纏 (まとい)

猫の「雷」 (らい)
日課 午后の3時ごろ 腹時計

椅子に座る 私の膝に爪を立て 
お菓子頂戴 纏わり付く
 


なんとなく使っていた言葉
「纏わり付く」
「纏」が気になる
 
 
 
 
纏 (まとい、まとひ) 
纏衣 (てんい、まとい) 
纏わり付く (まとわりつく、まつわりつく)
足手纏い (足手まとい)
 
 
 
 
纏(まとい、まとひ) 
音読み : 「テン」「デン」
 訓読み:「まと(う)」「まつ(わる)」「まとい」「まと(う)」「まと(める)」
 訓読み()の中は「送りがな」 名前(音読み・訓読み以外の読み):「まき」「まとむ」
1 「まとう」 / 「身につける」「きる(着)」「からまる」「巻きつく」「からみつかせる」
2 「まつわる」 / 「からみつく」「そばについていて離れない」「つきまとう」「付随する(主たる物事に関係して成り立っている)」「関連する」
3 「くくる(括)」「たばねる(束)」「しばる(縛)」
4 「まとい」 / 「まとうこと」「まとうもの」「さおの頭に飾りをつけ、その下に馬簾(革・紙などを細長く切ったもの)を垂らしたもの」「江戸時代、町火消し(消防組織)のしるしとしたもの」
5 「まとめる」 / 「ばらばらのものを集めてひとかたまりのものにする」「物事をわかりやすいように整える」(例:ノートに纏める) 「互いの考えを一致させる」(例:商談を纏める)
まとうこと。また、まとうもの。馬印の一種。さおの頭に飾りをつけ、その下に馬簾 (ばれん) を垂らしたもの。江戸時代、町火消しの各組のしるしとしたもの。
まとう。まといつく。からまる。まつわる。「纏綿」 まとい。陣営や火消しの組の印として用いたもの。まとめる。
まとうこと。また、まとうもの。馬印の一種。さおの頭に飾りをつけ、その下に馬簾(ばれん)を垂らしたもの。江戸時代、2にならって町火消しの各組のしるしとしたもの。
仏語。まつわりつくもの。煩悩(ぼんのう)のこと。纏縛(てんばく)。 [人名用漢字][音]テン(漢)[訓]まとう/まとい/まつわる  まつわりつく。「纏繞(てんじょう)・纏綿」 身につける。身にまとう。「纏足/半纏」 
戦国時代の武将が戦場で馬側に立てその所在を示した馬印の一種。多くは馬簾(ばれん)という飾りを垂らした。江戸時代の町火消の標識。 前記に模してつくり、その頭部を〈だし〉といい組の名を記号で入れた。
戦闘や消防の際に用いられた標識。戦場での集団中に目につきやすい標具として,16世紀になって盛んに用いられた纏は幟(のぼり)の大型なもので,《大坂軍記》にも〈大纏は朱の大四半,大幅掛に白き葵(あおい)の丸なり〉とか〈井桁(いげた)の紋の茜(あかね)の四半のまとひ〉と見えている。しかし他と紛れぬように,幟のほかにも作り物を用い,ときには当世具足の背に着けた指物(さしもの)を纏としたので,《甲陽軍鑑》には〈北条家の大道寺九ッ挑灯(ちようちん)のさし物をそえにしてもたする,是によってまとひは北条家よりはじまる〉と伝えている(旗指物)。
戦闘や消防の際に用いられた標識。戦国時代に大将の陣所の所在を示すために大型の幟を用いたのが起源で、16世紀以後盛んに用いられるようになった。幟のほかにも標識として用いた作り物や、当世具足の背につける家紋などを施した指物 (さしもの) なども纏と呼ばれ、さらに竿頭部に趣向を凝らした飾り (出し) を施し、長く馬簾を垂らした馬印 (うまじるし) も纏と呼ばれるようになった。江戸時代になってこの形式のものは消防にあたる者の標具として用いられるようになり、出しに定紋や先祖の由緒にちなんだ飾りをつけた纏は、旗本以上の武士の非常用の調度となった。町火消は享保5 (1720) 年から纏制度が許され、地域名を書いた吹流しを用いていたが、天保2 (1831) 年以後、馬簾つきの纏が許されるようになり、出し飾りの大きさ2尺 (約 60cm) 以内、すべて白染塗りとし、馬簾の数も 48本に定められた。
戦国時代には、敵味方の目印にするために用いた幟(のぼり)や馬印(うまじるし)のことであったが、江戸時代になると、もっぱら火消組の目印をさすようになった。前者の纏は、永禄(えいろく)・元亀(げんき)(1558〜73)のころ北条氏康(うじやす)の家臣が初めて用いたと伝えられる。有名なものとして、豊臣(とよとみ)秀吉の金の千成瓢箪(せんなりびょうたん)や徳川家康の金の扇などがある。江戸時代、大名火消や旗本の定火消(じょうびけし)ができると、家紋や先祖の由緒にちなんだ陀志(だし)飾りのついた纏が考案され、加賀百万石の加賀鳶(とび)の銀塗り太鼓や、本多能登守(のとのかみ)の本文字に日月の纏など、それぞれに華美を競った。1718年(享保3)江戸に町火消の制が定まり、しだいに整備されて、10組の大(おお)組の下にいろは四十八組(ただし、「へ」「ら」「ひ」「ん」のかわりに「百」「千」「万」「本」)の小(こ)組が置かれると、各小組ごとに目印として纏を持つことを許される。時代により形が多少変わったが、江戸時代の末ごろには、陀志飾りの長さ2尺(約60センチメートル)、白漆塗りで馬簾(ばれん)(円形の枠に、細い紙や革の条を長く垂らしたもの)のついた、一般によく知られる纏らしい形となった。なお、纏持ちのことを単に纏ともよび、組のシンボルとして、火消しや行事で競い合った。
江戸時代に町火消の各組が用いた旗印の一種。各組により様々な意匠が凝らしてある。概ね、上部に組を表す頭があり、馬簾(ばれん、上部から垂れ下がった細長い飾り)と呼ばれる紙や革製の房飾りがついて、手に持って振り上げたり回転させると踊るようになっている。下部は木の棒の柄になっている。重量は15-20キログラム前後とかなり重いもので、担いで走ったり、持ったまま梯子に登る、屋根の上で振り回す等の取り扱いには、かなりの腕力が必要である。江戸の大半を焼失する明暦の大火後の1658年(万治元年)には江戸中定火之番(定火消)が設置され、江戸では、町人が住む地域の火災は「いろは」の組に分かれた町火消による消火が行われた。火災時には旗本が火消屋敷に常駐している臥煙と呼ばれる消防員の指揮をとり出動していたが、その際に用いた馬印が、纏の始まりになったといわれる。また、東京消防庁によると、1720年(享保5年)4月、大岡越前守が町火消にも纏を持たせ士気の高揚を図った、と説明されている。この当時の纏は纏幟(のぼり)と呼ばれた幟形式のもので、火災出場区域や火災現場心得などが書かれており、いろは48本に本所・深川の16本を合わせて64本あった。組のうちで体力、威勢ともに優れたものが「纏持ち」に任命された。現場で纏持ちは火事場の風下の屋根の上にあがり、纏を振りたてて消火活動の目印とするとともに、仲間たちの士気を鼓舞した。纏持ちの上がった家が焼ければ纏も纏持ちと一緒に燃えてしまうため、「纏を焼くな」とばかり各自が必死に働いたのである。全ての纏の馬簾に黒線が入るようになったのは1872年(明治5年)に町火消が消防組と改称されて以後である。
仏語。煩悩(ぼんのう)の異称。煩悩は衆生(しゅじょう)にまとわりついて迷いの世界にしばりつけるところからいう。〔摩訶般若波羅蜜経‐三〕  
まとう(纏)、小川本願経四分律平安初期点(810頃)「若し上の枢(とぼそ)壊れば、皮を以て縺(マツフ)こと聴(ゆる)す」  
布の端を折り返して、裏の布と表の布を交互に針ですくって縫いつける。針女(1971)〈有吉佐和子〉五「表のジョーゼットでくるむようにして纏(マツ)るんだ」  
まつわるようにする。まといつく。また、まつわりついて束縛する。地蔵十輪経元慶七年点(883)一〇「有情の、生死の苦穢に縛(マツハサ)れたるを」 気に入りの者、愛する者などを絶えずそば近くにつきまとわせる。宇津保(970‐999頃)楼上上「『さてなほひさしくや、宮は見奉らざらんずる』『などてか、ただ暫しなり』と聞え給にも、いと哀に、まつはし奉り給へるに」  
からみつく。ぐるぐるとまきつく。まとわる。→はいまつわる・おもいまつわる。書紀(720)垂仁五年一〇月(北野本訓)「錦色小蛇(すこしきなるにしきをろち)、朕が頸(くひ)に繞(マツハル)」 いつも離れないでいる。つきまとう。まとわる。能因本枕(10C終)三〇六「まつはれ追従し、取り持ちてまどふ」 かかわり合う。かかわりなずむ。源氏(1001‐14頃)玉鬘「さらに一すぢにまつはれて、今めきたる言の葉にゆるぎ給はぬこそ」  
からみつく。また、まきついてほどけなくなる。〔書陵部本名義抄(1081頃)〕 読本・南総里見八犬伝(1814‐42)三「護身嚢(まもりふくろ)の長紐紊れて、道節が大刀の緒に、いく重ともなく夤縁(マツハリ)つつ」 狐の裁判(1884)〈井上勤訳〉八「御身に夤縁(マツハ)る災難の減ずる事は」 ゆかりがある。関連する。内地雑居未来之夢(1886)〈坪内逍遙〉五「頻に故人縁の纏(マツハ)る日かな」  
(動詞「まとう(纏)」の連用形の名詞化) まとうこと。また、まとうもの。軍陣の用具の馬標(うまじるし)の一種。近世の戦陣で、主将の本営のしるしとして立てるもの。長い竿の先に種々の飾りをつけ、その下に馬簾(ばれん)を垂れる。奥羽永慶軍記(1698)八「纏を先に押立て」 江戸時代、町方の火消の各組が2に模して作り、組のしるしとして用いたもの。洒落本・新吾左出放題盲牛(1781)侠八歯臍「半鐘の丸漬か纏のばれんの浸し物」 「まといもち(纏持)」の略。  
(動詞「まとまる(纏)」の連用形の名詞化) 統一、整理されること。また、決着がつくこと。文明開化(1873‐74)〈加藤祐一〉初「我が一身のまとまりもいかず」  
個々ばらばらにあるものが集まって一つになる。一つに統(す)べ合わされる。全体で一つのかたまりとなる。一括される。ある程度の量になる場合にいう。歌舞伎・絵本合法衢(1810)大切「まとまった三十両」 話し合いがつく。当事者の間、または周囲の皆が了解するに至る。意見、考えが一致する。特に、縁談・商談などが成立する。花間鶯(1887‐88)〈末広鉄腸〉上「一度の集会で御相談の十分に纏(マト)まることは六ケ敷からうかと思ひます」 一つのものとして完成する。整理がつく。できあがる。滑稽本・八笑人(1820‐49)二「早く来てくれねへか。もうすこしでまとまる所だ」  
(動詞「まとめる(纏)」の連用形の名詞化) まとめること。あらくれ(1915)〈徳田秋声〉六四「これのまとめが一つで十三銭づつです」  
まと・む / 個々のものを一つにくくる。集めて一つにする。統括する。一つのものとして完成させる。また、意見、考えなどを一つに整理する。他人の顔(1964)〈安部公房〉灰色のノート「結末をまとめるのに要するだろう日数の」 懸案や紛争などを解決させる。まるく納める。また、特に縁談・商談などをうまく成立させる。雪中梅(1886)〈末広鉄腸〉下「話を纏めるまではお春さんを外へ出して置く方が善からふ」  
まといつくようにする。まきつかせる。からませる。まつわす。蜻蛉(974頃)下「助をあけくれよびまとはせば」 そばから離れずつきまとうようにする。絶えずそばにつき添わせる。まつわす。宇津保(970‐999頃)楼上上「この殿をばててぞとて、むつまじうまとはし奉り給ふ」  
まつわる(纏) 狭衣物語(1069‐77頃か)一「がはがは、そよそよと、裾ども取り広げ、紐どものまとはれたりける」 更級日記(1059頃)「姉おととの中につとまとはれて」 いさなとり(1891)〈幸田露伴〉一七「犬の〈略〉纏(マト)はるも心細き限りなり」  
火消 …本所,深川は16の小組に分けた。このとき大名火消,定火消にならって各組ごとに纏(まとい)と幟(のぼり)を定め,その目印とさせた。さらに30年,47組を一番組から十番組の大組に分けた。…  
●半纏と法被 
法被(はっぴ)
法被は江戸時代の武家社会で生まれました。武士が家紋を大きく染め抜いた羽織を着用したことが法被の始まりのようです。当時は衿(えり)を返して着用していたようですが、江戸時代の末期になり、庶民に広がると衿を返さないで着るようになったそうです。
形は、胸紐つきの単(ひとえ)で、筒袖または広袖の単純な形をしているのが特徴です。
「法被」の名前の由来は、束帯(そくたい)を着る際に袍(ほう)の下に着用した袖のない胴衣「半臂(はんぴ)」にあります。
半纏(はんてん)
お祭りで着るイメージがある「半纏」ですが、実は江戸時代では庶民の間で着用されるようになった防寒着のことでした。
形は羽織に近く、袷(あわせ、表地と裏地の二重)があるのが特徴です。
よく知られる綿入れ半纏は、袷の間に綿を入れたものになります。
「半纏」の名前は、袖の丈が半分程しかないことから「半丁(はんてん)」と名づけらたことに由来します。この「半」に「纏う(まとう)」の字を足して、「半纏」と書かれるようになったようです。
半纏と法被の混同
「法被」は衿を返して着る羽織り、「半纏」は防寒着を示していましたが、江戸時代に出された羽織禁止令がきっかけで、混同されるようになります。羽織禁止令が出たため、庶民は衿を返す羽織や法被の代わりに、「衿を返さないで着用する法被」を着るようになりました。それは「印半纏」とも呼ばれ、江戸の人々の生活に根付いていきました。
印半纏は、襟から胸元にかけて文字を入れることで、着用している者の所属や名、意思を表したりすることができます。
そのため、職人や商家の使用人が日常的に着るもの、町の火消が着るもの、祭礼に着るものとして、様々な場面で着られてきました。
その印半纏が、現代のショッピンモールでセールスマンが着ている「法被」であり、お祭りで着る「半纏」であり、一般的に連想される半纏・法被になります。  
●江戸町火消 
火事装束
江戸時代、消費都市として人口の稠密を見た江戸は又火災も多く、「火事と喧嘩は江戸の花」といわれる程であった。  この火事に対する消防組織は武家屋敷の火災には、大名、旗本があたり、町衆は町人自身の消化活動が基本となり、はじめは大名による大名火消、ついで万治元年[1658]旗本を中心とする定火消、更に寛保3年[1743]町奉行大岡忠相(ただすけ)により町人自身による消防体制の組織化がはかられた。その後の若千の変化はあるが、基本は隅田川以西の町々を凡そ20町ごとに47の小組にわけ「いろは」を以て名づけ、又、隅田川以東は16の小組にわけ、纏(まとい)や幟(のぼり)を定めて各自の目印とした。いろはの小組は10番の大組にわけ、隅田川以東の16の小組は南、中、北の大組とされた。町火消は町奉行の監督の下に火消人足改という掛りの与力、同心が担当、指揮したが、経費は町方の自治組織の負担であった。消化活動は竜吐水という小さなポンプを使うだけで、破壊消防を主とした。従って鳶(とび)人足といわれる専門家を雇うことが主体となり、定抱えと平常は若千の手当を支給し、火災の時に参入する駆付人足とにわかれた。鳶人足[火消人足]は各組ごとに頭取(とうどり)[鳶頭(とびがしら)]、纏持(まといもち)、梯子(はしご)持、平(ひら)[人足]という階層があり、これ等の人達は町内からの若千の給与と半纏(はんてん)、股引、頭巾などを支給された。ここに示したものは刺子の頭巾、刺子半纏、袖口刺子下着に帯をしめ、刺子手袋に鳶口を持つ姿で、下に腹当、股引、紺足袋、わらじをつけている。  刺子の頭巾は十四番組所属を示すもので、嘉永4年の配置図によると隅田川大川橋東側の中の郷あたりの所属を示し、北組に属している。
火事装束[晴れ]
刺子半纒には火事場の華と云われた纒持の姿が染め上げられている。この纒の図は隅田川以西の一番組を示す、芥子に桝という円と角がつけられている。この一番組には、い、は、に、よ、万の五の小組が属している。この半纒は片側には印がつけていない無地になっている。火事場ではこの無地の方を表にして着け、消火が終わると派手な絵模様のある方を表にして帰路につくという。又鳶としての晴れ着としても用いたと思われる。身の前側に「長組」という文字が見られるのは小組の中に更に下部組織を示したものであろう。従って頭巾の組と同一人の使用したものではない。袖口刺子下着にも染付けがされ、袖口だけ刺子として腕の部分は簡略化されている。  刺子手袋にも二重の丸に内側に文字のある表示と「二」が染抜かれている。二番組所属のろ、せ、も、す、百、千、いづれかに所属しているものであろう。前記と同一人の所用ではない。帯をしめる場合は下着の上であってもよく半纒の上からつけることもある。しかし、帯を除く上記4点は江戸後期の遺品である。
武士火事装束
江戸時代に都市が更に発達、特に江戸では人口、人家の密集の為に火災が多く、既に慶長6年11月には駿河町の失火に江戸の町々がほとんど焼失したといわれ、明暦3年[1657]の振袖火事には全市焼士と化し、死傷11万人に及ぶという。幕府も消防に力を入れ、大名を主体とした大名火消、更に旗本を中心とする定火消の制が出来、享保時代にはその制度も整い、更に町衆による町火消が組織化された。これ等の消防作業に直接従事する人々は木綿の袷の刺子(さしこ)を主とする火事装束であったが、これとは別に警備用の武士が火事の際着用するものも火事装束といわれ、豪華な威儀のものとなり、婦人用のものまで作られた。
地質もはじめは革製を主としたものであったが後には羅紗、羅世板(らせいた)、呉呂服連(ごろふくれん)など絨製のものが多く用いられた。
武士の火事装束の構成は陣笠又は兜、火事羽織、胸当、宛(あて)[当]帯(おび)、野袴で、それぞれに家紋などをつけた。大名や高級の武士は兜に鍬形の前立などのある立派なものを用いたが、一般は陣笠で火の粉をよける為の垂れがつけられている。
ここに着装のものは夏用のもので小袖は麻の紋附の帷子(かたびら)、羽織は背割りで紫色の羅世板といわれる薄地のモスリン風の毛織物、白刺繍波の丸に本と書かれた家紋の三つ紋附、裏は縹の甲斐絹に菱詰金襴の覆輪がつけられている。襟に波文様、紐は茶地芯入りの組もの。胸当て及び宛[当]帯も同色同裂、宛帯の結び紐は縹色の縮緬、陣笠も、ともに江戸後期の遺物そのままを用い、陣笠の垂れの白毛氈と、裾に黒襦子の附けられた織物地の野袴は考証復原したものである。足もとは紺足袋、わらじばきとした。  
●火事装束の今昔  
浅野長矩(ながのり)が松の廊下で刃傷(にんじょう)に及んだ翌年の元禄15(1702)年12月14日に、大石良雄率いる赤穂浪士47人が本所松坂町の吉良義央邸に討ち入り、主君の仇討の名のもとに義央の首級(しるし)を挙げました。
明けて2月には、討ち入り賛否両論が渦巻くなかで、大石らは切腹となりましたが、室鳩巣はさっそく『赤穂義人録』を書いて、浪士に絶賛の詞を贈っています。人形浄瑠璃および歌舞伎としての『仮名手本忠臣蔵』が武田出雲らの合作でつくられたのが寛延元(1748)年のことでしたが、同年の8月には竹本座で初演されました。
赤穂浪士討入りの場面で人目を引くのが、浪士の装束です。それは、大阪の侠商天野屋利兵衛が、刀や槍などと共に調達したといわれる火事装束でした。なぜそんな装束にしたのかについては諸説ありますが、おそらく、太平の町を堂々と徒党を組んで歩いても不審がられずに済んだからと思われます。
現在は、消防隊員が火災現場へ出場するときに、主に、ゴールドの防火服を着ていますが、江戸時代には火事装束と呼ばれるものを用いていました。もっとも、この装束は以前からあったものではなく、明暦3(1657)年の大火後に生まれたものでした。
備後三次五万石の領主、浅野因幡守長治の屋敷は外桜田にありました。明暦の大火の最中の正月19日、長治は江戸城本丸の焼失を知って御機嫌伺いに出かけましたが、途中で井伊掃部頭直孝の行列に出会いました。もちろん、周囲は火の海で、火の粉が飛びかっていました。みると、侍従たちは、みな木綿羽織でしたから落ちてくる火の粉を払うのさえ大変でした。長治と直孝は革羽織を着ていましたから、火の粉に焼ける心配もなかったのです。
これが契機となって、それからは中間、小者に至るまで火事のときには革羽織を着るようになり、やがては火事羽織と呼ばれる火事装束が誕生することになったのです。長治らが着ていた革羽織は、松葉の煙でいぶして仕上げた燻革の羽織でしたが、後には羅紗や雲斎織などの厚手で堅牢な生地が用いられるようになりました。形式の完成した火事装束は、ぶっさきの羽織に胸当てと石帯(せきたい)、被りものは錣(しころ)付きの兜頭巾となりました。火事装束は急速に普及し、将軍をはじめ大名の奥方の欠かせない装束としても使われるようになりました。
女性用のそれは男性用と比べて色彩も華やかで、精巧な刺しゅうが施され、頭巾が烏帽子(えぼし)型をしているのが特色で、奥方の火事装束は、嫁入り道具の必需品とされていました。
一方、町火消の火事装束は、木綿製の長半天や法被(はっぴ)が用いられていました。草履(ぞうり)ばきのままではける刺子の股引に、ひざ下までの刺子半天を着込み、頭には大きな猫頭巾を被り、手には親指だけが分かれる長めの手袋を、足にはコハゼのない足袋(コハゼは熱くなるので付けなかった)を履いたのです。
火事装束に関連して、いろいろな呼び名があります。火消の半天は、半(絆・袢)纏とも書き、しばしば法被と混同されます。一般に、半天は江戸のものであって、法被は上方のものといわれていますが、両者の違いは次のようです。
   半天:丈短く、袖短く、袖口小さく、紐なし、襟を反さないで着る
   法被:丈長く、脇あき、広裾、袖長く、襟紐あり、襟を反して着る
歌の文句に「紺の法被の襟元に、火消し頭と書いてある」とありますが、襟は反して着るものでした。
刺子とは布地を細かく、いわゆる雑巾刺しに縫ったものでつくった衣服の呼び名で、江戸時代に使われだし、防火被服を代表するものでした。
防火被服としての刺子は、木綿製の布地を二重三重に重ね合わせてつくられていますから、吸水性に富んでいます。乾いたままでは火事場の熱を多く吸収してしまうので、火事場に赴く時には、頭から水をかぶって出場するため、水を含んだ刺子は相当の重量となり、迅速に活動することはできなかったようです。
現在東京消防庁で使われている防火被服は、上衣とズボンで構成される防火衣、錣付防火帽、長靴、手袋からなっています。
防火衣は、多層構造で、外面の素材は、機械的強さ・耐熱性に優れた芳香族ポリアミド繊維製、内側の層には透湿性と防水性のある被膜を貼り付けた生地を使用しています。消防隊員の身体を熱から守るための遮熱は外側の生地と内側の生地の間に空気層を設けて、確保する構造としてあります。また、消防隊員は真夏でもこの防火衣を着る必要がありますから、防火衣内の温度が過度に上昇しないよう、防火衣の内側に冷却材を入れるポケットを背中や脇の下に付けるなどの各種の工夫が施されています。
錣付防火帽には、顔面を守れるように顔面保護板という防火帽本体に出し入れ可能の透明な板が付いています。
長靴は、ゴム製で釘等を踏み抜かないように底部に鋼製の踏抜き防止板が入っています。また、つま先には、金属製の保護用の芯が入れてあります。
手袋は、高強度の芳香族ポリアミド繊維を主体としたもので、消防活動中にガラスやトタン板でのけがを防いでいます。
最近では、消防隊が着る防火衣も国際化が進み、ISO(国際標準化機構)で国際的な基準を定めています。東京消防庁で使用している防火衣も耐炎性能、熱防護性能、生地強度、耐薬品の性能など、国際規格に適合するものとなっています。
現在、使用されているセパレート式防火衣の重量は、約4キロですから、昔の火事装束に比べればずっと軽くなっています。しかし、鳶口一本だけで活動した昔とは違って、複雑多岐にわたる都市災害に対処する現在の消防活動には、空気呼吸器、ロープなど、種々の器材を携行して活動するため、消防職員が身体に付ける装備品や携行する器材を合わせると、その重量は約20キロにもなり、相当体に負担がかかります。
消防職員が毎日訓練を重ねて体力を養っているのは、このような重装備を身に付けたうえで、十分消防活動ができるようにすることも目的の一つになっています。  
●火消し半纏  
着物の裏を美しくするのは、江戸時代に庶民が贅沢な美しい着物を着ることを禁じたことに対する庶民の抵抗が始まりだと言われます。見えない着物の裏側に意匠を凝らしました。羽織などの裏地に絹に描かれた美しい柄を付けたり、上着の下に華やかな間着を着たりします。これを「裏勝りうらまさり」といい、日本独特のファッションです。
町火消しは、ふだんは鳶人足などの仕事をしている町人の中から消防に従事させて、町内を守るというもので、経費は町内自治で運営されていました。いざ火事が起こると、まず火事装束に身を包んだ纏まとい持ちと梯子係が現場に駆けつけ、屋根の上で纏を振りかざしました。
町ごとに区割りがありましたが、火事はどこで起こっても、区割りに関係なく、競争で現場に駆けつけ、早く現場に着いたものから屋根に上がって纏をあげます。一番纏をとるのは名誉でした。極寒のなかでも半纏一枚で、藍染めの無地の方を表に着て、水をかぶり火の中に飛び込んでいきます。当時は効果的な放水方法がなかったので、いったん火がつけば、わずかな水で火を沈めることは困難でした。そこで火災現場の周囲の建物などの可燃物を破壊し、取り除いて、火事が広がるのを防ぐ方法がとられました。
ですから、火消しの中心的な役割をはたす道具は、建物を壊す”鳶口とびくち”と空気の流れを整える”纏まとい”とそれに屋根などに上がる”ハシゴ”などです。火が消えた後は、裏がえして絵の方がよく見えるようにして凱旋がいせんします。
 
消火活動がめでたく終了すると、若い衆は背中から足の太ももまで見事に彫り上げた入れ墨をみせて凱旋しますが、入れ墨をしない火消しの頭の人(頭取)や、普段には入れ墨をはばかる商家の主あるじなどは、このような高価な半纏を作って、威勢で負けないようにします。川越は幾たびか大火に悩まされ、「蔵造り」という防火構造の商家が多く建てられて、今も残されています。”小江戸”と言われる町並みは多くの観光客を魅了していますが、このような火消しが江戸と同じように行われていた時があったようです。
半纏の絵は入れ墨師に絵を描かせて筒描で染めます。入れ墨師は、芝居の浮世絵などを参考にして下絵の案を練ります。”粋”で”いなせ”な江戸の美学が、着物からはみ出すほどの力強さで描かれていて、まさに戦う町人の服装といえます。
江戸は将軍様の住まう武士の都でありました。武家屋敷で発生した火災は大名と旗本が消火活動にあたり、町人が住む地域の火災は町人の手による消火活動が行われていました。町民の家々が燃えていても、武士は知らぬ顔です。 そんな火事場で武家の向こうを張って、普段抑圧されている町民の気持ちを背景にその意気地いきじを体現してみせたのが火消しです。時には、武士の火消し(大名火消・定火消)に町人の火消し(町火消)が、張り合って喧嘩を起こすこともありました。身分上は下でありながら、武士より様々な面で町人が優位な実態を持つ江戸の町ならでの特徴であったといえます。
町火消しは、各町内の体格、体力に優れた青年から壮年の男衆によって構成されていました。彼らはふだんから町内の顔であり、頼れる人材(つまりヒーロー)であり、揃いの法被姿の憧れの存在(つまりアイドル、ファッションリーダー)でした。火消したちは火事の延焼を防ぐ為、火事の先回りをして現場に駆け付け、法被姿で火の粉を浴びながら家屋を引き倒して、防火ラインを作り、最前線で活動しました。まだ火のついていない所(家)を問答無用で壊すのですから、未練を持つ家主もいたはずです。一方、そういった個々人の利己的な文句を言わさず”勇ましく”作業をしていく姿には、ほれぼれする見物人も多くいて、町の誰もが、火消しに一目おいて敬意をはらいました。浮世絵にも多くその姿が描かれて残されています。
彼らが一番の活躍を見せるのは、火事と祭りです。 祭りのときは、一杯機嫌の混雑のなかで喧嘩がよく起こりました。そんなときその喧嘩に割って入り、もめ事をさばいて、騒ぎを納めるのも、町火消しの中心になった鳶の兄さんたちでした。
 
鳳凰が飛ぶ時は雷が鳴らず風雨も起こらず、河川は溢れず、他の鳥や虫も鳴くことは無く、翼のはためく音は、笙しょうの音のようだといいます。ひとたび翼を広げれば観るものに徳を放ち、ゆるやかな背は麗しさを伝え、高鳴る胸は義に篤くあれと諭し、すらりとした腹は深き仁とともにあり、凛とした気品を漂わす尾は信を抱けと心を奮わせます。古来、神鳥中の神鳥で、瑞鳥ずいちょうとして最も愛されて、その霊気の高さから鳥王と呼ばれています。
刺し子の火消し半纏は、どれも意匠に力が入っており、日本人好みで「かっこいい」ので私は大好きです。きれいな状態で残されているところをみると、実際に火消しの場面で作業に使われたのではなく、明治や大正時代にコートあるいは室内インテリアとして制作されたものも多いのではないかと思っています。実際に、現在も専門の染屋があり、今物も次々出荷されています。ですから、製造された時代や作家が分からないものがほとんどです。
江戸時代、火消しは組ごとの対抗とされる仕事で、はやく駆けつけた組ほど手柄として讃えられたそうで、江戸時代には組の名前が分かるようにしてあったと思われます。江戸の火消しの組の名前は、「い、ろ、は、に、……」となっていたようですが、中には無い文字がありました。「ひ」は「火」に通じ、「へ」は「屁」に通じ、「ん」は「うんこ」に通じるとしてありませんでした。また、「ら」は「まら」(陰部)の隠語に通じる、として避けられたそうです。
私は、始めに鳥の「鳳凰」を手に入れてから、「唐獅子」を次に手に入れました。それで、鳥は空を飛ぶので”天”とし、百獣の王たる獅子を”地”に住むとみて、あと人物を手に入れることにしました。すなわち『天・地・人』と揃えました。  
 
 
 
 
纏衣(てんい、まとい) 
着物。外側にかぶせるもの。特に僧の衣。昔の衣服の袖を合わせた状態をかたどった漢字。人を表す下の部分をなべぶたが覆い、体を覆うものという意味になったともいわれている。
・・・ 特に柔らかい肩のあたりの薄い纏衣(てんい)などはその紗(しゃ)でもあるらしい布地の感じとともに中につつんだ女の肉体の感じをも現わしている。 ・・・ 
・・・ そして自分の体を震はし、その狭い纏衣(まとい)をひきちぎると一匹の蜂が出て来る。蜜蝋の覆ひは内にとぢ込められた虫が咬み破り、同時に外からその蘇生を助ける働蜂によつて破られる。  
 
 
 
 
纏わり付く(まとわりつく、まつわりつく) / 纏い付く(まといつく)  
からみつく。まつわりつく。 「蔓(つる)が木に−・く」 「猫が足に−・く」
からみついて離れない。まとわりつく。「ぬれたスカートが足に―・く」 そばにいて離れない。いつもつきまとっている。まとわりつく。「子供が母親に―・く」「助けを求める声が耳に―・く」
物が巻くようにつく。からみつく。 「裾が足もとに−・く」 「子供が母親に−・く」 絶えず離れないでくっついている。つきまとう。 「悲しげな声が耳に−・く」
「まとわりつく」とは「絡みついて離れないこと」または「付きまとっていて、そばから離れないこと」を意味する言葉です。人物がそばから離れないことを表すときもあれば、物などが体に絡みついて離れない状況を表すときもあります。 
●「めんどくさい女」 
職場を含め、自分の身近なところに必ずいる「めんどくさい女」。読者の皆さん(特に男性)はそんな「めんどくさい女」に悩まされていないだろうか…?エッセイスト鳥居りんこがあなた(男性)にじっとりとまとわりつく3タイプの女を紹介しよう。
1.恋の駆け引き、愛情確認女
 「理想愛」と「あなたの愛」の重さを比べたがる
女は誰しも「恋話(こいばな)」が大好きだ。「恋愛」のために生きているかのような女もたくさんいる。片想いも含め「恋愛状態」、つまり「恋する乙女」になっている自分自身に酔っている時にこそ、良い時も悪い時もひっくるめて、快楽物質ドーパミンが脳内から噴出するからだと思われる。これ自体は何の問題もない。
しかしである。あなたの彼女あるいは妻が「過剰愛情確認女」だったとしたら…。あなたは自らの人生観を「忍耐」というものにしなければならない。
このタイプの女は常に秤を持ち歩いている。片方の天秤皿には自分の理想が作り上げた「愛」が載っている。そしてもう一皿の方に「あなたの愛」を載せて、その釣り合いを確認したがるのである、そう常に…。
これが釣り合っている状態、もしくは「あなたの愛」の重さが勝っているならば、その瞬間は合格。しかし、女が勝手に決めている「愛」の方に天秤ばかりが傾こうものならば、女は異常な勢いであなたをなじりだすだろう。
例えば、もう終電もなくなった平日の真夜中過ぎに、彼女がこう言ってきたことがないだろうか?
「(私を愛しているなら)今から、会いに来て!」
相手に明日、早朝から会議があろうが、睡眠不足になろうが、そんなことは女にとっては知ったことではない。
「今、この瞬間、私が会いたいって思った!」という事実が、世界のどんな最重要事項よりも勝るのである。つまり、あなたの愛の重さを天秤ばかりに載せてみたくなっただけである。
「私のこと好き?」→「好きだよ」
「どれくらい好き?」→「宇宙よりもっと!」
「どこが好き?」→「う〜ん、目?」
「どうして(目)?」「なんで?」「どのくらい?」……等々。
女の愛情確認作業は“無限アリ地獄”と心得よう。
あなたがこういうタイプの女が大好きならば、それもよし。
しかし、これが苦痛ならば、考えものだ。なぜなら、彼女が妄想で作り出す“愛の分銅”は今よりも軽くはならず、むしろドンドン重くなるからだ。
これに釣り合う“分銅”を用意することは、日本男子には難度が高過ぎるのだ。
2.「でも、でも、でも」の不幸の無限ループ女
 人の意見、提案を受けつけない女は成長がないと心得よ
女の中には「不幸に酔える」体質の人がいる。
傍から見ると、過去にその女に起こった「不幸」をこねくり回して形成し、さらに現在進行形のトッピングを加えた上で、その「不幸話」をアップデートしているかのように映るのである。
あなたは親切心でこう助言するだろう。
「こうしてみれば?」
しかし、女は簡単には首を縦にしない。そして、こう言う。
「でも…」
さらにあなたが「それならば」と別の提案をしたとしよう。
すると女は再び、こう言うだろう。
「でも…」
あなたが再び、最後の力を振り絞って女を慰め、打開策を提示したとしたら、最後に女はこう変身する。
「だって!(噴)」「でも!(怒)」「どうせ!(泣)」
ここに恐怖の「3D女」が完成するのである。
不幸の中に滞在してナンボ思考の女に打開策は迷惑なのだ。
人の意見や提案を受け付けない女には成長がない。怒っても意味がないことを心得よう。従って、あなたの選択肢は自ずと2つに絞られるだろう。
「めんどくさいという気持ち」をおくびにも出さずに、華麗にいなすか適度に受け流すかである。どちらにしても、程よくあしらうしかないのである。
このタイプの女に職場で出会ってしまったなら、あなたは“上司力”を磨くチャンスかもしれない。
3.完膚なきまでのマイルール優先女
 女の自分ファーストルールに耐えられるか?
女は元々、気まぐれなところがある生き物である。
数字的、理論的裏付けがないままに「何となくこっち」とか「気が向いたからこれ」という具合に行動することがある。そうなると、男から見た場合、何を基準にして判断しているのかを推し量ることが難しくなるだろう。
他人が「そのソースは?」というように根拠を聞いても、さっぱり要領を得ないことも多くなる。
しかし、その女の中ではそのすべてに「整合性」が取れているものなので、この質問自体が「はぁ〜?(何、言ってるの、この人?)」である。
例を挙げると,彼女があなたにLINEをしたとして、何らかの理由で既読スルーになったとしよう。そこで彼女はこう言うだろう。
「有り得ない!非常識!!」
しかし、逆にあなたが彼女にLINEを送り、それが既読スルーになったことを指摘したならば、その指摘はそのまま笑って「スルーパス」。
それは、その時に決めた彼女の「マイルール」という法律が根拠になるからだ。
“マイルール女”は暮らしのいろいろな場面で“マイルール”を主張し出す。すなわち、「私は良くても、あなたはダメ」という鉄壁な規範だ。
あなた自身の法治国家内で、このルールが適用されることに異論がなければ、すべて丸く収まるというわけだ。
上記に挙げた3つのタイプの「めんどくさい女」そのすべてが「こんな私ですが、よかったら」思考で、あなたに包み込まれることを待っている。
やはり、女という生き物は相当、めんどくさいものである。 
●厄介な勘違い男の撃退法 
恋人がいる雰囲気を出す
勘違い男に好かれると、気が付いた時に側にいたり、何度断わっても懲りずに誘われるようになります。これが好意を抱いている男性からであれば嬉しいですが、気持ちもなく、更に勘違い男となれば「気持ち悪い」「うざい」と感じる女性が多いのではないでしょうか。
勘違い男を撃退するためには、自分には手の届かない相手だということを知らせることが必要。そのため、例えば恋人がいない人でも、「恋人がいる」という雰囲気をだし、「あなたには、全く興味がありません」といった態度を示すことが大切です。
勘違い男によっては、あなたが告白していないのに、「俺のことが好きなくせに」と思い込んでいる人もいるため、「全く興味がない」という気持ちを伝えるために、他男性の存在を感じさせることが効果的。恋人がいない人は、男友達に彼氏のフリをしてもらうのも良いでしょう。
友達に気持ちを伝えてもらう
「何度断わっても、懲りずに誘ってくる」という男性がいる場合、「どうすれば、諦めてくれるのだろう?」と悩む女性も多いでしょう。勘違い男は、相手の気持ちを知ろうとせず、自分の気持ちだけで突っ走ってしまう傾向にありますから、断られても「今回は予定があるのだろう」とポジティブに捉えてしまいます。
これを撃退するためには、あなたの本当の気持ちを相手に知ってもらうことが必要です。しかし、自分で相手に気持ちを伝えるとなると、「相手の対応が怖い」と感じる人も多いでしょう。そんな時は、友達に協力してもらい、友達からあなたの気持ちを伝えてもらうと良いでしょう。
「彼氏がいるから、誘われてもOKしてもらえないよ」「あなたと交際するつもりはないから」と友達から伝えてもらうことで、あなたも伝えやすいですし、相手もあなたの本心を知ることで、諦めるきっかけとなるはずです。
彼を避けて行動する
勘違い男に迷惑をしている人の中には、「職場で顔を合わせる」と言う人もいれば、「ランチで、いつも一緒になる」と言う人もいるでしょう。
勘違い男を撃退しようと思うのであれば、まずはその勘違い男と接する場を作らないことが大切です。そのため、相手を避けた行動をすることがおすすめ。勘違い男と会う時間帯、会う場所は極力避けて行動するようにしましょう。
顔を合わせることが少なくなれば、「もしかして、避けられているのでは?」と気づく可能性もありますし、顔を合わせる回数が少なくなることで、あなたへの思いがなくなる可能性もあります。
まともに取り合わない
勘違い男は、あなたが迷惑をしていることに気づいていません。あなたなりに、「迷惑している」ということを態度に出したり、言葉に出したりしているかもしれませんが、勘違い男の大半はポジティブな捉え方をしているため、あなたの思いに気づくことができないでしょう。
そのため、相手に気持ちを分かってもらう為に、相手が誘ってきた時にはまともに取り合わないことが重要。「せっかく誘ってくれているんだし」「かわいそう」なんて思って対応していると、どんどん相手は勘違いし、あなたへの思いを膨らませてしまうことになります。
愛想のない対応、常に事務口調で「あなたには興味がない」という姿勢を崩さないようにしましょう。
優しく接しない
好意のない男性でも、自分に好意があると分かればやはり嬉しいもの。「冷たくは出来ない」と言う女性も多いでしょう。
しかし、勘違い男の場合にはこれは逆効果。優しく接すれば接するほど、あなたとの交際の可能性があると思いこんでしまいます。中には、既にあなたも自分のことが好きと思い込んでいる人もいるでしょう。
自分に好意を持ってくれる男性というのは、特別な存在でしょうし、大切にしたいと思う気持ちは分かりますが、勘違い男に優しく接するのはより相手を傷つけてしまいます。交際する気がない、相手に全く興味がないのであれば、優しく接するのではなく、拒絶の態度を示すことも必要です。
社交辞令は通用しないことを知る
何度もしつこく誘われると、「じゃあ、今度」「予定があえば」と話をごまかす人も多いでしょう。確かに、こういった社交辞令は相手を傷つけることがありませんし、やんわりと断ることが出来ます。普通の男性であれば、何度も同じ理由で断られれば「社交辞令なんだな」と気づき、諦めることになるでしょう。
しかし、勘違い男の場合には社交辞令であることに気づくことはありません。何度同じように断られても、「また予定が合わなかった」と思う程度で、自分に興味がないなんて思いもしないでしょう。
「勘違い男に何度も誘われて困っている」と言う女性は、勘違い男には社交辞令は通用しないことを理解する必要があります。
押しに負けない
何度も何度も誘ってくる男性がいる場合、興味がない相手でも「こんなに何度も誘ってくれたのだから、一度くらい」とデートをOKする女性がいます。確かに、女性にとっては誘われるというのは嬉しいことですから、「一度くらいは…」という気持ちになるでしょう。
しかし、この一度のOKが相手を諦めなくさせてしまう可能性があります。一度OKすることで、相手のスイッチが入ってしまい、どんどん恋愛モードに入ってしまう可能性もあるでしょう。こうなれば、勘違い男の気持ちを止めることは出来なくなってしまいます。
どんなに何度断わっていても、どんなに一生懸命に誘ってきたとしても、勘違い男の誘いはしっかりと断ることが必要です。
アドレスなどの情報は教えない
男性に言い寄られている人の中には、「相手が、勘違い男で困っている」と言う人もいるでしょう。「何度断わっても、何度興味がないと言っても、誘ってくる」という女性の中には、根負けしてメールアドレスや電話番号を教えてしまう人も多いのではないでしょうか。
勘違い男に言い寄られた時、これ以上関わりたくないと思うのであればあなたの個人情報は教えないことが基本。どんなにしつこくても、絶対に教えてはいけません。メールアドレスを教えれば、毎日のようにメールが届くようになりますし、電話だってかかってくることになるでしょう。そうなれば、撃退どころか今よりも状況は悪化してしまうことになりますから、注意が必要です。
一人で対応しきれなくなったら誰かに相談
勘違い男の多くは、自分に自信があり、あなたが自分に好意を持っていると思い込んでいます。そのため、あなたが断っても、「本当は興味あるくせに」といってしつこくまとわりつくことになるでしょう。
「自分では、もう対処することが出来ない」と思った時には、一人で抱え込まずに友達や家族に相談することも必要。周りに相談することで、周りから相手を促してくれる可能性もあります。「相手が迷惑しているのが分からないのか?」と友達から言われることで、目が覚めることもあるでしょう。
今では、ストーカーなどのニュースも増えてきており、場合によっては事件に発展してしまうケースもありますから、危機感を感じた時には友達や家族だけでなく、警察などに相談することも必要となるでしょう。
「そんな大げさな」と思っている人も、知らず知らずのうちに自分が事件に巻き込まれてしまうこともありますから、注意が必要です。
はっきり断る
勘違い男に振り回されている人の中には、「どうにかして、相手を撃退したい」と考えている女性もいるでしょう。様々な対策を練ったものの、効果がないと感じ、「どうしたら分かってくれるのだろう?」とお手上げ状態になっている人もいます。
そんな人は、面と向かって「あなたに興味がない」「これ以上近寄られるのは迷惑」ということをはっきりと相手に伝えるのも一つの方法です。本人の面と向かって、これらの思いを伝えるというのはかなり勇気がいるものではありますが、何を言っても、何をしてもあなたの思いが伝わらないのであれば、遠回しではなく、ストレートに気持ちを伝えるしかありません。
しかし、相手が逆上してしまうケースもありますから、友達などに付き添ってもらって伝えた方が良いでしょう。さすがに相手も、あなたにきっぱりと断られれば、あきらめもつくはずです。
勘違い男は一筋縄ではいかないからこそ注意が必要
勘違い男は、好意ある相手であればポジティブで一途な男性ですから、魅力的に映るでしょう。しかし、全く好意のない相手、恋愛感情の沸かない男性となれば、相手の行動も言葉も迷惑でしかありません。
普通、「ごめんなさい」と伝えれば、あなたの気持ちを理解し、しつこく誘ってくることはありませんが、勘違い男はポジティブですから、全て良い様に解釈し、また誘ってくることになります。これが相手にとって迷惑な行為であることを認識できません。
そのため、勘違い男を撃退するためには、一筋縄ではいかないことがほとんど。やんわりと気持ちを伝えたり、拒否しても、「今日は、機嫌が悪いだけ」とポジティブに捉えられ、何の効力も感じませんから、通常の断わり方では通用しないことを理解しましょう。
本気で撃退したいと思うのであれば、「かわいそう」といった気持ちは捨てること。時には、冷たい態度、ひどい態度も必要となりますから、心を鬼にして接することが必要です。一人で対処しきれないと思った時には、友達や家族に相談し、協力してもらいましょう。危機感を感じた時には、早めに警察などにストーカー相談をすることも必要。相手を甘く見ていると、大きなトラブルに発展してしまうこともありますから、早めの行動が必要です。 
 
 
 
 
足手まとい / 足手纏い  
行動の自由を奪うもの、動きを妨げるもの。手足に纏い付くもの。主に厄介者を指す表現。
(家族や配下の者などの存在が)自由な行動の妨げとなる。「いっしょに仕事をしても、足手纏いにならないように注意します」 〔類〕足枷になる 〔語源〕手足にまつわりついて行動を妨げるものになるの意から。
(「あしでまとい」「あしてまどい」とも) 手足にまつわりついて、じゃまになること。物事をするときに、じゃまとなること。また、そのもの。厄介もの。足手がらみ。保元(1220頃か)上「院中の上臈女房女童、方角をうしなって、呼ばはりさけんでまにあへるに、武士も是(これ)が足手まとひにて、進退さらに自在ならず」
相手にとって手のかかる、手を煩わせる存在、高い水準でできないを出さない役立たず。 
●足手まといな人の特徴 
組織やグループの中で厄介者扱いされるのが、足手まといになる人です。本人にたとえ悪気がなかったとしても、周囲に迷惑をかけているのが、その理由です。なぜ足手まといになるのか、性格の問題なのか、能力の問題なのか、特徴を見て考えていきます。
空気を読むのが苦手
足手まといな人に多く見られる特徴に、空気が読めないことが考えられます。空気を読めないということは、他の人の立場になって考えられない、ということ。相手が不愉快な思いをしても気が付かなかったり、してほしいと望んでいることが把握できずに無視してしまったり。その場で自分に求められていることが理解できていないため、場違いな行動をしたり、不要なことをしてしまったりするのです。周囲の人は、その人のカバーをしなければならないので、余計な手間がかかることになります。周りの人から天然だ、不思議ちゃんだと言われる人は、足手まといになっている可能性があるので気をつけましょう。
自己中心的
組織の中では、組織の利益を一番に考えることが大事です。時には自分の利益や考えを押し殺して、行動をすることが求められます。組織の中で自己中心的な人は、集団にとって害をもたらす存在となってしまいます。自分の思い通りに進まなかった時に不機嫌になったり、何が何でも押し通そうとしたり。文句を言うだけならまだ良いですが、周囲の意見を無視して勝手に行動を起こすと、場の調和を乱して組織を混乱させます。価値観を押し付けてくる人や上から目線で物を言ってくる人は、このタイプの人かもしれません。
反省をしない
足手まといな人は、基本的に反省を行いません。失敗したときや叱られた時、多くの人は反省をして二度と同じ失敗をしないようにと注意をします。ところが足手まといな人は反省をしないため、同じ失敗を何度も繰り返します。失敗は誰にでもあるものなので、1度の失敗は大目に見てもらえます。ところが、反省もせず改善策も考えようとしない人は、冷たい目で見られても仕方がありません。「またか」と次第に呆れられて見放されてしまいます。組織の中では、ミスは周囲にも影響を及ぼしますが、こういった危機感が持てないのも、足手まといな人に見られる特徴です。良く言えば明るく楽天的ですが、悪く言うと思慮が浅いと言えます。
効率を考えない
足手まといになる人の仕事のやり方はマイペースです。計画を立てて、効率を考えながら仕事をすることができません。事前準備がおろそかで時間がかかったり、自分が興味があるものに固執して作業が遅かったり。個人で行う仕事ならそれでも問題ありませんが、組織の中では一人でも作業が遅れると組織全体の仕事も遅れてしまいます。周囲の人は手助けをしないといけないため、次第に不満が溜まっていきます。組織で仕事をしているなら助け合うのは当たり前かもしれませんが、何度も続くと邪魔者扱いされます。マイペースを自覚している人は要注意です。
注意力が散漫
注意力が散漫なのも、足手まといな人の特徴の一つです。能力が低い人によく見られる特徴で、仕事への理解力が足りなかったり、慎重さの欠如が見られます。このタイプの人は、デスク周りが整理されていなかったり、書類がきちんとファイリングされずに散らばっていたりと、整理整頓が苦手な傾向があります。あちこちに注意が移るので集中力が低く、ミスが多くなりがちです。元の性格もありますが、すぐに言い訳をして逃げようとする、自分に甘い姿勢も見られます。要領が良い人と対極の存在で、足を引っ張る存在になっています。
向上心がない
例え計画を立てるのが苦手であっても、注意力が散漫になりやすくても、向上心があれば改善させることは十分に可能です。ところが足手まといな人は向上心を持ちません。必要な場合はメモをとったり、人にアドバイスを求めたりといった、自分を成長させる努力を避けようとします。人から指摘されても、自分には自分のやり方がある、と聞き入れようとしません。人はすぐに成長することはできませんが、小さな努力を継続させることで、大きな成長につながるはず。やればできるはずなのにやらない、今のままでいいと思っているのが、足手まといな人なのです。
コミュニケーションが下手
集団で行動するには、コミュニケーションを密に取ることが重要となります。他の人の言葉にじっくり耳を傾け、自分の意見もきちんと伝え、意思確認をしながら行動を進めていくことが必要です。ところが、足手まといな人は人の話を理解するのも、自分の考えを言葉で表現するのを苦手としています。結果だけを見るタイプで、日頃のコミュニケーションを軽視しているのです。こまめな報告を面倒がったり、相談をせず勝手に決断したりと、コミュニケーションをおろそかにして行動に移します。その結果、間違った方向に突っ走ったり、共有すべき情報を提供しなかったりして、組織の足を引っ張ることになるのです。

いかがでしょうか。一度足手まといな人になってしまうと風当たりがかなりひどくなります。できることならそうなる前に、印象づけたいところです。そのためには事前に調べられることはチェックしておき、メモを取るなど態度をしっかりと見せ、家に着いたら振り返る。この地道な作業が必須となります。新人のうちは許されるものでも、日数が経過するにつれてだんだんと見極められてしまうことを忘れてはいけません。新人のうちから足手まといな人だと認識されると、辞めたいと思う気持ちも強くなり、あなたも楽しく生活することができません。ちょっとしたことを怠るか怠らないかで劇的な差が生まれてしまうことを理解しておきましょう。 
●オフィスにいる「足手まとい」な人の特徴 
職場の人と同じチームを組んで仕事をする場合、なるべく仕事がデキる人と組みたいと思いますよね。仕事が遅い人と組んでしまうと、それだけ残業が増えたりと負担が増えるもの。仕事の要領が悪いなと思う人の特徴を、社会人男性に聞いてみました。
机が汚い
・「デスクの上が汚い、引き出しの中がぐちゃぐちゃ」(31歳/自動車関連/営業職)
・「机の上や身の回りが汚い。パソコンのアイコンがまとまってない」(33歳/学校・教育関連/その他)
机の上が整理されているかどうかで、仕事ができるかどうかが見抜けるもの。どこに何があるかわからない状態だと、仕事もスムーズにいきそうにもありませんものね。
もの覚えが悪い
・「もの覚えが悪くて、要領が悪い」(31歳/その他/販売職・サービス系)
・「もの覚えがあまりよくないのに聞いてこない」(32歳/マスコミ・広告/その他)
何度教えても覚えられない人はいるもの。仕事を要領よくこなすためには、一度言われたことをすぐに覚える頭が必要ですよね。
段取りができない
・「準備と段取りができなくて考える力が足りない」(32歳/その他/その他)
・「段取りが下手、先を見越して動けていない」(32歳/建設・土木/事務系専門職)
仕事の段取りがわかっていないと、何をどうしてよいかもわからないもの。全体の段取りが見えてからこそ、仕事を要領よくできるものではないでしょうか。
仕事を残す
・「予定していたことをこなそうとしない」(28歳/不動産/営業職)
・「明日やるわと言って、毎回やり残して帰るやつ」(32歳/その他/その他)
今日やるべき仕事を、後回しにしていくと、どんどん仕事がたまってしまいます。スケジュールギリギリで仕事をする人は、さすがに要領がいいとはいえませんよね。
時間の使い方が下手
・「時間がかかりすぎる。10言っても、3しか理解できない」(24歳/団体・公益法人・官公庁/事務系専門職)
・「時間の使い方が悪い。何事もスピード感が遅い」(28歳/運輸・倉庫/その他)
仕事をする上で、時間配分をどうするかは大切になってくるところ。仕事の全体を把握することで、自分の仕事をどれぐらいで仕上げなければならないかが見えてきますよね。
言われたことができない
・「言われたことができていないのに言い訳ばかりする」(32歳/機械・精密機器/技術職)
・「言われたことをしない。進捗確認すると、『あっ』て言う」(27歳/金融・証券/営業職)
これをしてほしいと伝えても、なぜかいつまでたってもできない人もいるもの。納期を伝えていてもできないのは、本人の責任能力が低いのかもしれません。
まとめ
要領が悪い人が1人いると、仕事もスムーズに進まないこともありますよね。自分のペースを大事にするのではなく、会社が何を求めているかをいち早く察してほしいもの。素直にまわりの指導を受け入れると、少しは要領も良くなるかもしれません。 
●足手まといな人の特徴と接し方 
足手まといとは?
足手まといな人は多くの場面で遭遇します。では足手まといとはどういうことでしょうか?言い換えると「足を引っ張る」、「邪魔をしてくる」となります。
ビジネス場面で足手まといな人の特徴
ビジネスに関わる仲間の中には足手まといな人はいると思います。あなたの周りの足手まといな人は、どういった特徴を持っていますか?以下に、よくある4つの特徴を紹介します。
仕事を覚えない
何度も同じことを質問してくる人はいませんか?もしくは教えた仕事に手を付けず、結局自分がその仕事をする羽目になってしまった…など。人は誰でも忘れますから、一度や二度であれば許すことができます。しかし、同じことが何度も続いてしまうと、足手まといと思われてしまう大きな要因となります。
一般的に、先輩や上司というのは、職場でのキャリアを重ねるにつれ、「後輩への指導」が新たな仕事の1つとなり、目標となります。そのため、先輩たちはある程度の後輩の仕事の遅れなどには受容的な態度をできるようになるものです。もしも受容的な態度ができないのであれば、それは「後輩への指導」に対しての認識不足である可能性があります。
では、足手まといと思われない方法はあるのでしょうか。それは、相手との信頼関係を築こうとするかどうかによります。もしも、後輩が一生懸命に仕事を覚えようと努力をしていると分かれば、先輩はそこまで強く足手まといとは思わないでしょう。一方的に人に頼ろうとするのではなく、できるところは吸収して実行し、できない部分は何度でも質問を行うことは、相互の働きかけを行うことができ、信頼関係も構築できます。
責任感がない
仕事上のミスや間違いは当然ありうることです。誰でも、例えば目の錯覚などの五感で勘違いを起こすことがあります。また、自分の判断は正しかったのについ間違うということもあります。例えば、ボタンを押す場所はわかっているのに、タイミング悪く別な場所を押すことになったということです。これらは仕事をする上では防ぐべきですが、どうしてもその時の体調や環境でミスを犯しやすいもの。本当によくない間違いというのは、例えばルールや決まりをわざと守らなかったことで起こってしまうミスです。これには、例えば運転中のスピード違反や、安全ベルトを着けないで作業するといったことが挙げられると思います。ここで注意してほしいのは、「会社の誰もがベルトをしてないじゃないか」など、反省をしないこと。これでは、会社としても足手まといな人だと判断してしまいます。人のせいにしたり、自分は関係がないというそぶりばかりをして、言い訳などの一方的な主張を繰り返す特徴を持つ人も、足手まといな人とみられがちです。会社としても、もちろん意識づくりなどに関して改善点はあるのです。しかし、自分としても責任を持つ姿勢を持つことも必要です。
仕事に関係のないことをしてしまう
自主的に仕事を探して行う人にはとても助けられますね。1つの職場の目標に対して、明確な方向性を持って行動してくれると、組織としてはとても助かります。しかし実はまったく関係のない業務をされたらどう思われるでしょうか?周囲の評価は「頑張り屋さんなんだけど、ちょっと…」と微妙なものになってしまいます。もしくは、人によっては全く評価をしてくれない可能性もあり、それは悲しいことです。一般的に労働者の、働くための動機は給与や、安定した雇用だけではなく、職場での人間関係の維持と発展、さらに自分の力を伸ばしたいという希望です。人により、どこに重点を置いているのかは変わります。まずは組織に所属している以上は、その組織で自分が何を望まれているかを理解した上で仕事をするのが良いと思います。ただ、もっと何かをしたいという思いも素敵なことです。その場合は、上司や周りの人に相談したうえで仕事を始めましょう。さらに、自分のアイデアを優先したいというのであれば、例えば開発の部署に異動願を出すなどの解決策もあるかもしれません。適材適所の考えです。
報告・連絡・相談をしない
社会人の基本の「ホウレンソウ」。仕事を分担したときには、完了したか・どこまで進んだか・分からないことはないか…など、お互いに報告・連絡・相談を行うことが欠かせません。しかし、「業務が終わったなら教えてくれたらよかったのに」、「困ったときは相談してから始めてほしかった」などの状況が考えられます。この場合、周囲とのコミュニケーション不足から問題が起こってしまっています。会社にいると、どんなに苦手だとしてもコミュニケーションを必ずとることになります。コミュニケーションが苦手と思っている人は、なぜ苦手であると感じていますか?周りの社員が怖くて声をかけづらい場合は、最低限のホウレンソウを行うようにしましょう。もしも失敗したら、足手まといと思われてしまいますからね。発達障害などでコミュニケーションの取り方がよくわからない場合でも、SSTというリハビリのプログラムで練習することや、もしくはコミュニケーションを少なくできるような環境づくりを会社と行うことが解決策になります。報告・連絡・相談は社員を監視するものではなく、働きやすくなるためのツールです。自分のために活用してほしいものです。
恋愛場面で足手まといな人の特徴
恋人のことは大好き!だけど困ったことがある人もいるでしょう。恋人になにをされると嫌な気持ちになりますか?もしかしたら恋人に、足手まといな人の特徴があるのかもしれません。以下に3つの可能性について説明します。
思いやりがない
1つ例を挙げます。楽しい時間を過ごしたくて、愛情をこめて料理を作ったのに、失礼な反応が返ってきたとした場合。恋人は愛情をこめて、あなたに本音を伝えたいと思った上で話してくれたでしょうか?それとも、楽しい時間を過ごすことを重視せず、自己中心的な意見を述べてしまったのでしょうか?もしも、後者のように自分の考えばかりを主張してしまうという場合は、2人の時間を過ごすには「足手まとい」といえます。相手を思いやるという気持ちや、料理を作ってくれたことに対する感謝の気持ちを込めた上でコミュニケーションととらないと、良好な関係を築くことは難しいといえます。自分が自己中心的になっていないか、振り返ってみましょう。
計画性がない
デートの約束の時間を大きく過ぎてしまったというとき、待たされたあなたはどう思いますか。おそらく、今日だけなら許せるというのが大人の対応なのではないでしょうか。でも、それが毎回続いたり、ドタキャンされたりが続いたら…これも恋愛場面での足手まといな行動です。相手に負担をかけて、自分は反省せずに変わらないのであればフェアではありません。誰でも失敗や勘違いはあるのですが、そこをどう防いで計画的に行動できるかによって、印象は変わってきます。恋人に与えてしまった負担はどのくらいかを想像し、どう謝罪するか・どう埋め合わせるかによって感情は変わってくることと思います。
周囲の人のことを考えない
「今日はタピオカミルクティーを飲みに行こう!」…楽しいデートのはずなのに、ふと見ると恋人がゴミを道端にポイッ。そのあと買い物をしていたら、恋人が店員さんに威圧的に対応していて迷惑をかけてしまった…楽しいデートには思いやりやマナーも欠かせません。人に迷惑をかけがちな恋人も足手まといです。また、誰かに迷惑をかける場合、それをいつか恋人にも同様に行ってしまうということが十分にあり得ます。「冷めた」と言われないようにするためにも、社会のルールや規範を守ることも大切です。周囲の人のことを考えることは、恋人のことを考えることと繋がっているのです。
ビジネス場面で足手まといな人への接し方
足手まといな社員のことを、どうして変わらないんだろう?と不思議に思うことはありませんか?困った行動を繰り返し行っている人は、日常的にその行動が、何か意味のあるものとなっていることがあります。そのために、何度も同じような行動をするのです。
部下や後輩が足手まといなとき
あなたは、部下や後輩のことをどのように認識しているのでしょうか?部下や後輩のほうはあなたのことを、やはり一目置いた存在と思っています。逆にあなたは、部下や後輩の失敗やできないことを「足手まとい」と感じているかもしれません。しかし、本当の彼らの様子についても理解していく必要があります。若い部下や後輩の場合は、社会に参入して数年間は、自分の思っていたことと現実のあいだに相違があることでショックを受けてしまいやすい時期です。特に失敗に対しての不安や、会社への幻滅感を抱きやすい時期でもあります。身近な部下のことを考えてみてください。初めから、すべて成功ばかりしていましたか?きっと普通の後輩や部下というのは、失敗をしては反省したり落ち込むそぶりがあるのではないかと思います。そういう人たちに対し、「後輩への指導は自らの役割だ」と認識し、いつか後輩や部下が仕事に成功して自信を持てるようになるまで、支援を行っていくのです。
同僚が足手まといなとき
同僚の場合、他者よりも会話しやすいという特徴があります。また、同じキャリアを重ねていれば、業務についての相談のしやすさあると思います。相手を観察したうえで「こうすれば付き合いやすい」と気づき、自分から工夫してみるといいでしょう。また、自分とはやり方や考え方が何か違うな、と気づいた場合にも、足手まといと思ってしまうかもしれません。しかし必ずしもそうとは言えないことを知っておいてください。例えばあなたは昇進を目標にしているかもしれませんが、同僚は別の目標がある可能性があります。仕事において何を大切にするか(キャリア・アンカーと言います)は人それぞれ異なっているのです。
上司や先輩が足手まといなとき
上司が傲慢であった場合、あなたはどう対応しますか?もし、仕事の妨害をされることがあれば我慢せずに伝えるべきです。しかし、なんとなく足手まといで嫌な感じがする場合には、自分の認識を変えることが近道です。不必要に上司のことを嫌っていませんか?上司の一つの失敗や、周囲の評価によって「この上司は足手まといだ」と偏見を持ちすぎてしまい、かえって自分が疲れていませんか?かつて、あるNBAの監督は、新聞などのマスメディアによる批判が、選手たちの監督(自分)への信用を下げてしまったようだ、ということを話しました。世の中には様々な性格の「上司」がいますが、それぞれ得意な部分があるのではないかと思います。上司に苦手意識を持っていいたら、自分の思考パターンを見直してみましょう。
恋愛場面で足手まといな人への接し方
恋愛の相手には2種類があると思います。1気遣いが必要な相手(建前を言う必要がある相手)、2本音を言い合えるような相手、です。あなたと恋人はどのような関係でしょうか?関係を振り返りより良い関係を継続していけたら幸せですね。
仕事に集中させてもらえないとき
仕事中にスマホに次々とメッセージが送られて大変、と思うことはありませんか?もし本音を言える相手であれば説明しましょう。「仕事中だからあとで」。きっと相手もわかってくれます。もし、まだ付き合ったばかりではっきり断れない…そういうときは「今は仕事中で、返信したいけれどできない状態なんだ(例)」と伝えましょう。そして、どうしてたくさんのメッセージを送ってくるのか・恋人は自分に何を望んでいるのかを知り、そこを別な形で満たしていくことで改善されていくはずです。
趣味を楽しませてもらえないとき
好きな自動車いじりをしたいけれど、恋人は車に関心がないみたいで不機嫌になってしまう。このように趣味と恋人との付き合いの葛藤もありがちです。本音を言える恋人に対しては、「自分も好きなことをしたらいいよ(例)」と伝えてもいいかと思います。もし、はっきり言いづらい場合は、強く自分のことを主張せず、相手がわかってくれるまで信頼を築くことが良いかと思います。いずれにしろ、同じ価値観の人はいないと2人とも理解し、別の機会で楽しさを分かち合えれば、2人の心の安定につながります。
友人や家族との時間を楽しめないとき
友人や家族と会うときに恋人が嫉妬してしまう…これは人間関係の足手まといです。大切な人との関係も、大切に守っていく必要があるので、どんなに言いづらい恋人でも話してよいのではないでしょうか。相手は何かに恐れているので、不安にさせないように優しく話しましょう。そして、日ごろから信用を構築することができれば、徐々に恋人の心は穏やかになるはずです。
自分が足手まといにならないための対処法
他人から足手まといだと言われるととてもショックです。言われる前に、自分は足手まといと実感できたらいいですね。人間関係をよくするには、自分のことだけを考えていけはうまくいきません。自分の行動を振り返り、人にどう思われるかも考えるようにしましょう。
足手まといと思っていても実は違う?
どうして相手が足手まといな行動をするのかを考えたことはありますか?その人には、何か心理的な理由があってそこから抜け出せないでいるのかもしれません。あなたの不快な感覚を解消できる例を説明します。
後輩が仕事を覚えてくれないケース
後輩が、できるはずの仕事に手を付けていません。その時は理由を聞いてみる必要があります。もし自信がないならば、仕事をできるように動機を促し、仕事ができたらほめます。達成感を与えることで、徐々に仕事への動機が高まるのです。しかし、もし「やる気がない」となった場合はなぜやる気がないのかを理解しましょう。ストレスによる体調不良が疑われる場合は社内の産業保健やカウンセリングの利用、病院受診も考慮に入れます。
同僚の仕事に無駄があり足手まといに感じるケース
効率が悪い人は足手まといと捉えかねません。ここでは1つの可能性について述べていきます。それはもとから自閉症スペクトラム障害の気質があるという場合。いわゆる発達障害という診断がないとしても、それに少し近いような気質がある可能性があるということです。しかし決して「発達障害=足手まとい」ではありません。コミュニケーションが苦手で、報告・連絡・相談の概念が分かりづらいのです。概念を大まかに教えるのではなく、「この場合は〇〇さんに△△について相談して、必要といわれてから業務を始めたほうがいいですよ。」と明確にすれば改善する可能性があります。そして同僚は、自分が足手まといであると必要以上に心配せず、方法を工夫して前向きに取り組んでいけばいいのです。
足手まといな人の特徴と接し方のまとめ
ビジネスや恋愛の場面で、どうしても足手まといな人は現れます。あなたの周りの足手まといな人は、どのような特徴を持った人でしたか?その人の特徴に合わせて、自分の心や相手の行動をコントロールしながら接していくことが効果的であす。よりよい人間関係のために、どうか参考にしてみてください。 
 
 
 
 
●まといの話 / 折口信夫 
一 のぼりといふもの
中頃文事にふつゝかであつた武家は、黙つて色々な為事をして置いた。為に、多くの田舎侍の間に、自然に進化して来た事柄は、其固定した時や語原さへ、定かならぬが多い。然るに、軍学者一流の事始めを説きたがるてあひに、其がある時、ある一人のだし抜けの思ひつきによつて、今のまゝの姿をして現れた、ときめられ勝ちであつた。其話に年月日が備はつて居れば居る程、聴き手は咄し手を信用して、互に印判明白に動かぬ物、と認めて来た。明敏な読者は、追ひ書きの日附けが確かなれば確かなるだけ、真実とは、ともすれば遠のきがちになつて居る、様々な場合を想ひ起されるであらう。
康正二年の萱振カヤブキ合戦に、敵カタキどうしに分れた両畠山、旗の色同じくて、敵御方の分ちのつきかねる処から、政長方で幟をつけたのが、本朝幟の始め(南朝紀伝)と言ふ伝へなども、信ずべくば、此頃が略、後世の幟の完成した時期、と言ふ点だけである。
のぼりはた袖(相国寺塔建立記)と言ふ語ことばが、つゆ紐の孔を乳チにした、幟旗風の物と見る事が出来れば、其傍証となる事が出来る訣である。千幾百年前の死語の語原が、明らかに辿られて、さのみ遠くない武家の為事に到つては、語の意義さへおぼつかないのは、嘘の様な事実で、兼ねて時代の新古ばかりを目安にして、外に山と積まれた原因を考へに置かずに、語原論の値打ちをきめてかゝらうとする常識家に向けての、よい見せしめである。
のぼるは、上へ向けての行進動作であつて、高く飜ると言ふ内容を決して、持つ事は出来ぬ。若し「幟」を「上り」だなど言ふ説を信じて居る方があつたら、「はためく」からの「旗」だと言ふのと一類の、お手軽流儀だ、と考へ直されたい。遥か後に、そらのぼりを立てゝ、陣備へをしたなすみ松合戦の記録(大友興廃記)があるから、空への上り等いふ、考へ落ちめいた事を、証拠に立てようとする人もあるかも知れぬ。併し遺憾な事には、此頃の幟が、今の幟と似た為立ての物なら「蝉口」に構へた車の力で、引きのぼす筈はない。さすれば、幟だけが「上り」と言ふ名を負ふ、特別の理由はなくなる。思ふに「上り」を語原と主張する為には、五月幟風の吹フき貫ヌき・吹き流しの類を「のぼり」と言うた確かな証拠が見出されてから、復マタの御相談である。今では、既に亡びて了うた武家頃のある地方の方言であつたのだらう、としか思案がつかぬのである。
二 まといの意義
おなじ様な事は、まといの上にもある。火消しのまといばかりを知つた人は、とかく纏マトヒの字を書くものと信じて居られようが、既に「三才図会」あたりにも、※[巾+正 219-16]幟・纏幟・円居などゝ宛てゝ、正字を知らずと言うてゐる。併し、一応誰しも思ひつく的マトの方面から、探りをおろして見る必要があらう。
的マトと言ふ語は、いくはなどゝは違うて、古くは独り立ちするよりも、熟語となつて表現能力が全う出来た様である。又、近代でも、必しもまとおと言ふ形を、長音化する方言的のもの、と言ひきつても了はれぬ様である。尠くとも、的・的居マトヰは一つで、其的居の筋を引いた物が、戦場に持ち出したまといである、と言ふ仮説だけは立ち相である。けれども、纏屋次郎左衛門から、六十四組の町火消しに供給した的と謂はゞ言はるべき、形の上の要素を多く具へた、馬簾バレンつき、白塗り多面体の印をつけた、新しい物を考へに置いてかゝる事だけは、控へねばならぬ。
徳川氏が天下をとつた時分が、まといの衰へ初めと考へても、大した間違ひは無さ相である。「武器短歌図考」を見ると、だし(竿頭の飾り)に切裂き・小馬簾をつけ、竿止めに菊綴ぢ風に見える梵天様の物をつけたのが円居で、蝉口に吹き流しをつけたのを馬印ウマジルシとしてゐるが、事実は、そんなに簡単に片づく物ではなかつた様である。此は、馬印がまといの勢力を奪うたので、段々まといが忘れられて来た為である。
右に馬印ウマジルシとした物を纏と記した上に、吹き流しを吹き貫きにしたゞけの物を馬印として並べてゐる「弘前軍符」の類もある。此は、まといが忘れられる前に、まづ馬印と混同して、馬印は栄えて行き、まといは家によつては、形式の少し変つたさし物の名に、固定して残つたものと見るべきであらう。大様オホヤウは、徳川の初めにはまとい・馬印をごつちやにし、其中頃には、ばれんが馬印の、又の名と言ふ風になつて来たのだ。
思ふに、自身・自分・自身さし物(幣束から旗さし物へ参照)など言ふのが、まといの後の名として、一般に通用したもので、勝手に従うては、家々でまといと言ふ事もあつたのであらう。「三才図会」のまといの絵なども、今の人の考へる纏などゝは全く違うた、三段笠を貫いた棒の図が出してある。此は「甲陽軍鑑」の笠の小まといで見ても知れる様に、まといの中で、類の多い物であつたと見える。
北条家の大道寺氏の小まといは、九つ提燈であつた(甲陽軍鑑)。又家康が義直に与へた大纏は、朱の大四半大幅掛に白い葵の丸を書き、頼宣のは、朱の六幅の四半であつて、めい/\其外に、馬印をも貰ひ受けて居る(大阪軍記)。又、同じ書物にある八田・菅沼等の人々の天王寺で拾うた円居は、井桁の紋の茜の四半で、別に馬印もあつたのである。
三 まといとばれんと
諸将から仰望せられた清正のまといは、だしに銀金具のばりんと思はれるものがついてゐる。馬印は別に、白地に朱題目を書いた物である(清正行状記)。此まとい、一にばれんと言はれたさし物の動きが、敵御方の目を睜らせた処から、指し物にばれんと言ふ一類が、岐れ出たものと思はれる。
一体ばれんは、後に変化を遂げた形から類推して、葉蘭バランの形だとする説もある様であるが、此は疑ひなく、ばりんである。ねぢあやめとも言ふ鳶尾草イチハツに似た馬藺バリンを形つた金具のだしをつけたからの名であらう。棕梠の紋所との形似を思はせる此だしは「輪貫ワヌき」を中心にして、風車の様に、四方へ丸形に拡つて居る。唐冠兜の後立ても、此と一類の物であらう。前にも述べた通り、神事のさし物には、薄の外に荻・かりやすをも用ゐるから、植物学的の分類に疎かつた古人が、菰・菖蒲・鳶尾草などを同類と見て、戦場の笠じるし・さし物にも用ゐた名残りだといふ事も出来よう。
ばれんのだしをつけたまといが名を得た処から、ばれんは此さし物に欠く事の出来ぬ要素と、考へられる様になつたらしい。火消しの纏を馬簾バレンといふ訣は、簾の字相応に四方へ垂れた吹き貫きの旗の手の様なものから出たと言ふが、此をばれんと言ふ事、東京ばかりではなく、大阪でもある事であるが、実は「竿止め」につけたばりんの、吹き貫きと融合を遂げた物と見るべきであらう。摂津豊能郡熊野田クマンダ村の祭りのたて物なるがくのだしに吹き貫き形ではなく、四方へ放射したぶりき作りのばらんと言ふ物がつく。此処にもばりんとだしの関係は見えて居る。金紋葵のだしに、緋のばれんをつけた家康の馬印は、後世のまといの手本とも言ふべき物である。此頃既に、まとい・馬印の形式が、混雑して居たとすれば、其使ひ道から見て、此をまといとも言うた事があつたであらう。ばれん・馬印が形式上区別が無くなつても、初めの中は、僅かながら、用途の差違は、知られて居たことゝ考へる。
まといの要素たるばれんや、張り籠の多面体が、後の附加だとすれば、愈彼かの自身たて物と近づくので、旗の布を要素としない桙の末流らしく、益考へられて来る。蒲生家のさし物が、熊の棒(蒲生軍記)或は熊の毛の棒(古戦録)と言ふ名で、其猛獣の皮が捲いてあつたといふ事実は、愈すたんだぁど一類の物として、まとい・自身たて物の源流らしいものがあつた事を、仄かして見せてゐるのではなからうか。やまとたける等の八尋桙・丈部の杖からまといに至る間に、歴史の表に顕れずして過ぎた年月があまりに長く、又可なり縁遠く見える。併し、幣束に似たはたが、唐土風な幡旗の陰に、僅かに俤を止めてゐた間に、戦場の桙は、都と交渉少い道のはて/\に竄かくれて、武士の世になると共に、又其姿を顕したが、長い韜晦の間に、見かはすばかり変つた姿になつて、其或物は家と縁遠い神々・精霊を竿頭に斎イハひこめて居なかつたとも限らぬ。
清正の様に、強力無双の人で無ければ、振られ(清正記)ない、大纏が出来てからは、纏持ちの職も出来たのである。
江戸の火消し役は、住宅にまといを立てゝ、若年寄の配下に三百人扶持をうけたと言ふから、市中出火の折には其まといを振りたてゝ、日傭人足の指図をしたのである。弓が袋に納つた世の中には、さし物の名目からまといが忘れられ、三軍を麾いた重器を、火事場へ押し出す様になつたのである。さうして銀箔地へ家々の定紋を書いてばれんをつけたまといが、今の白塗りの物となつたのは、寛政三年から後の事で、享保四年大岡越前守等の立案で、町火消六十四組を定めて、一本宛のまといを用ゐる事を許したのが、此迄武士の手を離れなかつた此軍器が駈付け人足の手に移つた始めである。
火消役のまといには、家々の定紋を押してゐたが、町人の手に移つてからは、組々の印を明らかに見せる為、かの多面体の張り籠が工夫せられたので、六十四本の中、竿頭にだしとしてつけた物には籠を想化し、又は籠其物を使うた物が多い。敢へて「籠目のまといはこはすとも」と豆辰マメタツの女房が、夫を励ました十番め組のものには限らないのであつた。
恐らく小まといなる物が、ある武士の国に作り出されて、大将自身に振つて居たのが、出来るだけ全軍の目につく様にといふ目的から、次第に大きなまといに工夫しなほされ、やがては大将在処の標ともなつたものであらう。
白石はかの「甲陽軍鑑」の記事から、其北条氏起原説を採つてゐる(白石紳書)。併し今一歩を、何故甲州方の観察にふみ入れて見なかつたのであらう。其形は、考へ知る事はおぼつかないが、古くはまといが甲州方の標識になつて居たと思はれる根拠(関八州古戦録・甲陽軍鑑・仙道記・平塞録)がある。的居などに交渉のない、存外な物の名を言ふ、甲州の古い方言が、此軍器と共に、山の峡から平野の国々に、おし出して来たものと言ふ想像が出来ぬでもない。 
 
 
 
 
●文章中での 「纏」 使われ方
●幕末維新懐古談・その頃の消防夫のことなど / 高村光雲
江戸のいわゆる、八百八街には、火消しが、いろは四十八組ありました。
浅草は場末なれど、彼かの新門辰五郎しんもんたつごろうの持ち場とて、十番のを組といえば名が売れていました。もっとも、辰五郎は四十八組の頭かしらの内でも巾の利きく方でした。
いうまでもなく、消防夫ひけしは鳶とびといって、梯子はしご持ち、纏まとい持ちなどなかなか威勢の好いいものであるが、その頃は竜吐水りゅうどすいという不完全な消火機をもって水を弾はじき出すのが関せきの山やまで、実際に火を消すという働きになると、今日から見ては他愛のない位のものであった。竜吐水の水はやっと大屋根に届く位、それも直接消火ひけしの用を足すというよりは、屋根に登って働いている仕事師の身体を濡らすに用いた位のもの……ゲンバという桶おけを棒で担にない、後から炊たき出しの這入はいったれんじゃくをつけて駆け出した(これは弁当箱で消防夫の食糧が這入っている)。それから、差し子で、猫頭巾ねこずきんを冠かぶり、火掛かりする。
火消しの働きは至極迂遠うえんなものには相違ないが、しかし、器械の手伝いがないだけ、それだけ、仕事師の働きは激しかった。身体を水に浸しながら、鳶口とびぐちをもって、屋根の瓦かわらを剥はぎ、孔あなを穿うがち、其所そこから内部に籠こもった火の手を外に出すようにと骨を折る。これは火を上へ抜かすので、その頃の唯一の消火手段であった。
で、この消し口を取るということがその組々くみくみの一番大事な役目であって、この事から随分争いを生じたものである。何番の何組がどの消し口を取ったとか、それによって手柄が現われたので、消防夫の功績は一にこれに由よって成績づけられたものです。それで、纏のばれんは焼けても、消し口を取ると見込みをつけた以上、一寸も其所をば退ひかぬといって大層見得なものであった。
消し口を取ると、消けし札ふだというものをぶら下げた。これは箱根竹に麻糸で結わえた細い木の札で、これが掛かると、その組々の消し口が裏書きされたことになったのです。
その頃は、豪家になると、百両とか、二百両とか懸賞でその家を食い留めさせたものです。こういう時には一層消防夫ひけしの働きが凄すさまじかった。
一体に、当時は町人の火事を恐れたことは、今日の人の想像も及ばぬ位である。それは現今の如く、火災保険などいうような方法があるではなく、また消火機関が完全してもいないから、一度類焼したが最後、財産はほとんど丸潰まるつぶれになりました。中には丸焼けになったため乞食こじきにまで身を落とした人さえある。今日では火事があって、かえって財産を殖ふやしたなどという話とは反対です。したがって火事といえば直ぐに手伝いに駆け附けた。生命の次ほど大変なことに思っていたこと故、見舞いに走はせ附けた人たちをば非常にまた悦よろこんだものである。
ですから、火事見舞いは、当時の義理のテッペンでした。一番に駆けつけたは誰、二番は誰と、真先をかけた人を非常に有難く思い、丁寧に取り扱いました。差し当って酒弁当は諸方から見舞いとして貰った物を出し、明日あすは手拭てぬぐいに金包みを添えてお礼に行くのが通例です。それで誰もかもジャンというと、それッといって駆け出す。……知人しりびとの家が火元に近いと飛び込んで見舞いの言葉を述べる。一層近ければ手伝いをする。それで、今の小遣こづかいを貰い、帰りには、それで夜鷹よたかそばを食ったなどと……随分おかしな話しですが、それも習慣です。というのも、畢竟ひっきょう町人が非常に火事を恐怖したところから、自然、大勢の人心を頼みにしました。何んでも非常の場合とて、人手を借りねば埒らちが明かない。それで、一般に町人の若い者たちは、心掛けの好いものは、手鍵てかぎ、差し子、草鞋わらじ、長提灯ながぢょうちんに蝋燭ろうそくを添えて枕頭まくらもとに置いて寝たものです。
普通、女、子供であっても、寝る時は、チャンと衣物の始末を順よくして、ソレ、火事というと、仕度の出来るように習慣附けたものであった。特に、火事を重大視した実際的な証拠として、一旦、その家を勘当された悴せがれとか、番頭のようなものが、火事と聞いて、迅速に駆け附けますと、それを手柄に勘当が許されたもの、全く火事は江戸人の重大視したものの最たるものであった。
俗に、火事を江戸の花とかいって興がるもののようにいいなされておりますが、実際は、興がるどころではなく、恐怖の最大なものであったのです。
それで、大火となると、町家の騒ぎはいうまでもないが、諸侯だいみょうの手からも八方から御使番おつかいばんというものが、馬上で、例の火事頭巾ずきんを冠り、凜々りりしい打扮いでたちで押し出しました。これは火事の模様を注進する役目です。一層大きくなれば、町奉行が出て、与力よりきとか同心とかいうものが働きます。
すべて、幕府時代においては、江戸の市中、大名、旗本の屋敷が六分ぶを占め、四分が町家である割合ですから、町家が火事を重大視した如く、武家もまた戦場のように重く視みました。近火の場合には武家も町家ちょうにんも豪家になると、大提灯または高張りを家前なり、軒下に掲げ、目じるしとして人々の便を計りました。
このほか、火事についてはいろいろまだ話もあるが、まずこれで終りと致します。
ザッと浅草大火の焼け跡を略図にして見れば下の如し。 
●イズムの功過 / 夏目漱石
大抵のイズムとか主義とかいうものは無数の事実を几帳面きちょうめんな男が束たばにして頭の抽出ひきだしへ入れやすいように拵こしらえてくれたものである。一纏ひとまとめにきちりと片付いている代りには、出すのが臆劫おっくうになったり、解ほどくのに手数がかかったりするので、いざという場合には間に合わない事が多い。大抵のイズムはこの点において、実生活上の行為を直接に支配するために作られたる指南車しなんしゃというよりは、吾人ごじんの知識欲を充たすための統一函である。文章ではなくって字引である。
同時に多くのイズムは、零砕れいさいの類例が、比較的緻密ちみつな頭脳に濾過ろかされて凝結ぎょうけつした時に取る一種の形である。形といわんよりはむしろ輪廓りんかくである。中味なかみのないものである。中味を棄てて輪廓だけを畳たたみ込むのは、天保銭てんぽうせんを脊負う代りに紙幣を懐ふところにすると同じく小さな人間として軽便けいべんだからである。
この意味においてイズムは会社の決算報告に比較すべきものである。更に生徒の学年成績に匹敵ひってきすべきものである。僅わずか一行の数字の裏面りめんに、僅か二位の得点の背景に殆どありのままには繰返しがたき、多くの時と事と人間と、その人間の努力と悲喜と成敗せいはいとが潜ひそんでいる。
従ってイズムは既に経過せる事実を土台として成立するものである。過去を総束そうそくするものである。経験の歴史を簡略にするものである。与えられたる事実の輪廓である。型である。この型を以て未来に臨のぞむのは、天の展開する未来の内容を、人の頭で拵こしらえた器うつわに盛終もりおおせようと、あらかじめ待ち設もうけると一般である。器械的な自然界の現象のうち、尤もっとも単調な重複ちょうふくを厭いとわざるものには、すぐこの型を応用して実生活の便宜を計る事が出来るかも知れない。科学者の研究が未来に反射するというのはこのためである。しかし人間精神上の生活において、吾人がもし一イズムに支配されんとするとき、吾人は直ただちに与えられたる輪廓のために生存するの苦痛を感ずるものである。単に与えられたる輪廓の方便として生存するのは、形骸けいがいのために器械の用をなすと一般だからである。その時わが精神の発展が自個天然の法則に遵したがって、自己に真実なる輪廓を、自みずからと自らに付与し得ざる屈辱を憤いきどおる事さえある。 ・・・ 
●車屋の小供 / 田中貢太郎
明治も初めの方で、背後うしろに武者絵むしゃえなどのついた人力車が東京市中を往来している比ころのことであった。その車を曳ひいている車夫の一人で、女房に死なれて、手足纏てあしまといになる男の子を隣家へ頼んで置いて、稼ぎに出かけて往く者があった。
小供は三歳位であった。隣家の者はおもがとおり一片いっぺんの世話であったから、夜になると、父親の車夫が帰らなくとも、
「もう、爺親ちゃんも帰って来るから、我家うちへ往って待っていな」などと云って、小供を伴つれて往って、カンテラに燈ひを点つけて帰った。
小供は独り待っていると、淋しくなって来るので、しくしく泣きだした。その悲しそうに泣く泣声が微かすかに両隣へも聞えた。この泣声を聞いては、小供を預あずかっていた隣家の人も可哀そうになって来るので、伴れて来てやろうと思っていると、小供の泣声がぱったり止やんで、その小供が何か話す声が聞えて来る。そして、そのうちには笑声わらいごえも交まじった。それでは父親が帰ったであろうかと思ったが、帰って来れば空車あきぐるまをがたがたと牽ひいて来るのが例になっているし、それに小供を頼んであった礼位ぐらいを云うはずであるから、父親でないことは判っている。おかしいぞと思っていると、小供の声は止やんでひっそりとなる。と、暫しばらくすると父親が、空車の音をさして帰って来て、一口礼を云いながら家の中へ入ってしまう。
小供はたしかに独言ひとりごとを云っていると云うことが、隣家の人に判って来た。それにしても不思議であるから、小供を預ってやる隣家の者が、ある日、小供に聞いてみた。
「お前さんは、夜家へ帰って、爺親ちゃんのいない時に、何か云ってるが、あれは何を云ってるのだね」
「おっ母かあと話をするよ」と、小供は平気で云った。
隣家の者は頭から水を浴びたように感じながら、
「ほんとにおっ母が来るの」
「来るよ、乃公おれが泣いてると、おっ母が来て、乳を飲ましてくれたり、抱いてくれたりするよ」
隣家の者はその小供をその家へ伴つれて往って聞いた。
「おっ母はどこから来るのだ」
「あすこから来るよ」と、小供は何時いつも空車を引込んで置く狭い土間どまの敷居しきいの下に指をさした。 
●「吾輩は猫である」上篇自序 / 夏目漱石
「吾輩は猫である」は雑誌ホトトギスに連載した続き物である。固もとより纏まとまった話の筋を読ませる普通の小説ではないから、どこで切って一冊としても興味の上に於おいて左さしたる影響のあろう筈はずがない。然しかし自分の考ではもう少し書いた上でと思って居たが、書肆しょしが頻しきりに催促をするのと、多忙で意の如ごとく稿を続つぐ余暇がないので、差し当り是丈これだけを出版する事にした。
自分が既に雑誌へ出したものを再び単行本の体裁として公にする以上は、之これを公にする丈だけの価値があると云う意味に解釈されるかも知れぬ。「吾輩は猫である」が果してそれ丈の価値があるかないかは著者の分として言うべき限りでないと思う。ただ自分の書いたものが自分の思う様な体裁で世の中へ出るのは、内容の価値如何いかんに関らず、自分丈だけは嬉うれしい感じがする。自分に対しては此事実が出版を促うながすに充分な動機である。
此書を公けにするに就ついて中村不折氏は数葉の揷画をかいてくれた。橋口五葉氏は表紙其他の模様を意匠してくれた。両君の御蔭おかげに因よって文章以外に一種の趣味を添え得たるは余の深く徳とする所である。
自分が今迄「吾輩は猫である」を草しつつあった際、一面識もない人が時々書信又は絵端書抔えはがきなどをわざわざ寄せて意外の褒辞ほうじを賜わった事がある。自分が書いたものが斯こんな見ず知らずの人から同情を受けて居ると云う事を発見するのは非常に難有ありがたい。今出版の機を利用して是等これらの諸君に向って一言感謝の意を表する。
此書は趣向もなく、構造もなく、尾頭の心元なき海鼠なまこの様な文章であるから、たとい此一巻で消えてなくなった所で一向差さし支つかえはない。又実際消えてなくなるかも知れん。然し将来忙中に閑を偸ぬすんで硯すずりの塵ちりを吹く機会があれば再び稿を続ぐ積つもりである。猫が生きて居る間は――猫が丈夫で居る間は――猫が気が向くときは――余も亦また筆を執とらねばらぬ。 
●我楽多玩具 / 岡本綺堂
私は玩具おもちゃが好すきです、幾歳いくつになっても稚気ちきを脱しない故せいかも知れませんが、今でも玩具屋の前を真直まっすぐには通り切れません、ともかくも立停って一目ひとめずらりと見渡さなければ気が済まない位です。しかしかの清水晴風さんなどのように、秩序的にそれを研究しようなどと思ったことは一度もありません。ただぼんやりと眺めていればいいんです。玩具に向う時はいつもの小児こどもの心です。むずかしい理窟なぞを考えたくありません。随って歴史的の古い玩具や、色々の新案を加えた贅ぜいな玩具などは、私としてはさのみ懐しいものではありません。何処どこの店の隅にも転がっているような一山百文ひゃくもん式の我楽多玩具、それが私には甚ひどく嬉しいんです。
私の少年時代の玩具といえば、春は紙鳶たこ、これにも菅糸すがいとで揚あげる奴凧やっこたこがありましたが、今は廃すたれました。それから獅子、それから黄螺ばい。夏は水鉄砲と水出し、取分けて蛙の水出しなどは甚ひどく行われたものでした。秋は独楽こま、鉄銅かねどうの独楽にはなかなか高価たかいのがあって、その頃でも十五銭二十銭ぐらいのは珍らしくありませんでした。冬は鳶口とびぐちや纏まとい、これはやはり火事から縁を引いたものでしょう。四季を通じて行われたものは仮面めんです。今でもないことはありませんが、何処の玩具屋にも色々の面を売っていました。仮面めんには張子と土と木彫の三種あって、張子は一銭、土製は二銭八厘、木彫は五銭と決っていましたが、木彫はなかなか精巧に出来ていて、槃若はんにゃの仮面めんなどは凄い位でした。私たちは狐や外道げどうの仮面めんをかぶって往来をうろうろしていたものです。そのほかには武器に関する玩具が多く、弓、長刀なぎなた、刀、鉄砲、兜、軍配ぐんばい団扇うちわのたぐいが勢力を占めていました。私は九歳ここのつの時に浅草の仲見世で諏訪法性すわほっしょうの兜を買ってもらいましたが、錣しころの毛は白い麻で作られて、私がそれをかぶると背後うしろに垂れた長い毛は地面に引摺ひきずる位で、外へ出ると犬が啣くわえるので困りました。兜の鉢はすべて張子でした。概して玩具に、鉄葉ブリキを用いることなく、すべて張子か土か木ですから、玩具の毀こわれ易やすいこと不思議でした。槍や刀も木で作られていますから、少し打合うとすぐに折れます。竹で作ったのは下等品かとうひんとしてあまり好まれませんでした。小さい者の玩具としては、犬張子、木兎みみずく、達摩だるま、鳩のたぐい、一々数え切れません、いずれも張子でした。 ・・・  
●岡本一平著並画『探訪画趣』序 / 夏目漱石
私は朝日新聞に出るあなたの描いた漫画に多大な興味を有もっている一人であります。いつか社の鎌田君に其話をして、あれなりにして捨ててしまうのは惜しいものだ、今のうちに纏まとめて出版したら可よかろうにと云った事があります。其後あなた自身が見えた時、私はあなたに自分の描いたものはみんな保存してあるでしょうねと聞いたら、あなたは大抵散逸してしまったように答えられたので私は驚ろきました。尤もっともそういう私も随分無頓着むとんじゃくな方で、俳句などになると、作れば作ったなりで、手帳にも何にも書き留めて置かないために、一寸ちょっと短冊などを突きつけられて、忘れたものを思い出すのに骨の折れる場合もありますが、それは私がその道に重きを置いていない結果だから、仕方がありませんが、貴方あなたの画は私の俳句よりも大事にして然るべきだと私はかねてから思っていたのだから、それを揃そろえて置かない貴方の料簡りょうけんが私には解らなかったのです。
あなたは私に云われて始めて気が付いたように工場の中を探し廻ったというじゃありませんか。そうして漸ようやくそれを出版する丈だけに纏まとめたのだそうですね。左右そうなればあなたの労力が単独に世間に紹介されるという点に於おいて、あなたも満足でしょう、最初勧誘した責任のある私も喜ばしく思います。私ばかりではありません、世の中には私と同感のものがまだ沢山たくさんあるに違ないのです。
普通漫画というものには二た通りあるようです。一つは世間の事相に頓着とんじゃくしない芸術家自身の趣味なり嗜好しこうなりを表現するもので、一つは時事につれて其日々々の出来事を、ある意味の記事同様に描き去るのです。時と推し移る新聞には、無論後者の方が大切でしょうが、あなたはその方面に於ての成功者じゃなかろうかと私は考えるのです。私が最初あなたに勧めて、年中行事というようなものを順次にならべて一巻にしたら何どうだろうと云ったのは、是これがためなのです。見る人は無論あなたの画から、何時いつ何どんな事があったかの記憶を心のうちに呼び起すでしょう、しかも貴方の表現したような特別な観察点に立って、自分がいまだかつて経験しなかったような記憶を新らしくするでしょう。此二つの記憶が経となり緯となって、ただでは得られない愉快が頭の中に満ちて来るかも知れません。忙がしい我々は毎日々々蛇へびが衣を脱ぐように、我々の過去を未練なく脱いで、ひたすら先へ先へと進むようですが、たまには落ち付いて今迄通って来た途みちを振り向きたくなるものです。其時茫然ぼうぜんと考えている丈だけでは、眼に映る過去は、映らない時と大差なき位に、貧弱なものであります。あなたの太い線、大きな手、変な顔、すべてあなたに特有な形で描かれた簡単な画は、其時我々に過去は斯こんなものだと教えて呉くれるのです。過去はこれ程馬鹿気て、愉快で、変てこに滑稽こっけいに通過されたのだと教えて呉くれるのです。我々は落付いた眼に笑を湛たたえて又齷齪あくせくと先へ進む事が出来ます。あなたの観察に皮肉はありますが、苦々にがにがしい所はないのですから。
もう一つあなたの特色を挙あげて見ると、普通の画家は画になる所さえ見付ければ、それですぐ筆を執とります。あなたは左右そうでないようです。あなたの画には必ず解題が付いています。そうして其解題の文章が大変器用で面白く書けています。あるものになると、画よりも文章の方が優まさっているように思われるのさえあります。あなたは東京の下町で育ったから、斯こういう風に文章が軽く書きこなされるのかも知れませんが、いくら文章を書く腕があっても、画が其腕を抑おさえて働らかせないような性質のものならそれ迄までです。面白い絵説の書ける筈はずはありません。だから貴方は画題を選ぶ眼で、同時に文章になる画を描いたと云わなければなりません。その点になると、今の日本の漫画家にあなたのようなものは一人もないと云っても誇張ではありますまい。私は此絵と文とをうまく調和させる力を一層拡大して、大正の風俗とか東京名所とかいう大きな書物を、あなたに書いて頂きたいような気がするのです。  
●越ヶ谷の半日 / 大町桂月
裸男が十口坊と共に、梅を久地に探りし時も、山神附纏ひたれば、壬生忠岑の子となりたりき。又裸男が夜光命と共に、梅を江東に探りし時も、山神が附纏ひたれば、矢張壬生忠岑の子となりたりき。忠岑の子は忠見、即ち唯 〻見るだけといふ苦しい洒落也。飮みもせず、食ひもせざる也。薩摩守だけの罪は無けれども、『酒なくて何の己れが櫻かな』と云へり、いつも/\山神に附纏はれては閉口と、裸男一人にて、越ヶ谷方面の梅を探らむとすれば、山神同行を乞ふ。『梅を見て、歌を詠み得るならば、伴れて行かむ』と云へば、『梅を見るまでも無し。只今直ぐに咏み申さむ』とて、
愛でましし梅の花をば探る身に 歌よましめよ菅原の神
裸男承諾して、午後より共に家を出で、大塚仲町より電車に乘り、廐橋を渡りて、外手町に下り、押上町行きの電車に乘換へむとせしが、雨大いに至る。二人とも傘を持たず。雨に濡れての梅見でもあるまじと斷念して、下るより早く、乘りて引返す。停留場を二つ過ぐる程に、日照る。さらばとて、三つ目の停留場に下り、又乘りて、外手町に達す。我ながら周章てたる男哉。さりながら、多年風雨に鍛へし旅行家の身、我れ一人ならば、如何に老いたりとて、このやうな風雨に弱ることは無けれども、鼻の下の人竝より長きが、裸男の一大缺點、唯 〻一つしか無き晴衣を著たる山神を氣の毒に思ひての仕業に外ならずと、分疏するだけが野暮にて、馬鹿の上塗なるべし。外手町にて乘換へて、業平橋に下り、小梅橋を渡りて、淺草驛より東武線の汽車に乘り、五十分かゝりて越ヶ谷驛に下る。平日は下等の賃金片路二十七錢なるが、梅の爲に、大割引となりて、往復の賃金三十錢也。
改札口を經て停車場を出づるは、甚しき迂路なるを以て、別に出口を設けたり。切符を驛夫に渡して直ちに柵外に出づ。雨少しくこぼれ來たる。例の鼻下長の裸男、山神をいたはりて、『この寒きに、御苦勞千萬なり』と云へば、『聞かせ給へ』とて、
雨まじり身を切るごとき寒風も 物の數かは二人し行けば
『宇田川』と染め拔ける印半纏著たる男、後よりすた/\歩み來り、『梅園に行かるゝか』と問ふ。『然り』と答ふれば、『之を持たせ給へ』とて、肩にせる二本の傘の一つを山神に渡して、またすた/\早足に行く。山神その傘をさすより早く、雨は止みて、傘が却つて手荷物となりたり。
停車場より僅々三町ばかりにして、梅園に達す。園の名を古梅園と稱す。字は大房にて、越ヶ谷町に屬す。掛茶屋四つ五つありて、頻りに客を呼べども、傘を借りたる義理あれば、『宇田川』といふ掛茶屋に就く。ほんの申譯ばかりの垣根が一方にあるだけにて、淨光寺といふ寺に連なり、田に連なり、畑に連なる。天の浮橋とて、老木の一幹は立ち、他の一幹は横になりて、瓢箪池の中央に自然の橋を爲し、彼方にて起つ。可成り大なる老木もありて、花は今を盛りと咲き滿ちたり。されど遊客は、我等夫婦の外には、唯 〻一組の男女あるのみ。茶店はいづれも失望せるさま也。山神咏じて曰く、
梅の花にほひ零るゝこの里を 鶯ならで訪ふ人の無き
梅の花は此の園内のみに非ず。傘を貸して呉れたる印半纏の男に導かれて行くに、梅また梅、家あれば必ず梅ありて、その盡くる所を知らず。山神咏じて曰く、
わけ行けば奧より奧に奧ありて 果てしも見えぬ梅の花園
『雲龍』と稱する老木、一茅屋の前に在り。一幹は横はり、一幹は立ちて、枝を垂る。導者曰く、『去年多く實を結びたれば、今年は木弱つて花多からず』と。それでも可成りの花あり。實に見事なる大木也。榜して曰く、『祖先が植ゑたるものにて、今日まで既に十數代を經たり』と。數百年外のもの也。畑の中に、『日の出梅』と稱する梅あり。幹はさまで大ならざれども、枝を四方八方に張ること、恰も孔雀の尾を擴げたるが如く、花も枝に滿ちて、世にも珍らしき梅也。廻り廻りて『宇田川』にもどる。導者曰く、『この村の梅を悉く精しく見むには、一日を要す』と。この村には、桃林もあり。『梅と桃と、いづれが利益多きか』と問へば、『梅なり』といふ。梅干一つ頬張りながら、茶を飮みて去る。
越ヶ谷驛に來り、一汽車後らして、大相模村の不動に詣づることにしけるが、歩きては間に合はず、早く/\とて入力車に乘る。街を離るれば、路、元荒川に沿ふ。凡そ二十四五町、堤を右に下りて境内に入る。恰も縁日にて、近郷の男女老若群集して、廣き境内を埋む。新婚の女なるべし、若き女の晴衣著飾りて、老女に伴はるゝものを、二三人見受く。いづれも五枚襲ねなり。東京には見ざる所なりとて、山神目をまるくして見入る。見世物も三つ四つあり。
本堂は十五六年前に燒けて、今在るは假りの粗末なるもの也。山門は燒けずして殘れり。山門を出でむとする右手に、梅園あり。十善梅といふは、幹の廻り一丈三尺、關東第一の梅の大木と稱す。其他みな老木にて、恰も老梅共進會の觀あり。いづれも寄附に係る。幹の上部や大枝をちよん切りたるは、移植上已むを得ざるものと見えたり。梅園の中に、十間四方の藤棚あり。梅園と本堂との間に、高さ僅に一丈三尺、而して東西十一間南北十六間にひろがれる老松もあり。幹の廻り一丈にて、十善梅より稍※(二の字点、1-2-22)小なる四恩梅は、今上陛下御即位大典の記念に植ゑたるものなりと記せるに、裸男一首うなり出して曰く、
幾千代の雪を凌ぎて梅の花 我大君の御世にあらはる
車を返して久伊豆神社に詣づ。松の竝木長く、池畔の藤棚偉大也。停車場近くまで戻りて、山正園を訪ふ。杉の竝木あり、小亭あり、池あり。圓錐丘の上に淺間祠あり。丘の中程より老松横になり、倒れむとして漸く柱に支へらる。もと淺間御社の境内なりしが、原鐵運送店の主人買收して公開せるなりとは、殊勝なる事也。
停車場に來りしに、まだ時間あり。何かみやげをとて、物賣る家を見廻したれども、これはと思ふものなし。幼兒がマツチ箱のペーパーを集め居ることを思ひ浮べて、まだ所持して居らざるペーパーをやつと一つ探し出して、たつた一箱だけ買ふ。其の價五厘、年とりたる主人、『この頃は物價騰貴で、マツチの價まで昂りて御氣毒さま』といふ。これが此日のみやげ也。裸男、山神に謎をかけて曰く、『吝嗇坊の遊山とかけて何と解く』『分りません』、『斬髮屋』『心は』『きりつむ』。『車だけが惜しいことをしましたね。』  
●十二年文壇に対する要求・結局は「自分の道」 / 牧野信一
努めて考へても、問題に添ふべき纏つた考へは、どんなかたちに於ても浮んで来ない。多少ながら浮んで来るものは、自分に対する自分の要求とでも云ふ風なかたちで淡く残るのみである。それをずつとおしひろめて考へたら或はこの問題に幾分触れるかも知れないといふ気もするが、やはりそれも狭い自分だけの道にのみ入つてしまふのである。  
●変な音 / 夏目漱石
うとうとしたと思ううちに眼が覚さめた。すると、隣の室へやで妙な音がする。始めは何の音ともまたどこから来るとも判然はっきりした見当けんとうがつかなかったが、聞いているうちに、だんだん耳の中へ纏まとまった観念ができてきた。何でも山葵わさびおろしで大根だいこかなにかをごそごそ擦すっているに違ない。自分は確たしかにそうだと思った。それにしても今頃何の必要があって、隣りの室で大根おろしを拵こしらえているのだか想像がつかない。
いい忘れたがここは病院である。賄まかないは遥はるか半町も離れた二階下の台所に行かなければ一人もいない。病室では炊事割烹すいじかっぽうは無論菓子さえ禁じられている。まして時ならぬ今時分いまじぶん何しに大根だいこおろしを拵こしらえよう。これはきっと別の音が大根おろしのように自分に聞えるのにきまっていると、すぐ心の裡うちで覚さとったようなものの、さてそれならはたしてどこからどうして出るのだろうと考えるとやッぱり分らない。
自分は分らないなりにして、もう少し意味のある事に自分の頭を使おうと試みた。けれども一度耳についたこの不可思議な音は、それが続いて自分の鼓膜こまくに訴える限り、妙に神経に祟たたって、どうしても忘れる訳に行かなかった。あたりは森しんとして静かである。この棟むねに不自由な身を託した患者は申し合せたように黙っている。寝ているのか、考えているのか話をするものは一人もない。廊下を歩く看護婦の上草履うわぞうりの音さえ聞えない。その中にこのごしごしと物を擦すり減らすような異いな響だけが気になった。 ・・・
・・・ 三カ月ばかりして自分はまた同じ病院に入った。室へやは前のと番号が一つ違うだけで、つまりその西隣であった。壁一重ひとえ隔へだてた昔の住居すまいには誰がいるのだろうと思って注意して見ると、終日かたりと云う音もしない。空あいていたのである。もう一つ先がすなわち例の異様の音の出た所であるが、ここには今誰がいるのだか分らなかった。自分はその後のち受けた身体からだの変化のあまり劇はげしいのと、その劇しさが頭に映って、この間からの過去の影に与えられた動揺が、絶えず現在に向って波紋を伝えるのとで、山葵わさびおろしの事などはとんと思い出す暇もなかった。それよりはむしろ自分に近い運命を持った在院の患者の経過の方が気にかかった。看護婦に一等の病人は何人いるのかと聞くと、三人だけだと答えた。重いのかと聞くと重そうですと云う。それから一日二日して自分はその三人の病症を看護婦から確たしかめた。一人は食道癌しょくどうがんであった。一人は胃癌いがんであった、残る一人は胃潰瘍いかいようであった。みんな長くは持たない人ばかりだそうですと看護婦は彼らの運命を一纏ひとまとめに予言した。
自分は縁側えんがわに置いたベゴニアの小さな花を見暮らした。実は菊を買うはずのところを、植木屋が十六貫だと云うので、五貫に負けろと値切っても相談にならなかったので、帰りに、じゃ六貫やるから負けろと云ってもやっぱり負けなかった、今年は水で菊が高いのだと説明した、ベゴニアを持って来た人の話を思い出して、賑にぎやかな通りの縁日の夜景を頭の中に描えがきなどして見た。
やがて食道癌の男が退院した。胃癌の人は死ぬのは諦あきらめさえすれば何でもないと云って美しく死んだ。潰瘍の人はだんだん悪くなった。夜半よなかに眼を覚さますと、時々東のはずれで、付添つきそいのものが氷を摧くだく音がした。その音がやむと同時に病人は死んだ。自分は日記に書き込んだ。――「三人のうち二人死んで自分だけ残ったから、死んだ人に対して残っているのが気の毒のような気がする。あの病人は嘔気はきけがあって、向うの端からこっちの果はてまで響くような声を出して始終しじゅうげえげえ吐いていたが、この二三日それがぴたりと聞えなくなったので、だいぶ落ちついてまあ結構だと思ったら、実は疲労の極きょく声を出す元気を失ったのだと知れた。」 ・・・  
●申訳 / 永井荷風
・・・ 僕は平生見聞する事物の中、他日小説の資料になるらしく思われる事があると、手帳にこれを書き留めて置く。一日の天気模様でも、月の夜に虹が出たり、深夜の空に彗星が顕れたりすると、之も同じくその見たままを書き留めて置く。これ等は啻ただに小説執筆の際叙景の資料になるのみならず、古人の書を読む時にも案外やくに立つことがある。僕は曾て木氷というものを見たことがあった。木氷とは樹木の枝に滴る雨の雫が突然の寒気に凍って花の咲いたように見えるのを謂うのである。僕は初木氷の名も知らず、亦これが詩人の喜んで瑞兆となすものであることも知らなかったが、近年に至ってたまたま大窪詩仏の集を読むに及んで始て其等の次第を審にしたのである。
僕が銀座のカッフェーに関して手帳に覚書をして置いたことも尠くはない。左に之を抄録して読者の一噱に供しよう。
「某月某日晩涼ヲ追テ杖ヲ銀座街ニ曳ク。夜市ノ燈火白昼ノ如ク、遊歩ノ男女肩ヲ摩シ踵ヲ接ス。夜熱之ガ為ニ卻テ炎々タリ。避ケテ一酒肆に[#「酒肆に」はママ]入ル。洋風ノ酒肆ニシテ、時人ノ呼ンデカツフヱート称スルモノ即是ナリ。カツフヱーノ語ハモト仏蘭西ヨリ起ル。邦人妄ニ之ヲ借リ来ツテ酒肆ニ名クト雖其ノ名ノ実ニ沿ハザルコト蓋甚シキモノアリ。是亦吾社会百般ノ事物西洋ヲ模倣セント欲シテ到底模倣ダニ善クスルコト能ハザルノ一例ニ他ナラズ。酒茶ノ味ノ如キハ固ヨリ言フ可キ限リニ非ザル也。銀座街ノカツフヱー皆妙齢ノ婢ヲ蓄ヘ粉粧ヲ凝シテ客ノ酔ヲ侑ケシムルコト宛然絃妓ノ酒間ヲ斡旋スルト異ラズ。是ヲ江戸時代ニ就イテ顧レバ水茶屋ノ女ノ如ク麦湯売ノ姐サンノ如ク、又宿屋ノ飯盛ノ如シト言フモ可ナリ。カツフヱーノ婢ハ世人ノ呼デ女ボーイトナシ又女給トナスモノ。其ノ服飾鬟髻ノ如キハ別ニ観察シテ之ヲ記ス可シ。此ノ宵一婢ノ適タマタマ予ガ卓子ノ傍ニ来ツテ語ル所ヲ聞クニ、此酒肆ノ婢総員三十余人アリト云。婢ハ日々其家ヨリ通勤ス。家ハ家賃廉低ノ地ヲ択ブガ故ニ大抵郡部新開ノ巷ニ在リ。別ニ給料ヲ受ケズ、唯酔客ノ投ズル纏頭ヲ俟ツノミ。然レドモ其ノ金額日々拾円ヲ下ラザルコト往々ニシテ有リ。之ヲ以テ或ハ老親ヲ養フモノアリ或ハ病夫ノタメニ薬ヲ買フモノアリ。或ハ弟妹ニ学資ヲ与フルモノアリ。或ハ淫肆放縦ニシテ獲ル所ノモノハ直ニ濫費シテ惜シマザルモノアリ。各其ノ為人ニ従ツテ為ス所ヲ異ニス。婢ノ楼ニ在ツテ客ヲ邀フルヤ各十人ヲ以テ一隊ヲ作リ、一客来レバ隊中当番ノ一婢出デヽ之ニ接ス。女隊ニ三アリ。一ヲ紅隊ト云ヒ、二ヲ緑隊、三ヲ紫隊ト云フ。各隊ノ女子ハ個々七宝焼ノ徽章ヲ胸間ニ懸ケ以テ所属ノ隊ト番号トヲ明示ス。三隊ノ女子日ニ従テ迎客ノ部署ヲ変ズ。紅緑ノ二羣楼上ニ在ルノ日ハ紫隊ノ一羣ハ階下ニ留マルト云フガ如シ。楼上ニハ常ニ二隊ヲ置キ階下ニハ一隊ヲ留ムルヲ例トス。三隊互ニ循環シテ上下ス。サレバ客ノ此楼ニ登ツテ酔ヲ買ハント欲スルモノ、若シ特ニ某隊中ノ阿嬌第何番ノ艶語ヲ聞カンコトヲ冀フヤ、先阿嬌所属ノ一隊ノ部署ヲ窺ヒ而シテ後其ノ席ニ就カザル可カラズ。然ラザレバ徒ニ纏頭ヲ他隊ノ婢ニ投ジテ而モ終宵阿嬌ノ玉顔ヲ拝スルノ機ヲ失スト云。是ニ於テヤ酒楼ノ情況宛然妓院ニ似タルモノアリ。予復問フテ曰ク卿等女給サンノ前身ハ何ゾヤ。聞クナラク浅草公園上野広小路辺ノ洋風酒肆近年皆競ツテ美人ヲ蓄フト。果シテ然ルヤ。婢答ヘテ曰ク閣下ノ言フガ如シ。抑是ノ酒肆ハ浅草雷門外ナル一酒楼ノ分店ニシテ震災ノ後始テ茲ニ青帘ヲ掲ゲタルモノ。然ルガ故ニ婢モ亦開店ノ当初ニ在リテハ浅草ノ本店ヨリ分派セラレシモノ尠シトナサヾリキ。今ヤ日ニ従テ新陳代謝シ四方ヨリ風ヲ臨ンデ集リ来レルモノ多シ。曾テ都下狭斜ノ巷ニ在テ左褄ヲ取リシモノ亦無シトセズト。予之ヲ聞イテ愕然タリ。其ノ故ハ何ゾヤ。疇昔余ノ風流絃歌ノ巷ニ出入セシ時ノコトヲ回顧スルニ、当時都下ノ絃妓ニハ江戸伝来ノ気風ヲ喜ブモノ猶跡ヲ絶タズ。一旦嬌名ヲ都門ニ馳セシムルヤ気ヲ負フテ自ラ快トナシ縦令悲運ノ境ニ沈淪スルコトアルモ自ラ慚ヂテ待合ノ女中牛肉屋ノ姐サントナリ俗客ノ纏頭ニ依ツテ活ヲ窃ムガ如キモノハ殆一人モ有ルコトナカリキ。今ヤ人心ハ上下雅俗ノ別ナク僅ニ十年ニシテ全ク一変セリ。画人ハ背景ヲ描カンガタメニ俳優ノ鼻息ヲ窺ヒ文士ハ書賈ノ前ニ膝ヲ屈シテ恬然タリ。余ヤ性狷介固陋世ニ処スルノ道ヲ知ラザルコト匹婦ヨリモ甚シ。今宵適カツフヱーノ女給仕人ノ中絃妓ノ後身アルヲ聞キ慨然トシテ悟ル所アリ。乃鉛筆ヲ嘗メテ備忘ノ記ヲ作リ以テ自ラ平生ノ非ヲ戒ムト云。」 ・・・  
●根岸庵を訪う記 / 寺田寅彦
九月五日動物園の大蛇を見に行くとて京橋の寓居ぐうきょを出て通り合わせの鉄道馬車に乗り上野へ着いたのが二時頃。今日は曇天で暑さも薄く道も悪くないのでなかなか公園も賑にぎおうている。西郷の銅像の後ろから黒門くろもんの前へぬけて動物園の方へ曲ると外国の水兵が人力じんりきと何か八釜やかましく云って直ねぶみをしていたが話が纏まとまらなかったと見えて間もなく商品陳列所の方へ行ってしまった。マニラの帰休兵とかで茶色の制服に中折帽を冠かぶったのがここばかりでない途中でも沢山たくさん見受けた。動物園は休みと見えて門が締まっているようであったから博物館の方へそれて杉林の中へ這入はいった。鞦韆ぶらんこに四、五人子供が集まって騒いでいる。ふり返って見ると動物園の門に田舎者らしい老人と小僧と見えるのが立って掛札を見ている。其処そこへ美術学校の方から車が二台幌ほろをかけたのが出て来たがこれもそこへ止って何か云うている様子であったがやがてまた勧工場かんこうばの方へ引いて行った。自分も陳列所前の砂道を横切って向いの杉林に這入るとパノラマ館の前でやっている楽隊が面白そうに聞えたからつい其方そちらへ足が向いたが丁度その前まで行くと一切ひときり済んだのであろうぴたりと止やめてしまって楽手は煙草などふかしてじろ/\見物の顔を見ている。後ろへ廻って見ると小さな杉が十本くらいある下に石の観音がころがっている。何々大姉だいしと刻してある。真逆まさかに墓表ぼひょうとは見えずまた墓地でもないのを見るとなんでもこれは其処そこで情夫に殺された女か何かの供養に立てたのではあるまいかなど凄涼せいりょうな感に打たれて其処を去り、館の裏手へ廻ると坂の上に三十くらいの女と十歳くらいの女の子とが枯枝を拾うていたからこれに上根岸かみねぎしまでの道を聞いたら丁寧ていねいに教えてくれた。 ・・・  
●長谷川二葉亭 / 蒲原有明
長谷川二葉亭氏にはつい此あひだ上野精養軒で開かれた送別會の席上で、はじめてその風丰(ふうぼう)に接したぐらゐであるから、わたくしには氏に對して別に纏つた感想などのありやうもない。だが、質素な身なりと、碎けた物言ひぶりと、眉根に籠つた深く暗い顰みと、幅のある正しい肩つきと、これだけがわたくしの二葉亭氏から最初に受けた消し難き印象である。この印象のうちにも、仔細にたづねて見れば、二葉亭氏の半生の謎がどこかに隱されてゐるやうに思はれる。
二葉亭氏は實際謎の人と云つてよいであらう。今から二昔も前にあの名高い「浮雲」を書いた。明治文學史上の謎がこゝに始まつたのである。新文藝の曙光だと手早く云つてしまへばそれまでの事であるが、それにしては餘りに陰氣な曉の光景ではなかつたらうか。それから一昨年「その面影」が出るまでには凡そ二十年を經過してゐる。隨分思ひ切つて長かつた沈默である。これがわが文壇に比類のない沈默であるのは言ふまでもない。この間二葉亭氏には露國物の飜譯を除いて、その外には一篇の創作もなかつたのである。それにも拘らず二葉亭氏の名は漸く重きをなした。
ツルゲーネフと二葉亭氏、露西亞氣質と長谷川氏と、この二つを繋いで世間ではいろいろと推測した。氏に志士の風格があつたことは事實である。然しわたくしはそれに就て直接知るところがない。唯わが文壇が二葉亭氏に期待したのは、露國物の飜譯のみではなかつたと云へば足りるのである。二葉亭氏は露國作家の影ではなくて、矢張何となく人を威壓する二葉亭氏であつた。この沈默ならぬ沈默の間に、華やかな文藝界の革新と運動とが幾度か起つて幾度か仆れたが、二葉亭氏はいつも遠く離れてゐて、しかも近くわれわれの上に臨んでゐるやうであつた。 ・・・  
●「茶碗の湯」のことなど / 中谷宇吉郎
もう三年ばかり前のことであるが、小宮こみや先生の紹介で鈴木三重吉すずきみえきち氏の未亡人の方から、『赤い鳥』に昔出ていた通俗科学の話を纏まとめて、一冊の本にしたいから、その校訂をしてくれというお話があった。
三重吉氏の『赤い鳥』が、児童文学とも称すべき新しい境地を拓ひらいて、児童の情操教育に偉大な足跡をのこしたことは、今更のべ立てるまでもない。しかし三重吉氏は、『赤い鳥』で単に文芸方面の仕事だけをのこしたのではなくて、あの中には、毎月一篇いっぺんずつ児童向きの科学教育の文章がのっていたのである。それは天文、物理、地球物理、化学、工学、動物学、植物学、医学などの広い範囲にわたっていて、当時の新進の若い科学の研究者たちに依頼して書いてもらったものであった。それに三重吉氏が筆を入れて、文章の体裁をととのえたものであった。
三重吉氏の仕事には敬意をもっていたので、とにかくその原稿を見せてもらった。ところが、その大部分のものは、さすがに若い研究者の人たちが書いたものだけに、ちゃんとしたものばかりで、これならば立派な本になりそうな気がした。それに文章も三重吉氏の筆がはいっているだけに、全体がととのって、すっきりした調子が出ていた。それで私は喜んで、その仕事を引き受けることにした。
この執筆者たちは、今は立派な一流の学者になっておられて、名前を言えば、誰だれでも知っている人が多い。しかし『赤い鳥』ではそれが殆ほとんど全部変名になっていて、随分意外な方が、意外な題目で書いておられるのもちょっと面白かった。
ところで、この話をもって来られた時に「この中に、たしか寺田てらだ先生が変名で書かれたものがあるはずだ」という話があった。私は大変興味をもって、それを心探しの気持で、ずっと読んで行った。その一篇は勿論もちろんすぐ分った。それは、八条年也はちじょうとしやという名前で出ていて、題は「茶碗の湯」というのであった。 ・・・  
●我楽多玩具 / 岡本綺堂
私は玩具おもちゃが好すきです、幾歳いくつになっても稚気ちきを脱しない故せいかも知れませんが、今でも玩具屋の前を真直まっすぐには通り切れません、ともかくも立停って一目ひとめずらりと見渡さなければ気が済まない位です。しかしかの清水晴風さんなどのように、秩序的にそれを研究しようなどと思ったことは一度もありません。ただぼんやりと眺めていればいいんです。玩具に向う時はいつもの小児こどもの心です。むずかしい理窟なぞを考えたくありません。随って歴史的の古い玩具や、色々の新案を加えた贅ぜいな玩具などは、私としてはさのみ懐しいものではありません。何処どこの店の隅にも転がっているような一山百文ひゃくもん式の我楽多玩具、それが私には甚ひどく嬉しいんです。
私の少年時代の玩具といえば、春は紙鳶たこ、これにも菅糸すがいとで揚あげる奴凧やっこたこがありましたが、今は廃すたれました。それから獅子、それから黄螺ばい。夏は水鉄砲と水出し、取分けて蛙の水出しなどは甚ひどく行われたものでした。秋は独楽こま、鉄銅かねどうの独楽にはなかなか高価たかいのがあって、その頃でも十五銭二十銭ぐらいのは珍らしくありませんでした。冬は鳶口とびぐちや纏まとい、これはやはり火事から縁を引いたものでしょう。四季を通じて行われたものは仮面めんです。今でもないことはありませんが、何処の玩具屋にも色々の面を売っていました。仮面めんには張子と土と木彫の三種あって、張子は一銭、土製は二銭八厘、木彫は五銭と決っていましたが、木彫はなかなか精巧に出来ていて、槃若はんにゃの仮面めんなどは凄い位でした。私たちは狐や外道げどうの仮面めんをかぶって往来をうろうろしていたものです。そのほかには武器に関する玩具が多く、弓、長刀なぎなた、刀、鉄砲、兜、軍配ぐんばい団扇うちわのたぐいが勢力を占めていました。私は九歳ここのつの時に浅草の仲見世で諏訪法性すわほっしょうの兜を買ってもらいましたが、錣しころの毛は白い麻で作られて、私がそれをかぶると背後うしろに垂れた長い毛は地面に引摺ひきずる位で、外へ出ると犬が啣くわえるので困りました。兜の鉢はすべて張子でした。概して玩具に、鉄葉ブリキを用いることなく、すべて張子か土か木ですから、玩具の毀こわれ易やすいこと不思議でした。槍や刀も木で作られていますから、少し打合うとすぐに折れます。竹で作ったのは下等品かとうひんとしてあまり好まれませんでした。小さい者の玩具としては、犬張子、木兎みみずく、達摩だるま、鳩のたぐい、一々数え切れません、いずれも張子でした。 ・・・  
●伊賀、伊勢路 / 近松秋江
私には、また旅を空想し、室内旅行をする季節となつた。東京の秋景色は荒寥としてゐて眼に纏りがない。さればとて帝劇、歌舞伎さては文展などにさまで心を惹かるゝにもあらず、旅なるかな、旅なるかな。芭蕉も
憂きわれを淋しがらせよ閑古鳥
 といひ、また
旅人と我名呼ばれん初しぐれ
ともいつたが、旅にさすらうて、折にふれつゝ人の世の寂しさ、哀れさ、またはゆくりなく湧き來る感興を味はふほど私にとつての慰藉はない。東京は、私には、あまりに刺戟が強く、あまりに賑かすぎて、心はいつも皮相ばかりを撫でてゐるやうである。東京にゐると、文筆のわざさへひたすら枯淡なる事務のやうになつて、旅にゐるときのやうに自然の情趣が湧かない。私の魂魄は今、晩秋初冬の夜々東京の棲家をさまよひ出でて、遠く雲井の空をさして飛んでゐる。
私は府縣別の地圖を座右に備へて置く。そして毎晩就寢のとき枕頭にそれを展いて見るのである。哀れ深き旅の空想は私の夢を常に安からしめる。富士の頂きに初雪を見る頃になつて、さすがに夏は懷かしい東北の山河は、私には思ひ浮べるだにおぞましい。南海、西海の邊土は、未だ多くわが脚を踏み入れたことはないが、須磨、明石さへ遠隔の地のやうに思つた昔の京都の殿上人の抱いてゐたやうな感情は私にも遺傳されてゐると思はれて石炭の煙突煙る九州の地は私にはあまりに遠國すぎる。私の最も愛好する地勢と風土は伊勢大和近江の境にある。そのあたりの地圖を閲しつゝ私は自由に旅の空想を夢むのである。此度の旅は少くとも二箇月くらゐはさすらふ豫定でそのつもりで旅支度をとゝのへ些の未練もない東京の空には暫時の訣別を心の中に告げつゝ夜九時の急行車で中央ステーションを出發する。この時停車場の大廊下に鳴りひゞく旅人の下駄の足音も私の耳には天樂の如くいみじき音律となつて聞えるのである。それより心地よいクッションにまづ腰を落着けつゝ今宵一夜を共に此處に明かすべき同車の旅の人々の知らぬ容貌風采、さては一歩想像を深めて、それ等の職業、運命などについて考へてみるのもまた一興である。此の際に於ける私の注意の働きと、想像の奔放なることは、到底歌舞伎座や帝國劇場などにあつて死劇を觀てゐる比ではない。 ・・・  
●虚妄と眞實 / 蒲原有明
――君。僕は僕の近來の生活と思想の斷片を君に書いておくらうと思ふ。然し實を云へば何も書く材料はないのである。默してゐて濟むことである。君と僕との交誼が深ければ深いほど、默してゐた方が順當なのであらう。舊い家を去つて新しい家に移つた僕は、この靜かな郊外の田園で、懶惰に費す日の多くなつたのをよろこぶぐらゐなものである。僕には働くといふことが苦手である。ましてや他人の意志の下に働くといふことは、どうあつても出來ない相談である。それなら自分の意志の鞭を背に受けて、嚴肅な人生の途に上らねばならぬといふことは、それが假令考へられるにしても、その考を直ちに實行に移すことを難んずる状態である。今までに一つとして纏つた仕事を成して來なかつたのが何よりの證據である。
空と雲と大地とは終日ながめくらしても飽くことを知らないが、半日の讀書は僕を倦ましめることが多い。新しい家に移つてからは、空地に好める樹木を植ゑたり、ほんの慰みに畑をいぢつたりするだけの仕事しか爲さないのである。そして僅に發芽する蔬菜のたぐひは、これを順次に、いかにも生に忠實な蟲に供養するまでゝある。勿論厨房の助にならう筈はない。こんな有樣なのであるから、田園生活なんどは毫頭想ひも寄らぬことがらである。僕の生活は都會ともつかず田園ともつかず、その中間にあつて、相變らず空漠なその日暮らしで始終してゐる。そして當然僕の生涯の絃の上には、倦怠と懶惰が執ねくもその灰色の手をおいて、無韻の韻を奏でてゐるのである。
考へて見れば、これが「生の充實」を稱ふる現代の金口に何等の信仰を持たぬ人間の必定墮ちてゆく羽目であらう。その上、僕には本能的な生の衝動が極めて微弱であるから、悔恨の情さへ起り得ない。とどのつまり永遠に墮ちてゆく先は無爲の陷穽である。 ・・・  
●『煤煙』の序 / 夏目漱石
「煤煙ばいえん」が朝日新聞に出て有名になつてから後のち間もなくの話であるが、著者は夫それを単行本として再び世間に公けにする計画をした。書肆しよしも無論賛成で既に印刷に回して活字に組み込まうと迄までした位である。所が其頃そのころ内閣が変つて、著書の検閲が急に八釜敷やかましくなつたので、書肆は万一を慮おもんぱかつて、直接に警保局長の意見を確めに行つた。すると警保局長は全然出版に反対の意を仄ほのめかした。もし押切つて発売に至る迄の手続をしやうものなら、必ず発売禁止になるものと解釈して、書肆は引下つた。著者は已やむを得ず煤煙の切抜帳を抱いだいて、大おほいに詰つまらながつてゐた。
所へある気の利きいた男が出て来て、煤煙の全部を出版しやうとすればこそ災を招く恐れがあるので、そのうちの安全な部分丈だけを切り離して小冊子に纏まとめたらどんなものだらうといふ新案を提出した。著者は多少思考を費した上、此この説に同意して、直たゞちに煤煙の前半、即ち要吉が郷里きやうりに帰つて東京に出て来る迄の間を取敢とりあへず第一巻として活版にする事に決心した。
著者の選択した部分は、煤煙の骨子でない所から云へば、著者に取つて遺憾かも知れないが、安全と云ふ点から見れば是程これほど安全な章はない。誰が読んだつて差支さしつかへないんだから大丈夫である。其上そのうへ余の視みる所では、肝心の後編より却かへつて出来が好いい様に思はれる。余は煤烟全部を読み直す暇がないので、判然はつきりした判断を下すに躊躇するが、当時の新聞は連続して欠かさず眼を通したものだから、未いまだに残つてゐる、其時そのときの印象は、恐らく余に取つて慥たしかなものだらうと考へる。其その印象を平たく他ひとに伝へ得る様な言葉に引き延ばして見ると斯かうである。――煤煙の後篇はどうもケレンが多くつて不可いけない。非常に痛切なことを道楽半分人に見せる為に書いてゐる様な気がする。所が前半には其弊そのへいが大分だいぶん少い。一種の空気がずつと貫いて陰鬱な色が万遍まんべんなく自然じねんに出てゐる。此この意味に於おいて著者が前篇丈だけを世に公けにするのは余の賛成する所である。 ・・・  
●学問の自由 / 寺田寅彦
学問の研究は絶対自由でありたい。これはあらゆる学者の「希望」である。しかし、一体そういう自由がこの世に有り得るものか、どの程度までそれが可能であるか、またその可能限度まで自由を許すことが、当該学者以外の多数の人間にとって果していつでも望ましい事であるか。こういう問題を、少し立入って考究し論議するとなると、事柄は存外複雑になって来て、おそらく、そうそう簡単には片付けられないことになるであろう。あるいは結局いつまで論議しても纏まとまりの付かないような高次元の迷路をぐるぐる廻るようなことになるかもしれない。
こういう疑いは、問題の学問が、複雑極まる社会人間に関する場合に最も濃厚であるが、しかし、外見上人間ばなれのした単なる自然科学の研究についても、やはり起こし得られる疑問である。
科学者自身が、もしもかなりな資産家であって、そうして自分で思うままの設備を具えた個人研究所を建てて、その中で純粋な自然科学的研究に没頭するという場合は、おそらく比較的に一番広い自由を享有し得るであろう。尤も、そういう場合でも、同学者の間にはきっと、あの設備があるのに、あんな事ばかりやっている、といったような批評をするものの二、三人は必ずあるであろうが、そういう批評が耳に這入はいったときに心を動かさないだけの「心の自由」がありさえすれば、何でもない。しかし、そういう恵まれた環境にめぐり遭う学者は稀である。たまたまそういう環境を恵まれた人にはまた存外そういう研究に熱心な人が稀である。それで、大多数の科学者は結局どこかで誰か他人の助けをかりて生活すると同時に研究する外はない。それで、国家なり個人なりが一人の学者に生活の保障と豊富な研究費を与えてくれて、そうして好きな事を勝手に研究させてくれればこれほど結構なことはないが、そういう理想的な場合が事実上存在するかどうかを考えてみる。 ・・・  
●我が一九二二年・序 / 生田長江
私達の友人は既に、彼の本性にかなはない総すべての物を脱ぎ棄て、すべての物を斥しりぞけた。そして彼自らの手で紡ぎ、織り、裁ち、縫ひ上げたところの、彼の肉体以上にさへ彼らしい軽羅けいらをのみ纏まとふて今、彼一人の爽かな径みちを行つてゐる。
他の何人に対してよりも、自分自身に対して最善の批評家であるところの彼は、つねにただ、彼の子供として恥しくない子供だけを生み、より恥しくない子供だけを育て上げてゐる。彼のと異つた芸術を要求することは固もとより許されよう。彼のにまさつて完全なる(或は完全に近い)芸術といふものは、たやすく現代の世界に見出されないであらう。
彼の芸術は、詩に於て最も彼らしきところを、最も完全なるところを示してゐる。
今の詩壇に対する彼の詩は、余りにも渾然たるが故に古典的時代錯誤であり、余りにも溌溂たるが故に未来派的時代錯誤であることを免れない。
嗚呼ああ、この心憎き、羨望せんばうすべき時代錯誤よ。時代錯誤の麟鳳よ。永久に詩人的なるものよ。
『永久に詩人的なるもの』私達の友人よ、ねがはくは彼によりて、彼を取りまける総ての者が、詩の天上にまで引きあげられて行くことを。  
●怪譚小説の話 / 田中貢太郎
私は物を書く時、面白い構想が浮ばないとか、筋が纏まとまらないとかいうような場あいには、六朝小説を出して読む。それは晋唐しんとう小説六十種で、当時の短篇を六十種集めた叢書であるが、それには歴史的な逸話があり、怪譚があり、奇譚きたんがあって、皆それぞれ面白い。泉鏡花いずみきょうか子の『高野聖こうやひじり』は、その中の幻異志げんいしにある『板橋三娘子はんきょうさんろうし』から出発したものである。板橋はんきょうに三娘女さんろうじょという宿屋をしている老婆があって、それが旅人に怪しい蕎麦そばの餅もちを啖くわして、旅人を驢ろばにして金をもうけていたところで、趙季和しょうきわという男がそれを知って反対あべこべにその餅を老婆に啖わして老婆を驢にしたという話で、高野聖では幻術で旅人を馬にしたり猿にしたりする美しい女になっており、大体の構想に痕跡の拭ぬぐうことのできないものはあるが、その他は間然かんぜんする処ところのない独立した創作であり、また有数な傑作でもあって、上田秋成うえだあきなりが『西湖佳話せいこかわ』の中の『雷峯怪蹟らいほうかいせき』をそっくり飜案して蛇性の婬いんにしたのとは甚はなはだしい相違である。
またその叢書の中の『幽怪録ゆうかいろく』には、岩見重太郎いわみじゅうたろうの緋狒退治ひひたいじというような人身御供ひとみごくうの原話になっているものがある。それは唐とうの郭元振かくげんしんが、夜、旅をしていると、燈火の華やかな家があるので、泊めてもらおうと思って往くと、十七八の娘が一人泣きくずれている。聞いてみると、将軍と呼ばれている魔神の犠牲いけにえにせられようとしていた。そこで郭は、娘を慰めて待っていると、果して轎かごに乗って数多あまたの供を伴つれた男が来た。郭は珍しい肴さかなを献上するといって、鹿の腊ほじしを出すふりをして、その手を斬り落し、翌日血の痕をつけて往くと、大きな猪いのししであったから殺して啖くった。この幽怪録の話は、明みんの瞿佑かくゆうの『剪燈新話せんとうしんわ』の中の申陽洞しんようどうの記の粉本ふんぽんになっている。 ・・・  
●貧書生 / 内田魯庵
「やい亀井、何しおる? 何ぢや、懸賞小説ぢや――ふッふッ、」と宛さも馬鹿にしたやうに冷笑せゝらわらつたはズングリと肥つた二十四五の鬚ひげ毿くしや々の書生で、垢染みて膩光あぶらびかりのする綿の喰出はみだした褞袍どてらに纏くるまつてゴロリと肱枕をしつゝ、板のやうな掛蒲団を袷あはせの上に被かぶつて禿筆ちびふでを噛みつゝ原稿紙に対むかふ日に焼けて銅あかゞね色をしたる頬の痩やつれて顴骨くわんこつの高く現れた神経質らしい仝おなじ年輩としごろの男を冷やかに見て、「汝きさまも懸賞小説なんぞと吝けちな所為まねをするない。三文小説家になつて奈何どうする気ぢや。」
「先まア黙つてろよ。」と亀井と呼ばれた男は顧盻ふりかへつて較やや得意らしき微笑を浮べつ、「之でも懸賞小説の方ぢやア亀之屋万年と云つて鑑定証きはめふだの付いた新進作家だ。今度当選あたつたら君が一夜の愉快費位は寄附する。」
「はッはッ、減らず口を叩きくさる。汝の懸賞小説も久しいもんぢや。一度当選つたといふ事ぢやが、俺と交際つきあつてからは猶まだ当選らんぞ。第一小説が上手になつたら奈何するのぢや。文士ぢやの詩人ぢやの大家ぢやの云ふが女の生れ損ひぢや、幇間たいこもちの成り損ひぢや、芸人の出来損ひぢや。苟くも気骨のある丈夫をとこの風上に置くもんぢやないぞ。汝も尚まだ隠居して腐つて了ふ齢ぢやなし。王侯将相何ぞ種しゆあらんや。平民から一躍して大臣の印綬を握つかむ事の出来る今日ぢやぞ。なア亀井、筆なんぞは折つぺしッて焼いて了へ。恋ぢやの人情ぢやのと腐つた女郎の言草は止めて了つて、平凡へぼ小説を捻くる間ひまに少ちつと政治運動をやつて見い。」
「はッはッ、僕は大に君と説が異ちがう。君は小説を能よく知らんから一と口に戯作と言消して了うが、小説は科学と共に併行して人生の運命を……」
「措おいて呉れ、措いて呉れ、小説の講釈は聞飽きた、」と肱枕の書生は大欠伸あくびをしつゝ上目うはめで眤じつと瞻みつめつ、「第一、汝、美が如何どうぢやの人生が如何ぢやのと堕落坊主の説教染みた事を言ひくさるが一向銭ぜににならんぢやないか?」 ・・・  
●新詩發生時代の思ひ出 / 土井晩翠
ブランデスやテイン※(小書き片仮名ヌ、1-6-82)などに其例を見る通り、文學史を書く者の中には、勝手な豫定の觀念を基とし、これに當てはまる材料のみを引用して、何とかかとか纏りを附け度がる弊風がある。漢文學史の上にも澤山の類例があらう。元遺山の編と稱せられて、そして實際其編である事は間違ひない、と思はるゝ「唐詩鼓吹」に、明末清初の錢謙益(牧齋)が序文を書いて、中に明代三百年來の詩學の弊風を攻撃し、
『あゝ唐人一代の詩各々神髓あり、各々氣候あり、然るを初唐盛唐中唐晩唐と無理に區分して、隨て之を判斷し、此が妙悟、彼が二乘、此が正宗、彼が羽翼……など、支離滅裂して、唐人の面目を千歳の上に暗からしむ』(意譯)
と嘆じ、そして此弊風は嚴羽の詩論「滄浪詩話」と高廷禮編集の「唐詩品彙」とが責を負ふ可きものであると痛論して居る。
明治文學ももう過去のものとなつて、「明治小説史」「明治詩歌史」などゝ題するものが昨今可なり多い。
昭和二年頃に新潮社刊行の「日本文學講座」の中にも若干篇がある。『新詩發生時代の思ひ出』といふやうな題で何か書けと、畑中氏から先般依頼されて居たが、近頃或る事柄で頗る繁忙なので、濟まないが全く打ち捨て置いたが、原稿締切の期日が眼前に迫るので、慌て氣味に貧弱な藏書を調べると、右の新潮社の刊行があつた。そして其中に新詩發生時代を説く、「明治詩史」といふものを見附けた。可なりよく調べて居るやうだが、やはり文學史家の陷る弊風が無いでもない。
昨年の「國語と國文學」の夏期特輯、「明治大正文學を語る」(藤村作博士が卷頭に序して居る)八月號の編輯後記に『本誌自體が書き改められた明治大正文學史であると曰つても誇稱では無からうと思ふ』とあるが、私が課せられた題目の新詩發生時代に就ても面白い思ひ出が數々載せられてある、其中井上巽軒先生の御話がよく當時の實際を穿つて居る。
先生の御話中には無いが、明治最初刊行の新詩は福澤先生のである、即ち「世界國づくし」、七五調で世界地理を歌ふた當時の破天荒である。今日から見れば、まづい點のあるを免れないが、『五大洲』を韻文であゝ迄に歌ふといふ事が確に偉い、しかも是は全く先生の餘技である。見返しには―― ・・・  
●ドストエフスキーとバルザック / 坂口安吾
散文に二種あると考へてゐるが、一を小説、他を作文とかりに言つておく。
小説としての散文の上手下手は、所謂文章――名文悪文と俗に言はれるあのこととは凡そ関係がない。所謂名文と呼ばれるものは、右と書くべき場合に、言葉の調子で左と書いたりすることの多いもので、これでは小説にならない。漢文日本には此の弊が多い。
小説としての散文は、人間観察の方法、態度、深浅等に由つて文章が決定づけられ、同時に評価もさるべきものであつて、文章の体裁が纏つてゐたり調子が揃つてゐたところで、小説本来の価値を左右することにはならない。文章の体裁を纏めるよりも、書くべき事柄を完膚なく「書きまくる」べき性質のものである。
婦人公論の二月号であつたか、ささきふさ氏がゴルスワージの小説を論じて、人のイエス・ノウには百の複雑があり、蔭と裏があることを述べ、この難解なニュアンスを最も的確に表現しうる作家はゴルスワージであると述べてゐられるのを読んだが、その後ゴルスワージの小説を読むに及び、この所説の正しいことに思ひ当つて、感服した。が、それだからゴルスワージの小説は傑作であるといふ説には賛同しがたい点もある。
私は、作者の観察の深浅、態度等が小説としての散文の価値を決定するものだと述べたが、部分部分の観察が的確であつても、小説全体の価値は又別であらうと思ふ。
小説は、人間が自らの医しがたい永遠なる「宿命」に反抗、或ひは屈服して、(永遠なる宿命の前では屈服も反抗も同じことだ――)弄ぶところの薬品であり玩具であると、私は考へてゐる。小説の母胎は、我々の如何ともなしがたい喜劇悲劇をもつて永劫に貫かれた宿命の奥底にあるのだ。笑ひたくない笑ひもあり、泣きたくもない泪もある。奇天烈な人の世では、死も喜びとなるではないか。知らないことだつて、うつかりすると知つてゐるかも知れないし、よく知つてゐても、知りやしないこともあらうよ。小説はこのやうな奇々怪々な運行に支配された悲しき遊星、宿命人間へ向つての、広大無遍、極まるところもない肯定から生れ、同時に、宿命人間の矛盾も当然も混沌も全てを含んだ広大無遍の感動に由つて終るものであらう。
小説は感動の書だと、私は信じてゐる。 ・・・  
●見て過ぎた女 / 正宗白鳥
「戀とは綺麗なことを考へて汚いことを實行するものだ。」と、西洋の誰れかが云つたやうだが、若し誰れも云はなかつたとしたら、おれがさう云はうと、日比野は思つてゐた。
彼れは早熟であつたので、八九歳の頃から男女關係についてひそかに空想を描きだしてゐた。十一二歳の時分に「梅暦」を讀んだくらゐだつたから、小説の亂讀によつて色戀の情緒は早くから、發育さされた。しかし、一方で家庭の教訓や基督教の感化などによつて、それを非常の惡事として壓迫してゐた。二十四五の頃になつて壓迫から解放されて、所謂青春の生甲斐のある樂みを味ふやうになつたのであつたが、小説を讀み繪畫を見、あるひは音樂を聽いて、空想してゐたやうな美しい、情緒の濃やかな戀は、彼れが現實に感得するところとはならなかつた。ある女の唇に觸れる時、彼れはその女ではない、ある空想裡の女を心に描いてゐるのであつた。
それは肉體の缺陷に依るのか、あるひは、彼れが女縁が薄くつて、おのれと身心の相投合した女にめぐり合なかつたのに依るのであらうか。青春の頃そのために焦燥を感じた。「美しい事を空想しながら汚いことを實行する」といふ不快な感じが、彼れの色戀には絶えず附き纏つてゐた。
彼れも、下宿屋の小綺麗な女がいつの間にかゐなくなつた時には哀愁を覺えた。友人の妹が結婚した時にも、ちよつと感傷的な氣持になつた。彼に多少の因縁を續けてゐた女が巣を變へた時に、苦勞して搜し出して訪ねて行つたこともあつたが、この女ならではと思つたことは一度もなかつた。だから、彼れは色戀に沒頭してゐるらしい時にも孤獨の感じから脱することは出來なかつた。
それで、歳を取つてからの彼れの思ひ出は淋しいのである。
先日、雨上りの空の冴えた日に、彼れは、この頃住んでゐる大磯の町はづれを散歩した。天王山の麓から高麗山の麓へかけて、紅く黄ろく色づいた木々の美しさに目を惹かれて、家に爲殘してゐる用事をも忘れて時を過してゐたが、菊など植ゑてある或る小さな別莊の庭先に、二人の子供を從へて立つてゐる、可成り老けた顏した婦人がふと目についた。何だか見覺えのある顏なので、彼れは何氣ない風して側を通りながら顧みたが、すると、その女は、「アツ。」と云つたやうな聲を出して、彼れを見入つた。二人は同時に相手が誰れであるかを思ひ出したのであつた。 ・・・  
●偶感一語 / 宮本百合子
最近、昆虫学の泰斗として名声のあった某理学博士が、突然に逝去された報道は、自分に、暫くは呆然とする程の驚きと共に、深い深い二三の反省ともいうべきものを与えました。故博士に就て、自分は何も個人的に知ってはおりません。
ただ、余程以前、何かの講演会の席上で、つい目の前に、博士の精力的な、快活な丸い風貌に接した以外は、文学を通してだけの知己でありました。
私の周囲にそのくらいの深度の記憶を持った人々は多くあると思います。その中から、幾人ずつか一年のうちに死去せられるのも事実です。けれども、それ等の場合、私の胸に湧いたものは、決して今度経験したようなものではありませんでした。
或る時には、その方の病名や年齢が一種の知識を与えます。ただ、寂寥々とした哀愁が、人生というもの、生涯というものを、未だ年に於て若く、仕事に於て未完成である自分の前途にぼんやりと照し出したのです。
けれども、その某博士が逝去されたという文字を見た瞬間、自分の胸を打ったものは、真個のショックでした。
どうしようという感じが、言葉に纏まらない以前の動顛でした。
私は、二度も三度も、新聞の記事を繰返して読みながら、台所に立ったまま、全く感慨無量という状態に置かれたのです。
食事を仕ながら、自分は、種々に自分の心持を考えて見ました。
親類でもなく、師でも友でも無い、尊敬する一人の学者としてのみ間接に、間接に知っている人の死に対して、それ程直接に、純粋に、驚愕と混迷とを感じたのは何故だろう。
考えの中に浮び上ったのは、第一、その博士夫人に対する自分の感情的立場です。
文学的趣味を豊かに蔵され、時折作品なども発表される夫人は、全然未知の方ながら、自分の心持に於て同じ方向を感じずにはおられません。
お年も未だ若く御良人に対する深い敬慕や、生活に対しての意志が、とにかく、文字を透して知られているだけでも、或る親しみを感じるのは当然でありましょう。 ・・・  
●当世女装一斑 / 泉鏡花
島田しまだ、丸髷まるわげ
の二種として、これを結ぶに必要なるは、先づ髷形わげがたと髢かもじとなり。髢にたぼみの小枕こまくらあり。鬢びんみの、横よこみの、懸かけみの、根かもじ、横毛といふあり、ばら毛といふあり。形かたに御殿形ごてんがた、お初形はつがた、歌舞伎形などありと知るべし。次には櫛なり、差櫛さしぐし、梳櫛すきぐし、洗櫛あらひぐし、中櫛なかざし、鬢掻びんかき、毛筋棒けすぢぼういづれも其一そのいちを掻かくべからず。また、鬢附びんつけと梳油すきあぶらと水油とこの三種の油必要なり。他に根懸ねがけと手絡てがらあり。元結あり、白元結しろもとゆひ、黒元結くろもとゆひ、奴元結やつこもとゆひ、金柑元結きんかんもとゆひ、色元結いろもとゆひ、金元結きんもとゆひ、文七元結ぶんしちもとゆひ[#「文七元結」は底本では「文六元結」]など皆其類なり。笄かうがい、簪かんざしは謂ふも更なり、向指むかうざし、針打はりうち、鬢挟びんばさみ、髱挟たばさみ、当節また前髪留といふもの出来たり。
恁かくて島田なり、丸髷まるわげなり、よきに従ひて出来あがれば起ちて、まづ、湯具を絡まとふ、これを二布ふたのといひ脚布こしまきといひ女の言葉に湯もじといふ、但し湯巻ゆまきと混こんずべからず、湯巻は別に其ものあるなり。それより肌襦袢、その上に襦袢を着るもの、胴より上が襦袢にて腰から下が蹴出しになる、上下合はせて長襦袢なり、これに半襟の飾を着く、さて其上そのうへに下着を着て胴着を着て合着を着て一番上が謂はずとも知れ切つて居る上着なり。帯の下に下〆したじめと、なほ腰帯といふものあり。また帯上おびあげと帯留とおまけに扱しごきといふものあり。細腰が纏まとふもの数ふれば帯をはじめとして、下紐に至るまで凡そ七条とは驚くべく、これでも解けるから妙なものなり。
さて先づ帯を〆め果はつれば、足袋を穿く下駄を穿く。待て駒下駄を穿かぬ先に忘れたる物多くあり、即ち、紙入、手拭、銀貨入ぎんくわいれ、手提の革鞄、扇となり。まだ/\時計と指環もある。なくてはならざる匂袋、これを忘れてなるものか。頭巾づきんを冠かぶつて肩掛を懸ける、雨の降る日は道行合羽みちゆきがつぱ、蛇じやの目の傘からかさをさすなるべし。これにて礼服着用の立派な婦人一人前ひとりまへ、粧飾品さうしよくひんなり、衣服なり、はた穿物なり、携帯品なり、金を懸かくれば際限あらず。以上に列記したるものを、はじめをはり取揃そろへむか、いくら安く積つもつて見ても……やつぱり少しも安からず、男子おとこは裸百貫にて、女は着た処が、千両々々。
羽織、半纏、或は前垂まへだれ、被布ひふなんどいふものの此外になほ多けれどいづれも本式のものにあらず、別に項かうを分ちて以て礼服とともに詳記しやうきすべし。
蹴出けだし
これ当世の腰巻なり。肌に長襦袢を着ることなるが、人には見えぬ処にて、然も端物はものの高価なるを要するより経済上、襦袢を略して半襦袢とし、腰より下に、蹴出を纏ひて、これを長襦袢の如く見せ懸けの略服なりとす、表は友染染いうぜんぞめ、緋縮緬などを用ゐ裏には紅絹もみ甲斐絹かひき等とうを合あはす、すなわち一枚にて幾種の半襦袢と継合つぎあはすことを得え、なほ且長襦袢の如く白き脛はぎにて蹴出すを得るなり、半襦袢と継合はすために紐を着けたり、もし紐を着けざるには、ずり落ざるため強き切きれを其その引纏ひきまとふ部分に継ぐ。
半襟はんえり
襦袢の襟に別にまたこれを着つく、三枚襲さんまいがさねの外部にあらはるゝ服装にして、謂はば一種の襟飾なり。最も色合と模様は人々の好に因る、金糸きんしにて縫ひたるもあり、縮緬、綾子りんず、絽ろ、等を用ふ。別に不断着物ふだんぎもの及び半纏はんてんに着つくるもの、おなじく半襟と謂ふ。これには黒繻子、毛繻子、唐繻子、和繻子、織姫、南京黒八丈なんきんくろはちぢやう、天鵞絨びろうどなど種々しゆじゆあり。

一寸の虫にも五分の魂、其の幅八寸五分にして長八尺ばかりなるもの、これ蓋し女の魂なり。さても魂の大きさよ。蜿蜒ゑんえんとして衣桁いかうに懸る処、恰も異体いたいにして奇紋きもんある一条の長蛇の如く、繻珍しゆちん、西陣、糸綿、綾織繻珍あやおりしゆちん、綾錦あやにしき、純子どんす[#ルビ「どんす」の下に「(ママ)」の注記]、琥珀こはく、蝦夷錦えぞにしき、唐繻子たうじゆす、和繻子わじゆす、南京繻子なんきんじゆす、織姫繻子おりひめじゆすあり毛繻子けじゆすあり。婦人固くこれを胸間きようかんに纏まとうて然しかも解難ときがたしとせず、一体品質厚くして幅の広きが故に到底糸を結ぶが如く、しつかりとするものにあらねば、このずり落ざる為に、
浴衣ゆかた
浴衣ゆかたは湯雑巾ゆあがりの略称のみ。湯あみしてあがりたる後に纏まとふゆゑにしか名づく。今いま木綿もめんの単衣をゆかたといふも、つまり湯上りの衣きぬといふことなり。
湯巻ゆまき
奉レ仕二御湯殿一之人所レ着衣也おゆどのにつかへたてまつるのひとつくるところのきぬなり白絹也しろききぬなりと侍中群要ぢちうぐんえうに見えたりとか。貞丈雑記ていぢやうざつきに、湯を召さするに常の衣きぬの上に白き生絹きぎぬ、其その白しろき生絹の衣いを、湯巻ともいまきともいふなり。こは湯の滴したたりの飛びて衣を濡すを防ぐべきための衣なり、とあり。
犢鼻褌ふんどし
木綿の布六尺、纏うて腰部を蔽ふもの、これを犢鼻褌ふんどしと謂ふ。越中、もつこう等はまた少しく異なれり。長崎日光の辺へんにて、はこべといひ、奥州にてへこしといふも、こはたゞ名称の異なれるのみ。また、たふさぎといふよしは、手にて前を塞ぎ秘すべきを、手のかはりに布にておほふゆゑにいふなりとぞ。  
●伊豆の旅 / 島崎藤村
汽車は大仁おほひとへ着いた。修善寺通ひの馬車はそこに旅人を待受けて居た。停車場を出ると、吾儕われ/\四人は直に馬車屋に附纏はれた。其日は朝から汽車に乘りつゞけて、最早もう乘物に倦んで居たし、それに旅のはじめで、伊豆の土を踏むといふことがめづらしく思はれた。吾儕は互に用意して來た金でもつて、來出るだけ[#「來出るだけ」はママ]斯の旅を樂みたいと思つた。K君、A君、M君、揃つて出掛けた。私は煙草の看板の懸けてある小さな店を見つけて、敷島を二つ買つて、それから友達に追付いた。
「そろ/\腹が減つて來たネ。」
とK君は私を見て笑ひ乍ら言出した。大仁の町はづれで、復た/\馬車屋が追馳けて來たが、到頭吾儕は乘らなかつた。「なあに、歩いた方が反つて暖いよ。」斯うは言つても、其實吾儕はこの馬車に乘らなかつたことを悔ゐた。それほど寒い思をした。山々へは雪でも來るのかと思はせた。私の眼からは止處とめどもなく涙が流れた。痛い風の刺激に逢ふと、必きつと私はこれだ。やがて山間に不似合な大きな建築物たてものの見える處へ出て來た。修善寺だ。大抵の家の二階は戸が閉めてあつた。出歩く人々も少なかつた。吾儕われ/\がブル/″\震へながら、漸くのことである温泉宿へ着いた時は、早く心地こゝろもちの好い湯にでも入つて、凍えた身體を温めたい、と思つた。火。湯に入るよりも先づ其方だつた。
湯治に來て居る客も多かつた。部屋が氣に入らなくて、吾儕われ/\は帳場の上にある二階の一間に引越したが、そこでも受持の女中に頼んで長火鉢の火をドツサリ入れて貰つて、その周圍へ集つて暖あたつた。何となく氣は沈着おちつかなかつた。
湯に入りに行く前、一人の女中が入つて來て、夕飯ゆふはんには何を仕度しやうと尋ねた。「御酒をつけますか。」斯う附添して言つた。
「あゝ、お爛を熱くして持つて來とくれ。」とK君が答へた。「姉さん、それから御酒おさけは上等だよ。」
吾儕の身體も冷えては居たが、湯も熱かつた。谷底の石の間から湧く温泉の中へ吾儕は肩まで沈んで、各自めい/\放肆ほしいまゝに手足を伸ばした。そして互に顏を見合せて、寒かつた途中のことを思つて見た。
其日、吾儕の頭腦あたまの内なかは朝から出逢つた種々雜多な人々で充たされて居た。咄嗟に過ぎる影、人の息、髮のにほひ――汽車中のことを考えると、都會の空氣は何處迄も吾儕から離れなかつた。吾儕は、枯々な桑畠や、淺く萌出した麥の畠などの間を通つて、こゝまで來たが、來て見ると斯の廣い湯槽ゆぶねの周圍へ集る人々は、いづれも東京や横濱あたりで出逢さうな人達ばかりである。男女の浴客は多勢出たり入つたりして居る。中には、男を男とも思はぬやうな顏付をして、女同志で湯治に來たらしい人達も居る。その人達の老衰した、萎びた乳房が、湯氣の内に朦朧と見える。吾儕は未だ全く知らない人の中へ來て居る氣はしなかつた。
湯から上つて、洋服やインバスの脱ぎ散してある部屋へ戻つた。これから行く先の話が出た。K君とA君とは地圖を持出した。其時吾儕は茶代の相談をした。 ・・・  
●万葉集研究 / 折口信夫
一 万葉詞章と踏歌章曲と
万葉集の名は、平安朝の初め頃に固定したものと見てよいと思ふ。 この書物自身が、其頃に出来てゐる。 此集に絡んだ、第一の資料は古今集の仮名・真名両序文である。 これを信じれば、新京の御二代平城天皇の時に出来た事になるのである。 従つて此集の名も、大体此前後久しからぬ間に、纏つたものと見てよさゝうである。
詩句と歌詞とを並べた新撰万葉集や、古今集の前名を「続シヨク万葉集」と言つた事実や、所謂いはゆる古万葉集の名義との間に、何の関係も考へずにすまして来てゐる。 茲ここに一つの捜りを入れて見たい。 新撰万葉集は、言ふ迄もなく、倭漢朗詠集の前型である。 其編纂の目的も、ほゞ察せられるのである。 此と、古今集とを比べて見ると、似てゐる点は、歌の上だけではあるが、季節の推移に興を寄せた所に著しい。 此と並べて考へられるのは、万葉集の巻八と十とである。 等しく景物事象で小分けをして、其属する四季の標目の下に纏め、更に雑歌ザフノウタと相聞サウモンと二つ宛に区劃してゐる。 分類は細かいが、此を古今集に照しあはせて見ると、後者に四季と恋の部の重んぜられてゐる理由が知れる。 私は、続万葉集なる古今は、此型をついだものと信じてゐる。 一方新撰万葉集の系統を見ると、公任の倭漢朗詠集よりも古く、応和以前に、大江維時コレトキの「千載佳句」がある。 此系統をたぐれば、更に奈良盛期になつたらしい、万葉人の詩のみを集めたと言つてよい――更に、漢風万葉集と称へてよい――懐風藻などもある。
万葉集と懐風藻と、千載佳句と朗詠集との間にあつた、微妙な関係が、忘れきりになつて居さうでならぬ。 懐風藻で見ても、宴遊・賀筵の詩が十中七八を占めてゐる。 此意味で、万葉巻八・十なども、宴遊の即事や、当時諷誦の古歌などから出来てゐる、と見る事が出来ると思ふ。 其を、四季に分けたのは、四季の肆宴・雅会の際の物であつたからである。 而も、雑と相聞とに部類したのは、理由がある。
相聞は、かけあひ歌である。 八・十の歌が必しも皆まで、此から言ふ成因から来たとは断ぜられまいが、尠くとも起原はかうである。 宮廷・豪家の宴遊の崩れなる肆宴には、旧来の習慣として、男女方人カタウドを分けての唱和があつた。 さうして乱酔舞踏に終るのであつた。 さう言ふ事情から、宴歌と言へば、相聞発想を条件としたのである。 古風に謂ふと、儀式の後に直会ナホラヒがあり、此時には、伝統ある厳粛な歌を謡うて、正儀の意のある所を平俗に説明し、不足を補ふことを主眼とした。 此際の歌詠が、古典以外に、即興の替へ唱歌を以てせられたのが、雑歌である。 ・・・  
 
 
 
 
 
 
 
 

 
2020/9