「為せば成る」

為せば成る 為さねば成らぬ成る業を 成らぬと捨つる人のはかなさ
    武将の時代 信玄は現実を理解 部下の背中を支える
為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり  
    養子の殿様 赤字財政の建直し 鷹山は叱咤激励

コロナで引きこもり 何となく無気力 億劫 何もしたくない

やはり 気持ちは持ちよう
ちっちゃな目標でも 自分なりに作ります
為せば成る 頑張りましょう
 


 
 
 
 
強い意志を持って取り組めば必ず実現できる。一方、取り組まなければ何事も実現できない。努力すればできることであっても、最初から無理だと諦めてしまうところに、人の弱さがある。 信玄は現実を受け入れ、部下の背中を支え続けた。
 
 
 
 
鷹山は叱咤激励か。出来ないのは、その人のやる気の無さであると叱咤した。成し遂げる意思(覚悟)を持って行動しない人には(何も)成せる筈がないという戒めである。
 
 
 
 
●武田信玄
為せば成る 為さねば成らぬ成る業を 成らぬと捨つる人のはかなさ  
「為せば成る」1
為せば成る 為さねば成らぬ成る業を 成らぬと捨つる人のはかなさ 
努力すれば必ず実現できる。 努力すればできることであっても、最初から無理だと諦めてしまうところに、人の弱さがある。という意味です。
普通の人は大変な仕事を抱え込み、思うように進まないと現実逃避したくなります。さらに上司から”できるまでやれ”といわれると気が重くなり、無理だとあきらめてしまいます。誰かが、やってくれると考えてしまいますが、仕事の成果を得ることができません。
そんな時は、成果をあげようと、仕事に立ち向かう行動が一番の解決策になります。行動しただけでは、うまくいくとは限りませんが、行動しなければ何も進展しません。その努力が結果として報われるがどうかは、残念ながら誰にも分かりません。結果がでないこともあります。
努力する方向性が間違っていれば、いくら頑張っても報われません。方向性が間違っていなければ、目に見えた成果が出てきます。目に見えた成果がでててこないときには、努力の方向性を疑った方がいいかもしれません。努力する過程で結果にかかわらず得るものが、あるかもしれませんが、適当に方法を選んでしまって、無駄な労力に時間をかけることはもったいないです。
努力する過程が報われるようであれば、継続して続けることができます。自分が今、報われない環境にあったり、苦境やどうしようもない停滞に陥っていたりして、どんなに努力していても、結果として報われないときの対策としては、環境を変えるしかありません。環境を変えることにより今までの努力が実を結び状況が改善することもあります。
日々積み重ねていく努力が、無駄に終わることもありますが、たまたま学習していたことが、役立つこともありますので、努力する価値はあります。
「為せば成る」2
よく「なせばなる」というが、漢字で書けば「為せば成る」。意味としては、頑張ってやれば何ごとも成し遂げられる、といったところ。これは、江戸時代の米沢藩主 上杉鷹山の「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」から来ている。破綻寸前の米沢藩を再建、発展させた名君 鷹山は、弱気な部下たちをこれで鼓舞したのだろう。
でもこの言葉、ふつうは精神論・根性論的に使われる。
鷹山はこの言葉を、戦国時代の武田信玄の「為せば成る 為さねば成らぬ 成る業(わざ)を 成らぬと捨つる 人の儚(はかな)き」からとったと言われるが、信玄のそれは単なる根性論ではない。名将といわれた信玄は、人は城、とか、風林火山、とか多くの名言を残した。彼は最高の知将でもあり「負けまじき軍に負け、亡ぶまじき家の亡ぶるを、人みな天命と言う。それがしに於いては天命とは思はず、みな仕様の悪しきが故と思う」(敗戦や滅びをみな天命と言うが、そんなのやり方次第だ!)とも言っていた。それが根性論を唱えるわけがない。
信玄は「簡単に諦めるな、知と勇を奮ってなんとかせよ!なんとかなるから!」と伝えたかったのだろう。
実は信玄の言葉の元は中国の古典『書経』太甲下篇にある。
「慮(はか)らずんばなんぞ獲(え)ん、為さずんばなんぞ成らん」である。
   ・慮る、は思慮。ちゃんと考えること
   ・為す、は行動すること
だから「考えなくては何も得られないが、考えるだけではダメ。ちゃんと行動(為す)しなくてはそれが実現する(成る)ことはない」という意味。
つまり、行動することの大切さを説いているわけだ。なんでそれが、為せば成る、という単なる根性論になったかは、武田信玄や上杉鷹山のせいではなく、きっと後世の者たちのせい。一部のみ切り取り、都合よく使った。信玄や鷹山の名を借りて。
気をつけよう。
「為せば成る」3
「為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人の儚さ」
この言葉は、戦国時代を代表する武将・武田信玄の言葉とされる。
武田信玄の行く手に大きく立ち塞がったのが、同じく、戦国時代を代表する武将・上杉謙信。「為せば成る」と強く心に誓った信玄の天下統一の野望(大望)は、謙信という大敵が隣国越後に存在したことで大きく時間をロスして遂に成し得なかった。が、もしもこの言葉を信玄の言葉とするならば、自分(武田信玄)という強者と渡り合うくらいに実力を持つお前(謙信)が、どうして天下を望まない?何故、最初から成せるかもしれないことを為そうとしない(捨てている)?大望を持たない者(謙信)が、それを持つ者(自分=信玄)の行く手を阻むとは憐れな事だ。という忸怩たる思いを滲ませた言葉かもしれない。勿論、勝手な怪説ですが。
「出来る来る事、出来なければならない事からつい逃げてしまうのが人の儚さである」と信玄は語った。その真意に更に突っ込むなら、「出来る事から逃げるような人には何事も成せない」という戒めの言葉。人の儚さは、”愚かな人”とか”情けない人”という意味にも取れます。
信玄は、何としてでも天下に号令をかけようと”成そうとした人”ですが、川中島(北信濃)に執着して遂に成せなかった。北信濃に見切りをつけて、もっと早く東海方向へ抜けていれば”成せた”かもしれない。が、この事(川中島=北信濃攻略に信玄と謙信の双方が強く拘った理由)は何れ書くつもりでいますけど、先述の言葉を遺したとされる信玄は、「もっと頑張れば(謙信に勝つ事が)出来るのだ」と自分や家臣団を信じていたのでしょう。結局、謙信に勝つ事は出来なかったものの、北信濃を大方手に入れたのは信玄だったようにも見える(それも束の間だったが)。
次代(武田勝頼)で甲斐武田家が滅んだ事を想えば釣り合わないでしょうけれども「人は石垣、人は城、(人は堀)、情けは味方、仇は敵」「風林火山」等々の言葉と共に武田信玄は多くの日本人の心に刻まれ、現代まで語り継がれている。
父親(武田信虎)から疎まれ、家督相続さえも危ぶまれた少年期を思えば、その父を強い意志を持って追放して甲斐を率いた。天下に号令を発する時間は持てなかったけど、”成せた人”だと思えます。
「為せば成る」4
強い意志を持って取り組めば必ず実現できる。一方、取り組まなければ何事も実現できない。努力すればできることであっても、最初から無理だと諦めてしまうところに、人の弱さがある。
「為せば成る」5
「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という上杉鷹山の歌は、この信玄の歌を変えて詠んだものと言われています。
何事もやればできる!できなかったのは、できるまでやらなかったからだ!色んな表現があると思いますが、同じ意味の言葉を誰しも耳にしたことがあるでしょう。これは真理だと思います。子供の頃のある日、やっと自転車に乗れるようになったように、できるまでやれば、何事も必ずできるものです。
ただ、子供の頃と違い、大人には中々そうもいかない部分もあります。
例えば仕事においてなら、納期や期限というものがあります。その仕事に人生の大半の時間を費やしながら、どれだけ「為す」ことができるのか!?という時間的な問題もあります。そして最後、私たちには寿命というものがあります。限られた時間の中で、「成る」まで「為す」ことができるのか!?そう言われてしまえば、必ず「成る」とは決して言いきれないでしょう… そう考えると、諦めたくもなる気持ちも分からなくはありません。
信玄の言葉の最後にある「人の儚さ」という部分には、ただ単に「できるはずのことを自ら捨ててしまう」という意味だけではなく、捨てざるを得ない「人生の短さ」…という意味も込められているような気がします。では、諦めるのか!?それとも、やり続けるのか!?「武士道といふは死ぬことと見つけたり」という言葉は、死を敢えて受け入れることで、今を生き切るという意味の言葉です。
限りある人生… 志半ばで潰えることを残念だと思うのか、それとも半ばまででも志に生きたことを誇りに思えるのか… その最後の価値を判断できるのは、自分ただ一人です。
「為せば成る」6
一般的には米沢藩主として善政を布いた上杉鷹山の「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」として知られている。ところが、これの元歌は標記であり、武田信玄作だという。
武田信玄は一代にして戦国大名の雄になった武将であるが、民生に力を注いだことでも良く知られている。武田氏の領土である甲府盆地を流れる笛吹川と釜無川は、ほとんど毎年氾濫した。信玄は領民が辛苦して作った田畑や作物だけでなく、尊い人名までもあっという間に奪っていく洪水を、なんとしてもなくしたいと考えた。
彼は土木工事に優れた能力と経験を持つ者を登用して、様々な案を練らせた。ところが、最初から不可能であると、進言する者もいた。信玄はそれまでの常識やすでに行われている工法から離れた大胆な方法を試みるよう命じ、自ら現場で先頭に立って策を講じた。
まず、釜無川に2キロにわたって、幅11メートルの石積みの堤を築いた。水の強大な圧力に対抗するだけでなく、その力を減ずるように考えられた独特の石の組み方が考案されていた。「武田流」とか「関東流」と呼ばれて、非常に堅固であり、今日なお生きている堤である。
更に洪水を防ぐために、川そのものを改造するという大胆なことを行った。集中豪雨があると、御勅使川が釜無川に合流するところで鉄砲水となり、水があふれて洪水をひきおこした。信玄は御勅使川の水が釜無川に直角に流れ込むように川の向きを変え、釜無川に赤巌とよばれる巨石を組んで、御勅使川の水流をここにぶっつけた。釜無側と御勅使川の水の勢いを相殺するようにしたのである。
こうして、治水工事は毎年襲ってくる大水と闘いながら、20年余も続けられて完成した。自然の力を御するなどという、誰もが不可能と考えたことを、信玄は強固な信念をもって行動に移し、しかも20年余もかけて目的を達したのである。
「水を制する者は国を制する」とかいう言葉が、有ったやに思うが正に信玄はそれをやりぬいたのである。しかも20年余りの年月をかけて。ただ、闘いに強いだけが優れた武将ではなかったのである。
信玄
(1521〜1573年)戦国時代の武将、甲斐の戦国大名。戦国時代、信玄率いる武田軍は、天下一の軍団として恐れられ、好敵手の上杉謙信と5度に渡る川中島の戦いを繰り広げる。中国の戦術論の最高峰である「風林火山」(疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し)を旗印に使用し、当時の武将の中でも実践的な理論を収めていた。当時の戦国武将の中でも指折りの戦上手であったが、信玄はまた治世において、戦闘以外の才覚も発揮し政治の面でも高い評価を得た武将でもある。その将来を見据えたビジョンを備え、最強の武田の軍を率いる信玄は、数多くの逸話を残している。
一つ目は貝の話である。信玄がまだ幼少期のころ、「貝合わせ」という遊びをするために沢山の貝を集め、部屋いっぱいにその貝を広げた。信玄はざっとその場にある貝の数を数え、とっさにあることを思いつき、彼の家臣に「ここに貝はいくつあると思うか。」と尋ねた。すると、ある家臣は「10000」、またある家臣は「15000」と次々と答えていく。そこで信玄は、「皆的違いだ。ここにあるのは3700枚ほどだ」と教えた。さらに信玄は「わしは今まで、合戦には兵力が必要だと思っていた。だが兵力は少なくてもよい。必要なのは5000以下の兵でも、それを1万以上の兵に見せるように兵を動かすことが大事である。」と答え、家臣たちに、そのことを心得るよう諭した。当時まだ13歳ほどだった信玄の、非凡な才覚に家臣たちは、皆感心した。
二つ目は信玄の戦に対する心構えの名言である。信玄は「風林火山」の戦い方の名のもと戦国時代最強の武将とうたわれているが、その生涯における戦の成績は72戦中49勝3敗20分。あの戦上手で負けなしのイメージがある信玄であるが、全体を通して20回もの引き分けの戦があった。この戦績の意味するところを表した言葉を、信玄は残している。「戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となる。五分は励みを生じ、十分はおごりを生ず。」普通は、十分の勝利、完全勝利をなすことによって、武将としての評価を上げたり、また家臣からの信頼度を上げると考えるが、信玄はそう考えなかった。完勝をしてしまうことで、驕りを生じ、後のいい結果や軍の士気にはつながらない、まして悪影響であるから避けるべきと考えた。そこで五分の接戦が、後の軍の励みになり、次の戦に備えることが出来ると考えたのである。目の前のことにのみとらわれず、先を見据えで、物事を捉える信玄ならではの考えである。
三つ目は、現代のある名言、ことわざのオリジナルであるこの言葉「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人の儚さ。」これは、「強い意志を持って取り組めば必ず実現できる。一方取り組まなければ何も出来ない。やればできるのに、無理だと言って諦めるのが、人の儚さであり、弱さである。」と言っている。この名言から、信玄は決して才能だけでのし上がってきたものではなく、非常に努力家でもあった。この名言は現代に生きる人にも通じるところがあるのではないか。 
 
 
●武田信玄の名言 1 
風林火山 
 疾(と)きこと風の如く
 徐(しず)かなること林の如く
 侵掠(しんりゃく)すること火の如く
 動かざること山の如し
武将が陥りやすい三大失観
 分別あるものを悪人と見ること
 遠慮あるものを臆病と見ること
 軽躁なるものを勇剛と見ること
為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人の儚さ
人間にとって学問は 木の枝に繁る葉と同じだ
信頼してこそ人は尽くしてくれるものだ
人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり
大将たる者は 家臣に慈悲の心をもって接することが 最も重要である
戦わず勝つのが兵法なり
我 人を使うにあらず その業を使うにあり
渋柿は渋柿として使え 接木をして甘くすることなど小細工である
百人のうち九十九人に誉められるは 善き者にあらず
三度ものをいって三度言葉の変わる人間は 嘘をつく人間である
自分のしたいことより 嫌なことを先にせよ この心構えさえあれば
 道の途中で挫折したり 身を滅ぼしたりするようなことはないはずだ
一日ひとつずつの教訓を聞いていったとしても ひと月で三十か条になるのだ
 これを一年にすれば 三百六十か条ものことを知ることになるのではないか
戦いは五分の勝利をもって上となし 七分を中となし 十分をもって下となる
 五分は励みを生じ 七分は怠りを生じ 十分はおごりを生ず
勝敗は六分か七分勝てば良い 八分の勝ちはすでに危険であり
 九分 十分の勝ちは大敗を招く下地となる
いくら厳しい規則を作って 家臣に強制しても 
 大将がわがままな振る舞いをしていたのでは 規則などあってなきがごとしである
 人に規則を守らせるには まず自身の言動を反省し 
 非があれば直ちに改める姿勢を強く持たねばならない
晴信(信玄)が定めや法度以下において 違反しているようなことがあったなれば
 身分の高い低いを問わず 目安(投書)をもって申すべし
 時と場合によって自らその覚悟をする
晴信(信玄)の弓矢は欲のためではなく 民百姓を安楽にするためだと民に知らせれば
 わしが軍を進めるのを待ち望むようになる
負けまじき軍に負け 亡ぶまじき家の亡ぶるを 人みな天命と言う
 それがしに於いては天命とは思はず みな仕様の悪しきが故と思うなり
戦いは四十歳以前は勝つように 四十歳からは負けないようにすることだ
 ただし二十歳前後は 自分より小身の敵に対して 負けなければよい
 勝ちすぎてはならない 将来を第一に考えて 気長に対処することが肝要である
もう一押しこそ慎重になれ
今後は 一人働きは無用である 足軽を預かっていながら独りよがりの行動をとれば 
 組の者は組頭をなくし 味方の勝利を失うことになるからだ 
風林火山 1
「疾きこと風の如く 徐かなること林の如く 侵掠すること火の如く 動かざること山の如く」
有名な言葉ですが、この「風林火山」は元々は孫氏が言った言葉です。内容は以下のとおり。
   攻めるべき時には風のようにすみやかに襲いかかれ。
   準備を整え、機会の来るのを林のように静寂整然と待て。
   いざ侵攻するときは、火のように熾烈に戦え。
   一度動くまいと決心したら、敵に挑発され攻め立てられても、山のように落ち着いて自陣を堅守すべし。
実は、この風林火山には「動くこと雷霆(らいてい)のごとく」という続きの文章がある。この引用がない理由は諸説ありますが、「火のごとく」と意味内容が被っているためかもしれません。 
風林火山 2
戦国時代最強といわれた武田信玄率いる武田軍。その本陣に掲げられていた軍旗(正しくは「孫子の旗」、「孫子四如(しじょ)の旗」)に書かれている文字「風林火山」は、古代中国の『孫子』という兵法書から用いたとされています。「風林火山」は、『孫子・軍争編第7』の軍の行動について書かれている最初の部分で、実はこれには続きが・・・!
   其疾如風   その疾(はや)きこと風のごとく
   其徐如林   その徐(しずか)なること林のごとく
   侵掠如火   侵掠(しんりゃく)すること火のごとく
   不動如山   動かざること山のごとく
   難知如陰   知りがたきこと陰のごとく
   動如雷霆   動くこと雷霆のごとし
続きの2行には、「(1)味方の戦略は暗闇の中のように敵に知られないようにし、(2)兵を動かすときは雷のように激しくなければならない」という意味があります。軍旗は、前半4行から「其」を略し「疾如風徐如林侵掠如火不動如山」の14文字が書かれています。なぜ、前半4行を用いたのかは、はっきりしませんが、このように戦国武将が、目指す兵法を軍旗にすることは大変珍しいといわれています。武田信玄が合戦におよんだ数は130回余り。敵は、この軍旗を見るだけで恐怖心を抱いたといわれています。

孫子/中国、呉の兵法家・孫武が著したものだといわれ、戦略・戦術を説いたもの。1巻13編から成る。雷霆 / かみなり、いかずち(「霆」はかみなりの激しいもの)。
風林火山 3 / 孫子の兵法​
誤解される事が多いが、孫子の兵法の序文は「兵は詭道なり」という言葉で始まり、外交によって戦争を回避すべきという教えである。風林火山の原文の出典は『孫子の兵法・軍争篇』の一節、風林火山の後にも続きがあり、全文は以下である。
「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷霆[1]、掠郷分衆、廓地分利、懸權而動。」
(故に其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如く、知りがたきこと陰の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し、郷を掠めて衆を分かち、地を廓(ひろ)めて利を分かち、権を懸けて動く。)
「風林火山」は、いざ戦争となった場合の動きを示すための言葉であり、孫氏の教えの要は序文の「兵は詭道なり」であり、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という武田信玄の外交・調略を多く用いた方針を表している。
孫氏の兵法がヨーロッパに紹介されたのは、抄録が18世紀にナポレオン・ボナパルトが愛読したと言われ、20世紀に漢文→日本語→英語と全訳が翻訳された為、日本を介してヨーロッパに紹介された。この為、20世紀の軍学で孫氏の兵法が流行った。それに伴い武田信玄がヨーロッパで有名になる土壌があった。その後、黒澤明の映画「影武者」によって有名となった為、風林火山は武田信玄の旗として認識される事がある。 
風林火山 4 / 風林火山の原文
故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷震、掠郷分衆、廓地分利、懸權而動。

故ゆえに其その疾はやきこと風かぜの如ごとく、其その徐しずかなること林はやしの如ごとく、侵しん掠りゃくすること火ひの如ごとく、動うごかざること山やまの如ごとく、知しり難がたきこと陰いんの如ごとく、動うごくこと雷震らいしんの如ごとく、郷きょうを掠かすめて衆しゅうを分わかち、地ちを廓ひろめて利りを分わかち、権けんを懸かけて動うごく。

其疾如風 … 行動の速いことは、風のようである。
其徐如林 … 静まり返って待機するのは、林のようである。
侵掠如火 … 敵地を襲撃するときは、火の燃え広がるときのようである。
不動如山 … 時に動かないでいるときは、山のようにどっしりしている。
難知如陰 … 軍の態勢の知りにくいのは、暗闇の中のようである。
動如雷震 … 行動を起こすときは、雷が物を震わせるようである。
掠郷分衆 … 村里で物資を奪い取るときは、兵士を分散させる。
廓地分利 … 土地を奪って広げるときは、そこから生じる利益を兵士に分け与える。
懸権而動 … 物事の軽重を考え、適切に行動する 
風林火山 5
本文(書き下し文)
兵は詐を以て立ち、利を以て動き、分合を以て変を為す者なり。故に其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如く、郷に掠めて衆に分ち、地を郭めて利を分ち、権を懸けて動く。
読み
へいはさをもってたち、りをもってうごき、ぶんごうをもってへんをなすものなり。ゆえにそのはやきことかぜのごとく、そのゆるやかなることはやしのごとく、しんりゃくすることひのごとく、うごかざることやまのごとく、しりがたきこといんのごとく、うごくことらいしんのごとく、きょうにかすめてしゅうにわかち、ちをひろめてりをわかち、けんをかけてうごく。
通釈
戦闘行為は、敵をあざむくことをもって根本方針とし、利を得んとして行動し、あるいは部隊を分散させ、あるいは集合させることによって、種々の変化をなすものである。このような訳で、進退の早いこと風のように過ぎ去り、ゆるやかに行進すること林のように森厳にして犯しがたく、敵地を侵し物資を掠奪すること火のように烈しく、時に動かないこと山のように泰然とし、わが戦術の知り難いことは暗闇のように何もわからず、行動を起こす時は雷の物をふるわすようにすばやく威圧し、村里を襲っては物資を兵に分配し、土地を奪ってはそれより生ずる利を兵に分け与え、すべてについてその軽重をはかり考えて適切に行動する。 
 
 
●武田信玄の名言 2 
●幼年〜家督相続まで
敏捷・勤勉
勝千代(=信玄の幼名)は八歳から長禅寺に住み込んで手習学問をはじめたといい、生まれつき敏捷で、1字を読んで10字を知るほどであったという。ある日、師僧から勉強のためとして一巻の書をわたされたが、勝千代は2〜3日のうちに早くも読み終わったが、その内容は武将として必要な情報ではないとして、軍術に熟達できる書を求めた。これに師僧は感心し、中国の七部、すなわち【 孫子・呉子・司馬法・尉繚子・三略・六韜・李衛公問対 】を出して読ませると、勝千代は喜び、昼夜を通してこれを学び、その理を徹底的に悟ったという。
元服と初陣(信玄16歳)
勝千代は天文5年(1536年)に元服して"晴信"と名乗り、同年末には父・武田信虎に従軍して信濃・海口城攻めで初陣を飾った。このとき、大雪のせいで陥落させることができず、武田軍は撤退することを決定し、晴信は殿(しんがり)の任務を強く望んで任されることになった。そして、味方の軍が撤退する中、晴信は敵が油断していると考え、海口城へ引き返して向かい、見事に陥落させて敵将の首を持ち帰って父に献上したという。(『名将言行録』)
廃嫡の危機!?(信玄18歳)
父・信虎は嫡男の信玄よりも弟の信繁の方を寵愛し、信虎を廃嫡する意図があったという。天文7年(1538)正月元日の祝儀では、信虎は信玄に盃をささずに信繁にだけ盃をさした、と伝えている。(『甲陽軍鑑』)
乱取りを許可(信玄22歳)
信玄は天文11年(1542)に信濃へ出兵した際、新しく武田の家臣となった者らを勇気づける目的で乱取りを許可したという。(『名将言行録』) ※乱取りというのは戦国時代に、合戦の後で兵士らが人や物を略奪した行為を指す。
●信玄 vs 謙信
謙信の策を見抜く(信玄36歳)
弘治2年(1556年)に上杉謙信と対峙したとき、信玄の斥候がやってきて上杉方は長陣だと報告した。信玄がその理由を問いただしたところ、斥候は謙信の陣には多くの薪が積んであるからだという。これを聞いた信玄はすぐに使番に命じて家臣らに告げ知らせた。謙信の陣に火事が起こるから、絶対攻めてはならぬ、と。のちの夜になって案の定、謙信の陣営から火事が起こった。信玄は櫓にのぼって様子をみていたところ、火事が鎮まると5〜6千ほどの敵兵が出てきたという。謙信は長陣どころか、早く決着をつけようとしていたのである。このことに人々は信玄の明察に恐れ入ったのであった。(『名将言行録』)
謙信の強がりを批判(信玄38歳)
永禄元年(1558年)の甲越和与のとき、信玄が馬から降りないことに憤った謙信は、雪水がでている川へ無理に馬を乗り入れ、多くの家臣らを水死させ、謙信自身も馬を乗り捨てて流木にしがみつき、ようやく陸にあがった。これを聞いた信玄は、「謙信は合戦に関しては比類なき将だが、分別がない。なぜなら雪水の大河に乗り込むなら状況によっては死ぬのは当然であろう。馬を乗り捨てて岸にあがるくらいなら、川の水がひくのを待ってから渡ればよいことだ。謙信は勇将だから自分の家臣からもそのように見られようとして、やったのであろう。無用の強がりは上にたって国を背負う者のすることではない。ただ、30歳にもならぬため、あのようなのであろうが・・」と言ったという。(『名将言行録』)
前に若者、後に老功の士
信玄は越後の上杉謙信と対峙するとき、前に若者、後ろに老功の士を配置し、川を前にして上杉勢を待つ体制をとったという。前陣の若者は後ろの老功の士に恥じぬ戦いをしようと、また、後陣の者も若者に負けじと勇むであろうということであり、謙信はこの様子をみて戦おうとしなかったという。(『名将言行録』)
謙信もおよばぬ部分
信玄は合戦において、5分の勝ちをもって上となし、7分を中とし、10を下としたという。ある人が信玄にその理由をたずねると、「5分は今後に対して励みが生じ、7分は怠り心が生じ、10分はおごりが生じる」と。 このため、信玄はつねに6〜7分の勝ちを越さなかった。そして上杉謙信は、「いつも自分が信玄に及ばぬところはこうした部分なのだ」と言ったという(『名将言行録』)。
謙信の名馬
川中島の戦いの時に上杉謙信が名馬を乗り捨てたのを、家臣の長坂光堅が取って乗り、「さすがの謙信も馬を捨てたか」と言った。これに信玄は激怒し、「馬がくたびれれば乗り換えるのは当然だ。ちょうど乗り換えた時に合戦が負ければ、中間(ちゅうげん、=武士の最下級)どもが馬を捨てて逃げるだろう。それを謙信が弱いと決めつけるとは全く考えのない申しようだ」と言ったという。(『名将言行録』)
相撲で決着?(信玄44歳)
信玄と謙信による川中島での戦いは勝敗が決まらなかったため、永禄7年(1564年)8月に双方から力士を一人ずつだして、その勝負で勝ったほうが川中島の地を得るということになった。両軍が対峙する中で行われた相撲は上杉方の勝利に終わり、これを無念に思った武田方の千騎程の兵が馬の腹帯を締め直して、今にも討って出ようとすると、信玄がこれを抑えて「違約は士の恥とするところであり、君子に二言はない!川中島四郡は今日から上杉方に差上げる」と言って帰陣したという。(『名将言行録』)
●駿河今川攻め
北条の陣を奪取(信玄49歳)
今川救援にきた北条氏康の陣営と興津河原で対陣したときのことである。このときは正月でひどく浜風が吹き、耐えがたい寒さであった。信玄は家臣とともに酒を飲んで温まっていたところ、山上に陣を敷いていた北条方を攻め上り、あっさりと陣屋を破って武具や馬具を奪い取ったという。これは信玄が、平地よりもさらに寒い山上にいる北条方は油断して山の麓で暖をとっているだろう、と考えて攻撃の命をだしたものであり、攻めのぼったときには案の定、北条の将は1人2人しかいなかったという。(『名将言行録』)
今川氏真の旧臣を成敗(信玄49歳)
駿河侵攻の際、調略によって多くの今川方の武将が内通してきた。戦後、武田に寝返った今川旧臣らは武田方と事前に約束した褒美を求めてきた。これに対して信玄は、彼らを"不忠の者"としてことごとく成敗したという。(『名将言行録』)
今川氏真、小田原を退去(信玄49歳)
武田・徳川の侵攻で今川氏真は自領を失い、北条氏を頼って小田原に退去した。信玄は今後のことを考えて氏真を小田原から追い出そうと策をほどこした。甲斐から小田原に2人の使者を順に出すことにし、1番目に原隼人・2番目に内藤昌豊とした。そして小田原城下の人々にこう噂させた。「今度甲斐の使者・原隼人が小田原にきて氏真に切腹させるという内々の話をし、その次に内藤昌豊が来て切腹させるという段取りになっているそうだ。」と。氏真は不安にかられているところ、実際に原隼人と内藤昌豊が順々にやってきたため、噂は本当だと思い込み、船で小田原から去っていったという。(『名将言行録』)
●信玄の軍術
軽業の名人
あるとき、甲州に軽業の名人がやってきた。その者は城門を閉じておくとその上を飛び越してくるような手練者であった。 信玄はその名人を失策させようと、城門内にいばらを敷いたが、外から飛び込んできたその名人はまさにいばらに飛び降りようとしたが、これに気づくと外へ飛び戻ったといい、諸人はみな絶妙の技だと言った。しかし、信玄は **このスゴ技はやがて武田氏を滅ぼすおそるべき武器になるかもしれぬ** と思い、家臣に命じてこの者を殺して未然に処理したのであった。
忍者?を派遣
信玄は商人を20人ほど諸国に派遣した。また、外科医師や牛馬を売買する伯楽(=馬の良否を見分ける人の意)を装い、手を替え品を替えながら1国に2人ずつ置いた。このようにして信玄は他国の地形や風習、侵攻の可否等、知らないことがないほど精通していたという。
地形を理解
ある合戦ではじめて通る地があり、信玄は家臣たちに明日に手拭を持参するように命じた。家臣らはその意味がわからなかったが、とにかく命に従った。翌日、進軍して途中で大河に行きあたったとき、川の流れに押されて脱落する者がでないよう、手拭を結び合わせて1本の長い綱を作って川を越えたという。これは信玄がかねてから出陣前に地形をよく調べていたからなせる技であった。
信玄の影武者
出陣のときにはいつも3人の影武者を連れており、そのおかげで身の危険を3度も逃れた。上杉謙信は使者を遣わせたものの、いつも一定せずにわからなかったという。(『名将言行録』)
"気"をみることができる
信玄は"気"をみる方法を学び、これに通暁していた。ある日、信濃で戦をしていたときに"悪気"があった。しかし、信玄はこれに構わず備えを固くし、列を整えて待ち構え、敵の虚をうかがって出撃して勝利した。帰陣後、信玄は戦に勝利したことで馬場信春に「気は信じるべきではない」と話すと、信春から「悪気は敵味方どちらのものか判断できないのでは?」と問われ、これに「師伝によると味方のものだ」と答えた。すると信春は「味方の悪気とお考えになり、いつも以上に気を引き締め、慎重であったからこそ、此度の戦は危なげなく勝利したのでございます。軍旅はただ心の締りを第一とすると、日頃お考えになっていたのはこのことでございます」と言ったという。
風林火山
信玄は孫子の旗を4本作った。俗に言う"風" "林" "火" "山"である。信玄が第一の旗である ”風” を馬場・内藤・高坂らにみせると、馬場信春は「"風"は徐々に弱くなるものだから、軍旗にこの字を含めるのは不安」という意見であった。すると信玄は「風の旗は先鋒隊にもたせるものだ。先鋒は速いことを良しとする。そして、わしが率いる本隊にその風のこころがけを継がせよう」と言ったので、馬場は信玄が二段構えの「二の身の勝」の戦法を会得したことを理解したという。
●信玄の家中統制術
迷信をぶち壊す
信玄が出陣したあるとき、鳩が一羽、庭前の木の上にきた。家臣たちはこれをみると口々にささやいて喜んだ。信玄がその理由を問うと、鳩が木にくるときは合戦に大勝しないことはなく、めでたいしきたりだと言う。これを聞いた信玄は猟銃ですぐさまその鳩を撃ち落としたという。これは鳩がもし来なかった場合、家臣らに恐れる心が芽生えて合戦に悪影響がでるかもしれない、と信玄が心配してのことであった。
若者の取立て
信玄は若者を取り立てる際、その者がよくわからない間は金銀や衣類などを事欠かないように与えておき、心底見定めてからようやく領地を与えたという。それは、一旦与えてしまった領地をその者がよくないとして取り上げたとしたら、その者に疵がつき、さらに自分も目利きがないことにもなるからだという。(『名将言行録』)
人材の見分け方・使い方を説く
『甲陽軍艦』 品第30に、信玄が山本勘助と家臣について論じているので、その中の一文を以下に紹介する。
「人のつかひやうは、人をばつかはず、わざをつかふぞ。又た政道いたすも、わざをいたすぞ。あしきわざの、なきごとくに、人をつかへばこそ、心ちはよけれ。」
「(信玄の)人の使い様は、人ではなく、人の能力を使うのである。また、政治を行なうにあたっても、能力を生かす事である。能力を生かすように人を使ってこそ、満足できるのである。」という意味。『名将言行録』にも取り上げられている。
「人の見様は、無心懸の者は無案内なり。無案内の者はぶせんさく也。ぶせんさく成者は必ず慮外なり。慮外なる者は必ず過言を申。過言申者は必ず奢り易く、めりやすし。奢りやすく、めりやすき者は首尾不合なり。首尾不合なる者は必ず恥をしらず。恥をしらざる者は何に付ても、皆仕るわざ、あしき物なり。」
「(信玄の)人の見方は、まず信念を持たぬ物は向上心がない。向上心がない者は研究心がない。研究心がない者は必ず不当な失言をする。失言する者は必ずのぼせあがって沈む。そのような者は行動が一貫しておらず、必ず恥をわきまえない。恥知らずには何をさせても役立たずである。」といった意味。
陰日向
信玄は家中の者に対して陰日向がないように務めたという。忠節忠功の武士に対して、身分には関係なく、本人の手柄に応じて感状・恩賞を与え、ひいきや取り成しをしても少しも役には立たなかった。これにより、人々の陰日向は全くなかったという。(『甲陽軍艦』 品第39)
感状の出し方
信玄は手柄をたてた家中の者を公正に評価するため、「合戦の手柄について申しあげたいことがあれば、直接に書面で申し上げるように」とお触れしたという。(『甲陽軍艦』 品第39)
要害山城で家臣を教育
信玄は石水寺要害城(要害山城)で家臣らと雑談し、その中で部下を教育したという。以下にいくつか名言として挙げよう(『甲陽軍艦』 品第40)。
「人は只、我したき事をせずして、いやと思ふことを仕るならば、分々躰々全身をもつべし」
「人間はただ、自分がしたいことをせず、嫌と思うことをするならば、それぞれの身分に応じて、身を全うすることができるのである。」という意味。
「渋柿をきりて、木練をつぐは、小身成者のことわざなり。中身よりうへの侍、殊に国持人は、猶以て渋柿にて、其用所達すること多し。但徳多しと申て、つぎてある木練を、切るにはあらず。一切の仕置、かくの分なるべきかと、のたまふなり。」
「渋柿の木を切って木練(甘柿)を継ぐというのは小身の者のすることである。中以上の武士、とりわけ国持大名にあっては、渋柿は渋柿として役に立つものなのである。ただし、渋柿がよいからといって、継いである甘柿を切る必要はない。すべてのやり方はこのようなものである」という意味。
組織に関する五ヶ条
信玄が家臣団を統率するために定めた原則・5ヶ条が『甲陽軍艦』 品第41に有るので以下に紹介する。
「大将、人を能く目利して、其奉公人得物を見知て、諸役をおおせつけらるる事。」
「大将は部下の人柄をよくみて、その部下の得意とする能力を知り、様々な任務に配置すること。」といった意味。
「侍の事は、申に及ばず、大小上下ともに、武士たらん者の手柄、上中下をよくわけて、又無手柄をも上中下をよく分けて、鏡にて物の見ゆる様に、大将の私しなく、なさるる事。」
「大将は、士分の者は元より、その他の大小上下の諸奉公人も含め、武士たちを手柄の上中下でよく分類、また手柄のない者も同様によく分類し、これを鏡に映るように正確に公正に評価すること。」といった意味。
「右の兵手柄のうへ、恩をあたへ給ふこと。手柄上中下のごとくくだされ、同言葉の情も、其手柄に随て、大将のなさるべく候事。」
「右の手柄を立てた武士に恩賞を与えるには、手柄の上中下にふさわしく与え、言葉でねぎらう場合も、その手柄の程度に応じて行なうこと。」といった意味。
「大将慈悲を、なさるべき儀、肝要なり。」
「大将は、慈悲の心をもつことが肝心である。」といった意味。
「大将のいかり給ふ事、余りになければ、奉公人油断ある物なり。油断あれば、自然に分別ある人も背き、上下共に費えなり。又其いかりにも、奉公人科の、上中下によつてあそばし、又ゆるす事も、あるべき事。是法度のもと也。」
「大将が余りにも怒ることがなければ、奉公人は油断するものである。油断は思慮のある人も法度に背き、上下ともに損失を受ける。また、怒りを示す場合にも奉公人の罪の上中下にふさわしくし、許すことも必要である。これが法度の基礎である。」といった意味。
人は城、人は石垣・・・
「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、あだは敵なり」
「人は城、石垣、堀であり、情けは味方であり、あだは敵だと思え。」といった意味。如何に城・石垣・堀が堅固だとしても、それを守るのは結局は人であり、人が城、石垣、堀以上の役割を果たすということである。
合戦の心がけ三ヶ条
信玄は合戦にあたり、「1.敵の状況を把握すること、2.勝負は10中6・7分がよいこと、3.40歳までは勝ち、40過ぎからは負けぬように」の三ヶ条が大切だと説いている。詳細は以下(『甲陽軍艦』 品第39)。
「敵の強い点弱い点を知ること。また、その国の大河、山坂・財力の状態、家中の武士らの行儀作法、剛の者が大身・小身のうちにどれだけいるか、などを味方の指揮にあたる者によく知らせておくこと。」
「合戦における勝敗は、10のものならば6分か7分、敵を破ればそれで十分な勝利であり、とりわけ大きな合戦ではこの点がとくに重要である。8分の勝利はすでに危険であり、9、10分の勝利は味方が大敗を喫する元となる。」
「合戦の心得として、40歳以前は勝つように、40歳から先には負けぬように。ただし、20歳前後のころでも、自分より小身な敵に対しては負けなければよいのであり、勝ちすごしてはならない。大敵に対しては、なおのことである。十分な思慮判断のもとに追い詰め、圧力を加え、将来の勝利を第一に考えて気長く対処していくべきだ。」
大敵との戦いの前
大敵との戦いのとき、信玄は合戦はしないと言って、家臣らの戦気をそそり励ました。家臣が開戦を勧めてもなおそれを抑え、戦気が高まったところで開戦に踏み切り、普段の戦より何倍も士気を高めたという。(『名将言行録』)
家臣を試す
信玄は治水工事や鷹狩りなどで出かけた際、村々の有様や山々の竹や木々の茂り具合などをよく見覚え、これを知らないフリをして家中の者にたずねたという。これに答える者に対し、信玄はどのように見覚えたのかなど、さらに詳細にたずねたといい、こうした質問によく答える者を他国への視察の使者にしたり、国境の様子を見るために派遣したりしたという。(『甲陽軍艦』 品第53) 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
●上杉鷹山 1
為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり
上杉鷹山の言葉
後に、上述の信玄の言葉を基に、奇しくも、謙信所縁の上杉家の家督者となった上杉鷹山が詠んだのが次の有名な言葉です。
「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」
鷹山が上杉家を任された時、お家は火の車。財政破綻状態で、藩政改革の先延ばしが許されない状況にあった。鷹山は、神将と讃えられた謙信に繋がるこの名家の家臣団に対して、極めて辛辣に「出来ないのは、その人のやる気の無さである」と叱咤した。「成し遂げる意思(覚悟)を持って行動しない人には(何も)成せる筈がない」という戒めです。
上杉鷹山は、日向・高鍋藩から米沢藩へ養子に入った人なので、上杉家で生まれ育ったわけではない。そして、上杉家の英雄でもある謙信が幾度となく戦った相手、信玄の言葉を借りて改革を鼓舞した。(上杉家臣団にとっては)神君・謙信の終生のライバルであった信玄の名言に類似する言葉で叱咤された家臣団は面白くなかったでしょうけど、だからこそ強い意志と度胸を感じて面白い。因みに鷹山は、博多の黒田家の分家である秋月家に所縁がある高鍋藩主・秋月種美の次男。なので遠い米沢藩の事とは云うものの、歴史好きの福岡県民や九州人にとっては親近感を覚える人です。
鷹山が招かれる以前の米沢藩の経済事情
上杉家は、高家の吉良氏との縁が深い。”忠臣蔵“でやられた側の吉良上野介(=正式名は、従四位上・左近衛少将・源上野介義央)の子が、上杉家の養子に入った上杉綱憲(米沢藩第4代目)ということもよく知られている。
所領地転換(越後=>会津=>米沢)により収入が大幅減となっていた米沢藩は恒久的な赤字続きで、綱憲の外祖父に当たる上杉定勝は「他家の風を真似ず、万事質素にして律儀ある作法を旨とする」という法令を制定していた。が、名家・吉良で育ったお坊ちゃまに等しい綱憲は、我慢とか倹約とか質素などの言葉が最も似合わない人でもあり、この人を養子に取ったこと自体が当時の上杉家の反運営機能がボロボロだったことを物語る。そして綱憲の治世期は、救いようがない程に藩財政を大幅悪化させる事になる。(そもそもが大藩だったので、3分の1規模か、4分の1規模での米沢再出発自体に無理があった・・・と言うより、誇り高き名家・上杉には、譲れない部分も多々あったのでしょうけど)。
文化人だった父・上野介の影響を強く受けていた綱憲は、教学振興に努め、越後や米沢などでの上杉家の歴史編纂には物凄く執心した(でも、改ざんされたことも数多い?)。元禄10年(1697年)。綱憲は、現在の米沢興譲館高校の前身となる藩学館(聖堂・学問所)を建設する(藩儒兼藩医の矢尾板三印の自宅敷地内)。聖堂の扁額は「感麟殿」と称されたが、この年に謙信と景勝の年譜は完成となる。英主・謙信と景勝の歴史を”しっかり創った”綱憲に対して、家臣の評判はうなぎ上りとなったが、翌元禄11年の塩野毘沙門堂や禅林寺(現・米沢法泉寺)の文殊堂、その他の社寺の大修理や、米沢城本丸御書院、二の丸御舞台、麻布中屋敷新築などの建設事業を行うなど、財政事情を考慮しない”無駄遣い”が顕著となる。加えて、(上野介の意向もあったのか?)参勤交代を華美にして「上杉家ここにあり」的なデモンストレーションにも強く拘った。
上杉定勝の藩令に対して大きく逆行した綱憲は、心ある家臣からの支持を得られなくなる。それでも、ばくち打ちに対する死刑制度を始め道徳や規律には事のほか五月蝿く努めたことで、伝統的な(頭の硬い)家臣にはウケが良かった(但し、風紀を乱した譜代家臣に対しての追放処分も繰り返す)。綱憲の周囲は、伝統ばかりを重んじる(変化を嫌う)者達ばかりが集い、結局それは守旧的政治を推進することとなって改革精神などが根付くわけもなかった。しかも、財政状況悪化の大因となった吉良家への援助(=公金の私費流用)も始まるが、旧浅野家家臣による仇討ち事件(いわゆる”忠臣蔵”)で上杉藩の評価をガタ墜ちさせる要因となり、何処からも支援の手など伸びて来ない。だからと言って、旧態依然の重臣達にも財政を好転させる手段は何もない状態で悪戯に時は過ぎた。
鷹山と上杉の関係
財政再建の目処も何も立てられないまま、忠臣蔵事件で大きく評判を落とした綱憲が隠居(元禄16年/1703年)。庶長子・吉憲が第5代となるが力及ばず、恐らくは心労重なり39歳の若さで薨去(享保7年/1722年)。吉憲の嫡男・宗憲が第6代藩主(幼君)となるがこちらも多分重圧に倒れ・・・と言うか、殆ど君主らしい仕事も出来ずに22歳の早死(享保19年/1734年)。宗憲の弟・宗房が第7代藩主となり、こちらは少年君主ながら頑張って倹約令を発令するなど改革着手に向かったものの29歳で他界(延享3年/1746年)。第8代には宗房の弟 (吉憲の四男) ・重定が就くが、最早、どうにもならない程、藩財政はズタズタだった。思い余った重定は、幕府に領地返上して、領民全てを徳川家預りにすることまで考えていたという。
そして、藁にも縋る思いで藩再建を託したのが、若くして賢才と謳われていた秋月治憲。
第八代米沢藩主・上杉重定は、若くして賢才と謳われていた秋月治憲(=鷹山)と養子縁組し、(鷹山に対して)「一切口出しせず」という約束で、九代目の米沢藩主として迎え入れた(宝暦10年/1760年)。というのが定説だが、養子縁組ではなく娘(幸姫)の婿というのが正しい。そして、娘婿となる約束を結んだ当時の鷹山は、まだ幼名・松三郎を名乗っていた寛延4年7月20日(1751年9月9日)生まれの、当時まだ8歳か9歳の少年。類稀なる英主になる器かどうかなんてまだ何も分かっていない。
元々、筑前・秋月を所領していた秋月家が、豊臣秀吉の九州征伐軍に大敗北を喫して日向・高鍋へ移封。やがて秋月は、福岡黒田藩の支藩となった。領民には強く支持されていた秋月家に対して、よそ者である黒田家は親戚となることを望み婚姻。当時の高鍋藩(日向秋月藩)第6代藩主・秋月種実の正室・春御前(鷹山の生母)は、筑前秋月藩(黒田分家)第4代藩主・黒田長貞の娘。そして、春御前の祖母に当たる豊姫は、何と上杉綱憲の実娘。つまり、鷹山と上杉家は、何の縁も無かったどころか、名君・鷹山は、悪名高き綱憲や、綱憲の父・吉良上野介の血を受け継いでいる。面白いねェ。日本の嫌われ役・上野介の五代後に、大改革者と謳われ敬われる鷹山が誕生。
鷹山の改革
正式に家督を継いだのは、治憲と改名した明和4年(1767年)で15〜6歳だった。元服したのが前年(明和3年)なので、それまでの藩主たち同様に重圧で心労重なり・・・という流れでも何も不思議ではなかった。取り敢えず、それまでの間、江戸で、儒学者(折衷学派)・細井平州に師事している。折衷学とは、つまり、様々な学問の”良いとこどり”をしていることだが、時間がない鷹山にはそれが良かったのでしょう。平州は、いよいよ米沢へ向かう事になった鷹山に対して、「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行わんや」という言葉を送った。要するに、勇気がなければ何事も成せないと鼓舞した言葉である。それを強く心に刻んだ鷹山は、旧態依然の家臣達が待つ米沢へ向かう。因みに細井平州は、改革の目玉として人材育成に着手する鷹山が、藩校を立て直す為に米沢へ来てくれることを切望し、寛政8年(1796年)、69歳の老骨に鞭打って来訪した。そして「(米沢)興譲館」と名付けたのは平州とのこと。
江戸の町民でさえ笑い話にするくらいに疲弊していた米沢で、鷹山が最初に行ったのは人事。自分の意に沿う人材を身分・年齢に関係なく登用したことで、重役たちの多くが反発する。そして、その不満を隠居した重定へ持ち込むが、そこは重定も大したもので、「他家から来た者とは言え、我が娘婿であり君主である。治憲に対する無礼は許されない!」と一喝したと云われる。が、重定から要求された莫大な隠居料と隠居後の生活資金は鷹山の改革の大きな妨げになる。しかし、鷹山は義父に一言も不満を言わずに、自分の生活費を削りに削って重定の面倒を見続けた。恐らく、その方が重役たちと戦うことに対して有利に働くと判断したのでしょう。その通りに、あまりの倹約令に業を煮やした旧臣達が起こした七家騒動(安永2年6月27日/1773年8月15日)では、重定は、全面的に鷹山を支持する。須田満主と芋川延親に切腹を命じ、千坂高敦や色部照長、長尾景明、清野祐秀、平林正在には隠居や閉門及び蟄居を命じた。(後に、千坂家や色部家、須田家、芋川家はお家再興が許された)。
七家騒動での強い姿勢が功を奏し、若い改革派は鷹山を強く支持。、また、武士の身分を捨てて民に身を投じて農労で藩に貢献する姿勢を表す人たちも多く出て来るなど、米沢藩は、見事に財政再建を成し遂げた。
鷹山は、米沢のみならず日本国中から(現代に於いても)称賛される英主となった。「為さねば成らぬ!」と、伝統的家柄の重臣達から嫌われても鼓舞し続けて、大事を成した鷹山。領土を拡大した軍事的英雄達とは一線を画し、藩を継続させることに大成功した真の英雄なのかもしれない。 
 
 
 
 
●上杉鷹山 2
「民のための政治」米沢藩主 上杉鷹山
 
 
名門上杉家に養子入りし、わずか17歳にして藩主となった鷹山。財政破たん寸前であった米沢藩の改革に乗り出した。重商主義経済へ転換、米沢織を開発し、50年以上かけて30万両の借金を完済した。常に民のために政治を行った鷹山の極意に迫る。
江戸時代 中期、米沢藩は破綻寸前にあった。15万石にまで減った石高にあって、積り積もった借金は16万両(およそ160億円)。そんななか9代藩主として迎えられたのが、わずか17歳の上杉鷹山だった。鷹山は、生涯をかけて米沢を立て直していくこととなる— 「経営のカリスマ」と謳われる革命的リーダーの、壮絶な生き様に迫る!
名門、上杉家への養子入り
九州の小藩・高鍋藩を治める家の次男として生まれた鷹山。幼い頃より聡明と評判で、上杉家の跡継ぎと見込まれ9歳で養子入りする。戦国の雄・上杉謙信を祖とする上杉家が代々治めていた、米沢藩。豊臣秀吉政権では120万石を誇ったが、関ヶ原の戦いで破れ、さらに相続問題の不手際もあって石高は15万石にまで減っていた。だが上杉家は名門の誇りを捨てられず、家臣の数は謙信以来の5000人を保ち、贅沢な暮らしも改めなかった。借金は膨らむばかりで、16万両(およそ160億円)にまで膨らんでいた。困り果てた8代藩主・上杉重定は幕府に領地返上することを検討する始末。わずか17歳で9代藩主となった鷹山に、破綻寸前の藩の命運が託された。
武士も耕せ!
藩主に就任した鷹山は、すぐさま大改革を始める。「食事は一汁一菜」「衣服は絹織物を止め木綿のみとする」。自ら異例の倹約に励み、米沢の民へも「大倹約令」を書き送った。2年後。初めて米沢の地を踏んだ鷹山は、驚きの光景を目にすることになる。倹約令は守られていなかったのだ。重臣たちは、鷹山が若く、また3万石の小藩から来た養子であることを侮っていた。孤立無援の状態に陥った鷹山が選んだのは、さらなる改革だった。藩主自ら鍬(くわ)を振るって土を耕し、豊作を願う儀式「籍田の礼」を行う。それは上杉家始まって以来の異例の行動。兵農分離が秩序の江戸時代にあって、武士も農業に就かせるという前代未聞の農業改革への決意表明だった。その後鷹山は下級武士たちを新田開墾に動員。家屋と土地を提供する優遇措置を取り、結果のべ1万3千人もの武士たちが開墾事業に従事した。
突然のクーデター「七家騒動」
改革は進みつつある。そう思っていた矢先、事件が起きた。突如、米沢城の鷹山の元へ家臣たちが駆け込む。突き出されたのは、改革を完全に否定する訴状だった。「一汁一菜や木綿の衣服などというのは小事に過ぎない」「武士に農業をさせるとは、鹿を馬とするような馬鹿げた行いだー」。訴状に署名したのは、代々上杉家に仕えてきた名家の7人。性急すぎる改革が保守派の激しい反発を招いていたのだ。改革の中止を認めるまで、部屋から出せないと凄む重臣たち。4時間以上も続いた押し問答の末、騒ぎを聞きつけた家来が助けに入り、鷹山はなんとか脱出した。鷹山が下した処分は、7人のうち5人を隠居・閉門、2人は切腹。裏で手を引いていた儒学者・藁科立沢(わらしな・りゅうたく)は斬首という、厳しいものだった。23歳の鷹山は、改革を進めるため断固たる意志で抵抗勢力を一掃した。
一攫千金の大事業
鷹山が挑んだ次なる策は、「100万本植樹計画」。漆、桑、楮(こうぞ)の木をそれぞれ100万本ずつ新たに植え、漆の実からロウソクを、桑の葉で蚕を育てて絹糸を、楮の皮から和紙をつくるという大事業だった。始めはうまく滑り出したものの、思わぬ事態が訪れた。西日本から、櫨(はぜ)ロウが現れる。櫨の実でつくられたロウソクで、漆のロウソクよりもよく火が点き、しかも安価だった。米沢のロウソクはあっという間に市場で駆逐される。100万本計画は失敗に終わり、多額の借金が残った。さらに、天変地異が追い打ちをかけた。天明3年、浅間山が噴火し、「天明の大飢饉」が訪れる。米沢の被害額は藩収入の3倍を超える11万両に上り、大勢の餓死者も出てしまう。復興に向かっていた農村は再び荒れ果て、16年の改革の成果はすべて水泡に帰した。2年後、全ての責任を負って藩主引退。先代・重定の実子・治広(はるひろ)に家督を譲り、35歳で隠居した。
ふたたびの改革、そして借金完済
鷹山の隠居から5年。藩の借金は減るどころか、鷹山就任時の倍、30万両に膨れ上がっていた。復帰を願う声にこたえるように、鷹山は政治の舞台に戻ることを決意する。まず行ったのは、すべての家臣を城に集め、藩の借金を公開して危機意識を共有することだった。そして城の門前に「上書箱」を設け、町民、農民、すべての者からの意見を受け付けると宣言した。強攻策に出た1次改革の失敗を踏まえ、米沢中の力を合わせて再建する道を選んだのだ。集まった無数の意見を元に、力を注ぐことを決めたのは絹織物だった。米沢の寒冷な風土に合った産業の中でもっとも市場が大きかったのは、絹糸を生む養蚕業。しかし、糸を売っているだけでは収益に限りがある。そこで、米沢で織物まで仕上げることを目指したのだ。
織り手として見込んだのは、武家の女性たちだった。織機を武家に設け、織物産地から優れた職人を招いて学ばせる。出来上がった織物は一括して藩が買い上げる奨励策を取った。やがて、女性たちは寸暇を惜しんで織物に励むようになった。米沢中に機織りの音が溢れ、琴や三味線の音がする家は怠け者、と言われるようになる。いわば、米沢の街全体が織物工場となったのだ。
鷹山の藩主就任から56年が経った、文政6年。最大30万両もあった借金は、完済された。全ての領民が力を合わせて生んだ米沢織が、藩を救ったのだ。それは、鷹山逝去の翌年のことだった。鷹山は生涯をかけ、米沢を豊かな国へと変えてみせた。 
 
 
 
 
●上杉鷹山 3
鷹山に学ぶ経営再建術
みなさんは上杉鷹山という人物をご存知ですか? 第35代米国大統領ジョン・F・ケネディが日本で最も尊敬する政治家として名を挙げた人物であり、戦国の雄・上杉謙信から続く名門上杉家9代藩主です。鷹山は江戸中期に様々な改革を行い、財政破綻寸前まで追い込まれた米沢藩を再建しました。2007年に全国の自治体首長を対象に実施された「理想のリーダーは誰か?」という読売新聞のアンケートでは、第1位に輝いている人物でもあります。このように、今なお経営のカリスマとして多くの人に尊敬され続けている、上杉鷹山の経営再建術をご紹介しましょう。
米沢藩の再建成功の秘訣は「倹約」にあり。上杉鷹山が行った政策
倹約誓詞
日向国(宮崎県)高鍋藩6代藩主秋月種美あきづき たねしげの次男として生まれた鷹山は、幼い頃から聡明な子供でした。母方の祖母が米沢藩4代藩主上杉綱憲つなのりの娘であることが縁で、10歳で米沢藩8代藩主重定の養子となります。豊臣政権下での上杉家の石高は120万石でしたが、鷹山が家督を継ぐ頃(1767年頃)には15万石まで激減していました。収入が減ったにも関わらず、名門の誇りを捨てられない上杉家では、家臣の数を減らすことなく華美な暮らしを改めませんでした。その結果、米沢藩の借金は16万両(約160億円)にまで膨れ上がり、いっそ幕府に領地を返上してはどうかという意見が聞かれるほどでした。しかし、江戸藩邸にて家督を継いだ鷹山は、倹約を誓う「倹約誓詞」を春日神社と白子神社に奉納し、米沢藩再建を決意します。
大倹約令の発布
鷹山は御領地高並御続道一円御元払帳、現在でいう財務諸表の作成を行い、1年間の収支及び借入を明確にしました。債務超過に陥っていることを知った鷹山は、江戸藩邸にいた家臣に財政改革案をまとめるよう指示します。この改革案に手を加え、明和4年(1767年)に12ヵ条からなる大倹約令を発令し、江戸藩邸にいる家臣ばかりでなく、国元にいる家臣にも食事は一汁一菜、着る物は木綿とすることを命じたのです。鷹山自身もこれを実践。さらに生活費をそれまでの7分の2まで削り、奥女中も50人から9人へと減らして質素倹約に努めます。
改革は一人では成し得ない。重要なことは、改革の火を移していくこと
大倹約令発布2年後の冬、鷹山は米沢藩に向けて出発します。米沢に向かう途中、駕籠の中から初めて見る米沢の光景は、荒れ果てた田畑、活気がない領民と、まるで火鉢の中で冷たくなった灰のようでした。ふと駕籠の中にあった火鉢をいじってみるとまだ火のついた小さな炭が。新しい炭に足し火を移していくと、徐々に火鉢の火は広がり再び暖かくなりました。これを見た鷹山は、この火鉢を手に江戸から共に米沢へ下ってきた家臣を前にこう言います。
「私は米沢の惨状を目の当たりにして絶望した。まるでこの冷めた火鉢の中の灰のようだ。いくら灰に種を蒔いたとしても花が咲くことはないのかもしれない。だかしかし、この火鉢の奥底にはまだ火のついた炭、火種があった。これに新しい炭を足したところ、火は燃え移り再び火鉢は暖かくなった。この火種こそがお前たちなのだ。米沢に入国した後はそれぞれの持ち場においてこの火種を人々に移して欲しい。私が行おうとしている改革はそう簡単なものではない。いくら火を移そうとしても湿っていて火の移らない者、火を移すことを拒否する者と様々であろう。それでも中には火を移されることを今か今かと待ち侘びている者がいるかもしれない。その者を見つけ出し、一人でも多くの人に火を移して欲しい。改革は私一人でできるものではない。どうかみなの力を私に貸してくれ。」
この言葉に感銘を受けた家臣はみな改めて鷹山と共に改革を実行していく決意をしました。自ら率先して改革を行い、一人ひとりに改革の火を移す。これこそが鷹山の改革成功の要因の一つとなりました。
鷹山が打ち出した常識破りの政策とは?
その後米沢入りした鷹山は、改革がまったく進んでいないことに愕然とします。何事にも上杉家の体面を重んじる重臣が鷹山の改革案に反発し、一切藩士たちに伝えていなかったからです。鷹山は自分が行おうとしている改革が前途多難であると痛感しますが、決して諦めませんでした。まず下級武士に荒れた土地を開墾することを命じて農業改革に取り組みます。兵農分離が常識の江戸時代において、武士が農業をすることは非常識なことと考えられていたため大変な反発がありました。しかし、自ら籍田せきでんの礼(鍬くわをふるって田を耕し豊作を願う)を行うことで領民の理解を得、徐々に荒れた土地が生まれ変わり年貢を増やすことに成功します。
次に、米沢は寒冷地であるため稲作だけでは収入が安定しないと考えた鷹山は、漆うるしや楮こうぞ、桑、紅花などの栽培を奨励しました。農民だけでなく藩士にも自宅の庭でこれらの作物を植えて育てることを命じ、自らも城内で栽培します。育てることに留まらず、他藩から技術者を招き、藩士の家族(妻・老人・子供)に漆の実からロウソクを、楮の皮を剥ぎ和紙を、紅花の花から染料を、桑の葉で蚕を飼い生糸を紡いで絹織物を作ることを命じたのです。
これにより、それまで疎んじられていた藩士の家族の意識が変わり、今でも残る米沢織などの手工業の発展へと繋がり、収入が増えていったのです。身分に囚われずに個々人に役割を与え、更には製品に付加価値を付けて収益構造自体の改革を行う常識破りの政策は、今の世でもそう容易く出来ることではありません。それを自らも行うことによって、領民たちの理解をきちんと得た事が功を奏したのでしょう。
為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり
鷹山は、推し進めた改革の火を絶やさないためには人材育成が重要であると考え、安永5年(1776年)に藩校を創設し、『興譲館こうじょうかん』と名付けました。儒学者 細井平洲ほそいへいしゅうを招き、藩士の子弟を中心に漢学、筆道、習礼等を学ばせます。この講習は藩士の子弟だけでなく、学びたいと思う者であれば誰でも聴講を許されました。鷹山の改革の火はこうして後世に受け継がれ、今でも山形県の学習レベルは高く優秀な人材を輩出し続けています。
鷹山が家督を継いでから56年後の文政6年(1823年)、ついに最大30万両もあった米沢藩の借金が完済されました。残念ながら鷹山はこの借金完済を見届けることなく、前年の文政5年(1822年)に72歳でこの世を去りました。しかし、鷹山の志は実を結んで米沢藩の財政は健全化し、その後も大きく発展していきます。
『為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり』
これは上杉鷹山が家臣に向けて詠んだ歌です。『人が何かを為し遂げようという意思を持って行動すれば何事も達成することができる。結果が得られないのは、人が為し遂げる意思を持って行動しないからだ』と言った鷹山のように、何事も諦めず強い意志を持って行動すれば良い結果を得ることができるのではないでしょうか。
上杉鷹山から学ぶ経営術 
・改革を行うためには、自ら率先して政策を実行し、社員一人ひとりに改革の火を移すこと
・社内のやる気ある社員に目を向けて適した役割を与え、収益構造改革に取り組むこと
・何事も諦めず強い意志を持って行動すること
生涯に渡って改革の火を人々に灯し続け、藩政だけでなく人々の意識をも改革した上杉鷹山は、現代になっても学ぶべきことが多い人物です。  
 
 
 
 
●上杉鷹山 4
「三助の思想」を掲げた鷹山
アメリカの35代大統領、ジョン・F・ケネディが「最も尊敬する日本人」として名前を挙げたのが、米沢藩9代藩主・上杉鷹山(うえすぎ ようざん)です。上杉鷹山は江戸時代の稀代の名君として知られており、自ら倹約や節制を行い、領民たちと同じ目線に立つことで藩を立て直しました。自民党総裁選に名乗りを上げた、菅義偉官房長官が「自助・共助・公助」を理念として掲げましたが、これはもともと上杉鷹山の思想だったと言われています。「今、私たちの時代にも鷹山がいてくれたら…」そう願わずにはいられない、鷹山の数々のエピソードや名言をご紹介しましょう。
自分の生活費約8割カット!17歳の少年が藩の改革に挑む
上杉鷹山は、上杉家の嫡男ではありません。寛延4(1751)年に日向高鍋藩主・秋月種美(あきづき たねみ)の次男として生まれ、9才で米沢藩主・上杉重定(うえすぎ しげさだ)の養子として迎えられました。藩主となったのは17才の頃。遊びたい盛りの少年時代ですが、鷹山には大きく財政が傾いた藩を立て直すという使命がありました。鷹山がとった政策には以下のようなものがあります。
・自身の生活費を約8割カット
・藩士はもちろん、農民も意見を言える「上書箱」の設置
・焼き物・養蚕など特産品の開発
・田畑の整備
・藩校「興譲館」の創立
この他にもさまざまな取り組みを行い、天明の大飢餓の際は、鷹山の政策によって一人も餓死者が出なかったそうです。領民や家臣だけでなく、鷹山自ら質素倹約を心がけ、食事は一汁一菜、衣服は木綿を着用していました。そんな鷹山は今でも地元の人々から愛され、「鷹山公」と敬意をもって呼ばれています。
自助・共助・公助「三助の思想」とは?
菅義偉官房長官が述べた「自助・共助・公助」は、もともと上杉鷹山が藩を立て直すために掲げた思想であると言われます。では、どのような意味をもつ思想なのでしょうか。
上杉鷹山 三助の思想
・自ら助ける,すなわち「自助」
・近隣社会が互いに助け合う「互助」
・藩政府が手を貸す「扶助」
これだけ見ると「困ったことがあれば自分で何とかしろってこと?」と感じてしまう方もいるかもしれません。しかし、上杉鷹山がそれぞれどのような目的で「三助の思想」を掲げたのかを見ていきましょう。まず、「自助」実現のために、鷹山は米作以外の産業を積極的に興しました。新たな特産品や仕事が生まれれば、自分自身の力で生活していける「自助」となります。さらに農民に五人組・十人組などのグループをつくり、その中で互いに助け合うこと「共助(互助)」としました。身体や立場の弱い人々は、このグループで養うことにしています。また、グループ内で対処できない事態が起こった際は、近隣のグループが手助けします。最後に「公助(扶助)」とは、グループ同士の協力でもしのぎ切れない飢饉などの重大な事態が起こった際に、藩政府が手を貸すことを言います。「天明の大飢饉」では鷹山自ら質素倹約に努め、その姿を見習って富裕層も貧しい人々を助けたと言われています。
「なせば成る…」あの名言は鷹山の歌だった!
「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」、この言葉を一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。この名言は、上杉鷹山が家臣に対して詠んだ歌です。その意味は、「やればできる。何事もやらなければ成功しない。できないのは、やろうとしていないからだ」となります。一国の君主が発した言葉だと思うと、ずっしりその重みが感じられませんか?「できないのは、やろうとしていないから」。これは私たちの日常でも常に頭に置いておきたいものです。また、この和歌には本歌と思われる歌があります。それが武田信玄の詠んだ歌「為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人の儚さ」です。戦国大名として名を馳せた武田信玄の和歌からは、自身の成功に対する驕りが感じられ、少し抽象的なイメージです。それを上杉鷹山は、より具体的なスローガンのように表現したことがわかります。
鷹山を名君たらしめるのは、その男女関係にもあり
不倫や浮気の何が悪い、個人の自由だろう。そういう考えの方がいることを否定はしません。しかし鷹山は、添い遂げた妻との間柄さえも評価されているのです。鷹山の正妻幸姫(よしひめ)は、脳の障害や発達の遅れがあったと言われています。いつまでも子どものような妻と一緒になって、鷹山はお人形やおもちゃで遊んで楽しんだのだとか。そんな鷹山を女中たちは憐れみましたが、幸姫が30才という若さでこの世を去るまで正妻として重んじ、幸姫の父からも感謝されたとのことです。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
●敵に塩を送る  
敵に塩を送る 1
「苦境にある敵を助けること」を指す。
武田信玄は駿河国(静岡県)から塩や魚を仕入れていたが、1567年(永禄10年)、13年間に及ぶ駿河国の今川氏との同盟を破棄して東海方面への進出を企てたため、今川氏真は縁戚関係にあった相模国(神奈川県)の北条氏康の協力を仰ぎ、武田領内への塩留を行った。
この塩留によって信玄は塩が入ってこなくなってしまい、食事にも困ったが、この事態を見た越後国(新潟県)の上杉謙信は武田の領民の苦しみを見過ごすことができず「塩ならこっちにいくらでもあるじないか。送ってやれ」と敵の信玄と領民に塩を送ったという。これが“敵に塩を送る”という諺となった。
ただし当時の文献の中に上杉方が塩を送った、あるいは武田方が受け取った記録は見つかっていない。そのため、塩を送る行為は実際には行われていなかった(=故事は後世の創作である)とするのが現在では通説である。文献に初めてこれらの話が現れるのは『謙信公御年譜』(1696年)だが、同文献は脚色が多く信憑性が疑われている。その後頼山陽が『日本外史』(1827年)でこの故事を美談として取り上げたことから日本国内で広まったとされる。
敵に塩を送る 2
敵でも苦境の時は助ける
「敵に塩を送る」は「たとえ敵でも、苦境の時は助ける」「敵だからといって、弱みに付け込まない」という意味があります。たとえば、点を競い合っているにあるライバルや競合会社など、ビジネスシーンでも対象となる相手はいくつか挙げられるでしょう。相手が弱っているときでも見捨てることなく、別の方法で相手に利を与えることが「敵に塩を送る」です。
語源は上杉謙信と武田信玄の故事
「敵に塩を送る」は故事から上杉謙信が敵である武田信玄を「塩」で救ったという逸話が載っていますが、この話が事実かどうかは定かではありません。上杉謙信は「義の人」と呼ばれ、義理人情の厚い人物だと語られていることから「美談」として残る逸話との見方もあります。
なぜ上杉謙信は「敵に塩を送った」のか
戦国時代のついての資料によれば、越後の上杉謙信が甲斐の武田信玄に塩を送ったという背景に、「塩留め」という禁止令があるようです。「塩留め」は甲斐、駿河、相模で結ばれた三国同盟が崩壊した後、武田信玄の領地である甲斐へ塩を売ることを禁じたものです。この時、上杉謙信とは長年にわたり敵対関係にありましたが、海に面していない甲斐の人々は塩不足で困っていたと考えられます。謙信は、甲斐に生きる人々のことを想って、塩を送ったのかもしれません。
実話かどうかは・・・?
このように知られている”美談”ではありますが、上杉謙信が「本当に塩を送ったのか?」という点に関しては正式な文書が残っていません。しかし、武田信玄からの塩を送ってもらったことへの御礼の品である「塩留めの太刀」が重要文化財となっていることもあり、真実は明らかになっていません。
敵に塩を送る 3
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、今川家の家督を氏真が相続すると、今川家の衰退は止め処なく進行していった。その姿を見て武田信玄は今川家を見限り、当時締結していた武田・北条・今川による「甲相駿三国同盟」を永禄11年(1568年)に破棄し、さらに信玄は今川領である駿河を攻め自領としてしまった。
これに怒った今川氏真は「塩止め」を実施する。武田家は塩を駿河湾からの輸入で賄っていたのだが、氏真はこの塩を武田には売らないように塩商人たちに指示を出したのだ。これにより武田家のみならず、甲斐や信濃の民までも苦しめられてしまう。塩がなければ食料を保存することもできず、食べ物はどんどん腐っていってしまう。
この窮状を知り、上杉謙信は川中島で鎬を削っていた武田信玄に日本海産の塩を送ったという逸話が残っている。いわゆる「敵に塩を送る」という故事の語源だ。だがこれはあくまでも逸話であり、事実は少し異なる。
上杉謙信は武勇で名を馳せた武将であるわけだが、商業面でも優れた才覚を発揮していた。謙信は病死するまでに2万7140両という莫大な財産を築き上げていたわけだが、これは決して佐渡金山のお陰ではない。なぜなら佐渡金山が上杉家の物となったのは景勝の代になってからだからだ。では謙信はどのようにして財を成したのか?
謙信は直江津、寺泊、柏崎などの湊で「船道前(ふなどうまえ)」という関税を徴収していた。さらには越後上布(えちごじょうふ/上質な麻糸で織った軽くて薄い織物)を京で売るため、京に家臣を常駐させるなどしていた。このように関税や特産品によって謙信は財を成して行ったわけだが、そんな折に目をつけたのが塩不足で困っている武田信玄だった。
謙信は決して塩を信玄にプレゼントしたわけではない。そうではなく、越後の塩商人を甲斐に送り、通常よりも高い価格で塩を売ったに過ぎない。今では謙信の義の象徴として語り継がれる故事ではあるが、事実は謙信の商魂によるものだったのだ。そもそも謙信は武田信玄のやり方を嫌っていた。今回の塩止めに関しても、信玄が同盟を破棄して今川領駿河に攻め込んだ自業自得が生んだ出来事であり、謙信は決して信玄を救おうとしたわけではない。
謙信と信玄は永遠のライバルのようにも語られているが、謙信は決して信玄のことを良く思ってはいなかったという。逆に信玄は謙信という人物を高く評価していたようだ。ちなみに謙信は、武田勝頼という人物に関しては信玄のことよりも高く評価していた。それは織田信長とやり取りした書状に残されている。
「敵に塩を送る」という故事の語源は、このように決して美談ではなかったというわけだ。事実は謙信が、塩がなく困ったいた信玄の足元を見ただけの話なのである。だが他面に於いて義を貫き通した上杉謙信であるため、後世に書かれた書物によりいつの間にか美談化されていったようだ。  
 
 
 
 

 
2021/1