2021年 もーぅ

どんな年 丑年 辛丑
コロナ ステイホームで始まる新年

丑年生まれの人
景気はどうなる ・・・
政治 世界はどうなる ・・・ 出口の見えないコロナ不安
 


辛丑丑年雑話1丑年雑話2丑年雑話3・・・
丑年の性格午年の性格未年の性格・・・
丑年相場・・・
諸話 / 土用の丑の日丑の刻参り藁人形縁切り橋姫・・・
 
 
 
 
 

 

●丑(うし、ちゅう)
十二支のひとつ。通常十二支の中で第2番目に数えられる。前は子、次は寅である。
丑年は、西暦を12で割って5が余る年となる。
丑の月は旧暦12月(概ね新暦1月)。
丑の刻は午前2時を中心とする約2時間。「丑三」(うしみつ)は、丑の刻を4分し、その第3に相当する時、すなわち、午前2時頃から午前2時30分頃までであり、俗に、草木も眠るとか、家の軒が3寸下るとかいい、魔物が跳梁するのにふさわしい時であると考えられた。
丑の方は北北東よりやや南寄り(北東微北:北基準右廻り30°)の方角である。
五行は水(土用期間は土旺)。
陰陽は陰である。
『漢書』律暦志によると丑は「紐」(ちゅう:「ひも」「からむ」の意味)。芽が種子の中に生じてまだ伸びることができない状態を表しているとされ、指をかぎ型に曲げて糸を撚ったり編んだりする象形ともされる。後に覚え易くするために動物の牛が割り当てられた。
相場格言に「辰巳天井、午尻下がり、未辛抱、申酉騒ぐ。戌は笑い、亥固まる、子は繁栄、丑はつまずき、寅千里を走り、卯は跳ねる」があり、丑年の相場は俗に一段落するといわれる。  
 
 
 
 

 

●2021年は辛丑(かのとうし)
意味・由来
年賀状などでなじみ深いのは「十二支」
干支というとすぐに思い浮かぶのが、「子、丑、寅…」で始まる動物のことではないでしょうか。すべて並べるとこのような順番になります。
子(ね・ねずみ)丑(うし)寅(とら)卯(う・うさぎ)辰(たつ・りゅう)巳(み・へび)午(うま)未(ひつじ)申(さる)酉(とり)戌(いぬ)亥(い・いのしし)
全部で12種類あり、十二支(じゅうにし)と呼ばれています。この順番を決めるために神さまが動物たちに競争をさせたという物語も残っていますが、もともとは動物ではなく、紀元前の中国で日付を表すために使われていた語で、後に年月や時刻、方角を示すためにも用いられるようになりました。
長い歴史の中で元の意味とは違う動物をあてはめるようになったため、現在、動物を表すときに使う一般的な漢字とは異なっているのですね。
これが日本にも伝わり、暦や時刻、方角などを表す語として活用されました。
ただ、この十二支は、干支の「支」にあたるものであり、干支のすべてを表しているものではないのです。
「十干」と「十二支」を合わせて干支
干支の2文字のうち「干」にあたるものは、十干(じっかん)といいます。十干と十二支を合わせたものが十干十二支で、本来、干支といえばこのことを指していました。
十干には下の10種類があります。
甲(コウ・きのえ)乙(オツ・きのと)丙(ヘイ・ひのえ)丁(テイ・ひのと)戊(ボ・つちのえ)己(キ・つちのと)庚(コウ・かのえ)辛(シン・かのと)壬(ジン・みずのえ)癸(キ・みずのと)
十干は、紀元前に中国で生まれた陰陽五行という考え方が今に残るものです。陰陽は「陰」と「陽」・「光」と「闇」・「男」と「女」というように二対となるものを表しています。五行は「木」「火」「土」「金」「水」という現在でも身の回りに存在する大切な5つの要素のことです。陰陽五行とは、自然界に存在するすべてのものがこれらの要素で構成されているという考え方です。
十干では、陰陽の二対の要素を「兄(え)」と「弟(と)」で表現しています。五行それぞれに「え」と「と」があり、例えば「木」の二対だと「きのえ(木の兄)」と「きのと(木の弟)」になるわけです。
現代では十干になじみが薄くなってきていますが、本来の干支は、十干と十二支を組み合わせたものなのです。2021年は十干が「辛(かのと)」、十二支が「丑」の年にあたるので、干支は「辛丑(かのとうし)」となります。
60種類の干支早見表
十干10種類と十二支12種類が順に巡っていくと、その組み合わせは全部で60通りです。つまり、60年経つと再び同じ干支となるわけですね。60年分の干支の順番を早見表にしましたので、参考にしてください。
1 甲子 きのえね 1984(昭和59)年
2 乙丑 きのとうし 1985(昭和60)年
3 丙寅 ひのえとら 1986(昭和61)年
4 丁卯 ひのとう 1987(昭和62)年
5 戊辰 つちのえたつ 1988(昭和63)年
6 己巳 つちのとみ 1989(昭和64/平成元)年
7 庚午 かのえうま 1990(平成2)年
8 辛未 かのとひつじ 1991(平成3)年
9 壬申 みずのえさる 1992(平成4)年
10 癸酉 みずのととり 1993(平成5)年
11 甲戌 きのえいぬ 1994(平成6)年
12 乙亥 きのとい 1995(平成7)年
13 丙子 ひのえね 1996(平成8)年
14 丁丑 ひのとうし 1997(平成9)年
15 戊寅 つちのえとら 1998(平成10)年
16 己卯 つちのとう 1999(平成11)年
17 庚辰 かのえたつ 2000(平成12)年
18 辛巳 かのとみ 2001(平成13)年
19 壬午 みずのえうま 2002(平成14)年
20 癸未 みずのとひつじ 2003(平成15)年
21 甲申 きのえさる 2004(平成16)年
22 乙酉 きのととり 2005(平成17)年
23 丙戌 ひのえいぬ 2006(平成18)年
24 丁亥 ひのとい 2007(平成19)年
25 戊子 つちのえね 2008(平成20)年
26 己丑 つちのとうし 2009(平成21)年
27 庚寅 かのえとら 2010(平成22)年
28 辛卯 かのとう 2011(平成23)年
29 壬辰 みずのえたつ 2012(平成24)年
30 癸巳 みずのとみ 2013(平成25)年
31 甲午 きのえうま 2014(平成26)年
32 乙未 きのとひつじ 2015(平成27)年
33 丙申 ひのえさる 2016(平成28)年
34 丁酉 ひのととり 2017(平成29)年
35 戊戌 つちのえいぬ 2018(平成30)年
36 己亥 つちのとい 2019(平成31/令和元)年
37 庚子 かのえね 2020(令和2)年
38 辛丑 かのとうし 2021(令和3)年
39 壬寅 みずのえとら 2022(令和4)年
40 癸卯 みずのとう 2023(令和5)年
41 甲辰 きのえたつ 2024(令和6)年
42 乙巳 きのとみ 2025(令和7)年
43 丙午 ひのえうま 2026(令和8)年
44 丁未 ひのとひつじ 2027(令和9)年
45 戊申 つちのえさる 2028(令和10)年
46 己酉 つちのととり 2029(令和11)年
47 庚戌 かのえいぬ 2030(令和12)年
48 辛亥 かのとい 2031(令和13)年
49 壬子 みずのえね 2032(令和14)年
50 癸丑 みずのとうし 2033(令和15)年
51 甲寅 きのえとら 2034(令和16)年
52 乙卯 きのとう 2035(令和17)年
53 丙辰 ひのえたつ 2036(令和18)年
54 丁巳 ひのとみ 2037(令和19)年
55 戊午 つちのえうま 2038(令和20)年
56 己未 つちのとひつじ 2039(令和21)年
57 庚申 かのえさる 2040(令和22)年
58 辛酉 かのととり 2041(令和23)年
59 壬戌 みずのえいぬ 2042(令和24)年
60 癸亥 みずのとい 2043(令和25)年
2021年の辛丑は、38番目にあたります。
歴史や身の回りに残る十干十二支
西暦や和暦を使って年を表す方が一般的になっている現代ですが、歴史の中や身近なところに、十干十二支に由来する語が残っていますよ。
60歳の還暦のお祝い
日本では60歳を迎えると長寿として還暦のお祝いをするという風習があります。例えば庚子の年に生まれた人が再び庚子を迎えるのは60歳となる年です。60ある干支が一回りして「暦」の上で元に「還」るため、このように呼ばれているのです。
時刻に使われていた名残り
現在でもお昼の12時のことを正午といい、お昼前を午前、お昼の後を午後と表現します。この午とは午(うま)の刻のことで、十二支で時刻を分けていた表現が残るものです。怪談などでよく使われている「草木も眠る丑(うし)三つ時」も、深夜2時から2時半のことを指すんですよ。
暦からつけられた歴史のできごとや場所の名
歴史に残る大きなできごとには、その年の干支から名づけられたものがあります。壬申の乱や戊辰戦争などは、日本史で習った記憶があるのではないでしょうか?壬申の乱は672年に皇位継承をめぐって起こった大きな内乱、戊辰戦争は1868年に始まり旧幕府を支持する勢力と明治新政府が争った内戦のことです。また、甲子園球場の名も干支に由来しています。球場が完成したのが1924年で十干十二支の最初である甲子にあたるため、縁起が良いこともあって名前に使われたのだそうですよ。
出生率に影響した丙午(ひのえうま)の迷信
半世紀ほど前になる1966年の出生率は、その前後に比べて低くなっています。これは1966年が丙午であったのが理由だといわれています。丙(ひのえ)は五行でいうと火、そして午(うま)にも火という意味があることから、丙午には火災が多いという俗説がありました。更に、江戸時代に放火を起こした八百屋お七の事件から「丙午生まれは気性が激しい」「丙午生まれの女性は結婚相手の命を縮める」という迷信が広がったようです。古い迷信が昭和の時代にまで影響していたようですね。  
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●丑年雑話 1
十二支に動物が使われているのはなぜ?
そもそも、なぜ十二支に動物が使われているのかご存知でしょうか。
十二支が生まれたのは中国の「殷」の時代。もともと日付や時刻、方角を表すために使われていましたが、干支の漢字(子丑寅…)は特に意味を持たない記号のようなもので一般の民衆には覚えにくかったそう。
そこで、人々が覚えやすいようにと後漢の時代に中国の王充(おういつ)という人物が十二支に身近な動物を割り当てて文献を書きました。これが十二支に動物が使われた始まりと言われています。干支の漢字(子丑寅…)と動物の漢字(鼠牛虎…)がかなり違うのは後から割り振られたことが理由です。
ちなみに十二支は日本以外の国にもあります。動物の種類や順番はほぼ同じですが、タイやベトナムは卯の兎の代わりに猫が入っていたり、中国では亥(イノシシ)の代わりに豚が入っていたりと、国によって割り当てられている動物に微妙に違いがあるようです。
丑年の意味や由来とは?
丑年(牛)の意味は?
牛は昔から食料としてだけでなく、農作業や物を運ぶときの労働力として、人間の生活に欠かせない動物でした。勤勉によく働く姿が「誠実さ」を象徴し、身近にいる縁起の良い動物として十二支に加えられたようです。また「紐」という漢字に「丑」の字が使われおり、「結ぶ」や「つかむ」などの意味を込めたとも考えられています。
牛は神様?
学問の神様の菅原道真をまつる天満宮には丑(牛)の像が置かれています。なぜ牛なのか、不思議ですよね。これは「菅原道真が丑年だった」「道真が暗殺されそうになったところを飼い牛が救った」「道真の遺体を運んでいるときに牛が座り込んで動かなくなったのでそこに埋葬した(その場所が大宰府天満宮)」など、牛と道真にまつわる様々ないわれから。また黙々と働く牛の様子は道真の教えにも通ずるものがあり、牛を神の使いとして祀っているそうです。大宰府天満宮や京都の北野天神にはいくつか牛の像がありますが、そのどの牛も座り込んだ姿をしています。また、仏教が生まれたインドでは牛は神様として大切にされています。牛には神に近い尊いイメージがあるようです。
丑年が2番目なのはなぜ?
丑年の順番がなぜ2番目なのか、については、十二支についてよく知られている物語がありますね。昔、神様が元旦に挨拶に来た12番目までの動物を順番に、一年間その年のリーダーにしよう、というお触れを出します。
牛は自分が歩くのが遅いことを知っていたので誰よりも早く、前の晩のまだ暗いうちに出発するのですが、牛の背中に乗ってやってきたねずみが神様の御殿の門が開いたとたんに飛び降り1番に。残念ながら牛は2番となり、干支の順番は2番目になりました。
動物の性格を上手く捉えた面白い物語ですが、この物語は後から作られたものとも言われていますので、順番には動物の優劣や特別な意味はないと考えたほうがよいようです。ちなみに他の国にもこの干支の物語は伝わっており、「ねずみが牛の背中に乗って行った」という話はほとんどの国で共通しているようです。
丑年はどんな年になる?
十二支の動物の中で最も動きが緩慢で歩みの遅い丑(牛)の年は、先を急がず一歩一歩着実に物事を進めることが大切な年と言われています。
十二支の2番目の干支であることから、子年に蒔いた種が芽を出して成長する時期とされ、まだ結果を求める時期ではなく、結果につながる道をコツコツと作っていく基礎を積み上げていく時期とされます。
丑(牛)の年は、黙々と目の前の自分の仕事をこなすことが将来の成功につながる、と考えるとよいようです。
丑年生まれはマイペース!?丑年生まれの性格
牛のゆったりとした動きのイメージから、丑年生まれの人の性格は「気長でマイペース」と言われることが多いようです。ところが、そんな穏やかで温厚そうな性格ながら、怒ると怖い、強情でプライドが高いという一面もあるようです。
丑年生まれの人はどんな人?
・忍耐強い / 丑年の人の一番の特徴は、その忍耐強さ。一つのことをコツコツと続けてその道を極めます。
・マイペース / 丑年生まれの人は頭でじっくり物事を考え、綿密に計画を立ててから行動する慎重派。そのためスロースターターで、周囲のペースと合いにくく、マイペースと思われてしまうようです。ただ一度何かやると決めたら黙々とその道を進み、誰よりも成果を上げます。周囲に惑わされず、自分のペースを守ることで無駄なエネルギーを使わずに自分の目標に突き進むことができるのです。丑年生まれの人は自分をよく知っている人とも言えます。
・怒ると怖い / 穏やかでおっとりとした雰囲気を持つ人が多い丑年生まれですが、強情な一面もあり、一度怒らせると手がつけられないほど怖い、とも言われます。これは暴れると手がつけられない野生の牛や水牛のイメージからきているようです。
・頑固 / 丑年生まれの人は固定観念が強く頑固な一面があります。新しいことに挑戦するよりも今までに経験したことを好む保守的な人も多いようです。
・物怖じしない / おっとりとした牛のイメージどおり、丑年の人は、常に落ちつていて何事にも動じないという長所があります。
・行動力に欠ける / 丑年生まれの人は、自分から積極的に行動することが苦手な傾向にあります。新しい挑戦を好まなかったり、自分が納得するまで行動できなかったり、といった性格がいきすぎると、チャンスが巡ってきても逃してしまうことがあります。時には自分から進んで大胆に行動することも大切です。
・プライドが高い / 丑年生まれの人はプライドが高く、人に弱みを見せることを嫌がります。困った時に自分から助けを求めたり、人に頼ったりすることが苦手です。また、楽をしたり、ズルをしたりして得することはプライドが許さず、大嫌いです。
丑年生まれと相性のいい干支ベスト3!
1 子(ねずみ)
しっかりと自分を持っていて人と合わせることをしない子年は、自分のペースを大切にする丑年のよき理解者。頑固な丑年を機転のきく子年がフォローし、協力し合えるとても良い相性です。
2 巳(へび)
じっくりコツコツと努力する巳年と丑年は性格が似ているので、理解し合える良い相性です。
3 酉(とり)
社交的な一面のある酉年が、引っ込み思案な丑年をフォローします。論理的な丑年と直感的な酉年は、お互いに持っていないものを補え合える良い相性です。
丑年生まれと相性の良くない干支ワースト3!
1 未(ひつじ)
自分のペースを守りたい丑年と、集団行動を好み周囲の状況をうかがう未年は性格が異なります。おまけに、どちらも頑固なのでお互い自分の意見を譲れず、理解し合えません。
2 午(うま)
慎重派の丑年はアクティブな午年に苦手意識を持ちます。何事も成果が出るまで粘り強くやり抜く丑年と、短期決戦で事をなす午年は性格が真逆で上手くいきません。
3 辰(たつ)
世間の常識にとらわれない独自の理想を持つ辰年と、保守的で現実的な丑年は理解し合うのが難しい相性です。 
 
 
 
 

 

●丑年雑話 2
干支と十二支の違い
干支というと、まず思い浮かべるのは、十二支ではないでしょうか。具体的には、子(ね<ねずみ>)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う<うさぎ>)、辰(たつ)、巳(み<へび>)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)。これらはかつて時刻や方角を表すのに使われていました。
最近は、この十二支が干支の意味で使われることも多いですが、本来、干支とは「十干十二支(じっかんじゅうにし)」の略。十干とは、甲(こう)、乙(おつ)、丙(へい)、丁(てい)、戊(ぼ)、己(き)、庚(こう)、辛(しん)、壬(じん)、癸(き)の総称で、もともとは物を数えるための言葉でした。甲や乙という表記は、今でも契約書などで目にすることがありますね。
十干と十二支は、いずれも毎年ひとつずつずれていくので、最小公倍数である60で組み合わせが一周します。60歳になることを「還暦」といいますが、これはちょうど自分の生まれた干支に戻ることを祝うものです。ちなみに甲子園は1924年の甲子(きのえね)に完成したことが名前の由来です。
海外にはネコ年もある!?
一般的に日本に伝わっている十二支の由来は、神様が動物たちに「1月1日に集まった順にごほうびをあげよう」と声掛けして集まった順序だというものです。ねずみは牛の背に乗って向かい、到着したところでピョンと背中から降りて、ちゃっかり一番になりました。身近なはずの猫がいないのは、ねずみが「神様のところに集まるのは1月2日だよ」と嘘をついたから。猫がねずみをおいかけるようになったのはそのときからだといわれます。
ただ、この話は日本限定です。日本以外にもアジアなどで十二支が使われていますが、国によって動物に多少違いがあり、たとえばベトナムではうさぎではなく猫、牛は水牛、猪は豚。またモンゴルだと虎のかわりにヒョウが使われています。
向かい干支
向かい干支とは、自分の干支から数えて7番目にあたる干支のこと。時計のように円形に十二支を書いたときに、自分の十二支のちょうど向かい側にくることから、この名前で呼ばれます。十二支にはそれぞれ性格があり、向かい干支は足りないものを補いあえる「守り干支」ともいわれ、相性が良いとされています。  
 
 
 
 

 

●丑年雑話 3
丑年ってどんな年?
「丑」ってどんな意味?
「丑」は中国で生まれた漢字で、本来の意味は「からむ」という意味があり、芽が種子の中で伸びることができない状態を表しているそうです。これを後に覚えやすくするために「牛」の意味が与えられました。
「牛」は古くから食牛や乳牛、耕牛と呼ばれ酪農や農業で人々を助けてくれる存在として重要な生き物でした。大変な農業を地道に最後まで手伝ってくれる様子から、丑年は「我慢(耐える)」や「発展の前振れ(芽が出る)」を表す年になると言われています。
丑年はどんな年?
実際に過去の丑年の出来事を振り返ってみましょう。
1961年には「NHK朝の連続テレビ小説放送開始」。
1973年の「オイルショック」では我慢の象徴のような年になりましたが、
1985年にはファミコンソフト「スーパーマリオブラザーズが発売」され大人気作品へと発展を遂げました。
1997年には「消費税が5%へ引き上げ」が大きな話題になったものの世界初となる量産型ハイブリット車「トヨタ・プリウスが発売」されたことや、 2009年には選挙による初めての「政権交代」や「裁判員制度が開始」するなど、今までにない新しいことが始まった年が多いのも特徴です。
2021年丑年は、いったいどんな年になるのでしょうか?災害などがなく、縁起の良い年になるでしょうか?
新型コロナウイルスの蔓延で、まだまだ耐え忍ぶ年になるかもしれませんが、地道に突き進むことで新たな発展へと繋げる年にしていきたいですね。
丑年の性格・特徴・相性
丑(牛)は酪農や農業、食用としても昔から人々の助けになってきたように、おっとりしているように見えても堅実で真面目に物事を進め成長を続けることが出来るポテンシャルの高い生き物です。
性格と特徴
   努力家の兄貴分
そんなポテンシャルの高さは丑年生まれにも当てはまります。規則や伝統などをきっちり守り、スロースターター気味ですが一度始めると最後までやり切らないと気が済まない努力家が多く働き者でもあります。頭も良くて楽をしたりズルをしたりしない真面目な性格で家族を大切にし、必要に迫られれば皆を引っ張っていくことも出来るので友人も多く周りが認める「兄貴(姉御)分」タイプと言えるのではないでしょうか。
   真面目過ぎるのが玉にきず
しかし、そんな真面目過ぎるほどの性格から一度こうだと思ったことをなかなか変えることが出来ない融通の利かない面もあり、好意を寄せる相手にはとことん尽くすため少し鬱陶しいと思われる場合もあるようです。また、一度怒ると手が付けられず他人に弱みを見せられない性格のため意固地になりやすいようです。丑年の家族・友人・同僚にはサポートも大事ですが、少し休むことやリフレッシュして熱した頭を冷やすように促してあげてみるといいかもしれませんね。
有名人一覧
上記のような性格と特徴からも、仕事に対しても真面目で女の人でも結婚してからバリバリ働くような「兄貴(姉御)分」と呼ばれる人が多いです。ちなみに第44代アメリカ合衆国大統領バラク・オバマも1961年生まれです。
1949年生まれ・・・矢沢永吉(ミュージシャン)、武田鉄矢(俳優)、やしきたかじん(タレント)
1961年生まれ・・・哀川翔(俳優)、石橋貴明(タレント)、田原俊彦(歌手)
1973年生まれ・・・イチロー(元プロ野球選手)、宮沢りえ(女優)、篠原涼子(女優)、田村淳(お笑い)、GACKT(歌手)
1985年生まれ・・・上戸彩(女優)、白鵬(力士)、山下智久
1997年生まれ・・・杉咲花(女優)、平野紫耀( ジャニーズ)、宇野昌磨(フィギュアスケーター)   ※敬称略
連続テレビ小説「おちょやん」のヒロイン杉咲花さん、King&Princeの平野紫耀 さんも丑年生まれだったんですね。
相性の良い干支・悪い干支
相性の良い干支
丑年生まれの人は、どんな干支の人と相性が良いのでしょうか?相性の良い干支は以下の通りです。要チェックですよ。
   子年・・・お互いに無い部分を補える良い相性。
   寅年・・・明るい寅年が丑年を引っ張りどちらも良いところが伸びる好相性。
   巳年・・・冷静な巳年が丑年に良い影響を与える好相性。
   酉年・・・社交的な酉年がおとなしい丑年を支え好相性。
相性が悪い干支
それでは、相性の悪いのはどの干支の人でしょうか?こちらもとっても気になりますね。チェックしてみましょう!
   丑年・・・同じ目的に向かえば好相性ですが頑固同士で食い違うと交わりにくい。(適度な距離を意識)
   卯年・・・気は合いますが消極的な者同士でなかなか事が進まない。(時間をかけると良い)
   辰年・・・夢や理想主義の辰年と現実主義の丑年はあまり相性が良くない。(自分に無い部分を補い合うと良い)
   午年・・・活発ですぐに行動に移したい午年とスロースターターの丑年はペースが合わないので相性はあまり良くない。(お互いのペースを理解すると良い)
   辰年・・・夢や理想主義の辰年と現実主義の丑年はあまり相性が良くない。(自分に無い部分を補い合うと良い)
   午年・・・活発ですぐに行動に移したい午年とスロースターターの丑年はペースが合わないので相性はあまり良くない。(お互いのペースを理解すると良い)
   未年・・・頑固者同士でなかなか意見が合いません。(柔軟な思考で対応すると良い) 
   戌年・・・どちらも意見を譲らないことが多くあまり良くありません。(利害関係の無い関係が良い)
   亥年・・・束縛を嫌う亥年とはあまり気が合いません。(お互いの時間を持つと良い)
中でも好相性なのが寅年生まれで、「修二と彰」で大ブレークした山下智久(1985年生まれ丑年)と亀梨和也(1986年生まれ寅年)、「とんねるず」の石橋貴明(1961年丑年)と木梨憲武(1962年寅年)など、お互いの良い面を伸ばし合うためコンビによる活躍が目立ちます。他にもイチロー(1973年生まれ丑年)と松井秀喜(1974年生まれ寅年)のようにライバル関係として切磋琢磨しお互いを成長させる関係にもなります。「うしおととら」という漫画もそんな相性から来ているのかもしれませんね。
雑話
十二支で2番目に数えられるようになった理由
神様が十二支の動物を決めるために競争させた際、牛は自分が歩くのが遅いことを知っていたので前の晩のまだ暗いうちに出発しました。途中で牛の背中に乗ってやってきた子(ねずみ)がゴールの前で飛び降り1番になり、牛は残念ながら2番に。そのため干支の順番は2番目になった。と言われています。この話はほとんどの国でも共通しているお話だとか。
丑(牛)は神の使い!?
丑(牛)は昔から食料としてだけでなく農業や物を運ぶ労働力としても人々の生活に欠かせない動物でした。「紐」という漢字に「丑」の字が使われているように、人々との間を「結ぶ」存在という意味も込められ「神の使い」とも考えられています。それを示すかのように全国の天満宮(祭神:菅原道真)には牛の像があります。  
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

●丑年生まれの性格と特徴
1.努力家の晩成型
丑年生まれの人は、忍耐強さや我慢強さに恵まれているため、困難にもめげずに目標達成のために努力するという性格です。どれだけ険しい道のりでも、弱音を吐いたりあきらめたりすることはありません。いくら周囲から無理だと思われようとも、自分で決めたことはやり通す粘り強さを持っています。要領はそれほどよくありませんが、コツコツと努力を惜しまない姿勢を崩さないため、最後には目標を達成することが多くなっています。こうした特徴から、丑年生まれの人は下積み生活が長い傾向がありますが、のちに大きく才能を開花させるケースが目立ちます。最初は周囲に遅れをとっても、長年の努力が実を結び、結果的には大きな仕事を成し遂げるというタイプです。
2.負けず嫌い
努力家で粘り強いという性格にも関係しますが、丑年生まれの人は、非常に負けず嫌いであるという特徴も持っています。おっとりしているように見られがちな丑年生まれですが、実際には競争心が激しく、他人に負けたくないという気持ちが強くなっています。人から馬鹿にされたり見下されるといったことにも敏感で、見過ごすことができません。そのために一層奮起し、見返してやろうと努力を重ねるという特徴があります。ただ、丑年生まれの人は前述のようにおっとりして見えるため、こうした自尊心の強さは周囲に気付かれにくくなっています。そのため、周りから無意識に軽く見た態度を取られがちですが、他人が思うよりずっと、丑年生まれの人はそれについて深刻に受け止めています。
3.堅実
丑年生まれの人は、生活態度が堅実であるという特徴もあります。日々努力を惜しまない、真面目な性格の丑年生まれですから、生活のリズムも一定で乱れることがありません。同じ生活パターンを守ることを好み、そこからはみ出すのを嫌います。そのため、行き当たりばったりの行動はとらず、決まったスケジュールに即して毎日を過ごすよう心がけています。丑年生まれのこうした性格は、金銭面においても顕著です。お金は計画的に使うことを旨とし、無駄遣いはほとんどしません。のるかそるかの行動は嫌いますから、もちろんギャンブルにも手を出さないようになっています。そのため、丑年生まれの人は貯金が貯まりやすいという特徴もあります。
4.マイペースで我が道を行く
丑年生まれの人は、非常にマイペースで周りに流されにくいという特徴もあります。前述のように、コツコツと努力を重ねる丑年生まれの人は、自分を強く持っています。そのために、周囲の空気がどれだけ変わっても、それに流されることがありません。自分の決めたことや目標だけを、しっかり見つめる芯の強さがあります。浮ついた気分になったり、流行に左右されたりといったことも少なく、黙々と好きな事をやるタイプです。こうした性格から、丑年生まれの人は世間からずれた人と見られることも多くなっていますが、これも前述のように、結果的には周囲が見直すことの方が多くなっています。
5.誠実
真面目で努力家な丑年生まれの人は、誠実で家族や友人を大事にするという特徴もあります。地に足の着いた考えを持っているため、自分と親しい人間に対して感謝や親愛の念を欠かしません。当然、そうした人たちが困っている時には喜んで手を貸し、力になろうと奮闘します。特に家族を大事にする傾向があり、誰かの誕生日の際には、率先して祝おうとします。丑年生まれの人のこうした性格は、恋愛においても発揮されます。自分が付き合っている恋人はとても大事にし、その人のために尽くそうとします。結婚してからもそれは変わらず、妻子のために骨身を惜しまず働くのが、丑年生まれの人の特徴です。ただ、時にはこうした傾向が行き過ぎてしまい、時に相手からうるさがられるケースも少なくありません。
6.増長しにくい
丑年生まれの人は、前に述べたようにスロースターターで、最初は周囲から後れを取ることも多いという特徴があります。そうした時も、くさらずにコツコツ自分の道を歩く丑年生まれの人は、結果が伴った時にも自分を見失うことはありません。周囲の評価が一変しても、天狗になったり増長して浮かれるといったこともなく、以前と変わらずに努力を重ねることができます。また、本人の周囲に対する態度も、特に変わることはありません。あくまでも自分を保ち、一貫したスタイルを崩さない性格です。そのために、丑年生まれの人の評価は、後になるほど高まる傾向があります。
7.自己主張が苦手
丑年生まれの人は、自己主張が苦手という特徴もあります。 自分をしっかり持ち、確固たる信念を貫く丑年生まれの人ですが、他人に自分の気持ちを伝えるのはやや苦手な側面があります。要領もあまり良いタイプとは言えず、口下手な面もあるため、うまく本音が伝えられません。また、内面は負けん気が強くても、対外的には他人に気を使う性格でもあるため、集団の中で損な役割を引き受けることも多くなっています。そうした特徴や、本人もあまり注目を浴びることに関心がないことから、普段は目立たないポジションにいることもよくあります。
8.頑固なところも
マイペースで我が道を行く丑年生まれの人は、その半面頑固で意地っ張りな特徴も持っています。信念を曲げない強い意志のせいで、こうと決めたらなかなかそれを覆しません。もちろん、その性格が好結果を生むことも多いのですが、逆に悪影響を及ぼすこともよくあります。判断が間違っていたり、別にもっとよい方法があったとしても、すぐにはそれを認めようとしません。そのため、人に比べて余計な回り道をしてしまうことも多くなっています。そのことを他人から指摘されても、聞く耳を持たないことがよくあります。こうしたことから、丑年生まれの人は意地っ張りで扱いにくいと思われることも少なくありません。ただ、だからといって他人とケンカにまで発展することは少ないので、周囲から孤立するようなケースはまれです。
9.行動が遅い
丑年生まれの人は、何事もじっくり計画を練ってから動く傾向があります。そのため、何かにつけて動きだしが遅れがちという特徴を持っています。万事よく考えて動くということは、大きな失敗が少ないという利点もありますが、その反面好機を逃しやすいというデメリットもあります。素早い判断が求められるときも、じっくり腰を据えて考えてしまう性格のため、他人にチャンスを奪われることも少なくありません。また、状況に合わせてすぐに行動を変化させることも苦手なため、時代の波に乗り遅れるといったケースもよく見られます。これは、真面目で一本気な性格のマイナス面と言えるでしょう。
10.激しい怒りを見せることも
温和でおとなしい性格と思われがちな丑年生まれの人ですが、時に激しい怒りを見せるという特徴もあります。我慢強く、めったなことでは自分を失わない丑年生まれの人も、決して鈍感なわけではありません。むしろ、前述のように他人の評価には敏感ですし、それに対し怒りを感じることもよくあります。通常そうしたストレスは押し殺して我慢しますが、徐々に怒りが蓄積し、臨界点に達すると、突然爆発してしまうこともあります。こうなると、普段穏やかな分、怒りを全て吐き出すまでは決して止まりません。周囲の人も、その怒り方があまりに激しいので、動揺してしまうことも多くなっています。ただ、こうしたことはめったにはなく、いつもはあくまで穏やかな態度を崩しません。しかし、一旦怒り出すと手がつけられないというのは、丑年生まれの人の注意すべき点でしょう。 
 
 
 
 

 

●午年生まれの性格と特徴
1.ずば抜けた行動力
午年生まれの人は、とにかく行動力に優れているという特徴があります。少しでも気になることや興味を引かれることがあれば、そのためにすぐ行動を起こすのが、午年生まれの性格です。迷ったりあれこれ考えるのは時間の無駄で、それより一刻も早く、やりたいことにチャレンジしようとするタイプとなっています。少しくらい難易度が高くても気にせず、まずは自分で体験してみるというのが、午年生まれの流儀です。こうしたずば抜けた行動力は、多くの場合で、午年生まれに対し大きなアドバンテージをもたらします。他の人がためらったり考えたりしている間に、午年生まれはどんどん先へ進んでいるので、常に人の先頭に立つことができます。
2.明るく社交性に富む
行動力抜群の午年生まれは、性格も明るく社交性に富むという特徴があります。常に自分から動くタイプなので、人と出会うことにも積極的です。気後れしたり緊張することも少ないので、年上や立場が上の人に対しても、ためらうことなくアプローチできるという特徴があります。次々に知人を増やし、交友範囲を広げていくことを、純粋に楽しいと感じるタイプです。自分から積極的にアプローチできるだけでなく、近づいてくる相手にも寛容です。初対面でも、話しかけられれば気軽に対応しますし、変に身構えることもありません。こうしたオープンマインドな性格のため、午年生まれの人には友達が多い人が目立ちます。
3.勤勉で几帳面
開けっ広げで快活な性格の一方で、午年生まれの人は勤勉で几帳面という特徴もあります。午年生まれの人は楽しいことが大好きですが、だからといって仕事を怠けたり、手を抜いたりといったことはしません。やるべきことはきちんとわきまえており、それに対して真面目に取り組む姿勢を持っています。時間にも正確で、遅刻などはほとんどありませんし、スケジュールはきっちり守ろうとするタイプです。ダラダラと働くことは嫌いで、課題や仕事は常に集中して行います。そうしてやるべきことをやってしまってから、始めて自分の好きなことに取り掛かるのが、午年生まれの特徴です。
4.理知的で要領が良い
勤勉で真面目な午年生まれの人は、理知的で要領が良いという特徴もあります。頭の回転が速く、ものごとをすぐに覚えることができるため、仕事や勉強をてきぱきとこなすことができます。ポイントを掴むのがうまく、話の要点もすぐに飲み込むことから、打ち合わせなどもスピーディーに進められます。段取りをつけたり計画を立てるのも上手いので、ものごとがスムーズに運ぶというのも、午年生まれの特徴となっています。午年生まれの人は、こうして効率よく時間を使うことができますから、いろいろな仕事をこなせるという長所もあります。それに加え、前述のように行動派なことから、人よりも多く経験を積んで成長できるというのも強みです。
5.お人よしなところも
頭が良く、要領も良いという午年生まれですが、その一方でややお人よしな部分も見られます。基本的に人が好きで、すぐに他人を信じてしまう傾向があるため、そこに付け込まれることも少なくありません。初対面の人に心を許してしまい、だまされるといったケースもありますし、頼まれると断りにくい性格で、無理難題を引き受けてしまうこともあります。情にほだされやすく、求められると応えずにいられないというのが、午年生まれの特徴です。また、困っている人は見過ごすことができず、何かと世話を焼こうとします。相談に乗るだけではなく、トラブルを解決するために一緒に動くなど、できる限りの援助を惜しみません。そのために自分が困ることになっても、とにかく他人に幸せになってほしいという性格です。
6.独立心旺盛
自我の強い午年生まれの人は、独立心も強いという特徴があります。自分の人生は自分で切り開こうと、早い時期から決心を固めています。将来の計画もきちんと立て、その実現のために着実に努力するタイプです。家を出ることにも積極的で、早いうちから一人旅をするなど、見聞を広めようというしっかりした意識があります。親元を離れる時期も早く、高校時代から1人暮らしをする人も少なくありません。大学に入ると、経済的にも自立しようとする人も多くいます。こうした午年生まれの性格は、人に迷惑をかけたくないという意識も関係していますが、チャレンジ精神の強さも大きな要因となっています。自分の力で自分の世界を広げたいという、強い欲求を持つ人が多くなっています。
7.意地っ張りで負けず嫌い
上で見たように、人一倍独立心が強い午年生まれの人は、意地っ張りで負けず嫌いな性格という特徴もあります。意思が強く、思ったことを貫きたい性格のため、一度口に出したことは簡単には取り消しません。相手に反論されようとも、自分の意思を通そうと頑張り抜きます。そのために相手とぶつかることも多々ありますが、やはり容易に自分を曲げようとはしません。とにかく負けず嫌いで、口論になると、相手を打ち負かすまで一歩も引かないという性格です。午年生まれの人は、前述のようにあけっぴろげな性格から人に好かれることが多くなっていますが、こうした頑固さに対し、閉口する人も少なくありません。
8.傷つきやすい一面も
午年生まれの人は、我が強く自分を曲げないという性格の一方で、傷つきやすく繊細な一面も持っています。自意識が強く、自負心も旺盛なことから、他人に負けるとプライドを傷つけられたと感じるようになっています。勉強や仕事などで他人に遅れを取ると、自尊心が強い分落ち込みも激しくなるのが、午年生まれの人の特徴です。また、午年生まれの人は能力が高く、大抵のことは人よりうまくこなせるという意識がありますから、一旦壁に打ち当たると精神的にもろい部分もあります。苦手なことがあるという事実が受け入れにくく、他の分野まで調子を崩してしまうことが少なくありません。
9.目立ちたがり屋
午年生まれの人は、明るく行動的な性格が特徴ですが、その半面目立ちたがり屋な部分が目立つ傾向もあります。前述のように、午年生まれは自意識や自尊心が強いため、人から褒めてもらいたいという気持ちが強くなっています。そのため、注目を引きたいという気持ちが前面に出てしまい、つい行動が派手になってしまいがちです。言葉遣いも大げさになることがあり、うっかり大口をたたいて、後で後悔することも少なくありません。しかし、そうした時も後には引かない性格のため、ささいや嘘で自分の首をしめてしまうケースもあります。午年生まれのこうした特徴は、周囲からは愛すべき一面と思われることが多くなっています。しかし、場合によっては度が過ぎてしまい、人から呆れられる場面も多々見られます。
10.感情の起伏が激しい
午年生まれは裏表がなくサッパリした性格ですが、感情の起伏が激しく、けんかっ早い一面もあります。自分の思い通りにいかない場面や、他人に拒絶された時などは、頭に血が上ってケンカ腰になることもよくあります。これには、前述のようなプライドの高さや、意地っ張りな性格も関係しています。とにかく自分が正しいと信じているため、思い通りにいかないことに対しては我慢ができません。カッとなって怒り出しますが、その後一転して、ガックリ落ちこんでしまうこともよくあります。午年生まれのこうした精神的な不安定さは、周りを振り回すことも多くなっています。人から好かれることの多い午年生まれですが、友人の中にはこのような特徴を嫌い、袂を分かってしまう人もいます。 
 
 
 
 

 

●未年生まれの性格と特徴
1.温和な平和主義者
未年生まれの人は、非常に温和でおとなしいという特徴があります。表情が穏やかで物腰も柔らかく、とげとげしさやイラついた雰囲気とは無縁の人が多くなっています。そのため周囲の人も、未年の人には声をかけやすく、そばにいると落ち着いた気分になれます。雰囲気で周囲を和ませることができるので、未年生まれの人に好意を抱く人は多く、あまり他人から嫌われないタイプとなっています。こうした性格からもわかるように、未年生まれの人には平和主義者が多くなっています。争いごとを好まず、人と無駄に張り合ったりすることはありません。もちろんケンカもしませんし、そうした雰囲気にならないよう、日ごろから気を配っています。誰かと意見が違っても、衝突しないようにていねいに説明するタイプです。
2.親切
温和で平和を好む未年生まれは、人に対して親切で優しいという特徴もあります。相談には親身に乗ってあげますし、頼まれごとにも誠実に対応します。友人や家族が困っていると見過ごせず、何かと世話を焼いてくれる性格です。普段はおっとりふわふわした人が多い未年ですが、こうした時には非情に頼りになるという特徴があります。察しが良く、人の気持ちにも敏感なので、要望に対し適切に対処できるのも長所です。こうした性格から、未年生まれの人は、縁の下の力持ちとして大事な存在となることが多くなっています。周囲は無意識に未年生まれを頼り、精神的な支えとするケースが目立ちます。
3.勤勉な努力家
おっとりして柔和な性格の未年生まれですが、上で見たようにしっかりした部分も持っています。そうした面は、勤勉で努力家という部分にも表れています。未年生まれの人は、非常に真面目でまっすぐな性格で、1つのものごとに集中してあたるタイプです。探求心が強く、興味を引かれたことに対して、熱心に追求する情熱も持っています。知識の吸収にも貪欲で、日々コツコツと努力する粘り強さもあります。こうした勤勉さは周囲にも認められ、一途な姿勢で人から一目置かれることも多くなっています。その一方で、興味のないことにはまったく関心を示さないというのも、未年生まれの特徴です。広く浅くではなく、狭く深く探求するというのが、未年生まれの傾向と言えるでしょう。
4.慎重で計画的
おおらかな雰囲気が特徴的な未年生まれですが、実は慎重で計画的という一面を持っています。何か行動を起こす時は、事前にしっかり計画を立ててから動くことが多く、行き当たりばったりで行動することはほとんどありません。常にいろいろなケースを想定し、それぞれの対処法を考えておくタイプです。そうした慎重さにより、未年生まれは大きな失敗が少ないという特徴があります。逆に言うと、そうした計画が立てられない時は、とたんに不安になってしまうという性格でもあります。急に行動を起こさなくてはならない時や、予想外のアクシデントに対しては弱いというのも、未年生まれの特徴の1つです。
5.我慢強い
未年生まれの人は、忍耐力にも優れているという特徴があります。厳しい状況に置かれていても、辛抱強くじっと耐え、好機が来るまで待つことができます。過重な課題を与えられた場合でも、簡単には音を上げず、精一杯やり通そうと頑張り抜く性格です。他の人に追い抜かれたり、スタートが出遅れたとしても、周囲に追いつくまでひたすら耐え抜く根性もあります。未年生まれの人がへこたれたり、弱音を吐くことは、めったにありません。こうした我慢強さは、未年生まれにとって長所でもある一方で、短所にもなり得ます。我慢をしすぎた挙句、限界を超えて精神的に大きなダメージを負ってしまうことも、ないとは言えません。
6.集団を好む
未年生まれの人は単独行動を嫌い、集団で行動するのを好むという特徴があります。地に足が付いており、自分の行動には責任が持てる未年生まれの人ですが、1人でいる時間は苦手なタイプです。黙々と自分だけで好きなことをやるよりも、他人と一緒に楽しみたいと考える性格になっています。孤立してでも、自分のやりたいことをやるという種類の人間ではありません。みんなと一緒に足並みを合わせ、集団で喜びを分かち合いたいという人が多くなっています。スポーツをするときにも、単独競技より団体競技の方を選ぶ傾向が強いのが、未年生まれの特徴です。この時もチームワークを大事にし、自分1人が目立とうとすることは、まずありません。
7.綺麗好き
未年生まれの人は、大変な綺麗好きであるという特徴も持っています。身の回りは常に整頓され、きれいな状況が保たれています。机の上や引き出しの中も、きちんと整理されていますし、部屋全体も片付いていて、ゴミなどはほとんど落ちていません。汚れていたり、ちらかっているのが嫌で、なるべくそうしたことのないよう常に気をつけています。もちろん身だしなみにも気を使っており、朝の身支度はもちろん、日中でも服装や髪の乱れがないか、ことあるごとにチェックしています。こうした綺麗好きな性格は、計画性を重んじるという未年生まれの特徴に関係しています。ものごとが整理され、きちんと把握しやすいことが、未年生まれにとっては何より大事であるためです。
8.優柔不断で八方美人なところも
協調性を大事にし、温和で優しい未年生まれの人ですが、その一方でやや優柔不断な面も見られるという特徴があります。周りの意思を尊重し、それに合わせてしまうため、自分の意見を決められないことが多くなっています。責任感はあるものの、常に周囲を気にしているため、なかなかズバッと決断することができません。正しいと思ったことでも、周囲が違う意見を持っていると、そちらに流されてしまうこともしばしばです。またこうした優柔不断な性格のせいで、未年生まれの人は八方美人に思われがちという部分もあります。誰の意見にでも賛成するため、自分がないと思われて、一部の人から軽く見られることも少なくありません。
9.受け身で引っ込み思案
上記の特徴とも関連しますが、未年生まれの人は受け身で引っ込み思案という面もあります。興味のあることには熱心ですが、それ以外には消極的で、自分の意見を言うことはあまりありません。周囲の意見に合わせ、それに基づいて行動することが多くなっています。話し合いなどで積極的に発言することは少なく、多数派に同調する傾向があります。周りの空気を読んで、それを壊さないよう流れに従うといったタイプになっています。こうした性格から、未年生まれの人は、集団の中であまり目立たないポジションにいることが多くなっています。先頭に立って皆を引っ張るといったことは苦手で、どちらかと言うと、地味な仕事や役割をこなすケースが目立ちます。
10.保守的
これまで見て来た特徴からもわかるように、未年生まれの人は、あまり革新的なタイプとは言えません。どちらかと言うと、保守的な傾向が強い性格となっています。上手くいっている時は、積極的に状況を改善しようとするより、むしろ現状をキープすることに関心を持つタイプです。状況が悪化した時も、あれこれと打開策を試すより、じっと我慢して好機を待つ人が多くなっています。こうした保守的な傾向は、未年生まれへ手ひどい挫折も与えない代わりに、大きな成功ももたらしにくくなっています。確実なチャンスにしか賭けたがらないため、限られたリターンしか得られないケースが多くなっています。 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●2021年の「丑年相場」は相場格言通りつまずく?
「辛丑(かのとうし)」の「辛」のほうにも注目
まずは足元の日経平均株価とTOPIX(東証株価指数)を確認しよう。2020年の日経平均株価は、2018年の1月23日高値2万4129円、同年10月2日高値2万4448円、そして2020年の1月17日高値2万4115円という「2万4000円台の複数の節目」をついにブレイク(上抜け)した。
先に結論を言えば、2021年1〜6月のレンジは上値3万円〜下値2万4000円、同7〜12月のレンジは同2万7000円〜同2万4000円を予想する。
年明け後の今後の注目点は、1月20日のアメリカ大統領就任前後における政治イベントや同国の財政政策の行方などであり、やはりアメリカの政治経済に左右されそうだ。日経平均が2万8000円を突破するには、TOPIXが2018年1月23日の高値1911を上抜けてくることがひとつのポイントだ。
日本株にとっての短期的なリスクとは?
さてこれらのレンジを予想する理由は、前回のコラム「日経平均が来年2万8000円になる条件とは何か」でも書いたとおりで、基本的には変わっていない。
つまり、現在のマーケット参加者は、EPS(1株当たり利益)水準の低さや高PER(株価収益率)では割高と見ているかもしれない。だが、それ以上に、「コロナを克服する、(遅くても)数年後の業績」をイメージするようにスタンスが強気に変わっているからだ。
ただ、日本株にとっての短期的なリスク要因は、世界的なコロナ感染拡大(ロックダウンによる経済封鎖、死亡者の拡大)によって世界景気が低迷することなどだ。債券市場ではアメリカの長期金利上昇、為替はアメリカのジョー・バイデン次期政権の「ドル安(円高)政策」などに注意したい。また同国の株式市場にはもちろん引き続き注意。マーケットには絶対はなく、リスク要因を見極めながら、しっかりと相場に挑みたい。
私に限らずマーケット関係者は、毎年、年の瀬が近づくと次の年の干支(えと)が気になる。未知の世界がどうなるか知りたいからだ。そこで2021年の相場を干支で見てみよう。
まず2021年は丑年だが、そもそも「丑(うし)」とは何か。十二支(じゅうにし)の1つで、「ね・うし・とら・う・たつ・み・うま・ひつじ・さる・とり・いぬ・い」の2番目に数えられている。
牛は古くから酪農や農業で人間を助けてくれた大切な動物だった。大変な農作業を最後まで手伝ってくれる働きぶりから、丑年は「我慢(耐える)」「これから発展する前触れ(芽が出る)」というような年になるといわれる。
中国の歴史書『漢書』律暦志によると、丑は紐(ひも:「曲がる」「ねじる」の意味)で、「芽が種子の中に生じているものの、出かかっていて表面に出てきていない状態を表している」と記載されている。結ぶ。何かに決着をつけるという意味がある。
現代では、干支(えと)というと、「子(ね:ねずみ)・丑(うし)・寅(とら)・卯(うさぎ:)・辰(たつ)・巳(み:へび)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い:いのしし)」の十二支のことを指すが、これはあくまで「支」のことを言っているのにすぎず、厳密には干支(えと)ではない。だから、2021年の干支(えと)とは、単に丑(うし)ではないのだ。
2021年の干支は、「辛丑(かのとうし)」
では2021年の干支(えと)はなにか。「十干十二支」から言わねばならず、それは「辛丑(かのとうし)」だ。そこで先人の知恵を借りて、2021年の日本株式相場を予測してみたい。
本来の干支は、「甲(コウ:きのえ)・乙(オツ:きのと)・丙(ヘイ:ひのえ)・丁(テイ:ひのと)・戊(ボ:つちのえ)・己(キ:つちのと)・庚(コウ:かのえ)・辛(シン:かのと)・壬(ジン:みずのえ)・癸(キ:みずのと)」の十干(じっかん)と十二支を合わせて、十干十二支(じっかんじゅうにし)で表される。
このうち、「辛」(かのと・西暦の末尾1の年)は、陰陽五行で「金」性の「陰」に当たる。辛は宝石や貴金属など小さくて精練された金属を象徴する。文字通り「辛(つら)い」という意味がある。また、「辛」の字は新との意味もある。草木が枯れて新たな世代が生まれようとする状態を表す。
十干と十二支の組み合わせは、60種類(周期)だ。10(十干)と12(十二支)の最小公倍数が60だからだ。一般的に理解しやすいのは、60年経つと、生まれた年と同じ干支(えと)になるので暦が戻る。60歳の「還暦」のお祝いはよく知られているところだ。ちなみに、これらは記号のようなもので、かつてはそれぞれを組み合わせて数字のように使われていたようだ。意味深い。
2021年は「辛丑(かのとうし)」である。この2つの文字が意味する2021年は、「辛さは続くが、一段落すれば、徐々に新しい知恵(アイデア)が湧いてくる」。これは、世の中を大きく変えた新型コロナウイルスが、このまま収束に向かうことを暗示しているのか、とても気になる。
では 60年前(1961年、昭和36年)の辛丑の年を振り返ると何があっただろうか。この年は1月にアメリカでケネディ大統領就任。2月は日本医師会と歯科医師会が医療費値上げ要求で一斉休診。7月は小児麻痺流行で生ワクチン投与、8月は東ドイツ政府によるベルリンの壁構築。9月は第2室戸台風による被害などだ。2021年は、これら60年前にあった出来事も踏まえ、相場をチェックしていきたいものだ。
1949年以降の日経平均3勝3敗、21年は後半つまずく?
さて、丑年相場を調べてみると相場の大天井になっていることが多い。相場格言は「丑つまずき」だ。丑年の日経平均は1949年(昭和24年)5月16日の取引再開来平均騰落率がマイナス6.3%と十二支中、最下位だ。
ただし、勝敗を見ると、通算6回は3勝3敗のイーブン(上昇年は、1961年・1985年・2009年。下落年は、1949年・1973年・1997年)。1949年は5月と9月のダブルトップのピークをつけた後、ドッジデフレ(1ドル=360円の単一為替レートの設定)で暴落した。また1961年は7月まで上昇後、「往って来い」となり下落(証券不況へ)。
次に1973年は2月変動相場制、10月オイルショックで年初から年末まで下落。1985年は年初から4月まで上昇したが、その後は年末まで横ばいで推移(9月にはプラザ合意)。1997年は年初から6月まで上昇したが、7月アジア通貨危機で下落。最後に、リーマンショックの次の年である2009年は3月までもたついたものの、6月にかけて上昇、その後年末まで横ばいだった。
上記のとおり、直近6回の丑年は、上昇下落を交互に繰り返しており、仮にこのリズムが続くと、2021年の丑年は、下落の年になるかもしれない。1949年以降の経験則でも年央に天井をつけて後半に下落する傾向があるようだ。相場格言どおり「つまずき」となることも想定しておきたい。
ちなみに、子(ね:ねずみ)年の2020年を振り返ると、日経平均は29年8カ月ぶりの高値を更新しており、相場格言どおり「子は繁栄」となった。
一方、干支の干のほうも見てみよう。 辛(かのと)年は、戦後4勝3敗と勝ち越しになっているが、直近ではなんと3連敗中だ(上昇年は、1951年・1961年・1971年・1981年。下落年は、1991年・2001年・2011年)だ。
詳しく見ると1951年は年初から年末まで右上がりに上昇。1961年は年初から7月まで上昇したが、年末にかけて下落。1971年は年初から8月まで上昇、8月ニクソンショック後はもたついた展開。1981年は年初から8月までの上昇でピーク、その後乱高下。1991年は、ソビエト連邦崩壊で3月以降、年末まで下落。2001年は5月まで堅調だったが、アメリカの同時多発テロで9月に急落。2011年は東日本大震災で3月に急落、11月さらに下落した。
上記のとおり、4回の上昇年は、1951年を除き、7月か8月に年間ピークをつけている。2021年も夏以降、気をつけたい。ちなみに、直近3回の辛年は、湾岸戦争・アメリカの同時多発テロ・大震災などにより、3連敗して下落している。
最後に、為替リスクにも注意したい。辛年は、戦前で見ると1931年にはアメリカのハーバート・フーバー大統領によるモラトリアム宣言、日本の高橋(是清)財政開始、英国では金本位制停止の年だった。また戦後はなんといっても1971年8月のニクソンショック。さらに2011年8月にはニューヨーク外為市場で1ドル=75.95円の最高値更新をしている。このように見ると、2021年は円高リスク(ドル安リスク)にも注意したい。 

 

●干支にまつわる株式相場予測 十二支の格言
干支にまつわる株式相場格言は、年末年始に新聞や雑誌で紹介されることが多い。
十二支全てをまとめると「辰巳(たつみ)天井、午(うま)尻下がり、未(ひつじ)は辛抱、申酉(さるとり)騒ぐ、戌(いぬ)笑い、亥(い)固まる、子(ね)は繁盛、丑(うし)つまずき、寅(とら)千里を走り、卯(う)跳ねる」。
それぞれ「辰年や巳年では株価が天井をつける傾向があり、午年は下がりやすい。一方、戌年や子年、寅年などが高くなりやすい」とされる(2008.12)。
ほか、「戌亥(いぬい)で仕込み、辰巳(たつみ)で売る」という格言もあり「亥年は例年株価が安いため、ここで買い注文を入れ、株価が天井をつける辰年、巳年で売りを出せば良い」ことを表す(1997.1)。同内容で次のような表現もある。
・戌亥の借金、辰巳で返せ(2006.1)
・戌亥で買って、辰巳で売れば蔵が建つ(1996.1)
・戌亥買いの辰巳売り(1994.12)
・戌亥の借金、辰巳で払え(1993.7)
格言の由来について、前出の和島による記事は「東京・兜町には古くから十二支にまつわる相場格言がある」と述べるにとどまっている。
なお、『十二支(えと)のことわざ事典』p.115「辰巳天井」の項目では「大阪の米相場師の間で、「辰巳天井」といって辰の日と巳の日には相場が高騰すると伝えられた」と説明されている。
同じ意味の「辰巳アガリ」、「辰巳上り」という格言が『日本証券史資料 戦前編第9巻』に収録された複数の図書に掲載されており、同書収録の『株と米の相場必勝辞典』p.403では「辰巳は『立つ身』に通じ、立身出世をするといふのに因み、これを相場にも応用して、辰巳の日には相場が上騰すると言ひ伝へられてゐる」と解説している。 

 

●2021年丑年の株価はどうなる?過去の丑年パターンから来年の相場を予測 12/9
2020年も残り1カ月を切りました。今年の干支となる子年は1950年以降では過去5回ありました。それぞれ、子年はどんな相場だったのでしょうか。過去の株価を分析してみたいと思います。さらに、来年の干支である丑年との相関も考察してみます。
子年は3勝2敗
過去の子年の成績を見てみましょう。1960年(年間騰落率+55.07%)、1972年(同+91.91%)、1984年(同+16.66%)、1996年(同▲2.55%)、2008年(同▲42.12%)となっており、3勝2敗でした。
1984年までは全勝でしたが、2008年のリーマンショックによって子年は株高のジンクスはかなり低下してしまいました。それでも2020年は12月1週目現在では年間騰落率が+13.08%と好調に推移しています。
過去の丑年のパフォーマンスは
それでは、来年の干支となる丑年はどうだったのでしょうか?
1961年(年間騰落率+5.59%)、1973年(同▲17.30%)、1985年(同+13.61%)、1997年(同▲21.19%)、2009年(同+19.04%)となり、過去5回の平均騰落率は▲0.05%でした。
1961年は岩戸景気の最終局面、1985年は9月にG5でドル高是正のプラザ合意、2009年はリーマンショック後、2月に米金融安定化法が成立して、戻りを試す展開となりました。半面、1973年には2月から為替が変動相場制に移行し、10月に第一次石油危機が到来、1997年は7月のアジア通貨危機と11月の大手証券と都銀の破綻などから大きなマイナスとなりました。
過去5回の特徴を大まかに捉えると、年始から年半ばまで堅調な推移となったケースが多かったものの、半ばから調整に転じるケースが多かったようです。
2020年と最も相関係数が高かった年は
1950年以降の週足終値を1年単位で区切り、69年分の相関関係を分析しました。
2020年の週足データと最も相関係数が高かった年は以下のようになりました。
1、2014年(年間騰落率+7.12%) 0.74、 2、1955年(同+19.55%) 0.72、 3、2003年(同+24.45%) 0.66、 4、1952年(同+118.38%) 0.66、 5、1953年(同+4.22%) 0.66
1番目の2014年は4月に消費税5%〜8%に引き上げられましたが、10月には日銀追加金融緩和(追加金融緩和8兆円とETFなどリスク商品の購入3倍増)が株高につながりました。2番目の1955年は11月に自由民主党が結成され、55年体制が発足しました。
3番目から5番目の中で特徴的だったのは1953年で3月のスターリン暴落と今回の新型コロナウイルスによる急落局面のトレンドが非常に似ていた点が注目されます。
来年を予測してみる
2020年のトレンドと相関の高かった5つの例をもとに来年を予測します。
1番目に2020年の週足と相関が高かった2014年の翌年は2015年(年間騰落率9.07%)となります。この年は、年央まで堅調に推移したものの8月ことに海外投資家の日本株売りで伸び悩む展開となりました。
次に相関の高かった1955年の翌年は1956年(同29.00%)です。54年12月から57年6月までの31ヶ月間続いた「神武景気」の真っただ中にあり、2年連続での大幅上昇となりました。
その次の3番目の2004年(同7.61%)は8月に三菱東京フィナンシャルグループとUFJホールディングスの経営統合が実現した年でした。4番目の1953年(同4.22%)は3月スターリン暴落があったものの年末にかけて株価は持ち直しました。
5番目の1954年(同▲5.78%)は2月に造船疑獄事件もあって下落しましたが、6月に国連アジア極東経済委員会に加盟するなど国際化が進みました。なお、5つの平均騰落率は+8.82%でした。
年半ばまでは堅調?
丑年の5つの平均は▲0.05%とマイナスとなっていましたが、トレンドの形成パターンは年央まで堅調に推移したものの、年末にかけて伸び悩むことが多い傾向が見られました。
一方、相関分析から算出された5つのパターンを翌年の5つの例(2015年、1956年、2004年、1953年、1954年)をみると年央まで比較的堅調な動きとなるが、中頃から伸び悩むパターンとなるか、年末にかけて再び上昇するかのパターンが予測されそうです。
2つのパターンで共通している点は、年央まで比較的堅調な推移が見込める可能性が高い点が挙げられそうです。 

 

●丑年は「つまずき」? 経験則では年央天井、後半下落 12/9
干支(えと)が丑(うし)となる2021年。市場では株価の伸び悩みへの懸念が広がっている。丑年の相場格言は「つまずき」で、これまでのアノマリー(経験則)でも年央に天井をつけて後半に下落する傾向がある。
SMBC日興証券によると、1950年以降で丑年の日経平均株価の年間騰落率は平均でマイナス0.05%。十二支の中では午(うま)年のマイナス5.04%に次いで二番目に悪い。回数で見ると5回の丑年のうち、下落したのは2回だが、岩戸景気の最終局面となった61年や、アジア通貨危機が起きた97年など、年後半に大幅に下落した年が全体を引き下げた。
子(ね)年だった20年を振り返ると、9日までの年間上昇率は13.36%。過去平均の23.79%には届かないが、日経平均は29年8カ月ぶりの高値を更新。「子は繁栄」の格言通りとなった。
来年も新型コロナウイルスの影響が相場の行方を左右しそうだ。今年の株高は世界各国の金融緩和と財政出動に支えられた。いちよし証券の高橋幸洋投資情報部課長は「実体経済の回復で政策の引き締めが始まれば、過剰流動性による株高も終わる」と話す。
コロナ感染再拡大にも要注意だ。来年夏に開催予定の東京五輪・パラリンピックも感染状況によっては再延期の可能性もある。SMBC日興証券の末沢豪謙金融財政アナリストは「開催期待がはげ落ちれば株価の重荷になる」と話す。 

 

●どうなる丑年相場 「つまずき」それとも「ブル」? 12/18
今年も残すところ2週間。時事通信は今週、2020年の10大ニュースを発表しました。国内・海外部門ともにトップはもちろん新型コロナ。想定もしなかった感染症の猛威に翻弄された1年でした。年初のメールマガジンでは「子年」の相場格言が「繁盛」で株価上昇が期待できる一方、最近は2008年のリーマン・ショックなど波乱に見舞われることが多いと書きました。実際、コロナによる大荒れの展開を経て、NYダウが史上初の3万ドルに乗せ、日経平均株価もバブル後最高値を更新。繁盛とは程遠い状況とはいえ、株価だけを見ると格言通りと言えなくもありません。
来年の「丑」は、相場格言によると「つまずき」。これまでの年間騰落率でも丑年は十二支の中でワースト2位だそうです。世界各地でワクチン接種が始まり、経済活動の本格的な再開を大いに期待したいところですが、株価上昇の動きは鈍化するのでしょうか。
年末恒例の干支と相場の関係を解説する記事。「丑」という字は「腕や植物の芽が伸び切らない様子」を表しているそうです。過去の丑年相場の出来事を振り返った上で、「子年と同様、波乱含みとみたほうがよさそうだ」と指摘。景気回復が進むと金融緩和政策の「出口」がどうなるかも気になります。 一方、英語では強気相場が「ブル」、弱気は「ベア」。ブルは雄牛が勢いよく角を振り上げる姿が上昇相場のイメージと重なり、ベアは熊が前足を振り下ろす仕草に由来するとか。ウォール街を象徴する「チャージング・ブル」(突撃する雄牛)の銅像を思い浮かべる方も多いでしょう。
文字通りブル相場になるとの見方は少なくありません。市場関係者の株価見通しでは、日経平均が3万円に迫るといった強気の予測が目立ちます。社会活動の正常化に加え、予定通り東京五輪が開催されればインバウンドが増える。脱炭素やデジタル化の推進による経済活性化の期待も。「丑年」と「ブル」を結びつけるのは無理があると分かったうえで、さらに付け足すと牛は「カウ=買う」。まだ言うか、という声も聞こえてきそうですが、明るい2021年を祈る思いを汲み取っていただければ幸いです。 

 

●新型コロナの致死率低下による株高は限界だ 12/24
2020年の世界の株式市場は一時、新型コロナウイルスの影響で暴落に見舞われたものの、その後は急激に回復過程をたどった。北野氏はアメリカの代表的な株価指標であるS&P500種株価指数を用いて「株価はコロナウイルス感染症の限界致死率とほぼ連動していた」と分析する。
SBI証券では「世界の新規死亡者数(7日平均)÷世界の新規感染者数(10日前の7日平均)」を限界致死率と定義。この数値がもっとも高くなったのは3月21日の23.6%だった。これはS&P500が今年の最安値2237ポイントをつけた3月23日とほぼピタリと一致する。
人類がコロナへの理解を深めるにつれ、致死率は学習曲線を体現するような形で低下してきたが、いっぽうで致死率が下限に近づいたことで、「致死率の低下を頼りにした上昇相場は推進力を失いつつある」と北野氏は指摘する。
感染者は増えていても、致死率の低下で不確実性は減少傾向だ。感染拡大に伴う不確実性を推進力にして上昇してきたグロース株だが、ここへ来て割高感が意識されるようになってきた。 

 

●21年丑年相場の鍵握る、謎の数字「1911」の正体 12/25
2020年の相場を改めて振り返ってみよう。年初の時点では新型コロナウイルスがここまで世界に深刻な影響を与えると考えていた人は多くなかったはずだ。ウイルスは人々を恐怖に陥れ、日経平均株価は3月に1万6358円の年初来安値(ザラ場安値)をつけた。
だがもっと驚いたのは、むしろその後だ。コロナ禍が続くなか株価は急回復。足元ではアメリカの製薬会社などが開発したコロナワクチンによる経済回復への期待が先行、まさに「いいとこ取り」の相場になっている。
一方で株価は大きな節目にさしかかったとも言えそうだ。テクニカル分析で「フィボナッチ・レシオ」と呼ばれる「1対0.618」の数字を当てはめてみると、日経平均株価は史上最高値である1989年12月の3万8915円と、2009年3月につけた平成バブル後の最安値7054円(いずれも終値)との差3万1861円の61.8%戻し水準である2万6744円近辺で、推進力が鈍り始めた。
では今後はどうなるのか。福井記者が2021年に向け、上昇のカギを握る数字として挙げるのがTOPIX(東証株価指数)の2018年高値1911ポイントだ。ハイテク株の比率が比較的高い日経平均は29年ぶりの高値と言われる一方、従来型産業も多いTOPIXがこの数値を抜けるかが重要だという。
しかもこの「1911」という数字は、ある歴史的な建造物がつくられた年とも偶然一致。くしくも2020年11月には、この建造物にからんで日本の未来を象徴する出来事が始まったのだという。丑年は相場格言では「つまずき」と言われるが、果たして2021年はどうなるだろうか。 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●土用の丑の日
土用の間のうち十二支が丑の日である。「土用」とは五行思想に基づく季節の変わり目を意味する雑節(ざっせつ)で、四季の四立(立春、立夏、立秋、立冬)の直前の約18日間を指す。この期間中の丑の日は、年に平均6.09日あることになる。
一般には、夏の土用の丑の日のことを、単に土用丑の日と言うことが多い。夏の土用には丑の日が年に1日か2日(平均1.57日)あり、2日ある場合はそれぞれ一の丑・二の丑という。以下、夏の土用の丑の日のことを単に土用の丑の日と呼ぶこととする。平気法では土用の定義が異なる(ただし丑の定義は同じ)ため土用の丑の日が異なる年もあるが、ここでは太陰暦以来普及している定気法での土用を用いる。
日付​
土用の丑の日になることがある日は、夏の土用になることがある7月19日 - 8月7日である。毎年夏の土用となる7月19日 - 8月7日は、いずれも等しく12年に1回の割合(12年間隔という意味ではない)で土用の丑の日となる。
1900年(明治33年) - 2099年(令和81年)の間は土用の日付が少しずつ前倒しになるため、土用の丑の日になりうる日も変化する。1907年(明治40年)には、明治の改暦から現在までで唯一、8月8日が土用の丑の日(二の丑)となった。2096年(令和78年)には改暦以来初めて、7月18日が土用の丑の日(一の丑)となると予想される。
二の丑​
前節のように、土用の丑の日が2回となる場合が多々ある。
夏の土用は太陽黄経が117度から135度(立秋)の前日までと定義され、平均18.82日間(18日:19日=18%:82%)ある。19日の年の場合、土用の入りから7日以内に丑の日があると(すなわち土用入りの日が未から丑の間のだと)、土用のうちにもう一度丑の日が巡ってくる。これが二の丑であり、57%の年にある。
夏の土用の入りは7月19日 - 20日なので、最も早い二の丑は入りが7月19日で丑の日だった場合の7月31日となり、7月に2回土用の丑の日が来る。2009年(平成21年)、明治改暦以来初めて(改暦前も新暦で計算すれば213年ぶりに)7月の二の丑となった。ただし、7月の二の丑はこれ以降21世紀の間はそれほど珍しくなく、2025年(令和7年)・2041年(令和23年)・2057年(令和39年)・2073年(令和55年)・2089年(令和71年)と16年周期で7月31日が二の丑となり、2096年(令和78年)には7月30日が二の丑になると予想される。
土用の丑の日の鰻(うなぎ)​
日本で「暑い時期を乗り切るために、栄養価の高いウナギを食べる」という習慣は万葉集にも詠まれているように古代に端を発するとされるが、土用の丑の日に食べる習慣となったのは、文政5年(1822年 - 1823年)当時の話題を集めた『明和誌』(青山白峰著)によれば、安永・天明の頃(1772年 - 1788年)よりの風習であるという。
農林水産省の広報用Webマガジンでは、鰻には夏バテ予防に必要な栄養素が豊富に含まれていると紹介されている。
しかし、日本における疲労研究の第一人者である大阪市立大学大学院特任教授の梶本修身によれば、「栄養価の高いものを食することが当たり前になった現代はエネルギーやビタミン等の栄養不足が原因で夏バテになることは考えにくく、現代において夏バテ防止のためにうなぎを食べるという行為は医学的根拠に乏しいとされ、効果があまりない」としている。
由来​
   通説(平賀源内説)​
鰻を食べる習慣についての由来には諸説あり、「讃岐国出身の平賀源内が発案した」という説が最もよく知られている。しかし、平賀源内説の出典は不明で、前述の『明和誌』にあると説明するケースもあるが、『明和誌』には記されていない。源内説は細かなバリエーション違いがあるが、要約すれば「商売がうまく行かない鰻屋(知り合いの鰻屋というパターンもある)が、夏に売れない鰻を何とか売るため源内の元に相談に赴いた。源内は、「本日丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めた。すると、その鰻屋は大変繁盛した。その後、他の鰻屋もそれを真似るようになり、土用の丑の日に鰻を食べる風習が定着した」というもの。丑の日と書かれた貼り紙が効力を奏した理由は諸説あり定かではないが、一説によれば「丑の日に『う』の字が附く物を食べると夏負けしない」という風習があったとされ、鰻以外には瓜、梅干、うどん、うさぎ、馬肉(うま)、牛肉(うし)などを食する習慣もあったようだが、今日においては殆ど見られない。
実際にも鰻にはビタミンA・B群が豊富に含まれているため、夏バテ、食欲減退防止の効果が期待できるとされているが、前述の通り、栄養価の高い食品で溢れる現代においてはあまり効果は期待できないとされる。そもそも、鰻の旬は冬眠に備えて身に養分を貯える晩秋から初冬にかけての時期であり、夏のものは味が落ちるとされる。
   その他の説​
春木屋善兵衛説 - 同じ文政年間(1818年 - 1831年)の『江戸買物独案内』による。「土用に大量の蒲焼の注文を受けた鰻屋、春木屋善兵衛が、子の日、丑の日、寅の日の3日間で作って土甕に入れて保存しておいたところ、丑の日に作った物だけが悪くなっていなかったから」という説。但し、この説は前述の『江戸買物独案内』には記されていない。
蜀山人説 - 鰻屋に相談をもちかけられた蜀山人こと大田南畝が、「『丑の日に鰻を食べると薬になる』という内容の狂歌をキャッチコピーとして考え出したという話が天保10年(1839年 - 1840年)の『天保佳話』(劉会山大辺甫篇の狂詩集)に載せられている」と説明するケースがあるが、同書にそのような記載は一切ない。また、天保8年に刊行された同名の随筆集『天保佳話』を出典にあげることもあるが、同書にも大田南畝と土用丑の日を結びつける記述は一切ない。ただし、大田南畝の作品を集めた『紅梅集』(全集第二巻所収)には、土用丑の日とは関連付けていないが、鰻屋の「高橋」を讃えた狂歌と狂詩が掲載されている。
丑=鰻二匹説 - 「平仮名で墨汁を使って毛筆で書いた『うし』と言う文字が、まるで2匹の鰻のように見えたから」と言う説。
最近の動き​
鰻の養殖業者らが中心となって、「夏以外の土用の丑の日にも、鰻を食べる習慣を普及させよう」という動きがある。スーパーマーケットやコンビニエンスストアでもこの動きが見られる。土用は季節の変わり目でもあるため、「栄養価の高いウナギを食べて、精を付けよう」という趣旨に一応の妥当性はある。
鰻の産地である長野県岡谷市の岡谷商工会議所が、冬の土用の丑の日を「寒の土用の丑の日」として商標登録(出願番号:商願平11-39161号、登録番号:登録商標第4525842号)したほか、1998年(平成10年)には「うなぎのまち岡谷の会」が日本記念日協会に記念日として登録した。
その他の風習​
○ 「めぐり」 / 平安から室町時代にかけては、疫病除けに「めぐり」と呼ばれる杉原紙を混ぜ込んだすいとんを食べる習慣や、アズキやニンニクを飲む習慣があった。
○ 石田散薬 / 土方歳三の生家が製造、販売していた薬。土用の丑の日限定で薬草を刈り取り製造していた。
○ 湯田上温泉 / 新潟県南蒲原郡田上町(旧国越後国)にある温泉。 由来は、温泉のお湯と所在地である田上を合わせたものである。源泉温度28℃。土用の丑の日に温泉に入ると一年間健康で過ごせる、とされている。
○ きゅうり加持 / きゅうり加持祈祷会、きゅうり封じなどとも呼ばれ、盛夏、特に土用の丑の日ころにきゅうりにあやかって暑い夏を乗り切ろうとする祈祷儀式である。夏の食物の中で、水分が多く栄養価が高い「きゅうり」に、疫病、厄難を封じ こめて、夏の暑い時期を無病息災に過ごすために、特に土用の丑の日ころの祈祷で、中国、朝鮮、日本で広まった庶民信仰である。空海がキュウリに疫病を封じて病気平癒を祈願したことにちなみ、厄病除けの祈祷「きゅうり封じ」(きうり加持)が行われるようになったともいう。日本国内では、四国一宮寺、小豆島霊場40番札所・保安寺、永徳寺、神光院、栴檀寺、転法輪寺などで行われている。
○ 焙烙灸 / 土用の丑の日に、寺院において、素焼きの皿(焙烙)に灸を置いたものを頭に据える「焙烙灸」という修法があり、頭痛などに験があるとされる。 

 

●土用の丑の日 
1000年も前から、夏ばてにはうなぎと言われていたようで、暑いときに食べると言うのはたぶん自然に生活の知恵として定着していたのでしょう。ではなぜ土用丑なのか?土用ってなんなんだ?丑ってなんなんだ?
まず土用とは
元々土旺用事と言ったものが省略されたもの。昔々、世の中の全てが木火土金水の五つの組み合わせで成り立つという五行説を季節にも割り振ることを考えた人が居たみたいですが、昔も今も季節は「四季」で「五季」とはいいませんから、
木−春
火−夏
金−秋
水−冬
土−???
と割り振ったら「土」が余ってしまった。そこで、「土の性質は全ての季節に均等に存在するだ!」とこじつけて、各季節の最後の18〜19日を「土用」としました。(これで1年の日数が均等に五行に割り振られたことになります)。
今は土用というと夏だけですが本来は全ての季節に土用があります。
土用は季節の最後に割り振られるので「土用の明け」は次の季節の始まる日の前日。(夏土用は、立秋の前の日に終わる)。異なる季節の間に「土用」を置くことで、消滅する古い季節とまだ、充分に成長していない新しい季節の性質を静かに交代させる働きをするそうです。
丑の日
丑の日の「丑」は十二支の「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」の丑です。各土用の中で丑の日にあたる日が「土用丑の日」、一般的には「夏土用の最初の丑の日」に鰻屋の祭り「土用丑」と称して鰻を食べる日ということになっています。2回目の「土用丑」は皆疲れているのか、飽きるのか、あまり盛り上がらない。
西暦年 土用の入り 土用明け 丑の日 二の丑
2009年 7月19日 8月6日 7月19日  7月31日
2010年 7月20日 8月6日 7月26日 -
2011年 7月20日 8月7日 7月21日 8月2日
2012年 7月19日 8月6日 7月27日 -
2013年 7月19日 8月6日 7月22日 8月3日 
2014年 7月20日 8月6日 7月29日 -
2015年 7月20日 8月7日 7月24日 8月5日
2016年 7月19日 8月6日 7月30日 -
2017年 7月19日 8月6日 7月25日 8月6日
2018年 7月20日 8月6日 7月20日 8月1日
2019年 7月20日 8月7日 7月27日 -
2020年 7月19日 8月6日 7月21日 8月2日
土用丑の日とウナギ
夏の土用の時期は暑さが厳しく夏ばてをしやすい時期ですから、昔から「精の付くもの」を食べる習慣があり、土用蜆(しじみ)、土用餅、土用卵などの言葉が今も残っています。また精の付くものとしては「ウナギ」も奈良時代頃から有名だったようで、土用ウナギという風に結びついたのでしょう。今のように土用にウナギを食べる習慣が一般化したきっかけは幕末の万能学者として有名な平賀源内が、夏場にウナギが売れないので何とかしたいと近所のウナギ屋に相談され、「本日、土用丑の日」と書いた張り紙を張り出したところ、大繁盛したことがきっかけだと言われています。
丑とうなぎの「う」がいっしょだから??  この時、平賀源内が焼き鳥屋さんに相談を受けていたとしたら今ごろは・・・・・・。なぜ丑の日なのか? ウナギなのか? 丑の日とウナギの関係ですが、丑の日の「う」からこの日に「うのつくもの」を食べると病気にならないと言う迷信もあり、「ウナギ」もこれに合致した食べものであった!? 別の説では、十二支のうち「丑辰未戌」の4つが五行説の「土」に配当されています。ひょとすると「土用最初の土の日」・・・・・かも知れません。  

 

●土用の丑の日 夏に鰻を食べる意味と由来 
土用の丑の日とは
まず、「土用」は立夏・立秋・立冬・立春直前の約18日間の「期間」を示す言葉です。そして、昔の暦では日にちを十二支(子・丑・寅・卯…)で数えていました。
つまり”土用の丑の日”とは、土用の期間におとずれる丑の日の事を指しているのです。
土用は毎年違うので、土用の丑の日も毎年変わります。
さらに、土用の丑の日といえば夏のイメージが強いかもしれませんが、下記にある通り年に何回かやってきます。立夏・立秋・立冬・立春それぞれに土用があるので、納得ですね。
いずれにしても、土用の丑の日は「季節の変わり目」といえます。ちなみに、土用の丑の日と土曜日とは関係がありません。
【2019年の土用の丑の日】 1月28日、4月22日、5月4日、7月27日、10月31日
【2020年の土用の丑の日】 1月23日、4月16日、4月28日、7月21日、8月2日、10月25日、11月6日
【2021年の土用の丑の日】 1月17日、1月29日、4月23日、7月28日、8月1日、10月20日、11月1日
2019年は夏に土用の丑の日が1回だけで、7月27日(土)が「一の丑」です。
そして2020年は夏に土用の丑の日が2回あります。この場合は7月21日を「一の丑」、8月2日を「二の丑」と呼びます。
このように、1年に何回か土用の丑の日が訪れますが、最近では土用の丑の日といえば夏というイメージではないでしょうか。
土用の丑の日にウナギを食べる意味
7世紀から8世紀に編纂された「万葉集」には、下記のようなウナギを詠んだ歌があります。
石麻呂に吾れもの申す夏痩せに  よしといふものぞむなぎとり召せ 大伴家持
”夏痩せにはむなぎ(ウナギ)を食べると良い”と、石麻呂という人に勧めている歌です。昔から体調を崩しやすい夏にはウナギを食べて栄養をたっぷり摂ろうという考えがあったのですね。
いま土用の丑の日にウナギを食べるのも、土用の丑の日は季節の変わり目にあたる為に体調を崩しやすいので、合理的と言えます。
実際、ウナギにはビタミンAやビタミンB群など、疲労回復や食欲増進に効果的な成分が多く含まれています。夏バテ防止にはピッタリの食材と言えるでしょう。
土用の丑の日、誰が決めた?
ウナギを食べる習慣が一般にも広まったのは1700年代後半、江戸時代でした。一説によれば「夏に売り上げが落ちる」と鰻屋から相談を受けた蘭学者の平賀源内が、店先に
「本日丑の日」 土用の丑の日うなぎの日 食すれば夏負けすることなし
という看板を立てたら大繁盛したことで、ほかのウナギ屋もマネするようになったとか。この「本日丑の日」は、日本初のコピーライティングともいわれています。
うなぎ以外の食材も良し
ウナギ以外には「う」のつく食べものがよいといわれています。「丑(うし)の日」の「う」ですね。例えば、うどん・ウリ・梅干し・ウサギ・馬肉(ウマ)・牛肉(ウシ)など。
いずれも栄養価が高い、または食欲がなくても食べやすい食材ばかり。平安時代から室町時代には「めぐり」という水団(すいとん)や小豆、ニンニクを食べていたと伝わっています。食べて元気をつけよう!というのは、時代に関係なく共通のようです。
食べ物以外の風習
○ 新潟 湯田上温泉
さまざまな効能があり「薬師の湯」と称される湯田上温泉。土用の丑の日に「丑湯」を楽しめば、1年無病息災で過ごせるといわれます。
○ 薬狩り
幕末の志士、土方歳三の生家が販売していた「石田散薬」では、薬草を摘むのは土用の丑の日のみと決まっていました。「病除け」や「厄除け」のため、土用の丑の日に薬狩りをおこなう地域はほかにもあるそうです。
○ きゅうり加持
水分豊富なきゅうりにあやかり、暑い夏を乗り切るための祈祷儀式をおこないます。きゅうりに厄災を封じ込めることで、無事に過ごせるそうです。きゅうり加持は空海も執り行なった儀式。 現在は小豆島の大観音、愛媛の永徳寺と栴檀寺、京都の神光院のきゅうり加持が知られています。 

 

●土用の丑の日 
2020年の「土用の丑の日(どようのうしのひ)」は、7月21日(火)と8月2日(日)の2回。2021年は7月28日(水)の1回です。土用は季節ごとにあるのですが、夏の土用は体調を崩しやすい時期のため特に重要視され、土用といえば夏の土用を指すようになりました。この日は、ウナギや梅干しなど「う」のつくものを食べて夏バテ予防をし、桃の葉などを入れた丑湯(うしゆ)に浸かって夏の疲れを癒やしましょう。
土用の丑の日とは?
「土用(どよう)」とは、立春、立夏、立秋、立冬前の18日間(または19日間)を指す雑節。中国伝来の陰陽五行説からきており、万物の根源とされる「木火土金水」を、春=木、夏=火、秋=金、冬=水、と当てはめ、あまった「土」を季節の変わり目に割り当て、「土用」と呼びました。
土用は年に4回あるわけですが、夏の土用は梅雨明けや大暑に重なり体調を崩しやすいため、最も重要視されるようになったのです。
「丑(うし)の日」とは、日にちを十二支に割り当てた「丑」の日のこと。土用の約18日間にめぐってくる丑の日を「土用の丑の日」といいます。やはり季節ごとにあるものですが、今では夏の土用にめぐってくる丑の日を指すように。年によっては「土用の丑の日」が2回めぐってくることもあり、その場合は一度目を「一の丑」、2度目を「二の丑」といいます。
2020年の土用の丑の日は、一の丑が7月21日(火)、二の丑が8月2日(日)。以下のように毎年日付が異なります。
ウナギや梅干しで夏バテ予防を
食欲が落ちがちな夏の土用。その丑の日には「う」のつく食べ物で食い養生をするのが昔からの風習で、代表格は「ウナギ」ですよね。ウナギは、疲労回復に効くビタミンやエネルギー源となる脂質をたっぷり含む滋養に富んだ食材。夏バテ防止にぜひいただきたいものです。
しかし近年では、ウナギの養殖に使う天然稚魚(シラスウナギ)の激減で価格がはね上がり、絶滅も危惧される状態に。そこで代わりにおすすめするのが、昔から親しまれてきた「う」のつくものや土用の行事食です。
○ 梅干し:クエン酸が疲れをとり、食欲を増進
○ うどん:さっぱりとしてのど越しもよく、暑い日でも食べやすい
○ ウリ類:胡瓜(キュウリ)、西瓜(スイカ)、南瓜(カボチャ)、冬瓜(トウガン)、苦瓜(ニガウリ=ゴーヤ)など。ウリ類は夏が旬で栄養価が高く、体の熱をとったり、利尿作用で体内バランスを整えたりも
○ 土用餅:あんころ餅のこと。これを食べると、暑さに負けず無病息災で過ごせるといわれている
○ 土用しじみ:栄養価が高く、肝臓の働きを助けることから「土用しじみは腹薬」といわれている
○ 土用卵:土用に産み落とされた卵のこと。ウナギ同様、精がつくとされる
丑湯で夏の疲れを癒やそう
「丑湯(うしゆ)」とは、土用の丑の日に、夏バテ防止や疲労回復のために薬草を入れたお風呂に入ること。江戸時代からある風習で、この日にお湯に浸かると無病息災で過ごせるとされています。
昔から丑湯に入れられていた薬草は、桃の葉やドクダミなど。どちらもあせもや湿疹などの夏の肌トラブルを和らげる効果が期待できます。清々しい香りを楽しみたい人は、緑茶やハーブティーの茶葉をお茶用のパックに入れて、湯船に浮かべてもいいですね。「暑い時期は湯船に入らずシャワーだけ」という人も、土用の丑の日には「丑湯」に浸かり、夏の疲れを癒やしませんか? 

 

●土用の丑 
土用の丑とは、土用の入りになって最初に来る丑の日のことで、夏バテ防止にウナギの蒲焼を食べると良いとされる日。
土用の丑にウナギを食べる習慣は、江戸時代の蘭学者「平賀源内」が、知人の鰻屋のために「本日、土用の丑の日」と書いて店頭に張り紙をしたところ、大繁盛したことが一般的に有名な起源説である。
同じような説に、大田蜀山人が「神田川」という鰻屋に頼まれ、「土用の丑の日に、うなぎを食べたら病気にならない」という内容の狂歌を作って宣伝したという説もある。
その他の説では、文政年間、神田泉橋通りにある鰻屋「春木屋善兵衛」のところに藤堂という大名から大量の蒲焼が注文され、「子の日」「丑の日」「寅の日」の三日かけて蒲焼を作ったが、「丑の日」の鰻だけが変質しなかったといった説もある。
『万葉集』の大伴家持の和歌には「ウナギを食べて健康を維持しよう」といった内容のものがあり、当時、言葉自体は存在しないが、土用の丑の頃をさしているため、古くからの言い伝えを元に平賀源内や大田蜀山人がキャッチコピーにしたとも考えられる。
土用の丑には、ウリや梅干し・うどんなど、「う」の付く物を食べるところもある。 

 

●鰻だけじゃない、土用の丑 
日本の夏は高温多湿で、「夏バテ」という言葉があるように体力を消耗する季節です。精のつくものを食べて乗り切りたい……鰻はその代表格として『万葉集』の大伴家持の歌にも登場します。
   石麿(いわまろ)に われ物申す 夏痩に よしといふ物そ 鰻(むなぎ)取り食(め)せ
家持は、痩せこけた石麿という人に「むなぎ」、つまり鰻を勧めているのです。
「土用の丑の日」に鰻を食べるようになったのは、江戸後期になってからのことです。平賀源内が鰻屋の商売繁盛の手助けとして「本日丑の日」と書き、それがきっかけとなったという説など、始まりについては諸説あります。そもそも土用とは、雑節のひとつで、立春、立夏、立秋、立冬が訪れるまでのそれぞれ十八日間のことを指します。ですから、土用は本来、一年に四回あるのです。中でも立秋前の「夏の土用」が特に取り上げられるのは、やはり、酷暑の時期であり、なにかと体調に気を配らなくてはならないからでしょう。
また、丑の日の「丑」は、ご存知のように十二支のひとつです。当時十二支は、 年月日、時刻、方角を表す際にも用いられ、「丑の日」も他の干支の日と同様に十二日毎に定められていました。「丑の日は災難を受けやすい日」という言い伝えがあり、夏負けや食当たりの心配がある夏の土用の丑の日は、ことさら注意が必要と思われたのかもしれません。
この夏負け対策として、鰻ばかりが重宝されてきたわけではありません。丑の方角の守護神が〔玄武〕という名の黒い神だったので、黒いものを食べる風習もありました。鰻をはじめ、ドジョウ、黒鯛、ナスなど黒いものを食べる……ある種、おまじないのようなものですね。
旬の言葉にも「土用鰻」と並んで「土用蜆(しじみ)」「土用餅」という言葉が残っています。蜆も夏の体力増進に一役買っていたのでしょう。土用餅は、草餅・笹餅、あんころ餅、安倍川餅などその土地ならではの餅が、体力増進に、夏の厄除けにと食されてきました。いまでもこの風習が残っている地域があるようです。さらに、「う」のつく食べ物も夏負けしないといわれ、鰻のほか、瓜、梅、うどんなどを食べる慣わしもあったとか。いずれにしろ、冷房のない時代に暑さを乗り切るため、様々な知恵を絞ってきたことがうかがえます。私たちも先人の知恵に倣って、体調には十分注意をし元気に夏を乗り切りたいものです。 

 

●土用の丑の日・鰻の話 
土用といえば、夏の土用の丑の日を思い浮かべられる方が多いでしょう。この日は昔から、梅干し・うどん・うりなど「う」のつくものを食べて夏バテ防止をする風習があり、「う」のつく「鰻」は、まさに疲労回復効果抜群の食べものとされていました。
土用の丑の日が近づくと、鰻屋さんばかりでなく、あちらこちらから蒲焼のいい匂いがしてきて暑さに負けそうなときも、なんとなく食欲をそそられるもの。もちろん、食べればもっと元気が出るでしょう。
鰻の調理法、関東と関西の違い
関東と関西では鰻の調理法が違います。
関東風=背開き(頭はとる)→素焼き→蒸す→再び焼く⇒柔らかい!
関西風=腹開き(頭はつけたまま)→焼く⇒パリッと香ばしい!
関西の鰻蒲焼には頭が付いています。捌き方の違いについては、武家社会の関東では切腹に通じることのない「背開き」、商人社会の関西では腹を割って話せると解釈して「腹開き」をするという説があります。
関東の背開きには、串を打って蒸すときに身の厚い背に串がさせて安定するという利点もあり、調理法としても理にかなっているようです。
鰻と梅干の食べ合わせ
昔から「鰻と梅干は食べ合わせが悪い」といわれてきました。
ところが、医学的には、梅干は胃酸を濃くして、鰻の油分の消化を助けるので一緒に食べることは逆に好ましいそうで、この言い伝えは単なる迷信のようです。
では、なぜそのような迷信が生まれたのでしょうか。これにはいろいろな説があります。
・贅沢の戒め説 / 梅干は胃酸を分泌させ、食欲を増進させます。それで高価な鰻をたくさん食べられるようになるので、贅沢を戒めるために生まれたのではないか。
・過食の戒め説 / 鰻も梅干も食がすすむ食材。脂っこい鰻も梅干を食べながらだとつい食べ過ぎてしまうので、食べ過ぎを防ぐ意味ではないか。
・栄養の消失説 / 梅干には、脂っこい食物をさっぱりさせる性質があるので、体内で鰻の栄養分が消されてしまうのでは...と心配したため。
・食中毒の予防説 / 鰻が腐っていたら酸味がある。梅干を一緒に食べると、梅の酸味のせいで鰻が腐っていることが判らないため。
このように見てみると、食べ合わせの言い伝えの中には、食べ物を大切に考えた昔の人の知恵がたくさん詰まっていますね。
土用の丑の日に鰻を食べるようになったわけ
ところで、諸説あるといえば、土用の丑の日に鰻を食べるようになった由来にもいろいろな説があります。
・平賀源内(ひらがげんない)説 / 最も知られているのが、この平賀源内説。江戸時代、源内は知人から、夏に売れない鰻を売る方法はないかと、相談を持ちかけられました。源内は、「丑の日に『う』の附くものを食べると夏負けしない」という民間伝承からヒントを得て、「本日丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めました。すると、物知りとして有名な源内のいうことであればと、鰻屋は大繁盛。他の鰻屋もまねるようになり、土用の丑の日に鰻を食べる風習が定着したといいます。
・大田南畝(おおたなんぽ)説 / 同じような説に、江戸後期の狂歌師・戯作者である大田南畝(別号=蜀山人(しょくさんじん))が「神田川」という鰻屋に頼まれ「土用の丑の日に、鰻を食べたら病気にならない」という内容の狂歌を作って宣伝したという説もあります。
・春木屋善兵衛(はるきやぜんべえ)説 / 文政年間、神田泉橋通りにある鰻屋「春木屋善兵衛」のところに大名から大量の蒲焼が注文され、「子の日」「丑の日」「寅の日」の三日間で作って保存しておいたところ、「丑の日」に作ったものだけが悪くなっていなかったからという説です。
・丑=鰻二匹説 / ひらがなで墨汁を使って毛筆で書いた「うし」という文字が、まるで2匹の鰻のように見えたからという説。
この4つの説、正しいのかどうかは明らかではありませんが、どれも皆もっともらしくて面白い話です。 

 

●土用の丑の日とは? なぜうなぎを食べる? 
300年以上影響のある広告!?平賀源内「本日土用丑の日」
“土用の丑の日”に鰻を食べる、という風習の由来は諸説ありますが、基本的には江戸時代ごろに広まった習慣とされています。
最も有力な説として知られているのが、“エレキテル”などを発明した江戸時代の発明家・平賀源内と関係がある、といった説。平賀源内には鰻屋を営んでいる知人がおり、「夏に鰻が売れない」といった相談を持ち掛けられました。これに対し、平賀源内は店先に「本日丑の日」と書いた紙の掲示を勧め、結果、知人の鰻屋は大繁盛。それを見た江戸中の鰻屋も同様の広告手段をとったため、土用の丑の日に鰻を食べる習慣が急速に広まっていった、というものです。現代において一部地域では年中行事として扱われており、千葉の成田では毎年一か月間、名物の鰻を味わう「成田うなぎ祭り」が行われています。
また土用の丑の日に食された鰻の魂を供養するため、“うなぎ供養祭”という行事が存在。毎年お盆の期間周辺に浜名湖などで行われています。
平賀源内説は、土用の丑の日の由来として広く知られている知識。ほかにも様々な説がありますが、どの説にも決定的な証拠がないため、平賀源内説が通説として扱われているのです。
もともと土用の丑の日には、うし(牛)や、うどん、うめぼし(梅干し)など、“う”のつく食べものを食べるといった習慣がありました。元来の風習が土台となって平賀源内発案の、“土用の丑の日”に鰻(うなぎ)食べる行為が受け入れられやすかった、といわれています。また土用の丑の日の時期は夏であり、本来は鰻の旬ではありません。知人が困っていたのは、そのためではないか? といった考察もされています。ほかにも江戸時代当時の栄養状況から考えると、鰻は夏バテに有効なビタミンAや鉄分を摂取できる貴重な食材だった、とされています。しかし現代では食材全体の栄養価が向上したため江戸時代ほどの効果は期待でません。鰻の個体数も減少してしまっているため、似た食材のナマズやアナゴなどが食される場合もあります。
“土用の丑の日”とはそもそもどんな行事なの?2020年の日にちは?
平賀源内が広めたとされる、土用の丑の日に鰻を食べる習慣。では土用の丑の日とは、本来どんな風習だったのでしょうか?
“土用の丑の日”、という語は“土用”期間中の“丑の日”を意味します。“土用”とは立春・立夏・立秋・立冬、それぞれの節句の前に存在する、それぞれの季節の中間18日間の雑節のこと。節句の直前には寒さや暑さが極まるため、直前の土用の期間には、体調に注意が必要とされていました。つづく、“丑の日”とは、日付を12支に対応させた、子から始まり亥で終わる12日の2日目を指します。これらの考え方は、中国の五行陰陽説に由来。五行陰陽説には、木・火・秋・水・土の5つの属性があり、五行の属性はそれぞれに相性があり影響を与えバランスを保つ、と考えられていました。
古代に日本人は五行の属性も季節・日にち、それぞれに対応させます。木は春、火は夏、金は秋、水は冬。そして雑節の18日間は土の属性が割り振られていました。日にちも同様に属性が割り振られ、丑には水が対応。しかしなかには、季節・日にちの相性が悪い、不吉な日が存在。いくつかある組合せの悪い日の中でも特に悪いのが、“土用の丑の日”だったのです。そのため、災いや病など不吉な気を払おうと“土用の丑の日”には、丑(うし)の“う”のつく、うどんや牛肉などの食物を食べる、といった習慣が行われていました。特に夏場は体調を崩しやすく一層注意を払わなければならないため、現代まで続くひときわ大きな風習となったのです。
土用の期間・18日を、12支に当てはめるため、夏の“土用の丑の日”が2回ある年も。2020年もその年の一つで、はじめの“一の丑”が7月21日、“二の丑”が8月2日となります。
関東風・関西風 ひつまぶし など 鰻のおいしい食べ方についてご紹介!
平賀源内のよって広まったとされる、土用の丑の日に鰻を食べる習慣。現代まで多くの世代を経て語り継がれ、様々な鰻の食べ方が考案されてきました。
まずは鰻の開き方。東西によって違いがあり、関東で広く用いられている焼き方は“背開き”といいう、鰻の背を開いて焼く方法。江戸には侍が多かったため腹を開いて焼く過程が切腹をイメージさせ、縁起が悪かったことが理由とされています。また当時の江戸は、急激に外食産業が発達していましたが、熟練した料理人の数は限られていました。そのため、ある程度の料理人なら比較的に簡単に調理でき、焼く際に脂を逃がさない“背開き”が好まれた、ともいわれています。対して関西では腹を割って話す、という独特の雰囲気から腹開きが用いられてきました。こちらは商人が多い、関西ならではの独特な考え方ですね。
調理方法にも東西で違いがあります。江戸は素早い提供のため、事前に蒸してから焼くといった方法を使用。水分が多いため、ふっくらとした鰻が楽しめます。関西では直接火にかけ、ご飯の中に鰻を入れることで蒸し上げる、といった方法を採用。関西風はパリッとジューシーな仕上がりとなります。またご飯の中で蒸すことから、“まんまむし”、転じて“まむし”と呼ばれるようになっていきました。
また関東・や関西だけでなく、独自の食文化が発展している名古屋にも、“ひつまぶし”という鰻料理が存在しています。
ひつまぶしとは通常の鰻ご飯のほかに、ワサビ・海苔・出汁などが一緒に提供され、食べていく過程で様々な味が楽しめる料理。いわゆる“名古屋めし”として知られ、一度の食事でたくさんの料理を食べたかのような満足感が特徴です。
牛丼屋やコンビニでも!気軽に食べられるうなぎも人気!
全国的にうなぎがよく食べられるこの日に合わせて各牛丼チェーンもうなぎを商戦に投入しています。うなぎ屋よりも安価ですが、食べてみるとなかなか本格的でコスパも◎です。
全国のコンビニでもうなぎ商戦が活況!リーズナブルなものから本格的な国産うなぎまで、特徴も様々です。近所のお店で手にとってみてくださいね。
ファミリーをはじめ、自宅でうなぎを楽しみたい方はスーパーのうなぎもオススメです。
うなぎ×お祭り で楽しむことも!?
うなぎと祭りが盛んな土地も日本各地に!そんな土地に赴いたら、ついつい財布の紐が緩んでしまいますよね。
例えば、成田祇園祭で有名な千葉県成田市。
映画「男はつらいよ」で有名な葛飾柴又も、柴又帝釈天近くにうなぎのお店が多数。劇中にも登場します。
うなぎが盛んな土地では「うなぎ祭り」なども開催されていますので、美味しいうなぎ目当てで足を向けるのも楽しみの一つではないでしょうか。 

 

●土用の丑の日 
「土用丑の日」ってどんな日?
   「土用」とは
「土用」とは、中国の道教(どうきょう)の教えにある「土旺用事(どおうようじ)」という言葉を略した呼び方です。土旺用事は「土が盛んにはたらく(旺=盛ん)」ということを意味します。
同じく中国に伝わる「陰陽五行説」では、万物が「木火土金水」と呼ばれる五つの要素から成っていると考えられています。かつて、それぞれを1年の春夏秋冬にあてはめたところ、「木」は春、「火」は夏、「金」は秋、「水」は冬となり、「土」が余りました。土はこれら季節の中間に入り、春夏秋冬どれでもない「間」の期間とされました。こうして、二十四節季の「立春」「立夏」「立秋」「立冬」前の18日間をそれぞれ「土用」と呼び、土が盛んになる時期と考えられるようになったといいます。ちなみに、今では「節分」といえば2月3日を指しますが、本来はそれぞれの季節の節目になる日を節分と呼んだため、土用の終わり(立夏、立冬などの前日)が節分と呼ばれていました。
古来よりこの4つの土用の期間は、二十四節季の「穀雨(春)」「大暑(夏)」「霜降(秋)」「大寒(冬)」の頃に重なり、暑さや寒さなどそれぞれの季節が最も極まり、体調を崩しやすい時期と言われていました。昔の人は、土用の時期は体を壊しやすいので、体の養生や健康への留意をするように考えていたといいます。
   「丑の日」とは
子丑寅…といった干支は、年だけでなく日の考え方にも同じくあてはまります。「丑の日」とは、「丑」の干支があてはまる日のこと。干支には12種類の動物がいるため、12日ごとに丑の日がまわってきます。
先ほども出ていた「五行」の考え方で、「丑」とは水を意味します。水と土は相性が悪く、合わさることで土砂崩れなどの災害が起こってしまうことも。つまり、土用丑の日とは土用の日のなかで最も相性が悪く、忌むべき日を指しています。
以上をまとめると、「土用丑の日」とは「土用」の期間中の「丑の日」を指し、注意を促した方が良い日と考えられます。ちなみに、今年2020年は7月21日と8月2日が土用丑の日となります。
夏の印象が強いのはなぜ?
これまで説明した通り、「土用」は春夏秋冬どの時期にも存在します。ですが、土用丑の日というと夏のイメージが強いですよね。これはなぜかと言うと、春夏秋冬の土用の中でも夏の土用が最も体調を崩しやすいと考えられていたため。大暑(夏の土用)の頃は、暑さで人の精気が奪われると同時に菌も繁殖しやすく、疫病も流行りやすい時期。また暑いがゆえに水の事故も多く、人の命が危なくなることが多いため、夏が特に危険視されたというわけです。
ウナギを食べる理由
土用丑の日にはウナギを食べる習慣がありますね。これは江戸時代の科学者であった「平賀源内(ひらがげんない)」という人物のエピソードに由来します。平賀源内は当時「電気ウナギ」に関する実験をしており、ウナギ店の店主とも親しくしていました。
この頃、脂があまりのっていない「夏のウナギ」はおいしくないと言われおり、ウナギが売れずウナギ店が困っていたといいます。そこで何とか夏にもウナギを売るべく、平賀源内が「ウナギは滋養強壮に良いので夏にぴったりである」といった内容の看板をウナギ店の店頭に出したところ、大ヒット。夏にウナギが売れるようになりました。これが現代にも受け継がれているため、体調を崩しやすい夏の土用丑の日にウナギを食べるのです。
ウナギ以外に食べる物
土用丑の日には、ウナギの他に「黒いものを食べると良い」や「『ウ』がつく食べ物を食べると良い」と言われています。「ウ」がつく食べ物といえば、うどんや梅干し、瓜など。特に瓜は水分が多く身体を冷やす効果もあると言われるため、キュウリやスイカなどはこの時期に食べておきたい食材だと考えられています。
また、夏の土用は梅雨が明け、晴れ間が出てくる時期。「土用干し」といって、書物や衣服などを干して風通しする風習もありました。この土用干しの時期は、おいしい梅干しを作るのにもぴったり。梅干しは梅雨の時期に梅を漬け込みますが、その漬け込んだ梅を夏の土用に干す「梅の土用干し」をして完成すると良いと言われます。ちなみに食べ物ではありませんが、この時期は「土用風呂」といって、柿の葉のお風呂に入るのも良いとされます。抗菌効果の高い柿の葉のお風呂は、邪気からも身を守ると考えられていたのです。
土用丑の日の頃は、気温も高く夏風邪をひくなど病気になりやすい時期。ウナギを食べて体力をつけ、暑い夏を乗り切りましょう! 

 

●土用の丑の日にうなぎを食べる由来 
土用の丑の日はうなぎを食べるのが定番!と言ったら、言いすぎでしょうか?!ただ、そう思ってしまうほど「土用の丑の日=うなぎ」という風習は、暮らしの中にしっかりと定着しています。夏土用の期間は暑さが厳しく夏バテしやすい時期であったため、厳しい暑さを乗り切るために身体にいいものを食べる「食い養生」の風習が古くからありました。もしかしたら土用の丑の日のうなぎも、食い養生のひとつなのかもしれません。そして、土用の丑の日には「う」の付く食べ物を食べるといいという話を聞いたことはありませんか?「うなぎ」はまさに、「う」の付く食べ物なのですが、さまざまある「う」のづく食べ物の中から、うなぎが定着したのはなぜ?なのでしょう。そんな素朴な疑問から、土用の丑の日にはうなぎ!の由来をまとめました。
うなぎの効果は、奈良時代から知られていた!?
万葉集に収められている大伴家持の歌の中に
1.石麻呂に 吾れもの申す 夏痩せに よしといふものぞ 鰻とり食せ
2.痩す痩すも 生けらばあらむを 将やはた 鰻むなぎを漁ると 河に流れな
という、二つの歌があります。それぞれの意味は、
1. 石麻呂さんに申し上げます。そんなに痩せてしまっては夏の暑さでなお一層痩せてしまうだろう。鰻は夏痩せにいいらしいから鰻を獲って食べたらどうですか?
2. いくら痩せたからといってじっとしていれば生きられるものを、元気になってやろうと鰻を獲りに川などへ行くと流されてしまうよ ・・・ というものです。
二つの歌はどちらも同じ人のことを詠ったものなので両方書きましたが、注目して欲しいのは1番目の歌です。夏痩せに効果のある食べ物として、うなぎを勧めていることはご理解いただけるかと思います。このことから、うなぎは暑い夏を乗り切るための栄養食として、この時代にはすでに知られていたという事ができるわけです。
土用の丑の日にうなぎが定着したのは江戸時代
「土用の丑の日にうなぎを食べる」という風習が、庶民の間に定着したのは江戸時代のことになります。
その理由は諸説ありますが、なかでも有名なのは「平賀源内説」です。テレビでも取り上げられることがありますので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
「 夏はうなぎの旬の時期から外れていることと、蒲焼の味が濃くこってりしてることなどから、なかなか売れませんでした。そこで、何とか売り上げを伸ばしたい鰻屋に相談を受けた平賀源内が、「本日土用の丑の日」と書いた看板を店の前に掲げたのです。聞き慣れない言葉が書かれている看板に足を止める人を、鰻屋の主人が引き込み(平賀源内直伝の宣伝文句を使ったそうです。)その鰻屋は大繁盛!このことを知った他の鰻屋がまねをするようになり、以来、土用の丑の日にはうなぎを食べるという風習が生まれ定着していきました。 」
似たような説として、江戸時代の狂言師・大田南畝(蜀山人)が「神田屋」という鰻屋に頼まれて、「土用の丑の日に、鰻を食べたら病気にならない」という内容の狂言を作って宣伝した、というものがあります。
また、文政年間(1818〜1830)に「春木屋善兵衛」という鰻屋が、大名からたくさんの鰻の蒲焼の注文を受けて「子の日」「丑の日」「寅の日」と三日かけて作ったところ、「丑の日」に作ったものだけが悪くならなかったのだそうです。
この事から、「鰻の蒲焼は、丑の日に限る」となった、という説もあります。
やっぱり気になるうなぎの栄養!
いい機会なので、うばぎにはどんな栄養があるのかを調べてみました。うなぎは良質なたんぱく質や脂質に加え、ビタミン、ミネラル、カルシウムなどがバランス良く含まれている、とても栄養価の高い食べ物です。
体内でビタミンAとして作用するレチノールが豊富!
レチノールには、免疫力を高めて細菌やウイルスに対しての抵抗力をつける効果や、皮膚を活性化したり、のどや鼻の粘膜を健康に保つ働きがあります。レチノールは、うなぎの肝により多く含まれていますが、うなぎの肝はあまり消化が良くないので、お子様や胃腸が弱い方は避けた方がいいかもしれません。
脂質にはDHAやEPDがたくさん!
DHA(ドコサヘキサエン酸)・EPD(エイコサペンタエン酸)には、悪玉コレステロールを減らし善玉コレステロールを増やす作用があり、動脈硬化などの生活習慣病の予防に役立ちます。DHAには、脳の発達を助ける作用がありますし、EPDは、アレルギー症状の改善に効果があるといわれています。
うなぎのヌルヌルにはこんな効果もあります!
うなぎのヌルヌル!この正体は、ムコ多糖質という成分です。ムコ多糖質は、胃の粘膜の保護や消化吸収を助ける働きがあります。加えてになりますが、うなぎには日本人に不足しがちなカルシウムも豊富ですし、皮の内側にあるコラーゲンは皮膚の栄養に役立つなど、細かいところを拾っていくともっとたくさんの栄養素が含まれています。なとなくでも、うなぎが万能選手に思えてきませんか?さらにうなぎのパワーを高めたい時は、野菜と一緒に摂るのがいいそうです。カルシウムたっぷり!うなぎの骨がおつまみになりました。 

 

●土用の丑とは 
土用の丑の日といえば、うなぎを食べる日で、夏だけのことと思われていますが、実は年に4回あります。
中国の古い思想に陰陽行説というのがありますが、これは、宇宙は木火土金水の5元素(5行)から成るという考え方です。この5行を四季に当てはめる場合、春=木、夏=火、秋=金、冬=水を配すると、土が余ってしまいます。そこで、四季それぞれ90日あるうちの終わりの5分の1ずつを土に当てました。春は清明、夏は小暑、秋は寒露、冬は小寒のあと、いずれも13日目に土用に入り、18日で土用が開けて次の季節が始まります。この土用の期間中に土を犯すことは慎むべきこととされ、葬式などはこの期間中は延期されました。
丑は、12支の丑です。ですから、土用の丑の日は、土用期間中の丑の日ということです。 夏の土用の丑の日には、うなぎを食べたり、灸をすえたりすると丈夫になるという言い伝えがありますが、寒中の土用の丑の日には、口の中の虫を殺すという俗信から、特に口紅をつけたりする習慣がありました。
土用の丑の日にうなぎ
土用の丑の日にうなぎを食べるのには諸説ございます。
平賀源内 説
一番有名なのは、平賀源内。 江戸時代の蘭学者・発明家の平賀源内が土用の丑をうなぎの日にした元祖として知られています。 客足の少ないうなぎ屋から繁盛の妙案はないかと相談を持ち掛けられた平賀源内が「本日、土用丑の日」と店頭に掲げたところ、これが大当たりしてうなぎ屋は、大繁盛したそうです。 ※ 文政5年(1882年)「明和誌」青山白峰著による。
春木屋善兵衛 説
文政年間(18818〜29)に出版された「江戸買い物独り案内」という本に春木屋が「丑の日元祖」として紹介されています。ある時、春木屋に神田和泉橋の藤堂(大名)のお屋敷から、旅に出るのに持っていきたいと大量の蒲焼の注文がありました。 春木屋の主人、春木屋善兵衛は、子の日、丑の日、寅の日の三日に分けてうなぎを焼き、土蔵に貯蔵して三日間置いたところ、丑の日に焼いたうなぎだけが、色合い、風味とも変わりませんでした。そこで丑の日に焼いたうなぎを藤堂様にお納めし、お褒めをいただいたそうです。それ以来、春木屋は「土用丑の元祖」の看板を上げたそうです。 ※ 藤堂のお殿様ではなく、佐竹のお殿様との説や、春木屋善兵衛ではなく青木一馬と言う武士が武士を辞めうなぎ屋になりうなぎを献上したと言う説。また春木屋善兵衛と青木一馬は同一人物説(うなぎ屋になる際に春木屋善兵衛を名乗った)もあります。
大田蜀山人 説
江戸時代の狂歌師の蜀山人(大田南畝)が、神田川という鰻屋に頼まれ、「丑の日に、うなぎを食べたら病気にならない」という内容の狂歌を作って宣伝したことが始まりといわれています。 ※ 天保10年(1839年) 「天保佳話 天保十年」劉会山大辺甫編による。
虚空蔵菩薩 説
うなぎと天然記念物の欄にもございますが、うなぎは虚空蔵菩薩の使途、召使い、化身と言われています。そんな虚空蔵菩薩は丑年と寅年生まれの人の守り本尊でもある事から、丑年生まれの人が虚空蔵菩薩に結び付けてうなぎ蒲焼きを宣伝したという説があります。 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 

 

●丑の刻参り
丑の刻(午前1時から午前3時ごろ)に神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ち込むという、日本に古来伝わる呪術の一種。典型では、嫉妬心にさいなむ女性が、白衣に扮し、灯したロウソクを突き立てた鉄輪を頭にかぶった姿でおこなうものである。連夜この詣でをおこない、七日目で満願となって呪う相手が死ぬが、行為を他人に見られると効力が失せると信じられた。ゆかりの場所としては京都市の貴船神社が有名。ただ、貴船神社は24時間開門していないため実際には着手不可能である。丑の時詣で(うしのときもうで)、丑参り(うしまいり)、丑三参り(うしみつまいり)とも。
丑の刻参りの基本的な方法は、江戸時代に完成している。
一般的な描写としては、白装束を身にまとい、髪を振り乱し、顔に白粉を塗り、頭に五徳(鉄輪)をかぶってそこに三本のロウソクを立て、あるいは一本歯の下駄(あるいは高下駄)を履き、胸には鏡をつるし、神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を毎夜、五寸釘で打ち込むというものが用いられる。五徳は三脚になっているので、これを逆さにかぶり、三本のロウソクを立てるのである。
呪われた相手は、藁人形に釘を打ちつけた部分から発病するとも解説される。ただし藁人形など人形〔ひとかた〕の使用は江戸期までに必ずしも確立しておらず、例えば鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』(1779年、右上図参照)の添え書きにも言及されていないし、画にも見えない。
小道具については解説によって小差があり、釘は五寸釘であるとか、口に櫛を咥える、腰には護り刀などがある。参詣の刻限も、厳密には「丑のみつどき」(午前2:00~2:30)であるとされる。
石燕や北斎の版画を見ても、呪術する女性のかたわらに黒牛が描かれるが、七日目の参詣が終わると、黒牛が寝そべっているのに遭遇するはずなのでそれをまたぐと呪いが成就するという説明がある。この黒牛に恐れをなしたりすると、呪詛の効力が失われるとされる。
丑の刻​
「丑の刻」も、昼とは同じ場所でありながら「草木も眠る」と形容されるように、その様相の違いから常世へ繋がる時刻と考えられ、平安時代には呪術としての「丑の刻参り」が行われる時間でもあった。また「うしとら」の方角は鬼門をさすが、時刻でいえば「うしとら」は「丑の刻」に該当する。
歴史​
「うしのときまいり」という言葉の方が古い。古くは祈願成就のため、丑の刻に神仏に参拝することを言った。後に呪詛する行為に転ずる。
京都市の貴船神社には、貴船明神が降臨した「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に参詣すると、心願成就するという伝承があったので、そこから呪詛場に転じたのだろうと考察される。
また、今日に伝わる丑の刻参りの原型のひとつが「宇治の橋姫」伝説であるが、ここでも貴船神社がまつわる。橋姫は、妬む相手を取殺すため鬼神となるを貴船神社に願い、その達成の方法として「21日(三七日、さんしちにち)の間、宇治川に漬かれ」との神託を受けた。それを記した文献は、鎌倉時代後期に書かれ、裏平家物語として知られる屋代本『平家物語』「剣之巻」であるが、これによれば、橋姫はもとは嵯峨天皇の御世の人だったが、鬼となり、妬む相手の縁者を男女とわず殺してえんえんと生き続け、後世の渡辺綱に一条戻橋ところ、名刀髭切で返り討ちに二の腕を切り落とされ、その腕は安倍晴明に封印されたことになっている。その彼女が宇治川に漬かって行った鬼がわりの儀式は次のようなものである:
「長なる髪をば五つに分け、五つの角にぞ造りける。顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を戴きて、三の足には松を燃し、続松(原文ノママ)を拵へて、両方に火をつけて、口にくはへつつ、夜更け人定まりて後、大和大路へ走り出て……」 —「宇治の橋姫」
この「剣の巻」異本ですでに橋姫には「鉄輪(かなわ)」(五徳に同じ)を逆さにかぶり、その三つの足に松明をともすという要素があるが、顔や体を赤色に塗りたくるのであり白装束ではない。室町時代にこれを翻案化した能楽の謡曲「鉄輪」においても、橋姫は赤い衣をつけ、顔に丹を塗るなど赤基調が踏襲され、白装束や藁人形、金槌も用いていはいないが、ただし祓う役目の陰陽師晴明の方は、「茅の人形を人尺に作り、夫婦の名字を内に籠め、(後略)」祈祷をおこなうのである。よって現在の形で丑の刻参りが行われるようになったのは、この陰陽道の人形祈祷と丑の刻参りが結びついたためという見解がある。
源流​
人形を用いた呪詛自体はかなり古くから行われており、『日本書紀』用明天皇2年(587年)4月条に、「中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)が家(おのがいえ)に衆(いくさ)を集えて、大連をいたすく。ついに太子彦人皇子の像を作りて、まじなう」と記され、古墳時代から人形を媒体とした呪いがあった。ただし、この時点では、まだ像を刺す行為は確認できない。
考古学資料の遺物として、奈良国立文化財研究所所蔵の8世紀の木製人形代(もくせい ひとがたしろ)があり、胸に鉄釘が打ちこまれた状態の物も出土している。木簡を人形に切り取り、墨で顔が描かれている。丑の刻参りと共通する呪殺を目的とした形代だったと考えられている。この遺物からも、人形に釘を打ち込み、人を呪うと言った呪術体系自体は古代(奈良時代)からあった事が分かる。研究者によっては、鉄釘自体が渡来文化であり、こうした呪術体系自体が大陸渡来のものではないかとしている。この他にも類例として、島根県松江市タテチョウ遺跡から出土した木札には、女性が描かれており、服装から貴人女性と見られるが、3本の木釘が打ちこまれていた。その位置は、両乳房と心臓に当たり、明らかに呪殺目的であった事が分かる。
式神・妖怪​
陰陽師が使役する式神というものがあるが、式神は荒ぶる神としての妖怪としても描かれ、人の善悪を監視する役目を持っていたとされ、様々な不思議な力を発揮したと言われる。丑の刻参りも、たびたび妖怪を伴って描かれ、神木に釘を打って結界を破り、常夜(夜だけの神の国)から、禍をもたらす邪神(魔や妖怪)を呼び出し、神懸りまたは使役し、恨む相手を祟ると考えられていた。
その他​
呪いの効果については、科学的に実証されたわけではない。誰かが自分を呪っていると認識することで、自己暗示にかかってしまうためであって、気にしなければ何もおこらないという研究結果がある。いわばノーシーボ効果というものであるが、この説においては上記に書かれているように呪いというものは誰かに知られてしまえば効果が発揮しなくなるどころか本人に跳ね返ってくるという伝承が考慮されていない点に注意すべきである。
学問上では、刑法学における「不能犯の典型例」として挙げられることが多い。
現在では、保安上の理由で神社側が禁止していることが多い。そうでなくても歓迎はされない。参拝などの正当な理由なく神社境内に立ち入った場合、建造物侵入罪に問われる可能性がある。 

 

●丑の刻参り
丑の刻参りとは、日本古来より伝わる呪いの儀式の一つである。
丑の刻参りとは本来の意味としては、丑の刻(現在の約午前1時から約3時までの間)に京都の貴船神社や岡山の育霊神社等に参拝し、祈願成就を行うための願掛けの言葉で……有った。だが、徐々に祈願成就の呪いではなく、相手を呪うためだけの儀式に言葉が転用され、現在に伝わっている。
元々人形を使った呪術は古くから日本にも伝わっており、奈良時代などの古い時代から既に人形に釘を打ち込む呪術の形式は知れ渡っていた。その呪術が陰陽道や橋姫伝承などと結びつき、現在の姿の丑の刻参りの姿になったのは江戸時代からといわれている。
形式
一般的には白装束をまとって下駄を履き、頭に鬼の角の様にロウソクを立てて、藁人形に五寸釘を打ち込む姿だけのイラストがおおいがそれでは不十分であり、儀式として成立しない。正しくは顔を白粉で塗りたくり、頭には五徳を被り、その上にロウソクを乗せるので最低でも3本以上必要である。 また、下駄は一本歯にしなければならず、胸元には魔よけの鏡、懐には護り刀を備え、口に櫛を加えた姿をすることで完成である。後は呪いたい相手に見立てた藁人形を神社のご神木にあて、五寸釘を頭、または心臓部に一心不乱に呪いを籠めて誰にも見られないように打ち付けるだけである。藁人形に呪いたい相手の髪の毛や血液、皮膚があればより効果が現れるといわれている。
ただし、この丑の刻参りを見られた場合は呪っていた術者本人に呪いが跳ね返ると言われているため、もし目撃されたら目撃者を始末しなくてはならない。そのための護り刀である。 
ただし
確かに呪いの行為と相手の死の因果関係を科学的に証明出来ないめ、直接は殺人罪に問われる事はない。だが現実世界でこれをやろうものなら、神社への不法侵入・御神木へ釘を打ち込んだ器物損壊などで警察の御用になるのは明白である。儀式を見られたからといって、目撃者に襲い掛かれば当然殺人未遂の現行犯で逮捕される。また、呪いたい相手に呪った事が解るように振る舞った結果、脅迫罪が適用されたケースもある上、知らされた相手が気に病んでうつ病でも発症すれば傷害罪に問われるし、儀式の様子をネットで晒せば名誉毀損…等々、様々な罪に問われる可能性がある。民事訴訟の被告になる線も充分有り得る。「直接手出しをしてないからセーフ」は通らないのだから、最初からやらないのが身のためである。
お釈迦様も「呪いを実行したら地獄へ落ちる(意訳)」と仰っている。他人を呪おうという時点で、霊的・宗教的なものを信じているのだから、お釈迦様の言葉の重みは判ってもらえるだろう。それでもというなら、それなりの覚悟をもってやるべきだが、人を呪わば穴二つという諺にもあるとおり、相手だけでなく自分も不幸にしてしまうので全くオススメできない。ダメ、ゼッタイ。  

 

●丑の刻参り
歴史背景「宇治の橋姫」の伝説
日本古来から伝えられる丑の刻参りの起源は不明だが、初めて文献に現れるのは、※屋台本平家物語の劔巻に登場する「宇治の橋姫」だ。内容は、嵯峨天皇の時代(786〜842)、 夫を若い美しい女の姿に見せた龍神に奪われた橋姫は、呪詛の神として名高い京の※貴船神社に、『鬼となり、夫と龍神に復讐させたまえ!』と、七夜祈りを捧げた。それを聞き遂げた貴船の神は、『松ヤニで角を作り、※鉄輪(かなわ)を被って、宇治川に37日間浸れ』とお告げを下す。お告げを聴いた橋姫は喜び、さっそく長い髪を五つに分け松やにを塗り固め角を作り、顔には朱をさし身には丹を塗り頭には鉄輪を頂きて、松明に火をつけ口にくわえ、宇治川に身を投げた。その後、橋姫はこの後鬼と生まれ変わり、夫と龍神を食い殺すし思いを成し遂げ、夜更けの大和大路を南に走り去った…という話である。諸説様々な学説もあり、「宇治の橋姫」についても複数の話が存在するが、世に伝えられる丑の刻参りのルーツともいえる話であることは間違い無い。
また、この話は室町時代に謡曲「鉄輪」として発展していく事となる… 先妻の嫉妬により、丑の刻りの呪い、呪術をかけられた男が、陰陽師阿部晴明に、呪いを解いてもらう…という話である。この話より、丑の刻参りと、陰陽道との繋がりの深さが伺えよう。
下記は、「宇治の橋姫」についての歌
さむしろに衣片敷き今宵もや われを待つらん宇治の橋姫  『古今集』
橋姫のかたしき衣さむしろに 待つ夜むなしき宇治のあけぼの  『新古今和歌集』
網代木にいさよふ波の音ふけて ひとりや寝ぬる宇治のはし姫  『新古今和歌集』
※「屋代本平家物語」学校等で習う表の平家物語に対する裏の平家物語。
※貴船神社は昔、呪詛神としての信仰があり、現在でも、心願成就のご利益があると伝えられている。
権力者も恐れた!丑の刻参りの呪術!
栄花物語によれば藤原頼通の病気は貴船の呪咀が原因だと言われている。織田信長は比叡山を焼き打ちすることで、丑の刻参りの呪い、呪術を絶やそうとしたが、逆にその残党に呪われ最期を辿ったと言われている。逆に、徳川家康の大成の裏には、信心深く鬼・神・仏を味方につけたことが少なからずとも影響があったと言われている。
※定時法で一昼夜を十二に分け、それを十二支であらわし、真夜中が子(ね)の刻で、 以下丑は午前二時、寅が四時、卯が六時、辰は八時、巳が十時・・・・・と続いていく。
陰陽道との繋がり!
恋愛対象の人物の、体の一部(髪、体液、爪、皮膚・・・)、もしくは、名前を書いた紙、相手が着ていた服の切れ端・・・を、藁人形の胴体の中に埋め込みます。その人形を絹布(もしくは紫の布)に包み、大切に扱ってください。そして誰にも見られないよ うに、午前2時に胸の思いを人形にささやきます。これを7日間続けてください。注意点は、7日間は決して誰にも見つからないように・・・間違っても釘を打ったり、粗末に扱ってはいけません!
陰陽道との繋がり!
丑の刻に(午前1時〜3時)神社の御神木(或いは大鳥居)に、憎むべき相手を象った藁人形を据えて、憎しみを込めて五寸釘を打ち込む。これを七日間人に見られる事なく続けること。境内の神木に人に見られない様に、人形に呪いの五寸釘を打ちつける。もしくは、当会の販売している『呪術、呪い一式』に付属されている杉の木を使用する際は、北東の方角に木を置き、 同じく呪いの念を送りながら五寸釘を打ちつければいい。
1 足に五寸釘を打てば足が悪くなる。
2 胸に打てば内臓が悪くなる(苦しむ)。
3 手に打てば手ぐせが直る、浮気が直る。
4 頭に打てば一撃必殺という言い伝えがあり、
5 怨んでいる相手をひと思いに殺してやりたい時は五寸釘を一撃で打ち込むと良いとされている。
呪いが聞き届けられた場合、七日目に帰る道すがら、黒い大きな牛に出会う。行く手を阻むこの牛を乗り越えた時点で、丑の刻参りの呪い、呪術が発動する! 

 

●丑の刻参り
丑の刻参りとは
まず最初に丑の刻参りについて簡単にご紹介したいと思います。丑の刻参りとは先ほども触れたように呪いの儀式の一種でもあります。
この丑の刻参りは江戸時代より前から存在していたとされ、江戸時代になってようやく格好ややり方が確立されたとされています。丑の刻参りは「丑の刻」にやる必要があったことから名前が来ています。丑の刻とは十二時震の一つで、「1時から3時」までの時間帯を指します。
丑の刻の時間に行うのは多くの方がご存知ですが、さらに正確にご紹介すると丑三つ時に行うとされているので、「2時から2時30分」までの間に行う必要があります。このことから別名「丑三つ参り」と呼ばれることがあります。
丑の刻参りのやり方
丑の刻参りをやる場合は先ほどもご紹介したように江戸時代以降から格好ややり方が定められています。徐々に変化しているものの、大まかな部分は同じです。
まずは、藁人形と五寸釘と金槌を用意します。夜中に神社に訪れ、丑の刻の時間帯に相手の事を考えながら神社の神木に藁人形を押し当て釘を打ちます。この行為を連夜7日間続ける必要があるのですが、この丑の刻参りを行っている姿は見られてはいけないとされています。
藁人形には相手の写真や名前をつけて釘を打ち付ける必要があるのですが、最近では呪いたい相手の髪や爪といった体の一部を藁人形に入れる必要があると言われています。
誰にも見られずに7日間行うことができれば呪いは成功とされているのですが、昔ではさらに寝そべっている黒牛を跨ぐと成功とされています。
丑の刻参りの格好
次は格好について詳しくご紹介したいと思います。丑の刻参りの服装は有名なので、多くの方もご存知だとは思いますが、まずは白装束を用意する必要があります。
足元は一本歯か長下駄を履き、頭には鉄環か五徳をかぶります。この頭にかぶっている鉄環または五徳には3本のろうそくを立て、鬼をイメージした姿になります。
さらに、首元には魔除けの鏡、口元には櫛、肌は白粉を、口の中はお歯黒にして口紅を塗る。このような格好が丑の刻参りの定番の格好とされています。
さらには懐に守り刀を忍ばせておくという話もあります。地方によってはさらに格好にも変化がありますので、地元で丑の刻参りの専用格好などがありましたらそちらをご参考いただけたらと思います。
丑の刻参りが現代の形になったのが、宇治の橋姫の話をモチーフにした室町時代の能の「鉄輪」とされ、その様子を描いたのがこちらの動画です。
藁人形とは
藁人形は普段作る機会がほとんどないと思います。藁人形の作り方は次のようになっています。
・20pから30p程度にした藁の両端を括り付けます。
・1の藁の束を二つ用意します。
・十字架のように藁をクロスさせ、重なっている部分を紐でしっかりと固定します。
・十字架のように作ると長い部分ができると思いますが、長い部分を半分に裂きます。半分にすると足ができるので、それぞれ端を括ります。
これで藁人形の完成です。先ほども触れたように、呪いたい相手の写真や名前をつけて藁人形に5寸釘を打ち込みます。効果を高めるには相手の髪や爪を入れてるらしいですが、真似はしないでくださいね。
丑の刻参りと貴船神社
丑の刻参りは貴船神社が最も有名です。というのも、「宇治の橋姫」が大きく関係しているのですが、橋姫がこの貴船神社にて呪いを行ったとされています。
宇治の橋姫は元々妬みやすい女性・鬼神とされ、自分が祀られている橋の上で他の端を褒めると嫉妬されるという伝承が残されているほどです。
さらに、貴船神社は今でこそ呪いの場所、丑の刻参りで有名な場所とされていますが元々は祈願成就「願いが叶う」場所として有名でした。
この願いが叶うという事から相手が憎くて呪う人が出始め、効果があったという噂から丑の刻参りを行う人が増えたとされています。
藁人形の呪い返しとは
次は藁人形の呪い返しについてご紹介したいと思います。この丑の刻参りの呪いではいくつか決まりごとが存在します。
・藁人形を打ち込むときは7日連続行う
・丑の刻の時間に行う
・の刻参りを行っている姿は他の人には見られてはいけない
このような決まりとなっています。この決まり事を誤ってしまうと呪いは成功しないと言われ、特に3番目の他の人に見られてしまった場合は、相手の事を呪おうと丑の刻参りをしていた人に呪いが跳ね返ってくると言われています。これが藁人形の呪い返しとされています。
丑の刻参りをするとどのような呪いの効果があるのかというと、最悪相手を亡き者にするほどの呪いの効果があるという噂があり、釘を打ち付けた部分から奇病が発生するとも言われています。今でこそ相手を呪う儀式となっていますが、元々は自分が鬼になるという儀式だったとされています。
丑の刻参りに遭遇・見てしまったら
注意しないといけないのが丑の刻参りをしているところを遭遇してしまった・見てしまった場合です。というのも、先ほども触れましたが、丑の刻参りでは他の人に見られてはいけないという決まりごとがあります。
他の人に見られてしまった場合は効果を失ってしまい、最悪自分に呪いが跳ね返ってくるので丑の刻参りをしていた人からすれば、見られた場合は最悪の状況と言えます。
藁人形の呪い返しを受けないためにも万が一遭遇・見られてしまった場合はその人をあやめることで回避できるとされています。
そのため、遭遇してしまった場合や見てしまった場合は大変危険なので、すぐさまその場を離れるようにしましょう。
丑の刻参りで追いかけられることがあったら
丑の刻参りを目撃してしまった場合、ほとんどの人が追いかけられると思います。このような場合は全力で逃げましょう。
相手は人を憎くて呪いの儀式をやっている人で、相手をあやめたい気持ちで行っている人も多いです。その呪いが当然自分に返ってくるとなると、見た人をあやめて自分に来ないようにしたいと考えるのがほとんどだと思います。
そのため、相手は全力で追ってくると思いますので、相手を捲くことができるように逃げましょう。難しいとは思いますが、できれば見たことを忘れるようにした方が安全のためでもあります。
丑の刻参りの効果はあるのか
丑の刻参りについて効果は本当にあるのかどうかは実際にはわかりません。というのも丑の刻参りは人に見られてはいけないという決まりがあるように、人に言っても効果がなくなるとされています。
そのため、仮に本当に呪いの効果が対象に起きた場合でもその人しかわからないと言えます。丑の刻参りは昔からある憎い相手を呪う儀式ですが、今もなお信じている人もいるようなので、くれぐれも注意するようにしましょう。 

 

●丑の刻参り
いつの世も、複雑怪奇な人間関係・・・悩みに悩みぬいた人には、他に解決方法が見つからないのかも知れませんが、この科学の発達した21世紀でも、「縁切り寺」や「縁切り稲荷」といった所に願をかける人が後を絶たないのだとか・・・。
京都は、河原町通りの法雲寺というお寺の片隅にある菊野大明神・・・。
あの小野小町のところに百日間通い、百日目にこがれ死にしたという深草少将が、小町を思いながら、毎夜座った石がご神体なのだそうです。
ほこらの裏側にある小さな穴に、縁を切りたい人の名前を書いた紙を押し込むのだそうで、その願いの暗さのせいか、中もとっても暗かった・・・
よく似た感じのお参りに、有名な『丑の刻参り』というのがあります。
この丑の刻参りは、「人を呪い殺すために願をかける」という、縁切りよりはるかに暗い祈願ですが、これがけっこう歴史があるのです。
古くは平家物語に書かれています。以前、『橋の日』という記念日の日にチョコッとご紹介した『宇治の橋姫』のお話です。
嵯峨天皇の頃(809年〜823年)に、夫の浮気に嫉妬した女が、貴船大明神に参詣して7日間籠り「憎い女をとり殺したいので、生きながら鬼にしてください」と願います。すると、貴船の神は、「鬼になりたければ姿を変えて21日間、宇治川に浸かればよい」と答えたのです。
女は、髪を松やにで固めて五つの角を作り、顔や体を赤く塗って、頭には鉄輪をかぶり、松明を口にくわえて、深夜の都大路を疾走し、宇治川にその身を浸します。
やがて、21日たって、念願の鬼となった彼女は、自分を「あさましい・・・」と、さげすむ者すべてをとり殺したと言います。
室町時代から江戸前期頃に書かれた御伽草子では、かの女性は、やはり7日間『貴船明神への丑の刻参り』をした後、21日間宇治川に浸って、生きながら鬼となった後、憎い夫を殺そうと都に戻ってきた時、平安のスーパースター・安倍晴明によって追い払われ、念願は叶わなかった事になっています。
このように、少しずつ違っていた「丑の刻参り」が、時代劇で登場するような手順に定着するのは、江戸時代の頃・・・その方法は・・・
まず、手製のわら人形を用意。
当日の服装は白衣と白帯。髪の毛はシャンプーして油分を落としておきます。ただし、香油は呪いの効力を上げるのでOK。頭には五徳(鉄輪)をかぶり、そこにろうそくを立て、首からは鏡を下げます。黄楊(つげ)でできたクシの歯のほうを口でくわえ、高ゲタをはいて現地まで行きます。ここで、裸足になって境内に入りますが・・・ 実は、もう一つアイテムが必要です。
帯のところに、木綿(一反)の端をくくりつけ、この木綿の垂らしたほうの端っこが境内の地べたにつかないスピードで目的の木まで行かなくてはなりません。木綿が一反=約11mです。まさに疾走です。
約11mの布をヒラヒラさせながら、仮に到着したとして、かのわら人形を取り出し、人形を五寸釘を使って、木にカナヅチで打ちつけるのです。この時、決まった呪いの言葉はありませんが、「アホ!ボケ!」とできる限り汚い言葉を大声で吐き続けなければなりません。
しかも、以上の事を、誰にも見られる事なく、7日間続けなくてはならないのです。
・・・てか、木綿ヒラヒラ疾走の時点でムリでしょ・・・ そんな事できるなら、とっくに世界を目指してます。
だいたい、高ゲタはいて、山道登ってるだけでテンションだだ下がりです。しかも、今まで、丑の刻参りの呪いで死に至ったという、ちゃんとした話は一つもありません。
勘違いしてしまいそうですが、よく考えると平家物語も御伽草子も、丑の刻参りで呪い殺したのではなく、自分で殺しに行ってます・・・どっちも失敗してますし・・・。
・・・にも関わらず、先の平家物語や御伽草子の記述のせいか、いまだに、貴船神社の境内では、五寸釘やわら人形が見つかるのだとか・・・。
確かに貴船神社の奥の院は、昼なお暗く、丑の刻参りの発祥の地にふさわしい、空気の張り詰めたような雰囲気が立ち込めてはいますが、それは、神々しい厳かな空気に他なりません。
貴船神社によれば、この丑の刻参りは、神聖な霊場を汚す行為で、決して、神様が願いを叶える事はないのだそうで、五寸釘やわら人形は、定期的に点検して、見つけ次第、撤去しているとの事。こうなったら、迷惑行為以外の何物でもありません。
また、以前、とあるニュースサイトの『丑の刻参りは罪になる?』というテーマで、弁護士さんが「呪っただけでは罪にならない」と回答されていましたが・・・ 確かに、心で呪っただけでは罪にはならないかも知れませんが、丑の刻参りは、シッカリ罪になりますので、やってはダメです。
それは・・・ 神社の境内は自由に出入りできる所が多いですが、実際には、神社側が定めた本来の目的以外の理由で境内に入ると「不法侵入」になりますし、無断で境内の木に釘を打ちつける行為は「器物破損」になりますからね。
当時の人々の心の内が垣間見える歴史の一つとしては、丑の刻参りはとても興味深いですが・・・。どうせ神様に願いをかけるのなら、相手の不幸より、自分の幸せに願いをかけてみようじゃありませんか! 

 

●丑の刻まいり / 柏のむかしばなし
むかしむかし、藤心村にははやり病いがたくさんでたことがことがありました。村人の中にも、はやり病いにかかる者が何人もいました。藤心村には、医者がひとりもいなかったので、病いにかかった者は、静かに寝て治るのを待つよりほかはなかったのです。もとは十八才。年老いたじさま〈じいさま〉とおっかあと、小さな妹の四人でわずかな土地を耕しながら暮らしていました。おっかあは、朝暗いうちに起きて、自分の家の野良〈のら〉仕事(田畑の仕事)が終ると、すぐ、よそのうちの野良仕事の手伝いをして、夜遅くなってから帰る日が何日も何日も続いて、とうとうはやり病いにかかってしまいました。
何日もおっかあの熱はさがりません。「おっかあ、おけ〈おかゆ〉だよ。」  わずかにたくわえておいた米で、もとは、おかゆを作っておっかあに食べさせました。おかゆが一番のごちそうだったのです。それでも、おっかあの熱は下がりません。思案〈しあん〉にくれたもとは、丑の刻参りの絵 「んだ。丑の刻めえり〈参り〉をすんべ。ずっとめえ〈まえ〉誰か、そんなこと言ってたっけな。」と、丑の刻参りをすることにしました。丑の刻参りとは、家を丑の刻にたった一人で出て、村はずれの神社まで行き、お願いをすることです。途中で誰かにあえば神様に願いが通じなくなってしまうので、こっそり行かなくてはなりません。これを一週間毎日続けるのです。
もとはその日、丑の刻が近くなったころ、そうっと寝床を抜け出そう、としました。するとおっかあは、なぜか目をさまし 「もと、いしゃ何すんだ。まさか丑の刻めえりやんじゃあんめえな。もとやんじゃねえよ。やんじゃねえよ。」 と小さい声で言いました。もとは、「おっかあ、そんじゃねえはばかり〈便所〉だよ。」 そう言うともとは、外に出て、八幡様まで小走りに走って行きました。
「誰にもあわねえように、誰にもあわねえように。」  道のわきで物音がするたびに、もとはこしをぬかすほどびっくりしながらも、自分の足もとさえはっきり見えない中を急いで行きました。八幡様に着くと、あたりを見まわして、「神さま、おねげえです。おらのおっかあの病いどうぞ治してください。」 もとは、一心に祈り続けました。
三日たち、四日たち、一週間目になりました。もとがいつものように八幡さまでおがんでいると、何やらドタドタと階段を登るような音がしました。
「ああ、誰かに見つかってしまう。もうだめだ。おっかあは治らねえ。」  もとは、必死で神殿のかげにかくれてあたりを見回しましたが、不思議なことに、いっこうに人が来るようすはありませんでした。
もとがほっとして、足もとを見ると、何やら動くものがありました。近づいて見ると、一ぴきの白いねずみが、もとの足もとで動いていたのです。ねずみは、手まねきをするようにもとの少し前をちょろちょろ動き、もとの家まで一緒に来ました。もとが家の中へ入ろうとすると、いつの間にか、白ねずみはいなくなっていました。
それから、おっかあの病いは、ずらずら〈どんどん〉良くなりました。 

 

●丑の刻参りのしかた(伝統様式)
【用意するもの】
・藁人形
・五寸釘
・金槌
【服装 その他の準備】
・白い着物に白い帯
・白い鼻緒の1本足の高下駄を履く
・腰に1反(約10m)の白い木綿の布を巻きつけ垂らす
・適度に乱した髪
・白粉を顔にぬる
・口紅を濃くぬる
・お歯黒(鉄奬)をする
・櫛を口にくわえる
・鬼胡桃の実で作った数珠を持つ
・胸に丸鏡を提げる
・鉄輪(五徳)を逆さにして冠に戴く
・鉄輪の脚に熊野蝋燭を3本たてる
【藁人形のつくりかた】
1 適当な丈の藁の束をふたつ作る ※この時呪う相手の体毛を編み込むと効果的である
2 軸にする束にもう一方を通すように 十字に交差させる
3 クロスした三方の端と 交差部分を 紐で縛り固定する
4 残りの一方を脚に見立てて二股にし 紐で固定する
5 呪う相手の名前を記した紙をつけたら できあがり
【実践】
準備がすべて整ったら、あとは丑三つ時(午前1時〜3時)を待って出かけよう。神社の御神木(或いは大鳥居)に、憎むべき相手を象った藁人形を据えて、憎しみを込めて五寸釘を打ち込む。これを七日間人に見られる事なく続けること。呪いが聞き届けられた場合、七日目に帰る道すがら、黒い大きな牛に出会う。行く手を阻むこの牛を乗り越えた時点で、呪が発動する!

現在確認されている最も古い呪術は、ネアンデルタ−ル人が行ったとされる狩猟の為の儀式といわれている。彼らは熊の頭骨をならべ、より多くの獲物を獲得できるようにと祈ったのだろう。人形を作って呪術の対象とする行為は、土偶や埴輪にその起源を求める事ができる。
呪術において、間違いは一切許されない。仕損じるということは、殺したい相手をみすみす生き長らえさせるだけでなく、自らに跳ね返り災いするという大きなリスクを負う。人を呪う行為が如何程の行為か重々理解し、相応の覚悟で臨まなけらばならない。
逆にいえば、完璧に遂行された丑の刻参りは確実に成功する、のである。元来、丑の刻参りとは、人が生きながらにして鬼になる方法であった。この作法を完璧にこなせる者がいるとしたら、それはもはや人ではなく鬼なった証だろう。人外の者になる覚悟が出来たら、さっそく実行してみよう。
鐵輪(かなわ)とは火鉢の中に置く五徳(ごとく)のことである。鉄製の輪に3本の脚がついたもので、かつて一般家庭でヤカンなどを乗せて用いた。五徳とは儒家の温・良・恭・倹・譲、兵家の智・信・仁・勇・厳、比丘の怖魔・乞士・浄戒・浄命・破悪である。この五つの徳をひっくり返して頭にのせるのだから、丑の刻参りが邪法である事は明らかである。神社選びは慎重にされたい。この参詣は、始めたら七日間続けなければならない。そして人に見られてはいけないので、都心の神社での実行はまず無理だ。そして自宅から白装束を着て誰にも目撃されずに神社まで到達できるとは思えないので、やはり暗い神社の境内で着替える事になるだろうか。忘れ物のないように注意しよう。腰に垂らした布は地面につけてはならないとされる。端が地面につかないくらいの速さで走らなければならない。一本足の高下駄で、口に櫛をくわえて、顔面に熱いロウが垂れるのも構わず、走って走って走る…。気力も体力もみなぎらせて、万全の体勢で臨みたいものである。

さむしろに衣片敷き今宵もや われを待つらん宇治の橋姫  『古今集』
橋姫のかたしき衣さむしろに 待つ夜むなしき宇治のあけぼの  『新古今和歌集』
網代木にいさよふ波の音ふけて ひとりや寝ぬる宇治のはし姫  『新古今和歌集』

○ルーツ
貴船明神に心願成就の御利益があったところに起因する。貴船神社の祭神タカオカミノカミは丑の年丑の月丑の日丑の刻に貴船山中の鏡岩にたくさんの神々を従えて降臨したと古事に伝えられている。貴船神社は創建年代が明らかではないが、桓武天皇が鬼門封じの為に造った神社のひとつといわれている。一説には絵馬発祥の神社ともいわれ、かつては憎い相手を呪うだけでなく、願掛け全般に御利益アリとされていた。とはいっても呪詛神としての信仰は平安時代には既にあったようだ。鎌倉時代に『橋姫』が、室町時代に能楽『鐵輪(かなわ)』が成立することにより、その強力なイメージが印象づけられ、祟る神、呪い成就の神社としての認識が今日まで続いているのである。
陰陽道では、丑の刻(午前1時〜3時)を艮(うしとら)、この方位を鬼門として忌み、この刻に鬼が現れたり人が鬼に変貌するとして、人々に恐れられていた。主祭神タカオカミノカミの降臨と密接な関係があるのはいうまでもない。
この段階では未だ藁人形を五寸釘で打ち込むスタイルは出来上がっていない。奈良時代、呪禁道に人形祈祷を取り込んだ「呪釘」が民衆に流布していた。寺社仏閣、仏像に釘を打ち込むことで、神仏を痛めつけて呪詛する。この「呪釘」が後に五寸釘へと変化していったという説がある。また、人形(かたしろ)を用いての丑の刻参りが始まったのは、陰陽道がさかんであった平安時代頃ではないかと推測されているが、必須アイテムとして定着したのはもうしばらく後になってからの事で、今日伝えられる一般的な丑の刻参りの作法が完成したのは江戸時代だとされている。
○モデル
丑の刻参りの原形とされるのが橋姫伝説である。橋姫は実在しない。橋姫はもともと橋に棲む神霊だったが、『屋台本平家物語』(俗にいう「裏・平家物語」)に『宇治の橋姫』が登場して以来、いつのまにか嫉妬に狂い鬼と化した女性ということになってしまった。

謡曲『鐵輪』 …鐵輪の三つの足に 松明を立てて頭に戴き 顔には赤き丹を塗り 身には赤き衣を召し 怒る心をお持ちあれ…謡曲『鐵輪』(謡曲大観) 
下京あたりに住むある男が妻をを捨て、後妻を迎えた。先妻は後妻を妬み、貴船の宮に参詣することにした。ある晩、貴船の社人は不思議な夢を見た。都から丑の刻参りしにやってくる女への神からの託宣であった。果たして女が現れたので、「…身に赤い布を纏い、顔に丹を塗り、頭に鐵輪を戴きその三つの足に火を燃し、心に怒りを持つならば、忽ち鬼となる事ができよう…」と夢の御告げを伝えた。女は人違いであろうといったが、社人がしかと汝への託宣だというので、女は不思議な感じがしたが、さっそく家に帰ると、夢想のごとく、いたしてみようと云いだした。そう云った傍から、色が変わっていった。一方、彼の男は先妻が鬼と化した悪夢に悩まされ、安倍晴明を訪ねた。晴明は一見して女の深い恨みと、今宵限りの命である事を判じ、茅の人形(かたしろ)に夫婦の名前を打ち込み、一心に祈祷を続けた。すると女の生霊が鬼となって現れた。鬼は祭壇の人形に向かって恨み言を述べ、後妻の人形をうち苛み、更に男をとっていこうとするが、祈祷により力及ばず、やがて消えていった。

屋台本平家物語 劔巻 『宇治の橋姫』
…姿を改めて 宇治の河原へ行きて三十七日漬かれ 人なき所にたて篭りて 長なる髪をば五つに分け 五つの角にぞ造りける 顔には朱を指し 身には丹を塗り 鐵輪を戴きて 三つの足には松を燃し続松を拵えて 両方に火をつけて口にくわえつつ…『平家物語』(謡曲大観) 
嵯峨天皇の御世、嫉妬深い公家の娘が、浮気して自分を捨てた男を呪うべく京の貴船神社に七日間篭った。「願わくば生きながらに鬼に成し給へ。妬ましきと思はん女を取り殺さん」と祈ったところ、「鬼に成りたくば姿を改めて宇治の河瀬に行きて三十七日浸るべし」と託宣があった。女はいわれた通り、長い髪を五つに分けて松やにで塗り固め角を造り、顔に朱を指し、身には丹を塗り、松明を口にくわえ、異様な風貌で夜更けの大和大路を南に走り去ったという。女は鬼に成り、妬ましく思う女の縁者、男の親類すべてを殺し本懐を遂げた。

強く念じたり、信じたりする事は、わたしたちの日常生活の中でも知らず知らず実践している「呪」である。わたしたちは、それが願望成就に有効であることを無意識下に知っているのだろう。人は、不安感が嵩じて強迫観念になると、自律神経の過剰な興奮を促しやがて変調を来たす。情報は大脳辺縁系(前葉体、想像力を司る)を通じて視床下部(内臓を司る)に伝えられ、甲状腺、胸腺肝臓髄質などのホルモンのバランスを乱す。これをマイナスプラシーボ効果という。「呪」とは科学的にいえば、マイナスプラシーボ効果の典型である。病は気から。強迫観念が強ければ、死に至る事もあるという。
警察が「呪」に対して動いた事件があった。当時の新聞に拠ると。昭和29年A市にて、Tさん(女性)は、突然胸の痛みを訴えて倒れた。病院に運び込まれたが原因がまったく判らなかった。数日後、交際相手のYさんが「彼女は藁人形の呪いをかけられている」と警察に訴え出た。YさんはかつてHさんと交際していたが、Tさんと出会い、Hさんに別れ話を持ち出した。しかしHさんは別れようとせず、恋人を奪ったTさんを恨み、近所の神社で丑の刻参りをしたのだという。警察はHさんを脅迫容疑で逮捕した。Hさんの逮捕後、Tさんの身体は一瞬で回復したという。
神社を訪れた人が、五寸釘を打たれた藁人形を発見。これにTさんの名前が書かれていたという噂が本人の耳にはいる。ちょっとしたことでも呪いのせいではないかと考えるようになり、神経質になる。Tさんの場合、やがてその不安が強迫観念となり、胸の痛みとなって発病したと考えられる。
人に見られてはいけない丑の刻参りであるが、もしかしたら、人に見られた方が効果があるのではないだろうか。  

 

●呪術、呪いについて
呪術、呪いの歴史は人類の歴史そのものでもある。
今から五十万年前、北京原人は、すでに遺体を埋葬するときにその周囲に赤い鉄の粉をまくという呪術、呪い的行為をしていた。先土器時代、縄文時代、弥生時代と、呪術、呪い的な営みは連綿と続き、現代にも残っている。
呪術、呪いとは、大自然の中にあまねく存在している眼には見えないパワーを、呪文(言霊、真言など)や呪具を用いて自然から取り出し、集め、神霊や精霊と一体化することによってそのパワーをコントロールするテクノロジーのことであるのだ。
もとをたどれば、豊作を願って、雨乞いをしたり、病気の治癒を祈って、神仏に供物を捧げる・・・・ 太古の昔から行われてきたこのような「祈り」がその後特別な言葉や行為として定型化され「呪術、呪い」として伝えられてきたに違いない。今も残る、『節分の豆まき』も一種の呪術、呪いといえる。我々が意識していないだけで、呪術、呪いは身近に存在する。
しかし、科学が発達した現代でもなお、呪術、呪いが人を魅了するのは何故だろう。それは、人々が自分の幸せをつかむために、普段の自分以上のエネルギーを発し、その願いがとどいたかのような結果がついてくるからだ。「願いがかなうかもしれない」という夢や希望と「実際思い通りになった」満足感のダブルコーディングが、呪術、呪いの方法や、可能性を広げたのではないだろうか。呪術、呪いは、日常以上の集中力・膨大な生命のエネルギーを燃焼させて成就するため、呪術、呪いを行う際、生半可な気持ちでは、呪術、呪いは逆に大きな災いを招きかねない。
好奇心や興味本位で呪術、呪い行うなども、言語道断。ただ「呪術、呪い」と一言でいっても、人を貶めるだけではない色んな意味が伴ってくる。念をこめる時は、自分のために真剣に行いなさい。
丑の刻参り
さて、当サイトで販売している藁人形を用いて行う呪術、呪いは、古来より怨みを晴らす道具として重宝されてきた。例え呪術、呪いをかけられた人間に何か起こっても全く証拠も痕跡も残さずにすむからだ。
では本当に呪術はきいているのか?と言われると全てが呪術、呪いとか怨念とか霊の仕業とは思わない人が多い。しかしながら皆、呪術、呪いの一例を何も考えず行っている。たとえば初詣。手を合わせて皆が幸せを願うのも立派な呪術、呪いの一つなのだ。
呪術、呪いというと暗いイメージしかないが、思い返すと日常の中でかなり呪術、呪いの一端をおこなっていることが分かってくるだろう。言うなれば・・・「信じる者は救われる」だろうか。言い方を変えれば「念じるものは通じる」だ。また、その念が強ければ強いほど相手に送られるエネルギーはすさまじいものとなる。
厄災身代わりの呪術、呪い
古来より藁人形を家の守り神として、供える風習があります。(現代のしめ縄もその名残であるという説があります)厄災から身を守るため、家の鬼門(丑寅、北東)に藁人形を納め、悪鬼の侵入を防ぎます。 また、枕もとに藁人形を供え、毎夕お祈りを捧げることで、自分の身に降りかかる事故、病気を身代わりになってもらえます。 もしも、枕もとの藁人形が朽ち果てた時は、あなたの代わりに天に召されたと信じ、誠実な供養をしてあげてください。
病魔を呪う呪術、呪い
丑の刻参りと同様、病魔への恨みの念を、藁人形に込めて、釘を右手からづつ、右足から半時計周りに、左足、左手、頭部・・・最後に思いのたけを込めて、胴体へ竹釘を打ってください。こうすることで、元気だったころの気のめぐりを取り戻せると言伝えられております。
恋愛成就の呪術、呪い
恋愛対象の人物の、体の一部(髪、体液、爪、皮膚・・・)、もしくは、名前を書いた紙、相手が着ていた服の切れ端・・・を、藁人形の胴体の中に埋め込みます。その人形を絹布(もしくは紫の布)に包み、大切に扱ってください。そして誰にも見られないよ うに、午前2時に胸の思いを人形にささやきます。これを7日間続けてください。注意点は、7日間は決して誰にも見つからないように・・・間違っても釘を打ったり、粗末に扱ってはいけません! 

 

●おかげ明神といのり杉   地主神社 / 京都市東山区清水
おかげ明神の後方には、ご神木である「いのり杉」が立っています。「いのり杉」は別名「のろい杉」ともいわれています。
江戸時代には「丑の刻参り(うしのときまいり)」が女性のあいだで広まっていました。当時から現在まで伝わる「丑の刻参り」は、丑の刻に藁人形を五寸釘でご神木に打ちつけ、相手を呪うというもの。しかし、そもそもは「のろい」ではなく、国土豊潤のため、丑年丑月丑日丑刻に神社の祭神が降臨される折、心願成就に詣でたのが始まりといわれています。その後、「丑の刻参り」は物語に登場し、いくつもの伝説が生まれるようになります。
そのひとつに、鎌倉時代の屋代本『平家物語』(裏平家物語)に登場する「宇治の橋姫」伝説があります。橋姫はつわりに苦しみ、夫にわかめを採ってきてくれるよう頼みます。しかし、海に出かけた夫は美しい龍神にとらわれてしまい、橋姫のもとへは戻りませんでした。橋姫は憎い龍神を呪い殺そうと、神さまに鬼への変身を願います。すると、「髪を松やにで固めて角を作り、その先に火を灯し、鉄輪を被って、三本のたいまつを持ち、宇治川に22日間浸りなさい」とのお告げがあり、橋姫は鬼になったと伝わっています。
この物語では、五寸釘や藁人形を使う姿は伝えられていません。現在のような姿が描かれるのは室町時代。世阿弥作の謡曲「鉄輪」の中に登場します。夫に別れを告げられた女が、夫とその後妻との仲むつまじい姿を無念に思い、報復祈願のお参りをし、生霊となって本望を果たすという物語で、かの有名な陰陽師・安倍晴明も登場します。生霊となった先妻の想いを鎮めるために祈祷したのが、安倍晴明だったと描かれています。
現在も地主神社の「いのり杉」には釘の跡が生々しく残っていますが、それらは、愛する人に裏切られた女性たちの「想い」のあらわれでもあります。「丑の刻参り」は憎しみや恨みを晴らす手段と思われがちですが、現代と比べて女性の立場が弱かった時代、相手を一途に想うが故の行動だったのかもしれません。地主神社へも、今まで多くの女性たちが願を掛けに訪れましたが、それは、悪縁を断ち、良縁の「おかげ」がいただける、霊験あらたかな神であったからでしょう。
かつて「のろい杉」と呼ばれたご神木「いのり杉」は、現在も、地主神社の「おかげ明神」を訪れる女性たちを見守り、良いご縁へと導いてくださっています。 
 
 
 
  
 

 

   藁人形
●藁人形
藁を束ねたり、編んだりして人間の形を模した人形である。古代中国では芻霊、ないし芻人と呼んだ。
死者の埋葬の際に副葬品として用いられる他、丑の刻参りにおいて用いられる呪いの道具の一種としても知られる。それに関連して、怪奇映画などでは恐怖を象徴する小道具として用いられることもある。日本では平安時代、疫病が横行した際病魔を駆逐する為に藁人形が道端に立てられることもあった他、田畑を食い荒らす害虫を駆逐する為に藁人形を掲げて田畑を歩き、その後川に流すという習俗もあった。合戦などでは、敵を攪乱(かくらん)する為に藁人形に甲冑を着せて人間の武者に見立てることもあったと軍記物語などで言及されている。
丑の刻参り​
丑の刻参りにおいては、作法として、五寸釘を使い、丑三つ時に相手と同調関係を得ているもの(髪の毛など)を埋め込み、藁人形に釘を打ち込む。なお、寸=3.03cmであることから、五寸=15.15cmとなる。このような全長の長い釘は、ホームセンターや金物屋には通常は置いていないことが多く、入手は困難である。なお、「五寸釘」には大五寸(2寸2分)、並五寸(1寸8分)、中五寸(1寸5分)がある。
厄除け​
また厄除けの道具として用いられることもあり、例えば岩手県和賀郡の旧湯田町(現西和賀町)白木野地域では、藁人形に集落の厄を背負わせ地域の外に送り出して無病息災を祈る風習が残っており、この白木野人形送りを題材にして同地域の国道107号線沿いに日本一の大きさを誇る藁人形(背丈5m、幅4.3m)が置かれている。
形状​
藁人形は人型のみならず、馬など獣を模したものも作られる。有名なものとして新潟県新発田市における新発田の藁馬、岡山県の有漢のコトコト馬、福岡県の芦屋の八朔藁馬などがある。
   「牛久縁切り稲荷」境内にある縁切り祈願の為の「縁切り藁人形」
   でく(石川県白山市)
   かしま人形(秋田県)
   虫送りの人形(富山県南砺市)
   八朔馬「はっさくうま」(福岡県芦屋町)
   道祖神祭のウマ(鳥取県大山町)  

 

●藁人形 
わらで作った人形。おもちゃとしてのほかに、実際の人間の代わりに傷つけて相手を呪(のろ)うのにも用いる。
古典落語の演目のひとつ。上方では「丑の時詣り」と題する。
藁を材料にしてつくった人形。古代中国では芻霊(すうれい)、芻人とよんで死者とともに葬る副葬品に用いられた。日本では平安時代、疫病が流行すると、これをつくって道に立て、祓(はらい)をした。また田畑の害虫を追いやるまじないに行う虫送りに、斎藤別当実盛(さねもり)などという藁(わら)人形をつくり、この人形を村はずれや川まで送る習俗が農村でみられる。藁(稲)を神聖視した現れで、こうした信仰、呪咀(じゅそ)的なものに用いられる。呪(のろ)う人を模した藁人形を神木に打ちつけてその死を祈る「丑(うし)の刻(こく)参り」などに登場するのもそれである。また、合戦の際この藁人形に甲冑(かっちゅう)を着せて武者姿に仕立て敵の目をまどわすことなども『太平記』などの軍記物にみえている。
藁を束ねて、人間の形にしたもの。おもちゃとしてのほかに、合戦のとき敵の目を欺くためや、恨みのある相手の代わりとして呪いをかけるためなどに作る。※藤葉栄衰記(1625頃)上「掻楯を立、其陰に藁人形に鎧冑を着せ」
丑の時参り …恨む相手をのろい殺すため丑の刻(午前2時ごろ)に社寺に参詣し,神木などに藁人形に五寸釘を打ちつけて祈願することを7日間つづけ,願いがかなうと相手が死ぬという信仰。頭に五徳を逆さにかぶり,その足にろうそくを立て,白装束を着て,人知れずこれを行うものとされた。…
端午 …茨城県高萩市の旧高岡村では,節供として当然休むべき5月5日に田に入って働くと,棒足といって足がはれ,棒のように硬直して曲がらないようになるといったり,このときに植えた稲苗は赤くなって収穫不可能になるといって,田に入らないようにしていた。福島県飯坂町茂庭でも,この日田に入ると3里四方が不作になるといい,入った者を象った藁人形を作って皆で呪ったという。類似の伝承は北関東から東北各地にあるが,さらに山口県にも,〈代搔き(しろかき)の牛を出すな〉とか〈土に生金(なまがね)を立てるな〉といって田仕事を休む風がある。…
藁人形とは、枯れ草で作った人形である。しばしば五寸釘とセットで呪詛に使われる。なお、藁人形は呪いたい相手の代用なので、相手のイメージを投影する必要がある(例:髪の毛や爪の垢を埋め込む、顔写真や絵を貼り付ける)。また、「人の身代わりになる」性質から、依り代や厄除けとしても利用される。  

 

●藁人形の作り方 
1.藁人形作りに必要な物
先ず最初に、藁人形を作るにあたって必要な材料や道具ですが、入手が困難な物は無く、全て比較的簡単に手に入り必要な物が殆どです。必要な物は以下の通りとなっていて
・藁(アマゾンやホームセンターの園芸用品で購入可能)
・紐(ナイロンやビニールのものでなければ可)
・ハサミ(藁の切れる裁ちバサミなど園芸用のもの)
以上の3つがあれば、藁人形を作る事が可能です。後は、上記以外に藁をまとめる『クリップ』(洗濯バサミなどでも代用可)・大き目の段ボール箱・ブルーシートなどがあればより作りやすいと思います。
2.藁人形を作る(腕編)
藁人形を作る時、先ず最初に腕の部分から作って行きます。先ずは適量(今回は、軽めに人差し指で輪っかを作る程度の太さ)の藁をつかみ、軽く端をどちらかに揃えます。端を紐で縛っていくのですが、その前にクリップがある場合は、縛りやすいようにクリップで縛る場所の手前を留めておきます。あらかじめ30〜40pにカットした紐で、端から5センチ程の所を【巻き結び】で縛ります。
巻き結びをした事によって、紐が緩んで藁がほつれたりする心配がなくなるので、そのまま余っている部分の紐を藁に巻き付けて、最後に丸結びでしっかりと解けない様に縛って余分な部分の紐をカットします。反対側も長さに目途を付けた所で、同様に縛っていきます。
両端がしっかりと縛れたら、長さを整えて端を揃える為に両端をカットしていきます。
これで先ずは、藁人形の腕となる部分が完成です。
3.藁人形を作る(胴体編)
腕が出来れば次は、胴体や足となってくる本体部分の制作になります。大部分は、腕と同じですが、先ず最初に藁の束を作る時に、胴体部分の場合は、腕よりも1〜2周り太目になる様にします。腕と同じ要領で先ずは、端を片方縛って行きます。片方を縛ったら、藁の束を半分に分け、そこへ先ほど作った腕を挟んで行きます。
胴体に腕を挟み込んだら、腕の下を縛り腕が抜けない様にしっかりと固定していきます。
これで藁人形の胴体部分は完成です。
4.藁人形を作る(足編)
腕が固定でき胴体部分が完成したら、次は、足となる部分を作っていきます。先ずは、胴体部分の縛っていない方を縦に半分に分けます。
胴体を分けたら、分けた根元の所から少し離したところを縛ります。
縛ったところから等間隔でもう1カ所縛り、反対も同じように縛って片足2ヶ所、計4ヶ所縛っていきます。
足が出来あがったら、頭と足先の部分をカットし、長さと先端を整えます。
最後に軽く全体を整えれば藁人形の完成です。

今回紹介した方法は、比較的簡単で、一般的な作り方となっています。
上記の作り方以外にも、腕と胴体の部分に紐を掛けて完全に動かない様に固定する作り方や、紐を中にしまいこんで見えない様にする作り方等もありますが、それによって呪術自体の効果が左右されると言うものではありませんので、特に気にする事は無いかと思います。
この藁人形の作り方は、藁人形の販売業者など呪術者でも、この作り方で藁人形を作成している呪術者が多い方法となっています。
今回は、分かりやすい様に赤の毛糸で作っていますが、基本的には、麻縄など自然の物のが好ましいと思います。尚、赤の紐で作ったのもは、恋愛成就などの呪術使用に向いているとされています。 

 

●藁人形の使用法 [呪術としての丑の刻参りや魔除け・厄除け] 
藁人形とはその名の通り、藁を束ねたり編んだりして作る人形のことです。さて、藁人形と聞くと、丑の刻参りをイメージされる方が多いのではないかと思います。丑の刻参りでは藁人形を呪いたい人の身代わりに見立てて、丑三つ時に釘を打ち付けることで呪の効果を発揮する人形です。今日まで伝わっている一般的な方法は、藁人形を釘で打ち付け、呪いたい人にダメージを与えるということです。丑の刻参りはれっきとした呪術であり、未開の時代から行われている呪術と原則変わりありません。まずは丑の刻参りが古来から行われる呪術的な意味を持つことを説明していきます。
類感呪術と感染呪術
金枝篇という研究書物があります。これはイギリスの文化人類学者ジェームス・フレイザーがまとめたものですが、未開の社会の神話、呪術、信仰について書かれています。その中でフレイザーは、「呪術とは類感呪術と感染呪術に分けることができる」としています。
これらのこと関連付けて、日本を代表する呪術・丑の刻参りを考えてみましょう。丑の刻参りでは、藁人形が呪いたい人に見立てられ、釘を打たれることになります。類感呪術は類似したもの同士は互いに影響しあうという発想に基づいているため、藁人形=呪いたい相手となり、藁人形に危害を加えれば、呪いたい相手にもダメージを与えることができるというわけです。
また、丑の刻参りでは古来から呪いたい相手の髪の毛を人形に入れることがあります。これは感染呪術と関係しています。相手に接触していたものに危害を加えると、その相手自体にも危害を加えることができるという論理に基づいています。現代では写真を藁人形と一緒に釘で打ち付けると、呪術の効果が現わされやすくなると言われていますが、これも類感呪術や感染呪術を現代風に応用したものとと言えるでしょう。
丑の刻参りの方法
それでは丑の刻参りは実際にどのように行われているのでしょうか。一般的な方法を見ていきましょう。まず呪術を行う時刻は名前の通り丑の刻(午前1時〜午前3時)です。この時間帯に神社へ行き、神社の木に藁人形を釘で打ち付けます。先ほど説明したように、髪の毛や写真などを一緒に打ち付けると、類感呪術に加えて感染呪術の効果が発揮されやすくなります。細かい作法については、白装束を着るとか、ろうそくを持っていくとか、何日連続で続けなければならないなど様々な言い伝えや伝説がありますが、丑の刻に藁人形を釘で打ち付けるという基本作法は共通しています。
さて、古来から人は多くの呪術を操ってきたわけですが、丑の刻参りのルーツは平安時代まで遡ることができます。平安時代に普及していた陰陽道では、丑の刻は人が鬼に変化する時間帯と言われ、多くの人が丑の刻参りをしていたといいます。これは平家物語の橋姫伝説にも記されており、宇治に住む橋姫は男に捨てられ、その恨みを晴らすために京都の貴船神社にて丑の刻参りをしていたとされています。貴船神社での丑の刻参りの記録は他にもあり、貴船神社は丑の刻参りのメッカとしても有名です。
ここまで丑の刻参りについて説明してきましたが、当然のことながら安易に丑の刻参りを行うのはお勧めすることはできません。因果応報という言葉があるように、悪いことをした人には必ず天罰が下されると言われています。その理屈から言えば、呪いをかけたい人物は、呪をかけようとする者に何らかの悪さをした人だろうから、そのうち罰が下るはずです。しかし、それでも何としても自分の手で罰を食らわせたいという気持ちがあれば、自己責任で行っていただくことになります。
丑の刻参り以外での使用法・魔除けや厄除けとして
このように、一般的な藁人形のイメージは丑の刻参りで使用されるものというイメージが強いわけですが、実は他の使用法もあります。
例えば平安時代に疫病が流行したとき、病魔を駆逐するために道端に藁人形が立てられていたという記録があります。さらに田畑の害虫を守るために藁人形を掲げて道を歩く習慣もあったと言われています。このように実は藁人形には魔除けや厄除けの効果を期待することができるという一面があります。
これは藁人形が神様の依り代と機能することを期待されたからにほかなりません。藁人形に限ったことではありませんが、人形には神や魂が宿りやすいと言われており、厄除けや魔除けとしても使うことができるのです。
丑の刻参り以外での使用法・恋愛成就祈願として
藁人形には丑の刻参りという呪術や魔除け・厄除け以外の使い方があります。類感呪術を思い出してください。類感呪術を応用した丑の刻参りは、呪いたい相手を藁人形に見立てて、釘を打ち付けることで、相手にダメージを与えることができるというものでした。しかし呪いとは必ずしも悪いことばかりに使うものではありません。いわゆる白魔術のような使用法ができるのです。
その原則に基づいた使い方として、2人の良縁を願う恋愛祈願があります。恋愛祈願についても、藁人形を人間に見立てることで類感呪術を発揮させます。具体的な方法としては、2体の藁人形を紐で結び付けて恋愛成就の祈願をします。もしも相手の写真や髪の毛などがあれば、それを藁に入れれば尚よいでしょう。2体の藁人形が用意出来たら、紐で巻き付けていきます。そのとき2人が結ばれるイメージを持ちながら行うと、なお一層効果が期待できます。
※このような呪術は実際に行われてきたことは確かですが、呪術は科学的根拠に基づくものではありませんのでご了承ください。  

 

●日本人が「わら人形」を未だに怖れる理由
“丑の刻参り”でおなじみ、呪いの象徴として知られるわら人形。ただのわらの塊のはずなのに、私たちはなぜ、「こわい」「呪われそう」と感じてしまうのか? その歴史と文化的背景をたどれば、“人形”と“呪い”のふしぎな関係性が見えてくる——。 早稲田大学文学学術院の「面白い」講義ランキングで2年連続1位(学内講義情報誌『Milestone Express 2017、2018』調べ)! 大人気講義「人形メディア学概論」、「人形とホラー」などを担当してきた気鋭の人形研究者が、「わら人形」の謎に迫る。
農家の子どもがメルカリで売るらしい
皆さんはご存じだろうか。毎年秋ごろ、ヤフオクやメルカリをのぞくと、数百円というお手頃価格で手作りのわら人形が出回っていることを。
出品者の所在地を見ると、秋田、新潟、福島、山形……と米どころが多い。ある時、聞いてみたら、稲刈り後に余ったわらを利用して農家の子どもたちが小銭稼ぎに売っている場合もあるという。
そんな愉快な光景を想像しつつ早速いくつか購入し、担当する講義に持参するわたし。
そして「今日は特別ゲストが来てくれました」などとうそぶきながら、学生たちに届いたばかりのわら人形を見せる。すると彼らはたいてい、ひきつった笑顔でこちらを見つめたりばつ悪そうに目をそらしたりしている。どうやらこわいようだ。
不思議な話である。だってこれは、わたしが数日前にネットで買った、農家の子どもが戯れに作ったわらの塊じゃないか。
そんなことを説明しながら、試しに教壇の高いところからわら人形を落としてみたり、学生のいる座席にぽいと放り投げてみると、教室のそこかしこで悲鳴が上がる始末。ぼそっと「呪われますよ」と丁寧な忠告をしてくれる者もいる。
ここで講義を終えてしまったら、わたしは教室でわら人形に乱暴するヤバいおじさん以外の何者でもない。
そこですかさず、実はこうしたわら人形を巡る態度にこそ、人形や呪いとわれわれの今日的関係を考えるための重要なヒントが隠されているのだと告げ、講義を始める。
なぜわたしたちは、わら人形をこんなにこわがってしまうのだろうか? 
どうして平成も終わろうとしているのに、呪われるかもなどと感じてしまうのだろうか?
わら人形で「呪う」のは罪なのか?
まずは過去から現在に至るまでのわら人形文化史を簡単に確認しておきたい。
わら人形と聞くと多くのひとが思い浮かべるのが丑の刻参り(うしのこくまいり)ではないだろうか。
丑の刻とは、いまでいう午前2時前後の2時間。以下の工程を行なうとされる。
白装束を着て、顔に白粉、歯はお歯黒、濃い口紅、頭に鉄輪(かなわ)を逆にかぶり、その3つの足にろうそくを立てて口に櫛をくわえ、胸に鏡をつるして神社のご神木や鳥居に藁人形を五寸釘で打ち付ける。
これを連日繰り返すと、7日目の帰りに黒い牛が寝そべっており、それをまたぐと完了。なおこの様子を誰かに見られた場合効果は失われる(見た者を殺せば問題なしとする説もある)。
こうした手順は地方や時代によって差があるが、屋代本『平家物語』「剣の巻」、謡曲の『鉄輪』などに登場する「宇治の橋姫」伝説を原型のひとつとし、さまざまな要素を盛り込んで江戸時代頃におおよその形ができたといわれる。
昨今でも、テレビの心霊番組や、映画『愛の陽炎』(1985年、いとうまい子主演)、『陰陽師』(2001年、野村萬斎主演)、またアニメ『地獄少女』(2005年〜)等のフィクションの題材として知っているという人は少なくないだろう。
一方、上記の作品等での描かれ方もあってか、わら人形と聞くと「ああ、あれね」とにやけるばかりで、真剣に取り合ってくれる人は希少だ。
だが実は十分"現役"の存在でもある。
最近では、1877年(明治10年)に上野公園で発見されたわら人形が東京国立博物館で「マジカル・アジア」(2017年)と題した展示に出品され、話題となったのは記憶に新しい。
また、わら人形が関わる事件も次のように2017年1月だけで、2件もニュースになっている。
・1月6日、女性に交際を断られた愛知県在住の高校非常勤講師の男性が、自宅敷地内に針の刺さったわら人形のようなものを置いたとして、ストーカー規制法違反の疑いで逮捕。
・1月23日、群馬県内にあるゲームセンターの駐車場に女性の名前や似顔絵を赤い塗料で書き込み、くぎを刺したわら人形を置いた男が脅迫の容疑で逮捕。
これらの罪名を見ると明らかだが、今日では、わら人形で呪いをかけること自体を罪に問うことはできない。
ちなみにかつての日本では、人形を用いた呪いが法で禁止されていた。人形による呪いは厭魅(えんみ)と呼ばれ、聖武天皇によって729年に出された勅令には、厭魅の首謀者は斬首、加担者は流刑に処するとある。
757年の養老律令にも同内容の条項があり、1870年(明治3年)の新律綱領でも厭魅は禁止されている。
明治時代になってもなお、法文書に厭魅が登場することはいささか驚かされる。
前述の通り、今日では人形による呪いに関する法律は存在しないが、毎年それなりの数のわら人形に関連する事件は報じられている。わら人形の呪いなんてフィクションの中だけでしょ、と思っていても、そんな報道を見聞すればついぎょっとしてしまうのは事実だろう。
「のろい」は「まじない」と紙一重
これは、一見非科学的に思えるような存在や事象を信じたり感じたりする力が、未だに消失していない証拠でもある。「呪い」は"のろい"の他に"まじない"とも読む。
東北地方などには、カシマ様やショウキ様といったコミュニティの守り神の役割を果たす巨大なわら人形を山道にこしらえる習慣があるが、そこに託されるのはしばしば五穀豊穣や無病息災といった極めて素朴で切実な祈りに他ならない。
同じわら人形でも、これらは"のろい"というより"まじない"の道具として利用されていることが分かる。
また、都市に生活する人々にとっても、切実な祈りを込めたまじないに触れる機会は決して少なくない。
例えば小学生を主たる読者層とする、マーク・矢崎治信監修の『ミラクル!おまじない大じてん』(成美堂出版、2017年)には次のようなおまじないが紹介されている。
白いフェルトで、ウサギのマスコットを作ります。綿を入れるときに「社会」とかいた紙も、一緒に入れてね。これをカバンに入れておけば、社会の授業が楽しくなります。
フェルトで作られたウサギの中身を、何かの拍子にうっかり覗いてしまったとき「社会」と書かれた紙が入っていたら仰天すること請け合いだ。
だがそれはさておき、その根底には「社会の授業を楽しく受けたい」という、小学生ならではの素朴な祈りがあるわけで、なんとも微笑ましい。
本当に効果があるのかは不問としたいが、とはいえ、幼少期から大人になるまで、こうしたまじないの類とまったくの無縁であったという人は珍しいのではないか。ここまでやらなくとも、個人的なジンクスや願掛けの類を生活に取り入れている人は少なくないだろう。
なぜ、わら人形は怖いのか
こうしたことからわかるのは、前近代的、非科学的だといわれようと、呪い(のろい/まじない)は、今日においても世界のそこかしこにひそんでいるということだ。
文化人類学者の小松和彦は『呪いと日本人』(角川ソフィア文庫、2014年)において、呪いとは「呪い心」と「呪いのパフォーマンス」が組み合わさって成立するものだと述べる。
わら人形を用いた呪いのパフォーマンスといえば前述した丑の刻参りが有名だ。しかし呪い成立のためには誰にも見られてはならない(見られたら殺すべき)とされていたことを考えると、このパフォーマンスを他人が目撃することは通常かなり難しい。
よって神木に打ちつけられたものや、博物館に展示されたものを目にすることとなるわけだが、いつ誰がどのようにして使用したわら人形なのかはわからない。
つまり、われわれはわら人形のようなメディアを介して、どこかの誰かが呪い(のろい/まじない)心を持ちそれを用いてパフォーマンスしたらしいことを知る。そうして、祈りの痕跡であるわら人形から様々なことを想像する。
そこに託されていたのはもしかしたら、前述したおまじないのような、どこぞの小学生によるささやかな祈りだったかもしれないし、想像を絶するような恐ろしい術かもしれない。テレビや映画でわら人形を見かけた誰かが、ネットで購入したばかりのわら人形をいたずらで置いただけかもしれない。
いずれにしてもそのわらの塊が、"ひとのかたち"という人工的形状をしていることで、その背後や内奥に誰かの呪い(のろい/まじない)心が宿っている、ようにどうしても思えてしまう。
これは裏を返せば、人形というメディアが発するメッセージは、われわれの不安定な主観によって、いかようにも解釈し得るものであることを意味する。
ほとんどの場合、それを誰が何のためにそうしたのか、はわからないし、わかったところで何がどうなるわけでもない。
ではどうするか。
そこで、わら人形と聞けば、「ああ、あれね」とにやけながら距離をとり、目をそらして深く考えないようにする。
いわば、現代社会でそつなく生活するための知恵として、わら人形はこわい、なんだか呪われそうだから近づかない、ということになっているのである。
しかしそれでいいのだろうか。
前述したように、呪い(のろい/まじない)心はこの世界から消失したわけではない。
であるとすれば、一見くだらなくも見えるわら人形が教えてくれるのは、そうした非科学的で不合理にも思えるような存在が、この世界のある部分を確かに形作っているという重要な事実なのではないか。
漠然とこわがるのではなく、立ち止まって、わら人形の歴史や文化的背景に目をこらしてみるとそんなことが分かってくるのである。
だからこそ、これからも世界の一側面について学生たちと真剣に考えてみたい一心で、わたしは今年もわら人形をネットで買うことだろう。
農家の子どもたちよ、今年も頼むぞ! 

 

●落語「藁人形」の舞台を歩く
藁人形は志ん生や彦六(正蔵)もやっていたが、五代目古今亭今輔の噺「藁人形」 (わらにんぎょう)は凄みと内容の深さに、震えるほどの迫力があった。おばあちゃんものの今輔からは考えられない。この今輔の噺によると、
・・・ 神田のぬか問屋「遠州屋」の美人で一人娘お熊は今は身を持ち崩して、千住の若松で板頭を張っている。毎日、表を通る千住河原町(志ん生は、千住のいろは長屋への九番)に住む西念と言う乞食坊主を父親の命日だから供養してくれと呼び込み、部屋に上げ親切にしてあげる。父親に生き写しだから、父親代わりに親孝行をしたいとの話。「出物の家があるのだが、西念さんと一緒に住みたいので、内金を打ちたいが、旦那が旅に出ていて当座の金がない。手頃な家なのだが、このままでは次の買い手が付いてしまう。何とかしたいが私も持ち合わせがないので諦めてくれ」、との話。西念は「私が何とかしますから」と言う事で、隠し貯めた全財産30両をお熊に渡してしまう。
西念は身体をこわし外に出られなくて小銭が無くなった。お熊の所に行って1分(1/4両)を無心したが断られた。「30両はもらった金なので、西念には何もしてあげられないし、あれは西念の持ち金を取り上げられるかどうか、仲間と掛けして私が勝ったのさ」とうそぶくお熊であった。西念は初めて語り取られた事に気が付いた。むしゃぶりつくが若い衆が駆けつけて、七十の歳を越えた身体に怪我までさせて、追い返してしまう、お熊であった。
絶望して長屋に帰った西念は外にも出ずに過ごすのを長屋の住民も心配していると、甥の甚吉が訪ねて来た。「誰だ」、「豊島町の甚吉だ」。中に入ると西念が一人憑かれたようにいた。「これからは俺が面倒見てやるからな」。話の途中で小用に立つ西念が「鍋の中だけは見るな」と言付けた。見るなと言われれば見たいのが人情、鍋の中は藁人形を油で煮ていた。そこに戻った西念が蓋が曲がっているから見ただろうと、問い詰め「そうか。俺はクヤシイ。これで呪いが効かなくなった」と肩を落として、甚吉に一部始終語った。甚吉は呪いをかけるなら5寸釘に藁人形だろうと言うと、「釘じゃーきかねーんだ。あいつはぬか屋の娘だ」。 ・・・
1.千住宿
品川、板橋、内藤新宿とここが江戸四宿のひとつで、人口からすると一番大きかった。日光街道・奥州街道の江戸から最初の宿場。
【日光街道】 江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋を起点として、千住から宇都宮までの17宿は奥州街道と同じ道を通り、宇都宮から分かれて徳次郎・大沢・今市・鉢石を経由して日光に至る。
【奥州街道】 江戸時代の五街道の一つ。江戸千住から陸奥国(青森県)三厩(みうまや)に至る街道。厳密には江戸から宇都宮までの日光道中および白河から三厩までの仙台・松前道を除く、下野国白沢から白河に至る10宿の道中をいう。奥州道中。
日本橋から2里8町(8.7km)、家数2370、旅籠55、約1万人の人が住んでいた。千住宿は小塚原(荒川区南千住)の千住南組、千住大橋から千住まで(足立区千住橋戸町、千住河原町、千住仲町)を千住中組、足立区千住1−5丁目が千住北組として構成されていた。實永2年(1625)千住1−5丁目の千住北組が千住宿として指定され、本陣もここに有ったが、後に万治元年(1658)〜寛文元年(1661)に小塚原など5町が加わった。嘉永2年(1849)の文書では、一般の客を泊める平(ひら)旅籠屋と飯盛り女の居た食売(めしもり)旅籠屋の別があったようで、平旅籠屋は千住1丁目に多く、食売旅籠屋は2,3丁目に集中しており、その軒数は1丁目4軒、2丁目14軒、3丁目12軒、4丁目1軒、それと小塚原町と中村町で15軒で、合計46軒有ったという。時代が下がると、店数は増えた。吉原に対して、四宿のこういう場所等を「岡場所」と言った。文禄3年(1594)隅田川に初めて千住大橋が架けられ、奥州街道の利用度を大いに増した。また家康を祭る日光東照宮が完成した後は、日光街道の重要度も増し、最初の宿場としての千住は道筋も長く、大いに栄えた。しかし、江戸四宿はどこも江戸から近すぎて、旅の宿泊者は少なく、岡場所として栄えた。
「藁人形」の舞台は南組、”コツ”の南千住です。コツは刑場の有った小塚原(こづかっぱら)からとも、掘ると骨が出るので(志ん生)、骨=コツとか、いろいろ言われているが、この地の別称。この街道をコツ通りとも言う。
豊島町 / 千代田区神田豊島町=現・東神田の西側半分)甥の甚吉が住まっていた所。JR浅草橋と秋葉原の中程で、靖国通り東神田交差点とその北に流れる神田川に架かる美倉橋にかけての一帯です。その東側に浅草見附がありました。154話「業平文治」で亥太郎という左官屋が住んでいた。
2.板頭
その店(貸座敷=郭)でナンバーワンを張っていた遊女(志ん生)。吉原では「御職(おしょく)」といい、岡場所ではこう呼ばれた。武道などの道場では板に書いた名札を上位者から順番に張り出し、序列を付けた。それと同じように、女郎の名札を壁に掛けて序列を付けた。その最上位者。
3.西念
元、「か組の纏(まとい)持ちで嘉吉」という鳶であったが、些細なことから出入りで人を殺めてしまう。それを期に、頭を丸めて坊主になるが、江戸中の火消しが功績のあった彼のために「花会(はながい)」を開いてくれて、その収益金から30両を贈られ、大事に壺に入れて、床下に隠して置いた。
お金の出どこのもう一説は、文字通り10年のあいだ、食うものも食わずに貯めた金であった。演者によって40両(志ん生)だったり20両(彦六)だったりする。100軒回って1軒位しかお布施の貰えない(志ん生)、この仕事では10年で40両は、稼ぎすぎ?で、貯めすぎであった。 
花会については落語「三軒長屋」の中にも出てくるもので、その噺では、鳶の頭が引っ越し費用の捻出の為め、それを開こうとする。義援のため仲間内を集めておこなう、盛大な博打の会をいう。広辞苑にも出ていない。今で言うチャリティーコンサートやチャリティー○○○の様なものであった。
4.ぬか屋
ぬかは当時飼料、漬け物、肥料、石鹸の代用、駄菓子等の原材料になった。用途がかなり有ったので、問屋まであった。今の東京にも2軒ほどのぬか屋が有ります。
5.原話
ある夜、白装束にて黒髪を乱し、鉄輪(かなわ)に蝋燭を立ててかぶり、丑三つの頃、神木へ灸をすえる。所の百姓、これを見て、「これこれ、女中。こなさんは丑の刻参りじゃないか」、「あい、左様でござんす」、「そんなら、灸より、釘の方が効きそうなものだ」、「さればでござんす。先が、糠屋(ぬかや)でござんす」。
丑三つ参りは、誰かに見られたら願が成就し無いという。その為昼間では目が多すぎるので、人気の無い午前2時頃に絵のような格好で願を掛けるという。 この女性は油で煮るのでは無く、神木に灸をすえた。
舞台の千住宿を歩く
泪橋(なみだばし、旧日光街道と明治通りの交差点)から北に向けて歩き始める。 東に隅田川に架かる白鬚橋(しらひげばし)、西に三ノ輪から王子、南に山谷、今は日本堤と名を変えています。その先、浅草。ここからが千住宿・南組、コツの始まりです。直ぐ前にJR貨物線のガード、向こうに平行して地下鉄日比谷線のガード、2−30m離れてJR常磐線のガードと立て続けに線路の下をくぐる。左手、日比谷線と常磐線に挟まれた狭い三角地帯が「延命寺」で、ここに首切り地蔵尊が有ります。北隣の本家回向院が、常磐線で二分されてしまったので、昭和57年11月独立開山した。ここも本家回向院も、小塚原の処刑場跡に創られたもので、ここの首切り地蔵尊は、花崗岩で作られた座像で、寛保元年8月(1741)刑死者の菩提を弔うため建立されたもの。
向こう隣の本家(?)回向院(南千住5−33)は両国の回向院別院として寛文7年(1667)に小塚原の処刑場に創られたもので、間口60間(108m)奥行き30間(54m)、1800坪(約6000m2)の広大な刑場であった。この刑場は、徳川幕府初期から開場され「浅草はりつけ場」と称され、220余年間に20余万人が処刑された。平均すると年間900人が何らかの理由で処刑された。1日にして2−3人が露と消えていたわけで、すさまじい数字です。この他にも江戸には鈴が森に同様の処刑場があった。桜田門事件、坂下門事件の首謀者や橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎もここに埋葬されています。また二・二六事件の首謀者もここに眠る。
話変わって、小塚原の処刑場で杉田玄白、前野良沢らが刑死者の死体を解剖して、その正確さに驚き、日本で初めて、ドイツ人クレムスの「解剖図譜」のオランダ語訳「ターヘル‐アナトミア」を漢文訳した。「解体新書」として、安永3年に刊行。それを記念して、医学界からこの本の表紙をモデルにレリーフが作られ、1階駐車場の壁にはめ込まれました。
こんなすさまじい所の隣に歓楽地が有ったのかと思うと、不思議な気持ちになります。どちらも浮世離れした所が同じであったのか?  現代のこの通りは道幅も広く、往時を思い起こすことが出来ないくらいで、回向院の説明パネルを読まなければ、ごく普通のつまらない(失礼)バス通り商店街です。商店街が終わると、4号線の国道日光街道に出ます。突き当たりに、素盞雄(すさのお)神社(南千住6−60)、別名千住大王が見えてきます。七五三のお祝いでお宮参りの家族連れが華やいで見えます。此処には松尾芭蕉が”奥の細道”の最初の句「行はるや鳥啼魚の目は泪」の有名な句を残し、奥羽から大垣までの約600里、半年の旅に立った。その記念碑が建っています。左側に楷書体で書き直された銘板がありますが、石碑の流れるような書体では、ひらがな交じりでありながら半分も読めない。嗚呼。
その先、目の前の隅田川に架かった千住大橋は、今も銘板には右から「大橋」とだけ刻まれています。深緑色の下り専用の橋になっていて、4車線の上り専用橋にはアーチも無ければ、色気もない。この鉄橋は昭和2年(1927)に完成した長さ92.5mで、当時としては総アーチ型という最新の橋であったのですが、今は古き時代を感じさせます。初期の千住大橋は文禄3年(1594)、伊奈備前守忠次を普請奉行として、現在地よりやや上流の位置に隅田川最初の橋として架けられました。まだ治水も十分でなかった大川での架橋は難工事であった。伊奈備前守は工事の際に架橋の無事完成を熊野権現に祈願したと伝わっています。
車にあおられながら隅田川を渡ると、右手に今も青果市場があり、その活動を外から眺めながら、右に旧道の宿場町に入って行きます。ここからが、千住中組、一方通行を逆行しながら進むと、道幅も狭くなりますが、千住宿が終わるまで変わらず、路面もカラーブロック敷きで心地よい。この路は左側のバイパス国道と右側JRの鉄道との中間を平行して北進します。西念はここの千住河原町に住んでいた。西念は毎日、千住大橋を渡り、お熊の居る若松の下を抜けて、山谷から言問橋の橋詰めを抜けて浅草寺にお詣りしていた。志ん生の「千住のいろは長屋”への九番”」はどこだか分かりませんが、言葉遊びをしているので、しょうがないが、それでも千住と言っているので、同じコースを歩いたのでしょう。足立区千住1丁目に入ると、千住1−5丁目が千住北組になります。
「1里塚跡」の小さい碑を見て、続いて左の「千住問屋場跡・貫目改所跡」(千住1−4)のこれも小さい碑を見て歩を進める。ここら辺が街道一の賑やかさになってくる。それもその筈、右手先には北千住の駅があります。この辺りにある「本陣跡」の碑を見るつもりが、回りの雑踏にまぎれて、通り過ぎてしまいました。商店街のアーケードや街灯に飾られた小幡(ペナントと言うのか)が賑やかで、見とれている内に、右側に小さな公園「千住本町公園」(千住4−22)が現れてきました。入り口に高札場の復元した門の様なものが出現。 高札場は町内会の掲示板程度に思っていたが、こんなに立派なものとは思いませんでした。知らない人は、門と勘違いをしてその下をわざわざ、くぐり抜けて行きます。
続いて右手、江戸時代からの商家の建物。文化財に指定されている蔵付きの立派なもの。今も使われている木造2階建ての重厚なもの。千住宿の豊かさを実感します。まことに良くできた家です。商店街が切れたとこにも、何軒かの古くからの家が見受けられます。古き良き時代がタイムスリップしてきたみたいで、なにかホットさせるのはなぜでしょうか。
その先、荒川の土手に突き当たる前、右手に、「名倉医院」が有ります。ここは骨接ぎとして代名詞の様に使われる「名倉」の、整骨医の本家です。今も広大な土地と古くからの木造建物が有り、その中で現在も盛業中です。荒川土手に突き当たって、この街道も終りです。江戸時代は当然、この荒川放水路はまだ掘削されていず、地続きで北に旅が続けられました。 

 

●わら人形「鹿島様」
湯沢市の岩崎八幡神社の本殿裏手にある水神社のさらに裏手に、大木の下に厳めしい表情を携えた、藁作りの巨大な人形が鎮座しています。この人形は「鹿島様」と呼ばれ、疫病や悪者など、地域の人々に悪影響を及ぼすものを地域の中に入れないように地域を見守る人形道祖神です。鎧を着け、剣を携えた姿は、武神(いくさがみ)を象徴していると言われています。
岩崎地域は9つの町内で構成され、鹿島様を祀っているのは末広町、栄(さかえ)町、緑(みどり)町の3町内です。かつては各集落の入り口に鎮座していましたが、地租改正(1873年に明治政府が行った租税制度改革)後に現在の場所へ移されました。現在は、水神社の裏手に栄町と末広町の鹿島様、国道13号沿いに緑町の鹿島様が鎮座しています。どの鹿島様も、それぞれ見守る地域の方向を見据えています。
鹿島様の伝統は数百年前から伝わっており、毎年春と秋に祭典を兼ねて鹿島様の体を造り変えていました。末広町では、劣化を防ぐために平成25(2013)年に地元の大工に屋根を掛けてもらったため、春に体を造り替えるのみでよくなりました。ちなみに、鹿島様の木彫りの面は、屋根を掛けた大工の父親が造ったものです。
末広町の鹿島様は東京都渋谷区、千葉県、宮城県などへ、出張展示に行ったことがあり、町内からは鹿島様造りの技術を持った方が数名で出張し、皆さん誇りを持って帰ってきたと、地域の方は話します。
鹿島様造りには、先人の生活の一部であった縄綯いの技術が活かされています。米俵を造る技術は鹿島様の頭部に、米俵のフタの技術は胸やおへそと、近年行われなくなってきた稲わら文化が鹿島様を通じて受け継がれています。鹿島様の腕や足の段々になっている造りは、茅葺き屋根に使われている技術で、雨が入るなどして風化することを防ぐために欠かせない技です。行事を伝えることで、日常の姿も伝わっていく。伝統行事を伝えることは、地域の歴史を伝えることと同じなのかもしれません。 

 

●開催は13年ぶり!男根猛々しい巨大な藁人形「道楽人形」を燃やす奇祭復活  
1月15日は小正月。小豆粥を食べる、繭玉を飾る……、全国各地にさまざまな習わしが伝えられています。
なかでも「どんど焼き」「サイノカミ」と聞くと懐かしさを覚える方もいるのではないでしょうか。お正月にお招きした年神様を火にのせて天にお返しする祭りです。正月飾りや書初めなどをその火で焼き、字が上手くなるように願ったり、また、その火で餅やスルメなどを焼いて食べると、その一年、無病息災で過ごせるなどの言い伝えがあります。
全国各地のサイノカミ行事のなかでも「奇祭」と呼ぶにふさわしい祭りのひとつが、今年、なんと13年ぶりに復活を遂げました。
それが新潟県長岡市小国町の法末(ほっすえ)集落のサイノカミ、「道楽人形」。猛々しい巨大な男根がそびえ立った、人の背丈をはるかに超える大きな藁人形(道楽人形)を作り、燃やす伝統行事です。エロティックかつユーモラスな人形を燃やす様は、まさに「山奥の集落の奇祭」!
近年の人口減少にも負けず、法末に集落ができてから約500年もの間、脈々と受け継がれてきた伝統文化でしたが、2004年に中越大震災が起こり、遂に作ることを断念。しかし、一昨年、若者による山村活性化の取り組みのひとつとして、首都圏の若者が「留学生」として法末を訪れ、道楽人形の写真を発見したことが復活のきっかけとなり、途絶えてしまっていたこの祭りを、集落のお年寄りたちと、若者たちの手による共同作業で復活させる試み、「ムラビトになる旅」ツアーが開催されることになりました。
「な!ナガオカ」では、昨年秋、道楽人形の藁となる「稲刈り」の様子を取材し、『小国の「道楽人形」の復活へ。一泊二日の「ムラビトになる旅」体験レポート』にまとめていますので、こちらもぜひご覧ください。
いよいよやってきた今年の小正月。どんな道楽人形ができ上がったのでしょうか。「ムラビトになる旅」ツアー参加者たちの前日の準備から、当日の祭りの様子までをレポートします。
都会からの参加者に雪トラブル続出!
ツアー参加者が法末入りする1月14日は、北陸と東北が大荒れの天気予報。日本で有数の豪雪地帯の法末集落も前日から雪が降り続いていましたが、迎える村人たちは、朝の3時から除雪を行い、みんなを迎える準備を整えてくれました。
一方の「ムラビトになる旅」参加メンバーは、法末に向かう道程でトラブル続発! まず新幹線で長岡駅に着いた、都会から参加の男子2名が「都会の冬支度」仕様で登場。雪国を知るメンバーからは「ありえない!」と総ツッコミを受け、地元のホームセンター「コメリ」で雪国装備一式を購入してから向かうはめに。
さらに、小国の法末に向かう車は、路面の雪に悪戦苦闘。雪降りしきる中、スリップした車を押すこと三回。それでも都会の若者たちは、全然へこたれることなく「来る道だけでイベント満載!」と興奮気味。
かまくら作りと会場までの道つけ
到着したツアー参加者たちの使命は、東京都小金井市から来た20数名の子どもたちのために、かまくらを作ること。しかし、子どもたちのためと言いながら、結果的にすっかり楽しんでいたのは大人たちのほうでした。
村人4名、ツアー参加者7名は、ふわふわの新雪で4つのかまくらを作りました。ところが、ツアー参加者だけで作ったかまくらは、もろかった! 入口を掘っている間に崩れて、「な!ナガオカ」ライターも、雪に埋まる貴重な体験をしました……。
最後にツアー参加者の選抜メンバーが新雪をかんじきで歩いて、明日、道楽人形を作る会場まで道をつけに行きました。これが難儀!(なんぎ・新潟県の方言で「仕事がきつい」の意)
村人の内山昭平さんの歩く様子はすいすい、ところが、参加者の足は一歩ごとに新雪に沈み込み、引き抜くたびにモモ上げ運動のような負荷がかかり、終わらない筋トレのよう。
「きつかったぁ〜」。
その後、暗くなってから除雪車が到着。道を作ってくれました。
「あの苦労は、何だったんだぁ!!!」
機械の力は偉大です。機械のない時代に生きてきた村人たちは、かんじき歩きも達人です。機械に頼ることで私たちが失ってしまった能力は、いっぱいあるのでしょうね。
いよいよ本番。道楽人形作りへ!
1月15日の本番の日。みんなの道楽人形復活への思いが届いたのか、天気予報では「大荒れ」の見込みだったのに、雪がやんで青空も! 朝7時半から、ツアー参加者が宿泊する「法末自然の家 やまびこ」では、餅つきが行われました。ずっしりと杵が臼に振りおろされる音が響き、あんこ、大根おろし、きなこ、お雑煮のお汁も食べてお腹はいっぱい!
9時からスタートした人形作り。稲を手刈りして準備をしたワラと、トバ編みをしたムシロを会場に運んでいきます。大人数だとさすがに早い。村人たちは、事前に準備した土台に、手際よくワラや葉のついた枝などを巻いていきます。脚立とハシゴの上での作業は、バランス感覚が必要とされます。驚異の村人たちの身体能力!
土台は木を十字にくんでスタート。枝を巻きつけ、芯にし、さらに、どんどん藁を巻きつけて円錐の形にしていきます。
円錐型に「男根」や手をとりつけ、周りをトバ編みしたムシロで巻いて綺麗にしていきます。サイノカミは新潟県のあちこちで見られますが、法末の道楽人形は希少です。「男根」をつけて、「顔」と「手」もつくのが珍しい。「男根」の位置も「もっと上だ」「いいや下だ」とそれぞれの主張があり、なにせ13年ぶりだから、「ああでもない、こうでもない」と言いながら、参加者たちは手も足も動かしていきます。
顔を書いたのは、正平さんから頼まれた、ツアー参加者のヤマザキさん。ハシゴの上で堂々と描き上げました。結構高い位置だから怖いはず。
腕や飾りをとりつけ、ディティールにこだわった、若々しく凛々しい道楽人形が誕生しました! 東京からきた参加者のサワくんは「手伝おうと思ってきたけれど、出る幕がなかった。途切れていたのに、さすがです。長年続けてきた匠の技を見せてもらいました」とのこと。そう言いつつ、十分活躍していましたけどね。
めらめらと道楽人形が燃えていく
朝9時から3時間もかけて作ったのに13時には点火というスケジュール。道楽人形の寿命はたった1時間。しかも、みんなお昼を食べに戻るので、完成した道楽人形と過ごす時間は10分〜20分くらい。
13時に総代の大橋昭司さんの挨拶で、道楽人形に深々と頭を下げて、年男、年女がそれぞれ点火をすると、あっという間に人形は炎に包まれます。
年男で点火をしたオノ君は生まれも育ちも東京育ち。「一生懸命作ったのに、一瞬で燃えていきました。はかなさを感じました」
サイノカミはそういうものだと分かっていても、こんなに切ない気持ちになったのは初めて!(;_;) 汗をかきながら、稲刈りをしたこと、秋雨の中、トバを編んだこと、その時間が愛おしく思い出されます。
村人たちは、でき上がった道楽人形を神様とあがめて、潔く燃やします。道楽人形には、「男根」の角度が上だとか下だとか、面白おかしく、大変な作業をユーモアたっぷりに、みんなで協力して作り上げていく、昔からの知恵がありました。
医療も農業の技術もない時代は、無事で健康でいられること、豊作であることを切に願うことしかできなかった。だからこそ生まれた道楽人形。合理的で便利な暮らしからみたら、「面倒くさい」ことかもしれません。でも、合理的にいろんなものをそぎ落としたら、ギスギスした社会になって息苦しくなってしまいます。昔は集落の結束を強める役割も果たした道楽人形。2017年、今ここに、中山間地域と都会の若者を結び、復活しました。
「せっかく復活した道楽人形が続いてほしい。来年もできる限り応援したい!」と参加者一同。法末に住む協力隊の方々も同様に継続を願っていました。
「道楽人形は作っても楽しい。見ても楽しい。ぜひ来年も作って、大勢の人に見に来てほしい」と大橋昭司さん。来年も道楽人形づくりに、若者の力が加わることで、集落が力づけられ、匠の技と心が若者に伝えられていくことでしょう。  

 

●藁人形 〜月に唄えば〜  
深い深い森の中 聴こえる 深い深い森の中 夢見る  
私 陽気な藁人形 五寸釘素敵でしょ 
いつか王子様やって来て 自由を手に入れるの  
ラララ・ラライラ 歌いませんか 踊りませんか 悲劇のメロディ 
ララララ・ライラ 話しませんか 語りませんか 
藁の人形が行くのは  天国が地獄か 
この世は 天国か地獄か  
   深い深い森の中 聴こえる 深い深い森の中 夢見る  
   上手にステップ踏めるのに 磔のまんまなの 
   早く王子様連れ出して 自由を知り尽くしたい  
   ラララ・ラライラ 歌いませんか 踊りませんか 悲劇のステップ 
   ララララ・ライラ 話しませんか 語りませんか 夢見る世界を  
ついにこの日がやって来た 五寸釘はずされて 
遠くきれいな月明かり さぁ行きましょう 夢の国へ  
ラララ・ラライラ 歌いませんか 踊りませんか 悲劇のメロディ 
ララララ・ライラ ・・・
   ラララ・ラライラ ・・・ 悲劇のステップ 
   ララララ・ライラ 話しませんか 呪いませんか 
   藁の人形が行くのは 天国が地獄か 
   この世は 天国か地獄か  

 

●わら人形 犯罪 
●丑の刻参りは逮捕される! 「呪いと刑法」の意外な関係 2014/8
今なお残る、日本伝統の呪術「丑の刻参り」
人を自由に操ったり、殺したりする呪術は世界中に存在している。日本でも様々な呪術があるが、原型は平安時代に生まれたといわれる。その中でも、江戸時代にその手法が確立されたとされる"丑の刻参り"は、最も有名で今でも行う者が後を絶たない。
丑の刻参りのお作法 〜どんな姿で行うのか?〜
丑の刻参りとは、藁人形に恨みの念を込める呪法である。まずは藁人形を作らなければならないが、材料に藁を使う以外、特別な取り決めはないようだ。
藁を束ねて人の形に見えるように糸で括っていくのだが、簡単な方法を紹介しよう。
・藁人形の作り方
まず糸で両端を括った、長さ20〜30cmほどの藁束をふたつ用意。その藁束を十字架型に交差させ、接触部を糸で縛って固定する。その十字架になった藁束の一番長い一端を、半分に割れば「足」が出来る。これで藁人形の完成だ。藁人形には、呪いたい相手の髪の毛や爪を入れるという作法もある。だが、相手の名前や写真を張るだけでよいという説もあり、どちらが正統であるかはハッキリしない。確実性を高めたいのであれば、両方用意した上で藁人形を作った方がいいだろう。
・衣装
そして丑の刻参りに出かけるときの衣装は、白装束を纏うことになっている。白い衣装であればなんでもいい、というわけではなく、神社の神主や昔の修験者が着用していた白い単衣の正式な白装束が必要だ。
・小道具
さらに小道具として、五徳(ごとく)と呼ばれる昔の調理器具を逆さにして頭に被る。五徳には三本の足がついているため、その先にろうそくを差し、火を灯すのである。
・顔、メイク
髪の毛は乱れ髪の蓬髪でなければならないとされている。また顔にも化粧を施すとされるが、真っ白な白粉を顔中に塗る説と、真っ赤な紅を顔や身体に塗る説があり、どちらが正統なのかは不明だ。その他の小道具として、口に櫛や両端に火をつけた細い松明を咥えなければならないという説もある。
・最後に釘の用意
また最後に忘れていけないのは、作った藁人形を打ち付ける五寸釘と金槌だ。五寸釘というのはセンチに直すと15.15センチもある釘だ。現在では余程大きなホームセンターでなければ、扱っていない可能性がある。金槌に関しては特に指定はないため、釘さえ打てれば、木槌だろうが、プラスチックハンマーだろうがかまわないようだ。ただ、雰囲気を出したいのであれば、木槌がオススメである。
ひと通りの準備を終えると、一本歯の下駄か高下駄を履き、丑の刻参りに出かけるのだ。
丑の刻参りのお作法 〜いつ、どうやって行うのか?〜
丑の刻参り...と言われるため、もちろん相手を呪う儀式は、「丑の刻」に行う。丑の刻というのは現代の時間に直すと午前1時から3時ごろが当てはまる。真夜中に神社の御神木を白装束で訪れ、そこに藁人形をあてがい、憎い相手へ恨みの念を送りながら、五寸釘を打ち込んでいくのである。
この儀式を7日間続けると、悲願は成就されるという。だがその反面、丑の刻参りをしている姿を人に見られたら効果がなくなるとされている。しかも近年では、効果が無くなるどころか、呪いの念が自分自身に返ってきてしまうという物騒な説も唱えられており、人を呪わば穴二つの事態になることもあるという。
丑の刻参りの刑法学 〜呪いで人を殺すと捕まらない?〜
恐ろしい呪術である丑の刻参りは、今現在も実行している人がおり、神社や寺の裏林の木に時折、五寸釘で藁人形が発見されるという。
呪術によって人を殺そうとする行為が止まない大きな理由は、"呪術で人を殺しても殺人罪に問われない" ためだろう。
日本をはじめ、多くの先進国の現代刑法は、オカルト現象を否定している。科学的かつ合理的な方法でなければ、いくら殺意があっても相手を殺した証明ができない。そのため、呪いで人を殺しても殺人罪では捕まらないのだ。
司法の世界ではこれを"不能犯"と呼び、科学的に不可能だとされる方法で相手を殺したと言い張る者がいた場合も 「それは恨んでいた相手が、たまたま死んだだけ」 という解釈をされるのである。
丑の刻参りの刑法学 〜殺人罪で捕まらなくても、他の罪には抵触する〜
では、丑の刻参りを行い、刑法的に全然問題ないかといえば、そうではない。実は他の法律にはしっかり引っ掛かり、悪質だと判断されれば、逮捕の可能性も出てくる。上記のお作法通りに丑の刻参りを行った場合に抵触する法律は、
・不法侵入罪
・器物破損罪
・脅迫罪
の3つだ。
不法侵入というのは、私有地内に勝手に侵入する行為。神社や寺は一応、誰でも入れるオープンな場所ではあるが、多くの神社や寺は私有地だ。そのため、裏林の木や御神木などを目指し、夜中に侵入する際に発見された場合、管理者が警察へ通報すれば、不法侵入罪が成立してしまう。丑の刻参りを人に見られると、帰ってくる災厄はこのこと......、ではないだろうが、夜中にお寺などをウロついていると、違法行為として咎められるのは当然だ。
次に器物破損罪である。丑の刻参りは、他人の所有物である樹木に、断りもなく釘を打ち込むため、立派な破壊行為に当たる。器物破損罪は親告罪なので、被害者が警察に告訴しない限り、事件化することはないが、7日間も連続して木に釘を打ち込んでいれば、不法侵入罪と同じく通報されてしまう可能性が高い。
最後に脅迫罪だ。この刑罰が丑の刻参りに適用されるのは、ひとつ条件が必要なる。それは、"自分が丑の刻参りをして、呪っていることを相手に告げる" 場合に限られる。
丑の刻参りをしているという不気味な行為が、相手に恐怖感を与えるからこそ成立する。従って、丑の刻参りを行っていることが相手にバレなければ、この罪も適用されないのだ。
丑の刻参りはホントに効くのか? 〜実録!丑の刻参り脅迫事件〜
さて、そんな丑の刻参りは昔から行われているが、実際の効果はあったとも、ただの迷信だとも言われている。ところが、昭和29年に丑の刻参りによって、ホントに体調を崩した男性がおり、呪いをかけた女性が脅迫罪で逮捕されるという事件が起こっている。
被害者は当時、秋田市に住んでいた男性。女性関係のもつれから恨みを買ってしまい、女性が丑の刻参りを始めた頃から、胸の痛みに襲われ、倒れてしまったという。医師に診断を受けるも原因は不明で、恐怖のあまり男性が警察に相談したため発覚したそうだ。
これはオカルト事件に一切関知しない現代警察が、超常現象の捜査をした数少ない事例だ。捜査の結果、丑の刻参りをしていた女性を脅迫罪で逮捕している。
この判例が元になって、今でも呪っている相手に、「お前を呪っているぞ」 と告げると、脅迫罪が適用されるようになった。また言葉で告げるだけでなく、藁人形などの呪いのグッズを送りつけても適用される。
呪っていた女性が逮捕された直後から、男性の胸の痛みはなくなり、無事社会復帰できたというが、彼の不調の原因がホントに呪いの力であったかは、今となってはわからない。
ちなみに、もし呪われたらどう対処すればよいか? 解呪法をネットで検索し、シロウト考えで夜な夜な試してみるよりも、警察に通報して脅迫罪でしょっぴいていただくのが一番無難な解決法だと思われる。 
●女子高生が「死ね!」と奇声あげて「藁人形」に釘―― 2015/6
夜中に30分間だけこっそり家を出る女子高生。気になって尾行してみると、何と白装束に高下駄をはいた姿で神社に入り、「○○(人名)死ねー」と奇声を発しながら、藁人形に釘を打ち込んでいた――。そんな恐怖のエピソードが、ネットの掲示板に書き込まれていた。
投稿者の女性は、夫の実家で、義理の両親と高校生の妹と同居中。義妹は、頭にろうそくまで立てて、本格的な「丑の刻参り」をしていたそうだ。女性が神社を改めて訪れると、髪の毛が編み込まれた藁人形があったり、プリクラが貼られた藁人形に多数の釘が打ち込まれたりしていた。相手はどうやら、交際を断られた男性のようだという。
投稿者は、警察への相談まで考えているようだ。丑の刻参りで、特定の人物を「死ね」と呪ったり、藁人形に釘を打ち込んだりした場合、法的にはどんな問題になる可能性があるのだろうか。刑事事件にくわしい弁護士に聞いた。

現実的危険はないので、犯罪には当たらない
「結論から言うと、犯罪が成立することはありません。ある人が殺意をもって、誰かを『呪う』ために何らかの行為をしたからといって、殺人未遂罪などの犯罪にはあたらないのです」
どのような場合に犯罪になるのか。
「ある人の行為について殺人罪が成立するためには、まず第一に、その行為が客観的に見て『殺人の実行行為』に該当すると言えなければなりません。『殺人の実行行為』とは、『人の死という結果を招く現実的危険性のある行為』という意味です。
例えば、人の頭部めがけて至近距離から拳銃を発射する行為は、人の死という結果を招く現実的危険性のある行為と言えます。これは、『殺人の実行行為』に該当します」
誰かを殺そうと「呪う」行為は、あまり現実的ではないということか。
「ある行為が人の死という結果を招くような、現実的危険性のある行為と言えるかどうかは、一般人の見地に立って判断すべきと考えられています。
世間一般の人は『人を呪うことによって、その相手を殺すことができる』、つまり『人を呪うと、その相手が死ぬ現実的危険性が発生する』とは考えていないでしょう。したがって、人を呪う行為は『殺人の実行行為』に該当しません。
ですから、いくら本人が心の中で『人を呪うことによって、その相手を殺すことができる』と真剣に信じていたとしても、殺人罪が成立する余地はありません」 弁護士はこのように話していた。 
●11の小中学校プールに“わら人形” 石川 2015/9
石川県内の小中学校のプールに、わら人形のようなものが投げ込まれていたことがわかった。いずれも夏休みを中心に投げ込まれていて、金沢市など3つの市にまたがって見つかっている。
わら人形のようなものが投げ込まれたのは、3つの市の小中学校のプールやプールサイドで、金沢市で9校、白山市で1校、野々市市で1校の計11校で確認されている。7月上旬から8月下旬にかけて見つかっていて、特に夏休み期間中の7月下旬から8月上旬に集中していたという。人形のようなものは、わらやクギ、針金、毛糸など材質や形は様々で、一部のものは15センチほどの大きさだった。
金沢市教育委員会では、市内すべての小中学校に通知文書を出し、異常がないかの点検やプールの出入り口の施錠を確実に行うよう呼びかけている。それぞれの学校では、いずれも直ちに水質検査を実施したが、特に異常はみられなかったという。
●呪いのわら人形は犯罪か 脅迫罪になる?殺人未遂罪は? 2017/1
釘を刺した人形で女性を脅したとして、脅迫容疑で男が逮捕された。丑(うし)の刻参りで知られる「呪いのわら人形」。呪いは犯罪か。
24日夜。群馬県南西部のゲームセンター駐車場で、従業員が人形を見つけた。棒状の「大の字形」に麻ひもを何重も巻きつけたもので、「わら人形」のようだった。縦19センチ、横11・5センチ。胴体にゲームセンターを経営する女性(52)の名前が赤い塗料で書かれ、約6センチの2寸釘が貫通。頭には赤色で目と口が描かれていた。
人形があったのは、女性が普段車を止める場所。恐怖を感じた女性からの被害届を受けて、県警藤岡署は25日、同県藤岡市の無職の男(52)を脅迫容疑で逮捕した。容疑を認めているという。
署によると、男はゲームセンターの常連客だった。昨年秋、女性にプレゼントを贈ったが、女性は受け取らなかった。その後、男の来店は減っていった。
署は、男が女性に危害を加える可能性を示して脅したと判断し、脅迫容疑を適用。「男は女性に好意があったと見られ、ストーカー化の恐れも考えられた」とする。
わら人形は、憎い相手を呪う丑の刻参りで使われる。呪術も研究する梅屋潔・神戸大大学院教授(文化人類学)によると、午前2時ごろの丑の刻に、白装束で神社の神木にわら人形を五寸釘で打ち付けるやり方が有名だ。その原型は、昔の伝説などに登場する呪いが合わさって江戸時代にできた。
相手に知られると効果はないと信じられてきたが、「知らせることで苦痛を与え、ある意味で『呪い的な効果』を生んでしまうことがある」と梅屋教授。
では、呪いが罪に問われるのはどんなときか。園田寿・甲南大法科大学院教授(刑法)によると、「危害を加える意思を相手に告知した場合」は脅迫罪が成立する。
今回の事件では、「釘を刺した… 
●「とびおりて死ね」歩道橋に呪いのわら人形 2017/10
「騒いでうるせえクソガキが」「ぶっころすぞ」「とびおりてみんな死ね」…。
東京都江戸川区にある区立小学校の通学路は、子供たちを標的にした“呪いの言葉”であふれかえっていた。
警視庁小松川署に10月18日、脅迫容疑で再逮捕された学校近くに住む無職、稲葉岳志容疑者(42)。当初は公園のベンチなどに落書きする程度だったが、次第に歩道橋に怨嗟(えんさ)の言葉に満ちた脅迫文をつけたわら人形をつるすなど、犯行はエスカレートしていた。捜査関係者は「児童に危害が及ぶ前に逮捕できてよかった」と胸をなで下ろす。
小松川署によると、公園のベンチやトイレの壁への落書きが始まったのは昨年6月ごろ。やがて落書きは学校の周囲1キロほどの範囲に広がり、11カ所の公園などで約30件の被害が確認された。
落書きはいずれも黒のマジックで「死ね」などと手書きされており、中には特定の児童を名指しした下品な内容のものもあったという。今年8月には、女児の自転車のサドルにくぎで刺して留められた脅迫文が見つかるという衝撃的な事件も発生。同署は町会の協力を得て防犯カメラを設置していたが、なかなか犯人の特定には至らなかった。
近くの小学校に通う4年生の女児(9)によると、この間に学校では10回ほど全校集会が開かれ、「子供がいるだけでうるさいと感じてしまう人もいる。公園には1人で行かないように」と注意されていたという。女児は「放課後は公園で集まって遊んでいたけど、みんな我慢していた」と振り返る。
逮捕の決め手となったのは、登校中の小学生が気づいた一体のわら人形だった。児童は9月26日午前7時半ごろ、学校近くの歩道橋に掲げられた交通安全の垂れ幕のひもに、わら人形と「小学校のクソガキども ここからとびおりてみんな死ね」などと書かれた紙を発見。学校を通じて警察に相談したところ、稲葉容疑者による犯行の一部始終が防犯カメラに記録されていたことが判明した。
稲葉容疑者は午前5時ごろに自宅周辺を散歩する習慣があり、マジックを手に落書きを繰り返していたとみられる。警察の調べに対し「子供の遊ぶ声がうるさかったので、怖がらせて静かにさせるためにやった」と供述。脅迫文をくぎでサドルに止めていたことについては「より衝撃的に警告したかった」と話しているという。
子供たちの安全を脅かすような呪いの言葉に、保護者や地域住民も大きな不安を募らせていた。稲葉容疑者の逮捕後、警察には児童の保護者らから感謝の電話が相次いだという。
落書きは地区住人らの手ですべて消されたものの、公園のベンチには今も「落書きは小さなものでも犯罪です」と書かれた警告文が貼られたままになっている。
学校周辺の町会長の男性(68)は「本当に子供の声がうるさかったのなら、陰湿な手段に訴える前に町会に相談するなどのやり方があったはずだ」と指摘する。子供たちが安心して利用できるはずの通学路。その場所を、落書きという言葉の暴力で恐怖に染めた容疑者の罪は重い。  
●わら人形で脅迫罪に 2017/10
古今東西、「呪い」の道具にはさまざまなものがあるようですが、日本人にとってなじみの深いアイテムといえば、「わら人形」でしょう。
「丑の刻参り」は、呪いたい人間の髪の毛などを入れ込んだわら人形を作り、丑三つ時の深夜の2〜3時頃に白い装束を着て、念を込めながら樹木に五寸釘でわら人形を打ちつけます。
日本人なら誰もが一度は目にしたことのある夏の風物詩……ではありませんね。
じつは、わら人形を作ると逮捕される可能性がある、ということを今回は解説します。
「脅迫容疑  41歳男逮捕 通学路に“わら人形”つるす」(2017年9月28日 毎日新聞)
警視庁小松川署は、小学校の通学路に「死ね」などと書いた紙をつけた「わら人形」をつるしたとして、東京都江戸川区の無職の男(41)を脅迫容疑で逮捕しました。
事件があったのは、9月26日午前5時頃。容疑者の男は、自宅近くの歩道橋に「クソがきどもここからとびおりてみんな死ね」と書いた紙を付けた人形1体をつるし、通学路にしている区立小学校の児童を脅したということです。わら人形は高さ約12センチで、枯れたマツの葉を束ねて自作したもの。近くの防犯カメラに人形を取り付ける様子が映っていたようで、男は「子供の声がうるさくて頭にきてやった」と容疑を認めているということです。
では、条文を見てみましょう。
「刑法」 第222条(脅迫)
1.生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者は、2年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処する。
2.親族の生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者も、前項と同様とする。
脅迫罪は、相手に危害を加えることを告げるだけで成立します。その方法は口頭や書面のほか態度などでもよく、また直接ではなく間接的な手段でも相手が知ることができれば成立するとされています。脅迫罪について、過去には次のような判例があります。
・対立する派閥の中心人物宅に宛てて、現実に出火もないのに「出火御見舞申し上げます。火の元に御用心」等と書いたハガキを送った。(最判昭35・3・18集14-4-416)
現在、選挙に向けて、政党間で火花が散っておりますが、くれぐれも出火見舞いのハガキを出さないよう気をつけていただきたいと思います。
・相手の住宅付近にある物に火をつけて燃焼させた。(仙台高秋田支判昭27・7・1判時22-237)
・相手の自宅付近の人目につく場所に加害内容を記載したビラを貼って、その内容を認識させた。(大判大8・5・26録25-694)
・刃物を着衣の下に隠し持って相手に危害を加えるような態度を示して脅迫した。(大判昭6・12・14集10-763)
・村八分の通告は相手の名誉に対する加害の告知であると認められた。(大判昭9・3・5集13-213)
・相手方一族の社会的罪悪を攻撃する旨の記事を掲載した雑誌を送付することは加害内容として十分具体的であると認められた。(大判大1・11・28録18-1445)
・祈祷師が祈祷を信仰している者に対して、神の力で加害する旨の告知をするのは畏怖させるに足りる程度の害悪の告知だと認められた。(最決昭31・11・20集10-11-1542)
色々な脅迫の形がありますね。ついカッとなって、「殺してやる」とか、相手に危害を加えるようなことを言ってしまう人がいますが、場合によって、脅迫罪が成立するかもしれません。日頃より、感情のコントロールに心を砕いて生活することが大切ですね。 
●わら人形で人を呪ったら逮捕されるの? 2018/3
みなさん丑の刻参り(うしのこくまいり)って知っていますか? 怖い話などでたまに出てくるアレです。実際の効果はわかりませんが、わら人形を木に打ち込むことで人を呪うことができるとされています。もし、わら人形の効果で人が呪われて、病気になったり命を落としたりした場合、わら人形で呪った本人は犯罪者となるのでしょうか?
まず人に呪いをかけることは犯罪なのか?
まず丑の刻参りが違法かどうかの前に人に呪いをかけること自体が許されているのかどうかを確認しましょう。弁護士の先生に聞いてみました。
この点について、丑の刻参りをするだけで犯罪に該当するということはないようです。呪いの効果についてはその証明が不可能であり、結果を発生させる危険がないという理解から犯罪には該当しない(不能犯という)とのことです。
丑の刻参りで問われる可能性のある罪一覧
   脅迫罪
脅迫罪の条文には、『生命、身体、自由、名誉又は財産に対して害を加える旨を告知して人を脅迫した者は、2年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処する(刑法222条1項)』とあります。つまり、『呪ってやったからな』という発言のみだと脅迫罪に問われる可能性は低いですが、『呪いの力でお前を殺す』といった具体的な発言で脅した場合は脅迫罪に問われる可能性があります。
   傷害罪
傷害罪は刑法で『人の身体を傷害した者は15年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する(刑法204条)』と定められています。『呪ってやったからな』という発言がきっかけで、相手が精神を病み、体調を崩して病気になった場合は傷害罪に問われる可能性があります。ただし、実行行為が言葉のみとなると、長期間にわたり多数回当該発言を繰り返しノイローゼにさせる、といった極端な事案になるでしょう。言葉や文字(手紙やLINEのメッセージなど)で人を攻撃した場合でも、相手の生理機能に障害を与えることは傷害罪に問われる可能性があります。
   住居侵入罪
住居侵入罪は、『正当な理由がないのに、人の住居若しくは人の看守する邸宅、建造物若しくは艦船に侵入し、又は要求を受けたにもかかわらずこれらの場所から退去しなかった者は、3年以下の懲役又は10万円以下の罰金に処する。(刑法130条)』と定められています。つまり、正当な理由がないのに(参拝をするのではなく、わら人形を打つため)、人の看守する建造物に(神社の人が管理している土地)に侵入したので住居侵入罪に問われる可能性があります。そして、出ていくように言われても出ていかなかった場合には不退去罪に問われる可能性があります。
   器物損壊罪
器物損壊罪は、『他人の物を損壊し、又は傷害した者は、三年以下の懲役又は三十万円以下の罰金若しくは科料に処する。(刑法261条)』と定められています。神社の人の所有物である木に釘を打ち込む行為は器物損壊罪に問われる可能性があります。
丑の刻参りはやめた方がいい
現代の日本で、呪いの力を信じている人はあまりいないかもしれません。だからこそ、冗談だとしても人に呪いをかけようとしたり、丑の刻参りをしたりするのはやめておいた方がよさそうです。逮捕という冗談では済まされない結末を迎えるかもしれません。  
 
 
 
 

 

   縁切り
●縁切寺 
江戸時代において、夫との離縁を達成するために妻が駆け込んだ寺のことである。寺は夫に内済離縁(示談)を薦め、調停がうまく行かない場合は妻は寺入りとなり足掛け3年(実質満2年)経つと寺法にて離婚が成立する。江戸幕府公認の縁切寺には鎌倉の東慶寺、群馬(旧、上野国新田郷)の満徳寺がある。駆込寺・駆け込み寺(かけこみでら)・駆入寺・駈入寺(かけいりでら)とも呼ばれる。
夫側からの離縁状交付を要した江戸時代の離婚制度において、縁切寺は妻側からの離婚請求を受け付けて妻を保護し、離婚調停を行う特権を公的に認められていた。調停にあたっては、夫をはじめとする当事者を強制的に召喚し、事情聴取を行った。
縁切寺では女性用の駆込場所という性質上、女性の幸福を第一に考えて、まず妻方の縁者を呼んで復縁するよう諭させ、どうしてもそれを承知しない場合に離縁を成立させる方向で調停を行なった。この調停特権は幕府によって担保されており、当事者が召喚や調停に応じない場合は、寺社奉行などにより応じることを強制された。この縁切寺の調停管轄は日本全国に及び、どこの領民であっても調停権限に服するものとされていた。
一般には、縁切寺で妻が離婚を勝ち取るには、尼として数年間寺入り(在寺)する義務があったかのように理解されているが、寺に入るのは調停が不調となった場合の最終手段であり、実際には縁切寺の調停活動により離婚が成立し、寺に入ることなく親元に戻るケースが大部分を占めていた(調停期間中は東慶寺の場合、門前の宿場に泊まる)。寺に入っても、寺の務めはするが尼僧になるわけではない。形ばかり、髪を少し切るだけであり、寺の仕事(出身階層や負担金などで仕事は異なる)を足掛3年(満2年)務めた後に晴れて自由になることができる。
駆け込もうとする妻を連れ戻そうと夫が追いかけてくるということもたびたびあった様子で、その様子を描いた図画、川柳も存在する。しかし、満徳寺の場合では寺の敷地内である門から内側に妻の体が一部分でも入れば、夫であっても連れ戻してはならないことになっており、また体の一部でなく、履いていた草履を投げて敷地内に入った、もしくは投げた簪が門に刺さった場合なども、夫は妻を連れて帰ってはならなかった。
当時の町役人の職務手引書には「縁切寺から寺法書が送達された場合は開封しないで、速やかに夫に離縁状を書かせ、召喚状とともに返送すること」と記されていた。これは寺法による離婚手続きに入れば早かれ遅かれ強制的に離婚させられ、寺法による離婚手続きの段階が進めば進むほど、夫・妻の双方にとってより面倒な事になるからである。もしも、寺法書の封を切らずに離縁状と共に寺に差し出せば、それは寺の処置を異議なく申し受けたとして扱われ、夫にはそれ以上の面倒は無く、妻も義務が軽く済む。しかし、夫がどうしても離婚に承諾しなければ書面の封を切り、夫に寺法による離婚を申し渡し、妻は一定期間の寺入りになる。夫も各地に呼び出されたり強情を張って手間をかけさせたと叱られたりするのである。夫が最後まで徹底的に抵抗しても奉行や代官によって離婚が強制的に成立する。
東慶寺と満徳寺の縁切寺2寺のうち、駆込の件数は人口の多い江戸から距離が近い東慶寺の方が多く、1866年(慶応2年)東慶寺では月に4件弱の駆込が行われている(大部分は寺の調停で内諾離婚になり寺入りせずに済んだ、寺入りする妻は年に数件である)。昭和の東慶寺住職井上禅定は東慶寺だけで江戸末期の150年間で2000人を越える妻が駆込んだであろうとしている。
縁切寺と千姫​
幕府公認の縁切寺は東慶寺と満徳寺の2つだが、この2つが幕府公認になったことは千姫に由来する。満徳寺は千姫が入寺し(実際には腰元が身代わりで入寺)離婚後本多家に再婚した事に由来し、東慶寺は豊臣秀頼の娘(後の東慶寺住持の天秀尼)を千姫が養女として命を助け、この養女が千姫の後ろ盾もあり義理の曽祖父になる徳川家康に頼み込んで東慶寺の縁切寺としての特権を守ったとされる。この2つの寺の特権は千姫-家康に認められたものであり、後年の江戸幕府もこれを認めざるを得なかった。
江戸時代以前の縁切寺​
鎌倉時代後期から室町時代・戦国時代にかけての縁切寺は、東慶寺(現在の神奈川県鎌倉市山ノ内(北鎌倉))と満徳寺だけというわけではなかった。世俗から切り離された存在(アジール)として、寺院は庇護を求める人々を保護してきた。寺に駆込んだ妻を寺院が保護すれば夫は容易には妻を取り戻せない。ことに男子禁制の尼寺ならばなおさらであり、夫の手の届かないところに数年いれば、当時の観念としてもはや夫婦ではないと認められた。しかし、豊臣から徳川の時代になると寺院の治外法権的な特権は廃止され、一般の寺に駆込んでも夫に引き渡される事も起きるようになり、幕府公認の縁切寺は東慶寺と満徳寺に限定されていくのである。
江戸時代の縁切寺以外の駆け込み​
幕府公認の縁切寺が東慶寺と満徳寺に限定されたことは、離縁を望む妻側の救済手段がそれだけに限定されたことを意味しない。幕府権力を最終的なよりどころとしなくても、武家・神職・山伏などの社会的権威のある人々の屋敷への縁切り駆け込みが多数あり、ほとんどは速やかに離婚を成立させることができた。縁切り寺はあくまでも最終手段であった。
当時庶民とりわけ農民の家族においては、妻も労働力のゆえにその地位は低くなく、離婚も再婚も容易であり、また夫の恣意による不実の専断離婚は認められず、訴訟によって妻は復縁・離婚を請求することもできたのであり、「夫のみが一方的に三行半を突きつけて追い出し離婚を強制することができ、妻は縁切り寺に駆け込む以外の救済手段を持たなかった」というのは、後世の誤解であると論じられている。江戸期の離婚率の高さは、夫専権離婚ではなく、妻による「飛び出し離婚」が多かったためと考えられている(『群馬県史 通史編6 近世3 生活・文化』 p.194)。
例えば、上野国小幡藩では、妻と離婚したいが告げられず(いわゆる、かかあ天下のため)、藩の陣屋や町役人の所に縁切り駆け込みし、離婚を訴える事例が2例確認できる(『群馬県史 通史編6 近世3 生活・文化』 p.195)。また熊本藩にも夫の縁切り駆け込みをにおわす文書が確認されている(前同 p.195)。
縁切りに係る仏的霊験的意味における縁切寺​
この意味におけるお寺としては、茨城県牛久市にある真浄寺などがある。縁切りに係るご霊験を目的とする寺社は、神社に多い。縁切りに係る仏的霊験的祈願を目的とするお寺は少ない。 

 

●関東の縁切りスポット
真浄寺   茨城県牛久市柏田町
関東の縁切りスポット。茨城県牛久市にある真言密教のお寺です。境内にある七福神は、七難を消滅させて七つの福をもたらしてくれます。境内の稲荷大権現は悪運を絶ち切るダキニ天を祀っていて、「縁切り稲荷」として有名です。「縁切り藁人形」が売られていて、赤い紙に縁切りの願いを記入して藁に刺すことで願いが叶うといわれています。撫で牛と撫で打ち出の小づちを撫でて帰りましょう。
門田稲荷神社   栃木県足利市八幡町
栃木県足利市にある、日本三大縁切り神社の1つに数えられる神社です。源義家が陸奥討伐の際に戦勝を祈願する祠を建てたのが始まり。無事勝利を収めたのちに武器を奉納し、足利市の氏神として代々保護されてきた由緒ある神社です。本殿は栃木県の文化財に指定されているほか、江戸時代に作られた銅製の鳥居や黒松の大木など、境内は見どころたっぷりです。
参拝方法 / 縁切り祈願には、社殿で絵馬を購入して記入しましょう。同じように縁切りの願いが書かれた絵馬が奉納所には大量に吊るされています。稲荷を祀っていることから、油揚げをお供えする人も多くいます。縁切り祈願アイテムの1つである穴のたくさん開けられた柄杓もたくさんお供えされています。油揚げや柄杓は境内では売られていないので自宅から持参しましょう。

門田稲荷神社(かどたいなりじんじゃ)は、下野國一社八幡宮(しもつけのくにいっしゃはちまんぐう)の境内にある稲荷社です。別名を「縁切稲荷」とも呼ばれ、東京都の榎木稲荷、京都の伏見稲荷と並んで日本三大縁切稲荷のひとつに数えられる有名な縁切りスポットです。こちらの神社は恋愛や職場の人間関係だけでなく、病気や薬や賭け事などの悪癖からの縁切りができるということで超有名なところです。様々な悩みを断ち切り、新しくスタートしようと願う女性の参拝がとても多いんです。縁切りとして有名なのが「絵馬掛所」です。こちらの稲荷社では、人間関係の悩み・ギャンブル・喫煙・飲酒・事故や災難が続くなどの悪縁を切れるということで有名。御祭神の「倉稲魂神(うかのみたまのみこと)」は稲が神格化したもので五穀豊穣をつかさどる神様です。豊かな恵みに感謝して、悪縁を切っていただきましょう。
豊川稲荷東京別院   東京都港区
「豊川稲荷 東京別院(とよかわいなり とうきょうべついん)」は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康など戦国武将からも信仰された愛知県の「豊川稲荷」の別院です。神社のように見えますが、実は曹洞宗のお寺。こちらでお祀りしているのは「豊川ダ枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)」で、悪縁切りのほか商売繁盛、家内安全、福徳開運のご利益があると言われます。縁切りとして有名なのが、境内の奥にある「叶稲荷尊天」です。人間関係の悪縁切り・地相・家相・厄の縁切りをして、開運招福をさずけてくれます。小さいですが、因縁除けの効果があるというお社です。
於岩稲荷田宮神社   東京都新宿区
於岩稲荷田宮神社(おいわいなりたみやじんじゃ)は、「東海道四谷怪談」で有名な"お岩さん"をお祀りしている神社です。江戸時代のお岩さん屋敷跡と伝わる場所で、今も住宅街の中にあります。お岩さんが「田宮於岩命(たみやおいわのみこと)」としてまつられており、東京都の文化財として「都指定旧跡」に指定されています。こちらの神社は、ストーカーや一方的に思いを寄せてくる異性との縁を切ることができると言われ、境内脇にある"御祈祷願礼"に、頭を悩ます異性間の悩み事を書いてお賽銭箱に入れておくとご祈祷していただけるそうです。もっと本格的なお祓いをお願いしたい方は、有料のご祈祷をお願いしましょう!
陽運寺   東京都新宿区
陽運寺(よううんじ)は、「於岩稲荷田宮神社」のななめ向かいにあるお寺です。「於岩稲荷(おいわいなり)」とも呼ばれ、本堂にはお岩さんの木像が安置されています。歌舞伎興行のときには、安全と成功を願って役者さんや関係者が参拝するという、お岩さんとゆかりの深い場所です。「心願成就の石」は、石の穴の中に「叶玉」3個を投げ入れると、ストーカー祓いから恋愛成就まで一度に達成できるといわれる場所です。おだやかな気持ちで縁切り事が成就できるスポット。また「絵馬」にはお岩さんが描かれており、女性の奉納が多数あります。
抜弁天厳島神社   東京都新宿区
厳島神社(いつくしまじんじゃ)は、通称「抜弁天(ぬけべんてん)」と呼ばれる神社です。江戸六弁天(本所・洲崎・滝野川・冬木・上野・東大久保)、山之手七福神のひとつです。「良縁」を阻害する縁を切るといわれています。平安時代に、源氏の武将・源義家(みなもとのよしいえ)が創建したと伝えられる由緒ある神社なのです。縁切りスポットとして有名なのが参道です。源義家が「苦難を切り抜けた」という逸話にちなんで、悪い人間関係や仕事の苦境から逃れられる悪縁切りの場所。仕事に悩む女性は、参道を南北に通り抜けてから祈願しましょう。ビジネスで困っている時にも、気分を切り替えられるスポットです。
縁切榎   東京都板橋区
縁切榎(えんきりえのき)は旧中山道の名所として江戸時代から知られたご神木。江戸末期に京都から皇女・和宮(かずのみや)が降嫁するとき、わざわざこの木をよけるために迂回路を作ったというほどの歴史ある縁切りスポットです。「悪縁を切って良縁を結んでくれる」といわれ、今も悪縁を切るための絵馬がぎっしりと奉納されています。本気で良縁を願う女性が、大勢参拝に訪れる場所です。
東慶寺   神奈川県鎌倉市
東慶寺(とうけいじ)は、鎌倉時代から明治時代まで「駆け込み寺」として有名だったお寺です。女性がこのお寺の階段を昇りきり、寺内に逃げ込めば離縁ができるという女性救済スポットでした。今では境内に四季の花が咲き乱れる「花の寺」として、女性に人気の縁切り寺です。東慶寺はお寺全体が縁切りスポット。 今でこそ駆け込み寺ではありませんが、悪い「縁切り」を願う女性にとっては心なごむ場所。良縁を結ぶパワースポットとしても有名です。恋や人間関係で迷ったら、東慶寺で新たなご縁をいただいてみてはいかがでしょう。
本光寺   千葉県市川市
本光寺(ほんこうじ)は650年の歴史を持ち、身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗のお寺です。境内にある「大野天満宮」には、学問の神様である菅原道真、勝負事の神様・加藤清正とともに、縁切りの神様と言われる源頼政(みなもとのよりまさ)がまつられています。縁切りとして有名なのが、参道のつきあたりにある「稲荷堂」です。縁切りを守護するといわれている「源三位頼政和光尊儀」が鎮座しています。平安時代末期の武将・源頼政(みなもとのよりまさ)は、弓術の名手。鵺(ぬえ)という化け物を退治したことで有名で、化け物退治→悪縁切り・腐れ縁を断つご利益があるとされています。縁切りをしたい女性には「悪縁切りの弓矢御守」が人気です。
縁結び大社 愛染神社   千葉県東金市
縁結び大社は、千葉の有名な厄除け不動尊「妙泉寺」の境内にある「愛染神社」のことです。主祭神である「愛染明王神(あいぜんみょうおうじん)」は、縁結びの神様。悪縁を断ち、良縁を結んでくれるために、平日でも女性の参拝客が多い神社です。吉祥天(きっしょうてん)は、悪縁切りの神様です。ちらの神社では、良いご縁を探している人は同じく探している人と出会うとして、ご縁を結ぶ助けをしてくれます。今度こそ!と思う人は、こちらでしっかりと悪縁切りをしておきましょう。
こちらの境内では、7つの神様に参拝して良縁を願う「恋の願掛けめぐり」が女性に人気です。大国主命(おおくにぬしのみこと)から始まり、吉祥天・素戔嗚尊(すさのおのみこと)・奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)・円満道祖神(えんまんどうそじん)・大山咋神(おおやまくいのかみ)とお参りし、最後に愛染明王神(あいぜんみょうおうしん)で良縁をお願いします。恋愛運を高める神様にお参りして、いいご縁を引き寄せましょう。
鴻神社   埼玉県鴻巣市
鴻神社(こうじんじゃ)は縁切り・良縁祈願の神社です。境内には悪縁を切ってくれる「三狐稲荷神社(さんこいなりじんじゃ)」があり、良縁を招き寄せるパワーも授けてくれます。また子授け・安産の神様として有名です。こちらは奉納するための「お願いたまご」。お願い事を書いて、たまごの中に収めて奉納します。白くコロンとしたたまごは、いかにも清らかで福々しく、良縁祈願にぴったり。縁切りとして有名なのが、境内にある「三狐稲荷神社」です。天狐・地狐・人狐という3つの神様がまつられています。参拝するときは「お狐」や「絵馬」を奉納するのがおすすめ。人間関係の悩みを切り、恋愛や結婚などの良縁願いをさずける神様です。こちらの神社の御朱印には、神社の由来である「コウノトリ」がついています。コウノトリは昔から、安産や気授け、良縁にかかわる鳥です。コウノトリの巣は幸せの象徴とも言われますので、ゆかりの深い鴻神社で悪縁切り&良縁祈願をするといいでしょう。 

 

●縁切りスポット
豊川稲荷東京別院   東京都港区元赤坂
東京赤坂の豊川稲荷東京別院は、愛知県豊川稲荷の分霊を祀る、都内有数の縁切り寺院。鎮守は豊川枳尼眞天、商売繁盛のご利益で有名で、境内の「叶稲荷」には縁切り効果があるといわれています。叶稲荷尊天は因縁除けの守護神で、悪い地相や家相、方位に厄といったあらゆる悪縁を断ち切ってくれるのだとか。悪縁と縁切りしたあとには、開運招福をもたらしてくれます。
まず本殿で参拝を済ませてから叶稲荷尊天へ。それから自分に降りかかるはずの悪いものを代わりに受けてくれる「身代わり地蔵」。そして良縁を結ぶご利益の「豊川愛染明王」を巡るといいでしょう。
縁切榎   東京都板橋区本町
旧中山道板橋宿にある「縁切榎」は、男女の仲や酒などと縁を切りたい人に霊験あらたか。江戸時代には向かい側の旗本屋敷にあり、14代将軍家茂に降嫁した和宮の江戸入りの際は、縁切榎の前を通らぬよう、わざわざ1kmもの迂回路をつくったそうです。
東京都板橋区の縁切榎は江戸時代からある縁切りスポットで、「榎の前を嫁入り行列が通ると婚縁が切れる」との言い伝えも。皇女の和宮が徳川家へ嫁ぐときもわざわざ迂回したほどなんだとか。それだけ強力な縁切り効果があるといわれています。縁切りの際は、まず近くの「長寿庵」や「柳花」などで絵馬を購入します。そして、そこへどんな縁を切りたいのかを書いて、所定の場所へ絵馬を掛けます。噂では悪縁のみを切るのではないようなので注意しましょう。また、縁切榎があるのは社務所のない無人の神社です。そのためおみくじを引く場合には近くにあるガチャガチャ機から引くことになります。
於岩稲荷田宮神社   東京都新宿区左門町
しっかり者で夫を良く助けた御家人田宮家の一人娘、於岩が勧請し、篤く信仰していた稲荷の屋敷社。信心で家運が上昇したため、商売繁盛を祈る人が後を絶たない。稲荷社は田宮家の跡地、四谷に建ち、芸能上達の御利益もある。
四谷にある於岩稲荷田宮神社は、東海道四谷怪談の登場人物である、お岩さんを祀る神社。東海道四谷怪談は元禄に起きたと伝えられている創作の怪談話。近くにあった芝居小屋の役者などから頼まれて、この地に神社が創建されたそうです。お岩さんに由緒があるということから、男女間の恋愛のもつれを断ち切る効果が期待できます。縁切りをするなら境内にある御祈祷願礼に、自分が遠ざけたいと思っている異性間の悩み、厄について書きましょう。御祈祷願礼はお賽銭箱へ入れておくこと。そうすると後日、神主さんが御祈祷願礼をご祈祷してくれます。
陽運寺   東京都新宿区左門町
四谷怪談と言えばおどろおどろしいのかと思いきや、全然そんなことはなく逆に、お洒落なお寺でした。
於岩稲荷田宮神社の近くにはもう一つ、お岩さんに縁のある陽運寺という寺院があります。陽運寺は、悪縁を断ち切ると同時に良縁結びもしてくれるそう。このことから、恋愛や仕事に悩む人々に人気がある縁切りスポットとなっています。まず本堂で参拝を済ませてから、縁切り効果があるという「水掛け福寿菩薩」へ行きます。こちらで「南無法蓮華経」と唱えながら水をかける。そして縁切り絵馬に、自分が切りたいと思うことを書いてください。最後に心願成院の石である「叶玉」を投げ入れます。そうすることで、あなたの元から悪い運、厄が去っていき、次に良い縁がやってくるでしょう。
抜弁天 厳島神社   東京都新宿区余丁町
新宿区余丁町の厳島神社。境内が南北に通り抜けられ、通称抜弁天と呼ばれている。新宿にある厳島神社、こちらは抜弁天(ぬけべんてん)とも呼ばれる、都内でも有名な縁切りスポットです。
○かつて源義家がこの地で祈願をしたところ、無事に苦難をくぐり抜けたという言い伝えがある。
○境内に南北へ通り抜けできる参道がある。
これらのことから「抜弁天」といわれるようになりました。ご祭神は市杵島姫命(弁財天)という女性の神様。そのため、恋人と一緒に抜弁天へ来ると縁が切れるというジンクスもあります。
○離婚やストーカー被害など今、困っていて何とか切り抜けたい
○どうにかして難をくぐり抜けたい
ということがあれば、抜弁天に参拝して縁切りしましょう。
宝禄稲荷神社   東京都新宿区原町
新宿にある宝禄稲荷神社はちょっと変わった神社。昔々、富くじ(今で言う宝くじ)で外れてばっかりの百姓の男がいた。その男は、祠へ外れくじを置いて「どうして自分は運が悪いんだ、いつか家族に楽をさせたい」と願った。すると、別の日に買った富くじで大当りが出た。そんな逸話が伝わっています。こうした言い伝えから、宝禄稲荷神社は「外れたくじと縁を切って福を呼び込むことができる」といわれています。そして、連日勝運を上げるために外れくじ供養にくる参拝者が大勢います。
○散財癖と縁切りしたい
○くじ運の悪さと縁を切りたい
といった人におすすめです。
穴八幡宮   東京都新宿区西早稲田
穴八幡宮は蟲封じで有名な神社。蟲封じとは「浮気の虫」や「ギャンブル、散財の虫」といった自分ではどうしても我慢できないようなことを封じる。つまり、そういった悪いものと縁を切るということです。
○いけないとわかっていても、つい浮気や不倫を繰り返してしまう人
○散財癖が直らない人
など、わかっているのにやめられない悪い癖があるという人は、穴八幡宮を参拝して悪縁と縁切りしましょう。ちなみに穴八幡宮の御朱印は「一陽往来」と書かれています。これは悪いことが続いても、そのあとは幸運がやってくるという意味の言葉。大変縁起の良い御朱印です。
本牧神社 熊野速玉社   神奈川県横浜市中区本牧和田
境内社の熊野速玉社。御神木の榎の周りを右に廻れば良縁成就、左に廻れば悪縁断ち。
神奈川県は横浜の本牧神社境内にある熊野速玉社。ここには縁(えにし)の神様がおり、悪い縁を断ち切って穢れを払い、そして良縁にめぐり合わせてくれる縁切り縁結びスポットです。悪い縁も良い縁も扱うことから、参拝方法にも注意が必要。社殿の傍には縁の木と呼ばれる榎木の樹があります。悪縁切りの場合はその木の周りを左まわりで3回まわり、良い縁を結びたいときは右まわりで3回まわります。縁切り祈願をする場合には、木の周りをまわりながら心の中で、どういう縁をどのように遠ざけたいのか唱えながら行いましょう。
横浜中華街 関帝廟   横浜市中区山下町
神奈川県内でもとくに人気の観光スポット、横浜中華街にも縁切りできるところがあります。それは三国志の英雄として名高い武将、関羽を祀っている関帝廟です。関帝廟でおみくじを引いて、もしもそのおみくじに悪いことが書かれていた場合、悪縁と縁切りができるという口コミが多数あります。おみくじを引く前には5本のお線香を購入して、所定の場所でお供えしましょう。そしてもう1つ、関帝廟では金紙のお焚き上げができます。金紙とは神様へお金を献上することと、自分の願いが叶ったときのお礼を意味するもの。無事に縁切りが達成できたあとは、もう一度関帝廟へ参拝して金紙をお焚き上げすることをおすすめします。
東慶寺   鎌倉市山ノ内
鎌倉にある東慶寺は昔は尼寺でした。女性から離婚を申し出ることが出来なかった時代。「3年間奉公したら夫と離縁することができる(縁切寺法)」として、女性救済の駆け込み寺となっていました。その名残から今でも東慶寺は縁切り寺として多くの参拝者から頼りにされています。こうした東慶寺の成り立ちから、彼氏と別れたいのに別れられないとき
○夫と離婚したいとき
○ストーカー化した元彼と縁切りしたいとき
こういうときにおすすめです。恋愛のもつれから異性にしつこくつきまとわれているという女性は、そういった悪い縁を断ち切る効果が期待できる東慶寺へ参拝しましょう。
江島神社   神奈川県藤沢市江の島
藤沢には日本三大弁財天を祀る、江島神社という縁切りと縁結びで有名なスポットがあります。なぜ縁切りと縁結びのどちらのご利益もあるのか。それは、弁財天は自身が何十年に一度しか夫(五頭龍)と会えないからと、訪れるカップルに嫉妬して別れさせてしまうからです。境内はとても広く、あちこちにパワースポットがあります。例えば「青銅の鳥居」はカップルや夫婦でくぐり抜けると縁が切れて別れると有名です。他にも厄を祓う「蟇石(がまいし)」や災難除けの「八坂神社」。江島神社の中でも最強の縁切りスポットといわれている「岩屋洞窟」などがあります。
成田山新勝寺   千葉県成田市成田
千葉にある成田山新勝寺は、「新たに勝つ」と書くことからその人の身に降りかかる厄災を避ける、障害除けのご利益があるといわれている神社。また、「付き合っている(あるいは夫婦の)男女で参拝するとその2人は別れることになる」という縁切りジンクスもあります。境内の「釈迦堂」では開運厄除けが執り行われるということから、縁切りや厄除けスポットとしても有名。「弁財天堂」もあるので、こちらもカップルで訪れると嫉妬して恋人との縁が切れるともいわれています。もしも今付き合っている恋人と別れたいなら、一緒に成田山新勝寺へ参拝するといいでしょう。もしくは1人で参拝し、障害除けのご利益で悪縁を避けるというのもおすすめです。
本光寺   千葉県市川市大野町
千葉県の市川にある本光寺、こちらは縁切り祈願のできるお寺です。平安時代の武将である源頼政公は、猿の頭に狸の胴体、蛇の尻尾と虎の手足を持つ妖怪、鵺(ヌエ)を弓矢で見事退治したという言い伝えがあります。このことから、本光寺は悪縁や腐れ縁を絶つことができるといわれています。しっかりと縁切りしたいという人は、是非本光寺の縁切り祈願を受けましょう。お寺に行けなくても代理祈願や読み上げ祈願をしてもらえます。また、こちらでは珍しいことに縁切りのお守りもあります。中でも効果があると人気なのが「悪縁切り弓矢御守」です。縁切り絵馬もあり、どちらも通販にて手に入れることが可能です。
鴻神社   埼玉県鴻巣市本宮町
埼玉は鴻巣にある鴻神社。こちらは、お供えをしなければ災厄をもたらす「木の神」と呼ばれる木に卵を産んだコウノトリが、卵を狙ってやってきた蛇を退治したという逸話の残る神社。退治後は災厄が起きなくなったことから、鴻神社には子授けと厄除けのご利益があるといわれています。また鴻神社で有名なのが、縁切りと縁結びのご利益がある三狐稲荷神社。境内にある三狐稲荷では天狐、地狐、人狐を祀っていて、絵馬やお狐を奉納することで悪い人間関係や悪癖を断ち切ることができるのだそうです。嫌いなあの人と縁切りしたい、直したい悪癖と縁切りしたいというときは、狐や絵馬に願いを書いて奉納してください。
埼玉厄除け開運大師 龍泉寺   埼玉県熊谷市三ヶ尻
埼玉県は熊谷、ここには埼玉厄除け開運大師 龍泉寺があります。龍泉寺は厄除け金色大師と開運金色大師をご本尊として祀っていて、厄除けと方位除け、そして開運のご利益があるといわれています。良い縁を引き寄せるには、まず悪縁を断ち切らなければなりません。そのためには厄を遠ざけることが大切。龍泉寺には運の悪さや悪癖など悪いものとの縁切りを望む参拝者も多く訪れます。また、魔除けの「不動明王」や「ぼけ封じ観音」。人の苦しみや不安な思いを取り除くという「釈迦如来」にがん封じの「賓頭盧尊者」も祀っています。そのため、
○病との縁を切りたい人
○不安な気持ちを遠ざけたい人
このような方にもおすすめです。
満徳寺 縁切寺満徳寺資料館   群馬県太田市徳川町
群馬県は徳川満徳寺、こちらは女性救済の尼寺で、縁切寺法によりお寺に駆け込んできた女性の離縁を手助けしてきました。そのことから満徳寺は縁切り寺と呼ばれるようになったのです。縁切りですが、「太田市立縁切寺満徳寺資料館」の縁切厠、つまりトイレの中で行います。縁切りなら縁切札に、縁結びなら縁結札に願いを書いて、その札をトイレへ流して祈願します。例えば結婚したいなら縁切札へは「独身と縁切りしたい」と書き、縁結札へは「良い縁と結ばれたい」と書きます。それを白と黒のトイレへ流し、“白黒つけた”ことで願望成就できるというわけです。
大杉神社   茨城県稲敷市阿波
茨城県の稲敷、ここには大杉神社(通称あんばさま)という強力な縁切りスポットがあります。大杉神社は悪縁切りのおまじないがあることで有名な神社です。その効果は凄まじく、大杉神社で悪縁切りをしたことで願いが叶ったという口コミが多数あります。大杉神社での悪縁切りは、我念君と書かれた素焼きの土器を使って行います。まず「われおもふ きみのこころははなれつる われもおもはじ きみもおもはじ」と心の中で3回唱えます。そして土器を叩き割るという方法で悪縁を断ち切るのです。大杉神社の境内にある「悪縁切りの齋庭」で土器を割ってもいいです。また、通販で購入して家で割った土器を袋に納め、それを大杉神社の悪縁切りの齋庭に撒くという方法でも大丈夫です。
牛久成田山 真浄寺   茨城県牛久市柏田町
牛久成田山 真浄寺には「牛久縁切り稲荷」という縁切りスポットがあります。ここは「茨城の怖い話(著者 寺井広樹氏、一銀海生氏)」にも出てくる縁切り藁人形で有名な寺院。真浄寺では、その怪談に因んだ藁人形を使って縁切りを行います。人の形を模した赤い紙があるので、まずはそちらに切りたい縁について詳しく書きます。願いを書いたら、あとは藁人形へ楊枝で赤い紙を指せば縁切りのおまじない完了です。牛久縁切り稲荷には荼枳尼天が祀られていて、その人が切りたいと願う縁を断ち切ってくれるといわれています。縁切りは「職場の嫌な人との縁」や、「元彼への未練」など何でも大丈夫です。
下野國一社八幡宮 門田稲荷神社   足利市八幡町
栃木県は足利、下野國一社八幡宮の境内には、県内でも有数の縁切りスポット、門田稲荷神社があります。東京の榎木稲荷、京都の伏見稲荷と並ぶ日本三大縁切稲荷の一つで、「縁切稲荷」とも呼ばれています。男女間のもつれ/仕事/人間関係/ギャンブル/悪癖などあらゆる悪い縁を切ってくれる門田稲荷神社。縁切りするなら、絵馬に切りたい縁について書いて奉納しましょう。門田稲荷神社の縁切り効果はかなり強いらしく、毎日のように全国から参拝者が訪れるのだとか。そのせいか、門田稲荷神社の絵馬はおびただしい数となっており圧倒されます。
宇都宮二荒山神社   栃木県宇都宮市馬場通り
栃木県は宇都宮にある二荒山神社。こちらは、ご祭神に出雲大社の縁結びの神、大国主命の和魂である大物主命がいることから、縁結びのご利益で有名な神社。しかしその一方で、カップルで行くと別れるというジンクスが囁かれる、縁切り神社でもあります。境内はとても広く、あちこちにパワースポットがあります。良縁結びではなく悪縁切りでいうなら、例えば「荒神社」は疫病鎮めの神が祀られていて、病と縁切りしたい人におすすめです。無事に悪縁切りが済んだら、「明神の井」へも立ち寄ってみましょう。宇都宮名水にも数えられる明神の井は、そこにいるだけで厄が落ちるような清々しい気持ちにさせてくれます。 

 

●縁切り寺
京都府 ・ 貴船神社
恋愛成就や復縁など縁結びに絶大な効果があると有名な「貴船神社(きふねじんじゃ)」ですが、縁切りのご利益もいただけます。基本的には『三社参り』と呼ばれる「本宮→奥宮→結社」の順に参拝する方法で行いますが、縁切りの場合は「奥宮」でしっかり願掛けを行いましょう!悪縁絶ちを願った後は、縁結びのご利益がある「結社」で良縁祈願を忘れずに。
京都府 ・ 雨宝院
縁切り寺として有名な「雨宝院(うほういん)」では、ご住職が行う「俗油」というご祈祷が効果的だと言われており、どんな縁でも切ってくれる強力な効果を発揮するのだそう。ご祈祷は2万円〜(2018年4月時点)と少々値が張りますが、絶対的な縁切りを望む方は相談してみるのがいいかもしれません。ただ、人を不幸にするようなご祈祷はできません!
また、雨宝院は桜の名所としても知られています。美しい桜を愛でて、心に溜まった負の思いを癒すのもいいでしょう。
京都府 ・ 安井金比羅宮
さまざまな縁切りを求めて全国から多くの人が集まる、絶大な力があると言われている「安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)」。「縁切り縁結び碑」は、「形代(かたしろ)」と呼ばれる願いの札で覆い尽くされています。「参拝したら、人生が目まぐるしいスピードで変化した!」といった声があるほどのパワーを持っています。自分にとって想定外だった縁が切れたりすることもあるようですが、本物の縁と結ばれるためにはまず悪縁を切ることが必要。人生を劇的に変えたい人は足を運んでみるといいかもしれません。
大阪府 ・ 石切劔箭神社(石切さん)
東大阪市の生駒山麓に鎮座する「石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)」。ダイヤモンドであろうが切れる神剣があることに由来し、この名がつけられました。人との縁だけでなく、「でんぼ(腫れ物)の神様」として、ガンなどの病気との縁を切ってくれると評判です。授与所で手に入れられるお百度紐を持ち、本殿前と神社の入口にある百度石の間をぐるぐると歩いて行き来する「お百度参り」と呼ばれる方法で参拝をします。
大阪府 ・ 持明院
縁切りの神様である[橋姫大明神(ハシヒメダイミョウジン)]のほか、縁結びの神様である[卯之日大明神(ウノヒダイミョウジン)]、稲荷(狐)である[二十日大明神]が祀られている「持明院(じみょういん)」。恋が成就すると言われている「生国魂神社(いくたまじんじゃ)」に縁結び祈願に行く前に、この「持明院」で縁切りをしてから行く方が多いのだとか。なかでも、「縁切り厠」で離縁を祈願すれば縁が切れると言われています。
大阪府 ・ 生國魂神社
“いくたまさん”の愛称で親しまれている「生國魂神社(いくたまじんじゃ)」。境内には11の末社があり、多くの神様が祀られています。そのなかでも「鴨野神社」は[市寸島比賣神(イチキシマヒメノカミ)]や[大宮賣神(オオミヤノメノカミ)]、[淀姫神(ヨドヒメノカミ)]が御祭神。こちらの神様はすべて女性の神様であり、縁切りと新たな縁結びの両方に効果があるとされています。また、「崖縁(がけっぷち)占い」という土日祝日限定の占いも。鑑定時間は10時〜16時までで、予約なしで見ていただけます。縁切り祈願の前に占ってもらうのもいいかもしれません。
大阪府 ・ 鎌八幡(円珠庵)
大阪屈指の縁切りスポットとして有名な「鎌八幡 円珠庵(かまはちえん えんじゅあん)」。こちらでは、榎の御神木に鎌を打ち付け縁切りのご祈祷をします。ご祈祷希望の方は、電話予約必須。プライバシー保護のため、鎌や絵馬には触れないようにしましょう。また、境内全域が写真撮影禁止となっているのでご注意を。
東京都 ・ 縁切榎(榎木稲荷神社)
江戸時代からの名所であり、皇女和宮が降嫁した際に縁起が悪いと迂回したことでも有名な「縁切榎(えんきりえのき)」。江戸の頃、宿場町として栄えた板橋区仲宿商店街のなかにあります。庶民の間では悪縁を切り、良縁を結んでくれるということで、当時から多くの人に礼拝されていました。負の感情と縁を切りたい、人間関係の面での縁切りをしたい、そんな思いを抱える人にピッタリの場所です。絵馬は、すぐ近くの蕎麦屋「長寿庵」で購入可能。
東京都 ・ 陽運寺
東海道四谷怪談で有名な<お岩様>を祀っている「陽運寺(よううんじ)」。境内にはお岩様ゆかりの井戸があり、「於岩稲荷(おいわいなり)」とも呼ばれています。本堂にはお岩様の木像が安置されていて、悪縁を除き、良縁を招くことにご利益があると言います。そのほか、芸能事にも霊験があるとされ、多くの参拝者が訪れます。
東京都 ・ 豊川稲荷東京別院
ずらりと並んだお稲荷さんが印象的な「豊川稲荷東京別院(とよかわいなりとうきょうべついん)」。東京別院自体がパワースポットなのですが、境内奥には縁切り縁避けの守護神である<稲荷尊天>様がいらっしゃいます。地相・家相・方位・厄など、すべての悪縁を取り除いて下さるありがたい神様。思い当たる悩みを持っている方は足を運んでみてはいかがでしょうか。
神奈川県 ・ 東慶寺
神奈川県鎌倉市にある縁切りで有名な「東慶寺(とうけいじ)」。大泉洋さん主演の映画『駆込み女と駆出し男』の舞台にもなったお寺です。女性から離婚ができないという時代が封建時代〜明治時代までの約600年間も続いたなか、男子禁制&女性救済の“縁切り寺”としてたくさんの女性たちを救ってきました。こうした歴史的背景から、離婚を望む人やしつこい交際相手に悩まされている女性の参拝者が多いのだそう。不要な悪縁や過去の想いと決別したいときにおすすめです。
群馬県 ・ 縁切寺満徳寺資料館
1872年に廃寺となった「満徳寺」ですが、さまざまな経緯を経て「縁切寺満徳寺資料館(えんきりでらまんとくじしりょうかん)」として現在も多くの人に親しまれています。資料館内には、黒と白の厠(和式トイレ)が展示されています。これには、白黒をはっきりさせて自分の人生を一歩前進させていただきたいいう意味が込められています。白い厠が縁切り用、黒い厠が縁結び用とされています。ありとあらゆる思いを水に流して、新しいスタートを切ってみましょう!
茨城県 ・ 大杉神社
厄除け・八方除け・星除けのご利益があるとされる「大杉神社(おおすぎじんじゃ)」。絢爛豪華な社殿が多くあり、「茨城の日光東照宮」とも呼ばれています。また、神社を象徴する巨大な杉の木は“安婆嶋―あんばさま”の愛称で親しまれています。縁切り祈願の方法は、心の中でおまじないの言葉を3回唱えて土器(かわらけ)を叩き割るというもの。叩き割る際は、悪縁切りの齋庭(ゆにわ)もしくは自宅の玄関先でも可能。割った土器を袋に納めて大杉神社の悪縁切りの齋庭に撒くことで祈願ができます。
山形県 ・ 宝珠山 立石寺(山寺)
断崖絶壁に建つ「宝珠山 立石寺(ほうじゅざんりっしゃくじ)」は、松尾芭蕉や絶景などで有名なパワースポット。「山寺」の愛称で親しまれ、千年以上続く歴史深いお寺です。古来より悪縁切りの寺として信仰を集め、「姥堂(うばどう)」と呼ばれる奪衣婆の石像をお祀りしたお堂が縁切りスポットとされています。このお堂から下は地獄、先は極楽とされており、俗世とのしがらみを絶ち切れると言われています。
岡山県 ・ 最上稲荷
日本三大稲荷のひとつ「最上稲荷(さいじょういなり)」。1200年の歴史を持つ、神様と仏様が両方祀られている珍しい場所です。広い敷地内にはさまざまなスポットがありますが、そのなかでも「縁の末社(えんのまっしゃ)」は悪縁を絶ち良縁を手に入れることができるパワースポットとして有名です。縁切り札を真っ二つに割ったり、「縁切り撫で石」を撫でたりとユニークな祈願方法が特徴。男女の縁にかぎらず、仕事や学業などあらゆる良縁にご利益があるとされています。 

 

●悪縁切り神社・寺 
陽運寺 東京都新宿区左門町
東京都の陽運寺と言えば、縁切り寺として有名なパワースポットですね。昔から良縁を結ぶ神社であり、悪しき縁を断ち切る神社として知られてきました。陽運寺は、東海道の四谷怪談でよく知られるお岩さんが祀られていることから、於岩稲荷の名で地元の人々から親しまれています。このことがきっかけで、悪い縁を断ち切る縁切りの場所として、人々の間で広がり、飽く縁を断ち切る代わりに良い縁を呼び込む神社として厚く信仰されてきました。
東京都に数多く存在する縁切りスポットの中でも、陽運寺はとりわけ人気が高く、東京都内からはもちろん、全国各地から数多くの人がこの地を訪れて参拝しています。縁切りという言葉には、実に多くの意味が含まれており、異性との悪い縁を断ち切るという意味もあれば、お酒やギャンブル、借金などの悪い縁を断ち切るという意味もあります。自分の心を正して悪しき縁を断ち切り、人生の新たなるスタートに向けて再出発したい人も、ぜひこの地を訪れてはいかがでしょうか。下記は陽運寺の縁切り寺に行かれた方の体験談になりますのでご参考に。
縁切榎 東京都板橋区本町
長い人生の中には、仕事がうまくいかなくて長続きしない、人間関係がスムーズにいかない、そんな時もあると思います。
東京都内には数多くの悪縁切り神社がありますが、その中でもとくに人気が高いのが、その名も縁切榎(えんきりえのき)です。縁切榎を訪れる人の中には、円満な形で離婚できますようにと絵馬に願い事を書く人もいれば、ギャンブルや借金などの悪い縁を断ち切り、希望に満ち溢れる人生を過ごせるようにと願い事を書く人もいます。
これまでに縁切榎を訪れて、「この地で参拝してから、円満に離婚して、その後は良縁に恵まれて幸せな日々を過ごしている。」とお礼参りに訪れる人も多いようです。縁切榎は、板橋区の文化財に登録されており、難病との縁切り祈願に訪れる人や、異性との悪い縁切りを祈願する人などもいます。縁切榎で悪しき縁を断ち切り、今後は良き縁を招く御利益を授かることでしょう。
安井金比羅宮 京都府京都市東山区下弁天町
京都府で有名な縁切りスポット、悪縁切り神社と言えば、多くの方がご存知の安井金比羅宮があります。安井金比羅宮のトレードマークと言えば、幅約3メートル・高さ約1.5メートルの絵馬をモチーフにした大きな石ですね。
実はこの石、ただの石ではなく、縁切り縁結び碑(いし)と言い、この地で縁切りを祈願すると、その願いがかなうと言われています。願い事をする時は、ただ念じるだけではなく、「〇〇との縁を切って下さい。」としっかりと唱えると良いそうです。
縁切り縁結び碑の前で祈願する前に、まずは本殿で参拝をして、そのあとに形代(お札)に願い事を書いて、これを持ったまま碑の穴をくぐり、祈願しましょう。
この碑では、悪い縁を断ち切ることはもちろん、良き縁を結ぶ御利益を授かることもできます。下記は安井金比羅宮など実際に悪縁切りを果たした方の実体験集です。下記は安井金比羅宮の縁切りに行かれた方の体験談になりますのでご参考に。
縁切り縁結び碑 / こちらが前述した安井金比羅宮の縁切り縁結び碑です。中央の亀裂を通して神様のお力が円形の穴に注がれており、ここを通り抜けることでご利益が授かるものです。 
恐山菩提寺(悪縁切り寺) 青森県むつ市田名部字宇曽利山
恐山(おそれざん)と言えば、青森県の有名なパワースポットであり、全国各地からこの地を訪れて参拝する人がたくさんいます。古い昔から、霊験のスピリチュアルスポットとして知られるこの恐山は、なにかの御利益を祈願するために訪れるというよりは、縁切り祈願にこの地を訪れる人が多く、人間関係がうまくいかない時や、離婚問題、家族関係に悩む人などがたくさんいます。恐山は、高野山と比叡山と並ぶ日本三大霊場のひとつで、古い昔から信仰の深い地であり、山全体がご神域で不思議な波動エネルギーが感じられます。
恐山というネーミングから、なにやら怖い場所と思うかもしれませんが、けっしてそんなことはありません。悪しき縁を断ち切り、人と人との良い縁をつなぎたいと、縁切りや縁結びに訪れた人々を恐山は優しく迎え入れてくれます。恐れ山の湧水を飲むと、体も心も清められ、すがすがしい心を取り戻すことができます。
東慶寺 神奈川県鎌倉市山ノ内
神奈川県で有名な縁切り寺には、東慶寺がよく知られていますね。江戸時代から、縁切り寺として、数多くの女性がこの地を訪れて離婚を祈願したと言われています。縁切り寺という言葉から、ネガティブなイメージを持つ人も多いようですが、悪い縁を断ち切った後は、良い縁を結ぶという意味があります。ですから、東慶寺はただ悪い縁を断ち切るお寺ではく、離婚した女性にこの先良い縁に恵まれて幸せになるようにと御利益を授けてくれます。
一昔前の時代は、1度嫁いだ女性が離婚するのはあってはならないこととされていました。離婚することをネガティブなイメージで捉える人もいますが、悪しき縁を断ち切ってこそ、本当の幸せが訪れるというものです。夫との縁切りを望んだ女性は、この東慶寺を訪れてお経本を読んで深く信仰して、女性の命である髪を切り、熱心に修行を重ねたと言われています。
鴻神社(悪縁切り神社) 埼玉県鴻巣市本宮町
埼玉県の鴻神社は、悪しき縁を断ち切り、良縁を招くパワースポットであり、地元の人々の間では昔からこうのとり伝説が有名ですね。昔から女性の参拝客が多いことで知られるこの鴻神社は、安産祈願や子授け祈願の御利益を授かるパワースポットとして親しまれてきました。鴻神社は、鴻巣総鎮守であり、埼玉県内では歴史と伝統を重んじる神社です。子宝祈願や安産祈願に訪れた人が、出産後にお宮参りに訪れることも多いようです。
中には、夫や姑との葛藤に悩み、縁切り祈願に訪れた後に、良縁に恵まれて今は幸せに暮らしているからと、お礼参りにこの地を訪れる人もいます。鴻神社は、厄除けや方位除けのパワースポットとしても知られており、人生の大切な節目の時にこの地を訪れる人もたくさんいます。とくに近年は、厄除けと還暦が重なる人の還暦厄除けを祈願する人も多く、人との悪い縁や災難が続く人が厄除けや災難除けなどの悪い縁を切るために参拝する人もいます。
本光寺 千葉県市川市大野町
一言で悪い縁と言っても、ギャンブルでお金をなくす悪い縁もあれば、人間関係のトラブルなどもあります。千葉県にある本光寺は、650年以上もの歴史と伝統があり、昔から縁切り寺として知られています。長年の腐れ縁を断ち切り、1日も早く人生の新しい再出発をしたい人は、ぜひ1度、本光寺を訪れて参拝すると良いでしょう。本光寺を訪れたら、必ず稲荷堂にご鎮座する源三位頼政和光尊儀の前で参拝することです。
この地で参拝すると、腐れ縁や悪しき縁を断ち切り、災難や数多くのしがらみから解き放たれると伝えられています。本光寺に祀られている源頼政公は、弓術の名手として知られており、伝説上の妖怪である鵺を退治した人物とされています。これによって、悪い縁を断ち切る御利益を授かると、人々の間で伝えられるようになりました。本光寺で縁切り祈願するには、悪縁切り弓矢お守りを1つ揃えておくことをおすすめします。
門田稲荷神社 栃木県足利市八幡町
栃木県の門田稲荷神社と言えば、日本三大縁切り稲荷として有名ですね。門田稲荷神社は下野国一社八幡宮の中の境内社としてご鎮座しており、京都の伏見稲荷神社と東京都の榎木神社と並ぶ三代縁切り稲荷です。縁切りの御利益というと、なにか悪いイメージがつきまとうものですが、門田稲荷神社は、ギャンブルや人間関係、夫婦間など悪い縁を断ち切り、良い縁を招く御利益を授かると言われています。下野国一社八幡宮は、広い敷地の手前のほうにご鎮座しており、その奥に向かうと門田稲荷神社がご鎮座しています。
小さな赤い鳥居がいくつかあり、その左右には赤い旗が立っています。拝殿の近くに、数多くのお稲荷さんの御着物があるので、初めてこの地を訪れた人はびっくりするかもしれませんね。悪い縁を断ち切りたい人は、ぜひ1度この地を訪れて、参拝とともに悪縁切り祈願の絵馬に願い事を書いてはいかがでしょうか。
満徳寺 群馬県太田市徳川町
群馬県が関東エリアで有名な縁切り寺と言われている理由、それは江戸時代から尼寺とされていたことにあります。今の時代とは違い、江戸時代は身分の差や男女の差別が激しい時代であり、夫や姑との縁切りを祈願する多くの女性がこの地を訪れていたと言われています。満徳寺は、神奈川県の鎌倉の東慶寺と並んで、二大縁切り寺とも呼ばれています。江戸時代に比べると、今の時代は男女平等の世の中であり、身分の差もなくなり、幸せに暮らしている人が多いようにも見受けられますが、現在でも夫との関係に悩み、離婚したいと悩んでいる多くの女性がこの地を訪れて参拝しています。
昔から縁切り寺のことを駆け込み寺、または懸け入り寺とも言い、満徳寺を訪れると悪い縁を断ち切り、幸せな人生を送ることができると伝えられてきました。満徳寺周辺はとても静かで、見た目にも華やかさは感じられませんが、徳川氏と縁が深い地とされています。
鎌八幡(円珠庵) 大阪市天王寺区空清町
大阪府で縁切りの御利益を授かるパワースポットと言えば、鎌八幡(円珠庵)が有名ですね。鎌八幡(円珠庵)の周辺は、昔から三韓坂と呼ばれる古道があり、その近くには霊が宿る木があり、地元の人々の間で厚く信仰されてきたと言われています。鎌八幡(円珠庵)は、昔から悪縁を断ち切る場所であり、祈祷のお寺として深く信仰されてきました。大正時代には、日本国内で最初の国指定の史跡となりましたが、その後、太平洋戦争の折、境内の多くの建物が損壊しました。
しかし、榎木の霊が宿る木は、力強く生命力を発揮しており、悪縁を断ち切り、人々を幸せに導き、今の時代も縁切りスポットとして受け継がれています。鎌八幡(円珠庵)で悪縁を断ち切り、新しい人生の再出発をしたい人は、本殿への参拝とともに、御祈祷をしてもらうと良いでしょう。
境内には、悪しき縁を断ち切ることを祈願する人が多く訪れた証として、数々の絵馬が奉納されています。悪縁を断ち切り、幸せな人生を歩んでいきたいと願うなら、絵馬に願い事を書いて幸運のお守りを身につけておくと良いでしょう。下記は縁切り寺の鎌八幡で実際に悪縁切りを果たした女性の実体験談です。
丹生酒殿神社(鎌八幡) 和歌山県伊都郡かつらぎ町大字三谷
和歌山県の田舎の方に関西でも有名な縁切り神社があります。こちらの神社はイチイガシの大樹をご神体としています。境内には銀杏の大木があります。
願掛けの鎌 / 無病息災、子宝、受験など願掛けのご祭神として鎌が打ち込まれています。その願いが成就する時は深く突き刺さっていき、叶わない時は抜け落ちると言われています。ただ現在はご神木保護の観点から鎌は打ち込めないようになっており、替わりに絵馬を奉納するようになっています。
雨宝院 京都市上京区智恵光院通上立売通上ル聖天町
京都の縁切りスポットといえば安井金比羅宮でお守りや御朱印を求めて参拝される方が多いかもしれませんが、こちらの雨宝院は縁切り寺として悪縁を断ち切りたい方の参拝スポットとなっています。ちなみに雨宝院は弘法大師を開基とするお寺です。お守りは悪縁を遠ざける『離別御守』が人気。また御札も多数頒布していただけます。祈祷についは心願成就 病気平癒 家内安全 身体健全 子孫繁栄 安産祈願、交通安全 学業成就 商売繁盛 事業繁栄 社運隆盛 開運招福、​良縁成就、​方除祈願、​縁切りとなっております。
佐太神社 島根県松江市鹿島町佐陀宮内
島根県で有名な縁結びの神様と言えば全国的にも名高い出雲神社、そして縁切りスポットとして有名なのが松江市の佐太神社ですね。佐太神社は、出雲国二ノ宮神在の社と呼ばれており、深い歴史と伝統があります。境内には、神社とともに弓石や手水社(ちょうずしゃ)、母儀人基社(はぎのひともとしゃ)、摂社として田中神社がご鎮座しています。佐太神社を訪れたら、必ずこの田中神社への参拝を欠かさずに行いましょう。
縁切りの御利益を授けると言われる磐長姫命(いわながひめのみこと)がご祭神として祀られており、縁切りとともに健康長寿の神としても知られています。ギャンブルや借金、お酒、離婚など悪い縁を断ち切りたい人は、神社への参拝はもちろん、御祈祷をしてもらい、悪い縁をお祓いしてもらうと良いでしょう。ひっそりとしたたたずまいで、見た目には地味な神社ですが、縁切り祈願をするのに、人の目に触れたくない人は、平日に訪れると良いでしょう。
龍王院宗圓寺 高知県南国市岡豊町滝本
高知県で有名な縁切り寺には、龍王院宗圓寺がよく知られていますね。正式には、信貴山高知別院 龍王院と言い、昔から土佐七福神毘沙門天霊場としても、地元の人々の間で根強く信仰されてきました。龍王院宗圓寺には、毘沙門天が主祭神として祀られており、人々に福運を授ける神様であり、高知県内からはもちろん県外からも数多くの人がこの地を訪れて参拝しています。男女、夫婦の縁切り祈願に訪れる人もいれば、前世との深い因縁を断ち切りたいとこの地を訪れる人、そして病気で長年苦しみ、1日も早く回復したいと願い、この地を参拝する人もいます。
龍王院宗圓寺が昔から縁切り寺として多くの人に親しまれてきた理由、それ縁切りのお不動様が祀られていることにあります。悪しき縁を断ち切るために、龍王院宗圓寺ではカマや包丁などのキレが良い刃物に願い事を書いて奉納するのが一般的です。お不動様の御前には、数多くの刃物が奉納されており、毎月28日には護摩法要が恒例神事として行われています。
金刀毘羅宮 香川県仲多度郡琴平町
香川県高松市の金刀毘羅宮と言えば、金運向上の神様として知られていますが、その一方で悪い縁を断ち切る縁切りスポットとしても有名ですね。全国各地に分社があり、松山分社や神戸分社など多数ご鎮座しています。体に邪気がいつまでも残っていると、悪い縁を切ることもできず、良い縁を授けることもできません。金刀毘羅宮で縁切り祈願する前に、境内に入ったら最初に手水舎に立ち寄り、左手・右手・口の順に清めましょう。
良い運を招くには、まずは悪い縁を断ち切り、スッキリとした気持ちで過ごしたいものです。ギャンブルや借金、離婚、浮気など悪い縁を断ち切りたい人は、本殿への参拝はもちろん、御祈祷をしてもらうことをおすすめします。ご祈祷の受付時間は11月・12月・1月・2月は午後4時半まで、3月・4月・9月・10月は午後5時まで、5月〜8月は午後5時半までとなっています。お正月から1月10日までは、とくに参拝客が多いことから、御祈祷の受付時間が延長されています。 

 

●縁切り神社・お寺
人生には、どんなに努力をしてもうまくいかない時があります。そんなふうに感じるときは、悪運と“縁切り”してみてはいかがですか。気になる人間関係だけでなく、喫煙や深酒といった習慣とも手を切り、あたらしい世界に踏み出す。そのきっかけになるのが、全国の「縁切りスポット」です。悩みの種とは、すっぱり「縁切り」。心機一転して、明日へ向かう勇気をもらいましょう!
私を取り巻く悪縁よ、サヨウナラ!
ショッピングの浪費癖、切りたくても切れない元彼との関係、愚痴っぽいネガティブ思考など、改善したいと思いつつ悩んだままの“タネ”ってありませんか?「私の人生、なんだか最近中途半端で一旦すべてリセットしたい!」と思うことがあるなら、その原動力をもって「縁切りスポット」へ向かいましょう。縁切りスポットへきちんと足を運び確固たる意志をもつことで、悪習を断ち切るきっかけになります。
「縁切りスポット」で悪縁を切り、良縁を招き寄せよう
「縁切り」などと聞くとちょっと怖い気がするかもしれませんが、世の中には人間関係の悪縁を終わらせたり、良縁を引き寄せるための縁切りスポットがあります。そもそも「悪縁を切る」ということは「良縁を結ぶ」ための、第一歩なのです。
縁切り参拝へ行く前に、注意点をチェック!
それでは、良縁を招くための「縁切り参拝の注意点」をご紹介しましょう。まず「○○と○○が別れますように!」など、他人の不幸を願うような内容はNGです。恨みや憎しみを願うのは、ただの「呪い」になります。縁切りは本来、縁結びと一緒にセットで行うもの。「自分自身」にとっての悪縁を切って、その後良縁を結びなおすというのが開運の正しい順序です。他人に注意を向けるのではなく、「この悪癖を断ち切って、今の自分よりも強い自分になる!」という前向きなお願いをします。絵馬などに書く文章は一文字一文字に願いを込めて、丁寧に書きましょう。真剣に自分と向き合う姿勢が、幸せな「悪縁切り」につながるのです。

「よし、悪縁を断ち切りに行ってみよう!」と思ったら、全国の縁切りスポットを要チェック。ここでは、これまでの悪い流れを一刀両断してくれる「縁切りスポット」を全国から10か所ご紹介します。「縁切り」の旅は、明るい明日へ向かう大事な旅。前向きな気持ちで一歩だけ進んでみましょう。きっといい気分で帰ってこられるはずです♪
立石寺/山形県
1000段の石段で煩悩を払い、良縁祈願をするお寺
立石寺(りっしゃくじ)は、山形県では「山寺」とも呼ばれて愛される古刹です。あの俳人「松尾芭蕉」が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という有名な俳句を詠んだお寺として知られています。山内にいくつかの寺院があるなかで、山頂近くにある「華蔵院(かぞういん)」と本堂にあたる「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」の2か所が、悪い縁を切るためのスポットとして有名です。
「根本中堂」に安置されている「薬師如来」は、人々を悪いことから守り、良縁を結んでくれる仏さまです。ブナの建造物としては日本最古を誇り、国指定の重要文化財に指定されています。
「華蔵院(かぞういん)」は、立石寺の山の頂上付近にあるため、1000段近くの階段を上がります。一段上がるたびに、煩悩・悩みが一つ消えてゆくという石段は、むかしから修行僧がのぼった道です。坂はかなり急なので、足元はスニーカーなど動きやすい靴で行きましょう。
満徳寺/群馬県
江戸時代の「縁切寺」ゆかりのスポット
「満徳寺(まんとくじ)」は、江戸時代から続く有名な縁切り寺です。女性が悪い夫から逃れるために逃げ込んだお寺で、江戸時代には、このお寺と、神奈川県にある「東慶寺(とうけいじ)」の2か所だけが、縁切り寺として認められていました。現在はお寺としては運営されていませんが、縁切り・良縁祈願のための「厠(トイレ)」が有名です。
縁切り・良縁祈願のための「厠(トイレ)」では、さまざまな人間関係を水に流して良縁を祈願します。悪縁を断ち切る時には専用の御札に願い事を書いて黒い便器へ流します。良縁祈願も専用の御札に書き、こちらは白い便器へ。縁切りも縁結びも両方お願いできるスポットです。
そもそもは、江戸時代に不幸な結婚から女性を救うために作られた場所です。今でも、併設の資料館では江戸時代の結婚システムや縁切寺の果たした役割などを学ぶことができます。
門田稲荷神社/栃木県 
恋愛上の縁切り・縁結びの神社
「門田稲荷神社(かどたいなりじんじゃ)」は、下野國一社八幡宮(しもつけのくにいっしゃはちまんぐう)の境内にある稲荷社です。日本三大縁切り稲荷神社の一つと言われ、恋愛上の縁切り・縁結びや病気などとの縁を切ることができる稲荷社。遠方からも多くの参拝客がやって来る有名神社です。
こちらの稲荷社は人間関係の悩みだけでなく、病気やギャンブル、喫煙・飲酒、事故や災難とのご縁が切れるというご利益でも知られています。トラブル続きで恋愛がうまくいかない時は、絵馬に願い事を書いてみましょう。
鴻神社/埼玉県
良縁ゲットのために悪縁をよけてくれる神社
「鴻神社(おおとりじんじゃ)」は子授け・安産の神様として有名ですが、実は縁切り・良縁祈願の神社でもあります。境内にある「三狐稲荷神社(さんこいなりじんじゃ)」は、悪縁を切ってくれる神さま。悪縁を断ち、良縁を招き寄せるパワーのある神社です。
「三狐稲荷神社(さんこいなりじんじゃ)」は、天狐・地狐・人狐と三つのお稲荷さんをまつった神社です。社務所でかわいらしい絵馬や、「奉納お狐様」を購入できます。願い事を書いて奉納し、悪縁を切って良縁を呼び込みましょう。
こちらはお守りも要チェック。「三狐稲荷お守り」は、縁切り後に恋愛・結婚・就職・人間関係などの良縁を結ぶ、狐のお守りです。身近に持って、御利益を感じましょう。
縁切榎(榎木稲荷神社)/東京都 
恋愛問題・災難などとの悪縁をよける神社
「縁切榎(えんきりえのき)」は、榎木稲荷神社にある榎の木です。もともと榎(えのき)と槻 (つき=ケヤキ)の木が並んで立っていたため、語呂合わせで「縁尽き(えんつき)=悪縁が尽きる」とされて、「縁切り榎」と呼ばれるようになりました。江戸時代後期にはすでによく知られた縁切りスポットで、幕末に京都から皇⼥・和宮(かずのみや)が婚礼のため江戸に入る時、縁起が悪いからとわざわざ避けるルートをとった、というほど有名です。
御神木の榎の木は、男女間や人間関係の悪縁を切ることができると言われます。同時に難病やアルコールのトラブルとの縁も切れるというご利益があるそうなので、恋愛やお酒のトラブルで悩んで悩んでいる人にもおすすめです。
縁切り榎の絵馬とストラップは、縁切り榎のすぐ周辺の商店(蕎麦屋や美容室など)で購入できます。縁切り榎の境内に掲示板があり、絵馬の取り扱い店が書かれているので、そこで確認しましょう。
絵馬は神社に奉納し、ストラップは願いが叶った際に、お礼参りで奉納します。絵馬に書き入れる油性ペンは、自分で持参する必要がありますので忘れずに。
豊川稲荷東京別院/東京都
悪縁よけ・良縁&金運アップの神社
「豊川稲荷 東京別院(とよかわいなり とうきょうべついん)」は、都内有数のパワースポットと言われます。江戸時代に時代劇で有名な「大岡越前守 忠相(おおおかえちぜんのかみ ただすけ)」が信仰していた豊川稲荷の分霊を、明治20年に大岡家から移したものです。愛知県にある豊川稲荷直轄の別院で、縁切りと良縁祈願の寺院です。
こちらの境内には、縁切り・悪縁よけの神様である「叶稲荷(かのういなり)」があります。さまざまな悪縁を除いてくれる神様「叶稲荷尊天」をまつっていますので、恋愛関係はもちろん、職場の人間関係の悩みなどもお願いしましょう。
恋愛や人間関係の縁切り・良縁祈願のほか、金運や健康運アップまでお願いできる神様がいる寺院です。こじんまりした寺院ですが、パワーがぎゅっと凝縮されている感じ。小銭を多めに用意して、いろいろと祈願するといいでしょう。
東慶寺/神奈川県
由緒正しき「縁切寺」で、恋愛の迷いをはらうお寺
「東慶寺(とうけいじ)」は、江戸時代に「満徳寺(まんとくじ)」とともに幕府から認められていた縁切り寺です。明治35年まで男子禁制の尼寺として、女性たちの駆け込み寺となっていました。現在では、悪縁を断ち切る+良縁を得るということで有名。恋愛や婚活で迷う女性におすすめのお寺です。
東慶寺は、鎌倉時代に開創された歴史の古いお寺。臨済宗円覚寺派の寺院で、約600年近くも「縁切りの寺法」を引き継いできたところです。寺内は四季折々の花々が咲く美しい場所で、心静かに悪縁との別離をはかれます。
こちらには、江戸時代初期に豊臣秀頼(とよとみひでより)の娘が二十世・天秀尼(てんしゅうに)として暮らしたというエピソードがあります。歴女なら、一度は訪れて良縁をお願いしたいスポットです。
安井金比羅宮/京都府
「縁切り・縁結び碑」で、良縁を結ぶ神社
「安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)」は、縁切り・縁結びの神社です。平安時代の末期に、崇徳上皇(すとくじょうこう)が四国・讃岐(さぬき)の金刀比羅宮で、一切の欲を断ち切っておこもりしたことにちなみ、古来から「断ち物の祈願所」として信仰されてきました。恋愛関係だけでなく、さまざまな人間関係の悪縁や病気・ギャンブルなどとの悪縁も切り、良縁を結ぶ神社です。
境内にある「縁切り・縁結び碑(えんきり・えんむすびいし」)は、高さ1.5メートル・幅3メートルの巨大な石。縁を切りたい願い事を書いた「形代(かたしろ)」のお札がぎっしりと貼られて、碑の本体は見えなくなっています。碑にある亀裂を通じて、神様の力が中央の穴に注がれているそうです。
こちらの祈願方法は、本殿で参拝したあとに、お札である「形代」を持って祈願しながら碑の表から裏へまわります。これで悪縁が切れ、そのあと裏から表にむかって穴をくぐると、良縁が結ばれたことになります。最後に、形代を碑に貼り付けて完了です。 
石切劔箭神社/大阪府
「お百度」で、悪縁を断つ神社
「石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)」は、昔から、病気や人間関係の悪縁を断ち切ってくれると言われる神社です。神社のご神体は、どんな強固な岩でも断ち切って貫くことができる「剣と箭(矢)」。恋愛において、どうしてもうまくいかない状況を好転させたいときにおすすめの神社です。
こちらでは「お百度参り」をする参拝客がたくさんいます。「お百度」とは、本殿前と神社の入口にある百度石の間を100回歩いて祈願すること。かならず100回歩く必要はなく、お願い事が神様に届くよう一心にお参りすれば効果があると言います。本当に100回歩くと約3キロもの距離を歩くことになります。むりはしないようにしましょう。
こちらの神社は、昔から大阪で「でんぼ(腫れ物)の神様」としても有名。ガンなどの病気との縁を切ってくれるといい、参道には雰囲気のあるお店も並んでいます。
龍王院宗圓寺/高知県
「縁切不動」で、良縁を祈願するお寺
「龍王院 宗圓寺(りゅうおういん そうえんじ)」は、毘沙門天(びしゃもんてん)の総本山である奈良県の「信貴山(しぎさん)」の別院です。人間関係などの悪縁を切り、運気を向上させて勝負運や金運、財運をアップさせてくれるという、必勝毘沙門天にお参りできます。
また、こちらには「縁切り不動」という、悪、縁の縁切りをしてくれる「不動明王(ふどうみょうおう)」がいます。お不動さんは、人生の「魔」をはらってくれる仏さま。悪縁をさけて、良縁を祈願するのにぴったりです。
こちらでは、包丁やカマといった刃物に願いごとを書いて、奉納します。昔から刃物には思いが宿ると言い、縁切りの決意がしっかりと伝わるそうです。ここぞ!というときにお参りして、パワーをもらいましょう。 

 

●“縁切り神社” 「悪縁切り」は良縁への第一歩
縁切り神社をご存知ですか?なんだかドキッとする響きですが、「縁切り」にはポジティブな意味も込められており、良くない人間関係の縁を切る、病気との縁を切る、悪癖との縁を切る…「悪縁を切って良縁を結ぶ」パワースポットとしていま縁切り神社が注目されています。今回は、別れと出会いの季節、春にちなんで、悪縁切りの神様として有名な全国の神社をご紹介します!
縁切り神社とは?
「悪縁」を断ち切らなければ「良いご縁」とは巡り合えないと言われています。縁切り神社では恋愛や人間関係の悪縁だけでなく、病気との縁やタバコやギャンブルなどの悪癖との縁を切るなどの「断ち物」祈願もされています。
八方塞がりの人間関係や恋愛関係で悩み続けるよりも、新しい出会いに希望を見出すためにまずは勇気を出して悪縁を断ち切る…それが縁切り祈願なのです。
しかし「大嫌いなあの人との縁を切りたい」「あの人が不幸になりますように」という誰かを貶めるようなマイナスの気持ちを抱えたままで祈願すると、それは単なる「呪い」になってしまい、災いがかえって自分に降りかかってきてしまいます。
清らかな心持ちでしっかりと縁切り祈願し、新しい良縁を結びましょう。今回は、全国のおすすめ「縁切り神社」をご紹介していきます!
最強の縁切り神社・安井金比羅宮(京都)
縁切り神社として真っ先に名前が挙がる、京都・東山に位置する“安井金毘羅宮”。悪縁切りと良縁結びを一度に祈願できるという歴史の深いありがたい神社です。
崇徳天皇が保元の乱に破れ讃岐(香川県)に流された際、讃岐の金刀比羅宮にこもって一切の未練や欲を断ち切られたということから、縁切りや断ち物にご利益がある神社としてたくさんの人に信仰されるようになりました。
悪縁切りと良縁結び両方のご利益を授かれるとして評判の霊石「縁切り縁結び碑」は安井金比羅宮のシンボル。大人一人がやっとくぐれるくらいの穴が中央に空いており、そこには神様のパワーが注ぎ込んでいるとされています。独特の風貌で少し怖くも感じますが、若い女性を中心に行列ができることも。
まず本殿へのお参りを済ませた後、「形代授与所」で形代に願い事を書き込みます。その形代を持って碑の表側に並んで順番を待ちます。
自分の番になったら、「形代」を持ってこの碑の表から裏へと穴を這うようにくぐり、まずは悪縁を断ち切ります。くぐった先の裏側に出たら、もう一度表へ向かって穴をくぐり、今度は良縁を祈願します。最後に形代を縁結び碑にノリで張り付けてお参りは完了です。
また「縁切り縁結びセットお守り」は京都土産としても大人気。八坂神社や清水寺にも近い場所にあるので、京都観光がてら立ち寄ってみてはいかがでしょうか?なんと24時間参拝可能(※社務所は9:00〜17:30まで)ですので、人目が気になる方は夜間のお参りもオススメです。
恋愛・悪運・悪癖・病気との悪縁を断つ・北海道神宮(北海道)
札幌市にある“北海道神宮”は、未知の土地で開拓に奮闘する人々のために北海道の守護神「開拓三神」をお祀りするために建立されました。縁切りをはじめ多くのご利益がある神社として親しまれており、初詣に訪れる人も北海道No.1の道内随一のパワースポットでもあります。
北海道神宮はとても大きく、誰をも歓迎してくれるようなおおらかさを感じる神社。境内に入る前に3つの鳥居があり、くぐる鳥居によってご利益が変わるといわれているんです。
縁切りにご縁があるとされているのが第二鳥居。恋愛・悪運・悪癖・病気との悪縁を断って、幸福なご利益を頂きましょう(※)。
 ※鬼門に位置した第二鳥居から神宮に入ると恋愛運・結婚運が低下してしまうこともあるので、心配な方は別の鳥居から入るようにしましょう。
自然豊かな場所にある北海道神宮では、四季折々の美しい風景も堪能できます。雄大な大自然に囲まれた境内で邪気を払い、すがすがしい気持ちと、開拓民のマインドのように希望に満ちた強いエネルギーを体感してみませんか?
不要な縁を切る、大阪最古の日本の総鎮守・生國魂神社(大阪)
大阪最古の総鎮守として崇拝され、縁切りだけでなく縁結びのご利益も強い、明るいパワーに満ちた“生國魂神社”。地元の人から「いくたまさん」と呼ばれ親しまれ、心願成就にご利益がある大阪最強のパワースポットです。
境内には11の末社があり、その一番奥にたたずむ「鴫野神社」は安土桃山の名武将・豊臣秀吉の側室であった淀君も足繁く通い、後に御祭神に。淀君以外の神様も全員女性であるため、不要な縁を切って強く前に進みたいと願った女性の守り神として、縁切りと縁結びの強いご利益の評判に繋がったようです。
厳しい戦国の世の中でたくましく子どもを育て、人を愛するエネルギーと持ち前の気の強さで出世していった淀君。人間関係でウジウジ悩んでいてはダメ!女なら強く生きて良いご縁をつかみ取りなさい!という淀君からのメッセージなのでしょうか。評判が評判を生み、今では参列者が後を絶ちません。
鴫野神社のもうひとつの名物は、土日限定で行われる「崖縁占い(がけっぷちうらない)」。手相や四柱推命の占いも開催されているので、縁切り祈願のお参りに来た際はぜひとも見てもらいましょう!
お金の悪縁を絶つ不思議な無人神社・宝来宝来神社(熊本県)
熊本の雄大な自然が広がる南阿蘇に佇む、平成になってから建立された新しい神社。「ほぎほぎじんじゃ」というちょっと変った名前ですがれっきとした神社なんです。
一番大きな拝殿の中にお祀りされている縁切り布袋さま。悪縁切りの神様で、借金や貧乏などお金に関する悪縁をはじめ、病気、悪癖、ストーカーなどありとあらゆる悪い縁を切ってくれる神様だそう。
ここに祀られている岩のお告げを聞いて宝くじを買った男性が、これからの生活に困らないほどの金額が当選したことをきっかけに、金運UPや宝くじの当選にご利益があるとして口コミで人気が広がっていきました。この立派な拝殿もその当選者の男性から寄贈されたものなのだとか!
実はこの神社、神主さんも巫女さんもおらず、お守りなどの販売所にはお賽銭箱が置いてあるだけ。無人のなんとも珍しい神社なんです。すべて参拝者の良心にまかせている神社だからこそ、金運や良縁、幸せのパワーをいただけるパワースポットになっているのかも知れませんね。
恋愛の悩みに効く「お岩さん」の神社・於岩稲荷田宮神社(東京都)
東京の指定史跡にもなっている“於岩稲荷田宮神社”。独特の不思議な雰囲気の漂うこの神社は「東海道四谷怪談」で有名なお岩さんをお祀りしていることで知られています。
夫への恨みを幽霊となって晴らしたとされるお岩さんですが、実はいうと江戸時代に実在した働き者の主婦がモデルとなっており、とても聡明で美しい人だったそう。この神社のある場所も元々お岩さんの自宅があった場所で、現在もお岩さんの子孫にあたる方が神主を務めておられます。
四谷怪談が大ヒットして以来、「縁切り」の神社として一躍有名になった於岩稲荷田宮神社ですが、もともとは商売繁盛、芸事の上達、心願成就にご利益のあるお稲荷様なのです。とはいえ、お岩様も女性の神様。悪縁を断ち切り良縁を結びたい人にとって、心強い味方となってくれるでしょう。 

 

●縁切り神社 京都「安井金比羅宮」で良縁を結ぼう
縁切り、縁結び碑をくぐって良縁祈願
関西の縁切り神社として有名な「安井金比羅宮」は、観光地として人気の東山の街中にあります。風情溢れる祇園の繁華街からも近く、街歩きの途中にも立ち寄りたいお社(やしろ)です。“悪縁を断ち切り、良縁を結ぶ”神社として、参拝する人が後を絶たないパワースポットの一つです。
入口にある大きな鳥居をくぐって参道を抜けると、手水舎が見えてきます。参拝の前にまずは手や口を漱ぎ(すすぎ)、清めましょう。
境内にある「縁切り縁結び碑」の大きな石の穴をくぐって悪縁を切り、良縁を願うのがお決まりコース。その前にまずは本殿へ参拝しましょう。
悪縁とは人間関係に関する縁だけではなく、お酒やタバコ、病気など自分自身で絶ちたいと感じる縁も含まれます。参拝の後は、境内に置いてある形代(かたしろ)と呼ばれる身代わりのお札に、切りたい縁や結びたい縁などの願い事を書きます。形代のお代はお気持ちですが、100円程度のお賽銭を入れることをおすすめします!
碑の中央の穴は大人一人がやっと通れるほどの幅で、形代を持って願い事を念じながら「縁切り縁結び碑」を表から裏へくぐり、裏に出たらさらにもう一度裏から表へくぐります。この碑を目的に、女性を中心に平日でも多くの人が参拝に訪れ、行列ができることも。
穴をくぐり終えたら、用意されているのりで「縁切り縁結び碑」に形代を貼り付けて終了!石の周りは参拝者の数々の願い事が書かれたお札で埋め尽くされており、碑の姿が見えないほどです。
悪縁度がわかる縁みくじ!?
参拝を終えたら、縁みくじを引いてみるのも楽しいかも!?「安井金比羅宮」にある「縁みくじ」には、御祭神 崇徳上皇の和歌とともに悪縁度が書かれています。悪縁度とは、自分の周りの人との縁や仕事の縁、病気の縁など全ての縁の良し悪しをわかりやすく%で表したもの。数値が低いほど良縁に恵まれていて、数値が高いほど悪縁に注意が必要です。
棒に書かれた番号を伝えると、おみくじを渡してもらえます。おみくじにはスピン(紐)が付いていてしおりとしても使えます!
何を引いたか友人と一緒に「いっせーの!」で開くのも、おみくじの醍醐味。
身につけておきたいかわいいお守り
「安井金比羅宮」には、かわいい色のお守りもたくさん。幸せの妨げになる悪い縁を切ってくれる縁切り用のお守りの他に、新しいことを始める時に身に着けたい心機一転守りや縁結びのお守りなども用意されています。
縁切りをした後は、良縁を結ぶこともお忘れなく。絵馬に願い事を書いて奉納しましょう。境内には無数の絵馬が奉納されていて、縁結びのパワースポットとしても有名なので、良縁を願う絵馬もたくさん吊るされています。
本殿の北側には、使い古した櫛を供養する「久志(くし)塚(づか)」というスポットがあり、美容にご利益があると言われています。西側にはスキルアップの神様が祀られている「八大力尊社」など、見所満載。関西でも最強と言われている縁切り縁結び神社へ一度足を運んでみてください!  

 

●女性の駆け込み寺!「満徳寺」 
群馬県太田市にある満徳寺。こちらなんと日本で2つしかない縁切り寺のひとつ。嫌なコト、モノ、ヒトなど悪運を断ち切って新しい自分へと導いてくれる群馬を誇る縁切寺「満徳寺」をご紹介しましょう。
日本に2つしかない縁切寺、徳川家にちなんだ駆け込み寺
日本国内にある縁切寺は2つ。満徳寺と鎌倉にある東慶寺。徳川秀忠の娘千姫が入寺したことで幕府公認になったといわれています。
江戸時代に嫌な夫との離縁がうまくいかなかったときに達成するために妻たちが最後の願いを込めて駆け込んだ寺。公的に離婚調停を認められていました。
トイレに流して縁切り、そして縁結びができる
満徳寺資料館内には縁切りスポットがあり、「不要なもの、不幸を与えるものとの縁切り」、「幸せをもたらす縁結び」の2つを同時に祈願できます。
一風変わった満徳寺の祈願方法それはトイレに願いを書いた札を流すこと!縁切り札は白へ、縁結びは黒の便器に流し幸せを手に入れましょう!
散策もできる敷地内、館内資料館でゆかりを学ぼう
入り口はこちら。門とは別の場所から寺内に入ります。敷地は広く散策や見学も可能。お寺の跡が遺跡となっています。便器の縁切り厠のある併設資料館、入館料¥200(税込)で江戸時代からの縁切り寺や歴史などが映像でも学べます。 

 

●長照山陽運寺 新宿区左門町 
由来
江戸時代、文政八年七月、歌舞伎作者 四世鶴屋南北作「東海道四谷怪談」が世に広まり、お岩様が庶民の畏敬を集めました。この地にあったお岩様の霊堂が戦災にあったため栃木県沼和田から薬師堂を移築再建し当寺が開山されました。境内にある秦山木の下にお岩様縁の祠があったと伝えられ陽運寺の起源とされています。薬師堂の棟札には宝暦七年と記されており二五〇年以上の歴史ある建物です。当堂内にはお岩様の立像が奉祀され、厄除け、ご縁事、芸能事に霊験があると多くの参拝者の信仰を集めています。境内にはお岩様由縁の井戸、再建記念碑等があります。
縁起
当寺は山梨県、身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗の寺院です。茨城県水戸市にある本山久昌寺(徳川光圀公由縁の寺院)の貫首であった蓮牙院日建上人が昭和の初め頃建立しました。本堂は宝暦七年(1757)建造の薬師堂を移築したものであり、寄木造りの貴重な建造物です。堂内には宗祖日蓮大聖人御尊像をはじめ、鬼子母尊神像、弁財尊天像、大黒尊天像などが勧請安置されています。
陽運寺とお岩様
「東海道四谷怪談」で有名なお岩様をお祀りしています。当寺は江戸、文政年代に活躍した四世鶴屋南北作「東海道四谷怪談」で有名なお岩様をお祀りしていることから「於岩稲荷(おいわいなり)」とも呼ばれています。本堂にはお岩様の木像が安置されており、境内には昭和32年に新宿区より文化財に指定されていたお岩様ゆかりの井戸があります。なお、歌舞伎興行の際には安全と成功を願って役者等関係者が必ず参拝に訪れます。また、悪縁を除き、良縁を招く縁結びには多大なご利益があり、全国各地より多くの参拝者が訪れます。 

 

●縁切寺 
今日鎌倉へ行って来ました 二人で初めて歩いた町へ 
今日のあの町は人影少なく 想い出に浸るには十分過ぎて 
源氏山から北鎌倉へ あの日と同じ道程で 
たどりついたのは 縁切寺 ・・・
   ちょうどこの寺の山門前で きみは突然に泣き出して 
   お願いここだけは 止してあなたとの 糸がもし切れたなら 生きてゆけない 
   あの日誰かに 頼んで撮った ・・・
君は今頃 幸せでしょうか 一度だけ町で 見かけたけれど 
紫陽花までは まだ間があるから こっそりと君の名を 呼ばせてください 
人の縁とは 不思議なもので そんな君から 別れの言葉 
あれから三年 縁切寺 
 
 
 
 

 

   橋姫
●橋姫
橋にまつわる日本の伝承に現れる女性・鬼女・女神である。
主に古くからある大きな橋では、橋姫が外敵の侵入を防ぐ橋の守護神として祀られている。古くは水神信仰の一つとされ、橋の袂に男女二神を祀ったことが始まりともいわれている。
橋姫は嫉妬深い神ともいわれ、橋姫の祀られた橋の上で他の橋を褒めたり、または女の嫉妬をテーマとした『葵の上』や『野宮』などの謡曲をうたうと、必ず恐ろしい目に遭うという。これは、土地の神は一般にほかの土地の噂を嫌うという性格や、土地の信者の競争心などが、橋姫が女性であるために嫉妬深いという説に転化したもの、もしくは「愛らしい」を意味する古語の「愛(は)し」が「橋」に通じ、愛人のことを「愛し姫(はしひめ)」といったことに由来する、などの説がある。
橋姫の中でも有名なものが、京都府宇治川の宇治橋に祀られる宇治の橋姫であり、他に大阪市淀川の長柄橋、滋賀県瀬田川の瀬田の唐橋などに祀られていることが知られる。
宇治の橋姫​
宇治の橋姫(うじのはしひめ)は、京都府宇治川の宇治橋で祀られる橋姫。多様な伝承と側面を持ち、主なものに源綱(渡辺綱)が一条戻橋で遭遇し斬った「嫉妬の鬼」、宇治橋そばの橋姫神社に祭られている「橋の守り神」、の2つがある。
文献​
   古今和歌集​
古くは、『古今和歌集』(905年)第14巻の詠み人知らずの歌に、
「さむしろに衣かたしき今宵もや 我をまつらん宇治の橋姫」
と現われている。歌の世界ではしばしば伝説と異なり、橋姫は愛らしい女性としてロマンチックな歌に現われた。
   平家物語​
嫉妬に狂う鬼としての橋姫が現われるのは、『平家物語』の読み本系異本の『源平盛衰記』・『屋代本』などに収録されている「剣巻」で、橋姫の物語の多くの原型となっている。異本であるため、出版されている『平家物語全集』の類の多くには収録されていない。
「嵯峨天皇の御宇に、或る公卿の娘、余りに嫉妬深うして、貴船の社に詣でて七日籠りて申す様、「帰命頂礼貴船大明神、願はくは七日籠もりたる験には、我を生きながら鬼神に成してたび給へ。妬しと思ひつる女取り殺さん」とぞ祈りける。明神、哀れとや覚しけん、「誠に申す所不便なり。実に鬼になりたくば、姿を改めて宇治の河瀬に行きて三七日漬れ」と示現あり。女房悦びて都に帰り、人なき処にたて籠りて、長なる髪をば五つに分け五つの角にぞ造りける。顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を戴きて三つの足には松を燃やし、続松を拵へて両方に火を付けて口にくはへ、夜更け人定りて後、大和大路へ走り出で、南を指して行きければ、頭より五つの火燃え上り、眉太く、鉄〓(かねぐろ)にて、面赤く身も赤ければ、さながら鬼形に異ならずこれを見る人肝魂を失ひ、倒れ臥し、死なずといふ事なかりけり。斯の如くして宇治の河瀬に行きて、三七日漬りければ、貴船の社の計らひにて、生きながら鬼となりぬ。宇治の橋姫とはこれなるべし。さて妬しと思ふ女、そのゆかり、我をすさむ男の親類境界、上下をも撰ばず、男女をも嫌はず、思ふ様にぞ取り失ふ。男を取らんとては女に変じ、女を取らんとては男に変じて人を取る。京中の貴賤、申の時より下になりぬれば、人をも入れず、出づる事もなし。門を閉ぢてぞ侍りける。その頃摂津守頼光の内に、綱・公時・貞道・末武とて四天王を仕はれけり。中にも綱は四天王の随一なり。武蔵国の美田といふ所にて生れたりければ、美田源次とぞ申しける。一条大宮なる所に、頼光聊か用事ありければ、綱を使者に遣はさる。夜陰に及びければ鬚切を帯かせ、馬に乗せてぞ遣はしける。彼処に行きて尋ね、問答して帰りけるに、一条堀川の戻橋を渡りける時、東の爪に齢二十余りと見えたる女の、膚は雪の如くにて、誠に姿幽なりけるが、紅梅の打着に守懸け、佩帯(はいたい)の袖に経持ちて、人も具せず、只独り南へ向いてぞ行きける。綱は橋の西の爪を過ぎけるを、はたはたと叩きつつ、「やや、何地へおはする人ぞ。我らは五条わたりに侍り、頻りに夜深けて怖し。送りて給ひなんや」と馴々しげに申しければ、綱は急ぎ馬より飛び下り、「御馬に召され侯へ」と言ひければ、「悦しくこそ」と言ふ間に、綱は近く寄つて女房をかき抱きて馬に打乗らせて堀川の東の爪を南の方へ行きけるに、正親町へ今一二段が程打ちも出でぬ所にて、この女房後へ見向きて申しけるは、「誠には五条わたりにはさしたる用も侯はず。我が住所(すみか)は都の外にて侯ふなり。それ迄送りて給ひなんや」と申しければ、「承り侯ひぬ。何く迄も御座所へ送り進らせ侯ふべし」と言ふを聞きて、やがて厳しかりし姿を変へて、怖しげなる鬼になりて、「いざ、我が行く処は愛宕山ぞ」と言ふままに、綱がもとどりを掴みて提げて、乾の方へぞ飛び行きける。綱は少しも騒がず件の鬚切をさつと抜き、空様に鬼が手をふつと切る。綱は北野の社の廻廊の星の上にどうと落つ。鬼は手を切られながら愛宕へぞ飛び行く。さて綱は廻廊より跳り下りて、もとどりに付きたる鬼が手を取りて見れば、雪の貌に引替へて、黒き事限りなし。白毛隙なく生ひ繁り銀の針を立てたるが如くなり。これを持ちて参りたりければ、頼光大きに驚き給ひ、不思議の事なりと思ひ給ひ、「晴明を召せ」とて、播磨守安倍晴明を召して、「如何あるべき」と問ひければ、「綱は七日の暇を賜りて慎むべし。鬼が手をば能く能く封じ置き給ふべし。祈祷には仁王経を講読せらるべし」と申しければ、そのままにぞ行なはれける。」  —  平家物語 剣巻 より抜粋
大意は ・・・ 「嵯峨天皇の御世(809年-825年)、とある公卿の娘が深い妬みにとらわれ、貴船神社に7日間籠って「貴船大明神よ、私を生きながら鬼神に変えて下さい。妬ましい女を取り殺したいのです」と祈った。明神は哀れに思い「本当に鬼になりたければ、姿を変えて宇治川に21日間浸れ」と告げた。
女は都に帰ると、髪を5つに分け5本の角にし、顔には朱をさし体には丹を塗って全身を赤くし、鉄輪(かなわ、鉄の輪に三本脚が付いた台)を逆さに頭に載せ、3本の脚には松明を燃やし、さらに両端を燃やした松明を口にくわえ、計5つの火を灯した。夜が更けると大和大路を南へ走り、それを見た人はその鬼のような姿を見たショックで倒れて死んでしまった。そのようにして宇治川に21日間浸ると、貴船大明神の言ったとおり生きながら鬼になった。これが「宇治の橋姫」である。
橋姫は、妬んでいた女、その縁者、相手の男の方の親類、しまいには誰彼構わず、次々と殺した。男を殺す時は女の姿、女を殺す時は男の姿になって殺していった。京中の者が、申の時(15〜17時ごろ)を過ぎると家に人を入れることも外出することもなくなった。
そうした頃、源頼光の四天王の1人源綱が一条大宮に遣わされた。夜は(橋姫のせいで)危険なので、名刀「鬚切(ひげきり)」を預かり、馬で向かった。
その帰り道、一条堀川の戻橋を渡る時、女性を見つけた。見たところ20歳余で、肌は雪のように白く、紅梅色の打衣を着て、お経を持って、一人で南へ向かっていた。
綱は「夜は危ないので、五条まで送りましょう」と言って、自分は馬から降りて女を乗せ、堀川東岸を南に向かった。正親町の近くで女が「実は家は都の外なのですが、送って下さらないでしょうか」と頼んだので、綱は「分かりました。お送りします」と答えた。すると女は鬼の姿に変わり、「愛宕山へ行きましょう」と言って綱の髪をつかんで北西へ飛び立った。
綱はあわてず、鬚切で鬼の腕を断ち斬った。綱は北野の社に落ち、鬼は手を斬られたまま愛宕へ飛んでいった。綱が髪をつかんでいた鬼の腕を手に取って見ると、雪のように白かったはずが真っ黒で、銀の針を立てたように白い毛がびっしり生えていた。
鬼の腕を頼光に見せると頼光は大いに驚き、安倍晴明を呼んでどうすればいいか問うた。晴明が「綱は7日間休暇を取って謹慎して下さい。鬼の腕は私が仁王経を読んで封印します」と言ったので、その通りにさせた。 ・・・
剣巻では橋姫の腕を斬った「鬚切」はこの事件により「鬼丸(おにまる)」と呼ばれるようになったとされる。綱の羅生門の鬼退治(『酒呑童子』)や多田満仲の戸隠山の鬼退治(『太平記』)などで振るわれた鬼切(おにきり)と同一視されることが多い、鬼と縁が深い名刀である。橋姫が浸った川は宇治川で、祭られているのは宇治川の宇治橋だが、綱が橋姫と出合ったのは堀川の一条戻り橋である。歳月の経過は特に描写されていないが、源頼光・源綱・安倍晴明の時代は「嵯峨天皇の御世」の200年近く後である。
   その他​
『源氏物語』、『太平記』、『橋姫物語』にもその名が見える。
鉄輪
『平家物語』の「剣巻」を元に話を膨らませた能の演目『鉄輪(かなわ)』がある。橋姫が頭にかぶった鉄輪から名が取られている。
橋姫は、後妻に夫を奪われた女性となっている。元夫と後妻は、呪い殺される寸前で怪異に気づき、安倍晴明に相談すると、このままでは今夜までの命と告げられた。
晴明は夫婦に頼まれ、形代(身代わりの人形)を使った呪い代えを試みると、鬼女が姿を現わした。その姿は、川での儀式の時と同じ、鉄輪や松明をつけた姿であった。舞台では、嫉妬と復讐心に顔を歪める女性の能面「橋姫」が使われる。
橋姫は夫婦に襲い掛かるが、晴明と三十番神に撃退され、「時期を待つ」と言い残して消えていった。
剣巻で重要登場人物だった源綱は登場しない。
丑の刻参り​
橋姫が行なった呪いの儀式が、丑の刻参りのルーツである。
橋姫神社​
宇治川に架かる宇治橋の近くに橋姫神社がある。正式には、上流から遷祀されたとされる瀬織津媛(せおりつひめ)を祭っているが、『平家物語』などでの橋姫と同一視されている。源綱に討たれた後に橋の神になったという話もある。
橋を守る女神として祭られているが、縁切りの神でもあり、悪縁を切るご利益がある。逆に、恋人同士や婚礼の儀で、神社の前を通ったり宇治橋を渡ったりするのはタブーである。
饗土橋姫神社​
かつては伊勢神宮の五十鈴川には橋はかかっておらず、人々は流れの緩やかな川を禊しながら渡っていた、あるいは渡るための石が並べられて、そこを渡る時代もあったといわれる。しかし、それでは大雨の増水のために渡れなくなることもあり、やがて橋がかけられるようになった。それが文献で確認できる初出が12世紀ごろである。
饗土橋姫神社の創建もほぼ宇治橋が架けられるようになった平安時代より後、鎌倉か室町時代と考えられる。文献にはじめて記されるのは室町時代になってからで、もとは大橋橋姫御前社、と呼ばれていた。饗土はそのあたりの地名である。「饗土」とは、疫神や悪霊を防ぐ道饗の祭をおこなう場所を意味する。ただし、京都の宇治のように橋の上に祀られることはなく、丑の刻参りやおどろおどろしい女性の怨念話、妖怪話とは全く縁がない。かつての鎮座地は、よく記念撮影をするところ、つまり宇治橋のすぐ手前、鳥居の立つ地点から松の植え込みのある辺りであった。以前は、松ではなく二株の桜の木であった。今では、宇治橋から約200メートルも離れたはずれにあり、その存在すらあまり知られていない。現在の宇治橋の形状に似た大橋が落成したのは、『河崎氏年代記』が記す将軍足利義教が寄進のうえ参宮した永享6年(1435年)とされる。 荒木田守良は『神宮典略』において、山城国(京都府)宇治橋の橋姫明神に倣い寛正7年(1467年)3月の将軍足利義教参宮に併せ、饗土の地に橋姫神社が創建されたと解説している。従って、五十鈴川の橋姫も京都宇治と同じ瀬織津姫を祀っていることになる。 橋姫が祀られているのは他に、滋賀県、瀬田の唐橋と大阪の長柄橋(神社は現存せず)がある。有名な徳川家はこの橋姫を祖とし、その名を冠した一橋家を産み落としたとする説がある。  

 

●宇治の橋姫
橋の女神「橋姫」の一柱で、京都府宇治川に祀られる。 元は貴族の子女だったが、嫉妬から貴船神社に詣でて呪術に邁進し、その果てに生きたまま鬼に堕ちた。 その後、頼光四天王・渡辺綱に腕を斬られて鎮まり、宇治橋の袂の神社に御霊奉神された。 宇治の橋姫の呪術は「丑の刻参り」の原型とされる。
宇治の橋姫とは、橋姫に分類される神の一柱である。平安時代、嵯峨天皇の御代に出現した鬼神。『平家物語』剣巻に詳細に記されており、生きて鬼神と成り果てた女性として描かれている。
平家物語での「橋姫」
元は然る貴族の娘であったが、あるとき一人の女性に激しい嫉妬を覚え、憎悪を募らせるようになる。そこで彼女は呪詛の神と知られる貴船神社の神に幾日も詣で、「ある女を呪い殺したい、どうか私を鬼にして下さい」と願い続けた。 その必死な姿を憐れんだ貴船の神は、彼女に「姿を変えて宇治川に二十一日のあいだ浸かりなさい」と神託した。
それからというもの、娘は「白装束に、髪を五つに結い上げ角に見立て、顔に朱を体に丹(鉛丹)を塗って己を赤く染め、頭に三つ脚の鉄輪(鍋や茶瓶を火に掛ける台)を逆さに乗せて脚に松明を差し、口にも両端に火を点けた松明を加え、五つの火を伴い、夜ごと大和大路を南へ走って宇治川に浸かる」という凄まじい荒行を敢行。そのおぞましさに彼女を見て頓死した人まで現れる。そうして荒行を完遂し、とうとう彼女は鬼へと堕ちた。
鬼となった娘はまず目的の女性を憑き殺し、続いて彼女の恋人である男を、そして女性の親類縁者のことごとくを、そして遂には暴走して目につくすべての人間を殺しに殺し、様々なものに姿を変えて数多の人間を血祭りに上げた。
ある夜、一人の武士が馬に乗って堀川の一条戻橋を通りかかり、鬼は武士を次の獲物に定めた。鬼は人間の美女(雪肌で紅梅柄の着物を着てお経を持った姿)に化け、武士の気を引いた。武士は「渡辺綱」を名乗り、五条まで送ってくれると約束。そこでしばらくしたころに、美女に化けた鬼は自分を都の外にある家まで送って欲しいと頼み、渡辺綱はそれを快諾する。それを機と見て鬼は変化を解き、綱の髪を掴んで中に飛び上がり「愛宕山へ向かいましょう」と言って宙を舞い始める。慌てた渡辺綱だったが、名刀髭切を佩いていることを思い出し、髭切で鬼の片腕を斬り落としてしまう。鬼は悲鳴を上げながらそのまま飛び去り、綱は北野天満宮に落下して難を逃れた。
翌日、綱は主人である源頼光に事の次第を話し、鬼を腕を渡す。驚いた頼光は知り合いの陰陽師である安倍晴明に相談すると、「綱殿を七日七晩家に籠らせ人に会わせないようにして下さい。そのあいだに私が腕を封じておきましょう」と腕の処理を引き受けてくれた。
以降、その鬼が都で暴れることはなくなったという。
雑記
   橋姫神社
宇治川の橋の袂には「橋姫神社」が鎮座している。祭神は瀬織津媛(セオリツヒメ)であり、本来は厄払いの神社だが、瀬織津媛が「厄神」と畏れられる“オオマガツヒ命”と混同されることもあって、宇治の橋姫と同一視される。橋の守り神とともに“悪縁切り”の御利益があるとされている。ただしカップルや婚礼の列がこの前を通ると、橋姫に妬まれて縁を切られるとされ、避けて通るようにする迷信も存在する。
   後世への影響
宇治の橋姫が敢行した呪術は、丑の刻参りの原形としても知られる。また能にも「鉄輪」という演目があり、この伝承を基にしている。  

 

●「宇治の橋姫」恋人から鬼になったワケ
夏につきものの怪談。その中に、恨みが募って鬼と化した女性が、草木も眠る丑三つ時に恐ろしい形相で藁人形に釘を打ち付ける話があるのをご存じでしょうか。
この話に語られているのは「丑の刻参り」という呪術で、長い間、日本人が密かに恨みを晴らす代表的な儀式とされてきました。京都府宇治市の宇治橋に伝わる「宇治の橋姫伝説」が原型と言われており、それだけに「宇治の橋姫」は恐ろしい鬼として語り継がれてきました。
しかし、改めて調べてみると「宇治の橋姫」が鬼になったのは鎌倉時代のことで、平安時代の末までは鬼どころか、愛しい恋人の例えだったことがわかりました。源氏物語の宇治十帖「橋姫」のタイトルには「京の都から離れた宇治に暮らす愛しい恋人」の意味が込められていると言われます。
それがどうして恐ろしい鬼になったのでしょうか。なんだかすごい秘話が隠れている気がします。さっそく宇治橋へ行ってきました。
「宇治橋」を守る女神
京阪電車「宇治駅」を降りると、すぐ目の前に宇治橋が見えます。橋のたもとには能や狂言、吉川英治の小説「宮本武蔵」にも登場する茶店「通圓」があって、ゆったりと流れる宇治川とともに、歴史と自然が織り重なったような独特の雰囲気を醸しています。
宇治橋は646年(大化2年)に架けられたとされる橋です。「宇治の橋姫」はもともと宇治橋を守る女神で、橋姫を祭る「橋姫神社」が宇治橋を渡って徒歩5分ほどの所に鎮座しています。
橋姫神社の説明看板によると、ご祭神は神道の大祓詞に登場する神「瀬織津比(せおりつひめ)」だそうです。瀬織津比(姫)は天照大神と深い関係にあるといわれる水の神で、「橋姫」と同一視されてきたと考えても良いでしょう。さらに「交通の要衝として発展してきた宇治にとって、宇治橋はとりわけ大きな意味を持っており、橋姫神社を巡って数々の伝承を生み出しています」と書かれており、恐ろしい「橋姫伝説」については一切、触れられていません。ただ、源氏物語宇治十帖「橋姫」の古跡と紹介されていたので、まずは源氏物語と橋姫がどのような関係があるのか探ってみました。
すると源氏物語の「橋姫」は、この和歌にちなんだものだとわかりました。
橋姫の 心をくみて 高瀬さす 棹のしづくに 袖ぞ濡れぬる
(橋姫のような淋しい姫君の心を察して、浅瀬にさす舟の棹の雫に袖を濡らすように、  私も涙で袖を濡らしております)
これは、源氏物語の薫が宇治に住む姫君たちに送った和歌です。これにちなんでタイトルが「橋姫」になったのだそうです。調べてみると、平安時代初期に編纂された「古今和歌集」に収録されている、詠み人知らずの和歌がベースになっていることがわかりました。
京の都から離れて住む恋人
さむしろに 衣かたしき 今宵もや 我をまつらん 宇治の橋姫 
(寒い所に衣を敷いて 今夜も私を待っているのだろうか 宇治に住む恋人は)
この和歌の「宇治の橋姫」は、京の都から離れた宇治に住む恋人を例えたものと解釈されており、この歌を元に、宇治の方に住む女性 (特に思いを寄せる恋人)を「宇治の橋姫」と例えて詠まれるようになったそうです。それで源氏物語の薫も、宇治に住む姫君たちを「宇治の橋姫」に例えたというわけです。
つまり、「宇治の橋姫」はもともと、宇治橋の守り神であるとともに「京の都から離れた宇治に住む恋人」だったということです。
それがいつから、恐ろしい鬼になったのでしょうか。
さらに調べると、橋姫を鬼にしたのは、鎌倉時代に書かれた「平家物語」であることがわかりました。しかも「平家物語」そのものではなく、読み物として編纂された異本の「源平盛衰記」などに収録されている「剣巻」に登場しているのです。
次の書き出しで始まります。
嵯峨天皇の御宇に、或る公卿の娘、余りに嫉妬深うして、貴船の社に詣でて七日籠りて申す様、「帰命頂礼貴船大明神、願はくは七日籠もりたる験には、我を生きながら鬼神に成してたび給へ。妬しと思ひつる女取り殺さん」とぞ祈りける。明神、哀れとや覚しけん、「誠に申す所不便なり。実に鬼になりたくば、姿を改めて宇治の河瀬に行きて三七日漬れ」と示現あり。(日本文学電子図書館: 平家物語 剣巻 より抜粋)
現代語に訳すると以下のようになります。
嵯峨天皇の世に、ある公卿の娘が深く嫉妬して、貴船神社に7日間籠って「貴船大明神よ、私を生きながら鬼神に変えて下さい。妬ましい女を殺したいのです」と祈った。哀れに思った明神は「本当に鬼になりたいのなら、姿を変えて宇治川に37日間浸れ」と告げた。
腕を斬られて退治された
この後、公卿の娘は、髪を5つに分けて5本の角にし、顔に朱をさし体に丹を塗って全身を赤くしました。鉄輪を逆さに頭に載せ、3本の脚には松明を燃やし、さらに両端を燃やした松明を口にくわえて鬼の姿になって、宇治川に37日間(21日という説もあります)浸り、貴船大明神の言ったとおり鬼になりました。これが「宇治の橋姫」だと書かれています。
鬼になった「宇治の橋姫」は妬んでいた女はもちろん、その親族や縁者を次々と殺したため、京の都では夕方になると橋姫を恐れて外出しなくなりました。しかし、源頼光の四天王の1人、源綱が一条大宮に遣わされた際、「橋姫が危ないから」と名刀「鬚切(ひげきり)」を預かり出かけたところ、橋姫が襲ってきたので腕を斬り、退治したと物語は続いています。
なんとも酷い話です。こんな逸話で「宇治の橋姫」は鬼にされてしまったのですから。
しかしなぜ平家物語の異本がそんな話を載せたのでしょうか。もしかしたらこの時代に、平氏が鬼の仕業にしたくなるような出来事が宇治で起こったのかもしれません。だから、こんな逸話に例えたと考えれば辻褄があいます。
そう思って調べると、案の定ありました。平安時代末期、なんとなく「宇治の橋姫」の話と重なる「宇治川の戦い」が起こっていたのです。しかも、源氏同士の戦いでした。
「宇治川の戦い」は1184年(寿永3年)に起こった「治承・寿永の乱」のひとつです。源義仲(木曽義仲)を倒すために源義経らが宇治川で戦った合戦で、源氏の内乱そのものです。
どんな戦いだったのか、簡単にまとめてみました。
信濃源氏に源義仲という源頼朝と義経の従兄弟にあたる武将がいました。義仲は1180年(治承4年)、後白河法皇の第三皇子・以仁王による平氏打倒の令旨によって挙兵し、3年後の1183年(寿永2年)に入京しました。しかし様々なことで後白河法皇と対立し、後白河法皇は義仲を見放して源頼朝に接近します。
「宇治川の戦い」はその翌年1184年(寿永3年)、源頼朝が義経たちに義仲討伐を命じたことから勃発し、義仲は義経らに敗れ、自害の場所を求めて粟津の松原に踏み込みましたが、“顔面を矢で射抜かれて”討ち死にしました(粟津の戦い)。
源氏の内乱「宇治川の戦い」平氏から見れば
後白河法皇に見捨てられた義仲が、法王と対立して従兄弟に討たれる経緯は、嫉妬して鬼と化し、源綱に退治される「宇治の橋姫」の話と、どことなく重ります。また、最後に顔を射抜かれて死んだ義仲は、鬼のように恐ろしい形相だったに違いありません。
そんな「宇治川の戦い」は、平氏から見ると、憎き源氏のおもしろい内乱に見えたことでしょう。しかも源氏の中心人物である頼朝や義経が深く関わっています。源義仲を「嫉妬に狂った鬼女」に例えて茶化してみたくなったとしても不思議ではありません。
また、物語の冒頭「嵯峨天皇の御世に」の書き出しからも源氏の物語なのではないかと窺えます。嵯峨天皇は源氏の祖先で、義仲も頼朝も義経も嵯峨天皇の血を受け継いでいるからです。「嵯峨天皇の御世に」は、源氏の内乱を暗示していると考えられなくもありません。
もちろん、平家物語の剣巻に描かれた「宇治の橋姫」が、源義仲を比喩した物語だという説は私が勝手に想像しているだけで、歴史的に証明されている話ではありません。
ただ、平安時代まで、源氏物語のタイトルになるほど“京の都から離れた宇治に住む恋人”とされていた「宇治の橋姫」が、平家物語でいきなり鬼になり、そのまま現代に語り継がれているのは事実です。なんだか「宇治の橋姫」が可哀想になってきました。
鎌倉時代から約800年もの間、人々が信じてきた物語を変えることはできません。しかし次の800年に向けて、少しずつでも経緯を知る人が増えれば「宇治の橋姫」のイメージは変わっていくでしょう。まずはこのコラムを「宇治の橋姫」に捧げたいと思います。 

 

●橋姫神社
橋姫神社の祭神は“宇治の橋姫”である。だが橋姫の伝承を語ろうとする時、あまりにも違いすぎる性格故に困惑する。
最も有名な伝説と言えば、【丑の刻参り】の原型とされるもの、自らの意志によって鬼女と化して人々を恐怖に陥れたという伝承がある。ところが全く正反対の橋姫も存在し、夫を龍神に奪われるが、それでも夫を思い続ける“橋姫”の伝承も残っている。
橋姫神社は宇治橋西詰から歩いて1分程度の場所にある。御利益はと言えば、やはり最初に取り上げた伝説のインパクトがあまりにも強いせいか、やはり“縁切り”である(実際、婚礼の行列はこの神社や宇治橋を通るのを避けていたという慣習がある)。
ところが。この橋姫神社の発祥を考えると、また別の姿が顕わになる。
平成に建て替えられた宇治橋であるが、その途中に一部分出っ張った場所がある。この場所は【三の間】と呼ばれ、かつて豊臣秀吉がここから茶の湯の水を汲んだと言われている(今でも行事として行われている)。実はこの出っ張った部分こそが、橋姫神社が最初にあった場所なのである。つまり橋姫は宇治橋を守護する神なのである。時代背景を考えると、オリジナルの“橋姫”はこの宇治橋の守護神である可能性が高いだろう。
解説
『平家物語』による橋姫
ある公家の娘が嫉妬のあまり貴船神社へ詣でて鬼になることを願った。そして7日目に貴船の神託があり、姿を変えて宇治川 に21日間浸かれば鬼と化すという。そこで女は髪を松脂で固めて5つの角を作り、顔には朱、身体に丹を塗り、頭に鉄輪をかぶってその3本の足に松明をつけ、さらに両端に火をつけた松明を口にくわえて京の南へと走り、宇治川に浸かって生きながら鬼となったという。そして念願通り、人々を取り殺したという。さらに室町期に後日談が作られ、この橋姫は安倍晴明によって封じ込められ、源頼光四天王の渡辺綱らによって退治された。そして祀ってくれるならば京を守護すると言って宇治川に身を投げて龍神となったという。このあたりの伝承や創作から謡曲『鉄輪』が作られ、丑の刻参りに繋がっていったと見るべきである。
『山城国風土記 逸文』による橋姫
つわりがひどい橋姫は、夫に海草を採ってきて欲しいと頼む。そして夫が海辺で笛を吹いていると、美しい龍神が現れて婿に迎えてしまう。そして3年経ってようやく橋姫は夫の所在を尋ね当てる。夫は竜宮の火で作られたものを食べることを嫌い、老女の家に食事に来るという。そこで二人は再会するが、泣く泣く別れることになる。その後、夫は橋姫の元に戻ってきた。このときに夫が詠んだとされる歌が、詠み人知らずとして『古今和歌集』に収められている。「さむしろに衣かたしき今宵もや 我をまつらん宇治の橋姫」この悲劇のヒロインの流れを汲むのが『源氏物語』第四十五帖【橋姫】に登場する大君と中の君であると推察できるだろう。
宇治橋
大化2年(646年)に架けられた日本最古の橋。奈良元興寺の僧・道登が作ったとされる(宇治橋断碑では道昭によるとなっている)。その際に上流にあった瀬織津媛を祀り、それを橋姫神社としている。
道登・道昭
道登は、大化元年に僧旻らと共に十師(国家政策としての仏教推進の最高指導者)に任ぜられる。また大化から白雉への改元にも進言をおこなっている。道昭は、宇治橋架橋の後に唐に渡り、玄奘三蔵の直弟子となる。帰国後に玄奘の教えである法相宗を開く。弟子に行基など。(629-700) 

 

●宇治川に架かる最恐の橋と橋姫詣で
古来より、橋は村はずれに位置し、あの世とこの世を繋ぐ結界であり、異界の場所だとされてきた。京都で異界の橋と聞いて、誰もが真っ先に思い浮かべるのは、安倍晴明ゆかりの一条戻橋だろう。
では、最恐の橋というと、どこだろう?恐ろしくも悲しい伝説に彩られた、宇治川に架かる宇治橋を挙げたい。かつて宇治橋には、その守護神として、三ノ間の張り出し部分に「橋姫」が祀られていた。
言い伝えによると橋姫は、もとは公卿の娘で容姿は美しいが、とても嫉妬深い人だった。その娘と恋仲になった男がいたが、そのうち男は別の女に心を移してしまう。嫉妬に狂った娘は、男と相手の女を取り殺すために生きながら鬼になることを決意する。貴船神社の奥の宮に七日の間、丑の刻参りをし、宇治川の浅瀬に七日七夜の間、水に浸かって望み通り鬼と化す。鬼となった娘は裏切った男を殺し、相手の女とその親族を皆殺しにした。それだけではあきたらず、妬ましく思う男女を次々と殺していく。その姿は次のようだったという。
黒髪を五本に分けて頭にツノをつくり、顔には朱、身体には丹を塗り、頭上に火を灯した三本足の鉄輪を乗せ、口に松明を加えた。その姿で宇治橋へと疾走する娘を目にしたものは、恐ろしさのあまり気を失ったり、絶命したりしたという。娘の凄まじい執念に、地元の人々はその霊を鎮めるため、宇治橋の中ほどに社をつくり、橋姫として祀った。
昭和に入っても、宇治橋を渡るだけで橋姫が嫉妬して男女の中が壊れてしまうと怖れられ、地元の人は婚礼時や結婚を間近に控えた男女は橋を避け、わざわざ遠回りをしたそうである。
はじめに宇治橋の中ほどの三ノ間に祀られた橋姫神社は近世になって宇治橋西詰北上林味卜邸の横に移された。その後、明治3年の洪水で流失、現在は宇治蓮華の地に祀られる。境内では瀬織津比淘ク(橋姫)を祭神として、水運の神である住吉明神と並んで祀られる。
そして、この橋姫伝説がもととなり、あの名高い謡曲「鉄輪(かなわ)」が誕生した。また、最初に橋姫を橋のたもとに祀ったのは、橋を渡って土地に侵入する魔や疫病、外的を払い、地元の人たちが橋を渡って出て行く際は災難から守ってくれるという願いが込められていたようである。「橋」はあちらとこちらの境界、つまり境であるからこそ、その端に祀ったといわれ、「橋姫」は「端(はし)姫」であったとも言われている。
この橋姫伝説はその後さまざまに変化していく。今では「最強の悪縁切りの神様」、「川のケガレを流す神様」として信仰されている。夫や妻、恋人の浮気相手との縁をバッサリ切ってくれるともいわれ、小さい社だけれども、橋姫詣でに訪れる人も少なくないようだ。 

 

●宇治の橋姫
宇治の橋姫とは
宇治の橋姫は、今では「橋を守る女神」ともいわれますが、たいへん嫉妬深いので、ラブラブカップルや夫婦はこの橋を通ってはいけないとされています。橋姫に嫉妬されて、仲違いしてしまうのだそうですよ。その伝説のもとになった、「宇治の橋姫」伝説は、いくつかのパターンがあります。ここでは、もっとも有名な『平家物語』の異本『源平盛衰記』にあるものを紹介します。意訳・要約ですよ。

嵯峨天皇の御代に、ある公卿の娘がいました。
その娘はある男と恋をしましたが、男は他の女性に気持ちが移り、娘は捨てられてしまいました。でも、娘はたいへん嫉妬深くその男をあきらめきれません。そして、貴船神社に参詣して7日間こもり、こう祈ったのです。
「貴船明神様、どうぞ私が7日間こもったあかつきには、生きながら鬼に変えてください。妬ましいあの女をとり殺したいのです」
貴船神社の明神は、娘を哀れに思い、「本当に鬼になりたいのなら、姿を改めて宇治川に21日間浸かりなさい」と告げました。
娘は喜んで都に帰ると、こっそり人目に触れないところで、長い髪を5つに分けて5つの角(つの)の形を作りました。そして、顔には紅をさし、体には丹を塗りました。さらに、鉄輪(かなわ)を逆さにして頭にのせ、その3つの脚に松明を燃やして、また別の松明を2本口にくわえて、その両端に火を付けたのでした。
そして、やがて夜が明けると、娘は大和大路に走り出ました。頭から5つの火が燃え上がり、眉は太く、顔も体も赤かったので、その姿はさながら鬼の姿にそのものに見えました。その姿を見た人は、魂を食われたようになって気を失い、ショック死してしまう人もいました。
そのようにして宇治川に21日間浸ると、貴船大明神の言ったとおり、娘は生きながら鬼になったのです。これが「宇治の橋姫」です。
橋姫は、妬んでいた女とその縁者、相手の男の方の親類、しまいにはだれかれ構わず、次々と人を殺していきました。男を殺す時は女の姿、女を殺す時は男の姿になって殺していったのです。
京の都は鬼女の出没に恐れおののきました。そして、申の時(15〜17時ごろ)を過ぎるころには、鬼を恐れて誰も外出しなくなったのでした。
嫉妬から鬼女になり果てた挙句「橋の神様」に
つまり、これは嫉妬にかられて本当に鬼になってしまったバカ娘の話なのです。(もうちょっとましな別のパターンの話もあります)
「こんな嫉妬深い娘を哀れに思い、その願いを聞き入れた貴船大明神が、そもそもの元凶なんじゃないの?」と思ってしまう私。
嫉妬は人を滅ぼします。そんな願い、放っておけばよかったのにね。でも、日本の神様は、よくない願いや呪いを叶えてあげることも多いので、困ったものです。
かくして、この無差別殺人鬼・宇治の橋姫を、なんとかせねばということで、遣わされたのが源頼光の四天王の筆頭・渡辺綱(わたなべのつな)です。
渡辺綱(源綱)といえば、数々の鬼退治伝説を残すスーパーヒーローですよー。あの源融(「百人一首」の河原左大臣)の子孫でもあります。
そして、この鬼は、その渡辺綱に最終的に退治されたのでした。めでたし、めでたし。そして、そして、彼女は後に「橋の神様」となりましたー!
え? なんで〜〜〜? 無差別殺人鬼を神様にしてしまう平安都人の感性が理解不能です。しかも、相変わらず「嫉妬深い女神」ですよ。怖いなー。
貴船神社・奥宮は縁起りと縁結びの神社
貴船神社といえば、京の中でも強力なパワースポットとして知られています。
鞍馬寺の更にその奥に位置するハイキングコースですか?いう大変な場所です。
ここを訪れた清少納言が、お参りして散々だったわとグチっていますが、その気持ち、よく分かります。平安貴族がよく登ったと思いますよ。
貴船神社は、水の神様として有名ですが、ここの奥宮は縁結びの神様が祀られているのです。
この縁結びの神様、その一方で縁起りの神様でもあるのです。橋姫がお祈りしたのはこちらかなと思います。
貴船神社は、「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に貴船明神が貴船山に降臨したという由緒があります。
そこから、この神社では、「丑の刻参り」をすると願いが成就するとされたのです。ですから、本来は呪咀ではなくお願いだったのですよ。
どういうわけが、後世いろいろ組み合わさって、貴船神社といえば「丑の刻参り」というイメージがついてしまったようなのでした。言い伝えとは、そういうものですね、きっと。 

 

●橋姫伝説
宇治の橋姫神社
宇治橋は、大化2年(646年)に架橋されたという日本3古橋の1つです。古くからある大きな橋には、橋の守り神の橋姫が祭られています。宇治橋西詰のあがた通り東側に水の神・祓神である瀬織津比淘ク(せおりつひめのみこと)を祭神とする橋姫神社があります。橋姫神社は、もともと宇治橋の三の間(秀吉が茶の湯の水を汲んだという出張り部分)にありましたが、宇治橋西詰に移され、1867年の洪水で流失後、現在の場所に移設されたそうです。
愛らしい宇治の橋姫
宇治の橋姫は、延喜5年(905年)に上奏された「古今和歌集」の第14巻の読み人知らずの歌に 「さむしろに衣かたしき今宵もや我をまつらん宇治の橋姫」 と詠われています。橋姫は、離れた場所で恋しい人を待つ愛しい姫と考えられていました。源氏物語の第45帖「橋姫」では、柏木と女三宮の不義の子・薫が宇治に隠棲して仏道三昧の生活をしていた八の宮(光源氏の異母弟)の生き方を理想として八の宮邸を訪れるようになり、その娘・大君に心を惹かれます。「橋姫」の帖名は薫が詠んだ「橋姫の心をくみて高瀬さす棹のしづくに袖ぞぬれぬる」に因んでいます。ここでも、橋姫は都に住む貴族が宇治を訪れて見出した心惹かれる姫として描かれています。
嫉妬に狂う鬼となった橋姫
ところが、鎌倉期に橋姫のイメージが一転します。平家物語の読み本系(「源平盛衰記」など)の剣巻には、嵯峨天皇の御世に、嫉妬深い公卿の娘が貴船神社に7日籠もり、貴船大明神に「妬ましい女を取り殺したい。生きながら鬼神にしてください。」と祈ったところ、哀れと思った明神から「鬼になりたければ姿を変えて宇治川に37日(21日とも)浸かれ。」とお告げを受け、髪を5つに分けて5本の角とし、顔に朱をさし、体に丹を塗り、鉄輪(かなわ:囲炉裏や火鉢に立ててやかん・鍋などの台とする器具)を逆さに頭に載せて3本の脚に松明を燃やし、両端を燃やした松明を咥えて夜更けに大和大路を下って宇治川に至り、37日浸かって鬼になり、妬んでいた女や相手の男、その縁者、親戚、更には誰彼となく人を殺したので、都では夜歩きする者がなくなり、そのような時に、源頼光の四天王の1人渡辺綱が一条大宮に遣わされた帰り道の一条戻橋で馬に乗せた女が鬼に変身し、綱の髪を掴んで飛び上がったが、綱に名刀・鬚切(ひげきり)で腕を切られ、安倍晴明がその腕を封印したなどと書かれています。この鬼が橋姫で、橋姫が行った呪いの儀式が丑の刻参りのルーツとなったと言われています。また、この物語は、謡曲「鉄輪」としても伝えられています。
橋姫の変化の理由
橋姫が愛らしい姫から鬼に変えられた理由は何でしょう?「嵯峨天皇の御世」を手掛かりに源(木曽)義仲と源範頼・義経の親族間の宇治川の戦いに理由を求め、義仲を橋姫に擬するという考え方があります。傾聴に値しますが、それだけで説明できるでしょうか。謡曲「鉄輪」は、離縁した夫と後妻に対する女の嫉妬と復讐の物語です。男の身勝手で他の女性と交際や結婚をすれば、その女性は嫉妬に狂って鬼にもなることを伝えたかったのではないでしょうか。
現代に通じる橋姫伝説とその解決
現代では、交際中の男女の別離は、特段の事情がなければ相手方への慰謝料請求はできませんが、婚約をした男女の一方が婚約を不当に破棄すると、相手方に対して慰謝料等の損害を賠償しなければなりません。夫婦の一方が不貞行為をした場合、相手方配偶者に対する離婚や慰謝料請求だけでなく、不倫の相手方にも慰謝料請求が認められています。
交際相手から別れ話を持ち出された際に、恋愛・好意の感情、または怨恨感情を満たすために、相手方やその配偶者、親族などにつきまといや面会の強要などをすればストーカー行為として処罰の対象となります。また、離婚紛争の配偶者からの暴力などがあれば、接近や電話などの禁止を命ずる保護命令の申立ができます。
男女間のトラブルの防止や解決に向けての法的制度は次第に整備されてきました。しかし、法的制度だけでは関係者の心の苦悩まで解決できる訳ではありません。2019年3月20日には、離婚調停に出頭した妻が東京家庭裁判所の玄関で待ち伏せをしていた夫に刺殺される事件が発生しました。男女間のトラブルの解決には、法的制度の整備だけでなく、お互いに相手方を個人として尊重する教育や心のケアなどの施策を積み重ねていくことが必要です。  

 

●鉄輪と丑の刻参り
鉄輪(かなわ)とは昔、火鉢の中に置いた五徳のことで、鉄の輪に三本の足を付けたものです。ヤカンなどを乗せて湯を湧かす為のものですが、この鉄輪を逆さまにしてその足にロウソクを結びつけ、火をつけたそれを頭に乗せ、白装束、髪を振り乱し、白化粧、濃い口紅、口には櫛をくわえ、胸には鏡を提げ、丑の刻に貴船神社に参り杉の大木に添えた藁人形に五寸釘を打ち込み呪う…
これが今に伝わる丑の刻参りの姿ですが、この原型は「宇治の橋姫」伝説にまで遡るようです。宇治の橋姫は悪阻(つわり)に苦しんでいたので、夫に「七尋(ひろ)のワカメを海で獲ってきて下さい」と頼みます。しかし、海に出かけた夫は美しい龍神に囚われてしまいます。
会うことも叶わなくなった橋姫は憎い龍神を呪うことを考え、その頃、心願成就で知られた貴船に参詣し「私を鬼に変身させてほしい、そして憎い龍神を呪いたい」と祈願すると、貴船の神は「髪を松ヤニで固め角を作り、その先に火を灯し、鉄輪を被って、三本の松明を持ち、宇治川に二十二日間浸りなさい」とお告げがあり、そのお告げの通り一心不乱に宇治川に浸った橋姫は鬼になったと伝わります。
この伝説が最初に登場するのは「屋代本平家物語」、いわゆる学校で習う表の平家物語に対する裏の平家物語です。この物語は室町時代になると謡曲「鉄輪」として登場します。下京に住む男が後妻を迎えたことを妬み、先妻は後妻に対しての呪いを考え、貴船に参詣し、「赤い布を裁ち切り身にまとい、顔には朱を塗り、頭には鉄輪を乗せ、ロウソクを灯せば鬼となる」と橋姫伝説と同じような神のお告げを受けます。一方の下京の男は先妻の鬼と化した悪夢に悩まされ、安倍晴明の元を訪ねます。晴明は人形(かたしろ)をもって祈祷を続け、鉄輪の女と対決し、やがて晴明の呪術が勝り、鬼は消え失せます。こんな話が謡曲「鉄輪」では語られます。
橋姫伝説、謡曲「鉄輪」、どちらも多少、部分的な違いはあるにせよ、基本スタンスは変わらない話のようです。
橋姫伝説においては、「橋姫」は元来は水辺、特に橋の守り神とされます。宇治には橋姫神社がありますが、今は少し宇治橋から離れてはいますが、元々は宇治橋のたもとにあったと云います。また宇治橋に限らず古来の橋には橋を守る一角、祠が設けられたりしていたようです。その昔ではその橋姫を鬼と化し何かを伝えようとしたものでしょうか。一方の謡曲「鉄輪」は安倍晴明伝説を作り上げる過程で、橋姫伝説に目を付けて、ちょっと話をお借りしたってところでしょうか。
ここまでで気付かれたでしょうか、藁人形を五寸釘で打ち込むって話は登場しないのです。この五寸釘の話が登場するのは時代も経て世の中が文化としても成熟してくる江戸時代の話です。
今では全てが混同され貴船神社と丑の刻参りが結びつけられたりしますが、その発端が貴船の神に心願成就のご利益が備わっていたことと森も深い神秘的な貴船と云う地がそうさせたのでしょうね。
ちなみに五寸釘が打ち込まれた跡は縁結びで有名な地主神社にも残ります。傍らには「おかげ明神」と云う小さな祠があり、一願成就、ひとつだけ必ず願いがかなう神様が祀られています。その祠の背後には「いのり」、「のろい杉」とも云われる杉があり、無数の丑の刻参りの五寸釘の痕跡が残ります。
また、下京区の鍛冶屋町には鉄輪の女が住んでいた所と伝わる場所があり、今はお稲荷さんと一説には鉄輪の女が身投げしたとも伝わる鉄輪の井戸が残っています。このため「縁切り井戸」と云われることもあったりします。昔は鉄輪を埋めた鉄輪塚も残っていたそうです。今では江戸時代までの地名は鉄輪町、でも縁切りにまつわることを嫌って地名は鍛治屋町になり、縁結びのお稲荷さんが祀られることになりました。何処も縁切りと縁結びは表裏一体のようです。 

 

●宇治の橋姫伝説
さむしろに 衣かたしき 今宵もや 我を待つらむ 宇治の橋姫 「古今和歌集」
「むしろ」に自分の衣だけを敷いて独り寝ては、今宵も私を待っているのだろうか、宇治の橋姫は
もうひとつの橋姫像は「待つ女」である。「さむしろに」の歌は、王朝貴族の間ではなじみ深いものであり、さらに「源氏物語」宇治十帖によって、「待つ女=橋姫」像は、より強固なイメージをもって定着する。
宇治十帖は、「橋姫」で始まり、「夢の浮橋」で終わる。この橋とは、京を離れ、宇治という別空間へとつなぐ宇治橋であり、さらに、光源氏亡き後、物語のヒーローとして登場する薫と匂宮へとつなぐ時代のかけ橋でもある。
さらに、宇治川をはさんで、右岸と左岸は、此岸と彼岸・極楽浄土、すなわち現世と来世を結ぶかけ橋である。「我を待つらむ宇治の橋姫」は、宇治の八の宮の姫君たち、大君(おおいきみ)であり、中の君であり、浮舟である。
宇治十帖の中では、橋姫になぞられて、和歌が交わされている。薫と大君、匂宮と中の君、薫と浮舟・・・・・・橋姫は陰のヒロインともいえよう。
それから三年目の秋、八の宮が山籠もりの修行中とも知らず、宇治を訪れた薫はたまたま美しい楽の音に導かれて、姫君たちの部屋に近づいた。透垣(すいがい)のはざまから覗くと、そこには荒涼たるところの風景や、仏道に親しむ宮家の雰囲気からは想像もつかぬあでやかな姫君が二人月をめでて筝(そう)のことと琵琶を合奏しているのであった。
洗練された会話、ゆかしいものごし、しかも八の宮に育てられたのもつ淋しいかげ、都にときめく姫君には見られぬ風情である。恋せじと決めた薫の心もさすがにゆらいだ。
しかも、意外なことに、宮家には薫誕生の事情を知る老女の弁(べん)が仕えていて、秘密を薫にほのめかした。彼女は柏木衛門督の乳母子(めのとご)で、あの事件の文使いだった女三の宮の乳母子の小侍従とはいとこにあたる女だった。 源氏物語「橋姫」の巻
柏木は光源氏の妻女三宮に道ならぬ恋をしてしまい、ついには無理やり関係を持ち、それが原因で病気で若くして亡くなってしまいます。源氏の末っ子として生まれた「薫」は実は柏木の子どもで、その「薫」は『宇治十帖」の主人公です。
雪の中、宇治を訪れる匂宮。浮舟を連れ出し、宇治川を渡る。橋の小島をめぐり、対岸の小さな隠れ家で、夢のような耽溺(たんでき)の二日間を過ごす。ふたりの男性の間を漂う小舟。
その行方は誰にもわからない。源氏物語「浮舟」の巻 浮舟は薫中将と匂宮の両方に想われ、それに悩み結局宇治川に身を投げるのですが、知らないところに流れ着きそこで尼になる女性です。
源氏物語最終巻「夢の浮橋」 薫は、横川僧都から浮舟の話を聞き、おもわず涙する。浮舟の弟・小君に文を託すが、浮舟は人違いだと言って会うことすらしない。薫も女も愛し合った過ぎし日を、すなわち、人間の愛を夢のように観じていることは明らかである。
「新古今和歌集」には、人待つ「宇治の橋姫」の歌が多く詠まれている。宇治十帖によって、「宇治に住む待つ女」像は、悲劇のヒロインとして、時空間を超え、人びとの心の中に、静かに忍びこむのであった。
寛弘二年(1005)か三年、紫式部は道長に頼まれて家庭教師格で彰子の後宮に宮仕えに上がったのだったが、どうやら清少納言のように当意即妙の才でサロンを楽しくする才能はあまりなかったようだ。気難しい中年のものかきだったのだ。
花やかな付き合いより、里邸に下がってひたすら執筆することの方が向いている女性だった。もっともその間、道長が紫式部の渡殿(わたどの)の戸を叩くというような出来事があった。「紫式部日記」によれば、とうとう戸を開けなかった紫式部のもとに、翌朝、道長から「夜もすがら水鶏(くいな)よりけになくなくぞまきの戸口にたたきわびつる」という歌が届けられた。紫式部も「ただならじとばかりたたく水鶏ゆえあけてはいかにくやしからまし」と返歌している。この水鶏にかけた二人の歌の解釈をめぐって、後世、道長と男女の関係があったのかなかったのか、いろいろともめている。
いずれにしても紫式部の晩年は明らかでない。いつ致仕したのかもいつ死んだのかもわからない。晩年がわからないのは清少納言も同様であるが、紫式部は一応「当世稀なる貞淑の女性」として生涯を全うしたという見方が主流になっているのにくらべて、清少納言の晩年はさんざんないわれようである。
橋姫明神が橋の守護神として最初に祀られたのが、宇治橋三之間であるとされている。人びとは、宇治川の奔流のように、荒ぶる橋姫の姿を重ね合わせたのだろうか。
近年、橋の西詰の南(橋姫神社)に移され、橋姫神社のもう一つの祭神である住吉神と隣り合わせに祀られている。
「源氏物語」の舞台の一つでもある宇治に、物語の優美なイメージには似つかわしくない、こんな伝承が残っている。嵯峨天皇の時代、夫に浮気をされた嫉妬深い女が、相手の女を呪い殺したいと、呪詛神に祈り続けた。神は「それほどまでに願うのならば、姿を改め、宇治川にて二十一日間の行水をせよ」と告げた。
女はお告げの通り、長い黒髪を五つに分け、角を作り、頭に鉄輪をのせ、口に松明をくわえた異様な出で立ちで、二十一日間、宇治川の冷水の中に浸った。やがて女は鬼神となり、夫と女を取り殺したという。さらに、この橋姫の物語は、嫉妬深い女性の物語として展開する。
このテーマは「平家物語」「太平記」にも描かれ、さらに能や室町物語集へとつながっていく。能楽「鉄輪」とは夫に見捨てられた女が、貴船神社に丑の刻参りをして恨みを晴らそうとするも、安倍晴明に祈り伏せられるという物語である。能楽「葵上」のシテ(主人公)・六条御息所のように「般若」の面をつけ、鬼女となるわけでもなく、成仏することもできない。その恨み辛みは、心のうちにこもる。その苦しみの表情が「橋姫」の面ににじみ出ているのである。 

 

●橋姫の 心をくみて・・・
弁の君より自分の出生を聞いた薫。宇治を立ち去る前に、大君に送った歌。
   橋姫の 心をくみて 高瀬さす
     棹(さお)のしづくに 袖ぞ濡れける
宇治の橋姫のような、淋しい姫君の心を察して、浅瀬にさす舟の棹の雫に袖を濡らすように、私も涙で袖を濡らしております。という意味。
「宇治の橋姫」は、流れの速い宇治の川瀬に居て、人の罪けがれを運び去ってくれると信じられた女神、宇治の橋の守り神、鬼女など、色々なお話があるのですが・・・。
『古今集』の読人しらずの歌で、このような歌があります。「さむしろに 衣かたしき 今宵もや 我をまつらん 宇治の橋姫」。この古今集の歌から、宇治の方に住む女性(特に思いを寄せる恋人)を「宇治の橋姫」と例えて詠まれることが多かった。ですから薫も、姫君達が合奏するのをこっそりと覗き、その彼女達の美しさに「宇治の橋姫もかくやと思うような」と感動し、姫君達を宇治の橋姫に例えます。
そしてその後、もともと女房達の噂から、光源氏が自分の父親ではないと知っていた薫は、弁の君から自分の出生の秘密を聞いて、ショックを受け、真実の自分を見つけます。
(そして、『源氏物語 あさきゆめみし』では、省かれて描かれていないのですが)この歌を作る前に薫は、供の者から 「網代に人が集まっているのに鮎の稚魚がかかっていない」と聞いたり、刈った芝を積んだ粗末な舟が川を行き交うのを見て、誰もがこの世を渡ることは不安定なのだと悟りました。
宇治川のその侘しい情景を踏まえて、都から離れた山奥の宇治にいる姫君達の寂しさを思って、歌を送った薫。 この時はまだ、匂の宮曰く「堅物」な薫は、自分が大君への恋に目覚めたことに全く気づいていません。
けれども、真実を知り、その胸の内を知ってもらいたい人物に、瞬間的に大君を思い浮かべた薫。 この歌では姫君達の淋しさに同情していますが、実は真実を誰にも打ち明けられない自分の方がもっと淋しかったのでは? だけど、残念ながらその淋しさや薫の愛を、大君は受け入れずに旅立ってしまいました。両思いのはずなのに、人を思いやるが上に不幸になるなんて、何だか切ないですね。
大君の返歌
   さしかへる 宇治の河をさ 朝夕の
     しづくや袖を 朽(く)たし果つらむ

藤原定家
   さむしろや 待つ夜の秋の 風ふけて
     月をかた敷く 宇治の橋姫
『筵を敷いて待つ夜は更けて風も冷たい、月を慰めに独り寝する宇治の橋姫』。これぞまさに定家というような妖艶な一首だ。言うまでもなく歌は「橋姫伝説」を下敷きにしている、嫉妬に狂った女が鬼になる話を聞いたことがあるだろう。しかし今日の歌でも分かるように和歌で橋姫は恋人を忍び待つ、いかにも和歌好みのいじらしい女性に描かれる。実は橋姫が鬼になったのは源平盛衰記といった後の物語の影響だったのだ。 さて本題に戻ると、はじめにいかにも定家らしいといった表現のひとつが三句「風ふけて」だ。本来更けるのは「夜」であって決して「風」ではない。こういったシュールな表現こそが「達磨歌」※として、旧来の歌人達は冷ややかな目を向けた。
※ 「いはゆる露さびて、風ふけて、心の奥、あはれの底、月の有明、風の夕暮、春のふるさとなど、始めめづらしく詠める時こそあれ(中略)かやう列の歌、幽玄の境にはあらず。げに、達磨ともこれらをぞいふべき」(無名抄 近代歌体) 
 
 
 

 

 
 
 
 

 


 
2021/1