雷様

頭上に ゴロゴロ様
稲妻
急に暗くなる
豪雨 雷鳴
小一時間で通過 雲の隙間に青空

何年ぶりかの雷様
梅雨明けか
 


 
 
●カミナリさま
カミナリさまとは、雲の上に住む雷神のことで、虎の皮のふんどしをしめて、太鼓を打ちならして雷をおこすといわれています。
昔から、「地震、カミナリ、火事、おやじ」と言われるほど、人々から恐れられる存在でした。
また、人間のおへそをとるといわれていますが、それは、雷のなる天気の時は、気温が急激に下がるため、おなかを出して寝ていると、おなかを冷やして、おなかをこわしてしまうことからきています。
 
 
●雷の土産 (高知県)
とんとむかし。土佐(とさ)の野根(のね)の別役(べつやく)のおんちゃんが野根山越(のねやまご)えをしよったら、急に大雨が降りだしたそうな。おまけに雷(かみなり)まで大っけな音をたてて、バリバリ鳴り出したき、たまらん。おんちゃんは泡(あわ)くって、すぐ近くの宿屋杉の根元の洞(うろ)の中へ走りこんだと。
篠(しの)つくような大雨は、野根山(のねやま)をすっぽり包んで、降って降って降りまくったが、その大雨を切り割くようにピカーッ、ピカーッと稲光(いなびかり)がすると、今度はゴロゴロドシャーンと耳もふさがるような音がして、目の前に太い火柱が立ったそうな。
おんちゃんは、それこそ「ヒエー」と悲鳴をあげるなり、気が遠くなってしまったと。それからどれくらいたったか。気がついたときにゃ大雨も降り止(や)み陽(ひ)も差して、さっきまでの雷や雨はまるっきり嘘(うそ)みたいじゃったと。おんちゃんは、やれやれと宿屋杉(やどやすぎ)の洞から這(は)い出して、下り坂をてくりてくり下りよったら、たまるか、道のまんなかで雷が赤ちゃんみたいに這いまわりよったそうな。たまげたおんちゃんが、「おまん、どうしゆうぞね。そんな格好で」と声を掛けたら、雷が言うには「さっきのう、大雨を降らしたら杉や檜(ひのき)やらが喜んでおるきに、もっと降らしちゃろうと思うて力まかせに雨降り太鼓(だいこ)を叩(たた)きよったらのう、力がありあまって、足元の雨雲(あまぐも)を踏(ふ)み破(やぶ)ってまっさかさまに落っこちてしもうたんじゃ。
そいたらのう、道に出ておる杉の根っこに腰をがいに打ちつけてしもうて、痛うて痛うて起きあがれんきに這いまわるよるがじゃ。おんちゃんよ、まっことすまんがのう、わしの身体(からだ)をそこいらの大きな木に押し上げて登らしてくれんもんかいのう。
そしたら雷の神通力(じんつうりき)が出てきて、空へ行けるがじゃ。地上にいてはさっぱり神通力が出んきにのう」こういうて、雷がペコペコ頭を下げるもんじゃきに、おんちゃんは雷がちっくと可愛そうになって、そこにあった榊(さかき)の木に押し上げてやったと。そしたら、雷は神通力が出て元気になったのか、榊の木のてっぺんへガサガサ登って、頭の先からピカリと稲妻を出し、尻からはゴロゴロ音を出した。そして、「おんちゃんよ、二・三日したらお礼に行くきに、住んじょる所を教えてや」というきに、「おら、野根の別役の重吉じゃ。今は娘と二人暮らしじゃ」と、家を教えて帰ったそうな。
それから三日経った夕方のことじゃ。おんちゃんが山仕事から家に帰ったら、娘が、「お父(とう)よ。今日のう、男の人が家へ来よったぞう」というた。「ふうん、誰(だれ)じゃった?」「知らん、見たことのないお人じゃったが、それがなぁ『おいは野根山の雷やが、三日前にここのおんちゃんに助けてもろうたきに、お礼に来たがじゃ』こういうて、重箱(じゅうばこ)を置いていったよ」「ほう、あん雷が礼に来たか」おんちゃんは喜んで、娘に重箱のフタを開けさせて二人で中を見たと。
そしたら、一番上のお重にはボタ餅がずっしりと詰まっちょったと。二番目のお重にはお寿司が一杯入っちょる。三番目はと見ると、こりゃまたなんと、ヘソがぎっしり並べてあったそうな。おんちゃんは感心していうたと。「雷は人さまのヘソを盗(と)って食うというが、本当じゃったか。それにしてもこんなにまあたくさんのヘソを、ようも集めたもんじゃ。そりゃそうと、ヘソの下は何(なん)なら。早う開けてみいや」
そしたら、娘は、顔をまっ赤にして、「何ぼお父が言うたち、ヘソの下は見せるわけにゃいかん」いうて、怒ったそうな。
 
 
●雷さまとクワの木
むかしむかし、お母さんとニ人暮らしの男の子がいました。ある日、お母さんが男の子に言いました。「畑にナスを植えるから、町へ行ってナスのなえを買って来て」「はーい」男の子は町へ行くと、一番値段の高いなえを一本だけ買って来ました。それを見て、お母さんはがっかりです。「お前は何で、もっと安いなえをいっぱい買って来なかったの? 一本しかなかったら、育てても大した数にならないのに」「うーん、そうだったのか」 でも男の子は、心の中でこう思いました。(一本きりでも、この値段の高いなえなら、きっとたくさん実がつくはず) 確かにその通りで、ナスのなえは植えたとたんにグングンと伸びていったのです。「どうだい。やっぱり値段の高いなえは違うだろう? わあ! 話している間にも、雲を突き抜けたぞ」 ナスのくきは、雲を突き抜けても成長をやめません。 やがてナスは薄紫の花を咲かせると、それはそれは見事な実をいっぱい実らせたのです。
次の日の朝、男の子は家からはしごを持ち出しました。それを見つけてお母さんが、あわてて言います。「こら、どこへ行くつもりだ? ナスを登るつもりなら、危ないからやめなさい」「危なくないさ。じゃあ、ちょっくら行ってくる」「だめ! やめなさい! 落ちたらどうするの? お父さんも、屋根から落ちて死んだのだから」「大丈夫、大丈夫」男の子はそのまま、ナスの木を登っていきました。
さて、男の子がナスの木を登って雲の上に出ると、そこには立派なお屋敷がありました。男の子がお屋敷の扉を開けてみると、中にはナスを持ったおじいさんがいました。「あっ! それは、おらのナスじゃないか?!」男の子が叫ぶと、おじいさんが言いました。「ほう、このナスは、お前さんが植えたナスだったか。おかげで毎日、おいしくいただいていますよ」おじいさんは男の子に礼を言うと、男の子をお屋敷の中に連れて行きました。中には二人のきれいな娘がいて、男の子を一晩中、歌や踊りでもてなしてくれました。
次の朝、男の子が目を覚ますと誰もいません。「あれ? みんな、どこへ行ったのかな?」男の子がつぶやくと、ふすまの向こうからおじいさんの声がしました。「起きたか。わしらは仕事に行ってくるから、留守番をしといてくれ」「仕事? 雲の上にも、仕事があるのか?」「もちろん。これで結構、忙しいのさ」「なら手伝うから、おいらも連れて行ってくれ」男のはそう言いながら、ふすまを開けました。そしておじいさんの姿を見てびっくり。「うわっ! 鬼だ、鬼だぁ!」何とおじいさんは、頭に二本の角が生えた鬼だったのです。その横には、二人の鬼の娘も立っています。怖くなった男の子は、真っ青な顔で言いました。「おいらの肉はまずいぞ。だから食わないでくれ!」それを聞いた鬼のおじいさんは、大笑いです。「ワッハハハハ。わしたちは、人間を食べる悪い鬼でねえ。わしらは雨を降らす鬼なんじゃ。ほれ、こんな具合にな」そう言って鬼がたいこを鳴らすと、娘たちがひしゃくで雨を降らせました。「わかった、おじいさんは、かみなりさまだったのか」「そうじゃ、かみなりさまだ。だからこれから、雨を降らせに行くんじゃ」それを聞いて安心した男の子は、鬼に言いました。「それなら、おいらも一緒に行く」「よし、それならこの雲に乗りなさい」 鬼は足下の雲を大きくちぎると、二人の娘と一緒に男の子を乗せました。みんなを乗せた雲はすーっと動くと、今から雨を降らせる場所まで移動しました。雲の端から下をのぞいて、男の子が言いました。「あっ、ここはおいらの村だ!」鬼は立ち上がって、たいこを鳴らしました。娘の一人が、かがみで光を地上へてらしました。このたいこの音とかがみの光が地上へ届いて、いなびかりとなりました。もう一人の娘がひしゃくの水をまくと、それが地上へ届いて大雨となりました。
ちょうどその日は、村の夏祭りでした。突然のいなびかりと大雨に、集まっていた村人たちはびっくりです。「うわあ! 夕立だあっ」それを雲の上から見ていた男の子は、逃げる村人たちの様子が楽しくてたまりません。「ねえ、娘さん、おいらにも、雨のひしゃくを貸してくれ」男の子はひしゃくを借りると、面白がって雲の上から雨を降らせました。おかげで村は、滝の様な大雨です。「それっ、それっ。逃げろ逃げろ、早く逃げないと、もっと降らせるぞ」男の子は調子に乗って、何度も何度もひしゃくの水をまきました。そしてその時、男の子は足を滑らせて、雲の上から落ちてしまったのです。「うわっ、助けてくれ! まだ死にたくないようー!」男の子は雨の中を落ちていき、下にあったクワ畑の中へ飛び込みました。ドッシーーン! しかし何と、男の子は運良くクワの木に引っかかって、命だけは助かったのです。これを見て、かみなりさまが言いました。「ああ、せっかく、わしの後をつがせようと思ったのに。地面に落ちてしまっては仕方がない」でも、もっと残念がっていたのは、二人の娘たちでした。二人とも、男の子のお嫁さんになりたいと思っていたからです。
それからというもの、クワの木のそばには、決してかみなりは落ちないと言われています。なぜかと言うと、男の子を助けてくれたクワの木へ、かみなりさまが感謝しているからです。
だから今でも、クワの枝を家の軒下へぶら下げて、かみなりよけにしている家があるそうです。
 
 
●雷さまのびょうき
むかしむかし、下野の国(しもつけのくに→栃木県)の粕尾(かすお)と言う所に、名の知れた医者としても有名な和尚(おしょう)さんが住んでいました。
夏の昼さがりの事、和尚さんは弟子の小坊主を連れて病人の家から帰る途中でした。「和尚さま、今日もお暑い事で」「まったくじゃ。しかも蒸し暑くて、汗が乾かん」二人は汗をふきながら歩いていましたが、突然、ポツリポツリと雨が降り始めて、みるみるうちに水おけをひっくり返した様な夕立になってしまいました。「急げ!」「はい」大雨と一緒に、いなびかりが走りました。ゴロゴロゴロー! 「きゃー、かみなり! 和尚さま、助けてー!」「これっ、大事な薬箱を放り出す奴があるか!」「すみません。でもわたくしは、かみなりが大嫌いなもので」ゴロゴロゴローッ! ドカーン!! すぐ近くの木に、かみなりが落ちたようです。「わーっ! 和尚さま!」「だから、薬箱を放り出すな!」和尚さんは怖がる小坊主を引きずって、やっとの事で寺へ帰ってきました。
「和尚さま。早く雨戸を閉めてください」小坊主が言いますが、和尚さんはいなずまが光る空をじっと見上げています。「ほほう。このかみなりさんは、病気にかかっておるわい」「へっ? 和尚さまは、かみなりの病気までわかるのですか?」「うむ、ゴロゴロという音でな」さすがは、天下の名医です。
その夜、ねむっている和尚さんの枕元に、こっそりと忍び寄った者がいます。それはモジャモジャ頭から二本のツノを生やし、トラ皮のパンツをはいたかみなりさまでした。でも、何だか元気がありません。和尚さんのそばに座って、 「・・・ふーっ」と、ため息をついているのです。それに気づいた和尚さんは薄目を開けて様子を見ていましたが、やがて先に声をかけました。「どうかしたのか? 何か、お困りの様じゃが」和尚さんが声をかけると、かみなりさまは和尚さんの前にガバッとひれふしました。「わ、わしは、かみなりでござる」「見ればわかる。それで、何か用か?」かみなりさまは、涙を流しながら言いました。「この二、三日、具合がおかしいのです。どうか、わしの病を治してくだされ。お願いします」「やっぱりのう」「それでその・・・、天下の名医ともなれば、お代はお高いでしょうが。こんな物で、いかがでしょうか?」かみなりさまはそう言って、小判を三枚差し出しました。しかし和尚さんは、知らん顔です。「えっ! これでは、たりませぬか」かみなりさまは、小判を五枚差し出しました。すると和尚さんはその小判をちらりと見て、『ふん!』と鼻で笑いました。「わしの治療代は、うーんと高いのじゃ」「そうでございましょう。何しろ、天下の名医でございますし。それではさらに、小判を追加して」「いやいや。金の話は後にして、まずはそこへ横になりなさい」「えっ、診てくださるんですか!」かみなりさまは、大喜びです。和尚さんは腕まくりをすると、かみなりさまの体を力一杯押したり、もんだりして調べます。「ひゃー! ひぇー!うひょー! 痛い痛い! 助けてくれ〜!」かみなりさまは、あまりの痛さに大声をあげました。
その大声に驚いて、小坊主は部屋のすみで震えています。「これ、小坊主!そんなところで、何をしておる。今度はお灸(きゅう)をするから、早く道具を持ってまいれ!」急に声をかけられて、小坊主はビックリです。「和尚さま。何で、かみなりなんぞの病気を診るのですか!かみなりは怖いから、嫌です!」「何を言うとる!さあ、お前もお灸の手伝いをしろ!」「和尚さま。あんな人迷惑なかみなりなぞ、いっそ死んでいただいた方がよいのでは」「ばっかも〜ん!!どんな者の病気でも診るのが、医者のつとめじゃ!」「うぅー、わかりました」 和尚さんは小坊主からお灸を受け取ると、かみなりさまにお灸をすえました。「うお〜っ、あちちち、助けて〜!」あまりの熱さに、かみなりさまは大暴れです。ところがお灸が終わったとたん、かみなりさまはニッコリ笑いました。「おおっ! 痛みがなくなった。体が軽くなった。お灸をすえたら、もう治ったぞ!」さすがは、天下の名医。「ありがとうございました! ・・・で、お代の方は、さぞお高いんでしょうなぁ」「治療代か? 治療代は、確かに高いぞ。・・・じゃが、金はいらん」「じゃあ、ただなんですか!?」「いいや、金の代わりに、お前にはしてもらいたい事が二つある。一つは、この粕尾(かすお)では、かみなりがよく落ちて、人が死んだり家が焼けたりして困っておる。これからは、決してかみなりを落とさない事」「へい、へい、それは、おやすい事で」「二つ目は、この辺りを流れる粕尾川の事じゃ。粕尾川は、大雨が降るたびに水があふれて困っておる。川が、村の中を流れておるためじゃ。この川の流れを、村はずれに変えてほしい。これが、治療代の代わりじゃ。どうだ? 出来るか?」「へい。そんな事でしたら、このかみなりにお任せくだせえ」どんな無茶を言われるかと心配していたかみなりさまは、ホッとして言いました。「それではまず、粕尾の人たちに、お札を配ってください。お札を家の門口に、はってもらうのです。それから粕尾川ですが、流れを変えてほしい場所に、さいかち(→マメ科の落葉高木)の木を植えてください。そうすれば、七日のうちにはきっと。・・・では、ありがとうございます」かみなりさまはそう言うと、天に登ってしまいました。
和尚さんは、さっそく村人たちをお寺に集めてお札を配りました。そして山のふもとの目立つ位置に、さいかちの木を植えました。
さて、その日はとても良い天気でしたが、にわかに黒雲がわき起こったかと思うといなずまが光り、ザーザーと激しい雨が降り出しました。まるで、天の井戸(いど)がひっくり返った様な大夕立です。村人たちは和尚さんから頂いたお札をはって雨戸を閉めて、雨が止むのをジッと待っていました。こうしてちょうど七日目、あれほど激しかった大雨がピタリと止んだのです。雨戸を開けると黒雲はなくなり、太陽が顔を出しています。不思議な事に、あれだけの大雨にもかかわらず、かみなりは一つも落ちませんでした。「あっ、あれを見ろ!」村人が指さすを方を見ると、昨日まで流れていた粕尾川がきれいに干上がり、流れを変えて、さいかちの木のそばをゆうゆうと流れているではありませんか。これでもう、村に洪水(こうずい)が起こる心配はなくなりました。かみなりさまは、和尚さんとの約束を果たしたのです。
それからというもの、粕尾の里では落雷の被害は全くなくなったという事です。
●雷と月と日 (あらすじ) 徳島県
むかしむかし、ある夏のことじゃった。いつもは顔を合わせることもない『お日さん』と『お月さん』と『雷さん』が、お伊勢参りの旅をすることになったそうな。
道中の雷さんは鬼のパンツで元気いっぱい、背中の太鼓を打ち鳴らし、あたりに雷を落としながら、そりゃあ騒がしく歩くんじゃ。お日さんとお月さんが文句を 言っても、雷さんは「いやぁ、すまんすまん!」と、またうるさく笑い飛ばしたそうな。じゃが、まずまず、三人は仲良く旅を続けたそうな。
やがて日も暮れたので、三人は宿に入った。お日さんとお月さんはゆっくりとお風呂に入ったが、雷さんはお風呂が嫌いで、次々に酒を運ばせては飲んでおった。
お日さんとお月さんがお風呂から上がる頃には、雷さんはすっかり酔っ払っており、酒臭〜い息を吐きながら二人にさんざん酒をすすめ、太鼓をたたいて大声で歌いながら踊りだした。そのうるさいこと下手くそなこと。お日さんもお月さんもすっかり参ってしもうた。
そ うして騒ぐだけ騒いだ雷さんは酔いつぶれて眠ってしまったそうな。お日さんとお月さんはほっとして、雷さんを布団に寝かし、自分達も布団に入った。雷さん は初めのうちは静かにスースー眠っておったが、しばらくして、その『スー』が『ガー!』に変わったからたまらない。ほんに布団が吹っ飛ぶような大イビキ じゃった。
「眠らせてくれぇ〜!」お日さんとお月さんは布団をかぶって苦しんでおったが、とうとう「儂……、儂、先に行くわ。」と、お日さんが逃げ出した。お月さんもそれについて、二人はまだ夜も開けないうちに雷さんを置いて宿を出発したのじゃった。
一方の雷さんは夕方近くになって目を覚ました。お日さんとお月さんが先に出発したと聞いた雷さんは「月日のたつのは早いもんじゃなぁ。ほんなら儂は夕立とし ようかぁ!」と騒いで、直ぐに二人の後を追ったそうな。そうして雷さんが去った後には、稲光が走ってザーッと夕立が降ったということじゃ。
● 生け捕られた雷さま
むかしから桑名の町に、雷(かみなり)さまのきらっているところがある。そこは、赤須賀(あかすか)という漁師町。ある日、おばあさんが飯を食べていると、にわかに空がかきくもり、ピカッゴロゴロと雷さまがやって来てな、雷さまは、久しぶりに出向いて来たんで、黒い雷雲の上で大あばれしとってな、ところが、乗っていた雲をしっかりつくっていなかったもんで、大きく飛びはねたひょうしに、雲が破れてしもたんや。 ・・・ ピカピカッドスン ・・・ 雷さまは、まっさかさまに、おばあさんの家の庭の井戸(いど)の中へ落っこちた。
おばあさんは、ふとんをかぶってふるえとったけれど、しばらくすると、庭の方で叫(さけ)び声が聞こえてきたんやわ。
「助(たす)けてくれー。助けてくれー」
おばあさんは、おそるおそるふとんから出て、庭へおりてな。あちこちさがしまわったけれど、だれもおらんかった。
「助けてくれー。助けてくれー」
突然(とつぜん)、また声がしてな。おばあさんが耳をそばだてたら、どうやら井戸の中から聞こえてくる。井戸をのぞきこんでみると、まっ赤な体に、トラの皮のふんどしをつけた雷さまが、頭に大きなこぶをつくって、助けを求めとった。おばあさんを見た雷さまは、
「どうか井戸から出してくれー」と、目をまっ赤にはらしながら頼(たの)んだけれど、おばあさんは、「なにをいう。人の家をなんども焼いて」と、井戸にふたをして、雷さまをとじこめたんや。すると井戸の中から泣きそうな声が聞こえてきてな。
「もうけっしてここには落ちやせんから、助けてくれ」
「そんならふたを開けてやる。助けてやるから、何か残していけ」
「たいしたものはないが、今朝つくったばかりのへそのつくだ煮(に)ならおいていこう」
雷さまは、へそのつくだ煮をおばあさんにわたしたんやて。おばあさんはそれを一つつまんで、びっくりした。今まで味わったことのない、とろけるようなうまさやったんや。
「こりゃうまい。これ、つくり方を教えていけ。そしたらすぐ出してやる」
雷さまはしかたなく、つくだ煮のつくり方をおばあさんに教えて、逃(に)げ帰ったんやと。それからというもの、おばあさんは、このつくだ煮をつくって市場で売ろうとしたんやけど、材料である雷さまのへそが手に入らん。そこでおばあさんは、へそに似た蛤(はまぐり)の身をつくだ煮にして売ったんや。そしたら、たいそううまい、と評判がたって大繁盛(だいはんじょう)したんやて。桑名の蛤は、むかしから「浜(はま)の栗(くり)」と呼ばれるほど、色やつやがようて、ふっくらとした大きな実でな。雷さまのへそにぴったりやった。しかも、つくだ煮にしたら日持ちがええもんで東海道をいく旅人にもお土産(みやげ)に喜ばれたんやわ。とくに、これから冬を迎える十月の時雨(しぐれ)どきにつくったものがうまい、ということで「しぐれ蛤」と呼ばれてな。これが、有名な「桑名のしぐれ」のはじまりなんやて。
●「カミナリ様のお通りだ」
季節はめぐり、夏を迎えた。夏といえば、むくむく湧きあがる入道雲。入道雲といえば雷。雷は自然現象の中で、地震とともに怖いものの代表格。カミナリは「神鳴り」に由来するとの説もある。太古の人が、雷鳴のすさまじさと青白い光におののき、神のなせる業と思ったのも不思議はない。
大陸から稲作が伝わると、雷は稲と深い関わりを持つようになる。雷は日照と高温で地表が暖められる、7・8月に集中する。この頃は、稲が結実する大事な時期。雷の放つ光「稲妻」は、稲作からきている。稲妻は本来「稲の夫」。空を切り裂き、地に落ちる光のすじが、稲と交わり、実らせるとの信仰から名付けられた。“つま”とは、古くは夫婦や恋人が互いに相手を呼ぶ言葉だった。
雷は稲作に欠かせない水を恵んでくれる。放電により、空気中の窒素と酸素が結合し、稲の栄養分となる。雷の多い年は豊作、というのはうなずける。雷は豊かな稔りをもたらしてくれる。北関東から白河にかけ、カミナリを「雷様」と、尊称で呼ぶ高齢者も多い。恐ろしい雷は、一方で敬愛と信仰の対象になった。
雷神のイメージが定着したのは、菅原道真が天神様として祀られてから。平安中期、天皇の皇子が相次ぎ病死。疫病がはやり、日照りが続いた。天皇と公卿らが、雨乞いの相談をしているさなか、天皇の住まいに雷が落ちた。朝廷も京の人々も震えあがった。
30年前、政変があった。優れた学識と行政手腕で、右大臣に登った道真。政治を意のままに操ろうとする藤原時平の陰謀で、京を追われ大宰府へ左遷される。悲憤の中で没した。落雷は、「道真の祟りだ」。道真の怨霊が雷神となり、荒れ狂っているからに相違ない。
朝廷は罪を赦した。霊を鎮めるため、北野に天満宮を建立した。もともと各地にあった天神様も、いつしか道真を祀るものとなり、学問の神として広く信仰されるようになる。「くわばらくわばら」とは、災難が降りかからないよう唱えるまじない。道真の領地の桑原に、雷が落ちなかったためといわれる。
おお、上司の顔に入道雲の兆し。みるみる朱に染まる。さあカミナリが落ちるぞ。気配を察し、くわばらと逃げ出す人。まわりを避雷針にし、涼しげな人。男気か、鈍いのか、まともに受ける人。人雷への対処も人それぞれだ。
赤いトウモロコシを軒につるす。蚊帳にもぐりこむ。へそを隠す…。雷にまつわる言い伝えやしきたりは、今も残る。昔から人と雷の関わりは深い。
カミナリの威力は人名にも使われる。雷電為右衛門は、松平定信と同時代の伝説の力士。横綱制度がなく、大関が最高位の時代に、17年間もその座を守った。254勝で、負けはわずか10。勝率はなんと9割6分。場所数や取組数が異なるとはいえ、桁違いの強さだった。
雷電が引退後に見い出したのが、第7代横綱の稲妻雷五郎。響きからしてパワフル。名前のとおり、勝率は9割を超え雷電に迫る。雷電は長野、稲妻は茨城。いずれも雷の多い地域の出身だ。
16世紀後半のロシアに「雷帝」と恐れられた皇帝がいた。イワン四世。凍りつくような無慈悲さと、先を見通した確かな構想が同居していた。モスクワから中央アジア、東方へと領地を拡大し、大ロシアの基礎をつくった。ロシアの絶対君主制はこの人に始まる。
人工知能など科学の進展は、この世から「おそれ」を駆逐しつつある。だが、空も海も人間も、分らないことばかり。雷を恐れ崇めるように、人智の及ばぬものへの、畏敬の念を忘れてはならない。自然の営みに謙虚でありたい。
●雷棒(かみなりぼう)
むかし、たいそういたずら好きの雷様がおりました。雷様は雲の上から人間の住む下界をながめるのが大好きでした。
ある日、雷様はいつものように雲に乗って散歩に出かけました。そのとき、うっかり持っていた太鼓をたたいて大きな音を出してしまいました。
すると、雲間からゴロゴロッと大きな音がしたため、地上の人間たちがあわてて一斉に走り出したのです。
雷様は地上で何が起きたのかわかりませんでしたが、人間たちが太鼓の音に驚いて逃げ惑っていると気づくと、今度は力いっぱい太鼓をたたき始めたのです。“ドンドンドン、ドドン、ゴロゴロゴロッ”
すると、人間たちが右へ左へと面白いように逃げまわるので、雷様は太鼓を打つのに夢中になり、雲から身を乗り出しすぎて地上に真っ逆さまに落ちてしまいました。
人間に気づかれてはいけない、すぐにも天に駆け上らなくてはとあわてた雷様は太鼓をたたく石のバチを地上に置き忘れてしまったのです。
それからしばらくして、草むらで遊んでいた子どもがそこで不思議な石の棒を見つけました。石の棒は重すぎて自分ひとりでは動かせないので、親を呼びに行きました。
やがて話を聞きつけた村の人々も集まってきましたが、それが何の棒か見当もつきません。「そういえばこの前、この辺りに雷様が落ちたなぁ。これは雷様が太鼓をたたくバチではないだろうか。」という話に落ち着きました。
それ以来、この棒は「雷棒」と呼ばれ、普賢院(笠間市上郷)というお寺に納められたということです。現在は、水戸市緑町の茨城県立歴史館に常設展示されています。
ちなみに雷の太鼓バチといわれるその石は、縄文時代中期(約四千年前)の「石棒」で、旧岩間町の随光寺遺跡から出土したものといわれています。
●雷倉と小津に落ちた雷様
奥美濃・雷倉は、東の根尾村側では「かみなりくら」、西の藤橋、久瀬村側では「らいくら」といいます。江戸期の新撰美濃志、小津村の項を読むと「雷冥岳は村の北のほうにあり、高山なり」の記述があります。また、根尾村史では、ふもとの八谷地区の中又谷の説明の中で「雷鳴倉といって初心者登山者向きの岩場があって---」とあります。
倉とは岩場を示すことばで、雷倉を「いそくら」と読み、露岩の多い岩場を示すとも解釈されています。(岐阜県揖斐郡ふるさとの地名、奥美濃)
落雷の分布図で見る限り、奥美濃で特に落雷が多いとはいえませんが、奥美濃から岐阜県中部にかけて降水量の多い地域です(創立百年誌)。奥美濃山塊の南斜面(岐阜県側)には、低気圧や前線に吹き込む南寄りの風がぶつかります。この南寄りの風と山塊の寒気との間に、中規模の前線ができて多降水になります(風土の構造)。
また、雷倉周辺には雷の伝説や岐阜県では珍しい雷神社があり、奥美濃は雨乞い伝説や竜神伝説の多く残る地域です。険しい山地が多く、作物といえば焼畑に依存していた江戸時代、降水の多い年があるだけに干ばつの年には、逆に大きなダメージがあり、雨乞いの後の雷雨は大きな意味があったと思います。
雷倉の南側の久瀬村小津地区には次のような雷伝説が残っています。ひとつは、小津のお宮に雷が落ちたとき、これをつかまえたテッチュウという人が、「こんで小津に落ちたら放さんぞ」と言って放してやったら、以後小津に雷が落ちなくなったという話です(久瀬村史)。もうひとつは、雷が小津の白山大権現の大杉に落ちたとき、天狗がしゃもじで雷を押さえつけ天に向け放り投げたという話です。このしゃもじは、小津の白山神社に雷から小津を守る天狗の話とともに今も残っています(久瀬のむかし話)。小津川付近には、天狗谷や雷倉の地名がありますが、これら伝説に関連した地名であると推測します。
一方雷倉の東側の西板屋には、雷神社があり次のような由来が伝わっています。「あるとき、大蛇が猿に化けて木に登っているところを、狩人悪四郎が一矢で射落としました。すると、にわかに天地が震動し雷とともに火の雨が降り池は真っ赤になりました。その大蛇は辰頭として、現在雷神社に祭られています。」(根尾村史)
なお藤橋村史によると、「雷様は、顔が鬼、体がイタチのような形をしていて、へそを取りに来る。また天に住む婆さんが、うすを引き太鼓を叩く。」と伝えられています。雷倉がとがっているのは雷が落ちたせいだという伝説もあります。
雷倉には、山の東側の八谷から登りました。中又谷と下津谷の出合では、川に下り鉄橋を渡ります。渡ったら10m程度登り左方の道に行くことがポイントです。この地点が道のわかりにくい所です。ここから、いったん尾根道に入れば後はひたすら登るのみです。山頂部を除き、道も刈り分けも思ったよりはっきりしていました。山頂からは、能郷白山、花房山、五蛇池山等が見えました。
●葵の葉と雷様
先日の15日は、京都三大祭りの一つ、葵祭が開催されましたね。華やかな平安絵巻とも言える齋王列をご覧になられた方々も多いのではないでしょうか?葵祭は賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の列祭です。そして、実は京北にも上賀茂神社ゆかりの神社、「賀茂神社」があります。賀茂神社は、京北トレイルのコースの途中ルートにも位置している山の中に、ひっそりと厳かにたたずむ神社です。
実は、この神社は3年前に建立千年目を迎えました。この地域のご先祖様の代から、代々地域の方々の手で大切に守って来られた神社です。そして毎年、葵祭に合わせて大祭が行われます。上賀茂神社と同じ、雷(いかずち)の神様を祀り昔から田植えが終わる、葵祭と同じ15日(現在は、15日に近い日曜日)に、地域の氏子の皆さんでお参りをします。
境内にある三宝には、みどりの若葉が盛られ祀られています。一体、これは何だと思いますか?
これは、実は御守なのです。桂の木に葵の葉がつけられています。これを家に飾っておくと、落雷に遭わないと言い伝えられており、その年ごとの神社の氏子当番を務めてくださる方々が地域の氏子家庭分、作ってくださいます。五穀豊穣もですが、京北は代々の昔から林業が栄え、山に入る杣人の方々が山仕事中に落雷などに遭わないよう、願いも込められているのでは?とも言われています。千年もの昔から、この風習が継承されていることを思うと、京北の方々が神仏や文化を本当に大切にされているという事がよくよくわかります。
我が家も、有難く御守をいただきました。今年もこれで落雷除け完了です。
●雷神様 (両新田西町)
これからは雷のシーズンを迎えます。激しい夕立ちとともに耳をつんざく雷鳴に、思わず肩をすくめてしまう人も多いのではないでしょか。
雷は現在でこそ科学的に解明され、怖さも薄らいだ感がありますが、古代から“天の原ふみとどろかし鳴る神”……なるかみ、といわれ、その威からさまざまな形で神格化されてきたようです。
来春に開校する予定の(仮称)新里第二小学校の北側に「雷神」の二文字が刻まれた、小さな石碑がおかれています。
ずか五十センチほどの石碑の中に、この地に住む人々が雷に対して抱いてきた崇敬の心がこめられています。
稲穂がもうすぐこがね色になろうかというある日のこと。村の古老、長兵衛さんは一日の野良仕事も終え、ゆっくりと冷たい井戸水でのどをうるおしていました。
「やれやれ」と、腰をのばして天を仰いでみれば、先程までの天気がうそのようにあたり一面がかき曇ってきました。間もなく大粒の雨が落ちはじめ、空には稲光りが走り雷鳴がとどろき渡るありさまです。急いで家にもどった長兵衛さん、ふとんにもぐり込む孫たちを尻目に「日照りもこれで助かるわい」とつぶやいた時、“バリバリッ”という音に続いて大音響と地響きが起こりました。
あまりの恐ろしさに、気を失ったまま倒れていた長兵衛さん、あくる朝になって、おそるおそる外に出てみました。すると、田んぼの中に稲が倒れて丸く黒こげになっている場所を見つけました。
雷様が降りた所だと直感した長兵衛さんはすぐに土盛りをしてから黒松を植え、しめなわを張って雷様をまつりました。
やがて、実りの秋を迎えましたが、長兵衛さんの家ではかつてない豊作に恵まれたため、雷様の御利益と、「雷神」の石碑を作ったのでした。
その後も石の雷様は正月にはおそなえを、節分には豆をもらうなど大切に守られてきました。
この雷様のまわりもほんの二、三十年前まではあたり一面田んぼで見晴らしもよく、小山の上では女学生たちが大きく育った黒松をバックに記念撮影をしたこともあったそうです。しかし、現在では松も枯れ、周辺の宅地化が進んで小山の高さも感じられません。
雷様はこれから虫の音を聞き、そしてひっそりと北風に耐えていかなければなりません。年が明けやがて桜の花を迎えるころには新一年生の登校姿を見守ってくれることでしょう。
●雷石 (中津川市阿木)
あおの村は山には大木が茂り、空を隠すほどのありさまで、立派なものでありました。
ところが困ったことに、夏になると雷様が空を飛び回って雨を降らし、畑を流し、山を崩して大暴れをするのです。
「雷様をこらしめる、何か良い方法はないもんか」と皆で相談しましたが、良い考えは浮かんで来ません。
その話を聞いた力持ちの剛力(登山の荷物を運ぶ人)は「雷様をおらがひっ捕らえてくれる」と待っていました。
ある日、大粒の雨が降り、稲妻が駆け回って、雷様がやって来ました。剛力は腕を振り回し、暴れる雷様に飛び掛かると、後ろから羽交い絞めにしました。剛力が腕に力を入れて絞め上げると、雷様はひいひいと泣き声を上げました。
「もう二度とこんないたずらはしません」。すると剛力は、「二度と暴れんという証拠になるものをおいていけ」といいました。
しばらくして、雷様は「そうだ、おらの手の跡を証拠においていこう」そういうと、すぐ足元にある大きな石に、ぴたんと手を当てました。すると、なんと石にくっきりと雷様の手の跡がつきました。
それからというもの、どれだけ雷が鳴っても、音がするだけで、あおの村には決して雷は落ちず、大雨も降らなくなりました。
今では、阿木川ダムができ、雷石も水の底に沈んでしまいました。

小学校3年生の頃から、雷石を知っているという中津川市阿木の丸山宮藏さん(92)に話を聞いた。当時はよく雷が落ちていた。「地震、雷、火事、親父」という言葉があるように、雷は地震の次に怖かったと話す。あおの村には雷が落ちないのに対し、住んでいる阿木には雷が落ちるので、丸山さんは「けなるい(=羨ましい)」と思いながら、阿木にも落ちないことを願って、雷石を見たり、触ったり、登ったりしていた。「実際に見た大きな雷石の手の跡は、人の手の倍くらいの大きさで、右手の形をしていた」と話してくれた。
●雷(らい)さまの慈雨 (栃木県下野市)
栃木県の南部、下野市。一帯は江戸時代から干瓢(かんぴょう)作りが盛んで、生産量は全国の9割を占める。この時期、農家では、ユウガオの実の収穫と皮むきが始まり、干された干瓢が揺れる。ユウガオが大きく育つのに欠かせないのが、適度な雨。同県は全国でも有数の雷が多発する地域で、地元では恵みの雨を呼ぶ雷を「雷様」と呼んで恐れ敬い、信仰の対象として豊作を願ってきた。
●「雷様を下に聞く」は本当か
「頭を雲の上に出し、雷様を下に聞く・・・」ではじまる歌「ふじの山」。この歌では、雷様を下に聞くという表現で富士山の高さを称えているが、気象学的には下の時もあれば、横や上の時もあるというのが妥当なところだ。
雷は雷雲から発せられ、雷雲は積乱雲のことを指す。積乱雲は、上空に寒気が入ったり地面付近が真夏の強烈な太陽で照らされたりして大気が不安定になると、上昇気流によって発生する。発達すると雲頂は対流圏と成層圏の境まで達し、上昇する頭を抑えながら積乱雲の上部は横に広がりカナトコ(鍛冶屋が鉄を打つのに使った台)状となる。いわゆるカナトコ雲である。雲の底は地表付近から2000メートルくらいの高さがあるが、雲の頂は1万メートル以上にも及ぶ。雷はこの積乱雲の中で生まれる。
そのメカニズムは詳しく分かっていないが、雲の中は猛烈な上昇気流が起きていて、ひょうやあられなどの氷の粒が雲の中で激しくこすられ、ぶつかりあい静電気がたまり、積乱雲は巨大な静電気のたまり場になっている。この電気が十分にたまると放電が始まり、これが雷となる。地上に落ちたのが落雷となる。ほかにも雲の中や雲の間での空中放電もある。電光とともに発せられる雷鳴は、巨大な電流が瞬時に流れ、空気が瞬間的に熱膨張したことによる空気の振動音である。
富士山は風が当たると地形的に上昇気流が発生しやすく、夏場はもくもくとした積乱雲が山を覆う。富士山頂はまさに雷雲の真ん中あたりを観測することになる。地上への雷(落雷)は、歌の通り「雷様を下に聞く」となるが、空中放電による雷は、頭上や同じ高さで見舞われることもある。電光が横に走ることもある。そうなる前に早めに避難しないと大変な目に遭う。
●栃木の夏の風物詩。らいさまが来たら、へそ隠せ!
熱い夏の日。急に空が暗くなって、冷たい風が吹いてきたら、どこからともなくゴロゴロゴロゴロ…。「ほら。らいさまがくっから、へそ隠せ」ってばあちゃんの言葉を合図に、ゴロゴロゴロピカーンって登場するんだ。そう、おいらの名前は「雷様(らいさま)」さ。“かみなりさま”じゃないよ、“らいさま”。ここいらではそう呼ばれてるんだ。
栃木県は、日本でも有数の雷の多い県。“雷銀座”なんて呼ばれることもあるんだ。宇都宮市の年間の雷日数は、関東で第1位。夏季に限ると、全国第1位の多さなんだ。その理由は地形にあると言われていて、北部に2,000m級の山岳があって、南東方向に山の斜面が開いているから、日射を強く受ける。そして夏季は南よりの風が吹きやすいから、強い上昇気流がおこっておいらが発生するのさ。
昔からとっても身近な存在だったからこそ、“らいさま”なんて愛称で呼ばれていたのさ。“かみなりさま”より、ちょっとかわいくて、かっこいいだろ?そうそう。もしおいらが鳴ったら、へそを隠すように頭を低くして、安全な建物にすぐ避難するんだぜ。そういう意味で、ばあちゃんたちは「へそ隠せ」って言ってたんだ。ばあちゃんの知恵ってすごいだろ。おいらが来たら、ちゃんとへそ隠して逃げるんだぞ!

「雷様(らいさま」という呼び名は、栃木県のほか、福島県、茨城県の一部でも使われている。
●雷様におへそをとられる!?
昔からの言い伝え 「雷様におへそをとられる」昔の人は雷がなったらおへそを隠して逃げなさいよと教えてくれました。よくよく考えてみると、どうして雷様はおへそをとろうとするのでしょうか?なになに…、雷様はおへそフェチで……って、んなアホな!
個人的な見解ですが、「雷様におへそをとられる」という言い伝えは、おへそを隠すポーズをすることに意味があるのではないでしょうか。雷というのは、高い所に落ちる性質があります。おへそを隠すポーズをすると、姿勢が低くなりますので、そうやって「姿勢を低くして逃げなさいよ」という意味が込められていたのかもしれません。また、雷が発生するような時は、同時にザーッと激しい雨が降ることがあります。雷雨になる直前まで暑かったのに、急に気温が下がることも。「おなかを冷やさないように、急な気温低下に気をつけよ」という意味も込められていたのではないでしょうか。昔の人は経験則からこんな言い伝えによって、雷に対して注意を子供に呼び掛けてきたのですね。すごく的を射た響く言葉です。
「雷様におへそをとられる」
雷が鳴ったり光ったら、早めに頑丈な建物に避難して下さい。木の下の雨宿りは危険です。木に雷が落ちて、そばにいる人間のほうに感電することがあります。もし、周りに建物がなければ、車の真ん中が安全といわれています。万が一、車に雷が落ちても、側面を電気が通りますので、中の人は無事というわけです。街中でビルに囲まれているような所ではどうでしょう?周りに高い建物があるから地上を歩く人は雷の危険性がないかというと…、そうでもありません。もし、ビルの高い所に雷が落ちた場合、外壁のブロックの破片などモノが落ちてくることもあります。雷の時に街中にいても早めに建物に入って、空の状況が落ち着くのを待ちましょう。
家の中でパソコン作業をしている場合、念のためデータを保存するか、一旦作業を休むことをおすすめします。落雷で停電してデータが飛んだり、建物に落雷し、コンセントから過剰な電気が流れた場合、パソコンが壊れたりすることもあり得ます。最悪、落雷でコンセントから火が出て火事の原因にもなります。コンセントに付ける雷ガードというモノが売っています。
これから、雷雨が多くなる季節になってきます。スマホの便利な雨雲レーダーのような道具も活用しながら、自分で空を見上げ、暗〜い色した雷雲や急な風の強まり、雷光、雷鳴など空の変化にも注意をするようにしてください。
●「雷様に“おへそ”をとられる」という俗説
子どもの頃、「雷様に“おへそ”をとられちゃうよ」「雷が鳴ったら“おへそ”を隠して」と言われた経験はありませんか? 雷の正体は電気ですし、雷が鳴っているときに“おへそ”を出していたとしても、なくなることなんてありません。それでは、なぜこんなことが言い伝えられてきたのでしょうか。
雷が鳴るとき、冷たい風が吹く
これには諸説ありますが、そのうちのひとつが「雷が鳴るときは空気が冷たくなるため、おなかを冷やさないように注意したのではないか」ということです。確かに、雷が鳴ったり、ゲリラ豪雨になったりするときは、空気がひんやりします。それはなぜでしょうか。空が厚い雲で覆われているので、太陽の光が届かないというのも理由のひとつですが、それだけではありません。空気をひんやりさせるもの、それは雷を発生させる積乱雲(雷雲)から吹く冷たい風なのです。
積乱雲に秘密アリ
そもそも積乱雲は、強い上昇気流が発生することでできます。特に夏場は、強い日差しによって地表付近の空気が暖められます。暖かい空気は軽いため、上昇気流が発生しやすいのです。暖かい空気が上空まで運ばれると、今度は冷やされて、空気中の水蒸気が小さな氷や水の粒になります。これが雲です。この雲の粒がまわりの水蒸気を取り込んだり、雲粒同士がぶつかったりすると大きくなります。すると、重いので地上に落ちようとします。これが雨です。しかし、地上に落ちる途中で、水や氷の粒はある程度蒸発します。すると、周囲からは熱が奪われます。熱が奪われると聞いてもピンと来ないかもしれないのですが、濡れタオルで体をふいたときに涼しく感じるのと同じ!これは体の表面についた水が蒸発するときに、体から熱を奪うからなんです。熱を奪われた冷たい空気は、周囲よりも重くなります。これが積乱雲から発生する冷たい下降気流の正体なのです。
周囲よりも高いところに雷は落ちる
もうひとつ、“おへそ”を隠したほうがいいという理由として、「“おへそ”を隠すと自然に前かがみになるから」という説もあります。雷は、周囲よりも高いところに落ちやすいため、かがめば少しは雷が落ちにくくなるかもしれないというわけです。ただし、広い芝生の広場や砂浜など、周囲に何も高いものがない場合、多少かがんだところで雷の落ちやすさに変化はありません。空が暗くなり、ひんやりとした風が吹いて、ゴロゴロという音が聞こえたら、積乱雲が近づいているサインです。かがむよりは車や建物の中に避難して、安全を確保するようにしましょう。
雷のウソ・ホント
さっきまでいい天気だったのに、急にあたりが暗くなり、突然激しい雷雨が!夏はそんなことがよく起こる季節です。突然の雷に遭遇した時、身を守るためには正しい行動が取れるかが非常に重要になってきます。そこで今回は、雷のウソ・ホントをご紹介します。
   木陰に避難すれば安全はウソ
雷は高いところに落ちる性質があるので、自分よりも高い木があればそちらに雷が落ちることになります。「じゃあ、木陰に避難すれば、自分には被害がないってこと?」と、いうわけでもないんです。枝や幹に落ちた雷の電流を受けてしまう(側撃雷)恐れがあるので、木の高さと同じくらいの距離に離れる必要があります。よって「木陰に避難すれば安全」はウソ。
   金属を外せば安全はウソ
落雷は雷雲の静電気と地表の静電気の間の放電現象。雷雲が発生すると、地表付近では金属でも木でも静電気が発生します。そのため、金属を外しても安全ということではありません。よって「金属を外せば安全」はウソ。同じ理由で電気を通しにくいと言われているゴム製品を身につけていても安全ではありませんので、ご注意ください。
   屋内でも注意が必要はホント
雷に遭遇したら、一番良いのは屋内に避難すること。ただし、家の中が100%安全かというと、そうではありません。電源線、通信線、テレビのアンテナなどを通し、雷が家の中に侵入してくることがあります。家の中にいる時は、家電機器や壁、天井などから1m以上離れてください。よって「屋内でも注意が必要」はホント。
   車の中に避難すれば安全はホント
車は避難するには頼りないな…なんて思う方もいるかもしれませんが、建物がない場所では車の中が安全です。車は表面が金属で覆われており、雷が落ちても、電気は表面を通って大地に流れていきます。そのため、中は安全となるわけですが、くれぐれも金属部分には触れないようにしてください。よって「車の中に避難すれば安全」はホント。
   開けた場所ではしゃがむとよいはホント
周りに避難できる建物も、車もない時は一体どうすれば良いのでしょう。「立ってると危ないから、いっそ腹ばいなればいいんじゃない?」確かに腹ばいは身を低くすることができますが、地面との接地面積が広くなり、感電する危険性が高くなります。避難できる場所がない時は、両足を揃えて膝を折り、上半身は前かがみで耳を塞ぐという姿勢で雷雨の通過を待った方がいいんです。よって「開けた場所ではしゃがむとよい」はホント。
●平庫ワカが語る『天雷様と人間のへそ』の裏テーマ 
2019年に『COMIC BRIDGE』で連載され(全4回)、翌年(2020年)単行本化された平庫ワカの『マイ・ブロークン・マリコ』(KADOKAWA)。連載開始直後にSNSでトレンド入りするなど、目の肥えた漫画読みたちの注目をいち早く集めた同作だが、その後も「ブロスコミックアワード2020」の大賞や、「第24回文化庁メディア芸術祭マンガ部門」の新人賞に選ばれるなど、ますます評価を高めている。さて、その作者・平庫ワカの貴重な初期作品を集めた『天雷様と人間のへそ―平庫ワカ初期作品集―』(KADOKAWA)が、先ごろ発売された。そこで今回の著者インタビューでは、前回のインタビュー(『マイ・ブロークン・マリコ』で注目の漫画家・平庫ワカ、初インタビュー 「この作品を描いて本当に報われた」)からおよそ1年経った現在の心境や、初期作品から『マイ・ブロークン・マリコ』にいたるまでの、平庫作品に通底するテーマである「死」や「血のつながりよりも大事なもの」について聞いた。
血ではなく、心でつながった「家族」を描く
――平庫さんの『マイ・ブロークン・マリコ』(以下『マリコ』)は、連載時から様々な形で注目を集めていましたが、先ごろ発表された「第24回文化庁メディア芸術祭マンガ部門」でも新人賞を受賞するなど、ますますその評価を高めています。こうしたご自身を取り巻く『マリコ』以前と以後の状況の変化を、どう受け止めていますか。
平庫:たいへんありがたいことだと思っていますが、あまり現実味がないといえばない感じです。私なんかでいいのかなっていうか……。ただ、描いたものを発表できる場を与えていただいたことはありがたいことだと思っています。少なくとも、創作と向き合う時間を多く取れるようになったのは嬉しいです。
――今回のインタビューでは、3月8日に発売された『天雷様と人間のへそ―平庫ワカ初期作品集―』について主にうかがいたいと思っています。まずは表題作の「天雷様と人間のへそ」ですが、これはMFコミック大賞の新人賞を受賞した作品ですね。内容は、和風ファンタジーといいますか、手習所を開いている青年がある剣豪を雇って、義母を取り戻すために超自然的な存在である「天雷様」と戦おうとする時代劇ですが、このアイデアはもともと温めていたものでしたか。
平庫:いえ、新人賞へ応募するために一(いち)から考えたものでした。当時、俳優の山田孝之さんが出ている映画を観まくっていたのですが、彼の顔を摂取するだけでなくどこかでアウトプットしないとまずんじゃないか、という強迫観念みたいなものに突然襲われまして(笑)。なので……いわれないとわからないかもしれませんが、主人公のキャラクターには、かなり私が考える山田孝之的な要素が入っていると思います。それと、時代劇にしたのは、『必殺仕置人』が昔から大好きで。山ア努さんの大ファンだということもありますが、「必殺シリーズ」みたいな「なんちゃって時代劇」への憧れが強いんですよ。
――黒澤明監督の、たとえば『用心棒』や『椿三十郎』あたりの影響はありませんか。
平庫:あると思います。何しろ主人公が雇う剣豪の名前は「燕十三郎」ですから(笑)。それと、描いている時は特に意識していませんでしたが、クライマックスの戦闘シーンが雨の中でどろどろになりながらというのも、もしかしたら『七人の侍』の影響があるのかもしれません。
――とにかくその準主役の燕十三郎というキャラがいいですね。この物語は、もしかしたら、主人公の宗次郎と彼を慕う子供たちだけでも成立するのかもしれませんが、そこにあえて、ああいうトリックスター的なアウトローを放り込んだ意図を教えてください。
平庫:彼については、とにかくああいう侍を描きたかった、としか答えようがありません(笑)。『マリコ』の時もそうでしたが、私の場合、あまり事前にいろいろ細かいことを考えてからキャラを描き始めないことが多いんですよ。ただ、宗次郎も子供たちもある意味では頭に血がのぼっている状況で、燕十三郎だけが冷静な視点で物事(ものごと)を見ているので、彼のおかげで物語のバランスがとれたような気がします。そういう意味ではかなり重要なキャラで、本来、トリックスターというのは世界の均衡を崩すキャラなんだと思いますが、この作品の場合は、彼がいることで成り立っています。
――この作品は、簡単にいってしまえば、血のつながりよりも心のつながりのほうが大事だというようなことを描いているのだと思いますが、それは『マリコ』のテーマにも通じるものですよね。こうした感覚は、平庫さんの中で昔からあるものですか。
平庫:ステレオタイプ的な「血縁至上主義」みたいなものは、本当は危うい価値観なんじゃないかということはずっと思っていました。以前から、血のつながった親や兄弟(姉妹)よりも、一緒に生活したり、長い時間行動をともにしたりする人のほうが、本当の意味での「家族」としてのつながりを持つこともあるんじゃないかという考えがありました。
高校時代に初めて意識した「読者」の存在
――「I am Nobody」は、平庫さんが高校時代に描いた習作です。こちらは文化祭のために描いた作品とのことですが、同人誌のようなものを作ったのでしょうか?
平庫:いえ。当時、私は美術部員だったのですが、同人誌ではなく、原画のコピーをファイルに入れて展示したものでした。それを読んで入部してくれた新入生の子が何人かいて、描いた人間としてはかなり嬉しかったですね。そのとき彼女たちからいろいろな感想を聞けたことが、読者がいると意識したことの原体験かもしれません。一方的に作品を描くだけでなく、読んでくれた人からなんらかのリアクションをいただくという。
――新入生たちは、具体的にどういう感想をいっていましたか?
平庫:いつも読んでる漫画とは違っておもしろい、というのが多かったですね(笑)。
――たしかに、一般的な高校生がふだん読む漫画とは、絵的にも内容的にもかなり違う傾向の作品ですよね。詩が挿入されていたり、枠線も含めてすべてフリーハンドで描かれていたりして。こうした手法には、バンド・デシネやアメコミの影響があるのでしょうか?
平庫:海外のコミックにももちろん興味はありましたが、その当時、一番影響を受けていたのはモンキー・パンチ先生の画風です。それに好きな映画の要素などを組み合わせて、漫画が描けたら楽しいかなと実験していた時代でした。ちなみに主人公の男は、当時の私の負の感情をすべて背負わせていたキャラクターだったりします(笑)。
――こうした、プロの漫画家が学生時代に描いた習作を見られるというのは、ファンとしてはうれしいかぎりですが、通常、作家側としては封印しがちですよね。
平庫:今回の単行本は、もともとは新しく描いた作品だけを集めた短編集にする予定だったんです。ただ、巻末に予告を入れている新連載の『海里と洋一』が、最初は短編として構想していたんですけど、プロットを考えているうちに段々長い物語になってしまい……。そうこうしているうちに、担当さんが、「では、『ホット アンド コールドスロー』と昔の作品を集めて単行本にしましょうか」といってくださって(笑)。たしかに高校時代の習作を入れるのは恥ずかしくもありましたが、この機会に、自分の根幹にあるものをさらけ出すのも悪くないな、と考えました。
世界が変わるから自分も変わるという感覚
――その「ホット アンド コールドスロー」は『マリコ』の後に描かれた作品で、他の収録作と違い、比較的最近の作品ということになります。この作品については、以前、平庫さんご自身がツイッターで、「腹を割って話をする前に頭を割ってしまう夫婦の漫画です」と書かれていて(笑)、これ以上の批評というか、紹介文はない気がするのですが、個人的に感心したのは、『マリコ』が絶大な評価を受けるなか、あまり壮大な物語には向かわずに、こうした地に足がついた、市井の人々のささやかな日常を描かれたことです。
平庫:それについては、個人的に最近ではもう「天雷様〜」みたいなファンタジーを描きづらくなったということが大きいです。特に『マリコ』の後というのは、新型コロナウイルスの問題を初めとした、現実社会で起きる様々なことが深刻すぎて、それに引きずられるといいますか、現実離れした世界の物語を想像しにくくなってしまいました。
――ブランクページに掲載されている自作解説で、『マリコ』が対話する相手のいない自問自答の漫画だったので、フラストレーションが溜まったというようなことを書かれていますが、この作品では、「対話」というか、死者と生者の物語ではない、生きている人間同士のやり取りを描きたかったということでしょうか。
平庫:そうですね。人格のあるキャラとキャラがぶつかり合う物語を描きたいと思いました。『マリコ』はシイちゃん(主人公のシイノトモヨ)の一人舞台みたいな物語で、それはそれで描きがいがありましたけど、今回の話では、主要キャラである夫婦のすれちがいと対話をきちんと描きたいと思いました。
――本作を読むと、自分が変わることで世界を変えようというのではなく、何もしなくてもどうせ世界のほうで変わるものだから、その中で自分たちも変わらないといけない、という深いテーマがあるような気がします。
平庫:優柔不断な日本人らしい考え方だという気もしますけどね。ただ、そういう感覚はかならずしも悪いものでもないと思っています。これは私の母がよくいっていることなんですが、彼女が私や兄を産んだ時というのは、子供が子供を産んだようなものだったそうです。そういうこと、つまり、先に状況の変化があって、その後で収まるところに収まるということは他のケースでも少なくない気がするんですよ。たしかに、ひとりひとりが自覚を持って、自分を変えることで世界を変えていこうというのは、いま必要な考え方ではあると私も思うのですが、教育の格差とか環境によって、その前の段階にいる人たちも少なくないと思うんですよ。というよりも、むしろそういう人たちのほうが圧倒的に多いはずで、世界を変えようとしている人たちから見れば「そんな低いレベルの話ですか」ってことかもしれませんけど、私は、どちらかといえばそちら側の人間なので……。
どう死ぬか、ではなく、どう生きるか
――今年の夏から『COMIC BRIDGE』で連載開始予定の『海里と洋一』は、どういう物語ですか。
平庫:ひと言でいえば、高校生たちが出てくる学園物で、恋愛の要素が強めの物語になる予定です。あまり人間関係をうまく築くことのできない、身体的・心理的にハンデのある人たちの恋愛模様を描きたいと思っています。もちろん物語の柱となる主人公がいることはいるのですが、どちらかといえば群像劇みたいな話になるのではないでしょうか。いずれにせよ、短編で描けるものに限界を感じてきたので、次はもう少し長いものをできたらいいなと考えています。
――それでは最後に、『天雷様と人間のへそ―平庫ワカ初期作品集―』をすでに読まれた方や、これから読もうと思っている方たちにひと言お願いします。
平庫:これはもちろん最初から意図したわけではないのですが、この作品集の裏のテーマは、「希死念慮(きしねんりょ)は避けられない」ということになっているような気がします。なので、もし、読者の方で、死にたくなったり、不安に押し潰されそうになったりしている方がいたら、私が描いた「死にたがってる人たち」の姿を客観的に見て、いまご自身が感じている負の感情の代替にしていただけたら幸いです。私自身、ある種の映画や漫画をそういう「装置」として観たり読んだりしていますし、避け難い死への誘惑を前にして、「どう死ぬか」ばかりではなく、「どう生きるか」を考えていけたらと思っています。収録されているのは初期の作品がほとんどで恥ずかしいかぎりですが、その時々に出来るかぎりの力を注いだ作品でもありますので、一度お手に取っていただけたら幸いです。
 
 
●雷様は稲の妻? 七十二候「雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)」
3月30日より、春分の末候「「雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)」。この時期より秋分にかけて、雷の発生が多くなるシーズンです。雷を発生させる寒冷前線や積乱雲は、雹や大雨を降らせたり、そして落雷では人身被害や火災、停電を起きたりと、何かと厄介ですが、古来より雷は稲作に恵みをもたらすとされ、篤く信仰されてきたのです。
春秋去来・山の神は春、里に下りてきて田の神となる
農事と歳時記は密接に関連しています。日本を含めアジアの農耕民族は、稲作とともに一年のサイクルを繰り返すと言っても過言ではありません。そんな稲作農耕民にとって春雷は、米作りの時期の開始を告げる音でもあるのです。雷と言う字は読んで字のごとく、「雨」が「田」の上をおおっているさま。稲の生育を見守る田の神は、冬の間山へと戻り、山の神となり、春の訪れを告げる春雷とともに再び里に下りてくる、という春秋去来の信仰があります。石川県の能登地方では山から下りてきた田の神を屋敷にお迎えし饗応する「アエノコト」と称する民俗行事が知られています。
雷の別名は稲妻。そのままの意味では、稲の妻(奥さん)ということになりますが、「つま」とは古語では配偶者双方を指したので、この場合は「つま」で「夫」の意味となり、つまり雷は「稲の夫」であり、雷は稲をはらませる(実らせる)、とされてきたのです。
決してこれは迷信ではなく、実際落雷が稲の豊作と関連しているのは科学的事実。稲作に限りませんが、農作物の生育に欠かせない栄養素の一つが窒素。窒素は多く空気中に含まれ浮遊していますが、マメ科の植物は多く窒素を吸収して固着するので、マメ科の蓮華を米に先立ち田んぼに植えて、土にすきこむ農法がかつてはよく行なわれました。
なんと、雷もまた、落雷によって空気中の窒素を土中に固着させる作用があるんだとか。つまり水田に落雷するほど、土中・水中に窒素が増えて、稲の実りがよくなる、というわけです。
雷の月別平均落雷件数を見ますと、冬の間は日本海側の豪雪地帯に局所的に発生していた落雷が、三月から四月にかけて全国的に発生し始め、五月、六月と夏に向けて急速に発生するのが見て取れます。そして、八月をピークにして秋の稲の刈り入れシーズンを迎えるとガクッと数が減ります。まさに、稲作は雷とともにはじまり、雷とともに終わるものだ、ということがわかりますし、農民たちも強く実感していたのでしょう。
聖域と生殖をあらわす雷の文様
私たちのごく身近にも、雷をかたどった意匠があります。神社の注連飾りや玉ぐし、お正月飾りの鏡餅などにたらされている段々に折られた紙を紙垂(しで)といいますが、これは一説では雷光、稲光をかたどったものといわれています。大相撲の横綱の土俵入りで紙垂がたらされますよね。相撲も本来、五穀豊穣を祈る神事。ちなみに宮沢賢治は教鞭をとった花巻農学校で「注連縄の本体は雲を、〆の子(細く垂れ下がっている藁)は雨を、紙垂は雷(稲妻)を表わしている」と教えたそうです。
落雷があると稲が育ち豊作となり、かつ邪悪なものを払うと信じられて、神聖なもの・場所や、生命の豊穣をもたらす食物や生殖の縁起物には必ず飾られるわけです。
家紋にも稲妻紋というものがあります。しかし基本的には呪符(呪いを封じたりこめたりする)の一種であったため一般的には使用されず、陰陽道の家系の中御門中納言家成の子権中納言実教を祖とする藤原北家四条家流の山科家の専用紋であったり、桃太郎伝説の本場の中岡山藩主の伊東氏だったり、神社関連の家紋である場合がほとんどのようで、聖域をあらわす文様として扱われていたようです。
また、ラーメン丼の縁によく描かれている文様は「雷文(らいもん)」といいますが、これ、古代中国やギリシャなどで盛んに青銅器や土器、絵画の文様の縁取りとして使われていました。器は古代には呪術や祭祀に使われ、生命を生み出す神聖なものともされていました。その縁を雷文で縁取るのは、やはり同じように結界の意味・意図があったのではないでしょうか。
神聖なはずの雷様が、どうして魔である鬼と同じ姿なの?
そんな神聖なものとしてあがめられてきた雷様。でも、雷神の絵や彫像を見るとどうもおかしい。もっとも有名な俵屋宗達の「風神雷神」の屏風画でも、半裸で牙をむき、角をはやした鬼のような姿で描かれています。多くの場合、虎の毛皮をまとった姿で描かれることも多い。どうして地獄の使者であり悪者の代表のような鬼とそっくりなのでしょうか。連太鼓(太鼓を輪形にいくつも並べた雷神の持ち物)こそ敦煌石窟の壁画にも見られ、大陸からシルクロードを渡ってきたアイテムだとわかりますが、それ以外はほぼ鬼の姿で描かれますよね。
このところ陰陽師安倍清明を主人公にした物語や映画がヒットしたり、風水ブームが定着したりと、鬼門だとか裏鬼門なんていう呪術用語が一般的になり、丑寅の鬼門から入ってくる魔を鬼といい、鬼が虎の毛皮をまとい牛の角を生やしているのは丑寅の鬼門が由来、なんていうことも多くの人がご存知の事。そう、牛の角と虎の毛皮、恐ろしげな風貌は鬼をあらわす典型的なイニシャルなんです。雷様はまごうことなく鬼なのです。
雷は激しい自然現象で畏怖の対象でもあったので、恐ろしげな鬼の姿と重なったのでしょうか。
雷様が鬼の姿に似るのには、実はもっと深い理由があります。先述したとおり、田の神は山の神が春になり里に下りてきたもの。つまり田の神とはもともと山の神です。そして山の神とは、日本の土俗信仰では多くの場合「鬼」の姿をとったのです(時に天狗や河童の姿となることもありますが、全て同じものの異相です)。山岳信仰では山は祖霊が帰る場所であり、死者の領域。だから、冥府の番人である鬼は山の神とも重なるわけです。山から下りてくる神・秋田の「なまはげ」が鬼の姿をしているのも同じ理由です。
昔話の登場人物たちが出てくるテレビの某CMで、鬼のキャラクターが雷様のアルバイトをしてる、という設定がでてきます。まさに山の神である鬼は春、雷神として里に下りてきて田んぼの米作りを手伝う「アルバイト」のようなことをするんですから、製作者にそういう知識があるのか、単なるまぐれかはわかりませんが、なかなか真実をついていて神がかってるな、とびっくりしました。古い伝承や伝統が失われているように思える現代でも、やっぱり連綿とした過去と今とは、深いところではつながっているのかもしれませんね。
最近の夏前後の集中豪雨の被害は、行き場をなくした雷神の嘆きのように感じなくもありません。田畑が少なくなり、実らせる作物も見当たらない町に下りてきた雷様は、どこに落ちればいいのかと、とまどっているのかもしれません。
 
 
●雷神(らいじん、いかづちのかみ)
日本の民間信仰や神道における雷の神である。「雷様(かみなりさま)」「雷電様(らいでんさま)」「鳴神(なるかみ)」「雷公(らいこう)」とも呼ばれる。
神話​
『古事記』に記された神話の中では、火之迦具土神を生んだ事で女陰を焼いて死んだ妻の伊邪那美命を追って伊邪那岐命が黄泉の国に下った際、伊邪那美命は黄泉の国の食物を食べた事により出る事が出来ないと伊邪那岐命に応じた。しかし自分を追って黄泉まで来た伊邪那岐命の願いを叶え地上に戻るために黄泉の神に談判すると御殿に戻った。その後に何時まで経っても戻られぬ伊邪那美命の事が気になり、伊邪那岐命は櫛の歯に火を点けて御殿に入った。
そこで伊邪那岐命は、体に蛆が集かり、頭に大雷神、胸に火雷神、腹に黒雷神、女陰に咲(裂)雷神、左手に若雷神、右手に土雷神、左足に鳴雷神、右足に伏雷神の8柱の雷神(火雷大神)が生じている伊邪那美命の姿を見たとされる。
伊邪那美命の変わり果てた姿に恐れおののいた伊邪那岐命は黄泉の国から逃げ出したが、醜い姿を見られた伊邪那美命は恥をかかされたと黄泉の国の醜女に伊邪那岐命を追わせた。伊邪那岐命はそれを振り払ったが、伊邪那美命は今度は8柱の雷神に黄泉の軍勢を率いて追わせたとある。
民間伝承​
菅原道真は死して天神(雷の神)になったと伝えられる。民間伝承では惧れと親しみをこめて雷神を「雷さま」と呼ぶことが多い。雷さまは落ちては人のヘソをとると言い伝えられている。日本の子供は夏に腹を出していると「かみなりさまがへそを取りにくるよ」と周りの大人から脅かされる 。
雷さまから逃れるための方法は、蚊帳に逃げ込む、桑原(くわばら:菅原道真の亡霊が雷さまとなり、都に被害をもたらしたが、道真の領地の桑原には雷が落ちなかったと言う伝承から由来)と唱える、などが伝えられる。
対になる存在としては風神が挙げられる。
『日本書紀』推古天皇26年条には、天皇の命で船を造るため、安芸国において船材を探しに、山に入ったところ、良い材があっため、切ろうとしたが、ある人が「雷神の宿る木ゆえ、切ってはならない」といって止められるも、天皇の命ゆえといって、強行して切ったところ、大雨となり、落雷が起き、その後、天皇の民を犯すのは恥だぞといって雷神を鎮めると、小さな魚となった雷神が木の股に挟まれていたため、焼魚にして食べたという話が記述されている。
姿かたち​
日本では俵屋宗達の風神雷神図(屏風)を代表例に、雷さまは鬼の様態で、牛の角を持ち虎の革のふんどしを締め、太鼓(雷鼓)を打ち鳴らす姿が馴染み深い。この姿は鬼門(艮=丑寅:うしとら)の連想から由来する。雷が落ちる時「雷獣」という怪獣が落ちてくるともいう。 大津絵のなかでは雷さまは雲の上から落としてしまった太鼓を鉤で釣り上げようとするなどユーモラスに描かれている。
寺社の祭神​
上賀茂神社(賀茂別雷神社) - 賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)
天満宮 - 天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)・火雷天気毒王(からいてんきどくおう)
鹿島神宮 - 建御雷神(たけみかづち)
春日大社 - 建御雷神
塩竈神社・左宮 - 建御雷神
雷電神社 - 火雷神(ほのいかづちのかみ)・大雷神(おおいかづちのかみ)・別雷神(わけいかづちのかみ) など
加波山神社本宮・中宮・親宮 - 「八雷神(やついかつちのかみ)」
冨士神社(封込神社)―雷神(らいじん)配祀神
歴史・文学の中の雷神​
古事記:建御雷神ほか
季語:雷神は 「雷」「霹靂神(はたたがみ)」「雷鳴」などと同じく「晩夏」の季語である。
能「雷電」は後シテが雷神である。
歌舞伎演目の「鳴神(なるかみ)」は「雷神不動北山桜(なるかみふどうきたやまざくら)」の一部
世界の雷神​
シュメールのイシュクル(シュメール語: 𒀭𒅎または𒀭𒉎または𒀭𒅏 - DIM - Ishkur)、アッカドのアダド(アッカド語: Adad)、ウガリットのハッドゥ(ウガリット語: 𐎅𐎄𐎆 - hdw [haddu])、カナン/古代エジプトのバアル、ヒッタイトのen:Teshub/インドラ、ヴェーダの宗教/ゾロアスター教/バラモン教/ヒンドゥー教のインドラ、ギリシア神話のゼウス、ローマ神話のユーピテル、北欧神話のトールなど、世界各地の神話に「雷の神」が現れる。
アイヌ文化では龍と雷は同一視されるため、雷神と龍神は同一の存在とされる。アイヌ民族の祖とされるアイヌラックルの父親カンナカムイも雷神であり龍神とされる。ポンヤウンペが持つクトネシリカの鍔には雄、鞘には雌の龍神が宿っているとされる。短気な性格とされ、カンナカムイの視点で謡われるカムイユーカラには、アイヌの村を訪れた際に自らを敬わない者がいたことに怒って村を焼き、その後に後悔するというものがある 。
中国では雷公(Lei Gong)、雷師、雷祖などと呼ばれている。
 
 
 

 
2021/7/11
 
●武甕槌神・建御雷神 (たけみかづちのかみ) 1
建御雷神とも記す。記紀神話に出てくる剣神。国譲りの使者となって大国主命(おおくにぬしのみこと)に国譲りを承諾させ、また神武(じんむ)天皇が熊野(くまの)上陸の直後に失神した際に、命ぜられて平国の剣の韴霊(ふつのみたま)を降(くだ)し、建国の事業を助けた。その剣神である証(あかし)は、自らのかわりに剣を降したり、国譲り交渉で剣先扶坐(ふざ)の姿をとったりするところに明らかである。しかしその本源は甕(みか)ツ霊(ち)であり、それは伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の火神殺害の神話で、甕(みか)ハヤ霊(ひ)とともに、あるいはその子として初現することから推定できる。この神の剣神化により、物部(もののべ)氏の剣神経津主神(ふつぬしのかみ)はその地位を失っていくが、経津主神は『古事記』にはまったく現れない。なお、この神はのちに鹿島(かしま)神宮の主神となり、藤原氏の氏神として奈良の春日(かすが)神社にも祀(まつ)られた。
日本神話で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が火神を切り殺したとき、剣に付着した血から化生(けしょう)した神。経津主神(ふつぬしのかみ)とともに、葦原の中つ国に派遣され、国譲りの交渉に成功。また、神武東征においても、天皇の危難を救った。鹿島神宮の祭神。
記・紀にみえる神。経津主神(ふつぬしのかみ)とともに大国主神(おおくにぬしのかみ)と談判し,国譲りをさせた。また神武天皇東征の際,悪神にねむらされた軍勢の中の高倉下(たかくらじ)の夢にあらわれ,天皇の危機をすくった。茨城県鹿島神宮,奈良県春日大社の祭神。「古事記」では建御雷神,建布都神(たけふつのかみ),豊布都神(とよふつのかみ)。
記紀によれば,出雲の国譲り神話の中で,高天原から天鳥船(あめのとりふね)神または経津主(ふつぬし)神とともに派遣され,大国主神に国譲りを交渉,成立させた神。雷神・剣神・武神とされ,鹿島神宮,春日大社にまつられる。
日本神話にみえる神の名。記では建御雷神などとも記す。雷電の神。雷電は剣のきらめきを連想させるところから,別名を建布都(たけふつ)神とも豊布都(とよふつ)神ともいう。〈フツ〉は物を断ち斬る擬態語。《古事記》によれば,イザナキノミコトが火神迦具土(かぐつち)神(軻遇突智)を斬った際に剣に着いた血が岩群に〈走りつきて〉成ったとされる。この神は葦原中国(あしはらのなかつくに)平定の切札として出雲に天降(あまくだ)り,十掬剣(とつかのつるぎ)を波に逆さに突き立て,その剣の先にあぐらをかいて大国主(おおくにぬし)神に国譲りをさせたのである(国譲り神話)。
・・・かくして葦原中国の主となったオオクニヌシに対し高天原より国土を天津神の子に譲れとの交渉がはじまる。交渉は両三度に及ぶが,ここでのオオクニヌシは生彩のない受動的な神にすぎず,使神の武甕槌神(たけみかづちのかみ)に対して事代主神(ことしろぬしのかみ),建御名方神(たけみなかたのかみ)(ともにオオクニヌシの子)ともども屈服し,国譲りのことが定まる。その際の条件にオオクニヌシは壮大な社殿に自分をまつることを請いそこに退隠することになったが,これは出雲大社の起源を語ったものである。・・・
・・・旧官幣大社。祭神は武甕槌(たけみかづち)神(建御雷神)。《常陸国風土記》には649年(大化5)に神郡がおかれ,そこにあった天の大神の社,坂戸の社,沼尾の社をあわせて〈香島の天の大神〉といい,〈豊香島の宮〉と名づけられ,また崇神天皇のとき大刀,鉾,鉄弓,鞍などの武具が奉られたと記されている。・・・
●建御雷神 (たけみかづち、タケミカヅチノオ) 2
日本神話に登場する神。『古事記』では建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)、建御雷神(たけみかづちのかみ)、別名に建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)と記され、『日本書紀』では武甕槌や武甕雷男神などと表記される。単に「建雷命」と書かれることもある。また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の主神として祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる。雷神、かつ剣の神とされる。後述するように建御名方神と並んで相撲の元祖ともされる神である。また鯰絵では、要石に住まう日本に地震を引き起こす大鯰を御するはずの存在として多くの例で描かれている。
古事記・日本書紀における記述​
神産み​
神産みにおいて伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)が火神火之夜芸速男神(カグツチ)の首を切り落とした際、十束剣「天之尾羽張」(アメノオハバリ)の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱である。剣のまたの名は伊都尾羽張(イツノオハバリ)という。『日本書紀』では、このとき甕速日神(ミカハヤヒノカミ)という建御雷の租が生まれたという伝承と、建御雷も生まれたという伝承を併記している 。
葦原中国平定​
「出雲の国譲り」の段においては伊都之尾羽張(イツノオハバリ)の子と記述されるが、前述どおり伊都之尾羽張は天之尾羽張の別名である。天照大御神は、建御雷神かその父伊都之尾羽張を下界の平定に派遣したいと所望したが、建御雷神が天鳥船(アメノトリフネ)とともに降臨する運びとなる。出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立った建御雷神は、十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立てて、なんとその切っ先の上に胡坐をかいて、大国主神(オオクニヌシノカミ)に対して国譲りの談判をおこなった。大国主神は、国を天津神に譲るか否かを子らに託した。子のひとり事代主神は、すんなり服従した。もう一人、建御名方神(タケミナカタ)(諏訪の諏訪大社上社の祭神)は、建御雷神に力比べをもちかけるも、手づかみの試合で手をつららや剣に変身させ、怯んだ建御名方神はその隙に一捻りにされたため、恐懼して遁走し、科野国の洲羽の湖で降伏した。これによって国譲りがなった。このときの建御名方神との戦いは相撲の起源とされている 。
『日本書紀』では葦原中国平定の段で下界に降される二柱は、武甕槌と経津主神である。(ちなみに、この武甕槌は鹿島神社の主神、経津主神は香取神社の主神となっている。上代において、関東・東北の平定は、この二大軍神の加護に祈祷して行われたので、この地方にはこれらの神の分社が多く建立する。)『日本書紀』によれば、この二柱がやはり出雲の五十田狭小汀(いたさのおはま)に降り立って、十握の剣(とつかのつるぎ)を砂に突き立て、大己貴神(おおあなむち、大国主神のこと)に国譲りをせまる。タケミナカタとの力比べの説話は欠落するが、結局、大己貴神は自分の征服に役立てた広矛を献上して恭順の意を示す。ところが、二神の前で大己貴命がふたたび懐疑心を示した(翻意した?)ため、天津神は、国を皇孫に任せる見返りに、立派な宮を住まいとして建てるとして大己貴命を説得した 。
また同箇所に、二神が打ち負かすべく相手として天津甕星の名があげられ、これを征した神が、香取に座すると書かれている。ただし、少し前のくだりによれば、この星の神を服従させたのは建葉槌命(たけはづち)であった 。
神武東征​
さらに後世の神武東征においては、建御雷の剣が熊野で手こずっていた神武天皇を助けている。熊野で熊が出現したため(『古事記』)、あるいは毒気(『日本書紀』)によって、神武も全軍も気を失うか力が萎えきってしまったが、高倉下(たかくらじ)が献上した剣を持ち寄ると天皇は目をさまし、振るうまでもなくおのずと熊野の悪神たちをことごとく切り伏せることができた。神武が事情をたずねると高倉下の夢枕に神々があらわれ、アマテラスやタカミムスビ(高木神)が、かつて「葦原中国の平定の経験あるタケミカヅチにいまいちど降臨して手助けせよ」と命じるいきおいだったが、建御雷は「かつて使用した自分の剣をさずければ事は成る」と言い、(高倉下の)倉に穴をあけてねじ込み、神武のところへ運んで貢がせたのだという。その剣は布都御魂(ふつのみたま)のほか、佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)の別名でも呼ばれている(石上神宮のご神体である)。
考証​
混同されがちな経津主神は別の神で、『日本書紀』では葦原中国平定でタケミカヅチとともに降ったのは経津主神であると記されている。経津主神は香取神宮で祀られている物部氏の神である。
名義は甕速日神と共に産まれてきたことから、名義は「甕(ミカ)」、「津(ヅ)」、「霊(チ)」、つまり「カメの神霊」とする説、「建」は「勇猛な」、「御」は「神秘的な」、「雷」は「厳つ霊(雷)」の意で、名義は「勇猛な、神秘的な雷の男」とする説がある。また雷神説に賛同しつつも、「甕」から卜占の神の性格を持つとする説がある 。
祭祀を司る中臣氏が倭建命の東国征伐と共に鹿島を含む常総地方に定着し、古くから鹿島神ことタケミカヅチを祖神として信奉していたことから、平城京に春日大社(奈良県奈良市)が作られると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神とした。
元々は常陸の多氏(おおうじ)が信仰していた鹿島の土着神(国津神)で、海上交通の神として信仰されていたとする説がある。大和岩雄の考察によれば、もともと「大忌」つまり神事のうえで上位であるはずの多氏の祭神であったのだが、もとは「小忌」であった中臣氏にとってかわられ、氏神ごと乗っ取られてしまったのだという(『神社と古代王権祭祀』)。
一方で宝賀寿男は系図、習俗・祭祀、活動地域、他氏族との関わりから、多氏を天孫族、中臣氏を山祇族に位置づけ、建御雷神を最初から中臣氏が祖神として奉斎した氏神(天児屋命の父神)と推定した。この説によると、山祇族(紀国造、大伴氏、久米氏、隼人等)は月神、火神、雷神、蛇神と縁が深く、これらを祖神としてきたため、祖系には火神・雷神が複数おり、そこから建御雷神の位置づけを推定したとする。実際に建御雷神と中臣氏の遠祖である天児屋命を繋ぐ系図が存在し、中臣氏歴代にも津速産霊命、市千魂命、伊香津臣命、雷大臣命など「雷」に関係した神名・人名が見られ、中臣氏と同祖と見られる紀国造にも雷神祭祀(鳴雷神社)や天雷命など雷に関わる神名が見られる 。
さらにはヤマト王権の東国進出の際、鹿島が重要な拠点となったが、東方制覇の成就祈願の対象も鹿島・香取の神であることは葦原中国平定で既に述べた。こうしたことで、タケミカヅチがヤマト王権にとって重要な神とされることになった。
信仰​
鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている。
●建御雷之男神 3
読み / たけみかづちのをのかみ・たけみかずちのおのかみ
別名 / 建御雷神・建布都神・豊布都神
登場箇所 / 古事記上・伊耶那美命の死/建御雷神の派遣/大国主神の国譲り / 神武記・熊野の高倉下
他の文献の登場箇所紀 
   武甕槌神(五段一書六、九段本書・一書一・二)/武甕雷神(神武前紀戊午年六月)
   拾 武甕槌神(吾勝尊)
   旧 建甕槌之男神(陰陽本紀)/建布都神(陰陽本紀)/豊布都神(陰陽本紀)/武甕雷男神(天神本紀)/武甕槌神(天神本紀、天孫本紀)/武甕槌(天神本紀)/武甕雷神(皇孫本紀)
   祝 健御賀豆智命(春日祭)/健雷命(遷却祟神)
   姓 武甕槌神(未定雑姓・河内国)
梗概 
伊耶那美神が迦具土神を生んだことによって神避りし、伊耶那岐神が迦具土神の頸を斬った際、刀の本についた血が湯津石村に走りついて成った三神(甕速日神・樋速日神・建御雷之男神)の第三。またの名を、建布都神・豊布都神という。
葦原中国の平定に際しては、高天原から葦原中国へ派遣する三度目の使者の候補として、伊都之尾羽張神(天之尾羽張)とその子、建御雷之男神の名が挙がり、建御雷之男神が天鳥船神とともに派遣されることとなった。出雲国の伊耶佐の小浜に降り立って、大国主神との国譲りの交渉に当たり、事代主神、建御名方神、大国主神を次々と帰順させることに成功した。
神武記では、高倉下の夢の中に現れ、天照大御神と高木神から降臨を命じられるが、自身の代わりに横刀(佐士布都神)を地上に降して神武天皇を助けた。諸説 神名は、『古事記』の中で「建御雷之男神」とも「建御雷神」とも称される。「建」字は「健」字に通じ、タケと読んで勇猛の意、ミカは御厳(みいか)で厳めしい意とされる。ヅは連体助詞、チは神霊の意とする説、またツチを刀剣の意とする説がある。『日本書紀』では「武甕槌神」「武甕雷神」と書かれる。
伊耶那岐神が迦具土神を斬り殺した際、刀の本についた血が湯津石村に走りついて生まれた神であり、その刀の神である伊都之尾羽張神の子に位置付けられている。また、『日本書紀』には甕速日神の子孫とする伝(五段一書六)や、稜威雄走神―甕速日神―熯速日神―武甕槌神という親子関係で示した伝(九段本書)も見られる。刀剣の神であり、「雷」という表記から、雷神でもあるとされる。また、『日本書紀』の「武甕槌神」という表記や、建御雷之男神を祭る鹿島神宮が古く大甕を祭っていたという古伝に基づき、容器の甕の神格がその原型であったとする説もある。
記紀では刀剣神としての描写が色濃いことが指摘されている。『古事記』の記す二種類の別名、建布都神・豊布都神にはフツという刀剣に関する語を含み、国譲りの交渉の際には、剣の刃先に座ったり、手を刃に変化させたりする描写がある。また、神武記では東征を助けるために霊刀を地上に降している。雷神の神格については、神武記で倉の頂を穿って刀を降したことを落雷の象徴と捉えたり、天鳥船を雷神の乗り物としての船と捉える説がある。
外国の神話や伝承には、オセットのナルト伝説に登場する鋼鉄の英雄バトラズに、建御雷之男神とのモチーフの類似が見られるのをはじめとして、コーカサスや、イランからヨーロッパにかけての地域、アルタイ、朝鮮などの諸民族に、日本神話の剣神・霊剣と共通する諸要素が見出されることが指摘されている。
記紀神話中、天上より葦原中国に派遣される際に、『古事記』では、天鳥船神が建御雷之男神に従って派遣されているが、『日本書紀』九段本書では経津主神に武甕槌神が従って派遣されている。経津主神は『古事記』に登場しないため、両者がどのような関係であるかが問題となる。それについて、元来同一の神だったのが分かれたとする説や、経津主神は『日本書紀』で新たに加えられた神とする説、元来は物部氏が奉斎した経津主神が主役の神話であったのが、中臣氏の影響力で、その奉斎する建御雷之男神が主役になったとする説などがある。
この神は鹿島神宮の祭神でもある。鹿島は、大和王権にとって東方開拓の拠点となった土地であるが、周辺からは五世紀頃の遺跡が見つかっており、大和とのつながりを示唆する遺物も残されている。しかし、建御雷之男神を鹿島神宮の祭神とする記述は、記紀には見られず、早い例は平安時代初めの『古語拾遺』や『先代旧事本紀』にまで降る。『常陸国風土記』香島郡条には、天之大神社・坂戸社・沼尾社の三社を合せて香島天之大神と称し、天から降って国土平定の功があった神としているが、建御雷之男神に当たる神名は記されていない。従って、鹿島神宮の祭神がいつから建御雷之男神とされていたかが疑問とされ、記紀編纂以前とする見解と以後とする見解とが分かれている。
また、鹿島神宮は藤原氏の氏神ともされ、奈良時代には、藤原氏の氏社、春日神社(現・春日大社)の祭神の一柱に迎えられた。『続日本紀』宝亀八年七月十六日条には藤原良継の病気平癒のため、藤原氏の氏神として鹿島社と香取神に位階が授けられたことが見える。しかし、記紀には藤原氏(中臣氏)が建御雷之男神や鹿島に関わりを持つことを示す記述は無いため、いつから氏神とされているかが疑問とされている。記紀における建御雷之男神の神話を、記紀編纂当時に勢力を持っていた藤原氏の関与によって形成されたものとする説があるが、一方、記紀編纂当時はまだ両者にそうした結びつきは考えられないとして、反対に、記紀に現れた建御雷之男神を、後に藤原氏が取り込んで氏神としたとする説もある。鹿島神宮の本来の祭祀者については、物部氏とする説や、鹿島郡を勢力に含んでいた多氏とする説がある。
このように、建御雷之男神が、元来どのような信仰の背景を持った神であり、それがどのようにして記紀神話に入ってきたのかは、今なお詳らかでない点が多い。
●建御雷神 (タケミカヅチノカミ) 4
建御雷神とは?
神名に雷が入っていてなんとなく想像できますが、雷の神とされています。『古事記』では「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)」や「建御雷神(たけみかづちのかみ)」と表記され、『日本書紀』では「武甕槌(たけみかづち)」や「武甕雷男神(たけみかづちおのかみ)」などと表記される。さらに、『古事記』では「建布都神(たけふつのかみ)」や「豊布都神(とよふつのかみ)」との別称も記されている。以下、当サイトでは”タケミカヅチ”と表記します。
建御雷神の誕生
伊邪那岐と伊邪那美の「神生み」の最後に火之迦具土神を生んだ際、伊邪那美は大やけどを負ってしまい、病床でもがき苦しんだ後に無くなってしまいます。伊邪那岐は怒り狂って”十拳剣(天之尾羽張)”でカグツチの首を切り落として殺してしまう。十拳剣の根元から滴り落ちたカグツチの血から生まれたのがタケミカヅチになります。その後、タケミカヅチが2度登場します。
国譲りでの建御雷神
出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立ったタケミカヅチは、出雲を統治していた大国主の前に現れ、十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立てて、切っ先の上に胡坐をかいて、大国主に対して国譲りの談判をおこなった。大国主は、良いも悪いも答えず、二人の子供が認めたら出雲は譲ると答えた為、ダケミカヅチは二人の子供に話をすると、事代主(コトシロヌシ)はあっさりと国譲りを承諾、もう一人の子”建御名方神(タケミナカタ)”は力比べで勝ったら承諾すると答えた。建御雷との力比べは一捻りで勝ち、タケミナカタは恐懼して遁走し、国譲りがなったという。
   相撲の起源?
「古事記」ではタケミカヅチとタケミナカタの戦いは、相撲の起源だとされています。タケミナカタがタケミカヅチの腕を掴んで投げようとしたが、その時、タケミカヅチは手を氷柱へ、また氷柱から剣に変えたためにつかむことが出来ず、逆にタケミナカタの手は、葦の若葉のように握りつぶされてしまい、勝負にならなかった、とあります。この戦いが相撲の起源とされています。
神武東征の建御雷神
神武天皇が熊野にさしかかったとき、悪神が毒気を吐くと、毒気にやられて天皇一行は倒れてしまった。アマテラスはタケミカヅチに手助けを命じますが、タケミカヅチは自ら降りるのではなく、かつて使った「剣」を高倉下(タカクラジ)の元へと降ろしました。タカクラジはその剣を神武天皇に奉ずると、天皇一行は立ち直り、軍を進めた。その剣を布都御魂(フツノミタマ)であり、現在奈良県の石上神宮に祀られています。
建御雷神の御神徳
名前の通り、雷の神として知られています。また、「古事記」「日本書紀」に書かれているタケミカヅチの力強い姿から、武神、剣神とされています。
建御雷神を祀る神社
鹿島神社 / 茨城県鹿嶋市宮中 2306-1に鎮座する元常陸国一宮
春日大社 / 奈良県奈良市春日野町160に鎮座する全国の春日神社の総本宮
神仏習合時代の建御雷神
当時、春日社と呼ばれており、神宮寺である興福寺と一体となっていました。春日社も興福寺も飛鳥時代から平安時代にかけてとても大きな権力を持っていた藤原氏(中臣氏)による創建になります。春日社の祭神であった、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神を春日神と呼んでいましたが、興福寺との結びつきが強くなっていき、仏教色が強くなり、春日権現(春日大明神)と呼ばれるようになりました。
中臣氏(藤原氏)と建御雷神
大化の改新で有名な中臣鎌足は常陸国の出身と言われており、氏神として武甕槌命、経津主命を祀っていました。中臣不比等は、鹿島神社より武甕槌命、香取神社より経津主命を歓請して、祖神の天児屋根命と比売神を合わせて祀り、春日社を創建しました。当時、常陸国は蝦夷と呼ばれた東北を中心した豪族との闘いの最前線であり、常陸国の神を歓請して大和国で祀る事で常陸国にも神のご加護が厚くなるとされていて、一種の戦意高揚の意味合いもあったと言われています。
●建御雷大神 (タケミカヅチノオオカミ) = 鹿島大神 (カシマノオオカミ) 5
[古事記] 建御雷神(タケミカヅチノカミ)
[日本書紀名] 武甕槌神(タケミカヅチノカミ)
[別名] 建布都神(タケフツノカミ)、豊布都神(トヨフツノカミ)
建御雷大神は、その名の通り、雷を司り、刀剣の神でもある。それは、「古事記」の登場でも刀剣の上に座した姿で降り立っており、その力は絶大で、武の神、戦の神として、有名な神さまとなっている。元々は、「古事記」の神産みの話において、妻、伊弉冉命(イザナミノミコト)が出産の時、火の神、火之迦具土神(カグツチノカミ)を産んだために、命を落とすことになり、怒り狂った、夫、伊邪那岐命(イザナギノミコト)がその火之迦具土神の首を切り落とした際に多くの神々が誕生したという話があり、この時、伊邪那岐命が手にしていた剣、十束剣(とかのつるぎ)、別名、天之尾羽張(アメノオハバリ)の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三柱の神のひとつと言われている。
その後、「古事記」では、「出雲の国譲り」の話となり、天鳥船(アメノトリフネ)とともに、葦原中国(あしはらのなかつくに:地上)に降り立ち、抵抗する建御名方神(タケミナカタノカミ)をその力で、諏訪の地に閉じ込め、葦原中国を平定したとされる。また、これが「日本書紀」だと、武甕槌神は単身ではなく、経津主神(フツヌシノカミ)という別の神さまとともに降臨をする。そして、この二つの記紀をまたがる建御雷神・経津主神・天鳥船の三神が、この鹿島神宮を含めた東国三社(他、香取神宮・息栖神社)として、それぞれの地に祀られている。
●タケミカヅチノカミ (建御雷神・武雷神) 6
タケミカヅチについて
イザナギがカグツチを斬った時の血から生まれた剣の神様。フツヌシと同一神とする説もあります。剣の化身として生まれたタケミカヅチとフツヌシは、武の神様として信仰され、武道場にはアマテラスと共に祀られています。国譲りの第3の使者として派遣され、国譲りに成功します。神武天皇が大和入りする際のピンチも助けました。日本神話最強の武神であるタケミカヅチは、関東を中心に東北、中部地方などに広がっている鹿島神社の総本社の鹿島神宮の祭神で、一般に『鹿島神』の名前で知られています。地震の原因であると古来より考えられてきたナマズを抑え込む神様でもあります。なので、地震除けのご利益もあるとか。また、タケミカヅチは古代の有力氏族・中臣氏(なかとみし。のちの藤原氏)の氏神である春日大社の第一殿に祀られていることでも知られています。
名前の意味や由来について
建御雷神/タケミカヅチノカミ
名前の中に『雷』がある通り雷神であると考えられ、神話でも落雷を連想させる記述が多くみられます。古くから雷を『鳴神(なるかみ)』と呼ぶように、天にいてゴロゴロと鳴り響く神様で、荒々しい神格を示しています。また、天をスパッと勢いよく切り裂く雷と剣のイメージが合わさり、この名前が付けられたという説があります。古代の人々は雷を『モノを切り裂く威力がある剣』になぞらえたと考えられています。
タケミカヅチの別名
○武甕槌命 /タケミカヅチノミコト
○武甕槌神/タケミカヅチノカミ
○建甕槌神/タケミカヅチノカミ
○武雷神/タケミカヅチノカミ
○建雷命/タケミカヅチノミコト
○建御賀豆智命/タケミカヅチノミコト
○建御雷之男神/ タケミカヅチノオノカミ
○鹿島大明神/カシマダイミョウジン
○鹿島神/ カシマノカミ
○鹿島様/カシマサマ
○布都御魂神/フツノミタマノカミ
○建布都神/タケフツ
○豊布都神/トヨフツ
○春日大明神/カスガダイミョウジン
○速玉さん/ハヤタマサン   など
タケミカヅチが出てくる神話
古事記
火の神を斬る・・・火の神であるカグツチを生み、身を焼かれて亡くなったイザナミ。最愛の妻を失い嘆き悲しむイザナギは、カグツチを恨み、腰に下げていた長い剣を抜いて斬りました。その時にカグツチの血から生まれたのがタケミカヅチです。
建御雷神と国譲り・・・地上の国を平定する切り札として出雲国に派遣されたタケミカヅチ。アマテラスはタケミカヅチのお供に天鳥船神(アメノトリフネノカミ)を付けます。タケミカヅチは見事にその役を果たしました。
天孫降臨・・・オオクニヌシから譲ってもらった葦原中国へ孫のニニギを下ろす。『天』の神様アマテラスの『孫』が降臨したから、天孫降臨。
八咫烏・・・大和入りする神武天皇のピンチに高倉下(タカクラジ)の夢に現れて、神剣を渡すように伝えて神武天皇を救いました。
日本書紀
国生み・・・甕速日神(ミカハヤヒノカミ)はタケミカヅチの先祖であると記されています。
葦原中国の平定・・・地上世界に降りた二柱は、武甕槌と経津主神と記載されています。この二柱が出雲の五十田狭小汀(いたさのおはま)に降り立ち、十拳の剣(とつかのつるぎ)を砂浜に突き立て、オオナムチに国譲りを迫りました。別の話では、天津甕星(アマツミカホシ。またの名前を天香香背男〈アマノカカセオ〉)が平定の大きな妨げになったとあります。アマツミカホシ討伐にあたり、フツヌシとタケミカヅチは建葉槌命(タケハヅチ)を遣わしました。アマツミカホシを倒した神が、香取に座するとも記されています。
八咫烏・・・神武天皇が熊野でピンチを迎えた時に、高倉下の夢に現れます。夢の中で「自分が葦原中国を治めた時に使った神剣を渡すように」と高倉下に伝えて、神武天皇のピンチを助けました。
風土記
香島郡・・・孝徳天皇の頃のお話。六九四(大化五年)に、大乙上中臣子(だいおつじょうなかとみのこ)と大乙下中臣部兎子(だいおつげなかとみべのうのこ)達が、惣領の高向大夫に申し出た。下総国(しもうさのくに。千葉県北部と茨城県の一部)の国の海上(うなかみ)の国造の領地のうちの軽野(かるの)から南の一里(ひとさと。面積のこと)と、那賀の国造の領内である寒田(さむた)から北にある五里とを引き裂いて、この二つを合併し、新たに(香島の)神の郡を置きました。その地に鎮座する天つ大神の社(鹿島神宮)と、坂戸の社と、沼尾の社の三つをあわせて、『香島天大神(かしまのあめのおおかみ)』といいます。ここから郡の名前が付きました。土地の言葉に、『霰がふる香島の国』という言葉があります。
鹿島の神・・・天と地がまだはっきりと分かれていなかった頃のお話。諸神の祖神である天神(土地の人は、かみるみ、かみるきの神と呼んでいる)が、八百万の神たちを高天原に集めた時のことです。天神は、「今、私の御孫であるニニギが治める豊葦原の水穂の国」と言いました。この言葉によって高天原より降りてきた大神の名前を『香島の天の大神』と言います。天の原では、『日の香島の宮(ひのかしまのみや)』と名付け、降臨地である常陸(ひたち。茨木県北部)では『豊香島の宮(とよかしまのみや)』と名付けました。土地の人の言い伝えが残っています。天神はニニギに「豊葦原の水穂の国のリーダーに貴方様がなって下さい。貴方様がリーダーになる豊葦原の水穂の国は、荒々しい神達がいます。岩や石、木々や草の葉までも言葉を話し、昼は五月の蝿のように騒がしく、夜は火がちらちらと燃える国でした。これを静かにさせて、平定する神として貴方様にお仕えいたしました」と言ったそうです。その後、初めてこの国土を治められた崇神天皇の時代になって、この神様に奉納された幣帛は、太刀十口、鉾二枚、鉄弓二張、鉄箭二具、ころ四口、枚鉄一連、練鉄一連、馬一匹、鞍一具、八咫鏡二面、五色のあしぎぬ一連でした。土地の人の言い伝えが残っています。崇神天皇の時代に、大坂山の頂上で、天神が白いお着物を着てお現れになり、白い鉾の御杖を取り、こう言いました。「私をよーく祭って下さるならば、あなたが治める国を、大きな国も小さな国も、全てお任せできるようにして差し上げましょう」そこで天皇が多くの族長達を集めて、天神様からこんなメッセージを貰ったんだけど・・」と全部話しました。
大中臣神聞勝命(おおなかとみのかむききかつのみこと)が言います。「大八洲国は陛下が治めるべき国であると、香島の国に鎮まる大御神様が教えて下さったの でございます」天皇は、これをお聞きになると、恐れ多さに驚かれて、前に掲げた供え物を、神の宮に奉納しました。鹿島神宮の神戸は六十五戸あります。天智天皇の時代に初めて使者を派遣して、神殿を造らせました。それ以来、式年に改修されています。毎年七月に、舟を造って、鹿島神の別宮の大船津の宮(おおふなつのみや)に奉納しています。その由来は、昔、倭武の天皇の時代に、香島大神が中臣巨狭山命(なかとみのおおさやまのみこと)にこう言いました。「今すぐに私の乗る舟を用意するように」巨狭山の命は、「つつしんで仰せを承りました。異論はございません」と答えました。大神は、翌朝「おまえの舟は海の中に置いたぞ」と言いました。そこで舟の持ち主である巨狭山の命が探して見ると、舟は岡の上にありました。また大神は、「おまえの舟は岡の上に置いたぞ」と言います。そこでまた巨狭山の命が探し求めると、今度は海の中にありました。こんな事を何度も繰り返しているうちに、巨狭山の命は恐れ畏み、新しくに船を三隻、それぞれ長さ四メートル余りあるのを造らせて、初めて天の大神に献上したそうです。これが舟の奉納の始まりとされています。毎年四月十日には、天の大神の祭りを設けて、酒を頂き、宴をします。ここに占いを仕事とする地元の人々(卜部氏)の一族は、男も女も集り、昼も夜も幾日も酒を飲み楽しみ、歌い舞をします。その歌に、あらさかの 神の御酒み さけを 飲たげよと 言ひけばかもよ 我が酔ひにけむ (新しい栄をもたらす尊い神様の酒を飲め飲めと言って飲まされてしまったからだろうか。私はまったく酔ってしまったようだ)とあります。以下省略。
天の大神の社(あめのおおかみのやしろ。鹿島神宮)・・・日本建国・武道の神様であるタケミカヅチを御祭神とする、神武天皇元年創建の由緒ある神社です。
坂戸神社(さかとのじんじゃ)・・・茨城県鹿嶋市山之上付近にある古社。『大神の神言を理解して崇神天皇の幣物を鹿島に捧げた』とある大中臣神聞勝命の祖神であるアメノコヤネノミコトを祀ります。神聞勝命はそのまま鹿島に留まって神孫と同化し、鹿島中臣の祖となりました。その子孫に藤原鎌足がいます。
沼尾神社(ぬまおのじんじゃ)・・・香取神宮の御祭神であるフツヌシを祀ります。「天つ大神の社(鹿島神宮)と、坂戸の社と、沼尾の社の三つを合せて、香島の天の大神と称えた」と記載されている古社です。フツヌシとタケミカヅチが明石の浜より上陸し、沼尾より臨める香取の地へフツヌシが行き、タケミカヅチは沼尾から現在地へ移ったという説話があります。
因佐神社(いなさのかみのやしろ)・・・『伊奈佐乃社(いなさのやしろ)』と記される古社。祭神は、タケミカヅチ。武勇の神様として知られ、勝負・進学・受験の神様としても広く知られています。地元では親しみを込めて『速玉(はやたま)さん』と呼ばれています。
タケミカヅチ伝承の地
跡宮(あとのみや)
由緒については諸説あるそうです。「鹿島神宮伝記」「夫木集」「鹿島ものいみ由来」によると、タケミカヅチが初めて降り立った場所が茨城県鹿嶋市神野の跡宮で、鹿島神宮の祭の前日にこの社を祀るとし、奈良の春日へ御分霊の際はここから鹿島を発ったとの言い伝えもあります。
要石(かなめいし)
茨城県鹿嶋市の鹿島神宮と千葉県香取市の香取神宮にある霊石。この石により、地震を鎮めているとされています。古くは、地震の原因は地下に住み着く大きなナマズが暴れるからだと考えられていました。香取神宮と鹿島両神宮の神様達は、地中に深く石の棒を差し込み、大きなナマズの頭と尾を刺し通したと伝えられています。要石は大部分が地中に埋まっているので、地上に見えている部分はほんの十数センチだとか。宮城県加美朝の鹿島神社にも要石があり、風土記によれば鹿島神宮のものを模したものだそうです。要石ですが、香取神宮の要石は凸形、鹿島神宮は凹形で、香取神宮の要石は総門の手前にあります。鹿島神宮の要石は、鹿島神宮奥宮(タケミカヅチの荒魂)の背後約50m、本宮より東南東約300m離れた境内の森の中に位置するそうです。貞享元年(一六八四年)徳川光圀公が香取神宮参拝の時に要石を掘らせましたが、根元を見ることが出来なかったといわれています。また、要石は『動かないもの、動かしてはならないもの』の比喩に使われることがあります。
飛火野(とびひの)
春日大社の表参道と循環バスの通りの交差点から東南に広がる芝生の原『飛火野(とびひの)』。古くは『とぶひの』ともいわれ、タケミカヅチが真夜中に鹿道(ろくどう。タケミカヅチが鹿に乗って着いた場所。春日大社神苑萬葉植物園を少し西に下ったあたり)へ着いた時、足元が暗いので、お供の八代尊(やしろのみこと)が口から火を出して道明かりにしました。その火が消えずに時々飛びまわったので、聖武天皇の時代に野守(のもり)を置いて守られたというお話が伝わっています。また、飛火が古代の通信施設「烽火(のろし。緊急の際の遠方への合図として高く上げる煙)」の意味であるというお話もあります。
その他
跡宮(あとのみや)
タケミカヅチを祀る神社は、関東・東北地方を中心に全国980社にのぼります。タケミカヅチは鹿島神社の主祭神、フツヌシは香取神社の主祭神となっています。遥か昔の話において、関東や東北の平定は、この二柱の軍神の加護に祈祷して行われたので、この地方には2柱の神様の分社が多く建立しているそうです。現在では『○○神宮』と神宮号がつく神社は多くありますが、かつては伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の三社だけでした。一般に『勝利の神様』ともいわれているタケミカヅチ。タケミカヅチの霊力は幅広く、強力であるといいます。平和・外交の祖神ともされるそうです。
布都御魂(ふつのみたま)
古事記や日本書紀に記載されている『国譲り』の神話でタケミカヅチが持っていた剣のこと。後に神武天皇を助ける神剣です。
相撲の起源(すもうのきげん)
古事記の国譲りのお話で、タケミカヅチとタケミナカタの力競べ(ちからくらべ)があります。このお話が日本で最古の相撲の記録であり、相撲の起源とされているそうです。
鹿(しか)
神鹿(しんろく)とも。 古事記に天岩戸神話の中に鹿に関する記述があります。アマテラスが天岩戸に隠れた時に、神様達が天香具山の牝鹿の肩甲骨を使って対策を占った神話です。また、タケミカヅチがアマテラスから国譲りをする様に言われた時の使いが、鹿の神様でした。その事からタケミカヅチを祀る鹿島神宮では、鹿が神様のお使いとして飼育されているそうです。ご利益は鹿島・春日の神様への取り次ぎ開運です。
春日神社にまつわる神話
奈良公園にたくさんいる鹿。奈良では鹿が神様のお使いとして大切にされています。 ではなぜ鹿がそれほどまでに大切にされているのか。そのお話は奈良時代に遡ります。奈良時代のはじめ、茨城県にある鹿島神宮から鹿島神であるタケミカヅチが大和の地(奈良県)にやって来ました。タケミカヅチは大和の地をとても気に入り、御蓋山(みかさやま。三笠山とも。奈良市の市街地東部にある山)の頂上『浮雲の峰』に移り住みました。その後、中腹に社殿を造営し、香取神宮、枚岡神社から神様をお迎えしてお祀りしたのが春日大社のはじまりとされています。御蓋山は、神護景雲2年(768年)に御本殿が創建される以前に、鹿島・香取・枚岡の神様がお鎮まりになる神奈備として崇められ、現在も禁足地として入山が厳しく制限されています。タケミカヅチが春日に来た時に、白い鹿に乗り、柿の枝を鞭にして来たそうです。道中に休憩をしたと伝わる場所が全国に何か所も伝わっており、『神柿』と呼ばれる柿の木が残る神社もあります。春日大社の宝殿には、柿の枝を鞭にして白い鹿にまたがり空高く飛ぶタケミカヅチを描いた絵画が残っているとのこと。 奈良の鹿達は、すべてこの白い鹿の子孫であり、神様のお使い『神鹿(しんろ)』として敬われてきたそうです。
武の神様
鹿島神宮には、タケミカヅチが悪神を退治する時に用いた技を起源とする『鹿島神流』という武術流派があります。鹿島神流には、剣術と柔術、抜刀術、薙刀術、棒術、杖術、槍術、首里剣術など多岐にわたる武術が伝わっています。現在でも武道場の床の間や神棚には中央に天照大御神、右側に鹿島大明神(タケミカヅチ)、左側に香取大明神(フツヌシ)が祀られ、武芸上達の神様として信仰されています。
タケミカヅチの御利益
地震除け / 芸能上達 / 航海安全 / 延命長寿 / 安産 / スポーツ上達 / 病気平癒 / 開運招福 / 必勝祈願 / 交通安全 / 豊漁 / 厄除け開運 / 国家鎮護 / 殖業興業 / 家内安全 / 心願成就 / 勝運 / 災難除け / 縁結び   など
タケミカヅチの祀られている神社
鹿島神宮 / 春日大社 / 石上神宮 / 真山神社 / 鹽竈神社 / 椋神社 / 稲毛神社 / 大原野神社 / 吉田神社 / 枚岡神社 / 因佐神社 / 古四王神社 / その他、全国の鹿島神宮や春日神社など
●「鳴神」 (なるかみ)
歌舞伎十八番のひとつ。
あらすじ​
世継ぎのない天皇からの依頼をうけて、鳴神上人(なるかみしょうにん)は戒壇建立を約束に皇子誕生の願をかけ、見事これを成就させる。しかし当の天皇が戒壇建立の約束を反故にしたため、怒った上人は呪術を用いて、雨を降らす竜神を滝壷(志明院)に封印してしまう。それからというもの雨の降らぬ日が続き、やがて国中が旱魃に襲われ、民百姓は困りはててしまった。そこで朝廷では女色をもって上人の呪術を破ろうと、内裏一の美女・雲の絶間姫(くものたえまひめ)を上人の許に送り込む。姫の色仕掛けにはさすがの上人も抗しきれず、思わずその身体に触れたが最後、とうとう戒律を犯し、さらには酒に酔いつぶれて眠ってしまう。その隙を見計って姫が滝壷に張ってある注連縄を切ると封印が解け、竜神がそこから飛び出すと一天にわかにかき曇ってやがて豪雨となり、姫はその場を逃げ去る。雨の音に飛び起きた上人はやっと騙されたことに気づき烈火のごとく怒り、髪は逆立ち着ている物は炎となって姫を逃さじと、その後を追いかける。
解説​
この『鳴神』は貞享元年(1684年)の正月、初代市川團十郎が三升屋兵庫の名で台本を書き江戸中村座の『門松四天王』(かどまつしてんのう)において上演したものが濫觴であるが、現行で上演されているものは、寛保2年(1742年)に大坂で上演された『雷神不動北山桜』(なるかみふどうきたやまざくら)がもとになっている。
『雷神不動北山桜』は、その三幕目が『毛抜』、四幕目がこの『鳴神』(正式には、雷神不動北山桜北山岩屋の場)、そして五幕目大切が『不動』となっていて、今日では『毛抜』と『鳴神』は独立した芝居として上演されることが多い。そしてそのいずれもが七代目市川團十郎によって歌舞伎十八番に撰ばれたが、その後『鳴神』は嘉永4年(1851年)に八代目團十郎が演じて以降、九代目團十郎は自分の柄にあわないとして演じなかったので上演が絶えていた。その後、明治43年 (1910年) に二代目市川左團次が岡鬼太郎と提携し、演出を改めて上演に漕ぎ着けた。
なお二代目左團次はこの前年、前述の『毛抜』も復活上演しており、現在ではともに歌舞伎の人気演目のひとつになっている。
●鳴神
古今東西、世に「女性問題で失敗した」殿方は、たくさんおられるようです。女好きで失敗した人もいれば、逆にあまりに知らなさ過ぎて、手玉にとられる場合もあるでしょう。
鳴神上人はたいへんな霊力の持主でした。世俗的なことに溺れるような人ではなく、深山の滝のかたわらに庵を結んで一心に祈り、修行に明け暮れるマジメなお坊さんです。「正しいこと」しか頭にない人にありがちですが、鳴神上人は「間違ったこと」をした人を赦すことができません。自分との約束を守らなかった天皇をひどく恨み、龍神を封じ込めて雨を降らなくしてしまいました。
日照りが続いては、田畑が疲弊し、飢饉になりかねません。問題解決のため鳴神上人のもとに送られた女スパイが雲の絶間姫です。彼女のミッションは上人を色香で惑わせ、どうすれば龍神を解き放てるかを探ること。俗にいう「ハニートラップ」ですね。絶世の美女である彼女は、見せるともなく裾をからげて白い足を露わにしたり、艶っぽい話をしたり。するとお上人様、そういうことに免疫がありませんから効果てきめん! 気もそぞろで庵の段から転げ落ちて失神してしまいます。
すかさず口移しで水を飲ませる女スパイは、上人が意識を取り戻したのを確認すると、今度は急に苦しがり「胸をさすって」と上人の手を自らの襟元へ、その奥へ、と誘います。
人を疑うことを知らない鳴神上人は本気で彼女を心配し、「ここか? ここか?」と胸をさするうち、手に「自分の胸にはないふくらみ」を感じてハッと飛びのきます。しかし時すでに遅し! 二つの「ふくらみ」が上人のアタマの中をグルグル回り、煩悩が堰を切って体中を駆け巡り、そして…! 雲の絶間姫はついに秘密を聞き出し龍神を解き放ちます。騙されたと知った上人は烈火のごとく怒り、ものすごい形相で彼女を追いかけていくのでした。
きっと江戸時代の庶民は「偉いお坊さんも美女の色仕掛けにはイチコロなんだな」と、うぶなお上人様を笑ったり哀れがったりして楽しんだのでしょう。リクツに凝り固まって人の心の機微に疎いと、足をすくわれるよ、という教訓話にもとれますね。
●霹靂神 (はたたがみ)
(「はたたく神」の意) 激しい雷。へきれき。はたがみ。はたはたがみ。はたたがみなり。《季・夏》。御伽草子・御曹子島渡(室町時代物語集所収)(室町末)「ささやくこゑはいかつちのごとく、いかれば百せんまんのはたたかみ、なりわたりたるごとくにて」。天眼目抄(1471‐73)七「青天白日晴れきったに、はたはたがみ鳴(なって)いな光りがしわたったぞ」。《はたたく神の意》激しい雷。《季 夏》「―下りきて屋根の草さわぐ/青邨」。
●雷鳴
雷が鳴り響く音。雷放電があると放電路上の空気が急激に熱せられるため破裂音を生ずる。これが温度の不均一な大気層を通過してくる間に「ゴロゴロ」と引き延ばされた音になる。音速が毎秒340メートルであることを考えれば、電光と雷鳴のずれから、雷撃点までの距離が推算できる。雷鳴の聞こえる範囲はおよそ10キロメートルである。
かみなりが鳴ること。また、その音。《季 夏》「―を尽くせし後の動かぬ日/草田男」。
雷の電光に沿って大気が急激に膨張するために発生する音。稲妻が起こるときの電気エネルギーの約 4分の3は,イオン化した分子の衝突によって,稲妻近くの大気の加熱に消費される。一瞬の間に温度は 3万℃程度にまで上昇し,その結果気圧の衝撃波が発生し,空中を伝播する。これが雷である。雷がよく聞こえるのは稲妻から約 15kmの距離までで,普通は 25kmで聞こえなくなり,最大でも 40kmまでしか達しない。雷放電そのものは 0.5秒以下というごく短時間の現象であるが,放電路の長さが 2〜14kmにもなるので,耳までの到達時間が異なり,また干渉などによって,音はごろごろと低くなる。周波数(振動数)は 30〜100Hzくらいである。
雷放電によって生ずる音。放電経路にある空気は瞬間的に1万℃程度に熱せられて爆発的に膨張し,衝撃波を生ずる。ゴロゴロと聞こえるのは,多重放電であること,放電経路の各部分で音を発すること,その音波が大気中で屈折・反射することなどにより,到達時間に差ができるためである。雷鳴の到達距離は通常20km,最大50km。
かみなりが鳴り響くこと。また、その音。かみなり。《季・夏》。大きな音をたとえていう。
かみなり。かみなりの音。・・・耳をつんざくような雷鳴が二つつづけて鳴った。(下村千秋『泥の雨』) / 浅草橋も後(あと)になし須田町(すだちょう)に来掛る程に雷光凄(すさま)じく街上に閃きて雷鳴止まず雨には風も加(くわわ)りて乾坤(けんこん)いよいよ暗澹たりしが九段を上り半蔵門に至るに及んで空初めて晴る。(永井荷風、『夕立』)
●火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)
その名の示す通り雷神であり、雷の猛威に対する畏れや稲妻と共にもたらされる雨の恵みに対する農耕民族であった古代日本人の信仰から生まれた神と考えられている。律令時代には、宮中大膳式に祀られ、火の神としても信仰された。また、天神信仰では火雷神が由来の一つとされる眷族の火雷天気毒王がいる。主神の天満大自在天神も火雷天神として混同されることがある。ほかに井上内親王の御子を指す場合があり、上記の神とは異なる別の神なので注意が必要である。この場合「ほのいかづち」ではなく「からい」と読むことも多い。
別名​
火雷神(ほのいかづちのかみ)、雷神(いかづちのかみ)、八雷神(やくさいかづちのかみ)。日本神話の中では火雷神は、伊邪那美命の体に生じた8柱の雷神の1柱だが、ここでは8柱の雷神の総称として火雷大神の呼称が用いられる(この1柱の火雷神については後述)。
神格​
雷神、水の神、伊邪那美命の御子神、雨乞い、稲作の守護神。
神話​
『古事記』に記された神話の中では、火之迦具土神を生んだ事で女陰を焼いて死んだ妻の伊邪那美命を追って伊邪那岐命が黄泉の国に下った際、伊邪那美命は黄泉の国の食物を食べた事により出る事が出来ないと伊邪那岐命に応じた。しかし自分を追って黄泉まで来た伊邪那岐命の願いを叶え地上に戻るために黄泉の神に談判すると御殿に戻った。その後に何時まで経っても戻られぬ伊邪那美命の事が気になり、伊邪那岐命は櫛の歯に火を点けて御殿に入った。
そこで伊邪那岐命は、体に蛆が集かり、頭に大雷神、胸に火雷神、腹に黒雷神、女陰に咲(裂)雷神、左手に若雷神、右手に土雷神、左足に鳴雷神、右足に伏雷神の8柱の雷神(火雷大神)が生じている伊邪那美命の姿を見たとされる。
伊邪那美命の変わり果てた姿に恐れおののいた伊邪那岐命は黄泉の国から逃げ出したが、醜い姿を見られた伊邪那美命は恥をかかされたと黄泉の国の醜女に伊邪那岐命を追わせた。伊邪那岐命はそれを振り払ったが、伊邪那美命は今度は8柱の雷神に黄泉の軍勢を率いて追わせたとある。
火雷神​
なお、山城国風土記逸文によると、この火雷大神のうちの1柱である火雷神(乙訓坐火雷神社の祭神)は、のちに丹塗矢となって賀茂建角身命の子、玉依日売のそばに流れ寄り、その結果賀茂別雷命が生まれたという 。
解説​
伊邪那美命に生じた8柱の雷神は、大雷神は強烈な雷の威力を、火雷神は雷が起こす炎を、黒雷神は雷が起こる時に天地が暗くなる事を、咲雷神は雷が物を引き裂く姿を、若雷神は雷の後での清々しい地上の姿を、土雷神は雷が地上に戻る姿を、鳴雷神は鳴り響く雷鳴を、伏雷神は雲に潜伏して雷光を走らせる姿を、つまりそれぞれが雷が起こす現象を示す神だと考えられている。 また、『万葉集』や『日本霊異記』の伝承に、中国の雷神信仰の影響などから雷神は竜や蛇と関連づけられることもある。
信仰​
雷が多い地方などで雷神はよく信仰され、落雷から身を守ってくれる神様として、雨をもたらす稲作の守護神として雨乞いなどで祭られる事が多い。
祀る神社​
葛木坐火雷神社 - 奈良県葛城市(旧・北葛城郡新庄町)鎮座
火雷神社(上野国八宮) - 群馬県佐波郡玉村町鎮座
角宮神社 - 京都府長岡京市鎮座(上記にある山城国乙訓郡「乙訓坐大雷神社」の論社)
●火雷神 (ほのいかずちのかみ)
記・紀にみえる神。黄泉国(よみのくに)で伊奘冉尊(いざなみのみこと)の遺体に生じた8種の雷神のうちの1神。また「山城国風土記」逸文では,玉依日売(たまよりひめ)が川上から流れてきた丹塗矢(にぬりや)によってはらみ,賀茂別雷命(かもわけいかずちのみこと)を生むが,この丹塗矢が火雷神であるという。
日本神話の火の神。《古事記》では,伊弉冉(いざなみ)尊の体から黄泉(よみ)国で生まれ,石河瀬見小河で遊んでいた玉依姫のそばに丹塗矢(にぬりや)となって流れ寄り,姫が拾って床に置くと神の姿にかえり,別雷(わけいかずち)神(賀茂別雷神社)を産ませた,とする。
《山城国風土記》逸文の賀茂神社の由緒を語る伝説に登場する神。名義は赤い閃光を発する雷神。賀茂建角身(かもたけつのみ)命の子,玉依姫(たまよりひめ)は,川上から流れてきた丹塗矢(にぬりや)を取りあげたため孕んで雷神賀茂別雷(かもわけいかずち)命を生む。この丹塗矢がホノイカズチであるという。丹塗矢は,蛇や剣とともに雷神の形象で,とくに人間の女性に通うときの姿である。《古事記》に大物主(おおものぬし)神が勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)に通う類似の伝説がある。
●八の雷神 (やくさのいかづちのかみ) 
古事記
頭部 大雷 おおいかづち
胸部 火雷 ほのいかづち
腹部 黒雷 くろいかづち
陰部 柝雷 さくいかづち
左手 若雷 わきいかづち
右手 土雷 つちいかづち
左足 鳴雷 なるいかづち
右足 伏雷 ふしいかづち
日本書紀
頭部 大雷 おおいかづち
胸部 火雷 ほのいかづち
腹部 土雷 つちいかづち
背 稚雷 わかいかづち
尻 黒雷 くろいかづち
手 山雷 やまいかづち/やまつち
足 野雷 ぬのいかづち/のつち
陰部 裂雷 さくいかづち
死んで黄泉国にいかれた伊邪那美神を、伊邪那岐神が追っていったところ、 すでに伊邪那美神の遺体は腐ってうじがたかり、遺体の各部に八雷神が生まれていた。『古事記』と『日本書紀』では各部の箇所や生れた雷神に違いがある。また、雷神は魔物、あるいは精霊とする説もある。
大雷神。「大」は威力が盛んである美称で、八雷神の筆頭。賀茂別雷命と同一神として加茂社祭神となっている場合もある。
火雷神。「火」は秀・穂にも通じ尊いことを意味して二番目の神。また、雷は火を伴うので、たんに雷神と言う時、火雷神をさす場合もある。さらに、怨霊となった菅原道真は落雷を起こしたので、火雷神と呼ばれる場合もある。
黒雷神。「黒」は雷鳴とどろく時に天地が暗くなることを意味する。
柝雷神、裂雷神。「柝」「裂」は落雷によって樹木などが切り裂かれることを意味する。 陰部に生まれるのは、陰部の形状からの連想か。
若雷神、稚雷神。「若」「稚」は若々しい活力を意味する、あるいは「大」に対する言葉。
土雷神。「土」は醜いを意味する言葉。あるいは雷が地面に吸収されることを意味。
鳴雷神。「鳴」は雷鳴を意味する。
伏雷神。「伏」は隠れることで、雲間に隠れる雷のことか。
山雷神、野雷神。『古事記』には現れない神。土雷神と同様か。