと、その人は死者に連れて行かれると言われており、決してしてはいけないとのことである。
青森の冥婚 / 青森では絵馬ではなく、花婿・花嫁の人形を納める風習となっている。最も有名なのは五所川原市の川倉地蔵尊であるが、ケースに収められた人形が所狭しと並べられた堂がある。
村山地方 / 山県市を中心に、東根市、天童市、寒河江市などがあるエリアを指す。ムカサリ絵馬の風習については、近年になってから周辺の地域にも広がっていると言われる。
専称寺 夜泣き力士像
専称寺は、文禄4年(1595年)に天童から山形に移設された、浄土真宗の寺院である。移設を命じたのは出羽の戦国大名であった最上義光であり、愛娘の駒姫の菩提を弔うためのものであった。それ故に壮大な伽藍が建立され、周辺には多くの塔頭が建てられて、付近は寺内町と言うべき様相を呈した。現在でも多くの寺院が残っている。現在ある本堂は、元禄16年(1703年)の建立で、山形市内で最も大きな寺院建築である。この本堂の屋根を支えるように建物の四隅に置かれているのが、力士像である。この4体の像が毎夜夜泣きするという伝承が残されているが、その内容はいくつかの説に分かれている。この4体の像を製作したのは、伝説的名工の左甚五郎であるとされる。その出来映えの見事さ故に、これらの4体の像は魂を持つようになったという。そして次のような“夜泣き”伝説が生まれたのである。昼間は何とか我慢しているのだが、その屋根の重さに耐えかねて夜になると「重い、重い」と力士像が泣くようになったという。たまりかねた住職の依頼によって、ある猟師が力士像の足元目がけて鉄砲を撃ち放つと、夜泣きは収まったという。また別の伝説では、命を得た力士達は夜中になると屋根から抜け出して、境内で相撲を取って遊んでいた。それをけしからんと怒った住職が、動けないように足に釘を打ち込んだ(あるいは鉄砲で足を撃った)ところ、それから悪さはしなくなった代わりに屋根の上で夜泣きをするようになったという。あるいは、見咎めたのは最上義光自身であり、娘の菩提を弔う寺院の本堂を守護する像の悪さに激怒して鉄砲を撃ったとも伝わる。いずれにせよ現在は夜泣きが収まった力士像であるが、その姿は個性的であり、魂を宿していろいろな悪さをやったという伝承が発生したのも頷けるところである。
駒姫 / 1581-1595。東国一の美女とうたわれ、父母が溺愛していた。奥州仕置で東北を訪れていた豊臣秀次が目をつけ、再三側室になるよう求めた。15歳になった時に京都へ行くが、直後に秀次は謀反の疑いで切腹、駒姫も秀次の他の側室と共に捕らえられ、助命運動もおこなわれたが、三条河原にで斬首となる。その14日後には生母(最上義光正室)も亡くなる。これを機に義光は専称寺を山形に移設して菩提を弔うことになる。またこれをきっかけにして最上家は反豊臣・親徳川の急先鋒となり、関ヶ原の戦いなどにも影響を与えた。
與次郎稲荷神社
特徴的な石造りの鳥居(最上三鳥居の1つ)のある神社である。この神社は與次郎という名の狐が祀られている。佐竹義宣は関ヶ原の戦いにおいて東西どちらにも与せず傍観を決め込んだため、徳川家康によって常陸から秋田へと転封となった。秋田に赴いた義宣は早速城を造ったが、その最中に夢枕に白狐が現れ、古くより城を建てている場所に住んでおり、土地の一角に住まわせて欲しいと願い出た。義宣は快諾して住処を与えたところ、白狐は那珂與次郎という名の飛脚に変じて義宣に仕えた。そして秋田と江戸をわずか6日間で往復するという離れ業を使って江戸の情報をいち早く秋田に伝えたり、時には幕府の隠密の動きを封じたりと、御家安泰に一役買ったのである。その與次郎が宿としたのが、六田村(現・東根市)にある間右衛門の宿であり、いつしか娘のお花と恋仲になった。與次郎は自らが白狐の化身であるとお花に告白したが、二人の仲は変わらなかった。しかし與次郎の存在を疎ましく思う者が現れだした。佐竹家の動向を探っていた幕府が與次郎飛脚の秘密に感付いたとも、與次郎の働きで仕事にあぶれた六田村の飛脚達だとも言われる。その者達が、宿の主人の間右衛門を金で抱き込み、さらに與次郎を快く思っていなかった猟師の谷蔵も加わり、與次郎を亡き者にしようとした。その悪事を知ったお花は與次郎に危急を知らせた。與次郎は難を逃れたかに見えた。しかし罠として置かれた油揚げ(鼠の天ぷら)を仲間の後難を恐れて始末しようとしたところを、谷蔵の矢によって射抜かれてしまったのである。最後の力を振り絞った與次郎は、義宣の状箱を秋田に向かって投げ、そして事切れてしまった。お花は與次郎の遺体を見つけ、それを葬った後いずこともなく去り、二度と六田村には戻らなかった。そして城の松の木にぶら下がった状箱を見つけた義宣は、六田村で與次郎が殺されたことを知って涙したという。六田村ではその後災厄が立て続けに起こった。谷蔵は突然発狂して妻子を殺して自身も死んでしまった。そして村を疫病が襲い、多くの人が亡くなった。さらに怪火によって村のほとんどが焼けてしまったのである。残った者はこれを與次郎の祟りと恐れ、ついには幕府の命によって慶長16年(1611年)に與次郎稲荷を建てたということである。佐竹家では尊崇篤く、久保田(秋田)城内にも與次郎稲荷神社は建立された。参勤交代の折にも、四ツ家にあるこの與次郎稲荷神社にも代々藩主が参拝したとされる。
秋田での與次郎伝説 / 上記の伝承は山形県で語られているものであり、秋田では多少内容が異なる(戦前の秋田神社宮司の証言とのこと)。六田村の谷蔵が、與次郎の不思議な能力から狐であると見破り、間右衛門と謀って鼠の天ぷらを使って殺そうとする。與次郎は正体を見破られたことを恥じて、敢えて罠に掛かったとされる。谷蔵と間右衛門は狐を叩き殺して汁にして食べたが、その後六田村では怪事が起こり、発狂乱心した上で死んだ者が17名にも及んだ。特に谷蔵と間右衛門の最期は凄惨を極めたという。その噂は幕府の耳にも届き、與次郎の霊を鎮めるために八幡神社を建立した。秋田の伝承では、お花という娘は登場せず、狐の祟りが強調されるという内容になっている。
べんべこ太郎の墓
下山口の地に妙見神社があり、その境内にべんべこ太郎の墓がある。特に墓石に名前が刻まれているわけでもないが、地元ではそのように言い伝えられている。ある旅の僧がこの地を訪れて、庄屋の家に泊めてもらった。家の中で両親と娘が泣き続けている。そのわけを聞くと、村の慣わしで3年に一度若い娘を人身御供にせねばならず、次の人身御供に娘が決まったのだという。生け贄を要求する神はおかしいと思った僧は、その夜、問題の神社に隠れ潜んで様子を探った。すると夜中に大勢の狸が現れて、腹鼓を打ち出すと「信濃の国のべんべこ太郎にあのごど、このごど、聞かせるな」と歌い出した。翌日、旅の僧は信濃にべんべこ太郎を探しに出掛けた。そしてようやく見つけ出したのは、一匹のたくましい犬であった。僧はそれを連れて帰ると、人身御供の日に娘の代わりにべんべこ太郎を神社に解き放した。すると獣の戦いあう騒ぎ声が聞こえだし、やがて静かなった。次の日の朝、僧や村人はあたりにたくさんの狸の死骸を見つけた。そして虫の息のべんべこ太郎も見つかったが、そのまま息絶えてしまった。村人はべんべこ太郎の功績を称え、墓を造って供養をおこなった。その墓と一緒に創建されたのが妙見神社であると伝えている(一説では、狸が人身御供を要求した場所が妙見神社であるとも)。
貝喰池
貝喰池には古来より龍神の伝説があり、隣接する善寳寺に祀られている。開基である妙達上人がこの地に庵を結び、日々法華経を唱えているうちに、近隣の者が大勢集まってそれに聞き入った。その中に人目を引く美しい男女の姿があった。ある時、読経が終わってもその男女が席を立たなかったので、上人が声を掛けると、二人は自らの正体を明かした。二人は貝喰池に天下った竜王・竜女であり、上人の読経を聞き仏法のありがたさを知ることが出来たと言う。そこで上人が竜王に竜道、竜女に戒道の名を与えると、二人は風水の災厄から信者を守ることを約束し、龍の姿となって昇天したのである。その後、上人の庵は龍華寺と名付けられ、善寳寺となったのである。現在でも善寳寺は龍神守護の寺として信仰を集め、特に海の守護神として漁業関係者の信仰が篤い。明治16年(1883年)に建てられた五重塔は、本邦唯一の魚鱗一切の供養塔として漁業関係者によって発願されている。貝喰池にはそれ以外にも不思議な話が残されている。『日本の伝説4 出羽の伝説』にはいくつかの伝説が書かれている。かつて龍神にお願いすると膳椀を人数分貸してくれたが、良からぬ者が一客を失敬したところ貸さなくなってしまったという貸し腕伝説。日照りの時に貝喰池から水を引こうと壕を造りだしたら、村の方から火の手が見える。慌てて戻ると何事もない。それが三度続いたため、龍神様がお怒りだということで、作業を取りやめてしまった。大干魃の時、身欠きニシンをくわえて貝喰池に入ると龍神様の怒りで大雨になるという禁を敢えて破った百姓が二人いた。しかし雨は降らず、ただ池の底に引きずられていくだけだった。村人に助けを求め、さらに善寳寺の住職が祈祷をするが、結局二人はそのまま池に沈み、7日後に死体となって浮き上がったという。貝喰池の鯉を食べてはならないという禁を犯して、それを食べた男が熱病にかかった。死の間際、男は夢枕に龍神様が立ってお叱りを受けたと言って成仏したという。
新庄城趾
新庄藩は、元和8年(1622年)に山形藩の最上氏が改易となった後、新たに成立した藩である。初代藩主は戸沢政盛。はじめは居城を鮭延城としていたが、山城であったために幕府に許可を願い出て、新たに造ったのが新庄城である。この築城の際に人柱伝説が残されている。新しい城を造る地は沼田と呼ばれており、その名の通り、湿地帯であった。そのために堀を造るのに土を盛っても固まらず、工事は難航した。そこである法師に占ってもらったところ、十三の娘を黒牛に乗せて人柱にせよ、というお告げを得た。そこで領内から娘を選び人柱にしたのである。結果、難工事は一気にはかどり、城はようやく完成したという。ところが、完成後から不気味な噂が立った。本丸付近の池辺りに夜な夜な少女の幽霊が現れて「水が欲しい、喉が焼ける」と言って泣くというのである。これには屈強の武士たちも恐れをなしたと言われる。新庄藩は明治維新まで戸沢家が藩主として統治していたが、新庄城は戊辰戦争で灰燼に帰している。現在城跡は最上公園という名で、市民の憩いの場とされており、巡らされた堀や石垣が当時の面影を残している。また敷地内には藩祖・戸沢政盛を祭神とする戸沢神社もある。しかし、人柱となった娘にまつわる痕跡は何一つ残されていない。
妙多羅天堂
妙多羅天は悪霊退散の神、縁結びの神、子供などの守護神として祀られる神である。高畠町にもその神を祀る堂があり、以下のような伝説が残されている。平安時代末期、一本柳の地に安倍貞任の一族である度会弥三郎とその母の岩井戸があった。弥三郎は妻を娶ると御家再興のための武者修行の旅に出たが、間もなく妻と生まれてきた子は病で亡くなり、一人残された岩井戸は悲しみのあまりに鬼女となりながら、狼を操って旅人を襲い金品を奪うことで、御家再興の軍資金を蓄えていた。弥三郎が故郷へ戻り近くの橋に差し掛かると、狼が襲ってきた。弥三郎はそれを退治しつつ、操っていると思われる鬼女の右腕を切り落とした。そして腕をたずさえて我が家に辿り着くと、そこには床に伏せった母親のみ。母は涙ながらに妻子の死と軍資金のことを語り、弥三郎は武者修行のことと先ほどの橋での出来事を語った。そして切り落とした腕を見せると、母はいきなり鬼女を化してそれを取り上げると、天高く飛び去って弥彦山へ赴いた。その後、鬼女は前非を悔い改めて善神となったという。(その他にも、戦国時代の話であり、岩井戸は元は天女であったという伝承もある)高畠にある妙多羅天堂は、弥三郎が後に屋敷内に母の供養のために作ったものと言われている。また鬼女が狼を使って旅人などを襲っていた橋は「おっかな橋」と呼ばれ、現在でもその名が残されている。
妙多羅天と弥彦山 / 弥彦には「弥三郎婆」という、全く異なるシチュエーションの伝承が残されている。ただし最終的に鬼女が改心して善神である妙多羅天となる結末は同じであり、また妙多羅天が信仰されている地域も新潟と山形にほぼ限られていることから、おそらく関連性が高い伝承であることは間違いないところである。ただし高畠の伝承には、鬼の腕を切り落として取り返されるす話、狼の頭目として老女が登場する話など、別種の伝承が付け加えられていると言える。
生居の化け石
山形県上山市の東部に位置する生居という場所には、七不思議と呼ばれるものがある。その筆頭に挙げられるのが“生居の化け石”である。昔、生居のあたりは夜になると石の化け物が出るという噂で、人ひとり通る者がなかった。ある時、生居の庄屋である権左衛門が夜道を一人で歩いていると、石の化け物の声がした。「お願いします、お願いします」という声に権左衛門は気丈に「何の頼みだ」と尋ねる。「私には子供がたくさんおり、食べ物がなくて困っております。何か食べ物を下さい」と石が返答する。承知した権左衛門は家に帰ると、米一俵分の握り飯を作って石の前に置いた。すると無数の手が出てきて握り飯を全て平らげてしまい、「有り難うございます。お礼にこの石を差し上げます。この石がある限り、家も子孫も栄えることでしょう」と、小さな石を渡したのである。権左衛門はその小石を家の庭の池に沈めたのであるが、それ以来家は栄えることになった。その話を聞いた上山の殿様は、その石を献上するように命じた。そして権左衛門が献上するのだが、明くる日になるとその石が池に戻ってしまっている。結局殿様もその石を献上させることを諦め、いまだに石は池の中にあるらしい。この話だけであればただの伝説で終わるのだが、今なおこの庄屋の家が現存している。重要文化財・旧尾形家住宅は、この化け石のある場所から約500メートル東に行ったところにある。小石は現在も池の中に沈められた状態らしいが、昭和期に一度池の中をさらったところ、卵大の大きさの石が2つ出てきたという(その石はまた池に沈められたらしい)。また天保年間に大明神号を得たことを示す藩からの書状も保管されており、不思議な信憑性を持っている。ちなみにこの地名である生居も、この化け石に関連していると言われ、声を発する化け石、そして子供が生まれる小石ということで、“生きている石”つまり生の石という言葉が変化して、今の生居という地名になったのだとされている。
生居の七不思議 / 案内板によると、この化け石以外に「三度栗」「むかさり清水」「お花畑」「葉山権現と妙見菩薩」「ころころ清水」「明見坊と植えし松」とされる。ただし他の文献では別のものが挙げられているとのこと。 
 
 宮城県

 

●照夜姫 1 大崎市
むかし、沼のほとりに長者が住んでおり、1人の美しい娘があった。娘は、朝な夕なその美しい姿を沼辺に見せていた。すると、そのあまりな美しさに、沢山の蛇が水面に集まるようになった。ある秋の夕暮れのこと、みずもしたたるような美しい若い衆がここを通りかかり、許しを乞うて長者の家に泊まるようになった。 やがて、若い衆はいずこともなく旅立つことになるが、娘はいたく別れを惜しみ、嘆き悲しんだ。 その後、打ち沈む娘の姿に、長者の家はひっそりと淋しい毎日が続いた。ある日、物思いにふけりつつ草原で身を横たえていた娘は、身体に異常を感じ、あわてて館に戻った。その夜娘は産気づき白い蛇の子どもを産んだ。娘は驚きその蛇の子を追い、愛用の機織り木とともに沼に身を投じた。その後、毎年7月7日の日には、沼の中から機を織る音がするといわれている。 化女沼にまつわる伝説はたくさんあり長者の娘が沼の水を鏡にしていたので化粧沼というのだとも語りつがれています。

●照夜姫 2
宮城県北部の大崎市古川にある東北道の長者原(ちょうじゃはら)サービスエリア(SA)。なだらかな丘陵地帯にあり、上りと下りの両SAの展望施設から、近くの景勝地「化女(けじょ)沼」を一望できる。
長者原など化女沼周辺には、長者とその娘の沼にまつわるいくつかの伝説が残る。その一つが「照夜姫(てるやひめ)伝説」と呼ばれる長者の娘(姫)と旅の若者の悲恋物語だ。
「古川市史」(昭和47年発行)などによると、伝説はこうだ。昔、沼のほとりに住む長者にひとりの姫がいた。朝夕、姫が岸辺に立つと、その美しさに見とれてたくさんの蛇が水面に集まるようになった。ある秋のこと、ここを通った美男の若者が許しを請い、長者の館に泊まった。やがて若者は旅立つことになり、姫は別れを嘆き悲しんだ。
ある日、姫は体に異常を感じ、しばらくして蛇を産んだが、蛇は長者の館を出て、沼の中に消えた。その後、沼の中から毎晩のように泣き声が聞こえ、やがて姫は泣き声に誘われるように愛用の機織機(はたおりき)とともに水中に身を投じた。その後、毎年5月の節句の日(または7月7日)には、沼の中から機を織る音がするといわれる。 
 

 

●宮城の伝承
神石白石 (しんせきしろいし)
町の中心部に近いところに、直系1mほどの石が垣根に囲まれるようにしてある。この灰色っぽい石が神石白石であり、“白石”の地名の由来となっている。伊達家の家臣であった片倉氏が治めていた頃には朱塗りの玉垣に囲われていたとされ、古くから不思議な石として大切にされてきたようである。おそらく古代には磐座として認知されてきた歴史があるものと推測される。伝説として知られているのは、この石の根は深く、仙台の根白石(泉区)と地下で繋がっているという話である。直線にして40数km離れているが、この伝説は長く信じられており、この伝説を元に今では縁結びのご利益があると大いに宣伝されている。
割石
仙台市との境界線近く、七北田川の堤防道にその石はある。目印として残された杉の巨木の根元に置かれている。かつてこの七北田川はたびたび氾濫し、大きな被害をもたらしていた。そこで堤防を新たに築くこととなったが、うまくいくようにと人柱を立てることにした。昼間は工事をしながら、夜になるとめぼしい人柱が現れるのを待ち受けるという日が続いた。そしてとうとうある夜、何も知らず通りがかった女を捕まえると、工事中の堤防に生き埋めにして人柱にしたのであった。人柱のおかげか、工事は順調に進み、やがて立派な堤防が出来上がった。ところがしばらくすると、嫌な噂が立つようになった。堤防に女の幽霊が出るという。幽霊はさめざめと泣きながら何かを訴えるようにつぶやいている様子だが、何を言っているのかは分からないらしい。間違いなく人柱にした女が怨みを残して成仏出来ずに現れるのだと噂は広まり、日中ですら人が近寄らなくなってしまったのである。この噂を聞いた一人の侍が、退治してやろうと名乗り出た。そして小雨の降る夜に、人柱を埋めたという場所へ向かった。案の定そこには人魂が浮かび、女の幽霊が恨めしそうに鳴きながら佇んでいる。しかし全く動く気配がない。侍はじりじりと間合いを詰めながら、腰の物に手を掛けると一刀のもとに抜き打ちに斬りおろしたのである。サッと幽霊も人魂も消え、辺りは真っ暗になった。手応えのあった侍は、幽霊がどうなったのかも確かめもせずそのまま帰ったのである。翌朝、幽霊を切り捨てた場所へ戻ってみると、そこには一刀両断にされた板碑があった。昨夜侍が斬ったのは、この板碑だったのである。しかしその夜から女の幽霊は現れなくなったという。“割石”と呼ばれるこの両断された板碑であるが、元応元年(1312年)との年号が刻まれており、さらに斬られたとされる石の断面にも貞享2年(1685年)の年号が追刻されている。おそらくこの人柱の伝説は、この2つの年号の間にあったものと考えて良いだろう。ただ正確な年号も分からず、人柱となった女についてもその身元は全く不明である。
禰々麻の墓/醍醐ヶ池
栗原市の若柳地区に、三峰神社という小社がある。その境内に申し訳程度に残されている、干上がった池の跡のような場所がある。それが醍醐ヶ池であり、かつてはもっと大きな池であったとされるが、宅地開発などでその面影は全くない。そして小社から少し離れたところ、田に囲まれるように五輪塔、地蔵と松の木がある。それが禰々麻の墓であるとされる。いずれも辛うじて現在に残された、憐れを誘う伝承を持つ遺跡である。後醍醐天皇による建武の新政において、東北地方を統治するために派遣されたのが北畠顕家である。義良親王(後の後村上天皇)を奉じて多賀城に赴任すると、瞬く間に各地の諸将を束ねる。さらに反旗を翻した足利尊氏を討つべく、東北から京都まで一月足らずで転戦してこれを打ち破るなど、休むことなく獅子奮迅の働きを見せた。一方で、顕家の家族は京都に残されたままであった。そこで妻は顕家会いたさに、本拠となった東北へ旅立つことにした。連れて行くのは幼い二人の姉弟、禰々麻と醍醐であった。従者を連れての旅であったが、女子供の足ではやはり過酷なものとなった。途中、妻は病気に冒されてついに亡くなり、幼い姉弟が従者に連れられて、父のいる東北に向かった。だが、いつしか従者もこの二人を見限るようにいなくなり、東北の地にたどり着いた時には姉弟だけが取り残されてしまっていた。それでも父に会いたい一心で二人は旅を続けた。しかしある時、ついに禰々麻は弟の醍醐の姿を見失ってしまった。途方に暮れる中、さらに追い打ちを掛けるように、父が既に討死したことを知ってしまう。家族のすべてを失ってしまったと悲嘆した禰々麻は、最早生きる希望を失い、近くの池に身を投げて生涯を閉じてしまうのであった。同じく姉とはぐれて独りでさまよう醍醐は、数日掛けてようやくとある池のほとりにたどり着いた。喉の渇きを癒やそうと池に寄った醍醐は、そこで思いがけないものを見つける。水面に漂うように見える人の姿は紛れもなく、必死になって探していた姉の禰々麻であった。ようやく見つけた姉に喜ぶ醍醐は、何の躊躇いもなく水面に飛び込んだ。…… 幼い姉弟が相次いで命を落とした池は、その後“醍醐ヶ池”と呼ばれるようになり、そのそばには姉・禰々麻の墓と称する塚が築かれたという。
荒脛巾神社 (あらはばきじんじゃ)
荒脛巾神は謎の多い神である。東北・関東地方で祀られていることの多い神であるが、“客人神”という立ち位置で、その出自ははっきりとしない。おそらく朝廷の信奉する神々とは別系統で信仰されていた土着の神が、取り込まれて生き残ったものであると推測するのが妥当だろう。それだけ強く信仰されたと考えられる神であるが、ただその性格は多様である。一方で『東日流外三郡誌』の記述によって固着したイメージがあり、ミステリアスな存在となっている。多賀城市にある荒脛巾神社は、鹽竈神社の境外末社となっている。創建時期は不明であるが、安永3年(1774年)の記録には記載されており、その頃には仙台藩より所領が寄進されていたという。この神社は一般的には“腰から下の病気”にご利益があるとされている。この神の名にある「脛巾」が脛に巻いて用いられる装具であることから、足腰に関するご利益が求められたのだろう。また「脛巾」が旅に用いられることから“旅の神”と考えられ、祠にはたくさんの草鞋が奉納されている。さらに旅から連想されるためか、あるいは神社の立地から境界を守る守護神とも考えられ、“塞の神=道祖神”的性格も帯びており、実際、道祖神のシンボルでもある男根がいくつも奉納されていたりする。その他にも境内には鋏を奉納した養蚕神社があったり(鋏は「病の根を切る」という意味があるとされているが、これをもって荒脛巾神を“製鉄”の神と考える説もある)、何故か聖徳太子を祀る太子堂があったり、とにかく種々雑多な信仰が荒脛巾神に融合されている感が強い。またこの神社は民家の敷地内を通って入っていくために、さらに民間信仰らしい雰囲気を醸し出している。
客人神(まろうどがみ) / 一般的には“神社の主祭神と対等もしくは下位に位置する神で、外からやって来て主祭神には従属はしていない状態で祀られる”とされている。しかし折口信夫らによると、客人神こそが神社創建以前の土着神であり、主祭神の方が後からやって来た神とする。荒脛巾神の場合も、信仰されている地域が限定的であることから土着神であると見るべきあり、記紀神話成立以降に大和朝廷の支配地となったために神話の体系に組み込まれず、かといって土着の神話において最高神(創造神・開拓神)に近い存在であった故に排除されず“融合”という形で残されたのではないかと考えて良いかもしれない。しかしながら存在は残されても、彼らが元来持っていた性格は消し去られ(特に後から“支配者”として入ってきた記紀神話の神々と役割が重複する場合)、新たなものに改変されたとも推察できるだろう。
『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし) / 戦後、和田喜八郎が発見したとされる古文書。しかし現在では様々な観点から「偽書」と断じられている。アラハバキの名は“荒覇(羽)吐”と表記され、津軽地方を治めた一族の名として登場する。そしてアラハバキ神の像として遮光器土偶が描かれており、これがイメージとして広く流布することになる。全くの偽書であるとみなすものの、荒脛巾神を東北一帯を治める民の主神と位置づけた点は示唆に富むものがあると思う。
賢淵 蜘蛛碑
仙台のシンボルの一つと言ってよい広瀬川であるが、ちょうど市の中心部へ差し掛かるあたりに“賢淵”と呼ばれる大きな淵がある。昭和の半ば頃まで、夏になるとこの淵で泳ぐ子供の姿が多くあったというが、ここには恐ろしい伝説が残されている。仙台の城下町のはずれに当たるこの付近は茶屋町と呼ばれていたが、ここに住むある男が淵で魚釣りに興じていた。ふと気が付くと、一匹の蜘蛛が川面から現れて男の足首に糸を巻き付けた。気に留めた男は糸をはずすと、そばにあった柳の木の根元にそれをくっつけた。しばらくして気付くと、また同じ蜘蛛が男の足首に糸を巻き付けていたので、同じように柳の根元にくっつけた。こうして巻き付けられた糸を何度もはずしては根元にくっつけていたのだが、突然あたりを揺るがすような大きな音がしたかと思うと、柳の木が根こそぎ引き抜かれ、勢いよく淵に引き込まれていったのである。突然の出来事に男が肝を潰していると、水の中から「かしこい、かしこい」という声が聞こえてきた。そこでようやく、淵の主である蜘蛛が自分を引きずり込もうとして足首に糸を巻き付けていたこと、そして自分が糸を柳の木に付け替えていたために身代わりに柳が淵に引きずり込まれたことに気付いたのであった。それ以降、この淵は“賢淵”と呼ばれるようになったという。この賢淵の主である蜘蛛は、他の伝説にも登場する。賢淵から少し下流に藤助淵(または牛越淵)と呼ばれる場所がある。ある時、その近くに住む藤助が釣りをしていると、水底から名前を呼ぶ声がする。返事をすると、声の主はこの淵に住む鰻で、翌日の夜に賢淵の蜘蛛がこの淵に来て戦いをするので見に来て欲しい。そしておまえが声を上げなければ戦いに勝つことが出来るのだ、と訴える。藤助は約束の夜に淵にやって来ると、既に鰻と蜘蛛が戦っていた。その凄まじい光景に思わず藤助は声を上げてしまった。すると一瞬であたりは静まりかえってしまったのである。翌朝、おずおずと淵に様子を見に来た藤助であったが、淵にぷかりと浮く首だけになった鰻に睨まれて、そのまま狂死してしまったという。(これと同じ蜘蛛と鰻の戦いにまつわる伝説が、源兵衛淵と呼ばれたところにも残されている)このように恐ろしい力を持つ蜘蛛であるが、茶屋町の人々は逆にその魔物を祀り上げて水難除けの神としたのである。それが賢淵の真上、国道48号線沿いの一角に置かれた、【妙法蜘蛛之霊】と刻まれた蜘蛛碑である。また蜘蛛にまつわる俗信から商売繁盛の神としても崇敬されていたと伝えられる。
「水辺の蜘蛛」の伝説 / 人を水底に引きずり込むために蜘蛛が人の足に糸を巻き付け、それに対して人が糸をはずして難を逃れるという話のパターンは、全国各地にかなりの数見られる。賢淵の話は、伊豆の“浄蓮の滝”の伝説と並んで、この種の話の代表例として取り上げられることが多い(ただし人間を軽く見下すような言葉を発するのは、この賢淵の話だけであり、そこにこの蜘蛛の魔物としての恐ろしさが凝縮されている)。
蜘蛛にまつわる俗信 / 蜘蛛を商売繁盛の神とする思想には「朝の蜘蛛は殺してはいけない」という俗信が多分に影響していると考えられる。朝の蜘蛛は福を持ってくるとされるため、殺してはいけないとされる。商売をする者にとって、“朝から福を持ってくる存在=お客様”と解釈され、客の入りが多いから商売繁盛という考えに至ったのであろう。ちなみに「夜の蜘蛛は盗人なので殺した方がいい。しかしそれを見逃すと仏の功徳を得られるので、やはり殺すべきではない」という俗信もある。
首壇
天正18年(1590年)の奥州仕置によって改易となった葛西氏と大崎氏の旧領は、豊臣秀吉の側近であった木村義清・清久親子の領有するところとなったが、5千石の小身から一気に30万石の大名となったため強引な統治を行い、僅か1ヶ月で大規模な一揆が発生した。世に言う“葛西大崎一揆”である。一揆勢に囲まれて佐沼城に立て籠もった木村親子は危急を知らせ、伊達政宗と蒲生氏郷が鎮定の軍を進めた。ところがここで不測の事態が起こる。伊達政宗が一揆を煽動しているとの密告が蒲生氏郷にもたらされ、共同の鎮定を拒否し、さらにその情報を秀吉の許に届けたのである。一方の伊達政宗は単独で木村親子を救出したが、それ以降は一揆勢とは積極的に事を構えず、むしろ秀吉側への釈明に追われることになる。翌年上洛した政宗は何とか釈明に成功し、5月に帰国するとようやく一揆討伐に着手する。6月下旬に旧葛西・大崎領に入った伊達軍は籠城する一揆勢の頑強な抵抗に遭うが、ことごとく撫で斬りにして殲滅させていった。そして兵や百姓が数千人以上が立て籠もる佐沼城を包囲する。7月1日に本格的な総攻撃を加え出すと、3日に完全に制圧。一部逃亡する者はあったものの、城内にいた者を全て撫で斬りにして討ち果たした。その様子は“城内は死体が積み重なり、下の地面が見えないほど”と表されている。そして翌日に近くの寺池城が落城すると、残った一揆勢は伊達軍の厳しい仕打ちを怖れて降伏し、一揆は終息したのである。佐沼城にほど近い場所に、首壇と呼ばれる塚がある。佐沼城攻略の際に殲滅させた一揆勢の首を埋めた場所とされている。侍が500名、百姓などが2000名、合わせてその数は2500にも及ぶという。現在塚の上にある碑は大正2年(1913年)に町の有志らによって建てられたものである、今でも落城した時期に合わせて供養がおこなわれている。
葛西氏・大崎氏 / 葛西氏は鎌倉時代以降に土着、大崎氏は室町時代に奥州探題となった、どちらもこの地方の名族である。しかし戦国時代には勢力を失い、独立しながら伊達氏に従属する形で命脈を保っていた。豊臣秀吉の命に従わず、小田原参陣をしなかったためいずれも改易となるが、伊達氏との関係が影響を及ぼしているとも考えられる。なお、大崎氏は秀吉への直訴により旧領の一部を与えられる予定であったが、一揆のために反故にされた。
義経鞭桜
この沼倉の地には源義経ゆかりの判官森があるが、その森への入口そばにあるのが義経鞭桜である。奥州藤原氏の許にいた義経は、この地をよく訪れていたとされる。判官森の由来でも、この土地を治めていた沼倉小次郎高次が平泉に打ち棄てられていた義経の胴を引き取って埋葬したのが始まりであるとされており、昵懇の間柄であったと考えられる。そしてこの桜の木は、その名の通り、義経が使っていた乗馬用の鞭を挿し木したところ見事な桜の木となったという伝承を持つ。現在は3代目の木とされており、その隣にある木は“静桜”と呼ばれているらしい。また木の根元あたりにはかなりの数の石碑や石祠があるが、これは地元の民間信仰に関わるものであり、この桜の木そのものを祀るものではなさそうである(一番目立つ石碑も“筆塚”と刻まれており、勿論義経にまつわる伝承とは全く関連性がない)。
実方中将の墓
藤原実方は中古三十六歌仙の一人であり、歌道に秀でた人物である。美男子で、数多くの女性と浮き名を流したとされる(清少納言もその中の一人である)。そのため後世において『源氏物語』のモデルの一人と目されている。史実としては、藤原北家の左大臣師尹の孫にあたり、左近衛中将にまで昇進し、一条天皇に仕えている。長徳元年(995年)、殿上にて歌のことで藤原行成と口論となった際、激情の余りに行成の冠を奪い投げ捨ててしまうという暴挙に出てしまった。それを見咎めた一条天皇は「歌枕を見て参れ」と実方に命じて陸奥守に左遷したのである。本来であればしばらくの任期で都に戻れるはずだったのであろうが、実方はこの陸奥国で不慮の事故により生涯を終える。その死について『源平盛衰記』には次のような逸話が残されている。長徳4年12月(999年)、実方は名取郡にある笠島の道祖神の前を、馬に乗ったまま通り過ぎようとした。土地の者が馬から下りて再拝して通られるよう諫めたところ、実方はその理由を尋ねた。土地の者によると、この笠島の道祖神は、都にある出雲路道祖神の娘であり、良いところへ嫁そうとしたが商人に嫁したために親神が勘当、この地に追われやって来た。そこで土地の者は篤く崇敬している。男女貴賤の差にかかわらず、祈願する者は“隠相=男根”を造って神前に捧げれば叶わないものはない、と。この返答に対して実方は「さては此の神下品の女神にや、我下馬に及ばず」と言い放って、馬に乗ったまま通り過ぎてしまった。そこで神は怒り、馬もろとも蹴りつけたために、実方は落馬して打ち所が悪く死んでしまったのだという。実方中将の墓は伝承通り、かつて笠島と呼ばれた地にある。そして実方を蹴殺したとされる笠島の道祖神も、佐倍乃神社という名で残っている。墓と神社の距離は直線で1km足らず。おそらく墓は実方中将落馬の現場のそば近くと考えて良さそうである。この実方の不慮の死には、もう1つの伝承が残されている。実方死去の知らせが都にもたらされた頃、御所では1羽の雀が、台盤に置かれた飯をついばんで平らげる出来事が続いていた。また藤原氏の大学であった勧学院では、実方自身が雀に変化したという夢を見た翌朝、林の中で死んだ雀が見つかった。人々は、都を懐かしんで死んでいった実方の魂が雀に変化して都までやって来たのだろうと噂しあい、“入内雀”を名付けて哀れんだという。
出雲路道祖神 / 現在の幸神社(さいのかみのやしろ)。京都御所の鬼門除けのために創建された。平安時代初期に、この地域は出雲氏(出雲国出身の豪族)が住んでいたとされ、出雲路という名称がついている。
佐倍乃(さえの)神社 / 祭神は、猿田彦大神と天鈿女命の夫婦神。“さえの”という名称は“さいのかみ”から来たものであると考えられる。また実方中将の墓のそばにあった佐具叡神社(延喜式式内社)が合祀されている。
緒絶橋 (おだえばし)
緒絶橋は『万葉集』にもその名が記されている、陸奥国の歌枕である。この大崎の地は古来よりたびたび川が氾濫し、そのたびに川の流れが大きく変わった。そのために以前の川筋が切れてしまい、あたかも流れを失った川のようになることがあった。このように川としての命脈が切れたものを“緒絶川(命の絶えた川)”と呼び、その川筋に架けられた橋ということで「緒絶橋」と名付けられたとされる。しかしそれ以外にも“緒絶”の由来とされる伝承がある。嵯峨天皇の皇子が東征のために陸奥国へ赴いたが、その恋人であった白玉姫は余りの恋しさに皇子の後を追うように陸奥へ向かった。ところがこの地に辿り着いてみたが、皇子の行方は掴めない。意気消沈した姫はそのまま川に身投げをして亡くなってしまった。土地の者は、姫の悲恋を哀れんで“姫が命(玉の緒)を絶った川”という意味で緒絶川と呼ぶようになったという。歌枕としての緒絶橋は、白玉姫の伝承をあやかって“悲恋”や“叶わぬ恋”を暗示するものとなっている。最も有名な歌は、藤原道雅の「みちのくの をだえの橋や 是ならん ふみみふまずみ こころまどはす」という悲恋の内容である。また松尾芭蕉がこの地を訪れようとしたが、姉歯の松同様、道を誤って辿り着けなかったことが『奥の細道』に記されている。
姉歯の松
姉歯の松は、歌枕となった場所であり、現在では何本かの松の木が植わっており、そこに明治期に設けられた碑が立っている。歌枕としては、『伊勢物語』に「栗原や 姉歯の松の 人ならば 都のつとに いさといわましを」という歌をはじめとして、たびたび取り入れられている。また松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の途中で、行こうとして行き着けなかったことが記されている。それほどまでに有名な場所である。姉歯の松の由来であるが、いくつか存在する。在原業平が、陸奥国いた小野小町を訪ねた時に、その妹(または姉)の“姉歯”の消息を尋ねると既に亡くなっていた。そこでその墓に松を植えたのを始まりとする伝承。人身御供となるべく陸奥国に赴いた松浦小夜(佐用)姫の後を追って、この地まできた姉が亡くなったので、小夜姫が墓を築いて松を植えたとする伝承(“姉墓”が訛って“姉歯”となったとする)。これらの著名な人名が挙がっている中で、歌枕となった理由として最も流布しているのは以下の伝承である。用明天皇の頃、朝廷に仕える女官(采女)を各国から1名ずつ選び出すことになった。陸奥国から選ばれたのは、高田(現・陸前高田)に住む長者の娘である朝日姫であった。姫は海路都へ向かうが、途中嵐で船が座礁したため、陸路をとった。ところがこの地で病没してしまう。それを聞いた朝日姫の妹である夕日姫は、自ら志願して采女として都に上ることとなる。そして姉が亡くなった地まで来ると、姉の墓の上に松の木を植えて目印にし、都へ行ったという。いずれの伝承も姉妹の墓に目印として松を植えたことから始まるものであり、そのはかなく憐れな美しい姉妹の運命に思いを馳せながら歌を詠んだのであろう。
『伊勢物語』 / 平安時代初期に書かれた歌物語。在原業平がモデルとされる男性が主に登場し、男女間の恋愛を中心に様々な人間関係を描いている。姉歯の松が登場する話は、陸奥国へ行った都の男が土地の女と懇ろになるが、結局別れるという展開。歌の内容は「姉歯の松が人であったならば(貴女が姉歯の松にちなむような美人であったならば)、都に一緒に連れて行ったのだがな」とする。“姉歯の松=美しき存在”という概念が通底にある歌である。
松浦小夜(佐用)姫 / 肥前松浦の豪族の姫とされ、日本三大悲恋の1つとされる伝承の主人公。しかし東北では、暴れる大蛇を鎮めるための人身御供として自ら進んで名乗り出て都からはるばる赴いたという、いくつかの伝承の主人公となる(最終的には姫の唱える経文によって大蛇は成仏して昇天し、小夜姫は犠牲にならずに済む)。
鬼の手掛け石
またの名を“姥の手掛け石”。東北の地であるが、渡辺綱の伝承が残されている。京の朱雀大路の羅生門で、渡辺綱は鬼と格闘して右腕を切り落とす。しかし取り逃がしてしまったために、切り落とした腕を石の長持に保管して、諸国を回って鬼を探し求めた。そして辿り着いたのが姥ヶ懐という地でであった(一説では、ここが綱の故郷であるとされる)。滞在してまもなく、綱を訪ねてくる者があった。綱の伯母である。用件は、切り落とした鬼の腕を見たいということであった。綱は断り続けたが、伯母も全く引き下がらない。とうとう根負けした綱は、石の長持から腕を取り出して伯母に見せた。しげしげと見つめていた伯母はやにわに腕を掴むと、ついに正体を現した。伯母に化けていたのは、羅生門の鬼。腕を取り返すと一散に逃げようとする。逃すまいと、綱は太刀を手にして斬り掛かる。囲炉裏の自在鉤を伝って、鬼は屋根の煙出から家の外へと飛び出すと、一気に川を渡ろうとした。ところが、あまりに慌てていたためか、そこで体勢を崩して転倒しかかる。思わず近くの石に左手をついて身体を支えると、そのまま川を飛び越えて逃げおおせてしまったのである。これ以降、姥ヶ懐の土地では、囲炉裏に自在鉤も煙出も作らないようにしたと言われる。また節分の豆まきの時でも「鬼は外」とは言わないようになったという。また異説では、金太郎を背負った山姥が川を渡ろうとして思わず滑って転びそうになって手をついた跡であるとも伝えられている。川沿いの小社の一角に、囲いに覆われた石があり、今でも彫ったように四本の指の手形と思しきものが残されている。
渡辺綱 / 953-1025。嵯峨源氏・源融の子孫。源頼光四天王の筆頭とされる。摂津国渡辺(大阪市中央区)に居住し、渡辺党の祖となる。羅生門の鬼との戦いと、その後伯母に化けた鬼が腕を取り戻しに来る展開は、京の一条戻り橋で茨木童子と遭遇して名刀・髭切丸で腕を切り落としたという逸話を脚色して能の演目とした内容と同じである。
宗禅寺 鶏の墓
広瀬川べりに建つ宗禅寺は、室町期に仙台の地を治めていた粟野氏の菩提寺である。この寺の山門を入ってすぐのところに“鶏の墓”と呼ばれる塚が存在する。寛文13年(1661年)、宗禅寺の住職は不思議な夢を見た。びしょ濡れの鶏が現れて「私は檀家の庄子某宅で飼われていた鶏だが、一緒に飼われている猫が一家を殺そうと企んでいるを知って三日三晩鳴き続けた。ところが主人は夜鳴きする鶏を不吉だと言って、私を殺して広瀬川に投げ捨ててしまった。私の屍は宗禅寺の崖下の杭に引っかかっている。どうか主人達の命を救いたいので、朝飯の前に行ってこのことを伝えて欲しい」と言った。住職が川へ行くと、果たして鶏の死骸が引っかかっていたので、慌てて庄子某の家を訪ねた。ちょうど庄子某の家ではこれから朝飯を食べようとしていたところであった。住職が夢の話をしている時、汁鍋の蓋が開けられており、一匹の猫が何気ないそぶりで鍋を飛び越した。住職は、猫が尻尾を鍋の中につけるのを見逃さなかった。その場を離れた猫を追って住職が竹藪に入ると、猫が竹の切り株に尻尾を入れると、また家へ向かって行った。怪しんで切り株の中を覗くと、そこには蜥蜴や虫が腐って毒液となっていたのである。全てを理解した住職は子細を庄子に伝えると、庄子は鶏を殺したことを悔いて、懇ろに弔ったという。ただしこれには異説がある。この怪異は庄子宅ではなく宗禅寺で起こったものであり、住職が夜鳴きする鶏を殺し、隣家の者の夢枕に鶏の霊が現れて住職の危難を告げ、住職の朝食の膳椀に猫が毒を仕込むという展開となっている。さらにその後日譚として、竹藪に南瓜が生えたので住職が取って食べようとすると、鶏の霊が夢枕に現れて「毒があるから食べるな」と告げた。不審に思った住職が掘り起こしてみると、南瓜の根が猫の髑髏から生えていたことが分かったという。鶏の墓には、寛文13年に庄子太郎左エが建立したことが刻まれている。そして正面には「卍不是人間之塔(これは人間の塔ではない)」と彫られている。
化女沼 (じょぬま)
化女沼は現在ではダム湖となっているが、以前は自然の湖沼であった。そのために今でも数多くの水生植物が繁茂、水鳥の越冬地となっており、平成20年(2008年)にはラムサール条約の登録を受けている。この不思議な名前の由来となった伝説が残されている。この沼のそばに、かつて一人の長者がいた。その長者には美しい一人娘がいた。名は照夜姫と言い、毎日のように沼へ来て日を過ごしていた。その美しさのために、いつしか姫が沼のほとりに近づくと、水面にたくさんの蛇が集まるほどであったという。ある時、一人の旅の美男が長者の家にやって来て、宿を借りることになった。照夜姫とはすぐに相思相愛の仲となったが、また旅を続けるためにと男は去って行った。男との別れを嘆き悲しんでいた照夜姫であったが、しばらくして突然の体調の異常に気づく。そのまま産気付いた姫は、その夜のうちに子供を産んだ。しかし赤子は人間ではなく、白蛇だったのである。驚く姫をよそに、生まれた白蛇は沼の底へと沈んでいった。そして姫もその後を追うようにして、愛用の機織りの道具を持って沼へ身を投げたのである。それから毎年7月7日には、沼の中から機織りをする音が聞こえてくると伝えられる。
お鶴明神
北上川に沿って一関街道が走っているが、その堤防の緑地にぽつんと小さな赤鳥居が立っている。これがお鶴明神と呼ばれる祠である。登米の町は、仙台藩の支藩として栄えた町である。初代領主・白石宗直が城下を整え、河川の整備をおこなうことで、2万石の石高を生み出した。特に有名な事業は、北上川の治水である。3年を掛けて約7kmにわたる堤防を築いたが、これは宗直の官職名から“相模土手”と呼ばれている。ところがこの堤防も何度か決壊してしまったため、息子の宗勝(宗貞)がさらに改修を重ねて、決壊の被害を絶ったとされる。そしてこの頃にあった伝承として、お鶴明神にまつわる話が残されている。お鶴は、岩手の南部地方の生まれの娘で、彦総長者の家で下働きをしていたとされる。この堤防工事では、人夫に昼の弁当を配る世話をしていたのであるが、決壊を防ぐために人柱が必要であるという話が持ち上がった時に白羽の矢を立てられて、無理矢理生き埋めにされてしまったという。これ以降堤防は決壊することなく、今に至っている。このお鶴明神は、人柱となったお鶴を哀れんだ土地の者が建てたものである。簡素なものではあるが、現在でも毎年、講による供養がおこなわれている。また祠のそばには“お鶴の涙池”と呼ばれる小池があったが、これも平成になってから復元されている。
下紐の石
国道4号線の宮城県と福島県の県境に位置する場所に、下紐の石はある。とりたてて何もない場所に柵に囲まれて大きな石があるので、すぐにそれと判る。かつてこのあたりに坂上田村麻呂が関所を置き、下紐の関と呼ばれていたとされる。また平安時代には歌枕として和歌に詠まれていた。江戸時代には石大仏とも呼ばれていた時期があるが、相当古い時代から下紐の石として存在していたと言える。この名の由来であるが、用明天皇の妃である玉世姫がこの石の上でお産の紐を解いたことから名付けられたとされている。ただ、玉世姫は豊後(大分県)にあった真野長者(炭焼き小五郎)の娘であり、なぜこの地にその姫の伝承が残されているのかは謎である。
用明天皇と玉世姫の伝説 / 室町時代に成立した、幸若舞の「烏帽子折」において用明天皇と玉世姫にまつわる伝承の詳細が描かれている。それによると、玉世姫の美貌の噂を聞いた用明天皇は、密かに豊後に赴いて真野長者の召使いに身をやつす。3年の歳月の後に天皇はその正体を明かして、姫を娶る。そして二人して都に戻り、男児をもうける。それが後の聖徳太子となる、という伝説である。(地元では、玉世姫は般若姫と呼ばれ、先に都へ戻った用明天皇の後から船で都に赴くが、途中周防国で病没したとされる)
鹽竈神社/御釜神社 (しおがまじんじゃ/おかまじんじゃ)
鹽竈神社は陸奥国一之宮、東北鎮守として崇敬を集める神社である。ただ「弘仁式」において祭祀料正税一万束を受け取るほどの大社でありながら、「延喜式」では式内社に挙げられず、その後も目立った神階を授かることもなかった。明治時代になって、式内社で国幣中社であった志波彦神社が敷地内に遷宮されてから、両社で国幣中社としてようやく大社としての社格を得たと言える。祭神は、主祭神が塩土老翁神で別宮に祀られ、武甕槌神が左宮に、経津主神が右宮に祀られている。伝説によると、東北平定を命ぜられた武甕槌神と経津主神は塩土老翁神の先導によって目的を達成してそれぞれ元の宮(鹿島神宮と香取神宮)へ帰ったが、塩土老翁神だけは東北に残って製塩法を教えたという。鹽竈神社が製塩と密接に関わることを示す藻塩焼神事が、境外摂社である御釜神社に伝わる。御釜神社には、日本三奇の1つである神竈と呼ばれる、直径1m強の4口の竈がある(これらの竈は奉置所の中にあり、社務所に申し出て拝観することができる)。土塩老翁神はこの竈を使って製塩技法を教えたという。現在でも常に潮水が張られており、屋根のない場所であるにも拘わらず、どんな旱魃の時にも決して涸れることはなく、また溢れることもないと伝えられる。また「塩竈」という土地の名はこの「四の竈」が由来であるともされる。さらに境内には牛石藤鞭社があり、和賀佐彦という神が7歳の童子に変じて、背に塩を載せた牛を引いていたが、それが石と化したとされる。今でも境内の池の中にその石が沈められており、見ることができるという。またその童子が藤の枝を鞭にしていたが、それを立てかけておくと枝葉が伸びて藤の花が咲いたと言われる。
塩土老翁神(しおつちのおじ) / 記紀に登場する神。釣り針をなくした山幸彦のために舟(または目の詰まった竹籠)を用意して、海神の許へ赴くよう進言したとされる。また神武東征においては、神武天皇に東に良い土地があることを告げて、東征を決意させている。
藻塩焼神事 / 宮城県無形民俗文化財。7月4日に七ヶ浜沖でホンダワラを刈り取る。5日に満潮時の潮水を取り、神竈の潮水を取り替える。6日にホンダワラを敷いた大釜に潮水を入れて煮詰めて粗塩を採取する。御釜神社の神前に供え、そして10日の鹽竈神社例大祭の神饌とする。
磯良神社
地元では「おかっぱ様」と呼ばれる。資料などでも磯良神社ではなく「カッパ明神」の方が通る(あるいは「田子谷磯良神社」の名称も流布している)。県道に面したところに鳥居があるので分かりやすいが、周辺には人家は全く見当たらない。神社以外にはほとんど何もない。昔、平泉の豪族・藤原秀郷(氏子の伝承による)の馬屋に虎吉という名の者が仕えていた。ある時ふとしたことでその正体が河童であることが分かってしまった。そこで暇をもらって主家を離れることにした。虎吉を可愛がっていた秀郷は、その時に持仏の十一面観音を与えたという。虎吉は各地を巡って田子谷の沼まで辿り着くと、そこを気に入って終の棲家とすることとした。その後、虎吉は多くの子供を授かり、子河童たちがこの沼のほとりで相撲を取ったりして遊んでいる姿がよく見かけられたという。
判官森
平泉から直線距離にして約30km足らず。判官森と呼ばれる小さな山がある。旧・栗駒小学校の裏山であり、実際に小学校の敷地を突き抜けてちょっとした山道が続いている。この小高い山は「判官」の名前の通り、源義経にまつわる伝承地である。文治5年(1189年)に平泉で討ち取られた義経は、その首を鎌倉に送られたのであるが、胴体は平泉に打ち捨ておかれていた。それを引き取って葬ったのが、この沼倉の領主であった沼倉小次郎高次であったという(沼倉小次郎の実弟が、義経の影武者と言われた杉目太郎である)。判官森の頂上近くには、この義経の胴塚と呼ばれる碑が建てられている。生前の義経がこの地を気に入ってよく馬を掛けてこの地を訪れたともいわれている。判官森の麓にあたる郵便局前には、この地を訪れた際に鞭にしてた桜の枝を差したものが成長したとされる、義経鞭桜がある。また判官森のさらに奥には弁慶森と呼ばれる場所がある。
杉目太郎 / 年格好が義経とそっくりであったために影武者となった武将。平泉の戦いで自刃したのは実は杉目太郎であり、義経は落ち延びてその後に蝦夷に辿り着いたという伝説が生まれた。杉目太郎の墓は、この判官森から数km離れた場所にある。
観音寺
気仙沼の港を見下ろす高台にある古刹である。天台宗に属し、全国に七寺のみという延暦寺根本中堂の「不滅の法灯」を分灯された寺院である(東北では山寺立石寺・平泉中尊寺と並んで三寺のみ)。この寺院には名前のごとく観音菩薩像が安置されているが、この像には1つの悲恋の伝説が残されている。源義経がまだ鞍馬で修行に励んでいた頃、文武の師・鬼一法眼の娘である皆鶴姫とよしみを通じて、法眼の持つ兵法書『六韜』を盗み出した。そしてその書を携えて、金売り吉次と共に奥州藤原氏の許へ赴いたのである。平泉に着いてしばらくして、義経は夢を見る。京都に残してきた皆鶴姫が奥州の母体田の浜に打ち上げられている夢である。不吉な知らせとばかりに義経は浜へ駆けつけると、人だかりができている。そばへ行くと、うつろ船に乗せられた皆鶴姫の亡骸があり、その手には観音像が握られていたのである。姫は父の法眼の怒りを買って、うつろ船で流されていたのである。事の真相を知った義経は、姫の冥福を祈るために観音像を観音寺に納めたという。またうつろ船の残骸の一部、義経の使っていた笈なども観音像と共に、観音寺に安置されている。異説では、皆鶴姫を乗せたうつろ船が浜に漂着すると、高貴な人を助けて後難に巻き込まれるのを恐れた村人が幾度も船を沖に押し戻しているうちに姫は衰弱して亡くなったともいう。また衰弱した姫を老夫婦が助けて住まわせていると、数ヶ月後に義経の子を産んだが、産後の肥立ちが悪くて結局亡くなってしまったともいう。いずれの話でも、義経とは会えぬ運命で終わっている。
不滅の法灯 / 天台宗の総本山である延暦寺根本中堂にある、宗祖の最澄がともした灯明。現在でも決して消されることなく火を灯し続けている。織田信長の焼き討ちの際に根本中堂の火は途絶えたが、山寺立石寺の分灯を用いて再び灯し続けられている。
鬼一法眼 / 『義経記』に登場する伝説上の人物。一条堀川に住む陰陽師であり、文武に秀でており特に兵法の大家とされる。また剣術の京八流の祖とされている。
『六韜』 / 中国の兵法書。周の太公望が武王に授けた用兵の極意書とされる。「虎の巻」の語源となった書である。 
 
 福島県

 

●十六沼 福島市
この沼の名は、伝説によると、昔この沼の近くに、十六歳になる娘が住んでいて、この村の男と契りを結んだが、男は非情にも別の女と出奔してしまいました。
娘は嘆き悲しみこの沼に身を沈めてします。村人はこのことを知りこの娘を惜しみ、それから十六沼と呼ぶようになったと言います。
この沼は自然湧水の沼で、四方の灌漑用水になっています。

●雄国沼のとらんぼう 耶麻郡北塩原村
標高1,000m以上の天空にある神秘的な雄国沼には、昔からこの沼の主の大泥鰌(どじょう)が棲んでいると伝えられている。胴回りは仁王さまのきき腕ほどあり、口は耳まで割けて、本当にこわい化け物みたいだといわれていたが、誰も見たことがない。村の人たちは、沼の主のいるこの沼に近づくこともなかったので、沼や流れ込む小川には、たくさんの泥鰌がうようよしていた。
ある日のこと、ひとりの男がこの沼に行って泥鰌すくいをしてみたいと思い、登っていった。網を入れてすくう度にいっぱいの泥鰌がとれて、たちまち大きなハケゴいっぱいになってしまった。喜び勇んで家路を急ぎ、沼の峠にさしかかったときであった。沼の方から「とらんぼう! とらんぼう!」と呼ぶ奇妙な声がした。振り返って沼の方を見たけれど、誰もいない。あたりはシーンと静まり返っていて、ハケゴに入っている泥鰌だけが、「キュッ、キュッ」と泣くだけだった。
男は空耳だと思って歩きだしたら、また「とらんぼう! とらんぼう!」と、先程よりはっきりした声で男に呼びかけた。あんまり泥鰌を取りすぎたから、沼の主が怒っているんだなと思うと不気味になり、男はハケゴごと泥鰌を坂下の川に投げ込むと、転げるように逃げ帰った。しかし、身も心も疲れ果て具合が悪くなってしまったという。
村中にこの話が伝わり、沼の主のことをいつしか「とらんぼう」と呼ぶように なったんだと。

●沼沢湖の大蛇 大沼郡金山町
金山町の沼沢湖には、「沼御前」という大蛇が棲んでいたとされています。
髪の長さが6mほどにもなる美女に化けられると言われており、人を惑わせたり、襲ったりして、付近の人々にたいそう恐れられていました。当然この沼御前を退治しようと立ち上がった人もいましたが、沼御前は鉄砲で撃たれてもなんともなかったといいます。
そこで、困り果てた人々を見かねた領主が、50人から60人の討伐隊を結成して沼御前退治に向かいました。途中、沼御前に家来ともども飲み込まれてしまいましたが、鎧に身に着けていた観音様の力で生還し、無事に沼御前を退治したということです。

金山町の「沼御前神社」が建っている場所は、沼御前の首を埋めた場所とされています。
 

 

●昔ばなし 伊達郡川俣町
あまわだ清兵衛 (清兵衛さんの話)
むかし、小綱木にあまわだ(※1)が大好きで、あまわだ清兵衛と言われた人が住んでいました。町に行くたびにあまわだ買って来る人で、その日も遅くなったが、藁づと(※2)にあまわだ入れてぶらさげて帰ってくる途中、急にもようしてきました。根っからしみったれな清兵衛さん、自分が出したものだから、持って帰らなければ損だと思い、藁づとを作って入れてそれもぶらさげて帰ってきました。「おっかあ、今帰ったぞ。」と言って、玄関に入る前に藁づと便所に放り込みました。「おっかあ、あまわだ買ってきたぞ。台所の戸棚に入れておいたからな。」と言って、そのまま寝てしまいました。
次の朝、清兵衛さんが寝ているうちに、おっかあがかまどのわきで、「おとっつぁ、なんだ。これは。」と怒鳴りました。「なに言ってんだ。あまわだだろう。」「あまわだどころか、とんでもない話だ。臭くてたまらない。」
清兵衛さん、びっくりしてひろげてみたら、自分のお土産でした。
※1 あまわだ=鮭の内臓 ※2 藁づと=藁で編んだりたばねたりして、中に物を入れるようにしたもの
あわの胸算用 (女神山のばかむこの話)
女神山のばかむこが、粟を刈り軒場(のきば)に干してから、振り打ち棒で叩いて、み(箕・・・農機具)でふるいました。そして、「おっかぁ、おっかぁ、たいしたものだ。臼に八升、みに八升、七(なな)ます、八ます、九(ここ)のます、十(と)ます、どのくらいになるかな。」と聞いたら、おっかぁが、「五斗でしょう。」と言ったので、すっかり感心してしまいました。
石になった男 (石になった男の話)
むかし、むかし、一人の男がいました。その男は毎日、毎日、寝てばかりいて、少しも働こうとしませんでした。ある日いつものように男が寝ていると、一匹の蛇がやって来て、男の家の周りをぐるぐる回っていました。近所の人が心配して男の家に入ってみると、誰も居なくて、大きな石が庭にころがっていました。
蛇に回られて男は石になってしまいましたとさ。
糸合図
むかし、南山のばかむこが嫁このぜえさ呼ばっち、二人で行ぐごどになったど。「おめえさん、下手なごと語っとあら出っがら、何言わっちも、さようでございます。さようでございますって言えばぜえがら。おめえのさおの先さひもしばっておぐがら、ぐっと引っ張らっちゃら、そう語らっせ。」「うんうん。」って、約束して行ったど。始めのうぢはうまくいってだが、嫁こがそっとひもおいでしょんべんどさ立ったら、ネコがひもさじゃれで、むしょうに引っ張らっち、たまんなぐなっで、「さようでございます。さようでございます。さよう、さよう、さようの頭がもげそでございます。」って言ったどさ。
イヌの足 (弘法大師と犬の話)
昔、弘法大師さまがあるとき、「わらう」という字を作ろうとして筆を持ったが、どうしても書けませんでした。どのように書けばいいかと考えていたら、表で子供たちの笑う声が聞こえてきました。ちょっと障子を開けてみると、子供たちが子イヌに籠(かご)をかぶせて遊んでいました。籠がきつくてどうしても取れないので、子イヌがはねているのが面白くて笑っていました。大師さまはそれを見て、犬という字に竹をかぶせてみたら、本当に笑っているように見えたので、それから「笑」と言う字ができたそうです。
それで大師さまはイヌに恩返しをしようと思いました。むかしは、イヌは三本足でした。大師さまは三本足では不自由だろうから、一本ふやして四本にしてやろうと、五徳から一本取ってイヌに付けてやりました。五徳は四本足でしたが、それから三本足になったそうです。
イヌは喜んで大師様にもらった足に、しょんべんなどかけたら罰が当たると思い、そのたびにその足を持ち上げてするようになったそうです。
※五徳・・・火鉢や囲炉裏などに置いて、鉄びんなどをかける鉄製の道具。
芋掘り (あほなおにいさんの話)
むかし、あるところに、あほなおにいさんがいました。畑で、ジャガイモ堀りをしていました。そしたら通りかかった人が、「ここは、なんというところですか。」と聞きました。「ところ(※)だか、芋だか、掘ってみないと分からない。」と、一生懸命掘っていました。(通りかかった人は、)この人ちょっと変だと思って、「それでは、ここはなんという里ですか。」と聞いたら、「さとは実家に行ったから、いつ帰ってくるか分からない。」と言いましたとさ。
※おにどころ=野老の別名で山野に自生するヤマイモ科の多年性つる草
うどんの食い方 (南山のばかむこの話)
南山のばかむこが、他の家にお呼ばれして行って、うどんをだされたら、「いや、なんだ、このうどん。長いこと、長いこと。」と、立ったりすわったり、すわったり立ったり、首にからんだりして、ご馳走になったとさ。
うば捨て山 1  (孝行息子と母の話)
むかしは六十になっと、うば捨て山さ置いでこなかなんねがったど。あっとこに、親孝行な息子があってない、どうしても親を山さなんか置いでこらんねがらって、座敷の下さめど掘って、かぐしておいたんだと。あっどき、殿さまがら、「あぐで縄もじったがな持ってきたもんに、褒美をやる。」って言わっちゃんで、なじょしたらでぎんのかなぁど思って、床下にかくしてだおっかぁに聞いだと。「てえらな石の上で縄燃せば、あぐで縄もじったがなできる。」って言わっち、そのとおりにして持ってっで見せだと。「なじょして、こういうふうにできたんだ。」「実は床下さかぐしてだおっかぁに教しえらっちゃんだ。」って言うと、殿さまは、年寄りはいろんな経験してっがらなんでも分がってる。大切にしなきゃなんねってごとになって、ほれがらうば捨て山をなぐしたんだと。
うば捨て山 2  (孝行息子と母の話)
むかし、あっとこに、親孝行な息子があったど。昔は六十になっと殿さまの言いづけで、山さ捨てでこなくちゃなんねがったげんじも、どうしても山ん中さ捨ててこらんにゃがったど。ほんでも、お上の言いづけなんで、なんともしょねぇぐて、うぶってって捨ててけえる気になったど。すっと、ばあさまが、「道が遠いがら道まちがえっとてえへんだがら、おら来る途中両側の杖折って来だがら、木の折れだ枝探しで行げばけえられっがら。」って言わっち、息子はなじょんしてもばあさま捨てらんにゃぐなって、うぶってけえって来てないしょに、ぜえの縁の下さ室作ってしまっておいだど。
ほしていたどころ、殿さまんとごさ隣の国の殿さまんどごがら難題吹きつけらっち、この問題解げねえこっちゃ国寄ごせといわっちゃつうんだな。殿さまもがおっちゃったど。ほんでも、誰も家来に知ってるやつねえもんだがら、国中さ布令まわしだどごろが、息子が聞いできてばあさまにこう、こう、こういう話だって語って聞かせだど。すっと、ばあさまはほだごとわげねえっておせえでくっちゃど。
ほれは木目がら正目がらどっちともつかねえ木持っできて、どつちが本だが裏だが見分げでよこせって、隣の殿さま言ってきたど。ばあさまは、「ほだごとなにも面倒でねえわ。水さひたしてみっと本の方はいく分沈むもんだ。」っ言ったど。息子は行っで殿さまさ話すと、「なるほど、ほんじゃ分った。」って言ったど。ほんでぜえがど思っだら、今一ペん問題よこしたど。
ほれはアリは一間のうち、何どきの速さで歩ぐが返事よこせっていわっちゃど。そだげんじょも、わがんねえつうな、アリは。歩がせてみっと一っペんになんが、まっすぐに歩がねつうがら。息子はけえっできてばあさまにゆっだら、ばあさまほだごとめんどうなことねえって、「一間のがな、かな糸張っておいで、こっちのはしさ何か甘いもの一つおいで、こっちのはしがらアリはわせっど、一生懸命こいつのにおいするがんで甘いどこさ行っがら、そんで何どきの速さで歩ぐが分っがら。」って言ったど。ほんで息子がまた行っでおせえだら、ほの通りだったど。二つで間に合うど思っだら三つめよこしたど。ほの三つめは、あぐの縄、なべのうえでもじった縄そっくりもやすとあぐの縄あっがらと教えてくっちゃど。
息子がこの三つといだもんだがら、殿さまがおめえこういうがな、自分の考えがら出だのがと言わっちゃがら、正直に実はこういうわげで殿さまのお布令破っで、おっかさまごど縁の下しまっておいだ。これはおっかさまがいって聞かせたんだと語ったど。ほしたら、どんなほうびでもくれっからと殿さまがいったつうがら、ほがのほうびいんねえがら、どうぞおっかさまの命助けてもらえでと言ったど。ほんだがら、年寄りはてえせつにしなくちゃなんねえって、ほれがらうば捨て山はなくなったんだど。
馬のしりにお札 (南山のばかむこの話)
南山のばかむこがしゅうとの家に行ったら、しゅうとが大変立派な家を造っていました。節のないもの(材木)で造った家でしたが、一つ節があったそうです。「せな(男性に対する二人称、本来は兄の意)、ここにこれ節があって。それが、玉に傷でな。」と言ったら、「この節を隠すには、火伏せご祈祷のお札を貼るといいですよ。」と言いました。あほなせなだと聞いていたが、なかなか利口だなあと、ほめられました。それから、馬を出して見せられました。そしたら、馬のしりを見て、「火伏せご祈祷のお札を貼るといいですよ。」と、言ったそうです。
ウマのしりに節穴 (南山のばかむこの話)
むかし、南山のばかむこが嫁の家に行ったそうです。ウマを出してきて見せてもらったとき、しっぽを立てて尻の穴を見て、「節穴ある。」と言ったそうです。
オオカミの報恩 (オオカミの話)
むかし、八木(ばちぎ)のこすずというところに一軒の家がありました。そこに住んでいた女の人が火種が無くなって、隣の家に貰いに行くとき、オオカミが何かを食べて骨をはさんで、取れなくて苦しんでいるところに出会いました。はさまって困っていたので取ってやったら、帰りかけたオオカミは振り返って、しばらくじっとみていました。そのときはそのままにして、火種を貰って家に帰ってきました。その家に、その晩、馬を持ってきてくれたものがいました。オオカミがお礼に持ってきてくれたものだろうといわれました。それでも、どんなにかこわかったのでしょう。どんなに飼育しても太りませんでした。馬はあお手の馬でした。
おつるさん
むかし、あっとこの長者屋敷に、おつるさんていう娘があって、機織りしておったんだと。すっと、いつもばんげになっと、「おつるさん、おつるさん。」って呼ばる人があったんだと。「はて誰だべ。」と外さ出てみっと、誰もいねえんだど。何日かたってがらキツネがおっぼ(尻尾)をない、節めどさ突っ込んで、ツー、ツー、ツー、ツーとやってんがながわかったど。ほれが、「おつるさん、おつるさん。」と聞えてたんだとわかったど。今はその屋敷もねえげんと、どこどなし、そごさ行くとさびしない。
鬼かけ馬 (むこと暴れ馬の話)
南山のばかむこがしゅうとの家に行ったところ、鬼かけ馬(※1)を飼っていたそうです。暴れ馬で誰も手をつけられませんでした。しゅうとおとっつまが、「この馬には、誰も乗る人がいないんだ。」と言ったら、「おらが乗ってあげましょう。馬なんてなんでもないよ。」と、乗ったところが、勢いよく走り出して、どんなに手綱をひっぱてもどうしても、止まるものではない。ばかむこは、「ホーイ、ホーイ、ホーイ。」と、泣き泣き乗ったそうです。それを見て近所の人たちが、「たいしたむこだ。誰も手をかけない馬に乗って、鼻歌がけで(※2)行ったぞ。えらいむこだ。」と言ったそうです。
※1 鬼かけ馬=暴れ馬 ※2 鼻歌がけで=鼻歌うたって
鬼とニワトリの声 (心がけのよいおじいさんと欲深いおじいさんの話)
むかし、心がけの良いじいさまと、欲の深いじいさまとが隣り合って住んでいました。心がけの良いじいさまは、毎日、朝早くから夕方遅くまで、畑に行って仕事をしていました。
ある日、用事をしに行った帰り、あたりは暗くなってくるし、雨も降ってきて、家に帰れなくなったので、途中の空家に泊まりました。床の上では濡れるので天井のはりにあがって寝ました。
夜中になって、うるさくて目を覚ますと、下に鬼たちが集まってばくちを打っていました。じいさまは静かにして鬼たちが帰るのを待っていましたが、いつまでたっても帰らないので、鬼たちを追い払ってやろうと、むしろ(莚)でもあったのでしょう、それでバサ、バサと音をたてて、「コケコッコー。」と言って、一番鶏(とり)のまねをすると、鬼たちはびっくりして、「やっ、たいへんだ。夜が明けてしまう。ほら、早く逃げろ。」と、あわてて財布からさいころからそこいらにおいて、逃げていってしまいました。じいさまは、これは良い授かりものだと、家に持って帰えりました。隣の欲の深いじいさまがそれを聞きつけて、「どこから授かったのか。」「実はな、これこれ、こういうわけだ。」と言ったら、「それじゃ、おらも行ってみよう。」と、暗くならないうちから、空家のはりの上にあがって鬼のくるのを待っていました。案の定、鬼たちが集まって、ばくちを打ち始めました。
(欲の深い)じいさまは、あんまり早くから寝ていたものだから、宵の口から目がさめてしまい、小便がしたくなったのと、鬼たちの金に目がくらんでしまい、むしろでバサ、バサとやって「コケコッコ−。」と、力んで声を出したものだから、鬼たちの頭に小便をかけてしまいました。鬼たちは、「何だ。これ。星が出ている空から、雨が降るわけがない。変なにおいだ。こりゃ、人間の小便だ。この前とりの鳴き声のまねして、金を持っていったやつだろう。」と、はりにあがっていって、じいさまをつかまえて、持っていた鉄棒で殺してしまいました。
お福と節分 (欲ふかい金持ちの話)
むかし、むかし、あるところに、欲ふかい金持ちの人がいました。たくさんの奉公人やお手伝いを雇っていて、夜も昼も働かせていました。お手伝いの中にお福という女の子がいました。
毎年、節分になると、その家のだんなさまが大きな声で、「鬼は外、福は内。」と豆まきをしていました。そのときお福は外にいて、「福は内。」と(だんなさまが、)いったとき、「福が入ってまいりました。」といって、家に入ることになっていました。毎年、寒い夜に外に立って待っているのが、お福はいやでいやで仕方なかったけれども、だんなさまからいわれているから仕方がありませんでした。
ある年の節分の夜、いつものように豆まきが始まって、「鬼は外、福は内。」とだんなさまが大きな声でいったけれどもお福が入ってこないので、「福はどうした。どうした。」と、大きな声でお福のことを呼びました。すると、家の中にいたお福が、「只今、家の外に出るところでございます。」と、外に出て行きました。お福は夕方にいいつかった仕事ができなかったのと、寒い外に出るのがいやだったのでしょう。外に出るのが遅れてしまいました。入ってこなければならないお福が、「福は内。」で、外に出ていってしまいました。
それから、その家は不幸が続いて、貧乏になってとうとうつぶれてしまいました。
おへこばあさんの江戸見物 (せっかちばあさんの話)
むかし話を聞かせてあげましょう。今と違ってむかしは乗り物など無かったから、殿様のような人はかごに乗って行きましたが、たいがいの人は江戸見物に行くといっても、歩くほかありませんでした。あるとこのじいさまとおへこばあさま(※)が、江戸見物を楽しみに一生懸命仕事をしてお金をためて、いよいよ江戸見物をすることになりました。「さあ、ばあさんや。仕度をしろよ。おらのふんどしをどこにおいた。」「なに、ふんどし、あんまり汚くしておくから、それじゃいけないと思って、コチリ、ムチリコ、コチリ、ムチリコと洗って、大神宮さまに供え申しておきました。」「このくさればばあ。大神宮さまに供え申したら、死に罰があたってしまうだろ。おらの草履はどこにおいた。」「草履だって、あんまりごじゃ、ごじゃ汚しておくから、いや、いや、これはいけないと思って、これもモチリ、モチリと洗って、はしごにきつく縛っておき申した。」「早く持ってこい。」
それで、やっと出かけました。「ばあさん、ばあさん、早く行こう。」「じいさん、待ってください。縞の財布が落っこちていたから、見つけて懐に入れたら、モチリ、モチリとへそがかゆいので、どうしようもない。見てください。」「どれ、どれ、縞の財布が、そんなにへそをかくはずがない。」と見ると、財布ではなくヒキガエルでした。「こんなもの一緒に連れて行かないで、捨ててしまいなさい。」「いや、いや、せっかく見つけたのに、もったいないな。バイ。」と捨てました。「さあ、早く行かないと日が暮れてしまうから、急いでいきましょう。」「じいさん、じいさん、まんじゅうが落ちていた。」「どれ、見せてみなさい。なんだ、これ、まんじゅうではなく馬ぐそだ。きたない。捨ててしまいなさい。」「あんまりほかほかしているから、まんじゅうだと思った。もったいないな。バイ。」と、また捨てました。
こうしてやっと江戸に着いて夕方になったら、ドカーンと花火が上がりました。「じいさん、じいさん、なんだろう。忘れ物して、あれ、戻ってくるよ。」「ばあさん、ばあさん、なにを言ってる。あれは戻ってくるのじゃなく、残月と言うものだ。」と言いました。
※おへこばあさま=せっかちなばあさま
愚かな姑 (愚かな姑の話)
むかし、ある家の嫁と姑のお母さんが芝居見物に行きました。その日の出し物は「菅原伝授手習鑑」で、「寺子屋の段」のところでは、道真の世継ぎ菅秀才のために、わが子を犠牲にする松王を見て、嫁は泣いてしまいました。姑のお母さんは家に帰ってきて、「あんな芝居見て泣いて、外聞悪くてしょうがなかった。」と、家の人に話して聞かせました。すると、姑のお父さんが嫁にわけ聞いて、「おまえこそなんにも分からないで、なにをいっている。」と、お母さんは、叱られました。
それからしばらくして、また、二人で芝居見物に行きました。「義経千本桜」だったかを見て、馬鹿な姑のお母さんは義太夫の口上で、「さるほどに九郎判官義経は・・・・・・」と、語るのを聞いて、猿がほど(囲炉裏の火)に入って死ぬところだ。かわいそうだと泣いたそうです。
カエルの江戸見物 (カエルの江戸見物の話)
むかし、関西のカエルが江戸見物に出かけてきました。長い東海道をあるって、箱根山の頂上にきました。「ああ、箱根山さえ越せば、江戸は近い。」と言って、(立ち上がって)背伸びをして江戸の方を見たら、自分の生まれたところと同じものがあったので、「ああ、江戸もおらのところと同じだ。」と、箱根山から戻ってきてしまいました。
かしけえ坊さま (かしこいお坊さんの話)
むかし、むかし、ある坊さまが行脚の途中で、貧しいさびれた村に通りかかりました。村の人たちはみんな顔色が悪く元気がありませんでした。坊さまは村の人たちを助けてやろうと思って、誰もいない破れ寺に住みつくことにしました。いろいろ考えて、村の人に信仰心と働く気を起こさせねばならないと、あることを考えつきました。坊さまは道端にあった泥だらけの古い石の地蔵さまを見つけて、ある場所に穴を掘って底に村の人からもらった大豆をたくさん入れて、その上に地蔵さまをのせて土をかぶせておきました。入梅の節が近づいた頃、坊さまは村の人を集めて、「毎晩、休んでから夢の中に石の地蔵さまが出てきて、長い間土の中に埋められていたが、やっと表に出られるようになった。寺の西の方で頭持ち上げて出てくるから、お堂を作って供養してくれ。そして、一生懸命信仰すれば暮らしも良いようになって、村も栄えるってお告げがあった。」と、聞かせました。
入梅になって何日かたった時、埋めた場所が地割れして石の地蔵さまの頭が出てきました。村の人は坊さまの夢は正夢だったとびっくりして、早速お堂を建てて供養し、坊さまを尊敬しました。村人は坊さまからみ仏の教えと、働くことの大事なことを聞かせられて、何年もたたないうちに村は栄え、暮らしも良くなりました。石の地蔵さまは大豆が雨でふくれて、待ち上げられたのだけれども、ほんとに利口な坊さまでした。
カニのふんどし (むことカニとふんどしの話)
南山のばかむこが、礼儀作法もさっぱりわからないので、しゅうと(の家)に行くときにお嫁さんから、「実家の方はカニが名物だから、カニを出されたら、カニのふんどしは食べられないのだから、ふんどしを取っておぜんの隅の方において食べなさい。」と、教えられたそうです。
そうして、しゅうとの家にいったところ、案のじょうカニがでました、(それも)大きい。ばかむこはカニのふんどしを取らないで自分のふんどしを取って、おぜんの隅の方において食べたそうです。
瓶と小石 (ばかむこと甘酒の話)
南山のばかむこが親類の結婚式に呼ばれて、前の日に行って泊まりました。晩に甘酒を出されたそうです。飲んでみたら大変おいしいもの(甘酒)で、その味が忘れられないので夜中に台所に起きていきました。瓶を見つけてすくって飲んだところが、だんだん下の方になってしまって、瓶に首を入れて飲んでいたら、瓶が取れなくなってしまいました。困ってしまってどこにも隠れるところがないので、便所に行って隠れてじっとしていました。
そしたら、ほかの人が入って来て用をすませたが、紙を持ってこなかったので、困ってしまいました。それで、そこらの石ころを拾ってしりをふいて、クーンと投げたら、すみの方に座っていたばかむこの瓶にあたって割れてしまいました。格好悪くてどちらもいえない話なので、「おたがいに(だれにも)言わないことにしよう。」と、約束しました。
次の日、いよいよ三三九度の式が始まって謡(うたい)となりました。そしたら、石をぶつけた人が、「池のみぎはの 鶴亀はー。」とやった(謡い始めた)ので、ばかむこは瓶が割れてしまった話が出てしまったと思って、びっくりしてしまい、「石でしりふいて、おらの瓶にぶっつけたー。」と、謡に負けないように高い声でやったとさ。
カラスの埋け栗 (カラスの話)
山仕事で炭がま作りや、木を植えに行った時など、土の中から栗がたくさん出てくることがあるでしょう。それは、カラスや山のサルが冬のえさにしようと栗の実を集めて、空に浮かんでいる雲を目印に、土の中に埋めたものと言われています。雲は生き物(動いているもの)で少しもじっとしていません。それだから、カラスが後で掘り返してみても、目印がないから分からないわけです。それをカラスの埋け栗と言うそうです。
観音さまの日と手間取り (欲深い名主さまの話)
むかし、あるところに、欲深い名主さまが居たそうだ。ある日、一人の男がやってきて、「おら、食わせてもらえるだけでいいから、雇って下さい。ただ、先祖代々観音さま信仰しているから、観音さまの命日だけは休ませて下さい。」と言ったそうです。欲深い名主さまは、これは安い拾いものだと喜んで、「うん、いいだろう。」と、雇うことにしました。
ところが、次の日(その男が、)働くかと思ったら、今日はなに観音の日だから休み、明日はなんの観音の当り日、あさってもなに観音だから休むって、一ヶ月の間ただ食いをされました。観音さまは三十三ありますから。欲深い名主さまは泣くほど腹を立てて、とうとう暇をくれました。
寒風 (お寺の和尚さまの話)
むかし、あるお寺の和尚さまが大きな袋に寒風をためておいて、あついとき、だん家の人たちに、「寒風にあててやるから、何日に集まれ。」と触れを回したところ、それではとみんな喜んで集まりました。ところがその寒風は、どんなにたくさん入れた袋だか知らないけれど、小僧につめ方をまかせていたので、(小僧が)おならをして入れてしまいました。
それでみんな集まったところで、(袋の)口を開けて風をかけたので、だん家の人たちは怒って帰ってしまいました。和尚さまは一軒ごとにだん家を回って、謝って歩いたとさ。
聞く耳頭きん
むかし、あるところに、じいさまとばあさまがおりました。じいさまは山に行って枯れ枝を取ってきて、町に背負って行って売って暮らしていました。
ある日、枯れ枝を売って帰ってくるとき、道端で子供たちがキツネの子を捕まえて、いじめているところに通りかかりました。「なんと。かわいそうなこと、そんなことをするとキツネにたたられるぞ。」と言ったところが、「なあに、そんなことあるか。」と聞かないので、キツネがかわいそうになって、枯れ枝を売ったなけなしの銭で、「こいつで私に売ってくれないか。」と言ったら、「ああ、キツネの子を殺したって、一文にもならないから売ってやろう。」ということで、(じいさまは)キツネの子を買って、そして(帰り道の)途中まで来て、「おまえ、こんなところに出てくるから、子供たちに捕まって、ひどいめにあわされるのだから、これから決してこういうところに出てきてはいけないぞ。」と、放してやりました。
それから、何日かしていつものように枯れ枝を売って帰ってくるとき、この前のキツネの子が道ばたにちょこんと座っていて、「じいさま、この前は命を助けてもらってありがたかった。家に帰って父さんに話したら、『恩返ししなければならないから、おまえが行ってじいさまを連れて来い。』と言われたので、一緒に来てください。」「せっかくだから、それでは行くか。」と、キツネの子の後について、ある穴の中に入っていったら、キツネの身内がたくさん集まっていて、お礼を言われた上、大変なご馳走をされました。「ばあさまも待っているから、私は、もう帰ります。」と(じいさまが)言ったら、帰り際にキツネの子の親が言いました。「何も恩返しするものもないのですが、こんなものでよかったら、役に立つものだから、持っていってください。」とだされたものは、ボロボロの頭きんでした。じいさまはこんなボロ頭きんをもらっても仕方がないと思いましたが、せっかくもらってくださいとだされたものだから、ありがたくもらって帰ろうと、頭きんをもらって帰ってきました。
そして何日かたった頃、じいさまが家の前で仕事をしていたら、急に天気が悪くなって雨が降ってきました。何も頭にかぶるものがなかったので、キツネにもらった頭きんをちょいと頭にのせたところ、近くにとまっていたカラスやスズメやトリが鳴いていることばが、すっかり耳に入ってきました。じいさまはこれは不思議なこともあるものだと耳をすまして聞きました。「ありゃ、ありゃ、あそこの庄屋さまの娘が今日、明日の命だと。医者よ、坊さまよ、神主さまよといろいろやってみたけれど、一つも効き目がないそうだ。」「そんなこと、効き目があるはずない。あれは病気の元を治さなければ治らない。」「それは、どういうことなのか。」「あれはな、庄屋さまお金があるのにまかせて、奥の方に新しく土蔵を造り始めたそうだ。ところが、大きなエノキの木が邪魔だからと言って、切るにも切れないで、根のどこか少し削ったくらいで、その木の上に土蔵を建て始めたそうだ。古いエノキはその重さに苦しくなってしまって、その苦しみが娘のところにいって、娘が苦しんでいるのだ。ありゃ、土蔵を別なところに建てるか、木の根をよけて建てなければならない。そしたら、娘の病気なんてすぐに治ってしまうのだが。人間なんてばかなものだな。」と、鳥たちが話していました。
じいさまはこれはよいことを聞いたと、庄屋さまのところへ行って、「かわいがってる娘、病気なそうだが、まだよくならないか。」と言ったら、「どんなに医者に診てもらっても、まじないをやっても、拝んでもらっても治らない。なんとかうまい方法はないものかと、心配していたところだ。」「私の言うことを聞いてくれれば、治るかもしれないが、確かかどうかわからない。ちょっと耳にはさんだことがあるから。」「いや、それはぜひ聞かせてください。お礼はいくらでもします。」「それでは話しましょう。私が聞いたのは、今造っている土蔵がエノキの根元の上に建てたから、土蔵の重さでエノキが苦しがって、その苦しみが娘のどこかに移ったそうだ。あの土蔵さえどければ、娘の病気はすぐ治ってしまう。」
庄屋さまはそれを聞いて、娘がかわいいので、それでは、土蔵を建てるのを止めて、建て始めたのを取り壊して、すっかり片付けてしまうと、娘の病気がうそのように治ってしまいました。庄屋さまは喜んで、じいさま、ばあさまに一生生活できるくらいのお礼をあげたそうです。
キツネとタヌキ
むかし、むかし、ある山の中に、キツネが二匹住んでいました。一匹(のキツネ)は、(山の中で)木の実などを取って食べていましたが、もう一匹のキツネは村におりてきて、畑を荒らして(畑の野菜を)食べていました。これを見て神さまが、(畑を荒らしたキツネを)畑を荒らせないようにしてやろうと、太らせてタヌキにしてしまいました。(タヌキになったキツネは)村に畑を荒らしにいっても、体が重くてあぶないめにばかりあっていたので、(村におりて)畑を荒らさなくなったということです。
キツネのお礼 (おじいさんとキツネの話)
むかし、あるところに、じいさまとばあさまが住んでいて、じいさまは、毎日畑に仕事に行っていました。
あるとき、ばあさまは間食に、団子を作って持たしてやりました。じいさまは畑仕事がいい具合になったので、団子をひろげて食べていたら団子が一つ、コロ、コロと転がってしまいました。拾うと思ったら、ひとりでコロ、コロころがっていってしまうので、「団子どん、団子どん、どこに行く。」と言ったら、「裏の山まで行く。」と、コロ、コロころんで行くので、仕方ないから追いかけていったら、穴の中にコロ、コロと入ってしまいました。じいさまは、「団子一つ、損しちまった。」と帰ってきました。
次の日もまた仕事に行ったら、キツネが出てきて、「じんつぁん、じんつぁん、昨日、団子とてもおいしかった。おとっつぁんに、お礼したいから連れてこいと言われたので、一緒に来てください。」と言われたので、一緒に穴の中に入っていったら、キツネの巣があって、たくさんご馳走になって、お土産をもらって帰ってきましたとさ。
孝行むすことタラの木 (孝行むすこの話)
むかし、あるところに、親孝行なむすこと、年をとったおとっつぁと二人暮しの家がありました。毎日二人して仲良く木を切ったり、炭を焼いたり山仕事に行きました。そのうち、おとっつぁは、腹にでき物を患って亡くなってしまいました。むすこは夜も休まないで看病し、良い薬があると聞くと早く買って来て飲ませていました。それでも、亡くなってしまったので、むすこはそのでき物を憎むようになってきました。それで、おとっつぁの腹からでき物をとって、そして、たばこ入れの根付(※)を作って夜、昼、火の点いたキセルで、親のうらみ、思い知れって叩いていました。
ある日、山仕事に行って、(根付を)たばこ入れと一緒に近くの木にかけておきました。一服休んでたばこを吸おうと思ったら、(たばこ入れが)無いのでよく見たら根付がなくなって下に落ちていました。よく見たら根付が溶けてしまっていました。おなしなこともあると木を見たらタラの木でした。タラの木が腹のでき物に効くのかと試してみたら、腹の病気に効くことが分かりました。それで、今でもタラの木の根の皮を取って、干して町に持って売っているそうです。
※根付け=タバコ入れを腰に下げる時、落ちないようにそのひもの端につける細工物。
小神と小島 (小手の殿様の話)
むかし、小手の殿さまが村の人に、「ここはなんてところだ。」と聞くと、「ここは小神(こがみ)でございます。」「それでは、山の向こうはなんとゆう。」「小島(おじま)と言います。」そしたら、殿さまはおれを馬鹿にしていると腹を立てて、牢にぶち込めてしまいました。そして、打ち首にしろと命じて、「この世の別れに、なにか言い残すことがあったら言ってみろ。」と殿さまに(村人が)言われたので、「最後の別れに、息子に会せてください。」と言うので、会わせたら、「俺はここで殺されてしまうが、おまえに言っておくが、これから決して干したいかをするめと言ってはいけない。生(なま)のうちはいかだが、干してしまえばするめだ。同じ小さいという字も、かたほうは小神、かたほうは小島と言っただけでも打ち首になるからな。」
そしたら、殿さまが脇で聞いていて、「うん、なるほど。それもそうだ。」と、死罪を免れました。
心の中 (ある家の旦那と小僧の話)
むかし、ある家の旦那様が、小僧を試してみようと、手をかざしながら、「私が、これから手をたたくと思うか、たたかないと思うか。」と言いました。小僧はへそ曲がりな旦那様だから、きっと「たたく。」と言うと、たたかないし、「たたかない。」と言うと、たたくにきまっている。それで、「旦那さん、僕は当てるから、それより先に僕のを当ててください。」と、敷居にまたがって、「僕が、入ると思いますか、出ていくと思いますか。」と言いました。
子育て幽霊
むかし、あっとこに娘があったど。その娘がぜえにかせでいた手間取りと、仲がよくなっちまって、親が反対したっつんだが、おどっこ生むようになっちまったんで、仕方なく一っしょにしたんだと。
ほして、八カ月位たった時、そのむこがどうしたわけだか、ぼっくり死んじまったんだと。まれからまもなく、娘もおぼこ生まねまま死んじまったんだと。親たちもがっかりしちまって、死んじまったからと、近くに墓造って埋めてくっちゃんだと。
ほうしたっげがな、ある夜ふけに村のあめ屋の戸を、「トン、トン、トン、トン。」って、たたくもんがあったんだと。あめやのじいさまが起ぎできで、「なに用だ。」って言ったら、「あめくんつぁんしょ。」って、一文銭つんだしたんで、あめ四つくっちゃたんだとさ。ほしたら、次の晩もやってきて、あめ買っでてな、四回もきたんだとさ。店のじいさまが「おがしねぇな。なんだが手がひゃっこかった。」ってんで、後さついてくと墓の方さ上って行くだ。どこさ行くんだべと気持ちわりがったが、新しい墓んどこで、ボット、姿が見えなくなっちまったど。幽霊かなと思って土さ耳あてて聞いてみっと、なんとなくおどっこの泣くような声がしたんだとさ。
ほんじ、次の朝、みんなに聞がせて、墓さ行って掘ってみっと、女のおどっこが出てきたんだと。
古地上の酒
むかし、ある人が古峰神社参りに行って、ご祈祷がすんでお神酒が出た時のこと。お国自慢のつもりで、「私の村(で、つくられる)の古地上の酒はもっとおいしい。」と言ったら、給仕をしていた人が、「ちょっと、待っていてください。」と言って、部屋から出ていってしまいました。しばらくたってから、その人は手に酒を持って(部屋の中に)入ってきて、「古地上の酒って、これでしょう。」と言って、(酒を)ついでくれました。間違いなく古地上の酒でした。おまいりに行った人は「不思議なこともあるんだな」と家に帰ってから、酒屋に行って聞いてみました。すると、「あなたが酒をご馳走になっている頃に、みなれない小僧が徳利持って酒買いに来たのはおぼえている。あなたがあんまり(古地上の酒を)自慢するから、古峯が原の天狗が確かめに来たのでしょう。」と言われたそうだ。
※古地上(こちじょう)=東福沢の地名、昔酒造りがあってそこで造った酒の名前を古地上といった。
子づくりも聞いて
南山がら来たがら、南山のばかむこっていうがな。おがだが利口で、合わねがったんだな。まんまどき、夫婦げんかして、「ほだごど言うんでは、おら出で行ぐがら。」「ほだら行ったらえがんべ。」
ほうやって、おがだは出で行っちゃったど。ばがむこは茶わんとはし持っで、追っかげでったと。しゅうとまで行ぐうぢ追っつかんねがら、茶わんとはし持って行ったつんだ。おがだは後から追っかげでこらっちゃがら、はねこんじゃったど。しゅうとおどっつぁは、こういうあほな野郎では、娘くっちゃって見こみねえど思って、「おめえら、そうけんかばりなどしてるようじゃ、子どもつくんのなんか考えでねえのが。」って言ったら、「子どもつくんのは、まだおどっつぁに聞いでねがら、おどっつぁに聞いでがらつくっペど思って、ゆっくりしてだ。」って言ったどさ。
米倉、子めくら
むかし、あっとこに、二人のじいさまが隣あっで住んでだと。どっちも貧乏で、その日暮らししてだと。一人のじいさまは人がぜえうえに正直で、神も仏も深く信心してだと。ある晩、夢に仏さまがでできて、「おめえはいつも心がけがぜえうえ、信心ぶげえがら、三つの願いごとをかなえでやる。明日お寺さ行って、ご本尊さまのめえで願ってみろ。」って言って、消えていっちまったど。
じいさまは嬉しぐなって、次の日、お寺さ行ってご本尊さまのめえで、「三つも願いごといんねがら、一つだけでぜえからおねげえします。困ってる人や旅の人泊めだどき、不自由しねで面倒みられるようにしてくんつぇ。」って、ぜえ(家)さけえってみっと、ぜえは立派になってし、布団もかさなってし、米びつに米はいっペえへえってし、なんもかもそろってで、じいさまはおったまげたど。じいさまはさっそく、隣、近所の困ってる人さ分けでやったど。ほして、家さけえってみっと、米も布団もなんもかも少しも減ってねで、元どおりになってたど。
隣のじいさまはおがしねえなど思って、「このぜえでは、なじょなわけでごいら物持ちになったんだべや。」って聞きさきたど。人のぜえじいさまは、かくしておげねで、「これ、これ、こういうわけだ。」って聞かせだと。ほしたら欲ふけえじいさまは、氏神さまがら、仏だんがら掃除して、にわか信心ば始めたど。何日かして夢に仏さまがでできて、「三つの願いを授けてやっつぉ。三日目の夜、九つ時分(※)までに願え。それをすぎっと、願いはかなえらんにぞ。」って言って、消えていっちまったど。欲ふけえじいさまは嬉しぐなって、夜明けを待ってはやばやとお寺さ行って、「ご本尊さま、腹へったがら、うめえ物たんと出してくんつぇ。」って願って、けえってみっと、てえしたごちそうがたんと出でだと。じいさまは喜んじゃって、腹いっぱいよっぱら食って、次の日は立派なぜえを願って、でんと出してもらったど。三日目は、欲ぶけえがら何出してもらうべと、あれこれ考えでるうぢに刻げんはくっし、そんじも決まんなくて、とうとう刻げんが切れそうになっちまったど。欲ぶけえじいさまあわてちまっで、一生食うに困らねえようにど、「米倉、千出ろ。米倉、千出ろ。」って願ったど。ほしたらご本尊さまは、「子めくら、千出ろ。」ととっちがえちまって、めくらの子を千出しちまったど。指の間がら、脇の下がらなにがら、千も出られちゃって、欲ぶけえじいさまは、はあ、あわくっちまって、なじょしたらぜえがわがんなくて、悲めいをあげだという話だ。
※九つ時分=十二時
米出し地蔵
むかし、あるところに、じいさまとばあさまが住んでいました。山に行って枯れ木を取ったり、山菜を採ったりして細々とと暮らしていました。
あるとき、じいさまが町に枯れ木を売りに行って、遅く帰ってきたら、土手の下の方から、「おんぶしてください。おんぶしてください。」と言う声が聞えました。なんだろうと思って耳を澄ませて聞いていると、やはり、「おんぶしてください。おんぶしてください。」と聞えました。
じいさまは変なこともあるなと、その声のする方へ行ってみたら、地蔵さまが土に半分埋まっていて、それで、「おんぶしてください。おんぶしてください。」と言っているようなので、これでは地蔵さまも苦しいだろうからと、どうにか、こうにか掘りおこして、地蔵さまを背負って(家に帰る)途中まできました。そうしたところが、急に背中が軽くなったので、(背中を)見たら地蔵さまがいなくなってしまいました。「あれ、なんだろう、地蔵さまがおんぶしてください、おんぶしてくださいと言うから、おんぶしてあげたのに、どこかに落としてきたのかな。」と思ったのですが、そのまま家に帰ってきてしまいました。
あくる日、じいさまは何とも不思議だなと思って夕べと同じ道を行ってみました。すると、道ばたにいつもは五つ立っている地蔵さまが六つ並んで六地蔵になっていました。「あれ、夕べに、わたしがおんぶしてきた地蔵さま、こっちのはじにいるじゃないか。体半分、泥だらけになっていらっしゃる。これは供養してやらなければならないな。」と思って、家に帰って、「ばあさま、地蔵さまに何かお供えするものはないか。」と言ったら、「なにもないが、ご飯が少し残っている。」「ああ、それでいい、それでいい。」と、残りご飯を持っていって地蔵さまにお供えして拝みました。
そうして、町に商売に行ってもどって来てみたら、地蔵さまにお供えした(少しの)ご飯が、大盛りの白いお米になっていました。「あれ、誰か信心にお米をお供えしていったな。このままおいておいたのでは、スズメに食べられてしまうし、雨が降ると(お米が)腐ってしまうから、わたしが(お米を)いただいていって、ご飯を炊いて地蔵さまにお供えしてあげよう。」と、そのお米を持って帰って、こういうわけだからと、ばあさまに聞かせて、また次の日、ご飯を炊いて持っていって地蔵さまにお供えしました。
ところが、商売の帰りに(地蔵さまにお供えしたご飯を)見ると、また、(白い)米になっていました。スズメに食べられると、もったいないからといただいて来て、また、ご飯を炊いてお供えしました。そうして、「残りはいただきましょう。」といただいたので、それからじいさまとばあさまは、ひとつもお米の心配をすることがなくなり、困っている隣近所の人にも分けてやりました。
ところが、隣に欲が深いじいさまとばあさまが住んでいて、「(その話を聞いて)よし、わたしがご飯をお供えしよう。」と、隣の良いじいさまより先にご飯を炊いて持っていって、地蔵さまにお供えしておきました。あとから良いじいさまが(お供えに)行ったら、ちゃんとご飯がお供えしてあったので、「誰か信心な人がいて、私の持ってきたもの(ご飯)、いらなくなったな。それでもせっかく持ってきたのだから、わきの方にでもお供えしていこう。」とお供えしていきました。
隣の欲の深いじいさまが(お地蔵さまのところへ)行ってみたら、(お供えしたご飯が)お米になっていたので、「これはうまくいった。これからはお米に不自由しないな。」と思って、持って帰ってきた(お米で)ご飯を炊いてみたら、みんな砂になっていました。(地蔵さまにご飯をお供えして持ってきたお米を)何べん炊いても、なべの中は砂になっていました。良いじいさまがいただいてきたお米を炊いてみると、いつも白いご飯になっていたと言う話です。
誘いの歌 (南山のばかむこの話)
南山のばかむこが嫁をもらいましたが、嫁は待ちかねていたのでしょう。「船は浜ばにあれども、乗りもせず。」と、毎晩寝ようとすると話したそうです。ばかむこは家のかみ(地形的に高い場所)におじさんがいたので、「おじさん、おじさん、うちの奥さんおかしくなったのかどうか分からないが、寝ようとすると、「船は浜ばにあれども、乗りもせず。」と、寝言言ってしょうがない。」「そうか。晩に(同じことを)言ったらば、「まだ荒波なれば、乗るに乗られん。」と言え。」「へい。」と、ばかむこだから一つ覚えで待ちかねていました。そんなところで(嫁に)言われたので、「まだ荒波なれば、乗るに乗られん。」と言いました。すると奥さんが、「神の仰せか、仏の仰せか。」と言ったら、「神の仰せや、仏の仰せではないが、かみのおじさん、かみのおじさん。」と言ったそうです。
サルのむこ入り (サルと娘の話)
むかし、むかし、あるところに、おじいさんが住んでいて娘が三人いました。だんだん(おじいさんは)年をとって、畑仕事も思うようにできなくて、どうしようもなくなってしまいました。それでサルが遊んでいたので、何の気なしに、「この仕事やってくれるのなら、娘の一人をくれてやるから、やってもらえないかい。」と言ったら、「それなら、おれがやってやりましょう。」と、全部(畑仕事を)やってくれました。
じいさまは家に帰ってから、うっかりとそんな約束をしてしまったと、ご飯も食べずに青くなって寝込んでしまいました。一番上の娘が心配して、「おとっつあん、なにを心配しているの。」と言うので、「実は、これこれ、こういうわけでサルと約束してしまった。おまえ、サルの嫁になってくれないか。」と言ったら、「とんでもない。サルの嫁になるなんて嫌だ。」と言われました。二番目の娘にも断られました。末の娘に聞いてみると、娘は、「おとっつあんが、うそつくことになっては困るだろうから、私が行くから。」と引き受けてくれました。
春の頃でしょう。サルと娘の夫婦は、里帰りすることになって、(サル)「おとっつあん、何が好きなんだろう。」(娘)「餅が好きだから、ついて持って行きましょう。」と言うことで、二人で餅をつきました。(サル)「さぁ、何に入れていくか。重箱に入れていこう。」(娘)「重箱は、うるし臭くて食べてくれないから、だめね。」(サル)「それじゃ、どんぶりにいれていくか。」(娘)「あれは土で作られているから、土臭いと言って食べてくれない。」(サル)「それなら、何に入れていこう。」と考えたが、でも、ほかの入れ物もないので、「それじゃ、うすでついたまま背負っていこう。」と出かけました。
山から降りてくる途中、沢の淵に桜が美しく咲いていました。娘は、「あの桜の花を持っていったら、おとっつあんどんなに喜ぶだろう。」と言ったら、サルが、「それじゃ、土産に持っていこう。」と、うすを下ろそうとしたら、「土の上におくと、おとっつあんは土臭いと食べないから、背負ったまま登った方がいい。」サルは、うすを背負ったまま登りました。「このへんでどうだ。」と(サルが)言ったら、「もっと上の。」「このへんでどうだ。」「もっと上。」と、サルはとうとう桜の梢まで登ってしまいました。「このへんでどうだ。」「それでいい。」
サルがそれを折ったとたんに、うすが重くて下の沢にどんぶりこと落ちて死んでしまいました。娘はそれを見ていて、「サルは沢に落ちても、サルの命は惜しくない。」と言って、おとっつあんのいる家に帰っていきました。
産神問答
むかし、ある六部(※)が村のお堂さ泊まったんだと。ほしたら、夜中にゴヤゴヤ、ゴヤゴヤって声がして、「その子の寿命は。」「十三の初かみそりよ。」って言って、ちらげっちまったど。あくる朝、六部が村の中さまわって行っだら、あるぜえでおどっこが生まっち大喜びしてたど。六部はとんぼぐちで拝んでから、お堂で聞いだごとを書いで、「このややこがな、十三年目の今日、またくっから神棚さ上げで拝んでろ。」って立ち去ったど。
ほして、十三年たったその日にきたら、なんのじょ、わらしがかみそりを使ってるうぢに、ちょ−まがきでうっさしいもんだから、おんなぐっぺと思ったらかみそりで自分の首切っちまったど。ほんに人の命ってもんは、生まっちゃどきにちゃんときまっちゃってんだな。
※六部=六十六部の略、六十六部の法華経を納めてまわる行脚僧、江戸時代は鉦や鈴をならして米、銭を請いまわった。
三人のくせ (三人のくせの話)
むかし、あるところに、しょっちゅう両そでをつかんで体をゆすっている人と、しょっちゅう鼻をこする人と、ひっきりなしに目をこすっている目がただれている人がいました。(三人は、)みんなにわらわれるし、みためもよくないからこれからは(くせを)止めることにしようと、一回やったら酒一升を買うことを決めました。
ところが、三人とも我慢していましたが、体をゆする人がどうにも(くせを)我慢できなくなって、「向かいの山からイノシシが、ノソリ、ノソリと向かって来た。」と、両そでをつかんで体をゆすりました。そしたら、鼻たらしが、「それじゃ、大変だ。ズドーンと一発、仕留めなければならない。」と、ズドーンと鉄砲を撃つまねをして、鼻をこすりました。するとただれ目の人が、「イノシシの子がどんなにかわいそうなことだろう。」と、目をこすりました。
三枚のお札 (五郎とばあさまに化けた古ダヌキの話)
むかし、あるところに、五郎という男の子がいました。その五郎が、「おばさんの家に柿をあげてきて。」と(家の人に)言われて、柿を背負わされて(おばさんの家に)向かって行きました。すると道に迷ってしまい、一人のばあさまが井戸端で米をといでいるところに出会いました。すると、ばあさまが、「おまえ、どこへ行くのか。」と言いました。「おばさんの家に柿を持っていく途中です。」と言ったら、「わたしが、おまえのおばさんだ。」と、言われたので、(五郎は、)「違う。ぼくのおばさんは、額にほくろがあります。」と言いました。そしたら、「わたし、今日は豆うちだったから、ごみがついて見えないのです。今ここで顔を洗うから。」と、井戸端でジャブ、ジャブ(顔を)洗って、そして額に、ほくろをつけてしまいました。そして、「ほら、おまえのおばさんだぞ。」と言われて、ついて行ってしまいました。一晩泊まっていく時に夜中に、ブリッコ、ブリッコと何かを食べている音がしました。これは大変だと思って、「おばさん、何を食べているの。」と聞きました。すると、「おまえにもらった柿を食べているんだ。」と、ブリッコ、ブリッコと食べていました。大変なことがおきたと思って五郎が、「小便、小便。」と言いました。すると、「小便は庭の隅にでもしなさい。」と言って、まだブリッコ、ブリッコと食べていました。「庭の隅にしたらば罰があたるから、早く、早く、小便でそう。」と言ったら、帯に鎖をつけられました。そして、「小便所に行って来い。」と言われました。
五郎は神さまにお願いしました。「何だか気味が悪いから、どうかこの鎖を解いてください。」と、一所懸命に神さまにお願いしたら、神さまが(鎖を)解いてくれ、鎖を柱に結いつけてくれました。そして(五郎は、神さまから)三枚のお札をもらいました。「もし(ばあさまに)追いかけられたら、『大いばら山になれー』と言ってお札をまきなさい。その次は『大火の海になれー』と言ってまきなさい。その次は『大波になれー』といってまきなさい。」と、教えられました。五郎はずっと走って逃げました。ばあさまは、「早く来い。早く来い。」と言って、全力で鎖を引っ張りました。そしたら、小便所が入り口まできて、ガターンと引っかかっていました。ばあさまはこれは大変だ。逃げられたと、臭いをかいで、髪をはねながら追いかけてきました。五郎はもう少しで食べられそうになった時、神さまにもらったお札を、「大いばら山になれー。」といってまいたら、山がいばら山になりました。ガサ、ガサ、ガサ、ガサと(ばあさまは)山を越えてきました。そしてまた、つかまりそうになったので、今度は、「大火の海になれー。」と、またお札を投げました。そしたら、火の海になってもばあさまが火をかきわけて、走ってきました。そしてまた、つかまりそうになりました。それから今度は、「大波になれー。」とお札をまいたら、波がジャプーン、ジャプーンとおしよせて、そこをばあさまは流されもしないで、やってきました。五郎は恐ろしいし、どうしたらよいかと思って、息をつぎつぎチラッと見たら、高いところにお寺がありました。そのお寺に走っていくと、和尚さんムニャ、ムニャと一所懸命お経を読んでいました。「ばあさまに食べられるから、こういうわけだから、早く助けてください。」と頼んでみると、「今、一服お茶を飲んで。」なんて、のん気なことを言いました。五郎は慌てていました。「早く。和尚さん、早く。早く。」そしたら、お寺の大きな囲炉裏の上に、むかしは芋などが凍みないように、干しておくところがあって、そこのところにはしごを掛けて、かくしてもらいました。そこのところに、ばあさまが波をこえて(水浸しの)ダラ、ダラになってきました。「寒い。寒い。火にあたらせてください。家の息子がこなかったかい。」などと言って、そして、ブリブリ、ブリブリと木を折って火をたきました。そしたら上で、「熱い、熱い、熱い。」と言いました。「あっ、いた。」と、ばあさまは、はしごがかかっていたので、半分くらいまで登っていきました。すると、和尚さん一所懸命お経を読んで拝んだので、はしごが折れて、ばあさまは下にベタッと落ちてしまいました。そして、その死んだばあさまよく見ると、大きな古だぬきだったということです。
じい、ばあの江戸見物 (おばあさんの江戸見物の話)
むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいて、「江戸見物に行きましょう。」と言う話になりました。「おばあさん、江戸は生き馬の目も抜かれるようなところだから、私と放れたら、もう二度と家には帰れないぞ。棒の先の方に赤い切れはしを付けておくから、はなれないように見物しなさい。」と言って、江戸に行って見物して帰ってきたそうです。「おばあさん、江戸はどうだったい。にぎやかだったでしょう。」とみんなに聞かれたら、「にぎやかでしたよ。それより、江戸は棒の先に赤い切れはししかなかった。」と言ったそうです。
信夫山のごんぼキツネ (しっぽの短いキツネの話)
信夫山をお山と言っていますが、むかし、お山のごんぼ(しっぽの短い)ギツネと、なんという山か忘れたが、その山のキツネとが、「金持ちばかにして、金とって酒でも飲もう。」と相談しました。お山のキツネのほうが賢かったのでしょう。人に化けて別なキツネが馬になりました。そして、「馬買ってください。」と、ある金持ちの家に行きました。馬を買う時はあるかせて歩きぶりを見たり、姿、格好を見て買いました。その家のだんなさんが後ろ足がどうだ、こうだと言えば、化けているのだからそのとおりに直すし、首の振り方がどうだと言えば首も直すし、立派な馬になってしまいました。だんなさんは喜んで言い値どおりで買ってくれました。
お山のごんぼギツネはいっぱい金をもらって、自分ばかり飲んだり食ったりしてしまいました。馬に化けたキツネはすぐ逃げられると思っていたが、厳重に馬屋にかこわれたので逃げられませんでした。そのうち馬屋から引き出されて、体や足を洗ってもらっているうちに、やっと逃げてお山のキツネのところに行きました。分けまえをくれと言っても、(お山のキツネが、)飲み食いしてしまったのでもらえませんでした。よし、見ていろ。今に敵を取ってやると、(別のキツネは、)その時は帰っていきました。
寒い冬のある日、(別の山のキツネが、)川でいっぱい魚を捕って食べていたところに、お山のごんぼギツネがやってきて、「おらにも分けてくれ。」「いや、だめだ。阿武隈川に行けば、いくらでも捕れる。明け方近くに行って、川にしっぽ浸してじっとこらえていれば、いくらでもかかってくるよ。」と言いました。お山のキツネは本気になって、明け方近く、阿武隈川に行ってしっぽを浸していました。かんかんという寒い日だったから、凍りついてしっぽが抜けなくなってしまいました。そのうちに夜が明けて、村の人たちも仕事に出かけてくるので、あわてて無理矢理引っぱったら、しっぽがポッツリ切れてしまいました。それで、お山のごんぼギツネと言われるようになったとさ。
下手渡(しもてど)の嘘つき (嘘つき名人の話)
むかし、下手渡に嘘つきの名人がいました。「おまえ嘘つき上手だが、なんで上手なんだ。なにか嘘の本でも見て、嘘をつくのかい。」と(ある人が)聞いたら、「嘘にほん(本当)があるか。」と言いました。
あるとき、田仕事の一服休みで、みんなが休んでいたら、しもの方からその嘘つきがやってきました。(休んでいる人たちが)ひとつからかってやろうと思い、「今日は嘘つかないのかい。」と言ったら、「嘘どころじゃない。おまえのおっかあが倒れて、前野さまに(診察してもらうよう)頼みに行くところだ。」と、急いで、テコ、テコ走って行ったので、あわてて仕事を切り上げて家に帰ってみたら、おっかあはピン、ピンして仕事をしていたので、「また、やられた。」と言ったとさ。
十二支の由来 (おしゃかさまと十二支の話)
むかし、おしゃかさまが十二支を決める時に、「何日の何時まで集まってきなさい。」と言って、お触れをまわしました。牛は、一番乗りしようと、早々と出かけました。ネズミはずる賢いから、牛のしりにちょこんと乗っかって、おしゃかさまの近くに行った時に、牛より先にピョンと飛び降りて、「おらが一番だ。」と言いました。それで、子、丑、寅、卯、辰、巳…となったそうです。ネコは一日おくれて行ったので、「もう決まりました。」と言われたそうです。ネズミのやつはずる賢いから、ネコに一日ずらして教えていました。ネコは腹を立てて、それから、いつまでもネズミを追いまわすようになったそうです。
ショウブ湯の由来 (ショウブ湯の由来の話)
むかし、ある山伏が、山奥の滝に、うたれて帰ってきたら、大きな蛇に追いかけられました。なんとも恐ろしくなってしまい、逃げ場がないので、ショウブとヨモギのはえているところに、逃げ込んでしまいました。ヘビはそれが嫌いなので、真っすぐ行ってしまい、(山伏は、)命拾いしました。その日が五月の節句だったので、それから、厄払いとしてショウブ湯を沸かして入るそうです。
しり鳴りへら (あほな人の金儲けの話)
むかし、むかし、あるところに、あほな人がいました。ご飯はたくさん食べるのだけれど、ぶらぶら遊んでばかりいました。
ある日のこと、気が向いて近くの神社に行ったそうです。何か(お供え物が)あるかなと思って(神社に)入ってみたら、何もお供え物がないので、頭が悪いくらいだから、(御神体)の脇に行って大便をしたそうです。そして、何も拭くものを持っていなかったので、御神体の脇に捨ててあったへら(しゃもじ)で、ひょっとしりを拭きました。そしたら、しりが鳴きだしました。「トーピスカラピス、スッカラピース、スカスカギンナン、ハッカッコ。」と鳴きだして、それがどうしても鳴いていました。困ってしまいしりをつかんでもどうしても、鳴き続けて止まらないので、(へらの)ご飯をよそう方でちょっとしりをこすったら、ぴたっと止まってしまいました。これはいいものを授かった。あほだ、あほだと言われているから、これでお金を稼ぐことができるぞと喜びました。
そうして、ある日の夕方、村一番の長者の風呂場に忍び込んで、娘が風呂に入るときにちょっとへらで(娘のしりを)さわってやったら、娘のしりが、「トーピスカラピス、スッカラピース、スカスカギンナン、ハッカッコ。」と、鳴き続けに鳴きだしました。娘も湯に入ったものの、(しりが)鳴いてばかりいるので、家に飛び戻ったら(家族)みんなもびっくりしてしまいました。それから、お医者さまよ、神主さまよと、直してもらおうと頼んでも、直りませんでした。こういうしりの鳴き方は初めてだし、どうしてこんなに鳴くのかと、娘もみんなも困ったことだと途方にくれていたとき、あほだ、あほだと言われていた男が、きれいな布切れにへらをつつんで、「しりが鳴くのを直すー。しりが鳴くのを直すー。」と、(長者の家の)前の道を通ってきました。(長者は)家の中でそれを聞きつけて、「私のうちに来てください。」と、呼び止められてその家に行きました。
娘の脇に座って、少し薬を飲まして、きれいな布切れから見えないようにへらを出して、ご飯をよそう方で(娘のしりを)ちょっとなでたら、ぴたっと止まってしまいました。「どういうことをして直した。何の薬を飲ませた。」と聞かれたので、「金けつよりえん丹という薬を飲ませた。」と言いました。(娘のしりも)直ったのでとても感謝され、あほな男はお礼にたくさんのお金をもらって、家に帰ってきて、新しく家を建てたりして、きれいな嫁ももらったそうです。
しりに沢あん (ばかむこと沢あんの話)
むかし、むかし、こんなことがありました。南山のばかむこがよその家にお呼ばれして行った時、おいしい沢あんをだされました。ばかむこはいつもかかあを大事にしていましたので、こんなにおいしい沢あん、我家のかかあにも食べさせたいなと思って、自分が食べるふりをして、こっそりとふところに入れて帰ってきました。そして、夜寝てから、「おいしいから食べてみろ。おいしいから食べてみろ。」と、かかあに食べさせようと思ったのですが、かかあは日中、一生懸命働いて疲れていたので、グウ、グウ眠っていて食べようとしません。ばかむこはしかたないので、「おいしいから食べてみろ。おいしいから食べてみろ。」と、しりの方にさしだしたら、かかあはスーッとおならをしました。そしたら、「すかくない(すっぱくない)から食べて。すかくないから食べて。」と言いました。そんなことをしているうちに、(かかあは、)ボーンと大きなおならをしてしまいました。そしたら、「いや、いや、盆まではおけないから、それじゃ、おらが食べてしまおう。」と、ばかむこが食べてしまいました。
甚五郎の知恵 (甚五郎と他の大工たちの腕比べの話)
むかし、左甚五郎がまだ若い時のことです。他の大工たちが(甚五郎を)ねたんで、悪口を言ったので、それでは、木でネズミを作って腕比べをすることになりました。みんな本気で作ったそうです。いよいよ約束の日がきて、みんな(作ったネズミを)持って集まってきました。みんな今にも走り出しそうな良い出来具合のものばかりで、どれが一番良いか決められませんでした。
それでは、ネコを連れてきて、ネコの飛びついた方が良くできているに違いないと言うことになりました。作ったネズミを並べてネコを連れてきました。はじめネコはあっち、こっちうろうろしていたけれども、ネズミに気がつくと急に目の色変えて、甚五郎が作ったネズミに飛びかかって、くわえて逃げていきました。ほんで、やっぱり甚五郎の腕は一番だとなりました。本当は、甚五郎は(ネズミを)かつお節で作ったそうです。とんちがきいたのですね。
スズメの粗こつ 1  (おしゃかさまとスズメの話)
むかし、おしゃかさまがめぇ落どす時、「早ぐきて見でくれろ。」って言わっちゃそうだ。ほしたら、スズメは山でみの笠着て、一生懸命かせえでっどこさおせぇらっちゃもんだがら、えしょも何もかまねで、みの笠着たまんまはねでったど。
戸んぼくちさへえってない、家の中さ、はねこむどき、敷居さ足がつっかがって足痛ぐしたがんで、スズメはピョン、ピョン、ピョンって歩ぐんだって。
ツバクラはしゃれこな鳥なもんだがら、おしろいつけだり紅つけだりして、しゃれこして行ぐうぢに、おしゃかさまはめぇ落どしちまって、いきあわねちまったど。スズメはおしゃかさまさ、いきゃったがら、ほんで、「おめえは米をけぇ。」って、言いわたさっちゃんだと。ツバクラは死にめさあわねがら、ほんで、「虫探してけぇ。」って、言わっちゃんだとさ。
スズメの粗こつ 2  (おしゃかさまとスズメの話)
おしゃかさまは万物の親方っていうが、一番えれえ人だがら、めぇ落どすというどき、人間はじめ鳥やけものにいたるまで、みなかげつけてきたんだと。
ところが、おしゃかさまのぜえさ行ぐには、ちっと身なりよぐして行がなくては不調法だがらって、ツバクラはうんと化粧してトロ、トロどみがいで行ったんだと。スズメは死にめに会わねど困っと思っで、羽とがすまもなくバサ、バサしたまんまかげつけだわけだ。おしゃかさまは早ぐかげつけでくっちゃからって、スズメさ、「おめえはなりふりもなぐ、おらを思っできてくっちゃがら、田んぼの米を食ってもぜえぞ。」って言わっちゃど。ほして、ツバクラはしゃれでトロ、トロ体ばかりつくって、死にめにあえねくれに遅っちきたんで、「おめえは田のくろの土虫でも拾ってけぇ。」って言わっちゃど。そごにいだヘビのやろうが、「おら何も食う物ねえなあ。」って言ったら、カエルのやろうそばさいで、「おらのけつでもけえ。」 、って言ったつうがら、ほんで、ヘビはカエルのけつがらのむんだと。
スズメの報恩 (おばあさんとスズメの話)
むかし、あるところに、情ぶかいばあさまと欲ぶかいばあさまが、隣合って住んでいました。
ある日、村の子供たちが、一羽の子スズメをつかまえていじめているのを、情ぶかいばあさまが見ていました。あまりにもかわいそうなので、こどもたちに駄賃をあげて子スズメを貰ってきました。そうして、毎日傷が治るまで手当てをしてあげて、逃がしてやりました。
それから、しばらくたって、庭先でスズメがピンチョコ、ピンチョコやかましく鳴いているので(庭に)出てみると、その中の一羽のスズメが、パーッと飛んできて、ばあさまの肩に止まって、なにかをポロッと落としていきました。(それは、)ひょうたんの種でした。恩がえしのつもりで持ってきたのかなと思って、せっかくだからまいてみました。
そしたら、芽を出して、どんどん伸びて大きなひょうたんが二つなりました。中をくりぬいて何かに使いましょうと、(ひょうたんの)口を切って中の種や、かすなどを取ろうして振ってみると、一つのひょうたんから金がザラ、ザラ、一つのひょうたんから米がサラ、サラたくさん出てきました。「これはありがたいものだ。」って、また振ってみると、米がサラ、サラ、金がザラ、ザラ、またでてきました。それから、ばあさまはすこしも米に不自由しないで、お金持ちになって暮らしました。
それを聞いた隣の欲ぶかいばあさまは、よし、わたしもやってみようと思いました。だからといって、けがしたスズメがいないので、スズメを捕まえてきていじめて、そして、むりやり飲ませたり食わせたりして放してやりました。
そしたら、しばらくして、(スズメが)ひょうたんの種をおいていきました。(欲ぶかいばあさまは、)これは思い通りになった。わたしも一生米に不自由しないと思って、(種を)まいてひょうたんをならせました。(ひょうたんの)口を切って振ってみたら砂がザラ、ザラとでてきました。もう一つの口を切って振ってみたら、中からポコ、ポコと水がでてきました。においをかいでみたら酒でした。これは、わたしが酒好きなこと、スズメがわかっていて酒をくれたんだなと喜びました。自分も(酒を)飲んで気持ちが大きくなって近隣の人にも飲ませました。さあ、次の日になったら自分も近隣の人も、下痢をしてしまい、(近隣の人から)「とんでもないものを、ご馳走された。」といわれて、みんなからさんざん文句をいわれましたとさ。
前世の報い 1  (兄と鉄砲好きの弟の話)
昔、あっとこに兄弟があったと。せなの方は毎年奥めえりさ行っとったが、しゃでの方は行ったことがなかったど。奥の山つんだから何ぼか奥ぶけえ山で、鳥も獣もいっぱいいっペと思って、鉄砲撃ちの好きなしゃでは、今年はおらも行ぐって、あんちゃにくっついて行ぐことにしたんだど。そして鉄砲をかつぎ出したどころが、「あそこまで行って、殺生なことすんな。罰あだっつぉ。持たねえでやべ。」と言わっちゃが、鉄砲好きのしゃでは、言うごと聞かねで持ってだと。
途中まで行ぐと、なんの、なんの木の枝さ鳥が止まってだと。ありゃ、めっけだとなって、ぶとうとしたらあんちゃが、「罰当だっからぶってなんねえ。ぶってなんねえ。」って止めだが、ダーンとぶっちまったど。うまく命中してない、落っこったど。うまぐいったと拾ったら、鳥でなく袋さ金がいっぱい入ってだと。あんちゃはそれを見て、なぜしゃではたまにきて殺生までして、そんなの授かったんべと思って、お山のお堂さ行って悔し泣きに泣いで、泣き眠りに眠っちゃったど。眠ってるうちに夢知らせがあったど。「おめえは元をただせば、雀の生まれがわりで、上がったおさごをチョン、チョン、チョンと無断で食ってだ。しゃでは牛の生まれかわりで、奥の宮造っだどき、いっしょけんめ材木運んだんだ。てえへん役立った。」っていう知らせで、あんちゃは納得したんだとさ。
前世の報い 2
むかし、ある神社の改築工事の時だったど。人夫の中さ、油売ってばかしいるたれかと、陰日向なく働くが、親方にごしゃかっちばかりいるもんがあったど。ほんで、給金は同じだったんだと。こんな不公平な話があっかど、親方さ言ったら、「おらそんなことわがんねえ。みな同じに払えって言わっちから、文句あっこったらたゆ−さまさ言え。」って言わっち、たゆ−さまさ聞いたんだと。「おめえたち二人は、めえ−の世にここの神さまがでぎっどき、おめえは牛方でたれかもんは牛だった。牛はぜえ(材)木運んだり、石運んだりして、一生懸命稼いだが、その牛をひっぱたいたりして、こき使ったのがおめえの前世だ。ほれがこの世で報いどなって出たんだ。罪滅ぼしに稼ぐように生まれできたんだから、仕方ねえんだ。」って言わっちゃど。
沢あんだらい 1  (ばかむこの話)
むかし、ばかむこが親類のぜえさ呼ばっち行ったど。足洗うのに湯出さっちゃら熱がったわげだ。ぜえではまんま食ってお湯飲むどき、熱がったら沢あん一切れいっち、かんまがして飲んでだもんだがら、「沢あん出してきてくれ。」って言って、かんまがしたどさ。
沢あんだらい 2  (ばかむこの話)
南山のばかむこがまんま食うどき、沢あんで茶わんゆすいで、飲むように嫁こにおせらっちだど。正月に嫁このぜえさ行っで、じょ−り脱いで足洗っだどき、沢あんもらっでたらいかんまかしで足洗ってない、沢あん食べでその湯ば飲んじまったど。
沢あん風呂 1  (ばかむこと沢あんの話)
南山のばかむこがしゅうとのぜえさ泊まりさ行ったど。熱い湯ついでくれらっちゃら、熱くで飲めながったど。しゅうとおっかあさまが、「湯が熱い時は、沢あんで三回もまわせば、でえじょうぶだ。」って、おせえたど。その夜は泊まってすいしろさへえったんだと。ほしたら、おがだどご呼んで、「沢あん持ってこ。沢あん持ってこ。」って言ったど。「ほんなに沢あん好ぎなら、あがってがらなんぼでも食ったらぜえのに。」って言っだら、「いや、そうでねえ。すいしろ熱がったら沢あんで三回まわせばでえじょうぶだって、おっかあさま言ったでねえか。」って言ったどさ。
沢あん風呂 2  (ばかむこと沢あんの話)
南山のばかむこが、おっかあといっしょによそのぜえさ行って、まんまご馳走になったど。食っちまっても茶わんそのまんまにしとったんで、けえりにおっかあが、「まんま食っちまったらお湯もらっで、沢あんで茶わんの中かんまかしてうつくして、沢あん食べるもんだわ。」って教えたど。ぜえさけえってすいしろさへえったとき、「沢あん持ってこ。持ってこ。」っていうんで、持っていったど。なかなか上ってこねんで、おっかあが行ってみっと、沢あんですいしろかんまがしては、ガリ、ガリ、またかんまがしては、ガリ、ガリってやっておったと。
沢あん風呂 3  (ばかむこと沢あんの話)
しんしょもちの息子なんだが、ちっとあほだったど。年頃になったもんだがら、親が嫁こむかえでくっちゃど。南山っていうどこさいだもんで、南山のばかむこでとおってだと。ばかむこはぜえでまんま食ってお湯飲むどき、熱い、熱いって言うもんだがら、沢あんでえごんいっちかんまかすどぬるぐなっから、ほして飲めっておせらっちたど。
正月が来て嫁ことしゅうとさ行って、すいしろさへえっことになってない、ばかむこが、「早く沢あんでえこん持ってこ。」って言ったど。「でえこんなんすんだ。」って言ったら、「熱いがらかんまかすとぬるぐなる。」って言ったどさ。
※沢あん風呂の話はこの他、飯坂 藤原アキヨ、西福沢 菅野豊之助、鶴沢 根沢 タツ、飯坂 本田 貞等、全町にわたって採集されている。
タヌキと知恵くらべ (タヌキとじいさまの話)
むかし、むかし、天平入りの山に古ダヌキがいました。炭焼小屋のじいさまのところに毎晩遊びに来ていました。あるとき、タヌキがじいさまに知恵くらべをしようと言ったそうです。じゃんけんして勝った方から問題を出すことにしました。じいさまが勝って第一問を出すことになりました。それは一丁のとうふを百に切って、一こを一口で食べることでした。タヌキはそんなことは簡単なことだと思って見たら、一丁を半分にして残りが小さく切ってありました。それで百だったそうです。いくらタヌキの口が大きくても、一丁の半分はタヌキの口には入りませんでした。それでタヌキの負け。
勝ったので、またじいさまが問題を出しました。今度は動かないで体を倍にすることでした。タヌキは早速腹鼓を打って腹をふくらませました。じいさまは、そっととげのあるバラの小枝を、ふくらんでくるタヌキの腹に向けておきました。だんだんふくれてくるタヌキの腹が、バラの小枝のとげにプッと刺さったから空気が漏れて、タヌキがいくらふくらましても大きくならず、だんだん小さくなっていきました。それで、また、タヌキが負けてしまいましたとさ。
タヌキの機織り (狩人とタヌキの話)
むかし、若い鉄砲うち(狩人)が一人で山に狩りに出かけていきました。その日はあいにく獲物に逃げられてばかりで、とうとう日が暮れてしまいました。そして、疲れてしまったので大きなスギの木の下で寝ることにしました。遠くから聞こえてくるキツネやイヌの鳴き声を聞いているうちに、若い鉄砲うちは昼間の疲れでぐっすり寝込んでしまいました。
しばらくたって、バッタン、バッタンとかん高く静かに聞こえてくる機の音で目を覚まし、寝ぼけまなこをこすりながら周りを見ました。すると、すこし先の大きなマツの木のあたりがぼーっと明るくなっていて、そこから機の音が聞こえてくるようでした。若い鉄砲うちはおかしなこともあるものだと、わからないようにそろり、そろり行って上を見ると、美しい女の人が大きなちょうちんつけて機を織っていました。
しばらくの間機の音を聞きながら見ていましたが、ふと、この頃村に古ダヌキが出てきて村の人をだますということを思い出して、こいつはきっと古ダヌキの仕業だろうと思い、しとめてやろうと思いました。しかし、たまは一発しか残っていませんでした。まちがえなく当てるには、大きなちょうちんを狙うに限ると、こっそり鉄砲を構えバーンとぶっぱなしました。見事にちょうちんに当たったと思ったら、美しい女の人は真っ逆さまに落ちてきて、黒いかたまりになって暗闇の中に消えていきました。若い鉄砲うちはほっとして、昼間の疲れで恐いのも忘れ、木の下で眠ってしまいました。
真っ赤なお日さまが向かいの山に上ってくる頃、若い鉄砲うちは目を覚ましてびっくりしました。マツの木の下にはべっとりとたくさんの血が落ちていました。それをたどって畑を越え山の奥の方に行って見ると、大きな岩の下で大きな古ダヌキがウーン、ウーンとうなって死にそうになっていました。
それから、村の人はタヌキにだまされずに、また、静かな村にもどりました。
タヌキの八畳敷き (昔話のうまいじいさまと古ダヌキの話)
むかし、あるところに昔話の上手なじいさまがいました。毎晩、小僧が、「昔話聞かせてください。」と、来たそうです。じいさまはどこの小僧だか分かりませんでした。そして、話を聞き終わると、「それじゃ、おやすみなさい。どうもありがとうございました。」と、帰ってしまうそうです。
じいさまは、おかしな小僧だ。化け物に違いないと、ある晩火ばしを囲炉裏の火の中にさしておいて、昔話をしながら(火ばしが)真っ赤になるまで続けて、ちょい、ちょい居眠りをするふりをして、小僧の様子を見ていました。小僧は火にあたりながら金玉だしてあぶりだしたそうです。それをだんだん大きく広げて、じいさまにかぶせようとしたので、(じいさまは)その動きを読んで、真っ赤な火ばしをさっと突き刺しました。そしたら、「ギャーッ。」と、縁側の下にもぐっていきました。タヌキの金玉八畳敷きといいますが、それは古ダヌキだったそうです。
旅人と大蛇 (七里四方を取り巻く大蛇の話)
むかし、むかし、盲目の旅人が町に行く途中、ある大きな山を通りかかりました。旅人は笛を吹きながら山に登って行ったのですが、日がとっぷりと暮れてしまい、仕方なく野宿することにしました。淋しくて笛を吹いていると、立派な侍が通りかかって、「わしは人間ではない。この山の七里四方を取り巻く大蛇だ。おまえの笛の音があまりに美しいので、こうしてここまでやって来たのだ。」と言うと、しばらく笛の音を聞いていました。旅人が笛を吹き終えると、大蛇は、「このことは他人に話してはいけないぞ。もし話したならばおまえの命はないと思え。」と言って、どこともなく消えていきました。次の日、旅人は町に着くと、黙っていられなくなって町の人たちに話してしまいました。すると旅人はその場に急にばったりと倒れてしまいました。その話を聞いた町の人たちはその山に登り、山を取り巻く七里四方の大蛇の住む地割れに、金の矢を七百本打ち込みました。すると大蛇は七日七晩苦しんで死んでしまいました。
団子の食い方 1  (だんごの日のばかむこの話)
南山のばかむこが二月十六日のまゆだんごの日に、団子すっからってしゅうとさ呼ばっち行ったど。ほして、団子出さっちゃんだと。ほしたら、一つずつペロッ、ペロッと一ペんに食べんだってない。「団子ってそういうふうに、一つずつペロッ、ペロッど食べるもんでねえ。」って、おがだに言わっち、今度二つずつ食ったんだと。「そんじゃ笑われっがら、そなごどでなぐ食え。」って言わっちゃど。
団子の食い方 2  (だんごの日のばかむこの話)
南山のばかむこがおがだもってがら、しゅうとさ行ぐごどになったんだと。おがだに、「今日は二月の十六日だがら、団子ださっちゃら、あんぐり一口で食うもんでねえ。」って聞かせらっち、しゅうとさ行ったど。ほしたら、なんのじ団子出さっちな、一口で食うもんでねえって言わっちゃがなを、二つずつ食わながなんねえもんだど聞いだわげだな。二つずつ食ったどごろが、しめえに一づになっちまったんだと。ほして、「一づ足んねえ、一づ足んねえ。」って、さいそくしたつぅんだな。
団子むこ 1  (女神山のばかむこの話)
むかし、女神山さばかむこがいで、仕事は確かなんだげんちも、食うごどに欲があって、食いぬけってやっちゃむこだったんだと。
あっどき、お祭りさ呼ばっち、とってもうめえもん腹一杯ごち走になったど。ぜえさけえったらせっかぐ、つくってもらって食うべと思って、「これはなんていうもんだ。」って聞いだら、「団子って言うもんだ。」っておせらっちゃんで、けえるうぢ忘んねえようにと、「団子、団子、団子、団子。」って、ずうっと山も川も通るうぢ、忘んねえで来たんだげんちも、家のそばさ来だら気がぬげだのが、掘っこ渡っどき、「どっこいしょ」って渡っだら、今まで「団子、団子。」って来たのが「どっこいしょ」ってなっちまっで、ぜえまで、「どっこいしょ、どっこいしょ。」で来ちまったど。ぜえさへえるより早くおがだに、「どっこいしょこしゃえてけろ。」「どっこいしょってなんだ。」「こだようなもんだ。」って、手まねで丸つくってみせんで、餅でもあっかど思ってこしゃえてかせだら、「これではねえ。」って、ごしゃいで、ただかっちゃど。おがだが、「いでえ、団子のようなこぶでぎだ。」って言ったら、「ほれ、ほの団子のごどだ。」って言ったど。
団子むこ 2
むかし、むかし、ばかなむこさまがあったど。しゅうとさまさご年始さ行っだら、しゅうとさまのぜえでうめえ団子出してくれらっちゃど。うめえがらない、うんと食べだんだと。「せなさま、うんと食べで、ゆるっと休んでいがせよ。」って言わっちゃがらない、あらまし食べちまったんだと。すっと、しゅうとおっかぁさまがまたつくってくっちゃんで、団子もらってけえって来たど。
途中まで来たんだげんちも、掘このっ越えっとって、団子ころげ落ぢっちまってなぐなっちまったと。名めえ忘れっちまうど思って、「団子、団子、団子、団子、団子、団子。」って、やって来たど。ほしたら、またずない堀こあったがら、「どっこいしょ。」って、のっ越えたんだと。ほしたら団子がどっこいしょになっちまって、「どっこいしょ、どっこいしょ。」って言いながら、ずうっとぜえさけえって来たんだと。「おめえのぜえさ行って、どっこいしょ食わせらっち、うんとうまがった。けえりしなにもらってきたが、落ぢちまって拾わねで来たがら、こしゃってけろ。」って言ったんだと。「どっこいしょって、なんだ。」って嫁こが言ったど。「あれ、どっこいしょだったもんな。食ってぎたの。」って、ばかむこが言うんだって。ほしたら、なんがしてけつまずいて、ボコンとたんこぶでぎたんだと。丸こくない。ほして、「ああ、その、団子だった。」って気づいて、「団子こしゃってけろ。」って、嫁こさ言ったんだとさ。こんで、ざっとむかしはさ−がえだ。
団子むこ 3
むかし、むかし、あったど。南山のばかむこがしゅうとさ呼ばっち行ぐのに、団子もって行ぐごとになったど。「うめえ団子もってきたがら、食べてくなんしょって出すんだよ。」って、おがだに言わっちたがら、団子の名めえ忘ちゃてえへえんだと思っで、「団子、団子、団子、団子。」って、繰りけえしながら行ったど。ところが、堀こあったもんだがら、「どっこいしょ。」ってのっ越えだら、団子忘ちゃって、今度は、「どっこいしょ、どっこいしょ。」に変わっちまったど。ほして、しゅうとさ行って、「どっこいしょ持ってきたがら、食べてくなんしょ。」って突んだしたがら、しゅうとが、「どっこいしょってなんだべ。ってあげてみだら、団子だったど。
だんじゃべ (嫁と泥棒の話)
むかし、あるところに、変なことにへ(屁)が、ちょっと聞くと、「だんじゃ、だんじゃ。」とへをこく女の人がおりました。ある家に嫁に行って、暇さえあると、「だんじゃ、だんじゃ。」と、へをたれていたそうです。
ある晩、泥棒がやってきて、家の周りを立ち回っていたところに、「だんじゃ、だんじゃ。(だれですか、だれですか)」と聞こえるので、なんだこれ、見つかったのではないかと思って、前の畑にベタッとなって隠れました。それでも、まだ「だんじゃ、だんじゃ。」と言っている。また、ここにいても見つかったかと思って、ついに泥棒に入らないで行ってしまいました。
丹波のめざき、おざき (魔物と丹波の三毛ネコの話)
むかし、むかし、ある村の名主さまの家で、不幸が続いて死に絶えてしまいました。そして、空家になったその家に魔物が住みついて、村の人を食い殺したりして、みんな困ってしまいました。村の元気の良い若い者たちが、われこそは退治してやりましょうと乗りこんでいっても、次の日の朝(村の人が空家へ)行ってみると、のど笛を食いちぎられて、死がいになっていました。村の人たちは恐がって空家の前をなるべく通らないよう、遠回りして通ったり、夕方には早めに山から帰るようになっていきました。
そんなことが長く続いたので、(新しい)名主さまはとても心配して、どうにかして退治しなくては村がつぶれてしまう、魔物の正体が何だか探ってやろうと、ある晩、勇気を出して空家に忍び込んで、魔物が出るまで待っていました。そうして、夜中になったら急ににぎやかになったので、何が起きたのかと聞き耳を立てたら、その言葉の中から「丹波の国の太郎左衛門の、めざき、おざきに知らせるな。ドッカダ、ドンドン、キッタカ、ドンドン。」と、何者かが歌って踊っているのが闇の中からわかりました。
名主さまは、そのはやし言葉を覚えてきて、これは丹波の国の太郎左衛門と言う人のところに行けば、何か分かるのではないかと思い、さっそく旅支度をして探しに出かけました。何日かかったのでしょう。やっと太郎左衛門の家を探しあてたところ、その家も名主さまでした。「実はこれこれ、こういうわけでたずねてきましたが、魔物が知らせるなと、恐がっているめざき、おざきとは何のことでしょう。」と聞いたら、「めざき、おざきと言うのは、ネコのことです。三毛ネコのひとつがいのことです。」「何とかそれを貸していただけないでしょうか。」「とても利口なネコで、家族と同じに育ててきたので、そんな危ないことが分かっていて、貸すわけにはいかない。」「私の村の危機を救うと思って、何とかまげてお願いします。」と言ったら、太郎左衛門を分かってくれて、「それでは貸してやろう。だが、どんな姿になってもきっと返してくれ。」と、かたく言われて二匹の三毛ネコを借りてきました。そしてネコの大好きなものを食べさせて、機会を狙っていました。
そしてある晩、時刻をみはからって、二匹の三毛ネコをだいて、化け物屋敷に行きました。「丹波の国の太郎左衛門の、めざき、おざきに知らせるな。ドッカダ、ドンドン、キッカダ、ドンドン。」とはやしながら、魔物が踊りを踊っていました。「それっ。」と、ネコを放してやったら、ドタン、バタン、バタン、「ギャーッ、ギャーッ。」と、天地がひっくり返るような大騒ぎになりました。名主さまは闇の中で、三毛ネコのことを心配しながらふるえていたら、そのうちシーンとなってしまいました。
夜が明けてみると、小さな牛ほどもある古ダヌキが二匹、のどを食い切られて死んでいました。そのそばに、めざき、おざきも、血だらけになって死んでいました。
名主さまは村の人たちと泣きながら、血だらけになったネコを、ていねいにふいてやり、さっそく旅支度をして、丹波の国に帰しに行きました。太郎左衛門の家に着いてから、力のかぎり戦って死んだことを話して聞かせたら、「それでは、めざき、おざきも満足して死んだだろう。手あつく葬って長く供養してやろう。」と言いました。助かった名主さまの村では、比翼塚(※)をたてて、長くネコの霊をなぐさめてやりました。
※比翼塚=男女を合伴して建てた塚
長者の三毛ネコ (長者の飼いネコの話)
むかし、むかし、秋山の一貫森に長者が住んでいました。あるとき、その長者の嫁が一人で留守番をしている時、飼いネコの三毛ネコが、「あねさま、あねさま、これからわたしが踊りを見せてあげますよ。よーく見ていて下さい。それでもこのことは誰にも話さないでください。もし誰かに話しをしたら、生かしておかないからね。」といって、おもしろ、おかしく踊ってみせました。嫁は黙っていればよかったのに、みんなの前で手柄顔をして話してしまいました。すると、突然三毛ネコが飛んできて、嫁ののどもとを食い切ってどこかに逃げていってしまいました。嫁はそれがもとで死んでしまい、長者の家もその後落ちぶれてしまいました。
天から降った金(かね)と地にある金(かね) (じいさんと小判の話)
むかし、あるところに、正直なじいさまと、欲の深いじいさまが隣合って住んでいました。正直なじいさまは、いつも、「天から降った金は授かりものだから、使っても良いが、地にある金は誰かが落としたものだから使えない。」と言っていました。ある時、正直じいさまが道を歩いていると、道ばたに金の入ったかめがあるのを見つけましたが、地にある金は使えないと、拾わないで帰ってきました。その話を聞くと、隣の欲の深いじいさまは、さっそく拾いに行ってかめの中をのぞいて見ると、おそろしい人間の生首が入っていました。欲の深いじいさまは、カッ、カッと、頭にきて(生首の入ったかめを)持って帰って、正直じいさまの家の煙出しから放り込みました。すると、生首は小判に変って家の中にざらざらと降ってきました。正直じいさまは喜んで、「これは天から降った金だから使っても良い金だ。」と、近所の人にも分けてやって、楽しく使いました。
天人女房
むかし、松原ってどこで、一人の男が炭焼きやってたど。ほしたら、ある日の夕方、天人たちが水浴びさやってきたんだと。えしょを松の枝さかけて、ほして、水浴びでるうぢに炭焼ぐ男がな、ほのえしょはぜええしょだがら、かぐしておけば天さ昇って行がんねえがら、ひとづかくしておくべって、一人のがなをかくしちゃったんだと。
天人たちは水浴びで、キャッ、キャッ、キャッさわいでない、楽しく遊んで、ほして、えしょを着っ気になっだら、一人のえしょがねえんだって。みんなは着てない、天さ昇って行っちまったど。一人の天人は昇って行がんなくて、シク、シク、泣いてたんだと。ほして、しめえに炭焼ぐ男のおがだになっちまったんだど。
ほして、二年、三年してるうぢに、男のわらしができたんだってな。天人はわらしにな、「ちゃん、かぎちょうだい。かぎちょうだい。」って言わせたんだと。炭焼ぐ男はあんましわらしにせがまっちない、かぎをあずけちゃったんだど。長持ちのかぎをない。ほしたら、天人が長持ちさかぐしておいだえしょめっけて、着て天さ行ぐどき、わらしを天神さまさない、捨てでったんだと。ほして、わらしに、「どっから生まっちゃって、聞かっちゃら、木の根っこから生まっちゃって言えよ。」って、おせえで行っちまったど。
ほしてるうぢに、天神さまのお祭りがきたんだと。近所のわらしがまりつきしてるうぢに、ちょうど天神さまの後ろさ捨てでったわらしんどこさ、まりがポーンと転げていっちゃったんだと。あけえ−えしょ着てるもんだから、拾わんねべ。わらしらはがおったなあなんて騒いでるうぢに、やぶの中からポーンとけえってきたど。「だれかいっぞ。」って行ってみっと、天人のわらしだったんだと。「おめえはどこのわらしだ。」って聞いだら、「おら、どこのわらしでもねえ。」「どつからきた。」って聞いても、言わねんだって、ほして、「おら、木の根っこがら生まっちゃんだ。」ってばっかし言って、おせぇらっちゃどおりしか言わなかったど。ざっと、昔はさ−がえだ。
とんまな親子 (とんまな親子の話)
むかし、あるところに、とんまな親子がいました。ある日、しゃで(弟)の方が、「あんちゃ(お兄さん)、おらぁ、今日ウグイスの初音聞いてきた。」と言いました。するとあんちゃが、「なんて鳴いたぁ。」と聞いたら、「テテッ、ポッポーって鳴いた。」と言ったので、あんちゃが、「あほー、ニワトリじゃないのだから、テテッ、ポッポーって鳴くか。」と言いました。そしたら、おどつぁ(お父さん)が、わきで聞いていて、「うん、なるほど、あんちゃはあんちゃだけあるな。」と言ったそうです。
※注(テテッ、ポッポーと鳴くのは山バト)
長い名の子 (名前が長い兄の話)
むかし、あるところに、兄弟がいました。兄の方は、「扇拍子(びょうし)をちょっと打って、ちょうぎちょうぎ長六に、長太郎びくに長びくに、あの山のこの山の、ああ申すこう申す、はっきりど縁切りもくあみに、てんもくもくのもくぞう坊、伊賀の平左衛門加賀の源蔵次、源七源八源年六、とっペない五郎、うりのおん坊とうがん坊、豆腐のおん坊食いしん坊、刀の鐺(とう、刀のこじり)の小左衛門、鳥の鶏冠(けいかん)の藤三郎」と言う長い名まえで、弟の方は「問うてなんしょ」という短い名まえでした。
お父さんは兄の方があまり可愛くないので、出世しないようにと面倒くさい名まえをつけ、弟の方は可愛かったので、短くて呼びやすい名まえをつけました。
そして、二人とも大きくなって、殿さまにお目通りをすることになりました。殿さまの前で、「兄の方から名まえを申してみよ。」と言われて、「はい、おらはこうこう、こういう者でございます。」と、長い名まえを申し上げたら、「ほう、なるほど、長い面白い名まえだな。」と、お褒めの言葉をいただいて、ご褒美をもらいました。それから、弟に、「そちは何と申す。」「はい、問うてなんしょと申します。」と言ったら、「問うてなんしょ。聞いてくださいとは何事だ。無礼者さがれ。」と、大変叱られましたとさ。
長良の人柱 (嫁と姑の話)
むかし、ある家で嫁を貰ったのだけれど、(その嫁は、)話もしないで黙ってばかりいました。それで、なんともしょうがないから(嫁の実家に)かえすほかないだろうと、姑おっかぁさまが送って行こうと送って行きました。そしたら、途中でキジが飛び出したと思ったら、鉄砲うちがドーンと撃ちました。そしたら、嫁が、「口ゆえに親は長良の橋枕、キジも鳴かずば撃たれないもの。」と、歌を詠みました。姑おっかぁさまもその歌聞いていて、こういう嫁ではかえすことないと思って。「口ゆえにって、どうゆう訳だ。」と聞いたら、「おどつぁんが橋普請しているところに通りかかったら、橋が流されてしょーがないと聞いて、『そういうところには人を埋めておけばよい。』と言ったら、『それなら、人を埋めると言ったって誰を埋めたらよいのか。』という話になり、『縦じまに横じまの切れ(つぎあて)ついだ人にしよう。』という話になりました。たくさんの人がいたので、それでは(探そう)と探し始めたところ、私のおどつぁんがそうゆう切れが付いていました。そして、『それじゃ、この人埋めろ。』となってしまい、おどつぁんが埋められてしまいました。あんなことさえ言わなければ、埋められることもなかったし、キジも鳴かなかったら、撃たれることもないでしょう。」
おっかぁさまはそれを聞いて、そういう訳があったのか、歌を作るような嫁ではかえすことはないと思って、連れてかえってきました。
二十三夜の花嫁
むかし、むかし、あっとこに仲のぜえ兄弟があったど。せなはめっこでびっこ、しゃでは村一番のぜえ男だったど。しゃではりごで男ぷりもぜえもんだから、ご指南さまがくるげんじも、せなんどこさは誰もきてくんにゃがったど。せな思いのしゃでは、せなが嫁っこ貰わねうじは絶対持だねえって断わっていだんだと。ところがごえらしゃでが嫁取っことになっで、村の人はおったまげちゃったど。ほれも隣り村の小町娘だつぅんだな、ほして、正月の二十三夜の日に、ご祝儀すっことになったんだと。
三、三、九度の盃もすんで、いざ、床入れとなっだら、花むこが、「ちょっくら、しょんべんたっちくっから。」って、でていってな、めっこびっこのせなの手引いで、花嫁の床さもぐらせちゃったど。しゃでは素早く花嫁がぬいだ白むく着ちゃっで、サーッとから紙あげで、「夢々、疑うことながれ。われこそはとうとい二十三夜さまなるぞ。二十三夜にもかかわらず、夫婦の契りを結ぶとは、どつちかめっこかびっこにしてやっつぉ−。夢々疑うことなかれ。」ってやったわげだ。さあ、布団の中で嫁っこ困っちまったど。「おらとおめえさんは、今晩夫婦の契り結ばなきゃなんねえが、めっこかびっこになったら、おめえさん、おらこと見捨てっペか。」「おらほだごとねえ。おらがもしめっこかびっこになっだら、おめえごそおらどこ見捨ててなんねぞ。」って話しながら、夫婦の契り結んじまったわけだ。昨日まであれほど立派だった花むこが、めっこでびっこになっちまってぶったまげちゃったど。嫁っこもあきらめで一生そうてな、夫婦仲よく、あんちゃもしゃでも仲よくしで暮したど。
ほれがらは、正月二十三日にゃ、朝がらじょ−り作りしで、二十三足作んのに子の刻までかかるがな。ほして、二十三夜さま拝んで家の安泰祈願したもんだと。
ネコ檀家 (ネコの恩返しの話)
むかし、むかし、あるところに、じいさまとばあさまが住んでいました。一匹のトラネコを飼っていて、自分の食べ物を半分に減らしてでも、ネコに食べさせて子供のようにかわいがっていました。
ネコはとてもなついていて、じいさまとばあさまの言うことを聞いていましたが、だんだんじいさまとばあさまは年をとってしまい、自分たちが食べるだけの仕事もできなくなってしまいました。それで、ネコもかわいいが、このままではとても食べていけないからと、あるとき、「おまえのことを飼っていけなくなったから、どこかの情け深い飼い主をみつけて、生きていってくれ。」と言ったら、ネコは悲しそうな顔をして、しょぼ、しょぼと出て行きました。
それから何日か過ぎて、ある晩、寝ていたら起こすものがいました。よく見たらトラネコでした。「長いことお世話になって、なんの恩返しもできないが、近いうちに庄屋さまがとてもかわいがっていた娘が死んで、お葬式になる。その途中で急に風が吹いてきて、仏さまが入っている棺が空に上がってしまう。どんな偉い山伏さまが祈とうしても、決して落ちてこない。どうしたらいいかと、庄屋さんが慌てるから、そのとき、じいさまが行って、『なむからたんのー、とらやーのやー。』と、空に向かって三度拝んでください。そしたら、棺を降ろしてやります。それでお葬式は無事にできて、一生食べていけるほどのお礼を貰えるだろうから。忘れないでそうやってください。」と言って、どこかに行ってしまいました。
何日かすると、案の定庄屋さまの娘が死んでしまいました。いよいよ今日はお葬式です。行列をつくって(棺を運んで)行ったところが、急に生臭い風が吹いてきて、仏さまの入った棺が、みるみるうちに空に舞い上がってしまいました。庄屋さまの家の人たちや、行列に参加してくれた人たちは、驚いてしまいました。「これでは困った。どこそこの寺の坊さまに拝んでもらえ。」「いや、山伏さまを呼んで祈とうしてもらおう。」と、拝んでもらったり、祈とうしてもらっても、どうしても落ちてきませんでした。そのとき、一緒に行列に参加していたじいさまが、「私が拝んでみると、落ちてくるかもしれない。」と言ったら、「それなら、じいさま、やってみてください。」ということになって、じいさまは少し格好つけて、トラネコに教えられたとおり、やってみました。空に向かって、「なむからたんのー、とらやーのやー。」と、坊さまのようなふし付けて、三度拝むと、棺が静かに落ちてきて、ちゃんと元の棺台におさまりました。
そして、無事お葬式も終わって、庄屋さまは、「いやぁ、一時はどうなるかと思ったが、じいさまのおかげで娘も成仏できた。何かお礼がしたいが、望みがあったら話してください。」「いや、別に望みもないが、これからは年をとって仕事もあまりできない、庄屋さまの庭を掃除にでもきたいので、使ってください。」と言ったら、庄屋さまはとても嬉しくなってしまい、「じいさま、ばあさまのことは、(私が)丈夫なかぎり食べていけるようにするから、心配しないでください。」と言われて、それで、じいさまばあさまは、一生楽して過ごしました。ネコはそれっきり姿を見せませんでした。
ネコの踊り
むかし、あるぜえでない、赤いネコ飼ってだんだど。そのネコがごでが仕事さ行ったあとで、おっかが留守番してだら、突然踊り出したんだと。「キッカダ、ポンポン、カッタ、カタ。」って始まったんだってない。ほうして、「ごでのけえんねうちは、まだ調子が揃わえねえ。」って踊ってたんだと。そんとこさごでがけえって来たもんだがら、ごいらけむ出しからさ−っと逃げで、二度とけえって来なかったど。
ネズミ経 (にわか坊主のお経の話)
むかし、ある人が用を頼まれて大金を持って、「どこそこまで行ってきてください。」と言われたそうです。途中で追いはぎに会ったら大変だ。無事に用たして帰ってくるには、坊さまの支度をして行くにかぎると思って、にわか坊主に化けて出かけました。
そうして、あるところまで来たら暗くなってしまい、泊まるところはないし、どうしようと思っていたら、明かりがもれている家があったので、そこに行きました。「暗くなったから、一晩泊めてください。」と言ったら、じいさまとばあさまがいて、「ああ、ちょうどいいとこに坊さま来ていただいた。じつは娘が死んで、葬式をすませたばかりです。功徳にひとつお経をあげてください。」と言うので、今さら坊さまでないと言えないので承知しました。じいさまとばあさまは、ちゃんと仏壇の前に坊さまの席を設けて、「坊さま、ひとつ供養お願いします。」と言われましたが、にせ坊主だからお経のおの字も知らない。なんて拝んだらよいかわからない。初めはカーン、カーンと鳴らしながら、むにゃむにゃとやっていたが、すぐ脇にじいさまとばあさまがいるから、何か文句を唱えなければならない。そうしたところ、仏壇のうしろからネズミがチョロ、チョロでてきました。これはいいと思って、「おんチョロ、チョロと穴のぞきー、カーン。」と適当に言いました。そしたらネズミがひっこんで、また出てきました。「また、チョロ、チョロと穴のぞくー、カーン。」と言いました。そしたら今度は、ネズミが二匹出てきて、チュー、チューと鳴いたので、「何やら相談しており候。カーン。」と言いました。ネズミはキョロ、キョロようすを見ていたが、ひっこんでしまったので、「どこにか逃げ行き候。カーン。」と言いました。
じいさまとばあさまは、坊さまが帰ってからも、そのお経をありがたがって、毎晩、娘の供養に唱えていました。
ある晩、二人の泥棒が娘を亡くしたことで、お悔やみがたくさんあるに違いないと思い、(じいさまとばあさまの家に)忍びこんで障子の穴からそっとのぞいて見ていました。そうしているところ、じいさまとばあさまが、「おんチョロ、チョロと穴のぞきー、カーン。」と言ったのでびっくりしてしまいました。これはさとられたと思って、さっと身をひいて、またのぞいたら、「また、チョロ、チョロと穴のぞくー、カーン。」と言ったので、泥棒はびっくりして、「おい、あい棒、すごいじいさまとばあさまだ。おらがのぞいたことを知っているぞ。じっとしてようすを見てみよう。」とこそこそ言ったら、「何やら相談始め候、カーン。」と言いました。泥棒はびっくりして逃げ出したら、「どこかへ逃げ行き候。カーン。」と言ったので、きもをつぶして逃げていきました。
ばかでも総領 1  (あほな総領息子の話)
むかし、あるところにあほな総領息子がいました。正月が近づいたので、「町に行って、せぎよい(※)してこい。」と言われて、五円あずけられました。むかしの五円は大金でした。首に風ろ敷をしばって、五円を持って町に行きました。(しかし、)何を買っていいのかわからない。「せぎよいしてこい。」と言われても、そんなこと知らなかった。
町では正月がくるから、あっちでもこっちでも道の両側に店が並んでいました。何を買ったらいいかと、あっちへ行き、こっち行きしていたら、「これ、これ、ちょっときてみろ。おめえさん、何を買いにきたのか。」と、声をかけられました。(うろうろしていた)様子でわかったようだ。「せぎよいしてこいと、金をもらってきた。」「いくらもらってきた。」「これだけだ。」と、出してみせたら、「五円か、せぎよいにはこれが一番だ。」と、その人は、お獅子神楽を売っていました、小さいのから大きいのから、いくつも並べてありました。「このお獅子神楽を持って行けば、悪魔払って年取られるので、一番いい。」「それじゃ、これを買っていく。」と、神楽面を買って家にせおって帰ってきました。「せぎよいしてきた。」と、(風ろ敷を)ゴロゴロと転がしてやりました。おとっつぁがあけてみたら、神楽面一つきりでした。「なんだ、これだけか。」「これが一番いいと言うから、買ってきた。」「このバカ。正月がくるというのに神楽面一つ買ってきて、どうするのか。おまえというやつは、よくよくあほうな野郎だ。これ一つくれてやるから、せおって出て行け。家にはおけない。行きたいところに行け。」と、神楽面一つ風ろ敷にせおわされて、追い出されてしまいました。仕方がないからしおしおと出て行きました。だんだん日が暮れて、心細くなってきて、さて、どこに寝ようかと、そっち、こっちさがしていたら、人が住んでいないような小屋を見つけました。今日はここに寝ようと思っていたところ、遠くから人声がしました。ゴヤゴヤ、ガヤガヤと近づいてきたので、そーと戸を開けてみたら、十人も十五人もぞろぞろとやってくるところでした。これはいけない。みつかったらいじめられると思って、天井のはりに上がって、野郎共なにしにきたのかと見ていました。
そしたら、金をひろげてやったり取ったりしてばくちを打ち始めました。ばくちなんて見たことなかったので、いやぁ、これはおもしろい。おらもひとついれてもらおうと、盛りになった頃、神楽面かぶって、「おらとこいれろー。」と、はりの上からドサッとまん中に落ちたらば、いやあ、集まった連中がびっくりしてしまい、「ほら、化け物だー。」と、お金をおきざりにして逃げていってしまいました。いや、これはいい。泊まるところないから、このくらい集めて持って行けば、(おとっつぁ)許してくれるだろうと思って、金をもって家に帰ってきました。「おら、金もうけしてきた。」と、大きいこと言っておとっつぁに見せました。「どこでそういう金もうけしてきた。」「これこれ、こういうわけです。」「いやあ、たいしたものだ。これだけあれば働かなくてすむ。」と(総領を家から)追い出していたのを(やめて)、また(家に)もどしました。
※せぎよい=正月用の品物を買うこと。
ばかでも総領 2  (あほな総領息子の話)
むかし、ある家に、太郎、次郎、三郎と言う三人の息子がいました。むかしから、「ばかでも総領」といいますが、太郎は頭が悪いと言うか、人が善すぎるというか、親から見ると心もとないので、知恵試しをしてやろうと思って、「おまえたち、今日一日暇をやるから、山に行っても川に行っても、海に行ってもいいから、一年で一番長く伸びたものを取ってきた人に、家・財産ゆずってやろう。」と取りに行かせました。次郎と三郎は、本気になって何か長いものを探そうと歩きましたが、総領の太郎は土手の陰で昼寝をしていました。
次郎は、一年で一番伸びるのは竹のようだと思って、竹を取ってきました。三郎は、一年で一番伸びるのは梅の木より他にないだろうと思って、梅の木を取ってきました。総領の太郎は何を考えたのか、むっくり起きて山に行って茨に入って、藤のつるを取って持って帰ってきました。(三人が持ち帰ったものを)比べてみたところ、藤(のつる)が一番長かったそうです。「ばかでも総領」と言うのは、それからだそうです。
ばかな殿さま (ばかな殿さまの話)
むかし、お城の庭番が庭掃除をしていたとき、粟が一本生えていたのでつっかい棒をして倒れないようにしておいたら、大きな穂を実らせました。すると、殿さまが、「これはなんと言うものだ。」と聞いたので、「これは百姓が作る粟と言うものです。」と庭番が答えると、「だいぶ実っているな、これはどのくらい取れる。」と聞かれたので、「へい、これは一升まけば二升は取れます。」と(収穫量を少なく)答えました。
そして、さんまが旬のころさんまを焼いて(殿さまに)出すと、「うまいから食べてしまったので今一匹持ってこい。」と言われましたが、その一匹しかありませんでした。それで、(お膳を)持ってきて殿さまの食べたさんまをひっくり返してみたら、片方はそのままありました。(殿さまは、)骨から上ばかりしか食べていませんでした。
また、殿さまは魚つりが大好きな人だったので、川崎のおおくま川(※)に来て魚をとって、すべって転んで川に入ってしまいました。それで、川上の家のところに来て火にあたらせてくれと火にあたりました。そしたら殿さまを大切にして、こうぞの樹皮(和紙の原料)を燃やして火をたきました、もったいない。すると、(殿さまは)「百姓というものはぜいたくだ。木にかんなをかけて火を燃やしているから。」と言ったそうです。殿さまはそのように馬鹿でした。
ある日、川崎の百姓が、大根を持ってきてくれました。「大きな大根。これはよい大根だ。何をこやしにした。」と(殿さまに)聞かれたので、「下肥をこやしにしました。」と言いました。夜、(貰った大根を)大根おろしにして(殿さまに)食べさせたら、そうしたら、(殿さまは、)「これに下肥をかけてこい。」と言いました。
※おおくま川=阿武隈川のこと
化ネコ退治 (ばあさまの仇をうつ孫の話)
むかし、あるところに、ばあさまと男の孫が楽しく暮らしておりました。ばあさまは毎日、ピーユー、ピーユーと音をさせながら糸を紡ぎ、それを売ったり紬に織ったりして、孫の衣装を縫って着せたりしていました。孫はよそに働きに行っていて、たまにお土産とお金を持って帰ってきていました。
ある時、村に恐ろしい山ネコの化け物が出てきて、女の人や子供が食い殺されて大変な騒ぎになりました。村の力自慢の若い者が退治に行っても、みんな大けがをして命からがら帰ってきました。そんなときに、孫がばあさまの喜ぶ顔を見るのを楽しみに帰ってきました。ところがある晩、ばあさまが糸を紡いでいるところに、後から化ネコに飛びかかられて食い殺されてしまいました。孫はとても悲しんでどうしてでも仇をとってやろうと誓いました。それでも、化ネコは神通力を持っていて手が出ませんでした。それで、孫は働いているところのだんな様に話をしたら、化け物退治は鉄砲しかないと、近くにいる鉄砲撃ちに弟子にしてくれるように頼んでくれました。孫は一生懸命をみがきました。そして、「もう大丈夫だ。早く帰って化ネコを退治しろ。」と言われて、鉄砲一丁と玉十発、銭別に貰い勇んで村に帰ってきました。
そして、何日か化ネコが出るのを待っていると、ある晩、遠くの方でポーッと一つ灯りが見えて、別な方からピーユー、ピーユーとばあさまの糸紡ぎの音が聞こえてきました。孫は鉄砲をとって音のする方へめがけて一発ぶっ放しました。それでも、音は止まらないでピーユー、ピーユーと悲しそうに聞こえてくるので、続けて二発、三発と撃ちましたが(音は)止まりませんでした。次の晩も、次の晩も同じでした。今晩こそはと思って、玉袋を見たら一発しか残っていませんでした。失敗したらとばあさまの仇をとらないぞと、かたい覚悟を決めて出かけていきました。真夜中になると、また、いつもの通りポーッと一つの灯りと、ピーユー、ピーユーと糸紡ぎの音が近くに聞こえてきました。孫は心の中で、「おばあさん、今度失敗したら私も化ネコに食い殺されてしまう。おばあさんのところに行くのはいいけど、仇をとらずには行けない。」と言って、ばあさまが毎日唱えていたお経を口にすると、前の方がぼんやりと明るくなってばあさまが出てきて、遠い灯りの方を指差しました。孫がそれを見て、「おばあさん。」と、呼ぶとスーッと消えていってしまいました。これはばあさまが化ネコの居場所を教えてくれたのだ。今まで音の方ばかり狙って撃っていたのは、化けネコにばかされていたのだと気づき、灯りに向けて、ドーンと鉄砲を撃ったら、天地がくずれるような音がしてシーンとなりました。
夜が明けてすぐ、村の人が集まって灯りのあった方に行ってみると、イヌぐらいの大きなぶちネコが目玉を撃ち抜かれて死んでいました。ネコの首には、ばあさまの紡いだ糸がからまっていて、それを見て孫は男泣きして悲しみました。
はし渡るな (とんち小僧の話)
むかし、ある寺の小僧が橋を渡ろうとしたら、「このはし渡るべからず。」という立て札がありました。それで、橋の真ん中を行ったら、「こら、こら、立て札を見ないできたか。」「いや、見てきた。はしを渡るなと書いてあるから、真ん中をきた。」と言ったそうです。
花咲かじじい (じいさまと犬の話)
むかし、じいさまとばあさまがいました。じいさまが犬を連れて山に行くと犬に、「ここ掘れ、ワンワン。ここ掘れ、ワンワン。」と言われて、うるさいと思ったけれども掘ってみたら、大判、小判がザックザック出てきました。
じいさまは喜んで持って帰って、ばあさまに教えて、「これはたいした宝物だ。」と、広げて見てたらとなりの欲深いじいさまが来て、「おまえの家でどうゆうわけで、こんなに金授かった。」「犬を連れて山に行ったら、『ここ掘れ、ここ掘れ』と言うから、掘ってみたらこんなにたくさん黄金が出た。」「それなら、おらにその犬貸してくれ。」「いやだ。」と言ったけれども、聞かないで連れていってしました。山に行ってここ掘れとも何とも言わないのに、掘ってみました。そしたら汚いものばっかり出て、もう、欲深いじいさまは腹を立てて、犬ごと殺して埋めてしまいました。犬を貸したじいさまが、「返してくれ。」と言ったら、「とんでもない話だ。犬に教えられて掘り返したら、汚いものばっかり出たから、殺して埋めてしまった。」「なにか、しるし植えてくれたか。」「なにも植えない。」と言うので、やさしいじいさまは、犬の墓にとマツの木を植えてあげました。そしたら、マツの木がだんだん大きくなって、あまり大きくなったので、切って犬の形見にうすを作りました。そして、餅をついたらじいさまの前にザック、ザック、ばあさまの前にザック、ザックと、大判、小判が出たそうです。
そしたら、また欲深いじいさまが来て、「こっちじゃ、なんでたくさん黄金あんだ。」「いや、うちの犬が殺されたところに、マツの木を植えておいたら、あんまり大きくなったので切ってうすを作って、餅をついたら黄金が出てきた。」「それでは、おらにそのうす貸してくれ。」「とんでもない。おまえなどに貸せない。」と言ったけれども、ろくでなしじいさまだから、突然持って行って餅をつきました。そしたら、じいさまの前にビダ、ビダ、ばあさまの前にビダ、ビダと、汚いものばかり出ました。じいさまは腹を立てて、うすを燃やしてしまいました。
よいじいさまは、その灰を持って帰ってくると、その灰が風で少し飛んで、枯れ木にかかって花が咲きました。これは良いものだと思って、枯れ木に花咲かせてみようと、大きな桜の木に上がっていたところ、殿さまが通りかかりました。「そこにいるじじい、なにじじいだ。」「枯れ木に花を咲かせるじじいだ。」「一枝咲かせてみろ。」と殿さまに言われて、「一振り振れば、つーぼんだー。二振り振れば、ひーらいたー。三振り振れば、つーぼんだ。」と灰をまいたら、そのとおりになって、たくさんのご褒美をもらいました。ほしたら、また欲深いじいさまが来て、「なんだ、この家はたいしたものだ。」「いや、おめえにうす貸したら、燃やされてしまったが、その灰を持って行って、一振り、二振り、三振りまいて、花を咲かせて殿さまにご褒美をもらった。」「おれにもその灰をくれ。」と持って行って、そして木に登っていたら、殿さまが通って、「そこにいるじじい、なにじじいだ。」「枯れ木に花を咲かせるじじいだ。」「それなら咲かせてみろ。」
ところが、花を咲かせようと思ったところが、灰が殿さまや、家来の目に入って、とうとうわるいじいさまは、捕まってしまいました。
花塚山のオオカミ (花塚山のオオカミの話)
むかしは花塚山のきっぺ沢には、みんな馬に乗って、朝、草刈りに行ったものです。ある朝、山家(やまが)の人たちが馬に乗って行ったところに、山から大木戸の人たちが、青い顔して急いで帰ってくるところに出会いました。(山家の人が、)「青い顔してどうした。」と言うと、「オオカミに追いかけられて逃げてきた。一緒に帰った方がいい。」と(大木戸の人に)言われましたが、(話を)聞かないで山に行きました。その後でオオカミに出会ったようでした。みんな鎌の柄が折れてオオカミに食い殺されていたそうです。その(鎌の柄)の中で牛ころし(※)の木で作ったものだけ、折れていなかったとゆうことです。それで、それからは鎌の柄に牛ころしの木を使うようになったそうです。
※牛ころし=かまづかの異名。
はのない話 (だいこんの話)
むかし、あるところで、手間取り(臨時雇用)の男を雇いました。「あの畑に大根をまいてください。」と言われて、畑を耕して(大根の種)をまいたところ、(発芽した大根の芽を)間引きするようになったので、(男が)「大根の間引きを、どうしましょうか。」「一本立ちにしろ。」(一本一本の間隔を空ける)と(だんなさんに)言われて、(周りの大根を)全部抜いてしまって、畑のまん中に一本だけ残してしまいました。畑のまん中にポツリと。だんなさんは、「困ったな。それじゃしょうがないから、ぐるりと(周りに)穴を掘って、一生懸命肥料をかけろ。」と言いました。そしたら、その大根の育ったこと、育ったこと、途方もなく育ってしまいました。収穫するようになって、その近辺の人に頼んでみんなで引き抜いたら、見たこともないとても大きな大根でした。その大根が、「伊勢参宮に行きたい。伊勢参宮に行きたい。」と言いました。それじゃしょうがない。大八車につけて人を頼んで、ヨイサ、ヨイサと引いていきました。街道を通ると、「大きな大根だ。大きな大根だ。」と、びっくりしてみんなが集まってきました。人は宿屋に泊まることができるけど、大根は大八車につけて表におくから、どこに行っても葉っぱをむしられて、最後には葉っぱがなくなってしまったはなしです。
半殺し皆殺し手打ち (女神山のむことしゅうとの話)
女神山のばかむこがしゅうとのところにいった時、「むこどのに何をご馳走しましょうか。半殺しか、皆殺しか、それとも手打ちにしようか。」と、話しているのを小耳にはさんで、殺されては大変だと、ワラ、ワラ逃げて帰ってきました。「おっかぁ、おっかぁ、しゅうとが半殺しか、皆殺しか、それとも手打ちにしようかと相談していたんだ。」と言うので、おっかぁはあきれてしまい、「半殺しはおはぎ、皆殺しは餅で、手打ちは手打ちそばのことでしょ。」と言いました。
びた銭で命拾い
むかし、あるところに、情け深い人がいました。ある日、買い物に行く途中に、道ばたに物貰いがいました。「何か恵んでください。」と願われて、「私はたいした持ち合わせもないが、小銭が少しあるから、これで何か買っていきなさい。」と、財布から(小銭を)出してあげました。物貰いはありがたがって、「何も貰ってもらうものもないが、これを持っていってください。」と、一包みのもぐさをよこしました。「せっかく貰ってくれとよこされたのだから、それでは貰っていきましょう。」と、物貰いと別れてどこまで行ったのか、途中で日が暮れてしまったので近道を通りました。ところが古井戸でもあったのでしょうか、ドスーンと穴に落ちてしまいました。深いところに入ってしまって、登ることもなにもできません。どんなに叫んでも誰も来てくれないし、それで、一晩穴ですごして明るくなってから気がついたのがもぐさでした。これはいいものがあったと思って、火打ち石を出して火種にして、わきの雑草に点けて煙を出したところ、のろしのように上っていきました。それを見つけた村人が、「なんだろう。あんなところから煙が出ているぞ。山火事にでもなったら大変だ。さあ、すぐに行こう。」と、皆でかけつけてみたら、深い穴の中で、「助けてくれ。助けてくれ。」と、叫んでいる人を見つけて綱を持って来てやっと引き上げました。「おまえどうして入った。」「近道したところ、踏み外して入ってしまいました。」
こうして物貰いに恵んだ小銭で命を拾ったということです。
ひどい嫁っ子 (ばあさまと意地悪な嫁の話)
昔、あるところに目の見えないのばあさまと、息子が住んでいました。ばあさまはとても観音様の信心深い人でした。息子に早く嫁をもらって安心して死にたいと思っていました。そのうち息子は町に行って、変な女を嫁にしてつれて帰って来ました。この女は性悪な女で、何かにつけてばあさまの事を邪魔者にして、つらく当たってばかりいました。かわいそうなことに、息子が急に病気で死んでしまいました。嫁は、ばあさまの財産が欲しくなり、今までより邪魔者にしました。そして三度の食事を満足に食べさせないで、邪魔者は早く死んでしまったほうがいいなどと、近所の人に言って歩くようになりました。そのようなことで年を取っていたばあさまは病気になってしまい、嫁はいっそうばあさまの事を邪魔者にして、薬も食事も取らせなくなってしまいました。ある日ばあさまが、「私もそう長く生きられないから、この世の思い出に一度でいいから、うどんが食べたい。」と言いました。すると嫁は、ばあさまが近いうちに死ぬのだろうと思い、うどんを作って食べさせました。嫁が留守の間に、近所の人が見舞いに来てくれたので、ばあさまは、「今日は珍しく嫁がうどんを作ってくれたが、美味しくなくて変な味がしたな。」と言ったので、(近所の人が)鍋の中を見ると、ミミズを煮たものでした。びっくりして(近所の人が)、「ミミズだ。」と言うと、ばあさまはびっくりして目を回してしまいました。あわてて近所の人が、水をかけたり、背中をさすってくれたりしたので、やっと息を吹き返しました。その(近所の)人が帰るとき、気持ちの優しいばあさまは、「嫁には言わないでください。」と言いました。次の日からばあさまは、急に具合が悪くなり、夜になってから枕もとに嫁を呼んで、「私も長いことないようだ。いろいろ世話になったおまえに言っておく。私が死んだら誰もいない時に、私の布団の下を見てくれ。」と言ったので、嫁はてっきり金でも隠していたのかと思ったのでしょう。食事もさせないで、ばあさまの死ぬのを待っていました。
そしてとうとう、ばあさまは死んでしまうと、嫁は近所にも知らせないで、死がいを放り出して布団の下を見ました。すると真中に丸い包み物があったので、嫁はてっきり金包みだと思い、急いで開くと、ピカッと光って、突然のどが何かに締め付けられるようになって、苦しくて息が止まりそうになってしまいました。苦しくてそこら中を転げまわって騒いでいると、近所の人がやって来て、嫁を見てびっくりしました。首に白い蛇が巻きついて、、無気味な目を光らせていました。蛇を取ろうとすると、首を強く締め付けてしまい、息が止まる苦しみなので、どうしようもなくなってしまいました。それから嫁は水を飲もうと思っても、食事をしようと思っても、少ししかのどを通らなくなってしまい、ただ生きているだけになってしまいました。医者に診てもらっても、神主さまや坊さまに祈祷してもらっても、蛇は取れませんでした。近所の人も気味悪がって寄り付かなくなってしまいました。嫁はお釈迦さま、如来さま、観音さまとお参りしても、ちっとも効き目がなく、日一日と痩せこけてしまいました。
ある日、旅の坊さまが通りかかって、その話を聞いて、「それは、ここから遠く離れている海の中に小島があるから、そこに祭られている観音さまに、二十一日の願をかけてばあさまの供養をすると、蛇が離れるかもしれない。」と言いました。嫁は早速旅の用意をして、近所の親切な人に付き添ってもらい旅に出かけました。(首の蛇を)人に見られるのが嫌で首に布を巻いていきました。やっとのこと島に出る舟の港に着きましたが、舟の出る日まで宿で蛇に苦しめられました。ついに舟の出る日がやって来て舟に乗り込むと、観音さま参りの人たちでいっぱいでした。岸を離れて島に向かいましたが、途中で不思議なことに舟がぴたっと止まってしまいました。船頭がいくら漕いでも進まないので、みんな騒ぎ出して船頭もあせって調べてみても分かりませんでした。すると、一人の船頭が、「この舟に汚れた人が乗っていて船玉明神(※)さまが怒って、舟を止めたに違いない。」と言い出しました。それでお客を一人一人調べ始めました。嫁は隅のほうに小さくなっていて、最後に調べられて首に巻きついた蛇を見つけられてしまいました。「こいつだ。」と言われて、舟は港に戻って嫁は舟から降ろされてしまいました。今度は、舟は何事も無かったように、島に向かって進んで行きました。降ろされた嫁はどこへ行ったか分からないそうです。
※舟玉明神=舟の守護神。古代から船乗りのあいだで信仰され、はじめは住吉の神、のち、神仏混交の形をとり大日、釈迦如来、聖観音も現われた。
一粒の飯 (法印さまの奥参りの話)
むかしは奥三山といって、月山、羽黒山、湯殿山は、お山の神さまになっていて、この奥参りは命がけでした。
おらが五ツ六ツの頃、本家のじいさまが奥参りに行くことになりました。橋の手前まで親戚一同で送っていきました。帰ってくる日は、橋を渡って向うで迎えました。それまで親戚一同精進して、生臭い物は一切口にしませんでした。
むかし、むかし、法印さま(山伏)が、奥三山へ行く途中、急にもよおしてきて、通りすがりの便所に入りました。そして、用足して出たところが、前のきん隠しに飯粒が一つ付いていました。もったいないなと思いましたが、そのまま山に向かっていきました。山の途中まで行ったところ、どうしたわけか油汗は出る、足は一歩も前に進まなくなってしまって、金しばりに会った時みたいに体が(ゆうことを)きかなくなってしまいました。どうしてこうなったのかといろいろ考えているうち、法印さまだから、便所の飯粒ではないかと気が付いて、飛ぶように戻って行きました。そして、それを拾って、「ありがたくいただきます。」とたべたところ、今度は羽が生えたように足が軽くなって、無事に頂上に行って帰ってきました。
古屋(ふるや)のむり (お父さんとオオカミの話)
むかし、貧しい家が、むかしにありました。家に戸締りの棒をして火をたきながら、子供たちは寝ながらみんなで話していました。「お父さん、お父さん、世の中で一番怖いものはなんだろう。オオカミは恐いよね。」と聞いたら、(お父さんが、)「なに、オオカミなんて恐いことがあるか。古屋のむり(※1)と米びつの下だし(※2)たのが一番恐い。」と言いました。
ちょうどそのとき、馬小屋にオオカミがやってきていました。ガサガサと音がしたので、お父さんは馬を盗まれたのでは大変だと、まっ暗がりの馬小屋に行って、黒いものに飛び乗りました。オオカミの方がびっくりして、古屋のむりと米びつの下だしたのにとりつかれた。これは大変だと思って、一目散に山にかけ登っていきました。お父さんはおおかみの耳につかまって、「えい、えい、えい、えい。」と(乗って)行ったらば、そのうちに夜がだんだん明けてきて、ひょいと乗っていたのを見たら、口が耳までさけているオオカミでした。
お父さんはびっくりしてしまい、青くなって、さあ、大変だ。これでは食われてしまう。どうしたらいいかと思って、本気になって考えていたら、大きな洞穴が見つかりました。いや、これは(助かった)と思ってひらりと飛び落ちて、洞穴の中に隠れました。オオカミはいやいやこれは助かった、助かったと思って、山奥に帰って、けものたちの会議を開きました。「こういうわけで、おらはすごいものにつかまってしまった。すんでのところで命がなくなるところだった。みんなで退治しないと、後でまたどんなことになるかわからないから、誰か行って来い。」と言っても、誰も行くものはありませんでした。それで、くじを引いたらサルに当たってしまいました。サルは青くなってブルブルふるえて、「おら、とでもだめだ。」と言いました。そうだけれども、「くじに当たったのだからだめだ。」と、みんなで洞穴の前に行って、サルが入るのを見ていました。サルは恐くて、恐くてしょうがなかったが、のぞいて見たらまっ暗なので、尾をいれて洞穴の中をかき回しました。
お父さんはびっくりして、何がでてきたと思って、ぎゅっとつかんでしまいました。サルがギャンギャン、ギャンギャン言うし、お父さんは命がけでつかまっているし、まわりのけものたちは、「ほら、つかまった。」と思って、みんなワラ、ワラと逃げてしまいました。そうして、とうとう、サルの尾っぽは半分ぬけてしまい、それから、サルの尾っぽは短くなってしまい、顔が赤くなってしまったそうです。
※1 古屋のむり=古屋の雨もり ※2 米びつの下だし=米びつの底が見える
へっぴり嫁 1  (部屋の由来の話)
むかし、ある村に気立のぜえ娘があったんだと。一つ人に言わんに癖があんがなで、縁が遠くなってだところが、隣村がら話あって、うまぐまどまって嫁入りしたんだと。
ご祝儀も終っていく日か過ぎた頃、何か心ペいでもあんのが青い顔してんで、しゅうとめとむこさまが聞いだどころが、「おら病気どもつかねえ大きな“へ”たれる癖あんだ。」「“へ”ぐれのがんで心ペいしてっこどねえがら、思いきりたれろ。」「ほんじぜえごったらたれるが、危ねがらおっかあさんも、おめえさんも庭の臼さつかまってでくんつぇ。」って言うんで、つかまってだら、しりまぐってボーンとやらがしたど。ほしたら、むこさまは天井のはりの上さ吹っ飛ばさっち、おっかあさんは臼ぐちらけたの上さ吹っ飛ばさっちゃど。「こんではとても命まで取られちまうがら、こんな嫁はおがれねえ。おめえ里さ送ってげ。」って言わっち、むこさまは仕方なく送ってっだど。途中までくっと、馬さ反物つけで商いさ来てだ奴らが、のどかわいで道ばたの梨の木めっけで取っペとしてだが、とどがなくて困ってたど。嫁っこはそれ見でて、「なんだ。こらぐらえなごど、こだ梨、おら“へ”で落どしてみせる。」「人、ばかにすんな。“へ”たっちゃぐれで、この梨落じるはずあっか。落どしだら馬ごどこの反物みなくれる。」「よし、ほんだら見でろ。危ねえがら、おめえだぢ梨の木がらはなっちろ。」って、しりまぐってボーンとやったどころが、梨も木の葉も落じて裸になっちまったんだと。ほんじ約束だがら、馬がら反物がらそっくり貰っちまったど。ほれ見でむこさまは、こういう宝嫁はけえさんねど思って、「いっしょに戻ってけろ。」って、つれでけえって、おっかあさんに、「これ、これ、こういうわげだ。」って話したら、「そんな宝嫁なら長ぐいでけろ。しかし、あの手で“へ”やらっち、いつも屋根の上さなんて吹っ飛ばさっちゃ困っから、奥の方さ一間(ひとま)造ってやっから、そごさ行って思うぞんぶんたれろ。」って言ったど。ほれがへ屋(部屋)の始まりだつうんだな。
へっぴり嫁 2
むかし、あっどこでない、嫁さんもらったんだと。てえへんぜえ嫁さんだもんだがら、みなして喜んでだどごろが、だんだん顔色わりぐなって泣いでだんだって。これはなじょしたもんだ。体でもぐえいわりんだど思って、「嫁っこ、嫁っこ、なしてふさいでる。顔色すぐれねがなじょしたんだ。」「聞かっちゃっから言うが、実はへこでえでだんで、青ぐなっちまったんだ。」「なんだ、ほんじゃ、へぐれえならたれろ。」「たれでもぜえが、おらのへはとってもてえへんなへだがら、炉ぶちさつかまっででくなんしょ。」って言ったど。ほんじゃ、それはど言うんじゃと、炉ぶちさつかまってたんだと。嫁こがボーンとたっだら、おっかぁさまは天井までドーン上がってバタッと落ぢで、またボーンとたれっとドーン上がっで、ドスーンと落っこじたど。おっかぁさんはおったまげで、おっがなくなり、「嫁こ、嫁こ、への口止めでけろ−。」って騒いだんで、への口止めたんだと。おっかぁさまはおったまげちゃって、とんでもねえ嫁もらっじまった。こんなごどしょっちゅうやらっちゃんでは、たまったもんでねえど、思って、息子ども相談して出しちまったど。
嫁こはへたれねどぐえいわりくなっちゃうし、たれっとみんなに迷惑かげっし、がおっちゃったなぁど思って、トボトボとぜえ(家)さけえる途中、柿の木の上さ上がって、さおで柿落どししてる人さあったど。「そんなごどしてで日ぃ暮れっペなあ。おらがへ一つたれっど、みな落ぢっちまうがな。」って言ったら、「なにかすかたる。ほんじゃやってみろ。」って言わっち、ほんで、ボーンとやったら、柿がバラ、バラ、バラど一っペんに落ぢちまったんだと。いやあ、これはぞうさなく落ぢるもんだとなって、礼金たんともらったんだと。おん出したぜえでそれ聞いで、調法な嫁だ、柿落どしといわず、その力借りだぐて戻ってきてもらったど。へでだくなったどきは裏さ行って、ドーンとたれるようにさせたど。そこのぞえでは何かのどきにはみんなに頼まっち、金もうげしたんだとさ。
ヘビのたたり (結び付けられたヘビのたたりの話)
むかし、ある家の人が、春の暖かい日に垣根を直していました。そこに一匹のヘビがニョロ、ニョロと出てきました。(その人は、)ヘビが大嫌いだったので、捕まえて垣根に動けないように結び付けてしまいました。それから、何日か日に照らされ、雨にうたれ、風に吹かれて、とうとう長い白骨だけになってしまいました。
夏が過ぎて秋が来てきのこの季節がやってきました。ある朝、その人が畑を見回って垣根のところに来てみると、美味しそうなきのこが山ほど出ていました。(きのこを)とってきて村の人に見せたら、誰も見たことの無い知らないきのこでした。昔から知らないきのこは食うなと言われていたから、もったいないと思ったが裏の川に捨ててしまいました。
ところが翌朝川に行ってみると、捨てたきのこにコイや、フナや、ドジョウが集まって食べていました。これはいいものを見つけたと思い、網ですくってきて焼いたり、煮たりして家中で食べました。ところがみんなお腹をこわして最後にはとうとうみんな死んでしまいました。
ヘビむこ入り 1  (ヘビと娘の話)
暮らしのぜえどこの娘ではなかったそうだがない、むかしはどこでも機織りしたっペない。「晩げしなになっだがら、水汲んでこ。」って遠ぐの井戸さやらせらっちゃど。ほしたら、立派なさむれえさまがきてでない、「今夜、おじゃますっからな。」って言ったんだと。娘は気持ぢ悪くて、おっかさんに話したんだべ。「こういう立派なさむれえさまが、こられるちゅうだげんちも、おらああだりさ、ああいう立派なさむれえさまがこられるはずなんがねえ。」ほしたら、おっかさんも利口で、さとってない、「ほれは並たいてえの人でねえんだから、羽織着ったったげが。」って聞いたら、娘は、「着てだ。」って言うんでない、「ほんじゃきたらばな、羽織りのすそさ針さして、糸あるだけからんでな、ふぐしてやれよ。」って言ったんだと。
ほしたら、その晩、いわっちゃとおり蚊帳つって寝てっとこさへえってきたど。娘はおっかさんに言わっちゃがら、糸を針のめどさとおして、団子さつっとおして待ってだと。すきみて羽織りのえりさそっと針さして、糸ふぐれるだけふぐしてやったんだと。「あした、その糸たぐってみろ。」って言わっち、行ってみだら、大きなけやきの木のぼっくの中にさ、ずない蛇がうなって寝てたど。
ヘビむこ入り 2  (ヘビと娘の話)
むかし、むかし、あっとこに、じいさまとばあさまと、息子とその嫁っこが住んでおったど。
むかしは自分のぜえ(家)で機織りしとったでな。嫁っこは毎日、カラットン、カラットン、機織っていたど。そして夕方になっと、ぜえの下の井戸さ行って手桶さ水くんで、てんびん棒で運んでだど。むかしは井戸はぜえより下にあっでな、ほれも、てんびん棒で手おけさ汲んでおったでな、てえへんだった。
ほうして、いつからか分んねけんじも、水くみさ行くとわけえ男が、毎日来とんのに気が付いたど。嫁っこはおがしねなと思ったけんじも、毎日水及みさ行ったど。そのうちだんだんおっかなくなり、顔色が悪ぐなってきたど。ばあさまが気が付いで、「なじょした。体のぐえ−でもわりいのか。」って開くと、嫁っ子は、「毎日水くみさ行ぐと、わけえ男が来とっで、おっかなぐてしょねんだ。」って言ったど。すっと、ばあさまは、「ほんじゃ、針をわけえもん(者)のたもとさ、そっと入っちやれ]って、おせえでやったど。嫁っ子は言わっちゃどおりに、わけえ男のたもとさそっと針を入っちやったど。すっと、男はごいら苦しみだし、血を流しながら山の奥の方さ行っちまったんだと。その跡さそろっとくっついて行ってみっと、ずないずない蛇が死んでおったどさ。大蛇がわけえ男に化けとったんだ。ほれがら、わけえ男はばったり来なくなったど。ほして、まもなくその嫁っ子は蛇のおどっこ生んだっつんだな。
だから女の人はな、山さ行ぐ時は鎌と針と持って行ぐとぜえって言わっちきたんだ。蛇さ針が毒なんだと。
ヘビむこ入り 3  (ヘビと娘の話)
むかし、ある山奥さばあさまと娘が住んでいたど。ほしたら、毎晩、美しいせなさまがかよってきたんだと。そしてるうぢに、その娘ごどはらませちゃったんだと。娘がばあさまにさ、「なじょすっペ」って言ったら、「なあに、五月節句のしょうぶ湯さはいっと、おぢちまうわ。」って言ったんだと。ほんじそのせなさまのあどついでって、蛇だとわかっちまったがらない、そうさせんだと。ほだがら五月節句のしょうぶ湯さ、なんでかんでへえねがなんねんだって。
ヘビむこ入り 4  (ヘビと娘の話)
娘があってない、あるせなさまと仲よくなって、はらんじまったんだと。そのせなさまが、「五月節句のしょうぶ湯さは、はいんねでくれろ。」って言ったんだと。ところが節句の湯さはいっちまったんだと。すっとゾロ、ゾロとへびっこが、生まっちまったんだと。そのせなさまはヘビだったんだとない。
法印とキツネ 1  (法印(山伏)とキツネの話)
むかし、南平にある法印さま(山伏)が住んでいました。ある日、行(ぎょう)に出かけた時に、日向(ひなた)にキツネが昼寝しているところに出会いました。法印さまは、いたずらしてやろうと、キツネの耳にほら貝をあてて思い切りブァッーと吹いてみたら、キツネはびっくりして逃げていってしまいました。
そして、キツネは池に行って水に影をうつし、法印さまに化けるところを田んぼで働いている人にわざと見せて、急いで遠くに行ってしまいました。しばらくたって、本物の法印さまがその働いている人のところを通りかかると、「この化けギツネめ。またずうずうしく来やがったな。なぐり倒してやれ。」と言って、棒やげんこつでなぐり倒されて、傷ができるやら、こぶができるやら、法印さまは泣きっつらでやっと家に帰りました。
法印とキツネ 2  (法印(山伏)とキツネの話)
むかし、南平(なんぺい)の奥に古ギツネが住んでいました。時々、里に出てきては村人を化かしていました。その南平に法印さま(山伏)が一人で行をして暮らしていました。ある時、山の中で法印さまが、古ギツネが気持ちよさそうに昼寝しているのを見つけて、いたずらしてやろうときつねの耳もとに、ほらの貝を押し付けて思い切りブッーと吹きました。するとキツネはびっくりして、山の中に逃げていってしまいました。
夕方、法印さまが中島のところを通りかかると、ある家がとてもにぎやかで、踊りや歌が聞こえてきました。ひとつのぞいてやろうと、節穴を探して家の周りをぐるっと回って、やっと小さい節穴を見つけてのぞいたら、とたんに、おもいきり蹴飛ばされてしまいました。気がついたら田んぼのまん中にころばされていました。そして、村の人が集まってきて、「法印さま、どうして馬の尻の穴などのぞかれた。」と聞かれて、「あの古ギツネめ、おらのこと化かしたな。」と言いました。
法印とキツネ 3  (法印(山伏)とキツネの話)
むかし、キツネが山のくぼ地の日当たりのよいところで、昼寝をしていました。そこに、法印(山伏)さまが通りかかって、「キツネ、びっくりさせてやろう。」と思って、キツネの耳にほら貝をあてて、ボホーッ、ボホーッと鳴らしたら、キツネの野郎は、びっくりして飛び上がって逃げていきました。「いやぁ、おもしろかった。」と(法印さまは)喜んで、また、看経(※)しながら歩いていきました。
キツネは腹を立てて、法印の奴、また、帰りにはここを通るだろうから、今度はこっちがばかにしてやろうと思い、案の定戻って来たので、山だったところを川にしてしまいました。法印さまはおかしいなと思いましたが、細い橋があったのであわてて渡りました。すると、それは細い木で、法印さまは木の先の梢まで上がって、一晩そこで騒いでいたそうです。朝になって草刈りに行った人が、「おーい、法印さま、そこで何をしてる。」「いや、橋を渡ってここまで来たが、行くところがない。」と、一番上の梢まで登ってしまって、騒いでいました。
※看経=経を読むこと。
ほえどに助けらっちゃ話 (女のものもらいとじいさまの話)
むかし、あるところのじいさまが、焼きおにぎりを作ってもらい山仕事に出かけました。途中でボロ、ボロの着物を着た女のものもらいが苦しんでいました。じいさまは知らないふりをして通り過ぎましたが、(女のものもらいを)かわいそうに思いもどりました。(女のものもらいにじいさまが、)聞いてみると腹がへって苦しくて動かなかったそうです。じいさまは持っていた焼きおにぎりを全部くれてやりました。ものもらいはなみだを流して喜んで、「なにもお礼する物がないが、こんなもので良かったら持っていってください。」と、一握りのもぐさをよこしました。「なにもいらないよ。」と、じいさまは言いましたが、せっかく、よこしたものだからと貰って山に行きました。
じいさまは焼きおにぎりをあげてしまったので、なにも食べないで仕事をしていました。夕方帰ってくる時は、フラ、フラして遅くなって真っ暗になってしまいました。とうとう道に迷って帰られなくなってしまい、見つけた洞穴に入って明るくなるまで野宿することにしました。すると、奥からオオカミのような気味の悪いうなり声が聞こえてきて、じいさまは恐くなってきましたが、オオカミは火が嫌いなことを思い出して、腰から火打道具ともぐさを出して火をつけました。それでも少しばかりのもぐさでは、直ぐ無くなってしまいました。心細くなってしまいましたが、そのとき、今朝ものもらいからもらったもぐさを思い出し、それを夜明けまで燃やしていました。それで、オオカミは襲って来ませんでした。夜が明けたのでじいさまは、そこから逃げてやっと家に帰ってきました。火が燃えていたのでオオカミも追いかけてこれなかったのでしょう。
ぼた餅は観音さま (和尚さんと小僧の話)
むかし、ある寺に和尚さんと小僧がいました。あるとき、だん家からぼた餅が送られてきました。ちょうど和尚さんが、用事があって出かけるときだったので、「小僧や、(私が)帰ってくるまで観音さまにお供えしておきなさい。」と言って出かけました。小僧はおなかがへって、がまんできなくなってしまいました。(それで、)ぼた餅を全部食べてしまいました。そうして、観音さまの口のあたりに、あんこをべったりつけて、知らない顔をしていました。
和尚さんが帰ってきて、自分もぼた餅を食べたいのを、がまんして出かけていったので、さて食べようと思ったら、ひとつもない。小僧を呼んで、「ぼた餅、どうした。」と聞いたら、「さあ、うー、あのー、私知りません。」
和尚さんが本堂に行ってみたところ、観音さまの口のあたりに、あんこがべったりついていました。小僧は和尚さんのあとについていって、「あれえ、観音さまが食べてしまったのでしょう。口にあんこがべったりついている。」と言いました。そしたら、和尚さん(怒って)腹を立てて、「ひどい観音だ。勘弁できない。」と言って、釜に入れて煮てしまおうと、(観音さまを)煮たところが、だんだん煮立ってきたら、観音さまが、「クッタ、クッタ、クッタ、クッタ。」と音を立てました。「この観音、私のぼた餅を食ってしまった。ひどい観音だ。」と(釜から)引き上げて、錫杖(※)でひっぱたいたら、こんどは、「クワン、クワン。」と言ったそうです。
※錫杖(しゃくじょう)=杖の一種で上部のわくに数個の輪がかけてあり、振ると鳴るので、読経などの調子を取るのにも用いられた。
ホトトギスと兄弟 1
むかし、むかし、うんと貧しいぜえがあったど。腹の一番減る五月の頃なんだってない。おっかぁさまが芋煮でわらしど食ったんだと。もう一人のわらしが遊びさ行ってでいながっただら、どんぶりさわげで残しておいたど。ほしだら、後がらけえってきたんで、「おめえの分残しでおいだがら、早ぐけぇ。」って、おっかぁさまに言わっち、「こらほどうまい芋だらば、先さ食ったしとはうまいどこうんと食ったんだべ。」って、急いで本気なってガッガッ食ったがら、腹ぶっちゃげちまったど。ほして、鳥になっで、「ぽっとぶっつぁげだ、オダダカショ。」って、鳴きながら窓ぶっつあいで飛んでっちまったど。
五月の節句頃になっと、「ぽっとぶっつぁげだ、オダダガショ。」って、口が割れるほど血い流して鳴ぐんだって。ほれが今のホトトギスなんだってない。こんで、ざっとむかしはさ−がえだ。
ホトトギスと兄弟 2
むかし、兄弟があってない。おっかぁさまが「これけぇ。」って、こずはんの用意してでくっちゃど。しゃではあんちゃさうまいどご残して食ったんだど。ほしたらあんちゃがけえってきて、「おめえ、おらよりうまいどこ食ったべ。」って言ったど。「ほでね。あんちゃさぜえどこ残して、おら悪りいどご食ったんだ。」って、言っても聞かねんだと。「ほんじゃ、腹ぶっつぁいで見せっから。」って、腹ぶっつぁいで見せだら種ばっかし残ってだと。ほんで、しゃではホトトギスになって、「ぽっとぶっつぁげだ。ぽっとぶっつぁげだ。」って、今でも鳴いでんだと。
ホトトギスと兄妹 (ホトトギスになった妹の話)
むかしは五月節句に、山芋とふきを煮て食事にしていました。おかあさんに、「山芋掘ってきなさい。」と言われて、息子が山に行って掘ってきました。「おかあさん、これね、掘ってきたから煮といてくださいね。おれは買い物に行ってくるから。」
そして、お竹という妹が一生懸命洗って煮て、お兄さんが帰ってこないうちに、お母さんと妹が(山芋煮を)食べました。お兄さんが帰ってきたので、「芋煮ておいたから、おにいさん食べなよ。」「そうか。」と芋を見て、「あら、おれにこれくらいのところを残しておいたのでは、まだまだ大きいところを食べただろう。」「そんな性根が悪いこと言ってはいけない。」と、おかあさんが言いました。それでも、「大きいところ食べただろう。」と言うことをきかないので、妹が「うそかどうか、私の腹を開いて見せてやる。」と言って、お腹を開いて見せたので、お兄さんはびっくりしてしまいました。妹はホトトギスになって、「ぽっとぶっつぁげた、オダダカショ。ぽっとぶっつぁげた、オダダカショ。」と、鳴いて飛んでいきました。
ほら吹きくらべ (ほら吹き親子の話)
むかし、むかし、ある村に大変なほら吹き親子がいました。あまりに大きなほらを吹いていたので、有名になって京の都にまで聞こえていきました。それで、京の大ほら吹きが腕くらべをしようとやってきました。その日はちょうどおどっつぁ(おとうさん)は留守で、子供が一人で留守番していました。京のほら吹きが残念だといったら、その子供が、「おら(私)でよかったら。」といったら、「おどっつぁはどこに行った。」と聞かれたので、「おどっつぁは、セセリ(※)のなみだの池のメダカ取りに行った。」といいました。京のほら吹きは、あまりに小さいのでびっくりしていまい、もっと大きなほらできないかといったので、「今、おら、天と地を団子に丸めて、手のひらにのせ、飲み込んだところに、あなたがきたのです。」といったので、この子供でさえ、こんなほら吹くのでは、このおどっつぁはどんなものだかと恐くなって、早々に逃げて帰っていってしまいました。
※セセリ=小形ちょうの総称
ほら童子 (ほら比べの話)
むかし、たいしたほら吹きがいて、どこそこの国にものすごいほら吹きがいると聞いて、ひとつほら比べをしようと(ものすごいほら吹きのところへ)行ったそうです。「お願い申し上げる。」と言ったら、子供が出てきたので、「お父さんはどこへ行った。」と言ったら、「富士山が倒れそうだって、線香三本持って、つかえ棒に行った。」「おかあさんは。」「おかあさんは、いま天と地を団子に丸めて、なべに入れて煮ているから、どうでしょう、のどにもつかえないので、ひとつ食べていきませんか。」と言うので、これじゃとても自分のほらなんてかなわないと、逃げていきました。
正夢 (あほな夫と嫁の話)
むかし、むかしあるところに、あほなおじさんがいました。何回見合いしても、嫁にくる人がなかったと言うことです。ところが、正月の二日に紙で船を折って、「今日の眠りの南風、波乗る船の音のよきかな。」と書いて、枕の下に入れて眠ったら、良い家から嫁が来た夢を見たそうです。それから何日か過ぎたら、夢が本当になって、とっても良い嫁がそのおじさんの奥さんになったそうです。嫁をもらったので、いつまでもおじさんまで一緒にその家に居られないので、その家がある並びの一番上の古屋に移ることになりました。立派な家なので何人もの買い手が来ても、夜中に化け物が出るというので、買い手がなかったそうです。そしたら、あほなおじさんの嫁が、「世の中に化け物なんかいないから、私が行ってみましょう。」と、夜中、その家の真っ暗なところに入って、長いキセルでスポーリ、スポーリタバコを吸って、化け物が出てくるのを待っていました。そしたら夫が、「ほら、化け物が出たら食われてしまうぞ。」と、ガータ、ガタ、ガタ、ガタ震えて入口に立っていました。
すると、床の間の方からカラッ、カラッと戸を開けて、ブリッコ、ブリッコと音をさせながら、化け物が近寄ってきて、「エヘヘヘヘヘヘヘ。」と笑ったそうです。嫁が、「なぜおまえは、こうやって毎晩この家に化けて出るのか。」と聞いたら、「床の間の下の大きなかめに、金がたくさん入って埋まっているから、それを掘り起こしてくれるならば、化けて出ない。」と言いました。「ほんとかい。」嫁が聞いたら、「ほんとに出ないから。」と化け物が言うので、家に帰って一眠りしてから、早速その家を買いました。そして、床の間の下をはがして掘ったら、大きなかめに大判、小判がいっぱい入っていました。そうして、大変にお金持ちの女性になりましたとさ。ですから、あほな野郎だからと言って、ばかにするものではありませんよ。
まま子話
むかし、むかし、あっとこに、ままかかあがあったんだと。わがのおどっこができたっつんでな。先のわらしごど邪まになってきたんだと。
ある日、井戸掘ったら、水が出ねえもんだからな。「新しい井戸見さいんべ。」って、わらしせでって、井戸さつっころばしたんだとさ。「助けてけろ。助けてけろ。」って、泣き叫んでるうぢに、風吹いできて、紙がパラ、パラっとおっこちてきたんだと。わらしは指かみ切って手紙を書いで、スズメに頼んだとさ。「おとっつぁんこういうどこさ行ってっから、助けてけろ。」ってない。おとっつぁんはそんどき、女郎屋さ行って酒飲んでだんだど。スズメは手紙をくわえでって、「チュー、チュー、チュー、チュー。」って、うんと鳴いだもんだがら、何事できたんだべとみんなと出てみだら、おとっつぁんどこさパラ、パラって、紙おっことしてよこしたど。
おとっつぁんはいそいでぜえさきて、帯ほどいで下げてやって、わらしこと助けてやったんだとさ。こんでざっと昔はさ−がえだ。
マムシとワラビ (一匹のマムシとワラビの話)
ポカ、ポカと暖かい春の日、日当たりのよい土手のところに、一匹のマムシが夢をみながら昼寝をしていました。マムシは突然息がつまるほどの痛さと、今にも死んでしまうのではないかと思うほどの痛さに襲われました。びっくりしてよく見ると、チガヤの先のとがっているところが、マムシの腹をつきぬけてどんどん伸びていました。マムシは苦しくて体を動かして抜こうと思いましたが、気は遠くなるし、どうしようもできませんでした。すると腹の下が少しずつ持ち上がってきて、チガヤの先まで上がりスポッと抜けて、マムシは地面にバタンと落ちてしまいました。よく見るとワラビがグン、グン伸びて、マムシを持ち上げて育っていました。
マムシは喜んでワラビにお礼を言って、これからあなたの言うことをなんでも聞きますからと約束しました。
それだからかどうか知らないけれども、マムシの皮をむいて赤裸にしたものにごみがついたら、どんなに洗ってもこすっても落ちないが、ワラビの葉っぱでこするとびっくりするほど美しく取れるそうです。
豆子話 1  (おじいさん、おばあさんときな粉の話)
むかし、じいさまとばあさまがあったんだって。ばあさまが庭はいだら、豆こ一粒拾ったんで、それを黄な粉にひいでな。そこらさおぐと、ネコだのネズミになめられっからって、じいさまとばあさまの間さおいで寝たんだと。夜中にじいさまがボーンと大きなへたれで、みな吹っ飛ばしちまって、ばあさまがっかりしちゃったんだとさ。
豆子話 2  (おじいさん、おばあさんときな粉の話)
むかし、じいさまとばあさまが住んでで、ばあさまが庭はきしてで、豆一粒拾ったんだと。「じいさま、これどうすっペ。」って言ったら、「そのままいって食ったんでは、一人分きりねえ。煮で食っても一人分だ。仲よく食うには炒(い)って黄な粉にひいだらいいべ。」って、黄な粉にひいでな。「あどがら食うに、どごさおくべや。そごらさおぐど吹っ飛んじゃうがら、仕方ねえ、じいさまのふんどしさでも包んでおがせ。」って、ふんどしさ包んで寝たんだと。夜中にじいさまがボーンとへたれで、吹っ飛ばしてしまったんだとさ。
むこの好きな物 (南山のばかむこの話)
南山のばかむこが、正月、嫁と二人で、しゅうとの所に行ったそうです。嫁の父親は、このむこは、ばかだと聞いていたが、どのくらいばかだか試してやろうと思って、酒という字を書いて、「これ読めるか。」と、出したそうです。嫁は父親に恥をさらしたくないと思って、「おまえさんの好きな物だ。おまえさんの好きな物だ。」と、お尻をつつきました。そしたらむこは、お尻をつつかれたので、嫁の下の物のことを言ってしまいました。
餅争い (カエルとサルの話)
むかし、山の中に大きなカエルと力のあるサルがいました。カエルは餅米を作って持っていました。サルはそのことを聞いたので、餅が食べたくなってしまって、「カエルさん、私が臼ときねを用意するから、餅をついて二人で分けっこして食べましょう。」と言って、餅をつきました。ついているうちにサルもカエルもお腹が減ってしまったものだから、一人で食べればお腹いっぱいになるほど食べられるぞと思いました。そしたら、サルが、「カエルさん、高い山にこの臼背負って行って、ゴロゴロ、ゴロゴロ、転がして、早く餅に着いた方が食べることにしましょう。」「それもいいでしょう。」となって、サルは力があるから臼を背負って山に登っていきました。そして、一、二の三と、ゴロゴロ、ゴロゴロと転がしました。
サルは早いからピョンピョン、ピョンピョンはねて、臼と一緒に行ってしまいました。カエルも賢いから、途中で臼から餅がはなれるように、水をつけておきました。それだから、サルが臼を追いかけて下まで行って、ひょいと見たら(臼は)空っぽでした。これはどこかに落ちてしまったと、夢中になって戻ってきたら、カエルは思ったとおりに落ちた餅を、うまそうにペタ、ペタ食べていました。サルはどんなに悔しがっても仕方がないから、「それ、そっちから食え。それ、あっちから食え。」と、よだれを流しながら遠くから眺めていました。
餅のお代わり (ばかむこの話)
女神山のばかむこが、しゅうとの(家に)招待されて行ったら、餅のご馳走でした。あんこ餅から、くるみ餅から、納豆餅がら、たくさん食べて、「さあ、さ、お代わり。」と、出てきた女の人に言われて、「初めのあんこ餅のような、うまいお代わりください。」と言ったそうです。
餅は化け物 (女神山のばかむこの話)
むかし、女神山にちょっとあほな若い者がいました。嫁をもらって正月に、「ご年始に行ってきて。」と言われて、嫁の家に行ったら、ぺターン、ぺターンと餅つきをやっていました。
そしたら、子供たちが寄ってきて危ないものだから、「おっかねぞ。おっかねぞ。(危ないよ。危ないよ。)」と言ってついていました。若い者は本当におっかない(恐い)と思って、びっくりして見ていました。つき終わってから、丸めてあんこに入れて、おかあさんに出されました。(若い者は、)恐いものだと思っていたので、じっと見てばかりいました。みんなはペロペロ、ペロペロおいしそうに食べているのだけれども、若い者はおっかないと(餅つきをやっていた人に)教えられたので、とても恐いものだと思って、「おにいさん、おにいさん、たくさん食べてください。」と言われても、食べないで全部座布団の下に捨ててしまいました。
そして、お土産に重箱に、丸め餅を十三個入れて風呂敷に包んでもらい、帰ってきました。ずっと来るうちに棒があったので、恐い餅だと思っていたので、棒の先に風呂敷包みの先に引っ掛けて、ヒョッコ、ヒョッコと来たら、ドサーンと風呂敷がほどけて落ちてしまいました。重箱のふたがあいて、中の白い丸め餅がガシャガシャになってしまいました。それを見て、「白い歯を向けて、おれにかかってくる気か。」と、担いでいた棒を持って、餅ごとペタペタ、ペタペタ、ペタペタと叩いて、泥だらけにしてしまいました。
指合図 (和尚さんと小僧の話)
むかし、ある寺に和尚さんと小僧がいました。小僧は毎日、和尚さんに言いつけられて、ご飯を炊いていました。指一本を出した時は一升、二本出した時は二升、米をとがなくてはなりませんでした。どうも一升、二升だけ食べさせられたのでは、お腹いっぱい食べられませんでした。
小僧は、どうにかしてたくさん炊いてみたいと考えました。そして、せっちん(便所)の板をぐるっとのこぎりでひいて、ちょっと上がると、落ちるようにしておきました。いつも朝に、和尚さんがせっちんに行くものですから。そうして見ていました。
和尚さんはそんなこと知らないので、タッ、タッ、タッ、タッと行って、せっちんに入ったら、ドサッと板ごと落ちてしまいました。「あーっ。」と、両手を広げて指十本だしたので、小僧はそれではと、米を一斗炊いてしまいました。そのときは、お腹がいっぱいになるまで食べたそうです。
利益分配 (二人の友だちの話)
むかし、あるところに、あほな二人の友だちがいました。おたがいに銭を出しあって、商売をやったところ、一貫二百文ほどもうかってしまいました。ところが、どうして分けてよいか分からないでいました。相談しても勘定を知らないので良い考えが浮かばないでいると、かたほうのやつが、「誰かに九九というものを聞いたことがある。その中で、二、四が八というのがあったから、にしゃ(おまえ)、八百、おら(自分)が四百で分けましょう。」と言って、分けっこしたという話がありました。
りごなたゆうさま (利口な神主様の話)
むかし、あるお宮に利口なたゆうさま(神主様)がいました。暮らしを良くしていいお宮を建てるには、どうしたら良いかいつも考えていました。
ある時、村の人たちがお宮参りにきて、神さまにおさい銭をあげてお祈りしていました。ところがさい銭箱のサカキが小銭をあげるとなんともないが、大きな銭をあげるとガサ、ガサと動きました。わきにいたたゆうさまから、神さまが願いを聞き届けてくれたおしるしだと聞かされ、村の人はみんな大きな銭をあげるようになりました。そして、とうとう立派なお宮を建てることができました。
たゆうさまはさい銭箱に水を入れて、中にたくさんのどじょうを入れておきました。小銭ではなんともないが、大きな銭があたると痛いものだから、それで、どじょうがあばれてサカキがゆれたそうです。
若く見らっち (頭の悪い四十歳くらいの人の話)
あるところに、とても頭の悪い四十ぐらいの人がいました。家に帰って、「おどっつぁ、おどっつぁ、おら今日とても若くみられてきた。三十五か、五か、二か、八かと見られてきた。」「あほ、五十のことだ。」「えっ。」と言ったそうです。
わざくらべ (五人の旅人の江戸見物の話)
むかし、むかし、ある人が江戸見物に行きたくて、行きたくて困っていました。いつかは行ってみたいものだなぁと思っていても、なかなか(一緒に行く)相手がいなかったので、行きかねていました。すると、片足でビッコ、ビッコ、ビッコと歩いてくる人がいました。「どうして片足で歩いているのですか。」と聞いたら、「両方の足で歩くのでは早すぎるので、片方の足で歩いて十分です。」と言いました。それで、「私は江戸見物に行きたいと思っているのですが、相手がいないので、ご一緒にどうですか。」と聞きました。すると、「私も行きたいと思っていたのです、それではぜひ連れて行ってください。」ということで、二人で江戸に向かう旅に出ました。すると、今度は片方の目をおさえて、鉄砲を撃っている人がいました。片方の目で狙っているのではと思って、言葉をかけました。「どこを狙っているのですか。」と聞くと、「三里四方のアブの左の目を狙っています。」と言いました。「いや、いや、私はこういうわけで江戸見物に行きたいと思っていますが、あなたも行きませんか。」と聞くと、「私も行きたいと思っていたのですが、なかなか行けずにいたので、それではぜひ連れて行ってください。」ということになりました。三人で旅を進めて行くと、今度は片方の鼻の穴をおさえて、プープー吹いている人がいました。そこでまた声をかけてみました。「どうして片方の鼻でプープー吹いているのですか。」と聞くと、「三里向こうの風車を吹いています。」と言いました。それで、「江戸見物に行きたいと思っていたのですが、なかなか相手がいなくて、こういうわけで行くので、おまえさんも行きませんか。」と聞いたら、「私も行きたいと思っていたのですが、相手がいなかったので、ひとつ世話になりましょう。」ということで、今度は四人になって進んでいきました。すると、大きな菅笠を横にかぶって、テッ、テッ、テッと歩いてきた人に会いました。「なぜ横に笠をかぶっているのですか。」と聞いたら、「真っすぐにこの笠をかぶっていると、冷えて凍ってしまうくらいだから、このくらい横にかぶっても、これでも寒いくらいなんです。」と言いました。それで、その人にも江戸見物に誘いました。そして五人で進んで行って、江戸の近くになった時、「お姫さまとかけっこをして負かしたなら、ご褒美をたくさんあげる。」と言う立て札がありました。それで、両方の足で歩いたのでは、早すぎる人を出しました。そして、お姫さまとかけっこをしました。
初めは片方の足で、ビッコ、ビッコと走っていましたが、途中から両方の足を使って走ったのでとても速くて、お姫さまを負かしてしまいました。そして向こうに行って一升だるを持って、引き返して来なければなりませんでした。ところが一升だるを持ってきて、途中で枕にして一休みしていました。そしたら、後からお姫さまが走ってきました。これは大変だ。追いつかれてしまうと、三里四方のアブの左の目を狙っていた人に、「見てください。」と言って、両方の目を使って見たら、一休みしていて走り出そうとしていませんでした。負けてしまうので、一升だるの底を狙ってドーンと(鉄砲を)撃つと、ド、ド、ド、ド、ドと酒が流れ出ました。片方の足で歩いていた人が、これは大変だと、またテッ、テッ、テッ、テッ、テッ、テッと走り出すと、お姫様のことを負かしてしまいました。
そして、勝ってしまうと、その屋敷の侍たちは、そんな田舎者に、ご褒美をやってはもったいないと、みんなのことを土蔵の中に閉じ込めてしまいました。それで、焼き殺してしまえと、蔵の周りに麦わらを集めて、むし焼きにしようとしました。そしてボン、ボン燃やして熱くなっていたので、みんな死んでしまったろうと思い、蔵の戸を開けてみたら、笠を横にかぶっていた人が、真っすぐ立っていてみんな笠の中に入っていたので、五人とも平気な顔をしていました。
そして、どうしてもご褒美をやらなくてはならないので、それでは背負われるだけ(沢山のご褒美を)、五人にくれてやって、後から馬で追いかけようと侍たちは考えました。山ほど(ご褒美が)与えられました。すると(帰る)途中で、三里向こうの風車を片方の鼻でプーッと吹いていた人が、両方の鼻で(追っ手を)サーッと吹いたので、いや、いや、侍たちは馬もろとも吹っ飛んでしまいました。そして、(五人は)宝物を沢山もらってきたそうです。 
 

 

●福島の伝承
金売吉次兄弟の墓
『平家物語』などにもその名前が記されている金売吉次であるが、実在の人物というよりもむしろ“当時の奥州から京都へ砂金を売りさばきに来た商人の集合体”のような位置づけが定着しているようである。しかし伝承の世界では、源義経を奥州藤原氏と引き合わせたキーパーソンとして重要な人物である。白河市にある金売吉次の墓は、他の兄弟と合わせて3基の墓が設けられている。中央にある大きいのが吉次のものであり、左が吉内、右が吉六のものと伝えられている。地元の伝承によると、承安4年(1174年)に吉次兄弟は砂金の交易の途上、この地で群盗に襲われて殺されたとされる。ただこの年に義経は元服して奥州へ向かっており、伝承が正しければ吉次は義経を平泉に送り届けた直後に死んでいることになる。そして年代的な整合性を維持するためか、伝承では義経が後年にこの地を訪れて吉次兄弟の霊を慰め、近くの八幡神社に合祀したという後日談も残されている。また殺した群盗の首領は藤沢太郎入道とされ、この時に砂金の入れていた革の葛籠を捨て置いたので、この土地の名を“皮籠”としたという地名由来の話も伝わる。だが、藤沢入道は、他の伝承では義経一行の奥州行きの道中で大勢の手下を率いて盗みを働こうとして、討ち果たされている。これらの伝承内容は、物語として流布したものが付け加えられながら形成されたものであると推測される。吉次兄弟の墓である宝篋印塔は室町時代頃に造られたとされるが、実際には何度も積み直されており、その時に違う石塔の部分が使われていたりする。しかし地元の人々は今なお「吉次様」と呼び習わして、大切に保存している。
金売吉次 / 『平家物語』では“橘次”とも表記され、奥州の商人ではなく、京都に店を構える富豪のような書かれ方もされている。また長者伝説の主人公である炭焼藤太と同一人物としている場合もある。ただ上に書いたように、“金売吉次”は特定の人物ではなく、当時奥州と京都を行き来して砂金を取引していた複数の商人をモデルとしていると考えた方が合理的である。
藤沢太郎入道 / 『義経記』に登場する盗賊。近江国の鏡の里で元服したばかりの義経を、手下100名と共に急襲するが返り討ちに遭ったとされる。この藤沢入道自体も架空の人物であるが、さらにそれらが統合されて出来たキャラクターが、大盗賊・熊坂長範であるとされる。
観世寺 黒塚
陸奥の 安達ヶ原の 黒塚に 鬼籠もれりと 聞くはまことか
平兼盛の歌で有名な“安達ヶ原の鬼婆”の伝承は、細部が多少違うものもあるがおおよそ次のような展開となる。岩手という名の女性が、とある公家に奉公していた。その家の姫は幼い頃から不治の病であったために、岩手はその病を治すための薬を求めて各地を転々とした。その薬とは、妊婦の腹の中にある胎児の生き肝であった。やがて岩手は安達ヶ原の岩屋に潜み、標的となる妊婦が通りがかるのを待ち構えていた。ある時、若い夫婦が岩屋に一夜の宿を求めた。女は臨月の身重、しかも夫は用事があってそばを離れた。岩手は女を殺すと、胎児の生き肝を取り出して遂に目的を果たした。しかしふと女の持ち物に目をやると、見覚えのあるお守りがあった。それは幼くして京に残した実の娘に与えたものであった。今自分が手に掛けた女が我が子であることを悟った岩手は、そのまま気が触れて鬼となった。そして岩屋に住み続け、旅人を襲ってはその肉を貪り食うようになった。時が過ぎて神亀3年(726年)、紀伊国の僧・東光坊祐慶は旅の途中で日が暮れてしまったために、安達ヶ原の岩屋に宿を求めた。そこは岩手が鬼と化して住み着く場所であった。岩手は薪を拾いに行くので、奥を覗かないように言って外に出た。祐慶は気になって覗くと、そこには累々と人骨が積まれており、ここが安達ヶ原の鬼婆の住処であると気付いて逃げ出した。やがて戻ってきた鬼は、旅の僧がいないことに気付いて後を追い掛けた。鬼は僧を見つけると、恐ろしい速さに追いつこうとする。そしてもう少しで手が届くところとなり、祐慶はもはやこれまでと如意輪観音像を笈から取り出して経文を唱えた。すると、観音像が天高く飛びたつや、光明を放ちながら白真弓に矢をつがえて鬼婆を射抜いたのである。その後、祐慶は鬼婆の危難を救った如意輪観音を本尊として真弓山観世寺を建立したのである。観世寺の境内には鬼婆が住んでいた岩屋や、出刃包丁を洗ったとされる血の池など、鬼婆伝説の舞台が残されている。また宝物館には、鬼婆使用の出刃包丁などのおどろおどろしい道具や祐慶の使っていた錫杖などが展示されている。観世寺から少し離れた川岸に「黒塚」と呼ばれる塚がある。ここが射殺されて成仏した鬼婆を葬った場所とされている。
「安達ヶ原の鬼婆」伝説 / 上記の伝説は観世寺の寺伝であるが、その他にも、東光坊は偶然鬼婆の岩屋に泊まったのではなく退治を目的として安達ヶ原に赴いたという説や、鬼婆は殺されずに改心したりあるいは退散しただけという内容もある。また,関東にも類似の鬼婆伝説があり、一種の様式化された伝承であるとも言える。
正法寺 幽霊の墓
かつては境内裏手の山の中腹にあったとされるが、本堂への参道の途中に無縁墓群があり、その中央最前列に「即心即佛」と彫られた墓碑がある。これが“幽霊の墓”と呼ばれるものである。保科正之が会津の藩侯であった時、阿蒲大郎左衛門という者があった。その妹が他家に嫁に行って間もなく兄が不慮の死を遂げ、さらに妹もじきに亡くなってしまった。妹は死の間際に実家の墓に葬って欲しいと懇願したが、願いは聞き届けられず婚家の墓に埋められた。その葬儀の日から、実家の菩提寺である正法寺の二世斧山和尚の枕元に、その妹の幽霊が現れて「この寺に改葬して欲しい」と頼むようになった。その幽霊の執心ぶりに、和尚は婚家に事情を話して改葬を掛け合った。最終的に婚家も折れて改葬を認めたために、晴れて妹の亡骸は正法寺に引き取られたのである。その時に斧山和尚が建てた墓碑が“幽霊の墓”と呼ばれているのである。そしてそれ以降は幽霊は姿を現さなくなったと言われている。
阿蒲大郎左衛門 / 会津藩の歴史逸話を集めた『志ぐれ草子』(1935年刊)では、幽霊の兄は、安武(阿武)大郎右衛門という、保科正之の小姓役で150石取りの藩士であるとされる(大郎左衛門と誤記されることが多いとの註あり)。大郎右衛門は承応元年(1652年)1月に惨殺されており、その兄の死後、妹が回向料代わりに大石を置いて帰ったと記されているので、上の怪異譚はおそらく承応年間の出来事であろうと推察できる。ちなみに大郎右衛門が殺された理由は、町野権三郎という青年を巡っての衆道の痴情によるもの。そのせいか、大郎右衛門は殺害後に顔の皮を剥がれ、肛門から喉まで刀で刺し貫かれるという姿で放置されていたと伝えられる。また殺害した側の4名が切腹。そのうち鮎川市左衛門の許嫁であった千女は「二夫にまみえず」として17歳で自害したため、貞女の鑑として会津藩の子女の崇敬を集めた。
蛇骨地蔵
養老7年(713年)に開かれたという蛇骨地蔵堂であるが、次のような伝説が残されている。日和田の領主であった安積忠繁には、あやめ姫という美しい娘があった。家臣の安積玄蕃が求婚したが、忠繁に拒絶され、それを怨みとして主家を滅ぼしてしまった。さらに残されたあやめ姫に言い寄ったが、姫はついに沼に身を投げて命を絶ってしまった。しかしあまりの怨みのために姫は大蛇と化し、玄蕃一族を祟って滅ぼしたのである。それでもなお大蛇は怒り狂い、村人に毎年娘を人身御供とするように求めたのである。娘が33人目の人身御供に選ばれた権勘太夫は、娘の命を救うべく大和国の長谷観音に詣でて、佐世姫という娘と出会う。佐世姫は話を聞くと、自らが代わりに犠牲になると言った。佐世姫は人身御供となって、沼のほとりに置かれた。そして一心に法華経を唱えていると、大蛇が現れた。ところが大蛇はその法華経によって天女の姿に変わっていき、昇天したのである。天女は佐世姫に礼を述べ、残された蛇骨で地蔵を作ってくれるように依頼した。それが蛇骨地蔵の由来であるという。この地蔵堂の裏には、大蛇の人身御供となった32人の娘と佐世姫を供養するための三十三観音像が安置されている。また大蛇伝説を残す“蛇枕石”や“蛇穴”といった伝承地もある。
蛇骨婆 / “蛇骨”という奇妙な名称を共通に持つため、鳥山石燕の描くところの“蛇骨婆”の伝承地であるという説もあるようだが、石燕の手による解説を読む限りは、関連性は殆どないものと考えて間違いないところである。
(松浦)佐世姫 / 佐用姫・小夜姫とも。肥前国松浦の長者の娘であり、朝鮮へ出兵する大伴狭手彦と恋仲となるも別れる運命となり、最後は悲恋のうちに石と化したとされる。ただし『肥前国風土記』には別伝として、狭手彦に化けた大蛇に見入られて沼に引きずり込まれたとも言われる。また岩手県水沢地区には“掃部長者伝説”として、やはり松浦の佐世姫が大蛇の人身御供となるが、改心させるという伝承が残されている。
文知摺石 (もぢずりいし)
文知摺観音堂を中心に信夫文知摺公園がある。この「文知摺」という名であるが、この信夫地方に古来あった染色法であり、紋様のある石に絹をあてがい、その上から忍草の葉や茎を擦りつけて染色したものという。これにちなんで名付けられたのが文知摺石(別名:鏡石)である。中納言・源融が陸奥国按察使として赴任していたが、ある時信夫で道に迷い、村長の家に泊まった。そこで娘の虎女を見初めて相思相愛の関係となった。しかし都に戻るよう命を受けた融は再会を約してその地を去った。残された虎女は融に一目会いたい一心で観音堂に願を掛け、文知摺石を麦草で磨き続ける。そして満願の日、ついに磨き込まれた文知摺石に融の姿を一瞬見いだしたのである。だが、そこで精根尽き果てた虎女は病の床に就き、そのまま亡くなってしまう。その死の直前に、都にあった融から一首の歌が届く。それが古今和歌集に残る“みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆえに 乱れんと思う 我ならなくに”である。この伝説の有名さ故、後世の歌人達も多く訪れており、松尾芭蕉も実際にこの石を見ている。ただ『奥の細道』によると、通りすがりの人々が麦の葉をちぎって石を磨くので、村の者が怒って石を谷へ突き落としてしまって、半分埋まってしまった状態であったらしい。一説によると、この石は未だにひっくり返ってしまっている状態のままであるとも言われている。
夜泣き石(会津)
会津若松の市街地から東へ行ったところ、国道49号線沿いに戸ノ口原という場所がある。幕末の会津戦争の折、会津軍と薩長軍が激突した古戦場であり、白虎隊が実戦で奮闘した地としても有名な場所である。このような古戦場の地にひっそりとあるのが“夜泣き石”である。戦国時代、会津地方を蘆名氏が治めていた頃の話。無実の罪で処刑されようとした男の家族が、累が及ぶことを怖れ、夜陰に紛れて逃げようとしていた。途中ここまで来て、幼い男の子が疲れ果てて石の上で寝てしまった。母親はこの子を連れてこれ以上逃げることはかなわないと見て、捨て子にして死を免れさせようと思い立ち、この石の上に寝かせ付けたまま去っていった。その後目が覚めた子供は母恋しさに泣き叫ぶと、闇の向こうから母が呼ぶ声がする。喜び勇んで行こうとすると、なぜか身動きが取れない。足が石に吸い付いて前へ進めないのである。そのうちに朝となり、追っ手がこの石のところまでやって来た。しかし追っ手と思っていたのは、父親の冤罪を知らせるために来た者であり、男児はその後成人して家督を継いだという。実は、夜中に聞こえた母親の声は魔性の石が子供を食い殺すために発したものであり、その災難を救わんとするために子供の寝ていた仏性の石が足止めをさせていたというのが真相だったという。実際にこの石には、幼い子供の足形と言ってもおかしくないくぼみがある。このリアルな物証が伝承を後押ししているのは間違いなく、子供を背負ってこの石にお参りすると夜泣きがなくなるという信仰の対象ともなっている。そして、このくぼみになぞらえるように、いつしか靴を奉納する習慣も出来ているようである。なお、この石にまつわる伝承には、玄翁和尚と九尾の狐が登場するバージョンがあり、狐が化けた子供を背負った玄翁和尚がこの石で休んだところを襲われたが、法力で退治したという話も残されている。
蘆名氏 / 源頼朝の奥州攻めに功績のあった佐原義連が会津の地を所領としたのが始まり。その後、蘆名氏を称する。16代当主の盛氏(1521-1580)の頃が最盛期となるが、没後に急速に衰退。1589年に伊達政宗との摺上原の戦いで当主・義広が実家である佐竹領へ逃散、戦国大名として滅亡する。
 
 関東地方

 

 栃木県
●鬼怒の中将乙姫 
鬼怒沼のほとりには「機織姫」が住んでいて「天女のごとき乙姫(中将の位の鬼怒沼中将乙姫)が黄金に輝くハタオリ機で白い絹布をパタリパタリと織っていた」という伝説がある。姫が機を織るのをうっかりのぞき見すると、恐ろしい祟りがあるという。

●おらが湯 藤太湯(とうたゆ)
昔、昔な。信達平野(しんたちへいや)の湖がな、干上がって、そこんとこが湿地帯になってな……、大作山(だいさくやま)の麓を奥州街道(おうしゅうかいどう)が通っていたころの話しをおせっぺな。
今でいうとな飯坂小学校のあたりからな、二丁(200m)くらい赤川(あかがわ)を上って行くとな!どんどん川幅が狭くなって、一番せまくなった所が「川崎」と言うんだ。そこん所になんとづない大蛇が川に横たってなア……橋のかわりになっていたんと!そこを通る村の人も旅の人もな、づない大蛇の姿を見るとまんず、ぶったまげちまって。しまいには、おっかなくなって誰も近よる人がいなくなっちまんだと。
ところがある日。弓をもった立派な若者が通りかかり平気で大蛇の背中をふんでな! 川の向かい側に渡ってしまったんだと。ほうしたら……なんとパァーと大蛇が美しいお姫様に姿を変えたんだと!女「お侍さん」藤太「ハイ!俵藤太と申します」と言いながら、ふりかって見ると年は二十あまりか? この世の人とは思えぬほどに妖しく耀くように美しい女が立っていた。
藤太「お目にかかった覚えはないが、貴女は誰ですか」と尋ねると、…………女はそばに歩みより……小声で「私をご存じないのはご尤っともです」……「赤川、川崎でお目にかかった大蛇なのです」
藤太「それではどうして姿を変えて訪ねてきたのか!」と聞いたんだと。
女「私は日本の国がひらけはじめた、はるか昔から信達の湖に住んでいたのです。湖は七度も干上がっては、田や畑に変わりましたが、そのたびごとにうまく逃れて大作山の麓の『子守沢』に沢山の子供達と幸せにすごして来ました。ところが聖武天皇(756年)の御代から摺上川(すりかみがわ)のほとりに大百足(おおむかで)が現れ、『吉川』ぞいに『片倉山』を越えて、私の子供を食い荒らしに来るようになったのです。そのため、川は、私の子供の血で赤く染まり『赤川』と呼ばれております。それで、どうにかしてこの悪百足を退治したいと願っておりましたが、私達では力が及びません。これは、やはり器量のすぐれた方の力にすがる他ないと思いあのように大蛇の姿になってお待ちしていたわけです。」と涙を流して頼みました。
藤太は、一部始終を黙って聞いていた。……もし事をし損じたなら、先祖の名折れ末代までの恥辱である、しかし神々の加護の下、日頃きたえた武術をもってのぞめば、かならずや道がひらかれる。と、覚悟をきめ「分かりました。今夜のうちにも百足を退治してみせましょう」と答えた。女は大層喜んで「三本の矢」をさしだしたんだと……「これは、私たちの血と涙が流れて沢となった『毒沢』で作った矢です、どうかこの矢で、あのにくい百足を仕止めて下さい。」と女はそう言うと、かき消すように消え去った。
藤太はすぐさま身支度を整えました。先祖伝来の太刀をはき、五人張りの重藤の大弓を小脇に抱え十五束三伏もある大きな矢を三筋手にして「天王寺沼」の右手、寺山に向かった。
夜になり「矢場」に立って「片倉山」を眺めると稲妻がひらめき生(なま)ぐさい風が大作山を吹きわたり、にわかに激しい雨がふりだした。片倉山の頂だちが、みるみるうちに千本の松明をともしたように明るくなり、山鳴りの音がごうごうと山を動かし谷をゆさぶった。天王寺雷様の襲来である。
それでも藤太は少しも騒がず弓に矢をつがえ百足の近づくのをまった。百足は「穴原・吉川」の断崖をよじ登り大地をゆるがして迫ってくる。藤太は矢が丁度とどくころとみて、弓を力一パイ引きしぼり百足の眉間めがけて射た、しかし矢は難なくはじき返されてしまった。藤太は、第二の矢をつがい一心不乱に引きしぼって、ひょうと射放った。だがこの矢も踊り返り百足に突き刺さりはしなかった。
藤太は進退きわまって最後の一本の矢を……”南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)”……と祈ったら……アラ不思議、貝がら山の岩場から天狗様が舞おりて……”コレ、藤太、百足の目を狙え”藤太は神の加護、われにありと、弓を引きしぼりひょうと射た。矢はねらいたがわず百足の目に突きささった。その瞬間、天王寺雷さまのものすごい音も、ぴたりと鳴りやんでしまった。さては百足め息が絶えたか? と、その辺りを調べると百足は片倉山から「ムジナ山」にかけて長々と横たわっていた。
次の日の朝、嵐がすぎ去った大作山の木々や緑は生き生きと生命を吹き返していた。色鮮やかな若草、季節の花、きのこ、蝶など生きとして生けるすべてのものに光の訪れをそそぎ岩から流れ落ちる滝はうれしげに踊るように流れている。
女「あなた様のおかげで、日頃の仇きを退治していただき、これほど嬉しい事はありません」と心から礼をのべ感謝のしるしにと、黄金千枚、うるし千杯、朱千杯をさしだしました。
藤太「この度のことは、武門の譽れ、我が身の面目、これ以上望むものはない」と、「贈り物は辞退したい」と言いました。
女「このご恩はどうのようにて、お報いすればよいでしょう。大変勝手なことですが、麓の佐波来(さばこ)の里に、第12代景行(けいこう)天皇の御子(みこ)日本武尊(やまとたけるのみこと)様が東征の折、病に伏し佐波来湯(さばこゆ=現在の鯖湖湯)に入浴したところ、たちまち平癒したといわれる霊泉があります。私が案内しますので、どうぞ……おいで下さいますように」と誘うのである。
藤太「日本武尊がご入浴なされた霊泉佐波来湯で百足の血でけがれた身体を洗うのは、あまりに恐れ多いことです」と断った。
女は、ほとほとこまって故郷である龍宮城の乙姫様に相談した。ほうしたら乙姫様は、大作山の難儀を取りのぞいてくれたことを大そう喜んでナー、「佐波来湯の北隣りの泉で百足の血でよごれた衣類を洗い流しなさい」と啓示したんだと。藤太は再三再四の親切をことわるのも心ないことと思い快く承知して、言われた通り、泉でよごれた衣類を”そそいだところ”冷たい清水が、だんだんあたたかくなり、……、あつい温泉が湧いてきたんだと。
藤太「いやー、不思議なことがあればあるもの」と。つぶやきながら、ゆったりと温泉につかり、昨夜来の激斗(げきとう)のつかれをいやしたんだって言うんだ。
うんじゃな、おわり。
俵藤太(たわらとうた)
10世紀の栃木県の佐野にいた武士である藤原秀郷(ひでさと)の幼名です。940年の天慶の乱で、平将門を討ちました。その功により、下野・武蔵の国司に任命されます。その時代に、藤太湯(とうたゆ)が発見されたとされています。すでに、佐波来湯(=鯖湖湯)はありました。
飯坂温泉の歴史
福島県福島市飯坂町。飯坂温泉の歴史は縄文時代にまで遡ります。紀元前3000年頃……摺上川(すりかみがわ)の支流の小川(おがわ)が、飯坂温泉の南を流れており、小川と飯坂街道が交差する月崎(つきざき)そこに縄文人が住んでいました。2世紀頃、日本武尊が東夷東征の際、病にかかり、”佐波子湯”に浸かった所たちまち元気になった。とされています。また、拾遺和歌集で「あかずして わかれし人のすむさとは さばこのみゆる 山のあなたか」と詠まれている(詠み人知れず)ことから、「さばこ」という名前も定着したようです。
源泉は至る所に点在し、農民、庶民などにも重宝されていました。世に知れ渡るようになったのは江戸時代中期の享保年間の頃からで、各街道が整備されたことにより、周辺の庶民に加え、多くの旅人も訪れるようになりました。中でも、松尾芭蕉の奥の細道の中で、「飯塚(芭蕉は奥の細道において飯坂のことを飯塚と記しています)」として記され、知名度を浸透させたようです。ただし、芭蕉はこの「飯塚」において、苫屋のような宿に泊まったため、好意的な感想を記しておりませんが、、
この頃の飯坂は鯖湖湯など温泉宿が4軒、人口326人、戸数74戸と小さな温泉街だったそうで、温泉地としての体裁が整ってきたものの内湯はあまり見られなく、思い思いに宿を選んで、点在する外湯で湯治を施すようなスタイルであったといわれています。飯坂という地名はこの辺りが飯坂村と呼ばれたことに因み、伊達家の分家が飯坂姓を名乗り、一帯を開墾したことに因んでいます。これがいつしか飯坂村の温泉、すなわち飯坂温泉と呼ばれるようになりました。
飯坂温泉を訪れた、俳人・歌人としては芭蕉の他、正岡子規、与謝野晶子も訪れており、飯坂を詠んだ句碑等が建てられていいます。ヘレン・ケラーは1937年飯坂温泉に宿泊をしたのをはじめ、2度訪れています。また、昭和天皇をはじめ、皇族の皆様も訪れています。ヤマトタケルや松尾芭蕉、正岡子規、与謝野晶子、ヘレンケラー、みんな飯坂温泉のお湯ですべすべ肌を体験したのでしょうか!?

●大中寺 七不思議
大中寺ははじめ真言宗であったが、延徳元年(1489年)に領主の小山氏が快庵妙慶を招いて曹洞宗に改宗された。その後、徳川家康の関東移封後には、曹洞宗の関八州僧録職(人事統括)に任ぜられ、さらに関三刹の1つとして全国の曹洞宗寺院を管理する寺院となった。同時に曹洞宗の徒弟修行の道場として栄え、多くの雲水を抱える大寺院でもあった。
上田秋成の『雨月物語』にある「青頭巾」の話は、快庵妙慶の大中寺再興の伝説であり、また“大中寺七不思議”の1つ「根無し藤」として有名である。
根無し藤 1 … 当代の住職は、旅の折に連れてきた稚児を仏事を疎かにするほど可愛がっていたが、その稚児が急の病で亡くなると、遺体を葬らず、ついにはその肉を喰らい尽くして、鬼と化してしまった。諸国行脚の身であった快庵は、その話を聞くと寺に赴き、一夜の宿を求めた。鬼と化した住職は夜半に快庵を喰らおうとするが、その姿を見つけることができず、己の浅ましい所業を悔いて懺悔した。快庵は住職に青頭巾を被せ、一つの句を与えてその意味を考えるよう諭した。そして翌年、快庵が再びこの地を訪れると、同じ場所に住職の姿があった。句を繰り返しつぶやく住職を見て、快庵は藤の木の杖で打ち据えると、たちまち姿は消えて骨と頭巾だけが残るのみであった。……そして手厚く住職を葬った快庵は、打ち据えた藤の木の杖を地面に突き刺して寺の繁栄を祈願したところ、根が生えて大木となったのである。
根無し藤 2 … 昔々、快庵禅師という僧侶が富田の里を訪れました。富田の里には人食い坊主が住む山寺があって、里の人たちは大変怖れていました。お寺の童を亡くし、悲しみのあまり人食い坊主になってしまったのです。 その話を聞いた快庵禅師は、人食い坊主を諭すため山寺へ出向き、一編の詩を授けました。そして一年後、意味が解けずにいた人食い坊主に禅師は、命あるものは必ず召され、形あるものはやがてはなくなる、と説きました。ようやく往生をとげた人食い坊主。その墓標に挿した禅師の杖には藤の根がつき、たくさんの花を咲かせたそうです。
油坂… ある学僧が夜間の勉学のために本堂の灯明の油を盗んでいたが、それがある時ばれそうになって逃げようとして誤って石段から転げ落ちて死んでしまった。それ以降、この石段を上り下りすると不吉なことが起こるとして、使用が禁じられた。
枕返しの間… 本堂の一角にある座敷は、そこに泊まると翌朝には必ず頭と足の向きが逆さまになってしまうという。
不断の竈… ある修行僧が疲れのために竈の中に入って寝ていたが、それを知らずに火をつけてしまい、修行僧は焼け死んでしまった。その後、夢枕にその修行僧が現れ「火さえついていればこんなことにはならなかった」と言ったため、それ以降は火を絶やさないようにした。
馬首の井戸… 近隣の豪族・晃石(佐竹)太郎が戦に敗れて、大中寺に逃げ込んだ。しかし住職は匿うことを拒否したため、晃石は恨みに思って馬の首を切り落として井戸に投げ込み、自身も切腹して果てた。それ以来、その井戸を覗き込むと馬の首が浮かび出るとか、いななきが聞こえるとか言われるようになった。
開かずの雪隠… 晃石太郎の後を追って奥方も大中寺に逃げ込んだが、夫の死を知ると、雪隠へ籠もってその場で自害した。それ以来、その雪隠には奥方の生首が現れると言われた。
東山の一口拍子木… 大中寺の東にある山の方から拍子木の音が一回だけ鳴ると、寺に異変が起こると言われる。ただしその音は住職以外には聞こえないという。
 

 

●鬼怒の中将乙姫 
加仁湯のおやじ
昔、はじめて鬼怒沼に行きついたのは大類市左衛門という地元の山男だったそうである。川俣から野門、富士見峠、日光湯元を経て、金精峠から温泉岳を通り、念仏平までを踏破した。山男の市左衛門でも相当難儀したらしく、「念仏を唱えながらさまようたた」ということから「念仏平」と呼ぶようになったという。念仏平の難所を無事突破して根名草山の山頂に立つと、沢となった鬼怒川の谷を挟み眼下に絨毯を敷いたような鬼怒沼を望むことができる。
根名草山から鬼怒沼湿原を望む。正面茶色に広がった所。奥の山は燧ケ岳 「これこそ神の庭であり、柔らかな緑の園、神秘の楽園だ」と、胸が騒いだ市左衛門は勇気百倍、根名草山を下り鬼怒沼を目指す。オロオソロシ沢を渡り、四日山平のコースを進むが、ここも念仏平に輪をかけたようなアオモリトドマツの原生林で、どこも同じような地形、根名草沢へは、両岸崩壊と絶壁で降りることもできなかった。市左衛門はここで四日間も迷い歩いたという。「四日山平」という地名はここから名づけられた。そして、ようやくのことで二段滝のすぐ下、左岸から清水が滝となって落ちる柳橋沢に降り口を見つける。柳の木を倒し、橋をかけ渡して沢沿いに登って行くと、ぽっかりと奥鬼怒湿原が現れた。現在も柳沢橋の地名が残っている。
大類市左衛門は多くの苦労を続けながら鬼怒沼に到着したが、鏡のような四十八沼をちりばめた湿原の一角に、姫御殿というのがあり、姫の腰掛松がある。「天女のごとき乙姫(中将の位の鬼怒沼中将乙姫)が黄金に輝くハタオリ機で白い絹布をパタリパタリと織っていた」という伝説がある。
市左衛門は、この深山幽邃の地に、こんなきれいな乙姫が絹布を織っているなんて不思議なことだと思い、そしてあまりにも姫の美しさに息をのみ、しばらく姫のしぐさを傍観していたという。
ふと、気がつくと自分が持っていた新しい斧の柄が朽ちて折れてしまっていた。市左衛門は不思議なことがあるものだと恐れおののき、夢見る心地で逆コースの根名草山、金精峠、日光湯元から、日光市、富士見峠を越えて野門の我が家へ帰りついた。
玄関の戸を開けようとすると、家の中には、立派な法衣をまとったお坊さんが仏壇に向かって盛んに念仏を唱えている。妻も子も、親戚の人たちも大勢集まって、異様な光景である。何事だろうと思いきって戸を開いて中に入って「どうしたことだ」と問うてみると、家人が涙を流して「どうしたもこうしたもあるものか、あなたはこの世の人とは思えない。すでに死んだものと思い、家を出た日を命日として、今日は丸三年目、三回忌の追善供養を営んでいたのに、、、」と。これは陸の浦島太郎伝説そのものではないだろうか。鬼怒の中将姫=乙姫、鬼怒沼=竜宮城ということだ。
鬼怒沼四十七沼七不思議
鬼怒沼には大小四十七の沼が点在している。そして、それぞれの沼には乙姫にちなんだ名前が付けられているものも多い。
一番大きな沼が金沼、太陽が沼の表面を照らすと、沼の底が金色に輝き、乙姫の使っていた黄金のはたおり機が映っているのだそうである。その他の沼も、乙姫の日常生活に必要な調度品なのである。釜沼、茶碗沼、杯沼、お膳沼、箸沼から大小便沼というのまである。腰掛沼のほとりには、姫の腰掛松があって、ちょうど腰を下ろすように丸くくぼんでいる。岸辺に腰を掛けると、その人の姿が映るといわれる鏡沼。姫が笛を吹いたと伝えられる笛沼、音連れる旅人に茶をふるまったという茶筅沼、小さな腰掛松があった小松沼、樹林の茂みの陰で乙姫が着替えをしたという衝立沼、顔を洗ったという洗顔沼に髪すき沼、まさに乙姫伝説の宝庫である。
鬼怒沼には湧水がない。どこを調べても水源がないそうである。噴火の火口に雨水がたまって大小の沼が生じているらしい。しかも、一つ一つの沼はそれぞれ水位が違っており、水温、PH(酸性度)も違うということである。
鬼怒沼の機織姫
弥十は十七、川俣に住むいきのいい若ものである。
よく晴れた初夏のある朝、弥十は母親から用事を頼まれた。日光沢へ嫁に行っている姉のところで、先日、赤ん坊が生まれた。祝いに餅をついたので、届けてやってくれというのである。 弥十はこころよく承知して、さっそく餅の包みを背負い、家を出た。
山道をせっせと登ると、汗ばむほどである。ブナも白樺も楓も水楢も青々と繁って、その上をやわらかい風が渡る。駒鳥がしきりにさえずっている。草いきれでむせるようだ。鬼怒川の渓流が足もとを涼しげに流れて行く。
昼ごろに姉の家に着くと、姉も姉婿もたいそう喜んで、昼飯を食わしてくれた。
飯を済ませ、一休みして、弥十は姉の家を出た。
こんどは荷がないので、足も軽い。弥十はとぶように道を急いだ。
しかし、途中でふと立ち留った。もう、とっくに、下りにかかっていなければならないのに、道はなお山を登って行く。どうやら途中で、わきへ迷いこんでしまったらしい。
「まあ、いいや、まだ日は高い。そのうちに道がみつかるだろう」
川俣で生まれ育って、このあたりの地形を知り抜いている弥十は、べつに不安も感じなかった。
登っていくうちに、しだいに視界が開けた。それは、弥十も初めてみる風景だった。
ひろびろとした台地に、大きいの小さいの、幾十ともなく沼が点在する。しかも、いまは夏のはじめのことで、可憐な花が咲き乱れていた。
岩の間に群れ咲く、玉子の黄味みたいな花は岩車、羞じらう乙女のようにうつむいて咲く淡紅花は姫石楠花、釣鐘の形の岩鏡、見渡す限り、咲き競い、甘い匂いはあたりに満ち満ちて、弥十は思わず五体が痺れた。
「なんといい匂いだ。なんと美しい風景だ。この世の極楽とは、こういうところを言うのではあるまいか」
子供の頃から弥十は、鬼怒沼の話を聞かされていた高くそびえる鬼怒沼山の上には、たくさんの沼がある。そこには春から夏にかけて、きれいな花が咲いて、人を夢見心地に誘いこむ。しかし、鬼怒沼には、妖しいことがいろいろある。
むかし、沼に大蛇が住んでいた。あるとき、腕のいい猟師がこれを撃ち殺したために大洪水が起こり、麓の村々はたいそう迷惑を蒙った。
それからまた、沼には機織姫が住んでいる。姫が機を織ろうとしているとき、うっかり覗き見すると、おそろしい祟りがある。
弥十はこうした言い伝えをたくさん聞かされ、「だから、鬼怒沼へは、近寄ってはなんねえぞ」と、きつくいましめられていた。
「ここは、きっと、鬼怒沼なのだ」
心のうちで弥十は呟いた。が、少しもおそろしいとは思わなかった。花の甘い香に酔い、それに歩き疲れてもいたので、岩の上にごろりと横になった。岩は日に照らされて、ほどよくあたたまっている。弥十はいつか、うとうとと眠りこんでしまった。
日が翳って、うそ寒くなったのか、弥十はふと眼をさました。びっくりしてあたりを見回した。
「そうか、おらはここで眠ってしまったんだな」
その弥十の眼が、沼の上にいるあるものを捉えた。光りかがやくような美しい女である。黒髪は肩を越えて背になびき、身には水色の羅(うすもの)をまとっている。遠目のよく利く弥十は、羅の下のもり上がった乳房や、まるみを帯びた白い尻まで、すっかりみてとってしまった。
女はなにか歌を歌いながら、楽しげに機を織っていた。
トン、カラリ、トントン、カラリ
女の白い手が機の上をす早くかすめたと思うと、梭(ひ)が走り、筬(おさ)が動いた。
弥十は呆然と見惚れていた。
「天女さまだ、天女さまだ」
乾いた唇をなめなめ、夢中で呟いた。
ふっと、女の手がとまった。女は顔をあげて弥十を見た。たちまち女の顔に、怒りの色が走った。おそろしい眼をして弥十を睨んだかと思うと、さっと立ち上がった。
女の手から、空を切って、梭がとんできた。狙いはあやまたず、弥十は額をわられた。どっと血が溢れた。気がついたときには、もう、女の姿はどこにも見えなかった。
弥十がぼんやりと家へ戻ってきたのは、その日も暮れ切った時分だった。どこをどう歩いてきたのか、弥十の麻単衣はあちこち裂け、顔も手足も血と泥にまみれ、履物もなかった。それでいながら、どこで拾ったのか、飴色のみごとな梭を一つ、しっかりと握りしめていた。
あれほどいきのいい若ものだった弥十が、その日を境に、すっかり腑抜けになってしまった。眼はうつろで、ものも言わず、時折、口の中でなにか呟くばかりである。
・・・あれは、鬼怒沼のほとりへ迷いこんで、機織姫を見たにちがいない。
村人はおそろしそうに噂した。
弥十はそれからまもなく、痩せ衰えて死んでしまった。
山の新伝説 「鬼怒沼の絹姫」
いつの頃からか、鬼怒川の上流にある山深い栗山の里に、「鬼怒川をどこまでも遡ればこの世とは思えぬ仙境があり、美しい姫君が住んでいる」と言う言い伝えがありました。
勇気ある栗山の若者の仲間が仙境と姫君を尋ねて鬼怒川を遡って行きましたが、その都度山の険しさに阻まれ、源流にまで達することができませんでした。また、別の仲間は中禅寺湖の湖岸から戦場ヶ原を北に向かい、金精峠を登り温泉岳を過ぎたものの、薄暗い原始の森の中に迷い込んでしまい、恐怖に駆られて口々に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることしかできませんでした。それでも何日もかかってやっと戦場ヶ原に戻ることができました。
そのうち山での恐ろしい話が若者に広がり、仙境探検に出かける者はいなくなりました。行く者が一人もいなくなれば、俺が行くと言う者が現れるものです。当然一緒に行こうと言う者は誰もおらず、一人で出かけることになります。
村でも勇気と知恵があることで評判の若者がついに仙境探検に出かけると言い出しました。若者は、親や兄弟の引き止めるのも聞かず、トチ餅と斧とつり道具を持って仙境へ向かいました。金精峠、温泉岳、念仏平、根名草山をなんとか通り過ぎ、鬼怒川の最上流部に出ました。
ここは鬼怒川を遡行したグループも到達した所ですが、この先は山が切り立っており、どこを行けば仙境にたどり着けるのか、分からなかったのです。若者はなにやら無言で念じながら、最も勾配のきつい山腹を登り始めました。
そして、悪戦苦闘すること、数時間ついに目の前が明るく開けました。あふれるような緑の中に青い空と白い雲を写した沼が無数にありました。そして沼の周りには赤や黄色などの珍しい草花が咲いていました。今までに見たことの無い夢のような美しさです。若者が景色に見とれていますと、なにやら「シュッ、シュッ、トン、トン」と音が聞こえてきました。音のほうに目を転じると、涼しげな建物があり、なんと若い天女のような娘が機を織っているではありませんか。
若者は村で言い伝えられていた仙境と姫君に出会えたことを確信しました。娘は、若者が食い入るように見ているのを知ってか知らずか、機を織り続けました。若者はわれを忘れて、美しい娘を瞬き一つすることもなく、見続けていました。
三日後、娘が立ち上がって外に顔を向けたとき、若者は、娘と織物のあまりの美しさに「あっ」と驚きの声を発しました。
次の瞬間、娘はもちろんのこと、建物も跡形も無く消えていました。
われに帰った若者の背筋に冷たいものが走りました。若者は、ぶるぶる震えながら、後ろも見ずに山の斜面を駆け下りました。
つりに来たときの記憶を頼りに、栗山の里にやっとの思いで帰り着くことができました。懐かしい我が家の前に立つと、なにやら仏事が執り行われている様子でありました。留守中に若者の家に不幸があったのでしょうか。心配になった若者は、入り口で「お父う、お母あ、今戻ったよ。」と声をかけますと、奥から人々が出てきて、「お前、無事で戻れたのか、良かった、良かった。」と涙を流すばかりでありました。
この日、山に入ったまま戻らなかった若者の三回忌の法事が執り行われていたのです。
この時以来、鬼怒沼の絹姫に出会った者は一人もいないそうです。また、この若者の名前は残念ながら伝わっておりません。

この話は、地名説話のひとつと考えられる。一つは金精峠の北にある「念仏平についてであり、二つは「鬼怒」の語源についてである。
「念仏平」は特に説明するまでも無いが、「鬼怒」については、機おりの「絹姫」の物語から同じ音である「鬼怒」に結びつけ、鬼怒川などの「鬼怒」の謂れとするものであるが、これは文字から来る語呂合わせに過ぎない。古くは「上野の国」と「下野の国」は、合わせて「毛野(けの)の国」と呼ばれていたが、「けの」⇒「けぬ」⇒「きぬ」と変化し、「鬼怒」の文字が当てられた。なお、「毛野」は「木の生い茂った野」であり、未開拓の地の意味と考えられる。
この話は、「山の浦島太郎物語」でもある。いずれの話も、異界における時間が人間世界の時間より遅れるところに共通点がある。逆に言えば、異界から人間世界に戻ると、時間はずっと先に進んでいたのである。なにやら時間や空間は絶対ではなく、伸び縮みすると言う相対性理論の話のようである。
鬼怒沼の機織姫
昔日光の奥の川俣という所に「やじゅう」という十七になる若者が住んでいた。
ある日やじゅうは母親から、日光沢に嫁に行っている姉に子供が産まれたので祝いのもちを届けてくれと頼まれた。
昼頃姉の家に着くと姉は大変喜び、やじゅうは飯をすませ一休みしてから姉の家を出た。
今度は荷が無いので足は軽い。だが途中で足を止めた。もうとっくに下りにかかってよいはずなのに道はなお山を上っている。
やじゅうは不思議に思ったが「まあいいか、そのうち道が見つかるだろう」と思って歩いた。川俣で産まれ育ったやじゅうはこの辺りの地形を知り尽くしているので、別に不安もなかった。
そして上っていく内に次第に視界が開けた。そこは、やじゅうも初めて見る風景であった。
広々とした大地に幾十ともなく沼が点在し、しかも今夏の始めで可憐な花が咲き乱れている。
やじゅうは「何と美しい景色だ、この世の極楽とはこういう所を言うのか」と驚いた。
やじゅうは子供の頃から「鬼怒沼」の話を聞かされていた。
高くそびえる鬼沼山の上にはたくさんの沼があり、そこには春から夏にかけてきれいな花が咲いて、人を夢見心地に誘い込む。
その沼には「機織姫」が住んでいて、姫が機を織るのをうっかりのぞき見すると、恐ろしい祟りがある。
やじゅうはここはきっと鬼怒沼なのだと思った。花の香に酔い、それに歩き疲れていたやじゅうは岩の上にごろりと横になった。
岩は日に照らされて程よく温まっており、やじゅうはいつかうとうとと眠りこんでしまった。
そのうち日が陰って薄寒くなり、やじゅうはふと目を覚ました。するとどこからか誰かの歌声が聞こえてきた。
岩影から声のする方を見ると、やじゅうの目に機を織る娘の姿が映った。それは光り輝くような美しい娘であった。
やじゅうは機織姫だと思い、うっかりのぞき見すると恐ろしい祟りがあると思い出し、思わず目をふせた。
だが何となく気になり、もう一度岩影からそっと娘を見てみた。娘の黒髪は肩を越えて背になびき、身には薄布をまとっている。
さらに遠目のよくきくやじゅうは、薄布の下の盛り上がった乳房や、丸みをおびた尻まで、すっかり見てとってしまった。
あまりに美しい娘の姿は天女様のように見え、やじゅうはもっと近くで見たいと、言い伝えも忘れてふらふらと娘に近付いていった。
やじゅうが娘の目の前に近付いても、娘はただ歌を歌いながら機を織り続けていた。
やじゅうは「天女様…」と言って娘の肩に手をかけた。
その時、娘は「手をどけてくださんか、機織りができませぬ」と言ってやじゅうの手を掴んだ。
その手はものすごい力でやじゅうの手をしめつけた。やじゅうは娘のあまりの力に思わず声をあげふりほどいた。
やじゅうが驚いて身上げると、娘は突然やじゅうの顔に爪を降り下ろした。
やじゅうが顔を触ってみると、その手には血がべっとりとついている。
娘は「この沼には近付いてはならぬと知っていて足を踏み入れたのか?」と言った。
やじゅうはたまらずその場から逃げ出した。
娘は逃げるやじゅうを見ながら「この沼に入った者は帰すわけにはいかぬ」と言って機織り機の杼(ひ)を投げ付けた。
やじゅうが必死になって走りに走りに、ようやく自分の家に辿り着いた。
だがその時、娘が投げた杼が戸板を突き破り、その糸がやじゅうの身体をぐるぐる巻きにした。
そしてやじゅうはものすごい力で引っ張られた。
やじゅうは必死で「助けてくれ!鬼怒沼にはもう二度と近付かねえ!」と許しをこいたが、娘はすごい力でやじゅうを引きずっていった。
やがてやじゅうは鬼怒沼まで引き戻されてしまった。やじゅうが必死で謝ったが、娘は許そうとしなかった。
思いあまったやじゅうは、娘に向かって殴りかかった。
だが娘はひょいとやじゅうをかわし、やじゅうは勢いあまって後ろの沼に飛び込んでしまった。
やじゅうは糸にからまれて身動きが取れず、とうとう沈んでしまった。
娘は沈んだやじゅうを見て、また機織りを始めた。それからしばらくして、沼に沈んだやじゅうがぷかりと顔を出した。
そしてゆらゆらと娘に近付くと、やじゅうは娘に杼を突き立てた。
娘は悲鳴を上げ、その場に倒れこんだ。横たわった娘は動かなくなった。
とその時突然、娘の身体が白く光り、やがて氷が砕けるように消えてしまった。
そしてやじゅうは、ようやく命からがらぼんやり村に戻ってきた。
やじゅうの着物はあちこち裂け、顔や手足は血と泥にまみれていた。
そしてそれでいながら、あめ色の見事な杼をひとつしっかりと握りしめていたそうだ。
それからも、鬼怒沼には春から夏にかけて見事な花が咲き乱れ、人を夢見心地に誘いこむ。
沼には機織り姫が住み、うっかりのぞき見すると恐ろしい祟りがある、ということだそうだ。
鬼怒沼の怪
[塩谷郡]
沼の主
上州(群馬県)小川村のある猟師が、獲物を追いながらいつのまにか山道を越えて、鬼怒川の水源である鬼怒沼へ出てしまいました。
その時、うっそうとした密林にかこまれている沼から、何か不気味なうなり声がおこったので、びっくりしてそちらを見ると、沼の中ほどから、眼をらんらんとかがやかした大蛇があらわれ、かま首をもち上げてこちらに向かって来ます。
猟師は夢中で鉄砲を向け、引き金を引きました。
みごと手ごたえあって、大蛇は水面にのたうちまわっていましたが、さえわたっていた名月はたちまち黒雲におおわれ、雷鳴とどろき、雨がはげしく降ってきて、満々と水をたたえていた沼の一部はくずれ落ち、下流は大洪水となってしまいました。
これから後、鬼怒沼の水は涸れてしまい、大沼の中に四十八沼をその名残りにとどめるだけになってしまいました。
これが享保八年(1723)八月の五十里洪水です。
猟師はやっと家へにげ帰ることができましたが、これがもとで、狂い死にしてしまいました。
鬼怒沼の乙女
ある年の初夏のころ、ひとりの若者が山しごとに出て道に迷い、この鬼怒沼のほとりへ出てしまいました。
ちょうど、美しい花があまい香りをただよわせて一面に咲きほこっていましたが、どこからともなく、はたおりの音が聞こえてきました。
鬼怒沼のほとりには、美しいお姫様が住んでいて、はたを織っているそうだ、といういいつたえはあるものの、まだ誰も見たことはありません。
その音は花の香りの中に、うっとりとするようなふしぎな調べとなって若者の胸にひびいてきて、夢見る心地で聞きほれていました。
その時、沼の奥のほうに、天女のような美しい女があらわれ、沼の上をすべるようにこちらへ近づいて来ましたが、花の中にたたずむ若者の姿を見ると、さっと怒りをあらわし、その手に持った梭を若者になげつけて姿を消しました。
若者はそのまま気を失ってしまいましたが、やっと正気づいて家に帰ったのは、それから三日の後だったそうです。
若者はそれからかわいそうに気が狂い、十日ほどして死んでしまいました。
(註 梭・・・はた織りの道具の部品、横糸を巻いたくだがはいっており、たて糸の間に右または左から入れて、たて、よこの糸を組んで織るのに使用する。)
平家落人 女夫渕地名の由来
「平家でない者は人でない」と一門の栄と奢りを極めた平家でしたが、 壇の浦の戦い(1185年)で破れ、散り散りになって、源氏の追ってを 逃れ山の奥へと逃げのびていきました。 その頃、中将姫という、 高貴な人が居り、姫は片時も忘れることのできない中納言が奥州路を さして落ちていったと聞き、その後を追って同じく奥州路に向かいま した。 当然、中将姫も追われる身のつらさ、言葉に表せないような 苦しみを重ね、塩原路を過ぎ、鬼怒川に沿ってただ一人登ってきまし た。 戦禍の中で平家の公達の多くは戦死しましたが、中納言は姫の 安否を求めて鬼怒川の奥へ奥へと進んでいきました。 群馬県境に近 い平五郎山引馬峠を越え、たいへん苦労して下ってきたので、その名 を「苦労沢」と名付けられました。 これは何時しか、黒沢に変わり ました。 中将姫は川俣の奥の洗坂沢付近に身をひそめ、神仏にお互 いの無事を祈願しつつ、なお、中納言を探し求めて歩きました。 手 白沢温泉に登る途中「合の山」と云う地名がありますが、この一説、 愛の山からつけられたといわれています。 鬼怒沼山より源を発して います、鬼怒川をはさんで、右岸に中将姫、左岸に中納言が会うすべ もなく、厳しい大自然の訓練を受けながら互いを探しておりました。  しかし、長い年月の苦労が報われて、ある日鬼怒川を過ぎ黒沢と本 流の合流地点である「三音渕」のほとりで、中将姫と中納言は幾久ぶ りに再会し、喜び合いました。 これから後、「三音渕」は「女夫渕 」となり、中納言は姫の手を取り、鬼怒沼を目指して行ったのです。  これから先は、鬼怒沼につながる伝説になります。 七百有余年の 月日が流れた今日も、清らかな瀬音に立ち昇る湯の香と共に「女夫渕 」の伝説は語り伝えられているということです。
実在した中将姫 1  藤原氏の中将内侍
中将姫伝説と言えば、當麻寺曼荼羅を織り上げた中将姫の伝説である。デフォルメされて折口信夫の「死者の書」となって広く知られている。
時代は奈良時代、聖武天皇の天平5年、藤原豊成の娘に生まれたのが藤原南家の郎女、後の三位中将内侍である。曾祖母が藤原不比等で、祖母武智麻呂が藤原南家の始祖になる。
実在した中将姫 2 平安時代(1015年頃)
当子内親王の乳母、中将内侍。
第67代三条天皇の第一皇女当子内親王は斎宮に卜定されて16歳になって斎宮を退下する。天皇鍾愛の皇女だったが、藤原道雅が皇女と密通しているというウワサが立った。父天皇は激怒して、藤原道雅を勅勘、二人の手引きをした中将内侍を追放した。内親王は道雅との仲を引き裂かれ、悲しみのうちに落飾し、6年後に23歳の若さで生涯を閉じる。
今はただ思ひ絶えなんとばかりを人づてならで言ふよしもがな 藤原道雅が内親王と別れた後に贈った歌が後拾遺集に採用され、百人一首にも選ばれている。
憎からぬ人の着せけむ濡れ衣は思ひにあへず今乾きなむ 中将内侍 (後選和歌集)
中将内侍が追放の末に栗山村に至って女夫淵で恋人と再会するという物語もできそうだが、平家落人伝説が背景とすると、時代が1000年早まってしまう。また、乳母であって姫とは呼びがたい。  
 

 

●とちぎの伝説
鉢の木 旧葛生町(現佐野市)
山本の里(旧葛生町)で大雪に遭い、途方に暮れた旅僧は、貧しい農家に泊めてもらった。この家の主人は、貧しい暮らしではあったが、大切にしている鉢の木を焚いて旅僧に暖をとらせた。僧は主人にその素性をたずねると、佐野源左衛門常世のなれのはてと名乗り、零落はしたが、いざ鎌倉という時には、いの一番にはせ参ずる覚悟であると語った。その後、かの旅僧(実は最明寺入道時頼(鎌倉幕府第5代執権・北条時頼))は鎌倉に帰ると、常世の言葉の真意を確かめようとして諸国の士を招集した。果たせるかな常世はやせ馬に鞭打ってはせ参じた。そこで時頼は常世の忠節を賞し本領をもとに戻した。
小町塚 岩舟町
平安朝の昔、若いころは都の貴族のあこがれのまとであった小野小町も、年老いて容色衰え、老残の身を諸国流浪の旅に託すことになった。しかし、この地にたどりついた時ついに発病し、薬師堂にこもって病気回復を祈願したが、霊験あらわれず、この世をはかなんだ小町は、三杉川に身を投げて死んだという。里人はこれをあわれんで、小町を埋葬し、碑をたて、塚を築いた。以来この塚を、小町塚というようになったという。
戦場ヶ原の由来 日光市
昔、男体山の神と赤城山の神が、美しい中禅寺湖を自分の領土にしようと、大蛇と大ムカデに姿を変え、激しい争奪戦を繰りひろげた。しかし、なかなか決着がつかない戦いに業を煮やした男体山の神は、弓の名人である自分の子孫・猿麻呂に大ムカデの目を射抜かせ、ついにこれを討ち負かした。この戦いが繰りひろげられた広野原が、現在の戦場ヶ原なのだと伝えられている。
那須温泉の由来 那須町
農産物を荒らす白鹿を追い続けていた猟師の狩野三郎行広は、矢を打ち込んだにもかかわらず傷ひとつ残さない白鹿のことを不思議に思い、深山幽谷に分け入ってその姿を追った。そこで行広が見たものは、悠然と湯につかる白鹿の姿だった。鹿の傷を癒していたのはこの温泉だったのだ。以来、行広はここに湯治場を開き、病気やけがで苦しむ村人たちを救ったという。
宇都宮城釣天井 宇都宮市
幕閣から遠ざけられたのを恨んだ本多上野介正純は、2代将軍・秀忠が日光参拝の途中、宇都宮城に寄るのを機に将軍を亡き者にしようと、釣天井の仕掛けを持った御座所をひそかに場内に建築し、機会を待った。しかし、釣天井を作った大工からもれ、未然に鎮圧され、正純は家禄を没収され流罪となった。
殺生石 那須町
昔、中国の人々をたぶらかして、日本に飛来した白面近毛九尾の狐が化した玉藻前は、時の帝の寵愛を受けるようになった。帝の心身が衰弱するのを不思議に思った大臣の依頼によって、陰陽師の阿部泰成が、玉藻前の正体が狐であることを見破った。京で見破られた九尾の狐は那須野原に飛来し、しばらくの間人間界に害を及ぼしていたが、朝廷から遣わされた三浦義純、上総介広常と那須領主が力をあわせこれを討ち取った。ところが九尾の狐は死んだ後も、那須野原の石と化し毒気を吐き、道行く人を悩ましたので、殺生石と呼ばれた。後世、名僧・源翁和尚がこの地を訪れ済度し、狐の霊を鎮めることができた。

「殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほど重なり死す」と松尾芭蕉が『奥の細道』で記した那須の殺生石は、現在でも温泉地の一角にある。昆虫や小動物がそばに寄ればたちどころに死に、場合によっては人すらも命を落とすと言われた怪石である。実際には石が瘴気を発しているのではなく、付近から噴出する火山性ガス(硫化水素・亜硫酸ガス)によって死に至るのだが、目に見えないガス故に昔の人々にとってはまさに恐怖の対象であったのだろう。
この石にはあまりにも有名な伝承が残されている。“玉藻前=白面金毛九尾狐”の話である。これは室町時代頃に『御伽草子』の一編として成立、さらにさまざまに脚色されて能・人形浄瑠璃・歌舞伎などで人気を博した題材である。
久寿2年(1155年)、“化生の前”と呼ばれる下女が鳥羽法皇の院で働き始めた。下女は容姿端麗、あらゆる知識に精通しており、あっという間に法皇の寵愛を受けて、そば近くに仕えるようになった。その後、宴席で灯りが消えた時に自ら光を放つという不思議を起こして名を“玉藻前”と改めるに至り、法皇は寵愛すると同時に畏怖の念を抱くようになった。
それを境にして法皇の体調が悪化する。医師は邪気が原因であるとし、陰陽師の安倍泰成が祈祷すべしと具申するも一向に良くならず、ついに泰成は事の真相を包み隠さず話し出す。実は“玉藻前”の正体は下野国那須野にある二つ尾の古狐であり、それが法皇に取り憑いて害をなしているという。しかもその狐は天竺や震旦の王に近づき国を滅ぼそうと暗躍した過去があり、今日本の仏法を破滅させ王朝を簒奪しようと企んでいるという。そこでその正体を見破るために、泰成は泰山夫君の祭を執りおこない、玉藻前に御幣取りの役に任じたのである。玉藻前は拒絶するが、周囲から説得を受けて渋々承知して御幣を取ったが、突然その姿を消してしまう。やはり正体は狐であり、この出来事以来、法皇の病は治ったのである。
狐が潜む那須野には、それを退治するために弓の名人の三浦介と上総介の軍勢が派遣された。しかし容易に捕らえることは出来ず、さらに鍛練をして再度臨むがそれでも捕まえることが出来ない。ところが三浦介の夢に若い女が現れて命乞いをした。それを狐の進退窮まった様子と受け取った三浦介は、翌日ついに弓で狐を射殺したのである。
こうして退治された古狐の執心が凝り固まったのが殺生石とされ、そこから発する瘴気によって生き物の命を奪うようになったのである。そして退治から約200年経った至徳2年(1385年)、那須野に立ち寄った玄翁心昭が殺生石を打ち砕き引導を渡したとされる。その時砕かれた殺生石の破片は全国にある“高田”という名の地に飛散したと言われている。現在那須野に残っている殺生石は、本来のものの一部である。また近くにある温泉神社の境内には、九尾稲荷神社がある。
朝日堂・夕日堂 茂木町
仏の山峠に1軒の茶店があり、お仙という娘がいた。お仙は峠に出る追剥が父親であることに気づき、止めさせようと、旅人を装って峠に向かい、父親の手にかかって死んでしまった。父親は、犯した罪を悔い、娘の冥福を祈るため、朝日堂と夕日堂を建立した。
渡良瀬 旧足尾町(現日光市)
勝道上人が初めて足尾の地に着いたところ、川には橋がなく思案に暮れてしまった。そのうち上人は、浅瀬を見つけて無事に対岸に渡ることができたので、その地を渡良瀬と名づけたという。日光開山の祖といわれている勝道上人にまつわる話は、 この他にも日光、上都賀地方にかなり多く分布している。
蜂の恩返し 旧烏山町(現那須烏山市)
那須与一が狩に出た時、ススキの原でクモの巣にかかっている蜂を救った。この蜂が、そのお礼として黄金を彼に与えようとしたが、辞退したので、二本の鏑矢(かぶらや)を与一に与えた。屋島の戦いで扇の的を射たのはこの鏑矢だという。
 

 

●栃木で伝承される「妖怪」
天狗
古峰ヶ原 [鹿沼市]
“古峯ヶ原”の神様や天狗様は山芋を好むという。信心深い人には忘れ物を飛んで届けてくれ、借りた傘を屋根に置いておけば集めてまわってくれるという。
川俣 [日光市]
…愛宕山の深い穴(穴はダムに水没)。子どもが悪さをすると、出てきてこらしめたという。
百目鬼(どうめき)
百目鬼通り [宇都宮市]
明神山 [宇都宮市]
長岡百穴古墳 [宇都宮市] 
本願寺 [宇都宮市] 
慈光寺 [宇都宮市]
宇都宮にはいくつかの民話や言い伝えが残されている。
1)平安時代、宇キ宮で百匹の鬼の頭目だった「百目鬼」が藤原秀郷に退治された。その400年後、本願寺の住職が熱心に説教をしていると、そこに毎日姿を見せる美しい女性がいた。その正体は「百目鬼」で、昔の力を取り戻すためにかつてここで流した血を吸い取ろうとしていたのだった。しかし、説教を聞くうちに改心し、角を折り、爪をささげたという。明神山は、百目鬼が討たれて倒れた場所、長岡百穴古墳は、百目鬼が400年間身をひそめ、傷ついた体が癒えるのを待った場所と言われている。
2)八幡山と二荒山の山間には、たくさんの山賊が潜んでいて、山賊たちの目が月夜に光る鬼の目のように見えたために、その辺りは百(たくさんという意味)目鬼と呼ばれるようになったと言われる。
河童
川俣の馬坂沢 [日光市]
カジカという魚の中にまれに赤いものがいる。これは河童が化けたものでこの魚を殺さなければ河童に化かされないと言われていた。
戸中 [日光市]
7歳の子どもがいる家で、屋根に白羽の矢がついた家は、その子を川にやらなくてはならなかった。本来、子どもは河童に取られてしまうので戻らないが、餅を持たせた子どもが無事だったことから、餅を川に流す風習が生まれた。
古峰ヶ原 [鹿沼市]…おなべ淵
おなべという娘が身を投げた淵は、河童が住むとも言われ、引き込まれてしまった人もいると言い伝えられている。
妙伝寺 [益子町] 
いたずらばかりしていた河童が、寺の住職によって改心し、農民たちが日照りで苦しんでいるときに雨を降らせてくれた。河童の干物が妙伝寺に残っていると言われる。
そのほか、県内で“河童”の言い伝えがある場所
小倉川 [鹿沼市] / 湯西川 [日光市] / 尾頭峠 [那須塩原市] / 山形家 [鹿沼市] / 入粟野上五月地区の粟野川 [鹿沼市] / 上粕尾発光路 [鹿沼市]
九尾の狐(きゅうびのきつね)
殺生石 [那須町]
玉藻前(たまものまえ) / 奈良時代に、遣唐使・吉備真備が日本へ帰る船に、いつの間にか16、7歳の美少女がこっそり乗り込んでいた。この少女は、玄界灘まで来たところで見つかり博多に上陸するとその少女は姿を消した。これが「白面金毛九尾の狐」だったという。平安時代末期、玉藻前(たまものまえ)という美しい少女がいた。玉藻前はやがて鳥羽上皇に仕える女官となり、美しいだけでなく非常に博識だったことから上皇の寵愛を受けるようになった。上皇は次第に病に伏せるようになり、医師にも原因が分からなかった。しかし陰陽師・安倍泰成が玉藻前の仕業と見抜く。安倍が真言を唱えると、玉藻前は変身を解かれ、九尾の狐の姿で宮中を脱走し、行方をくらました。その後、安部泰成率いる討伐軍は、那須野(那須町)で九尾の狐を発見し、討つ。しかし、息絶えた九尾の狐は巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪うようになった。そのため村人は後にこの毒石を「殺生石」と名づけた。
雷獣
第一いろは坂の 屏風岩にある洞穴 [日光市]
春と秋の2回、暴風を起こして土地を荒らしたため、二荒山神社などに残る「二荒」の由来の一説とされている。
那須烏山市
ネズミに似てイタチより大きく、鋭い爪を持ち、尻尾は二股に分かれていると言われる。夕立が起こりそうな雲が現れると雲に飛びこみ、雷になると言われていた。
 

 

●栃木県の民話・伝説
宇都宮市
大豆3粒の金仏 善願寺の大仏は旅の僧にもらった3粒の大豆を栽培して得たお金で作ったという伝説
男抱山(おただきやま)物語 地元の娘と江戸から来た男との悲恋物語
足利市
字降松(かなふりまつ) 足利学校の学生が読めない字を書いた紙を夜のうちにこの松の枝に結んでおけば、次の朝には読み仮名が振ってあったという松。実は7代目庠主・九華がかなを振っていたという。
蛭子様 足利義兼に不義の疑いを掛けられて自害した時子夫人の腹中からヒルがたくさん出てきた。無実の罪で死んだ時子夫人の菩提を弔うために建てられたのが現在の蛭子堂(蛭子様)で鑁阿寺(ばんなじ)本堂の西にある。
栃木市
このしろの伝説 有馬皇子と五万長者の娘との恋物語
白旗八幡と旗掛け桜 源義家が陸奥国へ下向のとき、勝泉院内の八幡宮にもうでて、桜木に白旗を掛けたとされる伝説
日光市
戦場ヶ原 二荒の神様は蛇の兵隊を、赤城の神様はムカデの兵隊を繰り出し戦った。勝負はつかず引き分けに終わった。
山菅の蛇橋 日光開山の祖・勝道上人が大谷川を渡るとき2匹の蛇が現れ橋の代わりをした。
今市市
生子石(うぶこいし) ヤマメを食べて石になった身重のおさよと、生まれた赤ん坊の話
追分地蔵尊 現在、日光街道と例幣史街道の分岐点にまつられている。昔、大谷川の河原に埋もれていて、のみを当てたら血が出たという。
小山市
千駄塚 長者の家に荷を積んだ1000頭の馬を連れた商人が、泊まり、長者と掛けをした。商人が負けて荷を置いていった。翌年又同じ商人が訪ね、又掛けをして今度は勝ち、前年の荷だけ持っていった。今年の荷の中身はがらくたばかりで。長者はこれを埋めた。現在の千駄塚の地名からきた民話
のろわれた七夕 豊臣秀吉の小田原征伐のとき、小田原方だった小山政種が秀吉方に城を攻められ落城した。この日が七夕だったので小山では七夕祭りをしないと言われる。
矢板市
旗掛け松 八幡太郎義家が奥州征伐の祭、宿陣したので宿陣の印である旗掛け松がある
金輪とはめられたヒル ヒルは気持ち悪い姿のうえに人に吸い付き血を吸うので、産土神の三島明神が口に金輪をはめた。
鬼が坂 筑波山ふもとに鬼女がおり、片岡兵郎が退治に乗り出し、鬼女は大槻の山中に逃げ込みここで討ち取られ鬼が坂となった。
黒磯市
子守石 娘に化身した蛇と呉服屋の主人が結ばれ、子供が産まれた。しかし、出産の様子をのぞき見され、蛇と知られ自ら子供を置いて家を出た。主人が泣く子を背負って沼っ原の大きな石の所で「もう一度会ってくれ」と願を掛けると一度だけ会うことが出来たという。
上三川町
ねずみ観音 馬になろうとしてなれなかったネズミの話
片目のドジョウ 上三川城落城に伴い片目を失った姫君の悲話
南河内町
埋蔵金伝説地「金山」 南河内町本吉田南の通称「金山」と言われている場所で、結城家17代晴朝の埋蔵金伝説
吉田が池と片目のコイ 南河内町龍興寺の北東に残る小さな2つの池には龍神のお使いのコイ、池の雨乞いの池として伝説がある
天狗山のてんぐとひょう 南河内町薬師寺八幡宮の東、昔、天狗が住んでいた天狗山、ひょうを降らさないでほしいと願を掛けた農民と天狗の話
上河内町
巨人ダイダラボウシ 昔、ダイダラボウシという雲を見上げるような巨人が出羽の羽黒山に住んでいた。ある日、この山の土をもっこに乗せ東の方に向かって歩き出した。下野国河内郷に着いたとき、ダイダラボウシは一休みしようともっこの土を降ろし、休んだ後、土を忘れて行ってしまった。この土山が現在の羽黒山で肘を付いたところが肘内、足跡が残り沼となったのが芦沼と言われる。
河内町
3本杉とキツネ 白沢宿のはずれの鬼怒川べりに3本杉があり人をだますと言われてきた。その話をうまく利用し、宿場に泊まった殿様と家来がだましあって遊んだという話
かしらなし 上河内町の羽黒山を背負ってきたダイダラボウシが疲れ切って芦沼と弁財天沼にまたがり、小用を足してたまったところだと言う話
西方町
八百比丘尼 昔、八重姫という一人の姫がいた。ある日、貝の肉を食べたところ、不思議なことに娘はいつまでも若く、美しいまま年を取らなかった。娘は尼となり全国を巡り歩き、800歳まで生きたという。人々は彼女のことを八百比丘尼と呼んだ。
足尾町
孝行猿 猟師が山で道に迷い猿に助けてもらったお礼に末娘を猿の嫁にやる話
二宮町
宗光寺の鬼つめ 悪人が死に、野辺送りの途中、空から鬼が現れ死がいを奪おうとしたが、住職が鬼を撃退した。その時の爪が残る。
高田山専修寺の夜祭り 上人が如来堂に入ったまま忽然と姿を消したため夜を徹して捜したが見つからず以来夜祭りとなった。
茂木町
お島田 3年間の約束でお島という娘が奉公に来た。地主は冗談に3段歩の苗取りを一番鶏が鳴かないうちに終わらせれば帰してやると話した。お島は一生懸命仕事をしたので終わりそうになった。地主は「コケコッコー」と鳴き真似をした。お島はそれを聞いて、ひょいと立ち上がったがそのまま田の中へ前かがみになって死んでしまったという。
野木町
ドウロクジン(道祖神) 丸林の五差路にドウロクジンがまつってある。丸林にはほかにヒノゴゼン(日の御前)弁天の3人の神様がいた。昔、ドウロクジンはいつも弁天様のところへ夜這いをしていたが、あきれた弁天様に丸い池の中に引き込まれてしまった。その時ヒノゴゼンに「1つくらいよいことをしろ」ととがめられ、それから道を教えたり足が痛いのを治すようになったという話
大平町
泣き地蔵 田植えの手伝いで馬の鼻取りをした男の子が大人でも途中で休むところを頑張り通した。その仕事を終わらせて、やっと朝食のおにぎりを食べ始めた。ところが悪いことに馬に蹴られて死んでしまった。家の者、近所の者が男の子が余りにもかわいそうだと1体のお地蔵さんを作り供養した。これが泣き地蔵。
田植え地蔵 昔ある百姓が庄屋に「あそこの田植えを今日中に終わらせろ」と命じられた。とても1日で終わるような仕事ではなかった。そこへ見知らぬ子供が近づき手伝ってくれた。その田植えの速いこと。見る見るうちに終わってしまった。礼を言う間もなく子供は帰って行きお堂の中に入った。後を付けていった百姓がお堂の中を見ると地蔵の足が泥で汚れていた。この話を聞いた村人は田植え地蔵と呼ぶようになった
藤岡町
おゆわふち伝説 郷土の部屋地方は、昔、毎年のように水害に苦しめられていた。田畑が荒らされ多くの人々の水死が繰り返された。やがて村人から水害を防ぐために、若い娘を人柱にする風習が起こった。その人柱の一人がおゆわであった。何回かの河川改修で今はこのおゆわふちは姿を消しているが、大正7年おゆわ稲荷だけは部屋地区の帯刀研修館内に移転され、つい最近まで村人たちの手で香華が手向けられていた。
栗山村
鬼怒沼伝説 ある男が山へ働きに行くと、きれいなお姫様がいて3年も家に帰ってこなかったという話
へっぴりじい あるじいさんは殿様に屁をして褒美を頂いたが、まねをした別のじいさんは切られてしまう話
氏家町
そうめん地蔵 日光の強飯式のルーツとなった話で荒くれ山伏が無理に勧めるそうめんをそうめん地蔵が平らげるという話
つた地蔵 どこへ運んでも一晩のうちに元の場所に戻る地蔵様で定家地蔵ともいう。藤原定家の顔を模しているという。
雪姫と紅葉姫 勝山城落城の時、2人の美しい姫が鬼怒川に身を投げる。2人はコイとなり釜ヶ淵で再び出会う話
デーデン坊 大男のデーデン坊が山を背負ってくる話で羽黒山や周辺の地方の由来にもなっている。
喜連川町
長者が平 下妻街道(古い道)を行くこと4km、鴻の山に出る。源義家がこの地の豪族塩谷民部に家来1000人分の食糧と雨具の用意を命じたところ即座にそろえた。義家は帰途再び立ち寄り、後患を恐れてこれを焼き滅ぼしたという。現在、焼米(米の炭化物)が出るのでその時の米倉のものと言われる。
南那須町
とげ抜き地蔵 六兵衛さんが山にまきを取りに行ったとき、苦しんでいた山犬ののどのトゲを取ってやったあとは、山犬が人を食い殺さなくなった。
黒みだ様 村人が荒川に流れ着いた金色の阿弥陀様を見つけお堂を建てた。だが、これに目がくらんだ馬が、驚いて荒川に転落。このため村人たちは阿弥陀様を漆で塗ったという話
鳴井山の霊験 一人の武士が神社の拝殿に斬りつけ「霊験無し」とうそぶいて立ち去ったが間もなく落雷で即死したという話
小川町
那須与一の逸話 8歳の時に兄弟で鳥の巣を打ち落とそうとしたとき、与一の矢は巣をそれ兄弟に笑われたが、実は巣をねらっていた蛇を射抜いており幼少から弓矢の技に秀でていたという、源平屋島の合戦で扇の的を射落としたのは成長した与一の逸話。
那須町
九尾のキツネ 唐から渡ってきた金毛九尾のキツネが、宮中に入り玉藻の前と称し鳥羽上皇の寵愛を受けるようになった。ところが陰陽師阿倍泰成にその正体を見破られ東国へと逃れたが、那須野が原で射殺され、その怨念が毒気を放つ殺生石と化し、近づくものをすべて殺すようになった。
西那須野町
烏ヶ森の妖怪変化 人々が妖怪変化の恐ろしい目にあうなか、一人妖怪にあわなかった者がいたという(それは目と耳が不自由であったから)話
人数計りの桝 4角に掘られた升形の土地で九尾のキツネを退治するとき、ここに人を入れて人数を計ったという千人桝の話
オオカミの恩返し 旅人に助けられたオオカミが那須野の道を守ってくれた話
塩原町
医者になった狩人 腕のいい狩人がある日木の上にいた大蛇を撃ち、その骨で良薬を作り医者になったという話
葛生町
夜泣き石 藤坂与三というものが夜、明神山のふもとで赤子の泣き声を聞く。よく見ると石が泣いている。これをご神体としてまつる話
 

 

●足利市の伝説
鑁阿寺 蛭子堂
境内北門近くにある蛭子堂には、下記に様な言い伝えがあります。
足利市重要文化財 蛭子堂(ひるこどう) 時姫堂とも称し、当山開祖 足利義兼の妻、北条時子(源頼朝の妻北条政子の妹)を祀り、時子の法名から智願寺殿ともいう。創建年代は不詳 時子姫は寺伝では自害したといわれ、これにまつわる逆さ藤天神足利又太郎忠綱の遁走、自刃の哀話は足利七不思議の伝説の中の白眉の物語りとして残っている。妊娠の女人、此の堂にお詣りすれば栗のいがより栗が軽くもげるが如く安らかに安産のききめありといわれ、昔から信仰されている。本尊は栗のいがを手に持つ蛭子女尊。
この他、蛭子堂については、足利義兼に不義の疑いを掛けられて自害した時子夫人の腹中からヒルがたくさん出てきた。無実の罪で死んだ時子夫人の菩提を弔うために建てられたのが 現在の蛭子堂(蛭子様)と言う説があります。
時子夫人は不義をしたわけではなく、花見の時に侍女が汲んできた井戸の水に蛭が入っていて、その無数の蛭が血を吸ってお腹が膨れたという話もあります。その井戸が、開かずの井戸とも言われているそうです。本堂と中御堂の間に、分厚いコンクリートで蓋をされた井戸があります。
そんな逸話がありますが、今では安産を願いお参りする人がたくさんいます。 願い事が書かれたよだれかけがたくさん奉納されています。 逆さ藤天神は北門を出て、西へ10mくらい行った北側にあります。
蛭子伝説
北条時子は時政の娘にして足利義兼の正室なりき。義兼鎌倉出府の折、春の一日を郊外に遊べり、そのおり老女藤野の組む水を飲みしところ、日を逐い腹部膨満せり。折しも足利の館に足利又太郎忠綱が滞在し藤野と通ず。藤野は義兼に、時子が忠綱に密通せりと虚偽の報告をなせり。
義兼の疑が晴れざる故、時子は「死後わが体を改めよ」と遺言して自害せり。
時に建久七年六月八日。
時子の遺体を検するに、腹部に蛭の充満せるを発見、郊外散策のおり飲みし水の故と推定さる。義兼大いに驚き藤野を極刑に処し、時子の遺体を当山の地にねんごろに葬りたり、法号に智願寺殿を贈り、これより当山の院号を智願院と称す。
時子の症状について胞状奇胎では無いか言う考え方があります。
胞状奇胎は現在でも分娩350〜500回に1例程度の割合で発生しているそうです。当時も胞状奇胎という症状は周知されていたと思われます(”ぶどう子、泡子”と呼ばれていました)。体内で蛭が増殖する可能性は限りなく0%に近いので、”胞状奇胎”説は有力だと考えられます。 ところで”蛭子”と書いて”ヒルコ”と読んでいますが、一般には”蛭子”と書いて”エビス”と読む事が多いようです。 ”ヒルコ”とは記紀神話に登場する”蛭子(ヒルコ)命”を指します。不具の子に生まれ、誕生後すぐ流されてしまいます。 しかし、後に戻って来てエビス神として信仰されるようになった…と、言われています。復活・再生の神話とも言われます。そうしたエビス信仰がはじまるのも鎌倉時代以降の事です。
時子の病状からこのような伝説が生まれたのかも知れません。しかし、それより単純に、義兼が病に斃れた時子を悼み、浄土での安穏を祈願して建てられたお堂と受け止める方が、私達も幸せな気持ちになれるのでは無いでしょうか?
藤野の処刑方法は、車裂きとも牛裂きとも言われる残虐な処刑であったそうです。
足利又太郎忠綱が滞在という記述は重要です。
「蛭子伝説」には続きがあり、その足利忠綱は義兼一党に赤雪山に追い詰められて自害したと言われています。問題は、その時、足利忠綱が足利に居た事です。通説によれば野木宮合戦に敗れた後、山陰道を経て西海へ赴き消息不明となったと言われています。他方、西暦1185年に『吾妻鏡』文治元年4月15日条に「兵衛尉忠綱」という名前が見られ、足利忠綱ではないかという説もあります。 いずれにしても、義兼の元に忠綱が保護されていたと言うのであれば驚く次第です。
藤姓足利氏・忠綱の伝説
次の四つの話題から出来たひと繋がりのお話です。蛭子伝説(=あかずの井戸)、逆藤天神(さかさふじ天神)、赤雪山伝説、忠綱八幡宮、お話の主人公である足利忠綱と云う人物は「藤原姓の足利氏」の一族であり、義兼が足利全域の知行権を獲得する以前足利の大半を支配下に治めていました。しかし治承寿永の乱(頼朝が覇権を確立するまでの一連の内乱)の中で滅亡し、その後「足利」は義兼が治める地となりました。伝説の中で「足利忠綱」は義兼に仕え足利屋敷を取り仕切っていた事になっています。それ自体が理解できない内容なのですがここでは敢えて触れずにお話の概要を記します。

或る日鎌倉から戻った義兼は侍女の藤乃から「時子様(義兼の妻)と忠綱殿が不義の関係にあり、時子様はすでに忠綱殿の子を身籠られている」と告げられ激しく怒ります。身に覚えの無い嫌疑を掛けられた忠綱は一旦足利屋敷を逃げ出し、義兼から不義を問い詰められた時子は「死後、腹を開いてみよ」と遺言し自害してしまいます。時子の遺言通り義兼が腹を裂いてみるとそこからは無数の蛭(ヒル)が湧き出て来たのでした。時子の無実を知った義兼は侍女の藤乃を牛裂きの刑に処しました。これが蛭子伝説です。一方、怒る義兼から慌てて逃げ出した忠綱は、足利屋敷の北に在った天神様で一息吐きました。その時忠綱が地面に刺した一本の藤の枝がやがて根付いた事から、この場所を「逆藤天神」と呼びます。その後足利の山中に逃れた忠綱は追手に追い付かれ雪を血に染めた事からその山を「赤雪山」と呼ぶようになりました。そしてついに山を越えた皆沢という場所で力尽き討ち取られました。その地には忠綱八幡宮が建てられました。
滅亡した藤姓足利氏への憐憫の情はわかりますが、義兼の人となりを「猜疑心が強く」、死後妻の腹を裂き腸を探るような「残虐性」を併せ持ち、偽りを告げた侍女を容赦なく残虐な方法で殺す「冷酷無情な人」と描いている点が奇妙に感じます。時子に対しても或る意味侮辱的な描写をしています。事実はいずれにしても何故このような伝承が伝えられたのでしょうか。「判官贔屓(はんがんびいき)」と言えばそれまでですが非常に不可解な伝承です。
この伝承の通りで在るならば、先ず足利忠綱は家中の者として留守を守っていた事になります。それ以前の藤姓足利氏の源氏に対する敵対行動を考えると支持する事の出来ない話です。そしてこの出来事の後、義兼は「出家した」と続く事からお話の時期は建久六年(1195年)7月頃の話か、または一般に時子が亡くなったとされる建久七年(1196年)6月8日前後の話と考えられます。しかしその何れの年であっても6月〜7月では「赤雪山」の下りに記されるような「血で赤く染まる雪」はあり得ません。更に「忠綱八幡宮」の伝承に関しても下野神社社沿革史〔明治三十五年風山広雄編)には「忠綱は建久五年(1194年)に戦死」とあり年が異なります。他にも「忠綱は野木宮合戦に敗れ後にこの地で戦死」と云う伝承も有ります。その場合は寿永二年(1183年)2月23日または治承五年(1181年)閏2月23日であり「赤雪山」の伝説が成り立ちますが、時子の没年や義兼の出家との整合が取れません。季節の事を踏まえれば建久六年および建久七年はあり得ず、それ以外の年では時子や義兼の行動と整合が取れません。「忠綱の逃亡劇」が義兼や時子に関係した行動である可能性は皆無です。
思うにこのお話は2つの異なる話から出来ています。ひとつは早産、死産、多胎児、異常妊娠など理由はいずれにしても出産間もなく我が子を亡くした時子の悲しいお話と、そしてもうひとつは藤姓足利氏滅亡の時の忠綱逃亡劇という話です。前者は出産した子供を水子(水子には胎児だけではなく出生後まもなく死亡した子も含まれる)の内に亡くした話が、イザナミの産んだ「蛭子神」の伝承と重なり、「水子」が同義の「蛭子」となり、現在の鑁阿寺境内にある蛭子堂の創建に繋がったと考えられます。そして生まれて間もなく亡くなった子供とは、鑁阿寺古縁起において樺崎寺下御堂の仏壇下に葬られたと伝わる「瑠璃王御前」と「薬寿御前」で在ったと考えられ、(別縁起ではこの記述が「女子三人」と書き改められて混乱しています。)更にその時期は、吾妻鏡文治三年(1187年)12月16日の条に記載された「義兼の北の方(時子)の急病に際し政子が見舞う」の記述が相当するのでは無いかと思われます。その翌年義兼は鎌倉に極楽寺を創建しており、その動機にもなり得ます。この伝説はもとは「元気な子を産み育てられなかった時子の悲しみ」と「義兼の落胆」を伝える内容で有ったと考えられ、鑁阿寺別縁起に記される「悲歎の余り犀皮の鎧を売り大日尊を彫らせ、法界寺下御堂を建立した」との記述が元の話であったのでしょう。
忠綱の逃亡劇については概ね伝承の通りでしょう。しかし時期については定かでは有りません。一つの可能性として、忠綱の叔父である戸矢子有綱が文治二年(1186年)6月1日に源姓足利氏と戦い自刃したと伝わることに関係するかも知れません。
この二つの伝承が合わさり変質した背景としては、室町時代に上杉氏が勢力を伸長させ足利を支配下に置いた事が大きく影響していると考えます。上杉氏は上野国を所領としており、そこには当時も藤姓足利氏の連枝・末裔が土着し上杉氏の知行を担っていたと考えられます。藤姓足利氏最後の当主の悲哀を中心に描かれたこの一連の伝説は、元々は藤姓足利氏の連枝・末裔の間に伝えられていた話が、その一族が足利に移り住んだことで一緒に持ち込まれ、やがて現在伝わるような内容に変質したのでは無いかと考えます。
義兼は元より、義氏を生んだ時子もまた足利の父母のような存在です。歴史的事実かどうか確かめられない限り、蛭子伝説のように先人の尊厳を傷付けるような伝承は軽口に乗せて話す事は控えるべきかも知れません。
織姫神社 1
足利は古くから織物を中心として栄えてきました。
奈良時代初期の和銅6年(713年)というのが足利織物が文献上に残る最古のものと言えるでしょう。
その約1,300年の伝統を持つ足利織物の守り神として奉られているのが足利織姫神社で、昔機織を司られた天御鉾命と八千々姫命を祭神としております。
昔は「機神さま」と呼ばれ、明治12年8月24日に合祀されていた通4丁目の八雲神社から今の織姫山南麓に遷宮しましたが、翌年の明治13年9月10日の火災で焼失以来、仮宮のまま約50年を経過。この間、織姫神社奉賛会により織姫神社中腹に朱塗りの社殿が造営され、昭和12年5月7日仮殿から遷座して現在に至っています。
緑に映える朱塗りのお宮は、国登録有形文化財にも指定されている足利の名勝の一つで、足利県立自然公園の最南端に位置しています。社殿の東側には関東ふれあいの道「歴史のまちを望むみち」が通っており、北に続く織姫山一帯は明治100年記念事業として造成された総合公園(織姫公園)になっています。
織姫神社 2
当織姫神社の祭神は、太古の昔より機織を司る天御鉾命・八千々姫命のニ柱の神様です。
このニ柱の神様は、もともとは皇太神宮御料の織物を織って奉納したという、伊勢国渡会郡井出の郷、御織殿の祭神でした。
千二百年の歴史と伝統を誇る機業地足利の守護神として、このニ柱の神を勧請、その分霊をお祭りしたのがこの織姫神社なのです。
記録によりますと、明治十二年八月二十四日、足利市通四丁目から機神山南麓にかけての梅林を切り開いて遷宮したとあります。ところが、翌十三年九月十日、火災により神殿が焼失、以来仮宮のまま経過しておりました。昭和九年春、崇敬者有志をもって、織姫神社奉賛会を組織し、社殿再建に着手しました。三年有余の歳月をかけて落慶、昭和十二年五月現有社殿の威容が完成しました。
朱塗りの殿堂は緑の景観に映えて美しく、関東ふれあいの道の名所にもなっています。
織姫神社 3
栃木県足利市西宮町にある神社である。
1200年以上の伝統と歴史をもつ足利織物の守り神であり織姫山の中腹に建つ朱塗りの美しい神殿は足利名勝のひとつともなっている。古墳跡もある。
1705年(宝永2年)に土地住民により創建された。のちに通4丁目の八雲神社の境内社としてまつられた。そして織姫神社は1879年(明治12年)8月24日に通4丁目の八雲神社から織姫山に遷座されたが、1880年(明治13年)9月10日に火災により焼失した。しばらく仮宮のままであったが、1934年(昭和9年)に再建事業を開始し、1937年(昭和12年)に現在の社殿が完成した。平等院鳳凰堂をモデルとしたという。
織姫神社は一時衰退したが、平成期になってから林吉郎によって再興された。
祭神は天御鉾命と八千々姫命である。
神社造営碑は幅2.7メートル、高さ7.5メートルで題額は金子堅太郎、撰文は徳富蘇峰、書は書家の岩澤亮弌の手による。
2004年(平成16年)6月9日に社殿・神楽殿・社務所・手水舎が登録有形文化財に登録された。
2010年(平成22年)7月より織姫神社と同市内の門田稲荷神社(下野國一社八幡宮境内社)を中心にあしかがひめたまという萌えおこしが行われている。縁結びにご利益があるとされ、2014年(平成26年)に恋人の聖地に選定された。
2014年(平成26年)7月に織姫神社入口歩道橋下に「ひめちゃんひろば」という休憩所、案内所が建設された。地域の個人が足利市活性化のために土地を購入、足利元気隊/いいねこ。のみせ(同市内の民間団体)が同所を管理し織姫神社への観光客や地域住民の休憩所となっている。また同月、隣接する織姫公園とともに日本夜景遺産の認定を受けた。2017年(平成29年)、月の風景が一般社団法人「夜景観光コンベンション・ビューロー」の選ぶ「日本百名月」に認定された。
足利織姫神社のご由緒
1200年余の機場としての歴史をもつ足利。この足利に機織の神社がないことに気づき、宝永2年(1705年)足利藩主であった戸田忠利が、伊勢神宮の直轄であり天照大神(あまてらすおおみかみ)の絹の衣を織っていたという神服織機神社(かんはとりはたどのじんじゃ)の織師、天御鉾命(あめのみほこのみこと)と織女、天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)の二柱を現在の足利市通4丁目にある八雲神社へ合祀。その後、明治12年(1879年)機神山(はたがみやま)(現在の織姫山)の中腹に織姫神社を遷宮した。
翌年の明治13年、火災に遭い仮宮のままとなっていたが、昭和8年皇太子殿下御降誕(現在の上皇陛下)を期し、当時の足利織物同業組合組長の殿岡利助氏の先導により市民ぐるみで新社殿の建造にかかり、昭和12年5月に現在の織姫山に完成、遷宮した。
平成16年6月、社殿、神楽殿、社務所、手水舎が国の登録有形文化財となる。
足利織姫神社が縁結びの神社と云われる由縁
ご祭神は、機織(はたおり)をつかさどる『天御鉾命』(あめのみほこのみこと)と織女である『天八千々姫命』(あめのやちちひめのみこと)の二柱の神様です。
この二柱の神様は共同して織物(生地)を織って、天照大御神に献上したといわれています。
織物は、経糸(たていと)と緯糸(よこいと)が織りあって織物(生地)となることから、男女二人の神様をご祭神とする縁結びの神社といわれるようになりました。
また、織物をつくる織機(しょっき)や機械は、鉄でできているものも多いことから全産業の神様といわれ7つのご縁を結ぶ産業振興と縁結びの神社といわれております。
 
 高根沢町

 

●高根沢町の伝承
社会生活を営む私たちは、さまざまな道具に支えられて生活している。特に、高度情報化社会と言われている今日の生活にあっては、視覚や聴覚という人間の感覚までもが、高性能の情報機器に転換させられようとしている。しかし、少し前までの生活では、文字や映像という、記録による文化継承ばかりではなく、人間の感覚そのものを生かした、話ことばという耳の記録、つまり、記憶による文化継承という機能も重視されていた。
言語伝承は、「口承文芸」と呼ばれたりすることもあるが、一般的には「民話」と呼ばれている。「民話」は民間に語り伝えられてきた話という意味を持っているが、話しことばのリズムや響きを生かして、古代から途絶えることなく、その時代時代の心を積み重ねてきた、庶民の文芸でもある。「民話」をさらに細かく分けると、「伝説」や「昔話」、そして、「世間話」などがある。
「昔話」は、「むかし、むかし」とか「むかしあったけど」と語り始め、「どっと、はらい」とか「これでおしまい」で納める。また、「へんとう」とか「おっとう」と独特の相づちを打つなど、語りの形式が大切にされている。一般的には、木小屋などでの農作業の効率を上げる働きや那珂川流域の葉たばこ農家の夜なべ仕事を手伝う子供たちの眠気を覚ます働きとして語られてきたものである。そして、「民話」は、語り手と聞き手が共同して作り出してきた物語の世界でもあったのである。
「伝説」は、地域に起きた過去の事件に基づき、特定の人物や事物の由来を説明しようとする。大きな石や木、冬でも涸れない沼や池、地域に起こった不思議な事件があると、湖沼の開発や貴人の巡行、あるいは、高僧や英雄の奇瑞として語る。伝承の形式はあまりとらわれず、話の伸縮も自由である。
高根沢町では、現在「昔話」はほとんど聞かれなくなってしまった。残念ではあるが、今回の調査ではこれと言って記録できる「昔話」を集めることができなかった。「世間話」は日常生活の中に起きたさざ波のような事件を噂話のように語り合い、事件の緊張感を和らげ、しかし、その事件が残した生活の知恵は忘れないようにしようという、巧みな耳の文芸である。高根沢町における「世間話」もかすかにその残像を残すのみではあるが、いくつか「伝説」と結びついて記録することができた。しかし、「世間話」そのものとしてまとめ記録するまでには至らなかった。
「伝説」は高根沢町全域に伝承されている状況を確認することができたが、伝承内容がその一部であったり、かつてそういう話を聞いたことがあるという、いわば、伝説のかけらが残されている状態である。しかし、『高根沢郷土誌』(鈴木旭翠・小川寿々夢編、昭和三八年)や『高根沢町の伝説集』(古口利男、昭和六三年)「子どもが書いた ふるさとの伝説集」(ふる里運動実行委員会編、昭和五三年)など、先人たちの尽力によって貴重な記録が残されている。「昔話」や「世間話」は、どちらかというと地域の人間関係が織りなす喜怒哀楽を物語化して、人生の知恵として語り伝えるという性質を持っている。それに対して「伝説」は、地域社会に起きた事件を素材にして、地域の歴史や文化を語り伝えるという性質を持つ。また、かけらながらも伝承されている地域には、その伝説にまつわるほこらが作られていたり説明板が立てられていて、今も変わらない地域文化継承の篤い思いに触れることができる。高根沢町に「昔話」や「世間話」よりも「伝説」が強く伝承されてきたということは、高根沢町の風土が郷土の歴史を重視する気質が強いということを証明しているとも言えるであろう。
これらの伝説を整理してみると、宝積寺や上阿久津・中阿久津などの西部地区には、鬼怒川水運を色濃く映し出している伝説や稲荷信仰に結びついた伝説が残されていることが分かる。大谷・石末や桑窪などには、川や沼など水を中心とした農耕信仰や農耕儀礼を反映した伝説が多く見られる。また、地名の由来を説く伝説や行商人や旅芸人にまつわる伝説が町内全域に分布しているのも、高根沢町の特色ではないかと考えられる。
ここでは、先人たちが残された貴重な記録を顕彰するとともに、かすかながら現在も伝承されている伝説を収録することによって、高根沢町の生活文化を振り返り、さらに、これからの地域文化育成の手がかりになればと願い、伝説の特徴がよく出ている自然や人物を項目として整理し、補足解説を施して記録した。

●水と伝説
五行川低地には、多くの湧水池や支流があったが、整地事業や各種土木工事によりその姿を消していった。水は米づくりを中心とした農業に欠かすことができない。水を大量に使う農繁期はもちろんのこと、農作業がない期間でも、用水や湧き水の維持管理は地域住民の重要な仕事の一つであった。
苗代しめが始まる直前の「川普請」と呼ばれていた仕事もその一つであった。地区によっては「モク上げ」とか「堀さらい」とも呼ばれていた共同作業であった。厳しい寒さがゆるみ、畦の雪も消えたころ、地域の人々が土手の修理をしたり、用水に溜まった泥やゴミをきれいにし、水路を確保する。仕事が一段落すると、当番の家で、おにしめや赤飯を食べたり酒を飲み交わして、秋の実りを祈願した。
水への期待と祈りが高まると、涸れることのない湧き水や沼への畏怖の念がつのり、湧き水や沼に神々が宿ると考え、湧き水や沼を汚すことを畏れ慎んだ。その思いが水神信仰となり、湧き水や沼を汚すことを諌める伝承を生み出していったのであろう。
おだきさん
廻谷に冬でも涸れることのない沼があり、澄んだきれいな水を湛えていた。
その沼の近くの庄屋の家におだきという名の娘が奉公勤めをしていた。美人で働き者だったので、庄屋の主人も大切に使い、まわりの人たちもおだきを可愛がっていた。庄屋には息子がいて、いつしか、おだきはその息子を好きになっていった。しかし、身分の違いがおだきを苦しめることになった。苦しい胸の内を判ってくれる人は誰もいない。おだきは息子への思いを断ち切ろうと、さらに奉公勤めに精を出した。
やがて、庄屋の息子に縁談が持ち上がった。しかし、相手はおだきではない。おだきは悲しみと苦しみに耐えることができず、庄屋の息子の華やかな婚礼の夜、とうとうその沼に身を投げて死んでしまった。彼女の死を悼んだ人々はいつしかその沼を「おだきさん」と呼び、小さなお堂を建てて、彼女の冥福を祈ると共に、家内安全祈願や豊作祈願をするようになった。
また別の伝承では、家は貧乏だったが美人で働き者のおだきという娘がこの沼の魚を獲って生計を立てていたが、ある日、あまりにもたくさんの魚が獲れて夢中になってしまったので、沼の主の怒りに触れ、この沼に引き込まれてしまい亡くなったので、その沼を「おだきさん」と言うようになった、とある。

何本かの杉の木に囲まれた「おだきさん」は、現在高根沢町の文化財に指定されている。杉木立の間に立派な鳥居が建てられ、池のほとりには「滝尾神社」「日吉神社」「水天宮」「雷神社」と、水に関係した神々が鎮座していて、往時、地域の人々の篤い信仰や寄進を集めた歴史を今に伝えている。水の神は、女性にたとえられることが多い。女性は生命を生み育てる、重要な役割を持っている。水もまた、人間の生命そのものを支えている。農業は大地の生命をいただく仕事である。その大地を育む水の生命と生命を生み育てる女性が結びつくのは決して不自然ではない。
自害渕
両親を幼くして亡くした「おすず」という女の子が祖父の「作造」と慎ましく暮らしていた。やがて、おすずも美しい娘に成長し、「善之介」という若侍と許婚になった。しかしどうしたことか、善之介が突然の病で急死してしまい、あまりの悲しみにおすずは両親の位牌を胸に抱いて渕に身を投げてしまった。たった一人の身寄りを失った作造もまたおすずの後を追って渕に身を沈めた。人々は幸せ薄い二人を弔って渕の近くに塚を建て「姫塚」と名付けた。その塚に近づいたり塚に手を触れると祟りがあると恐れられている。

正式には「扇渕」と呼ばれている渕ではあるが、平田地区を流れている井沼川にまつわる悲しい伝説である。
おっかな渕
昔、鬼怒川の支流が豊かに流れていたころ、中阿久津の富士見坂下にあった大きな沼を、通称「おっかな渕」と言っていた。沼のほとりに生えていた大きな松の木に、これまた大きな青大将がいつもとぐろを巻いていたので、誰言うともなく「おっかな渕」と呼んだ。
折れた一本の針
昔、大谷に年中水が湧き出ている沼があった。沼の名は天沼と言った。水は常に透明、沼の中程は底無しといわれるほどの深さで、青く不気味な色を漂わせていた。
この沼にはたくさんの魚が住んでいたので、近くにここの魚を獲って暮らしていた娘と父親が住んでいた。父親の名は寅三と言って、手先が器用だったので、鉄の鍋や釜、鉄瓶の修理をするイカケ屋もやっていた。だから、その地域では「イカケ屋寅さん」と呼ばれていた。また、娘はおていと言い、父親譲りの器用さで近所の人々から頼まれた縫い物を上手にこなしていたので「おていさん」と親しまれていた。しかし、イカケや針仕事だけでは生計が思うようにいかなかったので、春には春の魚、夏には夏の魚と、豊富な天沼の魚を獲っては売り歩いて暮らしていた。
やがて、いつごろからか、夜毎おていさんの所に若い侍が通うようになった。そして、二人は相思相愛の仲になった。おていさんはその侍の名前と出生地ぐらいは知りたいと何度も尋ねたが、そのたびに侍は話をそらして名前もどこから来るのかも教えようとしない。
不審に思っていた矢先、尋ねてきた侍の顔を見ておていさんは驚いた。それもそのはず、若い侍の顔は今までと打って変わった形相になっていたのである。黒紫色の顔に目だけが異様に光っていて、脹れ上がった皮膚からは異臭さえ発している。呆気に取られ口をあけたままのおていさんに若侍は、「俺は天沼に住んでいた池の主である川獺なのだ。俺はお前が使っていた折れた針が刺さって体中を廻ってしまい、その毒で死んでゆく。だから、俺の後をつけて来てはいけない」と言って姿を消した。
ちょうど、それから七日過ぎた朝のこと、近くの漁夫が大きな川獺の死骸を網にかけた。引き上げられた川獺はブヨブヨになって体毛もすっかり抜け落ち臭気が辺りを包み、集まってきた人々も顔をそむけるほどであった。人々は大騒ぎをしながら川獺の死骸を埋めた。
おていは川獺の死体を見ようともせず、自分の部屋でかつて祖母が言っていたことを思いだしていた。祖母は、「女は縫い物ができることが一番だ。だから針は大切にして、決して折ってはいけない。針は魔物と同じで、針が体に入るとその毒で死んでしまう」と、いつもおていに言って聞かせていたのだった。

この伝説は、「蛇婿入り」として、日本全国に伝承されている昔話や伝説の一つである。「蛇婿入り」のあらましは次のようになっている。若い娘が住んでいる家に夜毎若い侍が訪ねてくる。やがて、その侍を怪しんだ母親や娘が侍の着物に縫い針を刺し、その糸をたどって居場所を突き止める。若い侍は実は大蛇で洞穴に住んでいて、人間の娘に子供を宿してきたと大蛇の母親に言う。母親は、人間には気をつけろ、たとえ子供ができても菖蒲湯に入れば流れてしまうし、我々は針の毒には弱いと話しているのを聞く。娘は菖蒲湯に入り難を逃れ、大蛇は針の毒がもとで死んでしまう。高根沢町では、訪ねてくる若い侍が大蛇ではなく川獺となっていたり、若い侍の着物に縫い針を付け糸を頼りに侍の居場所を突き止め難を逃れるという展開も見られない。全国に流布している伝承は、結末に五月五日の菖蒲湯由来という農耕儀礼も伴っているのであるが、高根沢町の伝説では針供養を連想させる伝承になっているところに、地域文化の特色がうかがわれる。隣の芳賀町の芳志戸地区には、五行川の渕の底にある竜宮城から若侍が旧家の娘の所に通ってきて、縫い針のせいで身元が判ってしまい竜宮に帰るが、竜宮のお碗を残して行ったり、田植え時期にワラツト(藁苞)に入れた赤飯を五行川の渕に投げ入れて豊作を祈るという伝承が残っている。この「蛇婿入り」伝承は、遠く古代の『古事記』や『日本書紀』にも記録されている伝承で、神が蛇に姿を変えて娘と結婚するという「三輪山伝説」に端を発していると言われている。それだけ人々の記憶に残り、それぞれの時代の文化に深く関わりを持ちながら、さらにまた、地域の生活文化と深く結びついて豊かな言語伝承を形成してきたのであろう。
栗ヶ島由来
ある日、旅の僧がこの辺りに着いたころ、夜もとっぷりと暮れてしまったので一夜の宿を願い出た。何軒かの家では冷たく断られたが、正直者のばあさんがいて快くその僧を泊めた。翌日、僧は宿の礼だと言って、ばあさんの家に生えている栗の実が全部落ちたら洪水が起きると告げて去って行った。
ばあさんは村人にそのことを伝えて注意を促したが、老人の戯言として嘲笑う者がいても注意を聞き入れる者は一人もいなかった。そして、旅の僧が言った通りに栗の実が全部落ち洪水が村を襲った。助かったのは旅の僧の忠告を信じていたばあさんの家だけで、そこが島のようになった。やがて、そこはいつしか栗ケ島と呼ばれるようになった。                (『子どもが書いた ふるさとの伝説集』)

日本全国には「白髭水」と呼ばれている洪水伝説が伝承されている。夜明けに白髪の老人が、大声で村人に大水が出るので早く逃げろと知らせたところ、そのことばを聞いて逃げた者は助かったが信じなかった者が多く死んだとか、洪水の前日に白髪の老人が川上からやってきて大水が出るので注意せよと言って走り去ると、程なくして洪水が襲ってきたという伝説である。高根沢町に伝承されている伝説では、「白髪の老人」ではなく「一夜の宿を借りた旅の僧」と、法力をもって水を湧き出させたり水を止めてしまう「弘法大師伝説」にかなり話の構造が傾いてはいるが、鬼怒川が大きく蛇行して流れる地域にある高根沢町が、繰り返し起きた洪水との闘いを持つ地域でもあったことを反映してか、水に対する畏怖の念が強く映し出されている伝説となっている。

●橋と伝説
古代から中世にかけて、川は生活圏の境界の役割も持っていた。だから、橋はその境界に建てられるものとして、こちらとあちらを繋ぐと同時に、次元の違う世界との交流が行なわれる聖なる場所でもあった。華の都の平安京の夜を震え上がらせた「茨木童子」が、女性に化けて、切り落とされた片腕を取り戻しに来て、声高らかに去っていった「一条戻り橋」や鞍馬山の修業で力を付けた牛若丸が怪力法師弁慶に最初に出逢った「五条の橋の上」なども、伝説の世界では橋が重要な場所であることを示している。
十二瞽女橋
昔、この地に門付けに来た二人の瞽女が花岡付近を流れている五行川に架かる橋に差し掛かった。瞽女は目の見えない女が三味線を引きながら家々を回る旅芸人で、いつも目の見える者が案内して歩いている。その日も目の見える瞽女が先にたって目の見えない瞽女を案内していたが、どうしたはずみか、その目の見えない瞽女が足を滑らせ下を流れる五行川に落ち、大きな渦に飲み込まれてしまった。
やがて、その橋のたもとには白い蛇が見られるようになった。渦に飲み込まれた瞽女はその時一二歳だったので、その橋を「十二瞽女橋」と言うようになった。

瞽女とは、目の不自由な女性が目の見える女性に案内されて各地を門付けと称して三味線の演奏に乗せてさまざまな物語を語り聞かせる旅芸人のことである。東北や北陸を中心にいくつかのグループがそれぞれの興行圏を持っていて、最盛期には千人を超える瞽女が活動していたが、戦後は衰退の一途をたどった。瞽女を受け入れる地域には、彼女たちが泊まる定宿があり、多くは旧家や地主の家であった。その家の座敷や縁側で、哀調を帯びた三味線の音に合わせ、「葛の葉子別れ」や「石童丸」などの物語を聞かせた。ラジオやテレビがない時代には、こうした旅芸人のもたらす芸能が農作業の疲れを癒す娯楽の一つだったのである。高根沢町でも、昭和三〇年代ごろまでは農閑期のころになると新潟方面から「越後瞽女」がやってきて、心に沁みる芸を披露してくれたということである。また、瞽女の他にも宇都宮からは「宮神楽」、水戸からは「水戸神楽」と呼ばれていた一座が、玉乗り・皿回しなどの曲芸や獅子舞を披露し「家ごめ」(家内繁盛や豊年満作を祈願すること)をして歩いたということであった。「阿久津河岸」と言われるほどに賑わいを見せていた時代は、交易交通が盛んで多くの人々が行き交っていたことであろう。橋とは関係ないが、昔、旅芸人の太夫が行き倒れて死んだ場所なので「太夫山」と呼んだとか、山伏が死んだところなので「山伏箱」と言われているなど、旅芸人や旅の中で修業をした僧に係わる地名も高根沢町にはいくつか残されている。
おつぎ橋
荒川村の鴻野山北方台地に「朝日の長者」という飛ぶ鳥も落とす勢いで栄えていた長者が住んでいた。百人を超えるほどの使用人を抱えていた長者で、酒も飲み干すことができず捨ててしまうほどの贅沢ぶりであった。そこで、酉の日には有り余った米で酒を作り、板戸まで運び売りさばいていたが、ここ文挟付近の井沼川に架かる橋が、あまりの重さに壊れかねないので、周囲の人々に酒を分け与えていた。そこで、その橋をおつぎ橋(またはつつぎ橋)と呼ぶようになった。
なお、酒蔵のあった場所を「百駄窪」、精米した糠を捨て山のようになった場所を「糠塚」、窪地に厩を作り沢山の馬を放牧していたので「厩窪」、鍛冶を沢山住まわせ刀剣を作らせていたので「鍛冶ケ沢」と呼んだという地名由来の伝説も残っている。

酒は米から作られる。また、酒を作れるのは杜氏を雇うことができる資産家でなければならない。沢山の酒蔵を持っているのは長者のあかしでもある。豊作豊穣を願う思いがこの伝説を生み出したのであろうか。「朝日さす、夕日輝く」の歌で財宝の在処を示す物語で有名な長者伝説が「朝日長者」である。多くは、その権勢を誇るあまり、やがて没落して行く運命を描いている。太陽を支配しようとして死亡したり、一日で田植えを済まそうと夕日に注文をつけたために田が荒れて没落するという物語りの内容を持つところから、本来、農耕儀礼に係わる太陽信仰から生まれた伝説であろうと言われている。また、南那須町鴻野山の長者ケ平遺跡は、最近の調査で古代の官道であった「東山道」の駅舎跡ではないか言われているが、「長者ケ平」という名前がついた場所も国内には多く存在する。そして、必ずと言っていいほど、火を出したり焼き打ちに逢ったりして、火災で没落しその跡からは焼き米が発見されると言う伝説がある。鴻野山の「長者ケ平」にあった長者屋敷も、八幡太郎義家が奥州征伐に行く途中でその屋敷を焼き払ったという伝説を持っている。

●木と伝説
樹齢何百年などという大木や老木を見ていると、その大きさに圧倒されるだけではなく、時間という風化に耐えてきた生命力にも圧倒されることがある。大空に大きく枝葉を茂らせている姿、大地に太い根を張ったり何人もの腕を繋がなければ回らないがっしりとした幹に、人知を超えた不思議な力が宿っていると考えるのは当然の感覚であろう。
大藤になった大蛇
ある日の夜、一人で住んでいる茂作の家の戸を叩くものがいた。恐る恐る戸を開けると、そこに一人旅の女が疲れ果てた姿で立っている。茂作はやさしくその女を招き入れ、お粥を食べさせて休ませた。
一夜明けて茂作がいい匂いで目を覚ますと、すでに朝食ができている。泊めていただいたお礼だと言って野良仕事も手伝ってくれる。そうこうしているうちに日にちは経つが、一向に女は旅に出る気配もなく、まめに精を出して野良仕事や家事をこなしていた。やがて、二人は結婚して子供が生まれ、幸せな日々が続いた。
そして、二、三年の時が流れたある夕暮のことであった。野良仕事から帰った茂作の目に異様な光景が映った。そこには子供と寝ている大蛇の姿があった。子供をあやしながら安心してつい眠ってしまったのであろう、妻は人間を忘れて本性を現してしまったのである。
茂作は急いで子供を抱き上げると一目散に家を飛び出した。しばらくして、目を覚ました大蛇は火のような赤い舌を出して花岡あたりまで二人を追いかけて来た。そして、恥ずかしさと悔しさに身をよじらせながら二人に抱きつき、そのまま大きな藤の木になってしまった。

女性に姿を変えて男のもとに訪れて来て夫婦になるという話で「異類婚姻譚」と呼ばれているものである。よく知られている話に、鶴が女性に姿を変えて人間の男と結婚し、美しい布を織って富をもたらすが、見てはいけないという約束を男が破ってその姿を見たので、男のもとを去って行くという「鶴女房」や女性に化けた狐が人間の男と結婚し、優れた霊能力を身につけた子供を産むという「狐女房」などがある。「蛇女房」は、妻が正体を見られて去って行くとき、自分の目玉を置いて行くのでそれを子供にしゃぶらせて育ててほしいと、目をくり抜いて男に託し池に身を隠すが、目玉の美しさを知った殿様にむりやり献上させられ、困り果てた男が池に行くともう片方の目もくり抜いて男に渡すという物語が基本になっている。水神信仰や農耕儀礼が物語の基盤にあり、子供や夫と別れる悲しみと辛さを奏でている伝承である。高根沢町に残されている伝説では、大蛇が池に戻るのではなく藤の大木と化すという独特の結末になっているが、大木を切り倒した時、赤い水が流れ出て中から大蛇の骨が出てきたという伝説が近隣の地域に多く残っている。そうした大木への畏怖の念が、このような伝説を生み出させたのかもしれない。また、藤の蔦は農具の材料として重要な素材であり、花も桜の花と同じように田植え時期に美しい姿を見せるので、田植え歌などに歌い込まれるほどであり、五穀豊穣への祈りに強く結びついていることが連想される。やはり、農耕儀礼に深く関係した伝説として語り継がれてきたのであろう。
桜観音
桑窪から柏崎に向かって行くと、山の頂にひときわ大きな桜の木が見えてくる。枝が逆に下の方に向って伸びているために、木が逆さに生えているようにも見える。
この近くを「辰街道」という奥州へと続く道が通っている。その昔、八幡太郎義家が奥州の安倍氏の反乱を鎮圧に行く時にこの「辰街道」を通って行ったのだが、ここで昼飯を食べた。その時桜の木でできた箸を使って食べ、その箸をここに挿して残していったところ、それが根付いて見事な花を咲かせるようになったのでその名がついた。
また一説には、源平の合戦で大活躍した那須の与一がこのあたりまで来て、お昼時になったので昼飯にして一休みしようとしたが、あいにく箸がなかった。そこで、近くの桜の枝を折って箸にして食事をし、食べ終えた木を挿して行ったところ、逆さになったように木が伸びて立派な花を咲かせ、やがて、根元に観音様が祀られるようになった。そこから誰言うともなく「桜観音」と呼ぶようになったと伝えられている。         

逆さ杉や逆さ榎など、まるで逆に生えているかのようになっている大木や老木は、八幡太郎や九郎判官義経が挿して行った杖が大きくなったのである、という伝承がこの近辺には多い。ある時代を画した英雄が残していった不思議な出来事を語る伝説は、神仏の加護を得て化物退治をする「英雄伝説」の他にも、その英雄にまつわる多くの物語を生み出していった。「辰街道」は隣の芳賀町へも通じていて、芳賀町芳志戸地区にはそこで休憩した八幡太郎が持っていた杖を挿して残していったところ、逆さに生えた榎になったので「逆木八幡」として祀ったのだという伝説や、先にも述べた南那須町鴻野山の長者屋敷を焼き払ったという伝説が残されている。「辰街道」は、八幡太郎義家の伝説に深く関係した街道でもある。
大柊の祟り
戊辰戦争のおり、会津軍に味方して官軍に攻め込まれた宇都宮城からなんとか逃げ延びた女性たちがいた。彼女たちは、幼い姫君をかばいながら上阿久津までやってきたが、悲嘆の中、姫君は息絶えた。残された侍女たちは姫君を手厚く葬り、柊を植えて会津方面に逃げ延びて行った。
やがて、その柊も大きく育ったが、人が近くを通ると怪我をしたり、枝を切った者が重い病気になったり、さらには、死んだりすることが度重なった。

柊は、節分の豆まきの時に大豆の茎で刺したヤッカガシ(鰯の頭を燻して唾を付けたもの)と一緒に戸口に挿して、悪い病気が入ってこないようにする木でもある。年中行事で大切にされている木や草は非常に多い。門松に使う松や竹といった代表的なものの他にも、マユダマを付けるミズの木や樫、小豆粥をすする時や庭の堆肥塚に挿すヒエボー・アーボー(稗棒・粟棒)に使うヌルデ(ノデッポウ、または、ノデンボウとも呼ばれている)、あるいは、五月五日の端午の節句の時に搗く餅に入れる蓬(餅草と呼ぶ地域も多い)、そして、その餅を包む柏の葉や軒端に挿したり菖蒲湯に使う菖蒲など、農耕儀礼や家内安全を祈願する大切な素材として、身近にある草や木は私たちの生活に深く結びついているのである。柊に託して、戦乱の世に犠牲を強いられていた女性たちの悲しい歴史を語る伝説はあまり他に類を見ない。しかし、年中行事で使われてきた柊の神秘性と時代の犠牲になっていった女性たちの悲痛な叫びが、祟りを残す伝説と交じり合って語り継がれてきた、高根沢町独特の伝説ではある。

●石と伝説
石は、その堅固さや永遠性から古来より、神仏の姿に託されて各時代のさまざまな伝承に彩られてきた。
貴人が腰掛けた石なので「腰掛け石」と言ったとか、貴人の乗った馬が蹄で傷を付けたので「馬蹄石」と呼んだという石が残されていたり、汗をかいたり夜通し泣いたりするので不思議に思った村人がその石を祀ったところ、たいへんなご利益があったと言う伝説など、国内には石にまつわる伝承が数多く残されている。
ところが、度重なる鬼怒川の氾濫は大石さへも流し去ってしまうのか、高根沢町には石にまつわる伝説がほとんど残されていない。たとえば宝積寺には、近付くとケチがつくといわれる場所から大きな石が出てきて、そこが並塚の由来になったという地名伝説の他、以下で紹介する伝説が確認されただけである。
石神
いつのころからか、鬼怒川のほとりに大きな石があって石神様と親しまれ、鬼怒川を行き来する船頭たちの篤い信仰を集め、沢山のお供え物が後を断たなかった。
ところが、その盛況ぶりを妬む者たちがいて、あろうことか、その石神様を鬼怒川の石神渕に突き落としてしまった。翌朝、消えてしまった石神様をめぐって村中が大騒ぎになった。ところが、一夜明けてみると、驚いたことに石神様は元通りになっていたのである。それで、石神様に対する信仰はますます強くなっていき、その後は誰も石神様を妬む者などいなくなったということである。
やがて、この石神様は、塩乃屋大尽の氏神として、船頭ばかりでなく近隣の信仰も集めていった。塩乃屋大尽は鬼怒川水運で大儲けをした人で、石神様のために立派な社殿を作ったが、金遣いが荒くいつしか家も財産も失い、社殿も荒れ放題になってしまった。
その後、若目田久右衛門によって阿久津河岸が創設されると、奥州と江戸を結ぶ水運の要所として大いに賑わった。そして再び石神様は、鬼怒川を上下する船頭たちの守護神として信仰を集めるようになった。

この伝説は、鬼怒川の水運に携った人々や近隣の人々に語り継がれた貴重な伝説である。また、石神様がいたずらされて渕に投げ落とされてしまってもすぐ元通りになっているという語り口は、地蔵をいたずらしてどこかへやってしまうがすぐ元通りになっていて、その霊力により深い信仰を集めるという地蔵信仰をはっきりと受け継いでいる。あるいは、塩乃屋大尽の盛衰を語るという語り口は、長者伝説とも強く結びついている。このように、「石神伝説」にはさまざまな伝説が複合していて豊かな伝承を残してきたことがうかがわれる。それは、この伝説が鬼怒川の豊かな流れとも深く結びつき、地域の人々の心の拠り所としての役割を担ってきたということも証明しているのである。
駈け上がり
かつて、仁井田あたりに小高い山があった。ある時、その山道を油を買いに行くために通りかけた娘がいた。娘は何者かに襲われるような嫌な気持ちで山道を上って行ったが、急に石になってしまった。
その後、夜その山道を一人で歩く時は駈け上がるように通れと地元の人々が言うようになった。

坂や峠は、橋と同じように住む世界の境界を意味していた。こちらとあちらの境であり、異次元への入り口であり、異次元からの出口であった。だから、坂や峠には異様な力が働いており、そこを通る人間が急に消えてしまったり、突然死んでしまったりする場所であった。人々は道を支配する神が住むと考え、「賽の神」や「道祖神」、あるいは、「お地蔵様」を道の傍らに建てて交通の安全を祈ったのである。この伝説は、石に対する信仰は薄いようであるが、交通交易の盛んな地域であったかつての高根沢町の風土を象徴しているような伝説である。

●稲荷信仰と伝説
稲荷神社は、真っ赤な鳥居の伏見稲荷や笠間稲荷で有名であるが、稲荷信仰は古代から農耕信仰と深く結びついて、さまざまな伝承の中に現われてきた。多くは、狐が稲荷明神の化身だったり眷属として語られてきた。
狐は里山に住み着き、畑と森の境に崖や土手に洞穴を作り住んでいる。時には、畑の農作物を食い荒らしたり、鶏を盗んだりと人間の生活を脅かす存在として怖れられてきた。また、その多産ぶりや素早い動きから不思議な力を宿していると人々が受けとめてきたのであろう。こうした狐と人間との交渉が、狐を田の神の化身と考えるようになっていった。さらに、狐は油揚げが大好きなのでお稲荷さんに油揚げを供えたり、初午の日には藁筒にシモツカレと赤飯を入れて供えるという、五穀豊穣を祈る習慣が広く行なわれるようになった。
あるいは、那須の殺生石の伝説で知られている金毛九尾の狐は、実は玉藻前という絶世の美女であったという伝説や、平安時代に大活躍したという陰陽師の安倍晴明の母親が狐であったという伝説も歌舞伎などで広く伝承されていて、狐と人間の関係は、蛇と人間の関係と同じように深いものであった。
さらに、宝積寺には、狐窪という地名が残されていて、かつては狐がたくさん住んでいて、「狐の提灯行列」や「狐火」が見られたという。今では鉄道が引かれ交通交易で賑わいを見せているが、かつては、豊かな自然の中で、動植物との交流を通して地域文化を育成してきたのである。
岩清水稲荷
寺渡戸の五行川の近くに、年中涸れることのない沼があった。近くには岩清水稲荷があって、初午の日などは、近郷近在からの参詣者でかなりの賑わいを見せていた。それも、この沼には稲荷様が乗ると言い伝えられている川蛇様が住んでいるからで、初午の日に赤飯を供えるとたいそうご利益があると信じられていたからである。沼にはたくさんの魚も住んでいたが、それを捕ると川蛇様の祟りがあると恐れて、誰も沼に入ることがなかった。
ところが、ある時、三人の男たちが魚を捕ろうと沼に毒を撒いた。すると、沼の祟りがあったのか、三人ともその沼に落ち自分たちが撒いた毒を浴び体の痺れがとまらず、村にもいることができなくなってどこかへ行方をくらましたそうである。

古代から民間信仰と深い関わりを持ってきた陰陽道信仰の教典とも言える『簠簋内伝』(宿曜という占星術を解説したもので、鎌倉時代末期に書かれたと言われている)に、「辰狐」という神が出てくる(高村禎里『狐の日本史』による)。つまり、狐と竜(辰)が強く結びついた信仰は、古くからあったのである。民間信仰の一つである農耕信仰の世界でも、狐と蛇が密接な関わりを持って、「稲荷神が乗る川蛇様」というところにはかなり古い伝承が残っていると考えることができる。また、禁忌を冒して罪を得るという伝承も、その場所の神聖さを証明をするものである。豊作をもたらす水への畏敬の念と稲荷信仰とが結びついて、独特の伝説となったのであろう。
釜淵
上阿久津・中阿久津・宝積寺三地区の用水堰を「釜渕」と呼んでいたが、その用水路開鑿の難工事にまつわる伝説である。
用水開鑿が無事成功するようにと、正月が来ても餅をつくことなく過ごそうと村中で決意した。その願いが叶ったのか、数年ならずして、一人の怪我人も出すことなく、用水路は完成した。しばらくは先人たちの苦労を思い、正月に餅をつく家はなかったのであるが、ある年、つい禁を破り餅をついた家があった。そのためか、その村が全焼するような大火災になり、改めて禁を破った恐さを知った。だから、今でも正月には餅をつかない家が多いのである。
一説には、上阿久津地区は稲荷信仰が強く、正月には狐の好きな赤飯を稲荷神社に供えて、その年の豊作と家内安全を祈願していたので、餅をつくのではなく赤飯を炊くのだという。

この伝説は直接に稲荷信仰を語るものではないが、正月に餅をつくのではなく、赤飯を炊いて稲荷神社に供えるという伝承が残されているので、ここに記録した。正月に餅をつかないという伝承は国内に広く伝承されている。米が貴重であった時代、汗水を垂らして田畑を切り開いてきた先祖の苦労を忘れないために、蓑笠を着て芋串を食べる地域があったり、餅をついているときに火の不始末でその家ばかりではなく地域一帯が消失してしまい、その戒めを伝えるために餅をつくのではなく赤飯を炊くのだと言い伝えられてきた。正月に餅をつかないで赤飯を炊くのは、米が貴重で神聖な食物であったという、稲作起源を語る伝承として考えられているが、赤飯の赤い色が火事の記憶に繋がって、禁忌を破った戒めとごちそうとしての赤飯のめでたさが交じり合ってきた伝承でもあろう。今は豊かな土地と生産に恵まれた高根沢町であるが、その陰には先祖のたゆまぬ努力があってこそという歴史を忘れてはなるまい。

●地蔵信仰と伝説
お隣の芳賀町にある「延生地蔵」は関東一円は言うに及ばず、東北地方にもその名を広げているが、「お地蔵さん」は伝説や昔話の世界でも人気者で、よく子供と仲良く遊んでいて、大人が子供のいたずらをたしなめると、かえってその大人に罰が下るというくらい、大らかであらゆる願いを聞いてくれる仏様である。
お地蔵さんが子供と仲が良いのは、この世とあの世を繋ぐ三途の川に続く賽の河原で幼くして死んだ子供やこの世に生を受けることなく流産した子供の霊が集まり、石を積み上げてあの世に行く努力をしていると鬼が出てきてその石を蹴散らすが、それを地蔵が助けあの世に導くという伝承と深く結びついていると言われている。お地蔵さんが赤いよだれ掛けをしているのも、そうした伝承の影響である。
多くの仏は立派な寺に鎮座しているが、お地蔵さんは、道端や峠で雨や風をまともに受けながらも、ほほ笑みを絶やさず、人々の願いを叶え親しまれてきた仏様である。それだけに、日々の生活の喜怒哀楽を一番知っている仏でもある。
雨っぷり地蔵様
昔は、何日も日照りが続くと田んぼや畑の作物が大きな被害を受けた。宝積寺あたりでは、畑の作物の被害が大きく、サトイモ(里芋)や大豆、オカボ(陸稲)に「日が通る」と言って、日照りを恐れたものである。
夏になって何日も雨が降らず日照りになると、御幸坂下にあるお地蔵様を誰にも見つからないように抱いて川に入り「どうぞ○○日までに雨を降らせてください」と祈る。すると、不思議とその通りになったので、いつしか「雨っぷり地蔵様」と呼ばれるようになった。
旧暦の一月二四日と七月二四日が縁日で、近郷近在から参詣者が集まりたいそうな賑わいを見せた。

雨乞いの儀礼は本来、農耕信仰の世界に属するものであるが、仏様も一役買うところが何とも微笑ましい。田植えが終わらず悩んでいた信心深い百姓が、朝田んぼに行ってみるとすっかり苗が植えられていた。びっくりしていつもお参りしていたお地蔵さんを見たところ、そのお地蔵さんの足が泥で真っ黒だったという昔話が各地にある。お地蔵様を信心している者の苦しみを取り除いたりその苦しみの身代わりになったり、庶民が愛した神仏はあらゆる力を発揮する存在でもあった。
塩地蔵
むかし、西根に住んでいた男が手にできたいぼで悩んでいた。ある時、その男の夢にお地蔵様が現われて「海水で手を洗え」と言って消えた。男は大喜びで、わざわざ海水を汲んできて手を洗うと嘘のようにいぼが消えてしまった。
その噂を聞きつけた人々がお地蔵様のご利益にあずかろうと、その男が信心していたお地蔵様に塩をお供えするようになり、いつしか「塩地蔵」と親しまれるようになった。

東京都足立区にある西新井大師の「塩地蔵」も、同じような伝説を持ち人々に親しまれている。ある出来事を通して霊験あらたかな神仏が誕生するという伝承は、その神仏の霊力を教え広める人々が宣伝のために物語として作り変えたことと深く結びついている。こうした神仏の霊験を体験するのは多く女性であった。女性の物語の方が耳の文芸としても記憶に残りやすい。また、地蔵信仰は、子供と深く結びついているところから、多くは安産祈願を中心にして、女性たちが信仰してきた世界でもある。しかし、この伝説では、神仏の霊験を体験する主人公が男性であるところに、その特徴を見ることができる伝説である。
お花ぼうこん
これも西根に伝わる話である。
こんもりした森があり薄暗い中を一本の道が通っていた。近くには墓もあって、昼でも不気味であった。ある夜、一人の男がその道を通ると、お花という娘が赤ん坊を抱いてぽつんと立っていて、「しばらくの間、この子を抱いていてくれませんか」と男に赤ん坊を預けてどこかへ行ってしまった。
男は言われたままに赤ん坊を抱いてお花の帰りを待っていると、赤ん坊がだんだん重くなり、気がつくと地蔵様に姿を変えていた。

墓もまた橋と同じように、異界と交流する場所のひとつである。子供の生めない女性が、その悲しみを石の赤ん坊に託して男たちに訴えるという伝説は国内全域にある。しかし、地蔵に赤ん坊が変わるという伝承は数少ない。石のままでは恨み辛みの重苦しさが消えないと受けとめた人々の温かさが地蔵信仰と結びつき、「地蔵様への変身」へと伝説を変えていったのであろうか。

●貴人・偉人伝承
歴史の上で非業の死を遂げたり数奇な運命をたどった人物に特別な思いを抱くのは、私たち人間の自然な感情であろう。いかに生きるべきかという問題はいかに死ぬべきかという問題と繋がっている。幸福な人生は万人の願いであるが、幸福な人生がほとんど稀であることもまた事実である。私たちは幸福な人生を願いつつも、悲劇の一生を終えた人物に人生の意味を見い出し、明日を生きる糧としてきたのである。
数奇な運命をたどった歴史上の人物は、歴史の上では不幸であっても、伝説の世界では歴史的事実を踏まえながらも、人間的には幸福な世界を演じてゆく。源義経の物語に代表されるような「判官贔屓」が、伝説と歴史の間に繰り広げられてきた。
歴史上有名でなくとも、地域にも数奇な運命をたどった人物がいれば、伝説はその人物に特別席を用意して、地域の人々に明日を生きる力を与えていたのである。
上方治兵衛のこと
上高根沢にある浄蓮寺に、不思議な運命に操られこの地で死んだ一人の男の墓石が残されている。
その男の俗名は寺田治兵衛と言って、大阪和泉郡の一ツ橋家領地の庄屋惣代をしていた。しかし、幕末のころ、打ち続いた凶作による土地争いに巻き込まれ、罪人の汚名を着せられてしまった。そして、ここ上高根沢にあった一ツ橋家の陣家の座敷牢に入れられてしまったのである。
一ツ橋家陣家近くには行商人や旅芸人を泊める木賃宿があり、そこに逗留する人々の口に「陣家に捕らえられている罪人を面倒見ているのは大きな古狸だから、陣家に近づくな、古狸に取り憑かれるぞ」という噂が交わされるようになった。
やがて、この地域一帯も凶作に見舞われ、食物を与えられなくなった囚人は衰弱して息を引き取った。その日の夕方、陣家から一片の黒い雲が立ち上り、そこに二、三匹の狸が乗っているのを見た者がいたそうだ。

上方治兵衛については古口利男氏がかなり詳しく調査されていて、史実としても貴重な記録ではないかと思われるものである。ただ、古狸が出てくるところなど、史実から伝説へと変化してゆく姿や話の背後に行商人や旅人の姿がちらついているのは、そこに伝説を育て広めてゆく人々の姿が見え隠れしてるということでもあって、伝説がどのようにして形成されてゆくのかがよく判る、貴重な伝承でもある。
種姫のこと
浄蓮寺には、もうひとつ悲しくも不思議な話が残されている。三ツ葉葵の徳川家ゆかりの紋の付いた位牌にまつわる話である。位牌の主は一ツ橋家のお姫さまで、名は種姫と呼ばれていた。
種姫は芳志戸の般若寺に尼僧として住んでいたので、地域の人々は比丘寺と呼んでいた。比丘寺は鬱蒼とした杉林に囲まれていて、昼でも暗く、天狗が住んでいるとも言われていた。また、尼僧しか住んでいないので、男子禁制であったが、体の不自由な年老いた男が寺男として尼僧たちの世話をしていた。
種姫がこの寺に住んで数年後、らい病の身であった姫は静かに息を引き取り、石塔が建てられた。さらに数十年が過ぎた明治三五年、ふとした火の不始末で本堂、仁王門、鐘楼、庫裏などが悉く焼け落ちてしまった。火事の最中、寺を守っていた三人目の寺男は、無我夢中で種姫の位牌を持ち出し安全な場所に置くと、再び身を翻して燃え盛る炎の中に飛び込んでいった。

芳賀町企画課発行の『ふるさとこぼれ話』によれば、種姫は徳川八代将軍吉宗の子宗武の娘で、先祖供養のために般若寺に住んだとある。芳志戸にも、らい病になった種姫が般若寺に住んでいて、三三歳でその一生を終え墓を建てたが、その墓は白い蛇が守っているのだという伝説が残っている。高貴な生まれではあっても、予測を超えるような生き方をすると、そこに運命の糸を操る不思議な力が働いていると人々は考え、伝説を育ててゆく場を見いだす。不思議な力に操られて悲劇の一生を終える伝承は「貴種流離譚」と学問的には呼ばれているが、貴人の不思議な運命に耳をそばだてている庶民の心には、平凡というこの日常を生き抜くにはどれだけ非凡な努力が必要であるかという人生の知恵も響いていたことであろう。
赤堀玄番のこと
赤堀玄番は、すばらしく足の速い盗賊で、一反の木綿を背中に付けて走っても、その先端が地面に着かなかったという。芳志戸に住んでいた芳志戸左門や金井の金井とさという大泥棒と共謀しては金持ちの家から金品を盗み、まずしい人々に分け与えていた。その所業はみごとで、家族の者も気づかないほどの早業であった。
ある時、三人は日光東照宮の山額を盗んで、大谷川を下ってこようとしたが、とうとう御用となった。
しかし、地元では玄番の義賊ぶりを偲んで玄番地蔵を建てた。旧暦の一月二四日を縁日として甘酒とだんごが振る舞われ、今でも参詣者が絶えないという。
石末の赤堀には、玄番が住んでいたとされる「玄番屋敷」という字名が残され、また芳賀町芳志戸には、盗みをする時にのろしを上げた場所にちなんだ「火振り塚」という字名が残されている。

「鼠小僧」や「石川五衛門」など、いわゆる『義賊伝承』と呼ばれている伝説である。こうした庶民の英雄は、どこか滑稽さも持っていて、胸のすくような大活躍をしたかと思えば、最後には大失敗をする。人生そんなに甘くはないということであろうか。日々の暮らしの中で喜怒哀楽を味わいつつも、何か満たされない思いを、伝説の人物がその喜怒哀楽こそ人間を豊かにするのだと教えてゆく。芳志戸左門も、芳志戸の英雄として、家族に知られることなく火振り塚に烽火を挙げ、一反木綿を地に着けることなく走り金持ちから金品を盗んでいる。
赤堀六兵衛のこと
赤堀には、その昔、運送業の馬を休ませる「立場」というところがあった。そこに、元は武士だったという六兵衛という男が息子と一緒に住んでいて、馬の世話をする仕事をしていた。その仕事ぶりは馬方にも評判が良く、「馬の水おっさん」と親しまれていたほどであった。
ある日のこと、店でいつものように休んでいた馬方達が、西の台の山中には追剥ぎが出るので通らないほうが良いと話し合っているのを息子が聞いた。息子はなぜか胸騒ぎを覚えた。夜になると、父の六兵衛は決まってどこかに出掛けたり、押入から着物や刀を包んだ荷物が出てくることがあったからである。
息子はもしやと思い、ある夜、西に向かう父の後をつけて行った。すると、西の台で仲間から荷物を受け取っている父の姿を見てしまった。翌朝、思い詰めた息子は、父と一緒に焼け死のうと家に火を放った。すぐに気づいた六兵衛は難を逃れることができた。しかし、燃え盛る炎の中から、もう追剥ぎは止めてくれと言う息子の悲痛な叫び声が聞こえてきた。
六兵衛は自分が犯した罪の深さを悔い、息子や馬の供養を込めて、火伏せの神である騎乗愛宕の石仏を彫り西の山に安置した。そして、僧に身を変えいずこともなく立ち去っていった。

元武士という貴人性を持ちながらも、盗賊の身に落ちぶれ悲劇の末路をたどる。伝説の典型を「六兵衛」は生きている。『平家物語』に、源氏の武将熊谷直実が平家の若武者平敦盛と一騎打ちをして殺すが、息子と同じ年ごろの若者を殺してしまった罪深さから世の無常を感じ出家するという物語がある。仏教の教えを史実と結びつけて庶民にもわかりやすく説く「仏教説話」として、広く伝承されてきたものである。この伝説もそのような「仏教説話」の流れの中で、火事の恐ろしさを説いた「愛宕神」と結びついて広く伝承されてきた伝説であろう。
日蓮上人のこと
旅の修業を続けていた日蓮上人が小松原で法難に会い、那須温泉へ治療に行く途中のことであった。道に迷い台新田あたりに差し掛ったころ、すっかり夜になってしまった。宿を探したが泊めてくれそうな家もない。仕方なく、日蓮上人は近くにあったお堂に泊まり、翌朝、修業のお経を唱えていた。
やがて、お堂から美しい光が出てているのを見た村人たちが、不思議に思い一人二人と集まってきた。そして、日蓮上人の有り難いお話を聞いた村人たちは、近くの池に毒蛇が住んでいて悩まされていると訴えた。そこで、日蓮上人は、村人たちに鬼怒川からきれいな小石を拾ってこさせた。そして、その小石の一つ一つにお経を書いて池に投げ入れた。すると不思議や、池から毒蛇の姿が消えたではないか。
それからというもの、村人たちは安らかに生活できたということである。

「高僧伝承」のひとつで、水がなくて困っていた村に来た高僧が、持っていた杖を剌したところ、そこから清水が湧きだしたという「弘法清水伝説」の世界に属するものである。人々に信仰の有り難さや大切さを説いて回った修業僧や布教家としての旅人が日本全国を歩き、その地域の文化を生かしながら、地域の人々の耳にさまざまな物語を残していったのである。
 

 

●栃木の伝承
清巌寺 (せいがんじ)
創建は健保3年(1215年)。宇都宮頼綱によって開基された。その後天正元年(1573年)に宇都宮氏の重臣で一族でもあった芳賀高継が清巌寺と名を改め、現在地に移転させている。この寺の山門の奥、本堂前にある門の横に1本のヒイラギの木がある。この木にまつわる奇怪な伝承が残されている。昔、3月15日に二荒山神社では例祭として「花の会」という祭が執りおこなわれていた。この祭の習わしとして、宇都宮氏の郎党の子が5人で舞を舞うことになっていた。その年も同じように子供らが稚児として舞を披露していた時、突然一陣の突風が吹き荒れ天狗が現れると、一人の稚児を目にも留まらぬ素早さで引っさらっていったのである。人々は神隠しに遭った子を探し、やがて白沢というところで発見したが、既に息絶えていたという(現在でも白沢地区には“児ヶ坂”という地名があり、その辺りで遺体が発見されたことで名が付いたとされる)。ほどなくして人々はこの稚児の供養にと、清巌寺にヒイラギの木を植えて墓標とした。これが“稚児の樹”と呼ばれ、現在でも残されている。その後「花の会」では、稚児の舞は4人で行われるようになったとされる。
二荒山神社 / 下野国一之宮。日光と宇都宮にあるが、この伝承に登場する神社は、宇都宮氏が座主を務める宇都宮二荒山神社である。「花の会」は現在では「花会祭」として4月11日に執りおこなわれている。
教伝地獄
那須の殺生石へ至る遊歩道の途中にずらっと並ぶ千体地蔵、そしてその端辺りに石積みされて置かれている地蔵が“教伝地蔵”と呼ばれている。この地蔵付近が教伝地獄とされる。後醍醐天皇の御代の頃、奥州白河の五箇村に蓮華寺という寺があった。そこに預けられていたのが教伝という小僧。相当な悪童であったが、やがて28才の時にこの寺を継いで住職となり母親と共に暮らすようになった。建武3年(1336年)のこと。教伝は友人らと那須の温泉へ湯治に行くこととなった。ところがその日の朝、旅支度も出来ていないにもかかわらず、母親が朝飯を勧めたのに腹を立て、膳を足蹴にしてそのまま出立してしまった。数日ほど逗留していた教伝らは、殺生石の近くを物見遊山に訪れた。出かける時には晴れ渡っていたが、突然荒天となると雷鳴が轟き、いきなり地面が割れて熱湯が吹き上げてきたのである。友人らは慌てて逃げ出したが、教伝だけは一歩も動けず、そこに留まったままである。そして友人らに向かって「俺はここに来る前、母の作った朝飯を足蹴にした。その天罰を受けて俺は火の海に落ちていくのだ」と叫んだ。友人らは悶絶する教伝を何とか助け上げたが、既に時遅く、腰から下が炭のようになって死んでしまっていた。それからこの辺りは泥流が沸々と湧き上がり、さながら地獄の様相であったという。この教伝の話には別伝がある。寛文元年(1661年)に刊行された『因果物語』上巻十三話「生きながら地獄に落つる事」では、教伝は那須の人とあり、薪を母と共に拾いに行った時に飯の支度が遅れたことに腹を立てて母を蹴り倒し、その帰りに天罰に遭ってしまう。友人が助けようとしたがそのまま地獄に呑み込まれて死んだとされる。またその場へ行って「教伝甲斐なし」と言うと、たちどころに熱湯が湧き出ると記されている。この教伝地獄はその後の山津波などで埋められてしまい見ることが出来なくなっていたが、享保5年(1720年)になって有志がかつての地獄のあったとされる場所に地蔵を建立し、供養と共に親不孝の戒めを示すものとした(現在の地蔵は2代目に当たるという)。
『因果物語』 / 鈴木正三が収集した怪異譚をその死後に編集して寛文元年(1661年)に刊行した仏教説話本。鈴木の収集の目的は、法話を語る際の題材とするためであったとされる。しかし多くの作品が脚色され仮名草紙として無断で売り出されたため(この流れが浅井了意らの怪談本の系譜に直結する)、正本として弟子によって片仮名本として世に出たという経緯を持つ。
盲蛇石
那須の殺生石へ至る遊歩道の途中にある巨石である。昔、五左衛門という湯守が冬に備えて山で薪を採ってきた帰り道。殺生石の付近で一服していると、人の背丈を超えるような大きな蛇を見つけた。だがその蛇は目が白く濁っており、明らかに目が見えていない。おそらくこのままでは冬を越すことは出来まいと考えた五左衛門は、辺りの枯れ枝やすすきで小さな小屋を仕立ててやった。翌年の春、五左衛門は盲目の蛇のことが気になって、早々に河原にやって来た。しかし蛇はどこにも見当たらず、その代わりに不思議な光景があった。小屋に仕立てた枯れ枝やすすきがキラキラと輝いていたのだった。湯の花がそれらに付着していたのである。これを見て五左衛門は湯の花の作り方を悟り、やがてこの製法を皆が真似て作るようになった。そして人々は、五左衛門の優しい心が神に通じて湯の花作りを教えたのだと信じ、また盲目の蛇に対しても感謝の気持ちを込め、蛇の鎌首に似た巨石を“盲蛇石”と名付けて後世に伝えたという。現在でも殺生石へ至る道の途中には、湯の花の採取場が再現され、昔ながらの製法の様子が分かる。蒸気の噴き出す場所に木や草を置き、それに湯の花の結晶を付着させるというやり方である。ただ現在はこのような方法による採取はおこなわれておらず、あくまで観光用の展示として再現されているようである。
湯の花 / 温泉に含まれる成分が結晶化したもの。主に硫黄や明礬が成分となっている。かつて那須では上記の方法で採取がおこなわれ、約100日掛けて結晶を取り出すとされる。
那須温泉 / 舒明天皇2年(630年)、郡司の狩野三郎行広は土地を荒らす白鹿を退治したが、一時その鹿が深手を負って逃げた。追い求めた三郎は途中で翁(温泉神)と出会い、鹿が温泉で傷を癒やしているのを見つけて退治したという。それが開湯の縁起とされる。共同湯の「鹿の湯」の名はこれに由来する。
那須の殺生石
「殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほど重なり死す」と松尾芭蕉が『奥の細道』で記した那須の殺生石は、現在でも温泉地の一角にある。昆虫や小動物がそばに寄ればたちどころに死に、場合によっては人すらも命を落とすと言われた怪石である。実際には石が瘴気を発しているのではなく、付近から噴出する火山性ガス(硫化水素・亜硫酸ガス)によって死に至るのだが、目に見えないガス故に昔の人々にとってはまさに恐怖の対象であったのだろう。この石にはあまりにも有名な伝承が残されている。“玉藻前=白面金毛九尾狐”の話である。これは室町時代頃に『御伽草子』の一編として成立、さらにさまざまに脚色されて能・人形浄瑠璃・歌舞伎などで人気を博した題材である。久寿2年(1155年)、“化生の前”と呼ばれる下女が鳥羽法皇の院で働き始めた。下女は容姿端麗、あらゆる知識に精通しており、あっという間に法皇の寵愛を受けて、そば近くに仕えるようになった。その後、宴席で灯りが消えた時に自ら光を放つという不思議を起こして名を“玉藻前”と改めるに至り、法皇は寵愛すると同時に畏怖の念を抱くようになった。それを境にして法皇の体調が悪化する。医師は邪気が原因であるとし、陰陽師の安倍泰成が祈祷すべしと具申するも一向に良くならず、ついに泰成は事の真相を包み隠さず話し出す。実は“玉藻前”の正体は下野国那須野にある二つ尾の古狐であり、それが法皇に取り憑いて害をなしているという。しかもその狐は天竺や震旦の王に近づき国を滅ぼそうと暗躍した過去があり、今日本の仏法を破滅させ王朝を簒奪しようと企んでいるという。そこでその正体を見破るために、泰成は泰山夫君の祭を執りおこない、玉藻前に御幣取りの役に任じたのである。玉藻前は拒絶するが、周囲から説得を受けて渋々承知して御幣を取ったが、突然その姿を消してしまう。やはり正体は狐であり、この出来事以来、法皇の病は治ったのである。狐が潜む那須野には、それを退治するために弓の名人の三浦介と上総介の軍勢が派遣された。しかし容易に捕らえることは出来ず、さらに鍛練をして再度臨むがそれでも捕まえることが出来ない。ところが三浦介の夢に若い女が現れて命乞いをした。それを狐の進退窮まった様子と受け取った三浦介は、翌日ついに弓で狐を射殺したのである。こうして退治された古狐の執心が凝り固まったのが殺生石とされ、そこから発する瘴気によって生き物の命を奪うようになったのである。そして退治から約200年経った至徳2年(1385年)、那須野に立ち寄った玄翁心昭が殺生石を打ち砕き引導を渡したとされる。その時砕かれた殺生石の破片は全国にある“高田”という名の地に飛散したと言われている。現在那須野に残っている殺生石は、本来のものの一部である。また近くにある温泉神社の境内には、九尾稲荷神社がある。
玉藻前のモデル / 鳥羽法皇の寵姫であった美福門院(1117-1160)が該当するとされる。美福門院は、譲位した後の鳥羽法皇に仕え、皇子を生む(後の近衛天皇)。この皇位継承に関して美福門院が暗躍したとされ、崇徳天皇を強制的に退位させ我が子を即位させ、さらに崇徳院が院政を行えないように宣命を書き換えたとされる。また国母であるとの理由から皇后の地位を得て、さらに鳥羽法皇の中宮であった待賢門院を呪詛事件を口実に出家させて権力を握ったのである。この暗躍によって数々の対立が生まれ、保元の乱が起こったと考えられる。即ち王権の没落と新たな為政者の台頭を促した張本人であるとも言えるのである。
白面金毛九尾狐 / 九尾狐は古来より霊獣とされ、天下太平の時に現れる瑞獣と言われていた。上記にあるように『御伽草子』では妖狐は“二尾の狐”と明記されており、かつて天竺(インド)や震旦(古代中国)に跋扈して国を滅ぼした例として耶竭陀国の斑足太子(華陽夫人にそそのかされ千人の王の首を求めた)と周の幽王(寵姫の褒似の笑顔を見たいがために諸侯の不興を買って滅ぼされた)を挙げている。後世の創作においてこの狐の正体が“王を惑わせて国を滅ぼす傾国の美女”である例として加えられたのが、殷の紂王の寵姫であった妲己であり、『封神演義』などの諸作で妲己の正体を白面金毛九尾狐としていた。このような流れで、いつしか玉藻前が九尾狐とみなされるようになったと考えられる。ちなみに玉藻前は、吉備真備が唐より戻る船に紛れ込んで日本に来たとされ、後に北面の武士であった坂部行綱の拾い子として育てられ院に出仕するという設定となっている。
安倍泰成 / 史実では泰成という人物は見当たらないが、鳥羽上皇や美福門院に召し出された陰陽師に安倍泰親(1110-1183)があり、モデルであると考えられる。泰親は特に占いに秀でており、安倍晴明以来の実力者と目され、災害や政変を多く言い当てたとされる。
殺生石の破片 / 打ち砕かれた殺生石の破片は、“高田”と呼ばれる3箇所に飛び散ったとされ、美作・会津・安芸・越後・豊後のいずれかとされる。実際、美作の高田にある化生寺には殺生石を埋めた塚、会津の高田にある伊佐須美神社の末社である殺生石稲荷神社には謎の石が置かれている(会津にはあと2箇所、殺生石と称する石が存在する)。また殺生石を彫って地蔵にしたとされる“鎌倉地蔵”が京都の真如院に安置されている。
 
 群馬県

 

●「磯ヶ原日向守正儀」 太日稲神社 館林市
昔、今の正儀内の場所に、磯ヶ原日向守正儀という優しい殿様がいました。その人の奥さんも美人で優しく、夫婦の仲は人々からうらやまれるほどだったそうな。人々は、この奥さんのことを「正儀内」様とよんでいました。
ところが、ある日、理由は分かりませんが、二人とも近くの底なし沼に身投げ自殺をしてしまいました。そんな悲しい出来事があってすぐ、磯ヶ原日向守正儀のために、人々が「日向神社」を建てたんだそうな。 [日向神社の由来]

実は、「日向神社」の神様の名は「豊玉彦命」であり、磯ヶ原日向守正儀の名はない。また、歴史上の記録にも、この名前はない。と言うことは、この人物そのものもいないと考えられます。でも、伝説には、何かもとになる話があるものです。そこで登場するのが、「植村家次」さんです。この人に関しては、あと2つも悲劇があるのです。
悲劇[1] 家次さんの奥さんの兄 依田(芦田)康勝は、藤岡城3万石の大名でした。し かし、1600年、友だちとけんかして、殺してしまい、その罪で、大名を首になってしまいました。家次さんが亡くなってすぐのことなので、奥さんはすごく悲しんだでしょうね。
悲劇[2] 家次さんの長男は出世しましたが、次男は、1641年、三代将軍徳川家光に嫌われて、自殺してしまいました。
家次さん関係で3つもの悲劇があることから、この伝説の武将「磯ヶ原日向守正儀」のお話ができたのではないでしょうか。まさか、本名は書けませんからね。

●大日稲神社 館林市
当社は、明治四二年(一九〇九)四月三〇日「正儀内」地内に鎮座していた稲荷神社(倉稲魂命)・神明宮(大日孁尊)と、その末社八幡宮(誉田別命)・日向神社(豊玉彦命)の四社を合祀、神明宮の祭神大日孁尊(天照大御神)の「大」と、日向・稲荷両社名から一字ずつとり「大日稲神社」とし、社殿はこの年六月一三日竣工した。境内には八幡宮・浅間神社・小御嶽社などの末社がある。
伝説によると、合併社のうち日向神社の祭神は磯ヶ原日向守正儀という殿様で、あるとき、どうしたわけか殿様夫婦が近くの底無沼に身を投じて死んだ。これを知った村人たちは殿様夫婦の不慮の死を嘆きかなしんだ末、沼のほとりに小さな社を建て日向守を祭り、日向神社と名付け、その沼を夫婦沼と呼んだ。
のち大和国(奈良県)高市郡高取城主二万五千石を領し春昌寺に祖先の墓のある植村氏は、日向守の家来筋ともいうが確証がない。

●「守りの沼」〜城と躑躅ヶ崎を守ってきた城沼〜 館林市
550 年前、周囲5qの東西に細長い城沼を天然の要害として館林城が築かれた。城沼は館林城の建つ台地を取り囲む外堀の役目をし、武将たちにとって「守りの沼」となった。沼によって守られた堅固な城は、近世になると江戸を守護する要衝として、徳川四天王の榊原康政や、五代将軍となる徳川綱吉の城となり、守りを固めるための城下町を広げ、その周囲に水を引き入れ、堀と土塁で囲った。
「守りの沼」には、二つの伝説が生まれた。一つは龍神伝説である。沼に人を寄せつけないため、城沼は沼の主・龍神の棲む場となり、城下町にはその伝説を伝える井戸が残る。もう一つはつつじ伝説である。今から 400 年程前、「お辻」という名の女人が龍神に見初められ、城沼に入水した。それを悲しんだ里人は沼が見える高台につつじを植え、その地を「躑躅ヶ崎」と呼んだ。歴代の館林城主はそこにつつじを植え続け、花が咲き誇るようになった高台を築山に、城沼を池に見立てた雄大な回遊式の大名庭園を造り上げた。城主によって守られてきた躑躅ヶ崎は「花山」とも呼ばれ、花の季節には里人たちにも開放された。
明治維新後の近代化は、「守りの沼」を大きく変貌させた。江戸時代に禁漁区となって人を寄せつけなかった城沼は、里人たちに開放されて漁労や墾田、渡船などが営まれ、「里沼」としての歴史を歩み始めた。

●竜の井 館林市
竜の井は元々善導寺(館林藩主榊原家の菩提寺)の境内にありましたが、善導寺は館林駅前の再開発で楠町に移転したことで竜の井だけこの地に残りました。この竜の井には次ぎのような伝説が残っています。天正18年(1590)、館林城を攻め倦んだ石田三成と大谷吉継は起死回生の策として城沼に木橋を設けて一気に城内に突入する作戦を立てました。しかし、橋が完成した翌日、総攻撃の前に突如として橋が消滅し、館林城の守護神である狐か、あるいは城沼の主である龍神の仕業と噂が立ち結果的に和議による開城となりました。北条家が滅びると徳川家康の家臣で徳川四天王とまで言われた榊原康政が10万石で入封、改めて館林城の拡張と城下町の整備が行われ、当地に善導寺が移される事になりました。
中興に先立ち康政が篤く帰依した幡随意白道上人を招くと上人は城下の町民達を集め度々説法を行い浮世の習いを説いて聞かせていました。すると、毎回説法の毎に現れ熱心に聴く年の頃17、8歳の若く美しい女性がいるので不思議に思い、上人はその生い立ちを訪ねると城沼に棲む龍神の妻で説法によって本当に救われたと話し出しました。辺りに誰も居なくなると上人は一度本当の姿を見せてほしいと懇願すると女性は恥ずかしながら20尋(約36.6m)の龍の姿に戻りました。龍は人間に本当の姿を見られたからはもう二度と人の姿に戻る事は出来ません、これからは善導寺の守護神として上人を守っていくと告げ井戸の中に消えていったそうです。
善導寺は歴代館林藩藩主や幕府から庇護され寺運も隆盛し、龍が消えた井戸は「竜の井」として大切にされたと伝えられています。又、この井戸は城沼と青龍の井戸が繋がっているという伝説も伝わっています。

●茂林寺沼と分福茶釜 館林市城町
茂林寺沼には、なぜ今も原風景が残っているのか?そこには、600年前に開山した古刹・茂林寺の存在がある。沼の畔に曹洞宗の信仰の拠点「祈りの場」が生まれることにより、人々の自然を畏怖する気持ちが高まり、「祈りの沼」としての静謐さが受け継がれてきた。
いつしか人々は、その沼を茂林寺沼と呼ぶようになった。そして、寺に伝わる貉(狸)の古譚「ぶんぶく茶釜」のなかで、和尚が貉の化身であったり、狸が茶釜に化けるなど、人と動物とのかかわりが今もユーモラスに語り継がれている。
茅葺き屋根の本堂や山門をもつ茂林寺は、その葺き替えに沼茅(葦)を利用してきた。人々は繁茂する葦を刈ることで沼の生態系を維持し、茂林寺沼は「里沼」として人との共生が保たれてきた。今も人々の祈りの姿が途絶えることのない寺と、希少な動植物の棲みかの沼との共存が図られている。

●白滝姫伝説 白滝神社 桐生市川内町
今から1200年前の桓武天皇の時代、上野国山田郡(こうづけのくにやまだごおり)から一人の男が京都に宮仕えに出された。かなわぬ恋としりながら、宮中の白滝姫に恋した男は、天皇の前で見事な和歌の腕前を披露して、白滝姫を桐生に連れて帰ることを認めてもらう。桐生に移った白滝姫は、絹織物の技術を桐生の人々につたえ、その技術が今でも桐生の地で受け継がれているのだという。
この白滝姫が桐生に来た時、桐生市川内の山々を見て「ああ、あれは京で見ていた山に似た山だ」と言ったことから、この地域を『仁田山』といい、特産品となった絹織物を「仁田山織」というようになった。桐生織は、江戸時代前期までは「仁田山織」と言われていた。
姫が亡くなると、天から降ったという岩のそばにうめ、機織神として祀った。すると岩からカランコロンという機をおる音がきこえていたが、あるときゲタをはいて岩にのぼった者がおり、以降鳴らなくなった。この岩は現在の桐生市川内町にある白滝神社の前の神体石であるという。
 

 

●白滝姫
白滝姫 1
桐生織の発祥については、白滝姫伝説という伝承が残されている。
今から1200年前の桓武天皇の時代、上野国山田郡出身の男が、京都で宮中の白滝姫に恋をした。男は天皇の前で見事な和歌の腕前を披露し、白滝姫を桐生に連れて帰ることを許してもらった。桐生に移った白滝姫は、絹織物の技術を桐生の人々に伝え、その技術が今でも受け継がれているのだという。白滝姫が桐生に来た時、桐生市川内の山々を見て「ああ、あれは京で見ていた山に似た山だ」と言ったことから、この地域を「仁田山」といい、特産品となった絹織物を「仁田山紬」と言うようになった。
白瀧姫 2
第47代の天皇(758年〜764年)の頃、朝廷の官女だった白瀧姫は、桐生から朝廷に奉公に行っていた山田 某(それがし)と知り合い、この男の妻となりました。白瀧姫は、夫と共に桐生に下り、里人に機織りを教えました。この姫を機神として祭り、天の織女星(しょくじょせい・七夕の織姫)になぞらえ、(旧暦の)7月7日に祭礼を行うようになりました。
今に伝わる、この織姫伝説は、江戸時代中頃に書かれた『機神白瀧姫御神影並御伝記(しらたきひめごしんえいならびにごでんき)』により確立したといわれています。桐生新町に住んでいた新居甚兵衛がこの伝記と白瀧姫の画の摺り物を、桐生織の反物に巻いて売ったことから、白瀧姫伝説が広く知られるようになりました。
都から桐生に下ってきたと伝わる白滝姫は、当時、桐生にはなかった新しい織物技術を伝えたといわれています。その白瀧姫を機神(はたがみ)として、祭る神社が白瀧神社です。
白瀧姫 3
白滝姫伝説の桐生市には、織姫にちなんだ様々な図像が存在しています。その中でも、最も古い白瀧姫の御神影は桐生新町の新居甚兵衛が、館林の文人画家小寺應斎に描かせたものがあります。制作は文化元年、以来二百年あまりの間に様々な織姫の図像が描かれました。      
桐生市川内町五丁目は昔、上野国(こうづけのくに)といってその村人、久助が京都宮中の庭掃除奉仕に選ばれて作業していると、一枚の短冊が落ちてきて、拾いあげてみると、「吾妻より 山田からすが飛び来たり 羽ばたきをして 庭ぞはきける」と書かれた和歌をみて、久助は筆と短冊をかり、平然と返歌をした「飛立てば 雲井の空に羽をのして 大宮人を めの下に見る」と詠んだ。(下品な私のようなカラスでも、とび立てば、宮中の空高く、貴方方、高貴な人たちでも、自由に見さげることができるのですよ)今まで笑っていた官女たちは驚き、後日歌合わせすることになり、「雲の上 目には見ゆれど白滝の 八重に思ひと 落ちぬ君かな」とうたい、白滝姫の心を動かし、お勤めの交代の時期に、桓武天皇から「ながいことご苦労であった。なんでも望みの品をしんぜよう」とのお言葉に、他の者は餅や料理を所望したが、久助は「おらあ 外のものはいらねえ ただ、白滝姫をお嫁にいただきてえ」側に控えていた公郷百官はどっと笑った。  帝は、久助に同情して「さらば 歌合わせで勝ったら姫をそなたの嫁に進ぜよう」先ず姫より「照り続き山田の稲の枯れはてて 何を種とて 命つくらん」久助は「照り続き 山田の稲のこかれなば 落ちてたすけよ 白滝の水」と返歌をした。そして願いが叶い、姫と久助は手に手をとって、川内村仁田山岩本に二人の住居を構え、宮中で習った養蚕、糸繰り、はた織の業を仁田山の里人に教え、やがて時の朝廷に絹織物を献上するほどになり、これが桐生織物の源となった伝説の原画が目を引く。  織物にちなんだ神社の絵馬や御札、桐生以外からの写真や壁掛け、日本織物創業者の孫にあたる佐羽氏の協力で出品された生き人形写真。圧巻は当時の人気随一の歌舞伎役者が明治座で公演した役者絵。書画では長澤時基、大出東皐、田崎草雲の軸など大家の書が観られる。
白瀧姫 4
山田男・白滝姫伝説
この伝説は柳田国夫監修「日本昔話名集」に完形昔話の部、幸福な結婚の類型に「山田白滝」として取り揚げられている。しかし、鎌倉地区のごとき公卿の姫君と結婚するのは異色で、一般的には金持ちの娘との結婚話です。
今から約800年ほど前(鎌倉三代1203〜1219)、山田鎌倉、現在の田中正治氏の遠い祖先に二人の兄弟がありました。兄は当然ながら家を継ぎこの地にすみましたが、弟は志を立て京都に出てお公卿に使えました。元より利発の男なれば「山田男よ」「山田男よ」と皆に愛されました。
ある日のこと、湯殿の湯を沸かし湯加減もよろしいとその旨を公卿の娘白滝姫(三女)二申し上げました。姫は湯殿に来、湯加減を試されたところ少々厚かったので、山田男に「水を持て」と仰せられま山田男は早速かしこまって手桶の水を持ち湯壺へ注ごうとした時、いかなるはずみか手桶の水が媛がお召の袖にかかってしまいました。この時、田舎者とはいえ誠実な山田男にほのぼのとしたものを感じていた白滝姫は後ろ向きに振り向きざまに歌をお詠みになりました。
「霞(かすみ)さえ かかりかねたる 白滝に 心かけるな 山田男よ」
このような高貴な公卿の娘とはいえ、日頃から白滝姫に淡い慕情を抱いていた山田男は、すかさず
「照り照りて 苗の下葉の 枯れる時、山田に落ちよ 白滝の水」
と歌でお返ししました。
この有様を一部始終陰できいていた白滝姫野父親は、二人の成り行きを察し、山田男に「媛を汝に嫁として与えるから、媛を連れて故郷へ帰れ」とお言いつけになりました。一方、白滝姫も遠い北国での暮らしをご承知になりました。この時代は公卿と一般の人との結び合いは国外追放という厳しい掟がありました。せっかく志を立てて京に上った山田男でしたが、掟に逆らう訳にもいかず仕方なく故郷へ帰ることにしました。
しかし二人の足取りは軽く、途中敦賀より放生津までの水路、放生津から山田への陸路、長の道中もつつがなく家に帰りました。出発の際、嫁入り道具は勿論のこと、母君より形見に黄金造りの合わせ鏡を送られました。
山田男は姫との成り行きを家の者に詳細に説明しました。家の者達は大変驚いて、そのような高貴な同居するのは恐れ多しと、川向うの山(向い原鏡が窪)に新居を築いて両人を住まわせました。二人はここで生涯中睦まじく過ごされました。
鏡の宮の縁起 (白滝姫伝説のその後)
その22〜23代後の田中家で。東の空より太陽が昇り向い原を照らす頃になると、川向いの山田男と白滝姫の屋敷跡より、どんどこどんどこと神楽囃子が聞こえてきました。初めの内は何とも思っていませんでしたが、あくる日もあくる日も聞こえてきました。不思議に思った当主はふと白滝紐の事を思い出し、これは確かにこれは確かに姫の親の形見の黄金の合わせ鏡が土に埋もれているに違いないと村中で屋敷跡を掘り起こしました。しかしとうとう鏡を見つけることはできませんでした。
今を去ること凡そ200年前、蓮華寺村の九郎右ェ門なる者に夢のお告げがあったとういことで、当時の田中家の当主八郎兵営を訪ねてきました。そして、古い祖先が建て春秋2回祭礼を行ってきたという祠(ほこら)の境内より一面の鏡を掘り出して行きました。(現在の外輪野用水の守護神となっています)
又もう一面は明治18年9月、八郎兵衛の希望により鎌倉の人々により祠の大門を拡げる作業をしておりました。中川善右衛門、杉林円四郎が一緒に茅株を起こそうと打ち込んだ桑先にカチンと金音がし、不思議に思い土を除くと一面の鏡が出てきました。善右衛門がすぐに八郎兵衛を呼びました。八郎兵衛は鏡を手に取りおし頂き「これこそ伝え言う先祖の宝鏡に違いない」と、直ちにほ祠にまつり一同で礼拝しました。その後、鏡の宮は遠方にて参拝困難ゆえ氏子八幡宮に合祀されました。鏡の宮跡には石碑が建ててあります。
地名のいわれ異聞
「山田男と白滝姫伝説異聞」もあります。その中で山田男が奉公したのは現在の神奈川県鎌倉市であり、武家に奉公したとあります。そして山田男は大変な美男子で有り姫と恋をしたとされており、名誉ある武家としては奉公人と姫を近辺に置くことを避け、男の故郷山田郷へ多大なる支度で送り届けられました。そしてこの地を鎌倉と名づけたというものです。
白瀧姫 5
平安時代の初期、桓武天皇の時代に山田郡の仁田山(今の川内地区)に住んでいたと言われている農家の青年が、宮廷の掃除係として都へ行きますが、宮中で出会った姫に恋い焦がれ、その気持ちを和歌にしました。
最初は東国から来た身分の低い男を相手にしていなかった姫も、彼の才能に次第にひかれてゆきます。
やがて天皇の前でも見事な和歌を詠み、許しを得て姫を連れて帰ることになりました。 この
時、姫が身に着けていた養蚕、製糸、機織りの技を里人に教えたのが桐生織の発祥と言われています。
ちなみに伝承では姫がこの付近の山を見て「京の小倉山に似ている」と言ったので、今の川内地区は仁田山と呼ばれるようになり、峠は小倉峠と呼ばれたとなっています。
全国に拡散した白滝姫伝説
さてこの白滝姫の伝承は神戸や富山など、他の山田という地名の場所にも残っています。
おそらくこの伝承を聞いた全国数か所の山田村の人々が、きっと「おらが村の話にちげえねえ」と思って子孫に伝えたか、「うちこそ伝承の地」といった白滝姫伝説誘致運動を繰り広げたかのどちらかでしょう。
しかしながら、白滝姫が嫁いだ地「山田」とは桐生の川内であった可能性が非常に高いと私は考えます。 理由は川内に白瀧神社があり、亡くなった後で石の下に埋めたと伝わる「降臨石」と呼ばれる石が境内に存在しているからです。
神社に祀られるというと何やら神話めいていますが、昔の人は現代人が考える以上に亡くなった人の魂を恐れ敬う気持ちが強く、実在したからこそ、そこに祀られている可能性が高いのです。 また恋愛のストーリーは大体同じですが、白滝姫が機織りを伝えたという話があるのは桐生だけです。
地元の人は機織りを伝えてくれた恩人として白滝姫を大切に祀ってきたのです。
なおこの降臨石には、七夕の日に白滝姫が天から降りてきて、耳を当てると機織の音が聞こえたと伝えられています。 七夕の日に織姫と彦星が出会う織姫伝説ともリンクしている点が興味深いですね。
白瀧姫 6
関東の養蚕信仰の女神さまには、群馬県桐生市にある白滝神社に祀られている<白滝姫>と、茨城県筑波市の蚕影神社の<金色姫>の2つの系統がありました。八王子(とくに北西部)では<白滝姫>が信仰されていますが、八王子以外の多摩や神奈川方面では<金色姫>が信仰されているようです。<金色姫>の伝説はかなり古くから存在しており、そのバリエーションも少なくありません。養蚕との関わりもかなり深く、江戸時代には神仏習合の信仰として養蚕の盛んな地域に広がったようです。一方、<白滝姫>に関する伝説も、日本の各地に散らばっていますが、ちょっと面白い話なので紹介しましょう。
まずは、桐生に伝わる伝説から。
今から1200年前の桓武天皇の時代、上野国山田郡から一人の男が京都に宮仕えに出された。かなわぬ恋としりながら、宮中の白滝姫に恋した男は、天皇の前で見事な和歌の腕前を披露して、白滝姫を桐生に連れて帰ることを認めてもらう。桐生に移った白滝姫は、絹織物の技術を桐生の人々に伝えた。
この伝説のキーワードは、<白滝姫>と<和歌>、そして<山田>という地名です。
同じような伝説は富山県にもありました。
越中国婦負郡山田村出身のある男が京の公家の家に仕えていた。その家には白滝姫という美しい娘がいた。男がある日、白滝姫のために風呂をわかしたが、熱くて入れない。男が桶で水を運んだところ、その水がこぼれて姫の袖を濡らした。そこで姫は次のような歌を詠んだ。
雨さへも かかりかねたる 白滝に 心かけたる 山田男の子よ
けっこうタカビーな内容の歌です。水をかけられたくらいで、<自分が好かれている>って、<どんだけ〜>ですよね。ところが、山田男も歌を返します。
照り照りて 苗の下葉に かかるとき 山田に落ちよ 白滝の水
姫は田舎者だと思っていた男が予想外の見事な歌を返したのに感心。この歌が縁で、男は身分を越えて姫との結婚を許されます。そして、故郷の山田村へ姫を連れ帰り、終生仲睦まじく暮らしましたとさ。
ちなみに、白滝姫が輿入れのとき京から持参した二枚の鏡のうちの一枚が山田村の鎌倉八幡宮に今もあるそうです。でも、この富山バージョンには、姫が機織りの技術を伝えたという言い伝えはありませんね。
さらに、兵庫県神戸市北区山田町にも同じような伝説がありました。こちらはより具体的です。
奈良時代、淳仁天皇の御世、右大臣藤原豊成の娘に中将姫、白滝姫という美しい姉妹がいた。
<中将姫>は奈良当麻寺に伝わる曼荼羅を蓮華の糸で一晩で織り上げたというお姫様だそうです。この名前は、能や歌舞伎にもよく登場しますね。
その妹の白滝姫も、姉に劣らぬ才色兼備で、多くの公達から求婚されていた。ところが、山田郡郡司の山田左衛門尉真勝は、身分の違いも顧ず、白滝姫に恋をし、文を送ったところ、白滝姫から次のような歌が返される。
雲だにも 懸からぬ峰の 白滝を さのみな恋そ 山田男よ
富山バージョンとは若干語句が違いますが、云っている内容はほぼ同じですな。しかし、相当の美人だったんでしょうね、たいした自信です。山田真勝は次のような歌を返します。
水無月の 稲葉の末の こがるるに 山田に落ちよ 白滝の水
この歌に関心した姫の父藤原豊成は、白滝姫を真勝の嫁にやることを決断。おまけに、帝もこの話に感動して、真勝に宝剣を与えて祝福する。真勝は白滝姫を山田庄へ連れて帰る。
ところが、兵庫バージョンはラストが違います。
しかし、もともと気にそまない結婚生活を強いられた白滝姫は、子供を産んだ後、病気で死んでしまう。真勝は邸内に白滝姫を葬り、弁財天の祠と観音堂を建て姫を祀った。その弁才天祠の前に井戸を掘ると、毎年、栗の花が落ちる頃に清水が湧き出す。真勝は白滝姫をしのび、姓を「栗花落氏」と改める。そして、後世まで山田庄の豪族として栄えた。
富山バージョンのお姫様は、今で云うところの「ツンデレ」系の女の子でしょうか。男の才能に惚れて、富山行きを決心するところなどは、チャーミングなお姫様です。一方、兵庫バージョンはちょっともの悲しい結末です。最後まで<オジョウサマ>気質が抜けず、鄙の生活に慣れなかったのでしょうね。
ただ、富山の話も、神戸の話も、いずれも<養蚕>とは関わりがありません。
どうしてこの物語が日本中の山田郡(村)に広がっているのでしょうか?ちょっと不思議ですね。
おそらく、<高貴な姫と山田男>ストーリーが先に存在し、全国の山田という村が、<この話の舞台はうちの村だ!>とばかりにこぞって採用したのではないでしょうか。でもって、群馬の山田郡桐生の場合は、そこに養蚕伝来のサブストーリーも追加したのでしょうね。
桐生織
群馬県桐生市において特産とされる絹織物である。その起源は奈良時代まで遡る。江戸時代以降、西陣及び西洋の技術を導入し、さらには先駆けてマニュファクチュア(工場制手工業)を導入し発展。『西の西陣、東の桐生』と言われ、高級品織物を中心に、昭和初期までは日本の基幹産業として栄えてきた。2006年(平成18年)4月に施行された改正商標法によって、特定の地域名を冠した「地域ブランド」(地域団体商標)が商標権の取得が可能となり、桐生産地では2008年(平成20年)2月1日に桐生織物協同組合の「桐生織」が地域団体商標に登録された。
群馬県桐生市とその近郊に位置するみどり市大間々、伊勢崎市赤堀、太田市藪塚、栃木県足利市小俣、葉鹿地区などにおいて産される絹織物で、経済産業省の伝統的工芸品に指定されている。桐生織には、御召織(おめしおり)、緯錦織(よこにしきおり)、経錦織(たてにしきおり)、風通織(ふうつうおり)、浮経織(うきたており)、経絣紋織(たてかすりもんおり)、綟り織(もじりおり)の七技法があり、桐生織伝統工芸士会によって技術の継承がなされている。
御召、羽織、紬、絣、コート、紋紗、帯など、内地向け織物は、多品種少量生産が特徴である。太平洋戦争中に大規模な織物工場は軍需産業に転換され、戦後、再建されずに廃業したため桐生に大工場は残存せず、現在では基幹の織物業に加えて、染色、整理、加工、刺繍、縫製、レースなど多種多様の小規模事業者によって構成される総合産地となっており、礼装着物、浴衣、着尺、帯地、丸帯、袋帯、角帯、兵児帯、洋服地、裏地、法被などの祭礼用品、神社仏閣の御守袋など袋物、作務衣や甚平、文楽人形や節供人形の衣装、幟や暖簾、ネクタイやストールなどが生産されている。
白滝姫伝説​
桐生織の発祥については、白滝姫伝説という伝承が残されている。
今から1200年前の桓武天皇の時代、上野国山田郡(こうづけのくにやまだごおり)から一人の男が京都に宮仕えに出された。かなわぬ恋としりながら、宮中の白滝姫に恋した男は、天皇の前で見事な和歌の腕前を披露して、白滝姫を桐生に連れて帰ることを認めてもらう。桐生に移った白滝姫は、絹織物の技術を桐生の人々につたえ、その技術が今でも桐生の地で受け継がれているのだという。
この白滝姫が桐生に来た時、桐生市川内の山々を見て「ああ、あれは京で見ていた山に似た山だ」と言ったことから、この地域を『仁田山』といい、特産品となった絹織物を「仁田山織」というようになった。桐生織は、江戸時代前期までは「仁田山織」と言われていた。
姫が亡くなると、天から降ったという岩のそばにうめ、機織神として祀った。すると岩からカランコロンという機をおる音がきこえていたが、あるときゲタをはいて岩にのぼった者がおり、以降鳴らなくなった。この岩は現在の桐生市川内町にある白滝神社の前の神体石であるという。
仁田山​
仁田山織の紬は、西国や畿内の紬と比べて品質が劣っていたが、廉価であったため室町時代には近隣諸国に流通していた。江戸時代に品質が向上したが、上方では「田舎絹(田舎反物)」の代表としてその名が知られており、現在でもえせ物やまがい物のことを「仁田山」と呼ぶ語源ともなっている。
歴史​
古代・中世​
上野国の絹織物は奈良時代初期に産出され始めたと考えられており、『続日本紀』には、和銅7年(714年)に、相模、常陸、上野の三国から、初めてあしぎぬが調として納められたとある。平安時代中期に編纂された『延喜式』では、上野国の税はあしぎぬと定められた。鎌倉時代の元弘3年(1333年)、新田義貞は鎌倉攻めにおいて、仁田山紬を旗印に用いた。南北朝時代の元中年間(1384年 - 1392年)には、仁田山絹として他国にも流通し始めた。義堂周信の詩集に上州土産として絹が詠まれており、上野の絹織物は鎌倉あたりにまで知られていたようである。応仁の乱により衰退したが、安土桃山時代には荒戸原に新町(桐生新町)が築かれ、天神社周辺で開かれた酉の市では、絹の取引が行なわれ、少しずつ盛り返していく。
近世​
慶長5年(1600年)、徳川家康が小山にいた軍を急に関ヶ原へ返すとき、急使を送って旗絹を求めたが、わずか1日ほどで2千4百10疋を天神社の境内に集めて納めた。このことが織物生産地としての桐生の名声を高めた。江戸時代前期に、桐生新町が六丁目の下瀞堀まで整えられ、近郷からの移住者の増加によって機業を仕事とする者が多くなり、京都、大阪、江戸や他の国々との取引も盛んになったため、酉の市を六斎市とし、市日は天神社の例祭にちなみ、五・九の日に開かれた。元文3年(1738年)に、京都の織物師の中村弥兵衛と井筒屋吉兵衛が桐生に高機の技法を伝えた。高機は織手と紋引手が共同で文様部を織り出すことで、複雑で変化に富んだ紋織物を作りあげた。その製品は飛沙綾と呼ばれ、桐生の絹市は見立番付の『関東市町定日案内』で大関に格付けされるほどに賑わった。寛政2年(1790年)に、京都の模様師の小坂半兵衛が桐生に先染紋織の技法を伝えた。時代の変化にしたがって技術も進み続け、図案、製紋、紋揚げ、紋移し、糸撚り、糸染め、糸繰り、緯巻き、整経、綜絖通し、筬通しなどの準備行程が分業化し、年ごとに綾、緞子、綸子、羽二重、縮緬、紗綾、海気、錦、金襴、金紗、絽金、琥珀、厚板、天鵞絨など多種多様な絹が生産されたので、桐生の名は高まっていった。
近現代​
安政6年(1859年)の横浜開港から、国内の生糸が海外に輸出されるようになり、桐生では織物原料の不足と価格の高騰に悩まされつつ、明治維新を迎えることとなったが、生糸の代わりに輸入綿糸を用いた絹綿交織物の生産に転換することで復興した。明治時代前期には、輸出羽二重の開発、織物協同組合の前身にあたる桐生会社の開設、ジャカード織機の導入による紋織物生産の能率化、成愛社、日本織物会社といった大工場の設立があった。明治後期になると、輸出織物の重要性を認識した政府は機業地に財政援助を行なった。その援助を受けて設立された工場は模範工場といわれ、桐生には、桐生撚糸会社、両毛整織会社の二社があった。1907年(明治40年)に渡良瀬水力電気会社が電気を供給し始め、大正時代に入ると手織機から力織機に移行する工場が増え、原料の安い人絹織物の生産が活発となった。輸出向け織物は、1928年(昭和3年)に設置された商工省輸出絹織物検査所で検査に合格した製品が海外に売り出され、桐生織物の信用度が高まったことで販路の拡大につながった。太平洋戦争後はマフラーの輸出によって復興し、輸出織物見本市や海外見本市の開催によって、新市場の開拓に成功したが、大阪万博開催のころから、繊維工業が急成長した途上国の追い上げによって、販路がせばめられてきた。日本人の生活様式の変化に伴う和装離れから桐生織は苦境に立たされているが、炭素繊維などの先端科学技術を導入した新製品や、映画・ドラマなどを中心とした衣装提供など、新分野に進出して販路を広げている。スティーヴン・スピルバーグ監督作品の映画『SAYURI』において、主演のチャン・ツィイー、コン・リーや桃井かおりが身につけた丸帯は、桐生市の後藤織物で生産されたものである。1973年(昭和48年)に、桐生繊維関係団体連絡協議会(現在の桐生繊維振興協会)が発足し繊維業界の発展を図るため活動している。1974年(昭和49年)施行の伝産法に基づく伝統工芸士制度の発足により、桐生伝統工芸士会が設立され、技術の向上や後継者の育成にあたっている。1977年(昭和52年)には「桐生織」が当時の通商産業省から伝統的工芸品に指定されるなど、桐生織の技術は高い評価を得ている。1987年(昭和62年)には桐生地域地場産業振興センターが竣工し、新製品の開発や内外情報の収集を実施して地場産業の活性化を推進している。
遠野清滝姫と桐生白滝姫
遠野・清瀧姫伝説
奥州閉伊郡山田村より登りたる左内と云ふ役夫、清瀧姫と云宮仕ひの官女を見初、忍戀にあこがれ手寄を求め密に一首の歌を贈る。
雨ふらで植えし早苗もかれはてん清滝落ちて山田うるおせ
女返し歌
及びなき雲の上なる清滝に逢わんと思う恋ははかなし
男又遺す歌
かけはしも及ばぬ雲の月日だに清きけがれのかげはへだてぬ
女返し歌
よしさらば山田に落ちて清滝の名を流すとも逢うてすくわん
うれより人目を忍ぶ枕の藪積り清瀧ただならぬ身と成り夫婦内裏を忍び出で男の古郷を心ざし東路に赴き逃げ下る道終はや先立て東國の村里に御尋の御詮議きびしき御沙汰の風説を聞き古郷の山田は伝に及ばず何方も人住む里には身を忍ぶ隠れ所なく遠野東禅寺村の奥山深く分け入り巌窟を舎としてしばらく忍ぶ居る間に女は重き身に重き病の悩をうけ終に此世を去ければ左内泣々亡骸を葬り塚の印に建置たる石を麓より見上れば猿乎石乎と疑しく見ゆる故塚の傍より涌出る細谷川を世俗猿乎石川と稱し来ると言傳へ侍る。
桐生・白滝姫伝説
今から1200年前の桓武天皇の時代、上野国山田郡から一人の男が京都に宮仕えに出された。かなわぬ恋としりながら、宮中の白滝姫に恋した男は、天皇の前で見事な和歌の腕前を披露して、白滝姫を桐生に連れて帰ることを認めてもらう。桐生に移った白滝姫は、絹織物の技術を桐生の人々につたえ、その技術が今でも桐生の地で受け継がれているのだという。
姫が亡くなると、天から降ったという岩のそばにうめ、機織神として祀った。すると岩からカランコロンという機をおる音がきこえていたが、あるときゲタをはいて岩にのぼった者がおり、以降鳴らなくなった。この岩は白滝神社の前の神体石であるという。

話が妙だなと思っていた、遠野の「清瀧姫伝説」と同じものが、古代では毛野国に属する桐生織で有名な桐生に「白滝姫伝説」として伝わっていた。遠野では清瀧姫であるのが、桐生では白滝姫となっている。遠野の伝説では猿ヶ石川の名前の由来伝説となっているが、桐生側では養蚕技術の伝承となっている。養蚕技術を教えた話は、遠野の伊豆神社に伝わるものと、陸前高田には綾織姫の話が有名か。遠野の場合は、悲恋物語が際立っているが、猿ヶ石川の名の由来は、後で取っ手付けた感のある話になっている。恐らく桐生の伝説が、遠野の地に持ち込まれ加工されものと思える。時代的に考えても、恐らく古代に毛野国に属していた阿曽沼の人間が遠野の地を統治する際に持ち込み伝えたのではないだろうか。そして本来は、養蚕を伝える物語であったのだろうが、それが打ち消され猿ヶ石川名の由来になったのは、遠野には既に有名な伊豆神社の養蚕伝承があったからではなかろうか。気になるのは、何故に滝という名が共通するのかだろう。桐生の白滝神社では、滝が御神体というわけではない。しかし京都から連れてきた(運び込まれた)事を意識すれば、岩手県のいくつかの新山神社に伝わる話を思い出してしまうが、それは後回しにする事としよう。白滝日の白滝として思い出すのは、遠野にある白滝神社二か所(琴畑・犬淵)である。どちらの白滝も、清瀧とも呼ばれ、その白滝神社も大元である早池峯神社の前身、妙泉寺の末寺だったと云われている。名が二つあるというのは清い意味を持つ、清瀧も白滝も同じ意味である為だろう。そういう意味でも、白滝姫が遠野に伝わり、清瀧姫となっても何らおかしくは無い。
桐生の白滝姫は京都から連れてきた。滝は瀑布とも呼ばれ、やはり養蚕に関わる布を意味するのは、宗像のみあれ神事が、白い布をひらひらとなびかせ、神を依り付かせる事に繋がる。山の滝とは、山中でたなびく一枚の白い布であるのが、瀑布とも云われる由縁だ。その白い布に依り付くのは養蚕の神でもあり、滝神でもある。
遠野の伊豆神社には、兎が描かれている。何故兎なのが謎ではあったが、兎が月と結びつくのは誰しもが知っている事実だ。また東山文化での庭園造りを伝えたのは、被差別部落の人間でもあったが、そこで伝わるものは、月とは直接見るものではなく、水に映して見るものであるという事だった。実際に、平安時代の習俗にも和歌にも、月を直接見るものではないと伝わるものがある。それは忌むべき事というよりも、その月の光の神秘性をより強く伝えるものでもあったようだ。云わば、月と水との融合を意味し、それは月の変若水にも繋がる事であった。
琵琶湖を水源とする宇治川の宇治とは、兎路であった。それは恐らく、水面に映る月の光の軌跡を言ったのではなかろうか。「日本書紀(垂仁天皇記)」に、天照大神が伊勢を選んだのは常世から押し寄せる波が伊勢に届いているからでもあった。その波を際立たせるものは、月の光であった。恐らく琵琶湖を水源とする宇治川もまた、琵琶湖の湖面に映る月の光りが波だったものが、宇治川へと流れ注ぐ意があるのだと思う。その流れは途中で様々な支流と合流し、最後は伊勢へと流れ着いている。伊勢神宮前の橋を宇治橋というのは、その事を言うのだろう。そして海上の沖からも、月光を浴びた幾重もの波が伊勢へと押し寄せている。つまり、それが兎路であり、兎路であり月光の集まる場所が伊勢神宮である。だから伊勢神宮とは月の宮では無いかと、以前に書いた。
白という意味は広いが、「皓」と「素」に分かれる。「皓」は、自然界の雲や雪。さらに霜・水や滝などから発想されたもので、白い色を示す。皓月や皓雪というのは「白く光って明らか」という意味で、光沢のある白と思えば良い。そして「素」は、楮などの木の皮を川の流れや雪の上で晒して白くした素糸とか、素絹とか、本来の地の色の白く美しい表現に使うものとされるようだ。つまり素肌という表現は、本来白く美しいものとなるので、「古事記」の中での因幡の白兎が本来「素兎」と書かれているのは、この意味からである。結局「皓」も「素」も、清らかな意味を有する。清瀧も白滝も、自然な清らかな滝の意であるのは先にも書いたとおりだがつまり「白」とは、穢れを受け付けない清らかさを意味する。そしてまた、白山信仰にも繋がるものであろう。ところで水は、夜の闇では白くは見えない。そこで必要となるのは、夜の闇に浮かぶ月の光となる。伊勢に押し寄せる常世の波は夜の波でもあり、それは月の光を浴びた波でもあった。また琵琶湖の桜谷もまた黄泉国と繋がっている伝承からも、琵琶湖に映る月の光も常世の波と同じ理屈となる。それが、伊勢神宮に押し寄せている。
とにかく若干の内容は違えども、遠野の清瀧姫伝説も桐生の白滝姫伝説も同じものであり、それは京都から持ち込まれた女神を物語化させて伝えたものだと考えるのだ。岩手県の新山神社に伝わるものに、京都から早池峯の女神を抱いて、ある場合は羽黒経由で岩手に持ち込まれ、または直接岩手に持ち込まれ、早池峯の女神として遠望するように祀ったとある。それは複数であったのはわかっているが、どれだけの人数によって持ち込まれたのかはわかっていない。また、京都のどこであったかも伝わっていない。ただ桐生の白滝姫の伝説は、桓武天皇時代だという。つまり、その頃の東北は、蝦夷征伐であり坂上田村麻呂が来ている頃と重なる。その蝦夷征伐後の大同元年に、遠野の早池峯神社が建立され祀られた神とは、伊豆神社と同じ瀬織津比唐ナあった。その瀬織津比唐ヘ、犬淵の白滝神社にも祀られ、琴畑の白滝神社にも祀られている。そして伊豆神社の伝承にも、坂上田村麻呂と共に養蚕を伝えた拓殖夫人の伝承があるが、これが桐生の白滝神社とリンクする。毛野国であった桐生もまた蝦夷の入り口であり、この北関東から東北にかけて、オシラサマが分布し、養蚕が盛んになったのも何かの関係があるだろう。余談として、犬淵の白滝神社だが、地名を中滝と言い、その奥の又一の滝と繋がる意を有しているらしい。その中滝の出身者が明治時代に遠野の町に移り住んだそうだが、かなりの風流な者であったそうな。その者は苗字を中滝ほ変換させ中竹と改め、月を待つ意の「待月」という店を構えたのは、意味深な事であると思うのだ。  

●ふるさとの伝説
前橋市
きついばあさん 「鬼ばばあ」と呼ばれるばあさんがいて、息子の嫁はみんな逃げてしまったが最後の一人はばあさんのことばに従って仲良く暮らしたという話
猫山 祐庵という医者が、飯土井を通りかかったところ猫が踊りを踊っており、その中に自分の飼い猫も入っていた。それからこの辺りを猫山と呼ぶようになり、現在も記念碑がある。
桐生市
白滝姫 京都に使いに出かけた男が、京都で白滝姫を見初めて連れ帰った。白滝姫は折門織物が上手でこの地方に織物を広めたという話
伊勢崎市
波志江の五郎兵衛 力持ち五郎兵衛にまつわる話
栄朝にまつわる伝説 世良田の長楽寺開山にまつわる話
大久庵(湾)の入水 悲恋物語
太田市
鳥居のない神社 昔、日光例幣使の一行が石原の賀茂神社で休んでいると犬が吠えるのでその首を切ってしまったところ、首が鳥居に跳ね上がってそこにいた蛇に食いついた。犬に助けられたことを知った例幣使はその犬を手厚く葬り、鳥居も外してしまったという。この神社には今も鳥居がない。
ダイダラボッチ 昔、ダイダラボッチという大男がいて、赤城山に腰を掛けて利根川で足を洗った。きせるをはたいた灰が丸山で、吉沢にある池が足跡だという。
沼田市
迦葉山天狗「中峰尊」 昔、迦葉山の寺に天巽(てんそん)という僧侶と一人の小僧さんがやってきた。この小僧さんは夜中に大木をひいたりして寺を建て、岩壁に穴を開け五百羅漢の像を作ったが、実は中峰尊という天狗の化身だったという。
絵馬のいたずら 昔、柳町や町田の田畑が何者かによって踏み荒らされた。毎夜のことなので調べてみると家々の馬はみなつながれていたので、これは歓楽院の絵馬のせいだと手綱を書き入れるとすっかり収まったという話
館林市
分福茶釜 茂林寺の茶釜にタヌキの首や手足が出て、毎夜陽気に踊り出したという話
キツネが教えた縄張り 赤井照光はキツネの教えにより館林に築城したという話
渋川市
お袋山 金井の渋川吾妻線沿いにあるお袋山には、その中腹の南面のところに乳池がある。弘法大師が山に登り四方を眺めているうちに、あまりにのどが渇いたので杖でそこを掘ったところ乳色の水がわき出した。里人はこれを乳池と名付けそこから乳の出の悪い人はこの水を飲むと不思議に乳が出るという。
富岡市
昔話 ミミズと蛇道祖神様と小鳥キツネとオオカミしょうぶの話大日様とキツネ山姥の話医者になった男
笑い話 和尚と小僧和尚と焼き芋たの九松山鏡馬鹿婿梅のばかへっぴり嫁御
世間話 かいげんとキツネ馬小屋と小僧六部を殺した話
伝説 弘法大師と九十九谷弘法井戸弘法池片目のウサギ蚊のいない村蛇のからまる家太郎坂行人塚羊太夫小町塚と化粧井戸
安中市
チャンコロリン石 夜な夜な「チャンコロリン」といって町中を丸い石が転がり回る。町民は住職にくぎ打ちを頼んだ。その石というのが大泉寺に残っている
お八重ヶ淵 お八重は無実の罪で大きなかめの中で蛇責めにされた。無実ならばゴマの花を逆さに咲かせるといって死んだ。これは無実であったという。安中城中での悲話
赤城村
おおみ堂の釣り鐘 昔、おおみ堂にみぞろが池という池があった。池の主の大蛇が成長して池が小さくなったので赤城の小沼に移ったが、その時あらしが起こり小沼の水があふれて流れた。おおみ堂の鐘も流されてしまったが、これが筑波山のふもとに流れ着いた。この鐘は今も突くと「溝呂木恋しやゴーン」と鳴るという
富士見村
田島の大石 田島には天狗の足跡石というのがある。天狗が飛んできてこの石に止まったと言われ、大きな足跡が付いている。この石の上で子供が遊んでいて落ちてもけがをする者はいないという。
すずり石 山口の北方にすずり石というものがあり、窪みに水がたまっているので、昔、親鸞上人がこの水を硯に受けて経文を書いたので、すずり石という。
お茶の水 米野の芦沼と中田に、こんこんとわく清水がある。これをお茶の水といい、昔キツネがこの水を京都まで持参して献上したと伝えられる。
粕川村
小沼の蛇姫 藤原道玄の娘が小沼に身を投じて龍神となり庶民の安穏を守るという話
竜源寺の竜燈桜 若い男女が仏の道を悟れず煩悩に身を焦がしていた。真光和尚は2人に血脈を授けた。この恩返しに桜のこずえに毎夜法灯を掲げたという話
黒保根村
道元姫の綿帯 赤堀道元姫いわゆる赤城山小沼に入水し蛇の化身となった娘が着用していたといわれる布地が医光寺に残る
榛名町
長年寺の7不思議 榛名湖に続いている木部井戸水がかれたことのない弁天池ぜんわんを貸した満行水(山神)夫婦松シダレザクラの下に立つ白装束の城主夫人山門を2つ建てると一方が必ず火事になる話入ったら出られない方丈窪
榛名湖女人入水伝説 霊地榛名湖へある時代に不浄視されていた女性が投身自殺したことは昔はかなりショッキングな事件で、女性の身分や投身の理由から同情が集まり種々の女人入水伝説が生まれた。なかでも上野の国司の若君が神隠しにあい、それを嘆き悲しんだ北の方をはじめ若君の乳母や守り役の女性が相次ぎ入水した伝説が知られている。
箕郷町
じじばば石 箕輪城主長野氏の据えた名石を後に城主となった井伊氏が高崎城に移る際運び出したが、一夜で箕輪城へ戻ったという話
柿の木沢のヒル 現在の鳴沢湖の敷地は主に湿田であったが、そのなかに弁天宮がありそこから見える田のヒルは人に付かないという。
ちょんぴらりん 現在の鳴沢湖の近くに住むキツネが夜ごと周辺の民家の戸を叩き人々を歌と踊りに誘い込むという話
群馬町
霊亀 妙見寺に投宿した人が、夜半に目覚めたところ、一筋の光が天に昇っていることに気づいた。その光源を探ると光る亀がいた。この亀を朝廷に献じたところ朝廷はさいそう感じ入り、年号を霊亀と改めたという話
子持村
雙林寺(そうりんじ)の7不思議 開かずの門の鶴山門小僧忠度桜鏡の井戸カヤの実竜神水千本カシ
一つ拍子木九十九谷伝説 弘法大師が100の谷があるというので、寺を造るため子持村にやってきたが天狗が1谷隠してしまったので寺を造るのをあきらめたという話
仏足石 子持神社が山火事に包まれ女神が幼児とともに社殿から避難したときに岩に足跡を残したという。
小野上村
肩切り五輪 貧しい母子の母は、毎夜食べ物を探しに出かけていた。ある夜母が帰ると子供は怪しい者と思い切り殺してしまった。子どもは終生母の菩提を弔うため石仏を刻み五輪塔を造ったが、その屋根の一角は刃で切られたようになっているという話
吉井町
羊太夫伝説 羽をもった馬で奈良の都に日参していた羊太夫が、羽を折って日参できなくなり朝廷から反乱の疑いをかけられて滅ぼされたという話
万場町
入沢の滝の大グモ 入沢の滝に大グモが住み、昼寝をしていた農夫に糸をからめて釣り上げようとしたところを助けた話
千軒山 千軒山と桐の城の城主は兄弟であったが、毒を川に流し兄の千軒山城を落城させたという戦国悲話
南牧村
六車の荷つけ石 甲斐の武田信玄が攻め入ったとき、兵糧を積んだ荷車が道端の岩に突き当たって6つに割れてしまった。それからこの村を六車と呼ぶようになった話
蛇身仏 昔、ある大地主が諏訪神社が自分の家に背を向けていると怒って、社殿の向きを変えさせたところ、凶事が重なり一人娘の体内に蛇が入って、娘を殺してしまった。今、全身に蛇を巻き付けた石仏が残る
大上の大竹林 重税逃れに知恵を絞っていた農民たちは代官所がカイコを飼うこがこの枚数に課税してきたため、大上の大竹林の中にこがこを隠したという話
タヌキの書き付け 昔、坊さんに化けたタヌキがたく鉢をして歩いたところ、村人たちから「本物の坊さんなら字を書いてみよ」と言われたが、その場で筆で紙にすらすらと書いてみせた。その書き付けが今も残っているという。
甘楽町
宝積寺山門 無実の罪で捕らえられたお菊が、山へ行く途中立ち寄った宝積寺の住職に城主に罪を許してもらうよう依頼したが、頼みを聞いてもらえずお菊は蛇攻めにあって死んでしまった。その後の戦いで山門は焼け何度建て替えても焼けてしまう。お菊のたたりであるという話
松井田町
夜泣き地蔵 五料の丸山坂を通りかかった馬子が傾いた荷物を直そうと地蔵の頭を馬に付けて、武州深谷宿まで運んでしまったところ地蔵の頭が「五料恋しや」と泣いたという。地蔵の頭は奇特な老人により送り返され供養されたという話
百合若大臣射抜きの穴 百合若大臣は弓の名人であり中木山の1峰を射抜き大きな穴をあけた。この穴は夜空の星のように見えることから星穴と呼ばれ中木山は星穴岳と呼ばれている。
吾妻町
榛名湖に帰った善導寺のおばあちゃん 日本ロマンチック街道沿いに善導寺という寺がある。昔、その寺の裏には小さな池があり、この寺のおばあちゃんはこの池が大好きで毎日池を眺めていた。ある年の春のこと、おばあちゃんは和尚さんに切なそうな声で「暖かくなったんで榛名の沼に行きたいんだが、だれか連れてってもらえんだろうか」と頼んだ。そこでお寺ではお供を付け、かごに乗せ、榛名湖に連れて来た。いかにもうれしそうに榛名湖を見渡しているうちに、おばあちゃんは見る間に大蛇となり沼の真ん中まで泳いでいき、大きな渦を巻き起こし沼の中に消えた。実はおばあちゃんは元箕輪城主の娘で落城の時にこの沼に身を投げ大蛇となり、この榛名の沼を守っていたのだ。善導寺で一族郎党の供養をしてきたという話
六合村
平兵衛池 働き者の娘が池の竜神となり年に一度会いに来るじいさんにコイの贈り物をするという話
へっぴりじい 屁をして褒美をもらった正直者とまねておしかりを受けた者の話。花咲かじいさんに似た話
猿の嫁取り 祖父の約束で猿に嫁ぐことになった娘が知恵を絞って猿を木から落として帰宅した話
高山村
添うが森 天慶3年、平将門征伐の際、小野としふるの家臣小野としあきがあわび姫との恋に落ち、軍から遅れてしまった。しかし女に迷ってはいけないと悟り、出家し住職となった。姫はその後和尚を訪ねたが会ってもらえず帰り道に小高い森に登り、歌を残して自殺してしまった。村内の者がこれを葬り塚を作ると何人かが願いを掛けに訪れるようになった。その願いが叶うところから添うが森と呼ぶようになったという話
川場村
みそなめばあさん 風邪を引いたときに口に味噌を塗ると治るという話
新治村
三国峠の化け物 くぐつ五郎衛門という豪傑が長髪の女と子どもの化け物に化かされそうになったとき、二十三夜様(神社)を拝んで助かったという話
昭和村
糠塚の長者 昔、赤谷の糠塚に住んでいた長者が、そばの粉を山にまいて沼田様を慌てさせたという話
法印様と古キツネ 糸井村に住んでいた法印様が古キツネの化けたのを見破って逆に術をかけたという話
赤堀町
千鳥姫 城内の厳しい警固をかいくぐり、千鳥姫の元へ毎夜通う若者がいた。ある日、着物に糸を通して跡をつけると実は蛇で千鳥姫からたくさんの子蛇が生まれたという話
赤堀姫 赤城山に登り小沼に着くと姫が湖に飲まれた。間もなく湖面に姿を現したが、下半身は蛇だったという。亡骸だけでもと、湖を切り崩し水を流し出したのが、今の粕川になったという話
尾島町
蓮池の伝説 何か必要なものがあれば、その品目を書いた紙を池上に投げ込むとその品が浮上すると言われた。
開山堂の牛石 栄朝が牛に乗って精舎建立の地を求めて東国に下向した。この地に至ると牛が倒れて石になったという話。
開山堂の竹 栄朝が突いていた竹の杖をその南方に突き刺したところ活着して逆さ竹となったという話。
薮塚本町
俵藤太むかで退治 沼の主の蛇が子を産んでも、でっかいムカデが食べてしまうので、蛇は姫様に姿を変え、弓の名人俵藤太秀郷に退治を頼んだ。弓を射ってもびくともしないので姫の教えによって人間のつばきを付けた矢で射ったら死んだという話。
笠懸町
鹿田上のお化け桜 鹿田上に夫のいない貧しい母子がいた。何かにつけ村人からいじめられ、大事なわずかな食糧のアズキを取られ、井戸に身を投じた。後にその井戸のそばの桜の木の下に夜ごと女のすすり泣きと「アズキ食うか、人食おうか」とお化けが出たという話
山際の名付け地蔵 夢枕で地蔵が「みけんに傷を負っている。まつってくれれば子どもを丈夫に育てよう」と言った。翌朝、家の外にみけんの欠けた石地蔵があったので、お堂に祀った。以後子供が産まれると命名札を地蔵に上げ、丈夫に育つように祈ったという話。
大間々町
伊勢転がし 問答に勝って伊勢神宮のご神体を町内塩原地区に持ってくると言う話
道玄の娘 17の年に赤城山に登った娘が沼に入ったまま出てこない。実は大蛇の生まれ変わりだったという話。
鬼ばば伝説 小平の奥に山うばが隠れ住み、子どもを食ったといわれる話で大荷場(おおにんば)という地名も残る
かっぱの昇天 河童が竜のしっぽにかじりついて天を目指したが、あまりの高さに驚き、口を離してふちに落ちた話。
板倉町
海老瀬の由来 昔、弘法大師が旅の途中、上野国に八谷郷という恵まれた里があると耳にしてやってきたが、目の前の渡良瀬川という大河を渡らなければそこへ行くことが出来ず、途方に暮れ、経を唱え始めた。するとエビが寄り合って橋を作ってくれ大河を渡ったという。そのエビにちなんで名付けられたという話
明和町
ガマガエルの油 沼に住むカエルと丘に住む獣が競争し、獣のクマが怪我をした。その時ガマガエルの油をクマに塗ったら血が止まり元気になったという話
邑楽町
分福茶釜の裏話 たぬき塚の高源寺に、茂林寺にある分福茶釜がその昔あったという話。ある昼下がり、昼寝をしていた和尚のところへ村人が訪ねてきた。昼寝をしていたのは僧衣をまとった古ダヌキであった。村人は驚き「お寺の坊さんは化け物だ」とふれ歩き、正体を見破られ和尚は、秘蔵の茶釜を小脇に抱え松林へ消えていった。この時、茶釜の蓋を落としたという。この茶釜が現存する茂林寺の分福茶釜と言われている。残念ながら落とした蓋は現存しない。  
 

 

●群馬の伝承
長松寺
長松寺が現在地に移転したのは寛永元年(1624年)。創建は永正4年(1507年)とされるが荒廃、移転と共に臨済宗から曹洞宗に改宗もしている。庫裏は高崎城本丸の不要材を移築したもので、書院は徳川忠長が自刃した部屋であると伝えられている。また幕府の御用絵師を務めた狩野探雲による天井画が市の文化財となっている。この寺の墓地の一角に、非常に不気味な伝承を持つ墓がある。時代はおそらく天明(1781〜1788年)の頃と推定されるが、高崎藩で仇討ち騒ぎが起こった。藩士の磯貝久右衛門が同僚を殺害して逐電したのである。当然、父を殺された長谷川源右衛門は藩の許しを得て、仇討ちの旅に出る。当時は仇討ちが成就できなければ帰藩も許されない風潮があり、源右衛門も必死で磯貝の足取りを追って方々を訪ね歩いたという。数年が経ち、結局、源右衛門は仇に巡り会うこともなく高崎に戻ってきた。しかしここで事の真相を知る。既に磯貝は亡くなっており、地元の長松寺に葬られていたのである。永久に父の仇を討つことが出来なくなった源右衛門は、あまりの無念に槍を持ちだして、長松寺にある磯貝の墓に向かった。そしてそれまでの苦難を一気に吐き出すかのように、墓石目がけて槍を一突き。すると槍は墓石に突き刺さり、それを引き抜くとたちまちそこから赤い血が流れ出たという。現在でも、その墓が一般の墓と同じように並んで置かれている。墓の裏側に回ると確かに穴が開いており、何かが伝い流れたような跡が残っている。今でも雨の降る日には、赤い液体が流れ出ることがあると言われているが、定かではない。また磯貝の墓の前にある剣のような形をした墓が、長谷川源右衛門のものであるとも言われている。
事件の異説 / わずかであるが、磯貝九右衛門を長谷川源右衛門が遺恨を持つようになった原因について、磯貝が長谷川の妻を奪ったためという異説がある(この説であれば、両者の墓が高崎の同じ寺にあること、討手側の長谷川源右衛門の名があまり表に出てこないことも、ある程度説明がいくものになるだろう)。ただしあくまで“異説”ということで。
落合の道祖神
道祖神は、村などの集落の境あたりに置かれ、疫病といった災厄が集落に入ってこないよう祀られた、村の守り神である。当然、村の繁栄すなわち子孫繁栄を願う対象ともなり、近世以降は路傍に置かれているために旅などの交通安全の神としても信仰の対象となっている。このようにさまざまな性格が合わさった神であるが故に、その姿も多種多様である。子孫繁栄の神としての性格を帯びた道祖神は、言うまでもなく性的シンボルをかたどった姿をしている。有名なところでは、男性器の形をしたものである。それ以外では男女が並んでいる姿を彫ったもの、中にはまさに男女が交合している姿をストレートに彫ったものもある。「宝暦十年(1760年)辰極月吉日 中原村中」と刻まれ、榛名神社への参拝路の途上にある落合の道祖神は、まさしくその男女が顔を近づけて抱擁し合いながら交合する姿を表したタイプの道祖神としてつとに有名である。そして『日本の伝説』によると、この道祖神が祀られるようになったいきさつには、ある悲しい伝説があるという。中原のお大尽であった甚兵衛には、大助という一人息子があった。ところがこの大助は何度も嫁を貰うのだが、相性が良くないせいか、すぐに里に帰ってしまうの繰り返しであった。そして7人目の嫁となったのが、おせんであった。おせんは大助を何度も誘い、ついに二人は契りを結んだのである。ところがその段になって、おせんの本当の身元が判った。実はおせんは甚兵衛が里子に出した娘、つまり大助にとっておせんは実の妹だったのである。それを知ってしまった二人はいずこともなく姿を消し、二度と中原に戻ることなかった。甚兵衛は二人が亡くなったものとしてその霊を慰めるため、さらには二度と同じ過ちを繰り返さないために、男女和合の姿を刻んだ道祖神を造ったのである。
小雀観音
菱町の一画に少し大きめのお堂がある。前には“馬頭観音”と彫られた石碑がある。これが小雀観音である。天文13年(1554年)、菱町一帯を領していた細川内膳を攻め滅ぼしたのは、桐生大炊介助綱である。力関係で言えば、桐生氏の方が細川氏よりも勢力があり、特に助綱の時代が桐生氏の全盛期であり、戦国時代のならいとしては当然の成り行きであると言えるだろう。しかし伝説によると、この時の細川氏滅亡のきっかけとなったのは意外な理由であった。当時、細川内膳は京都の八条殿より賜った“小雀”という愛馬を所有していた。それに目を付けた桐生助綱がこの馬を譲るように強要したのである。だが内膳がこれを拒否したため、桐生氏はこれを滅ぼしたとされるのである。細川氏を討ち果たした桐生氏側は、これで名馬が手に入ると考えたのであるが、思わぬ結末が待ち受けていた。桐生氏に攻められた細川内膳が自害したという知らせが広まると、愛馬の小雀は自らの舌を噛み切って死を選んだのである。憐れに思った村人がその遺骸を埋めて祀ったのが、今の小雀観音であるとされている。
簗瀬八幡平の首塚
昭和6年(1931年)3月に、近くに墓参りに来ていた小学生によって偶然発見された塚である。6世紀頃に造られた円墳の石室付近に、幅1m、長さ2mの穴を掘り、その中に約150人分の頭骨が埋められていたのである。さらに戦後の調査で、積まれた頭骨を覆うように、天明3年(1783年)に噴火した浅間山の噴石があることが分かったため、それ以前に埋められたものであるとされた。また、穴の中からは頭骨以外の骨は見つかっておらず、下顎の部分すらない状態で埋められており、各地にあった頭骨だけを集めて改葬したと考えられたのである。さらなる頭骨の精査の結果、これらの骨は室町時代を中心とする中世の日本人のものであり、一部には刀創が発見されたという。それらを総合すると、おそらくこれらの骨は戦国時代にこの付近で起こったかなり大きな戦いで死んだ者を葬ったと推測されたのである。戦国時代にこの地を治めていたのは、関東管領上杉氏に属していた安中氏である。そしてこの一帯が戦乱に巻き込まれたとされるのは、上杉氏が関東を追われ、西から領土拡大のために進出してきた武田氏との戦いが激しくなった頃である。具体的には永禄4年(1561年)に武田氏がこの簗瀬に陣を築いて、安中氏の持つ安中城と松井田城を分断しており、その際にかなりの戦闘が行われたと考えられる。現在は、塚が発見されて間もなくに建てられたお堂に150人分の骨は安置されており、丁寧に祀られている。
安中氏 / 戦国時代に碓氷郡を治めていた有力国人。関東管領・上杉憲政が越後に追われ、武田信玄が上野進出を開始すると、国人衆の長野業正を大将として武田氏に抗した。しかし業正が永禄4年(1561年)に亡くなると、翌年には武田氏に臣従。その後は信濃・美濃を転戦する。信玄亡き後も武田氏に仕えるが、長篠の戦いで一族のほとんどを失う。武田氏滅亡後は北条氏に仕えたようであるが、北条氏滅亡後、本流は消滅してしまう。碓氷郡に定住するようになって100年足らずの出来事である。
養行寺 静御前の墓
養行寺は、厩橋(前橋)藩初代の酒井重忠の母が、生国の三河に建立した一寺から始まる。寺は重忠の転封に従い、三河から武蔵川越、さらに上野厩橋へと移転、現在地に置かれた(寺のある地が三河町と称するのもこのためらしい)。前橋には、なぜか静御前にまつわる伝承が残されている。『吾妻鏡』によると、義経と吉野で別れた後に捕らえられて鎌倉に送られた静御前は、鶴岡八幡宮で白拍子の舞をするように命じられる。その時に朗じた歌に頼朝は激怒したが、妻・政子らの取りなしにより放免されたとされる。そしてその後の消息は不明である。前橋の伝承は、おそらくその放免後のものであると推測される。奥州にいるという義経を慕って静御前は旅立つ。しかし前橋の地に辿り着くと病を得て、結局この地で亡くなったという。養行寺にあるのは、墓というよりは供養塔に近いものである。寺の変遷から考えても、おそらく江戸時代以降に建てられたものであると考えてよいだろう。
静御前 / 生没年不明、出処不明。白拍子。住吉大社で祈雨の舞をしたところを源義経に見初められ愛妾となる。『吾妻鏡』では、義経が頼朝と対立した後より義経と共に行動を共にする。鎌倉方に捕らえられた時には義経の子を宿していたが、男児であったために殺される。しかし静御前の登場する記録は『吾妻鏡』に限定されており、実在を疑問視する説もある。
善導寺
特異な形をした岩櫃山の麓に善導寺はある。創建は貞治年間(1362〜1368)、吾妻太郎が開基とされる。この寺には吾妻一族にまつわる怪異があると伝えられている。永禄6年(1563年)、甲斐の武田信玄は上野国への侵攻を本格化させ、岩櫃山にある岩櫃城攻略を目指した。派遣されたのは主将の真田幸隆以下、約3000の兵であった。堅城を誇る岩櫃城は力攻めでは落ちない。一旦和議を結び、幸隆は内応に応ずる者を求めて調略を図った。それでも事が上手く運ばないため、再度城を取り囲んで水路を断つ策に出たが、一向に埒が開かない。幸隆は、城内に水を運び入れる場所があるとにらんだ。そこで城との和議に際に交渉役に当たった善導寺の住職に尋ねたところ、水利の秘密をいとも簡単に喋ってしまった。武田勢は水路を断つと、たちどころに城内は動揺。ほどなくして城主が逃亡して落城となったのである。それからしばらくして善導寺は火事を起こして焼け落ちた。人々は岩櫃城落城の祟りであると噂した。その後、善導寺では本堂を再築するたびに火事が起こった。記録によると慶長4年(1599年)、寛文3年(1663年)、享和3年(1803年)、天保8年(1837年)、明治35年(1902年)と5回も起きている。しかも出火の原因は不明であり“鳥が火のついた物をくわえて飛んできた”とか“火の玉が飛び込んでいった”とかいう怪異の噂が立つばかりであった。明治の大火の時も“本堂から火の玉がいくつも落ちてきたと思ったら、手の着けようもない猛火となった”という話が伝わっているという。現在は明治の大火以来の本堂が新しく建てられている。
岩櫃城の落城 / この善導寺の怪異の伝説では、武田氏による岩櫃城落城の際の城主の名が“吾妻太郎”となっているが、史実としては“斎藤憲広”である。南北朝時代に、岩櫃城は一度落城しており(ただし戦国時代のものとは異なる規模であったとされる)、その時の城主が“吾妻太郎行盛”であったため、話が混乱しているものと考えられる。ただ、この吾妻行盛の忘れ形見の嫡子が成人して斎藤姓を名乗って岩櫃城を奪回し、以降代々城主となっているので、ある意味、吾妻氏の城であると言ってもおかしくはない。
桐生大炊介手植の柳 (きりゅうおおいのすけてうえのやなぎ)
桐生市東七丁目の公園の真ん中にある柳の大木である。樹齢は約400年、根元回りは5mを超す。(平成25年4月、強風により根元付近より折れたとの報がある)桐生一帯を治めていた桐生氏は、藤原秀郷流の足利氏の支流とされる(室町幕府を開いた足利氏は源氏の支流)。室町時代から歴史の表舞台に登場するようになる小領主で、関東で対立する古河公方・足利氏と関東管領・上杉氏の間を行き来しながら、所領を拡大させた一族である。永正13年(1516年)、当主であった桐生重綱は愛馬の浄土黒に乗って、この辺りに鷹狩りに訪れた。そしてその最中に思わぬ事故に遭遇する。愛馬の浄土黒がいきなり倒れたのである。乗っていた重綱も地面に叩きつけられ、その時の傷が元で亡くなってしまう。重綱の子の助綱は、浄土黒が倒れた場所にその遺骸を埋め、その上に柳を植えた。それがこの“大炊介手植の柳”である。なお浄土黒が突然死に至ったのは、ダイバ(頽馬)神の仕業であるとされている。
ダイバ(頽馬)神 / 馬を即死させる風の怪異。緋色の着物に金の髪飾りを着けた少女の姿をした妖怪に擬されることもある。夏の季節に多く、地方によって特定の種類の馬だけが被害に遭うともされる。またダイバに襲われた時は馬の耳を少し切って血を流すと助かるとも、ダイバ除けの腹掛けをすると襲われないとも言われる。
大泉寺 チャンコロリン石
安中はその昔、中山道の宿場町として栄えていた。その頃の話。ある夜、いきなり街道をチャンコロリン、チャンコロリンとお囃子のような音を立てて移動するものが現れた。宿場の人々は驚いてこっそりと様子を探ると、音を立てて移動しているのは、一抱えもある大きな石である。しかもそれはひとりでに転がりながら動いている。この光景を見て、人々は怖じ気づいてしまったのである。そのチャンコロリンと転がる石は毎夜のような現れる。ある者が恐る恐るその石の後を付けていくと、それが宿場にある大泉寺の境内に入っていく。正体が分かったので、退治しようと安中藩の侍が石を斬りつけたが全く動じる気配がない。さらにと鉄砲を撃ってみたが、少し穴が開いただけで何も変わらない。そのうち噂が近隣に広まり、安中の宿場に泊まろうという者がいなくなってしまい、宿は閑古鳥が鳴く始末となった。宿場の人々は、とうとう大泉寺の住職に法力で封じてもらえないかと頼み込んだ。住職は快く引き受けると、お経を唱えながら石に近づいて、やにわに釘を打ち付けたのである。するとその夜から石は町に出ることもなく、またチャンコロリンという音も立てることもしなくなったという。大泉寺の境内の片隅に、いまだにチャンコロリンの怪石が残されている。供養塔のようになっている,その真ん中の丸石がチャンコロリンの正体であるという。今でも刀傷や鉄砲傷が付けられているのが確認できる。そしてこの供養塔そのものがチャンコロリンの墓であるという、何とも奇妙なことになっている。
大泉寺 / 創建は文安年間(1444〜1449)とされる。中山道を挟んで安中宿本陣の向かい側にある。安中藩初代藩主・井伊直勝の母の墓がある。
元景寺 淀君の墓
曹洞宗の古刹である。創建は天正18年(1590年)、秋元長朝が父の菩提を弔うために建立したとされる。その後、関ヶ原の合戦後に長朝はこの総社の地を領有し、総社藩1万石の藩主となる。そして高齢ながら大坂夏の陣にも参戦している。総社には、この大坂夏の陣にまつわるまことしやかな伝承が存在する。大阪城落城の折、秋元家の陣中に豪奢な着物を身にまとった女性が飛び込んできて、命乞いをしたという。長朝はその女性を、大阪城の主・淀君であると察して匿ったのである。そして戦いが終わった後、所領である総社へ駕籠に乗せて連れて帰ったというのである。元景寺には、秋元家の墓のそばに淀君の墓と伝えられるものが残されている。そこに刻まれている戒名は「心窓院殿華月芳永大姉」。戒名としては最高位の諡号となっており、説明にある“側室の墓”というには無理があると考えられる。また元景寺には、正絹の大打掛と豪華な籠の引き戸が伝えられており、これが淀君所有の品であるとされている。しかし、総社に連れて来られた淀君の後半生は不幸であったとされる。世を憚って“お艶”という名で呼ばれるようになった淀君であるが、その美貌から秋元長朝に言い寄られたものも拒絶したため、遂には箱詰めにされて利根川に沈められたとも言われる。また生活になじむことが出来ず、自ら利根川に身を投げたともされる(身を投げたとされる岩が“お艶が岩”として敷島公園に残されているが、この岩には別伝も存在する)。いずれにせよ天寿を全うすることなく亡くなったという伝承で終わっている。
淀君 / 1569?-1615。浅井長政とお市の方(織田信長の妹)の長女。後に豊臣秀吉の側室となり、秀頼を生む。史実では、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において大阪城内にて自害したとされる。
虎姫観音
群馬県庁の西側、利根川河畔に六角形のお堂がある。昭和43年(1968年)に建立された、比較的新しいお堂であるが、その由来は江戸時代前期にまで遡る。延宝6年(1678年)、厩橋城主の酒井雅楽頭(忠清)は赤城山での鷹狩りの最中に、お虎という名の美しい娘を見初める。お虎は早速城に召し出され、雅楽頭の身の回りの世話をするように命ぜられる。このただならぬ寵愛ぶりに嫉妬に駆られたのが、以前からいた奥女中達である。色々とお虎のあらを見つけようとするが、全くそのようなものは見当たらない。とうとう女どもはお虎を罠にはめようと、雅楽頭の飯茶碗に折れた針を忍ばせたのであった。何も知らないお虎が差し出した茶碗飯から針を見つけた雅楽頭は激怒。さらに奥女中の讒言を鵜呑みにすると、可愛さ余って憎さ百倍、有無も言わさずお虎を蛇や百足の入った箱に押し込めると、生きたまま利根川の淵へ沈めてしまったのである。その惨い仕打ちを受ける際、お虎は「城を取り潰し、七代まで祟ってやる」と言い放ったという。そしてそれ以降、毎年利根川は氾濫し、そのたびに城の建つ土地は浸食されるようになる。宝永3年(1706年)には本丸の櫓が倒壊。明和4年(1767年)、遂に本丸倒壊の危機となり、城は打ち棄てられることになったのである。酒井忠清から数えて七代目の藩主の時であった。虎姫観音は、無惨な死を遂げたお虎の霊を慰めるため、お虎が沈められたとされる淵あたりに建立されたものである。
前橋(厩橋)藩 / 関ヶ原の戦い後、酒井重忠が藩主となり、それ以降、酒井家が代々受け継ぐ。忠清は4代藩主。酒井家9代藩主の忠恭の時、寛延2年(1749年)に姫路へ移封、代わって姫路から松平朝矩が入封する。そして朝矩の代で前橋城本丸が倒壊のおそれがあるため、同領内の川越へ藩庁を移転することとなり、前橋藩は事実上廃藩となる。
宝積寺 天狗の腹切り石
宝積寺の本堂脇、ちょうど小幡氏歴代の墓群へ向かう途中に、非常に不自然な感じで、注連縄が張られ卒塔婆が立てかけられた巨石が置かれている。宝積寺創建当初より、修行の僧が座禅石として使っていたとされる。しかし今では「天狗の腹切り石」という不思議な名前で呼ばれている。永禄6年(1563年)、国峰城主であった小幡家で一族同士の内紛が起こった。城から逃れた兵は宝積寺に陣を張り、味方する僧と共に敵軍に応戦した。その中に巖空坊覚禅(がんくうぼう かくぜん)という巨体の僧がおり、薙刀や丸太を振り回して敵を蹴散らしていた。しかし多勢に無勢は覆しがたく、本堂も火に包まれてしまい、味方もほとんどが倒されてしまった。巖空坊はもはやこれまでとばかり、本堂の脇にあった座禅石の上に立つと、その場で腹を掻き切って果てたのである。この超人的な巨僧の最期の場所ということから「天狗の腹切り石」と呼ばれるようになったという。
宝積寺 お菊の墓
宝積寺は、国峰城を拠点とした豪族・小幡氏の菩提寺である。本堂の裏手の高台に、小幡氏累代の墓がある。その傍らに「菊女とその母の墓」が今なおある。菊女は、小幡信貞の腰元として寵愛されていた。しかしそれに嫉妬した正室が、信貞不在の折に、膳飯の中に針を入れるという無実の罪を着せて、樽に蛇や百足と共に押し込めて、菊が池に沈め殺してしてしまったのである(あるいは信貞本人が処刑を命じたとも)。伝承では、この菊女の助命嘆願をしたのが宝積寺の住職であり、小柏源介という者が菊女を救い出したが、既に事切れていたとされる。これが天正14年(1586年)のことと伝わっており、それから4年後に豊臣秀吉の小田原攻めがおこなわれ、小幡氏は北条氏滅亡と共に歴史の表舞台から消えてしまう。小幡氏の滅亡後も、菊女の祟りと言われるものがあったとされ、宝積寺では度々追善供養をおこなっていた。さらに明和5年(1768年)に菊が池に大権現として祀られ、平成5年(1993年)には菊女観音像が建立されている。実は、この菊女の伝説が『番町皿屋敷』の原型の1つであるという説がある。上野の小領主として滅亡した小幡氏であるが、その後は信貞の養子(実子はいなかった)が幕府旗本をはじめ、松代の真田家、紀伊の徳川家、加賀の前田家、姫路の松平家にそれぞれ仕官しており、その子孫から各地の「皿屋敷」伝説が形成されていったと考える説である。(永久保貴一氏による)「皿屋敷」伝説とは直接関係ないが、小幡氏には菊女の祟りがつきまとい、さらにその祟りが移動によって伝播しているとも取れる怪談話が残されている。真田藩が沼田から松代へ移封される時、家臣の小幡上総介信真もつき従ったのだが、松代へ着くと駕籠代を多く取られた。不審に思って尋ねると、二十歳ばかりのやつれた女性が乗っていた駕籠があったという(あるいは、誰が乗っているのか判らない女駕籠があったが、松代に着いて中を改めると誰も乗っていなかったいうパターンも)。それを聞くなり小幡は、松代までお菊の亡霊が付いてきたに違いないと思ったそうである。
『番町皿屋敷』 / 元となった『皿屋敷弁疑録』は、宝暦8年(1758年)に馬場文耕が著している。さらにこの話を元に作られた歌舞伎芝居が明和2年(1765年)に江戸で公開されている。宝積寺で盛大な供養がおこなわれた時期と重なっている点は、注目されるべきである。
鎌原観音堂
天明3年(1783年)の浅間山大噴火は関東周辺に甚大な被害をもたらした。中でも壊滅的な被害を受けたのは、北部に位置した鎌原村であった。大噴火の3ヶ月ほど前から火山活動が盛んとなり、多くの火山噴出物が溜まりに溜まったところで噴火が起こり、土石流と火砕流による大崩落が起こったのである。当時、鎌原村の人口は約100世帯で570名。馬を200頭ほど飼っていたという記録があり、上州と信州を結ぶ宿場町を形成していた、かなり規模の大きい集落であったと推測されている。しかし、この大噴火によって一瞬にして村は壊滅、土砂の下に埋まってしまった。生き残った村人は僅かに93名。そのほとんどは高台にあった鎌原観音堂にまで避難出来た人であったという。現在、観音堂に登るために設けられた石段は15段であるが、言い伝えでは100段を超える長い階段であったとされていた。昭和54年(1979年)の発掘調査で、15段の石段の下にさらに35段の石段が続いていたことが判明、村に流れ込んだ土石流の凄まじさが改めてわかった。そしてこの石段の最下部から2体の白骨遺体が発掘された。若い女性と年配の女性であり、その態勢から若い女性が年配の女性を背負ったままここまで逃げてきたが、力尽きてここで土石流に埋もれてしまったのだろうと推測された。さらに顔の復元から、この2人の女性は親子かあるいは年の離れた姉妹ではないかとされた。壊滅的な被害から人々を救ったということで、現在、鎌原観音堂は厄除け、特に災害除けのご利益があるとされている。そして鎌原の集落はうち捨てられることなく、その後、災厄から逃れた村人自身によって再び復興を遂げている。
浅間山の天明大噴火 / 天明3年(1783年)旧暦の7月8日に大噴火があり、鎌原村は土石流などで埋没してしまう。さらにこの土石流は吾妻川を一時的に堰き止め、直後に決壊して鉄砲水を起こし、1500人以上の死者を出した(下流にあたる前橋でも被害があったとされる)。またこの噴火が天明の大飢饉を一層深刻なものにしたとも言われる。
囀り石 (さえずりいし・しゃべりいし)
県道53号線を中之条町市街地から北上すると、「囀り石」という表示に出くわす。県道に面した道路脇にある巨岩がそれである。敵討ちのために諸国を歩いていたある男が、この岩で一夜を過ごしていると、人の声が聞こえる。その声は、自分が寝ている岩の中から聞こえてくる。しかも話の内容は、自分の求めている仇にことであり、その居場所まで喋っている。男はその話の内容を頼りに仇を捜し当て、本懐を遂げたのである。それ以降、岩はさまざまなことを話し出し、またその内容が有益なことが多かったので、人々はこの岩を祀るようになった。しかしある時、通りがかった旅人の前で岩が喋り出したため、驚いた旅人が岩を斬りつけてしまった。それ以来、岩は何も言わなくなってしまったという。現在もこの岩の上には小さな祠が置かれ、道に面した場所には灯籠があり、それなりに信仰を集めていることがわかる。
茂林寺
茂林寺の開山は大林正通(だいりん しょうつう)であり、応永33年(1426年)に館林に小庵を建て、応仁2年(1468年)に正通に深く帰依した赤井正光が現在の地に堂宇を建立したのが始まりである。その正通が館林を訪れた時に、一人の僧を伴っていた。諸国行脚の旅の途中、伊香保で出会ったとされる守鶴和尚である。守鶴はその後も代々の茂林寺住職によく仕えることとなる。元亀元年(1570年)、茂林寺で千人法会がおこなわれることとなり、大勢の来客のために湯釜が必要となった。すると守鶴はどこからか1つの茶釜を持参してきた。その茶釜はいくら湯を汲んでも尽きることがなかったという。守鶴はこの茶釜を「分福茶釜」と呼び、この茶釜の湯を飲むと8つの福が授かるとしたのである。(現在も茶釜は残されており、観覧可能)守鶴はその後も寺に仕えていたが、ある時、つい居眠りをした折に尻尾を出してその正体を晒してしまった。守鶴は数千年を生きた狸だったのである。正体がばれてしまったため守鶴は寺を去ることとし、別れの際に、源平合戦の屋島の戦いを再現して見せたという。正道禅師に従って館林に移り住んで161年、天正15年(1587年)のことであった。茂林寺では守鶴を鎮守として崇敬し、守鶴堂を建てて祀っている。この守鶴の伝説は、松浦静山の『甲子夜話』に残されているが、この伝説を元に作られたおとぎ話が「ぶんぶく茶釜」である。ある男が助けた狸が恩返しに茶釜に化けて、寺の住職に売られていくが、火に掛けられて逃げ出す。今度は綱渡りをする茶釜として見世物小屋を開いて成功し、男は裕福となり、また狸も幸せに暮らしという話。
岩神の飛石
群馬大学病院の西に「岩神稲荷神社」というちょっとした神社がある。この神社の背後には小さな山のような巨大な石が見える。これが“岩神の飛石”と呼ばれる巨石である。高さが約10メートル弱、周囲が約60メートルという巨大な岩石である。相当遠景からでなければ石全体を写真におさめることは出来ず、神社の背後から見るとほぼ完全に社殿が隠れてしまう程の大きさである。地質考古学的見地から言うと、この巨石は約10万年以上前に赤城山の噴火の際に飛び出した火山岩が冷え固まったものであり、さらに約2万年前に起こった浅間山の噴火による土石流によってこの地まで流されてきたものであると推測されている。いわゆる「赤土」と呼ばれる関東ローム層が形成された時期と同じ頃に火山から噴出された岩石であるが故に、この飛石も全体が赤褐色に近い色をしている。この石にまつわる伝承の中で最も有名な話も、勿論この“赤色”が重要な役目を果たしている。昔、石工達がこの岩を削って石材にしようと考えたことがあった。そこである石工がこの石にノミを当てて打ち込んだところ、その部分から血が噴き出してきたという。そして打ち込んだ石工は急死し、誰もこの石を削ろうという者はいなくなり、やがて祟りを鎮めるために神社(岩神稲荷)を建立したという(ちなみにこの神社は江戸期に藩侯が建てたものという話も残されており、この奇怪な伝承が具体的なものとして成立したのもその時代であったと推測できるだろう)。まさにこの石の色から連想された神意譚であると言える。 
 
 茨城県

 

●深んぼのすげがさ 
ある村に、他所から若い嫁さんがやって来た。
若い嫁は、まだ野良仕事に不慣れなため、いつも姑に小言を言われていた。それでも嫁さんは一生懸命に働いた。
やがて田植えの季節となった。この時期は何時にも増して忙しく、嫁さんは皆が家に帰っても田んぼで田植えを続け、嫁さんが家に帰るのは日が暮れて空に月が上がってからだった。
田植えは辛かったが、嫁さんを待っていたのは優しい夫で、遅くに戻る嫁さんの為に、そっと風呂を沸かしてくれた。そんな小さな幸せを頼りに、嫁さんは毎日重労働に耐えていた。
さて、忙しい田植えもようやく最後の日となった。田んぼには全部苗が植わり、残すはそれまで苗を育てていた苗代田(なわしろだ)の深んぼだけとなった。
深んぼとは、もともと泥沼だった場所に丸太や竹を縦横に沈めて足場にした田んぼだ。無論、足場を踏み外せば、それっきり浮かび上がって来れない底なし沼だ。
これくらいの田んぼの田植えならすぐに終わるだろうと思い、夫思いの嫁さんは夫を家に帰らせ、一人で深んぼの田植えをしていた。しかし深んぼの足場は悪く、思うように仕事が進まない。田んぼを月が照らす頃になり、ようやく田植えが終わろうとしていた。
ところが、嫁さんが最後の苗に手を伸ばした時だった。嫁さんはよろけて足場を踏み外してしまったのだ。
夫は、嫁さんの帰りがあまりにも遅いので、家を抜け出して深んぼに迎えに行った。すると、煌々と月に照らされて、嫁さんがいつも被っていたまだ新しい菅笠だけが、ぽっかりと深んぼの真ん中に浮かんでいた。

●笄田の話 ひたちなか市
市毛の坂を下って間もなく国道六号線と旧国道六号線が交錯するあたりに、笄崎(こうがいざき)とよばれる所があります。このあたりに笄田(こうがいだ)といって、むかしは底なし沼のような深い田んぼがありました。田植えのときは、田げたといって大きなげたを履いて田に入らないと、身体が沈んでしまうのです。この笄田には、悲しい物語が伝えられています。

むかし、市毛村にたいそうまじめで働き者の太助という若者がすんでいました。太助は早く両親と死に別れ、身よりもなく一人ぼっちで、わずかの畑と笄田を耕して暮らしていました。
ある年の春、太助は何里も離れた遠くの村から、花嫁さんを迎えました。この花嫁さんは明るく、器量よしで働き者でした。太助夫婦は朝草刈りといって毎朝早起きして、田んぼの肥やしにする草を刈ったり、よなべ仕事も欠かしませんでした。太助夫婦の仲むつまじさは、村中の評判でした。
田植えの季節がやってきました。苗代の苗もすくすく育ち、明日は田植えをすることになりました。ところが、当日になって太助は庄屋様からよび出され、急に人足に出ることになってしまいました。
「ねえ(苗)はむしってしまったし、困ったことになった。あの田んぼ深えがら、なれねえおめえには、とでも無理だ。田植えは明日やっぺ。」
「心配しなくともだいじょうぶだよ。わだし一人でも植えられっから。」
花嫁さんがそう言うので、太助は人足に出掛けて行きました。
太助が仕事を終え、花嫁さんの姿を思い浮かべながら家に帰ったのは夕方のことでした。ところが、家の中にはあかりもなく真暗でした。太助の胸に、ふと不吉な思いがよぎりました。太助は急いで田んぼへとんで行きました。けれども、夕やみせまる田んぼには、すでに人影はなく、花嫁さんが御髪に差していた笄だけが浮いていたということです。

●福泉寺の河童 鉾田市大蔵
福泉寺では、毎夜お供え物を盗むものがおり、村人がみはりをしていると、底なし沼に住む河童がつかまった。寺の雑草を毎日綺麗にする約束をし、約束を守る証にその手形を残すことで許された。以来、福泉寺は雑草のない綺麗な寺であった。しかし、火事で手形が焼けてしまうと、河童は雑草を取るのをやめてしまったという。

●牛久沼の河童 龍ケ崎市
河童について
河童、そもそも河童て何なんでしょう?九州地方を中心に全国の川や沼に生息するらしい????
ある人は実際に河童を見たという。多くの人が証言している。
トトロは昭和生まれの平成の時代に育った空想の生き物です。いまやそれは伝説化し、多くの日本人の心の中に住みついた可愛い怪獣です。美しい自然の中に埋没すると空想と現実が一体となり、.ふとトトロを見た錯覚に陥ることがあります。
河童も同じです。トトロほど可愛くない、でも愛嬌があります。憎めないです。そして美しい自然が大好きです。ただし、河童は水陸両生類である為、水のある所しか生息しません。
当地、牛久沼は大きな沼で周りは田畑がたくさんあり、豊かな自然を誇っています。ふと沼畔に佇むと、水面に河童の姿を見たような不思議な錯覚に陥ります。
河童は一説によりますと、1600年ほど前、中国から海を渡り九州八代地方へ辿り付き、そして其処から日本全国へ伝播していったといわれている。それ故、各地に伝わる河童の特徴は皆似たようなものです。好きな食べ物キュウリ、特技は相撲、容姿は頭に皿があり背中に甲羅を背負っていて、体中ヌルヌルしている。以上が主な特徴です。
遠野の河童伝説は柳田国男氏によって紹介され有名になりました。そして牛久沼の河童伝説は小川芋銭氏の河童松によって全国に紹介されました。
小川芋銭の牛久沼河童松
常陸國牛久沼の北岸に河童松と呼ぶ老松あり五百年の昔 彦衛門と云う里の勇士 河童をこらさんとてして此松に縛りたりと云う
河童に纏わる伝説
河童松
その昔、牛久が水戸街道の宿場町として栄えていた当時のお話です。
牛久沼には昔から河童が住んでいました。河童は畑を荒らしたり、魚採りの網を破ったり、あるいは水遊びする子供たちの足をひっぱり、時にはおぼれて死んだ者もいたという。
そこで村人達は河童の退治方法を相談しました。その結果、村で一番強く、また泳も達者な彦衛門に河童退治を命じました。
彦衛門は来る日も来る日も沼を泳ぎまわりました。そして数日後、河童を見つけた彦衛門は大変な格闘の末、ついに河童を陸に引き上げることが出来ました。そして河童は沼辺の大きな松の木にさらしものにされました。
日ごと元気を失った河童は村人に泣きながら「もう悪いことはしません、これからはお百姓さんの役にたつ河童になりますから許してください」とお詫びをしました。村人たちはあまりにも哀れに思い、河童を沼へもどしてやりました。
その後、畑は荒されることも無くなり、そればかりか、沼の周りの浮田では葦が刈られ草が積み重ねてあったそうです。
村人達は河童が約束を守ってくれたと喜び、お礼として、かぴたり餅をつき、小さくまるめて沼へそそぐ川へ投げ込みました。
そして、それは毎年旧暦十二月一日に、水の安全を祈る行事として、長く長く続けられました。しかし太平洋戦争に敗れた戦後の食料統制下では廃止され、以後二度と復活することは無かった。
河童の秘薬
昔、良庵という医者がいた。
修行を終え水戸街道を北へ向かって二日目、牛久沼が見えてきた。あまりの美しさに沼畔まで降りて沼を見ていたら、草むらに妙なものが落ちていた。それを拾い家路へと急いだ。
その夜の事である。トントントンと戸をたたく音が聞こえた。良庵は不信に思い戸を開けると小さな老人が立っていた。「私は牛久沼の河童です。手を返してください。人間のワナにかかり手を切ってしまいました。私達は代々伝わる秘密の薬があり、これを塗るとどんな怪我でも治ってしまう。だからその手を返してください。お礼に秘伝の薬の作り方を教えてあげます」と、それを聞いた良庵は半信半疑手を返してしまいました。
そして何日かが過ぎ、老人が現れて「おかげで手はもとどおり直りました。これが秘薬の作り方です」と巻物を渡しました。
良庵は巻物どおり作ってみると黒くてねばりのある薬が出来ました。ためしに切り傷に塗ってみるとたちまち治ってしまう。これは凄い、いろいろ試してみるとどんな怪我でも治ることが解った。
良庵は何でもきくこの薬を万応膏と名づけました。万応膏のうわさはたちまち広がり、たくさんの人がこの河童の秘薬で助かったそうです。その後牛久沼ではワナが取り除かれ人間と河童の交流が始まりました。
小貝川の主
牛久沼のほとりに小貝川が流れている。その川の主は河童だという。昔は川へ入ると河童に尻ぬかれるってよくいわれ、子供の水難事故が相次いだ。ところが、ある若者が川で遊んでいる河童を格闘のすえ捕らえた。その時、河童は大怪我をした。若者は、もう二度と悪さをしないと約束をさせて逃がしてやった。しかしその河童は小貝川を遡って筑波山の麓まで泳いでいって死んだという。そしてそこのお寺で手厚く葬られたそうな。その後、村では子供の水難事故は無くなった。
河童のおくり提灯
ある人が夜更けに牛久沼の岸を通ると、前の方に提灯が見える。その人がどんどん進むと、提灯も進む、暗い夜道を照らされて、その人は多いに喜んだ。
屁こき河童
牛久沼は今も昔も釣りの名所である。あるとき、村の人が沼へ釣りに行くと、河童が屁をこいた。その匂いの臭いったらありゃしない。村の人はたまらず、逃げ帰ってしまった。
置いてけ沼
籠一杯に野菜を背負った百姓が牛久沼の岸を通ると、オイテケー!オイテケー!と河童の声がする。しぶしぶ百姓は採れたての野菜を籠から下ろして家に帰った。ところが籠の中をのぞくと空のはずの籠が、うなぎや鮒など魚で埋め尽くされていた。道理で籠は重たかったはずだ、と百姓は納得した。
河童囃子
夏の夜更け、どこからともなく河童囃子が聞こえてくる。遠くなったり、近くなったり。村人は何処から聞こえてくるのか不思議に思い、牛久沼の方々を探したが解らなかった。

●牛久沼にまつわるお話 龍ケ崎市
牛久沼は龍ケ崎市の西側に位置し、筑波・稲敷台地と猿島・北相馬台地に囲まれ、流れは小貝川につながり、本土地改良区の用水源として長く利用されています。沼面積は6.52キロ平方メートル、平均水深は1〜2mと比較的小さな沖積低地沼で河童伝説、金龍寺の伝説やうなぎで有名な沼です。
沼の周りには龍ケ崎市、つくばみらい市、つくば市、牛久市、取手市が隣接していますが、湖沼面は龍ケ崎市に属しています。
現在の牛久沼は、小規模な漁業のほかは、主に牛久沼土地改良区が取水する農業用水として使われています。また、週末になると多くの釣り人たちで賑わっています。牛久沼にまつわるお話を紹介します。
牛になった小坊主のお話
昔から「食べてすぐ横になると牛になってしまう」などと言われますが、牛久沼のほとりにある金龍寺には、そんな話の原点ともいわれる伝説が残っています。大食いでなまけものの小坊主が、住職の忠告も聞かずに、毎日ごろごろしながら大食いを続けているうちに、ある日とうとう尻尾が生えて牛になってしまいました。悲観した小坊主は必死に尻尾を持って止める住職を振り切って沼に身を投げてしまいます。 以後、その沼は「牛を食った沼」として、『牛久沼』と呼ばれるようになりました。 なお、今もその尻尾は金龍寺に祭られています。
牛久沼の河童
河童の絵で有名な明治・大正期に活躍した文化人「小川芋銭」の晩年の住居である「雲魚亭」の近くに、『かっぱ松』があります。この松の由来は、牛久沼に住むいたずら好きな河童が畑を荒らしたり子供を溺れさせたりと住民に迷惑をかけていました。そこで、村人たちはこらしめのため、陸で昼寝をしていた河童を捕まえ、沼のほとりに生えていた大きな松の大木にしばりつけました。河童は二度と悪さをしないと泣いて村人に訴えたので哀れに思った村人は河童を沼に帰しました。
それ以来、河童は悪さを止めただけでなく沼の周囲の葦を刈り取るといった村人の手伝いまでするようになりました。改心して約束を守っている河童の心根に勘当した村人は、お礼として「かぴたり餅」を造り沼にそそぐ川へ投げ込みました。
それからは、毎年12月1日に水の安全を祈る行事として餅を投げる習慣になった。
うな丼
現在、牛久沼に沿って通っている国道6号線には複数のうなぎ料理を扱う店があるが、ここが「うな丼」の発祥地であることはあまり知られていません。
むかし、江戸は日本橋の大久保今助さんが、生まれ故郷水戸に向う途中に牛久沼の渡し場にある掛茶屋で好物のうなぎの蒲焼と、どんぶりご飯を頼んだ。しかし、食べようとしたところ「船が出るよー!」と声がかかったので、慌ててどんぶり飯の上に蒲焼の皿をかぶせて船に持ち込んだ。そうして、向岸に着いた今助さんは、土手に腰を下ろして食べたところ! 鰻の蒲焼は熱いご飯に蒸されて柔らかくなり、タレがご飯にほどよく染み込んでいて、これまでに味わったことのない美味しさでした。 今助さんは江戸へ帰る際に再び茶屋により、そのときの話をしてうなぎ丼を作ってもらいました。その後、茶屋でうなぎ丼を売り出したところ、大当たりとなり牛久沼の名物になりました。
これが、『うな丼』のはじまりです。
その後、江戸での今助さんは牛久沼のうな丼の味が忘れられず、芝居見物につきものの重詰の代わりに、熱いご飯の上にうなぎの蒲焼をのせた重箱を取り寄せ、舌鼓をうっていました。これが、『うな重』の始まりです。
 

 

●茨城の伝承
西福寺 炎石
西福寺は寛永9年(1632年)に了学上人の隠居所として建立された浄土宗の寺院である。その山門付近に一基の板碑が置かれている。この板碑は明治4年(1871年)に廃寺となった妙見寺にあったものを移したとされ、さらにその元を辿ると、同市蔵持にある3基の板碑と並んで神子女引手山にあったものとされる。建長5年(1253年)、時の執権・北条時頼は民生安定のためにこの地に豊田四郎将基の供養碑を建てた。その際に時頼は、いまだ平将門が祀られていないことを聞き及び、自らが奏上して勅免を得ると、千葉胤宗に命じて将門の赦免と供養のための板碑を建てるように命じたのである。さらに翌年と翌々年には、豊田氏・小田氏といった将門所縁の一族によって板碑を建て、その次の年にも将門の父である良将の供養のために板碑を建てた。この4年続けて建てられた板碑のうち、建長6年の板碑だけが妙見信仰の縁で妙見寺に移され、さらに西福寺に置かれているのである。この建長6年の板碑には「炎石」の別名が残されている。天保年間(1831-1845)のこと。ある旗本がこの石を気に入り、縄を掛けて持ち運ぼうとした。ところがその夜、突然この石が炎を噴き出したため、旗本は恐れおののいて逃げたという。それ以来、この板碑は「炎石」と呼ばれるようになり、将門公の霊が籠もっていると信じられるようになった。さらにはこの石に縄を掛けると病が治るという言い伝えも出来たという。
深井地蔵
ちょっとした集落でなら特に珍しくもないような地蔵堂であるが、その由緒を紐解くと、平将門の伝承にまつわるものであることが分かる。平将門が関東で乱を起こす遠因となったのは叔父の平良兼との「女論」であったとされる。つまり女性を巡る争いである。一説では、源護の娘を将門が妻に所望したが良兼に奪われてしまったとも、あるいは良兼の娘を将門が妻にしたところ源護の3人の息子が横恋慕して襲ったのだとも言われる。いずれにせよ、将門と良兼はお互いに敵とみなして干戈を交えたのである。承平7年(937年)8月、平良兼は子飼(小貝)の渡しに進駐した。一方の将門は脚気で戦意もなく、連れていた妻子は万一に備えて船に乗せて隠れさせた。ほどなく良兼の軍は引き揚げたので、妻子は岸に戻ろうとした。しかしまだあたりに残っていた良兼軍の一部がそれを発見、妻子は“討ち取られ”たのである。この将門妻子受難の地に建てられたのが深井地蔵である。つまり殺された将門妻子の冥福を祈って造られたのが、この地蔵であるとされる。今では安産子育てにご利益があるとされ、月ごとの縁日には多くの参詣があるという。
妻子受難の記述 / 将門の妻子が“討ち取られ”たとの記述は『将門記』にある。しかしその後の展開として「翌月に兄弟によって良兼の元から脱出して将門の陣に戻った」という記述がある。将門には少なくとも2人の妻があり、一人は平良兼の娘、もう一人は平真樹の娘とされる。深井地蔵の存在と『将門記』の記述から、おそらく2人の妻は同時に捕らわれ、平真樹の娘だけが殺され(平真樹と平良兼は縁者ではなく、敵対関係にあった)、自分の娘は自陣に連れ帰ったと推測して良いかもしれない。
笠間稲荷神社
“日本三大稲荷”の1つに数えられる笠間稲荷神社であるが、その由緒は古く、社伝では白雉2年(651年)を創建としている。実際に『常陸国風土記』にも稲荷の祭神である宇迦之御魂命が祀られていたとされる記述があるが、それ以降の記録は殆ど残されていない。現在の笠間稲荷神社の隆盛のきっかけとなったのは、寛保3年(1743年)、笠間藩主であった井上正賢にまつわる伝説である。その年の夏、正賢の夢枕に束帯姿の白髪の老人が現れ、自分は稲荷神であるが、社地が狭く里人も憂いていると告げた。夢から覚めた正賢のそばには1個の胡桃が落ちており、老人の告げた場所に果たして稲荷の祠があったため、急ぎ社地を拡張して祭具を奉納した。さらに数年後、正賢が江戸にあった時、再び官人が胡桃1筺を献じて訪れ、社地拡張を謝して消えた。正賢はますます神威を敬い、自ら祠を参拝し、藩の祈願所と定めたのである。この稲荷神社の祠は、胡桃の古木の下にあったため“胡桃下稲荷”と呼ばれており、現在も笠間稲荷の別称として伝えられている。さらに笠間稲荷には“紋三郎稲荷”という別称がある。社伝では、藩主・井上正賢の縁者に門三郎という者があり、笠間稲荷の信者獲得のために大いに尽力したので、紋(門)三郎の名が冠せられたとされる。しかし紋三郎の名には,全く異なる系譜の伝説が残されている。笠間の近くの瓜連という地には、常陸国二之宮である静神社がある。この社叢に、昔、源太郎・甚二郎・紋三郎・四郎介という4匹の狐の兄弟があった。兄弟は、仲間の狐が人に悪さすることを嘆き、それぞれが罪滅ぼしに常陸の各所に散って土地を拓くことにした。源太郎は瓜連に残って川を守り、甚二郎は米崎へ行って野を守り、紋三郎は笠間へ行って山を守り、四郎介は那珂湊へ行って海を守った。その甲斐あって各地は栄え、兄弟も神として祀られるようになった。笠間稲荷は、即ち紋三郎狐を祀ったものであるというのである。紋三郎狐の伝説で有名なものに、棚倉藩の殿様の鷹を取り戻した話がある。笠間で鷹狩りをした殿様の鷹が1羽消えてしまった。狐の仕業とにらんだ殿様は狐狩りを命じた。すると翁が現れ、狐狩りを3日延期してくれるよう頼んだ。そして3日目に鷹は無事戻ってきて、1匹の老狐が倒れていた。紋三郎狐が悪い狐を懲らしめたのだということである。
日本三大稲荷 / 総本社である伏見稲荷大社(京都)の他は諸説ある。他の有力なところとしては、豊川稲荷(愛知)、祐徳稲荷(佐賀)、笠間稲荷(茨城)が挙げられる。
静神社 / 名神大社に数えられる古社。主祭神は健葉槌命で、武甕槌神(鹿島神宮祭神)と経津主神(香取神宮祭神)が平定できなかった悪神・香香背男を倒したとされる。
蚕影神社 (こかげじんじゃ)
その名にある通り、養蚕の神として関東甲信地方で大いに崇敬された神社の総本社である。創建の由来は、第13代成務天皇の御代、国造として派遣された忍凝見命孫(おしこりみのみこと)と阿倍閇色命(あべしこのみこと)が筑波大神に奉仕し、さらに豊浦の地に稚産霊神(わくむすびのかみ)を祀ったことから始まる。主祭神となる稚産霊神はその頭から蚕と桑が生じたとされ、養蚕の神として相応しい存在である。また時代が下って、第29代欽明天皇の御代、皇女の各谷姫が筑波山まで飛来して神衣を織り、その製法を人々に伝えたともされる。いずれにせよ、この筑波が養蚕と絹織物発祥の地であるとし、その象徴として蚕影神社があったと考えて良いだろう。上垣守国が著した『養蚕秘録』の中には、養蚕伝来の伝説として“金色姫”の話が紹介されている。21代雄略天皇の御代の頃、天竺に旧仲国という国があり、霖夷大王が治めていた。その娘に金色姫がいたが、継母はそれを疎んじ亡き者にしようと企んだ。継母は大王の留守中に姫を師子吼山へ棄てるが、山に住む獅子王が宮殿に送り届けて失敗。次に鷹群山に棄てるが、鷹狩りの視察に来た家来によって救われる。さらに海眼山という孤島に流したが、漂流してきた漁師に助け出された。そして遂には宮殿の庭に埋めてしまうが、100日後に光を放ちだしたために不審に思った王が掘り返して発見した。4度の危機を知った大王は、これ以上城に置いてもいずれ姫は殺されると思い、桑の木で造ったうつぼ舟に姫を乗せ、海に流してしまった。そして遠く離れた常陸国の豊浦の浜に流れ着いたのである。うつぼ舟の姫を救ったのは、漁師の権太夫夫婦であった。姫は夫婦と暮らし始めるが、やがて病を得て亡くなってしまう。亡骸は唐櫃に納められたが、その夜、夫婦の夢枕に姫が立ち、「私に食べ物を下さい。後で恩返しをします」と言う。夫婦が唐櫃を開けると、亡骸の代わりにたくさんの見慣れぬ虫が入っていた。姫が乗った船が桑で出来ていたので、桑の葉を与えると虫はそれを食べ始めた。しばらくすると虫たちは葉を食べることをやめ、頭を上げて震えるばかりとなった。心配する夫婦の夢枕にまた金色姫が現れ、継母に命を狙われた受難のために休んでいるだけであると告げた。そうして虫たちは4度の休みを経て、繭を作り出したのである。さらに繭が出来た時、権太夫夫婦は筑波の影道(ほんどう)仙人から糸を取り出すことを教わった。これが本邦初の養蚕業となったのである。権太夫夫婦はこの養蚕によって富を得て、やがて金色姫の御霊を祀る社を豊浦に建てた。これが現在の蚕影神社であるという。明治以降、養蚕業は日本の主産業として大いに発展した。それと同時に蚕影神社への信仰は絶大なものとなった。しかし戦後、養蚕業そのものが衰退すると、参拝者も激減した。かつての賑わいの痕跡を残しながら、今の参道や境内は閑寂そのものである。
稚産霊神 / 『古事記』では、食物の神である豊受大神の親とされる。また『日本書紀』では、頭に蚕と桑が生じ、へそに五穀が生じたとされる。養蚕・穀物の神とされる。
『養蚕秘録』 / 享和2年(1802年)刊。全3巻。蚕の飼育から製糸に至るまで、養蚕に関する技術や知識を図解した実用書。後年シーボルトがオランダに持ち帰り、ヨーロッパの養蚕技術向上のために利用している。
御門御墓
平将門の供養塔とされる4基の五輪塔がある。造られたのは鎌倉時代初期。土地に残る伝承では、かつてこの地に将門の居館があり、将門の霊を粗末にすると祟りがあると信じられたために造られたとされる。“御門御墓”という名称は、将門が乱を起こした際に“新皇”と称したところから付けられたものであり、さらに“三門”という地名もそこから派生した物であると言えるだろう。この辺りは、平将門の乱の頃、平真樹(たいらのまさき)の治める土地であった。将門の妻であった“君の御前”の父であり、将門の同盟者である。当時の風習では通い婚が通例であり、おそらく足繁く通う将門のために館が設けられていたものと推測できる。この付近には君の御前を祀る后神社があるが、この4基の五輪塔はちょうどその神社と向かいあう形で置かれている。これもこの五輪塔が将門にまつわる伝承を持つものであるとする証左とされている。
息栖神社 (いきすじんじゃ)
常陸国一之宮の鹿島神宮、下総国一之宮の香取神宮と並び「東国三社」として崇敬を集める神社である。主祭神は岐神(くなどのかみ)であるが、鹿島神宮の武甕槌命と香取神宮の経津主命が関東平定の時の先導役となった神であるとされる。また相殿神である天鳥船命は、武甕槌命・経津主命と共に“出雲の国譲り”に登場する神とされている。いずれにせよ、この3つの神社の結びつきは非常に強いものであると考えられる。また祀られている神から分かるように、交通関連、特に水上交通のご利益があるとされる(実際、息栖神社のある一帯は利根川下流の水運の要衝であった)。息栖神社の一の鳥居のそばには「忍潮井(おしおい)」と呼ばれる霊泉があり、伊勢の明星水・山城の直井と共に日本三霊泉とされている。忍潮井は鳥居の両脇に2つあり、それぞれの井戸の中に銚子の形をした「男瓶」と器の形をした「女瓶」があり、そこから水が湧き出ているとされる。そして神社が現在地に移転された時、取り残されてしまったこの2つの瓶は自力で川を遡って追い掛けてきたという伝説を持つ。
東国三社 / 関東以北の習慣として、伊勢神宮参拝後にこの3つの神社を「下三宮参り」として巡拝したという。また“出雲の国譲り”に関連する神が祀られているだけでなく、この3つの神社を結ぶとほぼ直角二等辺三角形になるとされ(ちょうど直角の位置にあたる息栖神社が移転した結果であり、これも意図的な配置とみなす根拠である)、特別な関係があると考えられる。
出雲の国譲り / 高天原の神が、大国主命が治める出雲国を服従させようと使者を送るがことごとく失敗。そこで武力で解決するために送り込んだのが武甕槌命であり、それと共に地上に降りたのが『古事記』では天鳥船命、『日本書紀』では経津主命となっている。最終的にこの神々によって出雲国は高天原のものとなる。
一向寺 小栗助重供養碑
説経節で有名な『小栗判官』であるが、実は完全な創作ではなく、実在の人物がモデルとなっている。それが常陸国に所領を持っていた小栗助重である。小栗氏は、平将門に繋がる大掾氏の支族として源平の合戦にも名を残している。そして時代が下って室町時代になると、鎌倉公方の支配地である関東に所領を持ちながら、京都の幕府と直接主従関係を結ぶ“京都御扶持衆”となる。そのためか助重の父・満重は応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で鎌倉公方に反旗を翻すが、結局は敗北。この時に所領の大半を取り上げられたために応永29年(1422年)に再び戦火を交えるが、今度は鎌倉公方・足利持氏に直接攻められ、最終的に満重は自刃する。これによって一時期小栗氏は所領を失うことになり、息子の助重は流浪の身となったとされる(一説では、満重は自刃せずに常陸を脱出し、相模に逃れて『小栗判官』のモデルとなるとも)。ところが、永享の乱で足利持氏が自害、さらにその遺児を擁立して起こった結城合戦が永享12年(1440年)に始まる。この時に武功を立てた小栗助重が再び旧領を取り戻すことになる。父の死からおよそ20年ぶりの復帰であった。こうして京都側と鎌倉側の権力争いが続くが、その中で小栗氏はさらに翻弄される。享徳3年(1455年)に始まった享徳の乱で反鎌倉公方であった助重の居城・小栗城は足利成氏によって攻め落とされてしまう。これによって小栗氏は再び所領を失い、京都御扶持衆の有力武将の中でいち早く歴史の表舞台から消えてしまったのである。かつて小栗氏が知行していた筑西市小栗の地にある一向寺には、小栗助重の墓とされる供養碑がある。だがそは後世に建立されたものであり、その後の助重は『小栗判官』の物語に匹敵するとも言うべき人生を歩む。所領を失った助重は出家すると、京都の相国寺の門を叩く。そしてそこで画僧・周文の水墨画を学び、やがて足利将軍家の御用絵師にまで上り詰めるのである。大徳寺にある重要文化財「芦雁図」を描き、門下に狩野派の祖・狩野正信を持つ、小栗宗湛その人である。
京都御扶持衆 / 鎌倉公方が支配する関東・東北に所領を持ちながら、京都の幕府と直接の主従関係を結んだ豪族。鎌倉公方の支配を受けないために、公方に対して常に反抗的である。その態度は、鎌倉側と対立を深める京都側の意向を汲んでの反抗であると考えられている。甲斐の武田、常陸の大掾・小栗・真壁、下野の宇都宮・那須、陸奥の伊達・南部・蘆名などがこれにあたる。
桔梗塚
関東鉄道常総線の稲戸井駅の間近、国道294号線沿いのバス停に生け垣で囲まれた場所がある。中を覗くと数多くの石塔が並んでいる。これが取手市にある桔梗塚である。桔梗塚に葬られているのは、平将門の愛妾・桔梗御前とされる。ただしこの桔梗御前の存在は伝説上のものであって、史実としては不明な点が多い。むしろ桔梗御前に関する伝説は関東各地にあって、それぞれ独自の設定で語られていると言うべきである。最大公約数的な設定としては、平将門の愛妾であり、将門最大の秘密である“こめかみ”に関する情報を敵方に漏らしてしまったために死を迎えたとなるが、それすらも多少の異説があるともされる。取手の桔梗御前の伝承は、この塚のそばにある竜禅寺に伝わるものである。桔梗御前は大須賀庄司武彦の娘とされ、将門の間には3人の子供がいたという。さらに薙刀の名手とされる。だが、戦勝祈願をした帰り道、この地で敵将の藤原秀郷に討ち果たされたのである。その後、この地は桔梗ヶ原と言われるようになり、このあたりに生える桔梗は花をつけないと言われている。あるいは、図らずも将門の秘密であった“こめかみが動く者が本物の将門であって、他は影武者である”ことを敵方に漏らしてしまい、口封じのために藤原秀郷に討たれたともされる。いずれにせよ、この地が桔梗御前終焉の地ということになる。ちなみに、桔梗の花が咲かないという伝説は、漢方薬として桔梗の根が使われることから、根が大きく育つように花が咲く前に摘み取ってしまうからだという説がある。
桔梗御前の諸説 / 桔梗御前の出自については、藤原秀郷の妹とする場合もあり、妹を使って敵情を探らせ、最終的に後難を怖れて秀郷が殺すことになる。また本当に将門を裏切って秀郷に秘密を教えてしまったために、将門によって誅せられたとも言われる。さらに桔梗御前は愛妾ではなく、将門の母親にあたる人物という説も存在する。
カッパ松
牛久沼にはいくつかの河童の伝説が伝わる。その中でも一番有名なのが、カッパ松である。牛久沼の河童はいつも悪さばかりしており、人々は困り果てていた。ある時、彦右衛門という百姓が度重なる悪戯に憤慨し、力尽くで河童を捕らえると、沼のそばの松の木に括りつけた。炎天下に三日三晩晒された河童はとうとう頭の皿の水を全て失い、命乞いを始めた。哀れに思った村人は戒めを解き、二度と悪さをしないように言いつけた。その後、河童による悪さはなくなり、そればかりか、沼の水草などの掃除までおこなうようになったという。今でもこの河童を縛り付けたという松の木が残っており、カッパ松と呼ばれている。
法蔵寺 累の墓 (かさねのはか)
法蔵寺には、後世に演劇の題材として取り上げられて有名となった「累ヶ淵」の伝承が残されている。この話は『死霊解脱物語聞書』という書物として江戸時代に流布しており、以下のようなあらすじとなる。事件は、寛文12年(1672年)に羽生村の百姓・二代目与右衛門の娘である菊に霊が憑依したことから始まる。菊に憑いていたのは、二代目与右衛門の最初の妻であった・累(るい)の霊であった。累の霊は、正保4年(1647年)に入り婿の二代目与右衛門によって川に突き落とされ殺されたことをはじめ、数多くの悪事を暴露した。そして自らの供養を求めて菊に取り憑いたのだと語った。そこで近くの弘教寺の住職・祐天が引導を渡し、累の霊は成仏した。しかしその直後、再び菊に何ものかが取り憑いて怪事を引き起こした。祐天は再び取り憑いたものに問い質すと、助(すけ)と名乗る子供の霊であった。村の古老に尋ねると、助は累の異父姉にあたり、初代与右衛門の後妻・お杉の連れ子であったが、生来片目で手足が不自由であったために義父の初代与右衛門に疎まれ、慶長17年(1612年)にお杉によって、後に累が殺されたのと同じ場所で川に投げ込まれて殺されたのである。さらに、助の死んだ翌年に生まれた累は容貌が瓜二つと言ってよいくらい似ており、村人は累の容貌は助の祟りと噂し合っていたのであった。祐天は、この助の霊も成仏させ、60年にも及ぶ悪因縁を絶ったのであった。法蔵寺の境内には、累の一族の墓がある。その正面には3基の墓がある。左より菊、累、助の墓とされる。また本堂にはこの3名と祐天上人の木像が安置されており、また祐天上人が死霊供養に用いたとされる数珠も保管されている。
『死霊解脱物語聞書』 / 元禄3年(1690年)に出版された仮名草子本。ここに書かれた内容を元にして、四世鶴屋南北が歌舞伎「色彩間苅豆」を上演、また三遊亭圓朝が落語『真景累ヶ淵』をを発表している。
延命院
平将門の首は京都へ送られ、数々の伝説を残して、現在は東京の大手町の首塚にあるとされる。しかし将門の胴体は、戦没地とされる場所からそれほど遠くない場所に埋められているとされる。それが延命院にある胴塚である。延命院の創建については不明な点もあるが、将門がこの地を支配した時期には伽藍が建てられたという。そしてそこに弟の将頼らが首なき胴体を運んできて埋めたという伝承になっている。延命院の山号は“神田山”であるが、それは将門の“身体”を埋めた場所だから名が付いたという説がある。だが実際には、この付近一帯は相馬御厨として伊勢神宮へ寄進された荘園であることから“神田”とされたと思われる。また伊勢神宮ゆかりの土地であったために、墳墓は荒らされずに残されたとも言われる。現在、胴塚は古墳として文化財指定を受けており、また塚の上から生えた榧の木は天然記念物となっている。そして東京にある将門塚(首塚)保存会より贈られた「南無阿弥陀仏」の刻まれた石塔婆が建っている。
海禅寺
海禅寺は、平将門が父の菩提を弔うために建てた寺である。また本尊は、将門の娘・妙蔵尼の持仏であったとも伝わる。その後、将門の子孫を名乗る下総相馬氏の菩提寺となるが、戦国時代後期以降の相馬氏の衰退と転封によって荒廃する。江戸時代に入って領主の堀田氏が再興、奥州相馬氏も参勤交代の折りに立ち寄ったという。海禅寺の境内には、8基の石塔が整然と並んでいる。これが平将門と七騎武者の墓である。一番右端の大きな石塔が平将門の墓といわれ、中央部に「平親王塔」と刻まれている。そして残りの石塔は平将門の7人の影武者の墓とされている。寺伝では、承平7年(937年)に京から帰国した将門を待ち伏せていた平良兼と平貞盛に襲撃された時に、身代わりに討ち死にした家臣7名であるという。将門本人の墓と称されるものは数多いが、家臣の墓は珍しいものである。
相馬氏 / 平将門を祖と称する千葉氏(常胤の代)から、鎌倉幕府成立直後に分かれた一族。父より相馬御厨(現・守谷市も含む一帯)を譲り受けて相馬姓を名乗る。鎌倉幕府滅亡直前、家督問題により分裂。旧地に残った下総相馬氏と、所領であった磐城へ移った陸奥(奥州)相馬氏の二流となる。下総相馬氏は、豊臣の小田原攻めの際に改易となって以降旗本として存続。陸奥相馬氏は江戸時代以降も存続し、明治維新まで同じ領地を統治し続けた。
平将門の影武者 / 将門には7人の影武者があるという伝説は、室町期に成立した『俵藤太物語』に既にあるほど有名である。その人数については、将門が信仰していた妙見信仰に基づくもの、即ち、北極星と北斗七星の関係を、将門と7人の影武者という形になぞられたと見るのが有力である。またこの影武者は生身の人間ではなく、将門の超能力によって出現したものであるとされている。そのため、本人と影武者を見分ける方法は秘中の秘であり、それを愛妾(桔梗・小宰相などの名称)から聞き出す伝説も残されている。
北山稲荷神社
天慶3年(940年)2月14日。新皇を名乗り、関東一円を支配下に置いた平将門が討ち死にする。藤原秀郷・平貞盛の軍勢と合戦中、誰が放ったか判らない矢が額(或いはこめかみ)に当たり落命したという。この将門最期の地となるのが北山古戦場である。この古戦場の有力な比定地が北山稲荷神社である。すぐそばを幹線道路が走り、24時間営業のコンビニエンスストアが隣接しているにもかかわらず、神社の中は手入れされていない草木が延び放題となっていて、全く時空から隔絶されたかのような印象がある。ある種の【魔所】である。この稲荷神社が将門最期の地と考えられるようになったのは、昭和50年(1975年)にこの場所から1枚の板碑が発見されたためである。この板碑には平将門の命日が刻まれており、さらにそれを供養したのが長元4年(1031年)、源頼信であることが記されていたのである。長元4年は、平将門の乱以降で最も激しい内戦が関東で繰り広げられた平忠常の乱を、頼信が鎮圧した年であり、信憑性はそれなりに考えられるところである。
平忠常の乱 / 平将門の叔父にあたる平良文を祖父に持つ平忠常が起こした反乱。忠常は上総の有力武士であり、広大な領地を背景に強大な武力を有して専横が目立っていたが、安房の国司を焼殺して朝敵となる。約3年間朝廷軍に対して抵抗を続け、上総・下総・安房は荒廃する。そして源頼信が朝廷軍の主将となると、忠常は出家して降伏してしまう(護送中に病死。死後斬首となる)。この戦いを契機に、頼信は関東の武士と主従関係を結び、源氏の東国基盤を作り上げた。
鹿島神宮 七不思議
常陸一の宮である鹿島神宮は、平安期より伊勢神宮・香取神宮と共に「神宮」と呼び慣わされた名社であり、香取神宮・息栖神社と共に「東国三社」とされてきた。その祭神は武甕槌大神であり、天孫降臨に先だって葦原中国平定(いわゆる「国譲り神話」)をおこなった武神である。鹿島神宮はその祭神の性格を反映するように、創建時から東国(蝦夷)平定の最前線として位置づけられていたと考えられる。鹿島神宮には、七不思議と呼ばれるものが伝わっている。以下の7つである。
1.要石 / 地震を起こす大鯰の頭を押さえつけていると言われる石。この石があるため、鹿島地方では大きな地震は起きないと伝わる。かつて徳川光圀がこの石の根を確かめようと七日七晩掘らせたが、結局根に辿り着くことができず、事故が頻発したので取りやめたという。
2.御手洗池 / 参拝前に身を清めたとされる湧水の池。大人でも子供でも池に入ると、水面が胸の高さまでしかこないと言われる。
3.末無川 / 神宮境外にある川。川の流れが途中で地下に潜って切れてしまい、その末がわからない川とされる。
4.御藤の花 / 藤原鎌足が植えたとされる藤の木。その木が付ける花の数で、作物の豊凶を占った。(現存せず)
5.根上がり松 / 神宮境内にある松の木は全て、伐っても切り株から芽が生えて、何度伐っても枯れることがない。(現在は不明)
6.松の箸 / 神宮境内の松で作られた箸はヤニが出ないとされる。(現在は箸が作られていないとのこと)
7.海の音 / 鹿島灘の波の音が、北から聞こえると晴れ、南から聞こえると雨となる。
東国三社 / 鹿島神宮(祭神:武甕槌大神)、香取神宮(祭神:経津主神)、息栖神社(祭神:岐神・天鳥船神)。道祖神と同一とされる岐神を除き、三神はいずれも「国譲り神話」において高天原の使いとして登場しており、密接な関係があると考えられる。また、この3つの神社を結ぶと二等辺三角形ができるなど、人工的な仕掛けも施されている。
国譲り神話 / 地上を支配していた大国主命に対して、天照大神をはじめとする高天原の神は支配権を譲るように使者を派遣するが、ことごとく失敗する。そこで武甕槌命らの二神(『古事記』では天鳥船命、『日本書紀』では経津主命)を派遣する。武甕槌命らは稲佐の浜に降り来たり、剣の切っ先に胡座をかいて国譲りを迫った。また国譲りに反対した建御名方命に対して力比べをおこない、その両手を握りつぶし、諏訪まで追いかけて服従させた(建御名方命は諏訪の地から出ないと誓い、諏訪神社の祭神となる)。
大甕神社 宿魂石 (おおみかじんじゃ しゅくこんせき)
社伝によると、この宿魂石とは、この地をを治めていた甕星香々背男(みかぼしかかせお)が化身したものであるとされる。この甕星香々背男は星の神であり、別名、天津甕星(あまつみかぼし)と言う。『日本書紀』によると、国譲りの大役を終えた武甕槌命と経津主神はその後もまつろわぬ悪神を平らげていったが、最後まで屈服しなかったのが香々背男であった。最終的にこの二神に代わって服従させたのが建葉槌命(たけはづちのみこと)であり、大甕神社の祭神となっている。伝説では、香々背男の荒魂を封じ込めた石が成長するが、建葉槌命が金の沓で蹴り上げたところ、石が砕け散ったという。この神社は初め大甕山にあったのだが、元禄2年(1689年)に徳川光圀の命によって、宿魂石の上に遷宮している(宿魂石は実際には巨石が集まってできた小高い丘である)。『日本書紀』にある由緒に基づいて遷宮したとされるが、それだけ荒ぶる神であったという認識があったものと思われる。
天津甕星 / 『日本書紀』のみの登場する天津神。天津神でありながら“悪神”とされる。上記の内容以外にも、二神が国譲りに赴く前に誅しておきたい天の神であると言ったともされている。いずれにせよ、非常に特殊な立ち位置にある神である。なお、天津甕星とは、平田篤胤によると「金星」を指しているという説がある。
武甕槌命・経津主神 / 国譲りおいて大国主命と交渉して認めさせた武神。武甕槌命は鹿島神宮の祭神、経津主神は香取神宮の祭神であり、ともに東国平定に関連のある神とされる。その点で言えば、この二神に最後まで抵抗した香々背男の存在は大きいだろう。
建葉槌命 / 別名、倭文神(しとりのかみ)。織物の神であり、女神である。なぜ星の神を服従させることができたかについては、星を織り込んで布を織った(要するに懐柔策)という説もある。
大黒石
佐白山の山頂にはかつて笠間城があり、江戸期には笠間藩の藩庁があった。この城の起源を遡ると、初代笠間氏によって鎌倉時代前期には既に館が築かれていたとされる。さらに城が築かれる以前には、この山頂一帯には正福寺という広大な寺院があった。正福寺は、七会にあった徳蔵寺とたびたび勢力争いをしていた。ある時、徳蔵寺の僧兵達は不意をついて正福寺を攻め立て、佐白山の中腹あたりまで兵を押し進めていた。あと少しで正福寺を落とせるという時、いきなり山頂付近にあった巨石が揺れ出すと、徳蔵寺の僧兵に向かって転がり落ちた(一説によると、正福寺側の僧兵が落としたともされる)。この石に押し潰される者、はね飛ばされる者が多数出て、徳蔵寺側は這々の体で逃げて行き、正福寺は難を逃れたという。この時に転がった巨石がこの大黒石と呼ばれる岩である。名前の由来は、この岩は元々2つの巨石が並んでおり、1つは大黒様の姿に良く似ており、もう1つは大黒様がかつぐ大きな袋に似ていたため、そう呼ばれていたと言われる。転がり落ちたのはその“袋”の方であり、そして不思議なことに、もう一方の巨石はこの騒動の最中どこかに消えてしまったという。この巨石は大きさが縦横が約5メートルほど、高さが約3メートルという大きさである。現在では“大黒”の名前が付いているためか、御利益をもたらすものとしての伝承されており、“へそ”と呼ばれるくぼみに続けて3回石を投げ入れて一度でも成功すると願いが叶うと言われている。実際、このくぼみにはいくつか小石が入っていて、今でもやっている人がいるようである。
笠間氏 / 宇都宮氏の支流・塩谷氏を祖とする。元久2年(1205年)頃に僧坊間の争いに乗じて塩谷時朝が左白山を占拠して城を築き、笠間氏を名乗る。豊臣秀吉の小田原攻めの際に北条氏に与したため、宗家である宇都宮氏によって滅ぼされたとされる。  
 
 千葉県

 

●駒止谷に沈んだ恋 1 習志野市
大和田原に底なし沼の駒止谷があったという、大和田原の西南端に、働き者だが五反ばかりの少ない畑を耕す貧しい若者が住んでいた。病弱の父と弟をかかえてその日の暮らしを立てていた。
若者は荷車を引いて船橋の市場へ野菜を売りに行き、付近の村で一番美しいと評判のおきんを好きになった。しかし耕地をあまりもっていないので嫁に貰うことができなかった。そこで藩に申し出て駒止谷を耕す許可を得たが、そこは大勢の百姓が開墾に失敗している沼地だった。
たらいに乗って田植えをし稲を育て、その年、若者の稲は実り豊作となった。若者は翌年の収穫が増えたのなら、おきんと祝言をあげると約束をした。
しかし、次の年、その次の年も稲作に失敗した。その間、おきんは母親に死に別れ、遠い国へ出稼ぎにでてしまった。
ある夜、若者は、駒止谷の稲が数年ぶりに育ち、黄金の穂をつけている夢を見た。飛び起きて大和田原に駆けると、月明かりの下に稲穂が波打っていたため、震える手でその稲穂をつかんだ。その瞬間、稲穂ではなく泥沼に生えている葦の葉であることに気がつくが、泥沼に足を引きこまれ次第に身体は沈んでいった。
その後、若い娘が駒止谷に身を投げて死んだという噂が村々へ伝わった。谷岸に木綿の着物が包まれた風呂敷と下駄が揃えて置かれてあったという。その娘がどこの誰であったかは今でもわかっていない。

●駒止谷に沈んだ恋 2
むかし、大和田の原にどんな駿馬でも足をとられ死んでしまう「駒止谷」という泥沼がありました。
その近くの小さな貧しい村に、働き者の若者が住んでいました。
ある日のこと、街道筋の市へ野菜を売りに行き、おきんという娘を好きになってしまいました。
「ああ、もっと広い土地があれば精出して働いて、おきんさんを嫁にもらうんだがなあ…。」
若者は思い切って駒止谷に稲を作ってみました。すると、その夏の干ばつにも平気で、大変な豊作となりました。若者はおきんに豊作のことを話し、駒止谷の稲が来年も豊作だったら祝言を挙げようと誓い合いました。
ところが 次の年は長梅雨がたたり稲がうまく育ちませんでした。それでも秋の取入れが近づき、ある日、若者は泥沼の穂が月光に照らされ、黄金色に輝き垂れているように見えました。若者は喜び、それをてにとろうとしたときです。ずるずるっとすべりだし、底なし沼に引き込まれてしまいました。
若者は夢から覚めないまま死んでしまいました。若者の葬式の済んだ夜、駒止谷に行ったおきんは、両手を合わせると静かに若者の後を追ったということです。

●ギロ沼の主 松戸市
松戸市栄町西周辺の地は、昔はギロと呼ばれていた。台風のたびに水害にあうような低地だったが、村人は稲作のほかに、どじょうや鮒、うなぎを獲って生活していた。
ギロの沼にはなにか得体のしれない沼の主がいると村人はうわさしていた。台風が来るたびに、田んぼに2メートル幅ほどの大きなものが暴れた跡のようなものができて、稲が荒らされていたからだ。
大正6年9月に大暴風雨の中で村の兄弟が漁をしていた。すると、なにか大きなものが網に引っ掛かった。これは土左衛門(死体)ではないかと思った兄弟は恐くなって網をそのままにして、帰ってしまった。次の日、網を引き上げてみると、こいのぼりみたいに大きな鯉が網にかかっていた。兄弟はその大きな鯉を荷車に乗せて、上野の不忍池の神様に奉納した。村人たちは、これがギロ沼の主ではないか、とうわさしたという。

●龍角寺 1 栄町
ひっそりとした住宅地の中に佇む「龍角寺(りゅうかくじ)」。発掘調査の結果、7世紀にさかのぼる伽藍跡が見つかり、創建年代の古さという点では、関東地方でも屈指の古寺だそうです。
また、案内看板のひとつに「その昔、大旱魃(かんばつ)の年に竜神が自分の身を三つに切ってまで人々を助け、その頭を納めたことから名付けられた」と記載されているとおり、自分の身を挺して栄町の人々を助けた"龍伝説"が残っています。
ちなみに、龍角寺はもともとの名を「龍閣寺」と表記していましたが、龍神の頭が納められてから「龍角寺」に改められました。また、龍神の腹部は印西市(いんざいし)の、尾は匝瑳市(そうさし)のお寺に手厚く葬られ、それぞれ「龍腹寺」「龍尾寺」と改称したそうです。

●龍角寺 2 栄町
龍角寺は、和銅2(709)年、天から龍女がやって来て一晩のうちに寺の全ての建物を建てたといわれ、初めは龍閣寺といいました。
奈良時代の天平3(731)年、この年は春からの日照り続きで水不足となり作物は実らず、人々は困窮していました。
聖武天皇は、諸国の神社仏閣に雨乞いの祈願をさせましたが、一向にその効果がありませんでした。そこで、龍神に由縁のある龍閣寺に雨乞いの祈願を命じました。龍閣寺の釈命上人(しゃくめいしょうにん)は、大勢の弟子とお経を読み、昼夜を問わずに祈り続けました。とうとう結願の日、聴衆の中から印旛沼の主と名乗る小龍の化身が現れました。
小龍はお経を読んでもらった代わりに、大龍に命を奪われることを承知の上で、雨乞いの願いを聞き入れました。「私が雨を降らせれば、この命は奪われるでしょう。この身は三つに裂かれ、印旛沼のほとりに落ちるでしょう。そうしたら、頭は龍閣寺に、腹は印西の地蔵堂に、尾は匝瑳の大寺に納めてください。そして、どうか、私のために祈ってください」と言うと、姿が見えなくなり、部厚い黒雲が空を覆いつくし、どっと雨が降り始めました。
田畑の作物は息を吹き返し、人々は歓喜の声を上げました。雨は七日七晩降り続き、雨が上がると上人たちは印旛沼を訪れました。小龍の言う通り、小龍の体は三つに裂かれ落ちていました。
約束通り、その体を3カ所に葬りました。人々は龍のために祈りを捧げました。頭を納めた龍閣寺は「龍角寺」(栄町)に、腹を納めた地蔵堂は「龍腹寺」(印西市)、尾を納めた大寺は「龍尾寺」(匝瑳市)に名を改めました。

●龍閣寺 3 三つざきにされた龍神 印旛沼
昔、温かな夜には印旛沼からはしばしば赤い火の玉が現れて北へ向かった。近隣の人々は、龍神が安食村の龍閣寺に明かりを灯しに行くのだと話し合った。ある年、旱魃のため龍神に雨乞いを行ったが効果はなかった。3日目の夜が明けたとき、一帯の旱魃に見かねた龍が老人の姿となって印旛沼から現れ、高齢のため雨を降らせなくなったが雷神に頼んで降らせてもらう、と話して姿を消した。たちまち空が曇って稲妻を伴う豪雨となり、枯れていた作物が蘇った。人々は喜んだが、間もなく、龍閣寺に2本の角の生えた龍の頭が落ちているとの知らせが届いた。その後、印西の地蔵堂で龍の腹部が、ずっと離れた大寺村で龍の尾が見つかった。人々は、雨を降らせるために龍神がその体を雷神によって3つに分断されたのだと悟り、龍閣寺を龍角寺と改め、龍腹寺と龍尾寺を建てて、龍神の事を忘れまいとした。その後も印旛沼からは赤い火の玉が現れ、3つに分かれてこの3つの寺の方へ向かった。人々は、龍神の魂が自身の体を納めた寺に龍灯を灯しに行くのだと話し合ったという。

●龍閣寺 4 雨を降らせた竜 印旛沼
昔、印旛沼のそばに、人柄の良い人々が住む村があった。印旛沼の主である龍は、人間の姿になってしばしば村を訪ねては村人達と楽しく過ごしていた。ある年、印旛沼付近はひどい旱魃に見舞われた。雨乞いは功を奏さず、水田は干からびて、村人達は餓死を覚悟した。そのとき龍が村に来て、村人達から親切にしてもらった恩返しとして雨を降らせること、しかし大龍王が降雨を止めているため雨を降らせれば自分は体を裂かれて地上に落とされるだろうことを話し、姿を消した。間もなく空が雲に覆われて雨が降り出した。喜んでいた村人達は、龍が天に昇って雲の中に消え、直後に雷鳴と共に閃いた稲妻の光の中で龍の体が三つに裂かれるのを見た。村人達は龍の事を思って嘆き、翌日、皆で龍の体を探し出した。龍の頭は安食で、腹は本埜で、尾は大寺で見つかった。村人達はそれぞれの場所に寺を建てて龍の体を納めた。それが龍角寺、龍腹寺、龍尾寺である。

●小金城のお姫様 松戸市
戦国時代、小金城の高城氏には二人のかわいらしいお姫様がいた。高城氏は、豊臣秀吉の関東攻めの際、小田原の北条氏に味方していたため、滅ぼされた。一人のお姫様は下谷の芦原の中に逃げたが、差向の底なし沼に入ってしまい、力尽きた。もう一人のお姫様は二ツ木の山の中に逃げたが、大きな松の木の下で力尽きた。後の世、下谷の橋のそばでは、お姫様の幽霊が出るようになった。
橋のそばに住んでいた綿屋さんがかわいそうに思って、自分の土地に祠を建てて供養すると幽霊も出なくなったという。二ツ木の松の木の下で力尽きたお姫様の松は枯れてしまった。枯れた松の根本に不思議な形をした松ぼっくりができた。それは、お姫様が二人座っているような形をしていた。この松ぼっくりを見つけた名主は、これは小金城のお姫様かもしれないと思い、祠を作った。この祠はその後、蘇羽鷹神社に祀りかえられて、今でも大切に供養されている。
小金城の跡には毎年赤いかやが生えるので、戦の時にたくさん血を吸ったからではないかと、土地の人にうわさされた。

●手賀沼にもぐった牛 柏市
むかし松ヶ崎の覚王寺(かくおうじ)に、牛のすきな坊さんがおりました。坊さんは牛をたいへんかわいがり、ひまがあると手賀沼に連れていって遊んでやりました。そのころ、手賀沼は松ヶ崎の近くまで広がっていました。沼のまわりは広い草原でした。草が一面に生え色とりどりの花が咲いていました。沼の水は青く、どこまでもすみきっていました。
牛は草原を自由にかけまわりました。つかれると草むらに寝そべって、チョウや虫たちと遊びました。おなかがすくと草を食べ、のどがかわくと水を飲み、楽しい時を過ごしました。なかでも牛にとって一番うれしいことは坊さんの手でからだを洗ってもらえることでした。それは気持ちよいものでした。牛はしあわせに暮らしていました。
ところがこの坊さんは重い病気にかかって死んでしまいました。牛の悲しい声が昼となく夜となく続きました。あとにきた坊さんは牛が大きらいでした。坊さんは牛を小さな小屋にとじこめ外に出そうとはしませんでした。おなかのすいた牛は、ある時小屋をぬけ出し近くの森へ行き食べ物をさがし歩きました。坊さんはかんかんになっておこりました。そしてこんどは、太い藤づるを牛の首にまきつけ小屋の柱にしばりつけてしまいました。小屋にとじこめられていた牛はのどがかわき今にも死にそうでした。とうとうがまんできなくなった牛は自分をつないでいる藤づるを切ろうと力いっぱい引っぱりました。すると、どうしたことか藤づるが柱の結び目のところでほどけたのです。そのとたんです。牛ははげしい勢いで入口の戸をこわし外にとび出しました。丘をかけくだり林を通りぬけ田んぼにでました。目の前には満々と水をたたえた沼があります。そこは牛が坊さんと楽しく遊んだ手賀沼でした。
牛は沼の浅いところに両足をつけガブガブ水を飲みました。草もおなかいっぱい食べました。元気になった牛は、そこから草原をあちらこちら歩きまわりました。
そのうち日が暮れ、夕やみが手賀沼一帯をつつみはじめました。すると今まで気持ちよさそうに動きまわっていた牛は急に立ち止まりました。それからゆっくりと歩きはじめました。しかしその足は覚王寺への道ではなく沼のほうに向かっています。牛はアシの茂る沼辺におり沼に入りました。沼の中ほどに進んだ時です。牛はゆっくりとふりかえり一声高く 「モウー」となくと沼の底に姿を消していきました。
手賀沼にもぐった牛の絵やがて秋がきました。それは明るい晩のことでした。
ひとりの村人が藤づるでたばねたたき木を背負い沼のふちを通っていました。すると沼の中からなにやら気味の悪い声が聞こえてきました。村人はおっかなびっくり声のするほうへ近づいてみました。と、突然、風がおこって沼の水が波立ち青い月の光の中に、なにものかが浮かびあがってきたのです。
村人が目をこらすと、それは一頭の大きな牛の姿でした。大きな口から炎のようなまっ赤な舌がみえます。首には藤のつるがまきつけられています。牛は村人の方を向き 「モウー」と、大声でなきました。しかし、その目はなぜか悲しそうでした。
あまりの不思議なできごとに村人はびっくりぎょうてん、背負っていたたき木をほうりだし、いちもくさんに逃げだしました。それからというもの村人たちの間に
「手賀沼には牛がいる。覚王寺の牛だ。」といううわさが広まりました。
そして、村人たちは牛のたたりをおそれて手賀沼を舟でわたる時やその近くを通る時、けっして藤づるを持たなかったということです。

●神沼(かみぬま)のおっつあん 匝瑳(そうさ)市
新堀川は、今泉の神沼を出て吉場の橋をくぐったあたりから、大きく蛇行している。そこの東側がお休所(やすみどころ)、西側が上人塚になっている。
さて神沼のおっつあんの話だが、これはおじさんの意で、神沼と新堀川の主(ぬし)の大蛇のことである。この大蛇は、千年も前から住んでいて、からだはヒビ割れ、頭にはコケが生えていたということだ。ふだんは神沼の底深いところに住んでいて、一年に一度沼を出て新堀川を下り、海へ出てゆく。
お休所がちょうどその中間点。大蛇はここに上がって休み、それから対岸の上人塚をお参りするともいわれる。川にまつわる龍とか蛇は、たいてい暴れ者だが、このおっつあんはたいへんおとなしく、村人のために水を配ってくれるやさしい心の持ち主である。
このため村人から“神沼のおっつあん”と呼ばれ、親しまれた。今日では、耕地整理や河川改修工事が行われて、沼や川はすっかり様相を変えてしまったが、当時はどれほど日照りが続いても、満々と水をたたえていたということだ。  
 

 

●千葉の伝承
おせんころがし
“おせんころがし”はかつての交通の難所であり、高さ数十mの断崖が約4kmに渡って続き、その中腹あたりに道がへばりつくように作られていた(現在は国道128号がやや内陸よりに通っている)。この奇妙な地名は“お仙”という娘の悲劇にまつわるものであり、国道にあるおせんころがしトンネルそばから伸びる旧道を海岸に向かって進むと、その供養碑がある。ただこの“お仙”にまつわる伝説はいくつかのパターンがある。最も有名な伝承では、お仙は、この地域を治めていた古仙家の一人娘であるとされている。領主の娘として何不自由なく育てられていたお仙であったが、その聡明さゆえに、領民の窮状を知るところとなった。古仙家は重い年貢を領民に課して厳しく取り立てていたのである。心を痛めたお仙は、数え13歳の時に意を決して、父親に華美な生活を慎みたいと願い出た。その健気な態度は領民の怨嗟を鎮めた。そしてお仙18歳の秋は久しぶりの豊作であった。ところが欲深い古仙家はこの時ばかりと年貢の率をつり上げた。領民は名主を立てて交渉するが、けんもほろろであった。さらにそれを聞いたお仙も懇願するが、それすらも拒否してしまった。ここに来て領民は怒りを爆発させた。秋祭りの夜、酒に酔った若い者を中心に領主の家を襲い、酔いつぶれて寝ている領主を有無も言わさず簀巻きにすると、断崖から投げ落としたのである。翌朝、領主の死を確かめに浜まで降りた領民は、そこで変わり果てた姿のお仙を見つける。父親の着物を身につけたお仙の亡骸を見た領民は、自分たちの暴挙を悔い泣き叫び続けた。それは命を救われた領主も同じであった。やがてお仙が亡くなった断崖は“おせんころがし”と呼ばれるようになり、その霊を慰めるために「孝女お仙供養塔」が領民の手によって建てられたという。その他にも、病弱の父を看病しながら働くお仙の美貌に目を付けた代官が、金で父親を口説こうとしたが拒絶されたため、父親を簀巻きにして断崖の上に放置。それを知ったお仙が父親の身代わりにすり替わり、やがて戻って来た役人によって断崖から投げ落とされたという伝承。あるいは、父親が後妻をもらうが、後妻は継子のお仙を苛め、自分の子ができたために殺してしまおうと決意。断崖の上にある萱を刈るように命じて、そこで不意を突いて突き落とした。さらにかろうじて宙づりになっていたお仙を蹴り続けて、ついに断崖の下へ転がり落として殺したという伝承もある。いずれにせよ父親との絡みによって命を落とすことになる結末となっている。
夜泣き石(国府台)
永禄7年(1564年)に起こった第二次国府台合戦は、北条氏と里見氏が激突し、多数の犠牲を出したとされる戦いである。前日に北条の先鋒を撃破した里見軍は、その夜は酒をふるまい軍装を解いていた。そこへ夜襲を仕掛けた北条主力によって里見軍は総崩れとなり、当主の里見義弘の馬が矢傷を受けて辛うじて逃げおおせたほどであり、親族・重臣を含む5000ものの戦死者が出たとされる。対して北条側も前日からの戦いで3000近い兵を失っており、戦国時代でも有数の激戦であった。この戦いで討死した将の一人、里見広次(当主義弘の弟・忠弘の子)には一人娘があった。その時まだ12歳ほどの娘であった。父の戦死を聞いて駆けつけたところ、戦場はまさに死屍累々の状況。幼い姫にはあまりにも惨い光景であった。その無残な様子を見た姫は、大きな石にもたれかかり泣き続け、そして亡くなってしまったのである。それ以降、夜になるとこの石から少女のむせび泣く声が聞こえるようになった。さらに年月が過ぎて、ある侍がこの話を聞いて供養をおこなったところ、それからは泣き声を出さなくなったと言われている。現在、この夜泣き石は里見公園内にあるが、この公園はかつての国府台城跡である。この城は前方後円墳を土台にして築かれており、現在でも公園の最も高い高台部分には“明戸古墳”と呼ばれる古墳から出土した石棺が置かれている。かつてこの石棺こそが里見広次の葬った跡であるとされ、夜泣き石もこの石棺のそばにあったとされる(今の夜泣き石の台座となっている平石は、実はこの石棺の蓋石である)。現在は夜泣き石はそこから移動し、文政12年(1829年)に建立された“里見軍将士亡霊の碑”に隣接するように置かれている。ちなみに三基並ぶ碑であるが、左から“里見諸士群亡塚”、“里見諸将霊墓”、“里見広次公廟”となっている。
吾妻神社
祭神は弟橘姫命。地元では「吾妻様」の名前で通るという。日本武尊の東征軍が相模から房総半島へ船で渡ろうとした際、途中で暴風雨に巻き込まれた。このままでは船が難破して、一行が海に沈んでしまう。その時に嵐を鎮めるために身を捧げたのが日本武尊の寵姫であった弟橘姫である。姫は別れを告げると、海に身を躍らせた。すると間もなく嵐は収まり、日本武尊一行は何とか対岸の上総の地にたどり着いたのである。漂着して数日後、浜辺に打ち上げられたのは一枚の布。それは弟橘姫の着物の袖であった。日本武尊はそれを大切に納めて祠を建てた。それがこの神社の創建とされる。(『古事記』では、浜辺に打ち上げられたのは姫の櫛であったとされるため、一部では「櫛が納められた」とされている。神社の公式の由来では、袖となっている)境内には、池を模したちょっとした公園のような場所がある。かつてこのあたりは“吾妻の森”と呼ばれ、そこに“鏡ヶ池”という池があった。その名の由来は、漂着した日本武尊一行がこの池に姿を映して身支度をしたためとも、弟橘姫が愛用していた鏡を底に沈めたためとも伝えられている。現在の池は、それを復元したものであるという。この木更津の地は、日本武尊が詠じたとされる「君去らず 袖しが浦に立つ波の その面影を 見るぞ悲しき」の“君去らず”の部分からその名が採られたとされる。また隣にある袖ケ浦や君津の地名もこの歌を由来としていると言われる。その意味でも、この神社(“吾妻”という社名も、日本武尊にとっての妻である弟橘姫を指している)は、この地域にとって由緒ある場所なのである。
伏姫籠穴 (ふせひめろうけつ)
曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』は全くの創作であるが、実在する土地の名や人物を話の中で用いているために、あたかも史実に基づいた伝承のような印象を与える。この富山(とみさん)も、フィクションから生み出された伝承地である。滝田城主・里見義実は、飢饉に乗じて攻めてきた安西氏の前に落城寸前まで追い詰められた。義実はふと飼い犬の八房に「敵大将の首を取ってきたら、娘の伏姫を嫁にやろう」と戯れに告げた。それに応じるように実際に八房が大将首を取ってきてさかんに伏姫に執心し始めると、義実は困り果ててしまう。娘の伏せ姫は君主の言葉を覆すことは叶わないと父を説き伏せ、ついに八房を伴って富山(とやま)へ籠もってしまうのである。富山の洞窟に籠もった伏姫は読経を続け、八房と交わることを拒んだ。そして1年が過ぎ、姫は山中で仙童と出会い、かつて父・義実が滝田城を落とした際に助命から一転斬首した玉梓の怨念が八房に取り憑いたためにこのような事態になったこと、姫の読経の功徳によってその怨念は消えてしまったこと、しかしながら八房の気が既に姫の胎内に宿ってしまったことを聞き及ぶ。ちょうどその時、お忍びで義実が、また八房を退治すべく忠臣・金碗大輔が富山に来ていた。大輔が放った鉄砲で八房は死んだが、同時に伏姫も傷つき、二人の目の前で懐妊していない証を立てるために腹を切ったのである。すると腹から発した光と共に、首に掛けていた数珠にあった8つの大玉が飛び散っていったのである。現在、富山には“伏姫籠穴”という場所がある。たまたまそれらしき洞穴があったために、誰言うことなく「伏姫が籠もっていた場所」とされたのであろう。
八房出生地
曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』は伝奇小説の傑作であり、巧みに歴史上の人物や土地を取り入れてあたかも史実に即した物語となっているため、モデルとなった房総地方には『八犬伝』ゆかりの地と称する場所がいくつかある。南房総市犬掛は史実でも里見氏ゆかりの地である。ここは古戦場であり、里見氏一族内での争いの末に討死した、嫡流の里見義豊らの墓がある(この戦いで実権を握った傍流の里見義尭は後に里見氏中興の祖として名を馳せる)。そこから南に500mほど行ったところに鎮守の春日神社があり、その入口付近にあるのが八房公園と名付けられたスペースであり、ここが『八犬伝』の因縁の端緒となる犬の「八房」誕生の地とされている。里見氏初代・義実が安房の地を治めていた頃、この地に住む百姓の枝平の家に子犬が生まれた。間もなく母犬が狼に殺されたため、子犬もじき弱って死ぬだろうと思っていたが、逆にすくすくと大きくなっていった。不思議に思った枝平が子犬の様子を探ると、夜更けに一匹の雌狸が現れて乳を与えていたのであった。この“狸に育てられた犬”の噂は広まり、ついには義実の耳にまで届き、珍しい犬として召し出されたのであった。そして八房と名付けられた子犬は、娘の伏姫の愛犬となるのであった。現在、この公園の一角には“八房と狸の像”が置かれている。おそらく“犬掛”という地名から馬琴が思い付いた設定であろうことは想像に難くないが、この像はあたかもこの地で本当に八房が誕生したかのような印象を残している。
阿久留王の墓
日本武尊の東征はその出立から相模国までの記述は詳しいが、走水海(浦賀水道)で愛妃の弟橘媛が自らを犠牲にして一行を上総国へ到着させてからは、突然のように大雑把な記述となっている。だが海路から上陸を果たした上総国には、記紀には書かれていない日本武尊の征討にまつわる伝承が残っている。現在の木更津周辺に上陸した日本武尊の一行は、そこから南に進路を取って内陸部へ入り、鹿野山周辺を支配していた“鬼”を退治したとされる。この討伐された敵が“阿久留王”である。阿久留王は、その出身地から“六手王”とも呼ばれ、鹿野山を根城に悪の限りを尽くしていたために、日本武尊の軍勢によって滅ぼされたという(しかしながら地元では、善政を敷いていたが、大和朝廷に目を付けられて逆賊として討ち取られたということになっている。このあたりの経緯は東北で猛威を振るった“悪路王”と非常によく似ている)。日本武尊に打ち負かされた阿久留王は鹿野山の西にある山に逃げ込んで、涙を流して命乞いをしたが許されることがなかったとされ、そのためにその山の名は“鬼泪(きなだ)山”と呼ばれている。そして二度と甦ることのないように八つ裂きにされた阿久留王の血は3日3晩流れ続け、その血が流れた川は“血染川”と呼ばれた(現在は“染川”と呼ばれる)。鹿野山の名刹・神野寺の裏手にあたる雑木林の一角に、阿久留王の墓と言われる塚がある。この塚は八つ裂きにされた阿久留王の胴体を埋葬した場所とされており、現在では神野寺が管理して、月に1回法要がおこなわれているという。
神野寺 / 推古天皇6年(598年)に聖徳太子によって開山とされ、関東最古の寺院とされる。本尊は薬師如来と軍茶利明王とされるが、阿久留王は軍茶利明王が化身したとされている。
もう1つの鬼泪山の伝説 / 日本武尊が鬼泪山で戦った相手は鬼ではなく、九頭龍という怪物であったという伝説も残されている。付近で暴れる九頭龍を退治しようと探索していた日本武尊は、逆に九頭龍に呑み込まれるが、その腹を割いて退治したという。神野寺の境内にある“九頭龍権現”が、それを供養して建立されたとも言われる。
金谷神社 大鏡鉄
国道127号線から鋸山ロープウエー乗り場に入るところにある、小さな神社が金谷神社である。祭神は、豊受姫神、金山彦神、日本武尊。ある意味どこにでもある普通の神社であるが、ここに納められている「大鏡鉄」は一見の価値がある。大鏡鉄は、直径が1.6m、厚さ11p、重さ約1.5tもある巨大な円盤形の金属器である。この金属器は、文明元年(1469年)に、この神社の沖合から引き揚げられたものであると伝えられる。しかも沖の海中で光るものを発見し、確かめたところがこの大鏡鉄であったと言われ、引き揚げようとしたが重くて運べず、金属を司る神である金山彦神を祀る金谷神社に祈願したところ、7日間海が荒れてその後2つに割れた状態となったので陸に揚げることが出来たという。この巨大な円盤状の金属器という珍しさもあるが、長らく海中に没していたにも拘わらず腐食していないことが奇異とされ、“鉄尊さま”と呼ばれ、不老長寿の効験があると近隣の信仰も篤い。この大鏡鉄の正体を探る研究は古くからなされ、伝説としては“海龍王の釜の蓋”であるとされてきた。江戸時代後期になると、平田篤胤は『玉襷』の中で“日本武尊が東国征討で浦賀沖から房総半島へ船で渡った際に、船首につけていた大きな鏡”であると推論した(これが“大鏡鉄”の名の由来となっている)。さらに昭和42年(1967年)に文化財指定を受ける時と前後して科学的調査がおこなわれ、三浦半島において造られた鋳鉄であり、類似の遺物から製塩用の平釜であると考えると結論づけられた。ただし、100年単位の長期にわたって海中に沈んでいたという仮設は、その錆び具合から謎とされ続けている。
宗吾霊堂
正式名称は鳴鐘山東勝寺。桓武天皇の命を受けて坂上田村麻呂が開基したという伝承が残る古刹である。しかし今では義民・佐倉惣五郎の祀る場所として知られている。佐倉惣五郎は、嘉永4年(1851年)に上演された歌舞伎『東山桜荘子』によって全国的な知名度を持つに至り、明治なると『佐倉義民伝』と銘打って役名を実名で上演。福沢諭吉などの賞賛を受け、自由民権運動の高まりにも影響があったともされる。江戸時代に起こった数々の農民蜂起によって誕生した“義民”の中の代表格と言っても過言ではない。佐倉惣五郎は、本名を木内惣五郎。印旛郡公津村の名主であった。当時の公津村は佐倉藩に属していたが、度重なる凶作のために周辺の村は衰退、多くの村人は年貢が払えず逃散する者、果ては餓死する者すらあった。しかし藩は追い打ちを掛けるように様々な税を課して生活を圧迫する。そこで惣五郎らの名主は藩に訴え出るが、にべもなく却下。そこで江戸に上って、老中・久世大和守に訴状を出す。一旦は受理されたものの、他藩への干渉を理由に訴えは退けられた。かくなる上は将軍への直訴しかないと考えた惣五郎は単身、寛永寺に赴く将軍・徳川家綱に籠訴し、無事に受理される。承応元年(1652年)のことである。窮状を慮った家綱は、佐倉藩藩主である堀田正信に命じて税の免除をおこなわせたのであった。将軍から失政を咎められたに等しい正信は、翌年、年貢の免除を命ずると共に、惣五郎への処分もおこなった。妻は惣五郎と共に磔、女児を含む4人の子供は全員打ち首というものであった。しかも惣五郎と妻は、目の前で4人の子供が斬首されるのを見届けさせてから磔されたのである。直訴に及ぶ直前に妻を離縁し、子を勘当した惣五郎にとっては無念としか言いようのない処罰であった。それから間もなくの万治3年(1660年)、堀田正信は突如、幕政批判の書をしたため、江戸から無断で佐倉へ帰るという前代未聞の不祥事を起こしてしまう。その真意は今なお不明であるが、協議の結果、正信は“狂気の作法”として所領没収の上に、実弟に預けられる。そして無断で配所を抜け出して京都へ赴くなどの奇行をおこなった後、延宝8年(1680年)に将軍・家綱死去の報に接し、鋏で喉を突いて自害してしまう。この一連の騒動を人々は「惣五郎の祟り」であると噂したのである。(芝居では、夜な夜な正信の寝所に、磔されたままの姿の惣五郎の怨霊が現れるという場面が設定されている)堀田家が去って後の佐倉藩は、頻繁に領地替えがおこなわれた。そして延享3年(1746年)、佐倉藩に入封してきたのが堀田正亮であった。正信の実弟の家系ではあるが、堀田家が再び佐倉藩を所領としたのである。正亮は、惣五郎の百回忌にあたる宝暦2年(1752年)に「宗吾道閑居士」の法号を贈ることで、祖先の非を認め、その遺徳を公にしたのである。その後も、各時代の藩主が石塔を寄進したり、惣五郎の子孫とされる家に供養田を与えるなどの措置をおこなっている。そのためなのか、それまで頻繁に領主の代わった佐倉藩であったが、幕末まで堀田家が代々藩主を勤め上げることとなったのである。惣五郎については、一揆を蜂起したり、将軍へ訴状を提出したりという行為に関する史料が全く残されておらず、その存在自体が創作ではないかの疑いを持たれた時期があった、しかし戦後になって、児玉幸多による研究で実在がようやく確認されている。現在霊堂のある境内には、惣五郎の御廟がある。この墓のある場所で処刑がおこなわれたとされ、多くの者が参詣に訪れている。佐倉惣五郎とは、公津村の名主・木内惣五郎の事績に重ね合わせて生み出された、時代の英雄と言うべきなのかもしれない。
真間の継橋
真間地区はかつて入り江となっており、弥生時代には既に集落があったとみなされている。またすぐそばには下総国の国府があり、古来より行き交う船の停泊地として栄えた。この土地は入り江と共に砂州が広がっていた。そこを往来するには橋が必要となるので、掛けられたのが真間の継橋である。“継橋”という名は、砂州と砂州を繋ぐようにいくつもの橋が渡され、それを1つの橋と見たことから付けられたという。この橋は真間の象徴として『万葉集』にも詠まれており、歌枕として知られた存在であった。現在、継橋は弘法寺の参道の途中にわずか数メートルの長さだけ架けられている。しかも橋の下には川は流れておらず、かつて存在した橋の痕跡だけを記憶させるモニュメントとなっている。橋のそばには万葉集の歌碑があり、歌枕ゆかりの場所として保存されている。
真間 / “崖”や“傾斜地”を意味する言葉が真間であり、下総国の国府のあった国府台から見ると、真間地区はかなりの低地にあたる。真間には継橋以外にも、弘法寺の紅葉や“真間の手児奈”の伝説など、有名なものが存在する。また、上田秋成の『雨月物語』の中にある“浅茅が宿”の舞台ともなっている。
八幡の藪知らず
“迷宮”の代名詞として使われる八幡の藪知らず(不知八幡森)であるが、国道14号線に面し、市川市役所の斜め向かいにある。まさに都会のど真ん中にあるが、ここだけは全く手つかずの状態で柵に囲われている。ただし大きさは18m四方で、おおよそ100坪ほどの広さしかない。これは近代化に伴って土地開発がおこなわれたためではなく、江戸時代中期には既にこの程度の大きさしかなかったようである。江戸時代後期には『江戸名所図会』をはじめとした旅行記や名所案内本の中で有名な「禁足地」として取り上げられ、一度入ると出られなくなる、入ると祟りがあるとされている。そしてこの土地が禁足地となったかの理由についても、諸説書かれている。最も有名な逸話は、徳川光圀が単身この藪へ入り、やっとの思いで帰還したという話。光圀はこの藪の中で数多くの妖怪変化と遭遇し、最後に若い女性(または白髪の老翁とも)が現れて「今回だけは見逃してやろう」と言われて脱出することが出来たという。あるいはからがら出てきた光圀は、土地の者を集めて禁足地にするよう申しつけただけで、中の詳細については全く語らなかったともいう。これと並んでさかんに登場するのは、平将門にまつわる話。この藪は、将門を討った平貞盛が将門の死門(八門遁甲で言うところの凶相)の地として陣を張っていた場所とも、あるいは将門の首を守った近臣6名が時を経て土人形として朽ち果てた場所であるとも言われる。さらには、東国へ赴いた日本武尊の陣所であった、馬に乗った里見安房守の亡霊が現れる場所であるとの奇怪な話もある。そして藪の中から機織りの音がしたり、若い女が夜な夜な近所に機織り道具を借りに来るが、翌日返された物には血が付いているという、かなり恐ろしい噂もある。逆に非常に合理的で現実的な禁足地の理由付けもある。近くにある葛飾八幡宮の旧宮跡である(実際、この藪は現在葛飾八幡宮の土地となっている)。貴人の古墳である。八幡の隣町にあたる行徳の飛び地である(行徳の土地だから、八幡の地区の者は与り知らぬ場所となる)などが、昔から語り継がれている。また近年では、藪の中央が凹んでおり、元々八幡宮の放生池であったために禁足地となったのではないかという説も出ている。
雄蛇ヶ池
雄蛇ヶ池は慶長19年(1614年)に完成した灌漑用貯水池である。10年の歳月を掛けて造られ、周囲は約4.5kmとかなり大きい溜め池である。現在では灌漑用水に利用されるだけでなく、釣りや池周辺の散策などのレジャースポットにもなっている。歴史の長い池である故に、不思議な伝説も多い。特にその名が示す通り、大蛇にまつわる内容が多い。池が出来る前よりこの辺りには水源となる沼があり、ここに蛇神が住んでいたとも言われる。雄蛇ヶ池の造営にあたることとなる島田重次の枕元にその蛇神が現れて、造営を促したという。あるいは、蛇神は白い蛇であり、身分違い故に一緒になることが出来ないことを悲観した娘が池に入水して変化したものであるという言い伝えも残されている。さらには、池の近くに住む娘が、意識のないまま夜な夜な家を抜け出して池のふちまでやって来ることを繰り返す。そのたびに年老いた両親が連れ戻していたが、ある時、草履を残したまま姿を消してしまった。慌てた両親が池の周りを探して7廻りしたところ、突然池の中から大蛇が姿を現し、それきり娘は帰ってこなかったという伝説もある。(雄蛇ヶ池には「池の周りを7周半すると、大蛇が水面に現れる」という言い伝えが残されている)そして蛇の登場しない伝承もある。若夫婦の嫁が姑に苛められ、ついには自慢の機織りを貶され、雨乞いのために奉納する布をずたずたに切り裂かれた。今まで我慢してきた嫁であったが、この出来事に耐えきれず、池に身投げをしてしまった。それ以降、しとしとと雨の降る夜には池の底から布を織る音が聞こえるという。
七天王塚
千葉大学医学部のキャンパス内外にある7つの塚。これが七天王塚である。キャンパス内に5つ、残り2つは敷地に面した道路沿いにある。いずれの塚も牛頭天王を祀っており、しかもかなり大きな木が生えている。そしてこの7つの塚は、上空から見ると北斗七星の形に配置されているとされている。亥鼻地区は、かつて下総・上総を領有していた千葉氏の本拠地である。千葉氏は平常兼を祖とする房総平氏の一族であり、さらにそれを遡れば平忠常、そしてその母方の祖父として平将門に繋がる。七天王塚の伝承は、平将門を抜きにしては語れない。七天王塚は北斗七星をかたどっているが、これは将門が信仰していた妙見信仰の象徴である。また祀られている牛頭天王も、妙見信仰に関わる神である。さらにこの塚についても、将門の7人の影武者の墳墓であるという説もある。このほかにも、七天王塚に葬られているのは千葉氏の7人の兄弟であるとか、千葉氏の居館の鬼門に置かれたものであるとか、墳墓や祭祀的なものであるという説がもっぱらであるが、中には千葉氏居館の土塀の名残であるという説もある。また最新の調査では古墳時代の古墳群の可能性もあると言われる。平将門に絡むためなのか、この七天王塚にはまことしやかに祟りの噂がある。特に有名なものは「塚の生えている樹木の枝を切り払うと祟る」というもの。さらにこの噂のバリエーションとして、伐採を主張した大学関係者に不幸があったという話まである。祟り系の噂としてはさほどのものではないが、大学医学部の敷地内にいまだに保存されているという事実が、妙な信憑性を生み出している側面があると思われる。
千葉氏 / 房総平氏の一族。平常兼(1045-1126)を祖とする。亥鼻に居館を構え、千葉姓を名乗るようになったのは、その子の常重の頃とされる。常重の子の常胤の時に、源頼朝に味方して、下総から上総一帯を領する有力御家人となる。その後は一族内の内紛などで徐々に衰退。戦国時代には小田原の北条氏と結んで命脈を保つが、豊臣秀吉の小田原攻めによって滅亡。
妙見信仰 / 仏教としては妙見菩薩を信仰する形を取るが、実際には北極星(北辰)を天にある不動の存在(天帝)として崇める道教思想から生まれた。また天帝の乗り物として北斗七星も信仰の対象となった。これらが神格化したものが“鎮宅霊符神”であり、また陰陽道では“牛頭天王”も同一神とされ、さらに神仏習合では牛頭天王の本地は“素戔嗚尊”、垂迹は“薬師如来”とされる。平将門は妙見菩薩を守護神として信仰しており、また千葉氏の家紋である月星紋は妙見信仰の象徴であるとされる。
神余の弘法井戸 (かなまりのこうぼういど)
その名の通り、弘法大師伝説をもつ井戸である。昔、弘法大師がこの地を行脚していた時、土地の女が小豆粥でもてなした。大師が食べてみると、全く塩気というものがない。訳を尋ねると、貧しくて塩が手に入らないという。ならばと大師は、近くの川岸に下りて、祈祷しながら錫杖で地面を突き刺して引き抜くと、塩辛い水が吹き上がってきたという。土地の者は後に、この僧が弘法大師であることに気付き、この塩水を出す井戸を弘法井戸と呼んだという。現在、この井戸は巴川の川中にある。やや黄色がかった水であり、水の湧き出るところからは少しだけ泡が出ているのが分かる。川底から天然ガスが出ており、この効果で塩辛い水となっているとのこと。ただし現在は飲用不可である。
證誠寺 (しょうじょうじ)
「日本三大狸伝説」と言えば、上州館林の“分福茶釜”と伊予松山の“八百八狸物語”、そして木更津の“證誠寺の狸囃子”となる。證誠寺は江戸時代初め頃の創建、木更津では今なお唯一の浄土真宗の寺院である。狸囃子の伝説も比較的新しく紹介されたもので、明治38年(1905年)に松本斗吟という人物が地元文芸誌で紹介したのが最初という。しかしその名を一躍有名にしたのは、当地を訪れた野口雨情が大正14年(1924年)に『証城寺の狸ばやし』という名の童謡として発表したことによる。ある秋の夜のこと。住職は外の騒々しい音に目を覚ます。庭を見ると、大勢の狸がお囃子をしながら踊っているではないか。驚いた住職だが、そのうちそのお囃子の調子に合わせて踊り出す。すると狸も負けじとお囃子や踊りをして、とうとう夜が明けるまで競争になってしまった。翌日も、その翌日も月夜の晩に住職と狸は歌や踊りに興じた。しかし4日目の夜、狸達ははとうとう夜明けまで現れなかった。住職は不審に思って辺りを調べてみると、いつも腹鼓を叩いていた一匹の大狸が腹の皮が裂けて死んでいた。そこでその哀れな狸のために塚を築いたという。それが今に残る狸塚である。
芋井戸
房総半島の南端にある土地でも、弘法大師の伝説は残されている。全国を行脚する大師が土地の者に施しを願い、それに対して親切にした者には幸いをもたらし、邪険に扱った者にはそれ相応の報いを与えるという伝説である。ある老婆が芋を洗っていると、旅の僧が「芋を分けてもらえないか」と尋ねた。老婆は芋を与えるのを惜しんで「この芋は石のように堅くて食べられない」と答えた。そして家に帰って芋を煮て食べようとすると、本当に石のように堅くなってしまっていた。怒った老婆はその芋を道端に捨ててしまうが、そこから水が湧き出て、芋は芽を吹き出したのである。驚いた老婆は改心し、この旅の僧が弘法大師であると知ったのである。いわゆる“石芋(食わず芋)”伝説と呼ばれるパターンなのであるが、芋を捨てたところから水が湧き出るという展開は他にまず例がなく、非常に珍しい話であると言える。現在でもこの霊泉は滾々と水を湧きだしており、今でも伝承通り、芋の葉を繁らせている。
石芋伝説 / 堅くて食べられない芋が育ってしまう地域に残される伝承。パターンとしては、旅の僧への施しを嫌がったために芋が食べられないものに成り果ててしまったという内容であり、旅の僧の正体はたいていは弘法大師となっている(日蓮である場合もある)。その他、実を付けない作物の話や、湧き水が絶えてしまった話などの変形もある。いずれもその土地特有の悪条件の由来を示した内容である。
弘法寺 涙石
市川市真間に弘法寺という日蓮宗の古刹がある。高台の上に建立された本堂へ向かう長い石段があるが、その下から数えて27段目の左側にある石だけが、なぜか年中濡れた状態にあるという。この不思議な現象には次のような伝承が残されている。江戸時代のはじめ、日光東照宮造営のため、作事方御大工頭であった鈴木修理長頼が伊豆より石材を市川に船で運び入れた際に、突然石が動かなくなってしまった。やむなく長頼はこの石材を弘法寺の石段に使ってしまった。ところがその不正が幕府の知るところとなり、長頼はこの弘法寺の石段の上で切腹して果てたという。その時の恨み辛みによってこの石は四六時中濡れたままであり、それ故に“涙石”と呼ばれるようになったという。ただこの話は史実としては誤りである。作事方として東照宮造営時に当主であったのは長頼の祖父である長次であり、弘法寺の大檀家として石段を寄進したのも長次である。しかしながら、長次が“東照宮造営の残石”を寄進した記録があり、さらに長頼以降の鈴木家が急速に没落している事実がある。おそらくこの伝承は、真間ゆかりの鈴木家の栄華と没落を示すべく作られたと言えるかもしれない。 
 
 埼玉県

 

●丸山沼の大蛇 北足立郡伊奈町
小室村の、あるおじさんは、魚とりが大好きでした。
あるとき、おじさんは、いつものように、網と銛を持って丸山沼に舟を浮かべ、魚をとっていました。
しかし、その日はどうしたことか、魚はサッパリとれません。あきらめてたばこを一服していると、向こうのまこもの茂みの中から、水を切って大蛇が泳いで来るではありませんか。
よせばよいのに、おじさんは、通り過ぎようとした大蛇の背中を、骨も砕けよとばかりに、舟竿で殴ったのです。
ところが、大蛇は死ぬどころか、その竿にぐるぐる巻き付いて、手元に向かって来るではありませんか。
さすがのおじさんもびっくりしましたが、とっさに舟の中にあった草刈り鎌を取って、舟の中に半ば入りかけた大蛇の胴体を断ち切ろうとしました。
しかし、一度ではたたき切れず、大蛇は苦しみながらも舟の中に転がり込んでしまったのです。
二度目の鎌でやっと蛇の体は切れたのですが、大蛇は二つに切られてもまだ動いています。しかも、鎌は、力を入れすぎたあまり、先が舟底に突き刺さってしまい、すぐには抜けません。おまけに無理に抜こうとしたため、鎌の首が折れてしまったのです。
そこで、仕方なく舟の水かき道具で力まかせにたたきのめし、やっとグッタリした大蛇を沼に投げ込むことができたそうです。
このおじさんは、体も大きいし力持ちということで小室村でも有名な人でしたが、この時ばかりはよほどてこずったらしく、「丸山沼には大きな蛇がいた」と、ギョロギョロした目で繰り返し繰り返し話をしたといいます。

●みがわりのナス 
昔、武蔵の国の諏訪に、底なし沼に囲まれた静かな里があった。この沼の反対側にある荒れた畑では、おさよという若い娘が茄子を育てていた。
ある夜、突然恐ろしい地鳴りとともに大雨が降ってきた。この豪雨で村人たちの畑は荒らされ、沼の魚も死んでしまった。それからも、地鳴りと大雨はたびたび村を襲うようになり、すっかり村人たちはおびえて暮らしていた。
ある日、旅の行者(旅の僧)が現れた。行者は、「これは水のたたり。若い娘を底なし沼に沈めるしかない」と告げた。他に打つ手がない村人たちは、身寄りのないおさよに生贄になるようお願いするためおさよのナス畑に向かった。すると突然、また激しい地鳴りと大雨がおこり、沼の水が怒り狂ったようにおさよと村人たちに襲いかかってきた。
沼はおさよを飲み込んだ後、たちまち静かになった。村人たちは身代わりになってくれたおさよのおかげと思ったが、てっきり死んだと思ったおさよが、流木のうえに乗って浮かんできた。驚いた村人たちの目の前に、沼の主である竜神が現れた。「病気で苦しんでいたが、その娘のナスを口にするとたちまち苦しみが消えた。これからは村のためにつくすから許してくれ」
再びしずかな里にもどり、喜んだ村人たちは沼のほとりに竜神をまつる「諏訪神社」を建てた。そして、年に一度のおまつりの時に、必ず茄子を供えるようにした。

●お諏訪さまのなすとっかえ 狭山市入間川
入間川4丁目にある諏訪神社は長野県に鎮座する諏訪大社を分祀ぶんししたもので、祭神は武御名方命たけみなかたのみことです。勧請かんじょうの年代は不明ですが、戦国時代に甲斐かい国(山梨県)から信濃しなの国(長野県)を支配した武田氏が滅んだあと、多くの家臣が入間川流域に移り住んだというので、この人たちによって創建されたとも考えられています。
「お諏訪さまのなすとっかえ」は、同社で毎年8月26日前後の土曜・日曜日に行われる神事です。これは、自分の畑で採れたナスを神社に納める代わりに、神前に供えてある別のナスを戴いて帰るというもので、ナスは夏の毒消しといわれたところからはじまった行事といわれています。
この神事の起源は不詳ですが、次のような伝説が残っています。

諏訪神社の裏に底なし沼があったころ、村人がそこを通りかかると急に水しぶきが立ち、大蛇が現れ暴れはじめました。おどろいた村人は手に持っていた鎌と一緒に、採ったばかりのナスの入った籠かごを投げ出して家へ帰りました。これを聞いた村の若者は、大蛇を退治しようと沼へ駆けつけましたが、空になった籠が水に浮かぶだけでその姿は見えませんでした。その後しばらくすると村人の夢枕に龍神りゅうじんが現れ、「私は沼に住む龍神だが、村人が投げ込んだナスを食べたところ夏病がすっかり治った。これからは諏訪の大神に仕えるつもりである」といいました。
それ以来、村人は夏病退散のため、神社にナスを供えるようになったというものです。今はその沼も小さくなってしまいましたが、神社の右脇の細い道をしばらく行くと湧き水の流れ出ている場所があり、そこには「水祖神すいそじん」と刻まれた石祠せきしが湧き水を見守るように建っています。

●龍ヶ谷の龍神 入間郡越生町
その昔、龍穏寺のあたりは大きな沼でした。秩父に向かう旅人は、どうしてもこの深い沼の側を通っていかなければならなかったのですが、そこには悪龍が住んでいました。
村人達はこの沼に住む悪龍の機嫌を損ねないようにお供えをして、あちこちに龍神を祭り、荒々しい心を鎮めるように祈りました。その恐れおののく声は太田道灌さんまで伝わり、村人の切実な願いを聞いた道灌さんは、この悪龍を鎮めるために、日頃より師として尊敬している高僧の雲崗俊徳和尚(龍穏寺第五世住職)を遣わしました。
雲崗俊徳和尚は、沼を目前とする愛宕山に登って教典を読み上げ、幾日もの間、悪龍を押さえ込む闘いが続き、やがて雲崗和尚さんの霊験によって悪龍は過去の悪行を断ち切って、善龍となって奉仕することを誓いました。そして、雲を呼び竜巻にのって天に昇っていってしまったということです。その時、沼は竜巻が起きたため大嵐となり、水があふれ出て沼の底まで見え、数年経って平地となりました。あふれ出た水は現在の越辺川になったといいます。
雲崗和尚さんは、龍の心が静かになり善龍になった事を記念し、道灌さんに援助をお願いして大きなお寺を建てました。そのお寺の名前は、龍の心が穏やかになったという意味から、龍穏寺と名付けられたのです。そして龍が住んでいたということから龍ヶ谷(たつがや)という地名が生まれたということです。   ※この伝説の原型は「長昌山龍穏寺境地因縁記」に記載されています。

じつは龍ヶ谷の龍神伝説はもう一つある。龍ヶ谷の龍は有馬山に住む雌の龍に逢うために、度々、高山不動の上を飛んでいた。ある日、その不浄さに業を煮やしていた不動様は、空を飛ぶ龍に向かって斬りつけた。龍は寸でのところで身をかわしたのだが、尾はスッパリと切り落とされてしまった。そして龍ヶ谷の龍はほうほうの体で有馬山に向かって飛んでいってしまったという。(切られた尾は越生の町の近くの尾崎という所に落ち、今では龍台寺というお寺が建っている。)
高山不動と谷を隔てた山頂には龍にまつわる「子の権現」が鎮座している。土地の人は「不動様の祭りのときに雨が降ると子の権現では晴れで、その逆もあり、一緒に晴れた年はない。実は仲が悪いのかも知れない。」という。都会の人はこんな話すると非現実な事と思うかも知れないが、自然との暮らしの中ではこういう話は素直に受けとめられる。現代人は教育を受る事と引換えに、人々がかつて培ってきた信仰心や伝統を軽んじる傾向にあると思う。
しかし都会の喧騒の中に埋没していてはそれも無理からぬ事かも知れない。都会を離れ鳥の声や川のせせらぎに耳を傾けるだけでも、現実と非現実な世界は紙一重のところにあるということが少なからず感じられると思う。だがそれはけして人から聞くものでなければ教わるものでもない。伝説をつくり話と笑うのはたやすいことだが、もう一度 自らの感性に問いかけてみたい。
龍穏寺はもともと裏側の戸神(とかみ・神への入口という意味らしい)の坊地という場所で栄え、草創期の寺院跡があった。また江戸時代には寺代官が置かれたが、現在でもその家は残されている。そしてすぐそばを通っている秩父へと向かう古道「秩父往還」の路傍には、多くの旅人達の喉を潤した「篠葉の池」という湧き水が、今も昔と変わらずこんこんと湧きでているのだ。
一昔前まで修行僧の心胆を寒からしめた「天下の鬼道場」も、今はじつに穏やかだ。静寂の中、訪れる人にいつもと違う何かを感じさせてくれるという事は確かだと思う。
龍穏寺
長昌山龍穏寺は奈良平安時代に役の行者らによって創始され、応永3年(1398)に足利義教の招請によって、無極禅師が開山しました。のち第3世泰叟禅師に至り、太田道真・道灌父子が再建したといわれ、境内には道真・道灌公が眠ります。その後、豊臣秀吉公から百石の御朱印を受け、さらに徳川家康公からは曹洞宗関東三大寺の筆頭として10万石の寺社奉行に任じられました。本堂は大正2年(1913)に焼失しましたが、経堂や銅鐘など多くの文化財を有しています。

●四本竹の龍神 さいたま市
この前方に『四本竹』というところがあります。その地名はむかし四本の竹を四方に立ててしめ縄を張り、そこを祭祀の場としてお祭りを行っていたことからその名がつきました。その辺り一帯は見沼という大きな沼で、沼の主の竜神が棲んでいたといいます。

むかしむかし、宮本の氷川女軆神社は、2年に一度、見沼の一番深いところに神輿を舟に乗せていき、沼の主の竜神を祀る『御船祭』というお祭りをおこなっていました。神主が、舟から四本の竹をしめ縄で囲ったところに向かってお祓いを済ませたあとで、お神酒や供物を沼にささげます。すると、そこにはまたたく間に渦を巻き、ささげた供物などを沼の奥底にあっという間に吸い込んでしまったというのです。見沼の竜神は人々に沼の恵みや、田畑を耕す水を与えて人々を見守ってくれているので、竜神を大切にするお祭りが昔からつづいているのです。

●埼玉一ノ宮は3つある!龍神が結ぶ氷川神社「ご来光の道」
埼玉県の一ノ宮は、さいたま市大宮区にある「大宮氷川神社」ですが、古来より一ノ宮氷川神社は三社あったといわれ、「中川の中氷川神社(現・中山神社)」と「三室の氷川女体神社」を加えた三社が一ノ宮氷川神社と伝えられています。更に驚くべきことに、この三社は、龍神伝説で結ばれ、奇跡的に一直線に並んでいる「光の道」と考えられているのです。この氷川三社の奇妙な結び付きをご紹介いたします。
「光の道」って何!?
はじめに「光の道」についてご説明しておきましょう。最初にこの「光の道」を発見したのは、イギリスのアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスで、一直線上に『レイ』という名の付く地名が多いことから「レイライン」と名付けられました。
この『レイ』とは「光」のことで、このレイラインは光が一直線に進む様に例えられ、“聖地を刺し貫く=パワーゾーン”と解釈されたことから、レイラインを探せとばかりにイギリスで大流行し、後に世界中に広まったのです。
日本でも勿論、いくつものレイラインと思える聖地を結ぶ直線が見つかっています。代表的なものは、千葉県外房の上総一ノ宮にある玉前神社の参道から登った太陽の光が、神奈川県一ノ宮の寒川神社、富士山頂、琵琶湖竹生島の弁財天社、中国地方の名山大山の大神山神社から出雲大社へと一直線に続く、本州を横断する壮大なレイラインです。そして日本でのレイラインは、春分・秋分、夏至・冬至の太陽の光から「ご来光の道」などと呼ばれており、特に霊験あらたかなパワースポットと考えられているのです。
龍神伝説の源「大宮氷川神社」
さいたま市大宮区にある武蔵国(現在は埼玉県)の一ノ宮『大宮氷川神社』は、毎年正月の参拝客が全国10指に入る著名な神社で、創建は二千有余年前という由緒を持ち、武蔵国一ノ宮の名に恥じない大社です。古代この辺りには「御沼」と呼ばれた豊かな恵みを育んでいた神聖な湖沼があり、江戸時代に開発された見沼溜井(溜池)は、こうした伝承から神聖なる龍神が棲むと伝承されました。現在、境内にある神池は、この見沼の名残といわれ、神聖な神池からの湧水は現在も豊富に注がれているのです。
その神池に注ぐ湧水の源流が社殿の西側にあり、これまで禁足地であった「蛇の池」が参拝できるようになり、知らざれるパワースポットとして脚光を浴び始めています。
このように水と密接な関係のある氷川神社は、横浜のシンボルとして山下公園に係留されている日本郵船・氷川丸や、あの戦艦武蔵の祭神として祀られていました。そして埼玉県・東京都の荒川流域(特に旧武蔵国足立郡)に氷川神社が分布するのも、水に深い関係のある一ノ宮総本社ゆえで、その神池は龍神伝説の源とも言えるパワースポットなのです。
龍神伝説の祭祀「氷川女體神社」
さいたま市緑区にあるのが『氷川女體(にょたい)神社』です。社伝では二千年以上前の崇神天皇時代に、出雲神社を勧請して創建されたと伝えられ、主祭神の奇稲田姫命が、大宮氷川神社の主祭神である須佐之男命の妻であることから、大宮氷川神社を「男体社」とし、氷川女體神社を「女体社」としています。
この神社で、古くから最も重要な祭祀が、神輿を乗せた船を沼の最も深い所に繰り出し沼の主である龍神を祭る「御船祭」です。八代将軍吉宗のときに見沼が干拓され“見沼田んぼ”となってからは「磐船祭」と呼ばれ、周囲に池をめぐらせた祭場を設けて龍神が祀られるようになりました。実際に祭祀が行われたのは明治時代初期までの短い期間でしたが、その遺跡が境内に残っており、埼玉県の史跡に指定されています。
このように氷川女體神社もまた、水と深い関係を築いてきた神社で、奇稲田姫命の伝承から「蓮を作ってはいけない」「片目の魚が棲む池」として、龍神伝説が色濃く残るパワースポットです。
龍神伝説の継承「中山神社」
最後は、さいたま市見沼区中川にある『中山神社』です。こちらも創建は紀元前95年と伝えられ、別名「中氷川神社」と呼ばれています。それは氷川神社と氷川女體神社の中間に位置していることと、祭神が大国主こと大己貴命で、大宮氷川神社の祭神である須佐之男命の息子であることから、氷川神社の「男体社」、氷川女體神社の「女体社」に対して「簸王子社」と呼ばれています。
毎年12月8日に行われる「鎮火祭」は有名で、炊き終わった炭火の上を素足で渡り、無病息災及び火難が無い様祈願する神事です。その鎮火祭が行われたのが「御火塚」と刻まれた標中のある一角で、この鎮火祭が変化して現代の火渡り神事となりました。
このようにここ中山神社は、水とは正反対の火と深い関係がある神社です。しかし、かつてこの地は氷に覆われていて、この神事の鎮火祭の火によって「中氷川」の氷が溶け他と云われています。この故事から、この地を“中川”と呼ぶようになったとの伝承があり、やはり龍神伝説を受け継ぐパワースポットなのです。
龍神伝説のご利益「氷川ご来光の道」
これまで見てきたように、祭神の関係と龍神伝説の結びつきにより、氷川三社は三位一体と言われてきました。それは写真のように現在でも氷川女體神社の扁額には「武蔵国一宮」と記載されていることにも表れています。
そして驚愕するのが、この三社の位置で、この三社はほぼ一直線に並んでいるレイラインを構成しているのです。これは、太陽は夏至に西北西の大宮氷川神社に沈み、冬至に東南東の氷川女体神社から昇るという、稲作で重要な暦を把握するための意図的な配置と言われており、「祭神」「龍神伝説」がご来光の道で結ばれた奇跡の三社は、間違いなく強力なパワーを秘めた奇跡のパワーゾーンであると考えられているのです。

●小埼沼 (おさきぬま) 行田市
さきたま古墳群から東へ2.5Km、川里町との境界付近に小埼沼は位置します。小埼沼の北500mには旧忍川が流れ、あたり一面には水田が広がっています。しかし、かつてこの周辺は沼の多い湿地で、旧忍川の対岸には昭和50年代まで、小針沼(別名:埼玉沼)と呼ばれる広大な沼が存在しました。(現在は古代蓮の里)また、川里町にも屈巣沼(現在は鴻巣カントリークラブというゴルフ場)がありました。古墳時代の頃には小埼沼の周辺は、東京湾の入り江だったと云われていますが、今では水も涸れ、沼の面影はまったくありません。古墳時代には旧忍川は存在していませんから、おそらく小針沼はこの付近まで広がっていて、小埼沼は小針沼の一部が涸れあがって残った跡なのでしょう。なお、この付近は風光明媚だったようで、万葉集には小埼沼を詠んだ歌もあります。
一方で小埼沼には、不思議な伝説があります。この付近に住む、おさきという娘が沼で遊んでいた時に、葦が目に刺さり、それが原因で片方の目が見えなくなってしまったそうです。その後、沼には片目のドジョウが棲みつき、水辺には片葉の葦が茂るようになってしまったと言い伝えがあります(武蔵国郡村誌 13巻、p.371)。小埼沼の西側には、片原(地元の人はカタラと呼んでいます)という地名がありますが、それも片目の伝説と関係があるのでしょうか。行田市には似たような伝承が他にもあり、例えば埼玉県伝説集成中には行田市谷郷の春日神社に関して、”春日様は幼少の時、芋の葉で目をつかれ片目を傷つけた。そのため谷郷の人の片目は細い”と記されています。

●鳴かずの池 弁天沼 東松山市
昔、坂上田村麻呂が岩殿山に住む悪竜を退治し、首を埋めたところにこの弁天沼ができたといわれ、カエルが住み着かないところから「鳴かずの池」と呼ばれたとの言い伝えのこと。
 

 

●埼玉の伝承
吉見百穴
大正12年(1923年)に国の史跡に指定された、古墳時代末期の横穴墓群である。“百穴”とされているが、実際は219基の横穴がある(終戦間際に巨大軍需工場が建設されたため、墓群の一部が破壊されている)。これらの墓群が出来上がったのは6〜7世紀頃、古墳としては末期の形態であるとされる。この頃の古墳は、地方を治める首長クラスの巨大な墓ではなく、一定水準以上の階層の者のためにも造られている。吉見百穴はこのような階層の者たち(特にこの一帯は高い技術力を持った渡来人が多数移住している)の遺体を安置する墓として造営されたものと考えられる。またこの横穴式の墓には複数の棺が安置できるスペースがあったり、入口の石蓋をはずせば容易に出入りできることなどから、家族や一族単位で造られている可能性が高いとされる。吉見百穴は、日本考古学史上最も早い時期である明治20年(1887年)に坪井正五郎の手によって調査された。その結果として坪井が提示した内容は以下の通りである。すなわち、これらの横穴式の遺物は住居跡であり、その大きさから考えて、現在の日本人のではなく、日本にかつてあった先住民族であるコロポックルのものである。その先住民がいなくなった後、横穴式の古墳として再利用されたのである。いわゆる【プレ・アイヌ説】と呼ばれる、日本人の先祖に関する人類学的仮説であるが、坪井の死後、この説を採る者がなく自然消滅している。そのためか、吉見百穴の摩訶不思議な見た目に加えて、“妖怪”コロポックルの住処というイメージがいにしえの言い伝えであるかのように何となく定着することで、この遺跡は一層ミステリアスな存在として認知されているのかもしれない。この吉見百穴のそばには、さらに奇妙奇天烈なものが存在している。通称【巌窟ホテル】である。この地に住む農夫の高橋峰吉が独力で明治37年(1904年)から掘り始め、その子の奏治が死去する昭和62年(1987年)に閉鎖されるまで断続的に構築されている。岩を掘り抜いて造られた建築物ではあるが、実際はホテルではなく、峰吉が岩を掘っているのを見た近隣の者が「巌窟掘ってる」と言いあっているうちにそのような名前になったとか。崩落などの危険があるため閉鎖されて久しいが、巌窟ホテルの向かい側にある商店が峰吉の子孫にあたる家であり、さまざまな資料を保管されているそうである。
プレ・アイヌ説 / 大森貝塚を発見したモースが主導した説。縄文時代人をアイヌとする一方、それより前の石器時代に日本列島に先住民が存在していたと考える。この説を引き継いだのが、坪井正五郎の“コロポックル説”である。
コロポックル / アイヌの伝承に登場する小人。姿は現さないが、アイヌと物々交換などの交易をして友好的な関係を築いていたが、ある時その正体を確かめようとしたアイヌの若者が女のコロポックルの腕を掴んでその姿を見てしまったため、怒ったコロポックルはどこかへ去って行ったとされる。なおコロポックルは小人であるとされるが、実際の伝承ではアイヌ民族より少し体格が小さい程度であり、一般的にイメージされているものとは大きさは異なる。
寅子石
高さ4mの板碑であり、それが水田の広がる一画にスクッと立っている。刻まれている内容によると、この板石塔婆は延慶4年(1311年)に、親鸞の高弟であった真仏法師の法要供養のため、唯願という者が銭150貫で建てたものである。しかし、この碑は「寅子石」という名で呼ばれ、この地方に伝わる悲劇を語り継いでいる。この付近に住む長者夫妻には、寅子という見目麗しい娘がいた。一説によると、寅子は実の子ではなく、承久の乱後に姿を消した三浦義直という侍の娘であり、母子で父を求めている最中に母がこの地で病を得て亡くなったために長者の娘になったという。成長するにつれてその美しさは際立ち、周辺の若者達は毎日のように長者の許を訪れて嫁に欲しいと頼み込んできた。最初は喜んでいた夫妻であるが、求婚話のせいで周囲でいさかいが起きるようになって、却って心配事に変わっていった。そして寅子も自分のためにいがみ合い騒ぎとなる状況に心を痛め続けたのであった。ある時、長者夫妻は寅子に求婚してきた若者全員を酒宴に呼んだ。いよいよ寅子の婿が決まる時と若者達は勇んで屋敷を訪れた。そして豪勢に盛られた膾を肴にして酒を呑みその時を待ったが、一向に肝心の寅子が現れない。業を煮やした若者達が長者に詰め寄ると、長者は涙ながらに真相を語り出した。皆の者に求婚され悩み果てた寅子は自害しました。最期に「皆様に等しくこの身を捧げたい」と望んで死にました。先ほど出しました膾こそ、寅子の腿の肉。寅子の遺言通り皆の者に等しく分け与えました。その言葉を聞いた若者達は言葉を失い、そして己の浅ましさを恥じ、寅子の冥福を祈るために全員で供養塔を建立したという。さらに出家をする者もあり、供養塔が見える土地にそれぞれ自分たちの俗名にちなんだ源悟寺・満蔵寺・慶福寺・正蔵院・多門院を建てたとも伝わる。
日月神社 蜻蛉の寄生木 (じつげつじんじゃ とんぼのやどりぎ)
住宅街にあるごく普通の神社であるが、その境内には立ち枯れてしまったケヤキの御神木がある。かつてこのケヤキの木の途中からエノキの木が生えていて、なかなか有名なものであったらしい。そしてこの不思議な様子の木には、ある伝説が残されている。この秋津村には、無理難題を言って家臣を困らせていた殿様があった。ある時、自分の年齢と同じ数の蜻蛉を捕ってくるよう家臣に命じた。ところが集められた蜻蛉の数が1つ足りない。怒った殿様は日月神社に行って、「もし本当に神の力があるのなら、このひとかたまりの蜻蛉を、御神木の木の股から別の種類の木にして生やしてみせろ。出来なかったら祠を取りつぶす。出来たならもう無理難題は言わない」と言い放って、御神木に蜻蛉を投げつけた。すると途端に、ケヤキの御神木からエノキが生えてきた。蜻蛉がエノキの寄生木に変わったのである。それと同時に、殿様は無理難題どころか声を発することが出来なくなってしまったという。
浄誓寺 平将門首塚
関東に覇を唱えた平将門であるが、その後人々がいかに慕っていたかを知る一つの目安に、将門に関する墓や塚が複数残されている点が挙げられるだろう。東京の大手町にある首塚が最も有名であるが、幸手市にも将門の首塚が存在する。伝説によると、将門が最後の一戦に臨んだ場所が幸手であり、ここで敗れて討ち死にしたのだという。そして首が埋められた場所が現在の首塚であるとされる。さらに一説によると、埋められた首をこの地に運んできたのは将門の愛馬であったとも言われている。この浄誓寺の近くには、将門の血で染められた木があったことから“赤木”と付けられた地名など、将門にちなんだ伝承が残されている。
鬼鎮神社 (きちんじんじゃ)
全国的にも珍しい、鬼が祭神として祀られている神社である。節分の際には「福は内、鬼は内、悪魔外」と掛け声をして豆をまく。鬼は内と言うのは、他の寺社から追い払われた鬼がここにやって来られるようにするためとも言われ、また悪魔とは参拝者に取り憑いた魔のことであり、これだけをうち払うのだという。また武運長久にご利益があり、それが叶うと金棒を奉納する伝統がある。鬼を非常に意識した神社であることは間違いない。この神社の創建は寿永元年(1182年)、畠山重忠の菅谷館の鬼門に当たる場所に厄除けとして設けられたのが始まりである。鬼門封じに建てられた神社であるから、創建当初から鬼と関わりがある。さらに地元では「鬼鎮様」と呼ばれる伝説も残されている。ある刀鍛冶の元に若者が弟子入りした。そして大いに働きだし、ある時、親方の娘を嫁に欲しいと言ってきた。鍛冶屋は「1日に刀を100本打てたら嫁にやろう」と約束する。すると若者は一心不乱に刀を打ち始めた。その勢いは凄まじく、親方は気になって様子を覗いた。すると若者の姿はいつしか変じて鬼となっていたのである。おののいた親方は、無理やり鶏を啼かして夜が明けたことにして、作業を中断させた。そして夜が本当に明けた頃に仕事場に行くと、最後の1本を作るところで若者は槌を握ったまま死んでいた。哀れに思った親方は「鬼鎮様」として宮を建てて祀ったという。  
 
 東京都

 

●東京の昔話
拾い屋
むかし、江戸(えど)のあるところに貧乏長屋(びんぼうながや)があったと。
その長屋にひとりの男が引っ越(こ)して来た。ところがこの男、一体何を生業(なりわい)にして暮(く)らしているのやら、さっぱりわからん。
毎朝早うに出かけては日暮れに帰ってくるのだが、それが商売道具(しょうばいどうぐ)ひとつ持って行くでなし、ただ、ふらあっと出かけてふらあっと帰ってくる。
どうにも不思議(ふしぎ)でならない家主(やぬし)の親父(おやじ)が、訊(き)いてみた。男は、「俺(おれ)の商売は、拾(ひろ)い屋(や)だぁ」と、あっけらかんという。
「拾い屋だと。はて、それはどういう商売だ」
「なあに、毎日町んなかを歩いて廻(まわ)れば、何かひとつは拾うて帰れるもんだ。俺ぁそれで暮らしているんだ」と言われたって、そんな商売が成り立つものか、どうも合点(がてん)がいかない。
江戸の長屋の家主は、長屋に住んでいる店子(たなこ)が何をして暮らしているかを識(し)っておかなければお役人(やくにん)にとがめられることになっているから、ようしそれなら、と、次の朝早くに男のあとをこっそりつけて行ったと。
そんなこととは露(つゆ)にも知(し)らない男は、あっちの通り、こっちの通り、そこいらの筋道(すじみち)と足の向(む)くまま、気の向くままってな感じで歩いてゆく。やがて神社(じんじゃ)の境内(けいだい)を通り、お寺にも行き、隣町(となりまち)まで足を延(の)ばしたが、何ひとつ拾う様子はない。
こんな調子(ちょうし)で近隣(きんりん)の道という道を全部歩き廻るだけで日が暮れた。
家主の親父は、「さては、わしが後からつけまわしているのを悟(さと)ったかな。それで何もせずにわしを引き廻しているんじゃなかろうか。うん、きっとそうに違(ちが)いない。あ奴(やつ)め、いよいよあやしいぞお。
見れば、あ奴めもやっと家に帰る気配(けはい)、今日のところはわしも帰って、また明日、後をつけてやろう」と言うて、くたびれて、店子より先に帰ったと。
家に帰って、着物をぬいで気がついた。懐(ふところ)に入れてあった銭袋(ぜにぶくろ)が無くなっている。
「あいつのせいで、ろくなことはねえ。大損(おおぞん)だ」と、独(ひと)り言を言うていると、そこへ男が帰ってきた。何ぞひとこと文句(もんく)を言わなければ気が済(す)まん。
「今日はええ日よりで人の出も多(おお)かったろうし、さぞかしええ物を拾って帰ったのだろうのう」
「それが親父さん。今日は、いつになく不景気(ふけいき)じゃった。あんまり何にも拾われんかったんで、うしろから疫病神(やくびょうがみ)でもついて来よるかと思うたくらいでしたがのぉ。けんど、帰りがけにそこの路地(ろじ)で銭二百文(もん)入った銭袋を拾うたから、まあ、一日歩いた甲斐(かい)がありました」こういうたと。
おしまい ちゃんちゃん。
においの代金
むかし、ある町にえらくケチな男が住んでおったと。
飯を食うにも梅干をじいっと見て、酸っぱいつばがわいてきたら、いそいでご飯をかきこむ、というぐあいだったと。
ところが、毎日毎日、梅干ばかり見ているもんだから、そろそろ飽きがきて、たまには変わったもんで飯が食いたくなったと。
あるとき、何ぞいいもんはないかと町を歩いていると、向こうからぷーんと香ばしい匂いがして来た。うなぎ屋が店先で蒲焼き(かばやき)を焼いておったと。
男は、急いで家に戻ると、どんぶり飯と箸(はし)とを持って、うなぎ屋にとって返し、その店先で、くんくん匂いをかぎながら飯を食い出したと。
これを見ていたうなぎ屋の主人が、「そこのお客さま、お代をいただきやす」と言うた。男は、
「わしは、うなぎなど食うておらんぞ。匂いをかいでおるだけじゃ」と言うと、店の主人は、「へえ、ですから、そのにおいのお代をいただきとうございやす」と言うて、こちらもなかなか、たいしたケチぶりだ。
「よし、分かった。そこまで言われて払わなかったら、こちらの男がすたるというもの。払いましょう」
男はふところから財布(さいふ)を出したと。
店の主人が手を出すと、「ほーれ、今から払うから、よーく聞けよ」と、こう言うや、財布の中の小銭をかきまわして、「チャリン、チャリン」と、音をたてたと。そして、「おやじ、においの代金は、音で払ったぞ」こう言うたと。
おしまい チャンチャン。
盗人をなおす医者
むかし、江戸の小石川(こいしかわ)、今の東京都文京区に小石川診療所(しんりょうじょ)というのがあって、赤ひげ先生という、診(み)たても、治療(ちりょう)も、薬もうまい名医があった。
貧乏人からは金(かね)を受けとらんし、ひとがさけるような病(やまい)も嫌な顔をせんし、大変な評判(ひょうばん)で、
「赤ひげ先生の薬さえ飲めば、どんな病気でも治(なお)ってしまう。えらいもんだ。神さまみたいな先生だ」
だれもがそう言って、むずかしい病気になると、すぐに赤ひげ先生を頼(たよ)った。しぜん赤ひげ先生は忙(いそが)しい。体がいくつあっても足(た)りない風で、たくさんの弟子を置いて、手つだわせていた。 
ある晩、一人のお婆さんが杖(つえ)ついてやってきた。赤ひげ先生に、
「先生、実はわしの息子がとんでもない癖(くせ)がありまして、弱っとります。ひとつ先生のお力で治してもらおうと思うてやって来ましただ。よく効(き)く薬を盛って下っさい」
「ん、その癖というのは、どんなんだ」 
「それが、お恥(はずか)しい話ですが、盗人(ぬすっと)の癖がありまして。そのうちお役人さまにつかまるのではないかと思うと、この先、安心して死ねませんのじゃ。なんとか薬を盛って下っさい」と、拝(おが)み頼んだと。
「ん、盗人か、そりゃ困った癖だ」
赤ひげ先生、あごひげをなでなで思案顔(しあんがお)だ。
やがて、「ん、そこでしばらく待っていなさい」
「へ、へえ。あした死んでも惜しい命ではありません。お願いします。お願いします」
さすがは名医だと思ってお婆さんが待っていると、赤ひげ先生は、すぐに薬研(やげん)でごしごし何やら粉薬をつくって、紙に包んで持ってきた。
「ん、婆さん、息子が泥棒(どろぼう)に入りたくなったら、すぐこの薬を服(の)むようにさせるといい。きっと泥棒の癖は治るはずだ」
「ありがたや、ありがたや」
お婆さんは、薬をおしいただいて、喜んで帰ったと。
このありさまを奥から見ていた弟子たちは興味(きょうみ)しんしんで、「先生、盗人の癖まで治せるとは知りませんでした。いったい、どんな薬草を処方(しょほう)されたのですか」と聞いた。赤ひげ先生、「ん、どんな薬か、お前たちも考えて見よ」というた。
弟子たちは皆して考えたが、ぜんぜん見当(けんとう)つかなかったと。
「先生、降参(こうさん)です。私たちではとても無理です。是非(ぜひ)その薬の盛り方をお教え下さい」と頼むと、赤ひげ先生、ひげをなでなで、「ん、肺臓(はいぞう)をかわかす薬を包んでやった。肺臓をかわかすと咳(せき)が出るだろ。咳が出れば泥棒にも入れない」こういうた。
弟子たちは、赤ひげ先生のうまい思案に思わずコホン、コホンとむせながら、やっぱり先生は日本一の名医にちがいないと思うたと。
おしまい チャン チャン。 
とげぬき地蔵
江戸時代の中ごろ、江戸の小石川、今の文京区に、病の妻を持つ田村という侍がいてたいそうお地蔵さまを信心しておった。
侍は、毎日、毎日、妻の病が早くなおるように、「帰命頂礼地蔵尊菩薩(きみょうちょうらいじぞうそんぼさつ)、帰命頂礼地蔵尊菩薩」と、お地蔵さまをおがんでいた。が、妻の病は一向に快くなるようすもなく、日に日にやせおとろえてゆくばかり。
そんなある晩のこと、侍の夢の中にお地蔵さまがあらわれ、「妻の病をなおしたかったら、わしの姿を紙に写し、一万体を川に流せ」と申された。 
侍が、ハッとして目をさますと、枕元に小さな板があった。何やら人の姿が彫ってあるように見える。墨をつけて、紙に押しつけると、それはお地蔵さまのお姿であった。
侍は、さっそく一万体のお姿を紙に刷(す)り、両国橋から隅田川に流した。
次の日のこと、妻が、「夢の中にお地蔵さまがあらわれ、私の枕元にいた死神を追い払って下さりました」 というた。 
不思議なことに、それからというもの、妻の病はうす紙をはぐように一日、一日とよくなり、半月もしないうちに、元の元気な身体になった。
この話が広まり、お地蔵さまのお姿の札をもらいにくるものが、田村の家に次から次とやって来るようになった。お地蔵さまは、延命(えんめい)地蔵というて、命を延(の)ばしてくれるお地蔵さまだったそうな。
それからしばらくして、毛利家(もうりけ)江戸屋敷の腰元が、針仕事をしているとき、口にくわえていた針を、あやまって飲み込んでしまった。
さぁ、大ごとだ。腰元は、いたい、いたい、ともがき苦しむけれども、どうにもならん。医者が来ても、のどの奥にささった針はとり出すことが出来ん。大騒ぎしているところへ西順(せいじゅん)というお坊さんが通り合わせた。
西順は、ふところから一枚の小さな紙をとり出すと、「このお地蔵さまのお姿を水に浮かせて飲みこんでみなされ」というた。
毛利家の者が、すぐ、腰元に紙をのませた。すると、間もなく、いたいいたいと苦しんでいた腰元は、「ウッ」とうめいて、口から、さきほどの小さな紙を吐き出した。よく見ると、お地蔵さまのお姿に針が一本ささっている。腰元の痛さもとれ、「これはお地蔵さまのおかげだ」ということになり、田村家のお地蔵さまは、ますます評判になった。 
田村家では、こんなありがたいお地蔵さまを、自分一人で持っていてはもったいない、ということで、上野の車坂(くるまざか)にある高岩寺(こうがんじ)におさめることにした。
病気のひとはお地蔵さまのお姿を刷った札を飲めばいいし、身体の具合が悪い人はその痛い場所に札を張っておけばなおる、つまり、病のとげを抜いて下さるというので、いつしか、”とげぬき地蔵”といわれるようになった。
とげぬき地蔵は、明治二十四年、高岩寺とともに上野から巣鴨(すがも)に移った。
けれども、今でも大勢の人々が病気をなおしてもらいに訪れている。山の手線巣鴨駅の近くだから、病気になったら行ってごらん。きっと、すぐになおるよ。 
赤マントやろかー
創立何十年もたつという古い学校には、必ず、一(ひと)つや二(ふた)つの、こわーい話が伝わっている。中でも多いのが、便所にまつわる怪談だ。今日は、一つ、こわーい話をしてみよう。
ちょっと昔のこと。
ある女子(じょし)高等学校で、生徒用便所に妙なうわさがたった。
入口から三番目の便所に入ると、「赤いマントやろかー、青いマントやろかー」という声が聞こえるという。
そんなわけで、だーれも三番目の便所に入るものがいなくなってしまった。
掃除の生徒も、ここだけは気味悪がって手をつけない。三番目の便所は、いつしかほこりだらけの荒放題となった。
あるクラスで、何人かの生徒がこの便所のうわさをしていた。
すると、一人の生徒が、「この世の中にお化けが出るはずがないじゃない。私が行ってお化けの正体を見てくるわ」といった。クラスメイトたちは、「本当にお化けの声がするんだから、やめなさいよ」と、しきりにとめた。 
しかし、勝気なその女生徒は、「大丈夫よ」と言い残して、スタスタ、便所へ向って行った。クラスメイトたちは心配になり、そっと後をつけて行った。
女生徒は、便所に着くと三番目の戸を開けて、中へ入った。
すると、案の定、「赤いマントやろかー、青いマントやろかー」という声がした。
女生徒は返事をしなかった。そしたら、また、「赤いマントやろかー、青いマントやろかー」という。
段々こわくなって返事どころでない。便所の壁に張りついて、歯をガチガチいわしていると、今度は、大きい声で、「赤いマントやろかー、青いマントやろかー」といった。女生徒は、目をつぶって、「赤いマントよこせー」と怒鳴(どな)った。そのあとすぐに、「ギャー」と叫び声をあげた。
便所の入り口で見守っていたクラスメイトたちは、一目散に逃げ出した。
事の次第を聞いた体操の男先生が、便所へ行って三番目の戸を開けた。便所の中で女生徒は死んでいた。背中にナイフが刺さり、血がべっとりと着いて、まるで、赤マントをつけているようであった。 
それから、その三番目の便所は釘づけにされ、「あかずの便所」といわれるようになった。
もし、「青いマントよこせー」と言ったら、血が全部吸いとられ、身体中、青くなってしまうのだそうな。
しばられ地蔵
享保(きょうほ)三年というから、一七一七年、今から二六六年も前のこと、江戸、つまり、東京でおこったことだ。
本所の南蔵院(なんぞういん)という寺の境内(けいだい)に、石の地蔵様があった。
あつ―い夏のこと、越後屋(えちごや)の手代喜之助(きのすけ)が商いの木綿を背中いっぱいにかついで、南蔵院の前を通りかかった。
「あっちぇいのう―。地蔵様の前で、ちょっくら休むとするか」
荷をおろして休んでいるうちに、つい、うとうとっとしてしまった。一時して、目をさますと、そばにおいた木綿がない。そこらじゅうをさがしたがどこにもない。商売物(しょうばいもん)を盗まれたとあっては主人に叱(しか)られる。
喜之助は顔をまっ青にして番所へとびこんだ。
番所の役人がさっそく奉行所(ぶぎょうしょ)へ届けると、町奉行の大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)が直々に調べることになった。
ところが越前守、奉行になったばかりだし何の手ががりもない盗みのこと、犯人の目星などとんとわからぬ。そこで一計(いっけい)を考えた。 
さっそく、役人をよび、「いや―しくも地蔵菩薩(じぞうぼさつ)ともあろうものが、自分の前の品が盗まれたのを知らぬはずがない。ただちに地蔵を召し捕(と)り、縄をかけて、江戸市中を引き回せ」と申しつけた。 
役人は奉行のいいつけだからしかたなく、しぶしぶ南蔵院へ行くと、地蔵様に縄をかけ、大八車(だいはちぐるま)にのせると、江戸市中を引き回した。なにしろ、物見高いは江戸の町人たち、盗人(ぬすっと)のうたがいで石の地蔵様がつかまったというので、われもわれもと地蔵様の後についてゆき、果ては、どんなお裁きがあるのかと、どっと奉行所へなだれこんだ。
ころを見計らった越前守、「門をとじよ―」と命じ、大声で、「天下の奉行所へ乱入するとは不届千万(ふとどきせんばん)。本来ならきつく罰(ば)っするところなれど、元はといえば木綿が盗まれたことにより生じたこと、よって、一人につき木綿一反の科料(かりょう)とする。ただちに持って参れ」といった。町人たちはあっけにとられたがしかたがない。それぞれに木綿一反を持ってくると、自分の名前を書いて帰っていった。
越前守は喜之助を呼んで一つ一つの反物を調べさせた。そうすると、やはり、盗まれた反物がでてきた。それで、盗人がつかまり、いもづる式に、江戸市中を荒し回った大盗賊団(だいとうぞくだん)も一網打尽(いちもうだじん)となった。
地蔵様も無事南蔵院へ戻り、大岡越前守も名奉行といわれるようになったそうだ。
そして、それ以来、盗難にあうと、南蔵院の地蔵様を縄でしばって願いをかけると、必ず盗まれたものがでてくるといわれ、だれいうとなく、この地蔵様を”しばられ地蔵”と呼ぶようになった。
 

 

●東京の民話
王子のきつね火 1
むかしむかしの大昔、うみべ(海辺)が荒川とまぎらっていたころ、王子村の近くの古いふるーい大きな木のあたりに、 たくさんの狐火が見えました。
狐火は、とくにおおみそか(大晦日)のばん(晩)におおくあらわれ、それが王子いなりさまへむかうのでした。
村の人々はゆらゆらゆれるふしぎな色をした狐火がなんだかとてもおそれ多かったので、だーれもそばまでたしかめに行くゆうき(勇気)のあるものはいませんでした。
そうしたあるときのこと、村人たちは、みなではなしあって、だいひょうを三人えらんで、狐火のそばまで行って見てみようということになりました。
いちばん狐火のあらわれる、さむ(寒)いさむーい大みそかのばん(晩)のことでした。
村人のだいひょうたちが、か(枯)れ草をかぶってイキをこらして遠くで見ていると、どこからともなく、人のようでもありケモノのようでもある声がささやくように聞こえてきました。
「三十三国ねがいをもって、おうじいなりにもうづべし」
「三十三国ねがいをもって、おうじいなりにもうづべし」
しずかに きいていると、おさえるような声が、いくえ(幾重)にもいくえにもかさなって、それはそれは たいそうな数の声であるとわかりました。
「三十三国ねがいをもって、おうじいなりにもうづべし」
「三十三国ねがいをもって、おうじいなりにもうづべし」
そしておどろくほどたくさんの狐火が集まってきて、大きな木のそばまで来ると、ふしぎふしぎ、 狐たちは身じたくをととのえたすがたに、つぎからつぎから変わっていくのでした。
すべての狐がしょうぞく(装束)をととのえた姿になったときのことです。
いっぴきの白い狐が前にあらわれて、ゆっくり王子いなり(稲荷)さまに向って歩みはじめると、 すべての狐たちも列をつくってしたがって行ったのです。
こだかい(小高い)おか(岡)にある、いなりさまへむかうみち(道)は、 ゆれる 狐火 で、いっぱいになりました。
この年の狐火はとくにいつもよりもおおくありました。
つぎの年、村むらは、それはそれはゆたかな実りと、 あらそい(争い)やわざわい(災い)の無い良い年となりました。
村むらの人びとは、はなしあって、王子いなりさまのかたわらに、 王子いなりさまをおまもりしていただくために、白狐のお宮をたて、 狐たちがへんしん(変身)したところの大きな木を装束(しょうぞく)の木と名づけ、 小さなおいなりさまをそこにおいてお守りすることにしたのでした。
狐たちがもっともっとあつまってくれて、村むらがゆたかな実りにめぐまれますように、とのねがいからです。
王子の狐火 2
むかしむかしの大昔、海辺が荒川を見晴らすそばまで広がっていたころ、岸村の近くの古いふるーい大榎木(えのき)のあたりに、たくさんの狐火がありました。
狐火は、とくに大晦日の晩に限りなく現れ、不思議なことに、たくさんの時ほど、翌年の作物が実り多かったのでした。
村の人々は、何か恐れ多かったので、だーれもそばまで行く勇気のある者はいませんでした。
あるとき、村人たちは皆で話あって、代表を何人か選んで、狐火のそばまで行って見てみようということになりました。
一番狐火の現れる寒いさむーい大晦日の晩でした。
村人の代表たちが草をかぶって息をこらして遠くで見ていると、どこからとも無くそれはそれはたくさんの狐火が現れて大榎木のそばまで来ると、不思議不思議、身仕度をととのえた狐の姿に、次から次から変わっていくのです。
すべての狐火が装束(しょうぞく)を調えた姿になったときのことです。
一匹の白い狐が前に現れて、ゆっくり岸稲荷さまに向って歩みはじめると、すべての狐たちも列をつくって従って行ったのです。
その列は延々と続き、人家の無い岸稲荷さまの丘の中腹は、稲荷さまへ向かうゆれる狐火でいっぱいになりました。
次の年、岸村のあたりの村々は、それはそれはゆたかな実りと、争いや災いの無い良い年となりました。
村々の人々は相談して、岸稲荷さまの側らに、岸稲荷さまをお護りしていただくために白狐(びゃっこ)のお宮を建て、大えの木を装束えの木と名づけ、その根元に装束(しょうぞく)稲荷を設けてお守りすることにしたのでした。
王子の狐火 3
かつて王子周辺が一面の田園地帯であった頃、路傍に一本の大きな榎の木があった。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)の狐たちがこの木の下に集まり、正装を整えると、官位を求めて王子稲荷へ参殿したという。その際に見られる狐火の行列は壮観で、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられている。
この榎の木は「装束榎」(しょうぞくえのき)と呼ばれ、よく知られるところとなり、歌川広重『名所江戸百景』の題材にもなった。
伝承の描写の初出
王子と狐とが一緒に登場する最も古い資料は、寛永期に徳川家光の命により作られた『若一(にゃくいち)王子縁起』という王子神社の縁起絵巻である。この絵巻の原本は存在しないが、精巧な模本が紙の博物館にあり、その奥書によれば作成作業は堀田正盛(加賀守)のもとに春日局の甥で斉藤三友(摂津守)をもって遂行されたとある。また文は林道春がかかわり、絵は狩野尚信が描いたことが知られる。絵巻の完成は寛永十八年(1641年)七月十七日だった。
『若一王子縁起』絵巻は王子神社についてのものだが、すぐそばの王子稲荷神社も別当寺金輪寺の持ちであったために、下巻にその社のたたずまいと、その前道筋に集まり来たる諸方の命婦(狐)の絵がある。絵には、稲荷社前の道筋のあちこちに狐火を燈した複数の狐と松の木の下にも二匹の狐が描かれている。そして「諸方の命婦、此の社へ集まりきたる」とあり、下札には「毎年十二月晦日の夜、関東三十三ケ国の狐、稲荷の社へ火を燈し来る図なり、この松は同夜狐集まりて装束すと言伝ふ」と狐の集合が説明されている。なお、大田南畝は『ひともと草』に「むかしは装束松といひしも、今はいつしか榎にかはれり」と書いている。
狐火の絵は、この絵巻を彩るためだけに描かれたものではなく、縁起を作るに先んじて寛永期の幕府の役人が王子の狐火の調査に来たという事実により、当時広く流布していた伝承の表現だったと知れる。
寛政改革による民話の変節
絵巻の完成後約150年経った寛政3年(1791年)になって、王子稲荷社が実際に諸国三十三ケ国の稲荷社の総社であったかどうかの社格の是非を幕府が問題にした。寺社奉行の松平輝和が老中松平定信に進達した「王子稲荷額文字之儀ニ付、金輪寺相糾候申上候書付」で始まる文書(以下、「進達文書」と記す)にその内容が示されてある。「進達文書」には、王子稲荷が自社について「東国惣司ト称シ候濫觴」、つまり王子稲荷が東国惣司と自称しているとあり、これは王子稲荷が「関東稲荷惣司」との源頼義の文言を「東国稲荷惣司」(とうごくいなりそうつかさ)と平安時代以来認識し自認してきたことを意味する。王子稲荷社は三十三ケ国伝承にまつわる額や幟(のぼり)などを没収され処罰を受けた。
幕府の王子稲荷神社調査記録の「進達文書」は、王子と狐の民話が古くは「東国三十三ケ国からの狐集合」だったことを示すが、これ以降、世上、王子の狐民話は狭く関八州の物語として伝わるようになり現在に至る。ただし、当の王子稲荷社自身は門石に「康平年中、源頼義、奥州追討の砌(みぎ)り、深く当社を信仰し、関東稲荷惣司と崇む」と刻み、往古と変わらぬ社歴を今に伝えている。
装束榎の碑と装束稲荷
狐が集まったとされる榎の木は明治時代中頃に枯死した。昭和4年(1929年)には道路拡張に伴い切り倒され、「装束榎」の碑と「装束稲荷神社」と呼ばれる小さな社が停留所の東部に移されている。一帯は戦前には榎町と呼ばれてもいた。
一葉松 東京都国分寺市
「一葉松」は、武将・畠山重忠(平安末期から鎌倉)と傾城・夙妻太夫 との悲運の恋に由来しており、夙妻太夫の死を哀れんだ里の人々が墓標として植えた松です。 不思議な一本葉の松で、夙妻太夫の一途な思いの現れとも云われ、いつしか「一葉松」(ひとはまつ)と呼ばれるようになりました。
言い伝えの一葉松はすでに枯れてしまいましたが、現在 、枝を植継いだ松が東福寺内の本堂・事務所にむかう階段横に数本植えられており、わずかではありますが一葉を見ることが出来ます。
姿見の池 東京都国分寺市
姿見の池は、かつて付近の湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み、清水を湛えていました。 現在の府中街道とほぼ同じ道筋にあたる東山道武蔵路や鎌倉上道の宿場町であった恋ヶ窪の遊女達が、朝な夕なに自らの姿を映して見ていた ことから、「姿見の池」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。
恋ヶ窪という地名の由来の一つとも云われ、傾城・夙妻太夫が武将・畠山重忠を慕って 身を投げた池といわれています。「武蔵野夫人」(大岡昇平著)など文学作品にもよく登場する名所です。
平成5年に東京都の「国分寺姿見の池緑地保全地域」に指定され,平成11年度に湿地,用水路,水辺林等を含めた池周辺地域として整備し、かつての武蔵野の里山風景を見ることができる,市外からも多くの方が訪れる観光拠点となっています。
神戸岩 東京都西多摩郡檜原村
東京都西多摩郡檜原村にある知る人ぞ知るパワースポットが神戸岩(かのといわ)。北秋川の上流、神戸川にある奇勝で、両岸から高さ100mの岩盤が迫る廊下状(ゴルジュ状)の狭い峡谷を水が流れ、鎖を頼りに通り抜けることができます。まさに東京最奥の秘境。
下流側から見て右手にある戸岩は、高さ100m、幅は40m(上部)、谷底で4m幅の峡谷が60mほど続いています。峡谷の延長線上に大嶽神社が鎮座するため、神域への出入口と見立てて、神の戸岩から神戸岩(かのといわ)という名が付いたという説もあります。しかし、大岳神社は現社地に遷座しているので、神戸地区の戸岩という可能性が大。戸岩は、中生代ジュラ紀(4億4000万前〜1億4300万年前)に形成された硬質なチャート層のため、浸食を免れ、奇勝を生み出したのです。東京都の天然記念物にも指定されています。
チャートは、放散虫(ほうさんちゅう)などプランクトンの死骸が海底に降り積もったものが固まってできた岩石。秩父古生層と呼ばれる地層は、海の底で形成されたものです。神戸岩の探勝は、滝の横をハシゴで登る危険な場所、鎖を伝ってトラバースする岩場もあるので、足回りはしっかりと。
王子の狐 (落語) 
落語の噺の一つ。初代三遊亭圓右が上方噺の高倉狐を東京に写したもの。人を化かすと言われる狐がかえって人に化かされる顛末を描く。結末は一種の考え落ちでもあろう。主な演者に8代目春風亭柳枝、10代目金原亭馬生、7代目立川談志などがいる。

王子稲荷(東京都北区王子)の狐は、昔から人を化かすことで有名だった。
ある男、王子稲荷に参詣した帰り道、一匹の狐が美女に化けるところを見かける。どうやらこれから人を化かそうという肚らしい。
そこで男、『ここはひとつ、化かされた振りをしてやれ』と、大胆にも狐に声をかけた。「お玉ちゃん、俺だよ、熊だ。よければ、そこの店で食事でも」と知り合いのふりをすると、「あら熊さん、お久しぶり」とカモを見付けたと思った狐も合わせてくる。
かくして近くの料理屋・扇屋に上がり込んだ二人、油揚げならぬ天ぷらやらお刺身などを注文し、差しつ差されつやっていると、狐のお玉ちゃんはすっかり酔いつぶれ、すやすやと眠ってしまった。そこで男、土産に卵焼きまで包ませ、「勘定は女が払う」と言い残すや、図々しい奴で狐を置いてさっさと帰ってしまう。
しばらくして、店の者に起こされたお玉ちゃん、男が帰ってしまったと聞いて驚いた。びっくりしたあまり、耳がピンと立ち、尻尾がにゅっと生える始末。正体露見に今度は店の者が驚いて狐を追いかけ回し、狐はほうほうの体で逃げ出した。
狐を化かした男、友人に吹聴するが「ひどいことをしたもんだ。狐は執念深いぞ」と脅かされ、青くなって翌日、王子まで詫びにやってくる。巣穴とおぼしきあたりで遊んでいた子狐に「昨日は悪いことをした。謝っといてくれ」と手土産を言付けた。
穴の中では痛い目にあった母狐がうんうん唸っている。子狐、「今、人間がきて、謝りながらこれを置いていった」と母狐に手土産を渡す。警戒しながら開けてみると、中身は美味そうなぼた餅。
子狐「母ちゃん、美味しそうだよ。食べてもいいかい?」
母狐「いけないよ!馬の糞かもしれない」
猫の恩返し (落語)
五代目古今亭志ん生の噺、「猫の恩返し」(ねこのおんがえし)より。別名「猫塚の由来」。

八丁堀に棒手振りの魚屋金さんがいました。それが、友達の付き合いで博打に手を出して買い出しの金三両を取られてしまった。金さんの道楽は酒と猫が大好きで飼っていた。博打でとられて、やけ酒を猫の”コマ”と呑んでいた。「コマよ、正月二日の買い出しの金を三両取られてしまったんだ。『猫に小判』と言うこともあるから、三両何とかしてくれよ」。と言いながら寝てしまった。
大晦日の晩ですから、周りは明るく、のどが渇いたので水瓶の水を飲んだ。「『酔い醒めの水千両と値が決まり』と言うように、旨い水だ」。寝床に戻ってみると小判が三枚置いてある。夜の明けるのを待って外に出ると、伊勢屋という質両替屋の番頭に小判を崩して貰って、湯に行って、酒を一升買って帰ってきた。
「コマ、お前がこの小判持って来たんじゃないか。『ニヤオ〜』と返事をしてやがら。恩にきるよ。これで買い出しに行けるんだ」。元日の酒を飲みながら、「助かったけれどよ〜。三両くわえてくるなら、もう少しくわえて来いやぃ。金に困っていない家から持って来いや・・・。ウソだよ、そんな無理なことは言わないよ」、と寝てしまった。
翌日の正月二日、正月から値切られるのはいやだから、金さんは仕入れた魚を掘留の戌亥(いぬい)という大店に持っていった。番頭が浮かない顔をしているので聞くと、「猫は恐いから飼わない方が良い」、「そんなことは無いですが・・・」、「大晦日の晩に三両が無くなったんだよ。店の者は知らないし、旦那は三両ぐらい良いと言っていたが・・・、元日の夜中ガタガタ音がするので、見に行ったら、用箪笥の鐶(かん)を口にくわえて大きな猫が引っ張っているんだ。錠がかっているから開かないだろう。で、ガタガタやっていたんだな。前の三両を盗んだのもあの猫だと思うから、店の者を起こして棒で叩いて殺しちゃったんだ」。
「殺す気は無かったが、しょうが無いよな。旦那は回向院に葬ってやれと言われたので、これから行くところなんだよ、春早々からね〜」、「見せてください。この猫ですか?」、「そうだよ。泥棒猫だよ。用箪笥に取り付くんだから・・・」、「オッ、コマッ。情けね〜姿になって。これは私の猫です。番頭さん、博打で三両取られ買い出しにも行けなかったが、この猫が三両持って来てくれたんだッ。それで仕入れも出来たんだ」。
旦那に言うと感心な猫だと、5両を持たされ回向院に行って、葬ってやった。そのコマのお墓は鼠小僧の隣に建てられたという。
それからの金さんは酒も博奕もやめて一生懸命仕事に精を出すようになった。やがて大きな店をかまえたが、その店のことを誰いうとなく「猫金、猫金」と呼ぶようになって繁昌し、明治まで続いたとのこと。両国回向院に残っている猫塚の一席でした。
長命寺 1 東京都墨田区
東京都墨田区向島にある天台宗の寺。山号は宝寿山遍照院(へんじょういん)。本尊は阿弥陀如来。隅田川七福神巡りの一つ弁財天を祀る。寺の開基は明らかではない。江戸前期ごろまでは宝樹山常泉寺と称していたが、3代将軍徳川家光(1604―51)が鷹狩りにきて腹痛をおこし、寺の般若(はんにゃ)水で薬を飲んで治ったことから以後長命寺と改号したという。江戸時代の本堂は1855年(安政2)、1923年(大正12)の二度の大地震によって焼失した。雪見の名所として名高く、芭蕉の「いざさらば雪見にころぶ所まで」の句碑をはじめ、歌碑、人物碑などの石碑が40余りある。また江戸のころから伝わる門前の桜餅は有名。
長命寺 2
浅草駅から15分ほど歩いた隅田川東岸にある寺院。起源は不詳だが、3代将軍徳川家光が鷹狩りの際中に体調を崩して長命寺で休息し、境内の井戸水で薬を飲んだところすぐに回復したため、井戸水が『長命水』と名付けられ、寺号を『長命寺』としたと伝えられている。隅田川七福神の弁財天担当で、琵琶湖の老女弁天を分霊している。江戸時代は雪見の名所として多くの人が訪れていた。松尾芭蕉もここで一句詠んでおり、境内には雪見の句碑がある。近くには『言問団子』や『長命寺桜もち』があるのであわせて寄りたい。
宝寿山遍照院長命寺 3 (通称:風流寺)
長命寺の起源に関しては、寺伝によると「当寺は元和元年頃の中田某の檀那寺なれば、その頃の建立に係るものならん」……とあり、村内一宇の道場として小庵が存在していたものと思われる。しかし開山については定かではないが、「長命水石文」には「当寺いにしへは、宝樹山常泉寺と唱し道場なり」とあり、三代将軍徳川家光公が、当地に鷹狩りに来た際、腹痛を起し、住職の加持した庭中の般若水(井戸水)で薬をのんだら痛みが止まったので、以後長命寺と呼ぶように改号されたのである。もと東叡山寛永寺の末寺に属していたが、今は比叡山延暦寺を本山としている。
江戸時代の本堂は安政2年の大地震に焼失してしまい、明治になっても復興はなかなか困難を極めた。麻布の武家屋敷を移築させてこれを本堂とし、明治時代に及んだ。仮堂ながら風流な造りが当地と似合った。この堂も大正12年の関東大震災にて再び焼失し、本尊の阿弥陀如来は、からくも難をのがれて現在に至っている。
また境内には芭蕉堂、観音堂、弁天堂、稲荷社、地蔵堂、般若堂等の諸堂があったが、いずれも震災で焼失してしまい、そのご尊像のみ難をのがれた。
芭蕉堂は芭蕉像を安置したお堂で、宝暦年間に自在庵祇徳の建立による。近くに芭蕉の句碑「いささらば雪見にこ路ふ所まで」も残されている。特に雪景色が有名であったため詠まれた句であり、向島の地が風雅な趣きを持っているところによる。
江戸時代末期、当時の文人墨客達が隅田の地に七福神を設けた。いつの時代でもあることだが福を願う人々が、本来の宗教的要素とは別に、正月の散策を兼ねた信仰が庶民階級の間に広まった。隅田川七福神の内、当寺には弁財(才)天が祀られていて、正月は参詣人で賑わう。
又、江戸時代から門前の長命寺桜餅が有名で、隅田川という絶好な地の利と共に人々に気に入られて今日に至っている。
石碑
「いささらは 雪見にころふ 所まて」 松尾芭蕉
「千代迄も 爰に隅田の長命寺 九十九までで 落葉かくとは」 九十九翁長者園
「どのやふ那 なん題目を かけ累とも よむは妙法連歌狂哥師」 蜀山人
「此世をは ど里やお暇に せん古うの 煙りと供に 者ひ左様南ら」 十返舎一九 辞世
「朝霞 引出す牛の御前はへ もふ草も芽を佐ますた堤」 八十三翁 天露道人
「寝て於記て 呑喰ひの業 世苦能娑婆 けふは極楽南無阿弥陀仏」 七十五翁 雪廼屋富士丸 辞世
 

 

●奥多摩の民話
西久保の天狗さま
むかし、むかし、西久保には天狗山という小高い山があって、この山には、天狗さまが棲んでいた。日が暮れるころになると、村人をおどかしたり、積荷を背負った馬を追いとばしたして、馬方衆を困らせたものだから、夜などはこわくて、人通りも絶えたという…
隊道の屁
ちょっとむかしのこと、あるところにでけえ屁をひるじいさまがいた。ある夜更けのこと、親戚から急な沙汰があって隣村まで出かけることになった…
盗まれた馬頭さま
惣岳河原に臨んだ崖っぷちの道脇に、江戸のむかしからわしらの祖先が愛馬の供養のためにと祀った、馬頭さまがおられた…
惣岳の大蛇
むかし、むかし、シダクラ谷には大蛇がいると言われておりました。雷が鳴り、風雨のはげしいある晩、谷底からとどろき渡る大音響とともに、その大蛇が姿を現したのです…
槐木(さいかちぎ)
わしは氷川の宿から登りつめた峠に、どっしりと根をおろす、さいかちの木じゃ。大むかしから、ここを通る村の衆のよい目印にされ、それでこの峠に槐木(さいかちぎ)という名がつけられたようじゃ。…
熊をくすぐる
むかし、むかし、このあたりには変わった熊猟があったそうです。熊は冬至のころ、たらふく食いだめると、棲穴で翌春までの冬眠に入るのです…
熊野神社の熊獲らず
境の集落の山際には、熊の頭がい骨をおさめた、小さな祠の熊野神社があります。この村に入った熊は、決して撃ってはならぬ、食べてもならぬ、というむかしからの言い伝えが、村人によってかたく守られてきました…
 

 

●きよせの民話
くろくわ和尚
野塩三丁目の円福寺に、「何事も無駄にならず、何か行動すれば必ずためになる」という励ましのありがたい教訓の昔話が残っています。
昔々、円福寺のある和尚さんが、「朝日さす夕日輝く楠の木の根元に、黄金輝く」という言い伝えを耳にします。誰でもお金が埋まっていると聞けば、堀りあてたいというのが人情でしょう。早速、翌日からあちらの木の根元、こちらの荒れ地と掘り返し始めました。来る日も来る日も「縦九寸横六寸の鍬」(くろくわ)を使って掘りました。
しかし、何日経っても何も出てきません。そうしたある日、ふと顔を上げて辺りを見渡して気が付きました。あの言い伝えは、埋蔵金の在りかを教えているのではなく、どんな荒れ地でも、開墾すればそこは立派な畑や田んぼになり、そこに実った作物は富を産み「宝」となるということを教えていたのです。その後も、和尚さんは荒れ地の開墾に汗を流し、村人たちは親しみを込めて和尚さんのことを「くろくわ和尚」と呼ぶようになったそうです。
こわしみず
この民話のいわれとなった泉は、JR武蔵野線が敷設された昭和四十八年まで実在しており、整理前の住居標示も清戸下宿字清水(現・旭が丘六丁目付近)でした。
さて、親はききざけ子は清水といわれた「こわしみず」とは。
むかし、清瀬の下宿に働きもののお百姓さんが住んでいました。ある暑い日のこと、お百姓さんは仕事で疲れ、のどもかわいたため、大きな杉の木が二本ある丘へ歩いていきました。そこには、一年中こんこんと水がわき出る泉があるのです。
お百姓さんは、泉の澄んだ水を手ですくって一口飲み、びっくりしてしまいました。甘いお酒の味がするのです。
それからは毎日、仕事を終えると泉の水を飲み、ほろよいきげんで帰るようになりました。
不思議に思った息子が、ある日そっとお父さんの後をついて行くと、なんとお父さんは、にこにこと泉の水を飲んでは酔っていくのです。お父さんが帰った後、息子も泉の水を飲んでみました。
しかし、息子には、ただの水でした。
ひいらぎ伝説
中清戸三丁目の志木街道沿いにある日枝神社は、勇壮な清戸獅子で知られていますが、むかしは上清戸・中清戸・下清戸の三清戸の・総鎮守でした。
ひいらぎ伝説は、この日枝神社にあったと伝えられている大きなひいらぎの木にまつわる伝説で、清戸という地名の由来がからんだお話です。魔を除(よ)けるといわれるひいらぎは、今も節分のときなど伝統行事のなかで使われます。
さて、清戸という地名の由来にからんだ、ひいらぎ伝説とは。
むかし、日枝神社には大きなひいらぎの木があったそうです。
大昔のことですが、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、東北地方を征服するため清瀬を通りかかり、日枝神社の大きなひいらぎの木の下でお休みになったそうです。
そのとき、日本武尊は、なにげなく足元の土を手にとって、「清き土なり」といったそうです。
それから、この地は「清土」とよばれるようになり、やがて「清戸」と書かれるようになったそうです。
ひかる梅
下清戸2丁目の志木街道沿いにある長命寺。そのお堂に祀られている清瀬薬師にまつわる話、ひかる梅は「長命寺文書」に残されています。
さて、清瀬薬師の縁起と薬師如来への信心の大切さを説く言い伝え、ひかる梅とは。清瀬薬師は、元々、新田家に代々伝わる薬師様だったそうです。時の頃は戦国、新田義貞の子義興は、金山城(群馬県太田市)主でした。本来薬師様はお堂に祭るものですが、義興は信心をおこたり、宝蔵の中に仕まい込んでいたのです。ある日の夕暮れ、宝蔵の中から光が放ち、しばらくして消えたので、家来が蔵の中をのぞいてみると、不思議なことに薬師様が姿を消していました。
その夜、敵が攻めて来て城は落ちたそうです。それから長い年月がたち、行春というお坊さんが日夜修行に励んでいると、梅の樹が光り根から薬師様が出てきたので、お堂に祀りました。この薬師様の霊験により、丸薬を調剤したところ大変効力があり、病人を救う薬師様として民衆の信仰を集めました。
その後、再びこの地の古い梅のこずえより発見され、長命寺に祀られたそうです。
びわかけの松
昔、目の不自由なびわ法師が、野塩にある円福寺の薬師堂を訪れ、目が見えるように願いをかけました。そして修行に励みながら願いがかなうとされる満願の日を迎えました。おそるおそる目を開けたところ薬師様が見えました。
急いでお堂を出て外を見ると、そこにはあざやかな松の木がありました。びわ法師は、それはそれは喜びました。そして喜びの余り、大事なびわを松の枝にかけたままとびだしていきました。それから、この松をびわかけの松とよぶようになりました。
薬師様は、病をいやす仏様で、とりわけ円福寺の薬師様は目をいやす仏様として厚く信仰されてきたそうです。びわを置いたとされる松は残っていないとのことですが、薬師堂への坂道は二十一段の石作りであったそうです。
ぶたい
現在の清瀬水再生センターのあたりは、昔「清瀬村字舞台」という地名でした。
そのあたりが「ぶたい」と呼ばれるようになったのは、次のような伝説に由来があると言われています。
今の下宿のあたりに大きな沼があり、大蛇がすんでいました。
村の人々は、怖がって誰ひとり沼に近寄りませんでした。ある日、ひとりの子どもがひとめ大蛇を見ようとそっと沼にくると、ザザーツという水音とともに大蛇がにゅーっと頭を出し、子どもをペロリとのみこんでしまったそうです。そこで、村人たちは大蛇退治の相談をし、村の長老が「大蛇をおびきだすために踊りをおどろう」と提案しました。村人たちは、沼の周辺の小高いところに踊りをおどるための「ぶたい」を作ろうと、作業にとりかかりました。
「ぶたい」ができあがった日、村人みんなでにぎやかに踊りをおどると、大蛇が頭を出し、村一番の弓自慢の若者が大蛇の頭をもぎとりました。大蛇は、のたうちまわって柳瀬川の方へ逃げていったそうです。
その後、土地の人の話では、人々は「ぶたい」を作った土地を「舞台」、矢の飛んで行った土地を「矢崎」、大蛇の頭の落ちた土地を「井頭」、大蛇が逃げていった土地を「頭なし」という名で呼ぶようになったそうです。
一文坂
小金井街道から中里交差点方面へ柳瀬川通りを東に進むと、左に清瀬橋の方へ下る坂道があります。この坂道が一文坂です。坂の途中には「大六天」と刻まれた石塔があり、三島大六天という神様がまつられています。さて、一文坂の由来は。
むかし、中里の村に急な坂道がありました。そこには大変おこりんぼうな神様がいて村の人たちがころんだりすると必ずバチがあたります。ですから村の人たちは、ころばないよう恐る恐る歩いていました。
ある日、瀬戸物を馬に積んだ商人が、この坂道を通りかかり、気をつけながら歩いていましたが、振り返って馬に声をかけたとたん、ころんでしまったのです。商人は困ってしまいました。バチがあたって瀬戸物がわれたら大変です。そこで、商人は一文を取り出して神様に供え「バチがあたりませんように」とお願いしました。すると、バチがあたるどころか、その日は瀬戸物もすっかり売れました。このうわさは村中に広がり、ころんだときは、すぐ一文を供え、バチがあたらないようお願いするようになりました。それから、この坂道は「一文坂」とよばれるようになったそうです。
梅坂橋
第四中学校の脇に、梅坂と呼ばれている急な坂道があります。梅坂橋のイラストこの坂をおりきったところに流れる空堀川に橋が架かっています。この橋がいつのころからか梅坂橋と呼ばれるようになりました。
この梅坂橋は、清瀬10景の一つにもあげられている「空堀川と中里緑地保全地域」を一望することのできる橋でもあります。
しかし、この橋にはとても悲しい伝説が伝えられています。
その昔、お梅さんという娘さんがお嫁入りをすることになりました。お梅さんは、このお嫁入りがどうしてもいやでした。そして、お嫁入りの日、思い悩んだお梅さんはこの橋から身を投げて死んでしまったのだそうです。
それ以来、土地の人々は、お嫁入りはもちろんのこと、婚礼にかかわる話で出かけるときは、どんなに遠くなっても梅坂と、この梅坂橋を避けるようになりました。
 

 

●小平の昔話
矢(や)の根石(ねいし)
わたしがまだ小さかったころは、小平はほとんどが畑と雑木林だったんだよ。この辺りの土はさらさらで、石が混じっていることなんてほとんどないんだけど、たまに三角の小さな石が落ちていたの。それが、大人の親指の先ぐらいの本当に小さくて、うすべったい石なの。おじいさんは、「これは矢(や)の根石(ねいし)だよ。小平は古戦場だったから、そういうものが落ちているんだ。鍬(くわ)の刃が欠けたら大変だ」と言って、畑の隅にすぐ捨ててしまったんだけどね。
矢の根石は、矢の先につける石(矢じり)のことなんだよ。何百年も前、新田義貞というお侍が鎌倉幕府を攻めるときに、この辺りを通って行ったそうだよ。新田義貞は途中でいろいろな戦いをして、国分寺にあった武蔵国分寺も、焼き打ちしてしまったんだって。矢の根石はその時のものだよって、言われたから、わたしは何十年も信じていたんだけど、それが間違いだってわかって驚いたんだよ。鈴木遺跡資料館へ行ったら、矢の根石と同じものがあってね。そこで教えてもらったんだけど、石の矢じりを使っていたのは石器時代で、新田義貞のころは、もう金属の矢じりだったそうだよ。だから矢の根石は4,000年も5,000年も前のものなんだってね。石器時代の人がこの辺りで狩りをして、放った弓矢の先なんだって。資料館には大昔の石器もあって、獲物の皮をはいだり、切ったりするのに使ったんだってね。そういえば、畑の中から、そんな石も出てきたことがあったよ。その時は、ただの石ころだと思ったけど石器だったのかもしれないね。
小平では大根をたくさん作っていてね。石が土の中にあると、大根が大きくなるときに当たって、二またや三またになったりするんだよ。そうなると売れないし、硬くなって味も悪いんだよ。それでそんな石はみんな、畑の隅に捨ててしまったの。石を捨てた辺りには家がたくさん建ってしまったから、もうとっくに無くなってしまったよね。残念なことをしたよ。
亥(い)の子(こ)のぼたもち
大根といえば、こんな話もあるんだよ。
昔、この辺りには亥(い)の子(こ)さまという大きなイノシシがいたんだって。亥の子さまには9匹の子どもがいて、やんちゃで暴れん坊だったの。畑にやってきては、作物の芽を踏みつぶしたり、大根や芋をかじってしまったり、それはそれは大変だったんだよ。この辺りはみんな、農家だったからね。作物を荒らされて、困ってしまって、とうとうみんなで相談したんだって。いつもこんなに畑を荒らされたら、仕事をする気にもなれない、どうしたらいいものかって。それで、ぼたもちをこさえて、亥の子さまに畑で悪さをしないように、お願いに行くことにしたんだって。どうか、このぼたもちを食べて、大事な畑を荒らさないでくださいって。亥の子さまに願いは通じてね、それからは作物が荒らされることはなくなったの。それで、毎年11月9日になると、ぼたもちを作るようになったんだよ。亥の子さまの子どもは9匹だから、9つの大きなぼたもちを作って、重箱に詰めるの。それを畑に持っていくんだよ。
うちでは、そのぼたもちを畑に置いてきたんだけど、そのまま持って帰る家もあるんだよ。知り合いの家では、ぼたもちを大根畑に持っていって、畑の周りをぐるっと回るそうだよ。そうすると大根がぼたもちを見たくて、ぐいっと首を伸ばすんだって。大根がぐんと大きくなって土から持ち上がるんで、抜きやすくなるってことだね。
ほかにも、ぼたもちをみんなで食べている音を聞かせると、それを食べたくて、首を伸ばすっていう家もあるよ。そのときにね、「米かえ、粟(あわ)かえ」って、大声で聞くんだって。「米だよ」って答えると、大根が首を伸ばすんだって。だけど、粟で作ったぼたもちだと、大根が首を引っ込めちゃうんだって。それで、この日を「大根の年取り」って言ったんだよ。
お雑煮(ぞうに)とごはん
小平のお雑煮(ぞうに)は、しょうゆ味なんだよ。おもちは四角で、焼いたり、焼かなかったり。それから自分ちの畑の大根やにんじん、里芋、小松菜なんかを入れるんだよ。おもちは陸稲(おかぼ)のもちだったの。小平は水が不自由で、田んぼがほとんどなくてね。陸稲っていって畑で育つ稲を植えていたんだよ。陸稲の米は、田んぼの米に比べて、ぱさぱさして粘りけが少ないの。だからもちをついても、あんまり伸びなくて、今のようには、おいしくなかったね。それでも、おもちはごちそうだったんだよ。もち米は、ごはんに炊くうるち米より、とれる量が少ないから、それだけぜいたくだったんだね。だからお正月にしか食べられないお雑煮は、本当にごちそうだったの。
ごちそうといえば、白いごはんもごちそうだったの。白いごはんは月に1・2回しか食べられなくて、ふだんはお米に大麦を混ぜて食べていたでしょ。それも大麦の方が多いくらいだから、ぽろぽろのごはんだったよ。お正月になると、朝はお雑煮で、昼は真っ白なごはんを食べられるんだから、とても楽しみだったの。
 

 

●福生の昔話
神明社(しんめいしゃ)の近くにある小さなお堂(どう)に三体のお地蔵様(じぞうさま)があります。まん中の小さなお地蔵様には、何まいもの前かけやきものがかけられています。
このお地蔵様は「おその」と呼ばれています。おそのさんは幕末の福生長沢(ふっさながさわ:今の神明社のあたり)に生まれ、村山(現在の東村山市、武蔵(むさし)村山市あたり)にお嫁(よめ)にいきましたが、おもい病気にかかっていまい福生に帰って来ました。「私がしんだら、おそうしきなどしないで地蔵にまつってほしい。きっとみんなの病気をなおしてあげる」と言いのこしてなくなったおそのさん。この言いつけをまもりお地蔵様をたてましたが、それがいつしか「おその地蔵」と呼ばれるようになりました。
このお地蔵様は、子どもの病気に効きめがあるとゆうめいで、いまでも多くの人がお参りに来ています。
 

 

●狭山の民話・伝承
黒くなったお地蔵さま 入間川地区
むかしむかし、入間川の宿しゅくに、働者の若者が住んでいました。ところがこの若者には、体いっぱいにイボがあり、これが一番の悩みでした。そして、あまりにもイボが多いので、まだ嫁もとれずに一人者でした。もちろん今までにも大変な努力を重ねて、イボをなくそうとしましたが、今ではもう半分あきらめていました。
そんなある日のことでした。若者は、となりのおばあさんから、近くのお地蔵さまの話を聞き、おばあさんと一緒に出かけました。そして、『どうぞみにくいこのイボが、全部とれますように』と何度もくり返してお願いしたあげく、お地蔵さまの前にあがっていたお線香の灰をイボというイボに塗りつけました。
なんだかそうすると、イボがとれるような気がしたからです。『今日は、大変いい気分になりました』とおばあさんにお礼を言って、家に帰ってぐっすり 眠りました。あくる日の朝若者は、いつもと同じように顔を洗っていて、ハッとしました。昨日まであんなにあったイボが、今朝はもうすっかりとれていました。
おどろいて、体のあちこちをさわってみても、やっぱりイボはありません。もう天にものぼるうれしさでした。『これは、昨日のお地蔵さまのお線香のおかげに違いない』
このうわさは、近郷近在の人たちにパッと広がりました。そのために、このお地蔵さまにお参りにくる人たちは、今までにも増してあとを断たなくなりました。そして、お線香の灰を持って帰る人も増えました。
あとから、あとからやって来る人々が、みんなお線香を供えて行ったので、お地蔵さまはお線香の煙でいぶされて、すっかり黒くなってしまいました。
このお地蔵さまは、今でもうす黒くなって、入間川1丁目の慈眼寺じげんじのうら手の坂を登ったところのお堂の中に立っています。
くらの井戸の観音さま 入間川地区
昔のお話です。入間川の田中に「くらの井戸」と呼ばれ、どんなに日でりがつづいても涸かれることのない清水(湧水)がありました。きれいな水でしたので土地の人たちは「くらの池」とか「くらの清水」ともいいまして、米とぎをしたり、飲み水としても使った大切な場所とされていました。
ある日のこと、修行僧が通りかかり渇いたのどをうるおそうと井戸に近づいたところ突然、水の中よりありがたい光が輝きました。修行僧はおどろき手をさし入れましたところ、小さな観音像があらわれました。「これは、何かのお告げに違いない」と、修行僧は土地の人たちと相談しまして、近くの瑞光寺ずいこうじに納めることにしました。観音さまが出た井戸は、ますます人々から親しまれました。
観音像は、今も瑞光寺の観音さまのご胎内仏たいないぶつとして伝承されており、くらの井戸は「清水下公園」と呼ばれ、人々が集う憩いの場になっています。
伝・八丁の渡し 入間川地区
鎌倉街道の入間川に「八丁の渡し」と呼ばれるところがあります。大きな橋もなく人々は、川の浅瀬を探しながらの徒歩渡りでした。
昔、木曽義仲きそよしなかが源頼朝みなもとのよりともに討たれます。そのとき義仲の嫡子で12歳になる清水冠者義高しみずのかじゃよしたかは、頼朝の娘 である大姫おおひめの計らいで女装をして入間川まで逃れてきます。そして、八丁の渡しにさしかかったところで、無念にも追っ手によって討たれてしまいます。
入間川の八丁の渡しが義高終焉しゅうえんの地とされ、今も残る国道16号線沿いの「清水八幡」のお社と、奥州道に安置されている「影隠地蔵かげかくしじぞう」には、多くの参拝者が後を絶ちません。
この八丁の渡しは、市内に2ケ所あるとされています。その1つは、子ノ神ねのかみさまを下り、本富士見橋周辺の中島辺りだとか、もう1つは奥富の前田、入間川堤防に建つ九頭龍大権現くずりゅうだいごんげんの石仏辺りから柏原へ渡る浅瀬です。
春の入間川の土手を歩いていますと、周りは緑に包まれ、また、堤内では少年・少女のスポーツが盛んで、明るい元気な声と野鳥のさえずりが聞こえる中での歴史ウオーキングが楽しめます。
お諏訪さまのなすとっかえ 入間川地区
なすとっかえとは、農家がその年にとれた『なす』を持って、お諏訪さまのなすととりかえる行事です。そして、この時にとりかえたなすを食べると、一年中病気をしないと いわれています。
このなすとっかえには、入間、広瀬、柏原、入曽、そして遠くは川越や高萩(日高町)の方からも大勢の人達がやってきたそうです。
また、むかしは今のように「七夕まつり」が盛んでなかったので、お諏訪さまのなすとっかえが一番にぎわったと言われています。
そして、子ども達にとっては、境内で行なわれる村相撲が、大の呼びものでした。相撲の前の日には、大人達が入間川の河原から砂を運んで、土俵をつくります。そして、家々はぼんぼりをつけ、ところどころには屋台もでました。
また、なすとっかえのお祭りには、菅原囃子、下諏訪囃子、広瀬囃子、入曽囃子などのにぎやかな鳴りものが入り、舞台もできて、若い衆が歌舞伎芝居をしたと言われています。
そして、なすとっかえの日には、ふしぎと毎年雨がふらずに、よいお天気ばかりだったそうです。
なすとっかえ、それはそれは、にぎやかなお祭りでした。
音色のいい鐘 入間川地区
江戸時代のころ入間川にあった綿貫家は、たいへんなお大尽だいじんだったそうです。
〜江戸は綿貫家、北が本間家で大坂は鴻池こうのいけ〜 と唄にうたわれたほどの大金持ちだったそうです。
なにしろ江戸の神田に出店をたくさん持っていまして、旗本衆はたもとしゅうにお金を貸すときは二、三百両はすぐにふところから出したといいます。また、綿貫家の台所にありますお皿やお茶わんを並べますと、家の門から所沢の神明社あたりまでつづいたといいます。
昔のおはなしです。成円寺じょうえんじ※(中央公民館あたりにあったお寺)にある鐘楼堂しょうろうどうの鐘はたいへん音色がよく、聞く人がおもわずその場にたち止まってしまうほどだったそうです。
そのうえ遠くにまでよくひびきわたることでも有名で、一度鐘の音を聞いた人は『いったいどんな鐘だべえ?』とわざわざ見物に来たそうです。そして鐘の音のいい理由を聞いて みんな納得して帰ったそうです。
この鐘は綿貫家が寄進きしんしたもので、鐘を鋳造ちゅうぞうするとき、おしげもなく大判、小判をどっさり焼きこんだからだそうです。
沢のお雷電さま 入間川地区
入間川地区の沢という所に、惣門そうもんで有名な天岑寺てんしんじという古いお寺があります。そのすぐそばに「雷電神社」とよばれている小さなほこらがあります。
土地の人は、この神さまのことを「お雷電さま」、「おしゃもじさま」、とか「せき神さま」とよんで親しんでいます。雷電神社とは、もともとこのあたりにカミナリの被害が多かったことから、この地にカミナリが落ちないように、みんなが願ってお祀りした神さまです。ところが、このお雷電さまには、こういう昔ばなしが伝わっています。
むかしむかし、このあたりに百日咳が大流行した時のことです。あるおばあさんが、孫娘の百日咳を治してもらおうと、お雷電さまにお願いしました。
『お雷電さま、どうかうちの孫の百日咳を治してください』
するとどうでしょう。今まで、あんなに苦しんでいた咳が、たちどころに治ってしまいました。このことがたちまち評判になって、遠くの村々の人達までが百日咳きはもとより、咳の病気や喉の病気のお願いにやってくるようになりました。そして、病気が 治った人達は、お礼に鳴りものの笛や太鼓、さらに絵馬やおしゃもじに自分の名前を書いて奉納しました。
奉納された物の中には、江戸や川越あたりの人達の名前もあったといわれています。そして、今でもお雷電さまにお参りにやってくる人が、あとを絶たないということです。
また、雷電神社のすぐそばに「天王さま」のお社があって、毎年7月中旬が、お祭りの日になっています。むかしは、屋根のついたちょうちんが賑やかに飾られていたということです。
清水八幡宮大祭 入間川地区
国道16号線、富士見橋のたもとにあります清水八幡宮の大祭は、毎年5月第3土曜日のころ行われます。小さなお宮と境内ですが、大きな銀杏が目印となります。
祭神は、清水冠者義高で、旭将軍といわれた木曽義仲の嫡子です。
義高は比企郡岩殿山大蔵が生まれ故郷といわれ、7ヶ所の清水を汲んで産湯をつかったことから清水冠者、または志水冠者義高と名のったと伝えられています。
義高は源頼朝の命により、入間河原で追手に討ち果たされます。弱冠14歳でした(このとき、奥州道にあります影かくし地蔵の伝説がうまれました)。それを哀れんだ北条政子が祠をたて、供養したのが清水八幡宮のはじまりといわれ、朱塗りの美しい神社で梨原御殿なしはらごてんともいわれました。
何の罪もない義高が討たれたことを哀れみ、今でも無実の罪などで苦しんでいる人がお参りにくるそうです。また、長野県の木曽から義高を偲毎年お参りにくる人もいるそうです。
灯籠絵もたち並び、初夏の風にさそわれ入間川沿いは賑わいます。そして、お祭につきものの下諏訪囃子が心を豊かにしてくれます。
綿貫家の井戸 入間川地区
むかしのお話です。入間川の綿貫家といえば、東北の本間家、大阪の鴻池こうのいけ家とともに、唄にうたわれたほどのお大尽だいじんだったそうです。
あるとき、井戸の水をわけてもらいにきた人がおったそうです。すると番頭さんがでてきて
『あー、それはおやすいご用です。わたしの方には四つの井戸がありますが、どの井戸をつかいますか』
その井戸といいますのは、一つめは隠居場いんきょばのあったところで、現在の図書館の下あたり、二つめは狭山市駅前の八百屋あたり、三つめは綿貫家の墓地(現在は移転しました)のあたり、四つめは徳林寺とくりんじのあたりだったといわれております。
いまさらながら、そのスケールの大きさにはおどろかされたということです。また、ぶっこし【一揆いっき】があったとき、綿貫家では、四つの井戸の中に金銀を隠しておき、家財道具は天岑寺に預けて無事だったことから、お礼にと『葷酒くんしゅ山門に入るを許さず』という石碑を奉納しました。今も参道の入り口にたっています。
入間川の大ケヤキ 入間川地区
むかしむかしのおはなしです。入間川の菅原(現在の祇園)という所にある白山神社の境内には、それはそれは大きなケヤキがありました。
この大木は、樹齢じゅれいが700〜800年以上もたっていて、太い幹みきから張り出した枝は、4キロメートルほどはなれた家までも日かげにしたそうです。また、春先の新芽がふく頃ともなると、大ケヤキの水を吸い上げる音が、あたり一面にひびきわたり、夜などは、うるさいくらいでした。
これほどの大ケヤキでしたので、白山さまのケヤキは、関東の三大ケヤキの1つに数えられ、遠くから見物の人たちが来るほどでした。しかし、この大木もある事情で伐きらなければならなくなりました。
いよいよ大ケヤキを伐る日には、大勢の職人さんが出て、やっとの思いで切り倒しました。そして、太い幹は船をつくる材料として高い値段で売られ、枝はいろいろな家具をつくるのに使われました。しかし、大ケヤキを伐ってからしばらくたったある日に、大火事が起こり、りっぱだった神社も焼けてしまいました。
人々は、この火事が、大ケヤキを伐った祟たたりだとたいそう恐れました。この大ケヤキの枝で作った大うすが、今も残っているそうです。また、この白山さまは、眼の病と虫歯にご利益があるといわれ、お九日くにちのおまつり(10月19日)には病気の治った人々が、萩の幹でつくった100膳の箸をお礼として奉納ほうのうしたといわれています。
市場の荒神さま 入間川地区
新緑のやわらかい風がここちよい5月1日、祇園にあります三柱神社みはしらじんじゃの例大祭が行われます。通称『市場の荒神さま』と呼ばれておりますが、これは昔、加藤清正公の末裔まつえいで加藤太郎左衛門という人が当地にこられた時、三宝荒神さまを奉祀ほうししたからであると伝えられています。
よく掃除された境内にはダルマ、焼きそば、植木、農具といった露店が数軒出ておりまして、けっこう賑っていました。
この荒神さまは、養蚕ようさんの神さまとしてあがめられ、繭まゆがあたりますように(豊作)と日高市、入間市あたりからも養蚕関係者や農家がお参りにやってきたそうです。
「昔は、ツゲの木に白と黄色のダンゴをさしたのをいただいたもんだ」
と、おばあさんがなつかしそうにおしえてくれました。ダンゴは繭の豊作と病気をしないようにと縁起ものだそうです。
この小さな神社には伝説も多く、神社の裏手には小さな塚があり、白いヘビが来るとか、塚を掘ると病気になるとかいわれています。
また、この塚が『将軍塚しょうぐんづか』とも呼ばれるのは、昔、新田義貞公滞陣の地であったからだといわれているのです。境内にはなぜか『古池や、蛙飛び込む水の音』の句碑くひもあります。
この神社の祭礼と同日時に青梅市の今井にあります三柱神社でも養蚕守護のお祭りが行われ、やはりツゲの木にダンゴをつけた縁起ものがあるそうです。ただ、こちらのダンゴの色は赤、黄、青だったそうです。※現在は神事のみ行われています。
狭山の長者伝説 入間川地区
狭山市は、昔、入間川とよばれる宿場町として大変栄えました。
そのころ、綿貫様という長者どのがおりました。大きな屋敷には4か所の井戸を持ち、異変のためにたくさんの抜け穴が掘られました。
現在の中央図書館前の道を「山下通り」・・・この「山下」は、綿貫家の屋号で、江戸の上野にも「山下」の地名をつくったそうです。入間川を本拠地として、江戸の神田周辺にたくさんの店や蔵、土地を持っていたことから、江戸の綿貫家、北の本間家、大阪の鴻池と、唄にうたわれるほどのお大尽でした。
入間川宿から江戸までの道のりでは、一歩たりとも、他人の土地を踏まずに行けたといわれ、綿貫家の台所にある皿や茶碗を全部並べると、家の門から所沢まで続いたともいわれています。また、綿貫家のいろりは、それは大きく、そばに9尺2間の屏風が置かれていたそうです。
江戸の神田には、毎日70人からの食客があり、角力取すもうとり、役者、絵師が寄食していたり、大名、旗本衆に大金を貸したりしていました。
そんな長者伝説の遺跡が残る入間川は、歴史の1ページを飾る貴重なところです。
七曲の井と観音堂 入曽地区
昔のお話です。武蔵野台地であるこのあたりは水にたいへん苦労してきたところです。ある大かんばつにおそわれた年のことです。村人はこまりはてて、観音堂のご本尊である聖観世音しょうかんぜおんさまに一心に祈りつづけましたところ、古老に『御堂の横の古井戸を掘ってみよ』と夢のおつげがありその通りにしました。すると井戸の底より水が湧きだし人々はうるおったそうです。
また、この御堂は毎年1月11日がお祭りで、馬が五色の布でかざられ、鈴をならし御堂を何度も まわったそうです。今は馬は出ませんが入曽囃子が奉納され、常泉寺の住職が護摩ごまをたきます。
帰ってきた夢地蔵さん 入曽地区
信州(長野県)の小諸 、千曲川のほとり、湯の瀬温泉に安置されていました、通称「夢地蔵さん」。その昔は南入曽の大日堂に安置されていたもので、平成7年ごろようやく信州から里帰りしたのです。
ある人が、お地蔵さんのお告げにより、みごと信州の地に温泉を掘り当てたのだそうで、このことが大評判となり、お地蔵さんは小諸に居ついてしまったのです。
ところがお地蔵さん、やはりふるさとの南入曽が恋しくなったのでしょう、大勢の人たちのお力により、帰ってまいりました。
すると、人々の切ない夢や希望を叶えてくれるという伝説をたよりに、大勢の人が願掛けに来たそうです。
もちろん夢は、その人のたゆみない努力によって叶えられるものですが、お地蔵さんに願を掛けることにより、手助けも望めるでしょう。入曽地区には、荒縄で願を掛ける「化け地蔵さん」もあります。庶民を温かく見守るお地蔵さんに、そのうち新たな現代の民話が生まれるのでしょうか。
南入曽のおさるさん 入曽地区
南入曽の入曽用水路の近くに「青面金剛 」と彫られた小さな石仏が立っています。
近所の人たちは「おさるさん」と呼びまして親しんでいます。青面金剛とは、庚申さまとも言われ「見ざる、聞かざる、言わざる」の三匹のさるが彫られたものが一般的ですが、ただの文字塔もあります。
むかしから南入曽では、子ども達が「はしか」に掛かったときは、すぐおばあちゃんが『なら、おさるさんにお願いに行くべえか』と言いまして、泥のだんごを作っておさるさんにお供えします。そして、無事に全快したときは、お礼に白い米のだんごをお供えしたそうです。
今もおさるさんには、しめ縄やだんごが置かれていて、庶民信仰の深さがしのばれています。
歯いたどめの神さま 入曽地区
北入曽の旧鎌倉街道沿い、七曲井のある観音堂から野々宮神社に向かう道端に、めずらしい「歯いたどめの神さま」が立っております。
昔、村にはお医者もおらず、何かあったときには遠くの町まで行かなければなりませんでした。そこで、病で苦しんでいる人たちは、道端のお地蔵さんや馬頭さんに願懸けをすることがありました。
ある親子がいまして、子どもの偏食がひどく、甘いものばかり食べていましたので、とうとう虫歯になってしまいました。『そんなときは北入曽の歯いたどめの神さまだ』と、おばあさんに言われまして願懸けに行くことにしました。そこに行くときは、必ず自分の使っているお箸はしをもって行くそうです。そして何日か願を懸け、無事、歯の痛みが治りましたら 『おかげさまでよくなりました』とお礼を述べて、お箸を倍にしてお供えするのだそうです。
この神さま、よほどご利益があると見えまして、今も小さな石の祠の前には色とりどりのお箸がいっぱい供えられております。そして、祠の中には、なぜか「水神さま」と「稲荷さま」の二柱ふたはしらがまつられています。
不老川のお話 入曽地区
北入曽を流れる不老川(としとらずがわ)は伝説の川として有名ですが、川の周辺にもたくさんの伝説が語りつがれています。
昔は蛇行していた川で、上新田の『べえっくび』といわれる小さな淵は、地下水が入間川の鵜ノ木までつながっていたといわれ、縁起のいい白いヘビがいたそうです。
不老川は一名「大川」とも呼ばれ、近くを流れる入曽用水いりそようすいを「小川」といって、二つの川を「親子川」と呼んだそうです。
「小川」のそばには大日堂があって「夢地蔵」という人々の夢を叶かなえてくれるめずらしいお地蔵さんがあったそうです。
「七曲の井」(史跡県指定文化財)のとなりにある観音堂[常泉寺持ち]ご本尊さま(聖観世音菩薩)に水不足でこまっていることをお願いしたところ夢つげがあり古井戸を掘ったところ清水がコンコンと湧き出たという話しがあります。
金剛院と入間野神社では毎年10月中旬には、雨ごいや疫病をたいさんさせるための獅子舞が奉納されます。これを入曽の獅子舞といいます。
野々宮神社には「日本武尊」の言い伝えがあり、神社の手前には「歯いたどめの石仏」の赤い祠があります。中には水神さまと稲荷さまが安置され、お箸をもってお願いにいくと不思議と歯いたがなおるといわれています。
そして、山王小学校の近くには名高い「化け地蔵さん」と女性の信仰が厚かったといわれる山王橋の「山王さま」があります。
ずっと下って鎌倉街道が通る橋に「権現橋」があります。橋のたもとには、文字塔の石仏で奥武蔵にある子ねの権現さまが祭られており、ワラジを持っていってお願いすると足腰がじょうぶになるという伝説があります。
堀兼の井かいわい 堀兼地区
堀兼神社にあります「堀兼の井」は、古くから歌人に詠まれた場所として有名です。
『武蔵野の堀兼の井もあるものを うれしや水の近づきにけり』俊成
『くみて知る人もあらなん自づから 堀兼の井のそこの心を』西行
不老川(としとらずがわ)にかかる権現橋から新河岸街道をのんびり歩きますと、途中に弁財天の石仏[元禄13年(1700)]がたっています。
そこより雑木林の方へ歩を進めますと、林の中はまさに国木田独歩の「武蔵野」の世界です。県選定の“自然の森”になっているところで四季を通じて、その変化の美しさに感動するでしょう。
この辺りより望む堀兼神社こそ、古歌の心にひかれる場所ではないでしょうか。また、元弘3年(1333)の昔、分倍河原で戦って大敗した新田義貞軍が「いったん堀金さして退いた」と『太平記』にあります。
ちなみに堀兼神社の前を通る道は古来より『鎌倉街道』といわれています。
お乳のでる井戸水 堀兼地区
堀兼の青柳に「釈迦堂」がありますが、このお堂の境内にある井戸の水を飲むとお乳の出がよくなるといわれております。
昔のお話です。川越からやってきた利白和尚(りはくおしょう)という徳のたかい僧がなくなるとき、『この地に釈迦如来の石像をつくり安置すれば、どんな願いごともかなうであろう 。』といったそうです。
その後、近くにすむ若夫婦に赤ちゃんができましたが、お乳が出なくてなやんでいました。こまったときの神だのみと、うわさで聞いていました釈迦如来に3・7の21日間お願いしました。
そして満願の夜、若夫婦の夢まくらに利白和尚があらわれ 『なんじらのこまりごとは、釈迦堂の境内の井戸の水で乳房を洗い、井戸の水を朝・夕飲めば、よいお乳が出るであろう。』
お告げのとおりお乳がたくさん出るようになり、子どもはどんどん成長して、幸せになったということです。
3体のお地蔵さん 堀兼地区
むかしむかしのお話です。堀兼の加佐志には「耳だれ地蔵」とよばれる、有名なお地蔵さんがあります。
そのすぐそばに、3体のお地蔵さんが立っておりますが、このお地蔵さんは、村の災難を救ったということで、大変感謝されております。
ある年のこと、加佐志あたりに、はやり病がひろがり、良く効く薬も無く、困り果てました。村の古老に相談しましたところ
『由緒ある地蔵尊が、石橋の下に埋もれている。これを掘り起こせば、たちどころに病はおさまるであろう。』とのお告げがあったそうです。
さっそく橋の下を掘り起こしますと、どうでしょう!りっぱなお地蔵さんが、3体もあらわれましたので、さっそく丁寧に安置いたしました。すると、たちどころに病気は下火となり、村には平和がもどったということです。
このお地蔵さんには、「加佐志」のことを、「風下」と刻まれているそうです。
せんちゃん地蔵さま 堀兼地区
青柳地区を流れている小川のそばの辻に、小さなお堂が建っています。そして、このお堂の中には、「中橋地蔵尊なかはしじぞうそん」というちいちゃなお地蔵さまが、ちょこんと立っています。ところが人々は、このお地蔵さまを中橋地蔵とは呼ばずに、だれもが 『せんちゃん地蔵』と呼んでいます。
そのいわれは、むかしむかし、お地蔵さまのすぐそばに、小さな茶店がありました。そして、茶店で売っていた焼きだんごも『せんちゃんだんご』と呼ばれ大そうな評判でした。
旅の人たちも、かならずここに立ち寄って、お地蔵さまに旅の無事を祈り、茶店でせんちゃんだんごを食べて、また旅を続けました。
せんちゃんと呼ばれるのは、実は茶店のおじいさんが『せん松』という名前だったからなのです。せん松さんは、若いころに青柳へ引越してきましたが、そのころにはあたり一面背たけよりも高い藪(やぶ)が茂っていて、川には土手もありませんでした。『これじゃあ、みんなが困るべぇ』とせん松さんは、まず草を刈り、次に川のふしん(工事のこと)にとりかかりました。その時に掘り出したのが、このお地蔵さまでした。
それからは、だれいうとなくこのお地蔵さまを『せんちゃん地蔵』と呼ぶようになりました。特にこのあたりは、おかいこさまや野菜を出荷する時には、入間川へ行く大八車をつくり、茶店も繁盛したそうです。
しかし、今は大八車が自動車になり、道もりっぱになったため、人通りがまばらになり、とうとう茶店もなくなってしまいました。しかし、せんちゃん地蔵だけは今も残っています。
第六天さまの狐 堀兼地区
むかしのおはなしです。堀兼の青柳に住むある男が、川越の新河岸へと、大八車に荷物をいっぱい積んで出かけました。
第六天の林の中を通ったそうです。その時は、とても急いでいましたので、サッサとかけぬけたそうです。
林の中は杉の木が立ち並び、昼でもなお暗いところでした。やがて仕事も終わり、帰るときは日も暮れ、月がでていました。
第六天の林の中から家の明かりがチラチラ見えましたので、『やれやれ!ひと風呂あびて、一杯やるべぇ!』と、少し足を速めました。ところが、歩いても歩いても、明かり は遠くなるばかりで、家にたどりつきません。
気が付いてみると、なんと、新河岸にもどっているではありませんか。男は立ち止まり、一服つけて考えました。『そうだ!おら、今朝方あわてていたんで、第六天さまに挨拶しなかったべぇ!これは、第六天さまの狐のしわざにちがいなかんべぇ!』と気が付き、おおいに後悔しました。
それからは、林の中を通る時は『第六天さま』と言って通るようになったそうです。
堀兼の六地蔵さん 堀兼地区
旧川越街道・北入曽と堀兼の境の辻に、市内でもめずらしい六地蔵さんがたっております。正式には石幢六地蔵菩薩せきどうろくじぞうぼさつと呼ばれ、六角の面それぞれに、お地蔵さんが彫られています。
六地蔵とは、この世で犯した罪のむくいに、死後、閻魔大王のさばきにより、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六つの世界に落ちて罪のつぐないに、長い苦難の歳月を過ごすと、信じられておりました。そのときに、救いの手をさしのべるのが、六つに分身した、お地蔵さんだそうです。
昔、大八車にたくさんの荷を積んで、行きかう人々も、辻のお地蔵さんまで来ると、『あー、お地蔵さんだ、ここまで来れば、もう安心だべ!』といって手を合わせて通りすぎていったそうです。近所の子ども達も、六地蔵さんの前で遊んでいる分には、大人たちも安心して、仕事に精が出たそうです。
街道も広がり、車の往来の激しくなった現在も、この六地蔵さんの前では、大きな事故が起こらないのだそうです。
この六地蔵さんは、貞享3年(1686)に造られたもので、今も小さなお堂の中に安置され、人々の安全を見守りつづけております。
ほっぽられたお地蔵さま 堀兼地区
むかしむかし、まだ堀兼のあたりの開拓が、始まりだした頃のお話です。その頃の堀兼は、人家も少しずつ増えてきて、小さな村ができ始めていました。
そんなある日のこと、そのころ『小江戸』といわれていた川越から一人のお坊さんが、堀兼にやってきて、小さなお堂をつくりました。それは、このあたりで、初めてできたお寺でしたので、大勢の人たちが集まり、たいそうにぎわったそうです。
しかし、時が経つにつれて、お坊さんの気がゆるんだのか、だんだんいばりだしてきて、とうとうお坊さんにあるまじき事をするようになってしまいました。
そして、いつの間にか土地の人たちとのもめごとが絶えないようになり、やがてお坊さんは、土地を追われるようになってしまいました。その時、お坊さんは川越から持ってきた石のお地蔵さまをせおって帰ることにしました。ところが、いざせおって歩きだすと、お地蔵さまがあまりに重くて、とうとうお地蔵さまを途中の道ばたにほっぽり投げてしまいました。
そのときのお地蔵さまは、今も『かみや』という所の道ばたに立っているそうです。
第六天のキツネ 堀兼地区
市内六地区には、キツネにまつわる昔話が多く語られています。
昔々のお話です。
堀兼、青柳の第六天あたりは、松や杉の生い茂るところでした。
福原(川越市)からやってきたおばあさんが、このあたりを通りかかったとき、キツネが杉の根元にある稲荷さまの祠ほこらで寝ているのを見つけました。おばあさんは、いたずら心で小石を投げると、キツネは飛び上がって逃げていきました。
用事も終わり、おばあさんが第六天まで戻ってきたときは、すっかり夜になっていました。突然、火の玉が現れ、大きな杉の木の上で、どんどん大きくなっていくではありませんか。おばあさんはびっくり!
近くの家に走り込み、「火事だべえ」と大騒ぎだったそうです。
さて、翌朝、行ってみると焼けた跡は何もなく、松や杉は青々と茂っていましたと。
これは、第六天のキツネの意趣返し。稲荷さまのお使いでも、時々、いたずらもします。
稲荷さまは、五穀豊穣を願う農家の屋敷神として祀まつられています。
ドンドン焼きのはなし 奥富地区
奥富地区の前田という所では、お正月の14日に「ドンドン焼き」という子ども達の行事がありました。
師走の中頃ともなると、子ども達は近くの山へ大きいナラの木を伐に出かけます。そして伐った木は、大勢で「わっせ、わっせ」と担いできて、大人達に見つからないように、茶畑の下に隠しておきます。
そして、いよいよ年が明け1月の14日になりますと、お正月に使った門松、シメ飾り、書きぞめ、それに前年のお棚 (年神さま)やダルマなどを家々から持ちより、大八車にのせて村のはずれの田んぼへ運びます。
次に、かくしておいたナラの木を田んぼに運んで、1メートルぐらいに掘った穴に大きい木と小さい木を一本づつ立てます。そして、ワラ 束を木に巻きつけて、よく燃えるようにします。門松、 シメ飾り、書きぞめは、ワラの下へ入れます。 準備ができあがると、小さい木の方に火をつけます。その火が、ドンドン焼きのお知らせになって、 大勢の子どもや大人が集まってきます。そこで、残りの大きい木に火がつけられ、ドンドン焼きはいよいよクライマックスを迎えます。
子ども達は、桑の木にまゆ玉のおだんごをつけて、ドンドン焼きの火で焼いて食べます。こうすると、一年中虫歯にならないといわれています。また、 舞い上がる灰が高ければ高いほど習字が上手になるともいわれています。
こうして、ドンドン焼きは夜のふけるまで、にぎやかに続けられます。
次の日に子ども達は、ナラの木をたおし、マキにして村中に売り歩きます。このお金は、子ども達の遊びの資金にしたといわれています。また、ドンドン焼きで 子ども達にふみ荒らされた田んぼは、その年はかえってよくお米がとれたそうであります。
歯痛止めの金山さま 奥富地区
奥富地区の上奥富、梶屋というところの道端に「金山さま」という小さなお社があります。
昔のお話です。ふち端ばたの方に老夫婦とかわいい孫娘が住んでおりました。孫娘はかわいがられすぎたせいか、毎日甘いものばかり食べておったそうです。とうとう虫歯ができまして『ばあちゃん歯が痛いよー』と泣いておったそうです。
おばあさんは『しかたがねえ、ひとつ評判の金山さまに行くべえか』と言い、おじいさんは『じゃあ、金山さまの周りにあるハチス[蓮]の花をとって、それに針を通してお願いするとよかんべえ』と言いました。
さっそくおばあさんは孫娘を連れて金山さまへ出かけて行き、ハチスの花に針を通して、三さん・七しちの21日間、熱心に願掛けをしました。
すると不思議にも、あんなに痛がっていた孫娘の歯痛がケロリと治ってしまいました。無事に治 った場合はハチスの花に通した針を取り除くのだそうです。お礼には、金具で作った鳥居が置かれていたと言います。
金山さまは、『トンテンカン』と金属をたたき、色々な器具を作る鍛冶屋の職人さんたちの守り神だと言われております。
火事をふせいだ田にし 奥富地区
むかしのおはなしです。下奥富の吹上にあります亀井神社は田んぼの中にありました。
村では田植えもおわり、ひと息いれ、のんびりとした日がつづいていたある日のことでした。とつぜん神社近くにある家から火の手があがり、おおさわぎとなりました。
『火事だ、火事だ!』
『たいへんだ神社があぶねぇぞ!』
急なことで村の人たちはおろおろと右おう左おうするばかりでした。
『水だ水だ!』
『はやく、はやく!』
火はみるみる広がり神社にまで火がうつろうとしたときです。田んぼの方からなにやら小さな生きものがゾロゾロと神社に向かっていくではありませんか。やがて本殿をグルリと囲み、たてものが 見えなくなるくらいベタベタとくっつきはじめました。そして、火が本殿をひとのみにしようとしたときです。小さな生きものがいっせいに水を吹き出し火を消しはじめました。そのみごとさには村のひとたちも拍手かっさいでした。
無事、神社を火事からまもった恩人をよく見ますと、なんとそれは水田や小川にすむ"田にし"ではありませんか、こんなことがあってからは下奥富では 、けっして田にしをとって食べてはいけないということになったそうです。
大芦の神の木さま 奥富地区
下奥富の大芦(おおあし)に大樹寺という古いお寺がありました。
昔のおはなしです。徳のたかいお坊さんが大芦にやって来て虚空蔵さまを安置あんちし、持っていました杖をお寺の境内につきさし、いずこともなく去っていきました。
その杖が不思議にも年々育っていき、しっかりと根をはり大きなケヤキとなりました。それが大樹寺の神の木さまといわれるようになりました。
根っこあたりの大きさは大人が15人、手をのばしてやっとつながるほどでした。また、根っこには、大きな穴がありまして、なんと大人が10人も入れたそうです。それに根っこの穴に湯を入れてお祈りして、その湯を飲みますと万病に効いたそうです。これが評判となり村の人はもちろん、近郷近在の人が列をなしたといいます。
そして、神の木さまの高さといったら、木に登りはじめ中腹あたりで、もう川越の伊佐沼がゆうに見られたということです。
この神の木さまの大ケヤキも、大樹寺も今はありません。
塩釜さま 奥富地区
奥富の吹上という所に小さな観音堂があります。そしてこの観音堂の脇には、塩釜さまとよばれる神さまがあります。
この塩釜さまは、むかしからお産(赤ちゃんを生むこと)の神さまとして有名です。また、塩釜さまは本来、塩釜神社といい、総本山は宮城県の塩釜市にあり、むかしから安産の神さまとして、広く信仰を集めています。
奥富では、お嫁さんに行く人や、ほかの所からお嫁さんに来た人は、かならず塩釜さまにお参りをしました。
『どうぞ、よい子宝に恵まれますように』また、『無事に赤ちゃんが生まれますように』とお願いして、塩釜さまの大札や中札、安産のお守り、腹帯、麻、小口、そして、おさご(お米)などをいただいてきたといわれています。
念願がかなって、元気な赤ちゃんが生まれると、きれいに着飾った親子が塩釜さまにお礼にやってきます。
『塩釜さま、おかげさまで無事に元気な赤ちゃん生まれました。どうもありがとうございました。』とお礼をいい、家ではお赤飯を炊いてお祝いしたそうです。
また、塩釜さまは近郷近在(近くの村や町のこと)の人たちからもたいそう信仰され、遠くは八王子のあたりからもお参りにやって来たといわれています。
吹上の塩釜さまには、安産のほかにもいろいろなご利益があり、額や赤いハタ、そしてきれいな絵馬などが納められていました。
また、毎年3月10日ごろには[塩釜講]という女の人たちだけの集まりもあったそうです。
キツネのいたずら 奥富地区
たいていの農家では屋敷神として稲荷さまを祭っています。稲荷さまのおつかいのキツネどのがまだまだいばっていたころのお話です。
むかし下奥富あたりが、まだ家も少なく、雑木林と草っぱらが広がりさびしかった頃のことです。
ある日、大芦(おおあし)に住むとうべえさんが青柳の方へお茶っぱを買いに出かけて行きました。話がはずみ、帰る頃にはすっかり日も暮れ、空には星がチカチカしていました。ちょうど五反田あたりを通りかかった時のことです。突然「コーン、コーン!」と板木をたたく音が聞こえてきました。
『はて?』ととうべえさんは立ち止まりました。すると、板木の音がはやくなってきました。「コーン、コーン、コーン!」
『これは大変だ、火事だべぇ!』すると暗やみの中、高張ぢょうちんが浮かびあがり数がどんどん増えてきて、それが波をうつように走りだしました。
『火事だ!火事だ!』と叫びながらとうべえさんも追いかけていきました。
しばらくかけておりますと高張りぢょうちんが一つ、二つ・・・と消えていきます。でも板木だけは「コーン、コーン!」となっておりますので、とうべえさんはなおもかけていきました。その時です。
『おーい、とうべえさん!』と誰かが呼ぶ声がしてハッとして振り返ってみますと、近所の人たちがけげんそうな顔をして立っています。よく聞いてみますと、なんととうべえさん畑のまん中をグルグルとかけまわっていたのだそうです。
これは、五反田にすむキツネのいたずらだそうです。
弁天さまの雨もり 奥富地区
昔のおはなしです。下奥富に弁天さまを祀る小さなお社がありました。その近くに大工仕事をなりわいとする「いっつぁん」という正直な男が住んでいまして、日ごろから弁天さまを大事にしてよくお参りに行っておりました。
ちょうど梅雨(つゆ)の季節に入り毎日、うっとおしい雨が振り続きました。そんなある夜のことでした。島田(女性の髪型で島田まげという)を結ったきれいな女の人が「いっつぁん」の夢まくらに現れまして、
『いっつぁんよ 弁天さまの屋根がこわれ、雨もりがひどくて困っておる、どうか直してくれ』と言ったそうです。翌日はやく弁天さまの所へ行ってみますと、女の人が言ったとおりでした。ゆうべのは弁天さまの化身けしんだったのかと念を入れて屋根を修繕いたしました。
その後、「いっつぁん」の家は弁天様を大事にしたおかげで、ますます栄えて幸せに暮らしたということです。この弁天さま、今はなくなりましたが、「弁天通り」という地名だけが残っております。
かまってもらえぬ稲荷さま 奥富地区
むかしのお話です。下奥富の前田に小さな屋敷稲荷さまがありました。
その屋敷の主人は、お正月など、特別の日に限っては大変なごちそうを山盛りにおかざりしました・・・が、日頃はあまり稲荷さまをかまいません。それで、稲荷さまをおまもりしているキツネどのは毎日お腹をへらしておりました。
そんなこんなでキツネどのは、夜もふける頃になるとこっそり祠を抜け出しては、食べ物を持って通る人を待ち伏せしては、しっけいしていました。その被害は、日を追って増えてきまして、うわさがどんどん広がり、さすがに屋敷の主人もほうっておけなくなりました。
それからは、お稲荷さまには朝・昼・晩と、かならず食べ物があがるようになったそうです。そして、キツネのいたずらもなくなったとということです。
かさもり稲荷 奥富地区
下奥富の大芦の、あるお屋敷の稲荷さまは「かさもり稲荷」と呼ばれ、近郷近在では知らぬ人がいないほど有名です。
むかし、働き者の孝行息子がおりましたが、ただ一つの悩みは身体中におできがあることでした。それで所帯を持つことができません。いろいろな薬をためしてみましたが、らちがあきません。困った末に村の古老に相談しましたところ、大芦の稲荷さまに願をかけてみろといわれました。
『はじめに泥のだんごをあげ、おできが治りますようにと願をかけ、治ったときは白い米のだんごにするべぇ』と教わり、最後の頼みとばかり泥のだんごを持って稲荷さまに出かけました。
願かけは、3・7の21日間、毎日かかさず泥のだんごをあげましたところ不思議にも身体中のおできがとれてしまいました。
それで風習ならわしどおり、すぐに白い米のだんごを持ってお礼に出かけました。それで、かさもり稲荷には、今も泥のだんごと白い米のだんごが置かれているそうです。
上奥富のやんめぇばぁさん 奥富地区
上奥富の竹の花に通称「やんめぇばぁさん」と言われているお社があります。
今は、道路脇の崩れかかったさびれたお社になっていますが、むかしは、たいそう栄えていたそうです。
このやんめぇばぁさんには、もろもろの病を治すという言い伝えがあります。特に、目の病気にはご利益があり、願掛けをして治らない人はいなかったという程です。このお社には、こういうお話が伝わっています。
むかしむかし、たいそいう信仰心が厚く、目の病気で苦労したおばぁさんがいました。そして、このおばぁさんが亡くなる時に『私は、目の病気で苦しんだから、目を病んでいる大勢の人を助けたい』と言い残しました。
それを聞いた村の人たちは、ぜひおばぁさんの気持ちを生かそうと、みんなで力をあわせて小さなお社をこしらえました。この話が、たちどころに広がり、近くの村々の人たちが『上奥冨のやんめぇばぁさんは、目が治る』と絵馬やおだんごを持って願掛けにやって来るようになりました。
毎年1月14日のまゆ玉の時などは、近所の人達が木の枝に白いもちをくっつけて、やんめぇばぁさんのお社にお供えしたと言われています。
また、願いごとがかない目が良くなった人は、そのお礼に鳥居を納めたそうです。
このやんめぇばぁさんは、今もみんなに語りつがれている横丁の神さまであります。
武蔵野の一本松の道標 奥富地区
むかしのお話です。万葉集にでてくる入間路(いりまじ)は、広い広い荒野でした。江戸時代に入っても雑木林と、ところどころ田畑のある草原でした。
あるとき旅人が通りかかりました。はじめてやってきたらしく道をさがしながら歩いておりました。ちょうど下奥富あたりへきたとき、畑しごとをしている人に道をたずねました。
『越生(おごせ)の方へ行きたいのですが』
『あー、それなら一本松の道しるべを見ればわかるべー』と、道標をおしえてくれたそうです。
それは、武蔵野の一本松の道標といいまして、寛政二年(1790)に造られた石柱でした。
[東 川越一り半、西 扇町屋一り半 八王子拾八り、南 三ツ木□□村武蔵野、北 下奥富入口 柏原生越道] と、彫られています。また、「武蔵野は西も東もわからねど南に北みちしるべかな」と、作者不明のしゃれた歌もあります。
生越(せごし)とは、今の越生町のことで、大きくて彫りもしっかりした道標はめずらしく、現在、国道16号線沿いにたち、市の史跡でたいせつな文化財です。
オトウカさまのいたずら 奥富地区
オトウカとは「稲荷さま」のことで、稲荷神社のお使いはキツネだそうです。それでキツネのことを狭山辺りでは、オトウカさまといっています。
昔のお話です。
下奥富の前田に住む、おじいさんが畑での仕事も終わり、夕暮れ近くなったので、のんびりと篭を背負って、夕焼けを眺めながら帰りかけたときのことです。
周囲が急に薄暗く、どこからともなく、水があふれ出てきました。
「ウワァー!こりゃあ、なんだべえ?」
慌てて尻をまくって、水の中で右往左往しながら、「深い、これは深い!誰か助けてくれー」と大声で叫んでおりました。
後ろの方から、「おーい!おじいさん、なにをやっとるべえ?」
ハッと我に返ったおじいさんは、なんとソバ畑の中を歩いておったのでした。
これは畑に住む、いたずらなオトウカさまに化かされたのです。
そんなことがあってから、おじいさんは、畑の仕事は朝のうちに済ませるようになったとのことでした。
耳のお地蔵さま 柏原地区
むかしむかしのお話です。柏原の中本宿にある古いお寺のそばに、あぐらをかいて、片手で耳を押さえている、ちょっと風変わりなお地蔵さまがありました。
初夏の太陽がカンカンとてりつけるあるあつーい日に、となり村に住んでいるおじいさんが、このお地蔵さまのまえを通りかかりました。このおじいさんの耳は、若いころには良く聞こえていましたが、今ではよる年なみには勝てずにすっかり聞こえなくなっていました。
おじいさんは、お地蔵さまに気づいて『おーお、お前さまも耳が悪いのかね。頭巾もかぶらねえでお天道てんとうさまにこうジリジリあぶられちゃあ大変じゃわい。かわいそーに』と言って小川から冷たい水をくんできて、お地蔵さまの頭や体を冷やしてあげました。
そんなことのあった次の朝のこと、おじいさんは『おじいさん、おじいさん』と言うおばあさんの声にびっくりして目をさましました。
不思議なことに、今朝はおじいさんの耳がすっかり聞こえるようになっていました。別に医者にみてもらってわけでもなく、薬を使ったこともなかったので、いろんなことを思い出してみると、きのうお地蔵さまにしてあげた親切を思い出しました。
『こりゃあきっとお地蔵さまのご利益だべえ。聞こえる、聞こえる。ばあさんの声が。お地蔵さまありがとうございました。』
この話が大評判となって、たくさんの耳の悪い人々が、このお地蔵さまに願かけに来るようになったということです。
今もこのお地蔵さまは、円光寺の山門の裏にちょこんとすわっています。
荒縄でまかれたお地蔵さん 柏原地区
村のはずれにたっているお地蔵さんは、いつもニコニコとしたお顔で、困っている人々の願いをかなえてくれていたそうです。
昔のお話です。身体中にイボができて、困っていた男がおりました。医者にも行った。薬もぬった。おまじないもしてもらった。でも、どうしてもイボがとれません。
そんな時、柏原の上宿、上沢にあるお地蔵さんに御利益があるということを聞き、やって来ました。見ていると、子どもたちがお地蔵さんに向かって、一心に何やらお願いをして、荒縄でグルグルと巻きはじめたではありませんか。
男が不思議に思い、たずねますと、「このお地蔵さんは荒縄でしばってお願いすると、何でも聞きとどけてくれるべぇ!」「なるほど、ところ変わればなんとやら…」男もすぐに荒縄を巻き、願を掛けました。
すると、あら不思議、みごとにイボが全部とれました。めでたし、めでたし!このお地蔵さん、子どもの病気にも御利益があり、いつも荒縄が巻かれていたそうです。
影かくし地蔵さま 柏原地区
水富の上広瀬という所に、奥州道といわれている昔からの街道があります。そして、この道ばたには「影隠地蔵(かげかくしじぞう)」とよばれる古いお地蔵さまがポツンと里を見守っています。
このお地蔵さまには、こういうお話が伝わっています。それは、むかしむかし、源氏と平家がさかんに戦争をしていた頃のことです。
木曽義仲の長男の清水冠者義高は、鎌倉の源頼朝への人質になっていました。ところが、義高のお父さんの木曽義仲は、寿永3年(1184)に、源頼朝の命令を受けた源義経の手でほろぼされてしまいました。
義仲をほろぼした頼朝は、次に人質の義高を殺すことにしました。殺されることを知った義高は、義理のお母さんの北条政子のはからいで、女の子の姿をして夜に、そっと鎌倉を逃げ出しました。
義高は必死に走りました。府中から所沢をとおり、やっとのおもいで入間川を越えました。
これでひと安心と、後ろを振り向くとどうでしょう。鎌倉からの追手が馬をとばして、ぐんぐん近づいてきます。逃げる義高。馬で追う荒武者。義高は必死に走り、奥州道までたどりつきました。しかし、いくら走っても馬にはかないません。間一髪のところで義高は、道ばたのお地蔵さまを見つけました。
『お地蔵さま、どうぞ私を助けてください。』とお地蔵さまの後ろに姿をかくしました。すると、不思議なことにあれほど近づいていた追手も義高を見失ってしまいました。
清水冠者義高は、このお地蔵さまの慈悲(あわれみのこと)によって危ないところを救われたそうです。 
また、このお話とは別に、入間川3丁目の本富士見橋脇には、清水冠者義高が、この地で討たれてしまったとする史実に基づき、義高をまつった「清水八幡宮」というお社があります。
柏原のだんご坂 柏原地区
市内の入間川をはさみ、右岸左岸には、いくつかの坂道があって「ごろー坂」「ごへい坂」「石無坂(いしんざか)」「中の坂」などとめずらしい名前のついた坂道がありますが、柏原にもちょっと変わった名前の坂道があります。
白鬚神社の前の道で下宿から上宿への坂道ですが、鯨井、笠幡へとつながる道ですので通行人も多かったようです。
坂をのぼりきったわかれ道には、庚申さまと焼だんごを売る店がありましたので、馬方や旅人がひと休みをする場所としてたいそうにぎわっていたそうです。
そんなことから誰からともなく、『あの坂にだんごを売る店があるからだんご坂だべえ』と呼ばれるようになりました。また、『だんご坂のだんごはうまかんべえ 』と評判になり、遠くからもだんごを買いに来る人も多かったそうです。
このだんご坂のすぐ脇には大きなくぼ地がありました。それが人の足あとのような形をしていたことから、『だいだらぼっち(山をつくる神さま)の足あとだべえ 』と言われ、「だんご坂のだいだらぼっち」としても知られるようになり、わざわざ遠くから見物に来る人もあったそうです。
甲斐屋坂の話 柏原地区
柏原の下宿に「甲斐屋坂(かいやさか)」と呼ばれている、細く、急な坂道があります。
この坂道には、こんなお話が伝えられています。
昔々、甲斐の国(現在の山梨県)から戦にやぶれた落人がこのあたりにやって来て、田畑を耕し、道を切り開き、いつしかこの地に住みつくようになりました。
そうしたことから、人々は、この地にある坂道を「甲斐屋坂」と呼んだそうです。また、柏原から甲斐の国まで通じている坂道ということからも、この名前がついたといわれています。
「甲斐屋坂」の下あたりには、以前、石のお地蔵さんがたっておりました。これは「耳だれ地蔵さん」と呼ばれ、耳の病によく効くお地蔵さんだったそうです。そして、このお地蔵さんに願掛けに訪れた人々は、必ずタカズッポ(竹筒)を供えていったため、その量の多さにお地蔵さんが見えなくなるほどだったそうです。このお地蔵さんは、現在、円光寺に安置されているそうです。
柏原には、このほかにも、信濃坂や影隠地蔵(奥州道交差点付近)など、狭山の地名ではめずらしい名前の坂道やお地蔵さんが残っています。
眼に効く薬師さま 水富地区
昔のお話です。水富の根山の方に、それは働き者のおばあさんと孫娘が住んでおりました。朝は日の出とともに、孫娘と畑に出て、日が西の山に沈むまで畑を耕し、その日を暮らしておりました。
ある日のことです。孫娘の着物がほころびていましたので、おばあさんが早速縫いつけようと針に糸を通そうとしました。ところがです。何度やっても針の穴が見えず、糸は通りませんでした。眼が弱ったことを知ったおばあさんは、すっかり自信を失い、畑仕事も休みがちになってしまいました。
そんな時、上広瀬本宿の小川のそばに眼病に霊験れいけんあらたかなお薬師さまがあるということを聞きつけた孫娘は、すぐおばあさんをつれて願かけに出かけました。二人が毎日、熱心におすがりしたおかげで、あんなにかすんでいた眼もよくなって、針に糸が通せるようになり、おばあさんと孫娘は以前にもましてよく働くようになりました。
この薬師さまは「堀口薬師」で、ご本尊は木造薬師如来立像です。あるとき火災により、堂はすべて焼失しましたが、ご本尊は無事でした。ご先祖様が新田義興の家臣かしんであったので「新田の薬師さま」とも呼ばれ、毎月12日が縁日になっています。
赤稲荷さま 水富地区
下広瀬の入間川沿いの田んぼの中にこんもりとした塚があります。塚のうえには、小さな鳥居とお社がありますが、これを通称「赤稲荷(あかいなり)さま」と呼んでおります。
稲荷大明神のお使いはキツネで農作物の神さまといわれております。そして、狭山周辺ではキツネのことを「オトウカ」ともいって、たくさんの伝説が語られています。
とくに、オトウカの嫁入りの話は有名で入間川の土手あたりではよく見られたそうです。まず赤い灯が1つともり、あっというまに数がふえ、しばらくするとその灯が波のように上下しながら流れるように横にうごいていくそうです。それは、まるで嫁入り行列のようだといいます。
また、この塚のことを証文塚ともいいます。むかし入間川が氾濫したとき、境界が不明になることから塚をたて証拠にしたものといわれています。「蕪榎(かぶらえのき)」と「馬頭観音」、「赤稲荷」の3ヵ所がその名残りで、入間川と並行して築かれています。
ぶしゅうさま 水富地区
むかしむかしのおはなしです。水富の笹井あたりには、よいお米がたくさんとれる水田が、あたり一面に広がっていました。ところが、いつの 頃からか秋になると毎年、大雨がふったり、大粒の雹ひょうがふったりして、せっかく豊かに実った稲が折れてしまい、大切なお米が、とれなくなってしまいました。
お農家さんたちは、たいへん困り、近くの宗源寺そうげんじというお寺の和尚さまの所へ相談にいきました。 「和尚さま、そういうわけでみんな困ってるだ。どうしたらよかんべえか」
すると、和尚さまは「それはお困りでしょう。ならわしのいうとおりにしなされ」と言って、いろいろと教えてくれました。そして、小さなお堂をつくり、そこでご祈祷きとう 【お祈りをすること】をしてくれました。
すると不思議なことに、次の年からは、大雨や雹の被害がなくなりました。喜んだお農家さんたちは、それから毎年かかさずにご祈祷をしていました。
ところがある年のこと、どうしてもお堂をほかの場所へ移さなければならなくなりました。「大切にお移しすればよかんべえ」とみんなでお堂をほかの場所へ移したところ、その年の とりいれの頃になると、たちまち大嵐がおこり、大きなカミナリがとどろいたかと思うといきなり大粒の雹がバラバラふってきて、とうとうその年は 一粒のお米もとれませんで した。
おどろいたお農家さんたちは、気持ちを新たにして、お堂をもとの所へ移し、心からお祈りをしました。そうすると、また不思議なことに、この地から 雹の被害がなくなったということです。
村の人たちは、この雹難(ひょうなん)よけのありがたいご祈祷をしてくれた『ぶしゅう禅師』を今でも心からそんけいし、4月8日の花まつりには、ぶしゅうさまの徳とくをしのんでいます。
がんざ山のはくさんさま 水富地区
笹井の宗源寺の北側に「がんざ山」という昼でも うす暗く、さみしい所がありました。そこには、今も「はくさんさま」がお祭りしてあり、そのすぐそばには、滝不動といわれるお不動さまがあります。がんざ山のはくさんさまは、虫歯にご利益があるといわれ、村の人たちは、みんな願かけに来ていました。このはくさんさまには、こういういい伝えがあります。
むかしむかし、広瀬に住んでいたある女の子が虫歯になり、毎晩『いたいよー、いたいよー』と泣いていました。するとおばぁさんが『かわいそうに、そんなにいてぇなら、がんざ山のはくさんさまにお願いしてみたらよかんべぇ 』といいました。ところが、このがんざ山には悪いタヌキがいて、人が行くと悪さをして、なかなか人を近づけませんでした。
そのことを聞いていた女の子の兄さんが『よし、おらがおぶってやんから 行くべぇ。なーに悪いタヌキがでたらぶっとばしてやらあ』といいました。そして、女の子は兄さんにおぶわれて願かけに行きました。
兄さんは、村でもわんぱくでとおっていましたので、がんざ山のタヌキなどは、ちっともこわくはなかったのです。兄弟は、毎日一生懸命に願かけに通ったので、女の子の歯もすっかり治り、そのお礼に金具でできた「鳥居」をはくさんさまに納めました。この 鳥居は、針でつくったものもあったそうです。
タケが淵の伝説 水富地区
水富の笹井にある「タケが淵」には、昔からさまざまな伝説があります。
淵のまわりにはケヤキや雑木が生いしげり、昼でも暗くぶっそうなところでした。それに淵は深くよどみ、人々はあまり近づきませんでした。
あるとき、旅のオタケという瞽女さんがあやまって淵に落ちてしまいました。その後、この淵を「タケが淵」と呼ぶようになったそうです。
また一説には、オタケという娘さんが村の水不足の難をすくうために人柱となって「オタケ大日如来水神宮」となり、雨乞の神さまとなったというお話です。
そしてもう一説は、淵には「タケ坊」という河童がいて、井草(川島町)のケサ坊河童と久米(所沢市)のまんだら河童とたいへんに仲がよくて、旅をしたり、自慢話をしていたそうです。それで、近郷近在では三大河童として有名だったそうです。
タケ坊河童は、ときどき人里にあらわれいたずらをしては、こまらせていました。それでも、すぐに見やぶられ退散し、またすぐ次のいたずらを考えていたということです。
地名伝説 水富地区
むかしのお話です。
水富の広瀬にあります「広瀬神社」は、市内では唯一の延喜式内社です。埼玉県で三十三座、入間郡でも五座しかないと言われる、古く格式のあるお社やしろです。
この神社の伝説によりますと、日本武尊やまとたけるのみことが当地に来られました時、入間川の風景があまりにも、我が大和の国(奈良県)広瀬の地によく似ている、ということから、この地を広瀬と呼ぶようにと、いわれたそうです。
土地の古老の話によれば、広瀬神社から信立寺にかけては、高台になっておりまして、まわりが入間河原だったことから、人々は「中島」と呼んでいたそうです。
時代も過ぎ、川の流れも変わり、「中島」という地名を知る人も少なくなったようです。
十日夜(とおかんや)亥の子の話
『昔は、おらとこも子どもたちが、とおーかんや(十日夜)をやったもんだ 』
市内の畑作地帯に住んでいるおじいさんがなつかしそうに話してくれました。
十日夜の行事ですが、11月9日の夜は、わら鉄砲を作って畑の横の地面を力いっぱいたたきます。畑の作物を荒らすモグラやネズミを追い出す役目をしたといいます。そのとき、地面をたたく音を聞いて畑のダイコンが背のびをして大きくなるのだといって「ダイコンの年とり」といったそうです。
9日にはダイコン畑に入ってはいけないとか、ダイコンをとってはならないといったそうです。
亥の子の行事にも、いろいろな言い伝えがあるものです。
道しるべのお地蔵さん
路傍にたつ石仏は、今や少なくなりました。それでも市内の旧街道を歩いておりますと、草むらの中にポツンとたつ石仏が見られます。
その種類は多様で、地蔵菩薩、馬頭観世音、庚申塔、弁財天などがあり、たいていは道しるべが彫られています。
市内では、道しるべの石仏が約36基あり、その中でもっとも古い石仏としては、堀兼の上赤坂、新河岸街道ぞいの辻にたつ弁財天《元禄13年(1700)》です。「これより中山、はんのう、此道大目(青梅)、左は武蔵野、所沢」とあります。
また、庶民信仰の代表的な石仏として地蔵菩薩があります。水富の笹井、宮地には「道しるべのお地蔵さん」が桑畑の旧街道ぞいにたっております。
このあたりでは、子どもの守護神として親しまれており、イボやオデキで困っている人が、最初はドロのダンゴをあげ、治ると白い米のダンゴを納めたそうです。「右中山、ちちぶみち、左飯能、子(ね)のごんげん道」と彫られていました。
狭山の庚申様
市内の各地区を歩いておりますと、路傍の辻に、「庚申様」と呼ばれる石仏が、たっているのが見られます。
こわい顔をした青面金剛が、6本の手を広げ、足元に邪鬼を踏みつけ、その下には、「見まい、聞くまい、話すまい」の、三猿が彫られています。
庚申様の信仰は、古く平安時代に始まったといわれ、市内では、室町時代の天文3年(1534年)に、伝わったといわれています。
中国の道教にある、三尸(さんし)説…人の体内には、三尸という虫がすんでいて、60日毎ごとにやってくる庚申の晩、天に昇り、人間の犯した罪を天帝に告げ、寿命を縮めさせるという…。庚申の日は、それを防ぐために、夜は眠らずに、しゃべったり、食べたりして、夜明かしをする。
この教えをもとに、人々が集まったことを「庚申待」といいました。この時に、土地の「むかしばなし」が、よく語られたといいます。
義貞伝説あれこれ
むかし(鎌倉時代のころ)新田義貞が元弘3年(1333)5月8日、群馬県新田の生品明神で旗揚げをしまして、鎌倉を攻めました。
10日には入間川に到着し、小手指ヶ原へと向かいました。そのときの義貞伝説の場所が市内にはいくつかあります。
先ずは、入間川八幡神社の境内にあります「駒つなぎの松」。これは義貞が神社に戦勝祈願したとき、乗っていた馬をつないだ松だそうです。
柏原の永代寺のうら山あたりは義貞が陣屋をかまえたところといわれ「御所の内」といい「新田の館」というところもあります。
そして、奥富の瑞光寺には武運祈願したときにおさめられたといわれる「義貞の太刀」があるといわれています。 
 

 

●東京の伝承
常盤塚
江戸前期頃に成立したとされる『名残常盤記』という書籍がある。そこに描かれている伝承は、常盤姫にまつわる悲話である。 世田谷城の吉良頼康には13人の側室がいた。その中で一番の寵愛を受けていたのは、重臣の大平出羽守の娘・常盤であった。やがて常盤は懐妊し、頼康はますます彼女を愛した。これに不満を持ったのは、残りの12人の側室であった。その不満は嫉妬へ、そして怨みへと変じたのである。常盤を殿から遠ざける策をあれこれ考え、ついに卑劣な計略を立てたのである。城中一の美丈夫と謳われた内海掃部と常盤が不義密通を重ねており、懐妊したのも掃部の子であるとの噂を流したのである。さらに掃部の懐に常盤の字に似せた付け文をしのばせ、露見するように仕向けたのである。頼康は怒り狂い、ただちに掃部を誅すると、さらに常盤を捕らえるように命じたのである。身重の常盤は間一髪のところで城外に逃れるが、もはや逃れきることは出来ぬと観念し、可愛がっていた白鷺の足に遺書をくくりつけて実家へと解き放した。しかし追っ手が常盤の元に駆けつけた時には既に自害して果てており、胎児も死んでいたのである。常盤の潔白を信じるわずかばかりの者は、胎児の胞衣に吉良家の家紋である桐の模様が浮かび上がっていることに気づき、頼康に進言する。さらにその悲劇の2日後、内海掃部の屋敷から黒雲が湧き上がり、城内が鳴動するさなか、突然側室の下女が発狂して側室の数々の悪計を暴露した。そして下女の声が掃部の声に変じて恨み言を述べると共に、無念の一筆をしたためて失神したのである。頼康は、厳しく事の真相を質し、最終的に12名の側室全員を処刑した。しかし領内でさらに怪事が起こったため、駒留八幡神社の相殿に亡くなった若子を“若宮八幡”として祀り、境内社として田中弁財天を建てて常盤を祀ったのである。その後、常盤の解き放った白鷺が力尽きて落ちた土地に、名も知れぬ花が咲くようになった。その花は白く、まるで鷺が羽ばたいているように見えることから、人々は“鷺草”と呼ぶようになったという。常盤が自害した場所とされるところにあるのが常盤塚である。住宅地の一角にあるが、近隣の方々によって大切に管理されている様子が分かる。さらに駒留八幡神社の境内には、常盤弁財天と名を変えて、今も常盤を祀る祠が残されている。一方、処刑された側室達を埋めたとされる十三塚というものがあったが、こちらは環状七号線建設の際に壊されて、今はない。
駒留八幡神社 / 創建は徳治年間(1306-1307)。このあたりの領主であった北条左近太郎入道という者が社を建てたいと思ったところ、夢枕で神のお告げを聞き、馬に乗ってそれが止まった場所に神社を建立したという伝承が残る。
鷺草(サギソウ) / ラン科の植物。かつては世田谷地区に多く自生しており、区の花に指定されている。世田谷では常盤姫の伝説に付随して語られることが多く、常盤姫の実家である奥沢城の跡地である九品仏浄真寺が代表的自生地であった(一説では、白鷺を常盤姫が放ったのは自決の直前ではなく、物語の始まり、即ち常盤姫が側室になる前、実家の城付近で白鷺を飛ばしていた時に、吉良頼康の鷹が襲い、それをきっかけに二人が知り合うとする)。現在、世田谷区には鷺草の自生地は存在していない。
源覚寺 こんにゃく閻魔
源覚寺は寛永元年(1624年)創建の浄土宗の寺院である。本尊は阿弥陀如来であるが、最も有名なのは“こんにゃく閻魔”と呼ばれる閻魔像である。この像は鎌倉時代の作と言われ、非常に古い座像である(源覚寺に安置されている由来は不明)。右目部分が割れて黄色くなっているのが一番の特徴で、この姿が“こんにゃく閻魔”と呼ばれる伝承を生み出している。宝暦年間(1751-1764)のこと。眼病を患った老婆が、閻魔像に治癒祈願の参拝をおこなっていた。すると夢枕に閻魔大王が現れ「満願成就となった暁に、片方の目をお前にやろう」と言った。そして21日間の祈願を終えた時、老婆の片方の目が突然見えるようになり、お礼参りに行くと閻魔像の右目がつぶれていた。老婆はその功徳に感謝し、自分の好物であったこんにゃくを以後口にせず、閻魔像に供え続けたという。現在でも閻魔像にこんにゃくを供えて祈願するという風習が続いている。「裏表のない板こんにゃくなので、閻魔が好む」との俗説があり、また「こんにゃくを断つ」という言葉が「困厄を断つ」に通じることも信仰につながったとも考えられる。
豊島二百柱社
今から約550年前の文明9年(1477年)、現在の江古田地域で大きな合戦があった。扇谷上杉家の家宰・太田道灌と石神井城主・豊島泰経による“江古田原合戦”である。長尾景春の乱に味方した豊島氏が、道灌の拠点である川越城と江戸城の行き来を遮断したため、両者が激突することとなった。この戦いはかなりの激戦となり、寡兵で臨んだ道灌勢が豊島氏の主力を打ち破り、豊島勢は泰経の弟・泰明をはじめ有力な武将が討死する。さらに敗走して石神井城に籠城した泰経は最終的に城を捨てて逃亡し、有力豪族であった豊島氏は完全に没落する。今でこそ住宅が建ち並び何事もなかったかのような街となっている土地であるが、宅地開発が進められる以前はところどころに“塚”と称するものがあったという。これらは江古田原合戦で討ち死にした豊島氏の武将の遺骸を埋めた塚であると言われ、「豊島塚」と総称されていた。しかし開発の波によってほぼ全てが整地され、跡形もなく消えてしまっている。ただ整地の折に「人骨が出てきた」とか「刀などの武具が出てきた」という記録や噂が残されている。豊島二百柱社は、この「豊島塚」をまとめて供養する形で建立されたものである(隣にある石碑には昭和49年(1974年)の建てられたとある)。この祠のある公園の名称となっている“丸山塚”もかつてあった「豊島塚」の一つとされており、おそらくこの公園の敷地そのものが塚であった可能性が高い。この公園の向かい側にあるビルの敷地内には延命地蔵が祀られており、不思議な空間を醸し出している。実はこの地蔵も「豊島塚」にまつわる伝承を持っている。江古田原合戦が直接のきっかけで滅亡した豊島氏の怨みは凄まじいものであったとされ、それゆえに多くの「豊島塚」が造られ残されてきたが、それらが宅地開発によって徐々に失われていった昭和初期頃の話。この周辺で頻繁に事故や不幸が起こり、また頭痛などの体調不良を訴える住民が増えたため、これは豊島氏の祟りではないかとまことしやかな噂が流れ、これを供養するために建立されたのが延命地蔵であるとされている。
豊島塚 / 塚と称されていたものはあらかた宅地や駐車場などに整地され、現在残っているものはないとされる。また学術的な調査もされておらず、実際に討死した将兵の墓であったかも不明なものがある。ただ噂によると、整地の際にリヤカー数台分の人骨が一度に出た塚もあると言われている。
鐘ヶ淵
荒川区と墨田区の境界線として流れる隅田川が大きく西から南に曲がる部分が、鐘ヶ淵と呼ばれる場所である。その名の通り、この淀みの部分には沈鐘伝説が残されている。この沈んだ鐘の来歴については複数の説がある。元和6年(1620年)に普門院という寺院が亀戸の替え地に移転する際、什器を積んだ船を渡している最中に落とした半鐘である。あるいは、橋場の長昌寺という寺にあった釣鐘が享保5年(1720年)の洪水で流されて沈んだものである。さらに奇怪な言い伝えでは、この鐘は、千葉常胤が娘の夕顔姫の菩提のために建立した瑞応寺のものであったが、天文21年(1552年)に千葉氏が北条氏に降った時に、戦利品として北条氏が持って帰ろうとした。船で運んだところ、突然若い女の泣き声が聞こえだし、それが唸り声に変わると、遂には嵐のように川が波だったために鐘を沈めたのだという。この伝説に興味を抱いたのが、8代将軍の徳川吉宗であった。鐘を引き揚げよという命を下した。そこで用意されたのが、江戸市中の女性数百人分の黒髪で編み上げた綱である。これを鐘の竜頭に結びつけて引っ張り上げようというのである。そして名人の水夫がその綱を持って川の底へと潜っていったのである。鐘を見つけた水夫は早速、髪の毛で出来た綱を竜頭に結びつけた。すると目の前に若い美しい女性が一人現れた。女性は「この鐘は主のあるもの。勝手に持ち出すことは出来ません」と言う。水夫は将軍の命に背くわけにはいかないと応えると、「ならばあなたの顔も立てることにしましょう」との返事であった。水夫の合図で綱はゆっくりと引き上げられ、鐘は川底から浮き上がってきた。そしてその先端の竜頭の部分がいよいよ水面から出ようとした。しかしここで突然、髪の毛の綱が何者かの力で断たれるよう切れ、鐘はまた川の底に沈んでいったのである。ほんのわずかに竜頭だけが水面から顔を覗かせたところであったいう。その後将軍が再度鐘を引き上げるよう命じることはなかった。
縁切榎
中山道最初の宿場町として栄えた板橋にあって、名所と呼ばれたのが縁切榎である。その名の通り「縁切り」にご利益があるとされており、特に悪縁を切って良縁を授かるとして庶民の信仰を集めている。願を掛ける者は、この木の樹皮を削り、煎じて飲ませると良いとされている。この榎の木が「縁切榎」と呼ばれるようになったかについては、定説がある。江戸時代、このあたりに旗本の屋敷があったが、この垣根の際に榎と槻の木が並んで生えていた。この2本の木が目立っていたため、誰が言うともなく「えのきつき」と呼び出し、それがいつしか詰まって「えんつき」、即ち「縁尽き」の語呂合わせが広まり、その後榎だけが残ったということらしい。初代の榎は明治期に焼けてしまい(一部は現地に保存されている)、現在は2代目を経て3代目の榎となっている。この木にまつわる最も有名な逸話は、和宮降嫁の際に「縁切り」の噂を聞き及んで、この木が見えないように迂回路を造らせて行列を通したという話。この噂にはさらに尾ひれがついて、和宮の行列が通る時には榎を菰筵で覆い隠したもされる。実際、縁切榎については「嫁入りの行列が通ると縁付かない」という言い伝えがあるが、10代将軍徳川家治に嫁いだ五十宮倫子の場合も迂回路を通ったという記録があり、和宮の時だけ特別ということではなかったのが真相らしい。
皇女和宮 / 1846-1877。第120代仁孝天皇の八女。第121代孝明天皇の異母妹。第122代明治天皇の叔母にあたる。幼少の折に有栖川宮と婚約するが、公武合体運動の影響を受けて、14代将軍の徳川家茂に降嫁する。内親王が将軍家へ降嫁する事例は初めてであり(婚約は7代将軍家継の時にあったが、夭折のため降嫁までは実現せず)、多くの謎めいた噂がある。
慈眼院 澤蔵司稲荷 (じげんいん たくぞうすいなり)
澤蔵司稲荷は、小石川の傳通院の護法神とされ、慈眼院はその別当寺である。元和4年(1618年)、傳通院の学寮に澤蔵司と名乗る僧が、浄土宗を学びたいと言って入寮してきた。澤蔵司は非常に秀才で、わずか3年ほどで浄土宗の奥義を学び取ったのである。そして元和6年(1620年)5月7日、学寮長の極山和尚と傳通院住職の郭山和尚の夢枕に澤蔵司が立った。澤蔵司が言うには「私は、太田道灌が江戸城築城の折に勧請された稲荷神であるが、浄土宗の奥義を学びたくこの地に現れ、その願いは達せられた。これからは神に戻り、当山を守護し、所願を満足させよう。早く一社を建てて欲しい」とのこと。郭山和尚は早速稲荷社を建立し、澤蔵司稲荷としたのである。境内には霊窟とされる“お穴”があり、戦時中の空襲の際にも延焼を免れ、江戸期からほとんど変わることなく神秘的な雰囲気を保っている(天保7年(1836年)に出された『江戸名所図会』にもその存在が描かれている)。そして澤蔵司の逸話で最も有名なものが“蕎麦”の話である。修行僧時代の澤蔵司は、傳通院門前の蕎麦屋によく通っていたと言われ、来た日には売り上げの銭の中に何枚かの木の葉が入っていたとされる。また蕎麦を持って帰る澤蔵司の後をつけていった店の主人が狐であることを悟ったため、澤蔵司は正体を明かして寺を去ったともされる。
傳通院 / 開山は応永22年(1415年)。その後の慶長7年(1602年)、徳川家康の母・於大の方が亡くなった時に遺骨を埋葬したため、徳川家の菩提寺となった(この時に、於大の方の法名である傳通院に名を変えている)。その際、徳川家康から住職に指名されたのが郭山和尚である。
姥ヶ池跡
浅草寺の二天門から東へまっすぐ。花川戸公園内に石碑と祠、そしてわずかばかりの人工池がある。ここに明治24年(1891年)に埋め立てられるまで、姥ヶ池というかなり大きな池があった。池は隅田川まで通じていたと言われているので、相当な面積であったと推測される。浅草寺が創建された頃、この周辺一帯は浅茅が原と呼ばれ、奥州へ向かう街道ではあるものの、見渡すばかりの荒れ地であったという。その荒野にあばら屋が一軒、老婆とその娘が暮らしていた。この辺りで日が暮れてしまうと、旅人はこの一軒家に宿を借りるしかなく、二人もそれを承知して旅人を泊めていた。しかし親切な老婆の正体は、旅人が石枕に頭を置いて眠りに就くと、吊した大石を落として頭を叩き潰して殺し、遺骸は近くの池に捨てて金品を奪ってしまうという鬼婆だったのである。そしてその所業を浅ましく思う娘は何度も諫めるが、老婆は聞く耳を持たなかった。あと一人で千人の命を奪うところまできたある夕刻、一人の稚児が宿を請うた。老婆はいつものように床に案内すると、稚児が寝てしまうのを待った。そして頃合いを見計らって、いつものように大石を頭めがけて落とした。そして遺骸を改めたところで、異変に気付いた。いつの間にか稚児は女の身体にすり替わっていた。しかもそれは我が娘であった。さすがの冷酷無比の鬼婆も事の次第に茫然自失するしかなかった。そこに全てを悟ったかのように稚児が姿を見せた。その正体は浅草寺の観音菩薩。老婆の所業を哀れんで、稚児に姿を変えて正道に立ち戻らせようとしたのである。その後の老婆であるが、娘を自らの手に掛けた報いと己の所業を悔いて池に身を投げたとも、観音菩薩の法力によって龍となって娘と共に池に沈んだとも、仏門に入って手を掛けた者の菩提を弔ったともいわれる。いずれにせよ、この“浅茅が原の鬼婆”にまつわる池として姥ヶ池と呼ばれるようになったという。
「一ツ家伝説」 / この浅茅が原の鬼婆の伝説は「一ツ家伝説」と言われ、旅人を泊まらせては殺害して金品を奪う悪逆を繰り返す老婆が、法力によって改心させられるというパターンの話である。現在この伝承の最も有名なものとしては福島県の「安達ヶ原の鬼婆」があるが、こちらも法力によって成仏するという展開となっている。(この安達ヶ原の伝説も、実はこの武蔵国の“浅茅が原”の伝説の亜種であるという説もある)
浅草寺 / 推古天皇36年(628年)に、檜前浜成・竹成が拾った観音像を安置したのが始まりとされる。現在の伽藍の規模の寺院となるのは、平安時代初期のこととされる。浅茅が原の鬼婆の伝説では、浅草寺の観音信仰が色濃く反映されており、安達ヶ原の伝説とは異なる部分となっている。おそらく浅草寺の観音菩薩が登場する部分は、後世に追加されたと考えられる。
石枕 / 浅草寺の子院である妙音院に、この伝説に登場する石枕が所蔵されている。ただし非公開である。
南蔵院 しばられ地蔵
水元公園の近くにある南蔵院は、関東大震災で罹災したため現在地に移転してきたが、かつては本所(現在の墨田区)にあった寺院である。この境内にある「しばられ地蔵」は、荒縄で地蔵を縛ることで願いを叶えてもらうという、奇妙な信仰が今でも続いている。その風習の由来とされるのが『大岡政談』に収められた「縛られ地蔵」の逸話である。日本橋のある呉服商の手代が荷車に反物を積んで南蔵院の前で休憩をしていたが、うっかりそのまま居眠りをしてしまった。起きてみると荷車ごと反物を盗まれていた。奉行所に訴えると、町奉行・大岡越前は「門前にいながら、盗人の所業を一部始終見ていただけの地蔵も同罪である。引っ立てよ」と命じる。そして地蔵は縄を掛けられて市中引き回しの上、南町奉行所に連れて行かれたのである。あまりに不思議な裁きであるため、多くの人々がぞろぞろと地蔵のあとを追って、そのまま奉行所の中にまで入ってしまった。すると越前は門を閉じて「奉行所に勝手に入るとは不届き千万。科料として各人反物を一反差し出すこと」と野次馬を叱りつけたのである。そうして集められた反物を手代に見せると、その中に盗まれた反物が一つまざっていた。奉行所はそれを出した者を割り出すと、その背後にあった盗賊団も一網打尽にしたのである。この逸話のため、しばられ地蔵のご利益は盗難除け。さらには足止めや厄除け、また縄で縛ることから縁結びまで、さまざまな願い事を聞き届けるとされている。ちなみに願いが叶うと縛った縄を解くことになっているが、大晦日には縄解き供養もおこなっている。
『大岡政談』 / “享保の改革”と呼ばれる8代将軍・吉宗の治世に江戸町奉行となった大岡忠相(1677-1752)を主人公として、その機知と人情味に溢れる名裁きを講談や読本などを通して発表されたもの。ただし特定の人物によってまとめられた作品ではなく、大岡忠相の名声にあやかって各々の逸話が作られていったものと推測される。『大岡政談』として括られる一群の話には、実際に大岡が裁いた事件はほとんどなく、そのストーリーの原型は他の奉行の事績や中国古典の判じ物などに求めることが出来る。
殿塚・姫塚
扇谷上杉家の家宰(筆頭家臣)であった太田道灌の生涯はまさに戦闘に明け暮れたといっても過言ではないだろう。その中でも最もめざましい戦功を立てたのは、文明8年(1476年)に始まった長尾景春の乱である。山内上杉家の家宰である長尾家の家督争いから山内・扇谷の両上杉家に反旗を翻した長尾景春であるが、それに呼応して関東の豪族が蜂起して大乱となった。扇谷上杉家の支配する武蔵・相模でも景春に味方にする有力豪族が現れた。中でも最も厄介な存在となったのが、石神井城を拠点とする豊島泰経であった。豊島氏は名族であり、石神井城・練馬城・平塚城(東京都北区)に拠って、道灌の居城である江戸城と、扇谷上杉家の居城である川越城を分断するに至った。そのため、道灌は急ぎその障害を取り除くべく、兵を動かして豊島氏を攻撃する。文明9年(1477年)4月、道灌は泰経の弟・泰明の平塚城を攻撃。寡兵と見せて泰明を城外へおびき出し、さらに援軍に駆けつけた泰経軍と合わせて江古田で合戦に及び、これを完膚無きまで叩く。泰明は討死、泰経は石神井城へ逃げ戻るが、道灌に取り囲まれるという事態に陥ったのである。もはやこれまでとした泰経は、家宝の金の鞍を白馬に乗せて跨ると、三宝寺池にそのまま飛び込んで自害する。そしてその姿を見届けた二女の照姫も三宝寺池に入水し、ここに石神井城は落城となり、名族の豊島氏も滅亡した。道灌の平塚城攻撃から一月足らずの出来事であったという。三宝寺池は、今は石神井公園の一部として残され、池の周囲には遊歩道もできている。その遊歩道に2つの塚が残されている。一つは泰経を祀る「殿塚」、そしてもう一つは照姫を祀る「姫塚」とされる。今でもこの塚のある辺りから池底を眺めると、金の鞍が見えると言われている。また、石神井落城の頃には「照姫まつり」が催される。ただし、この伝説は史実ではなく、明治時代に書かれた小説が下敷きになっているのではないかという説もある(小池壮彦氏による)。
長尾景春の乱 / 1476-1480。山内上杉家の家宰であった長尾家の家督相続に端を発する戦乱。山内・扇谷の両上杉家と20年近く戦ってきた古河公方・足利成氏が味方し、景春に同調する豪族も多かったが、太田道灌がことごとく居城を落としていったために古河公方側から和睦の申し入れがあり、膠着することなく短期間で終わる。孤立した景春は逼塞するが、道灌暗殺後に起きた両上杉家の戦いの際に扇谷側に味方をして、再び山内との戦いに臨んだ。
立石様
葛飾区立石の地名の由来ともなった立石様であるが、応永5年(1398年)に出された『下総国葛西御厨注文』にその名があり、その頃には既に有名な物件として知られていたと思われる。江戸期には“冬に縮んで、夏になると膨張する”という不思議な現象が起こる石として噂にのぼっていたとも言う。そして、文化2年(1805年)に近隣の者がこの石の根元を確かめようと掘り下げたことから騒動が始まる。結局掘り下げても根元は現れず、さらには関係者の間で疫病が発生したために“祟り”ということで急遽取りやめ、その後石祠を建てて立石稲荷神社として祀ることになったのである。今でこそ鳥居が設けられ、神様扱いとなっているが、それはさほど古い出来事ではないということである。その後も立石様の噂は生まれ、“掘ったり触ったりすると祟りがある”とか“近くの流れる中川が蛇行しているのは立石様の根を避けているため”とかいう話にまでふくらんでいる。現在の立石様は、写真で見る通り、水色の柵に囲まれた真ん中に申し訳程度頭を覗かせている石でしかない。多分地面から数センチほどの高さでしかないだろう。しかし天保5年(1834年)に出された『江戸名所図会』の挿絵を見る限りでは、立石様は大人の腰下あたりまでの高さがあり、しかも一抱えほどの大きさの岩として描かれている。さらに石は雨晒しで祀られている形跡はなく、それどころか人が平気で触っている。話によると、立石様は明治以降“弾よけ”の御守りとして削られることが多く、また土砂の堆積や地盤沈下で埋もれてしまったために、現在のような姿になってしまったようである。実はこの立石様は上流から流れてきた岩ではなく、千葉県鋸南から切り出されてきた石(房州石)であることが調査によって判明している。つまりこの石は人工的にこの地に置かれたものなのである。しかもこの石と同じ材質のものが、近隣の南蔵院裏古墳の石室に使われている。そのため古墳石室の一部ではないか(実際の調査でも地下部分に空洞があるという指摘がある)、あるいは官道の道標として流用されたものが、いつしか歴史の記録から消え去り、後世に珍奇な石として認識されたと考えられる。
女塚神社
矢口渡で新田義興を騙し討ちにしたのは竹沢右京亮と江戸遠江守であるが、彼らの策略はかなり用意周到なものであった。 鎌倉公方の執事である畠山国清と謀り、わざと罪を得て鎌倉から追放されたり、鎌倉方と不和になったりすることで、義興の属する南朝方に近づいたのである。最初は二人の行動に対して疑念を持っていた義興であるが、徐々に彼らを信用するようになってきた。二人もとにかく取り入るためにかなりの努力をしている。その一番最たるものは“色仕掛け”である。二人は連日のように酒宴を開いては義興を招き、その席に多数の美女をはべらせて接待したのである。竹沢右京亮が義興に奉った美女が少将局である。少将局は京都から来た16歳ぐらいの上臈であったとされるが、義興はいたく気に入ったようである。そして少将局も竹沢らの謀略に加わりながらも、次第に義興に惹かれていったという。一方いよいよ時機到来と見た竹沢は、義興を自宅へ招いて謀殺しようとする。しかし、竹沢の企みを知る少将局は義興に夢見が悪いので七日間は外へ出ないように文をしたためる。義興はその文を見て外出を取りやめて危機を脱したが、少将局は事が露見して竹沢らによって殺されてしまうのであった。殺された少将局の遺骸は打ち捨てられたままであったが、村人が憐れんで塚を建てた。その塚のあった場所に八幡宮を移したのが女塚神社である。“女塚”という名称は言うまでもなく、少将局のことである。場所は東急蒲田駅から歩いて数分、かなり繁華街に近い場所にある。そして新田神社からもそれほど離れてはいない。神社本殿の脇に祠があり、これが女塚を祀る祠であるらしい。ちなみにこの神社にある石碑では、少将局は義興の死を知って自害したとされている。
頓兵衛地蔵
新田義興謀殺を題材にして浄瑠璃『神霊矢口渡』を書いたのが平賀源内である。彼はこの芝居の中で、謀殺に一役買った船頭に“頓兵衛”という名前を付けた。この頓兵衛であるが、義興以下13名の武将を船に乗せ、多摩川の半ばまで来た時にわざと櫓を取り落とし、それを拾うと偽って川に飛びこんだ。さらに、あらかじめ細工していた船底の栓を抜いて船を沈め、そのまま向こう岸に泳いで逃げていったという。ここまでのことをやれば、直接手を下していなくても頓兵衛が義興を殺したと言われても仕方がないところである。当然のことながら、頓兵衛は竹沢右京亮・江戸遠江守と並んで、源内の浄瑠璃では悪役である。ところが、竹沢・江戸の両名が義興の祟りにあって死ぬに至って、頓兵衛も前非を悔いて地蔵を一体作った。それが“頓兵衛地蔵”と呼ばれる地蔵なのである。だが、義興の祟りはこの地蔵にも直撃し、その顔を溶かしたのである。それ故、この地蔵は一名“とろけ地蔵”とも言われることになった。住宅地の一角に頓兵衛地蔵の祀られたお堂がある。中を見ると(お堂の外ではない)、なるほどボロボロと崩れた地蔵であるのがわかる。実はこの地蔵は砂岩でできており、その崩れやすい材質のためにこのような姿になったらしい。またこのような姿であるために“いぼ取り”の効験があるとされ削り取られた、あるいは義興を殺した張本人が祀った地蔵に八つ当たりした者が石をぶつけてボロボロにしたという説もある。いずれにせよ義興の祟りの凄まじさを後世に伝える物証となった訳である。ちなみにこの地蔵にはもう1つの説が存在する。この地蔵は義興の供養のために頓兵衛が作ったのではなく、祟りにあって狂死した頓兵衛自身の供養のために造られたものだという。
妙蓮塚三体地蔵
新田義興と共に矢口渡で命を落とした側近たちは十寄神社に祀られている。しかし、伝承によると、十寄神社は別名【十騎神社】と言い、義興公側近の内、10人の霊を慰めるために造られた神社であるとという。そしてこの十寄神社とは別の場所に義興側近を祀る場所がある。それが妙蓮塚三体地蔵である。十寄神社の由緒書きには10名の側近の名が記されているが、何名かは名前が入れ替わることがある。しかし妙蓮塚三体地蔵については、祀られている人物の名は完全に特定されている。土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎の3名であり、いずれも渡河中にだまし討ちに遭った時に向こう岸にまでたどり着き、敵と刃を交えて討ち死にしたとされている。この3名の忠烈を思い作られたのが、この三体の地蔵なのである(ちなみに十寄神社の由緒書きにも彼ら3名は名を連ねている)。この三体の地蔵が祀られている場所は、新田神社・十寄神社からそこそこ離れている。かつてはこの二つの神社と 地蔵の間には多摩川が流れていたという。つまりこの地蔵が建っている場所は、3名の側近が川を渡りきって奮戦し、そして討ち死にした場所なのである。妙蓮塚という名が残っているのは、この地蔵をこの地に祀ったのが妙蓮という尼であったということからであるらしい。特に寺社の境内にあるわけでもなく、いわゆる“道端のお地蔵さん”という感じなのだが、すごく手入れされたお堂に安置されている。
十寄神社
矢口渡での新田義興謀殺の際に従っていた側近は、全部で13名。そのうちの3名は果敢にも向こう岸にたどり着いて討ち死にしたが、残りの10名は義興公と共に、沈み行く船の上で自害して果てたという。この10名の側近が祀られているのが、この十寄神社である。当然のことながら、この神社の祭神はこの自害した10名である。その名は神社の入り口に掲げられている神社の由緒書きにも記されており、世良田右馬助義周、井弾正左衛門、大嶋周防守義遠、由良兵庫助、由良新左衛門、進藤孫六左衛門、堺壱岐権守、土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎の10名であるという (ただし人数については諸説あり、土肥・南瀬口・市河の3名は向こう岸にたどり着き奮戦した者である、あるいは松田与市、宍道孫七を加えた12名と義興本人で13名とするなどの説もある。いずれにせよ、この程度の人数であったのは確かなのだろう)。“新田神社へ願掛けへ行く前に、まずこの十寄神社へ行ってお願いしないと、願いは叶わない”という。独立した神社ではあるが、新田神社との関係は生きていた頃と変わらないと言えるだろう。
新田神社
東急線武蔵新田駅周辺には、南北朝の武将・新田義興にまつわる史蹟が点在する。義興は父・新田義貞の没後、関東の新田一族を率いて室町幕府軍(北朝方)と武蔵を中心に戦いを繰り広げていた。その剛勇ぶりのため、関東公方足利基氏の執事・畠山国清は、竹沢右京亮と江戸遠江守を使い、謀殺を試みる。竹沢・江戸両名は寝返ったと見せかけて義興に近づき、しきりに鎌倉攻めを進言する。そして延文3年(1358年)10月10日、近習のみを率いた義興は、多摩川の矢口の渡しで両名の裏切りに遭う。13名の側近は討ち死にあるいは自害し、義興も船上にて腹を切り、自害して果ててしまうのである。ところがその直後から、この渡し場付近に怪光が飛び交い、義興の怨霊が雷神と化し、謀殺に関わった者はことごとく変死したという。このため義興が葬られた塚に建立されたのが新田神社である。建立された年が1358年と、謀殺と同じ年になっているのは、それだけこの謀殺が悲惨なものであり、また義興の祟りが凄まじかったことを 意味していると言えるだろう。その後江戸時代になると、新田神社は隆盛を極める。徳川氏は家系図上、新田氏が祖先となっているからである。そして明治の廃仏毀釈後も神社は残り(南朝方の武将は全て天皇家の忠臣とみなされる)、現在に至っている。新田神社の本殿裏には、義興が葬られたとされる塚が控えている。この神社を建立する場所として選定された目印になった塚である。言うならば、本当の意味での御神体である。現在は完全に柵で囲まれて入ることが物理的に不可能になっているが、昔からここは“荒塚” あるいは“迷い塚”と称されて、この塚に立ち入ると抜け出られなくなるという伝承が残されている。そしてもう一つ、新田神社に残る伝承は“唸る狛犬”である。義興謀殺を企んだ畠山一族の者がこの神社に近寄ると、この狛犬が唸りをあげ、雨が降るという伝承である(現在、この狛犬は戦災によって一体だけが残されており、神社の境内の一角に祀られている)。
栖岸院 お菊の墓 (せいがんいん)
お菊さんの怪談と言えば『番町皿屋敷』である。これの元ネタは『皿屋敷弁疑録』という本であり、大まかな話は以下の通りである。事件が起こったのは承応2年(1653年)正月二日。火付盗賊改役(1665年創設)の青山主膳が、盗賊・向坂甚内(1613年刑死)の娘・菊を役宅にて下女として使っていたが、その菊が誤って家宝の皿を割った。青山は菊の中指を切り落とし、手討ちにするために監禁していたが、菊はその直前に井戸に身を投げて 自害する。その後、その井戸から菊の亡霊が現れては皿の数を数え、青山の本妻が産んだ子の中指が欠けているなどの怪異が続き、青山家は取り潰しとなる。しかし井戸の幽霊は消えず、小石川伝通院の了誉上人(1420年没)の力によってようやく成仏することになる。年代を見ればこの話の信憑性など一挙に吹き飛んでしまうが、とにかくこのような話が伝承され、『番町皿屋敷』として人気を博した訳である(ちなみに“番町”というのは、青山主膳の屋敷が【牛込御門内五番町】にあったとされるためである)。ところがほぼ虚構に近い話であるにもかかわらず、このお菊さんの墓が存在するのである。場所は永福の栖岸院。栖岸院は伝通院と同じく浄土宗の寺院であり、江戸期には住職が将軍へ直接お目見えできるほどの寺格を持っていたという。そして大正時代に現在地へ移転する前は麹町にあったのである。麹町と番町とはほぼ地続きであると言ってもおかしくないほどの距離にある。
江戸の皿屋敷伝承 / 『番町皿屋敷』以外にも、皿屋敷伝承が残っている。伊藤篤『日本の皿屋敷伝説』(海鳥社)によると、承応2年に麻布桜田町で、皿を割った下女が手討ちに遭い、その幽霊が出たという記録が残されている(当事者の遠山氏は騒動のために浪人となるが、後に南部藩で取り立てられ、問題の皿は現在盛岡市の大泉寺にある)。
於岩稲荷田宮神社(新川町)
四谷左門町以外にも“於岩稲荷田宮神社”を名乗る神社が存在する。中央区の新川(越前堀)にその神社は存在する。この神社はニセ物どころか、本家本元と称しても間違いないというべき存在なのである。『東海道四谷怪談』が評判を得て、田宮神社もかなりその恩恵に浴した様子である(史実とは相当な隔たりがあり、神社としては不本意な結果と言えるかもしれないが)。特に上演の際の祟りの噂から、演劇関係者の参拝があり、数多くの役者から崇敬されるようになっていた。ところが、四谷にあった田宮神社は、明治 12年に周辺の大火の被害にあって焼失してしまう。そのような非常事態の際に手をさしのべたのが、歌舞伎役者の市川左団次。彼は私有地を提供し、田宮神社を再興する。しかし、そこは四谷ではなく、芝居小屋に近い新川だったわけである。田宮神社は移転後も芝居関係者の崇敬を受け、またその知名度から多くの人々の参拝があったという。そうして戦後間もなくまで平穏に新川にあったのだが、事態は一変する。突如として四谷に“於岩稲荷”を称するものが移転してくる。それが現在も四谷左門町にある陽運寺である。これに慌てたのが田宮神社である。四谷を離れて既に60年ほどになる。しかも陽運寺は、田宮神社が元あった場所の目の前に建立され、お岩様を大いに喧伝している。そこで田宮神社が下した結論は、元の四谷に帰ることであった。昭和27年に田宮神社は四谷に戻るのであるが、新川にある田宮神社もこの地に残ることになった。つまり神社の歴史からいえば、新川の田宮神社の方が本家とも取れるわけである(実際には越前堀の田宮神社は同格の分社という扱いになっている)。
妙行寺
お岩の墓は西巣鴨にある。都電の新庚申塚駅を降りると、すぐ目の前の通りには“お岩通り”なる名が付けられている。なぜ四谷で生活していたお岩様の墓が西巣鴨にあるのだろうか。その解答は妙行寺の門前にある石碑にあった。明治42年に四谷よりこの地に移転してきたとある。さらに“お岩様の寺”とまで刻まれている。既にこの当時から無視できない存在であったことがわかる。そこそこ広い墓所の一角に、寺院とは不釣り合いな赤い鳥居が立っている。ここがお岩様の墓へ通じる入り口である。“お岩様の墓”と言っても、別に後世に建立された碑だけがあるわけではない。実際の墓石が信仰の対象である。しかもお岩様の墓は田宮家代々の墓が並ぶエリアにあるのだ。妙行寺は元々四谷にあった時から田宮家の菩提寺であった。お岩の墓はその菩提寺に田宮家の代々の墓と共に置かれてあるわけである。これはお岩の存在がフィクションではなく、実在の人物であるという証である。だが、ひっそりとたたずむ他の墓とは別に、びっしりと周囲を取り囲むように並べられた卒塔婆や 特別に目立つように置かれている状況を見ると、やはり虚構の部分を担っているようにも感じる。
於岩稲荷陽運寺
四谷左門町の於岩稲荷田宮神社の向かい側には、於岩稲荷陽運寺がある。両者とも【於岩稲荷】と名乗っており、いわゆる本家争いを繰り広げている(現在はお互いの存在を無視しあう形で並存しているらしい)。お岩様ゆかりの地として探訪する者も多いが、この睨みあうようにして並び立つ2つの寺社には必ずと言っていいほど面食らわされるのである。結論から言ってしまうと、歴史的な背景を辿っていけば、田宮神社の方が本家である。元々この地が田宮家の旧宅跡であり、既に江戸時代には存在していたことが記録されている。翻って陽運寺は、戦後にこの四谷に移転してきた日蓮宗の寺院である(陽運寺そのものが昭和になって創建された寺院である)。一番肝心な点であるが、田宮神社に祀られているお岩は史実として田宮家にあった女性であり、それに対して陽運寺に祀られているお岩はまさに『東海道四谷怪談』に登場する主人公なのである。田宮神社は、この鶴屋南北の芝居に登場するお岩はフィクションであると広言し(もし事実であれば田宮家は断絶しており、神主である田宮氏が子孫であるという事実に反するわけである)、陽運寺は積極的にこの物語のイメージを喧伝しているのである。つまり、両者が“お岩様”呼ぶものは全く次元の違う存在を指していると言ってもおかしくないのである。
於岩稲荷田宮神社(四谷)
四谷左門町にある於岩稲荷は、旧田宮家の屋敷跡に所在すると言われる。元々田宮家内にあった稲荷社からできた神社であるが、かの『東海道四谷怪談』と絡んで取り上げられることが多い。曰く、芝居や映画で『四谷怪談』を上演する時、事前にここへ参拝しないと事故が起こるという、まことしやかな噂である。田宮神社(この神社は田宮家の子孫が代々継いでいる)によると、実は『四谷怪談』はフィクションである。四谷左門町に田宮家が存在し、そこに“お岩”という名の女性がいたことは事実であるが、彼女が夫に裏切られ、毒を盛られて殺されたという話はまさにでっち上げである。更に夫の行状に嫉妬して失踪した“お岩”という女性があったという、土地の有力者の上申書『於岩稲荷来由書上』も存在するが、これは『四谷怪談』上演の2年後に書かれたものである。つまりこれもまた芝居の信憑性を高めるために捏造されたものであるとみなしている。要するに『四谷怪談』とは、作者の鶴屋南北が当時の江戸で起こったさまざまな情痴事件を集大成させ、それを全て於岩稲荷に祀られていた“お岩さん”に結びつけてしまったというのが真相というわけである。“お岩”は夫の伊右衛門を助けて火の車だった家計を立て直し、再び家を盛り返したとされる。それ故、現在の於岩稲荷は夫婦円満のご利益がある。経済的困苦を乗り越えた妻が信心していた屋敷神を、他の人があやかって信仰されてきた神社だと主張しているのである。
密厳院 お七地蔵
天和3年(1683年)3月29日に八百屋お七は鈴ヶ森で火刑に処せられた。本来ならば処刑された者をただちに懇ろに葬ることは認め られていないのだが、なぜかお七だけは異様な早さで供養が施されている。複数の伝承によると、裁いた奉行が、罪を一等減じさせるためにわざと年齢を15にしたにもかかわらず、お七がそれを否定したので、火刑が決まったらしい。“未遂罪”という法的解釈がないために極刑が下されたようである。それも考慮に入 れると、わずか16歳という年齢と可憐な容姿に同情が集まったためだけではなさそうである。鈴ヶ森からあまり離れていない大森の地に密厳院という古刹がある。そこにはお七の三回忌供養のための“お七地蔵”が置かれている。お七の実家のある小石川の住民が寄贈したものであり(ここからもお七の放火が大した被害を出していないことが判るだろう)、台座も含めると2mほどというかなり大きなお地蔵様である。この地蔵菩薩の一番の特徴は何と言っても【振袖姿】であることだ。普通の地蔵菩薩でもかなり丈の長い振袖のような着物なのだが、それがさらに強調されているのが目立つ。お七といえば振袖姿がトレードマークのようなものである。実際の処刑の際も艶やかな振袖姿で臨んだという徹底ぶりである。その強烈な印象が、この地蔵菩薩に凝縮されているといって過言ではないだろう(ちなみにお七が起こした放火が“振袖火事”と呼ばれる大火であるとしている資料もあるが、それは史実として誤伝である)。公式にはお七がこの寺に葬られていたために地蔵が建立されたとされているが(ただしお七の墓はこの密厳院には現在存在しない)、それとは別に奇妙な伝説が残されている。元々この地蔵は鈴ヶ森に置かれていたのだが、ある時一夜にしてこの大森の密厳院に移動したとも言われている。
鬼王神社
新宿歌舞伎町のはずれにあるのが鬼王神社である。正式には“稲荷鬼王神社”といい、大久保の稲荷神社に鬼王神社を合祀してできた神社である。この“鬼王”という名称を持つ神社はここにしかなく、節分会では鬼を悪者とせず、「鬼は内、福は内」と言って豆を撒くらしい。この珍しい名前の由来であるが、大久保の百姓、田中清右衛門が熊野にあった鬼王権現を勧請してきたのが始まりであるという。ただ、現在熊野に鬼王権現は存在せず、神社で鬼王権現が祀られているのは全国でここだけと称している。そもそも“鬼王権現”とは“月夜見命”“大物主命”“天手力男命”の三神である。実際、鬼王神社の祭神としてこの神々は祀られている。しかし、この“鬼王”という名にはもう一人、重要な人物の存在が見え隠れしている。それが平将門なのである。将門の幼名こそが【鬼王丸】なのである。だが、この神社の由来には全くその名は記されていない。神社の前に置かれた手水鉢にはあやしい伝承が残されている。この手水鉢はかつて加賀美某の屋敷内にあったのだが、文政の頃(1800年代初頭)毎夜のように水音が聞こえるという怪異が続いた。そこでこの手水鉢を斬りつけたところ、水音はしなくなったが、家人に不幸が続いたため、この神社へ預けたという(天保の頃というから、ちょうど稲荷神社と鬼王神社が合祀された直後のことと思われる)。怪しげな水音の正体であるが、この手水鉢の土台になっている鬼の仕業であるとされている。手水鉢を斬りつけたというのも、実際にはこの鬼を斬りつけたらしく、肩のあたりに傷跡が残っているとされているが、それらしき痕跡はあるものの、はっきりとした傷には見えなかった。ちなみにこの斬りつけた刀は“鬼切丸”という名が付けられ、手水鉢と同時に神社に納められたがその後盗難にあって行方知れずであるという。
日輪寺
今でこそ、大手町にある平将門の首塚は塚の碑だけが残っている状態なのだが、以前はその塚に隣接する形で神社と寺院があった。神社は言うまでもなく【神田明神】である。そして寺院の方は【神田山日輪寺】という。嘉元3年(1305年)、時宗の真教上人が首塚の地を訪れた時には、塚は荒れ果て、周辺には将門の祟りが原因と言われる疫病が流行っていた。そこで上人は“蓮阿弥陀仏”の法号を与え、塚を修復して供養した。すると疫病は止み、上人もそばにあった日輪寺に留まることとなった。さらに上人は近くの神社を修復し、そこに将門の霊を合祀して神田明神としたのである。まさしくこの真教上人こそが、祟り神であった将門を鎮護の神へと変えた人物なのである。その後、江戸幕府成立直後、神田明神は江戸の総鎮守社として現在の地に移転し、日輪寺も明暦3年(1657年)に現在の西浅草の地に移転した。神田明神がその後も将門と関係深くあったのに対し、日輪寺の方は本来の時宗の念仏道場として名が広まり、将門との直接の関係は薄れてしまったようである。しかしこの寺には非常に貴重なものが残されている。真教上人は将門公供養のために“蓮阿弥陀仏”という法号を与えたが、徳治元年(1307年)にその法号の直筆を石塔婆に刻ませたのである(これによって上人は塚を修復し、祟りもおさまったらしい)。この石塔婆が現在もこの寺に置かれているのである。しかも、 現在大手町にある首塚に置かれている石塔婆は、この日輪寺の石塔婆に刻まれた真教上人の書を拓本して作られたのである。首塚のシンボルのオリジナルということで、貴重なものであると言えるだろう。
鎧神社
ここの由来はその名の通り“鎧”である。ただ神社の由来書によると、第一の説としては日本武尊がこの地に甲冑を納めたこととしている。しかしながら、歴史的な事実として天暦元年(947年)に平将門の鎧を納めた記録があるらしく、こちらの方が有力な説であるように感じる。地元の人々が将門の威徳を慕って鎧を納めたのが始まりとする説もある一方で、藤原秀郷が残党狩りをしている最中ここで不意の病に倒れ、将門の霊を鎮めるために将門の鎧を奉納したともされる。さらには将門の弟である将頼がこの地で鎧を脱いで休んでいたところを襲われて討ち死にし、その霊を慰めるために将門の鎧を納めたという異説まである。とにかく将門と鎧というキーワードは共通であり、鎧が埋められているのは確実だと思われる。
鎧の渡し
兜神社から徒歩で数分のところに「鎧の渡し」という場所がある。ここにも平将門と源頼義(源義家の父)の伝説が残されいる。源頼義が東北遠征へ行く際、この地で暴風雨に遭い、この淵に鎧を沈めて龍神に祈ったところ、風雨が止んで川を渡ることができたという。この由来からこの辺りを「鎧が淵」と呼ぶようになり、ここにできた渡し場を“鎧の渡し”と名付けたそうである。将門の由来については、この地に兜と鎧を納めたということになっている。“兜”という名で思い出すのが兜神社であるが、向こうでの兜の由来は将門公の死後の出来事であり、どうも関連性は薄いようである。江戸時代にはこの“鎧の渡し”は有名だったらしく、名所図会にも取り上げられている。しかし、明治5年に橋が架けられ、渡し場は消滅してしまった。という訳で、現在ではこの橋が「鎧橋」と呼ばれるようになっている。
水稲荷神社
加門七海氏の『平将門魔方陣』によると、この神社も平将門関連の地なのであるが、他の伝承地とは違和感がある。というのも、討伐した藤原秀郷との関連の方が大きいからである。この地に秀郷が稲荷神社を勧請したのが天慶4年(941年)、つまり将門を討った翌年となる。おそらく討伐が成功したお礼の意味合いが強いものであると思われる。将門との関連はさておき、この神社の裏手には古墳がある。【冨塚古墳】というもので、藤原秀郷が最初に稲荷明神を勧請したのもこの塚の上であり、冨塚稲荷と呼ばれていた。そしてこの辺り一帯はこの塚の名前を取って【戸塚】と呼ばれるようになったという。(当時は、塚も神社も現在の早稲田大学の構内にあったのだが、昭和30年代後半に早稲田大学との土地交換によって現在の地に遷座している)冨塚稲荷から水稲荷という名称に変わったのは、元禄15年(1702年)のこと。神木の根元から霊水が湧き出て眼病に効くという評判が立ち、さらに火難退散の神託があったことで改名となったとされる。またこの神社には「耳欠け神狐」と言って、身体の痛い箇所と同じ部分を撫でると痛みがとれるという狐の像がある。
築土神社
地図で確認すると、築土神社はビルの並ぶ区画のど真ん中に位置する。ビルの前に立つ鳥居から中へ入り込んでいく。そして神社は高層ビルに取り囲まれるように建っている。この神社が今の九段に置かれたのは戦後の昭和29年(1954年)。それ以前は新宿の牛込辺り、そして江戸幕府ができる前は田安にあり(このころは田安明神と称していたらしい)、更に最初は上平川にあったという。とにかく都内各地を転々としている神社である。現在では本当に小社と言っておかしくない規模であるが、かつては神田明神・日枝神社と共に江戸を代表する古社であった。神社の歴史を紐解くと、創建は天慶3年(940年)。平将門が討たれたその年に、その霊を祀るために建てられたのである。言い伝えによると、上平川に津久土明神としてできたのは、ここに将門公の首が落ちてきたためであるとのこと(つまり現在の首塚の場所に作られた社である)。実際、束帯姿の将門公の木像と共に “首桶”が納められていたらしい(戦災により現存せず。写真のみ残る)。転々と移動している神社であるが、邪険に扱われているわけではない。田安に移したのは太田道灌であり、江戸城の裏鬼門の護りのためと伝えられる。また江戸幕府が移した理由も江戸城内の敷地になるためであった。そして戦後に今の場所に移されたのも、戦災で消失し、元の位置に近い場所に移そうとした結果であるという。
兜神社
東京証券取引所のすぐそば、首都高速道路が真後ろを走るというとんでもない都会の一隅に兜神社はある。日本経済の中心地の一つに置かれた神社は、現在では商業の神様としてこのエリアの守護をしている。由来によると、この近辺にあった兜塚が兜神社(源義家が祀られている)となり、更に鎧稲荷(平将門が祀られている)が合祀されて今の兜神社となったようである。合祀後の明治初期に祭神の源義家を廃して倉稲魂命を勧請し、現在に至っているようである。つまりこの神社そのものは既に伝説的二人の武人とは何の関係もないことになる。しかし、この神社の名になった“兜”にまつわるものは残されている。それが兜岩である。この兜岩についても二人の武人が大いに絡んでくる。義家の関連で言うと、東北凱旋後の義家が鎮定のために兜を埋めて塚をなした、あるいは義家が東北遠征のおりに兜を岩に掛けて必勝祈願をした。将門の関連で言うと、藤原秀郷が将門の首を兜を添えて持ってきたが、この地で兜だけを埋めて塚をなした。いずれも決定的な証拠はないのだが、何らかの祭祀がかなり昔からおこなわれていた場所であることは間違いないところである。
鳥越神社
祭神は日本武尊。東征の折にこの地に留まったことを近在の者が尊び、白鳥神社を建立したのが始まりとされる。その後、永承年間に源義家が奥州征討へ赴く際、この付近を渡河しようとし、白い鳥に導かれて浅瀬を渡ることが出来たため、鳥越神社と改称したという伝承が残る。しかし神社の由来書きにない伝承もある。それが平将門にまつわるものである。この鳥越神社は将門公の首が飛び越していったので「鳥越(=飛び越え)」という地名になり、この社名となった。あるいは、将門の身体はバラバラにされて江戸各地に埋められたが、この鳥越神社には手が埋められているという。この神社と将門を結びつけるものはいくつかある。神社の紋を【七曜紋】としているところ(将門の紋は【九曜紋】であり【七曜紋】も同種とみなされる)。また宮司である鏑木家は将門ゆかりの千葉一族の中でもかなり由緒のある家柄であることが、挙げられるだろう。全く縁もゆかりもない土地ではないわけである。
神田明神
正式名称は神田神社。元々この神社は平将門首塚のある場所(芝崎村)にあった。当初は大已貴命のみを祀る神社であったが、日輪寺を建立した真教上人が平将門を神として祀り、延慶2年(1309年)に合祀した。平将門という伝説的武将を祀っているために、戦国時代は多くの武将の崇敬を受ける。江戸城増築の際に幕府が現在の地に移転させた。江戸総鎮守として江戸城の鬼門を守護する役目を果たすためである。だが明治に入り、平将門は朝敵であり、天皇が参詣するには不敬であるという理由で祭神から外し、代わって少彦名命を勧請する(オオナムチとスクナヒコナという神の組み合わせは、よくあるケースである)。その後、昭和59年(1984年)になって、平将門は摂社であった将門神社から再び本殿の祭神として祀られるようになり、現在に至る。さてこの【神田(かんだ)】という名の由来であるが、やはり将門の存在が見え隠れする。首塚が築かれたこの地は“身体のない遺骸を祀る山”と いうことで“からだ山”と呼ばれ、それがいつしか“かんだ”という名に転訛したのだという説がある。(ただし漢字から由来を探ると、昔この地が伊勢神宮の “神田”であったために付けられたという。ただし祭神の関係から考えると、少々無理がある部分もある)
平将門首塚
この首塚の祟りは周知のごとく凄まじい。かなり信憑性のある記録に残っているのでは、関東大震災後に大蔵省が首塚を潰して仮庁舎を建てた直後に大臣以下14名が死亡した件。そして終戦後にGHQがブルドーザーで整地中に事故が起こり死傷者が出た件。いずれもその祟りぶりは凄いものがある。そしてオフィス街にまことしやかに噂されるのは、首塚に尻を向けた格好で机を配置すると祟られるという話である。また塚の供養を怠った企業は何らかのトラブルに巻き込まれるという話もある(首塚の隣りにあった某銀行が20世紀の終わりに破綻したのは祟りだという噂まであるらしい)。関東で兵を起こした将門は藤原秀郷・平貞盛に討たれ、その首は京都四条河原に晒された。ところが、その首が「今ひとたび一戦を」と声を立て、三日後に自力で東国へと飛んでいったのである。そして武蔵国芝崎村にてとうとう力尽きたのだが、その首が落ちた場所がこの地である。住人が首が落ちた所に塚を作り、祀ったという。首塚の碑の後ろにある石灯籠の辺りが塚のあった場所と言われている。この首塚の脇には蛙の置物がおかれている。将門が蝦蟇を自由自在に操ることができるということで、願いが叶うとお礼に置いていくという。そしてひときわ大きな蛙の一つであるが、誘拐された某商社のマニラ支店長が解放された直後に、真っ先に奉納したものであるという。ちなみにこの商社は首塚の隣にあり、首塚の街灯の電気代をずっと負担しているとのことである。
江戸期以前の首塚 / 塚が出来た当初置かれていた神社は津久土明神(現・築土神社)。そして徳治2年(1307年)に真教上人が塚を修復して日輪寺を建立、さらに神田明神を建立する。江戸幕府成立後に、日輪寺は浅草へ、神田明神は駿河台へ移転し、首塚だけが当地に残される。
首塚の祟り / 関東大震災で首塚が崩れたのを期に学術調査がおこなわれた。石室はあったものの、一度盗掘されていて、めぼしい副葬品が発見されなかった(最終的に将門の墓であることを証明するものは出てこなかった)ため、取り崩されて大蔵省の仮庁舎が建てられた。その後、大蔵大臣の早速整爾が病死(発病後3ヶ月で他界。享年57歳)したのを皮切りに、幹部クラスも含めて14名が2年以内に死去。政務次官・事務次官以下多数の者が足を負傷する。そこで昭和2年に仮庁舎を取り壊して、首塚を復元して、盛大な供養をおこなった。昭和15年6月には、大蔵省庁舎が落雷によって全焼。この年は将門没後千年目に当たり、またもや祟りの噂が流れ、大蔵省による祭祀が執り行われた(現在の供養碑はその時に再建されたもの)。戦後、大蔵省敷地はGHQが接収し、首塚は一時整地され駐車場となったが、整地時にブルドーザーが横転事故を起こして日本人運転手が死亡。土地関係者が「昔の大酋長の墓」であるとして陳情して、塚は保存されることとなった。
桐生稲荷(皿明神)
全体的に整合性を欠く内容となっており、それ故伝承の域を超え出ない東京の『番町皿屋敷』の話であるが、なぜかたった一つだけ、皿屋敷に関する歴史的な遺構が存在するという。それが桐生稲荷と呼ばれる小さな祠である。怪談『番町皿屋敷』の原典は『皿屋敷弁疑録』であるが、それ以前にもこれに類似した話が書かれている。中でも『江戸砂子温故名跡誌』では“牛込御門内で 下女が誤って井戸に皿を落としたために殺され、その後、皿を数える声だけが井戸から聞こえてきたのだが、その地に【皿明神】なる社を祀り霊を慰めたところ、声が聞こえなくなった。その社は稲荷である”とある。この話に基づいて古地図を見ると、実際にこれと比定できる稲荷社がある訳である。それが桐生稲荷である。この社であるが、元を質せば個人の屋敷に祀られた稲荷社なのである。三田村鳶魚氏によると、この屋敷には英国公使アーネスト・サトウの家族が住んでおり、その頃には『皿屋敷』を演じる者が詣でていたらしい。現在よりも昔の方が由緒正しい社として認識されていたと見てよい。その後この屋敷の所有者はこの地を去ったのであるが、この社だけは残していったようである。だが残された稲荷社は、やがて“お菊さんの霊を慰めた”という伝承の部分が消えてなくなり、土地の守り神としての性格だけが伝えられるようになったみたいである。そのため現在の正式名称は桐生稲荷であり、皿明神という通り名はほとんど伝えられていない。
『番町皿屋敷』 / 元となった『皿屋敷弁疑録』は、宝暦8年(1758年)に馬場文耕が著している。…火付盗賊改方の青山主膳の屋敷は、かつて千姫が住んでいた屋敷の更地に建てられた。主膳は大盗賊・向坂甚内を捕らえ、その娘の菊を下女にする。菊は青山家の家宝である十枚一組の皿の一枚を割ってしまい、主膳に折檻されて指を切り落とされる。そして菊は井戸に身投げしてしまう。その後、生まれてきた主膳の子は生まれつき指が一本欠け、さらに井戸から菊の亡霊が現れて、皿を枚数を数えるに至る。この怪異は公儀の知るところとなり、青山家は断絶する。しかし井戸から菊の亡霊は現れ続けたために、了誉上人が引導を渡して菊を成仏させる。…この話はその後に歌舞伎や芝居に掛かり、評判を得て、皿屋敷伝承の主要なストーリーとなる。
浄閑寺
浄閑寺。通称「投込寺」。安政の大地震の時に、新吉原の遊女の遺体が打ち捨てられるように数多く葬られたことから、この通り名で呼ばれる。一部では、吉原が出来た頃から病死した遊女の遺骸が投げ込まれてきたように言われているが、どうもそれは誤りであるらしい。やはり【新吉原総霊塔】がまず第一である。『生まれては苦界 死しては浄閑寺』と詠まれた事実が全てを言い尽くしているように、死してもなお寄る辺のない遊女の霊を慰めるために建てられたのがこの総霊塔である。L字形になった墓地のちょうど角に近いところに総霊塔はある。花などの供え物も新しい、よく清められた場所のように感じる。この浄閑寺であるが、新吉原の遊女に関係するもの以外にもいろいろと見所がある。中でも不気味なのが【本庄兄弟 首洗いの井戸】というものである。親の仇である平井権八を追った本庄兄弟であるが、先に兄が平井の返り討ちに遭い、さらに兄の首を井戸で洗っていた弟もそこを襲われ命を落とす。仇討ちに失敗し、悲惨な末路をたどった兄弟の最期の地が この井戸である。
吉原 / 幕府公認の遊郭であった吉原は現在の人形町辺りにあったが、明暦の大火の直後に現在の浅草寺裏の日本堤に移転した。そのため、現在の吉原は江戸期には新吉原と呼ばれていた。ちなみに浄閑寺の創建は新吉原移転より数年早い。
本庄兄弟の仇討ち / 鳥取藩士の平井権八は、父の同僚である本庄助太夫を些細な遺恨から殺し、逐電する。遺児の助七・助八兄弟は江戸の三ノ輪に住んで権八の行方を追うが、逆に居所を知られ、助七は吉原田圃で斬られ、兄の首を井戸で洗っていた助八もその場で斬られ、仇討ちは成就しなかった。この平井権八は歌舞伎の「白井権八」のモデルとして有名。
本然寺 お菊稲荷
西浅草の金竜公園のすぐそばに曹洞宗・本然寺という寺院がある。ここになぜか“お菊さん”にまつわる非常に珍しいものが祀られている。それが【お菊稲荷】と呼ばれている祠である。永久保貴一氏の“お菊さん”関連の漫画での考察によると、“お菊さん”の伝承は“菊理姫”の伝承が変化したものであるという。その“菊理姫”を祀ったのが白山神社であり、さらに白山神社を寺内社としているのが“曹洞宗”の寺院なのである。前述している通り、本然寺は曹洞宗の寺院である。そして 一方“菊理姫”の実体は農耕神、特に稲の神であるという。稲荷社はその名の通り、日本における“稲の神”として認知されている。このあたりのリンクが、この一切の来歴不明の社の存在に関わっていると推測するのも一興かもしれない。
圓乗寺 お七の墓
文京区白山にある圓乗寺。ここは八百屋於七のゆかりの寺院である。天和2年(1682年)12月、大火事で焼け出された八百屋於七の一家は、檀家である圓乗寺へ避難していた。そこで於七が出会ったのが、この寺の小姓・生田庄之助。 彼に一目惚れした於七は、また火事になれば会えると思い込み、翌年3月に自宅へ放火。未遂に終わったが、当時の江戸では放火は大罪。3月29日に鈴ヶ森で 於七は火炙りの刑に処せられてしまう。これがいわゆる【八百屋於七】の事件である。芝居や小説などでは様々なフィクションが入り乱れているが、どうも上に挙げた話が真相のようである。要するに一人の少女が一目惚れの彼氏に会いたいがために狂言放火をやらかし、当時の法令に基づいて罰せられた事件ということである。於七の墓であるが、都合三基が並べられている。中央にあるのが一番古い墓で、刑死直後に造られたもの。右が、舞台で於七を演じたこともあるという岩井半四郎が百十二回忌の供養に立てたもの。そして左が、二百七十回忌に有志が立てたもの(戦後間もないころである)である。この圓乗寺にはさらに【於七地蔵】なるものが安置されている。この地蔵の由来によると、この地蔵は於七が成仏したことの証として作られたものであるらしい。
八百屋お七 / お七が有名となったのは、処刑から3年後に井原西鶴が『好色五人女』でこの事件を取り上げてから。その後は創作世界でさまざまな形で脚色され、伝承が拡張している。有名な「振袖火事」の犯人であるとされたり(この明暦の大火は、お七の誕生より約10年前)、丙午の年に生まれたとされたり(これも史実に照らし合わせると2年ほどずれている)しているが、実際には上に書いた通りである。
すってくりょう 兄弟塚
菅生本願寺の裏手のあたる坂の登りきったところにある、一名“ほととぎす塚”と呼ばれる塚である。「すってくりょう」「兄弟塚」と大きく案内があるので、見落とすことはほぼないだろう。鎌倉時代の初め頃、この付近を領有していたのは武蔵七党のうち横山党に属していた菅生氏であった。当主の菅生太郎経孝には3人の息子がおり、長男の有孝が菅生太郎の名跡を継ぎ、次男は小倉次郎経久、三男は大貫馬之亮有経と名乗りそれぞれ分家していたという。ある時、菅生氏の菩提寺である福泉寺(現在も国道を挟んで菅生本願寺の反対側にある)から使いが来て、田の代掻きに馬を貸して欲しいと言ってきた。ちょうど長男の有孝は所用で鎌倉へ行っており不在であったが、たまたまいた次男の経久が半日ぐらいならばと兄の馬の一頭を貸したのであった。数日後、所用から戻ってきた有孝はすぐに馬の異変に気付いた。家来に尋ねると、寺の田仕事に貸したという。それを聞いた有孝は武士の乗物である馬を田の仕事に使うとは何事であるか、と怒った。気安く貸し出した弟の経久に食ってかかると、最初は冷静であった弟も売り言葉に買い言葉、最後にはお互いに罵り合うまでの喧嘩になってしまった。ついに激昂した有孝は刀を抜き放ち、経久もそれに応えて刀を抜く。ついに刃傷沙汰に及ぶと、二人は追いつ追われつしながら刀を斬り結び、とうとう“すめり坂”まで移動していた。そこでついに弟の刀の切っ先が、兄の左耳から首筋にかけて鋭く深く食い込んだのである。この一刀で兄はその場に倒れて絶命した。ここで我に返った弟は、血を流して動かなくなった兄を見て、愕然とする。喧嘩をするつもりもなく、ましてや斬り倒す気も毛頭なかったのに、兄を殺してしまった。経久は咄嗟に兄を斬った刀で自らの喉を突き、折り重ねるようにして自害して果てたのである。慌てたのは菅生家の面々である。そして知らせを聞いて駆けつけた福泉寺の者も、事の次第を聞いて狼狽する。とにかく早く葬ろうと“すめり坂”の一番高いところにある、福泉寺所有の林に二人を埋めて弔ったのである。ところが、あまりに慌てていたために、二人とも本来おこなうべき剃髪をせずに葬ってしまったのである。そのため、昼なお暗い林から「すってくりょう、すってくりょう(剃ってくれ、剃ってくれ)」という声が聞こえるようになったという。これが、この塚の名の由来であると言われている。
武蔵七党・菅生氏 / 横山党を筆頭に、猪股党・児玉党・与野党・村山党・丹党・西党といった武蔵国に土着する中小武士団で、婚姻によって血族となっており、ある程度結束して集団で行動していたとされる。菅生氏は、多摩郡横山庄(現・八王子市)を中心に所領を持つ横山党に連なる一族であるとされている。また菅生太郎有孝と小倉次郎経久は、あきる野市菅生にある正勝神社の創建に深く関わったとされており、その創建時とされる元暦年間(1184〜1185年)には存命であったと考えられる。
“ほととぎす塚”の由来 / ホトトギスの前世は人間あったという伝説が、各地に流布している。これによると、弟が山芋を取ってきて、兄に美味い部分を食べさせているにもかかわらず、兄が邪推して弟の喉を切って殺した。しかし山芋の不味い部分ばかりが弟から出てきたため、後悔した兄はホトトギスとなって「オトノドツッキッタ(弟喉突っ切った)」と鳴くのだという。この「兄弟殺し」の構図がそっくりであるため(兄と弟の立場が逆転しているが)、この別名が付いたものと考えられる。また弟の経久が喉を突いて死ぬという流れも、この伝説がだぶってできた可能性がある。
高尾山薬王院
薬王院は、現在は成田山新勝寺、川崎大師平間寺と並んで、真言宗智山派の大本山とされている。しかし創建は天平16年(744年)、聖武天皇の命を受けた行基によるとされる。その時に薬師如来が本尊として祀られたため、薬王院の名が付けられたという。大きく変わるのは、永和年間(1375〜1379年)、醍醐寺の俊源が入って中興の祖となった時である。俊源は不動明王の化身である飯縄権現を本尊として祀り、修験道の山として隆盛していく。高尾山といえば天狗のイメージであるが、これは現在の本尊・飯縄権現による。飯縄権現の姿は、白狐に乗り、剣と索を持った烏天狗であり、またの名を飯縄三郎天狗という。天狗は神使とされ、また高尾山全体を守護する存在として崇められている。参道には「天狗の腰掛杉」という、参拝する者を見守るために天狗が物見しているとされる杉の大木がある。また薬王院の境内には天狗にまつわるものをいくつも見ることが出来る。
飯縄(飯綱)権現 / 起源は、信濃国の飯縄山での山岳信仰とされる。白狐に乗った姿はダキニ天と同じであり、妖術(外法)を使うとの民間伝承も多い。一方で、軍神として上杉謙信や武田信玄といった戦国武将の信仰が篤く、日光の輪王寺にも祀られているなど、徳川家からの庇護もあった。
雪おんな縁の地碑
小泉八雲(ラフカディオ=ハーン)の晩年の傑作である『怪談』に収められた“雪おんな”の話は、この著名な妖怪にまつわる伝承の最も一般的なものとされている。巳之吉という樵の若者が、冬のある夜に吹雪で戻れなくなり、茂作という老人と共に、川の渡し場にある小屋で一夜を明かそうとした。真夜中に吹き付ける雪に目を覚ました巳之吉の前には、白ずくめの美しい女がいた。女は茂作に息を吹きかけて凍死させると、巳之吉に近づいた。しかしその女は、この夜の出来事を話さないと約束するなら命は助けると言って、去ってしまった。数年後、巳之吉はお雪という女と出会い、結婚。10人の子供をもうけた。お雪は美しく、いつまでも年をとらなかった。そしてある夜、子供を寝かしつけた後、巳之吉はお雪の顔を見ながら思い出したように、あの小屋で出会った女のことを話してしまう。するとお雪は、自分こそがあの時の“雪おんな”であるが、既に子供もなしてしまった今は、殺してしまうことは出来ない、と言うとその場で消えてしまった。この話は八雲の創作ではない。『怪談』の序文には“武蔵の国、西多摩郡調布の百姓が、自分の生まれた土地の伝説として物語ってくれた”と明記されている。さらにこの話をしたとされる人物は、八雲の家で奉公していた、調布村出身の親子であると推断されている。さらに、かつての調布村にあった川の渡し場で最も有名な場所が“千ヶ瀬の渡し”であるということから、おそらくこの有名な怪談話の舞台が比定されたのである。そして平成14年(2002年)、この渡し場のそばにある調布橋のたもとに、雪おんな縁の地碑が作られたのである。碑文は、八雲の孫にあたる小泉時が揮毫。碑の裏側には“調布村”が記載された『怪談』の序文とその和訳文のプレートが付けられている。
調布村・調布橋 / 調布村は明治22年(1889年)の町村制施行により成立(当初は神奈川県)。昭和26年(1951年)に町村合併により青梅市となり、消滅。調布橋は、大正11年(1922年)に吊り橋として秋川街道に架けられる。それまでは、現在の橋の少し下流にあった“千ヶ瀬の渡し”が交通の手段となっていた。
八王子城址 御主殿の滝
八王子城は関東屈指の山城と言われる。現在、城址は史跡として復元されているが、実際の規模はそれを遙かに上回り、住宅地となっている周辺地も城址であるとされている。八王子城は、関東を実効支配していた北条氏によって建てられた。城主は、北条3代目・氏康の三男、氏照である。当初は滝山城を居城としていたが、より防御の堅固な山城を築くことにした。小田原に本拠を構える北条氏とすれば、関東平野の各地に守りの堅い支城を建設して敵を食い止めれば、小田原からの本隊が攻撃。敵の侵攻を確実に抑えることが出来た。着工は元亀2年(1571年)頃。ちょうど武田信玄と関東各地で戦いを繰り広げていた頃である。ところが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めは、圧倒的な兵力で関東全域の支城を落としていったのである。八王子城も、豊臣軍の北陸部隊である前田・上杉の約3万の兵力の前に落城する。しかもその戦いは、小田原攻め最大の悲劇とも言われるほどの悲惨なものであった。北陸勢は碓氷峠から関東に侵攻、北条氏邦の守る支城の鉢形城を開城させるが、これに1ヶ月も費やしたために秀吉より叱責を受けていた。そのために次に攻める八王子城では、出来るだけ素早く決着をつけて信頼を回復させる必要があった。対して八王子城では、城主の氏照以下主力の兵は小田原城で籠城しており、わずかの守備兵と近隣の女子供ばかり約3千名ほどが籠城して戦いに備えた。6月23日、北陸勢の主力は一気に城へ殺到。対する守備側は一時的に反撃するが、適わぬとみて自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げて全員が死を選んだのである。わずか1日の攻防で、滝を流れる川は三日三晩血で染まったという。さらに北陸勢は見せしめとばかりに、婦女子の首を刎ねて小田原に運び、城から見えるように並べたのである。難攻不落と謳われた小田原城が開城するのは、それから12日後のことであった。その後八王子城は、直後に関東に移封された徳川家康の命によって廃城となった。そして付近の村では、血で染まった川の水で米を炊くと赤く染まるとの言い伝えが残り、供養のために赤飯を炊いたともいう。戦いで最も多くの死者を出した御主殿の滝は今でもあり、そのそばには供養のための碑がある。未だに奇怪な噂が聞かれる場所となっている。 
 
 神奈川県

 

●龍神様と雨乞い 横浜市
今年(平成12年)は庚辰(かのえたつ)の年です。このように年月日を数える十干十二支(じっかんじゅうにし)の干支紀年法(かんしきねんほう)は、古く中国の殷(いん)代にはすでに成立していました。そして、中国の戦国時代(BC480〜247年)頃より、文字の読めない人にも覚えやすいように、十二支に動物を充(あ)てるようになりました。辰(たつ)には伝説の霊獣(れいじゅう)である龍(りゅう、たつ)が充てられました。干支紀年法は、5世紀頃までには日本にも伝えられ、明治5年(1872)までは公式に使われていました。
さて、龍は鱗介類(りんかいるい、鱗(うろこ)や甲羅(こうら)を持った生物)の長(かしら)とされ、平素は水中にひそみ、水と密接な関係をもち、降雨をもたらすと考えられていました。そのため、水神の蛇(へび)信仰と結びつき、龍神、龍王などと呼ばれるようになりました。各地の年中行事には、水と耕作をつかさどる龍の農業神的な性格を見ることができます。
港北区は、鶴見川の流域に位置し、かつては稲作を中心とした農村地帯でした。低湿地帯でありながら、干魃(かんばつ)にもあいやすいという土地柄でしたので、各地で雨乞い(あまごい)が行われていました。師岡(もろおか)熊野神社の熊野郷土博物館には、承安(しょうあん)4年(1174)高倉天皇の勅命により、延朗上人(えんろうしょうにん)が雨乞い神事をおこなった時にみずから彫刻したという十三頭の龍頭が展示されています。この龍頭は、近年まで「いの池」でおこなわれていた雨乞い神事に使用されていました。樽(たる)では、本長寺(ほんちょうじ)の境内に八大龍王の石塔を建てて龍神を祀り、身延七面山や大山に詣でて分けてもらった水をかけて雨乞いをしました。新羽(にっぱ)では、西方寺(さいほうじ)の住職が寺持ちの神社へ赴き、龍王様をかたどった龍を藁(わら)で作り、水を入れた大きな桶の中に浮かして請雨経(しょううきょう)を読誦(どくしょう)しました。日吉(ひよし)や城郷(しろさと)でも、大山からもらってきた水を使って雨乞いがおこなわれていました。
このように、かつては区内各地で様々な雨乞いがおこなわれていましたが、都市化が進み、昭和30年頃までには無くなってしまいました。しかし、自然に対する畏敬の念や水を大切にする気持ちは、いつまでも持ち続けていきたいものです。 

●五頭龍 鎌倉市
江の島には、天女と五つの頭を持つ龍のロマンチックな「天女と五頭龍」伝説があります。昔、深沢の底なし沼に、「五頭龍」という龍が棲み、様々な災いをもたらし人々を苦しめていました。ある時、海底から島がわき起こり、天女が舞い降りました。その美しい天女に恋をした五頭龍は結婚を申し込みますが、これまでの悪行から断られます。そこで五頭龍は悪行を止め、改心し善行を尽くし、天女と結婚することができたと伝えられています。
天女は江島神社に祀られ、龍は江の島の向かいにある龍口明神社に祀られています。

むかし、むかし、1500年もの大むかしのこと。鎌倉の深沢の山ん中に底なし沼があったそうな。 沼のまわりは、うっそうと原始林がおいしげり、昼なお暗く、 そこにはやせこけたオオカミが、たむろしておったそうな。道に迷った旅人が、沼のほとりに近づくと、とつぜん黒いなまぐさい風が吹きまくり、沼には白い波がざわざわとたち、 水がむっく、むっくともちあがり、沼の底から五つの頭をもつた龍がぬうっと現われて、ふるえおののく旅人をドクンとのみこむと、 ふたたび沼の底にもぐっていった。
五頭龍は、人をのむだけではなく、ときには山くずれや洪水をおこし、田畑をうめたりおしながし、作物を枯らしたり、 ときには火の雨をふらせたりして村人を苦しませていた。 なかでも村人がいちばん恐れていたのは、とつぜん龍が里にあらわれて、 こどもをまるのみにすることだった。
ある日、五頭龍が津村の水門のところにあらわれて、はじめて村のこどもを食った。 それからというもの村人は、ここを「初くらい沢」と名づけて近よらなかった。 また、津村の長者には、16人のこどもがいたが、 ひとり残らず五頭龍にのまれてしまった。 悲しんだ長者は、しかたなく西の村に逃げ、そののち、 村人達は、沼のある深沢へいくこの道を「子死越(こしごえ)」と呼ぶようになり、それが今の「腰越」になったと。
「五頭龍さまがくるぞ」といえば、どんな悪たれ小僧もチンとしてちじこまってしまった。 「こんなにつぎからつぎと災難つづきじゃ、村は死に絶えてしもうわい。 どうじゃ、五頭龍さまをなだめるために、 こちらからこどもを人身御供としてさしださねばおさまるめえ」。村では、そう話がきまって、毎年、おさないこどもたちが「子死越」の坂を越えて、沼へつれていかれた。 いけにえとなった子供達のおかげで、村は静かな年をおくることができた。
ところが、欽明天皇(きんめいてんのう)の13年(552年)4月12日、前夜から海岸一帯にまっ黒い雲が天をおおい、深い霧がたちこめ、 地鳴りがゴーゴーとひびき大地震がおそった。地は割れ、山はくずれ、沖合いからは高波が村におそいかかってきた。 村人は命からがらあちこちとさまよっていた。 地震は十日のあいだつづいたが、二十三日の辰の刻に、うそのようにとまった。やがて、地鳴りもやんでホッとしたとき、とつぜん大音響がして、海の中に爆発がおこり、 まっかな火柱とともに海底が天までふきあげられ、そのあとに小さな島が出現した。 これが今の「江ノ島」なのだと。
そのとき、天から天女が紫の雲にのり、左右に美しい童女をしたがえて、静かにおりてきた。 そして、どこからともなく美しい音楽がきこえ、 いい香りがただよっていたそうです。このありさまを、対岸の山のかげから、かたずをのんで見ていた五頭龍は、天女のあまりに美しい姿に、 「なんとまあ美しい女ごだんべ」と波をかきわけ、島にやってきた。「わしは、このあたりを支配する五頭龍さまじゃが、そなたをわしの妻にむかえたい」と、天女に申しこんだ。
ところが、天女はだまって洞窟の中へはいっていかれ、奥から申されました。 「これ五頭龍とやらに申すぞ。おまえは田畑をおし流し、 罪もないおさな子までのみ、村人を苦しめてきた罪悪をふりかえってみるがよい。そのような者の妻になりはせん。」 五頭龍は、すごすごと沼へもどっていったが、翌日、ふたたび海をわたって江ノ島へやってきました。
「もうし、天女さま、昨日の五頭龍でごぜえますが、わしは、今まで人々を苦しめたことを深くあやまりますだ。 これからは、心をあらため、そのつぐないをするでどうか夫婦になってくだせえ」「・・・・・・」「わしを信じてくだされ、天女さま。わしは、もうむかしの五頭龍ではなくなりましただ。どうか夫婦になってくだされ」「ならば、そちの心を信じて妻になってあげよう」と、いうことで天女と五頭龍は、めでたく夫婦になった。
それからというもの五頭龍は、生まれかわったように情ぶかくなり、ひでりの年には雨をふらせ、みのりの秋には、台風をはねかえし、 津波がおそったときには、波にぶちあたっておしかえし、天女と力をあわせて村人のためにつくしたということです。 しかしそのたびに、五頭龍のからだはおとろえていった。
ある日のこと、五頭龍は、妻にむかって「わたしの命もやがて終わるでしょう。 これからは、山となっていつまでもこの地をお守りしたい」と、いいのこすと、対岸に去って山になったということです。
これが、江ノ島の対岸にある片瀬の「竜口山(たつくちやま)」で、山の中腹には竜の形をした岩があって、 江ノ島の天女をしたうように見つめていたということです。村人は、心をいれかえた五頭龍を「竜口明神」としてまつり、社を建てました。これが「竜口明神社」です。「竜口明神」となった五頭龍は、今も片瀬や腰越の人々を、見守りつづけているということです。

●姫の松の由来 愛甲郡愛川町
角田地域にある桜坂の坂下に昔、「底なし」と呼ばれる沼がありました。その岸辺には「姫の松という名の老木があったそうです。
相模川の川辺にある小沢城に美しい姫が住んでいました。この小沢城が戦乱に巻き込まれ落城、姫も侍女たちと城を出てここまで逃れてきましたが、身の末を儚んで「底なし」に身を投げて果ててしまったのでした。「姫の松」は沼に身を投げた姫が持っていた杖が根付いたものといわれいます。
また、一説には姫を悼んだ近辺の村人が植えたものと伝えられています。
 

 

●神奈川の伝承
居神神社
創建は永正17年(1520年)。主祭神は三浦荒次郎義意とされる。相模の名族三浦氏は永正13年(1516年)に、伊勢宗瑞(北条早雲)によって新井城にて滅亡した。義意もこの戦いで自害するのだが、そこから神社創建にまつわる奇怪な伝承が残されている。『北条五代記』に書かれている義意は21才にしてまさに容貌魁偉、背丈は7尺5寸(227cm)、黒髭をたくわえて目は血走り、手足も筋骨隆々で八十五人力であったとされる。さらに戦に及んでは、厚さ2分(6mm)にうち延ばした鉄の甲冑を身にまとい、家に代々伝わる5尺8寸(176cm)の正宗の大太刀を持って斬り回った。そして最後の戦いでは城の外に打って出て、白樫の丸木を1丈2尺(364cm)に切って八角に削った金砕棒を振り回し、敵の兜目がけて振り下ろせば頭が胴にめり込み、横に薙ぎ払えば5人10人と一気に打ちひしいだ。遂には500人ばかりを打ち殺すと、自ら首を掻き切って自害したのである。だがこの打ち落とした首は死なないどころか、北条氏の居城であった小田原に向かって飛び去り、そして井神の森にあった松にかぶりついたのである。首はそのままの状態で通行人を睨みつけ、気絶する者や中には死ぬ者まで出てきた。数多くの高僧などが供養するも首の怪異は止まず、3年が経って、総世寺の4世・忠室存孝が松の下で読経をしつつ「うつつとも 夢とも知らぬ ひとねむり 浮世の隙を 曙の空」と詠むと、首はようやく目を閉じるやたちまち白骨となって松の木から転がり落ちたのである。そしてその時「われ今より当所の守り神にならん」との声がしたため、ここに神社を建立したという。武運つたなく敗れた者を勝者が慰霊のために祀り、神とすることで逆に自分たちを守護する存在とする考えは古来よりあり、居神神社もそのような発想から、自分たちが滅ぼした相模の名族の当主を神とすることは十分に考えられる(しかも居神神社は小田原城から見て南西の位置、つまり裏鬼門に当たる場所にある)。そして義意の“鬼神”のような武勇についても、“人間離れした存在=神となるべき存在”であるという認識が下敷きにあるものと推察出来る。
『北条五代記』 / 寛永期(1624〜1645年)に成立と考えられる。三浦氏の一族であり、北条氏の家臣であった三浦浄心(1565-1644)が著す。後北条氏5代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の逸話を集めた書。
総世寺 / 小田原市にある曹洞宗の寺院。開山は嘉吉元年(1441年)、小田原城を建てた大森氏の一族である安叟宗楞。家督争いで一時的に敗北した三浦道寸が、この寺に逃げ込んでいる。
義意の首の異説 / 居神神社の創建伝説として“義意の首が小田原へ飛んだ”話が残っているが、『北条五代記』では首が生き続けるなどの逸話はあるが、“首が飛んだ”という表記はない。ただ「義意が死んだ場所100間(182m)四方は、今なお田畑を作らず、草を刈らない。牛馬もここの草を食べると死ぬのを知っていて、他の獣も入らない」という記述があり、首は新井城の戦場跡にあったものと考えられる。また“小田原に首が飛んでいった”という表現は、この地に一時期梟首されたことの暗示であるとの説もある。なお居神神社では、三浦市住民からの抗議もあって、現在は“首が飛んできた”という伝承の紹介はおこなっていない。
舟地蔵 (ふなじぞう)
大庭城址公園の南端、舟地蔵交差点の北西角にある。現在でも花や菓子などが供えてあり、土地の人達によって手厚く守られているのがわかる。この地蔵の一番の特徴は、その台座が舟の形になっているところである。珍しい形ではあるが、稀なものではなく、おそらく“無事に三途の川を渡れるように”という意味合いで作成されたものではないかと考えられている。ただここにある舟地蔵については、悲しい伝説が残されている。扇谷上杉家の支配する大庭城を、北条早雲が攻めた時のこと。大庭城は、太田道灌が全面的に改修し、かなりの規模の平城であった。そしてさらに厄介なのは、平地から攻めようとすると城の前面に沼地があって、思うように兵を進めることが出来ないことであった。さすがの北条軍も攻めあぐねるばかりであった。ある時、北条方の武将が、城のそばでぼた餅を売っていた老婆に何か良い知恵がないかと相談してみた。すると老婆はあっさりと「引地川の堤を切れば、簡単に水が抜けて沼地ではなくなる」と答え、さらには最も決壊させやすい堤の場所まで教えたのである。喜んだ武将であったが、それと同時に秘密が漏れたことを敵に知られてはなるまいと思い、その老婆を斬り殺してしまったのである。そして北条軍は堤を切って水を抜き、遂には大庭城を攻略してしまったのである。大庭城はその後は北条氏のものとなり、そして北条氏の滅亡と共に廃城となった。近隣の者は、秘密を教えてしまったために殺された老婆を哀れみ、城跡近くに一体の地蔵を置いて、その霊を慰めた。それが今ある舟地蔵であるとされ、土地の人々はその左手に乗せられている宝珠は、実は老婆が売っていたぼた餅であると言い伝えている。
大庭城 / 鎌倉権五郎が築城したとされ、居城とした権五郎の子より大庭氏を名乗る(源頼朝を石橋山で破った大庭景親は子孫)。室町時代には扇谷上杉氏の支城となり、太田道灌が大改修をして東相模の要衝とした。永承9年(1512年)、北条早雲によって攻略された後にも改修された。北条氏の滅亡時に廃城となる。
子産石
JR逗子駅から京急バスに乗って約20分。葉山付近の海岸線沿いを走る国道134号線に“子産石”というバス停がある。そのバス停を降りた目の前に、球形をした大きな石が置かれている。これが子産石である。その名の通り、子産石は子を生み出す。『三浦古尋録』という書籍にも記載されており、古くからその名が知られている。近くの浜辺にある岩場が波に削られていくと、その中から小さな丸い石が出てくるらしい。そしてその不思議な現象から、この子産石は子宝を求める人々から大いに信仰されている。このバス停そばにある大きな石(これ自体が子供を産む石というわけではなく、子産石信仰の象徴的存在として文化財登録を受けているだけらしいが)に触れた手で腹をさする、あるいは丸い小石で直接腹をさするとご利益(妊婦の場合は安産のご利益)があるという。そして丸い小石は、現在でも近くの浜辺へ行けば拾うことが出来る。浜辺で拾った丸石を持って帰って子宝祈願をすると良いともされる。実際ここを訪れて祈願して子宝に恵まれた方の体験記がネット上にもあり、根強い信仰が続いていると考えて間違いなさそうである。
蹄の井 馬頭観音 (ひづめのい)
防衛大学校の西側そばにあるのが“蹄の井”と呼ばれる伝承地である。コンクリートで造られた祠の中には馬頭観音が安置されており、現在は近くの浄林寺が管理しているとのこと。この蹄の井には以下のような伝説が残されている。平安時代末期、海を隔てた安房国嶺岡(現在の千葉県鴨川市の南部)の洞窟に一頭の暴れ馬が住み着いていた。土地の者はこの馬を“荒潮”と呼んで怖れていた。荒潮は人が怖れて近づかないのをよいことに、次第に畑の作物を荒らして食べるなど暴れ回った。そしてとうとう人々の怒りは頂点に達し、遂に総出で退治することとなった。さすがに大勢の人間を相手では分が悪く、荒潮は追い立てられ、最後は自ら海に飛び込んで逃亡する羽目となってしまったのである。だが荒潮は大力の馬である。安房国から何とか対岸の相模国まで泳ぎ着いてしまった。たどり着いたのは小原台(現在の防衛大学校周辺)であった。だがさすがの暴れ馬も泳ぎ疲れて息も絶え絶え、特に喉の渇きは耐えられそうもなかった。この生死のさなか、荒潮に救いの手を差しのべたのが馬頭観音である。観音の導きによって、荒潮が大地を力強く蹄で蹴ると、そこから清らかな水が湧き出てきたのである。それを飲んだ荒潮は息を吹き返した。それと同時に激しい気性が収まり、穏やかな性格の馬へと変貌したのである。この稀に見る馬は小原台の森に棲み着くようになり、近隣の者も“美女鹿毛”と呼び、その駿馬ぶりの噂は広まった。そこで領主である三浦義澄は美女鹿毛を捕らえると、それを源頼朝に献上した。頼朝もその能力を愛で、名を“生月(いけづき)”として愛馬としたのである。歴史に名を残す名馬に由来するということで、現在でも競馬関係者が祈願に来るとも言われ、また今でも残る湧き水は夜泣きや百日咳に効くと言って貰い受ける人もあるとされる。
六ツ塚
“坂東武士の鑑”と謳われた畠山重忠は、鎌倉幕府草創期の有力御家人として活躍し、清廉高潔の人物として同時代の御家人達からも敬われる存在であった。しかし、そのような武人の最期は悲劇的であった。元久2年(1205年)、重忠は「鎌倉に異変あり、急ぎ参上せよ」との命を受け、取るものも取りあえず134騎という小勢で駆けつけようとした。しかしそれは重忠謀反という虚偽によって仕掛けられた罠であった。二俣川(現・横浜市旭区)で重忠は、数千とも一万ともいわれる討伐軍と遭遇し、自らに謀反の疑いが掛けられ誅殺されようとしていることを悟る。家臣も一旦本拠地に引き返し、軍備を整えて一戦を交えようと進言する。だが重忠は「ここで本拠に戻って兵を出せば、やはり謀反の疑いは真実であったと言われるであろう」とその場に踏みとどまり、134騎全員が討ち死にしたのである。この畠山重忠終焉の地である鶴ヶ峰周辺には、多くの史跡が残されている。中でも重忠以下134名の遺骸を葬り埋めたとされるのが、薬王寺の敷地内にある六ツ塚である。塚と言っても、少し大きく盛り土されたものが6つ点在するだけである。しかし逆に、これらが崩されることなく残されているのは、それだけ畠山重忠という人物に対する崇敬の念が強い証左でもあると言えるだろう。今では薬王寺の境内にあるように見える六ツ塚であるが、実際はその逆で、六ツ塚のそばに畠山重忠顕彰のために霊堂建設運動が起こり、昭和3年(1928年)に廃寺であった薬王寺がこの地に移設されたのである。この運動を主導したのは栗原勇。元陸軍大佐で、この時期は既に退役して出家をしていた。畠山重忠に武士道精神の理想を見出し、顕彰しようとしたのだという。戦後、薬王寺はコンクリート造りの建物となったが、いまだに重忠公の位牌を祀り、6つの塚の保存と慰霊に勤めている。
謀殺の背景と結果 / 武蔵国の支配権をめぐる、北条氏と畠山氏の利害関係の対立が大きな原因であるとされている。特に北条時政の後妻・牧の方の娘婿が武蔵国の国司であったため、時政と牧の方が主導で重忠排除を画策したともされる。重忠亡き後は武蔵国は北条氏の支配下に置かれたが、それと同時に謀殺を口実にして時政と牧の方は、息子の義時(そしてその姉の政子)によって政権の座から引きずり下ろされる。これも重忠が人格者であった故に、他の御家人の恨みを買うことを怖れたためであると言われる。
鎌倉宮
祭神は、後醍醐天皇の第三皇子・大塔宮護良親王である。親王は6歳の頃には僧となる身として門跡に入り、その後、若くして天台座主にまで上り詰める。しかしその気性は激しく、座主となってもなお武芸を好み、日々その技量を磨いていたと言われる。転機が訪れたのは元弘元年(1331年)。父である後醍醐天皇が幕府打倒を目指して兵を挙げた時である。挙兵に呼応するように、親王は還俗して戦乱の真っ只中に身を投じることになる。特に後醍醐天皇が隠岐に流罪となった後の活躍はめざましいものがあり、楠木正成と時を同じくして再挙兵し、令旨を発して各地の不満分子である武士の倒幕を促したのである。この一連の動きが功を奏し、遂に幕府は滅亡するのである。後醍醐天皇による親政が始まると、親王は征夷大将軍と兵部卿という、武士の最高権威の地位を得る。しかしそれは、倒幕に功績のあった足利尊氏を刺激し、両者の仲は険悪となる。さらに倒幕の令旨を出したことに絡んで、父の後醍醐天皇とも対立を深めていった。そして建武元年(1334年)に皇位簒奪の疑いを以て親王は捕縛され、足利方に引き渡される形で鎌倉に幽閉されるのである。土牢に幽閉されること9ヶ月余り。親王に悲劇が訪れる。先年滅ぼされた北条高時の遺児である時行が鎌倉を攻め落とす勢いで進軍してきたのである。守りにあった足利直義は鎌倉を放棄することにしたが、その時、家臣の淵辺義博に後難の憂いを絶つために親王暗殺を命じる。『太平記』によると、この暗殺は凄惨極まりないものであった。土牢に押し込められて足の萎えていた親王は、易々と淵辺に組み伏せられてしまうが、首を掻こうとする刀を歯で噛み止めて抵抗し、とうとう切っ先の部分が折れてしまう。すると淵辺は脇差しを抜いて、親王の胸を二刺し、そして弱ったところで首を掻き切ったのである。淵辺が首を明るいところへ持っていって確かめると、生きているかのように両目をカッと見開き、口の中はなお折れた刀の切っ先を噛み締めたままという恐ろしい形相であった。これを見て淵辺は「このような首は主君に見せるものではない」として持ち帰らず、近くの藪に捨ててしまったという。土牢のあった東光寺は廃寺となるが、明治2年(1869年)明治天皇の命によって、護良親王を祀る神社が造営される。それが鎌倉宮である。本殿の裏側には、護良親王が幽閉された土牢が今でも残されている。また淵辺義博が首を捨てた場所も「御構廟」として境内にある。
旧相模川橋脚
自然は時折、思いも掛けないような奇異なるものを人々の目の前に出現させることがある。大正12年(1923年)に起こった関東大震災とその余震によって水田から現れたのは、7本の柱であった。さらに調査をすると3本の柱を確認、計10本の柱が忽然とこの世界に甦ったのである。歴史学者の沼田頼輔はこの柱を『吾妻鏡』に照らして、鎌倉時代に相模川に架けられた大橋であると鑑定した。平成になってからの調査の結果、これらの柱は1200年頃に伐採されたヒノキ材であり、2m間隔で3本一列に並べられ、その列が10m間隔で4列になって並んでいることが判った。まさに鎌倉時代に造られた橋脚であると結論づけられたのである。現在、この橋脚は中世の遺構として史跡に指定されると同時に、関東大震災時の液状化現象を示すものとして天然記念物にも指定されている。突如として現代に現れた遺構というだけでも十分伝説的であるが、この橋そのものも曰く因縁を持った存在である。この大橋は建久9年(1198年)に稲毛三郎重成が妻の冥福を祈るために建造したものである。この妻が北条政子の妹であったため、この落成に際しては源頼朝も参列している。そしてその帰り道、頼朝は死の直接的な引き金となった落馬をしているのである。この落馬の原因が怨霊であるという説がある。『北條九代記』という書物によると、頼朝は八的ヶ原という場所で、自分が滅ぼした源義経や源行家らの怨霊と出くわし、からがら逃げたという。しかし稲村ヶ崎で遂に安徳天皇の亡霊と遭遇するに至って失神、落馬したというのである。頼朝が死の間際に見た橋そのものを、800年の時を経てじかに見る。何か不思議な気分にさせる伝承地である。
三浦大介腹切松
どこにでもあるような児童公園の一角に、いくつかの石碑と共に一本の松の木がある。それが三浦大介腹切松である。平家打倒を掲げて、源頼朝が伊豆で挙兵をしたのは治承4年(1180年)のことである。この時、頼朝に味方した一大勢力が三浦一族である。三浦氏は三浦荘の在庁官人として“三浦介”を名乗る豪族であったが、その地は源頼義から与えられたものであり、その縁で代々源氏に忠誠を誓っていた。源氏の嫡流が挙兵となれば、一族が味方するのは当然であった。ところが、伊豆の頼朝に合流すべく兵を動かしたが、川の氾濫で身動きが取れず、結局、頼朝は石橋山の戦いで敗走してしまう。三浦一族も兵を引き、居城の衣笠城に立て籠もる。そこへ数倍もの数の平家軍が攻めてきたのである。この時の三浦一族の家長は大介義明、齢は89。敗戦必至の状況で、義明は主力である息子達を城から落ち延びさせて再度頼朝に合流するように命じ、そして「源氏の家人として再興にめぐりあえたことは喜ばしい。生き長らえて八十有余年、先はいくらもない。この上は老いた命を頼朝様に捧げ、城に残って手柄を立てたい」との決断を下すのであった。その後、一族が退却するのを見届けた義明は城と運命を共にして討死したとも言われるが、次のような伝説も残されている。敵を引きつける役目を果たした義明も城を抜け出し、愛馬に乗って一族の墓所へ向かった。ところが、途中にある松の木のそばで愛馬が急に立ち止まって動かなくなってしまった。義明はここに至って己の運命を悟り、そこで馬を解き放して、切腹して果てたという。その場所にあった松が腹切松と呼ばれるようになったという。ちなみに石碑の左横に扁平な石があるが、かつては黒白二つの石があって「駒止石」と呼ばれていたともいう(現在は黒石のみが残り、白石は行方知れずとのこと)。
お玉ヶ池
近世の箱根と切っても切れないものは“関所”である。旧東海道である県道732号線の途上にあるお玉ヶ池も、この関所にまつわる伝説の地である。元禄15年(1702年)2月、関所破りの罪で一人の少女が捕らわれた。伊豆国大瀬村の百姓の娘で玉という名であった。江戸に奉公に上がっていたのであるが、家恋しさに店を抜け出し、通行手形もないままに箱根まで来たのである。そして関所の裏山を抜けていこうとしたところを役人に見つかり、牢に繋がれたのである。2ヶ月の吟味の後に下された処分は、打ち首獄門。お玉は捕らえられた場所で斬首となった。街道から外れた裏山に入ったところの坂道であった。これを哀れに思った村人は、獄門に晒されたお玉の首をこの池で洗ったという(あるいはこの池のほとりに獄門に晒されたとも)。それ以来いつしか“薺(なずな)ヶ池”という名が“お玉ヶ池”と呼ばれるようになった。そして処刑された坂道も“お玉ヶ坂”となったという。また一説では、京の旅芸人であった二人の少女が、親方嫌さに一座から逃げ出したが、旅芸人は手形がなくとも芸を披露するだけで通行できることを知らず、関所を破ってしまった。役人の追っ手を撒こうとしたが、結局逃げ切れず、二人はこの池に身を投げて死んだという。この旅芸人の名がお玉であったと伝わる。
源実朝公御首塚
建保7年(1219年)1月、鎌倉幕府3代将軍・源実朝は鶴岡八幡宮で暗殺された。武士として初の右大臣昇進の拝賀がほぼ終わった時であった。暗殺に及んだは、実朝の甥で猶子、さらに鶴岡八幡宮寺の別当であった公暁である。公暁は実朝を襲うとその首を切り落として、放さず持ち続けた。だが同日、乳母夫であった三浦義村の邸宅へ赴く途中、義村の送った討手である長尾貞景・武常晴ら5名によって急襲され殺害された。そして実朝の首はそこから行方知れずとなり、墓にも首を納めることが出来ず、胴体に下賜された髪の毛一本だけが棺に納められたという。ところが鎌倉から馬で半日掛かるとされた秦野の地に、その実朝の首が祀られている場所がある。伝承によると、首を運んできたのは、公暁の討手の一人であった武常晴であり、当時の秦野を治めていた波多野忠綱に供養を願い出て葬ったとされる。ただ波多野氏と三浦氏は縁戚でもなく、むしろ関係は良好ではなかったと言われる。一説によると、実朝暗殺を画策して公暁をそそのかして暗殺させたのが三浦義村であり、それを知った武常晴が憤って、首を秦野まで持ち出したのではないかとも言われている。ただし実際には、なぜこの地に首がもたらされたのかは、実朝暗殺の背景と共に謎である。
走水神社
祭神は日本武尊と弟橘媛命。日本武尊の東征の折、相模国の走水に着くと、ここから海路で上総国へ向かうことになった。日本武尊は海を眺め「小さな海だ。これなら飛び上がっただけで渡れよう」と言ったが、いざ船で渡り始めると突然の暴風雨となり、船は進むことも退くことも出来なくなった。すると后の弟橘媛は「この嵐はきっと海神の仕業です。私が身代わりとなって海に入りましょう」と言うと、海に入っていったのである。するとたちまち暴風雨は止み、日本武尊は弟橘媛の犠牲によって無事に上総国へ行くことが出来た。走水神社の創建は、日本武尊が海を渡る前にしばらくこの地に滞在していたが、土地の人々が慕ったので出航に際して自らの冠を与えた。人々はそれを石櫃に納めて土中に埋め、その上に社を建てたことによるとされる。一方、弟橘媛が入水して数日後、媛が身につけていた櫛が浜に流れ着いた。人々はこの櫛を日本武尊が仮の宮としていた場所に社を建てて、橘神社として崇敬した。しかし明治になってからこの場所が軍用地として接収されることとなったため、橘神社は走水神社の境内に移され、さらに明治42年(1909年)に走水神社に合祀されたのである。現在、境内には弟橘媛に殉じた侍女を祀る別宮、弟橘媛が入水に際して詠んだ歌「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問いし君はや」を刻んだ碑、また弟橘媛のレリーフをはめ込んだ舵の碑など、弟橘媛に関するものが多く見られる。さらに社殿の裏手には、水神として河童を祀る水神社もある。
二枚橋
五反田川に架かる橋。現在は何の変哲もない橋であり、説明板と、欄干のデザインに伝承にまつわる透かしがあることで,ようやくそれと分かる程度である。治承4年(1180年)、伊豆で源頼朝が反平氏ののろしを上げて挙兵をした折、平泉にいた弟の義経は取るものも取りあえず、勇んで関東の兄の許へ馳せ参じることとした。その途中、義経主従は五反田川を渡ろうとするが、橋があまりにも粗末であるために、馬でも渡れるような橋に造り直した。丸太を並べてその上に土を盛るという手法で造られた橋は、横から見ると、まるでのし餅を2枚重ねたように見えるために「二枚橋」と呼ばれるようになったという。
菖蒲沼跡/鹿沼公園
相模原に残る、デイラボッチ(ダイダラボッチ)伝承ゆかりの地である。大昔、雲に届かんばかりの大男、デイラボッチがいた。ある時、東の方に高い山がないので、富士山を東に持ってこようと思い立ち、抱え上げると動かしだした。ところが、さすがに富士山は大きくて重いので途中で一休みしようと、山を地面におろしてそこに腰掛けて一服した。しばらくしてまた運び始めようとしたが、山に根が生えてしまって持ち上がらない。何とかしようと頑張ったが、結局動かせないと分かるとそのまま富士山をほったらかして動かすのを止めてしまったという。その時、足を踏ん張った場所が菖蒲沼と鹿沼であると言い伝えられている。どちらの沼も相当以前に埋められてしまい、菖蒲沼の方は跡地であることを示す石碑が建っているのみで、全く痕跡を残していない。一方、鹿沼の跡は公園用地となり、昭和48年(1973年)に鹿沼公園となった。公園の中心部には白鳥池という、鹿沼の名残を伝える池があり、その形は巨人の足を想起させるものになっている。
医王寺 蟹塚
医王寺境内の鐘楼のそばに蟹塚がある。これにには次のような伝説が残されている。医王寺の鐘は朝と夕に撞かれたが、その音を怖がって白鷺が寄りつかないために、境内の池に棲む魚や蟹は捕られることもなく暮らすことが出来ていた。ある時、近隣から火の手が上がり、やがて医王寺にも延焼した。山門を焼き、やがて火が鐘楼に迫ってきた時、池から何百もの蟹が現れて鐘楼に上ると泡を出して火を消し止めようとした。火は猛威を振るい多くの蟹が焼けて死んでいったが、一向に蟹の数は減らなかった。そして翌朝、鎮火した後の境内には鐘楼だけが焼けずに残っており、その周りには焼けた蟹の死骸が大量にあったという。寺では、命がけで鐘楼を守った蟹の徳を後世に伝えるべく塚を建てた。そしてそれ以降、医王寺の池に棲む蟹は、火で焙られたかのように背中が赤いものばかりになったという。
猫の踊り場
昔、戸塚宿に水本屋という醤油屋があった。主人夫婦と一人娘の家族3人と、奉公人の番頭と丁稚が住んでいた。そして娘が雌の黒猫の“トラ”を飼っていた。醤油の付いた手を拭くので、毎日晩になると5人分の手ぬぐいを洗って干しておくのが、この家の習慣であった。ところがある時、丁稚の手ぬぐいがなくなり、翌日には主人のものもなくなった。主人は丁稚がわざとなくしたのだと思って問い詰めたが、埒が開かない。一方、丁稚はいわれのないことで怒られ、泥棒の正体を暴いてやろうと夜なべして見張った。すると夜中に手ぬぐいが地を這うように走って行くのを見たが、結局正体は分からなかった。翌日、主人は用事で隣町へ行ったその帰りの夜道で、不思議な光景に出くわす。人気のない空き地で、手ぬぐいをかぶった何匹かの猫が人語で会話しているのである。月明かりの下、猫たちは踊りの師匠を待っている様子。そこへ来たのが、手ぬぐいをかぶった黒猫、まさしく飼っている“トラ”である。しかも“トラ”は、晩御飯に熱いおじやを食べて舌を火傷して満足に喋れないとぼやきつつ、踊りの手ほどきを始めた。腑に落ちた主人は,店に戻ると内儀に猫の晩御飯を尋ねると、案の定熱いおじやであった。翌日の晩、家族と店の者を連れて主人は、昨日の空き地へ行った。隠れて待っていると、やがて手ぬぐいをかぶった猫が集まりだし、そして“トラ”が音頭を取って踊りを始めた。不思議な光景であったが、全員が得心がいったようにその場を離れた。それ以降、戸塚宿では猫が踊る光景を見に行く人がぽつぽつ現れた。しかし見られていることに気付いたのか、そのうち猫が空き地で踊りをすることはなくなってしまった。そして“トラ”もいつの間にか水本屋からいなくなってしまったという。横浜市営地下鉄戸塚駅の次の駅は「踊場」駅という。ここが、猫たちが踊りをしていた空き地のあった場所であると言われている。当然、駅名の由来はこの伝説であり、駅構内には猫をモチーフとした意匠が数多く見られる。そして2番出口の脇には、「踊場の碑」と言われる石碑がある。案内板には“猫の霊をなぐさめ、住民の安泰を祈願して”とあり、元文2年(1737年)に建てられたとされる。今でも猫の置物が供えられており、猫供養のための碑と言えるだろう。さらにこの石碑から見て、交差点の斜め向かいとなる場所に交番があるが、この場所が実際に猫が踊りをしていた空き地の跡であるということ。
戸塚宿 / 東海道五十三次の5番目の宿場。江戸から早朝出発するとちょうど宿を取る時間帯に到着できる場所として、慶長9年(1604年)に宿場町として開けた。ちなみに伝説に登場する水本屋は現存しない。
「猫の踊り場」伝説 / 細部は異なるが、これとほぼ同じパターンの伝説が、戸塚以外にも静岡県函南町、同富士市などに残されている。人間に飼われているうちに特殊な能力を持つようになった化け猫の、1つの典型的なパターンであると考えてもよいだろう。
泣塔
現在は鎌倉市所有の土地となっているが、かつてはJR東日本大船工場の敷地であった場所にある。鎌倉市文化財に指定されている(戦前は国の重要美術品にも指定)宝篋印塔である。今でもこの塔の周辺にはフェンスが張り巡らされており、入口には南京錠が掛けられている(鎌倉市に問い合わせると開けてもらえるが)。指定文化財にしても、かなり物々しい印象である。そしてこの塔自体が奇怪な伝承を多く持っているために、一種異様な空間を形成していると言える。銘によると文和5年(1356年)に建てられた石塔であり、その背後に“やぐら”が設けられていることから、おそらくこの年号より少し前に付近で複数の人間が亡くなった出来事、具体的に言えば、新田義貞と北条守時が戦った洲崎合戦の北条方供養碑であると考えられている。即ちこの地は多くの人の血が流された、しかも鎌倉幕府滅亡という悲劇的な戦いの場なのである。そしてこの“泣塔”という奇妙な名であるが、次のような伝承が残されている。この石塔を近くの青蓮寺に移動させたところ、夜な夜なこの石塔からすすり泣きが聞こえたという。そこで元の場所に帰りたいのであろうということで、元に戻したと言われている(あるいは住職の夢枕で「帰りたい」と訴えたとも言われる)。このために“泣塔”と呼ばれるのである。しかしこの石塔にまつわる怪異譚の真骨頂は、この石塔のある敷地を所有すると不幸に遭うとか没落するという話である。特に有名なものは、昭和17年(1942年)にこの地に横須賀海軍工廠深沢分工場が設立されることとなり、用地を買収して泣塔周辺も更地にする計画だったが、塔を移動しようとすると怪我人や死者が出て、さらに工事現場で怪事が度々起こったために取り除くことをやめたとという話である(地域住民からも祟りを恐れて嘆願があったという)。そして昭和20年(1945年)に終戦を迎え、海軍は解体されるのであった。海軍の次に泣塔を含む土地の所有者となったのは、国鉄。だが、国鉄も昭和62年(1987年)に分割民営化されて消滅した。この2つの大組織の末路から、泣塔の負の伝説がまことしやかに噂されたのである(次の所有者であるJR東日本鉄道は平成18年(2006年)に土地を手放したために没落を免れたとの噂もある)。その他にも近隣に幽霊が出るとか、泣塔を訪れた後には必ず幽霊に遭遇するなど、あまり良い噂はない。しかしこれらの噂によって、泣塔は周囲の変化の波にも耐え、かつての風景のまま保存されてきたことも事実である。南北朝時代の宝篋印塔としても最も美しいものの一つであり、時代の波に取り残された一画は、一見の価値があると思う。
やぐら / 特に鎌倉周辺で多く見られる、武士などの支配層の人々を埋葬する横穴式の墳墓。鎌倉時代から室町時代にかけて多く造られる。
洲崎合戦 / 鎌倉へ攻め入る新田義貞の軍勢と、それを防ぐ北条守時との戦い。巨福呂坂から出撃した北条守時は一日一夜に65回の突撃を繰り返し、化粧坂にあった新田義貞の陣近くの洲崎まで至る。しかし兵力の大半を失っており、退却してまた謀反の疑いをかけられることを嫌い、守時はここで部下90余名と共に自刃する。新田義貞の鎌倉攻めでも屈指の激戦と言われる。
浦島太郎足洗の井戸
京急子安駅の南側の住宅地にある。この付近には昔ながらのポンプ式の井戸が点在しており、現在でも防災時の飲料水確保のために現役であるという。その中に浦島太郎が足を洗ったとされる井戸がある。現地には特別な案内板もなければ、それと分かるような痕跡もない。ネット上にあるいくつかの紹介記事を頼りに現地に辿り着き、さらに近隣の事情に詳しいお年寄りに尋ねて何とか特定できた次第。しかしながら、伝承に関しては単純に「浦島太郎が足を洗った」ということだけで、他にとりたてて何かあるわけではなかった。かつては長命にあやかり、病気に罹らないということで、産湯にも使われていたらしい。浦島太郎の伝説が神奈川の地にあるのは、大郎の父が相模国の出身であったためで、竜宮城から帰還して身寄りがなくなってから故郷を懐かしんで戻ってきたということになっている。これだけは神奈川の浦島太郎伝説共通の設定である。浦島太郎が足を洗ったという場所は、この井戸以外にもある。それが足洗川である。既に暗渠となって久しいが、かつてはこの川で足を洗うと、足の病気によく効くとされたらしい。また近所にある浦島寺へ参詣の折には、この川で足を清めてから詣るとされていたという。今では「足洗川の碑」というものが残されているだけである。
女躰神社
JR川崎駅にほど近い場所にある神社である。その名の通り、女性の悩みを取り除き、また願いを叶える御利益があるとされる。そしてこの神社の創建にも一人の女性の存在がある。このあたりは多摩川の南側に当たり、たびたび水害に悩まされてきた。ある時、今までにないほど酷い水害が起こり、田畑はほとんど水没してしまった。あまりの惨状に、一人の女丈夫が意を決して水中に身を投じ、水神の怒りを鎮めたのである。そのせいか、このことがあって以降大きな水害が起こることはなくなり、村人はこの女丈夫の徳を称え偉業を後世に残すために、祠を建てたのである。はじめは多摩川辺りの「ニコニコ松」の下(正確な位置は判らず)にあったが、その後現在の場所に社が出来たという。
お菊塚
平塚駅の近く、紅谷公園の一角に「お菊塚」がある。この塚の主は『番町皿屋敷』の主人公であるお菊と伝えられている。この塚の由来によると、お菊は平塚宿の宿役人であった真壁源右衛門の娘とされる。番町に住む旗本・青山主膳の屋敷に行儀見習いに奉公に出ていたところ、誤って家宝の南京絵皿十枚の内の一枚を割ってしまい、主膳が斬り捨てて井戸に投げ込んでしまったという。(一説では、お菊に懸想して振られた主膳の家来が罪をなすりつけとも言われる。いずれにせよ「番町皿屋敷」伝承の域を超えない展開である)お菊の遺体は、罪人と同じ扱いで長持に入れられて、平塚宿に戻された。馬入川の渡しで遺体を迎えた父親の源右衛門は、「あるほどの 花投げ入れよ すみれ草」と詠み絶句したという。そして罪人扱いとして墓を作らず、センダンの木を墓代わりに植えたとされる。その後、青山主膳の屋敷では、井戸からお菊の幽霊が現れてさまざまな障りが起こったと伝えられている。この事件は元文5年(1740年)の出来事であるとされ、全国各地にある「皿屋敷」伝説の中でも比較的新しいものである。おそらく、実際に“お菊”という名の女性が江戸の旗本屋敷に奉公に出て、そこで何らかの粗相をして手討ちにあったのであろう。ただ名前が“お菊”という関連から、いつしか「皿屋敷」の伝説と絡まって新しい伝説として伝えられるようになったと推測される。しかし、公園の一角に塚があるのにはかなり不思議な謂われが残っている。昭和27年(1952年)に戦後復興のための区画整理がおこなわれ、この地に元からあった青雲寺は移転。そこにあった墓と共にお菊の墓も移動させようとしたが、工事に支障が出ることがたびたびあったので、結局、塚を築いて残したのである。
蓮法寺 浦島太郎供養塔
神奈川区には浦島太郎に関する伝承地が数多く残されている。その来歴は古く、江戸時代に書かれた『江戸名所図会』にも既に浦島太郎ゆかりの寺院として“帰国山浦島院観福寿寺”という名が挙げられており、かなり有名な観光名所であったと推測される。観福寿寺の山号からわかるように、神奈川の浦島伝説は、竜宮城から帰ってきてから後の話となっている。竜宮城から戻ってみて誰一人身寄りもなくなった浦島は、丹後から両親の故郷である白幡の峯へ赴き、そこで父母の供養塔を建てたという。つまりこの相模国が父の故郷であり、浦島太郎の生国でもあるというのである。江戸期には、観福寿寺に浦島太郎にまつわる寺宝が納められていたのであるが、明治元年(1868年)の大火によって寺院は焼失、その後の廃仏毀釈などで結局廃寺となってしまった。寺宝の一部は慶運寺(神奈川区)に移されたのであるが、大正時代になって、観福寿寺があった場所に蓮法寺という日蓮宗の寺院が移転してきて現在に至っている。そして蓮法寺には浦島太郎父子の供養塔が残されており、さらに乙姫の供養塔とされるものも一緒に置かれている。なお、この付近には“浦島”や“白幡”という地名が今なお残されている。
源頼朝の墓
鎌倉の街の基礎を作り上げた人物は言うまでもなく、鎌倉幕府初代将軍である源頼朝である。だが、鶴岡八幡宮の裏手の小高い丘にあるその墓はすこぶる質素である。頼朝の死は歴史的な謎の一つとされている。鎌倉幕府の正史ともいえる『吾妻鏡』において、頼朝の死去した前後の記述が意図的に省かれているためである。 とりあえずは1199年1月13日に落馬による事故が引き金となって死亡したとされるのだが、武家の棟梁としての面目が立たないためなのか、現在では乗馬中の心臓発作とか脳溢血ということで“合理的な”理由付けがなされている。だが、江戸期に作られた『北条九代記』には、まことしやかに伝えられた奇怪な死因について語られている。頼朝は、自らの命で抹殺された怨霊によって殺されたというのである。建久9年(1198年)12月27日、稲毛三郎が妻の冥福を祈って架けた橋供養に頼朝は出かける。その帰り、矢的原という場所にさしかかった時にただならぬ気配となり、そこに源義経主従や源行家の亡霊が現れた。それを見て頼朝は恐怖を覚え、身の縮む思いで立ち退いた。そして稲村ヶ崎まで来ると、今度は波間に子供の亡霊が見える。これが壇ノ浦に沈んだ安徳天皇であると悟るや、ついに頼朝は 失神し、落馬したというのである。実際、頼朝は鎌倉幕府成立のために多くの血を流している。特に近親者への憎悪が激しく、情け容赦なく敵を潰すために、怨霊に取り殺されてもおかしくないという風に見られたのであろう。
佐助稲荷神社
伊豆に流されていた源頼朝はある時夢を見る。夢の中に老人が現れ「源氏の嫡流として打倒平氏の兵を挙げるのだ。何かあれば儂が助けてやる」と言う。そして頼朝が名を尋ねると「隠れ里の稲荷である」と名乗った。3日続けて夢を見た頼朝は、挙兵して平氏を倒したのである。そして鎌倉に入った頼朝は隠れ里の稲荷を探させ、佐助ヶ谷に祠を見つけて再建したのがこの佐助稲荷神社である。この神社の名前は、当時の頼朝の呼び名であった 「佐殿(すけどの)」から来たとも、「佐殿」を助けたからだとも言われている。また時代が下って13世紀頃に、ある漁師が狐を助けてやったことから霊夢を見てこの神社に住み、その後鎌倉を襲った疫病に効く薬を作ったという伝説も残っている。とにかく大きな社ではないにせよ、結構信仰を集めているように感じる。本殿を少し登った場所には、鳥居が建てられた洞穴のような塚がある。辛うじて読みとれる立て札の案内によると、ここは社殿が建てられる前からあった信仰の場であったらしい。由来によると、頼朝がここに神社を建てる前に既に稲荷があったとされているから、平安時代の後半にはここが斎場とされたり祭が催されたりしていたのだろう。『吾妻鏡』によると、1185年に頼朝はこの隠れ里の巫女に一人1枚の藍染めの織物を贈ったという。この年に平家は壇ノ浦に滅びており、頼朝の覇権が確定したと言ってもよい時期である。何らかの報酬であるといって間違いないだろう。また神社が成立したのもこの時期である。
腹切りやぐら
元弘3年(1333年)5月22日、鎌倉幕府は新田義貞の軍勢によって滅ぼされる。事実上の滅亡の場になったのが、執権北条氏の菩提寺である東勝寺である。ここが執権北条高時をはじめとする一族郎党870余名が立て籠もり、寺に火を放ち、自害して果てた場所である。日本の歴史上、政権が瓦解する時に、これほど為政者一族(一門の自害者だけで283名とされる)が悲惨な死を遂げたということはない。この北条高時をはじめとする一族郎党の菩提を弔うために作られたのが“腹切りやぐら”である。余りにもストレートなネーミングである。鎌倉で土地整備をすると必ず人骨が出るという噂をよく聞くが、幕府滅亡時の戦乱で亡くなった人のものであるらしい。それだけ多くの血が流れた場所であり、その中核となるのがこの腹切りやぐらと言うことになるだろう。
第六天社 安倍清明大神碑
鎌倉五山の第一とされる建長寺の門前に、その第六天社はある。この第六天社は建長寺の四方鎮守の一つで、南の方角の守護にあたるという。1674年に徳川光圀が書いた『鎌倉日記』にその存在が示されているので、江戸初期には建てられたと考えられる。この建長寺にある第六天社はその建てられた理由から考えると、方除けの神としての性格を帯びていると考えるべきであろう。そしてその入り口付近に、何の脈絡もないかのように【安部清明大神碑】が置かれている。この碑もおそらく【鎮宅霊符神】と同じ意味合いで、特に火難除けとして祀られたとみなしてよいかもしれない。
安部清明大神碑
『吾妻鏡』の治承4年(1180年)10月9日の項には次のような内容が書かれている。“源頼朝の鎌倉の館を建てるが、出来上がるまでは山ノ内の兼道という有力者の館を移築して仮屋とする。この館は正暦年間に建てられたが、一度も火災に遭ったことがない。晴明朝臣が鎮宅の符を押した ためである。”この記述が、安倍晴明が鎌倉へ赴いたことを示す証拠であると言われている(正暦年間は晴明75歳頃)。ではこの館はどこにあったものなのだろうか? 最も有力な場所とされているのが、鎌倉街道とJR横須賀線が交差する場所である。ここには小さいながらも【安部清明大神】と刻まれた碑があり、何らかの関連があると考えられる。この石碑は明治39年に作られたものであり、またかなりの年月に渡って放置されていたらしい。この碑の隣に<五山>と いう蕎麦屋があるが、そこの主人が偶然発見して祀ったという話である。不思議なのは、碑の奥に広がる空き地である。観光地として一等地にありながら、なぜか駐車場として放置されている。実は、地元の人によると、この場所に建物が建たないのは“頻繁に起こる火事”のせいであるらしい。とにかく建てるたびに火事に遭うらしい。伝承とは逆の現象が起こっているのだが、裏を返せば【鎮宅霊符神】の札を貼らねばならないほどの場所であり、現在はその札が散佚してしまったために火事が起こりやすくなっていると想像することも可能だろう。
八雲神社 晴明石
JR北鎌倉駅から大船方面へ向かうこと200メートルほど。小高い丘の上に八雲神社がある。ここに【晴明石】と呼ばれる石がある。この石も全国各地に散らばる安倍晴明伝説の一つなのだが、この石自体にも不思議な伝承が残されている。もともとこの石は鎌倉街道沿いの橋のたもとにあり、この石が【晴明石】であることを知らずに踏むと足が丈夫になるが、知って踏むと不幸に見舞われるというのである。このような災厄をもたらすものは安倍晴明関連の遺跡の中でもかなり珍しい。【晴明石】が八雲神社に祀られるようになったのは、戦後の昭和30年代のことらしい。鎌倉街道の拡張工事をした際に往来の邪魔になるということで移設したとのこと。かつてこの山ノ内周辺に安倍晴明が【鎮宅霊符神】の札を貼った家があり、その後200年間火災に遭わなかったと伝えられる。【晴明石】が水を祀るもので火難除けの効験あらたかであるという伝承と図らずも一致する。しかもこの石が最初に置かれていた場所は、鎌倉街道沿いの“十王堂橋”。つまり【晴明石】のあった橋の近くには“十王”を祀る御堂があったと推察される。この“十王”の中心にあるのが“閻魔王”である。さらに現在【晴明石】が置かれている“八雲神社”であるが、この名の神社は明治以前はほぼ間違いなく“牛頭天王社”として“素戔嗚尊”を祭神としている。これら“閻魔王”“牛頭天王”“素戔嗚尊”と同一神であると言われるのが“泰山府君”、まさに陰陽道における最高神なのである。謂われのない橋のそばに偶然あったのでもなく、移設の際に最寄りの神社という理由だけで選ばれたわけでもないと言えるだろう。
鎮宅霊符神 / 凶宅に住みながら裕福な劉名進が神より授かった霊符を、漢の文帝が広めたのが嚆矢とされる。家内安全・無病息災に効験がある。通例では【鎮宅七十二霊符】として72枚の霊符でまとめられている。その中心にあるのが鎮宅霊符神である。日本伝来後、北辰北斗信仰と結びつき、陰陽道において発展する。御姿は北辰北斗になぞらえ、玄武に乗っている。
十王 / 地獄にあって、亡者に審判を下す10人の王。秦広王(しんこうおう)、初江王(しょこうおう)、宋帝王(そうたいおう)、五官王(ごかんのう)、閻魔王(えんまおう)、変成王(へんじょうおう)、泰山王(たいせんのう)、平等王(びょうどうおう)、都市王(としおう)、五道転輪王(ごどうてんりんのう)。初七日から百ヶ日を経て、三回忌までそれぞれの区切りで裁きをおこなうとされる。
八雲神社 / 牛頭天王という社名が明治の神仏分離政策によって禁じられたため、素戔嗚尊にまつわる名称として「八雲神社」に改名した神社が多い。名前の由来は素戔嗚尊が詠んだとされる「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」の歌による。(牛頭天王と素戔嗚尊との関連性であるが、『日本書紀』によると素戔嗚尊は新羅の曽尸茂梨(そしもり)から高天原へ来たとされ、この「そしもり」という言葉が、朝鮮語の「牛頭」または「牛首」に当たることから、両者の習合がなされた)
素戔嗚尊 / さまざまな側面を持つ神であるが、ここでは「根の国」の支配者としての性格が強調されている。「根の国」は死者の住まう国であり、地獄を統括する閻魔王との共通点があるとする。
泰山府君 / 中国にある泰山を神聖視し、それに尊称を付けたもの。生死や寿命をつかさどり、生前の罪に合わせて懲罰をおこなう性格から、閻魔王と同一視される。 
 
 中部地方

 

 静岡県
●河童 
江戸時代、馬で情報を伝える伝馬制が整備され、河童に関する数々の言い伝えが広められました。有名な河童の言い伝えでは、巴川にかかる稚児橋(2.7km)のお話しがあります。
1611年(慶長16年)、巴川に初めて橋が架けられました。そこで渡りぞめが行われることになり、古くからのならわし通りに、皆から選ばれたおじいさんとおばあさんが渡ろうとしたところ、どこからかおかっぱ頭の男の子が現れました。そしてアレヨアレヨという間に渡ってしまったのです。その男の子は、そのまま府中(現在の静岡市葵区伝馬町近辺)の方へ歩いて行ってしまいました。実はその男の子は、巴川に住む河童だったのです。はじめはびっくりしていた人々も「あの子供はきっと神様の使いに違いない」とたいそう喜び、その橋に「稚児橋」と名付けたということです。
その他にも、清水区高部地区の民話では、命を助けられた河童が巴川の水を産湯に使えば、子どもを水の事故から守ることを約束したと言われています。
また、清水地区に伝わる郷土玩具「デッコロボー」にも河童が伝承されています。この「デッコロボー」は、夜泣きする子供の枕元に立てておくと夜泣きが治ると伝えられています。
河童を通して、昔の人々と河川の精神的な関わりが伝えられています。

●沼のばあさん
昔の麻機地域には“浅畑沼(麻機沼)”があり、その周りには小沼や武平渕と呼ばれた大小の沼池がありました。そのうちのひとつ、浅畑沼には「沼のばあさん」の伝説があります。
後醍醐天皇の時代、「こよし」という美しい娘が生まれました。母親がすぐに亡くなったので、こよしはお婆さんに育てられました。
こよしが17才になった年の夏、こよしのお婆さんが病気にかかってしまいました。こよしはお婆さんの病気が治るようにと、毎日浅間様にお百度参りを行っていました。
ある日、お参りに行く途中で川を渡ろうとしたこよしは、河童にさらわれてしまったのです。そのことを聞いたお婆さんは龍に姿を変え、その河童を退治したあと、沼を守るために水の底に身を沈めました。
不思議なことに、お婆さんが身投げをした次の年から「法器草」という霊草が育ち、村人はその根を食べて飢えをしのぎました。村人たちは「あのお婆さんが、この不思議な草を沼に生やして下さったのだ」と言って、お婆さんの魂を諏訪神社に祀ったとされます。
葵区南沼上の諏訪神社では、7年に1度大祭がとり行われます。かつては、周辺地域の人が心待ちにした祭典で多くの見物客で賑わいをみせたそうです。
「沼のばあさん」にまつわる話は、大谷川放水路の下流部にあたる大谷地区にも伝えられています。
 

 

●伝説・民話 浜松市
遠州七不思議・片葉の葦
豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎といった少年のころ、現在の頭陀寺町の松下嘉平次という武士のところへ下男として働いていた。藤吉郎の仕事は毎日草を刈って畑を耕すことであったが、将来、偉い武士になりたいと望む彼にとってこの仕事は嫌で仕方がなかった。いつも、草を刈りに家の東にある雑草と葦に囲まれた小池のほとりへと出かけると、まずはゆっくりと鎌を研ぎ出した。そして、鎌を研ぎながら、あたりに落ちている松葉を拾い、それを手裏剣の代わりにして池で泳ぐメダカの目を狙って投げていた。初めのうちは全くあたらなかったが、何日も繰り返しいるうちに三度に一度、そして二度に一度はメダカの目に刺さるようになった。また、研いだ鎌を持つと、前に生えている葦の片側の葉のみを切り落とした。葉の付け根からのみ切り落とすことにより、戦いに出るときのために腕を磨いていた。その後、秀吉が鎌を研いだ池は「鎌研ぎ池」と呼ばれるようになった。そして、この池に住むメダカは、松葉の手裏剣によって片目をつぶされたので、みんな片目になってしまい、片方の葉のみ切り落とされた葦は、片葉の葦となってしまった。
遠州七不思議・京丸牡丹
昔、春野町気田から数十キロの山奥に京丸という村があり、そこに一人の若い旅人が迷い込んできた。彼は長い山道に疲れ果て、更に空腹だったため、まるで病人のようであった。旅人が村の村長の家を訪ねると、彼の事情を聞いた村長は親切にいたわり、食と宿を与えた。また、村長には若く美しい娘がおり、彼女もまた旅人を優しくいたわった。幾日か経つと、旅人は元のように元気になったが、旅人はこの村から出ようとはせず、村人と一緒に炭焼きや農耕の手伝いをしていた。そして、彼はいつの間にか村長の娘と恋仲になっていた。旅人と娘が恋仲になっているのを村長は知り、困っていた。娘の恋を成就させたいと願う一方、村には他村の者を村人にすることや他村の者と結婚することを禁止する厳しい掟があった。村長は旅人に村の掟を話し、村から出て行って欲しいと頼むと、旅人は承知し、次の日の朝には若い二人の姿が村から消えていた。それから数ヵ月後の夕暮れ、村長の家の裏に村を出たはずの若い二人がみすぼらしい姿で立っていた。二人はこの数ヶ月、いろいろな地を回ったが、どこにも安住の地を求めることができず、村に戻ってきてしまったのである。しかし、村長は掟だからと言い、二人は再び家を出て行った。二人はその足で村の前の気田川に身を投げ、死んでしまった。その後、命日になると行き場のない2人の魂が大きな牡丹となって気田川のふちを彩っている。
遠州七不思議・桜ヶ池のお櫃納め
昔、京都の比叡山に皇円阿闍梨上人(こうえんあじゃりしょうにん)がいた。上人は、お釈迦さまが亡くなってから56億7千万年後に弥勒菩薩(みろくぼさつ)が現れ、この世を救うという記述を経本の中に見つけた。ぜひ弥勒菩薩に会い、教えを受けたいと思った高僧は、人の寿命ではとても生きていられないので、この世の中で一番長生きである大蛇となって生きようと考えた。そこで、高僧は弟子たちに大蛇として住むのに良い池を探すように命じた。弟子の一人である法然は、東へと旅をして遠江国へ入り、いろいろ尋ね歩いていた。ある夜、この国にある桜ヶ池へ行って様子を見て来いと、夢の中でお告げがあった。桜ヶ池へ行ってみると、山の上にある大池で、東と北には断崖の山があった。ここなら気に召すであろうと思い、池のほとりで経を読んでから池の水を汲んで、比叡山へと帰った。法然から報告を受けた上人は、早速と、桜ヶ池から汲んできた水を掌に受け経を読むと、瞬く間に恐ろしい大蛇となり、黒雲に包まれて東へと飛び去ってしまった。それから十数年後、法然が弟子二人を連れて桜ヶ池を訪れた。もう一度、阿闍梨上人に会いたいと思った彼らは池のほとりで朗々と経を読んだ。すると上人が現れ、四人は昔話や仏の道についていろいろと語り合った。別れのとき、法然は阿闍梨上人の今の姿を見せて欲しいと言った。上人がにっこりと頷くと、黒雲が集まり、池を覆った。その雲間から大蛇がうろこを光らせていた。うろこに住む小虫が皮膚を食いちぎるので苦しいと上人が法然に話すと、法然は仏道の力でうろこを全て取り去ってしまったため、この時以来、桜ヶ池の大蛇にはうろこがなくなった。阿闍梨上人の大蛇は56億7千万年を待つために、今も池の水底深くに住んでおり、毎年、秋分の日にその大蛇への食べ物として赤飯を入れたお櫃を池の底深くに沈めている。沈めたお櫃が上がってくると、中の赤飯はすっかりなくなっているという。
遠州七不思議・三度栗
昔、徳川家康が戦争に負け、一人で園田村へと逃げてきた。長い道のりを走ってきた家康は空腹でたまらなかった。すると、近くにあった農家へと飛び込み、家の中にいた老婆に食べるものを求めた。老婆は大きな箱に一杯、栗の実を持ってきてくれた。家康は喜んで、いくつも皮をむいては食べた。お腹が膨れ元気になった家康は、残った栗の実を1つ、その家の門前に埋めた。そして、自分が食べた分、早く実がなるようにと言いながら、右足で軽く踏みつけた。その後、家康の蒔いた栗から芽が出て、毎年6月、9月、11月と3回も花が咲いて実がなる不思議な栗の木となった。
遠州七不思議・波の音
昔、大勢の漁夫たちが海に網を入れて漁をしていたが、何度引き上げても不漁で困っていた。次の網を入れて引き上げてみると、そこには怪物が一匹引っかかっており、漁夫たちはこんなものがいるから不漁になるのだと、殺そうとした。するとその怪物は、自分は海の底に住む波小僧なので、天気のことを良く知っているから、これから天気の変わり目には太鼓をたたいて知らせるかわりに逃がして欲しいといった。漁夫たちもそれならばと、波小僧を逃がしてやった。それから天気の変わり目には波の音がするようになった。
遠州七不思議・無間の鐘
昔、栗ヶ嶽の頂上の観音寺には無間の鐘という、つくと大金持ちになるが、死後は地獄に落ちるという噂のある鐘があった。その噂は村人はもとより遠い他国へも広がり、多くの人が鐘をつきに押し寄せた。それを見た観音寺の住僧は、今が良ければ未来来世のことはどうでもいいという考えの人々のことを悲しく思った。そして、人々の目を覚まさせるため、鐘を寺の前の古井戸に投げ込み、埋めてしまった。
遠州七不思議・夜泣き石
昔、牧の原のほとりに貧しい夫婦が仲睦まじく住んでいた。美しい妻は小石姫と呼ばれ、仏教への信仰も厚く、月に何度か小夜の中山の峠にある久延寺の観音菩薩にお参りし、貧しいながらも三文ずつ供えていた。ある年、夫が所用で京都へ行って幾月も帰らず、小石姫は妊娠10ヶ月のお腹を抱えながら、明日の食事にも困っていた。そこで、家に伝わる赤丸玉の名刀を持ってお金を借りようと、夕暮れの道を町へと急いだ。小夜の中山の峠に差し掛かる頃には日は沈み、久延寺の側を通ってしばらく進むと、道の傍らに大きな丸い石があった。すると、その石の横から一人の凶漢が現れた。小石姫は急いで逃げようとしたが捕まってしまったので、持っていた名刀を鞘から抜き、男へと立ち向かった。しかし、あっさりと刀は奪われ、凶漢によって切り殺されてしまう。凶漢は刀を腰に刺し、更には彼女の着物まで剥ぎ取ろうとした時だった。旅僧が突然現れ、それに驚いた凶漢は急いで逃げてしまった。この夜からその大石のほとりで子供の泣く声が聞こえるようになった。その夜、久延時では観音菩薩が消えてしまい、困った和尚は翌日にでも村人に頼んで探してもらおうとしていた。しかし、翌朝には観音菩薩は戻っており、その右手には赤子が抱えられているようであった。こうしたことが毎夜続いた。また、山のふもとにある菓子屋では、見慣れない旅僧が毎夜三文ずつ飴を買いに来るようになった。不思議に思った店主がある夜、旅僧の後をつけると、子供の泣き声が聞こえるという石の側まで来た。石からは今夜も泣き声がしていた。すると、旅僧はその大石のあたりで消えたので、店主は恐る恐る石のほうを調べると、そこには女の着物に包まれた赤ん坊がいて、その周りには彼の店の飴の包み紙が落ちていた。菓子屋の店主は赤ん坊を連れて家へと帰ったが、自分たちが生活するだけでも苦しいので、翌朝、久延寺を訪ねた。寺の和尚に昨日のことを伝え、赤ん坊を見せると、赤ん坊を包んでいた着物から小石姫の子供であると分かった。また、観音さまが菓子屋へ飴を買い、石の側にいた子供に飴をなめさせたことによってその赤ん坊は生き延びていたのだと思った。このことに縁を感じた菓子屋の店主は赤ん坊を引き取り、育てることにした。赤ん坊は音八と名付けられ、すくすくと育っていった。音八が成人し、大阪で刀の研磨師をしていると、ある日一人の老人が一本の刀を持ってきて研磨を頼んだ。すると、刀は良いものではあるが、刃先にキズがあったので、理由を聞いてみると、昔、小夜の中山で妊婦を切ったということだった。音八は母の仇と、その刀で老人を切ってしまった。
家康と小粥の姓
戦国時代の頃のこと、家康率いる徳川軍は三方原の戦いで武田軍に大敗。家康は命からがら逃げることができたのだが、逃げ隠れしているうちにすっかりお腹が空いてしまった。耐えきれなくなった家康は、ある農家に飛び込み食べ物を求めた。農家の老夫婦は、今煮ているのは、粗末な米の粥で、とても人にあげるようなものではないと断ったが、それでもいいと家康はお粥をもらった。おなかいっぱい食べた家康は、いずれ恩返しをすると言い残し、走り去っていった。家康は天下を取ったあと、その老夫婦にお礼にと「小粥」の姓を与えた。後にその家は庄屋を務め、家はますます栄えた。小粥の家紋は丸に二引。これは家康が粥を食べたとき、茶碗の上に箸を置いたかたちだという。
池の平のふしぎ
昔、水窪の南にある高根城に敵兵が攻め寄せてきたときのこと。城主の民部少輔(みんぶのしょう)貞益は応戦したが敵兵は優勢で、城主を初め、みな討死してしまった。城主の妻、おわか様には二人の幼い子供があり、せめて子供だけでも生かそうと、おわか様は城を抜け出し、城下の水窪川のほとりまで逃げてきた。すると、そこには多くの敵兵がおり、子供二人を抱えてでは抜けられないと感じたため、片方の子供を川の渕に投げ入れた。後にこの渕は「赤児渕(あかんぶち)」とよばれるようになる。更に山を分け入っていくと、一軒の小さな家があり、そこには一人の老婆が留守番をしていた。おわか様はそこで一杯の水をもらって飲むと、敵が来ても自分がどこへ逃げたか言わないよう老婆に頼んだ。しばらくして敵兵が老婆の家へやって来て、おわか様の行方を聞いた。敵兵は老婆を脅し、それに恐ろしくなった老婆は口で言わない約束をしていたので、手で山のほうを差し示した。おわか様は、山を登りつめたところにある池の平という凹地まで、くたくたになりながら登っていった。ここなら大丈夫と思い、草の中に身を隠そうとすると、突然子供が泣き出してしまった。その声を聞きつけた敵兵が近づいてきたので、もはやここまでと、短剣を抜き応戦したが、無念にも殺されてしまった。その場所におわか様をまつる小さいお宮を建てたが、まだおわか様の思いが残るのか、今もまだ、普段は平地の部分から8年ごとに水が沸いては池を作る。
いたずらキツネ
むかし、ある男が芳川村に住んでいた。ある晩、男は親戚の家に行く途中、道で馬の糞を転がしているキツネに会った。どうしてそんなことをしているのかと男が尋ねると、キツネは近くの家に住むおばあさんに、丸めた馬の糞を饅頭だと騙して食べさせるのだと言う。男は面白そうだと思い、キツネについて行くことにした。おばあさんの家に着くとキツネは障子の穴から覗いていろと男に言い、家の中へと入っていった。穴から覗いてみると、中にはおばあさんがひとりで寝ていた。男はいつキツネがおばあさんをだますのかと見ていたが、いつまでたってもキツネが馬の糞を食べさせることはなく、ついには夜が明け始めた。それでも覗いていると、道を通った人に肩をたたかれ、何をしているのか訊かれた。気が付くと、覗いていたのはおばあさんの家ではなく、自分の家の馬小屋だったのだ。
芋ほり長者
今は昔、奈良の都に一人の信心深い美女がいた。ある時、女は伊勢の大神宮でお参りをし、良い巡り合わせを祈願した。その夜、夢に大神宮様が現れた。大神宮様は、女に棉の小袋を渡し、「これを持って、東へ参れ」と告げた。女が目を覚ますと、なんと夢で渡された小袋を手にしていたのである。お告げの通り、女は一人東へと旅に出た。数日後、遠江国を旅している時に困ったことが起きた。何もない野原で日が暮れてしまったのだ。しかし、運良く一軒の貧しい農家を見つけ、ここに泊まることとなった。家には、山の芋を掘って生活をしている貧しい男が住んでいた。男は、貧しいながらも心の限り彼女をもてなした。女は男の親切を嬉しく思った。すっかり気を許した彼女は、大神宮様の小袋を男に見せると、不思議なことに男も同じものを持っていると言う。二人の袋を開いてみると、両方とも黄金の玉が入っており、二人は驚いた。縁を感じた二人は夫婦となり、一生懸命に働くと何年もたたないうちに富み栄え、さらに10年、20年するとさらに豊かになっていった。はじめは芋ほりからはじめた二人の貧しい暮らしを知っている人たちは「芋ほり長者」と褒め称えた。二人は、豊かになったのは神さまや仏さまのおかげと、感謝のしるしにお寺を建てて、観音さまをお祭りした。これが今の浜松市中区鴨江町にある鴨江の観音さまだといわれている。現在でも、二人が住んでいたとされる鴨江町一帯は、長者平(ちょうじゃびら)と地元の人に呼ばれている。
うばが橋
何百年か昔、今の田町周辺がまだ田んぼと荒地と沼だった頃、旭町のあたりにはこの地方屈指のお金持ちの家があった。その家には4歳になる一人娘がおり、父母はその娘に乳母を一人つけて宝物のように育て、やさしい乳母に女の子もよくなついていた。しかし、ある夏、女の子が突然病気にかかり息絶えてしまった。女の子の父母は娘を失った悲しみを乳母の所為だと言ってぶつけた。実の子ではないにしても、自分によくなついていた女の子を失った悲しみは大きく、乳母は神さまに女の子を生き返らせてくれるようにと拝みながら、池に身を投げてしまった。すると、乳母の願いが通じたのか、死んだはずの女の子が生き返った。一家は涙を流して喜んだが、女の子は乳母がいないことに気付き、乳母を探し始めた。しばらくすると、乳母が女の子の身を念じて入水したことが分かり、女の子の父母も自分たちの失言に気付き、申し訳なく思った。乳母が身を投げてしまったことを知った女の子は泣きながら池のほとりへと駈け、乳母を何度も呼んだ。すると、乳母の白い死体が草の繁りのかげに浮き上がってきた。姥ヶ橋後に、この池を「乳母が池」、橋を「乳母が橋」と言うようになった。現在では、池は埋め立てられてしまい、橋はコンクリート製となってしまったが、名前は「姥ヶ橋」と昔のままである。
おしどり池
式内郷社英多(あかた)神社(現在の浜名総社神明宮といわれる)に「おしどり池」という池があった。昔、この近くに猟師を生業とする夫婦が暮らしていた。ある日、夫が猟に出たが、思うような獲物がなく、諦めて山を下りていたとき、英多神社の前にある池に二羽のおしどりが仲良く泳いでいるのを見つけ、一羽を射止めた。もう一羽には逃げられてしまったが、射止めた雄のおしどりを家へと持ち帰り、首を切って裏の竹藪に捨て、料理して夕飯に出した。今日の話を妻にすると、妻は仲のいい鳥なのに可哀そうだと言った。彼女は夫が生き物を殺すのを生業としていることを快く思っておらず、もっとほかの仕事をして欲しいと思っていた。その夜、裏の竹藪で鳥の声がしたので、夫婦は目を覚ましたが、夫は特に気に留めなかった。次の日、夫が再び英多神社の池のほとりへ行ってみると、そこには昨日射止めることのできなかった雌のおしどりが浮かんでいた。矢をつがえても逃げようとはしなかったため、簡単に射止めることができた。水の上から拾い上げ、よく見てみると、雌の羽の中には昨日捨てた雄の首が抱きしめられていた。驚いた彼は、昨日の妻の言葉を思い出した。それから家へ帰り、裏の竹藪の中へ雌の死骸と雄の首を一緒にして丁寧に埋めてやると、その後、猟をやめて百姓として働いた。それからこの池をおしどり池と言うようになった。
お姫様と大工の恋
徳川時代の末頃、気賀の関所の関主でもあった殿様、近藤用随には美しい娘が一人いた。姫は殿様や奥方、家来や女中たちからもかわいがられて、大切に育てられていた。その頃、御殿修繕のために孫兵衛という若い美男の大工が出入りをしていた。姫は孫兵衛の凛々しく男らしい姿に惹かれ、また、孫兵衛も美しい姫を嫌うわけはなく、二人の間に恋心が芽生えた。しかし、二人の関係が殿中に広がり始めたため、二人は城から抜け出し、都田川から小舟に乗り、浜名湖へ向かって漕ぎ出した。姫の失踪を知った城内は、孫兵衛が姫を連れ去ったと大騒ぎになり、すぐに追っ手が二人を探しに出た。そのため、二人の舟はすぐに見つかり、孫兵衛は牢屋へと入れられ、打ち首されることとなった。姫は殿様に孫兵衛を許してほしいと願うが受け入れられなかった。せめてもと、姫の目の前ではなく、国境で打ち首にするよう殿様は家来の佐藤長太夫に命じた。翌日、長太夫は孫兵衛を連れ、国境の引佐峠へと向かった。そこで長太夫は斬るふりをしながらも、孫兵衛に三ヶ日のほうへと逃げるように合図し、孫兵衛を逃がしてやった。罪人を逃した罪で、長太夫は三ヶ月の閉門を言い渡されたが、心は晴れやかだった。その後、姫は近藤家の菩提寺である宝林寺へかんざしを献じ、訓戒を受け、江戸の屋敷へと引き取られていった。一方、孫兵衛は一度は三ヶ日の町へ逃げたが、その後、見付へ出て、舞台大工として一生を送った。
お弁地蔵
昔、宇布見の町に医師夫婦が住んでいた。ある年、その医師の所に中年のお弁という女が雇われていた。お弁はまめに働き、気立てが優しく、十人なみの容姿を持っていた。医師夫婦もそんなお弁に特別目をかけていた。しかし、お弁はなぜかいつもおどおどしており、外出するのや顔を見られることを嫌っていた。家の中の用事ならすぐに働くのに、お使いの用事となるとなかなか腰を上げない。理由を聞いてもお弁は語らなかったが、彼女には秘密があった。お弁は数年前に結婚したが、夫は酒癖が悪く、狂暴で手に負えなかった。そのため、離婚を切り出したが、受け入れられず、更に彼女に対する仕打ちがひどくなっていった。そこで、いたたまれなくなったお弁はある夜にそっと家を抜け出し、50キロも離れた宇布見で暮らしているのだった。しかし、夫が彼女を探しに出ているとうわさに聞き、いつ見つかるのか不安でならなかったが、それを医師夫婦に伝えれば、余計な心配をさせるだけだと思い、何も語らなかった。そんなある年の秋の初め、お弁は主人の使いで大久保村まで行った帰り、夫と出くわしてしまう。お弁は急いで逃げたが、男の足にはかなわず、ついに追いつかれ、斬りつけられた。お弁は血を流しながら、宇布見村と志都呂村の小川にかかる橋までなおも逃げたが、ついに力尽きてしまう。村人たちはお弁の冥福を祈り、息絶えた場所に地蔵を建てた。その地蔵はお弁地蔵と呼ばれるようになり、また、彼女が斬られ、逃げた道を血塚畷(ちづかなわて)と呼ぶようになった。
お松火
100年以上前のこと、中ノ町村松小池にお松という若い女がいた。彼女は、近くの笠井上村に住む権七という青年と恋に落ちた。二人は毎晩のように会い、将来もずっと一緒にいようと誓いあっていた。しかし、頑固なお松の父、源右衛門(げんえもん)は娘の恋愛を許すことができなかった。怒った源右衛門は、お松を家に軟禁し一歩も外には出られないようにしてしまう。恋しい彼に会えなくなり、お松は日々悲しく過ごすことになった。ある晩、お松と権七はそっと家を抜け出し村の貯水池へと向かう。「この世で結ばれぬなら、せめてあの世で」と二人は池に身を投げた。次の朝、二人の死体が見つけられるとすぐに村中の評判となった。多くの村人が同情した。しかし、源右衛門は、「親不孝者め」と死体を叱りつけ、許すことはなかった。情死したのだから一緒に埋めよという村人の意見も聞かず、源右衛門はお松を松小池に、権七を笠井上村にと別々の場所に埋めた。するとそれから暗い静かな晩には、松小池から笠井に通じる田んぼ道に怪しい火の玉が通るようになった。村人たちは、お松が権七に会いに行こうとしているのではないかと考え、夜にその道を通るものは誰もいなくなった。このお松の火の玉は大変なうわさになり、噂にたえかねた源右衛門は改めてお松と権七を夫婦として同じところに埋めた。すると、その後から火の玉が出なくなったといわれている。
親投洞(おやなぎどう)
昔、不作の年が続き村人たちは食糧に困っていた。そんな中、年老いた親たちがいては食糧がたくさん必要となり大変なので、親を捨てればよいと考える子供がいた。子供は親が悲しむのも構わず、人目を忍んで熊切川に捨てていた。谷間には捨てられた親たちのうめき声が響き渡った。同じように親を捨てる子供が何人もおり、多くの年老いた親たちがこの淵に捨てられていった。そのため、その淵は「親投洞」と呼ばれるようになった。
隠れ岩と小豆坂
1575(天正3)年、徳川家康は光明山中で武田軍と戦っていた。家康は苦戦を強いられ、ふと見つけた洞窟の中に逃げ込んだ。一方、武田軍の大将である勝頼は、朝からの戦いに空腹で仕方がなかったので、近くの農家へ駆け込んだ。戦いの最中であったため、一番早く煮える食べ物を食べさせろと言った。そこで、農家は小豆の塩煮を煮て出すことにした。しかし、小豆の塩煮はとても時間のかかる煮物だった。しのびはそれを家康に知らせ、家康は洞窟から這い出して逃げた。その後、家康の隠れた洞窟を「隠れ岩」、両者の戦った坂を「小豆坂」と呼ぶようになった。
笠かむり観音
805(大同元)年のこと、天竜川の川瀬に毎夜、光るものがあった。ある日、村の一人がそれを見てみると、三尺ばかりの木の仏像だった。村人はそれを拾い上げ、近くの井戸で洗い清めると、道の傍らにすえ、丁寧にまつった。すると、その前を通った人々が、花を飾ったり、水を供えたりしていった。ある雨が降る日、濡れては可哀そうだと自分のかぶっていた笠(かさ)を冠せていく人がいたので、それから笠を冠る観音さまとして有名になった。やがて「笠かむり観音」と呼ばれるようになり、その後、近くに井戸があったことから「笠井観音」となって多くの信仰を集めた。そして、この観音堂を中心に町ができ、「笠井町」となった。現在、観音さまは笠井町の福来寺境内にまつられている。
河童の証文
今は昔、都田川に悪い河童が棲みついていた。都田川と中川のさかいは瀬戸と呼ばれていて、このあたりに雄渕(おぶち)と雌渕(めぶち)という二つの淵があった。河童はその二つの渕に住んでいて、よく渕に人を引きずりこんで溺れさせていた。毎日のように人々にいたずらをするこの河童に村人たちはすっかり困っていた。これを聞いた村の和尚は、河童を懲らしめることにした。和尚が7日間、渕のかたわらに立ってお経を読み続けていると、渕の水が熱湯のように熱くなった。これには河童もたまらず、川から飛び出して謝り、もう悪さをしないから許して欲しいと言う。和尚に証文を書けと言われた河童は、これに従い証文を書き和尚に手渡した。しかし証文の字は、和尚以外に誰も読むことができなかったそうだ。これより後、河童は悪いことどころか姿を現すこともなかった。
飢饉と三岳神社
1783(天命3)年の3月のこと。引佐の北部の山間の村に一人の乞食(こじき)ふうの老翁が各家を巡っていた。老翁は決して食を乞うのではなく、人々が飢饉で困っているのを見ると、ソバのからや大根の葉の部分、エノキの新芽などを飯に入れたり、餅にしたりして食べると命をつなぐことができると教え歩いていた。そして、いつの間にかいなくなってしまっていた。前年は、春から天候不順で雨ばかりが多く、夏から秋にかけて十数回もの暴風雨があり、また、寒冷が早く来たため、作物は実らず、収穫は皆無だった。しかし、備蓄があったため、どうにか凌ぐことができていた。その年、前年とは打って変わって雨が降らず、作物は枯れて収穫は皆無となっており、大飢饉が起こった。しかし、老翁のおかげで代用食を用意できた村民たちは、不作でも餓死から逃れることができた。老翁に感謝した村民たちは、あれは三岳の権現様の御使いに違いないと言うようになった。
兄妹地蔵
昔、天竜川沿いの船明の村に仲の良い兄妹が住んでいた。二人とも特別の美男美女というほどではなかったが、十人なみの器量だった。しかし、年頃になってもどこからも縁談がなかった。兄は妹を、妹は兄が、誰かと結婚して知らない誰かの持ち物となることがこの上なく嫌であったので、特に困ることはなかった。兄妹は二人で仲良くしていたいと、いつしか夫婦のように暮らし始めた。しかし、狭い山の中の村なため、二人の生活のことが村の人々の話題の的となっていた。そんなうわさが二人の耳にも入り、罪の重さを感じた二人は、手と手をしっかり握り合って天竜川の船明渕に身を投げた。船明の人々はそんな二人を哀れんで、男女二体のお地蔵さまを刻み、行者山におまつりした。このお地蔵さまは「船明の兄妹地蔵」または「行者山の道祖神」として現在長養寺の境内にある。
兄妹夫婦
今の水窪町に昔、絶世の美男美女の兄妹がいた。彼らに及ぶような者がいなかったため、二人とも、年頃になっても適当な配偶者が見つからなかった。そこで、兄妹は西と東に分かれ、別々の土地へ結婚相手探しの旅に出た。しかし、そこでも良い相手が見つからず、故郷へ戻ることとなった。それぞれ西と東から村に入って来ると、二人とも、自分の向かいから兄妹に劣らない人物が歩いてくるのを見つけ、運命の人だと駆け寄った。しかし、それは兄妹であり、日本中探しても兄妹以上に良い相手がいないことを実感した。それから兄妹は夫婦として平和に暮らし、兄妹夫婦を祝福して道祖神が作られた。その道祖神は兄の名前が次郎兵衛と言ったことから「次郎兵衛様」と呼ばれている。
熊の親子
昔、佐久間町にいた一人の猟師がある雪が降る日、獲物を探しに山奥へと入っていったところ、雪がひどくなり道に迷ってしまった。困っていると近くに洞穴を見つけ休もうと思い中に入ると、そこには熊の親子がいた。猟師は驚いたが、仕方がないので熊の横に座ると熊は猟師を襲うこともなく、また、猟師も熊を撃つこともしなかった。猟師がお腹がすいたと言うと、熊は手のひらを出してなめろというので、なめるととてもいい味がして、不思議にお腹もいっぱいになった。こうして雪が降り続ける3日間を一緒に過ごした。雪が止み、村へ帰った猟師が山であったことを友だちの一人に話すと、いい金儲けができるといって、その熊を撃ち取ろうということになった。二人は山の中へ出かけ、先日の洞窟の前へ来ると、穴から出てくる親熊を狙って二人同時に引き金を引いた。続いて小熊も撃ち取ると友だちは大喜びし、猟師は先日のことを思い出しながら熊の手を持とうとした。すると、死んだはずの熊が猟師ののどに食いつき、猟師は死んでしまった。それからこの村では熊が親子でいるときはどんなときでも決して撃たないことにしている。
光禅寺の雨ごい池
今は昔のある年のこと、大蒲で日照りがずっと続いたことがある。来る日も来る日も雨は降らず、田んぼに地割れが出来てしまった。田植えの時期も近づき、農民たちはすっかり困っていた。そこで、農民たちはみんなで光禅寺に行き、弁天様に雨乞いをしようと話し合った。光禅寺の境内にある、弁天様がまつられた小さな池の水を汲みだすと、雨が降り、また池の水がいっぱいになると言い伝えられていたのだ。さっそく農民たちは弁天様に雨を降らしてくれるようお祈りしながら、池の水を汲みだしはじめた。みんなで力を合せて、汗だくになりながら農民たちは水をかきだし続けた。すると、今まで晴れ渡っていた空が曇りだし、ついには雨が降り出したのだ。からからだった畑も田んぼ潤い、農民たちは「弁天様の雨だ」と大喜びし、裸になって飛びまわったそうだ。
高野谷のキツネ
今の雄踏町宇布見から北隣の大久保町へ行く途中には山がある。その山の左側の谷は「高野谷」と呼ばれ、昔、そこには悪いキツネが住んでおり、その道を通る村人をだましては、素裸にしていた。時々、裸になった人が夜明けごろにようやくだまされたことに気付き、ふるえながら谷を駈けていく姿が見られた。ある夜、村の若者の伝助が悪いキツネを捕まえてくると言って、高野谷へと一人で出かけていった。谷の中でキツネが出てくるのを待っていると、雑木の上から猿の鳴く声がしたので見てみると猿がいた。一匹の猿が伝助のすぐ前に下りてくると、続いて二匹、三匹…と下りてきた。猿たちはそこにあった一隻の船を押して運ぼうとし始めたが、小さな猿の力では容易に動かないため、伝助は猿たちに混ざり、船を押した。伝助が船を押すと、船が少しずつ動き出したので、伝助は夢中になって押した。海岸近くまで来て、もう少しというときに大波が沖から押し寄せてきたので、伝助は服が濡れては大変と、急いで着物を脱いで裸になった。そして、また船を押していると、大波が伝助のところまで押し寄せてきたので、伝助は裸のまま波を切り、両手を上げて波の中を泳いだ。その頃、東の空が白くなり、夜が明けてくると、一人の農夫が高野谷を通りかかった。そこには素裸で両手を上げてわめいている伝助がいたので、キツネにだまされていると思い、肩をたたき、声をかけた。正気に戻った伝助は、自分の裸を見回し、家へと急いで駈けて行った。
権現さまと橋羽の妙恩寺
1572(元亀3)年の12月、家康は袋井や中泉方面での武田軍との合戦で大敗し、天竜川の堤防から逃げ出して命からがら橋羽村の妙恩寺へ逃げ込んだ。お寺の住職は家康を天井裏に隠して、その下で朗々とお経を読んでいたため、家康を追って寺にきた武田軍に見つからずにすんだという。家康は和尚からごはんをいただき、浜松城に無事戻ることができた。家康はこの地方を平定した後、妙恩寺の和尚を城へ招いてその時のお礼として丸に二引の紋所を授けた。お寺で助けれれた時にいただいたごはんのおわんに箸をのせたかたちをとったものだという。妙恩寺では今でもこの紋を用いている。
紺女郎キツネ
笠井の定明寺のまわりは昔、鬱蒼(うっそう)とした森であり、いくつものキツネの穴があった。そのキツネの頭はいつも紺がすりの着物を着た美しい娘に化けるので、「お紺女郎」と呼ばれていた。お紺女郎は決して悪いことはせず、占いをしたり、お寺のためによくお使いをしたりしてくれる便利なキツネだった。お紺女郎はお寺の和尚たちが話すのを聞いては店に先回りして、品物を注文する。店の人は、定明寺にこんな娘がいないことを知っているので、すぐにお紺女郎と分かるが、いつも通り注文を受け、品物をお寺に届ける。そして、月末にはお紺女郎が代金を払ってくれるということで、誰も困る人はいなかった。ある日、お紺女郎が町の薬屋に目薬を注文しに来たので、薬屋が定明寺へ目薬を届けると、和尚は目薬は必要ないということだった。おそらく、今朝方、和尚が檀家の一人にお尻にできた腫れ物が見えないという話をしたとき、お紺女郎は「見えない」というのを聞いて、思い違いをしたようだった。そんなキツネに親しみを持って、金如呂(紺女郎)稲荷としてまつっている。
さくら塚
1523(大永2)年の2月のこと。堀江勢と、堀江城に攻め入ろうとする今川勢とのにらみ合いが続いていた。ある夜、堀江城主の養女であったさくら姫が、城内を一人散策していると、裏門のあたりで一人の敵兵の姿を見つけた。さくら姫は彼に魅力を覚え、柵の近くに歩み寄った。敵兵も同様に歩み寄り、二人の目が合うと、互いに笑いかけた。その夜はそのまま別れたが、次の夜も二人は裏門のあたりで会い、そういった日が幾日か続いた。1523(大永2)年3月1日の夜、不意に多数の敵兵が堀江城へ裏門から攻め込んできた。安眠していた兵もいた時間だったので、城内に入った敵と戦うのは不利であり、多くの死者を出した。生き残った者を集め、暗闇にまぎれて城を抜け出した堀江城主は、平松村を見下ろせる小山の上まで逃げた。そして、裏門の守りが薄かったのには城内に裏切り者があるからで、誰か心当たりはないかと聞いた。すると一人の家来が、さくら姫が裏門のあたりにいたのを見かけた者がいると答えた。それを聞いた堀江城主は怒り、さくら姫を死刑にして逆さに埋め、塚を作った。そして、その塚の上に、一株の桜の木を植えて、彼女の冥福を祈った。その後、春に咲く塚の桜の花は彼女の哀しい思いが伝わってか、また逆さに埋められたからか、花が下を向いて咲いている。
椎ヶ脇渕(しいがわきふち)の竜宮
西鹿島にある椎ヶ脇渕の上の山には椎ヶ脇神社がある。昔、椎ヶ脇神社の神主が、渕の上の断崖近くで芝を刈っていたとき、握っていた鉈(なた)を渕の中に落としてしまった。上から覗くと、鉈が渕の中に沈んでいるのがはっきりと見え、手が届きそうであった。手を伸ばして拾おうとしたところ、神主は渕の中に落ちてしまった。しばらくして神主が目を開けると、そこは竜宮城であった。美しい乙姫が片手に神主の落とした鉈を持って現れ、自分は鉄ものが嫌いだからこれから鉄ものを渕に入れないこと、そして、椎ヶ脇渕に竜宮城があることを他言しないこと、それを守ってくれるなら何か入用なものがあれば、渕に来て言えばなんでも貸してあげると言った。神主はうれしさを感じつつ鉈を持って帰った。数日後、この国の領主と四十余人の家来が神主の家へ泊まるということになった。しかし、そんなに多くの食器も寝具もなく、また、粗末な待遇はできないと困っていた。そこで神主は、椎ヶ脇渕に行き、上等のお膳とおわん、それとお布団を貸して欲しいと伝えた。数時間後、再び渕に行くと、渕の岸には頼んだものが並べてあり、それによって領主たちを十二分にもてなすことができた。それから幾度となくお膳や重箱などを借りているうちに、神主はこのことを人々に自慢をしたくなった。そこで、口では言ってはいけないとが、文字で書くのなら大丈夫だろうと思った神主は、親しい友人に紙に書いてそのことを伝えた。それから神主は椎ヶ脇渕から何も借りられなくなり、また、ものが言えず、文字を書くこともできなくなってしまった。
しおひる玉
坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)がエゾ征伐にあたった平安時代の頃、半田のあたりから東のほうは広々とした入り海で「岩田の海」と呼ばれていた。その海にはおろちが住み、海を渡ろうとする人々の邪魔をしていると言われていた。東国へ攻めに向かおうとしていた田村麻呂は、三方原の船岡山(ふなおかやま)にとどまり、おろち退治の祈りをささげた。そんな時、田村麻呂は一人の美しい女と出会い、その女を妻とする。やがて、戦果を上げて船岡山にまた来たとき、再びその女が現れた。女は、お産をするので小屋を建ててほしいと言う。また、お産する姿は決して覗かないでくれとお願いした。建てた小屋に女が入ると、覗くなと言われたにも関わらず田村麻呂は覗いてしまった。驚くことに、そこに女の姿はなく、かわりにおろちが子供を生んでいたのである。女は海に住むおろちで、田村麻呂の祈りが苦しく、女の姿になって出てきたのだ。姿を見られたからには海に帰らなければならないとおろちは言い、田村麻呂に子供を託した。この時、いつか役立ててくださいとりっぱな玉も渡した。その後、おろちは竜となって二俣の椎ヶ脇の渕に潜ったといわれている。おろちの子は、俊光という立派な将軍になって父の志を継ぎ、再び東国を征伐することになった。しかし、岩田の海に差し掛かると海が大荒れで渡れない。そこで、父から授かった母の形見の玉を出して海に投げつけると、海はみるみる干上がって陸地になった。有玉という地名はこの俊光が形見の玉を投げたことから始まったと言われており、有玉神社の境内には、俊光をまつる社がある。
宿蘆寺と家康
戦いに負けた徳川家康が数人の家来を連れて、浜名湖のほとりまで逃げて来たときのこと。日が暮れて辺りが暗くなってくると、その前の夜から寝ていなかった家康は、ようやく敵の目を逃れたのに安堵し、眠くなってきた。家来にどこかいい場所がないか探させるが、浜名湖のほとりには蘆(あし)が深く茂っており、とても眠れる場所ではなかった。近くにお寺があることに気付き、家来が山門の戸をたたいたり、中に向かって叫んだりしたが、何も返事はなかった。そのお寺の名前が宿蘆寺(しゅくろじ)だと知った家康は、蘆の中で眠ることを思いついた。一人の家来が湖畔から小舟を一隻見つけ出し、蘆の中のあまり見えないところにその小舟を持って行き、その中でゆっくりと寝た。翌朝、起きてきた宿蘆寺の和尚たちは、小舟の中で眠る家康の姿を見つけると驚き、そしてもてなした。
そうめん谷
戦国時代のこと。真夏の暑い最中、戦いに負けた徳川家康が数人の部下を連れて逃げていた。庄内村の和田まで来た家康は、木陰で休んでいると、朝から何も食べていないことに気付き、急に空腹を覚えた。すると、それを見ていた村人たちが、冷たい谷水で冷やした、おいしそうなそうめんを家康に差し出した。家康はおいしいと大喜びして食べた。それ以来、その近くの谷を「そうめん谷」と呼ぶようになった。
たらいに乗った美女
昔、水窪の村に絵から抜け出したような美しさの「おたか」という女がいた。大工の男を婿にもらい、仲睦まじく暮らしていた。ある年の秋、降り続く大雨で水窪川は大洪水となっていた。おたかは雨のせいでたまった洗濯ものを片付けに、濁流のほとりへとたらいを抱えて下りていこうとした。夫は危ないと引き止めたが、おたかは大丈夫と川岸に立ち、しばらくの間、濁流を眺めていた。すると、おたかは何かに取り付かれたかのように一糸まとわぬ姿となってたらいに乗り、濁流に浮かんで流れていってしまった。濁流に流されるおたかを見て、夫を初め、村人は大騒ぎしたが、おたかはうれしそうに流され、そして濁流の彼方に消えていった。おたかの子供は母親を失ったことに泣き続け、ついには目が見えなくなってしまった。ある夜、夫の大工の夢におたかが現れ、今は大蛇となって下流の鳴瀬の渕に住んでいるから鏡を持ってきてほしいと夫におたかは伝えた。次の日、鏡を持ち、目の見えない子供を連れて鳴瀬の渕へと行くと、美しい昔のままのおたかが現れた。おたかは渕の水で目の見えない子供の目を洗ってあげると、不思議と目が見えるようになった。夫はおたかに帰ってきて欲しいと願うが、受け入れられず、あきらめるために大蛇になった姿を見せて欲しいと頼んだ。おたかの大蛇となった姿を見た夫は顔色を変え、逃げて帰ってしまった。
大蛇と座禅
1393(明徳4)年、一人の偉いお坊さんが現在でいう竜泉寺の裏山あたりで座禅をし、修行をしていた。それを見た村人たちはそのお坊さんに、この村に落ち着き仏の道を教えてほしいと頼んだ。お坊さんは快く引き受け、この土地に住むことにした。村人たちはお寺(岩雲寺)を経て、住職として迎えた。ある日、和尚のところへ一人の美しい女が現れた。その女は椎ヶ脇渕に住んでいる大蛇が化けたものであった。そして、自分はすでに死んでいるのだが、成仏出来ていないので、成仏させてほしいと願った。和尚は女に座禅をさせ、静かに法華経の全巻を読むと、読み終わった頃には女の姿はなくなっていた。その夜、和尚の夢の中に女が現れ、自分に仏の道を教えてほしいと願ったため、和尚は座禅をするようにといった。この時、外では黒雲が出てきて激しい雷鳴がし、その黒雲の中には竜の姿が見えたという。翌朝、お寺の境内には池が出来ており、その池から清水がこんこんと湧き出ていた。竜が池を作ってくれたということで、後に徳川家康によって竜泉寺と名付けられ、雲岩寺から改称した。
だいだら法師とつぶて島
昔、だいだら法師という天にも届くような大男がおり、山を動かし、海を掘るような大きな力を持っていた。ある時、だいだら法師が近江国の琵琶湖を掘って、富士山を作ろうと土を運んでいると、浜名湖の西まで来たときにちょうど昼飯の時間となった。だいだら法師が今の湖西市入出の宇津山に腰掛けて弁当を食べていると、ご飯の中に黒い小石が1つ混ざっていた。だいだら法師はその小石を箸で挟んで、浜名湖の中に捨てた。その石が今のつぶて島といわれている。また、運んでいた土が途中でこぼれ落ちて出来たのが、今の舘山寺の東にある大草山と根本山であり、歩いた右足の跡が神ヶ谷町に、左足の跡が西山町にあるという。
稚児が岩
今の館山寺町にまだ堀江城があったころ、豊かな自然に囲まれて人々は平和に暮らしていた。しかしある時、思いかけず敵が大軍で攻めよせてきた。城の兵たちは必死で応戦したが、相手があまりの大軍だったため、とうとう城は包囲されてしまった。水も食糧もなくなり身動きが取れなくなったので、殿様と奥方は城に火をつけ、闇にまぎれて逃れようとした。湖に船を浮かべて逃げようとしたものの、いつの間にか向かい岸でも敵が弓を向けていた。逃げるのに無理を感じた殿様と奥方は目の前にあった岩に飛び移り、そこで自殺した。翌朝、敵兵がその岩に近づいてみると、亡くなった奥方に抱かれて生まれたばかりの赤子が眠っていた。さすがの敵兵も涙を浮かべ、その子を育てることにした。それから誰ということなく、その岩を稚児が岩と呼ぶようになった。
天狗のお使い
昔、村の男、源助が秋葉山にお参りに行き、いつものように奥の院に泊まろうと思っていた。しかし、堂守(どうもり)は先客があるため今日は駄目だと言った。困った源助はどこでも良いからと頼むと、庭の見えないところならと泊めてくれた。やがて夜中になると、赤や青の衣を着たお坊さんが大勢、堂の庭に集まって来た。そのうちの一人が源助に気付き、付き添いを一人やるから村へ酒を買いに行って来いと言った。源助が了解すると、赤い衣の男が近づいてきて源助の手を握った。すると、急に身体がふわりと舞い上がり、瞬く間に山のふもとの店に着いた。源助は夜遅くに閉まっている店に酒を売ってくれと頼んだが、起きるのが面倒だった店主は売り切れてもうないと言った。すると、付き添いの男がすごい剣幕で焼き払うぞと店に向かって言った。仕方がなくほかの店で酒を買うと、来た時と同じようにして奥の院に帰っていった。次の日、酒を売ってくれなかった店に行くと、店が焼けていた。
天狗の羽音
今は昔、中ノ町村に五兵衛という魚とりが好きな男が住んでいた。男がいつものように天竜川へ魚を釣りに行くと、その日はひとあみで魚がざるいっぱいになった。こんなに多くの魚がとれたのは初めてのことだったので、五兵衛は喜んで堤の上を歩いて帰っていった。すると、耳のそばで羽が風を切るような音がする。天狗が水の中に蓄えていた魚を自分がとってしまったから、怒って羽音を立てているのかもしれないと思いながらも、気の強い男はそのまま家へ戻った。戸を閉めて寝ようとすると、今度は屋根の上で石を転がすような音がして、一晩中眠れない。天狗ににらまれたらどんなことになるかと思った男は、とった魚を全部、川へ逃がした。すると、その音はぱたりとしなくなったという。
天狗の火
浜名湖で、漁師がたくさんの魚を獲った時のこと。天狗が向こう岸から火をかかげ、その魚をとりにあらわれた。そんな時はわらじを頭にのせて待っていればいいという教えがある。そうして待っていると、だんだんと火が近づき、船は急にガタガタと揺れ、そしてしばらくすると静かになった。天狗が通り過ぎた後、獲った魚を見てみると、魚の目玉がいつの間にかすべてくりぬかれていた。
天神社の雨ごい歌
1713(正徳3年)年のころ、5月から6月にかけて一粒の雨も降らない大日照りが続いた。苗は枯れ、田んぼには地割れができしまい村人たちは困り果てていた。村人たちは雨ごいに効くと評判の天神町の天神社で、お祈りを捧げようと決めた。カネや太鼓を鳴らして、村人たちは雨が降るようにと祈った。また、浜松城からは岩城善左衛門康親(いわきぜんざえもんやすちか)がお参りに来た。歌よみの名人である岩城善左衛門は雨ごい歌三首をそなえ、三日三晩の間、一心に雨乞いをした。すると、日の照りつけていた空が曇り、雨が降ってきた。それから後、日照りの年には城主が雨ごいの祭りを行なうようになったといわれている。
雨ごい歌
雨神のえにしもあれば ひとむきに 雨のめぐみをいのりこそすれ
もののふも民も草木も いろかれて 月日をうとみ雨夜をぞまつ
もろもろの民をすくいの神心 てんまんぐうの森のゆう立ち
出頃房坂
今は昔、都田のに大杉が一本立っていた。村人たちはこの大杉をご神木とよんで崇めていた。しかし、ある年、神木が一夜のうちに誰かによって切り倒された。代官はただちに犯人を捕まえるように言ったが、1ヶ月経っても犯人が捕まらないので切り倒された梢の先の村から犯人を一人出すように命じた。梢の先は都田村一色を向いていたので、その村から強引に犯人を出し、この杉の切り株の上で首を切り落とした。その夜から、青白い光を帯びた首がちかくの坂を転げ回るようになり、人々は杉の木を本当に切った人に向かって転げ下りているのだろうとうわさした。そこで、村人たちは、ほこらを立てて供養すると、それから首は転がらなくなり、その坂を「でころぼう坂」と呼ぶようになった。里人はこの坂に地蔵をまつり、その霊を慰めた。都田村一色の人々は、犠牲者を哀れみ、長いこと正月のお祝いをしなかったという。
飛び出す絵馬
今は昔、龍禅寺に大きな絵馬の額があった。狩野探幽(かのうたんゆう)という画家が描いたといわれるその絵馬は、それは本当にみごとなものだったそうだ。その馬は本当に生きているようで、馬が毎夜、絵から抜け出しては近くの田畑で農作物を食い荒らしていた。これに困った村の人たちは竜禅寺の和尚さんに相談に行くと、和尚さんは快く引き受けてくれた。その夜から馬は出なくなった。絵を燃やしてしまったのではと心配になった村の人たちは、和尚をたずねた。すると、和尚は絵馬を見せてくれた。そこには、杭と手綱が描き加えられ、馬がしっかりとつなぎとめられていた。この絵は戦争前まで本堂にあったが、戦争で焼けてしまった。
鳥追地蔵
1718(享保3)年、寺島は田んぼばかりの村であった。秋には、黄金色の稲の穂が一面に広がり、なんとも美しい眺め。しかし、稲の穂が実るとたくさんの雀が集まって稲を食い散らしてしまうのだ。かかしを立てても、鳴子を仕掛けても、どんなことをしても逃げない雀。困った農民たちは、雀を追い払ってくれるよう、お地蔵さまにお参りをした。翌朝、目を覚ますと一羽の雀も飛んでいなかった。お地蔵さまのところに行くと、お地蔵さまの足が泥で汚れていた。お地蔵さまが田んぼに入って雀を追い払ってくれたのだ。農民たちはお礼にお堂を建てた。この鳥追地蔵は、現在も寺島町に残っている。
泣く子坂・泣き子地蔵
泣き子坂
成子町にある小山には一本の坂道が通っており、坂を上ったところには石のお地蔵さまが立っていた。木の葉や草に埋もれ、通る人もまれだったため、お地蔵さまのそばに度々捨て子があった。子どもがよくこの坂で泣いていたので、「泣く子坂」と呼ばれるようになり、そして、それがなまって「成子坂」というようになった。
泣き子地蔵
担い笊(ざる)にいっぱいの魚を入れ、天秤棒で担いで浜松へ売りにきた漁師がいた。一方の笊だけを売ったところで夕方になってしまった。片方だけ軽いのではバランスが悪いと、近くにあった小さなお地蔵さまを空になった笊に入れて家まで帰り、お地蔵さまは家の近くに捨てて置いた。すると、夜に漁師を呼ぶ声がするので行ってみると、お地蔵さまが元の所に帰りたいと目から涙があふれさせながら言っていたので、急いで元の場所に返した。それから「泣き子地蔵」と呼ばれるようになり、のちに「成子地蔵」と名づけられた。
肉つきの面
昔、阿弥陀様に信仰が厚く、月に何度も通う嫁がいた。しかし姑は、嫁が阿弥陀さまに通うのは、仕事をさぼりたいからだろうと思い、やめさせようとしていた。ある晩、嫁がいつものように阿弥陀様へ行ったとき、姑は鬼の面をかぶりながらお宮の出口で隠れていた。そして、嫁が拝み終わって出てきたところを姑が急に飛び出して驚かせると、嫁は気絶してしまった。姑は急いで鬼の面を取って家に帰ろうとしたが、どんなにがんばっても取れなかった。仕方がないので、家へ帰って押入れの中で一生懸命に外そうとするが、どうしても取れない。やがて、気を取り戻した嫁は家に帰って寝ることにした。嫁が寝ていると押入れの中から何か物音がするので開けてみた。すると、姑が汗だくになりながら鬼の面を取ろうとしていた。姑も嫁に見つかったことですべてを白状し、顔がどうなってもいいからお面を取ってほしいと頼む。力を入れてお面を取ると、顔の皮がお面についてすっかりむけてしまった。それから姑は大変優しい人となった。
猫の恩返し
昔、善住寺に三代もの住職に飼われた一匹の老猫がいた。ある夜、この猫が和尚の夢に現れ、自分は生涯を終えるときが近くなったので、明日、和尚が信濃のほうへ法事で行くが、その途中で恩返しをすると言った。次の日、和尚が信濃に行く途中に寄った峠で、庄屋の大旦那の葬式が行なわれていた。善住寺の老猫が、棺の中に入っているはずの大旦那の遺体を隠したことに気付いた和尚は、そのことを葬式中の家へ知らせてもらった。葬式はその村にある法行寺の和尚が行なっていたのだが、棺の中は空だと伝えられ、中を確認すると、やはり、中に遺体はなかった。法行寺の和尚がお経を読んでも死体は棺に戻らなかったため、善住寺の和尚を呼んで、お経を読んでもらうことにした。善住寺の和尚は、法行寺が善住寺の子寺となることを条件にお経を読むことを承諾した。善住寺の和尚がお経を読むと、しばらくして棺の中でがたんと音がし、蓋をあげると遺体が戻っており、みんなが感謝した。その後、善住寺の和尚が用事を済ませて寺に帰ると、老猫の姿はなく、和尚は猫を厚く葬った。法行寺は善住寺よりも大きな寺で、他国であったにもかかわらず、善住寺の小寺として、献物を持っいくるようになった。
灰縄山
昔、春野町の山中にある村に、年老いて働くことができなくなった老人を山へ捨てるという定めがあった。そんな中、どうしてもそれが出来ず、まるで捨てたかのような顔をして、そっと老母を奥の部屋へ隠している若者がいた。ある日、領主の殿様から灰で縄を作って持ってこいと村人は命じられた。そして、もし持ってこなかったのなら、村をつぶしてしまうと言われたのだが、この無理難題に村の人々は困ってしまった。若者は困った挙句、そっと奥の部屋へと入り、老母へ相談をした。すると、老母は藁で縄を作ってから、それを焼けば出来ると教えてくれた。出来た灰の縄を殿様に差し上げると、殿様は驚き、誰に教えてもらったのか尋ねた。若者は、定めを破った罪で裁かれるのを覚悟しながら、母親に教わったと一切を告白した。それを聞いた殿様は、老人の尊さを見直し、老人を捨てる風習をやめるようおふれを出した。その後、老人を捨てていた山を「灰縄山」と呼ぶようになった。
はたごの池
昔、井伊谷川が渕をなした深さの計り知れない池があった。池のほとりに立って耳を澄ませていると、池の中から遠くではた織りをするような音が聞こえるので、「はたご池」と呼ばれていた。そして、村の人々は、この深い渕の底には竜宮城があり、そこで乙姫さまがはたを織っているのだと考えていた。ある日、井伊谷の竜潭寺の小僧が和尚(おしょう)から鉈(なた)を買ってくるよう頼まれた。小僧は鉈を買った帰りにはたご池のそばで休んでいると、買ってきた鉈を池に落としてしまう。池の中を覗いてみると、鉈は池の底で白く光っており、拾えそうに思えた。和尚はなかなか帰らない小僧のことを怒ったり、心配したりしながら待っていたが、日が暮れても帰っては来なかった。夜が明けても帰らないので、和尚を初め、寺の者たちが心配して探したが見つからず、遠くよその国まで探したが、行方は分からなかった。3年の時が流れ、小僧は死んだと思い、和尚は小僧の葬式を始めた。和尚が朗々と経を読み、村人が焼香をしていたそのとき、小僧が鉈を握って大急ぎで帰ってきた。小僧に遅くなった理由を聞くと、はたごの池で鉈を落としてしまい、拾いに池へ下りるとそこには竜宮城のような御殿があり、その御殿のお姫さまから鉈を受け取って帰ってきたということだった。小僧は今朝お寺を出て今気賀から帰ってきたと言うが、その間、実際は3年もの時間が経っており、一同ははたご池の不思議に唖然とした。
富士馬頭観音
上阿多古西来院「いぼとり観音」のおまつりの日には、近くにある十二所神社の広場に観音様を持ち出し、その前で、村人たちは草競馬を楽しんでいた。ある年、この近くに住む豪農の自慢の馬、富士が下男の清作に連れられてやってきた。毛並みが良く、去年も草競馬で一等を取ったというほど立派な馬だった。しかし、日頃、薄暗い小屋の中ばかりにいた馬が、祭りの太鼓や、赤や青に飾られた屋台を見て、驚いてしまった。そして、突然大きくいななき、前足を高く上げ、身体をのけぞらせたかと思うと、道下の田んぼに落ちてしまった。清作はびっくりし、田んぼに下りて馬を起こそうとしたが、打ち所が悪かったのか起こすことが出来なかった。村の人たちも集まり手を尽くしたが、ついに死んでしまった。そのことを主人に話すと、仕方がないと言ってはくれたが、責任を感じた長太夫は、石の馬頭観音を作り、馬の落ちた道ばたに立て、「富士馬頭観音」と刻んでその霊を慰めた。
二俣の河童
昔、二俣川の油渕には恐ろしい河童がいると伝えられていた。ある夏の日、村の子供の彦三郎が二俣川でひとり遊んでいた。すると、見たこともない男の子が遊ぼうと声をかけてきた。彦三郎が返事をしないでいると、男の子が鮎取りをしようと言ってきた。ちょうど鮎取りをしようと思っていたところだったので、一緒に二俣川に入って鮎取りをすることにした。川の中には小さな鮎が群れをなして泳いでいるので、彦三郎は夢中になって追いかけ、次第に川下の油渕のほうへと行ってしまった。すると、急に雲行きが怪しくなり、滝のような大雨が降り出すと、耳もさけるような大きな雷がした。彦三郎は気を失い、そのまま倒れてしまった。しばらくすると、どこからか白い髪、白いひげ、白い着物を着たおじいさんが現れ、彦三郎に早く帰りなさいと呼びかけた。彦三郎はその声に目を覚ますと、先ほどまでの大雨は止み、空には夕日が光っていた。おじいさんは彦三郎を家まで送ると、森の方へと歩き消えてしまった。日ごろから油渕へは行ってはいけないと言われていた彦三郎は、言ったら叱られると思い、誰にもこのことを話さなかった。それから幾日か経ったある日、彦三郎と同じ年頃の子供が一人、油渕で死んだことを聞き、驚いて家の人にそのことを話した。すると、家の人は油渕の河童が彦三郎を取り殺そうとしたのを、田中の森の諏訪明神さまが助けてくれたのだと、急いでお礼の参りに行った。現在、油渕はなく、どこにあったのかも分からない。
平八稲荷さま
今は昔、都田村新木に平八という親切なおじいさんが住んでいた。平八爺さんはもとは、白狐だったが、皆のことをよく気にかけて優しかったため、村人たちに慕われていた。ある年、長雨が続いたことがあった。その時、近くを流れる都田川を平八爺さんはじっと見ていた。しばらく川を眺めた後、突然、平八爺さんは村人たちに山の方へ逃げろと大声で言った。なにか起きたのかと村人が尋ねても、ただただ急いで逃げるよう叫び続けた。平八爺さんの真剣な声に村人たちは従い、山の上に登った。その時、川の水が氾濫して村全体を飲み込んでしまった。こうして、村人たちは助かったのだが、平八爺さんの姿が見えない。かわりに、都田川の荒い流れの上をぴょんぴょんと跳んでいく、一匹の白狐の姿があった。その後、平八爺さんを都田で見ることはなかった。「平八さんは白狐だったが、良い人だった」と村の人たちはお宮を作って稲荷神社としてまつった。それが現在新木にある「平八稲荷神社」である。
法源和尚さま
昔、現在の半田町の舟岡山に大智寺という寺があり、そこには法源和尚という大変偉い和尚が住んでいた。法源和尚ははじめ、現在の北区細江町中川の初山宝林寺という寺で独湛禅師(どくたんぜんし)という支那から来た優れた和尚の下で勉強をしていた。その後、日本全国を歩き、寺を建てたり、つぶれかけた寺を建てなおしたりと、仏教を広めることに力を尽くした。その噂を聞いた現在の半田町近くの近藤徳用という殿様は、法源和尚にぜひ自分の領内に住んでもらいたいと思った。そして1713(正徳3)年に舟岡山に大智寺を建て、和尚になってもらった。決まった檀家を持たないお寺の暮らしは決して楽ではなく、毎日近くの家々を廻ってお金やお米をもらい、細々と暮らしていた。しかし、法源和尚はとくに困った様子はなく、これで良いとすがすがしい気持ちでいた。ある寒い冬の朝に、弟子たちが寒さに震えていたが、法源和尚は平気な顔をしているので、尋ねると、今に村のおかみさんが綿入れの着物を持ってくると言った。するとその通りに、寒いでしょうからこれを着てくださいと、綿の入った暖かい着物を持ってきてくれた。またある朝、和尚が急に本堂の前に立ち、西の方へ向かって水を投げた。何事かと思い弟子が和尚に尋ねると、京都の宗円寺に火事が出たということだった。5日ほどして、京都の宗円寺から先日火事があったが大火にならずに済んだのも和尚のおかげだという礼状が届いた。東海道を通る大名たちがかごから片足を出して、はるか遠くにいる法源和尚に目礼して通ると、今どこの国の大名が通ると言ったほど、何でも分かる不思議な力を持っていた。
ほら穴の大蛇
昔、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が東の地域を征伐して三方原の東のあたりへと来たときのこと。当時、そのあたりには岩田の海という荒海が広がっており、そこには赤大蛇が住み、海を渡ろうとする人々の邪魔をしていた。田村麻呂が神仏に祈って大蛇退治をしようとしたとき、とても美しい女性が彼のところに現れ、側においてほしいと願った。田村麻呂は彼女を妃として迎え、二人の間には子供ができた。しかし、彼女が出産するとき、田村麻呂が産屋を覗くとそこには大蛇がおり、大蛇が女に化けていたことを知ってしまう。田村麻呂は大蛇に岩田の海での乱暴をやめてくれるように伝え、そして、大蛇が産んだ子の俊光を連れて都へと帰っていった。15年後、再びその地を訪れた俊光は、母に会いたいと七日七夜祈願した。すると、大蛇が美女の姿となり現れた。俊光は岩田の海を静かな海にしてほしいと母に頼むと、海の水は引き、広々とした陸地となった。大蛇はというと、北のほうへと向かい、ほら穴の中に隠れた。そこで、俊光はそのほら穴の前に岩水寺建てた。
堀江の亀塚
ある年、浜名湖のほとりにある堀江村に大津波が襲ったことがあった。村人たちは、慌てふためいた。逃げるにも逃げようがないのだ。その時、誰かが、一匹の亀が呼んでいることに気がついた。見ると、大きな亀が、手招きしているではないか。大喜びで、村人たちは亀に向かって泳ぎ、その背によじ登った。こうして、亀のおかげで村人たちは波に飲み込まれるまえに安全な場所へと辿りつくことができたのだった。お礼にお酒を出すと、亀は大喜び。良い気持ちでもとの海へ帰って行った。それから数年後、再び現れた亀は、病気にかかっていた。津波から救ってくれた恩返しにと村人は懸命に看病したが、その甲斐なく死んでしまった。人々は昔のお礼にと、亀塚を作って葬った。今でも舘山寺町には、その亀を葬った「亀塚」が残っている。
身代り黒地蔵
今は昔、浜松城主の一行が野口(現:野口町)の辺りを通った時のこと。突然、案内役の勘右衛門(かんえもん)の名前を呼ぶ声が聞こえた。周りを見まわすと、なんと声のした辺りから光が射しだしているではないか。そこを掘ったら、ら黒いお地蔵さまが出てきた。そこで信心深い勘右衛門はお地蔵さまを家に持ち帰り、仏壇でおまつりした。その夜、お地蔵さまが勘右衛門の枕元に現れ、お前の身体はまもってやるから万福寺に自分をおさめてほしいと言った。勘右衛門はお地蔵さまを萬福寺におさめ、境内にお堂を建てて丁寧にまつってあげた。それから一年後のある日、勘右衛門は若い武士に呼び止められ、数日後に池川のつつみで会う約束をしてしまう。当時、刀の切れ味を確かめるため罪のないものを試し斬りする武士が良く出現していた。自分も斬られる羽目になると感じた勘右衛門は、命を守ってくれるよう黒地蔵にお祈りをした。約束の日、やってきた勘右衛門に武士は、やはり斬りかかった。肩先から胸の辺りまで斜めに斬られ、勘右衛門は倒れた。しかし、朝になり目を覚ますと、なんと斬られた傷がないのである。お地蔵さまのところへ行くと、お地蔵さまには肩から胸にかけて斜めに斬られた刀のあとがるではないか。勘右衛門は思わず手を合せたという。
麦飯長者
昔、高塚の村に一軒の裕福な家があり、五郎兵衛という男の家族が住んでいた。五郎兵衛は馬を引いて人や荷物を運ぶ、馬子を生業としていた。ある日、浜松の宿場から舞坂の宿場まで一人の旅僧を送り届けると、馬の鞍に風呂敷包みがくくりつけたままだった。手にとって見ると、ずっしりと重く、家に入って中を見てみると、そこには観音経一巻と大量の小判が入っていた。急いで返そうと思い、舞坂の町まで馬を走らせ、旅僧の姿を捜すが見つからなかった。そして、旅僧が現れるのを待って30年ほど過ぎたある日、捜し求めていた旅僧が立派な格式の高い僧として、街道を通るのを見つけた。五郎兵衛は大金を返そうとするが、誠実さに感動した高僧は受け取らなかった。そこで、五郎兵衛は困った人のために使おうと、街道を行き交う人々に湯茶を接待したり、空腹の人には麦飯を食べさせてあげたり、怪我をした人を手当してやったりした。こうした五郎兵衛の善行によって、後に小野田という姓が与えられ、村役人や庄屋にまでなることができた。
やきもち地蔵さま
今は昔、三方原の片隅に小さなお地蔵さまが立っていた。誰が建てたのかはだれも分からない。村の人たちは、「原のお地蔵さま」と呼んで大切にしていた。ある日、近くに住んでいる農民の夢の中にお地蔵さまが出てきて、江戸の町へ連れて行って欲しいと言った。ふたつ返事で引き受けた農民は、次の朝、荷車にお地蔵さまを乗せて江戸へと向かった。しかし、天神町の竜梅寺の門前まで来た時に、急にお地蔵様が重くなり、一歩も進むことができなくなった。困った農民は竜梅寺にお地蔵さまをまつってくれるように頼むと、快く引き受け、お堂を建ててくれた。それから、竜梅寺のお地蔵さまへお願いすると願い事がかなうと評判になり、人々は願いをかなえてくれたお礼にと、焼いたやきもちを供えるようになったので「やきもち地蔵さま」と呼ばれるようになった。今も竜梅寺には、このお地蔵さまがいる。
米津浜の雨ごい
文化年代のある年の夏、ひどく日照りが続いた。春から一滴の雨も降っていなかったのだ。このままでは稲が枯れ、年貢を納めることができないと市野の人たちは困り果ててしまった。そこで、皆で相談した結果、宗安寺の和尚さまに雨ごいをお願いすることにした。和尚さまは、雨ごいの祈祷(きとう)をすれば大雨が降り洪水が起きると告げた。村人たちは、それでも構わないから祈祷してくれるよう頼んだ。和尚さまはすぐに祈祷を始めたのだが、満願の7日目になっても一粒の雨も降ることはなかった。不安がる村人たちだったが、和尚さまは自信満々で「最後の祈りをするから、米津浜に一緒に来い」と言う。それで、皆で米津浜へ向かったのだが、その時、和尚の言い付けで二つの大きな長持(ながもち)も持っていった。村人は誰も、中に何が入っているのか知らなかった。米津浜に着き、和尚さまが海の竜神に向かって一心にお祈りをしていると、空が曇り、豪雨が降り出した。すると、和尚さまが突然長持を開けるように言い、開けてみるとそこには笠がいっぱい入っていた。村人たちはその笠をかぶり、喜びながら家路についた。しかし、和尚さまが言った通り洪水が起きて、田んぼは水浸しになってしまった。それでも村人たちは「日照りよりはまし」と楽しげに田んぼを眺めたそうだ。
嫁橋
何百年か昔のこと、橋羽村に仲のいい若夫婦が住んでいた。しかし、ある晩、些細なことから夫婦喧嘩をし、妻は生まれて間もない子供を連れて家を出ていった。家を出たものの頼るところもなく、生活をしていけないと感じた妻は、子供を川岸に埋めてしまった。そして、西へ500メートルほど走っていったが、子供を殺した悲しさから、自分も川へ身を投げて、死んでしまった。それ以来、東の橋を「子埋橋(こずめばし)」、西の橋を「嫁橋」と呼ぶようになった。※『遠江風土記伝』では、昔この道が駅に通じていて、ここで嫁が夫を待っていたため「嫁橋」となったとも記されている。 
 

 

●静岡の伝承
ダイダラボッチの足跡
全国各地に伝わるダイダラボッチ(巨人)の伝説であるが、浜松市にもそのダイダラボッチの足跡とされる土地が2箇所ある。共に姫街道の通る浜名湖の北に位置し、直線距離で約5km離れてある。細江町にある足跡は、住宅に隣接した池になっている。ただ足跡と言っても、道路などの区画整理によってかなり埋められ、約10m四方の正方形の形をしている。道路沿いにダイダラボッチの伝説の案内板があるので、それと分かる程度のものとなっている。一方の三ヶ日町の足跡は平らな窪地となっており、それなりの大きさはあるものの、やはり県道の開設によって一部が削られていると言われる。こちらも案内板がなければ、ただの空き地にしか見えない。この2つの伝承地にある案内板には、浜松に残るダイダラボッチの代表的伝説が書かれている。ダイダラボッチは東の国に大きな山を造ろうと、西の国で土を掘り返して土を運んだという。その途中で休憩したのが、この浜松。尉ヶ峰に腰を下ろして弁当を食べたという。この休憩の際に出来たのがこの2つの足跡とされている。そして飯の中に紛れ込んでいた小石をつまみだし、浜名湖に捨てて出来たのが“礫島”であるとされている。ちなみに東の国に造られた山が富士山であり、西の国で掘られた土地が琵琶湖となったとされる。さらにスケールの大きい話では、この土地までやって来たダイダラボッチが何かのはずみでよろけて、地面に手をついてしまった。その手形で出来たのが浜名湖であるという。
尉ヶ峰 / 浜松市北区の細江町・三ヶ日町・引佐町の境界にある山。標高は433m。2つのダイダラボッチの足跡の中間地点に位置している。
礫島 / 浜名湖にある唯一の島。岸から約400m離れた場所にある。周囲約300m。島には弁財天を祀る礫島神社があり、普段は上陸できない禁足地となっている。
慶昌院
江戸時代初めの頃の話。教化のため諸国を巡っていた禅僧・巨山存鯨が当地を訪れた折、寺で一夜を明かそうと立ち寄った。しかし天念寺という名のその寺は久しく人が住んだ形跡はなく、荒れるままになっていた。何かの縁とそのまま本堂で座禅を組んで夜を明かしていたが、深夜になって急に空気が一変した。何か得体の知れないものが近づいてくる。目を開けると、月明かりに影が一つ。存鯨が名乗ると、形のなかった影がたちまち人の形となった。それなりの身分のある侍のようであった。その幽鬼は“成田三郎慶昌”と名乗った。源頼朝の家来であったが、曾我兄弟の仇討ち事件に連座したため自害し、寺の裏にある松の木の根元に埋められた。しかし誰も供養する者もなく、しかも寺はいつしか荒れ果てて人もいなくなってしまった。願わくば寺を再興して供養をしていただきたい。そこまで言うと、幽鬼は目の前から消えてしまった。翌日、存鯨は里の者に事の次第を告げ、自らがこの哀れな侍の菩提を弔うこととして、寺を再興して住職となった。その後、この寺は成田三郎慶昌の名から“天念山 慶昌禅寺”と改称し、曹洞宗の寺院となった。墓苑の一角には、現在も、この成田三郎の戒名である「空忍院殿天念慶昌居士」が刻まれた墓があるという。
慶昌院 / 弘仁10年(819年)、弘法大師が創建したとされる。創建当初は天念寺という名であったが、上にある逸話より曹洞宗の寺院となる。
曾我兄弟の仇討ち / 建久4年(1193年)に起こった事件。曾我十郎・五郎兄弟が、父の敵である工藤祐経を富士の巻狩の陣屋で討ち果たした。兄の十郎はその場で討たれるが、弟の五郎は源頼朝の陣屋にまで侵入したところで捕縛、その後祐経遺児の嘆願により処刑された。寺伝によると“成田三郎”は曾我兄弟の弟と名乗っているが、2人いる弟はそれぞれ“原小次郎”と“律師(出家僧)”と呼ばれており、該当する人物はいない(しかし、両名ともこの仇討ち事件によって直接・間接的に死んでおり、兄弟が連座した事実は間違っていない)。
上臈塚 (じょうろうづか)
浜松市内から国号152号線を北上、二俣町をさらに北へ進んだところに船明という地区がある。その国道沿いに、小規模ながら石垣が積まれた墳墓と思しき場所があり、その上に小さな祠が建てられている。これが上臈塚である。南北朝時代も終わりの頃。皇室祈願所となっていた光明寺に、身なりの良い若い女性とその供侍が訪れ、しばらくこの寺に参籠したいという。寺の者は、それなりの身分相応の者であろうとうかがい、それに応じることにした。何日間かは何事もなく過ぎたが、ある日、一人の武者が光明寺にやって来て、若い姫とその供侍の二名が立ち寄っていないか尋ねてきた。そしてそれらしき者が参籠したことを聞くと、急ぎ戻っていったのである。翌日、大勢の武士が光明寺に押し掛けてくると、姫と供侍が参籠していたお堂に押し入った。しかし既に二人はその場を退去しており、寺の者への感謝をしたためた書き置きが残されているばかりであった。それから数日後、光明寺からほど近い船明にある薬師堂で、姫は自害して果てていた。もはや逃げおおせぬと観念したのであろう。憐れに思った村人は墓を築き、一人残された供侍はその墓を守るように七日の間いたが、やがて同じように自害したのであった。村人はこの侍のためにも墓を築いてやったという。結局、この逃げてきた主従が何者であったかは分からずじまいであったが、村人はおそらく追ってきた武士は北朝の手の者であり、姫は南朝の身分ある者の子女ではなかろうかと推察した。そしていつしか、この姫は長慶天皇の第一皇女・綾姫とされ、言い伝えられることとなったのである。この姫の墓とされるのが上臈塚である。なお供侍の墓も“下賤塚”と呼ばれてあったが、既に取り壊されて現存していないという。
光明寺 / 天竜区山東にある。養老元年(717年)に行基によって開かれた古刹である。上臈塚からは1km足らずの場所にある。
見付天神/霊犬神社 (みつけてんじん/れいけんじんじゃ)
正式名称は矢奈比売神社。創立などは明確ではないが、延喜式内社に列する古社である。祭神は矢奈比売命と菅原道真。菅原道真が祭神となったのは正暦4年(993年)のことであり、東日本では一番早く勧請されたとされる。この神社には“猿神退治”の伝承である「悉平太郎」にまつわる話が残されている。正和年間(1312〜1317年)の頃、この見付の地をある旅の僧が通りがかった。ちょうど祭のさなかであったが、そのような賑やかさは全くなく、むしろ集落全体が悲しみに包まれていた。不審に思った僧は集落の者に訳を尋ねると、毎年この祭の時に一人の娘を生贄として見付天神の神に捧げることで集落の安寧を図っているのだという。しかし僧はそのような残虐な神はいないと確信、その生贄を求めるものの正体を探ろうとした。その夜、境内に現れたものは恐ろしい妖怪変化たちであった。それらは「今晩のことは信濃の悉平太郎に知らせるな」と口々に言う。それを聞いた僧は、“信濃の悉平太郎”を見つけて、妖怪退治をすることを決心したのである。信濃のに赴いた僧は方々を探したが“悉平太郎”という者はいなかった。そしてもうすぐ祭が始まろうとする頃になって、ようやく悉平太郎が駒ヶ根の光前寺で飼われている犬の名であることを知る。早速寺へ行って訳を話して悉平太郎を借り受けると、急ぎ見付に戻った。祭の夜、娘の代わりに悉平太郎を棺の中に入れると、いつものように境内にそれを置き帰った。夜半になって神社の方から凄まじい物音と犬の鳴き声と何とも言えない悲鳴のような唸り声がしてきた。人々は生きた心地もしないまま夜を明かした。獣の鳴き声は夜が明けると共に静かになっていった。日が昇りきったのを見計らって、人々は神社へやって来た。そこには多くの狒々が転がっており、とりわけ巨大な年老いた狒々は喉笛を噛み切られて絶命していた。そして悉平太郎も数多くの手傷を負って、息も絶え絶えの様子でうずくまっていたのであった。こうして見事に狒々を退治した悉平太郎であるが、その後については3つの話に分かれる。傷を負った悉平太郎であるが、それを押して故郷の光前寺まで戻り、そこで力尽きて死んだという説。また、故郷に戻る途中、国境の地で死んでしまったという説。そして、狒々退治で既に致命傷を負っていて、手当の甲斐なく神社の境内で亡くなったという説がある。現在、見付天神の境内に隣接するつつじ公園内には、霊犬悉平太郎を祀る霊犬神社が建立されている。日本で唯一犬を祀る神社であるという。
猿神退治 / 全国各地に残されている伝承。生娘を人身御供にするよう強要する神に対して、僧や猟師が犬を使ってそれを退治するが、その正体は年老いた巨大な狒々(猿)であったというパターンで語られる。この“悉平太郎”の話はその最も有名な物語である。
光前寺 / 長野県駒ヶ根市にある古刹。この寺院でも遠江国見付にいた狒々を退治した犬の話が残されているが、その犬の名前は“早太郎(疾風太郎)”となっている。
犀ヶ崖
元亀3年(1572年)12月、浜松城にあった徳川家康は、三方原で武田信玄の軍勢と野戦に及び完膚なきまでの惨敗を喫する。家臣が身代わりとなって命からがら浜松城に引き返した家康であるが、敢えて城門を開けっ放しにして篝火を焚かせる“空城の計”を用いて、城まで追い詰めてきた武田勢を怯ませることに成功した。そして武田勢は城から少し離れた場所で野営することとなったのである。ここから徳川方が一矢報いるために仕掛けたのが夜襲である。武田勢の野営地の近くには、深い断崖のある犀ヶ崖があった。まず密かにその断崖に白布を架けてあたかも橋があるように見せかけた。そして鉄砲隊を間道から敵陣背後に配して一斉射撃をおこなったのである。夜襲を受けた武田勢は慌てふためき、次々と偽物の橋を渡ろうとして人馬もろとも断崖に転落していった。その数は百を超えるとも言われる。この犀ヶ崖の戦いの翌々年から、崖の下から人の呻き声や馬の嘶きが聞こえる、付近で“かまいたち”に遭って怪我をする者が絶えない、あるいはイナゴの被害が起こるなど良くないことが続いたため、人々はこれを犀ヶ崖の戦いで亡くなった者の祟りであると言い始めた。訴えを聞いた家康は、三河から了伝上人を招いて供養をおこなった。了伝は当地で七日七晩掛けて大施餓鬼の念仏を唱えることによって、ついに怨霊を鎮めたのである。家康はこの功績を永世伝えることを命じ、領民に盆の期間に大念仏を行うように命じたのである。これが現在も続く「遠州大念仏踊り」の始まりである。犀ヶ崖の断崖は、現在、長さ約120m、幅約30m、深さ約13mとなっている。しかし合戦のあった頃は、長さ約2km、幅約50m、深さは優に40mはあったと伝えられており、実際に急ごしらえで布を架けることが出来たかは甚だ疑問に感じるところである。また犀ヶ崖の戦いそのものの記述が、徳川幕府が興ってから以降の史料にしか見当たらないという事実からも、実際にそのような夜襲があったかには疑問を呈する部分がある。ただこの付近で何度も行われたであろう合戦の中で、あるいは日常の営みの中でこの断崖から転落して死んだ者が多数あったことは疑いのないところである。
三方ヶ原の戦い / 約3万の大軍を率いた武田信玄が西へ進軍。それを浜松城近くで迎え撃った徳川家康と織田援軍約1万数千が戦った。当時最強と呼ばれる武田の騎馬軍に徳川勢は大敗し、家康の生涯最大の危難の一つと数えられる。
遠州大念仏 / 犀ヶ崖の戦いでの鎮魂を目的として行われた大念仏会を起源とする(あるいはそれ以前よりあった害虫や疫病除けのためにおこなっていたとする説もある)。了伝が始めたとされるが、その後を託された宗円が普及させたとされ、現在犀ヶ崖にある旧資料館は「宗円堂」として建てられたものである。現在は、初盆を迎えた家を回り、念仏踊りをおこなう行事として定着している。
真珠院 八重姫御堂
『吾妻鏡』によると、安元元年(1175年)、当時の伊豆で親平家の豪族として勢力を持ち、伊豆に配流となった源頼朝の監視をしていた伊東祐親が頼朝殺害を企て、頼朝が伊豆山神社へ逃げ込むという記録が残っている。この原因について『曽我物語』では次のような逸話が残されている。伊東祐親の三女である八重姫は美貌の持ち主であったが、父が京都へ大番役として3年間上洛しているうちに、頼朝と懇ろな間柄となって千鶴丸という男児までもうけたのである。ところが、祐親が伊豆へ戻って事態を知ると、激怒。「今時に源氏の流人を婿に取るなら、娘を非人乞食にやる方がましだ。平家の咎めを受けたら何とするのか」と言い放ち、まだ幼子であった千鶴丸を簀巻きにして生きたまま川に沈めてしまったのである。そしてその怒りの矛先を頼朝に向けたのである。だが、祐親の次男の伊東祐清は、義理の母が頼朝の乳母であった関係で、頼朝に事態を告げて父の追っ手から逃がしたのである。さらに祐清は、自分の烏帽子親(元服時に仮親として、名を与える者)に当たる北条時政の屋敷に頼朝を匿ってもらうこととした。結局、それが縁で頼朝は北条政子の求婚を受け入れ、時政も子(長女)が出来てしまったために2人の関係を許したのである。一方、八重姫は父によって頼朝と強制的に離別させられ、さらに我が子までも失ってしまう。しかし、それでも八重姫は頼朝のことが忘れがたく、遂に治承4年(1180年)に侍女を連れて屋敷を抜け出し、頼朝が匿われているという北条の屋敷を訪ねたのである。その結末は無惨なものとなった。この時になって初めて八重姫は頼朝と政子が結ばれており、殺された我が子と同じくらいの年頃の娘までいることを知ってしまう。もはや伊東の屋敷にも戻ることは出来ず、進退窮まった末に選んだのは、激流の渦巻く真珠ヶ淵へ身を躍らせることのみであった。今では護岸工事ですっかり様相の変わってしまった真珠ヶ淵に面するように真珠院が建てられている。その山門をくぐったところにあるのが、八重姫を祀った八重姫御堂である。そのお堂の一角には、小さな梯子がいくつも置かれている。これは“梯子供養”と言い、八重姫が入水した時にせめて梯子一本あれば助けられたかもしれないという村人の無念の気持ちから始まったものである。願い事が叶った時に必ずお礼参りとして梯子を奉納することになっているという。また境内には、八重姫と共に命を絶った6人の侍女を供養する“八重姫主従七女之碑”もある。
お吉ヶ淵 (おきちがふち)
明治24年(1891年)3月27日の豪雨の夜、一人の女性が下田街道沿いの稲生沢川の淵に身投げをした。その女性の名は斎藤きち。“唐人お吉”と呼ばれた女性である。きちの生涯は、幕末の動乱期に翻弄され流転した。幼い頃に下田に移り住んで、14歳で下田一の人気芸妓となったきちであるが、安政4年(1857年)に人生を決定付ける転機が訪れる。当時下田に滞在していたアメリカ総領事のハリスの“身の回りの世話”をするよう説得されるのである。胃潰瘍で倒れたハリスとしては看護をしてくれる女性を希望したと言われるが、幕府はこれを愛妾の要求と解釈してきちに白羽の矢を立てたのである。期間として約2ヶ月の勤めであったが(最初の3日間で一旦暇を出されるが、支度金25両のこともあってきちの側から再び世話を願い出ている)、異国人の私的な身の回りの世話をしたという偏見や、その報酬の高さ(月給10両)からくる妬みのせいか、その後きちは下田の町で「唐人お吉」と呼ばれ、迫害を受けるようになるのである。ハリスと共に江戸へ赴いたきちは、そこで職を解かれた直後に行方をくらました。そして明治維新頃に横浜に現れ、かつて将来を誓い合った男と偶然再会して所帯を持つ。二人して下田に戻ったが、結局いさかいが絶えなくなって離縁。きちは再び下田を離れて三島の遊郭で芸者として働きに出る。数年後、蓄えを持って下田に戻り、支援を受けて小料理屋「安直楼」を始めるが2年で破綻する。その頃には既にアルコールによる障害が出始めており、生活もすさんでいき、ついには物乞い同然の身にまで堕ちてしまう。そして悲劇的な死を遂げてしまうのである。淵から引き揚げられた遺体は引き取り手もなく、菩提寺も埋葬を拒否したため、3日間もその土手に放置されたままだったという。結局、宝福寺の住職が遺体を引き取り境内に埋葬したのである(これが現在の墓所)。死んでからまで下田の人々から嫌われ続けたきちであるが、彼女自身はこの土地を離れては戻ることを繰り返している。それを考えると、「世をはかなんで」投身自殺したとされる最期も、もしかすると彼女の本意ではなかったような印象も出てくる。歴史の表舞台に出ることもなく、翻弄されるだけで消えてしまったようなきちであったが、突如としてその存在が人々の目に触れるようになる。昭和2年(1927年)に村松春水が書いた小説『実話唐人お吉』、翌年その版権を買った十一谷義三郎が著した『唐人お吉』を下敷きにしたサイレント映画が立て続きに公開され、彼女の名前は全国に知られるようになった。そして昭和8年(1933年)、この地を訪問した新渡戸稲造が、このお吉ヶ淵を詣でて供養のための地蔵を建立した。これが現在の“お吉地蔵”であり、またお吉ヶ淵は小公園化され、命日には「お吉祭り」と称して下田の芸者をはじめとする多くの女性がこの地を訪れて冥福を祈るようになっている。
ゆるぎ橋
伊豆七不思議の1つ。場所は非常にわかりにくく、国道136号線から天窓洞へ向かう歩道の階段を下りる途中にある小さな石碑が目印である。よく見ると、そばに橋の板材と思しきものがコンクリートの壁面に掛けられてあり、これがゆるぎ橋の遺物であると分かる。天平の頃(729〜749年)、この付近を荒らしていた海賊がいた。その首領は“墨丸”といい、海を行く船を襲ったり、近隣の村の産物を奪ったりしていた。ある時、墨丸の一団は、朝廷に納めるために集められた砂金を奪い取った。そして村の薬師堂の近くにあった橋を渡ろうとすると、なぜか橋が大きく揺れて渡れない。部下達が橋の下に落ちるのを見ながら、最後に墨丸も渡ろうとするが、橋は一向に揺れを止めない。それどころか突然仁王様が現れて、墨丸をつまみ上げると、薬師堂の前に連れて行ったのである。そこで墨丸は、薬師如来から直々に仏の教えを説かれ、ついには改心して、薬師堂の堂守として残りの人生を全うしたという。この伝説から、ゆるぎ橋を心悪しき者が渡ろうとすると、地震のように橋が揺れて渡ることが出来ないという言い伝えが生まれた。また一説では、月経の女性が渡ろうとすると橋が揺れるのだとも伝わる。さらに、この橋の一部を削って火をつけたものを子供に見せると、夜泣きや夜尿に効くのだとも言う。
伊豆七不思議 / 大瀬の神池・函南のこだま石・堂ヶ島のゆるぎ橋・手石の阿弥陀如来・河津の酒精進鳥精進・独鈷の湯・石廊崎権現(石室神社)の帆柱。
竹採塚
日本最古の物語とされる『竹取物語』であるが、その伝承地と言われる場所がいくつかある。その中でもとりわけ有力な伝承地とされるのが、富士市の竹採塚である。ただし従来の物語とは異なる展開の伝承が、この地では流布している。延暦年間(782〜806年)の頃、この地に竹籠造りを生業とする老夫婦が住んでいた。ある時、翁は竹の中から一人の小さな少女を見つけ、それを大切に育てた。その少女は大きくなってかぐや姫と名付けられた。やがてその美貌は国司の知るところとなり、財宝を積んで招いたが、姫は応じなかった。そこで国司は姫の許に押しかけ数年間ともに暮らした。ある時、姫は自分が富士山の仙女であり、富士山へ戻ることを許して欲しいと願い出た。国司は認めなかったが、姫は1つの箱を残していなくなってしまった。悲しんだ国司は富士山の頂上へ行き、そこにあった大池の中に姫を見つけたが、既に姫は天女となってしまっていた。元の姿ではない姫を見た国司は、箱を抱いたまま池に身を投げて死んでしまったという。竹採塚のある周辺は公園化されており、塚もその遊歩道に沿って歩いていけば見ることが出来る。塚には“竹採姫”と刻まれた石が置かれているが、どのような謂われで作られたのかは定かではない。ちなみにこの公園は市が整備したものであるが、土地は岡田氏という個人の所有であり、この岡田氏がかぐや姫を育てた老夫婦の子孫になるとされる。またこの公園内には、江戸時代に名僧・白隠禅師の墓がある。この地は江戸時代に白隠が住職をしていた無量寺があり、白隠自身がこの寺の縁起を著した著作の中でも、この地がかぐや姫ゆかりの場所であることを記している。さらにこの比奈の地にはかぐや姫の伝説から名付けられた地名が複数あり、姫が里の者と別れて富士山へと赴いたとされる“囲いの道”、その途中で振り返ったとされる“見返し坂”などが残されている。
かぐや姫と富士山 / 富士山へ帰ってしまうかぐや姫のイメージは、この山の神である木花咲耶姫命(浅間大神)とだぶっており、両者を同一と見る向きは強い。また上の伝承で登場する国司と姫が神仏化して“冨士浅間大菩薩”となったという説もある。
佛現寺
日蓮宗の霊跡寺院である。弘長元年(1261年)、日蓮は伊豆へ流罪となった。当時難病に悩んでいた伊東の地頭・伊東八郎左衛門は、日蓮を伊東に招いて祈祷をおこなわせた。すると病気が平癒したため八郎左衛門は日蓮に帰依し、館のそばに建てた毘沙門堂に置いた。この毘沙門堂が佛現寺の前身であり、日蓮が赦免を受けて伊豆を去った後、惣堂と呼ばれ8つの寺院の輪番で護持されていたとされる。佛現寺として独立した寺院となったのは、明治に入ってからということになる。この寺院には「天狗の詫び状」という巻物が保管されている。長さは1丈(約3m)、幅は1尺(約30cm)の巻物に約2900文字余りが書かれている。しかし、その文字は解読不能であり、一体何が書かれているかは判らない。ただ以下のような伝承が残されている。万治元年(1658年)頃、東伊豆から中伊豆に抜ける柏峠に天狗が現れ、多くの旅人が難儀していた。その話を聞いた住職の日安上人はその天狗を懲らしめようと、単身柏峠に乗り込んでいった。怪力無双と言われた上人は天狗を見つけると、いきなり3尺もの長い鼻を両手で掴むと捻り倒したのである。驚いた天狗は老松に飛び移ると、一陣の風と共に逃げ去ってしまった。そして同時に上から落ちてきたのがこの巻物であるとされる(一説では、日安上人が峠へ行って7日間祈祷をし、満願の日に峠の松の巨木を切り倒すと、枝に巻物が引っかかってきたともされる)。何が書かれているかは判らないが、おそらく上人の怪力に恐れ入った天狗が、二度と悪さをしないと誓った内容がしたためられているのだろうということで「天狗の詫び証文」と呼ばれるようになったのである。佛現寺には「天狗の髭」という、天狗にまつわる寺宝がもう1つある。これは佛現寺に縁のある人が寄進したもので、吉凶を占うことが出来るという。ただ詫び証文も髭も一般には公開されていない。その代わり伊東の和菓子屋である玉屋で作られている「天狗詫状」という羊羹が売られており、その包み紙に「天狗の詫び証文」の写しとその由来が印刷されている(この羊羹は佛現寺でも手に入れることが出来る)。
河津三郎血塚
閑静な住宅地の外れに血塚の入口がある。車止めの先は石畳の道、そして両脇にはよく手入れされた林が続く。元々この道は伊豆半島の東海岸を通って下田へ至る主要な街道であった「東浦路」の一部であり、近年自治体が整備して遊歩道としたものである。この石畳の道の奥にあるのが、河津三郎の血塚である。河津三郎祐泰は伊東祐親の嫡男で、河津荘を領有していたために「河津」を名乗っていた。この当時、伊東祐親は伊東荘の所有権を巡る問題で恨みを買っていた。相手は義理の甥にあたる工藤祐経。祐親は祐経の所領であった伊東荘を奪い取り、さらに祐経の妻となった自分の娘を強引に他家に嫁に出すという暴挙に出たためである。ただ祐親からすれば、伊東荘は元来父親の所領であり、父の死後に祖父が後妻の連れ子が産んだ子を嫡男に据えて伊東荘を与え、嫡孫である自分を次男として養子に迎えたこと自体が理不尽な仕打ちであったわけであり、その後妻の子の息子から伊東荘を取り戻しただけという認識だったとされる。だが遺恨を持つ工藤祐経の思いは変わりなく、復讐のために暗殺を企てたのである。安元2年(1176年)、伊豆に流された源頼朝の無聊を慰めるべく狩りがおこなわれた。その帰り道で待ち伏せたのは、祐経の配下の大見小藤太成家と八幡三郎行氏の二人。共に弓の名手で、街道を行く祐親父子を遠矢で射殺そうとしたのである。街道を眼下に見おろす椎の木三本に身を潜ませて、何名かの武将が通るのをやり過ごすと、先に馬に乗って現れたのは河津三郎。目の前を通り過ぎるのを待って八幡三郎が放った矢は、鞍の後ろをかすめて河津三郎の腰を貫いた。剛の者である三郎は応戦しようとするが、力尽きて落馬する。続いてやって来た伊東祐親を狙った大見小藤太の矢はわずかにそれて失敗。他の武将も異変に気付いたために、二の矢を放つことなく二人の刺客は退散した。祐親は落馬した息子を抱きかかえるが、既に三郎は虫の息であった。三郎は最期の力を振り絞り、自分を射た者が八幡・大見の両名であり、工藤祐経の企みであろうと告げた。そして言葉を継いで、残される子供を案じつつ息絶えたのである。父を殺された遺児は、その後母親の再婚のために川津の家を離れたが、決して復讐を諦めてはいなかった。父の死から17年後の建久4年(1193年)、兄弟は富士の巻狩の場で工藤祐経を討ち果たしたのである。これが日本三大仇討ちの一つとされる曾我兄弟の仇討ちである。河津三郎の血塚は、曾我兄弟の仇討ち発端の地として知られ、多くの文人墨客が訪れたとされる。塚が建てられた時期は不明であるが、塚の頂上に置かれた宝篋印塔は南北朝時代の特徴を持つとされており、おそらくその時代に伊東氏の一族の者が塚を造ったのではないかと推測される。
日本三大仇討ち / 曾我兄弟の仇討ち、伊賀越えの仇討ち(鍵屋の辻で荒木又右衛門が助太刀したことで有名)、赤穂浪士の討ち入りを指す。
桜ヶ池
面積約2万uの堰止め湖である。三方を鬱蒼とした林に囲まれた様子はかなり神秘的である。池のほとりには池宮神社がある。祭神は瀬織津姫であり、敏達天皇13年(584年)にこの池に現れたため神社が創建されたされる。この神社の行事としておこなわれるのが「おひつ納め」である。これは祭神の一柱である皇円阿闍梨にまつわるものであり、遠州七不思議として数えられる。皇円阿闍梨は天台宗の高僧であり、浄土宗の開祖・法然の師匠として知られる。皇円は、釈迦入滅より56億7千万年後に弥勒菩薩が衆生を救う時まで、菩薩行をおこなって衆生を救いたいという願いを立てる。そのために人よりも遙かに寿命の長い龍に化身することを欲し、この桜ヶ池に入水寂滅するのである。数年後、弟子の法然は師を偲んでこの地を訪れた。そして桧のお櫃に赤飯を詰めたものを池の中心まで運んで投げ入れた。それ以降、法然の弟子の親鸞や熊谷蓮生房などが継承して今に伝わる奇祭となった。現在でも9月23日におこなわれ、直径40cmの桧のお櫃に4升5合の赤飯を詰めて池に投じられる。おひつ納めの神事は約2時間、100個前後のお櫃が沈められるとのことである。この奇祭の不思議なところは、沈められたお櫃が数日後には空になって必ず浮き上がってくることである(浮き上がってきたお櫃は奉納した人に下げ渡されるとのこと)。さらにこの池は底なしであり、諏訪湖に繋がっているという伝説がある。そのために、沈められたお櫃が諏訪湖に浮かび上がってきたことがかつてあったとも言い伝えられている。そして皇円が変じた龍は諏訪湖に訪れることがあり、7年に一度だけ出現するという池の平の幻の池が、龍が途中で休むために現れるのだとされている。
瀬織津姫 / 大祓詞に登場する神で祓戸四神とされ、災厄を払う神である。しかし記紀に登場しない神であり、謎の多い神である。一説では、天照大神の荒御魂(向津姫)ともされる。災厄を払う神であるため、川などの水辺に祀られることが多い。
遠州七不思議 / 桜ヶ池の他に、小夜中山の夜泣き石、大興寺の子生まれ石、池の平の幻の池、遠州灘の波小僧、天龍の京丸牡丹、掛川の無間の鐘などがある。
十九首塚 (じゅうくしょづか)
平将門の伝承といえば関東がその中心であるが、それ以外の地にもいくつか残されている。掛川市内にもぽつんと伝承が残されている。平将門を討ち取った藤原秀郷は、京都に凱旋するべく将門以下の主立った一族郎党の首級を持って西へ向かっていた。そしてちょうどこの地に到着した時に、京都から首実検のために派遣された勅使も到着。ここで持参した19名の首実検がおこなわれたのである。ところが首実検が済むと、勅使はこれらの首を打ち棄てるように命ずる。京都に対して激しい恨みを持つ者の首なので、京都に持ち込むことはならぬという理由であった。それに対して秀郷は「逆臣とはいえ、死者に鞭打つことは出来ない」と言って、この地に手厚く葬ったという。これが十九首塚であり、また首と共に持ってこられた剣、白と黒の犬の描かれた2本の掛け軸、念持仏も近くの東光寺に納めたという。そしてこの首実検の際に首を川に並べ掛けたところから、この地を「掛川」と呼ぶようになったとの説もある。19の首はそれぞれ塚に葬られたのであるが、現在は将門のものとされる塚だけが残されている。そして近年になって残りの者の名を刻んだ石碑を周囲に配して整備されている。
十九首塚に祀られた者 / 相馬小太郎将門・御厨三郎将頼・大葦原四郎将平・大葦原五郎将為・大葦原六郎将武(以上一族)鷲沼庄司光則・武藤五郎貞世・鷲沼太郎光武・堀江入道周金・御厨別当多治経明・御厨別当文屋好兼・隅田忠次直文・東三郎氏敦・隅田九郎将貞・藤原玄茂・藤原玄明・大須賀平内時茂・長橋七郎保時・坂上逐高(以上郎党)
大神山八幡宮 座頭宮 (おおかみやまはちまんぐう ざとうのみや)
大神山八幡宮の境内にはいくつかの祠があるが、その中の1つに祀られているのが座頭宮である。この宮には1つの言い伝えがある。このあたりには豊川稲荷へ行くための豊川道という街道があり、大知波には峠があった。ある時、その峠を越えるために二人の盲目の姉妹が通りがかった。まだ年端もいかない娘であったが、琵琶の免状を貰うためにはるばる東国からやって来たのだった。峠に至る道に迷ったので、近くで働いていた農夫に行き道を尋ねた。ところが、その農夫はつい悪戯心で、峠へ行く道とは別の方角を教えたのであった。間違った道とは知らず、娘達は礼を言って、その道を歩いて行った。数日後の大雨の後、崖の下で二面の琵琶が見つかった。村人は旅路を急ぐ盲目の姉妹のことを思い出した。おそらく道を間違えて崖から滑り落ちてしまったのだろうということで片付けられた。しかし、その出来事があってから、件の農夫の家には不幸が次々と襲った。特に顕著だったのが、生まれてくる子供が不具の子、しかもほとんどが目の見えない子供ばかりだったのである。ようやく不幸の原因が、出来心で間違った道を教えたために命を失った姉妹の祟りであると悟った家の者は、大慌てで祠を建てて祀ったのである。それが座頭宮の始まりであるという。座頭宮は、市杵島姫命(弁財天)と共に同じ祠に祀られており、今でもこの農夫の子孫によって守り継がれているという。
大神山八幡宮 / 足利義政・今川義元・徳川家康などの寄進を受け、武門から篤く敬われた神社。「大神」の名称は大和の大神神社から勧請されたとの伝承も残る。
秋葉山本宮秋葉神社
火防せの神として名高い秋葉神社の総本社である。現在では火之迦具土を主祭神とする秋葉神社上社が秋葉山山頂付近にあって尊崇を集めているが、明治の神仏分離より前は山頂には秋葉寺もあり、神仏習合の霊域であった。また主祭神も「秋葉三尺坊大権現」であった。この秋葉大権現である三尺坊は実在の人物とされており、宝亀9年(778年)に信濃にて母親が観音菩薩に念じて生まれ、越後の栃尾にある蔵王権現の三尺坊で修行を重ね、ついには迦楼羅天を感得して飛行神通自在となって秋葉山へ飛来したといわれている。その姿は飯綱権現(頭は迦楼羅天、身体や持ち物は不動明王、そして白狐に乗っている)と同じであり、天狗として祀られている。また観音菩薩の化身であるともされる。秋葉信仰が盛んとなったのは、貞享2年(1685年)に始まった「秋葉祭り」が発端であったとされる。一種の流行り神であり、秋葉の神輿を村送りの形式で巡航させるのが流行となった。その頃から火防せの神として東海地方を中心に信仰を集め、江戸などでも秋葉講と呼ばれる講を設けて秋葉山へ詣でることが大流行したのである。明治の神仏分離政策によって、秋葉神社と秋葉寺は切り離され、神仏習合の象徴であった秋葉大権現は主祭神の地位から下ろされた。また秋葉寺は無住のために廃寺(後に再建、ただし秋葉大権現ゆかりのものは本山である可睡斎に移されている)となり、大きく様変わりした。現在、秋葉山本宮秋葉神社は、山頂にある上社と、山の南東側麓にある下社の2社によって成り立っている。
火之迦具土 / 伊弉諾尊と伊弉冉尊の神産みで誕生した、記紀神話における火の神。伊弉冉尊の陰部を焼いて瀕死の重傷を負わせたために、伊弉諾尊によって首を刎ねられたとされる。
猫塚/ねずみ塚
その昔、御前崎に遍照院という寺があった。そこの住職がある時、難破した船の木片に取りすがって流れてきた子猫を助けて、寺で飼うことにした。それから10年の月日が流れた頃、遍照院に旅の僧が宿を求めてきた。住職を快くその僧を迎え入れた。そして3日目の夜、突然本堂の屋根裏で何かが格闘する大きな物音がした。翌朝、おそるおそる屋根裏を覗いてみると、寺の飼い猫と隣家の猫が深手を負って倒れていた。さらにそのそばには、旅僧の衣服をまとった大鼠が死んでいたのである。旅の僧に化けて住職を喰い殺そうとした大鼠の企みに気付いた猫が、命を助けて貰った恩義に報いるために、大鼠を倒して住職の危難を救ったのである。住職はこの2匹の猫を懇ろに葬り、そこに塚を建てた。これが現在でも残る猫塚である。一方の殺された大鼠であるが、こちらは海に捨てることとなったが、運びきれずに海岸近くにうち捨てられてしまった。すると住職の夢枕に大鼠が現れ、改心して今後は海上の安全と大漁を約束すると伝えた。そこで住職は、大鼠のためにも塚を建ててやったのである。それがねずみ塚である。
波小僧・浪小僧
遠州七不思議の1つと数えられる“遠州灘の波小僧”は、東は御前崎から西は伊良湖岬までの遠州灘一帯で起こる自然現象を指す。昔からこの一帯では、海鳴りによって天候を判断していた。西に音がすれば晴れ、東であれば雨、さらに東であれば嵐という具合である。この不思議な自然現象について、古くから「波小僧」という妖怪にまつわる言い伝えが残されている。ある漁師が遠州灘で漁をしていると、網に奇妙な生き物が引っ掛かってきた。それは波小僧であった。漁師はこれを殺そうとしたが、波小僧は「命を助けてくれたならば、お礼に雨や嵐の時にお知らせします」と願い出た。漁師はそれを聞いて、海に帰してやった。それ以来、波小僧が海鳴りで天候を知らせるようになったのだという。上のものは遠州灘に面する地域一帯に流布する波小僧の基本的な話であるが、中には、行基が農作業を手伝わせるために作った藁人形が波小僧の正体である(この説は河童の起源の一説と同じ内容)とか、海鳴りは波小僧が海底で太鼓を叩いて知らせている音とか、漁の網に引っ掛かったのではなくて陸に上がって遊んでいるうちに干上がってしまったところを助けられたとか、色々なバリエーションがある。いずれにせよ、海鳴りの正体は、海に住む妖怪の仕業ということになっている。現在、御前崎市の浜岡砂丘の入り口近くに「波小僧」、浜松市舞阪町の旧東海道と国道1号線が交わる地点に「浪小僧」の像がある。漢字は違うが、どちらも同じ妖怪を指しているのは間違いないだろう。
遠州七不思議 / 「七不思議」であるが、実際には10以上の不思議が紹介されている。波小僧の他には、小夜の中山夜泣き石、桜が池のおひつ納め、京丸牡丹、無間の鐘、三度栗、池の平の幻の池、霧吹き井戸、子生まれ石、能満寺のソテツ、片葉の葦、天狗の火、清明塚などが挙げられる。
石室神社 (いろうじんじゃ/いしむろじんじゃ)
伊豆半島の先端にある石廊崎。その石廊崎灯台よりさらに先端に位置するのが石室神社である。祭神は伊波例命(いわれのみこと)であり、役行者が勧請したとされている。神社そのものは、さらにそれ以前、弓月君の子孫である秦氏がこの地に建立したものであるという説もある。位置的な関係から海上安全の神として信仰を集めている。石室神社には【伊豆七不思議】の一つとされる「千石船の帆柱」がある。岩壁に食い込むように建てられた社殿の基礎として建物を支える柱であるが、この帆柱がここにある由来が伝承されている。播州(兵庫県)浜田港から塩を積んだ千石船が江戸に向かって航行していた。石廊崎は暗礁も多く、強風が吹き付ける海の難所である。船が差し掛かった時、運悪く嵐となり、もはや転覆するしかない状況となった。船主は陸地にある石室神社に手を合わせ、江戸に無事到着したあかつきに船の帆柱を奉納すると一心に祈った。すると嵐は収まり、船はそのまま無事に江戸にたどり着いたのである。そしてその帰り道、再び石廊崎に差し掛かった船は突然動かなくなり、追い打ちを掛けるようにいきなり暴風雨となった。往路の際の願い事を思い出した船主は、嵐の中、自ら斧を振るい帆柱を切り倒した。すると帆柱は波によって陸へ流され、神社の前に奉納されたかのように打ち上げられたのである。同時に暴風雨も収まり、船はそのまま櫓を漕いで播州まで戻ることが出来たという。石室神社からさらに先端に、熊野神社がある。この神社は縁結びの効験があるとされるが、これにも不思議な伝説がある。石廊崎の名主の娘・お静は漁師の幸吉と恋仲となるが、身分違いのために引き離され、幸吉は石廊崎から10キロ近く離れた神子元島に流されてしまった。しかしお静は石廊崎の先端で火を焚き、幸吉も島で火を焚き、お互いの無事を確かめ合っていた。ある夜、島からの火が見えないため、お静は心配のあまり大風の中を島へ向かって小舟をこぎだした。しかし大波に行く手を遮られ、お静は一心不乱に神に祈った。その甲斐あって、神子元島で二人は再会し結ばれた。それを知った親は二人の仲を認め、その後末永く幸せに暮らしたという。お静が火を焚いたとする場所に祀られたのが、熊野神社である。
伊豆七不思議 / 大瀬の神池・函南のこだま石・堂ヶ島のゆるぎ橋・手石の阿弥陀如来・河津の酒精進鳥精進・独鈷の湯・石廊崎権現(石室神社)の帆柱。
人穴
人穴は富士山の噴火によって作られた溶岩洞穴である。奥行きは約90m。古来より神聖な場所として信仰の対象となっていたようであり、江ノ島の岩屋洞窟とつながっているという伝説も残されている。『吾妻鏡』によると、建仁3年(1203年)6月、源頼家は富士の裾野一帯で巻狩りをおこなった。その時、家臣の仁田四郎忠常に人穴探索を命じた。忠常は家来5人と共に人穴に入るが、蝙蝠が飛び交い蛇が足元を這うという状況。さらに千人の鬨の声のような大音声がしたかと思うと、ときおり人の泣く声が聞こえてくる。その奥に大河があって渡ることができず、川向こうに光が見えると、中に不思議な姿の人が現れた。たちまち家来4名が急死し、恐れおののいた忠常は頼家から授かった刀を川に投げ入れて立ち去った。そして翌日になって忠常はようやく人穴から出ることが出来た。土地の古老によると「この穴は浅間大菩薩が住み給う場所である」ということであった。また、『御伽草子』にある『富士の人穴草子』は、上の仁田(新田)四郎の話をさらに拡張させ、人穴で出会った毒蛇に拝領の太刀を献上すると、本来の姿である浅間大菩薩に変化し、地獄から天道までの六道巡りに案内される内容となっている。この富士山の神である浅間大神にまつわる地として古くからある人穴で修行を積んだのが、長谷川角行という行者である。この角行こそが江戸時代に隆盛を見た富士講の創始者であり、この事実によって人穴は富士信仰(富士講)にとっての一大聖地と位置づけられることとなる。そのため人穴周辺には信者による碑の建立が相次ぎ、現在でも230基の碑が建ち並び“人穴富士講遺跡”として保存されている。現在、人穴は崩落の危険性があるために立入禁止となっている。またまことしやかな都市伝説として、県道に面した大鳥居は、入る時にはくぐらない、出る時にはくぐるようにしないと、事故に遭ったり霊に取り憑かれるという噂がある。
富士講 / 角行創始の富士信仰が、直系の弟子である村上光清(1682-1759)による北口本宮冨士浅間神社再興と、食行身禄(1671-1733)の富士山入定によって、江戸を中心に爆発的な支持を受け、組織化された講社。定期的な拝み行事と富士登山をおこなう。また江戸の各地に「富士塚」を築いて、信仰の対象とした。
小夜の夜泣石 (さよのよなきいし)
小夜の中山に住むお石という臨月の妊婦が菊川からの帰り、この丸石のあたりで腹痛に見舞われうずくまっていたところ、轟業右衛門という男が介抱したが金に目がくらみ、お石を斬り殺して金を奪って逃げた。その斬り口から子供が生まれ、お石の魂は丸石に取り憑き毎夜泣くために、この石は“夜泣石”と呼ばれるようになった。生まれた子供は音八と名付けられ、近所の久延寺の住職が飴を食べさせ育て、やがて大和の刀研ぎ師の弟子となった。ある時一人の侍が刀を研ぎにやってきた。立派な刀だが刃が少しこぼれている。音八が訳を聞くと、昔小夜の中山で女を一人斬ったという。この侍こそが轟業右衛門であり、音八は見事母親の仇を討ったという。この伝承が全国に広まったのは、まさにこの石自体が東海道の真ん中にデンと置かれた曰く付きの石だった故である。歌川広重の『東海道五十三次』にも描かれているほどである。ところが、この石は明治以降は数奇な運命に翻弄されることになる。明治天皇が東幸される際、畏れ多いということで街道から退かされ、ゆかりの久延寺へ移転。そして明治14年(1881年)にその人気から東京浅草で開催された「勧業博覧会」へ出品となったのだが、石が到着する前に浅草では張りぼての石の中に子供を入れて泣き声を出させる見せ物が大繁盛し、本物のは“泣かない”とのことで全く人気が出ず、そのまま静岡に返されることになる。焼津まで到着したが、ここで資金が底をついて雨晒しのまま。ようやく小夜まで運んだが、峠の上の寺まで運びきれずに結局現在の位置に半ば放置され、そのまま保存となってしまったという。さらに話がややこしくなるのが、久延寺にも“夜泣石”が安置されている事実。しかし久延寺にあるのは本物があった場所近くから発見されたよく似た石であり、昭和30年代以降に安置されているものである。
夜泣石の位置変遷 / 現在は国道1号線・小夜の中山トンネルの静岡市方面側にある「小泉屋」そばの高台にある。かつて置かれていた地点(旧東海道)には【夜泣き石跡】が残されていて、その変遷が確認できる。
久延寺 / 行基の開基とされる。徳川家康が遠江平定時に本陣としたのを契機に、ゆかりの寺院として栄える。本尊は、夜泣石伝承にちなんで「子育て観音」と呼ばれている。
「子育て飴」 / 赤ん坊に食べさせた飴は、その後、伝承と共に有名な土産物となる。久延寺隣にある「扇屋」と、夜泣石そばにある「小泉屋」(かつては旧東海道沿いにあった)で、現在は売られている(扇屋は日祝日に開店のため、常時購入できるのは小泉屋のみ)。お土産用は600円ぐらい。 
 
 長野県

 

●牛首峠 塩尻市
霧訪山断層の断層鞍部に位置する峠です。昔、長者ヶ平の屋敷に住む娘が若い僧と恋仲になり、底なし沼に実を投じて命を落として以来、お供していた牛が暴れるようになったため、その首を落とし峠の中腹に葬ったというのがこの峠の由来と言われています。現在の県道254号にあたります。中山道を定めるに当たって、時の総奉行大久保長安は塩尻を通ることなく下諏訪から小野、牛首峠を経て桜沢へ出る道を開きました。江戸への近道と言うだけでなく、木曽へ伊那の米を入れるかわりに、木曽の木材を直接江戸へ送ることにねらいがあったようです。長安と言う人物は、道中筋に関することの一切の支配のほか、佐渡・石見などの金銀山における大規模な採掘・選鉱で業績を上げ、飛ぶ鳥を落とす勢いがありましたが、死後種々の不正ありとして改易となりましたが真相は不明といわれます。やがて、中山道は塩尻峠を越えるルートに変更されました。しかし、伊那米の木曽への移入路としては、江戸時代を通じて大いに利用されました。峠近くの前山には、当時築かれた江戸より60里の一里塚が1基存在します。

昔、山口集落(牛首峠のすぐ下の集落)の裏に長者の館があり、ここの長者にはお玉という綺麗な一人娘がいました。村の人々からも「お玉様」と呼ばれ、慕われていました。また、この長者の家では牡の大きな黒い牛を飼っていて、お玉もこの牛を可愛がっていました。
ある日、お玉は目を患ったのですが、藤沢集落というところの金龍院というお堂の傍にある沼の水が、目の病に効果があるということで、毎日牛に乗って通っていました。そのお堂には、若い綺麗なお坊さんが住んでいて、やがて二人は恋に落ち、世を儚んで心中をしてしまったのです。
お玉の牛は一匹で帰ってきましたが、その日から田畑を荒らし回るようになってしまったため、村人達は牛を捕まえて首を切り、この地に埋めて塚を作り、松を一本植えて、供養しました。これが現在の牛首塚の場所であり、この峠もいつしか牛首峠と呼ばれるようになりました。

●カッパと立木様 諏訪市
赤沼(諏訪市四賀赤沼)の村のはずれに、ぽつんと沼がありました。村人たちは「赤沼池」とよんでいました。
いつも、青みをおびて、ひっそりと静まり返っていました。そこは、「底無し沼」と言われ、一度入りこむと、どこまでもめり込んで、ついには沼からあがることが出来なくなるということです。
ここに、一匹のカッパが住んでいました。
天気の良い日などは、沼の上に浮かび、泳いだり、沼の端に腰をおろしてヨシの葉でつくった笛を鳴らしていました。
ところがある年のことです。静かな赤沼の村に奇妙なことが起こりだしました。
村の人たちが大事に飼っている馬や牛を草原へ放しておくと、誰も知らぬうちに次々といなくなりました。
村人は沼の上に、馬のたてがみや、牛のしっぽが浮いているのを見つけました。さては、沼のカッパのやつめが、馬や牛の中へ引きずり込んで食べちゃったに違いないと、村人はカンカンに怒りました。
そうこうするうちに、村人が沼の近くを歩いていると、カッパが飛び出してきて声をかけるのです。
「おめさん。おらあと力くらべをしねえか?」村人が嫌がるのを無理やりにやらせます。
しまいには、馬や牛を沼に引きずり込んだ持ち前の強い力で人間を引っ張り込んでしまうのでした。
村では、何人もの人がやられました。
諏訪の殿様の家来に立木様(今の諏訪市片羽町 立木正純医院の何代前の人)という人がいました。この方、とても力の強い侍でした。
立木様はこの話を聞いて、さっそく殿様に願い出て、退治することの許しを得ました。
体のがっちりとした足の速い馬にまたがって、立木様は沼へ向かいました。案の定、カッパが沼の中から飛び出し「お侍さん、力くらべしねかい?」と言いました。
「よし、おもしろい、やろう。」立木様は力強く答えました。
立木様は、大男でとても力が強く、馬の上から、太い足のような腕を前に突き出しました。同じようにカッパもさっと前に手を出しました。
立木様は、カッパの腕を握った瞬間、左手で馬のお尻を鞭で打ち、馬は矢のようにまっしぐらに走りだしました。
「あたたたた・・・・助けてくれ・・・」
さすがのカッパもこれはたまりません。しかし、悲鳴を上げる声にはかまわず、また、馬のお尻を叩きました。馬はいっそう速さをまして走ります。カッパは土の上を引きずられてどうすることも出来ません。
「お願いです。命だけは助けてください。」カッパは哀れな声をだして頼みました。立木様は可哀そうになって、手綱をゆるめ、馬をとめました。
引きずられたことで、カッパの腕は完全に折れてしまいました。カッパは大粒の涙をこぼして「今まで、本当に悪いことばかりしました。」と謝りました。
立木様が「その折れた腕はどうするのか」と聞くと「骨をつぐ方法があります。助けてもらえれば、骨つぎのしかたを教えます。」と答えました。
「よし、人助けをする骨つぎのしかたを教えるなら許してやろう。これからはけっしていたずらするではないぞ。」立木様は厳しく言いました。
カッパは立木様に骨つぎのしかたを詳しく伝えました。そして、泣き泣き血のように夕焼けした赤沼の池へ消えて行き、二度と姿を現しませんでした。
立木様は、カッパから教えられたとおり、骨つぎをしました。不思議なことにどんなに難しい骨の折れた者もすぐに治りました。
「諏訪の立木様、骨つぎの立木様。」と大変有名になりました。近くはもちろんのこと、遠く江戸まで知れ渡り、わざわざ治しにやってきました。
こうして、立木様はたくさんの人々の骨接ぎをしました。誰彼となく大勢の人たちを助けましたので、みんなから「立木様、立木様」と敬われました。
しまいには、「立木様」という言葉が「骨つぎ」という言葉の意味になったそうです。
立木家では今でも毎年夏になりますとカッパの好きなそば粉を川に流して供養しています。

●河童の妙薬 駒ケ根市
昔、大田切川が天竜川に合流する地点に「下り松の淵」があり、河童が住んでいた。
江戸時代の寛政年間、高遠藩川奉行中村新六様がこの淵の近くを馬に乗って見廻りをしていると、いたずら河童が馬の尾に跳びつき、馬ごと淵に引きずり込もうとした。河童は驚いた馬に引きずられ、新六様の屋敷の馬屋に入ってしまった。
かわいそうに思った新六様は馬の尾にからまった河童を解放し、今後絶対いたずらをしない約束をした。助けられた河童はお礼に痛風の妙薬「かげんとう」の作り方を教えてくれた。中村家では以後150年間もの間、薬を販売してきた。

●かつら淵の河童 駒ケ根市
昔、中沢菅沼の下間川下流にかつら淵と呼ばれる淵があって、河童が住んでいた。
川に遊びにくる子どもたちのしんのこを抜くので、子どもたちは怖がってだんだん近寄らなくなってしまった。
河童は淵の奥へ隠れようと下がるうちに岩が二つに割れてしまった。
それ以来、河童は淵に姿を見せなくなってしまった。
 

 

●長野の伝承
尖石様 (とがりいしさま)
国の特別史跡に指定されている尖石遺跡は、日本で初めて確認された縄文時代の集落跡である。同じく一括で特別史跡指定されている与助尾根遺跡と合わせると、約80箇所の竪穴住居跡が発見されている。この“尖石”という名の由来となったのが、遺跡の南はずれにある石である。この石は高さ1mあまりと目立って大きい石ではないが、その先端部分の三角錐の形状がただならぬ印象を与えている。この尖石様はかなり昔から村人の信仰の対象となっていたようであり、現在も石のそばには小さな石の祠が置かれ、何らかの謂われがある塚石のように見える。この一帯で遺跡が見つかったのは、明治25年(1892年)頃のことである。縄文時代の土器や石器が大量に出土した時、村人は祟りを怖れてそれらを捨てたという。またこれらの出土品がかつてこの地に長者の屋敷があった証拠であるとも言われた。おそらくこの尖石様の存在が、この土地に何らかの曰く因縁があると思わせたものと推測される。そしてその極め付けが「尖石様の下には財宝が埋められている」との噂である。さらにそれを信じて夜中にこっそりと発掘しようとした村人がいたが、その夜の内に瘧にかかって死んでしまったという。遺跡の発掘と共に尖石様が信仰の対象となった根拠として挙げられるようになったのは、石の右肩部分にある“溝”である。これは縄文時代に、磨製の石斧を作る仕上げとして、この石を使って擦り磨いた跡とされている。つまり集落の共用の道具として使われ続けた事実を経て、その記憶だけが残り、最終的に何らかを祀る存在として畏敬の念を持って接されてきたのだろう。
犬坊の墓
阿南町役場の近く、国道151号線沿いに位置するのだが、非常に分かりにくい場所にある。具体的に言うと、阿南消防署の南にある“牛久保橋”の南端にある、下り坂になっているコンクリート舗装の脇道を歩いて下りて行き、道なりに橋の下をくぐって行けば行き当たる。田んぼに面した道の横に石積みの祠があるので、道さえ間違わなければ分かりやすい。武田信玄が信濃侵攻を開始する直前、この下伊那地方も戦国のならいとして有力領主の攻防が繰り広げられていた。今の阿南町周辺は関氏が治めていた。5代当主の盛永は領土拡張を勢いに任せて進め、特に北側で敵対する下条氏との戦いに備えて、わずか5年のうちに3つの新しい城を築いていた。この性急な伸張策は当然領民の怨嗟の種であった。城の普請に駆り出され、怠けると荊の鞭で叩かれる懲罰を喰らい、さらには婚姻にまで課税をして金品を取り立てるなどの苛政が行われた。さらには罪のない者を鉄砲で撃ち殺すなどの悪行も重なり、家臣からも信用を失っていったのである。そこに乗じてきたのが、敵対する下条氏である。関氏の家臣から内応者を募り、ついに天文13年(1544年)宴席で酔いつぶれた関盛永を討ち果たしたのである。その時に一番の手柄を立てたのが、盛永の小姓であった。まだ18になったばかりの若者であったが、主君が反撃出来ないようにと愛刀の目釘を抜き、さらに弓の弦を全て切っておいた。さらには台所の竈の陰に潜んで、襲撃が始まるのを待った。そして襲撃が始まり、台所に逃げてきた盛永の脇腹から肩口にかけて槍を深々と刺し抜いて致命傷を負わせたのである。この抜群の功績を認められ、大小の刀などを拝領し意気揚々と引き揚げる小姓であったが、途中で白犬と出くわすと突然「盛永殿が出た」と叫びだし、犬に向かって刀を抜いて斬り掛かった。周囲の者も刀を振り回す小姓に近づくことも出来ず、ただ成り行きを見守るしかなかった。しばらく犬と対峙して暴れ回っていた小姓であったが、足を滑らせて地面に倒れ込んだ。その一瞬、白犬は小姓に飛びかかると、いきなり喉笛に食らいついた。そのまま絶命する小姓。あたりは騒然となったが、いつの間にか犬は消えてしまっていた。悪辣な主君ではあるが、寵愛を受けていた者があっさりと裏切って死に追いやった報いだったのであろうと、人々は噂した。そしてこの小姓を葬ったが、いつしか“犬坊の墓”と呼ぶようになったという。祠の中には、今でも丁寧に祀られているのが分かるように、新しい御幣が置かれている。そして古い石像が安置されているが、よく見ると、その頭の上には犬の頭が乗せられている。いかなる目的の祠であるかは想像に難くないところである。ちなみにこの逸話を題材として、井上靖が昭和32年(1957年)に『犬坊狂乱』という短編を上梓している。
関氏 / 伊勢に勢力を持っていた関氏の支族であり、文安5年(1448年)この地へ落ち延びてきたとされる。現在の道の駅信州新野千石平の付近に城を構え、一時期は近隣の村々も領有した。5代目の盛永の時に、下条氏の急襲を受けて滅びる。
下条氏 / 甲斐源氏武田氏の傍流とされる。応永元年(1394年)頃に、現在の下條村付近に土着。信濃守護の小笠原氏から養子を取って、勢力を伸張し、時氏の代に関氏を滅ぼして下伊那一帯を領有する。その後伊那に侵攻した武田氏に服属、時氏の子の信氏は、信玄の妹を娶り義兄弟となるなど優遇された。武田氏滅亡時には、親族に土地を奪われるが、徳川氏の援助を受けて復帰。しかし度重なる失態のため没落する。
夜泣き石(飯田)
飯田市の市街地から少し離れた場所であるが、交通の便が良く近隣にも事業所などが並ぶ場所でありながら、完全な空き地となっている一画がある。スペースには車が置かれていることもあるようだが、その奥まった部分には全長7mにもなる巨大な岩が野ざらしであり、その上にはお地蔵様が置かれている。これが飯田の夜泣き石である。正徳5年(1715年)6月、この一帯を豪雨が襲った。その勢いは激しく、天竜川の流域にあった飯田城下では多数の被害があった。この年がちょうど未年にあたったので、この水害を「未の満水」と呼ぶ。特に天竜川と松川では土砂によって川が堰き止められて、低地が大水となってしまった。そして3日目になってようやく豪雨は収まったが、松川の支流であった野底川だけは大きな出水もなかったため、周辺の人々は早速野良仕事などを始めだした。しかしその安心しきった状況の直後、野底川流域を山津波が押し寄せたのである。上流から流されてきた土砂の勢いは凄まじく、野底川が松川に流れ込むあたりにあるこの夜泣き石も、この土石流によって上流から流れてきた巨石である。不意を突かれた形になったため、この山津波によって多くの者が犠牲となった。その中に、この巨石の下敷きとなって亡くなった子供があった。そしてこの石から子供の泣き声が聞こえるようになった。そのため人々は巨石の上にお地蔵様を祀って、子供の霊を慰めたところ、それ以降は泣き声は聞こえなくなったという。以来現在に至るまで、この巨石は“夜泣き石”と呼ばれ、この地から動かされることなくある。
未の満水 / 正徳5年(1715年)6月17日から降り始め、18日より豪雨となった。3日後の20日になって雨はやむが、野底川の山津波でさらに甚大な被害が出た。記録によると、飯田城下での被害は、死者32名、流出家屋118軒、堤防決壊2580間(約4.5km)となっている。
先宮神社 (さきのみやじんじゃ)
諏訪大社の主祭神は建御名方命であるが、この神が元より諏訪の神ではなかったことは『古事記』にある通りである。出雲の大国主命の次男であった建御名方命は、国譲りの談判の際に建御雷神命に勝負を挑むが相手にならず、命からがら諏訪の地へ逃げ込み最終的に「この地から出ない」ことを誓って赦されるのである。そして諏訪地方を治める神として祀られることになるのだが、この来訪神よりも前から諏訪を治めていた神はどのようになってしまったのだろうか。その一つの形を示しているのが先宮神社である。この神社の伝承によると、この神社の祭神は建御名方命来訪以前より原住民の産土神として祀られていた存在であったが、建御名方命との抗争に敗れて服従させられたとある。そしてその服従の証として“この神社に鎮座して境内より外へ出ない”ことを誓い、さらに“境内前の川に橋を架けない”習慣が連綿と続けられている。まさに建御名方命が出雲において強制させられた「国譲り」と全く同じ構図の伝承が残されているのである。ただ不思議なことがある。この神社の祭神の名が“高光姫命”別名“稲背脛命”という点である。高光(照)姫命は建御名方命の姉神であり、稲背脛命は出雲の国譲りの際に事代主命(建御名方命の兄神)に事を告げる使者となった神である。いずれも諏訪に土着した神と言うよりも、建御名方が元いた地に関係する神の名である。それ故に『古事記』の記載された建御名方命の逸話が、中央にとって有利に作られたものであるとの疑念を持たざるを得ない。しかしながら現在でもこの神社の前には狭いながらも川が流れており、境内に入る参道には橋が架かっていない。建御名方命に対する先宮神社の神の誓いが破られていないことは、とりもなおさず高天原に対する建御名方命の誓いもいまだに有効であることを示しているようにも見えるのである。
建御名方命 / 『古事記』の国譲りの項で大国主命の御子神として登場する(大国主命の系譜が書かれた項では、御子神の中にその名はない)が、『日本書紀』では登場しない神。『先代旧事本紀』では、母は高志国(今の新潟県あたり)の沼河比売とされ、大国主命に代わって高志国の実質的な支配者のように扱われている。想像を逞しくすると、大国主命の国譲りが行われた段階で、高志を治めていた建御名方命は既に諏訪を支配しており(母の出身地である糸魚川にある姫川を遡り、安曇野経由で諏訪へ行ける)、最終的に高天原勢の攻勢に対して諏訪のみ死守したとも考えられる。『古事記』にある逸話も、実際は先宮神社の伝承が先にあって、それを中央政府が都合良く当てはめたものであるとも考えられる。
諏訪の産土神 / 建御名方命が諏訪を来訪する以前にあった神には、先宮神社の神のような服従ではなく、協力体制を敷いたものもある。建御名方命の妻となった八坂刀売神も土着の神であると推定されており、諏訪大社の筆頭神官であった守矢氏の祖である洩矢神も土着の神である。また諏訪信仰の根底にあるとされるミジャグジ神(蛇神)も先住民に信仰された神であるとされる。
牛つなぎ石
「敵に塩を送る」という故事は、義将・上杉謙信の美談として知られるところである。永禄10年(1567年)、甲斐と信濃を領していた武田信玄は、娘を織田家へ嫁がせて同盟を結ぶ。これは弱体化した今川家との同盟を破棄、その所領である駿河への侵攻を意図したものであるとされる。この武田と織田の同盟に対して、今川側が取った対抗策が「塩留め」であった。領内に海を持たない武田氏は、同盟していた今川・北条氏から塩を買い求めていた。それを止められることは深刻な問題であった。これに対して救いの手を差しのべたのが、当時敵対していた上杉謙信である。正々堂々の戦ではなく、卑怯な手段で領民をも苦しめるのは許しがたしとばかり、糸魚川から武田領へと塩を送り込んだのである。これが「敵に塩を送る」故事の由来とされる。松本市の繁華街、中央2丁目の交差点にあるのが、この故事の伝承地とされる“牛つなぎ石”である。糸魚川から送られた塩は街道を通って、当時武田領であった松本へ運ばれた。そしてその塩を運んできた牛を休ませるために繋いだのが、この石であるとされるのである。しかし実際は、この石は道祖神であり、江戸時代初期に松本の城下町ができた時に別の場所から移されてきたものである。ただこの地は江戸時代以降毎年1月11日に塩の売り買いが行われる“塩市”が立つ場所であり、この“塩市”の起こりが上杉謙信の逸話であるという言い伝えがいつしか出来上がったというのが真相のようである。明治38年(1905年)に塩の専売制が始まると塩市はなくなり、代わって当時生産のさかんだった飴を売る“飴市”が始まった。そして現在でも毎月のイベントとして継承されている。
「敵に塩を送る」の真相 / 今川氏が塩留めを実施している間も、上杉領から塩が武田領へ移送されていたことは事実である。しかしそれは無償で送られたものではなく、商取引を伴うものであったとされ、謙信はそれまであった“糸魚川〜松本”ルートの塩の売買を禁止しなかったというだけのことである。すなわち後年「義に厚い武将」とのイメージから作り上げられた逸話でしかない。
板垣神社
戦国最強の武将と言われる武田信玄(晴信)であるが、若き領主時代に手痛い敗北を二度喫している。いずれも北信濃に勢力を持っていた村上義清との戦いである。特に最初の敗北となる上田原の戦いでは筆頭格の重臣である板垣信方・甘利虎泰の2名を一挙に失うなど、人的にも大きな損失があった。上田原の戦いは天文17年(1548年)に起こった。その前年に武田勢は信濃の佐久郡を支配下に治め、村上勢と境界を接するようになったため、衝突は時間の問題であった。先に行動を開始したのは晴信である。軍勢を率いて上田原へ進軍。対する村上義清も兵を出して対陣し、合戦が始まった。最初に優勢に立ったのは、武田勢であった。先陣を任された板垣信方は敵陣深くまで進撃し、敵兵の首級を約150も挙げる活躍を見せた。ところが、ここで板垣は不可解な行動を取る。敵中深くまで入り込んでいるにもかかわらず、その場で首実検を始めたのである。この軽率とも言える状況を村上勢が見逃すはずもなく、板垣の陣を急襲。虚を突かれた格好となった板垣は、馬に乗ることも出来ないまま、この場で討死するのである。板垣信方は晴信の傅役であり、その家督相続の際のクーデター(父である武田信虎の追放)において尽力し、筆頭格の宿老となったとされる。そして晴信の信濃侵略の先鋒として活躍する。諏訪攻略後には郡代として入部して政情の安定を図り、晴信の信濃侵攻の際には諏訪衆を率いて陣に駆けつけたという。板垣が討死したとされる場所に、板垣神社はある。神社と名が付くが、実際には覆屋の中に五輪塔が一基あるだけである。これが板垣の墓とされている。そして愛煙家であったという伝承が残る故か、墓の前には煙草が供えられていることが多い。
上田原の戦い / 天文17年(1548年)。武田・村上氏による戦い。武田氏は板垣・甘利の両宿老を失い、信玄自身も手傷を負ったとされる。信玄は戦いの後も陣を保つが、最終的に母親の説得により陣を引き払う。信玄最初の敗戦とされる。
竹室神社
日本武尊の東征にまつわる伝承を残す神社である。最愛の弟橘媛を亡くしながらも東征に成功した日本武尊は帰途に就き、上野国から四阿山(あずまやさん)を北に見ながら鳥居峠を越えて信濃国に入った。そしてこの地までやって来た時、村人は梢を折って仮屋を設けて歓待したという。その後、その跡地に宮を建てて“柴宮”と称した。これが現在の竹室神社の起こりであるとされる。境内には日本武尊の足跡が残されているという神足石がある。手水鉢にあたるものがその石であるとされているが、実際には本殿近くにあるとも言われている(写真では手水鉢の方を採っている)。
笠原新三郎首塚
武田晴信(信玄)の信濃攻略は、家督継承直後から本格化している。同盟関係にあった諏訪氏を電撃的に攻撃して制圧、さらに伊那方面にまで進出して地盤を固めている。それと同時に東信濃の佐久郡にも兵を送り込んで、徐々に領土を拡張している。佐久郡は上野国に近く、この土地の国人衆の多くは関東管領・上杉氏を頼りに武田氏に抵抗した。中でも最後まで抵抗を続けたのは、志賀城主の笠原新三郎清繁である。志賀の地が碓氷峠に近く上野の援軍を得やすいこと、また笠原氏の親族である高田氏が上杉の家臣であることも好条件であった。それに対して、晴信は天文16年(1547年)に自ら甲府を発って出陣。清繁も上杉憲政に援軍を要請し、いよいよ志賀城の攻防戦が始まった。まず武田軍は志賀城を包囲して水を絶った。一方の上杉軍は3000以上の兵力で碓氷峠を越えて信濃に入ってきた。それを迎撃したのが、武田軍の板垣信方と甘利虎泰である。両将は小田井原で上杉軍を迎え撃つと、3000の兵を討ち取って一方的に打ち負かしたのである。ここで晴信は非道な策を実行する。3000の討ち取った兵の首を自陣に持ち帰ると、それを志賀城から見えるところに並べたのである。もはや援軍が来ないことを悟った城方であるが、結局降伏することなく武田軍の総攻撃を受けた。そしてわずか2日ほどで落城、城主の笠原清繁は討死した。武田軍は、生き延びて捕らえられた城方の者に対してさらに過酷な仕打ちを行った。美貌で評判の清繁の若い妻は、戦功著しかった小山田信有に褒美として与えられた。そして他の者は甲府へ連れて行かれ、そこで親族に高額で身請けされるか、それが出来なければ人買いに売り払われた。この事実は後年、武田信玄の大悪業として伝えられることになったのである。かつて志賀城があった地の近くに、笠原新三郎清繁の首塚が残されている。それのある場所は水田の真ん中。どうしてもどけることが出来ない曰く因縁があるとしか思えない。
蓮華寺 絵島の墓
蓮華寺は高遠藩ゆかりの寺院である。創建は正平15年(1360年)だが、高遠藩初代の保科正光(会津藩祖・保科正之の養父)が寺領を与えて高遠城下に寺院建立。鳥居忠春が藩主の慶安4年(1651年)に現在地に移転をした。その裏山にあたる場所に一基の墓がある。それが絵島の墓である。絵島は、7代将軍家継の生母・月光院付きの御年寄として、大奥で絶大な権力を握っていた人物であった。しかし大奥を揺るがす一大事件によってその身分を剥奪され、罪人として生涯を終えることになる。その終焉の地が高遠であった。正徳4年(1714年)、前将軍・家宣の墓参の名代として寛永寺と増上寺を訪れた絵島は、その帰途の最中に木挽町の山村座に立ち寄った。ところが何故か滞在が長引き、江戸城に戻った時には既に閉門の刻限を過ぎていた。この一件で咎めを受けたのであるが、その山村座に立ち寄った目的が、役者の生島新五郎との密会であるとの疑いを掛けられてしまったのである。結局、絵島本人の自白はないまま、死罪を減じて遠島、さらに月光院の嘆願によって高遠へ配流となったのである。高遠に流された後の絵島の生活は過酷なものであった。一軒家の八畳間をあてがわれたが、常時役人が隣室で監視し、食事の差し入れ以外の接触は全て遮断された監禁生活であった。現在、絵島の居宅は設計図に従って復元されているが、厳重な監視態勢は勿論、外部の人間が入り込むことも出来ないような造りになっている。そのような中で、絵島は27年間生き長らえたのである。ただ後年、高遠藩より赦免の願いが出され、居宅の外にもわずかに出られるようになったとされ、大奥時代より信仰していた日蓮宗の寺院である蓮華寺にも足を運ぶようになったという。その縁で絵島の死後に墓が設けられたのである。
絵島生島事件 / 正徳4年(1714年)に起こった、大奥の醜聞事件。密会をしたとされる絵島は高遠に配流、生島新五郎は三宅島に遠島となった。また密会の舞台となった山村座は廃止され、座元も遠島。また絵島の兄である旗本の白井平右衛門は切腹ではなく斬首、絵島と生島の仲立ちをしたとされる商人らも処罰された。この事件の背景には、大奥における主導権争い(7代将軍家継の生母・月光院に対して、6代将軍家宣正室・天英院側が追い落としを図って仕掛けたとの説)、大奥の綱紀粛正を断行するための口実、等の諸説がある。いずれにせよ、二人が密会したかの確認よりも大きな目的があったと考えられている。
姫宮神社
上松町の市街地から西へ進み、赤沢自然休養林へ向かう一本道の途中に木製の吊り橋がある。これが姫宮神社の入口になる。この神社の祭神は以仁王の姫君とされるが、悲劇的な伝説が残されている。平家全盛時に反旗を翻した以仁王は京都での戦いに敗れると、所領であった美濃国(現在の長野県木曽郡上松町付近)に逃げ隠れてしまった。それを聞いた娘の姫君は、弟宮を連れてこの地まで父を訪ねて下ってきた。しかし途中で平家方の武将によって、落人であると正体がばれてしまい、姫君は追われる身となってしまう。島という土地にまで逃げ、麻畑に身を隠した姫君であったが、土地の者は後難を怖れて追い立ててしまう。仕方なく姫はさらに西へ歩を進め、親切な里人の助けも借りながら身を潜めて峠を越えていった。だが越すことが出来そうにない淵を前にし、さらに追っ手の馬のいななきを耳にするに至り、姫君は覚悟を決めた。追われ続けたこの土地で、ほんの束の間だけ心を休めた時に、里の娘たちが唄っていた田植歌を思い出すと、見よう見まねで朗々と唄いだした。そして唄い終わるやいなや、目の前の淵に身を躍らせたのであった。それから間もなく、この淵のそばにある木々の間からやんごとなき若い女性が姿を見せるという噂が立った。おそらく亡くなった姫君であろうと、里人は慰霊のための祠を建てたという。それが姫宮神社の起こりであるとされる(あるいは姫を死に至らしめた追っ手の中に者が祟りを怖れて創建したとも)。また姫君に冷たい仕打ちをした島では麻を栽培しても育たなくなってしまったとも伝えられる。姫宮神社へ行くために設けられた吊り橋が架かるところ、そこが姫君が身を投げた場所とされ、姫渕と称されている。
信玄塚
国道153号線を走ると、その途中で“信玄塚”と書かれた巨大な看板が立ち、道路の壁面にも武田家の旗印である風林火山のデザインが施されている場所がある。この地が武田信玄終焉の地の1つとされる。元亀4年(1573年)、信玄は約3万の大軍を率いて破竹の勢いで西へ攻め上っている最中であったが、野田城攻略後その動きを止める。そして春になるとそのまま本国へ引き揚げてしまう。この不可解な行動の裏には、重篤だった信玄の死が秘されていた。しかし信玄の遺言により、彼の死は隠されたため、その正確な終焉の地も公にされることがなかった。そのため“信玄の墓”とされるものが、三河北部から信濃南部にかけて何カ所か存在する。『甲陽軍鑑』によると、“ねばねの上村”で信玄は亡くなったとされ、この地は有力な終焉地となっている。この地に残る伝承によると、信玄の死に際して哀悼の意を込めて風林火山の旗を横にしたので、この地は“横旗”と呼ばれ現地名になったという。また、信玄没後の百回忌供養のため寛文年間(1661〜1673年)に武田家の縁者が宝篋印塔を建てたとされている。この宝篋印塔であるが、調査の結果、室町時代後期の特徴を備えたものであることが判明している。ただし、供養の対象となったのは、領主クラスの身分の高い者であっただろうともされている。
信玄終焉の地 / 有力な場所としては、阿智村の駒場(信玄を火葬したとされる長岳寺がある)、設楽町の福田寺がある。
『甲陽軍鑑』 / 武田信玄・勝頼の事績を通して、甲州流の軍法や兵法を著したもの。信玄の家臣であった高坂弾正が書いたとされるが、江戸時代初期に旧武田家臣の子であった小幡景憲がまとめ上げたと考えられている。
鍵引石
雨境峠は、大和朝廷が造った古代の官道が通過した地点である。この標高1580mの峠の周辺には、5〜6世紀に成立したと考えられる祭祀遺跡群がある。その中の1つが鍵引石である。雨境峠から南に下った女神湖畔にあるこの石の名は、祭祀遺跡とは関係のない、河童にまつわる伝説に由来する。今の女神湖のあるあたりは“赤沼”と呼ばれる湿地帯であった。その赤沼に住んでいたのが河童の河太郎。河太郎は子供に化けると大きな石に座り、道行く人を“鍵引き”に誘うのである。“鍵引き”とは指と指を絡めて引っ張り合う指相撲のことである。河太郎は鍵引きを始めると、恐ろしい力で相手を沼に引きずり込んでしまうのであった。 ある時、その噂を聞いた諏訪頼遠という剛力無双の侍が立ち寄ったところ、またしても河太郎が子供に化けて石の上から鍵引きに誘った。頼遠はそれを受けて、指を絡めるやいきなり馬を駆けだして、あっという間に河太郎を引きずり回したのである。しばらくして見ると、頭のお皿の水がこぼれた河太郎は瀕死の状態。そこで頼遠が「沼から出て行くか、それとも殺されるか」と尋ねると、河太郎は「今夜半には立ち去ります」と答えたので、そこで赦されたのであった。翌日になると、赤沼は干上がっており、代わりに隣村に大きな池が出来ていた。人々はこの新しい池を“夜の間の池(一夜池)”と呼び、河太郎はここに移ったのだろうと言い合った。しかし河太郎が鍵引きのために座っていた石だけは残り、鍵引石と呼ばれるようになったという。
筑摩神社 飯塚 (つかまじんじゃ いいづか)
現在は筑摩神社と呼ばれているが、かつては「八幡宮」と称しており、筑摩と安曇地方の総社とされていた。創建は延暦13年(794年)。坂上田村麻呂によって石清水八幡宮を勧請したのが始まりとされる。伝説によると、坂上田村麻呂は、この地を荒らし回っていた八面大王を退治するために石清水八幡宮に参籠し、この地に八幡宮を祀れば大願成就するとの神託を受けて建てたという。そして見事に八面大王を退治した田村麻呂は、再び蘇らないように遺骸を切り刻んで各地に埋めたのであるが、その首は筑摩神社の境内に埋められたのであった。現在では、八面大王の首塚は“飯塚”という名で呼ばれている。また一説では、泉小太郎(または小次郎)が湖の水を流して松本平を平地とした後、鬼賊を倒してその首を埋めたともされる。いずれにせよ、この飯塚は鬼の首を埋めて祀った場所とされている。
八面大王 / 魏石鬼(ぎしき)とも言われる。鬼として民話化されているが、この伝説の元となった史実として、『仁科濫觴記』にある盗賊団“八面鬼士大王”の存在がある。
石清水八幡宮 / 貞観元年(859年)に、宇佐神宮より山城の男山に勧請され創建。平安京の裏鬼門に位置しており、王城守護・国家鎮護の役目を果たしているとされる。石清水八幡宮の創建が坂上田村麻呂の死後であるため、筑摩神社創建の由来は時代的に矛盾している。
泉小太郎 / 安曇野開拓にまつわる伝説的人物。白龍王と犀龍との間に生まれた小太郎は、母の犀龍と再会すると、湖の水を抜いて広大な土地を生み出すことを願う。そして母の背中に乗り、山清路の岩盤を打ち抜いて水を流した(現在の犀川)とされる。
葛井神社
諏訪大社上社の摂社の1つであり、諏訪大社の大祝の即位の際に御社参りをする13の神社の1つに数えられる。祭神は槻井泉神(つきいずみのかみ)。この神社の信仰の対象は本殿に隣接する池である。この池は諏訪七不思議の1つ“葛井の清池”に数えられ、色々な伝承が残されている。最も有名なものは、上社の年中行事の最後となる「葛井の御手幣(みてぐら)送り」の神事である。大晦日に、上社で使われた幣帛や榊、柳の枝や柏の葉を取り下げて、葛井神社に運ぶ。そして寅の刻に前宮御室の御燈を合図に、それらを池に投げ入れるのである。すると翌元日の卯の刻に遠江国の佐奈岐(さなぎ)池に浮き上がってくるという。またこの底なしの池には片目の魚がおり、それが池の主であり、捕ると祟りで死ぬとも言われている。町中にある何の変哲もない池であるが、非常に神秘的な伝承を持つ場所である。
諏訪大社 / 本宮と前宮からなる上社、春宮と秋宮からなる下社の計4つの神社。信濃一之宮として崇敬を集める。祭神は、出雲国譲りの際に諏訪へ来た建御名方神と、その妃の八坂刀売神である。また土着信仰の対象であった蛇神のミシャグジ神とも一体視されている。
諏訪七不思議 / 諏訪大社の上社と下社の神事などにまつわる七不思議(上社と下社にも独自に七不思議があり、それらを総合した形で諏訪七不思議が形成されている)。湖水御神渡・蛙狩神事・五穀の筒粥・高野の耳裂鹿・葛井の清池・御作田の早稲・宝殿の天滴。
佐奈岐の池 / 具体的にどこの池を指すかは不詳。しかし比定地として最も有力なのは、静岡県御前崎市佐倉にある、遠州七不思議の1つ、桜ヶ池である。この池にも龍神に供えるために赤飯を詰めたお櫃を池に沈める「お櫃納め」がおこなわれており、そのお櫃が諏訪湖に浮かび上がったとの伝承が残されている。
大塚神社 耳塚
一面水田地帯の真ん中にそそり立つ巨木が目印となっている。近くまで来ると、この小さな神社そのものが少し盛り上がった土地に鎮座しているために、ここが塚であることが分かる。この耳塚に埋められているのは、八面大王の耳であると言われている。八面大王はこの安曇野地方の伝説では鬼とされ、悪逆の限りを尽くした後に坂上田村麻呂によって攻め滅ぼされたとされている。しかし蘇ることを恐れた田村麻呂は、八面大王の遺骸を切り刻んで、各地に埋めたのである。耳塚はその耳を埋めた場所であるとされているのである。現在では“耳の神様”として有名となり、祈願をする地元の人も少なくないという。
八面大王 / 魏石鬼(ぎしき)とも言われる。鬼として民話化されているが、この伝説の元となった史実として、『仁科濫觴記』にある盗賊団“八面鬼士大王”の存在がある。この書物によると、耳塚は、降伏した盗賊団を処罰した際に手下を含めて全員の耳をそぎ落としたものを埋めた場所であるとされている。
魏石鬼岩窟 (ぎしきのいわや)
『信府統記』によると、平安時代初期、安曇野地方に魏石鬼という賊がいた。別名を八面大王という。各地を荒らし回ったため、大同元年(806年)に蝦夷征討に赴く途上にあった坂上田村麻呂によって成敗されたと伝えられる。この魏石鬼が田村麻呂に抵抗するために立て籠もったとされるのが、魏石鬼岩窟である。有明山神社に隣接する正福寺から細い山道を伝って歩くこと10分足らず、岩窟はある。岩窟の上にはお堂が建てられ、さらに岩窟の表面には磨崖仏が彫られている。かつては修験道などの修行場としても用いられた様子がうかがわれる。この岩窟は花崗岩の巨石を組み上げられて作られた古墳、日本では珍しいドルメン式古墳であるとする鳥居龍蔵の説が一般的である。この地域の名ともなっている安曇族が九州方面から移動してきた海洋民族とされるため、ドルメン式古墳が多く見られる朝鮮半島との関係も指摘される。山の中にひっそりと佇むようにある岩窟は、その特異な姿である故に、何かしら畏怖の念を感じさせるものがあると言えるだろう。
『信府統記』 / 松本藩の命によって享保9年(1724年)完成の、信濃国の地誌。魏石鬼の伝説は、おおよそこの書籍に依っている。ただしこの伝説の元となった史実として、『仁科濫觴記』にある盗賊団“八面鬼士大王”の存在がある。
ドルメン / 支石墓。柱となる巨石を数個並べてその上に平らな巨石を乗せる、テーブルのような形の墓。西ヨーロッパのものが有名であるが、東アジアでも独自に発達し、中国東北部で発生し、朝鮮半島に広く見られる。日本では、朝鮮半島の影響を受けたと推測されるものが九州北部にいくつかあるが、その規模はかなり小さい。弥生時代前期にはほぼ作られなくなったと考えられる。
光前寺 早太郎の墓
光前寺は天台宗の古刹である。庭園は国の名勝に指定され、境内にはヒカリゴケが自生するという、非常に環境の良い落ち着きのある場所である。この寺院には、霊犬・早太郎にまつわる伝説が残されている。ある時、山犬が光前寺の縁の下で子犬を生んだ。住職が手厚く世話をしてやると、母犬は子犬の1匹を寺に残していった。残された子犬は大変賢く、動きが俊敏であったため、早太郎と名付けられた。数年後、光前寺に一実坊という旅の僧が訪れた。僧が言うには、遠州府中の見附天神では、毎年祭りの時に白羽の矢が立てられた家の娘を人身御供として神に差し出す風習がある。生贄を要求する神がいるのかと思い様子をうかがうと、化け物たちが現れて「今宵今晩おるまいな 信州信濃の早太郎 このことばかりは知らせるな 早太郎には知らせるな」と歌いながら娘を引っさらっていった。そこで信濃に早太郎という者を探しに来たのであるが、それが光前寺の飼い犬と知って、借り受けに来たのであると。話を聞いた住職は早速早太郎に言い聞かせ、一実坊と共に見附天神に向かった。そして祭りの生贄となる娘の代わりに早太郎が箱に入って、夜を待った。すると化け物たちが現れ、歌い踊りながら箱を開けた。一散に飛び出す早太郎、不意を突かれて慌てふためく化け物。しばらく凄まじい戦いの物音がしていたが、やがてその音も小さくなっていった。夜が明けて村人がおそるおそる見に行くと、巨大な狒狒が3匹噛み殺されていたのであった。その頃早太郎は、生まれ故郷の光前寺へ向かっていた。しかし狒狒との戦いの傷は深く、寺に戻り住職の顔を見ると、一声鳴いてそのまま息絶えてしまった。哀れに思った住職は、境内に一基の墓を建て、霊犬・早太郎を祀った。延慶元年(1308年)のことと寺では伝えられている。またその後、一実坊も早太郎供養のために大般若経を奉納している(現存)。早太郎の伝説は光前寺だけではなく、狒狒退治があった見附天神にも伝えられており、この縁で駒ヶ根市と静岡県磐田市は姉妹都市を提携している。かなり距離のある土地同士で全く共通の伝説が残る、珍しい実例である。
「早太郎」の名称 / 光前寺の伝説では「早太郎」とされているが、もう一方の伝承地である見附天神では「しっぺい(悉平)太郎」と呼ばれている。また「疾風太郎」と呼び慣わす地域もある。
見附天神 / 静岡県磐田市にある。矢奈比賣神社が正式名称。隣接地には早太郎を祀る霊犬神社がある。一実坊はこの神社の社僧であり、実際に早太郎を探しに信濃へ行ったのは旅の六部であるとの伝説もある。また見附天神での伝説では、大怪我を負った早太郎を村人が介抱し、それから光前寺に送り返したとされている。
鳴石 (なるいし)
大和朝廷が東国支配を果たしたとされるのが、5世紀頃。その東国との主要道として設けられたのが、東山道である。この道の途中に雨境(あまざかい)峠がある。この周辺は現在でも多くの祭祀遺跡が存在しており、その最も象徴的なものが、鳴石である。この巨石は鏡餅が重なっているかのような奇麗な形をしている。しかし調査によると、これは一つの石が割れたのではなく、本当に人工的に重ねられたものであるという。しかも2つの石とも別の場所から意図的に運ばれてきたものであると判明している。それ故にこの岩の上で何らかの祭祀が執り行われたものであると考えてもよいと言われている。鳴石の名の由来であるが、風が強く吹く時にこの石が音を立て、必ず天気が悪くなるという言い伝えによるという。さらに、天変地異にまつわる恐ろしい伝承も残されている。ある時、石工がこの石を割ろうと玄翁で数回叩いたところ、突然山鳴りが起こり、空から火の雨が降り注ぎ、石工は悶死したという。祭祀の施設であると同時に、この石そのものが神聖視された磐座であるということが分かる伝承であると言えるだろう。ちなみに、雨境峠の祭祀遺跡は、蓼科山の神に対するものであると考えられている。その蓼科山には“ビジンサマ”という名の山の神が住んでおり、その形態は丸くて黒い雲に覆われ、赤や青の布きれのようなものが下に付いているという。何か鳴石の姿や伝承を彷彿とさせるような形である。
東山道 / 近江・美濃から信濃を経て碓氷峠から上野・下野へと向かうされた道。この道の途中、諏訪から佐久へ抜けるところに雨境峠がある。 
 
 岐阜県

 

●仏のどじょう 1 関市
入江のように山の中へ入り込んだ田んぼには、“○○洞”と田んぼを作った人の名前がつけられていた。“じんねさ洞”の向かいに底なし沼があった。ある日、お百姓さんが沼の傍で休もうとして、過って石につまづき沼に落ちてしまった。お百姓さんは、助けてエ〜と叫んだが、とうとう笠だけが蓋のように残って沼に沈んでしまった。村人は“笠ぶた”と呼んで恐れていたけれど、“昨日は吾作どんが落ちた”、“今日は権六どんが…”と沼に落ちる人が絶えなかった。村人たちが相談し、近くにあった大岩で沼をふさぐことにして、綱を掛けて皆で引張った。しかし、もうちょっとの所まできて、大岩はまったく動かなくなってしまった。これを見ていたお寺の和尚さんが“どうした事かの〜”と岩の上を覗いた。すると岩のてっぺんの窪みに、どじょうが数匹泳いでいた。和尚さんは“村の衆や、これは仏様のお使いじゃ、仏様も手伝ってくれている、もう少しじゃ”と励ました。村人たちは再び力を合わせ、やっと大岩で沼をふさぐことができた。村人たちは、そのどじょうを“仏様のお使いじゃから、大切にしなくちゃ〜”といって、近くのきれいな谷川に放してやった…

●仏どじょう 2
下有知 (しもうち) の中組部落の東、竜泰寺の裏山の北には、入江のように山の中に入りこんだ田んぼが沢山あります。この田んぼには、 『 いちべい洞 』 とか 『 さいべえ洞 』 とか人の名前がついています。これは、この荒地を一生懸命たがやして、田んぼにした人達の名前をとってつけられたものです。『 じんねさ洞 』 の向いに 『 笠ぶた 』 と呼ばれる所があります。
ここはむかし、底なし沼になっていました。ある日、近くで仕事をしていたお百姓さんが、「 やれやれ、疲れた、少し休もうか 」 と、沼のそばまでやってきて、涼しい木陰で休もうとしたとき、あやまって石につまずき沼に落ちてしまいました。
その沼はどろ沼だったので、出ようとしてもズブズブ、ズブズブと、沼の中にしずんでいきます。お百姓さんは、 「 助けてくれ、助けてくれ 」 と、叫ぶのですが、体はどんどん、どんどん沈ずんで、とうとうかぶっていた笠だけが、ふたのように残っただけでした。
その事があってから、村の人達は、ここを 『 笠ぶた 』 と呼んで恐れるようになりました。けれども、田んぼはこの沼の近くにあり、毎日通らなければなりません。「 このあいだは、吾作どんが、落ちたそうな 」「 きのうは、権六どんが落ちたそうな 」 と、犠牲者はどんどん増えていきます。そこで、村の人達は、 「 どうしたらいいんだろう 」 と、頭を悩ませました。「 さくを作ったら、どうだろう 」「 うめてしまう事はできないかなぁ 」 などと、いろいろな相談をしました。そして、近くにあった大岩で 『 笠ぶた 』 の穴をふさぐことに決まりました。
村の人達は、総出で大岩にひもをかけ、「 そうれ、いくぞ 」  「よいしょ、こらしょ 」 と、声をあわせて引っ張ります。沼まであと少しという所まで運んで来ました。けれども、そこからは押しても引いても動きません。「 よいしょ、こらしょ 」  「よいしょ、こらしょ 」 村の人達も必死です。けれども、岩はびくとも動きません。とうとう力つきて、村人達はすわりこんでしまいました。
これを近くで見ていた 『 堪念 (たんねん) 』 という和尚さんが、「 どれどれ、どうした事かの 」 と大岩を見にきました。その大岩のてっぺんをのぞいてみると、くぼみの水たまりにどじょうが数匹泳いでいるのを見つけました。和尚さんは、 「 これこれ、村の衆や。どじょうは仏さまのお使いにちがいない。仏さまも手伝って下さるのだから、きっとこの岩は動く、みなの衆も、もう少しだからがんばってくれや 」 と、励まされました。村の人達も、「 そうか、どじょうがいるか 」「 仏さまも手伝って下さるで、きっと動くぞ 」 と、再び元気をとりもどして、「 そうれ、よいしょ、こらしょ 」 と、今まで以上の力を出しました。とうとうこの大岩を、 『 笠ぶた 』 まで運んでふさぐことができました。
それからは、村の人達は、安心して田んぼで仕事をすることができるようになりました。そして、大岩のてっぺんにいたどじょうを、「 仏さまのお使いだから、大切にせにゃならんのう 」 と、話しあって、このどじょうを、大洞谷のきれいな水に放してやりました。
 

 

●岐阜の伝承
日輪神社
国道158号線を高山市街から上高地方面へ向かう途中、道路に面して一の鳥居が立っている。神社は鳥居の真正面に位置する、美しい円錐形の山の中腹にある。創建などの記録は残っていないが、天照皇大御神(天照大神)を祭神とし、少なくとも中世には「日輪宮」の名で通っていたと考えられる。日輪神社はその社殿がある山そのものを御神体としているが、この山がその美しい形から「人工ピラミッドではないか」という説がある。主張したのは、上原清二。上原は陸軍大佐で神宮奉斎会高山支部長という地位にあり、昭和9年(1934年)に当地で講演をおこなった酒井勝軍より「飛騨は神代の中心である」話や「上野平の平面ピラミッドの鑑定」の話を聞くに及んで感化され、人工ピラミッドの可能性のある飛騨一帯の山を踏査し、その結果、日輪神社で人工ピラミッドの物証となる太陽石を発見するに至ったのである。さらに上原の考究は続き、日輪神社は飛騨において最初に造られた人工ピラミッド(太陽神殿)であり、そこから16等分された方角にそれぞれ人工ピラミッドが造営されたという説を打ち立てたのである。この途方もない説の背景にあるのが『竹内文書』であり、地球に神々が降臨して最初に神宮を建てた場所が“日球国”の位山と明記されており、“日球=飛騨”が世界最初の文明発祥の地とされている。さらにそこに降臨した天皇は、世界を16の方位に分けて統治したのである(これが天皇家の紋章・十六葉菊のモチーフとする)。上原はこれらの説を援用・補完する形で自説をまとめていったと考えられる。これらの経緯をふまえて、日輪神社は現在でも指折りのパワースポットとして全国的に知られている。しかしながら人工ピラミッドにとって最も重要な役割を果たすはずの「太陽石」が既に山頂近くの位置にはなく、しかもそれを割ろうとした鏨の跡が付いており、何らかの意図的な破壊を実行しようとした痕跡がある。
上原清二 / 生没年未確認。高山市在の人物であり、上にもある通り“日本ピラミッド”の発見者である酒井勝軍に感化され、飛騨地方にあるピラミッドの発見・調査を精力的におこなっている。昭和16年(1941年)に『日霊国:飛騨神代遺跡』を上梓し、「飛騨神代遺跡研究会」の発起人となっている。戦後は公職追放されているが、神代遺跡に関する著述があるとのこと。
日本ピラミッド / 酒井勝軍が提唱・発見した、超古代史上の遺跡とされるもの。エジプトのピラミッドと異なり、日本の場合は元からある山に手を加えて人工的な円錐形に整えるという工法が採られる。また山中には遙拝のための“鏡石”“方位石”などがあり、そして山頂に丸い形をした“太陽石”が置かれているといった条件を元にして選定されている。
文明発祥の地としての飛騨 / 『竹内文書』では、約360億年前に天神7代の天御光太陽貴王日大御神大光日天神が地球に降臨し、位山に皇子のための宮を建てたとされ(この皇子が即位して上古25代が始まり、地上での統治が本格化する)、ここに“日球(飛騨)国”が成立する。一方で、飛騨出身の超心理学者・山本健造が、教員として赴任した地で病気を治すなどの超能力を発揮していた折、“語部翁”より日本人の起源に関する口碑を託されたとされる。これによると、海の中から浮かび出た淡山(乗鞍岳)の池から生命がおこり、人間も誕生した。最初人間は乗鞍岳の頂上付近に棲んでいたが、気候変動で下山した。人間は生命発生の池に映る太陽や月を見て精神統一する習慣を得ており、これを“日抱の御魂鎮”と称し、そこから“日抱=飛騨”という名が始まったとする。いずれの説も位山を最重要視しており、日輪神社に関してはあまり言及されていないようである。
福源寺
大阪城代・青山宗俊の家臣であった石井宇右衛門は、面倒を見ていた赤堀源五右衛門に逆恨みされ殺害される。ただちに18になる長男の三之丞と次男の彦七が免状を受け取って、仇討ちの旅に出た。延宝元年(1673年)11月のことである。その年の内に、兄弟は赤堀の養父を大津で討ち取ったが、それ以降は杳として行方も知れず、手掛かりも掴めない状況となった。数年が空しく過ぎ、やむなく兄弟は別れて仇の探索を続けることとし、三之丞は叔父に当たる犬飼瀬兵衛が住む養老の室原に逗留し、方々の心当たりを探した。さらには相手を挑発しようと、仇の名を挙げて、自分の逗留する叔父宅まで喧伝したのである。この三之丞の噂はやがて赤堀本人の知るところとなった。腕に覚えのある赤堀はならばと、養老の住まいへと足を運んだ。三之丞にとって最大の不運は、仇の赤堀源五右衛門が訪れたちょうどその時に、庭で行水をしていたことであった。赤堀は三之丞であると見ると、庭に乱入し有無を言わさずその首に深々と斬りつけたのである。不意を突かれた三之丞は何の抵抗すら出来ないまま、返り討ちに遭ってしまったのである。仇討ちの旅に出て8年が過ぎた天和元年(1681年)1月のことであった。あまりにも呆気なく返り討ちに遭った三之丞は、叔父宅のある室原の福源寺に葬られた。だがここから奇怪な話が始まる。福源寺の墓地のはずれに柿の木があった。そのうちの1本の幹から“髪の毛”が生えてきたのである。これを見た多くの人々は、為すすべもなく無惨な死を遂げた石井三之丞の亡魂が、再び生まれ変わって仇を討ちたいとの一念で柿の木に髪の毛を生えさせたに違いないと言うようになったのである。この噂は評判となり、後に大垣藩の殿様も見物にきたという。“髪の毛の生える柿の木”は今でも現存している。戦後も髪の毛が生えていたとされるが、近頃は環境が変わったせいなのか、そのような怪異は見られないとも言われている(残念ながら探訪した際にも確認出来なかった)。ただ伝承だけは残され、石井三之丞の墓碑と柿の木には、字はかすれていたが案内板が建てられていた。
仇討ちのその後 / 長男の三之丞が返り討ちに遭うのと前後して、別れて仇を探していた次男の彦七は四国に赴く途中で船が遭難して溺死している。二人の死後、まだ幼かった三男の源蔵と四男の半蔵が成長して仇討ちを引き継ぐ。そして仇の赤堀源五右衛門が後日亀山藩に仕えていることを知ると、藩総出の警戒網をかいくぐって、ついに亀山城下で仇討ちに成功する。時に元禄14年(1701年)5月、父の死から数えて29年目のことであった。この仇討ちは評判となり、“元禄曾我”と呼ばれた。後に四世鶴屋南北はこの仇討ちを下敷きにして「霊験亀山鉾」を書いている。
髪の毛の正体 / 奇怪な髪の毛とされてきたが、実際にはウマノケタケ(ヤマウバノカミノケ)という名のキノコ類の菌糸束であることが判明している。
おまむ桜の碑
長滝白山神社を南に下った、国道沿いにある大きな碑である。周囲には他の石碑や地蔵が置かれてあるが、肝心の桜の木はなく、既に枯死したものと思われる。元禄の頃(1688〜1704年)、小源次という魚売りの若者が長滝に商いに来ていた。1月6日、ちょうど長滝白山神社の花奪い祭の折、小源次は境内で一人の娘を見初める。娘の名はおまむ。長滝にある寺坊の一人娘であった。いつしか二人は惹かれ合う間柄となった。だが、魚の行商人と寺の娘とでは、言葉を交わす機会を作るのも難しい。何とか年明けの花奪い祭の夜、神社近くの桜の木の下で出逢う約束だけをした。そして小源太はその夜、桜の木の下でおまむを待ち続けた。一方のおまむは、夜半に家を抜け出ようとしたところで親に見つかり、外出を禁じられて部屋に閉じ込められた。そして恋しい人に出会えぬまま一夜を過ごしたのである。翌朝、桜の木の下で小源次が凍死しているのが見つかった。その話は当然、寺にも伝わった。その日のうちにおまむの姿は寺から消えた。家人が消息を知るのは、小源次が亡くなった桜の木の下で自害して果てたという知らせがあった時であった。年月が経ち、二人の悲恋は“おまむ桜”の伝承として伝えられ、さらには白鳥の町に続く夏の風物詩である“白鳥踊り”の曲目「シッチョイ」の歌詞として語り継がれている。
長滝白山神社 / 白山信仰の美濃国側の中核をなし、全国の白山神社の中でも主要な地位を占める神社。花奪い祭は、現在でも1月6日に行われており。神事の舞の途中で、拝殿天井に吊された各種の花輪を奪い合う。国の重要無形民俗文化財に指定されている。
はだか武兵の祠
昔、中津川の宿に武兵という男が住んでいた。鵜沼宿の出であったが、いつの間にか茶屋坂という場所に居着いて雲助を生業としていたが、大力の大酒飲みで、真冬の時ですら褌一丁のままで暮らしていた。そのため仲間内では“はだか武兵”と呼ばれていた。ある時、武兵は仕事で木曽の須原宿まで客を送ったが、日も暮れてしまったので、宿場にある神社で一晩明かすことにした。拝殿に入ると既に一人の老人がいたが、二人はすぐに意気投合。やがて老人は、自分が疫病神であることを明かした上で、兄弟分になろうと提案した。疫病神が取り憑いている所に武兵が来たら退散する、という約束である。面白がった武兵はすぐに兄弟分となる約束をしたのであった。しばらくして仲間の雲助が熱病にかかった。武兵が見舞いに行くと、たちどころに治った。そんなことが数回繰り返されるようになって、町では「はだか武兵は熱病を治す」という評判が立つようになったのである。数年後のある冬のこと。中山道の大湫(大久手)宿から大層な使いの者が、武兵を訪ねてきた。参勤交代で本陣に泊まった長州の殿様の姫が熱病にかかって、もはや医者も匙を投げてしまっている。かくなる上はということで、街道筋でも噂の高い武兵に来てもらおうとなったのである。本陣に現れた武兵の姿を見て、家老はたまげてしまった。雲助と聞いて多少は覚悟はしていたが、目の前に現れたのが褌一丁の大男。床に伏せっている姫君一人の部屋に入らせて良いものか、家老は逡巡せざるを得なかった。しかし武兵はお構いなしに、そのままの格好でずかずかと部屋に入り込む。するとたちまち姫は意識を取り戻して、熱病は嘘のように治ってしまったのである。そして驚喜する家老を尻目に、武兵は褒美も受け取らずに帰って行ったのである。この痛快な“はだか武兵”を祀った祠が、旭が丘公園の中にある。その祠の前にある舟形の石を年の数だけ叩いて祈ると病気にかからないとされ、この石は叩くと高い音を出すので“ちんちん石”と呼ばれている。今でも病気平癒のご利益に預かろうと参拝する人がいるという。
根古石(猫石)
高山市内屈指の観光スポットに高山陣屋がある。現存する唯一の代官所建造物である。元をただせば、この陣屋は高山藩主金森氏の下屋敷として建築されたものであり、元禄5年(1692年)に6代藩主の金森頼時が出羽に移封されてから明治維新になるまで、幕府の直轄地であった飛騨国の代官・郡代所として使用されていたものである。この陣屋の敷地外、ちょうど陣屋入り口の反対側の塀にへばりつくようにしてあるのが根古石である。古文書などによると、この根古石のある土地もかつては代官所の敷地内にあたり、近隣から納められた米を置く蔵を守護する稲荷神社が建てられていたという。この神社は祭の際には一般にも開放されていたらしく、初午の時には多くに人で賑わったという記録も残されている。その後、大正3年(1914年)に社殿は全て移転となり、いつしか住宅が建ち並ぶようになっていた。だが、この移転の際に何故か一つだけこの土地に放置されたままとなったのが、この根古石である。かつて、この石に触れると祟りがあるというまことしやかな噂が流れたために放置されたのではないかと推測される。現在の陣屋の元となった金森家の下屋敷を造ったのは、3代藩主の重頼の頃という。自分の家族を住まわせるために建造したとされる。この金森家の下屋敷であった時代に、根古石の伝説にまつわる事件が起きた。ある時、藩主の姫が屋敷の庭にいると、飼っていた猫が突然着物の裾を咥えて放そうとしない。難儀していると、そこへちょうど藩主が通りがかった。事情を察すると、畜生のくせに娘に執心するとは許しがたいと、いきなり刀を抜くと猫の首を斬り捨てたのである。そのはずみで猫の首は空高く宙を舞うと、庭の松の木に一直線に飛んでいき、その木の枝にいた大蛇の喉元に咬みついたのである。たまらず大蛇は木から落ち、そしてそのまま動かなくなってしまった。この様子を見て、藩主は、大蛇が姫の命を狙っていたのを猫が気付いて救おうとしたことを悟ったのである。そこで憐れな猫を葬り、その目印としたのが根古石とされる(あるいは猫の死骸がこの石の上に乗ったともいわれる)。猫の報恩譚としては典型的な話であり、信憑性には欠けるきらいはあるが、今でもなお根古石は近隣の人々から大切に扱われている。
道三塚
住宅地の一角を占める形の道三塚は、その名の通り、戦国時代に美濃を治めた斎藤道三を祀る塚である。元は、織田信長父子の墓のある崇福寺の近くにあったのだが、長良川の氾濫でたびたび流されるために、天保8年(1837年)に斎藤家の菩提寺の住職がこの地に移転させたものである。その後周辺は住宅地の密集する土地となったが、塚は移転されることなく、崇敬の対象となっている。一介の商人から身を興して美濃一国の太守となった道三であるが(最近の研究では親子二代の覇業とされる)、その最期はあっけないものであった。天文23年(1554年)、道三は家督を嫡男の義龍に譲って隠居する。その直後から二人の仲は険悪となり、義絶するに至る。その理由は、義龍は実は実子ではないために道三が廃嫡を考えていたとも、長年にわたる国盗りの強引な手法によって家臣団が強制的に道三を引退させたためとも言われる。いずれにせよ、翌年には義龍は、道三が可愛がっていた弟2人を殺害して、明確に反旗を翻したのである。そして弘治2年(1556年)、道三と義龍は長良川を挟んで対峙する。その兵の数は、義龍1万7千に対して、道三は3千足らず。多勢に無勢の中で、道三は討ち取られる。かつての太守は、脛を薙ぎ払われた後に首を切り落とされたとされる。その際、複数の者が同時に襲いかかったために一番槍争いが起こり、証拠として鼻をそぎ落とされたともいう。享年63。
血洗池跡 血洗神社
『古事記』によると、三貴神(天照大神・月読尊・素戔嗚尊)は黄泉の国から戻ってきた伊弉諾尊が禊ぎをして誕生したことになっている。ところが『日本書紀』では伊弉諾尊と伊弉冉尊による“神産み”の中で誕生した、即ち伊弉冉尊が生んだという設定になっているのである。恵那山には、この『日本書紀』の内容に基づいて、次のような伝承が残っている。恵那の地名は、伊弉冉尊が御子を生んだ際に出た胞衣(胎児を包んでいた膜や胎盤)を埋めた山という意味で付けられたとされるのである。そして恵那山の麓に位置する血洗池で、伊弉冉尊は産穢を洗い清めたとされるのである。さらに、伊弉冉尊は出産に後に岩に腰を掛けて一息ついたので、このあたりを“安気の里”と呼び、それが現在の阿木の地名となっているという。血洗池はそこそこ大きな池であったが、土砂の流入によって縮小され、昭和時代には完全に埋まってしまったとされる。昭和の終わりに頃に国道363号線が整備された時に、この池の跡も整備され、近くにあった伊弉冉尊が腰掛けたとされる岩も移し替えられている。血洗池のそばには血洗神社と呼ばれる神社があったが、現在は少し離れた場所に移設されている。祭神は天照大神であり、安産のご利益があるとされている。
護国之寺 (ごこくしじ)
護国之寺は天平18年(746年)に聖武天皇の勅命によって建立された古刹である。県や市の重要文化財を多く所有しているが、中でも“金銅獅子唐草文鉢”は奈良時代の作とされる、国宝指定の名器である。この鉢にまつわる伝承は、この古刹建立にも大いに関係する。聖武天皇が奈良の都に総国分寺として東大寺を建立を欲し、大仏造立の詔を出したのが天平15年(743年)のことである。そこで全国に使者を遣わして、然るべき仏師を求めることとなった。美濃国へ派遣された使者は、ある夜、夢の中で「明日東へ行って、一番最初に出会った者が、おまえが探し求める仏師である」というお告げを聞く。翌朝、使者が最初に見かけたのは一人の童子であった。日野金丸(ひのきんまろ)と名乗った童子は、使者の求めに応じて土をこねて見事な仏像を造って見せた。そこで使者は金丸を伴って奈良へ戻り、大仏建立の任に当たらせたのであった。天平勝宝4年(752年)ついに大仏は完成し、落慶法要が執りおこなわれた。その時、紫雲が現れ、美しい音楽が流れてくると、空から一つの鉢が舞い降りてきた。そして「これは釈尊が使われていた鉢である。大仏造立を称えてこれを授けよう」という声がした。そこで聖武天皇はこの鉢を、大仏建立に功績のあった金丸に与えたのであった。その後、故郷に戻った金丸は雄総に寺を建てて、この鉢を納めた。そしてその死後に千手観音菩薩像に変化して、この寺の本尊となったという。
東大寺大仏
盧舎那仏(華厳宗における“宇宙の中心に位置する仏”。真言宗で言うところの大日如来である)。天平17年(745年)より造られ、天平勝宝4年(752年)に開眼供養(仏に魂を入れる儀式)が執りおこなわれた。高さ約15m、重さ250t。後に2度の戦火によって焼失するが、その都度再建される。現在の大仏は、元禄4年(1692年)に完成したものである。
御首神社
祭神は平将門の御神霊。関東を根城にして歴史に名を残した平将門が東海地方に祀られているのには、次のような伝承がある。討ち取られた将門の首は京都に運ばれてきて晒し首となったのだが、何ヶ月経っても一向に朽ち果てることもなく、それどころか切り離された胴体を求め、さらに一戦を交えようという勢いで罵り続けていた。そしてある時、首は胴体を求めて東に向かうべく、宙高く舞い上がって京都を去って行ったのである。美濃国の南宮大社では、将門の首が関東に戻ればまた大乱が起こると怖れて祈願をおこなった。すると大社に座する隼人神が弓を構え、東へ向かって飛んで行く将門の首を矢で射落としたのである。首は荒尾の地に落ち、そして再び関東へ行かないようにこの地に祀ることで将門の御霊を慰めた。これが御首神社の始まりと伝えられている。首を祀る神社ということで、首から上の諸祈願に霊験あらたかと言われ、近年では合格祈願の神として知られる。また祈願の際には絵馬ではなく、帽子やスカーフなど首から上に身につけるものを奉納する者も多くあるとのこと。
南宮大社 / 美濃国一之宮。主祭神は金山彦命で、全国の鉱山・金属業の総本宮とみなされている。南宮大社の境内摂社に隼人神社があり、その社の前には矢竹が植えられている。この神社の祭神は火闌降命で、瓊瓊杵尊と木花咲耶姫の間に出来た三人兄弟の真ん中神である(上の兄は海幸彦、弟が山幸彦となる)。
源氏橋
平治元年(1159年)、源義朝は京都で平清盛に敗れると、勢力圏である関東へ逃れるべく東へ向かった。途中で息子達とも散り散りになりながらも、何とか美濃国の青墓(現・大垣市)にまで辿り着く。青墓では、源氏と姻戚関係を持つ大炊兼遠に匿われることになる。しかしさらに東へ逃れるために、乳兄弟の鎌田政清の舅である長田忠致を頼って川を下ろうとした。そこで義朝主従が柴舟に乗ったのが、この源氏橋のたもととされる。現在では人が乗る船など浮かべることも出来ないような小川に、石造りの橋は架けられている。そして源氏の名にふさわしく、その家紋である笹竜胆が橋に彫られている。偶然、この橋をよく知る古老の話を聞くことが出来たが、かつてはもう少し離れた場所に橋があったのだという。その移転に際して、橋のほかに、義朝が鎧を掛けたとされる鎧掛け榎も植え替えたが、結局枯れてしまったとのこと。さらに弁当の箸の代わりに使った蘆が後に生い茂ったという蘆塚をもとに植えられた蘆も、結局根付かないまま朽ちてしまったという。今は、石造りの橋と、移動させた当時に掲げられた案内板が残るだけである。
二つ葉栗
昭和32年(1957年)に岐阜県天然記念物に指定された栗の木である。「二つ葉」の名の通り、葉が2つに分かれるという変わった木であり、葉の付け根から分かれる場合もあれば、葉の中ほどで二つに割れてY字のような形になるものもある。このような不思議な葉の形になる原因についての伝説が残されている。牧口という集落に源次という男がいた。他人の土地のものを勝手に盗ったりするので、村の者から随分と嫌われていた。ある時、隣家の者が立山へ参拝に行ったのをこれ幸いに、薪を持ち去っていった。その途中、源次は風で頭巾を飛ばしてしまい、探したが見つけることが出来なかった。数日後、隣家の者が源次を訪ねてきた。立山で源次に会ったという。薪を背負った源次が正面から近づいてきたかと思うと、突然、体勢を崩すと煮えたぎる地獄に落ちてしまったというのである。そして隣家の者は、証拠にとその時拾い上げた頭巾を見せた。それは薪を盗んだ時になくした頭巾であった。これにはさすがの源次も恐れをなし、前非を悔いて真人間になることを誓った。それ以降、盗みを働くこともせず、さらには人助けもおこなって善行を積み、念仏を毎日唱える生活を続けたという。そして年月が過ぎて宝暦11年(1761年)の冬、いよいよ臨終という時に、源次は「もし家の前の栗の木の葉が二つに割れるようになったら、その時は私が極楽へ行ったものと思って欲しい」と告げて亡くなった。その翌年から、その栗の木の葉は葉先が割れるようになったという。
夜叉龍神社
祭神は夜叉龍神。この地からさらに10kmほど北上したところに登山道がある夜叉ヶ池の主であり、また龍神の嫁となった夜叉姫を祀る。正保4年(1647年)、大垣藩主の戸田氏鉄はこの地を訪れ、夜叉ヶ池の伝説を聞いて感銘し、夜叉姫の髪洗池のほとりに夜叉龍神社を建立したのが始まりである。その後治水の神として大垣藩の崇敬を受ける。しかし明治28年(1895年)この付近一帯襲った鉄砲水によって神社は流失する(この時に夜叉姫の髪洗池もなくなってしまう)。しばらく御神体などは別の場所に安置されていたが、昭和9年(1934年)に揖斐川電工株式会社が川上発電所を開設する際に、治水の神、村と会社の平安隆盛を祈願するために復興されたのである。揖斐川電工株式会社は,現在ではイビデンという会社名で電気機器製造メーカーとして存続しているが、現在でもこの夜叉龍神社へ役員が参詣しているという。
夜叉ヶ池伝説 / 弘仁8年(817年)、美濃国を大干魃が襲った。窮した郡司の安八太夫安次は、小さな蛇を見つけると「雨を降らせてくれるなら、娘をやろう」とつぶやいた。するとその夜の夢枕に小蛇が現れ「私は龍神である。望み通り雨を降らせる代わりに娘をもらう」と言うと、たちまち雨が降り出した。翌日、龍神は若者に姿を変じ、安八太夫の許を訪れる。太夫は事の子細を3人の娘に告げると、末娘が「ならば」と承諾した。そして娘は若者と共に揖斐川の上流へと向かったのである。そしてしばらく後、娘を案じた安八太夫は揖斐川の上流へ行き、さらに山の上の池を訪れて娘の名を呼ぶと、既に龍の姿に変じた娘が現れ今生の別れをした。その後、安八太夫は龍となった娘を祀る祠を池(奥宮)と自宅(本宮)に建てた。そして池は、娘の名を取って夜叉ヶ池と呼ばれるようになったという。
藤波橋(藤橋)
神岡町の中心部を流れる高原川に架かる藤波橋は、昭和5年(1930年)に完成した鉄橋である。赤く塗られたその姿は場違いなほど目立つ存在でもあり、それでいて町のシンボルとしてしっくりと町並みに溶け込んでもいる。この橋があった場所には、かつて“藤橋”と呼ばれた藤蔓で造られた橋があったという。そしてこの橋を舞台にし、かつてこの土地で起きた悲劇を伝える謡曲「藤橋」が残されている。原本は田中大秀らによって書かれたとされ、昭和8年(1933年)に謡本「藤橋」として発刊。地方で作られた謡曲として平成15年(2003年)に神岡町文化財指定を受け、同18年(2006年)に飛騨能「藤橋」として完成披露されている。一人の僧が舟津の里(今の神岡町)を訪れ、藤橋の景色に見とれている内に日が暮れたために、近くの家に宿を求めた。その家の女主人は、縁の人のために経を上げて欲しいと頼んだ。かつてこの辺り一帯を治めていたのは江馬時盛という豪族であった。ある年の盆の夜に酒宴を開き、館に家来などを招いた。その時に時盛の妻の明石は舞を披露し、宴は大いに盛り上がった。しかしその夜更け、時盛の寝所に賊が押し入り、時盛と妻の明石を刺殺したのである。それは父である時盛と対立する嫡男の輝盛の策略だったのである。涙ながらに昔の話をする女主人を不憫に思った僧が名を尋ねると、時盛の妻の明石の亡霊であると正体を明かす。事の真相を知った僧は非業の死を遂げた夫妻のために、夜通し経を読んだのである。やがて夜が明けようとする頃、明石が江馬の館で舞を披露した時の衣装を身につけ、再び僧の前に現れた。僧の読経によって成仏することが出来た礼として、明石は一差し舞を披露すると、いずこともなく姿を消したのである。
江馬氏 / 戦国時代に、飛騨国北部の高原郷(現在の神岡町周辺)を拠点とした豪族。姉小路(三木)氏と飛騨国の覇権を争い続けた。江馬時盛(1504-1578)は武田氏と手を結ぶことで勢力拡大を図るが、嫡男の輝盛(1533-1582)は上杉氏を推すために度々衝突したとされ、ついには父を暗殺するに至る。しかし、織田氏を後ろ盾とした姉小路氏が次第に勢力を増してきて、江馬氏は徐々に衰退。最後は姉小路氏との八日町の戦いで、当主の輝盛が討ち死にしたため江馬氏は領地を失う。これにより姉小路氏の飛騨統一が完成する。その後羽柴秀吉の飛騨攻めの際に、輝盛の嫡男の時政(?-1585)が羽柴勢に属して活躍するが、旧領復帰は果たせず、逆に反乱を起こしたために自害に追い込まれ、江馬氏は滅亡する。
帰雲城埋没地
戦国時代、現在の白川郷一帯を領有していたのは内ヶ島家という豪族であった。その一族が居城としていたのが帰雲城である。内ヶ島一族がこの白川郷を領有するのは寛正年間(1461〜1466年)頃とされる。内ヶ島氏は足利家の奉公衆であり、8代将軍・足利義政の命によって赴任したとされる。以後、白川郷に勢力を持つ一向宗の正蓮寺と対立・和解をする以外には大きな戦いもなく、また領地を広げるようなこともなかった。だが4代目の内ヶ島氏理の代になって、ようやく歴史の波がこの地にも押し寄せてきた。天正13年(1585年)、羽柴秀吉は配下の金森長近に飛騨攻略を命じた。飛騨の大半を治める姉小路(三木)自綱は越中の佐々成政と組んで抵抗。内ヶ島氏理もその同盟に加わり、越中に援軍するなどの軍事行動を取る。しかし金森軍は姉小路家の居城を攻め落とし、また佐々成政も秀吉に恭順してしまった。さらに居城の帰雲城も越中遠征中に内応によって金森軍の手に落ちてしまったため、内ヶ島氏理はやむなく金森長近の許を訪れて和睦、金森氏に臣従することで所領安堵となったのである。同年11月29日。和睦による所領安堵を受けて、帰雲城では祝宴が開かれた。城主をはじめ、内ヶ島一族郎党が全員集まっての宴であった。ところがその夜半、突如悲劇が起こる。天正地震と呼ばれる大地震が発生、帰雲山が崩落し、帰雲城とその城下町は土砂に埋まってしまったのである。これによって帰雲城は、内ヶ島一族と共に一夜にして歴史から消えることになる。現在、国道156号線の脇に“帰雲城埋没地”として城址の碑や帰り雲神社などがあるが、これは田口建設という採石業者の社長の夢枕に内ヶ島氏の武将が現れたことが発端で造られた施設であって、あくまで比定地でしかない。帰雲城とその300軒余りの家があったとされる城下町は跡形もなく土砂に流され、その所在地は全く不明のままである。また、白川郷一帯は金銀の産出地であり、内ヶ島一族がこのやせ細った土地に勢力を張れたのは金鉱を掘り当てていたためと考えられ、その蓄えられた金銀が地震によって埋まってしまっているという「埋蔵金伝説」も残っている。
天正地震 / 天正13年11月29日(1586年1月18日)発生の地震。美濃を震源として、東海・近畿・北陸に大きな被害をもたらす。上記の帰雲城埋没の他、美濃の大垣城が焼失、越中の木舟城が倒壊、近江の長浜城が半壊する。また京都の三十三間堂の仏像が600体以上倒れるなどの被害。伊勢湾で津波(若狭湾でも津波とされるが誤記録の可能性あり)。マグニチュードは推定で8前後とされる。
蛇穴 (じゃあな)
その名の通り、かつて大蛇が棲んでいたと言われる穴。鍾乳洞の東端にあたり、奥行き25mの洞穴であり、そこから湧き出る水は岐阜県名水50選に指定されている。昔、この穴には乙姫様(龍神・大蛇)が住んでおり、村人が行事で膳や椀が必要になると、この穴の前に希望の人数を書いた札を置いておく。すると翌朝には人数分の膳や椀が揃えてあったという。ある時、村人が鼓を5つ貸してもらった。ところがあまりに珍しいものなので、1つを隠して4つだけを返した。するとその年はひどい日照りで、田畑の水は涸れ、土地がひび割れるほどになってしまった。乙姫様の怒りと思った村人は、早速雨乞いをおこなった。やがて黒雲が湧いて激しい雷雨が降ったが、今度は辺り一帯に落雷があり、たちまち火の手が上がりだした。さらに蛇穴からは大蛇が這い出してきたかと思うと、黒雲を目指して空に飛び立っていったのである。それ以来、いくらお願いをしても椀も膳も出てこなくなったという。
椀貸伝説 / 全国各地に見られる伝説の類型。水場において、膳椀を人数分貸し出して欲しいと頼むと、その通りのものが貸し出せた。しかし村人の誰かがその1つを返さなかったために、その後は頼みを聞いてくれなくなるという展開である。
照手姫水汲井戸 (てるてひめみずくみのいど)
説経節で有名な『小栗判官』の物語ゆかりの地が大垣市内にある。小栗判官の許嫁となった照手姫であるが、父の横山大膳がこれを憎んで判官を毒殺、照手を相模川に沈め殺そうとする。川に流されただけで命拾いした照手は、村君太夫に救われるが、嫉妬した姥に売り飛ばされ諸国を転々とし、最後に美濃国青墓宿の万屋に買われた。万屋の主人・君の長夫婦は照手に常陸小萩という名を付け、遊女として客を取るように迫る。しかし小栗への貞節を守ろうとする照手はそれを断り、代わりに下水仕として16人分の仕事をこなすことを命ぜられる。一度に馬100頭の世話をさせられ、さらに馬子100名の飯の支度をさせられた。さらに笊で水を汲むように強要されるなどの無理難題を押しつけられ、3年の月日を過ごしたという。その照手姫が水仕事に使っていたという井戸が残されている。かつてこの付近に青墓宿の有力者の屋敷があったものと思われ、それがいつしか『小栗判官』の物語と結びついたのであろうと推測できる。やがて、蘇生したものの生ける屍のようになった小栗は餓鬼阿弥と呼ばれ、道行く人々に車を曳いてもらいながら熊野へ向かう。そして青墓の万屋の前に辿り着く。車を曳けば仏の功徳になると知った照手は、君の長から5日の暇をもらい、お互いの素性も知らぬまま、狂女のなりをして大津まで車を曳いていくのであった。
東首塚・西首塚
慶長5年(1600年)9月15日に起こった関ヶ原の戦いは「天下の分け目の戦い」と呼ばれる合戦である。関ヶ原の地に布陣した兵数は、東西両軍を合わせて約17万人。わずか半日の戦闘であったが、約8000人の死者が出たと言われている。関ヶ原の勝者である徳川家康は現地で首実検をおこなった後、多くの遺体の処理を、この地を治める竹中重門に供養料千石を与えて命じた。そこで造られたのが東首塚と西首塚であるとされる。東首塚のある場所には、家康が首実検した際に首級の汚れを落としたという首洗いの井戸があり、また昭和6年(1931年)に史跡に指定されて後に移築された護国院大日堂と唐門がある。対して西首塚は胴塚とも呼ばれ、あるいは東西両軍の武将に分けて葬られた首塚であるとも言われる(実際のところは、東西どちらの兵であったか分からない者が大半であったと伝えられる)。どちらの首塚もよく整備されており、今なお供養が丁重に執り行われていることが分かる。関ヶ原は多数の死者が出た場所であり、この2つの首塚以外にも遺体を埋めた場所が複数あると推測される。実際、明治になって敷設された東海道線の工事の際に、多数の白骨が掘り出されたという記録も残されている。
丸山神社 鮒岩
中津川は巨石が点在するエリアである。その中でも最も奇異なる形の巨石といえば、この鮒岩にとどめを刺すと断言して間違いない。平野部にちょこんと置かれたような小山の中腹部分に、その岩は据えられるようにしてある。ある意味人工的と言われてもおかしくないような小山そのものが、丸山神社の敷地である。その小山の南側に鮒岩はある。長さ約12m、高さ約6mの巨石であり、かなり遠くからでも目視できる。そして誰が見ても、尾ヒレを持ち上げた魚(あるいはクジラ)にしか見えない。その巨石がバランスよく石の台座に乗っかっているのである。この鮒岩については、超古代文明の人工物ではないかという説もある(少なくともこの場所に人為的に移動させたという説もある)。この丸山神社の境内には他にも相当な巨石がゴロゴロ転がっているが、ここまで奇妙な形の石は見当たらない。またこの神社自体も古い記録が残っておらず、この鮒岩との関係も全く不明である。そもそもこの巨石そのものが祭祀などの信仰の対象となっているとの有力な見解もなく、まさに謎に包まれた岩なのである。
念興寺 鬼の首
この寺には「鬼の首」と呼ばれる、頭部より2本の角の生えた頭蓋骨が安置されている。寺伝によると、元禄7年(1694年)に粥川太郎右衛門の死去に伴って寺に納められたとのこと。この太郎右衛門は、この鬼を退治した藤原高光の子孫であるという。天暦年間(947〜957年)、この地の近くにある瓢ヶ岳(ふくべがたけ)を根城に付近を荒らし回った鬼があった。その知らせを聞いた朝廷は藤原高光を派遣し、高光は見事にその鬼を退治したと伝えられる。鬼の首は本堂内の厨子に安置され、住職の説法を聞きながら拝観する(拝観料250円。法事などで拝観不可の場合も)。頭蓋骨は普通の人間より一回りほど大きいように見え、生えている角以外も何かしら異形の雰囲気を漂わせている。そして撮影は一切禁止。これには、かつて漫画家・永井豪が『手天童子』取材のために写真撮影をしたが、その直後から周囲で異変が頻発したため、写真を寺に納めたところ怪異が収まったという逸話が発端であるとまことしやかに言われている。
櫻山八幡宮 狂人石 (さくらやまはちまんぐう きょうじんせき)
高山にある櫻山八幡宮は、秋の高山祭りで有名な神社である。その起源は古く、仁徳天皇の御代、飛騨一帯で猛威を振るっていた両面宿儺(りょうめんすくな)を退治するため征討軍が組まれ、必勝祈願のため難波根子武振熊命(なにわのねこたけふるくまのみこと)が先の帝である応神天皇(八幡神)を祀ったのが始まりとされる。江戸期に入り、高山領主となった金森氏により元和9年(1623年)に再興され、高山北部一帯を氏子と定めて鎮守となす。このように由緒正しく且つ町の人々の信仰を集める神社であるが、その境内末社である秋葉神社の神殿脇に不自然な形の巨石が置かれている。それが狂人石である。最近立てられた駒札によると、この神域や境内を汚す行為をした者がこの石に触れるとたちまち発狂してしまうという古来よりの言い伝えがあるらしい。神域を汚す者に対して神罰を下すという伝承は限りないほどあるが、具体的に<石に触れると発狂する>という伝承は他に例がなく、またその実物が現存するという話は聞いたことがない。 
 
 石川県

 

●孫太郎池 
八田の山奥の「谷内(やち)」というところに、直径が二間ほどの小さな池があります。
昔、この池のそばに、村の若者たちが集まって、話し合っていました。
「この池の中を通って、向こう岸まで渡られるだろうか。」
「途中で、背がたたんほど、深いところがあって、溺れてしまうかもしれんぞ。」
若者たちの中で、実際に、この池に入った者はいませんでした。
それは、大人たちから、「この池は、入ったら、二度とあがることができない、底なし沼だから、ぜったいに近寄るな。」と、注意されていたからです。
若者たちの中で、『孫太郎』という若者は、みんなの話を、じっと聞いていましたが、 「おら、この池の中に入って、深さを調べるぞ。」と言うと、みんなが止めるのも聞かず、どんどん、池の中へ入っていきました。『孫太郎』は、すぐ、膝まで水につかり、まもなく、肩まで水につかってしまいました。その時、『孫太郎』は、一度、みんなの方を向いて、元気よく手を振りました。「向かいまで、渡るぞ。」と言うと、さらに、池の中へ向かって進んでいきました。
やがて、『孫太郎』の頭だけが、やっと、水の上に見えていましたが、それも見えなくなりました。高く挙げた二本の腕が見えていましたが、それも、すっかり、池の中に消えてしまいました。それっきり、『孫太郎』は、二度と池の中から、姿を現しませんでした。岸で待っていた若者たちは、繰り返して、『孫太郎』の名前を呼んでいましたが、このことを、できるだけ早く、大人たちに知らせなくては…と、村に向かって駆け出しました。
若者たちの話を聞いた大人たちは、さっそく池へ駆けつけて、池の中を探してみましたが、『孫太郎』を見つけることはできませんでした。
それから後、「この池のそばを人が通ると、池の中から、『孫太郎』の悲鳴が聞こえ、池の真ん中から、手のひらが現れて、人を引き寄せる。」といわれ、この池のそばを通る人は、誰もいなくなりました。
そこで、村人たちは、相談をして、池の前でお坊さんにお経をあげてもらい、『孫太郎』の霊を弔いました。それからは、『孫太郎』の悲鳴や手のひらが、池の中から出なくなりました。それから、この池は、『孫太郎池』と呼ばれました。 (八田町 伝承)

●雨乞いの数珠 
昔、能登の国中が「百日日照り」といって、夏の間、雨が一粒も降らなかった時のことです。七尾の近在、三十カ村のお百姓さんたちは、雨が降るのを待ちきれず、飯川の光善寺の法印さんの所へ行って、 「八田の蛇(じゃ)池で、どうか雨乞い(日照りの時、雨が降るように神仏様に祈ること)をして下さい。」 とみんなで頼みました。
蛇池は、八田の山奥にあり、昼でも薄暗い池でした。昔から大蛇が住んでいるという言い伝えがありました。法印さんは、お百姓さんたちの話を聞いて、さっそく、みんなと一緒に蛇池へ行きました。そして、祭壇を設け、断食をして身を清め、一心不乱に雨乞いのお祈りを始めました。
ところが、一週間目の満願の前日、法印さんは、誤って池の中へ大切な雨乞いの数珠を落としてしまったのです。さあたいへん、法印さんは、すっかり困って数珠を拾うために池の中へ入ろうとしました。お百姓さんたちは、驚いて、 「この池は、底なし沼だと聞いとります。そんな所へ入ったら生きて帰れんでしょうから、どうか、数珠のことはあきらめてくださいませ。」 と一心に頼むのですが、法印さんは聞き入れず、 「この数珠は、光善寺に代々伝わる寺宝なんじゃ、だから、わしの命に代えても、取り戻さねばならんのじゃ。」 と言って、そのまま池の中へ入っていかれました。
お百姓さんたちは、どうしたらよいか分からず、その場に立ちすくんで震えていました。しばらくたって、池の中から法印さんが姿を現し何事もなかったように、ニコニコしながら帰ってこられたのです。見れば、法印さんの手には、落としたはずの数珠がちゃんとかかっているではありませんか。お百姓さんたちは、胸をなでおろして法印さんの前に駆け寄って行きました。
法印さんは、みんなをぐるりと見渡して、 「池の中は、思ったより浅かったのじゃ。まず、下へ降りる階段があってな。そこを降りていくと、途中に木の株があるのじゃ。ふと、その上を見ると、運よく木の株の頭に、この数珠がのっかっていたのじゃよ。」 と話されました。
底なし沼であるはずの池ですから、お百姓さんたちが、半信半疑でいると、法印さんは、急に声を落として、 「実は、階段だと思ったのは、大蛇の背中であったのじゃ…。また、木の株のように見えたのは、大蛇の頭だったのじゃよ。」 お百姓さんたちは、ゾーッとして、目の前の青黒い池を見つめながら、震えが止まらなかったそうな。そして、この法印さんは、なんと尊いお方であろうと、みんなで法印さんに向かって合掌しましたと…。
さて、いよいよ、その翌日、満願の日になると、大雨が降り続いて、七尾の町中が水浸しになりました。雨乞いのおかげで、三十カ村の田畑はいっぺんに潤い、その年は大豊作になったそうです。お百姓さんたちは、そのお礼にと、みんなで相談して「大般若経六百巻」をお寺へ寄進しましたとさ。そのお経は、今も、光善寺に全巻残っておるそうな。 (八田町伝承)

●八田の蛇池 
昔、八田の村は、今よりもずっと奥へ入った山の中にあったそうです。八田川の川上に、小さな池があります。昔、大蛇が、その池に住んでいたので、村人たちは、時々、池の側で雨乞い(あまごい)をしました。それで、この池を「雨乞い沢」と呼んでいました。
昔、長く日照りが続いたことがありました。村人たちは、飯川村の光善寺を訪ね、法印さまに「雨乞い沢へ行って、お祈りをして下さい。」と頼みました。法印さまは、「信州の戸隠(とがくし)神社の雨乞いの水をいただいてくれば、さっそくお祈りしましょう。」と教えてくれました。
そこで、村人たちは、代表を選んで、信州へ送りました。代表の者たちは、雨乞いの水をいただきました。「帰り道だけは、決して休むな。」と注意されたので、夜通し歩き続けました。それは、休んだところに雨が降って、それでおしまいになるとも言われたからでした。
さて、村へいよいよ雨乞いの水が届くと、村人たちは、総出でわらの大蛇をこしらえ、それをかづいて、雨乞い沢へやってきました。池の前に、高いやぐらを組み、その上に太鼓をのせて叩きました。また、やぐらのそばに祭壇をつくり、お神酒や雨乞いの水を供えました。そして、法印さまが、読経を始めました。こんな風にして、雨乞いの式が行われたのです。
雨乞いは、七日間続けられました。その間、法印さまは、ご飯も水ものどへ通しませんでした。村人たちも、法印さまの後ろで、お祈りを続けました。太鼓の音も、休むことなく打ち続けました。すると、七日目の満願(まんがん)の日には、とうとう、雨が降ってきました。この雨で、村の田畑が生きかえり、村人たちは、安堵(あんど)の胸をなでおろしました。
今でも、この池に石を投げると、大雨になると言われています。また、その時、打ち続けた太鼓は、八田町に「雨乞い太鼓」「龍神太鼓」として伝えられ、太鼓打ちは、ますます盛んになっています。 (八田町 伝承)
 

 

●石川の伝承
地震石
能登一之宮・気多大社から東に約300mほど離れた場所にあるのが、大穴持像石神社である。主祭神は大穴持神(大己貴神)。気多大社の摂社とされているが、この地区の産土神として尊崇されており、旧県社の社格であった。この神社の名にある「像石(かたいし)」とは、言うならば、神の降臨の際に出現した自然石であり、一種の磐座とも、あるいは神像に代わるものとも考えられる存在である。この像石とされるものが、神社の鳥居横に置かれている。そしてそれが“地震石”と呼ばれているのである。地震石とはまさに“地震おさえの石”であり、能登地方に地震が少ないのはこの石のおかげであると言われている。“地震おさえの石”としては鹿島神宮などにある“要石”が有名であるが、要石も元は神の降臨の際に現れた御座石であるので、どちらも実は同じ性格を帯びた霊石であると考えて良いのかもしれない。ただ、この地震石には奇怪な話も残されている。『能登志徴』によると、文久3年(1863年)に、海防のためにこの地に派遣されてきた藩士の一人が、石の霊験の噂を聞きつけ、試しにと小便をかけたという。ところがたちまち顔が土気色となって具合を悪くすると、その夜の内に亡くなってしまったという。さらに家督を継いだ息子は、祟りを怖れて幾度も参拝したらしいが、結局家名は傾いたままだったという。
富樫の馬塚
加賀・能登・越中の奇談を集めた『三州奇談』の一話に「敷地馬塚」という題の奇怪な話が残されている。室町時代の頃の話。加賀国の守護として力を持っていた富樫氏であるが、ある時、京の足利将軍の命を受けて富樫三郎成衡という将が西国を転戦し、本国に帰ろうとして大聖寺まで辿り着いた。季節はちょうど12月。あたりはすっかり豪雪で覆われており、成衡の乗った駿馬に追いつけなくなる家来が続出し、気付くと成衡一騎だけが雪の中を走っていた。しかも街道からそれてしまった様子で、どこをどう走っているのかも分からない。やがて日が暮れ、追いつく家来もなく、成衡はついに雪の中での野宿を余儀なくされたのであった。暖には困らなかったが、如何せん空腹だけは我慢できず成衡が嘆いていると、いきなり馬が雪の中を一散に駆けていく。そしてしばらくすると餅を2枚口に咥えて戻ってきた。成衡は大いに喜び、それを食って何とか飢えをしのぎ、一夜を無事に過ごしたのであった。翌朝、日が昇ると、遅れを取っていた家来達が成衡を見つけて合流し、そのまま街道を進軍し始めた。しかし菅生石部神社の前まで来た時、いきなり成衡の馬が歩を止めて、全く動こうとしなくなった。最初はなだめすかしていた成衡であったが、馬は一点を見つめたまま動かない。鞭を振るって急き立てても動かないのに業を煮やした成衡は、ついに刀を抜いて脅し始め、果ては馬に斬りつけだし、とうとう殺してしまったのである。血に染まった馬の死骸を見て冷静になった成衡は、馬が最後まで視線を外さなかった葭屋がふと気に掛かった。中に入ると、血まみれの人が倒れている。しかも大きな獣に食い殺された跡がある。あたりには餅が散乱しており、ようやく成衡は事の真相に行き当たった。昨夜一時駆け去った馬は、おそらく主人の危難を悟って、食べ物を求めてあたりを巡ったのであろう。そして餅をついている家を見つけて闖入し、その家の主を噛み殺して餅を強奪して戻ってきた。しかし神聖な神社の目の前で行った所業に恐れおののき、その罪を受けんと自ら死を賜ったのであると。成衡は感じ入り、馬を埋めて祠を祀った。これが馬塚となって、今日まで残っている。現在でも、菅生石部神社の鳥居の前にある民家の敷地内に、この奇談を記した案内板と共に祠がある。
恋路海岸
“恋路海岸”というロマンティックな名前にあやかって、現在でも「恋人達の聖地」として人気の観光スポットである。しかしこの名の由来には、悲しい伝説が残されている。かつてこのあたりの地は、倶利伽羅峠の戦いで逃亡した平家の落人が土着した場所で“小平次の里”と呼ばれていた。この小平次の里の南に住む助三郎という男は釣り道楽で、小平次の里までやって来て釣りをしていた。特にお気に入りの場所は海岸近くにある弁天島で、そこへ毎日のようにやって来ては釣りを楽しんだ。ある日、助三郎が弁天島で釣りをしていると、深みにはまってまさに溺れている女を見つけた。あわやというところで助三郎が救ったが、よくよく女の容姿を見ると本当に美しい女人であった。たちまち助三郎は恋に落ちた。女は小平次の里の北に住む鍋乃と名乗った。この弁天島に来ては海藻や貝を採っているという。女も命の恩人である助三郎に対してすぐに好意を抱いた。あっという間に二人は相思相愛、人目をはばかる仲となったのである。そしてこの縁を取り持った弁天島で毎夜のように逢瀬を重ねた。島の周辺は危険な磯が多かったので、いつも先に来た鍋乃が篝火を焚いて、助三郎それを頼りに鍋乃の許へ行くことが通常となっていった。美しい容姿の鍋乃に恋する男が、助三郎以外にもいた。助三郎と同じ集落の源次という男であった。源次は鍋乃に思いを伝えるが、命の恩人でもある愛する人は一人だけとつれない返事。しかし源次は諦めきれず、やがて二人の秘密を知り、ますます鍋乃に執着し、そして常軌を逸してしまった。鍋乃を愛するあまり、その行く手を阻む助三郎さえいなくなれば、助三郎を殺してしまえば、鍋乃は自分になびくであろうと。ある夜、源次は先回りして、篝火を焚く鍋乃を待ち構え、縛り上げた。そして篝火を危険な磯へ誘導するように位置を変えたのであった。それを知らない助三郎は、いつものように篝火を頼りに磯を渡ったが、足を滑らせて海にはまってしまった。何とか這い上がろうとしたところ、突然目の前に現れたのは源次。何も言わず助三郎に一太刀浴びせると、助三郎は再び海へと沈んでいったのである。助三郎を討ち果たした源次は、その足で鍋乃の許へ戻ると縄を解いた。助三郎はもうこの世にはいない。だから今度は自分を好いて欲しいと源次は懇願した。だが鍋乃の返答は、源次の隙を突いて逃げると、そのまま磯から身を投げるという固い意志であった。翌日助三郎と鍋乃の死体が浜に打ち上がり、源次の姿が集落から消えた…… そして二人の死から長い歳月が経ち、小平次の里の観音堂に一人の旅の老僧が棲み着いた。里の者は誰も気付かなかったが、その老僧こそ、出奔したまま行方知れずだった源次であった。仏門に入り各地を放浪した源次は、己の欲望のために命を落とした二人の霊を慰めるため、故郷に戻ってきたのであった。やがて助三郎と鍋乃の悲劇は語り継がれ、この地は“恋路”という名で呼ばれるようになったのである。
貴船明神
金沢のメインストリートから西に入った住宅地の一角にある神社である。その名の通り、京都の貴船神社の末社ということとなっているが、創建された江戸時代には“縁切宮”と呼ばれていた。かつてこの近くに加賀藩の家老・村井氏の上屋敷があったが、この家の奥方が酷く嫉妬深く、臨終の際に「女の嫉妬ほど辛いものはない。死んだら女の嫉妬を和らげて守ろう」と言ったため、死後この祠に祀られたとされる。貴船の名が先であったか後であったかは不明であるが、おそらく、京都の貴船に伝わる「丑の刻参り」の伝説がその背景にあったことは容易に推測できる。そして京都と同様、この縁切りのご利益から、縁結びのご利益もさかんに信心されるようになる。ただこの神社の面白いところは、この縁切りと縁結びの参拝方法が異なり、それがしっかりと根付いているところである。江戸時代の頃には次のように伝えられている。縁切りの場合は、丑の刻に用水を渡って参拝。逆に縁結びの場合は、惣構の土居を越えて参拝。ちょうどそれぞれ反対方向から参るように指示されていたという。ところが明治になって、現在のように用水に橋が架けられてからは、また別の参拝方法に変更されている。つまり、縁切りの場合は南側(香林坊方面)から行って、小さい方の祠(玉姫社)を参拝する。対して縁結びの場合は北側(高岡町方面)から行って、大きい方の祠(貴船社)を参拝する、という決まりである。ただ何故このような参拝方法になったかは不明である。
丑の刻参り / 白装束に髪を振り乱し、顔には白粉、頭には鉄輪(五徳)をかぶって3本の蝋燭を立て、一本歯の下駄を履き、胸に鏡を吊して、丑三つ時(午前2時頃)に神社へ赴き、藁人形に五寸釘を打ちつけて相手を呪い殺すという呪法。この原型となったのが謡曲「鉄輪」に登場する嫉妬深い女性で、京都の貴船神社に丑の刻参りを21日間続け、ついには鬼女となったとされる。
法船寺 義猫塚 (ほうせんじ ぎびょうづか)
法船寺は元は尾張の犬山にあった寺院であるが、前田家の移封に合わせて移転を繰り返し、加賀移封の際にも金沢に地所を与えられた。本尊は藩祖・前田利家が豊臣秀吉から奥州統一の戦利品として拝領したものであり、また他の寺院が寺町に集められたのに対して現在と同じ場所に置かれ、さらに寛永時代の頃の住職の母が先代藩主・前田利長の乳母だったとされ、前田家にとっては所縁の深い寺であった。ところが、寛永8年(1631年)に起こった大火がこの法船寺前が火元であったために、地所を返上。約70年後の元禄時代になって、ようやくかつてと同じ地所に再建を許されたという経緯を持つ。そして法船寺には金沢を代表する有名な伝説が残されている。享保の頃。本堂の天井裏に鼠が棲み着いて暴れるようになった。その大きさは並みの鼠の比ではなく、相当な大きさであった。住職が困り果てていると、近所の者が1匹の子猫を持ってきたので、それを寺で飼うことにした。しばらくして猫も立派な体格となったので、そろそろ鼠を退治するかと期待したが、一向にその気配はない。やきもきしているとある晩、その猫が夢枕に現れた。そして「あの大鼠は私だけでは退治できません。能登の鹿島郡にいる猫と共に戦えば勝てると思います。少しお暇をいただきます」と言うと、翌日から姿を消した。2日後、再び猫が寺に姿を見せたが、見慣れぬ猫を連れている。そしてまたその夜に夢枕に現れて「明後日の夜に鼠を退治します」と伝えた。その当日の夜、2匹の猫は本堂の天井裏に入り込むと、いきなり大きな物音がして猫と鼠の戦いが始まった。猫が鼠を天井から追い落としたら打ち据えて殺そうと人々が本堂で待ち構えていると、ますます物音は大きくなり、ついに天井の板が破れて鼠が落ちてきた。寺男たちは傷つき力尽きた鼠をたやすく打ち殺したのである。そして住職が天井裏に上ると、2匹の猫は古鼠の毒気に当てられたのか、既に死んでしまっていた。憐れに思った住職は2匹の猫の死骸を丁重に葬ってやったという。現在も寺の境内の一角に、この猫を供養したとされる義猫塚が残されている。またさらに境内にある薬師堂の一部は、加賀騒動で有名な大槻伝蔵の屋敷の一部を移築したものであるという。
寛永の大火 / 法船寺前の民家より出火したとされ(原因はある侍が町屋の娘に横恋慕して放火したとされる)、江戸時代に起こった金沢の大火で最も古いものである。焼けた家屋は1万戸以上、金沢城も延焼した。この大火によって金沢は現在の町割となり、水利のために辰巳用水が造られることとなった。
妙慶寺
金沢の寺町寺院群の一角にある妙慶寺は、前田利家の家臣であった松平氏に伴って越中から移転してきて現在に至るが、周辺で大火が起こっても類焼しないとされている。5代住職の向誉上人が近江町市場を通りがかった時、人々が何かを取り囲んで騒いでいる。気になって覗くと、1羽のトンビを捕まえて殺そうとしている。聞くと売り物の魚を盗ったところを捕まえたのだという。憐れに思った上人は、人々に掛け合ってトンビを譲ってもらい逃がしてやったのである。その夜、上人の枕元に天狗が現れた。助けたトンビは実はその天狗が化身したものであり、命を助けてもらったお礼がしたいと言う。しかし上人は特に望むものはないと答える。そこで天狗はいつまでも寺が続くように守護しようと言って、八角形の板を取り出して鋭い爪で何かを刻み始めた。翌朝目覚めた上人は、枕元に八角形の板を見つけて、天狗が現れたのは夢ではないことを悟った。板の両面にはそれぞれ「大」と「小」の文字が刻まれていた。上人はそれを庫裏の柱に掛けて、大の月の時は「大」の面、小の月の時は「小」の面が表になるようにした。それ以降、妙慶寺は“天狗さんの寺”と呼ばれるようになり、火災に巻き込まれることはなくなくなった。そしてそれにあやかるように、金沢の町の商家などでは八角形の板を模した“大小暦板”を火難除けとして飾るようになったとされる。ちなみに実物の暦板は非公開、檀家のみ見ることが出来るとのこと。
実盛塚
倶利伽羅峠の戦いで惨敗した平家を木曽義仲がさらに痛撃を加えたのが、加賀国の篠原であった。この篠原の合戦で敗れた平家軍は京都に逃げ戻り、一月の後に木曽義仲は入京を果たすのである。この篠原の戦いでは、関東出身の平家方の武将が多く加わり討死している。とりわけ有名なのが斎藤別当実盛である。実盛は、かつて源氏に属していた頃、木曽義仲の父・源義賢が討ち取られた直後に義仲を匿って木曽へ送り届けた、いわば命の恩人であった。しかし、今は平家方の一介の武将として、地盤としていた関東を追われて北陸の戦陣に身を投じていた。既に73という老齢に達しており、この戦いを最期の一戦と覚悟していた実盛は、侍大将のみが着用できる錦の直垂を身につけ、さらに老齢であることを隠すために白髪頭を黒く染めて戦いを迎えた。味方が総崩れとなったところで実盛は殿を務め、手塚太郎光盛によって討ち取られる。最後まで名乗りを上げず、首実検の時になって初めて実盛であったことが分かったという。この老将の首級に、総大将の義仲は昔を思い出して涙したと伝えられる。斎藤実盛の討死した場所と言われるところには大きな塚が築かれている。応永21年(1414年)、北陸地方で布教をしていた時宗の14世遊行上人・太空が潮津道場(加賀市潮津町)で別事念仏会をおこなっている最中に白髪の老人が現れ、十念を授かるとすぐにその場から立ち去ってしまうという出来事があった。直後からその白髪の老人が斎藤別当実盛の幽霊だという噂が立ち、太空上人は実盛が討死した塚を訪れて回向をおこなったのである。それ以降、時宗の遊行上人が新しく代替わりすると必ず実盛塚を訪れて回向をおこなう風習が今も続くことになる。さらにこの幽霊の話は京都にまで伝わり(醍醐寺座主・満済の日記にも記載されている)、おそらくそれを伝え聞いたであろう世阿弥によって「実盛」という謡曲が作られとされる。
謡曲「実盛」 / 世阿弥作。遊行上人が篠原で連日説法をしていると、老人が欠かさず現れる。しかし上人以外にはその姿が見えない。上人が老人に素性を尋ねると斎藤実盛の亡霊であり、成仏できないことを告げる。上人が回向を始めると、実盛の亡霊が現れ、首実検のこと、錦の直垂のこと、手塚太郎に討ち取られたことを語り、やがて消えていく。
伏見寺
金沢の寺町寺院群の1つである。開基は芋掘り藤五郎とされ、藤五郎ゆかりの寺として有名である。芋掘り藤五郎は、奈良時代にこの地に住んでいたとされる伝説の人物であり、山芋掘りと生業としていた。ある時、初瀬の観音菩薩の夢告に従って、大和国の長者が姫を伴ってやって来て婿とした。貧しいながらも2人は仲良く暮らしていたが、姫の実家から送られてきた金を藤五郎は鳥を捕るために投げつけてしまう。金の価値を知らない藤五郎を嘆く姫であったが、藤五郎はそれが山芋を掘ればいくらでも出てくるものだと告げる。かくして2人は大量の砂金を手に入れ長者となったのである。また藤五郎が掘った芋を洗った沢を「金洗いの沢」と呼んだことから、この一帯を金沢と呼ぶようになったとも言われる。伏見寺は、信心深い藤五郎が集めた砂金を使って仏像を造って、自らが住んでいた山科の里に近い伏見に建立した寺である。さらにその仏像を開眼供養したのが行基であるため、現在でも行基山伏見寺としている。境内には芋掘り藤五郎の墓があり、堂内には平安前期の阿弥陀如来像が安置されている。
岩井戸神社 猿鬼
岩井戸神社は別名「猿鬼の宮」と呼ばれる。旧柳田村の伝説として伝わる猿鬼を祀ったとされるためである。昔、このあたりで猿鬼という化け物が18匹の鬼を従えて、周辺の田畑を荒らし、娘を攫ったりと暴れ回っていた。かつて猿鬼は、大西山に住む善重郎という猿の手下であったが、棟梁の目を盗んで悪さを繰り返したので追い出され、いつしか化け物に変じたともいわれる。とにかく村人は猿鬼を大いに恐れ、隠れるように住んでいた。やがて猿鬼の悪行は神々の知るところとなり、神々の集まる出雲で相談がおこなわれた。最終的に能登のことは能登の神が処するということで、大将に一之宮・気多大社の気多大明神が、副将に三井の大幡神社の神杉姫が選ばれ、猿鬼退治が始まった。猿鬼は当目にある岩屋堂という洞窟に潜んでおり、そこを襲ったが、放たれる無数の矢をかわし、さらには手足や口を使って矢を受け止める始末。全く勝負にならなかった。神々は一旦引き揚げ、新たな策を考えた。すると「白布で身を隠し、筒矢を射よ」という声を聞いた。早速準備をすると、神杉姫が白布を使って洞窟の前で踊ってみせ、猿鬼たちはそれにつられて岩屋から出てきた。戦いが始まり。気多大明神が放った筒矢を猿鬼が受け止めると、筒の中に入っていた毒矢が飛び出して猿鬼の左目を突いた。慌てふためいて猿鬼はオオバコの汁で傷を洗うと、洞窟に逃げ込もうとした。それを追った神杉姫が名刀・鬼切丸で見事に猿鬼の首を刎ねて、神々が勝利したのである。岩井戸神社の境内には、猿鬼が隠れ住んでいたという岩屋堂が現存する。今は窪みのような穴が残っているだけだが、昔は海まで通じていたと言われ、海の荒れた時には洞窟からイカが出てきたという伝説も残る。また、この周辺には猿鬼との戦いの時の伝承が地名として残されており、「当目」は猿鬼の目に矢が刺さった所、「大箱」は猿鬼が目の治療をした所、「黒川」は猿鬼の首を刎ねた時の血が流れた所など、かなりの数のゆかりの地がある。
宗泉寺 ミズシの墓
志賀町にある宗泉寺には「ミズシ」の墓と呼ばれるものが残されている。山門を入って本堂へ向かう途中の左手、とりたてて他に何もない場所に五輪塔の一部が置かれてあるが、墓であるという。「ミズシ」とは加賀・能登あたりで河童のことを指すが、この墓は近くにある淵端家の者が建てたと言われている。慶長年間(1596〜1615年)のこと、淵端家の主人が馬を米町川に連れて来て水浴びをさせていると、いきなり馬が走り出した。屋敷に戻ってきた馬を見ると、尻尾に一匹のミズシがしがみついていた。おそらく馬の尻子玉を取ろうとして失敗したのだろうと推察した主人は、ミズシを取り押さえると屋敷のタブの木に縛り付けて折檻をした。陸の上に引き揚げられたミズシは全く力が出せないために、「秘伝の薬の作り方を教えるから助けてくれ」と命乞いを始めた。主人は殺すつもりまではなかったので、願いを聞き入れて薬の調法を紙に書かせると、縄を解いて解放してやったという。その後、この薬を売り出したところ「ミズシのねり薬」ということで評判となって、家業が繁栄したという(疳薬として平成に入る頃までは売られていたと言われている)。またしばらくの間は、ミズシが川魚を魚籠に入れてタブの木に引っ掛けておいていったともいう。以前地図に「疳薬本舗」と表示のあった場所には、かつて薬店を営んでいた名残のある家があった。そしてその家の前には、現在でも注連縄の張られた古木がある。おそらくそれが河童を縛り付けたタブの木なのだろう。
金城麗澤 (きんじょうれいたく)
兼六園に隣接する金澤神社のそば、大きな四阿風の建物がある。「金城麗澤」の額が掲げられており、屋根の天井には小さいながらも竜の絵が描かれている。そしてこの建物の下から滾々と水が湧き出ている。これが金沢の地名の由来となった金城麗澤である。金城麗澤は加賀藩12代藩主の前田斉広(なりなが)がこの地に竹沢御殿を建てた時に整備されたものであるが、水源地としては相当昔から湧いていたものであり、金沢のもう1つの発祥の伝説となる、芋掘り藤五郎とも大いに関係している。この水源こそが、藤五郎が掘った芋を洗った場所であり、大量の砂金が取れた場所であるとされている。それ故にこの地は「金洗い沢」と呼ばれるようになり、それが転じて金沢の名称となったとも言われている。
芋掘り藤五郎 / 加賀国の山科に住んでいた藤五郎は、貧しくも山芋を掘って生計を立てていた。ある時、大和の長者の姫が観音菩薩のお告げによって藤五郎に嫁いできた。姫は砂金の入った袋を手渡して買い物を頼んだが、藤五郎はそれを鴨を捕るために投げつけて、結局手ぶらで帰ってきた。金のありがたみを知らない藤五郎に怒る姫に対して、藤五郎は芋を洗って砂金を見せた。姫はそれが金という価値あるものと教え、夫婦は大金持ちになったという。この物語は全国各地に散見できる長者伝説であり、金沢独自の伝承ではない。
首洗池
寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いで敗れた平家軍は、篠原の地で軍勢を立て直し、再び木曽義仲軍と矛を交えた。しかし木曽軍の勢いはとどまるところを知らず、敗走の憂き目となった。その中にあって、大将と思しき出で立ちで奮戦する平家の武者が一騎。それを見た義仲の家臣・手塚光盛が一騎打ちを申し入れると、武者は名乗りを敢えてせず挑み掛かってきた。だが、手塚によって討ち取られてしまったのである。首実検をおこなった義仲は、その武者が、自分が幼い頃に命を助けてくれた斎藤別当実盛であると認めた。しかしその髪は黒く、70を越えているはずの実盛とは思えなかった。そこで近臣の樋口兼光に尋ねると、かつて実盛は「年老いて戦に出る時は髪を黒く染めて、老人と侮られないようにしたい」と申していたという。そこで首を洗わせると、果たして髪は白くなり、実盛であると確かめられた。義仲は涙を流し、実盛の甲冑を多太神社に奉納したのである。篠原の古戦場には斎藤実盛にまつわる遺跡が点在する。実盛の首を洗ったとされる池も現存する。池のほとりには、首実検をする木曽義仲・樋口兼光・手塚光盛の中央に、実盛の兜が置かれた銅像が作られている。
須須神社
三崎権現とも呼ばれ、能登半島の先端部分にほど近い場所にある。10代崇神天皇の御代に創建と伝えられ、東北鬼門日本海の守護神として海上交通の要衝の役割を果たしている。須須神社の奥宮のある山伏山は海上からのランドマークとして最適であり、信仰と共に航行の目標とされてきた。また平安時代には、海上で異変があれば直ちに狼煙が上げられ、都まですぐさま伝達される仕組みになっていたとも伝えられる(現在でも、半島の先端には「狼煙町」という地名が残る)。須須神社には「蝉折の笛」という名笛がある。鳥羽上皇の時代に宋の皇帝から贈られてきたと伝わる笛であるが、奉納したのは源義経とされる。兄の頼朝から追われ、奥州藤原氏を頼って落ち延びる際、義経一行は須須の沖合で時化に遭遇する。義経が神社に祈るとたちまち嵐が止んだので、船を岸に着けて参拝。お礼として蝉折の笛を奉納したという。その時、弁慶も「左」と銘が彫られた守り刀を奉納している。いずれも神社の宝物館に保管されているが、義経一行の奥州落ちのルートを考察する上で、非常に重要な物証となっている。
動字石 (どうじせき)
石動(いするぎ)山は泰澄によって開山された、北陸では白山と並ぶ一大霊地であった。かつては衆徒3000人を抱える天平寺があり、幾度も戦火によって焼失したが、加賀藩の庇護の下で栄えていた。しかし明治の廃仏毀釈によって寺院は徹底的に破却され、今では伊須流岐比古神社が残されているだけである。現在は、国の史跡に指定され、寺院の発掘調査がおこなわれて整備が進んでいる。この石動山は、泰澄による開山以前から信仰の山であったとされる。その象徴が動字石である。この石は別名を「天漢石」と称し、天から降ってきた星が石と化したものであると伝えられる。この石が山に落ちてきた時に山全体が揺れ動いたことから「石動」という名が出来たともされている(泰澄が開山するまでは山が振動していたともされる)。神社の境内から少し離れた場所にあるが、石そのものが信仰の対象であることが分かるように祀られている。しかしながら科学的な調査によると、この動字石は隕石ではなく、安山岩であることが判明している。
いぼとり石
金沢一の観光名所である兼六園の南に隣接する金澤神社。その鳥居のそばにある放生池のほとりに、いぼとり石がある。駒札があるのでそれと判るが、なければただの庭石としか見えない。この石は元からこの地にあったわけではない。この石は、はじめ能登鹿島郡町屋村(現在の七尾市中島町屋)にあったが、前田家12代藩主夫人が兼六園の梅林近くに取り寄せ、さらに現在地へ移動させたものである。金澤神社によると、この町屋村には“いぼ池”という名の池があり、そこの石でこするとイボが取れるという言い伝えがあるらしい。このいぼとり石は一抱えほどの大きさで、表面が滑らかであり、本当にイボを取るためにこすり続けられているのではないかと思わせる雰囲気がある。それを裏付けるような話が、明治27年(1894年)に出された『金沢市内独案内』という書籍に残されている。とある遊郭の女郎の陰部にイボが出来た。困り果てて、いぼとり石で一両回こすってみると、イボは跡形なく取れてしまったという。金澤神社周辺は、明治7年(1874年)に兼六園が公園として開放されるまでは一般人が立ち入ることが禁じられていた場所であるので、この話が事実として成立するためには、明治以降に起こったとされなければならないはずである。つまりこのイボ取り信仰は明治期まで続いていたとみなしていいだろう。
金澤神社 / 創建は寛政6年(1794年)。11代藩主・前田治脩が兼六園内に藩校を設立し、家祖である菅原道真を祀ったことから始まる。12代藩主・斉広の時に火難除けなどの神も合祀した。歴代藩主が兼六園散策の折りに藩内の安寧を祈願したとされる。兼六園開放までは、年2回の例祭の時に婦女子のみ参拝を許されていた。 
 
 近畿地方

 

 京都府
●深泥池の幽霊騒動 京都の都市伝説
市内を南北に走る鞍馬街道を北へ、北山の住宅街を抜け、宝ヶ池の西側に広がる湿地帯の中央に深泥池はある。周囲1.5Km、面積9haの京都最古の天然池で、氷河期からの動植物群が生き続けているというのだから、驚きだ。池はその名のとおり、泥が数メートル堆積し、足を踏み入れると抜け出せない、底なし沼だといわれる。そして、この池をさらに有名にしたのが、例の都市伝説だった。

しょぼしょぼ雨が降る深夜、深泥池の近くで一台のタクシーが雨に濡れた女の乗客を拾った。女は髪が長く、白いワンピースを着ていた。運転手が行き先を尋ねると、うつむいたまま、「山科区上花山××へ」と告げる。運転手は、おや、と思った。その場所は火葬場しかない。「こんな夜中に、いったい何の用があるのやろか……」と思いつつ、タクシーを走らせた。と、その途中、ふとバックミラー越しに後部を覗いた運転手は、ぎくり、とした。ミラーに女の客が映っていない。慌ててタクシーを停めて振り返ると、誰もいない後部座席のシートが、ぐっしょりと濡れていた――。
タクシーの運転手が「客の女性を車から落としてしまった」と、真っ青になって近くの交番に駆け込んだという。だが、運転手が言う現場へ駆けつけて捜索したものの、その痕跡や目撃者はなかったそうである。こういう奇妙な出来事が、その後、何度も起こったという。
ライター仲間の一人は、当時、その事件でタクシーの運転手が駆け込んできた交番で、事情聴取をした元巡査からもこの話を聞いているというから、かなり信憑性のある都市伝説といえる。
ところで、この女の乗客の行き先だった上花山の火葬場の北側には、「出る」と囁かれる京都三大トンネルのひとつ、花山洞(トンネル)がある。古くは風葬地・鳥辺野を通り抜ける渋谷街道にあり、江戸時代には道がぬかるんで歩きにくかったことから、「汁谷(しるたに)街道」と呼ばれていた。この名は「死人谷(しびとだに)」から来たともいわれている。
明治になってこの街道に花山トンネル(花山洞)が開通、さらに昭和42年に車の往来を主とした東山トンネルが完成し、以来、車両はそちらを通るようになったことから、現在、花山洞は自転車と歩行者専用トンネルとなっている。
花山トンネルを東山区側から歩いてみた。トンネルで着物の女の幽霊を見たとか、足音だけが後をついてくるとか、さまざまな噂がある。確かに、周辺やトンネルにはそういった噂が生まれても不思議でない雰囲気が漂う。

●成相寺「底なしの池」 宮津市
五重の塔の前にある蓮池が「底なしの池」と呼ばれています。その昔、この池には大蛇が住んでおり、寺の小僧を次々と呑み込んでいたため、和尚が藁人形で作った小僧に火薬を詰め、それを呑ませて退治したという、この池にまつわる奇怪な話が残っています。

●サンシと山椒魚 (深泥池の主) 京都市上賀茂
この池は、初夏ともなると、里人が「じゅんさい」を採ったり、浮き島には、虫を食う草が生えていたりして、もう生きては帰って来られんという恐ろしい底なし沼でもあるのじゃ・・・。
むかしむかしのおおむかし、三四郎という耳の遠いオッサンが、この池のほとりに住んでいた。このオッサンは、たいへん魚とりが上手でいつも雲ヶ畑の奥までいっては、アユやイワナ(岩魚)をとって来て、京の町まで売りに行っていたそうじゃ。
ある時、鞍馬川の谷川でそれはそれは大きな山椒魚を見つけて、こいつと、せんこ、まんこと大格闘してやっと捕まえたそうな。そして京へ持っていけばええ値で売れるやろうと思って、藤づるでグルグルとす巻きにして、よっこらしょと背中にしょって帰ってきたそうな。
深泥池のほとりまで帰ってきたとき一人の男に出会った。この男ものすごく早口で、いつも何をいうてんのかようわからなんだ。この男が出会い頭に「サンシ・・・・どこへ行く?」と大きな声でたずねたんじゃが、それが「サンショウ、どこへ・・・・」と聞こえたんじゃ。すると背中の方から「藤に巻かれて、京へ行く・・・」という声がした。人間の言葉などわかるはずもない魚が、背中で妙な声を出したもんやさかい、二人の男はびっくり仰天して、尻餅をついてしもうた。
その時、放り出された拍子に藤づるの結び目がほどけて、中から出てきた山椒魚はそのまま、のっそりのっそりと歩いて池の中へ入っていってしもうたんじゃそうな。腰の抜けてしもうた二人の男は、ただ道の真ん中でへたばってしもうて、口をあんぐりとあけたまま、ただそのありさまを見ているだけじゃった。
山椒魚は別の名を「ハンザキ」と言うてな、手足をなんぼ切り取ってもまたすぐ生えてくるという。
深泥池の浮き島が、なんぼ切り取ってもすぐに元の大きさにもどるのは、あの山椒魚がこの池に住みついてからだ、というひともあるくらいじゃ。
・・・ そんなこんながあってから長い年月がたつたある夏のことやった。その年はひどい日照りがつづいてな、田んぼの稲も黄色くなって枯れてきょったんじゃ。困りはてた賀茂のお百姓さんたちは、この池の樋をぬいて、水を一滴も残さず田んぼにひいたそうじゃ。そん時とれたナマズやコイ、フナなどの魚は、大ザルに何十杯あったかわからへんぐらいやったということじゃ。そん時、浮き島の底になんやら動くものがいてな、何やらと思ってよーくみると、実はあの山椒魚やったということじゃ。村の若者らがよってたかってこいつを岸に押し上げて、賀茂の川奉行のところへ持っていったそうじゃ。
そして「御領地、深泥池在の農夫共、田用水がため池の諸樋相抜き、池床干しつきたるところかくかくしかじかの次第」と御上告申し上げたところ、馬面がかみしもを着たようなおもしろい顔をした奉行が、それでも威儀を正して「ふむふむ、いかに取り扱うべし・・・」と思案していたんじゃ。するとどこからかひょっこりと旅の老人が現れてな、「山椒魚とやら、神の御供えにて相成る。何とぞ拙者にお下げ戻して下さるようお願い申す。お百姓には多分の骨折り料を出し申すべし。もっとも件の魚の儀は、たたりの程は如何と存じまする故、もとの池に放ち返す心得でござりまする。」というと、そこで奉行も「されば苦しかるまじ、差し許すべし・・・・・」ということで、山椒魚はもとの池の底に解き放たれたんじゃそうな。
・・・ それからどれくらいの年月がたったか・・・。それから山椒魚もどれくらい大きくなったかわからへんくらいじゃ。あれから一度もこの池の樋は抜かれたことがあらへんしな・・・今でもこの浮き島は動いていると人々は言うたはる・・・。
 

 

●京都の伝承
宴の松原
『大鏡』に次のような話が残されている。5月のある雨の夜。花山天皇が戯れに肝試しをしようと言い出した。そして藤原3兄弟にそれぞれ大内裏の各所へ一人で行くように命じた。長男の道隆は途中の宴の松原で得体の知れないものの声を聞いて逃げ帰り、三男の道兼は建物の軒ほどの大きさの人影を覚えて退散した。ところが五男の道長だけは悠然と戻ってきて、証拠の品まで差し出した。宴の松原は怪しいものがいるという噂で専らの場所であったことが分かる逸話であるが、そもそもその場所自体が不可解なものと言える。大内裏の一画、内裏(天皇の住まい)の西側に位置しており、南北430m、東西250mの広さを持つが、実は空き地である。なぜそのような場所に空き地があるかの真相は不明で、その名の如く宴会などを催すために設けられた場所であるとか、あるいはちょうど内裏と対称の位置にあるため“内裏の建替時のための用地”であるとも考えられている。いずれにせよ大都会のエアポケットのような空間であったことは間違いない。実際、この場所では恐ろしい出来事が起こっている。『日本三代実録』によると、仁和3年(887年)8月17日の深夜10時頃のこと。宴の松原を内裏に向かって東へ歩いていた3人の若い女があった。すると松の木の下に一人の容姿端麗な男がいて、3人のうちの一人を手招きして呼ぶと、陰に隠れて何か話をし出した。残った2人は待ったが、話し声も聞こえないので不審に思って見に行くと、男女の姿はなく、ただ女の手足だけが散らばっていて、首や胴体はそこにはなかった。右衛門府の者が駆けつけたが、結局死体は見当たらず、これは鬼の仕業であろうということになった。正史として編纂された歴史書に詳細が書かれており、まさに“実話”と言うべき内容である。大内裏はその後縮小・移転して現在の京都御所となっており、宴の松原一帯も民家が建ち並ぶ場所となっている。現在、千本出水通を西に入ったところに宴の松原の石碑が建っており、公的な案内板も設置されている。ただこの石碑は、この碑の立つ場所に店を構える石材店が個人的に建てたことから始まるものであり、実際には宴の松原の東端辺りの地点であると言われている。そしてこの石碑の建つ周辺は、江戸時代には“出水七不思議”と呼ばれる不思議なものが点在する場所として知られるようになった。その点では、怪異の多重構造化されたポイントとして、地霊的に非常に希な存在であると言えるかもしれない。
『大鏡』 / 平安時代末期に成立した歴史書。藤原摂関家一族、特に藤原道長の栄華に言及している。
『日本三代実録』 / 『日本書紀』から始まる六国史の最後の書として、延喜元年(901年)に成立。清和・陽成・光孝天皇の3代の治政(858〜887年)の30年間の宮中での出来事を中心に記録している。上の事件の発生は、この歴史書の最後の月にあたる。菅原道真らが編纂している。
出水七不思議 / 出水六軒町通から七本松通までの周辺にある七不思議。光清寺の浮かれ猫絵馬、華光寺の時雨松、観音寺の百叩きの門、地福寺の日限薬師、五劫院の寝釈迦、極楽寺の二つ潜り戸、善福寺の本堂。
岩戸落葉神社
国道162号線(周山街道)を清滝川上流に向かい北上すると、やがて小野という集落に入る。京都の市街地からは10kmを超えるところにある。この小野の集落の中心地にあるのが、岩戸落葉神社である。この神社は元々、小野上村の氏神である岩戸社と小野下村の氏神である落葉社が拝殿と鳥居を共有して並んで祀られている。岩戸社の祭神は、稚日女神(わかひめのかみ)、罔象女神(みづはのめのかみ)、瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)の三柱。いずれも水に関わる神として知られた存在である。また“岩戸”の名称であるが、『日本書紀』において、天照大神が天岩戸に籠もる原因となった事件で命を落としたのが稚日女神とされており、その関連から名付けられた可能性が考えられる。一方の落葉社は、元は『延喜式神明帳』にある“堕川(おちかわ)神社”ではないかとの説があり、やはり最初は川の合流する地点に建てられた社であると考えられる。しかし現在の祭神は落葉姫命とされている。落葉姫命とは『源氏物語』に登場する、朱雀院女二の宮(落葉の宮)のことである。全くの架空の人物であるが、物語では夫の柏木が亡くなった後に、この小野郷に母と共に隠棲する設定となっており、その縁でいつしか落葉社の名と共に祭神として祀られるようになったのであろうと推察される。“落葉の宮”という名は、夫である柏木が詠んだ歌にちなむものであり、“宮の異母妹である女三の宮よりもつまらない女”という蔑みの意味が含まれている。柏木にとって愛すべきは女三の宮であって、その姉との婚姻は柏木本人が望んだものであっても決して満たされるものではなかった。そして宮にとっては全く意に沿わない婚姻であった。さらに小野郷隠棲後には、亡き夫の親友であった夕霧に見初められ、本人の意志に反して半ば強引に再婚のためにこの地を離れることになる(付け加えるならば、共に隠棲した母の一条御息所は、夕霧が娘を弄んでいると思い込み、恨みを残してこの地で没している)。物語では運命に流されるまま生き、自らの身の置き場のない半生を強いられた落葉の宮であったが、隠棲した小野郷の産土神として祀られることで、ようやく安住の地を見つけたかのように感じるところがある。岩戸落葉神社の境内には、4本の銀杏の巨木がある。晩秋にはそれらの木々が葉を落とし、境内一面が黄色い絨毯で敷き詰められたかのような幻想的で美しい様相を見せる。まさに“落葉の映える”場所であり、京都屈指の隠れた紅葉(黄葉)の名所である。
瑞泉寺
木屋町三条という京都の繁華街・歓楽街の一角にある寺院であるが、門をくぐり境内に入ると途端に落ち着いた雰囲気に包まれる。江戸時代に治水工事がおこなわれる以前の鴨川は、現在のように真っ直ぐ流れることなく蛇行し、いくつもの中州を持った広い川であった。今の河原町通りが、かつての鴨川の河原であったとも言われているほどである。瑞泉寺がある辺りも、かつては鴨川の中州であった。そしてこの地で凄惨な事件が起こる。文禄4年(1595年)7月8日。時の関白・豊臣秀次に謀反の疑いありとして、伏見にいる太閤秀吉の許に出頭する命が下った。ところが伏見での対面は叶わず、秀次は剃髪するとそのまま高野山へ向かったのである。それに追い打ちを掛けるように、8日の内には愛妾らが捕らわれて監禁、重臣も次々と切腹を命ぜられていったのである。そして15日高野山に使者が到着し、秀次に切腹の沙汰が下り、小姓3名をはじめとする者も殉死、首級は京都へ持ち帰られた。しかし太閤の怒りはそれだけは収まらず、大名預かりとなっていた家老7名に切腹を命じ、そして8月2日に三条河原で秀次の妻子全員の処刑が執りおこなわれた。しつらえられた刑場には塚が設けられ、その上に秀次の首級が据えられた。その首級の前で斬首の刑が始められた。はじめは4名の男児と1名の女児。一番上の男児でもまだ5歳という年端のいかない子供達にも情け容赦なく刃が振り下ろされた。そして愛妾達も次々と首を刎ねられ、数時間を掛けて全39名がこの時に命を落としたのである。さらに処刑が終わると、全ての遺体は無造作に1つの穴に投げ入れられ、そこにまた塚を造って、秀次の首級をおさめた石櫃に年号と日付、さらに「秀次悪逆」の文字を刻み込んで目印として置いた。それ故に“悪逆塚”という名で呼ばれるようになったという。その後、鴨川の氾濫などで塚そのものも荒廃して明確な所在が分からなくなっていたが、慶長16年(1611年)に高瀬川開削事業を進めていた角倉了以が偶然石櫃を発見、秀次とその妻子・家臣らを供養する旨を幕府に願い出て、塚があったされる場所に本堂を持つ寺院を建立、秀次の戒名から寺号をとった。それが瑞泉寺の始まりである。瑞泉寺の境内には、三条河原で処刑された39名の妻子、殉死した家臣10名の供養塔が建てられ、それらに守られるように秀次の供養塔がある。そしてその供養塔の中心部には、今もなお首級をおさめた石櫃が安置されている。ただしそこには既に「秀次悪逆」の文字はない。発見した角倉了以が瑞泉寺を建立する際に削り取ったとされている。
秀次事件の原因 / 秀吉の血縁者で唯一生存する成人男性である秀次を死に追いやった理由は現在も不明。ただ公的に発表された“謀反”については、早くから否定されている。他の理由としては「悪逆の限りを尽くしたため」「秀頼誕生で存在が邪魔になったため」「秀次排除を目論んだ石田三成の陰謀」などの説が挙げられている。特に「秀次悪逆」説は根強く、比叡山で鳥獣を狩る、上皇の喪に服さない、辻斬りをおこなうなどの具体的な噂があった。
車折神社 (くるまざきじんじゃ)
祭神は清原頼業。平安末期に大外記として朝廷に仕えた能吏であった。その死後、清原氏の所領(現在の社地)に廟が建てられていたが、時代が下り、後嵯峨天皇の大堰川遊幸の際にこの廟前で突然牛車が止まって轅(ながえ:牛車の前につけられた2本の長い棒)が折れてしまったため“車折大明神”の神号を賜り、崇敬を集めるようになったとされる。あるいは、ある人物が乗った牛車を引いていた牛が倒れ、車の轅が折れてしまったとの伝説も残されている。『都名所図会』では、商家が売買の値段の約束を違えないよう社に祈り、小石を持って帰って家に置き、満願の際に石を倍にして返すという風習が紹介されている。これは現在でも“祈念神石”という名でおこなわれており、境内には満願成就のお礼に返された石が積み上げられている。同書では、この地が五道冥官降臨の地であり、冥官が閻魔庁で善悪を糺し、違えずに金札・鉄札に死者の名を書いて地獄極楽行きを決めることになぞらえた風習であろうとの推論を立てている。またこの風習を広めたのは祇園や先斗町辺りの女将達であり、神社で借りた“神石”を神前に供えて毎日願を掛け、成就すると近くの河原で石を拾ってお礼の言葉を書いて“神石”と共に奉納するという作法を作り上げたとも言われる。それが口伝えで客の商家の旦那衆にも広まって「売り掛けの約束」というご利益に繋がったのであろう。ちなみに祭神が頼業(よりなり)公なので、金が“より”、商いが“なり”に引っ掛けているとも言われる。また境内社の一つでありながら全国的な知名度を誇るのが、芸能神社である。祭神は、芸事の神とされる天鈿女命。創建は意外に新しく、昭和32年(1957年)となっている。この地の東にある太秦には東映や松竹の撮影所があり、映画産業の隆盛時以来、多くの芸能人がこの神社にお忍びで参拝したり玉垣を奉納しており、現在でも約2000あるという玉垣には有名芸能人の名前がずらりと並んでいる。その光景は圧巻と言うべきであろう。
五道冥官/金札・鉄札 / 五道とは天・人・畜生・餓鬼・地獄という、人の善悪によって行く道のこと。五道冥官は、その五道にある者の善悪を裁く冥府の役人である。そして冥官によって、善行のあった者の名は金札に書かれ、悪行のあった者の名は鉄札に書かれて、それぞれ極楽地獄へと送られることになる。
石のせ大黒
北野天満宮にある三光門の向かって右手、対面するように並んだ灯籠がある。その一基の灯籠の横には賽銭箱が設けられている。そばに行くと、台座部分におなじみの大黒様が刻まれている。だがよく見ると、顔の部分がおかしい。顔の下半分に大きな穴が2つ開いている。これが金運のご利益があるとされる“石のせ大黒”である。この大黒様は「天神さんの七不思議」として、北野天満宮でも公式に認められている存在であるが、他の6つの不思議とは違い、天神信仰や北野天満宮の来歴自体と関わりあいがほとんどない(天神様を信仰する者が寄進しているという点では、天神信仰であると言えるかもしれないが)。この灯籠には【安政二歳(1855年)十月吉日】【大黒組】という文字が刻まれており、かつて河原町正面辺りで質屋を営んでいた大黒屋をはじめとする質屋の組合が安政2年に寄進したものであるとされている。当然ではあるが、最初から信仰の対象となっていたわけではない。ところが、いつしか金運のご利益があるといわれるようになり、それが現在でも連綿と続いている。お願いの仕方は至って簡単である。大黒様の顔の下部分にある大きな穴に落ちないように小石を置き、成功したらその小石を財布に入れて持ち帰ればよいというもの。ただ、この穴は長年の磨滅によって表面はつるつるで、しかも底が平らではなくて下に傾いているため、小石を置くのはかなり難しいらしい。ちなみにこの穴であるが、大黒様の口であるとか、あるいはえくぼ、鼻の穴と言われているが、真相ははっきりしていない。誰言うともなく始められた秘密のお願い事の儀式が、人口に膾炙するまでになった時には、既に原形を留めていないものになっているような感じなのだろうか。
称念寺(猫寺)
称念寺は慶長11年(1606年)、松平信吉の帰依を受けた嶽誉上人によって創建された寺院である。その寺号は嶽誉上人が私淑する称念上人から採られたものであるが、現在では通称である“猫寺”の方が通りが良いかもしれない。この通り名は、有名な「猫の報恩譚」にちなむものである。松平信吉の庇護を受けて寺領300石を有していた称念寺であったが、信吉の死後、松平家と疎遠となると寺領からの収入も途絶えてしまうようになった。そして3世住職の還誉上人の時代になると、毎日托鉢を行って糊口を凌ぐほど困窮したのである。そんな中でも上人は1匹の猫を飼い続け、自分の食事を削ってても食事を与えていた。ある晩、托鉢で京の市中を周って疲れ果てた上人が寺に戻ってくると、本堂の縁に、美しい着物姿の姫君と思しき女性が扇を手にして舞っているではないか。月明かりの下で舞う姫君に吃驚する上人をさらに驚かせるものは目に飛び込んできた。それは本堂の障子に映った姫君の影が、まさしく猫のものだったのである。姫君の正体が自分の飼っている猫であると気付いた上人は、途端に怒りを覚えて「足を棒にしてまで托鉢をしてその日の食事を得ているのに、暢気に踊りをおどっているとは何事であるか」と猫を諭して追い出したのであった。数日後、上人の夢枕に猫が現れた。そして「明日、寺に人が訪ねてくる。丁重にもてなせば、必ず寺は栄えます」と告げて消えた。不思議なことに、翌日、疎遠であった松平家から使者がやって来て、亡くなった姫君がこの寺に葬って欲しいとの遺言があってやって来た旨を伝えたのである。それ以降、再び寺は松平家の庇護を受けることとなり、栄えたとされる。現在、寺の境内には、地面と平行に太い枝が20m近くも伸びる松の木がある。これは、恩返しをした猫を上人が偲んで植えた松とされ“猫松”と称される。見事に伸びる枝はどんどん本堂に向かっており、それが本堂の軒にまで達すると、再び猫が現れて寺を助けるという言い伝えが残されている。また猫によって寺勢を盛り返したことが縁となり、称念寺はかなり古くから動物供養を執りおこなう寺院としても知られている。現在でも動物供養のための観音堂や墓地などが整備されている。
宇治川先陣之碑
宇治橋の東側、宇治川の中州となっている橘島に“宇治川先陣之碑”がある。昭和6年(1931年)に建てられたものであるが、実際には現在の宇治橋よりもさらに下流であった出来事であるとされている。寿永3年(1184年)1月に起こった宇治川の戦いは、木曽義仲と源頼朝という源氏同士の戦いであった。この戦いの約半年前の7月に大挙して上洛した木曽義仲であるが、後白河法皇との不和などから信望を失い、この時点で付き従う者は1000騎余りとなっていた。一方、源頼朝は法皇の命を受けて、木曽軍追討のために範頼・義経の2人の弟に数万の大軍を預けて京へ上っていた。結局、宇治川の合戦は木曽側400に対して義経率いる25000の兵という、圧倒的な兵力差となったのである。この合戦の白眉は、義経側の先陣争いであった。流れが急な宇治川を競って渡ったのは、池月に乗った佐々木高綱と磨墨に乗った梶原景季の両名である。池月・磨墨とも頼朝秘蔵の名馬であったが、先に池月を所望した景季に対して頼朝は代わりに磨墨を与え、後から所望した高綱に池月を与えた。さらに上洛の途上、高綱が池月に騎乗しているのを見た景季は憤激するが、高綱の「盗んできた」との嘘の言い訳を受け入れていた。両者とも先陣の功名を得ようと必死になるだけの理由があった。先に進み出たのは景季である。負けじと高綱が追いすがる。ここで高綱「馬の腹帯が緩んでおるぞ」と景季に声を掛けた。慌てて腹帯を確かめる景季を尻目に、高綱の乗る池月は宇治川に入っていく。そして池月は急流をものともせず、高綱も川底に仕掛けられた大綱を太刀で切り裂き、とうとう川を渡りきって先陣の名乗りを上げたのである。
もう一人の“先陣” / 『平家物語』にはもう一人、先陣の名乗りを上げた武士が登場する。馬を射られて遅れを取った畠山重忠が泳いで向こう岸にたどり着こうとした時、腰にしがみつく者がある。名を尋ねると、これも馬を川に流されてしまった大串重親である。烏帽子親だった重忠はやむなく怪力で重親を投げ飛ばして上陸させた。すると重親は「我こそは徒立ち(騎馬ではなく徒歩)の先陣」と名乗ったため、敵味方問わず大笑されたとされる。
妙満寺霊鐘
現在は岩倉の地にある法華宗の妙満寺であるが、康応元年(1389年)の創建当初は、六条坊門室町にあった。その後、江戸時代初期までに市中を何箇所か移転、現在地には昭和43年(1968年)に移転している。この寺の宝物館に納められている霊鐘がある。高さ105cm、直径63cm、重さ250kgの大きさで、小柄な人間であれば何とか中に収まる程度のものである。この鐘が妙満寺で保管されるようになったいきさつは、まさに鐘の持つ曰く因縁の深さによるものであると言える。元をただせば、この鐘は紀伊国の道成寺のものであった。道成寺と言えば、安珍清姫の伝説で有名である。延長6年(928年)、紀伊国真砂の庄司の娘・清姫は、奥州白河の僧・安珍に懸想する。安珍は熊野詣でが終わった後で再会を約束するが、そのまま逃走。後を追った清姫は、妄執によって蛇身と化し、道成寺の鐘に隠れた安珍を鐘ごと焼き殺すという伝説である。道成寺では、新たに鐘を造ろうとするが、清姫の怨念のせいかことごとく鋳造に失敗する。結局、二代目の鐘が出来たのは、事件から400年ほど経った正平14年(1359年)のことであった。鐘の供養が盛大におこなわれた時、一人の白拍子が舞を披露すると鐘がいきなり落ち、白拍子も蛇身となって消えてしまったのである。それから鐘を撞いても濁った音しかしなくなり、さらに疫病が流行るなどしたために、清姫の祟りであるとして遂に鐘を山中に打ち棄ててしまったのである。(この鐘供養の時の事件が、歌舞伎などで有名な『娘道成寺』の逸話である)それからさらに200年以上の時を経た天正13年(1585年)、羽柴秀吉による紀州攻めがおこなわれた。その際に打ち棄てられた鐘を発見したのが、秀吉配下の武将・仙石久秀であった。久秀は、これを合戦の合図に使う陣鐘にしようと思い立ち、戦利品よろしく京都に持ち帰ることにした。ところが、京洛の近くまで来た時に、鐘を乗せた荷車が重さのために坂を登り切れず、やむなく土中に埋めてしまったのである。結局、天正16年(1588年)この鐘を妙満寺に直接納めたのは、土中に埋められた鐘の近くの集落に住む者達であった。鐘が埋められてからよからぬ出来事が頻発したために、経力第一と言われた法華経で供養をしてもらおうとしたのである。引き取った妙満寺では、貫首の日殷大僧正が供養をおこない、遂に元の美しい鐘の音を取り戻したという。後年、道成寺物を演じる役者が妙満寺に参詣、この鐘に舞台の無事や芸道成就の祈願をするようになり、現在でも多くの関係者が訪れるという。また平成16年(2004年)に、数奇な運命を辿った鐘は、400年ぶりに道成寺に里帰りを果たしている。
忠盛灯籠
八坂神社本殿の東側に、柵に囲まれてある古びた灯籠がある。これが忠盛灯籠である。忠盛とは、平家の棟梁であった平忠盛のことを指し、その武勇にまつわる伝説が残されている。『平家物語』巻之六によると、五月のある雨の夜、白河法皇が愛妾の祇園女御の許へ訪れようと、八坂神社の境内を通りがかった時のこと。法皇一行の前方に光るものが見えた。薄ぼんやりと見えるその姿は、銀の針で頭が覆われ、手に光る物と槌を持った不気味なものであった。鬼であろうと恐れおののいた法皇は、すぐに供回りの者にこの物の怪を討ち取るように命じた。命を仰せつかったのは平忠盛。しかし忠盛は、すぐに打ち掛かろうとはせず、まずそのあやかしの様子を探り、頃合いを見計らってたちどころに生け捕りにしたのであった。鬼と思っていた者の正体は、雑用を務める老僧で、油の入った瓶を持ち、土器に火を入れて、境内の灯りをともして回っていたのであった。頭に生えた針は、雨除けにかぶっていた藁が火の光に当たって輝いたように見えていただけであった。無益な殺生を防いだ忠盛の思慮深さに人々は感嘆し、その後、法皇は祇園女御を忠盛に与えたのであった。その時既に女御は懐妊しており、生まれた子が後の平清盛になると物語では説明している。忠盛灯籠は、この逸話の時に老僧が火を入れようとしていた灯籠であるとされている。
末多武利神社 (またふりじんじゃ)
小社ではあるが、それなりに整えられた神社である。宇治民部卿と呼ばれた藤原忠文を祀る。忠文は藤原式家の出身で、長らく国司などの地方官を務めた後、高齢ながら参議となった。そしてその直後の天慶3年(940年)に起こった平将門の乱にあたって、征東大将軍として朝廷軍の最高指揮官に就任するのである。ところが、忠文らが関東に到着する前に、平将門が藤原秀郷・平貞盛によって討ち取られる事態となる。徒労に終わった遠征から帰ると、さらに問題が起こる。乱鎮圧の恩賞を巡って、戦闘に参加しなかった忠文の処遇をどうするかで公卿の意見が割れたのである。中納言・藤原師輔は恩賞を与えるべきであると意見したのに対し、大納言・藤原実頼は戦っていないから恩賞を与えるべきではないと主張した。結果、実頼の意見が通り、忠文は恩賞に与ることが出来なかったのである。これを恨みに思い続けて忠文は亡くなったのか、その後、実頼に不幸が訪れる。忠文が亡くなった直後、村上天皇の女御であった娘が、子をなさないまま死去。同年、さらに嫡子の敦敏が病死。これによって忠文は“悪霊民部卿”とも呼ばれることとなり、その慰霊のために建てられたのが末多武利神社である。同時代の菅原道真・平将門と比べると強大ではないが、れっきとした祟り神である。
明智光秀首塚
天正10年(1582年)、本能寺の変で天下を握った明智光秀であったが、わずか11日後の山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ討死する。最期は、わずか10名ほどの供回りを従えて居城に落ち延びる最中に、小栗栖の竹藪で土民の手に掛かって致命傷を負い自刃するという悲劇的なものであった。自刃した光秀を、家臣の溝尾茂朝が介錯したところまでは諸説一致するのであるが、その後の首級の顛末はまちまちになっている。茂朝が居城の坂本へ持ち帰ったとも、難を逃れるために一時土中に埋められたとも、さらには秀吉方の手に落ちて刑場などに晒されたともされる。その中で三条白川橋を南に下ったあたりに、明智光秀の首塚とされるものが残されている。『京都坊目誌』によると、隠されていた首級は発見された後に胴体と繋ぎ合わせて、粟田口刑場に晒されたらしい。そして現在の蹴上辺り(西小物座町)に、他の将兵の首と共に埋められたとされる。それから時を経て、明和8年(1771年)になって、光秀の子孫と称する、能楽の笛の演者をしていた明田利右衛門という人物が、その場所にあった石塔をもらい受けて自宅近くに祀った。さらに明治維新後に現在地に移したという。現在の首塚には、弘化2年(1845年)に造られた五重石塔、明治36年(1903年)に歌舞伎役者の市川団蔵が寄贈した墓、そして小祠がある。祠の中には光秀の木像と位牌が納められており、かつては衣服の切れ端や遺骨などもあったとされる。これらを管理しているのは、首塚に入る路地の角にある“餅寅”という和菓子屋。この店では、桔梗の紋が入った“光秀饅頭”なる銘菓が売られている。
蛇塚古墳
蛇塚古墳は京都府内最大の横穴式石室をもつ前方後円墳であるとされる。しかしながら現存するのは石室だけであり、あの鍵穴の形をした墳丘があるわけではない。もしあったとすると、その石室の大きさから長さ約75mほどはあったと推測されている。地図を見ると住宅に囲まれてしまっているが、その宅地が前方後円墳の形を残しており、その大きさは今でもある程度想像することが可能である。むき出しになっている石室の大きさは全長約18m、玄室(遺体を安置する部屋)の床面積は約25.6uもあり、明日香村にある石舞台古墳とほぼ同じ規模である(全国第4位の大きさ)。この古墳のある太秦は、渡来人を祖に持つ秦氏の拠点であり、この古墳も秦氏の首長のものであると推測されている。造られた時代から、秦氏最盛期の首長である秦河勝の墓ではないかとも言われている。“蛇塚”という名であるが、古来よりこの玄室に多くの蛇が住んでいたという言い伝えから、そのような名になったとされている。また後年、おしげという名の女賊がこの蛇塚を根城にし、三条通を行く旅人に狙って追い剥ぎをしていたという伝説も残されている。
観音寺 百叩きの門
豊臣秀吉の隠居所として建てられた伏見城であるが、慶長の大地震と関ヶ原の戦いの前哨戦(伏見城の戦い)によって初期の建築物は灰燼に帰したとされる。しかし徳川家康によって再建され、元和9年(1623年)に廃城となるまで、京都と大阪の中間にある要衝として機能した。そして廃城後、城は解体され各地の築城や寺社建築に流用されることとなったのである。慶長12年(1607年)に一条室町に創建されたとされる観音寺であるが、その後の大火によって記録が失われ、現在地にいつ頃移転されたかなどは不明である。ただこの寺の山門は伏見城の遺構と伝えられており、その由来と伝承は少々奇怪なものである。山門の扉はクスノキの一枚板から出来ているのだが、伏見城において牢獄の門として使用されていたと伝えられる。罪人は釈放される時に、この門前で刑罰の一つである“百叩き”を受けて解き放たれたと言われ、そのためにこの門は“百叩きの門”と呼ばれるようになったという。さらに伝説では、移築されて間もなく、夜にこの門前を通ると、どこからともなく人の泣き声が聞こえたという。そのために夜間に人通りが絶えてしまった。住職が調べてみると、門に造られた潜り戸が風のせいで自然に開け閉めされ、それが人の泣き声のように聞こえることが分かった。しかし住職はそれを門前で処罰された罪人の恨みがなすものであると考え、100日間の念仏供養の末に泣き声を封じたとも、あるいは潜り戸を釘で打ちつけて開かなくしてしまったという。山門は現在も残っており、“出水七不思議”の1つとされる。ただし泣き声を耳にする者は既にない。
椿寺
正式名称は昆陽山地蔵院。行基が摂津国の昆陽池(現:兵庫県伊丹市)のほとりに建立したのが始まりであり、平安期に衣笠山の付近に移転した。時代が下り、室町幕府3代将軍・足利義満が鹿苑寺に金閣を建立した余材をもって再建され、さらに豊臣秀吉によって現在地に移転された。「椿寺」の通称であるが、これには豊臣秀吉が絡む。天正15年(1587年)に北野大茶会を開いた秀吉は、この時“五色八重散椿”という椿の名木を寄進した。そのため、後世に「椿寺」の名が付けられた。この名木であるが、その出自は加藤清正が朝鮮出兵の折に蔚山城より持ち帰ったものとされる。ただし、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は北野大茶会の5年後から始まっており、加藤清正が蔚山にあったのは慶長2年(1597年)以降なので、年代的には合わない(さらに言えば、加藤清正が蔚山から帰国した時には、既に秀吉は死去しており、ますます辻褄が合わなくなる)。この名木は昭和58年(1983年)に枯死し、現在は樹齢100年を超える2代目の散椿が植わっている。地蔵院の名の通り、地蔵菩薩像が安置されている。行基作とされるが、別名「鍬形地蔵」と呼ばれる。この大将軍村に庄兵衛という百姓がいた。ある年は日照りが続いたが、庄兵衛は自分の田にだけ水を引いて、他の者へ水を回さなかった。ある時、見慣れない僧がやって来て、水を他の田にも回すよう諭した。ところがそれを聞いた庄兵衛は、怒りにまかせて僧に額を鍬で打ちつけた。傷を負った僧は何も言わずその場を立ち去る。不審に思った庄兵衛はその後を追っていくと、僧は地蔵院の門前で姿を消した。境内の堂内を見た庄兵衛は、その中に置かれた地蔵の額から血が流れだしている姿を見て、全てを悟った。それ以降、庄兵衛はわがままを言うことなく、他の村人と仲良く暮らしたという。
乙が森/花尻の森
大原の里に残る、一人の女性の悲しい伝説がある。大原の里を縦断する幹線道路は、近年“鯖街道”と呼ばれ、若狭と京都を結ぶ往還であった。ある時、大原に住むお通という娘が、この往還を利用する若狭の殿様に見初められた。玉の輿となったお通は、殿様と共に若狭へ下った。ところがしばらくすると、お通は病を得て、殿様の寵愛を失ってしまう。そればかりか、暇を出されて大原の里に帰されてしまったのである。悲観したお通は大原川の女郎淵に身投げし、ついにはその妄執によって蛇体へと変化したのであった。やがて若狭の殿様は上洛のためにこの大原の里を通過することとなる。それを知った蛇身のお通は川を下り、花尻橋のたもとまで殿様の行列を追い、遂に襲いかかったのである。しかしその危急に松田源太夫という侍が大蛇に立ちふさがり、返り討ちにする。大蛇は無残にも首と尾を打ち落とされ、恨みを晴らすことなく死んでしまったのである。だがお通の恨みは消えることなく、その日から雷雨が続き、どこからか悲鳴が聞こえるようになった。里の者は恐れをなし、大蛇の首を乙が森に、尾を花尻の森にそれぞれ埋めて供養したのである。そしてそれから大原の蛇祭が始められ、乙が森と花尻の森に、藁で出来た蛇の頭・胴・尾が奉納されるようになったという。現在、乙が森には龍王大明神と刻まれた石碑が建てられており、大蛇を祀る場所として特別な場所となっている。一方花尻の森は、このお通の伝説以外に、大原の里に隠棲した建礼門院を監視するために、源頼朝が派遣した松田源太夫という御家人の屋敷跡であるという話が残されている。また近くの江文神社の御旅所ともなっている。
光清寺 浮かれ猫絵馬
光清寺は寛文9年(1669年)、伏見宮貞致親王が生母の菩提を弔うために建立したものである。その後焼失するが、再建。宮家ゆかりの寺院であるため、宮准門跡に列せられる。境内には宝暦年間(1751〜1763)に旧伏見宮邸から移築されたという弁天堂がある。そこに掲げられているのが、経過年で色が落ちていて、さらにガラスの反射などで見にくくなっているが、牡丹に三毛猫の絵馬である(その後退色が激しいため本堂に安置。現在弁天堂には複写が飾られている)。これが“出水七不思議”の1つとされる「浮かれ猫絵馬」である。江戸時代後期頃、この寺の近くにある遊郭(五番町)から夕刻になると三味線の音が聞こえてくる。その音色に合わせるように絵馬の猫が浮かれ出てくると、女性に化けて踊り始めるようになった。それを見た人達が騒ぎ出して大事になると、住職はそれを不快に思い、法力をもって猫を封じ込めてしまったのである(あるいは金網で絵馬を覆ってしまったとも)。すると、その夜のこと。住職の夢枕に、衣冠束帯姿で威儀を正した武士が現れ「私は絵馬の猫の化身であるが、絵馬に封じ込められて非常に不自由な思いをしている。今後は世間を騒がすようなことはしないので、どうか許してもらいたい」と懇願した。住職も哀れに思い、戒めを解いたという。このような伝承が残るため、この弁天堂は芸事、特に三味線の上達に御利益があると言われ、昔は遊郭あたりの芸妓がよく祈願をしていたとされる。
宅間塚
国道162号線(周山街道)にある三宝寺橋南詰にいくつかの碑が置かれている。これが宅間塚であり、宅間勝賀の終焉の地とされる。絵仏師の宅間勝賀は、栂尾高山寺の明恵上人に深く帰依していた。この頃、明恵上人の法要を聴聞するために、春日明神と住吉明神がしばしば訪問すると言われていた。それを聞いた勝賀は、是非その二神の姿を絵に残したいと思い、上人にその場に居合わせたいと懇願した。しかし二神の姿は上人以外には誰にも見えず、おそらく普通の人間が見ることが出来たとすれば、神罰が下って死に至るのではないかと諭した。それでも勝賀は構わないと言ったため、二神はその志を汲んで、ついに勝賀が居合わせる前にも姿を見せたのである。春日明神と住吉明神の姿を絵にした勝賀は、喜び勇んで栂尾を辞して京へ戻っていった。ところがその途中、この場所で落馬するとそのまま絶命してしまったのである。やはり二神を見てしまったために神罰を受けたのである。その後、この地に宅間勝賀の墓が作られ、さらには終焉地であることを示す石碑も建てられたのである。
鳴滝
国道162号線(周山街道)は福王子交差点から御室川と並行するようにして北上するが、その付近一帯が鳴滝と呼ばれている。このあたりでは、御室川も鳴滝川と呼ばれることが多い。酒屋の隣に、川岸へ下りて行く路地がある。そこにある小さな滝が鳴滝であり、この一帯の地名の元となった滝である。平安時代にはこの滝は禊の場ともなっていてそれなりに有名な場所であったようだが、この名前が付けられた由来には、不思議な伝説が残されている。昔、ある雨上がりの午後のこと。村人はこの小さな滝がいつもとは違って大きな音を立てて流れていることに気付いた。不思議に思い、寺の住職に訳を尋ねたが、住職も分からない。ただ不審に思うところがあり、村人に高台に一時避難するように言った。するとその夜、突然大水となり、家や田畑が流されたのである。さいわい村人は全員高台にいて命を落とした者はなかったが、この災害を長く記憶に留めるためにこの滝を鳴滝と呼び習わし、この付近一帯も鳴滝の里と呼ばれるようになったという。御室川は古来より暴れ川とされ、普段は水量が少ないが、ひとたび大雨になると突然堤防が決壊するほどの水が流れる川であった。実際、近年でも大雨で家屋が浸水した記録がある。そして鳴滝付近には、たびたび起きた大水の記憶を残しているものがある。それは“洪水”という苗字。今でも鳴滝の地には“洪水さん”という家がが何軒かあるという。
御髪神社
日本で唯一の髪の神社という御髪神社は、昭和36年(1961年)に京都市の理美容業界関係者によって創建された新しい神社である。祭神は藤原采女亮政之、髪結職の祖とされる人物である。御利益は言うまでもなく,髪の毛に関するものであり、理美容関係者の崇敬は篤い。また願い事をしながら切った髪の毛を献納する祈祷があり、境内には髪の毛を納めるための髪塚もある。藤原政之の父・基晴は亀山天皇に仕える北面の武士であったが、宝刀・九龍丸の紛失事件の責任を取って職を辞し、政之を伴って宝刀探索の旅に出る。その頃蒙古の襲来に備えて多くの武士が長門国下関に集結しており、刀の手掛かりを求めてその地に赴いた。そこで生計を立てるために、新羅人から習ったのが髪結いの技術。下関に本邦初の髪結所を開いて、客を取りだしたのである。やがて父の基晴は亡くなるが、遺志を継いだ政之は宝刀の所在を見つけて朝廷に奉還。そして後に鎌倉へ赴き、京風の髪結職として鎌倉幕府に仕えたという。京都は政之にとっては故郷であるが、髪結職としては縁が薄い場所である。ただ御髪神社がある場所のすぐそばには、亀山天皇の火葬地である亀山公園があり、この縁で神社創建がなされたという。
養源院 血天井
三十三間堂の東に道を挟んで隣接する寺院。現在は浄土真宗であるが、戦前までは天台宗の寺院であった。創建は文禄3年(1594年)。豊臣秀吉の側室・淀君が、父の浅井長政・祖父の浅井久政の二十一回忌供養のために建てたのが始まりである。養源院という名も、長政の院号から取られたものである。その後焼失するが、元和7年(1621年)に徳川秀忠の正室である崇源院(淀君の実妹)が再建する。浅井家の血を受け継ぐ娘が権力の中枢に位置したことによって造られた寺院であるのは、言うまでない事実である。そのため、崇源院による再興の後は徳川氏の菩提所となっている。再建にあたって本堂として、伏見城の遺構が移築されている。それと共に持ってこられたのが“床板”である。伏見城は、慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いの前哨戦として、籠城する徳川勢が全員自刃して落城している。この時に自刃した鳥居元忠以下の将兵の血痕が染みついた床板を、供養のために本堂の天井板にしたのである。これが有名な“血天井”である。今なお、倒れた城兵達の姿がはっきりと血でかたどられている。また雨の日になるとより一層その血の跡が浮き出てくるという噂もある。
六道珍皇寺
六道の辻から松原通をさらに東へ行くと、そこに珍皇寺がある。普段は本当にひっそりとした寺であるが、8月7日から10日までの4日間、今までの静寂とはうってかわって老若男女が列をなしてこの寺を訪れる。京都の夏の風物詩【六道参り】である。京都に古くからいる人々は、この行事からお盆をスタートさせるのである。京都ではこのご先祖の精霊を「おしょらいさん」と呼び、この「おしょらいさん」を迎えに行くのが【六道参り】である。参り方の大まかな手順であるが、まず【迎え鐘】を鳴らし、そして線香でお清めした水塔婆をあげるのである。これで「おしょらいさん」は各家へ帰ってくるのである。【迎え鐘】の鐘楼はお堂になっており、撞木を引っ張るための綱だけが外に出ている。鐘の姿を見ることはできない。この鐘には不思議な逸話が残されている。この寺を建立した慶俊は鐘を鋳造したのだが、遣唐使の一員として唐へ渡ることになった。そこで弟子たちにこの鐘を地中深く埋めて3年後に掘り起こすように命じた。ところが弟子たちは命に背いて2年経ったところで掘り出してしまった。唐にあった慶俊はこの鐘がうち鳴らされた音を聞き、「惜しいことをした。 3年間地中に埋めておけば人が撞かなくとも独りでに鳴ることのできる霊鐘であったのに」と言ったという。【六道参り】と共にこの寺の逸話として有名なのが、小野篁に関するものである。この寺には本尊以外に祀られている像がある。それが篁堂にある小野篁作の閻魔大王像であり、隣に並べられた小野篁像である。小野篁は平安時代初期の貴族で、嵯峨天皇に仕え、参議にまで昇進した歴史上の人物である。しかし小野篁と言えば、冥府の役人の肩書きを持つという逸話がもっとも有名である。右大臣藤原良相(よしみ)は病で死に、ただちに地獄の役人に捕らえられてしまった。そして冥府で閻魔大王の裁きを受けようとした時、そのそばにいた冥官が大王に申し出た「この大臣は非常に高潔な人物です。私に免じてお許し下さい」。良相が顔を上げると、その声の主は篁であった。そしてその助言に より良相は生き返ることができた。後日、内裏で篁に出会った良相が礼を述べると、「かつて私を弁護していただいたお礼です。ただこのことはご内密に」という返事であり、良相はますます畏れたという。また藤原高藤に暴力を振るわれた直後、高藤は人事不省に陥った。しばらくして息を吹き返したが、篁の姿を見ると平伏し「閻魔庁へ行ったら、第二の冥官の位置に篁が座っていた」と言った。本人は隠していたようではあるが、当時の都の人々は篁が昼は内裏に仕え、夜は閻魔庁で仕事をしていると信じていたようで ある。小野篁が地獄へ毎晩通っていた通勤路が、この珍皇寺にある井戸である。一般には公開されていないが、遠くからであれば見ることは可能である。どこにでもあるような井戸であるが、ここから篁が閻魔庁へ行っていたのかと思うと、何だか不思議な気分になる。
将軍塚
地元では夜景デートコースの最高ロケーションとして知られている将軍塚である。だがとにかく自動車以外のアクセス方法が厳しく、東山ドライブウエイ(二輪厳禁)を登っていくか、粟田神社からの山道を行くかしかたどり着く方法はない。地理的に言えば、知恩院の裏山にあたる華頂山の山頂である。一般に「将軍塚」というと駐車場のそばにある展望台を指すのであるが、実際にはそこには【将軍塚】はない。そこから少し離れたところにある青蓮院門跡の飛び地である大日堂がある。その庭園の中に【将軍塚】はある。将軍塚は直径約10メートル強の円形の塚である。この塚の下には、甲冑を身にまとい矢を持った、高さ八尺(約2.4m)の土偶が西の方を向いて埋められている。まだ平安京が造営される前、和気清麻呂は桓武天皇を伴ってこの地を訪れ、長岡京の換わりにこの地に都を造営するように進言したと言われる。そして平安京が造営される時に、この塚を京都守護のために作らせたという。将軍塚は桓武天皇が仕掛けた怨霊封じのシステムの一つであるのは間違いない。だが他のシステムとは違い、将軍塚は単独の形でセットされている。そしてそのシステム機能は思わぬ形のものなのである。朝廷の記録によると、1156年と1179年の2回、この将軍塚が鳴動したというのである。1156年は保元の乱(武士勢力が朝廷を牛耳る端緒)、1179年の翌年は治承の乱(源頼朝の挙兵、武士政権誕生の端緒)という大きな事件が起こっている。しかもこれらの事件に共通なのは【朝廷の威信の凋落】である。つまり将軍塚は朝廷に危機が訪れる時に鳴動する、いわば警報装置なのである。その後も何度か将軍塚は鳴動したと言われており、直近の報告ではあの太平洋戦争が起こる直前にも鳴動したとされている。
西福寺
鴨川沿いから松原通(昔の五条通)を東へ進んでいくと、そこは現世と冥界との境界である“六原”にたどり着く。かつては“六波羅”と書かれ、その名の由来は“髑髏原(どくろはら)”であると言われている。さらにこの近辺の町名は轆轤(ろくろ)町、髑髏の転訛であることは疑う余地もない。かつてこの地は京都の東の葬送地である鳥辺山に通じる入り口であり、【六道の辻】と呼ばれていた場所である。現在では石碑が建てられており、そのそばに建つのが西福寺である。西福寺は弘法大師がこの地に地蔵堂を建て、自作の地蔵を安置したところから始まる。弘法大師に深く帰依していた壇林皇后(嵯峨天皇皇后)はたびたびこの地を参詣していた。そして皇子(後の仁明天皇)の病気平癒を地蔵に祈願したところ回復したため、この地蔵は“子育て地蔵”と呼ばれるようになったという。この寺で最も有名なものは寺宝である【壇林皇后九想図】である。壇林皇后は非常に心清らかで、また美貌の持ち主であった。だが、その死にあたって「風葬となし、その骸の変相を絵にせよ」という遺言を残した。そして完成したのがこの【九想図】である。つまりこれは人が死に、死骸が朽ち果て、やがて土に還る までを表した、凄まじい絵なのである。この絵は六道参りの時期(8月上旬)の3日間だけ公開される。そのむごたらしさは言うまでもないが、眺めているうち に“人の世の空しさ”が胸に迫ってくる。実際、この絵は“無常”を絵解きしたものであり、ここまでストレートにやられると、もはや言うべき言葉を見つけることもできない。
御辰稲荷神社
平安神宮の北側に位置する小さな神社である。元々この辺り一帯は“聖護院の森”と呼ばれており、この御辰稲荷もその森の中に建てられたという。宝永年間(1704-1710年)、東山天皇の側室・新崇賢門院の夢枕に白狐が現れ、「禁裏御所の辰の方角(南東)に森があるので、そこに祀ってほしい」と言って消えてしまった。翌朝人に尋ねると、御所の辰の方角に森と言えば“聖護院の森”であろうということで、さっそく森の中に祠を建てた。これが今の御辰稲荷の始まりとされている。当然のことながら、名前の由来は“辰”の方角という神託を受けたことにある。御辰稲荷のご利益といえば、芸事上達である。『辰』という字が『達』に通じるということ、そして祀られている狐が琴が上手ということで、色街の芸妓さんらも多数お参りするらしい。実際、ここの御辰狐は“風流狐”として宗旦狐と共に童歌にまで歌われており(「京の風流狐は、碁の好きな宗旦狐と琴の上手な御辰狐」)、かつて聖護院の森を通ると琴の音が聞こえたという話まで残っている。御辰稲荷の境内には“福石大明神”という摂社がある。かつて、この御辰稲荷を信仰していた貧しい夫婦が百日の願掛けをした。満願の日にふと境内で寝てしまい、目が覚めると黒い小石を握りしめていた。授かり物としてそれを神棚に祀ると、その後可愛らしい女の子が生まれ、その娘がとある大名家の側室となり、親子共々幸せに暮らしたという話が残っている。『達』という字は、芸事だけではなく、全ての願望を成就させる力がある訳である。
宗旦狐 / 相国寺に住んでいた狐。千宗旦(千家3代目)に化けて茶席に現れることが多かったため、その名が付いた。江戸時代の終わり頃まで生きていたらしいが、お礼に頂戴した鼠の天ぷらを食べて神通力を失った途端、犬に襲われ、井戸に飛び込んで死んだという(異説あり)。
耳塚
東大路七条近辺には豊臣秀吉にまつわる場所が散見される。この【耳塚】もその中の一つである。天下統一を果たした秀吉の次なる矛先は朝鮮であった。秀吉は大軍を朝鮮へ送り込んだが、そこで日本の各武将は論功行賞のための証拠品として、朝鮮や明の兵士の耳や鼻を切って塩漬けにして日本へ持ち帰った(残虐といえば残虐だが、当時の日本として は戦場の慣習だった)。その数は約12万6千と伝えられている。それらを集めて供養するようにと、慶長2年(1597年)に秀吉が命じて造らせたのが、この耳塚なのである。そしてその年に盛大な施餓鬼供養をおこなっている。
仲源寺 目疾地蔵 (ちゅうげんじ めやみじぞう)
四条大橋から南座と同じ側の道をさらに東へ足を運ぶと、小さな口がポカリとあいた空間に出くわす。そこが目疾地蔵がおられる仲源寺の入り口である。ここのお地蔵さんは「目疾地蔵」と呼ばれている通り、眼病に効くご利益がある。しかし、最初はそのような名で呼ばれていなかったという。鎌倉時代、この寺のあたりまでが鴨川の河原であった。安貞2年(1228年)に鴨川が氾濫した時、防鴨河使(鴨川の管理をおこなう役人)であった勢多判官為兼の夢枕に立ち、その霊告によって洪水を未然に防いだということで、お地蔵さんを安置した。その当時は【雨止(あめやみ)地蔵】と呼ばれていたのである。ところが、この大きなお地蔵様の両眼には玉石が嵌め込まれており、お堂の外から暗い中に鎮座されるお地蔵さんを見ると、目が潤んで見える。江戸時代には鴨川の氾濫も少なくなり、【雨止み】の霊験が忘れ去られ、その特徴ある目から【目疾】と転訛されたようである。
真如堂 鎌倉地蔵
真正極楽寺。通称、真如堂と呼ばれる古刹が北白川の辺りにある。かなり広い境内であるが、その中でも一番目立つのが三重塔である。そしてその脇に少々古びた地蔵堂がある。ここに安置されているのが鎌倉地蔵という、大変な奇縁を持つ地蔵である。実はこの地蔵は【殺生石】でできている。【殺生石】といえば、九尾の狐が退治された成れの果てであり、那須の地にあって絶えず毒煙を吐き続けたという、あの怪石中の怪石である。しかし、室町時代の頃にその祟りを鎮めるために玄翁和尚によって叩き割られた。そしてこの【殺生石】の破片は全国各地、北は福島から南は九州まで飛び散ったのだが、玄翁和尚はその残った破片の一部で【殺生石】によって亡くなった者を供養する意味で一体の地蔵を造ったという。それがこの“鎌倉地蔵”なのである。つまり日本でただ一つ【殺生石】というとんでもない材質の石によって造られた地蔵であり、全国に点在する【殺生石】の中でも最も素性の明らかな破片であると言えるだろう。この【殺生石】でできた地蔵がなぜ“鎌倉地蔵”と呼ばれるのかというと、この地蔵が最初は鎌倉に安置されていたためである。ところが、江戸時代のはじめに幕府の作事方大棟梁である甲良豊前守の夢枕にこの地蔵が立ち、京都の真如堂へ衆生済度のために移転させよという。もとよりこの地蔵を信仰していた豊前守はただちにこの地蔵を京都へ移し、この逸話にちなんで“鎌倉地蔵”と呼ばれるようになったという。
積善院 人喰い地蔵
かつて東山丸太町一帯は“聖護院の森”と呼ばれる大きな森であった。今ではその“聖護院”の名だけが残るだけで、森どころかまとまった雑木林すら周囲には見当たらない。この一角には、修験道の一大本拠地である聖護院門跡がある。そしてその広大な敷地の東端にあるのが、積善院準提堂である。この境内の奥に、他の名もない地蔵と共に安置されているのが【人喰い地蔵】である。この地蔵であるが、もとよりこの積善院に安置されていたものではなく、聖護院の森の中に野ざらしの状態であり(場所は現在の京大病院の付近であると言われている)、明治になってから積善院に安置されて現在に至っている。無病息災の効験があるとされており、「人喰い」の名前とは裏腹な非常に柔和な地蔵である。それもそのはずで、“人喰い地蔵”とは通り名であり、実際には正式な名前が付いているのである。保元元年(1156年)に起きた保元の乱で讃岐に流された崇徳上皇は、世を怨むあまり、生きながらにして魔界の住人となり、死んだ後には京の都に悪疫・大火・大乱を起こす魔王となった。そのような災厄をもたらす崇徳院の霊を慰めるために、京の町の人々は一体の地蔵を造り、聖護院の森の中に祀ったという。それがこの地蔵なのである。それ故この地蔵の正式名称は<崇徳院地蔵>という。ところが、この“すとくいん”という名前がいつの間にかなまってしまってできた新しい名前が“ひとくい”地蔵という訳なのである。
大将軍神社
桓武天皇が平安京を造営した時に、都の守りとして荒ぶる神(その正体は素戔嗚尊)を各方角に置き、それぞれを「大将軍」として祀った。この大将軍神社はこの4つのうちの東の守りとされている。この地には、後に関白・藤原兼家の屋敷が置かれ、「東三条殿」という名で呼ばれるようになる。さらに、かつての京都の東の入り口である粟田口に通じる三条通に面しており、魔物を抑える魔界のシステムであると同時に、地理上の東の要衝であったと考えられている。このような由緒正しい神社であるが、取り立てて何か変わったものがあるという訳でもない。ただ一つ、本殿の内陣部分から【御神木】が勢いよく伸びているのだけは何か圧倒されるものがある。この御神木であるが、樹齢800年と言われており、この神社の古さを物語っている。先程来から挙げられている「東三条」という地名であるが、実はこの辺り一帯は東三条の森と呼ばれる、鬱蒼とした森になっていたそうである。そしてその森こそが、かつて天皇を悩ませた“鵺”の怪物の住処なのである。そのためこの御神木はその森の名残として認識されている。(ただし樹齢800年とすれば、この御神木が生える前に鵺退治があった計算になるのだが)
大将軍神社 / 大将軍は陰陽道における方位神(元は金星にまつわる星神)。さらに牛頭天王の息子であり、素戔嗚尊を同一視されている(ただし後に牛頭天王と素戔嗚尊は習合する)。桓武の天皇の建てたとされる4つの大将軍神社は、現在、以下の場所にある。東−東三条、西−西大路一条の大将軍八神社、南−藤森神社の境内社、北−西賀茂大将軍神社。
知恩院 七不思議
浄土宗の総本山である知恩院には「七不思議」と呼ばれる不思議なものがある。1.鶯張りの廊下…歩くと“キュッキュッ”という音がして、その音が鶯の声に似ているので、その名が付いた。2.白木の棺…三門を建てた五味金右衛門は建築費超過の責を負って夫婦共々自害。三門の上に空の棺が納められ、その上に夫婦の木像が安置されている。3.忘れ傘…御影堂の軒下に置かれた唐傘。左甚五郎が魔除けとして置いたとされるが、実はもう1つの言い伝えがある(下記参照)。4.抜け雀…襖に描かれた雀があまりによく描かれていたために、生命を宿してどこかへ飛び去ってしまった。5.三方正面真向の猫…狩野信政筆の猫の絵。親猫がどこから見ても真正面を向いているように見える。6.瓜生石(うりゅうせき)…この石から一夜にして瓜の蔓が伸び、実が成ったという。しかもその実には【牛頭天王】の文字があったという。7.大杓子…巨大な杓子。重さが約30キロもある。三好晴海入道が大阪夏の陣で得物としていたとも言われる。
このうち実物が見られるのは1・3・6・7だけ(7は有料拝観部分にあり)。4と5は有料拝観部分に模写されたものが展示されている。そして2は三門の特別拝観時以外は実物を見ることはできない。知恩院七不思議の一つ、瓜生石。知恩院境内ではなく、黒門前のT字路のど真ん中にある(かなり交通量の多いところである)。常識的に考えると、往来の邪魔になって当たり前の場所にあるのだが、なぜか違和感がない。多分知恩院が建立される前からこの土地にあるものだからだろうか。この石は地中深くにまで達しており、地球の中心まで届いているという言い伝えもある。知恩院七不思議の中でも最も有名なものは【忘れ傘】であろう。これは知恩院の中でも最も大きな建造物である御影堂の右端部分の軒下に今でもある。忘れ傘を置いたのは左甚五郎であるという言い伝えが、最もポピュラーな伝承である。なぜ忘れたのかという理由であるが、本当に彼が忘れてしまったという、何ともとぼけた話もある。しかし有力な説としては、完全な形で完成させてしまうと建物は潰れる一途をたどるというので、わざと未完成部分を造ろうとしてこの傘を置いたのいうのがある。だが、この傘を巡る伝説にはもう一つ、妖怪めいたものがある。御影堂建立を行っていた頃(徳川三代将軍家光の治世)、満誉霊厳和尚が説教をしていると、雨の日にもかかわらず一人の禿頭(かむろあたま)の童子が説教に聞き入っている。しかも、そのおかっぱ頭の髪を濡らしながらである。気になった和尚は、説教が終わるとその童子を呼び止めて名を尋ねた。するとその童子曰く「私は実は狐で、この御影堂が建った場所に住処を持っておりました。ところがお堂が建ったために居れなくなり、恨んでおりました。仕返しをしようと思い童子に化けましたが、お説教を聞いているうちに自らの非を悟りました」それを聞いた和尚は、ずぶぬれの童子に傘を渡してやり、「霊力のある狐ならばこの寺を守って欲しい。その証にその神通力を見せてくれないか。そうすればおまえのために祠を建てよう」と言う。翌日、御影堂の軒下に、昨日童子に貸し与えた傘が置かれていた……それが忘れ傘であるという。後に霊厳和尚は狐との約束を果たすために、勢至堂の近くに祠を建てた。そして初めて童子と会った時に一番印象に残った「濡れた髪」から濡髪祠と名付けたのである。濡髪祠は、知恩院の最深部にあたる勢至堂(この一帯は開祖法然上人臨終の地であり、御廟など臨終にまつわる言い伝えのあるものがいくつかある)の墓地を通り抜けた、最も奥まったところにある。そばには歴代門跡の墓、そして正面には千姫の墓がある。勢至堂のそばにある、法然上人入寂時に不思議が起こった場所2つ。入寂時に賀茂大明神が降臨されたと言われる影向石(ようごせき)。そして入寂時に水がわき出たという紫雲水(しうんすい)。共に知恩院七不思議には入っていないが、結構不思議なことがあった伝説の場所である。
合槌稲荷神社
三条神宮道(平安神宮へ至る道)を東へ少し行ったところに、合槌稲荷の参道の入り口がある。参道といっても本当にこぢんまりしたもので、下手をするとついうっかりと通り過ぎてしまうかもしれない。実際この参道は私道であり、この奥には数軒の家が軒を並べている。『小鍛治』という謡曲がある。三条粟田口(この稲荷は三条通に面して、真向かいが粟田神社である)に住む、小鍛冶宗近という刀鍛冶が天皇の勅命を受けて守り刀を打とうとする。しかし、刀鍛冶を手伝う者がいない。宗近は伏見稲荷に祈願し、ある若者と出会う。その若者が鍛冶の手伝いをしてくれ、見事な刀ができた。その若者の正体は狐であり、その刀は【小狐丸】という名で呼ばれるようになった。合槌稲荷はこの鍛冶の手伝いをした狐を祀っており、火の用心の効験があるという。また謡曲をはじめ、歌舞伎や能でも上演される有名な演目であるため、そのゆかりの地ということで演者がお参りに来ることもあるらしい。
大酒神社
太秦(うずまさ)の地は【日猶同祖論】の有力な証拠を多くも持っているといわれている。とにかく、この地を最初に治めた秦氏自体がユダヤと大いに関連性があるとされているからである。秦氏は朝鮮から渡ってきた渡来人である。彼らは秦の始皇帝を祖とする一族であると名乗り、直接の先祖(つまり最初に日本に来た者)は弓月君<ゆづきのきみ>としている。しかし、その先祖の名に大きな意味がある。『新選姓氏録』に14代仲哀天皇の時代に弓月国から使者(弓月君の父に当たる功満王)が来たとあり、それが秦氏の先祖であるとされているのである。その弓月国こそ、シルクロードを経由してユダヤの末裔が建国した“原始キリスト教の国”なのである。そして彼らが最終的に本拠地とした太秦も【大秦】の文字をはめたのだろうという説がある。【大秦】とは、【ローマ】の漢字表記である。この太秦の地の土地神としてあるのが大酒神社である(祭神は始皇帝・弓月王・秦酒公)。元々この神社は広隆寺の寺内社であったのだが、明治の神仏分離政策で分離させられた。この神社の名であるが、現在では【大酒】となっているが、かつては【大避】あるいは【大闢】とされていた。この【大闢】は中国では【ダビデ】を意味する。つまり、この神社の名前はユダヤの王を表しているのである。これが太秦における【日猶同祖論】最大の拠り所とされている部分である。さらにこの神社の祭りとして有名なのが“牛祭り”である。“摩多羅神”なる神様が牛に乗って練り歩き、広隆寺敷地内で珍妙な祭文を読み上げて走り去ってしまうという、摩訶不思議な祭りである。秦氏のルーツと目される中央アジア周辺には【ミトラ教】なる教えがあり、その最高神であるミトラ神が実は牛の頭を持つ神として伝えられている。そのため、多くの研究家はこの祭りをミトラ教信仰の名残と推察している。
月読神社 月延石 (つきよみじんじゃ つきのべいし)
松尾大社の境外摂社という社格を持つ月読神社であるが、実は過去の社格を確認すると、並みの神社ではないことがわかる。それどころか、古代史の謎の一端をかいま見せてくれる。月読神社の祭神は月読尊である。天照大神の弟神であり、素戔嗚尊の兄神である。天照大神が太陽神であるのに対して、月読尊はその名の通り月神である。そしてこの月読神社の本社はなぜか京都から遠く離れた壱岐島にあり、海神の性格も併せ持つ神とされている(月の満ち欠けと潮の干満との関係から来ているのだろう)。『日本書紀』によると、顕宗天皇3年(487年)に任那へ派遣された阿閉臣事代(あべのおみことしろ)に月読尊が憑依して、山城国に神社を創建したとある。京都でも最古の部類に入る神社である。そして斉衡3年(856年)に現在の地に置かれ、貞観元年(859年)の記録では松尾大社に次ぐ高位に叙されている(当時としては、稲荷や貴船よりもはるかに高位)。この月読神社に関わる人物として神功皇后がいる。身重だった神功皇后は月神の託宣を受けて、神石をもって腹を撫で、 無事に男児(後の応神天皇)をお産みになったという。その石がこの月読神社にある。その名も月延石。神功皇后の伝説と、“月のもの”が延びるという名前から、安産のご利益があるとされている。昭和の頃の写真を見ると月延石は3つあったのだが、現在はいつの間にか1つだけになってしまっている。
梅宮大社 またげ石
四条通をひたすら西へ行き、いよいよ桂川へさしかかろうとする手前に梅宮大社前という表示が見える。梅宮大社は“酒”の神である。実際中門の上には酒の菰樽がずらりと並べられており、由来を見てもここに祀られている神様が子をなした時に酒を造って祝ったという言い伝えがあり、それが酒造りの神様として奉られることになったようである。そしてもう一つ、この言い伝えから“安産”の神とされている訳である。この神社には子授けのための不思議なものがある。それが【またげ石】である。本殿の中にあり、本殿外からの見学は可能であるが、この石をまたぐことは“ご夫婦で子授けのご祈祷をなされた方に限ります”ということである。平安初期、壇林皇后が何とかして皇子を授かりたいということで【またげ石】をまたぎ、実際に後の仁明天皇をお産みになられたという故事が残っている。またこの神社本殿前の白砂を床に敷いて出産に及び、無事安産であったとも伝えられている。とにかくこの故事以降、この神社は子授け・安産の神として有名になったのである。昭和に入ってからも、有名映画スターがたびたびこの地を訪れて子宝に恵まれたという話が残っており、結構御利益はある様子である。
松尾大社
四条通を西へ進み、桂川と交わる松尾橋を渡りきると、巨大な鳥居が見える(京都で2番目の大きさとのこと)。これが松尾大社の一番最初の入り口である。松尾大社の起源は平安京より古い。この地に住み着いた秦氏が大宝元年(701年)に建てた神社であるが(明治時代になるまで松尾大社の神官は秦氏が務めていた)、実際はそれ以前から山自体が信仰の対象となっていたらしい。いわゆる「磐座」と考えられる巨石が裏山にある。それ故、松尾大社は京都で一番古い神社であるとされている。だがそのような古さだけではなく、松尾大社は平安京設営にあたって非常に重要な役割を果たしている。平安京以前に京都の地にあった大きな神社は賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)と松尾大社の三つであったという。最初の大内裏は賀茂神社と松尾大社を直線で結んだ真ん中辺りに造営されたのである。というよりも、賀茂神社が大内裏の鬼門の位置、松尾大社が大内裏の裏鬼門の位置と言った方が正しい。それ故か「賀茂の厳神、松尾の猛神」と並び称される。この神社の祭神に【大山咋神(おおやまくいのかみ)】がおられるが、この神様は松尾の山の神であると同時に比叡山を支配する神であるという。想像をたくましくすれば、<鬼門:賀茂神社・比叡山−裏鬼門:松尾大社・松尾山>という図式が成り立つ可能性があるのかも知れない。秦氏との関連が深い松尾大社は良い水が湧き出る場所としても知られ、醸造の神様としてその名を知られるようになる。特に【亀の井】と呼ばれる湧き水は、それを醸造の際に入れると酒が腐らないと言われ、日本全国からそれを求めて酒造家が参拝に来る。また松尾大社にとって“亀”は縁深い存在であり、この山の 谷で奇瑞をあらわした亀が見つかり、元号が【霊亀】とされたという記録も残っている。
首塚大明神
京都市内から亀岡へ抜ける国道9号線。その2つの町ををつなぐ境に、老ノ坂(おいのさか)峠と呼ばれるところがある。かつて本能寺の変の際、明智光秀がここから反転したという、まさに京都の西の境界にあたる場所である。この老ノ坂峠、ちょうどトンネルの手前あたりに、ほとんど気づかぬぐらい細い間道が9号線から伸びている。大型車はまずは入れないだろうというほどの道である。その道を通り、いかにも谷間の農家が点在する景色を両脇に見やって、数百メートル入った突き当たりに首塚大明神がある。この大明神周辺は美しく整備されている。というよりも、すべてが新しいものでできていると言うべきであろう。碑に刻まれた文言を読むと、どうも昭和60年頃に宗教法人として認可されている。しかし、この首塚にまつわる伝説は非常に古い。その名のごとく、ここにはある者の首が埋められているという。実はこの“首”こそ、大江山に住んでいた【酒呑童子】の首なのである。源頼光と四天王は無事に酒呑童子を討ち果たし、その首を持って京の都に凱旋することになった。そしてこの境界の老ノ坂峠で休んでいた時、鬼の首は不浄なので都に入れるなと子安地蔵のお告げがあった。四天王の一人、坂田金時はそれを無視して持ち上げようとしたが、どのようにしても首が持ち上がらない。仕方なく、ここに酒呑童子の首を埋めて塚を作ったのが始まりという。酒呑童子は頼光に首を切られる時に今までの前非を悔いて、首から上に病ある者を助けると約束したという。それ故、この大明神は首から上の病(頭の悪いのも含まれるみたいだ)に霊験あらたからしい。
酒呑童子 / 史上最も有名な鬼とされる。越後または近江の出身と言われ、大江山に居を構えて、たびたび都へ現れて略奪を繰り返した。そのため源頼光と四天王によって倒された。
大江山 / 酒呑童子が住んだ大江山は、一般に現・福知山市にある大江山とされているが、都へたびたび出没している点を考えると距離的な問題がある。そこで山城と丹波の境界である大枝(おおえ)こそが、酒呑童子の本拠ではないかという説も有力となっている。
坂田金時 / 源頼光四天王の一人。幼名は金太郎。足柄山で生まれ、鉞をかついで、熊と相撲を取った怪力の童子とされる。頼光に見出されて四天王に加わる。上記の逸話は、金時の生みの母親が山姥であったという伝承に由来していると考えられる(山姥もまた鬼の能力を持つ異形の存在)。
いさら井
【日猶同祖論】という摩訶不思議な説が存在する。かいつまんで言うと、日本人とユダヤ人とは祖先が同じである、日本人の祖先は“消えたイスラエル十部族”の末裔である、という気宇壮大な思想である。渡来人の秦氏の本拠地であった太秦(うずまさ)の地も、実は【日猶同祖論】の有力な証拠が点在する場所として知られている。提唱者は景教(ネストリウス派キリスト教)研究の世界的権威である佐伯好郎。彼は、古文書の記載から秦氏の祖先が古代キリスト教を信仰していたユダヤ系の民族であるとし、その名残が太秦の地に残っているとしたのである。その重大な証拠の一つが【いさら井】と呼ばれる井戸の名前なのである。秦氏が建立した広隆寺の西側、現在はちょうど観光客用の駐車場になっている場所の脇にある細い道を入っていくと、この井戸がある。今はもう使われなくなっているが、隠れた史蹟として残されているようである。佐伯博士によると“いさら井”は“イスラエル”がなまったものという。なるほどと思わせる説なのだが、ところが“いさら”という言葉がちゃんと存在しているのである。“いさら”とは“少ない”という古語であり<“いささか”と同じ語源>、“いさら井”とは“水の量が少ない井戸”という意味なのである (『広辞苑』にも記載されてます)。夢とロマンをとるか、現実路線をとるか、微妙なところである。
安倍晴明墓所
稀代の陰陽師・安倍晴明の墓は複数ある。その力を利用されるのを恐れたために、本当の墓所がどこか判らないようにさせるのが目的だったとも言われている。しかし、さすがに現在はそのような負の利用を考える者もいないのか、“公式”の墓所が定められている。場所は京都でも有数の観光地である嵐山。渡月橋から大堰川沿いに三条通を行き、小さな川の流れる小道へ折れ曲がる。ここまで来ると、観光地とは目と鼻の先だが、全く喧噪というものを感じなくなる。さらにその小道を奥へ行くと、長慶天皇陵の脇に墓所が見える(ちなみにこの長慶天皇であるが、安倍晴明とは全く関係のない、室町時代初期、南朝第3代の天皇である。しかもこの陵は昭和19年に長慶天皇ゆかりの天竜寺塔頭跡地にできたものである。従って陵よりも墓所の方が先にあったと考えられる。実際、この墓所は“晴明塚”として中世よりあったとされている)。もともとこの土地は天竜寺の所領であったそうで、多分晴明の墓所も天竜寺の塔頭の1つにあったものと思われる。しかし、年月が経ち荒廃が進んだために、最終的にこの土地を晴明神社が譲り受けて“公式”の墓所と定めたのである。
安倍晴明 / 921-1005。従四位下播磨守。陰陽道を極め、時の天皇や摂関家より信任が厚かった。死後間もなく屋敷跡は晴明神社になるなど、陰陽道による術によって神格化された。
京都の安倍晴明墓所 / 嵐山以外にも、五条河原の中州や鳥羽街道の竹藪も伝承されていたが、この2つの遺跡は全く痕跡もなくなっている。京都に残されたのはこの嵐山の墓所だけである。
羅刹谷
京都にかつて“羅刹谷”という恐ろしげな地名があった。恵心僧都源信が今の東福寺と泉涌寺の間にある渓谷を歩いていると、どこからともなく絶世の美女が現れた。美女は源信を誘うと、谷の奥の住処へ連れて行った。そしていよいよその本性を現す。外見は美女であるが、その本性は人を喰らう鬼“羅刹”であった。しかし源信は最初から美女の正体を見破っており、しかも仏道に精進する高僧であるために羅刹は食うどころか触れることもできない。やむなく源信を谷の外まで帰したという。こんな凄いエピソードがありながら、現在では“羅刹谷”という名は残っていない。『都名所図会』にあたって、この話の出典が虎関師錬の『元亨釈書』であり、正式には“らせつこく”と読むということもわかった。さらに地図を見てようやく二つの大寺院の間に渓谷らしきものがあることに気付いた。とにかく現地へ行ってみて、それらしき痕跡のものを探すしかないようである。だが当然のことであるが、現在において羅刹が住んでいるはずもなく、民家が建ち並んでいるだけの閑静な場所である。だが、丘を迂回するようにできた細い舗装道路を山の奥の方へ歩を進めると、やはり細い川のせせらぎが聞こえる。“渓谷”があるのだ。そしてそのせせらぎの音は滝の音だったのである。【白髭大神】とある神社は、完全に寂れた場所であった。唯一整備されていると言っていいのが、“白髭の滝”と呼ばれる滝と、岩屋の中に作られた“御壺瀧大神”だった。岩屋を見た瞬間、羅刹の住処を連想した。それだけこの神社は異彩を放っている。たとえこの場所が羅刹谷と関連がないとしても、この雰囲気だけはその当時の怪しい感触を示すものであると感じた。
羅城門跡
平安京の正門と言うべき羅城門であるが、石碑一つあるのみで全く痕跡がない。怪異の舞台としての羅城門は、既に大門としての役目を放棄した後の時代、平安中期以降に輝きを増す。二階部分にあたる楼上に鬼が棲みつくようになったのである。そして鬼達は人間界の達人と邂逅するのである。文章博士・都良香が羅城門を通った時、「気霽れては風、新柳の髪を梳る」と漢詩を詠むと、楼上から「氷消えては波、旧苔の鬚を洗ふ」と詩の続きを詠む声がした。良香がこの詩のことを菅原道真に語ると「下句は鬼の詞だ」と言ったという。(『十訓抄』より)三位・源博雅は、清涼殿から持ち去られた琵琶の玄象の音色を辿って羅城門に行き当たった。音曲が人間の奏でるものではないと悟ると、曲が終えるのを待って呼びかけた。すると縄に結わえられた玄象が降ろされたという。(『今昔物語』より)頼光四天王の一人・渡辺綱が酒宴の余興で羅城門を訪れた時、上から兜を掴まれた。その掴みかかった腕を一刀の下に切り落とした。腕を切り落とされた鬼は、酒呑童子の副将であった茨木童子であったとされ、七日後にその腕を取り戻したという。(『御伽草子』より)
羅城門 / 平安京造営の際、朱雀大路(現・千本通)と九条通の交差する位置に建てられた大門。洛中と洛外を分ける。弘仁7年(816年)に大風のための倒壊したが再建。さらに天元3年(980年)に暴風雨で半壊、それ以降改修されることなく、荒れるがままとなる。
魔王石
京都五山の第四位に当たる東福寺は、かなり大きな敷地を有する。そして紅葉で有名な通天橋をはじめとする見どころも多い。その観光スポットの一つである三門のそばに、寺院のはずなのになぜか鳥居が並んだ場所がある。ここが東福寺の鎮守社にあたる【五社成就宮】である。この神社の名の由来であるが、石清水・賀茂・稲荷・春日・日吉の5社の神を祀っているために名付けられたものである。その本殿に行くためには、鳥居に囲まれた参道を登っていかなくてはならない。そして間もなく本殿というところでちょっとした広場がある。そこにはなかなか不思議なものが建っている。十三重の石塔(重要文化財)である。現場には特に何の立て札も立てられていないが、公式HPによる と東福寺創立祈願のために建てられたものらしく、相当古いものらしい。そのような場所に、さらにそこには【魔王石】と呼ばれる石を祀った祠がある。実は、この十三重の石塔の正式名称は「比良山明神塔」、即ち比良山の魔王(天狗)を祀ったものである。東福寺を建立したのは九条道家だが、それに着手する前、病に伏せっていた時に、家来の女房に「藤原の祖先」を名乗る比良山の魔王が憑いて、道家の病の元凶を教え、病を癒したとされる。このような由来のせいか、厄除けを祈願すると良いらしい。
藤森神社
京都教育大学に隣接する地に藤森神社はある。この神社は相当古い歴史を持っており、神功皇后が新羅より凱旋した際に旗や 武具を納めたのが起源とされている(境内には神功皇后の旗塚なるものがある)。そのためか、この神社は素戔嗚尊・日本武尊・武内宿禰など武威を示した神が多く祀られており、端午の節句に武者人形を飾る風習の発祥の地であるとされている。さらに東殿には天武天皇と舎人親王、西殿には早良親王・伊予親王・井上内親王が祀られている。古文献によると三つの社が合祀されてできた神社だとも言われている。ちなみに早良親王に関していうと、他の神社のように御霊信仰のみで祀られているのではない。蒙古が攻めて来るという噂が流れ、早良親王がこの地で戦勝を祈願して出陣したとの言い伝えがあり、武神としての性格も帯びているのが異色である(ちなみ境内には【蒙古塚】というものがある)。この神社の摂社である大将軍社は、平安京造営の際に桓武天皇が設けた四つの大将軍社の一つであるとされる(南の方角)。この境内社も別の土地から移されてきたものであるとも推測できるだろう (古文献によると、南の大将軍社だけは所在不明であるとされていた時期があるという)。この大将軍社自体は室町幕府6代将軍足利義教の命によって建てられた重要文化財である。複数の社が集められて形成されていると言ってよい経緯はあるにせよ、現在の藤森神社と言えば“勝負事の神様”。特に駈馬(かけうま)神事などの縁もあって、競馬の神様のような扱いを受けている。
深泥ヶ池 (みぞろがいけ・みどろがいけ)
周囲約1500メートルの池であり、氷河期から生き残っている生物もおり、生物群集が天然記念物として指定されている。学術的にも貴重なエリアであるが、多くの伝承が残されている池でもある。その名の由来であるが、行基がこの池から『弥勒菩薩像』を発見したことから始まるらしい(あるいはここに深泥池地蔵堂を置いたという伝承から)。一般的には、泥が大量に堆積している底なしの池という意味から「みどろがいけ」と呼ばれているが、伝承的な側面から言えば、弥勒や地蔵という音から「みぞろがいけ」と呼ぶ方が正しいようにも感じる。この地はちょうど洛中から鞍馬街道へ向かう分岐点であり、まさに人里から異界への境界線上であるという認識があったようである。そして“鬼が出てくる穴”というものが存在していたという。その出現してくる鬼を退治するために、始まったのが『豆まき』であるというのである。昭和初年頃には【豆塚】なるものがあった言われているが、今ではその所在していた場所すら不明である。一説によると、深泥ヶ池から少し離れたところにある深泥ヶ池貴船神社の境内にそれがあったと言われている。
深泥池地蔵 / 深泥ヶ池の畔には明治の廃仏毀釈の頃まで地蔵堂があった。この地蔵は“六地蔵”の一つで、京都からそれぞれのエリアの主要な街道を抜ける場所に置かれていた(現在でもこの六地蔵は全て残っており、8月下旬に“京都六地蔵巡り”と称して参拝が続けられている)。深泥池にあった地蔵は、現在、上善寺に移転して鞍馬口地蔵と呼ばれている。
更雀寺 (きょうじゃくじ)
藤原実方という人物がある。あるとき殿中で藤原行成と口論となり、怒りにまかせて行成の冠を投げ捨ててしまった。その一部始終を見ていた一条天皇は「歌枕を見てこい」と言って実方を奥州へ左遷したのである。それから3年後、実方は奥州で客死する。馬に乗っていた実方が笠島道祖神社の道祖神をけなしたために神の逆鱗に触れ、馬もろとも蹴り殺されたと伝えられている。一説では落馬が原因で死んだとも伝えられている。いずれにせよ、京都の土を踏むことなく亡くなったのである。実方が奥州で客死したという知らせが京都へ伝わったちょうどそのとき、清涼殿に一羽の雀が舞い降りて膳の飯をついばむと、さらに藤原氏の私学校である勧学院へ舞い降りてそのまま息絶えてしまった。それを聞いた人は“京都へ帰りたかった実方の一念が雀となって戻ってきたのであろう”と噂しあったという。そして勧学院に【雀塚】なるものを建てて、実方の霊を慰めたという。妖怪ファンなら、上のエピソードをご存じの方は多いはず。鳥山石燕の【入内雀】こそがこの話をもとに描かれた妖怪なのである。雀塚は勧学院に建てられたのだが、後に勧学院跡(四条大宮西側)にできた更雀寺に祀られていた。しかし、昭和52年に四条大宮のターミナル化に伴い、左京区の静原に移転することとなり、雀塚も同時に移転した。
小町寺
洛北の市原は小野一族の所領地であった。その地に【小町寺】という通り名の寺院がある。正式な名は【補陀洛寺(ふだらくじ)】。小野小町終焉の地として知られ、小町の晩年からその死後にまつわるさまざまな伝承の史蹟がある。伝説によると、小町は京都や地方を転々としていたが、晩年は小野氏の所領である市原に居を定めて暮らしていたという。ある時、井戸の水に映った自分の姿を見て愕然とする。そこに映った姿は、もはや昔の美貌とは懸け離れた老婆の姿であった。その醜く老いさらばえた姿を嘆き悲しみ、小町はこの地で亡くなるのである。実際、この小町寺の境内には『姿見の井戸』という湧き水の跡がある。さらにこの小町寺には“小野小町老衰像”というストレートな名前の像が安置されている。顔の表情から女性であると認識できるが、絶世の美女と言われた小町のイメージをその像から思い浮かべることはまず無理である。むしろその容姿から想像されるのは、三途の川の番人である“脱衣婆”である。しかし、無常さという意味で【姿見の井戸】を越える逸話がこの寺には残されている。死んだのち、小町の遺骸は埋葬されず放置されていた。ある時、その辺りを僧が通りかかると「あなめ、あなめ(ああ、目が痛い)」という声が聞こえる。不審に思って声のする方へ行くと、一つの髑髏が転がっており、その目の穴からすすきが生えていた。その髑髏の主が小町だったのである。小町寺の境内の一角に、髑髏が転がっていた場所が特定されている。しかもそこは今でもなお、すすきが生えてくる。【穴目のすすき】と呼ばれるその逸話は、死んでなお不遇であった小野小町を象徴するものである。『通小町(かよいこまち)』という能の演目がある。鞍馬に滞在する僧のもとへ若い女性が毎日訪れる。名を聞くと「小野とは云わじ、すすき生いたる…」と答えて消える。思い当たる節があり、市原にある小野小町の墓所に赴き供養する。そこへくだんの女が現れて受戒を頼むが、男が現れ妨害しようとする。女は小野小町の亡霊、男は小町への百夜通いを果たせずに死んだ深草少将の亡霊であった。成仏しようとする小町と、愛憎の世界に留まろうとする少将。 僧は二人に受戒を勧め、少将に百夜通いの様子を再現させる。そして二人は悟りを開き、成仏する。この世阿弥が作り上げた演目によって、市原は小野小町終焉の地として知られるようになる。
石座神社/山住神社 (いわくらじんじゃ/やまずみじんじゃ)
平安京は呪術による数々の防衛ラインが敷かれた魔界都市である。一番有名なのは“鬼門・裏鬼門”や“四神相応”といった陰陽道的な仕掛けであるが、それ以外にも仏教の法力によって鎮護を行う仕掛けがある。それが“四つの岩倉”と呼ばれるポイントである。巨大な岩石を“磐座”と称して祭壇として使用したり、それ自体を崇拝する習慣があった。平安京造営時に桓武天皇は、京都の東西南北にある“磐座”を掘り出し、その下に一切経を埋めたという。古来よりパワースポットとして利用されてきた場所に仏教の経典を納めることで京都の町全体を守護させようという目的であったことは明らかである。そして性質の違いから、古来よりの“磐座”はなく“岩倉”という名称を使用するに至った訳である。“岩倉”という文字を見てピンと来るのが、左京区にある“岩倉”というエリアである。この地はまさに桓武天皇が経典を納めた4つの岩倉のうちの“北の岩倉”にあたる。しかも経典を納めた巨石が残されているのである。岩倉エリアの産土神として祀られているのが、石座神社である。漢字こそ違うが、まさに“いわくら”と読ませる神社である。ところがこの神社には 肝心の巨石がない。実はこの神社が【石座神社】と呼ばれるようになったのは明治になってからのことなのである。今の石座神社から少し南へ行ったところに“山住神社”という神社がある。この神社には本殿がない。あるのは巨大な岩である。つまりここが本来の“石座神社”である。そもそも巨石そのものが御神体であったのだが、天禄2年(971年)に大雲寺創建に伴ってこの御神体の鎮守社が勧請され、長徳3年(997年)に岩倉エリアの鎮守はこの新しい神社に移されたのである。それが現在の石座神社なのである。しかし明治時代に入るまでは、巨石がある神社の方が“石座神社”と呼ばれ、鎮守社となった神社は“八所明神”と呼ばれていたのである。現在“山住神社”は石座神社の御旅所としての地位にある。この2つの神社の変遷を見ていると、自然信仰から神社としての形式(社格)主義への流れが手に取るようにわかるように思う。
鬼門・裏鬼門 / 魔物が進入してくる方角であり、そこに魔除けを置くことで封じる。鬼門は北東(艮:うしとら)の方角。裏鬼門はその反対の南西(坤:ひつじさる)の方角。京都の場合、鬼門に比叡山延暦寺を置き、裏鬼門には石清水八幡宮(または城南宮)を置く。
四神相応 / 東西南北を司る神と、それに相応しい地勢。この条件に適した土地であれば、土地の相が良いとされる。東は“青龍”で川。西は“白虎”で大道。南は“朱雀”で湖沼。北は“玄武”で山。京都の場合、東は鴨川、西は山陰道、南は巨椋池(現存せず)、北は船岡山となる。
四岩倉 / 北は石座神社(現・山住神社)、東は大日山(粟田口あたり。現存せず)、南は明王院不動寺(五条松原付近。現存)、西は金蔵寺(大原野付近。現存)
橋姫神社
橋姫神社の祭神は“宇治の橋姫”である。だが橋姫の伝承を語ろうとする時、あまりにも違いすぎる性格故に困惑する。最も有名な伝説と言えば、【丑の刻参り】の原型とされるもの、自らの意志によって鬼女と化して人々を恐怖に陥れたという伝承がある。ところが全く正反対の橋姫も存在し、夫を龍神に奪われるが、それでも夫を思い続ける“橋姫”の伝承も残っている。橋姫神社は宇治橋西詰から歩いて1分程度の場所にある。御利益はと言えば、やはり最初に取り上げた伝説のインパクトがあまりにも強いせいか、やはり“縁切り”である(実際、婚礼の行列はこの神社や宇治橋を通るのを避けていたという慣習がある)。ところが。この橋姫神社の発祥を考えると、また別の姿が顕わになる。平成に建て替えられた宇治橋であるが、その途中に一部分出っ張った場所がある。この場所は【三の間】と呼ばれ、かつて豊臣秀吉がここから茶の湯の水を汲んだと言われている(今でも行事として行われている)。実はこの出っ張った部分こそが、橋姫神社が最初にあった場所なのである。つまり橋姫は宇治橋を守護する神なのである。時代背景を考えると、オリジナルの“橋姫”はこの宇治橋の守護神である可能性が高いだろう。
『平家物語』による橋姫 / ある公家の娘が嫉妬のあまり貴船神社へ詣でて鬼になることを願った。そして7日目に貴船の神託があり、姿を変えて宇治川 に21日間浸かれば鬼と化すという。そこで女は髪を松脂で固めて5つの角を作り、顔には朱、身体に丹を塗り、頭に鉄輪をかぶってその3本の足に松明をつけ、さらに両端に火をつけた松明を口にくわえて京の南へと走り、宇治川に浸かって生きながら鬼となったという。そして念願通り、人々を取り殺したという。さらに室町期に後日談が作られ、この橋姫は安倍晴明によって封じ込められ、源頼光四天王の渡辺綱らによって退治された。そして祀ってくれるならば京を守護すると言って宇治川に身を投げて龍神となったという。このあたりの伝承や創作から謡曲『鉄輪』が作られ、丑の刻参りに繋がっていったと見るべきである。
『山城国風土記 逸文』による橋姫 / つわりがひどい橋姫は、夫に海草を採ってきて欲しいと頼む。そして夫が海辺で笛を吹いていると、美しい龍神が現れて婿に迎えてしまう。そして3年経ってようやく橋姫は夫の所在を尋ね当てる。夫は竜宮の火で作られたものを食べることを嫌い、老女の家に食事に来るという。そこで二人は再会するが、泣く泣く別れることになる。その後、夫は橋姫の元に戻ってきた。このときに夫が詠んだとされる歌が、詠み人知らずとして『古今和歌集』に収められている。「さむしろに衣かたしき今宵もや 我をまつらん宇治の橋姫」この悲劇のヒロインの流れを汲むのが『源氏物語』第四十五帖【橋姫】に登場する大君と中の君であると推察できるだろう。
宇治橋 / 大化2年(646年)に架けられた日本最古の橋。奈良元興寺の僧・道登が作ったとされる(宇治橋断碑では道昭によるとなっている)。その際に上流にあった瀬織津媛を祀り、それを橋姫神社としている。
頼政塚
鵺退治で有名な源三位頼政であるが、いわゆる“正史”の中でも彼の勇名は刻まれている。1180年4月、有名な以仁王の平家打倒の令旨が出された。それに一番最初に応えたのが頼政である。だが翌月、奈良へ逃れようとする以仁王と共に、頼政は宇治で平家軍に追いつかれる。そして宇治川をはさんだ戦いが繰り広げられることになる。結局、多勢に無勢のまま頼政の軍勢は押し切られ、頼政は宇治平等院で自刃して果てることになる。この頼政の遺体のその後については、諸説ある。首実検をおこなったという書物もあれば、家来が首を隠してしまったという話も残っている。そのような中で、頼政の首塚と伝えられる塚がある。しかも宇治からかなり離れた亀岡市内にである。国道9号線を走っていると【頼政塚】という名の交差点に出くわす。ここを折れると小高い丘の上に頼政塚はある。伝承として、源頼政の家来がここまで首を運び埋めたと言われている。この地のすぐそばにある“矢田”という土地を、頼政は鵺退治をした時の褒美として拝領しているのである。多分頼政にとってこの地が自刃の場所から最も近い私有地だったのだろう。そして無念の死を遂げた者の【首塚】と言われるだけに、この塚に無礼なことをすると祟りがあるという。実際訪れた日にも、設備の何かを破壊した者への警告文が貼られ“手足が麻痺し、やがて命に関わることになる。過去にも命を落とした者がある”と書かれてあった。真偽はともあれ、そのような内容の文が堂々と出されていることに、この塚への畏敬の念が並々ならぬことがうかがわれた。
天梯権現祠 (てんだいごんげんほこら)
比叡山の魔所である天梯権現の祠は東塔根本中堂を下ったところにある。今でこそ比叡山へは交通の便に事欠かないが、かつてはいくつかのルートの山道が唯一の交通手段であった。この天梯権現のある場所も、坂本から根本中堂に至る『本坂』と呼ばれる重要ルートに面している。 いわば、この魔所は今でこそ観光ルートから外れた場所にあるが、かつては比叡山の表参道に近い場所にあったわけである。根本中堂から山を下るように一本の道が延びている。これが天梯権現へ通じる道、本坂である。一応かつての幹線道路であるが、完璧な山道である。程なくして、一度転げ落ちたら止まらないのではないかというぐらい急な坂に出くわす。そして、それを下りきったところにようやく天梯権現の目印になる【亀堂】が姿を現す。亀堂と言っても、ほとんど打ち捨てられたような堂宇一つである。本来は聖尊院堂という名なのであるが、そばにある『薬樹院之碑』という立派な石碑の下の部分に亀の像があるためにその名で通っているようである。亀堂からは天梯権現へは人の歩く道ではなく、獣の歩く道しかない。辛うじて人工的に切り開かれた獣道を頼りに歩を進める。しばらくすると、天梯権現へ向かっていることを示す石仏群が見えてきた。しかし、ここから先は獣道すらなくなる。山の斜面に風化したような石段らしきものがあるので、多分道であろうとい うことでその急な山の斜面を登る。そして斜面を一気に登り詰めたところに天梯権現祠があった。この祠のある小高い丘には、昔から“天狗が棲んでいる”と言われていた。そしてこの小山にある大きな杉の木の上に立ち、この比叡山と中国の天台山との間を行き来していたという。実際ここの祠に祀られている神は“天梯”つまり“天への梯子”という意味の名を持っているのである。かつてこの地には本殿や拝殿を持った社殿があった。しかし織田信長の焼き討ちに遭い、その後は小さな祠が建てられただけであるという。それが現在の祠である。そしてその社殿があった当時からこの地は魔所として畏敬の念を持って見られ、この小山の枝一本、小石一個も持ち出すことを禁じられていたそうである。坂本から根本中堂へ抜ける山道『本坂』はその名の通り、比叡山の表参道であった。だが、京都から見ればこの幹線道は鬼門を貫いているのである。だから“魔を以て魔を制す”ものをここに配したのだと推測する。
天台山 / 中国浙江省(省都は杭州)にある霊山。後漢時代から道教の聖地であったが、4世紀頃から仏教寺院が多く建てられた。575年に天台宗の開祖・智がここで宗派を確立させる。日本の天台宗の開祖である最澄も、この天台山で教えを学んでいる。
狩籠の丘
【比叡山四大魔所】という言葉は、実は比叡山の公式本の中にはない。あるのは【三大魔所】のみである。なぜか一箇所だけが公式の見解としては省かれているのである。その理由はただ一つ、そこが最も危険かつ強烈であるためである。その場所こそが“魑魅魍魎狩籠の丘”なのである。当然のことながら、狩籠の丘に関する情報は少ない。その由来であるが、比叡山の開祖である伝教大師最澄が、都の南東(巽)にいた魔物を狩り、北東(艮)に埋めたという伝説がある。都の南東がどこであるかは明確ではないが、最澄ゆかりの北東の地といえば比叡山であることはほぼ断定できるだろう。しかし、由来以上に少ないのが場所に関する情報である。正直なところ、火坂雅志氏の著書『魔界都市・京都の謎』だけが頼りである。それによると、狩籠の丘は西塔エリアの近く、比叡山ドライブウエイに面して、芝生が植えられた広場のような場所ということになっている。そして最大のポイントは、高さ1メートルほどの錘形をした3つの石が約9メートル間隔で置かれており、その3つを直線で結ぶと正三角形となり、その中心に魔物が封印されているというのである。ちなみに千日回峰行をおこなう僧が真夜中にこの地を通り過ぎる時、必ずこの場所で提灯の蝋燭を取り替え、古い蝋燭をこの石のそばに置いて法華経を唱えながら去るとのこと。
慈忍和尚廟 (じにんかしょうびょう)
比叡山四大魔所の一つ、慈忍和尚廟は比叡山の中心地・三塔からかなり外れた場所にある。比叡山の一番奥にあたる横川から 坂本方面へ下ること約2キロのところに飯室谷という場所がある。飯室谷は“延暦寺五大堂”の一つである飯室谷不動堂があり、観光スポットとなった三塔と比べると小規模ではあるが、比叡山では重要な場所と目されている。その地に慈忍和尚廟はある。慈忍和尚は僧名を尋禅といい、18代天台座主である慈慧大師(元三大師)の高弟であり、後に19代の天台座主となった人物である。座主に就いてからも修行に明け暮れ、その姿は多くの僧の励みになったという。そのような名僧の墓所が【魔所】として挙げられているのか。それには次のような伝説がある。自らも修行三昧であった慈忍和尚は亡くなってからもことのほか戒律に厳しく、一つ目で一本足の妖怪と姿を変えて、『山僧よ、僧の本分を忘るるなかれ』ということで夜な夜な破戒の僧を見つけては鉦を叩いて脅しつけ、山から下りざるを得ないようにさせたというのである。つまり比叡山の格式を守るために“魔道の者”として妖怪の姿へ変化させたのである。自らを魔道に貶めつつ、比叡山を守り固めようとするその凄まじい思いは何とも言い難いものがある。それ故、畏敬の念を持って慈忍和尚廟は聖域となり、また魔所となったわけである。東塔の根本中堂を少し下ったところに総持坊という寺院がある。その坊の玄関にある額を見上げると、そこに“一眼一足”の妖怪の姿が描かれている。これが慈忍和尚の変わり果てた姿である。そして玄関の脇には慈忍和尚が山を回る際に使った杖が立てかけられてある。
元三大師御廟 (がんさんだいしみみょう)
初期の比叡山の発展に功績のあった僧といえば、開祖である伝教大師最澄、天台密教の完成者である慈覚大師円仁、そして天台中興の祖といわれる慈慧大師良源(元三大師)である。この三人には数々の逸話・伝説があるが、とりわけ比叡山にゆかりのある逸話を多く持つのが良源である。比叡山の横川(ヨカワ)は良源が長く修行を積んだ地であり、そこには元三大師堂(四季講堂)と呼ばれるゆかりの堂がある。その裏手の奥に “元三大師御廟”がある。ここが【比叡山四大魔所】の一つなのである。元三大師の墓所は、開祖伝教大師の墓所と区別するために【みみょう】と呼ばれている。なぜそこまでして【御廟】という言葉にこだわるのか。それはこの廟所が比叡山にとって非常に重大な意味を持っているからなのである。元三大師の墓所の奥はただ切り立った崖であり、ここから先には何もない。しかも京都から見ると北東の位置にある。つまりこの御廟は比叡山の最果ての地であり、京都の鬼門に当たる比叡山の、そのまた鬼門に当たる横川の、更にはその最も鬼門に当たる場所にあるのである。要するにこの地は鬼門中の鬼門であり、魔なるものを封じる最前線ともいうべき場所なのである。良源はこの地に葬られることを望み、また遺言として墓所は荒れるに任せるように言ったという。彼は自分が葬られる場所がどのような意味を持つ場所かを理解し、そしてそこに葬られる自分の役目を全うすることを誓ったのである。それは自らを魔なるものとし、魔をもって魔を抑えることを意味するのである。
白峯神宮
創建は明治元年(1868年)。京都の中では最も新しい神社の一つであると言えるだろう。しかし、祭神は崇徳上皇と淳仁天皇である、明治天皇の勅願ということで戦前の社格は最上位・官幣大社である。この神社の名前の由来は崇徳上皇崩御の地である白峰山からとったものであり、公式の形で崇徳上皇の霊が京都へ戻ってこられたことを意味する。崇徳上皇と言えば史上最強の祟り神とされ、生きながらにして魔王となることを宣言した人物である。その祟りの凄まじさは、死の直後から起こった源平の合戦を鑑みれば納得できる。だが、なぜ幕末から維新にかけての動乱期に崇徳上皇の御霊を京都へ奉還してきたのか。表向きは孝明天皇の発案、明治天皇の勅願となっているが、実際には、政治的な意図があると言われている。一つは維新の動乱が崇徳上皇の魔力によって引き起こされたものであることを強調するため、そして一つは崇徳上皇の 祟りによって主権者の地位から転落した朝廷が、京都に帰ってきていただくことで上皇と和解、主権を取り戻したことを暗に示そうとしたためであると考えられる。新しい神社を創建するということで選ばれた土地は、堀川今出川東入ルの飛鳥井家の邸宅跡であった。飛鳥井家は“蹴鞠”の宗家であり、その邸宅には【鞠の精】を祀った精大明神があった。この神社は鎮守の神という訳で、白峯神宮創建後もその敷地内に置かれることになった。球を扱う神様だからということで、精大明神のある白峯神宮は【球技の神様】に変身してしまった。かつてはパチンコに御利益があると言われ、今や「蹴鞠は日本のサッカーの原点」ということでサッカーの神様にもなってしまった。さて、この【鞠の精】であるが、藤原成通という人物が千日に渡る蹴鞠修行を果たした直後に現れた三人の神様で、猿のような童子の姿をしていたとされる(名前は夏安林・春陽花・桃園と名乗る)。この精のおかげで、成通は神業級の蹴鞠が出来たという。
神明神社
鵺退治で有名な源三位頼政が、その鵺を退治する前にこの神社へ祈願し、見事成就したためこの神社へ2本の鏃(やじり)を奉納したとされる。場所は烏丸綾小路を東へ入ったところ。普通の民家が建ち並ぶ中に取りまぎれるように鳥居がある。神社というよりも大きな祠が祀ってあるという方が正しいかもしれない。問題の鏃であるが、今ではこの神社の宝となっており、年に1回だけ公開されているという。
神泉苑
堀川御池を西へ歩いて数分。ちょうど二条城の南側に神泉苑がある。元々はかなり広大な土地であり(二条城の南の通りを歩くと、かつての神泉苑の規模を示す石碑がある)、禁苑として天皇や貴族が足を運んだ場所、宗教的行事が行われた場所でもある。ここの池は平安京造営の時からあるもので、1200年前から唯一残る平安京の遺跡である。それと同時に、この池は数々の伝承・伝説・記録に彩られた場所なのである。有名なところでは、小野小町がここで雨乞いをしたとか、日本初の御霊会がとりおこなわれたとか、醍醐天皇が鷺に官位を与えたとか、鵜が池から太刀をくわえて出てきて白河天皇に差し出したとか、源義経が静御前を見初めたとか、とにかく話題には事欠かない。しかし、最大の逸話といえば、空海と守敏の雨乞い祈祷にまつわる話であろう。弘仁15年(824年)、京都の町は干魃に苦しめられていた。そこで勅命が下り、空海と守敏が祈雨の修法を行うこととなる。最初の守敏は何とか雨を降らすことができた。そして空海の番になると雨が降らない。そこで空海が探りを入れると、守敏が龍神を封じ込めているではないか。ならばと空海は善女龍王を天竺より勧請し、見事に大量の雨を降らせたのである。神泉苑の池にある中島には、空海が勧請した善女龍王社がある。一見、これが神泉苑の本殿であるように思うが、実は神泉苑は真言宗の寺院である。しかしながら池の周辺には弁天堂もあって、やはり水の神様がここの主役と言うべきかもしれない。善女龍王社の前に小さな祠が置かれている。この何の変哲もない祠であるが、何と日本でここだけという【徳歳神】が祀られているのである。この祠はその年の恵方(幸運の方角)へ向かうように、毎年台座の上で廻されるのである。実際に台座を見ると動かされた跡が残っており、また台座の下には四方から拝めるような工夫がなされていた。それにしても毎年位置が移動する祠というのは、多分ここだけなのではなかろうか。
小野小町の伝説 / 『雨乞小町』という謡曲(現存せず)によると、ある大干魃の年、高僧が祈祷をおこなっても効果がなく、帝の勅命で小野小町が「ことわりや日の本なれば照りもせめ さりとてはまた天が下かは」との雨乞いの歌を詠んだところ、大雨が降ったという。
御霊会の伝説 / 非業の死を遂げた者(特に政争で敗れ無念を残して死んだ者)が祟り、天変地異を引き起こすと考えるのが御霊信仰。それを防ぐためにおこなわれた儀式が御霊会。貞観5年(863年)5月に神泉苑で執り行われたのが嚆矢とされる。さらに貞観11年(869年)の御霊会では66本(日本の国の数)の鉾を立てて執り行った。これが後の祇園祭となっていく。
醍醐天皇の伝説 / 神泉苑の池に一羽の鷺があるのを見た天皇が、それを捕らえるように命じた。命ぜられた役人が鷺に向かって「勅命である」と言うと、鷺はおとなしく捕らえられた。天皇はそれを聞き、神妙であると、この鷺に五位の位を授けた。これが“ゴイサギ”の名の由来となった。
白河上皇の伝説 / 上皇が神泉苑で宴を開いた際に鵜漁を見学した。その時に鵜が池の中から太刀を拾い上げた。上皇はそれを霊剣として“鵜丸”という名を付けて秘蔵した。この剣は後に崇徳上皇から源為義に下賜された。
静御前の伝説 / 寿永元年(1182年)後白河上皇が雨乞いのために、神泉苑で白拍子100人を集めて舞を踊らせた。99人まで舞うものの雨は降らず、最後の静御前が舞うと黒雲が湧き上がり雨が降ったという。この時源義経もその場におり、静御前を見初めたと言われる。
守敏 / 生没年不明。823年に嵯峨天皇より西寺を与えられる(同じ時に東寺を与えられたのが空海)。空海とは折り合いが悪く、この雨乞いで敗れた後に、空海の命を狙う。
善女龍王 / 八大龍王の一柱である娑羯羅龍王の第三王女。空海によって“清瀧権現”と名付けられ、密教の守護神として祀られている。
晴明神社
この神社が創建されたのは寛弘4年(1007年)、晴明の没後2年、一条天皇の勅命であったと伝えられており、安倍晴明が生前にいかに特殊な能力を発揮していたかが察せられる。建てられたのは晴明旧宅地であるとされる(その後の研究によって実際の屋敷は、神社の南東に当たる京都ブライトンホテル駐車場付近であったとされている)。この地は当時の御所の鬼門に当たる位置であり、当然のことながら御所を守護する意味合いが強いと考えられている。いずれにせよ、この神社は 魔界のものから京都(朝廷)を防衛するためのシステムとして建てられたものと見て差し支えないと思う。この神社の祭神はいうまでもなく、安倍晴明である。そして彼以外の祭神は祀られていない。さらに末社は稲荷神社だけという、非常にシンプルな神社である。そしてこの神社の社紋は、あの有名な【五芒星】である。この紋は神社の至る所にあり、社殿にも燦然と輝いている。この【五芒星】であるが、晴明の名にちなみ【晴明桔梗】とか【セーマン】という名で呼ばれてもいる。まさに陰陽道を象徴する紋章である。また晴明神社の中に【晴明井戸】と呼ばれる井戸がある。この井戸から汲み出される水は霊験あらたかであり、いかなる病気にも効くということで“晴明水”と呼ばれている。この水で千利休が茶を点てたことがあるとも伝えられている。安倍晴明に関する数々の超能力は、後世の説話集を中心に語られている。果たしてどこまでが真実であるかはわからないが、簡単に列挙してみる。
十歳の頃、師である賀茂忠行のお供をしていた時、前方に鬼の群れがあるのに気づき、危機を逃れた。忠行はその天賦の才能を見抜き、陰陽道の全てを教授した。(『今昔物語』より)花山天皇の電撃的な退位の際、天皇が晴明の屋敷の前を通りがかると「帝が退位する兆しがあるので、式神に様子を見させよ」との晴明の声がして、誰もいないのに屋敷の門が開いた。(『大鏡』より)晴明は十二神将を式神として使役していたのだが、妻がその容貌を恐れたために、屋敷のそばの一条戻り橋の下にそれらを隠し置き、必要あればそれらを呼び出していた。(『今昔物語』より)蔵人の少将が烏の糞をかけられるのを見た晴明は、それが呪詛であることを見抜き、呪詛返しを行った。すると翌日に呪詛を行った陰陽師が死んだという知らせがあった。(『宇治拾遺物語』より)藤原道長に対する呪詛が門に仕掛けられているのを見抜き、さらに仕掛けた者を探すべく紙を白鷺に変えて飛ばし、道摩法師を捕らえた。(『宇治拾遺物語』『十訓抄』より)播磨からやって来た陰陽師が術を挑んだが、その素性を見抜き、さらに彼の式神を隠すなどして散々な目に遭わして、降参させてしまった。(『今昔物語』より)仁和寺で、他の公卿から陰陽道の術を見せて欲しいとせがまれ、近くにいた蛙を手を触れることなく潰してしまった。(『今昔物語』より)
晴明神社の稲荷社 / 安倍晴明の母親は、和泉の葛葉姫という狐であるという伝承がある。晴明神社にも稲荷社があり、この故事に倣って勧請されたようにも見えるが、実際には、明治維新の頃に“人神である”ことで存続が危ぶまれたために、近隣の稲荷社を敷地に勧請したとのこと。
五芒星 / 5本の等しい直線でできた星形。中央に正五角形、その正五角形の各辺を一辺とする、合同な二等辺三角形でできている。この星形の5つの頂点が陰陽道の根本的思想である“天地五行(木・火・土・金・水)”を具象化したものであると言われ、晴明自身が作り出したとされる。ちなみに大日本帝国軍の軍服にはこの【五芒星】が縫いつけられている。魔除け(弾除け)の意味が込められているという。
頂法寺 六角堂
聖徳太子が創建という、平安京以前からここにある古い寺院である(正式には紫雲山頂法寺。六角堂という名前はそのお堂が六角形をしているところからきたという)。かつて聖徳太子が四天王寺建立の用材を求めて山背(やましろ)へ来たが、一服しようと近くの泉で水浴びをした。いつも首からかけていた如意輪観音像をそばの木に引っかけていたのだが、水浴びを終えていざ取ろうとするとそれが取れない。そこへ通りがかった農夫に「その木の上に紫色の雲が見える」と言われ、 太子はこの木が霊木であることを悟った。そしてこの木を切って如意輪観音を納めたのが、六角堂の起こりと言われる。またこの泉から名付けられた塔頭が「池坊」であり、六角堂の管理をおこなうと共に、華道家元として現在に至る。ここには平安京建設の基準点となった「へそ石」がある。このへそ石を中心として平安京の東西南北の道はできたという。しかしこの建設の際、六角堂は東西に延びる道の妨げとなってしまう。そこで天皇の勅使が「できれば南北どちらかへお動き下さい」と祈ったところ、六角堂は北へ少し動いて、道が貫通できたという。何とも不思議な伝説である。へそ石は六角堂の正面に当たる場所にある。昔の写真を見ると金網が張られ無愛想な感じであったが、今は周囲を敷石で飾られ、六角形のロープが張られた状態で見やすいようになっている。そういうと、へそ石自体も六角形をしている。六角堂の真正面、へそ石の隣に立派な柳の木がある。一名「地摺れの柳」、通称「縁結びの柳」である。六角堂に深く帰依していた嵯峨天皇があるとき「姿も心も類い希なるほど美しい女性を妃として与えて欲しい」と祈願した。すると、夢の中に如意輪観音が現れ「すぐに勅使を六角堂に差し向けるが良い。御堂の前にある柳の木の下に女人有り。宮中へ入れるべし」とのお告げがあった。早速六角堂へ勅使をやると、本当に柳の木の下に美しい女性が一人いた。そこで妃としたが、多くの人からあがめられるほどの女性であったという。
鵺大明神 (ぬえだいみょうじん)
二条城の北西にある児童公園のそのまた北西に小さな社がある。ちょうど真向かいにNHKの京都放送局があるところ。この小さな社が鵺大明神である。今から850年ほど前の平安末期。丑の刻頃になると、東三条の森の方から黒雲が湧き上がり、御所の上空を覆い尽くした。しかもその黒雲からは妖しげな鳥 の声がする。高倉天皇(一説には近衛天皇)はその不気味な声のために心労甚だしく、ついにその怪鳥を退治するよう源頼政に命じたのである。真夜中、いつものように黒雲が湧き上がってくると、頼政は弓をつがえて黒雲目掛けて矢を放つ。すると雲の中から何かが落ちて来るではないか。従者の猪早太がそれにとどめを刺してみてみると、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎という怪物であった。この怪物が<鵺>と呼ばれるものなのであるが、実はこの怪物には本当の名前はないのである。天皇を悩ませてきた怪物の鳴き声が鵺という鳥にそっくりだったので、勝手に鵺という名前で呼ぶことになったのである。ただしこの鵺という鳥の鳴き声は元来忌むべきものと見なされており、その点では妖しい存在の代名詞には適任だったのだろう。この怪物が空から落ちてきて、さらに頼政が血の付いた鏃(やじり)を洗ったとされるのが、この社の隣にある“鵺池”である。鵺池は児童公園の一角にあり、その石が積まれた形から、馬蹄形をしているのが判る。鵺大明神のそばには全文漢文で刻まれた「鵺池碑」があり、先祖である源頼政の功績を顕彰している。しかし、この鵺大明神は大変新しいもので、昭和9年(1934年)に鵺池のある二条公園が整備された時に同時に祀られたものであるという。
鵺池碑 / 碑には「元禄庚辰(1700年)に京都所司代の松平紀伊の家臣が建てた」ことが記載されており、篠山藩の松平信庸の時であると判る。この地は江戸期においては京都所司代の敷地内であり、池もその屋敷の中にあったものとされる。ただ鵺にまつわる伝承はしっかりと残されていたと言えるだろう。
石像寺 釘抜き地蔵
家隆山光明遍照院石像寺。と言ってもピンと来る人はまずいないが、【釘抜地蔵さん】と言えば、そのユニークな絵馬でなかなかの知名度のある寺院である。千本今出川を少し北へ上がったところに、小さな山門と言うべき門がある。しっかりと見ておかないと通り過ぎてしまうほど、何の変哲もない門である。しかし、一歩その中へ入ると、手狭とも思える境内はまさに異空間である。いつ行っても線香の煙が立ちこめ、必ず参拝者がいる。そして圧巻なのが、本堂の壁面などに所狭しと飾り立てられたお礼参りの奉納絵馬である。奉納絵馬は全て同じデザイン。実物の釘抜きと八寸釘がセットになって板に打ち付けられている。弘治2年(1556年)頃、近隣に紀伊国屋道林という商人がいた。ある時急に両手が痛み出し、何をやっても効き目がない。わらをもすがる思いでこのお地蔵さんに願を掛けた。そして満願の日、夢枕にこのお地蔵さんが現れた。“おまえの両手の痛みは、前世において人を恨み、人形を作ってその両手に八寸釘を打ち込んだことの報いである。しかし神力を持ってそれを取り除いた”とお地蔵さんは語り、抜き取った釘を見せた。そこで夢から覚めた道林が慌てて地蔵堂へ赴くと、お地蔵さんの前に血に染まった2本の釘が置かれてあったという。これが【釘抜地蔵】の由来である。このお地蔵さんのご利益は単に前世の因縁を取り除くだけではなく、ありとあらゆる苦痛を取り除くという絶大なものである。ただしこの解釈は“釘抜き=苦を抜く”という語呂合わせから来るものである。だが、こういうところが庶民の信仰の純粋な部分だと言えるだろう。
閑臥庵 (かんがあん)
烏丸鞍馬口から東へ少し行ったところにあるのが、黄檗宗の尼寺である閑臥庵である。しかし、ここの寺で最も有名な伝承はは【鎮宅霊符神(ちんたくれいふしん)】にまつわるものである。この【鎮宅霊符神】であるが、道教の流れを汲み、陰陽道最高の神とされる。すなわち北辰(北極星・北斗七星)を表す神であり、仏教世界の妙見菩薩と同体と見なされている(妙見信仰も北極星に対する尊崇から生まれてきたものであるとのこと)。しかし、なぜ禅宗の一派である黄檗宗の寺院の境内に陰陽道の神が祀られるようになってしまったのだろうか。江戸時代初期、後水尾法王の枕元に鎮宅霊符神が立ち「我を貴船の奥の院より洛中へ勧請せよ」との神託を顕した。そして後水尾法王の子、霊元天皇が現在の地に寛文11年(1671年)に遷座せられたのがこの鎮宅霊符神の御廟である。そして開山したのが黄檗山万福寺の住職・千呆禅師ということになる。この【鎮宅霊符神】であるが、平安時代中頃に方除・厄除として貴船に置かれたものである。この開眼をしたのが、当時の陰陽師である安倍晴明であると言われる。つまりここの神様は安倍晴明ゆかりの神なのである。そして彼の足跡を残すかのように刻まれているのが、六芒星(晴明九字)であり、五芒星(晴明桔梗)である。六芒星は本廟の正面にある石炉に刻まれ、五芒星は本廟脇にある狛犬の台座に刻まれている。いずれも陰陽道のシンボルであり、ここの神が陰陽道に繋がるものであることを如実に示している。(六芒星の石炉は現在五芒星に直されている)
膏薬図子 神田神宮 (こうやくのずし かんだじんぐう)
自転車がなんとかすれ違える程度の細い路地。四条通に面しているが、一旦路地へ入ると喧噪とは全く無縁の地となる。「膏薬図子」という奇妙な名であるが、これはこの地に空也上人が供養のための念仏道場をおいたことが由来だという。「空也供養(くうやくよう)」が転訛して「膏薬」となったという訳である。ちなみに「図子」は「小路」よりも狭い路地の意味とのこと。つまり「膏薬図子」は空也上人が供養のために開いた土地にできた路地ということになる。この狭い路地の途中、一軒の家を借りるようにして、小さな祠が安置されている。これが空也上人の供養を必要としたものの正体なのである。屋内に丁重に置かれた、ちっぽけな祠こそが京都の神田明神なのである。そして祭神はいうまでもなく、平将門である。関東で乱を起こした将門は討たれ、その首は京都に持ち帰られて四条河原辺りに晒されたという。この首が晒された場所が、実はこの祠の置かれた場所であるというのである。その後将門の首は胴体を求めて関東へ飛び去っていくのだが、やはり京都への怨みが強いのか、空也上人が晒し首のあった場所に念仏道場を建てて供養することになる。さらに将門を祀る祠としてこの神田神宮が建てられたのである。(一説では、京都のこの神田神宮の方が本家にあたるとのこと)
鉄輪井戸 (かなわのいど)
昔、堺町松原下ルに夫婦が住んでいた。ところが夫が浮気をし、嫉妬深い妻は怒り狂い、ついには呪いの願掛けに走った。顔に朱をさし、身体に丹(赤色の絵の具)を塗り、頭には鉄輪(三本の足を持つ鉄の輪)をかぶり、その三本の足には蝋燭、口に松明をくわえ、丑の刻に向かう先は貴船神社…… 呪詛の満願は七日であったが、その六日目に女はついに力尽きたのか、自宅近くの井戸のそばで息絶えていた。哀れに思った者がかぶっていた鉄輪を塚と見立てて葬り、やがてその井戸は「鉄輪井戸」と呼ばれるようになった。そして一つの伝説が生まれた。この「鉄輪井戸」の水を飲ませると、どんな縁でも切れるという。その噂は広く知られるようになり、多くの人が水を求めてこの地を訪れたということである。室町時代後半になって、鉄輪井戸の伝説は完成を見る。夫の浮気に嫉妬した女は、呪い殺すために貴船神社へ丑の刻参りを行う。数日後、異変を感じた夫は陰陽師・安倍晴明を頼って逃げ込む。晴明は等身大の人形を作り、呪術を駆使する。そこへ鬼と化した女が現れるが、結局神々の力で退散してしまう。この話は、能楽の謡曲として広く知られるようになり、またここに登場する鉄輪の女は“丑の刻参り”のオリジナルとして、その姿形は語り継がれることになる(そのルーツを辿ると「橋姫伝説」に行き着くことになる)。ここまで有名な鉄輪井戸であるが、ところが、簡単には見つからない。『鐵輪跡』と刻まれた碑だけが頼りである。そして井戸は民家の敷地内にある。個人の表札が掲げられた格子戸をくぐり、更に奥へ約10メートル入った場所である。井戸は既に金網に覆われ、もはや縁切りの水は汲めない状態にあるようである。だが、その井戸の上には鉄輪の由来書が置かれ、更に水に関する注意書きが置かれてあった。ということは、今でも縁切りのためにわざわざ足を運ぶ人間が存在する訳である。江戸時代になって、縁切りの鉄輪井戸ではよろしくないということで、その隣に稲荷明神が祀られるようになった。その御利益は「縁結び」。強力な縁切りの効果は、逆に強力な縁結びに通じるという発想である。だが、その稲荷神社も江戸末期には焼け落ち、町内の総意のもとで昭和に入ってようやく再建されることになった。そしてそのときにも、夫婦和合・福徳円満の神として祀られた。その名を命婦(みょうぶ)稲荷神社という。
矢田寺 地獄地蔵
京都の繁華街のど真ん中、寺町三条を少し上がったところに矢田寺という寺がある。いかにも繁華街にありそうな外見であるが、実はこの寺は非常に不思議な伝説を持つ寺である。まだこの寺が奈良の地にあったときのこと。この寺の住職である満慶上人はある人物の訪問を受けた。その人物は、昼は朝廷の役人、夜は地獄の役人として有名な小野篁である。篁は、閻魔大王が菩薩戒を受けたいという依頼を受けて、懇意であった満慶上人を訪ねたのである。こうしてふたりは六道珍皇寺の井戸から地獄へ向かったのである。地獄で閻魔大王に菩薩戒を与えた満慶上人は、ついでに篁と共に地獄巡りを行った。そして焦熱地獄の所まで来ると、そこに一人の僧がいるのに気がついた。地獄にいる僧とは一体どのような者なのか。満慶上人はいぶかしんで僧に問うと、「私は世の多くの人が苦しむ身代わりとなっている」と答え、その本性である地蔵菩薩の姿となったという。地獄から戻った満慶上人は、この僧の姿を似せた像を造り、本尊として祀ったという。本堂の奥、ガラス戸の隙間から見えるのが、本尊の地蔵菩薩である。地獄で出会った地蔵菩薩ということで「地獄地蔵」、あるいは人々の身代わりとなっていることで「代受苦地蔵」と呼ばれている。焦熱地獄で見かけた印象からか、この地蔵菩薩は火焔に包まれている(隙間にある赤く波打っているのが火焔の彫刻で ある)。昔は不動明王のように背中に背負っていたのだそうだが、いつの間にか本尊の前に置かれるようになった。火に強いお地蔵様ということかもしれないが、天明年間に起こった大火のときに、罹災した人々を救ったという伝説も残っている。本堂の前に梵鐘がある。この鐘こそが、六道珍皇寺にある【迎え鐘】に対して【送り鐘】と呼ばれるものである。お盆のはじまりのときに精霊の迎えの合図として鳴らすのが珍皇寺の鐘であり、お盆の終わり(つまり8月16日)に冥土へ精霊を送るために突かれるのがこの【送り鐘】である。
岩神さん(岩神神社)
千本上立売を東に入ったところ、そこはちょうど西陣と呼ばれる一帯に当たる。そこにぽつねんと大きな岩が置かれている。それが「岩神さん」である。今でこそ申し訳程度に囲まれた巨大な岩が置かれているだけであるが、江戸時代には“岩神社”と呼ばれ、それを祀る寺院もあったらしい。だが、たび重なる大火によって堂宇は焼かれ、明治に入った直後に廃寺となり、岩だけが取り残される形で今日に至ったいるという。江戸時代には【授乳】のご利益があり、若い女性の参拝が絶えなかったといわれている。ちなみに当時あった寺院の名は“有乳山岩神寺”。この岩がこの地にある由来は次の通りである。元々この岩は二条堀川あたりにあったのだが、二条城建築に伴って転々と居場所を変えた。寛永の頃、後陽成天皇の女御・中和門院の御所内(現在の二条城あたり)にあった池から夜ごと泣き声が聞こえる。調べてみると、池のほとりある岩が泣いているらしい。また小僧に化けて怪事をなしたともいう。ということで手を焼いていたところ、真言宗・蓮乗院の僧がこの岩を譲り受けて、現在の地に祀ったのが、「岩神さん」の始まりというのである。なぜこの岩が泣いたり喋ったりするのかというと、さらにそれをさかのぼる伝説がある。平安時代、現在「岩神さん」がある付近に藤原時平の屋敷があり、この岩には時平の乳母の霊が宿っているというのである。この乳母の霊であるが、どうやら時平の政敵であった菅原道真が嫌いらしく、北野天満宮へ参る者が通りかかると祟りをなしたという。そのため、ここを通って北野天満宮へ行く者はなくなったらしい。さらに江戸時代末には、この辺りに禿童の姿をした妖怪が現れて通行人に悪さをしたらしい。そこで地元の人々がこの「岩神さん」に祈ったところ、妖怪は現れなくなったという(一説では、この妖怪自体が岩の化身であったとも)。
宝鏡寺
非常に格式の高い尼寺であり、開祖は後光厳天皇の皇女であった恵厳禅尼、そして歴代の門跡の多くは皇女であるという。それ故、宝鏡寺は別名“百々御所(どどごしょ)”とも言われる。そして今では“人形の寺”として、その名を知られるようになっている。宝鏡寺が一般に公開されるのは、春と秋の2回。人形展として寺に納められた人形を展示する時だけである。江戸初期、22代門跡の本覚院(後西天皇の皇女)が愛玩していた人形“万勢伊(ばんぜいい)様”は魂が宿り、夜な夜な寺内を夜回りしたと言われている。現在では魂が抜かれており、そのような行動を取ることはないとされているが、万勢伊様とお付きの2体の人形“おたけさん”と“おとらさん”はこの人形展で拝見できる。
報恩寺 撞かずの鐘 (ほうおんじ つかずのかね)
西陣の一角にある浄土宗の名刹である報恩寺。この寺は「鳴虎」という有名な絵があることで、通称として【鳴虎報恩寺】として知られている。しかし、この寺にはもう一つ有名なものがある。それが梵鐘である。この鐘は平安時代後期の作で、重要文化財に指定されている。特に歴史的な価値があり、 説明書きによると、全面梵字が刻まれた珍しい鐘であり、室町時代には管領畠山持国が陣鐘として使用し、また豊臣秀吉もこの鐘を愛玩したとされている。まさに由緒正しい梵鐘である。しかしこの鐘は別名【撞かずの鐘】と言われる。この別名に関して、実は怪異があるのである。江戸時代の頃、この寺の近くにあった織屋(織物業を営む店)に15才の丁稚と13才の織女(おへこ)がいた。ところがこの二人が仲が悪い。顔を合わすたびに口喧嘩が絶えず、近所でも有名であった。ある時、毎夕撞かれる報恩寺の鐘の数のことで2人は言い争いになる。丁稚は8つと言い、織女は9つと言い張る。そこで確かめて、負けた方が何でも言う通りのことを聞くこととなった。丁稚は前もって報恩寺の寺男に数を尋ねて9つだと言われるや、その日だけ8つにして欲しいと頼み込んだ。そしてその日、報恩寺の夕べの鐘は8回で鳴り終わった。翌朝、報恩寺の鐘楼に首をくくって死んでいる織女が発見された。そしてそれ以降、鐘を鳴らすとその織女の幽霊が鐘楼に現れ、不吉なことが起こるようになった。そこで織女の供養をし、鐘を撞くのをやめてしまったという(現在でも、大法要と除夜の鐘以外では撞かれることがないという)。
班女塚
京都のビジネス街から歩いて数分、室町高辻というところに目的の塚はある。結構奥まったところに位置しているのだが、この塚に関する道標は一切ない。この塚の由来は『宇治拾遺物語』に詳しくある。この辺りに昔、長門前司の2人の娘が住んでいた。姉は既に嫁いでいたが、妹の方はまだ結婚もせず厄介になっていた。その妹が病で死んだので、棺桶を鳥辺野へ運んでいった。だが、気が付くと棺桶は空っぽ。消えた遺体を探して戻ってみると、玄関先に遺体がある。翌日再び運ぶと 遺体が消えて、また玄関先に置かれていた。しかも今度は遺体を動かすことができない。多分この地に葬って欲しいのだろうということで、この地に埋めてしまった。その後、姉もこの地を去り、人々も気味悪がって去ってしまい、この辺りは誰も住む者がなくなったということである。誰も訪れることもなさそうな場所に、小さな祠とその後ろに大きな岩が鎮座している。これが班女塚である。この塚は男性と縁のなかった女性を慰めるために設けられた塚であり、それ故、未婚の女性がこの前を通れば破談となるという言い伝えがある。班女塚は通りから離れた場所にひっそりとあるのだが、「班女」という名に通じるということで、すぐそばの通りに面した場所には「繁盛神社」という、まことに御利益のありそうな神社が建っている。弁財天が祀られているが、この神社自体もかなり古くからこの地にあると言われている。
班女 / 紀元前1世紀頃の中国(前漢)の女性。班ul(はん・しょうよ)。前漢11代皇帝・成帝に寵愛されるが、後にその寵を失い、失意の内に皇帝の許を去る。寵愛を失った女性の象徴として、しばしば詩の題材とされた。班女塚の名前もおそらくそのイメージから名付けられたものであると想像する。
弁慶石
京都の繁華街寺町三条からさらに西へ進み、麩屋町(ふやちょう)通りとの辻にその石はある。何かの石碑であるかのように、ビルの敷地内に美しく飾られている。“弁慶石”という名の通り、この石の謂われには武蔵坊弁慶の存在がある。だが決定的な由来は判然としないという。由来書きによると、この石は奥州衣川から運ばれてきたものであるという。衣川と言えば、いわずと知れた弁慶終焉の地である。この石は衣川で弁慶が愛玩していたものと言われている。この石が「京都に帰りたい」と泣き、熱病が蔓延するために、室町期に京都へ運ばれたらしい。しかし、なぜ三条京極付近に置かれたのか、全く見当がつかない(幼少の頃ここに住んでいたとも言われているが)。しかし他の説に耳を傾けると、この石は鞍馬口にあったものが洪水でこの地に流れ着いたとも、弁慶が比叡山からぶん投げたとも言われている。そればかりか“弁慶石”なるものが京都には複数あったという説まである。男の子がこの石を触ると力持ちになるという言い伝えが、古くから残されている。
梅林寺
安倍晴明を始祖とする安倍氏は、江戸時代になると土御門家として梅小路一帯(JR西大路駅北側)に屋敷を構えることになる。梅林寺は、土御門家の屋敷のすぐそばにある土御門家の菩提寺である。つまり安倍晴明の直系子孫の墓が並ぶところである。ちょうど本堂の真正面にある中庭には、土御門家ゆかりの遺構がある。天球儀の台石である。水平な石の台の上には十文字に溝が掘られており、それぞれが正しい東西南北を指している。この台石の上に天球を置いて、天体観測(つまり暦作りなど、陰陽師としての仕事)をしていた訳である。本堂の裏手には、一般の檀家の墓と混じって、土御門家歴代の墓がいくつかある。しかし、墓は一カ所に集められることもなく、他の墓に紛れ込むよ うにあまり広くない墓所に点在している。ただ一つだけまとまりがあるのは、墓碑に刻まれた名が「土御門」ではなく、すべて「安倍」という点である。その墓に名が刻まれている一人、安倍泰邦は宝暦5年(1755年)に<宝暦暦>なる新しい暦を作成した陰陽頭である。そして梅林寺にある天球儀台石の側面には【土御門泰邦製】という文字が刻まれている。つまりこの台石は彼が暦の作成のために造ったものである可能性が高いと言えるだろう。
岩戸落葉神社
国道162号線(周山街道)を清滝川上流に向かい北上すると、やがて小野という集落に入る。京都の市街地からは10kmを超えるところにある。この小野の集落の中心地にあるのが、岩戸落葉神社である。この神社は元々、小野上村の氏神である岩戸社と小野下村の氏神である落葉社が拝殿と鳥居を共有して並んで祀られている。岩戸社の祭神は、稚日女神(わかひめのかみ)、罔象女神(みづはのめのかみ)、瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)の三柱。いずれも水に関わる神として知られた存在である。また“岩戸”の名称であるが、『日本書紀』において、天照大神が天岩戸に籠もる原因となった事件で命を落としたのが稚日女神とされており、その関連から名付けられた可能性が考えられる。一方の落葉社は、元は『延喜式神明帳』にある“堕川(おちかわ)神社”ではないかとの説があり、やはり最初は川の合流する地点に建てられた社であると考えられる。しかし現在の祭神は落葉姫命とされている。落葉姫命とは『源氏物語』に登場する、朱雀院女二の宮(落葉の宮)のことである。全くの架空の人物であるが、物語では夫の柏木が亡くなった後に、この小野郷に母と共に隠棲する設定となっており、その縁でいつしか落葉社の名と共に祭神として祀られるようになったのであろうと推察される。“落葉の宮”という名は、夫である柏木が詠んだ歌にちなむものであり、“宮の異母妹である女三の宮よりもつまらない女”という蔑みの意味が含まれている。柏木にとって愛すべきは女三の宮であって、その姉との婚姻は柏木本人が望んだものであっても決して満たされるものではなかった。そして宮にとっては全く意に沿わない婚姻であった。さらに小野郷隠棲後には、亡き夫の親友であった夕霧に見初められ、本人の意志に反して半ば強引に再婚のためにこの地を離れることになる(付け加えるならば、共に隠棲した母の一条御息所は、夕霧が娘を弄んでいると思い込み、恨みを残してこの地で没している)。物語では運命に流されるまま生き、自らの身の置き場のない半生を強いられた落葉の宮であったが、隠棲した小野郷の産土神として祀られることで、ようやく安住の地を見つけたかのように感じるところがある。岩戸落葉神社の境内には、4本の銀杏の巨木がある。晩秋にはそれらの木々が葉を落とし、境内一面が黄色い絨毯で敷き詰められたかのような幻想的で美しい様相を見せる。まさに“落葉の映える”場所であり、京都屈指の隠れた紅葉(黄葉)の名所である。
志賀の七不思議
舞鶴市と福知山市に接する綾部市の北西部に“志賀郷”地区がある。典型的な田舎の農村地帯と言うべき土地であるが、ここに古くから「志賀の七不思議」と呼ばれる伝説が残されている。第33代崇峻天皇の御代、麻呂子皇子(志賀郷の伝説では“金丸親王”と称す)が丹後にあった鬼を退治したが、そのお礼参りとして志賀郷では5つの神社を篤く崇敬した。すなわち藤波神社・阿須須伎神社・篠田神社・若宮神社・諏訪神社である。さらに時代を経て、麻呂子皇子の子孫に当たる金里宰相もこの5社を崇敬し、千日詣をおこない、その成就を祝してそれぞれの神社に5種類の植物を植えた。そしてこれらの植物が成長して奇瑞を起こしたことで、七不思議の伝説となったのである。藤波神社に植えられたのは「藤」であり、この木は毎年正月元旦五つ半時(午前9時頃)になると、白い花を一斉に咲かせる。この不思議な花は新調された木箱に収められ、毎年京の朝廷に献上されたという。ところが正安元年(1299年)の正月、献上の使者が園部の水戸峠で箱を開けてしまったところ、白藤の花が1羽の白鷺となって空に飛び去ってしまった。それ以来、正月元旦に白藤の花が咲くことはなくなってしまったという。阿須須伎神社に植えられたのは「茗荷」であり、毎年正月3日日の出から五つ時(午前8時頃)にかけて茗荷が生え、その生え具合からその年の稲の豊凶や天候を占う。この行事は今でも続けられており、現在は2月3日にこの占い神事がおこなわれ、刈り取られた3本の茗荷が神前に供えられる。篠田神社に植えられたのは「竹」であり、毎年正月4日日の出から五つ時(午前8時)にかけて筍が生え、その生え具合からその年の稲の豊凶やその他の作物の出来ばえを占う。この行事は今でも続けられており、現在は2月4日にこの占い神事がおこなわれ、掘り出された3本の筍が神前に供えられる。若宮神社に植えられたのは「萩」であり、この木は毎年正月5日になると白い花を一斉に咲かせ、その花の多寡からその年の耕作の吉凶を占う神事が執りおこなわれ、花は神前に供えられた。しかし藤の花が絶えた後いつの間にか花は咲かなくなり、占い神事もおこなわれなくなったという。諏訪神社に植えられたのは「柿」であり、この木は毎年正月6日になると、朝に花が咲いて3つの実を結び、日中には熟す。この不思議な柿の実は御用柿と呼ばれて木箱に収められ、毎年京の朝廷に献上されたという。ところが正和元年(1312年)の正月、献上飛脚が運んでいる最中の須知で茶を飲んだところ腹痛を起こして大騒ぎとなっているうちに、箱が空高く北の方へ飛び去ってしまった。それ以来、正月6日に柿の実が成ることはなくなってしまったという。この5つの神社の奇瑞に加えて、向田の松林にある2本の松にまつわる不思議が七不思議として数えられるようになった。1つは「しずく松」と言われ、雨もないのに夜明け前になると松葉にしずくが溜まり落ちてくるという不思議。このしずくの様子でその年の水害や干害を占い、耕作の工夫をしたとされる。初代の木は福知山城の用材として明智光秀によって伐られたとされ、今ではその松の皮が残されている。もう1つは「ゆるぎ松」と言われ、風もないのに松の木が揺れるという不思議。松の木の上方が揺れると都に吉事が起こり、下方が揺れると都に凶事が起こるとされ、同様にこの志賀郷にも変事が起こったとされた。特に金里宰相から3代の頃はよく揺らいだとされ、この吉凶の予測は都まで報告された。初代の木は福知山城の用材として明智光秀によって伐られたとされる。余所の“七不思議”と呼ばれるものとは趣が異なり、様式化された言い伝えとなっている。そこには農業にいそしむ人々の豊作を願う心であったり、この土地が朝廷と密接な関わりを持っていた名残であったり、その関わりが室町期に入って大きく崩れて(七不思議のいくつかが途絶えたのが鎌倉時代末期であることから類推できる)、この頃この地に土着した志賀氏に支配権が移っていったことが伺える内容となっている。現在では、存続する2つの神事(茗荷祭・筍祭)だけではなく、残りの5つの不思議も所縁の場所に形あるものとして置かれ、この志賀郷エリアの地域活性化の一助となっているようである。
杵の宮 (きねのみや)
現在の杵の宮は、綾部藩・九鬼氏の崇敬を受け、綾部の総氏神とされた若宮神社の境内社となっている。かつては藤山の東にある本宮山にあって九鬼氏の崇敬を受け、藩祖九鬼隆季を祀る九鬼霊社が隣に設けられるほどであったが、明治時代に合祀、若宮神社境内に移されたという。本来の御神体は、まさしく餅をつく時の杵である(実際の杵は、九鬼氏と懇意であった植芝盛平に譲られ、茨城県にある合気神社に納められたとも言われるが、詳細不明)。この杵が御神体となった経緯には、実に不思議な話が残っている。藤山の南東側、現在は府営団地が建ち並ぶ辺りはかつて大きな池であったという。ある時、一人の行商人が近くを通りがかると、雉が罠に掛かっていた。良い獲物だと思って失敬したが、少し気が引けたのか、代わりとばかりに罠のところに自分の売り物を置いて立ち去った。間もなく、罠を仕掛けた者が戻ってきたが、罠にある物を見てびっくり。まさかこんな物が罠に掛かるわけがなく、しかも山を越えたところにある大原神社の氏子にとっては禁忌の品物だったので、慌てて池に捨ててしまったのである。それから数年経ち、例の行商人がまた綾部を通りがかった。すると里の者が悲しみに打ちひしがれている。前に通った時からの変わりように、行商人は訳を尋ねた。すると、数年前から突然“池の主”と名乗るものが現れ、年に1回人身御供を要求し、やむなくくじで生贄となる娘を決めているのだという。“池の主”は頭が鬼瓦のようで、胸の辺りから翼のようなものが生えている魚の化け物らしい。行商人はその姿に思い当たるところがあった。しかも“池の主”が現れた時期にも心当たりがあった。正体を確信した行商人は、その化け物退治を名乗り出た。そしてとりあえず武器として杵を借りると、生贄となる娘のそばに隠れて待った。やがて夜になると、池から巨大な化け物が現れた。行商人はその姿を見るなり飛び出すと、いきなりその頭目がけて杵を振り下ろしながら怒鳴った。「きさま、俺が罠に置いていった乾鮭じゃないか。しかも値段がたったの3分5厘。安物のくせに人を取って食うとは、身の程を知れ!」化け物は一瞬きょとんとしたが、正体をばらされた途端に神通力を失ったのかみるみる小さくなっていき、元の乾鮭の形に戻っていった。勢いづいた行商人はこれでもかと杵で殴り倒し、とうとう乾鮭はばらばらに砕けてしまったのである。その後、行商人はまた元のように商いをしに土地を離れ、里の者は杵を御神体として社を建てた。そして元凶となった池は、水路を造って水を抜いて更地にされたという。
蛙塚
井手の名前は、「川の水をせき止めたところ」という意味を持つ“井堤”からきていると言われる。実際、この地は玉川という清流が東西を貫き、湧水地もある。さらに言えば、この地はかつて政治の中枢に最も近い場所でもあった。聖武天皇の時代に政治の実権を握った橘諸兄の本拠地がこの井手の地にあり、聖武天皇も井手にあった諸兄の別邸に行幸したり、また井手に近い恭仁京に遷都をおこなっている。平安時代になると、井手は歌枕の地として有名になる。橘諸兄が邸宅に植えたことから始まる“山吹の花”、美しい清流である“玉川”、そしてその清流に棲息する“蛙”の名所として知られるようになったのである。この“蛙”については、鴨長明の『無名抄』に次のような内容の一節がある。蛙のことを“かわず”と呼んでいるが、実は“かわず”と呼べる蛙は“井手の蛙”だけである。その色は黒っぽく、さほど大きくもなく、他の蛙のように飛び跳ねることもあまりない。水のあるところにだけ棲み、夜更けになると鳴き始めるが、その声は「心澄み、ものあわれな」気持ちにさせてくれる。“玉ノ井泉”と呼ばれていた湧水地には、蛙塚として昭和3年に建てられた石碑があり、周囲はちょっとした公園風の休憩所となっている。この石碑には紀貫之の句が刻まれている。
音にきく 井堤の山吹 みつれども 蛙の聲は かわらざりけり
この地が蛙塚と言われるようになったのは、かつて橘諸兄がこの場所に3本足のカジカを埋めたという伝説が残っているためであるとされる。
夜叉ばあさんのムクノキ (やすあばあさんのむくのき)
この寺田近辺では、国道24号線の一筋東側の道は奈良街道(大和街道)と呼ばれる古道であるが、嫁入り行列は通ってはいけないという伝承が残されている。それが“夜叉婆さん”にまつわる伝承である。昔、寺田村の庄屋に娘がいた。年頃になったので他家に嫁いだが、離縁されて戻ってきた。庄屋の娘だから、また縁付いて余所へ嫁にもらわれるが、同じく離縁される。そうこうしているうちに、離縁されることが7度も続いた(あるいは13度とも)。よほどの悪縁なのだろうと、周囲の者もいつしか娘のことを“夜叉”と呼ぶようになった。娘は結局、観音堂の堂守となって一生を終えたとも、あるいは街道の四つ辻にある玉池に身投げして死んだとも言われる。それ以来、この四つ辻辺りを嫁入り行列が通ると縁付かないとされ、避けて通ることが習慣となったという。その習慣は戦前まで残っていたとの記録もある。娘が離縁され続けた理由は、容貌というわけではなく、むしろ気が強くて男勝りだったためであると伝えられる。才走ったところがあったとか、当時の女性の美徳とされる慣習に従わなかったとか、型破りな性格が災いしたものであるらしい。この“夜叉”と呼ばれた娘の墓と称する供養塔はこの四つ辻のそばに置かれ“夜叉塚”と呼ばれていたが、明治の初め頃に移転され、現在では寺田の共同墓地の中にある。しかし、平成の初め頃になって、この四つ辻のそばにある椋の木にある瘤が、見ようによっては老婆の顔に見えるという噂が広まり、いつしか四つ辻の“夜叉”伝説と結びついて「夜叉ばあさんのムクノキ」と呼ばれるようになる。そして平成13年(2001年)には城陽市の名木・古木に登録されるまでになった。この木自体が“夜叉”の伝説に関係あるわけではないが、この古い伝説を現代に甦らせ、新たな伝説を作り出すことになった好例である。
雨乞い地蔵
田園風景が広がる中に、小さな蓮池がある。その池に水没しかかったような屋形がある。この中に収められ、常時水没しているのが雨乞い地蔵である。水面から中をのぞき込んでも、全く地蔵の姿は見えない。この池は常楽池と呼ばれ、近所にある常楽寺所有のものである。昔から、このあたりの村人は日照りが続くと、この雨乞い地蔵を池の中から引き揚げて、雨乞いの祈祷をおこなったという。祈祷の仕方は、竹4本を立て、注連縄を張って祭壇を作り、常楽寺の住職を招いて“水天龍王に雨を祈る”と書いた卒塔婆を立てるという手順。この地蔵は水が大好きなので、水の中から引き出されて乾いてしまうと水を求めて雨を降らせるというのである。ただしほどよいところで地蔵を池の中に戻さないと、延々と雨を降らし続けて洪水になるとも言われている。最近でも雨乞いの儀式がおこなわれ、平成6年(1994年)8月におこなわれた際にはNHKで放映された。その時は昼間に執りおこなわれたが、夕方には雨乞いの甲斐あってか、雨が降り出したとのことである。
念仏石
京都と奈良の県境、旧国道に面した場所に3つのお堂が並んである。その一番左側のお堂の中には、大きな石が1つだけ置かれている。それが念仏石と呼ばれるものである。建久6年(1195年)、東大寺大仏殿落慶法要の折り、導師の一人として招かれた法然は、念仏のことのみ説法して京へ戻ろうとした。そのことに不満を持った人々は奈良から法然を追い掛けて、ようやく国境で追いついた。「なぜ念仏の話だけで、法相・華厳などの他宗派の教義について触れなかったのか」との問いかけに対して、法然は念仏がいかに勝れていてその功徳が重いかと説明し、紙に南無阿弥陀仏の名号を書き、そばにあった大石と天秤で量ってみた。法然が念仏を唱えると、徐々に大石の方が上にあがっていき、紙の方が下へさがっていったのである。それを見て、人々は念仏の功徳を悟ったということである。天秤に掛けられたその大石が念仏石であり、そしてその時に法然が書いた名号は、近くにある安養寺に安置されている。
志古淵神社 (しこぶちじんじゃ)
安曇川流域には「しこぶち」という名の神社が7つある。その中で唯一京都府域にあるのが、久多の志古淵神社である。この7つの神社には河童にまつわる伝説が残されている。志古淵さんという筏乗りの名人がいた。ある時、子供を乗せて筏で川を下っていたが、一人の子供の姿が見えなくなった。川をせき止めて探してみると、河童が息子を抱えて岩陰に隠れていた。川をせき止められて水場を失った河童は命乞いをした。そこで志古淵さんは、菅笠をかぶり、蓑をつけて、蒲の脚絆をを巻いて、草鞋を履き、コブシの竿を持った筏乗りには決して悪さをしないと誓わせて助けてやった。それから安曇川流域の筏乗りは皆、志古淵さんと同じ格好で筏に乗るようになり、事故もなくなったという。そこで志古淵さんを筏の神様として神社に祀ったのである。別の話では、息子を助けるために河童と交渉して、年に3人だけ人の子をやると認めてしまった。そのために、安曇川流域では毎年3人の水死人が出るようになったともいう。
駒岩 左馬 (こまいわ ひだりうま)
昭和28年(1953年)の南山城水害で、玉川沿いの対岸から巨石が転がり落ちてきた。推定数百トン級のものである。元々この岩には、大きさが約1メートル四方の馬が彫られており、駒岩と呼ばれていた。この岩に馬の絵が彫られたのは保延元年(1137年)、川の治水や水争いを防ぐためであったと伝えられる。ところが、この彫られた馬が右半身ということから、おそらく左利きの職人が彫ったものであると言われだし、左利きなので「器用」という連想から江戸時代頃には芸事上達の神として信仰されてきた。さらに左馬は馬の字を反対に書くことで表記できることから、「うま」を「まう」と掛けて「舞う」、即ち女性の芸事上達を祈願するようになったとされている。大水害で転がり落ちた際に、左馬の彫刻は地面の底側になってしまったが、地元の人々の努力で左馬のある部分が掘り下げられて、今ではしゃがみ込むような体勢で見ることが出来る。
新井崎神社 (にいざきじんじゃ)
秦の始皇帝の命により【蓬莱】の地を探索した徐福であるが、日本各地にはその徐福が上陸し、滞在したとされる土地がいくつもある。伊根町にある新井崎という小さな漁村にも、徐福上陸の伝説が残されている。元来、丹後地方には大和朝廷とは全く系統の異なる独立したクニが存在し、中国大陸などとも交易をしていたのではないかと考えられている。従って、この丹後の地に徐福一行がたどり着く可能性は低くない。海に面する位置に建てられた新井崎神社には、徐福が祭神として祀られている。伝承によると、漂着した徐福一行はこの土地に定住し、さまざまな産業技術を地元に人間に教えたとされる。つまりこの地域の国造りに大いに貢献したことによって、産土神として祀られることとなったようである。またこの新井崎の沖合にある沓島と冠島の名は、神仙思想における死の象徴を意味しており、おそらくそれなりの身分の者がここで亡くなったことを意味するのであると推測出来る。新井崎神社のすぐそばには、徐福が上陸した際に休んだとされる岩場がある。またそこから船が着いたとされる場所が臨めるのだが、その場所は断崖絶壁であり、常識的に考えて大人数を乗せた船が接岸できるようなところではないように感じた。想像を逞しくすると、この土地へ漂着した中国人は存在したが、徐福本人ではなく、彼の功績を知って同じ目的でやった来た別人であった可能性もあるだろう。ただ最終的に、この地へ渡来してきた人物は産業を伝え、神と称せられる存在となったことは間違いない。
宇良神社
浦嶋子の出自として最も説得力のあるのがこの宇良神社である。最近では“浦嶋神社”の方が通りがいいが、正式名称はこの名前である。この神社の祭神は筒川大明神、すなわち浦嶋子である。この大明神の名は淳和天皇によって天長2年(825年)に贈られたものである(この時勅使として遣わされたのが小野篁である)。神社の縁起によると、浦嶋子が絶世の美女に誘われて“常世の国”へ行ったのが雄略天皇22年(478年)、帰ってきたのが825年とされる。浦嶋子という名が最初に登場するのは『日本書紀』の雄略天皇22年の記述。「瑞江(水江)の浦嶋子という人が釣りをして亀を得る。その亀は美女に変身し、浦嶋子はその美女を妻として海に入り、蓬莱へ行って仙人を見た。これは別巻に書いてある」。この“別巻”は『丹後国風土記』を指し、ここに詳細が書かれている。宇良神社から少し東に面白いものが残されている。浦嶋子が常世の国から帰還してきた穴と呼ばれる“龍穴”である。表示板がなければ通り過ぎてし まうほどの、本当に小さな横穴である。舟で常世の国へ行ったのだから、海から帰ってきたとばかり思い込んでいたのだが、この帰還場所は意外な盲点であった。  
 
 大阪府

 

●寝屋川のむかしばなし
弁天池ものがたり
稲の穂がはらみはじめました。それなのに雨は少しも降りません。今、水をきらしてしまっては、たいへんです。株が張っていないうえに、穂も粒も小さく、ものすごく減収になってしまいます。お百姓さんたちは、何とかしなければならないと思いました。「乾上った(ひあがった)用水路へ弁天池の水をかき揚げようではないか。」誰いうとなく、言いはじめました。弁天池は東西98メートル、南北68メートルもあります。そこで、足踏み水車を池に据えて、用水路へ水をかき揚げることにしました。何台もの足踏み水車の上に乗って、若者たちは池の水を汲みあげました。水は用水路をつたって流れていきます。お百姓さんは、その水を分け合って、稲田へ桶で汲みあげました。白く乾いた稲田が、少しずつ黒土に変わっていきます。
一日 二日 若者たちは交代で池の水をかき揚げました。三日 四日 さすがの池も水が減ってきました。
その時、ひとりの若者が言いました。「池の雑魚(じゃこ)を捕ろうではないか。これだけ水が減ったのだから、池の中に堰(せき)をこしらえたら、雑魚がたんと捕れるよ。」なるほどそれもおもしろいだろうと、若者たちは賛成しました。その時、ひとりの老人が言いました。「そんなことをしてはいけない。この池には昔からぬしがすんでいるんだ。そのぬしは恐ろしい方なんだ。だから、こうして田んぼへ水を汲みあげるだけでも、どうかと心配しているのに、池の雑魚を捕ろうなんてとんでもない。」けれど若者たちは、「おもしろいではないか。恐ろしいぬしがすんでいるなら、お目にかかろうではないか。」と言って、老人のいましめを聞き入れませんでした。若者たちは裸になって、水の減った池に飛び込みました。そして並んでいる足踏み水車のうしろ30メートルばかりのところに、稲木棒をたくさん並べ打ち込んで、その棒に戸板やむしろなどをしっかりと取り付け、支え棒などをして、池の水が内側へ流れ込まないようにし、足踏水車で水をけんめいに汲み出しました。水がみるみるうちに減っていきました。魚が背びれを出して、あわてふためき、泳ぎまわっているのが見えるようになりました。若者たちは、フナやコイやナマズなどを捕まえるのに夢中でした。その時でした。突然ひとりの若者が「痛い!」としゃがみこみました。足から血が出ています。若者がうめきながら、這うようにして岸へ上がっていきました。するとまたひとり、「痛い!」と叫びました。手から血が噴いています。ほかの若者たちは、それを見ると魚を捕るのをやめて、顔色を変えて岸へ向かって逃げ出しました。その時、堰の棒がバサっと倒れて、池の水がどっと流れ込みました。みんなはまっ青になりました。もはや水を用水路へかき揚げるどころではありません。人々は蜘蛛(くも)の子を散らしたように、いなくなってしまいました。
その夜、若者は夢を見ました。それは最初に雑魚を捕ろうと言い出した若者でした。白い装束(しょうぞく)を着た老人が現れて「わしは弁天さんのお使いである。けがしてはいけないと昔からいわれている池を、なぜけがしたのか。稲田に水を上げることは辛抱してあげたが、池の魚を捕ろうなんてけしからん。二度とこんなことをすれば、ぬしが正体を見せて暴れるぞ。決して池をけがすでないぞ。」と言いました。そして、じっと若者を見つめました。それは何ともいいようのない、恐ろしい目の光りでした。若者はふるえあがって声も出ませんでした。ううっとからだをかたくして、うめくばかりでした。ふと目が覚めると、傷をした足の包帯に血がにじんでいました。
それからというもの、池の魚を捕ろうなんていう若者はいなくなりました。田んぼに水が入用なときは、小さな橋を渡って弁天さまにおまいりをして、水をいただくことにしました。この弁天池は、昔このあたりにあった大きな湖のような深野池(ふこのいけ)の名残りで、一番深いところが池となって残ったのだといわれています。今でも池の底から水が湧いていて、どんな日照りが続いても涸れることがありません。かつて太平洋戦争が行われていた頃には、召集で出征する人は、必ず生きたコイをこの池に放上(ほうじょう)したといいます。そうすれば無事に生きて帰ることができたと、今に伝えられています。果たして、ぬしは何であるかそれはわかりません。ある人は言います。千年の年を経た大亀だと、けれどそれはたしかではありません。ただいえることは、村人たちが弁天さまをおまつりして池をけがさないようにしているということです。
牛九ものがたり
九郎はよく働きました。朝早くから夜おそくまで、せっせと働きました。わずかばかりの田んぼはよく稔りましたが、暮らしはいっこうに良くなりませんでした。苗代(なわしろ)つくりの日も近づいてきたので、九郎は地主さんの家へ牛を借りにいきましたが、あいにく先客があって牛を借りていたので、借りることができませんでした。そこで九郎は、牛の代わりに鋤(すき)を引いてみようと思いました。けれども土地は固くて、いくら力をこめて引いても、鋤は動きません。困りはてているところを、村人に見られてしまいました。たちまち、うわさはうわさをよんで、話が大きく村中に広がってしまいました。九郎は牛より力持ちだ、ということになって、誰いうとなく牛九とよぶようになりました。
それにまた、こんなこともありました。地主のだんなさんに頼まれて、お米を隣り村の庄屋さんへ届けることになりました。お米は五斗(ごと)入りの俵(たわら)が二俵(にひょう)です。一俵で60キロ以上もあります。地主さんの荷車で運ぼうとしましたが、折から出払っていて使うことができません。そこで牛九は、ええいままよ、とばかり左右に一俵ずつ引っ提げて出かけました。さすがに重いです。腕がしびれてきます。牛九は村の出はずれのお地蔵さんの所で腰をおろしたりなどしながら、とうとう一粁(キロメートル)ばかり離れた隣り村の庄屋さんの家まで、米俵を運びました。牛九はものすごい力持ちだ、といううわさが近在に知れわたりました。
それはある年のことでした。四国の阿波の蜂須賀(はちすか)の殿様が、参勤交代で江戸へおのぼりになりました。大坂まで船でおいでになり、大坂からは川舟に乗り替えて、伏見に向かわれました。舟は三十石舟よりも大きな御座船(ござぶね)で、大坂の八軒屋浜(はちけんやはま・今の天満橋のあたり)を出ると、帆(ほ)をあげ、竿(さお)をさし、櫓(ろ)をこいで川を逆上(さかのぼ)りました。浅瀬の所や流れの早い所では、岸から長い綱で引っ張って、逆上りました。たくさんの綱引人夫は助郷(すけごう)といって、岸辺の村々から、かり出された人たちでした。ようやく點野(しめの)浜まで逆上って来た時、御座船が水路を誤って浅瀬に乗り上げてしまいました。いくら船頭や綱引人夫を励(はげ)ましても、船は動きません。はては武士たちまでが裸になって川にとびこみ、綱引人夫と掛声を合わせて押しましたが、船はびくともいたしません。日はだんだん落ちてきます。日が暮れないうちに、どうあっても本陣宿(ほんじんやど)に着かなければなりません。いろいろ手立てを変えて、押したり引いたりして、何とか浅瀬を乗り切ろうとしましたが、船は動きません。その時、綱引人夫の一人がいいました。「點野村には牛九がいる。来てもらおうじゃないか。」早速、牛九の家を知っている人夫が駆けだしました。牛九はすぐにやってきました。そして裸になると、ずかずかと川の中に入り、肩を船にあてがいました。それを待ちかねていたように、みんなが力いっぱい、船を押し綱を引きました。すると、それまで動かなかった船が、じりじりと動きはじめました。牛九は顔を真赤にして押しています。それを殿様は、ご覧になりました。もりもりと盛りあがった腕・肩・胸の筋肉、そのたくましい身体、実直そうな顔。殿様は牛九が好きになりました。「牛九よ。江戸へ来ないか。おまえほどの力があれば、立派な角力(すもう)取りになれるぞ。召抱えてやるから。」殿様から声をかけられて、川の中の牛九は、びっくりしてしまいました。貧しい百姓にとって、それは思いもよらない出来事でした。牛九は一人身で、親きょうだいもありませんし、お嫁さんもありません。とまどっていると、庄屋さんが、「それは、ありがたいことだ。江戸へ行って、がんばって立派な関取になってこい。」と励ましてくれました。
牛九は殿様に従(したが)って江戸へ出て、立派な関取になったということです。
大きなひょうたん
むかしむかし、五作じいさんが田んぼの見まわりをしていました。田んぼは黄色の稲穂が波打っています。今年は、豊年まちがいなし。そう思うと、心の底から、うきうきしてきます。五作じいさんは上機嫌で野川のほとりを次の田んぼへと歩いていきました。その時ふと大きなヘビがカエルをねらっているのに気がつきました。カエルはまだ気がついていません。いや、恐ろしさに動けないでいるのかもわかりません。「かわいそうに」と五作じいさんは思いました。それで思わず、「ヘビさんよ。そんな小さなカエルを食べたって、おなかがくちく(いっぱいに)ならないだろう。助けてやれよ。」とつぶやきました。するとヘビは、くるりと五作じいさんの方へ向きなおって、赤い舌をペロペロ出して、じっと見つめました。五作じいさんは気持ち悪くなりました。背すじがぞくぞくしてきました。恐ろしくなりました。「あなたの大切なものがほしいんです」ヘビがそう言っているように思いました。五作じいさんは、思わず「よし、よし」と言ってしまいました。言ってしまって、たいへんなことを言ってしまったと気がつきました。ヘビはそれを聞くと、するすると野川の茂みへ消えてしまいました。
その晩、一人の若者が訪れてきました。そして五作じいさんに、「約束のものをいただきに来ました。」と言いました。おじいさんが、ご飯を差し出すと、「もっとおじいさんの大切なものを」と言って聞き入れません。若者の目はだんだんすご味を増してきます。そして、とうとう、「娘さんをほしい」と言いました。たいへんなことになりました。家中大さわぎになりました。おばあさんは泣き出してしまいました。けれど若者は動きません。若者はヘビの執念深さをただよわせ、すごさを増して動こうともしません。その時、「おじいちゃん、おばあちゃん、私はこんな星のもとに生まれてきたのです。私はあの方のお嫁さんになります。ついては花嫁の道具として、おじいちゃんが大切にしている大きなひょうたんを私にください。お酒をいっぱいつめて、それを抱いてお嫁にいきます。」と言いました。五作じいさんとおばあさんは、娘が若者と連れだって出ていくのを泣きながら見送りました。
二人は浜辺へ歩いていきました。大きな岩のかげに腰をおろすと、娘はひょうたんを傾けて、「さあ、たんとおあがり」と言いました。おいしいお酒でした。若者はすすめられるままに、ぐいぐい飲みました。やがてお酒はなくなりました。その時、娘は言いました。「おじいさんとの約束を守って私はお嫁になりました。こんどは私との約束をあなたが守ってください。」そして「このひょうたんはからっぽになったので、海の底へ沈めてください。これが私の願いです。」と言って、しっかりと栓(せん)をすると、沖へ向かって遠く投げました。若者はひょうたんをつかむと海の底へ沈めました。けれどすぐに浮いてきます。浮いては沈め、沈めてはすぐ浮きあがり…何度もくり返すうちに酒の酔いがまわり、苦しくなりました。若者はがまんをして続けましたが、とうとうヘビの姿になってひょうたんを抱きながら死んでしまいました。それを見届けて娘さんは家へ駆けもどると「私のからだはきれいよ」と言いました。おじいさんとおばあさんは夢かとばかり喜びました。翌日朝早く三人が浜辺へ行くと、ひょうたんを抱いたヘビが波間に浮いていました。三人は深い穴を掘ると、そこへ大蛇とひょうたんを埋め、塚をつくりました。そしてお坊さんに丁重に読経してもらいました。
マッチで消えた化け物
戦前の寝屋川市は農家が散在する村でした。中心になる市街地(しがいち)がなく、いたるところが田んぼで畑と小山が続いていました。池のそばや川の堤などには竹薮や雑木(ぞうき)が茂っていて、淋しいところがたくさんありました。成田の不動さんの方から流れてくる南前川(通称ダマラ川)と、今では国道170号線の下を暗渠(あんきょ)で流れている前川とが合流するあたりは、とくに淋しい所でした。
そこには大きな「せんだん」の木が生えていました。国道170号線を昔は「河内街道」といいました。とても重要な道でしたが、夜になると人通りは絶えて、堤の斜面に生えている竹薮が風でざわざわ音をたてていました。その頃一人の若者が、寝屋川の駅で電車を降りて、三井村へ急いでいました。日はすでに沈んで暗く、駅前のほんの少しばかりの人家を過ぎると、あとは一面の田んぼです。冬の夕暮れはとくに寒く田の面を風が吹きわたってきます。若者はただ一軒店を開いていた豆腐屋であぶらあげを五枚買うと、紙につつんでくれたものを、さらに手拭(てぬぐい)でつつむと、ふところにしまいました。河内街道に出ると、北の方へ急ぎました。空には満天の星がきらめいています。ちょうど、二つの川の合流点まで来たとき、急に背筋が寒くなりました。気持ちの悪い寒さです。身体中が、ぞくぞくしてきました。目の前に「せんだん」の大木が黒くそびえています。何だか化け物でも出てきそうな気配です。若者はおそろしくなりました。駈けだそうとしました。その時でした。
とつぜん、大きな黒いものが、音もなく前に立ちふさがりました。それは天をつくような背高坊主でした。大きな目が、らんらんと輝いて上から見下ろしています。その目に見すえられて、若者の足は動かなくなりました。金縛り(かなしばり)にあったようです。頭の中がぼうっとしてきました。大きな力で、頭を肩を、ぐいぐい押してきます。若者は立っていることができなくなりました。へなへなと、その場に、へたってしまいました。口の中が、からからに乾いて、のどがひきつって声も出ません。背高坊主は、上にのしかかってきました。その大きな目が、目の前に近づいてきました。大きな口が近づいてきました。背高坊主が、がばっと、おおいかぶさってきました。息が出来なくなりました。若者は、これが最後だと思いました。その時、急に背高坊主は、すっと立ち上がると、元の背高坊主にかえりました。
若者は今は亡きおばあさんの言葉を思い出しました。「化け物が出たときは、マッチをするんだよ。化け物は、とてもマッチが嫌いなんだから。」若者は、ありったけの力をしぼり出すと、すばやくマッチをすりました。あたりがぼうっと明るくなりました。急にからだが軽くなりました。頭の中が、すっきりとしてきました。若者は燃えているマッチの軸を持って、よろよろと立ち上がりました。すると急に背高坊主の姿がうすれて、闇(やみ)の中に消えていきました。若者はマッチの燃えがらを握りしめたまま、村の方に駈け出していきました。家に帰って気がつくと、手拭につつんだ「あぶらあげ」はありませんでした。
それからというもの、「化け物に出会った時は、マッチをすればよい。」ということが、村中に広まって、二度と化け物が出ることがありませんでした。その舞台になった「せんだん」の木は、枯れて切り株も残っていません。そして、この話を知る人も少なくなってしまいました。
勘七と化け物
寝屋の西坂の登り口に、大きなせんだんの木がありました。とても大きな木で、大人が二〜三人手をつないでも、届くか届かぬ程の太い幹だったといわれています。そこは東から流れてくるタチ川と、北から流れてくる北谷川とが合流するところで、川の名が「寝屋川」と変わる所でした。そこに一軒の茶店がありました。
ある夜のことでした。勘七という若者が、婚礼によばれて、御馳走の折詰をいただき、鼻唄まじりで帰ってきました。大きな「せんだん」の木が見えた時、あそこには化け物が棲(す)んでいる、ということを思い出しました。そこで、化け物に出会った時、走って逃げられるように、手に提げていた御馳走の折詰を背に負い、あごの下で、しっかりと結びました。出てくるなら出てこい、化け物なんかこわくないぞ、と自分に言い聞かせながら歩いていきました。けれど胸がどきどきと、波打ってきます。ピタ、ピタ、ピタと、自分の草履(ぞうり)の足音までが、はっきりと耳にひびいてきます。「せんだん」の木の下まで差しかかった時、とつぜん、どさっと、背に何ものかが、とびかかってきました。化け物だ! 勘七はびっくりして、思わず前へ倒れてしまいました。そのはずみで、化け物は前へ大きく投げ出され、しりもちをつきました。それでも化け物は、すばやく立ち上がると、「勘七、よう投げたなあ。」といって、驚いている勘七をしりめに、闇の中へ消えていきました。勘七は、ふうっと、大きな呼吸(いき)をしました。冷汗がたらたらと流れました。背に負っていた折詰は、倒れたはずみで、中身がぐしゃぐしゃになってしまいましたが、盗られることはありませんでした。
そんなことがあってからというもの、化け物のいたずらは、はげしくなりました。夜になると大きな鮒(ふな)に化けて、通る人を寒い川の中に引き入れたり、甚(はなは)だしい時は肥壺(こえつぼ)の中へ、だまして連れ込んだりしました。けれど、化け物のしわざ、とあっては、退治しようという人はありませんでした。茶店は夜になると店をたたみ、人通りもすっかり絶えて、ひときわ淋しい場所になりました。
勘七は化け物を退治してやろうと思いました。そこで、台所の出刃庖丁を手拭いに包んで、ふところに入れると、「せんだん」の木に登って、待ち構えました。夜が更けてきました。犬の子一匹通りません。威勢よく化け物退治と出かけてきたものの、勘七は恐ろしくなってきました。こんなこと思いつかなければよかったのに、と後悔しはじめました。けれど、今さら中止することはできません。その時、向こうから一人の男が走ってきました。そして、大声で、「勘七さんよ。お父うが大怪我したぞ、早く帰ってやれ。」といいました。勘七はびっくりしました。大あわてに、木から降りました。男はそれを見ると、足早に、もと来た道をもどっていきました。その時、勘七は、どうしておれがここにいることを、あの男は知ったのだろう、と思いました。家の者にも話していないのに。これはあやしい。化け物が、だましに来たのに違いない。勘七は、こっそり引き返すと、再び「せんだん」の木に登りました。しばらくすると、向こうから行列がやってきました。葬式の行列です。提灯(ちょうちん)を先頭に、お坊さんが一人、そのあとに棺桶(かんおけ)を乗せた輿(こし)を二人でかつぎ、五・六人の人が続いています。こんな夜中に葬式の列が通るはずがない。化け物の行列にちがいない、と思いました。化け物はこの行列のどこにひそんでいるんだろう。勘七は、しっかりと出刃庖丁を握りしめました。勘七は目を皿のようにして、近づいてくる葬式の列を見つめました。提灯が過ぎ、僧が過ぎ、棺桶を乗せた輿(こし)が真下にさしかかりました。その時、化け物はこの中に居る、と勘七は思いました。とっさに出刃庖丁を構えると、棺桶めがけて、木から飛び降りました。ぎゃっ! ものすごい悲鳴がしました。その瞬間、葬式の列はぱっと消えて、勘七の出刃庖丁は大狸(たぬき)の胸を刺していました。とても大きな狸でした。毛は針金のように太く、死んでも目はらんらんと輝いていました。
村人たちは勘七の勇気をたたえました。けれど勘七は、あのときの、狸のものすごい形相(ぎょうそう)を思い出すと、何年たっても腹の底から恐ろしさがこみあげてくるのでした。それっきり、化け物は出なくなりました。今では、その「せんだん」の木も、茶店もなくなって、そのあとは自動車が疾駆(しっく)する三叉路になっています。
河北の狐
寝屋川市の南の方に河北(かわきた)という村があります。この村は江戸期の中頃にひらけた村だといわれています。このあたりは、昔、北から流れてくる寝屋川と、南から流れてくる大和川が合流していた所で、その水は大阪市の天満橋の方へ流れ、淀川にそそいでいました。南の方から流れてくる大和川が、堺市の方へ付け替えになったので、今まで沼沢地であった所が新田に生まれかわり、新しく田んぼがひらけ村ができました。その一つの村が河北なのです。
村の南に、東の方から流れてくる小川がありました。五軒堀川といって、その川が寝屋川に合流するあたりは、たいへん淋しい所でした。川の両側には楊(やなぎ)がたくさん生えていました。この楊は柳のように枝垂れることなく空高く枝を伸ばしていました。その根方には葦(あし)や葭(よし)や笹が生えていて、川沿いに通る人とてほとんどありませんでした。そこに大きな狐が棲(す)んでいました。太い尾をひきずるように、ここはおれの天地とばかりに、歩いているのを見かけることがありました。となり村の子どもたちが、五軒堀川へ雑魚(ざこ)をとりに来た時など、その狐を見て「大きな犬がいるよ」といって、あわてて帰ったということです。この狐は、大きな身体に似合わず、とてもすばしこくて、何頭もの野犬に追いかけられた時も、ひょいと幅広い川を身軽に跳(と)び越えてしまうので、犬は追うのをあきらめたといいます。
村にひとりのおじいさんが住んでいました。何という名前だったのか、昔のこととて分かりませんが、このおじいさんは、ときどき、柿の葉などに、食べ残した御飯やお菜、それに狐の好きそうな油揚げなどをのせて、五軒堀川の楊の根方に置いて帰ります。すると、どこで見ていたのか狐がひょっこりと姿を見せて、それをおいしそうに食べるのでした。しばらくして、おじいさんが姿を見せる頃には、すっかり食べつくされていて、おじいさんはそれを見て満足げに帰っていくのでした。ある日、おじいさんは隣村へ用事があって出かけました。意外に早く用件がすんだので、近道を通って、五軒堀川の川沿いに田の畔(あぜ)を伝って帰ってくると、向こうに左へ行ったり、右へ行ったり、広い田んぼの中を、うろうろしている人影が見えました。べつに用事があって仕事をしているようでもありません。何をしているんだろうと、おじいさんは思いながら、ふと楊の木の根方を見ると、かの大きな狐がいるではありませんか。狐は太いしっぽをピンと立てて、ときどき右にふったり、左にふったりしています。変なことをしているわいと、みているうちに、おじいさんは、はっと気がつきました。狐がしっぽを右にふると、その人はふらふらと右へ行きます。左へ傾けると左へ行きます。あやつり人形のように、狐のしっぽの振る方向へ動いていきます。おじいさんは、これは大変だと思いました。このままでは、今にあの人は疲れてぶっ倒れるにちがいありません。おじいさんは狐に近寄りました。すると狐もおじいさんに気がつきました。おじいさんはやさしく、「いたずらは、それぐらいにしておけよ。」といいました。すると狐は立てていたしっぽを、たらりと垂れて、ひょいと川を跳び越えると、向こう岸の間に消えていきました。おじいさんは、ぽかんとして立ち呆(ほう)けている人に近づくと、ぽんと肩をたたきました。その人は、はっと気がついたのでしょう、しばらく不思議そうにきょろきょろと、あたりを見回していましたが、やがて気が落ちつくと、「おかしなめにあいましたよ」といって、ぽつりぽつりと話し始めました。「近道しようと思って川沿いに帰ってくると、とつぜん前方に飯盛山が見えたんですよ。たしかに西に向かって歩いて来たのにと思いながらも、道をまちがえたのかとと思って向きを替えて歩き出すと、またしても前方に飯盛山があらわれたんですよ。どちらを向いても飯盛山が前に見えるんですよ。どうしたらいいんだろうと困ってしまいました。ほんとに助けていただいて、ありがとうございます。」といいました。おじいさんは、「それは狐ですよ。このあたりに大きな狐が棲んでいるんですよ。いつもは、べつに悪さはしませんが、ときどきいたずらをすることがあるんです。あなたは狐に何かしませんでしたか。」といいました。するとその人は、「あれは狐じゃありませんよ。とても大きな犬が楊の根方にうずくまって寝ているものですから、恐ろしくてそばを通れません。それで石を拾って投げると、うまく命中して、犬はへんな声を出して逃げてしまったので、通りすぎようとすると、急に道がわからなくなったんですよ」といいました。「それですよ。それで狐があなたを、だましたんですよ」とおじいさんはいいました。その狐は、日によって「けんけん」と鳴いたり、「こんこん」と鳴いたり、時には「ぎゃー」と鳴いたりしたといいます。 おじいさんは、その後も五軒堀川で魚取りなどをしていると、いつのまにか狐が近寄って来て「こんこん」と鳴いたといいます。するとおじいさんは、「また来たのかい。」といって、二・三匹小魚を投げてやると、狐は喜んで食べたといわれています。
その五軒堀川も今では寝屋川の遊水地の中に消え、あたりには開発の波が押し寄せて、狐が棲めそうな所は、すっかりなくなってしまいました。
狐のはなし(相場師と狐)
150年ほど昔のお話です。茂平さんは朝早く淀川の堤に立ちました。ちょうど下りの三十石舟がたくさんの人を乗せて舟着場に着いたところでした。太間の舟着場はそんなに大きくはありません。いつも荷物を積んだ舟が着くだけなのですが、乗り降りする人がある時は乗合舟が着くのです。船着場の下流は竹薮になっています。淀川の本流が突き当たる所だけにいつの頃からか洪水に強い竹が植えられるようになったのです。舟から誰か降りたようです。ですがそれは見かけぬ人でした。上等の着物を着ています。町のお金持ちだなと、茂平さんは思いました。その人は堤を上がってくると茂平さんに、「この辺に狐を捕る人はいないかい。」といいました。思いもよらない話しかけに茂平さんが返事をとまどっていると、「この辺には狐がたくさんいると聞いてきたんだが、一頭ぜひ欲しいんだ。」といいました。目の鋭い人でした。狐の肉はそんなにおいしくはありません。それにお稲荷さんのおつかいでもあるのです。捕らえて売るなんて嫌なことです。この人はもしかすると殺すかもしれません。茂平さんが黙っていると、その人はまたしても「狐を捕る人を知らないかい。」といいました。あまり何度もいうので茂平さんもつい「なんなら捕ってあげてもいいですよ。」といってしまいました。竹薮の中にはたしかに狐がすんでいます。つい先日も竹を切りに行ったとき見ています。「それはありがたい。代金はうんとはずむよ。」そういって茂平さんが詳しい話もしないのにその人は財布からお金をとりだすと、 「手付けだよ。」といって、たくさんのお金を茂平さんに握らせました。そして、「あさっての朝にまた来るから頼むよ。」といって、はやばやと次の舟で帰っていきました。あとになって茂平さんは引き受けはしたものの、ちょっと嫌だなあと思いました。茂平さんは夕方になると、竹薮の向こう側に長い網を張りました。そして真中に一か所穴をあけ、その奥に袋の網をとりつけました。日がとっぷり暮れてから茂平さんは松明(たいまつ)に火をつけて竹薮に入りました。そして左右に走りまわりながら大きな声をだしました。その声に飛び出したものがありました。狐でした。狐はすばやく奥へ駈けていきます。茂平さんは遅れないように追っかけました。狐は逃げていきます。そしてとうとう網に突き当たりました。狐はどぎまぎして網に沿って駈けました。そしてさそいこまれるように穴の中に飛び込んでいきました。あくる日朝早く、かの人は下男に大きな風呂敷包みを背負わせてやってきました。そして茂平さんがさげている狐を見ると「おお、捕ってくれたね、ありがとう。まにあってよかった。」と顔いっぱいに笑みを浮かべていいました。そして縛られている狐を見ると「かわいそうに。」といって下男が背負ってきた木箱に縄をほどいて入れました。箱の中にはほどよく乾いた干草がいっぱい敷つめてありました。「いいものをあげるよ。」そういって、おいしそうな赤飯とあぶらあげを皿に盛って箱の中に入れました。この人は狐を殺しはすまい。茂平さんはほっと胸をなでおろしました。それから五日目の夕方でした。茂平さんが竹薮のそばを歩いていると、ちらっと前を横切るけものがありました。あっ、あの狐だ、「いったい、どうなっているんだろう。」茂平さんはわけがわからないままに、狐が生きて帰ってきてくれたことに安堵の胸をなでおろしました。
その人はお米の相場師だったのです。狐に赤飯とあぶらあげをご馳走して逃がしてやれば、お金がものすごく儲かるという話を聞いて狐を買いに来たのでした。はたして儲けたか損をしたか。それはわかりません。ただ二度と狐を買いに来なかったことだけは事実だったそうです。
助けられた狐
明日は田植です。田んぼにはすでに水がいっぱい入っています。しろかき(代掻き・苗代の田に水を入れて土をかきならすこと。) が始まっています。女たちは苗代(なわしろ)田に腰掛を持ち込んで苗取り(なえとり)に夢中で、一たば一たばくくっては後ろにおいて腰掛を前に進めています。茂右衛門はしろかきをを終えて畔(あぜ)に上ったとき、田んぼの隅のどつぼの中で、もがいているものを見ました。どつぼとは、田んぼの隅に掘られた穴で、漆喰(しっくい)でかため、その中には糞尿(ふんにょう)がいっぱいたまっています。その表面は時がたつにつれてかたまって、地面のように見えます。その中に何かがうごめいています。いやもがいています。子どもが落ちたのでしょうか! 茂右衛門はどきりとしました。このあたりの子どもは決して落ちたりはしないのに。茂右衛門は駆けつけました。近寄ってみると、獣(けもの)です。ああ、よかった。と思う半面、ここに落ちてもがいている獣は何だろうと思いました。犬、猫、いやそうではありません。狐だ!と思いながら、助かろうと一心にもがいている狐を見ると、茂右衛門は可哀相(かわいそう) になってきました。思わず側にあった肥柄杓(こえひしゃく)をつかむと狐に差し出しました。狐はそれにしがみついてきました。引き上げて茂右衛門は下肥(しもごえ)まみれの狐に、「これからは気をつけるんだよ。」といって放してやりました。狐は一目散(いちもくさん)に走り去っていきました。茂右衛門は明日からの田植の準備にとりかかりました。田植縄を張りました。そして適当に苗束を投げて、植え易いようにばらまきました。これで明日の朝からすぐに田植に取りかかることができます。茂右衛門は日が暮れてきたので、苗取りに励んでいるお嫁さんに声をかけて家路につきました。その夜茂右衛門はお酒をすこし飲んで元気づけをして、早いめに寝床に就きました。
久し振りのお酒に茂右衛門はぐっすりと眠ることができました。お嫁さんが起こしに来るまで気がつきませんでした。夜はすでに明けていました。「しまった。寝すごしてしまった!」茂右衛門は大急ぎで朝食もそこそこに家を出ました。朝早くから植えている家は、すでに、一くさりも、二たくさりも植えています。とつぜん向こうから来る人に声をかけられました。「茂右衛門さん、ようがんばりなさったな。朝食をすませて二度目の田植かい。」茂右衛門はびっくりしました。二度目だなんて、朝寝をしてしまって、あわてて田植に行くところなのに。茂右衛門は駆け出しました。すると、どうでしょう、昨日田植縄を張って苗束をまいておいた田んぼの半分ばかりが、ちゃんと田植がすんでいるではありませんか。茂右衛門は目をぱちくりさせて、声も出ないで畔に立ちすみました。「ふしぎなこと、誰が植えたんでしょう。」お嫁さんもびっくりしています。こんな不思議なことがあってよいのでしょうか。狐につままれるという諺(ことわざ)がありますが、まさにその通りです。茂右衛門もお嫁さんも田んぼの畔に座りこんでしまいました。ほっぺをつまんでみました。たしかに痛かった。目の前には植えたおぼえのない稲田が風にそよいでいます。何が何だかわかりません。「ほう、だいぶ植えなさったな。」またしても村人が通りすぎていきました。いつまでも座りこんでいるわけにはいきません。茂右衛門は立ち上がると残り半分の田植にとりかかりました。
茂右衛門は、もしかすると、あの狐が生命を助けてもらったので、そのお礼に田植をしてくれたのではないだろうか、と思うようになりました。そこで昨日の出来事をはじめてお嫁さんに話すと、「そんなことがあったのですか。」とお嫁さんは話を聞いて、「そうかもしれませんね。」といいました。茂右衛門は「こんな話は誰も信じてくれないから、話すんじゃないよ。」とお嫁さんにいいました。その年は、いつも穫(と)れ高(だか)の少ないあの田んぼが、近年にない豊作になりました。やっぱりあの狐が田植をしてくれたのだと茂右衛門は確信するのでした。
猫の恩返し
むかし九個荘のある村に、たいそう猫を可愛がるお婆さんが住んでいました。その猫は三毛で毛並みの美しい猫でした。その頃、化猫(ばけねこ)の恐ろしい話が西国方面から伝わって来たので、村人たちは飼っている猫を山の奥へ捨てに行きました。けれどもお婆さんは猫が可愛いので捨てませんでした。そして、「噂はすぐ消えるものです」といって、3ヶ年を区切って飼うことにしました。その3ヶ年がすぎると、さらに3年間飼いました。その6年目の終わる日、三毛は忽然(こつぜん)と姿を消してしまいました。お婆さんはたいそう悲しんでさがしまわりましたが、見つけることが出来ませんでした。その年の秋、お婆さんは村人数人といっしょに巡礼に出ることになりました。お婆さんは最年長者でした。みんなに迷惑をかけまいと、一生懸命歩きましたが、旅を続けるうちに、とうとうみんなから遅れてしまいました。みんなが探してくれているだろうと思いながら、暗い山道をとぼとぼ歩いて行くと、森で鳴く鳥の声も恐ろしく、心細く泣きたいような気持になりました。そんな時、向こうにあかりがひとつ見えました。家がある。人が住んでいる。お婆さんは急に元気がわいてきました。お婆さんが案内を請うと、中年の女の人が出て来て、気持ち良く承知してくれました。「お疲れでしょう。まずお風呂に入って、身体を良く洗ってゆっくりしてください。そのうちに食事の用意もできるでしょうから」言われるままに、お婆さんは風呂場へ向かいました。途中変な臭いのする部屋の前を通りました。風呂場に入ると、燈火(ともしび)がひとつ灯っていて、そばに女が一人待っていました。お婆さんが着物を脱ごうとして帯に手をかけた時、その女が突然「お婆さん、おなつかしゅうございます」と、小さな声でささやきました。お婆さんが振り向くと、その女は「お婆さんに可愛がっていただいた三毛です」と言って矢継ぎ早に「この家は化猫の家なんです。迷いこんで来た旅人を殺して食べるんです。お婆さん早く逃げてください。その裏木戸を出て、少し行くと左へ行く細い道があります。左ですよ、左へ行くんですよ。さあ早く」お婆さんは教えられた通り道に出ました。その時、ぎゃっと、いう悲鳴を聞きました。三毛が仲間を裏切ったために殺されたのでしょう。その時、うしろの方から化猫たちの追っかけてくる声が聞こえました。お婆さんは、三毛が教えてくれた左への細道を見つけて駆け込むと、杉の大木の幹のかげに隠れました。化猫たちはお婆さんに気付かずに、駆けて行ってしまいました。お婆さんは、ほっと安堵(あんど)の息をつくと、そのまま細い道を足早に歩きはじめました。しばらく行くと街道に出ました。そこは宿場町でした。宿屋では、みんなで心配して待っていてくれました。お婆さんは、化猫の家に迷い込んだこと、風呂場で昔飼っていた三毛に出会って助けられたこと、そのため三毛が殺されたこと、化猫に追っかけられて恐ろしかったことを一気に話して合掌しました。そして声をそろえて巡礼の御詠歌をとなえはじめました。
田井の弘法井戸
暑い暑い夏の日のことでした。枚方から南の方へ歩いてくる一人のお坊さんがありました。長い道のりを歩いてきたのでしょう。法衣(ほうい)はほこりにまみれ汗でぐっしょりぬれています。ときどき立ちどまっては汗をふき、また歩きはじめます。その時、向こうに小さな村が見えてきました。「あそこの村で水を一杯いただこう」お坊さんは疲れたからだをはげまして足をはやめました。お坊さんは村に入ると、とある一軒の家の門口(かどぐち)に立ちました。「お水を一杯いただけませんか」とたのみました。けれど、その家のあるじは「今、水を切らしているので、ないよ」といって一杯の水なのに、それを惜しんで水をくれないのです。お坊さんは次の家をたずねました。けれどその家も水を恵んでくれません。お坊さんは不思議に思いました。田んぼには稲が青々と伸びています。水があふれています。野川には水が流れています。それだのに一杯の飲み水を恵んでくれないのです。お坊さんは次の家をたずねました。けれどもまたしても、ことわられてしまいました。おばあさんはいいました。「この村はなあ、水が悪くて飲めないのだよ。井戸を掘れば水は沸いてくるが、とても飲めないんだ。それできれいな水の沸く山手の家から飲み水を分けて貰ってくるんだが、お昼すぎになると、どの家も水がなくなる頃なんだ。夕方にもう一度貰ってくるので、それまでどの家も水に不自由しているよ」お坊さんは、この村はそんなに不自由しているのか、と思いました。おばあさんは立ち去って行くお坊さんを見送っていました。お坊さんは村をすこし離れた所で立ちどまりました。そこは小さな崖裾(がけすそ)になっています。お坊さんはそこでじっと地面を見ているようでしたが、やがて竹の杖(つえ)でこつこつ地面を掘りはじめました。やがてお坊さんは竹の杖を側に置いて、かがみこみました。そして両手で水をすくうようにして口のところへ持っていきます。
一杯 二杯 三杯 水を飲んでいるようです。飲み終わると、お坊さんは南の方へと立ち去っていきました。おばあさんはその所へ走っていきました。そこにはお坊さんの掘った小さな穴があって、きれいな水がこんこんと湧き出ていました。おばあさんは早速飲んでみました。とてもおいしい水でした。おばあさんは喜んで家へ汲んで帰りました。沸かしてみると、すこしも「かなけ」がありませんでした。おばあさんは村中にふれてまわりました。すばらしい水が恵まれたのです。村人たちはその穴をひろげました。石垣でまわりを囲みました。屋根もつけました。そして男の人たちは、そのおいしい水を桶(おけ)に汲んで朝夕家へ持って帰りました。それからというもの、飲み水に不自由することはありませんでした。それにしても、こんなすばらしい井戸を恵んで下さった旅のお坊さんは、いったい誰なんだろう、と村人たちは話し合いました。そんなある日一人の商人がこの村へやってきました。そして、この話を聞くと、「それはこの頃、都で名高い偉いお坊さんに間違いないよ。何でも遠い唐(中国)の長安とかいう町に渡ってきびしい修行をしてお帰りになったとかいうことだ。国中をまわって困っている人々のために、池を造ったり、橋をかけたり、井戸を掘ったりしていなさるそうだ。この井戸もきっとそのえらいお坊さまが見つけて下さったのに間違いあるまい」といいました。それからは、その井戸を誰いうとなく「弘法井戸」、と呼ぶようになりました。
この井戸は水道が引かれるまでは、村の大切な井戸として、長い長い歳月の間利用されてきました。しかし、水道が引かれるようになってからは、使う人もなくなり忘れ去られようとしていましたが、近年になって村人の努力で立派に復旧されました。
高い所へ移りたい!木田村の住吉さん
昨日も雨でした。今日も降りつづいています。あたりの稲田は、だんだんと水に浸かってきました。まだ十分に伸びていない稲は、水の中に沈んでしまいそうです。「こんなに雨が降り続いたら、今年は米がとれないかもしれない。」村人が集まって、心配そうに話し合うようになりました。雨は降り続きます。水かさが、ますます増えてきました。家の土間まで水が入ってくるようになりました。「こんな長雨は、生まれてこの方、一度もなかった。」最年長のおじいさんも、ため息まじりに、つぶやくのでした。その夜のことでした。おじいさんは、なかなか眠れませんでした。それでも、夜の明け方になって、うとうとしていると、白い装束をつけた神様が夢に現れました。そして、「わしは住吉明神である。お社が水に浸かって困っている。高い所へ移りたい。たとえ糠(ぬか)団子を食べてでもいい。水に浸からない所へ移りたい。」そういうと、神様の姿は、すーっと消えていきました。それで目がさめました。おじいさんの頭の中には、今しがた夢の中で聞いた言葉が、はっきりと焼きついていました。おじいさんはとび起きると、家の外へとんで出ました。戸口まで、水がひたひたと押し寄せています。お宮の方を見ると、稲田が沈んで、一面に水があふれ、池のようになっています。その中にお宮のお社が、島のように、ぽつんと浮いて見えます。おじいさんは、裾(すそ)をはしょると、水に沈んだ道を、お宮の方へ歩きはじめました。お社の床下まで水が流れこんでいます。神様のお告げの通りです。そこへ、隣の人もかけつけて来ました。2人・3人と約束でもしたように、村人が集まってきました。そして口々に、お宮さまが水に浸かってしまったので、高い所へ移りたい、たとえ糠団子でも辛抱するからと、おっしゃった夢を見たというのです。不思議なこともあるものだと、人々は思いました。これほどたくさんの者が、同じ時に、同じ夢を見たからには、神様がほんとうにお困りになっていらっしゃるに違いないと思いました。どこへお移ししようか。人々はあたりを見わたしました。すると北の方に、一本の大きな木の生えている所が目につきました。「そうだ、あそこなら、水に浸かる心配がない。」人々は思いました。その場所は他の土地に比べてすこし高くなっているので、今まで一度も水に浸かったことがないのです。人々は水に浸かりながら、その木の所へ歩いてきました。
やがて雨が降り止んで、水は少しずつ減りはじめました。浸かっていた稲も葉先が見えはじめました。けれど、伸びた稲の葉は、水が減るとともに、だらりと、しなだれてしまいました。水が意外に早くひいたので、稲は全滅を免れましたが、ものすごい減収でした。
その年の秋、村人たちは協力して、お宮のお社を、一本の大きな木のそばに移しました。そして、お米が不作であったせいもあって、お宮さまには、夢のお告げのとおり、米糠でつくった団子をお供えしました。神様に糠団子を供えて、氏子がお米団子を食べるわけにはまいりません。同じように食べようとしましたが、まずくて食べることができません。捨てることもできないので、牛に食べさせてやると、牛は大よろこびで食べました。やがて糠団子は米団子にかわりました。けれど糠団子を牛に食べさせる習慣は長く続いたと申します。このお宮さまが、寝屋川市駅のそばの住吉神社なのです。そして、もとお宮さまのあった所には、現在小さな「元宮さま」の祠があって、お祀りしてあります。そのあたり一帯を、この故事にちなんで「木田元宮」と呼んでいます。地域の自治会館は、元宮さまのそばに建てられています。
うぐいす地蔵
お地蔵さんは、ほんとうのお名前を「地蔵菩薩」と申し上げます。たいへんお心のやさしいお方で、苦しみ悩(なや)んでいる者を見ると、じっとしておれないで、何とかして救ってあげようとなさるのです。
あるときお地蔵さんが地獄を歩いておいでになると、賀茂盛孝(かももりたか)という男が地獄の苦しみにあっていました。盛孝はお地蔵さんの姿を見つけると、救ってくださいとお願いしました。お地蔵さんがその男をご覧になると、生きていたとき地蔵堂へ一度お詣(まい)りに来たことがあるのを思い出されて、かわいそうにお思いになりました。そこでお地蔵さんは、地獄の役人に解(と)き放(はな)してやるようにと、お話しになりましたが、役人は「一度、罪人と決まった者は、帰すことができない」といって聞き入れません。「それでは、私がその男の身代わりになって、地獄の苦しみを受けましょう」とおっしゃって、身代わりになられたので、盛孝はやっと地獄の苦しみから逃れることができたと申します。こんなに、おやさしいお方なので、決して腹を立ててお叱りになることはありません。中でも子どもは、とくに可愛がってくださるのです。このようにありがたいお方なので、全国いたる所の村々に祀られているのです。
堀溝(ほりみぞ)の村、実際は蔀屋(しとみや)村の地に、お地蔵さんが祀られています。昔「鶯(うぐいす)の関(せき)」のあった所なので、このお地蔵さんは「鶯地蔵さん」と呼ばれています。たいへん古いお地蔵さんで錫杖(しゃくじょう)を持っていらっしゃるので、お地蔵さんだということはわかりますが、お顔の目も鼻も風雨にさらされたためか、ひどく傷んでいます。こころみにお地蔵さんをよく調べてみますと、延宝(えんぽう)乙卯(きのとう)年七月五日と刻(きざ)んであって、今から約310年の昔に刻まれたお地蔵さんだとわかります。このお地蔵さんは、付近の村人たちから、たいへん尊敬されてきました。歯が痛いとき、おたふくかぜにかかったとき、夜泣きぐせがついたときなど、お地蔵さんにお願いすると、すぐ聞き入れて楽にしてくださるのでした。
むかし鶯地蔵さんの近くに、たいそう信心深いおじいさんが、いらっしゃいました。心のやさしい人でしたので、村の人からも尊敬されていました。それは明治時代の中ごろだったと申します。
ある寒い日に、ひとりのお坊さんが、お地蔵さんの前を通りました。しばらく手を合わせてお地蔵さんを拝んでいましたが、掃除のゆきとどいたお堂に、美しいお花が供えられ、線香(せんこう)の香(かおり)がただよっているのを見ると、旅のお坊さんは、このお堂をお世話している方に逢ってみたいと思われたのでしょう、おじいさんの家をたずねました。おじいさんは、玄関に立ったお坊さんを一目見るなり、見知らぬお方であるが、そのすがすがしい目を見て、修行をつんだお坊さんだと思いました。それで早速座敷へ招待しました。寒い冬の最中(さいちゅう)です。熱いお茶を差上げると、お坊さんは、こごえる手で茶をすすりながら、おじいさんの顔を、考えこむような目で見つめていましたが、すすり終えると、「いいことをお教えしましょう」といって話しはじめました。「もし病気などで苦しんでいる人があれば、その人を連れて、お地蔵さんにお詣りをしなさい。そしてお堂をていねいに掃いて、掃除が終わったら、お地蔵さんの前に並んで、箒(ほうき)の軸からわらしべを一本引き抜いて、それでその人の手のひらに、『通』と書いてあげなさい。その字に息をそっと吹きつけて、すばやく手に握らせるのです。そのまま家まで帰らせて、帰りつくと手を開いて、痛い所をなでさするのです。このおまじないは、誰にも教えたことがありませんが、おじいさんだけに教えます。お地蔵さんがお守りくださっているので、あなたがおやりになれば、ききめがあるでしょう。たくさんの人を救ってあげてください」そういって、旅のお坊さんは、いま一度お地蔵さんにお詣りすると、西の方へ街道(かいどう)を歩いて消えていかれました。それからというもの、おじいさんがおまじないをしてあげると、不思議と痛みがなくなるのでした。鶯地蔵さんの名は、たいへん有名になりました。おまじないも今に伝えられ、おじいさんの子孫の方が、たいせつにお地蔵さんのお守りをしていらっしゃいます。とくに8月23日・24日の地蔵盆の日にはたくさんの家々からお供え物がそなえられ、並んだ提灯(ちょうちん)に灯がともされ、西国三十三番の御詠歌(ごえいか)が捧げられます。また、お堂の前では、美しい浴衣(ゆかた)を着た子どもたちや村人が、楽しい宵の一刻(ひととき)をすごします。こうして鶯地蔵さんは、今もたいせつに村人たちに祀られているのです。
やさしいお地蔵さま
治作は、貧乏でした。それに身寄りもありません。毎日、村の親方に雇(やと)われて暮らしていました。「いつになったら、おれもお嫁さんがもらえるのかなあ」治作はお祭の夜など、小さな子どもの手をひいてお詣りにくる若い夫婦を見るたびに、羨(うらや)ましく思うのでした。それは春の日のことでした。広い田んぼは黄色い菜種の花におおわれ、蝶がその間をとびまわっています。その中で治作は夕方おそくまで仕事に追われていました。それで疲れて帰ってくると、水で身体をふき、冷たい雑炊(ぞうすい)をすすると、ごろりとむしろの上に横になりました。とてもいい気持でした。お酒に酔った時のように身体中がほてってきて、深い深い眠りに落ち込んでいきました。
向こうから誰かが歩いてきます。おぼろ月夜なのではっきりとは見えませんが、その人影は女のようでした。淀川の堤は涼しい風が吹いて爽(さわ)やかで、何ともいえないよい気持です。だんだん人影は近づいてきました。少女です。しとやかに歩いてきます。何ともいえないようなよい匂いがただよってきます。「いい娘だなあ」と治作は思いました。行きちがう時、その娘はきゅうに、よろけました。そして、そこへしゃがみこんでしまいました。治作はびっくりしました。思わず立ち止まりました。娘は痛そうに足首を押さえています。片一方の下駄(げた)が散らかっています。鼻緒(はなお)が切れたのでしょう。娘は立ち上がろうとしますが立てません。治作はこのまま見捨てて行き過ぎることは出来ませんでした。それに夜も更けています。「家はどこ?」治作がたずねると、はずかしそうに、「太間(たいま)です」と答えました。太間とは治作が住んでいる村なのです。治作は娘の顔をのぞきこみましたが、それは見なれない顔でした。見かねて、「おぶってあげよう」といって、治作はしゃがみこんで背を向けました。娘は「すいません」と、消えいるような声でいうと、おずおずと、治作の背に負ぶさってきました。柔らかい肌の感触。匂ってくる甘い香り。治作はいい気持になりました。胸の動悸がはずんできました。人通りはありません。治作は夢見る心地でした。鼻緒の切れた下駄を、背負った指にからませて歩きはじめました。
二丁 三丁 五丁 そのうち娘は安心して眠ったのでしょうか。だんだんと重くなってきました。手がしびれてきました。けれど治作はじっとこらえました。道は村の中に入ってきました。家並は堤に沿って細長くつづいています。村の真中まで来た時、治作はあまりの重さに、がまんできなくなりました。おもわずよろけました。その拍子に背負った娘をほうり出してしまいました。治作はびっくりしました。あわてて娘を見ました。娘は青い顔をして死んだように横たわっています。治作はいそいで抱き起こそうとしましたが、重くてどうしても起こすことができません。それに手足がしびれて動きません。治作はおもわず、ぶるぶるっと身をふるわせました。
ふと気がつくと、胸の上に鍬(くわ)の柄(え)が倒れていました。「これで、あんな夢を見たんだな」と思いました。けれど、あの娘を背負った時の何ともいえない感触は、目の覚めた今でもありありと残っています。どこかで声高に話し合っている声が聞こえました。あわてて外へ出てみると、日はすでに昇っていました。向こうの辻堂の前に5〜6人の人が集まってさわいでいます。「誰だい、こんなひどいことをする奴は」誰か大きな声でどなっています。治作は駆けていきました。見ると、お地蔵さんが堂の前に倒れています。それも無惨(むざん)に二つに割れて。治作ははっとしました。「夕べの娘さんはお地蔵さんだったのか」治作はびっくりしました。そして「昨夕のことは誰にも話すことができないぞ」と思いました。治作は、こわれたお地蔵さんをそっと抱きかかえると、堂の中に納めました。となりのお婆さんが赤い布を持ってきて、その割れ目が見えないように飾ってくれました。治作は何度も何度も合掌しました。そして心からおわびをしました。その時「おーい、治作、何しているんだい。早く仕事に来ないか」遠くで親方の声がしました。治作はその声に今一度お地蔵さんに、ふかぶかと頭を下げると、親方の方へ駆けていきました。駆けながら治作は、「ゆうべのようなやさしい娘が。きっとお嫁さんに来てくれるにちがいない」と思うのでした。
菱(ひし)に乗ってきた竜神さま
田植えがすんで十日。稲はすくすくと伸びはじめました。「今年は豊年まちがいなし」村人の心ははずんでいました。ところが、その翌日から天気があやしくなりました。どんよりとした雲が南の方から立ちこめて、風は奇妙(きみょう)に生(なま)暖かくなりました。「お天気が落ちたね」村人たちは畦(あぜ)に腰をおろして休みながら話し合いました。
その夜からものすごい大雨になりました。横なぐりの雨が戸をたたきつけています。「これでは稲が浸(つ)かってしまう」村人は心配しはじめました。次の日も雨は止みませんでした。そして、夕方には広い田んぼはすっかり水浸(みずびた)しになって、青々としていた稲田は水の中に沈んでしまいました。ただ井路に生えている柳だけが並木のように続いています。村の西も東も低い土地でした。村はちょうど湖に浮かんだ小島のようにみえました。
いろんな物が流れてきます。それも、ゆっくりと流れてきます。下流の水はけが悪いために、水が低い所に溜(と)まって湖のようになったのです。三日目も烈(はげ)しく降り続きました。風は止みましたが、棒のような雨は止みません。水位がどんどん上がってきます。「今年の稲はだめだ」村人たちは天を仰いでなげきました。村まで水に浸かってしまうかもしれません 。
「菱がどんどん流れてくるよ」その時、誰かがいいました。広い湖のような水面を菱が、びっしりと肩を組んで流れてきます。その菱の上に大きな蛇のような生き物が乗っかっています。それは今までに見たこともない異様な姿でした。「竜神さまだ」村人たちはびっくりして家へ逃げこみました。けれど恐ろしいものほど、こっそりと見たいものです。村人は細目に戸を開けてのぞきました。菱は岸に近よってきました。そして村の東の端に着きました。竜神さまは、するすると地上にあがりました。そして身体をぐるぐるっと丸めると、きっと空を見上げました。それは威厳にみちた姿でした。その時、今まで空一面に立ちこめていた雨雲の一部が、急に真黒な雲に変わりました。そして烈しい勢いで垂れ下がってきました。竜巻のようにぐるぐると舞いながら。黒雲が竜神さまを包んだと思うと、そのまま、すっと空へ舞い上がっていきました。黒雲が天に着いたと思うと、今まで空一面に垂れこめていた雨雲が急に切れはじめました。日矢がさしてきました。青空が雲の切れ目からのぞきはじめました。水が急に減りはじめました。稲の葉先が見えてきました。青い田んぼがもどってきました。村人たちは躍(おど)り上がってよろこびました。「竜神さまのおかげだ」村人たちは口々に言いました。そして竜神さまが空に上がっていかれた場所を神域としてお祀(まつ)りすることにしました。
竜神さまが乗ってこられた菱は池や井路にはびこって、水面を埋めるようになりました。そして秋になると根に黒い固い実ができました。それを煮て庖丁(ほうちょう)で剥(む)くと中から白い栗のようなこくこくしたおいしい実がとれました。けれど、実には鋭いとげがありました。謝って踏もうものなら、忽(たちま)ちとげが刺さって血がにじんできます。ところが竜神さまをお祀りするようになってからは、菱の実を踏んでも膿(う)むことはありませんでした。村人たちは、この霊験あらたかな竜神さまに感謝するのでした。
その神域は小さく狭くて、人間の背丈ぐらいの木が一本枝を張っているだけですが、その神前には木の鳥居が建っています。そして長い歳月を経た現在でも村人たちは毎年お祭りの日がやってくると、池から菱の実を採ってきてお供えすることを忘れません。
池田の野神(のがみ)さま
寝屋川市の平野は米どころでした。淀川の堤から、東の方の南北に連なる丘陵までは、一面の黄金波うつ実りの稲田で、春になると菜の花が野を埋め、また麦や綿なども色づいて美しい景色でした。その中に、小さな村が点在して河内野(かわちの)はほんとに豊かな土地でした。お百姓さんたちは、これも野神さんのおかげであると信じて、昔からお祀(まつ)りを絶やすことがありませんでした。元の九箇荘(くかしょう)村に、池田川村・池田中村・池田下(しも)村という三つの村があります。それぞれ野神さんをお祀りしています。
それは江戸時代のことでした。その頃、池田の村々を治めていた殿さまは、永井信濃守(ながいしなののかみ)といいました。そろそろ、田植えの準備に取りかかろうとする頃、殿さまが、たくさんの家来をつれて、領内の見廻りにおいでになりました。村から村をまわって、池田川村までおいでになった時、何に驚いたのか、殿さまの乗っておられた馬が突然あばれだしました。そばに池があります。危険この上もありません。家来たちは、必死になって馬の轡(くつわ:口にからませて、たづなを付ける金具)にぶら下がって、馬をとり鎮(しず)めようとしましたが、馬はますますあばれます。殿さまも危うく落馬しそうになりました。やがて何人もの家来に押さえこまれて、馬はようやく、おとなしくなりましたが、あばれていた時、運悪く片足を池の中にめりこませて、足を痛めてしまいました。馬は足をひきづっています。もはや馬に乗ることはできません。家来は、みな歩いて、つき従っています。代わりの馬を差し出すことはできません。それに、このあたりの農家は牛ばかりで、馬は一頭もおりません。だからといって、殿さまを歩かせるわけにもまいりません。困りはてていると、一人のお百姓が、おずおずと申し出ました。「私の家の牛は、とてもおとなしくて、あばれたりすることはありません。それで田んぼへの行き帰りには、いつも牛に乗っています。もしお使いいただけるようでしたら、私が手綱(たづな)をひいてまいりましょう」といいました。殿さまが牛に乗って領内を見回るなんて、とてもできそうもありませんが、意外にも、殿さまは、その申し出を聞くと、「それは良い考えだ。牛に乗ろう」と、いいました。永井の殿さまは、大そう菅原道真(すがわらみちざね)公(天神さま)を信仰していました。それで領内の村々に、天神さまを祀るようにと、すすめていました。その天神さまの「つかわしめ」である牛に乗って、領内を見回ることができるとあって、殿さまは大乗気(のりき)でした。早速、村人は、牛をきれいに洗って、ひいてきました。黒色のつやつやとした毛なみです。よく肥えています。殿さまは上機嫌で牛に乗りました。馬のように威勢よくとはいえませんが、それでも行列は、牛を先頭にゆらりゆらりと、出発することができました。その日、領内の見回りが無事終わった時、殿さまは、「良い牛だ。大切に飼ってあげよ」といって、ごほうびを下さいました。
間もなく端午(たんご)の節句(せっく)がやってきます。そのお百姓さんは、五日の節句を待ちかねるようにして、赤や青や黄などの、きれいな布を買いました。そして当日になると、その布で・角(つの)・頸(くび)・背中(せなか)などをきれいに飾り立て、キリシマの花を挿(さ)して、野神さんへお参りしました。野神さんへ着くと、牛にお酒を飲ませました。軟らかく煮た麦や豆を食べさせました。また淀川の川原から刈ってきた柔らかい若草をたくさん与えました。
その年は不思議なほどの豊作でした。それからというもの、毎年その日になると、そのお百姓さんは牛を休ませ、美しく飾りたてて野神さんへお参りするようになりました。すると豊作が続いて、村人たちを、うらやましがらせました。やがて、それを見習って、牛を飾りたて、野神さんへお参りする家が、だんだんと多くなりました。また隣り村も、同じように、自分の村の野神さんへお参りするようになりました。この行事は、ずいぶんと長い間続けられていましたが、現在では農耕の牛を飼っている家は一軒もなく、代わって耕運機(こううんき)がエンジンのうなり声を、あげるようになりました。けれど、野神さんを祀る風習は、今もって絶えることなく、村人によって受け継がれています。
木屋(こや)の竜神さま
「この池もだんだんと狭くなってきた。困ったことだ」竜神さんはあたりを見まわしながら、ひとりつぶやくようになりました。この池はもとはたいへん大きな広い池でした。お宮さまのすぐ裏から赤井堤防(あかいていぼう)までつづいていて、西は淀川の堤まで、そして東はずっと村のはずれまで広がっていました。池のまわりには丈の高い葦(あし)が一面に生い茂り、岸辺には柳が連なっていて、遠くから見ると森のように見えました。芦原にはいつも鳥がさえずり、秋になるとたくさんの渡り鳥が北からわたってきました。また、池にはいろんな魚がたくさん泳いでいました。ほんとうに住みよい池でした。「こんなに住みよい池は、またとあるまい」竜神さまはいつも思っていました。そして平和な長い歳月が流れました。
ところが、この頃になってすこし不自由をおぼえるようになりました。あたりに人家がふえてきました。田んぼがひらけてきました。池はすこしづつ埋められて、葦原がいつのまにか稲穂の垂(た)れる田んぼにかわっていきます。魚や鳥をとる人もふえてきました。池も小さくなりました。竜神さまはだんだんと食べ物に不自由するようになってきました。それにすみかが小さくなっていくことはつらいことでした。やがて飢(ひも)じい日が続くようになりました。
竜神さまはとうとう我慢(がまん)することができなくなりました。それで池のそばの実っている稲穂をすこしばかり頂戴(ちょうだい)しようと思いました。一生懸命働いて稲を育てているお百姓さんには申し訳ないと思いました。すると翌日たくさんのお百姓さんが集まってきて、わいわいと騒ぎはじめました。そして、「困ったことだ、困ったことだ」と悲しそうな声をだして、なげきあっています。その声を竜神さまは身の縮む思いで聞いていました。それで次からは、すこし離れた郡(こおり)のあたりの稲を頂戴することにしました。すると、郡のお百姓さんたちが大勢で木屋へ押しかけてきました。仕方がないので、今度は山一つ越えた交野の方へ足をのばしました。ここで稲をすこしぐらい頂戴しても、遠くはなれているので木屋の人々に迷惑のかかることはあるまい、と思ったのですが、案外早く知れてしまって数日もたたないうちに交野の人々が押し寄せてきました。竜神さまは空腹と申し訳なさとで途方に暮れてしまいました。村人たちもほとほと困りはてて、相談をはじめました。
そんなある日のことでした。めずらしく竜神さまは朝早くから目がさめました。泳いで池を一まわりすると、岸に小さな棒に御幣(ごへい)を結びつけた桟俵(さんだわら…米俵の両端にあてる丸いわら製のふた。「さんだらぼうし、さんだらぼっち」ともいう)が置いてありました。不思議に思って近づいてよく見ると、その上に「こもまき御飯」が載(の)せてありました。「こもまき御飯」というのは、御飯をこもで巻いたもので粽(ちまき)のようなものです。おいしい香りがただよってきます。ちょうどお腹(なか)の空(す)いている時です。竜神さまはそれを取り上げると、一口にぱくっと食べました。こもの香りが御飯に移って、とてもおいしいでした。たった一本でしたが、それを食べるとすぐ満腹になりました。交野の山の奥の田へ稲を頂戴に出かけようと思っていたのが、急におっくうになってきました。竜神さまは池の底で横になると、今日はのんびりと寝て暮らそうと思いました。
翌日になりました。ところがお腹はすこしも空きません。三日たっても、十日たっても満腹です。いっこうにお腹が空きません。竜神さまはいつのまにか稲を食べに行くことを忘れてしまいました。そして半年が過ぎました。お宮さまの春祭りの日が近づいてきました。すると、急にお腹が空いてきました。何か食べたくなりました。
4月16日になりました。お宮は賑(にぎ)わっています。けれど竜神さまはお腹を空かせて池の底でその賑わいを聞いていました。そして、明日はまた交野の方へ食べ物を探しにゆこうと考えながら、眠りにつきました。ところが翌朝目がさめると、池の岸に御幣を飾りつけた桟俵が置いてありました。「こもまき御飯」が載せてありました。竜神さまは大喜びで食べました。すると、すぐ満腹になりました。眠くなってきました。心の底からのんびりとしてきました。そして、そのまま秋祭りまで空腹を知らず暮らすことができました。稲は順調に育っていきます。稲田は竜神さまに食べられることもなく、何年も何年も豊作がつづきました。日照りが続いて一雨欲しい時は、お百姓さんたちが池のそばに集まってお願いすると、竜神さまはすぐに雨を降らせてくれました。「豊年が続くのも竜神さまのおかげだ」村人たちは心から喜んでお宮の奥にお社(やしろ)を建ててお祀りすることにしました。そしてお宮のお祭りがすんだ翌日に「こもまき御飯」を供えて竜神さまに食べていただくことにしました。
その竜神さまの池も今ではすっかり田んぼになってしまって、あとかたもありません。わずかに最近まで残っていた名残りの小さな池も今は埋められています。木屋の鞆呂岐(ともろぎ)神社の奥院に「史跡・茨田蛇の池あと」としるされた石碑が建てられています。そして側面には、竜神さまを崇敬(すうけい)する四百六十数人の浄財で神域を整備しこの碑を建てたと刻まれています。こうして木屋の竜神さまは今も村人の心の中に脈々として活(い)きつづけているのです。
豆腐屋さんと池の主(ぬし)
このお話はいつ頃からか、太間の村に伝えられているお話です…。木屋(こや)村と太間(たいま)村との間には用排水のための、大きな建物と水路があります。このあたりは、昔大きな池のあった所で、大変低い土地でした。昔、木屋村の方から太間村の方へ、そして次々と村をまわって豆腐を売りあるく豆腐屋さんがありました。朝早く起きて、寒かろうが、暑かろうが、豆腐を作って、夜の明ける頃には荷を担(にな)って家を出ました。その日は寒い朝でした。豆腐屋さんは淀川から吹いてくる冷たい風に頬をまっ赤にして池の側を通りました。池の側には一本の大きな榛(はん)の木がありました。豆腐屋さんは急いで来たので身体がほかほかしてきました。それにすこし疲れたので、木の根方に腰をおろして休みました。その時、池のまん中の方で何かが跳ねる大きな水音がしました。何事だろうと豆腐屋さんが振り向くと、大きな渦がでてきていました。鯉でも跳ねたのだろうと思って豆腐屋さんは豆腐の滓(かす-おから)を荷から取り出すと、球にして渦の所へ投げました。すると大きな渦がわきおこったかと思うと、おからは水中へ吸い込まれてしまいました。さあ出発しようと、豆腐屋さんは荷を担って歩き始めました。その日は不思議なほど豆腐がよく売れました。いつも残るおからまでが、すっかり売れてしまいました。それで翌日、豆腐屋さんはいつもより多く作って出発しましたが、この日もすっかり売り切れてしまいました。勿論(もちろん)、榛の木の側で、池へおからを投げました。すると昨日の様に渦を巻いて、大きな音をたてて吸いこまれていきました。それからは、それが毎日の行事のようになりました。豆腐屋さんは商売繁昌(しょうばいはんじょう)で、ほくほくしていました。そんなある日、特別の用事があって、いつも通る道ではなく、逆の道をとりました。すると不思議なことに、いつも買ってくれる家までがすこしも買ってくれません。それで足を伸ばして遠くまで売りに廻りましたが売れませんでした。重い売り残りの豆腐を担って帰りました。あくる日は以前のように、池のそばで休むと大きな音をたてて渦がまき起こりました。おからを投げると、たちまち吸いこまれていきました。道を変えた日は、すこしも売れません。豆腐屋さんは、はじめて気がつきました。池には主(ぬし) が棲(す)んでいる、主に施行(せぎょう)した日はよく売れるのだと。そんなことに気づいてからは、どんなことがあっても、池の主におからを施行することを忘れませんでした。池の主は何だったのでしょう。それは誰にもわかりません。ただ、そんな話が残っているだけです。
狸(たぬき)のはなし
とん、とん、とん。誰かが雨戸を叩いています。真夜中です。あたりはし〜んと静まりかえっています。こんな夜ふけに誰が来たのだろう。茂平さんは不思議に思いながら起き上がりました。のろのろと土間に降りて戸を開きました。きれいな月が空に輝いています。一片の雲もありません。あたりを見まわしましたが誰もいません。風もなく広い田んぼには黄金(こがね)の稲穂が頭を垂れています。「ねぼけていたのかしら」茂平さんは独り言をいうと寝床にもぐりこみました。お嫁さんも子どもも昼の仕事の疲れでぐっすりと眠っています。くう、くう、くう。土間の隅で鳴き声がしました。それは子狸(こだぬき)の声でした。竹かごが伏せてあります。夕方畑仕事をしていた時、迷いこんできた子狸です。あまりに可愛らしいので家につれて帰ったのです。「おなかがすいたのかい」茂平さんは再び起き上がって大豆を一握り投げ入れてあげました。茂平さんは寝床へもどると、すぐに眠ってしまいました。すると、またしても戸を叩く音がしました。今度は、はっきりと聞こえました。茂平さんは慌(あわ)てて戸を開けました。不思議なことが二度も続いたので、すこし気味悪くなって、なかなか寝つかれませんでした。その時、突然ばたんと戸口が開きました。大きな狸が立っていました。狸はしばらく家の中を窺(うかが) っているようでしたが、決心したかのように、ずかずかと近づいて来ました。茂平さんが大声をあげようとしましたが声が出ません。苦しんでもがいていると、「茂平さん、あなたにも可愛いお子さんがいるんでしょ」と、言って両手をあわせました。茂平さんは、はっとわれにかえりました。飛び起きると、子狸のそばへ駆(か)けよりました。子狸は、くっくう、と悲しそうな声をたてました。「よしよし、放してやるよ」竹かごから出してやると、子狸は一目散(いちもくさん)に戸外へ駆け出して行きました。その時、淀川堤の竹藪(やぶ)から親狸の駆け寄って行く姿が見えました。「二度とつかまるんじゃないよ」茂平さんはつぶやくと、また寝床へもぐりこみました。こんどは、ぐっすり眠れることでしょう。
 

 

●大阪の伝承
星田妙見宮/星の森/光林寺 (ほしだみょうけんぐう)
交野市から枚方市にかけての一帯は、平安時代より“交野ヶ原”と呼ばれ、狩猟場として多くの貴族がこの地で遊んだとされる。それと同時に、天空にまつわる伝承が多く残る地でもあった。“星田”と呼ばれる一帯でも、降星伝説が残されている。かつて空海が獅子窟寺の石窟で仏眼仏母の修法をおこなっていた時のこと。ある夜、秘法を唱えたところ北斗七星(七曜の星)が降り、3つに割れて地上に落ちてきたという。このそれぞれ落ちてきた地にあった石を影向石として祀り伝えてきたのが、星田妙見宮・星の森・光林寺である。星田妙見宮(小松神社)は、妙見山の山頂にある神社である。主祭神は天之御中主神であり、これは本地垂迹説によると妙見菩薩の権現とされており、北極星を神格化した存在を祀っている(この神社では、現在でも、神道において北極星を表す神である“鎮宅霊符神”の霊符を配布している)。この神社の裏手には、今もなお「織女石」と呼ばれる巨大な岩があり、これが影向石であるとされ、御神体として信仰の対象となっている。星の森は住宅地の真ん中にあり、長らく手つかずの状態で影向石が置かれていたという。昭和56年(1981年)になってこの地を整備して、小さな公園のような場所にしている。“森”とはされるが、現在では申し訳程度に木々があるだけで、整地された場所の奥まったところに塚が造られている。上に置かれている石が影向石であり、塚には影向石の破片とされる小石が4つ収められているという。光林寺は安土桃山時代までには開山していたと推定される寺院である。“降星山”の山号を持ち、当初は“降臨寺”と記載されていたとされ、降星伝説に関連して創建された寺院であることは間違いない。この寺の境内、本堂横に影向石が祀られている。この3つの地点を結ぶと、1辺が約900mほどの三角形が出来上がる。そのためこの3箇所は古くから「八丁三所」と呼ばれ、降星伝説が言い伝えられてきたのである。
交野ヶ原 / 交野市から枚方市にかけての丘陵地帯である。その中央部を南東から北西にかけて流れる天野川を中心に、複数の天空にまつわる伝承地がある。天野川上流にあるのが磐船神社で、饒速日命(ニギハヤヒ)が天磐船に乗って降臨してきた地とされる。また交野市内には織姫を祭神とする機物神社があり、さらに天野川をはさんだ地には牽牛石が残されている。この地には「七夕伝説」が平安時代からあり、『伊勢物語』や『古今和歌集』には、在原業平がこの地で詠んだ「狩り暮らし 棚機津女(たなばたつめ)に 宿借らむ 天の河原に 我は来にけり」の歌が残されている。
獅子窟寺 / 交野市私市(きさいち)の山中にある寺院。行基が創建したとされ、境内にある岩屋が、獅子が口を大きく開けた姿に見えることから“獅子窟”と呼ばれ、そこから寺名が付けられた。空海が修法をおこなっていたのも、この獅子窟である。
妙見信仰 / 中国の道教で神格化された北極星(北辰)が、仏教の菩薩信仰と習合して「妙見菩薩」という形で信仰されるようになったものが、飛鳥時代頃から日本に伝来して始まったとされる。国土を守り、災いを除き、人に福寿をもたらすとされ、日本では“妙見”の名から眼病平癒の効験もあるとされる。また北斗七星を伴った姿で表され、その第七星を“破軍星”と呼ぶことから武神としての性格を帯び、多くの武将からの崇敬を受けるようになった。
妙国寺の大蘇鉄 (みょうこくじのおおそてつ)
日蓮宗の本山で永禄5年(1562年)に、三好長慶の弟・三好実休が日bに帰依し、土地を寄進して開基した。その時には、既にこの地所に大蘇鉄の木が植わっていたという。その後、妙国寺は大坂夏の陣(1615年)と堺大空襲(1945年)の際に灰燼に帰すが、この大蘇鉄だけは奇跡的に焼け残っている。樹齢は推定で1100年、国の天然記念物に指定されている。この大蘇鉄であるが、かの織田信長を震撼させたという曰く付きの存在である。この逸話が残されている『絵本太閤記』では、以下のような話となっている。妙国寺の大蘇鉄は堺の町で知らぬ者がない存在であったが、突然樹勢が衰えて枯れ始めた。あれこれ手を尽くしたがどうにもならず、ついには京都の法華宗本山の高僧を集めて法華経を読経したところ、再び緑の葉を繁らすようになった。これを聞いた法華宗徒は法華経の法力を誇示し、その噂は信長のいる安土まで届いた。信長はその信徒の驕りに腹を立て、このまま放置しておくと政道が乱れると、この大蘇鉄を安土に運ぶよう命じたのであった。安土に運ばれた大蘇鉄を見るや、信長はたいそう気に入り、城の広庭に植えさせた。ところがある夜、信長が目覚めると「妙国寺へ帰ろう帰ろう」と声がする。大いに怪しんで、森蘭丸を呼び出して正体を探らせた。すると声の主は大蘇鉄であると判ったため、先の枯死から甦った件も併せてこの木は妖怪であろうと、翌朝士卒を集めて切り刻んでしまうよう言いつけた。翌日、配下の菅谷九右衛門が300名の士卒に斧を持たせ大蘇鉄を伐ろうと近寄ったところ、突然士卒たちは血を吐いて悶絶して倒れだしたのである。菅谷が驚き顛末を報告すると、信長はしばし黙り込み「魏の曹操は躍龍潭の梨の木を伐って死んだ。古木の霊は犯すべからず。この蘇鉄もこのまま堺の寺に返すべし」と言ってただちに妙国寺へ戻したという。妙国寺の言い伝えでは、信長が家臣に切らせると赤い血のようなものを噴き出し、蛇のように身をよじらせたために、恐れをなした信長が返したとなっている。そして方々を切られて戻ってきた大蘇鉄はその後日々衰え、哀れに思った日bが法華経一千部を読誦したところ、満願の日に蘇鉄の木から翁が現れ「鉄分を与え仏法の加護で蘇生すれば報恩する」と伝えた。そこで木の根元に鉄屑を埋めたところ、再び樹勢を取り戻したという。(この逸話から「蘇鉄」という名が付いたとも)ちなみに『絵本太閤記』では、この大蘇鉄の怪異によって、ますます妙国寺の名は高まり、法華宗に改宗する者が激増。安土でも多くの者が法華宗徒なり、中には増長し他宗を攻撃する者が現れ、それが法華宗と浄土宗による安土宗論のきっかけとなったと記されている。また『絵本太閤記』を元に創作された浄瑠璃「絵本太功記」では、この妙国寺の大蘇鉄の怪異を発端として、法華宗の僧をかばいだてて懲戒を受けた武智(明智)光秀が本能寺の変を企てるという筋書きとなっている。
妙国寺 / 開山は日b。開基の三好実休が伽藍建立の前に討死したため、日bの実父である堺の豪商・油屋常言が私財を出して建立している。また本能寺の変当日、徳川家康はこの妙国寺で一報を聞き、日bから茶を勧められ、その後油屋常言の計らいにより堺を脱出している。
『絵本太功記』 / 寛政9年(1797年)初編刊行。初編が人気を博したため、最終的に7編84冊刊行される。この人気にあやかって作られたのが、同11年(1799年)の浄瑠璃「絵本太功記」である。
躍龍潭の梨 / 『三国志演義』の中の逸話。魏の曹操が宮殿を建てる際、躍龍潭にある梨の巨木を梁に使おうとしたが、斧の刃を立てることすら出来ない。報告を受けた曹操は怒り、自ら赴いて巨木を切りつけると血のような樹液が噴き出した。そして怖れる人々を前に「木が祟るとすれば私に祟るだろう」と言った。その後、木の神に切りつけられる夢を見てから、曹操は酷い頭痛に悩まされ、それが元で死んだという。
七宝瀧寺 志津の涙水
役小角によって開基された犬鳴山七宝瀧寺は、葛城山系の修行場の根本道場として栄えた古刹であり、多くの伝説を持つ。“七宝瀧寺”の名は祈雨の呪法による降雨を賞した淳和天皇が付けられたものであり、山号である“犬鳴山”は有名な義犬伝説から宇多天皇が勅したものである。そしてその院号である“白雲院”にも有名な伝説が残されている。官女の志津は、御所に出入りする修行僧の淡路の小聖を恋い慕うようになった(一説では、志津は淡路島に住む官女であり、たまたまその地を訪れた若い修行僧に懸想したとも)。しかし、言い寄られた小聖は修行大事とばかりに出会うことを拒み、いずこともなく立ち去ってしまった。それでも志津は諦めきれず、小聖を追って流浪の旅に出るのであった。そして2年後、七宝瀧寺に小聖が修行で滞在していることを聞きつけた志津は、犬鳴山に足を向けた。だが、山は白雲に包まれて先が見えず、やがて志津は寒さと飢えのために参道に倒れそのまま息絶えたのであった。事情を知った村人が志津を葬ったのであるが、その未練のためか、犬鳴山に白雲が掛かると必ず冷たい雨が降るようになった。人々はそれを“志津の涙雨”と呼びならわし、やがて白雲院という院号で呼ばれるようになったという。さらに志津の倒れたあたりから清水が湧き出し、いつしか“志津の涙水”と呼ばれるようになった。現在でも涸れることなく、清水がしたたり落ち続けている。
犬鳴山 七宝瀧寺 (いぬなきさん しっぽうりゅうじ)
大阪府と奈良県の県境を形成する金剛山地から、大阪府と和歌山県の県境を形成する和泉山脈までの一帯は、かつて“葛城”という名で呼ばれていた。そしてこの地を中心に行場を作ったのが役小角であった。七宝瀧寺も、その修行の場として役小角が斉明天皇7年(661年)に開基した道場であるが、“葛城”に設けられた28の参籠行場の中でも「根本道場」とされ、中心的な地位にある。江戸時代には東にある大峯山系と並んで、修験道の西の修行場として多くの信仰を集めた。明治以降、修験道は一時廃止されたが、昭和になって再興。現在は修行体験として瀧修行もおこなわれている(寺の指導による作法伝授を受ける必要あり)。七宝瀧寺の名は、境内を流れる犬鳴渓谷にある7つの滝から採られている。淳和天皇の御代、大規模な旱魃が起こったため、祈雨の修法をおこなったところ和泉国一帯で降雨があった。これにより、山中にある名のある七瀑を金銀財宝をあらわす“七宝”に見立て、天皇が命名したとされる。さらにこの寺の山号となる“犬鳴山”には、不思議な伝説が残されている。寛平2年(890年)、紀州のある猟師が一頭の犬を連れて、この修行場近くの山中で鹿を逐っていた。鹿を見つけ矢を放とうと狙いすましたところ、いきなり犬が激しく吠えだした。獲物の鹿は逃げてしまい、怒り狂った猟師はいきおい犬の首を刎ねてしまう。ところが、犬の首は宙高く飛んだかと思うと木の枝にぶつかり、大きな蛇と一緒に落ちてきた。刎ねられた首は大蛇の頭にしっかりと咬みつき、蛇も息絶えていた。我に返った猟師は、大蛇が自分を襲おうと狙っていたのを犬が察知して吠えたことに気付き、さらに首を刎ねられてもなお主人を助けようとした忠義に心を打たれた。犬を懇ろに葬り、弓を折って卒塔婆とした後、猟師は七宝瀧寺で僧となったという。そしてその話を聞いた、時の宇多天皇は感銘し、山号を犬鳴山とする勅を出し、それ以来付近一帯は“犬鳴”の地と呼ばれるなったとされる(七宝瀧寺のある山の名が“犬鳴山”ではなく、あくまでこの寺院の山号として“犬鳴山”が冠せられているのである)。現在も、七宝瀧寺の境内となっている山中の一角にこの義犬を祀った墓がある。
義犬伝説 / 上記の、飼い犬が身を挺して主人の危難を救う話は全国にあり(特に狩猟中に吠え続け、主人によって首を刎ねられるも、命を狙う害獣を退治する話は圧倒的に有名)、この種の伝説の典型である。
捕鳥部万の墓/義犬塚 (ととりべのよろずのはか/ぎけんづか)
31代用明天皇の崩御から32代崇峻天皇の即位までの僅か3ヶ月の間に、日本史上重大な政変が起こっている。大陸より伝来した仏教を巡る対立を発端として、蘇我馬子を中心とする勢力が物部守屋の一族を滅ぼしたのである。この顛末は『日本書紀』にも当然記録されているが、同書にはこの物部氏滅亡の後に起こった“事件”についての詳細が書かれている。物部守屋に仕える者の中に捕鳥部万という剛の者がいた。蘇我氏との戦に備えて難波にあった守屋の邸宅を守るために100人の兵を率いていたが、守屋が河内の本拠地で敗死したことを知るとすぐに兵団を解散させ、単独で妻の実家のある茅渟県(ちぬのあがた)の有真香邑(ありまかむら)へ移動した。朝廷はこの行動を万の反逆とみなし、数百の兵をもって討ち果たそうとした。身の危険を知った万は山へ逃げ込み、竹に縄を掛けて揺することで兵達を攪乱し、矢を放って次々と倒していった。百発百中の矢に兵は怯み、その隙に万はさらに山奥へと逃げていくが、兵の放つ矢は全く当たらなかった。しかし先回りして待ち構えた兵が放った矢が万の膝を射抜くと、万は倒れ込みながらもさらに矢を放ち、そして取り囲もうとする兵に向かって叫んだ。「万は、天皇の楯となり、その武勇を示そうとした。しかし今、誰もそれを問い質すことはない。反対に窮地に追いやろうとしている。共に語る者は来るがよい。殺すのか、捕らえるのか、それを聞きたい」兵達はその言葉に対して、さらに近付き矢を放った。万は飛んできた矢をことごとく薙ぎ払い、なお30人以上もの兵を殺したのである。しかし矢が尽きてしまうと、万は剣で弓を断ち切って捨て、さらにその剣も怪力で曲げて投げ捨てた。そして残った短刀で自らの頸を刺して自害してしまったのである。この悲劇的な武人の死に関して、さらに不思議な後日譚が付け加えられている。万を討ち取ったという報告を受けた朝廷は、その超人的な働きを怖れたためもあり、遺体を八つ裂きに斬ってそれぞれ8つの国で串刺しにして晒すように命じた。こうして遺体は8つの部分に切り刻まれたが、途端に雷鳴が轟き大雨が降り出したのである。その時、万の飼っていた白犬が遺体にそばに現れ、その周囲を吠えながら回ると、万の首を咥えて走り去っていった。白犬は古い塚に穴を掘ると首を埋め、その横に伏してしまった。あとは近寄る者があれば吠えて脅し、首が盗られないように見張り続けていたが、やがて日が経ち、そのまま飢えて死んでしまったのである。この白犬の一連の不思議な行為について報告を聞いた朝廷は、感銘を受けた。そして後世に伝えるべく、万の一族に墓を造らせる命を下したのである。岸和田市天神山町には、住宅地に囲まれるように3つの古墳が“天神山古墳群”として残されている。そのうち「天神山2号墳」と呼ばれる大山大塚古墳は、全体が公園となっている。この円墳が捕鳥部万の墓とされ、その頂上には墓石が置かれ、そのそばには三条実美による顕彰碑が建てられている。さらにこの古墳から少し離れた場所にある「天神山1号墳」が白犬の墓とされ、義犬塚古墳という名が付けられており、こちらにも立派な犬の墓が建てられている(この義犬塚古墳は私有地とのことで、現在は立ち入りが制限もしくは禁止されているらしい)。
豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地
前年の大坂冬の陣の講和で堀が埋められてしまった大阪城は、野戦での奮戦も虚しく、慶長20年(1615年)5月8日に落城する。前日の7日に大勢が決し、大阪城内は内応者による放火が始まり、火事場泥棒の如く裏切る浪人も多数現れた。城主である豊臣秀頼をはじめ、生母の淀殿、恩顧の武将や女房など約30名は難を逃れ、徳川家康の孫である妻の千姫による助命嘆願が聞き届けられるのを待つことになる。潜んだ場所は、天守閣の北にあたる山里曲輪にある隅矢倉であったと伝えられる。しかし助命は叶わず、隅矢倉に立て籠もった者は火を放ってことごとく自害して果てたのであった。ただ全てが灰燼に帰したため、遺体はあったものの誰であるかは分からない状態であったとされる。秀頼については、吉光の短刀のそばに首のない遺体があり、短刀が秀吉から秀頼に与えられたものであったために、それが本人であると確認されたという。
宿院頓宮 飯匙堀 (しゅくいんとんぐう いいがいぼり)
“頓宮”とは一時的な仮宮を意味する語であり、それが転じて、神輿の巡行の際に休憩を取る御旅所を指す。この宿院頓宮も御旅所であり、しかも現在は摂津国一之宮である住吉大社と和泉国一之宮である大鳥神社の両神社の御旅所とされ、それぞれ所縁の神社である波除住吉神社と大鳥井瀬神社が1つの社殿に祀られている。ただ、元々は住吉大社の頓宮であったのが、明治時代になってから大鳥神社も御旅所として神輿を巡行させるようになったとされる。それ故に、この神社の境内には住吉大社にまつわる伝承地がある。それが飯匙堀である。飯匙堀の名は、その形が“しゃもじ”に似ているところから付けられたとされる。ただ“堀”とされているが、実際は水のない空池である。かつて彦火火出見尊が豊玉姫と結ばれ、姫の父である海神から潮満珠・潮干珠を授かった。いわゆる「海幸彦山幸彦」の神話であるが、その後、彦火火出見尊はこの2つの珠をそれぞれの場所に埋めたとされる。そのうちの潮干珠を埋めたのが飯匙堀だとされるのである。そのため、この堀にはたとえ大雨が降ろうとも全く水が溜まることがないと言われている。(ちなみに潮満珠は住吉大社の北にある玉出島に埋めたとされるが、現在の住吉大社摂社である大海神社前にある「玉の井」が比定されている)
桜井駅跡
和銅4年(711年)に京都から西に延びる西国街道の宿駅として設置されたとされる。しかしこの宿駅が伝承の世界に名を留めるのは、それから時代を経た延元元年(1336年)の出来事による。後醍醐天皇の建武の新政に反旗を翻した足利尊氏は、一時的に九州にまで追い詰められるが、そこから一気に反転。10万を超える兵力で京都へ向かっていた。それを迎え撃とうとしたのが新田義貞であり、楠木正成であった。特に楠木正成は、尊氏の攻勢に対して味方の主力である新田義貞では打ち勝てないと見て、様々な献策をおこなうがことごとく拒絶される。遂に正成は討ち死にを覚悟して、新田軍が陣を敷く兵庫へ兵を率いていった。山城国から摂津国に入ったところで正成は長男の正行を呼び、これから軍を離れて故郷の河内へ帰るように命じた。まだ11歳であった正行であったが、共に討ち死にを望んで一旦は父の命を拒んだ。しかし正成は「自分の討ち死にした後のことを慮って、帰すのである。帝のために命を惜しみ、生き長らえて敵を倒せ」と諭し、形見の短刀を渡したのであった。楠木正成と正行父子の別れは『太平記』の中でも屈指の場面であり、明治時代以降は、その皇室に対する忠節と親子の情愛を示す逸話として修身(道徳)の教材として大いに使用された。そのため明治天皇御製の碑をはじめ、明治の元勲の手による碑が複数存在する。
大念寺
本堂をはじめ、戦後に改築されているため近代的な外観であるが、大念寺の歴史は相当に古い。開山は慧穏法師で、遣隋使の留学僧として大陸に渡った後に帰国、その直後より中臣鎌足の帰依を受けて建立されたのが始まりとされる。そして斉明天皇2年(656年)に鎌足の夢告によって、長男の定慧を開山として善法寺が建立された。これが大念寺の前身となる。その後、鎌足を葬った地ということで“大織冠廟堂”と呼ばれるようになったが、戦国の世になって衰微。天正年間(1573〜1593)になって浄土宗の寺院として再興され、現在に至る。大念寺の境内には「黄金竹」と呼ばれる、昔から有名な竹が自生している。この竹は全体に黄色みを帯びており、成長するにつれ枝先が枯れていくという変わった特徴を持つ。これには鎌足と定慧にまつわる伝説が残されている。鎌足は亡くなった後、安威の地に葬られたのであるが、長男の定慧が唐での修行を終えて戻ってくると、多武峰(現在の談山神社)に改葬しようとした。夢枕に父が現れ、改葬を求めたためである。しかし鎌足を慕う安威の民はそれに反対した。そこで定慧はやむなく、父の首だけを多武峰に持っていき葬ったという。そのため、鎌足お手植えであった黄金竹は成長すると、先端部分だけが枯れてしまうようになったとされるのである。黄金竹はかつては大念寺境内に数多く生えていたという。しかし現在はわずかに一株。一応境内になるが、かなり分かりにくい場所にある。
鵺塚 (ぬえづか)
仁平3年(1153年)、夜ごと東の空より黒雲が湧き上がり御所を覆い尽くすと、そこから不気味な鳴き声が聞こえてきた。近衛天皇はその声に怯え、源頼政に退治を命じた。そして矢を射たところ落ちてきたのが、頭は猿、胴は狸、手足は虎、尾は蛇という怪物であった。これが世に言う「鵺」である。殺された鵺の死骸は丸木舟(うつろ舟)に乗せられて川に流されたと記されており、その辿り着いた先が都島の鵺塚であるという。大阪の名所を記した『蘆分船』によると、滓上江村(かすがえむら)の母恩寺のそばに塚があり、頼政が射抜いた鵺をうつろ舟に押し込めて淀川に流した。すると浮洲に引っかかって止まり、そのまま死骸は朽ちたとされる。また『摂津名所図会』では、鵺の死骸を埋めたのが塚であるとしている。その後、塚は明治3年(1870年)に大阪府が改修し、現在地に置かれた。そして昭和32年(1957年)には地元住民により祠が建てられ、現在に至っている。お供え物や清掃道具などからして、地元で大切に保護されているようである。そして特筆すべきは、案内にある“大阪港紋章”である。この大阪港紋章のサポーター(盾の部分を支える動物など)として採用されているのが、鵺なのである(ただし胴は獅子となっている)。昭和60年(1985年)制定のものであるが、大阪港ゆかりのモンスター(このサポーター部分は、西洋でも幻獣が採用されることが多い)ということで公式に認知されていると考えても良いのかもしれない。
金剛院 蜂塚
金剛院の歴史は古く、創建は天平勝宝の頃(749〜757年)に行基がこの地に開いたとされる。霊光を探してこの地を訪れた行基を、老翁が珍菓で供し「この地は霊地である故に、ここに寺を建てるがよい」と言って天に消えたため、はじめは味舌(ました)寺としていた。しかしその後、境内にある蜂塚にまつわる霊異があったために、今では蜂熊山蜂前寺(はちくまさん・ぶぜんじ)という名になっている。崇徳天皇の治世(1123〜1142年)の頃、この地一帯を賊が荒らし回った。村の者(あるいは官兵)が賊に対して防戦するも次第に追い詰められ、最後にこの寺の本堂に逃げ込んだ。しかし命運尽きたと悟ると、蜘蛛の巣に掛かっていた蜂を助けて、本尊の薬師如来に善根を施したことを示した上で勝利を祈念した。すると、本堂が鳴動するや数万ものおびただしい蜂が出現して、賊を退治してしまった。そしてその時に死んだ蜂を集めて、塚に葬ったという。異説では、この蜂による霊異は南北朝の頃とも、応仁年間(1467〜1468年)とも言われる。蜂塚は現在でも本堂裏にひっそりとある。
雉子畷 (きじなわて)
大阪の長柄橋に残る人柱伝説にまつわる伝承地である。嵯峨天皇の弘仁3年(812年)とも、推古天皇の21年(613年)であるとも言われる。長柄橋の架橋工事は困難を極め、とうとう人柱を立てることとなった。しかし人選がなかなか決まらないために、垂水に住む長者の巌氏(いわじ)に相談したところ、「袴に継ぎのある者を人柱にすればよい」という話でまとまった。ところが、袴に継ぎのある人物は、巌氏自身しかいなかった。このため、言い出した巌氏が自ら人柱となる羽目になったのである。そしてこの人柱によって、長柄橋はようやく完成となった。巌氏の娘に光照前(てるひのまえ)という者があった。父が人柱になって以降、人前で口をきくことがなくなってしまった。その娘が請われて河内国禁野の徳永家へ嫁したのであるが、婚家でも一切口をきかないためについには実家へ帰されることになる。夫に連れられていく途中、どこからか雉の鳴き声がする。その声を手掛かりにして、夫は持っていた弓矢で雉を射殺した。それを見た時、光照前は悲しみのあまり
ものいわじ 父は長柄の 橋柱 雉も鳴かずば 射られざらまし
と詠ったのである。それを聞いた夫は、妻が口をきかなかった真意を悟り、実家へ送り帰すことなく、二人して我が家へと戻ったという。そしてその時に射た雉を埋めたというのが、この雉子畷のあたりであるとされる。また光照前は夫に先立たれた後に出家して不言尼と名乗り、父の菩提を弔ったという。この伝承が後の「雉子も鳴かずば撃たれまい」という諺の由来の一つとなったと伝えられる。
服部天神宮
菅原道真の伝承地にある神社であるが、その創建はさらに遡る。「服部」の地名で判るように、この地は渡来人の秦氏が集団で居住した場所であり、その頃には医薬の神である少彦名命を祀る祠があったとされている。これが服部天神宮の前身である。時を経て延暦2年(783年)、川辺左大臣と呼ばれた藤原魚名は大宰府へ左遷となって下向する途中、この地で病に倒れ亡くなった。そして少彦名命を祀る祠のそばに、魚名の墓が建てられたのである。それから約100年後の延喜元年(901年)、やはり大宰府へ左遷の身となった菅原道真がこの地を通りがかった時、持病の脚気に襲われて身動きが取れなくなった。里人の勧めで少彦名命の祠に祈願し、併せて魚名の墓である五輪塔にも祈願したところ、脚気はたちどころに治り、無事に太宰府に到着できたのである。その後、少彦名命を祀る祠に菅原道真も祭神として名を連ね、服部天神宮として大いに栄えたという。特に菅原道真の伝説〜「足の神様」として有名であり、現在でも草鞋を奉納して祈願する人が絶えないという。また道真と奇縁で結ばれた形の藤原魚名の墓も境内に安置されている。
大織冠神社 (たいしょくかんじんじゃ)
大織冠は、大化3年(647年)に制定された冠位の中で最上位のものである。約40年ほどだけ使用された冠位であるが、この官位を授けられた人物は歴史上ただ一人、藤原鎌足のみである。それ故に「大織冠」の名は、藤原鎌足の別称となっている。鎌足は亡くなると、所領のあった摂津の安威に埋葬されたと言われている(後に大和の多武峰に改葬されたとされる)。その埋葬地と目されたのが「将軍塚」という古墳であり、江戸時代にはここに祠を建てて崇拝した。子孫である九条家は毎年使者を送り、反物2000疋を奉納していたとされ、正式な藤原鎌足の埋葬地と認められていた。その後に古墳は宅地造成のために取り壊されたが、石室などは移築され、現在でも祠は横穴式の石室の奥に安置されている。昭和9年(1934年)、京大の地震観測所工事の際に発見された阿武山古墳から、多くの装飾品が納められた男性の人骨が見つかった。皇族の可能性が高かったため埋め戻されたが、昭和57年(1982年)に被葬者のX線写真の存在が明らかになり、調査の結果、重篤な骨折箇所があり、金糸の冠を着用していたことが判った。これらの状況から、この阿武山古墳に葬られた人物が藤原鎌足である可能性が非常に高くなったのである。しかしそのような結果にもかかわらず、大織冠神社は藤原鎌足古廟として今なお崇められている。
水無瀬神宮 (みなせじんぐう)
元々は後鳥羽上皇の離宮があった場所に建立された。承久の乱によって隠岐に流された上皇の遺勅によって、仁治元年(1240年)に御影堂が建立され、上皇を祀ったことから始まった。その後明応3年(1494年)に隠岐より上皇の御霊を迎えている。さらに明治6年(1873年)に、承久の乱によって同じく配流された土御門上皇・順徳上皇もそれぞれ配流先である土佐と佐渡より御霊を迎えて合祀した。その際、それまでの仏式から神式に祀り方を変えている。境内への入り口に、桃山時代に創建の神門がある。この柱に金網が施してある部分があるが、ここに石川五右衛門の手形が残されているという。水無瀬神宮にある名刀を盗もうと思い立った五右衛門であるが、いざ神殿に忍び込もうとすると、神門から中に入ることが出来ない。結局、神威によって門内に立ち入ることすら出来なかった五右衛門は、神門に手形のみを残して立ち去ったという。
首斬地蔵
天正13年(1585年)、豊臣秀吉は根来寺・雑賀衆勢力一掃を目指して紀州攻めをおこなった。この時、この地にあった道弘寺などのいくつかの寺院も根来寺に味方して、秀吉に抵抗を試みた。しかし圧倒的な兵力を持つ秀吉軍によって、寺僧はことごとく首を刎ねられてしまったのである。地元の者は、これらの僧の首を集めて葬り、その上に石地蔵を置いて冥福を祈ったという。これが首斬地蔵の由来である。現在でも多くの者が参拝にやってくるお地蔵さんである。
茨木童子貌見橋 (いばらきどうじすがたみはし)
今では茨木市のシンボルキャラクターとなっている茨木童子であるが、その名の通り、昔からこの茨木が出身地であるとされている。伝説によると、茨木童子は摂津の水尾村(現・茨木市水尾)の生まれであり、生まれ落ちた時には既に歯が生え揃い、すぐに自分の足で歩くことが出来たという。そのため生みの母は怖れのあまり亡くなり、父親は茨木村の外れに置き去りにして捨ててしまった。その幼子を拾い育てたのが、近くの床屋であった。成長して床屋の手伝いをするようになった茨木童子であるが、ある日、誤って客の顔を剃刀で切ってしまい、慌てて流れ出た血を舐めたところその味に魅了されてしまった。それ以降、わざと客の顔を切ってはその血を舐め続けたのである。当然のことながら評判は悪くなり、結局床屋に怒られるようになった。ある夜、顔を洗おうと近くの川へ行った茨木童子が、ふと橋の上から水面に映る自分の姿を見た。その容貌はまさに鬼そのものであった。驚いた茨木童子は床屋には戻らず、そのまま丹波の大江山まで行き着き、酒呑童子の家来となるのであった。茨木童子が己の容姿に気付いたとされる橋がかつてはあったのだが、現在は存在しない。既に川も埋められており、民家の軒下にその跡を示す碑があるだけである。
茨木童子の出生地 / 出生地には3説ある。摂津の水尾村、同じく摂津の富松村(現・兵庫県尼崎市)、そして越後の軽井沢村である。摂津の2箇所については、生まれた直後に茨木村に捨てられたとされ、そこから茨木童子の名が付けられたとされる。対して越後の方はその土地に住む茨木氏の出身であるとされる(越後説では、酒呑童子も越後の出身ということになっている)。
安倍晴明神社
安倍晴明の先祖は、あの安倍仲麻呂であると言われている。伝承によると、唐より陰陽道の知識をもたらしたとされる吉備真備は、異国で客死した阿倍仲麻呂の霊の導きによってこの貴重な知識を持って帰国することができたとされている。安倍家そのものが陰陽道と浅からぬ縁を持っているわけである。ところが晴明の父である安倍保名は既に朝廷に出仕するだけの身分ではなく、大阪に居を構える一土豪(しかも伝承によるとその所領すらも謀略によって奪われている)に没落してしまっている。そのため誕生から幼少時代までは、大阪が晴明伝説の主たる地になっている。特に阿倍野はその名の通り、安倍氏の所領であり、ここに晴明誕生の地として安倍晴明神社がある。大阪の晴明伝説に絶対欠かせないのが、晴明の母親である葛乃葉姫=白狐である。この狭い神社に入ると、いきなり摂社に出くわす。泰名稲荷神社である。父親の名前(通称は“保名”)を冠した稲荷神社である。さらには最近 造られたと思われる狐の像まである。そして生誕の地ということで、お約束とも言うべきか、産湯に使った井戸の跡が残されている。とにかく狭い境内の中に“安倍晴明誕生の地”という印象を与える数々の遺跡が並べられている。神社の創建は安倍晴明没直後の1007年。江戸時代まではかなり格式のある神社であったらしいが、幕末から明治初期にかけて荒廃し、一時社殿すらなかったような状態だったらしい。そして大正時代に、すぐ近くにある安倍王子神社の末社という形で再興され、現在に至るとのこと。
葛葉稲荷神社 (くずのはいなりじんじゃ)
安倍晴明伝説の第一幕と言うべき地である信太の森にある神社である。この信太の森に祀られていたのが五穀豊穣の神である “保食神”であり、和銅年間(708-715)に元明天皇が祭事を行ったことが記録されている。その後この森には白狐が棲むとされ、稲荷神社が置かれるようになったらしい。安倍晴明の伝説がなくとも、かなり由緒正しい神社であることは間違いない。この葛葉稲荷が安倍晴明と密接に関わっていく伝説は『蘆屋道満大内鑑』という浄瑠璃で完成され、特に“信太の子別れ”に集約されている。それによると、 没落し阿倍野に住んでいた安倍保名は、家名再興のために信太の森を通って聖神社に参詣していた。ある日その森の中で保名は傷ついた白狐を助け、自らもそれが原因で怪我を負った(狐狩りをしてさらに保名に危害を加えたのが、後に安倍晴明と死闘を繰り広げる蘆屋道満の弟という設定)。怪我をした保名を介抱したのが葛乃葉姫であり、それが縁で二人は結ばれ、童子丸という名の一人の男子をもうけた。ところが童子丸が5歳の時、葛乃葉姫はうたた寝をしていて、その正体である白狐の姿を息子に見られてしまった。そして“恋しくば尋ねきてみよ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉”という一首を障子に書き残して去っていった。その後信太の森に帰った白狐は、夫と子供のことを思い続けて石になってしまったとも(葛葉稲荷神社にはこの霊石が安置されている)、母を慕って信太の森にやってきた童子丸(後の安倍晴明)に秘術を授けたとも言われている。いずれにせよ、定めによって母子が別れ別れになるくだりが、芝居として絶大な人気を博したのは言うまでもない。葛葉稲荷はJRの駅から徒歩3分ほどのところにある。もはや“信太の森”と呼ばれるような広大な森は存在せず、神社の周辺に緑が残っているだけである。境内には白狐が葛乃葉姫に化身した時にその姿を映したとされる井戸があったり、夫婦円満に効験のある楠の木があったり、ある種かなりにぎやかな場所である。 
 
 和歌山県

 

●浮島の森 新宮市
新宮の市街地にある、国指定の天然記念物である。その名の通り水に浮かぶ島であり、縦横約100mほどに仕切られた沼地の上に現在も浮かんだ状態であるという。
この森はいわゆる泥炭で形成されており、水辺に生えていた木々の朽ちたものが水面に溜まって泥炭となり、さらにその上に樹木の種子が落ちて森が作られたと考えられている。かつては風に強い日や森の上で乱暴に走るなどすると本当に移動したと言われるが、現在は沼の底に“座礁”したために動かなくなってしまっている。
森そのものも稀に見る奇異な植生群であるが、さらにここには有名な伝説が残されている。

昔、この森の近くに“おいの”という美しい娘がいた。ある時、父と共にこの森へ薪を拾いに来たのであるが、弁当を食べる段になって箸を忘れてきたことに気付いた。おいのは箸の代わりになる“カシャバ(アカメガシワ)”の枝を求めて、森の奥へ入っていった。ところがいつまで経っても戻ってこないために父も森の奥へ行くと、一匹の大蛇においのが飲み込まれそうになっているところに出くわす。父は必死になって助け出そうとするが、とうとう娘は蛇に飲み込まれるようにして沼の底に沈んでいったという。

今でも、おいのが引きずり込まれた跡とされる“蛇の穴(じゃのがま)”と言われる場所が森の中にある。このぽっかりと開いた穴は、10mの竿でもなお底に届かないとされる。そして「おいの見たけりゃ 藺の沢(いのど)へござれ おいの藺の沢の 蛇の穴へ」という俗謡も広く知られている。さらにこの伝説をモチーフとして書かれたのが、上田秋成の『雨月物語』に収められた「蛇性の淫」である。

●美少女おいの 新宮市
「好いた同志のうれしい首尾で 心浮島ひとめぐり」。
新官節にもうたわれている天然記念物「浮島の森」は、いまなお神秘的な雰囲気をただよわせる。そして、その神秘さをそのまま語るような話が伝わる。

源平のころ、このあたりに、おいのという美しい娘がいた。木こりをしていた父のもとへ、昼の弁当を届けるのを日課としていたが、ある日、父が浮島の森へ行ったため、おいのも森へ入った。
この日おいのは、あちこち遊び回りたいと思い、自分も昼の仕度をして行った。父に弁当を手渡した帰り、石に腰をおろして弁当をひらいたところ、ハシを忘れたのに気づき、ススキの茎を折り、ハシの代りとした。
森の中は夏でも涼しく、あまりの快さに思わずうっとりとし、眠気をもよおした。遠く聞こえる規則的な父の斧の音に、しだいに夢の国へ誘われるようであった。
ふと物音に気づき、われにかえると、黒い大蛇が目の前に鎌首をもたげている。思わず「助けてっ〜。父さん」と叫んだが、すでにおそかった。おいのの身体は、ひと抱えもある大蛇の大きな口にくわえられて、身動きもできない。しきりに父を呼びつづけるおいのの抵抗も空しく、大蛇はゆうゆうと沢の茂みへ姿を消してしまった。そこへ息せき切ってかけつけた父親は、池の面にただよう血なまぐさい空気に、不幸なできごとのすべてをさとった。
家に帰り、妻とともに再び森に引き返した父は「蛇の穴」と呼ばれている沢の片隅の穴のそばで両手をつき「せめて、娘の姿をもう一度みせて下さい」と、くり返し哀願したところ、一陣の強風が吹き起り、にわかに暴風雨となったかと思うと、大蛇が哀れなおいのをくわえて鎌首をもたげ、またたく間に蛇の穴へと姿を消してしまった。父親と母親は、いま一度と何度も頼んだが、二度と再び、大蛇は姿をみせなかった。おいのは、池の主に魅せられて若い命を落したのだった。それ以来、熊野の人たちは、決してススキをハシの代りに使わなくなったという。

「おいのみたけりや藺の沢(いのど)へござれ おいの藺の沢の蛇の穴に」
この付近の俗謡は、いまなお、おいのの哀れな物語を語り伝え、浮島の奇勝を探る観光客の旅情を慰める。
「浮島の森」は、面積約五千平方メートル。暖寒両性の植物六十科、百三十余種が同居して群落をつくり、古代地質と植物生態学上の、貴重な生きた資料とされている。
いまは建てこんだ民家に囲まれているが、明治末期までは、文字通り池の中に浮かんでいた。池の水が増えると、島自体も浮き上がり、決して水浸しになることがなく、風のまにまに位置を変える。まるで生きているような、ふしぎな島だ。
なぜこんな島ができたのかは、まだ学界でもはっきりしないが、現地発生と漂着の二つの説がある。現地発生説は、太古に土地が陥没して森の周囲が沼となり、浮き上ったという。漂着説は、このあたりを流れていた新宮川の水域にあった明神山の一角が、大木を多数抱えたまま流れ出したものだ、と。その後、流れの変化で付近が池となり、島に付着していた草木類が腐って浮力をつけたのではないかという。
おいのが姿を消したという蛇の穴は、森の入口から左へ約六十メートル入った踏み板の小径ぞいにあり、上から見る限り、ちっぼけな水たまりに過ぎない。古老たちは、おいのはへビに呑まれたのではなく、島の中央にある底なしの穴に落ち込んで死んだのだろう、という。これが「蛇の釜」といわれる井戸のような水たまりで、昔は池の中の大蛇が出入りする穴と信じられ、恐れられた。神秘な森の主に、蛇を想定したのは、きわめて自然なことだろう。
上田秋成(一七三四〜一八○九年)が「雨月物語」に収めた「蛇性の淫」は、この物語をヒントにしたともいう。

●南部(みなべ)の地名起源 日高郡
「底なし沼」の三鍋伝説
「岩神さん」の約三〇〇b北に、南部川跡にできた底なし沼がある。その沼底にさきの岩神さんと同じように天から落ちてきたという石が三つあり、それがちょうど鍋の大きさで形もよく似ていることから「三鍋(さんなべ)」と呼ぶようになり、更に「三鍋(みなべ)」と変わり、この土地の名前となったという。
 

 

●和歌山の伝承
原見坂
市街地の高台にある住宅地の中にある坂である。今でこそ何の特徴もない坂であるが、かつてはここから紀伊一之宮の日前宮が見下ろせる景観が広がっていたと言われる。『紀伊国名所図会』の初編一之巻上には、この坂にまつわる怪異譚が記されている。浅野家が紀伊にあった頃の話。渋谷文治郎という23になる家中の若侍が、この坂のあたりの茅原の中に2基の五輪塔を見つけた。何気に花を手向け、その五輪塔に手を合わせた。数日後、また原見坂を馬で通りがかった時、一人の若い侍女に呼び止められる。侍女は文箱を手にし、姫様より預かった文と文治郎に差し出した。心当たりはないが受け取ると、その文には4月16日の夜にこの坂に必ず来て欲しいと書かれてあった。その当日、律儀な文治郎は約束なのでと、下僕の儀助を伴って坂を訪れた。すると一人の老人が待っており、別の場所に案内され立派な屋敷に入った。そこには数々の酒肴が用意され、美しい姫が一人待っていた。打ち解けて話すうちに文治郎は姫と一夜を共にすることになった。そして下僕の儀助も侍女と懇ろの間となったのである。それから夜な夜な文治郎は儀助と共に原見坂へ行き、姫の屋敷を訪れるようになった。この行状はすぐに家の者に知れてしまう。父親は家臣に言いつけて、外に出て行く文治郎の後を付けさせた。原見坂あたりまで文治郎らは来ると、不意に道をはずれて茅原に向かう。慌てた家臣が追うと、二人の姿がまさに茅原に吸い込まれるように消えていく瞬間であった。急ぎ戻った家臣の注進で、父親は狐狸にたぶらかされていると確信すると、次の日から文治郎に自宅を出ないよう厳命したのである。だが、文治郎は姫のことが忘れられなかった。そして監視の目をかいくぐって再び夜の原見坂に赴き、姫の屋敷を訪れたのである。「もはや会えぬと思っておりました」とさめざめ泣く姫は、自らの正体を語り出した。姫は既にこの世のものではなく、文明12年(1480年)4月16日に亡くなった、畠山尾張守の娘の仙之前という者の霊であった。細川勝元の次男・右衛門佐政行に嫁ぐ直前に急の病で亡くなり、この場所に葬られた。実は文治郎こそがその右衛門佐政行の生まれ変わりであり、たまたま花を手向けて手を合わせてくれたことで、かつての未練から執心が起こり、こうして世に再び現れて契りを結んだのであると。そして殉死した侍女の小侍従に縁の深かった儀助も同じように契りを結ぶことになったのであるとも語った。「父君に知られてしまったからには、今生でお会いするのはこれが最後。名残惜しゅうございますが、叶うならば再び回向をお願いいたします」。仙之前はそう言うや、文治郎の前から掻き消すように姿を消した。そして小侍従も屋敷も何もかもが消え去り、気が付くと原見坂に立ち尽くしているばかりであった。その後、2基の五輪塔の下が掘り返され、仙之前と小侍従の名や命日などが書かれた唐櫃が見つかった。そして掘り返された遺骨は、畠山氏ゆかりの興国寺に改葬されたという。
夜泣き石(有田)
JR箕島駅の裏側(北側)、山裾の住宅地にある。扁額を掲げた入口を入ると、1辺が2mぐらいの直方体に近い巨石がある。この石の上に赤ん坊を乗せると、夜泣きがぴたっと治まると言われている。かつては近隣から願掛けに来る人も多かったらしいし、現在でもよく手入れされている。豊臣秀吉が覇権を握った後も抵抗し続けていた地域の一つに紀伊があった。天正13年(1585年)、秀吉は根来寺・粉河寺・雑賀衆・高野山といった反秀吉勢力一掃のため、紀州征伐を敢行した。兵力は約10万と言われる。主将は秀吉の弟・羽柴秀長であった。破竹の勢いで進軍する秀長の軍勢であったが、箕島に至ってその歩みが止まった。箕島には反秀吉勢力の領主・宮崎隠岐守定秋が守る宮崎城があったが、その末娘である霞姫の美貌を聞き及んだ秀長が姫を差し出す代わりに城を攻めないという申し出をおこなったのである。しかし、霞姫には宮崎城に寄寓する殿本帯刀輝綱という許嫁がいるため、申し出を断固として拒否すべしと言う者がある一方、既にn根来寺や粉河寺が焼け落ちており、もはや敵の言うままに従うしか道がないという者もおり、城内では動揺が広がった。そうやって男共が騒いでいるうちに、霞姫の母は若い二人を城外に逃がしてやった。二人の幸せを願ってのことであったのは言うまでもない。だが、事の次第を知った秀長の怒りは尋常なものではなかった。すぐさま大軍に命じて城を攻撃すると、城にいる者を皆殺しにし、城も町も跡形なく焼き払ってしまったのである。それから1年が経ち、紀伊征伐も終わった頃。かつて宮崎城があった場所の川向こうにある大きな石のそばに、乳飲み子を抱いた若い女が夜な夜な現れるという噂が立ちだした。そして間もなく、大きな石の上に乳飲み子を残し、若い女は川に身を投げて死んでしまった。その残された乳飲み子の顔は、城を出て失踪した霞姫にそっくりであったという。
御首地蔵
国道42号線沿いにある観音寺は、東海近畿地蔵霊場の三十番札所である。そこにあるのが御首地蔵尊である。この変わった名前には、不可思議な由来がある。天保11年(1840年)、この地に住む吉平という者が、近くの小山という土地を開墾していた時、一基の石棺を掘り当てた。石棺は粘土で厳重に密封されており、それを取り除いて中を確かめると、武器などの副葬品と共に一級の首が納められていた。底に小石を敷き詰め、板石を置いたその上に丁寧に安置された首級は、髪を首まで伸ばし、耳や鼻も腐り落ちずに残っており、ミイラのような状態であったという。驚いた吉平が村人を呼んでこの首級をどうするか相談した結果、近くにある観音寺の境内にある柏槇の木の根元に、壺に納めて埋め戻すことにしたのである。首級が納められた石棺の状態などから考えて、この首級の主はおそらく身分の高い名のある武人であろうと村人は推測したが、結局いつの時代のどのような人物であるかは判らないままである。埋もれていたところを見つけ、さらに寺院に丁重に納めたためであろうか、この首級を拝む者は首から上の病が平癒するという噂が流れ、参詣者が増えた。そのため観音寺の境内にあった延命地蔵と合祀し、新たに“御首地蔵尊”として祀られるようになったのである。地元では「お首さん」の名で親しまれ、石棺が見つかった4月に縁日として毎年供養が行われている。
清姫蛇塚 (きよひめじゃづか
安珍清姫伝説で有名な道成寺の西、歩いて数分のところにあるのが清姫蛇塚である。真砂の庄司家の娘であった清姫は、奥州の若い僧・安珍に恋い焦がれたが、それを怖れた安珍は熊野詣での帰りに立ち寄ると言って嘘をついて逃げる。清姫は裏切られたことに怒り、逃げる安珍を追っていく。そのうちに邪念によって清姫の身体は蛇体となりながら、徐々に安珍との距離を縮めていった。追いつかれると悟った安珍は道成寺に逃げ込み、鐘の中に身を隠したが、蛇となった清姫はその鐘を七巻半すると、その邪恋の炎で鐘の中にいた安珍を焼き殺してしまうのであった。この清姫が変化した蛇であるが、鐘に巻き付いた時に己の吐いた炎によって自らも焼け死んでしまったとされる。しかし一説では、その時には死ぬことはなく、安珍を自らの手で殺してしまったことでようやく自身の罪の恐ろしさに気づき、さらに蛇体に変化したその醜い姿に絶望し、近くにあった日高川にその身を投げて命を絶ったという。人々はその顛末を憐れに思い、川から大蛇を引き揚げて埋葬し、その場所に塚を造った。それが清姫蛇塚であるとされている。
鎌八幡宮
明治42年(1909年)に丹生酒殿神社に合祀されて境内社となっているが、鎌八幡宮の創建は高野山開山の歴史も関係する。八幡宮の名称から分かるように、起源は神功皇后の伝承にまで遡る。三韓討伐の際に神功皇后が用いたとされる幟と熊手がこの神社の御神体であるという。この御神体ははじめ讃岐国の多度津辺りにあったのだが(この当時は熊手八幡と称していた)、弘法大師が高野山を開山した時についてきたために、この地に祀られることになった。そして依り代として櫟(いちい)の木を祀ったのである。鎌八幡宮は現在も社殿はなく、鳥居の奥には一本の大きな櫟の木があるだけである。しかもその木には無数の鎌が打ち込まれている。この奇観こそが鎌八幡宮の名の由来である。『紀伊続風土記』によると、櫟の木に鎌を打ち込むことで、これを献じて祈願成就を願う。そして成就する場合は鎌がさらに深く食い込んでいき、叶わない場合はそのまま木から外れ落ちるという不思議なことが起きるとされる。現在でも古く錆び付いた鎌に混じって、新しく祈願のために献じられたと思しき鎌が散見できる。
闘鷄神社
地元では“権現さん”の名で通っている神社。創建は允恭天皇8年(419年)とされ、熊野権現を祭神として田辺宮と呼ばれた。しかしこの神社が発展するのは平安時代末の頃からとなる。熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社)を祀り、さらに熊野別当であった湛快が田辺の地に移り住んで田辺別当として独立することによって、熊野三山の別宮的存在となっていったのである。実際、田辺の地は熊野古道の大辺路(海側ルート)と中辺路(山間ルート)の分岐点であり、熊野詣での際にこの神社で遙拝を済ませて帰途に就く者も少なくなかったと言われる。現在の名称である“闘雞”の由来は、湛快の子である湛増による。源平の合戦の折、熊野別当として周辺に勢力を拡大し、熊野水軍を率いる湛増に対して、源氏・平氏方いずれからも協力を求められた。そこで湛増は神社で闘鶏をおこなって、源平いずれに味方するかを決めたといわれる。『平家物語』によると、いずれに味方するか迷った時に熊野権現に祈りを捧げると「白旗(源氏)につけ」との託宣があった。さらに社地にあった鶏を紅白に7羽ずつに分けて戦わせたが、ことごとく白側の鶏が勝ったため、ここに及んで湛増は源氏方への味方を決めたとされる。そして熊野水軍は源氏の援軍として壇ノ浦の合戦に参加。平氏を滅ぼす功績を挙げたのであった。これにより闘雞神社という名が付いたとされる。また湛増の息子の一人が武蔵坊弁慶であるとの伝説もあり、境内にはそれらの銅像もある。
鈴木屋敷
全国で2番目に多い姓と言われる鈴木氏であるが、この姓の発祥とも言うべき地がこの鈴木屋敷である。鈴木氏は熊野三党の一つとして、熊野神社と深く関わりを持つ一族である。平安期に熊野の地から藤白へ移住し、その地の王子社(現在の藤白神社)の神官を代々務めた。この一族が熊野信仰の普及のために全国各地を訪れ、多くの分家をつくり、信仰者に姓を与えたことによって、鈴木姓が全国に広まったとされる。鈴木屋敷は藤白神社の敷地内にあり、代々の鈴木氏の本家が居住していた。またこの屋敷の敷地には義経弓掛松があり、源義経が熊野詣でをした際に何度か訪れているとされる。実際、義経の家来の鈴木三郎重家は鈴木家の当主であり、また義経四天王の一人で弓の名手とされた亀井六郎重清は重家の実弟である。
鈴木氏 / 本姓は穂積氏。穂積氏から熊野三党と呼ばれる、鈴木・榎本・宇井氏が起こる(この三党が熊野信仰の象徴である八咫烏の三本足に当たるとも言われる)。平安期に藤白の地に移ってきた藤白鈴木氏が、鈴木姓の総本家であるとされる。ただし昭和17年(1942年)、122代目当主の死によって総本家は断絶している。
浮島の森
新宮の市街地にある、国指定の天然記念物である。その名の通り水に浮かぶ島であり、縦横約100mほどに仕切られた沼地の上に現在も浮かんだ状態であるという。この森はいわゆる泥炭で形成されており、水辺に生えていた木々の朽ちたものが水面に溜まって泥炭となり、さらにその上に樹木の種子が落ちて森が作られたと考えられている。かつては風に強い日や森の上で乱暴に走るなどすると本当に移動したと言われるが、現在は沼の底に“座礁”したために動かなくなってしまっている。森そのものも稀に見る奇異な植生群であるが、さらにここには有名な伝説が残されている。昔、この森の近くに“おいの”という美しい娘がいた。ある時、父と共にこの森へ薪を拾いに来たのであるが、弁当を食べる段になって箸を忘れてきたことに気付いた。おいのは箸の代わりになる“カシャバ(アカメガシワ)”の枝を求めて、森の奥へ入っていった。ところがいつまで経っても戻ってこないために父も森の奥へ行くと、一匹の大蛇においのが飲み込まれそうになっているところに出くわす。父は必死になって助け出そうとするが、とうとう娘は蛇に飲み込まれるようにして沼の底に沈んでいったという。今でも、おいのが引きずり込まれた跡とされる“蛇の穴(じゃのがま)”と言われる場所が森の中にある。このぽっかりと開いた穴は、10mの竿でもなお底に届かないとされる。そして「おいの見たけりゃ 藺の沢(いのど)へござれ おいの藺の沢の 蛇の穴へ」という俗謡も広く知られている。さらにこの伝説をモチーフとして書かれたのが、上田秋成の『雨月物語』に収められた「蛇性の淫」である。
「蛇性の淫」 / 新宮の網元の次男であった豊雄は、若い未亡人である真女児に魅入られ、婿になって欲しいという願いを聞き入れ、約束の証として太刀をもらう。しかしそれが熊野速玉神社の宝物であったために豊雄は罪人扱いされ、疑いを晴らすために真女児の宅を訪れるが、そこは廃屋であり、姿を見せた真女児も雷鳴と共に消えてしまう。その後、大和の兄嫁を頼った豊雄は、そこで再び真女児に出会い、ついには夫婦となる。ところが花見に訪れた吉野で、真女児は正体を見破られ、滝に逃げ込んでしまう。再び紀伊に戻った豊雄は、芝の庄司の娘である富子と結婚する。その富子に真女児が取り憑き、復縁を迫る。それに対して調伏を試みた鞍馬寺の僧が取り殺され、そして芝の庄司が頼んだ道成寺の住職によって真女児は封じ込められる。物語の発端を新宮にしている点でモチーフがあるとするが、実際には道成寺の安珍清姫伝説に着想を得ていると言ってよい内容である。
興国寺
興国寺は、鎌倉幕府3代将軍・源実朝の近臣であった葛山五郎景倫が安貞元年(1227年)に実朝の菩提を弔うために建立した西方寺より始まる。景倫は、実朝暗殺の後に高野山で出家し、名を願性と改めた。そして同じ近臣であった鹿跡二郎が掘り出したという主君の頭骨を預かり、供養に勤めていた。その忠義を聞いた実朝の実母・北条政子から由良の地頭職を賜り、寺院を建立したのであった。願性は、宋の雁蕩山に埋葬して欲しいという主君の生前の願いを叶えるため、高野山金剛三昧院で知り合った心地覚心の渡宋を援助し、分骨を依頼した。さらに正嘉2年(1258年)には、宋より帰国した覚心を開山として寺に招いた。覚心は宋において禅を学んだが、同時に副産物を日本にもたらし、それらは興国寺を通じて全国に広まっていったのである。1つは金山寺味噌と、その製造過程から出る水分を精製することで作られた醤油。もう1つは普化宗と尺八である。この由良の地は醤油発祥の地とされており、また普化尺八を継ぐ者はこの興国寺で受戒する決まりとなっている。天正13年(1585年)、興国寺は豊臣秀吉の紀伊攻めの中で伽藍の大半を焼失する。それを再建したのは関ヶ原の戦い後に紀州を領した浅野幸長であるが、不思議な伝承が残されている。興国寺再建のために全国各地に寺僧が勧進して回ったのであるが、その中の一人が赤城山の天狗と出会い、その強い志を知った天狗達が一夜にして堂宇を再建したというのである。この伝説から、興国寺境内には天狗堂があり、巨大な天狗の面が安置されている。
学文路苅萱堂 (かむろかるかやどう)
高野山の麓にある学文路には『石童丸』の話で有名な苅萱堂がある。平安末期、筑紫の領主だった加藤左衛門尉繁氏は、妻と愛妾の本性を垣間見て己の欲心の業深さを悟り、家を捨て出家する。 一方、愛妾の千里ノ前は男子を産み、石童丸を名付けた。石童丸が14歳の時、旅の僧から父に似た人を高野山で見たという話を聞き、母と共に出立して学文路に着く。しかし高野山は女人禁制の地であるため、母を宿において石童丸は単身高野山へ行く。行き会った僧に父のことを尋ねるが、実はその僧こそが父である苅萱道心であった。しかし苅萱道心は父とは名乗らず、既に父は亡くなったと石童丸に告げる。そして学文路に戻った石童丸は、母の急死の報に接する。身寄りを失った石童丸は再び高野山へ登って苅萱道心の仏弟子となり、親子の名乗りを上げることなく共に仏道に仕えたという。学文路苅萱堂は、石童丸ゆかりの堂として建立されたが詳細は不明。石童丸、苅萱道心、千里ノ前、玉屋主人(石童丸親子が宿泊した宿の主人)の座像が安置されている。昭和の終わり頃には廃寺となりかけたが、石童丸の物語を後世に伝えるべく、保存会によって平成4年(1992年)に再建された。隣接する西光寺が管理をしている(拝観も西光寺が受け付けている)。苅萱堂には、石童丸ゆかりの宝物が所蔵されており、これあらは一括して和歌山県の有形文化財に指定されている。「夜光の玉」などの秘宝があるが、とりわけ有名なものが人魚のミイラである。このミイラは見ると若返るという言われており(人魚の肉を食べると不老不死となる伝説から生まれた俗信であろう)、千里ノ前の父である朽木尚光が所持、千里ノ前が大切に持っていたものとされる。しかしこの人魚の出自は、さらに古いものである。推古天皇27年(619年)に近江国の蒲生川で人魚が捕獲されたと『日本書紀』にあるが、その時に捕らえられた人魚の兄妹とされている。川のそばにある尼僧の許に訪れていた3人の小姓の正体が人魚であり、一体は蒲生川で捕らえられてミイラとされて地元の願成寺に安置され(非公開)、一体は蒲生川を遡った日野で殺され(現在人魚塚がある)、そして最後の一体は通りがかった弘法大師のお供をして高野山に行ったという。この最後の一体が、苅萱堂に安置されているミイラであるという。
小栗判官車塚
説教節で有名な小栗判官の物語は、相模国で毒殺され蘇生した小栗判官が餓鬼阿弥と呼ばれる不具の身体となりながらも、「熊野の湯に入れて元の身体に戻せ」との閻魔大王のお告げを聞いた遊行寺の上人が土車を仕立てて餓鬼阿弥の乗せ、人々に曳かれて湯の峰温泉まで辿り着かせる(途中、美濃の青墓から大津までは、妻となる照手姫が正体を知らずに、亡き夫の供養祈願のためにと車を曳くことになる)。そして49日間の湯治によって小栗判官はついに元の身体となるのである。湯の峰温泉から熊野大社本宮に通じる道の途中に、車塚と呼ばれるものがある。これが餓鬼阿弥(小栗判官)を乗せてはるばる熊野まできた土車を埋めたところと言われている。ただこの碑の銘には永和2年(1376年)とあり、小栗判官のモデルとなった常陸の豪族・小栗助重の生没年(1413-1481)とは異なっている。
男水門 (おのみなと)
神武東征の折、4人兄弟のうち末弟と共に東征に加わったのは、長兄の五瀬命(いつせのみこと)である。しかし、浪速国の白肩津に上陸するとすぐに長髄彦の軍勢と戦い、五瀬命は長髄彦の放った矢によって肘を負傷、東征軍も一旦海上に退却することとなってしまった。そこで五瀬命は「我々は日の神の御子なので、日に向かい、東に向かって戦うのはよくない。日を背にして、西から戦いをしよう」と言い、浪速津から紀国へ、南の方へと船を動かした。しかし五瀬命の矢傷は酷くなり、紀国に上陸すると、とうとう亡くなってしまったのである。最期の時を迎える際、五瀬命は「卑しい者の放った矢の傷で死ぬのか」と雄叫びを上げたという。そのため、この上陸地を男水門(おのみなと)と名付けたのである。そして亡骸は竃山に葬られたのである。和歌山市内に、この男水門の比定地がある。水門吹上神社の境内に神武天皇男水門顕彰碑が建っている。この水門吹上神社の由緒は、五瀬命とは特に関連なく、海上に光るものがあり、波に打ち上げられるとそれが戎像であったので祀ったのが始まりとしている。
小山塚 (こやまづか)
天正13年(1585年)、羽柴秀吉は一説10万もの兵を自ら率いて紀伊国を攻めた。敵対する根来・雑賀衆を討伐するためである。首尾よく根来寺を制圧した秀吉の軍勢は、雑賀衆の残党約5000が立て籠もる太田城を取り囲んだ。太田城は、現在の和歌山の市街地にあった、かなり強固な城であった。さらに雑賀衆の鉄砲隊がおり、数を頼りに攻めるにせよ、かなりの被害を覚悟しなければならなかった。そこで、緒戦で53名の戦死者を出した後、秀吉は水攻めで城を落とすことに決めた。そして城を囲むように、総延長6kmにも及ぶ堤防をわずか6日間で築き上げた(従事者は延べ46万人とも伝わる)。日本三大水攻めと言われる攻防戦であるが、堤防の一部決壊によって守備をしていた宇喜多勢に多数の溺死者が出たり、城攻めに安宅船を使うものの不首尾に終わったりなどの出来事があったが、約1ヶ月後に城側が降伏して決着が付いた。(籠城していた多くの農民については助命し、すぐに耕作が可能な状況にしてやったとされる。ただその際に、武器の所持を禁止しており、これが「刀狩」の嚆矢とされている)降伏の条件は、城主の太田左近以下53名の自害であった。これは城攻めの緒戦で戦死した者と同じ数にしたとも言われている。自害した者の首は晒された後、3箇所に分けて埋葬された。その1つがこの小山塚である。現在ある碑は昭和27年(1852年)に建てられ、その後の区画整理によって昭和60年(1985年)に現在地に移転した。隣にある来迎寺がかつての太田城の本丸に位置すると伝えられている。しかし既にこの周辺は住宅地となっており、城跡の痕跡すら存在していないのが現状である。
清姫の墓
有名な「安珍・清姫」の話は、熊野詣から端を発する話であり、熊野古道にその伝承地が残る。奥州の僧であった安珍は毎年熊野詣をおこなっており、毎年のように真砂にある庄司の館を宿としていた。その館の娘の清姫がまだ幼い時に駄々をこねたことがあったが、それをなだめるために安珍は「良い子にしていたら嫁にしよう」と口約束をした。それを本気にした清姫は年頃になって、その約束を果たすように安珍に迫る。困った安珍は「熊野参詣が終わったら戻ってくる」と嘘をつき、帰り道に真砂に寄らずそのまま奥州に戻ろうとした。他の人からの話で安珍の行動を知った清姫は悔しさのあまり後を追い掛け、やがてその邪念から蛇身へと変化し、ついに道成寺にたどり着いて、鐘の中に隠れた安珍もろとも焼き殺してしまうのである。清姫が住んでいたとされる真砂の地には、清姫の墓と呼ばれるものがある。この地の伝説では、清姫は、真砂の庄司藤原左衛門之尉清重の娘であるが、その母親は清重に命を救われた白蛇であるとされる。そして安珍が清姫に言い寄るものの、障子に映った清姫の影が蛇であることに気付いて逃げ出す。これに世をはかなんだ清姫は淵に身を投げて亡くなるが、その安珍を思う情念が蛇に化身して道場寺まで追い詰めたとされる。これが延長6年(928年)の出来事とされ、清姫の墓がある場所が庄司の館、そのそばにある淵が清姫が身を投げた場所(清姫渕)と言われる。
淡嶋神社
全国にある淡嶋神社・粟島神社の総本社である。社殿や境内には所狭しと奉納された人形が並べられており、3月3日には「雛流し」の神事が執り行われることでも有名である。また淡嶋神社は婦人病治癒、裁縫上達、安産祈願などの、女性にまつわる事柄に霊験のある神として信仰を集めている。淡嶋神社の起こりは、神功皇后の三韓征伐の帰途、瀬戸内海で嵐に遭遇した時に、「船の苫を海に投げ入れ、その流れに従って船を進めるように」というお告げによって友ヶ島にたどり着き、そこに祀られていた少彦名命と大己貴命に宝物を奉納したことによる。その後、仁徳天皇が友ヶ島へ立ち寄った際にその逸話を聞き、対岸の加太に社殿を造ったとされる。それ故に、この淡嶋神社の祭神は少彦名命・大己貴命・神功皇后となっている。特に医薬の神である少彦名命を主祭神として、淡嶋神社の数々のご利益を説いている。また人形供養以外にも不思議な風習がある。境内奥の末社では、婦人の下の病気を防ぐ願掛けとして、身につけていたパンツを奉納する。そのためこの末社では、絵馬と同じようにビニル袋に入れられたパンツが鈴なりになっている。境内の人形と同じく、或る意味、圧巻である。
神倉神社 ゴトビキ岩
現在は熊野速玉大社の境外摂社という扱いとなっているが、神倉神社はこの周辺でも古社の一つとして数えられる神社である。記紀によると、神武東征の時、紀伊に上陸した神武天皇の下へ高倉下(たかくらじ)という者が神剣フツミタマを献上したとされる。この剣は高天原より霊夢によって遣わされたものであり、これによって神武東征は成功することになる。この剣を献上した高倉下がこの神倉神社の祭神である。さらに時が下り、熊野信仰が盛んになると、熊野三神が諸国を巡り阿須賀神社に鎮座する前に降臨した地として神倉神社が挙げられるようになる(『熊野権現垂迹縁起』による)。要するに、熊野の神が現在の大社に鎮座する前の前、神々がこの鎮座する土地に最初に現れた場所と認定されたのである。この神社がいかに重要な地位を占めるかが分かる伝承である。この神社の御神体がゴトビキ岩である。ゴトビキとはこの地方の言葉で“ガマガエル”を意味する。岩そのものが蛙の姿に似ているせいであろう。この岩が小高い山の頂上に鎮座しているのである。まさに巨石を磐座とみなし、それを崇拝する自然信仰がそのまま神社の形態を取っていると言うべきであろう。またこの岩を神武天皇が東征の際に上ったとされる天磐盾(あめのいわたて)とみなすという説もある。この神社がいかに崇敬を受けていたかの一つの証左として、このゴトビキ岩までつけられた石の階段がある。源頼朝が寄進したという、自然石で組み上げられた階段は全部で538段。非常に急で険しい階段である。例大祭ではこの急峻な階段を闇夜の中で松明片手に一気に駆け下りるという神事がおこなわれる。その後で、阿須賀神社を経由して熊野速玉大社を巡る神事であり、おそらく神の降臨を表現するためにおこなわれるようになったものではないかと推察する。
高野山 奥の院
高野山の奥の院が聖地とされるのは、参道の最も奥まった御廟に空海がいるからである。空海は承和2年(835年)3月21日、この高野山において【即身成仏】した。つまり、生きたまま仏となったのである。入定する際、空海は真言を唱えながら、大日如来の印を結び、結跏趺坐の状態だったという。そして今でもこのままの姿で 国家鎮護のためにあるという(実際今なお、毎朝食事が供せられる)。まさしく聖地の中の聖地である。この奥の院にも不思議な伝説・伝承のものがある。武田信玄親子の墓所の横にあるのが“大師腰掛け石”である。空海がここに腰を下ろしているうちに窪んでしまったという逸話が残っている。果たして丸いくぼみになっており、何らかの事情で磨滅した石であることが判る。さすがに腰掛けるだけで出来るようなものではない。一之橋から御廟に至る参道の途中に中之橋が架かっている。その橋のすぐそばには“汗かき地蔵”と“姿見の井戸”という伝説を持つ二つの物件がある。“汗かき地蔵”は罪多き人の代わりに地獄の業火を受けて汗をかくのだそうである。しかも巳の刻(午前10時前後)に汗をかくという言い伝えがある。そして高野山七不思議の一つとされる“姿見の井戸”であるが、その井戸の水は眼病に効くという。さらにこの井戸を覗き見て、もし自分の姿が見えなかったら、三年以内に死ぬということらしい。御廟に架かる橋から奥は【聖地】であり、写真撮影も一切禁止である。この橋の下を流れる 玉川に住む魚にも、伝説は残されている。空海がこの地を訪れた時、一人の猟師がこの川の魚を串刺しにして焼こうとしていた。それを憐れんで魚を川に解き放つと、再びそれは生命を取り戻して泳ぎだしたという。そのため、現在でもこの川を泳ぐ魚には串が刺さっていた部分が斑点として残されている。そして御廟はまさに異様な雰囲気であった。御廟の手前にある燈籠堂には、所狭しと飾られた灯籠に灯りがともされ、読経の声が響き渡る。この世で最も浄土に近い場所と言われるだけの荘厳な雰囲気である。
高野山 壇上伽藍 (こうやさん だんじょうがらん)
高野山といえば空海の開いた真言宗の総本山であり、標高900mの山頂にある要塞のような宗教都市である。その中核は金堂・根本大塔をを中心とする“壇上伽藍”である(このエリアの管理は金剛峯寺がおこなっている)。このエリアは特に観光の中心地でもあり、取り立てて説明の必要もないだろう。だが、ここには高野山開山にまつわる伝承の物件がある。遣唐使として唐にあった空海は、帰国の直前に「有縁の地を探す」べく、法具である三鈷杵(さんこしょ)を海上はるか遠くへ投げ飛ばしたという。そしてその三鈷杵は高野山の松の枝に引っ掛かっていたため、その地を真言密教の修行場としたのであった。この松は現在でも受け継がれており、金堂と御影堂の間に植えられている。この松には非常に顕著な特徴があり、三鈷杵が引っかけられたために、松葉が三つに分かれている(普通の松は二つに分かれている。ちなみにこの松の葉も多くは二つに分かれており、三つに分かれているものはそれほど多くないという)。この三つに分かれた松葉を見つけだし、それを持っていると幸運が訪れるらしい。空海がこの高野山に修行の場を開くに当たっては、もう一つの伝承がある。空海がこの地を訪れた時に、高野山へ導いた者があった。それは黒白二頭の犬を従えた狩場明神(高野明神)であった。狩場明神は、この高野山を護る丹生都比売大神(丹生明神)の御子神である。 空海は高野山を嵯峨天皇から賜ったことになっているが、実質的にはこの二神から譲られた形になっている。壇上伽藍の西端に御社(みやしろ)と呼ばれる、丹生明神と高野明神を祀る神社がある(十二王子百二十伴神も同じく祀られている)。記録によると、空海は壇上伽藍建築に際し、この御社を最初に建てたとされる。鎮守社であるから最初に建立するのが当然と言えば当然なのだが、壇上伽藍の一角に、しかも主要な堂宇に比肩する大きさを持つ社を見るにつけ、それだけこの二神に対する畏敬を感じざるを得ない。
 
 中国・四国

 

 鳥取県
●民話 東部地区
笠地蔵 智頭町波多
昔あるところになあ、おじいさんとおばあさんと貧しゅう暮らしとったところがなあ、そいたら、竹の鉢い編んで、そしておじいさんが売りに出て、そして、「あれこれ買うてくるじゃ。」言うて出よられたところが、道ばたになあ、六体地蔵さんがおられて、それが、もうずっと雪が降って、雪がいっぱいこと頭にあるもんじゃけえ「こりゃあ気の毒な、ほんに気の毒なけえ、こりゃあ地蔵さんにまあ、笠かぶしてあげにゃあ。」言うて。それから頭へきれいに雪い取って、それから竹の鉢の笠ぁ、これかぶし、これかぶし、まあ、六体地蔵さんにみなかぶして、そうして「おばあ、もどった。」「何ぞかんぞ買うてこられたかい。」言うて「ふーん、何にも買わなんだけどなあ、お地蔵さんが頭の上に雪がいっぱいこと降っとって、どうでも気の毒でこたえんもんだけえ、お地蔵さんになあ、笠かぶしといてもどった。」「ふん、そうか、そうか、そりゃあよかったなあ。何にものうてもおじいさんいいが。何じゃ笠かぶしてあげたらお地蔵さんが喜ばれるわ。」言うて、夜、寝とったげな。
そうしたら、もう夜中になあ、ああ、えっさらえっさらえっさらえっさらいう音が聞こえる。「何じゃろうなあ、おじいさん、あの音は。」「さーあ、何じゃろうなあ、だれが来たじゃろうなあ。」言うて聞いていたところが、また、えっさらえっさらえっさらえっさらいうて、また、来られる。「まーあ、次ぃ次ぃ、えっさらえっさら。」言うて。そうして見りゃあ、六人のお地蔵さんが、みんなで米を運んで来られる。ずっといっぱいこと米を運んで、玄関に置いてごしとられて、そいから起きて見りゃあ「まーあ、おじいさん、たいしたことじゃ。こりゃーあ、ほんにお米をまあー、お地蔵さんがお米をいっぱいこと持ってきてごされた。こりゃーあ、たいしたことじゃ。」言うてなあ、喜んで、喜んで。おじいさんとおばあさんとは、ちょっとの間に大きな長者になってなあ、米がたくさん出来て、ええ年を取ったとや。
夢買い長者 智頭町波多
昔、雪が消えぎわには春ばるといって、毎年、田舎では、木をこりに行っていました。あるとき、若いもんが二人、「春ばるに行こうで」ということになって、山に木をこりに行きました。そうして、木を切っているうちに昼になったので、「昼ご飯を食べよう」と言って、昼ご飯を食べ、終わってから、一人の男は、そこに寝て昼寝をしました。そうすると、くたびれて、ぐ−っすり大きないびきかいて寝るし、一人の男は、雪の消え残ったのを、起きて、あそこをつつき、ここをつつき、消しておりました。まっ昼間をねえ。そのうち、”昼寝のもんも起きるけえ”と思って見ていると、そのぐっすりいびきをかいて寝ている男の鼻の中に、虻(あぶ)が入って行きます。そしてまた虻は出て、また、飛んできて、虻が入って、また、ぶんぶらぶんぶらして、また、飛んで出て、と繰り返しています。「何ちゅうえらいこと、しょうるな、虻が入っとるのも知らっと寝とるだがなあ」見ていたそうな。それから寝ているのを見ていた男が、「おい、もう起きいや。仕事しょうや」と言って起こすと、眠っていた男は、「うん、うん」と起きて来て、「まーあ、そうじゃな。仕事せなな。だけどえらいええ夢を見たぞ」と言う。「どんな夢じゃ」と聞くと、「この山になあ、白い椿がある。その白い椿の根を掘ると金瓶(かねがめ)が出てくるいうて、そういうてなあ、神さんが教えてくださったで。おまえと二人、捜そう」って言うので、「ふーん、そうかい」と答えて、それから、仕事をしてもどったものの、雪をつついて消していた男の方は、もう気になって気になってならないので、その山をあちこちあちこち捜していたら、なるほど白い椿がありました。”ははあー、これだな”と思って、それから白い椿の根を掘ったところが、本当に金瓶が三つ出てきたので、持って帰りました。そうしたら、その寝とった男は、「おい、おまえと二人、捜そう、言うたけど、おめえは白い椿を根を掘って、金瓶を掘ってきたげなが、わしはなあ、その金瓶半分くれえとは言わんけど、ちょっと見せてくれえや」と言ったら、「そらあ、見せでも何ぼないと見んさりゃあええが」って、金瓶を三つ出して見せると、夢を見ていた男は、「大きないい金瓶だなあ」とぐるりぐるり回していたところが、よく見ると『十のうちの一つ』と三つの瓶(かめ)に書いてあるではありませんか。ところが、その雪をつついて消していた男は字を知らなかったので読むことができません。それで字を読んだ男は、”まーだ七つあるがよう”と思い、それから、「まーあ、ええ瓶じゃ。大もうけをしたなあ」言うぐらいで帰ってから、日にちを変えて、捜しに行ったのです。行ってみればなるほど白い椿があって、そこに瓶を掘り出した跡がある。 男は、”ここに後、七つあるじゃがなあ”と思って、一生懸命に掘って掘って掘ってみれば、本当に七つ出てきてねえ、大きな金持ちになって一生安楽に暮らしそうな。それだから、一人で欲ばりをしてはいけないのですよ。お互い、二人が行ったら半分ずつもらえましたのにねえ。
庚申の夜の謎 智頭町波多
昔あるときになあ、大きな分限者のじいさんが、欲なおじいさんじゃけえ、その隣にまことに貧しい貧乏なおじいさんがあって、そのおじいさんの屋敷が、自分の家の屋敷続きじゃけえ、まあ、何も惜しいと思うて、まあ、欲なおじいさんで「じいおるかえ」言って「さあ」言って行って「なんと、今夜、庚申(こうしん)さんじゃし、謎をかけるけえ、その謎を、まあ解いたらうらがたって逃げるし、よう解かなんだらおめぇがたって逃げるとしようや。そいでまあ、謎をかけるけぇなあ。そいで『夜中のケンとかけて何と解く』。それをまあ、一つ言うし、そいから『夜明けのキャロとかけたら何と解く』。それをまあ、なんじゃけえなあ、言うけえ、それをもしもよう解かなんだら、おめえがたって逃げないけんぞ。」言うて。
「よしよし、ほんならまあ、そげすうじゃあなあ。まあ、そげえ、じきい言うてもよう解かんけえ、今夜でなしと、明日の朝まで待ってごしぇえ。」言うてなあ、そう言うて謎を解く方のおじいさんが言うたそうな。謎を解かなくなったおじいさんは「まあ、それがこれをよう解かなんだら、まあ、この難儀な、まあ、小さい家へおっても、ここをたって逃げるいうやあなことは、どこへ行く場もなあに。」と思うてまあ、おじいさんが、まあ、思案して、まあ、今じゃあ考えれんがと思うて、まあ、おじいさんがまあ思案して、まあ、庚申さんを待ちおらぇたじゃそうな。そうしたところが、そしたら、遅うに庚申さんは、もうみんなが寝静まったころぃ金の杖をついてとっととっと、まあ、入ってこられて「じい、起きとるか。」言うて「起きとります。」「待ってくれたか。ああ、よかった、よかった。」言うて、まあそれから庚申さんがおじいさんとおって、まあしばらくおじいさんの家ぃおって「じい、まあ、いぬるとするけえ、そんなら。」言うたら「そんなら、うらが送って行きます。」言うそうな。「すまんな。」言うて、まあ庚申さんがいなれたけどな、そしたらまあ、おじいさんがついて行きよったところが、ずっと犬が夜中じゃけえ、キャンキャンキャンキャンキャンキャンキャンキャンいうて、まあ、犬がずっとせぎよったじゃそうな。ワンワンワンワンいうて。そしたら「ああ、じい。夜中のケン(犬)が鳴きよらあに。夜中じゃで。もう。」言うて、その庚申さんが言われて、「ありがとうございます。」言うて、まあ喜んで喜んで、まあ、心のうちにちゃあ、たいへんにうれしいことで、そいからまあ、ずっと行ったところが、そがしたら「じい、夜明けのキャロが鳴きだえたけえ、もう夜が明けるけえ、もういんでもええで。」いうて言われて「ははあ、これは鶏のことかい。」と思って夜キャロ言うたら「ありがとうございます。」言うて、まあ、おじいさんは庚申さんを送って。「ほんならもういね。もう夜明けのキャロが鳴きだいたら、もう夜が明けるけえ、もういね。」「そうですか。そりゃまあ、なら、ここまでにしましょうかなあ。」言うて、まあ、難儀なおじいさん、もどったじゃそうな。そうしたところが、まあ、もどってみりゃあ、まあ、夜が明けるし、まあ、ずっと分限者のおじいさんも「まあ、とってもよう解きゃあせんけえ。」思うて、朝とうから、まあ、さっさで来るししてから、「おい、じい、おるかいや。」言うたら「おお、おる。」言うて。「どうじゃ。解けるか。」言うて「さあ、そいで、夜中のケンとは犬のことじゃ。」ちゅう。「ええ。」言うて「そいから、夜明けのキャロとは、鶏のことじゃ。」言うたら「ううーん。」言うて。まんだその小さい屋敷でも惜しゅうて欲ぅかけたじゃけど、まあ、しかたがないじゃけえ、まあ「そうか、ならまあ、約束じゃけえ、しかたはねえわなあ。ほんならまあ、うらがたって逃げるとしようかなあ。」言うて、その分限者のじいさんが、そこをまあ、逃げたそうな。じゃけえ、まあ、欲しちゃあいけんいうことじゃが。まあ。そんな話ですがな。
亀とアブの報恩 智頭町波多
昔あるときに若い者が道を通っていたら、三人の子どもが、一匹の亀をとてもいじめているので、かわいそうに思いました。「おい、おまえら、その亀をそげぇにいじめんなや。」「まあ、おもしれぇじゃ。」「おもしろうても、おまえらいじめるもんじゃあないわや。ほんなら、お金をやるけえ、その亀をおれにごせぇや。」「うん、そらあ、亀をいじめるたあ錢になりゃ、いいもんが買えるし、そりゃいいけん。そうしよう。」そこで、若い者はお金を出してその亀を買い、それからその亀を逃がしてやりました。また、先へ行きますと、子どもたちが虻を捕らえて、虻の尻を押さえ、棒を挿そうとしていじめていました。「おめえら、何ちゅうことをしよるじゃ。虻じゃって尻へ棒を挿されりゃ痛いわい。放いちゃれ。」「そぎゃんことを言ったって、おもしれわ。こぎゃすりゃ、ようたちゃせんけえ、よう放さんじゃわな。」「ほんなら、ちょっと錢ょやるけえ、それを放いちゃれ。」「まあ、錢ゅごされりゃあなあ。」若い者は子どもたちにお金を渡して、その虻をもらい、すぐに逃がしてやりました。また、若い者が歩いて行きますと、長者の大きな屋敷がありました。そしてそこの屋敷に大きな堀があり、堀のまん中に一本の松の木があって、そこには鶴が卵を産んでいました。そしてそこに立て札があり、見ると、『この鶴の卵を取ってきたら、うちの婿にしてやる。』と書いてあります。若い者は「このような名のある長者の婿さんにゃ、簡単には行けれんがのう。」と思って見ていたところが、一匹の亀がす−っと寄って来ました。助けてやったあの亀です。そして、亀は背中を向けるので「ああ、これへ乗れ、ちゅうことじゃなあ。」と言って、亀に乗ると、亀はその松の木に連れて行ってくれました。若い者は松の木に登って鶴の卵を取り、懐へ入れて屋敷まで行き、長者のところへ持って行ったところが、「ふーん、あの松の木の鶴の卵を取って来たかな。」と長者は喜ばれて「しかしのう、今日は近所の娘たちをみんな呼んどるけえ、この中からうちの娘じゃ思うもんに一杯酒の酌をせえ。それに杯をさせ。」と言われました。見ればみんないい娘さんばっかりです。あれもこれも呼ばれて並んで座っています。「はーあ、どれじゃろうかなあ、きれいにみんな座っておられるが…」と思っていたら、障子に助けた虻が来ました。
虻は娘たちの周りを飛びながら、酌取りさせぇ ブンブン 酌取りさせぇ ブンブン
と中の娘に向けてそう言うものだから、若い者は何はともあれと思って、中の娘に杯をさしたら、案の定、それがそこの長者の娘さんだって、そこの婿にしてもらったと。だから、生き物はいじめるものではありませんよ。
一斗八升の米 智頭町波多
昔あるときにねえ、暮らしが難儀なおじいさんとおばあさんとあったそうな。そうしたところが、毎日、暮らしが難儀なので、山へ木をこりに行って、その木をこって持ってもどり、そして、正月が来れば薪もいるものだから、毎日、木を負うて、おじいさんは売って回っていたそうな。そうしては米を買ってきたりして、日に日にがどうにか立っていたそうな。けれども、その木がいつも売れるというわけにはいかないから、売れ残った木を智頭の備前橋の上のようなところから「竜宮の乙姫さまにへんぜましょう(差し上げましょう)。」と言って、ぼーっと投げ入れたそうな。そうすると木はぐるぐると回りながら流れ、水に潜ったりしながら海へ出るようなことで、そういうふうなことで毎日過ぎていったそうな。そうしたところが、ある日のこと。おじいさんが帰ろうと思ってふっと見たら、「ちょっと待って。」と言う者がいる。それから待っていたところが、一人の男が現れたのだそうな。「うら(自分)はなあ、竜宮の乙姫さんの使いで来たもんじゃが、毎日、竜宮では薪がのうて困っておるに、おまえが薪を毎日送ってごされてたいへんに助かっとる。それで乙姫さんが『これをやれ』言ってごされた。」と言って、打ち出の小槌をくれたそうな。「この打ち出の小槌はなあ、何がほしい言うても、これ打ったら何でも出てくるで。そいでも限度があるじゃけえ、三つしか打たれんじゃで。」と言って、使いはおじいさんに打ち出の小槌を渡して消えていったそうな。おじいさんは、そういうことから打ち出の小槌をもらって帰りよったところが、ワラジが破けて履けなくなったから、ワラジをもらおうかと思い、どんなもんかと思いながらも「ワラジ一足…。」と言って、ちょっと小槌を打ったら、まーあ、よいワラジがひょっととんで出たそうな。おじいさんは「まあ、ほんに本当にたいしたもんじゃ。」と思って、そのワラジを履いてもどっていたところが「三つ、言われたけえ、もう二つ願われるじゃなあ。」と思いながら自分の家へ帰ったそうな。そうして帰ったのはよかったものの、毎日、薪をこりに行くのだからよい鉈(なた)がほしくなり、「ほんに、もう一つ振ってみよか。」と思い「鉈、一つ。」と言って、ぽーっと振ったところが、りっぱな金の鉈がひょいっと出てきたそうな。「はーあ、まあ、たいしたもんじゃ。」と思って、おじいさんは金の鉈をもらっておった。そうしたら「もう一つじゃが、ばあさ、どぎゃあしようなあ。」と言ったところ、おばあさんが「おじいさん、食べる米がねえじゃがなあ。」と言ったので「ほんなら米をもらおうか。これから米を出そうかなあ。」そうおじいさんは言って「米、一斗八升。ばばあ。」と言ったところが、なんと美しいおばあさんがぴょこんととんで出てきたそうな。「まあ、二人が食うにさえ困っとるに、こぎゃあなきれいなおばあさんでもとんで出てきたが、困ったこっちゃなあ。」そうおじいさんが思っていたら、美しいおばあさんがちょこんと座ったまま、鼻の穴からぽろりぽろり米が出だしたそうな。まあそれから二人が不思議に思って見ていたところが、その美しいおばあさんが、鼻の穴からもこちからもこっちからもぽろりぽろりぽろりぽろりと米を出して、とうとう一斗八升の米がそこの座敷に積まれたそうな。一斗八升の米が群れになって座敷いっぱいになったと思ったら、そのきれいなおばあさんはそれきり米の中に溶けてしまい、いなくなってしまったそうな。そのおばあさんもまたみんな米だったのだそうな。それというのも、おじいさんが『ばばあ、一斗八升』と言ったから、一斗八升の米がおばあさんから出たのだそうな。
踊る骸骨 智頭町波多
昔、あったときになあ、下の七兵衛と上の七兵衛と二人の七兵衛があってなあ。たいへんに仲良しで、それでまあ、田舎におってもたいしたもうけはないしするので「まあ、ちぃっと町の方へ出かせぎじゃ。もうけてこうや。」と言って二人が出たそうな。そうしたら、上の七兵衛は、出るときから、自分が食べられさえすりゃ遊んでおって、そうして過ごしていたし、下の七兵衛は一生懸命働いて、そして月日が三年たって「もうまあ、三年もたったじゃけえ帰ろうやな。仲良く二人が出たじゃけえ、二人いっしょにいなにゃいけんけえ。」と下の七兵衛が上の七兵衛に言ったらなあ、上の七兵衛は「三年たったけど銭は一銭もないし、それから、また着ていぬる服も着物もない。」と言う。「おまえを一人置いときゃあいけんけえなあ、そいじゃけえ、ほんなら連れのうていのう。どげえどうらがするけえ。」と下の七兵衛は言ったそうな。そして呉服屋へ行っていくらばかりの着物を買うなどして着替えはいっさい買ってやって、そのようにして連れだって帰ってきたそうな。「やれやれ、もどった。もどった。もう村が見えるぞ。」そう言って峠の上から家の見えるようなとこになってから、ひょっと上の七兵衛が謀反を起こしてねえ「まあ、これじゃあ、うちへいねんけえ、七兵衛をここで殺いたら、七兵衛のお金も土産も何も、うら、持っていねるけえ。」と思って、それから下の七兵衛を後ろから、ばっさり斬って殺して、そうして下の七兵衛の土産からお金から全部持ってもどったそうな。そうしたら下の七兵衛のお母さんが「同じように出たじゃが、うちのお父ちゃんはどげなことじゃろうなあ。」と言えば「さあ、いのう、言うたけど、もうちいともうけて、もうちいと後からいぬるけえ、と言うたけえ、大方そのうちもどろうかも知れんで。」と言ったそうな。それで仕方がないので、その母さんも待っておられたけれど、とうとう下の七兵衛はもどって来ないそうな。それから上の七兵衛は、下の七兵衛がやっと銭をもうけたのをみな取っているし、土産もあるししてほちゃほちゃ言ったけれども、そのようにお金を盗ってみたところが、ちっとも性根は変わりはしないし、あるお金は、そのうち使ってしまって、また三年たって、そうして、またそこを山越しなければならなくなったので、下の七兵衛を殺したそのウネを越していたところが「こら、上の七兵衛、上の七兵衛、ちょいと待てや。」と言って、上の七兵衛の裾を押さえる者がある。それが下の七兵衛の声だからびっくりしていると、そこに下の七兵衛の骸骨(がいこつ)が残っていたそうな。そうしたらその骸骨が「ほんに忘れたか、三年前、ここでおめえがわしを殺えて、うらの荷物から金からみな持っていんで、だけどやっぱり性根は治らさらんか。あの、うらが三年かかってやっともうけた銭ぃみな使うたかい。」と言う。「ふーん。」「ま、そねいなろう。そら性根は変わらん、変わらん。」と言う。「何言うても、ほんに断わりのしようもない。まあ、こらえてごしぇえ。」と上の七兵衛は言う。「こらえてごしぇるもこらえてごせんもありゃあせん。うらの銭ぃみな使うただけん、どがあしようもないがなあ。それじゃあ何じゃがな、三年後、おまえ、おまえと会おう会おうと思うて、こっからほんに毎日待っとるけど、三年たたにゃ会えなんだ。何じゃ、そりゃまあ、また、銭がなけにゃあ、一もうけしてこうや。ほんならうらと二人で行こう。」と言うと「ええ。」と言ったそうな。「おめえはよう歌をうたうだけえ、歌をうたえ。うらは踊るけえ。」と下の七兵衛が言うものだから、「そうか。そんなら、まあ、そがしょう。」と言って。それから、二人が出たところが、「骸骨の踊り、骸骨の踊り。」と言いながら、ずっと町をあちこち回っていると、珍しいものだから、本当に、ここもあちらも、うちもというように、とっても受けに受けたそうな。上の七兵衛はとても喜んで、そうして、自分はいろいろな歌をうたって、骸骨がずっとはね回って踊るしして、たくさんの金をもうけたそうな。そうしていたら、それが殿さんの耳へ入って、それで殿さんが「骸骨の踊りいうようなもんは珍しいもんじゃ。ほんなら、まあ、見せてもらおうかい。」と言われたそうな。それから二人は大きなお庭に呼ばれて、そのようにしてそれから上の七兵衛が歌をうたいだしたそうな。そして骸骨に「さあ、踊れ。」と言って踊らせるけれど、まあそれまであれだけよく踊っていた骸骨がちっとも踊らぬことになってしまったそうな。上の七兵衛はいろいろと知っている歌を全部出してみるけれど、びくとも動かないので「こら、何ちゅうこっちゃろう。」と思って「なして踊らんじゃあ。」と言って、びっしりたたいたら、骸骨なのでごとごとっと砕けてしまい、そうしてその骸骨は殿さんの前へ行って、座ったそうな。「殿さん、ほんに殿さんと会いとうて会いとうてこたえなんだ。これまで踊ったのも殿さんに会いとうて、こがあやって回りよったとこじゃ。」と言ったそうな。そうして「この上の七兵衛は三年前、こういうわけじゃったじゃ。二人が出稼ぎい出て、こういうわけで峠から家が見え出いたところで、ウネのところでわしを殺いて、このようなことをしてきた。まあまあ、これで仇討ちができる。今日の日が来たじゃ。」と一部始終をすっかりみな話してしまったら、殿さんが「上の七兵衛はたいへんに、そら悪者じゃ。」と言われ、それから上の七兵衛を縛り上げて全部白状さしたところが、案のじょう、骸骨が言う通り同じことだったそうな。それから、上の七兵衛ははりつけにあったそうな。「これを待って三年間、ほんに思いつめて、待ち続けとったじゃ。」と言って下の七兵衛は仇討ちをしたのだそうな。
おりゅうと柳 智頭町波多
昔あるとき、高山いうところに、おりゅうといってまことに器量のよい娘があったのだそうな。そうしたらまあ、高山を越えたところに大きなよい家があって、そのうちに女中に行っとったのだそうな。その高山の尾根に大きな柳があって、その柳の精(しょう)が、おりゅうがあんまり器量がよいものだから惚れてしまって、人間に化けて、毎晩、髪をきれいに結って、おりゅうに会いに行くのだそうな。そうするとおりゅうもまた高山の尾根の柳に会いに行くしして、そうしてあっちこっち心を交わしあっていたところ、年がたって、おりゅうがその高山の峠を越えて家に帰っていても、お互い毎晩会いに行くししていたそうな。そして、それでも事情があって行けないときには、大きな風が吹いて、その柳のざわめきの声やら音やらが聞こえたり、何とか木の葉が飛んできたりしたり、とにかく、まあ、毎晩のようにそうして心を通わしていた。ところが、ある日の晩、たいへんにいい男の侍が非常に青ざめておりゅうのところへ来たそうな。「まあ、おめいは何ごとじゃ。今日はひどう青ざめて、もう生きた顔じゃあないなあ。」「うん、まあ、そりゃあまあ、これまで親しゅうに毎晩会うてきたけど、今夜がしまいのような。」「そりゃどんなこってすじゃ。」「いんにゃ、これでもう会えんも知らん。もうこれが終わりじゃがよう。」「どんなこっちゃろうなー」とおりゅうも思っていたところが、そのころ、京の三十三間堂の普請が始まっていたけれど、その三十三間堂の棟木は、杉でもヒノキでもない、高山のあの柳でなけにゃあ、することができんということになったそうな。三十三間堂の棟木は差し渡しが八丈で、丸さが八丈まわっているが、それはあの高山の柳でないと間に合わないということになったのだそうな。やがてのこと。その柳を伐るのは、一人や二人の杣(そま)さんではどうにもいけないので、あっちからもこっちからも杣さんの上手だといわれる人は、みんな呼んで来て、そしてその杣さんが、のこぎりで一日中柳を挽き伐ったけれども、とてもその柳が伐り倒せないので、「また明日の仕事じゃ。」と言ってはもどり、また、「今日もすんだ。」と思って行ってみるところが、その柳の幹はぴんと元どおりになっているのだそうな。「これじゃあ困ったもんじゃ。一日かかってこれだけ伐って、ちゃんとして、まあ明日で残ったのを伐れると思うとるに、またまた元どおりになっとる。伐れるメドがない。」と言っていたそうな。そうしたら、その杣さんの嫁さんが、まあ、どんなこっちゃろうなあ、何とか伐らせてもらいたいーと神さんに一生懸命に拝んでいたら、思いがかなったのだろうか、そのうちに神さんが枕神に立たれたそうな。「杣さんが伐られる鋸糞も、コケラもなんにも、その場で大きな火ぃ焚いて、それをみんな灰にするじゃ。そうしたら、伐ることができる。」と言われたそうな。
それから「神さんがなあ、枕神に立たれたがよう。」と言って、「それじゃあ。」ということで、そこで大きな火を杣さんの嫁さんが焚く。
この杣さんの嫁さんもあの嫁さんも、みんな大きな火を焚いて、鋸屑もコケラも何にも焼いてしまって、そしてみんなが帰って、あくる日そこへ行ってみたら、昨日、柳を伐っただけは伐れてしまっていた。それで、「ああ、なるほど、これで伐れるぞ」。と、みんなは喜んだそうな。
それから、いよいよ神さんのお告げだと思って、また明くる日も明くる日もそうして、やっとのことで柳を伐ってしまった。そしてそれから柳を車に乗せて、おおぜいの人でその柳を京都へ運ぼうとしたのだそうな。そうしたところ、どうにもその柳が動かない。樹齢何百年もしている柳なので、いかに引っ張っても簡単には動かないのだそうな。
そのうち、ある人が、「こりゃあ、柳の性がおりゅうに好いとって、おりゅうとあっちいいこっちい逢い引きをしよったじゃけえ、そのおりゅうを頼むこっちゃ。」と言って、そのおりゅうという娘に頼んだら、おりゅうは、「わしの役に立つことなら行きます。」と言って、京の三十三間堂の棟木を出すおりに、おりゅうが車の先頭になって綱を引いたら、柳を載せたその車はそろそろそろそろ京の三十三間堂まで無事に着いたそうな。だから、今あるあの三十三間堂の棟木は高山の柳だそうな。そしていつに変わらずに、今でもそのとおりあるそうな。
かみそり狐 智頭町波多
昔、あるところになあ、おさん狐といってたいへんに人をよくだます狐がおったそうな。そのころ、若い者たちが若い者(もん)の宿というところへよく寄り集まっていたそうなが、その者たちが、「うらはあの狐を退治したる。」「うらはあの狐を捕ってくる。」とか、「だまされりゃあせん。」とか言うていたら、一人が、「うらぁ、ほんなら出てみて、あの狐を捕ってくるけえ袋、持って出る。」と言って出て行ったところが、そしたら大きな、それこそおさん狐が尾を引きずって来るものだから、その若者は、「ああ、来た来た、おさん狐が来た。こりゃあまあほんにだまそういうたって、うらはだまされりゃあせんけえ。」と言いながら見ていたところが、おさん狐は頭にアオミドロを被ってよい娘になって、そうしてしゃあしゃあしゃあしゃあやって来て、その青年の前をとっととっととっととっと通って行った。そうしよって青年がついて行ったところ、馬糞がぽっつぽっつ落ちていたら、そしたらその娘はちょっと重箱を出して、それの中へ馬糞をちょっと入れて、そうしてそれを風呂敷に包んで、とっととっと行って、よい家の、長者というのか大きな家に入って、「ごめんください。」と言ったところ。家の者が出てきて、「ああ、久しう来なんだ。おまえ来たか。」と言って、「まあほんに大きゅうなったろう。子供も大きゅうなったろう。」というようなことで、まあ、家の主人がたいへんにその娘を歓迎するそうな。そうしたところが、若者はもう見かねて、その家へ入って行ったところ、そこには下女や下男もいるし、本当に大きな家だったそうな。そこで若者は、「こらぁ旦那さん、この娘は狐じゃけえだまされちゃあいけん。」と言うけれども、「そんなことがあるもんか、うちの娘が里帰りしたじゃけえ。」と家の者たちは言うそうな。 娘は娘でそれにかまわず、「たいしたもんじゃないけど、おはぎにして持ってきたけえ。」と言って重箱のものを出すそうな。家の者たちは、「そうか、まあ、ご馳走じゃなあ。」と言って、それをもらって、たいそううれしそうにみんなが、「こりゃよばれるじゃわ。」と言うのだそうな。そして娘さんを奥の間に入れて、たいへんにもてなされるそうな。若者はそれを見て、「そりゃあ牛糞じゃ、馬糞じゃあ。」と言って悪口(あっこう)じゃあなく本当のことを言うけれども、家の者たちが怒ってしまい、「そんなことを言う者は、その前の松の木に縛りあげたれ。」と下男が二、三人かかって、若者をそこの松の木に縛りあげたところが、若者も初めは我慢しているけれども、逆さまに縛りあげられており苦しくてならないそうな。それで、「こらえてごせえ、こらえてごせえ」と、ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ言って騒いでいたところが、家の奥の方から坊さんが出て来られて、そしてその坊さんが、「まあ、これだけ言うじゃけえ、こらえたれえや。」言う。それから、家の者たちも坊さんの言われることなので、「こらえまい思うたけどこらえるか。」と言って若者を木に縛りつけていたのを解いてその木から降ろしてやったそうな。それから、坊さんは、「それじゃあ、おまえはこらえてもろうたじゃけえ、まあ、お寺へ一緒に帰ろう。」と言って、その坊さんが若者を連れてお寺へ帰られたそうな。そうして、お寺へ帰ってみれば坊さんは若者に向かって、「あのなあ、ここへ来たら坊主にならんにゃあいけんじゃ。おまえはこれからわしの弟子になれ。」と言われたそうな。 そして、次には、「そいで弟子になったら坊主にならにゃ。」と言われたそうな。それから、若者はしかたがない、命を助けてもらったものだから、我慢しなければならないと思って、頭を出したそうな。坊さんが剃刀を使うともう痛くてならないけれど、必死でがまんして髪の毛を坊さんにそられていたそうな。しかし、痛いことといったらずっとむちゃくちゃに痛いそうな。そうして、それでも若者はお寺のよい六畳の間へ寝させてもらって髪の毛を剃ってらっているうちに、なにしろとても疲れきっているものだからよく眠ってしまったそうな。どれくらい眠ったことだろうか、ひょっと目が覚めてみれば、空には星が見える。そうこうするうちには夜が明けるしして、「いったいここは何じゃろう。」と思ってよく見てみれば、「こりゃあまあ、お寺じゃあない、野原じゃ。野原へ寝とる。こりゃかなわん、はーあ、だまされん言うて来たけど、やっぱりだまされたじゃなあ。」と若者は思ってわが家にもどって、「やれ、もどった。」と言って、そいから奥へ入って布団を被って寝ていたそうな。すると、仲間の青年たちが数人くらいもその家にやって来て、「まあ、どんなや、だまされんと上手にもどったかや。」と言うと、若者のお母さんが、「もどった、もどった。まあ、もどって寝とるわ。」と言うので、仲間たちは、「そうか、ほんなら行ってみよう。」と行って見たら、まあ、若者は頭の毛を狐がずっと食いちぎって食いちぎって、めちゃくちゃに髪の毛を食いちぎられて、もう頭から血が出ているそうな。おさん狐は人をよく坊主にするいうことだけれど、やっぱり今回も若者が坊主にされてしまったという話。
きき耳ずきん 智頭町波多
昔あるときになあ、まことに正直なおじいさんがおって、まあ、年は寄るし、食べることもやっとしていたけれど、正直なので、氏神さんに日参をしていたところが、そうしたら、ある日、「拝殿の前に頭巾があるけえ拾ってかぶっとりゃあ、何の言うことも聞こえるじゃ、木じゃろうが鳥じゃろうが何の言うことも聴き分けられる。」と氏神さんが言われたので、おじいさんはそれを拾って帰っていた。ところが、途中で休憩しようと野原で腰をかけたら、鴉が来て木の枝に止まって話し始めたそうな。「まあ、ほんに何じゃ、人間て分からんもんじゃなあ、あそこの旦那さんが、ほんにあんな病気じゃけど、医者じゃあ神主じゃあ、なんぼ替えても治りゃあせんが、ほんに人間て分からんもんじゃなあ。」「ふーん、そうか、あそこの隠居さんはなあ、こういうわけじゃで。」と言って、鴉同士が盛んに話しはじめ、そしてそれがおじいさんにはよく分かるそうな。「あそこの隠居さんはなあ、あそこい蔵ぁ建てられたがなあ、蔵の建てられたその蔵のコミ(木舞…竹などを縦横に組んだ壁の下地)の羽目板に蛇が挟まって、それをコミに打っとるけど、それが分からんじゃけえ、そりゃあ苦しゅうて苦しゅうて、ほんに苦しみながら、死んだじゃけえ、そいつう出して祭ってやったらなあ、そしたら治るじゃけどなあ。その旦那さんが苦しまれるわけじゃがなあ。」
鴉はそう言っているものだから、「さーあ、そうかそうか、まーあ、鳥の言うことがありありと分かるわ。」と言いながら、おじいさんは感心していたが、その家に入って行って、「じゃ、わしがちょっとほんなら診てあげます。」と言って旦那さんを診察した後、「実はこうこうで、この家にゃあ土蔵が建てられたことはないか。」と家の人に言うと、「いんや、建てましたじゃ。土蔵を建ったところがこういうわけじゃ。」と言う。「そうかそうか、ふーん、ほんならまあ、その土蔵のコミに蛇が一つ挟まっとって、それがたいへんに苦しんで死んでしまっておりよるけえ、それを出してやったら病気は治るで。」と教えてやりました。家の人たちは、「まあ、何ちゅうええことを聞いたじゃ。」と言って、それから蔵のコミをはぐって見るところが、なるほど蛇がほんに白くからからになって挟まっとって、そいからその蛇を、「ほんに悪いことをした。知らんいうものはなあ。」と言って川に流してやったら旦那さんの病気は、すっと治られて、みんなはほんとうに大喜びをしたそうな。それでおじいさんは大きなお礼をもらって、帰ったそうな。そうして、何日かたってからか、また出かけていたら、今度は長者のお嬢さんの身体が痛くて苦しんでおられるのだそうな。それも医者や神主や薬じゃあ治らないし、とても困っておられるのだそうな。そうしたら、おじいさんがそこの家の前を通っておったところが、「法者人(ほうじゃにん)、法者人。」と言って女中さんが出て来て、ちょっとおじいさんを引き留めて、「ちょっとまあ、こういうわけじゃけえ、診たってえな。」と言うものだから、おじいさんはその家へ入って行ったそうな。「それじゃあ、わしを娘さんの部屋に一夜さ泊めてつかあさいな。」と言ったら、家の人たちは、「そりゃあ、なんぼないと泊まってつかあさいや。」と言う。
おじいさんが娘さんの部屋に泊まっとったら、夜の夜中に松が桧(ひのき)の見舞いに来る。「まあ、じゃけどとてもとても、わしゃぁかなわんけえ、どげえしようもない。ようこそみなさんが親切にしてくださる。」と桧は松なり杉なり樫なり、まあいろいろにみんなに礼を言うて、まあ、遺言したりしているそうな。そうしたところが、「人間ちゅう者は分からんもんじゃなあ。ここはなあ、きれいな部屋ぁ建てられたけど、その部屋の下に桧の株があって、その桧の株から春になって芽を出しゃあ、そうすりゃあ、まあ、雨垂れが落ちちゃあ、また桧の芽を腐らかし、また、まあ、春になって芽を出しゃあ、その芽を腐らかし、どうにも生きることも死ぬることもかなわんじゃけえ、たいへん苦しんどるようじゃけえ。」と言う。それから、話はまだ続いとって、「『まあ、春になったら、芽が出てええ日がくる』言うて、みんなが見舞いに来てくれるけれど、どうにもそれが芽が出ても成長せんもんじゃけえ、たいへん苦しみよる。」こういうことを、松なり杉なり樫なりが輪になって言っているそうな。明くる日の朝、おじいさんは、「この家にゃあ部屋、建てられたに、そこい桧の株があって、それが芽を出しゃあ雨落ちで腐れ、まあ、芽を出しゃあ雨落ちで腐れ、死ぬることも生きることも、その桧ぃとっちゃあ苦しみたちよるけえ、その部屋をなあ、砕くか何とかして、その桧の株ぅ生きるか死ぬるか、とにかく出してあげにゃあいけん。」と言ったそうな。
「まあ、そうか」とみんなも言って、その部屋を砕いて見たら、ほんとうに大きな桧の株があって、その桧の株から芽が出れば、雨が落ちて腐りかけるし、また芽が出れば、またそこへ雨が落ちて腐りかけるしして、そしてどうしても、大きくもせず殺しもせずししていることが分かったそうな。そこで、みんなはその部屋を砕いて、その部屋の底を取ったら、もうけろっと娘さんの病気が治ったそうな。「まあ、何ちゅうありがたいことじゃ。」と言うところだった。このように頭巾を持っているために、おじいさんが大いに重宝がられたそうな。そうして娘さんもきれいに治っておられるし、よその旦那さんも治られるしたものだそうな。喜んだ家の人たちが、「まあ、ほんにどぎゃなお礼をしてええやら。」言ったところが、おじいさんは、「わしゃあお礼も何にもいりゃあせんけれど食うに困っとるのじゃけえ。もうこの年になったら食うことも出来んのじゃけえ。」言うたら、「それじゃあなあ、ほんならうちでなあ、一期(いちご)、うちのおじいさんとして暮らいてごされんかい。」とみんなは言ったそうな。「そりゃあ、ありがたい。」ということになって、おじいさんは、その家のおじいさんのように養ってもらわれたとや。
腰折れ雀 智頭町波多
昔あるところに、正直なおじいさんとおばあさんがあったそうな。
あるとき、おばあさんが、庭に出てみたら、雀がたくさん庭に降りていて、おばあさんが出て来たので、たーっと飛んで逃げたけれど、一羽の雀が脚を痛めていて、よく歩けないものだから、残っていたのだそうな。それから「まあ、かわいそうに。」と思って、その雀を引き上げて、おばあさんがその雀を篭に入れて、米やら虫やら草やら餌をやっていた。一定の日にちがたったら、それでもよく治ったので「ああ、治った、治った。おめえもなあ、治ったらなあ、親や兄弟のとこへ行って、友だちやみんなと一緒におれよ。離いてやるけえなあ。」と言って、離してやったところが、雀は、だーんと飛んで、うれしそうにチュンチュン言って、みんなと一緒のとこへ行ってしまった。
そしたら、一月も二月もしてから、ちょいっとまた庭へ来て、チュンチュンチュンチュン言うから、おばあさんが出てみた。
「ああ、ああ、また来たか、よう治ってみんなと、ええ友だちと遊んどるかい。」言ったら、雀がひょーっと飛び上がったて、ポトンと何か落したので、おばあさんが行って見るところが、瓢箪の実が落ちていたので、その実を、植えておいた。そうしたところが、それがよく出来て、蔓がいくらでも延びるし、そのうち花が咲いて、瓢箪がいっぱいになったそうな。おばあさんは「まあ、ほんに瓢箪がなったわ。」と言って、それから瓢箪も熟したから取って、池につけて中の実を出して空にして、そして、近所のみんなにもあげようと、あれにもあげ、これにもあげして、自分の家も四つか五つか蔵にしまっておいて、それでその瓢箪をずっと見たところが、まだ重たいので「こらあまあ何ちゅうことじゃ。瓢箪に実はないはずじゃなあ、何ちゅう重たいじゃろう。」と思って降ろして見たところが、お米がいっぱいつまっているので「こりゃあ、えらいことじゃ。米が入っとる。」と言って、また次のも出してみたら、またお米がいっぱい入っている。それからその米を出してみた。
次の瓢箪には炭がいっぱいに入っているし、尽きることがない。おじいさんとおばあさんの家では、どうしてもも米や炭が尽きることがない。
そうしたら、隣のおばあさんが、それを羨ましく思って「「まあ、隣のおばあさんは雀を助けて瓢箪の実をもろうたら、瓢箪にいっぱいこと、米が入るけえ、まあほんに、うらも雀の脚を治いたらにゃあならん。」と言って、それから、そうは言っても脚を怪我して痛がっている雀がいないので、庭へ遊びに来ている雀に、石を拾ってきて、やっとばかりに石をぶつけたら、雀の脚に当たったそうな。そこで隣のおばあさんは「当たったか、当たったか、あ、痛かろう、痛かろう。」と言ってその雀を拾いあげて、米をやったり草をやったり、虫を捕ってやったりして、やっとその怪我を治してやって「ああ、よかった、よかった。これでなあ、ほんにようなった。まあ、おめいも人並みなったけえ、まあ逃げて、仲間のおるところへ行けえよ。」と言って離してやったら、雀はチュンチュンチュンチュン言って逃げたそうな。
それから、何日かたってから、その雀がまた庭へ来た。そしたらポトンと何かを落とすので、おばあさんが「何だろう。」と思って、見たら瓢箪の実がある。「ああ、ああ、瓢箪の実い持ってきてくれたか。」と言うところで、それから、瓢箪の実を植えておいたところが、やがて瓢箪がたくさんなった。
「ほんによけいなって、みんなにあげれるわ。」と言うほどなって、それから、おばあさんは瓢箪を取って「まあ、何じゃあ、うちにもまあ、三つが四つでも五つでも、七つでもいいわ。」と言って蔵に入れて、そして一定の日にちがたってから、降ろしてみたら、その瓢箪の実から何とムカデやら蛇やらミミズやら何やらかんやらいっぱい出てきて、そのおばあさんをとうとう食い殺いたそうな。それだから、悪いことして欲ばりしてはいけないのだよ。
子育て幽霊 智頭町波多
昔あるところになあ、お父さんとお母ちゃんと娘さんが一人あってなあ、「一人娘がまあええ娘になったじゃけえ、婿さんを取ろう。」いうて言いよったが、どんな具合いじゃ知らんが、娘さんが大きな腹になって、「こんな大きな腹ぁしとりゃあ、もうどぎゃあにも婿はねえし、これじゃあ困るじゃけえ。」言うて、「ままぁ食わせなんだら、中の子が死のうけえ。」思うて、親を考えずと中の子が死ぬることばっかりお父さんとお母さんとが思うて、何日もご飯を食べさせず、腹は小もうもならん大きゅうなるじゃししておったところが、娘は内で子どもは養うても、どうしてもまあ、自分が食べさしてくれんもんじゃけえ、とうとう死にましてなあ、そいたら、お父さんとお母さんとが、しかたがないじゃけえ、泣きの涙で野辺の送りをしたじゃそうな。
そしたところが、ある飴屋に夜になると、一文銭を持って、そして飴買いい出るけえ、飴一つか二つか知らんけれどやったら、「ありがとう。」言うて、そのええ娘さんが帰って、そうして、また毎日、その一文銭持って出よったが、まあある一定の六文がすんだら金がないじゃけえ、桐の葉を持っちゃあ出るけど、まあ、そうして寝るおりにみんな寄りようて、そして算用するじゃそうな。
「まあ、木の葉がついて出とるわ。」いうようなことで、桐の葉、捨てる。また明くる日も、また、「桐の葉ついちょるわ」言っちゃあ捨てる。あんまりも何日もたつうちに気づいて、昼にゃあ出ずと、娘さんが日暮れぇなってから飴買いぃ出るなあ、そして飴一つ喜うでよけいは買うていなんけど、毎日買いに出る娘さんがある。そこの番頭さんが、「こりゃあ不思議な、まあ、わしゃぁあの娘さんの後を追うてみたる。」言うて、その番頭さんが後を追うて行ったところが、その一人娘の死んだ新墓の前へ行くというとことっと消えてしもうて、とっとおらんようになるし、「まあ、えらいことじゃ、あの新墓からこの娘さんは出よるがよう。」言うて、そうしたら、まあ、それこそ村から町から大評判になって、「まあ、掘り返いてみよう。」いうことになって、そのうちの人が掘り返いてみたじゃそうな。そうしたらその娘さんは、真っ黒うなって、死んどるじゃけえ、真っ黒になっとるけど、そのやや子はずっとまるまる太って、よーう太って、そのまるまる太った赤ちゃんが、飴を握っとったじゃそうな。
「はーあ、こりゃあ幽霊でも子はかわいいもんじゃなあ。」言うて、その幽霊が子どもを育てて、そぎゃしてまるまるしとったいう子どもがなあ、生きとったいうことですがよう。
五分次郎 智頭町波多
昔あるところになあ、お父さんとお母さんとに子供がのうて、そしたら、ある神さんにお母さんが信仰しよらえた。まあ、二十一日か、また七日、また七日いうて、三七、二十一日の祈願をこめて行きよられたら、中指の腹がポンと大きゅうなって「こら何ちゅうこっちゃろう。」と思ったら、田圃に出とったところが、腹が痛うなってくる。腹がいたい。そいから隣のおばさんに言うたら「そら、子供ができるじゃ。」いうところで、見りゃあ中指の腹が大きゅうなっとるじゃけえ、そこをちょっと割られたらポカッと子供が出来てきた。「そうか、そうか。これはまあたいした子供じゃ。神さん信仰して、そがぁしてもろうた授け子じゃけえ。」言うて、それこそ、まま食え、とと食えで大きにしよりましたら、まあ、一年、二年、三年、五年とたって「はーあ、もうなあ、二十にもなっても同しことじゃ。同し五分じゃが、ほんになに一つ頼もうもないしなあ。」ていうて言うたそうな。そうしたら、五分次郎は「いや、わしはなあ、お父さんやお母さんやなあ、これから養うけえ、鰯売りをするけえ。ちょっと元をくれえ。」言うた。元を出したら鰯を三匹買うて、鰯を縦に負うて、そして、鰯ぃ売りぃ行って、大きな大きなうちに行ったら「鰯はいらんか。」て、声だけは大きな声が出るじゃけえ、そう言うたところが、「ああ、鰯は珍しい、久しぶりじゃなあ。」言うて、女中さんが篭を持って買いに出てみるところが、何にもおりゃあせん。「何にもおりゃあせん。鰯売りはどこにおるじゃろう。」「あっ、ここじゃここじゃ、ここにおります。ここに。」見りゃあ、五分ぐらいな人間が鰯を縦に負うて、鰯ばっかり歩きよるような。「あ、そうか、そうか、ほんならまあ何じゃ、もらうじゃわ。」言うて、その家で買うてくれたそうな。「わしゃあこいからなあ、何里の道もこの足じゃあ歩けんけえ、泊めてくださいなあ。」「そりゃまあ、おまいみたいな者は、どっこいでも寝させられるけえ、そりゃあ泊めてあげるわ。」言うたところが、「食べるもんは、わしゃ持っとるけえ。」「そんなら泊めてあげる。部屋の隅でも、どっこでも泊めさせれるわ。」言うて、泊めたところが、なかなか賢いいうか、利口なもんじゃ。そいから自分が小うまい粉をしてもろうて、それを食べて、それは残いとった。その家に一人娘のお嬢さんがあった。そのお嬢さんの奥の間に、お嬢さんの長まっておられた。夜中にだあれも寝静まってから、それから、そのお嬢さんの口のほてらにその粉、いっぱいこと塗りつけておいた。
そしてまあ、夜が明けるしすりゃあ、五分次郎は大変に悲しげにすこすこすこすこ泣くけえ「こりゃあまあ、どげしたじゃえ。五分次郎さん。」言われたそうな。そうすると、五分次郎は「わたしゃあ、ほかのもなあよう食べんに、わたしの食べるもんをお嬢さんが、みな食べてしもうて、今朝は何にも食べれん、食べるもんがないじゃ。」言うた。「そんなことがあるもんか、うちにゃあそんなことをするような娘じゃない。」って、奥に入って見りゃあ、ほんにお嬢さんの口のほとりゃいっぱい粉つけとる。「何ちゅうことじゃあ。」いうようなことで「どうしても粉ないけえ、食べるようがない。」て言うたら「どぎゃあしようもない。粉でもひいて返すし、どぎゃしたらええじゃろ。」言うたら「わたしゃあ、粉もお金も何にもいらんけど、お嬢さんをお嫁さんにほしいじゃ。」って言うたら「まーあ、そんなことは…。」言うて、お母さんの方は困っとられるところが、お嬢さんが言うたそうな。「いったんそう言われたら、そうしたらしかたがない。わたしゃあ取って食べたたあ思わんけど、そいでも口についとりゃあしかたがないじゃけえ、ほんならまあ、お嫁になって行くじゃわ。」言うた。それからまあ、お嫁になって行きよったら、そいたら、お嬢さんはまあ、きれいにこしらえて、そうして、まあ、五分次郎を歩かせるいうたってかなわんじゃけえ、たもとへ入れて、そうしてまあ行きよられた。そしたら、ある家がなあ、馬を出いて笹を食いよった。五分次郎が「馬が見たい。」言うたので「そんなら見せてあげよ。」言うて、それに出て笹の実ぃひょっと留まらせらせたところが、そうしたら、笹を馬が食うてしもうた。「こりゃあほんに、馬が笹を食べて…。はーあ、わたしの旦那は馬に食われた。」言うて、大変にお嬢さんが悲しがったところが、馬がぽってぽってウンコをたらしたら、それの中へ五分次郎が入っとって、きれいに洗うたそうな。五分次郎はまた「馬が見たい。」と言うものだから、お嬢さんは言うたそうな。
「馬が見たいの言うことがないようにしんさいや。」言うて、次郎はきれいにきれいに洗うてもろうて、入れてもろうて戻ってきた。「今、戻ったで。戻ったはええが、嫁さんをもろうてもどった。」「まーあ、何じゃあ、お姫さんのようなお嬢さん、連れてもどっとるけえ、何ちゅうことじゃ。あがなうちから、ほんにお嬢さんをもろうてや。そりゃまあ、ありがたいことじゃけえ。」とお父さんとお母さんは言うて、次郎と嫁さんに「ほんなら、おまえらはなあ、四国の金比羅さんに参ってきんさいな。」言うた。五分次郎と嫁さんは、そいから金比羅さんに参りよったそうな。ずっと大きな船に乗ったら、次郎も船の甲板にあがって、まあ、見りゃあ、ずっと魚がおる。大きな海を渡りよったら、喜んで、喜んで、五分次郎がずっと跳ねくりまわりよったところが、海いはまって、お嬢さんは「まーあ、情けない。ほんにいっぺんは笹で助かったけど、今度ぁ海ぃはまったが、どうすることもできん。ああ、わしはいったん参る言うただけえ、一人でも金比羅さんに参ってくるけえなあ。」言うて、そして宿へ泊まったそうな。そうしたところが、宿のまな板の周りに人がぎょうさんおりよる。「何ごとじゃろう。」思うて、お嬢さんが出て見たところが、大きな鯛を刺身にするところだった。ところがその鯛が、まな板の上で暴れて「こりゃ何ごとじゃろう。」言うて、宿屋の衆もあきれていたら「包丁、危ない。包丁、危ない。」言うて、その鯛がものを言うのだそうな。「この鯛はものを言うが、何ということを言うじゃろう。」いうて言う。それで聞いてみたら「包丁、危ない。包丁、危ない。」て言う。五分次郎の嫁さんが「実はわたしの主人が、船から落ちて、そうして海へいったら、そこに大きな魚がおって、それがぼっと飲んだです。今、『包丁、危ない』言いよるけえ、ちょっと待ってみてもらえんかなあ。」て頼んだ。「そーんなことですだか。」いうやなことで、待ってもらっておったら、それから、宿屋で料理が出来るししたが、(じょうじゅう)そうしておられたら五分次郎がこぼーんととんで出てな。「何ちゅう、まあ、たいしたことじゃ。」
お嬢さんがほんに喜んで、喜んでおった。そいからまあ、よばれて、あくる日になった。お嬢さんと五分次郎は金比羅さんに参って、そして戻りよったところが、日が暮れたそうな。で、どうにも宿まで帰れんもんじゃけえ、途中で、一軒屋があったもんじゃけえ、そこい寄ったそうな。そうしたら、おばあさんが一人おられて「うちにゃあなあ、鬼が泊まる鬼の下宿じゃけえ。そいじゃけえ、おまえたちゃあ危ないけえ、そいじゃけえ、嫁さんの方はここの桶があるけえ、これかぶしてあげる。それから五分次郎は、その柱に傷があるところに潜んどれえ。」言う。それから、五分次郎は潜んどるしして、そこい泊めてもろうて「大きい声、出されんで。」いうて言われそうな。それからまあ、一夜さそこい泊まっとったところが、赤鬼、青鬼、黒鬼…いっぱいことやって来た。ことことことこと、でんでんでんでこでんでこでんでこ、ずっと力比べをして、相撲取り始めた。そうしたところがなあ、柱の傷に潜んでいた五分次郎が喜んで「やつ来い、やつ来い、やつ来い、やつ来い。」「赤鬼勝った。」「黒鬼勝った。」言うたら「あ、今夜は違う。今夜は違う。こりゃ化物じゃ。化物が出る。化物が来る。」言うて、鬼がもう、ずっとおびえて「ここにゃあ、おられん。ここにゃ、ここにおりゃあ危ない。ここにおりゃあ危ない。」言うて、鬼がみな逃げてしもうた。「やれやれ、ああよかった、よかった。おめえたち、助かってよかったなあ。」とおばあさんが言うたそうな。夜が明けてみりゃあなあ、見りゃあなあ、鬼が打ち出の小槌、忘れとってなあ、そして「こりゃあ打ち出の小槌じゃで。これでたたきゃあ、なんでもできるぜ。」て五分次郎が嫁さんに「これでわしょをたたいてくれえ。」言う。「一寸伸びい、一寸伸びい、一寸伸びい。」嫁さんが五分次郎をたたくたんびに、ずんずんずんずん大きゅうなって、とーうとう五尺三寸のええ男になった。そいからまあ、二人が金比羅さんにお礼参りをして、そして打ち出の小槌を持って帰ったところが、もうお父さんとお母さんはびっくりして「何ごとじゃろう。」思って、見るところが、五尺三寸の五分次郎がええ男じゃし、お嬢さんは大きなええ嫁さんじゃしして、まあ、喜んで、喜んだ。嫁さんもええ長者から、あれこれあれこれ荷物も持ってこられるけど「まあ、家をせにゃあならん。」いうところになって打ち出の小槌で打ったそうな。そうしてまず屋敷所ができて、続いて打ち出の小槌を打ち出して「家もするわ。」「蔵もするわ。」言うて、家も蔵もできてなあ、やっぱり神の申し子じゃけえ、ひときりはえらい目もしたけれど、それこそ長者とつき合えるようにな立派な家も出来、ええお嫁さんと聟さんとができて、お父さんやお母さんがたいへんに喜んだ。
猿地蔵 智頭町波多
昔、あるときになあ、おじいさんが畑を打ちい行ってなあ、そこで、「何じゃで、ばあさ、ばあさ、うらはなあ、畑を打ちい行って、そして、何じゃけえなあ、座っとるけえ、それに糊を煮て頭からかぶしてごせえや。そげしたら、ほん、お地蔵さんのようなけ、そげしたらなあ、何じゃけえ、みんながええもんすえてごすけえ、そじゃけえ、お地蔵さんになってみるけえ、こぎゃああ難儀なじゃけえ。」「よしよし、おじいさん、そら、ほんなら、まあ、そげえするけえ。」言うて、「ほんに難儀なじゃけえな、おじいさん。ほんにお地蔵さんの真似をしても、そいでも食べて行かにゃいけんじゃけえな。」言うて、おばあさんが、糊ぅ煮て、そぎゃして糊を頭からずぼっとかぶしたら、ずっとおじいさんの頭から、真っしれえ…なって、そうしたところが、ずっとサルがやっと出てきて、「おい、何じゃ、ここに白子地蔵さんがおられると見え…」「まあ、白子地蔵さんがおられるけえ、ほんに何じゃわい。何ぞかんぞええもんを持ってきてすえよう。」言うて、あれこれあれこれと持ってきたいうて。まあ、サルたちは、ほんにええもんを…食べるもんから、お金からいっぺえ持ってきてすえるもんじゃけえ、そしてまあ、何じゃった。それから、おじいさんはサルもいぬるししたけえ、まあ、晩になったけえ、そいで、お金をまあ、みんなもろうて、そがして、まあ、もどって、「おばあさん、おばあさん、地蔵さんのおかげがあった。ほんに、こげんよけい、いいもんもろうて。餅も菓子も、ほんに何じゃ、お金もよけえ、サルがすえてごしたわ。」言うて喜んで、二人がまあ、喜びよったところへ、隣のおばあさんが聞いて、「うーん、そげなことか。あそこはだいたいお地蔵さんに信仰しよったけえじゃ。ほんにおかげがあったじゃ。」言うておばあさんが話いたら、「そうか、そうか、うらもお地蔵さんに、ほんに信心してみよう。」言うて。「おじいさん、おまえ、行って座っとれ。ほんなら、糊を持って行ってかぶせるけえなあ。そいから、信心するけえ、お地蔵さんに。まあ、お地蔵さんに何でも信心するじゃ。」言うた。そして、おばあさんが、じきい、信心はちっともせんのに、そけえ行っておじいさんを座らして、それから糊を持って行って、頭からかぶらしたところが、ほんにお地蔵さんのようにそれがなって、そいからまあ、サルが出てきて、ええもんを持ってきて、また、「白子地蔵さんを、昨日のええもんをみんな平らげておられるわ。今日もすえよ、すえよ。」言うて、よけえことお地蔵さんにすえて、そげして出ぁたら、そうしたところが、まあ、何ぼうでもそげしてすえおったら、「お地蔵さんじゃ、お地蔵さんじゃ。」言いおったら、そのお地蔵さんがまあ、ほんに欲ばりじいさん、気をせったか、何をしたか、つい、ついおかしゅうなって、ヒュッと笑うたら、「え、こりゃ、お地蔵さんじゃねえ、こりゃ人間じゃぞう。」(サルが)言うて。「こりゃあ、人間じゃ、人間じゃ。こりゃ人間じゃ。お地蔵さんが、そげえ食いはできん。これまでそげぇに食いおりゃできんに、昨日のええもんもみな食うとるし、みな、銭こうもみな持っていんどるし、こら、人間じゃぞ。」言うようなことだった。そいから、「おい、葛(かずらぁ)立てえ葛立てえ。」まあ、じいさんはついクックッと言うて、つい笑ったら、口が出る。まあ、何するじゃろう、葛立ってと思うて、眠ったときから葛を立って、おじいさんをがんがら巻きいして、それからまあ、サルのことじゃけえ、結ぶすべを知りゃあせず、「おい、鼻の穴が開いとうだけえ。」鼻の穴へ入れて結ばっと鼻の穴へ葛つっこんだら、鼻からずっと血がだらだらして出だしたら、サルは血がまことにきょうといもんじゃけえ、「そーりゃ、血が出だいた。血が出だいた。」言うて、ごっご恐れて、そぎゃしてけえ、ずっとおじいさんをがんがら巻きいすられて、血だらけになって、そがあして命からがらでもどったとや。
猿とひき蛙のめおい餅 智頭町波多
昔あるときに雨が降っていたが、晴れたのでひき蛙がひょっこりひょっこりやってきて「今日はええ天気になったがよう。」と思ってひょっこひょっこしていたら、今度は山の上からひょこひょこっと猿が下りてきて、ひき蛙に向かって「ああ、これはええとこで出会った。こりゃあまあほんに、おめえと久しぶりで会うたなあ。久しぶりで会うたじゃけえ、めおい(費用をお互いに出し合って飲食すること)をしょうじゃないかい。」と言って、それから、「ほんならなら、まあ、餅米を、うら(自分)がもろうてくるけえ。」と言って、町やら村から出て餅米を二升ほど担いで帰って来て、それから、ひき蛙はそれをごっしょりごっしょりといで、そうして、セイロウ(蒸籠)に入れて蒸して、臼に入れてつこうとしたら、「こんなとこでは、食うてもおもしろうねいけん。」と猿が言い出して「ついた餅をどぎゃするじゃ。」とひき蛙が言ったら「ほんならウネ(尾根)の頭に持って上がって、そこから食おう。」と言うことになった。猿が元気なものだから、臼ごと尾根の頭へ担いで上がるし、ひきはひょっこりひょっこり、後で上がってきて「まあ、尾根から来るじゃろう。」と思って、上がったところが、猿が手に合わない(やんちゃでしかたがない)から、猿は「なんとここから食うたって、おもしろげがないけえ、これへ転ばけいて、そぎゃして下へ落といて食うてもいいになあ。」って言う。ひき蛙はおとなしいものだから「ほんなら、まあ、そぎゃしょう。」と言った。それから尾根のてっぺんから、谷へごろごろっと転ばす。そうするというともう猿はさっと「待て待て待て待て待て。」と言って臼へついて出るししたら、その臼はぼーっど下まで転んで出たので「さあ、臼の中のぞいて、一人で食べよう。」と思って見たら、中にはほんの少しも何にもなく空っぽだった。猿は「こりゃまあ、何ちゅうこっちゃ、一つもありゃせん。」と言いながら思案して。それからまた、ごそごそっと猿が山の途中まで引き返してみたら、そこにひき蛙がいるので「おい、ひきどん、どがぇしよるじゃいや。」と言ったところが、ひき蛙は、猿が臼をほんのちょっと転ばしたら餅がひょっと出て、木の切り株にその餅がだらーっと引っかかっているので「ずーっと流れる方から食ーべましょう。だーるまさん。」と言いながら「あっちが冷めとる、こっちが冷めとる。熱い餅をほうほうほうほう。」と言いながら食べているそうな。猿はほんとうにうらやましくてならないものだから「あっ、こっちい流れよる。あっ、こっちい流れよる。」と言っていろいろとひき蛙に言い聞かせるけれども、ひき蛙はそれにはおかまいなく一人、むしゃりむしゃり、流れる方から食べていた。たまらなくなった猿が「何とわしにもちいとちっとくれえや。ちーっと。」と言うものだから、ひき蛙は「よしよし。」と言って、それからさっと中の熱いところをぴしゅーんと猿の顔にぶつけたそうな。猿がとても熱うてかなわないものだから「あつつつ、あつつつ。」と言って、それでもとてもいやしんぼうな猿は、みなじきに食べてしまって、今度は「まあ、もちぃーとでええけえ、もちぃーとでええけえ。」と言うので、ひき蛙は「よしよし。」と言ったそうな。猿の方はまた中の熱いところを、今度は顔へぶつけられたらかなわないと思って、お尻を向けたので、それから、ひき蛙がお尻にぴしゅーんと投げたところが、それでも猿は食べたので、それで今でも猿の顔は焼けて赤いし、猿のお尻も赤いのだそうな。それだからなあ、欲張りをしてはいけないのだよ。
猿の生き肝 智頭町波多
昔なあ、竜宮の乙姫さんが病気したりしてなあ、そして、あれこれ用いるけれど、「これは猿の生き肝でなけにゃ治らん」いうことでなあ、そしたら、「まあ、猿の生き肝を取ってくるにゃ、だれを頼もう」「まあ、亀がよかろう」いうことになってなあ、そいでまあ、亀を頼んで、そしてまあ、そいから亀がその陸へあがって、そして松の木に猿がおったけえ、「まあ、竜宮へいうとこを、おまえは山ばっかりおって、ちっともまあ、海の底ぅ知らんじゃけえ、竜宮いうとこを見たことがない。竜宮いうとこを見たかろうが」言うたら、「見たい。そりゃあ」言うたら、「ほんなら、連れていってあげるけえ、うらの背なへ乗れ」言うたら、猿が背なへ乗って、竜宮に連れて行ったじゃそうな。そうしたところが、ずーっと出迎えをしとるし、女中さんあたりが大勢出迎えをしとったそうな。そいからまあ、竜宮へ行ったところが、いろいろなまあ、ずっと魚の舞いから、ほんにいろいろな踊りから歌からまあ、ごつうにもてないて、見たこともないような、ずっと魚のご馳走になって、そうしたところが、猿が腹をこわいて、そして病気したじゃそうな。そして、便所へ起きたところが、「猿のばかめ、猿のばかめ、猿のあほう、明日(あす)は生き肝抜かれるぞ」言うて、クラゲが、まあ、子守歌でうたいよったそうな。そしたところが、”こりゃ、まあ、えらいことを聞いた。何ちゅうえらいことを…… ほんにどぎぁしったもんじゃろう”思うて、そいからまあ、”寝るどこでも何でもありゃあせん”思うて、どうぞこうぞ夜が明けると、亀のとこへ行きて、ずーっと泣くじゃそうな。「何でおまえは、そげえ泣くじゃあや」言うたそうな。猿は、「いんや、えっと、うら、悪いことをして、陸の浜辺の松の木の枝へ生き肝を干いといたところが、夕立が来そうげで、夕立が来たら濡れるじゃろう思やぁあ、ほんにずっと、どげぇしょう思うて、ほんに悲しゅうてこたえん」言うて泣くじゃそうな。したら、「何をそげなことを悲しむことがあるかい。また、うらの背なへ乗って、そぎゃして、そぎゃな、生き肝を干いとるじゃったら、じきぃ取ってくりゃええじゃ。その生き肝がまあ、たいへんにほしいんじゃけえ」。そが言うて、亀が言うもんじゃけえ、そいから、「ほんなら、まあ、乗してぇ」言うて、そいで猿が亀へ乗って、そしてまた、海へずっともどって、、そぎゃして、そいから陸へ上がると、じき、猿はごそごそっと松の木の枝(えご)へ上がっとって、何ぼしても下りてこんもんじゃけえ、「早う下りいや。もう取ったろうな。もうずっと、もう持って下りいや」いうて亀がまあ、言うのじゃそうな。「何がずっと、そげぇな、そげぇな下りたりするじゃあや。猿の生き肝や何やおって、うらぁ生きちゃあなんや、おられせんや。あほう言うたって、猿の生き肝や何や、そげぇな取ったり干したりするわけのもんじゃあない」いうて言うしして、それから、そぎゃんことを言うじゃけえ、しかたぁない。まあ、亀はもどるし、そいから、石ゅういっぱいこと持って上がっといて、亀の甲に何のかんのはない小石を投げたもんじゃけえ、そいでまあ、亀の甲は割れて、そぎゃしてもどって、そいやして、まあ、「こぎゃこぎゃあじゃった」いうやあな、たいへんに叱られるし、クラゲは、まあ、そんで、大きい骨は抜かれるし、小骨は溶けるしするようなこって、クラゲは骨はのうなるし、そがして叱られたとや。
三枚のお札 智頭町波多
昔あるときに、高いところにお寺があって和尚さんと小僧さんが住んでいたそうな。寺の後ろは大きな山があり、そこには大きな栗の木があって、風が吹くとその実がいくらでもぽたぽたぽたぽた落ちるそうな。それで小僧さんが「何でもまあ、栗拾いに行きたい。」と言うと、和尚さんは「鬼婆がおるけえ、この裏の方へは行かれん。」と言うが、小僧さんがどうしても行きたいと頼むので、和尚さんもしかたなく、お札を三枚渡してやって「危ないおりには、これを頼むじゃぞ。」言って出したそうな。小僧が行ってみると、たくさん大きい栗が落ちているので、それをいくらでも拾って食べていると、とても器量のいい小さな婆さんが出てきて「小僧さん、小僧さん、こっちへ来てみんさい。なんぼうでも栗があるわ。」と言うので、おばあさんについて行くと、ほんとうに大きな栗がいくらでもあるので、拾って食べていたら、いつの間にか日が暮れてしまって、帰れなくなってしまった。そうしたら、おばあさんが「あそこに小さい家があるけえ、泊まって、明日の朝いぬるがええ。」と言う。小僧もしかたなくついて行くと、おばあさんは栗を作って食べさせたり、ゆでて食べさせたり、腹いっぱいになってしまった。小僧が眠たくなってきたら、おばあさんは布団を持ってきてくれる。疲れているのでぐっすり眠ってしまったが、夜中に小僧がふと目を覚ましたら、雨垂れが「小僧や 小僧や 婆さんの面(つら)ぁ見い 小僧や 小僧や トンツラ トンツラ。」と言っている。小僧はそれを聞いて、ひょいっとおばあさんを見たら、おばあさんはいつの間にか鬼婆に変わっており、頭には角が二本出ているし、口は耳まで裂けているし、さらに口からは紅のような舌を出している。「恐ろしや…やれこれ。」と思って、小僧は起き上がって帰ろうとすると、鬼婆が聞いてくる。「何すりゃあ。」「便所へ行って、小便が出したい。」「小便が出したけりゃ、そこへひれ。」「こんなとこへは、もったいのうてひれん。」「ほんなら、まあ、行け。」と言って、鬼婆は小僧の腰に綱をつけて便所に入れ、外で待っている。小僧は恐ろしくなって、和尚さんにもらったお札を一枚出して綱にくくりつけて、お札に「『まんだ出る。まんだ出る』言え。」と頼んで、窓からとんで出て一生懸命に逃げたそうな。内では「まんだ出んだか、まんだ出んだか。」と鬼婆が言えば、「まんだ出ん、まんだ出ん、まんだ出ん………。」とお札が言うが、あんまり長くて不思議に思った鬼婆が、開けてみたらお札に綱が結びつけてあり、そのお札が言っている。「こりゃまあ、いけん、ほんにほんにだまされたか。」と追いかけたところ、鬼婆は足が早く、もうほとんど追いついたかと思ったとき、小僧はもう一枚のお札を後ろへ投げて「砂山出え。」と言ったら、とても大きな砂山ができたそうな。鬼婆がその山に上がると滑って落ちる。上がるとずるっと落ちる。なかなか上がれなかったが、それでもやっと上がって向こう側へ下り、また小僧さんに追いつきかけたところ、小僧さんは最後のお札に「大きな川を出してくれ。」と頼んで後ろに投げたら、また大きな川ができて、鬼婆はその川がなかなか渡れなくて、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしているうちに、小僧がやっと寺へ帰ることができたそうな。それで「和尚さん、今もどった。和尚さん、今もどった。」と言ったけれど、和尚さんは知らん顔をしていてなかなか戸を開けてくれない。「今、鬼婆がここを通りかかるけえ、早う早う。」と言って、戸をやっとのことで開けてもらい、小僧さんは大根壷の中に隠してもらい、和尚さんはその蓋をピシャンと閉めたとき、鬼婆がやっと川を渡り終えてごとごと入ってきたそうな。「今、ここへ小僧が入ってきたふうなが、小僧はどこへおりゃあ。」「ふん、小僧は来りゃあせん」。和尚さんは、そう言いながら囲炉裏(いろり)にいっぱい餅を焼いて食べていたそうな。「おお、何ちゅううまそうな餅じゃ、うらにもそれえ一つ呼んでごせえ。餅は大好物じゃ。」「うん、そりゃあ呼んだる、呼んだる。そげな餅どもはうちゃ何ぼうでもあるけえ。それより先、おまえもこがいな鬼婆いうぐらいのもんじゃけえ、化けることはできよう。」「うらも化けるし。」「そんなら、おまえから先化けてみい。」「ほんなら先、化ける。」「高つく、高つく、高つく、高つく……。」和尚さんがそう言われていると、鬼婆は高くなって天井までつかえてしまい、もうそれ以上は高くなれなくなったので、今度は、「低つく、低つく、低つく、低つく………。」と言っていると、本当に小さくなって豆ぐらいになってしまったそうな。するとそれを見ていた和尚さんは、焼けて熱くなった餅を二つに割って、その豆ぐらいになった鬼婆を、餅の中にぴっと挟んで入れて、自分の口の中へ放り込んでがきがきがきがき噛んで、食べてしまったそうな。それからは鬼婆は出ないようになったとや。
地蔵浄土 智頭町波多
昔、あるところに、正直なおじいさんとおばあさんとが暮らしていたそうな。ある日、おじいさんが、「山へ畑打ちに行く」と言うものだから、おばあさんが、握り飯をしてやった。おじいさんは昼まで元気を出して畑を打った。それから昼飯を食べようと思って、風呂敷をほどいたところが、ころころころころとむすびが転ぶものだから、「まあ、どこまで転ぶじゃろう。まま待て、まま待て」と言って、ずっと追っかけて行くけれど、むすびはもう何を言っても、いくらでも転んで転んで、その小さい穴へ転んで行った。
おじいさんもむすびが食べたいので、「まま待て、まま待て」と言って、むすびへついて降りていたところが、広いところがあった。そしてお地蔵さんがそこにまつってあったが、その前へ、ちょんと、そのむすびが止まった。それから、そのむすびを見てみると、細(ほそ)い穴だったので泥まみれになっている。おじいさんはそれから泥をきれいに何回もふるい落としても、やっぱりついているので、泥のついたところは自分が食べて、それから中の泥のちょっともつかんところばっかり、そのお地蔵さんに供えて、「お地蔵さん。お地蔵さんも腹がへろう。あがりましてつかあせえ」と言って、お地蔵さんに出してあげた。
そしてまた泥まぶれのところを自分が食べて休んでいたら、お地蔵さんが、「おみゃえは感心なじいじゃなあ」と言って、「わしの膝へ上がれ」「もったいない。何で膝なんかに上がれるだい」「もったいないことはないけえ、上がれ」と言われるので、それから、おじいさんがお地蔵さんの膝に上がると、今度は、「肩に上がれ」と言う。「そんなもったいないことができるもんか」と言ったら、「もったいないことはない。上がれ」と言われる。それから肩に上がったところが、今度は、また、「頭に上がれ」「そりゃ、よう上がらん。それはお地蔵さん、よう上がりません」「わしの言うようにするじゃ、おまえは正直なええじいさんじゃ、上がれ。じい上がれ」と言われるものだから、それでお地蔵さんの頭に上がったら、そこで、「今なあ、こうして腹がへっとるのに、にぎり飯をくれた。そのお礼に笠ぁ一つやるけえ、これ、笠ぁかぶってじっとしとれ。こな広いところに鬼がよけえ出てくるけえ、そいで、こいつらぁが、銭いっぺえめぇて丁半(バクチのこと)をするけえ」とお地蔵さんが言うものだから、おじいさんも、「そんならまあ」と言うったそうな。「そしてなあ、銭をいぺえまいて、バクチをしょろうから、そいじゃけえ、鶏の真似をするんじゃで」と地蔵さんが言われた。
そして、「ええ加減な時期いなって、鬼が金(かね)をいっぱいまいたおりに、羽ばたきの音ををその笠でカサカサカサカサカサカサカサカサさせるじゃで」とお地蔵さんが教えてくれた。おじいさんが地蔵さんの頭の上へ上がっていると、本当に赤鬼や青鬼や黒鬼や一本角の鬼や二本角の鬼や、いっぱい来て、それから、その広いとこへ輪になって、銭をいっぱいまいて、そうしてみんなでおもしろそうに丁半をしだした。それから、おじいさんは「このころだ」と思って、羽を笠にこすってカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサ……と音をさせたら、鬼たちは、「ありゃ、何じゃろう。カサカサいうが、こら鶏、鶏じゃあないか」「こりゃ鶏じゃ」「こりゃ鶏じゃで」と言いだしたそうな。それからおじいさんが、ずっとコケッコー、コケッコー、コケッコー言っていたら、「そりゃー夜が明けた。夜が明けた。もういなにゃいけん」と言って、鬼が全部帰ってしまったそうな。お地蔵さんは、「にぎり飯をもうたほうびに、あのお金をおまえ、みんなさらえていね」と言われた。それからおじいさんは、そろりそろりと、お地蔵さんの肩に下り、膝に下りてして見ると、大判小判がいっぱいあったので、おじいさんは笠を置いといたまま、そのお金を全部もらってもどっったそうあ。そうして、おばあさんに、「まあ、こぎゃこぎゃだった。おばあさん」と話したら、おばあさんも喜んだって。そうしたら、その晩に隣の欲ばりじいさんとおばあさんが風呂に入りに来たから、「おばあさん、なんじゃ、こぎゃこぎゃで、地蔵さんからよけえ大判や小判やお金をよけえもろうたんじゃ」言って話したそうな。そうしたら次の日、隣のおばあさんが朝早くから起きて、そしてすぐにおじいさんにおむすびを作ってやったそうな。それから、そこのおじいさんが畑を打ちに行った。隣のおじいさんは、昼にもならないのに、早くから、銭こほしいというところで、むすびをその穴に転ばないものを無理にころころころ……と転ばしたそうな。そうしたら細い細い穴があったので、そこを無茶苦茶にもぐりこませて、自分もすっかり泥だらけになって下りたそうな。そうしたら、広いところがあって、そこにお地蔵さんがおられたから、そこでおじいさんは休んで、そうしていると、えらい目をしたから、おじいさんは自分も腹がへるし、むすびの皮をむいてお地蔵さんに、「お地蔵さんも腹がへったろう。お地蔵さんも食べんさぇ」。泥だらけのところをみんなお地蔵さんに供えて、そうして、中のよいところだけ、自分が食べたそうな。それから隣のお爺さんは、「お地蔵さん、お地蔵さん、膝へ上がらしてつかあさい」と言って、お地蔵さんが上がれとも言われないのに、お地蔵さんの膝へ上がり、今度は、「肩へ上がらしてつかあさい」と言って肩へ上がり、今度は、「頭へ上がらしてつかあさい」と、前のおじいさんの言った話の通りにして、それから、笠を持って上がっていると、本当に青鬼やら赤鬼やら黒鬼やら角の生えた鬼やらいっぱいことみんな出てくるものだから、「そら、出た、出た、出た」と思って、喜んでいたら、鬼たちは、いっぱいに輪になっておいて、銭をまいて丁半をしかける。おじいさんはほしくてたまらないものだから、それから、笠をカサカサカサカサカサカサカサカサっとさせたら、「何じゃ、夜が明けたじゃろうかな」「ふん、夜が明けたかなあ」と鬼たちが言い出したそうな。 おじいさんが、「コケッコー、コケッコー、コケッコー……」と言っていたら、「ああ、やっぱり夜が明けた。何ちゅう今夜は早う夜が明けたなあ」と言って、鬼がみんな逃げてしまった。おじいさんは、こりゃまあ、銭がみんなもらえるわーと思って、それから、とんで下りて、そうして、その銭をみんな集めて、持って帰ろうと思っていたら、一人、鬼が、みんなから逃げ遅れたのが、近くの自在かぎに鼻がひっかかって、どうしようにも動かれないものだから、そいから、「おーい、おーい、おーい」と言って、みんなの鬼たちを呼びもどしたそうな。他の鬼たちももどって来て、「どげえなことじゃあ」と言って見ると一人の鬼の鼻へ自在鈎がひっかかっている。逃げられないから、それをはずしてやろうとして、みんながはずそうとしていたそうな。
そうしたら、そのおじいさんが欲ばりなので、早く鬼が帰ればいいのにと思っていたけれど、つい、おかしくなって笑ってしまった。「こりゃまあ、この糞じいめが。くそー、糞じいめが、鶏の真似をしたのは、この糞じいじゃ」と言って、鬼たちはおじいさんを捕まえてぶったり、打ったり、ひっかいたり、とてもひどい目にあわしたので、おじいさんは、もう顔もどこも血だらけになり、手足もひっかかれたり、打たれたり、蹴られたり、瘤だらけ血だらけになって、ようやくそこから抜け出してもどったと。だから欲ばりはするものではないよ。
多根の藤助 智頭町波多
昔なあ、倉吉のそばに多根というところがあって、その多根に藤助いうてとっても元気で、胸ひげを長く生やして、度胸のすわった元気な男があったのだそうな。
その男が、「ちょっと倉吉へ買物に出るけえ。」と言って出た。けれども、晩に遅くなってしまって帰っていたところが、大きな狼がずっと寄って来て、その藤助の体にすりよって、大きな口を開るものだから、他の者なら恐れて逃げるけれど、度胸のすわった藤助だから、よく狼を見たら、「おおお、何を食うたらいや、何ちゅう大きな骨が喉にまでつまっておるがな。待て待て。」と言って、狼の喉に手を入れて、そうしてその骨を取ってやったら、狼がほんとうに、人間ならさもうれしそうに、頭を何回か下げて、そしてまあ、逃げてしまったって。それから、藤助がもどってみると、もう早くも日も暮れてしまっているし、そうしたら、まあ、きれいな娘さんがおって、「あのう、藤助さん、藤助さん。わたしは今日、晩は遅うなったし、行くとこはなし、今夜一晩泊めてつかあさいなあ。」と言う。「泊めてごせえ、言われたって、わしの食うもんもないようなことで、おめえの食うもんや何やありゃあせんし。」と言うしすると、「何にも食べるもんはいらんけえ、宿がのうて困っとるけえ、泊めるだけ泊めてつかあさいな。ご飯がなけにゃあご飯もしますで。」言うので、そしてその夜は泊めてやったところが、その娘は米を出して、ご飯を煮てちゃんとしたそうな。「まあ、いぬるとこはなし、ちいとうでも置いてつかあさいな。嫁さんにしてつかあさいな。」とその娘が言うものだから、「まあ、あんたみたいなもんに、よも嫁さんやなんや…、うら(自分)の食うもんさえ、やっとこせのこっちゃあに、そらなあ…。」「あんたぁに金もうけさせますけえ、わしの食うもんやなんや心配してごされんでもいい。」そう言って、毎日毎日、ほんとうに自分の食べるものも、藤助の食べるものも、ご飯を煮て食べさせるし、よく働くの何の、昼は昼でずっと働き、夜はそれこそ機(はた)の管(くだ)を巻いたり、糸をとったりして、まことによく働く。毎日、そうしてよく働くものだから、藤助の家もまことに、楽しくおもしろく過ぎて行ったところが、ある日の晩のこと。外からたくさんの声がするなあ、と思たら、「藤助さん家のねえさん、ちょっと用があるけえ、出てごらん。」言うので、出てみたところが、狼の連れがいっぱいごと来ていて、「ねえさん、そこの離れたとこへ大きな松の木のエボに六部がとまっとって、その六部がずっとおるけえ、今日はええ大きな餌へありついた思うけど、つげ狼つげ狼が次い次いするけど、もう一人じゃが。そいじゃけえ、ねえさんが行ってごされんか。そしてちょうどねえさんが一番上でつがれるけえ、六部の脚を引っ張って落えたったらそいでええけえ。」と言ったそうな。そうしたら、「よし。」と言って、その藤助の嫁さんが、「藤助さん、ちょいと出て来てすぐもどるけえな。ほんならちょっと暇つかあさいや。」と言って、ちょっと出て行ったそうな。そうしてある一定の時間がたったら、もどってきて、「藤助さん、今もどったけど、わしゃあ実は藤助さんにあのおり助けられた、喉の骨を取ってもろうた狼じゃけれど、あんまり恩になったけえ、藤助さんに金もうけさせましょう、思うて、それでこうして人間に化けて藤助さんの手伝いをしょう思うたけど、そいじゃけえ、見破られたらしかたがねえ、いなんにゃならんけえ、藤助さんに別れをせにゃあならんじゃ。」と言ったそうな。
そうしたら、「でも田植えをする今になって、おまえがいんでごしたら困るなあ。」と藤助が言ったら、「いんや、その方は心配ない。田圃をすいてきれいにして、苗配っとかれたら、そげしたらちょうど明後日(あさって)が十五日になるけえ、いい夜じゃけえ、それでわしらぁの連れがみんな来て、そして田はきれいに植えてあげるけえ。」と言う。「そりゃあ植えでもええけどなあ、いんだら困るじゃけれど、まあ、嘘じゃか本じゃか知らんけれど。」そう思って、それから藤助が田のすき取りをして、ならして、苗を配っておったところが、十五日の夜になったそうな。「まあ、あぎゃんことを言うたけど、嘘じゃろうがなあ」と言って藤助が寝ていたら、
  多根の藤助の この田の稲は 穂にはならず 水ばらみ
  多根の藤助の この田の稲は 穂にはならず 水ばらみ
と言う声がする。
「まあ、穂にはならず水ばらみて、変なケチな歌ぁうたうなぁ」と思ったけれど、そのうち夜が明けて朝になったそうな。「どぎゃあなこっちゃろう。歌までうたいよったが。」と思って出てみれば、ほんとうに大きな田がきれいに植えてしまって青々としているそうな。「まあ、ほんにあぎゃぁな獣(けだもの)でもなあ…。」と言って藤助さんは、それから水を見たり、肥もやったり、また水を見たりして、田の草を取ったりしていたら、よその稲より大きなよい稲ができた。そうしていたら、よその家の稲は全部穂を出すのに、どうしたことか藤助さんの稲はちっとも穂を出さずに、背(せい)は伸びるばかりだったそうな。そうしているうちににみんなの家の稲が熟れて、みんなが稲刈りだ言って稲を刈るししするのに、藤助の家のはその大きな稲がちょっと熟れたような黄いな赤い色になったけれど、穂が出んものだから情けないことだなあ。それでももう米もないし、そこで藤助は、「この藁なりと刈り取って、臼に入れて挽いてみようか。」と思って、それからその稲を刈って、熟れた色をしているから、細かく切って、臼に入れてごりごりごりごり挽いてみたところが、ごりごりごりごりと挽けば、いくらでもその藁がみんな米になって、ものすごくたくさんたくさんいつもの年より四倍も五倍もするほど米ができたそうな。そして藤助さんはとってもいい暮らしをしたそうな。いくらなんぼ獣でも恩返をししたのだそうな。
旅人馬 智頭町波多
昔あるときに、何の心配もない財産もあるよい家があり、この家には一人の子どもがあった。また近くの貧乏な家にも一人の子どもがあったが、この二つの家の子どもがとても仲が良くて、どこへ行っても二人はいっしょだったそうな。それから、二人がときどき話し合っていたそうな。「まあ、大きくなったら、ちょっと旅に出(じょ)うや。」「そうしよう。」家の人たちも「それもまあ、身の修行になるわ。ほんなら、おめえら出いや。」と賛成して、旅に出ることになった。旅へ出るといっても、仲良しなのでもちろん二人いっしょで出かけることになったそうな。そして、金持ちの家の子どもは小遣いもしっかり持たせられるし、難儀な家も承知して、それは少しだっただろうけれど小遣いを持って出た。二人は連れになって出たところが、ある宿屋に泊まることになった。そうして夜、二人が寝ることになった。金持ちの子どもは、何といい調子で布団に横になると、ぐっすとり寝込んでしまうし、一方、貧乏な家の子どもは、どうしても眠れないので、むっしりくっしりむっしりくっしりしていたら、夜中に女中かそこの奥さんか知ららいけれど、ぺりりぺりりぺりりぺりりといわせて畳を踏んで来たと思ったら、ひゅっとその間の襖を開けて入って来て、そして何か持って出て、それで火箸できれいにきれいにずっ−っと囲炉裏のごみをみんな取って、そして何にもないようにしたところへその持って出たごみをぱらっと稲をまくようにまいて、そして、それを灰をかけてつるっとならしたところが、もう、見る間に、そこに籾(もみ)が芽を出したと思ったら、さーっと大きくなって穂が出たそうな。そうしたら、その女の人はその穂を刈り取って、稲こきでこいで米にするわ、粉をひいて団子にするわした。朝、二人が起きてみたところ、その団子がご飯の茶碗に入れてあるものだから、金持ちの子は食べようとする。しかし、貧乏な家の子はその子の膝をむしったりたたいたりして、何とかしてこれは食べさせまいとするけれど、金持ちの子は一向に気づくことはなかった。そして、とうとう金持ちの子はその団子を食べてしまった。すると、その子はすぐ馬になってしまって、「ヒヒン、ヒヒン。」と言うばかりだそうな。そしてそこの男が、その馬に綱をつけて厩(まや)へ連れて行って入れてしまったそうな。
朝起きるとすぐに、その馬を厩から出して田圃をすかせ、そのようにしてたくさんの田圃を次から次へすかせていたそうな。貧乏な家の子どもの方は「これはどげえしようもねえ。」と思って、自分はその団子を食べなかったから、人間のままで「何とかこの家の隙をみて、仲間を助けてやろう。」と思いながら、そこの宿屋を出て先へ先へ行っていたら、一人のおじいさんがおられたそうな。そしてそのおじいさんが「どこ行きよるじゃ。」とその子に言われたそうな。 するとその子は「実はこうこうじゃ。」って話したら「そうか、それじゃあなあ、その馬がなあ元の人間にもどすよい方法を教えてやろう。これから一反畑があるけえ、その一反畑に茄子(なすび)がいっぱいこと植えてある。その中で東に向いて七つなっとる茄子を持ってもどって、その茄子を七つ食わせたら人間にもどるじゃで。」って言われたそうな。それからその子が言われたとおり、そこへ行って一反畑を見るけれども、なかなか都合よく茄子はなっていない。例えば四つや五つはなっているけれど、七つ並んでははなっていない。それからまた先へ行って、それからまた一反畑をずーっと調べてみるけれど、どうにもまたこれ六つまではなっているけれど、七つはなっていない。しかし、その子は東に向いた茄子の木をどうにかして見つけようと思って、それから、もう一つ先に行ってみようと思って、またとっととっと歩いて行っていたら、また、一反畑に茄子がなっていたので、東に向いたのだけ一本一本、調べよった。そうしたら、やっとのこと、案の定、東に向いて七つなっている茄子があったので、それを取って、そうして宿屋までもどって見たら、馬が痩せこけた痩せこけた姿になっていた。ちょうど今追ってもどられたとこだったようで、綱を離されても、「ヒンヒン。」よりしか、ほかのことは何にもよう言えないそうな。それだから、貧乏な家の子は「うん、よかった。間におうた、間におうた。」と言って、そいから、茄子を一つ食わせ、二つ食わせ、三つ食わせ、四つ食わせ…とむちゃくちゃに馬の口へ入れて食わせていったら、その馬はもう五つ食べたら頭(かぶり)を振る、また頭を振る、どーうしても頭を振って食べないので、そいから、貧乏な家の子はよく絵解きをして教えてやって、その首をなぜてやり、またなぜてやりして、やーっと六つ食わして「やれやれ。」と思って「まあもう一つじゃけえ、がんばれえ。」と言った。そして馬の喉をなでたり、首をたたいたり、頭をなでたり、顔をなぜたりいろいろとした。「もう一つがんばれ。これを七つ食わにゃあ人間にもどれんじゃで。」と言って、その友だちが一生懸命に、馬をあちこちなでてなでて、喉まで手を入れて無理に茄子を押し込んで、とうとう七つ目の茄子を喉から腹へ入れたと思ったら、ころっと馬は人間になったそうな。「まーあ、よかったで、おまえはほんに、やれ、よう食うてごした。よかった、よかった。」と言って喜んで、二人がまた出たときの準備を同じようにして、無事に家へ帰ったそうな。家の人たちが「ちいたぁおまえらぁも歳がいったじゃけえ、修行してきたか。」と言ったら「修行してきた。修行したって、まあ、こうこうこいうわけで、難儀な目に会うたけど、ほんにお父さん、この友だちがええ友だちで、こうこうしかじかじゃ、こうしてくれたじゃで。」て言うたら、お父さんは「そうかそうか、そげなことがあったじゃか。おめえに、ほんなら助けられたじゃなあ。おめえが助けてごさなんだら、ほんなら、馬で一生、立てていかにゃならんじゃっただなあ。」と言った。息子も「そうじゃが、お父さん。一生馬で立っていたら、朝から晩まで田圃に追い出されて、けつうぽんぽんしわがれて、ほんに辛い辛い目じゃったじゃで。」と言った。お父さんが「まあ、よかった、よかった。ほんにこれでよかったけえ。これがしてくれなんだらなあ、おめえは一生馬で暮らして、うちは立たんことじゃけえ、財産は半分こじゃぞ。半分こにして立てるじゃぞ。」と言ったそうな。そうして、大きな長者のような財産をまっ二つにして、その友だちに半分やり、そいから、自分の子どもにも半分やりして、それでどちらもが安楽に生活できるようになったとや。
天狗の隠れ蓑 智頭町波多
昔なあ、あったところになあ、まことに博奕打ちがなあ、博奕を打ちよったところが、そしたら、ずっとみんな取られてしもうて、ほんに褌一つになって、そいから、まあ、褌一つじゃけえ、まあ、どぎゃあしようもないしすうだけえ、あの山には天狗さんがおられて、あの山には上がられんとこだ。あそこに上がったら、天狗山の、上がったら、あの峰に投げ込まれる言うて、まあ、みんな恐れるところいなあ、あの山に上がって、そいから天狗の山の、そこにまたがって、そして、まあ、自分の商売道具じゃけえ、サイコロ一つ持って、サイコロころころっと転がしちゃあ「ああ、大阪、大阪、大阪が見える。大阪が見える。大阪が見えた。」言う。
また拾うちゃあ、ころっと転がしちゃあ「ああ、江戸じゃ。江戸じゃあ。江戸が見えた。江戸が見えた。」また、転ばしちゃあ、「大阪じゃあ。」「京都じゃあ。」言うて、ずっとごつう一人で喜んどったら、天狗山の天狗さんが出てこられて「おまえは何ちゅうええもんを持っとるじゃ、そりゃほんに見えるだか。」「ほんに見える見える。ほんに見える。」言うたら「ほんなら、まあ、わしは隠れ蓑と隠れ笠と持っとる。それと替えてくれんか。」「そりゃあ、替えてあげる。」言うて「ほんなら、これと替えよう。」言うて、替えたが最後、その丁半ここへずっと、隠れ蓑と隠れ笠と持って、ずっととんでもどって、そうしてまあ「もどったわ。」言うて、昼間働いといて、晩は隠れ蓑を着て、隠れ笠かむって、飲食店へ行って、茶屋とか飲み屋とかへ入っちゃあ、ご馳走が出とるのを、酒も飲み、ご馳走も食い、ご飯も食いとすると、みな平らげてしまう。
まあ、ほんに、この燗子もあの燗子も空になる、いうようなことで、毎日、そげしてたちよったところが、そいた、その働きい出とる間へ、お母さんが箪笥を開けて「箪笥の掃除をしよう。」と思うて見たところが、汚え破れたような笠と蓑と古い古いのが、笠と蓑と出たけえ「こりゃまあ、何ちゅう汚いものを、ほんにお父っつあんは入れとられるじゃろう。」思うて捨てて、捨てたはいいが、焚いてしもうたそうな。
そいから、博奕打ちがまあ、もどって、腹ぁ減ってもどって、また、今日も出ようと思って箪笥開いて見たところが、隠れ蓑がないもんじゃけえ、なんぼ捜いてもないし「おい、おまえ、知りゃあせんかや。」言うたら「ああ、そりゃまあ、何ちゅうもんを入れとるじゃろう思うて、何じゃわ。」「どこへ捨ててきたじゃ。」「あそこへ捨てたけど、火をつけて焼いてしもうた。」「うーん。何ちゅうことをしたじゃあや。」言うて、そこへ行ってみて、それからまあ、その灰をちょっと手に塗ってみたところが、そうすりゃ手がちょっとも見えんしする。
「こりゃまあ、ええことじゃ。」思うて、そいからまあ、手に、体中にどっこにも塗って、そして出たところが途中で、しっこがしとうなって、そしてまあ、しっこをしたところが、濡れたら灰じゃけえ落ちてしもうて、そいでそこだけ出てしもうて、それから、何も知らんじゃけえ行って、飲み屋からずっとご馳走が出とる。酒から肴からご飯から出とるのを、まあ、片っ端から、まあ、酒を飲んで行く。そうから肴を食うて行く。ずーっとして、しおったら、「そりゃ天狗が出た。天狗が出た。まあ、みな平らげる。」言うて、ずっとそこから飲みおったところが、みんな逃げてしもうて、まあ、知らんじゃけえ、まんだ何ぼうでも食うていくし、しおったら、そばの方から見おるところが、何じゃかぶら下がっとるけえ「こりゃ何じゃ、ありゃ天狗さんじゃあないぞ、ありゃ人間のものじゃぞ。こりゃ人間のもんじゃ、人間のもんじゃ。」言うて寄ってたかって「もう懲らしめなぁいけん。」言うて、大勢が寄ってたかってみりゃ、まあ、灰がはげたら人間じゃ、人間でしげんみをこえて、とうとう縛られたとや。
猫と南瓜 智頭町波多
昔あるときになあ、よい家が猫を飼っているし、それから鶏を飼っていたりしていた。 ところが、その猫が言うには「毎晩、この家の旦那さんは夜、魚を食うてご飯を食べられる。そいで、魚を食うて酒飲んで、旦那さん殺いたら、うららあにあの魚が回ってくるになあ。」と言うものだから、鶏は「うらぁ外におるもんじゃけえ、そんなことを知らんが、おめえはまあ、家ぃおるもんじゃけえ、そぎぇなことをよう知っとる。そいじゃけど旦那さんを殺すいうことはできんこっちゃなあ。」て言えば「何がやすいことじゃ。うらの尾っぽい毒ぅちょっとまぶって、とにかく猫の尾っぽにゃ毒があるけえ、それを魚いちょっとまぶったら、それを毎晩食べるじゃけえ、旦那さんが死ぬる。」「まあ、そんちゅう恐ろしいことを、ほんにどぎゃあどして旦那さんに知らしてあげたい。」と思う一念で、毎晩、「コケコーロー。」とずうっと喉を震わして雌鳥が鳴くのだそうな。そうすると、とても気持ちが悪い。「夜さり、鳥が鳴くいうことは、何ぞの知らせか、まあ、火事の知らせかなんぞの知らせじゃ思うて、気味が悪うてこたえん。長年飼うとる鶏じゃけえ、そいじゃけえ、むいて自分が食べることはようせんしするけえ、こりゃあでもしかたぁない。山へ持っていって捨てるじゃわ。」と言って、その雌鳥を一羽、山へ持っていって捨てたのだそうな。そうしておったところが、六部さんがそこを越しておられたら、その尾根から「まあ、頭に上がったじゃけえ一休み。」と言って、その尾根で休んでおられたら、よく見れば雌鳥がパタパタパタパタして出てくるので「まあ、これは家のないとこに鶏がおる」と不思議に思っていたら、ずっともう伸びあがって雄鳥が鳴くように喉を震わして…
野佐(ぬさ)の淀山さんを猫が取るーコケッコーコケッコー
野佐の淀山さんを猫が取るーコケッコーコケッコー
と雄鳥が鳴くように鳴くのだそうな。
「まあ、こりゃ何ちゅうこっちゃ、『淀山さんを猫が取る』言うて、確かに『猫が取る』言うたがよう。」と六部さんは思って、そうして気持ちをせかしながら降りて村で問ってみると「淀山さんならありますよ。そこの家が淀山さんじゃけえ。」と、その家を教えてもらったので、それからその家へ行って、話したところが「はーあ、そうかそうか。そりゃあうちから捨てた鶏じゃあ、そうかそうか、まーあ、そりゃあそりゃあ、そんなことを知らしてごしたちゅうよな鶏を捨てたいやなんや、ほんにまあ、猫も長年飼うたもんじゃし、鶏も長年飼うたもんじゃけど、鶏は何いっても夜中に鳴くと気味が悪うて、ほんに何かの知らせじゃろう思うておったんじゃ。確かにうちから連れてった鶏じゃ。」と旦那さんが言ったそうな。それから「鶏を早う連れてもどれ。」と言って、鶏を連れてもどってから「まあ、ほんにおまえが知らしてごしたじゃか。六部さんが来て、こうこう話いて聞かされた。」と言って話していたら、それを縁の下から猫がじいーっと聞いていたのだそうな。それから「そげえなざまーぁふって、この極道猫が。」と床の下へ竹竿の先を切って削って、竹を槍のようにしてつついていたら、猫の目の玉へ突き刺さってとうとう死んだそうな。「まあ、極道猫じゃぁあったけど、それでも長年飼うたもんじゃけえ、川へ投げたり山へ投げたりせっと、その畑の隅のようなとこへ、まあ、深い穴ぁ掘って埋けたろうや。」と言って深い穴を掘って埋けられたのだそうな。そうしたら、その明くる年にそこからカボチャが芽を出して、蔓ができ、何貫目もあるような大きなカボチャができて、見たこともないようなものだったから、見せ物になって、みんなが見に来たのだそうな。「それだけれども、このカボチャが、種もないのにこんなとこへ生えるいうことはおかしい。」と言って、そこを掘ってみられたら、猫の目の玉からカボチャが生えとったのだそうな。
ネズミ浄土 智頭町波多
昔、あるときになあ、よいおじいさんがおばあさんに、ソバがえ餅をしてもらって、それを縄に通して畑へ出かけていったそうな。そうして、畑を打っていると、そのうち昼が来たので「まあ、昼ま食べょう。」と思ってかいた餅を食べようとしたら、小さいネズミが来たのだそうな。おじいさんが見たら、かわらしいものだから「おめえにもやろうかなあ。」言うて、そのソバがえ餅をちょっとやると、なんとうまそうにして食べるので、そのようにして与えていると、まあ、次々によけえ、よけえネズミが来るものだから、おじいさんは「あ、おめえにもやろうか。」「あ、おめえにもやろうか。」そう言って、次々出てくるネズミにみなあげていたら、自分のはなくなってしまうほどになったそうな。そうして、おじいさんが家にもどって「今日、おばあ、ほんに、昼う食べようにもなかった。ネズミが来たけえ、ネズミにやりよったら自分は食べようがなぇーようになった。けど、いいことをしたわや。あんまりかわいげやったけえ。」言うて「そりゃあ、ま、おじいさん、よかったな。いいことをしたと思やあいいわ。」と言っていたそうな。今度、また明くる日に、山へまたソバがえ餅ぅ持って行ったところが、今度もネズミがたくさん出てきたそうな。そうして、一人のネズミが「おじいさん、昨日はありがとうござんした。」と言ったそうな。そうして、「今度はネズミの浄土へ連れて行ってあげるけえ、そいだけえ、わしの尾っぽへさばって、目ぇつぶっとりんさい。」と言ったそうな。
それから、おじいさんを目をつぶらして、ずーっとおじいさんがついていったところが、よいネズミ浄土があって、よい家があって、それから、ネズミたちが餅をつくやら、ご馳走を刻むやらいろいろとして、そうして、次々とおじいさんはご馳走になって、それから「おじいさん。いなれるおりにはこれを持っていにんされえ。」と言って、あれこれあれこれ土産に宝物やなどをくれたそうな。そいで、また「おじいさん、尾っぽへさばれ。」と言うので、おじいさんがネズミのしっぽにつかまると「目ぇつぶれ。」と言うので、また目をつぶっていると、そのうちしばらくして「やれやれ、おじいさん、もどった、もどった。」と言ったので、それからまあ、おじいさんは、その土産をたくさんもらってもどったそうな。「まあ、おばあ、おばあ、今日はネズミが恩返しをして、こがあなもんをもろうたで。」「そりゃあ、おじいさん、ごついことじゃなあ、なんちゅうええことだやら。お餅もあるし、よけーえこと、何もかにも宝もんもあるし、お金もある。ほんにこれからぁ安ちゅうに食えるで。」と、おばあさんが言っていたら、隣のおじいさんがやって来たそうな。隣のおじいさんは、羨ましくなって「何しよられるじゃ。」と言うので「いや、こげぁこげぁ、ネズミになあ、ソバ餅持って行って食わしたら、今日は恩返しにこげなことをしてごしたけえ、そいでまあ、ずっとこがあしてもらったものを広げておるとこじゃ。まあ、これで世話ぁない。ほんに何ぼうでもげぇして、二人がほんに食うて行けれるじゃ。」と言ったら、隣のおじいさんは「ふーん、そうか、そうか。ほんなら、うらもしてみよう。」と言って帰っていったそうな。
欲ばりじいさんが、それからまた、ソバがえ餅を持って畑へ行っていると、そうしたらまたネズミが出てきたので「そりゃそりゃ、われにもやるぞ、われにもやるぞ。」と言ってそのソバがえ餅をみんなやったら、そうしたら、ネズミが「おじいさん、尾っぽへさばれや。これからネズミ浄土へ連れて行ってやるけえ。」と言って、それから、ネズミ浄土へ連れて行ってくれた。それからまあ、餅をつくやらご馳走をして、大変に歓迎していたそうな。そうしたら、一人のネズミが「おじいさん、わしらはほんに、猫いうもんがごっと好かんじゃ。ニャオーいうことさえ言われなんだら、ほんにええで。そのことだけは言いさんなよ。」言ったそうな。そして「猫さえおらなんだら、ほんに百まででも二百まででも、何ぼうでも生きれるけえな。」と言っていたところが、まあ、ネズミたちがたくさんの宝物から小判から、多くの銭を出したりしてくれていたそうな。そうしたところが、欲ばりじいさんなので、それがほしくてたまらないものだから、つい、「ニャオーン。」とねこの鳴き真似をしたら「そら、猫が来た。」と言って、ネズミたちがみな逃げてしまったそうな。そうすると、まあ、真っ暗になって、ネズミも一匹もいないそうな。「まあ、ほんなら暗うはあるし、いろいろな宝物をさらばえて持っていのうーと思って一生懸命それらをかき集めて、さあ、出ようと、いくら出ようと思うたって、そこはまっ暗いし、土の中のネズミ浄土のところなので、少しも出ることができない。とうとうその欲ばりじいさんは死骸になってしまったそうな。
貧乏神 智頭町波多
ある昔あったときになあ、あるところになあ、横着な横着なお母さんがあってなあ。子どもは育てるがおしめは庭へずっと取っちゃあ、ぼーいとし、神さんの前からでもおしめを取っちゃあ、ぼーいと庭へほおっとき、まあ、ご飯を食べるときからでもおしめを替えちゃあ、庭へぼーいとほおっとき、そうしてだだでだだで、ほんに汚う汚うしてたちよる家があって。そのうちは、貧乏で貧乏でほんに難儀でこたえん。さあ、大歳が来たって横着なじゃけん、庭をひとつも掃こうとも、ほんに座敷の戸をひとつも拭こうともどげーもせんしなあ。それから、ちいと離れたとこい分限者がおってなあ、そぎゃーして下男や下女を使うて、下女や下男がやっておるしして、そうしよったら「まあ、大歳にゃのう、きれいにせにゃいけんじゃぜー。」言うて、まあ、おかみさんが言われて、きれいにし、まあ、拭いて、きれいにしたそうな。そして「きれいにしましたけどよう。」いうて言うたら「ほんならまあ、旦那さんが見てごされりゃええけど。」言うたら「さあ、ほんならまあ、出て見んしゃいなあ。」言うて。そいからまあ、旦那さんが出て見られたけど「ほんに、みなきれいにしてくれたなあ。これでほんに大歳のような言うが、ほんに大歳のようなええなあ。」言うて、旦那さんもおかみさんも喜んで見てごされたなあ。庭の隅になあ、ちょっと掃きだめがあってなあ、そぉやぁて「どっこもきれいなけど、そこへちょっと掃きだめがあるがなあ。」いうて言うたら「ほんです。ほんです。」言うて、女中がじきぃ箒と篭を持ってきて、それを取ってしもうてなあ、そしてきれいにしたししたそうな。そうしたらなあ、貧乏神が言うことにはなあ「もうこのうちにはなあ、どこへおろう、どこへおろう思うて大歳にゃ、まっぽう回りよるけど、このうちにはほんにうらのおるところはねえ、まあ、それでもええうちでもここにゃおれる思うて、そうして庭の掃きだめへ、そけぇ立っとったけれど、その掃きだめを取ってしもうたらおり場はねえ。」言うて出てしまうし、その横着な横着なおかあの家にゃあ、もうずっと何のかんのはねえ、貧乏神がみんな行って貧乏するじゃちゅっだけえ、とにかく大歳の晩にはなあ、もうきれいにしまあいこと、日々が晩のしまいことには、座敷と庭ぁ掃いて掃きだめぇいうことをすんなよ。「そいじゃけえ、掃きだめを取るじゃで。そいじゃけえ、大歳の一年中の晩のしめぇことと同しこっちゃけえ、掃きだめを取るじゃで」言うて。そしてなあ、うちでも言いよりました。「そんな汚ねぇ、そのうちへみな貧乏神が行って、その長者にゃあ、おるところがなかったとや」言うて。今でも、その大歳の晩にゃ、きちーんとなあ掃いたり拭いたりして、そして掃きだめぇいうことは、ちょっともおかんようにしてなあ、子どもらあにも教えますじゃで。それで貧乏神が、おるとこがなかっとや。
貧乏神と福の神 智頭町波多
昔あるところに、とても貧乏な貧乏な家があった。そして家だけはあるけれも、その家もまともな家じゃあない、その古ぼけた家の柱でも薪でも切り取って、ごりごり焚きたいような家だった。さて、大歳の晩に家の取れる柱は取って囲炉裏にくべて当たっていたところが、奥の方からばりばりばりばりがちゃがちゃがちゃがちゃいわして、出てくる者がある。見るとおじいさんで、髪も口髭も白髪だらけで、ぼろなぼろな着物を着て、そしてその囲炉裏へべったりとそのおじいさんが座るのだ。そこの亭主が怒って「だれじゃ、人の家の奥の間からごとごと出てくるもんは。」と言ったら「うらはな、貧乏神じゃ。」と答える。「貧乏神じゃと。うらの家はこれだけ貧乏して困りよるのに、何ちゅうもんが出てくるじゃ。」と言ったら「うら、この家に入りこんでから8年たつ。ずーっと他へ行こうと焦って、こんにばっかりおるじゃ。」と言った。「何でそげ、うちばっかりおらにゃならんじゃ。これだけ難儀ぃしよるようなのに…貧乏神やなんや、まんだおってどぎゃあするじゃあ。」と亭主は言って、怒りかかった。そして、そこで焚いている燃えさしを持って、その貧乏神にぶつけたら「まあ、そげぇ怒んな。待て待て。話いて聞かせたるけえ。こん家のおっかあはな、うらの好いたことをするけえ、うらはこの家が好きじゃ。ここにいろげんじゃ(※居座る、の意味)」と言う。「どげぇなことじゃ」と聞くと「ここいクドがあろうがな。そのクドの前へカンスを入れとる茶かすぅ、どうと移すし、そいからままぁ(※飯)食うたら、その飯粒ぅ、みんなさらえて、このクドの前へどうと移す。それぇ、まことにうらは好いとって、8年間たつけど、この家はいろげんじゃ」と言う。「とんでもない。そげな貧乏神がいろげんようなことじゃ、どげんなろうに。」「どげんさえなりたけりゃ、このおっかあをぼい出せ。」と言う。「そげぇなことを言うたって。」「そげぇなおっ母がこの家におったら、もう一生頭ぁ上がらん、一生うらがのさばりついとるぞ。」と貧乏神が言うものだから「そいからなあ、今度ぁこのお母ぁを追い出いたら言うて聞かせたろうか。今度はなあ、大歳の晩と2日の晩に殿さんの行列があるけぇ、そのおりに駕篭が通るけえ、その駕篭の中が殿さんじゃけえ、それぇ天秤棒を持って、その駕篭をめがけてぶちかかって、駕篭をずっと碎くじゃ。そがしたらなあ、殿さんがずっと飛んで出られるけえ」と言ったら、亭主も観念して、おっかあに向かって言った。「8年もいっしょにおったやけど、こげぇ食うや食わずで難儀ぃしちょったらかなわん。そいじゃけえ、おまえも別れりゃあならん。どこぞへ出てごせぇ。」「そがあことを言うたって。」「そがんことを言うたって、うらはこれ以上、難儀はようせんし、貧乏神がもうこのおっかあぼい出さなんだら、もう一生頭ぁ上がらん。」いうて言うのだそうな。
そこで、仕方がないので、おっかあはしぶしぶ出て行くし、そしたら案の定、正月の2日に殿さんのお国替えで、そしてまあ、行列が通りかかった。「下へ、下へ、下へ、下へ…。」と言って通るもんだから、それから、亭主はこのときこそと思って、殿さんだと思って、さっと早くとんで出て、「えい。」とばかりに天秤棒をたたき回ったら、なんと間違えて家来の方をたたき回っしたのだって。「こりゃあ、やり損のうた。こりゃあ、やり損のうた。」言うと、貧乏神は「そりゃあ、やり損のうたらいけんじゃ。待て待て、今度ぁな、一週間したら殿さんはここをもどってこられるけえ、今度ぁ目落としをせ、殿さんをめがけにゃいけんで。」と言った。それから、また一週間たったときに「殿さんが通られるじゃけえ。」と言って教えてやったら、今度は、本当に殿さんの駕篭をめがけて天秤棒でたたき回ったところ、たくさんの大判や小判がいっぱいジャゴジャゴっとその駕篭から飛んで出たそうな。亭主はそれをかき集めて拾ったら「まあ、これで家も建てられようが。これでええじゃ。」と貧乏神が言った。そして「うらはこの家にはおれん。こいだけ金ができたら、うらはおれん。」言うて貧乏神が出たとや。そして福の神が家に舞い込んだということで、亭主は新しくよい奥さんをもらって、一生豊かに楽しゅうに暮らいたとや。
分別佐平 智頭町波多
昔あるとき、「分別佐平」といって、まことに分別ばっかり出していて、仕事もしない男がいた。それでお母さんは「正月が来るのに、ほんに餅なり酒なり何が一つも買えりゃあせん。こう休んどっちゃあ、こりゃあいけんじゃあ。」と言うけれども、佐平は根っから揺るごうとしなかったけれども、それでも思い直して「まあ、ほんなら今日はええ天気じゃけえ、ちょいと山いなと行ってみょうか。何かそいでも仕事してみょうか。」と言って出ていったそうな。そうしたところが、そのお母さんが「ちょいとわしの方が儲けよう思うて。」言うて、隣に大きな家の長者があって、その隠居さんが、毎日、左平さんのお母さんとこい遊びに来る。「今日はどんなえ、左平さん。おられるかえ。」と言って。「いつもおるじゃけれど、今日一昨日ちょいと出る。山へ行くじゃかどこへ行くじゃい『出る』言うて出とるけどよう。」と言ったそうな。「そうか、そうか。」「まあ、隠居さん、上がって当たりんさいな。」と言うと「そうか、そんならまあ、何仕事もありゃせんし、ほんならまあ、退屈覚ましい上がらしてもらおうかい。」と言って上がるししたそうな。それでそのお母さんが屏風を立てて、そうして「まあ、隠居さん、こっちい転びんさいなあ。」と言って、その隠居さんをちょっと抱き転ばして、隠居さんと寝ていたら、その左平さんが帰ってきて、障子をちょっと開けて見るところが、わがお母さんがその隠居さんを抱えて寝ているものだから、大変に腹を立てて、そこへあった割木を隠居さんの頭ぁめがけて投げたら、当たりどこが悪くて隠居さんがころり死んでしまわれたそうな。そうするとお母さんが「何ちゅうざまあするじゃあ。ちょっとも金儲けもせず、仕事もせずするけえ、ほんに、今日、わしが儲けたろう思うて、何しおったら、ほんに人の考えも知らずと、何ちゅうざまあするじゃあ。」とお母さんが怒ったそうな。そうしたら、その左平さんが「まあ、待て待て、そがんことを言うても死んだ者はしかたがないだけえ、うらもちょいと分別がある。」と言って。「その分別言ったて、分別ばっかりしとったって、働かなかっと金が転んでくりゃあせんわ。正月は今来るのに。」とお母さんも言うししておったところが、その傍らに空き家があって、そこで若衆が毎晩丁半をしているそうな。
今日も今日もと丁半をするものだから、その隠居さんは、あんまり用がないものだから、そこへ行って「何と若衆、ほんにこげなことをすりゃ、うらぁほんに警察に言うたるが。こげなことは悪いことじゃ。」「また、隠居さんが来たわ、隠居さんが来るとこじゃないに。」「いんや、いんや、悪いことをすりゃあそげなことはええことじゃないけえ、やめるじゃ。」と言う。そうしたら、若衆が「まあ、おめぇみたいになあ、隠居さん、ちょいとタバコ銭でもあげるけえ、まあ、ちょっとでも大目に見てなあ。」と言って若衆があげたりしていたら、そしたら、また今夜も行くがなあと思って、その分別左平がそのおじいさんを負って、そうしてその丁半をしているところの戸口へ行って、そしてあれこれ思案を出して、その隠居さんを立たしておって、自分が鼻をつまんで、隠居さんに似たような声を出して、「まあ、毎夜さ毎夜さ、こげなことはええことでねい、こげえな悪いことをすりゃあ、警察へ言うで。」「まあ、またほんに隠居さん、ほんに。もう来んさんないうて言うとるじゃがな、何でこっとおれるじゃいや。」若衆は、佐平が鼻をつまんで言うものだから、本当に隠居さんだと思って、「今日は、隠居さんじゃって、庄屋の旦那じゃろうが、まったくこらえりゃせん。」と言って、ある気の短い男が、何か持って出て隠居さんをたたいたら、もともと死んでいるものだから、ころんと転んでしまった。そうしたところが「ほんに。これは困ったもんじゃなあ、どげえしようなあ。」と言って相談していたら、だれかが、「そいでも分別左平に行って、あれを頼まにゃどげしようもない。」と言ったところが「ふん、そうか。ほんならまあ、そうするか…」と頼みにやって来たそうな。佐兵は寝ていたところが「左平さん、おられるかえ。左平さん、おられるかえ。」と言うので「寝とる、寝とる、ここへ寝とるわいや。」と言って左平さんが、声を出しておいて「何じゃいや、遅うなってから。」と言えば「いんや、こうこうで庄屋の隠居が毎晩、丁半をしようりゃあ、来て言うけえ、ほんに今夜こそ思うて、もう棒持ってたたいたら、たたきどころが悪うて、ころんと死んで、そいでまあへえ、大歳小歳になるようになってから、ほんにどぎゃぇするじゃろうと思うて、困っとるじゃ。」と言う。「何ちゅう悪いことをしたじゃいや、そぎゃいな悪いことをしたじゃかいや。」「何ぞええ分別を出いてみい。」と言う。佐平は「ふーん、よしよし、なら、分別を出すじゃ。」と言い「まあ、負わしてごしぇえ。」と言って、それを負うて、そうして、その隠居さんの家へ行って、そうして「ばあさ、ばあさ、開けてごせえや、今もどった。」と言えば、「何が今もどったって、どこへ行こうに。また分別左平のおかあのとこへ行っとって。こげえなことで、今夜こそはもどしゃあせん。」と言って「もどいてごさにゃ、ずっとここにゃあ池へ飛び込んで死んでしまうぞ。」と言う。「まあ。そぎぇなことを言うたって、死ぬなとこけるなと、どぎぇなとせえ、毎夜さ毎夜さ、何で分別左平のかかあのとこへ何でも遊びに行くじゃが。」と言って、おばあさんが怒っていたら、そしたら、その隠居さんを前の池の中へつっこんませたそうな。
そうしたらジャボンという音がした。「やれこりゃ、本当にじいさんがずっと飛び込んだなあ。」と思って、おばあさんが起きて見れば、本当に池の中へ飛び込んでいるものだから、それから、みんなを起こして、隠居さんを上へ上げて「まあ、どげえしょうなあ、まあ、でも分別左平さんにまあ相談せにゃあ…」「正月が今来るじゃけえ、分別を起こいて考えてもらわにゃあいけんじゃけえ。」と言って、またそのおばあさんが佐平のところへ相談に来るので「よしよし、そりゃあ悪いことじゃったなあ。」と佐平はもったいをつけて、介抱したふりをしていたが、泣いてみせて「おお、こりゃあいけん。こりゃあまあ、ほんによう死んで冷たいがよう。」と言う。「まあ、湯ぅわかしんさい。風呂をしんさい。」と言って、それから、風呂を沸かさせて、その死んだ隠居をそれから湯に入らせて、それから上げて寝させて「まだ温いじゃけえ、早うお医者に言うじゃ。」お医者に言って、ぬくぬくと布団を着せておったら、医者が来て診たそうな。それから「ありゃ、脈もねえし、こりゃあもうだめじゃが。そいけど、まあ温いこたあ温いけえなあ、でもしかたがない。ひどう温いことぁ温いけど、でも息が切れとるけえ、もうどうしようもないがよう。」と言ったそうな。そうして佐平はおばあさんの方からも、うんとお金をもらうし、そいから若衆の方からもたくさんお金をもらうしして、そしていい正月をしたとや。それでその分別の分いう字は、そこから出来た字じゃとや。
蛇婿入り 1  智頭町波多
昔、猟師が山へ行きましたら、どういうわけかその日は猟がなくて、何一つも獲物が捕れません。「何かないかなぁ。」と考えていたら、そこにいい男がいました。実はそれは蛇が男に化けていたのです。猟師はそういうこととは知らず、その男に尋ねました。「今日は猟がない日じゃが、おまえはのう、鳥か兎かおるところを知らぁせんかしらん。」「おるということを教えてあげる代わり、おまえの家の下手(しもて)のものを、わしにくれるか。」と男は答えました。猟師が考えても、家の下手なら榎の木しかないので、それぐらいならやってもよいと思って、「そりゃやるけえ、教えてえな。」と言いました。男は「ほんなら教えてあげる。この谷の右の奥に行ったところには、鳥も兎もなんぼうでもおるけえ。」と言うので、猟師が行ってみますと、なるほど本当に鳥も兎もいたので、とてもよい猟をして帰りました。そして「今日はほんに不思議に猟が一つものうて、もどりよったら、若いもんがおったけん、それぇ問うたところが、ここをずっと奥に入った右の谷に兎も鳥もおるけえ、言うたので行ったらええ猟ができたので、そがあしてもどったで。」「そうか、そりゃまあよかったけど…」「それだが家の下手のものをやる約束をしたが、榎の木をやらにゃいけん。」と言うとお母さんが「今日はあんまりよう陽が当たるもんじゃけえ、うちの娘が下手の方へ日向ぼっこに行っとって、機の糸をよったじゃが。」と答えました。「そうかそうか、それじゃあほんに、あのことが娘でなきゃいいがなあ…」と言っていたところ、二、三日してからりっぱな侍がやってきて「約束どおり下手のもんがほしい。」と言いました。蛇がりっぱな男に化けてきたのです。「家の下手のものと言やあ、榎の木のことじゃろう。」「いや、違う。おまえの娘のことじゃ。わしの嫁にしようと思うんじゃ。」「うちの娘のこととは知らず約束したのじゃけえ、こらえてくれえ。」と猟師がいくら頼んでも侍は聞きません。しかたなく娘に「嫁に行ってくれ。」と言いますと、悲しんでいた娘も「そんなら行くけえ。」と承知しました。「いついつかには、迎えに来るけえ。」と侍は帰って行きました。猟師は娘に言いました。「ほんなら、おまえ、何なりと好いたものを買うたるけえ、行ってごせえ。」「桐の枕、千と、それから針を千本を櫃(ひつ)に入れてくれえ。」と娘が言いますので、猟師は娘の言うとおりにしてやりました。その日が来るとまた侍が迎えに来ました。「ほんなら、まあ、おまえの住み家はどこじゃあ。」と聞きましたら、侍は「この谷の奥のずっと向こうの大きな堤のあるそこじゃ。」と言います。それから男が娘を連れてそこまで行きました。娘は「そりゃ嫁の荷物じゃで。これを沈めにゃ嫁入りはできんで。」と言って、それから櫃の中から桐の枕を千出して、ポーンと堤の中へ投げ入れました。そうすると、侍が急に蛇の姿に変わって堤に飛び込みました。そして、その桐の枕を一生懸命になって沈めようとしますけれど、一つ沈めれば一つ浮き、一つ沈めれば一つ浮きして、どうしてもみんなよく沈められなくて、しまいには自分も疲れて疲れて疲れきってしまい、堤の上に上がって、ぐっすり昼寝をしてしまいました。それを見た娘は、それから針を出し、蛇の鱗を一つ一つ起こして、その下へみんな針を刺して蛇を退治して帰ったということです。
蛇婿入り 2  智頭町波多
昔あるときにねえ、この八代地区に属しますけれど、その中に金屋というところがありましてねえ、その金屋の奥に金屋の洗足と今でも言いますけど、そこに蛇が住んでおったふうです。そうしたところ、金屋にいい娘さんがあって、それに青年が毎夜、遊びに行くししていたら、寝しなになったらみんな帰るに、いい侍格好の男は、一人残って、毎夜、泊まって帰るじゃそうな。そうするというとお母さんが心配して聞きました。「ありゃあ、どんな若衆じゃ。ええ若衆じゃけど、どこの若衆じゃ。」「さあ、どこじゃか、何にも言いさらんで。」「そげいな人は…、名前も言わず、ところも言わずするような者を泊めちゃあいけんで。」って言うて。「さあ、そうじゃ。」と言って娘さんはおとなしておりました。けれど、お母さんがしゃんとした人だって「まあ、いっそこの男の正体を何とかして見届けてやろう。」と思って、男が帰るおりに袴の裾に針で、その麻ひげを通して、針でくしゃくしゃっと分からないように、いっぱいに縫いつけておいたそうな。そうしたところが、その男は、次々と道を通って金屋の奥にずうっと苧糸を引っ張ってもどったそうな。ところが、裾に針を刺されたのが、それは正体が蛇だったから、着物も袴も着てはいないのだから、実際はその尾っぽに針を刺されているのだから、それなので、痛いのだから「痛い、痛い。」言って、寝てしまったそうな。それからまあ、娘さんのお母さんは、朝早く起きてひょいっと出て見たところが、雨垂れ石を見てみると、血がぽとりぽとりそれについているので、「こりゃあおかしい。」と思って、そのぼとりぼとり落ちている血痕をずっと捜して山へ上がって行ったら、金屋の奥の洗足まで続いていて、そこに家があって、見ると、ずっと大きな蛇が寝ている。そうして、「痛い、痛い、痛い、痛い。」と言っているそうな。「人間ほど恐ろしい者ぁない言うに、おめえが人間や何や、近よるけえ、そいでこの目に会うじゃ。何ちゅうことをしたじゃ。」と言う蛇のお母さんの声も聞こえるそうな。「何じゃ、痛いしするけど、お母さん、心配せんでもいいじゃ。わしが子どもを人間の腹に残いとるけえ。」と言う。蛇のお母さんは「そんなことを言うたって、どうなろうに。人間は恐ろしいりこうなもんじゃけえ、五月の節句にあの菖蒲いうもんが…、それで屋根をふくがよう、それから蓬を摘んで、その蓬で屋根をふくがよう、蓬と菖蒲とで屋根をふいたら、それより内にゃあ入れんじゃあ。そいだけえ、人間は恐ろしいもんじゃ。」後をこっそりつけて来て、それを聞いた娘のお母さんは「これはお母さんがいいことを聞いたがよう。」と言って、それからもどって、娘にそのように言いいました。そうすると、娘も「さあ、お母さん、ほんに悪いことした。毎夜さ寝るに、人間の肌でない、ほんに冷たい冷たい肌じゃった。」と言った。「何ちゅうことをしたんじゃいや。」とお母さんは言って、それから、大きな釜に煮え湯を沸かしているうちに、娘のお産が始まったそうな。そして出るものをみんな煮え湯をかけて、みな殺してしまったそうな。煮え湯の残りがなくなったけれど、一つだけ蛇の子が残ってしまったそうな。みんなは「煮え湯がすんだし、こなはきれいなもんだわ。こげな小さいもんを殺さんでも…、どこぞで死ぬるわ。」と言って放っておいたのが、蛇が切れなかったもとだとや。
竜宮のはなたれ小僧さん 智頭町波多
昔あるときになあ、おじいさんとおばあさんと貧しくて難儀して暮らしよったそうな。そうしていたけれど、まあ、何して食べようもなくて、お花を取ってきて、それを売りに出ていたけれども、お花がいくつになっても売れないときには、智頭の慈善橋みたいなところから、川の中へ向かって、「竜宮の乙姫様に進(へん)じましょう。」と言って投げ入れていたのだそうな。
そのうちに、本節季(大晦日)になるし、おじいさんは、「今日は、お花採ってきたりして、おばあ、またお花を売りい出てくるわいや。」と言って出たところが、ちっとも売れないので、それからいつものように、「お花ぁ、竜宮の乙姫様に進(へん)ぜましょう。」と言って川に投げ入れたそうな。そしたら花はずっと流れていったかと思っていたら、渦巻の中へ巻き込まれたように見えて、そのまま川の底へ沈んでしまったそうな。
家へ帰ったおじいさんはおばあさんに、「ずっとまあ、花は売れりゃあせず、まあ、乙姫様に投げちょいてもどったわや。あげちょいてもどった。」と言ったそうな。それから、その晩に、なんとやせこけた情けなげな娘が訪ねてきて、「今日はおじいさん、竜宮城にはお花がのうて門松がのうて困っておったとこへ、ええお花もろうて、ほんにありがとうございました。」言い、それから、「おじいさんを竜宮にちょっと連れのうて来い、いうことで迎えにきたけえ。」と言うものだから、「そんならまあ、何じゃけえな。ついて行こうかな。」とおじいさんは言って、それから、その悲しそうな娘について行って海へ出たら、大きな亀がおって、そがして、「おじいさん、うらが(自分の)背なへ乗れ」と言う。それでおじいさんが、その亀の背なに乗ると、今度は亀が、「目をつぶっとりんさえ。つい、そこだけえ」と言うので、おじいさんが目をつぶっていたら、すぐ竜宮へ着いたそうな。そして、竜宮に行ってみれば、あれこれご馳走してくれる。おじいさんはいろいろなあもてなされたそうな。そうしたらその娘が言うことにゃ、「おじいさん、乙姫さんが『何かやる。』と言われても、『何だりいらんけに、はなたれ小僧がほしい。』て言んさいや。」と言うものだから、そこで、「何を土産にしような。」と乙姫様が言われたら、おじいさんは、「いんや、何もいらんけど、はなたれ小僧がほしい。」と言ったそうな。乙姫様は、「そんならやる。」と言って、本当にはなたれ小僧さんをくださったそうな。それは鼻を出していて、汚い汚い小さい小僧さんだそうな。それから、おじいさんははなたれ小僧さんを連れて帰ったそうな。このはなたれ小僧さんには米がなくなれば、「はなたれ小僧さん、米がほしい。」と頼めば、米をいくらでも出してくれるそうな。また、「酒が何ぼう、酒何ぼう。」と言えば酒も出してくれる。肴も小僧さんに頼めば、何ぼでも聞いてくれる。そして、「お金がほしい。」と言えば、お金もざらざら出してくれるのだそうな。そうやっていたところが、実際、次々暮し向きがによくなって、おじいさんとおばあさんの家は、長者のような身上になったしする。それで小屋のような家ではいけないのから、それからはなたれ小僧さんに、「りっぱな家がほしい。」と言ったら、りっぱな家ができて、おじいさんとおばあさんは下男や下女も使うほど分限者になったそうな。で、そうして、二人は暮らしていったそうな。それで暮らしておればよかったものの、二人はいくらでもいくらでも欲ばりだったし、またどこへ行くにも、そのはなたれ小僧さんがずっとつき回っているものだから、とてもうるさくなってしまったそうな。そしたら、あるときおばあさんが、はなたれ小僧さんに、、「長者みたような家の旦那が、おまえみたいな者ぁ、いつも連れ回らほんに汚のうてこたえん。『鼻ぁ取れ。』言うたって取りゃあせん、『面(つら)ぁ拭けぇ。』言うたって、拭きゃあせんし、ほんにどがあにもいやなことじゃ。はや、連れ回れんけん。」と言ったそうな。そして、「もう、どこへなと行ってしまえ。」と言ったら、「ほんなら、どこへなと行く。」と言って、そのはなたれ小僧さんが出たのだそうな。そしたらまあ、ずんずんずんずんずんずん暮らしが、難儀になっていった。それから、その家も元の小屋になってしまったのだそうな。
蛙の恩返し 智頭町宇波
娘が三人おる家があった。そこのお父さんが、毎朝、神さんに参っていたそうな。そうしたら、大きな蛇がおって大きな蛙をくわえて食べようとしていた。それでねえ、かわいそうでならないから「おいおい、その蛙、離いてごせえや、家にゃ、娘が三人あるけんなあ、おまえにやるから。」とお父さんがいったって。そうしたら、蛇は蛙をぽいーっと離してねえ、蛇が逃げてしまったんだ。そうすると蛙も共に逃げるし、それから、お父さんが家に帰ったところが、そのお父さんは後悔してしまってねえ、眠れないんだ。朝になって、いくら起きようと思っても起きられないし、そのうち、その家の姉さんがお父さんを起こしに行ったら「こうこうのことがあったけえ、おまえが嫁になってそこへ行ってごすりゃあ、ありがたいけどどがいじゃろう。」というと、姉娘はびっくりして「そがいなことはようしません。」といって逃げてしまうし、そのうち中の娘がまたお父さんのところへ行った。
そして「お父さん、起きなさい。」という。「起きるけど、おらがいうことを聞いてごせえや。」「お父さんのいうことだったら、どんなことでも聞きますけえ」と中の娘はいう。「こうこうでなあ、あの蛙を、蛇が飲みよってなあ、『離いてごせ。娘やるけえ』いうたところが、離いてごしたけえなあ、その送りになんとかせなならんけえ、おまえ、蛇のところへ行ってごせんか。」お父さんが頼むと、その娘もやっぱり「そんなことはようしません。」といって逃げてしまった。それから今度は三人目の娘が行くとねえ、お父さんがまた頼んだそうな。「おまえなあ、すまんけど、こうこういうことがあったけえなあ、蛇のところへ行ってごせ。なんぼうでもなあ、すまん思うで。」と言ったら、末の娘は「だったら、お父さんわしが行きますけえ、今日はなあ、針千本買うてなあ、ほおて、むすびをよけい作っちゃあさい。」といった。そこでお父さんに箱にいっぱいむすびを作ってもらって、そのむすびの中に一本ずつ針を入れて、そうして娘が大きな淵へ行ったそうな。そうすると向こうにひゅーっと波が立ってねえ、その大きい波と一緒に蛇がこちらへぷーっと寄って来た。そこで末の娘はこっちから向こうの蛇にぷーいとそのむすびを投げてやった。そうして娘は次々次々むすびをみな投げてしまった。それを蛇はみんな食っていったそうな。そうしたら、突然蛇はぱあーとひっくり返って、死んでしまった。それはそれは大きな蛇だったそうな。ところが、その娘が「はや死んだが。」と思って「やれやれ、けどまあ帰るいうても帰れんし、真っ暗いけん、どこへ行っていいか分からんし、山の奥じゃけん、もうどがぁしょう。しょうない。」こう思案していたら、向こうに灯が見えたので、行ってみたら小さい家の灯だった。娘はそこへ頼って行ったそうな。「泊めてつかあさい。」「さあさあ、泊まりんさい。」家の人にそういわれたので、娘はそこへ泊めてもらって、朝、夜が明けてからねえ、起きてみたらなあ、何にもない野っ原だった。そしたら蛙がひょっこひょっこ跳んで逃げてしまったそうな。まあ、そういう落とし話だねえ。
嘘つき紺平 智頭町宇波
昔あるときになあ、大きな長者があって、下女やら下男やらたくさん使っていたところが、その中に「嘘つき紺平」という、よく嘘ばかりつく男が一人おってねえ、そして何一つ言っても、嘘ばかり言う。そうしたところが、ある日のこと。ずっと雪が降っているとき、紺平が「やあやあ。」言ってもどって、「この下に猪が寝とるけえ、旦那さん、撃ちい行こう。ついこの下じゃけえ。」と言うと、「また、嘘をつくけえ、そりゃあ嘘じゃろうなあ。」と(旦那が)言えば、「何が嘘じゃあ、本当に寝とるけえ、行こう。」言う。それから旦那さんがまた、猟が好きでならないのと、猪だといったら、特に好きだったので、それから鉄砲を紺平が担いだりして、二人が行って見た。「どこにおるじゃいやいや。」「ほんに、今おったけえ、とんでもどったじゃけど、逃げ足の早いもんじゃ。へえ、逃げとるわ。」旦那さんは、「ほんにしかたがない。何じゃ、どがしょうもない。ほんにまた、あんなの嘘にだまされた。しかたがないけえ、わしゃあ用事があるけえ、町の方にちょっと行くけえなあ、おまえ先いいんどれえ。」と言ったのっで、紺平はそいから家へもどって、そうして、「旦那さんは、ほんに気の毒なもんじゃった。猪の大きなのがおって、旦那さんをかんで、旦那さんは殺されたけえ、ほんに気の毒で気の毒でこたえんじゃ。」言って泣いてみたり、いろいろするものだから、「ほんに、ほんなら早う行こう。」ということになった。それから、女中や下男もみんなは、ずっと捜しに行って家を空っぽにして出ていたところが、旦那さんは、「ちょっと町に用があったけえ、あっちい回ってもどったじゃ。」と言ってもどったそうな。そしてみんなから話を聞くと、腹を立てたそうな。
「ほんにまたあの紺平が嘘をついたか。これまでの嘘をずっといちいちこらえとったけど、今日ばっかりははこらえん。それでおまえたち、紺平を俵に入れてがんがら巻きにして、男二人にになわして海へ投げてこい。」と旦那さんが言われたので、紺平を捕まえてそうして、そいから二人が担って歩いて行っていたけれど、疲れたので、「えらいな。ちょっと休もうか」と一人が言ったら、俵の中から(紺平が)くしりくしり泣くものだから、「何を泣きおるじゃ。嘘ばっかりついて。もうこんだあどげしょうもないぞ。」と言うと、「いんや、嘘ばっかりついて、みなあだましてきたけえ、死ぬるわたしゃあ、ちょっとも惜しいことはないけど、小さいおりからずっと金を溜めたんが、あの木小屋の木の下に埋(い)けとるじゃが、そりょうわしが死んだらだぁれも知らんじゃがと思うて、あれだけ掘ってなあ、あるだけだれにやっても、あれがほんにだれにも使われん金じゃが思やあ、それが悲しいじゃ。」と言う。「嘘じゃろうがな。」とみんなが言った。「何で嘘言わいじゃ。本当じゃ」。ごんごかごんごか本気で泣くものだから、紺平を担って行く二人が、欲が出てきて、「本当に本当なら、行って掘ってくるけえ。」と言う。
紺平は、「ああ、掘ってきて、おまえらが使うてごしたらうれしいじゃ。」と言った。「そいじゃ、どこに紺平を置いておこうか。」「そこに置いとかにゃあいけんじゃ。」と言って、そこの薬師堂に紺平を置いておき、そうして、二人が帰って、木を取り除いて、いくら掘ったって、そんな金は出ないそうな。そのころ、魚屋さんが魚をえっさかえっさか担って薬師堂の前まで来たそうな。紺平が俵の隙間から見れば魚屋さんが真っ赤な目をしている。魚屋さんはお薬師さんなので手を合わして、拝んでいたら、俵の中から、「何と魚屋さん、おめえの目はひどう赤いが、この俵の中へ入って『薬師如来目の願、薬師如来目の願』言いよりゃ治るじゃ、この俵ぁほどいてごしたら、まあ、わしの目を見てごしぇ。」と言う。そうすると、魚屋さんが、「そうかえ。」と俵をほどいて、見ると、紺平がきれいな目をしているものだから聞いてみたそうな。「『俵薬師目の願、俵薬師目の願』言いよったら、きれいに治ったじゃ。」「ふーん、そうかえ。ほんにあんたの目はきれいな目じゃ。そんなきれいな目になるじゃったら、代わってもらおうか」と言うので俵をほどいて、魚屋さんをその俵に入れて、そうして同じようにがんがら巻きにして、そして紺平は魚屋さんの荷物を担いで、どこかとんで逃げてしまったそうな。まもなく担っていた最初の二人の男がもどってきたそうな。「ほんにこの嘘つき紺平が」と言って怒ってみたって、俵の中からずっと「俵薬師目の願、俵薬師目の願」という声が聞こえてくる。「何が『俵薬師目の願』もあるじゃあ。ほんに、今度は聞きゃあせんけえ。」と怒って、「俵薬師目の願、俵薬師目の願」言うものを海へ持って行って、「一番深いところへ投げ込んだるけえ。」と海の一番深いとこへ投げ込んだそうな。そうして、「あれほど嘘をついたけれど、もう紺平ももどりゃあせんけえ。」と言いながらその男たちはもどって来たそうな。何年もたってから、ひょっこひょっこ向こうから来よるもんがあるから、だれかが、「だれじゃいや。」言ったら、「ありゃ紺平じゃぁぜ。」と言う。「なんで紺平がもどって来るじゃあ。一番深いとこへ投げ込んだけえ、もう本当に死んどるけえ。」と言うけれども、「そいでも、ありゃあ紺平じゃあや。」と言うそうな。そうしたところが、本当に紺平がもどってきて、「みんなにほんに嘘をついたりしよったけど、竜宮にずっと行ったところが、ほんにそりゃあ、魚ないともう何と、乙姫さんと、そりゃありっぱな人じゃし、何と言うたって、竜宮はこの世じゃあ見えんとこじゃ。そりゃありっぱなとこじゃ。」と言うた。「ふーん。」と言って嘘をついてもそれが分からないものだから、実際に本当だろうと思って、みんなが聞たりしていたところが、「なんと旦那さん、こがいな大きな財産持っとったってなあ、この世じゃあ、どっこも見られたとこもあろうけど、竜宮だけは見られたとこはないが、いっぺん、連れてってあげようか。」と紺平が言う。「ふーん、そうかいやぁ、そげないいとこならわしも見たいなあ、そりゃあ、この世じゃあ、もっとう(とっくに)見たけどなあ。」「とにかく竜宮にゃあ、何もないもなぁないけど、そいけど、石臼が一番土産で、その石臼だけないじゃ。そいで今度来るおりにゃ、乙姫さんに『石臼を負うて来るけえ』言われとるけえ、石臼だけのお土産だ。」「ふーん、そげな土産だけで、土産物持たいでも…。」「うーん、持たいでもええ、ええ。その石臼ぁわしが負うて行くけえ。」と紺平は言って、石臼を二つ重ねてもらって身作りをしたそうな。それから、紺平が行くと、旦那さんはずっとついて行かれるしして、海辺まで来たら、「ああ、なかなか重たい。えらかった、えらかった。ちょっと休もう、旦那さん。竜宮はついそこに見えますじゃで。ついそこじゃけえ、わしがここまで負うて来たじゃけえ、今度ぁ旦那さんの番じゃけえ、ほんなら旦那さん、しっかと負いんせえ。」と言って、旦那さんの背にくくりつけて、「つい、そこじゃで竜宮は、ついそこじゃで。」と言って、紺平が旦那さんの背をとーんと押したら、石臼を負ったままだから、本当に沈んで、どうしようもない。旦那さんは沈んでしまったそうな。それから、紺平は少しうろうろうろうろしていたけれど、また帰ってきた。「また紺平がもどりよるわい。」言ったところ、紺平が、「やれやれ、まあほんにもどった、もどった。まあ竜宮は何とも言えんええとこで。旦那さんが喜んで喜んでごつい気に入られたそうな。」「そうして、『こんなええとこにはいつまでもおりたい。紺平、帰りとうないけえ、そいけえ、お金も財産も何にも家内も、みーんなおみゃあにやるけえ、そじゃけえ、おまえはいんで家(うち)を上手ぅ立ってごせえ。』言うて、もう旦那さんはなあ、帰られんじゃ。竜宮でずーっとええ暮らしができるわ。」と紺平が言ったそうな。 そうして財産も奥さんもみんな自分がもらって暮らしたそうな。嘘をつくならこの紺平のような嘘をつかにゃあいけないと。これはよい話じゃないけれど、笑い話でなあ。 
 

 

●民話 中部地区
禅問答 倉吉市湊町
これは昔の話だけれどねえ。昔々、和田に定光寺という大きな寺があった。そこによいおっさん(住職のこと)が来られた。そのことを聞いたのが鳥取の天徳寺さんだって。「なんと、和田の定光寺にええおっさんが来られたちゅうことだが、いっぺん、問答をかけに行かしてもらいます」という使いが定光寺に来たのだって。そうしたところが、定光寺のおっさんが、「はあて、困っちゃったがなあ。わしゃ寺ぁ金で買ぁてきただけんなあ。わしゃ問答なんかのことを知らんだが」と本当にそれが苦になって苦になって困っておられた。ところで、その和田の定光寺の十六羅漢さんというのが、そのころたいそう流行って、そこへ参る者はどのような願いごとでも聞いてもらえるということで、参る者が多かった。 さて、その和田にチョチ兵衛という者がいて、このチョチ兵衛が、「おら、いっそのこと百姓なんかやめて、饅頭屋(まんじゅうや)にならあかい」ということで饅頭屋になった。そして、「今日は餡(あん)が顎(あご)について食われない」「今日、餡が柔らかかった」と言って、饅頭だけはどうしてもうまく行かなかったのだって。そうしていたところが、嫁さんが、「お父っつぁん、大きな饅頭にして安うに売りゃどがぁならえ」と言った。「うん、そうだわ。大きな饅頭だったら、ちいたぁ顎についてええし、なんでもええわ、がいな饅頭こしらえようや」ということになって作ったら、大きいのが評判になったって。それでたいそう流行ったのだって。いつもぞろぞろぞろぞろ饅頭買いが来る。しかし、それは流行ってよいけれど、おっさんがひどくこのごろやつれてこられたので、「な−んと、和尚さん。あんた、このごろどこぞ具合いが悪いことはないかな」とチョチ兵衛が聞いたら、「おらなあ、どこも悪いこたぁないが」「だけれど、おらが一ヶ月ほど饅頭屋でここ借りておるけれども、あんたはだんだん何だか弱られるようなだが、診てもらいなはんしぇよ、お医者さんに」「ええ、別にどこが悪いちゅうことはないだけん」。しかし、チョチ兵衛が再三聞くものだから、それでとうとうおっさんも、「じつはなあ、チョチ兵衛さん、天徳寺さんが三月の十六日に問答掛けに来るのに、なんとわしゃ問答知らんだいな」「問答ちゅうようなもなぁ、算数みたあなこたぁにゃあだらあがな。まあ、二二が四、ちいことにならあでも、きゃ、ええ加減なそれに間に合ぁちゅうことになりゃええだらぁがな」「うん、まあなあ、そういうやぁなことだ」「ま、それなら、任せなんせ、おれに。おれが代わって勤めてあげるわいな」てチョチ兵衛が言っただって。
そうしたところが、いよいよ三月の十六日になって、昔のことだから天徳寺さんがお供をぞろぞろと連れて上井(あげい)から行列が続いたのだって。そうして倉吉の大岳院が中宿で、そこまで来られ、ちょっと落ち着き場で休んで向こうへおったのだって。そうしたら、それからチョチ兵衛が門のところで饅頭を売っており、そうして、「はあ、二銭だ、二銭だ。饅頭、二銭だ」と大きな声をするものだから、定光寺さんが、「まあ、チョチ兵衛があがなこと言って、おれに任せなんせ、言ったけど、なんだあ、わは饅頭ばっかり売っとってからに。おりゃどがぁにするだ。こりゃ困っちゃったがや」と言っておられたところ、そのチョチ兵衛が走って上がって来て、「問答を出しなんせ、出しなんせ。はい、はい」という具合いで服装を一式借りて整えていたところ、天徳寺さんがいよいよやってきて定光寺の段々を上がって、そうして白いホッスを縦にシュッとふって、次に横にパーパイとふられたら、チョチ兵衛も同じように、「おれもやったるかい」とやったのだって。そうしたところが、向こうが一礼された。向こうがしたなら、また、こちらもしようとチョチ兵衛も同じようにしたら、今度は天徳寺さんは手を大きく円くし饅頭のようにされたのだって。するとチョチ兵衛は、「なんだい。この天徳寺、おれを饅頭屋とみたな。よし、いつもは二銭だけど、こがながいな寺の和尚さんなら、三銭でもよい」と指を三本出した。ところが、相手は今度は指を二本出されたのだって。それでチョチ兵衛は二銭のものを三銭で売ろうと思っていたら、それより高くは買わないのか。五と出したが、あれは何だろうかと思ったが、すぐ、−ああ、五つごしぇ−ということだな、と思って、それで、「うん」と言った。そうしたとこらが天徳寺さんが、「けっこう、けっこう」と言って帰られかけたので、「いや、ちょっと待ってください。昼の馳走もちゃんと用意してありますのでどうぞ」と言った。そうしたところが、「いやーぁ、ご馳走なんかは一つもいらん。ああ、これでなあ、わしゃ満足した。定光寺にはええ和尚が座られた」と言って帰られたのだって。そして、その和尚さんは大岳院まで帰ってから話されたのだって。
「まーあ、りっぱな和尚だ」「今日の問答は、どがぁな問題を出されたかい」「はあ、わしは地球と出したらなぁ、なら、向こうは三千世界と言われた。それでは日本は、って言ったらなぁ、眼(まなこ)にある、と言う。五界はないかって言ったら、うん、て言われた。そいでなあ、ように満足した」「あーあ、それはりっぱな問答だったし、よかった、よかった」と、大岳院さんの方では言われていたと。ところが、チョチ兵衛の方では、ちょっと違っていた。「なんとおまえは、どがぁな問答だった」「なーんだ、おれ、饅頭屋とみとったと思って、大饅頭と出いたけえ、三銭だ、と値上げしたった。そうしたところが二銭に負け、言ったけえ、アカベーて言ってやった。そがしたところが五つくれて言われたけえ、よし、とこうやった。饅頭の問答だった」「ああ、そうか、そうか」。聞いてみたところが、そういう問答というものは理屈にはまればそれでよいので、それで両方とも満足されたっていうことだって。
難題婿 倉吉市湊町
昔々、とても大きな長者があったいう。長者は非常に昔話が好きだった。また、その長者の家には、一人娘がいて、婿を取ることになったって。それでそこらあたりには適当な婿がいないので、大きな立て札を出して、「ここの長者に婿がいる。昔話をこれでええ、もう飽いてしまったというほど語ってごすもんがありゃ、婿にもらうだ。」と書いておいた。そうしたところ、道中の者が「あの、がいな長者の婿になれるだがなあ。よし、おれも昔話なら相当知っとるぞ。」というところで「こんにちは。今、この立て札を見て来たもんですが。」と言ったら「ああ、どうぞ、どうぞ。」と奥の間に通して、長者は今日も今日もと一週間、止む間なしに続けさまに昔話を聞いたげな。そうしたところが、一週間で済んでしまった。しかし、そこの長者は「もう、ええ。」とは言われないのだいうて、それで、その男はだめで、また次の人が「ああ、何とこれには婿がいるのだって。よし、おれも昔話は相当知っとるが、飽きるほど言ったれ。」と思って「こんにちは。何と昔話、語りゃええそうですが。」「ええ、どうぞ、どうぞ。」ということで、また、その男も十日で済んでしまった。とうとうその男もだめだった。それから三人目のが来たが、それもうまく行かなかった。これまでは一番長いのが三十日、つまり一ヶ月話したというが、まだ長者は「こっでええ。」と言われないんだって。そうしていたら、あるとき、何人目かに、「こんにちは。」と入って来て、何と半年も語ったけど、やはり長者は「こっでいい。」とは言われないので、困ってしまった。「もうないだが、何と言ったろうかい。」と思って、もう根負けしてしまいかけたが、一つ思い出した。それは、名和長年という者が、昔ここ御来屋におったというが、その男の話をしたら、長者は「こっでええ。」と言われるだろうと思って話しだしたげな。それは名和長年が後醍醐天皇を迎えたときに、何と蔵の中に米をどっさり積んだという。その米に二十日鼠がついたと。そうしたところが、二十日鼠というものは、これだけの小さなものなので、一粒くわえてチョロチョロと逃げ、また一粒くわえてチョロチョロと逃げ…と一年も同じことを言っただって。とうとう「まんだ済まんか。」てその長者が怒り出したいって。「まあ、待ってつかんせえ、ごぉつうこと、蔵に米が積んてあった。これ十年経ったてて済みゃあせん。一つわて持って逃げる…。」長者を「もう、こっでええ。」と言わせなければならないので、男は「二十日鼠がチョーロチョロ、一粒くわえてまた逃げた。また、ごそごそ来て、チョロチョロとくわえてチョロッと逃げたって」とやっぱり何ヵ月も言ったのだって。「まんだ済まんか。」「まんだまんだ、とてもとても。」とうとうしまいに長者は「こっでええ。」と言われ、その男がそこの婿になったのだって。人はこのように知恵がないといけないということです。
打吹山の天女 倉吉市越中町
倉吉の打吹山の由来です。昔、ある百姓が天女の衣を見つけ、脱いでるところを隠したわけなんです。そうすると天女は天へ帰れなくなってしまい、そのままそこへいついて百姓と結婚し、二人の子どもができました。ところが、ある日、その子どもが、父親から「黙っとれよ。」と言われていたのに、天女のお母さんについ「これはお母さんの着物だ。」とお父さんの隠しておいた櫃を開けて見せたそうです。その母親が行ってみたところが、自分の着ていた羽衣でした。それで天に昇るためにその羽衣を着て、朝顔の蔓に伝わって天に上がってしまいました。そうすると子どもたちが二人で嘆き悲しんで、山に登って鼓や太鼓を打ったり笛を吹いたりしたというので、打吹山というような名前がその山についたということです。夕顔だったか朝顔だったかはっきり覚えていませんが、賀茂神社に井戸がありました。今あるかどうか分かりませんですけど、それを夕顔の井戸だったか朝顔の井戸だったとかっていう名前がついていますがねえ。わたしたちの子どものときには木組みがしてありました。
ばくち打ちと呪宝 倉吉市湊町
昔々あるところに、たいへんなばくち打ちがおったという。そのばくち打ちは、ばくちに負けて裸になってしまい、たった一枚のウチワしかなくなってしまったので、しかたなく山に上がって、「困った。ほんにああ困った、困った。何にもなぁなっちゃっただが。」と言いながら、やけになって「京見たか。大阪見たか。大阪見たか、京見たか。」と言って、あっちこっち見たりしていたそうな。
そうしたら、それを見ていた一人の天狗が、「はあてな。『京見たか、大阪見たか。』って言うだが、ほんにあがあなこって京や大阪が見えるだらあかい。」と不思議に思って、「なんと。おまいは今『京見たか、大阪見たか。』て言っただが、そんなこって大阪や京が見えたかい。」と木から下へ降りてきたそうな。
ばくち打ちは、「見える、見える。このウチワをこうしてかざせば、あっち向きゃ京が見えるし、こっち向きゃあ大阪が見えるだけえ。」と言っていた。ところが、その天狗もウチワを一枚持っていて、「なら、こんなと替えよかいな。これはなあ千里ってったら、ちゃんと千里走るちゅうし、鼻高んなれちゅうたら高くなり、低うなれちゅうたら低くなるけえのう。これと替えよいや。」と言う。ばくち打ちは、「へえ。なら、替えましょう。」と交換してしまった。天狗は早速そのウチワで、「京見たか、大阪見たか。」と言ったところが、さっぱり見えはしなかったけれども、ばくち打ちの方は、「千里」と言ったら、なんと千里走ったので、天狗の方が負けてしまったそうな。ばくち打ちはそのようにしながら、江戸まで行ったそうな。「なんと江戸まで来たけど、こがなボロを一つ着ておってはいけん。どがあもならんだが、なんどええことはないだらぁか。」と思って、ぐるりぐるり見ておったところが、ちょうどそのときに鴻池のお嬢さんの婚礼のたいへんな行列が進んできて、ナゴヤ(祝言歌のこと)をうたうところに来て止まったそうな。ばくち打ちはその車の後ろについておって、「ちょっとこのウチワを使ってみたろうかい。」と思って、「高んなれ、高んなれ、高んなれ。鼻、高んなれ、鼻、高んなれ。」といったところが、なんと鴻池のお嬢さんの鼻が、天狗の鼻のようになったそうな。「こら、大変なことだ。婚礼どころではない。こらまあ、ナゴヤ歌うために車止めとったら、鼻が高んなっちゃって。まあ帰らにゃいけん。」というので元の家へ連れて帰り、お嬢さんを奥の間へ寝かしておいて大騒動になって、みんなで心配していると、翌日、表の通りを、「鼻治し、鼻治し。」とだれかが通るのだそうな。「ありゃっ。鼻治しだ。」とやれこらと出てみたら、いなくなっていた。通ったのは博奕打ちだったわけで、その博奕打ちは、もう一回あの家のところへ行ってやろうと思って、また、行ったそうな。そして、「鼻治し、鼻治し。」と言って通ったところ、家の中から人が出てきたそうな。「鼻治し、鼻治し。」と言って通ったところ、家の中から人が出てきて、「なぁんと、ちょっと鼻治しさん。あんた、どがな鼻を治しなはるだか。」と言ったら、「どがな鼻でも治す。高にしてほしけら高にでもなり、低にしてほしけら低んなる。」と言うので、家の者は、「実はこういうわけだが。」と話したところが、「あ、そがな鼻ならみやすいことです。なんぼでも治いてあげますよ。金はかかるけど。」と言ったら、「金はなんぼでも出すけん、まあ治いたげてつかわんせえ。ように困っとりますだけえ。」と言ったので、「ま、とにかく、おれはこういうふうなボロを着ておるので、こんなふうをしてはお嬢さんの前にもよう出んし、お宅もこがなふうしちゃあいけんでしょうけん、なんか着せてつかわせえなぁ。」と言ったところ、「よしよし、そこの旦那の紋付、羽織袴借りてあげるから。」ということになったそうな。そうして、博奕打ちは、旦那の袴をはいて羽織を着て、そこの家の人たちみんなの人払いをしてから、お嬢さんの背に回ってウチワであおいで、「鼻低んなれ、鼻低んなれ。低んなれ、低んなれ。」とやったら、だいぶん低くなったそうな。しかし、あんまり早く元にしたら銭にならんから、まあこのくらいでおこうと思って、「まあ、今日はこれまで」と帰ってしまったそうな。そうしてまた明くる朝やって来て、「まあ、一週間どまぁかかりますけえな。金うんと用意しといてつかぁんせえよ。」と言ったそうな。そうして明くる日も明くる日も出かけて来て、とうとう一週間で治したそうな。家の人たちは喜んで喜んで、まるで神様のようにして喜んでくれたそうな。そうして博奕打ちは、お金はたくさんできたし、とうとうわが家へ戻って来たそうな。それから博奕打ちは、天神川の河原に出て仰向けになって、そのウチワを手に持って、「鼻、高んなれ。高んなれ、鼻や。鼻や、高んなれ、高んなれ。」とやったところが、一丈にもなったとそうな。そこでばくち打ちは、どのくらい高くなるものだろうか。もっと高くしてやろうかいと思って、「高んなれ、高んなれ、高んなれ。」とウチワをあおいでいたら、鼻はずんずん高くなって天に届いてしまったのだそうな。そして、このように天に届いてしまったら、鼻はだわっと弓のようになったそうな。ところが、天では天竺から神様の子どもが遊びに来ていて、伸びてきた鼻を見つけたそうな。「何だいこりゃ。ここへ何だか出てきたぞ。」と言っていると、いくらでも伸びてくる。「これはじゃまになってかなわんがな。隠れっこするのに引っかかってかなわんがな。」「そんなら、こんなもんくくっとけ。」と近くのところへくくってしまったそうな。けれども、ばくち打ちは、そのようなこととは知らず、「あら、こっで天に届いたふうだわや。こんだぁだわだわみたいになったけえ、なら、このへんで低うにせにゃならんが。」と思った。それなので、「低んなれ、低んなれ、低んなれ、低んなれ」と言ってみたら、たわんだところはしゃんとなったけれども、それからは自分の身体がドッドドッドッドッドドッド持ち上がってしまい、くくられているものだからズッズズッズ一丈も上がってしまった。「それから先は話すだか。」「話しないな。話しないな。」「そいからいって、話しゃ話すかえ。」「話しないな。話しないな」「はなしゃいけんがな。」「はなしてぃな。」「はなせば、ポテーンと落ちちゃった。そいういうことだぞ。」
姑を殺す薬 三朝町木地山
あるときに、ある家の中におばあさんとお嫁さんとが仲が悪くて、お嫁さんが外から帰るとおばあさんが出てしまうし、おばあさんが帰られたらお嫁さんが出てしまうしというように、少しも一緒にいないように仲が悪かったって。 お嫁さんは、「どがぁどして、おばあさんを殺さないけん。よう辛抱せん。」ということで、医者に相談に行ったのだそうです。そうしたところが、医者が、「そがあなばばなら殺いてしまえ。おれが毒盛ったるけえ。その代わり早いことには死なんけえなあ。早ぁ死ぬりゃあ、おまえが毒を盛って死んだちゅうことになりゃ、罪ができるけえ、ええあんばいにして死ぬるやあにしたるけえ。」と言ったそうな。そうして毒を盛った薬をくれたそうな。「こらぁ一週間ほど飲ませるなかいに、おばあさんをだいじにせえ。」と言って医者はお嫁さんに習わせたのだって。お嫁さんはそれから、その毒を持って戻って、「一週間したらそのおばあさんが死ぬるだぁし、だいじにしとかなぁわれにまた罰が当たっちゃあいけん。」というところから、お嫁さんはおばあさんに魚を買ってきて食べさしたり、親切な言葉をかけたりと、とてもおばあさんをだいじにしたそうな。そうしていたら、おばあさんが、「まあ、なしてうちの嫁はええようになっただらあか。だれが言い聞かせたもんだやら。こらまあ嫁がようにすりゃ、おれもようにせにゃいけん。」と思ったそうな。それから、おばあさんはお嫁さんによくしなさるし、お嫁さんがおばあさんをだいじにすればするほど、おばあさんもよいおばあさんになっていかれたそうな。お嫁さんは、「こがぁにいいおばあさんなら殺されんわぁ。」という気になってしまったそうな。それからまた、お嫁さんが医者のところへ行って、「おばあさんがなんとええおばあさんになりなはって、近ごろわにようにしてごしなはるしして、愛(いと)おして殺されぬけえ、何とかして毒の消える薬をつかはんせ。」と言ったそうな。そうしたところが、医者は、「ああ、そんなら、やれやれ、早ことこれ持っていんで飲ましてあげれば、元気にならはるけえ。仲良うに暮らさにゃいけんけえ。」と言って、また薬をくださったそうな。それでそのお嫁さんは、そのまま帰っておばあさんにその薬を飲ませたそうな。本当は、初めの薬も毒ではなかったそうなけれど、医者が間に入って、病気にして薬をあげていたということだそうな。
あまがえる不孝 三朝町大谷
昔なあ、あまんがえるちゅうやつがおって、親がなあ、「山へ行け」って言うと川へ行くし、「川へ行け」って言うと山へ行くし、何でも反対ばっかりしよっただ。そうしたらなあ、親が死ぬるときになあ「おれが死んだらなあ、川の縁(へり)ぃいけてごせえよ。」って言ったら、子ども蛙が「うん、うん。」て言いよったけど本当に「親が死んだら、おりゃあお母さんが生きとる間にたるほど反対ばっかりしたけえ、今度ぁ本当にお母さんの言う通りしてあげにゃあいけん。」て言って、川の縁ぃいけた。そうしたら雨が降るたんびに「ああ、お母さんが流れりゃせんか。」ちってガイガイガイガイ鳴くて。それが死んでしまってからのことだけえ、後の祭りで何にもならだったって。
運の良いにわか武士 三朝町大谷
昔あるところになあ、侍に好いた好いた人がおって、侍にになりたくてたまらないけど、侍にゃあようならんし、何とかなりたいもんだと思っていたそうな。あるときその人が旅に出ようと思って、山道を行っていたら峠にさしかかった。ところが、峠に石の上へ腰をかけた侍さんが、ちゃ−んと座っておるのだって。その人は、侍さんだから、無礼があったら斬られるだろうと思って「お侍さん、ご苦労さんでございます。」と言ってもその侍は返事をしない。いくら「ご苦労さんでございます。」と言っても返事をしない。それから側へ行ってつついてみると、その侍さんは目を剥いたまま死んでいる。「おお、こりゃあまあ死んどるわい。やれやれ、こりゃあええことだ。わしゃ侍になりたいと思っとったに、これが死んどるけえ、ちょうどこんなのべべえをはいだれ。」その人は思って、それから侍さんの着物をみなはいで、自分が着て、自分の着物を侍に着せて、それから刀差いて峠を越えて行っていたところが、殿様の行列がやって来たのだそうな。「こりゃあえらいもんが来た。ひかかったらこわい。」と思って、それからその人は畑の方に飛び降りて隠れていた。そうしたら殿様の行列がそれを見つけて、家来に「今、そこへ行ったんは、あれはだれだか聞いてこい。」って殿様が言われたそうな。それから家来が聞きに行った。「おまい、何ちゅう名前だ」て言ったら、早速のことで名前は出んし「はあてなあ、何だってったらええか。」と思ったら、そこが畑だったから、縁の方に青菜がいっぱい植えてあるし、それからへりの方にカンピョウがあったって。その人は「これこれ。」と思って、「青菜カンピョウと申します。」と言ったら「はあ、そうですか。」と使いはそのことを殿様に言った。すると殿様は「はあ、青菜カンピョウか。わしの家来にならんか聞いてこい。」それから家来がまた行って、その人に殿様のことばを言った。そうしたところが、「はあ、家来にしてもらいます。」ということになった。それから家来にしてもらって、宿へついたところが、どこの家中でもあるようで悪い家来もおって、それがその宿で「殿さんを殺いたれっ。」と思って、ねらっていたところが、それとは知らずに、その青菜カンピョウが隣の部屋で見ていたら、弓が立てかけてある。槍もある。いろいろとある。その弓を持って引いていたら、ふーっと手がはずれて、矢が飛んでしまったって。そしてその矢が、その殿様を殺そうと思ってねらっていたやつの目の玉へ当たって、それで死んでしまった。それで殿様が「いったい何でおまえはこれを知っとった。」と言われる。「いや、わたくしは目ん玉は両方ありますけど、毎日、晩の一晩のうちに片っぽうずつしか寝ません。夜中まで右の目で寝たら、夜中から夜が明けるまでは左の目で寝ます。それで半分の目はちゃんといっつも起きとります。それで分かったです。」と言った。「はーあ、りっぱな心がけだ。はいっ、褒美をとらせる。」そういうことで「やれやれ、いい気をしたわい。」と思って、そいからひょっと、またついて行ったところが、次の宿へ泊まるようになった。
ところがそこの近くに、大きな溜め池があって、そこに蛇が出るという話だ。「殿さんに蛇を退治してもらいたい。」と村の者が願い出てきたので、さあ殿様が、「おい、蛇を退治する者はないか。」と。そうしたら、その青菜カンピョウが「やれやれ、この侍暮らしはいやになったけに、何でも逃げたらないけん。」と思って、「はい、わたくしがやります。」と言った。それから行きがけに、昔は米を挽いて粉にして、その粉をなめていたから、その粉を二袋買って、そうして出かけたそうな。そして他の家来といっしょについて行っとったのだそうな。 その蛇の住んでいる池まで行って「さーて、困ったもんだ。こいつ、家来がおらにゃ、おら逃げたるだけど、家来がおるけん逃げようはないし、困ったもんだ。」とぶつぶつ言った。そうしていたら、池の中からぶくぶくっと泡がたって、蛇が頭を出してきて、ひょーっとこっちへ向いてやってくる。ああ、青菜カンピョウは恐ろしくてかなわないそうな。「あーら、どうしたもんか。」と思ったが、名案が浮かんだそうな。それで買っておいた粉を袋ごと、蛇の口めがけてたーっと投げたら、その袋をごぼっと蛇がくわえたそうな。何しろ中が粉なんだもんだから、蛇は喉へつまって息ができんようになって、とうとうそこでのびてしまったって。「さーあ、しめたもんだ。おい、死んだ死んだ、おい、おまえらち、これをひっくくって持って帰ろう。」と言って。さーあ、それで持って帰る。青菜カンピョウはまた殿様からご褒美をいただいたそうな。しかし、青菜カンピョウは「こりゃあ、とってもいつまでもこがないい話ばっかりはないから逃げにゃあいけん。」と思って、それから夜の間に、その宿を抜けて逃げてしまったって。
和尚を戒める 三朝町大谷
昔あるお寺に和尚さんと小僧さんとおったそうな。あるとき小僧さんが、遊びに出ようと門前まで出たら、門前のおばさんが洗濯しておられた。見るとその中に和尚さんのものが入っていたそうな。「おばさん、その洗濯物はおっさんのかいな。」「うん、おっさんがあんまり汚れたのを着とんなはったけえなあ、洗濯してあげよかと思ってしたげよるだわな。」「ふ−ん、そりゃええなあ。」と小僧さんは言って、そのとき小僧さんがにやにや笑いだして、しまいにゃ声を出して笑いだしたそうな。「何が小僧さん、おかしいだ。」「いや、おかしいちゅうこたぁないけど、何だか笑いたんなった。」「気持ちが悪いなあ、小僧さん、言いなはれや。」「いや、言やぁおばさんが怒んなはるけえ、言わん。」「いや、絶対怒りゃしぇんけえ、言いなれ。」「ほんとに怒りならしぇんか。」「怒りゃしぇん。」「なら、言うけどな、おっさんはな、『おばさんはなあ、ほんに気だてもええし、何にも文句のないええ人だけどなあ、ただなあ、ちょっと臭いでなあ。』って言いいよなったで。」「ふ−ん。」「言いなはんなよ、おばさん。」「言やあしぇんって。」 それから小僧さんは寺にもどって、「おっさん、もどりました。」と言って、そいから和尚の前に出ていて、またにやにや笑いだいた。
「小僧、何がおかしいだ。」「いや、別に。」って、それでもやめずににこにこにこにこ笑っている。「話せや。」と和尚さんが言ったげな。すると、小僧さんは、「いや、話いたら和尚さんが怒りなはるけえ、話さん。」と言った。「いや、絶対に怒らん。」「いや、ほんとうに怒んならしぇんか。」「怒らん。」「なら、話すけどなあおっさん、あんなあ、門前のおばさんはなあ、『おっさんはええ人だけど、何だし文句のないとこだけど鼻の頭が真っ赤なながなあ、あれが一つきずだわい。』って言いなはったじぇ。」って、「ああ、そうか」「おれが言ったちゅうことを言いなはんなえ、おばさんが怒んなるけえ。」「言やあしぇん、言やあしぇん。」「そいから、まあ、ついでだが和尚さん、『小僧、小僧』言ってもらっても困るが、和尚さんにも名前があるやに、おれも名前を一つつけてもらいたいが。」て言った。「おう、つけてやる。何ちゅう名前にしようかなあ。」て和尚さんが考えよったところが、「和尚さん、おれには『くさい』ちゅう名をつけてごしなはれんか。」「『くさい』、ああ、いや本人がええちゅうならつけたるわい。」と言って、それから小僧さんは・くさい・という名前に変えてもらったそうな。
何日かしたら門前のおばさんが、和尚さんの洗濯物を持って通ってきた。そうしたところが和尚さんが、小僧の差し金だけど、門前のおばさんが、・おっさんはええ男だけど鼻の頭が赤いのが難だ・って、おばさんが言ったということを小僧から聞いていたから、和尚さんが衣の袖で鼻の元を隠すように押えながら、「おおい、門前のおばさんが来たけえ、くさい、お茶ぁ出せ。」と小僧さんを呼んだそうな。小僧には名前をつけたので「小僧」とは言われなくなったからねえ。さあ、ところが、おばさんが和尚さんの顔を見ると、和尚は鼻の頭を衣で押えているし、そうしておいて「くさい」って言うから、どれだけ自分が臭いのやら分からないようになっったげな。それでおばさんは、「おっさん、長い間、まあ、かわいがってもらえたけど、それほどなあ、衣を当てがわにゃあならんほど臭けりゃなあ、もう来りゃせんけえ。くつろぎなはれ。」と言って、「洗濯もんはここへ置いたけえなあ。」と怒ってふいとこふいとこ帰ってしまった。さあ、小僧はおかしくてかなわないけれど、出るわけにもいかない。それでしばらくして、「おっさん、どげなことだい。」「いや、門前のおばさんがなあ、『くさいって言った』ちゃんことを言って、おれは言いもせんに腹ぁたてて、洗濯物投げといていんでしまった。」「そりゃあいけんことだったなあ、さあ、どこを臭いでもないになあ、は−あ、不思議なもんですなあ。」と言って小僧さんはとぼけとったって。それで、その門前のおばさんと和尚さんの仲を割いてしまった。そういう話。
鴨撃ちの猟師 三朝町大谷
昔、近江の琵琶湖の横の方に猟師がおって、毎日毎日琵琶湖に鴨撃ちぃ行きよった。ある日のこと。鴨を撃って、腰に縄をつけて、その縄の間に鴨の首を挟んでずっと先へ先へ行きよったら、また、次で鴨を撃って、ところが、その鴨を撃ったら、鉄砲が弾がそれて、横の方にとんだら、その山を歩きよった猪ぃそれたのが当たって、猪が手負いになってそこの山ぁ暴れまわって、とうとうその山から山芋が五六貫目ほど掘れた。から、猪は捕ったは、山芋は掘った、鴨は取った。持って帰るのにどうしちゃろうと思って、途中に預けといて「まあ、まんだ日も早いことだから。」と思って、またうろうろしよったら、鴨が生きもどって、全部弾が当たっとらなんだか、鴨が生きもどって、パタパタ羽を羽ばたきしだいたら、たくさんの鴨を捕っとるわけだから、その鴨の何十羽の勢いでとうとうその猟師は空中に舞い上げられてしまって、それから猟師はびっくりするがどうにもならん。次ぃ次ぃ空を舞って行きよったところが、とうとう大阪の天王寺の屋根まで、上まで行ったら鴨が弱ってしまって、天王寺の屋根の上へポテンと落とされてしまった。さあ、そこで猟師はびっくりして屋根から降りることは、お寺の屋根で高いし降りれんし「さあて、困ったもんだ。」と思って、まあとにかくと思って、屋根のはなの方まで出て、大きな声をしたところが、下の方から何事かと思って出てきたが、天王寺の小僧が、おおぜいぞろぞろ出てきて空ぁ見上げて、鉄砲撃ちがおるもんだけえ「和尚さん、和尚さん、たいへんなことです。空の方に、屋根の上に何だか猟師のようなもんがおって、『助けてごしぇ。』言っていますが、どうしましょうか。」て言って「どうしましょうって、そりゃ助けてくれって言やあ助けてやらにゃあいけんが、はて、困ったもんだなあ、どうしようかなあ。」て。「あ、小僧ええことがある。布団を持ってこい。」。そいから、布団を持って出さして布団の四隅を持たして、小僧に。「ここへ降りてこい。」って、そいで合図したところが、その鉄砲撃ちが、その布団のまん中めがけてぴょ−んと降りた。そうしたら、その鉄砲撃ちの重みで布団の四隅がカチ−ンとかちあって、昔から言うように「目から火が出る」ちゅうことがある。ちょうどその手で、目から火が出て、天王寺が火事になって焼けてしまった。その後に何だかここにゃあ生えとるがと思って、見たら、その菜っぱで、そで大きんなってから見たら、その大きな蕪(かぶら)だったと、それでそのときに天王寺蕪(かぶ)という名がついた。それから以後、天王寺蕪(かぶ)という蕪(かぶら)ができたと、そういう話で、天王寺が蕪(かぶら)ができたのが由来だっていうこと。
喜助とおさん狐 三朝町大谷
昔あるところになあ、喜助という人がおった。それが割合貧乏していて、冬になって餅米を買おうと思っても餅米を買う銭はないし、困っておった。「お父つぁん、もうじき正月だが、餅米を買う銭もないし、困ったもんだなあ。」と嫁さんがいっていたら、喜助は「待て待て、おれにちょっと思案がある。おりゃこの奥へ上がって、おさん狐をだまいて、あいつで銭もうけをしたらぁ。」といった。「そげな罰があたるようなことはしられんで。」と嫁さんがいっても「いやまあ、この節季、かなわんときだけえ、やったるわい。」という。それから、奥の山へ入って「お−い、おさん、出てこ−い、出てこ−い。」といっていると、そのうちに狐が女に化けて出てきたって。「喜助さん、何の用だ。」「おまえに用があったわい。おりゃあなあ、こないだごろから嫁を頼まれとるけえなあ、嫁世話せんならんだ。嫁なってごせ。」「なに、おらが嫁になるちゅうのか。」「そうがなあ、いつまでもその家におりゃあでもええけえ、おれがわが家へもどってその夜さがすんだら、明くる朝間になったらその家におりゃあでもええ、逃げてもええけえ、嫁になってごしぇ。」「ま、そのぐれえな時間ならなってあげるわいな。」「ほな、頼んぞ。時間にゃおれが迎えに来るけえ。」それから、喜助さんは、前から嫁さんを捜してほしいと頼まれていた家へ行って「おい、とうとう嫁ができたわい。できたことはできたけどなあ、ちいと銭がいっといるだわいや。」という。「何ぼほどいったかいな。」「五円はもらわにゃいけんがやあ。」「ああ、五円ども算段するするする。そいでいつだかいなあ。」「おまえの家の都合がよけりゃあ、あさってでも来るぞ。銭さえできりゃあ、あさってでも連れて来る。嫁の方に銭がいるでなあ。」「ええ、なら銭こしらえたらじき持って行く。」それからその家では銭をこしらえて持って来たので、喜助は銭はわが懐へ入れておいて「かかあ、こいから山ぃ行って、山ゴンボの根を掘って来い。」という。「何すっだいな。」「ま、何でもいいけえ掘って来い。そいから蕗の根もちいと取ってこい。」そいから、嫁さんにいいつけておいて、おさん狐のところへ行って「おおい、おさん、出て来ーい。」「どがなことかいな、喜助さん。」「あさって、おまえは嫁に行かにゃあならんだ。こしらえしてごしぇ。」「はいはい。」「そっであさっての晩、ちょっと早になあ、おれが迎えに来るけえ、それまでこしらえしとれよ。」「はいはい。」そいから、もどって、嫁さんに「おい、ように話は決まったけえなあ、あの掘ってきた山ゴンボの根と蕗の根とこまに刻んでせんじとけ。そうして大きな盆にように盛っとけ。」といった。「何だいな。」「まあ、何でもええけえ、ちゃんというやにしとけ。」そいから、そのように嫁さんに準備させておいて、喜助はおさん狐を迎えに行って、そいからそこへ連れて行ったところ、家の人たちは「何といかさま、喜助さん、いい嫁さんを世話してごしなった。ああ何ちゅううれしいこっだらあか。」という。さあ、酒や肴でもてなしてもらったそうな。しかし、肝心の狐さんは、おいしそうなものがそこらの方に並んでいるけれど、食べるわけにはいかないし、口から唾を出して待っているけれど食べるわけにはいかないし、そいから「小早にこの喜助さんはいにゃあええわい。」と思っていたら、まあ、いい加減によばれてから喜助さんが「まあ、ほんならいぬるけんなあ。嫁さんを頼むけえなあ。」といって自宅へどってしまった。そいから、喜助さんは「やれやれ。」と思いながら嫁さんに、「おい、おれはこれで寝るけえなあ。もしあそこの嫁の家から、おれがだまいて狐を連れて行っただちゃんこといってぐずって来るかも知らんけえ、なんでぇ、そこらをうまいこと話さにゃいけんど。それが連れ合いだけえ。」といって寝た。「はいはい、分かりました。」それで喜助さんは寝とるそうな。
明くる日になったところが、その家から「喜助さんはおんなるかや。」といってやって来た。「へえ、おんなはるだが。」嫁さんが答えると「喜助さんちゅう人は、まあ、ひどい人だ。この近隣におって。ようもようもおれをだまいて。銭の五円も取って、『嫁世話したる。』ちゃんことをいって、狐を嫁に世話してからに。銭もどいてもらわにゃいけんし、謝ってもらわんにゃいけんが。」という。「え−え、うちのおとっつぁんがそがなことをしなはったがかえ、おとっつぁんは、おまえ、こないだごろから、『何だか熱があるようでショウカンになっただも知らん。』ちって、何だかかんだか、あれが効くこれが効くっていいなはるだけえ、草の根を掘ってきてせんじて飲ませまして、まあ見てごしなはれ、枕元へこのごとくに薬をせんじたかすがあるだが。おとつっぁんは台無しじゃ。いま、おまえ、熱を冷やいてあげよるところだが。」といったそうな。「そがなはずがないが。」「でも、ほんなら上がって見てごしなはれ。」「まあ、そがにもいいなはらそがなだわ。ほんなら喜助さんがおれをだまいたのではない、うちのもんが狐にだまされたんかいなあ、まあ、残念なけどしかたがないわ。すまなんだなあ。邪魔ぁしたなあ。」といって帰ってしまった。そいから喜助さんが「どうだ、かかあ、うまくいっただらが。ああ、餅げでも何でも五円ありゃあ、だいぶん買えるけえ。」といって、そうしてよい正月を迎えたという話だ。
北の吸い物と大名の吸い物 三朝町大谷
昔あるところになあ、物好きな人がおって、どこにゃあどういううまいもんがあるっちゅうことを聞くと、すぐそれを捜いて回らにゃならん性分の人がおって、ある日に「どこそこの町ぃ出ると、ええ吸物があるそうな。」って「ふん、そりゃあええことだ。ひょっと出てみてやれ。」と、そいから町ぃ行ったところが『北の吸物』と看板が出とる。「はあ、こら何だらぁか。」と思って、そいから「ごめんなさい。」と入って「この看板にある吸物、作ってもらえるかな。」「はい、できます。」それから、作って持ってきた。それから食べようと思って、その吸物の椀を蓋ぁ取ってみると、汁だけはあるけど何にも入っとらん。「こりゃあ、おかしいもんだなあ。」それから、亭主を呼んで「なんとこの吸物にゃあ何にも入っとらんが、いったいこりゃどういうわけだ。」「へえ、お客さま、まことに申しわけありませんが、うちは看板に偽りはやっとらんとこです。」「そら、どういうわけだ。」と「外に出いてある看板の通り、北の吸物と書いてあるですから、皆実(=南)がないです。それで申しわけありませんが、中は空っぺです。北で南(皆実)がないっちゅうわけだ。こらえてください」って。「うん、そうか、それなら仕方がない。」って、それでまあ、汁だけ吸って逃げて「ああ、あほにあったなあ、何とか次のええもんないかなあ。」と思って回りよったら、『大名の吸物』ちゅうものがあった。「あ、この大名の吸物なら、そりょお、そう粗末なものはなかろう。」と思って、それからまたその店に入って「看板にある大名の吸物できるか。」ってったら「できます。」って。それから作ってもらって、持ってきたけえ、やりかけて蓋ぁ取ってみたら、親指の頭ぐらいな餅が二つ入っとった。「おい、亭主、何だ、おまえ、大名の吸物ともあるもんが、たったこれ、団子ぐらいなもんが二つとはあんまりじゃないか。」って。「へい、お客さん、恐れ入りますけどそれでも看板に偽りはありません。大名の吸物ちゅうものは、大名は大きな大名もありゃぁ小さい大名もある。いろいろありますけど、このうちの店の看板は「大名の吸物」というのは、細くても白餅ちゅうことで、細うても白(=城)を持った大名さん、『城持ち』だ、ちゅうことで、これでこらえてください。」「は−あ、そうか、そりゃあしかたがない。」ま、そういうことで歩いて回ったけど「今度ぁもうどっこも行かん、あれるほど阿呆にあったけえ。て、ほっでもどってきたって。
鴻池の嫁になった娘 三朝町大谷
昔あるところにある物持ちがおって、その物持ちの家に女の子が三人あって、その三人の娘はみな器量よしだったところが、奥の方の池から蛇が人間に化けて出て「娘さんをもらえんでしょうか。」って。それで一番姉さんは「行かん」て言う。次のお姉さんも「行かん」て言う。それで一番下の娘さんが「よし、わしが行くから、お父さん、お別れだから町に行って法華経の本を買ってきてください。」「はあ、よしよし、そんなら買ってやろう。」て、それでお父さんは町へ行って、法華経の本を、一番難しいのを買ってくれえちゅうので、一番難しいのを買ってきた。それでそれをもらって娘さんは、その奥の池に行って、池のほとりでうずくまっておって、そのお経の本を一生懸命読んどった。そうしたら、ぶくぶく音がしたと思ったら、池の水が泡になってぶくぶくぶくぶく上がって、それから蛇が角を生やして出てきたちや。それでその娘さんのとこへ寄ってきたので、娘さんは一生懸命読んでおった法華経の本をポーッと投げたら、その蛇の頭へ食らって角がばらばらーっと落ちて、それで蛇が往生して湖の中へ沈んでしまった。それで娘さんは帰るちゅうわけにはいかんし、それで十二単といういい着物を着ておってもいけんから、それを脱いで篭にしまって、普段着を着てどこを当てともなく出ていったら、とうとう最後は大阪まで出たんだ。そいからあっちこっち歩きよったら、大阪の鴻池というとこへ行って、そこへ女中に使ってもらうように頼んだら、まあ、使ってやろうちゅうことになって、女中に使ってもらって昼はぼろを着て、髪もよう格好ようしられんし、そうやっておって夜になるとみんなが風呂に入ってしまって、最後になってから風呂に入って、それからこんど十二単に着替えて、それから一生懸命法華経のお経の本を読んどった。そうしたら、鴻池の若旦那が夜遊びして帰ってきて、ふっと灯がともっておるので、その部屋をのぞいてみたら、きれいな娘さんがおっった。さあそれを見たら一目惚れをして、それから明くる日になっても起きてこん。「若旦那起きなさい。」言っても起きん。「食事は。」って「食事もほしくない。」そいからいろいろ話しよったところが、とうとうこんどお医者さんに、ちゅうことになった。それでお医者さんに診せたら「これはなんぼうわしがかかっても、薬を飲んでも治りゃあせん。どこぞこの家に好いた女がおるじゃろう。」それでこんどは家内のうちでいろいろ、あれえこれえと聞き合わせてみるけど全然、それで女中をいろいろ次から次へと呼んで、若旦那のところにお見舞いに行かせるけど、うんともすんとも言わん。そいからとうとう最後、その娘になって、うるさそうに番頭ちゅうもんか下男ちゅうのか、それが行って、「若旦那に会っとくれ。」ちゅうた。「わたしですか。わたしはだめです。」言ったけども「それでもおまえがもう一人になっとるんだから、残すわけにはいかん。」そいからそれを連れて行って、会わしたら、むっくり若旦那が起き上がって、ご機嫌が直って、とうとうそれを嫁さんに迎えて、末永く幸せに暮らしたって。そういうことだった。
米出し地蔵 三朝町大谷
昔あるところになあ、おじいさんとおばあさんと細々と暮らしとったんだ。それからいよいよ正月前になって、おばあさんが機を織って木綿を作って、「おじいさん、この木綿を持って、町ぃ出て餅米やいろいろなものを買ぁてきなへ。」って言ってそれを渡したのだって。それで、おじいさんは木綿を持って町へ出たそうな。だけどみな正月前でなかなか木綿を買ってくれない。しかたがないから持ってもどっていたら、道端の方にお地蔵さんが寒そうにしておられたそうな。その木綿をお地蔵さんの首へ巻きつけてあげて、そいから自分がかぶっていた笠をお地蔵さんにかぶらしてあげて、それからわが家へもどってきたそうな。「おばあさん、もどったわ。」「ああ、今日は何だか荷物が少ないやあななあ。」おばあさんは言ったそうな。「うん、町ぃ出たけどなあ、なかなか木綿はみなは買ぁてごしぇんし、みざま(見様)にならんにと思って持ってもどったら、お地蔵さんがあんまり寒げにしとんなはったけえ、木綿をお地蔵さんに一反、首に巻いてあげて、そいから寒いけえ笠もおれのやつぅかぶせてあげといてもどったわい。」「まあ、餅米もないし何にもよう買わなんだけど、生きとりゃあお粥でも飲めりゃしすれるけえ、まあ、おばあさん、辛抱しようよ。」「ああ、ええ、ええ、ええことだ。ええことをしなはった。お地蔵さんが喜びなはるわい。」おばあさんもそう言って、そのまま寝ていたら、お地蔵さんが夢を見せられたそうな。その夢でお地蔵さんは、「ええもんを巻いてごしたけど、まんだいいようなこと言うようなけど、この家へ来させてごさんか。」と言われるのだって。それから、明くる日になって、おじいさんは出かけてきて、お地蔵さんに卷いた木綿をはずして、お地蔵さんを背中に負って自分の家に連れてもどったそうな。そうして、屏風の縁にお地蔵さんを置いて、火を焚いてあたらしてあげたら、お地蔵さんの鼻の穴からポロリポロリポロリポロリ米が出だしたんだ。「ありゃあ、地蔵さんの鼻から米が出るぞ。」それでおばあさんも、「何でもええ、持ってきて受けみぃをせえ。」というので、それから入れ物を持ってきて受けて米を取っていたら、そのうちにちょこちょこっと隣のおばあさんがやって来たそうな。「ありゃ、こりゃあまあ、ええことだ。うちもその地蔵さんを貸してごしなはれえな。」と言う。「そりゃまあ、うちのお地蔵さんではないけど、お地蔵さんが行きなはりゃあ行きなはあだし、おれはおれの地蔵さんでないけえ貸せまいちゅうことは言えんけど。」言ったら、隣のおばあさんは、「まあ、何だらし借りていなにゃいけん」。と言って、それからそのお地蔵さんを借りて帰って、囲炉裏の縁から当たり当たりしていたら、やはりお地蔵さんの鼻から米がポロリポロリ出だしたそうな。さあ、そのおばあさんはひどい欲ばりだったから、「これだけじゃあ、まあ、少ない。もっとよけい出さにゃいけん。」というので、火箸を焼いてそれを地蔵さんの鼻の穴につっこんだそうな。そうしたら出ていた米がポロッと止まってしまって、もうどうしても出ないようになった。だから、欲ばってもいけないし、人の真似をして人よりようなろうと思ったっていけないから、自分相応の暮らしをするということを人間である以上、考えなければいけないからな、みんな分かったなあ。
太閤さんの歌比べ 三朝町大谷
昔、太閤さんが日本国中の殿さんを集めて、どの大名にも「歌を詠め。それまでにおまえたちに聞くが、歌というものはどういうわけでできるのか。」って聞かれたそうな。そうしたら家来のうち一人が「それは太閤さま、山と言わんでも山と思わせ、川と言わいでも川と思わせるように作るのが歌でございます。」と答えたそうな。「おう、そうか。そいじゃあ土から出(でこぶ)て言ったら山になるか。」と言われる。その家来は「それは考え方でも、まあなりましょう。」と言った。「よし、それではいい、いいが日本のここに集まっとる大名、それより一人ずつ、大きな歌を詠め。」それから次から次にいろいろ大名が詠んだけど、それは略しておいて、一番しまいごろになってから、細川幽斎という者が詠んだそうな。
  天と地を 団子に丸め 手に乗せて ぐっと飲めども 喉にさわらず
と、こう詠んだそうな。
「おう、りっぱなこりゃ大きな歌だ。褒美を取らせる。」太閤さんが感心して言われたところ、それまで黙っていた曽呂利新左衛門が「ちょっと待ってください。わたくしもやりましょう。」
  天と地を 団子に丸め 飲む人を 鼻毛の先で 吹き飛ばしけり
と詠んだのだそうな。
「はあ、はあ、こりゃりっぱなもんだ。」て、太閤さんが言われ、曽呂利新左衛門が褒美をもらったそうな。そしたら、今度は太閤さんは「日本一、ちさい歌を詠め。」と言われたそうな。そこでおのおのの大名が詠んでいったが、それから、ある大名が、
  髪の毛を 千筋に割いて 城を建て 百万えきの篭城をする
って。「う−ん、これもいい歌だ。褒美を取らそうか。」また、「待った、待った。」て言うので、また一人が、
  蚊のこぼす 涙の海の 浮島の 真砂拾いて 千々に砕かん
「う−ん、これもりっぱな歌である。これは甲乙言わずに双方に褒美を取らせる。」っていうところで、それぞれが褒美をもらったという話。
日本一の嘘つきと中国一の嘘つき 三朝町大谷
昔あるところになあ、日本一の大嘘つきがおって、日本のうちでは、もう日本国中どこへ行って嘘をつくにもつくとこがない。「さあ、これからおれは支那の国へ行って支那で嘘つきして、支那の嘘つきと競争して、どっちが強いかやってみたる。」そうして、その嘘つきが支那へ行った。
それで支那へ行って、支那の国を端から端の方も歩いて行って、「おれは日本一の大嘘つきだが、支那の大嘘つきはおるだろうか。おったら会いたいもんだ。」って、次ぃ次ぃ聞いて行きよったら、まあ、支那の大嘘つきの家へ聞き当てて、行ってみたら娘が一人おった。「おれは日本一の大嘘つきだが、おまえの方は支那一番の大嘘つきだそだが、お父つぁんどがあした。」って。「お父つぁんは日本の国の富士山が倒れかけとるっていうので、うちのお父さん、線香一本持ってつっぱりしに行った。」って。「ほーう、こいつ、えらいやつだ。」と思って「で、お母さんは。」ったら「お母さんはなあ、日本の琵琶湖が破れてかなわんで、木綿針持って縫いに行った。」って。「こりゃあ、おれよりちょっと上手だ。これに負けちゃあいけんが。」と思って「ああ、そうか。それじゃあしかたがない会わずに行くだが、ああ、ほんに去年の大きな大きな大風吹きでうちの裏にあった千貫くらいの大きな石臼が、大風で飛ばされて来てしまったが、どこへ行ったか分からんが、ここらへんに来とらんか。」言ったら「ああ、それなら裏の蜘蛛の巣に掛かってぷらんぷらんしとります。」てった。「ああ、そうか。それじゃあそれを捜しに行こう。」って。「やれやれ、きょうとやきょうとや、こりゃ、日本より支那は広いわい。おれより上手がある。」と思って、それでもどりよったところが、その嘘つきが逃げた後にお父さんがもどってきて「だれか来なんだか。」「やぁ、日本の嘘つきが来た。こういうわけでお父さんを聞いたから、日本の富士山が倒れかけて線香でつっぱりしに行っとる、って言ったる。お母さんは、って言うけえ、日本の琵琶湖が破れかけとるので木綿針と木綿糸で縫いに行っとる、って。そしたら逃げがけに、大風吹きで裏の石臼が千貫ぐらいのやつが飛んで逃げてしまったが、どっか来とらんか、ちゅうけえ、裏の蜘蛛の巣にひっかかってぷらんぷらんしようけえ持って帰れ、って言ったら、恐れ引っ込んで飛んで逃げて行きよった。」「ばかたれめが。そがなことでいなしてどがするだい。おう、髪の毛の一本でも抜けるやな嘘をついて行かせにゃいけぬわ。どっち行った。」「さあ、どっち行ったか分からん。」「よし、おれがぼっかけて行って、頭が禿になるほど嘘ついて恐らかいたる。」そいからお父さんは飛んで出たって。さあ、その後へ今度ぁお母さんがもどってきたそうな。「お父さんはどがした。」「お父さんは初めに日本一の大嘘つきが来て、おれと話をして、それからお父さんはどこへ行ったかちゅけえ、日本の富士山をつっぱりしに行った、言った。お母さんは、て言うけえ、琵琶湖に木綿糸と木綿針で縫いに行った、って言った。石臼が大風で飛んで来たが来とらんか、て言うけえ、裏の蜘蛛の巣にかかっとるけえ、持っていね、ちゅうたった。そがしたら恐れて行ったところをお父さんがもどってきて、よし、そいつ、なら、追っかけて行って、髪の毛が抜けるほど嘘をついたる、って、それでお父さんはその大嘘つきの後を追うて行ったって。お母さんはお父さんが負けたらいけんけえ、髪剃ってあげるけえ、一生懸命仏さんを拝みなさい」ちった。そいでお母さんの髪をつるつる坊主に剃ってしまって、そいからお父さんが負けちゃあいけんちゅので一生懸命、仏さん、拝みよった。そこへお父さんがもどってきて「ああ、どこへ行ったかとうとう見失った。残念なことをした。だれだぁ、そこへおって何だか神さん拝みよるのは。」と言う。「ありゃお母さんだ。」「何であがんことになったか。」「お父さんが髪の毛の一本でも抜けるような嘘をついて見い」って言いなはったけえ、髪の毛の抜けるようなやつぁなかなか抜くことは抜かなんだけど、まあ、剃ることは剃ったけえ、これでお父さん、こらえなぁれ。」って。「こんなばかたれっ。日本の嘘つきにやつう剃ったろうと思うに、とにもかくにもお母さんの髪剃って何するだぁ。」てって怒ったけど、どがぁもならなんだ。 剃ってしまったことだけえ、で、おしまい。
猫檀家 三朝町大谷
昔あるお寺で猫を飼っていた。和尚さんが寝るときにはいつもちゃんと足拭きを枕元に置いて寝ても、明くる朝間、和尚さんが起きてみると、その足拭きがたいそうびしょぬれになっている。それが毎日続くので、和尚さんが、「不思議だなぁ。」と思って、ある晩、寝ずにいたら、お寺で飼っている猫がやって来て、和尚さんのその足拭きをくわえて出てしまった。「はあて、どこへ行くかなあ。」と思って、和尚さんが猫の後をつけて行ったら、村はずれのお堂まで行った。そこにはたくさんの化け猫たちが集まって、一生懸命でみんな踊っている。よく見たら、お寺で飼っている猫もその中に混じっている。そして汗が出るほど踊ると、猫は和尚さんの足拭きで汗を拭いていた。「はーあ、そういうことかなー。」和尚さんはそれを見届けてもどって、明くる朝、「猫や、ちょっと来い来い。おまえはなあ、長い間、このお寺で飼ぁてやったけど、今日限りこの寺から暇をやるから出て行きなさい。夕べおまえが仲間と一緒に踊りよったのを見たから、隠しゃあせんけえ言って聞かせるが。その代わりおまえがどこへ行っても、猫の仲間でバカにしられんように、ありがたぁいケツマクぅやるから、これもって行け。」と言われた。猫は悲しそうに、その和尚さんからいただいたケツマクを持って出て行った。それから、どれくらいか経ったときに、よい若い男がお寺へやって来た。「和尚さんはおられますかな。」「はいはい。」と小僧さんが出て言う。「和尚さん、お客さんがありますが。」「うん、ここに通せ。」それから、そのお客さんが、「和尚さん、しばらくです。わたしはこのお寺に長いこと置いてもらっていた猫です。ありがたいケツマクをもらったので、どこの仲間へ行ってもバカにされず、頭で通りおります。そこでお礼に和尚さんに大出世をしてもらいたいと思ってやって来ました。今から何日ぐらい先に不幸があって葬式があります。その葬式にゃ亡者はカシャの餌食になっとるけえ、それでどうしても大騒ぎになります。そのときにゃ、どの和尚が来てもかないません。そのとき『あんたのとこの和尚でなけにゃいけんぞ』ってことになります。そのときにゃ来てごしない。それで『ああ、やっぱし、あの和尚はえらい』ちゅうことになって、出世してもらいますけえ。こりゃ嘘ではない、本当のことですけえ、待っとってください。」と言って帰って行った。それから、何日か経って、「あのときのこと、客が何こそ言うだら。」と和尚さんが思っていたら、使いが本当にやって来て、「どこそこの和尚さんですか。実はこういうわけで新亡があったけど、どこの和尚さんが来ても始末がつかん。それであんたでなけにゃいけんちゅうことになった。それであんたに来てもらわにゃいけんだ。」と言う。「そうか、なら、行こう。」そうして、その和尚さんが行って、家の座敷に上がってお経を読んで、棺を出しかけたら、一天にわかにかき曇り、外がたいそうな大雨風になってきた。そうしているうちに囲炉裏の方にいた者が、「そりゃ、えらいこった、えらいこった。鍋下ろせ、鍋下ろせ。ほりゃカシャという化けが下りたぞ。」と言った。化物が自在鈎を伝わって下りて来るのだそうな。そして、下りてきた化物が棺桶の近くへ寄って来て、「どこそこの和尚さえおらにゃええと思っとったら、その和尚が来たけえ、持って帰るわけにはいかん。」と言った。その和尚さんは棺桶の上にあぐらをかいて、「取れるもんなら取ってみい。」と言って、ホッスを持って払ったら、化物は、「とてもかなわんぞ。逃げろ、逃げろ。」と逃げてしまった。それでその和尚さんはそれが評判になって、それから大出世をしたという話だ。
ヒガンとヒイガン 三朝町大谷
昔あるところに姑さんと嫁さんと仲が悪うて、こりゃ日本どこへ行ってもあることだけど、いろいろ話が衝突しよったら、そのうちになあ、春先の彼岸が来るようになって「はあ、もうすぐヒガンだ。」って姑さんが言いなったら「ありゃあ、お母さん、ヒガンではない、ヒイガンだ。」言うて「ヒガンだ。」「ヒイガンだ。」って「そがなことなら、お母さん、お寺へ行って和尚さんに聞いてみようだないかいな。」って「おう、それ、それ、それに頼まにゃいけん、和尚さんはよう知っとりなはるだけえ、和尚さんに聞いて、そっで和尚さんは、こがあにって言いなはったらなあ、どっちの分も文句を言わんぶんにしよう。」って。で、そういう話につけといて、そいからまあ、嫁さんは野良仕事に出んならんけえ、出とる。その後へ母さんの方がお寺へ行った。木綿を一反と米を一升持って、お寺へ参って「じつは和尚さん、こういうわけですが。」「うーん。ようあることだけえなあ、うん、よしよし、分かった、分かった。ええ仲裁したるわいや。」てって、姑さんはもどるし、そいから何日かおいて、嫁さんが行って、そいから「和尚さん、こういうわけだ。」「うーん、こないだお母さんが来て言うとったわい。よしよし、分かった、分かった、ええあんばいに仲裁するわいや。」ちって、そいから「まあ、おまえらちなあ、姑さんといっしょに話ぅ決めて、いっしょに来にゃあ一人ずつじゃあいけんけえなあ、いっしょに来いよ。」それで嫁さん、帰って。それから、今度、もう日にちを決めてお寺へ参って「じつは和尚さん、こういうわけですじゃが。」「うんうん、分かった、分かった。このものはなあ、所ぃよっていろいろあるけど、まあお寺の方から言うとなあ、これはお寺の仕事だけえ、これはお寺の方から言うとなあ、このことは一週間あって、前の三日が『ヒガン』、後の三日が『ヒイガン』、その間に一日『中日』いうもんがある。その中日にゃ、木綿が二反と米が二升持って参るやになっとるだけえなあ、みんなその都合に考えとれよ。」って和尚さんが仲裁したって。
馬子と山姥 三朝町大谷
昔あるところになあ、馬子がおって、毎日毎日荷物を持って出て、またもどりにゃ何かを馬に負わしてもどりよった。あるとき、魚を買うてっても、正月の鰤(ぶり)を買ってもどりよった。山姥(やまんば)が出てきて、「馬子、馬子、われが持っとるその鰤を一本ごせにゃあ、われを取ってかんだるぞ」てって。−ええ、気味悪いなあ−と思って、「はあ−い」てって、一番こまいやつを一匹やったら、ぼりぼりぼりぼりかんで、「まあ一本ごせにゃあ、かんだるぞ」てって。みな鰤をやってしまって、「もうないか」てって。「もうないわ」て言ったら、「馬の足を一本ごせえ」て言って、「馬の足はよう出さんわい。どあして切っだい。よう切らんわい」てって馬子が言う。 山姥は、やっぱり、「馬の足、はや、切って出せ」て言う。馬子は、「切ってって、よう出さんけえ。馬ほだぁこらえてごせ」ったら、「まあ、しかたはない。こらえたるわい。は−あ、は−あ、腹が太い」で、いんでしまったって。ああ、馬子は腹が立ってかなわん。よ−しよし、どこへ逃げるか見たると思って、それから後をつけて行ったら山姥の家へもどってきて、「や−れ、腹が太い太い、あ−太い太い、や−あ−鰤を食ったらうまかったけど腹が太い。鰤ばっかしならいけんけえ、何ぞ口直しをせにゃいけんなあ」。そいから、「まあ、ほんに餅を取っとったけえ、餅を焼いて食ったろうかい」。そいから餅を囲炉裏へ焼いて、そいからこてこてしよったけえ、その間に馬子はアマダへ上がって、長い棒をとぎらかいて、そいからのぞいとったら山姥が逃げたけえ、その留守へもって餅をめがけて穴から棒を突き刺いて持ち上げて取ってしまう、「ありゃ、ないぞ」てって。「ああ、わればっかりいい目をしたっていけんていう、神さんがなら、取りなはったかも知らん。なら、もういっぺん焼かかい」って、そいからもういっぺん焼いて逃げたやつう、今度ぁ半分ほど取っとったら、もどってきて、や、その半分の餅を食って、「や−れ、腹が太い太い。や−れ、腹が太い太い、どこへ寝ようかなあ。あ−あ、どこへ寝ようかなあ」って。「釜へ寝」って馬子が……「ああ、神さんが釜へ寝って言いなはるけえ、釜へ寝よかい」言って、そいから釜へ行って寝たら、ぐ−ぐ−ぐ−ぐ寝だいたげな。−ああ、もうしめた−と思って、それから馬子がアマダから下りて、釜に蓋ぁして、そこら周りにある石をみんな乗して、そいからその方に行って枝ぁ求めてきて、そいから枝をぺちんぺちん折って、その火を焚くやあにぺちんぺちんいいよった。「ああ、ぺちぺち鳥がう−たうけえ、やんがて夜が明けよぞ」言いて。ぐ−ぐ−ぐ−ぐ−しよったら火が燃え出いて、どうどうどうどういい出いた。「ああ、どうどう鳥がう−たうけえ、やんがて夜が明きょうぞ」言いよったら熱うなってきて、「熱い、熱い、熱い、熱い。こらどういうこった。まあ、熱いわ、熱いわ」言って。「熱いは当り前だ、おどれが。鰤をくらったり何だいするけえ、おれは馬子だ。かたき討ちだ、覚えとれ」ちって。「あ−、こらえてごしぇ、鰤はもどすけえ」「どがしてもどすだい。もどいてもらわいでもええけえ、おのれ焼き殺いたる」「こな馬子、こらえてごしぇや、こらえてごしぇ」言ったけど、とうとう山姥は焼き殺された。それで悪いことはしられんだあぞ。分かったのう。
猟師の隠し弾 三朝町大谷
昔あるところに猟師がおってなあ、毎晩毎晩鉄砲撃ちに出ていた。そうしてこの晩もいつもの通り鉄砲の弾を込めていたら、いつともなしに囲炉裏(いろり)の隅から自分の飼い猫が、それをじっと見て、猟師が弾をいくつ込めるのか数えていたのだって。それでも鉄砲撃ちは何にも知らずに鉄砲に弾を込めた後、出る支度をするのだって。それから、ご飯を食べようとふいっと見たら、いつもあるはずの茶釜の蓋がない。「あれっ、いっつも蓋があるのに何で今日はないだらあかいな。」と思って見たけれど、どうしても見つからない。しかたがないので猟師は茶釜の蓋はなくても、それで茶をわかして、飯を食って出た。実は鉄砲撃ちが鉄砲に弾を込めるのを見ていた猫が、その茶釜の蓋を持って逃げていたのだった。それとは知らずに鉄砲撃ちは飯を食ってから出かけて行った。山の尾根を越えてずっと山奥まで行くと、そこで光もんが出たのだって。
「ああ、こいつ、何者だ。」と思ってねらいを定めて鉄砲で撃ったら、カーンと音がして弾ははじき返された。また撃ってもカーンとはじかれる。猟師はありったけの弾を撃ったけれど、みんなカーンとはじかれてしまった。「はて、不思議なもんだて。」 猟師はそう思いながら、とうとう最後に別に持っていた隠し弾を取り出して、その光ものに撃ったところ「ギャ−ア。」という声を出して何者かが倒れたのだって。猟師が急いで行ってみると、そこには自分の飼い猫が死んでおり、そばには「ない、ない。」といって捜していたはずの、あの茶釜の蓋が転がっていた。それは猫が茶釜の蓋を持って、鉄砲撃ちが弾を撃つと、その蓋を前へ出してカーンと当てて弾を防いでいたけれど、いよいよ弾の数が尽きたと思ったので、猟師が隠し弾を持っていることまでは知らずにその蓋を離したため、今度は弾をはじくことが出来なくて身体を撃ち抜かれて死んだのだって。それで、鉄砲撃ちという者は、弾を数えてはいけないし、また、女房や子どもにもだれにも知られないように、隠し弾の一つや二つは持っていないといけないそうな。分かったかね。
不思議な扇 三朝町大谷
昔。あるところにたいへんに信心をする人がおった。その人が60日に1ぺんずつ来る庚申(こうしん)さんを本気で祭っていた。そうしてまた次の庚申さんのときにも、一生懸命にお供えをして拝んでいた。そのようなある庚申さんのときに、ふっと夢に見た。「いいもんやるから目を覚ませ。」と庚申さんが言われたので、目を覚ましてみたら、自分の目の前に扇が1つ落ちていたんだ。それでその扇をほっと取りかけたら「右であおげば長くなる。左であおげば短くなる」とどこからか声がする。それだけ聞いて、その人は「ふん、ああ、目が覚めた。」と思って、それから「こんないいものもらったけん、どこぞええとこへ、遊びに出てやらい。」というので、その人はそれから次々と出て行って大阪まで出たら、鴻池の娘さんが、格子から外をのぞいていたそうな。
「よーし、こいつ1つ試いてみたれ。」と思って、右でこうあおいだら、その格子のところにのぞいて見とった娘さんの鼻が、ぐーと3尺まで伸びた。「いやー、こりゃえらいことになった。」というので、その家では大騒ぎで、いや医者だ、何だで騒いで見とるけど、いくら医者が来てもひっこまない。
「困ったもんだなあ。」と言っていたら、その人は自分がやっぱり悪いことしているから「治るもんか、治らんもんか、また治いてみにゃあいけん。」という気になって、またず−っと後に帰ってきて「えらいこの家はそわそわそわそわしとられますが、いったいどがなことですかな。」「いや、おまえたちに言ったって分からんけど、娘さんがのぞいとったらなあ、何だか知らん、鼻がいっぺんに高んなって、大騒ぎだった。」「へ−え。そりゃあ気の毒なことですなあ。いや、わたしゃあ拝むぶんですけえ、わたしでよけりゃあ、ちょっと拝がましてもらいたいですけど。」「それならええことだ。入ってごせえ。」ということで、その人は中へ入って行った。
けれども、その人は拝むことは知らないし、まあ、いいかげんなことをしゃべっておいて、それから今度は左の手でぱっと「5寸ほど、5寸ほど」と扇いでみたら、鼻が5,6寸ほどずっと短くなる。「はーあ、こりゃええ。」と娘さんも気分がよくなってくる。
それからその人は、その晩に一晩泊めてもらって、明くる日、モモヒキを履いて家から出かけたら「あんた、どこへ行かれますか。」「いや、わしゃ用があって出ようかと思っとる。」「待ってくださいよ。ここで逃げられちゃあ困る。鼻が元の通り治るまでおってもらわにゃあいけん。金がいるなら金は出しますから。」と引き留められてしまった。
それでとうとうまたひっぱり留められて、それでも何日もいるわけにはいかないので、朝1寸、昼1寸、晩1寸ぐらいずつ、少しずつ少しずつお嬢さんの鼻を縮めるようにしていって、もう3日ほど泊まっていて、で、元のとおりに治したそうな。そうしたら「や、こりゃ命の恩人だ。」というので、その人はたいへんにもてなしてもらい、お金ももらって、それで涼しい顔をして国へ帰ったって。
食わず女房 三朝町大谷
昔あるところへなあ、一人暮らししとったもんがおっただけど、その分が欲で欲で、嫁さんをもらったって、嫁さんに食わせるもんが惜しいって。それで一人暮らししとった。そうしたら「わたくしは飯も何にも食わいでもええけえ、嫁さんにしてください。」って、来たもんがおる。それでその人は「いやー、こりゃ飯ぃ食わせえでもええ嫁ならもらわあかーと思って、もらって。そんで何日たっても飯を食わん。
「ほんに、こいつ、飯を食わあでもええやつだらあか、何だらかなー」と思って、そいからある日に「おれぁ、ちょっと用があるけぇ出てくるけえ。」ちって、そいから出たふりをして、あまだへあがって、さ−っとのぞいて見たら、その女が釜へいっぱい飯を炊いて、そいから髪ぃばらばらに分けて、その中へ飯を取っては入れ、取っては入れして、そいからみんな飯を入れてしまって、そいから髪を元の通りにしてしまった。「はーあ、やっぱりこいつ、蜘蛛の化けだったか。しかたがないー。」
それからもっどて知らん顔をしとって、 そいから明くる日に「なんと、長いことおってもらったけど、おまえ、いんでごせ。」言って「ああ、気に入られんちゅうことならいにますけど、なら、あの、今まで働いた分に、桶を一つ買ぁてごしなはれ。」って。「ああ、桶なら買ぁちゃる。なら、待っちょれ、買ぁてくるけえ。」て、そいから桶を買いに出てもどって「なら、まあ、これでええか。」ったら「うん、ええ、ええ。」って。そいから「まあ、帰りますけえ。」って、言ったと思ったら、その男を桶の中へぽいっと投げ込んで、ふいとこふいとこふいとこふいとこ山の中へ入った。
さあ、その旦那さんは桶から出ようはないし、困っとったそうな。「あああ、まあ、ちょっとたばこしょうかい。」って、その女がたばこしたところに、えんまに上の方から木の枝が出とった。その木の枝へさばってぐ−っと浮き上がって、やっと助かって、そいから「どこ行くだらあかとー。」思って後をそろーっとつけたら、奥の方に帰って「お−い、もどった、もどった。おまえたちにええおかずを取ってもどたったけど。」って、そいから桶を見たらないだけえ「ありゃ、どっかで抜けて逃げたかなあ、まあしかたがない。」って、そうしよったら神様のお告げに「そりゃ、あの女房は蜘蛛の化けだけえ、それで旧の五月の節句にゃ菖蒲と蓬と茅といっしょにくくって、屋根へ飾っとけ。そうすりゃあもう来んけえ。」「やれ、こりゃありがたいことだ」と思って、そりょうもどってすぐやったら、来なんだって。
それで今でも旧の五月の節句にゃその屋根を替えるちゅうことに、昔話でずっと伝わってきとるだけえ、それを今でもするやになっとる。それだけが昔からの伝わりだぞ、よう覚えといてよ。
サバ食い山姥 三朝町吉尾
昔々、馬子が馬を追って八橋の町にサバ買いに行って、帰って来ていたら、山姥(やまんば)が出て来た。「馬子殿、馬子殿、サバ一本ごっされ。」「こら殿さんのサバだけえ、ようやらん。」「なら、おまえ取って噛む。」
馬子は怖くなったのでサバを一本出してやったら、山姥はまた、それ食べて馬子に追いついてきて、「馬子殿、馬子殿、サバ一本ごしぇ。そっでなけにゃあおまえを取って噛む。」と言う。
馬子は、「しかたがないけえ、みんなやらぞ。」と言っといて、サバを下ろいしておいて馬といっしょに走ってもどっていたら、山姥はそのサバをまた食べてしまって、また追いついて来た。「馬の足、一本ごしぇえ。」と言う。馬子が、「こりゃ殿さんの馬だけえようやらん。」と言ったそうな。山姥は、「そうでなけにゃあ。おまえ、取って噛む。」と言う。仕方がないので馬子が馬の足を一本やって、三本足になった馬を走らせていたら山姥が、また、追いついてきて馬のもう一本の足を食べてしまった。
山姥は、「また、ごしぇ。」と言う。馬が二本足になってしまえば、もう歩かれないので、馬子は、「みなやったぞ。」と言っておいて自分一人で走って走って帰っていたら、野中の一軒家が見えたので、「やれやれ、助かった。」と思って、そこに飛び込んだって。「ごめんください。ごめんください。」と大声を出しても、その家からは返事がない。馬子は、「まあ、しかたがないわい。この家に泊まらしてもらったらいわい。」と思って、囲炉裏のアマダに上がっておったら、なんとそれがちょうど山姥の家でだったそうで、山姥が帰ってきたそうな。そうして山姥は、「ああ今日は、うまくサバ食い、えっと食ったけど、餅一つ焼いて食わあかな。」と言ってて、 餅を囲炉裏に焼いておいて、醤油を取りに向こうの方へ行った。それで馬子がアマダの上から棒を下ろて、その餅をちょいと突き刺してアマダの方に上げて食べてしまったら、やっと山姥が醤油を持ってきて、こう囲炉裏をほぜってみたけれども、餅がないものだから、また山姥は餅取りに行ったそうな。その間に、馬子がまたアマダから竿を下ろいて醤油をつきこぼいてしまったそうな。山姥は餅が焼けたので食でようと思ってよく見ると、醤油がないのだって。それでまたまた醤油を取り行った間に、馬子がまた餅を突き刺いて食ってしまう。帰ってきた山姥は餅がなくなっているのに気がつくと、「ああい、なんぼしても今日はえらいこった。だけどまあ、サバや馬やえっと食ったけえ、今夜はこれで寝るとしょう。さてわしはアマダに寝ょうか、納戸に寝ょうか。それともオモテに寝ょうか、そうだ。いっそのことアマダに寝ょう。」と言ったそうな。そしてぎっちりぎっちり上がってくるそうな。それで馬子が怖くなってプ−ッと屁をひったら、山姥は、「アマダは臭い。いっそお釜に寝よう。」と言って大きな釜の中に入って寝たのだそうな。それから馬子がそろりそろりとアマダから下りて行くと、ギチギチときしむ音がする。すると釜の中では山姥が、「ギチギチ鳥が吠えるけえ、いんまに夜が明きょうが。」と言っているそうな。それから馬子がまだ暗いうちにそろ−っと山姥の寝ている釜に蓋をして、それに大きな石を乗せて、そいからクドの窯に火を焚くとドウドウと燃え出したそうな。
その音を聞いた山姥は、「ドウドウ鳥が吠えるけえ、山に夜が明けるが。」と釜の中で言っていたら、釜が熱くなってきたので、「馬子殿、馬子殿、こらえてごっされ。部屋の隅にもオモテ(表座敷)の隅にも金がいっぱいあるけえ、それをみんなおまえにあげるけえ、こらえてごしぇ」と叫び出したそうな。けれども馬子はそれには取り合わず、「いんや、馬食いサバ食いした罰だけえ。」と言ってどんどん火を焚いて山姥を焼き殺してしまったそうな。そうしておいて表座敷や部屋を見たら、何かの骨やなんかばっかり転がっていたのだって。
猿神退治 三朝町吉尾
昔々、宮本左門之助っていう侍が諸国を回っておられたところが、大きなむく犬を鎖で縛って、したら、その犬がぽろりぽろり涙を出いとっただ。で「何でこがしてあるだか。」「この家の人にかみついたりするで、そっでこがぁにしてあるだ。」って。「なら、わしにくれんか。」って言われたら「あげますのなんて、連れて逃げてください。」って。そっでその犬もらって次の村に行かそうな。そうしたら、みんなが泣いとっだ。あれの家もこれの家もみんな泣いとるで「なんちゅうとこだ。こら泣き村ちゅうとこだか。」って言って聞かれたら「泣き村じゃござんせんけど、ここの氏神さんは祭りに若い娘を御供にあげにゃあならん。そっで今年は庄屋の娘さんに白羽の矢が立って、そっでみんながごがしていとしゅうて泣いとります。」って言ったそうな。宮本左門之助は「神さんが人助けしられなならんやな神さんが、人御供をあげられるなんて不思議なことだ。まあわしに任してごさんか。」って櫃をこしらえて中に境して、片一方にはその庄屋の娘さんを入れて、蓋が開かんやに釘で打ちつけて、片一方にはその犬を入れて、蓋がそっちゃ取れるやにして、村のもんはそのお宮さんにになって上がって置いといて帰ってしまったそうな。そんなら宮本は舞殿の下に鉄砲に二つ弾込んでねらっとったら、夜中になったらギ−ッてってお宮の戸が開いて、おじいさんとおばあさんと出てきて、そっで「おい、若い者、若い者、今日は祭りだけえ、みんなが出て来い、出て来い。」て言われたら、たくさん出てきて、踊れや歌えや相撲もあるしして、いろいろしよった。「だいぶん夜も更けたけえ、こっから御供をほんならいただくことにする。蓋はぐってみい。」って。たら、人が若いもんが蓋はぐりかけたら、犬がうなっとるだけえ「ようはぐらん。」って言う。「おまえたちがようはぐらにゃ、柴被りの伍兵を呼んで来い。」そっで呼びに行ったら、その伍平がひょっこりひょっこり来たそうですけど、はぐりかけてみたら、その犬がおるだけえ「これまでと違うけえ、おらは御免こうむります。」てってひょっこりひょっこりいんでしまったって。若い者はようはぐらんて言うし、そのおじいさんが「まことに愛想のないやつらばっかしだわい。」てって、杖もってひょーいと開けられたら、むく犬が出てあちこちあちこち若いもん、かみついてかみ殺し、で、おじいさんとおばあさんはそのお宮の中に戸を開けて入りかけられたところを、その宮本が鉄砲でねらっとって撃って、そうするうちに夜が明けたら「どうせ生きておらんだも知らん。」てって村の衆が総出で来てみたところが「これこれだ。」って。 みんな若い者らちはタヌキやキツネの子や古ダヌキの夫婦で、それをみな犬が噛んだ。そっで、その宮本さんに礼を言ったら「わしに礼を言うよりゃあ、礼を言われるならこの犬に礼を言ってやってごしぇ。」って言って「犬のお手柄だけえ」。そっで村の人も喜んで「もうこうからは御供やなんかあげえでもええ。」その肉ぅ料理して食べて喜んだって。
にせ本尊 三朝町吉尾
この村に庄兵衛というおじいさんがあって、町に牛を追って何かを持って出たり、買ってきたりする仕事で町通いをしていました。ところが、このしもの細越というところにキツネがいて、人に悪さしたり、だましたりなんかします。ある晩、庄兵衛が遅くなって牛を追いながらもどって来ていたら、若いきれいな娘さんが現れて、庄兵衛さんに話しかけてきました。「どこまで帰んなはる」「吉尾までいぬる」「おれもそっちの方にいくけえ、なら、乗せてくれ」。庄兵衛さんがその娘さんを、ひょ−っと抱き上げて乗せかけたら、とても軽いので、「ははあ、こりゃあ、おれに悪さする手だな」と思って、とてもしっかりと牛の背に縛りつけました。「そがにようにからみつけてごしなはらでも、落ちらせんけえ」と娘さんは言うけれども、庄兵衛さんは、「いんや、落ったときにゃあ悪いけえ、ようにからみつけないけんけえ」と答えて、やはりしっかりと牛の鞍に縛りつけました。そうして、やがて吉尾の入り口まで帰りました。「ここでええけえ、おろいてごしぇ」。「だけどせっかく来なはっただけえ、うちまで行か」。庄兵衛さんは、その娘さんを自分の家まで連れて帰って、「おばあさん、お客てらってもどったけん、鍬の鉄焼け」と言います。というのも、庄兵衛さんは娘をキツネと見破って、その鍬の鉄でキツネを焼くつもりだったのでしょうねえ。そして牛をつないで娘を下ろすようになったら、その娘はひょい−っと馬から飛び降りて、家の中に飛び込んでしまいました。
「どこに行った。どこだし出るところはないだが」と庄兵衛さんやおばあさんが、いくら部屋の中を捜してみても、さっぱり分かりません。 それから、二人が表座敷に入って見たら、仏壇の上段に本尊さんが二つ同じように、こう並んでおられます。どちらが本物でどちらがキツネの化けた偽物のホゾンさんか分かりません。それで庄兵衛さんが、おばあさんに、「こりゃ、どっちがどっちだか分からんけど、うちのホゾンさんはお茶すえると、たいへん喜んで鼻もっけれもっけれさしなはるけえ、お茶、まあ、すえてみてごしぇ」と言いました。おばあさんがお茶を供えますと、計略にかかったキツネの本尊さんが、そうとも知らず鼻をもっけれもっけれと動かしました。それで、「ああ、こいつだ、こいつだ」と庄兵衛さんが鼻を動かした方の本尊さんを捕まえて、その鍬の鉄をひっつけたりして仕置をしました。
そうしたところ、キツネは、「おれが悪かったけえ、このへんにゃあおらんけえ、こらえてごしぇえ、逃がいてごしぇえ」と懸命に謝まりました。そこで庄兵衛さんも、「このへんにおって悪ことせにゃあ、逃がいたるけえ」と約束さしてから、キツネを逃がしてやりました。そいから何年か経ちました。庄兵衛さんがはるばる旅をしてお伊勢さんに参っていたら、そのお伊勢さんの薮から、ばっさばっさとキツネが出てきました。そして、「伯耆の庄兵衛、伯耆の庄兵衛」と言いいます。「だっだかーと」思って見たら、すっかりやつれたあのキツネが出てきました。「よそに来たけど、『ここはおれが領分だ』『ここはおれが領分だ』てって、いっかなおれがハン(領分)にすうとこがなあて、このやにやせてしまった。もう悪ことぁせんけえ、もどいてごしぇ」と、そのキツネが頼みます。 庄兵衛さんはそれを聞いて、「なら、悪ことしぇにゃあもどいたるけえ」と言って、そのキツネを元の細越へ帰してやりましたと。
化け物問答 三朝町吉尾
昔あるところに修行僧がやって来た。日が暮れかけていたので、ある家へ寄って「泊まらしてくれんか。」と言ったら、家の人は「ここは年の内にゃあよう泊めんけど、奥の山寺にお化けが出るだてって、みんなよう行かんやな寺がある。そこでもよけりゃ行って泊まんなはい。」と言う。「どっこでもええ。雨露がしのげられりゃ、どっこでもええけえ、泊めてごしぇ。」と言って、その僧は寺へ行って泊まっておった。そうして、その修行僧が讃を一心に拝んでおられる最中に、何だか上の方がピカピカピカピカ光って、光ったと思っていたら、ドスーンと大きな音がして何かが現れたようなので、僧がのぞいてみたら、大きな坊主が座っておったって。そしたら、外の方から、生温いような風がどーっと吹いてきたと思ったら「テッチン坊、うちか留守か。」「うちでござる。どなたでござる。」「トウザンのバコツ。」「まあ、お入り。」そうするとまた、坊主が入って来る。そいから、また「テッチン坊、うちか留守か。」「うちでござる。どなたでござる。」と言ったら「サイチクリンのケイ。」「まあ、お入り。」また「テッチン坊、うちか留守か。」「うちでござる。どなたでござる。」と言ったら「ナンチのリギョ。」「まあ、お入り。」また、もう一人がやって来て「テッチン坊、うちか留守か。」「うちでござる。どなたでござる。」と言ったら、「ホクヤのビャッコ。」「まあ、お入り」。と言う。そうして大きな入道みたいなものばっかり五人もおって、ごよごよごよごよ話している。「何だか今夜は人臭いやな。」と言い出した。しかし、その修行僧のお坊さんは仏さんを一心に拝んでおられたら、仏さんの教えがあったか、どうかは知らないけれども「ここにおって、噛まれて死ぬるより、いっそ出て、その仏さんの教えられたことを言ってみたろうか。」と思って、襖を開けて出て「テッチンボウと言うのは、この寺を建ったときに使った椿の杵だ。消えてなくなれ。」と言いなはったら、パターンと消えてしまった。それから「トウザンのバコツちゅうのは、この寺の東の方のすぐ薮だか何だかにおる馬の頭だ。消えてなくなれ。」と言った。そうするとそいつはパターンと消えてしまうし「ナンチのリギョちゅうのは、この寺の南の方に大きな池があって、そこに住む古い古い鯉だ。」こう言うと、そいつもまたパタンと消えてしまう。「ホクヤのビャッコちゅうのは、この寺から北の方に向かって、広い野があって、そこにおる白い狐だ。消えてなくなれ。」と言ったら、またパタンと消えるし、みんな消えてしまったって。そうしているところに、夜が明けかけてきたら、村の人が「また、あの坊主も噛まれてしまっただらぁか、どがにしとるか行ってみたれ。一人や二人ではいけんけえ、みんな村中行ってみたらぁ。」と言って、村の衆みんなで寺へ上がって「何ぞが出りゃせなんだか。」って言うと、修行僧は元気でおったそうな。そして修行僧は「出たとも出たとも。今日はまあ、捜いてみてごしぇ。」と言いなさるので、梯子をかけてアマダへ上がってみたら、アマダの隅からピッカピッカピッカ光るもんがある。「あれがテッチン坊だ。」と言ったのはよかったけれど、とてもこわいので、「おまい、先行け。おまい、先行け。」と言いあっていたが「いっしょに行かぁ。」ということになって行ってみたら、ほんとに椿の杵だったそうです。それを下へおろして割ったところ、精が入っていたので血が出たそうな。それでお坊さんが「椿の木では藁打ち杵はするんじゃない。精が入っておったんだから。」と言ったそうな。それから、ずーっと村の人が捜し回って、南の方の池を干したら大きな鯉がおったので、そいつを捕ってきたり、北の方に行って、昼寝している狐を捕まえてきたり、まだ西の方に行って竹薮の中に古い鶏が一羽おったのを捕ってきたりして、それを肴にみんなで盛大に酒盛りをしたそうな。そのうち修行僧がみんなに「なんとこの寺を、わたしにくださらんか。」と言ったら「いや、あげますのなんて、ここで信心してごされりゃあ、喜んでおまえさんにあげます。」ということになった。そしてそこはりっぱなお寺になったという話。
法事の使い 三朝町吉尾
昔あるところに兄貴と弟と二人あったそうです。それが両親が死んでないそうです。
ある日「お父さんの法事する。」と兄貴が言いました。その弟はブツという名だったそうです。で「ブツや、お父さんの法事すっだけえ、おまえ、お寺さんに行って和尚さんを迎えて来い。わたしは何ぞかんぞせなならんで忙しいけえ。」と言いますと、ブツは「和尚さんはどこに、おられるだや」と聞きます。「お寺の高いところに黒い着物着ておられるけえ、行って呼んで来い。」と教えますと、ブツは出かけました。さて、ブツがお寺に行ってみたら、お寺の屋根にカラスが止まっていました。それを見てブツが「和尚さん、和尚さん、うちのお父さんの法事するけえ、来てごしなはれ。」と言ったら、カラスは「アホウ、アホウ。」って逃げてしまったそうです。「兄さん、兄さん、『法事するけえ来てください。』てったら、『アホウ、アホウ。』てって和尚さんは逃げてしまったで。」「そら、カラスだがな、もっぺん行って来い。和尚さんは赤い着物着とられるけえ。」と言いますと、またブツは出かけました。お寺の入り口まで行ったら、赤い馬がつないであったそうです。そうしたらブツは「和尚さん、和尚さん、おとっつぁんの法事するけえ、来てください。」と言いました。そうしますと馬は「ヒヒヒヒ−ン。」と笑っていて来ません。またブツはもどって来ました。兄さんは「まあ、そりゃ馬だわな。わしがご飯を炊きかけとっだけえ、そうなら、わしの方が和尚さん、呼んでくるけえ、おまえ、このご飯のう、見とってごせ」と言ったそうです。ご飯が煮えたって、ブツブツブツブツ言いだしたそうです。ブツは「おい、何だいや。」「おい、何だいや。」と返事をしても、まだまだブツブツブツブツ言っています。ブツは怒って、火すくいに灰をすくって釜の中にパ−ッとかけました。それでもまだブツブツいうので「困っとったとっこだ。」と言っていました。兄さんはお寺さん迎えてもどったら、ブツが釜に灰を入れていますから「お寺さんにそねなご飯は出されんし、困ったなあ、まあ、なら、甘酒なと出すだわい。」と言いました。アマダ(火棚)のハンドウ(水壷)に甘酒が作ってあったそうです。それで、兄さんは「それなら、わしが方が、そらに上がって下ろすけえ、おまえ、ケツぅつかまえておれ。」と言って、そうして、「じっとつかまえとれえよ」とハンドウを少し動かして、ブツに「つかまえたか。」と言いますと、「つかまえた。」と返事しました。さらに「じーっとつかまえとれぇよ」と言います。するとブツは「つかまえた。」と言うものですから、兄貴が手を離したら、甘酒のハンドウは、下にガジャ−ンと落ちて、兄貴が「つかまえとれ言うに、何でつかまえとらなんだら。」と怒ったら、ブツは自分のお尻を爪櫛の立つほどきつくつかまえておったそうです。それで「甘酒もいけんやになったし、なら、まあ、わしがこうからなあ、気据えてご飯炊くけえ、和尚さんにはお風呂なと入ってもらえ。」と兄貴が言いました。和尚さんがお風呂に入られたら、ブツが兄貴に言いました。「『兄さん、兄さん、ちいっと湯がぬるい』って言われるが、どがしょうか。」、兄貴は「兄さんは忙しいだけえ、ま、そこら何ぞ、そこらにあるもんをくべてわかせ。」と教えましたら、ブツは和尚さんの衣やなんか脱いでおられたものをくべてしまったっそうです。
蛇婿入り 三朝町山田
昔あるところにねえ、東の長者と西の長者とあったそうでして、それで田植えをしなければならないのに、雨が降らないために田圃に水が入らなくて、それで長者が困られたそうです。そこで、東の長者の主人が堤に出て、雨をお願いされたけれどもなかなか雨が降ってこないのですって。長者は何日か出られたけれどもなかなか雨は降りません。ある日、また長者が出られたところ、堤のへりに小さい蛇がいたので、その蛇に向かって長者は「雨を降らしてくれ。そうしたら、うちには娘が三人おるけえ、おまえに娘を一人嫁にやる。何町だか何10町だかも田植えをしなければならないので堤の水を貯めてくれ。」と言われたそうです。そう長者が言われたら、大きな山のような雲が出てきて、そして大きな雨が降ってきたそうです。そうしてものすごく早くその堤がいっぱいになったのですって。それから何10町もの田が植えられたそうです。長者は家に帰って、上の娘さんに「こういう約束をしてもどったけえ、蛇の嫁になってくれ。」と言われても「蛇の嫁にはようならぬ。」と上の娘が言われるし、中の娘も「ようならん。」って言うし、長者は困ってしまったそうです。
そうしたところ下の娘が「お父さんがそういう約束しなはったなら、嫁になって行く。」と言ったそうです。そして娘はさらに「それで何にも嫁入りごしらえはいらんから、本を10巻とイワシを買ってください。」と頼みました。イワシはとてもたくさんだったそうですが、そのイワシと本を10巻と買ってきて、蛇が迎えに来る日に大きな穴を掘って、その中にイワシを入れて、それを焼いたのだそうです。そして、親戚の人たちがみんな集まって、泣いていたそうです。そうしたら、蛇がやって来て「約束の娘をもらいに来た。」って言いました。「その約束をしておっただけど、その娘が今死んだので、そっで今、葬礼しよるところで、残念なことだけど、おまえがところに行かやがない。死んで今葬礼しよるだ。」て言ったら、その蛇が「おれの嫁さんになってごす人が死んだなら、おれもいっしょに死ぬる。」と言って、その大きな火が燃えているところに飛び込んで、その蛇も死んでしまったそうな。それでその娘さんは「蛇の嫁だから、一生、嫁には行かん。」って言って、嫁に行かずに西の長者の女中に行って、そして顔に灰をいっぱい塗って汚い衣装を着て、そして一番下部屋の女中をしておったそうです。そうしたところが、毎夜、上から上から風呂に入って、一番しまいに、その下部屋の女中さんは風呂に入って上がって、きれいな顔になって、きれいな衣装を着て、そして本を10巻持って行っているので、その本を読んでおったところが、そこの若い息子さんが外から遊んで帰って来ると、下部屋に灯がついており、話し声がするそうな。それが毎夜毎夜なので不思議でかなわんから、ある夜、のぞいてみたのだそうです。そうしたら、きれいな娘がきれいな衣装を着て、むつかしい本を読んでいるので、不思議でしようがないので、明くる夜も明くる夜ものぞいてみると、同じ調子で、ちゃんと行儀よく本を読んでいるので、それから若さんさんはその娘さんが好きになって、ほかの人との結婚話が出ても頭を振って、どうしたってその話に乗られないそうです。そして、しまいにはとても痩せて、食べ物も食べられないようになって、寝込んでしまわれたそうです。
それで西の長者は心配してどこかへ拝んでもらいに行かれたら、「好きな女があるためだ。その女は家の中におる。」っていうことだったので、上の女中から次々20人も女中さんがおったのが、みんな19人までは、ずーっとそのお膳を持って行かせても若さんはご飯を取らないので「もうこの家には女はおらん。」と言って長者はあきらめておられたけれど、「もう1人、下部屋の灰坊も女のうちだが、あれに持っていかしてみるがええでないか。」という話になったそうな。それからその下部屋の灰坊を呼んで、「若さまにお膳を持っていくだけえ、きれいに湯に入って来い。」と言ったそうです。それからその娘さんが風呂に入って、上がって、きれいな衣装を着て出られたところが、あんまりきれいなのでみんながびっくりしてしまってなあ、そいから若さまのところにお膳を持って行かれたら、若さんはそれを食べられたのだってなあ。それで「まーあこれが、こがな女だとは知らなんだ。」ということになり、それで素性を調べてみられたら東の長者の娘だったということでなあ、それでその娘さんをもらって、結婚されたのですって。ところで、その娘さんの姉さん方はいくらよいところに行かれても、貧乏になるし、その娘さんは最後まで長者でよい暮らしをしておられたのだそうです。
小僧の飴なめ 琴浦町高岡
あるところのあるお寺に、和尚さんと小僧さんがあったそうな。あるときに小僧さんがふっとのぞいて見たら、和尚さんがなんやら鉢の中からおいしそうなもんを出して食べとんさったもんで、なんか小僧さんもほしかったんだけど、なかなかそれ、もらって食べることができなんだ。「和尚さん、それは何ですか。」て聞いたら、「これはなあ、毒が入っとるので子どもが食べたら危ないだけんなあ、食べられんだけえ。」というようなことで、いつも和尚さん、自分一人でこっそりと食べとったそうな。それから、ある日のこと。小僧さんは、ほしゅうてたまらんので、和尚さんが出かけられた後で、そっとその和尚さんの部屋に入って見たら、壷の中においしそうな飴が入っとったんだ。それを少しずつ少しずつ食べてみたら、おいしいので限りがなかった。さあ、そこへ和尚さんが帰ってこられた。「さあ、困った。どうしよう。」と思って、とっさに考え、思い切ってその鉢を割ってしまいました。「これ小僧、なんとしたことをしたのだ。大事なこの鉢を割って。」と小僧さんは和尚さんから叱られました。そしたら、小僧さんが言うには、「和尚さんなあ、誤ってこの鉢を割ってしまいました。その申し訳がないので、いつも和尚さんが”毒だ、毒だ”ておっしゃてるから、この毒を嘗めて死んでしまおうかと思って、一生懸命嘗めましたけども、まだ死ねません。申し訳ありませんでした。」て謝ったそうな。それを聞いた和尚さんもとうとう叱ることもできなんだので、かえって叱られるどころか誉められたそうな。
ホトトギスの鳴き声 琴浦町高岡
ホトトギスの鳴く声をよく聞きますと、それは「オトトコソ、オトトコソ(弟こそ、弟こそ)。」というふうに聞き取れますわ。その由来の話ですよ。昔、たいへん仲のよい二人の兄弟がありました。ところが、あるとき、兄さんが病気になって床についてしまいました。弟は、「これはまあ、えらいことになった。何とかして兄さんに元気になってもらわねばならん。」というので、隣の人に聞いたら、「山に行って山芋を取ってきて、それを食べさせたら精がつくだないか。」と教えてくれました。そこで弟は、早速、毎日毎日、山に行って山芋を掘ってきては、兄さんに精がつくように食べさせてあげました。兄さんも、たいへんに喜んでそれを食べさせてもらっていました。そうしながら、「こがあにうまもんがあるだか。弟はおれにうまもんを食わせるだが、あいつは山へ行ってこれを取って来るだけん、まんだうまいところを食うとるだらぁ。」と思っていました。あるとき、弟が寝ているときに、その弟を殺して腹の中を見たら、弟は山芋の首しか出てきませんでした。つまり、山芋の小さいところばっかり食べていたということが分かったのです。そこで兄さんは、「弟は芋の一番屑のところを食って、おれにはこがいないいところを食わしてごいとっただが。」と思って、弟を殺してしまったことをとても悲しんで、弟にたいへん感謝しながら、いつの間にかホトトギスになってしまいました。そうして大空を飛び飛び、「オトトコソ、オトトコソ……」と鳴くのだそうです。そして、ホトトギスは八万八声鳴かなければ恩送りができないとも言われています。
焼き餅和尚 琴浦町高岡
昔々、あるところのあるお寺に和尚さんと小僧さんがおりましたそうな。和尚さんはいつもお餅が好きで、お餅を焼いては一人で食べておりましたので、小僧さんが「何とかして一つほしいなあ。」と思いながらも、ようもらって食べることが出来なかったので「どうしてもらって食べようか。」と考えました。ある日、和尚さんは、また、お餅を焼いていましたので、どうかしてそれを一ついただきたくて、のぞいていました。和尚さんところへ近づくと、あわてて和尚さんは火鉢の中にお餅を隠しました。さあ、そしたら小僧さんは「和尚さん、和尚さん、いい話があります。」「なんじゃいな。」ということで、火鉢へ近づきまして「近所にいいお家が建ちましてねえ。」「ほう、そうかいな。」火箸をつかまえて「このへんに柱が建ちましてねえ。」火箸を火鉢の中へ立てましたら「ああ、そうかい。」と、和尚さん、うなずいていたところが、上げてみたら火箸の先にお餅がくっついてました。「和尚さん、こんなところにこんなもんが。」と言って、火箸のお餅を見せましたら「おう、食べなさい。」って言われたもので、小僧さんはそれをいただきました。その次にまた火箸を持ちまして「ここらにも一本、立ちましてねえ。柱が。」と言ったら、またお餅がついて上がりました。「ほう、それも食べなさい。」ということになりまして、とうとう念願のお餅を腹いっぱい、いただいたそうです。 
 

 

●民話 西部地区
だぁず子の物売り 米子市岩倉町
昔々、あるところに、大変なだぁず子がおったふうだ。そのだらずに親が「おまえ、今日は何ぞ、この茶と柿と栗と売りに行きてこい。」と言って出したところが「なんだい、一つだい売れだった(一つも売れなかった)。」と言ってもどって来た。「なんでそげに一つだい売れだったてえことがああへん。どこに行って売って来た。」と言ったら「人の一人だい通っとらんとこ歩いた。」「そら人のおらんとこ歩いたら、だれんだい買ぁてごすもんはおらへんが、ほんならもっと人のいっぱいおおとこで売って来い。」と教えたそうな。それで今度は人のいっぱいいるところへ行ったそうな。「今日もまた売れだった。」「おまえ、今日もにぎやかなとこで売ってきたか。」と言ったら「うん、にぎやかなとこで、人がいっぱいおった。」「どげなとこだったか。」て言ったら「人の死になって(亡くなられて)、葬式のとこだった。」と言ったそうな。「そら売れんはずだわ。まあ、そらもっと人通りの多いあたりまえのとこで売らないけん。ほんなら売ってきない(きなさい)。」と言って。そうして「また売れだった。」って。「おまい、いったい、どげ言って売りに歩いた。」て言ったら「茶と柿と栗だけえ、『茶栗柿麸(ふ)。茶栗柿麸』言って歩いた」と言った。「そげなこと言やぁ、何言っとうだい分からんけえ、茶は茶で別々に、栗は栗で別々に、柿は柿で別々に言わさい。麸は麸で別々に言わな分からん、『茶栗麸』ではなあ…。ほんなら今日も行きてこい。」また戻って「今日もまた売れだった。」「どげ言って売ってきた。」て。その子は「茶は茶で別々。栗は栗で別々。柿は柿で別々…と言って売って歩いた。」と言う。「そら売れんはずだわい。そげなだぁずげな売り方はああへん。」っていう、とんとん昔の物語。
八百比丘尼 米子市彦名
昔、粟島の里、今の粟島神社のあたりに漁師がたくさんおって、そうして漁師が講っていいますか、集会をしたんだそうですわ。そうしたらそのうちの一人がトイレに行きかけて、炊事場てえか、そこの料理場をのぞいたら、何か得体も知れず、魚とも動物とも分からんものを料理しとったって。そいから、帰って「ここのおやじはたいへんなものを料理しちょるぞ。あんな料理が出たって、みんなが食べえじゃないぞ。」って、話いちょった。あんのたま、その料理が出て、そいで食べえもんは食べて、食べ残しはまあ、家内の土産にてって包んで持ち帰ったと。そいから、他のもんは、「あれは人魚だった、どうも。」と。「あんなもん食べちゃあろくなもんはない。」って、家へ持って帰らずに途中でみんな捨ててしまったら、一人のその酔っぱらった漁師さんが、捨てることを忘れて自分とこへ持って帰ったと。そうして、何か、戸棚なんかへ入れちょったら、それをそこの娘さんが、そのご馳走を取って食べてしまったと。そうしたら、それが人魚の肉で、その食べた娘さんは、ずっと長生きして八百年まで長生きしたそうな。そいで晩年は、あの粟島神社の洞穴に入って八百年も生き長らえたそうな。そいで、いわゆる八百比丘(尼)さんが、終生住んだというのはあの洞穴だという具合にわたしら聞いております。
大山とカラ山の背比べ 米子市今在家
昔、唐の国から「大きな唐山という山があるから日本人に見せてやろう。」と海を渡って持ってきて、今あるところへ置き、そして振り返って見たら霊峰大山がありましたから、その姿を見てびっくりして「まあ、こりゃ日本にも大きな山があるんだなあ。」と言って、唐山を持って帰ることを忘れて、ここへ置いて帰ったそうです。それが今の唐山で、それでこの名前がついたそうです。
猫の恩返し 米子市今在家
昔々のことですけど、古いお寺がありました。ところが、いつのころからかそのお寺ににお化けが出るようになり、そこに和尚さんが行くと、必ず怪物が出てきて和尚さんが食い殺されるということになります。そんな恐ろしいお寺だったんです。あるとき。そこに心の優しい和尚さんが一匹の猫を連れて住まわれましたら、もう怪物も出なくなり、よい具合に暮らしておられます。それで村のみんなが、「あの和尚さんは、ええ和尚さんだで、きっとその怪物なんかでも怖がって出てこんような、そんな徳のある和尚さんだで、あの和尚さんは。」と言っていました。そしたら、その飼っているタマという名前の猫が、近くの床屋さんところにおるフジという猫ととても仲が良くなって、二匹がいつもいっしょに遊んでおりました。そうしていましたら、この二匹の猫はまた、盆踊りを踊ることが好きなもので、女の子に化けて、いつも盆踊りの仲間に入って、そして盆踊りを一緒にしておりました。そうしているうちに、みんなの村の人にとうとう見破られてしまって、二人の女は猫だということが分かりました。そこで人々はそのことを和尚さんに話しました。すると和尚さんが、「タマや、おまえのことをいろいろ評判する者があって、かわいそうだけれども、もうここに置くことはできんから、どっか他所に飼ってもらってごせ。お別れにご馳走してやるから。」 和尚さんはそう言いました。それから和尚さんは朝早くから起きて、タマの大好物な鰹節を一生懸命で削ったりして、もう、たくさん、ご馳走をしてやったそうです。すると、タマはそれを食べて、そのままおらなくなりました。それから一週間ほどしてから、お寺ではまた下の方でガタガタガタガタいったりする怪物みたいなもんが現れるようになりました。そしてそーっと走ったりするようになり、和尚さんはもう恐ろしくてなりません。「困ったことだなぁ。わしももうここにおられんわい。」と、その和尚さんは言って、恐ろしがっておられました。ある日のこと。知らない女の人がお寺にやって来て、和尚さんに言いました。「わたしはここでお世話になったタマでございます。あのときはいろいろお世話になりました。ところで、和尚さん、このごろ、もう、いろんな怪物が出て和尚さんは困っておられますが、あれの正体は大ネズミでございます。わたしは和尚さんへの恩返しに、そのネズミを退治します。これから友だちをたくさん連れて来てみんなで大ネズミをやっつけます。それでお願いですけれど、和尚さんが最後に食べさせてくださった鰹節が、たいへんおいしかったものですから、あれをもう一つご馳走してください。」そう言ってその女の人は消えてしまいました。それでその和尚さんは、いっぱい鰹節を削って用意して、待っていました。そうしたら、やがて猫たちが女に化けて来て、そして鰹節のご馳走を喜んで呼ばれました。それからその夜は、みんながあっちこっちに番をしておったんですねえ。その和尚さんも一緒に隠れておったそうです。 そしたら、やっぱり大ネズミが化けて出てきて、それからもう猫やちがみんな寄ってたかって、その大ネズミを食い殺してしまいました。それから、そのお寺では二度ともうお化けが出なくなったという話です。これはお世話になったタマが和尚さんに恩返しをしたというお話です。
赤松の池の大蛇 米子市今在家
松江城の殿さんのお嬢さんが、(11歳のある日、)駕篭に乗って大山に詣られて、帰りに赤松の池に寄られました。そして駕篭の中から出て、その池の淵まで行って帰られかけましたが、後帰りをしてまたその池の中にずーっと入って行かれたの。それからみんなが、大きな声で呼びましたら、10メートルほど先に蛇体になって現れました。それで、「もとの身体で出てこい。もとの身体になって出てこい」とみんなが大きな声で叫びましたけども、再び池の中に入って、そのまま帰られませんでした。そういうことがあって、わたしたちは11歳の年には、あの赤松の池に行ってはいけない。また、大山詣りはしても、帰りには11歳の年の人は赤松の池に寄らないようにしていました。
薬屋さんの化け物退治 米子市観音寺
とんとん昔があったげなわい。
寒い寒い十二月の雪のパラパラパラパラ降るような寒い日に、毎年のことだけども富山の方から薬屋さんが、薬の入れ替えに来られてなあ、で、集落の家から家へずーっとその薬を入れ替えに大けな薬箱を負って、次から次から家を回って行きなさったげなわい。それでその薬屋さんは毎年そこを回って来られるから、家の人たちとみんな心安くなって「また薬を入れ替えに来ましたけんなあ、一つ今年もよろしく頼みますけん、来年もやって来ますけん。この時期にはまた一つよろしく頼みますけんな。」と言って、次から次から集落をずーっと回っておられたというわい。そうしたところが、その薬屋さんが毎年その薬を入れ替えにその集落を回っておられたら、集落の人がえらく悲しんでおり、なんだか知らないけれどもはっきりものを言わず、寂しそうな気持ちをみんなが持っているおられるようだった。薬屋さんは、庄屋さんのとこへ行ったそうな。「なんと実は庄屋さん、今、ずーっとなあ、この集落を回って薬の入れ替えをさしてもらってここまで来ただども、なんでだい今までとは違った気持ちをわしゃ受けただけども、いったい何ぞあっただかなぁ。」と言ったら、庄屋さんが「なあ、薬屋さん、今までもずーっとあったことだども、この十二月の節季が近んなってくうと、毎年、悲しいことをこの集落はせないけん。」と言って次の話をしたそうな。「なあ、薬屋さん、今夜はまあ一つ雪の降うことだけん、泊まってそげして、明日、次の他のところへ行くてていうことにして、ほんならわしがその話をしてあげえけん、ここの氏神さんには毎年節季になると、娘さんを神社に捧げ祭らにゃいけんことになって、で、毎年、この界隈から一人わて一人わて神社に持って上がって、そげしてその娘さんを捧げてしまってていうことは、その娘さんを何かが食ってしまって、さらって逃げてしまうだと。そいで今度はなあ、この集落のもうちょっこう下の方の、その家の娘さんが今年取られえていうことで、で、その娘さんが上がる日にちっていうものが、もう明日だか明後日だかいうことになっちょうけん、みんなが悲しんでおるとこだわな。」
それを聞いた薬屋さんは「ほんなら何が出てきて、その娘さんを取って逃げえだか、何と庄屋さん、わしに一回見届けさしてもらえんだあか。」と庄屋さんに頼んだら「いんやいんや、絶対にそのことはいけんだ。そうを他のもんが見いと、村中がその獣(けだもの)だか何だか分からんけども、もうえらい目こくけん、そいだけん、昼の明るいうちにその娘さんを連れて上がって、そいですぐ戻って来て、明くる朝間になあと、その娘さんがもうおらんようになっちょう。だけん、そうを薬屋さんよ、そらいけんぞ。」とこんこんと、庄屋さんは話したけれども、その薬屋さんは、「いんや、どげでも見届けちょかないけん。」というので、その明くる晩、薬屋さんは庄屋さんには内緒で、その神社に娘さんが上がって来る、その時をちゃあーんと待っておって、そうして神社の横の薮の中に身を隠して、そうして何が出て来るか分からないけれども、娘さんを持って帰ろうとするそのものを、見届けなければならないと思っていたそうなわい。そうしたところが、雪がぱらぱらぱらぱら降って、寒い寒い晩だったげなわい。十二時が過ぎて遅くなってしまったら、山の上の方から雪をかぶった何だか大きな大きな化物みたいなものが下りてきて、そうして娘さんを担ぎあげた箱の側まで寄ってきたいうわい。その薬屋さんは薮の蔭からちゃあーんと見ていたけれど、大きな化物ではあるし、もう出ることもできないし、逃げることもできないし、ただじーっとしていて化物のことを見ていたそうな。そうしたら化物は娘さんの入っている棺に近づいてその蓋を開けて、娘さんの髪芯がをつかまえて、ギャーアギャーアいう娘さんをつかまえて山のまた上の方へまで、その娘さんを連れて逃げたというがなあ。さあ、その薬屋さんはその化物がまた下りて来ないだろうかと思いながら恐ろしがりながらそこにおって、夜が白々と明けるようになって、その庄屋さんのところへ行き「何とこげこげな大けな化物だった。」とことの次第を庄屋さんに話いたというわい。その庄屋さんも初めてそれが、そんなに大きな化物で目がぎょろんぎょろんしており、口は裂け、手には大きな大きな爪がついていることを知ったげなわい。
そして、まあ、何といってよいか分からなおが、あれが人間ども食うっていうウワバミというものかなあ、と本当にびっくりして「こな化物を何とかせないけん、来年は家の娘だか、その隣の娘だかが、今度ぁ来年の番になっちょう。その化物をとにかく退治ちゃらなならん。」ということになり、庄屋さんと薬屋さんは一晩相談したってっていうことだったげなわい。その薬屋さんは庄屋さんに「なんと庄屋さん、わしはまた来年のこの時期には、もういっぺんやって来て、そしてその化物を見届けさしてもらったけん、今度は退治さしてもらう。わしも決心しておおとこだけん、来年ほんならまたお邪魔さしてつかあさい。いろいろどうもありがとうございました。ほんならまあお達者で正月しなはいよ。」と富山の薬屋さんはそのとき帰ったそうな。 それから一年たって、またその薬屋さんが庄屋さんところに大きな薬箱を担いで来た。「毎度ありがとうございます。また今年もよろしくお願いします。富山の薬屋でございますが。」と庄屋さんのところへも行き、あちこちへも行ったそうな。そしてまたその化物に娘さんをあげる晩になったので、その晩には庄屋さんところで泊まって、娘さんが箱の中に入れられて上がって行くのを薬屋さんも庄屋さんの家からちゃんと見ておって「退治すうなら娘さんを上げでもええけん、上げずにおまえが行きて退治てごせ。」と、だれもが言うけれども「えんや、そうはいけんけん、とにかく娘さんを神社へ上げちょいて、そげして化物が出てくうやつを、わが退治すうけん。」と薬屋さんが言うものだから、村中の者がその娘さんを神社のところまで担ぎ上げて、その夜はちゃんとその神社のところに置いて戻ったというわい。
さあ、そうしたら、夜中の一時二時になってきたそうな。そうすると、また、山の上の方から雪をかぶった大きな去年と同じ化物が出てきて、そして神社の方を見渡し、その娘さんの箱のところまで、ずーっとウワバミがやって来たというがな。それから、その富山の薬屋さんも懐の中へちゃんと富山から化物を退治する細い箱を持って来ちておられたのだ。そして薮の蔭からちゃんと今か今かというところで、その化物が娘さんの入った蓋を開けて、手をまさに娘さんの髪芯がをつかもうと思っているときに、富山の薬屋さんが唱えごとを言われたそうなわい。どんな唱えごとを言われたかというとなあ、
  越中富山の平内左衛門 しっけいけえこそ きょうとけれ
  ああ てっかはーか てっかはーか
  越中富山の平内左衛門 しっけいけえこそ きょうとけれ
  ああ てっかはーか てっかはーか
と二回言って、そしてその箱を手で懐の中で撫でなさった。ところが、なんとその箱の中から飛び出てきた小さな小さな獣が、だんだんだんだんだんだんだんだん大きくなって、そうして今娘さんに手をかけているウワバミのところまでとんで行って、何と大変に格闘したというわい。向こうもウワバミだから一生懸命に食らいつく。こっちはなあ、大きな大きな狐さんみたいな大きな獣で、それで「ケッカハッカケッカハッカ」といって大きくなったやつだから、ウワバミやなんかはほんに屁の河童で、とうとうそのウワバミがなあ、傷つけられてしまい、娘さんも手つけずに山の奥の方にとんで逃げてしまったいうわい。その娘さんも連れて行かれることなしに、集落の人たちににぎやかに迎えに来てもらって帰ったそうな。「富山の薬屋さん、どうもありがとうございました。おまえはいったいどげして、その化物を退治したか言ってかしてごしぇ。」とだいぶん言われた。けれども、薬屋さんは「えんや、わしがまた今度そげなことがありゃ、言ってかしてあげえだども、そうは内緒で話されんけん、また、来年も頼みますけんなあ。」とその小さな箱をまた薬箱の中へ入れて、そうして雪の降る道をとことことことこ歩いて、また富山の方になあ、いんでしまいなさったとや。
サルのドジョウとり 米子市観音寺
とんとん昔があったげなわい。お猿さんがおって、そのお猿さんがたくさんにドジョウを捕って、他の猿にたいへんに見せびらかして、「ああ、わしゃがいにドジョウ捕ったぞ。ドジョウ捕ったぞ。」と見せびらかして、たくさんドジョウを食ったげなわい。ところが、その隣におった猿が、「わしもとにかく、ドジョウを捕らないけんけん。」ということで、それで、前の晩に捕った猿のところに、「おまえはどげして捕ったか。」ということを聞きに行ったというわい。そうしたら、捕った捕ったてってすごくに威張っていたその猿が、「ドジョウやなんか捕るてて、みやすいことだわ。おまえの尻尾は長い尻尾だだけん、そうだけん、その尻尾を利用してあの川ん中へつけちょきゃ、なんぼでもドジョウがさばあついてくうけん(しがみついてくるから)。だけん(だから)、その尻尾をとにかく川ん中へつけえだ。」と言って聞かしたというわい。それから、それを聞いた猿が一晩、水に尻尾をつけておいたけれども、いくらしてもドジョウが来てくれないものだから、それから、また、明くる日、ドジョウを捕った猿のところへ出かけていった。「どげして捕ったか。」「おまえが温い晩に行くけん、そうからドジョウが食わんだ。」「うん。」「だけん、とにかくなあ、寒い晩の川の水が凍(こお)って、カチンカチンにしみ上がぁ、そげな晩に行かないけんだわ。」「うん。そうかあどげすうだあ。」
そうしたら、その猿が、「凍っても凍っても、尻尾、動かさずにちゃーぁんと岸から尻尾をつけて、凍るやつをちゃーぁんと待っちょうだ。そげすうとなあ、りーんりーんりーんりーん、その尻尾がしみてしまってくうけん、そげすうとドジョウが食らいついちょうけん、もうそげんなったら一生懸命でばぁーっと引っ張ぁだ。」と、その猿が言って聞かせてもらったというわ。それから、その猿がちゃーんとそのことを心がけておいてなあ、その寒い晩のしみるような晩に、川の縁(へり)へ行って、ちゃあーんとその尻尾をつけておったというわい。そうしたら、夜中も過ぎたようなころになったらなあ、だんだんだんだんしみてきて、本当に隣の猿が言ったように、尻尾をこうぐっぐぐっぐぐっぐぐっぐと、下の方からどうもドジョウが引っ張ったような格好で、どんどんどんどん尻尾がみんなしまってきたというがな。それから、その猿もなあ、−もう、このへんで上げんとドジョウが逃げてしまうけん−というので、それで凍みたやつを見計らって、「よーし。」と言って引っ張ったところが、なんとまあ、川に尻尾がしみついてしまって、なんぼしたって、その尻尾が上がってこなかったというわい。その猿は、−がいにドジョウがさばっちょう−と思って、草の縁(へり)や木の根っこにつかまって、「うんうんうんうん。」言って引っ張るけれども、やっぱりどうも上がってこない。
それから、とうとうお猿さんはなあ、
  大ドジョウ 小ドジョウ 抜いてごしぇー
  わしの命もたまらのわぁ エートヤー エートヤー
と言って、引っ張るけれでも、まだ上がらないものだから、それからまた大きな声で、
  大ドジョウ 小ドジョウ 抜いてごしぇー
  わしの命もたまらのわぁ エートヤー エートヤー
そう言って、力いっぱい引っ張ったところろが、お猿さんの尻尾が、なんと根元からポツンと切れてしまい、その上、お猿さんの顔は一生懸命に力いっぱい引っ張ったものだから、真っ赤になってしまって、それで今でもお猿さんの顔というものは真っ赤であるし、尻尾というものは短いものになってしまったのだとや。それで隣の猿もちゃあんと尻尾が短かったから、それで隣の猿と同じように短かい尻尾になったのだとや。それで隣の猿がもともと意地悪で、後の猿が長い尻尾を自慢しているからと思って、そうでいたずらで意地悪をして、後の猿にそのようなことを教えたわけだ。だからなあ、そのようなことなどを他のものに、めちゃに嘘をついたりなんかすることはいけないからね。かわいそうなことになるのだからね。
藤内狐 米子市観音寺
とんとん昔があったげなわい。戸上に藤内狐という悪い狐さんがおって、それでここらあたりの百姓家さんやなんかをとてもいじめる狐さんだったので、村中の者が「なんとかして退治しちゃらないけんが。」と言って話しておったげな。それから、あるとき、村の若い者が会場に寄っておって「なんと、なんとかしてあの藤内狐を、ちとやっつけちゃらないけんだねか。」という話になったところが、一人の若い者が出てきて「ようし、ほんならわしにそれやらしてごせ。わしがひとつ狐をけえ、ちぇてもどってえらい目にくわしちゃあけん。」と言うから「まあ、ほんならどげなことすうだら。」と言って聞いたら、その若い者が「いんや、とにかくわしの言うやにしてごしぇ。」ということになって「馬一頭と綱を用意してごしぇ。」とその若い者が言うので、馬とロープを持ってきて「ほんなら行きてこい。」と若い者に言って頼んだげなわい。そうしたら、その若い者が「なんだい他に用意せえでもええけん、囲炉裏になあ、火箸をかんかんに焼いちょいてごしぇ。」ということだけ頼んでおいて、その若い者は馬を引っ張って、そうして戸上の藤内さんが出て来そうなところへ、夜中にとんとんとんとん行って歩いておったげなわい。それから、だいぶん歩いて行ったようなころに、その若い者がわざと「ばばさーん、迎えに来たっでぇ。」と言って大きな声でばあさんを呼んでみたら、そうしたらなあ、なんにも返事がなかったそうなわ。「今夜は狐がおらんだぁかなあ。」と思ったけれども、また歩いて馬を引っ張ってことことことこと先の方まで行ったときに、大きな声して「ばばさーん、迎えに来たでーぇ。」と言ったら、遠いところで、「ほーい。」という声がしてきたというわい。「は、こーら狐がおったぞ。今夜は狐をだまいちゃらないけんけん。」というので、声がしたげなわい。それで、また、その声の方へ向かって、馬を引っ張ってとことことことこ歩いて行きたのだといや。それからまた、だいぶん行ったようなころでなあ、また大きな声をして「ばばさーん、迎えに来たでーぇ。」と言ったら「おお、おお、迎えにきてごいただか。」と大きな声がしたので見たら、細いおばあさんがしょぼろ腰して、そうしてとことことことこ、これも向こうの方からこっちへ歩いて来ておったげな。それから、その若い者が「ばあさん、おまえ、えらい遅しぇけん、迎えにきたところだが。おまえ、いまもう遅うなっていけんけん、この馬にほんなら乗ってそげしてまあいのうだが。」と言ったら、狐のばあさんが「ああ、せっかく迎えにきてごいたけん、ほんならもう馬に乗らしてもらわかい。」と言って、すっかりその若い者にだまされて、それで馬に乗ったげなわい。それから若い者は持ってきておいたその紐で、そのばあさんの身体をぐーるぐるぐーるぐる馬に縛りつけて、それから馬から落ちないようにからみつけたげな。そうしたところが、狐がまだ分からないものだから「まあ、そげにがいにからまでも、もういいわ。もうそげにからまでも落ちいへんけんなあ。」と言うけれども、その若い者は「えんや、落ちでもしちゃ危ねけん、しっかりからんじょかないけん。」と言って、馬の背中にそのおばあさんをがんじがらめにからんでしまったのだそうな。それから「さあ、ほんならいなっじぇ。」というので、その若い者は「はあ、ええ具合いに今夜は狐をだまいたけん、いんでけ、焼け火箸でけえ、ほんにええかていうほどけえ、こな狐をいじめてこましちゃらないけん。」と思ってとことこもどっていたら、途中になったら狐が、だいぶん苦しくなったらしくて騒ぎだした。「なーんと、ちょうこーでいいけん、この紐を緩めてごしぇ。まあ、おらもかなわんやになったわ。もう緩めてごしぇ。」てって言うけれども、その若い者は「えんや緩めたぁなんかしちゃぁ、落ちいけん。そのまま、そのまんま。」て言って、そのまんま連れてもどっていたら、狐もだいぶんしてから気がついたげなわい。
それで狐は「なーんと、もうこらえてごしぇ、もうちょーっこう緩めてごしぇ。」と言うけれども「いんや、いけん、いけん。落ちいけん、落ちいけん。」と言っていたけれども、しまいになったところがなあ「なーんと、しょんべがしたんなった。」と言うもので、それで「しょんべがしたんなったなぁ、馬の上でけえ、しょんべこきゃええけんなあ、緩めたりなんかして何すうもんなら落ちたり、そうから今ここで降りたりなんかできへんけん、遅んなって。だけん、もうちょっこう辛抱すうだわ。」と言っておいてもどっていたけれども「なーんと、しっことうんこといっしょに出だいたけん、なーんと降ろいてごしぇ、降ろいてごしぇ。」と言って、今度はなあ、狐の方から泣いて頼みだしたげなわい。それだけれども、その村の若い者は「えんや、もうちょっこうなかい、降りられえへの、降りられえへの。ちゃーんとこげしちょうだわ。」と言ったげな。そうすると狐は「しーことうんこがいっしょに出ぇわ、しーことうんこがいっしょに出ぇわ、降ろいてごしぇー、降ろいてごしぇー。」と騒ぎ立てるけれども「なーに、この狐め。今日はちぇていんでぇえらい目にこかしちゃあけん。」と若い者も言いだしたから、狐も本当に恐ろしがって、そうして「こらえてごしぇ、しーことうんこがいっしょに出ぇわ、もう悪ことしぇんけんこらえてごしぇー」。と言うやつを、馬にがんじがらめにしたまんまで、若い者の寄っているその会場に向けてもどったのだげなわい。「さーあ、連れてもどったぞー。焼け火箸を用意してああか。」と言っていうので、狐の化けたばあさんを馬から引きずりおろして、その焼け火箸をだれもかれもで、狐のタンペにべーたべーたべーたべーたひっつけて「こらえてごしぇー、こらえてごしぇー。」と言うやつを、無理やりにそのタンペに焼け火箸をひっつけてやったげなわい。そうして「まあ、あんまりすうと今度ぁまた狐が死んだらいけんけん、まあこのぐらいで、ほんならもう放いちゃらや。」というので放してやっただげなわい。そうしたらなあ、狐が泣いて、そうして一目散に山の方へ逃げたげな。そのときに、なんぼしたってタンペが熱いものだから、帰りがけにその川でタンペを冷やして、そうしてちょっとでも楽になろうかと思って、その川に尻をつけただがな。そうしたおかげで狐もそ焼かれたところが治ったけれども、焼けた尻を川につけたということから今でも「尻焼き川」という名前がついたのだげなで。
狸と狐の化かし合い 米子市大篠津町
とんと昔があったげな。狐と狸が住んでおりました。狐と狸が「だまし比べをしよう。」ていうことになりまして、それで、「いついつ、お殿さまが通られるから。」っていうことで、それは狐の方が言い出したようで、で、狐はその日を知ってて言い出したと思うんですけど。そいから当日になりました。さあ、狸は、「狐は上手に化けたかなあ。」と気になるし、見に行ったわけなんですよねえ。約束もありますし。さあ、本当の殿さまが通りました。行列が通って行きます。狸はすっかり感心してしまって。「ほんのやあななあ。ほんのやあななあ。」って、喜んで見てたそうですけど、お殿さまの目にふれて、「無礼者が。」ということで、手打ちにされたっていう話。
舌切り雀 境港市朝日町
とんとん昔があったげな。あるところにおじいさんとおばあさんとあって、毎日、おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行っていました。そのおじいさんはね、一羽の雀を飼っていたの。一羽、雀をかわいがっていたんですよ。本当にとても大事にしていたのですが、ある日のこと、おじいさんは山へ柴刈りに行ったんです。その留守におばあさんが、洗濯物に糊(のり)をつけようと張り板を出して「さあ、これから糊つけしよう。」と思ったところが、糊が空になっていたの。それは雀が知らん間に食べてしまっていたのです。おばあさんは糊つけをすることができんもんで、腹がたってたまりません。「こりゃこりゃ雀、おまえが糊を食べたな。」おばあさんはそう言って、篭の中から雀を捕まえてねえ、鋏で口を開けて舌をちょきんと切ってしまったのです。
雀は泣きながら、パタパタパタパタ発って行って、遠ぉいところへ行ってしまったんですよ。そのようにして、おばあさんは腹をたてておったところへ、おじいさんが山から帰って来ました。おばあさんがおじいさんを見つけて「おじいさん、おじいさん、雀が糊をみんな食べてしまったでな、そいでわしは腹がたって、鋏でちょきーんと舌を切って逃がしてやったわいな。」それを聞いておじいさんは、空の篭を見て泣きながら「あーら、何て悲しいことをした。わしはじっとしておられん。これから捜しに行く。」と言って、杖をついてねえ、雀のお宿を捜しに行ったんですよ。
  舌切り雀 こーろころ 舌切り雀 こーろころ
と言って、腰を曲げながらずっと、先の方の竹薮へ出かけて行ったんです。そうしたら、竹薮の向こうの方から、
  キーコや バッタバタ キーコや バッタバタ
  カランコ トントン カランコ トントン
  じいさんししがない ばあさん管がない
  カランコ トントン カランコ トントン…
と機(はた)を織る音がするんですよ。それから、おじいさんはたいへん喜んで「あ、ここに雀がおる―雀や、雀。」と言ったら、雀が喜んでぱたぱたぱたぱたと出てきて「おじいさん、こっちへおいで。」って、家の中へ入れまして、そうしたら他のたくさんの雀がいるし、雀のお父さんやお母さんもとても喜びました。
「ああ、おじいさんがおいでた。」ということで、御馳走をいっぱい並べて、歌ったり踊ったりしておじいさんを慰めてくれたんです。
そして、おじいさんは長いこと御馳走になって、歌ってお酒やなんか呼ばれておったところ、もう帰らないといけないことになって「名残惜しいけど、わたしは帰るから。」と言いますもんですから、雀たちは「あら、おじいさん帰ったらいけんて。もっとここで遊んでください。」と言ったけれども、おじいさんが「さいなら、さいなら。」って言うもんですから「それではお土産をあげよう。」と言って、小さいのと大きいツヅラと持ってきて「おじいさん、お土産に持って帰ってください。小さいのと大きいのとあるが、どっちがいいか。」「わたしは年寄りだから、小さいのがいい。」と言って、おじいさんは名残惜しかったけれどもツヅラを背負って、涙を流しながら帰っていかれました。雀たちはみんなで見送りをしてくれました。
おじいさんが杖をついて家に帰ったところ、おばあさんが「ああ、帰らさったかや、がいな土産がああだねえ。」そう言いいます。おじいさんは「どっこいしょ。」と言って、玄関のところへもらった土産を置いて、そこのツヅラの蓋を開けたところめが、金や銀や珊瑚やいろいろな宝物ばかりか、お金も山ほど入っていたのです。
おじいさんは喜びました。そしていっぺんに裕福になりました。意地悪おばあさんは、それを見て「ああ、わしもひとつ雀を捜しに行こうかなー」というところで、
  舌切り雀 こ−ろころ 舌切り雀 こ−ろころ
と言って、その竹薮めがけて出かけて行きました。「雀、雀。」と言うと、雀たちは「意地の悪いおばあさんが来た。」と言いましたが、けれどもお迎えせねばいけんので「こっちへおいで、おいで。」とおばあさんを呼んで、御馳走をまた出したそうです。そうしたら、おばあさんはそこそこにして「早う帰るけん、お土産をください。」自分から言うものですから、雀さんは大きなツヅラと小さいツヅラとまた出して「おばあさん、お土産にツヅラをあげますから、どちらでも気に入ったのを取って帰って。」と言ったら、おばあさんは喜んで「よしよし、わしはこの大きいのがいいわい。」と、それを肩に担いで、重たいのをねえ「さいならー。」して、とぼとぼとぼとぼと帰って行きました。そしてその土産が早く見たいのです。たーくさん宝物が入っているからと思って、まだ家に帰らんのに道端でね、それを下ろして「どっこいしょ。」と開けてみました。
そうしたらねえ、蛇とか大きなひき蛙とか、お化けの入道やなんかこわいものがいろいろ出てきてねえ、おばあさんは腰を抜かしてしまいましたと。ほんとに、いいおじいさんはよかったけども、悪いおばあさんはそんな目にあった、という話でしたよ。
湖山長者 南部町境
むかし昔、鳥取に湖山長者さんといって、たいそうなお金持ちがおりました。湖山長者さんにはたくさんの仕事をする村の人がついておりました。今日は長者さんの家の田植えなんです。「おーい、村の衆、みんな出ておくれ。今日は長者さんの家の田植えだぞぉ。」いつもお世話になっている人たちが、いっぱい集まってきました。百人いるか二百人いるか数えきらないぐらいのたくさんの人で、田植えが始まりました。でもみんな衣装も整えて、きれいに並んで田植えをしていました。
  あれやこれやでこの田もすんだ
  どこのどなたもご苦労さん
  ヤレ ご苦労さん どこのどなたもご苦労さん
    腰の痛さやこの田の長さ 四月五月の日の長さ
    ヤレ 日の長さ 四月五月の日の長さ
みんなは歌をうたいながら、とても楽しそうに田植えをしておりました。でも、長者さんの田圃はすごくたくさんあるので、なかなか進みません。植えたところを見ると、ずいぶん植えたような気がするけども、後ろをふり向くとまだまだ田圃が残っています。「これ、今日のうちに直るかなあ。植えれるかなあ。」みんなは少し心配になってきました。長者さんは二階の窓を全部開けて、田圃の様子をにこにこしながら見ていました。でも、だんだんだんだんお日さまは西の空に傾いてきました。もうまん丸のお日さまが半分より少し頭を出しているだけになったので、長者さんはあわてて奥の方から扇子を持ってきました。何をするかと思っていたら、扇子をパーッと広げて「太陽さま、お願いです。どうぞわたしの家の田植えが終わるまで沈まないでください。そこで止まっててください。」何回も何回もお願いをして、扇子で太陽さまをあおぎました。するとどうでしょう。半分ぐらいしか見えなかった太陽が、ずん、ずん、ずんと上の方に上がって来るではありませんか。急に、暗くなりかけていた田圃の上の空が明るくなってきました。
「ああ、明るくなったぞぉ。」「みんな、田植えが全部、今日できるぞぉ。」村の人たちは大喜びで、一生懸命、田植えをしました。「ああ、植わったぞぉ。」「ああ、気持ちいい。よかった、よかった。」みんなはそう言いながら、お家へ帰って行きました。そしたら太陽は、静かに静かに森へ沈んでいきました。長者さんは「ああ、よかった、よかった。太陽さんはわたしをとても大切にしてくださった。太陽さんの方に足を向けて眠れないわ。」そう言いながらみんなが一晩休みました。空には星も出てるし、カエルも気持ちよさそうにケロケロ、ケロケロ…鳴いていました。だんだん夜がふけて朝になったようです。一番鶏がコケコッコー、コケコッコー、鳴き出しました。一番早起きのお百姓さんがパーッと外に出て「昨日、田植えをした田圃はどうかなあ」。出てみると「エエーッ、おかしい。」昨日一生懸命植えた田圃に、苗の緑が見えません。
「おかしいなぁ。わしの目がどうかなったかなぁ。」目をこすりこすり見るけどもやっぱり見えません。「おおい、みんな出てきておくれ。昨日植えた田圃が、水ばっかりで稲がないぞ。」「そんなバカなことがあるもんか。」村の人たちも出てきました。「あ、ほんとにない。」「どうしたんだろう。」「昨日植えた稲が一本もないぞ。」「長者さん、長者さん、起きてください。昨日植えた稲がありません。」「バカな、そんなことがあるもんか。」そう言って、長者さんは起きて見ました。ガラーッと戸を開けて、自分の田圃を見ると、どうでしょう。昨日田植えをした田圃が一面、池になっているではありませんか。「こんなはずはない。」長者さんはあわてましたけども、昨日ゆっくり沈んでくれた太陽さんは、もう東の方に昇っていました。「ああ、わたしが悪かった。もう沈もうとしている太陽さんを、無理に呼び返したから罰が当たったんだ。ああ、やっぱり無理なことをしてはいけないということだ。村のみなさん、すまなかったねえ。」と長者さんはあやまったそうです。それからずーっとその田圃は池になって、今、鳥取大学のすぐ前にある「湖山池」というのができたというお話です。これで湖山長者のお話は、おしまいです。
浦島太郎 伯耆町溝口
浦島太郎が海辺へ魚釣りに出たら、子どもが大人数して亀をいじめておったそうですが、その浦島太郎が「その亀を自分に買わしてごしぇ。」と言って、子どもからその亀を買って、そげして離してやったそうです。そげしたら、その明くる年だえら、三年目だぇに大きな亀が来て、浦島太郎は釣りが好きなもんだけん、いつも海辺へそげしに行きとったら、その大きな亀が来て「子どもがたいへんお世話になって、そのご恩返しに竜宮いうところへ連れて行ってあげえかん、わたしの背中へ乗ーなさい。」て言って「そうかな、そうしたら竜宮いうところは知らんけん、乗せてもらって行くわ。」そいから乗せてもらって、竜宮さんへ連れて行って、そいで毎日ごちそうを呼ばれたり、そいから竜宮さんの乙姫さんが踊りや舞で、まあとってももてないてくれたので、そいでもう「あんまり長いことよばれたで、踊りも見たりしてあきれくるほどに何したけん、もう帰らしてもらうけん。」と言ったそうです。「そうですか、ほんなら名残惜しいけど、ほんなら帰るならこれを土産にして。」玉手箱を渡されて「これはもう、この玉手箱の蓋は開けるでない。」て、姫さんが言われたそうで、たら、村へもどってみたところが自分の家はないし、友だちはおらんし、村はすっかり変わってしまって知った人間は一人もおらんやになってしまって、そうか、途方にくれて、もうどっちい行きても、もう知った人間はおらんし様子は変わってしまって、ぼやっとしちょって「その玉手箱の蓋を開けるでない。」って言われたことは忘れて、玉手箱の蓋ぁ開けたら、白い煙がぼーっと立ち上がってそうで、そげしたらもういっぺんに白髪のおじいさんになってしまって、そいでその浦島太郎は三百年ほど竜宮さんで、みんなにご馳走にあったり、踊り見たりしておったそうです。それでもう浦島太郎は「こげなおじいさんになったら、自分の一生はもうこれぎりだ。」言われたそうでございます。
愚か婿とたくあん風呂 伯耆町溝口
ある佐治谷に人のいい男の若いもんが一人おりましただって。そいから、こっちの家におじいさんやおばあさんのところに娘が一人おって、そいでその人のいい正直もんみたいなけん、それをまあ聟さんにもらわいいって、聟にそれが行きましたそうです。そげしたら、人間のいいようなもんだけん、そいでけえ、言われた通りに何もする。それでご飯食べたときに、お茶飲みかけたら、お茶がえらい熱いで、そのおばあさんが「お茶の熱いときは漬けもんを一切れ入れて、箸でもって混ぜたらお茶が冷めぇけん、そげして飲め。」って言われたら、そげして、そうしたら漬けもん入れて混ぜぇとお茶がぬるうなって、そうで飲んで喜んでおりましたところが、ある日「風呂に真っ先に入れ。」って言われて、風呂に入ろうとしたら、風呂がちと熱かったそうで、何だかお宮だか何とかいうような名だったそうですが、その嫁さんの名を言って「漬けもん持ってきてごせ。」言って大きな声がする。そうで「漬けもん何にする。」「いや、漬けもん、はやはや持ってきてごせ。」そうで漬けもんを持ってきたら、その漬けもんで風呂を混ぜて風呂に入る。「こらまあ、なんぼ混ぜてもあかの、冷めんけんしかたがない。まあ縁でなとほんなら水汲んできて、ちいとわて埋めて入るけん。」ちいで、嫁さんが水汲んできて、そげして風呂に入ったそうなていうような馬鹿話でございますけどなあ。
桃太郎 伯耆町溝口
とんとん昔があったげない。その昔、おじいさんとおばあさんが二人で住んでおられて、おじいさんは山へ柴刈りに行かれるし、おばあさんは川へ洗濯に行かれました。そげしたら上の方から、洗濯しちょったら大きな桃がドンブリカンブリスッパイコっていうようなが耳に聞こえて、ふっと見たら大きな桃が流れて、そいかあ、その桃を杓子みたいなもので、こう川の縁へよそけて、それをちょいと拾って持っていんで、そいから、そげしたら、おじいさんは山から柴刈からもどってくるし「おじいさん、おじいさん、今日はこげな大きな桃が流れてきたが、おじいさんもちょうど帰ってきたことだし、この桃を食べてみましょうや。」言って、その包丁で割るててしたら、中から割れたそうです。
そいで割れたら、男の子がひょいとそこへ出ました。「あら、食べどころの話だない。」言うから、そいでおじいさんとおばあさんが「こらまあ、珍しいことだ。自分らちに子がないもんだけん、そいで天の授かりもんかも知らんけん、名前を何てつきょうか。」てて言った。「ま、桃から生まれたけん、桃太郎にしょういや。」いうやぁな、ま、ことだって。
そいで桃太郎いう名につけて。そいで桃太郎がけえ、ずんずんずんずん三年経ち五年経ちするうちに、ずんずんずんずん大きんなって、そいでおじいさんやおばあさんに「おばあさん、鬼が島にかたき討ちに行くけん、キミ団子をこしらえてくれ。」て頼んだそうです。おばあさんがキミ団子をこしらえて、そうして、そのキミ団子をこしらえてもらったやつう、おじいさんは日本一て旗をこしらえてごされて。それいなって、キミ団子を腰い下げて行くところが、山の方へ行くよったら「桃太郎さん、桃太郎さん、その腰のもんは何ですか。」言って「これは日本一のキミ団子。」言って「わたしにも一つ、そのキミ団子をくださいな。」「いや−、やるこたぁやるが、自分について行ったらやるけん、鬼が島へかたき討ちに行かあと思う。」言って、ま、猿が一つキミ団子もらって食べてついて行く。
そうするとまた雉が出てきたそうです。「桃太郎さん、桃太郎さん、その腰のものは何ですか。」「これは日本一のキミ団子、それで今、鬼が島へかたき討ちに行く。そいで自分について行きたら、そのキミ団子をやる。」
そいで「ほんならください。」そいからもらって、その雉もついて行くし、そいから、そうしよったら、犬が向こうの方から跳んで来て「桃太郎さん、桃太郎さん、そのお腰のものは何ですか。」言って、ほで「これが日本一のキミ団子、今、鬼が島へかたき討ちに行くところだ。ついてくるならやる。」って言われたら、そうで犬も「ついて行きます。」て言うて、そいでキミ団子もらって食べて、そいからまあ、ずんずんずんずん、山越え谷越えして行くところが、大きな川のような海のようなところの方へ出たそうな。
そいでその雉が「自分がここから空へ飛び立って、どこから鬼が島へ行くのが一番いいか、自分が空から見てくうけん。」言って、そいから雉は空へ飛び立つし、そうから、猿はもう山へ慣れて木に慣れていますことだしして、そうから、みんなして組んで雉が飛んで「あそこがよからぁ。」言うて雉が見つけて鬼が島へ渡るところを見つけて、そいでそこから渡って、まあ、鬼は赤鬼やら青鬼やらいっぱいおって、しばらく雉は空から降りてつつくやら、犬は噛みかかるやらするものだやら、そいで猿は木の上から木の枝を折って投げたり、木の上から、その鬼の頭へ跳んだりして跳ね回って、そでけえ、しまいには鬼はとうとう負けてしまって、降参して、そうで「この全部ある宝物をみんなあんた方にあげえけん、自分も家来にしてごしぇ、そうでもう悪いことはせんけん。」て鬼が断わりするので、そか桃太郎が「ほんなら、よし、桃太郎の言うようにしさえすりゃあ、こうからも、もうこれでこらえてやあけん。」いいことになった。
それで、その宝物をいっぱい車に積んでもらって、そでして犬は真っ先に引き出す。そいから猿が後押すやら、雉がそのずんどの犬の鼻へ綱つけて引っ張るやらして、そげして鬼を征伐して、鬼はまた降参したそうです。そいでまあ「こりゃまあ、日本も平和になぁけん。」言っていうで、そいでもう宝物を積んでもどって、そげして村の人にもそれを話いて分けてあげて、みんな平和にどことも暮らすようになったいって。それでこの昔話はこっぽし、いうことでございます。
退休寺の化け物 大山町前
なんとなんと昔。退休の寺に化物が出えて。みいながように「何だらか。」「何だらか。」てって、夜うさになあと三人来て踊うだって、退休の寺で。「生臭坊主を取って噛もう。」てって、一人は踊うし「トッテンコボシはうちんかや。」てって、一人は踊るし、そうかあ一人は「秋風吹けば、実はさんてんポロン。」て三人世話ぁやいて世話ぁやいて踊っちょいて。そうから、きゃあ、また、踊っちょいて、け、いのうだって。そうから「何だらぁか。あげに、ま、ほんに毎夜さ毎夜さきて踊うだが。」てって、調べてみなはったとこうめが、「生臭坊主を取って噛もう。」てえのは、鶏の古いのが化けて出る。そうから、その、「トッテンコボシはうちんかや。」て言うのは、一つは椿の横槌が千年すれば化けえだてって。そうから、一つは山芋のムカンゴが秋風、吹きゃあ落ちますけんなあ、そで「秋風吹けば、実はさんてんポロン。」て山芋の古いのと横槌の、け、古いのと、鶏の古いのと、け、三人、そげしちょつて毎夜さ化けちょって踊りょっただ。そげして調べて見たらそげな正体だった。
退休寺 (鳥取県西伯郡大山町)
金龍山退休寺は、 延文2(1357)年に国人領主・箆津豊後守敦忠が開基、「那須の殺生石」で有名な玄翁源明大和尚が開山となって創建された、山陰地方の曹洞宗寺院として最古の歴史を有する名刹です。
山内には15世紀中頃までに大慈院、慶聚院、西来院と普門院、林松院の5院が成立していたようで、これらの院から高僧や名僧が出て、新たに寺院を開いて末寺を増やし、山陰の曹洞宗隆盛の基盤をつくりました。門前町も形成され、近世には寺領を有して特例的な自分政治も行われました。火災に遭って幾度か焼失しましたが、勅使門と呼ばれる山門、土塀及び勅額はかろうじて残されました。
山門は承応2(1652)年に再建された江戸時代前期の建築で、勅額は至徳3(1386)年に後小松天皇から下賜されたものと伝えられています。
瓜姫 大山町高橋
なんとなんと昔ああとこにじいさんとばばさんとござつて、じいさんは山に行かはる、ばばさんは川で洗濯しさりよったら,瓜が流れてきて「こらま、瓜が流れてきたわい。ほんに、ま、はや拾って、持っていんでじいさんにもたまっちょって(入れておいて)へんげんならん(あげねばならない)。」と思ってたまっちょったが、ようにあんまりうまい瓜で、け、また食い、また食いしょったらなんなってしまって、その瓜が。そうで、また川に出ちょって「もう一つ流れがすう、じいさんの口にちょっと入れ。」て行ったら、また、上から流れてきただって。今度はほんに食わんやに取っちょかんならんと思って斗ビツに入れてたまっちょったら、そうから、じいさんがもどらはったけん「はや、じいさん、今日は瓜がたまってああけん、食わはいよ。」て斗ビツ開けてみたら、何があぶりげな、かわいげなかわいげな女房の子が出てきただって。「あら、こりゃまあ、瓜だったにこげなかわいげな女房の子が出てきた。これ、まあ、うちの子にせんならん。瓜から生まれただけん瓜姫てえ名につけんならん。」そうから、かわいがって、じいさんとばあさんとして、「瓜姫や、瓜姫や」てってかわいがっておった。まあ、大きんなって、15、16になって機織おやになって、そうから「おらんだあは畑に行きてくうけん、わら、この機織れよう。」そこにアマンジャクがおって、け、どげだり悪ことしてこたえんだって。そで「アマンジャクが来てもなあ、戸を開けえだにゃけんなあ。戸を開けんなや、ちょっこうだり開けんなや。」てって、ようにように言っちょいて出っさったただって。そげすうと瓜姫さんが戸をたっちょって、機織らはあに来て「瓜姫さん、ちょっこり開けてごしなはい。ちょっこり開けてごしなはい。」てって言いだども「じいさんやばばさんが開けんな、て言わはつたけん開けられん。」て言ったってけ、聞かんだけん、け「手の入あほど開けてごしなはい。」てって言いだ。そか「手の入あほど…なら、そうほどよか開けんど。」てって手の入あほど開けっさったら、なあに手の入るほど開けたら、け、ダーッと入って、そげして瓜姫さんを裸にして、瓜姫さんの着物をわが着て、そげして瓜姫さんは柿の木のテンパ(てっぺん)につり上げて、そげしちょったら、じいさんやばばさんがもどってきて「瓜姫がおらん。」なんてことで。たら、アマンジャクが「瓜姫さんは木のテンパ。アマンジャクはここにおる。」てって、瓜姫さんの着物着ちょっただって。そうから、がいに怒ってじいさんがアマンジャク、三つに切って、ソバとカヤとキビの根に埋めっさっただって。そで、根の方がそのアマンジャクの血で赤いだって。そげな昔、聞いちょうますわ。
キジとトビとサギの歌くらべ 大山町高橋
あるとき(最初に)キジが「何ぞがああへんだらか」と思って、山をこそりこそり歩き回って食べ物を捜していましたら、トビもトビで「何ぞ食い物の用意せんならんが」と思って、やはりそのあたりをこそりこそりしていました。そして二羽はそこでぱったり出会ったそうな。「だあだかと思やあ、キジさんか。」「ああ、トビさんか。」と二人が話しているとまた、下の方からこそこそ音がするので、だれだろうかと思っていたら、今度はサギが出てきて、「あら、こらサギさんだがなあ、まあ、ええところで出会ったけん、なんと物を言いやぁこすりゃあ、銭がいるけん、歌うたいやこしょいや。」と誘ったそうです。そして三羽は、「そりゃよかりゃあ。」ということになってうたい方の相談をしました。「おまえから、高いところに登って歌うたえ。」「キジさん、先にうたえ。」「トビさんこそ先にうたえ」。「いや、サギさんが先にうたえ。」とお互いに言い合って、だれもが先にうたいませんので、しびれを切らしたキジが、「そんなら、おらが一番先ぃうたぁわ。」と言いました。それからキジは、「ケーン ケーン ボトボトーッ。」と、いい声してうたったそうです。そうするとトビはトビで、「ピーン ヨロヨロヨローッ。」と言ってうたいました。そうすると最後にサギは、「ギョーッ ギョーッ。」と言ってうたいました。それから、トビはトビで、「おらが上手だ。」と言いいます。またキジはキジで、「いや、おらが上手だ。」と言います。もちろんサギも負けてはいません。「いんや、おらが一番上手だ。」と言います。
こうしてひととおり議論がすみました。そのころ、ちょうどキツネが庄屋をしていました。三羽は、「きりがつかんけえ、今夜、庄屋さんへ行きて聞いて判断してもらわや。」「それがよかろう。」ということになりました。それからキジやトビは夕飯を食べに帰って行きましたが、そのときにサギはドジョウをたくさん捕って、こっそりキツネの庄屋さんのところへそのドジョウを持って行って、「今夜、歌うたぁやこしたら論がひんけえ(尽きないから)、これあげえけん頼んけえ、ええ具合いにしてごしなはい。」ときちんと頼んでおいて、そうして夕食に帰ったので集まる約束の場所に行くのが遅れてしまいました。
キジとトビは早くそこへ来ましたが、なかなかサギは来ません。「えらいサギは来ん、サギは来ん。」と言っていました。そのうち、やっとサギもやって来ました。そこで三羽は連れだって庄屋さんのところに行きました。そうして庄屋さんの前でいよいよ歌をうたうことになりました。キツネの庄屋さんが、「だれからでもよいけえ、さあ歌をうたえ。」と言いますと、「さっきはキジが一番先ぃうたっただけん、ま、キジさん先にうたわはい。」ということになりました。それからキジは一等にならなければならぬがと思って、張り切って、「ケーン ケーン ボトボトーッ。」とうたいました。次にトビはトビで元気いっぱい、「ピーン ヨロヨロヨローッ。」とうたいますし、サギもまた、「ギョーッ ギョーッ。」とうたったのでしたって。そこで、それを聞いていたキツネの庄屋さんが言われることには、「キジも先のケーン ケーンはえらいいいだども、きゃ、後のボトボトが悪ぁし、トビさんはピーンはえらいいいども、後のヨロヨロが悪い。サギさんでみりゃ、け、ギョーッ ギョーッだけで、ヨロヨロもなし、あんなボトボトもなし、こうが、ま、一番よから。」とのことでした。それで、とうとう、サギが一等になったということだそうです。
狐女房 大山町高橋
なんとなんとあるとこに、安倍保名(あべのやすな)という一人者の男が、鉄砲撃ちをしてまわって、毎日をすごしていたのだって。あるとき、狐がよい女に化けて来て「なんとおまえ、一人おおなはあが、おら、かかにしてごしなはらんか。飯炊きにしてごしなはい、何でもしますけん。」と言ったって。「ほんなら、よからが。」と安倍保名が言って、その女に嫁になってもらったら、その女はしっかりと洗濯したり、縫物したり、炊事したりして、とてもよく世話やくよい嫁さんで、保名も喜んでおったら赤ちゃんが生まれるようになって、やがて男の子が生まれたので、『童子』という名につけて「童子や、童子や。」と呼んでとても喜んでかわいがっていたら、その子が三つぐらいになったら、お母さんの狐面がしだいに分かるようになったそうな。というのも、お母さんは春になったらチョウコやトンボやなんや取って食べたくなってしまったのだって。「この面を童子に見せちゃあならんけえ、はや、ま、出んならん。」と思って、とうとう書置きをしておいて『恋しくば尋ねてござれよ信太(しのだ)の森に わたしゃ信太の森狐』と書いておいて、そうして、そのお母さんは山の尾根へ飛んでしまったのだって。安倍保名が仕事を終えて家へもどってみたら、子どもが一人で泣いているので「母さんはどげだ、どげだ。」と言ったって返事はないし、それから見てみたら書いたものがある。「ああ、これはまあ、わしの嫁は狐だったすこだわい。」と思って、それから、男は書いてあった信太が森に行って「童子が母! 童子が母!」と呼んでいたそうな。そうすると狐がよい女になって出て来て「よもよも、黙ちょってすまんことをした。」と言っいながら、黒い継ぎで包んだものと白い継ぎで包んだものと二つ出してきたそうな。「その白い継ぎのほうは乳だけえ、ほええとこれ飲ましてごしなはい。そげすりゃほええのが止むし、そうから、黒い方は大きんなって上方の方にでもあがりゃあ、これ持たしてごしなはい。こりゃカラスの聴き耳ていうもんだけん、何でもよう分かるもんだけん。」と渡したのだって。それで、それを持って帰って「ほんに、もう一回、見しちゃらかい。こうが見納めだけん。」と思って、それからまた、ちぃいとが間(なかい)して行って「童子が母、童子が母。」と言ったら、今度はよい女になって出て行ったけれど「思い切りがつかんけん。」と思って狐になって出て来たのだって。「やれやれ、きょうと(恐ろしい)や、きょうとや、こげなら、もはや二度と出会われんで。」そう安倍保名は言って、それで、二度と信太の森にはもはや行かなかったって。子どもは大きくなっったそうな。それから「おらは大きんなったけん、上方へ上があけんなあ、とっつあん。」と言うので安倍保名は、その子にもらったカラスの聴き耳を持たして上がらしたのだって。そうしたら、その子は八卦見になって、とても繁盛したのだったって。
キツネの敵討ち 大山町高橋
なんとなんと昔あるところに法印さんが、坊領(ぼうりょう)の浦島という宿屋に泊まっていました。そして、宿の人に、「明日は大山へ上があけん、とうに起きて弁当作ってごしなはいよ」と言って休んだので、宿では早く弁当を作ってあげました。なにしろ昔のこととて、今のような汽車や自動車などはなく、朝からワラジを履いて歩かなければならないので、法印さんは朝早く起きて、さあ、大山へ上がろうと思って、弁当をもらって鑪戸(たたらど)というところまで上がりかけたら、そこにキツネが寝ていました。「あら、あげんとこへキツネが寝ちょうけん、おびらかいちゃらい(びっくりさせてやろう)」と思って、法印さんは、よく寝ているキツネのそばへ行ってホラ貝を吹いたら、キツネはとてもたまげてしまって跳び上がって逃げ去ってしまいました。「キツネを驚かしてやったわい」と法印さんは、一人でおもしろがりながらどんどん山道を上がりかけて行ったら、あたりが暗くなってしまったのだって。「あら、これ、昼間のはずだが。坊領からここまで来うに夜さにならにゃええが、まあ、何てことだらかい」と暗目で、それでも上がりかけているとお堂があったのだって。「ああ、こぎゃんとこに堂がああわい。ほんに、ここへ入ってタバコしちょうだ(休憩している)わい」。こう思って入ったところ、なんとその中に化物がいるではありませんか。「きょうとい(恐ろしい)ことだわい。なんだい化物が出た。はや、屋根に上がらんならん」。法印さんは急いで屋根に上がり、どんどん上へ上へ行きますと、化物も、「わが(おまえが)上がったてちゃあ、おらも上があわあ」といってついて来ます。「しかたがにゃ。こら、ま、今夜はここで、おらは化物に噛まれえだわい」と法印さんは思って、その堂の一番上の屋根裏まで上がって、ネキにつかまって、「ホラ貝の吹き納めだけん。もう一回ホラ貝を吹いてみょうかい」。こう思って、一生懸命ホラ貝を吹いたところ、なんと、あたりが明るくなったのだって。法印さんが見回してみますと、堂など何もありません。そして、自分は松の木のてっぺんの一番上の方まで上がって、木にしがみついていたのだったって。実は驚ろかされたキツネが腹を立てて、その法印さんを化かしていたのだって。
小僧の作戦 大山町高橋
なんとなんと昔ああところにお寺かあって、おっさんと小僧さんと二人ござっただと。そうで、そのおっさんのところにお花さんていう女房(にょうば)が毎日通って来ましたって。そうでその小僧が、そうがきしゃが悪あてきしゃが悪あて、どげぞして止めさせませんならんがと思っておったら。そげしたらその小僧は、「いっさい」て名だった。で、「人がおっさん、”一切万端、何にもしぇ”て言ってどまかいていけんけん、名変えてつかわはらんか」「おう、変えちゃあで。何ていう名にすうがいいだか」「”くさい”て名にしてごしなはい」「ほんなら、こうから”くさい”て名につけちゃあわ」て。そうから、毎日、お花さんが通って来なはあで、「お花さん、おっさんが”お花は、えだども、きゃ、尻が臭あてきゃ、ああで好かんわい”てって言いなはって」。そうから、こんどは、「おっさんは、えらいえだども鼻がみたんなていけん」てって言わはっただって。「こんど、お花さんが来なはりゃ、こげして鼻隠いちょうなはいよ」て、小僧が、おっさんに言って聞かしましただって。「そげしたら、ほんならそげすうかいなあ」てって言っておったとこめが、また、やってござっただけん、そうから、「くさいや、お花にお茶を出いてごしぇ」て言いなはっただって。”あら、ほんに。尻が臭あ、臭あてていいなはりょったてえが、ほんに、あげして鼻を押さえておおなはあが、ほんに臭いすこで、まあ、こりゃ行かれんなあ”ていんで。おっさんはおっさんで、”鼻がみともにゃ言って、お花が言ったてえけえ、鼻隠いちょらにゃいけんて、鼻こげしちょなはっただって。そうで、”尻が臭いすこだけん行かれんわ”てって。 そうからけ、お花さんがござらんやになっただって。そうで、そげな頓智がよう出たことだわいなあ、小僧さんが。
三人の娘の婿 大山町高橋
なんとなんとあるところに昔があったげなわい。そして娘が三人いました。一番上の娘さんは「おらは法印さんとこに嫁になって行かなならん。」と言っていたそうです。法印さんというのは位の高いお坊さんのことです。しかしながら、お父さんやお母さんは「そげなこと言ったって、われ、法印さんがもらってごしなはらにゃ行かれんわや。」と言っていましたら、そのうち法印さんがその娘さんを嫁にもらいに来られたので、上の娘さんは法印さんの嫁になって行きました。また、二番目の娘さんは「おらは、神主さんとこーぉに嫁になって行きたい。」と言っていましたら、また、神主さんがもらいに来られて、それで神主さんの嫁になって行きました。ところが、一番下の娘さんは「おらは百姓家に好いちょうけん、百姓家へ嫁に行く。」と言っていましたら、そのうち百姓家に嫁にもらわれて行かれました。あるとき祭りが来て、みんな婿さんたちが呼ばれに来ました。上二人の婿さんである法印さんや神主さんは、ともにとても気さくで、よく歌ったり踊ったりされるのに、いつまでたっても百姓家の婿さんは黙ったまま、何にも芸をしようとはしません。そこで姑さんが気が気でないものですから「こんた(貴方)、もう、なんなと芸しっさいな。他の婿さんはみな芸しっさあに。」と言ったところが、百姓家の婿さんは、いきなり「ほんなら、かかさん、手拭とトーシと出いてごしなはい。」と言ったそうです。トーシとは木の丸い枠に金網を張ったもので、穀物をふるい分ける道具のことです。それから、姑さんが、トーシと手拭と出してやりました。そうすると、この三番目の婿さんは尻からげをして、そうして、トーシをおろすまねをしながら、大きな声でこううたったそうです。
  一番ド−シのその下は おん殿さんにさしあげる
  二番ドーシのその下は われわれなんどの飯糧(はんりょう)だ
  三番ド−シのその下は 神主、法印にやる米だ
  アー ソーリャ ソリャ ソーリャー ソリャー
こう歌ったそうです。そうしたところが、神主さんや法印さんも、完全に参ってしまって、とうとうシブシブシブシブ逃げて行かれたので、それで一番下の娘さんの婿さんが一番に勝たれたそうですと。
身代の上がる話 大山町高橋
なんとなんと昔があったところに、じいさんとばあさんとがおられたって。それから隣りのじいさんやばあさんは頑固者で、たいそう怠け者だったって。あるとき、じいさんは「草刈りに行こうかい。」と思って鎌を研いでおられたけれど、井戸の縁(へり)でポチャーンと音がしたものだから、ばあさんが、「あら、じいさんは井戸に落ちさったすこだわい。」と思って井戸の中をのぞいて見られたら、やっぱりじいさんが井戸に落ちていたって。じいさんが、「はや(早く)、ばばや、おら、井戸に落ちたけん、縄取ってごしぇ。」と言うので、それから、ばあさんが縄を取ってあげたら、じいさんは自分の腰に縄を結(い)わえつけて、そして、「身代が上があわいのう。身代が上があわいのう。」と言いながら上がってくる。ばあさんも一生懸命にじいさんを引っ張りあげる。そして、「身代が上がったわいのう。」と言われたら、なんと体中に、まあ、小判がいっぱいひっついていたそうな。それで隣回りの子どもたちに頼んでその小判を取ってもらって、喜んでおられたって。そうしたところ、また、隣のじいさんやばあさんが、それを真似しようとしたのだって。「隣のじいさんががんじょうなだけん、また、朝ま疾(と)うから草刈りい行くてて、ま、井戸に落ちて、銭ががいに(たくさん)ついて上がったてえだが、このじいさんは横着なだけん、寝てばーっかりござーだけん。」と言って、ばあさんが怒られるものだから、また、じいさんも真似をして、「ほんなら、おらも草刈りい行かかい。」と言って、また、草刈り鎌を研いでいったら、井戸へ落ちられたって。「はや、井戸に落ちたから縄取ってごしぇ(縄を取ってくれ)。」とばあさんに言う。それから、縄を取ってもらって、じいさんは今度は自分の首に結わえつけただって。そこで、ばあさんが、「身代が上があわいのう。身代が上があわいのう。」と言いながら引っぱりあげておられたけれども、「上がったわいのう。」と言われるまでに息が切れてしまっただって。それで、「人真似なんかはするものではないぞ。」と言って聞かせされていました。
鶴の恩返し 大山町高橋
なんとなんとあるところに、昔があったげなわい。じいさんとばあさんとおって、ばあさんが綿を引いて、二反ずつ二反ずつ木綿をこしらえて、そうして淀江に持って行ってじいさんが売っておられる。そして一反分で米を買って一反分は綿を買って帰って、毎日毎日そうして、ばあさんが木綿をこしらえられたら、また、じいさんが売り行かれるししていた。
あるとき、また、二反出来たので、「じいさん、また、二反出来ただけん、淀江に行きて代わりの綿を買あてきてごっさいよう。」と、ばあさんが言った。それから、じいさんは買いに行かれたところが、バンダの堤のそばで罠がしかけてあって、その罠にみごとなみごとな鳥がかかって、羽をパターンパターンとしてもがいているので、「やれこりゃ、ま、これ、離いちゃらにゃ、これ、たっても死ぬうだが、ほんに。鳥、離いちゃりゃあ、鳥は喜ぶだども罠をかけた者には後生が悪し、どげしたもんだらあか。」と思っていたら、「ほんに、おら、木綿負っちょうだけん、この木綿一反掛けちょいちゃりゃ、罠掛けた者も喜ぶし、鳥も喜ぶ、ほんにそげしょかーい。」と思って、そうして荷を下ろして木綿を罠に掛けて、おじいさんがその鳥を離してやられたら、喜んで鳥が発って行ったのだって。
それで、おじいさんはこれまで淀江に行って一反分だけ綿を買っていたけれども、買いようがなかったので、今度は、米だけ買ってもどって、「ばばや、ばばや、こげなわけで、わりゃ鳥がかかっちょって、あんまりかわいさで木綿一反掛けちょいて離いちゃったわい。」と言われたら、「そりゃよかったのう、ええことしちゃりはったのう。」とおばあさんも言っておられた。
そうして、二人が夕飯を食べていたら、感じのよい女の人が、「ごめんなさいましぇ。」と言って家の中へ入って来たので、「はい、はい」と二人が言ったら、「なんと、おらは、この奥の方のかかだが、道に迷って今ほんに入り込んで来て、きゃ、暗んなっていのるとこが分からんが、今夜、泊めてごしなはらんかい。」と言うので、二人は、「なんぼなと泊まらはいだども、家には、米だし何だしあれへんだが。」と言ったら、「いや、米だり何だりいらんけえ。持っちょうますけん。」とその人は言う。そして、「鍋一つ、貸してごしなはい。」と言って鍋を借り、紙袋から米を出して、それからご飯を炊いて、それから、「おじいさんもおばあさんも食いなはい」と言って、炊いたご飯を二人にも食べさしました。「いつもお粥や雑炊食っちょうに、まあ、久しぶりでこげな米の飯、食った。」と二人はとても喜びました。
そうしたら、明くる朝間、ひどい雨が降るので、女の人は、「なんと二、三日、おらに宿してつかわはらんか。」と言う。「なんぼでも泊まらはってもいいでよ」とおじいさんやおばあさんも言いました。すると、その女の人は、「表(座敷)を、ひとつ貸してつかあはいな。二日、三日、だれんだり入らずと、け、戸だい何だい開けずとおってごしなはいよ。」と言って、それから、表の間に入って行きました。「まー、何すうだらかー。」と思って、二人がそろーっと戸の節穴から表の間をのぞいて見たら、鳥が自分の毛を抜いては機を織り、毛を抜いては機を織りしていた。「ああ、こらまあ、ほんに、あの罠に掛かっちょった鳥だわい。」とおじいさんは言いました。それから、女の人は三日目に部屋からできあがった木綿を一反持って出て来て、「あの、これ、木綿買いさんとこへ持って行きて、売って来てごしなはいよ。」と言っておいて、そのまま鳥になって発って行ってしまった。
おじいさんはそれから、淀江の木綿買いさんのところへそれを持って行ったら、「こらとてもわが手に合わぬ。買われぬ。こげな高いものはよう買わんけん、松江の殿さんとこに持って行きてみい。ええ値段で買ってもらわれえけん。」とその木綿屋さんが言われたので、おじいさんは松江の殿さんのところへ持って行ったら、殿さんは、「いいもん持って来てごいた。これは鶴の羽衣てえもんだ。これがほしかったに、だれんだり持って来うもんがないだけん、買あやがなかった。」と、たくさんたくさんお金をくださったそうな。おじいさんはとても喜んで帰って、それで、少しずつ少しずつ木綿を織って米を買いっていたのに、そうまでしなくても、二人休んでいても食べられるようになって、後でとて喜びなさったそうな。
にせ本尊 大山町高橋
なんとなんと昔あるとこにお寺があって、和尚さんと小僧さんの二人がおった。そげしたところが、その和尚さんがスイトンという名だった。で、毎朝、時間も変わらんように何かが来て、「スイトン、スイトン。」こう二口ほど声をかけるので、「はい。」と小僧が起きて戸を開けて見ると何にもいないし、「まあこら、不思議なことだ。」と思っておった。それから、ある月の明かるい夜に、「おっさん、おら、今日は何だか見届けちゃあけん、長屋に隠れちょうますけんなあ。」と小僧は言って、物陰に隠れておった。そうすると、とてもとても大きな狐が、なすなすなすなすなすやって来て、大きな尻尾で戸を、すいーとなぜておいて、頭をコトーンと当てれば、「スイトーン、スイトーン。」と言うではありませんか。「あ、こりゃ、おっさん、狐だと思いなはい。今夜はの、あれ、退治ちゃあだけん。どーっこもけ、灯をとぼすやに蝋燭立ってけ、明かんなあやにしなはいよ。戸も開けずにおって、そおが来うとグワーッと戸を開けちゃあけん。そげすうと狐が中へ入ぁあけん。」と言って待っていたって。 それから、本堂もどこもかしこもみんな、灯をとぼすようにして待っていたところが、「そろそろ時間が来たぞ。」と言っていたら、またその狐が来て、「スイトーン、スイトーン。」と言う。そこで小僧さんがガーッと戸を開けたら、とても狐がうろたえて、その寺に飛び込んだのだって。小僧さんは、「はや、おっさん、灯をとぼしなはい、とぼしなはい。」と和尚さんに言って、それから、和尚さんはみんな灯をとぼして、それからどこも尋ねてみるけれど、狐はいない。「たしか入っちょう気がしたがなー。」と言いながら本堂へ行ってみたら、いつも一人おられるはずなのにホゾン(本尊)さんがちゃーんと二人おられるのだって。「おっさん、おっさん、隣のホゾンさんが遊びに来ちょうなはあ。」「あや、まあ、こりゃ結構なことだわい。」それから、「うちのホゾンさんは、『いんやいんやしなはい。』て言うや、いんやいんやしなはる。『合点合点しなはい』て言や、合点合点しなはりょったてなあ。」と小僧が言ったのですって。和尚さんも、「ふん、そげ、そげ、そげだったじぇ。」と答えます。それから、「ホゾンさん、合点合点してみなはいな。」て言ったら、一人のホゾンさんが合点合点しなさる。そうから、「いんやいんやしてみなはいな。」って言ったら、またそうしなさる。本当のホゾンさんはそんなことはされないけれども、狐が化けているのだかねえ。それから、狐を捕まえて火あぶりにするとかいうたいへんな騒動だったそうな。そうしたら、「まあ、悪ことしたけんこらえてごしぇ。もうこげな悪ことすうやなことはないけん。」とその狐が、一生懸命に謝って頼んだのでやっと、「そいなら、もうこの周りにおらんにゃあこらえちゃあが、上方(かみがた)の方へ上がぁか。」と言ったら、狐も、「上方の方へ上がぁけえ、こらえてごしぇ。」と言うので。それで、やっと狐はこらえてもらったと。それで、それからはそのような化けものが出ないようになったって。
灰坊 大山町高橋
なんとなんと昔があるところに、大きな大きな長者があって、朝日長者といっていた。そこにたくさんな男衆(男の奉公人のこと)やら女房衆(女の奉公人のこと)やらおって、若さんが一人あった。そうしていたら、いつのまにか、つい旦那さんもかみさんも亡くなってしまって、いつのまにやら女房衆も男衆もみんな帰ってしまい、とうとう若さんが一人になり、屋敷もなんにもみんな人の手に渡るしして、どうしようもないものだから、その若さんは、荷物を少しだけ持ってふらりふらり遊びながら遠いところまで行かれなさったら、「入日長者」といって門のかかった長者があったものだから、「あ、ここに入って、ほんに、ダカイゴ(牛飼いに雇われること)でも何でもいいだ、使ってもらわい。」と思って入ったら、ちょうどそのとき釜の下の火焚きが一人、辞めていなくなっていた。それから家の人が見てみると、人のよさそうな若い者だったので、「ほんなら、使っちゃらかい、旦那さん。」「使っちゃれ、それがええわ。それがええわ。」ということになったげな。それで、「ほんなら、『使っちゃら』て言いなはあけん、今日からわは(おまえは)釜の下の火焚きしぇえよ。」「何でもしますけん、使ってつかあはい」と若さんは言うのだって。
それで、「何てえ名だ。われ。」と聞かれたけれども。「わしゃ、名はございましぇん。」と言うものだから、「名がなては困あけん…『灰坊』てえ名につけちゃあわい」とつけられたげな。「灰坊や。」「灰坊や。」といって使われるけれど、丁寧な誠に正直ないい子で、みんなにかわいがられて、それから春山に草が出来たら草刈りに行って、みんながコッテ牛(うじ)やら馬やら追ったり草刈に行ったりするとき、「灰坊、われも行こうや。」と言われると、灰坊は、「ついて行きますわ。」と言ってついて行って、そうして人が二把ずつも刈りなさるのに、自分は石の上に登っていった。そして、「朝日長者の一人子なれども、今は夕日長者で草をなぐ。」と言ってほんとうに歌をうたって、毎日そうしておられるげな。それでもまた、人が六把刈り終えると、そのころまでには自分もちゃーんと六把刈り終えて、そうして、「さあ、いにましょじぇ。」と言って、いい束を刈って担いで帰るのだって。そうしていたところが、今度、秋になって祭りには、遷宮(せんぐう)があるのだって。みんなが旦那さんに賃金を前借りして遷宮ご(遷宮見物用の衣装)買うのに、「わあも買え。」と手代が言ったって、「わしゃいりましぇん。参らんけん。」と言って、本当にどうしたって買わないのだって。それでしかたがなかったげな。それから祭りが来て、遷宮にみんながたいそうに着飾って参りなさるのだって。
ところで、その長者の家にお嬢さんが一人あったのだって。そうしてちょうどそのときそのお嬢さんは具合いが悪くて、氏神さんによう参りなさらなかったのだって。そうして、灰坊もいくらしたって、「参らん。」「わしゃ参らん。」「参らん。」と言って参ろうとしない。そうしたら、みんな参られた後から、灰坊も、「おらもほんに参らかい。」と思って、湯に行って、きれいにきれいに月代(さかやき…江戸時代、男子がひたいから頭の中ほどにかけて頭髪をそった、その部分)をそって髪を結ってきれいにきれいにするところを、ちょうどお嬢さんが、「うちには灰坊てえ者がおおていいが、どげな者だらあかい、見ちゃらかい。」と思って、そろーっと覗いて見られたら、何が灰坊だらあに、きれいなきれいないい若衆だって。「ああ、こらま、ええ若衆がおおわ、灰坊だなんてみんなに言われちょうだども、ほんに、こら、わが婿にしたらよからに。」とお嬢さんが思ったのだそうな。そうしたところが、ついよけいに具合いが悪いようになってしまったそうな。灰坊はそれから馬を出してその馬に乗って参って、ぐるーっと宮巡りして見たら。参っている者はいい若衆を見てみんなびっくりしたげな。「なんと、どこの若旦那だらか、見たこともにゃ美しい若旦那だ。」「どこのだらか。」「どこのだらか。」と言ってみんなが見ていたのだって。それから灰坊はぐるーっと回って、そうしてから、また家へ帰られたそうな。 そうしたら、お嬢さんは、「今んごろもどうやなころだが。」と思って、また、ちゃーんと見ておられたら、本当に門を入るときには後光が射すようないい男だったって。それから、お嬢さんはなおさら具合いが悪くなってしまわれたのだって。みんなは、「灰坊、なして回らだったりゃ。わりゃ、ほんに。どこの若旦那だいら、りっぱなりっぱなこしらえして、そげして参って来なはった。みんながあきれちょったが、どこの若旦那だらか。」と言っている。
灰坊はもどってからは、また、顔に灰をつけたり炭をつけたりして、知らん顔をしていたのだって。それから、上がってみられたら、嬢さんがよけいに悪くなって旦那さんやかみさんが本当に困っておられるのだって。「ま、困ったことだ。どげつうことだらかい。」と言っていたら、ちょうどそのとき、八卦見(はっけみ)が通ったので、それで、「その八卦見に診てもらいましょうや。」と言って診てもらったら、「こら他の病気だにゃ(ない)、なんぞこの家の中にわが婿にしたらよからにと思いなはあ衆があって、そぉでよけ具合いが悪いだけえ、そのものを婿さんにしなはりゃ治ります。」ってその八卦見が言ったって。「そげなこと言ったって、だれそれ言えへんだが、ま、どげしたらえだらか。」て言って聞いたら、八卦見が、「ようにようにこっさえさせ(着飾らせ)まして、手代も男衆もみんなぐるーっとここに座らして、嬢さんに銚子杯を持たしてあげて、その嬢さんが杯差しなはった者を婿さんにしなはりゃ治うます。」と言ったのだって。そうしたら、「ほんなら、ま、はや、みんながおらが婿になあだらか。」「おらが婿になられえだらか。」と思って、みんなが遷宮に行った着物を着て袴をはいて座っておったら、お嬢さんはなんーぼしたって、杯を差されないのだって。「あら、まんだ灰坊がおらんがな、ま、あれを呼んでみよう。」それからに手代が灰坊を呼びに行ったのだって。「はや、わあも来い。」「何が、おらがようなものが行きたっていけましぇん。」と言って、どうしても「上がらん。」と言うのを、やっとのことで引っ張りあげたのだって。そうしてここまで引っ張り上げられたら、お嬢さんはすーっと表の奥から銚子持って杯持って出て、その灰坊に差しなさった。本当にみんなが、「灰坊だ、灰坊だ。」と言って、びっくりして逃げてしまったげな。そこで、「はや、旦那さん、ずんどええ旦那さんの着物を出しなはい。袴や羽織を。」と言ったところ、灰坊は、「いや、わしゃ持っちょうますけえ。」と言って、さあそのお宮さんに着て参った着物や袴を出して着て、きれいにきれいにまた髪をそって整えたら、よい男になって本当に若さんになったのだって。そうしてその入日長者の婿になったのだって。それで、その嬢さんの具合いの悪いのが治るしして、その家はとてもよく繁盛したのだって。
花さか爺 大山町高橋
なんとなんと昔あるところに、貧乏な貧乏なじいさんとばあさんとがあっただって。じいさんがどこだったか山の方へ行きかけたら、たくさん男の子がおってかわいらしいかわいらしい犬ころを、たいへんに押したり引っ張ったりして、なぶり殺しにするようにしているものだから、「これ、わっち、おらにその犬ごしぇんかあ」と言ったら、「何やあだ。われがやあなじいにやれへんわい」と言う。「おれんなり、銭出すけんごしぇえやあ」と言っても、「銭でもいらんわ」と言う子もあるし、「あげなこと言わずと銭ごせりゃあやらいや」と言う子もあるししたそうな。それで、じいさんはとうとう銭を出してその犬ころをもらったのだって。そうして連れて帰って、ポチという名につけたそうな。そうしてばあさんに、言ったそうな。「ばばや、ばばや、あんまり子どもがこの犬ころをえらいいじめるで、かわいさぁで、おら、買あてもどったわ」。そうしたら、ばあさんが、「何すうだ。この糞じい。ようにおらがとこでさや、置かやがないのに、この犬ころ、どげして飼うだら。われ、飼っとれ、なら、おら、ここにある米でお粥なと煮て食っちょうけん」と言って、とてもばあさんが怒られたそうな。そうしたら、たらたらたらたらっと、犬ころが走って出てしまったそうです。「それみい。ばば、わが怒ったけえ出たがな」。犬ころが出てしまったので、じいさんが高いところに登っていて、「赤、カーカッカッカー」と言われたら、犬ころは前にあった二銭や一銭の真っ赤な銭を、たくさんに持ってもどって来たのだって。「見い、ばば。わぁが怒ったが、山のやあに銭、くわえて来ただで」とじいさんが言うと、「あら、銭くわえて来たかや」と言って、ばあさんの機嫌が直ったそうな。「はや、ほんなら、ま、このお粥なと食わしてやらはい」と、ばあさんはお粥を煮ておられたので、それを出して食べさせたら、今度また犬ころが出たので、それでじいさんが、「白、カーカッカッカー」と言われたら、今度は、白い銭をたくさん、五十銭や二十銭や、また十銭やらがあったのだが、そのような銭をくわえて来たのだって。そうしたら、ばあさんもとても喜んで、「ポチやポチや」と言って、その犬ころをわいがられるのだって。
そうしていたら、隣にもまた貧乏な貧乏なじいさんやばあさんが住んでいたというが、そのじいさんやばあさんが、「こりゃ、隣のじいさん。そっちには犬飼っちょって、がいな銭くわえて来たてえが、おらにも貸せっさい」と言うので、それから、「だれんも貧乏でえらいなぁ一つことだけん、なら、いっぺん、使わはいな」と言って、その犬ころを貸せると隣のじいさんが連れて出なさったのだって。そうして、隣のじいさんが、「赤、カーカッカッカー」と言って、高いところに上がっていて呼んだら、その犬ころは赤土をすごくくわえて来たのだって。「このゲダが、赤土なんかくわえて来て」とそのじいさんが、とても怒られたら、今度、また犬ころが出たので、「白、カーカッカッカー」と、また、そのじいさんが呼ばれたところ、今度は犬ころは白土をくわえて来たので、それから、また、じいさんはとても怒って、腹立ちのあまりその犬ころをたたき殺してしまいなさったって、 それから前のじいさんの家では、犬ころがあまり帰らないので、隣のじいさんの家へ行って、「ポチ、もどいてごっさい」と言うと、「おう、もどいちゃあわあ」と、死んだ犬をポイーッと投げられたのだって。
そして、「赤、カッカーて言わ、赤土くわえてくるし、白、カッカーて言わ、白土くわえて来るし、あんまり胸糞が悪けん、たたっ殺いちゃったわ」って隣のじいさんは言ったと。そうしたところが、「かわいさに、かわいさに」と前のじいさんやばばさんは、元の山の栗の木の下にその犬ころを埋めて、毎朝毎晩、参りなさるのだって。そうして、今度、「赤、カーカッカッカー」と言われたら、その栗の木からバラバラーッと銭が落ちる。朝も晩もそうして参りなさったら、いつも銭が落ちるのだって。そのことをまた、隣の意地悪じいさんが聞いて、その栗の木の下に行っていて、そうして、「赤、カーカッカッカー」と言われるもんなら、栗のいががキンカ頭にバラバラーッと落ちる。そのじいさんはまた、胸糞悪がって、その栗の木、伐ってしまわれたのだって。前のじいさんとばあさんが行って見たところ、栗の木が伐ってしまってあるから、ーまた、隣のじいさんが伐らはったに違いにゃあわいーと思って、「ほんにまあ、こりゃまあ、どげしやもにゃだけん、つき臼なとこしらええだわい」と言って、倒れた栗の木からつき臼をこしらえたそうな。そうして、「あしたはポチが日だけえ、餅を一升ほどつかあや、そげすりゃ二人だけん食われえけん」と、一升の餅米を蒸しておいたら、たいそう増えて、一升つけば二升になる。五合つけば一升になる。どうしたことか、餅が倍々になるのだって。
またその話を聞いて、隣のじいさんやばあさんが、「五合つきゃ一升になあ、一升つきゃ二升になあてえけん、一升でいいわ」てって。餅米を一升蒸しておいたら、五合ほどになってしまったって、だから、餅をついたら。またとてもとても胸糞悪がって、今度はその臼をたたき割ってしまったのだって。そして、そのつき臼を割り木にしてしまわれたのだって。前のじいさんとばさんは、「ほんなら、ま、どげしようもないだけん」と焚かれた臼の灰を取っておいて、往還の日(参勤交替の行列が通る日のこと)にその灰を持って出て、道路のへりに立っていたそうな。そうしたら殿さんがお通りになった。じいさんはざるに灰を入れて、「花咲かじじい、花咲かじじい」と言っていたら、殿さんが、「おもしろいことを言うが、これには、まあ、一つ花を咲かしてみい」と殿さんが言われたので、じいさんがその灰をまいたら、あたりの枯木に桜の花やみごとな花が、本当にいっぱい咲いたのだって。そのほうびにじいさんは、とてもたくさんな銭を殿さんからもらって帰ったのだって。そうしたら、また、その話を聞いて、隣のその意地悪じいさんが、ざるにそこの灰を持って出ていたら、再び殿さんが通られたそうな。隣のじいさんはざるに灰を入れて、「花咲かじじい、花咲かじじい」と言っていたら、殿さんが、「こないだも、見事に花を咲かしたけん、なら、もう一回咲かしてみよ」と言われたそうな。それから、じいさんが咲かせてみたら、今度は、とても花も何も咲くどころではなく、そればかりか殿さんの目に灰が入ったのだって。それで、殿さんが非常に怒られてねえ、隣のじいさんはとうとう縛られてしまわれたのだって。それで、悪いことばっかりされたじいさんは、何にも報いられず、いいことされたじいさんは、たくさんに金を溜めて、そのじいさんとばあさんと二人は、休んでいても食べて行かれるようになったのだだって。
ぼた餅は化け物 大山町高橋
あるところに佐治谷という、少し愚かな村があって、それで、上の地下(地区)から嫁さんが来ていたので、それで、婿さんは舅さんところに行ったら「まあ、上の地下のおっつあんが酒は飲まはらず、ぼた餅なとして食わしてへんじょうかい(あげようかい)。」と言って、ぼた餅を作るというので小豆煮て下ろしておいたら、五つ六つの子が来ていて、ちょっと蓋を開けかけたりなんかするので、ばあさんが「これこれ、そりゃ、かまうなよ。そりゃオソウソウだけん。」と言って恐がらせなさったのだって。そうしたところが、小豆をたくさん煮てそれに砂糖を入れて、小豆をぼた餅につけて婿さんに出しても、どうしたって食べられないのだって。「はや、おっつあん、おっつあん、おまえのごっつおうにしただけん食ってごっさいな。」「いんや、そげなオソウソはきょうと(おそろしい、の意味)ございます。」と言ってどう勧めても食べないそうな。「ほんなら、ま、食ってごっさらにゃ、おまえの方の姐は好いちょったけん、これも土産に持っていんじゃってごしなはい」。と言って、重箱によい形にできたのを入れて風呂敷に包んで「これ、持っていんじゃってごしなはい。」と婿さんに言ったら「いんや、おら、そげなオソウソやなんかきょうとござんすけん、なら、竹のオラボ(先の方)につけて、いなって(担って)いにますけん。」と言って、その婿さんは竹の先の方に重箱包みを結びつけて帰って行ったところが、おおかた帰ったところで、ついずるずるーっと竹から重箱包みが滑って、肩の方まで落ちてきたのだって。すると婿さんは「この極道めが、オソウソめのやつ、おら噛んじゃらと思って落ってきた。」そう言ってから、婿さんはその重箱を竹を持っておいてパンパンパンパンたたいたのだって。その重箱も割れるし、ぼた餅もえらいことになる、風呂敷も破れるしておったって。それから、わが家に帰って「行きたら里のかかさんが、ようにオソウソていうものをこっさえて、『食え 』て言いなはったども、おらきょうとてよう食わだった。そげしたら、『わあに持っていんじゃれ』て言わはあで、持っていのうかけたども、『そげなオソソウやなんやきょうといけえ、竹のオラボにつけてごっさい』て言ったら、竹のオラボにつけてごっさった。そこまでもどったら、ようにわあ(自分を)噛んじゃらと思って、おらが首の方へ落ってきたけえ、ようにおまえ気が悪あて、たたき散らかいて破ってしまっちょいちゃった。」と言ったって。それから姐さんが「まあ、オソウソだなんて、どげなものこっさえて出しさっただらかい。」と思って行って見たげな。なんと実際のところ、重箱に砂糖ぼた餅がいっぱい入っていたのに、そのようなものを重箱も風呂敷もみんな破って、たたき散らかしておられたのだって。それを見た嫁さんは「まあ、こなおまえ、きょうとやきょうとや(恐ろしや恐ろしや)。こげなだらずのところにおられりゃへんわい。」と言って、それで、実家へ戻られたのだって。
継子いじめ 大山町高橋
なんとなんとあるとこに、継母があったのだって。ある日、お父さんが「おらは上方に修行に上がって来うけん、子どもらち頼んけんなあ。」と、その母さんに言うと「留守番しちょうけに上がって来なはい。」と、そのお母さんが言われる。そうしてそこの姉の女の子は「父っつあん、土産に唐の鏡買あてきてごしなはいよ。」と言うし、弟の方は「おらは唐の巾着買あてきてごしなはいよ。」と言うのだって。それでお父さんは「おお、買あてきちゃあけん、母さんの言うことよう聞いて留守番しちょれよ。」と言っておいて出られたところが、何日かして戻ってみられたら、二人の子どもたちがいなくなっていたそうな。それというのも、継母がお父さんの留守の間に、大きな五衛門みたいな釜で湯を沸かして、その子どもたちを煮たのだそうな。そうしているところに、弘法大師さんが通られて「かく(かか、つまり、おかみさんの意)、それ何しぃさる。」と言ったら、継母は「今、味噌豆、煮ましたわい。」と言っておって、その子ども二人を釜に入れて煮おったのだそうな。それで「なら、味噌豆てえものは呼ばれるものだてえけえ、呼ばれよかい。」と言って、弘法大師さんがその釜の蓋を取って見られたら、姉弟いっしょに釜に入れられて煮ておられたそうな。そこで弘法大師さんは「お、こちの味噌豆はがいな(大きい)のだの。」と言って通られなさったって。それが十二月だったそうで、そこから「師走味噌はつくものではない。」と前から言うのだたそうな。さて、お父さんが戻ってみたら、子どもたちがいなくて、一人は流しの下、一人はどこだったかに埋められていたのたって。お父さんは姉の方には鏡を買ってきてやるし、それから弟には巾着だかを買ってきてやったのだって。お父さんが「子らちゃどこ行きただ。」と言ったら、そうしたら、すぃーと竹が生えてきて「お父っつぁん、唐の巾着いらぬものよ。チンチクリン。」と雀が来て止まったのだって。それから、姉の方は「お父っつぁん、唐の鏡はいらぬものよ。チンチクリン。」と、また、雀が出てきて止まったのだって。それから、そのあたりを掘られたら、姉弟の二人が埋めてあったのだって。そんな昔がありましたよ。それで「師走味噌はつくものではない。」と昔からここらでは言っていました。そしてこのことは今もそう言っておりますがな。
鯖売り吉次 大山町羽田井
昔あるところに吉次という商人がおりまして、鯖をはじめ、いろいろな品物を仕入れて帰りかけていましたが、あたりはいつの間にか暗くなってしまいました。そこへ山姥が出て来て「吉次待て待て、鯖一つごせ。」って言いました。吉次はしかたなく、その鯖を一つぽいーと投げておいて、山姥が鯖を食べている間に、自分が捕まらないようにと思って駆けって行きましたら、いいあんばいに小屋がありましたので、その小屋に駆け込みました。吉次は何も知らずに飛び込んだのですが、実はそこは山姥の家でした。そしてすぐに山姥が帰って来まして「ああ、今日はまんが悪かった。たった鯖が一つしか食えなかった。鯖売りを捕って食べようと思っちょったに、逃げられてしまった。しかたがない。腹が減ったけん、餅なと焼いて食べよう。」と言いいながら、餅を持ってきてそれを焼いて「餅が焼けたけえ、今度は醤油なとつけて食べよう。」と山姥は醤油を取りに行きました。その間に、吉次は隠れていた二階から、餅をみんな引きずり上げて食べてしまいました。山姥が醤油を持って帰ってみたら餅がみんななくなっていたので、それで今度は「餅がなんなったけん、また、持ってきて焼いて食べよう。」と言っているうちに今度は醤油をこぼしました。そこで山姥は「ああ、これじゃあいけん、食べることはやめにして寝ることにしよう。どこに寝ようか。二階に寝ようか、お釜に寝ようか、どっちに寝ようかなあ。」と言いました。そうして「いっさ、二階に寝ることにしよう。」と言って、二階にコトンコトン上がりかけてましたら、それを聞いた吉次は、びっくりしたものの、考えて梯子段の上から懸命に虫の糞みたいなのをコロコローッと落としかけました。山姥は「ああ、これ、梯子が折れえかしらんなあ。」と言って「いっさ、お釜に寝よう。」とお釜に入って蓋をして寝ました。吉次はとても喜んで、そこに行きて、釜の下に火をコチコチと焚きかけました。そうしたら、山姥は「ああ、もう何時かなあ、何とかカチカチ言わあ。」と独り言を言って釜に入りました。ところが、今度は火が燃えついてボーボーと音がしました。山姥は「ボーボー鳥がほえ出いたわ。もう夜が開けるわい。」と言って寝ていましたが、今度は熱くなってきましたので、それで「ああ、熱いわ、助けてくれ、助けてくれ。」と叫びました。しかし、吉次は「おまえは鯖を取ったぁ悪いことすうけん、焼き殺してしまう。」と火を焚き続けました。 それで山姥はとうとう焼き死んでしまったそうです。
蛇婿入り 大山町羽田井
昔々、あるところに、ある長者の家に千畳からの田を一日に植えてしまわにゃいけんので、どうしても水が当たらんので、かしらにゃ行きてみましたら、大きな蛇が横たわっておりまして、水が当たらんで、それから、その主人が 「頼んけえ、ここの田を水当てさしぇてごしぇ。そうだなけらあにゃ、これから当てることは出来ん(うちの娘を一人おまえの嫁にやるから)。」てって言いましたら、そうしたら、どいてもらって千畳の田は出来ました。そうから、その旦那さんは帰って、朝間起きて寝ちょうなはあと、お嬢さんが三人ありました。最初のお嬢さんが「お父さん、起きてお茶まいれ。」てって行きなはったら、「お茶もこげなわけでほしくはないども、おまえがI(蛇の所へ嫁になって)行きてごいたら飲む。蛇がこげなことで頼んで、千畳の田を当てさせてもらったが、その水が当たらんので、おまえが(嫁に)行きてごしたら飲む」てって頼みなはったら「それ、お父さん、無理だわ。」てって逃げてしまいなはあ。今度、中のお嬢さんが来て「お父さん、お茶まいれ。」と言います。「お茶もほしくはないどもな、こげなわけで、ま、ほんに。クチナワのとこへ(嫁に)行きてごしたらな、お茶は飲むども、そうだなきゃねば、お茶はほしくない。」それから、今度、三人目のお嬢さんが行きて「お父さん、お茶まいれ。」て。したら「こげなわけでなあ、蛇のところに行きてもらわにゃ、もう、仕方がないだわい。」てって、話しなはつたら、一番末のお嬢さんが「だったら、わしは行きますけえ、起きてお茶のみなはえ。」って、そげして今度は「わしの願いもああで、聞いてごしなはい。」「何だか。何でもかなえてやあけえ、話いてみい。」「そうしたら、千本の針と千巻のオト帳を作ってごしなはれ。そえすりゃ行きますけえ。」てつて。「それでは易いことだ。行きてごせ」てって、喜んだそうです。で、そいからそれを作って、駕篭に乗して、何て池でしたかなあ、そこの池のところに連ぇだって行きて、もうみんながように恐れて帰ってしまいますし、お嬢さんがこげしておおなはつたら、大きな蛇体ですわなあ、にょーいと顔出いて来ましてな、それでその千巻のオト帳、針千本、それを頭からかしげなはったら、今度はええ旦那さんになつて、もう角が折れて、「もうこげんなつた」てって。それと、今度円満に暮しなはったちゅう話こっぽりです。 
 
 米子市

 

●米子の民話
「米子」の地名の起源
昔、東京の金持ちが山陰旅行をしたそうで。 名前は知りませんぜ。 その人が米子に来たら、水はうまいし、温泉はあるし、別ぴんさんは多いし、ように気に入ってしまって予定以上に泊まって、次に松江に行った。 ここもまた気に入って。 そこで東京の奥さんに手紙を出されたそうですわ。 「拝啓…米子も松江も気に入ったので帰りは一週間遅れる」すると、すぐさま返事が来て、「そんなに米子さんや松江さんが気に入ったのなら、そちらでどうぞ。 私は実家に帰ります。あなかしこ」初めて『米子』と見れば、ほんに女子の名前と勘違いされても仕方ありませんわなあ。『米子』の地名の起こりは次のように聞いとりますがなあ。
…昔むかしのこと。 粟嶋神社のある村に、一組の長者夫婦が居りなったそうで。 ある時、その長者夫婦は今の加茂町の賀茂神社の隣に引っ越してきなさった。 何しろ長者だけえ金はうなる程あるし、なに不自由ない暮らしだったけども、たった一つの悩みは跡継ぎの子がないこと。長者夫婦は毎朝晩、隣の賀茂さんに行って、入口の井戸で身を清めてから「どうぞや、いい子が授かりますように」と拝んでいたそうな。が、なんぼ拝んでもお陰はないし、年は寄るし、こりゃいけんわ。 あきらめかけていた時、何と長者が八十八になった時、奥さん(てっても、もうしわくちゃばあさんだけどなあ)に子が出来た。 長者は躍り上がって喜んで、『伯耆』と名を付けたそうな。 その子孫も栄えたそうですと。八十八の子が出来た。 まあ縁起がいいことだ。 というので、それまで『加茂の里』と言っていたのを『八十八の子・米子』と言うようになったですと…
その長者夫婦が口をすすぎ、飲んだ賀茂さんの水は、米子の名水の一つでしただで。 ほんにうまい水で、上水道がまだ引かれてなかった頃には、この井戸の水をおけにくんで、大八車に乗せて売り歩く人もおったそうですよ。 今は道の拡張工事にひっかかっておるようですわ。
美吉の猿土手
梅雨の季節になりました。今年は春先から雨で花見もろくすっぽできなんだが、雨の多い年でしょうかなあ。稲は水が無うては育たんから、雨は降ってもらわにゃあ困るが、だいうて降り過ぎてもらっても困る。昔は、降り過ぎて川や堤の土手がよう切れて、町が水浸しになったもんです。美吉の辺もな、なんぼ土手を築いてもちょっと雨が降りゃあすぐ切れて、田んぼに砂が入って、村の人はみんな困っとりなはったそうです。
その年も梅雨の水で土手が抜けました。村人は集まって崩れ落ちた土手をのぞき込みながら、善後策を話し合いましたが名案はでません。と、中の一人が「なんと年寄りに聞いた話だが…」とおずおずと話し出したそうです。「米子のお城を築く時にも、山が崩れていけんので人柱を立てたら、それきり崩れんようになって城ができたそうだが、なんとこの土手にも人柱を立てたらどげなもんだかなあ」困り切っとった村人は、この話を聞いて気持ちを動かしました。だども、この話には人の命がかかっとる。それじゃあ誰を人柱にすうか、ていう事になあと、なかなか決められるもんじゃあない。さんざん話し合ったあげく、「それじゃあ明日の朝いちばんにこの土手の前を通った者を人柱にしよう」て、いうことになったそうですわい。次の日の朝、村人は土手の前で人柱がやって来るのを待っとりました。そげな恐きょうとい話が出来とうとは露知らんで、いちばんに朝もやを突いてやって来たのは、何と肩に猿を乗せた猿回し。知っとりなさるかや猿回しいうもんを…。そうそう反省する猿で有名になったあの手の旅芸人ですわい。こな衆がやって来た。村人はなんにも言わずに、いきなり猿回しを捕まえて、猿を肩に乗せたまんま土手に埋めてしまっただって。そうからは、なんぼ大雨が降っても、土手は切れませんだと。それでその土手を「猿土手」という。そういう話を聞いとります。
え?人柱なんか本当は立てていない? ああよかった。
宗像(むなかた)淵の鯉
暑い夏が近づくと、水に入って遊ぴたくなりますが…。加茂川も昔は水がもっと奇麗で、ようけ流れとりました。宗形神社の下流には宗像淵いう淵ができとって、魚がうじゃうじゃ泳いどりました。
江戸の昔のことだったそうです。若い衆が集まって「田植えは済んだし暑うはああし、何と明日は、暑気払いに宗像淵に毒を流いて魚を取って食おう」いう話になりました。川に毒を流いて魚を一刻麻ひさせて取る漁法は、江戸の昔も今も禁じられた漁法だが、若い勢いでそげな相談をして別れたそうですわい。その夜、毒流しを提案した若者の家に旅の僧が来て一晩泊めてくれ」って頼んだそうです。若者は「ああいいよ」って泊め「何もないが」って晩飯に麦飯を出いたそうな。僧は麦飯を拝んで食べながら「何とここに来る道々、小耳にはさんだけど、明日の毒流しの話は本当かな?」「うん本当だ」すると僧は座り直して、若者に懇々と毒を流すことの非を説いて聞かせた。が若者は「もう決めたことだ」てって、聞き流したそうです。次の日、若者が起き出てみると、夕べの旅の僧はもう出発しとりました。若者たちは予定通り淵に毒を流しました。毒にしぴれて次々に浮かび上がる魚を取って、若者たちは一日中歓声をあげとったそうです。長い夏の陽も沈みかけ、みんな大漁に満足して帰りかけたその時、淵の底から見たこともない大鯉が、ゆっくり浮かぴ上がって来ました。「淵の主が上がったぞ!」て言って、若者たちはまた水に飛ぴ込んで引き揚げ、肩にかついで帰りました。村に帰った若者たちは、早々祝宴の料理にかかりました。淵の主の腹に包丁を立て裂いてみたところ、腹の中からはごっそり麦飯が流れ出て。びっくりしたあの若者は、その時ハッと気付いたそうです。昨夜の旅の僧は、この淵の主が姿を変えて、若者たちの悪巧みをいさめに来たものだと。若者は、悪いことをした、と心から反省をして、髪をそって坊さんになったとか、気が狂って家も絶えたとか、とにかく、いい結末にはならなんだ、と聞いとります。
米原(よねはら)太鼓
8月は盆があって、その上終戦の日も重なって、亡くなった人がしのばれる月です。盆といえば盆踊り、盆踊りといえば米原太鼓の話が頭に浮かびます。実はこの話には2つの話があって、(1)は人柱(2)は 継子ままこ いじめの話です。どっちが本当だやら知りませんけど、どっちも悲しい話です。
(1) 弓ヶ浜は砂地で水が無あて、長いこと米作りができませんでした。江戸時代になってから、砂の浜で米作りをするために、米川を作って水を引き入れる工事が始まりました。ところが、米原まで川を引いて来たら、土手をなんぼ築いても崩れるだいって、それで人柱を立てることになりました。人柱には、盆太鼓を打つのが上手な米原の若者がなったそうで、若者は太鼓を打ちながら穴に埋められましたと。
(2) 米原に心の優しい別ぴんの娘さんがいました。生みの母が早くに亡くなったので、体が不自由なお父さんは継母をもらいました。ところがこな衆は意地悪で、娘さんを何のかのといってはいじめました。が、娘さんは気にもせず、よく継母に仕えていたそうです。娘さんはまた盆踊りの名人でもあったので、盆が近づくとあっちの村、こっちの村と呼ばれて、夜遅くまで踊りを教えて回っていました。ある日のこと、娘さんは昼間のきつい仕事をした後に、夜いつものように踊りを教えて、くたくたになって戻ってぐっすり寝込んでしまって、陽が上っても起きてこれんかったそうです。それを継母がえらく腹を立てて、何と焼火箸で娘さんを痛めつけ、とうとう殺いてしまったそうです。
(これからは後は(1)(2)共通) そのことがあった次の年の盆の夜から、地の下ですすり泣くような太鼓の音が響きだしました。この音を人々は「米原太鼓」といって哀れがったそうです。もっともこの太鼓の音は、地元の米原では聞こえずに、遠くの村で聞こえる、って言われています。この音の出る所が田のあぜでしたので、そこに小こまけな供養碑が建っていましたけどなあ、田や川の改修でどさくさした折りに、無くなってしまいました。
粟嶋の八百べく(比丘尼)さん
粟嶋神社がある所は、昔は文字通りの島で、舟の渡し賃は3文だったそうですよ。
昔、この粟嶋に数人で信仰していたリンゴン(龍神)講があって、当番になると神さん拝みの後、講仲間にごちそうを出すのがきまりでした。ある年の当番が、ごちそうぶりに見たことのない肉を出しました。聞くと「これは人魚の肉で食べるとうまいし、不老長寿の肉だよ」と言いました。みんなは珍しげに見たもんの気味が悪うて、け、食べたふりをして肉を着物のたもとに入れ、帰りの舟の中で海に捨てたそうです。ところが、一人だけ酒に酔っぱらっておって捨て忘れた人がいました。こな衆は、家に戻るとじきにいびきをかいて寝てしまいました。家には18になる娘がいて、父親の着物を脱がせていて、たもとにあった肉を見つけ、土産だ、と思って食べてしまいました。はじめ体がとろけるように思われて、ちょっと気を失い、気が付くと肌はつるつる、耳はアリの歩く音、眼はノミが蜂ほどに見えるようになった。それからです。この人はなんぼ年をとっても、18の娘のまんまで老けんようになりました。同い年の者は、みんなしわくちゃ婆さんになって死んで行くのに、われ一人何年経っても一向に年をとりません。寂しいでしょうで、知った者がみんな死んでしまって、自分だけ生き残っとるのは。『定ジョウに入いる』って言いますが、食を絶ってわざと死ぬことを。この人も仏壇の鐘を持ち出いて、そげして村人に「わしは粟嶋に渡って定に入る。 生きとる間は鐘をチーン、チーンと打つ。 音がせんようになった時が、わしの命日だと思うてごせ」って言って洞穴に入られたそうです。 定に入って何日か後に鐘が鳴らんようになりました。 その時この人は800歳だったので、村人は、八百べくさん、と言いましたと。 べくさんとは比丘尼びくに、女の坊さんのことです。
今でも、この洞穴(静の岩屋)は残っていて、戦争中は出征兵士の武運長久を祈って参る人が多かったですよ。9月15日は敬老の日。長生きして良かった、と思える毎日でありたいものです。
新山の小豆(あずき)とぎ
秋祭りの季節になりました。昔は氏神さんの祭りといえば都会に出て働いとる若者も、嫁に行った娘も孫を連れて帰って来て、村にも一刻のにぎわいが戻ったもんですけどなあ
成実の新山の氏神さんは白山神社といいまして、この神さんに仕える動物はサケ(鮭)だそうです。昔は祭日(10月18日)の前の日には、雨と一緒に鮭が神社の前の小川に戻って来て、祭りの次の日に雨と一緒に去ぬる、と言われとりました。実際、祭日の前後には雨がよく降ったもんです。近年は、文化の日に祭日が変わってしまいましてねえ。祭りには、豆腐やどじょう汁などと共に、必ず小豆を入れた赤飯を炊きました。今でも祝い事や祭日には炊きますが…。私らの子ども時分には、夜遅うまで遊びほうけとると、「小豆とぎに取って食われてしまうぞ」ていうて脅かされたもんでした。「小豆とぎ」とは「米をとぐ」というのと同じで、赤飯を炊くために小豆を洗っている婆さん、というほどの意味でした。神社の前に架かっとった小さな石橋の下に小豆とぎがいて、薄暗くなってからそこを通りかかると、シャラッ、シャラッ、シャラッと小豆をとぐ音がする、と聞いとりました。今は小川も埋められ、橋も無しになりました。
え?どげな婆さんだか?て。それは聞いとりませんが、他所の話では、顔は青白うて髪はざんばらの長い自髪で、「小豆とぎましょか。 人取って食いましょか。 ショキ、ショキ」とか「小豆三合に米三合、合わせて六合。ザク、ザク。小豆煮えたかつまんでみょ」小豆が煮えとらなんだら、小豆の代わりに子どもを取って血を吸う、というて恐とがられとるそうですと。祭りの夜は、身を清めて慎んでおらんといけんのに、神さんに供える御飯を炊く頃まで、外で遊びほうけておってはいけん、ていう戒めから出た伝説でしょうなあ。小豆とぎは市内では、元町サンロードにある道笑町郵便局の裏通りが昔は外堀でして、そこの竹薮の中にも、福市の安養寺近くの竹薮の中にもおられたそうですよ。
前地のナナフロニョウバ(七尋女房)
「秋の日は釣るべ落とし」と言いますが、ほんに早うに日が沈みます。昔の子どもは家の手伝いもようしましたが、遊ぶのもよう遊びました。夏の気分で遊んどるとアッという間に日が暮れてしまって。それでも遊びほうけとると「暗うなってまで遊ぶもんじゃあない」というて親にようしかられたもんです。そんな時に聞かされる話が、前地の「ナナフロニョウバ」の話でした。
前地(東福原)の薬師さん(薬師堂)の傍らには、大の男が3人も手を広げてやっと抱えられるほどの大きな古い松の木がありました。木の根の所がうろ(ほら穴)になっていて、かくれんぼなどにはいい場所でした。それが戦後になってから子どもの火遊びが元で、まるで煙突のように燃え上がり、焼け落ちてしまいました。実に立派な松の木でした。この薬師さんの松の木には、晩方になるとナナフロニョウバいうて、両手を広げて7回手繰るほどの長さのある背の高い女の人が、着物をゾロッと着て、そげしてこの松の木のてっぺんにチョイと座って、暗くなってからここを通りかかる人に「ヘッヘッヘヘ」と薄気味悪い声で笑いかけたり、長い白い手を伸ばして、通る人の肩に手を掛けてからかったりして、ほんにまあ恐とい場所だ、と聞かされとりまして、それで暗くなりかけても遊んどると「ナナフロニョウバにかまわれるぞ」って恐とがらせられたもんです。だけえ晩方になると、あの辺を通る人はおりましせんでした。
私らの子どもの頃は、夜はほんに真っ暗でしたし、晩方外に出て急に居らんようになって、神かくしに逢う、とか、人さらいにさらわれてしまう、というような事が本当にある、と信じられていた時代でしたけえ、ナナフロニョウバも半分は信じとりましたけえなあ。夜は魔物の活動する時で、人は家にいるもの。 明るい時だけが人間の活動する時だ、と考えていたように思います。だけえ、どっちつかずの夕方は、魔物にも出会う時として恐れていたように思います。それ、夕方を「逢魔が時」ともいうでしょうが。そういえば、交通事故も夕方が多いそうで。 魔に逢わんようにご用心。
日下(くさか)の赤穂浪士の墓
師走に入ると、14日の赤穂浪士の打入りに合わせて、毎年テレビが「忠臣蔵」をしますが…。300年も前の事件なのに、人気があるんでしょうなあ。米子と赤穂。何の関係もないように思われますが、なかなかどうして。一つは、赤穂四十七士の主役・大石蔵之助のお母さんは、元和3年(1617)から15年間米子城主だった池田由成の娘、ということです。湊山公園に残る大五輪塔が、今に池田氏の来米を語っています。以上は事実。 これからは言い伝えですよ。
義士全員が切腹で赤穂事件は決着しましたが、その年の元禄16年(1703)のことです。日下(県地区)の瑞仙寺の門前に、みすぼらしい男が立って「わしは病気で体が動かない。数日泊めてもらえまいか」と頼んだそうです。和尚さんは「ゆっくり休んで行きなさい」と言って、布団や食事を出してやりました。数日が経って、男はすっかり元気になったので、和尚さんに礼を言って寺の門を出たそうです。その途端、彼は背負っていたこも包みを降ろし、中から刀を取り出すや否や、アッと言う間に腹をかき切ってしまいました。和尚さん始め見送りに出ていた人は、驚くまいことか。いやはや大騒ぎになりました。江戸の昔でも、人が死ねば役所に届けねばなりません。ましてや、割腹自殺など異常死の場合はなおさらです。どこの誰だか知らなんだので、慌てて男の包みを解いて見ましたら、この男は、父と兄が赤穂義士・松村喜兵衛秀直、同三太夫高直の次男・政右衛門ということが分かりました。それと自分の戒名「刃山道剣信男」が出てきましたので、寺ではそれを石に刻んで、ねんごろに法要をしてやったそうです。後の火事でその書類は焼け、墓も埋めてあったそうですが、墓は掘り出し再建されました。
「この話、本当かも」と思わせるのは、彼の戒名で。義士の戒名が全て「刃○○剣信士」とあるのに、あまりにも似ているからです。 義士の行動は世間から喝采されましたが、残りの多くの藩士は浪々の身となって、全国に流れたわけで、中にはこのような悲惨な最後をたどった人もいたのでしようなあ。
上新印(かみしい)の金の鶏石
明けましておめでとうございます。元旦に鶏、なかでも金鶏の鳴き声を聞くと、その年は福が舞い込む、寿命が延ぴる、て言う伝承があって、その為でしょうか元旦のテレビには尾長鶏が、長々とその嶋き声を聞かせますが…。陰田の天神山(道路工事で消失)の頂上には、元旦から三が日の間に、金鶏が舞い降りて金の卵を生むとか、鳴くと言われており、その卵を取ったり、声を聞いたりした者は、やっぱり福が来る、と言ったそうですよ。
上新印(春日地区)の円福寺の境内には、蓋付きの大きな石があります。 円福寺とこの大石は、昔は日下の「山ノ寺」という所にあったそうです。 その頃からこの大石の中には金の鶏が入っとって、元旦だけ石の中で鳴いて、福を村の人にくれるけえ、ふた石は絶対に取ってはいけんぞ、取れば金の鶏が逃げてしまうけえ、と言われとりました。いや、鳩が入っていると言う人もいますが、私は金の鶏と聞いとります。
ですけど「絶対に」と言われとりゃあ反発してみたいのも人情でしょう。寺には性の辛い小僧さんがおったそうで、これがタブーを破ってふた石を開けたそうです。すると案の定、中から金の鶏が飛んで出て、陽にキラキラ輝きながら空高く飛んでいきましたと。和尚さんは小僧を叱ると同時に、金鶏の行方を追わせました。 金鶏は、山の松の枝に止まってあたりを見回していましたが、やおら飛ぴ立って上新印の小堀陣内という侍さんの屋敷跡という、今の円福寺に降りました。
小僧さんが和尚さんにそのことを報告すると、和尚さんは早速その場所に出かけ、寺そのものをそこに移転してしまいました。 もちろん金鶏の入っとった大石も、えっちらおっちら運んできて、前のように金鶏を入れて、しっかりとふた石を載せました。
元旦にお寺に行って、この石の中で嶋く金鶏の声が聞けれぱ、福が授かる、と今でも言いますよ。エ?またふた石を開けたら金鶏が飛ぴ出るかって?。 そりゃあんた今度は、「明けましてコケコッコー」でしょうで。
蝉丸さんの百人一首
今年は1月の末に旧暦の正月に入りましたが、正直言いますと、年寄りにはいまだに旧暦のほうが季節感が合っていて良いです。旧正月なら雪も積もり空気も澄んでいて本当に年が改まった感じがしたもんです。学校は旧正月にも冬休みがあって、雪の中を登校せんでいいからうれしかった。 かるた、双六、百人一首と遊ぴには事欠きませんでした。
…米子がまだ砂浜の中にある寒村だった頃のことです。深編笠をかぶって背には楽器の琵琶を負い、眼が見えないらしく杖にすがった旅人が肩で息をしながらやって来て、砂浜にべたをこいて突っ込んでしまったそうです。そこへ通りかかった村人が優しく、「お前さんどげしなはっただ?」と聞きました。するとその人は苦しそうに「わしは眼が不自由な上に不治の病に冒されていて、何とか治りたい一心で全国の神仏を拝んで行脚してきた者だが、どうも此処で終わりそうだ。わしが死んだら此処に祠を建ててくれ。 親切な村人の為に眼病をはじめわしが病気で苦しんだ分、村人が病気にならんように守ってやるから。」 といって息絶えたそうな。村人は旅人の持ち物から、この人は百人一首の歌人の一人、有名な蝉丸さんだと解ったので、遺言どおり祠を建て蝉丸神社として祭ったそうですと…
それが博労町3丁目にある蝉丸神社(近年夜見にも分霊されました。)で、実際、江戸の頃からはやりだし、コロリと死ぬと恐れられた虎烈刺(コレラ)が広がったとき、他の村では虎烈刺の「虎」に勝つのは「狼」(おおかみ)だ、と狼を神使いとする船上神社や備中木野山神社をあわてて勧請して、怖いコレラの禍から、免れようとしましたが、蝉丸神社周辺の人は蝉丸さんのお蔭で、誰一人コレラにかからなかったそうです。それがそれ、蝉丸さんの歌、「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」の最初の「これやこの」が「コレラ来ぬ」(もう来た)とコレラ菌には聞こえたので、この町に入るのを止めたそうですよ。え?コレラ菌が英語を知っとったら「コレラカム」と聞いただろうって?英語を知らんコレラ菌で良かったですなあ。旧正月の遊ぴは「百人一首」に限ります。
戸上山(とかみやま)の藤内狐と尻焼川
江戸の昔のことです。戸上山(観音寺)には藤内という狐がいました。この狐、伯耆三狐の一狐だけあって、誠に化けるのがうまい。特に娘さんに化けたら天下一品。今も昔も男は鼻の下が長いもんで、べっぴんさんと見ると狐が化けているとは露知らず、何のかんのと言い寄り、金や品物で関心を引き、いい気になったところでそれらを巻き上げられ、手痛い目にあわされる男が大勢いたそうです。
そのうわさが広がると、今度は、我こそは性悪狐を退治せん、という若者が出るものの、目の前に匂うような番茶も出鼻が現れると、どいつもこいつも口ほどになく、へなへなとだまされて、全くだらしないありさま。
ある日、馬子さんが馬を連れて戸上の下を通りかかったら、絶世の美女が声を掛け、「米子の町まで馬に乗せてもらえまいか」という。 気のいい馬子さんは「あ、いいよ。 帰る道だけえ乗って行かんせ」いって、美女を乗せてやったその時です。馬がいつもと違って耳をピクピク動かせ、前足で地をかいたそうです。それに目ざとく気付いた馬子さんは、あ、これがうわさの藤内狐と察して、その気配はないかと見るに全くなく、見れば見るほど美しい。ほとほと、感心して「娘さんは美人だなあ」という。と狐は狐で鴨がまた引っかかった、とほくそ笑む。が、馬子さんは正体を見抜いているので「この馬は暴れ馬だけん、あんたが振り落とされんように縄で巻いとくで」いって馬にくくり付けてしまったそうです。
行く程に鍛冶屋があって、赤く焼けた鍬が見えた。すると馬子さんは大声で「鍛冶屋さん!この娘は藤内狐だけえ、その焼け鍬を尻に当てて見っされ!」狐は驚いて逃げ出そうとするが、がんじがらめに結わえ付けてあるので逃げもできず、尻を焼かれ正体を現して、これからは人間さまにはちょっかいを出さん、と約束させられて許されたそうです。
命からがら戸上に帰った狐は、前の川で焼けた尻を水に浸して冷やしたので、その川を尻焼川、と言いますだと。
たこと皆生海岸
桜の咲きほころぶ春になりました。
とんとん昔のことです。 米子の近くに住んでいた猿が、春の陽に誘われて、皆生の海岸に弁当持ちで遊ぴにやってきたそうです。今なら温泉に入って、のんぴりするところでしょうが、その頃はまだ温泉は知られとりませんでなあ、青い海の彼方から寄せてくる波、返す波を追いかけて、キャッキャ、キャッキャと遊んどりました。あんまりおもしろそうに遊んどるので、それにつられて海の中からたこがのこのこと海辺に上ってきて、猿といっしょになって遊ぴだしたそうです。
やんがて昼になりました。猿は海辺に生えとる松の根っこに座り込んで、弁当を広げました。握り飯です。猿はうまそうに食べます。たこはそれをうらやましそうに、指、いや足を食わえて見ていましたが、がまんできなくなって、猿のほうへそろっと寄って、猿がほがみをしとる時に、長い足をニュッと伸ばして、握り飯の一つをヒョイと巻きつけ、すたこらサッサと海の中にかけ込んでしまいました。
猿の悔しがること。何とかしかえしをしてやらにゃあいけん。猿知恵を出いて考えました。そこで考えたのは、もう一つ残っとる握り飯をひざに載せたまま、うす眼をあけて昼寝で寝たふりをすることでした。一方、握り飯を食べたたこは、あんまりうまかったので、もう一つをねらって、ふらふらと浜に上ってきました。見ると猿は昼寝の最中。しめしめ、もう一つお握りが食えるぞ、と、たこはまたぞろ長い足を伸ばして握り飯を取ろうとしました。
その時です。寝ていたはずの猿が、パクッと大きな口を開けて、たこの足を食いちぎってしまいました。それも2本も食ってしまいました。
たこはぴっくりしたの何のって。 いやはや。 あわてて海の中にいんでしまいました。
それまでは、なんとたこもいかと同じように足は10本あったそうですが、皆生の浜で猿に2本食われてからは、たこの足は8本、ということになったんだそうですと。
東町の榎(えのき)神社・剣先(けんさき)さん
東町の合同庁舎前・道向こうに小さな公園があり、先年植えた榎の樹が立っています。ここには、江戸時代から榎の大樹が生えていて、その下に榎神社という小さなお宮がありました。(今は勝田神社に合祀)このお宮の横に、これもまた小さな「剣先さん」という祠がありました。この剣先さんがどうして祭られるようになったのか、の話です。
…江戸時代のことです。 榎神社の近くに侍さんの家族が住んどりました。ある年、この侍さんに奉公している若者が、主人に無断で、当時流行していた伊勢神宮参りに行ってしまいました。 いわゆる、抜け参宮、というやつです。短気者で知られた主人でしたので、それを聞いていや怒るまいことか。 頭から湯気を立て、手ぐすね引いて、今や遅しと若者の帰りを待っていました。やがて、一月ほど経ってから帰ってきた若者を、主人は引っ捕らえ、若者が詫びを言う間もあらばこそ、刀で肩口から袈裟掛けに切って落とし、遣体は榎神杜の横の竹やぷに埋めてしまいました。その次の日のことです。 昨日切られて命果てたはずの若者が、またぞろのこのこと帰つて来、主人の前に手をついて、抜け参宮をして迷惑をかけた詫びを丁寧に言い、伊勢みやげまで差し出しましたそうな。びっくり仰天したのは主人とその家人で、まっ青になりながらも、よくよく見るに足もあり、顔も本人に間違いない。みんなキツネにつままれたようでした。すると、いったい昨日のあれは誰だったのか、ということになり、改めて埋めた所をこわごわ掘ってみたところ、何と中から出て来たのは、斜めに真一文字に切られた伊勢神宮のお札でした。このお札が、若者の身代わりとなって切られていたのでした。主人はこの霊現に感じて、埋めた場所に小さな祠を建て、例の伊勢のお札を納め直し、祭られたんだそうです。そのお札が、剣の先の型をした札だったので、この小祠を「剣先さん」と言うようになったんだそうですと…
黄金週間に旅する人も多いでしょうが、抜け参宮はいけません。あとが恐ろしいですぞ。平成の今の世でも。
大崎・岩屋の盤石
弓ヶ浜半島は、海流に乗って運ばれた砂が積もってできた半島だから、半島全体がさらさらとした砂地でできとるだろう、と思っとられるかも知れませんが、そんな砂地ばかりでできているわけではありません。硬い岩が数個、民家の庭先に露出している所があります。それが大崎にある「岩屋の盤石」といわれる岩です。何でも火成岩という岩質だそうで。
昔、砂の上に出とるこの平らな岩を掘り出そうとして、人夫さんを頼んで掘られたそうです。ところがあんた、掘っても掘っても、なんぼ掘っても根があるので、とうとう掘り出すのをあきらめた、と聞いとります。(いや掘り出せる、という人もいますが、掘り出せたら話が次に進まん。)なんでもこの岩は、漁場として知られた美保関のゴゼングリ(礁)と、和田の沖のワダグリをつなぎ、安来の亀島につながる大岩盤の一角ではと言われとるそうです。 このラインのところで、大昔は半島が切れていて、境港側が『出雲国風土記』に書かれている「夜見島」になっとったのでは、という話もあるそうですよ。の岩盤が地表に出ている村、という意味からでしょうか、それともこの地に昔、古墳があったのでその意味からでしょうか、大崎は昔、岩屋村ともいったと言います。岩屋村は栄えた村だったようで「麦垣(現境港市)千軒、岩屋千軒」と言われたそうで、和歌でも
  千早振る 神代の岩屋 動きなき めぐみにめぐる 大崎の里
と歌われたそうですよ。え?この歌を詠んだ人?さあ、それは聞いとりません。
この盤石の上に、小さな祠が祀ってありまして、この祠の神さんは歯痛を治してくれる神さんだ、と言われとります。軟らかい砂地の中にある硬い岩は、ちょうど軟らかい歯茎に生えた硬い歯を連想させて、なるほどこの祠を拝めば、痛い歯も治りそうな気になるでしょうが。
横綱を倒した和田の力士
前場所の大相撲は、横綱がよう転んで面白い場所でした。転ぶ、といえば米子にも横綱(1) を転ばせた力士がいたんですよ。
江戸の昔には、有力な藩はお抱え力士をもっていました。鳥取藩では大関両国梶之助(2) (両国とは因幡伯耆両国のことだそうですよ)とか、松江藩では何といっても横綱雷電為右衛門。お抱えにならない力士も大勢いました。和田出身の平石(3) 七太夫と、その従兄弟の山颪源吾もそうでした(4)。ある年、大阪で横綱雷電と山颪が対戦することになりました。山颪は雷電に何としても勝ちたい。そこで従兄(5) の平石に相談をかけました。平石は「かんたが逆立ちしても勝てる相手ではない、が、どげでも勝ちたいなら、仕切り直しを繰り返すことだ。その内横綱の足のどっちかがけいれんを起こす。その時立って反対側の足を取れ」と教えました。
昔は、仕切りの制限時間はなかったから、山颪は教えられた通り、仕切り直しを繰り返して48回目、相手の右足がけいれんするのを見た彼は、さっと立つと同時にパッと横綱の左足を取った。さすがの雷電もたまらずひっくり返ってしまった。
まさかの雷電か無名の山颪に負けたので、観衆は大喜び。座布団は飛ぶは歓声は挙がるはで、山颪は大喝采を浴びました。けど、収まらんのは雷電の弟子たち。山颪は彼等につけねらわれだしたので、こっそりと九州に逃れた(6) そうです。
九州では身分を隠して、商店で働いていました。ある日、神社の奉納相撲を見に行き、取り口を批評しとったら、それを聞いて怒った力士から対戦を申し込まれ、やむなく土俵に上がり、相手を次々投げ飛ばしてしまいました。そこで彼は実力を見込まれ、指導者となって多くの力士を育てたそうです。
まじめで明るい彼は、人々に惜しまれ故郷に帰りましたが、その折り、店の主人から、一本の掛け軸をもらいました(7) 。これが和田の釣舩神社の基になった、といわれています。
平石と山颪の墓碑をかぜの時に拝むと治るそうですよ。なぜかって、そりゃあんた関取(咳取り)の碑だもの。
(注)
1.「横綱」 … 雷電為右衛門の最高位は大関
2.鳥取藩が両国梶之助を抱えていた確証の有無は不明。(紀州藩が両国梶之助を抱えていた確証記事はある。)
3.平石は「ひらいわ」と読む。
4.平石は丸亀藩京極氏の抱え力士で、丸亀市に墓碑も現存する。山颪は初め岡山藩の抱えであったが、後、鳥取藩の抱えに変わった。
5.平石が7歳(又は8歳)年下。「従兄」ではなく、「従弟」
6.相模諸国和帳(雷電の旅日記的メモ:通称「雷電日記」)の中に、寛政8年(1796)7月の京都場所7日目の山颪と雷電の取組がもめたとあるが、その後も山颪は番付に載り続けており、九州へ逃れてはいない。山颪の江戸場所初土俵は天明2年(1782)10月場所である。その後、寛政7年(1795)8月大坂場所西前頭5枚目に載るまでの間の所在が曖昧であり、仮に、九州へ行っていた時期があるとすれば、この時期であろう。
7.釣船神社は、寛政2年(1790)頃から、江戸八丁堀(現在は杉並区)に祀(まつ)られたと伝わる。山颪は、寛政11年(1799)11月から文化4年(1807)11月まで9年連続で江戸の場所に出場しているから、この間に当神社の護符をもらって帰ったものと思われる。
感應寺の鐘
盆の仏さん迎えには、夕方おがらを焚いて「コナカリ(この明かり)でじいさんもぱあさんもみんなござれよう」と言い、仏さん送りには「コナカリ、じいさんもぱあさんも気い付けて去んないよう。 また来年おいでよう」と言ったもんです。とすると、盆とはあの世に生きるご先祖さんが家に帰ってきて、この世に生きる子孫の繁栄ぶりを見ながら、あの世の人とこの世の人とが寝食を共にする期間、ということでしょうかなあ。世の中には不思議なことがあるもんで、死んであの世に行ってしまったと思っていた人が、生き返ってこの世に戻ってきた話があります。
…昔、大工町に一人の鋳物師がおられたそうです。 この人は頼まれて、感應寺(祇園町1丁目)の鐘を鋳ることになって、一生懸命その仕事をしていました。 その最中に急に仕事場で倒れて、そのまんま死んでしまいました。あんまりの急死だったもんで、てんやわんやで葬式をして、さあ出棺だ、というので泣きながら棺のふたを小石で釘打ちしようとしたその時、棺の中で「アーアッ」と大あくびが聞こえ、死人が眼を開け、手を伸ばしたからみんなはびっくり仰天。聞けば「いや三途の川は渡ってエンマ様の前に出たんだが、エンマ様は『お前は浮世でしかけた大事な仕事が残っとるはずだ。それをしてから来い』と言って追い返されたんだ。その時『お前の作っている鐘の中にこれを入れて鋳れぱ良い鐘ができる』と言ってエンマ様から銀の粒をもらった」と言って、握っていた手を拡げて銀粒を見せたので、二度びっくり。こうして彼は、感應寺の鐘を鋳造したそうですと。エンマ様の予言通り音色のいい名鐘でしたが、残念ながら戦争中に供出させられてしまって、今はありません。この時のものかどうか分かりませんが、こんな文書が「鳥取藩史・四」に出ています。
「寛文六年(一六六六) 一、米子菅能(感應)寺之鐘再興、当地にて鋳申に付て松ノ木四本入用之由候。跡々より当地寺之鐘鋳之節、右之材木被下由候。・・・」
夢物語と思っていた話に文書なんかが出てきては、せっかくの夢もさめてしまいますがなあ。
榎大谷(えのきおおだに)の鍋吉さん
昔、榎原(尚徳地区)の大谷に貧乏な上に、しょっちゅうけんかしとる夫婦がおりましたそうな。あんまりけんかをするもんで、村の人は「あの夫婦は火の性と水の性の生まれで、それで気が合わんので、けんかばっかりしとうだで」とうわさしとったそうです。かわいそうなのは、この夫婦の間に生まれた子で。この子は優しい子で、親がけんかする度に小さい胸を痛めとりました。「父と母が、火と水の性で気が合わんでけんかばっかりするんなら、おらはなべ(鍋)になって火と水の間におれば、水も湯となって冷たい心も温めるだろう、燃える火もやがてはおきになって落ち着き、仲良くしてくれるだろう」と名前も鍋吉に変えて、健気にも両親の間に立って気を遣っていたそうです。この子のお陰で、さしものけんかもおいおいと減ったそうです。鍋吉の孝行ぶりは村人も感心するほどで、年老いて少しぼけて寝込んだ父親には、赤ん坊をあやすように機嫌をとり、かゆい所に手の届く看病をしたのですが、村祭りの日亡くなられたそうで。鍋吉の嘆き悲しむ声が村中に響いて、この年の村祭りは鍋吉の気持ちを思って静かに行った、といいます。鍋吉は母親に対しても、孝行の限りを尽くしました。 母親は芝居見物が大好きでした。この辺で芝居興行が許されとるのは、安養寺領の山市場(福市地内)だけでしたので、鍋吉は苦労しては銭を算段して、その度に母を背負って榎原から山市場まで行っとりました。その日は急に思い立って、芝居見物をしたい、と母が言い出したもんで、鍋吉は銭が一文もなかったけど、母を背負うて1キロほど行って、草上に母を降ろして休ませ、とんで帰って今度は、薪を背負うて来るとそこに薪を降ろし、次に休んでいる母を背負うてまた1キロ行って降ろし、あと戻りしてまた薪を運ぶ。これを繰り返して母と薪を山市場に運び、薪をそこで売って、やっと木戸銭をつくって母に芝居を見せたそうですと。後になって、芝居小屋の人もそのことを知ってからは、鍋吉からは木戸銭を取らなかったといいます。そげな親孝行な人が江戸時代の榎大谷にはいたそうですと。
芋塚さんと名月
江戸幕府に井戸平左衛門正明という役人がいました。彼の役は今で言えぱ大蔵省の主計官で、優秀な役人でした。還暦を機に退職しましたが、彼の才能を惜しむ上役が、彼に幕府直轄地の石見銀山代官にならぬか、ともちかけました。正明は、年でもあり断れぱ断れたのですが、彼は江戸から外に出て暮らしたことがなかったので、地方の人の生活ぶりを知るも良いと思って代官を承知しました。 享保16年(1731)夏のことです。正明は、江戸では想像もしなかった地方の暮らしの厳しさに驚きました。折りもおり、享保の飢きんの最中でした。彼は持参した財産を全部出し、分限者からも義援金を募って、その年は何とか越しました。翌年も、イナゴやウンカの異常発生で飢きんは更にひどく、見るに見兼ねた彼は、ついに幕府に無断で幕府の米蔵を開け、餓死寸前の領民を救いました。一方、石見の荒地でも出来る米に代わる作物はないものか、と考えていた彼は、寺に参拝の折り、さつま芋の話を聞き、これだ、と膝を打ち、早速その年(享保17年)の内に苦心して芋苗を入手しました。が、苗はほとんど枯れ、わずかに一苗だけ活き、これが石見に拡がりました。石見から弓浜部に芋が入ったのは、それから50年後といいます。やせた砂地に良く出来る芋は、その後に来た度々の飢きんで何人の命を救ったことか。しかし正明は、幕府の蔵を無断で開けた罪によって職を解かれ、笠岡で自害したとも、病死したともいいます。享保18年5月26日。代官になってわずかに1年8ヶ月後のことです。
芋塚は、彼への報恩碑です。石見から因幡まで海岸砂浜部の村々に建っていて、米子には葭津・和田・富益・夜見にあります。5日は中秋の名月。「芋名月」とも「芋の誕生」ともいい、本来は里芋を供えて祀る日のようですが、芋塚さんのある村では、さつま芋を塚に供えておられます。この人がもし代官を断っていれば、安穏な一生が送れたろうに、あたら代官になったばかりに短命に終わった。しかし、その名は永遠に記憶され、祀られる人となった。はて、どちらの生涯が良かったのか。この碑は人の生きかたをも考えさせる碑です。
奥谷・荒神林の怪物
9日は今年最後の庚申さんの日。と言っても何のことか分からんでしょうなあ。干支でカノエサルの日のことで、61日目に巡ってくるので年6回ある。この日は寝られん日でな。もし寝たら体の中から三尸さんしという虫が出て、天に昇って天帝にその人の悪口を言う、すると天帝はその人の命を縮める。てえので一晩中起きとった。起きとっても「庚申の夜なべは後退りする」いうだけえ仕事も出来ず、心穏やかに行儀ようしとらにゃいけん日で。だけん「話は庚申の晩」というてな、日頃は忙しゅうて放ったらかされとる子どもらが、昔話を聞かせてもらえた日だった。この神さんは赤色が好きで、広間などにある庚申棚に、この日は赤飯を供え、南天の赤い実や赤い花を飾ったもんだ。
江戸の昔、米子に荒尾の殿さんとは別に、同姓の荒尾茂兵衛という侍がおった。この人は狩猟が三度の飯より好きで、いっつもお供を連れて猟に行っとった。いつだったか「明日は朝駆けで山へ行こう」と打ち合わせて次の朝山へ行くと、日頃はあれほどごちゃごちゃおる狐や狸が一匹もおらん。浜で見かけた、と聞いて「よし、明日は浜へ行こう」と言って行くと浜にも一匹もおらん。こりゃ変だ、狐がこっそり盗み聴きして仲間に教えとりゃあへんか、と思って「明日は山へ行くぞ」と大声で言っといて浜へ行ったところ、やあ居るは居るは、狐や狸が手当り次第の大猟だった。それほどの狩猟好きな茂兵衛さんだけえ、庚申さんの夜も何のその。家の者は「今日だけは家に居るように」言って、みんなして引き止めるけど聞かぱこそ。「今夜は奥谷に行く」と言い捨てて猟犬を連れて出てしまった。奥谷には荒神林いうこんもり繁った林があった。茂兵衛さんはこの林の中に何か獲物が居りそうだ、と思って猟犬をけしかけるが、犬は怖がって入ろうとしない。業を煮やした彼は、犬をつかんで林の中に放り込んだ。すると林の中で犬の悲鳴が聞こえ、引き裂かれた体が投げ返された。何物が林の中に居るんか、と瞳をこらして見ると、林の中からも、大きな眼玉の怪物がじっと茂兵衛さんをにらみつけていた。 さすがの彼も寒気がして引き返したそうな。
大袋と大国主命おおくにぬしのみこと
師走に入ると、せからわしい音楽と大きな袋をかついだサンタクロースが登場しますが、日本にも似たような男はいましたぜ。神代の昔、因幡に八上姫という絶世の美人がおられたそうですわ。この美人を嫁にしょうと出雲の神さんが、団体で求婚旅行に出かけた。その途中で、ワニをだまして皮をはがれた白うさぎが、反対の治療を教えられ痛くて泣いとるのを、おとんぼ(いちばん下の弟)の神で兄神の荷物をみんな持たされ、大きな袋にそれを入れてふらふらしながらやって来た大国主命に、優しく助けられた話はよう知られた話で。そうこうして八上姫の家に行った。なるほどうわさに違わん美女。神々はのぼせ上がって、てんでに鼻の下をのばしてプロポーズするが、姫には意地の悪さがみんな見えとる。最後に出てきたのは大国主。汗を拭き拭きあまりの美しさにものも言わずに見とれとったら、姫は「わたしゃこの人が好き」とのたもうた。兄神たちは悔しがった。何とか姫を我が物に、と悪知恵を出した結果が、大国主殺害計画。会見町の手間山の麓まで帰った時、兄神たちは「この山に赤いのししがおるので、追い落とすから下で受け止めよ」と言う。赤いのししとは真っ赤に焼いた大岩のこと。そんなこととはつゆ知らず、人のいい大国主ば、焼け岩を両手で受け止めたけえ案の定焼け死んでしまった。兄神たちは大喜びしたが、母神は優しい大国主の死を悲しんで、何とか生き返らせようと、天に昇って親神に相談された。その結果、二人の女神の貝を使った薬のおかげで、大国主は生き返ったと。この時の焼け岩は会見町の赤猪岩神社に残っているし、治療の薬を流した池も西伯町の清水川にあって、この薬のせいでいまだに池水が濁っているそうですぜ。また、両手を広げて赤いのししを受け止めるために、大国主が持っていた大きな袋を置いた所が「大袋」(尚徳地区)だそうですよ。さんざんえらい目をしてもらった八上姫だったけど、結局は大国主の正妻の須勢理姫の嫉妬がひどいので、彼女はすたこらさっさと因幡に去んでしまわさんしたと。大昔の神さんの何ともはや、人間くさいこと。
二本木の朝日さす長者屋敷
昔、二本木に進という長者(大金持ち)が住んどりました。さあ、何でもうけられたんか知らんけどなあ。もともと進長者は、大昔から知られていた紀長者の縁つづきになる家で。紀長者は「大山寺縁起」にも出てくるし、大山寺が大昔に焼けて再建された時(承安3年・1173年)、仏さんを寄進したという紀成盛の紀氏で、家は岸本の長者原にあった、というより紀長者が住んどったから「長者原」というようになったんでしょう。何しろ屋敷は一町(約109メートル)四方あって、長者が信仰する日吉津の蚊屋島神社まで、家から一直線の道・長者道をつけて、毎日馬に乗って参拝しとりましたと。その時に乗る馬の鞍は、近くの大工に毎日造らせ、新しい鞍にまたがって日参しとったそうですし、また馬に乗る時、長者は石の上に立って乗ったそうで、その石を駒谷石といって馬の足跡が二つ付いていた、と伝えられとりました。この紀長者の流れが二本木の進長者で。もっとも進氏にもいくつかの派があって、二本木の進氏は三能(箕)進氏といわれておって、ここが屋敷だった、という大きな屋敷跡が今でも「土居」という地名で残っとります。この屋敷の巽(東南)の隅に宝が埋まっとる、という言い伝えがありましてな。その場所は、「朝日さす 夕日輝く木の下に 小判千両に朱が千駄」とか「漆が千駄 朱が千駄 朝日たださす柿の木の下」と歌で宝の在り場所を示しとる。時々新聞をにぎわしますが埋蔵金探しが。また、「宝島」という小説を思わせるような海賊の隠し金探しのようなスリルのある話ですが…、この伝説は。実は進長者にはもう一つ話が伝わっておって、いつの頃か知らんけど進長者が大切に持っておった古い文書を、庭の巽の隅に埋めた、という。この二つの話がごちゃ混ぜになって、朝日長者、夕日長者の伝説に生まれ変わったのかも知れませんなあ。
森の三笠狐
まだ狐や狸が人を化かしていたころのこと。この辺には戸上の藤内狐・上万(大山町)の橋姫狐・森(尾高)の三笠狐が有名で互いに技を競っとった。藤内狐は最後には見破られて尻を焼かれたが、その性の辛さと化け方は絶品だったし、橋姫さんは、これはまた失せ物発見や災厄回避能力など、その霊力は多く人に信仰されとった。それに比べると三笠狐はいたずら好きは一人前、いや一狐前以上だが、藤内君のようには化け方が上手でなくて、時に尻尾が出とったり、口がとんがっとったりしてじきに正体がばれてしまうし、そうかいって橋姫さんのように霊力もあんまり無くて「失せ物は西の方にある」と言って舌の根の乾かん内に東の方から出て来たりで、愛きょうはあるが要領の悪いドジな狐だったげな。それで尾高に居ずらくなったんだろうかな、ふっと居らんようになって村人にも忘れられてしまっとった。そのころ、上方や四国の寺や社へ詣ることが流行しとって、尾高の人も伊勢詣りに行く人があったげな。無事に参拝も済ませ、さて今夜の宿は、と伊勢の宿屋街で宿を探しとったら、何だか見たことがあるような伯耆なまりの客引き女が声を掛けたので、誘われるままその女の宿に入ったげな。一風呂浴びて寛いどる時に女が飯を持って来たので「お前さんを以前見たことがあるようなし、言葉が伯耆なまりだが」と話しかけたら、女は、「あんたさん伯耆のどこかな?」「いや、わしは大山の麓の尾高だが」と言うと、女は懐かしげに「実は」と三笠狐だということを白状し、次々と御馳走を持って来ては、尾高のこと、同僚狐の消息などを尋ねて懐かしがったげな。次の朝、男は宿代を払おうとしたら、三笠が「あんたさんの宿代は、昔迷惑をかけたおわびに私が払わしてもらうけん」と言った。 男は三笠に厚く礼を言って家路についた。それから何年も経った寒い夜のこと。男の家の戸を叩くような音がした、が北風が戸を震わせたのだろう、と思ってそのまま寝た。次の朝戸を開けて見たら、老いさらばえた三笠狐が息絶えていたと。男と村人は、故郷を懐かしんで帰って来た三笠を不びんに思って、森田圃に墓を立ててやった。その墓(狐塚)も戦後なくなってしまった。
吉岡・観音堂の石仏さん
昔話にこんなのがあります。そら豆と炭と稲わらが旅に出かけました。途中、川に出たが橋がなかったので、わらが橋になってまずそら豆が渡り、次に炭が渡っていたら、炭にはまだ火が残っていて、渡っている途中で橋のわらが焼け、炭とわらが川に落ちてしまいました。それを見たそら豆は大笑い。あんまり笑ったので腹が破れ、あわてて通りがかりの人に黒糸で縫ってもらいました。それでそら豆には、黒い筋が残っているんですとさ。伝説ではこんな話があります。神奈川県の藤沢に片瀬川という川があって、そこにかかっていた橋から昔、馬がよく滑って落ちて死んだそうです。不思議に思った行者さんが橋の裏を見たら、そこに文字が書いてあって、これが原因だったそうです。吉岡(巌地区)にも、これに似た話が伝わっています。
昔、吉岡の村の中の川に、石の橋がかかっていました。村の人はこの石橋を渡って、田や畑に行きました。が、牛や馬を連れて渡ると、行きは何とか渡ってくれますが、帰りは嫌がって渡りません。それでもと、無理やり手綱を引っ張って渡らせようとすると、石橋で足を滑らせて川に落ちたり、転んだりしてけがをする牛や馬が多くありました。何でだらあか、と思って、ある時、村の人がこの石橋の裏側をのぞいて見たところ、何とそこには33体の仏さんが、ぎっしりと彫られていました。「あ、こげな石が橋になっとるけえ牛や馬が足を滑らせたり、落ちたりするだ。この石は起こして祭らにゃあいけんわい」ていうことになって、祭ったのが今の吉岡の観音堂です。33体の仏さんと、嘉永二已酉六月吉日・西国三拾三番・南無観世音菩薩・願主村中・などの文字が彫ってあります。 この石碑を見るかぎり、どうも橋だったようには思えませんけどなあ。
両足院の和尚さんと藤内狐
昔戸上の藤内狐は、いたずらが過ぎて最後には尻を焼かれたが、この話はその前のこと。彼のいたずらでえらい目をこいとったので「やっつけよう」といろんな人が挑戦したが、みんな失敗して。一人、両足院(蚊屋)の和尚さんだけがあと一歩まで追い込んだのに、惜しかった。その時の話。
和尚さんは、藤内狐を正面から攻めては失敗すると考えた。こな狐があげに上手に化けるのは「七化けの宝」を持っとるから、ということが分かった。そこで、その宝を取り上げる作戦に出た。和尚さんは、まず米子の呉服屋で白い裃と冠と綿帽子を買って来た。夜を待ってそれを着、綿帽子はていねいに包んで手に持ち、戸上山に行って「おおおい藤内!」と呼びかけた。その声を聞いて藤内狐がのこのこ山から降りてみると、白装束の神々しい人が立っているではないか。緊張して「はい、何でしょう」という。と、和尚さんは重々しく「わしは京都は伏見の稲荷大明神の使いの者じゃ。お前の活躍ぶりは京都でも有名じゃ。聞けば『七化けの宝』を持っとるそうじゃが、それを検分したいと大明神が申されとる。すぐ持って来い。代わりに七より上の『八化けの宝』をやれ、といわれとるので有難く受け取れ」といった。藤内は自分の名が京都まで知れとると聞いて、鼻をひくつかせながら喜んで宝を交換した。次の朝、早速八化けの宝・綿帽子を被って、藤内は車尾の豆腐屋で好物の油揚げを取って食べた。ところが姿が消えとるはずなのに店の人がすぐとんで来て「ヤア狐が油揚げ盗ったぞ!」と叫んで追いかけて来た。ほうほうの態で逃げ帰りながら、彼はだまされたことに気が付いた。怒った藤内は友達の化けの宝を借りて、和尚さんの叔母さんに化け、両足院に行った。和尚さんと世間話のついでに思い出したように「ほんに、うわさじゃあ藤内の七化けの宝を手に入れたそうだか、見せてもらえんかのう」と話しかけた。和尚さんが宝を叔母さんの手に載せて見せてやった。と同時に叔母さんは尻尾を出して、戸上山を目指して一目散に逃げ帰ってしまったと。
あわて者の大山(だいせん)参り
5月24日は大山さんの春のご縁日(昔は旧暦4月24日)。昔は、地元はもとより広島・岡山・島根辺からも多くの参詣人がありました。車がなかったから全て歩き。遠方の人は何日も前から出発しましたが、地元の人は日帰りです。米子の町のなかからだと、朝はまだ暗い3、4時頃から歩き始めて、尾高の精進川の辺りで夜明けを迎えたもんだ、と聞きました。
昔、糀町に大変そそっかしい人がおられたそうで。その人がある年、大山参りをすることになった。前の晩、明日は早立ちだていうので、枕元に弁当と風呂敷を置き、準備万端整えて寝た。が、寝過ごしてしまったので、暗がりの中で朝飯をかけ込み、手探りで風呂敷に弁当を包んで、たすき掛けに背負うて、わらじ、を履き、あわてて家を出た。しばらく行くと、大山参りの人がぞろぞろ歩いとる。「お早う」とにこやかに声を掛け追い抜いて行くと、みんな笑って答えてくれる。さわやかな気分で大山に向かって歩いた。昼近くになって、やっと大山寺に着いた。懐に人れた百つなぎ(真中に四角い穴が開いた1文銭を百枚ひもで通した銭の束)を手で探って、左手の3文は大山の本堂と権現さんと下山神社にそれぞれ1文ずつさい銭に、右手の97文で土産を買うが、さあ何を買おうかい、と考えながら本堂でさい銭をあげる時に、つい右手の97文を箱に投げ入れてしもうた。しまった!と思うた時はもう遅い。仕方がない弁当でも食べよう、と思うて背中から降ろいてみると、ありゃりゃ風呂敷と思うたはばあさんの赤い腰巻き。それでみんな笑うとったんか。弁当と思うたは木の枕。さあ腹は減るし、金は3文しかないし、えい3文で菓子を買うて食べよう、と店に入って一番大きな菓子をひったくって3文出すとすと、店員は「売れない」という。その声を振り切って山を駆け下り、いざ食べようとすると、それは菓子の型をした看板で。ふらふらになってわが家に戻った、はずが隣の家で。腹立ちまぎれにかかさんを怒った、はずが隣の奥さんで。疲れをとる、というて銭湯に入ってもみほぐした足は、並んで座った人の足だったそうですと。
中海に落としたキセル
江戸時代、例えば出雲大社へ参る旅人は、片原町(現天神町)の舟宿から出ていた舟に乗って、松江に向かう人が多かったそうです。
享和の頃(1801から1804年)のこと。米子から松江に向けて10人程の客を乗せた舟が出ました。舟の中では、中海を渡る初夏のそよ風に誘われて旅人同志が、なごやかに話の花を咲かせていました。そんな話の中。 江戸から来たという男が煙草のキセルを取り出し、山家出の乗客に自慢たらたら見せびらかしました。「どれどれ」と田舎者の舟客の一人がそのキセルを受け取ったとたん、手が滑ってそれを中海に落としてしまいました。さあ江戸の男は怒り出しました。落とした人は平謝りに謝りますが、男は、「あのキセルはさる大名からもらった品だ。そんじょそこらにある品とは違う。すぐに海中を探せ」と無理なことをいい募ります。「松江で上等なキセルを買って弁償するからこらえてごせ」と涙を流さんばかりに、舟底に頭をすり付けて謝るけれども、男は頑として聞かず居丈高に怒りまくります。他の舟客も見兼ねて、代わる代わる「あんなに詫びとるだけん、こらえてやらんせ」ととりなすけれども、一向に聞き耳を持たず怒りまくっています。相客の侍も見兼ねて「海に落ちたキセルを拾って来い、なんて無茶なことを言っても解決せん。どげしたらお前は気が済むんだ?」と聞きましたら、男は「落とした奴と腕づくで決着を付けたい」腕力によっぽど自信があるのでしょう、そう言います。侍は、「ああそれで済むならそれがいい。そこに島が見える。何ちゅう島か。え?萱島かやしまいうだか?船頭、萱島に寄ってごせ」船頭は、仕方なく島に舟を寄せました。江戸の男は勇んで舟から跳び降りました。落とした男もしぶしぶ腰を浮かせて降りようとするのを侍は抑し止め、船頭から櫓ろを取ると、さっさと島から舟を離しました。船頭も侍の企みがやっと分かり、どんどん舟を松江に向けてこぎ出しました。江戸の男は、あわてふためいて萱島の海辺を走り回り叫びますが、聞かばこそ。舟の中ではさわやかなそよ風と共に、また楽しい話がはずみましたと。
弁慶石
京の五条の橋で牛若丸に負けた弁慶は、松江で生まれた。という伝承が、出雲では江戸時代には盛んに語られていたようでして、弁慶伝説が多く残っています。例えば、弁慶の母は紀州(和歌山県)田辺の人ですが、美人でなかったので縁談一つない。 そこで縁結びの神・出雲大社にお願いに来た帰りに、早速霊験あって天狗と結ばれ、松江で弁慶を生むのですが、そのつわりがものすごい。普通なら梅干しが欲しい、ですが、鉄気を欲しがり農家にある鍬を片っ端から食うので、彼女が来ると鍬を隠した、と言いますし、13か月で弁慶は生まれたけれど、その時は髪も歯もそろっていて、産湯の井戸を生まれたばかりの弁慶が、自分で掘ったそうですと。胎児の時、鉄で養われた体ですから弁慶は元気そのもの。子どもの時から乱暴ばかりするので、とうとう無人島に捨てられますが、夜な夜なやって来る父の天狗から学問や兵法を学び、ムサシという遊びをしたので、後に武蔵坊と名乗るのだ、とか、この島から脱出するのに、毎日着物の袖に砂を入れて海に流し、海中に道を作った。その島が松江の野原町沖の弁慶島だ、とか、まあどひょうし気な話がなんぼでも残っとります。その後、鰐渕寺などで修行したと言われますが、その頃大山寺だか倉吉の大日寺だかの釣り鐘を、鰐渕寺に一晩で担いで帰ってしまった、とか倉吉の大原には、侍に投げ付けたという弁慶岩・足跡岩が語られていますし、大山寺の霊雲閣には、弁慶の書状というものが並べてあります。米子に伝わる弁慶伝説の一つは、尾高の大神山神社の昔の社地、福万原・二宮屋敷跡に、弁慶の腰掛岩というのがありました。彼が大山に往復した時、腰を掛けて休んだ岩だそうです。もう一つは、湊山公園の中の日本庭園にあります。そこには昔、清洞寺という寺があって、清洞寺岩と言われる大きな石が数個あります。この大石は、弁慶が出雲から投げた石で、その昔は弁慶石と言ったそうです。夏になるとこの石を飛び込み台にして泳いだ、と語られる人は沢山おられます。時には、あの世への飛び込み台になったとか。
尾高城の山中鹿之助
昔話に「三枚のお札」という話があります。
…むかし、和尚さんが小僧さんを山に花採りに行かせましたが、お守りにお札を三枚持たせました。小僧さんは花採りに夢中になり、気がつくと周りは真っ暗。困っていると、山中の一軒家に明かりが見えます。小僧さんは家に行き「一晩泊めて」と頼むと、婆さんが出て来て心よく泊めてくれました。小僧さんは昼の疲れですぐ寝てしまいましたが、夜中に目が覚めたら「この小僧はうまそうだ。こっちのほっぺから食べようかな。あっちのほっぺから食べようかな」とほほをなでとるではありませんか。こりゃ山婆だ。逃げ出さんと殺される。小僧さんが「しっこをしたい」と言うと、山婆は「わしの手の中にせえ」「そんな、もったいない」「そんなら」と小僧さんの腰に縄を付けて便所に行きました。中に入ると小僧さんは、便所の神さんに代返を頼み、縄は柱に結び付けて窓から逃げ出しました。山婆は縄を引きながら「まだかあ」「まだだあ」「まだかあ」「まだだあ」山婆はしびれを切らして戸を開け、逃げられたと知って急いで追いかけますが、小僧さんは三枚のお札に助けられて、命からがらで寺に帰った…
という話です。元亀2年(1587)世は戦国時代で、中国地方では毛利と尼子が覇を争い、尼子側の敗色が濃くなっていました。尼子十勇士の筆頭・山中鹿之助幸盛も捕らわれの身となって、尾高城の牢に閉じ込められました。敵の様子を探るため、わざと捕らわれたともいわれます。何にしても大物でしたので警戒も厳重で、大勢の侍が彼を取り囲んでいました。彼は捕らわれて間なしに「下痢だ」といって便所通いをしだしました。その度に警護の侍も、ぞろぞろと便所について行きましたが、何しろ1日に百数十回通ったので、最後には気を許して彼一人で行かせました。この時を待っていた彼は、便所からまんまと脱出しました。時に7月20日・今の暦で8月10日のことでした。しかし彼は、三枚のお札を持っていません。また捕らえられ、広島へ護送途中の天正6年(1571)7月17日(太陽暦で8月20日)あわれ高梁(岡山県)の地で殺されてしまいました。享年34だったといいます。
兼久(かねひさ)の流れ橋
昔話に「大工と鬼六」いう話があります。
むかし、何回橋を架けても流してしまう暴れ川があったそうな。村人は、その辺り一番の大工に橋架けを頼んだ。大工は自信がないので、川を見ながら困っとたら、川の中から鬼が出てきて「お前の目ん玉をわしにごしたら、どげな水が出ても流れん橋を架けちゃるが…」というた。大工は、いい加減な生返事をして家に帰った。次の日、川に出て見ると、何ともう半分ほど立派な橋を架けとる。その次の日にはもう橋は完成しとる。大工はびっくり。鬼は「さあ約束の目玉をごせ」とやって来た。大工は「もうちょっと待ってごせ」と頼むと、鬼は「そげならわしの名前を当ててみい。 当てたら目玉を取るのはこらえちゃる」大工は困った。が、家に帰る途中、子どもらが「早よ鬼六が、目ん玉持って来りゃええなあ」と歌っとるのを聞いた。次の日、橋に行って、大工は口から出まかせの名をいっぱい言うと、鬼は大笑いして喜ぶ。最後に大工が大声で「鬼六!」と言うと、鬼はずぶずぶと川の中に沈んで、それっきり姿を見せんようになったと。
9月は台風の季節。つい数十年前までは台風と共に来る大雨で、日野川や法勝寺川がはんらんし、その都度堤防が切れて、米子の町は水びたしになっていました。が、その後の先人の努力で、はんらんの心配は全くなくなり、今は昔の話になってしまいました。しかし、当時をしのばせる物が幾つか残っています。その一つが法勝寺川の青木橋の下流に架かる木橋・兼久1号橋です。この橋は、川の水かさが増すと水中に沈んでしまい、水が引けばまた現れる橋です。水の勢いで橋が流れても、橋の材木は流れないようにワイヤでつないである橋です。鬼六が架けた橋と違って初めから流れることを予想して架けた橋で「流れ橋」といいます。流れ橋としては、京都・木津川の上津尾橋、兵庫・揖保川の名畑橋などが残っていますが、数は少なく、珍しい貴重な橋です。橋の近くには堤防改修記念碑・受難碑が残り、橋を渡った向こうには、治水の神様を祭った高良神社が鎮座していて、水に苦しめられた昔の人々の知恵と心を、この流れ橋と共に今に伝えています。
旗ヶ崎の天狗松
日本の各地に、天狗岩とか天狗杉とか天狗の名を付けたいわれのある物が数多くあります。伯耆で聞くその天狗とは、大山との係わりで語られるためか、赤い顔の鼻高面の印象より、大山にこもって山の霊気を全身に受けて一心に修行した結果、空を飛んだり姿を消したりの異常な能力を授かった修行者(山伏)の印象のほうが強いように思います。修行の終わりには「柴燈護摩」という火祭りが行われます。大山寺でも10月24日には柴燈護摩が焚かれます。
昔、四日市村(現:福市)に大山で修行の結果、天狗になれたと思い込んだ旦那さんがいました。ある日、修行の成果を見せてやる、と言って村人を多く家に集め、庭の木に登って「どうだ姿が消えたろう」と言いました。村人の一人がおかしいのをこらえて「大方は消えましただども、ちとわて(少しずつ)、ちとわて見えとります」「そげなはずはない、お前はどげだ?」聞かれた男は要領のいい男で「何と大したもんだ。声はすれども姿は見えず、とはこのことだ。何にも見えませんぜ」と調子を合わせましたからさあ大変。天狗さんはすっかりその気になって「そげだらあが。今度は空を飛んで見せるぞ」見物人は大あわてで逃げ出しました。そこへ両手を広げたまま木から落ちてきた天狗さん。あわれや足を折り、腰を抜かしてしまったそうです。
旗ヶ崎には、近年まで内浜街道に「天狗羽休め松」という大木がありました。当時、高さは約17メートル、幹回りは4メートル強あって傘状に枝を広げ、樹齢300年以上の根上がり松で、錦海八景の一つになるほどの名松でしたが、昭和38年の豪雪に老松も傷つき、とうとう伐られてしまいました。大山の天狗が出雲に出向くとき、この松で羽根を休めたと伝えられています。天狗が休んだ夜は、樹の近くの家の人が天狗を接待されたそうで。よく天狗の用事で家人が出かけられ、明けがた帰って来られたときには、着物がぐっしょり濡れていた、とも聞きました。出雲・宍道町の天狗松は、一枝でも伐ると木から赤い血が流れ出て、全山鳴動して崇る、と言われていますし、各地で天狗松は、伐っても伐る端からくっ付いてしまい伐れないもんだ、という話が伝わっていますが、旗ヶ崎の天狗松を伐ったときはどうでしたでしょうか。
河崎のあごなし地蔵
平安時代の歌人であり役人でもあった小野篁という人は、遣唐使の副使として唐(現中国)に行くことになっていましたが、上役のわがままに腹を立て、仮病を使って、唐に行くのを止めてしまいました。仮病がばれて承和5年(838)隠岐に流されました。その時の歌が『古今集』に載る「わたの原八十島かけてこぎいでぬと人にはつげよ海人のつり舟」だそうです。3年後、許されて京に帰りました。ここまでは、『続日本後紀』という歴史書に書かれている本当の話です。これ以後は伝説です。
隠岐に流された篁は、初めは島前の豊田にいましたが、後に島後の都万村那久のお寺に住むことになりました。その村に阿古奈(那)という美しい娘がいました。篁はその娘を見初めて仲良くなり、娘は篁の子を身ごもりました。が、子の誕生を見る前に篁は京に帰ることになったので、彼は自分で彫った木造の地蔵仏を娘に渡して、子が生まれたならばこの仏を守り本尊にするように、そうすれば必ず幸福になる。と言ったとか、いや、出産したが幼児は亡くなり、阿古奈があまりに嘆き悲しむので、篁が地蔵を彫って与えたのだ。とか、いや生まれた子の名が阿古奈で、幼くして死んだこの子の供養に、篁が2体の地蔵仏を彫り、1体は阿古奈の位はいの横に、1体は篁の身代わりに母にやったのだ。とか、いやいや母親の歯痛を心配する娘阿古奈の孝行ぶりに感激した篁が、地蔵仏を彫って娘に渡した。その仏を拝んだら母親の歯痛がうそのように治った…などなど、いろいろに伝えています。
ともあれ、そのようにして彫られた地蔵は「阿古奈地蔵」と言われていましたが、その語呂が似ているので、いつのまにか「あごなし地蔵」と言われ、歯痛止めの地蔵さんとして信仰されるようになり、隠岐から全国に広まりました。米子には河崎に勧請して、御建地蔵とも言われています。いつごろ勧請されたかはわかりませんが、古くから歯痛の人が地蔵さんのあごをなでたり、削ったりされたのでしょう、名実共に「あごなし地蔵」になっておられます。
神様の贈り物
昔話に「大年の客」という話があります。大晦日の夜、泊まる所がなく困ってやって来たみすぼらしい旅人を、親切にもてなして泊めたら福を授かった、という話です。この昔話が基となってできたと思われる伝説が伝わっています。話はこうです。
…江戸時代のこと、米子に吉岡如翁という医者がいました。彼は大晦日の夜、夢を見ました。それは、家に疱瘡ほうそう神がやって来て「今夜わしを嫌って泊めてくれる宿がない。一晩泊めてくれないか。もし泊めてくれたら、家の子には疱瘡にならんようにしてやるが…」というので、如翁は心よく泊めてやった、という夢でした。朝起きれば元旦。昨夜見た夢の話を奥さんに話かけたら、奥方は驚いて、実は私も同じ夢を見た、との話。見ると部屋の中に、がまの葉で作った小さな笠が置いてありました。それを見て、あの夢は正夢だったと悟りました。それ以後、吉岡家の子どもは疱瘡にかからなかった、といいます。近所で疱瘡の子がいると、例の小笠を借りてかぶせると軽症で治ったそうです…
当時、疱瘡といえば一生に一度はだれもがかかる死亡率の高い恐い病気でしたので、その小笠は、今ならさしずめガン特効薬のようなものだったのでしょう。如翁はその名を豊郷といい、米子組士で医師の吉岡玄昌に見込まれ、彼の養子となって医業を継ぎました。如翁の名医ぶりが評判になりだした宝暦10年(1760)、彼は鳥取に呼ばれ、藩主の侍医になりました。が、参勤交代で藩主に従って江戸に出ていた安永8年(1779)9月、病気で亡くなったといいます。先の話は、米子の伝説として語られていますので、如翁が米子にいた時の話だと思われます。とすればその家はどこにあったのか、と調べますと、宝永6年(1709)の古地図に、彼の養祖父、吉岡半兵衛宅が載っています。そこは加茂神社の道をはさんで斜め北向こうです。おそらくその家で疱瘡神から笠をもらわれたのでしょう。
龍の秘密
「天に昇る龍」と言えば、こんな話が記録に残されて伝えられています。「米子城の南に総泉寺という寺がある。 昔、この寺に一匹の小さな蛇がいたが、ある時、その蛇が寺の水がめの中に入って、そこから天に昇って龍になった、という」実はこの話『龍の秘密』という昔話の一部が伝わったものと思います。その話とは
…昔、貧乏な男が殿様の命令で、山に桑の木を伐りに行ったところ、木の根元に蛇がとぐろを巻いて寝ていた。男は思わず大声をあげた。蛇は驚き、仙人に姿を変え、「蛇は山で千年、海で千年、野原で千年修行をすると天に昇って龍になれるが、その間に人に見られると天に昇れない。わしはあと一日で三千年修行したことになるが、今日お前に見られてしまった。また一からやり直しては寿命がない。どうか今日ここでわしを見たことは黙っていてくれ。約束してくれれば、お前の家から天に昇る姿を見せてやるし、必ずお前の家を金持ちにしてやる」と言った。男は一も二もなく承知した。蛇は天に昇る日と、その日の朝、庭に水がめを出しておくように、と言って消えた。その日は朝から雨が降っていた。男は障子の透き間からこっそりと見ていると、降る雨の水煙に巻き込まれるようにして、蛇は天に昇っていった。それから後、男の家は、日照りの年でも彼の田だけは水に恵まれて豊作になるし、不思議にいい事ばかり続いて、いつの間にか村一番の大金持ちになっていた。ある日、男は酒の席で気が緩んだのか蛇との約束を破って、秘密をしゃべってしまった。その翌朝、男の家の前に小さな蛇が死んでいた。 間もなく男の家は、元の貧乏に戻ってしまっていた…
総泉寺のねずみ
雪の降る寒い夜に寝ていると、ねずみが天井裏でゴトゴトとよく騒いでいたものでした。昔話に「ねずみ退治」という話があります。
「昔、ある寺で猫を飼っていた。ある日、和尚さんがねずみに食われる夢を見た。翌日の夜、和尚さんが寝ていると、飼い猫がやって来て寝間着を引っ張るので起き上がり、別の部屋で寝た 代わって猫が和尚さんの寝床に入っていた。しばらくすると、猫が身代わりに入った寝床で物すごい音と声がしたので、あわてて和尚さんが飛び込んでみると、一匹の大ねずみが飼い猫に噛み殺されていた。大ねずみは和尚さんを殺そうと襲ったが猫が寝ているとは知らず逆に殺されてしまったのだった。飼い猫はこうして和尚さんに恩返しをして寺を出て行ったと。」
この話に似た話が伝わっています。総泉寺にかかわる話です。
…むかし、総泉寺にはキュウソという親分のようなねずみが住みついていて、夜な夜な寺の天井裏を我が物顔で暴れ回っていたので、和尚さんを始め檀家一同困っていたそうな。そこで登場するのが、ねずみの天敵の猫。強そうな近所の猫を借りてきて天井裏に放すけれども、借りてきた猫だからでもあるまいが、キュウソの前に出ると、どいつもこいつも尻尾を巻いて、すごすご逃げ出すだらしなさ。ついには米子の町中から強そうな猫をかき集めて放すけれども結果は同じで手も足もよう出さず、震え上がって引き返す体たらく。困り果てたお寺では、最後に仕方なく檀家の一軒に飼われていた、いっつも眼には眼やにを垂らし寝そべっており、歩くときにはいかにも大儀そうによたよたと歩くよぼよぼ猫を、どうせすぐさまキュウソに追われて逃げ帰るだろうが、ものは試しだ、とばかり、全く期待もせずに天井裏に追い込んだだと。ところが、以外や以外、このよぼよぼ猫、キュウソに対しても憶することなく対し、追い回しはじめた。まあこれが当り前のことだけどなあ。その夜から、キュウソは、「キュ」とも言わず、おとなしくなってしまったそうですと…
一里松の妖怪
昔は、距離を示すのに一里(約4キロメートル)ごとに松が植えてありました。一里松といいます。鳥取から米子へ通ずる主要街道の山陰道にも植えてありました。旧米子町内では、今のJR境線博労町駅近くに一里松がありました。ここの一里松を基点にして、境往来、法勝寺往来、日野往来の一里松が植えられていたようです。日野往来での次の一里松は、車尾街道を抜けて日野川を渡り、豊田集落(春日地区古豊千内)の入口・下豊田にありました。 この道は松江の殿様の参勤交代の道でもありました。豊田の一里松は伐られて今はありませんが、話では、あまり高くはなかったけれども、直径は2メートルもあり、幹が空洞になっていたそうです。この松での話だと聞いとります。
…昔、豊田の若い衆が米子に買物に出掛け、陽が暮れてからこの一里松の下を通りかかったそうな。「ヘッヘッヘッ」と気味の悪い笑い声が頭の上でするので、声の方を見たら、何と松のてっぺんに白いざんばら髪の婆さんが腰をかけ、行燈の灯をとぼいて、その明かりで糸車を回しながら見下ろし、大口を開けて笑っとった。若い衆は腰を抜かして、はいながら家に帰った。その後、暗くなってから一里松の下を通る者は、その老婆に驚かされるようになり、暗くなってからはその前を通る者は居らんようになってしまった。困ったことになった。村の人は庄屋さん家に集まって相談した結果、村に一人おる鉄砲を撃つ猟師さんに頼んで、何と撃ってもらわいや、ということになった。 妖怪の老婆を。猟師さんは、お安い御用、とばかり簡単に承知して夜が更けるのを待った。案の定、一里松のてっぺんに糸車を回す老婆が現れた。猟師はねらいを定めて撃った。確かに命中しとるはずなのに、老婆は相変わらずニタニタ笑いながら糸車を回しとる。あわてて何発も撃った。が、老婆は平気な顔して笑っとる。はてなあ、何発も当たっとるだが何でかいなあ、よし、最後の一発はあの行燈の火をねらって撃っちゃろう、と思って猟師は撃った。明かりは一瞬にして消え、あたりは真っ暗闇になった。次の朝、松の下を見たら、最後の弾で撃たれた古だぬきが死んでいたそうな…
天から落ちた石
「大山寺縁起」によりますと、大山に大昔に天から石が落ちた、とあります。四角の石だったようで、大山のまたの名を「角盤山」といいますし、「角盤町」もこれによる町名です。昔の角盤高等小学校の生徒は、かつての大学生のように角帽をかぶっていたというのも、大山の落石の形によるものだったのでしょう。米子にも天から石が降った話が伝わっています。成実の橋本に鎮座まします阿陀萱神社の境内にある大石がそれです。神社の裏山は三笠山といったそうですが、社伝によりますと、「…神代の昔、宝石天降り一夜の中に(石が)出現せしゆえ、この山を宝石山と称す。この石社伝秘訣あり。 異名石にて側に小社を建て、産石神社と崇敬…」したとあります。この石を産石神と崇めたことからわかるように、安産祈願の石として拝まれてきました。なぜ産石といわれるようになったのかは、「社伝秘訣」で語られていませんが、ある人は大国主命伝説にあると説かれます。
大国主命は、兄神たちに妨害されながらも美女八上姫を得ましたが、八上姫は大国主の正妻スセリ姫のしっとにいたたまれず、娘阿陀萱奴志喜岐姫を連れて、因幡に帰ることになりました。帰路、橋本を通られた時、娘の姫が榎の枝に手の指を挟まれて抜けなくなりました。そこで娘の姫は「私はこの地で住むから、お母さんは因幡に帰って」といわれました。その娘姫の住居が阿陀萱神社で、この阿陀萱姫はまことに安産で生まれられたので、それでこの石を産石というのだ。との説ですが、どうでしょうか。
似たような話が松江の矢田の児守神社にあります。この神社は、大国主命が野田之阿多比古命に、この地に住んで土地を開くよう命令されたので、祭神は野田之阿多比古命です。この神社の境内にある石の上で、祭神の奥さんが御子神を安産されたので、この石を「子守石」というようになり、安産祈願や小児の病気などの平癒を祈る人が参られるそうです。
みやげのツツジ
市内を流れる川筋や国道沿いに植え込まれた米子市の花・ツツジが、みごとな花を咲かせる季節になりました。この季節に、昔は農家の女の人は集まって一晩氏宮などにこもったり、一日山に登って遊んで帰る風習が各地にありました。お宮などにこもるのを「女の家」とか「女の夜」などといい、山に遊ぶのを「花見」とか「山登り」「山ごもり」などといいました。この風習は、これから始まる田植えなどの農作業の前に、田の神サンバイさんをお迎えして神事や田植えを行うのですが、その田の神に奉仕する女性になるため、宮や山にこもって身を清める儀礼だったのでは、といわれています。「早乙女」とはそのような女性をいうのだといいます。ともあれ、一日山に遊んで山から下りるとき、彼女達はツツジや卯の花(ウツギ)の一枝を折って頭にかざし、帰ったものだと言います。この花枝に田の神が乗り移っていて、彼女たちと一緒に山から里に降りられるのだといわれます。ウツギは「田植え花」ともいいますので、昔から田植えに関わりの深い花だったようですし、ツツジは山ツツジを採って帰られたのでしょう。
三柳に市庵という観音堂があります。昔のことです。このお堂近くの民家に、九州で生まれたというお相撲さんがやって来てとう留したそうです。さあ、どげな事情があったかは今になっては何も分かりませんが、この地が気に入ってかなりの月日をここで暮らし、とうとうそのお宅でなくなりました。村人はこのお相撲さんを、市庵観音堂の一隅に丁寧に葬りました。そのお墓はだいぶ風化していますが、「濱ケ関周助塔」という文字が今も何とか読めます。彼は三柳に来てから一度生まれ故郷に帰りました。再びこの地に来たとき故郷のみやげとしてヨドガワという品種のツツジを持参し、世話になった家の庭に植えました。ヨドガワは昔からのツツジだと聞きましたが、当時、米子では珍しい花だったようで、評判になったそうです。(と、伝えられていますが、実は浜ケ関は浜ノ目出身で文政5年没の人です。)
米子城と柳の木
柳の緑も萌える頃になりました。北国の歌人は「柔らかに柳青める北上の…」と望郷の詩をうたいましたが、加茂川の畔にも「ふる里の加茂の川辺の川柳…」と憂国の郷人の望郷の歌碑が立っています。柳といえば、こんな昔話が語り継がれています。
…昔、ある所におりゅうという名のきれいな娘がおった。この娘の所に、背の高い、いい若者が好きになって毎日のように通って来とったが、ある日、若者が「今日でお別れだ」と寂しそうにいった。おりゅうはびっくりして「何でだ?」と聞くが、男は何もいわずに帰ってしまった。次の日から村の中にあった柳の大木が木こりさんの手で伐られだした。何でも京の三十三間堂の棟木にするためだそうだ。ところが、伐っても伐っても昨日伐った所が今日は元通りになってしまう。困った木こりさんは、神さんにどげしたらいいかと問いながら一心に拝んだ。すると夜、神さんが木びきさんの夢に現れて、木を伐って出る木くずをすでに焼いてしまえ、と教えてくれた。その通りにしたら、さすがの柳の大木もとうとう伐り倒されてしまった。この木を京都に運ぼうとして引っ張った。ところがおりゅうの家の前まで来たら頑として動かんようになった。「こりゃあひょっとしておりゅうの所に来とったあの若者は、この木の精霊じゃなかっただらあか?」という者がいて、おりゅうに立ち合わさせよう、いうことになった。おりゅうが優しく柳の木をなで、引っ張ると、大の男が総掛りでも動かざった大木が滑るように動き出して、無事に三十三間堂の棟木になったげな…
米子にはこんな話が伝わっています。
米子城を造った時のことだといいます。城の大手門を造る時、三本の柳の大木を伐って門の柱にしたそうで。大手門は国道九号線と湊山球場からの道(昔の内堀)が交差する南西角あたりにあったといいます。その時、さっきの「おりゅう柳」の昔話のようなことがあったのか、なかったのか、伝承されとりませんが、ただ三本の柳の大木を出した村の名が、それによって決まったんだとそうですと。さあ、何という名の村になったと思います?…そうです。「三柳」です。三柳という地名はこうして付けられたんですと。
河童と赤子岩
昔は旧暦6月15日をレンゲとか茗荷ノ釜焼キといって、えんどう豆を餡にした小麦団子を作って、茗荷の葉に包んで焼き、それを神棚に供えた後、家族で食べたものでした。「いつも変わらぬレンゲの茶の子、小麦団子に豌豆の粉」でした。この日は一日中仕事を休む日、特に川には入れない日でした。もし入ると河童に尻ごを抜かれる、といわれました。これはその河童に尻ごを抜かれた話です。
…ある夏の日のこと。陰田の漁師さんが魚と一緒に網にかかった子河童を取って帰り、家のやんちゃ子にやった。子どもは生きたおもちゃに大喜びで、さんざん連れ回っていじめ、夜は海辺の岩に縛っておいた。その様子を親河童は心配そうにこっそり見守っとったが、子河童の頭の皿の水が干上がるとみた夜、親河童は岩に縛られている子河童を必死の思いで助け出し、海に運れ戻した。それから数日後のこと。漁師がいつものように静かな海に船を出して漁をしかけたら、一瞬の間に嵐になり船は木の葉のように揺れだした。命からがらで漕ぎ帰る途中で漁師が見たものは、荒波の向こうに浮かぶ河童親子の恨めし気な姿だった。やっとの思いで家に帰ってみると子どもが居らん。聞くと「アリャ、さっきあんたが連れ出したがな」とおかあがいう。慌てて捜しに海辺に出てみると、子どもは河童を縛っとった岩の上で尻ごをを抜かれて気絶しとった。その夜以来漁師は怖くて漁に出れんようになっとったが、ある夜ふっと姿を消した。慌てた家の者が海岸を捜すと、何と親父も尻ごを抜かれて海で溺れかけとる。急いで引き上げ、水を吐かせ、大騒ぎしとる時に、旅の僧が通りかかって「何の騒ぎだ。」と聞くので、 実は…と話すと、僧は「そりゃあ河童親子の怨霊だ。 わしが祈祷して払ったる。」 といって、河童を縛っとった岩を清めてから、岩に小屋がけさせた。それから岩に何か刻んどったが、数日後、小屋を取り払ってみたら、岩に赤児の足跡が点々と刻まれとった。僧は「これでもう河童は悪いことはすまい」といって旅だったそうな…
この岩は赤児岩といって今は口陰田公民館の前庭にあります。
やな井の水
冷たい水が恋しい季節になりました。今月は水の話。水物の話ではありません。米子には名物が数々ありましょうが、その中の一つに「うまい水」も入ると思います。大都会から帰った時などにはそれを痛感します。米子の水は日野川、法勝寺川水系の地下水と大山の伏流水を汲み上げていると聞きました。その大山の『大山寺縁起』に、こんな話が書かれています。
…神亀5年(728)のこと。有名な僧の行基は大山で昼夜七日間の修行をしたが、仏に供える水が近くにないので、僧は「水をたれ給へ」と祈念して金剛杵で近くの岩を突いたところ水が僧の「御手の下より露しただりて、ほどなく器に満ちにけり。 それよりこのかた尽くる事なく」あふれ出るようになった…
と大山の利生水(井戸)の起源を説いています。続けて『縁起』は、この水のお蔭で白髪が黒くなり病人も治ったと書き、大山の水は延命長寿の水であることを説いています。その有難い大山の伏流水のおかげか、米子には名水のわき出る井戸がありました。有名なのは法城寺前の連理水・加茂神社の宮水・米子城の鈴の井戸と桂住寺入口にあるやな井です。やな井には、こんな話が伝えられています。
…昔、ある人が町を歩いていたところ、地面に深く一本の矢がつっ立っているのを見つけた。その人は力をふり絞って、やっこらさと矢を引き抜いた。ところが抜いた跡からこんこんと清水がわき出てきた。そこで、ここを掘り広げて井戸とした。だからこの井戸を矢孔井というのだそうな…
弘法大師が水がなくて困っている土地で、杖を突いて水のありかを教えられた、いわゆる「弘法水」の伝説や、先の行基の利生水のような伝説はよく聞きますが、だれが射たかもわからない矢を抜いて名水井戸を発見した話は珍しい話です。ともあれ、かつての山陰道の道端にある矢孔井の水を、聖水として仏前に供したり、酒造りの水として汲んだり、一杯いくらで売らんがため、井の前の狭い道に水桶を積んだ大八車がひしめいた昔があった、ということです。
力持ちの嫁さん
江戸時代のことです。荒尾の殿さんの重臣の一人に村河与一右衛門という武芸の達人がいました。村河家は代々与一右衛門と名乗られたので、何代目の与一右衛門さんの時か知りませんが、この人に別ぴんで心優しいすばらしい嫁さんが来られ、みんなに好かれておりなさったそうですと。ある暑い日の午後、与一右衛門さんが汗びっしょりで城から帰ってきました。かの嫁さんは使用人にたらいを庭に回させ、それに水をいれ、だんなさんに行水を勧めました。彼も喜んで行水をして涼んでおりました。その時、一天にわかにかき曇って夕立が降りだしました。家人はあわてふためいて、やれ洗濯物だ、干し物だと走り回って、家の主をほったらかしにしていました。それを見た嫁さんは、やおら庭におり立つや、主人も水も人ったままのたらいを、両手を回してヤッコラサと持ち上げ、雨のかからない軒下に運び込まれたそうですと。また別のある日、買い物にこの嫁さんが町に行かれた時のことだそうです。大勢の人が買い物に熱中しておるところへ、男が息せき切って駆け込んできて「暴れ牛が町の通りに飛び込んだけえ早よう逃げ!」と叫びました。町の中はてんやわんやの大騒ぎ。みんな買い物を投げだし我先きにと逃げ出しました。村河の嫁さんも慌てて逃げかけましたが、人ごみに巻き込まれ逃げ遅れてしまいました。振り返ると、もうそこまで角を振りかざして大牛が突っ込んで来ています。このままでは角に引っ掛けられて殺される、と思った村河夫人は、止むなく暴れ牛と真正面から向き合い、足を踏ん張って突っ込んできた牛の角を両手でむんずとばかりつかみ、怒り狂って突進する大牛を止め、その場にひねり倒してしまわれましたげな。人々は喜ぶと同時に驚きました。あの優しい嫁さんが、さすがは村河さん家の嫁さん、と言ったかどうかは知りませんけどな。
安養寺の歯形栗
昔、後醍醐天皇が鎌倉幕府にたて突いて隠岐島に流されなさる時(元弘2年・1332・3月)、流される天皇のお供の中に、天皇の16才になる娘さん(瓊子内親王)が変装して入っていなさったそうです。一行が米子まで来て、さあこれから船に乗るってえので、も一度お供を調べたところが、天皇の娘さんが居るってことがばれて「あんたは船に乗せられんけぇ、京都へ去んなさい」といわれたそうです。が、娘さんは「いや隠岐に近いここ米子に居たい」てって安養寺に行かれたそうですと。村の人は、はあこの人は天皇さんの娘さんだ、てぇので大事に扱ったそうです。秋になって栗がとれると「まあ初物の栗なと食べて寂しさをまぎらわっさい、初物は七十五日の長生きだけえ」と言ったかどうかは知りませんけど、かごに栗を山盛りに入れて持って来たそうです。ところが箸より重い物を持ったことがないような宮中の暮らししか知らん娘さんには、堅い生栗の皮がむけんので、エイ面倒なり、と皮に歯形を付けたまま、もしこの栗が芽吹けば父天皇は隠岐から帰れる、といって寺の庭に埋められていた。とも、いやいや栗はゆで栗で、その一つを、もし芽吹けば…といって植えられたとも、生栗の一つを噛み砕いて、もし芽吹けば…と運試しに植えられた、といろいろに語られますが、その結果はどれも同じで、次の年、みごとに栗の芽が出たそうで。娘さんの占い通りに父天皇は流された次の年、隠岐を脱出、船上山から京に帰られた話はご存知の通り。ところが娘さんは米子がすっかり気に入って、かどうか知りませんけど、京に帰るのをやめて安養寺に残られ、十八才の時、髪を降ろして尼さんになられたそうです。「桃栗三年・柿八年」いうでしょう。丁度尼さんになられた頃、例の栗の木に実がなりました。いそいそと初生りの栗のイガを広げて見たところ、アーラ不思議や栗の皮には歯形がくっきり付いていましたと。
神さんの灯
出雲大社は、社伝では、大昔は地上16丈(約48メートル)の高い所に造られていて、それを支えた三本組の柱の一部が地中から発掘された、というニュースには驚かされました。淀江の稲吉から出土した土器に描かれた絵にも、空高く木で支えられた神殿らしき建物が描かれていますし、その他にも、金沢のチカモリ遺跡、青森の三内丸山遺跡など、日本海沿岸には巨木を直立させたと思われる跡が発掘されるそうですが、なんであんな高い所に建物を建てたり、巨木を立てる必要があったのでしょうか。識者は、これは神々を祭る施設だろうといわれます。それと共にこれは想像ですが、日本海を航海する船や、海で漁をする漁民のための灯台の役目もしていたのではないでしょうか。『大山寺縁起』にこんな話が書かれています。
…昔、髪田の浦の漁帥が海で漁をしていたところ、突然海が荒れだして何処ともなく流されだした。漁帥は手を合わせて「南無大山権現助け給え」と祈ったら、風は収まり雲が切れて大山の峰が拝まれた。その峰から星が飛ぶように光が射し、海上を照らしたので無事に帰ることができた…
髪田とは米子の勝田のこととも思われますが、米子以外にも勝田・神田などの類似した地名がありますので、確定はできません。似た話がもう一つあります。それは江戸の昔の話。
…ある日、博労町の和泉屋なんとかさんが出雲に出かけ、夜、中海を舟を漕いで帰っていた。ところが突然風が吹きだし大雨になり波も荒れだした。もはや舟も転覆だ、とぼう然としていたが、気を取り直し、困った時の神頼み。神さんを拝もう。近くの神さんといえば…そうだ深浦の祇園さんだ。と叫んでから、一心不乱に祇園さんを祈った。すると不思議なことに暴風雨の中に米粒ほどの明かりが見えてきた。それを目当てに一生懸命舟を漕いだら、無事に深浦の神社の前に着くことができた。和泉屋さんは、この霊験を有難く思って感謝の印として、宝歴10年(1760)神社に石の鳥居を寄進した…
師走の大工
今昔物語にある話です。
…今は昔、人々は飢きんに苦しんでいた。ある男が伯耆国庁の倉に米を盗みに屋根を壊してしのび込んだ。入ってみてびっくり。倉の中には米一俵ない。からっぽ。男は再び屋根まで上がる気力もなく倉の中から扉をたたいていた。4、5日目に外の者が気付いて、何者だ?と聞く。男は、泥棒に入ったが何もなく出るに出られず、もうへとへと。どうせ飢死するなら外で死にたい、と叫んだ。出てきた盗っ人は自首したのだから、実害もないし、放免しましょう、という部下の言を聞かず、時の国守は首をはねてしまった。人々は酷いことを、と口々にそしり、国守はすっかり評判を落としてしまった…
天神町は、昔は片原町といいました。中海の出入口にあるので、船で松江や大社へ行く旅人のための宿屋が軒を連ねていた町だったそうです。その頃の話です。
…年の暮、借金だらけの男が、宿屋なら銭があるだろう、と思って夜中にある宿屋に忍び込んだ。 ごそごそ探すが金銭はびた一文ない。見れば壁は落ち、柱は傾き、何とも寂れた宿屋だった。盗っ人は腹を立て大きな音を出した。家の者(といっても爺と婆の二人だが)が眼を覚ました。「婆さんやどうも盗っ人が入ったようだで」と話しとるところに当の本人が眼をつり上げて現れ「金を出せ!」と怒鳴った。爺と婆は真底親切な人だったので「まあよう来てごしなった。だどもうちはご覧の通りで客も来んで、銭金は一銭も無いでまことに申し訳ない。が、米はちょっとはあるけぇ待っとって」といって婆さんはいそいそと飯を炊き、爺さんも「まあ寛いで風呂なりとお入り」といってわざわざ風呂を沸かしてくれた。泥棒は、心から親切にしてくれる老夫婦に感激して「わしは本当は大工だけえ御礼に家を修理したげる」といって、盗みに入った家を修理して帰っていったそうですと…
一富士
…昔、ある家の親父さんが「年の初めだけえ、物をめいではいけんぞ。一年運が悪くなるけぇ」というとったところが、子どもがつい手を滑らして土瓶を割ってしもうた。親父さんは機嫌が悪うなったが、かかさんが頭のいい人で「ドン(土・鈍)とヒン(瓶・貧)とは投げ捨てて、後に残るが金のツル(弦・蔓)」といってその場を繕わんしたと…
だれでも年の初めは新しい年が良い年であることを願って縁起をかつぎます。その一つが初夢で、それは「一富士二鷹三なすび」といわれます。この言葉は駿河国(現静岡県)のことわざだそうです。この駿河など5カ国の領主であった徳川家康は、豊臣秀吉と共に小田原の北条氏を攻め滅ぼします(天正18年〔1590〕)が、その時、講談では秀吉・家康が連れ小便をしながらの話に、秀吉は家康に戦功として北条氏の旧領の江戸など関八州を与え、家康の地盤である駿河など5カ国を取り上げてしまいます。家康は内心激しく怒ったが秀吉の力には勝てないので渋々江戸城に移った、と語られます(余談ですが家康の出た後の駿河城主には中村一氏がなりました。 米子城主中村忠一の父です)が、本当でしょうか。といいますのは、戦国の武将は命を的に戦うのですから、よく縁起をかつぎましたから。例えば柴田勝家は、越前北ノ庄の「北」は「敗北」に通じるとして地名を福井に改めます。殊に家康は、縁起をかつぐ武将だったと聞きます。彼は富士山が見える土地ならば、駿河でも江戸でもどこでも良かったのではと思います。それは、家康にとっては「富士」は「不二」であり「不死」だったからです。富士山が見える所にいる限り、戦いで死ぬことはない、と思っていたと想像します。東京には今でも富士見坂という地名が点々と残っていますし、江戸城には富士見櫓がありました。富士山の見える坂であり櫓の意味ですが、家康に言わせれば、これは不死身の坂であり櫓ということになります。米子の冨士見町も、伯耆富士のよく見える町という意味でしょうし、不死身の町というめでたい町名だとも思います。
中海凍る
…昔、冬になって食べ物がなくなり、腹をすかせてうろつくキツネがおった。カワウソの家の前まで来たら、魚を焼くいいにおいがしてきた。キツネはにおいにひかれて、ついふらふらと中に入ってカワウソに聞いた。「どげしたらそげなうまげな魚が捕れるのかいなあ」カワウソは「そりゃあ簡単なことだ。寒い晩に前の東郷池に出て、尻尾を水の中に浸けとけば、なんぼでも魚が釣れる」と教えてくれた。キツネは、早速その晩、池に出て尻尾を水の中に浸けた。明け方、もうなんぼなんでも釣れとろう、と思って尻尾を上げかけたが、一向に上がらん。アラよっぽど大物が釣れたわい、とほくそ笑んで思いっきり引っ張ったところが、ケ、尻尾がポーンとち切れてしまった。見ると、池が凍っておって尻尾が上がらなんだだと…
三朝で聞いた「尻尾の釣り」という昔話です。東郷池は兎も角、中海は凍ることがあったのでしょうか?それがあったのです。記録で見る限りでは、一回は文化9年(1812)暮れに中海が凍り、明けて10年の元旦から大勢の人が、凍りついて動きのとれなくなった船を見物に出かけたそうです。その見物人たちを相手に氷上に酒屋ができ、三味線を弾く人まで現れて、町のようににぎわった、とあります。安来の清水さんに初詣でするにも、その年は海上を真っすぐに行けたそうです。氷の厚さは実に1尺7、8寸(約54センチ)あった、とあります。もう一回は明治14年(1881)の正月。 暮れの12月24日から大雪になり、3尺(約90センチ)ほど積もったそうです。元旦から5日まで中海・宍道湖が凍ったので、氷の上で人力車を乗り回したり、歩いて恵方参りをした、とあります。記録されなかったことも多いでしょうから、中海はなんども凍ったことでしょう。中海が凍ったとき、氷上を通って、向う潟といった安来の島田から住吉ヘカスリ織を運んでいて、その上陸地点を「機の岬」といったそうで。それが今の「旗ヶ崎」という地名の起こり、というのですが、どんなものでしょうか。
鹿島さん家げのネズミ
春寒のころになると、天井裏の「嫁が君」ネズミのことが思い出されます。
…昔、田舎のネズミと都会のネズミが仲良しになった。そこで都会のネズミが田舎の彼の家を尋ねた。彼は喜んで米や麦・粟などで歓待した。ところが都会の彼は「お前はこげな粗末な物しか食べとらんのか。道理で小まいしやせとる。うちに来い。ご馳走するぞ」とけなして帰った。田舎ネズミが都会の彼の家に行くと、なる程暖房で家は暖かいし部屋はきれいに飾っとるし、食物は、と見るとバターにチーズ・肉と山のようにある。さて食事をしかけた途端、人間が入って来たので慌てて壁穴の中に逃げ込んだ。やっと出て行ったので、さて食べようとすると今度は猫が入ってくる。また逃げ込む。ご馳走の山を目の前にして、おちおち食べることができなかった田舎のネズミは、都会の彼にこういって帰った。「田舎は冬は寒いし食物も粗末だが、危険におびえることもなく、のんびり暮らせる。都会はこりごり」…
『イソップ物語』の中の一話です。近世、米子港からは後藤家などの船で上方に多くの米が運ばれました。「米子米」といわれ、美味しさ抜群の米として人気があり、高価で取引されたそうです。
…ある時、米子米が鹿島家の米蔵から運ばれた時、米俵と一緒にネズミも大阪に運ばれ、大金持の鴻池の米蔵に入ったそうな。鹿島のネズミは鴻池のネズミとすぐ仲良くなり、遊んでいたが、やがて米蔵自慢の話になった。鴻池のネズミは「うちの蔵は壁が厚くて外からは噛って入れんが、お前の所の米蔵は田舎だけんチョロイもんだろう」といった。鹿島のネズミは「仲々どげして。うちの蔵も頑丈で外からは入れんぞ」次の船便で彼等は米子にやって来て、鹿島の蔵を噛りはじめた。簡単に噛れる。大阪の彼は白信満々でいった「チョロイもんだ。じきに穴は開く」。ところが壁の中辺りまで噛ったところで、なんぼ噛っても前に進まんようになった。それどころか白慢の歯がぼろぼろになった。みると壁の中に金網が塗り込んであり、さすがの鴻池のネズミもかぶとを脱いだだと…
双頭レール
米子駅から皆生温泉まで電車が走っていたころの話です。
…皆生で一風呂浴び、一杯引っ掛けていい気分になった男が、夜、米子に戻ろうとして電車を待っていたそうな。すると直ぐチンチンと音がしだした。いい調子に電車が来たぞ、と思って待っていた。が、音はすれどもなんぼ待っても電車が来ん。変だなあ、と思って通りかかった皆生の人に聞いたら、「ははん、あんたさんキツネに化かされなったな、ここには競馬場キツネっていう性辛キツネが居るけんなあ」…
山陰線でもこんな話があるそうです。
…昔、浦安辺りの駅員さんが、汽笛が聞こえたのでやがて汽車が来る、と思うて線路の外で待っとったが、なんぼ待っても来ざった。 後で近所の人に聞くと、「この間、タヌキがそこで汽車にはねられ死んだけえ、それが悪さをしたもんだ」と話したと…
これらの話は「偽汽車」といわれる明治以後に生まれた民話です。日本で初めて鉄道が開通したのは、明治5年(1872)東京の新橋−横浜間でした。当地では、百年前の明治33年(1900)から米子−境港間で工事が始まっています。米子駅は、山陰線・伯備線・境線が交差する拠点の駅ですが、この駅舎に、明治のはじめ、日本を走った鉄路のレールが使われていることをご存じですか?それは明治3年(1870)外国で造られ日本に運ばれてきた、上下が同じ型をしたレールで上部が磨耗すればひっくり返して下部を使うように造られた「双頭レール」といわれたものです。しかし、このレールは、使ってみたら安定性が悪く、すぐにお払い箱になりました。その後、流れ流れて米子に来て明治35年(1902)米子駅舎新築時の建築資材に活用され、今に至っています。日本の鉄道の歴史を物語る、貴重なお宝です。表がだめになればひっくり返して裏を使い、裏もだめになれば建築資材に使うとは、これって今はやりのリサイクルのはしりではないでしょうか。
唐王(とうのう)御前さん
田植の頃になると、あぜ道や石垣をはう蛇をよく見かけます。今年は巳年のせいもあってか多く見るように思います。蛇は嫌われもの。中でもマムシときたら、毒もあって毛嫌いされ、怖がられます。あぜ道を歩く時「ワラビの恩を忘れたか」と言いながら歩けば蛇が逃げてくれるといいます。それはこんな昔話から出ています。
…昔、蛇がカヤ(茅)の畑で昼寝していたら、寝とる間にカヤの芽が伸びて蛇の体を突き刺してしまった。驚いた蛇は逃げようとするが動けない。困っていると、ワラビが柔らかい芽を伸ばして蛇の体を押し上げ、助けてやっただと。それで蛇に出会った時「ワラビの恩を忘れたか」と言うと、蛇が逃げて道を開けるだと…
ところが伯耆では「マームシ・マムシ・ヨーケ・除け・唐王御前のお通りだ」と言うと、マムシが逃げて行くのだそうです。マムシも逃げ出すという唐王御前とは誰のことでしょうか。 それは大山町唐王の神社に祭られているスセリ姫ノ命のことです。話は、大国主ノ命が因幡国の美女・八上姫を得て出雲に帰る途中、兄神たちの邪心によつて、手間山で赤イノシシといって焼石を落とされ死んだ(第20話)。が、母神の尽力で生き返ったという『古事記』の神話から始まります。
…大国主は、油断していると兄神たちに殺されてしまう、いっそ黄泉の国にいるスサノオノ命を頼ったら、という母神の考えに従って黄泉の国に行った。ところが、最初に出会ったスサノオノ命の娘スセリ姫に一目ぼれ。 相思相愛の仲になってしまった。父スサノオは、大国主が娘の婿にふさわしいかどうかを、いくつかの難題を出して試した。その一つが大国主を蛇のうじゃうじゃいる部屋に入れて一晩寝させるという難題。これにはスセリ姫が「蛇がとびかかってくれば、この布を3回振りなさい」といってくれた布のお陰で難なくクリヤーした…
唐王神社は、このスセリ姫ノ命を祭神にしているので、蛇や害虫除けの神社になったといわれます。この神社の砂をもらって帰り、家の周りやあぜ道に撒くとマムシが来ない、といわれました。 また神社の分霊を勧請し「唐王御前」として各地で祭られています。マムシの害がいかに多かったかを語る証でもあります。
輪くぐりさん
梅雨の季節になりました。この時季「青梅を採って食うと疫痢になるけえ食べるでない」とよく注意されたものでした。季節の変わり目でもあり、体の弱った人が多く病気になったのも事実でしょう。『備後国風土記』には、こんな話がでています。
…昔、北の国の神様が、南の国の女を嫁さんにもらおうとして出かけた。途中で陽が暮れたので、その土地で宿を借りることにした。 そこには、巨且將来、蘇民將来という兄弟が住んでいた。神様は、まず弟の巨旦將来の家に行って一夜の宿を乞うた。巨且は金持ちで裕福な暮らしをしていたが、汚れた身なりの神様を見て、にべもなく断った。神様は仕方なく兄の蘇民將来の家に行った。蘇民は貧しい暮らしだったが、神様に粟の茎を敷いて座をつくり「貧乏で何もないが」といって粟飯を炊いてもてなし、泊めた。数年後、神様はまた蘇民將来の家にやって来て、「わしは須佐之男神だ。あの晩のお礼をしたい」といって蘇民の家族には腰に茅ちがやの輪を付けさせた。その夜、蘇民の家族以外の村人は全員、病気になって死んでしまった。神様は「のちのち病気が流行した時は、腰に茅の輪を付けて、蘇民將来の子孫だ、と言いなさい。そうすれば病気にならずに助かるから…」といって帰られた…
米子でも、別に蘇民將来の子孫ではありませんが「水無月祓い」とか「輪くぐりさん」といって、一年の半分が終わる6月晦日(神社によっては月遅れの7月晦日)に、神社の鳥居に大きな茅の輪を作り、氏子をくぐらせます。当日までに人型に切った紙を氏子に配っておいて、当日、その人型で体中をなで、白分のけがれを人型に移したことにして、神社に持って参り、輪をくぐって体を清める神社もあります。『新修米子市史・民俗編』を見ますと、大篠津の諏訪神社では茅の輪は42才の厄年の氏子が作ります。持ち寄った人型は唐びつに入れて置いて、後に神主さんが茅の輪と一緒に灘に流すのですが、その時には大勢の氏子が笛を吹き、ドウ(太鼓)をたたいてにぎやかに灘まで送り、灘からは厄年の人が泳いで沖合まで送るのだそうです。風土記の話からすれば、体のけがれだけでなく心のけがれもぬぐいとってもらえそうですが、心はなかなか。
江戸時代のがいな祭
天から降るものが雨や雪なら何でもないのですが、幕末には伊勢神宮のお礼が降ってきて、大騒ぎになったことはよく知られた話です。米子でも、幕末よりもずっと前に天から一枚の紙が降ってきたそうです。その話はこうです。
江戸時代、米子城主荒尾氏の家来に柘植(後に織田)という侍がいました。その家は、今の大学病院構内にありました。ある日、ご主人が庭を散歩していたところ、白い紙切れが天から降ってきて、庭木の梢にひっかかったそうです。 何だろう、と思って木に登ってそれを採ってみると、何とそれは菅原道真公の直筆の紙片でした。これは恐れ多いことだ、といって柘植さんは庭に小さな祠を建て、学問の神様・天満宮としてその紙を納めて祀られました。柘植家の屋敷神であったこの天満宮は、元禄5年(1692)加茂川にかかる天神橋の道向う、天神町に遷座され、そこで祀られていましたが、昭和37年に再び遷座され、今は加茂町の賀茂神社に合祀されています。江戸の昔、天満宮の祭日は旧暦6月25日。現在では学校が夏休みに入るころになります。宵祭りから米子の町内の寺子屋からはのぼりや燈明が寄進され「尺寸の地も残さず」それらが立ったといいます。25日には神輿が米子の町内を残らず練り回った後、深浦の祇園神社前から船に神輿を移し錦海に出ました。船中でも神事が行われました。人々はこの御座船を取り囲むように、それぞれ船を漕ぎ出し、祭りに参加を口実に夕涼みをし、飲めや歌えの大騒ぎ。舟と舟の間を水澄ましのように飲食を商う舟が行き交い、琴・三味線の音は海風に乗って岸辺に響く。岸辺でも、見物がてら飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ。神輿は真夜中になって内町の京橋際から上陸され、天神町の神社に帰られました。
これを当時の人は「天満の涼み」といったそうです。これぞ、がいな祭のルーツでは。
海坊主の話
これは『因幡怪談集』という、江戸時代に書かれた本の中にある話です。
…米子町の隣村に、何とかという男がいた。彼は村祭りの宮相撲に出ても、負けたことのない剛の者だった。ある夏の日、その男は用事で米子に出かけ、真夜中になってから米子の海辺を一人のんびり帰っていた。その時、沖の方から星のように光りながら波に乗って来る怪物を見つけた。腕に覚えがあるので、その光る怪物を落ち着いてじっくりと眺めていた。怪物はどんどん近づいて来た。周囲2尺(66センチ)ほどの棒杭のような形をして、眼らしきものが一つある。怪物も波の上に立ち止まって男をじっと見つめ、様子をうかがっているようだ。男は、上陸すれば捕まえるぞ、とばかり怪物をにらみ返した。やがてのことに怪物は浜に上陸し、男に体ごともたれかかってきた。男は、得たりや応とばかりに怪物を捕まえては投げ飛ばした。怪物は力があるようには思えないが、いくら投げ飛ばしてもへこたれない。さんざん技を掛けるけども、ぬるぬるして捕らえどころがない。押せばたわたわと倒れ、放せばべたべたともたれかかる。何とも得体が知れない。さすがの彼もくたびれた。見ると怪物も弱って来ているようだ。それから数刻、男はやっとのことで怪物を倒し、縄がないので着物の帯を解いて怪物をくくり、引きずって家に帰り、庭の柿の木に結わえつけておいて、男は疲れ果てて泥のように寝込んだ。次の朝、怪物を前にして話し合っている近所の人の大声で眼をさました男は、外に出た。すると人々は、男をみてびっくり。あわてて鏡をみると、男は何と顔といわず手といわず、体中が墨だらけのまっ黒だ。男は昨夜の武勇伝を語るほどに、うわさを聞きつけた村人が集まり、怪物を囲んで評議する。が、この正体を知る者はいなかった。 ただ90才になる老人が、「これは海坊主ではないか、人をみればもたれかかり、体はぬるぬるし、さわると体がかゆくなるというがどげだえ?海辺を歩いとるとたまに出くわすことがある、と昔、爺から聞いたことがある」と話して正体がわかったと…
塔婆堂の由来
昔、河崎四軒屋を開かれた矢倉家のご先祖は、毎日早朝に海に出て潮水で身を清め、神様に供える潮水を汲んで帰るのを日課にしておられました。ある日、いつものように海辺に出てみると、大きな塔婆の木が浜に流れ着いとりました。弓浜部には山がありません。その頃は薪は浜辺に寄り着く材木を集めておいて、冬場の焚き物にしとりましたので、これはよい薪が流れ着いちょる、と思ってその塔婆の木を持って帰り、家の中に入った途端、急に高熱が出てその場に倒れてしまいました。家の人はびっくり。今なら110番に電話するところですが、「こりゃあ、この塔婆の木が崇っとるぜ」と話し合って、その木を元あった浜辺に戻しました。ところが、そげな事があったとは知らん近所の人が、こりゃあいい物が流れ着いちょる、ていうてその塔婆を家に持ち帰った。家に入った途端こな衆も高熱を出いてぶっ倒れてしまいました。変なことだ、こりゃあ拝んでもらわんと治らんぞ、と思って二軒で行者さんを呼んで拝んでもらわはったところ、案の定、「塔婆が崇っとるけぇ、お堂を建てて塔婆を祀れ、そげすりゃあ熱はじき下がる」という卦が出ました。そこで早速に小さなお堂を建てて、その塔婆を納めて拝んだところ、あれほど高かった熱も、うそのように引いてしまったそうです。それ以来、「河崎四軒屋の塔婆堂」といって、急な発熱などに霊験あらたかな拝み所として、昔は参拝者が多かったそうです。
この話、昔から有名だったらしく、18世紀中頃(江戸時代)に書かれた本にも「(塔婆の木は)石州(島根県西部)より流れ来たる由にて…瘧おこり(一定時間と置いて発熱する病気)など落ちるに妙なり」と書いてあります。 江戸時代の急な病気の時の拝み場だったようです。
糺(ただす)坂の怪
『米府鬼話』という江戸期に書かれた本にある話です。
…昔、尾関三郎右衛門という侍が境港で勤めていた時、彼の母が亡くなった。亡母を菩提寺の総泉寺に葬る為に、親類や友人とともに棺をかついで米子に向かった。糺坂(糺神社前の砂山の坂)まで帰ってきた時、「日がまだ高いので暮れてから糺坂を通ろう」という話になり、そこで棺を降ろし日暮れを待った。待っている間に、喪主の顔が病人のようにまっ青になった。友人が「お前、身体の具合が悪いのではないか、先に行って休んどれ」というと、彼は「子が母の棺を置いて先に行くのは孝道にはずれるが、お言葉に甘えて先に行って休ませてもらう」といって一足先に米子の町に入った。日は暮れた。 灯火を付け「さあ出発」と糺坂にかかったところで男が一人気を失って倒れた。助け起こして同道の医師に診てもらっていると、一陣の冷たい気味悪い風が回りを吹き抜けた。すると、そこにいた全員が気分が悪くなって倒れる者が出た。「これは妖怪の仕業だ。ここにはおられんぞ」といって棺をかついで大急ぎで糺坂を後にした。後日、三郎右衛門に「糺坂の所で気分が悪くなった時、どげな気分だった?」と聞いたら「体も心も冷たくなっておかしな気分だった」と答えた。あそこで倒れた者にも聞いたが、三郎右衛門と同じように言ったという…
この怪談でわかることが二つあります。一つは、日の高い内に町の中に棺をかついで通ることは、昔は遠慮すべきことだったということと、今一つは、糺神社のあるあの砂山のあたりが昔の米子町と浜の村々との境界だった、ということです。村の中や町中は何事もないのですが、町の境や村境などの境目には、昔はチミモウリョウあらゆる妖怪の寄り集う特別な空間だと思われていたようです。だからこそ村境に塞の神を祭ったり、村のはずれにお地蔵さんが立っておられるのだと思います。
えっ?「何でそげなことがあるもんか。あれは水木ロードの妖怪一家が葬列についてきていて糺坂の所で暴れただけのことよ」ですって?。なるほど、恐れ入りました。
安産の寺 穴太(あのう)寺
「大山縁起」にある話です。
…天仁2年(1109)、薬仁という高僧が、伯耆国日野の岩屋で修行し、大山寺に来て権現の社壇(現大神山神社奥宮)で天下大平の祈祷をされることになった時のこと。高僧の祈祷なので多くの供物が仏前に供えられた。強盗共がそれを聞きつけ、供物を盗みにやって来たところ、中からよろいを着た武者が一人出てきて盗人共を散々にやっつけた。薬仁は祈祷しながら何やら外が騒がしいので、仏壇を見たところ、日野の岩屋から持ってきた毘沙門さまの像がみえない。あわてて外に出てみると、その仏は石段の所に立っておられた。強盗共と戦われたのはこの仏だったと知り、有り難く拝みながら、この話は丹波国の穴太寺の観音さんの話と同じだと思われた…
丹波国穴太寺(現:京都府亀岡市)の観音さんの話とはこういう話です。
…丹波国に宇治宮成という者がいた。京から仏師を呼んで観音像を彫らせた。見事に彫り上げたので、宮成は仏師に礼金とは別に自慢の葦毛の馬を与えた。仏師は喜んで帰途についた。ところが宮成は仏師に与えた馬が忘れられず、仏師の後を追って弓で仏師を射殺し、馬を取り戻して家に帰り、仏壇に行って見ると、仏師が立派に彫り上げた観音さんに自分が射た矢が立ち、金の肌から赤い血が流れていた。宮成は驚いて矢を引き抜き、馬屋に行ってみると、馬は居らずわら靴があるだけだった。仏師は何事もなく京へ帰っていた。宮成は改心し、穴太寺を建て、その仏像を本尊として納めた…
塞(さい)の神祭り
月日が経つのは早いもので、もう12月になりました。旧暦師走15日には年の最後を飾る祭りの塞の神祭りがありました。塞の神は村境に立っていて、外から入ってくる敵や危険なものを防ぎ、さえぎる神です。また、この神は伯耆では縁結びの神と言われています。まことに人間臭い神様で、朝早く参った若者にはじっくり考えて良縁を授けて下さるが、大勢が参りだす頃になると慌ててしまわれて、あれこれ考える暇もなしにバタバタと縁結びをされるので、良縁にならない場合もあると言われており、若者たちは競って早朝に参ったものでした。祭り歌もあってサイの神さん15日、おせ(大人)らちゃ参るが子供らちゃ参らんか、と歌いました。参拝する時、わらツト(苞)にシトギ団子を入れ、それを背負わせたわら馬を持って参り、供えました。このわら馬の尻尾を境内の祭り火で少し焼いて供えるのが慣わしでした。 尻尾を焼く理由はこうです。
塞の神さんは貧乏な神さんで、あっちこっちで借金しておられるので、年末になると借金取りが、わっとやって来る。が、返す金がないので借金取りにこう言って言い訳されます。「実は返すつもりで金を準備していたが、この間火事にあってみんな焼けてしまった。 信者が納めてくれた馬もこれこの通り尻尾が焼けてしまって・・・」と、借金取りに対する口実を作ってあげるためだそうですと。
米子には塞の神の石神が各地にありますが、他村の石神を取って帰ると、取った村に良縁があるといわれており、昔は石神の争奪戦が村々の若衆の間であったそうです。岡成の石神は、その昔赤松村の青年に取られたので、今度は取って帰れない石神を彫ったとのことです。塞の神は他に耳の神でもあります。穴を開けた椀が供えてあるのを見かけますが、あれは耳病を治してもらう為の供物だそうです。
毘沙門さんの福もらい
…昔、陰田の天神山(山陰道工事で消失)には、毎年、元旦に天から金の鶏が降りてきて、山の上で金の卵を生んでいた。この卵をもらうと金持ちになる、といわれていた。ところが、悪い鬼がいてその卵を毎年横取りするので、陰田の人はなんぼしても金持ちになれなかった。その話を陰田の堂で祭られていた毘沙門さんが聞かれ、いつも世話になる村人のために鬼退治に出かけられた。その姿はまるで火の玉のようだった。丁度その時、陰田に住む相見という神様も、この鬼を退治しようとして、弓幸山(久幸山)で弓に矢をつがえて待っていた。そこへ火の玉が走ったので、「これぞ悪鬼」とばかり射かけると、手ごたえあって火の玉は消えた。村人は、これで金持ちになれると大喜びした。が、間もなく村中に悪い病気がはやりだし、みんな困っていた。 そこへ白髪の老人が通りかかって「この村の毘沙門さんがわしの夢枕にたたれ『えらぁて死ぬるやぁな』いわれた」と話して消えた。村人は、変な話だと思ってお堂に行って見ると、毘沙門さんの眉間に矢傷があるので驚いた。さては相見の神様は間違えて毘沙門さんを射られたのだ、そのために悪い病気が流行したのだ、と村人は悟って、お詫びとして傷つかれた毘沙門様を安来の清水寺に寄進して許しを乞うたので、また元の平和な村に戻ったと…
と民話は伝えています。この話には別の話も伝わっています。それはこうです。
…米子城主の中村氏が火の玉を見かけたので、家来にあとを追わせ、天竺池に飛び込んだ火の玉を抱き上げたら、眉間に矢傷のある毘沙門様だったので清水寺に寄進した…
正月二日の夜、「今夜は毘沙門さんが来なはるけぇ戸口を少し開けとけ」といわれたのを覚えています。奥出雲では「毘沙門さんの福もらい」といって、翌三日朝、子ども達は親が部屋に隠したお金や菓子を捜して、それをもらう行事が近年まであったそうです。
米子の中江藤樹
寛永9年(1632)に鳥取藩主と岡山藩主の入れ替わりがありました。この時、幼くして岡山から鳥取藩主となった池田光仲について岡山では
  華のようなる勝五郎様をやろうか因幡の雪国に  (勝五郎は、光仲の幼名)
と歌ったそうです。 それに対して鳥取では
  雪は降れども因幡はぬくい寒や備前の空っ風
と歌い返したといいます。厳寒のこの季節になると、鳥取であろうと岡山であろうと、昔は霜やけでまっ赤にはれた手をした人、あかぎれで割れた傷口に黒い練り薬を焼火箸で溶かし込んで働いている人をよく見かけたものでした。陽明学の開祖で近江聖人といわれた中江藤樹が米子に来たのは池田光仲が鳥取に来るより前の元和2年(1616)藤樹6才の時でした(一説では元和元年)。「春風いまだ江州に致らざるころ」父母と別れ、自分の後継者として学問をさせるため祖父中江吉長に手を引かれ来ました。藤樹は祖父の見込んだとおり、よく学び理解も早く、特に文字の立派さは大人を驚かせ、早くから祖父の代筆を務めたと伝えています。しかし、米子に来てわずか1年(一説ならば2年)で、藤樹は米子城主加藤氏の国替えに従って、祖父ら家臣とともに四国は大洲へと移りました。伝説では、両親と別れて間もないころ、人一倍親思いだった藤樹は、母が冬の冷水で手が霜やけになって苦しんでいると聞いて、母恋しさもあって、我慢できず急いで近江の生家に見舞いに帰りました。ところが母は、見舞いとはいえ学業中途で帰ってくるとは何事か、といって心を鬼にして家にも上げず我が子を追い帰した、と言われています。とても本当の話とは思えませんが、かつては美談として語られていました。霜やけにはユキノシタの絞り汁がいい、といって塗った覚えがありますが、藤樹もユキノシタや竹の皮に包まれた練り熊薬を持って故郷に向かったのでしょうか。藤樹の面影を米子に求めれば、彼が祖父と暮らした家跡に建つ石碑と、その地がかつての就将小学校であった縁で、就将小の児童会を「藤樹会」と称して先哲の遺徳を偲んでいることぐらいでしょうか。
社日さん
昔話にこんなのがあります。
…昔、姑さんが嫁さんに「あしたはヒガン(彼岸)だけんな、仏さんにぼた餅つくって供えてごせ」 いうて頼まさったら、嫁さんが 「おかあさん、ヒガンじぁないヒイガンだ」 「それは違うヒガンだ」 「いやヒイガンだ」と言い合いになった。腹を立てた姑さんは、お寺に行って和尚さんに聞いた。 「和尚さん、うちの嫁は彼岸のことをヒイガン言いますが、ヒガンが本当でしょうが?」 和尚さんはそこで「明日嫁さんと一緒に寺に来なさい、教えたげるけえ」と言いなさった。次の日、二人そろってお寺に行った。和尚さんの言われるには「彼岸ちゅうもんはな、一週間のもんだ。それで、おかあさんの言うヒガンは前の三日、嫁さんの言うヒイガンは後の三日、中の一日が中日だ」と言わさんしたと…
この中日にいちばん近い戊(ツチノエ)の日を「社日」と言います。彼岸の中日は春秋ありますので社日も年2回あります。ちなみに今春の社日の日は中日の21日になります。社日さん、とは土の神(地神ともいう)のことであり、秋の実りをもたらしてくれる神と言われています。この日は田や畑に出て土をうごかしてはいけない、と言われていました。他地方では、春の社日に山の神が田の神になられ秋の社日に山に帰られる、とも言うそうです。社日さんの信仰は、大昔に中国から伝わったと言われています。春分過ぎて日一日と昼時間が延びるにつれ、忙しい野良仕事に取りかかる時期になります。種をまき、実りをもたらしてくれるには土の神の助けが必要だ。そこで農繁期に入る前に土の神を祭ろう、と言うのが社日さんの意味だったと思われます。江戸期の「臼ひき歌」に「二季(春秋)の社日に田畑の神を祭りゃ穂に穂が咲くと知れ」とありますように。米子ではこの日、地祭といって灘に出て潮水と浜砂を社日さんに供えて五穀豊じょうを祈願していました。その社日さんの五角形石塔が旗ヶ崎や青木神社や粟嶋神社などに残っています。
米子の寺子屋
新入生のはずんだ声が聞こえてくる月になりました。歌いながら語られる昔話に、こんなのがありました。
…ノミ(蚤)とシラミ(虱)の話を聞けば、「何とこれからどげして暮らして行こうかいな」そこでノミが申すには「おいらはお足が(走るのが)早いから、郵便配達いたします」こんどはシラミが申すには「わたしはお足が遅いので、学校の先生いたします」そこでノミが言うことにゃ 「お前みたいなノロ助が、学校の先生は勤まるまい」するとシラミが言うことにゃ 「何を言わしゃるノミさんよ、わたしが背中に付いたなら、どんなショウカラ坊主でもカク(掻く・書く)こた勉強スットコドッコイするわいなぁ」…
米子は「山陰の大阪」と他から言われ自認もしていますが、その言葉の裏には、文化面では一歩劣る、と言われているように聞こえるのはひがみでしょうか。何をもって「文化」というかにも論のあるところでしょうが、例を教育にとれば、米子は他に劣るどころか先進地でした。江戸時代、鳥取藩内で最初にできた寺子屋は青木の「修徳舎」で、地元の神官・山川氏により元禄年間(1688から1703年)に開かれたといいます。早くから多くの人が読み書きできるようになっていたことがわかります。この修徳舎は、明治になって学区改正のごたごたから、県内初の私立尚徳小学校ともなり、当時の新聞に生徒募集の広告を出すほどの新しさでした。また東福原にあった「高橋塾」は、親子三代にわたって教育された私塾として有名で、かなり遠くから教えを請うてこの塾の門を叩いたといいます。これらの多くの寺子屋や塾から米子を発展させた人材が続々と出ています。
「飯山(いいのやま)」の地名伝説
国道9号線が城山(湊山)と飯山を左右に分けてしまいましたが、昔はこの二つの山は同じ山並みに並び立つ山でした。城山とは、そこに米子城があったから付いた山名ですが、飯山というのはなぜでしょうか。それには、こんな話が伝えられています。
…米子城の鉄御門くろがねもんの下の方に八幡台という石垣がある。そこに昔、軍陣八幡宮という神社が祭られていた。が慶長年間(1596から1615年)に賀茂神社に移られた。この神社はお城を守る神を祭った神社なので、毎年正月、5月、9月に祈祷をして、その守り札をお城に納めていた。この神社が鉄御門下の八幡台にあったころのこと。神社の前に藪があって、その中に平たい岩があった。ある夜、この岩の上に飯を茶碗に盛って供えておいて、そのあたりを一回りして戻ってみたら、アーラ不思議や、茶碗の中の飯が無くなっていた。それから後、人々は、この岩を「餓鬼岩」というようになった。この神社のあった場所は飯山のすそ野にあたるといわれているので、このことからこの山を「飯山」というようになったのでは、という…
石が飯を食う、とは珍しい話です。これに似た話に大山町一ノ谷の「鎌取かまと岩」があります。この岩の上に乗せて置いた鎌が無くなっていた、という話です。また、備前岡山には「道通どうつう様」という神社があります。この神様のお使いはヘビで、氏子がこの神に卵を七個供えて願を掛け、境内を一周して帰ってくる間に、お供えの卵が無くなっていれば願がかなう、といわれています。「飯」と「卵」の違いはありますが、飯山はヘビ山といわれるほどヘビが多い山でしたし、何かよく似た話です。江戸時代の鳥取藩と岡山藩の人的交流の多さを思い合わせれば、道通様信仰の断片が形を替えて、此処「飯山」に伝わったのでは、とも想像できる伝説ではあります。
飯山(いいのやま)の蛇話
同じ山並みに並び立つ城山と飯山を比べれば、飯山のほうが急斜面の山で、山城としては飯山側が優れていただろうと思います。昔の人もそう考えたのか、米子の町中にできた最初の城は飯山に建ち、後に湊山(城山)に築城されたとも伝えています。また、飯山には蛇が多くいて蛇山ともいわれたことは前月書きました。それらのことを裏付けるような、こんな話が伝わっています。
…江戸の昔、米子城に夜な夜な化け物が出る、といううわさが立った。そこで化け物の正体を暴かんものと、腕に覚えのある侍、村河与一衛門が真夜中に城を見回っていた。鉄御門くろがねもんをくぐって石段を上に上がろうとしたその時、暗闇の中に閃光が走った。眼を凝らしてよく見ると閃光の中に女が立っていた。与一衛門が「怪しい奴、何者だ!」と厳しく問うと、女は「私はこの城の主で、城を見回っているところだ」と言い捨てて行きかけた。与一衛門は、これがうわさの化け物だ、と悟って刀を抜いて切りつけた。が、化け物の女もさるもの、刀の鋭い切っ先を右に左にと巧みに体を交わして逃げ回る。何刻か激しい切り合いの時が過ぎた。さしもの化け物の妖女も疲れ、ついに荒い息を吐きながら「実は、私は飯山の主の大蛇だ。湊山に城ができてから後、飯山は忘れられてしまい、荒れ放題に荒れている。それを恨んで化けて出たのだ」と白状し「お侍の腕前はよくわかった。私の負けだ。もう今夜限り化けて出たりはしない。その証拠に…」と言って皿を二枚、与一衛門に渡し、化け物の妖女闇を貫く大音響と共に消えた。次の日の朝、与一衛門が昨夜化け物がくれた皿を取り出してよく見ると、それは何と二枚の大蛇のうろこだったそうですと…
も一つ。時代は逆上って吉川広家が米子城を造っていた頃の話です。
…広家の娘が城の近くで遊んでいたら、白い蛇が寄ってきた。娘は白蛇の澄んだ眼にひかれて可愛がっていたが、父広家の岩国(現在の山口県)転封によって娘も米子を去っていった。ところが、かの白蛇も一行に見え隠れしながら岩国に行き、錦川のほとりに住みついた。その米子から来た白蛇の子孫がなんと今も生きていて、岩国市の文化財になっているんですと…
お船塚
東郷町に伯耆一宮の倭文しどり神社がありますが、この神社のご祭神の1人に安産の神として崇められる下照姫したてるひめ命がおられます。この神が出雲から海路を東郷に来られた時、乗られた船が石になって東郷湖畔に残っているそうです。米子にも同じような話が伝わっています。
宗像むなかたにある宗形神社は、延喜年間(901から922年)に定められた法令(「延喜式」)に書かれたほどの由緒ある神社(「式内社」といい、尾高の大神山神社も式内社)です。宗形神社のご祭神は、九州の宗像大社と同じく田心姫たぎりひめ命・湍津姫たぎつひめ命・市杵島姫いちきしまひめ命の3人の女の神様です。この3人の女神が九州から米子に来られるのに、陸路ではなく日本海沿いに船で来られたそうです。冬の荒海を越えてではなく、おそらく暖かく波穏やかな、夏のこの季節に来られたものと思います。その頃は米子も宗像のあたりまで入海だったようで、神社の近く、今の長砂と宗像の境で神様方は船を降りられました。その船が、長い年月の間に石になったと伝えています。石になった船があった場所を「お船塚」とか「茅かや島」といって江戸から明治の頃までは田の中に、一抱えほどの船石を囲んで茅の生い茂る100坪ほどの小さな丘だったそうです。昭和の初期には、石の周りに葦の生い茂る一坪ばかりの砂地になっておりました。それが終戦後、砂地は切り崩され、肝心の船石は埋められ、残念ながら今は見ることができません。
この伝説は、古代の米子についていろいろ教えてくれそうです。まず、古代の米子には、宗像神を信仰する九州の人が大勢移住して来たであろうこと。移住して来た年代は、地球の温暖期で氷河が溶けだし、海が広がっていた時だったであろうこと。少なくとも延喜年間よりかなり以前のことだった。といえば、それも伝説と笑われますかナ。
もう一人の八百比丘尼
粟島の八百比丘尼の話は有名で、すでに紹介しましたが、米子には実はもう1人、800才まで長生きした人がおられます。
…寛平という年代(889から898年)の頃のことだったそうな。彦名の里に八百右衛門という母子二人で暮らす漁師がいた。彼は大変貧しかったが、真面目によく働いて母に孝養を尽くしていた。ある日のこと、彼はいつものように中海に船を浮かべ、萱かや島の辺りで網を下ろして漁をしていた。やがてのことに網を引き上げてみたところ、中に小さいが立派な観音様が入っておられた。彼は驚いてこの観音様を家に持ち帰った。それからは母と一緒に線香を上げて朝に夕に拝んでいた。ところがある日、その漁師の家から火が出て家は丸焼け。家財道具、といってもたいした物はなかったが、みんな焼けてしもうた。しまった、あの観音様をお助けしなくては、と母子は慌てて焼け跡に入った。が、なんぼ捜いてもどこにも居られん。そげだなあ、あの火じゃあ助かりようがない、焼けてしまわれたか。がっかりして二人が浜辺に出てみたところ、アラマア不思議なことに観音様は1人で浜辺に出て、ちょこんと座って居られた。母子は大いに喜んだが、こんな所に観音様を居いては恐れ多い、と自分らの家はさておいて、まず観音様のお堂を建てて、その中に安置した。ところが運の悪いことは重なるもんで、その夜にまた火が出てお堂も焼けてしもうた。これじゃあ観音様をお守りすることは出来ん、と思って母子はその観音様を灘町の吉祥院にお預けした。吉祥院の坊さんは大変に喜ばれ、京都から仏師を呼んで大きな仏様を造らせ、その仏様の胎内にこの観音様を納め、お寺の本尊とされたそうだ。ところで漁師の母子はその後どうなったかって? 母は髪を下ろして尼さんになり、名も妙丹に変えて吉祥院で勤めていたが、やがて母子共に若狭の国(いまの福井県)に行って、800才まで長生きして、彼の国の土になられたそうですと…
一畑薬師さん
10月10日は眼の日。なぜかって、10を寝せて2つ並べると眼に見えませんか?昔は眼の縁がただれた人、目ボイタ(麦粒腫)の出た人をよく見かけたものでした。暗い灯油ランプ、囲炉裏の立ち登る煙、衛生状態の悪さ、などがその原因だったのでしょう。目ボイタを治すには、向こう三軒両隣りから米粒を3粒ずつもらったり、わらの先を輪にして患部に当て そのわらを燃やすとか、井戸をのぞき込んで水面に杓子(しゃくし)を半分映し「目ボイタを治してくれたら全部見せますよ」と叫んだり、およそ利きそうもないまじないをいろいろ試みたものでした。信仰では出雲平田市の一畑薬師さん。その縁日(8日)には、あちこちのお堂で薬師さんを拝みました。この日、当番は豆ご飯・お茶・お花をお供えし、信仰仲間(講員)を待ちます。仲間が揃うと、声を合わせて「オンコロコロ センダリマタオキソワカ」と何回もくり返し唱え拝みました。また4月8日の縁日には、一畑講の代表が平田まで行ってお札やお茶湯をもらって帰りました。このお茶湯で悪い眼を洗うと治る、と信じられていました。なんで一畑薬師さんが眼病を治す仏さんになられたかといいますと、こんな話が伝わっております。
…昔、平田の坂浦に与市という漁師がいた。与市には眼の悪い母がいた。ある日、 与市が漁をしていると、金色に輝く向こうの島から鳥が2羽飛んできて、舟のへさきで休み、また島に飛んで帰った。与市は不思議に思ってその島に舟を漕いで行ってみると、なんと、小さな仏様が金色に光りながら、海草にくるまれて寝ておられた。与市は仏様をわが家に迎えて帰り、朝晩拝んでいたところ、盲目の母の眼が治っていた。そのうわさを聞いて眼の悪い人が参拝しだしたのが一畑薬師さんの始まりだそうな…
彦名の薬師堂のご本尊は、平田の一畑から流れ着いたとも伝えていますし、市内のあちこちに今も残る多くのお堂や、「一畑薬師」と彫られた石造物を見るとき、その昔の信仰の深さを思い知らされます。
大きな大根
ロシアの民話で、小学校の教科書に載っている話です。
…おじいさんが「甘い大きなかぶ(蕪)なれ」といってかぶの種をまきました。秋になると、甘い大きなかぶができたので、おじいさんがかぶを抜こうとしますが抜けません。おじいさんはおばあさんを呼んできますが、抜けません。おばあさんは孫を呼んできますが、抜けません。孫は犬を、犬は猫を、猫はねずみを呼んできます。ねずみは猫を、猫は犬を、犬は孫を、孫はおばあさんを、おばあさんはおじいさんを、おじいさんはかぶを引っ張ります。「うんとこしょ、どっこいしょ」やっとかぶが抜けました…
米子にも大きな大根の話があります。それはこうです。
…むかし、勝田村(今の勝田町)に、近くの人がいつもゴミを捨てる畑があった。ある年、その畑に大根が一株生えだした。この大根、どんどん大きゅうなって、なんぼでも大きゅうなる。「いや、こりゃあ大根の化け物だ」ていううわさが立って、その畑の前の道をだぁれも通らんようになってしまった。おまけに亥ノ子さんの日(旧暦10月亥ノ日のこと。今年は11月15日と27日)に大根畑に入って、大根のはしれる(割れる)音を聞こうものなら死んでしまう、と言われとるけぇ、いよいよ人が寄り付かん。それでも大根は大きゅうなる。「こりゃあ困った事になったぞ」と村中で話をしとったところが、村の元気のいいどひょうし者が「よし、おれがその化け物大根を叩きめいじゃる」といってカケヤの大きなのを持って行って、大根の頭を叩いたそうな。そげしたら大きな穴があいて、中のほうで何だやらガヤガヤ話声がする。「エエイ!中に入ってみちゃれ」いって、その若者が大根の中に入ったらケ、大工さん・木挽びきさん・石工さん・左官さん等が忙しそうに働いとる。「はて、こりゃあどげした事だ?」と頭領に聞いたところが、頭領が言うには「どげした事だ、言うてお前、来年の春までには搭を建てにゃあならんで、みんな忙しゅうしとるだ。お前じゃまだけえ、早よ帰れ」いうことで若者は追い帰されただと。ほんにそげ言やあ春になると大根にもトウがたちますけんなあ。ハッ、ハッ、ハッ…
乙姫様の贈り物
ある時、日と月と雷が連れ立って旅に出たそうです。ところが雷は道中ピカピカゴロゴロ何ともにぎやかで、日と月はあきれていました。夜になり宿に泊まりました。あくる日、日と月は朝早く雷の寝ている間に宿を出発してしまいました。遅く起きて、日と月が早々に出発したことを聞いた雷は言いました。「いや月日が経つのは早いもんだなあ」全く月日が経つのは早いもので、もう師走になりました。
…昔、赤谷(現在の西伯町)で紀の何とかいう人が住んどったそうな。その頃は米子の町よりも粟嶋千軒言うてにぎわっとったそうな。紀の何とかさんは、その粟島に毎日赤谷から割木や炭を負って出て、売っておったそうな。だども毎日全部売れる売れるわけではない。粟嶋から戻りしには売れ残りの割木を、尻焼川(法勝寺川下流部)の淵に「残り物ですみませんけど、あの、龍宮の乙姫様これをお使いください」言って投げ込んでいたそうな。ある年の師走のこと、雪もちらちら舞う寒い日、紀の何とかさんはいつものように売れ残りの割木を、乙姫さんに、と言って投げ込もうとしたその時「もし、もし」と声を掛ける者がいる。振り返って見ると、きれいな女の子が立っていた。「わたしは龍宮の乙姫です。いつも割木を投げ込んでくれてありがとう。お礼にこれをあげる」といって七宝と金の臼をくださった。紀の何とかさんは、それを大事にしていたそうな。すると、彼の家には何となく自然に金がたまりだして、今の世に、紀の長者、といって語り継がれる大金持ちにならんしただと…
海亀の碑
「伯耆」という地名の起こりは『伯耆民諺記みんげんき』によりますと、昔は八岐大蛇に食われかけた稲田姫がこの地に逃げ「母来(お母さん早く来て)」と言ったので、母来ははきの国と言っていたが、ある年、この国の海岸に白い亀が上陸したので、時の国司はこれを喜んで、母来から白亀はくき・伯耆ほうきと変えた、のだそうです。亀が海から上がればめでたいこと、として祝う風習が昔からあったことを物語る話です。近年でも亀が魚と一緒に上がったりすると、吉事の前兆・長寿の印として喜び、亀にお酒を飲ませ、海に返してやったものだそうです。海で遭難したら、亀が現れて助けてくれたとか、海亀を家に入れると火事や病気になる、亀が山や岩に登ると大雨、亀の腹に自分の名前を書いて放すと字や勉強が上達する、など亀についての伝承は各地に多くあります。大正9年の春、和田の人が手繰網漁をしていたら、網に亀がかかりました。漁師さんは風習に従って、亀にお酒を飲ませて海に返してやりました。亀は沖に向かって泳ぎながら遠ざかる和田浜を振り返り、振り返り挨拶して帰って行ったそうです。漁師さんはその亀のために来待石で小さな祠を建ててやり、旧暦7月26日に祭りをしておられました。この夜は六夜待の夜で、盆踊りをしながら月の出を待ったそうです。当時は露天も出るほどり賑やかさだったようですが、今はその漁師さんの家が静かに祭っておられます。浜の人のやさしさを物語るいい話です。さて民話では、
…そんな亀男さんを好きになった鶴子さんは、亀男さんに結婚を申し込みました。亀男さんは顔を赤くしてノッソリ、ノッソリ考えていましたが、やおら鶴子さんに言いました。「わしも鶴子さんに言いました。「わしも鶴子さん、お前さんが好きだども、鶴は千年・亀は万年 言うけぇ、鶴子さんと一緒になって千年は楽しかろうが、後の九千年をわしゃあ一人でやもめ暮らしをせにゃあならん。男やもめに何とやら言うけぇ、いい話だども、まあこの話無かったことにしょう」と言って破談になったそうですと…
みそなめ地蔵さん
…昔、ある寺に和尚さんと小僧さんがおったげな。ある日、2人はみそをつくろうと思うて、大きななべに豆をえっとこ煮たてぇもんだ。2人とも柔らこうに煮えたみそ豆が食べとうてな。豆が煮えると、和尚さんは大きな茶碗に山盛りにみそ豆を入れて、小僧さんに見つからんようにこっそり食べよう思うて、どこで食べるか考えた。そうだ、センチ(便所)なら見つかるまい。和尚さんは臭いのを我慢して入った。ところが、小僧さんは小僧さんで和尚さんに見つからんように、みそ豆を食べる場所を考えて、これまたセンチに入った。見ると、先客の和尚さんが美味そうに食べとる最中だ。小僧さんは、慌てて自分が持っていた茶碗いっぱいのみそ豆を和尚さんに差し出いて「ハイ和尚さんお代りを持ってきました」と言ったげな…
みそは、水に漬けふやかした大豆を煮て柔らかくしたものに麹を混ぜ、塩を加えて搗つき、樽に仕込んで発酵させ、でき上がりです。昔は糀町で麹を買って帰って自分の家でみそをつくったものでした。寒い今時につくると、雑菌が入らないので美味いみそができました。お互いに自分の家のみそを自慢しました。「手前みそ」です。調味料であり、副食物であり、貴重なたん白源でもありました。みその主成分の大豆はまた、節分の豆・雛ひなあられ・豆占などに使われる霊性あるもののためか、お地蔵さんに願をかけ、その願いがかなうと、感謝のしるしとして地蔵さんにみそを付けました。願いがかなわないと地蔵さんが「みそを付けた」ことになります。いずれにしろ「みそなめ地蔵さん」です。米子では車尾の梅翁寺ばいおうじ入り口にある地蔵さんが有名で、この地蔵さんは地元の旧家のご先祖が、夢のお告げで日野川から掘り出されたと伝えています。夏の地蔵盆には、みそを塗って供養されています。昔はこの地蔵さんの前で盆踊りもされましたが、歌の下手な人は歌うことができなかったと思いますよ。なぜかって?それは「みそが腐る」からです。
伝・児島高徳の墓
昔の人は、歌いながらこんな具合に謎掛けをしたそうです。
「なぞなぞ掛けます解かしゃんせ」「知りたるなぞなら解きますが、知らないなぞならあげて聞く」「それでは私が掛けましょう。児島高徳と掛けて何と解く」「よう掛けしゃんした解くわいなぁ、鉛筆削りと解くわいなぁ」「よう解かしゃんした、お心は?」「どっちも木を削って文字を書く」
児島高徳、と聞いて説明しなくてもこの人の事がわかる世代は少数派になりました。鎌倉幕府を倒そうと計画した後醍醐天皇は、計画がばれて隠岐島に流されることになりました。元弘2年(1332)3月7日京都を出発し、10日後の17日には津山の院ノ庄に着いています。ここで児島高徳は、天皇を救い出そうとしますが、幕府側の警戒が厳しくできません。止むなく彼は天皇の宿舎に生えていた桜の木の幹を削って、天皇を励ます言葉を書き残します。いわく、「天勾践てんこうせんをむなしゅうするなかれ、時に范蠡はんれい無きにしもあらず」 読んだだけではチンプンカンプン何のことやら訳がわかりません。朝になって桜の木に書いてあるこの字をみつけた警護の武士にも意味がわからなかったそうですが、天皇にはよくわかって大変喜ばれた、と『太平記』にはあります。ところで高徳は、天皇救出作戦をあきらめて帰ったかと思いきや、米子の伝説では、救出の機会をねらって院ノ庄から米子までやって来て、米子で亡くなった、というのです。児島高徳は、備前岡山の邑久郡に生まれたといわれていますが、実在の人物だったかどうか疑問視されています。岡山の児島に本拠がある五流山伏のことでは、とか『太平記』の作者が小島法師という人だから、彼こそ児島高徳では、という説もあったり今に至るも決着のつかない人物ですが、凉善寺には彼の墓があって、丁重に祀られています。戦前には文部省唱歌にこの人の歌があって歌いました。
♪船坂山や杉坂と、御跡慕いて院ノ庄…。このあたりまでの歌詞はわかりますが、♪天勾践…。になるとさっぱり意味がわからず、替え歌を作って歌っていました。その中のひとつ。♪扁桃腺へんとうせんを腫はらすことなかれ、時に死ぬる人無きにしもあらず…。
天狗の相撲取り
江戸時代の米子の怪談集にある話です。
…米子の町はずれに1人の木こりがおった。彼は実直な胆のすわった男だった。ある日、いつものように山に入って木を伐きっていたら、そこへ山から天狗が降りてきた。彼は、驚いたが知らん顔して、心の中では、隙を見て天狗を切りつけようと考えた。すると天狗は「お前は今わしの隙を見て切りつけようと考えとるだろう」といった。木こりはびっくりしたが顔には出さず、まあこのまま知らん顔しとこう、天狗もわしに悪さをすることはなかろう、と思っていると、また天狗が彼の心の中を言い当てた。木こりはもう何も考えずに、天狗に見守られながら無心で木を伐っていた。すると、伐った木の木っ端が飛び散って、思いもかけず天狗の自慢の鼻を直撃した。天狗はびっくりしたのなんの「いやぁお前は偉いもんだ。人間に負けたのは始めてだ。いやぁ参った、参った」いうて山に帰っていったと…
天狗の性質の一つに、人間の心を読む、というのがあったようです。よく知られている性質に、空を自由に飛ぶことができる、というのがあります。勝田神社の春の祭日は4月15日です。神社には立派な土俵場がありますが、江戸の昔も祭日には奉納相撲が盛んに行われていたようです。
…江戸の昔のことです。祭の日、奉納相撲も取組が進んで夜も更けたころ、今まで見たことのない若者が現れて土俵に立った。その若者のいや強いこと、強いこと、並みいる力士は片っ端から土俵にたたきつけられ、賞金をかっさらってしまった。米子の若い衆は悔しいやら腹が立つやら、とうとう卑怯にも、かの若者が帰るところを闇討ちしよう、ということになった。ところがその若者は、その場所から煙のように消えてしまった。後になって、あの若者は天狗が他所よそから空を飛んでつれてきて、終わるとまた空を飛んでつれて帰ってしまったんだ、といううわさが立ったそうです…
感応寺橋と三角十右衛門
5月は水防月間です。今は新加茂川ですが、江戸の昔は米子城の堀であった感応寺の前に、感応寺橋とか湊橋といった橋がかかっていました。当時、橋の長さは約20メートル、この辺りでは一番長い橋で橋脚がありました。が、あそこは海水と川水の混じる地点で橋脚がすぐ朽ちたり、大水で押し流されたりしたので、堀の両端を少し石垣で築き出し、橋脚のない橋にしました。ところが、大水のたびにでっぱった石垣が水の勢いで崩れ、相変わらず橋が流されていました。江戸の終わり頃、大工町に三角十右衛門という人がいました。親は足軽でしたが、彼は大工になりました。見かけは鈍げな人でしたが、本当は頭の冴えた快活な人でしたので、日ならずして棟梁とうりょうになりました。彼は外出の時はいつも目盛りの入った杖を持って出かけ、あちこち寸法を測りながら歩いていました。そんな人でしたから天明2年(1782)に米子城の絵図を描くように命ぜられると、計測といい、方位といい、正確無比な絵図を描いて人々を驚かせました。棟梁としても腕を振るい、天明5年(1785)米子城天守閣の修理をし、翌年冬には牢屋を改築しました。当時、牢屋を建築する大工はその地方第一の大工だったそうです。建築の功労として、死罪になった罪人一人を助命できる慣習があったようで、彼は寛政4年(1798)死罪判決を受けた人の命を助けています。5月連休に旅をする人が多いように、当時もちょっとした旅行ブームでした。お伊勢参りです。彼も例の杖を持って伊勢参りに行き、帰りに高野山に回りました。そこで彼は32メートル余りの長い橋が谷川に橋脚も無くかかっているのを見ました。早速橋を降りて下からその構造をじっくり観察し、杖で計測して帰ってきました。それから感応寺橋を高野山で見てきた工法でかけ直し、橋脚なしの、洪水に強い橋にしました。時に寛政5年(1793)のことです。文化5年(1808)正月2日、町が新しい年を迎えてにぎわっているとき、彼は70余年の充実した生涯を終えました。今、万福寺に眠っておられます。
ロッカツヒテイの氷餅
…昔、魚売りが馬に魚を背負わせ、峠を越えて行っていたら山姥やまんばが出てきて、魚はもちろん馬まで食われてしまった。驚いた魚売りが命からがら逃げ込んだ家は、運悪くその山姥の家だった。満腹で帰ってきたはずの山姥は、まだ食い足らなくて、乾いてひび割れた正月の鏡餅を焼いて食べようとしたが、隠れて様子を見ていた魚売りに横取りされ、遂には山姥が魚売りに復讐されてしまう…
「馬(牛)方山姥」という昔話です。6月1日には、山姥が食べようとした正月神棚に供えトンドの火で焼いた硬い鏡餅を、氷餅とか歯固めといって昔は食べていました。この氷餅に霊力があり、それを食べることにより体力の消耗する夏に勝つ力を与えられる、と考えたからでしょう。またこの日は1年の後半の始まりの日とみて、氷朔日こおりついたち・ヒテエ正月・ロッカツヒテエ(6月1日)・小正月などといいました。江戸の昔には、悪病が流行したり地震などで世情不安の年ならば、縁起直しにこの日をハヤリ正月といって、正月をやり直す風習があったそうです。ところで暑い夏にこの氷餅ではなく、機械で氷を作る製氷工場が日本で初めてできたのが、わが米子だったことはトライアスロンほどは知られていません。羽合町出身の中原考太が明治32年(1899)5月に「日本冷蔵商会」を城山の麓、かつての稲田酒造会社の隣(今は医大病院の裏道)に開業しました。山陰の鮮魚を冷凍し、また凍豆腐を製造して阪神方面へ売り出すのを目的にしたのですが、当時はまだ鉄道がなく船便だったこと、受け入れ側に冷蔵施設がなかったこと、1日2、3トン作られる氷がさばき切れなかったことなどが原因で、結局6年後の明治38年、米子を撤退し、工場を神戸に移し「日本冷蔵株式会社」として成功しました。余談ですが元国立がんセンター総長の中原和郎は考太の息子です。
セントロ・マントロ
…昔、ある所に怠け者の兄と働き者の弟がおったそうな。兄は一日中ごろんごろん寝てばかりいたが、弟は朝早うから山に行って畑仕事をしていた。ある日の夕方、弟が山から帰っていると、遠くの方で「トッツコウカ、ヒッツコウカ」いう声がし、それがだんだん近づいて来た。弟は怖いのをがまんして「トッツカバトッツケ、ヒッツカバヒッツケ」と言い返した。すると、とたんに背中に負った竹かごが重くなった。大急ぎで家に帰ってかごの中を見たら、なんと金銀が山ほど入っとった。それを見た怠け者の兄が「明日はおらが山に行く」といった。次の日、山に行った兄は1日山で寝ていたが、ころ合いをみて夕方家に帰りかけた。すると昨日と同じように山の方から「トッツコウカ、ヒッツコウカ」の声がした。兄はすぐに「トッツカバトッツケ、ヒッツカバヒッツケ」と叫んだ。案の定、背中の竹かごが重くなった。喜び勇んで家に帰ってかごの中を見たら、かごの両端が破れ、中の物はそこからこぼれ落ちて何もなかった。あわてて山道に戻った兄が見たものは、何と道の両端に帯のように咲き並んだ花だった。何の花が咲いとったと思う?エッ金の花?いんや、それはなあ、夢のような月見草の花だったと。…
「取っ付くひっ付く」という題の昔話です。7月の中旬から下旬にかけて、月見草の花ではありませんが、法勝寺川下流の村々では川の岸辺に竹筒で作った灯ろうに火が点されます。火の帯が水面に映って揺れ、夢のような世界が出現します。地元の人はこれを「セントロ・マントロ」(千灯篭・万灯篭)といって年中行事にしておられます。集落によって行われる日が違うのも変わっています。15・16日は秋葉神社、24日は愛宕神社の縁日で、この年中行事の最初の火は、村々の山中に祭られている秋葉社や愛宕社から受けて降りられたそうですので、セントロ・マントロの起こりは、秋葉さん、愛宕さんの火祭りだったと思われます。いずれも火防ひぶせの神様ですので、火災の起こらないことを祈念してはじめられた行事だと思います。
米子城の皿屋敷
江戸時代、鳥取藩の藩主池田氏は筆頭の家老(鳥取藩では着座といいました)である荒尾氏に米子城と米子町の政治をまかせました。これを「自分手政治」といいました。その頃の話です。
…藩主の池田の殿さんは何を思ったか、幼い若君を養育するように、といって米子の荒尾の殿さんに預けさんしたので、荒尾さんは謹んで承って、丁重に若君を米子にお迎えした。若さんは、大勢のお供を連れて米子城にやってきた。そのお供の中に絶世の美人の腰元がいた。名はお菊。お菊が通りかかると、城内の男たちはみんながみんな目尻を下げ、鼻の下を長くした。中でも一際長くしたのが、あろうことか荒尾の殿さんご本人だった。なにしろ殿さんだから何でもできる。毎日毎日いろんな口実を作ってはお菊を部屋に呼び、想いのたけを語っては、かき口説く。が、お菊は「私は若さんの腰元としてお城に来ているだけなので」と言うばかりで、殿さんの手を替え品を替えての口説きにも、頑として応じなかったと。可愛さ余って何とやら、勝手に好きになっていながら、赤っ恥を掻かせられたと思った殿さんは、お菊に家宝の皿を何枚か預けておいて、その中の一枚をこっそり抜き取り隠しておいた。やがてにお菊に預けておいた皿を持って来させ、皿を数えさせると一枚足らない。殿さんは「お菊!皿を割ったか盗んだか!」とわめいて責め立て、とうとうお城の井戸の横に生えた松の木に、お菊を逆さづりにして斬った。お菊は、この卑怯な荒尾の殿さんのやり口を深く恨んで死んだそうな。その後、荒尾家では不吉な事が続いた。お菊のたたりだ、とうわさしだした。そこでお菊の亡霊を鎮めるために建てられたのが「荒尾荒神」という祠で、近年まで加茂町1丁目にある労働金庫の裏辺にあったが、いまはない…
ご存知「播州(番町)皿屋敷」をまねて語りだされた米子版怪談です。
瑜伽堂(ゆうがどう)
…昔、ある所に彼岸が来るので、死んだ爺さんにお経の一つなっと唱えてやりたい、と思うとった婆さんがおった。そこに旅の和尚さんが、一晩泊めてくれ、いうてやってきた。婆さんは、泊めてあげる代わりに有り難いお経を教えてくれ、と頼んだ。この和尚は、和尚とは名ばかりで、ろくすっぽお経を知らざったが、何とかなるわい思うて承知した。晩飯を食べ、さて婆さんにお経を教える番になった。にせ和尚は仏壇に座って、お経の言葉を何にするかきょろきょろ周りを見回していたら、鼠ねずみが穴からのぞいていた。そこでにせ和尚はお経を唱えるようにもったいをつけて「おんちょろちょろ穴からのぞかれ候」という。と鼠は家に入ってきた。「おんちょろちょろ家に入られ候」鼠はチュウチュウ鳴いた。「おんちょろちょろ何やら独り言いわれ候」鼠はまた穴に帰った。「おんちょろちょろお帰りになられ候」ありがたいお経の教授は終わった。次の日から婆さんは毎晩仏壇の前に座って「おんちょろちょろ…」と教えてもらったお経を、大声あげて唱えていた。ある晩、婆さんの家に泥棒がやってきて、障子の破れ穴から中の様子を見ていたら、婆さんはいつものように大声でお経を唱えはじめた。「おんちょろちょろ穴からのぞかれ候」泥棒はギョツとしたが、一歩家の中に入った。「おんちょろちょろ家に入られ候」泥棒は、ハテ見られた覚えはないが、と独り言をいった。「おんちょろちょろ何やら独り言いわれ候」泥棒はあわてて逃げ出した。「おんちょろちょろお帰りになられ候」まことにありがたいお経だったと…
「鼠経(ねずみきょう)」という昔話です。紺屋町にある瑜伽堂は文化2年(1805)同町の広瀬屋・安来屋さんなどによって備前(現在の倉敷市児島由加)の瑜伽大権現を勧請されたものです。江戸期、四国の金毘羅参りをされた人の多くは備前の瑜伽さんにも参られたそうですから、その縁で勧請されたものでしょう。この紺屋町の瑜伽堂はその昔は、泥棒除けに霊験がある、といって評判だったそうです。
木から落ちたタヌキ
秋も深まると、昔は澄んだ月に誘われてキツネやタヌキが夜通し遊んでいたといいます。「山伏キツネ」という昔話があります。
…昔、山伏が祈祷を頼まれて山道を歩いていたら、前の晩の遊びが過ぎて疲れて昼寝をしているキツネの前を通りかかった。よせばいいのに、いたずら好きな山伏は、持っていたホラ貝を寝ているキツネの耳にあてて、おもいっきり吹いた。キツネはびっくりしたのなんのって。寝耳に水…いやホラ貝で、飛び起きるやいなや山の中に逃げ込んだ。山伏は大笑いしながら歩いていた。すると、まだ陽は高いと思っていたのにあたりが急に暗くなってきた。ありゃ、もう陽が暮れたか、と思って暗い夜道を凝らしてみると、何やら向こうから明かりが一つやって来る。見るとそれは葬式の行列だった。山伏は道を譲ろうとするが、狭い山道で譲りようがない。仕方なく道端に生えていた木に登って葬列をやり過ごそうとした。ところがこの葬列は、その木の根っこに棺桶を埋め、そこを墓にして拝みだした。しばらく拝んで葬式も終わって和尚さんも縁者の人もみんな帰ったので、山伏はやれやれと思って木から降りかけたら、さっき埋めたばかりの棺桶がぐらぐら動きだし、中から死人が出てきて、山伏の居る木に登ってきた。彼は驚いて降りかけた木をまた上がっていった。死人は山伏をめがけてどんどん上がってくる。山伏も震えながら木を上がっていった。が、死人も追っかけるのを止めない。山伏はとうとう木のてっぺんの梢まで追い上げられ、これ以上登れんしどうしようもない、と梢につかまってゆらゆらしとったら、ポキン!とその梢が折れて山伏は地面に向かってまっさかさま。これで一巻の終わり、と観念して落ちていたら、周りが急に明るくなって、山伏はキツネに化かされとったことに気付いた。昼寝しとったキツネを驚かしたので、その仕返しをされたのだと…
岩倉町にある本教寺の庭には、以前、大きなイチョウの木がありました。その大木の上でキツネではなくタヌキがよく昼寝していたんだそうです。ある日、お寺の檀家の人が、この木の下でホラ貝を吹かれたそうです。すると、その音にびっくりした木の上のタヌキが転げ落ちたんだそうです。
キツネの遊女
昔、灘町の糺ただす神社にキツネが3匹住んどって、こいつが悪賢い奴だったそうな。1匹が別ぴんの女に化け、通りかかる若者に「腹が痛い」いうて泣く。若者は気の毒に思うて腹をさすってやっていると、侍に化けた仲間がやってきて「俺の家内に手を出すとは何事か!ぶった切ってやる」と刀に手をかける。若者が青くなって詫びている所に六部(巡礼者)に化けたのがやってきて「堪こらえてやってごせ、悪気があってしたじゃあないだけん」という。すると侍は「そげなら頭を剃それ。堪えちゃる」そういってあの辺の若い衆は大勢キツネに頭を剃られておったそうな。ある日、この悪いキツネたちの上をいく悪賢い男がやってきて、娘と侍と六部に化けて出てきたキツネを「お前たちの正体は知っとるぞ。みんな叩き切る」と逆に脅した。キツネはあわてて詫わびを入れて「あなたの言うことなら何でも聞きます」といった。男は「そんならみんな一番きれいな娘に化けてみろ」といって娘に化けさせ、灘町の遊女屋に連れて行き、主人に「この娘たちを買ってごせ」と頼んだ。主人は娘を眺め回して吟味して、3人まとめて買った。男は金を受け取り、主人は別ぴんを手に入れ、娘も一緒に5人上機嫌で酒を飲んで別れた。男は家に帰る途中、薬屋に寄って膏薬こうやくをたくさん買って帰った。家に帰ると男は妻に「いいか、明日だれが来ても、わしは10日ほども前から歯がうずいて体中に膏薬を貼って寝とる、と言え」いうて膏薬を体中に貼って寝てしまった。さて遊女屋では、夕べ来た娘3人が朝になっても起きて来んので、主人が部屋に行ってみたら、なんとキツネ3匹正体を現わしたまま寝とった。主人に怒鳴られ、3匹はあわてて糺の森にとんで帰った。主人は男の家に行き「夕べ払った金を返せ」と迫るが、男は「わしは10日も前から歯が痛うて、家から一歩も外に出とらん。こげして膏薬貼って寝とう所だ。夕べの男も、おおかたわしに化けたキツネだったんでしょう」と言ってほっぺたをさすりながら横になった。主人は気の毒に思うて見舞い金を置いて帰っただと。
心を映す水
12月1日には、ぼた餅もちをつくって箸ではさみ、自分の額や鼻・あご・ひじ・ひざなど体のとび出た部分に塗って「師走の川にまくれ(転び)ませんように」と唱えてから、そのぼた餅を食べる行事がありました。「ひざ塗り」といいました。まことに奇妙な行事ですが、これは正月を前にして、水の神を祭る行事であったと考えられています。水は昔から日常の飲み水に始まって、稲を育てる田の水、体や心の汚れまでも流し清めてくれるものとして、人々は水の恩恵を受け続けてきています。1年の終わるときに、感謝を込めて水の神祭りをしたのでしょう。
…昔のこと。秋も深まったある日の夕方、太刀を腰にした大男が村の中を通りかかった。見ると大男の着物にはべっとりと血が付き、肩まで下がったざんばら髪も返り血を浴びてまっ赤に染まっていた。この大男、村人が飲み水にしていた清水の湧く池まで来ると、そのままザブンと池の中に入って、血に汚れた体をきれいに洗ってから、どこともなく立ち去っていった。その後村人が池をのぞいて見ると、不思議なことにあれほどの血を洗い流したのに、池はちっとも汚れたりにごったりしていなかった。それからは村人はこの池を「神池」というようになり、心の汚れた人がこの池に近づくと、あの大男の洗い流した血が水面に浮かび出て赤くにごるのだそうな…
日野郡日野町の山奥の池に伝わる話です。大篠津町にある和田御崎わだみさき神社には「元宮さん」といわれる旧社地があり、そこはうっそうと大木が繁る原生林で「御崎さんの森」といって親しまれ、米子市指定の天然記念物になっています。ここに清水の湧き出る古い池があって、湧き出た水は東に流れて海に入っていました。この川(御崎川)を流れる水は聖なる水・霊水で、心の汚れている者がこの水を口に含むとたちまちに祟りがある、と古くからいい伝えられています。
年神飾り
大晦日の夜は、囲炉裏いろりに屋根裏の梁はりがみえるほどの大火を燃やし、この年越の火を守って、家族は元旦まで寝ずの番をするものだ、と言われていました。
…昔、ある大百姓の主が、大歳に年越しの火の守りをせねばならんけど、昼間の仕事の疲れで女中さんに「火を消すでない」とよくよく言い聞かせて自分は寝てしまった。気の良い女中さんは二つ返事で承知して火を守っていたが、夜も更けるとついうとうとと囲炉裏端で寝込んでしまった。どのくらい寝ただろうか、ふと目覚めて見るとこりゃ一大事、火が消えとる。あわてて寒い外に飛び出て見ると、暗闇の中にチラチラと火が見える。女中さんは急いでその火の所に行って、火を分けてもらおうと頼むと、そこにいた男たちは「火はなんぼでも分けてやる。そのかわり、ここにある死人の入った棺桶も一緒だぞ」という。仕方なく棺桶と火を受け取って家に持ち帰り、棺桶は土間にむしろを下げて隠し、囲炉裏の火はまた元のように燃えだした。明ければ元旦。朝早く起きた主人は、囲炉裏に赤々と燃える火を見て女中さんにお礼を言い、土間に見なれぬむしろが下がっているのを見て「あれは何だ?」と聞いた。「実は…」と女中さんが正直に話しかけていたら、むしろで隠した棺桶がピカピカと光りだした。驚いて二人が駆け寄って棺桶を開けてみると、なんと死人は山ほどの大判小判に変わっていたと。それで今でもこの辺りでは、正月の年神さん飾りにはむしろを吊るすんです…
「大歳の火」という昔話です。元旦に棺桶とは縁起でもない、と思われますが、これは冬になり稲など穀物が枯れ死した後、新しい年を迎え穀物に新しい命が宿る、穀物の霊の死と再生を物語る話だと言われています。
咳ばあさんの碑
…昔、ある寺に性しょうの辛からい小僧さんがおった。和尚さんが法事や葬式でもらったぼた餅を大事に戸棚にしまっておいたら、それを小僧は、こっそり一つ食い二つ食いして、また明日食う餅を庭に穴を掘って埋め、目印に松の小枝を立てておいた。次の朝、起きてみると何と大雪で、目印の松も雪の下。小僧はがっかりして「雪降れば 印の松も見えずして 中のぼた餅何としたやら」と歌を詠んだ。それを聞きとがめた和尚さんが「小僧や、今何というて詠んだ?」と聞かんした。小僧はあわてて「いや和尚さん、大雪になったけぇ、雪降れば印の松も見えずして 里の親たちゃ何としたやら と詠みました」といった。すると和尚さんは「ああお前は親孝行な子だ」いって誉めさんしたと。ほんにまあ…
明和6年(1769)には風邪が大流行したそうで、因幡ではこんな替え歌が詠まれました。
「これやこの 行くも帰るも薬取り 知るも知らぬも大方は咳」「はやり風邪 医者も薬も吹き止めて 俵屋(有名な薬屋)ばかりしばし留めん」
ご存知百人一首の本歌取りですが、江戸の庶民のユーモアには脱帽です。風邪といえば、今年の風邪ほど恐いものはありません。咳一つにも、昨春世界を震え上がらせた新型肺炎(SARS)かと疑われ、戦々恐々です。治す薬がない時は、昔ながらの神様仏様を頼ってみたら。西福原上谷にある「咳ばあさんの碑」を拝めば咳がよくとれるそうですよ。
昔、ここで畑を耕していたおばあさんが、畑の中に埋もれていた石を掘り起こし、畑の隅に転ばしておかれたそうです。ところがその夜から、おばあさんは咳が出て止まらなくなりました。行者に拝んでもらっても、医者に診てもらっても治りません。何日も苦しんだある晩、おばあさんの夢枕に地蔵さんが現れて言われるには「私は畑の中で祭ってもらっとったのに、掘り起こされて畑の隅のほうに追いやられて淋しゅうていけん。もう一回祭り直してくれ」あわてておばあさんは、その大石を祭り直しました。すると、あれほど苦しんだ咳が嘘のように治ったそうです。村人は、この霊験顕あらたかな石の所に碑を立て「咳ばあさんの碑」と名付けて祭りました。
見ザル・言わザル・聞かザル
…昔、堅い畑を懸命に耕す爺じいさんがいた。あんまりえらいので、つい「あーあ、わしに代わってこの畑を耕してくれる者がおれば、3人おる娘の1人を嫁にやるだになぁ」とぐちった。それを山から降りて畑にいたサルが聞いて「爺さん、今の話は本当かや?」と聞いた。「ああ本当だとも」というと、サルは爺さんの鍬くわを引ったくるや、どんどん畑を打ち、見るまに耕してしまった。爺さんは、しまった、と思ったがもう取り消せない。畑から戻って布団に潜り込んでしまった爺さんに、上の娘が心配して聞くと「病気ではないが、サルの嫁になってくれんか」と頼むと「そげな者の嫁には、ようならん」いって出てしまった。中の娘が心配して来たので、同じことをいうと「姉さんが嫌な者は、わしも嫌だわい」いって出てしまった。下の娘が心配して来たので、同じことをいうと「ああいいよ、約束したのならわしが嫁になるけえ、爺さん元気だして」といった。爺さんは安心した。嫁入りの日、サルは喜び勇んで嫁迎えに来た。娘はみやげに石臼いしうすをもらって、サルの婿むこにそれを背負ってもらって山の家に嫁入りして行った。途中、小川の岸辺に桜の花がきれいに咲いとった。サル婿は花嫁を喜ばそうと思って、枝に手を伸ばしたはずみに自分が川に落ちてしまった。なにしろ重たい石臼を背負ったままなので、おぼれて死んでしまった。娘は実家に帰ってきて、それからずっと親孝行したと…
「サルの婿入り」という昔話です。サルも爺さんの話を聞かなんだら、「嫁にくれ」と言わなんだら、桜の花を見なんだら、よかったのにかわいそうなことでした。というのは昔話の中のサルの話でして、人間様はよく見、よく聞き、よく話してもらわねばなりません。
夜見の地蔵さん
…昔、ある村の若者が隣村に行って盗みをしての戻りがけ、村境に立つ石地蔵さんに冗談半分で「地蔵さん、わしが泥棒したことを他人に言いなさんなよ」といった。すると地蔵さんが「わしは言わんが、われ(お前)こそ言うなよ」と答えた。びっくりした若者は、村に戻ると村人に、なんと村境の地蔵さんはものを言いなさる、とふれ回った。それを聞いた人が、そげな馬鹿な、と笑うと「いんや、わしが隣村に行って…」と、つい若者は自分の悪事を自分でしゃべってしまい、捕まえられてしまったとや。その昔こんぽち…
「言うなの地蔵」と題する語るに落ちた昔話です。そんな地蔵さんの霊験にまつわる話です。文化10年(1813)の4月のことでした。夜見村の庄屋さんが、突然得体の知れない病気にかかりました。体が焼けるように熱くなり、熱湯のような汗が滝のように流れ出ました。体を冷やす水はすぐ熱湯に変わってしまい、病気の苦しみにうめく声が門の外まで聞こえました。なんでだろうか、42才の大厄年だからか、心がけの悪いところがあったのか、いろいろ思い苦しみぬいて1週間過ぎた日の夕方、どこからともなくやって来た老僧が、庄屋の門前に立って、仏さんのお題目を大声で唱えるやいなや消えてしまいました。そのことがあった日から病気はどんどん良くなり、健康になった庄屋さんは老僧が叫んだお題目を朝夕唱えていましたら、ある夜、夢枕に地蔵さんが立たれました。彼は有り難くて手を合わせて拝みながらも、お顔をしっかり見覚えました。記憶が薄れないうちにとすぐに石工さんを頼んで、夢に見たお顔に似せて石の地蔵さんを彫ってもらいました。それがこの夜見地蔵さんで、台座の銘文によりますと文化12年7月24日に建っています。大正11年になって、この地蔵さんは縁結び・歯痛・腰痛などに霊験があるとうわさが立ち、爆発的に信仰されました。当時の新聞によりますと、急ごしらえの自転車置場が数か所でき、露店が軒を並べ、参拝者休憩所ができる大にぎわいになり、遂には地蔵さんの前で踊り狂い、むしろを敷いて「お籠こもり」と称して一晩泊まり込む若者たちが現れる騒ぎになった、とあります。これほどの大騒ぎの熱も間もなくすっかり冷めてしまっています。ということは、このお地蔵さんの一番の霊験は「熱冷まし」かも知れませんな。
賀茂神社の宮爺(みやじい)さん
物見遊山でにぎわうゴールデンウィークになりました。とんと昔にも、夢のような旅をした人がおられました。今月はその話です。
米子の賀茂神社には、昔、神社を毎日掃除をし、壊れた所を修理して神社を守っている老人がおりました。人はこの老人を、宮爺さんといって敬愛していました。実際宮爺さんは正直で、親切で、優しい人でした。ある日、賀茂神社に祭られている神様が、この宮爺さんに会いに出て来られました。驚いている宮爺さんに、神様は「お前の正直で純な心が前から好きだった。今日はお礼に、お前を別世界に連れていってやる」といって先に立って歩き、町の外に出られました。宮爺さんも神様の後を追って米子の町の外に出たところ、アッと思う間に今まで見たことのない土地に来ていました。宮爺さんはあっちこっちと珍しい景色を見て歩き回り、野原に寝そべりして、のんびりと丸一日過ごし、夕方また神様に連れられて米子に帰ってきましたら、まるで夢からさめたような気分になりました。しかしそれが夢でない証拠に、米子に帰ってきた時、神様は一緒に過ごした記念にといって、神様が着ておられた衣服をその場で脱いで宮爺さんに与えられたのです。その衣服は、長さ5尺4寸8分(約1.64メートル)・柄は無地・色は茶色でまるで和尚さんの着る法衣のようでした。宮爺さんはそれを賀茂神社に奉納しました。今でも神主さんが大事に保管しておられる、と幕末に書かれた「伯耆志」という本にあります。
「伯耆志」は、宮爺さんが神様と思ったのは天狗ではなかったか、推理しています。この話は当時有名だったのか、すこし違って伝承された話も残っています。
…宮爺さんがある夜、夢を見た。賀茂大明神が現れて「お前はまじめで正直で、よく神社を守ってくれる。そのお礼にこれをやる」といって、神様が身に付けておられた着物をその場で脱いで渡された。宮爺さんは有り難くそれを戴き、喜んで踊っているうちに朝になり、夢はさめた。なんだ夢だったのか…起き上がって枕元を見たら、そこに夢で戴いた神様の着物があった。今、その着物は宮爺さんの子孫が大事にしまっている…(「米府鬼話」)
岡成の大堤
…昔、ある村に白いひげを伸ばした老人が朝早くやってきて「この村はまもなく洪水に襲われるから、早く高台に逃げるがいい」と話した。話を信じた村人はあわてて高台に逃げたが、信じなかった村人はそのまま家にいた。ところがまもなく老人の言葉どおりに洪水が押し寄せてきて、村に残っていた人はみんな死んでしまったと…
「白ひげ水」という昔話です。日本は雨が多く山は急で、水害が起こりやすい地形です。その水害も多くは農作物の成長期に訪れますので、古くは、水害は神の怒りの表現、と考えられていてこんな話が生まれ、語りつがれたものでしょう。周囲450メートルほどの岡成の大堤は、はじめは尾高城を守るために造られた堤だったそうですが、早くから農業用水として田をうるおしていました。ところが、享保11年(1726)12月、突然堤が60メートルにわたって抜け落ち、尾高の前市は家・田畑残らず流され、13人の死者が出る大惨事が起こりました。それから半世紀後の安永7年(1778)6月21日夕方、6時頃から雨が降り出し、雷は一晩中鳴り響き、夜10時頃からは今まで経験したことのない大雨が降り出し、夜中の4時まで「降る事(水を)うつす如ク」と記録されています。雨があがったので出てみると、堤に長さ10メートル、幅4メートルの広さで3.6メートルの深さまで崩れかけていました。あわてて福万の大庄屋や村役人に連絡しようとするものの大水で川が渡れず、23日になってやっと連絡がとれました。もっとも尾高には22日の内に、堤が危険との情報が伝わったので、人々は50年前の災害を生々しく思いだし、村の高台に老人・子ども・病人の順に避難させ、次に牛馬・家財道具を運ぶため道路はすれ違いもできないほどの騒ぎになり、夜ともなれば提灯ちょうちんの火が引きも切らず続いた、と書かれています。26日・27日にも豪雨になり心配しましたが、幸いにも安永のこの2回の豪雨にもかかわらず堤は持ちこたえ、決壊はまぬがれました。その後、明治26年10月など何回もの豪雨がありましたが、修復工事と管理が立派だったためか決壊はしていません。逆に嘉永6年(1853)には5月からの百日ひでりに、岡成堤はからっぽになってしまった、といいます。堤にも歴史がありました。
宇気・河口神社の七夕祭り
…昔、天女が天から降りて水浴びをしていたら、そこに村の若者が通りかかり、天女の羽衣を持って帰り、隠した。天女は羽衣がないので天に昇れず、しかたなくその男と結婚し、子どももできた。ある日、彼女は男が稲束の下に隠しとった羽衣をみつけ、それを着て天に帰ってしまった。(倉吉では、天に帰った母を慕って子が山上で太鼓を打ち笛を吹いた、その山が打吹山。羽衣を置いた所が羽衣石山の羽衣岩。と語られます。)天女は天に帰る時、夕顔の種を残して帰ったので男はそれを播まいたところ、蔓は天まで伸びた。男は蔓つるを昇って彼女と再会し喜んだが、彼女の父からは「竹篭で水を汲くめ」などいろいろ難題を出された。これを天女の助言で切り抜け、最後に「瓜うり畑の番をしながら瓜を割れ」と言われた。彼女は、瓜を割る時は横に割るように、よくよく教えたが男はうっかり縦に割ってしまった。すると瓜の中から大水が出て川になり、2人は川の両岸に分けられてしまった。そこで彼女は大声で「7日・7日に会いましょう」と言ったのを、こなどじ男が7月7日と聞き違えたために1年に1回しか会えんようになったし、それでこの日は雨がよう降るんだと。(昔話「天人女房てんにんにょうぼう」)…
稲苗やはすの葉に乗る露を集めてすずりに入れ、その墨で願い事を書いてささ竹に結び、小豆飯や瓜などを供えて祭ります。ささ竹は7日の朝、川や海に流しますが、後で拾って帰り畑に立てると鳥や虫が来ないと言います。この日は、3粒でも雨が降れば良い、とか水浴びをすると病気にならない、髪を洗うと美しい髪になる、井戸の水替えをするなどとかく水に縁のある日です。それは昔、この日に水で体を清めていた習俗の名残り、と言われています。外浜の村では6日に七夕小屋というやぐらを建て、楽しい一夜を過ごしたそうです。米子の旧町の人は、ささ竹を川に流さず内町の宇気・河口神社に持ち寄られます。昔は加茂川に流していたけど、京橋のあたりでささ竹が川を埋め尽くしたのだそうです。ところが天神町辺りには旅客船や商用船が多くつないであったので、これは困るということで、江戸時代から京橋に近いこの神社に持ち寄り、七夕祭をすることになったと言われています。
そろばんの日
…昔、佐賀の唐津に勘右衛門かんうえもん(通称かんね)という愉快な人がいた。ある日、庄屋の隠居と話していたら、隠居は猫好きで話は猫の話になった。かんねは隠居に言った。「お宅の三毛猫もいい猫だが、うちには十五毛猫がおる」隠居は驚いて、その猫をぜひ見たいと言いだし、かんねの家に行った。かんねが「お花や」と猫を呼ぶと、かまどの中から汚れてやせこけた小猫がよろよろと出てきた。かんねが「これが十五毛猫です」と言う。隠居は「なんでこんなやせて汚い猫が十五毛猫だ?」と怒りだした。かんねはけろっとして「もとはこの猫も三毛だったが温かい所が好きで、くどに入って火傷してよろよろしちょる。だから三毛が焼(八)けてし(四)けちょるけん、合わせぇち十五毛になっちょるばい」と、そばにあったそろばんを取り上げてパチパチはじいて隠居に見せた。隠居はあきれて帰ってしまったと…
佐賀の「かんね話」という笑い話の1つです。8月8日はパチパチでそろばんの日です。そろばんも複雑な計算になると、その方法にも幾通りかあるそうで、その一つを発明された人に上後藤出身の松永藤一郎さん(文化7年・1810年生まれ)がおられます。小さい時からお父さんにそろばんを学び、奥義を極め、その方法を「松永流珠算捷径しょうけい新法」「珠算乗除捷径法」に著し、若いとき宮相撲で大関を張ったという強い体で全国各地に招かれ講習会を開いて普及宣伝の結果、門人が3万人にもなったそうです。松永さんの偉いところは、松永流の方法を習得した人を会員とする会組織を作り、会員が松永流を他人に伝授した時は、受講料の1/10を松永さんに、2/10を会に、残りは講師の収入とする、という現代風に言えば、わずかだが発明特許料の徴収をしておられることです。公の権利ばかりが前面に出、私の権利は認められそうにない、まして個人の発明権というような考えかたさえなかったと思われる明治初期にあって、発明者が発明料を利用者から受け取ることは、当然の権利として実行された松永さんの考えかたは、現代騒がれている知的財産の保障の先駆でもあり、米子の生んだ優れた先覚者の1人でしょう。明治24年7月20日、講習会先の四国坂出で客死されました。享年82歳。
刑場跡(住之江公園)
「東海道中膝ひざ栗毛」を真似て、九九散人くくさんじんなる米子の粋人が安政3年(1856年)にその続編を書き残しておられます。それは、弥次・北両人が出雲大社参りを思いつき、大山・尾高村を過ぎて日野川を渡ったところから話をはじめます。
…車尾村を打ち過ぎ勝田村にさしかかりたるに、右手の方に少し小高き所、四方に松連なりて中に大きなる塔ありければ、北八「弥次さん、あれ何の塔でありやんしょうな、良い松陰だ、あそこで休んでから行きやしょうか」弥次「米子はもう近くなった、一服やらかそう」と畑の小道を行き、かの松林の内にて両人砂の上に座して休息をなす。北八「何といい所だないか、向こうに見ゆるが大山の御山、誠に田舎には惜しい景色だ。前は往来の人を見ていい気晴らしな所だ。弥次さん、ここに茶屋でもしたらよっぽど当たるでござりやしょう」話す内、かの往還の道の下の畑にて農婦共、畑の草を取り取り話すを聞けば、農婦「まあ七ツ(午後4時)の太鼓の音がする、おらぁ去いなぁか、昨日きんにょの事思やあ、おぜい恐きょうとくなった、お真さんお前ゃ昨日きんにょ見さんしたか」お真「おらぁ見なんだが、隣の彦六さんの話を聞たりゃあ、この畑にはよう来やんすまいと思うたが、来て見れば人通りもあるし恐きょうてい事ぁござんせぬが、もう七ツになったりゃあ、また恐きょうとくなりやんした。お福さん、去いにやんしょうか」お福「去いにやんしょ、昨日きんにょおらも向こうの権七さんとあの畑の中まで来て見…ア、アレアレ見さんせ、丁度あの旅人が休んでござる所で盗人が1人切られ、またあの先でも切られたげなが、おらあ恐きょうとくなったけにすぐ去いんだが、後で聞いたりゃあ恐きょうてい事だったげな。お真さん、もう人通りもなくなった、早よう去いにやしょう」北八「弥次さん、今の話を聞きやしたか、ここは成敗所(刑場)のような話ぶりだ、お前の休んだ所が切られた場所のようだ」弥次「道理で…情けねえ所で休んだ、全体お前が此所い連れて来くさるからまたしくじった」と小言を言い言い両人はそこを立ち出、… 北八一首 何事も知らぬが仏 尻かけた所を聞けば地獄なりけり …
江戸時代の刑場周辺の風景がよくわかる文章です。23日は秋彼岸。刑場の露と消えた人々の霊にも回向えこうを手向たむけたいものです。(「北八」は現在、「喜多八」という表記が一般的ですが、初期の「膝栗毛」では「北八」と書かれており、また九九散人も「北八」と書いていることから、ここでは「北八」の表記を用いました。)
キサイさん(別所)
安永2年(1773)福彦右衛門ふくひこうえもんが書いた「伯路紀草稿はくろきそうこう」という本に載っている話です。
…長者原村に、木ノ森長者進しんノ甲斐六兵衛かいろくべえ屋敷という跡あり。一町(約109メートル)四方ばかり、四間(約7.27メートル)四方に築地の井戸あり。駒谷石というあり。かの長者、馬を乗りかける石とて馬の足跡二つあり。向成屋敷というあり。此所ここより馬の鞍くらをこしらえ毎日かの長者が方へ売りに来り候…
長者原には駄屋敷という地名も残っていて、この伝説を本当らしく思わせます。長者原を文政元年(1818)通った歌人の衣川長秋きぬがわながあきは「此所はむかし進何がしの居りし所なりといふ。…此原の道の左右に古墳二つあり。堀の形も残れり。…いかなる御陵にかありけん。里人の支佐似きさいといふよしいへり。…」(「田蓑たみのの日記)と書いています。キサイとは妙な名です。「伯耆志」は別所村の項に「久佐伊原。村の東南二町(約218メートル)ばかりの地名にて原中に塚あり。土人(土地の人)クサイ公の塚と呼ぶ…」と書いています。今は「木才原」という字を当てておられます。今でもそこには古墳の遺構が残っており、この墳墓の石で彫られたと思われる「キサイさん」という地蔵さんが祭られています。さて長者原の主、紀(進とも)成盛の墓はどこにあるのでしょうか。「紀氏譜記きしふき」を見ますと「進貝録兵衛紀成盛長者の廟所は安曇村内別所辻堂といふ処也。その後同慶寺(現:福市)に移す。…」とあります。このキサイ原に残る古墳こそ、紀長者の墓の跡ではないでしょうか。クサイ公のクはキが訛なまったと思います。とすればキサイ公は「紀宰公」、キサイ原は「紀祭(紀氏を祭る)原」の意かと思いますが、どうでしょうか。紀氏は書きましたように、「貝」とか「甲斐かい」とかが名についていますが、近年の研究によれば、これは「海」のことで紀氏は海部あまべでもあったといいます。そう言われますと、宗像むなかたとか安曇あずまなど九州系の地名を残す土地は、九州からの渡来人の移住地だったことは間違いありませんし、彼等を海路先導したのがキサイ原に眠る紀氏であった、と考えれば納得できます。その古墳は、あたかも宗像・安曇などを見守るような位置にありますので。
根上がり連理松
江戸時代の米子の怪談集「米府鬼話」にある話です。
…昔、小原何とかが猟に出て、1羽の鷺さぎを鉄砲で仕とめた。その鷺を取り上げて見ると首がなかった。不思議に思いながらまた別の鷺を打ち取ってみたら、なんと羽の下にかの鷺の首を挟んでいた。人々は、これはきっと夫婦鷺だったのだろう、とうわさした…
この話は、夫婦のきずなの強さを物語る話として語られています。昔話ではどうでしょうか。
…昔、働き者の男が美しい嫁をもらった。男は1日中嫁に見ほれて全く働かなくなった。これでは暮らしていけないので、嫁は自分の絵姿を描いて男に持たせ、畑に行かせた。男は嫁の絵姿を見ながら、せっせと働いていた。ある日、絵姿が風に飛ばされてお城の殿様の所に行ってしまった。殿様は絵姿の美女を捜しあて、城に連れて行ってしまった。それを知った男は城に乗り込んで「おらの嫁を返してくれ」と殿様に頼んだ。殿様は怒って男を城の池に落として殺してしまった。嫁は夫が殺されたのを知って、自分もその池に身を投げた。その後2人はオシドリに生まれ変わって池に住んでいた。が、殿様はそのオシドリにも嫉妬しっとして殺してしまい、土に埋めた。ところが、埋めた土から竹が2本生え、途中で2本が1つになって伸び出した。人々はこれを「連理の枝」といって、どんな目にあっても離れない、仲のいい夫婦の典型として誉めたたえたそうですと…。
昔話「絵姿女房」の難題型話です。米子にも法城寺入口に、かつて「根上がり連理松」という国指定天然記念物の見事な松がありましたが、昭和40年代に松食い虫にやられ伐り倒され、今は連理の根だけが残っているのはご存知の通りです。この松にも何らかの話があっただろうと思います。歌では、中国はあの世でも「願わくば天に在りては比翼の鳥(雌雄2羽でありながら翼がくっ付いた鳥)地に在りては連理の枝」(長恨歌)と熱烈ですが、日本では「よそ目にも 比翼連理と見らるれば ちとは恥ずかしの森の下庵」(狂歌集・大団)と控えめです。ところで「連理の箸」という箸があります。どんな箸と思われますか?…答えは「割り箸」。箸は割っても、比翼連理の仲まで割らないように。
藤内狐と要玄寺の小僧さん
戸上の藤内狐に再登場してもらいます。彼が尻を焼かれる前のこと。彼の悪戯をやめさせようと要玄寺(八幡)の小僧さんが戦いを挑み、成功しかけとりました。その話はこうです。
…ある日、小僧さんは和尚さんにボロ頭巾をもらい、それをかぶって戸上(観音寺)に行き「アッハッハ、オッホッホ、エッ!ほんと!」と大声で独り言を言っとった。それを見た藤内狐が山から降りてきて「おい小僧、何をブツブツ言っとるだ」と聞いた。「いや、この頭巾をかぶると鳥の話がみんな分かるで面白いのなんのって…」と小僧さんはまた大笑いしだした。狐は頭巾が欲しくなって「なあ小僧さん、その頭巾をわしにごさんか…」小僧さんは聞こえんふりして大笑いしとる。と、また「なぁ小僧さん…」小僧さんは初めて気付いたふりをして「何?譲ってくれ?とんでもない、だめ、だめ。」にべもなく断る。と狐は「ほんならわしの宝物《化けの玉》と取り換えよう。」化けの玉てぇのは姿を消したり何にでも化けることができる大した玉で。小僧さんは内心しめたと思ったが、気が無さそうに「そげか…お前がそげに言うなら」ともったいを付けて玉とボロ頭巾を交換した。狐は喜んで小鳥の下で頭巾をかぶる、が何も聞こえん。「ありゃあ小僧さん、何も聞こえんで?」と小僧さんを捜すが、彼は化けの玉で姿を消した後。「しまった!だまされた!」狐は怒った。玉を取り戻さんことには面目が立たん。考えに考えた。小僧さんも藤内が玉を取り戻しに必ず来ると予想し、和尚さんに訳を話して玉を隠してもらった。数日後、寺に和尚さんの叔母さんがかぶり物をすっぽりかぶってやってきた。「わしゃぁ悪い風邪をひいとって顔を見せられんが、聞けば藤内狐の化けの玉を手に入れたそうなが、ちょっと見せてごさんか、その玉を見れば風邪も治ると聞いたでなぁ」と咳せき込みながら和尚さんに頼んだ。和尚さんは、他ならぬ叔母さんの頼みだけぇ断ることもできず玉を見せた。叔母さんは玉を手にした途端、姿を消した。「しまった!だまされた!」…
門松を立てない村(上安曇)
昔の小学校は、元旦に児童を登校させて年頭の式をしました。寒い講堂に集まって、鼻水をすすりあげながら校長先生の長い話を聞いた後、震えながら歌ったものでした。
  ♪年の始めのためしとて 終わりなき世のめでたさを
  松竹立てて門毎に 祝う今日こそ楽しけれ
どこの家でも、門松を立てて新年を祝っていました。ところが、米子でも上安曇集落は昔から門松を立てない村でした。その理由はこうです。
…上安曇の氏神さんは、なかなかの美男子で村の中に彼女がおられたそうな。ある年の大晦日おおみそかの晩にも、明日は元旦だがマア鶏の鳴く前にお宮に帰りゃぁ良いわい、と思って彼女の家に行って泊まらんしたそうな。とこうが、まんだ夜が明けん真夜中に鶏が鳴いてしまった。神さんは、やれコリャしまった寝過ごした、と慌てて彼女の家を飛び出っさったところ、暮れからこしらえてあった門松の松で眼を突かれ大怪我おおけがをされた。出てみると外はまだ真っ暗闇。お気の毒なことで。それで上安曇の氏神さん(楽楽福ささふく神社)は片眼がつぶれたそうだし、それから後は村では門松を立てんようになったし、憎っくき鶏を飼うことも、鶏の卵を食うことも戦後のしばらくまでしなかった。今は鶏も飼うし卵も食うが、門松だけはいまだに作りませんぜ…
片眼になられたのは気の毒でしたが、上安曇の神さんは人間くさくて親しみを感じます。昔のガキ共も神さんに負けず劣らずでして、式が終わって教室に帰る廊下ではとたんに大声をあげて、こう歌っていました。
  ♪年の始めに餅食うて 終わりなき世に下痢をして
  松竹ひっくり返して大騒ぎ 祝う今日こそ悲しけれ
日野橋に出た幽霊
戦後もだいぶたった頃の話ですので、覚えておられる人も多いかと思いますが、こんな世間話が米子で広がったことがありました。
…夕方、ある人が白い乗用車を運転して日野橋を渡っていたところ、きれいな娘さんに車を止められ、便乗させてくれるよう頼まれたそうな。気の良いそのドライバーは相手が美人ではあるし二つ返事でドアを開け、後ろの座席に座らせ、しばらく走ってから「どこで降りなさるかな」と聞いた。「もう少し先まで」そのまま車を走らせ「このあたりかな?」といって後ろを振り返ってみたところ、乗せたはずの女は消えていて、座っていた所のシートは水でぐっしょりと濡れていたそうな…
これと同じ怪事件が同じ場所で続いて何回か起こったそうで、噂が噂を呼んで物好きな人の運転する白い乗用車が、夕方になると日野橋にずらりと並びだして、当時の週刊誌の記事にもなったのを覚えています。戦後もしばらく経った頃でも、こんな非科学的な世間話がまことしやかに語られ、それを真に受けた人がいたとは、と嘆かれるご仁もおられるとは思いますが、この話、幽霊の身になってみれば、この世に出て来やすい条件がそろった話になっているのです。まず「橋の上」という場所。橋は向こう(彼岸ひがん)とこちら(此岸しがん)、言い換えればあの世とこの世をつなぐ所です。迷える魂である幽霊はあの世とこの世の接点・境界に姿を現すものなのです。つぎに「夕方」という時間帯。魔物の活躍する夜と、人間の活躍する昼の境界、朝方(彼は誰時…かはたれどき)夕方(誰そ彼時…たそかれどき)もまた人が幽霊に出くわす時間帯なのです。しかし、なぜ「白い乗用車」なのかはわかりません。この話、ひょっとして白い乗用車を販売している会社の人で、幽霊の気持ちもよく分かっている人が、車を売らんがために意図的に流した話だったのかも知れません。
もうひとつの「米子」の地名伝説
…湊山に米子城を建てる時の話だそうだから天正19年(1591年)のことだろうか、毛利氏の一族である吉川広家が建て始めた訳だが、彼はこの土地の人間でないので土地のことがよう分からん。そこで彼は家来にこの地について詳しい人を捜させたところ、眼鏡にかなったのは八十八になる爺さんで、その人が子どもを連れてやってきた。この爺さんの案内であちこち見て廻ったが、いやこの爺さんのよく知っていること、何を聞いてもたちどころに答えが返ってくる。またその詳しいこと、かゆい所に手の届くような親切ていねいな説明だったそうな。吉川広家はこの爺さんの説明にほとほと感じ入り、これ以後この辺りの地名をこの爺さんに感謝を込めて、その年齢の八十八を「米」につくり、また子連れであったので「子」を入れ「米子」ということにしたのだそうな…
戦国の武将は命を的に戦いましたので、武運の長久を願っていろいろ縁起をかついだものだそうです。城を築くとなると、当然地形的にも敵を防ぐように造られていますが、そればかりではなく方位を風水師に占わせたり、あらゆる良いと思われる方法を取り入れて築いたと言います。ですから米子築城の時にも地元の米寿の爺さんに相談したというこの話、本当かどうかはわかりませんが、本当であってもおかしいことではありません。こうして300年間、米子の町から見上げられ「麓には 海をたたえて湊山 仰げば高き 峰の高殿」(宝永5年詠)と歌われた米子城も、維新後は旧時代の遺物として遂には風呂のたき木、というまことに米子風な合理的処理法で解体されたことはご存じの通りです。今は城跡だけですが、これはこれでありし日の城の情景が様々に想像でき、春夏秋冬風情があってよろしい。 
 

 

●鳥取の伝承
豊乗寺 (ぶじょうじ)
豊乗寺は、空海の弟弟子にあたる真雅によって嘉祥年間(848〜851年)に建立された古刹である。かつては大伽藍があったが戦火で焼失、それでも現在ある本堂などは江戸時代中期に再建されたものである。また当時の繁栄を物語るかのように、国宝や重要文化財を複数所有する。この寺院の門前から少し離れた場所に“蛇の池”と呼ばれる小さな池がある。戦国時代のことと言われる。豊乗寺の北に惣地という村があり、そこの富農に清美という名の18の娘がいた。美しい娘であったが、当時新見を治めていた河村安芸守の息子である若侍と密かに恋仲となり、豊乗寺を越えた安芸守の屋敷の近くで逢瀬を重ねていた。ある月の美しい夜、清美はいつものように安芸守の屋敷へ行き、若侍に会おうとした。しかしその日は屋敷が騒々しい。多くの人が出入りし、何か祝い事が行われているようであった。清美は人に紛れて屋敷に入ると、今まさに祝言が執りおこなわれようとしていた。しかもその席で花嫁の横にいるのは、恋仲の若侍ではないか。清美は、今自分がここにいてはならないとその場を離れたが、何が起こっているのか理解できなかった。夜道を家に向かって歩きながら、清美はようやく裏切られたと悟った。身分が違いすぎるから恋が成就するとは思っていなかったが、その仕打ちに怒り、悲しみ、落胆した。激しい気持ちに、清美の歩みは徐々に乱れ始めた。いつしかうまく歩けないようになり、途中、豊乗寺の前の池のほとりにまでようやく辿り着いた。一休みと思い、池に顔を映した清美は、そこで初めて自分の姿が蛇体に変化しかかっていることに気付いた。美しかった容貌は鱗に覆われ、口が裂けて、目が爛々と月に反射していた。何もかも観念した清美は、その足で父母に別れの言葉を告げると、再び門前に戻りそのまま池の中へと消えていったのである。その後、池のほとりには清美の霊を慰めるための祠が建てられた。そして一方の安芸守の屋敷では、新妻が失踪し、息子は出家したというが、清美の呪いであったかは定かではない。ただ村の言い伝えでは、清美の亡魂である大蛇は、惣地の北に位置する籠山に登って“蛇の輪”になったと言われる。山の中腹に、茅の木が輪のように自生した場所があり、晴れた日には、それがあたかも大蛇がとぐろを巻いているように見えるという。人々はその場所だけは手を付けることなく守ってきたが、今は“蛇の輪”を見ることはほとんどないとされる。
上岡田神社
八頭町姫路は鳥取市国府町に隣接するが、過疎地域である。近くにキャンプ場などの公園施設があるため道路は整備されているが、それよりも奥へ行くともはや集落らしい集落もない。姫路の集落も空き家が目立つ。このような地だからこそあるのが“落人伝説”である。この地は安徳天皇が隠れ住んだという伝承が残されている。当地の伝承によると、壇ノ浦で亡くなったとされる安徳天皇であるが、平知盛の策によって二位の尼(安徳帝祖母:平時子)を始めとして大勢の女官や、平景清などの武将と共に戦場を離れて、因幡国の賀露の港に上陸を果たした。そこから一行は内陸へ入り、まず因幡の国府である岡益にある光良院(現・長通寺)に一時身を寄せる。しかし人目につきやすいために、住職の宗源和尚の勧めてさらに山を越えて奥地へ逃れ、ようやくここで行宮を置いて、終の棲家としたというのである。そしてその地は“平家の官女がやって来て住むようになった”ということで“姫路”と呼ばれるようになった、また行宮を置いたことで“秘やかな都”という意味の“私都(きさいち)”という地名ができたとの伝承もあるらしい。しかしこの地に行宮ができて2年ほどして、安徳天皇は急な病によって崩御。わずか10歳であったという。主を失った落人たちであるが、結局彼らはこの地に定住し、平家一門の血を受け継いでいったのである。この集落にある上岡田神社は祭神を大山祇命と安徳天皇とし、崩御後に御霊を慰めるために建立されたと伝わる。そして神社の奥には、数多くの五輪塔が所狭しと並べられている。これは安徳天皇や二位の尼をはじめ、平家一門の墓であるとされており、安徳天皇陵であるとされている(ただしどれが安徳天皇の墓であるかは特定されていないし、宮内庁の参考陵墓にも指定されていない)。またこの神社の裏を流れる宮川には、昭和初期の頃まで片目の雑魚が棲息していたが、これは天皇が戯れに片目を潰した雑魚の子孫であったという伝承が残っている。
犬橋
鳥取砂丘の南側、千代川の支流となる摩尼川に“犬橋”と名付けられた橋がある。そしてその橋のたもとには“犬塚”と刻まれた碑が建てられている。この橋の名と碑が、ここに橋が架けられたいきさつを今に伝えている。この橋が架けられている道は、昔から因幡と但馬を結ぶ主要な街道となっていた。ところが川に架かる橋が粗末なもので、丸太を差し渡しただけの橋であったため、街道を往来する者にとって非常に難儀な場所となっていた。これを見かねたのが、近くに住む百姓。橋の架け替えの資金を集めようと、自分の飼っている犬の首に趣意書を書いた木札と募金の竹筒をくくりつけて放してやった。すると犬は街道を旅する者のそばへ行ったり、また近隣の家々を回り、とうとう掛け替えに必要な資金を集めたのである。こうして街道に立派な橋ができたのである。その後この犬は天寿を全うし、人々は功績を称えて遺骸を橋のそばに埋め、そこに“犬塚”を築いて祀った。そしていつしかこの橋を“犬橋”と呼ぶようになったという。
本願寺 龍宮の釣鐘
鳥取にある浄土宗の本願寺は、豊臣家臣の宮部継潤が開基である。継潤が帰依していた丹後国久美浜の本願寺住職の幻身和尚を招いて建立されている。この移設にまつわるとされる不思議な話が残されている。天正年間(1573-1592年)の頃、和田五郎右衛門範元という浪人が、塩俵を馬に乗せて伏野の浜を歩いていた時のこと。突然海中から女が姿を現した。女は小さな鐘を小脇に抱えており、これを本願寺に届けて欲しいと頼んだ。範元が断ると、女は重ねて「私はこの下の龍宮に住む者だが、本願寺の阿弥陀仏が海の中におられた時に魚や貝にまで慈悲を施していただいた。そのお礼として鐘を差し上げたいのだ」と言う。それを聞いた範元は深く感ずるところがあって、本願寺へ鐘を届けると約束した。そして寺へ持参したところ、小さな鐘は見る間に大きくなって巨大な梵鐘に変わったのである。このような不思議から、この鐘は“龍宮の釣鐘”と呼ばれ寺宝となった。そして海からやって来た証拠として、鐘には鮑がくっついているという。本願寺の本尊である阿弥陀仏も、上の伝承にある通り、一時期海中に没していた。これは丹後から因幡へ移る際に沈んだとされており、丹後国宮津での海中から光を発したことで見つかった阿弥陀仏は、宮部継順の要請によって本願寺に戻された。ただそれ以降、梅雨頃になると全身から汗をかいたように濡れそぼったために“汗かき阿弥陀”と呼ばれている。また一説によると、釣鐘の方も丹後から移す際に同じように船から落ちて沈んだものであるとも言われている。釣鐘は平安時代前期に造られた希少なものであるとされ、国の重要文化財に指定されている。また昔から鐘にはひびが入っていて鳴らせないが、それを撞くと大水が起こると伝えられ、別名“鳴らずの鐘”とも言われている。本願寺の山門は龍宮門であり、上部が鐘楼となっているが、現在は鐘はそこにはなく、鳥取市歴史博物館やまびこ館に展示されている。
後醍醐天皇御腰掛岩 (ごだいごてんのうおこしかけのいわ)
元弘元年(1331年)、倒幕をめざして挙兵に及んだ後醍醐天皇は、鎌倉幕府の圧倒的な兵力の前に捕縛され、そして翌年、隠岐に流罪となった。しかし天皇の意志は強く、1年後には隠岐を脱出して再挙兵をめざしたのである。後醍醐天皇が再起を果たすために手助けしたのは、伯耆国名和で海運業をしていた名和長年であった。そこで隠岐から脱出した天皇を乗せた船は、名和の地に到着する。やはり天皇といえども流罪となった者の決死の脱出行である。名和の湊に辿り着いた天皇は船から下りると、波打ち際の岩に腰を掛けて人心地ついたとされる。これが後醍醐天皇御腰掛岩の由来である。現在では岩は港の岸壁から少し陸の奥まったところに置かれているが、これは移動させたのではなく、漁港の護岸改修などで陸に上がったように見えるだけであるとのこと。後醍醐天皇の倒幕実現の第一歩は、変わりなく今に受け継がれている。
圓流院
大山は山陰地方を代表する霊場である。この霊峰に大山寺という寺院がある。明治の廃仏毀釈によって大きく衰退したが、江戸時代には寺領3000石を幕府より安堵され、42の支院を持つ大寺院であった。現在では10の支院が残っているが、その中で最も有名なのが圓流院である。圓流院は江戸時代に建立された支院の1つである。創建から200年以上経ち、平成21年(2009年)に再建された。その時以来、院内の天井画の画題として“妖怪”を選んだことが評判となり、観光客を集めることとなったのである。寺社の天井に絵が描かれることは珍しくない。天井を格子状に仕切ってそこに様々な花鳥風月の絵を描くこともよくある。しかし妖怪を描くことはかつてないことである。絵師は、同じ鳥取出身の水木しげる。天井には全部で110枚の絵がはめ込まれているが、そのうち「阿弥陀浄土」と「補陀落浄土」の2枚の絵以外は全て妖怪が描かれている。そしてその天井の中心部にある絵は、大山の守護神である烏天狗(伯耆坊)となっている。(ちなみに108体の妖怪については、有料のリーフレットで確認できる)この天井画の拝観方法も変わっており、最も見やすい体勢、すなわち床に仰向けに寝転がって天井をゆっくりと眺めることになる。天井全体を俯瞰するように見るのも良し、お気に入りの妖怪と対話するように見るのも良し。とにかく良い意味で“寺らしからぬ”光景である。
楽楽福神社 (ささふくじんじゃ)
“ささふく”という名前の由来は、“砂”即ち砂鉄をたたら吹きで製鉄することを意味するとされる。つまり、古来より中国山地一帯で盛んにおこなわれていた製鉄を神聖視して祀った神社であるとされる。しかし、一方でこの神社の祭神である孝霊天皇にまつわる伝説にもまつわるとされる。神社の近くに鬼住山という名の山があり、そこを根城にして暴れ回っていた鬼の集団があった。この地を訪れた孝霊天皇はその話を聞き、早速鬼を退治することを決めた。鬼住山の隣にある笹苞山に陣を築いて、敵を見下ろす形で対峙した。まず献上された笹巻きの団子を3つ置いて鬼を誘い出すと、鬼の兄弟の弟・乙牛蟹を射殺すことに成功した。しかし兄の大牛蟹は降伏するどころか、手下を率いてさらに激しく抵抗して暴れ回ったのである。事態が膠着しているさなか、天皇は霊夢を見る。天津神が枕元に立ち「笹の葉を刈って山のようにせよ。風が吹いて鬼は降参するであろう」と告げたのである。天皇はお告げに従い、笹の葉を刈って山のように積み上げた。すると3日目に南風が吹き荒れて、笹の葉はまたたく間に鬼住山に飛んでいった。天皇が敵陣へ軍を進めると、そこでは笹の葉が全身にまとわりついて狼狽える鬼達がいた。そこに火をつけるとあっという間に燃え広がり、天皇は一兵も欠けることなく勝ちを収めたのである。破れた大牛蟹は、蟹のように這いつくばって命乞いをした。そして手下となって北の守りをすることを約束したのである。人々は喜び合い、奇瑞を示した笹の葉で屋根を葺いた社殿を造り、天皇を祀ったのである。これが今の楽楽福神社の始まりであるとされる。またこの鬼退治が、日本最古の鬼にまつわる伝承であるとされている。楽楽福神社の境内には、孝霊天皇の墓とされる墳丘が残されている。土地の伝説によると、鬼退治を遂行した後も天皇はこの地に崩御するまで留まったという。日本最古の鬼伝説の残る土地ということで、大牛蟹をモチーフとした巨大像が、鬼住山の対岸の丘に造られている(元は鬼関連のミュージアムだったが閉館)。また鬼住山の北にあり、降伏した鬼達が守ったという鬼守橋には、名前にちなんで鬼のオブジェが置かれている。
大岳院 里見忠義の墓
創建は慶長10年(1605年)。関ヶ原の戦いでの功績で米子を領した中村家一門の重臣・中村栄忠が父の菩提を弔うために建立した(大岳院の名は父の院号から取られている)。しかし中村家は嗣子がいなかったため改易となり、しばらくこの地は幕府直轄地の天領となる。慶長19年(1614年)に倉吉藩という名目で同地を領有することになったのは、安房等12万石の国持大名であった里見忠義である。当時の幕府を揺るがした大久保長安事件の余波を受けての処分で、3万石に減封の上で領地替えという形でおこなわれた。しかし実際にはわずか4000石しか与えられず、事実上の改易状態であったという。倉吉の神坂町(現在の東町あたり)に居を構えた忠義は曹洞宗であったため、同宗派の大岳院に3石余りの土地を寄進したり、また周辺の社寺の再建などを手がけるといった、領主としての役目を全うするような動きをみせていた。しかし元和3年(1617年)になると、因幡伯耆は池田家が治めることとなり、倉吉の土地も召し上げられ、忠義にはわずか百人扶持のみが与えられた。追い打ちを掛けるように、倉吉の町中から郊外へ移住させられ、さらに辺境にまで追いやられたのであった。領地召し上げの頃より病気がちになったとされる忠義は、元和8年(1622年)に29歳で病死する。これにより安房の名族里見氏は歴史から消えることになる。忠義は遺言により大岳院に葬られたが、死から3ヶ月ほど後に、最後まで付き従っていた家臣の8名が殉死する。彼らも大岳院に葬られ、現在では忠義を守るように墓が置かれている。この8名の家臣の戒名には、忠義の戒名から取られた「賢」の文字が入れられており、そのことから“八賢士”と呼ばれるようになった。そのためこの8名の殉死が、後の滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の主人公達のモチーフとなっているのではないかとされている。
里見氏 / 鎌倉時代より御家人の家柄であり、室町中期以降に安房を拠点とする。戦国時代は主に後北条氏と対立し、たびたび戦がおこなわれる。豊臣秀吉の関東攻めの時には、安房・下総・上総を領有していたが、拝謁が遅れたために安房一国に減封。これ以来、関東に入府した徳川家康と懇意になる。関ヶ原の戦いの功績により12万石を得るが、大久保長安事件の連座によって没落する。忠義には3人の男子があったとされ、子孫はそれぞれ他家に出仕や下級旗本として存続するが、実子であるかには疑念の余地がある。
大久保長安事件 / 幕府の勘定奉行であった大久保長安が私的に蓄財をおこなったと死後に露見し、慶長18年(1613年)に一族が処刑された。この事件をきっかけに政争が起こり、翌年には、長安の後ろ盾となっていた小田原藩の大久保忠隣が改易処分となった。里見忠義は正室が忠隣の孫娘であったことから連座した(その他違反行為もあったとされる)。しかし移封の最大の目的は、関東に唯一ある外様大藩であるため、口実を設けて排除しようとしたのではと推測されている。
湖山池 (こやまいけ)
湖山池は周囲約18km、「池」と名が付くものの中で日本最大規模を持つ。元々は日本海に面した入り江湾であったが、砂の堆積によって海と分断され湖沼となったものとされる。しかしこの池には“長者伝説”の中でもひときわ有名な湖山長者にまつわる伝承が残る。湖山長者はこの辺り一帯で一番の大金持ちであり、1000町歩もの田んぼを所有していた。そして毎年のように、近在の者をかき集めて1日で田植えを済ませてしまう習わしであった。ある年のこと。いつものように順調に田植えがおこなわれていたが、子供を逆に背負って歩く猿があぜ道を行き来するのに大勢の者が見とれてしまい、かなり遅れを取ってしまった。もう日没になろうとしているのに、まだ田植えだけは終わらない。この様子を見ていた長者はお気に入りの金の扇を持ち出すと、太陽を招き戻したのであった。これによって無事に田植えを日没までに完了させることが出来たのである。そして翌日、長者が田んぼへ行ってみると、田んぼは消えてなくなって、代わりに大きな池が出来ていた。人々は、長者が太陽を呼び戻した罰として池になってしまったのだと言い合った。その池が湖山池なのである。湖山池には大小いくつかの島がある。その中に猫島と呼ばれる小島があり、そこには猫薬師というお堂がある。この猫薬師も湖山長者にまつわる伝説である。かつて湖山長者が祈願していた薬師如来があったが、近在の者が堂を建てて浄西坊という者がお勤めをしていた。ある時、仏様の下の方に光るものがあったので調べてみると、赤毛の猫のミイラが出てきた。その猫の目が光っていたのである。さらにその夜、浄西坊は猫の夢を見る。夢に出てきた猫は、自分が湖山長者の飼い猫であったこと、そして長者の田んぼが一夜にして池にかわった時に溺れ死んでしまったこと、さらにはその死骸が小島に打ち上げられて干涸らびてミイラになり、そのためにその小島が猫島と呼ばれるようになったことを告げた。猫は長者から信心することを教わったことで、動物の身でありながら仏になることを許されたので、この薬師如来にお仕えして人々に利益を授けたいとも言ったのである。浄西坊はここで夢から覚めると、以前に堂に住みついた赤毛の猫のことを思い出した。その猫は人間のように薬師如来に手を合わせていたが、それが湖山長者の愛猫の霊であり、今度はミイラとなって現れたのだと悟ったのである。そこでミイラを丁重に厨子に収めて、薬師如来と共に祀ったのである。これ以降、この薬師如来は“湖山の猫薬師”と呼ばれるようになった。このお堂の護符は鼠封じに効くとされ、また失せ物がある時は祈祷してもらうと良いとされている。
長者伝説 / 貧しい者が仏の加護などで富裕となる話。また逆に富裕の者がふとしたことから没落していく話の総称。湖山長者の伝説は、長者の驕りによって没落する話の典型例である。長者が太陽を呼び戻すというパターンは、音戸ノ瀬戸での開削工事での平清盛の伝説にも見られる。
耳塚
岩美町岩常は、南北朝時代に因幡国の守護所として栄えた。交通の要衝であり、かつ金銀をはじめとする鉱山が近くにあったためとされている。現在ではのどかな田園地帯が広がる土地であるが、その一角に耳塚と呼ばれる石碑がある。伝承によると、この塚が造られたのは、この南北朝時代の頃であるとされる。伯耆・出雲守護として山陰一帯に勢力を伸ばしていた山名時氏は、足利尊氏・直義兄弟の争い(観応の擾乱)に乗じてさらに領土拡張を画策し、反尊氏派の一大勢力として京都へ侵攻して戦いを繰り広げた。正平10年(1355年)には3度目の京都奪取を試み、5000の兵を率いて八幡に出陣するが、結局、多数の犠牲を払いながら撤退せざるを得ない状況となった。時氏の配下だけでも侍84名、郎党263名もの戦死者があったという。これら347名の戦死者を本拠の岩常において供養したのが、耳塚である。この時、時氏は遺骸を持ち帰る代わりにその全ての耳を切り取り、全員の名を書き記して岩常に送って葬ったとされる。現在では葬ったとされる寺院は跡形もなく、ただ石碑が残されているだけである。その石碑も、元禄7年(1694年)に再興されたものである。
幽霊滝 滝山神社 (ゆうれいだき たきさんじんじゃ)
小泉八雲の『骨董』に収められている「幽霊滝の伝説」は、八雲怪談の中でも最も恐ろしく残酷な結末を迎える作品である。ある冬の夜、黒坂の麻とり場で女たちが怪談話に興じていた。話は盛り上がり、誰か幽霊滝へ行ってみてはということになった。そこで安本勝という女が、皆の取った麻をもらうかわりに行こうと言いだし、その行った証拠に賽銭箱を持って帰ってくることにした。お勝は赤子を背負ったまま滝へ向かった。誰も通らない夜道を駈けて行った。そして目当ての賽銭箱を水明かりの中に見いだすと、手を伸ばした。「おい、お勝さん」突然、滝から声がする。お勝は動きを止める。「おい、お勝さん」再び怒気をはらんだ声がした。しかし気丈なお勝は賽銭箱を掴むと、そのまま麻とり場まで駆け戻っていったのである。戻ってきたお勝を、皆が称賛した。麻は全てお勝のものとなった。そしておぶった赤子を降ろそうとして、背中がぐっしょり濡れていることに気付いた。血まみれの赤子の着物が床に落ちた。赤子の首は、もぎ取られていた。…… 現在でも、この怪談の舞台となった幽霊滝は存在する。県立公園の駐車場から、整備された遊歩道を500mほど行った奥に滝山神社がある。その脇に幽霊滝がある。正式な名称は竜王滝。ただし八雲の怪談に登場するあやかしについては「天狗」と言い伝えられている。そしてこの滝については“2歳にならない赤子をこの滝に連れてきてはいけない”という禁忌が存在したとも言われる。
鬼の碗
岩美町岩井には1300年の歴史を持つ岩井温泉がある。そこから少し離れたところに旧・岩井小学校跡がある。奈良時代、この地には大寺院があったとされる。弥勒寺、通称「岩井廃寺」と呼ばれている。今でもここには建物に使われた礎石が残されている。中でも三重塔の心礎石は横が3m63cmの日本最大級の礎石であり、その中心部に幅が77cm、深さ33cmの孔が掘られてある。その異様ぶりから、土地の人々はこの石を「鬼の碗」と呼び慣わしているという。特に珍しい言い伝えがあるわけではないが、特別な名前で呼んでいただけのことはある、何かしらの不思議ぶりを感じさせるところがある。
人形峠
ウラン採掘で有名な人形峠であるが、現在は現役の道路としての役割はほとんど終えている(資料館施設があるので、廃道とはなっていない)。本線から脇道にそれるように山道を登っていくと、鳥取・岡山の県境に峠がある。この奇妙な名前の由来には、妖怪が関連している。昔、この峠を越える者の多くが戻ってこなかった。化け物がいるのではということで、ある木地師が若い娘の木像を作り、峠に置いて待ち伏せした。すると、どこからともなく大蜘蛛が現れ木像にかみついたが歯が立たず、そこを村人総出で攻撃して殺したという(あるいは大きな蜂という説もある)。それからこの峠は“人形峠”と呼ばれるようになったとか。
白兎神社 (はくとじんじゃ)
『因幡の白うさぎ』の話と言えば、神話に興味のない人でも一度は聞いたことのあるポピュラーな伝説である。ひょんなことから沖の島にながされた兎は、鰐(=鮫)をだまして岸にたどり着こうとしたが、計略がばれて皮を剥かれてしまう。そこへ大勢の神様がやってきて、元の姿になるには海の水に浸かった後で吹きさらしの場所で風に当たると良いと教えられる。しかしそれは逆効果で、さらにひどい状態なったところで、荷物を担いだ一人の神様に出会う。その神様は、池の水に浸かった後で蒲の穂を全身にまぶして横になっていれば良いと教えた。そして兎はその教えを実行し、元の姿となった。その正しいことを教えてくれた神様は後の大国主命であり、兎の予言通り、この直後に八上姫と結婚することとなったという。この伝説の舞台として現存するのが、白兎海岸であり、そのすぐそばにある白兎神社である。伝説では、かなり頭が悪くて悲惨な目に遭う兎であるが、大国主命が八上姫と結婚すると予言したから、縁結びの神として祀られている(また皮膚病の神とも)。この境内には、実際に兎が身体を洗ったという池が存在する。どのような気象条件であっても水位が変化しないことから“不増不減の池”と呼ばれている。この神社の一番の見どころは、本殿の台座である。この神社の本殿を支える台座には菊の文様が施されている。菊の紋章と言えば、言わずと知れた天皇家の御紋である。花びらの枚数こそ違うが(ここの台座は28弁、天皇家は16弁である)、全国的に見ても、菊の紋章を台座に使用している神社(多分他の建造物も含めて)はないと言ってもいいだろう。それゆえ、神話伝説と相まって、この神社が天皇家と何らかの関連があるのではないという憶測が出てくるわけである。
岡益の石堂 (おかますのいしんどう)
岡益の石堂の姿は、風化を防ぐために覆屋の内にあって全容が見えない状態であるが、台石の中央にすっくと立つエンタシスの柱と、さらにそれを四方から囲む壁面から成る。さらに忍冬の紋様などが彫られており、東アジア圏の文化の影響を色濃く残している。だが、日本はおろか朝鮮や中国にも類例を見ないその容姿は、その建築目的すら想像できないほど奇異である(地元の研究者によると、仏教文化との関連性が強いのではないかとのこと)。この構造だけでもミステリアスなのであるが、それに輪を掛けるようにこの建造物は安徳天皇の“陵墓参考地”として宮内庁の指定を受けているのである。安徳天皇といえば、1185年に壇ノ浦の合戦で入水して亡くなったとされている。だが平家の落人伝説と同じように、安徳天皇も海中から救い出されて、隠れ里のような土地に住み着きそこで亡くなったという伝説が各地に伝わっている。その中の一つが、この石堂なのである。結局のところ安徳天皇はこの地でも夭逝している。病死だったらしい。この岡益の石堂から2キロほど離れた場所に「新井(にい)」という集落がある。そこには“新井の岩舟”という 古墳がある。伝承によると、これが安徳天皇の祖母で、同じく壇ノ浦で入水したはずの二位の尼の墓であると言われている(単に“新井=二位”ということらしいが)。どうやら安徳天皇の一行は、全てこの地で終焉を迎えたことになっているようである。ただし、岡益の石堂は7世紀頃のものであり、新井の岩舟も古墳時代のものであると確認されている。それ故に、これらの遺物が学術的に安徳天皇にまつわる伝説と結びつくということはほとんどない。
宇倍神社 双履石 (うべじんじゃ そうりせき)
因幡国一之宮である宇倍神社は、日本史上最初の宰相である武内宿禰を祭神として祀る神社である。360歳の長命を維持した人物であることから長寿のご利益、さらにこの宿禰の肖像と宇倍神社の拝殿が紙幣に度々採用されたため(伝説的廷臣とそれを祀る神社の組み合わせ図案として初めて採用された)に金運のご利益もあるとされる。この神社が武内宿禰を祀っている理由は明白である。この地が宿禰の終焉の地であるからである。朝廷に250年近く仕え、既に360歳となっていた宿禰は因幡国へ下向し、沓だけを残して行方不明となってしまった。まさに昇天してしまったのである。このあたりの記述も彼の神懸かり的存在に由来していると思われるが、この脱ぎ捨てられた沓が石となって、この神社の境内に残されているのである。本殿裏手に“亀金岡”と呼ばれる小さな丘がある。その頂上に“双履石”という一対の石がある。これが沓が石化したものである。この双履石から本殿が見下ろすことができる。つまりこの双履石は本殿の奥に位置する、この神社で最も重要な存在であることを示していると言えるだろう。
双履石 / 道教の「尸解仙」という考えでは、死に際して沓と冠を残して地上より消滅して仙人になるという。武内宿禰が沓を残して昇天したとする伝承には、この神仙思想の影響が色濃く残されていると見てよいだろう。 
 
 九州地方

 

 福岡県
●おおのじょうの伝説 大野城市 
笠が飛んだ話
大野北小学校正門前の県道36号線をへだてて、北西300メートル程の山田児童公園の横に森があって、昔から「御笠の森(みかさのもり)」とよばれています。
日本で最も古い歴史の本といわれている「日本書紀(にほんしょき)」や、元禄時代に書かれた「筑前国続風土記(ちくぜんこくぞくふどき)」という本に
「仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)のお后である神功皇后(じんぐうこうごう)が、荷持田(のとりだ)(甘木市秋月字野鳥)に住む羽白熊鷲(はじろくまわし)という豪族を従わせようとして、香椎の宮(福岡市東区香椎)から松峡宮(まつのおのみや)(朝倉郡夜須町)へ向かわれていると、突然つむじ風が起こり皇后の被られていた笠が吹き飛ばされて、この森の木にひっかかったため御笠の森というようになった。そして、この地方の地名も御笠郡と名付けられた。」と書かれております。
武内宿彌(たけのうちのすくね)以下大勢の軍兵を率いて、香椎の宮から唐山峠(からやまとうげ)を越えて大野に出られ、宝満山から流れ出て博多湾にそそぐ川(御笠川)のほとりを、荷持田をめざして南に向かわれた神功皇后が、筒井の辺りまで進まれたときに、いたずらなつむじ風が皇后の笠を奪ってしまったのです。そこで土地の人たちは笠がぬげたところに「笠抜ぎ」という地名をつけました。今の大野城市上筒井字笠抜の地名は、こうして起こったということです。
皇后の笠が吹き飛ばされたのにびっくりしたお供の人たちは、急いでその笠を追いかけましたが、空高く舞い上がった笠は風に乗ってくるくる廻りながら、北へ北へと飛んで行って、1キロメートルはなれた山田の森の、大きな楠の木の梢にかかっていました。
やっと森までたどりついたお供の人は、早速この笠を取ろうとしますが、高い梢に笠のひもがまきついて、どうしても取ることができません。お供の人たちは大変困っておりました。
そのさわぎを見つけて村人たちも集まって来ました。事情を聞いた村長(むらおさ)は、森の神様にお願いして取っていただく以外に方法はないと思い、お供の人たちと相談しました。そして森の前の田んぼの中で、神様に奉納(ほうのう)する舞がはじまりました。するとどうでしょう。枝にからまっていた笠のひもは、ひとりでにするするとけて、笠はひらひらと舞人の上に舞い下りてきました。大変喜んだ村人たちは、そこを「舞田(まいでん)」と呼ぶようになりました。
今の大野城市山田大字御笠の森通称舞田の、地名の由来を知る人はほとんどありませんが、児童公園となって、子どもたちが蝶のように舞い遊ぶ姿は、舞田の地名にふさわしく、御笠の森の神様もきっと喜んでおられることでしょう。
こうして「御笠の森」「御笠郡」の名がつけられ、川の名も「御笠川」というようになったということです。
天神の森
大宰権師となって九州に下られる道真公(みちざねこう)一行の、1カ月あまりの長い苦しい旅もいよいよ終わりとなり、大宰府を目の前にした乙金まで来られたときに、お供の中の一人が長旅の疲れのために高熱を出して、動けなくなってしまいました。
長い道中を失意の道真公を慰め励ましながら、やっとここまでたどり着いたのに、とうとう病気になってしまったのです。乙金村には医者は居りません。道真公は持参しているいんろうの薬だけを頼りに、一生懸命看病されました。
しかし、その甲斐もなく、お供の人はとうとう死んでしまいました。大そう悲しまれた道真公は、村はずれの森の一隅に埋めて、手厚く葬ってあげられました。
それからこの森を天神森というようになったということですが、森の中にはいつ頃建てられたのかわからない自然石の石塔があり、「疫神(えきじん)」と刻まれていて、村人たちは季節ごとの花をあげて、病魔から守っていただくようお祈りしています。
昔は疫病がはやるのは疫病神という霊的なものが、他所からやってくるものと考えられていましたので、村境に注連縄(しめなわ)を張ったり、疫病の源を藁人形(わらにんぎょう)などの形代(かたしろ)に封じ込めて村から送り出したり、または疾病神をなだめるためのお祭をするなどして、病気の予防をしていましたが、天神の森の疫神も他所からの病魔の侵入を防ぎ、村に疫病が流行したときは、他所へ送り出したあと再び戻ってこないようにという村人たちの祈りをこめて、村境に立てられたものと思われます。この疫神の碑は道路の拡幅舗装のため現在は乙金宝満神社境内(おとがなほうまんじんじゃけいだい)に移設されています。大野城市内にはここと牛頸区大立寺(うしくびくだいりゅうじ)の2カ所にあります。
学問の神様として信仰され、天神様と呼ばれて親しまれている菅原道真公が、住みなれた京都をあとにして、大宰府に流されて来られた道筋には、山口県防府市の防府天満宮(松崎天神)・築城郡の椎田綱敷天満宮・福岡市の綱敷天満宮・水鏡天満宮・杖切天神など数多くの伝説が残されておりますが、大野城市内にも山田の杖立天神と共に、この乙金の天神森の伝説があり、下筒井には九郎天神社もあります。
ひんどの人柱と火の玉
今年もまた宮添井堰(みやぞえいぜき)は大洪水のため流されてしまいました。
山田村では、その修理のための話し合いが昨日から続いていますが、村人たちは疲れはててしまって、話し合いはなかなかまとまりません。その時誰言うとなく、「人柱をたてると壊れないというのに・・・」と言う声が出はじめました。しかし、生きたまま井堰の下に埋め込まれるのですから、自分から進んで人柱になろうと申し出る者はおりません。とうとう夜になって村人たちはみんな家に帰ってしまい、世話人だけ残ってまた相談を続けましたが、よい知恵は浮かんでこず、話は途切れがちになりました。
先程から黙ってみんなの話を聞いていた庄屋の甚兵衛(じんべえ)さんは最後の手段として人柱をたてることに決心しました。そして翌日の公役(くやく)(村民総出の共同作業)のときに、横縞(よこじま)の襟(えり)の着物を着ている者がいたら、その人を人柱にしようと世話人に申し渡しました。
夜が明けると、作業準備をして宮添井堰に集まるように、村中に連絡しましたので、手甲脚絆(てこうきゃはん)に身をつつみ、ほほかぶりに菅笠姿(すげがさすがた)の村人たちが、続々と集まって来ました。早速作業にかかりましたが、その中に横縞の襟の着物を着た人がいたのです。世話人たちは昨夜の庄屋さんの言葉どおり、その人の手足をとって井堰の下に埋め込んで、作業を完了させました。
作業が終わってホッとした村人たちは、笠をとって汗をふきながら、自分が人柱にならなかったことに安心し、生きながら埋められた人の不幸に同情して、そっと周囲を見まわしますと、庄屋甚兵衛さんの姿が見当たらないのです。急いでみんなを集めて探しましたが、庄屋さんはどこにもいませんでした。
自分の命を犠牲にして、みんなのために人柱になった庄屋さんに、村人たちは感謝の涙を流しこれからも力をあわせて仲良く助けあい、豊かな明るい村にすることを誓い合いました。
こうして完成した宮添井堰は、その後の大洪水にも壊されないで、田畑をうるおし、毎年豊作が続いて豊かな村になりました。
人柱が庄屋さんとも知らず、井堰の下に埋めるため、手足をとって運んでいた時、甚兵衛さんが着ていた羽織(はおり)の両袖がちぎれてとれたので、それから袖の無い羽織のことを、甚兵衛羽織と呼んで、庄屋甚兵衛さんの功績を、後の世に語り伝えたということです。
このことがあってから毎晩のように、宮添井堰を中心に御笠川の堤防(ていぼう)の上に、火の玉が出るようになりました。はじめは恐れていた村人たちも、きっと庄屋甚兵衛さんが火の玉となって、この井堰を見守っていてくださるのであろうと、あらためて甚兵衛さんの徳をたたえ、火の玉に向かって手を合わせて、感謝していたということです。
井堰は農業用水を確保するために水量を調節する目的で造られました。川の水量が豊富であれば、水の入口を確保するだけで水を取り込むことができますが、水位が低くて水が引けないような場所や時期には、川の流れをせき止める物を置いて水位を高め、取水口から水路に自然と水が流れるような仕組みになっています。宮添井堰は筒井・山田・金隈に水を送る役割を果たしています。金隈にはポンプを使って水を汲み上げ、田んぼを潤す水を送っています。
宮添井堰は通称「ひんど」と言います。どういう字を書くのかわかりませんが、いつも水害に負ける貧しい土でできた井堰であったため、「貧土(ひんど)」というのでしょうか。また、火の玉となってまで守り続けた陣兵衛さんを、火の人と呼び、「火人(ひんど)」というようになったのでしょうか。
菅公の杖
曽祖父(そうそふ)の時から代々学者の家柄に生まれた菅原道真(すがわらのみちざね)は、幼い時から勉学にはげみ、だんだん出世して従二位右大臣(じゅうにいうだいじん)近衛大将(このえたいしょう)という地位まであがられたため、左大臣藤原時平(さだいじんふじわらのときひら)や他の学者などからねたまれ、天皇につげ口されて、大宰権師(だざいごんのそつ)という位に落とされ、筑紫の国へ行くことを命ぜられました。
延喜元年(えんぎがんねん)(901)2月1日に京をたたれましたが、旅の支度もあわただしく、妻やすでに成人している子どもたちとも別れ、幼い子どもと門下生(もんかせい)味酒安行(みさけやすゆき)だけを連れ、送使(そうし)と衛士(えじ)に守られて、明石の浦から海路博多の津に上陸されました。
57歳の道真公にとっては大変つらい長い旅でした。その旅もいよいよ最後の日となり、今日中には大宰府に着くことができるのです。しかし、昨日にかわる今日の我が身のあわれさを思うと、心は暗く足取りは重くなるばかりです。隈麿(くままろ)と紅姫(べにひめ)の二人の手を引いて金隈(かねのくま)(福岡市博多区金隈)まで歩いてこられましたが、旅の疲れと寒さは京育ちの老いの身にはつらく、子どもたちの手をはなした道真公は、道端の竹林に入って手ごろな一本の竹を切り、この杖にすがりながらまた歩きはじめられました。
この杖を求められた所には、後に菅公の徳をしたう人たちによって祠が建てられ、杖切天神として祭られるようになりました。
気を取り直して歩き始められた道真公は、牛車はもちろん馬さえも与えられないで、囚人のような旅を続けて、すでに一ヶ月以上にもなります。もともと体は弱いほうでありましたので、二月の風は肌に冷たく、持病の脚気(かっけ)に苦しみながら、とぼとぼ歩く老学者と幼児(おさなご)の前方に、森がみえてきました。神功皇后(じんぐうこうごう)の笠がかかったという伝説のある山田村(大野城市)の御笠の森です。
森のかげに風をよけて杖を立てて、老樟(ろうしょう)の根方に腰を下ろして休まれた道真公の目には、一滴の涙が光っておりました。正月二十五日に突然大宰府へ行くことを命ぜざれ、親戚や友人に暇(いとま)をつげるひまもなく、二月1日の夜明けとともに、出発しなければならなかったのです。家族との悲しい別れも、夜明けをつげる一番鶏の声にせきたてられて、後髪を引かれるような思いで家を出たのが、昨日のことのおうに思い出されるのです。そしていつまた京都へ帰って、家族と面会することができるのか、これからの大宰府での生活は、どのようなものであろうかなどと考えると、不安はつのるばかりで、無情の風に追われるように立ち上がって、大宰府をさして再び歩きはじめられました。
後の世になり、村人達は道真公が杖を立てて休まれた御笠の森の傍らに祠を建て、杖立天神と名づけて祀りはじめましたが、昔から御笠川の堤防決壊による度々の水害に、悩まされつづけていた山田村の人たちは、延宝の頃(1670年代)全村あげて、御笠の森周辺古屋敷をすて、雑餉隈(大野城市)の東側の高地に移り住むことになりましたので、杖立天神も一緒に移転させて、現在の山田に再建しました。
この祠に隣接していた家では、道真公の徳をしたう心が特に厚く、家族との別れを断ち切った鶏の声をにくんで、代々鶏を飼うことを禁じられておりましたが、農家であるため雑穀の処理に困り、近年になって鶏を飼うようになったということです。
杖立天神は『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)拾遺(しゅうい)』や『筑前国続風土記附録』、『福岡県地理全誌』には道真公が太宰府に向かう途中、杖を求められた所として「杖切天神」と紹介されています。また、昭和56年に建てられた鳥居にも杖切天神と書かれています。しかし明治8年に地元民から聞き取りをして作成された絵図には、金隈に杖切天神、山田に杖立天神と書かれていることから、大野城市史では杖立天神として紹介しています。
杖立天神の社殿は古くは木造でしたが、大正11年(1922)4月25日に山田区民および近郊有志ら45人の寄進により石造に改築され、その後昭和56年にはそれまで北向きであった社殿を南向きに変えています。ご神体は幅13センチ、高さ7センチの卵形の丸い自然石です。昔はこの社に境を接する3家で代々お祀りしていましたが、昌泰(しょうたい)4年2月1日の早朝一番鶏の鳴き声と共に、妻子と別れを告げた菅公の心を哀れとして、刻をつげる鶏は飼わなかったといわれています。しかし、農家であるため雑穀を捨ててしまうのはもったいないという理由から、昭和になってやっと鶏を飼うようになったという話です。
鎮西上人の安産祈願
鎌倉時代に筑前国善導寺(ぜんどうじ)(現久留米市)に、鎮西上人(ちんぜいしょうにん)と呼ばれる偉いお坊様が居られました。法然上人(ほうねんしょうにん)の弟子として修業をつまれ、四十三歳のとき郷里の九州に帰られて、仏教伝導のため席が暖まる暇もないうちに、諸国をまわられていました。
そのような伝導の旅に出られたときのことです。雑餉隈の追分のあたりまで来られると、日が暮れかかりましたので近くにあるお寺を訪ね、一夜の宿をお願いされました。この寺の和尚(おしょう)さんは快く引き受けておもてなしをしましたが、旅の僧が鎮西上人であることを知り、大変喜んで夜遅くまで教えを受けていました。
夜も更けた頃、裏の庫裏(くり)(寺の台所)の方から苦しそうな女の人のうめき声と、念仏(ねんぶつ)の声が聞こえてきます。上人様がご病気でもおられるのですかと尋ねられますと、和尚さんは坊守(ぼうもり)の妻が産み月になっているのに、まだ子どもが産まれず難産のため苦しんでいるのです、とお答えしました。
早速上人様はその女の人のために、安産祈願をしてくださいました。すると、今まであんなに苦しんでいた女の人の青白い顔に、赤みがさしほほえみさえ浮かべた安らかな顔になり、無事に玉のような赤ちゃんを産むことができ、母子とも健やかに過ごしたということです。
鎮西上人のお母さんは、大宰府の観世音寺に七日間おまいりして上人を身ごもりましたが、難産のため上人が産まれるとすぐ亡くなられましたので、上人はお産をする人々のことをいつも心配されていました。安産でありますようにと祈って、上人が刻まれた腹帯(はらおび)阿弥陀如来(あみだにょらい)がまつられている善導寺では、今も子どもをみごもった人たちが、お腹に巻いて安産を祈る岩田帯を授けてもらっています。
殿の倉の火事(とののくらのかじ)
享保(きょうほ)17年(1732年)という年は、2月頃から降りはじめた雨が5月初め頃まで続いて、大麦も小麦も立ち腐れてしまいました。それでも田植えは順調に行われ、稲はすくすくと育って、美しい緑の毛氈(もうせん)を敷きつめたような田んぼを眺めながら、農民たちは安心して喜びあっておりました。
ところが、6月中旬頃になると、ウンカやイナゴの大群が発生してようやく実りかけた稲は食い荒らされてしまい、野菜はもちろん雑穀(ざっこく)もすべて食いつぶされ、人間が食べるものは無くなってしまいました。日頃貯えることも出来ない一般階級の人々は、わらび・山芋・木の根などを求めて続々と山に入ったり、または30人50人と徒党(ととう:ひとつの目的のために集まった仲間)を組んで、裕福な町家や役人の家に押し入って、食べられるものは手当たり次第にかすめ取っていくようになり、寒い冬が近づく頃には、町にも村にも門の前・橋の上・道端などいたるところに、餓死(がし)した人が放置されたまま、転がされているのを見るようになりました。
翌18年になると、人々の体はいよいよ衰弱してしまい、働く気力もなくなり、そのうえやむを得ない不摂生(ふせっせい)と栄養不足 (えいようぶそく)から、伝染病(でんせんびょう)まで発生しました。食べ物を求めてさまよう人々は、あるいはふくれ、あるいは骨と皮ばかりの幽鬼(ゆうき)のような姿となって、さながら地獄(じごく)の餓鬼道(がきどう)を現実にしたような、いたましい光景が国中に見られ、村々には続々と死人が増えていきました。
山田村の庄屋(しょうや)清兵衛さんは、このままでは村中の者はみんな死んでしまうだろう、何とかしなければならない、と毎日村中の家々を見回りながら考え込んでおりましたが、どうしようもありません。国中みんなが飢餓(きが)と伝染病に苦しんでいるので、助けを求めるところはないのです。腕組みをしてうつむきながら歩いていた庄屋さんは、いつの間にか村の中央にある殿の倉の前に来ていました。
殿の倉とは百姓が納めた年貢米を集めて、お城に持っていくまで保管しておく倉のことですが、ふとこの倉を見た庄屋さんは、年貢米の一部がまだ倉の中に残っていることを思い出しました。そうだ、この米を村の者に分けてやればみんなが助かる。しかし殿様の米を断りもしないで分けてしまえば、きっと重い罪になるだろう。でも庄屋として村民のために今できることはこれしかないのだ。と何回も何回も心の中でつぶやいていましたが、ついに自分一人が罪をうければいいのだと決心しました。
すぐに村中の者は殿の倉の前に呼び集められました。そして倉の鍵をはずし扉をあけて、中の米を全部村人に分けてやり、空になった倉には火をつけて焼いてしまいました。
涙を流して喜んでいる村人達を眺めて、もう思い残すことはないと、一人で殿様のお城に出かけて行きました。殿様の前に出た庄屋さんは、失火(しっか)のために殿の倉を焼いてしまい、お預かりしていた中の米まで全部灰にしてしまいましたが、去年から今年にかけての飢饉で代わりに納める米もありません。どうか責任者である私一人を罰してくださいとお願いしました。
庄屋清兵衛さんの義侠心(ぎきょうしん)に気づかれた殿様は、失火の罪として流刑(るけい)を申し渡されましたが、御笠川を越えて中村(なかむら)に移り住むだけの軽い罰でお許(ゆる)しになりました。この庄屋清兵衛さんの子孫が、現在中村に住む樋口(ひぐち)氏であるといわれています。
また、当時のきまりとしては、山田村に住んでいる庄屋さんの親類縁者は、同じ罰をうけることになっておりましたが、名前をかえれば前の人間は死んでしまい、新しく生まれ変わったことになるという殿様の厚い情により、改名してそのまま山田に住んでいました。
享保17・18年の大飢饉と疾病(しっぺい)による死者は、筑前国(ちくぜんのくに)の総人口367,800人余のうち、96,020人であったと、太田南畝(おおたなんぼ)の「一語一言」には記録されています。
大野城市乙金の高原家の墓地にある 「享保子丑餓死枯骨塔」にも、「享保17年、九州大い に餓え、本州最も甚 し、田卒汗菜となり、」と刻まれています。
山田の宝珠山慶伝寺境内にある「倶会一処塔」と刻まれた石塔も、享保17・18年の無縁仏(むえんぼとけ)を供養したものであると言われています。
盗人の宮(ぬすっとのみや)
下筒井のお宮は、九郎天神社または黒男神社とも言いますが、別名「盗人の宮」とも呼ばれています。
黒田藩主(くろだはんしゅ)初代長政(しょだいながまさ)のとき、城下町博多に住んでいた正直な若者が、身に覚えがないのに盗人のぬれぎぬをきせられました。奉行所(ぶぎょうしょ)に行って自分は盗人でないことを弁解したしたくても、その証拠はないのです。本当の盗人を見つけ出して奉行所に連れて行く以外には、助かる方法はありませんので、仕方なくしばらくの間身をかくして、犯人を自分で探すことにしました。
若者を捕らえに行った役人は、逃げたことを知って追いかけました。若者は博多から二里の道を一気に歩きつづけ、雑餉隈(ざっしょのくま)までのがれて来ました。そこには三十数軒の人家があり、茶店もあって往来の人が休んでおります。あまり急いできたので喉が乾き、一軒の茶店でお茶を飲んでいますと、表を通る人が「役人が街道ぞいの村々で盗人を探しながら、こちらにやって来るが、とても恐ろしいことだ」と話しながら通るのを聞いて、追手が近くまで来ていることを知り、急いで立上り小走りに逃げて筒井村に入りました。
ここは筑前国那珂郡と御笠郡の境です。二十軒ばかりある筒井村の入口の街道の脇に、楠・松・杉などの老樹がうっそうと繁った大きな森がありました。若者はこの森にかくれることにしました。
森の奥に古い祠があります。それが天神様の祠であることを知った若者は、遠い昔藤原時平らのためにおとしいれられ、無実の罪をきせられて太宰府に流された菅公と、ちょうど今の自分が同じ境遇であることを思えば涙がこみあげ、どうぞ助けてくださいと一生懸命お願いしました。この若者が正直者であったので、天神様も願を聞き入れ、祠のかげにかくまってくださったのでしょうか、役人はすぐ側まで来ましたが、とうとう探し出すことができず、すごすごと奉行所へ帰って行きました。
天神様のおかげで捕らえられずにすんだ若者は、さんざん苦心して本当の盗人を探し出し、奉行所に連れて行って汚名をはらすことができました。
それからこのお宮を「盗人の宮」というようになったということです。
創建の時期は不明であり、祭神にも種々の説があります。しかし、元禄元年(げんろくがんねん)(1688)に着手し、宝永(ほうえい)六年(1709)に完成した貝原益軒(かいばらえきけん)『筑前続風土記』(ちくぜんしょくふどき)に、上で紹介した伝説が載せてあるので、それ以前の創建であることには間違いありません。盗人の宮と呼ばれる理由にはもう一説あります。太宰府安楽寺の寺務を統轄(とうかつ)する最高の職は別当(べっとう)といって、菅原氏一族の中から選ばれていましたが、平安後期頃になると京都で任命されても、太宰府に赴任しない人もあり、鎌倉時代には完全に名目だけとなりましたので、安楽寺に含まれる太宰府天満宮の留守職(るすしょく)が、寺務をとり行うようになったといわれています。その留守職が筒井の天神社の祭祀も司っていましたので、留守殿(るすどの)の宮と言っていたのがなまって、ぬすとの宮というようになったとも言われています。
現在では下筒井と上筒井に分かれている行政区ですが、もともとは筒井村として一つにまとまっていました。しかし、昭和21年4月1日に、筒井村が牛頸区についで二番目に人口が多く、戦後の配給制度の事務が大変だったため、分区の要望が高まり実施されました。筒井区は筒井村と呼ばれていた江戸時代から「町」、「宿」、「村」の三地区に分かれていました。下筒井は現在の錦町と筒井1丁目、筒井2丁目の一部にあたります。上筒井のお宮は宝満神社です。
庄屋に化けた古狸
黒田の殿様から脇差帯刀(わきざしたいとう)を許された筒井村庄屋四代目善六は、周囲に堀をめぐらし、庭内には楠(くすのき)・銀杏(いちょう)・松・樫(かし)などの老樹がそびえる広大な屋敷に住み、黒田藩の武士の娘で、心やさしくたしなみ深い、大そうきれいな妻を迎えて暮らしておりました。
ある日、年貢米(ねんぐまい)を納めるための打ち合わせに、1泊の予定でお城下町博多に出かけて行きましたが、夕方になると突然帰宅しました。大変心配した妻はどこか体の具合が悪いのかと尋ねましたが、どこも悪くないと答えるだけです。夕食の膳(ぜん)についた夫を見ると、右手に箸(はし)を持っているではありませんか。夫は左利きであったはずです。それに今朝持たせてやった財布の模様も違います。便所へ行くときも廊下を間違えて裏口のほうへ行こうとしてしまいました。毎日かかしたことのない大好きな風呂にも入ろうとせず、習慣になっている日記もつけようとしません。
いつもと様子が違うので、妻はずっと目を離さずに監視を続けていました。そしていつもの時間よりも早く休みたいという夫のために床(とこ)をのべ、隣の室の襖(ふすま)からそっとのぞいてみました。すると着物も着替えずじっと座っている夫の後姿に、尻尾がのぞいているではありませんか。武士の娘に育った気丈(きじょう)な妻は懐剣(かいけん;護身用の短剣)をしのばせて、何食わぬ顔で怪物である夫のそばに近づき、心臓のあたりを剣も折れよとばかりに一突きしました。怪物は「ギャー」と絶叫しながら、勝手口から外へ逃げていきました。
家中の者がその悲鳴を聞いてかけつけました。事情を聞いて提灯(ちょうちん)をつけて、屋敷のまわりを探しますと、血痕(けっこん)が点々と屋敷の隅の楠の老樹の根方まで続き、老木のほら穴の中に消えています。灯りを差し出すと、そこには年古りた狸が絶命しておりました。
やさしくてきれいな庄屋さんの奥さんを好きになった古狸が、主人の留守の間に主人に化けて、奥さんに近づこうとしたのだと、近所の人はうわさしたということです。
庄屋善六は正保(しょうほ)2年(1645年)の初代善六から明治維新(めいじいしん)(1868年)までの、10代220年余りにわたり父子相伝(ふしそうでん)で庄屋を務め、庄屋になると善六を襲名(しゅうめい)し、江戸時代の地方自治の最先端にあってその重責を果たしていました。歴代の庄屋のうち四代目の宝永元年(ほうえいがんねん)(1704年)に黒田藩第四代藩主網政公から脇差帯刀(わきざしたいとう)を許され、六代目の安永(あんえい)年間(四年(1775年)頃)第七代藩主治之公に雑賞隈お茶屋(ちゃや)を献上し、八代目の文化九年(1812年)9月27日には日本地図作成のために筑前国地方の測量に訪れた伊能忠敬一行が、当家に宿泊した事が、『測量日記』に記されています。注:伊能忠敬と大野城市の関係については、おおのじょうの史跡「伊能忠敬と日本地図」をご覧ください。
「雑賞隈お茶屋跡」は県道112号線錦町1丁目の交差点から約120メートルほど北を西に20メートル入ったところにありました。平成8年(1996)2月に取り壊され現在は駐車場になっていますが、お茶屋の門跡だけは残っています。お茶屋は別館ともよばれて宿場町にあり、藩主の領内巡視の時に休憩宿泊するための施設です。「雑賞隈お茶屋」は安永年間(1772から1781)に筒井村に住む庄屋の第六代善六が黒田藩第七代藩主治之公に献上したものです。筒井村の善六は正保2年(1645)に初代善六が庄屋となり、明治5年(1872)までの227年間歴代庄屋を勤め善六を襲名(しゅうめい)しています。四代善六は脇差帯刀を許され六代善六がお茶屋を献上し、八代善六の時には島津斉興公が参勤交代の時に「雑賞隈お茶屋」で休憩され、そのお礼として芭蕉布(ばしょうふ)を2反下賜されています。
百本の傘
筒井村に住む庄屋さんは代々善六と名乗っていましたが、その三代目善六の時のお話です。
早良郡の能古島(のこのしま)に辻の善九という長者がおりました。通称「ノコノゴケ」とも言われていましたが、ある年の梅の咲く頃、家族や召使い小作人など百人を連れて、日頃信仰している太宰府の天満宮にお参りに行き、帰りに筒井村庄屋善六の家に立ち寄りました。
ちょうどお昼の時間で、善六さんの家では昼食をすませたばかりでしたが、仲のよい善九さんが家族まで連れて、久しぶりに訪ねてきてくれたのですから、昼食くらいは出さなければなりません。何しろ百人という大勢の人を連れておりますので、大ていの家では百人分のご飯を炊く大釜はなく、百人分の食器も揃わないで困ってしまうのですが、善六さんは少しもあわてず、大変喜んで即座に百人分の食事を作って歓待しました。
しばらく二人の話ははずんでいましたが、そろそろ帰る時間となった頃、あいにく雨が降りはじめたのです。善九さんの一行は雨具の用意をしてきていないので、お供の人たちは大変困った顔をしていましたが、能古の長者善九さんともなると、さて善六さんはどうしてくれるかなといった顔で、すまして雨空を眺めています。善六さんもまたゆうゆうとしたもので、下男を呼んで物置の戸を開けさせ、「どうぞご自由にお使いください」と指した隅の方の棚には、百本の蛇の目の傘がきれいに並べられてありました。おかげで善九さんたちは雨に濡れすに、無事に能古島に帰り着くことができました。
翌日はからりと雨もあがり、日本晴れの上天気です。昼過ぎ頃「ごめんください」という声に善六さんが玄関に出てみると、善九さんです。大男ばかり百人が揃いのはっぴを着て、片手に蛇の目の傘を一本ずつ持ち、片手に能古島名産の大きな鮑(あわび)を一個ずつ持ってきています。そして口々にお礼を言いながら、傘は物置に納め、鮑は台所に置いて帰って行きました。
このことがあってから、両家は今までより一層親しくなり、いつまでも仲良く交際を続けたということです。
釜蓋原の弘法大師
四王寺山の西の麓の集落釜蓋(かまぶた)というところは瓦田(かわらだ)村に属していました。戸数はわずかに十数戸しかありませんが、縄文・弥生・古墳時代の遠い昔から人々が住みついていたところです。村人は純朴で勤勉な人たちばかりで、田畑を耕し山林を育てて生計を営んでいました。
稲の刈り入れも終わり年貢(ねんぐ)納入の準備も済んで冬支度にかかる11月になると、村決めに従って一斉に四王寺山の共有林に入り、冬の間に使う薪と牛馬の秣(まぐさ:牛や馬の飼料となる草)を採りに行きます。
今日も早朝から山支度を整えた村人たちは釜蓋原に集まり、長老の指図により山に入り、それぞれ指定された場所で薪を集め秣を刈ります。夕暮れ近くになりそれぞれに採取した薪や秣をまとめて、再び釜蓋原に集まってきました。この季節でも夕方になると山麓の台地は冷え込んできます。附近の草木を集めて焚き火をはじめました。
みんな一日の疲れも忘れて楽しそうに焚き火にあたりながら輪になって、今年の米のでき具合や、働き者の嫁や可愛い孫の自慢話など、とりとめもない世間話に花を咲かせて、いつまでも焚き火の側を離れようとしません。
そのとき「すみませんがちょっと焚き火にあたらせてくださいませんか」と、薄汚れた旅衣(たびごろも)をまとった1人の旅の僧が近づいて来ました。村人たちは気軽に「どうぞどうぞ」と言いながら、この旅の僧を焚き火の輪の中に入れてあげました。
そして昼の残りの弁当とお茶を出して「こんなものでよかったらどうぞ召し上がりくださいませ」と差し出しました。旅の僧は喜んで弁当を食べながら、今まで廻ってきた諸国の風物や人情などについて話してくれました。村人たちも熱心に聞いておりました。その話の中にはたくさんの教訓も含まれていましたので、感心すると同時に心地よく温かいもので、胸がふくらむような気持ちになりました。
それからしばらくは旅の僧を中心に話が弾みましたが、いよいよあたりが暗闇につつまれてきましたので、誰からともなく家に帰ろうということになり、焚き火に水をかけると白い煙が一面にたちこめて間もなく火は消えてました。
村人たちはそれぞれの荷を背負って帰ろうとしてふと気がつくと、旅の僧の姿はありません。今まで旅の僧が居たところに一塊の石が残っています。折から雲間を出た月の明かりに照らされた石をよくよく見ると、それは一体の弘法大師(こうぼうたいし)の石像でありました。
村人たちははじめて今の僧が弘法大師であったことを知り、今まで聞いていたお話を思い出し、これからもその教訓を守り仲良く仕事に精を出して、みんなで釜蓋の里を豊かで幸せな村にしようと誓い合いました。
そしてこの地にお堂を建てて弘法大師の石像を安置して祀り始め、ここを大師原と呼ぶようにしました。
九州縦貫自動車道をくぐり抜けた大城5丁目に弘法大師の祠があります。祠の裏面には「慶応四辰年九月吉日奉再建、世話人十一人の氏名」が刻まれています。祠の中には石造の弘法大師と十一面観音座像が納められていて、この弘法大師像が伝説の大師像で、十一面観音は近年奉納されたものといわれています。このためここ釜蓋原を地元の人たちは通称大師原と呼んでいます。この祠の近くには大師原公園があり、今でも大師原の名前を残しています。
四王寺山の中腹からこの釜蓋原一帯は瓦田・釜蓋区の共有林でしたが、昭和51年の特別史跡大野城跡の指定拡張に伴い、標高100メートル以上は大野城市に買い上げられ、残りの釜蓋原一帯は平成元年からの区画整理事業により分譲住宅として開発されました。しかし、大師堂のある土地は周辺の樹木とともに大師堂敷地として残されました。区有林の手入れは秋の収穫期または取り入れ後の農閑期を利用して行われていましたが、この日は山の手入れが終わると夕方から、釜蓋原の大師堂の前で懇親の慰労会が行われていました。戦後は個人宅で行われるようになっていましたが、大野城跡指定拡張による売却処分後は手入れ作業もなくなり、慰労懇親会もなくなりました。ただ、弘法大師の例祭日である4月21日には、市外に出ている人や嫁に行った人たちも里帰りして、家族親族一同が久しぶりに顔を合わせて大師堂にお参りし、近所の人々とも旧交を温めています。
大野村の時代、釜蓋は瓦田に属していました。釜蓋に住んでいる人は御笠川を渡って瓦田の地禄神社で瓦田の人々と宮座を一緒に行なっていました。しかし、距離的に遠いこともあり明治22年に釜蓋に地禄社を遥拝所として建立しました。
父子嶋(ててこじま)
水城(みずき)の土塁(どるい)を築くため御笠、長岡、次田、大野郷の村々はもちろん、近国の農民達がかりあつめられました。朝鮮半島から難をのがれてきた人たちも混じっています。鍬(すき)で土を掘り、モッコをかついで運び、運んだ土はタコで突き固め、またその上に土を置いては突き固め、だんだん土塁は高くなっていきますが、連日の作業に農民達は疲れきっております。しかし、海の向こうの異国の軍隊が攻めてくるのを防ぐための土塁と聞いていますので、手を休めるわけにはいきません。来る日も来る日も前面の濠(ほり)を掘り、また近くの丘を削って、その土を土塁の上に運んでつき固める作業は続きました。
この公役(くやく)にかり出されている農民に大里(おおり)の里に住む父子がおりました。今日もモッコに土を入れて、子は前を父は後ろをかついで、朝から何回となく土塁の上まで往復しております。もう日暮れも近くなり、肩も腰も折れんばかりに疲れていますが、それでも一荷の土を前後にかついで、土塁の近くまで来ました。その時土塁の上から「わぁー」という喚声(かんせい)が聞こえてきました。こ踊りしながらとんで来た男が「土塁ができたぞう」と叫んでおります。父子はその声を聞くといっぺんに力がぬけて、へなへなと座り込んでしまい、かついでいた土をその場に投げ出してしまったのが、土饅頭のように盛り上がりました。
その場所が今の大野城市下大利の、JR水城駅西側の小高いところであるといわれ、それからこの地名を父子嶋(ててこじま)と呼ぶようになったということです。
水城は西暦664年に造られた堤です。福岡平野のもっとも狭小となる場所に造られました。規模は長さ1.2キロメートル、基底部の幅80メートル、高さは10メートルを超え、すべてが人工の盛土から出来ています。『日本書紀』の一節に「大堤を築きて水を貯えしむ」と書かれていますが、これは博多湾側に濠を設けて水を貯えたことが、発掘調査の結果からわかっています。東西2カ所の門や大宰府側から博多湾側の濠へ導水する巨大な木樋(もくひ)が明らかとなっています。
水城の土塁は粘土や砂などを交互につき固めて盛り上げています。この技法を「版築工法(はんちくこうほう)」といいます。周りを板で囲み(堰板;せきいた)、棒状の叩き道具(突棒;つきぼう)を使います。水城の調査では突棒の跡も見つかりました。現在、私たちが水城を見ることができるのも、版築工法によってしっかりと造られているからです。
天狗の鞍掛けの松
上大利(かみおおり)から牛頸(うしくび)まで2キロメートルほどの間は、人家が一軒もなく、両側は山にはさまれて、さびしい一本の細い道が続いているだけです。
結婚式の祝い酒にほろ酔(よ)い機嫌(きげん)の若者が、片手にちょうちんをさげ、片手にお土産(みやげ)を持ってひょろりひょろりと千鳥足(ちどりあし)で、天狗松の近くまで帰ってきました。ところが、目の前に川が流れていて橋(はし)はありません。もうろうとした頭で、こんな所に川はなかったはずだと思いながらも、着物の尻(しり)をからげてざぶざぶと川の中へ入っていきました。すると川の水はだんだん深くなります。とうとう着物を脱(ぬ)いで、お土産と一緒(いっしょ)に帯(おび)で頭の上にくくりつけ、一生懸命泳ぎましたが、なかなか向こう岸にたどりつくことができません。その時「モシモシ、そこで何をしているのですか。」と言う声に、ハッと我(われ)にかえった若者(わかもの)は、ふんどし一つで山の斜面(しゃめん)を這(は)いまわっており、お土産はなくなっていました。
また、二日市温泉に行って、一杯(いっぱい)機嫌で一風呂(ひとふろ)浴(あ)びているつもりの老人(ろうじん)が、ふと気が付くと田んぼの隅(すみ)の野瓶(のがめ)の中で糞尿(ふんにょう)をかぶって湯浴(ゆあ)みしていたり、田植(たう)えが終わってさなぼりのご馳走(ちそう)を作るため、買出しに行った主婦(しゅふ)たちが家に帰りつくと、酒の肴(さかな)になるようなものは全部途中で消えていて、あわてて引き返すと天狗松の根元(ねもと)に、きちんと並べて置いてあったりしました。みんな天狗松に住む天狗さんのいたずらだったのです。
この天狗さんは非常にお酒が好きで、牛頸の人が二日市へ買い物にいくため通りかかると、帰りにお酒を買って来てくれと頼むのです。頼まれついでに肴もそえて、天狗松の下に供えておくと、翌日はどうしてかいつもより早く目が覚(さ)め、田んぼに出かけると畦(あぜ)の草はきれいに刈(か)りとられ、稲田(いなだ)の水は満々(まんまん)と張りつめられて、稲は生き生きとしています。山に行くと刃(は)こぼれした古い鎌でも、さくさくと切れ味がよく、いつもの数倍の仕事ができるように、天狗さんが加勢してくれますし、困ったときには酒肴をお土産に相談に行くと、親切に相談相手になってくれました。
梢(こずえ)の方は切り取られたように平たくなって、ちょうど馬の背中のような格好をしている、大きな松の木に住んでいる天狗さんは、背中に大きな羽根(はね)が生えてて、いつもこの松の木の上にまたがって、顔の真中に突(つ)き出た長い長い鼻の先を、500メートルほどの先の平野神社の、大きな楠(くす)の木の枝(えだ)にもたせかけ、ギョロリとした大きな目玉で、牛頸村を見守ってくれています。
ときどきその鼻に雀(すずめ)やカラスが止まって遊んでおりますが、天狗さんはニコニコしています。それでも怒ったときはマッ赤になって、それはそれは恐(おそろ)しい顔になりますが、大変いたずらな反面(はんめん)、牛頸の人には優(やさ)しい天狗さんでした。ところが、よその村の人がやって来ると、この谷間(たにま)の細い道に立ちはだかって追(お)い返(かえ)したり、神通力(じんつうりき)で道を曲(ま)げて遠回(とおまわ)りさせたり、お弁当(べんとう)を取り上げて食べてしまったりするのです。
ある日、馬に乗った武士が、上大利から牛頸方面の稲の出来具合(できぐあい)を検査(けんさ)するため、この道をやってきました。それを見た天狗さんが、八ツ手(やつで)の団扇(うちわ)でサッと一あおぎすると、武士は馬の上からころりと吹(ふ)き飛(と)ばされてしまいました。次に団扇でおいでおいでをすると、馬の鞍はひとりでにはずれて空に舞い上がり、天狗のいる松の木の上にストンとひっかかりました。武士の真似(まね)をして鞍にまたがった天狗さんは大喜(よろこ)びです。
怒った武士が「天狗め!下りてきて勝負(しょうぶ)しろツ」とどなったその声が終わらぬうちに、ヒュウヒュウ音をたてて風が吹き、まわりの木や竹(たけ)やぶがざわざわとゆれて木の葉が舞(ま)い散(ち)り、あたりは急に暗くなったり、明るくなったりして、頭の上から「ワッハッハッハツ」という雷(かみなり)のような笑(わら)い声が落ちてきました。そして大木(たいぼく)のような天狗の腕(うで)が伸(の)びてきて、熊手(くまで)のような手で武士を一つかみにしようとします。武士は刀を抜(ぬ)いて切(き)りつけました。ガチンと手応(てごた)えはあったのですが、折(お)れて飛んだのは刀のほうでした。肝(きも)をつぶして逃(に)げていく武士の後ろから、天狗の笑う声がいつまでも聞こえていました。
このことを聞いて、腕に自慢(じまん)の武士たちがつぎつぎに天狗退治(たいじ)に来ましたが、刀を取られたり、チョンマゲを切られたりして、誰も退治することはできませんでした。
今でも牛頸の古老(ころう)たちは、天狗さんはいるのだと信じているということです。
この地図は牛頸村の様子(ようす)を色分けしています。灰色が道、青色が川、緑が山、黄色が田んぼ、茶色が集落(しゅうらく)です。この地図を見ると、牛頸が人里(ひとざと)離(はな)れた村だったことがよくわかります。天狗の鞍掛けの松に腰掛けている天狗さんが、平野神社の楠まで鼻を伸ばしている様子が思い浮かびますか?牛頸の人々は天狗さんが守ってくれているので、安心して暮していたことでしょう。みなさんは何に守られて暮らしていますか?
次郎太郎の松
牛頸村に太郎と次郎の兄弟が、両親と一緒に住んでおりました。兄の太郎はよそに行く時に、父親から「天気がよさそうだから草鞋(わらじ)をはいて行け」と言われ、母親には「雨が降るかも知れないから下駄(げた)をはいて行きなさい」と注意されたら、左足に草鞋、右足に下駄をつっかかえて行くような、心の優しい親孝行者でしたが、弟の次郎は「エイッ面倒くさい」と言ってはだしで出かけるような、粗暴で短気者でした。
そんな二人の兄弟が、隣村の一人の娘さんに同時に恋をしてしまいました。娘は心優しい太郎が好きですから、時々二人はそっと会って、楽しく語りあっていました。弟の次郎はますます娘さんに対する思いをつのらせ、どうしても自分の嫁になってくれと、毎日のように言い寄るのです。そして力づくでも嫁にしてしまいそうになりました。困り果ててしまった娘は、「今晩村はずれの地蔵堂で太郎さんと会う約束をしておりますので、あなたのお嫁さんになれるかどうか、明日返事しましょう。」と言ってその場は逃れました。
その晩、次郎はそっと地蔵堂の陰に隠れて待っていると、太郎らしい人影がお堂の前にやって来ました。恋に狂ってしまっている次郎は、(太郎さえ居なければ娘は自分のものになるのだ)と考え、ふいに飛び出して短刀で心臓を一突きにしてしまいました。
その時牛頸山の峰に昇った十三夜の月あかりが、地蔵堂のあたりを照らし出しました。血に染って倒れている人影をよく見ると、太郎と思っていたのは、意外にも娘さんだったのです。
ほんとうに太郎を愛していた娘は、太郎が親孝行であると同時に、弟思いであることも知っていましたが、ひたむきな次郎の要求をこばみかねると共に、その性格も見ぬいていましたので、自ら太郎の姿をして身代わりになったのでした。
自分が好きだった人を手にかけてしまった次郎は、はじめて娘の美しい心情を知り、涙ながらに改心を誓い、太郎と一緒に遺髪(いはつ)を貰い受けて、隣村が見える自宅近くの道端に埋めました。そしてその上に二本の赤松の木を植え、田んぼの往き返りに季節の花を供えて、娘さんの冥福(めいふく)を祈りました。
それから二人は一生嫁をもらわず、仲良く人々のために尽くしたということです。
刀すすぎ池
牛頸の平田は、今でこそ南ヶ丘の団地造成につづく平田団地の造成が進み、道路も新しく広い道がつけられていますが、近年までは本村から遠く離れた飛び地で、牛頸から大佐野へ越す峠の猫のひたい程の所に、三軒の家があるだけのさびしい山の中で、ここに電灯がついたのは大野城市内でも一番遅く、昭和27年10月頃のことです。
しかし、そんな山の中でも、太宰府から大佐野、牛頸、梶原峠を越えて糸島、唐津方面に往復する人は、必ず通らなければならない山道で、商人や太宰府天満宮参詣の人達が、小銭を懐(ふところ)にして通行したため、これをねらって追いはぎ、強盗が出没し、人を殺して金を奪い、血のりのついた刀を、近くの小さな池で洗っておりました。そのためこの池の水はいつも赤く濁っていたので、土地の人達は刀すすぎ池と呼ぶようになったということです。
実際は池床が赤土のため、赤く濁っていたものでしょう。
下の地図は昭和44年に南ヶ丘、その後のつつじケ丘が造成される以前の地図です。現在の南ヶ丘・つつじケ丘は丘陵地だったことがわかります。刀すすぎ池のあった平田には家が3軒ほどあったようです。現在では刀すすぎ池は造成されてなくなっています。
底なし沼の人柱 
牛頸のイガイ牟田(いがいむた)の沼地のほとりで、一服していた山田のお百姓さんが、誤って愛用のキセルを沼の中に落としてしまいました。しまったと思いましたが、この沼は底なし沼と呼ばれて、沼の中に落ちたものは絶対に浮かび上がって来ないと言われていますので、入って探すわけにはいきません。大変惜しくて残念でたまりませんが、とうとう諦めて家に帰りました。 
それから数カ月たって、自宅の井戸浚(さら)えをしていますと、底の方で光るものがあります。拾い上げて水で洗ってみますと、牛頸の底なし沼に落とした愛用のキセルなのです。お百姓さんはびっくりしながらも、大変喜んで会う人ごとにこの話をしました。それから牛頸の底なし沼は、山田の井戸まで続いているという噂が広がりました。
また、牛頸に住む伊三郎という人が天狗松の天狗さんから、この沼は底なし沼だからどんなに長いもので計ってみても、深さを計ることはできないと聞いたものですから、長い長い矛を百本も準備して、継ぎ足しながら沼の中に突き刺して、とうとう九十九本を使いましたが底にとどきません。そして最後の百本目も沼の中にめりこんでしまいましたので、力尽きて断念してしまいました。そのため沼の東南側の岸をホコオレといい、今は訛ってホコデというようになったということです。
その頃太宰府から早良糸島(さわらいとしま)方面に往来する人は、太宰府市大佐野(おおざの)から平田、天狗松、イガイ牟田を通り、花無尾(けなしお)の地蔵の茶屋で一服して、畑ケ坂(はたかざか)、大利野添(おおりのぞえ)の丘にそって細い山道が通り、沼の北側を横切って花無尾の丘に上がっておりましたが、沼を横切る所だけはいくら土を盛って道普請(みちぶしん)をしても、すぐ沼の中にめり込んでしまい、村人も旅人も大変難渋(なんじゅう)していました。
今日も村中総出で近くの山の土を運び、道を作っておりますが、すぐまた同じ作業を繰りかえさなければならないと思うと、足どりは重く気力も失せて、ぼんやり沼地を眺めるだけでした。
そこへ一人の巡礼(じゅんれい)の娘が通りかかりました。村人達の難儀(なんぎ)を聞いて、
「私は幼い時に父母に死に別れましたので、諸国を巡礼しながら父母の霊を慰めてきましたが、早く父母のいる浄土(じょうど)とやらへ参りたいと、いつも考えていました。諸国をめぐり歩いている間に、人柱の話もたくさん聞いています。皆さん方や大勢の旅人のお役に立つのであれば、私を人柱にしてください。」
と申し出ました。昔から牛頸村には十六歳の娘を人柱にすれば、どんな難工事も必ず完成するという言い伝えがありましたが、聞けば巡礼娘も十六歳ということです。村人たちはみんなびっくりしてしまいました。そして有難い気持ちには感謝しましたが、見ず知らずの娘さんを人柱にすることはできないと、丁寧にお断りしました。
しかし、娘の決心は堅く、「今日まで諸国を巡礼することができたのは、多くの優しい親切な方々のお陰ですから、今そのご恩返しをして、父母の側に行けることは本望(ほんもう)です。と自ら沼の中にずんずん歩いて行って、とうとう底なし沼の中に沈んでしまいました。すると娘が通って行った跡だけは、みるみる水が乾いて一筋の道になりました。村人達は涙を流して巡礼娘が沈んだあたりに向かって手を合わせ、早速そこに土を盛って突き固め、さらに土を盛って突き固めながら、遂に立派な道ができ上がったということです。
その後村人たちは、この道を西の方に百メートル程行った所の花無尾の丘の道端にある六地蔵(ろくじぞう)の傍らに祠(ほこら)をたて、巡礼娘への感謝の供養(くよう)を怠らなかったということですが、今も六地蔵の左手に一つ離れた祠があるのが、それだと言われています。
イガイ牟田とは?
イガイ牟田とは、い草の繁った湿地の意味があるようです。牟田は湿地または泥沼などの意味です。イガイ牟田池は花無尾の丘(現在の平野小学校がある丘陵)と、上大利野添の丘(筑紫南ヶ丘病院や陸上自衛隊福岡自動車教習所)との間にはさまれた谷間の溜池となっています。
近年3分の1くらいに埋め立てられて狭くなっていますが、弘化(こうか)年間(1845年ごろ)と明治十年(1889)の2回にわたり牛頸字井手(うしくびあざいで)の北田井堰(きただいぜき)から中通りの山の下にトンネルを掘って猫池(ねこいけ)に水を送り、さらにイガイ牟田池に導き船頭ケ浦(せんとうがうら)、日の浦、三兼(みかね)の池をつないで春日、上大利、白木原の農業用灌漑水路が開かれています。
上大利の発掘調査中に三兼池で牛頸水を引く土管(直径約1メートル)が通っているのを確認しました。
江戸時代や明治時代のトンネル築造については、三兼池のほとりに建てられた白木原村の森山庄太さんの功績をたたえた記念碑に詳しく書かれています。
山田村のお百姓さんの話
山田村に住むお百姓さんの家の井戸から、落としたキセルが見つかったという話は次のような理由からだと考えられます。
昔牛頸に山田村の入会(いりあい:一定の地域の住民が、一定の森林などを共用し収益をあげること)林野があって、たきぎの採取、秣(まぐさ)刈りなどのために、山田村から牛頸まで牛馬を引いていき、この沼の水を飲ませていたからと考えられます。山田村は牛頸小字横峰に対し、代償として湿米(しつまい)を納めており、横峰の人たちはこの湿米を神社のお祭や庚申講のために使ったそうです。
十六歳の少女
十六歳の少女が人柱になったという話ですが、旧筑紫郡には女性が十六歳になると、「十六参り」と言って宝満山(ほうまんざん)の上宮にお参りして、良縁を願う風習がありました。それに宝満山竈門神社(かまどじんじゃ)の祭神(さいじん)玉依姫命(たまよりひめのみとこ)は、水分(みまくり)の神なので水を治めるために、十六歳の少女を捧げるという伝説が考えられたと思われます。
少女が命を捧げて造られた道は、現在県道が造られたために利用する人は少なくなりましたが、幼稚園や小学校の通学路として使われています。
 

 

●福岡の伝承
岩戸山古墳
“八女古墳群”と呼ばれる古墳密集地帯にあり、その中核をなす前方後円墳である。墳丘の長さは約140m、前方部分の幅は90mあまり、後円部分の直径は60mあまりであり、北九州で最も大きい前方後円墳である。6世紀に造られた古墳であるが、被葬者はほぼ特定されている。筑紫君磐井という地方豪族であり、当時の大和政権に反旗を翻した人物として日本史の教科書にも登場する。継体天皇21年(527年)、大和政権に不満を持っていた磐井は新羅の誘いを受けて、新羅遠征のために九州に赴いた近江毛野の6万の軍勢に対して進軍妨害を起こして乱が始まった。磐井は北九州一帯を制圧し、乱は拡大した。そして翌年になって大和政権は物部麁鹿火の率いる征討軍を派遣。その結果、磐井は敗れて斬られたということが『日本書紀』を中心に記録されている。大和政権から姓を授けられているなどの記述はあるものの、その勢力を考慮すると、磐井は北九州一帯を自力で治めていた独立勢力であったと推測される。むしろ大和政権が磐井を味方に取り込めなかった故の戦乱であったと解釈した方が良い。そしてそのような独立勢力が大和政権によって滅ぼされ併呑されていく流れは、吉備や出雲などと同じものであったとも考えられる。ただ吉備や出雲のようにかなり古い時代の出来事は“神話”となり、6世紀という比較的新しい時代に起こった磐井の場合は“史実”として残されたのであろう。現在、岩戸山古墳は国の史跡に指定されているが、その最も特徴的なものは“石人石馬”という独特の石像である。石に彫られた人物や動物などの等身大像は古墳の周辺に置かれ、他の地域に見られる埴輪のような意味を持つものとされている。特に岩戸山古墳では大量の石人石馬が出土しており、そのレプリカが置かれている。その姿は見慣れている埴輪とは異なるせいか異様であるが、かつてこの地に大和政権とは異なる勢力が存在していたと考えると、あながち違和感はない。ただ多数の石人石馬が破損した状態で発見されているが、この地を接収した大和政権軍によって破却されたものであるとされている。
紅梅地蔵
京の公家であった冷泉家の娘の紅梅姫が、花尾城主・麻生上総介重郷の側室として下ったのは、西国の太守・大内義興の養女として山口にあったためである。京都一の美女と謳われた姫と上総介が互いに見初めたためであるとも、義興の何らかの意思が働いたためであるとも言われている。いずれにせよ上総介は姫を迎えてからずっと傍に置くほど可愛がったのである。この光景に嫉妬したのは、上総介の正室である柏井の方である。柏井の方は何とか姫を遠ざけようと、腹心の飯原金吾に相談した。ならばと飯原は、大内家の右筆で親族の沢原市右衛門と相談して、偽の恋文を作り上げた。姫の字に似せた文を、畏れながらと上総介に見せると、すぐさま真に受けてしまった。裏切られたと思った上総介は、弁明を与える間もなく姫を屋敷から追い出したのである。紅梅姫の落胆は大きかった。身寄りもいないこの地で頼りとしてきた上総介から無実の罪を着せられ逼塞を余儀なくされたのである。もはやすがるものもなく、昼は侘び住まいの庵に籠もり、月の出る夜にだけ馬を駆って心を慰める日々を続けた。しかしそれも長く続かず、姫はとうとう自害してしまう。明応4年(1495年)8月14日のことであった。上総介が紅梅姫のために屋敷内に建てた御殿は、姫を追放してから娘の八重姫に与えられていた。しかしそこで寝起きするようになって娘は体調崩して寝込むようになった。ある時、母の柏井の方が見舞いに訪れた。その姿を見るや八重姫の形相は一変し、母親を押し倒して馬乗りになると、懐剣で肩のあたりを何度も斬りつけたのである。「妾は紅梅である。謀られた怨みを思い知れ」と叫び続けながら。柏井の方が受けた傷は致命傷にはならなかったが、七日七晩苦しみ抜いて、そして死んでいった。また八重姫はその後も何度が狂乱の態を見せたが、決まってその背後に若い女の姿がぼんやりと見えたという。紅梅姫を陥れた飯原金吾も、柏井の方の死と前後して無残な死を遂げた。一説によると、紅梅姫の一回忌法要で酒をしこたま飲み続け、その帰り道に自ら池に飛び込んで溺死したという。ただその直前に紅梅姫の名を叫び、己の両の指で顔を抉るように掻き毟って飛び込んだとされる。その頃になると、花尾城下の人々は奇怪なものを目撃するようになった。美しい月夜になると、馬の蹄の音がどこからともなく聞こえてくる。そして中空を月毛の馬が一頭、白い衣を身にまとった女人を乗せて、月に向かって駆けていくのである。その姿はまさしく城を追われ寄る辺のなくなった紅梅姫の生前の姿そのものであった。こうして城下の者で紅梅姫の無念の死とその祟りを知らぬ者はなくなったのである。最後に残った首謀者の一人、沢原市右衛門にも報いが訪れる。不意の用件で花尾城にやって来た市右衛門は、この日が紅梅姫の三回忌の法要であることを知らなかった。城を挙げての法要のため退散するわけにもいかず、半ば強制的に法要の席に臨んだ市右衛門は、終始畏れの色を隠せなかった。そしてそれが終わると這々の体で城を後にしたが、城門を出たあたりで事切れていた。額に馬に踏み割られたような跡が残っていたという。また一緒にいた侍の中に、道を疾走する月毛の馬を見たと証言した者があったが、確証はなかった。上総介は己の短慮を後悔し、何とか紅梅姫の怒りを抑えようと一体の地蔵を造った。それが“紅梅地蔵”である。戦前までは紅梅町に堂宇があったが、空襲のために焼失。戦後になって隣町にある浄蓮寺境内に移され、現在に至っている。婦人病などの女性の悩みに霊験があるとされ、紅や白粉を奉納して願を掛けると良いとされている。
浄蓮寺 / 浄土宗の寺院。慶長年間(1596-1615)に当地に創建。古くより「愛宕地蔵」が安置され、山火事から一農民によって持ち帰られ、町が大火の折もその家だけ焼けなかったという逸話を持つ、火除けの霊験あらたかな地蔵がある(一説では寛永年間の出来事とも)。また松尾芭蕉の碑などもある。
紅梅地蔵の異説 / 『日本の伝説33 福岡の伝説』によると、紅梅地蔵には異説があり、紅梅姫は安徳天皇の異母妹(あるいは母〔建礼門院のことか?〕の妹)であり、平家滅亡後に九州に逃れてきた人物とされる。源頼朝から探索の命を受けた麻生家政(麻生氏初代)によって見つけられ、成人した後に家政の子・資時の嫁となり、生を全うした。その姫の墓の上に置かれた石を地蔵としたのが“紅梅地蔵”であるとされる。
七霊の滝 (しちろうのたき)
史実では、平家は寿永4年(1185年)に壇ノ浦で滅びたことになっている。しかし全滅したわけではなく、一部は生き残り、九州へと落ち延びている。一団は大宰府を目指したが行く手を阻まれ、さらに肥後方面へ向かったようである。しかし源氏の追及の手は緩まず、尾島の合戦を経て、最後の合戦地とされる要川で戦いに臨む。既にその時には名のある武将はなく、この戦いで平家の一団は散り散りとなってしまうのである。この最後の一団の中に、7人の女官があった。彼女らは戦地を脱出し、要川を遡り、待居川に沿ってさらに山奥へと逃げていった。そして滝壺のあるところに辿り着いたが、もはやこれ以上逃げてもいずれは源氏の追っ手に捕まるであろうと悲観し、ならばと7人は滝壺に身を投げて亡くなったのである。その後村人はその亡骸を丁寧に葬り、滝壺のそばに社を建てて祀った。この滝壺は女官が身を投げたことから“七霊の滝”、社は“七霊宮”と呼ばれるようになった。そして亡くなった女官は源氏を恨んで鯰に化身した言われ、この辺りの集落では鯰を食べない風習があるという。また女官の木像をこの滝壺で洗い清めて雨乞いをすると必ず雨が降るという伝承も残る。
猫塚
県道30号線と92号線の交差点の角にある。塚を中心として小公園が形成され、そばにあるバス停も招き猫の姿をしており、ちょっとした観光スポットなっている。400年以上昔のこと、この地に西福寺という寺があった。その寺にいつの間にか1匹の大鼠が棲み着き、寺を荒らすばかりか、近隣の田畑も荒らし、人にも危害を加えることすら出てきた。困り果てた住職は、長年飼っていた猫に何とかならないものか愚痴をこぼす。すると猫は不意に姿を現さなくなったが、数日するとまた寺に戻ってきた。そして気付くと、境内至る所に猫が集まりだした。その数は数百匹。おそらく近郷にいる猫のほとんどが集結したのではないかという数である。その夜、寺では獣が争う大きな物音がしばらく続いた。そして夜が明けると、住職は恐る恐る本堂に入った。そこには大鼠が血まみれになって死んでおり、寺で飼っていた猫を始め多数の猫も息絶えていた。住職はこれらの死体を集めて1つの塚を造った。それが今に残る猫塚である。
宇賀神社
福岡県と大分県の県境に当たる山国川のほとりに、宇賀神社の小祠がある。行政区域としては福岡県に入るが、伝承としては大分県側の中津城にゆかりの場所である。豊臣秀吉の軍師・黒田孝高が豊前国6郡を領有したのは天正15年(1587年)のことである。しかしこの地には、転封を拒否したために改易となった城井(宇都宮)氏がまだ勢力を持っており、それらを排除することが重要な役目となっていた。黒田氏は武力によって城井氏を排除しようとするが、逆に大敗を喫してしまう。そこで長期戦に持ち込み、和議に持ち込むことに成功。嫡男黒田長政の嫁という名目で、城井鎮房の娘・鶴姫(千代姫とも)を人質に取ったのである。間もなく黒田孝高は、和睦の宴と称して城井鎮房を中津に呼び寄せ、中津城内で遂に暗殺に及んだのである。さらに城下の合元寺で供回りを討ち果たすと、城井氏の本拠としていた城井谷を攻め落とし、とうとう城井氏を滅ぼした。そして人質となっていた鶴姫も、もはや用済みとばかりに侍女共々13名、この山国川の河原で磔にして処刑してしまったのである。この非道な事件は、黒田氏の汚点とも言うべき存在となり、福岡に移封された後も、良からぬことが起こるたびに“城井氏の祟り”とまことしやかに噂され続けた。だが一方で、事件の舞台となった中津の地でも負の遺産として継承されていたのである。無残な死を遂げた鶴姫を憐れんだ里の者が、遺骸を埋めたとされる地に塚を築いていたのだが、元禄15年(1702年)、この塚から突如として“両足の生えた白い大蛇”が這い出てきた。あまりの不気味な姿に人々は恐れ戦いたが、中津藩の木村文兵衛という鉄砲の名人が3発で仕留めたのである。その怪物は、頭は亀か蛇のようだが、兎のような耳があり、鯰のような髭もあった。胴体は1丈(3m)ほどで、鋭い爪の生えた4本の足があった。この死体は塩漬けにされて中津城まで運ばれ、さらに江戸にいる藩主の小笠原長円に検分を願うこととなった。江戸に運ばれた死体を見て長円は満足し、さらに他の藩侯にも見てもらおうと段取りをしていたところ、その突然発狂し「妾は宇都宮の息女、鶴姫である。一族は罪なく黒田に殺され、家臣の多くも欺かれ黒田に殺された。妾も腰元と共に山国川の河原で磔となって殺された。七生までも化け物に生まれ変わって中津城の主を呪い殺す」と叫び続けたのである。さらに国許では怪物を退治した木村文兵衛が口から血を吐いて狂死した。慌てた重臣は、この怪物が城井氏の怨霊であると認め、江戸から再び中津へ送り返させて丁重に葬り、その横に石祠を築き、蛇神ということで宇賀大明神として祀ったのである。この甲斐があってか、小笠原長円の狂気は収まった。これが小犬丸にある宇賀神社の始まりである。中津藩はその後、小笠原氏から奥平氏へと代わるが、文化9年(1812年)、時の藩主であった奥平昌高が鶴姫の話を聞いて、宇賀神社の隣に「醍醐経一字一石塔」を建て、菩提を弔っている。宇賀神社は、明治になって貴船神社を合祀し、正式には宇賀貴船神社と称するが、今なお宇賀大明神を祀る石祠が残されている。
河童封じ地蔵
標高124mの高塔山の山頂には夜景を楽しめる展望台があるが、その脇に人目を引く小さな建造物がある。このコンクリートで出来た建物の中にあるのが“河童封じ地蔵”と呼ばれる地蔵尊である。堂内に入り、壁を背にしてある地蔵の横からその隙間を覗くと、背中の部分に金属の突起が見える。これが河童を封じるために打ち込まれた大釘である。そして以下のような伝承が残っている。高塔山のある周辺は、修多羅と呼ばれる村であったが、昔その近くの池で一匹の河童が馬を引きずり込もうとした。ところが逆に馬に引きずられてしまい、とうとう庄屋に捕まえられてしまう。そこで河童は「二度と悪さはしない」と命乞いをしたため、庄屋は地蔵の背中に舟釘を打ち込んで、この釘がある限り決して悪さをしないと誓わせたという。
この河童の悪さを封じたという伝承をモチーフとして、地元出身の作家・火野葦平が『石と釘』という短編を仕上げた。修多羅と島郷に棲む河童たちは毎夜のように上空で戦いを繰り広げ、翌朝になると戦いで死んだ河童の死体が粘液のようになって田畑に落ちており、近隣の人々は難儀していた。それを見かねた山伏の堂丸総学が河童を封じようと祈?を始めた。この山伏の法力を知っていた河童たちは一時休戦して、祈祷を止めさせようとさまざまな妨害を繰り返すが、山伏はそれに屈することなく、祈祷は一向にやまない。そしてある時、山伏が地蔵の背に触れると、柔らかくなっている部分を見つけた。すると用意した大釘をその背中に打ち込んだ。釘を打つために経文を手放した山伏は河童によって襲われて力尽きたが、釘は見事に地蔵に打ち込まれたため、河童は全て封じ込まれてしまったのである。この話はあくまで火野葦平の創作であるが、余りに有名になってしまったため、河童封じ地蔵の伝説として広く認知されるようになっている。
五万騎塚
“日本三大合戦”と呼ばれる戦いがある。関ヶ原の戦い、川中島の戦い、そして筑後川の戦いである。規模の大きさ、戦いの烈しさ故に挙げられるものである。五万騎塚は、この筑後川の戦いにまつわる碑である。南北朝時代の九州の勢力図は、懐良親王の登場によって大きく変化する。征西大将軍として九州に赴いた親王は、菊池氏・阿蘇氏など肥後の勢力をまとめて、南朝の一大勢力を作りだした。そして正平14年(1359年)、南朝方であった少弐氏が北朝側に寝返ると、親王は高良山の陣から北へと兵を進めたのである。一方の北朝側も少弐氏をはじめとして諸将が、南朝方の進出を阻止するために対陣した。遂に両軍は筑後川を挟んで一触即発の状態に至る。南朝方4万、北朝方6万という兵力であった。小競り合いが続いた8月6日の夜半、南朝の菊池武光は夜襲部隊を送り込んで合戦を仕掛ける。こうして始まった戦いは、翌日の夕刻まで続けられた。その戦いは凄まじく、北朝方では副将の少弐直資(当主頼尚の嫡男)が討死、一族23名、その他名のある郎党400余り、3000名を超える者が討たれた結果、全軍が大宰府にまで退却したのである。一方の南朝方も、主将の懐良親王が3箇所も深手を負い、主力の菊池勢も1800もの死者を数え、敵の退却を追うだけの余力もなくこちらも退陣したのである。両陣営とも戦場から退いたため、5000以上の遺体がその場に放置された。しかも季節は夏であり、腐敗した遺体の悪臭が高良山まで届いたという。やむなく高良山の僧が敵味方の区別なく遺体を集めて一箇所に埋めて供養した。これが五万騎塚の始まりであるされる。
浄念寺 空誉堂 (じょうねんじ くうよどう)
慶長9年(1604年)に落成した浄念寺は、舜道上人が開基である。そしてその境内にあるのが、舜道上人の師である空誉上人の墓を祀る空誉堂である。空誉上人は、福岡藩主黒田家にとって非常に深い関わりを持つ名僧でありながら、同時に、虚実を織り交ぜながら黒田家の暗部に根を張る存在でもある。史実とされる空誉上人の略歴は、空誉堂の横にある説明書に詳しい。播州の生まれであり、播州に所領のあった黒田孝高(如水)の帰依を受け、豊前中津へ転封となった時にも付き従っている。中津では合元寺を開基するなどしており、また朝鮮出兵の際には文官として従軍もしている。さらに関ヶ原の戦いの後に福岡へ転封となった際も付き従って、智福寺を与えられている。ところが慶長16年(1611年)、空誉上人は智福寺で捕らえられ、処刑される。その方法は残虐で、背中を太刀で切り割られ、そこに溶けた鉛を流し込んで殺したとされる。しかも死体は打ち棄てられ、埋葬を許さなかった。そこで弟子の舜道上人が決死の覚悟で死体を背負い、浄念寺まで運んで埋葬したのである。しばらくは祀られることもなかったが、墓のそばの松の木に鳥が止まると落ちて死ぬなどの怪事があり、次第に人々の信仰を得て小堂が建てられるようになったという。空誉上人が処刑された理由であるが、浄念寺によると、藩主・黒田長政と不和となって出奔した後藤又兵衛基次が幕府と敵対する豊臣家の味方となったため、昵懇であった空誉上人(一説では二人は叔父・甥の間柄とも)が説得に行ったが、逆に豊臣方に内通しているという讒言を受けて処刑されたとされる。だがこの理由には矛盾があり、空誉上人の処刑がおこなわれた時期には、後藤基次はまだ豊臣方に加わっておらず、内通云々という事態にならないのである。この手のひらを返したような仕打ちの真相が不明である故か、時代を経るに従い、空誉上人にまつわるまことしやかな噂が流布する。『箱崎釜破故』をはじめとする黒田騒動に関する巷説を記した書籍に、空誉上人の存在は取り込まれる。曰く、空誉上人は豊前の土豪であった城井鎮房の庶子であった。曰く、寺小姓を差し出すようにとの藩主・黒田忠之の命を拒否したために勘気を被り、空誉上人は処刑された。曰く、空誉上人が処刑された理由は、当時城下で起こったお綱の刃傷沙汰を巡る対立にある等々。いつしか空誉上人処刑を命じたのが2代藩主の忠之であるとされ、黒田騒動の発端となる事件の当事者というように誤解されるようになった。さらに黒田家に祟りをなす城井一族とみなされ、博多の町を代表する怨霊と化していったのである。
濡衣塚
国道3号線の脇、福岡都市高速の高架下というまさに大都会の一角にある塚である。玄武岩で造られた板碑は康永3年(1344年)の銘が刻まれており、相当古くから旧跡として認識されていたようである。この濡衣塚は、その名の通り、「濡れ衣」の語源となった伝承の残る地にある。聖武天皇の御代(724〜749年)、筑前の国司として都より下向したのが佐野近世である。妻と娘を連れての下向であったが、妻は筑前で病死。そこで地元の女を後妻とし、一子をもうけたのである。子供の出来た後妻は、世の常の通り、義理の娘となる春姫を大層憎んだ。そこで地元の漁師に言い含めて、春姫がたびたび釣衣を盗むと近世に訴え出させたのである。半信半疑の近世は、その夜、春姫の寝所を覗いた。すると姫の寝ているそばに濡れた釣衣が置かれているではないか。訴え通りの状況に近世は逆上し、娘の言い分を全く聞かず、その場で斬り伏せてしまったのである。
翌年、近世は夢の中で女が二首の歌を詠むのを見た。
脱ぎ着する そのたばかりの 濡れ衣は 長き無き名の ためしなりけり
濡れ衣の 袖よりつたふ 涙こそ 無き名を流す ためしなりけれ
この歌を詠む女が娘の春姫であると気付くと同時に、娘を無実の罪で斬り殺してしまったことを近世は悟った。娘を罠にはめた妻を離縁すると、近世は出家して石堂川のほとりに塚を建てて、肥前の松浦山に隠棲したという。
三郎丸の大樟 (さぶろうまるのおおくす)
樹高15m、幹周りは4mを越える大木であり、樹齢も1000年を超えるとも言われている。隣接する土地に神社があったり、この木を迂回するように道が出来ていることから判るように、周辺の人々から神木として崇められている。実際、この木の根元には石碑が建てられ、注連縄が張られている。また根元に造られた石垣は、石碑と同じ明暦元年(1655年)に庄屋の古江八右衛門が築いたものであるとされる。ちなみに“三郎丸”の名称は、この付近の地名から採られたものである。この巨木には河童にまつわる伝説が残されている。ある時、河童が牛を遠賀川に引きずり込もうとしたが、逆にそのまま引きずられてしまい、この大樟の木の下で力尽きてしまった。村人は、川で河童に襲われて人が亡くなることを憎んで、木に縛りつけると殺そうとした。そこで河童は命乞いをして、二度とこの集落の者の命を奪わないと約束した。河童は許され、それ以降口春の者が溺死することはなかったという。一方、別の話も存在している。河童は許されたが、縛りつけられた木が憎くてたまらない。そこで河童はこの木の根元を掘って、木を枯らそうとしたという。残念ながら、河童の復讐は不首尾に終わったと見るべきだろう。
龍宮寺 人魚塚
地下鉄祇園駅すぐにあり、博多の町の中心地と言っていいような立地である。寺の本堂も近代的な建物になっているが、その創建は平安末期頃まで遡ることが出来る。しかしその当時は、海辺にあったために潮が満ちると境内が浸水することから浮御堂と呼ばれていたという。現在の龍宮寺という名となったのは、ある怪事件が発端である。貞応元年(1222年)、博多津に人魚が打ち上げられた。その大きさは八十一間(約145.8m)という、とんでもない大きさのものであったと記録される。怪しいものであるから早速鎌倉の幕府へ知らせが入り、さらに朝廷からも勅使が検分に来ることになった。そして博多に到着したのが冷泉中納言であり、浮御堂にしばらく滞在することとなった。地元の者は不老長寿の妙薬であるとして人魚を食べようとしていたのであるが、占術の博士・阿部大富(あべおおとみ)が占ったところ、この人魚は国家長久の瑞兆であり、手厚く葬ることに決まった。そこで人々は勅使の冷泉中納言が滞在した浮御堂を適地として、そこに人魚を埋めたのである。そして人魚が龍宮から来たものであると見なして寺の名前を龍宮寺とし、山号を中納言にちなんで冷泉山としたのである(寺の所在地である冷泉町は、この冷泉山から取られている)。龍宮寺の境内には、人魚を埋めたことを示すかのように人魚塚が建立されている。そして本堂内には人魚の絵の掛け軸と共に、人魚の骨が安置されている(常時の一般公開はされていない)。明治頃までは、月1回の縁日になると骨を浸した水を参拝者に振る舞っていたという。しかしその後、数多くあった骨は散逸し、現在では数本のみが残されているだけである。
皿屋敷跡
全国各地に「皿屋敷」と呼ばれる伝説が残されている。旧・碓井町にも、この皿屋敷跡と呼ばれる場所があり、井戸に身を投げて死んだ「お菊」さんを祀る祠がある。石竹という所に清左衛門という豪農が住んでいた。ある時、賓客があって大いに饗応した。そこで出されたのが家宝とも言うべき皿であった。宴も終わり、それらを片付けようとすると一枚が足りない。清左衛門は下女のお菊に問い質したところ、妾に渡したと答えた。ところが妾は知らないと言う。言い合いになったところ、清左衛門は皿をなくしたのはお菊と断じ、散々に怒ったのである。その夜、罪を被せられた格好のお菊は、屋敷内の井戸に身を投げて死んでしまった。それから毎夜、井戸からお菊の亡霊が現れて、「一つ、二つ」と数えだし「九つ」と言ったところでワッと泣き叫ぶ声が聞こえたという。皿屋敷跡にはお菊大明神という小社が建てられている。昭和の初めに初めて建てられ、現在のものは平成8年(1996年)に建て替えられた。壁や天井は地元の絵師が描いた花鳥図で覆われており、実に華やかな印象がある。またこの小社の前には、お菊が身を投げたと言われる井戸が残されている。碓井の皿屋敷伝説も典型的なストーリーが展開されるが、その後に非常に不思議な後日談が加わっているのが、他に類例を見ない点である。死んだお菊には、三平という名の情を通じた男がいた。三平は清左衛門の屋敷内の怪異を聞き、回向のために四国霊場八十八箇所を廻ることにした。そこにお菊の母親が是非にということで、三平は一緒に旅立ったのである。八十八箇所巡りを終えて播磨国の某所に来た時、お菊の母親が病で倒れ、そのまま亡くなってしまった。三平はお菊の母親の菩提を弔いながら、結局その地に留まることとなったのである。しばらくして、三平の所にある女が住み着いて、所帯を持つことになった。二人は仲むつまじく暮らしていたが、この地に名僧が来て加持をおこなっているのを聞き、二人してお菊の母の菩提を弔うために参詣した。ところが法会が終わろうとする時、いきなり激しい雷雨に見舞われた。雨はすぐ止んだので、三平は帰ろうと妻の方を振り向くと、そこには妻の姿はなく、着物だけが抜け殻のようにあるだけ。驚いた三平が着物を掴むと、中から一枚の皿が出てきた。それは、かつて清左衛門の屋敷で紛失し、お菊が死ぬきっかけとなった皿であった。全てを悟った三平は、名僧に全てを語り、お菊の菩提を弔うために奉納したのである。これが明治9年(1876年)に福岡県が編纂した『福岡県地理全誌』にまとめられた“皿屋敷址”の概要である。現在、皿屋敷跡から少し離れた永泉寺の境内に、お菊の墓と称するものが、ほとんど台座だけの状態で残されている。また、お菊の打掛、脇差、当時清左衛門の客間にあった掛け軸が、碓井郷土館に収められているとのこと。ただしお菊の皿については、大正頃まではあったらしいが、現在は行方不明という。
香椎宮 (かしいぐう)
主祭神は、第14代仲哀天皇と神功皇后。仲哀天皇が熊襲平定のために九州に至るが、その途中で急に崩御される。そこで神功皇后が、急逝した橿日宮に天皇の御霊を祀ったことに始まるとされる。さらに月日が流れ、養老7年(723年)神功皇后自身の神託があり、朝廷によって社殿が造られた。このような経緯から長らく“香椎廟”と呼ばれ、神社や神宮の名を冠することはなかった(現在でも香椎神社・香椎神宮ではなく“香椎宮”が正式な名である)。香椎という地名は、橿日宮にあった“棺懸の椎”に由来する。神功皇后が、仲哀天皇の亡骸を収めた棺を立て掛けたことから名が付いた木である。この時、椎の木からかんばしい香りが漂ってきたことに由来すると言われる。現在でも「古宮」として橿日宮跡が残されており、そこに棺懸の椎がある。また香椎宮境内には、綾杉という神木がある。神功皇后が三韓征伐から戻った折、剣・鉾・杖を埋めてその上に「とこしえに本朝を鎮め護るべし」と杉を植えたものである。葉の形状は他の杉と異なっていて、葉が交わった様子が綾紋のようであるために綾杉と名が付いたとされる。また大宰府の帥(長官)として赴任した者は、香椎宮へ必ず参拝して、神職よりこの杉の葉を授かり冠に挿すのが慣例であったという。香椎宮の飛び地としてある不老水大明神は、仲哀天皇・神功皇后に仕えた武内宿禰が、朝夕に水を汲んで天皇の食事に使っていたとされる湧水を祀ったものである。不老水の名は、武内宿禰もこの水を使用して長命を保ったために付けられた。名水百選にも選ばれ、今でも飲用可である。
稗の粉池 お糸の墓 (ひえのこいけ おいとのはか)
この辺り一帯は昔から灌漑用水が足りないために旱魃に襲われることがしばしばであった。そこで村人は冷井川の湧水を塞き止めて、ため池を造った。それが稗の粉池である。しかしその完成にこぎ着ける中で、一人の少女の犠牲があった。ため池造りは難工事であった。堤防が幾度も決壊しては、造り直すことになる。ある時村人は人柱を立てる話をするが、親子兄弟を犠牲にするぐらいならばと躊躇った。そばで話を聞いていたのは、14歳になるお糸であった。お糸は父の文七を亡くし、母一人子一人の身であった。どうせ一度は死ぬ身であるならばと、お糸は母親に人柱になることを告げた。母親は止めたが意志は固く、泣く泣く娘の願いを聞き届ける。人柱となる当日。身を清めたお糸は白装束に身を包み、輿に乗せられ村中を廻った。一行が堤防に着くと、村人は泣くばかりで、誰もお糸の入った穴に土を掛ける者はないために、役人は早く土を掛けるように命じる。そしてお糸は「死んでいく身に不足はないが、後に残る母さんを頼みます」と言うと、手を合わせ念仏を唱えて人柱となったのである。その時母親は池の向かいにある山の上で娘の名を叫び続けたという。稗の粉池は享保3年(1718年)に完成。それから池の堤防が決壊することはなく、土地は豊作で潤った。村人はお糸の供養のために地蔵尊を造り、それを「お糸地蔵」と名付けてお堂に安置した。そして稗の粉池の堤防の上にお糸の墓を建てた。さらにお糸が人柱となった8月24日に「お糸祭り」を催し、両親の墓のある大泉寺で供養の読経と於糸地蔵縁起書が語られる。さらに地区こぞっての盆踊りもおこなわれ、お糸の霊を慰めている。
宗像大社
根の国へ赴くことになった素戔嗚尊が、高天原にいる姉の天照大神に会おうとしたところ、天照大神は素戔嗚尊が高天原を奪いに来たと思い込んで弓矢を携えて出迎えた。素戔嗚尊はその疑念を解くために「誓約(うけい)」をおこなうことを提案、素戔嗚尊の持つ十握剣を天照大神が受け取って噛み砕き息を吐くと、三人の女神が生まれた。そして天照大神の持つ八坂瓊之五百箇御統(勾玉と腕飾り)を素戔嗚尊が受け取って噛み砕き息を吐くと、五人の男神が生まれた。これにより、自分の持ち物から女神が生まれたとして素戔嗚尊は自らの清廉を宣言した。この天照大神と素戔嗚尊の誓約によって生まれてきた三人の女神が、田心姫神(たごりひめ)・湍津姫神(たぎつひめ)・市杵島姫神(いちきしまひめ)の「宗像三女神」である。その三女神が天照大神より「歴代の天皇を助け、また歴代の天皇より祀られよ」という神勅を受けて降臨したのが宗像大社の始まりである。宗像の地は日本と朝鮮半島を結ぶ海路の要衝であり、宗像大社は、玄界灘に浮かぶ孤島の沖ノ島に沖津宮(田心姫神を祀る)、九州寄りの海上にある大島に中津宮(湍津姫神を祀る)、田島にある辺津宮(市杵島姫神を祀る)の3つの宮によって成り立っており、それらを直線に結ぶと、朝鮮半島や中国大陸へと繋がることになる。特に沖津宮は宗像大社の中でも最も聖域であり、神職以外は年一回の祭祀を除いて上陸を許されず、未だに女人禁制の地である。また辺津宮は宗像三女神降臨の地である高宮祭場があり、境内にある第二宮・第三宮には田心姫神と湍津姫神を祀っており、参拝の中心となっている。宗像三女神は海路の要衝にある神であり、道主貴(みちぬしのむち)と呼ばれて、あらゆる交通を司る神とされる。そして九州と近畿を海上交通で繋ぐ地域に宗像三女神を祀る神社が数多く建てられている。
豊前坊 高住神社 (ぶぜんぼう たかすみじんじゃ)
高住神社の主祭神は豊日別命といい、豊前と豊後の国を人格化させた神であるとされる。五穀豊穣、牛馬安全などの国造りの基盤となる農耕の神の一面を持つ。また一説では豊日別命は猿田彦神と同一神であるともされている。しかしこの主祭神以上に有名なのは、日本八大天狗の一人であり、九州の天狗の頭目とされる豊前坊天狗であり、この神社に祭神の一柱として祀られている。神社のある英彦山は九州随一の修験道の修行場であり、その関連から天狗の住まう聖地とされたと考えられる。豊前坊は配下の天狗を使って、欲深い者に対しては子供を攫ったり家に火を付けたりして罰を与え、心正しき者には願い事を聞き届けたり身辺を守護したりするとされている。
八大天狗 / 愛宕山太郎坊、比良山次郎坊、鞍馬山僧正坊、飯綱三郎、大峰山前鬼坊、大山伯耆坊、白峰相模坊、英彦山豊前坊とされる。
海御前の墓 (あまごぜのはか)
寿永4年(1185年)、平家は壇ノ浦の合戦において敗れるが、その最期の合戦では多くの武者や女官が入水して果てた。平家の大将の一人であった平教経の妻(あるいは母)も、安徳天皇と二位の尼が入水するのを見届けると、自らも海の藻屑となった。そして数日後、壇ノ浦から少し離れた大積の浜に一人の美しい女官の遺体が打ち上げられた。村人はそれを哀れんで、浜に懇ろに葬ったとされる。それが海御前の墓である。時代が過ぎ、壇ノ浦で亡くなった平家の一門の霊は、男は平家蟹へ、女は河童へ化身したとされた。そしていつしか平教経の妻は“海御前”と呼ばれ、女河童の総帥とみなされるようになった。この海御前は普段は周辺の河童を支配しているが、水が温む季節になると自由に解き放つという。そして源氏にゆかりの者を水に引きずり込むとされる。しかしソバの白い花が咲くと、その白い花を源氏の旗印のように恐れるともいわれる。海御前の墓は、大積天疫神社の境内、水天宮のそばにある。墓以外にも海御前の碑や、河童の碑、はたまた河童のオブジェまである。またこの大積の地には「河童の詫び証文」と呼ばれる伝承も残されており、河童にまつわる伝承が多く残されている。
平家一門と河童
九州の河童の総帥と言われる「巨瀬入道」は、平清盛の生まれ変わりであるとされており、水天宮に祀られている二位の尼(清盛の妻)に時々逢いに筑後川を訪れるが、その時は川が大荒れになるとされる。多くの者が入水して亡くなったという史実から、平家一門が水を司る神や妖怪に化身したという伝説が生まれたと推察される。
宗岳寺 羽犬塚 (そうがくじ はいぬづか)
筑後市のマスコットキャラクター「チク号」は、翼の生えた犬という奇妙な容姿をしている。これはこの町に古くから伝わる伝説から取られたものである。さらに言えば、この伝承が残されている羽犬塚という地名も、この伝説が由来となっている。宗岳寺に残されている立派な石塔が羽犬塚である。中央部分に「犬之塚」と彫られており、犬を供養する目的で作られたものであることは明白である。ただし、この羽犬についての伝説は、全く正反対の内容として伝わっている。天正15年(1587年)4月、天下統一のために九州に攻め入った豊臣秀吉は、この地を荒らし回る怪物・羽犬を退治する。しかしその怪物の知勇に感じ入るところがあり、塚を築いたという。これが一つ目の伝承。一方、同じく九州遠征を果たした秀吉は、そのお供として羽の生えた犬を連れてきたのであるが、この地でその犬が病死したために家臣が塚を築いたという。これが二つ目の伝承である。いずれにせよ、翼を持つ特異さだけではなく、天下人を魅了し、立派な塚を築かせるだけの不思議な犬だったということになるだろう。
一寸坊の墓
昔、小松ヶ池の大蛇と村娘との間に一人の男の子が生まれた。その子は体が小さかったために「一寸坊」と呼ばれるようになった(有名な『御伽草子』に登場する一寸法師とは全く出自が異なる)。景行天皇の九州遠征の際に仕え、その危難を救って多くの褒美をもらったという。その褒美を元に一寸坊は先祖供養のために49の寺院を建立し、その地は菩提と呼ばれるようになった。そして死後に菩提の地に供養塔が建てられたとされる。かつて49の寺院が建ち並んでいた地には、わずかに寺院が一つだけ残されているだけであるが、その宝積寺近くの墓地の一角に一寸坊の墓がある。墓と称されているが、実際には石塔の一部であり、建造されたのも鎌倉時代と推定されている。
お綱門 (おつなもん)
福岡城は黒田藩52万石(後に43万石)の居城である。現在は城跡のみが残る史跡であるが、かつてそこに「お綱門」と呼ばれた曰く付きの門があった。触ると熱病になると言われ、ここで藩士の妻であるお綱が怨みを持って亡くなったという伝説がある。2代目藩主・忠之が参勤交代の折、大阪で采女という芸妓を寵愛して福岡まで連れて帰った。しかし家老にたしなめられて、近臣の浅野四郎左衛門に第二夫人にするよう下げ渡した。その美貌から四郎左衛門は采女にのめり込み、正妻のお綱とその二人の子供を下屋敷に置いたまま、顧みなくなった。やがて生活にも窮するようになったお綱はせめて子供の節句の支度にと、采女の許に下男を送るが相手にしてもらえず、下男はそれを苦に首を吊ってしまった。この出来事でお綱は狂乱。二人の子供を殺し、その首を腰にぶら下げると、白装束に薙刀のいでたちで四郎左衛門のいる屋敷へ決死の駆け込み。しかし四郎左衛門は登城して不在、逆に寄宿していた浪人の明石彦五郎に斬られてしまう。せめて一太刀浴びせたいと、お綱は息も絶え絶えに城に入り込むが、門に手を掛けたまま絶命してしまう。寛永7年(1630年)の桃の節句の日であったとされる。そしてその門がお綱門と呼ばれるようになった次第である。四郎左衛門は直後から熱病に罹り、約1年後に病死。明石も、お綱の亡霊から聞きだして発見した刀が黒田藩紛失の家宝であったために、酷い拷問を受けて刑死したという。またお綱が襲撃した浅野家の屋敷は「凶宅」とされて、長宮院という寺院が建立されるまでは放置されていた。そしてお綱の住んでいた下屋敷一帯(馬出)は近年まで大火に見舞われることが多く、お綱の祟りと言われて、その哀れな母子の墓を建立したほどである。その他にも、お綱門近くの草木を持ち帰ると祟りがあるなど、お綱さんの祟り話は福岡の町ではまことしやかな噂として語り継がれている。現在、お綱門と呼ばれた門は存在しない。明治維新後、福岡城が解体された時に、門は前述の長宮院に納められたといい、その後の空襲によって焼け落ちたらしい(長宮院跡は、現在の福岡家庭裁判所となっている)。そして今では、お綱門がどの門を指していたかも不明である。福岡城の東御門がそれという説もあれば、その奥にあった扇坂御門こそがとも言われる。さらにはその2つの門の間に別の門があったという証言もある。  
 
 熊本県

 

●みなまたの民話 水俣市
底なし沼と逃げ口
昔、むかし、大川内の尾ケ野近ぺんの山が活火山じゃったころ、そん噴火ででけた底なし沼ち言われとる池があった。この池の付近が「池ノ元」ちゅう地名で呼ばれ、今も小字名で残っとったい。
そん村にいさぎゅうおどけもんがおったげな。 ある日、こん剽軽者がこの池ん端に遊びにきねた。むかしからこの池には大蛇が棲んどるちゅう言い伝えがあり、村人はみんな怖がってあんまり近づかんじゃったそうじゃ。ばってんか、それまで大蛇ば見たという者なだーるもおらんじゃった。
剽軽者のこん男はついおどけた気持ちになり、池に向かって大声で「大蛇はおっとかぁ!!、おっとなら出てこい!!」と呼んで、尻ばひっぱっておどけてペンペン叩いた。途端に生ぬーっか風が吹き出し、アッと思う間に今まで晴れとった空が一ぺんに真っ黒か雲に覆われ、静かじゃった池の真ん中に突然水柱が立った。と同時に突如太か口ば開けて大蛇が水面に現れ、男めがけて襲いかかってきた。男はまさか大蛇がほんなこて出るちは思うてもおらんじゃったので、腰のつっかんぬぐるごてびっくりして、慌てふためき市ノ木の方さん薮くらばてんてこ舞して逃げたげな。男が逃げたところば逃げ口というて、今でん小字名が残っとるばい。
こん話しゃ、昔底なし沼ち言われとったほどじゃから、子供たちが遊びに行って誤って沼に落ちこめば上がるこつができんから、沼に近づかんごつ戒めたもんじゃろち言われとる。今じゃ長い年月が経って土砂で埋まっとるばってん、湿地で今でんはまれば上がるこつができんじゃろち言われとったい。
河童の恩返し
浜ン広田どんが子供ンころ、夏休みにゃ久木野ン叔母さんが家よう遊びに行き、近くの竹下渕に泳ぎ行きおった。竹下渕はいつも碧々と水ばたたえて、ほんなこて河菫の棲みそうな渕じゃった。
ある日、友達とバチャバチャ泳いどったら、浅瀬から急に深みにはまってうんぶくれそうんなった。アップ、アップしとっと突然おなかんあたりがぬーくなって、何かわからんばってん腹ば下から支えられたごたる感じになり、溺れるどころか水面に浮いとるごつ軽うなった。こんこつがあってから彼は急に泳ぎがうまくなった。子供心にも不思議に思うたが、「こらぁきっと河童が俺に泳ぎば教えてくれたっばい」。そげん思うと彼は河童に何かお礼せんばならんち思うて、叔母さんの家に戻りつくと今日の出来ごつば一部始終話し、次の日叔母さんからソウメンと河童の大好きな胡瓜ばもらい、河童にお礼ば言うて川の深みにそれば流した。それから安心して泳ぐこつができ、だんだん泳ぎも上手になったげな。そして泳いだあとはいつも友達と一緒に魚ば捕って遊びおった。
しばらく経ったある日のこと。みんな遊び疲れてそろそろ家に帰るうと、みんなが着物ば脱いどっとげ行くと、彼のところにゃ鮠や鮒などがいっぱい串刺しにして置いてあった。 彼は町の子じゃっで魚捕りは上手じゃなかったで、狐につままれたごたる気持ちでおっとこれ友達が来て、そん魚ば見てびっくり。
「そげんうんとこせ、ぬしが捕ったっや」と聞いたばってん、彼はあいまいに、「うん、うん」と答えるしかなかったったい。
家に持って帰ると叔母さんはいさぎゅう喜んだ。彼は「これもきっと河童にソウメンと胡瓜ばご馳走したお返しじゃろう」と考え、それからも毎日叔母からもろうて供え物ばした。しかし、そんころ農家の暮らしや貧乏じゃったで、ソウメンな、いっでんかっでん食べられるちゆうわけにやいかんじゃった。
ある日、「もう、そしこ持っていけばよかがね。もったいなかでもう持っていくな」と叔母に止められた。ばってん彼の心は納まらず、そん後は叔母にかくして持っていくごつなった。叔母はそんこつばちゃーんと知っとったばってん黙って知らんふりをしとった。
それから暫らく経ったある日のこと、「今日はこれば持って行かんね」と言って、ご仏飯の中に線香の灰ば包み込んで持たせっやった。何ンも知らん彼は叔母の言うごつ持って行き、いつもんごて川に流した。
遊びだれてさあ帰ろうと思い、着物ば脱いだとこに行くと、いきなりニューッと岩かげから河童が出てきた。
ハッと驚く彼に「もうお別れだね。あしたから会えんごつなったばい。長い間有難うな」と言うよか早よ手を振ってドボーンと水底に消えてしもうた。
突然のこっで、彼はなんでそうなったのか、そん時にゃ理解できんじゃったばってん、そんこた自分一人の胸ン中に納めて誰にも言わんじゃった。そん訳がわかったのは彼が大人になってからじゃった。―河童との仲が悪うなるごつ、叔母さんが河童の一番嫌いな線香の灰ばお仏飯に入れたからじゃなーと。 
昔から子供が川遊びに行くときゃ親たちから、川遊び行くとならお仏飯ば食うて行け」とよく言われとったこつば思ぃ出した。 折角、河童と仲良しになったち喜んだつもいっときに間、暮らしが貧しかばっかりに河童が一番嫌いなこつばしてもうたったい。そるばってん、利口な河童はそのいきさつば一部始終知っとったっじゃろ、そん証拠にゃ普通なら悪賢か河童じゃばってん、そん後も、彼には何ンもいたずらはせんじゃったち話したい。
(注)うんぶくれそうんなった……溺れそうになった。いつでんかっでん……いつでも。常に。始終。遊びだれて……遊びつかれて
金神どん
むかし、古里の田頭に「こんじんどん」ちゅう神さんがおらったげな。こん神さんなあんまり目立たんじゃったばつてん、いさぎゅう運の良うなる神さんで、お参りすれば金がようぬさるちいわれとった。
ある日、村ん衆が寄り合いばして村ん中に農道ば造るごて決めた。ところが具合の悪かこてな、そん道ば通すところに金神どんが座っとらすもんじゃっで、ほかんとこれ移さんばんごつなったったい。金神どんな石でできとったで、村ン長老どんが代表で金神どんにお願いばせらしたげな。
「金神どん、金神どん、村中で話し合いばして、こげ農道ば造るごつ決まったで、ほかんとげ移ってもらわんまんばってん、移ってよかれば軽うならんな。移るごたなかなら重うならんな」と頼まったちたい。そしたら、いつの間にか軽うならしたげな。 お陰で何か月か経って素晴らしか農道が出来上がったそうな。
金神どんば移したところは石で囲み、回りに南天の木ば三本植えて、村中で祀ったそうたい。なして三本植えたか、その訳は誰も知っとるもんなおらんじゃった。また、そん訳ば詮索するもんな銭のぬさらんごつなるち言われ、尋ぬる者なおらんじゃったそうじゃ。
今じゃ南天が何本も生えており、石も無くなってしもうたので、どれがどれだかわからんごつなってしもうたたい。
(注)ぬさる……授かるの意
田頭のお稲荷さん
むかし、古里の田頭に狐岩ちゅう狐ン棲家があった。そこは周囲を木に囲まれとったが、朝日ン射し込む明るか岩場でそけにゃ八〇匹から多かときゃ一〇〇匹の狐が棲んどったそうじゃ。狐が全部集まったときゃ、ちょうど黄色か布ば地面に敷きつめとるごたった。
こん狐たちゃ昼間は岩場で昼寝ばしたり、子狐たちゃはらぐれしたりしとるぐうたらもんじゃったが、晩になると目の色ば変えて村里に下り、田畑の作物ば荒したり鷄ばおっとって食ったりして、村ん衆に悪かこつばつかりしとった。
一人の村人が、狐の悪さすっとば見るに見兼ねて、こん狐岩ば焼きこさいでしまおうち考え、煙で燻し殺すこてした。
男はまず、燻す材料の杉の葉ば中小場、大川内、寺床、越小場あたりまで採りに行ったげな、拾い集めた杉の葉ば狐岩んそばに山んごてこずみ上げた。
明けん朝早く狐岩に行ってみると、狐たちゃまだ寝とった。
男は「しめた!!」と思い、山んごてこずんだ杉の葉ば一把一把岩の回りにこ積みたて、「ざま見ろ」ち火ばつけた。
五時間も経つと、出頭はもちろん、上の方は中小場、大川内まで、下ん方は有木から久木野辺まで煙が一ぱい立ち込めた。村中があんまり煙たかもんじゃっで、焼くとば止めさしゅちしたばってん、男は頑として聞かんじゃったげな。
こんなことが七日七晩つづいて八日目の朝、ようやく火は消えたので、昼ごろ村ん衆たちが来て岩ん中ば見ると、親狐が子狐ば抱くごてして死んどった。
「まこてー、ぐらしかこつばしてしもうた」と呟くもんもおれば、泣き出すもんもおったげな。
煙で燻した男は、それから十日もせんうち死んでしもうた。村人は罰があたったといい、狐岩の近くにお稲荷さんば祀り、毎月揚げ豆腐などば供えて供養をしたそうじゃ。
その後の噂によれば、岩を燻したとき狐の一部は山奥に逃げ出し、そのなかの一部は人間に化けて水俣まで下り、船ば借りて乗りかえ乗りかえしながら中国に渡ったちゅう話じゃった。
(注) はらぐれ……戯れ合うこと。たわむれること。焼きこさいで……焼き払って。ぐらしか……可哀想か。
山姥の話
むかし、大川内に一人の樵夫が住んどった。ある日奥山に入って材木ば切り倒しておると、突然目の前に山姥か何かわからん異様な女子が出てきて、「お前は、わたしば怒ろしか女子が出て来たち思うとっどが?山姥か川女かどっちだろうかと迷うとるじゃろが。ほら、いま、どげんして逃ぎゅうかち思うとっどが」と、その女ごは樵夫が思うとるこつや考えとるこつばいっちょいっちょ言い当てるので、なお恐ろしゅうなってガタガタ震えとった。
「はあ、これが山姥とちゅうとばいなぁ」と思いながら、わがでも気づかんうちに木の小枝ば手に取って膝にあて、ポキッと力いっぱいへし折った。とこるが真ん中で二つに折れた切れっ端が、そん女子の向う面にパシッち音んするごて当たった。本人さえ全く思いがけんなかこてなった出来ごつに、この山姥の神通力も通ぜんじゃったっじゃろ、「お前は思わんこつばする男じゃな」と言い捨てて、姿ば消してしもうたちゅう話じゃ。
“無意識に思いがけんなかこつばする人は怖か“ちゅう戒めで、さすがの山姥も手が出らんじゃったち話たい。
谷道のこっけ狸
大関の山に赤い夕日が山肌ば染め、やがて鶴の村に灯がともりはじめる日暮れどき、今日も無事に山仕事ば終えて家路を急ぐ一人の若者がおった。手に持った袋の中の雑魚ば噛み噛み坂道ば登って行くと、ちょうど谷道にさしかかったときにゃ辺りは薄暗うなり、誰彼の見分けがつかんぐらいじゃった。と、そこへ「兄ちゃん、迎えに来たばい。どう、そん袋は俺やらんな、持って行くで」と絣の着物ば着た弟が道の真中に立っとった。兄「いんにやよか、軽かで」。弟「そいばってん、山仕事でだれたちがね」。兄「なんのなんの、袋いっちょぐらい何ちゆうこたなか」。弟「せっかく俺が迎えにきたとこれ……」。
弟はしゃいがもっでん雑魚ん入った袋ば持たせろちいう。そんとき、兄は明こ暗ん薄明かりのなかで、弟の絣模様があんまりはっきり見ゆっとに気がついた。
「こんわろが、俺ばだまくらかす気か」と足許にあった小石ば拾って投げつけた。
途端に弟は日当ン村ん人の飼い犬の「クマ」になって、一目散に山ん中へ逃げこうだげな。
兄は、大急ぎで家に戻り着くと、弟に、兄「わや、俺ば迎えに来たな?」弟「いんにゃ、なんの迎えに行こん、今さっきまで畑におったっじゃもね」と怪訝な顔して兄ば見た。兄は「ははぁ、やっぱあれは、こっけ狸の仕業じゃったばい」と、あとで弟たちにさっきあったこつば一部始終話して聞かせたげなたい。
こん谷道のこっけ狸と二の坂んこっけ狸は村ん者がよう騙されるもんじゃっで、一番怖がっとったちゅう話たい。
(注) しゃいがもっでん……無理やりに、遮二無二、強引に明こ暗ん……黄昏、夕方。わや……久木野方言で、同僚以下の者への呼びかけ。水俣方面では「わら」こっけ狸……年老いた狸で、長い経験をつんでずるがしこい古狸
二の坂のおまん狸
二の坂の道筋ん山に「おまん」ちゅうこっけ狸が棲んどったげな。人間ば騙くらかすこた朝めし前、また歌が上手で人ばからこうては一人で?いや一匹で面白がっとった。噂ば聞いた人びとは、朝夕薄暗いうちゃみんな怖がって、こん峠ば越ゆるもんなおらんじゃった。
ある日のこと、村の庄屋どんが、まだ明けきらん薄暗か中ば愛馬に打ちまだがり、気に入りのお供えば一人従えて狩に行く途中、今日の獲物ばあれこれ想像しながる二の坂ば登っとらしたげなたい。
明けん明星が姿ば消すころ、坂ん途中の「下駄取り坂」ちゅうて、雨上がりにゃ下駄履いて通ればおっ取られるごつ粘り気ん強か赤粘土の坂道ばようよう登りきったとき、白々明けかけた朝露の中ば、庄屋どん方の下女がゼーゼー、ゼーゼー息ば切らしながる後ろから追いかけてきて、「旦那さん、旦那さん、奥さんが子供ん生まるっち騒動しとらすで、狩りは止めて早う帰って下はりまっせ」「なんてやッ、奥がお産を?……」突然のこつで庄屋どんな一瞬めんくらわしたが……、はて、今ごろ奥が子供ば産むはずはなか……こらおかしかぞ?ハハァ、こやつは「おまん狸」の仕業じゃな」瞬時に気付いたばってん、さすがは庄屋どんたい、顔には出さずいきなり馬ん上から腰の大刀を抜く手も見せずに下女を目がけて切り払った。哀れにも「おまん」狸の首はころりと落ちて泣き別れ。
それからは、二の坂にゃ人間ば騙す狸は出らんごつなって、村人は安心して夜道でんこん坂ば越ゆるごてなったちゅう話たい。
もて木川の母子悲話
むかし、むかし、まぁだ道らしか道じゃなか、人が通って自然にでけた里道や、獣の往き来でいつの間にかでけた山道ば利用しとったころのこつじゃった。
もてぎ川の川向こうの山間に、母一人子一人の睦まじい親子が住んどった。ある年の梅雨どきじゃつた。連日の雨で暮らしに欠かせん塩ば切らしてしもうて、どげんしてん川向こうの店まで買いに行かんばならんごつなった。長雨で川ん水は増えとったが、そんころは橋もなし、増水した川ば渡っとは大変なこつじゃった。こんな日に幼児ば買いもんに連れて行くこた誰が考えてん無理で、気がかりじゃばってん家に置いとくほかはなかった。雨も小降りになったので今のうちにと思った母親は「おせんよ、すぐ戻って来っで、母ちゃんが帰るまじゃ決して外に出ちゃならんばい。言うこつば聞いておとなしゅうしとれば、飴んちょば買うてきてくるっで、決して家から出んなばい」母は幼児にくどくどと言い聞かせて、小雨の中を蓑にタカンバッチョ笠をかぶって急いで家を出た。一人残った「せん」は、母が居なくなると途端に淋しくなり、そしてだんだん心細うなって、どうしょうもなか切羽詰まった気持ちに追い込まれ、母の注意もうち忘れて戸外に飛び出し、狂うたごて泣き叫び母親の後ば追って一目散にかけ出した。気ばっかり焦ってつっこけまんこけ、泥だらけになって坂道ば駆け下り、もて木川のせんのひらにたどり着いたとき、母親はやっとんこっで向こう岸に渡り着き、店の方へと急いどった。
川にたどり着いた「せん」は、遥か川向こうの道ば急ぎ足で行く母を見つけ、「かぁちゃーん……」と泣き叫びながら母の名を呼んどったが、思いきって川ば渡ろうとした。
一方、母親は後髪ば引かるる思いで道ば急いどると、ふと、わが子の叫ぶ声が聞こえたような気がしてうしろばふり返ってみると、いまにも川を渡ろうとしとる「せん」の姿に、「アーッ、しもうたッ」と思い、「そこば動くなーッ、じっとしとれ、今行くでー」と声を限りに叫び、宙を飛ぶ思いで川にとって返した。
だが、母の叫び声も増水した流れの音にかき消され「せん」には届かなかった。「せん」は思いきって渡ろうとして急流に目がくらみ、アッという間に流れに呑みこまれてしもうた。息急き切って駆けつけた母は、「せん」を助ける一心で我を忘れて激流に飛び込んだ。だが、早い流れに押し流され、我が子を救うどころか母親も濁流に呑まれてしもうた。
その後、村人たちの必死の捜索にもかかわらず、母子の亡骸さえ見つからんじゃったそうじゃ。
それからのち、梅雨どきなどに大水が出れば、せんのひら辺りから「母ちゃーん……」「おせんョー……」と、流された母と子の相呼ぶ悲しく切なか叫び声を、村人たちはよく聞いたち話じゃ。
(注) タカンバッチョ笠……昔、雨降りにかぶった竹の皮で編んだ笠 つっこけまんこけ……つまずき転ぶことを強調した言葉 せんにひら……本井木にある地名 やっとんこつで……やっとのことで
鉄砲撃ちと化け猫
明治の初めんころの話じゃ。猟師が囲炉裏端で鉄砲ん弾ば作っとる傍で、猫がジーッと弾の出来上っとば数えとったげな。猟師は、胸んうちで「こん野郎、俺が弾を作っとばいちいち数えとるばい」と気づき、「よし、よし、十四発も作ればよかじゃろ。明日の晩な猪待ち行くか」と、わざと猫に聞こゆるごつ独り言。
翌日、猟師は夕日がチロチロと山の木立ちの中に沈むころ、いつも行きつけの狩り場に着いた。風向きば考えっ、大急ぎで猪棚ば作った。昔は今んごつ狩り犬の飼育技術が進んどらんじゃったから良か狩り犬ば持っとる猟師は少なかったで、犬で追いつめて射止むっとじゃなか、猪が体ば地面にこすりつくる「ぬたうち場」ば見つけつ、傍に猪棚ば作って待ち伏せし、ぬたうちに来た猪ば直接ねらい撃ちしおったたい。
丑三っ時(真夜中、午前二時頃)、猟師が猪待ちしとったら、目ん前に突如ギラギラと目を光らせた怪物が現われた。猟師は「来たな」と身構えたが、よう見るとわが家ん嫁じゃなかな。
「じいさん、じいさん、お母さんが急病で苦しんどらっで、早よ帰ってくれんな」と言うたが、猟師は(嫁がここン狩り場ば知っとるはずはなか、こやつは化け猫に違いなか)と咄嗟に気づき、「よしッ!!嫁でん構わん。真夜中にこげん山奥に来る奴ぁ撃ち殺してやるわい!!」とわめいて鉄砲ば構えると、途端に正体を現わした化け猫は、ギャオーッと猫特有のうなり声ばあげて身構えた。猟師はすかさず猫ん眉間ば狙い撃ちした。するとカチンち金物に当たる音がした。猟師は続けざまに十四発を撃ってしもうた。撃った弾数ば数えとった化け猫は、猟師が弾ば使い果たしたもんと思いこみ、かぶっとった鉄の鍋ばほたい投げて襲いかかろうちした。途端に心臓目がけて撃った弾に射抜かれた化け猫は、血反吐ば吐いて死んでしもうた。
前ん晩に猟師は猫に気づかれんごつ、鉄砲ん弾ば一発余分に作って弾込めしておいた。そこまで気づかんじゃった猫は油断したっが一巻の終わりじゃった。
猟師の機転で命拾いばしたちゅう話たい。
(注) ほたい投げ……放るようにして投げ捨てること。
三番曲りの古狸
むかし、岩井川内から山木場に行く途中の三番曲りと呼んどる付近に、大きな古狸が棲んでおったげな。こん狸ゃ三番曲りへんから大境の先の荒平あたりまでば縄張りにしとって、山道の寂しか場所に、目ン覚むるごたるよか女子に化けて、通るもんば片っ端から騙くらかして良か気色になっとった。ここは昔しゃとにかく大木の繁って昼でん薄暗うしてわざばいかごたる薮くら道じゃった。“こっけ狸に化かされる“ちゅう噂が広がり、夜更けは滅多に人は通るうとせんじゃった。
ある晩のこつ、一人の男が抜き差しならん用件で仕様んなしにここを通りかかった。なるべく周囲は見らんごつして道ば急いどった。どんくらい歩いたろうか。生ぬーっか風がふわーっと男の面ばひとなでした。男はふっと顔ば上げて何の気なしに前の方ば見た。すると目ん前が明るうなって、そけよか女ごの立っとるじゃなかな、男は一目見るなり物の化に憑かれたごっなって、わがば忘れてうっとりと、そんよか女ごに見とれてしもうたげな。わが肝心の用件もうっちやすれてたい。……女ごはいかにも親しかもんにでも会うたごつ、「今晩は、どちらへ行きなさっとですか」「………」「よろしかったら家に寄って、お茶でも飲んで行きなさらんですか」と近づき手を取った。男は魂のつっくわんげたごて、ふらふらと女ごの後について行った。
男は立派な家に入り部屋に通された。
「風呂が沸いとります。どうぞ……」すすめられるままに男はひと風呂浴びた。部屋に戻るといつの間にせしこうたつか、珍らしかご馳走が並び、美女の酌に夢見る気色になって酔くろうてしまい、あとはどげんなったか訳くちゃ分からんごっなって、その晩な酔い潰れて泊まってしもうた。
明け方の冷たい風に男はふと目ば覚ますと、山ン中に落葉ばひっかぶって寝とった。あたりにゃよんべの御殿のごたる家も美女の姿も消え失せて、付近には馬ん糞だけが散らばっとった。
正気にもどった男はわが身の異様な匂いに、さては狸にだまされたかと気づくと、真っ青になって山野の荒平方面に向かって一目散に走り出した。昨夜の風呂は野壷で、出されたご馳走は馬糞じやったげな。
(注) わざばいか……恐ろしいこと。怖いこと。魂のつっくわんげた……魂が抜けた様。よんべ……夕べ。昨夜。野壺……野外にある肥溜
嘉平じいさんとカラス
むかし、むかし、日当野ン村に嘉平という爺さんが住んどった。嘉平爺さんな縁側で孫ん守りばしながる日向ぼっこばしとった。
村ん真ん中にそびえとる大銀杏の木にゃ、カラスが二、三羽とまりガァガァ騒いどった。いつの間にか孫は縁側の暖かい日ざしにに気持ちよう眠ってしもうた静かな昼下がり、爺さんな何ば思いついたつか、眠っとる孫はうっちょいて、二の坂ン山こばば耕しに出かけらいた。すると大銀杏の木のとっぺんに止まっとるカラスの一羽が、杖どんついてトボトボ歩いて行く爺さんばみて、「カヒョー、カヒョー、クワは」と鳴いた。
嘉平爺さんな、ああ、そうじゃった、鍬ば忘れちゃ仕事ならんばい、と取りに戻らいた。鍬を担いで喉ばゼーゼー鳴らしながら登って行くと、今度は別なカラスが「カヒョー、カヒョー、トンコは」と鳴いた。嘉平爺さんは、ああ、そうそう、トンコは忘れとったばいと思い出し、取りに戻り、ふうふう言いながらまた登って行くと、「カヒョー、カヒョー、マゴは」と、また別なカラスが鳴いた。嘉平爺さんな、アラほんなこて、と大事な孫ばいっちょいてきたことば思い出し、大銀杏のてっぺんば見上げながら、しょしな顔して慌てて家に戻らした。
おかげで日半分、ニの坂ば登り下りして、畑仕事はできんじゃったげな。今でいう健忘症ちいうやつじゃったっじゃろたいなァ。
(注) トンコ……昔の刻み煙草入れ しょしな顔……きまり悪げな顔。
山わろの話
わしが十七のときじゃった。佐敷に牛飼いに行って帰り道の話たい。
山上ンばくりゅどんと二人、良かめた牛の手に入ったもんじゃっで、喜び勇んで鼻唄どん歌いながる、ちょうど湯浦ン三十丁坂ン途中、湧水の出っとこれさしかかったったい。峠も近かで水どん飲んで休憩して行こうち言うて道端ン石に腰ばおろそうとしたとき、道上ン杉山ン中かる突然ガサガサ音がして何か通るごたる気配のしたもんじゃっで、つい若気の至りで足許ン石ば拾うて二、三回投げつけたったい。そして構わずに水どん呑んで登って行くと、暗か杉山ン中からとっけんなか孟宗竹ば叩くごたる音が激しゅう聞こえてくっとたい。魂がった牛は急に気の狂うたごて暴れ出し、綱ば引っこなさんごて騒動するもんじゃっでわざばゆうなって、ばくりゅどんに助けば求むっと、
「おまいが石ば投げたりすっで、山ん神さんの腹かかしたったい。山ば通っとき淋しゅうなったり、怖か思いばすっときゃ、決して山ん神さんの悪口ば言うたりいたずらばしちゃならんとたい。ことわけば言うて謝れ」
と、きびしゅう言われたもんじゃっで、
「山ん神さん、山ん神さん、若気の至りで悪かこつばして済んませんでした。こるから気をつけますで、どうか許して下さい」ち、手を合わせて謝ったったい。途端にあれほど激しかった音も止んで、牛もおとなしゅうなったもんじゃっでほっと胸ばなでおろし、無事家に戻り着いたばってん、あん時ゃ肝ん玉んすっ飛んだばい。
昔の人ん言わすこたぁ、よう聞かんばいかんなぁち、そん時つくづく思うたこっですたい。
(注) ばくりゅどん……家畜商。馬喰ともいう。めた牛……雌牛 とつけんなか……思いもつかぬこと わざばゆぅなって……怖くなって、恐ろしくなって。
 

 

●熊本の伝承
阿蘇神社
肥後一之宮である。主祭神は健磐龍命(たけいわたつのみこと)。祭神は一宮から十二宮までの12柱となっている(いずれも健磐龍命の一族)。健磐龍命は神武天皇の孫にあたり、その命によって阿蘇へ赴き、開拓の神となったとされる。その当時、阿蘇山の外輪山の内側は巨大な湖であった。そこで命は、この水を抜いて田畑を造ろうと決め、外輪山を蹴破ろうと試みた。最初に蹴った場所が破れなかったために、場所を代えて試してみると見事に蹴破ることができた。しかしその時に命は尻餅をつき「立てぬ」と叫んだので、その地を“立野”と呼ぶことになったという。流れ出た水は白川となって海へ注ぐことになったが、水が抜けていくと同時に底に大きな鯰がいるのが分かった。命はそれを斬って退治し、全ての水を流すことができたという。阿蘇神社は阿蘇山の北に位置しており、その参道は社殿に対して正面にならない横参道となり、まっすぐ進むと阿蘇山へ通じるように見える。そのため、この神社は阿蘇山そのものを信仰の対象としたのが始まりではないかとの説も存在する。神社の起こりは、健磐龍命の子である速瓶玉命(阿蘇都比古命)が孝霊天皇の御代に阿蘇国造に任ぜられた際に、両親を祀ったことによるとされている。それ以降、速瓶玉命の子孫が阿蘇氏を名乗り、代々宮司を務めている(現在で90代目を超える、日本屈指の名家である)。
阿蘇氏 / 天皇家に繋がる古来よりの名家。阿蘇神社宮司を代々務めると同時に、近隣の地を領有する大豪族でもあり、武士団を率いて源平の合戦の折には源氏方に与している。その後、南北朝時代には南朝方として戦い、その後も勢力を維持しながら戦国大名へと成長していく。しかし島津の肥後侵攻の中で大敗し、戦国大名としての阿蘇氏は終焉。豊臣秀吉の九州統一後は、阿蘇神社宮司としての地位のみ認められ、現在に至る。
河童渡来の碑
八代市街を流れる球磨川は河口のそばで分岐して八代海に注ぎ込む。その一番北側の分岐である前川に架かる前川橋のたもとに河童渡来の碑がある。八代の伝承によると、仁徳天皇の御代にこの地に河童がやって来たという。やって来たのは中国、揚子江(あるいは黄河)を下って東シナ海を泳ぎ切って上陸してきたというのである。これらの河童たちは球磨川流域に住み着き、いつしか一族郎党合わせて9000匹にまでなり、その頭領は九千坊(くせんぼう)と呼ばれ、西国一の河童とまで言われるようになったのである。河童渡来の碑に使われている2つの石はガワッパ石と呼ばれる。その由来は、渡来した河童があまりにも悪戯をするので、怒った人々が河童を捕らえたところ、「2つの石がすり切れるまで悪戯をしない代わりに、年に一回祭りをして欲しい」と頼み込んだため許したことにある。この石は長らく橋石として使われていたとされ、昭和29年(1954年)に今のような碑となった。また年一回の祭りは“オレオレデーライタ川祭”として今に伝えられている。
油すましの墓
妖怪・油すましは、水木しげる氏の作画によって有名な存在であるが、実際にはそのような実体を伴ったあやかしではなく、声と物品の怪異現象であると考えられる。
この妖怪の初出は、地元の民俗研究家であった浜本隆一の『天草島民俗誌』(1932年刊)であり、近くの草隅越(草積峠)である時老婆が孫を連れて歩いていた折りに「ここでは昔、油瓶を下げたものが出てきた」と言うと「今でも出るぞ」と言って出てきたという伝承を採話している。この話が後に柳田國男の『妖怪談義』(1956年刊)に紹介され、そこから水木漫画に採用されたと考えられる。そのため漫画のキャラクターは水木氏の完全な創作であり、またその性格付けも後年のものである。油すましの墓は、平成16年(2004年)頃の妖怪ブームの際に、再発見という形で世に出てきた。土地の古老のお墨付きをもって本物と判断され、観光地的色合いを濃くして周辺も整備されている。ちなみに油すましの“すまし”とは、天草の方言で“しぼる”を意味する“すめる”という言葉が変化したものではないかと推測され、この墓と目されるものも地元の油搾りにまつわる碑ではないかとも考えられる(江戸後期にはこの地域では「かたし油」という椿油のようなものが生産されていたという)。 
 
 
 

 

 
 
 

 

●沼の王の娘 アンデルセン
夏をユトランド半島のヴァイキングの家で、冬をナイル川のほとりですごすコウノトリの一家。あるときコウノトリの父さんが空を飛んでいると、三羽の白鳥が底なし沼に降り立った。そのうちの一羽が白鳥の毛皮を脱ぐと、それはコウノトリが見たことのあるエジプトの王女であった。彼女はエジプト王の病を治すために沼の中の花を取りに来たのだった。しかし王女の姉妹である残りの二羽の白鳥は、王女から預かっていた白鳥の毛皮を引き裂くと王女を残してエジプトに帰ってしまう。沼に取り残された王女は、沼の主である邪悪な沼の王に引きずり込まれて沼の深くに沈んでしまった。
それから長い時が経ち、コウノトリの父さんは沼のスイレンの花の上に赤ちゃんがいるのを見つける。それは沼の王と女王との間の娘であった。コウノトリは子どものいないヴァイキングの奥さんの元に赤ちゃんを届ける。ヴァイキングの奥さんはかわいい赤ちゃんを授かったことに喜び、彼女を自分の手で育てることにする。しかしその赤ちゃんは沼の王の血筋を受け継いでいたため、昼は邪悪な心を持ったかわいい子に、夜は清らかな心を持つが醜いヒキガエルになるのであった。ヴァイキングの奥さんはその秘密を隠して赤ちゃんを育てた。
やがて赤ちゃんは美しい娘に育ち、ヘルガと呼ばれるようになった。ヘルガはやはり荒々しく邪悪な心を持っていたが、ヴァイキングが捕虜として連れてきた神父により本来の美しい心を取り戻す。神父は盗賊に殺されてしまうが、ヘルガは彼の霊に導かれ彼女の母親である王女と再会する。二人はコウノトリが悪い姉妹から取り上げてきた白鳥の毛皮を着て飛び立ち、病に伏す王の待つエジプトへ戻った。そして、二人が王の体に身をかがめると王は病から回復した。
月日が流れ、ヘルガはアラビアの国の王子と結婚することとなった。婚礼の日の夜、ヘルガの前に死んだ神父が現れる。ヘルガは、天国を見せてほしい、少しだけでも父なる神の顔を拝ませてほしい、と彼に願う。ヘルガはほんの少しの間天国を見ることができたが、地上に戻ってみるとそこは婚礼の日から何百年も経った世界であった。

●パンをふんだ娘 アンデルセン
ある村に、インゲルと言う美しい少女が住んでいた。インゲルは裕福な家庭へ奉公に出されたが、それは元から自分の美貌を鼻に掛けるところが有ったインゲルの高慢な性格に拍車をかけることとなった。
ある日、インゲルは里帰りをすることになり奉公先の夫人からお土産にパンを持たせられる。その帰り道、インゲルは雨上がりに出来たぬかるみの前で立ち止まる。そして、自分のドレスを汚したくないと思いお土産のパンをぬかるみに放り投げ、パンの上に飛び乗った。ところが、その途端にパンはぬかるみの底へインゲルを乗せたまま沈み、二度と浮かび上がることは無かった。
インゲルが慢心のために底無し沼へ沈んだ話は人々の間で語り草となり、その様子は地獄に落ちたインゲルの耳にも伝わって来た。そして、インゲルの母が愚かな娘を持ったことを嘆きながら死の床に就いても、インゲルはたかがパン一切れのためにどうして自分が地獄へ落ちなければならないのかと全く反省しなかった。
そんなある日、いつものように地上で底無し沼へ沈んだインゲルの話をしていた子供たちの中で一人の少女がインゲルを憐れみ、神様にインゲルが天国へ行けるよう祈りを捧げる。その少女もやがて年を取り、死の床に就くが、幼い頃に聞いたインゲルの話を片時も忘れることは無く、インゲルの為に涙を流して天に召された。
その祈りは聞き届けられ、インゲルは灰色の小鳥に生まれ変わる。そして、インゲルはどんな小さなパン屑であっても粗末にせず、他の鳥に分け与えた。そして、灰色の小鳥が他の鳥に分け与えたパン屑の量があの時に踏んだパンと同じ量になった時にインゲルの罪は許され、長い苦しみから解き放たれて天国へ召されたのであった。

●沼に落ちかけた馬と男 ビュルガー
わがはいは、ミュンヒハウゼン男爵。みんなからは、『ほらふき男爵』とよばれておる。今日も、わがはいの冒険話を聞かせてやろう。
ある戦争に参加した時、わがはいは馬で沼を飛びこそうとした。ところが飛びあがってから、その沼がばかに広い事に気がつき、あわてて空中で、「まわれ右!」と、自分で号令をかけて引き返した。そして今度は、さっきよりも勢いをつけて、「えいっ!」と、空高く飛んだ。ところが、それでも駄目だった。普段なら、わがはいの馬術で簡単に飛べただろうが、この時、わがはいは着ていた甲冑(かっちゅう)の重さを計算に入れていなかったのだ。ああ、なんたる不覚。わがはいはそのまま、馬もろとも沼に落ちかかった。しかもこの沼は、おそろしい底なし沼だ。
甲冑姿で落ちたら、絶対にはいあがる事は出来ない。「えい、こうなれば!」わがはいは馬の腹を両ひざにはさむと、自分で自分のえり首をぐっとつかみあげて、馬もろとも沼から引っ張りあげて命拾いをしたのだ。自分で言うのもなんだが、わがはいの怪力は大したものだ。
今日の教訓は、『甲冑は、想像以上に重い』だ。きみたちも甲冑を着る事があったら、甲冑の重さには十分注意するように。
 

 
 

 

●底なし沼
誰も知らない深い山奥の薮に囲まれた小さな原っぱにその沼はあった。回りを高い樹木が生い茂り、昼間でも薄暗く、死んだように静かな場所だった。この沼は、底なし沼と呼ばれてこの山に住む動物たちから恐れられた。
これまでこの沼の水を飲みにやって来た動物が足を取られてこの沼に引きずり込まれた。そんな恐ろしい沼だったので、動物たちはまったく近づかなかった。
この沼はずいぶん年を取っていた。だから偏屈で、頑固で融通がきかなかった。しかし、あるときこんなことを考えるようになった。
「俺はこんな淋しい山奥でみんなから恐れられて、ずうーっとひとりで生きてきたが、それは俺の本心ではない。たくさんの生き物の命を奪ったことも、それは本能のせいなのだ。俺には自分の本能にただ従って生きることしか出来ない存在だ。だけどいつまでもそんなことで自分を騙し続けて生きていてもいいものだろうか。このまま動物たちから嫌われ続けて生きていくのも辛いものだ。それに俺は外の世界のことは何も知らない。一度でいいから外の世界を見てみたいものだ」
ある月が美しい夜のことだった。沼のむこうの水面にわずかに月が写っていた。沼はそっと月に尋ねてみた。
「お月さま。教えてくれよ。山の向こうにはどんな世界があるんだ」
沼に突然はなしかけられて月はおどろいたが、「あの山のはるか向こうには、美しいお花畑が広がっています。今そのお花畑は真っ盛りです。太陽が輝く時間には、緑の牧場にたくさんの牛たちと牛飼いが散歩をしています。また緑の芝生には色とりどりの花が咲いています」
沼は話を聞きながら、その美しい情景を心の中で思いめぐらせてみた。
「ああ、なんとかそんな風景を一度は見たいものだ。それに太陽の光も受けたいものだ。俺はこれまで花さえも見たことがない」
沼はそれからは毎晩のように月が出ると、外の世界のことを訪ねてみるのが毎日の日課になった。
ある日、沼のほとりの木の枝に、一羽の小鳥が飛んできて巣を作った。やがて、その巣から、ひなたちの声が聴こえてくるようになった。
「なんて楽しそうな鳴き声だ。ひさしぶりに聴く生き物の声だ」
沼は、その陽気な鳴き声を毎日聴いていた。ところがある日のこと、巣からひなの一羽が足を滑らせて沼の水面に落ちてきた。沼はさっそくそのひなを沈めようと思った。しかし沼はそのとき思いとどまった。
「同じことを繰り返していては、おれの境遇はいつまでも変わらない」
そういって、ひなを沈めることをやめたのだ。そこへ親鳥が帰ってきて、ひなを見つけて沼から救い出した。親鳥は沼に感謝した。沼になにかお礼をしたいといった。沼は少し考えてから、「それじゃ、山の向こうの草原に咲いている花を持ってきてくれないか。おれは花をまだ見たことがない」と頼んでみた。
親鳥は、すぐに山の向こうへ飛んでいくと、花を何本が沼のところへ持ってきた。そして沼の水面にその花を投げてやった。沼はその花をじっと見つめてはその美しい色彩と匂いをいつまでもかいでいた。
その後も、親鳥は、エサを取りに行ったついでに花を持って帰った。そして沼の水面にそれを落としてやった。
あるとき、沼の水面を漂っていた花の種が沼のまわりの草むらに辿り着き、土の中から小さな芽が出てきた。だけど沼はそのことをまだ知らなかった。
ある年、ひどい嵐がこの土地を襲ったとき、沼の周りの樹木が何本もなぎ倒された。回りの景色はひどいありさまだったが、その後、太陽の日差しがこの沼にも降り注ぐようになった。どす黒い沼の水もいつしか透明度を増してきれいな水に変わっていった。
沼の回りの花の芽も次第に大きくなり、やがて春の季節になると、色とりどりの色彩の花が沼のまわりに咲き始めた。太陽の日差しと水気をよく含んだこの場所は、やがて美しい花畑になり、遠くからでもこの場所がわかるようになった。
やがて、この沼のほとりの花畑にはいろんな昆虫や小鳥や動物たちが遊びにやってきた。みんなこの美しい花畑で毎日遊んで帰って行った。そして何年かすると山の向こうからは、人もやってくるようになった。
みんなこの沼が、かつておそろしい底なし沼であったことなどもう誰も知る者はなかった。

●奥の院沼の怪
露藤村、白髭明神の元社は部落西方の萱野の中に鎮坐していて、昼もさびしいところである。その社の南の方に東西に細長い沼がある。元天王川の古川であったらしい。周囲は林で沼は底知らずと称せられ、人呼んで鎮守さまの奥の院の沼といわれ、沼の主は白蛇ともいわれている。某は大蛇を見たとも言われ、いずれにしても神秘な沼として知られている。またこんな話も残っている。北は堀になって、その堀には洞となって赤湯沼まで続いているとも伝えられている。
文久年中の話だが、下和田村に鬼五郎という目明しがあった。鉄砲の名人で百発百中といわれた。その頃のこと、この奥の院の沼に水鳥を打っても水中深く沈んでいつも行方不明になるのであった。これが不思議の一つとされておった。これを聞いた鬼五郎は、「よし、おれはその不思議を解いてやる」と、ある日のこと、鉄砲片手に沼辺にやって来た。そして空銃を沼へ向けて一発打った。それとなく沼面を見ていると、今しも南岸からノソリと水面に顕われた怪物らしいものが、しきりに水鳥やあると見廻す様子。鬼五郎はここぞと玉をこめて彼の怪物をねらって一発。当ったらしく、時ならぬ波紋を巻いた風。半刻すぎると、沼辺に箕大の怪物が浮かんだ。見れば亀頭を打ちぬかれて浮かんだのであった。このことを伝えきいた人々は今更ながら鬼五郎の奇才に敬服したという。亀は幾百年すぎたものか、腹は赤く、箕ほどの大きさであったという。里人某譲り受けて見世物にして大当りしたと伝え、またこれが沼の主ではなかったかと噂し合った。

●露藤出来沼の蛇
近年のこと、数日大雨降となり川があちこちで溢れてその跡に巨大な沼になった。これが出来沼である。その辺の農民、夢の中でお告げがあり、その沼にくぐって自然金を取り出せば、大いに富むというので、その沼に金をとって富豪となった。近隣の者は大いに疑って、隣の主人が夜な夜なその家の様子をうかがうと、夜更けてから外から帰って金を取り出している。灯で見るとぬれた金である。次の日に行って「おまえはどこから金をもって来たのか」と聞くと、「昨日始めて三丁畑を掘っていると金が出たのだ」という。その後何日か心つけてうかがっていると、彼は出来沼に入って金塊をとり帰って来るのであった。隣の夫もそれを知って次の日に出来沼に行って金塊を得た。すでに人に知られたので、藁で蛇を作り金のあるほとりに沈めておいた。隣の夫がまた金をとろうと水にくぐると、彼の蛇は一口に呑んでしまおうとする。自分が作った藁の蛇が活きた本当の蛇になってしまっている。その後、この蛇は沼の主となってしまったという。今は誰も行かなくなったという。

●牛沼の怪
露藤村の西方、天王川の付近に牛沼という地名がある。沼が牛の形をしているので、牛沼と言い伝えられている。天王川の川底も高くこの牛沼辺で天王川より堰上げて、露藤の西方面の田をうるおす。むかしのこと、下舘の坂田七郎右ヱ門さん、この堰の下流に田があった。その年は珍らしく旱天で、連日水引をしなければならなかった。盆の日のこと、夜に七郎右ヱ門さんは祭にも行かず、ただ一人田から堰口へと上ってきた。その晩は珍らしく暗夜、鼻をつままれても分らないぐらい暗かった。ただ一人堰口にやって来た七郎右ヱ門さん、だれも水引する者がおらず、一人喜んで牛沼に堰ぼりの傍に山と積んだ萱があった。その萱の傍に腰打ちかけてしばらく休んで居った。四更の頃、突然百雷の一時に落ちたような大音響がした。そのおそろしさ、その何たるか分らない。七郎右ヱ門さんは気丈の人であったが、にわかに恐ろしくなり、一散に家へにげかえり、それからにわかに床につき、それが因で死去したという。

●奥の院沼に白蛇
白髭明神の元社にはよく乞食が泊った。あるときのこと、一人の乞食が夕食のをとがして沼に行ったところ、向う岸の木の根株から一匹の白蛇が出て、こちらの方に来る。その長さ五・六尺、その乞食おそろしさに今といでいた米を投げ捨て、そこそこに堂へ帰った。それから二三日寝たといい伝えられる。むかしからこの奥の院沼には白蛇が住んでいるという噂である。

●弥五郎沼
井上弥助の家で、弥五郎という人が、炭焼きに行って、弥五郎が〈いぶりタナゲ〉さ、フナこ来たな、とってあぶって食ったど。そうしたところが、うまいのうまくないのって、みな食ってしまったど。ほうしたところが喉乾いて、みるみるうちに、水干(ひ)ってしまってはぁ、家でも、来ない来ないているうち、かまねで置かんねから、迎えに行ったど。ほうしたところぁ、大沼になっていだっけど。そうしてその沼の真中さ、ニョロッと大蛇いだっけど。「弥五郎やぁ、弥五郎やぁ」て呼ばたげんど、蛇になていたからなぁ、あきらめて来たけど。
ほれからその沼にうんと雑魚いたんだけど。新屋敷(あらやしき)の人が雑魚とって呉(け)ましょうて、干しにかかったところ、新屋敷、どんどん火事になって見えたもんだど。何とも雑魚とらんねけど。
この弥五郎沼は赤湯の白竜湖に底が通じているんだけど。

●烏帽子沼
蛇は片貝の身を食うのが上手で、貝が開いていっどぎに、ねらって身を食う がったど。
ところが、蛇が身をねらって頸を突込んだとたんに、パチンと蓋 (ふた) してしまっ たど。片貝から頭はさまっだ蛇は、苦しまぎれに片貝つけたまんま、白鷹山越 えで、向うさ行ったど。
その蛇見た虚空蔵山参詣の人が、「ああ、烏帽子つけた蛇が沼さいた」て云うてその沼を「烏帽子沼」と云うようになったど。
鎌倉権五郎の投げ石
源義家の家来、鎌倉の権五郎が頭度山 (とうどのやま) から左手で大石をなげたので、今も松川 の石には権五郎の手の跡がのこっている。あまり行かなかったので、こんどは右 手でなげたら、白鷹山を越えて、礫石まで行ったという。
黒滝神社縁起
元禄の頃西村久左衛門が黒滝の開鑿をやったとき、佐野原の剣崎不動の剣が落 ちて、川に住む大蛇の体にささり、蛇の胴が三つに切れてしまったという。

●沼の平
杢(もく)の沢に「沼の平」というところある。今は田んぼになっていっけんども、昔は沼だったど。そしてそこの沼さ毎日々々雨降って、何十日とかの雨降りだったそうだ。そして困って困って、石なのゴロンゴロンと流っで来る。その沼には蛇がいて、三日三晩の水増し上がって、そして蛇を退治する勘定で、金棒といで、そこさ投げこんだら、蛇がいなくなって雨も止まったという話がある。
 
 
 

 

●神社のお話
1 氏神(うじがみ)さま 産土(うぶすな)さま
私たちは絶えず守られています。氏神さまは、本来その氏(うじ、一族)の守り神で、その氏の繁栄のために、何かあれば知らせてくれ、常に子孫を守ってくれる神さまと考えられています。ですから、ほかに移住する場合などは、何をおいても氏神さまは持っていきました。ご祭神は大山祇(おおやまづみ)の神とか熊野の神とか稲荷の神とか伝えられている場合もありますが、もともとはその氏のご先祖様に対する信仰が始まりで、特定の名前など無かったと思われます。家々には名こそ無くても、氏神さまが立派にいらっしゃったのです。今でも仏式で、三十三回忌や五十回忌などを最終の法要として、そのあとは仏が氏神さまになるのだとして、仏式の法事は止めてしまうところが多いのはそのためです。現在では、氏神さまとその土地を守護する産土(うぶすな)の神さまが、同一に考えられるようになりました。
2 狛犬(こまいぬ)
阿吽(あうん)の呼吸って、ここからきているの? 狛犬は、一方は口を開け、もう一方は口を閉じていて、「阿吽(あうん)」を表わしています。相撲などでも阿吽の呼吸が合うなどといいますが、両者の気持ちが通じ合う以心伝心の意味なのです。ですから、狛犬は「阿吽の呼吸」で神さまにお仕えしているというわけです。狛犬の形もいろいろありますが、たいがいは左右一対になっていて、社殿に向かって右側が雄で口を開けています。左側が雌で口を閉じています。
3 参道(さんどう)
表があれば裏もある 北があれば南もある これなーに? 参道とは、文字通り「お参りする道」で、神さまのお鎮まりになる所と人とを結びつける大切な道です。たとえわずかな距離にすぎない参道であったとしても、神さまのお鎮まりになる所へ一歩一歩近づくわけですから、敬虔(けいけん)な気持ちで進むようにしていただきたいと思います。表参道、裏参道、北参道、南参道、東参道、西参道など、参入する方角で様々な呼び方があります。
4 鳥居(とりい)
なんのためにあるの? 「鳥居」は神社の象徴となっていますが、これは神社の入口に建つ一種の門であり、神さまの聖域と人間世界との境界を示すものです。大きな神社では、たいがい二つ以上の鳥居がありますが、その場合は外側にある鳥居から順に一(いち)の鳥居(とりい)・二(に)の鳥居(とりい)・三(さん)の鳥居(とりい)と呼んでいます。鳥居の起源については、はっきりわかってはいませんが、古事記の「天岩戸開(あまのいわとびら)き」では、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が岩戸に隠れたとき、鶏(にわとり、常世(とこよ)の長鳴き鳥)を止まり木で鳴かせたところ、それによって大御神が岩戸から出てこられたことから、以後神前には鶏の止まり木をつくるようになり、それが鳥居になったといわれています。また語源については「通り入る」とか「鶏が居る」と書いて「鶏居」という言葉が変化したものと言われています。普通、鳥居の構造は、二本の柱と柱の上に乗せた「笠木(かさぎ)」と、その下に水平に通された「貫(ぬき)」という横木からなっています。材質は、古くから檜や杉などを用いた木造でしたが、後世には石造り・銅造り・コンクリート造りなどもできました。また、一見したところ同じように見える形にも、神明(しんめい)鳥居・鹿島(かしま)鳥居・春日(かすが)鳥居・八幡(はちまん)鳥居・明神(みょうじん)鳥居・稲荷(いなり)鳥居などの種類があります。
5 しめ縄
なんのために張るの? しめ縄は、七五三縄、注連縄とも書き、鳥居以外にも神社の様々なところに張ってあります。これは清浄(神聖)な場所の境界を示すものです。神社はその境内自体が清浄なところですが、中でも特に清浄を保つべきところにしめ縄を張るのです。しめ縄は普通の縄のようにみえますが、縄をなうときに「左綯(な)い」といって通常の逆になっています。そこに紙垂(しで)という紙をつけます。紙垂は、昔は麻や木綿などが多かったのですが、今では紙を用いたものが大半です。しめ縄の歴史は古く、古事記の中の「天岩戸開き」に出てきますが、聖と俗を画(かく)す境界線と考えたら良いと思います。家の神棚にも、地鎮祭など神社以外の場所でお祭りを行なう時にもしめ縄が張られます。
6 ご神木(しんぼく)
神さまの宿っている木なの? その神社だけに生育している木であるとか、神社にゆかりのある木、ひときわ目立つ巨木あるいは老木を「ご神木」としておまつりしています。ご神木にはしめ縄を張ったり、柵をめぐらしているところもあります。また、ご神木を御神体としている神社もあります。古来より、ご神木は神さまの宿る所であるとか、神さまの降臨するところとされています。ご神木の種類としては、常緑樹の杉や松、榊(さかき)などがあり、中でも榊は代表的なご神木とされ、神事にも多く用いられています。
7 燈籠(とうろう)
ただの照明器具ではありません。神さまの所在を表示し、また神さまに「おあかり」をたてまつるために火をともす器具を燈籠といいます。社殿の内外、参道に立てられたり、懸(か)けられたりします。燈籠は本来、明りをともす道具ですが、奈良の春日大社等のような沢山の燈籠は、人々が祈願のためご守護を願ったり、または神恩に感謝するために奉納されたもので、奉納者の名前や年号が刻まれています。
8 手水舎(てみずしゃ)
お参り前に必ずしなければならない約束事。神社にお参りする前に手と口を清めて、それから参拝するのが、神社参拝の作法です。この手と口を清めるところが手水舎です。手水は手や口をすすぐことによって、心身全てをきれいにする象徴的な行為で、禊(みそぎ)の一種と考えればよいでしょう。古くは神社に参拝するときには禊といって、海や川に入ったり、水をかぶったりして、身についている罪・穢(けが)れを祓(はら)ってきました。手水は、その簡略化された行為なのです。罪については『延喜式(えんぎしき)』という平安時代の法律書中に詳しく記述されていますが、主に天津罪(あまつつみ)として農耕を妨害する行為、国津罪(くにつつみ)として傷害や不倫、姦淫(かんいん)、他人を呪(のろ)うことなど反社会的行為が挙げられます。穢(けが)れとは「浄明正直」の言葉で表されることに反することが自らの身につく状態を指し、死、病など非日常的なことにより受動的に起こる現象と考えられています。
9 鈴(すず)
お参りする時振るのはなぜ? お参りするときに鈴を鳴らしますが、鈴は古くより神聖なものとして神事に用いられていました。美しい音色で神さまをおなぐさめし、同時に参拝する人々にも、すがすがしい気持ちを与えることから用いられるようになったのです。また、お参りに来たことを神さまにお知らせする意味もあります。
10 神社の建物
どこに神さまがいるの? 一口に神社といっても、伊勢の神宮のように広大なものから村の鎮守さままで、その規模は実に様々です。神社は、神さまをおまつりするところであり、そのための建物のあるところを総称していいます。建物は、奥から神さまが鎮まっておられる本殿(ほんでん)、お供え物をする幣殿(へいでん)、儀式を行う拝殿(はいでん)があります。規模の大きい神社では、神楽殿(かぐらでん)や社務所、参集殿(さんしゅうでん)などがあります。一番奥にあって扉が閉まっているところを本殿といって、御扉(みとびら)の中に神さま(ご神体)がおまつりされています。拝殿は、お祭りや正式参拝やご祈祷の際に参列するところです。
11 ご神鏡(しんきょう)
なぜ丸いの? 丸は欠ける所がない完全な形を意味するとか、縁起がよいとかいわれています。鏡は昔からお祭りにおいて、祭具の中でも特に大きな役割を担ってきました。『日本書紀』には天照大御神が天孫降臨の際、八咫(やた)の鏡を授けられて「吾(われ)を視(み)るがごとく齋(いつ)きまつれ」と仰せられましたが、これは神さまのお姿は目に見えませんが、「この鏡を神さま自身と思ってお祭りしなさい」ということなのです。単に物理的に視力で見るのではなく、心眼をしかと見開いて見よということなのです。鏡と対面するということは、そこに映っている自分の姿を見るとともに、心の内面を深く反省し、清らかな心で神さまと向かい合うことなのです。神話の「天岩戸開き」で、天照大御神が鏡に映ったご自分の姿をみて驚いて、「私のような神さまが、もうひとかたおられるのだろうか」と思われたという話しがあります。
12 ご神体
見てみたいけど、神社にご開帳ってないの? ご神体とは、神さまの御霊(みたま)がお鎮まりになる大切なもので、「依り代(よりしろ)」ともいいます。山や川・石など自然の造形物から、鏡・刀・曲玉(まがたま)など人工の造形物まで千差万別です。有名なところでは、富士山や那智の滝などがあげられます。三種の神器もご神体の一つです。神社の本殿にまつられているご神体は、人には見えないほうが清浄で奥ゆかしくて、ありがたいと考えることから、一般に見せるようなことはしません。
13 直会(なおらい)
宴会ではありません。直会は「直(なお)りあう」からきたといわれます。祭典中の緊張した特別の状況から、気持ちを解きほぐし、平常の状態に戻すための大切な行事です。  神さまにお供えした神饌を、祭典終了後にお下げして、皆でいただきます。神さまのお供えをいただくことは、神さまの力をわけていただくことにもなります。  厄祓(やくばらい)などのご祈祷(きとう)の際にも、簡略化された直会として、御神酒(おみき)をいただくことが一般的ですが、これは日本酒が神饌の中でも最も重要な米から造られるものであり、その場ですぐにいただくことができるため、直会の象徴としておこなうのです。
14 ご神紋
あなたの氏神さまの紋は?各家庭の家紋と同じようにそれぞれの神社にも紋章が用いられており、これを神紋(しんもん)と称しております。神紋の成立に関して、いくつかに分類することができます。まず一つは、神社に縁の深い神木などの植物、祭器具などを模したものが神紋として用いられる場合で、大神(おおみわ)神社の「神杉」などを例にあげることができます。二つ目は、伝説や伝承に基づくもので、菅原道真公をまつる天満宮の「梅紋」は、道真公が生前に梅の花をこよなく愛でたという伝承により、神紋として用いられたものといわれます。三つ目は、家紋から転用されたもので、これは歴史上の人物をおまつりする神社に見られるものです。徳川家康公をおまつりする東照宮では、徳川家の家紋である葵の紋が神紋となっています。このほかにも、さまざまな紋様が用いられており、人々の篤い信仰と歴史的背景をしめす象徴ということができます。
15 お神輿(みこし)
神さまの乗り物 なぜ担ぐの? なぜ振るの? 神社の大きなお祭りでは、お神輿や山車が練り歩くことがあります。この時に神さまはお神輿や山車にお遷(うつ)りになり、氏子区域を巡ります。お神輿が練り歩くことを渡御(とぎょ)または神幸(しんこう)といい、行列のことを渡御行列または御神幸行列といいます。年に一度、氏神さまがお宮を出られて、氏子区域の各町内を巡り、直接氏子の人たちの生活をご覧になるためです。各町では「お旅所(たびしょ)」といって、お神輿の休憩する所を設け、そこで神さまもしばしお休みいただき、お供え物を供えて丁重にお祭りを行うのです。そして沿道の人たちも、お神輿をお迎えして普段のお礼を申し上げ、また今後のお守りをお願いするのです。お神輿は、神さまがお乗りになる乗りものです。普通は木製の黒塗りで、形は四角が一般的ですが、六角や八角などもあり、社殿の形をして、屋根には鳳凰(ほうおう)という飾り物をつけ、彫刻や鈴が取り付けられ、担ぎ棒を通して担ぐものです。古来、神道では「魂振(たまふ)り」と言って、神霊の鎮まっている御神体を振り動かすことにより神威が昂(たかま)るという信仰があります。神霊がお乗りになったお神輿を激しく揺り動かすことで、神威が増すとともに、お神輿を担ぐ氏子の人々、地域にも生命力と繁栄をもたらしてくれるのです。
16 山車
やまぐるまって読むの? 山車(だし)は、お祭りのとき、車の上にさまざまな飾り物をつけて曳き出すものです。また人がその上に乗って、お芝居を演じたり、踊りを踊ったり、お囃子(はやし)を奏でたりする台で、引き綱で引っ張ります。関東では「屋台」、関西では「だんじり」と呼んでいます。多くは、屋根の上に鉾(ほこ)や長刀(長い刀)をつけています。神さまを守る鉾や長刀には、神霊が宿っていると考えられています。それらをつけた山車は、神輿と同じく神さまの乗り物です。また、山車という名称からもわかるように、神霊は山にあるという通念によって、山の作り物としてのものとも考えられます。地方によって、山車を「やま」と呼ぶのも、そのためです。祇園祭(ぎおんまつり)の山鉾(やまぼこ)や秩父(ちちぶ)の夜祭り、高山(たかやま)祭りなどの山車が有名です。
17 神饌(しんせん)
神さまのお食事。神饌とは、神さまにお供えするお食事、食べ物のことをさします。音読して「しんせん」といい、古くは「みけ」と言いました。お祭りを行う場合に大切なことは、神さまに新鮮な状態の神饌をお供えすることなのです。神饌には、調理しない生のままの生饌(せいせん)と、火を加えて調理した熟饌(じゅくせん)の二つがあります。かつてはどちらも行われていましたが、現在では生饌(せいせん)をお供えすることが多く、特別なお祭りを行う神社では熟饌(じゅくせん)をお供えすることもあります。神饌の種類は、まず一番大事なものが米で、次に酒、餅、海の魚、川の魚、野鳥、水鳥、海藻、野菜、果物、菓子と続き、最後に塩、水などですが、お祭りの大小によって品目や数が変わります。お祭りでは、神さまをお迎えしたら饗応(きょうおう)といって、おもてなしをします。昔の祝詞(のりと)をみても、海川山野のたくさんの珍しい食べ物を山のように盛り上げてお供えしたことがうかがえます。
18 神饌品目
・稲米…和稲(にごしね)、荒稲(あらしね)、玄米、白米、白飯、赤飯、強飯、麦飯、小豆飯、栗飯、粥、七草粥など・酒…清酒、白酒、黒酒、濁り酒、甘酒、お屠蘇など・餅…丸餅(鏡餅)、切り餅(菱餅、伸し餅など)、草餅、ちまき、団子など・雑穀…大豆、小豆、黒豆、素麺、豆腐、納豆、湯葉など・魚介…海魚、川魚、貝、塩物(塩鮭など)、干物、鮨など・鳥…野鳥(雉子、山鳥、鶏、鶏卵など)、水鳥(雁、鴨など)・獣…猪、鹿、兎、狸など・海菜…昆布、わかめ、のり、ひじきなど・野菜…野菜全般、蒟蒻やキノコ類も入る。・菓…生の果実、干した果物、菓子類・調味料他…塩、味噌、醤油、酢、水など・花…花、造花
19 神職(しんしょく)と巫女(みこ)
神さまに仕え神社の社務を執る人のことを神主(かんぬし)、正式には神職(しんしょく)と呼びます。神職は、神さまと氏子との間にあって、仲を執り持つことが重要な仕事です。神職になるためには資格が必要です。資格には、浄階(じょうかい)・明階(めいかい)・正階(せいかい)・権正階(ごんせいかい)・直階(ちょっかい)の位があります。階位は大学の専門課程や神職養成所の課程を修了し、神社本庁の試験に合格した者や、一定の講習を受け審査に合格した者に授けられます。神職の役割として、宮司(ぐうじ)・権宮司(ごんぐうじ)・禰宜(ねぎ)・権禰宜(ごんねぎ)の職があります。また、神職の身分を特級・一級・二級上・二級・三級・四級に分け、この身分に応じた服装をすることになります。袴(はかま)の色が違うのはこのためです。また、戦前は男性の神職だけでしたが、戦後は女性も認められ、現在では多くの女性神職が神明(しんめい)に奉仕しています。神社の巫女の仕事は、お神楽や神事など神職の補助として奉仕します。神さまのお近くでのつとめですから、心身ともにふさわしい品位がなくてはなりません。特に必要な資格等はありません。

●神さまのお話
1 日本の神さま
何人いるの?えっ八百万? わが国には、八百万(やおよろず)の神さまがいらっしゃるといわれます。八百万とは、数え切れない程たくさんという意味で、『古事記』(こじき)や『日本書紀』(にほんしょき)に記載され、神社におまつりされている神さまだけが、その全てではありません。もともと、四季の移りかわりに敏感に反応しながら生活のいとなみを続けてきた日本民族は、農耕民族として太陽や雨などをはじめ、自然の恵みは、何よりも大切なものでした。自然界に起こる様々な現象、天変地異、それを神さまの仕業として畏(おそ)れ敬(うやま)ったことに信仰の始まりがあります。そして自然をつかさどる神さまは、私たちの生活のすべてに関わる神さまとして、人々に崇(あが)められるようになったのです。
2 山の神さま
春になると田の神さまになるの? 山の神は、生産をつかさどる神さまです。それもありとある全てのものをつかさどっているといえます。なぜなら猪、鹿などの獲物(えもの)や山の樹木、銅や鉄、田を潤す水に至るまで、山からもたらされるものは全て山の神のお陰だと信じられてきたからです。特に狩猟や林業、炭焼きなど山仕事をする人々にとっては、大切な生活の糧(かて)を与えてくれる神さまとして厚く信仰されています。また、田の神と山の神は同じ神さまだともいわれ、山の神は春になると人里に降りて田の神となり、稲を守り豊穣(ほうじょう)をもたらし、秋に収穫が終わると山に帰ると信じられています。
3 水の神さま 海の神さま
お清めのパワーがすごい?河童(かっぱ)も水神さまの化身? 水は、人間が生きていくのに不可欠なものですが、水にまつわる神さまを総称して水神(すいじん)といいます。ひとくちに水神といってもさまざまな信仰があります。例えば、田の水は川から引きますが、その水神は川の神とされます。また、飲料水などを汲(く)む井戸におまつりされるのは井戸神です。水神は蛇や龍、河童などに姿を変え、時折(ときおり)人前に姿を現すとの伝承もあります。海をつかさどる神を海神、またはワタツミの神、安波(あんば)さまともいいます。海の恵みをもたらし、海難から人々を守ってくれる神さまです。また、亀や魚などは海神の使者であるとも考えられ、それを助けたために、海の底の宮殿へ行くことが出来たという説話が数多く伝えられています。浦島太郎の話などはその代表例といえるでしょう。八龍(はちりゅう)さまと呼ぶところもあります。また、船魂(ふなだま)は船を守護してくれる神さまで、漁業関係者に広く信仰されています。
4 竈(かまど)の神さま
火は、人間が生活していく上で欠かせないものです。私たちの祖先は、暖をとったり食物を煮炊きしたりする炉(ろ)や竈の神さまを大切にしてきました。また、竈の煙が盛んに出ることは、家が栄えるしるしともいわれ、竈の神さまは家の神としての性格も持っています。おまつりする方法としては、炉や竈の近くに神棚を設けて、そこにお神札(ふだ)や幣束(へいそく)をおまつりするという形が多いようです。
5 七福神
七福神は、福徳をもたらす神々として広く庶民に親しまれています。初めはいろいろな神を福神としてきましたが、次第に恵比寿(えびす)・大黒(だいこく)・弁財天(べんざいてん)・毘沙門天(びしゃもんてん)・布袋(ほてい)・福禄寿(ふくろくじゅ)・寿老人(じゅろうじん)に定着してきました。場合によっては、寿老人の代わりに吉祥天(きっしょうてん)をいれることもあります。福徳、中でも金運をもたらす神々として信仰が盛んになるのは室町時代のころからです。大国主神(おおくにぬしのかみ、大黒さま)・言代主神(ことしろぬしのかみ、恵比寿さま)は親子神で、古来より日本で福の神として信仰されてきた神々です。恵比寿さまは海運守護・商売繁盛の神、大黒さまは福徳の神といわれます。布袋さまは実在の人物で、中国の禅僧です。弁財天・毘沙門天は、インドの仏教の神々です。福禄寿・寿老人は中国の道教の神々で共に長寿を象徴します。
6 お稲荷(いなり)さま
昔から商売の神さま? 全国の神社の中で最も多いといわれているのが稲荷神社で、総本社は、京都の伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)です。ご祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、大宜津比売(おおげつひめ)、保食神(うけもちのかみ)とも称されています。「稲 荷(いなり)」は「稲成(いねな)り」から変化したともいわれ、もともとは農業の神さまとして信仰されていましたが、現在では結びの信仰(ものごとを生み増やす生成発展の信仰)から、諸産業の神さま、特に商売繁盛の神さまとしても信仰されています。稲荷神社の社頭には、朱塗りの鳥居が幾重にも建てられていることがありますが、朱色は生命の活性化、躍動感を表すといわれ、災厄を防ぐ色ともいわれます。また、狐の置物もよく見られますが、これは田の神、山の神の信仰との結びつきと考えられ、稲が実るころに山から人里近くに姿を現す狐の姿を、人々は神さまの使いと考えたと思われます。稲荷神社のお祭りは「初午(はつうま)祭」が有名です。これは、伏見稲荷大社の神さまが三ヶ峯(みつがみね)に天下(あまくだ)られたのが、和銅四年(七一一年)旧暦二月の初午の日であったことに由来し、毎年二月の最初の午の日にお祭りが行なわれます。
7 八幡(はちまん)さま
武道の神さま? 八幡神社の総本社は、九州大分県の宇佐(うさ)八幡宮です。そのご分霊(ぶんれい)が貞観元年(八五九年)に京都の男山におまつりされたのが、石清水(いわしみず)八幡宮。また鎌倉時代、源頼朝により勧請(かんじょう)されたのが鶴岡八幡宮です。八幡信仰は、武士の台頭とともに急速に広まり、全国各地に約二万五千の八幡神社がおまつりされています。ご祭神は応神(おうじん)天皇・比売神(ひめがみ)・神功皇后(じんぐうこうごう)で、武運長久の神さまとして信仰を集めていました。その関係から、八幡神社では流鏑馬(やぶさめ)の神事が行われるところが多いようです。現在は武道ばかりでなく、運動などにご利益がある神さまとして信仰を集めています。
8 天神(てんじん)さま
天にいる神さまのこと? 天神さまは、平安時代の貴族で政治家でもあった、菅原道真(すがわらのみちざね)公をまつる神社として知られています。天神さま、つまり菅原道真公は代々文章(もんじょう)博士という学者の家に生まれ、幼い頃からたいへん勉強に励まれ、最年少で国家試験に合格された立派な学者でした。菅原道真公が活躍された時代は、中国の唐の国の進んだ文化を取り入れて、学問を盛んにして立派な国を造ることが行なわれていました。道真公は、歴史や文芸だけではなく、中国の文化に関しても、とてもよく研究されて、その知識を生かして、政治の世界でも右大臣として登用され大変活躍されました。ところが、こうした活躍をこころよく思わない政敵によって、無実の罪を着せられ、九州の太宰府に左遷(させん)され、無念の死を遂げたのです。道真公が太宰府で亡くなられた後、都では天災が相次ぎ、政敵は落雷によって死んでしまいました。その後も干ばつや洪水・疫病などの天変地異が続いたため、これらはすべて道真公の怨霊(おんりょう)のせいだとして恐れられるようになったのです。そこでこの祟(たた)りを鎮めるために、京都の北野に道真公の霊をまつったのが、北野天満宮の始まりです。やがて道真公の生前の学問に対する偉大な功績から、学問の神さまとしてのご利益が広まり、広く親しまれ信仰されています。「天満宮」「天神社」「菅原神社」「北野神社」などの神社が、天神さまをおまつりしている神社で、全国各地にあります。
9 八坂(やさか)さま
キュウリが好きなの? 八坂神社のご祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)です。八坂神社といえば、すぐに思い出すのが京都の祇園祭(ぎおんまつり)だと思います。このお祭りは、平安時代、疫病(えきびょう)退散のために御所(ごしょ)内で祇園御霊会(ごりょうえ)が行われたのが最初で、疫病・災害の原因を怨霊と考え、それを鎮めるために牛頭天王(ごずてんのう)をおまつりしました。牛頭天王は、インドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神といわれ、疫病封じのご利益があることから、仏教伝来と共に、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と同一視されるようになりました。八坂神社を天王さまと呼ぶところも多いようですが、それはこの名残です。全国各地の八坂神社も、その地域で疫病が流行(はや)り、それを鎮めるためにおまつりされた例が多いようです。夏に行われる天王祭では、地域によってキュウリをお供えする風習も見られます。この神さまがなぜキュウリが好物かと言えば、こんな話が伝えられています。その昔、牛頭天王が悪い神さまから逃れるために、キュウリ畑の中に身を隠し難を逃れました。悪い神さまはキュウリのトゲが嫌いだったのでしょう。それともう一つ、この八坂神社のご神紋は、ちょうどキュウリを切った切り口に似ているからという説もあります。
10 お諏訪(すわ)さま
もとは出雲の神さま? 諏訪神社の総本社は、信州諏訪に鎮座されている諏訪大社です。諏訪大社には「上社(かみしゃ)」「下社(しもしゃ)」があり、さらに上社には「本宮(もとみや)」と「前宮(まえみや)」があり、下社には「春宮(はるみや)」と「秋宮(あきみや)」があります。上社の本宮には建御名方神(たけみなかたのかみ)をおまつりし、前宮には八坂刀売神(やさかとめのかみ)をおまつりしています。下社の春宮と秋宮にもそれぞれ夫婦の神さまがおまつりされています。上社・下社の各社殿の四隅に建てられる御柱(おんばしら)と称される樅(もみ)の木の柱を、申年と丑年の七年ごとに新しく曳き立てる「御柱祭」など特殊な神事が多くあります。建御名方神は、出雲国譲りの神話に出てくる神さまで、国を譲った後、長野県諏訪に鎮座し、住民に農耕や養蚕の業を伝えたので、農耕の神・五穀豊穣を祈る神さまとして信仰されています。
11 鹿島(かしま)さま 香取(かとり)さま
東北に多いのはなぜ? 鹿島神社の総本社は茨城の鹿島神宮で、武甕槌神(たけみかづちのかみ)がおまつりされ、香取神社の総本社は千葉県の香取神宮で、経津主神(ふつぬしのかみ)がおまつりされています。この二柱(ふたはしら)の神は、天孫降臨(てんそんこうりん)にあたって大国主神(おおくにぬしのかみ)さまと交渉し、ただ一人承服しなかった建御名方神(たけみなかたのかみ)を制圧し、出雲国譲りを成功させた神々です。東国の開拓神として、また、武勇の神さまとしても信仰され、関東や東北地方を中心に多くのご分社があります。また、この系統の春日大社は、香取・鹿島の二柱の神さまの他に、天児屋根命(あめのこやねのみこと)と比売神(ひめかみ)とをあわせて四柱の神さまをまつっています。昔、藤原氏が香取・鹿島の二柱の神さまを奈良に勧請(かんじょう)して氏神とされ、まもなく皇室・国家の守護神とされたのが春日大社です。
12 熊野(くまの)さま
山伏(やまぶし)の修行場だった? 熊野神社は、十二所(じゅうにしょ)神社・若一王子(にゃくいちおうじ)神社などとも称されます。総本社は和歌山県の熊野三山で、熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)(本宮)・熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)(新宮)・熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)の三社を指します。ご祭神は本宮が家都御子大神(けつみこのおおかみ、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、新宮が熊野速玉男大神(くまのはやたまおのおおかみ、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の御子)、熊野那智大社が熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ、伊邪那美命(いざなみのみこと)です。皇室をはじめ多くの信仰を集め、「蟻(あり)の熊野詣(くまのもう)で」といわれるほど、昔からたくさんの参拝者があります。また、熊野三山は修験道(しゅげんどう)の修行者(山伏)の道場としてよく知られています。
13 日吉(ひえ、ひよし)の神さま
都(みやこ)の守り神だった? 日吉(ひえ、ひよし)神社、日枝(ひえ)神社、山王社(さんのうしゃ)と称されます。総本社は近江(おうみ)の日吉大社で、ご祭神は大山咋大神(おおやまくいのおおかみ)と大己貴大神(おおなむちのおおかみ)です。大山咋大神は、大年神(おおとしのかみ)の御子で農耕の神と崇められています。また、別名を山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)といい、日枝山(比叡山)の山の神さまです。平安時代から京の都の丑寅(うしとら)の方角を守る守護神として信仰されてきました。
14 愛宕(あたご)さま
防火の神さま? 京都市嵯峨愛宕町の愛宕神社が総本社で、ご祭神は本宮に伊邪那美命・植山姫命(はにやまひめのみこと)・稚産霊命(わくむすびのみこと)・天熊人命(あまくまひとのみこと)・豊宇気毘売命(とようけひめのみこと)、若宮に雷神(いかづちのかみ)・迦具槌神(か ぐつちのかみ)をまつります。火ぶせ、厄除けのご利益があり、そのため、近くには水場がある場合が多いようです。
15 宗像(むなかた)さま
弁天さまのこと? 宗像(むなかた)神社は、宗形神社・弁天社・隠津島(おきつしま)神社とも称され、一般に弁天さまと呼ばれています。九州の宗像に宗像三女神(さんにょしん)( 田心姫命(たごりひめのみこと)・湍津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)が天下られ、まつられたのが宗像大社の起こりで、海上交通・道中安全・漁業守護の神さまとして信仰を集めています。安芸(あき)の嚴島神社(いつくしまじんじゃ)、近江(おうみ)の都久夫須麻(つくぶすま)神社、大和(やまと)の天河(あまのかわ)神社、相模(さがみ)の江島(えのしま) 神社、陸前(りくぜん)の黄金山(こがねやま)神社は、日本五弁天として有名です。
16 鶏(にわとり)・鹿(しか)・狐(きつね)・猿(さる)・蛇(へび)などは神さまのお使いなの?
奈良の春日大社を参拝されたことがある人は、たくさんの鹿を目にしたことでしょう。なぜ奈良の人が鹿を大切にするかというと、それは鹿が春日の神さまのお使いと信じられてきたからです。お使いは神使(しんし)ともいい、神さまのご意志を人間に伝えると信じられた動物のことです。古事記・日本書紀には、天照大御神さまが八咫烏(やたがらす)を神武天皇の道案内として遣(つか)わしたことが記されており、このことから熊野大社では八咫烏を神さまの使いとして尊崇しています。最近ではサッカーの日本代表のシンボルとしても有名です。そのほか、稲荷神社の狐や八幡神社の鳩、天神さまの牛、弁天さまの蛇、大黒さまの鼠(ねずみ)、日吉神社の猿など、全国各地の神社でさまざまな伝承が残されています。
鶏→伊勢神宮、鹿→春日神社・鹿島神社・厳島神社、猿→日吉神社・春日神社、烏→熊野神社・住吉神社・諏訪神社・羽黒神社・日吉神社、鳩→八幡神社、狐→稲荷神社、蜂→二荒神社・日吉神社、牛→天満宮 

●神社の鳥居
鳥居が持つ役割や意味
神社の入り口にある鳥居は、神社の内側の神聖な場所(神域)と、外側の人間の暮らす場所(俗界)との境界を表しています。鳥居は神社へ通じる門や、神社のシンボルといった役割のほか、神社の中に不浄なものが入ることを防ぐ、結界としての役割もあるといわれます。一般的に神社に鳥居は一つですが、規模の大きな神社になると複数の鳥居があるところも見られます。本殿からもっとも離れた場所にある鳥居を「一の鳥居」と呼び、本殿まで「二の鳥居」、「三の鳥居」と続きます。鳥居をくぐりながら、神様が祀られている神聖な場所に近づいていくことができるのです。また、本殿を持たずに自然物を祀ってある神社では、鳥居自体が神様の存在を現す建造物としての役割を持っています。
鳥居のはじまりはいつから?
鳥居の起源についてはさまざまな説が存在しており、実ははっきりした由来はわかっていません。中でも知られているのが、古事記に登場する天照大神のエピソードではないでしょうか。天照大神が天岩屋戸にお隠れになった際に、戸を開かせるために神様たちが鳥を木にとまらせて鳴かせたという話が元となっているようです。このとき、鳥がとまっていた木が鳥居の原型だという説です。ほかにも、日本古来の神話にはたびたび、神様の使いとされる鳥が登場し、神様と鳥の深いつながりを見ることができます。また、日本には城や関所などで使用されていた冠木門(かぶきもん)があり、こちらも鳥居とほぼ同じ構造をしていることで知られています。鳥居のはじまりは、こうしたさまざまな説から成り立っていると考えられています。読み方についても、「通り入る」がなまって「とりい」と呼ばれるようになったとの説もあります。海外から伝わった説としては、インドのトーラナや朝鮮半島の紅箭門、中国の牌楼などが原型という説がありますが、モンゴルやシベリアなどのユーラシア大陸には鳥居ととてもよく似た形の建造物が存在する事実を見ると、「海外説」も考えられない話ではありません。
鳥居の色が赤い理由
鳥居というと赤い色をイメージする人は多いかもしれませんが、実は赤以外の鳥居も多く存在します。もともとは、木の素材そのままの鳥居が一般的でしたが、時代が経つにつれて鮮やかな赤色(朱色)で着色されるようになります。赤色の鳥居といえば稲荷神社が有名です。赤色は稲作に必要とされる陽光や温かさを運んでくると稲荷神社では考えられています。また、赤色は魔除けの色と考えられていて、古くから日本では神社仏閣や宮殿などに用いられてきました。そのため、稲荷神社以外でも赤い鳥居を持つ神社はたくさん見られます。特に江戸時代以降、神社建築はだんだんと色彩を帯びてきて、赤色(朱色)の鳥居が見られるようになりました。さらに、赤色の原料となる丹(水銀)は、木材の防腐剤としての役割も担っているのです。
鳥居の種類は実にさまざま!
鳥居にはさまざまな種類や形があり、使用される木材の材質や構造も多岐にわたります。一説によると、60以上もの鳥居の種類があるとされていますが、大別すると「神明(しんめい)鳥居」と「明神(みょうじん)鳥居」の2種類に分けられます。
神明鳥居 / 神明鳥居は歴史的にもっとも古いタイプの鳥居で、伊勢神宮などで見ることができます。2本の柱の上にまっすぐな木材を乗せ、さらに柱と柱の間にもう一本木を渡して強度を増したものです。とてもシンプルな形が特徴となっています。
明神鳥居
一方の明神鳥居は、2本の柱の上に乗った横柱の両端が上に向かって反っているのが特徴です。こちらは稲荷神社をはじめ全国的に多くの神社で見られる形で、八幡宮の鳥居も明神鳥居が変化してできたものとされています。仏教建築が豪華になるにつれて、鳥居も神明鳥居から明神鳥居へと変化していきました。また、柱を用いずに自然の樹木にしめ縄を渡したものなどもありますが、こちらも役割としては鳥居と同じと考えてよいでしょう。かつて日本には巨木信仰があり、木そのものが神様の宿る場所だと考えられていました。それが少しずつ進化して、現在の鳥居の形となったようです。
まとめ
神社の鳥居は日本人にとって馴染み深いものですが、その由来にはいろいろあります。日本の文化や伝統を知ることで、日ごろ見慣れていた景色が少し、変わって見えるかもしれません。ライフエンディングの分野にもさまざまなしきたりや文化があります。お葬式など人生の終末ばかりではなく、古くからの民俗や文化を学んでみるのも、ある意味、自分らしい終活につながるのではないでしょうか。

●神社の鳥居の意味
鳥居の意味
そもそも神社とは、神様が住む地です。そして、その神殿よりも前にある鳥居は、神域(神の世界)と俗界(人の世界)を隔てる門として存在しています。ここをくぐることで、穢れを祓い、神様のいる神域に入るということで鳥居があるのです。鳥居がいくつもある場所は、それをくぐっていくことでさらに神聖なる場所へ進む上での祓いを受けていると考えられています。
鳥居は本殿の付属物ではなかった?
鳥居は本殿へと続く参道に設けられていることが多いです。実はこの鳥居の歴史は、神社の歴史よりも古く、仏教伝来とともにつくられています。神社の神殿と鳥居ははじめから同時につくられていたわけではないのです。神様は古代より各地域で自然に生まれた土着信仰が発達し、自然現象を神格化したものが多く山や海、巨石に神様が降臨する依り代として信仰の場とすることが多く、その場が神社とされていたため、そこへ鳥居が立てられていました。
鳥居のルーツ
鳥居といえば神社のシンボルですが、そのツールは実にシンプルで、2本の木柱の間をさらに木でつなぐものでした。現在では、鳥居の上部に笠木を渡して、その下を貫と呼ばれる部分で連結させるのが良く見る鳥居です。種類は、主に「明神鳥居」といって笠木が上に反った鳥居と、「神明鳥居」という直線的な鳥居があります。中世以降は、石材でつくられる鳥居も多く存在しています。
鳥居はなぜ朱いのか
では、なぜ鳥居は朱いのでしょうか。実は、これらは魔除けとして呪術的な意味合いがあり、血の色につながる朱色が使われています。また火や太陽といった意味も含まれています。ちなみに朱色の原料としては、辰砂といわれる水銀が使われています。この辰砂は、木材の腐敗を防ぐ効果があり、多くの鳥居で使われています。
鳥居には60種以上もの種類がある
実は、鳥居の種類は60種以上もあるんです。そして、鳥居のさまざまな形状は、宮司や寄進者の意向によって分けられています。例えば、三重県にある「伊勢神宮」朱色の鳥居ではなく、塗料を塗らない白木のままの鳥居があり、これは「黒木鳥居」という種類として分類されています。また長野県にある「戸隠神社」では、「明神鳥居」ですが必ずしも朱色とは限らず、木製の鳥居が建てられていることもあります。
まとめ
御朱印のブームも相まって、最近では神社を訪れる人が多くなっています。神殿をお参りすることはもちろんですが、神社を訪れた際に、神社をいろんな側面から見てみるのも一つの楽しみではないでしょうか。

●鳥居について
私たちが神社にお参りをするとき、まず鳥居を目にします。鳥居は神社を表示し、また神社の神聖さを象徴する建造物ともいえます。鳥居は神社の内と外を分ける境に立てられ、鳥居の内は神様がお鎮まりになる御神域として尊ばれます。また、特定の神殿(本殿)を持たず、山など自然物を御神体、または依代よりしろとしてお祀りしている神社の中には、その前に鳥居が立てられ、神様の御存在を現すものとして重視されています。
鳥居の起源については、天照大御神あまてらすおおみかみが天の岩屋にお隠れになった際に、八百万の神々が鶏を鳴せましたが、このとき鶏が止まった木を鳥居の起源であるとする説や、外国からの渡来説などがあります。
鳥居は、その材質・構造も多種多様で、それぞれの神社により形態が異なります。一説には六十数種類の形態があるともいわれており、代表的なものとしては、鳥居上部の横柱が一直線になっている神明しんめい鳥居と、この横柱の両端が上向きに反っている明神みょうじん鳥居があります。このほか、形態では明神鳥居の横柱上部に合掌形の破風はふのついた山王さんのう鳥居や、また朱塗りの稲荷鳥居など特徴的なものがあります。
起源や形態などさまざまではありますが、鳥居を見ると神聖さを感じるのは、我々日本人の共通した考え方ではないかと思います。

●神社の豆知識
1 「八百万の神」といいますが、神様は本当はどのくらいいらっしゃるのでしょうか?
以前、神様の名前を数えたことがあります。『古事記』『日本書紀』に登場する照大御神(あまてらすおおみかみ)に須佐之男命(すさのおのみこと)、大国主神(おおくにぬしのかみ)などの神々はもちろん、全国の神社の御祭神。家々が独自にお祀りしている氏神やその土地の守り神である産土神、道祖神など。そのとき私が数え上げられたのは1万少しでした。とはいえ、「万物に神が宿る」というのが古来、日本人が抱いてきた考え方。道端の石や花、服や日用品、髪の毛などといった物質から、技術や空気といったものにまで名もなき神を感じてきたのです。天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)など造化三神という神様は、実はヒッグス粒子の働きに近いという話もあります。素粒子にも神様がいるとしたら、八百万(やおよろず)では済みませんよね。
2 鳥居はなんのためにあるのですか?
「ここからは神域ですよ」という目印、門のような役目があります。なぜ鳥居というものができたのか、そもそもなぜ「鳥居」というのかは諸説あり、正確にはわかっていないのですが……。語源に関していえば、「神様の使いである鳥がとまる場所だから」「人々が“通り入る”から」などといわれています。いちばん古い形が神明(しんめい)鳥居、大社鳥居、次いで明神鳥居。そこから八幡鳥居、春日鳥居、住吉鳥居、山王鳥居…と多様化していきました。現在、最も多いのは明神鳥居。材質や色も、伊勢神宮は白木、稲荷神社は赤、と統一されている神社はあるものの、形、色、材質にいたるまで、基本的に制限はありません。また、神社側や寄進者の意向に委ねられています。春日大社に寄進するからといって、春日鳥居にしなければならない決まりはありません。
3 境内はどこを歩いてもいいのでしょうか?
神域である境内で、瑞垣(みずがき)に囲われていたり、注連縄(しめなわ)が張り巡らされている所は“さらなる神域”。入ってはいけない場所になります。また参道の中央は“正中(せいちゅう)”といって神様がお通りになる道なので、私たちは遠慮しましょう。宇治橋など伊勢神宮にある橋には、中央部分に板を敷き、人が歩けないような工夫が施されています。また、鳥居をくぐる際は、立ち止まって脱帽し、まず一礼。帰るときも、鳥居をくぐった後で本殿の方へ向き直り、一礼するのが望ましいとされます。神道には、“進左退右(しんさたいゆう)・起右座左(きゆうざさ)”という作法があります。神様に向かって進むときは左足から、下がるときは右足から。拝殿などで正座をする場合、立つときは右足から、座るときは左足からという意味になります。間違えたとしても咎められはしませんが、次に参拝に行かれる際、鳥居を左足で越せば、神様に近づく作法によりかなうものとなるでしょう。参道の入り口にあるのが「一の鳥居」。そこから「二の鳥居」「三の鳥居」と数が増えていく。鳥居には注連縄がかけられていることも。同じく「神域」を示す。拝殿の前には神様をお守りする狛犬が控える。
4 日本で最も古い神社は?
大神(おおみわ)神社(奈良県)、住吉神社(福岡県)など、2000年以上前の創建が記録されている神社も多いのですが、“神社”の定義によって答えは変わってきます。万物に神を見いだす日本人は古来、山や海、大きな木や岩、滝などを神そのもの、または依り代(よりしろ)として手を合わせてきました。鳥居や社殿はなくても、そこは祈りを捧げる場、神域であったのです。そもそも神社に社殿ができたのは、6世紀に仏教が伝来し、立派な寺院が建てられたことに影響されたためといわれます。神様は仏像のような実体を伴いませんから、社殿は必要なかった。神事を行う際は、神籬(ひもろぎ)や磐境(いわさか)などという祭祀施設をつくって、そこにお迎えするという形をとっていたんです。約4千年前の三内丸山遺跡(青森県)や紀元前3〜4世紀ごろ纒向(まきむく)遺跡(奈良県)からも祭祀遺物は発掘されています。少なくともそのころから、“神社”にあたるものがあったのです。
5 狛犬はなぜ対で置かれているのですか?
一説には、男女を表しているといわれます。向かって右が雄、左が雌。異なるふたつが合わさって完成するという陰陽の思想です。狛犬は「高麗犬」と書くこともあるように、大陸から日本へと伝わってきたもの。口を開いた「阿(あ)」と口を閉じた「吽(うん)」=「阿吽」の形態は日本独特のもので、仏教の仁王像の影響と考えられています。狛犬は外敵から神様を守る霊獣。稲荷神社の狐、山王神社の猿、春日大社の鹿などは眷属(けんぞく)、神様の使いで両者は役割が違うのです。
6 拝殿と本殿の違いはなんでしょうか?
拝殿は祈りを捧げる人間のためのもの、本殿は鎮座される神様のためのもの。本殿には神職も礼を尽くして入ります。伊勢神宮が御正宮(本殿)のみで、現在も神職がその前の地面に座る形で神事を行っているように、古く、拝殿はありませんでした。拝殿がつくられるようになったのも、雨に濡れないようになど、人のためのものでした。神様と人間のいる場所を一緒にしなかったところに、日本人の神様への思いが表れているように思います。
7 注連縄を張る意味を教えてください
『天岩戸(あまのいわと)』神話で、天照大御神が岩戸からお出ましになられたとき、「二度とお戻りにならないように」と入り口に張られた尻久米縄(しりくめなわ)が注連縄(しめなわ)の始まりといわれます。注連縄はここから先は神域であるという標識、結界を表すもの。一般的なのは前垂(まえだれ)注連縄。ほかに大根注連縄、牛蒡(ごぼう)注連縄などありますが用途に違いはありません。また、現在の縄は稲わらでできたもの。そこに下がる紙垂(しで)は稲妻を表しています。稲妻は稲に実りをもたらすと考えられていたのです。
8 ご神木のほかにも大きな木がたくさんあるのはなぜですか?
古来、神様は空の上から高い木に降りてくると考えられていました。ご神木となっている木は神様の依り代となったもの。大切な依り代を守るために、人々は周りにさまざまな木を植え、やがて鎮守の森となっていきました。森は「杜」とも書き、神社そのものを表す言葉でもあります。都心とは思えないほど緑濃く息づく明治神宮の森も、明治天皇が崩御された後、一から造営されたもの。日本人にとって神社と鎮守の森は切り離せないものなのです。
9 社殿の上に載っている木にはどんな意味があるのでしょうか?
天に伸びている部分は「千木(ちぎ)」、横に並ぶ円筒形の木材は「鰹木(かつおぎ)」といいます。古来、天皇の宮殿と神社にのみ許された装飾です。千木は風避け、鰹木は屋根の重しという実用性もありますが、千木は「神様が降りてこられるためのアンテナ」と語る神職もいます。千木の先が地面に対し垂直なものは「外削ぎ」(鰹木は奇数)と呼ばれ男神に多く、平行な「内削ぎ」(鰹木が偶数)は女神に多いようです。
10 拝殿に鈴が付けられているのはなぜですか?
鈴の音によるお祓いという説や、参拝に来たことを神様へお知らせするためという説、神様からの「聞いてますよ」という合図であるという説もあります。お賽銭を入れるのが先、鈴を鳴らすのが先…と、神社によって参拝順序が違うのはそのため。ですが、順序よりも大切なのは心を込めて静かに鳴らすこと。鈴はあなたと神様をつなぐ、大切なものなのですから。
11 ご神体とはどんなものなのでしょう?
2013年、出雲大社、伊勢神宮の遷宮で、厳かに新しい宮へと遷られたご神体。闇と絹垣(きぬがき)に包まれた渡御(とぎょ)の列は、その神秘性をますます高めるものでした。伊勢神宮のご神体が、天照大御神が「これを私の御魂と思って奉りなさい」と託された八咫(やた)の鏡であるように、鏡や剣、玉などが多いですね。基本的に神様の依り代であり、どんなものであるかを隠すべき神聖なものです。
12 どうして境内にいくつも小さな社があるのですか?
小さな社(やしろ)は「摂社(せっしゃ)」「末社(まっしゃ)」と呼ばれます。摂社はその神社やご祭神とつながりのある神様を祀っているもの。末社は別の神社から勧請されたものになります。江戸時代、全国に18万社あった神社が明治政府の政策によって、12万に減らされ、戦後はさらに減り、現在は8万社ほど。末社は神社を失った神様を祀ったものですが、その土地で古く信仰されてきた神様に変わりはありません。
13 同じご祭神があちこちの神社に祀られているのはなぜですか?
神様が分身の術のように御霊を分けることを“分霊”と呼びます。分霊はその神様のご神徳が広く行き渡っていくということ。よいことと考えられていたのです。氏神を大切にした日本人は古来、新しい土地へ移るときは必ず氏神を分霊し、その土地に祀りました。源頼朝が信奉していた八幡神は全国に2万社以上、菅原道真を祀る天神社(天満宮)は1万2千社にものぼるといわれます。
14 「○○神宮」と「○○大社」、どこが違うのですか?
神宮、大社、神社など、社名の最後に付く称号を「社号」といい、社格やその神社の由緒がわかるようになっています。戦前までの神宮は、天皇家にゆかりが深い神、または建国において大きな働きをした神をご祭神として祀った所です。伊勢神宮、明治神宮は前者、鹿島神宮、香取神宮は後者になります。そもそも「神宮」とは、伊勢神宮のことを指す言葉でした。大社は、出雲大社の大国主神をはじめ、もともとその地にいた神様“国つ神”を祀ったものが基本的には多いとされます。神宮、大社がつく神社は社格の高い神社。それ以外の神社、宮、社などは大きな差はありません。戦後、皇大神宮、大神宮という神社も多くなりましたが、神宮とは直接関係はなく、「大」が付くからといって格が上ということもありません。

●神社とお寺の違い
日本のどこに暮らす人でも、住んでいる街には神社やお寺があるのはないでしょうか。近年は「パワースポット」として、神社やお寺めぐりをする女性も増えているようです。静かで清らかな空気を吸うと、気持ちがリフレッシュするような感覚になりますよね。しかし改めて考えてみると、どちらも日本の文化を代表するお参りをする場所ですが、いったい神社とお寺は何が違うのでしょう?今回は、意外と知らない人も多い、神社とお寺の違いをさまざまな角度から比較します。
「神様の場所」を表すのが神社の鳥居の役目
神社とお寺を比べると、「何を祀(まつ)っているか」、つまり信仰する宗教に大きな違いがあります。神社は、神が宿ると言われるモチーフである“御神体”を祀りますが、それは神道の信仰に基づいてつくられた場所だからです。御神体は神社によってさまざまで、鏡や刀、森、岩などがあります。それに対し、お寺は主に仏像を拝む、それは仏教の教えを説く僧侶によってつくられた場所です。建物の構造にも宗教の違いが表れています。神社は入り口に“鳥居”がありますが、これは「ここから先は神様のいる場所ですよ」という目印になります。鳥居をくぐり参道を歩くと、拝殿(参拝する場所)へとたどり着きます。一方、お寺では入り口を“山門”と呼びます。こちらも同じように「ここから先は仏の国」という目印で、くぐることで心が清められるといいます。お寺の建築構造は宗派や時代で変わってくるので、決まった配置はありません。次は、お参りの仕方です。まず、神社とお寺のどちらにも共通するのが“お清め”。手水できれいにしてからお参りをするのがマナーです。神社で拝むときは、「二礼、二拍手、一礼」と言い、手を打つのは、神様への合図とも言われています。お寺で拝むときは、「胸の前で手を合わせ、軽く頭を下げる」のが様式で、こちらでは手は打ちません。両手を胸の前で静かに合わせることで、自分と仏が一体になることを表しています。
神社には宮司、お寺には僧侶がいる
神社の長は「宮司(ぐうじ)」と呼び、宮司の元で働く職員のことを「神職(神主)」と呼びます。神職になるには、大学の神道学部で学んだ後に実習を行い、階位を取得する必要があります。一方で、お寺を運営するのは「僧侶」という人たちです。僧侶になるには、各宗派のお寺で修行をしたり、大学の仏教学部を卒業するなどし、僧侶の資格を取る必要があります。僧侶が着ている着物のような衣服は「袈裟(けさ)」と呼び、インドで出家した人が着る服を表す「カシャーヤ」が語源とされています。神社やお寺で働くには、その宗教への信仰はもちろんですが、場合によってはその宗派に沿った修行も必要になります。そのため、誰もが簡単に神職や僧侶になれるわけではありませんが、近所の神社やお寺の地域に根ざした活動に興味を持った人は、宗教施設に関わる学問や仕事についてさらに掘り下げてみるのも面白いかもしれません。

●鳥居のない神社・石原賀茂神社 (太田市石原町)
鳥居の無い由来
徳川のむかし、京都を発した日光御礼参の例幣使の行列が道中の安全祈願をかねてしばらく賀茂神社の境内で休んでいる時、にわかに一匹の犬が激しく吠えはじめた。不審に思った供侍が吠えたてる犬を追い払おうとして何度も何度も制したけれど犬はなお激しく訴えるように吠えたてて逃げようともしなかった。怒った供侍はとうとうこの犬を切り捨ててしまった。すると意外なことに胴をはなれた犬の首は空に飛び上った。あれよと人々が見上げると犬の首は鳥居の上の大蛇に噛みついた。たまたま鳥居下に休んでいた例幣使に犬は大蛇のいる危険を知らせる為に盛んに吠えたのだった。例幣使は自分を助けようとして吠えたことがわかった。このため日光から帰ってくるまで犬の供養をして塚をこしらえておくようにいってこの神社を去った(帰ってくるまでに三ヶ月かかったという)。
そこで犬を供養しその上に石尊様をまつった。この為村では鳥居があったので蛇がそこへあがったということで神社の鳥居をはずしてしまい今もないのだという。また、はたし(機織機)にも鳥居がついているため正月には鳥居を出さないということで正月中は機を織ってはいけないといわれている。

●中遠昔ばなし / 鳥居や幟(のぼり)をたてない神社(袋井市)
むかーしむかしのこと。袋井は木原の許弥神社の神様が、お隣の土橋の熊野神社へ遊びに行きました。しばらくお喋りを楽しんで、「ではごきげんよう」と木原の神様が帰ろうとした時です。コケッ。なんと鳥居につまずいて足をケガしてしまいました。「あぁ、ヒリヒリと痛い痛い。おい、鳥居なんかつぶしてしまえ!」木原の神様はぷんぷんで帰っていきました。またある時、今度は熊野神社の神様が、許弥神社へ遊びにいきました。しばらくお喋りをして帰ろうとした時です。グスッ。なんと土橋の神様は幟で目を突いてしまいました。「おお、ズキズキと痛い痛い。おい、幟なんてやめてくれ!」そう怒って帰っていきました。そういうわけで、今でも熊野神社は鳥居を、許弥神社では幟をたてないようにしているということです。

●石尊山と石尊信仰
1 石尊信仰とは?
1 大山阿夫利神社を中心とした山岳信仰
石尊信仰とは、神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)を中心とする山岳信仰のこと。現在の阿夫利神社は明治の神仏分離令によって新たに建てられた神社である。古くは大山(丹沢山地の南東部の山。標高1251メートル。厚木市、伊勢原市、秦野市にまたがる)山頂の石尊大権現と山腹にあった大山寺が信仰の中心であった。石尊の名前の由来は山頂の岩石による。山の頂の岩に神々が降りると信じられていたため、石尊の名がついたとされる。ここでいう神々とは、大山が雨降山(あふりやま)と呼ばれていることからも分るように、農耕の神、雨乞いの神である。
2 大山講による信仰の広まり
大山寺は関東各地に講社を持ち、相模の山岳信仰の中心的な存在であった。講社とは、地方の村々に作られた講組織の支部のようなもの。ここでいう講とは「宗教上の目的を達成するために信仰を同じくするものが集まった集団」(『日本宗教事典』 弘文堂 1985年)のことである。講組織による信仰の広まりは、有名寺社を中心に、その寺社から遠くはなれた各地域にも及んでいた。講社の代表者が各組織の構成員を代表して信仰の中心となる寺社に参拝する代参講というのが広く行われた。代参講は山岳系の寺社に多いのが特徴である。
3 大山詣の流行と石尊宮の勧請
江戸時代には関東全域から大山に登拝(大山詣―おおやまもうで)する人々が集まり、かなりのにぎわいをみせた。江戸中後期になると、こうした信仰は遊興的な性格が強まる。現代の観光旅行やレジャーのような感じだろうか。「有名寺社の境内や門前町には多様な遊興の施設が存在し、こうした参詣は宗教的なものであると同時に世俗的な、観光的あるいは娯楽的性格」(『日本史小百科 神道』伊藤聡、遠藤潤他著 東京堂出版 2002年)を帯びるようになった。また、各地の村に石尊宮が勧請(かんじょう―仏教の言葉で仏を祀ってあるところか別のところへ迎えて祀ること)された。そのため、関東には石尊山という名前の山が数多くある。足利の石尊山もそのうちのひとつである。
2 高山彦九郎の日記『小股行』にみる石尊山のにぎわい
1 『小股行』に書かれた足利石尊山の様子
江戸期の石尊信仰の広まりや足利の石尊山のにぎわいについては、高山彦九郎の日記『小股行』の記述からもうかがい知ることができる。『小股行』は彦九郎が1779(安永8)年の7月7日に小俣の鶏足寺(けいそくじ)と石尊山を参拝した際に書き残した日記である。石尊山の山頂の様子を描写するなかで、相模の大山と比較しながら筆を進めている箇所がある。「(石尊山は)山半より岩多し、山の背少し平らなる所に半鐘をかく、参詣の人ミな是を打ツ、相州大山の來光谷に擬すとそ覚ゆ」「石尊山よく相州大山に似山も易からす」などとある。これらから彦九郎が以前に相模の大山に足を運んでいたことはもちろん、足利の石尊山が相模の大山を元にした社であることなどが分る。また、「たきの上に不動堂新たに建、近年参詣多き故と覚へし」や「上野田(村の名)入口に旗を立ツ石尊の神社の為なり、猶北に行、中妻村ここにはた立、参詣の人絡繹(らくえき―人馬などの往来が連なり続く)たり」と書かれていることから足利の石尊山のにぎわいの様子が読み取れる。
2 足利石尊山はいつ頃からにぎわうようになったか?
さらに石尊山のにぎわいについて古老から説明を受ける箇所がある。彦九郎は、古老に石尊山が参拝の人であふれるようになったいきさつを問う。古老は山頂に石尊宮を祀って以来、人が多く集まるようになったと答えている。そのくだりを以下に引用すると「石尊参詣群聚の来由小股の事を老人に問、老人くはしく語り云、三十年以前かなふけの幸右衛門といふもの石尊祠を山上に勧請せしより年々人信をまし今かくなれり」となる。「かなふけ」というのは石尊山近くの小地名のようである。彦九郎の『小股行』に登場する古老の話が史実として正しければ、日記に30年前とあることから、石尊山に石宮が置かれたのは1749(寛延2)年頃ということになる。石尊山という名は大山の石尊祠を勧請したためにつけられた名前だろうから、石尊山の山名の歴史は意外に新しい。石尊祠が置かれる前は鶏足寺に付属する山だったらしい。
3 石尊山の伝説
1 石尊山は鳴動山と呼ばれていた?
足利の石尊山は「石尊山」と呼ばれる以前は「鳴動山」または「鳴山(なるやま)」と呼ばれていたようだ。以下は『足利の伝説』に収録されている伝承である。今からおよそ1500年ほど前のこと。それまで無名の山だった現在の石尊山の上空に5色の雲がかかり、雷鳴とともに豪雨が降り出した。山は轟音とともに揺れ動いた。この雷雨と山の鳴動は一週間ほど続いた。8日目の朝、村人たちが山を見上げると、山頂にこれまでなかった大きな岩が出現していた。この岩は後に釈迦岩と呼ばれるようになる。村人たちはこの岩への信仰を深め、山は「鳴動山」あるいは「鳴山」呼ばれるようになった、という話である。
4 関東地方には石尊山がたくさんある
1 石尊山という名前の山を探してみる
次に関東各地に石尊山という名の山が数多く存在する点についてみてみよう。三省堂の『日本山名事典』や他の山名・地名の資料を参考に各地の石尊山を拾い出してみる。まとめると表1のようになる。表1をもとにそれぞれの石尊山の位置を地図上に示したのが図1である。
   表1 石尊山一覧
 所在県 所在市町村 標高m 地形図名 / 特徴
1 茨城県  十王町・日立市 387m 日立  
2 茨城県  大子町・栃木県黒羽町 421m 大子  
3 栃木県  足利市 486m 足利北部
 / 山頂に釈迦岩、梵天祭りが行われる。
4 栃木県  鹿沼市 594m 文挾  
5 栃木県  塩谷町 481m 壬生  
6 群馬県  安中市・榛名町 571m 三ノ倉
 / 北陸新幹線「安中榛名駅」の真上にある。梅林で有名な秋間丘陵の秀峰。
7 群馬県  月夜野町 752m 後閑
 / 山腹に八束脛(やつかはぎ)洞窟遺跡(弥生時代の人骨など出土)あり、山頂に祠。
8 群馬県  中之条町 1049m 中之条
 / 祠あり。 5月5日の山開きは、どんな悪天候でも行われるという「信仰」の山。
9 埼玉県  小川町・東秩父村 340m 安戸  
10 千葉県  君津市・大多喜町 348m 上総中野
 / 山頂に阿夫利の石祠があり、天狗信仰の対象になった。
11 山梨県  勝沼町 532m 石和  
12 長野県  軽井沢町 1668m 浅間山
 / 付近には弥陀ヶ城岩、血の池、座禅窟などかつての信仰の名残りが見られる。
   図1 石尊山の分布地図 石尊山の分布地図
上の表に示した石尊山は、なにも関東甲信地方に限定したわけではない。全国にある山の中から石尊山を拾い出してまとめると、表1のようになるのである。逆にいえば、石尊山という山名の山は関東甲信地方にしかない。(ただし、これらの山は、地形図に山名が表記されている山、あるいは登山のガイドブックなどで紹介されいる山である。地図やガイドブックに載っていない石尊山なら関東甲信地方以外にもあるかもしれない。)また、地形図に表記されていないが、各地域で石尊山と呼ばれている山は他にも多数あることだろう。すぐに思いつくものだけでも太田・桐生周辺でふたつある。 桐生市川内町に仁田山城という中世の山城跡がある。この城跡のある丘陵のピークを地元の人は石尊山と呼んでいる。 太田市の北部、八王子丘陵の東端にある唐沢山も石尊山と呼ばれることがあるようである。地元の山歩きグループの方が設置した道標に「唐沢山(石尊山)」と書かれている。『日本山岳ルーツ大事典』の石尊山の項に「(石尊山は)石神(しゃくじん)ともいい、石を神体として祀った社をもつ山」と書かれているように、山の上に巨石やその代わりの石宮がある山を単に石尊山と呼ぶこともあるようである。これは、もともとは石尊信仰から始まったものが広く浸透するにつれ、しだいに拡大解釈されて、山頂にただ巨石や石の祠があるだけの山を石尊山と呼ぶようになったという事情もあるのだろう。このため、表1に示した全ての山が相模大山の石尊の信仰から派生した山であるとも言い切れない。
2 石尊山は北関東に多く、そのほとんどは低山である
   表1と図1を見て気づくのは以下の2点である。
1 石尊山は関東全域に分布し、特に北関東(茨城、栃木、群馬の3県が目立つ)に多い。
2 石尊山は標高350〜700メートル前後の低山が多い。
1から石尊信仰が関東全域に広まっていたことが分る。石尊山が関東地方の周縁部に多いのは、関東の中心部は平野で、石尊祠を祀るような適当な山がないという地理的な条件によるところが大きいように思う。そのかわりに石尊の文字を刻んだ石碑や石尊という名の神社は関東から信濃にかけて多くあるという。2の標高については、一番低い埼玉県小川町の石尊山で340メートル、一番高い浅間の石尊山で1668メートルである。表1の12座のうち半分の6座が400メートルから600メートルの間に収まっている。参考までに12座の標高の平均を計算すると、636メートルになる。
3 石尊山に低山が多いのはなぜか?
2の理由を推測してみると以下のようになる。相模大山の石尊大権現はもともと農耕の神、雨乞いの神である。よって、水田や畑の多い地方の、集落のすぐ近くにある岩山に石尊祠が多く勧請されたのではないか? 人里を見守るかのようにそびえる山が石尊祠を祀る山としてふさわしかったのである。地域の人々の信仰を集めていたわけだから、その地域の人々による神事や祭事もとり行われたことだろう。足利の石尊山の場合は、梵天祭りが行われてきた。梵天祭りとは8月14日の早朝、地元の若者たちがスギの丸太を石尊山山頂へ担ぎ上げ、丸太の先に梵天(修験道で祈祷に用いる幣束)をつけて立ち上げるという祭事である。里と山頂との標高差が大きいとこうした行事や日々の登拝が大変である。急峻で険阻な道を何時間もかけて登るような山では、修験者たちの修行ならともかく、普通の村人たちが日常的に信仰の対象とするような山には適さない。参拝するのにそれほど労力を必要としない程度の山(目安とすれば、1時間くらいで山頂まで登れる山か)で、なおかつ神々が降りそうなそこそこの高度と信仰にふさわしい雰囲気のある山が石尊山に選ばれたのだ。これらの山々は平野部の近くにあって集落から仰ぎ見ることのできる山である。こうした条件を満たす山となると、結果的に標高350〜700メートル前後の低山が多くなるというわけだ。

●石尊権現
大山の山岳信仰と修験道的な信仰が融合した神仏習合の神であり、十一面観音を本地仏とする。大山寺の本尊が不動明王であったため誤解されることが多いが、門前町の観音寺の本尊が本地仏である。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、相模国雨降山大山寺から勧請されて全国の石尊社で祀られた。石尊大権現、大山石尊大権現ともいう。
相模大山では、古代からの平野部の山岳信仰に基づく延喜式神名帳式内社である阿夫利神社(アフリノカミノヤシロ)があり、大山そのものを「アフリノカミ」として祀る社(ヤシロ)が山麓にあったものと考えられる。大山山内では、禁則地だった山内が古代仏教的修行者の修行場として開発され大山寺が創建されると、山頂の磐座や二重ノ瀧が大山寺内の重要な聖地となったと考えられる。山頂の磐座は「石尊権現」として大山寺本宮(石尊社)となり、石尊権現以外にも、大天狗社(現在の奥社)、小天狗社(現在の前社)、徳一宮(現在の地主神)なども祀られ信仰された。石尊権現の本地仏は十一面観音であった。現在の大山阿夫利神社下社がある地には大山寺本堂である不動堂があった。中世の大山寺は一山組織を持つ山岳寺院として大山寺別当のもとに天台宗系と真言宗系の宗教者を中心に俗人を含めた様々な構成員を擁していたと考えられる。江戸時代になると、幕府の宗教政策により山内は高野山真言宗に統一されたが、大山寺領の門前町には様々な宗派の寺院が存在した。古代・中世から続く石尊権現祭祀は江戸時代になっても続けられ、大山寺縁起絵巻や大山不動霊験記にも石尊権現の信仰が記された。
大山詣​
江戸時代に大山は江ノ島と並んで江戸近郊の半ば観光地となって大山詣が盛んになり、関東一円で大山講が組成されるとともに、源頼朝の戦勝祈願の故事に由来した納め太刀が流行した。当時の様子は江戸から石尊権現の神名を記した大きな木刀を担いで大山に参詣する浮世絵にもみられる。代表例として歌川豊国の「大當大願成就有が瀧壷」や歌川芳虎の「大山石尊大権現」などの作品がある。大山詣が盛んになるにつれ宿坊が建ち並び、大山詣を案内をする御師が活躍した。その規模は八大院、坊舎十八院、御師百五十余宇に至るほど隆盛した。また、石尊権現信仰は関東周辺に広がり、各地で石尊山の名称や石尊宮の建立が興り、それらでも石尊講が組成されたり納め太刀が奉納された。大山講は相模・武蔵を中心に安房、下総、上総、常陸、下野、上野、磐城、甲斐、信濃、越後、遠江、駿河、伊豆に及んで、総講数1万5700、総檀家数約70万軒にも達した。参詣者は「懺悔懺悔 六根清浄 大峰八大金剛童子 大山大聖不動明王 南無石尊大権現 大天狗小天狗 哀愍納受 一龍礼拝 帰命頂礼」などを唱えた。
神仏分離・廃仏毀釈​
明治維新の神仏分離令による廃仏毀釈によって、神仏習合信仰の石尊権現は廃された。明治元年(1868年)頂上の石尊社ならびに大山寺は各々大山阿夫利神社の頂上本社(ならびに奥社・前社)と下社に改組された。多くの寺宝は破壊されたが、雨降山大山寺は現在の大山ケーブルの大山寺駅近くに再興されて廃寺は免れた。また大山寺本尊不動明王像も廃仏毀釈から守られ現在も大山寺の本尊として祀られている。また各地の石尊社で廃仏毀釈を免れて石尊神社として残っているものもある。

●小此木の石尊さま祭り
大字小此木字新田の広瀬川堤防のそばに、石尊様を祀った石灯籠が西向きに立っている。浅間山の火山岩を積み上げた見事なものである。正面には「奉献」「石尊大権現」とあり、向かって右の側面には「当村中」と刻まれている。また裏面には安政6年(1859)6月吉日に、小此木新田の人々が建てた旨のことが、銘記されている。
石尊信仰は神奈川県伊勢原市の大山にある石尊宮がもとになっていると思われる。セキソンサマとも呼ばれている。江戸時代には、この山は修験道の山として、知られていた。また石尊信仰は、その名の通り、石(巨石)崇拝にもとづくともいわれている。小此木の石尊様が巨石で作られたのも、これに関係しようか。あるいは偶然の一致であろうか。同様な石灯籠は、平塚赤城神社の境内にもある。しかし、これは石尊様ではないらしい。
また、石尊様は阿夫利様とも呼ばれて、これを祀る神奈川の大山は雨降山ともいわれている。そして、農業神や雨乞い、また、商売繁盛の神として、関東一円に多くの信者を持ち、講も結成されている。小此木の石尊様も、こうした信仰内容から祀られてきたものであろうか。もとは「大山講」を結成していたのではないかと推測できる。
しかし、小此木の石尊様は「川の守り神」として今でも信仰されている。神の性格は時代や信仰する人々の願いによっても異なってくるから、石尊様が、川の守り神であってもよいわけである。まして、昔から広瀬と利根の洪水に苦しんできた小此木の人たちにとって、この神に「川を安全に鎮めてほしい」という願いをかけたことは、当然であろう。また、この村には広瀬や利根の船頭業を営む人もいたから、水上安全の神としても拝まれてきたことであろう。
邑楽郡千代田町地方でも、石尊信仰が盛んである。この地方では「作神様」、つまり農業の神として信仰されている。水田耕作や畑作の盛んな地方である。ここでは木製の灯籠が時期になると、幾本も村の要所要所に立てられ、灯がともされている。
小此木の石尊様の祭日は、7月28日である。この石尊様は小此木の新田組と北下新田の所有なので、両組にカマ番と呼ばれる祭世話人が2人(2戸)ずつでてきている(順番で1年交替)。祭りには地元の新田からカマ番の他に各戸1人ずつ、北下新田からはカマ番の2人だけが参加する。祭りの費用は現在1戸100円の寄付で賄われている。当日は灯籠に新しい注連縄が張られ、御神酒や豆腐などが供えられ、村人たちに拝まれる。このあと、人々は新田の世話人の家に集まり、手料理をご馳走になる。そして、この日から1ヶ月ほど、夕方になると新田の世話人によって、石尊様の灯籠に灯明がともされる。現在のように、河川工事が完備していなかったころは、この灯籠の光は、広瀬側を行き来する舟人たちにとって、灯台のように頼もしく思われたことであろう。まさに、水上交通の安全を守る神そのものに見えたに違いない。本来は常夜灯であったのであろうか。
このように石尊様は、比較的小地域の人たちによって祀られ、祭りの時期は夏季であり、また、長期間の献灯を伴うのが特徴である。千代田町では、10軒1組ぐらいで献灯されている。天保11年(1840)の境町「中沢家年中祭記」の6月18日の項に「今日より7月18日迄の間、門前へ大山石尊宮へ献灯ヲ上ケベシ」とある。門前とは中沢家の門前であろう。元町の一画にも中沢家を中心に石尊様が祀られていたことが分かる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 


 
2021/8-