猛暑 終戦記念日

梅雨明けしたら 連日の猛暑
お灸をすえられているよう

猛暑
終戦記念日

家の北側 一間ほど国へ拠出 爆撃防災のための道幅拡張
子供のころ 庭にあった防空壕 思い出す
パラシュート用生地 羽二重の在庫
母の姉 東京から足利に疎開
満州で終戦 ロシアに抑留された親戚のおじさん 
   大分たって帰国 ただただ「ほっとした顔」 思い出す
 


天皇陛下のおことばおことば2019自民党声明アメリカ人の友人・・・
開戦の詔書終戦の詔書「特攻」若きエリートたちの苦悩「神風特別攻撃隊」の戦果フィリピンの人々の特攻隊員への敬意・・・
昭和天皇宮城事件天皇とマッカーサーの会見詔勅(しょうちょく)・・・
 
 
 

 

道幅拡張 終わってすぐに終戦
防空壕 鬼ごっこの隠れ場所
羽二重 戦後一時期 染物生地に生きる
東京 空襲で焼け野が原 伯母さんの家界隈だけ被害免れる
親戚のおじさん 満州での話 辛い思い出ばかりか
   何も話してはくれなかった
(母から聞いた話) 
   隣町は太田 中島飛行機があった
   太田が爆撃された際 間違って足利にも爆弾が落ちた
   その時 B-29 一機が高射砲にあたり 乗員がパラシュートで渡良瀬川に
   町民は竹やりで刺し殺そうとしたらしい ・・・
昭和23年ごろ 進駐軍が売った折りたたみ蛇腹式カメラ買う (69判ロールフィルム)
   このカメラのおかげで 日常の写真が残る
小学1年 脱脂粉乳とコッペパン
中学3年 担任の先生・教科は英語 昔進駐軍の通訳をしていたとのこと
 
 

 

 

●全国戦没者追悼式 天皇陛下のおことば 8/15 
本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来75年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。
私たちは今、新型コロナウイルス感染症の感染拡大により、新たな苦難に直面していますが、私たち皆が手を共に携えて、この困難な状況を乗り越え、今後とも、人々の幸せと平和を希求し続けていくことを心から願います。
ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。  

 

●終戦75年、平和誓う 陛下「深い反省」、コロナ言及も―追悼式、初の縮小 8/15 
75回目の「終戦の日」となった15日、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館(東京都千代田区)で開かれた。安倍晋三首相や遺族ら540人が参列し、先の大戦の戦没者約310万人を悼んだ。天皇陛下は皇后さまとともに出席し、お言葉で昨年と同じ「深い反省」との表現で平和を祈念する一方、新型コロナウイルス感染症にも言及された。
今年は新型コロナの影響で初の規模縮小となった。20府県が遺族の参列を断念し、参列遺族は193人。参列者全体とともに過去最少だった。
追悼式は午前11時50分すぎに始まり、正午に参列者全員で1分間の黙とうをささげた。続いて、天皇陛下が約2分間にわたりお言葉を述べた。「過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬこと」を切に願うと読み上げた一方、新型コロナについても「新たな苦難に直面していますが、私たち皆が手を共に携えて、困難な状況を乗り越え、人々の幸せと平和を希求し続けていくことを心から願います」とした。
これに先立ち、安倍首相は式辞で「戦争の惨禍を、二度と繰り返さない。この決然たる誓いを貫いてまいります」と述べた。歴代首相が言及したアジア諸国への損害には今年も触れなかった。
父がフィリピンで戦死した静岡市駿河区の杉山英夫さん(82)は遺族を代表し、「平穏な生活が享受できることは戦没者諸霊の尊い犠牲の礎の上に築かれた。心に深く銘記する」と追悼の辞を読み上げた。
厚生労働省によると、参列遺族は12〜93歳で、戦没者の父母は10年連続でいなかった。同省の事前集計では、妻は過去最少の1人。80代以上が約3割、70代以上が8割超で、戦後生まれが約3割だった。
高齢者が多いことも考慮し、会場は座席を1メートル間隔としたほか、飛沫(ひまつ)感染防止のため国歌斉唱はせず演奏だけにした。厚労省は参列できない遺族らのため、式典の様子を動画投稿サイト「ユーチューブ」で初中継した。 
●「困難乗り越え、平和希求」 天皇陛下、新型コロナに言及 8/15 
天皇陛下は全国戦没者追悼式のお言葉で、昨年の表現をほぼ踏襲する一方、「新たな苦難」として新型コロナウイルスの感染拡大に言及。「私たち皆が手を共に携えて、困難な状況を乗り越え、人々の幸せと平和を希求し続けていくことを願います」と述べられた。
追悼式のお言葉はこれまでも上皇さまや陛下が新たな表現を盛り込むなどして少しずつ変わってきたが、基本的な構成は同じだった。新たに段落を一つ加え、戦没者以外の話題に触れたのは極めて異例で、コロナ禍に苦しむ国民への陛下の思いがうかがえる。
感染拡大の影響で、天皇、皇后両陛下がお住まいのある赤坂御用地から皇居以外に外出したのは約半年ぶり。「四大行幸啓」と呼ばれる両陛下が出席する地方行事は年内の開催が全て取りやめになり、秋の園遊会も中止が決まった。感染拡大の収束は見通せず、両陛下が以前と同様の活動を再開できるめどは立っていない。
両陛下は4月に政府専門家会議の副座長だった尾身茂氏から説明を受けたのを皮切りに、学者やNPO関係者など幅広い立場の人を赤坂御所に招き、新型コロナの影響などについて熱心に耳を傾けてきた。
尾身氏との面会では、陛下が冒頭、「私たちが心を一つにして力を合わせながら、現在の難しい状況を乗り越えていくことを願っています」と発言したことが公表された。5月に日本赤十字社社長らと面会した際には皇后さまの発言も公表され、いずれも宮内庁ホームページに掲載された。活動が大幅に制限される中、両陛下から国民へのメッセージの意味合いがあったとみられる。
お言葉で新型コロナに触れたことについて、ある側近は「今の社会情勢からは自然な流れ。一見追悼には結びつかないが、世界の平和とわが国の発展を祈る上で、新型コロナは大きな阻害要因になるということだろう」と話した。  
●終戦75年、不戦誓う 戦没者追悼式 陛下、今年も「深い反省」 8/15 
終戦から75年を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で行われた。新型コロナウイルス感染症の影響で、20府県の遺族が欠席となったが、参列者は戦没者約310万人を悼み、不戦の誓いを新たにした。天皇陛下は昨年に続き、お言葉に「深い反省」との文言を盛り込まれた。
安倍晋三首相は式辞でアジア諸国への加害責任に触れず「積極的平和主義の旗の下、世界の課題解決にこれまで以上に役割を果たす」と述べた。首相が意欲を示す敵基地攻撃能力保有が議論されており、遠のく惨禍の記憶の継承が問われる。
厚生労働省によると、今年の参列者は約540人で過去最少。昨年の約6200人の1割弱となった。マスクの着用や消毒、社会的距離に配慮し、感染防止対策を取った中での式典となった。
戦後生まれの陛下は天皇として2度目の参列。今年は、コロナの困難な状況を乗り越え、平和を希求することを願うお言葉を読み上げた。安倍首相は第2次政権発足後8年連続で加害責任と反省に触れなかった。今回は「歴史と向き合う」との趣旨の言葉もなかった。
正午の時報に合わせ参列者が黙とうした。父親をフィリピン・ルソン島で失った静岡市の杉山英夫さん(82)が遺族を代表し「二度と戦没者遺族を出さないために、戦争の悲惨さと恐怖、平和の尊さを語り続け継承してまいらなければならない」と追悼の辞を述べた。
参列者の中で最高齢は兄が中国で戦病死した北海道の長屋昭次さん(93)。最年少は群馬県高崎市の中学1年井田雪花さん(12)で、曽祖父が南太平洋の島国ソロモン諸島周辺で戦死した。
宮崎県高原町の原田義隅さん(79)は参加を諦めた一人だ。この日はテレビ中継を見て、19歳で戦死した兄の伝さんをしのんだ。「記憶が風化する危機感がある。最後の一人になるまで語り継ぎたい」。県内には、高齢化が進み、遺族会が解散した地区もあるという。
日本遺族会によると、傘下団体の2019年の総会員数は約57万世帯。1960年代半ばの半数以下で減少が続く。総務省が今年4月に公表した人口推計によると、戦後生まれは84・5%に当たる約1億655万2千人に。19年度の旧軍人の恩給受給者は1万人を割った。 

 

●天皇陛下 令和最初の「終戦の日」でお言葉  2019/8/16 
「戦後生まれ」の天皇皇后両陛下 注目されたお言葉は
天皇皇后両陛下は8月15日「全国戦没者追悼式」に出席されました。両陛下にとって即位後、初めてのことです。式典の中で、両陛下は正午の時報に合わせ黙祷。注目されたお言葉は、毎年出席されてきた上皇さまの思いを受け継ぐものでした。
天皇陛下
「本日、『戦没者を追悼し平和を祈念する日』に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。 終戦以来74年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」
「反省」など、 上皇さまの思いを引き継がれたお言葉
天皇陛下のお言葉を昨年の上皇さまのお言葉と比べると、「国民のたゆみない努力により」というのが「人々のたゆみない努力により」に、「苦難に満ちた往時をしのぶとき」が「多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき」に変わってはいますが、それは少し柔らかくわかりやすい文言になっただけでした。かえって、「反省」「再び戦争の惨禍が繰り返されない」「世界の平和」などのお言葉に、上皇さまの思いが強く引き継がれている印象を受けました。
昭和、平成、令和・・・受け継がれる非戦の思い
この式典は、終戦から7年後の1952年に政府主催で始まったもので、昭和天皇と香淳皇后も出席され新宿御苑で行われています。その後も昭和天皇は毎年出席され、1988年にはがんの手術後、栃木県の那須御用邸でご静養中だった時も、ヘリコプターを使い式典に出席。これが昭和天皇にとって最後の外出してのご公務となりました。
上皇さまも翌年1989年1月のご即位後の8月から毎年この式典にはご出席。節目の年には、思いがこもったお言葉を述べられてきました。1995年の戦後50年の際には、「ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い」という前年にはない言葉を述べられました。2015年の戦後70年には、「戦争による荒廃からの復興、発展に向け払われた国民のたゆみない努力と、平和の存続を切望する国民の意識に支えられ」と前年の「国民のたゆみない努力」という言葉をより具体的に話されたほか、「さきの大戦に対する深い反省と共に」という言葉が加わりました。「反省」という言葉は、このときから加わったのです。
こうした昭和天皇、上皇さまの思いが、天皇陛下に強く受け継がれているわけで、今回、「反省」と非戦の思いをお言葉に記されています。天皇陛下は、戦争を知らない世代の方です。その方がこうした言葉を使われたのは、上皇さまの「戦争の悲惨さを風化させてはいけない」という思いをご自身も実感し、語り続けていかなければならないという思いの表れなのです。
天皇陛下は、戦後70年に当たる2015年のお誕生日会見で次のように語られています。
「私は、子供の頃から、沖縄慰霊の日、広島や長崎への原爆投下の日、そして、終戦記念日には両陛下とご一緒に黙祷をしており、その折に、原爆や戦争の痛ましさについてのお話を伺ってきました」
「私自身、戦後生まれであり、戦争を体験しておりませんが、戦争の記憶が薄れようとしている今日、謙虚に過去を振り返るとともに、戦争を体験した世代から戦争を知らない世代に、悲惨な体験や日本がたどった歴史が正しく伝えられていくことが大切であると考えています」
上皇ご夫妻はこの日、式典の様子を見ながら、お住まいの吹上仙洞御所で黙祷されたということです。皇室にとって8月15日とは一年の中でも重く大切な祈りの日なのです。 

 

●「終戦の日」の自民党声明、“脅威への抑止力”が初登場。 8/15 
毎年、終戦の日の8月15日に自民党が公表する声明。戦争の歴史と戦後の歩みへの受け止め、恒久平和に対する考えや立場を知ることができる。党が公式サイトで公表している過去10年分(2010〜2012年は総裁談話、2013年以降は党の声明)を読み比べると、戦後75年となる2020年の声明文で初めて盛り込まれたワードや、削除された言葉、重視する内容の変化が浮かんだ。
「脅威」が初登場
2020年の声明全文は以下の通り。
<本日、75回目の終戦記念日を迎えました。先の大戦で犠牲となられたわが国並びに全ての国の英霊に対し、衷心より哀悼の誠を捧げますとともに、二度とわが国は戦争への道を歩まないと強く決意いたします。戦後75年が経ち、先の大戦を経験した世代が少なくなる中で、あの惨禍を風化させてはなりません。唯一の戦争被爆国として、常に歴史と謙虚に向き合い、被爆の実相を次の世代に語り継ぐことが何よりも大切であります。今日、日本を取り巻く安全保障環境は厳しさと不確実性を増しています。憲法の範囲内で、国際法を順守しつつ、専守防衛の考え方の下、あらゆる脅威への抑止力・対処力を向上させていくことが求められています。自由民主党は、環境の変化を冷静に見極め、国民の生命と安全を断固として守り抜くとともに、世界の平和と繁栄に積極的に貢献し、恒久平和の実現に全力を尽くしてまいります。>
2018年の声明では「一国だけでは地域の平和と安定を守りきれない時代の中においては、日米同盟を基軸とする抑止力の向上を図り、積極的平和主義に基づいた平和外交努力を着実に積み重ねていくことが何よりも大切であります」として、「抑止力」のワードが含まれたが、2020年のような「脅威」「脅威への抑止力・対処力を向上」といった表現は、過去10年間の声明・談話にはない。
消えた「平和国家」と「平和と自由を愛する国民政党」
2020年の声明では、例年含まれていたワードの一部が無くなっていることも特徴の一つだ。2014年以降、日本を示す「平和国家」が毎年含まれていたが、2020年には記述がない。さらに、2013年〜2019年の声明に毎年記載があった、自民党自らを指す「平和と自由を愛する国民政党」も、2020年は見られなかった。
<自由民主党は、令和の時代においても平和と自由を愛する国民政党として、国民の皆様と共に、世界の平和と繁栄にたゆまぬ努力を続け、戦争の無い、希望に満ちあふれた「平和国家日本」を次の時代に引き継ぐことを、ここに強く誓うものであります。>(2019年の自民党声明)
<わが党は、平和と自由を愛する国民政党として、先人が築いた「平和国家日本」を次の世代に引き継ぎ、世界の平和と繁栄に積極的に貢献してまいります。>(2018年の自民党声明)
<わが党は、平和と自由を愛する国民政党として、先人が築いた「平和国家日本」を次の世代に引き継いでいくとともに、歴史と謙虚に向き合い、世界の平和と繁栄に積極的に貢献してまいります。>(2017年の自民党声明)
かつては「韓国国民に与えた苦難」と「沖縄の負担」にも言及
文字数を比べると、2020年は戦後74年の昨年と同数の374字で、過去10年間で最も短かった。最も長かったのは2010年の総裁談話(谷垣禎一氏当時)で、1253字だった。2010年をピークに年々減少傾向にある。
最長だった2010年の総裁談話では、以下のように加害国としての歴史にも言及していた。
<100年前の8月22日、「韓国併合ニ関スル条約」が調印されました。この国際法的な評価につき、我が国の立場はいささかも変わるものではありません。しかし、その後歴史がどのような経過を辿り、どれほど多くの犠牲を生ぜしめたか、就中、大韓帝国国民であった方々に与えた多大の苦難に正面から向き合う勇気と真摯さを持たねばなりません。>
2013年の声明では、戦後も沖縄が基地の負担を強いられていることに触れていた。当時の首相は現首相の安倍晋三氏。沖縄に言及しているのは過去10年で2013年のみだった。
<サンフランシスコ講和条約の発効によって主権を取り戻し、日本を日本人自身のものとしたと同時に、奄美、小笠原、沖縄の施政権が、日本から切り離され、日本復帰まで長い歳月が費やされたこと、今も日本の安全保障上の負担の多くを沖縄県が負っている現実を決して忘れてはなりません。>  

 

●アメリカ人の友人から言われた「終戦記念日」に対する意外な一言 8/15 
アメリカ現地での報道は?
日本人なら誰もが感慨深い気持ちになる8月15日の終戦記念日。アメリカの主要メディアでも、毎年8月上旬になると必ずや第2次世界大戦の回顧や日本での戦没者追悼式典などがニュースになる。
今年もいくつか記事が散見された。例えば「Why the U.S. Dropped Atomic Bombs on Japan」(なぜ米国は日本に原爆を投下したのか)、「How We Retain the Memory of Japan’s Atomic Bombings: Books」(日本の原爆の記憶をいかに維持するか)(共にニューヨークタイムズ紙)や「Americans insist the atom bomb ended the war in Japan ― ignoring its human cost」(アメリカ人は原爆が日本の戦争を終わらせたと主張 ― その人的被害を無視しながら)(ワシントンポスト紙)など。当地でもこれらの記事を見た人々は、過去の大戦を振り返った。
ただし原爆投下や終戦について、人々の会話の中で話題に上るかと言うと、筆者の周りを見てもそれほど議論の対象にはなっていない。
2001年にアメリカで起こった世界同時多発テロについて、日本でもニュースとして毎年取り上げられても、人々がその話題について日常の会話ですることがないのと同じである。1941年の真珠湾攻撃も然り。デリケートな内容であるが故、万が一話題に持ち出す際には、政治問題同様に細心の注意が必要なのだ。
原爆投下の是非
2000年初頭にアメリカに移住した筆者は、ふとしたきっかけでアメリカ人の友人と太平洋戦争の話になったことがある。その友人はそれまで数年間日本に在住経験があり、知友にも恵まれどちらかと言うと日本びいきだ。しかし、話が太平洋戦争、特に原爆投下のことになると目の色が変わった。
筆者の出身地は福岡県の小倉近くで、そこは本来、原爆投下予定地だった。「『もし小倉に落ちていたら私たちは今ここにいないかも』という話を両親からされたことがある」という話を何の気なしにしたところ(当然だが誹議する意図は微塵もなかった)、普段はおっとりした性格のその友人はこう言い放った。
「降伏を促したにもかかわらず日本は戦争を続行した。あの原爆が落ちなかったら戦争はもっと長引き、自分の祖父をはじめさらに多くの犠牲者が出ただろう。自分も今ここにいないかもしれない」
売り言葉に買い言葉だったのかもしれないが、気心知れた仲だからこそ冷や汗が出る出来事だった。それ以来、(あまり機会はないが)友人との会話に戦争の話題を持ち出す際は、十分すぎるほど配慮するようにしている。
原爆投下の是非については日米で受け止め方が大きく異なっており、しばしば議論の俎上に載せられる問題である。
『ナガサキ―核戦争後の人生』の著者でもあるノンフィクションライターのスーザン・サザード氏は、今年8月7日にワシントンポストに寄稿した、前述の記事の中で「原爆が戦争を終わらせたという考えは許容できない」とし、改めて被爆者の声を聞き、悲劇を2度と繰り返してはならないと綴った。
またオリバー・ストーン氏も自身が監督した2012年のドキュメンタリー番組『語られていないアメリカ史』を通し、原爆投下不可避論者に異議を唱えている。しかしそれらの意見は少数派だ。あくまでも多数派は筆者の友人のような意見であり、一般的なアメリカ人(ここで言うアメリカ人とは、第2次世界大戦期をサバイブしたアメリカ人の祖先を持つ人のことを指す)の原爆投下に対する代表的な意見と言っても過言ではない。
「戦後...はぁ?」
またこんなこともあった。別のアメリカの友人(戦争反対派)との会話で、終戦話を持ち出した時のこと。
「戦後...? 何言ってるの」と力なく鼻で笑われたことがあった。1945年8月14日(日本時間15日)は、日本の降伏が伝えられた日だ。この日、ニューヨークのタイムズスクエアは歓喜に満ちた。兵隊が看護師の女性にキスをしている情熱的な一瞬を写真家アルフレッド・アイゼンスタット氏がとらえた、世界中で知られる写真「勝利のキス」が撮影された日である。あの1コマからも、どれだけアメリカの人々がこの日を喜び迎えたか、想像に難くない。
しかし友人の「はぁ?」については、その後説明を聞いて筆者も納得した。アメリカは常に戦争をしている国なので「戦後」という概念がないのだと言う。確かに日本が1945年に終戦を迎えた後も、アメリカは朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争など多数の戦争、他国の紛争や内戦に介入してきた。
ただし第2次世界大戦に焦点を当てるなら、アメリカにとっての終戦日はドイツの降伏で欧州戦が終結した1945年5月8日(VEデー)、日本がポツダム宣言による降伏文書に署名した同年9月2日と言えるだろう。この日はVJデー(Victory over Japan day、対日戦勝記念日)と呼ばれている。
しかしあれから半世紀以上が経った現代では、毎年これらの日を祝う人は筆者の周りを見てもいない。そもそも9月上旬はアメリカ人にとってレイバーデー(労働者の日、毎年9月第1月曜日)の方がイベントとしての意義が大きい。子どものいる家庭は夏休み最後の週末を、伝統的に親戚や友人を裏庭に招き、盛大にバーベキューをして夏の終わりを楽しむ日なのだ。
60代になる日系アメリカ人の友人は、VJデーについてこのように教えてくれた。
「夫の両親(白人のアメリカ人)のように90代より上の人々は第2次大戦期を生き抜いた世代として、VJデーは意義深い日だったかもしれません。しかし、私の世代以降はこの日についてあまり知りません。そして年月が経つにつれVJデーへの関心がなくなりつつある理由は、この国が第2次大戦だけではなく、それ以降も多くの戦争にかかわってきたからなのです」
筆者は75回目の終戦記念日を、一時の敵国である遠いアメリカ・ニューヨークから今年も静かに見守る。「終戦」という概念がない国ではあるが、今後もいかなる戦争も起こらないように、世界の平和をただただ願うばかりだ。  
 
 

 


 
2020/8
 
 
 
 
 

 

 
 

 

●米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書 (大東亜戦争・開戦の詔勅 1941/12/8 )
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス 
朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ 勵艶E務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ  達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顕ナル 皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ  樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両國ト釁端ヲ開クニ至ル 洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ  東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ 帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ  相鬩クヲ悛メス米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ 逞ウセムトス剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ搴ュシテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル  妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復 セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ拐~ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ  u々經濟上軍事上ノ脅威ヲ搗蜒V以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル 帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲  蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ~靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ 遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
御名御璽
昭和十六年十二月八日
內閣總理大臣兼內務大臣陸軍大臣 東條英機

神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。
私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、私のすべての政府関係者は務めに励んで職務に身を捧げ、私の国民はおのおのその本分を尽くし、一億の心をひとつにして国家の総力を挙げ、この戦争の目的を達成するために手違いのないようにせよ。
そもそも東アジアの安定を確保し、世界の平和に寄与する事は大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、私が常に心がけている事である。そして各国との交流を篤(あつ)くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。今や不幸にして、米英両国と争いを開始するに至った。誠にやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。
中華民国は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態に至らしめ、もう四年以上経過している。幸いに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する政権(蒋介石)は、米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府と、未だに相互のせめぎ合う姿勢を改めない。米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。(それだけでなく)与(くみ)する国々を誘い、帝国の周辺において軍備を増強して我が国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようと、長い間忍耐してきたが、米英は少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。このような事態が続けば、東アジアの安定に関して我が帝国の積年の努力はことごとく水の泡となり、帝国の存立もまさに危機に瀕している。ことここに至っては、帝国は今や自存と自衛のため、決然と立ち上がって一切の障害を破砕する以外にない。
皇祖皇宗の神霊をいただき、私は汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、速やかに禍根をとり除いて東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。
御名御璽(ぎょめいぎょじ=天皇陛下のお名前とその印章のこと)  
 
 
 

 

 
 
 

 

●大東亜戦争終結ノ詔書 (終戦の詔書・玉音放送 1945/8/15 )
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク  
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ  
抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ  
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス  
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣 鈴木貫太郎

私は、深く世界の情勢と日本の現状について考え、非常の措置によって今の局面を収拾しようと思い、ここに忠義で善良なあなた方国民に伝える。私は、日本国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。
そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、すべての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けているものである。先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、まさに日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとより私の本意ではない。しかしながら、交戦状態もすでに4年を経過し、我が陸海将兵の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。それどころか、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、さらには人類の文明をも破滅させるに違いない。そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)にわびることができようか。これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。
私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。日本国民であって戦場で没し、職責のために亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。さらに、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。考えてみれば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。しかし、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いをこらえ、永遠に続く未来のために平和な世を切り開こうと思う。
私は、ここにこうして、この国のかたちを維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごすことができる。感情の高ぶりから節度なく争いごとを繰り返したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、そのために人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒めるところである。まさに国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って、必ず国のあるべき姿の真価を広く示し、進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動してほしい。
天皇陛下署名及び天皇の印 
 
 
 
 
 

 

 
 
 

 

 
 

 

●「特攻」十死零生の作戦に選ばれた、若きエリートたちの苦悩 2016/10
「統率の外道」と呼ばれた作戦
戦史には詳しくなくとも、「神風特別攻撃隊」(特攻隊)とご存じの読者は多いだろう。近年でいえば特攻を題材にした小説『永遠のゼロ』が大ベストセラーになったことが記憶に新しい。
その特攻は、今から72年前の10月に始まった。第二次世界大戦末期、アメリカやイギリスなどの連合軍に追い詰められた大日本帝国陸海軍の航空機が、搭載した爆弾もろとも敵艦に突っ込む攻撃隊である。成功すれば、搭乗員は必ず死ぬ。
「戦争してるんだから、死ぬのは当たり前じゃないか」。そう思う読者もいるだろうか。しかし、敵艦に爆弾もろとも突っ込むのではなく、爆弾を敵艦に当てて帰ってこい、というのが通常の作戦だ。
いかに戦時中といえども「死んでこい」という命令はめったにでない。兵士の士気が下がるのは当然であり、戦力が低下するのは必然である。任務の成功=死という「作戦」を組織的に行ったのは、少なくとも第二次世界大戦時点では大日本帝国だけである。
筆者は、この「統率の外道」(特攻創設者と言われてきた大西瀧治郎・海軍中将の特攻評)の実情を知るべく、関係者の取材を続けている。
特攻から帰還した江名武彦さんは、その1人だ。1923年生まれ。戦況が悪化していた1943年12月、早稲田大学在学中に学徒出陣した。海軍に入り呉の大竹海兵団など経て、百里原航空隊(茨城県)に転属した。そして、自らの意思を聞かれることなく、特攻隊員となった。
「学生生活を送っていましたから、人生への愛着や未練がありました。若くして命を絶つ悔しさと、親への申し訳ない気持ち」があった。一方で「国が危急存亡のときに、青年としての宿命だと考えました。同年代の若者は実際に戦場に行っていたのですから」。
「『ノーブレス・オブリージュ』(フランス語=noblesse oblige。高貴な者の義務≠フ意味)、学徒兵としての道義的な義務を感じていました」という。
22歳の少尉。江名さんは3人乗りの97式艦上攻撃機に乗って45年4月29日、鹿児島県の鹿屋基地から特攻に向かった。同乗するのは、いずれも海軍飛行予科練習生(予科練)出身の20歳と、16歳。出撃のとき、江名さんが機長。顔がこわばっていたのか、16歳の「戦友」に「笑って死にましょう」と話しかけられた。
江名機は、薩南半島南端の開聞岳付近でエンジントラブルに見舞われ、近くにある陸軍の知覧基地に不時着した。その後もう一度飛び立ったが、やはり機体不良で鹿児島湾沖の黒島に不時着、生還した。
一口に「特攻隊員」と言っても、多様だ。たとえば、
1 実際に特攻隊として出撃した
2 特攻隊員として、南九州などの出撃基地に配属された。出撃はしなかった
3 所属の基地で特攻隊員候補となった。出撃基地には移動しなかった
などである。
「元特攻隊員」は、マスコミにしばしば登場する。しかし戦後70年以上が過ぎ、1の「特攻隊員」の話を聞くのは、容易ではない。江名さんの証言は、極めて貴重だ。
なぜエリートたちが送り出されたのか
ところで当時の大学進学率は、10パーセントに遠く及ばない。また予科練は、海軍が航空機搭乗員のエキスパートを短期間で育成するために設立した機関だ。予科練出身者は「飛行機乗り」の専門家であり、大学生とは別の意味のエリート候補であった。なぜ、こうしたエリートたちを「九死に一生」でさえない「十死零生」の特攻に行かせなければならなかったのか。
その答えをみるまえに、特攻の歴史を振り返ろう。
1941年12月8日の開戦後、帝国海軍の機動部隊(航空母艦を基幹とした艦隊)はハワイで米太平洋艦隊の主力を壊滅させた。二日後には、海軍の基地航空部隊がマレー沖で、英国が誇る新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」以下戦艦2隻を撃沈。雷撃機(魚雷を積んだ航空機)と爆撃機(爆弾を搭載した航空機)と、それらを護衛する戦闘機からなる日本の航空部隊は当時、世界最強であった。翌年6月のミッドウェー沖海戦で主力空母4隻を失ったが、それでもしばらくは米機動部隊と互角に渡り合った。
しかし戦争が長期化するにつれ、日本の航空隊は、戦力を低下させていった。日中戦争以来の歴戦の勇士が少なくなり、搭乗員の技量が低下した。飛行機の性能そのものも、米軍ほど頻繁なモデルチェンジができず、差がついていった。そもそも国力が大きく劣るため、生産機数で太刀打ちできなかった。
さらに、その米軍がレーダーを活用し、防空体制を強化した結果、日本軍の航空隊が敵艦隊に近づくこと自体が難しくなっていた。
特攻は、こうした背景から始まった。
「死ぬこと」それ自体が目的に
1944年10月25日、午前7時。大日本帝国がアメリカやイギリスなどの連合軍と戦争を始めてから3年目。フィリピン・ルソン島マバラカットの飛行場に、5人のパイロットが立っていた。傍らにはゼロ戦。戦闘機だが、この日は爆撃機のように250キロ爆弾を抱いていた。
のち、最初の特攻隊として広く知られることになる敷島隊だ。
関行男大尉、中野磐雄、谷暢夫・一等飛行兵曹、永峰肇・飛行兵長、大黒繁男・上等飛行兵曹)が飛び立っていった。関を除く4人が、やはり予科練出身であった。
敷島隊の5機は、米空母群を発見し午前10時45分、襲いかかった。空母「セント・ロー」に1機が体当たりし炎上させた。魚雷と爆弾に引火し、30分足らずで沈没した。
別の一機は旗艦空母「キトクン・ベイ」に体当たりを試み、果たせなかったものの爆弾が炸裂し、被害を与えた。さらに空母「ホワイト・プレーンズ」に向かった一機も、体当たりは失敗したが「至近弾」となり、機体の破片などで乗組員11人が負傷した。
ちなみに、このときの特攻作戦と呼応していた連合艦隊の主力による「レイテ沖海戦」では、戦艦「大和」以下の大艦隊が執ように追撃し、ようやく沈めた米空母は1隻だけだった。それに匹敵する戦果を、たった5機が挙げたのだ。またこれに先立つマリアナ沖海戦では、帝国海軍機動部隊は500機近くで正攻法の攻撃をしかけながら、一隻すら沈めることができなかった。つまり特攻隊の威力は、驚異的であった。
これ以降、海軍は特攻を大規模に展開し、陸軍も続いた。
当初はもともとあった航空機を転用した特攻だが、その後、特攻専用機が「開発」された。「人間爆弾」と言われる「桜花」である。1・2トンの爆弾にエンジンが着いた構造で、車輪は着いていない。ゼロ戦などならば、故障があれば出撃後帰還することができた。しかし「桜花」が一度出撃したら、生きて帰る可能性はほぼゼロであった。
自殺とも言うべき特攻は、米軍とって信じがたい「作戦」である。予想していなかったため、当初は大きな戦果を挙げた。しかし米軍が迎撃態勢を整備した結果、特攻機は前述の通常作戦同様、目的とする敵艦船に近づくことさえ難しくなった。しかし末期の帝国陸海軍にとって、主要な「作戦」であった。
特攻に征けば必ず死ぬ。であるならば、通常の作戦で戦果を挙げる可能性がある歴戦のパイロットではなく、初心者を充てよう。また先々に軍の幹部となる者よりは、そうでない者を選ぼう。
特攻を推進した陸海軍首脳がそうした「合理性」を重んじた結果、陸軍士官学校や海軍兵学校出身のようにもともと「プロの戦士」ではない学徒出身者や、飛行機乗りとしてはプロだが、厳格な階級ヒエラルキーの中にあっては幹部になりにくい予科練出身者、ことに若者たちが特攻に動員された――筆者はそうみる。
航空機だけでなく水上、水中でも特攻が始まった。たとえば改造した魚雷に人間が乗り、母艦である潜水艦から出撃する人間魚雷「回天」であり、ベニア製のモーターボートに魚雷を積んで突っ込む「震洋」だ。
敗戦までの一年足らず、航空機による特攻だけでおよそ4000人の若者が死んだ。終盤は死ぬこと(死なせること)自体が目的のような「作戦」になってしまった。 

 

●「神風特別攻撃隊」の本当の戦果? 2016/11 
「特攻の記憶」
目の前に、「桜花」を抱いた一式陸上攻撃機(一式陸攻)が飛んでいた。護衛のゼロ戦に乗っていた野中剛(1925年生まれ)は突然、「耳元でバケツを打ち鳴らされたような音を聞いた」。そして機体後部に「ガン」という衝撃を感じた。
1945年3月21月。海軍鹿屋基地(鹿児島県)から特攻隊が飛び立った。一式陸攻18機を基幹とする「神雷部隊」である。護衛のゼロ戦は30機。敵は九州沖南方の米機動部隊(航空母艦=空母を基幹とした艦隊)であった。一式陸攻は爆弾、魚雷も搭載できる軍用機だが、この日は初めての兵器を胴体に抱いていた。
その兵器こそ特攻のために開発された「桜花」である。重さ2トン。機体の前身に1・2トンの爆弾を積んでいる。ロケットエンジンで前進し、小さな翼でグライダーのように飛ぶ。車輪はない。つまり一度空中に放たれたら、着陸することはほぼ不可能であった。
「普段は前三分、後ろ七部なんですが」。護衛30機のパイロットの一人だった野口は、70年近く前の体験を振り返って筆者にそう証言してくれた。
ゼロ戦のような戦闘機に限らず、撃墜される場合は死角である後方から攻撃されることが多い。このため、搭乗員は前方よりも後方を強く意識するのだ。「しかしあの時は前の編隊(「桜花」を抱いた一式陸攻の部隊)を守る意識が強すぎて、後方がおろそかになりました」。
第二次世界大戦末期、大日本帝国海軍は航空機が搭載した爆弾もろとも敵艦に突っ込む「神風特別攻撃隊」(特攻隊)を編成した。現在は「カミカゼ」と読まれがちだが、当時は「シンプウ」と呼ばれることが多かった。また「神風」は海軍側の呼称であり、海軍に続いて特攻隊を送り出した陸軍は、「神風」という言葉を組織としては使わなかった。
呼称はともかく、海軍も陸軍も爆弾を搭載した飛行機もろとも敵艦に突っ込む、という点では同じだ。成功すれば搭乗員は必ず死ぬ。「九死に一生」ではなく、「十死零生」である。飛行機も必ず失う。
爆撃機でいえば、通常の作戦ならば搭乗員は敵艦に爆弾をあてて帰還し、さらに出撃する。その繰り返しである。もちろん、その過程で戦死することは多々あるが、あくまでも前提は生還することである。
特攻は、そうした戦争の原則から大きく逸脱するものだ。筆者がカッコつきで「作戦」と書くのはそのためである。
その「作戦」は、前回みたように1944年10月、フィリピン戦線で始まった。海軍の「敷島隊」5機によって米空母1隻を撃沈、ほかの1隻にも損害を与えた。
第二次世界大戦において、帝国海軍は戦艦12隻を擁していた。「大和」「武蔵」はよく知られている。帝国海軍の実力は、艦船数や総トン数などでみるかぎりアメリカとイギリスに継ぐ第3位であった。しかし戦艦部隊の実力に関する限り、それは世界第一位であったといっていい。
敗戦時、12隻のうち何とか海に浮かんでいたのは「長門」だけ。ほかの11隻は撃沈されるか、航行不能だった。戦果と言えば、戦艦が米空母で沈めたと思われるのはたったの1隻(レイテ沖海戦における護衛空母「ガンビア・ベイ」)だった。「思われる」というのは、「ガンビア・ベイ」を撃沈したのが日本軍戦艦だったのか、あるいは巡洋艦だったのか判然としないからだ。
ともあれ、世界に誇る12隻の戦艦群が沈めた敵空母が、最大でも1隻でしかなかったことは事実である。「敷島隊」の戦果から半年後、「世界最強」と謳われた戦艦「大和」は瀬戸内海から九州東南を経て沖縄に向かったが、米軍機の空襲が始まってからわずか2時間余で撃沈された。
敵空母を撃沈するどころか、その姿をみることもなく、かすり傷一つ与えることはなかった。
そうした現実からみると、たった5機の「敷島隊」による戦果は巨大であった。海軍内部には、特攻に対する抵抗もあった。前述の通り、作戦ではなく「作戦」だからであり、まさに「統率の外道」(特攻創設者とされてきた大西瀧治郎・海軍中将の特攻評)だからである。
しかし「敷島隊」の大戦果によって、海軍は特攻を本格的に進めた。陸軍も、同じフィリピン戦線で特攻を始めた。「外道」が「本道」となり、「特別攻撃隊」が「普通の特別攻撃隊」になったことを、確認しておこう。
子供の玩具のような特攻機 
当初は確かに戦果を挙げた。なぜなら、米軍を初めとする連合軍は、爆弾を積んだ飛行機が飛行機もろとも自分たちに突っ込んでくる行為が、継続的かつ組織的に行われることを予想していなかったからだ。このため日本軍の特攻への対処が遅れ、被害が拡大した。日本軍からみれば戦果が拡大した。
特攻隊が「敷島隊」のような戦果を挙げ続けたら、第二次世界大戦の流れは変わっていたかもしれない。しかし、現実は違った。
米軍は、特攻の意図を知って対処を進めた。特攻機の第一目標は航空母艦(空母)であった。レーダーを駆使し、空母群と特攻隊の進路の間に護衛機を多数、配備する。戦艦なども多数配置する。こうした結果、特攻隊は目標に体当たりするどころか、近づくことさえ困難になった。
また、そうした護衛部隊をかいくぐってなんとか米空母群付近にたどり着いたとしても、そこにはさらなる護衛機群があって、艦船からは十重二十重の迎撃弾が吹き上がってくる。日本軍機は、一般的に少ない燃料で航続距離を伸ばすため軽量化を図り、その反面防御力を犠牲にした。
大戦後半、米軍機が日本軍の機銃を浴びても分厚い装甲がそれをくいとめ、墜落を免れることがあった。一方、ゼロ戦を初めとする日本軍機は敵機の一撃が致命傷となり得た。
さて特攻機は、出撃したものの機体の故障のため帰還することが少なくなかった。なぜか。
以下は大戦末期に連合艦隊司令長官、つまり帝国海軍の現場の最高責任者だった豊田副の証言である(『最後の帝国海軍』)。米軍が沖縄に上陸した1945年4月以後の状況だ。
「沖縄戦がだんだんと進行してゆくと、次は内地の本土決戦以外には考えようがないので、専ら本土決戦準備に、陸海軍とも狂奔し、すべてこの兵力の整備とか建直しをやつた」。ところが「今まで百機持つておつたのに、更に五十機来たとして、今までの可動五十機だつたのが、今度は三十機乃至二十機になるという始末」だった。
豊田は航空部隊で、「新型飛行機」の完成品をみた。「それは新型戦闘機で、まるで子供が悪戯に作つた玩具のようなもので、一見リベットの打ち方もなつていない。実にひどいものだつた」。
つまり生産機数が落ちているだけではなく、できあがった飛行機の質も著しく低下していたのだ。さらに言えば、精密機械である飛行機を維持するには、プロの整備兵が必要だ。しかし国を挙げての総力戦が長引くうち、パイロットのみならずその整備兵も不足していった。
また南方の石油産出地域を占領していたものの、その石油を運ぶルートの制空権と制海権を米軍に抑えられているため、石油を十分に輸送することができなかった。このため、オクタン価の低い航空燃料で飛行機を飛ばすことになった。
要するに、飛行機の生産数が減っていき、せっかく生産された飛行機は少なからずポンコツで、そのポンコツに粗悪な燃料を積み、その上十分な整備もなされないまま前線に送り出された航空機が多かった。それは特攻機としても動員されただろう。
さらに言えば、1941年12月の対米戦開戦より前、日中戦争から使われていた老朽機も特攻に投入された。出撃したものの、引き返すケースが多いのは当然だった。
1隻沈めるのに、81人の命
ところで特攻といえば、一般的には「家族や国を守るため、自らの命を投げ出した若者たち」という印象が強いだろう。それゆえ特攻はそれが終わってから71年が過ぎた今も、多くの人たちの心を打つ。
筆者はこれまで、たくさんの特攻隊員、しかも実際に出撃した特攻隊員を取材してきた。彼らの証言を聞き、あるいは戦死した人たちの遺書、親や妻、子どもたちに書き残したそれを読むと涙を禁じ得ない。
「そうした尊い犠牲の上に、今日の日本の平和がある」という感想を、しばしば聞く。筆者はその感想にも同意する。同意するが、新たな疑問が生じてくるのだ。「なぜ、だれが未来有望な若者たちをポンコツ飛行機に乗せて特攻に送り出したのか。戦果が期待したほど上がらないと分かった時点で、どうして特攻をやめなかったのか」と。
ともあれ、海軍による特攻「作戦」は当初、既存の航空機に爆弾を搭載していた。しかし軍が期待したほどの戦果は上がらなかった。前述のハードルを越えて敵艦に突っ込んでも、そもそも飛行機には浮力があるため、高高度から放たれた爆弾のような衝撃力はなかった。さらに爆弾が爆発する前に機体がくだけてしまい、肝心の爆弾が不発なこともあった。
そうした中で開発されたのが、機体そのものが爆弾といっていい「桜花」である。搭乗員は必ず死ぬが、命中すれば敵の損害は大きい。しかしこれも敗戦まで、大きな戦果を挙げることはなかった。
そもそも、ただでさえ動きが鈍く防御力の乏しい一式陸攻に2トンもの「桜花」を積んだら動きがさらに鈍くなり、敵戦闘機の餌食になるのは必定であった。実際、冒頭にみた、野口が護衛した「神雷部隊」の一式陸攻18機もすべて撃墜された(「桜花」を搭載していたのは16機)。 
敵艦は一隻も沈んでいない。被弾した野口機は、何とか帰還したが、「作戦」自体は大失敗だった。
敗戦まで、航空特攻の戦死者は海軍が2431人、陸軍が1417人で計3830人であった(人数には諸説がある)。一方で敵艦の撃沈、つまり沈めた戦果は以下の通りである(『戦史叢書』などによる)
正規空母=0/護衛空母=3/戦艦0/巡洋艦=0/駆逐艦=撃沈13/その他(輸送船、上陸艇など)撃沈=31
撃沈の合計は47隻である。1隻沈めるために81人もの兵士が死ななければならなかった、ということだ。しかも戦果のほとんどが、米軍にとって沈んでも大勢に影響のない小艦艇だった。
この中で大きな軍艦といえば護衛空母だが、商船などを改造したもので、もともと軍艦ではないため防備が甘く、初めから空母として建造された正規空母より戦力としては相当劣る。特攻が主目的とした正規空母は一隻も沈まなかったという事実を、我々は知らなければならない。
「撃沈はしなくても、米兵に恐怖を与えて戦闘不能に陥らせた」といった類いの指摘が、しばしばある。そういう戦意の低下は数値化しにくく、戦果として評価するのは難しい。それは特攻=「必ず死ぬ」という命令を受けたか、受けるかもしれないと思って日々を過ごしている大日本帝国陸海軍兵士の戦意がどれくらい下がったのかを数値化できないとの同じだ。
我々が知るべきは、特攻の戦果が、軍上層部が予想し来したものよりはるかに低かった、ということだ。むろん、特攻で死んでいった若者たちに責任は一ミリもない。
押し付けられた責任
ところで、「特攻隊を始めたのは誰だ?」。そういう問いに対してはしばしば、大西瀧治郎海軍中将の名が挙がる。実際1944年10月、フィリピン戦線で最初の特攻隊を見送ったのは大西だ。しかし、前出の豊田は言う。
「大西が特攻々撃を始めたので、この特攻々撃の創始者だということになっておる。それは大西の隊で始めたのだから、大西がそれをやらしたことには間違いないのだが、決して大西が一人で発案して、それを全部強制したのではない」
特攻は、大西一人の考えで始まったものではなかった。たとえば軍令部第二部部長の黒島亀人である。同部は兵器を研究開発する部署であった。奇抜な言動から「仙人参謀」と呼ばれた黒島は、戦争中盤から特攻の必要性を海軍中央に訴えていた。
黒島以外にも、海軍幹部たちが特攻を構想・準備していた証拠はある(拙著『特攻 戦争と日本人』)。しかし戦後、特攻を推進した者たちは、自分が果たしたであろう役割を語らなかった。
大西は敗戦が決定的となった1945年8月、自殺した。若い特攻隊員を送り出した将軍のなかには「自分も後から続く」などと「約束」しながら、敗戦となるとそれを破って生き延びた者もいる。そして大西以外の特攻推進者たちは、「死人に口なし」とばかり、大西に責任を押しつけた。
巨大組織である海軍には様々な部署があったが、メインストリームは砲術つまり大砲の専門家であり、あるいは雷撃すなわち魚雷の専門家であった。そうした中、大西の専門は創設間もない航空であった。自分が育てた航空部隊への思い入れはひときわ強く、部下思いでもあった。  

 

●なぜフィリピンの人々はいまだに日本の特攻隊員に敬意を払うのか? 2020/4 
「決死隊を作りにゆくのだ」――大西瀧治郎中将のつぶやきを、副官・門司親徳主計大尉は、隣り合わせに座った乗用車の後席でじかに聞いた。フィリピン・マニラの第一航空艦隊司令部から、クラークフィールド・マバラカット基地へ向かう道中、昭和19(1944)年10月19日、夕刻のことである。これが、以後、終戦まで10ヵ月にわたって続けられた特攻作戦の、事実上の始まりだった。
戦後75年の今年3月、筆者は、門司副官の長男・和彦氏らと、クラークフィールドの特攻基地跡を訪ねた。「新型コロナウィルス」COVID-19がフィリピンでも猛威を振るい始め、首都がロックダウンされたため、ごく短期間の滞在に終わったが、マバラカット、バンバン、アンヘレス……平和でのどかな風景のあちこちに戦争の爪痕を垣間見ることができた。そして、現地で出会った男性の意外な素顔とは――。
特攻の始まりを告げた静かな号砲
フィリピン・ルソン島。一台の黒塗りの乗用車がマニラから北に向け走っている。乗車するのは、第一航空艦隊(一航艦)司令長官として新たに着任する大西瀧治郎中将と、大西の副官・門司親徳主計大尉(戦後丸三証券社長。1917-2008)、そして運転員の3名で、目的地は、一航艦の零戦隊・第二〇一海軍航空隊(二〇一空)が本部を置くクラークフィールドのマバラカット基地だ。
太平洋戦争末期、アメリカ軍の大部隊がレイテ湾口のスルアン島に上陸、本格的な反攻が始まって2日後の昭和19(1944)年10月19日、夕刻のことである。
上空を飛ぶ敵機から発見されにくいよう屋根に木の葉の擬装をほどこした車は、マニラの海岸通りから市街地を抜け、郊外の国道に出るとルソン島中部の平野を北上した。門司は、大西中将と並んで後席に座っている。大西が右、門司が左。
大西は、マニラを出てからずっと黙っている。門司もあえて話しかけることはせず、窓の外を眺めている。左右はずっと田んぼで、黄金色の稲穂が続くが、もう稲刈りの季節らしく部分的に刈り取られている。サンフェルナンドの街の大きな教会が見えたときには、もうだいぶ陽が傾いていた。
右前方に、アラヤット山という、擂鉢を伏せたような形の山が見える。その向こう側の空には、墨色の雨雲がかかっていた。門司が、
「暗い陰鬱な雲だ。あの下は雨かな」
と思って見ていると、不意に、大西が低い声でなにかをつぶやいた。門司は、はじめはよく聞き取れず、「は?」とちょっと顔を右に向け、耳を澄ませた。大西は、こんどは門司にもはっきりと聞き取れる声で、
「決死隊を作りに行くのだ」
と言った。――このつぶやきが、その後、戦争が終わるまで10ヵ月にわたって続く特攻作戦の、まさに始まりを告げる静かな号砲だった。
その晩、民家の洋館を接収したマバラカットの二〇一空本部で、大西は主要幹部を集め、体当り攻撃隊(特攻隊)の編成を指示した。すでに前日、レイテ湾に集結した米軍の大部隊を、日本海軍の総力を挙げて攻撃すべく、「捷一号作戦」が発動されている。
この作戦は、戦艦「大和」以下の主力艦隊の砲撃をもって敵艦船を撃滅することが主眼になるが、艦隊のレイテ湾突入を成功させるためには、空からの掩護が欠かせない。だが、フィリピンの制空権を担うはずの第一航空艦隊は、これまでの作戦上の不手際から戦力をすでに消耗していて、前任の司令長官・寺岡謹平中将がその責を負う形で更迭され、大西が着任したときには、麾下の航空兵力は約40機しか残っていなかった。
フィリピンの日本軍航空兵力は、陸軍の70機、追って台湾から応援に駆けつける予定の第二航空艦隊(二航艦)の230機を合わせても約340機にすぎない。この戦力をもって、多数の空母に1000機を超える航空兵力を擁する敵の大部隊と戦うには、せめて敵空母の飛行甲板を破壊し、一週間程度、使用不能にするしかない。
しかし、これまでの戦訓では、敵艦隊の攻撃に向かった航空部隊は、ほとんど戦果を挙げることなく、大半が撃墜されている。通常の攻撃方法では、もはや生還はおろか、敵艦に損傷を与えることさえ困難になっていた。
そこで、大西は、自ら指揮する第一航空艦隊の主力である二〇一空の零戦に爆弾を搭載し、敵艦に体当りさせる「決死隊」の編成を決意したのだ。
体当り攻撃隊は「神風特別攻撃隊」と名づけられ、10月25日、のべ10機の爆装特攻機の突入で米護衛空母1隻を撃沈、5隻に損傷を与える「初戦果」を挙げる。主力艦隊によるレイテ湾突入は結局、果たせずに終わったが、「特攻」は以後、第二航空艦隊や陸軍、さらには内地の航空部隊にも波及して、恒常的な戦法となっていった。
特攻戦死者の総数は、「(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍2531名、陸軍1417名、計3948名にのぼる。大西瀧治郎中将は、終戦を告げる天皇の玉音放送が流れた翌日、昭和20(1945)年8月16日の未明、渋谷南平台の海軍軍令部次長官舎で割腹して果てた。特攻隊員たちや遺族の苦悩を思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断って、自らの血の海のなかで半日以上悶えた末の、壮絶な最期だった。
12の飛行場から続々と特攻隊が
――戦後75年の今年(2020)3月、筆者は、特攻隊編成の一部始終を知る立場にあり、生前インタビューを重ねた門司親徳副官の長男・和彦さんほか3名とともに、フィリピンのかつての特攻基地跡を訪ねた。
門司親徳氏は、会社や家庭で戦争の話をすることはほとんどなく、和彦さんは小さい頃、風呂で問わず語りに戦争のことを聞かされたかすかな記憶があるのみだという。フィリピンで父の足跡をたどるのは、和彦さんの宿願だった。
新型コロナウィルス(COVID-19)はすでに猛威をふるっていたが、出発前に確認したところ、羽田-マニラ便は平常運航で、入国制限も敷かれていない。3月13日午前1時30分羽田空港発のJAL077便に乗り、現地時間5時(日本時間6時)、マニラ空港に到着。そこで車をチャーターし、あえてガイドはつけず、Googleマップを頼りに、かつての特攻基地を訪ねることにした。まずはマニラ市街を抜けて北上し、クラークフィールドを目指す。
クラークフィールドは、マニラの北側、ルソン島中部に広がる大平原で、戦時中、ここには、北からバンバン北、バンバン南、マバラカット東、マバラカット西、クラーク北、クラーク中、クラーク南、マルコット、アンヘレス北、アンヘレス東、アンヘレス西、アンヘレス南と、12もの飛行場があった。
当時、飛行機搭乗員が携行した航空図に各飛行場の詳細はなく、一帯を赤い円で囲って「クラーク航空要塞」とのみ記されている。アンヘレスのように、上空から見て飛行場とわからないよう、草原のままにしている秘匿基地もあった。そのため、自分が進出すべき飛行場の位置がわからず、よその部隊の基地に間違えて着陸する飛行機が後を絶たなかったという。
昭和19(1944)年10月20日、特攻隊が最初に編成された二〇一空本部はマバラカット市街にあり、10月21日、最初に出撃したのはマバラカット西飛行場、初めて突入に成功した10月25日に発進したのはマバラカット東飛行場である。さらに、ほかの飛行場からも、特攻隊は続々と出撃した。
マニラのニノイ・アキノ国際空港からクラークまでは約100キロ、早朝から大渋滞のマニラ市街を抜け、きれいに整備された高速道路に乗れば、約2時間の道のりである。高速道路は、かつて大西中将と門司副官が走った幹線道路のやや東寄りを通っている。左右には広大な田園風景が広がり、よく晴れた空の下、牛や山羊が草を食んでいるのがあちこちに見える。
サンフェルナンド近くに差しかかった頃、右前方の平原の向こうに、まさに擂鉢を伏せたような形の山が見えた。アラヤット山である。「決死隊を作りに行くのだ」と大西中将がつぶやいたのは、このあたりだったに違いない。
予約していたアンヘレス市内のホテルに荷物を預け、最初に訪れたのは、アンヘレスとマバラカットの中間あたりに位置するクラーク博物館である。
ここには、太古の昔から現代までの、クラーク地方の歴史資料が時代を追って展示されているが、なかでもアメリカ統治時代、この地に置かれた航空基地に関連する展示が目を引いた。
太平洋戦争初期、在比米軍は日本軍の猛攻を受け壊滅、クラークは日本陸海軍航空部隊の一大拠点となる。しかし、やがて巻き返したアメリカ軍は戦争に勝利、ふたたび広大な米空軍基地が置かれる。1991年4月、空軍基地からわずか20キロのピナツボ山が大噴火、同年11月、米軍は、基地使用期限を更新せず撤退するが、2012年からふたたび駐留している。
――いろいろとめずらしい資料、写真の展示があって興味深く見学したが、太平洋戦争については、明らかに米軍側の視点に立っていて、ハワイ・真珠湾のアリゾナ記念館ほどではないものの、日本人としてはあまり居心地のよいものではなかった。
フィリピン人が建立した特攻隊記念碑
次に私たちは、マバラカット西飛行場跡にある特攻隊記念碑に向かった。この記念碑は、もとはアンヘレス市在住の画家、ダニエル・H・ディソン氏が、1974年、マバラカット東飛行場跡に建てたもので、最初の碑がピナツボ山噴火の際に流失したのち、こんどはマバラカット西飛行場跡に建てられた。――これには少し説明が要る。
大戦中、マバラカットに暮らしていた14歳のディソン少年は、よく飛行場に遊びに行き、そこで日本海軍の搭乗員に可愛がられた。終戦後、成人してマニラの大学を卒業したディソン氏は、猪口力平・中島正共著『神風特別攻撃隊』の英訳版を読み、衝撃を受けたという。自分を可愛がってくれたあの若者たちは、身を捨てて体当り攻撃を決行した特攻隊員だったのだ。
そこで、ディソン氏は、マバラカットから飛び立った特攻隊員たちを慰霊し、顕彰したいと考えた。戦争の被害者が、敵の将兵を祀るとはなにごとかと、反対意見も多く出るなか、ディソン氏は反対者を粘り強く説得し、同志を募って「カミカゼ・メモリアル・ソサエティ」(KAMESO)という団体を設立した。そしてついに、最初に特攻隊が突入に成功したさい出撃したマバラカット東飛行場跡の一角に、記念碑を完成させたのである。
1974年といえば、戦後29年。特攻隊員はもちろんのこと、特攻作戦の中枢にいた航空隊司令や参謀クラスの元軍人、そして戦没者の親世代も存命だった頃である。日本側の関係者は、本来、自分たちがやるべきことを地元フィリピンの人たちがやってくれたことに感謝し、1975年以降、毎年、慰霊団が訪れるようになった。
初期の頃には、二〇一空司令・山本栄大佐や、大西瀧治郎中将夫人・大西淑惠さん、航空参謀として最初の特攻隊編成に関わった吉岡忠一中佐らも、元特攻隊員たちとともに参加している。
それにしても、フィリピン人が日本の特攻隊を大事にしてくれるというのはどういうことかーー慰霊団に参加した門司親徳氏は、ディソン氏に聞いてみた。
「祖国に殉じて戦った霊に、敵も味方もありません。それに、私たちフィリピン人は白人支配の犠牲者です。同じアジアでも、経済的に立派に自立を遂げている台湾や韓国とちがって、アメリカ人は、フィリピン人に自分でものをつくることを学ばせなかった。アメリカがつくったものを、一方的にフィリピン人に売りつけてきたからでした。だからフィリピンでは鉛筆1本つくれない。アメリカは、植民地フィリピンに対して愚民政策を推し進めてきたんじゃないでしょうか」
というのが、ディソン氏の答えだった。大いに感じ入った門司氏は、自らが受け取っている軍人恩給のすべてを投じ、ディソン氏らの活動を支援するようになる。
ところが、1991年、ピナツボ山噴火のさいの土石流で記念碑が失われ、再建の話が出るようになると、こんどはマバラカット市観光局が、この地に特攻隊の記念碑を建てるという計画が浮上してきた。マバラカット市当局は、ディソン氏が元の場所(東飛行場跡)に記念碑を再建することを認めず、ディソン氏を外す形で、新たな記念碑をつくることになったという。日本人が来る観光スポットのシンボルに、との思惑があったのかもしれない。
ディソン氏はやむなく、マバラカット西飛行場跡の西端に土地を確保し、ここに記念碑を建立することとした。門司氏は、マバラカット市の動きは否定しないが、心情的にディソン氏を応援していたことは言うまでもない。
かくて、あたかも「元祖」と「本家」が互いに存在を主張しあうような形で、平成16(2004)年、カミカゼが「最初に飛び立った飛行場」(ディソン氏の西飛行場)と「最初に突入したときに発進した飛行場」(市当局の東飛行場)、二つの記念碑が同時に建立されたのだ。
だが、ディソン氏は2015年12月10日、85歳でこの世を去り、日本側の関係者もほぼ全てが鬼籍に入ってしまったいま、記念碑建立のいきさつを知る人はほとんどいない。
――話を戻すと、私たちがまず西飛行場の記念碑を目指したのは、和彦さんの父・門司親徳氏が応援していたディソン氏にゆかりの場所であるからにほかならない。ところが、現在、西飛行場の記念碑は射撃場の敷地内になっていて立ち入り禁止、事前に許可証を入手しない限り、そこに行くことはできないのだという。許可証と言われても、どこに申請すればいいのかもわからない。
そこで、ゲートの番をしていた守衛に、訳を話して交渉すると、一人500ペソ(約1000円)を払えば、10分間だけ入場を許可するということで話がついた。もちろん、これは正規の入場料ではないはずだが、入れてくれるのならやむを得ない。
車でゲートを入るとほどなく、右側の草むらの奥に記念碑が見えた、周囲は草ぼうぼうだが、記念碑の敷地だけはきれいに整備されている。碑の左右にはフィリピン国旗と日本の軍艦旗が描かれ、その間に<第二次世界大戦に於て日本神風特別攻撃隊が最初に旅立つた飛行場>と記されている。
台座の上には観音像が置かれ、供物台には、以前日本人が来たときに供えていったものか、干からびた果物や溶けた蝋燭が残っていた。
碑には、ディソン氏の文章を誰かが翻訳した、やや拙い日本語の解説が刻まれていた。その言葉は、次のように締めくくられている。
<第二次世界大戦中の日本の「神風」は全ての戦争歴史の中で最大の軍事目的の体当たり組織である。外国の侵攻から日本本土を防衛する為に死に物狂いの手段であった。この地に訪ねる参拝者の皆様に謹んでお願いします。全ての「神風」と連合軍戦没者に対して永遠に安らかにお眠りください、そして、全世界の為にいのりますと祈念して下さい。  歴史研究家 ダニエル・エッチ・ディソン>
おそらく、無許可で人を立ち入らせたことがバレてはまずいのだろう、守衛は終始そわそわと落ち着かない。私たちは、観音像に線香をあげ、供物を供えると、急き立てられるように記念碑をあとにした。
さらに私たちは、マバラカット東飛行場跡、かつてディソン氏が建てた記念碑の跡地にマバラカット市がつくった記念碑を訪ねた。交通量の多い幹線道路に面したところに、日本の鳥居を横長にしたような形のゲートがあり、飛行服姿の特攻隊員の像が立っている。この像は、実在の特攻隊員ではなく、特攻隊をテーマにした舞台で主役を演じた俳優・今井雅之氏をモデルにしているという。
ゲートの左脇には、ダークグリーンの地に<神風 Kamikaze(DIVINE WIND) EAST AIRFIELD>と大きく書かれた「MABALACAT CITY TOURISM OFFICE」の看板が立っている。土曜日の昼で、学校帰りらしい制服姿の女子学生が大勢前を通るが、彼女たちはこの碑に全く関心はないようだった。
日本軍と戦った恩讐を越え
ガイドもつけない、行き当たりばったりの旅。マバラカット西と東、両方の記念碑に詣でた私たちは、続いて、スマートフォンで見つけた「バンバン歴史博物館」に向かった。
バンバンの地には、特攻作戦の渦中、第一、第二航空艦隊司令部が置かれていたが、ここがどんな博物館なのか、予備知識は何もない。着いてみると、入口には「CLOSED」の札が出ている。どうしても見学したかったわけではないが、一応、念のためノックしてみると、ドアが開いて男性が訝しげに顔を出した。そこで和彦さんが、「突然訪ねて申し訳ない。じつは私の父が戦争中、この地にいたので寄ってみました」と言うと、男性が、「お父さんの名前は?」と聞き返す。
「父の名前は門司親徳です」 和彦さんが答えたとたん、男性は大きく目を見張り、心底驚いた表情を見せた。
この博物館の館長を務めているロニー・デラクルス(Rhonie Cauguiran Dela Cruz)さん(50歳)。1999年に設立されたバンバン歴史協会(Bamban Histrical Society)の会長を務めている。2000年には1年間、勤めていた日系企業の技術研修のため日本に滞在したことがあり、休日には大磯の門司親徳氏邸を何度も訪ねて話を聞いたという。門司氏は、「バンバンで実際に起きたことを記録することはフィリピン史研究にとって重要。日本の戦没者への供養にもなる」と熱心に語る、このフィリピン人青年に目をかけ、デラクルスさんも門司氏を「パパ・モジ」と呼んで慕っていたそうだ。
デラクルスさんは目を丸くしたまま、「パパ・モジの息子さんが来てくれたなんて信じられない! 彼は偉大な人でした。この博物館ができたのもパパ・モジのおかげなんです」と、興奮気味に言った。
和彦氏は知る由もなかったが、「パパ・モジ」こと門司親徳氏は生前、ここバンバン歴史博物館にも援助を続けていたのに違いなかった。
思わぬ縁に驚きながら、デラクルスさんの案内で館内を見て回る。入口を入って最初の細長い展示室の壁面には、この地で戦い、命を落とした日本、アメリカ、そしてフィリピンの人々の肖像写真がズラリと並び、展示ケースにはそれらを補完する形で、飛行機の模型や実物の銃弾、ヘルメット、日本軍が使用した信楽焼の地雷などがおさめられている。そのなかに、若き日のデラクルスさんが門司親徳氏と一緒におさまった写真もあった。
壁面に飾られた写真のなかには、特攻隊の最初の指揮官・関行男大尉や、関大尉の敷島隊を直掩した西澤廣義飛曹長ら日本人の姿もあれば、デラクルスさんの祖父や伯父の遺影もある。
「私のおじいさんと伯父さんは、抗日ゲリラとして日本軍と戦いました。でも私は、祖国のために戦った人は等しく尊敬します。この博物館で私は、日本人とアメリカ人、フィリピン人を平等に扱いたい。それが歴史を学ぶことです。そしてそのことが、互いの友好にもつながると信じています」
恩讐を超えて、ニュートラルな視点に立とうとするデラクルスさんの言葉は重い。先ほど立ち寄ったクラーク博物館と比べて……などと言うのは野暮であろう。日本で戦争の歴史を扱う博物館にも、これほど公平な姿勢で運営されている施設はなかなか見当たらないのではないか。私設の小規模な博物館であるからこそ、館長の考えが展示の隅々に行きわたるのかもしれない。
最初の展示室から中庭に出ると、フィリピン人抗日ゲリラたちの集合写真が大きく伸ばされて飾られ、銃や撃墜された飛行機の部品など、さまざまなものが置かれている。
デラクルスさんの説明は驚くほど正確で、日本側の動きや人名、その人がどんな人かなども、本を何冊か暗記したのではないかと思うほど詳しかった。
第二展示室の入口には、日本とフィリピン、アメリカの国旗が掲げられている。展示室の横はオフィスになっていて、つけっぱなしのテレビには、NHKの大相撲中継が流れている。無観客で開催された大阪場所である。
「相撲は好きでいつも見ています。観客がいないのは不思議な感じですね」と、デラクルスさん。
第二展示室には、日本の零戦搭乗員や特攻隊員の写真が、解説つきで並び、飛行機の模型などが展示されている。そのなかに、門司親徳著『空と海の涯で』(光人社NF文庫)と、拙著『特攻の真意』(文藝春秋)があった。
『空と海の涯で』は、東京帝大を卒業後、短期現役主計科士官として海軍に入り、真珠湾作戦にはじまって南はニューギニア、西はインド洋、さらには特攻作戦まで、まさに空と海の涯で戦いを経験した門司氏の自叙伝である。「パパ・モジ」とデラクルスさんの関係から言えば、この本があるのはわかる。
だが、『特攻の真意』が刊行されたのは門司氏歿後で、誰かが届けない限り、フィリピンに渡ってくるとは思えない。飛び入りで訪ねた異国の博物館で、まさか自分が書いた本と再会しようとは思わなかった。
最初の特攻隊が編成された建物は今…
第三展示室の前には、「神風」と刻まれた石碑があり、そこに線香の台や鈴(りん)まで置かれている。ここにも、若き日の門司親徳主計大尉の写真が飾られていた。門司氏は、平成20(2008)年8月16日に亡くなっている。
和彦さんが、「父は2008年8月16日に亡くなりました。昭和と平成、年号は違えど、大西中将と同じ『20年8月16日』でした」と説明すると、デラクルスさんは、さらに目を丸くして、「ほんとうですか? 信じられない、奇跡のような符合ですね……」と驚いた。
この展示室はバンバンでの陸上戦闘が中心で、銃や遺品が展示されている。なかには、日本兵の出征時に寄せ書きされた血染めの日章旗があり、「これはアメリカ兵が記念に持っていたものですが、ここに書かれた『井上正雄』さんのご遺族に返そうと、日本の新聞社やNHKを通じて探したけれど見つからなかった。残念です。なんとか見つからないでしょうか」と、デラクルスさんは言った。誠実な響きの言葉だった。
見学すること約一時間。バンバン歴史博物館を辞去しようとすると、デラクルスさんが、このあと行きたいところがあれば案内してくれるという。私たちは厚意に甘えることにした。まずはマバラカットの二〇一空本部跡に行ってみたいとリクエスト、すると一瞬、デラクルスさんの表情が曇った。
「とても悲しい知らせです。二〇一空本部だった建物は、3年ほど前に取り壊されて……跡地はいま、フライドチキンのケンタッキーになりました」
大戦中、日本軍は現地の民間人の住居を接収し、司令部や士官宿舎として使用した。二〇一空本部は、サントスさんという地元の名士の住居で、二階建ての瀟洒な洋館だった。接収中、サントス一家は近くの小屋で暮らすことを余儀なくされたが、サントス夫人は戦後、日本からの慰霊団に、終始親切に接してくれたと聞いている。
1970年代、サントス家の子供たちが独立したのを機に住居は大改装され、原形をわずかにとどめるのみとなったが、その後も長く、この家のフェンスには「KAMIKAZE BIRTH PLACE」と記したプレートがかけられていた。由緒あるこの建物が、ついになくなって、いまはケンタッキーに姿を変えているというのだ。
残念だが、なくなったものは仕方がない。和彦さんの提案で、そのケンタッキーで遅い昼食をとることにした。
二〇一空本部跡のケンタッキーは、マバラカット市街の目抜き通りにあった。筋向いはマクドナルドで、往時の面影は全くない。店内は清潔で、学校帰りの女子学生や家族連れで華やかに賑わっていた。フライドチキンと、日本のケンタッキーにはないおにぎりを注文し、それらを皿にあけて、ソースをかけて食べるのがご当地風らしい。
食事をしながら、昭和19(1944)年10月19日深夜、大西中将と主要幹部が特攻隊編成の会談をした二階のベランダはあのあたり、関行男大尉が指揮官に指名された士官食堂はこのあたり、翌20日朝、最初に編成された特攻隊員26名を前に、大西中将が訓示をした前庭は店の駐車場……などと想像をめぐらせてみるが、いまひとつピンとこない。ただ、歴史の痕跡はなくなっても、若い人の笑い声にあふれた平和な店内の様子を眺めていると、これはこれでよかったのだとも思えた。
続いて向かったのは、マバラカットからほど近い、バンバンの丘にある第一、第二航空艦隊司令部壕跡である。昭和19年11月中旬、それまでマニラに置かれていた司令部は、最前線のこの地に移された。
神社の鳥居のような建造物をくぐって丘を数十メートル登ると、左手に、高さ4メートルはあろうかという大きな石碑があり、「海軍中将 大西瀧治郎 平和記念碑」と、ややたどたどしい漢字で刻まれていた。この碑は、この地に司令部が置かれ、大西中将がいたことを伝え残そうと、デラクルスさんらバンバン歴史協会の有志が、横浜市鶴見区の総持寺にある大西中将の墓を模して、手造りで建てたのだという。この字を書いたのは、日本人女性と結婚した、デラクルスさんの兄とのことだった。
大西中将記念碑からさらに坂を上ると、民家の敷地内に三つの壕が口を開けている。入口に、強度を保つためしっかりと柱や梁が組まれていた痕跡はあるものの、壕のなかには何もない。かつて、ここで特攻隊員たちが寝泊まりしていたと誤って伝えられたこともあったが、宿舎ではなく司令部と通信基地である。
この近くには、山下奉文陸軍大将が遺したといわれる、いわゆる「山下財宝」目当てで掘られた穴もあるらしいが、私たちは見なかった。筆者が門司氏の生前、毎月のようにインタビューに通っていたときにも、どこで番号を調べたものか、山下財宝の手がかりを求める電話がしばしばかかってきたものだ。門司氏は、「私は海軍だから、陸軍のことはわからない。そんな財宝はないと思いますよ」と答えるのがつねだったが、相手はなかなか諦めず、その種の電話は、戦後60数年が経っても後を絶たなかった。
特攻出撃の別杯が交わされた河原で
陽はすでに傾き始めていた。私たちは最後に、昭和19(1944)年10月20日、大西中将と、関行男大尉以下特攻隊員たちが別杯を交わしたバンバン川の河原に向かった。
稲垣浩邦報道班員が撮影したこの別杯の模様は、翌10月21日のマバラカット西飛行場での搭乗員整列、10月25日のマバラカット東飛行場からの出撃風景とあわせて1日の出来事のように編集され、11月9日、「日本ニュース第232號」として日本全国の映画館で上映された。別杯シーンが撮影されたのが、マバラカット西飛行場に隣接するバンバン川の河原で、ここで関大尉に白い湯飲み茶碗を渡す門司副官の後ろ姿が、画面左端に映っている。
デラクルスさんによると、ピナツボ山の噴火の影響で川の流れも地形も変わってしまっているという。そこで我々は、マバラカット西、マバラカット東飛行場跡を一望できる橋の上に移動した。橋の下の水たまりで、水牛が水浴びをしている。
ここから東の方を見ると、眼下のバンバン川の右岸にススキの生えた河原が広がっている。川の流れは、当時よりも左、すなわち北寄りに動いてしまっているというから、現在見られる河原の右(南)端あたりで、別杯が行われたのだろう。
河原の向こうはマバラカット西飛行場で、さらにその奥、街道をはさんでマバラカット東飛行場があり、その延長線上のやや右にアラヤット山が遠望できる。
風景としては、門司親徳氏とも親交が深かった特攻隊員で、戦後、開拓農家となった角田和男中尉の自宅のある、茨城県かすみがうら市にそっくりだった。アラヤット山の山容も見え方も、角田氏の田畑から望む筑波山に瓜二つである。千葉県南房総出身の角田氏が、戦後の入植地として茨城県を選んだのは、思い出深いマバラカットの風景をそこに重ねたからではないか、とふと思った。
マニラに着いて11時間。クラークで行きたかった場所を全て巡った私たちは、デラクルスさんをバンバン博物館に送り、再会を約して別れた。ホテルは、アンヘレス市内のコリアンタウンの一角にある「HOTEL SNOW」である。周囲はダウンタウンだが、ホテル内部は清潔で、中庭にはプールもあり、スタッフの接客も気持ちいい。週末の夕食時には生バンドの演奏があって、食事も美味。ここに一泊3000円(食事別)で泊まれるのは得な気がする。
しかし、3月13日夕、ホテルに戻った私たちを待っていたのは、約30時間後の3月15日0時をもって、COVID-19の感染拡大を防ぐため、マニラ首都圏がロックダウンされるというニュースだった。
ドゥテルテ大統領の決定だという。予定では、14日にレイテ島タクロバンに渡り、そこからセブ島の特攻基地跡に行って、またレイテに戻って、マニラ経由で17日に帰国するはずだったが、どうもそれどころではなさそうである。マニラの航空会社窓口へもなかなか電話がつながらず、予約を変更しようにも、ロックダウン前の14日のマニラ発は満席だった。居心地はいいが、足止めは御免だ。
なんとか帰国の方法はないかと調べてみると、ホテルのすぐ近くにあるクラーク国際空港から、14日朝7時発の関西国際空港行きのLCC便に空席があることがわかった。前日の予約にも関わらず、運賃は一人あたり17000円ほど。迷わずこれで帰ることにする。
ホテルで仮眠をとって、朝4時に出発する。クラーク国際空港の出発ロビーに着くと、朝日がまさにアラヤット山の山腹から上ってくるところだった。フィリピン滞在わずか26時間。しかし最後に、クラークを離陸し、マバラカットやバンバンのかつての激戦地を空から見ることができたのは、むしろ幸運だった。
COVID-19のせいで、ごく短時間の滞在になったが、クラークフィールドは、人もよく居心地もよく、戦争の歴史に少しでも関心のある日本人なら、行って損のないところだと思った。時差もマイナス1時間しかなく、費用の面でも、ちょっとした国内旅行ぐらいの予算で足りる。
私たちの帰国後、フィリピンのロックダウンは急速に全土に広がり、バンバンの町も封鎖され、住民は週一回、午前5時から10時の間、食料品の買い出しに外出することが認められているのみだという(4月10日現在)。
バンバン歴史博物館も休館を余儀なくされ、デラクルスさんは、再開に向けて展示物の充実に余念がない。COVID-19の騒ぎが終息すれば、ぜひまた訪ねてみたいものである。かつて戦場となったフィリピンに、これほど公平かつ真摯な姿勢で、歴史と向き合っている人がいることを知ったのが、今回の旅の最大の収穫だった。 
 
  
 

 

 

●昭和天皇
(1901/4/29 - 1989/1/7) 日本の第124代天皇(在位:1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は裕仁(ひろひと)、称号は迪宮(みちのみや)。お印は若竹(わかたけ)。1921年(大正10年)11月25日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの5年余りに渡って、父帝・大正天皇の健康状態の悪化により、摂政宮となった。60年余りの在位中に第二次世界大戦を挟み、大日本帝国憲法下の「統治権の総攬者」としての天皇と日本国憲法下の「象徴天皇」の両方を経験した。
人物​
1901年(明治34年)4月29日に大正天皇(当時:皇太子嘉仁親王)の第一皇子(皇男子)として誕生する。母は、貞明皇后。
弟に、秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)、高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)、三笠宮崇仁親王(澄宮崇仁親王)の3人がいる。
1916年(大正5年)に立太子。1921年(大正10年)に日本の皇太子として初めて欧州を歴訪(皇太子裕仁親王の欧州訪問)。帰国後に、摂政に就任。
1924年(大正13年)に、久邇宮邦彦王第一女子の良子女王(香淳皇后)と結婚。
東久邇成子(照宮成子内親王)、久宮祐子内親王、鷹司和子(孝宮和子内親王)、池田厚子(順宮厚子内親王)、明仁(継宮明仁親王、第125代天皇・上皇)、常陸宮正仁親王(義宮正仁親王)、島津貴子(清宮貴子内親王)の2男5女、皇子女7人をもうける。
1926年(大正15年/昭和元年)12月25日、大正天皇の崩御に伴い皇位継承、第124代天皇として践祚する。
戦前には大日本帝国憲法において「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬(第4条)」と規定された立憲君主たる地位にあった。歴史学者の多くは、「戦前の昭和天皇は憲法上最高決定権を有していたものの、実際には政府が決定した方針を承認するのみだった」と指摘している。一方で、軍事・外交においては、しばしば独自の判断を示すこともあり、二・二六事件における反乱軍鎮圧や、第二次世界大戦の日本の降伏において、連合国に対するポツダム宣言受諾決定などに関与した。また学者の中には、「満州事変から第二次世界大戦までの日本の拡張主義(「十五年戦争」)の国策決定に、昭和天皇が関与した」と主張する者もいる。1945年(昭和20年)8月に、ラジオでいわゆる玉音放送を行って国民に終戦を宣言した。1946年(昭和21年)には人間宣言(新日本建設ニ関スル詔書)を発して神格化を否定。占領期にはダグラス・マッカーサーとの会見などを通じて独自の政治的影響力を発揮した。
1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法では、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴(第1条)」である天皇(象徴天皇制)であり「国政に関する権能を有しない(第4条)」とされている。1971年(昭和46年)には天皇として初めて欧州を訪問し、1975年(昭和50年)には同じく天皇として初めてアメリカ合衆国を訪問した(いずれの外国訪問に香淳皇后同伴)。
また、昭和天皇は生物学研究者でもあり、『相模湾産後鰓類図譜』などを著した。
1989年(昭和64年)1月7日に崩御。これに伴い、長男の皇太子明仁親王が皇位継承し第125代天皇に即位した。
昭和天皇は、継体天皇以降の歴代天皇の中では在位期間が最も長く(62年及び14日間)、最も長寿(宝算87)であった。
2020年(令和2年)1月1日現在、皇位継承権を有する男性皇族3名(秋篠宮文仁親王、悠仁親王、常陸宮正仁親王)の最近共通祖先たる天皇にあたる。
生涯​

 

幼少時代​
昭和天皇は1901年(明治34年)4月29日(午後10時10分)、東京府東京市赤坂区青山(現:東京都港区元赤坂)の青山御所(東宮御所)において明治天皇の第三皇男子で皇太子嘉仁親王(のちに践祚して大正天皇)と皇太子嘉仁親王妃節子(のちに立后して貞明皇后)の第一男子(第1子、のちに第一皇男子→大正天皇第一皇男子)として誕生した。身長は1尺6寸8分(約51cm)、体重800匁(3000g)であった。
祖父の明治天皇が文事秘書官・細川潤次郎に称号・諱の候補複数を挙げさせた。
出生7日目(5月5日)に明治天皇が「称号を迪宮(みちのみや)・諱を裕仁(ひろひと)」と命名している。皇族身位は、親王。
他の候補に称号は「謙宮」、諱は「雍仁」「穆仁」があった。
「迪」は『書経』の「允迪厥徳謨明弼諧」「恵迪吉従逆凶」に取材した。
「裕」は『易経』の「益徳之裕也」、『詩経』の「此令兄弟綽綽有裕」、『書経』の「好問則裕自用則小」、『礼記』の「寛裕者仁之作也」に取材した。
同じ日には宮中賢所、皇霊殿、神殿において「御命名の祭典」が営まれ、続いて豊明殿にて祝宴も催され出席している皇族・大臣らが唱えた「万歳」が宮中祝宴において唱えられた初めての「万歳」と言われている。
生後70日の7月7日、御養育掛となった枢密顧問官の川村純義(海軍中将伯爵)邸に預けられた。1904年(明治37年)11月9日、川村の死去を受け弟・淳宮(後の秩父宮雍仁親王)とともに沼津御用邸に住居を移転した。1906年(明治39年)5月からは青山御所内に設けられた幼稚園に通い、1908年(明治41年)4月には学習院初等科に入学し、学習院院長乃木希典(陸軍大将)に教育された。また、幼少時の養育係の一人には足立たか(のち、鈴木姓。大日本帝国海軍軍人、侍従長、鈴木貫太郎総理大臣夫人)もいた。
皇太子時代​
1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い皇太子となる。大正と改元されたあとの同年(大正元年)9月9日、「皇族身位令」の定めにより11歳で陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1連隊附および第一艦隊附となった。翌1913年(大正2年)3月、高輪東宮御所へ住居を移転する。1914年(大正3年)3月に学習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御学問所に入る。1915年(大正4年)10月、14歳で陸海軍中尉に昇任した。1916年(大正5年)10月には15歳で陸海軍大尉に昇任し、同年11月3日に宮中賢所で立太子礼を行い正式に皇太子となった。
1918年(大正7年)1月、久邇宮邦彦王の第一女子、良子女王が皇太子妃に内定。1919年(大正8年)4月29日に満18歳となり、5月7日に成年式が執り行われるとともに、帝国議会貴族院皇族議員となった。1920年(大正9年)10月に19歳で陸海軍少佐に昇任し、11月4日には天皇の名代として陸軍大演習を統監した。1921年(大正10年)2月28日、東宮御学問所修了式が行われる。
大正天皇の病状悪化のなかで、3月3日から9月3日まで、軍艦「香取」でイギリスをはじめ、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアのヨーロッパ5か国を歴訪した。1921年5月9日、イギリス国王ジョージ5世(現:エリザベス2世女王の祖父)から「名誉陸軍大将(Honorary General)」に任命された。同年11月25日、20歳で摂政に就任し、摂政宮(せっしょうみや)と称した(2020年〈令和2年〉4月1日現在、日本史上最後の摂政である)。
1923年(大正12年)4月、戦艦「金剛」で台湾を視察する。
9月1日には関東大震災が発生し、同年9月15日に震災による惨状を乗馬で視察し、その状況を見て結婚を延期した。10月1日に御学問開始。10月31日に22歳で陸海軍中佐に昇任した。12月27日に虎ノ門附近で狙撃されるが命中せず命を取り留めた(虎ノ門事件)。1924年(大正13年)、良子女王と結婚した。1925年(大正14年)4月、赤坂東宮仮御所内に生物学御学問所を設置。8月、戦艦長門で樺太を視察、10月31日に23歳で陸海軍大佐に昇任した。12月、第一女子/第1子・照宮成子内親王(のちの盛厚王妃成子内親王→東久邇成子)が誕生した。
即位​
1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇の崩御を受け葉山御用邸において践祚して第124代天皇となり、「昭和(読み:しょうわ)」と改元。なお、即位に伴い皇太子は空位となり、長弟の秩父宮雍仁親王が皇位継承順位第1位の皇嗣である状態が、7年後の1933年(昭和8年)12月23日の皇太子明仁親王(後の第125代天皇、退位後の上皇明仁)の誕生まで続いた。1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執り行った。同年6月、赤坂離宮内に水田を作り、田植えを行う。同年9月10日、第二皇女・久宮祐子内親王が誕生した。同年11月9日に行われた愛知県名古屋市での名古屋地方特別大演習の際には、軍隊内差別について直訴された(北原二等卒直訴事件)。
1928年(昭和3年)3月8日、第二皇女/第2子の久宮祐子内親王が薨去(夭折)。9月14日に赤坂離宮から宮城内へ移住した。11月10日、京都御所で即位の大礼を挙行。11月14 - 15日、仙洞御所内に造営した大嘗宮で大嘗祭を挙行する。1929年(昭和4年)4月、即位後初の靖国神社を参拝。9月30日、第三皇女・孝宮和子内親王(のちの鷹司和子)が誕生した。
1931年(昭和6年)1月、宮内省(現宮内庁)・文部省(現文部科学省)は、正装姿の昭和天皇・香淳皇后の御真影を日本全国の公立学校および私立学校に下賜する。3月7日、第四皇女・順宮厚子内親王(のちの池田厚子)が誕生する。1932年(昭和7年)1月8日、桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる(桜田門事件)。
1933年(昭和8年)12月23日、自身の5人目の子にして待望の第一皇子(皇太子)・継宮明仁親王(のちの第125代天皇(現上皇)・明仁)が誕生し、国民から盛大に歓迎祝賀される。1935年(昭和10年)4月には日本を公式訪問する満州国皇帝の溥儀(清朝最後の皇帝)を東京駅に迎えた。11月28日には第二皇子・義宮正仁親王(のちの常陸宮)が誕生した。
日中戦争と第二次世界大戦​
1937年(昭和12年)11月30日、日中戦争(当時の呼称:支那事変)の勃発を受けて宮中に大本営を設置。1938年(昭和13年)1月11日、御前会議で「支那事変処理根本方針」を決定する。1939年(昭和14年)3月2日、自身の末子になる第五皇女・清宮貴子内親王(のちの島津貴子)が誕生する。
1941年(昭和16年)12月1日に御前会議で対イギリスおよびアメリカ開戦を決定し、12月8日に自身の名で「米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告」を出し、大東亜戦争が勃発する。1942年(昭和17年)12月11日から13日にかけて、伊勢神宮へ必勝祈願の行幸。同年12月21日には御前会議を開いた。1943年(昭和18年)1月8日、宮城吹上御苑内の御文庫に良子皇后とともに移住した。同年5月31日に御前会議において「大東亜政略指導大綱」を決定する。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を受け、その8日後の3月18日に昭和天皇は東京都内の被災地を視察した。同年5月26日の空襲では宮城に攻撃を受け、宮殿が炎上した。連合国によるポツダム宣言の受諾を決断し、8月10日の御前会議にていわゆる「終戦の聖断」を披瀝した。8月14日の御前会議でポツダム宣言の受諾を決定し、終戦の詔書を出した(日本の降伏)。同日にはこれを自ら音読して録音し、8月15日にラジオ放送において自身の臣民に終戦を伝えた(玉音放送)。この放送における「堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ」の一節は終戦を扱った報道特番などでたびたび紹介され、よく知られている。
昭和天皇は9月27日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を率いるダグラス・マッカーサーとの会見のため駐日アメリカ合衆国大使館を初めて訪問した。11月13日に、伊勢神宮へ終戦の報告親拝を行った。また、同年には神武天皇の畝傍山陵(現在の奈良県橿原市大久保町に所在)、祖父・明治天皇の伏見桃山陵(現在の京都府京都市伏見区桃山町古城山に所在)、父・大正天皇の多摩陵(現在の東京都八王子市長房町に所在)にも親拝して終戦を報告した。
「象徴天皇」として​
戦後、昭和天皇は1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)により、「天皇の神格性」や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、「新日本建設への希望」を述べた。2月19日、戦災地復興視察のため神奈川県横浜市へ行幸、以後1949年(昭和29年)まで全国各地を巡幸した。行幸に際しては、迎える国民に向かって食事のことなど、生活に密着した数多くの質問をした。行幸の時期も、東北地方行幸の際には近臣の「涼しくなってからでいいのでは」との反対を押し切り、「東北の農業は夏にかかっている」という理由で夏の季節時期を選ぶなど、民情を心得た選択をし、国民は敬意を新たにしたとされる。
1946年(昭和21年)11月3日、昭和天皇は大日本帝国憲法第73条の規定により同憲法を改正することを示す裁可とその公布文である上諭により日本国憲法を公布した。1947年(昭和22年)5月3日、大日本帝国憲法の失効と伴い日本国憲法が施行され、昭和天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられた。6月23日、第1回国会(特別会)の開会式に出席し、勅語で初めて自身の一人称として「わたくし(私)」を用いる。1950年(昭和25年)7月13日、第8回国会(臨時会)の開会式に出御し、従来の「勅語」から「お言葉」に改めた。
1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し、同年5月3日に皇居外苑で挙行された「主権回復記念式典」で天皇退位説(当時の次期皇位継承者である長男の皇太子明仁親王への譲位、当時まだ未成年であった明仁親王が成人するまでの間は、三人いた実弟のうち長弟の秩父宮雍仁親王は結核を患い病弱状態にあったため、次弟の高松宮宣仁親王が摂政を務めるというもの)を否定し、引き続き「象徴天皇」として務めていくという意思を示す。また同年には、伊勢神宮と初代・神武天皇の畝傍山陵、昭和天皇の祖父である明治天皇の伏見桃山陵にそれぞれ親拝し、「日本の国家主権回復」を報告した。10月16日、初めて天皇・皇后が揃って靖国神社に親拝した。
1969年(昭和44年)1月2日に皇居新宮殿にて1963年(昭和38年)以来の皇居一般参賀が行われた。長和殿のバルコニーに立った際、パチンコ玉で狙われた。昭和天皇は負傷こそなかったものの、これを機に、長和殿のバルコニーに防弾ガラスが張られることになった。犯人は映画『ゆきゆきて、神軍』の主人公奥崎謙三で、暴行の現行犯で逮捕された。
1971年(昭和46年)、昭和天皇は香淳皇后とともにイギリス・オランダなどヨーロッパ各国を歴訪し、1975年(昭和50年)に香淳皇后とともにアメリカ合衆国を訪問した。帰国後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で史上初の正式な記者会見が行われた。
1976年(昭和51年)には、「天皇陛下御在位五十年記念事業」として東京都の立川飛行場跡地に「国営昭和記念公園」が建設された。記念硬貨が12月23日(当時の皇太子明仁親王の43歳の誕生日、同日は平成期における国民の祝日の一つ、天皇誕生日、旧天長節)から発行され、発行枚数は7,000万枚に上った。
1981年(昭和56年)、昭和天皇は新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。1986年(昭和61年)には政府主催で「天皇陛下御在位六十年記念式典」が挙行され、継体天皇以降の歴代天皇で在位最長を記録した。
晩年​
1987年(昭和62年)4月29日、昭和天皇は天皇誕生日(旧:天長節)の祝宴・昼食会中、嘔吐症状で中座した。8月以降になると吐瀉の繰り返しや、体重が減少するなど体調不良が顕著になった。検査の結果、十二指腸から小腸の辺りに通過障害が見られ、「腸閉塞」と判明された。食物を腸へ通過させるバイパス手術を受ける必要性があるため、9月22日に歴代天皇では初めての開腹手術を受けた。病名は「慢性膵臓炎」と発表された(後述)。12月には公務に復帰し回復したかに見えた。
しかし1988年(昭和63年)になると昭和天皇の体重はさらに激減し、8月15日の全国戦没者追悼式が天皇として最後の公式行事出席となった。9月8日、那須御用邸から皇居に戻る最中、車内を映し出されたのが最後の公の姿となった。
昭和天皇は9月18日に大相撲9月場所を観戦予定だったが、高熱が続くため急遽中止となった。その翌9月19日の午後10時ごろ、大量吐血により救急車が出動、緊急輸血を行った。その後も上部消化管からの断続的出血に伴う吐血・下血を繰り返し、さらに胆道系炎症に閉塞性黄疸、尿毒症を併発、マスコミ陣もこぞって「天皇陛下ご重体」と大きく報道し、さらに日本各地では「自粛」の動きが広がった(後述)。
1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、昭和天皇は皇居吹上御所において宝算87歳をもって崩御した。死因は、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)と発表された。神代を除くと、歴代の天皇でもっとも長寿であった。午前7時55分、藤森宮内庁長官と小渕恵三内閣官房長官(のちの内閣総理大臣)がそれぞれ会見を行い崩御を公表。
その直後、竹下登内閣総理大臣(当時:竹下改造内閣)が「大行天皇崩御に際しての竹下内閣総理大臣の謹話」を発表した。
1989年(平成元年)1月31日、天皇明仁が勅定、在位中の元号から採り「昭和天皇」(しょうわてんのう)と追号した。
同年2月24日、新宿御苑において日本国憲法・現皇室典範の下で初めての大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬された。愛用の品100点あまりが副葬品としてともに納められたとされる。
年譜​

 

1901年(明治34年)4月29日午後10時10分、父親の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)と母親の皇太子妃節子(のちの貞明皇后)との間に第一子・第一皇男子として、青山の東宮御所に誕生する。
   祖父・明治天皇の命名により、称号は迪宮(みちのみや)、諱は裕仁(ひろひと)。生後70日で枢密顧問官の伯爵川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育される。
1908年(明治41年)学習院初等科に入学。学習院院長・陸軍大将乃木希典から教育を受ける。
1912年(大正元年)7月30日、祖父・明治天皇崩御、父・大正天皇の践祚に伴い皇太子となる。9月、陸海軍少尉 近衛歩兵第一連隊・第一艦隊附となる。
1914年(大正3年)3月、学習院初等科を卒業。4月、陸海軍中尉任官。
1916年(大正5年)、陸海軍大尉昇任。11月3日、立太子礼。
1918年(大正7年)、久邇宮邦彦王第一女子の良子女王が、皇太子裕仁親王妃に内定する。
1919年(大正8年)、成年式。大日本帝国陸海軍少佐に昇任。
1921年(大正10年)
   3月3日から9月3日まで、イギリスをはじめヨーロッパ諸国を歴訪する。
   5月9日、イギリス国王ジョージ5世から名誉陸軍大将(General)に任命される。
   同国首都ロンドンにおいて、ロバート・ベーデン=パウエル卿と謁見し、ボーイスカウトイギリス連盟の最高功労章であるシルバー・ウルフ章を贈呈される。
   11月25日、父・大正天皇の病弱により、20歳で摂政に就任する、以後は摂政宮(せっしょうのみや)と称される。
1923年(大正12年)10月、陸海軍中佐昇任。12月27日、虎ノ門付近で無政府主義者の難波大助に狙撃されるが命中せず命を取り留める(虎ノ門事件)。
1924年(大正13年)、久邇宮邦彦王第一女子の良子女王(香淳皇后)と成婚。
1925年(大正14年)10月、陸海軍大佐に昇任。
1925年(大正14年)12月6日、第一子・第一女子の照宮成子内親王誕生。
1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇の崩御を受け葉山御用邸において剣璽渡御の儀を行い、大日本帝国憲法および旧皇室典範の規定に基づき、践祚して第124代天皇となる。貞明皇后は皇太后に、皇太子裕仁親王妃良子女王は皇后となる。「大正」から「昭和」(しょうわ)に改元。陸海軍大将、日本軍(大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍)の最高指揮官たる大元帥となる。
1928年(昭和3年)6月4日、張作霖爆殺事件。
1928年(昭和3年)11月、京都御所にて即位の大礼を行う。12月、御大典記念観兵式。
1929年(昭和4年)神島(和歌山県田辺市)への行幸の際、南方熊楠から、粘菌などに関する進講を受ける。
1931年(昭和6年)9月18日、柳条湖事件、満州事変。
1933年(昭和8年)12月23日、第五子・第一皇男子の継宮明仁親王が誕生する。
1935年(昭和10年)天皇機関説事件。
1935年(昭和10年)4月、来日した満州国皇帝の愛新覚羅溥儀を東京駅に迎える。
1936年(昭和11年)2月26日 - 2月29日、二・二六事件。
1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件、日中戦争(支那事変)。
1940年(昭和15年)11月10日、宮城外苑(皇居前広場)において挙行された「紀元二千六百年式典」および、翌11月11日、同会場におけて挙行された「紀元二千六百年奉祝会」に香淳皇后同伴で臨席。
1941年(昭和16年)12月8日、対英米開戦。太平洋戦争(大東亜戦争)勃発。
1945年(昭和20年)8月15日(正午)国民に対して自身が音読し録音された「終戦の詔書」がラジオ放送され、「戦争終結」が告げられた(玉音放送)。
1946年(昭和21年)1月1日、「新日本建設に関する詔書」を渙発する。
1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効。講和報告のため伊勢神宮と畝傍山陵、桃山陵、靖国神社をそれぞれ親拝。
1958年(昭和33年)「慶應義塾大学創立百年記念式典」にて「おことば」を述べる。
1959年(昭和34年)長男の皇太子明仁親王と正田美智子が成婚。
1962年(昭和37年)南紀白浜(和歌山県西牟婁郡白浜町)にて、30年前に訪問した神島を眺めつつ、熊楠を偲ぶ御製(天皇が詠む短歌)「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」を詠んだ。
1971年(昭和46年)9月27日より、香淳皇后同伴でイギリス、オランダなど欧州諸国を歴訪する。
1975年(昭和50年)9月30日から10月14日まで、香淳皇后同伴でアメリカ合衆国を訪問する。
1981年(昭和56年)皇居新年一般参賀において、参集した国民に対して初めて「お言葉」を述べる。
1987年(昭和62年)9月22日、歴代天皇で初めての開腹手術。
1988年(昭和63年)8月15日、日本武道館での「全国戦没者追悼式」に出席、これが公の場への最後の親覧となる。
1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)のため崩御(宝算87歳)。日本国憲法および皇室典範の規定に基づき、、直ちに長男(第5子)の皇太子明仁親王(上皇)が皇位継承して即位、第125代天皇となる。皇太子明仁親王妃美智子(上皇后美智子)が皇后となると同時に、香淳皇后は皇太后となる。
1989年(平成元年)1月31日、追号が「昭和天皇」と定められ(上皇勅定)、皇居で「追号奉告の儀」が行われる。
1989年(平成元年)2月24日、新宿御苑において「大喪の礼」が行われ東京都八王子市の武蔵野陵に埋葬される。日本国憲法と(現行の)皇室典範に基づき葬られた、最初の天皇である。
2014年(平成26年)8月21日、昭和天皇の言動を公式記録した「昭和天皇実録」を宮内庁が24年かけて完成させ、天皇明仁(当時)及び皇后美智子(当時)に奉呈した。本文60冊、目次・凡例1冊の計61冊で構成され、9月中旬に同庁が全ての内容を公表したのち、2015年(平成27年)から5年計画で全巻が公刊される。
系譜​・系図
明治天皇
  |
大正天皇
  ├────┬───────┬──────┐
昭和天皇 秩父宮雍仁親王 高松宮宣仁親王 三笠宮崇仁親王
  ├──────┐     ┌───────┼───────┐
上皇  常陸宮正仁親王  寛仁親王  桂宮宜仁親王  高円宮憲仁親王
  ├──────┐
今上天皇   秋篠宮文仁親王
         |
       悠仁親王
皇子女​
妻の香淳皇后(良子女王)との間に2男5女の7人の子女をもうけた。
夭折した第二皇女子(第2子)を除き、2男4女の6人の皇子女が成人した。
2020年(令和2年)4月1日現在、3女は故人、第四皇女子(第4子)以降の4人の子女(2男2女)は80歳以上で存命中である。
照宮成子内親王
てるのみや しげこ 1925年〈大正14年〉12月6日 1961年〈昭和36年〉7月23日(満35歳没) 第一皇女子(第1子) / 盛厚王(東久邇宮家)と結婚後、盛厚王妃成子内親王となる。戦後の皇籍離脱後は、東久邇成子(姓読み:ひがしくに)となる。子女:3男2女(5人)。
久宮祐子内親王
ひさのみや さちこ 1927年〈昭和2年〉9月10日 1928年〈昭和3年〉3月8日(満0歳没) 第二皇女子(第2子) / 久宮祐子内親王、夭折。子女:無し。
孝宮和子内親王
たかのみや かずこ 1929年〈昭和4年〉9月30日 1989年〈平成元年〉5月26日(満59歳没) 第三皇女子(第3子) / 鷹司平通と結婚。皇籍離脱後、鷹司和子(姓読み:たかつかさ)となる。(皇室典範第12条の規定による)子女:無し、養子:1男(1人)。
順宮厚子内親王
よりのみや あつこ 1931年〈昭和6年〉3月7日 存命中(89歳) 第四皇女子(第4子) / 池田隆政と結婚。皇籍離脱後、池田厚子(姓読み:いけだ)となる。(皇室典範第12条の規定による)子女:無し。
継宮明仁親王
つぐのみや あきひと 1933年〈昭和8年〉12月23日 存命中(86歳) 第一皇男子(第5子) / 正田美智子と結婚(→皇太子妃→皇后→上皇后美智子)。明仁(第125代天皇)1989年(昭和64年)1月7日:父である昭和天皇の崩御に伴い、即位(皇位継承:践祚)。2019年(平成31年)4月30日に退位(譲位)、上皇 (天皇退位特例法):2019年(令和元年)5月1日 - 。子女:2男1女(3人)。
義宮正仁親王
よしのみや まさひと 1935年〈昭和10年〉11月28日 存命中(84歳) 第二皇男子(第6子) / 津軽華子(旧姓読み:つがる)と結婚(→正仁親王妃華子)。常陸宮正仁親王(常陸宮当主)皇位継承順位第3位。子女:無し。
清宮貴子内親王
すがのみや たかこ 1939年〈昭和14年〉3月2日 存命中(81歳) 第五皇女子(第7子) / 島津久永と結婚。皇籍離脱後、島津貴子(姓読み:しまづ)となる。(皇室典範第12条の規定による)子女:1男(1人)。
主な出来事​

 

乃木希典による教育​
   乃木の薫陶
1912年(明治45年)7月30日の祖父・明治天皇の崩御後、同年9月13日に陸軍大将・乃木希典が同夫人乃木静子とともに殉死し波紋を呼んだ。晩年の乃木は学習院院長を務め、少年時代の迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)にも影響を与えた。乃木は直接的な言葉よりも「暗示」や「感化」によって、迪宮に将来の天皇としての自覚を持たせようと試みたとされる。
乃木の「雨の日も(馬車を使わずに)外套を着て徒歩で登校するように」という質実剛健の教えは迪宮に深い感銘を与え、天皇になったあとも記者会見の中で度々紹介している。このように、複数回個人名を挙げたことは、極めて異例であった。
鈴木孝(足立たか)の回想によれば、実際に青山御所から四谷の初等科まで徒歩で通学し、また継ぎ接ぎした衣服を着用することもあった。鈴木孝によれば、側近が「乃木大将の拝謁」を報告した際には「院長閣下と申し上げなきゃいけない」と注意したという。
一方、乃木は皇位継承者である迪宮が常に最上位でなければならないという考えのもと、弟宮たちとは明確に区別した。また乃木の指示で、迪宮ら三親王も出席する学習院の朝礼の際には教育勅語の暗唱に続いて、生徒たちに「最高の望みは何か」と問い、「天皇陛下のために死ぬこと」と唱和させた。また乃木は月に数度、院長室に迪宮を招いて皇孫としての心得や軍人時代の経験などを語り聞かせていた。
   乃木の殉死
1912年(大正元年)9月11日(9日など他説あり)、参内した乃木は皇太子となった裕仁親王に勉学上の注意とともに、自ら写本した『中朝事実』を与えた。乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉学に励まれるように」との訓戒に対し、そのただならぬ様子に皇太子は「院長閣下はどこかに行かれるのですか?」と質問したという。
9月13日、明治天皇の大喪の礼当日、乃木は殉死した。皇太子と弟宮たちはその翌朝に養育掛長であった丸尾錦作から事件を知らされ、その辞世の歌にも接して涙を流した。丸尾によると、皇太子はこの時、涙ながらに「乃木院長が死なれた」「ああ、残念である」とつぶやいた。
乃木が与えた『中朝事実』が、のちに三種の神器を重要視する考え方に影響を与えたとの意見もある。
宮中某重大事件​
1918年(大正7年)の春、久邇宮邦彦王を父に持ち、最後の薩摩藩主・島津忠義の七女・俔子を母に持つ、久邇宮家の長女・良子女王(香淳皇后)が皇太子妃に内定し、翌1919年(大正8年)6月に正式に婚約が成立した。
しかし11月、元老・山縣有朋が良子女王の家系(島津家)に色盲遺伝があるとして婚約破棄を進言した。山縣は、西園寺公望や首相の原敬と連携して久邇宮家に婚約辞退を迫ったが、長州閥の領袖である山縣が薩摩閥の進出に危惧を抱いて起こした陰謀であるとして、民間の論客・右翼から非難されることとなった。当初は辞退やむなしの意向だった久邇宮家は態度を硬化させ、最終的には裕仁親王本人の意思が尊重され、1921年(大正10年)2月10日に宮内省から「婚約に変更なし」と発表された。
事件の責任を取って宮内大臣・中村雄次郎が辞任し、山縣も枢密院議長など全官職の辞職願を提出した。しかし、同年5月に山縣の辞表は詔を以て却下された。この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという。翌年2月1日、山縣は失意のうちに病気により没した。
婚礼の儀の延期と関東大震災​
1923年(大正12年)9月1日発生の関東大震災では霞関離宮が修理中であったために箱根(震災で大きな被害を受けた)へ行啓する予定であったが、当時の内閣総理大臣・加藤友三郎が急逝したことによる政治空白が発生したため、東京の宮城(皇居)に留まり命拾いをした。のちに昭和天皇はこのときを振り返り、1973年(昭和48年)9月の記者会見で「加藤が守ってくれた」と語っている。
地震における東京の惨状を視察した皇太子裕仁親王(当時摂政)は大変心を痛め、自らの婚礼の儀について「民心が落ち着いたころを見定め、年を改めて行うのがふさわしい」という意向を示して翌年1月に延期した。
後年、1981年(昭和56年)の記者会見で、昭和天皇は関東大震災について「その惨憺たる様子に対して、まことに感慨無量でありました」と述懐している。また、同会見では、甚大な被害に加え、皇族にも死者が出たことから、9月1日を「慎みの日」としていることを明かしている。
田中義一首相を叱責​
満州某重大事件の責任者処分に関して、内閣総理大臣の田中義一は責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかったとき、昭和天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。その結果、田中内閣は総辞職したとされる。(田中首相は、その後間もなく死去した。)
田中内閣時には、若い昭和天皇が政治の教育係ともいえる内大臣・牧野伸顕の指導のもと、選挙目当てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治関与を見せていた。そのため、軍人や右翼・国粋主義者の間では、この事件が牧野らの「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージが広がった。昭和天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の揺らぎすら生じさせることとなった。
この事件で 昭和天皇はその後の政治的関与について慎重になったという。
なお『昭和天皇独白録』には、「辞表を出してはどうか」と昭和天皇が田中に内閣総辞職を迫ったという記述があるが、当時の一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らし合わせると、そこまで踏み込んだ発言はなかった可能性もある。
昭和天皇が積極的な政治関与を行った理由について、伊藤之雄が「牧野の影響の下で天皇が理想化された明治天皇のイメージ(憲政下における明治天皇の実態とは異なる)を抱き親政を志向したため」と、原武史も「地方視察や即位後続発した直訴へ接した体験の影響による」と論じている。
「天皇機関説」事件​
1935年(昭和10年)、美濃部達吉の憲法学説である天皇機関説が政治問題化した天皇機関説事件について、時の当事者たる昭和天皇自身は侍従武官長・本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説でよい」と言った。昭和天皇が帝王学を受けたころには憲法学の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていた。ただ、機関説事件や一連の「国体明徴」運動をめぐって昭和天皇が具体的な行動をとった形跡はない。機関説に関しての述懐を、昭和天皇の自由主義的な性格の証左とする意見の一方、美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする見解もある。
二・二六事件​
1936年(昭和11年)2月26日に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、侍従武官長・本庄繁陸軍大将が青年将校たちに同情的な進言を行ったところ、昭和天皇は怒りもあらわに「朕が股肱の老臣を殺りくす、此の如き兇暴の将校等の精神に於て何ら恕す(許す)べきものありや(あるというのか)」「老臣を悉く倒すは、朕の首を真綿で締むるに等しき行為」と述べ、「朕自ら近衛師団を率ゐこれが鎮圧に当らん」と発言したとされる。
このことは「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を忠実に採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面して、初めて自らの意思を述べたともいえる。この天皇の意向ははっきりと日本軍首脳に伝わり、決起部隊を反乱軍として事態を解決しようとする動きが強まり、紆余曲折を経て解決へと向かった。
このときの発言について、1945年(昭和20年)第二次世界大戦における日本の降伏による戦争終結のいわゆる“聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」「あのときはまだ若かったから」とのちに語ったといわれている。この事件との影響は不明ながら、1944年(昭和19年)に長男・皇太子明仁親王(後の第125代天皇)が満10歳になり、「皇族身位令」の規定に基づき陸海軍少尉に任官することになった折には、父親たる自身の意思により、任官を取り止めさせている。また、長男皇太子の教育係として、大日本帝国陸軍の軍人を就けることを、特に拒否している。
太平洋戦争(第二次世界大戦)
   開戦​
1941年(昭和16年)9月6日の御前会議で、対英米蘭戦は回避不可能なものとして決定された。
御前会議ではあくまでも発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、37年前の1904年(明治37年)に自身の祖父たる明治天皇が日露戦争開戦の際に詠んだ御製である
「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ」(四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思う世に なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう)という短歌を詠み上げた。
また米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告の中の「豈朕カ志ナラムヤ」の一文は天皇本人が書き入れたといわれる。
なお、対米開戦直前の1941年(昭和16年)12月6日、フランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領より直接、昭和天皇宛に「平和を志向し関係改善を目指す」という親電が送られていた。
しかし、この親電が東京電信局に届いたのが真珠湾攻撃の15時間半前であった。国家の命運を決めるようなこの最重要文書が、電信局で10時間も阻止されてしまう。元大日本帝国陸軍参謀本部通信課戸村盛男が「もう今さら親電を届けてもかえって現場が混乱をきたす。従って御親電は10時間以上遅らせることにした。それで陛下(昭和天皇)も決心を変更されずに済むし、敵を急襲することができると考えた」とのちに証言している。こうして、親電が肝心の昭和天皇の手元に届いたのは真珠湾攻撃のわずか20分前であった。
『昭和天皇独白録』などから、上記のような行為にも示されている通り、昭和天皇自身は「開戦には、消極的であった」といわれている。ただし、『昭和天皇独白録』はのちの敗戦後の占領軍(GHQ/SCAP)に対する弁明としての色彩が強いとする吉田裕らの指摘もある。対米英開戦後の1941年(昭和16年)12月25日には「自国日本軍の勝利」を確信して、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次の日記に記されている。
日本共産党中央委員長も務めた田中清玄がのちに転向して「天皇制(皇室)護持」を強く主張する「尊皇家」になった。敗戦後間もない1945年(昭和20年)12月21日、宮内省(のちの一時期宮内府、現在の宮内庁)から特別に招かれた昭和天皇との直接会見時の最後に、「他になにか申したいことがあるか?」と聞かれ、田中は「昭和16年12月8日の開戦には、陛下は反対でいらっしゃった。どうしてあれをお止めになれなかったのですか?」と問い質した。それに対して昭和天皇は「私は立憲君主であって、専制君主ではない。臣下が決議したことを拒むことはできない。憲法の規定もそうだ」と回答している。
   戦争指導​
開戦後から戦争中期の1943年(昭和18年)中盤にかけては、太平洋のアメリカ西海岸沿岸からインド洋のマダガスカルに至るまで、文字通り世界中で日本軍が戦果を上げていた状況で、昭和天皇は各地の戦況を淡々と質問していた。この点で昭和天皇の記憶力は凄まじいものがあったと思われ、実際にいくつか指示などもしている。有名なものとして日本軍が大敗したミッドウェー海戦では敵の待ち伏せ攻撃を予測し、過去の例を出し敵の待ち伏せ攻撃に注意するよう指示したが、前線に指示は届かず結果待ち伏せ攻撃を受けて敗北を喫した例がある。
また、昭和天皇はときに軍部の戦略に容喙したこともあった。太平洋戦争時の大本営において、当時ポルトガル領であったティモール島東部占領の計画が持ち上がった(ティモール問題)。これは、同島を占領してオーストラリアを爆撃範囲に収めようとするものであった。しかし、御前会議で昭和天皇はこの計画に反対した。そのときの理由が、「アゾレス諸島のことがある」というものであった。
これは、もしティモール島攻撃によって中立国のポルトガルが連合国側として参戦した場合、イギリスやアメリカの輸送船がアゾレス諸島とイベリア半島との間にある海峡を通過することが容易となりイギリスの持久戦が長引くうえに、ドイツ軍や日本軍の潜水艦による同諸島周辺の航行が困難になるため、かえって戦況が不利になると判断したのである。この意見は御前会議でそのまま通り、1942年から1943年末にかけて行われたオーストラリアへの空襲は別の基地を使って行われた。しかし1943年には、ポルトガルの承認を受けてイギリスはアゾレス諸島の基地を占拠し、その後アゾレス諸島は連合国軍によって使用されている。
   和平に向けて​
昭和天皇実録によると、昭和天皇が終戦の意向を最初に示したのは1944年(昭和19年)9月26日で、側近の木戸幸一内大臣に対し、「武装解除又は戦争責任者問題を除外して和平を実現できざるや、領土は如何でもよい」などと述べている。
日本が連合国に対して劣勢となっていた1945年(昭和20年)1月6日に、連合国軍がルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。このとき、木戸は陸軍・梅津美治郎参謀総長および海軍・及川古志郎軍令部総長と閣僚(当時小磯内閣、小磯國昭首相)の召集を勧めている。 準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であった。
その中で特筆すべきものとしては、2月14日に行われた近衛元首相の上奏がある。近衛は「敗戦必至である」として、「和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだ」と提案している。昭和天皇は「近衛の言う通りの人事ができない」ことを指摘しており、近衛の策は実行されなかった。
沖縄戦での日本軍による組織的戦闘の終了について報告を受けた2日後の1945年6月22日には、鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾陸相、米内光政海相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長を呼んで懇談会を開き、戦争の終結についても速やかに具体的研究を遂げるよう求め、初めて軍の最高幹部に戦争終結の意思を表明した。(昭和天皇実録より)
その後、日本の無条件降伏を求めるポツダム宣言が1945年7月27日に日本に通達、広島に原爆が投下された2日後の1945年8月8日に、東郷茂徳外相に対し「なるべく速やかに戦争を終結」させたい旨を述べている。(昭和天皇実録より)
その翌日、長崎に原子爆弾が投下される直前の1945年8月9日午前9時37分に、ソ連軍が対日参戦したとの報告を受けると、18分後の午前9時55分に木戸幸一内大臣を呼び、鈴木貫太郎首相と戦争終結に向けて「十分に懇談」するよう指示を出した。これを受け鈴木首相は、同日午前10時30分開催の最高戦争指導会議(御前会議)でポツダム宣言受諾の可否を決めたいと答えた。(昭和天皇実録より)
連合国によるポツダム宣言受諾決議案について長時間議論したが結論が出なかったため、首相・鈴木貫太郎の判断により天皇の判断(御聖断)を仰ぐことになった。昭和天皇は8月10日午前0時3分から始まった最後の御前会議でポツダム宣言受諾の意思を表明し、8月15日正午、自身が音読し録音された「終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)」がラジオを通じて玉音放送として放送され、終戦となった。
のちに昭和天皇は侍従長の藤田尚徳に対して「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」と述べている。
なお、昭和天皇がポツダム宣言の受諾を決意した時期は、広島・長崎への原爆投下時、ソ連の対日参戦時など諸説あったが、昭和天皇実録に記載されている一連の和平実現を巡る経緯に対し、歴史学者の伊藤之雄は「ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」と述べている。これに対し、歴史学者の土田宏成は「昭和天皇が終戦を決断するに至ったのは、大規模な空襲や沖縄戦、原爆投下などの惨禍に衝撃を受け、国民や国家の存続の危機を感じたことも一因と考えられる」と述べている。
   敗因に対する考え​
昭和天皇は戦後間もない1945年(昭和20年)9月9日に、栃木県の奥日光に疎開していた長男、皇太子の継宮明仁親王(現:上皇)へ送った手紙の中で、戦争の敗因について次のように書き綴っている。
「国家は多事であるが、私は丈夫で居るから安心してください 今度のやうな決心をしなければならない事情を早く話せばよかつたけれど 先生とあまりにちがつたことをいふことになるので ひかへて居つたことを ゆるしてくれ 敗因について一言いはしてくれ 我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである 明治天皇の時には山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバッコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつた 戦争をつゞければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである」(一部抜粋)
象徴天皇への転換​

 

   マッカーサーとの会見写真​
イギリスやアメリカなどの連合国軍による占領下の1945年(昭和20年)9月27日に、天皇は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官のダグラス・マッカーサーが居住していた駐日アメリカ合衆国大使館を訪問し、初めて会見した。マッカーサーは「天皇のタバコの火を付けたとき、天皇の手が震えているのに気がついた。できるだけ天皇の気分を楽にすることに努めたが、天皇の感じている屈辱の苦しみがいかに深いものであるかが、私には、よく分かっていた」と回想している(『マッカーサー回想記』より)。
また、会見の際にマッカーサーと並んで撮影された全身写真が、2日後の29日に新聞掲載された。天皇が正装のモーニングを着用し直立不動でいるのに対し、一国の長ですらないマッカーサーが略装軍服で腰に手を当てたリラックスした態度であることに、国民は衝撃を受けた。天皇と初めて会見したマッカーサーは、天皇が命乞いをするためにやってきたと思った。ところが、天皇の口から語られた言葉は、「私は、国民が戦争遂行にあたって行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした」というものだった。 さらに、マッカーサーは「私は大きい感動に揺すぶられた。(中略)この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」という。(『マッカーサー回想記』)
マッカーサーが略装軍服だったのは特に意識して行ったことではなく、普段からマッカーサーは公式な場において正装の軍服を着用することを行わなかったために、ハリー・S・トルーマン大統領をはじめとしたアメリカ政府内でも厳しく批判されていた。しかし、この時は上ボタンを閉め天皇を車まで見送ったという。
   人間宣言​
1946年(昭和21年)1月1日に、新日本建設に関する詔書(正式名称:新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ、通称:人間宣言)が官報により発布された。「戦後民主主義は日本に元からある五箇条の誓文に基づくものであること」を明確にするため、詔書の冒頭においてかつて自身の祖父である明治天皇が発した「五箇条の御誓文」を掲げている。
このことを後年振り返り、1977年(昭和52年)8月23日の昭和天皇の会見によると、「日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書のおもな目的であった」といった趣旨のようなことを発言している。
この詔書は、「人間宣言」と呼ばれている。しかし、人間宣言はわずか数行で詔書の6分の1しかない。その数行も事実確認をするのみで、特に何かを放棄しているわけではない。
   天皇イメージの転換​
戦前の昭和天皇は一般国民との接触はほとんどなく、公開される写真、映像も大礼服や軍服姿がほとんどで現人神、大元帥という立場を非常に強調していた。
ポツダム宣言には天皇や皇室に関する記述がなく、非常に微妙な立場に追い込まれた。そのため、政府や宮内省などは天皇の大元帥としての面を打ち消し、軍国主義のイメージから脱却するとともに、巡幸という形で天皇と国民が触れ合う機会を作り、天皇擁護の世論を盛り上げようと苦慮した。具体的に、第1回国会の開会式、伊勢神宮への終戦報告の親拝時には、海軍の軍衣から階級章を除いたような「天皇御服」と呼ばれる服装を着用した。
さらに、連合国による占領下では礼服としてモーニング、平服としては背広を着用してソフト路線を強く打ち出した。また、いわゆる「人間宣言」でGHQの天皇制(皇室)擁護派に近づくとともに、一人称として「朕」を用いるのが伝統であったのを一般人同様に「私」を用いたり、巡幸時には一般の国民と積極的に言葉を交わすなど、日本の歴史上もっとも天皇と庶民が触れ合う期間を創出した。
スポーツ観戦​
   相撲​
昭和天皇は皇太子時代から大変な好角家であり、皇太子時代には当時の角界に下賜金を与えて幕内優勝力士のために摂政宮賜盃を作らせている。即位に伴い、摂政宮賜盃は天皇賜盃と改名された。観戦することも多く、戦前戦後合わせて51回も国技館に天覧相撲に赴いている。
特に戦後は1955年(昭和30年)以降、病臥する1987年(昭和62年)までに40回、ほとんど毎年赴いており、贔屓の力士も蔵間、富士桜、霧島など複数が伝わっている。特に富士桜の取組には身を乗り出して観戦したといわれ、皇居でテレビ観戦する際にも大いに楽しんだという。上述の贔屓の力士と同タイプの力士であり毎回熱戦となる麒麟児との取組は、しばしば天覧相撲の日に組まれた。昭和天皇はのちに「少年時代に相撲をやって手を覚えたため、観戦時も手を知っているから非常に面白い」と語った。
   武道​
1929年(昭和4年)、1934年(昭和9年)、1940年(昭和15年)に皇居内(済寧館)で開催された剣道、柔道、弓道の天覧試合は、武道史上最大の催事となった。この試合を「昭和天覧試合」という。
   野球​
1959年(昭和34年)には、天覧試合としてプロ野球の巨人対阪神戦、いわゆる「伝統の一戦」を観戦している。天覧試合に際しては、当時の大映社長の永田雅一がこれを大変な栄誉としてとらえる言を残しており、相撲、野球の振興に与えた影響は計り知れないといえる。この後、昭和天皇のプロ野球観戦は行われなかったが1966年(昭和41年)11月8日の日米野球ドジャース戦を観戦している。
靖国神社親拝​
昭和天皇は終戦直後から1975年(昭和50年)まで、以下のように靖國神社に親拝していたが1975年(昭和50年)を最後に行わなくなった。ただし、例大祭(春と秋の年に2回)に際しては勅使の発遣を行っている。
1.1945年(昭和20年)8月20日(昭和天皇行幸)
2.1945年(昭和20年)11月・臨時大招魂祭(昭和天皇行幸)
3.1952年(昭和27年)4月10日(昭和天皇、香淳皇后行幸啓)
4.1954年(昭和29年)10月19日・創立八十五周年(昭和天皇、香淳皇后行幸啓)
5.1957年(昭和32年)4月23日(昭和天皇、香淳皇后行幸啓)
6.1959年(昭和34年)4月8日・創立九十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸啓)
7.1964年(昭和39年)8月15日・全国戦没者追悼式(昭和天皇、香淳皇后行幸啓)
8.1965年(昭和40年)10月19日・臨時大祭(昭和天皇行幸)
9.1969年(昭和44年)6月10日・創立百年記念大祭(昭和天皇、香淳皇后行幸啓)
10.1975年(昭和50年)11月21日・大東亜戦争終結三十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸啓)
昭和天皇が靖国神社親拝を行わなくなった理由については左翼過激派の活動の激化、宮中祭祀が憲法違反であるとする一部野党議員の攻撃など、様々に推測されてきたが近年『富田メモ』(日本経済新聞、2006年)・『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞、2007年4月26日)などの史料の記述から、1978年(昭和53年)に極東国際軍事裁判でのA級戦犯14名が合祀されたことに対して不満であったことを原因とする見方が、歴史学界では定説となっている。ただし、合祀後も勅使の発遣は継続されている。なお天皇の親拝が途絶えたあとも、高松宮および三笠宮一族は参拝を継続している。
「崩御」前後​
   記帳​
1988年(昭和63年)以降、各地に昭和天皇の病気平癒を願う記帳所が設けられたが、どこの記帳所でも多数の国民が記帳を行った。病臥の報道から一週間で記帳を行った国民は235万人にも上り、最終的な記帳者の総数は900万人に達した。
設置された各地の記帳所は以下の通り。
皇居前記帳所 / 千葉県民記帳所 / 葉山御用邸通用門記帳所 / 名古屋熱田神宮境内記帳所 / 京都御所前記帳所 / 福岡市庁舎内記帳所 / 東京都大島町 天皇陛下病気お見舞い記帳所
   市民の動き​ / 「自粛」ムード
1988年(昭和63年)9月19日の吐血直後から昭和天皇の闘病中にかけ、歌舞音曲を伴う派手な行事・イベントが自粛(中止または規模縮小)された。自粛の動きは大規模なイベントだけでなく、個人の生活(結婚式などの祝宴)にも波及した。具体的な行動としては以下のようなものが行われ、「自粛」は同年の世相語となった。このほか、目立つような物価の上昇(インフレーション)は見られなかった。
プロ野球優勝イベントの自粛
中日ドラゴンズのリーグ優勝にて、「祝勝会」を「慰労会」に名称変更し、ビールかけや優勝パレードを自粛、西武ライオンズのリーグ優勝時もビールかけを自粛した。ただし、同年の日本シリーズ後には日本一となった西武ライオンズがビールかけを行っている。
セゾングループの西武百貨店では西武ライオンズ優勝セールを自粛した。
京都国体にて、花火の打ち上げを自粛。
明治神宮野球大会中止。
自衛隊観閲式・自衛隊音楽祭など自衛隊行事を中止。
各国大使館・在日米軍基地にて、イベントの自粛・規模縮小。
広告演出の自粛。
日産・セフィーロのCMで「みなさんお元気ですか?」の音声が失礼に当たると差し替えトヨタ・カリーナも同様に「生きる歓び」というコピーが問題となり、東京トヨペットのポスターが撤去された。
1988年(昭和63年)10月1日、津村順天堂がツムラに社名変更した際のコピーは、当初は「ツムラ君、おめでとう」になる予定だったが、急遽「ツムラ君をよろしく」に変更された。
テレビ番組放送・演出の自粛
派手なバラエティ番組を、映画や旅行番組に差し替え。
ギャグ作品であったテレビアニメ「ついでにとんちんかん」の1988年9月24日放送予定だった第42話の放送が中止され、翌週の10月1日放送分をもって打ち切りとなった。
ロート製薬一社提供番組(クイズダービー、ひらめきパスワード、愛ラブ!爆笑クリニック)の冒頭に放送されるオープニングキャッチを当分の間(1988年10月から翌年1月の崩御後までの間)自粛。
同年の「第39回NHK紅白歌合戦」についても中止になるかと懸念されていたが開催された。しかし、結果的にこれが昭和最後の「NHK紅白歌合戦」となった。
百貨店でのディスプレイを地味なものに変更。
神社における祭りを中心とした、伝統行事の中止・規模縮小。
地域イベントや商業イベントでの「○○フェスティバル」「○○まつり」の自粛・名称変更。
幼稚園や学校の行事自粛。
スポーツ大会や、音楽ライブなどの演奏会に加え、祭りなどと言ったイベント自粛。
七五三を祝う事や、ハロウィーンやクリスマスを祝う事、クリスマスソングも自粛。
忘年会や新年会の自粛。
年賀状での「賀」「寿」「おめでとう」など、賀詞の使用自粛。
服喪
崩御後、政府の閣議決定により崩御当日を含め自治体には6日間・民間には2日間弔意を示すよう協力が要望された。その結果、各地での弔旗掲揚などの服喪以外に、以下のようなスポーツ・歌舞音曲を伴う行事などの自粛が行われた。
全テレビ局でニュースおよび追悼特番のみの特別放送体制(崩御から2日間、NHK教育テレビ・衛星第1テレビを除く)。
崩御後のTVCM放送の大量自粛(崩御から2日間は完全に自粛、その後はテレビ局や番組提供のスポンサーが独自に判断、水戸黄門のようにアイキャッチが出たままCMへ移行せず音楽のみが流れた例がある)。その穴埋めとして公共広告機構(現ACジャパン)のCMが放送された。ちなみに、同様の事例は1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)、2016年(平成28年)4月14日に発生した熊本地震でも起きている。
大相撲初場所の開催延期(初日を1日延期して1月9日から)。
昭和64年度の全国高校ラグビー大会決勝中止(大阪府・大阪工業大学高等学校と茨城県・茗溪学園高等学校の両校優勝)。
昭和64年度の全国高校サッカー選手権が2日間順延。
第一回中山競馬および京都競馬の開催順延(1月13日 - 16日に開催)。
1989年(平成元年)1月8日のラジオ体操の中止。
各地で1月8日の公演(コンサート・演劇・寄席など)を中止・延期、「めでたい」内容の変更。
宝塚歌劇団及び爆風スランプが、1月7日及び8日の公演を全て中止。他のほとんどは8日のみ中止。
1月7日 - 1月8日は企業・商店・レジャー施設が臨時休業や店内放送の自粛。
1月7日 - 1月8日のJR各社の払い戻し手数料を無料化。
1月15日の成人式にて、装飾を地味にしたり派手なイベントを自粛
その後も自粛の動き自体は続いた。テレビ番組では歌舞音曲を控えることからベストサウンドが再放送などで差し替えられるなどの影響が出た。この後、2月24日の大喪の礼では、ふたたび企業・商店・レジャー施設が臨時休業した。民間での自粛・服喪の動きはこれをもって終息に向かった。
   「殉死」
昭和天皇の崩御後は、確認されているだけで数名の後追い自殺者(殉死)が出た。崩御と同日に和歌山県で87歳の男性が、茨城県でも元海軍少尉の76歳の男性がそれぞれ自殺した。1月12日には福岡県で38歳の男性が割腹自殺を遂げ、3月3日にも東京都で元陸軍中尉の66歳の男性が自殺している。
マスメディア報道​
昭和天皇が高齢となった1980年代ごろ(特に開腹手術の行われた1987年(昭和62年)以降)から、各マスコミは来るべき天皇崩御に備え原稿や紙面構成、テレビ放送の計画など密かに報道体制を準備していた。その中で、来るべき崩御当日は「Xデー」と呼ばれるようになる。
1988年(昭和63年)9月19日の吐血直後は、全放送局が報道特別番組を放送した。不測の事態に備えてNHKが終夜放送を行ったほか、病状に変化があった際は直ちに報道特番が流され、人気番組でも放送が一時中断・繰り下げあるいは途中打ち切り・中止されることがあった。また、一進一退を続ける病状や血圧・脈拍などが定時にテロップ表示された。9月時点で関係者の証言から癌であることが判明していたが、宮内庁・侍医団は天皇に告知していなかった。そのため天皇がメディアに接することを想定し、具体的な病名は崩御までほとんど報道されなかった。
1989年1月7日・8日およびそれ以後のマスメディアの動き​
NHKでは、1989年(昭和64年)1月7日5時24分から「容体深刻報道」を総合テレビ・ラジオ第1・FMの3波で放送。6時36分18秒からの「危篤報道」、続いて7時57分6秒から10時までの「崩御報道」および14時34分30秒から14時59分までの「新元号発表」はNHKのテレビ・ラジオ全波で報道特別番組が放送された。1989年(平成元年)1月8日0時5分40秒(平成改元後の最初のニュース)までラジオ第1とFMで同一内容(ラジオの報道特別番組)が放送された。ラジオ第2では1月7日に限り一部番組が音楽のみの放送に差し替えられた。教育テレビでは1月7日に限り一部番組が芸術番組や環境番組に差し替えられ、「N響アワー」は曲目変更をした上で放送された。
7日の新聞朝刊には通常のニュースや通常のテレビ番組編成が掲載されていたが、号外および夕刊には各新聞ほとんど最大級の活字で「天皇陛下崩御」と打たれ、テレビ番組欄も通常放送を行ったNHK教育の欄以外はほとんど白紙に近いものが掲載された。報道特別番組では「激動の昭和」という言葉が繰り返し用いられ、以後定着した。1月8日に日付が切り替わる直前には「昭和が終わる」ことに思いを馳せた人々が町の時計塔の写真を撮る、二重橋などの名所に佇み日付変更の瞬間を待つなどの姿が報道された。
1989年(昭和64年)1月7日の危篤報道(6時35分発表)以降翌1月8日まで、NHK(総合)、民放各局が特別報道体制に入り、宮内庁発表報道を受けてのニュース、あらかじめ制作されていた昭和史を回顧する特集、昭和天皇の生い立ち・生涯、エピソードにまつわる番組などが放送された。また、この2日間はCMが放送されなかった。
NHK教育テレビ以外の全テレビ局が特別報道を行ったため、多くの人々がレンタルビデオ店などに殺到する事態も生じた。また、この2日間は、ほぼ昭和天皇のエピソードや昭和という時代を振り返るエピソードを中心の番組編成が行われていたが、テレビ朝日は8日には、ゴールデンアワー時の放送について当初の内容を変更し、田原総一朗の司会による「天皇制はどうあるべきか」という番組に変更した。2日目を過ぎたあともフジテレビが「森田一義アワー 笑っていいとも!」を同番組の企画「テレフォンショッキング」の総集編「友達の輪スペシャル」に差し替えて放送するなど、自粛ムードに基づく放送を行っていたがその後収束していった。
外遊​

 

外国訪問は生涯に3回であった(※台湾行啓は国内扱い)。
皇太子時代​
皇太子時代の1921年(大正10年)3月3日から9月3日までの間、イギリスやフランス、ベルギー、イタリア、バチカンなどを公式訪問した。これは史上初の皇太子の訪欧であり、国内には反対意見も根強かったが、山縣有朋や西園寺公望などの元老らの尽力により実現した。
裕仁親王の出発は新聞で大々的に報じられた。お召し艦には戦艦香取が用いられ、横浜を出発し那覇、香港、シンガポール、コロンボ、スエズ、カイロ、ジブラルタルと航海し、2か月後の5月9日にポーツマスに着き、同日イギリスの首都ロンドンに到着する。イギリスでは日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、国王ジョージ5世や首相デビッド・ロイド・ジョージらと会見した。その夜に、バッキンガム宮殿で晩餐会が開かれジョージ5世とコノート公らと会談した。この夜をジョージ5世は、「慣れぬ外国で緊張する当時の裕仁親王に父のように接し緊張を解いた」と語っている。翌10日にはウィンザー宮殿にて王太子エドワードと会い、その後も連日に晩餐会が開かれた。ロンドンでは、大英博物館、ロンドン塔、イングランド銀行、ロイド海上保険、オックスフォード大学、陸軍大学、海軍大学などを見学し、ニューオックスフォード劇場とデリー劇場で観劇なども楽しんだ。ケンブリッジ大学ではタンナー教授の「英国王室とその国民との関係」の講義を聴き、また名誉法学博士の学位を授与された。19日から20日にかけては、スコットランドのエディンバラを訪問し、エディンバラ大学でもまた名誉法学博士号を授与された。また、第8代アソール公ジョン・ステュアート=マレーの居城に3日間滞在したが、アソール公夫妻が舞踏会でそれぞれ農家の人々と手を組んで踊っている様子などを見て、「アソール公のような簡素な生活をすれば、ボルシェビキなどの勃興は起こるものではない」と感嘆したという。
イタリアでは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らと会見したほか、各国で公式晩餐会に出席したり第一次世界大戦当時の激戦地などを訪れたりした。
戦後の1970年(昭和45年)9月16日、那須御用邸にて昭和が史上最長の元号になったことにちなみ最も印象深い思い出を聞かれた際、大戦前後を例外にして、「自由を味わうことができた」として、この外遊を挙げた。
天皇時代​
   欧州訪問​
1971年(昭和46年)には9月27日から10月14日にかけて17日間、再度イギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7か国を訪問した。なおこの際はお召し艦を使用した前回と違い日本航空のダグラス DC-8の特別機を使用した。訪問先には数えられていないが、このとき、経由地としてアラスカのアンカレッジに立ち寄っており、エルメンドルフ空軍基地内のアラスカ地区軍司令官邸でワシントンD.C.から訪れたアメリカ合衆国大統領のリチャード・ニクソンと会談、実質的にアメリカ合衆国も訪問している。
なお、この昭和天皇とニクソン大統領との会談は当初の予定になく、欧州歴訪のための給油にアメリカに立ち寄るだけの予定であったのだが、アメリカ側の要望で急遽、会談が決定した。日本側は要望を受け入れたものの、外務大臣・福田赳夫は会談を推進する牛場信彦駐米大使に「わが方としては迷惑千万である。先方の認識を是正されたい」とする公電を送っている。これは当時、天皇との会談をニクソン大統領の訪中で悪化した日米関係を修復するのに利用しようとしているのではないかと福田外相が懸念し、象徴天皇制の前提が揺らぐ可能性を憂慮したためである。
当初の訪問地であり、王室同士の交流も深いデンマークやベルギーでは国を挙げて温かく歓迎された。休養をかねての非公式訪問となったフランスでは、当時イギリスを追われ事実上同国に亡命していた旧知のウィンザー公と隠棲先で50年ぶりに再会して歓談。ウィンザー公と肩を組んでカメラにおさまった姿が公側近により目撃されている。
しかし、第二次世界大戦当時に植民地支配していたビルマやシンガポール、インドネシアなどにおける戦いにおいて日本軍に敗退し、捕虜となった退役軍人が多いイギリスとオランダでは抗議運動を受けることもあった。特に日本軍に敗退したことをきっかけにアジアにおける植民地を完全に失い国力が大きく低下したオランダにおいては、この昭和天皇のことを恨む退役軍人を中心とした右翼勢力から生卵や魔法瓶を投げつけられ、同行した香淳皇后が憔悴したほど抗議はひどいものであった。
こうした抗議や反発について、昭和天皇は帰国後11月12日の記者会見で事前に報告を受けており驚かなかったとした上で、各国からの「歓迎は無視できないと思います」とした。また、3年後に金婚を迎えたことに伴う記者会見で、皇后とともに、50年で一番楽しかった思い出として、この訪欧を挙げた。
   アメリカ合衆国訪問​
1975年(昭和50年)には、当時の米大統領であるジェラルド・R・フォードの招待によって9月30日から10月14日まで14日間に亘ってアメリカ合衆国を公式訪問した。天皇の即位後の訪米は史上初の出来事である。このときはアメリカ陸海空軍に加え海兵隊、沿岸警備隊の5軍をもって観閲儀仗を行っている。訪米に前後し、日本国内では反米的な左翼組織東アジア反日武装戦線などによるテロが相次いだ。
昭和天皇はウィリアムズバーグに到着したあと、2週間にわたってアメリカに滞在し訪米前の予想を覆してワシントンD.C.やロサンゼルスなど、訪問先各地で大歓迎を受けた。10月2日のフォードとの公式会見、10月3日のアーリントン国立墓地に眠る無名戦士の墓への献花、10月4日のニューヨークでのロックフェラー邸訪問とアメリカのマスコミは連日大々的に報道し、新聞紙面のトップは昭和天皇の写真で埋まった(在米日本大使館の職員たちは、その写真をスクラップして壁に張り出したという。)。ニューヨーク訪問時には、真珠湾攻撃の生き残りで構成される「パールハーバー生存者協会」が「天皇歓迎決議」を採択している。訪米中は学者らしく、植物園などでのエピソードが多かった。
ホワイトハウス晩餐会でのスピーチでは、「戦後アメリカが日本の再建に協力したことへの感謝の辞」などが読み上げられた。ロサンゼルス滞在時にはディズニーランドを訪問し、ミッキーマウスの隣で微笑む写真も新聞の紙面を飾り、同地ではミッキーマウスの腕時計を購入したことが話題になった。帰国当日に二種類の記念切手・切手シートが発行され、この訪米が一大事業であったことを物語っている。昭和天皇の外遊は、この訪米が最後のものであった。
なお、訪米に前後して天皇・皇后の公式な記者会見が行われたことも画期的となった。
行幸​
戦前、皇太子時代から盛んに国内各地に行啓、行幸した。1923年(大正12年)には台湾(台湾行啓)に、1925年(大正14年)には南樺太にも行啓している。
戦後は1946年(昭和21年)2月から約9年かけて日本全国を巡幸し、各地で国民の熱烈な歓迎を受けた。このときの巡幸では、常磐炭田や三井三池炭鉱の地下1,000mもの地底深くや満州からの引揚者が入植した浅間山麓開拓地などにも赴いている。開拓地までの道路は当時整備されておらず、約2kmの道のりを徒歩で村まで赴いた。1947年(昭和22年)には原爆投下後初めて広島に行幸し、「家が建ったね」と復興に安堵する言葉を口にした。 同年9月に襲来したカスリーン台風の被災地には「現地の人々に迷惑をかけてはいけない」として、お忍びで視察を行い、避難所を訪れて激励を行った。
そのほか、行幸先での逸話、御製も非常に多い。なお、当時の宮内次官・加藤進の話によれば、昭和天皇が東京大空襲直後に東京・下町を視察した際、被害の甚大さに大きな衝撃を受けたことが、のちの全国巡幸の主要な動機の一つになったのではないかと推測している。
また、昭和天皇は1964年(昭和39年)の東京オリンピック、1970年(昭和45年)の大阪万国博覧会、1972年(昭和47年)の札幌オリンピック、バブル経済前夜の1985年(昭和60年)の国際科学技術博覧会(つくば博)の開会式にも出席している。特に、敗戦から立ち直りかけた時期のイベントである東京オリンピックの成功には大きな影響を与えたとみられている。
昭和天皇は全国46都道府県を巡幸するも、沖縄県の巡幸だけは沖縄が第二次世界大戦終結後も長らくアメリカ軍の占領下であったうえ、返還後も1975年(昭和50年)の長男・皇太子明仁親王訪沖の際にひめゆりの塔事件が発生したこともあり、ついに果たすことができなかった。病臥した1987年(昭和62年)秋にも沖縄海邦国体への出席が予定されていたが、自ら訪沖することが不可能と判明したため皇太子明仁親王を名代として派遣し、お言葉を伝えた。これに関して「思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを 」との御製が伝わり、深い悔恨の念が思われる。代理として訪沖した皇太子明仁親王(当時)は沖縄入りし代表者と会見した際、「確かにお預かりして詣りました」と手にしたお言葉をおし頂き、真摯にこれを代読した。
その死の床にあっても、「もう、ダメか」と自身の病状よりも沖縄巡幸を行えなかったことを嘆いていた。
逸話​

 

幼少・皇太子時代​
馬上の皇太子裕仁親王。大正時代。6歳だった1907年(明治40年)12月18日に、両親(当時皇太子だった大正天皇と皇太子妃だった貞明皇后)からクリスマスプレゼントとして靴下に入ったおもちゃを貰っており、皇室が異文化や他宗教に大らかだったことがわかっている。
幼少時、養育係の足立たか(のちの鈴木貫太郎総理大臣夫人)を敬慕し多大な影響を受けた。 学習院初等科時代、「尊敬する人は誰か」という教師の質問に対し、生徒の全員が「明治天皇」を挙げたのに対し、その明治天皇を実の祖父に持つ裕仁親王一人だけ「源義経」を挙げた。教師が理由を聞くと、「おじじ様のことはよく知らないが、義経公のことはたかがよく教えてくれたから」と答えたという。
昭和天皇実録の1910年(明治43)1月の記述には、「午前は学習院の授業、午後は御用邸内においてジャーマン・ビリヤード、人取り、玉鬼、相撲、クロックノールなど種々のお遊び」とあり、他には百人一首、木登り、椅子取りなどの遊びをしていた他、1917年(大正6年)には「欧洲戦争将棋」との記述も見える。
11歳だった1912年(明治45年)3月16日に、母の貞明皇后などから聞かされていたイソップ物語に触発され、1作目となる「海魚の不平」と題した物語を自作し「裕仁新イソップ」と名付けている。盲目のウナギが他の魚の才能を羨むホウボウやタイを窘める話で、「自分よりも不幸な者の在る間は身の上の不平を言ふな」との教訓を記している。
学習院時代、学友たちがお互いを名字で「呼び捨て」で呼び合うことを羨ましがり、御印から「竹山(たけやま)」という名字を作り、呼び捨てにしてもらおうとした(この提案に学友が従ったかどうかは不明)。
皇太子時代にイギリスを訪問したとき、ロンドン地下鉄に初めて乗車した。このとき改札で切符を駅員に渡すことを知らず、切符を取り上げようとした駅員ともみ合いになり(駅員は、この東洋人が日本の皇太子だとは知らなかった)、とうとう切符を渡さず改札を出た。この切符は記念品として保存されたという。
この外遊に際して、理髪師の大場秀吉が随行。大場は裕仁親王の即位後も専属理髪師として仕え続け、日本史上初の「天皇の理髪師」となった。天皇の専属の理髪師は戦前だけで5人交代している。この大場をはじめ、昭和天皇に仕えた近従は「天皇の○○」と呼ばれることが多い。
皇太子時代から「英明な皇太子」として喧伝され、即位への期待が高かった。北海道、沖縄、日本領台湾はじめ各地への行啓も行っている。北海道行啓では先住民族が丸木舟に乗って出迎えた。
天皇時代​
   戦前​
父親の大正天皇が先鞭をつけた一夫一妻制を推し進めて、「(一夫多妻制での)側室候補」として「未婚で住み込み勤務」とされていた女官の制度を改め「既婚で自宅通勤」を認めた。
晩餐時、御前で東條英機と杉山元の両大将が「酒は神に捧げるが、煙草は神には捧げない」「アメリカの先住民は瞑想するのに煙草を用いる」などと酒と煙草の優劣について論争したことがあるが、自身は飲酒も喫煙もしなかった。酒に関しては、5歳のころ正月に小児科医から屠蘇を勧められ試飲したものの、悪酔いして寝正月を過ごす破目になって以降、儀式や宮中晩餐会等のやむを得ない場合に限り、一口だけ口にする程度であった。
小説でも「天皇の料理番」秋山徳蔵が晩餐会のメインディッシュであった肉料理に、天皇の皿だけ肉をくくっていたたこ糸を抜き忘れて供し、これに気付いて辞表を提出した際には、自分以外の招待客の皿について「同じミスがなかったか」を訊ね、秋山が「ございませんでした。」と答えると「以後気をつけるように」と言って許したという。孫の紀宮清子内親王にも同様のエピソードが伝わっている。
学習院在学中に古式泳法の小堀流を学んだ。即位後、皇族でもできる軍事訓練として寒中古式泳法大会を考案した。御所には屋外プールが存在した。
アドルフ・ヒトラーからダイムラー・ベンツ社の最高ランクだったメルセデス・ベンツ・770(通称:グロッサー・メルセデス)を贈呈され乗っていたが、非常に乗り心地が悪かったため好まなかったと伝わる。このほか、菊紋をあしらったモーゼルなども贈られたといわれる。
ナチス・ドイツが第二次世界大戦でフランスに勝利した1940(昭和15年)6月22日に、第一次世界大戦でドイツがフランスに降伏した場所と同じコンピエーニュの森にて、フランス側に降伏文書の調印をさせた。そのことを知った昭和天皇は、「何ウシテアンナ仇討メイタコトヲスルカ、勝ツトアヽ云フ気持ニナルノカ、ソレトモ国民カアヽセネハ承知セヌノカ、アヽ云フヤリ方ノ為メニ結局戦争ハ絶エヌノデハナイカ」と言ってヒトラーの対応を批判したという。(昭和天皇実録1940年7月31日の記述)
   戦時中​
対英米開戦後初の敗北を喫したミッドウェー海戦の敗北にも泰然自若たる態度を崩すことはなかったが、「大戦中期のガダルカナルにおける敗北以降、各地で日本軍が連合国軍に押され気味になると、言動に余裕がなくなった」という。戦時中の最も過酷な状況の折、宮中の執務室で「この懸案に対し、大臣はどう思うか…」などの独り言がよく聞こえたという。
南太平洋海戦の勝利を「小成」と評し、ガダルカナル島奪回にいっそう努力するよう海軍に命じている。歴戦のパイロットたちを失ったことにも言及している。
ガダルカナル島の戦いでの飛行場砲撃成功の際、「初瀬・八島の例がある。待ち伏せ攻撃に気をつけろ」と日露戦争の戦訓を引いて軍令部に警告、これは連合艦隊司令長官・山本五十六と司令部にも伝わっていた。だが、参謀・黒島亀人以下連合艦隊司令部は深く検討せず、結果、待ち伏せていたアメリカ軍との間で第三次ソロモン海戦が発生する。行啓の際にたびたびお召し艦を務めた戦艦比叡を失い、翌日には姉妹艦霧島も沈没、天皇の懸念は的中した。
太平洋戦争(大東亜戦争)史上最大の激戦といわれたペリリュー島の戦いの折には「ペリリューはまだ頑張っているのか」と守備隊長の中川州男大佐以下の兵士を気遣う発言をした。中川部隊への嘉賞は11度に及び、感状も3度も与えている。
「原爆や細菌を搭載した風船爆弾の製造を中止させた」と伝わるなど、一般的には平和主義者と考えられているが、戦争開始時には国家元首として勝てるか否かを判断材料としている。戦時中は「どうやったら敵を撃滅できるのか」と質問することがあり、太平洋戦争開戦後は海軍の軍事行動を中心に多くの意見を表明し、積極的に戦争指導を行っている。陸軍の杉山参謀総長に対し戦略ミスを指弾する発言、航空攻撃を督促する発言なども知られる。
陸海軍の仲違いや互いの非協力には内心忸怩たるものがあった。1943年(昭和18年)、第三南遣艦隊司令長官拝命のあいさつのために参内した岡新海軍中将に対して、赴任先のフィリピン方面での陸海軍の協力体制について下問があった。「頗る順調」という意味の返答をした岡中将に対して、「陸軍は航空機運搬船(あきつ丸・神州丸など)を開発・運用しているが、海軍には搭載する艦載機のない空母がある。なぜ融通しないのか?」とさらなる下問があった。 そのときはそれ以上の追及はなかったものの、時期が夏場だったこともあり、「返答に窮する岡中将の背中には見る見るうちに汗染みが広がっていくのが見えた」という。
戦争中、昭和天皇は靖国神社や伊勢神宮などへの親拝や宮中祭祀を熱心に行い、戦勝祈願と戦果の奉告を行っていた。政治思想家の原武史は、「昭和天皇が熱心な祈りを通じて『神力によつて時局をきりぬけやう』とするようになったという。
「天皇として自分の意を貫いたのは、二・二六事件と終戦の時だけであった」と語っている(後述)。このことを戦後、ジャーナリスト徳富蘇峰は「イギリス流の立憲君主にこだわりすぎた」などと批判している。
戦争を指導した側近や将官たちに対して、どのような感情を抱いていたのかを示す史料は少ない。『昭和天皇独白録』によれば、対米英開戦時の首相であった東條英機に対して「元来、東條という人物は話せばよく判る」「東條は一生懸命仕事をやるし、平素言っていることも思慮周密で中々良い処があった」と評していた。もっとも、「追い詰められた東條の苦しい言い訳には、顔をしかめることもあった」と伝わる。しかしながら、のちに極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦争犯罪人として有罪が確定し死刑となった東條の葬儀には勅使を遣わしている。また、『昭和天皇独白録』などにより松岡洋右や白鳥敏夫、宇垣一成、大島浩などには好感情を持っていなかったと推察されている。また、二・二六事件で決起将校たちに同情的な態度を取った山下奉文には、その人柄や国民的な人気、優れた将器にもかかわらず、この一件を理由としていい感情を持たなかったとも伝わる。マレー作戦の成功後も、天皇は山下に拝謁の機会を与えていない(もっとも、フィリピン転出の際には拝謁を果たしており、拝謁の機会を与えなかったのは東條英機の差し金によるものともいわれる)。晩年、「『この間出た猪木正道の近衛文麿について書かれた本が正確だ』、と中曽根に伝えよ」と昭和天皇に命ぜられたと宮内庁長官・富田朝彦が当時の首相・中曽根康弘に言ったという。中曽根は『評伝 吉田茂』で批判的に書かれていた近衛と松岡についてのことだと理解した。
   戦後​
終戦後初の年明けの1946年(昭和21年)1月1日、昭和天皇は自身の詔書としていわゆる「人間宣言(新日本建設に関する詔書)」を発表した。その際、天皇の神聖な地位の拠り所は「日本神話における神の子孫である」ということを否定するつもりもなく、昭和天皇自身は「自分が神の子孫であること」を否定した文章を削除したうえで、自身の祖父である明治天皇が示した「五箇条の御誓文」の文言を詔書の冒頭部分に加筆して、自身の意思により「戦後民主主義は日本に元からある五箇条の御誓文に基づくものであること」を明確にしたとされる。これにより、人間宣言に肯定的な意義を盛り込んだ。その31年後、1977年(昭和52年)8月23日の記者会見にて昭和天皇は、「神格の放棄はあくまで二の次で、本来の目的は日本の民主主義が外国から持ち込まれた概念ではないことを示すことだ」「民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった。日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないためにあの宣言を考えたのです」と振り返り語った。
1946年(昭和21年)初春、日本全国の沖縄県を除く46都道府県の巡幸が開始された。当時のイギリス紙は「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地への巡幸において、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている」と報じた。これに対して、世界近代史上初めて非君主国(共和制)としての建国由来を持つ王室が存在しないアメリカ人が中心となり組織されたGHQでは「神ではない、ただの猫背の中年男性」「石の1つも投げられればいい」と天皇の存在感を軽視していた者も多かったが、巡幸の様子を見て大いに驚いたとされる。
敗戦から1年が経過した1946年(昭和21年)8月、GHQ(SCAP)による占領政策により戦勝国であるアメリカの諸制度が導入されていく中にあって、昭和天皇は敗戦国の国民として打ちひしがれた日本人を励ますため、日本史上において対外戦争の敗北という点で共通した、1282年前に遡る飛鳥時代での白村江の戦い(天智2年8月/663年10月)の例を挙げ、「朝鮮半島に於ける敗戦の後、国内体制整備の為、天智天皇は大化の改新を断行され、その際思い切った唐制(当時の中国王朝)の採用があった。これを範として今後大いに努力してもらいたし」と語った。ここでいう朝鮮半島での敗戦とは、663年に日本が百済王朝の復興を支援するため朝鮮半島に派兵したが、唐と新羅の連合軍に敗れた「白村江の戦い」のことを指した。その後、天智天皇は当時のアジア先進国であった唐の律令制を積極的に取り入れたというかつての経験を取り上げた。
天皇のあまりの影響力に、1946年(昭和21年)12月の中国地方巡幸の兵庫県における「民衆の日の丸国旗を振っての出迎えが指令違反である」としてGHQ民政局は巡幸を中止させたが、国民からの嘆願や巡幸を求める地方議会決議が相次いだため、1948年(昭和23年)からの巡幸再開を許可した。
初の日本社会党政権を成立させた片山哲首相に対しては、「誠に良い人物」と好感を持ちながらも、社会主義イデオロギーに基づく急激な改革に走ることを恐れ、側近を通じて自分の意向を伝えるなど、戦後においても政治関与を行っていたことが記録に残っている。また片山内閣の外相であった芦田均は「内奏を望む昭和天皇への違和感」を日記に記している。
1947年(昭和22年)9月23日、東京都内の天皇側近からGHQを通してアメリカ合衆国国務省に伝送されたいわゆる「天皇メッセージ」によると、「天皇はアメリカ合衆国が沖縄県をはじめ琉球諸島を軍事占領し続けることを希望していた」とされる。天皇の意見によると、「その占領は、アメリカ合衆国の利益になり、日本を守ることにもなり、沖縄の主権は、日本に残したまま長期租借という形で行われるべきである」と考えられた。これは「日本本土を守るため、沖縄を切り捨てた」とする見方がある一方、「租借という形で日本の主権を確保しておく」といった見方もある。
農地改革後の農村を視察していたアメリカ人が農作業をしていた老人に「農地改革の成果」と「ダグラス・マッカーサーをどう思うか」について質問したとき、マッカーサーのことを「お雇い外国人」と思いこんだ老人から「陛下も本当にいい人を雇ってくださいました」と真顔で答えられ返答に窮したという逸話がある。
1949年(昭和24年)5月22日の佐賀県三養基郡基山町の因通寺への行幸では、ソ連による抑留下で共産主義思想と反天皇制(天皇制廃止論、君主制廃止論の一つ)を教え込まれ洗脳されたシベリア抑留帰還者が、天皇から直接言葉をかけられ、一瞬にして洗脳を解かれ「こんなはずじゃなかった、俺が間違っておった」と泣き出したことがある。天皇は引き揚げ者に「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」と言葉をかけ、長い年月の苦労を労った。同地ではまた、満州入植者の遺児を紹介されて「お淋しい」と言い落涙した。別の遺児には「また来るよ」と再会を約する言葉を残している。
巡幸での炭鉱訪問の際、労働者から握手を求められたことがある。昭和天皇はこのときにはこれを断り、「日本には日本らしい礼儀がありますから、お互いにお辞儀をしましょう」という提案をして実行した。
アメリカ政府からの使節が皇居新宮殿について「新しいのですね」と感想を述べたとき、「前のはあなたたちが燃やしたからね」と皮肉を返したと伝わる。皇居新宮殿以前に起居していた御常御殿は戦災で焼失しており、吹上御所が完成する1961年(昭和36年)まで、昭和天皇と香淳皇后は戦時中防空壕として使用した御文庫を引き続いて仮住居としていた。
皇居の畑で芋掘りをしていたとき、日本では滅多に見ることのできない珍しい鳥であるヤツガシラが一羽飛来したのを発見、侍従に急ぎ双眼鏡を持ってくるように命じた。事情の分からない侍従は「芋を掘るのに双眼鏡がなぜいるのですか」と聞き返した。このときのヤツガシラは香淳皇后が日本画に描いている。
1975年10月31日、日本記者クラブ主催の公式記者会見の席上、天皇裕仁は、広島の原爆被災についてきかれ、「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。」と他人事のように無神経な発言をして物議を醸す。
イギリスなど君主制をとる国に対しては、比較的新興国の部類に入るイラン帝国なども含めて好感と関心を抱いていたという。主権回復後ほどない1956年(昭和31年)にはエチオピア皇帝ハイレ・セラシエの来日を迎え、満州国皇帝・溥儀以来の大がかりな祝宴を張って皇帝を歓迎した。ハイレ・セラシエはその後、大阪万博にも見学に来日している。1975年(昭和50年)の沖縄国際海洋博覧会にはイラン帝国のパビリオンも出展された。強引な建国であった1976年(昭和51年)の中央アフリカ帝国建国に際しても祝電を送っている。
「イングランドの最高勲章」および「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の栄典」においての「騎士団勲章」の最高位とその騎士団の一員の証となる「ガーター勲章」を1929年(昭和4年)に叙勲しているが、1941年(昭和16年)12月の日英開戦とともに剥奪された。戦後、1962年(昭和37年)の秩父宮妃訪英、1969年(昭和44年)のマーガレット王女訪日などで日英の皇室・王室間の友好交流が深まる中、ついに昭和天皇の訪英に先立つ1971年(昭和46年)4月7日、イギリス王室は「剥奪された日本国天皇の名誉を全て回復させる」という宣言を発し、これにより昭和天皇は正式にガーター騎士団員の地位に復帰した。剥奪後に復帰した外国君主は騎士団600年あまりの歴史の中で昭和天皇のみである。ドイツ、オーストリア、イタリアの各国は戦後に王制(君主制)が廃止(共和制へ移行)されたため復帰されることはなかった。
1971年(昭和46年)6月、佐藤栄作首相がアーミン・マイヤー米国駐日大使と会談した際、天皇から「日本政府が、しっかりと蒋介石(台湾の中華民国政府)を支持するよう促された」と伝えられていたことが、秘密情報解除されたアメリカ国務省の外交文書で判明。しかし、国連代表権は同年10月の国連総会で採択され毛沢東主席の中華人民共和国に移行した。
1975年(昭和50年)にタイム誌のインタビューで中華人民共和国訪問の希望を語っており、1978年(昭和53年)10月に中国の指導者として初めて訪日したケ小平中央軍事委員会主席と会見した際は天皇から「あなたの国に迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪してケ小平を感激させ、1984年(昭和59年)4月には「中国へはもし行けたら」と述べて中国政府の訪中要請に前向きだったものの日本政府は沖縄訪問を優先したことで見送られた。
1973年(昭和48年)5月26日、認証式のため参内した防衛庁長官(現在の防衛大臣職に相当)・増原惠吉が内奏時の会話の内容を漏らすという事件があった。28日の新聞は昭和天皇が「防衛問題は難しいだろうが、国の守りは大事なので、(自衛隊は)旧軍の悪いことは真似せず、いいところは取り入れてしっかりやってほしい」と語ったと報じた。増原防衛庁長官は、内奏の内容を漏らした責任を取って辞任することとなった(増原内奏問題)。
生真面目な性格もあり、戦後政治において政争絡みで日本の政治が停滞することを好まなかったことが窺える。『入江相政日記』には、いわゆる「四十日抗争」の際、参内した大平正芳に一言も返さないという強い態度で非難の意を示したことが記録されている。
侍医を務めた伊東貞三も「伊東…きょうは満月だよ、そこを開けてごらん…きれいだよ」と末期がんであった昭和天皇に言葉をかけられたことを、「とても命の危機が迫っているとは思えない人間離れしたお姿だった」と回想している。
公務におけるもの​
昭和天皇は、戦後の全国行幸で多くの説明を受けた際に「あ、そう」という一見すると無味乾燥な受け答えが話題になった。ただしこの受け答えは後の園遊会などでもよく使われており、説明に無関心だったというよりは単なる癖であったと思われる。本人も気にして「ああ、そうかい」と言い直すこともあった。甥の一人である寛仁親王も、「陛下は『あ、そう』ばかりで、けっして会話が上手な方ではなかった」と語っている。もっとも謁見の機会を得た細川隆元がその「あ、そう」一つとっても、さまざまなバリエーションがあったと書いている。細川曰く「同感の時には、体を乗り出すか、『そう』のところが『そーう』と長くなる」とのこと。この「あ、そう」と独特の手の上げ方は非常に印象的で、国民に広く親しまれた。過去には、タモリが声真似をレパートリーとしていた。
一方で表情は非常に豊かで、満面の笑みを浮かべる天皇の表情のアップ(GHQカメラマンディミトリー・ボリアが撮影、時期は1950年(昭和25年)- 1951年(昭和26年)ごろ)なども写真に残っている。ただし、終戦まで天皇の笑顔を写した写真は、検閲によって一切公開不許可であった。
1982年(昭和57年)の園遊会で黒柳徹子と歓談した際、黒柳が当時の自著『窓ぎわのトットちゃん』を「国内で470万部売って、英語で外国でも出ることになりました」と説明すると、昭和天皇は「よく売れて」と答えた。あたかも天皇へ自著を自慢しているように映ってしまい、周囲の大爆笑に黒柳は照れ笑いを浮かべながら「(売上を)福祉のために使うことができました」と説明した。このほか、柔道家の山下泰裕が昭和天皇から「(柔道は)骨が折れるだろうね」と声をかけられた際、文字通りに受け取ってしまい「はい、2年前に骨折しましたが、今はよくなって頑張っております」と朗らかに返答したエピソードがある。
1983年(昭和58年)5月、埼玉県行田市の埼玉県立さきたま史跡の博物館へ行幸。天皇がガラスケースの中の金錯銘鉄剣を見ようとしたとき、記者団が一斉にフラッシュをたいてその様子を撮影しようとしたため「君たち、ライトをやめよ!」と記者団を叱った。カメラのフラッシュがガラスに反射して見えなかったのを怒ったものである。
晩年、足元のおぼつかない天皇を思いやって「国会の開会式には無理に出席しなくとも……」という声が上がった。ところが天皇は「むしろ楽しみにしてるんだから、楽しみを奪うような事を言わないでくれ」と訴えたという。
家族・家庭​
3人の弟宮との関係は良好で、特に性格のほぼ正反対といってよい長弟・秩父宮雍仁親王とは忌憚のない議論をよく交わしていたという。秩父宮が肺結核で療養することになると、「感染を避けるため」見舞いに行くことが許されなかったことを悔やんでいた。そのため、次弟・高松宮宣仁親王が病気で療養するとたびたび見舞いに訪れ、臨終まで立ち会おうとした。臨終の当日も見舞いに訪れている。また妃たち同士も仲が良く、これも関係を良好に保つ大きな助けとなった。
久邇宮家出身の女王である妻・香淳皇后のことは「良宮」(ながみや)と呼んでいた。一方、妻の香淳皇后は夫である昭和天皇のことを「お上」と呼んでいた。夫婦仲は円満だった。結婚当初から、当時の男女としては珍しく、手をつないで散歩に行くことがあった。 1919年(大正8年)、宮内大臣波多野敬直から、婚約を知らされる。翌1920年(大正9年)に久邇宮邸で良子女王と儀礼的に対面したが、言葉を交わすことは無かった。その後、二人の対面も計画されたが実現せず、結局、婚約中に親しく会う機会はなく、印象もない。
婚約中の1921年(大正10年)に訪欧したとき、婚約者とその妹たちへの土産に、銀製の手鏡・ブラシセットを購入した。結婚後も、行幸先、植物採集に出かけた先では必ず「良宮のために」と土産を購入、採集した。また1971年(昭和46年)の訪欧時にも、オランダで抗議にあって憔悴した皇后を気遣ったエピソードがある。
天皇の手の爪を切るのは、皇后が行っていた。侍医が拝診の際に、天皇の手の爪が長くなっていることを指摘すると「これは良宮(ながみや)が切ることになっている」と、医師に切らないよう意思表示した。
香淳皇后との間には当初皇女が4人続けて誕生したため、事態を憂慮した宮内省(現宮内庁)は側室制度(一夫多妻制)を復活させることを検討しはじめていた。しかし側近が側室を勧めた際、昭和天皇は「良宮でよい」と返答した。側室候補として華族の娘3人の写真を見せられたときも「皆さん、なかなかよさそうな娘だから、相応のところに決まるといいね」と返答し写真を返したエピソードも残っている。また、香淳皇后に対しては「皇位を継ぐ者は、秩父さんもおられれば、高松さんもおられる」「心配しないように」と励ましたという。
5人目の子にして、待望の第一皇子(第一皇男子)・継宮明仁親王を得た際の昭和天皇の喜びようは大変なものだった。しかしそれにも増して、それまで華族たちから「女腹」(女子ばかりでお世継ぎたる男子を出産できない)と陰口を叩かれて肩身の狭い思いをしていた香淳皇后へのねぎらいはひとしおなものだった。男子誕生の知らせを受けた昭和天皇はいても立ってもいられず、まっしぐらに香淳皇后のもとへ赴いて母子を見舞い、万感の思いを込めて「よかったね」と一声かけるとすぐに退出、ところがすぐにまた引き返し、ふたたび同様に声をかけ皇后をねぎらった。
香淳皇后の老いの兆候が顕著になったあとも「皇后のペースに合わせる」などと皇后を気遣っており、1987年(昭和62年)9月に行われた昭和天皇の手術後の第一声も「良宮はどうしているかな」だった。
皇子女たちは近代以降初めて、両親の手元で皇后の母乳で育てられたが、学齢を迎えるころから内親王たちは呉竹寮で、親王たちは3歳ごろより別々に養育され、家族とはいえ、一家が会えるのは週末のみになってしまった。しかし会える時間が短いとはいえ、天皇が厚子内親王の勉強の質問に丁寧に答えたなどの逸話がある。
皇太子の継宮明仁親王には西洋の思想も学ばせるべきであると考え、家庭教師にエリザベス・ヴァイニングを招いた。また、西洋で流行していたボードゲームのリバーシ(現在のオセロ)を与え、昭和天皇自ら対戦して皇太子の知恵を育んだ。
父・大正天皇について、激務に身をすり減らした消耗振りを想起し、記者会見で「皇太子時代は究めて快活にあらせられ極めて身軽に行啓あらせられしに、天皇即位後は万事窮屈にあらせられ(中略)ついに御病気とならせられたることまことに恐れ多きことなり」と回想している。長弟・秩父宮雍仁親王も同様の発言をしている。
ひげを蓄えたのは、香淳皇后との成婚後からで「成婚の記念に蓄えている」とも「男子、唯一つの特権だから」とも、その理由を説明している。他方、1986年(昭和61年)以降、孫の一人である文仁親王が口ひげをたくわえ始めたときには「礼宮のひげはなんとかならんのか」と苦言を呈した。なおひげの手入れは「自ら電気カミソリで行っていた」という。
成子内親王の長男・東久邇信彦に対し、結婚相手の条件として「両親が健在な、健全な家庭の人であること」「相手の家にガン系統がないこと」などを伝え、「条件に合えば自分の好きな人でいい」とした。
人物像​
   天皇自身の発言​
1972年(昭和47年)3月7日・ニューヨークタイムズのインタビュー
[天皇]自身の人生と知的発達にもっとも影響を与えた人物は、ドイツで学んだあとに日本の西洋史の権威となった日本人教授、箕作元八である。[天皇]箕作元八の著書は、何年か前に私に西洋史の傾向や西洋の民主主義を理解することの重要性を証明してくれた。そして、私の勅書においても、具体的なアイデアの速やかな採用に貢献した。
   生活・趣味​
趣味として、ゴルフを勧められ、1917年(大正6年)の皇太子時代よりゴルフを行っていた。当時は病弱であり、結核を予防するという意味もあったという。皇太子はゴルフに熱心となり、欧州旅行中も行い、また、来日中の英国王太子(のちのエドワード8世国王、現在のエリザベス2世女王の伯父)と1922年(大正11年)4月19日、プレーしている。皇太子妃良子も皇太子裕仁親王から教えられゴルフを行っている。赤坂離宮に6ホール、那須御用邸に9ホール、吹上御苑に最初4コース、のち9コースのゴルフコースでプレイした。成績として9コース、58,51,54、良子妃の60という記録がある。満州事変のあとは中止し、吹上御苑コースなども廃止された。
生物学研究所の顕微鏡を古くなっても買い替えることはなく、鉛筆は短くなるまで使い、ノートは余白をほとんど残さず、洋服の新調にも消極的であった。
不自然なものを好まず、盆栽を好まなかった。
晩年の昭和天皇は芋類・麺類(蕎麦)・肉料理・鰻・天ぷら・乳製品・チョコレートの順に好物であったとされる。月一回の蕎麦が大変な楽しみで、配膳されたときには御飯を残して蕎麦だけを食べたという。猫舌については、浜名湖で焼きたての鰻の蒲焼を食べて火傷をした逸話が伝わる。このほか、鴨のすき焼きも好んだと伝わるなど、食に関する逸話は非常に多い。
朝食にハムエッグを食することを好んだという。戦後はオートミールとドレッシング抜きのコールスローにトースト2枚の朝食を晩年まで定番とした。
1964年(昭和39年)に下関に行幸した際には、中毒の恐れがあるからとフグを食べられないことに真剣に憤慨し、自分たちだけフグを食べた侍従たちに「フグには毒があるのだぞ」と恨めしそうに言ったという逸話もある。その一方で同所ではイワシなど季節の魚に舌鼓を打ったという。 宮中にフグが献上された場合も同じ理由で食すことを止められ、ときには「資格を持った調理人がさばいたフグを食べるのに何の問題があるのか」「献上した人が逆臣だとでも言うのか」と侍医を問い詰めることもあった。しかし、ついに生涯フグは食べることができなかった。
1926年(大正15年)5月、摂政宮として岡山県、広島県及び山口県の3県へ行啓の際、お召艦となった戦艦長門で将兵の巡検後タバコ盆が出された甲板で「僕は煙草はのまないからタバコ盆は煙草呑みにやろう」と、(「朕」ではなく)はっきり「僕」と言うのを当時主計中尉で長門勤務だった出本鹿之助が聞いている。
見学した新幹線の運転台が気に入り、侍従に時間を告げられてもしばらくそこから離れなかったこともある。訪欧時にもフランスで鯉の餌やりに熱中し、時間になってもその場を離れなかったエピソードがある。
スポーツに関しては「幼いときから色々やらされたが、何一つ身につくものはなかった」と発言した。昭和天皇自身は乗馬が好き(軍人として必要とされたという側面もある)で、障害飛越などの馬術を習得しており、戦前はよく行っていた。戦後でも記念写真撮影に際して騎乗することがあった。また水泳(古式泳法)も得意で、水球を楽しむ写真も残っている。
デッキゴルフやビリヤードを好み、戦艦の比叡を御召艦にしていた際に侍従を相手に興じている。乗艦時は無表情だった昭和天皇が、このときは屈託もなく笑って楽しんでいたという。
映画も大の好みであった。「ベルリン五輪記録映画『民族の祭典』やヴィリ・フォルスト監督の『未完成交響楽』(オーストリア映画)、ディアナ・ダービン主演の『オーケストラの少女』なども鑑賞された」と、戦前の海軍侍従武官であった山澄貞次郎海軍少将が回想記に綴っている。
1975年(昭和50年)10月31日の記者会見で「テレビはどのようなものをご覧になるか」という質問に対し、微笑を浮かべ身を乗り出して、「テレビは色々見てはいますが、放送会社の競争がはなはだ激しいので、今どういう番組を見ているかということには答えられません」と微笑みつつ冗談交じりに返した。記者達はこの思わぬ天皇の気遣いに大爆笑した。 現在では、側近の日記が明らかになることによってどのような番組を見ていたかが明らかになっており、NHK朝の連続テレビ小説と「水戸黄門」が好きだったとされる。
「おしん」では「その当時の女性の苦労というものを、察していましたが、当時はあまりよく知らなかった。苦労をしていたということは知っていましたけれども、それは非常に大ざっぱな感想しか、その当時は承知していませんでした。」と感想を述べた。
テレビ番組に関してはこのほか「自然のアルバム」などもよく視聴した。意外なところでは「プレイガール」も視聴したことがあるという。「刑事コロンボ」も好きで、訪米の際にはピーター・フォークを昼食会に招待しようと希望したという記事もあるが、訪米直前のニューズウィークのインタビューでは、国民に人気のあることは知っているが観たことはないと答えている。
テレビの被写体になることに関して、「皇室アルバム」のプロデューサーを務めた古山光一が「秋田国体に行かれたときに、小雨が降って侍従が傘を差し出したら、強風で傘が飛び、陛下の帽子も飛ばされた映像もあるんです。戦前なら即NGでしょうが、陛下はそれをご覧になって『おもしろい映像だったね』とおっしゃったそうです。そういうお声を聞くと侍従も困るといえません。昭和天皇の人間性で、この番組は、救われてきた気がします」と振り返っており、古山も天皇と皇族の動静がテレビで報道されることに一定の理解を示していた。
好角家として知られる昭和天皇は、当時の日本相撲協会理事長・春日野清隆が「蔵間は大関になります」と語った言葉をのちのちまで覚えていたらしく、あるとき「蔵間、大関にならないね」とこぼした。春日野理事長は「私は陛下に嘘を申し上げました」と言って謝罪し、その後、蔵間を理事長室へ呼んで叱責したという逸話がある。 また高見山が現役引退を表明したころ、日本相撲協会を管轄していた森喜朗文部大臣(当時)へ「見山がなぜ辞めたのかね」「見山は残念だったろうな」と発言。そのことをのちに森文部大臣が見山に伝えると高見山は「もったいないです、もったいないです」と涙を流したという。
   生物・自然​
生物学者だった昭和天皇は、1912年4月27日に学習院初等学科5年生の授業でカエルの解剖を習った。帰宅してからもトノサマガエルの解剖を行い、観察後は死骸を箱に入れて庭に埋め、「正一位蛙大明神」の称号を与えたという。
昭和天皇は海の生物が好きであり、臣下との会話で海の生物の話題が出ると喜んだという。趣味として釣りも楽しんだ。沼津において、常陸宮正仁親王を伴って磯釣りに興じたことがある。釣った魚は研究のため、すべて食べる主義であった。終戦直後には「ナマコが食べられるのだから、ウミウシも食べられるはずだ」と、葉山御用邸で料理長にウミウシを調理させ食した(のちに「あまりおいしいものではなかった」と述べた)という。採集品については食べることはなかったともいわれ、船頭が献上した大ダイをそのまま標本にしてしまい、船頭が惜しがったというエピソードも伝わる。
南方熊楠のことはのちのちまで忘れることはなく、その名を御製に詠んでいる。南方および弟子からは都合四回にわたって粘菌の標本の献呈を受けている。
「テツギョ」というキンギョとフナの雑種とされる魚を飼育していた。のちにDNA鑑定でキンブナとリュウキンの雑種と判明した。
海洋生物学を研究する関係からか、英語よりフランス語を得意としたと伝わる。訪欧時フランスのバルビゾンのレストラン「バ・ブレオー」でエスカルゴを食べる際、その個数について「サンク(仏語で5つ)」と「3個」をかけて近習をからかったことがある。
武蔵野の自然を愛し、ゴルフ場に整備されていた吹上御苑使用を1937年(昭和12年)に停止し、一切手を加えないようにした。その結果、現在のような森が復元された。また「雑草という植物はない」と言ったとされることでも有名。
2018年、生前採取していたテヅルモヅルが新種であったことが判明し、「トゲツルボソテヅルモヅル」と命名された。
短歌​
昭和天皇は生涯に約1万首の短歌を詠んだといわれている。うち公表されているものは869首。これは文学的見地からの厳選というよりは立場によるところが大きい。
近代短歌成立以前の御歌所派の影響は残るものの、戦後は木俣修、岡野弘彦ら現代歌人の影響も受けた。公表された作品の約4割は字余りで、ほとんど唯一といってよい字足らずは、自然児の生物学者・南方熊楠に触発されたもののみである。
昭和天皇の歌集
みやまきりしま:天皇歌集(毎日新聞社編、1951年11月、毎日新聞社)
おほうなばら:昭和天皇御製集(宮内庁侍従職編、1990年10月、読売新聞社)
昭和天皇御製集(宮内庁編、1991年7月、講談社)
昭和天皇・香淳皇后の歌集
あけぼの集:天皇皇后両陛下御歌集(木俣修編、1974年4月、読売新聞社)
生物学研究​

 

昭和天皇は生物学者として海洋生物や植物の研究にも力を注いだ。1925年(大正14年)6月に赤坂離宮内に生物学御研究室が創設され、御用掛の服部廣太郎の勧めにより、変形菌類(粘菌)とヒドロ虫類(ヒドロゾア)の分類学的研究を始めた。1928年(昭和3年)9月には皇居内に生物学御研究所が建設された。1929年(昭和4年)には自ら在野の粘菌研究第一人者・南方熊楠のもとを訪れて進講を受けた。もっとも、時局の逼迫によりこれらの研究はままならず、研究成果の多くは戦後発表されている。ヒドロ虫類についての研究は裕仁(あるいは日本国天皇)の名で発表されており、『日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討』をはじめ、7冊が生物学御研究所から刊行されている。また、他の分野については専門の学者と共同で研究をしたり、採集品の研究を委託したりしており、その成果は生物学御研究所編図書としてこれまで20冊刊行されている。
1934年(昭和9年)には、海中生物の採集に使うための天皇陛下植物採集船として「葉山丸」が建造された。これは横須賀海軍工廠で建造された全長15.1メートルの和船型内火艇で、宮内省御用船として管理されていた。第2次世界大戦中には海軍兵学校に下賜され、戦後は英豪軍が接収し瀬戸内海でヨットとして使用していたが、1949年に退役したあとは海上保安庁の管理下に入り、復元工事ののち、ふたたび採集作業に使われるようになった。1956年には、同庁の23メートル型港内艇「むらくも」を改装・改名した「はたぐも」がその役割を引き継いだ。そして1971年には、新造船として「まつなみ」が建造されて、3代目の採集船となった。これらの艇は、普段は通常の巡視艇と同様の警備救難業務にあたっていた。なお「はたぐも」の就役後は「葉山丸」は通常の巡視艇として用いられていたが、1967年に船体を規格12メートル型に改装した(しらぎく型)。この際に主機関は引き継がれたが、旧船体は役目を終えたことから、大山祇神社(愛媛県今治市)の海事博物館に保存、公開されている。
昭和天皇の生物学研究については、山階芳麿や黒田長礼の研究と同じく「殿様生物学」の流れを汲むものとする見解や、「その気になれば学位を取得できた」とする評価がある。一方、昭和天皇が研究題目として自然科学分野を選んだのは、純粋な個人的興味というよりも、万葉集以来の国見の歌同様、自然界の秩序の重要な位置にいるシャーマンとしての役割が残存しているという見解もある。これについては北一輝が昭和天皇を「クラゲの研究者」と呼び密かに軽蔑していたという渡辺京二の示すエピソードが興味深いが、数多く残されている昭和天皇自身が直接生物学に関して行った発言には、この見解を肯定するものは見当たらない。昭和天皇の学友で掌典長も務めた永積寅彦は生物学研究の上からも堅い信仰を持っていたのではないかと語っている。また、詠んだ和歌の中で、干拓事業の進む有明海の固有の生物の絶滅を憂うる心情を詠いつつ、その想いを「祈る」と天皇としては禁句とされる語を使っている点に特異な点があることを、自然保護運動家の山下弘文などが指摘している。
昭和天皇の海洋生物研究の一部は明仁の研究とともに、新江ノ島水族館(神奈川県藤沢市)で公開されている。
昭和天皇の研究著書
日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討(1967年2月) / 天草諸島のヒドロ虫類(1969年9月) / カゴメウミヒドラClathrozoon wilsoni Spencerに関する追補(1971年9月) / 小笠原諸島のヒドロゾア類(1974年11月) / 紅海アカバ湾産ヒドロ虫類5種(1977年11月) / 伊豆大島および新島のヒドロ虫類(1983年6月) / パナマ湾産の新ヒドロ虫Hydractinia bayeri n.sp.ベイヤーウミヒドラ(1984年6月) / 相模湾産ヒドロ虫類(1988年8月) / 相模湾産ヒドロ虫類 2(1995年12月)  / 昭和天皇と専門の学者の共同研究 / 那須の植物(1962年4月、三省堂) / 那須の植物 追補(1963年8月、三省堂) / 那須の植物誌(1972年3月、保育社) / 伊豆須崎の植物(1980年11月、保育社) / 那須の植物誌 続編(1985年11月、保育社) / 皇居の植物(1989年11月、保育社)
昭和天皇の採集品を基に専門の学者がまとめたもの
相模湾産後鰓類図譜(馬場菊太郎)(1949年9月、岩波書店) / 相模湾産海鞘類図譜(時岡隆)(1953年6月、岩波書店) / 相模湾産後鰓類図譜 補遺(馬場菊太郎)(1955年4月、岩波書店) / 増訂 那須産変形菌類図説(服部廣太郎)(1964年10月、三省堂) / 相模湾産蟹類(酒井恒)(1965年4月、丸善) / 相模湾産ヒドロ珊瑚類および石珊瑚類 (江口元起)(1968年4月、丸善) / 相模湾産貝類(黒田徳米・波部忠重・大山桂) (1971年9月、丸善) / 相模湾産海星類(林良二)(1973年12月、保育社) / 相模湾産甲殻異尾類 (三宅貞祥)(1978年10月、保育社) / 伊豆半島沿岸および新島の吸管虫エフェロタ属(柳生亮三)(1980年10月、保育社) / 相模湾産蛇尾類(入村精一)(1982年3月、丸善) / 相模湾産海胆類(重井陸夫)(1986年4月、丸善) / 相模湾産海蜘蛛類(中村光一郎)(1987年3月、丸善) / 相模湾産尋常海綿類(谷田専治)(1989年11月、丸善)
昭和天皇が発表したヒドロ虫類の新種
Clytia delicatula var. amakusana Hirohito, 1969 アマクサウミコップ / C.multiannulata Hirohito, 1995 クルワウミコップ / Corydendrium album Hirohito, 1988 フサクラバモドキ / C. brevicaulis Hirohito, 1988 コフサクラバ / Corymorpha sagamina Hirohito, 1988 サガミオオウミヒドラ / Coryne sagamiensis Hirohito, 1988 サガミタマウミヒドラ / Cuspidella urceolata Hirohito, 1995 ツボヒメコップ / Dynamena ogasawarana Hirohito, 1974 オガサワラウミカビ / Halecium perexiguum Hirohito, 1995 ミジンホソガヤ / H. pyriforme Hirohito, 1995 ナシガタホソガヤ / Hydractinia bayeri Hirohito, 1984 ベイヤーウミヒドラ / H. cryptogonia Hirohito, 1988 チビウミヒドラ / H. granulata Hirohito, 1988 アラレウミヒドラ / Hydrodendron leloupi Hirohito, 1983 ツリガネホソトゲガヤ / H. stechowi Hirohito, 1995 オオホソトゲガヤ / H. violaceum Hirohito, 1995 ムラサキホソトゲガヤ / Perarella parastichopae Hirohito, 1988 ナマコウミヒドラ / Podocoryne hayamaensis Hirohito, 1988 ハヤマコツブクラゲ / Pseudoclathrozoon cryptolarioides Hirohito, 1967 キセルカゴメウミヒドラ / Rhizorhagium sagamiense Hirohito, 1988 ヒメウミヒドラ / Rosalinda sagamina Hirohito, 1988 センナリウミヒドラモドキ / Scandia najimaensis Hirohito, 1995 ナジマコップガヤモドキ / Sertularia stechowi Hirohito, 1995 ステッヒョウウミシバ / Stylactis brachyurae Hirohito, 1988 サカズキアミネウミヒドラ / S. inabai Hirohito, 1988 イナバアミネウミヒドラ / S. monoon Hirohito, 1988 タマゴアミネウミヒドラ / S. reticulata Hirohito, 1988 アミネウミヒドラ / S. (?) sagamiensis Hirohito, 1988 サガミアミネウミヒドラ / S. spinipapillaris Hirohito, 1988 チクビアミネウミヒドラ / Tetrapoma fasciculatum Hirohito, 1995 タバヨベンヒメコップガヤ / Tripoma arboreum Hirohito, 1995 ミツバヒメコップガヤ / Tubularia japonica Hirohito, 1988 ヤマトクダウミヒドラ / Zygophylax sagamiensis Hirohito, 1983 サガミタバキセルガヤ
戦争責任論​

 

概要​
大日本帝国憲法(明治憲法)において、第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を根拠として、軍の最高指揮権である統帥権は天皇大権とされ、また第12条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」を根拠に軍の編成権も天皇大権の一つとされた。政府および帝国議会から独立した、編成権を含むこの統帥権の独立という考え方は、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約の批准の際に、統帥権干犯問題を起こす原因となった。
統帥権が天皇の大権の一つ(明治憲法第11条)であったことを理由に、1931年(昭和6年)の満州事変から日中戦争(支那事変)、さらに太平洋戦争へと続く「十五年戦争」(アジア太平洋戦争)の戦争責任をめぐって、最高指揮権を持ち、宣戦講和権を行使できた天皇に戦争責任があったとする主張
大日本帝国憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と、規定された天皇の無答責を根拠に(あるいは軍事などについての情報が天皇に届いていなかったことを根拠に)、天皇に戦争責任を問うことはできないとする主張
との間で、論争がある。
美濃部達吉らが唱えた天皇機関説によって、明治憲法下で天皇は「君臨すれども統治せず」という立憲主義的君主であったという説が当時の憲法学界の支配的意見であったが、政府は当時、「国体明徴声明」を発して統治権の主体が天皇に存することを明示し、この説の教示普及を禁じた。
終戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)において、ソビエト連邦、オーストラリアなどは昭和天皇を「戦争犯罪人」として法廷で裁くべきだと主張したが、連合国最高司令官であったマッカーサーらの政治判断(昭和天皇の訴追による日本国民の反発への懸念と、GHQ/SCAPによる円滑な占領政策遂行のため天皇を利用すべきとの考え)によって訴追は起きなかった。
昭和天皇の崩御直後の1989年(平成元年)2月14日、参議院内閣委員会にて当時(竹下登首相、竹下改造内閣)の内閣法制局長官・味村治が「大日本帝国憲法第3条により無答責・極東軍事裁判で訴追を受けていないという二点から、国内法上も国際法上でも戦争責任はない」という解釈を述べている。
マッカーサーに対する発言に関して​
『マッカーサー回想記』によれば、昭和天皇と初めて面会したとき、マッカーサーは天皇が保身を求めるとの予想をしていたが、昭和天皇は、
「私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるため、あなたをお訪ねした」
と発言したとされる。この会談内容についてはすべての関係者が口を噤み、否定も肯定もしないため、真偽の程は明らかではない。昭和天皇自身は1975年(昭和50年)に行われた記者会見でこの問題に関する質問に対し、「(その際交わした外部には公開しないという)男同士の約束ですから」と述べている。翌1976年(昭和51年)の記者会見でも、「秘密で話したことだから、私の口からは言えない」とした。
その後、現代史家・秦郁彦が会見時の天皇発言を伝える連合国軍最高司令官政治顧問ジョージ・アチソンの米国務省宛電文を発見したことから、現在では発言があったとする説が有力である。また、会見録に天皇発言が記録されていなかったのは、重大性故に記録から削除されたことが通訳を務めた松井明の手記で判明し、当時の侍従長・藤田尚徳の著書もこの事実の傍証とされている。
また、当時の宮内省総務課長で随行者の一人であった筧素彦も最初に昭和天皇と対面したときのマッカーサーの傲岸とも思える態度が、会見終了後に丁重なものへと一変していたことに驚いたが、のちに『マッカーサー回想記』などで発言の内容を知り、長年の疑問が氷解したと回想している。
天皇自身の発言​
1975年(昭和50年)9月8日・アメリカ・NBC放送のテレビインタビュー
[記者] 1945年の戦争終結に関する日本の決断に、陛下はどこまで関与されたのでしょうか。また陛下が乗り出された動機となった要因は何だったのですか。[天皇] もともと、こういうことは内閣がすべきです。結果は聞いたが、最後の御前会議でまとまらない結果、私に決定を依頼してきたのです。私は終戦を自分の意志で決定しました。(中略)戦争の継続は国民に一層の悲惨さをもたらすだけだと考えたためでした。
1975年(昭和50年)9月20日・アメリカ・ニューズウィークのインタビュー
[記者] (前略)日本を開戦に踏み切らせた政策決定過程にも陛下が加わっていたと主張する人々に対して、どうお答えになりますか。[天皇] (前略)開戦時には閣議決定があり、私はその決定を覆せなかった。これは帝国憲法の条項に合致すると信じています。
1975年(昭和50年)9月22日・外国人特派団への記者会見
[記者] 真珠湾攻撃のどのくらい前に、陛下は攻撃計画をお知りになりましたか。そしてその計画を承認なさいましたか。[天皇] 私は軍事作戦に関する情報を事前に受けていたことは事実です。しかし、私はそれらの報告を、軍司令部首脳たちが細部まで決定したあとに受けていただけなのです。政治的性格の問題や軍司令部に関する問題については、私は憲法の規定に従って行動したと信じています。
1975年(昭和50年)10月31日、訪米から帰国直後の記者会見
[問い] 陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが、このことは陛下が、開戦を含めて戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか。(タイムズ記者)[天皇] そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。[問い] 戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか。(中国放送記者)[天皇] 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。
1981年(昭和56年)4月17日・報道各社社長との記者会見
[記者] 八十年間の思い出で一番楽しかったことは?[天皇] 皇太子時代、英国の立憲政治を見て以来、立憲政治を強く守らねばと感じました。しかしそれにこだわりすぎたために戦争を防止することができませんでした。私が自分で決断したのは二回(二・二六事件と第二次世界大戦の終結)でした。
陵・霊廟・記念館​
陵(みささぎ)は、宮内庁により東京都八王子市長房町の武蔵陵墓地にある武蔵野陵(むさしののみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は上円下方。
皇居・宮中三殿(皇霊殿)においても、歴代天皇・皇族とともに祀られている。
2005年(平成17年)11月27日、東京都立川市の国営昭和記念公園の「みどりの文化ゾーン・花みどり文化センター」内に、「昭和天皇記念館」が開館し、「財団法人昭和聖徳記念財団」が運営を行っている。館内には「常設展」として、昭和天皇の87年間にわたる生涯と、生物学の研究に関する資料や品々、写真などが展示されている。
財産​
終戦時:37億5千万円。現在の金額で7912億円ほど。
崩御時:18億6千900万円、および美術品約5千点。美術品は1点で億単位の物も多数という。
皇室は不動産のみならず、莫大な有価証券を保有したが、昭和17年時点までには、日本銀行、日本興業銀行、横浜正金銀行、三井銀行、三菱銀行、住友銀行、日本郵船、大阪商船、南満州鉄道、朝鮮銀行、台湾銀行、東洋拓殖、台湾製糖、東京瓦斯、帝国ホテル、富士製紙などの大株主であった。
なお皇室の財産も例外でなく一般国民同様に課税対象であり、昭和天皇崩御の時には相続税が支払われている。香淳皇后が配偶者控除を受け、長男の明仁が相続税を全額を支払った。この時に御物と呼ばれる古美術品は相続せずに国庫に納められ、それを基に三の丸尚蔵館が開館した。
終戦後、GHQにより皇室財産のほとんどが国庫に帰したとされるが、1944年(昭和19年)に、参謀総長と軍令部総長から戦局が逆転し難いとの報告を受けた後、皇室が秘密裏にスイスの金融機関に移管して隠匿させた財産が存在した、という主張がある。
軍における階級​
日本軍の階級​
1912年(大正元年) 陸海軍少尉
1914年(大正3年) 陸海軍中尉
1916年(大正5年) 陸海軍大尉
1919年(大正8年) 陸海軍少佐
1923年(大正12年) 陸海軍中佐
1925年(大正14年) 陸海軍大佐
1926年(昭和元年) 陸海軍大元帥
なお、戦後の日本国憲法下で旧日本軍の役割を事実上引き継いだ自衛隊(陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊)においては、「国政に関する権能を有しない」という立場となったこともあり、いかなる階級にも属せず関わることはなかった。  
 
 
 
 

 

 

 

●宮城事件 
1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、宮城(1948年7月1日以前の皇居の呼称)で一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。終戦反対事件、あるいは八・一五事件とも呼ばれる。日本の降伏を阻止しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠した。しかし陸軍首脳部・東部軍管区の説得に失敗した彼らは日本降伏阻止を断念し、一部は自殺もしくは逮捕された。これにより日本の降伏表明は当初の予定通り行われた。
主要関係者​
   昭和天皇
   鈴木貫太郎(首相)
   阿南惟幾(陸軍大臣)
   米内光政(海軍大臣)
   東郷茂徳(外務大臣)
   石渡荘太郎(宮内大臣)
陸軍部​
   梅津美治郎参謀総長
   東条英機陸軍大将・元首相
   荒尾興功大佐・軍務課長(関与)
   白石通教中佐(殺害)
   井田正孝中佐(首謀)自決断念
   稲葉正夫中佐(関与)
   竹下正彦中佐(発端文書作成)
   椎崎二郎中佐(首謀)失敗後自決
   畑中健二少佐(首謀)失敗後自決
近衛第一師団​
   森赳中将 近衛第一師団 団長(殺害)
   石原貞吉少佐 近衛第一師団 参謀(殉職)
   古賀秀正少佐 近衛第一師団 参謀(関与自決)
   芳賀豊次郎大佐 近衛歩兵第二連隊長
東部軍管区​
   田中静壱大将 司令官(叛乱鎮圧指揮)
   高嶋辰彦少将 参謀長
東京防衛軍警備第3旅団​
   佐々木武雄予備役大尉 横浜警備隊長(民間関与)
その他​
   上原重太郎大尉(航空士官学校)
   窪田兼三少佐(陸軍通信学校)
背景​
ポツダム宣言の受諾決定​
大東亜戦争(太平洋戦争)に於いて日本の敗色が濃くなっていた1945年(昭和20年)8月上旬、6日の広島への原爆投下、9日未明のソビエト参戦、同日の長崎への原爆投下を受けて、政府内部では1945年7月26日にイギリスとアメリカ、中華民国の連合国3国の首脳により発されたポツダム宣言の受諾による降伏を支持する意見が強まっていた。
9日に宮中において開かれた最高戦争指導会議では、鈴木貫太郎首相を始め、米内光政海軍大臣と東郷茂徳外務大臣が天皇の地位保証(国体護持)を条件として、阿南惟幾陸軍大臣と梅津美治郎参謀総長はさらに幾つかの条件を付けた上での降伏を主張した。
午前10時から断続的に開催された会議が終了した後、鈴木首相は天皇臨席の御前会議として再度最高指導者会議を招集した。
10日午前0時から宮城内御文庫地下の防空壕において開かれたこの御前会議の席上で、首相からの「聖断」要請を受けた昭和天皇は東郷外務大臣の意見に賛成し、これによりポツダム宣言の受諾が決定された。
連合国軍への連絡は、午前6時45分から中立国であるスイスおよびスウェーデンの日本公使を通して行われている。
スイスルートは、駐スイス加瀬俊一公使よりスイス外務次官へ手交、スウェーデンルートは駐スウェーデン岡本季正公使より、スウェーデン外務大臣へ手交された。この時に、東京とスイス・スウェーデンの間で交わされた一連の電報は、国立国会図書館の「ポツダム宣言受諾に関し瑞西、瑞典を介し連合国側に申し入れ関係」において閲覧することができる。
陸軍内の動揺​
御前会議での決定を知らされた陸軍省では、徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が巻き起こった。
ポツダム宣言には「全日本軍の無条件降伏」という項目があり、陸海軍は組織存亡の危機にたっていた。午前9時に陸軍省で開かれた会議において、終戦阻止のために阿南陸相が辞任して内閣が総辞職すべきだとにおわせた幕僚に対し、阿南陸相は「不服な者はまずこの阿南を斬れ」と述べて沈静化を図った。
8月12日午前0時過ぎ、サンフランシスコ放送は連合国の回答文を放送した。この中では日本政府による国体護持の要請に対して、「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従う (subject to) ものとする」と回答されていた。
外務省はこの文章を「制限の下に置かれる」と訳し、あくまで終戦を進めようとしたのに対して、陸軍では「隷属するものとする」であると解釈し、天皇の地位が保証されていないとして戦争続行を唱える声が大半を占めた。不満を持つ将校たちの指導者格であり阿南陸相の義弟でもあった竹下正彦中佐は阿南陸相に終戦阻止を求め、さらにそれが無理であれば切腹するよう迫っている。
15時から開催された皇族会議の出席者たちはおおむね降伏に賛成したが、同時刻の閣議および翌13日午前9時からの最高戦争指導会議では議論が紛糾した。
閣議において最後までポツダム宣言受諾に反対していたのは、陸軍代表の阿南陸相・松阪広政司法大臣・安倍源基内務大臣の3名であった。
しかし、15時の閣議においてついに回答受諾が決定された。陸相官邸に戻った阿南陸相は6名の将校(軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐)に面会を求められ、クーデター計画への賛同を迫られた。
「兵力使用計画」と題されたこの案では、東部軍及び近衛第一師団を用いて宮城を隔離、鈴木首相、木戸幸一内大臣府、東郷外相、米内海相らの政府要人を捕らえて戒厳令を発布し、国体護持を連合国側が承認するまで戦争を継続すると記されていた。阿南陸相は「梅津参謀総長と会った上で決心を伝える」と返答し、一同を解散させた。
8月12日​
午前9時、近衛歩兵第二連隊第一大隊が完全武装で宮城(皇居)に入城する(その後宮城(皇居)から出ることなくクーデターに参加)。
8月14日​
午前7時に陸軍省で阿南陸相と梅津参謀総長の会談が行われた。この席で梅津はクーデター計画に反対し、阿南も同調した。
一方、鈴木首相は陸軍の妨害を排除するため、天皇出席の上での御前会議開催を思い付き、全閣僚および軍人・民間人の要人数名を加えた会議を招集した。
会議において鈴木首相から再度聖断の要請を受けた昭和天皇は、連合国の回答受諾を是認し、必要であれば自身が国民へ語りかけてもよいと述べて会議は散会された。
同じ頃、竹下中佐と畑中少佐は、陸相と参謀総長に否定されたクーデター計画案に替わる代案「兵力使用第二案」を練っていた。
閣議が始まった13時頃、社団法人日本放送協会の大橋八郎会長は内閣情報局に呼び出され、「終戦詔書が天皇陛下の直接放送となる可能性があるので至急準備を整えるように」と指示を受けている。
15時過ぎ、畑中少佐は東部軍管区司令部で司令官の田中静壱大将に面会を求めた。彼は東部軍のクーデター参加を求める予定であったが、入室した途端に田中大将に怒鳴られ、萎縮し転がるように退室した。
昭和天皇による玉音放送の録音は、23時30分から宮内省政務室において行われ、録音盤(玉音盤)は徳川義寛侍従に渡されて、皇后宮職事務室内の軽金庫に保管された。
8月15日​
決起​
午前0時過ぎ、玉音放送の録音を終了して宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁と放送協会職員など数名が、坂下門付近において近衛歩兵第二連隊第三大隊長佐藤好弘大尉により身柄を拘束された。彼らは兵士に銃を突き付けられ、付近の守衛隊司令部の建物内に監禁された。
井田中佐と椎崎中佐は、近衛第一師団司令部で義弟の第二総軍参謀白石通教中佐と会談中であった師団長森赳中将に面会を強要し、クーデターへの参加を求めた。
井田の記録によると、森師団長は否定的な態度を堅持していたが、「明治神宮を参拝した上で再度決断する」と約束したとされる。井田中佐はこの言葉を聞き一時部屋を退出したと述べている。
入れ替わりに師団長室に入った畑中少佐は、しばらくすると部屋を出てきて、この日別件で近衛第一師団司令部を訪れていた航空士官学校の上原重太郎大尉とその同志である陸軍通信学校の窪田兼三少佐を引き連れ再度入室した。
畑中少佐は無言のまま森師団長を拳銃で撃ち、さらに上原大尉が軍刀で斬殺した。同席していた白石中佐も上原大尉と窪田少佐によって斬殺された。
森師団長と白石中佐の殺害の詳しい経緯については、窪田少佐が東部憲兵隊で聴取を受けた際の聴取記録が残っており、概ね明らかである。
宮中占拠​
この殺害後、師団参謀の古賀秀正少佐は畑中少佐が起案したと考えられる「近作命甲第五八四号」を各隷下部隊に口頭下達、近衛歩兵第二連隊に展開を命じた。
ただし、古賀少佐がクーデター計画にどの程度積極的に関与したかについてははっきりとしていない。また、玉音放送の実行を防ぐ為に内幸町の放送会館へも近衛歩兵第一連隊第一中隊が派遣された。一方で「近作命甲第五八四号」では戦車中隊を代官町通へ進出させることとされた近衛騎兵連隊(GK:牛込区戸山)は、命令に不審を抱いた連隊長伊藤力大佐が東部軍司令部と連絡を取った結果、出動を見合わせている。
宮内省では電話線が切断され、皇宮警察は武装解除された。玉音盤が宮内省内部に存在することを知った古賀少佐は第二大隊長北村信一大尉や佐藤好弘大尉らに捜索を命じている。宮内省内にいた石渡荘太郎宮内大臣および木戸幸一内府は金庫室などに隠れて難を逃れた。
井田中佐は水谷一生近衛第一師団参謀長に随行して東部軍管区司令部へと赴き、東部軍管区(第十二方面軍司令部を兼務)のクーデター参加を求めたが、田中軍司令官と高嶋参謀長は既に鎮圧を決定していた。
高嶋参謀長は午前4時過ぎに芳賀豊次郎近衛第二連隊長との電話連絡に成功し、森師団長の殺害を知り畑中少佐らの言動に疑問を感じていた連隊長に対し、師団命令が偽造であることを伝えた。
芳賀連隊長はその場にいた椎崎、畑中、古賀らに対し即刻宮城から退去するように命じた。宮内省内では御文庫へ反乱発生を伝えた後に帰還していた徳川侍従が兵士と口論になり、第一大隊の若林彦一郎軍曹に殴打されている。殴打した理由について若林軍曹は後日、
「周囲の人間は殺意をもって徳川侍従を包囲しており、このままでは侍従が殺されてしまうと思った。それを防ぐためにとっさに本人を殴り、気絶させることで周囲を納得させた」
と親族に語っており、直接の殺意や害意は無かったと思われる。
宮城を離れた畑中少佐は第一中隊の占領する放送会館へと向かい決起の声明の放送を要求したが、職員の機転によってこれは防がれた。
鎮圧​
日が昇ってすぐの午前5時頃、東部軍の田中軍司令官が数名のみ引き連れ、自ら近衛第一師団司令部へと向かい、偽造命令に従い部隊を展開させようとしていた近衛歩兵第一連隊の渡辺多粮連隊長を止めた。
連隊長のそばに居た近衛第一師団参謀石原貞吉少佐は東部憲兵隊により身柄を保護された(逮捕されたのではなく、石原は当日夕方には師団司令部に復帰している)。
午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べている。その頃、陸相官邸では阿南陸相が自刃した(「阿南陸相は、5時半、自刃、7時10分、絶命」との記録もあり)。
竹下中佐は陸相印を用いて大臣命令を偽造しようと井田中佐に示唆したが、井田は既にクーデターの失敗を悟っていた。
田中東部軍司令官は乾門付近で芳賀連隊長に出会い兵士の撤収を命じると、そのまま御文庫さらに宮内省へ向かい反乱の鎮圧を伝えた。これを境にクーデターは急速に沈静化へと向かった。このとき既に畑中少佐らは断念しており田中大将が鎮圧したという俗説は誤りとする説もある。
放送会館では東部軍からの電話連絡を受けた畑中少佐が放送を断念し、守衛隊司令部では拘束されていた下村情報局総裁らが解放された。
午前8時前には近衛歩兵第二連隊の兵士が宮城から撤収し、宮内省内の地下室に隠れていた石渡宮相と木戸幸一内府はここを出て御文庫へと向かった。
2枚の録音盤は1回目に録音された録音盤を「副盤」、2回目に録音された録音盤を「正盤」として皇后宮職事務室から運び出され、正盤は放送会館へ副盤は第一生命館に設けられていた予備スタジオへと無事に運搬された。運搬に際しても副盤をいかにも正式な勅使らしい偽物を仕立てつつ、正盤は粗末な袋に入れて木炭自動車で運搬するという念の入れようであった。
最後まで抗戦を諦めきれなかった椎崎中佐と畑中少佐は宮城周辺でビラを撒き決起を呼び掛けた(佐藤大尉と藤原憲兵大尉が撒布したとの証言もある)が、午前11時過ぎに二重橋と坂下門の間の芝生上で自決した。
また古賀参謀は玉音放送の放送中に近衛第一師団司令部二階の貴賓室に安置された森師団長の遺骸の前で拳銃と軍刀を用い自決した。
午前11時30分過ぎ、放送会館のスタジオ前で突如1人の憲兵将校が軍刀を抜き、放送阻止のためにスタジオに乱入しようとしたが、すぐに取り押さえられ憲兵に連行された。
そして正午過ぎ、ラジオから下村総裁による予告と君が代が流れた後に玉音放送が無事行われた。
上記のようにクーデター首謀者中の生存者である井田中佐および稲葉中佐等の証言では、自分達より階級の低い自決した畑中少佐が森師団長殺害以降のクーデターを主導したと示唆されている。
その他の動き​
他にも、「皇軍の辞書に降伏の二字なし」として徹底抗戦を唱え、東京警備軍横浜警備隊長の佐々木武雄陸軍大尉をリーダーとして、尾崎嘉男、上田雅紹、村中諭、川島吾郎など勤労動員中の横浜高等工業学校(佐々木の母校)の生徒達によって編成された「国民神風隊」が、同15日の午前4時30分に首相官邸を襲撃したのを皮切りに、鈴木首相や平沼騏一郎枢密院議長、木戸幸一内府、東久邇宮稔彦王らの私邸にも火を放った。
戦後​
事件鎮圧の功労者である田中静壱東部軍管区司令官は、8月24日の夜に拳銃で心臓を撃ち抜き自殺した。田中司令官は戦時中に宮中への空襲を許したことなどに責任を感じており、24日に発生した陸軍通信学校教官窪田兼三少佐や予科士官学校生徒による川口放送所占拠事件の解決を待っての行動であった。
近衛第一師団参謀の石原貞吉少佐は、8月15日に発生した水戸教導航空通信師団事件の一部である上野公園占拠事件に際し、第十二方面軍参謀神野敏夫中佐からこれの説得役を依頼された。これは水戸から上京した部隊の指揮官岡島哲少佐が、石原少佐の陸軍士官学校本科教練班長時代の教え子だった縁による。
8月19日に東京美術学校に赴いた石原少佐は、説得に納得しない林慶紀少尉によって拳銃で射殺された。石原少佐の遺体は同夜近衛第一師団司令部配属憲兵の境芳郎憲兵曹長により収容された。戦後になり石原少佐は勲四等に叙せられ、靖国神社にも合祀されている。
一方、森師団長殺害のキーパーソンであり、また兵力使用計画に関与した井田中佐は、15日に陸軍省で自殺する決心を固めていたが、これを予期した見張りの将校に止められ断念した。戦後は電通に入社し、総務部長と関連会社電通映画社の常務を務めた。戦後の31年になり離婚して岩田に復姓している。同じく兵力使用計画に関与した稲葉正夫は防衛庁戦史編纂官を経て防衛研究所で研究員を務めた。
事件に関係した将校たちは明らかに当時の軍法・刑法に違反する行為を行ったにもかかわらず、敗戦とそれに伴う軍組織の解体などの混乱により軍事裁判にかけられることも刑事責任を問われることもなかった。 
●終戦玉音放送録音盤秘話 
誰もがいまだに知っていない大きな事実が、日本のしかも宮城(皇居)の中で起こったのであります。
人びとの多くは今日まで、五一五事件だとか、二二六事件などということは、あまたの報道人が詳細漏らさず報道している関係で、たいていの人が知っています。けれども昭和20年8月14日の夜中に起こった大きな事件は、全く知る人の極めて少ないのであります。
そうしてしかも、世の中に伝えられている事実は、表面のある一部の事柄だけで、実際的な一番大切な方面の事は誰も知らないがために、知らない事はなにも報道されずにいるものです。誰も知らない事を知っているのは、私一人なのであります。
もっとも私一人だと言ってるものの、その事実を目の前で見ないで噂に聞いて、その相手が私だとわかって私の会に縁故を求めて入会した人があるのは、神戸の昨年の修練会でご承知の通りです。元の近衛兵の歩兵連隊の一軍曹が、あの騒動のあった後に、相当えらい騒動を止めた人が、たった一人の偉い男がいて、その人が命がけで騒動を止めたそうだ。その騒動を止めた人は、中村天風という人で、なんでも玄洋社の人間で、非常に理念の強い人だと近衛の戦が終えた後の師団の噂になつていた。
それで私の名前を知っていた軍曹が、その後になんの気なしに新聞を見たら、大阪で修練会を中村天風というのがやっているというのを見て、いても立ってもたまらずに昨年の大阪の修練会に入会して、引き続き神戸まで来て、その人に会って、その話しを聞いた人もだいぶいると思う。
手をあげてごらん。ほらだいぶいます。その人はしかし、事実をその場面にいたのではなく、後から兵隊たちの噂で聞いたんで、その噂の出たのも、おそらくこれから私が話す話の中で現れた人間の口からまたそれへと、耳から口へ、口から耳へと伝えられた言葉であろうと思います。
さて、私はこの大東亜戦争に対し、昭和16年12月8日、真珠湾を日本軍が大挙して攻撃し、太平洋アメリカ艦隊を全滅させたと喜んだあの時から、なんともいい知れない寂しい気持ちで、東條総理に対して万風の反対の意見を持っておったのであります。
それがためにあの戦争の終える日まで、人にはいい知れない弾圧と迫害を受け通うしでした。私が演台に立つ時には、必ず私服の憲兵が二人三人が常につきまとっておりました。しかし、講習会の時でも、不合理でけして正義でもない、たとえ国を挙げて戦っていても、この戦いというものは「公」でなく、歴史にけして名誉な戦いではない。一日も早くこういう戦いは止めるべきで、止めなければ、続ければ続けるほど仕舞いには国家の社稷を危うくする、かくべからざる日本の大きな、時によれば日本という国が潰れるかも知れぬと、折りあるごとに、時あるごとに、言つていたのであります。
それがために、いま申し上げた通り、非常な迫害と弾圧を受けたので、とうとう昭和20年3月になんと私の家だけ、あの横領な陸軍の手によって特別強制疎開という命令を下して、たたき壊されてしまったのです。つまり、私は家がなくなったらば、もういくらなんぼなんでもギャーギャー言わないだろう。しかもあの当時、戦争に反対した者は、私の恩師、頭山満翁と私の国家的な仕事の上で、義弟のうえ親友のようにかわいがっておりました中野正剛という男でありました。その中野正剛は東条英機の弾圧によって腹を切つてしまいました。
その腹を切らざべからざる運命に切羽詰まらせられたのは、議会が開かれている間は代議士は法以上の制裁を加える事はできませんが、議会は終ったら何かにひっからめて監獄に叩き込んでじゃって、いい折りあったらば銃殺に処しようと、それを中野が知つてますから議会の開会中に腹を切って死んじゃったんです。
ところが、私を縛ることができないのは、私は大正15年から皇族講演の講師を拝命していましたので、私の体には天皇の勅令がないと指一本触れる事ができないのであります。それでいて、そのできない人間が戦争は罪悪だ、不合理である、不正義だと言って歩いているのですから、いわばもう憲兵隊のもと荒らしに見られちゃった。それでやるに事かいて私の体に縄をつける事ができないものですから、私の家を特別強制疎開、日本始まっては以来、特別強制疎開というのは私の家だけだそうです。軍人が来てたたき壊してしまつたんです。
しかし、ありがたい事には、私の体に縄をつけることができない、特別なとにかく私は皇族講演という身分を持っておりますために、今の明治制令軍事になっております管侍従次長の供へで、当分の間、皇居の中で生活したらどうだろうかという御状が下ったのであります。
誠にこれは有り難いとも、何とも言えない仰せでありまして、喜んで私は享諾して家族は茨城県の布川に疎開せしめて、私は宮城内の甘露侍従次長の官舎近くに寝起きする事になったのであります。これにはもう憲兵隊の指令が手をつける事ができません、宮城の中ですから。
そうしてできるだけの努力をして、一日も早くこの戦争を終わらせたいと思いまして、この点は私一人知る事実でありますが、もうすでに1月に第一回の御前会議があった時に、陛下のおぼし召しはこの戦争を止めたいご意向であったのであります。
3月の第二回、御前会議の時に止めてしまっていると、樺太も朝鮮半島も、台湾も、沖縄はもちろん、そのままで、しかも、シベリア大洋の漁業権はそのまま持っていてよろしい、満州は十年の保留期限として、日本の思うよう独立国としてやろう。そうして関東以上の漁業権は、今まで通り日本が持つていてよろしい。これで講和談判を締結したらいいだろうというのが各国の意向で、特にドイツ大使が途中調停の労をとることになって、これで陛下もけりをつけようとおぼし召したのであります。
やみくもにけりがついていたら、その後の日本は今とはうって変った、最と幸福なものになったでしょうけれど、なにはさて、その当時は「軍人にあらざれば人間にあらず」と思い上がっていて、特に陸軍の仲間がその有利な条件に対して、かくも頭から絶対反対をしたのであります。その反対する理由が、極めてなんとも取るに足りない理由としていたのであります。これに講和してしまったら、いままで南方で働いて命を亡くした軍人たちの霊がうかばれないと、こう言う。
これでは日本が勝ったことにならない。どうやら負けない程度でもって講和談判したのでは、日本のうだつが上がるのかと言い、第一に軍人としての名誉が気損じられると、要もない意地を張ったんです。それで折角の陛下のおぼし召しを、軍人の郷土的なコンプレックスでもって、お気の毒にも陛下の高遠が、その時はしりぞけたのであります。
しかし思ってみると、かえすがえすもあの3月の御前会議の宮中調停があのまま現実化したら、お互いにもっと、もっと幸福な現在を送られているかも知れない。今のような日本国というのは名ばかりで、政治家も、あるいは教育家もすべて、日本の政治家でもなく、日本の教育家でもなく、旧主の手先となり、ロシアの手先となり、アメリカの手先にならなきゃあ、この国の要するに上流者としての生活ができないという、みじめな運命は来なかったに違いないが、なにやかて、やっぱり体勢のおもむくところ、止むに止まれず、3月の調停が出来なかったために、ひき続き5月の御前会議に陛下は、断固としたご決意でもうどうしても戦はやめろと。
そうすると陸軍の方がどうしてもその気がない。いつも理由は「今まで死んだ人間の霊がうかばれない」、「我々は大手をふって靖国神社の前を通れません」と、考えてみればバカバカしい愚論ですが、それでとうとう漸然として、8月11日、12日、13日の3日間、御前会議があの宮城の吹上げ通りの壕の中で開かれて、それでとうとう8月13日に結局、陛下のご配慮の断が下され、極めて不利益な無条件降伏、軍隊を全て日本からなくなし、いかなる要求にも応じますという、無条件降伏でもつて降伏する事になっちゃったのです。
全く考えてみると、その当時の陸軍上層幹部、海軍上層幹部、無責任きわまりない態度で、この終戦の陛下の下した断を頂戴してなす術を知らなかった、あわれな状態になったのですから。
そして陛下はこれを全国民はもちろん、世界の総てに無条件降伏するべきご自分の気持ちを放送しようという事で、13日の夜中に御前会議がすんでから、夜中の2時にであります。今日の第一政務所になった、その当時仮政務所になっている所で、下村情報局総裁、並びに宮内省大臣立ち会いの上で、三度録音盤に吹き込みなされて、声の調子や文章がいろいろの具合でもってうまく入らなかった。そうして13日の正午に、これを宮内省の特別放送室から、NHKの電波を通じて定時間に放送するということに決定されたのであります。
そうして、これからがお聞きになってくださいよ、録音盤がまさかそれが大きな事件の元になろうとは、我々も知りませんでしたから、徳川侍従がこれを責任を持って保管することにして、侍従室の金庫の中に保管することになったのであります。そうして15日までまで事がなければ、そのままなんの事もなく済んだのですが、いわゆる世の中にはどんな事が起るかわからない。
14日の昼頃でしたか、私が皇宮警察本部の大谷喜一郎というのが天風会員であります。本部長ですね。それを、どうせ私は用がないのですから、徳川侍従の部屋にじっとして居るわけにもゆきませんから、お城の中をぶらぶらし、碁を打ったり、あっちへ行ちゃあ本を読み、お昼頃、大谷君が先生にご飯を差し上げながら、またへぼ碁をひとつお教わりたいから、お出で願いたいと使者が来たので行ったんだよ。行っていったん碁を打つと、「先生お願いがあるのですけど」、「何だ」というと、「今夜ひとつここに泊まつていただきたいのですけど」、 徳川侍従官舎と警察本部の間はここからちょうどあの(外を見て)前田の歯医者のあるくらい離れているんだよ。林門の脇に侍従の官舎があるんだよ、それから警察本部はどちらかというと、坂下門の脇にあるんだよ。「何ださみしいのか」と言ったら、「先生ご存じないのですか」、「なんだ」と言ったら、「少し面白くない気配を感じているのです」。「どんな気配だい」。
「これは実現しなければ結構なのですけど、近衛師団の若い士官たちが、明日の放送をお取り止め願いたいというような事で、とにかく一騒動起こしそうな気配がある事を、情報で耳にしているのです。」
「よしそうか」、そうすると言うと当然警察本部は宮城を護衛する任務の上から、勢きよいどうしても陸軍軍人と衝突する事になります。そうした場合、一番心配になるのが録音盤なんです。
「録音盤はどこにあるんだい」と、私が言つたらね、
「先生だけですから内緒でお知らせしますが、侍従室の金庫の中に入つているんです」
「そりゃいかん。そりゃ〜だめだぜ」、素人考えでいくっていうと、金庫へ入れて置けば一番無事と思うかもしれないが、これは素人の考えです。
「そういう重要なものはだな、知らん面したからに、普通の物を置くように棚の上に置いとけば、それが一番いいから」
「いやしかし白鳳帯に包んで桐の箱の中に入れております」
「そんな事する必要があるかい」
「でも恐れ多い陛下の玉音が入つていますから」
「陛下の玉音が入っていようと、我々のこの無駄物が入っていようとも、取られてはいけない物を、かえってそういう事をしたら、余計に取られやすくなるじゃないか。普通の紙に包んで、何かその夏の事ですから、ももひきや何かに包んで、そこいらの棚の上におっぽり出した置く様にしておけ」
「いや〜その〜、私も気がつかなかったけど、やつぱり軍事探偵だけあって、非常に、その〜いいご注意で」、
「その様にしろ」、それで大谷君が急いで侍従室へ連絡を取ったのです。
そうして「しかし先生、明日の12時まで一人では何かと心細いから、先生居てください」と言うから、「あぁ、どこに居ても同じなんだから居てやるよ」
けど大谷君は勲章持っている、陸軍の少佐までなった人間で井上さんと同じ公爵勲章を持っている人間んだ、戦争でもって右腕を怪我したから、帰って来てから戦争に行かないで、警察本部の部長しているんです。
「貴様は一度は鉄砲の玉の下をくぐった人間じゃねいか、ましてやこういう名誉ある警察本部の部長しているんだ、今宵、この時、この為に死んだと思えば、なんにも命が惜しいはずがないじゃねえか。」
「命が惜しいわけきゃありません。任務遂行というものを完全に果たしたいがために、先生お願いだ」と、手を合わせて拝むんです。
「よし、それじゃ〜俺が居てやるから心配するな」。
そうして二人で10時頃までヘボ碁を打っていて、その内、私がひょいと考えついたので、「大谷、2時で交代していいから、それまで俺が起きてるから寝ろ」、本部長の部屋に木でこしらえた絹ごしらえの寝台が置いてある。
「2時から俺が寝るから、2時からお前が起きろ。騒動がおっぱちまるのは、それまでにおっぱじまるだろうからな。いや騒動がおっぱじまっても、貴様は出ない方がいい。貴様は警察本部長という任務を持っているから、応対するのに、そりゃまあ、やりにくくなる点があるから、俺は天下の浪人だ、俺の言ってる事にはなんにも責任がない。俺に任せておけい。とにかく、2時過ぎに騒動が起きたら俺が代わりに起きてやるから、俺に任せておけよ」。
多くをいうまでもなく、私は天下の浪人だから、私が何を言ったからって、私の言葉には責任はありません。けど大谷君はかりそめにも本部長でありますから、管理者としてからに一つでも言い損ないがあると、これは非常の責任が、今度は強いては宮内省からさらに宮内大臣、恐れ多くもまた陛下の要するに上まで影響があるといけないから、私はそれを思い計つた。これが後にも非常にそうした事がいい結果がきました。
そうして2時間ばかり本を読んでおりますると、12時ちょっと回った時分であります。外に出ないで警察本部に居たら、誰かが血相変えて「部長殿、部長殿」と言うから、「部長は寝ている、何んだ用は」
「陸軍の士官が、兵隊を連れてこちらへ来ます」。
「陸軍の士官が、兵隊を連れて来る、あれか、どれくらい来るんだ」
「先生ご存知ないのですか、宵の口からこの皇居は陸軍に占領されています」
「そうかい、そりゃ〜知らなかったよ。俺は宵の口からここにいたから、表に一歩もでてないんで」
(テープの録音が少し中断)
「みな地下室に監禁されてしまっています」、「それで桜田門も、二重橋も、乾門も、全部の御門という御門は、陸軍の軍隊で固めちゃっています」、「じきにここへ兵隊が来ます」と、顔を真っ青にしているんですよ。
そうこうして言葉が終わらないうちにドカドカドカと、相当荒く血相をかえて陸軍の少佐の服装をした人間が、研ぎ澄ました軍刀を抜きながら、兵隊を15、6人、みんな白襷させて入ってきたのであります。そしてドア脇に立ってから、
「お頼みします」
ちょっと図面を書きましょう、その時の、、(黒板に図面を書きながら)
ここが二階の梯子団、ここが丸テーブルがある、ここの陰に寝台がある。ここに警察本部長が寝てるわけ。ここに椅子が4つある。それでここに部長の普段の事務テーブルが置いてある。私はここに居たわけ。ここに立ったわけ。兵隊はざら〜とここに並んだわけ。もう興奮しちゃっていてオロオロ軍刀を持った手がふるえている、
「お頼みします」と言うから、とにかく気ぶれの様に興奮している矢先であります。あるいはそれ以上奥に入れば、たとえ探し付けないまでも事が大きくなる。
恐らくこの晩、そういうことがなくもお休みできなかった陛下が、より一層どれだけ心配を多くするか知れないのみならず、事件が拡大すると正規ある講和を日本が申し込んだ事にならない。

「何だ、貴様らは」、羽織袴姿の天風に寸分の隙もない。
「ここは私室だ、みればわかるだろう。黙って踏みこむとはいったいどういうことだ」と、若い彼らに優しく声をかけた。
「はっ、失礼いたしました。実は探し物をしているものですから」
「そうか、何をさがそうというのか知らんが、人の部屋へ入って来たら、自分の官、姓名くらいは名乗れ。私は中村天風だ」
「はっ、自分は近衛師団参謀、石原少佐であります。自分は、陛下のお声を録音した、玉音盤をさがしております」
「そうか、詳しいことはわからないが、とにかく段平をしまえ。敵が上陸してきたわけでもあるまい。日本刀というものは、武士の魂であり、また敵から身を護るためのものだ。やたらに抜くものでない。早く、しまえ」
「はっ・・・」、軍刀を鞘に収めた石原少佐は、蹶起の趣旨を述べ、
「降状など、断じてできません」と、涙ながらに訴える。
天風は諭すように「軍人としての、その気持ちはよくわかる。しかし、陛下のお言葉とあれば、まさに綸言汗の如しで変更はない。となれば、その生命をお守りするのが軍人の責務だろう」。
石原少佐は猛然とこれに反発し「いえ、違います。それは君側が陛下に無理強いしたことであって、陛下御自身のお考えではありません」。
この時であった。天風の口から雷のごとき叱声が発せられた。
「馬鹿者!」「貴様は、それでも軍人か!」。天風の顔は、一瞬、阿修羅のごとき、凄まじい形相になっていた。
「いいか、陛下は大臣や幕僚の言に左右されるような、そんな御貫禄の薄いおかたではない。こんな重大なことを陛下以外に誰が決められるというのだ」
「・・・・・」、石原少佐にとって、それは思いもかけぬ一言であった。それに縛られ、しばらく塑像のように動けぬ少佐であったが、やがて、その眼からは、大粒の涙がぼろぼろと流れ落ちていった。
ああ、これで万事休すだとの思いが、一気にこみあげてきたのであろう。さすがの石原少佐も、まさに臣下として逆らいようのな、きつい一言であった。 
しかし、有り難い事に、私の正義が貫徹したんでしょう、来た時の勢いと打って変わって、まるで手綱する羊の様に多くの兵隊を連れて静かに階段を降りて行ったのであります。そうすると今度は寝台に寝ていた大谷が、その木の用具をたくり出して、、
「ふ〜おどろいた。先生って人は無茶な。いつ無惨に切られてしまうかと、それはもうぶるぶるふるえてた。たいした勢いですね」と、言うから。
「そんなに勢いがあったかい」
「そりゃ〜驚いた。よくもあのキチガイみたいな暴れに、あれだけ怒鳴りつけましたね」と、言うから、「別にたいして怒鳴りつけるつもりはなかった。けれどもついあういう声がでたんだよ」。
「しかしおっかなくなかったですか」
「おっかね〜よ、馬鹿、、、、(録音が聞き取れない)」と、言って話しているところへ、
今度は警察官が入って来て、「今の兵隊が役所の所で腹を切りおった」。
「なに役所の所で腹を切った。多くをしゃべるな」
「御料車の入っている所」、「どこ」    (聞きとり困難)
そこに関東軍司令官の田中静壱大将が、そりゃもうよろけるようにして入って来て、「今ここへ近衛の士官が来ましたか」と、言うから。
「来た。来たから私が言い聞かせて帰した」
「それが腹を切ったんだ」。
「そりゃ〜大変だ。どこで腹を切ったんだ」、「役所らしい」と言って。
そこで大谷部長、田中大将と同伴して下に降りて行くと、今の宮内庁の正面の所のガラージが、前に空襲で焼かれまして、あのお馴染の皮色の菊花のついてる自動車が2台、それから普段行幸の黒色の自動車2台、ガラージがないもんですから寄り合ってあそこに入れてあった。
その菊花の車の間でもって腹を切ってしまった。それからすぐ私がそこに行ってから、兵隊が5、6人しょんぼりして立っている。それから5人で白襷で持って行け。掃除して早く清めろ。
全くしょうがない、御料車の前で腹を切るなど。本人はどうせ死ぬなら陛下の御料車の前で腹を切るつもりで本人は何とも思わないで腹を切ったんでしょうけど、それは不敬極まりない話であります。それだからその事は秘密にし、これだけの人間しか知らないのだから。つまり、私と大谷部長と田中大将、それから脇にいる兵隊6人しか知らないんだ。
ですからずいぶん長い間、秘密が保たれたんですが、昭和25年になってその中の一人の兵隊が生き残っていて、これがしゃべったんです。こいつは今回まだ生きてました。こいつは昭和27年に死にました。
田中大将は8月22日にこの責任を負ったのであります。田中軍司令官は死ぬ必要がなかったのですが、自分の監督における責任として、8月22日これも腹を切って死んでしまいました。
当座この時、お城の中にいる兵隊たちに外から援助したのが、これが坂下門の外で腹を切った畑中中佐でありました。この中佐だけは、ジャーナリストが雑誌や新聞に書いたのであります。そりゃ外の事ですからすぐわかります。
お城の中の事は天上天下、私一人しか知らないわけです。
そいで話は終えるのですが、とにかくそういう場合に、普段と同じ通りでたとえどういう場合があろうが、たとえ大声を出しても私の冷静の気持ちは少しも乱されなかった。そして極めて円満な解決と言っていいような解決をつけられたのも、私は自分が何べんか危機存亡の中を往来していざという時に心が乱れなかったためだと本当に感謝した次第です。
よくいうように、上ずちゃうとか、慌てる、あるいは驚くかしたら解決はつかないでしょう。人並みの返答をしたならば、こいつは怪しいと見るにちがいない。録音盤がどこに在るかを知ってるには私ですからね。そうすりゃ〜徳川侍従の様にはり飛ばされ、突き飛ばされてひどい場合に殺されかねない。おまけにきちがいより興奮している男に15、6人の兵隊がついているのですから、ただ不思議なことに腹を切った頃に兵隊は6人しかいなかったのですから、後の兵隊は早く帰して自分の腹を切ったのだと思います。
そして腹を切ってたんで無事この事件が終えちゃって、そして明くる日に無事に、15日の12時にあなたがたが聞いたであろうあの放送ができたわけであります。
あれが明くる日の朝まで、腹を切った後まで、夜明けまで宮内大臣や下村情報局総裁も宮内省の地下室にみな監禁されちゃった。それを私は知らなかった。兵隊がみんな宮城から出ていちゃった後に、警察官が一人もいないだろ、「大谷これどうなちゃったんだよ、警察官は」、そいつがどこえ行ちゃたんだか部長も知らない。
宮内省の地下室にみな監禁されちゃった、それでは行こうと言うので地下室へ行ったところが、その中に各部屋だの宿直部屋だの、それから仕舞いにゃ〜お膳なんか入れてる部屋にみんな閉じ込めちゃっているんですよ、そいで閉じ込めたまんま兵隊は市内に帰っちゃった。
それから中から出てくるのが、宮内大臣いる、下村情報局総裁いる、生きた心地がしなかったにちがいない。警察官は早く出て道路を固めろ。
しかし、兵隊の力というのは恐ろしいもんだな。2800人もいた警察官が、もっとも兵隊もそれくらいはいますから、片方は実弾持って鉄砲持って入って来たんだから、これはもう無抵抗でもって宮内庁の地下室に入れられちゃったわけだ。
一時はそんな風に宮内庁のお城の中は、たった半夜間でしたけれども近衛の兵隊に占領されてしまったような次第であります。あれがあのまま拡大したら、一体どうなるだろうかということを考えると、まあよしんば私が殺されても、あの事件が終えた事を大変なよろこびです。私は殺されもしないでもって、たった一人の私のその時の処置でもって解決がつけられた事に、たとえそれが世の中に伝わろうが伝わるまいが、私の心の中で大きな誇り以上の感謝でもって考えている次第であります。
思いで深い15年の昔のただ物語であります。ご参考になれば結構であります。 
●昭和天皇による玉音放送の舞台裏 
生涯の師匠・四元義隆
日本の歴史上、最も重大な政治決断は、ポツダム宣言受け入れだろう。それを決断したのは昭和天皇と総理大臣の鈴木貫太郎である。貫太郎は「戦争継続」「本土決戦」を叫ぶ陸軍の主戦派から命を狙われていた。貫太郎を守るため、官邸のなかに極秘の組織がつくられた。「鈴木貫太郎親衛隊」である。
歴史の正史には存在せず、戦後長く封印されてきた「鈴木貫太郎親衛隊」。その生き残りが、いまも函館で静かに暮らしている。90歳の長松幹榮だ。私は、戦後70年を迎えるに当たり、長松に何度もインタビューしてきた。
私は戦争で命を奪われそうになった人の証言を聞くことがあるが、戦争を止めるために命を懸けた人の証言は初耳だっただけにじつに刺激的だった。この老人は70年前の「8・15」の攻防劇を鮮明に覚えていた。
長松がまず見せてくれたのは、自らの身分証だ。古ぼけていて、文字は辛うじて読み取れる。勤務地は内閣総理大臣官舎。交付日は昭和20(1945)年8月12日。終戦のわずか3日前だ。この身分証には、「内閣嘱託」という肩書が明記されている。
「四元義隆さんは、本当に深い人なのです。右翼の大物というと、軍国主義を煽った人物のように思われるかもしれませんが、まったくそれは違います。いかにして戦争を止めるか。それを必死になって考え、行動したのです。私にとっては生涯の師匠です。私がこれまでの人生を過ごせたのは、四元義隆先生とお兄さんの四元義正先生の薫陶を受けたからです」。のっけから飛び出した「四元義隆」という名前。戦前から右翼の大物として知られていた四元義隆は戦後、「政界の黒幕」と呼ばれ、歴代の総理大臣を指南してきた。吉田茂の懐刀となったのを皮切りに、池田勇人、佐藤栄作、中曽根康弘、そして細川護熙などに助言してきた。
とりわけ有名なのは、中曽根との親交だ。中曽根は五年間の任期中、167回も台東区にある全生庵に出向いたが、座禅を指示したのは四元だった。
ちなみに総理大臣の安倍晋三は、8年前に病気で辞任した際、月に一度全生庵に通い、座禅を通じて体調が回復した(今年7月24日にも参禅)。中曽根にとって四元は最大のブレーンで、節目、節目で相談を受けた。
マスコミ嫌いで知られていた四元だったが、田原総一朗のインタビューには答えている(1995年6月号『中央公論』「『戦後50年の生き証人』に聞く(6)」)。インタビューで四元は、総理就任を固辞していた鈴木貫太郎を、高僧として知られていた山本玄峰〈げんぽう〉に引き合わせたことを明らかにした。
「玄峰老師がまっ先に言われたのは、『こんなばかな戦争はもう、すぐやめないかん。負けて勝つということもある』ということでした。鈴木さんも『もうひとつの疑いもなく、すぐやめないかんでしょう』と、意見が一致したんですよ。その帰り、車の中で玄峰老師は、『もう大丈夫だ。こういう方がおるかぎり、日本は大丈夫だ』と言いましたね」。それから十数日後に、鈴木貫太郎は総理に就任した。
四元は戦前、国粋主義者のテロリストとして知られていた。大蔵大臣の井上準之助や三井財閥の團琢磨らを暗殺した昭和7(1932)年の血盟団事件の首謀者の一人だったためだ。戦中は、近衛文麿や鈴木貫太郎の秘書役を務め、東条英機への反旗を鮮明にしていた。「東条は日本を亡ぼす。このままでは危うい。この戦争は止めなければならない」と、重臣らを説得して回った。東条暗殺計画を企てたともいわれている。
こんな四元を師匠として尊敬する長松は「鈴木貫太郎親衛隊に入るきっかけは高峯道場でした」と語った。
この仕事で俺は死ぬ
長松は神奈川県にあった高峯道場で半年間訓練していた。この道場は、東アジアの現地駐在員を養成する機関だった。現地の言葉を教えるだけでなく、座禅などを通じて人間教育をしていた。道場には、常時40〜50人の道場生がいた。この高峯道場の道場長は、四元義正。四元義隆の兄だ。
長松は昭和20年3月に道場を「卒業」した。直後の東京大空襲の惨状を見て「日本の敗戦は近いのではないか」と不安な気持ちになった。夏になり、高峯道場に戻った。卒業していたものの、5期生の控室があり、そこで寝泊まりしていた。そんなある日、高峯道場の本部から呼び出しを受けた。道場長が緊急の用事があるとのことだった。長松は道場長の四元義正と面談した。
「おまえの出番が来たぞ。重要な任務を遂行してもらう。どんな任務かは話せない。よいか。これからおまえのする仕事は国民からバドリオという汚名を受けることになるが、国家百年ののちには英雄として崇められるだろう」
ピエトロ・バドリオは、イタリアでムッソリーニ失脚後に首相に就いた政治家だ。国王の意向を受けて密かに連合国と休戦交渉を進めた。日独伊三国同盟からみれば、真っ先に連合国側に寝返った「裏切り者」だ。戦時下の日本では、バドリオという言葉は、裏切り者や卑怯者の代名詞だった。
緊張して四元義正の話を聞いた。具体的な任務については、義正の弟の義隆が説明するという。どんな仕事なのだろうか。義隆さん直々に話してくれるそうだが、この仕事で俺は死ぬ。それだけは確かだ。特攻で死んだ同級生もいる。
「この任務遂行でおまえの命はないだろう。身辺整理はちゃんとしろ」、四元義正は命じた。
長松は直ちに控室に戻り、障子紙を探し出した。剃刀を用意したが、さび付いていた。丁寧に砥いだ。長松は思い切って、右親指に剃刀を入れた。その血で書いたのが「七生報国」。これは、後醍醐天皇に仕えていた楠木正成が、足利尊氏に敗れて自刃したときに誓った言葉だ。7回生まれ変わって、逆賊を亡ぼし、国に報いようという意味だ。
長松はかねがね、人生最後の局面では、この「七生報国」を書こうと思っていた。
次は父親宛ての遺書だ。墨をすって、書いた。19歳まで育ててくれた感謝の意を示さねばならない。道場の神棚の前で沈思黙考しながら正座した。
およそ30分間かけて、生活用品を雑嚢に入れ、旅の準備を整えると、すでに、後輩の六期生は道場の前の庭で整列していた。長松の壮行会を開くためだ。死んだ母親の顔が浮かんできた。
まず四元義正が壇上に立ち、挨拶した。
「長松くんは、重要な任務遂行のため、東京に出る。おそらく生きて帰れないだろう。ただ、日本という国のため、重要な仕事だ。みんな送り出してやってくれ」
長松は晴れがましい表情だった。
「この道場では、四元先生の教えを受けて、きわめて有意義な時間を過ごせました。本当に感謝しています。二度とお会いできないかもしれませんが、私はお国のために、出陣します」
大急ぎで道場所有の車に乗り込んだ。車窓からは、途中真夏の陽光を浴びる樹木などを眺めた。これで見納めだろう。子供のころ裏山で蝉取りしたことなどを思い浮かべた。
途中列車に乗り換え、吉祥寺にある四元義隆の家に着いたのは午後3時ごろだった。
薄暗くなる夕刻の時間帯の午後6時。床の間に供えられた神棚に灯明が灯された。義隆の家には、次々に若者が姿を現した。彼らに対し、四元義隆は「命は俺が預かった」と言い放ったあと、具体的な任務を説明した。
「日本は窮地に立たされている。広島や長崎で原爆が落とされた。このまま戦争を続ければ、本土決戦は避けられない。ポツダム宣言を受け入れることこそが、日本の国体を維持することになる。鈴木総理は命懸けで、受け入れの準備をしている。ただ、陸軍はそれに強硬に反対しており、いつ反乱を起こすかわからない。総理の身に何かあれば、日本の再興は困難になる。ここにいる4人が総理の警備の柱になってほしい」
鈴木貫太郎を襲ってくる部隊がいれば、素手で立ち向かう。それが四元義隆の命令だった。
この親衛隊の隊長は北原勝雄。四元にとっては、鹿児島二中、七高柔道部の後輩だ。四元からの信頼は厚かった。
四元の話が終わると、各メンバーの前に盃が配られた。一人ずつ、四元の前に進むと、盃にお神酒が注がれた。自分の身を盾にして総理を守ることを誓って盃を空けた。これは、親衛隊の結成式だった。
親衛隊はその後、用意された車で、小石川・丸山町の鈴木貫太郎の私邸に向かった。事前に下見する必要があるからだ。
長松は11日、四元の家に泊まった。翌12日、朝起きて官邸に出向くと、内閣嘱託という身分証を手にした。それから総理官邸での不眠不休の警護が始まった。
なぜ、鈴木貫太郎親衛隊が生まれたのか。四元と書記官長の迫水久常は同じ鹿児島県出身で旧知の間柄だった。当時陸軍のなかでは、徹底抗戦派が殺気立っており、2人はかねがね鈴木貫太郎の護衛に関して懸念を抱いていた。そこで、戦争終結を必死で考えている青年や学生がメンバーとなる親衛隊が必要との考えで一致した。
翌13日、事態は早くも緊迫した。北原のもとに、「今晩、陸軍が襲撃する」という情報が入った。北原は長松ら3人を呼び出した。
「一兵たりとも、総理の部屋に通してはいけない。命懸けで立ち向かえば、お守りすることは可能だ」と鼓舞した。武器を持っていない親衛隊にとっては、身を挺して総理を守るしかない。官邸内は灯火管制で真っ暗だ。親衛隊の部屋は、総理官邸の正面玄関に向かって左2つ目にあった(私邸は、玄関を入り直ぐの間に位置)。真夏なのに窓を閉め切っており、暑い。じっとりと汗が流れた。しかし、この日、陸軍は姿を現さなかった。みな一睡もしないまま夜が明けた。
決死の脱出劇
そして日本の運命を決めた14日。御前会議で、天皇陛下はポツダム宣言受諾を最終決定した。すべての閣僚が終戦詔書に署名したのは、午後11時過ぎになっていた。その後、日本政府は、連合国側にポツダム宣言受諾を伝えた。
北原は一日中、貫太郎のそばに張り付いていたが、書記官長室で迫水と出会った。迫水の耳元で、「今晩陸軍が蜂起し、官邸を襲うという情報が入っています」と囁いた。迫水は北原に本音を漏らした。
「今晩は総理の私邸に行かずに一緒に泊まっていただけないか」
北原は無下に断るわけにはいかない。総理官邸でしばらく過ごすことにしたが、朝まで総理を私邸に放置するわけにはいかない。迫水には、「午前4時に車を用意してくれませんか。その後は、総理の私邸に向かいます」といった。
午前4時。北原らはすぐに総理私邸に向かおうとした。しかし、迫水と約束した車は見当たらない。そこで車を借りるため桜田門の警視庁に向かった。
長松は、官邸の門で陸軍の一個分隊10人ほどの姿を見た。軍人たちは「への字」の形で並ぶケサ型散開を完了、いつでも銃弾を撃てるように準備していた。北原は長松に対して「よそ見をせずまっすぐ歩いてついて来い」と指示した。
のちに聞いたところ、この陸軍の分隊は東京警備局横浜警備隊長の佐々木武雄が率いており、横浜工専(現横浜国立大学工学部)の学生らも参加していた。
佐々木は警察官数名に拳銃を抜いて「国賊を殺しに来た。刃向かう者は直ちに殺すぞ」といい、貫太郎暗殺を宣言した。それに対し、警察官は「総理はいま丸山の私邸に戻りました。あちらを襲撃すればいい」と告げた。当時の警察官は、士気が落ちており、反乱軍から総理を守ろうという気概はなかった。
一方、北原は警視庁で「俺は内閣の者だ。官邸が襲撃された。総理私邸まで車を出してくれ」と頼んだ。
警視庁は事態が緊迫していることを察知し、すぐにガソリン車のオープンカーを用意してくれた。運転手は警視庁の関係者で、助手席には長松が座った。この運転手は幸いにも、総理私邸付近の地理を熟知していた。
ところが、車が二重橋前に差し掛かろうとした際、銃を持った兵士が「止まれ!」と叫んだ。車は仕方なく、止まった。
「ここから一歩でも動いてみろ。殺すぞ」。一人の兵士は、銃先を車に突き付けてきた。
北原はふいに「右に回れ」と大声で叫んだ。車が急発進し、兵士たちは道を空けた。車は加速し、総理私邸に向かった。この兵士たちは、上司を殺害し、終戦に徹底的に反対した近衛師団所属の反乱軍だったとみられる。皇居を占拠し、天皇が終戦の詔勅を読み上げた「玉音放送」の録音盤を奪おうとしていたグループだ。
北原は、この反乱軍が占拠している宮城(皇居)前の広場を通るのは無理だと思い、宮城を逆回りすることにした。三宅坂、半蔵門から靖国通りに入り、九段を抜けて、小石川・丸山町へ急行するルートだ。
車が飯田橋の先の道を左折した際、付近で乗用車とトラックが見えた。三角青旗を立てていた。佐々木らの部隊はこの2台に分乗していた。一方、北原は運転手に「なんとか、あの車より早く到着してくれ」と命じた。運転手は裏道を猛スピードで走る。大塚仲町を経て、総理私邸に到着した。ちょうどそのころ、鈴木貫太郎は私邸から脱出しようとしていた。官邸から、襲撃隊が私邸に向かっているとの電話連絡があったからだ。
貫太郎の私邸に到着した北原は、土足のまま家の中に入った。車の前で待っていた長松たちは「北原隊長が、鈴木総理の腕を引っ張って、玄関の外に出したのを見ました」と語る。高齢の貫太郎は動きがゆっくりしていた。やっと車に乗り込み、北原も同乗した。
ところが当時、ガソリンの質が悪く、エンジンがかからない。長松は思い出す。「坂道だったのですが、親衛隊と警備の警察官がみんなで車を押してやっとエンジンがかかりました」。
ぎりぎりのタイミングで貫太郎は脱出できた。それは「偶然の産物」だった。大通りを走っていた佐々木ら襲撃隊の車は、もうすぐそばにいた。しかし、大通りに面した総理私邸が質素なため、通り越していた。大通りの坂の上には大きな豪邸があり、そこが総理私邸だと勝手に思い込んでいたのだ。
そして、もう1つの偶然があった。普段なら総理専用車は方向転換して大通りに面して駐車していたが、この日は、私邸に隣接する左折した道に頭から突っ込んでいた。そのため、総理専用車は裏道をそのまま進んだ。大通りを進んでいたならば、襲撃隊の車と鉢合わせとなっていた。
佐々木ら襲撃隊はその直後に、総理私邸に到着。「総理はどこにいる」と叫びながら土足で私邸に上がり込んだ。そして、一部屋一部屋を押し入れまでチェックし、そのあとガソリンをまいて、火をつけた。鈴木の家は全焼した。空襲にも焼け残った家が灰燼に帰したのだ。
消防団が駆けつけたが、「国を売った総理の家に水を掛ける義理はない」といって本気で消防活動に当たらなかったという。
その後、佐々木らの部隊は、淀橋区西大久保にあった枢密院議長の平沼騏一郎の自宅に向かい、この家にも火を放った。
鈴木貫太郎親衛隊の長松は、貫太郎が私邸から脱出したのち、警視庁で借りたオープンカーをエンジンを切らずに待たせておいたので、すぐ残った3名が乗車した。運転手の「次はどこへ」との声に「最も近い駅に着けてください」というと、そこがたまたま駒込駅であった。駅で車を降りると山手線と中央線を乗り継いで、吉祥寺にある四元邸に向かった。長松は巣鴨駅を過ぎた際、山手線の窓から外を見た。朝もやのかかるなか、2カ所から煙が上がっていた。1つは、いましがたまでいた総理私邸だ。もう1つは、平沼枢密院議長の私邸だった。いずれも佐々木たちが火を放った。
長松らは四元に報告した。四元は黙って聞いていた。長松は三日三晩徹夜したが、眠くはなかった。そしてこの四元邸で正午を迎え、玉音放送を聞いた。
自彊不息
長松は長い話に多少疲れたようだったが、私にもう一つ見せたいものがあるといって、仏壇の引き出しを開けた。そこには、古い色紙が入っていた。
「自彊不息〈じきょうやまず〉」
それは貫太郎の書で、たゆまぬ努力を続けることの大切さを説いたものだ。貫太郎は終戦ののちに、親衛隊のメンバーを親戚の家に呼び、一人一人に直接手渡した色紙という。
貫太郎は昭和11(1936)年の「二・二六事件」の際、陸軍のクーデター部隊に襲われ、3発の銃弾を受けている。平和の尊さ、そして陸軍の恐ろしさを最も痛烈に認識している男だ。死の直前「永遠の平和、永遠の平和……」と繰り返し語った。
長松は貫太郎に対する畏敬の念を抱きながら、「鈴木貫太郎閣下は『戦争が終わり平和になった。君たちは若い。これからの日本に平和が継続するために頑張ってほしい』とおっしゃいました」と語った。
その上で語気を強めた。
「鈴木貫太郎閣下も、四元義隆先生も、そして末端の私も、皆戦争を終わらせるのに命を懸けました。戦争は始めるのは簡単ですが、終わらせるのは大変なのです」
長松の熱い言葉を聞きながら、私は思いを新たにした。戦後70年の日本の平和は、先人たちの魂の上に築かれているのだ。それを忘れてはいけない。 
大東亜戦争終結ノ詔書・玉音放送

 
 
 
 
 
 

 

 

●昭和天皇がダグラス・マッカーサーと会見 
昭和20年(1945)9月27日、昭和天皇がダグラス・マッカーサーを訪れ、会見しました。歴史的な会見として知られます。
昭和20年8月15日、玉音放送によって、日本の敗戦が国民に知らされました。この時、昭和天皇が心を痛めていたのは、自分の臣下であった者が、戦争犯罪人として裁かれることでした。「自分が一人引き受けて、退位でもして、収めるわけにはいかないだろうか」。昭和天皇は、木戸内大臣にそう洩らされたといいます。
8月30日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に到着。その3日後の9月2日、東京湾に入った戦艦ミズーリ艦上において、降伏調印式が行なわれました。 マッカーサーは、以後、政策立案は連合国総司令部GHQが行なうと日本政府に通告。GHQは本部を皇居の隣に移すと、9月11日、事前通告なしに東條英機元首相をはじめとする37人を戦争犯罪人として逮捕、拘留しました。前日、アメリカ議会では、昭和天皇を戦犯として裁く決議案が提出されています。
その少し後のこと、新たに外相となった吉田茂が昭和天皇に招かれて宮中に赴き、マッカーサーに会いたいという意向を告げられました。9月20日、吉田は天皇の意向をマッカーサーに伝えます。マッカーサーは自分が天皇にお目にかかるのはよいことだと思うが、天皇の自尊心を傷つけたり、困らせることがあってはならないとして、アメリカ大使公邸での会見を告げました。
9月27日午前10時。シルクハットにモーニングの正装の昭和天皇を乗せた車が、アメリカ大使公邸の門を潜りました。もちろん、これはただの会見ではありません。側近たちは天皇のお命を心配し、天皇ご自身は自分に日本人と皇族の運命がかかっていることを承知されていました。公邸玄関にマッカーサーの姿はなく、2人の副官が出迎えます。マッカーサーはレセプションルームで天皇を出迎え、奥の部屋に案内しました。会見が始まる前、写真撮影があり、その中の一枚が教科書にも載っている、あの写真です。
写真撮影後、2人の会見が始まりました。そこでどんな会話が交わされたのか、公式の記録はありません。しかし、マッカーサーは回顧録に次のように記します。
「天皇の話はこうだった。『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』 ――大きな感動が私をゆさぶった。死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」(『マッカーサー回顧録』1963年)
また、この時、同行していた通訳がまとめた天皇の発言のメモを、翌日、藤田侍従長が目を通しています。藤田は回想録にこう記します。
「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。 『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』
一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。
『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。 これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」とマッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和36年)。
会見は当初、15分の予定でしたが、35分にも及び、会見終了後、マッカーサーの天皇に対する態度は一変していました。感動した彼は予定を変えて、昭和天皇を玄関にまで出て見送るのです。マッカーサーの最大の好意の表われでした。
人を動かすものとは何か、昭和天皇のお姿が、すべてを語っておられます。日本がまな板の上に乗せられたあの時に、昭和天皇がいらっしゃったことは、日本人にとってどれほど大きな意味があったか、そんな気持ちになります。 
●昭和天皇・マッカーサー会談の「事実」  
戦後六十回目の八月十五日が近づくにつれて、自ずと想起されるのは、終戦前後に示された昭和天皇の御聖徳である。昭和生まれの日本人として、記者は「終戦のご聖断」「マッカーサーとのご会見」「終戦後のご巡幸」はしっかりわが子らに伝えたいと常々願っている。言うまでもなく、これらのご行動に脈打つ「捨て身」のご精神により、戦後の日本と日本人は救われたと思うからだ。ところが、である。来年から使用される中学校の歴史教科書で、昭和天皇のご事績を記しているのは扶桑社のみである。他の大部分の教科書には、「昭和天皇」のお名前自体が出てこない。お名前は出てきても、悪意が感じられるものもある。
とりわけ唖然とさせられたのは、東京書籍である。「占領と日本の民主化」という項目に「マッカーサーと昭和天皇」と解説した写真が新たに載っている。腰に手をやって構える開襟シャツにノーネクタイのマッカーサーの隣にモーニング姿で直立不動の昭和天皇が並んでいる、お馴染みの写真である。昭和二十年九月二十七日、天皇が初めてマッカーサーを訪問された際に写されたものだ。
この写真が当時、全国民に大きなショックを与えたことはよく知られている。これを見た歌人の斎藤茂吉は日記に、「ウヌ!マッカーサーノ野郎」と記し、また内務省は不敬に当たるとして、各新聞に発表を控えさせた(GHQの指令で九月二十九日公表された)。東京書籍の教科書は、肝腎のご会見の中身には何も触れないで、GHQの宣伝臭の強い問題写真だけを掲載したのである。
一方、扶桑社の教科書は、ご会見の中身をこう記している。「終戦直後、天皇と初めて会見したマッカーサーは、天皇が命乞いをするためにやって来たと思った。ところが、天皇の口から語られた言葉は、『私は、国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためお訪ねした』というものだった」と。
さらに、「私は大きい感動にゆすぶられた。(中略)この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」という『マッカーサー回想記』の有名な一文も載せている。かかる重大な史実を扶桑社以外の教科書が記述しない真意は測りかねるが、『マッカーサー回想記』が伝える戦争の「全責任を負う」との天皇のご発言については、その信憑性を疑う向きもあるのは事実である。
その主な原因は、昭和五十年に児島襄氏が公表した「御会見録」である。九月二十七日の会見に同席した通訳官が記したというこの「御会見録」には、マッカーサーが伝えたような天皇のご発言がなかった。もともと児島氏は天皇の戦争責任を否定する立場から、ご発言の信憑性に疑問を発していたのだが、これで児島氏の疑念はいよいよ深まった。
さらに三年前、それとほぼ同一の「公式記録」を外務省が公開するに至り、マッカーサー発言を「作り話」と否定したり、「天皇はむしろ国民に責任を転嫁しようとした」という声さえ上がる始末となったのだ。
結論からいえば、天皇が戦争の「全責任を負う」と述べられたのは事実であり、この「捨て身」のご精神によって、戦後の日本と日本人は救われたことは間違いない。
以下、この歴史的会見における昭和天皇のご発言について、様々な証言を整理・再検証してみたい。
十年後に明かされた「歴史的事実」
昭和二十年八月三十日、連合国軍最高司令官ダグラズ・マッカーサー元帥は神奈川県の厚木飛行場に到着した。九月二日、横須賀沖に停泊する米戦艦ミズリー号上で降伏文書の調印が済むと、マッカーサーはGHQ総司令部を横浜から皇居の真向かいに位置する第一生命ビルに移し、占領政策に本格的に着手した。 
昭和天皇が米国大使館の大使公邸にマッカーサーを初めて訪問されたのは九月二十七日のことである。この会見がもたれるに至った経緯については種々の推測があるが、「天皇御自身の発意であり、マッカーサーの側ではそれを待っていたとばかりに歓迎したというのが実相だった」(小堀桂一郎『昭和天皇』)といってよさそうだ。
天皇にお供したのは、石渡荘太郎宮内大臣、藤田尚徳侍従長、筧素彦行幸主務官、通訳の奥村勝蔵外務省参事官など六名。が、会見に同席したのは奥村参事官のみだった。
会見後、奥村は会見の内容についてのメモを作成した。それは、外務省から藤田侍従長のもとへ届けられ、侍従長から天皇へ手渡された。通常であれば、その種の文書は侍従長の元に戻されるが、そのメモは戻されなかった。会見の内容は公表しないというマッカーサーとの約束を守るための措置だったと思われる。
日本人が会見の内容を初めて知り、深い感動に包まれるのは、それから十年後のことだ。すなわち、「天皇陛下を賛えるマ元帥――新日本産みの親、御自身の運命問題とせず」という読売新聞(昭和三十年九月十四日)に載った寄稿が最初の機会となる。執筆者は、訪米から帰国したばかりの重光葵外務大臣であった。
重光外相は、安保条約改定に向けてダレス国務長官と会談するために訪米したのであるが、この時マッカーサーを訪ね、約一時間会談した。先の外相の寄稿は、その際のマッカーサーの発言を紹介したものだ。
次に、その寄稿の一部を紹介したい。重光によれば、マッカーサーは、「私は陛下にお出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らないのである」と述べた後、陛下との初の会見に言及。「どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもってお出会いしました。しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました」として、次のような天皇のご発言を紹介したというのである。
「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います」
そしてマッカーサーは、このご発言に関する感想をこう述べたという。
「私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで絞首台に上がることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」
この天皇のご発言を知らされた重光外相は、次の感想を記している。
「この歴史的事実は陛下御自身はもちろん宮中からも今日まで少しももらされたことはなかった。それがちょうど十年経った今日当時の敵将占領軍司令官自身の口から語られたのである。私は何というすばらしいことであるかと思った」
扶桑社の歴史教科書が引用している『マッカーサー回想記』が出版されたのは、それから九年後の昭和三十九年のことである。
GHQ側の「証言」
ところで、会見のお供の一人の筧氏は、重光外相の寄稿を読んだ感想を、「十年来の疑問が一瞬に氷解した」と記している。氏の「疑問」とは、会見の前後でのマッカーサーの態度の急激な変化である。会見の時間はわずか三十七分であった。が、「先刻までは傲然とふん反りかえっているように見えた元帥が、まるで侍従長のような、鞠躬如として、とでも申したいように敬虔な態度で、陛下のやや斜めうしろと覚しき位置で現れた」という。会見前後の場の雰囲気を知る当事者として、筧氏は「あの陛下の御言葉を抜きにしては、当初傲然とふんぞり返っていたマッカーサー元帥が、僅か三十数分のあと、あれ程柔和に、敬虔な態度になったことの説明がつかない」(『今上陛下と母宮貞明皇后』)と証言している。これは、マッカーサーが伝えた天皇のご発言を裏付けるいわば状況証拠といえよう。
とはいえ、むろんこれはマッカーサーの発言を裏付ける決め手とはなり得ない。会見の内容についてGHQ側に記録はない。とすれば、重光外相との面会までに十年の月日が流れており、マッカーサーの記憶を信頼できるのか、やはり疑問なしとしない。また『マッカーサー回想記』については、回想記全体が自己宣伝調で、その信頼性を疑う向きが一部にあるのも事実であろう。
しかし、幸いにもというべきか、あの会見の直後、マッカーサーはその内容を断片的に複数の側近などに漏らしている。そこには創作が入り込む余地は考えにくい。しかもそれらは大筋で、その後のマッカーサーの発言を裏付けているといってよい。
例えば会見の時に大使公邸にいたマッカーサーの幕僚の証言だ。軍事秘書のボナ・フェラーズ准将は、会見が行われた九月二十七日に自分の家族に宛てた私信で、天皇が帰られた直後にマッカーサーから聞いた話として、こう伝えているという。
「マッカーサーは感激しつつこういった。『……天皇は、困惑した様子だったが、言葉を選んでしっかりと話をした』。『天皇は処刑を恐れているのですよ』と私がいうと、マッカーサーは答えた。『そうだな。彼は覚悟ができている。首が飛んでも仕方がないと考えているようだ』」(升味準之助『昭和天皇とその時代』)
また、会見から一カ月後の十月二十七日、ジョージ・アチソン政治顧問代理は国務省宛てに、マッカーサーから聞いた天皇のご発言について次のように打電した。
「天皇は握手が終ると、開戦通告の前に真珠湾を攻撃したのは、まったく自分の意図ではなく、東条のトリックにかけられたからである。しかし、それがゆえに責任を回避しようとするつもりはない。天皇は、日本国民の指導者として、臣民のとったあらゆる行動に責任を持つつもりだと述べた」
この文書を最初にアメリカ国立公文書館で発見した秦郁彦氏は、「決め手と言ってよい文書」「天皇が全戦争責任を負うつもりであったのは明らかである」と指摘する。また氏は、次のような根拠も挙げている。
「このことは、八月二十九日天皇が木戸内大臣に、『戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて、退位でもして納める訳には行かないだろうか』(木戸日記)と語ったところや、九月十二日東久邇宮首相が、連合国の追及に先立って、戦争犯罪人を日本側で自主的に処罰する方針を奏上すると、即座に反対して撤回させた事実と首尾一貫してくる」(『裕仁天皇五つの決断』)
なお、「東条のトリック云々」のご発言にひっかかる向きがあるかもしれないが、秦氏はこう解釈する。
「天皇がこだわったのもむりはない。東郷外相ですら無通告攻撃に傾いていたのを『事前通告は必ずやるように』と厳命したにもかかわらず、奥村在米大使館書記官のタイプミスで結果的に通告がおくれてしまったのだから、痛恨の思いは誰よりも深かったであろう。
しかも、この時点では天皇は真相を知らされていなかったので、東条に欺かれたと信じこんでいたのが、言い訳めいた言動になったと思われる」(『文藝春秋』平成16年1月号)
日本側の二つの「証言」
次に、ご会見についての日本側の情報を整理してみたい。
むろん、最も重要なのは、通訳の奥村氏が会見当日に作成したメモである。これについては冒頭で触れたように、まず昭和五十年、「『マッカーサー』元帥トノ御会見録」(以下、会見録と略)なるものが、『文藝春秋』(昭和50年11月号)で児島襄氏によって公表された。そこで児島氏は、資料の入手先を明らかにしないまま、「奥村勝蔵が手記した会見記録は次のとおりである」と記している。
また平成十四年十月、外務省は第一回天皇・マッカーサー会見の「公式記録」を公開した。先にも記したように、その内容は児島氏が公表した会見録とほぼ同一の内容だった。
会見録によると、マッカーサーが約二十分、「相当力強き語調」で雄弁をふるった後、陛下が、「この戦争については、自分としては極力これを避けたい考でありましたが、戦争となるの結果を見ましたことは、自分の最も遺憾とする所であります」と述べている。が、マッカーサーが伝えた戦争の「全責任を負う」とのご発言は出てこない。つまり日本側の公的記録によっては、マッカーサーの発言は裏付けられない結果となったのだ。
しかし一方、日本側にもマッカーサーの発言を裏付ける重要な情報がある。奥村氏のメモを天皇に届けた藤田侍従長が記した回想録である。職掌上、そのメモに目を通した同侍従長は、昭和三十六年十月、当時の記憶に基づき、陛下のご発言の内容を公表した。問題のメモについて、同侍従長は「宮内省の用箋に五枚ほどあったと思う」と述べ、陛下は次の意味のことをマ元帥に伝えたと記している。
「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」
この天皇のご発言に続けて、同侍従長は、「一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露はマ元帥を強く感動させたようだ」と述べ、次のようなマッカーサーの発言を記している。
「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい」(『侍従長の回想』)
先に見たマッカーサーの発言では、天皇が日本国民のために「連合国の援助」をお願いしたことについては触れていない。しかし高田万亀子氏によれば、天皇が「自分はどうなってもいいが、国民を食わせてやってくれ」という発言をなされたという事実を、マッカーサーも雑談の中で語っているという(「昭和天皇についての二つの新証言」)。
このように、藤田侍従長の回想とマッカーサー側の発言とは、肝腎の部分でほぼ一致するのである。
「重大さを顧慮し削除した」
以上の事実が示唆しているのは、奥村氏の手になる会見録は二種類あるということであろう。事実、昭和天皇の元に届けられたものと、外務省が保管したものと二種類の会見録があるのではないかとの推測が専門家の間でもささやかれてきた。
例えば升味氏は、「奥村は、それ(「全責任を負う」とのご発言)を御会見録に記した。吉田外相は、それを二九日侍従長に送った。それから奥村は、自分の手控えから肝腎の部分を削除した。……削られたのは、外務省の保存記録かもしれない」(前掲書)との推測を記している。
そして、その後、平成十四年八月五日付朝日新聞は、この推測を傍証する重大な文書を紹介した。それは、奥村氏の後任通訳を務めた元外交官の松井明氏が記した「天皇の通訳」と題する文書である。その文書で松井氏は、こう記している。
「天皇が一切の戦争責任を一身に負われる旨の発言は、通訳に当られた奥村氏に依れば余りの重大さを顧慮し記録から削除したが、マ元帥が滔々と戦争哲学を語った直後に述べられたとのことである」
この松井証言については、「松井がいつどの時点でどういう形で彼から聞いたのかが不明確であるし、機密保持を前提としていた『記録』から、なぜあえて『削除』する必要があったのか疑問とせざるをえない」(豊下楢彦氏)との指摘もある。
しかし、こうした疑問に対して秦氏は、「東京裁判を控えて『天皇有罪の証拠』とされかねないこのくだりを、奥村があえて削除したのは当然と私は考える」と述べている。
以上、マッカーサー側と日本側の情報を検討してきたが、昭和天皇の「全責任発言」はまぎれもない事実と結論付けてよいのではなかろうか。
国家国民を救った捨て身の御精神
ところで、この歴史的会見の意義を、例えば高橋紘氏は、「『知日派』の総帥は、いまやマッカーサーであった」との象徴的な言葉で評している。どういうことかといえば、当時のマッカーサーには軍事秘書として、日本文化に造詣が深かったボナ・フェラーズ准将、副官には歌舞伎役者の口真似までできる日本通のフォービアン・バワーズなどの知日派軍人が仕えていた。だが九月二十七日を機に、マッカーサーが突如として知日派米国人の最たる存在になったということだ。そして、このことは、その後の占領政策にきわめて重要な影響を及ぼすことになるのである。
当時、天皇制をめぐって米国務省内では議論が続いており、昭和二十年十月二十二日のSWNCC(国務・陸・海軍三省調整委員会)の会議では、マッカーサーに対し、天皇に戦争責任があるかどうか証拠を収集せよ、との電報を打つことが承認された。これに対してマッカーサーは翌二十一年一月二十五日、アイゼンハワー陸軍参謀総長に対し、次のような回答の手紙を送ったという。
「過去一〇年間、天皇は日本の政治決断に大きく関与した明白な証拠となるものはなかった。天皇は日本国民を統合する象徴である。天皇制を破壊すれば日本も崩壊する。……(もし天皇を裁けば)行政は停止し、ゲリラ戦が各地で起こり共産主義の組織的活動が生まれる。これには一〇〇万人の軍隊と数十万人の行政官と戦時補給体制が必要である」(高橋紘『象徴天皇』)
この手紙を高橋氏は、「天皇の終戦直後の働き」の「結実」とみなしている。つまり、天皇との会見などを通してマッカーサーが抱くに至った天皇へのプラスの認識が、先のマッカーサーの判断をもたらしたというのである。これによって天皇は戦争犯罪人としての不当な訴追を免れ、戦後も天皇制が――象徴という不本意な形にしろ――維持されることになったといえる。そのことが戦後の日本の復興と安定に寄与した意義は計り知れず大きい。
むろん、こうしたマッカーサーの対応の背景には、占領政策を成功させるために天皇の力を政略的に利用しようとする意図があったともいえよう。しかしマッカーサー回想記などのその後の発言を踏まえれば、マッカーサーが「心から天皇に心服し」、「九月二十七日の会見を以て、彼の対天皇関係は、初めに敬愛ありき、とでも言うべき鋳型が出来てしまった」(小堀氏・前掲書)ことも、また否定できない事実というべきなのである。
そして、マッカーサーと昭和天皇との間に「初めに敬愛ありき」とでもいうべき鋳型が出来たことにより、実は戦後の多数の日本人の命が救われたともいえるのである。その点については、当時の農林大臣であった松村謙三氏の『三代回顧録』に詳しく書き留められている。ここではその要点のみを記しておく。
終戦直後の日本は食糧事情の悪化に直面しており、昭和二十年十二月頃、天皇は松村氏に対して、「多数の餓死者を出すようなことはどうしても自分にはたえがたい」と述べられ、皇室の御物の目録を氏に渡され、「これを代償としてアメリカに渡し、食糧にかえて国民の飢餓を一日でもしのぐようにしたい」と伝えられた。
そこで当時の幣原首相がマッカーサーを訪ね、御物の目録を差し出すと、非常に感動したマッカーサーは、「自分が現在の任務についている以上は、断じて日本の国民の中に餓死者を出すようなことはさせぬ。かならず食糧を本国から移入する方法を講ずる」と請け合ったという。
松村氏は記している。「これまで責任者の私はもちろん、総理大臣、外務大臣がお百度を踏んで、文字どおり一生懸命に懇請したが、けっして承諾の色を見せなかったのに、陛下の国民を思うお心持ち打たれて、即刻、絶対に餓死者を出さぬから、陛下も御安心されるように……≠ニいうのだ。……それからはどんどんアメリカ本国からの食糧が移入され、日本の食糧危機はようやく解除されたのであった」と。
これは、やはり「捨て身」のご精神によって敵将を心服せしめた昭和天皇の御聖徳の賜物というしかない。 2006/10
●昭和天皇を心から尊敬したマッカーサー元帥  
昭和天皇が米国大使館の大使公邸にGHQ(連合国軍総司令部)のマッカーサー元帥を初めて訪問されたのは、終戦直後の昭和20年9月27日のことである。この会見がもたれるに至った経緯については種々の推測があるが、「天皇御自身の発意であり、マッカーサーの側ではそれを待っていたとばかりに歓迎したというのが実相だった」といってよさそうだ(小堀桂一郎『昭和天皇』)。
天皇にお供したのは、石渡宮内大臣、藤田侍従長、筧行幸主務官、奥村外務省参事官など6名。しかし、会見に同席したのは通訳の奥村参事官のみだった。
会見後、奥村は会見の内容についてメモを作成した。それは、外務省から藤田侍従長のもとへ届けられ、侍従長から天皇へ手渡された。通常であれば、その種の文書は侍従長の元に戻されるが、そのメモは戻されなかった。会見の内容は公表しないというマッカーサーとの約束を守るための措置だったといわれる。
日本人が会見の内容を初めて知り、深い感動に包まれるのは、それから10年後のことだ。すなわち、「天皇陛下を賛えるマ元帥――新日本産みの親、御自身の運命問題とせず」という読売新聞(昭和30年9月14日)に載った寄稿が最初の機会となる。執筆者は、訪米から帰国したばかりの重光葵外務大臣であった。
重光外相は、安保条約改定に向けてダレス国務長官と会談するために訪米したのであるが、この時マッカーサーを訪ね、約1時間会談した。先の外相の寄稿は、その際のマッカーサーの発言を紹介したものだ。
重光によれば、マッカーサーは、「私は陛下にお出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに、はばからないのである」と述べた後、陛下との初の会見に言及した。
「どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもってお出会いしました。しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました」として、次のような天皇のご発言を紹介したというのである。
「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います」
そしてマッカーサーは、このご発言に関する感想をこう述べたという。
「私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがなうことが出来れば進んで絞首台に上がることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」
この天皇のご発言を知らされた重光外相は、次の感想を記している。
「この歴史的事実は、陛下御自身はもちろん宮中からも今日まで少しももらされたことはなかった。それがちょうど10年経った今日当時の敵将占領軍司令官自身の口から語られたのである。私は何というすばらしいことであるかと思った」
それから9年後の昭和39年に『マッカーサー回想記』が出版されたのです。
昭和天皇とマッカーサー元帥の会見当日の様子をもう少し詳しくお伝えしましょう。
昭和天皇と側近はアメリカ大使館公邸を訪れた。大使公邸の玄関で昭和天皇を出迎えたのは、マッカーサーではなく、わずか2人の副官だけだった。
昭和天皇の訪問の知らせを聞いたマッカーサーは第一次大戦直後、占領軍としてドイツへ進駐した父に伴っていた時に敗戦国ドイツのカイゼル皇帝が占領軍の元に訪れていた事を思い出していた。
カイゼル皇帝は「戦争は国民が勝手にやったこと、自分には責任がない。従って自分の命だけは助けてほしい」と命乞いを申し出たのだ。
同じような命乞いを予想していたマッカーサーはパイプを口にくわえ、ソファーから立とうともしなかった。椅子に座って背もたれに体を預け、足を組み、マドロスパイプを咥えた姿は、あからさまに昭和天皇を見下していた。
そんなマッカーサーに対して昭和天皇は直立不動のままで、国際儀礼としての挨拶をした後に自身の進退について述べた。
「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります」
「しかしながら、罪なき8000万の国民が住むに家なく着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と願われた。
この言葉に、マッカーサーは驚いた。彼は、昭和天皇が命乞いにくるのだろうと考えていた。自らの命と引き換えに、自国民を救おうとした国王など、世界の歴史上殆ど無かったからだ。
マッカーサーは咥えていたマドロスパイプを机に置き、椅子から立ち上がった。今度はまるで一臣下のように掛けて昭和天皇の前に立ち、そこで直立不動の姿勢をとった。
マッカーサーはこの時の感動を、『回想記』にこう記している。「私は大きい感動にゆすぶられた。この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた。私はその瞬間、私の眼前にいる天皇が、個人の資格においても日本における最高の紳士である、と思った」
35分にわたった会見が終わった時、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は変わっていた。わざわざ予定を変えて、自ら昭和天皇を玄関まで送った。これは最大の好意の表れだったのだ。
この年の11月、アメリカ政府は、マッカーサーに対し、昭和天皇の戦争責任を調査するよう要請したがマッカーサーは、「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」と本国へ回答した。
マッカーサーと昭和天皇は個人的な信頼関係を築き、この後合計11回に渡って会談を繰り返した。マッカーサーは日本の占領統治の為に昭和天皇は絶対に必要な存在であるという認識を深めるに至ったのだ。
当時、ソ連やアメリカ本国は「天皇を処刑すべきだ」と主張していたが、昭和天皇の態度に感動したマッカーサーは、これらの意見を退けて、自ら天皇助命の先頭に立ったのです。
また当時、深刻な食糧不足に悩まされた日本に対してアメリカ本国に何度も掛け合い食糧物資を支援させることに成功し日本の危機を救ったのでした。
前述した重光外相は訪米前に、昭和天皇に拝謁した。
昭和天皇は、「もし、マッカーサー元帥と会合の機会もあらば、自分は米国人の友情を忘れたことはない。米国との友好関係は終始重んずるところである。特に元帥の友情を常に感謝して、その健康を祈っている、と伝えてもらいたい」と、外相に伝えた。
重光は訪米すると、ニューヨークにいたマッカーサーを訪ね、昭和天皇の御言葉を伝えた。マッカーサーは、「陛下は御自身に対して、いまだかつて恩恵を私に要請したことはありませんでした。とともに決して、その尊厳を傷つけた行為に出たこともありませんでした。どうか日本にお帰りの上は、自分の温かいご挨拶と親しみの情を陛下にお伝え下さい。その際、自分の心からなる尊敬の念をも同時に捧げて下さい」と伝えたという。
統一王朝として二千数百年以上、連綿と続く天皇の身を挺したお言葉と行動が、見識高いアメリカの総司令官マッカーサーの心に届き、その両者の畏敬の念が日本国の最大の危機を救ったのではないでしょうか。僭越ですが、両者ともに真の大物と言わざるを得ないのです。 2017/3
●ダグラス・マッカーサーの嘘と虚栄  
連合国軍最高司令官(SCAP)、ダグラス・マッカーサー(米陸軍元帥)は占領下の日本で5年8カ月にわたり最高権力者として君臨した。マッカーサーは回顧録にこう記している。
「私は日本国民に対して事実上無制限の権力を持っていた。歴史上いかなる植民地総督も征服者も総司令官も私ほどの権力を持ったことはない。私の権力は至上だった…」
マッカーサーは判で押したような生活を送った。毎朝10時すぎに宿所の赤坂・米大使館から連合国軍総司令部(GHQ)本部が入る日比谷の第一生命館まで通った。午後2時ごろまでオフィスで執務した後、大使館に戻って昼食と昼寝。午後4時すぎにオフィスに再び戻り、午後8時すぎに帰宅した。
第一生命館前には大勢の日本人が好奇の眼差しで待ち構えていた。マッカーサーは一瞥(いちべつ)もせずにゆっくりとした足取りで玄関に向かった。これが、新たな統治者が誰かを印象づけるための演出だった。マッカーサーの姿を見た日本人は「回れ右」してお堀越しの皇居に一礼して帰っていった。
月日を経ても群衆の数は一向に減らなかったが、皇居に拝礼する人は次第に減り、半年後にはわずか数人になった。マッカーサーはいつしか「堀端(ほりばた)天皇」と呼ばれるようになった。
語学将校としてGHQに勤務し、この日本人の変化を興味深く観察していたアル・ゼルバー(95)はこう振り返った。
「戦前の天皇は人々の前に姿を現すことがなく、日本人にとって遠い存在だったが、マッカーサーは権威者としての役割をうまく演じ、アメリカン・アイドル(偶像)として天皇の権威に置き換わったのだ」

マッカーサーが、愛機のC54輸送機「バターン号」で神奈川・厚木飛行場に降り立ったのは昭和20(1945)年8月30日の午後2時すぎ。トレードマークのコーンパイプにサングラス姿でタラップを降りたマッカーサーは出迎えの将校にこう語った。
「メルボルンから東京まで遠い道だったが、どうやらたどり着いたようだな。映画でいう『結末』だよ」
マッカーサー家はスコットランド貴族の血を引く名家で、父のアーサー・マッカーサーJr.は南北戦争の英雄でフィリピン初代軍政総督だった。マッカーサーは陸軍士官学校を首席で卒業し、1930(昭和5)年に陸軍最年少の50歳で参謀総長に昇進。フィリピン軍事顧問を経て、41(同16)年にマニラ駐屯の極東陸軍司令官となった。
この輝かしい軍歴に傷をつけたのが日本軍だった。
1941(昭和16)年12月8日の日米開戦直後、日本軍はルソン島に猛攻をかけた。マッカーサー率いる米軍は反撃らしい反撃もできずにマニラを捨てバターン半島とコレヒドール島に敗走した。マッカーサーは翌42(同17)年3月11日、「アイ・シャル・リターン」と言い残して家族や側近とともに魚雷艇で脱出、ミンダナオ島の秘密飛行場からB17でオーストラリアに逃れた。
部下を見捨てての敗走にすぎないが、米紙は、米軍の勇敢な戦いを連日掲載して「英雄的抵抗」と称賛、マッカーサーに感謝の念を決議する州もあった。
だが、この「神話」はマッカーサーの創作だった。嘘と誇張にまみれた戦闘報告を自ら執筆し、140回も新聞発表した。若いころに陸軍新聞検閲官として学んだ宣伝のノウハウが役立ったのだ。それだけにフィリピンでの屈辱だけは晴らさねばならなかった。
44(同19)年7月、サイパンが陥落し、日本の敗戦は決定的となった。第32代大統領のフランクリン・ルーズベルトは、米太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツにマッカーサーの兵力を吸収させ、フィリピンを素通りして台湾、沖縄を攻略する方針だったが、マッカーサーが猛烈な巻き返しに出た。
44年7月26日、ハワイ・ホノルルの司令部でルーズベルトを待ち受けたマッカーサーは3時間も直談判し、フィリピン攻略への作戦変更を求めた。大統領選の有力候補と取りざたされるマッカーサーを邪険に扱えば世論の反発が大きい。ルーズベルトは渋々要求をのんだが、面談後に侍医に「アスピリンを1錠くれ。私にあんな口調でしゃべるやつは会ったことがない」と吐き捨てた。
こうしてマッカーサーは44年10月、レイテ島に再上陸した。湾内の浅瀬でわざわざ船を下り、波しぶきに打たれながら上陸する姿を報道陣に撮らせ、「先陣を切る闘将」を印象づけた。
44年12月25日のクリスマスにマッカーサーはレイテ島で勝利宣言した。これも嘘で前線では日本軍と死闘が続いていたが、直前に陸軍元帥昇進が決まったこともあり、ニュース効果を狙った虚偽の宣言だった。実際に掃討作戦が終了したのは4カ月後だった。
45(同20)年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を受け、ルーズベルトの後を継いだ第33代大統領、ハリー・トルーマンはホワイトハウスで勝利宣言を行い、マッカーサーを連合国軍最高司令官に任命した。果たしてルーズベルトが存命だったら任命しただろうか。マッカーサーは妻に「老いた兵士への軍神マルスからの最後の贈り物だ」と語り、大いに喜んだという。

昭和20年9月2日、米戦艦ミズーリでの降伏文書調印式。マッカーサーは米海軍提督のマシュー・ペリーが黒船ミシシッピに掲げた星条旗を背に厳かに列席者に語りかけた。
「われら主要参戦国の代表はここに集まり、平和回復の尊厳なる条約を結ばんとする。もはや不信と悪意と憎悪の念を抱いて会合しているのではない」
だが、この寛容なる態度は偽りだった。直後に日本政府に対して、軍政による直接占領▽英語の公用語化▽軍票の使用−などを含む「三布告」を部下を通じて通告した。外相の重光葵が「ポツダム宣言に反する」と直談判したこともあり、公布は差し止めとなったが、マッカーサーによる間接統治は日本側が思っていたような生やさしいものではなかった。

マッカーサーは、自らが至上の統治者であることを印象づけることに腐心した。その決め手だったのが、昭和20年9月27日の昭和天皇との会談だった。
昭和天皇は自発的に米大使館を訪問したとされているが、実態は呼びつけたに等しい。2人は通訳を介し1時間ほど会談した。終始穏やかな雰囲気でマッカーサーが説明した占領方針に天皇も同意したとされる。
だが、マッカーサーの最大の目的は昭和天皇と並んで写真を撮影し、公表することだった。ピンと背筋を伸ばす天皇陛下の横で腰に手をあて、くつろいだ表情を見せるマッカーサー。どちらが統治者なのか、印象づけるには十分すぎる「証拠」だった。日本政府は2人の写真を掲載した新聞を発禁処分としたが、GHQは即座に処分を覆した。
翌21(1946)年の元日の新聞各紙で昭和天皇の詔書が発表された。その一節で自らの神格性を否定したことから「人間宣言」と言われる。だが、この詔書の草案もGHQが作成したという指摘もある。
GHQ兵員情報教育部で米兵向け雑誌編集に携わり、後にUP通信(現UPI)で東京支局長などを務めたラザフォード・ポーツ(93)はこう語った。
「私もマッカーサーに執務室で会ったことはあるが、話したことはない。彼は常に日本人から尊敬されるように振る舞った。天皇に代わる存在になろうとしていたんだ…」

マッカーサーは、占領統治を成功させ、名声を高めた上での大統領選出馬を考えていたが、その野望は思わぬ形でくじかれた。
1950(昭和25)年6月25日午前4時、北朝鮮軍(朝鮮人民軍)が朝鮮半島の北緯38度線を一斉に南進した。朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)だった。北朝鮮軍はソ連製T−34戦車240両を含む圧倒的な戦力で瞬く間に韓国軍を釜山まで追い詰めた。
マッカーサーは国連軍を指揮して9月15日未明に仁川上陸作戦を決行。これが奏功し、38度線を突破して10月には平壌を制圧、中朝国境の鴨緑江近くまで軍を進めた。すると「義勇軍」を名乗る中国軍(人民解放軍)が参戦し、国連軍は押し戻され、38度線付近で膠着(こうちゃく)状態に陥った。
そんな中、マッカーサーは原爆使用を検討。51年(同26年)年3月24日には独断で「中国本土攻撃も辞せず」と公言した。これに激怒したトルーマンは4月11日、マッカーサーを解任した。第三次世界大戦となるのを恐れたからだった。
こうしてマッカーサーの日本統治はあっけなく幕を下ろした。
それでも日本でのマッカーサー人気は絶大だった。新聞各紙は解任を惜しみ、業績をたたえる記事を続々と掲載した。帰国の日となった4月16日には、羽田空港の沿道に20万人以上が詰めかけ、星条旗と日の丸を掲げてマッカーサー夫妻との別れを惜しんだ。マッカーサーもこの時ばかりは見送りの人々と握手を交わし、バターン号に乗り込んだ。
マッカーサーの占領統治の成否には疑問が残るが、統治者としての演出は超一流であり、間違いなく成功した。その呪縛(じゅばく)は70年を経た今もなお残っている。 2015/12
●1945年の勝者と敗者の表情 
「平成」が終わるとき、「昭和」はさらに後景へ退くのだろうか。それとも一個の歴史として輪郭をもっと明瞭に際立たせるのだろうか。はっきりした答えは手許にないが、「戦後」について少しだけ考えてきた者にとって、「昭和」全体はともかく、いま「戦後昭和」をひとつの観点から描き切ってみたいという気持ちは抑えがたい。
まず「戦後昭和」の起点をどこに求めるかと自問して、私の頭にごく自然に浮かんだのは、あの誰でもが知っている写真、1945年9月29日に新聞掲載された昭和天皇とダグラス・マッカーサーのツーショットである。この写真が撮影された経緯はほぼ明らかにされているが、この前代未聞の表象を人々がどんな印象と共に受け取ったのかはさほど語られていない。
この写真は見るものに強い違和感をもたらす。違和感の正体は、ふたりの人物の身体や表情や服装の際立った相違にある。我々はそこにまったく原理と様式の異なるふたつの文化が投げ出されていると感じる。しかもその投げ出され方には、明確な暴力的意図がある。
それでも昭和天皇とマッカーサーの奇妙かつ絶妙なコンビについて知るうちに、昭和天皇の側には、異質なものを同居させて怪しまない独特な包摂性があることに気づいた。それは何でもかんでもというほどの雑居性ではないが、対極にあるものを抱え込んで破綻しないという意味で驚嘆すべきものである。私はこれを「二重性」と呼ぶことにした。
まだささやかな仮説に過ぎないが、おそらくこの「二重性」は幕末以来の国体論に最初から内在していたし、裕仁という個性が自力で獲得していった部分もあるのだろう。ひょっとすると、敗戦を挟んで60余年にわたる激動の時代を乗り切ったタフネスの秘密はここにあると考えてよいのではないか。この論考のテーマは、この「二重性」の来歴と意味を知ることにある。
ただし「二重性」はオールマイティなのではなく、倫理的問いかけに十分に答えきれないという致命的な弱さを抱えている。皇太子・摂政の時期から晩年まで、この人物のイメージが常にある種の不透明さに包まれていた理由もここにあるように思える。いうまでもなく、戦争責任に対する曖昧な態度は最大の瑕疵(かし)として残った。
もっとも刀を返せば、戦後を生きてきた我々もまた、この「二重性」の余禄に与り、またさまざまな局面で「不透明」であることに開き直ってきたのかもしれない。
富国と民主、安全と独立、自由と公平など本質では矛盾する「二重性」を無邪気に追求した結果、戦後日本文化は見通しの悪い、分かりにくいものになってしまったのではないか。この少々痛い着想は、本連載の後にくる高度成長期の社会文化事象の解釈を通して繰り返し論じられるはずである。
1945(昭和20)年9月8日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、陸軍第8軍司令官ロバート・アイケルバーガー、後にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)民生局長を務めたコートニー・ホイットニーと共に、横浜のグランドホテルから焼け野原の東京に向かった。
午前中は、アメリカ大使館に星条旗が掲げられ、進駐式が行われた。この星条旗は真珠湾攻撃の日、ワシントンの米国議会議事堂に翻っていたといういわくつきの旗だった。占領者たちは、4年前の「だまし討ち」の開戦とその屈辱の記憶を極東の地へ携えてきたのである。
その日、一行は帝国ホテルでランチを摂ることになっていたが、正午まで少し時間があったため、社長の犬丸徹三に短時間の東京案内を要請した。マッカーサーと参謀長のリチャード・サザーランドを乗せた自動車は、丸の内から銀座へ向かい、本郷の東京大学、後楽園球場、神田の古本屋街を巡り、宮城前へ出た。マッカーサーにとっては、1906(明治39)年初夏以来、39年ぶりの(しかも変わり果てた)東京だった。
約40分後、帝国ホテルへ戻ったマッカーサーは、ランチを済ませると、既に部下に下検分させてあった第一相互(生命)ビルを訪問した。候補にはここと明治生命ビルの二つが挙げられていたものの、マッカーサーは白い花崗岩を使った太い角柱の玄関からロビーへ足を踏み入れた瞬間、この建物こそ我が拠点にふさわしいと直観したらしい。「これはいい」と彼は言葉を発し、もう一つの候補先を見ることはなかったという。
第一相互(生命)ビルは9月15日にGHQに引き渡され、9月17日にはマッカーサーに率いられた占領業務の執行者たちを迎えた。昭和天皇の側近たちは、堀の向こうのビルに翻る星条旗に目をやりながら、勝者のリーダーが敗者のリーダーにどのような態度で臨んでくるのか、敗者の側はそれにいかなる対応を行うべきか思い悩んでいた。
2週間前の9月2日、戦艦ミズーリの艦上で行われた降伏調印式で、外務省情報局の加瀬俊一は、マッカーサーの「自由と正義と寛容」を謳う演説を聞いて感激し、その日のうちに重光葵(まもる)外相に託して天皇に奏上していた。これをきっかけに側近の間では、「責任を認めることによってむしろ罪は許されるに違いない」(袖井林二郎『マッカーサーの二千日』、1974)という期待感が生まれたという。
しかし、こうした楽観的な観測に反対する意見もあった。中でも強く異を唱えたのは重光である。彼は9月3日にマッカーサーに面会、軍票使用中止の申し入れと併せて天皇を戴く間接統治の有効性を訴えていた。おそらく重光は「過去の指導者」が率先して責任を負えば、皇室に累が及ばずに済むという認識を持っていた。ゆえに重光は、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)首相や近衛文麿副総理がマッカーサーや外国人記者と会見するのを「媚態」と批判した。もちろん天皇による同様の行動も慎むべきことだった。「若し夫れ、陛下御自身真珠湾攻撃に責なきことを公然言明せらるるに至らば、国体の擁護は国内より崩壊をみるに至らん」(『続重光葵手記』、1988)という重光の言葉は厳しい状況認識に基づいていた。
ところが事態は彼の意図に反する方へ動く。9月17日、戦争責任者を一掃する内閣大改造を提案して孤立した重光は、辞任を選ばざるをえなかった。後任は吉田茂であった。
政府と宮中はほぼ同時に動き始めた。申し合わせたわけではないが、吉田新外相と藤田尚徳(ひさのり)侍従長は同じ9月20日にGHQを訪れ、マッカーサーと会見している。
この日、藤田がGHQを訪ねると来客中としてしばしの待機を申し渡された。天皇の使者を待たせるとは何事かと思っていると、目の前のエレベーターから吉田が現れ、藤田に気づかないままに通り過ぎていった。
両者の訪問の意味はもちろん異なる。表向きは、吉田の方が「打診」、藤田の方は「表敬」である。昭和天皇のマッカーサー訪問という歴史的出来事の実現に向けて両者は多少の連絡を取り合っていただろうが、宮中があえて「表敬」を行ったのは、(藤田が手記に書いたような健康や天候の挨拶ではなく)昭和天皇自身の意思を直接マッカーサーに伝えるためだったはずだ。「意思」とはポツダム宣言を忠実に実行するという約束以外の何物でもない。これは、敗れたとはいえ天皇こそ国家意志の当体であることを、新しい支配者に伝えた最初のメッセージだったのではないか。
昭和天皇はマッカーサーとの会見に先立ち、9月25日に二人の外国人記者に会っている。一人は『ニューヨークタイムズ』の記者、フランク・L・クルックホーン、もう一人はUP通信社社長ヒュー・ベイリーである。クルックホーンは9月11日に近衛に会い、拝謁を願うと共に天皇が新聞を通してアメリカ国民にメッセージを送るように勧めている。GHQの指示によるものであることは間違いない。先に述べたように、重光はこの提案に反対したが、加瀬が内大臣秘書官長松平康昌と相談して案文を作成することになった。追ってベイリーも拝謁と回答を求めてきたので、両者をまとめて25日に謁見が行われた。
メッセージは、クルックホーンとベイリーの提出した質問項目に基づいて書かれたが、そのうち、クルックホーンの第2項が後に問題となる。以下は、第2項について『ニューヨークタイムズ』の記事が打ち返され、『朝日新聞』に掲載されたものである(ベイリーの記事は『毎日新聞』に掲載)。
「東条大将は真珠湾に対する攻撃、ルーズベルト大統領の言葉をかりるならば『欺し討ち』を行ふために、宣戦の大詔を使用しその結果米国の参戦を見たのであるが、大詔をかくの如く使用することが、陛下の御意図であつたでせうか」
といふ質問に対し、「宣戦の大詔は東条のごとくにこれを使用することはその意味ではなかった」といふ意味の簡単な御返事があった。(『朝日新聞』、1945年9月29日)
ちなみに『ニューヨークタイムズ』のこの記事の見出しは「ヒロヒト、だまし討ちを東条のせいにする」。和訳した朝日新聞にはもちろん、こうした煽情的な文言はなかったが、政府関係者と宮中の人々は、昭和天皇が東条という個人名を挙げたことに衝撃を受けた。いやそれ以上に彼らを震撼させたのは、その記事のとなりに大きく掲載された前代未聞の写真だった。南の島から来た元帥と東の島のもと元帥は、まるでちぐはぐなコンビだったからだ。
ジョン・ダワーは、この“世紀のツーショット”について次のように書いた。
「……写真には、マッカーサーと昭和天皇が、マッカーサーの宿泊場所の一室で並んで立っていたが、どちらがより大きな権力を持っているかは一目瞭然であった。マッカーサー最高司令官はカーキ色の開襟シャツに勲章もつけず、両手を腰に当て、少しだけひじを張って、気楽といっていいような姿勢で立っており、しかも昭和天皇を見下ろすような長身であった。他方、司令官の左に立つ昭和天皇は礼装のモーニング姿で緊張して立っている。二人の指導者の年齢の差も、マッカーサーの序列を高める要因であった。当時マッカーサー元帥は六五歳、四四歳の昭和天皇はマッカーサーの息子であってもおかしくない年齢であった。(ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて――第二次大戦後の日本人』、2001)」
この写真は、会見場所であったアメリカ大使館で、会見が始まる前にいわば「だまし討ち」のように撮影された。非公式の訪問でもあり、おそらく日本側には予告されていなかったのだろう。シャッターは3回押されたが、使えたのはこの1枚だけだった。残りの2枚は年長者の方が目を閉じてしまったり、年少者の方が口をぽかんと開けてしまったりしていた。
ここに写し取られた天皇は、ぎりぎりのところで元首に不可欠な威厳の残影を留めているものの、何か目を背けさせるような負のオーラを発している。間違いなくそれから来る痛覚は、戦後の日本人がある時点まで共有していたものだ。そしてこの「ある時点」こそ、「戦後」という時間に区切りを与えているものである。戦後日本の本質を(おそらく最初に)可視化した図像としてこの写真はかなり大きな意味を持っている。 
●「マッカーサーの日本占領」と天皇 
 ・・・ マッカーサーの信念と合衆国政府の考えによれば、日本は民主国家として一日も早く国際社会に復帰させなければならないが、それは、新しい帝国主義的な拡張政策の爆発を不可能にならしめるような方法で達成されなくてはならなかった。それは、残っている軍部の力を根こぎにすることを意味した。戦争犯罪人は罰しなくてはならない(少なくとも、戦争に責任があった人物は)。新しい日本を保障する代議制と民主主義的な政府のあり方を規定した新憲法も必要だ。婦人に参政権を与えて、自由な選挙を行なわなくてはならない。自由な資本主義体制を再建し、換地改革や労働関係の改善を制度化する。教育も解放し、政治権力の集中化を排除する。自由な新聞を復活させ、政治犯を釈放させる。いいかえれば、マッカーサーは、日本のそれまでの諸制度を、彼なりに理解するアメリカ版のそれにおきかえるということであった。 しかし、彼は本質的に、政治の面でも経済の面でも保守派であった。
従って、再建するためになにもかも廃止してしまうだけの用意ができていなかった。彼は日本人の生活様式に敬意をいだいていたし、「彼らの最高のものと、我々の最高のものと」をとけあわせたかった。その野心的な計画をなしとげるためには、まず出発点から、最高司令官としての自分に信頼がよせられなくてはならなかった。そこでさっそく、日本国民の不安をしずめるために、天皇との会見がとりはかられたのであった。多くの日本人は、あたらしい占領体制のもとで、全面的な、あるいは部分的な奴隷状態におかれるのではないかとおそれていた。マッカーサーは、天皇と会見すれば、天皇とならんだ写真が、天皇を“殉教者(じゅんきょうしゃ)”にしたてるのではないかと不安がった。むしろ、天皇がみずから招待するまでまとうと思った。しかし、まもなく天皇から招待が発せられた。マッカーサーは、宮城よりもアメリカ大使館で会見するという条件で、その招待をうけたのだった。マッカーサーは、天皇を自国民の窮状をうったえる嘆願者として扱いたくなかった。国家元首に与えられるべきあらゆる名誉がおもんじられなければならなかった。
天皇がたてじまのズボン、山高帽でついたとき、彼は明らかにぎこちなかった。マッカーサーは、会見場の通訳を除いて、ひとばらいを命じた。二人は暖炉のまえで腰をかけた。天皇は、マッカーサーのすすめる煙草をうけとった。彼は、天皇が震える指先で煙草をつまんだことに気づいた。マッカーサーは、天皇が助命を嘆願するのではないかとおそれた。なぜなら、多くの連合国、なかでもソ連と、ある程度までイギリスが、天皇を戦争犯罪人として告発従っていたからである。マッカーサーは、これらの提案に強く反対した。提案のひとつは、トルーマン大統領の行なったものであるが、それはすぐに撤回された。マッカーサーは最初から、日本国民のために、古い秩序は部分的にたもたれなくてはならないと信じていた。日本国民の天皇を、神の座から立憲制の君主にひきさげるだけでも、必要以上のショックであった。まして天皇を裁判にかけたり、処刑したりするのは論外である。それは、旧敵との仲なおりにつとめるアメリカの努力をだいなしにするにちがいなかった。さらに天皇を処刑すれば、日本人と連合国とのあいだに、“対決”の心理状態をうむかもしれなかった。とくにアメリカは、天皇の処刑後、かならずや発生するであろう暴動を制圧するために、かなり多数の軍隊を送りこまなくてはならない。そうなると、アメリカと征服された日本とのあいだに、好ましい関係を再建しようとすれば、実に何十年もかかることになる。これらの点を百も承知していたマッカーサーは、すでに、天皇を裁判にかけないと心にきめていたのだ。しかし、マッカーサーと会見する当時、天皇は最高司令官の決断をつゆしらなかったし、またそれが、天皇の心のたかぶりを物語っていた。
天皇の態度には、つい同情をよせたくなるようなもの、そして悔い改めさえ感じられた。天皇はマッカーサーにたいして声明を読みあげた。「マッカーサー元帥、私は、あなたが代表する列国の判断に身をゆだねるべく参上しました。わが国が戦争遂行にさいして行なった政治的、軍事的決定と行動に唯一の責任をもつ者として」
マッカーサーは、かつて現人神(あらひとがみ)だった人物の勇気にふかく心を動かされた。屈辱的なものを予想していたところ、天皇はへりくだった態度と“しん”の強さをみせた。天皇はそのかわりマッカーサーから尊敬と、誠意あふれる扱いをむくわれたのだった。その後、二人は再び会見することになる。日本の戦争指導をさばくためにニュールンベルク裁判をみならい、戦争犯罪法廷の設置をみとめたマッカーサーではある。だが、天皇とのあいだに行なわれた一連の会見は、マッカーサーがよしんば、いかなる圧力をうけても、天皇の名を法廷にもちだすのは許さない、ということを意味していた。天皇は一貫して、マッカーサーの日本復興政策、日米協調政策を支持した。
一九四六年〔昭和二十一年〕一月、天皇はみずから公式に神格を否定し、国民にショックを与えた。マッカーサーは、それを、独裁国家の民主化にとって重要な第一歩と感じた。マッカーサーはしばしば、政治上のことで、とりわけ側近たちにたいしては独裁的だと批判されてきた。しかし、日本の民主化についての考え方は、疑問の余地がないであろう。マッカーサーは占領当初から、日本を民主国家、平和愛好国として国際社会に復帰させたいと願ってきた。将来、日本の攻撃的なナショナリズムが再び爆発するのを防ぐために、過去の独裁主義的な色彩を取り除きたかったのである。
終戦後、最初の総理大臣になった吉田茂が指摘したところによれば、マッカーサーが天皇にはらった敬意こそ、占領を成功させ、日本を民主国家にもどす、最も重大な要因であった。従って、マッカーサーの政策は、好意ある独裁者の政策であった。それは、戦時中の同盟国からよせられる助力や忠告にしたがうよりも、みずからの創意とアメリカの保護とによって日本を再建し、改革する政策であった。ソ連もイギリスも、鼻からマッカーサーの権限をちじめようと画策した。両国とも、日本はドイツやオーストリアと同じように、各占領地域に分割すべきだと考えていた。マッカーサーは、そうは考えなかった。ドイツやオーストリアの分割占領は、多くの事実が証明していたように、期待するほど能率的なものではなかった。
マッカーサーの考え方は、単純で、明快だった。戦後の日本における連合国の役割は、戦争中に同盟国がはたした明らかな役割に応じてきめるべきだ、としたのである。さらに、占領軍の七五パーセント以上を提供しているのは、ほかならぬアメリカ合衆国であった。一九四五年十二月、戦後日本の再建を討議するために聞かれたモスクワ会議から、ダグラス・マッカーサーは、ひとことの相談にもあずからなかった。しかし、モスクワ会議の行なった決定は、マッカーサーをがっかりさせるものではなかった。極東委員会の設置がみとめられ、それは、日本と戦った十一ヵ国の代表から構成された。
合衆国は、その一方的な権限を極東委員会にゆずったが、同委員会はワシントンで定期的に会合し、東京にある諮問機関〔対日理事会〕に指令を伝えることになっていた。諮問機関はアメリカ、イギリス、中国、ソ連の四ヵ国から構成されていた。彼らは、マッカーサーの権力機構を監視するために会合した。マッカーサーは最初から、最高司令官としての権限が制限されることに反対した。にもかかわらず、彼はやがて、諮問機関の内部が能率的な運営をはかるうえで、意見が対立しすぎるという点に気がつく。諮問グループ内のいがみあいがあたりまえになり、いつまでも続いたので、マッカーサーの権限は、実際にいささかも制限されることがなかった。最高司令部の“マッカーサー・チーム”はまさにオール・アメリカンだった。ほとんどが、戦時中の仲間である。 ・・・ 

 ・・・ 日本の新しい憲法を起草するのも、マッカーサーが果さなくてはならない、もうひとつの重大な課題であった。日本の最初の憲法は、一八八九年〔明治二十二年〕に発布された。それは、一八六八年〔慶応四年〕の王政復古がうみだしたものであり、将軍政治〔幕府]をたおし、天皇の名において新しい政府を樹立した人々の政治権力を保障するものであった。
旧憲法のもとで、天皇は神聖にして侵すべからず、と定められた。プロイセンをモデルにした新しい権力構造は、すこぶる権威主義的であった。権力の主な部分は、長老会議のゲンロウ〔元老〕と、政府ではなくて天皇にのみ忠誠をちかう軍部とに、にぎられていた。上院〔貴族院〕は、少なくとも下院〔衆議院〕と同じような力をもっていた。下院は最初のうち、資格や条件がやかましい、かぎられた有権者によってえらびだされた。戦後、天皇がみずからを、もはや神ではないと宣言してから、明治憲法のイデオロギー的な支えは取り除かれてしまった。そしてともかくも、さながら独立国のような軍部さえ一掃されたのであった。当然、新しい憲法が必要になってきた。合衆国政府もマッカーサーも、将来の民主政府が普通選挙権に基盤をおくように保障する抜本的な改正でなければならないと信じていた。旧体制の生残りであった当時の日本政府は、そうそうに新憲法起草委員会〔憲法問題調査会〕を設ける。マッカーサーは、日本人が自力で憲法をつくるように望んだ。
しかし、数ヵ月がぐずぐずとすぎさっていくうちに、なんらかの指針が必要なのではないかということが、明らかになった。日本側は、民主主義への道を、新しい主人にしめしてほしいとたのんだ。一九四六年一月、マッカーサーに提示された第一次草案は、明治憲法の表現をかえた程度にすぎなかった。マッカーサーはタイミングの問題にせまられていた。一九四六年四月十日には、十年ちかく行なわれていない総選挙が予定されていたのである。マッカーサーは、この選挙を新しい憲法のいわば国民投票にしたかった。従って、投票日の前までに、草案はできあがっていなくてはならない。こうして、日本側に起草者を知らせないまま、マッカーサーはコートニー・ホイットニーを憲法草案の責任者に命じた。顧問たちが彼をたすけた。一ヵ月たらずのうちに、草案はできあがり、日本側、はっきりいえば、幣原(しではら)首相はそれをしぶしぶうけとったのだった。
幣原の要求にこたえて、日本は永久に戦争を否定し、いかなる形の軍備もけっしてもたないという条文が入れられた。それはたしかに、ポツダム宣言の精神と条項にかなうものであった。だが、じっさいには、現実的な条文とはいえなかった。日本はつねに、無防備のままにしておかれるということになるからだ。マッカーサーは、日本列島のすぐ北西にひかえるソ連の海空軍力に注目していた。このままでは、アメリカ軍が永久にとどまらなくてはならないか(これは、明らかに実現できそうな解決策ではない)、それとも、アメリカ軍が引上げたあとの日本を、予想されるソ連の侵略にさらしてしまうか、だ。従ってマッカーサーは、日本が将来もし「直接的な侵略の脅威にさらされる圏内」にはいれば、この条文は自衛軍の設置を妨げるものではないという解釈をとった。とすれば、この条文はかなり意味がないものと、みなされるにいたった。日本は武装するか、武装なしですませるか。マッカーサーは、日本に自衛してもらいたかった。が、拡張政策をとるための武装であってはならない。それは、日本の軍事的な帝国主義をよみがえらせる門戸を開け拡げるようなものであったからだ。マッカーサーは、賭(か)けの危険性をよくわきまえていた。しかし、あえて賭けをしなくてはならないと信じていた。新憲法が制定されてから、すでに二〇年たつ。しかし、日本人は二度と過去のあやまちを繰返すまいというマッカーサーの信頼が間違っていた兆候は、まだどこにもあらわれていない。
総選挙では、有権者のなかに、はじめて婦人が加わった。それとなく“マッカーサー憲法”とよばれる新しい憲法は、国民の承認をえたように思われた。吉田茂が首相にえらばれ、新しく選出された上下両院は、やがて新憲法を通過させる。新憲法は同年十一月、公布されて、あくる年の五月に発効した。明治憲法とマッカーサー憲法の主な相違点は、天皇の地位を定めた個所である。天皇はいまや、国家元首、国民の象徴であるにすぎない。要するに、イギリス型にちかい立憲君主制である。またアメリカ流に権力の分離が定められた。司法の独立、最高裁判所の設置。そして軍事(自衛)機構は、がっしりと両院〔国会〕の監督下におかれた。思想、表現、行動の自由を保障する基本的人権は、むろん新憲法にくみこまれた。総理大臣は下院〔衆議院〕の多数党からえらびだされ、新しい選挙を意味する不信任案を可決されないかぎり、四ヵ年間の任期をつとめる。下院の選挙は四ヵ年ごとに行なわれることになった。 ・・・ 

 ・・・ アメリカ国民は、マッカーサー解任をきかされて仰天し、怒った。マッカーサーの司令部には、なぐさめの電報や手紙が、洪水のように殺到した。吉田首相は、マッカーサーが「占領後の混乱と虚脱」から日本を救ったとし、日本の再建と、「我々の社会の各方面に民主主義」をうえつけてくれたことに対し、日本国民にかわって感謝すると述べた。「マッカーサー元帥が、全国民から深甚(しんじん)なる崇敬(すうけい)の念をもってあおがれているのも、驚くにあたりません。国民が元帥の離日をいかに残念がっているか、言葉に言いつくせないほどです」李承晩や日本の高官、知人らからの同じような手紙が、元帥のうけた打撃をやわらげた。マッカーサーは、ただちに帰国の準備にとりかかる。国内では、彼への同情と、トルーマン大統領へのいきどおりがいりまじっていた。第一次大戦のけちな一大尉が、こともあろうに偉大な国民的英雄を首にするとは。
マッカーサー解任の報がつたわるや、共和党の下院議員ジョー・マーチンは寝室をとびだし、やっきとなって、マッカーサーや同僚議員に電話をかけはじめた。当時、共和党員として二〇年まえに最後のホワイトハウスの主人となったハーバート・フーバーは、マッカーサーに忠告する。「トルーマンやマーシャルや、やつらの宣伝屋が、君をふんだりけったりしないうちに、一日も早く帰ってきたまえ」四月十一日午前十時までに、ジョー・マーチンは記者団と会見し、タフト上院議員ら共和党幹部と協議した結果、トルーマン政権の外交政策について議会の大規模な調査を提案することになったと、報告する。 ・・・ 

 ・・・ 日本では、マッカーサー解任は人々の心を深くゆりうごかした。マッカーサーはずっと、敬慕(けいぼ)にちかい感情をもたれてきた。孤高の威厳あるスタイルは、日本を廃墟から再建させた彼の誠実さ、その尽力に感謝する日本人の心をとらえてはなさなかった。すでに感動的な賛辞をおくっていた天皇は、わざわざマッカーサーのもとを訪れる。日本の天皇が、今やなんの公的資格をもたない一外国人をたずねるのは、日本の歴史上、前代未聞のことだった。天皇は涙をうかべながら、別れを告げた。マッカーサーの離日にあたり、これがおそらく、最も感動的な出来事であったろう。日本人が、そのように感情をあらわにしめすのは、普通のことではないからである。まして天皇の場合は、そうした前例がつたわっていない。一〇○万から二〇〇万の市民が、アメリカ大使館から厚木飛行場までの道筋に立ちならんだ。マッカーサーの車が通りすぎると、お辞儀をする者もあれば、手をふる者、涙を流す者もいた。飛行場では、上空をセーバー・ジェット戦闘機や「超空の要塞」がとび、一九発の礼砲がとどろきわたる。
ストーリー大佐が操縦押をにぎり、再び「パターン」号の名に戻ったマッカーサー専用機のコンステレーション型は、アメリカ本国にむけてとびたつ。四月十六日に離陸し、フジヤマの上をとんで、ホノルルにむけて東進した。 ・・・  
●真珠湾「だまし討ち」を東条英機に責任転嫁 
 昭和天皇への対応でも分かる吉田茂の傲岸不遜ぶり
吉田茂がいかに傲岸不遜な人物であったかは、彼が外務大臣になったばかりの、昭和天皇への対応でもよく分かる。
彼が重光葵の後を受けて外務大臣に就いたのは1945(昭和20)年9月17日。最初の大きな仕事は、9月27日に行われる昭和天皇と、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーの第1回会談を、どのように設定するかだった。
占領軍が日本に進駐してきて真っ先に聞きたかったのは、「日本は経済力の差から敗戦は必至なのに、なぜ無謀にも米国に戦争を仕掛けてきたのか」ということだった。しかも、それを真珠湾の「だまし討ち」で始めて、米国をあのように怒らして悲惨な戦争に自ら持ちこんだのは、なぜかということだった。言われてみれば当然の疑問だ。
米軍は、日本が本来、真珠湾攻撃の30分前に「最後通告」を出す予定になっていたが、ワシントンの日本大使館の事務失態によって遅れ、結果として無通告の「だまし討ち」となったことを知らなかった(=実は、日本軍も、日米戦争が無通告の『だまし討ち』から始まり、米軍が激怒して日本に襲いかかっていることを知らなかった)。
マッカーサーとて同じであり、昭和天皇との最初の会談でそのことが話題になるのは必至だった。
昭和天皇は会談で何と答えたか。真珠湾の「だまし討ち」は、当時の首相である東条英機にだまされたと答えたのである。外務省から上がってきていた「答え」がそうだったからである。
これだけで驚いてはならない。
昭和天皇のこの言葉を傍らで通訳していたのは、実は開戦時、ワシントンの日本大使館にいて、開戦前日に遊びに行ってタイプを打たず、「最後通告」遅延の原因をつくった人物だった。外務大臣になったばかりの吉田が、これほどのことを平然と行うには、吉田の衝動と感情で行動する人物像なくしては考えられない。
昭和天皇は前出の言葉の後に、「しかし、この戦争はすべて天皇の名において行われたのであるから、責任は私にある」と謝罪したのである。
マッカーサーが回想録に書いているように、「身震いするほど感動した」というのは当然である。
だが、この感動の言葉は、証拠が明瞭にあるのにもかかわらず、外務省の公の記録には一切載っていない。そして、『昭和天皇実録』にも出ていない。断定は避けるが、外務省系の宮内庁の役人によって焼却されたと推測される。 
マッカーサー   

 

●詔勅(しょうちょく) 
大和言葉で「みことのり」といい、天皇の御言(みこと)を宣る(のる)という意味である。明治維新後は綸言(天皇の言葉)を通じて詔勅と称した。昭和戦中期には勅旨(天皇の意思)を総じて詔勅と称した。天皇の意志を伝える詔書、勅書、勅語の総称である。
昭和戦前期の憲法学では、天皇の直接の意思を外部に表示したものを詔勅と呼んだ。天皇の大権が外部に表示される形式のなかでも詔勅が最も重要なものとされた。文書による詔勅には天皇が親署した後、天皇の御璽か国璽を押印した。口頭による詔勅もあり、これを勅語といった。
上古の詔勅​
律令制以前、古くから天皇の言葉を指して、万葉仮名で美古登(みこと)と称した。これは御言という意味であった。また意富美古登(おほみこと)とも称した。これは大御言という意味であった。天皇の言葉を臣民に宣布するとき、これを美古登能利(みことのり)と称した。これは 命(みこと)を宣る(のる)という意味であった。そのうち神事にかかるものを能利登許登(のりとごと)と称した。宣祝言という意味であった。これを縮めて能利登(のりと)ともいい祝詞の字を充てた。
古代中国における「詔」や「勅」の語義は次のようであった。もともと「詔」の字は上から下に命じるというような広い意味で用いられていたが、秦漢時代以降に皇帝専用となったものであり、主として「教え告げる」という意味であった。これに対し「勅」の字には戒めるとか正すといったニュアンスがあり、皇帝が臣下を責めたり罰したりすることを意味する勅勘や勅譴などの熟語があるが、詔の字にはそのようなニュアンスや熟語はなかった。また、勅裁、勅断、勅選、勅撰、勅諭、勅許、勅問、勅答、勅諚という熟語には責めるという意味はないものの、皇帝個人の意思による判断、選択、教諭を、特定の臣下に下すという意味合いがあった。一方、詔の字は臣下の全体に対する皇帝の公的な側面が強く出ており、私的な側面は弱かった。
古代日本における「詔」「勅」の字の用例を古事記や日本書紀に見ると、中国における語義と関係なしに、編者が巻ごとに一方の文字のみを用いる傾向があった。たとえば記紀神話が記された神代巻を見ると、日本書紀1巻2巻では、詔が0件、勅が42件であり、全て勅であったが、古事記上巻ではこれと全く対照的に、詔が92件、勅が0件であり、全て詔であった。古事記の本文は全体を通じて勅の字の用例は一例しかなかった。
律令制での詔勅​
日本において隋や唐の律令制を模倣して詔勅という名称が生まれた。文武天皇の定めた大宝令が詔勅の制の初見であった。令の公的注釈である令義解は「詔書・勅旨、これ同じく綸言なり。臨時の大事を詔となし、尋常を小事を勅となす」として、事の大小により詔と勅とを区別したが、後世の詔・勅の文字の用例は必ずしも令義解の定義に準拠していなかった。臨時の大事に詔と称し尋常の小事に勅と称するといっても、臨時にも小事があり、尋常にも大事があって、必ずしも事の大小で区分できなかったからである。およそ儀式を整え百官を集めて宣明するものを詔と為し、そうでないものを勅と為した。外国使への伝命、改元・改銭・大赦、神社・山陵への告文、立皇后・立太子・任大臣などを詔書と為し、それ以外を勅旨と為した。詔勅を美古登能理(ミコトノリ)と称した。これは「大命(おほミコト)を宣聞す(ノリきかす)」という意味であった。宣命や宣旨の名称もこのとき始まった。
職員令に「内記掌造詔勅」とあり、詔勅の文案を作るのは中務省所属の内記の職掌であった。『職原抄』によれば、儒門の中で文筆に堪える者を内記に任じ、詔勅宣命を起草させたという。また、『禁秘御抄』によれば、内記が不在の時は弁官が天皇に奏上したという。
詔勅の文案を審査しこれに署名するのは中務卿輔の職掌、詔勅を起草するのは内記の職掌、詔勅を勘正するのは外記の職掌とされた。これらは最も機密の官であり、宮衛令に「凡詔勅未宣行者非官不得輙看」(およそ未だ宣行していない詔勅は担当官以外が軽々しく見てはならない)と定められた。
諸国に施行すべき詔勅は太政官符の中に全文引用して行下した。これを謄詔勅という。謄詔勅は在京諸司に誥するより筆写にかかる労力が多いため、文案の長短にしたがって歩合給を与えた。また、職制律にその筆写を遅怠した者やこれを誤写した者などの罪名を載せた。
頒布する詔勅のうち百姓に関するものは、京職・国司から里長・坊長を経て百姓に宣示した。公式令は、里長や坊長が部内を巡歴し百姓に宣示して人ごとに暁悉(通知)させると定めた。
詔書​
詔文の書式は以下のようであった。外国使に大事を宣する詔書は冒頭に「明神御宇日本天皇勅旨」と掲げた。これは「明神(あきつみかみと) 宇(あめのした) 御(しろしめす) 日本(やまとの) 天皇(すめらが) 勅旨(おほみことらま)」と訓じる。外国史に中事を宣する場合には「明神御宇天皇詔旨」といった。朝廷の大事である、立坊、立后、元日に朝賀を受ける場合には詔書の初めに「明神御大八洲天皇詔旨」という文言を掲げた。これは「明神(あきつみかみと) 大八洲(おほやしまぐに)御(しろしめす) 日本(やまとの) 天皇(すめらが) 詔旨(おほみことらま)」と訓じた。中事には「天皇詔旨」と掲げ、小事には単に「詔旨」と掲げるにとどめた。詔文の終わりには「咸聞」という文言を置いた。これは「咸(もろもろ)聞(きこしめさへ)」と訓じた。
詔書を施行する手順はおよそ以下のとおりであった。
1.まず内記が天皇の意を承けて詔文を起草する。詔文の後は改行して年月を書き、日を記さないでおく。
2.草案を箱に入れて内記みずから御所に参じて天皇に奏上する。
『内裏式』によれば、参議以上か内侍に令して御所に進めるというが、これは他の諸書に見えない異説である。
3.日が記されていない草案に、天皇みずから日を書き入れる。これを御画日という。
4.御画日を終えたあと、中務省の卿(一等官)か輔(二等官)一人を召してこれを給う。
『北山抄』によれば、この時もし輔が参じなければ丞(三等官)に給い、丞以上が参じなければ録(四等官)を召すことはせずに、これを外記に給って伝令させるというが、このことは稀有の例である。
5.御画日のある文書は、中務省において、卿がこれを受けて大輔に宣し、大輔がこれを奉じて少輔に付し、これを留めて案と為し、少輔が別に一通を書き写す。
『令集解』によれば、書写に中務丞以下は参与できないという。
6.写した書面上、年月日の次に三行にわたって「中務卿(位)臣(姓名)宣」「中務大輔(位)臣(姓名)奉」「中務少輔(位)臣(姓名)行」と署名する。
これは詔書の場合であり、勅書の場合はこれと違って、卿にも輔にも臣の字を書かず、輔は中務の二字を省き、下に宣奉行を注記しない。
卿がもし不在であれば大輔の名の下に「宣」と書き、少輔の名の下に「奉行」と書く。大輔も不在であれば少輔の名の下に「宣奉行」と併せ書く。
令義解には、少輔すらも不在であれば丞と録がこれに準ずることができるされている。しかし、『令集解』によれば丞以下は参与し得ずといい、『北山抄』によれば丞以上が参じなければ録を召さずというから、実際には録が連署することはなかったようである。
7.中務省では宣奉行を署した後、これに中務省印を押し、太政官に送る。
『西宮記』や『北山抄』に「省進外記」とあり、中務省から太政官の外記に進ずるという。
8.太政官において、外記は中務より送られて来た詔書案の後に太政大臣以下大納言以上の「(官位)臣(姓名)」を記入し大納言に進す。
9.大納言は大臣以下の署名を取り、内侍を経由してこれを天皇に覆奏する。
『北山抄』および『小野宮年中行事』によれば、大納言が不在であれば中納言が代わって覆奏し、さらに中納言も不在であれば大臣が覆奏するという。
『北山抄』によれば内侍が不在のときは蔵人を経由して行うという。
10.詔書には、年月日の次の行に天皇みずから「可」の字を書き入れる。これを御画可と称す。
論奏の批准には「聞」の字を書き入れる。
11.御画可のある詔書は、大納言がこれを受けて外記に授ける。
12.外記は詔書を太政官に留めて案と為し、更に謄写して天下に布告する。以上。
在京の諸司には詔書の写しの官符を副えて行下し、諸国には官符に謄写して施行した。詳しくいうと、詔書の頒行には誥と施行の区別があった。誥は在京の官省台職寮使の諸司に下すことをいい、施行は誥を終えて諸国に下すことをいった。誥は詔書を直写し別に太政官の符文を副えて行下した。施行は太政官符の中に詔文を引用した文書を作って行下した。ゆえに令に「更謄官符施」(さらに官符に謄写して施行する)とある。誥と施行の書式については類聚符宣抄を参照のこと。
押印の方法は次の通りであった。天皇の御画日が終わったあと中務少輔が自分で一通を写した後、詔文の最初から最後の少輔の姓名に至るまで文字のある全箇所に隙間なく中務省印を押した。そして中務省から太政官を経て天皇に覆奏し、天皇が御画可を終えた後、在京諸司に誥するときは太政官印(外印という)を用い、諸国に施行する謄詔勅には天皇御璽(内印という)を用いた。いずれも隙間なく押印する例であった。
天皇が幼少であれば、摂政が天皇に代わって御画日・御画可を行った。また、皇太子が監国している時は、令旨をもって勅旨に代えることができたが、詔書に代えることはできなかった。
勅​
勅も詔書と同じく天皇の言葉であり、その用途は詔書より広かった。摂政や関白に随身を賜い、皇子に姓を賜い、内親王を三后に準じて封戸を充てる類いはどれも勅書を用いた。令義解に所謂「尋常の小事を勅と為す」ものがこれに該当した。
勅書を施行する手順はほぼ詔書と同じであり、以下のとおりであった。
1.初め侍従もしくは内侍が勅を奉じて中務省に宣送する。
『新儀式』によれば大臣が命を承けて内記に起草を令するともいう。
2.中務省は勅書の正文を内侍に付して天皇に覆奏する。
3.覆奏の後、中務省で卿・大輔・少輔が署名し、中務省印を押し、これを留めて案と為す。
4.中務省に留める案とは別に一通を写して押印・署名をし、太政官に送る。
『令集解』によれば少輔以上から太政官に送る。
5.太政官では天皇への覆奏を行わず、中務省より来た勅書の後ろに直に大弁以下少弁以上が連署してこれを太政官に留めて案と為す。
6.太政官に留める案とは別に一通を写し、これを施行する。「奉勅旨如右」の文言以下を弁官の史が書き入れる。
7.およそ勅書はその文言を直写してこれに弁官と史官の姓名を署し外印を捺し官符を副えて下すのを正則とする。諸国に行下すべき勅書は謄勅の官符を用いる。これは謄詔の方法と同様である。以上。
公式令の勅旨式には、御画日や御画可について書かれていない。諸書をみると、『新儀式』に「勅書に御画日御画可なし」とあり、また『北山抄』勅書条に「公式令に御画日可などのこと見えず。しかして『年中行事』に、詔書・勅旨みな画日を用い覆奏の文には画可すと。このこと拠る所なし。しかれども古来御画日あり、また詔書に準ず。太政官の覆奏、未だその意を知らず」とある。したがって勅書に御画日や御画可がないのが旧式であったと考えられる。
詔書と勅書では署名に違いがあった。中務省においては、詔書に卿・大輔・少輔の三人とも署名の上に「中務」の字を冠して位臣姓名を署したその下に各々「宣」「奉」「行」の字を書き入れたが、勅書には卿のみが中務の字を冠して大輔・少輔はその字を省き、位姓名を署すだけであって、臣の字や宣奉行の字を書き入れなかった。また太政官においても、詔書に太政大臣・左大臣・右大臣・大納言四人が官位臣姓名を署したが、勅書にはただ大中少弁と史官の官位姓名を書き入れて施行した。これは詔勅の軽重の違いを示すものであった。
衛府および兵庫のことを処分するため捷径に諸司に勅する場合はその本司から覆奏して中務省は奏しなかった。また緊急時に勅書を出す暇がない場合や、太政官を経由すると遅緩する恐れのある場合は、中務省がまず「勅(云々)」の状を記載してこれを所司に移文し、用件を実行させ、その後で正式の勅書を行下した。
天皇は諸臣からの上表や論奏などに答えるために勅書を与えることがあり、これを勅答といった。新任の大臣の上奏には三度にわたる勅答があり、それ以外はその都度に勅答があった。勅答は、中納言か近衛中将に勅書をもたせて派遣し、その邸宅において与えた。
緊急の勅旨は太政官を経由せず、中務省が所司に移して事を行い、その正規の勅旨は後で施行した。細事の勅旨は中務省が勅状を記して弁官に申し送り、施行の日になって勅旨と称した。勅旨交易や勅旨田などがこれに該当した。そのほかに別勅や口勅があった。別勅は太政官を経由せずに勅旨を施行した。口勅は勅命を口頭で通達するものであって、天皇みずから宣うか、あるいは諸司に命じて勅旨を伝宣させた。また天皇自筆の勅書もあった。
皇太子が監国している時は令旨を勅旨に代えた。
宣命​
唐の律令制に倣い、詔勅の名を立てた後、即位・改元・立后・立坊および国家の大事は和文で宣告した。これを宣命といい、漢文の詔勅と並び行われた。あるいは、当初の詔の書式は全て和文であったが、後に漢文の書式を定め、和文の書式を宣命と呼んで区別したともいう。
本居宣長によると、宣命とは命を受け伝えて宣り聞かせることをいう。神祇令に「中臣宣祝詞」(中臣は祝詞を宣す)とあって令義解に「宣は布なり。言ふは、神に告げるに祝詞を以てし、百官に宣明す」とあるように、宣命の宣もその意味であった。日本書紀の継体天皇紀に「宣教使」とあるが、これも勅旨を宣聞する使者のことであった。そのほか宣旨・宣示などというときの宣の字は全て宣聞することに関係した。
延暦年間(平安遷都前後)の頃から、宣命の用途は一変した。『北山抄』は次のようにいう。神社・山陵の告文、立后・立太子・任大臣節会、任僧綱・天台座主、喪家の告文の類いを宣命とする。奏覧の儀は詔書と同じであり、別に宣命の式はない。宣命すべき詔書を宣命と呼ぶ。御画のないものを前例と為すべきでないからである、と。これにより、恒例の行事のみに宣命を用い、臨時には用いられなかったことが分かる。
即位・立后・立太子・大嘗などの大儀には、宣命の大夫が殿から降りて順序によって宣命するのを例とした。朝儀の宣命と神社・山陵の告文は近世まで行われた。これは詔勅とは違う形式であった。
公式令によれば詔書の文は「明神御大八洲天皇詔旨」等に始まり「咸聞」で終わるが、続日本紀に載る宣命は「現御神止大八島国所知天皇我大命良麻止詔大命乎」に始まり「諸諸聞食止詔」で終わっていた。その読みは次のとおりであった。
「現御神あきつみかみと 大八島国おほやしまぐに 所知しろしめす 天皇すめらが大命おほみことらまと詔のたまふ大命おほみことを・・・〔本文〕・・・諸もろ諸もろ聞きこし食めさへと 詔のる」
これは単に漢訳と和語の違いでしかない。
以上のように宣命はもともと上の命を下に宣聞する義であったが、特に神社・山陵の告文のみを宣命と称していた。明治維新の初め、この用例は古義ではないとされたため、宣命の呼称を廃し、天皇みずから親祭するものを御告文と称し、勅使が奏するものを祭文と改めた。
宣旨​
宣旨はもともと勅旨を宣り伝えるという意味であった。職員令の『令集解』に「宣は宣出なり、旨は勅旨なり」とあり、詔書を宣聞することを宣命というのと同様である。国防令に「凡有所征討兵馬発日侍従充使宣勅慰労」(およそ征討の兵馬が出発する日は侍従を勅使に充て勅を宣して慰労する)とあるのがこれである。当時は専ら簡便の制度を設け、大抵は勅旨に代えて宣旨を用いた。このことは『西宮記』や『北山抄』に宣旨の条目が多いのを見ても分かる。しかしその後一転して別に口勅を宣り伝える簡便法になった。宣旨には次のものがあった。
大宣旨は大臣が宣して弁官が奉じるものをいった。その包紙に史官の名を書いた。
小宣旨は大臣より弁官に伝宣して在京諸司に下すものをいった。大史が署名した。
口宣旨は弁官より大史に伝宣して下させるものをいった。録が署名した。
国宣旨は弁官から国司に下すものをいった。史官が署名した。以上。
このほか宣旨を下す前に太政官より小状に書いて下すことがあり、これを官宣旨といった。官宣旨はもはや天皇の言葉ではなかった。
明治前期の詔勅​
沿革​
明治維新の初め、王政復古の大号令は御沙汰書の形式で行われた。明治新政府は法令の頒布の一部を御沙汰書と称した。御沙汰書は天皇の意思を間接に伝達する形式であった。法令に「被仰出」「被仰下」「被仰付」「御沙汰」の文言を用いることは行政官の発する法令に限って許された。
1868年(慶応4年)の五箇条の御誓文と御宸翰は古来なかった形式であった。同年、政体職制を定め、史官の勘詔勅の制を立てた。以後、史官は官名を頻繁に変えつつ、詔勅の事を掌った。ただし同じ年の明治改元にあたり詔が出されたときは、中務卿が宣奉行する旧式を用いた。
1871年(明治4年)に太政大臣を置き、正院事務章程に「勅書に加名ツ印(署名押印)するは太政大臣の任たるべし」と定めた。
1873年(明治6年)に正院事務章程を潤飾し、勅旨特例の事件は太政大臣の名を以って正院より発令し、また勅書や奏議に太政大臣が加名ツ印することを載せた。
1875年(明治8年)正院事務章程を更に改正し、勅旨・特例の事件は太政大臣の奉勅をもって発すべしと定めた。こうして奉勅の制ができたが、当時は宣布の詔勅には概ね奉勅がなかった。ただし命令や委任の勅書は御璽と奉勅を以ってするのを正式とした。当時は明治草創期にあって未だ定式がなかったからである。
1879年(明治12年)内閣書記官が設置され、詔勅命令の起草することを掌ることになった。同年、公文上奏式及施行順序を定め、詔勅については、大臣が勅旨を承けて内閣書記官に案を作らせ、大臣参議がこれを検討し、天皇に覆奏して裁可を請い、天皇が可の字の印を自分で押して大臣以下に付し、例によって施行させるものとされた。
1981年(明治14年)布告布達式により「太政大臣奉勅旨布告」、すなわち布告は太政大臣が勅旨を奉じて布告することが定められた。同年、明治十四年の政変に伴って出された国会開設勅諭には奉勅大臣が署名した。翌年の軍人勅諭には御名御璽があって奉勅がなかった。同年の幼学綱要を頒布する勅諭は宮内卿が奉勅した。
1983年(明治16年)官報発行心得条件を定め、官報に詔勅の欄を設けた。以後は官報の詔勅欄において重大な事件を公布した
1886年(明治19年)の内閣制度発足後、公文式が制定され、これにより初めて天皇が親署し大臣が副署する例が開かれた。それまで国内に発表される詔勅に天皇が自分の実名を親署する例はなかった。一般に天皇の実名は「いみな」として忌避されており、天皇が自ら署名することがなかったためである。
1889年(明治22年)に発布された大日本帝国憲法では、「国務ニ関ル詔勅」に国務大臣の副署を要すると規定された。そのほか皇室典範・憲法・附属法令では「詔書」「勅書」「勅命」「勅許」「勅諭」など様々な名称が混在した。
1890年(明治23年)に帝国憲法が施行される前に教育勅語が発せられた。教育勅語は天皇の親署と御璽を有するのに、国務大臣が副署せず、正式に宣誥もしなかった。
詔勅の種類​
明治前期の詔勅は法規分類大全によって分類・列挙された。法規分類大全は内閣記録局が作成したものであり、帝国憲法が発布された1889年(明治22年)までの詔勅がその第1編に収録され、帝国憲法が施行された1890年(明治23年)の詔勅がその第2編に収録された。
法規分類大全は、明治維新の後の綸言(天皇の言葉)を詔勅と総称し、勅書・勅旨・勅諭など名称は様々あっても実質は同じであるとした。また、詔勅を分類して、詔、勅、御宸翰、上諭、勅諭、宣命、御祭文、御告文、勅問、御下問、勅旨、勅語、策命、誄辞、御沙汰書、御委任状、訓条、御国書、御親書、御批准書、証認状の順に列挙した。
詔については、その例として1868年改元の詔、1870年大教宣布、1872年改暦の詔、1873年地租改正の詔などがあった。詔勅の形式が様々ある中で、広く大事を宣布するときは、概ね詔で行い、勅を用いることはなかった。ただし、小事に詔を用いることはあった。詔には太政官の布告を副えることもあれば副えないこともあった。詔は概ね御璽や奉勅の形式をとらなかった。
勅については、1869年(明治2年)陰暦正月の政始式を小御所に行って文武諸官を奨励したのが最初の勅書であった。このとき輔相が勅書を読み上げ、勅書の写しをもって諸官に伝えた。その後、概ね以下のようなものを勅と称した。徴召としては、例えば1869年(明治2年)の長州藩主の徴召の勅があった。派遣として、例えば1871年(明治4年)の伊達宗城の清国派遣の勅や、1882年(明治15年)の伊藤博文の欧州派遣の勅があった。賞賜は、功労を褒賞し賜金や叙勲を行う類いであった。褒貶のうち褒は使臣の復命や将官の凱旋に際してこれにお褒めの言葉を下す類いであり、貶としては例えば1879年(明治12年)に琉球藩の不審を糺す勅があった。慰問は、例えば1873年(明治6年)に大臣の病気を慰問した勅があった。このほか軍の総督以下を慰問する類いであった。奨励としては、例えば1871年(明治4年)に華族を奨諭した勅があった。臨時職任命は征討総督や参軍を命じる類いであった。命令としては例えば元老院に国憲の起草を命じる勅があった。委任は巡幸に際して大臣に庶政を委ねる類いであった。以上のほか、式典に行幸して言葉を賜う類いがあった。
御宸翰(天皇の真筆の書簡)としては、1968年(明治元年)陰暦3月14日の御宸翰があった。法規分類大全にはこれ一点しか収録されなかった。
上諭は律の頒布の際や公文式の公布の際に付された。公文式制定により法律や勅令は上諭を以って公布されることになった。
勅諭は諭したり戒めたりするときに用い、宣布に用いることは少なかった。1881年(明治14年)の国会開設の勅旨には勅諭の名称を用いた。これには奉勅大臣が署名した。公衆に宣諭するためであった。翌年(明治15年)の陸海軍人への勅も勅諭の名称を用いた。これには御名御璽があって奉勅がなかった。天皇みずから将卒に訓告したためであった。このことは参議山県有朋の奏請に詳しい。同年、幼学綱要を頒布する勅諭は宮内卿が奉じた。どれも他の詔勅と事体が異なるためであった。
宣命は維新後もっぱら神祇や山陵に用いた。政治に関する宣勅は概ね詔勅の形式をもって行い、これに宣命を用いることがなかった。1873年(明治6年)に宣命を御祭文に改称し、宣命の名称はなくなった。
御祭文は、勅使が神前で奏した。法規分類大全に御祭文として分類されたものを見ると、五箇条の御誓文の際に天神地祇へ奏した御祭文と、皇室典範と帝国憲法発布の際に伊勢神宮へ奏した御祭文があった。どちらも天皇以外が読み上げる形式であり、天皇の一人称を伴うものではなかった。
御告文は天皇みずから親祭するときのものである。法規分類大全に御告文として分類されたものを見ると、1875年(明治8年)に2件、1889年(明治22年)2月11日に皇室典範・帝国憲法を発布する際の賢所御告文と紀元節御告文があった。1889年の御告文は、天皇みずから神前で読み上げる形式であり、天皇の一人称は「皇朕」(すめらわれ)であった。なお、この御告文について、法規分類大全に収録されたものと官報に掲載されたものとを比べると、構成・内容・表記が違っている。
勅問として法規分類大全に収録されたものは、1869年(明治2年)、万機施設の方法を勅問した1件のみであり、そのほかに御下問として収録されたものが同年に3件あった。
勅旨については、法規分類大全の目録では、1871年(明治4年)の特命全権大使岩倉具視への勅旨と、1873年(明治6年)の外務卿副島種臣への勅旨についてのみ、勅旨として分類していた。それぞれ内容をみると、岩倉への勅旨は、岩倉を米欧に派遣するものであり、その勅旨の後ろに、条約改正に関する別勅旨と、岩倉に随行する理事官への勅旨が付属していた。副島への勅旨は、琉球藩民54人が台湾で殺害された事件の処置について全権を委任するものであり、この勅旨の後ろに、清国政府との交渉に関する別勅が付属していた。これら付属の別勅は、大臣に伝達させる形式であり、冒頭に「勅旨」の文字を掲げ、その次に事項を列挙し、末文を「右勅旨件件遵奉シテ愆ルコト勿ルヘシ」(右、勅旨、件々遵奉してあやまることなかるべし)といった語句で結び、最後に奉勅大臣が署名していた。
勅語は、吉凶軍賓嘉(祭祀・喪葬・軍事・外賓・冠婚)の五礼の際に下された。また臨時に内外人を引見したり式場に行幸したりして直接に口勅することがあり、文書に写して与えることがあった。教育勅語は、渙発翌日の官報では宮廷録事に「教育ニ関スル勅語」と称され、文部省訓令別紙に「勅語」の題をつけられたが、内閣記録局の法規分類大全では「教育ニ関スル勅諭」と称され勅諭に分類され、勅語に分類されなかった。後年、教育勅語は詔書に当るとされ、天皇の親署と御璽を有する詔書でありながら国務大臣が副署せず正式に宣誥もしなかったのは変例であるとされた。
策命(過去の人物を追賞する勅命)として法規分類大全に収録されたものは、楠木正行(南朝方武将)や大石良雄(赤穂浪士)などを追賞する策命が5件あった。
誄辞(弔辞)は、その形体は様々であり、初め駢体の漢文を用い、後に改めて和文を用いる形式になった。御璽を押し奉勅大臣が署名し、贈官・贈位は別に官記・位記を副えるのを正式とした。あるいは御沙汰書を用いてその子孫に賜うことがあった。法規分類大全の目録で誄辞に分類されたものは18件であった。
御沙汰書は天皇の意思を太政官や大臣が伝達する形式であり、褒賞・譴責・贈賜・弔祭・慰諭・奨励などにこの形式を用いた。維新当初に王政復古の大号令や征討の大号令と称するものもこの形式の一種であった。御沙汰書は詔勅布告の外にあってその用例は最も広かった。御沙汰書に直接その内容を書くことがあり、また御沙汰書を詔勅・官記・位記などに副えることもあった。いずれも大臣奉勅の例はなかった。法規分類大全の目録で御沙汰書に分類されたものは4件しかなかった。
詔勅の文体​
明治維新の初め、詔勅の文体は和文も漢文もどちらも用いた。おそらく適時適宜にやっていた。しだいに和文が多くなり1879年(明治12年)に内閣書記官を置いた後は漢文を用いなくなり、詔勅の文体が定まった。大宝令以来、詔勅に漢文を用いる例であり、安政元年の鐘を以って砲を鋳るの勅書や文久二年五月に幕府に下した勅書などは漢文を用いていた。文中に有衆・庶衆・群臣の語がある詔勅は、どれも天下に公布することを常例とした。
詔勅起草担当官​
詔勅の起草を掌る者については、明治維新の初めの史官から内閣書記官に至るまで、頻繁に官名が変わったが、いずれも詔勅のことを担当した。起草担当官の変遷は以下のとおりであった。
1868年(慶応4年)政体職制を定め、史官の所掌に初めて勘詔奏を掲げた。史官は旨を受けて草案をつくった。あるいは主務の局署より底案を天皇に上奏し、史官がこれを繕写した。
1869年(明治2年)史官を改めて大史・権大史を置きその所掌は旧によった。
1871年(明治4年)枢密史官の所掌に詔勅の文字を省いたが、正院事務章程に「勅詔…を検し法案を草するは枢密史官の掌たり」という文があることを見ると、詔勅の起草が史官の担当であったことが分かる。
1873年(明治6年)内史の章程で特に詔勅を大内史の所掌とし、詔勅を専ら担当させた。
1875年(明治8年)正院の職制を改め詔勅制誥をもって直に内史の所掌と為し、同年さらに改めて大少史と為し、ひきつづき詔勅公文を担当させた。
1879年(明治12年)内閣書記官を置き詔勅命令の起草を担当させた。以上。
宣命は概ね式部寮が起草した。
帝国憲法下の詔勅​
明治公式令以前の詔勅​
1890年(明治23年)帝国憲法施行から1907年(明治40年)公式令制定までの間、詔勅が官報の詔勅欄で公表されたほか、宮廷録事、帝国議会、彙報、戦報の各欄に勅語が掲載されることがあった。
   国務大臣の副署のある詔勅​
帝国憲法第55条では「国務ニ関ル詔勅」に国務大臣の副署を要すると規定された。副署とは天皇名に副えて署名することであり、当然に天皇の親署を前提としていた。
天皇親署と国務大臣副署のある文書で官報の詔勅欄に掲載されたものとしては、帝国議会の召集・開会・停会・会期、衆議院解散・貴族院停会、衆議院議員選挙、貴族院議員補欠選挙の詔勅がある。そのほか特例の詔勅として、和協の詔勅、清国に宣戦する詔勅、義勇兵を止める詔勅、元帥府設置の詔勅、李鴻章襲撃事件に関する詔勅、清国との講和後に関する詔勅、遼東半島還付に関する詔勅、米西戦争に対する局外中立の詔勅、改正条約実施(内地雑居)に関する詔勅、ロシアに宣戦する詔勅、ロシアとの講和に関する詔勅が官報の詔勅欄で公表された。
このほか1892年(明治25年)衆議院の予算先議権の疑義に関する勅諭は官報の詔勅欄でなく帝国議会欄に「貴族院へ勅諭」と題して掲載された。これには御名御璽と内閣総理大臣の副署があった。
   国務大臣の副署のない詔勅​
元勲優遇の詔勅には、帝国憲法施行後になっても、御名御璽と大臣副署がなかった。これは、山県有朋や伊藤博文や松方正義が内閣総理大臣を辞める時などに与えられたものであり、「朕(官位勲爵氏名)ヲ待ツニ特ニ大臣ノ礼遇ヲ以テシ茲ニ元勲優遇ノ意ヲ昭ニス」といった文をもって、官報の詔勅欄で発表された。必ずしも内閣総理大臣を辞める時にだけ与えられるものではなく、山県は日清戦争の戦中戦後に閣外で軍務従事中に2度与えられた。また松方は第2次山県内閣の大蔵大臣を辞める際に山県とともに与えられた。
このほか、天皇の親署と国務大臣の副署のない詔勅としては次のものがあった。
1891年(明治24年)来日中のロシア皇太子ニコライが襲われた大津事件に際し、事件当日午後9時付けで勅語を下し、同日付の官報号外の詔勅欄に掲載した。この詔勅は暴行者の処罰を命じているものの御名御璽がなく大臣副署もなかった。
1895年(明治28年)日清戦争時の大本営を広島から東京に移す詔勅が官報詔勅欄に掲載されたが、御名御璽がなく、陸軍・海軍両大臣の署名があるのみであった。
1897年(明治30年)英照皇太后の大喪の時、内帑金(天皇の御手許金)を各地方の慈恵救済に充てるという旨が官報詔勅欄に掲載された。これと同じ内容のものは大正期以降「恵恤の儀につき勅語」と称して宮廷録事欄に掲載される。
   勅語​
通例として、帝国議会の開院式や閉院式のたびに勅語が下され、官報の帝国議会欄に掲載された。帝国議会に関する特例の勅語としては次のものがあった。
1893年(明治26年)衆議院の上奏に関して内閣各大臣への勅語。これは官報の宮廷録事欄に「勅語」と題して掲載された。御名御璽がなく大臣副署もなかった。
1897年(明治30年)衆議院の奏請を採納し、内帑金と官僚納金を製艦費に充てるのを止める勅語。これは官報の宮廷録事欄に「勅語」と題して掲載された。御名御璽がなく大臣副署もなかった。
1901年(明治34年)貴族院に増税法案の可決を望む勅語。これは官報の帝国議会欄に「勅語」と題して掲載された。御名御璽がなく大臣副署もなかった。当時この勅語に大臣副署のないことが政治問題となった。貴族院が増税法案を否決しようとしたので、勅語を貴族院に下して増税法案を可決させたが、その勅語の写しに大臣副署がなかった点が問題視された。当時貴族院議長からの質問に対し、伊藤首相はみずから勅語に責任を負うと弁明した。当時の新聞記事は、今回の勅語を1892年の「貴族院ヘノ勅諭」と比較し、1892年の勅諭は御名御璽と大臣副署があったので服従を要したが、今回の勅語はそれがないので服従しなくていいのであろうかと疑問を呈した。
日清日露の戦中戦後には、軍や軍人への勅語が官報の戦報・彙報に多数掲載された。日露戦争では開戦に先立ち海軍大臣・陸軍大臣に「露国との交渉を断ち我独立自衛の為に自由の行動を執らしむる」旨の勅語を与え、その後ロシア旅順艦隊を奇襲し宣戦布告を経た後にこの勅語を官報に掲載した。軍や軍人への勅語は短文のものが多いが、日露戦争の和議成立後に陸海軍に下賜された勅語は比較的長文であった。
日露戦争の開戦前後に伊藤博文・松方正義・山県有朋・井上馨に「卿カ啓沃ニ頼ルヲ惟ヒ」「卿ヲシテ国家要務ノ諮詢ニ応セシ」むという文言を含む勅語が下され、官報の宮廷録事欄に掲載された。日清・日露の講和会議にあたっては全権受任者に勅語を下した。このほか戦後に日本赤十字社、帝国軍人援護会、浄土真宗本願寺派などに対し戦争協力を褒賞して勅語を下すことがあった。
明治公式令以後の詔勅​
1907年(明治40年)に公文式を廃し公式令を定め、文書による詔勅の形式を網羅して一定した。同年、軍令ニ関スル件(軍令第1号)により軍令の形式を定めた。
詔勅には、共通して天皇名を書き、天皇の御璽か日本の国璽を押印した。天皇名については、通常は天皇自身が親署するが、摂政設置中は摂政が天皇名を代署し摂政名の自署を副えた。本項では、天皇名を書き御璽を押印することを「御名御璽」と略記する。
詔勅には原則として大臣が副署した。副署とは天皇名に副えて署名することであり、当然に天皇の親署を前提としていた。副署の順序は、内閣総理大臣を首位に置き、その他の大臣は宮中席次の順位とすることが妥当とされた。
文書による詔勅の形式を種類別に見ると以下のとおりであった。
   詔書​
別段の形式の定めがない詔勅のうち、「宣誥」されるものが詔書、されないものが勅書であった。宣誥という言葉は、おそらく天皇が国民に公布することを意味するといわれた。1904年上奏「公式令草案」によると、既に詔と勅の2種の名称があるから、その区別を明らかにしないのは宜しくないという理由で、おおむね大宝公式令の定義「臨時の大事を詔となし、尋常の小事を勅となす」に則り、当時の制度を考慮しつつ、これを変更し、詔書と勅書を区別したという。
詔書は、一般に宣誥される詔勅のうち、法令の上諭など別段の形式のある詔勅を除いたものであった。詔書は、法令と違って一般法規を定めるものではなく、行政行為や事実の告知のほか、道徳的意義のみを持つものなどがあった。皇室の大事や大権の施行に関する勅旨は詔書をもって宣誥した。
皇室の大事に関する詔書には、御名御璽の後、宮内大臣が内閣総理大臣とともに副署した。宮内大臣のほかに内閣総理大臣も副署する理由は、皇室の大事は国家の大事でもあるからであるとされた。皇室の大事に関する詔書には、たとえば摂政設置の詔書、立后の詔書、立皇太子の詔書などがあった。
大権の施行に関する詔書には、御名御璽の後、内閣総理大臣が単独で副署するか他の国務各大臣とともに副署した。公式令以前、大権の施行に関する勅旨は勅令として公布されたほか官報の詔勅の欄で宣誥された例が多かった。憲法と附属法令には勅命・勅許・勅諭など様々な名称があったが、その実体において大権の施行に関し宣誥されるものは、公式令によって全て詔書とされた。
大権の施行に関する詔書としては、たとえば帝国議会召集・開会・閉会・停会の詔書、衆議院解散の詔書、衆議院議員選挙を命じる詔書、貴族院議員選挙を命じる詔書、改元の詔書などがあった。栄典の授与についても、前韓国皇帝を冊して王と為し李堈と李熹を公と爲したのは詔書で宣誥された。また、局外中立宣言、恩赦、減刑も詔書で宣誥された。外交上の重大事件や、そのほか様々な機会に出された詔書として、戊申詔書、韓国併合の詔書、対ドイツ宣戦詔書、関東大震災直後の詔書、国民精神作興の詔書、明治節設定、国連離脱の詔書、紀元2600年の詔書、日独伊三国同盟の詔書、米英に宣戦の詔書、朝鮮台湾住民国政参与の詔書、終戦の詔書、降伏の詔書、人間宣言があった。
   勅書​
勅書は、一般に宣誥されない詔勅のうち、位記・官記など別段の形式のある詔勅を除いたものであった。公に宣誥されないので、国民一般に対して直接の効力を持たなかった。したがって特定人や特定機関に渡されるものや、皇室や政府の内部の決定に係るものに限られた。勅書は皇室の事務に関するものと、国務に関するものに区別された。
皇室の事務に関する勅書には、御名御璽の後、宮内大臣が副署した。皇族の婚嫁の許可の詔書、皇族懲戒の詔書、世伝御料に編入する土地物件の設定の詔書などがあった。
国務大臣の職務に関する勅書は、御名御璽の後、内閣総理大臣が副署した。公式令の条文上「国務ニ関スル」ではなく「国務大臣ノ職務ニ関スル」とした理由は、皇室の事務も広義には国務に当たるからであるとされた。国務大臣の職務に関する勅書としては、たとえば国葬を賜う勅書があった。
憲法改正案を帝国議会に付議する勅命も勅書を以って行うとされた。実際、1946年に憲法改正案である日本国憲法案は勅書の形式をもって議会に提出された。なお、1907年公式令以降、帝国議会の召集・開会は詔書を以って行われたが、それより以前の1890年第1回帝国議会の際に内閣記録局が作成した法規分類大全第2編は帝国議会の召集・開会を詔でなく勅に分類していた。
このほか、1904年上奏「公式令草案」では、元勲優遇や前官待遇の特旨(慣例)、国務大臣として内閣員に列する特旨(内閣官制第10条)、元帥の称号を賜う勅旨(元帥府条例第1号)は勅書によるべしと説明していた。公式令制定以後、元勲優遇の勅書が桂太郎や松方正義に下賜されたことが官報に掲載された。なお、元老優遇の御沙汰書などは勅語の写しという扱いであって大臣の副署がないという説もあった。
   法令の上諭​
法令のうち重要なものは条文の前に上諭を付けて公布した。上諭には御名御璽の後、大臣が副署した。公布は官報を以って行った。上諭を附す法令には次のようなものがあった。
帝国憲法は、1889年の発布時に上諭を付し、その上諭は御名御璽の後、内閣総理大臣が枢密院議長や他の国務各大臣とともに副署した。1907年公式令制定により、帝国憲法改正の上諭には枢密顧問の諮詢と帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た旨を記載し、内閣総理大臣が他の国務各大臣とともに副署することになった。1946年日本国憲法公布の上諭はこの形式を備えている。
皇室典範は、1889年の制定当初、上諭に御名御璽があるだけで大臣副署がなく、その公布も命じらなかった。同年公刊された伊藤博文著「皇室典範義解」は皇室典範を皇室の家法として位置づけていたが、1905年の伊藤博文上奏「公式令草案」は皇室典範を憲法と並ぶ国家の基本法として位置づけ直し、皇室典範は憲法を変更しない範囲内で法律を凌駕する効力を有するものとした。1907年の公式令制定により、皇室典範の改正が公布されることになり、その上諭には皇族会議と枢密顧問の諮詢を経た旨を記載し、御名御璽の後、宮内大臣が国務各大臣とともに副署することになった。
皇室令は、その上諭に御名御璽の後、宮内大臣が単独で副署するか、国務大臣の職務に関連する場合は内閣総理大臣とともに副署するか、あるいは内閣総理大臣と主任の国務大臣とともに副署するかした。皇室令は公式令制定とともに新設された法形式であった。皇室典範に基づく諸規則、宮内官制、その他皇室事務に関し勅定を経た規程のうち発表を要するものを皇室令とした、
法律は、その上諭に、帝国議会の協賛を経た旨を記載し、御名御璽の後、総理大臣が単独で副署するか、他の国務各大臣とともに副署するか、主任の国務大臣とともに副署するかした。法律は1885年の公文式で勅令とともに設けられた法形式であるが、1890年帝国憲法施行まで法律と勅令の区別は名称だけの区別にすぎず、法的意義のある区別でなかった。帝国憲法施行により、法律は帝国議会の協賛を経ることを要することになった。政府より提出する法律案は、内閣で議定した後に天皇の勅裁を得て、内閣総理大臣と主任大臣が連署して勅旨を奉じて帝国議会両院のいずれかに提出した。天皇は法律を裁可し、その公布と執行を命じた。
勅令は、その上諭に、御名御璽の後、総理大臣が単独で副署するか、他の国務各大臣とともに副署するか、主任の国務大臣とともに副署するかした。1907年公式令制定より前は勅令の上諭に総理大臣以外の国務大臣が単独で副署することもできたが、公式令制定以降は総理大臣が必ず副署するようになった。また、以下の勅令はその旨を上諭に記載することになった。
枢密顧問の諮詢を経た勅令(重要ナル勅令)、貴族院の諮詢や議決を経た勅令(華族ノ特権ニ関ル条規、貴族院令改正増補)、帝国憲法第8条第1項による勅令(緊急勅令)、帝国憲法第70条第1項による勅令(緊急財政処分)、以上。
国際条約を発表する時は上諭を付して公布し、その上諭には枢密顧問の諮詢を経た旨を記載し、御名御璽の後、総理大臣が主任の国務大臣(外務大臣)とともに副署した。
予算と予算外国庫負担は、その上諭に帝国議会の協賛を経た旨を記載し、御名御璽の後、総理大臣が主任の国務大臣(大蔵大臣)とともに副署した。予算とは、会計年度の歳出歳入を予定し、その制限内に行政機関を準拠させるものであった。本項目では予算を便宜上法令に分類したが、当時は、予算を法律や勅令と見なすのは妥当ではなく、予算は予算としてそれ自体が一種の公文であるのは慣例の認めるところであるとされた。予算外国庫負担は公式令で「予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約ヲ為スノ件」といい、これは一会計年度に限られる予算の外にあって会計年度をまたいで国庫の負担となるような補助・保証・その他の契約を締結するときに帝国議会の協賛を求める文書であった。
軍令は、軍の統帥に関し勅定を経た規定であり、そのうち「公示」を要するのは上諭を付し、その上諭には、御名御璽の後、陸軍大臣と海軍大臣が単独または共同して副署した。軍令は、大元帥としての天皇の命令であるから軍隊に対してのみ効力を持ち、また、統帥に関する規定であるから統帥大権の作用に限られ国務上の大権に関わらないといわれた。
以上の法令につき、一つの法令の中でどの部分を詔勅と見なすかという点については、その上諭のみを詔勅を見なすこともあれば、法令それ自体を詔勅と見なすこともあった。この違いは天皇機関説事件のとき問題になった。美濃部達吉は検事の取り調べをうけたとき、法令それ自体を詔勅と見なすべきであると主張して次のように供述した。帝国憲法第55条第2項の「法律勅令其ノ他国務ニ関スル詔勅ハ」という規定は法律勅令を「国務ニ関スル詔勅」の代表的事例と見る趣旨である。法律勅令のうち上諭のみを詔勅と解すべきではない。詔勅の本体は法律勅令の本文であり、上諭はその前文である。上諭自体も詔勅であるが、法律勅令は上諭と一体をなして詔勅と見るのが妥当である。予算や予算国庫負担についても同様である、と。以上の供述について、美濃部の弟子の宮澤俊義は、法律や勅令も「国務ニ関スル詔勅」の性格をもっていたという説明は美濃部独特のものであり、取り調べの検事たちにおそらくかなりの違和感を与えたと推測している。
   外交文書​
外交文書のうち、国書その他外交上の親書、条約批准書、全権委任状、外国派遣官吏委任状、名誉領事委任状、外国領事認可状は、御名国璽(御璽ではない)の後、主任の国務大臣(外務大臣)が単独で副署した。ただし外務大臣に授ける全権委任状には内閣総理大臣が副署した。また、外国の元首に向けた慶弔の親書には国務大臣の副署がなかった。これは、慶弔の親書は外交上の儀礼でしかなく政治上の意味を持たないからであるといわれた。
   辞令書​
任官・授爵・叙位・叙勲のうち、天皇自ら行う親任・親授の辞令書は詔勅の形をとった。
官記(任官辞令書)のうち、天皇が親任式を行って任命する官(親任官)の官記には、御名御璽の後、原則として内閣総理大臣が副署した。内閣総理大臣以外が副署する例外は次の通り。
内閣総理大臣の官記には他の国務大臣か内大臣が副署した。この官記には国務大臣が副署するのが常則であったが、国務大臣が不在の場合には、国務大臣でない内大臣が単独で副署することがありえる規定であった。この規定は国務大臣が皆「故障」した場合に備えての「便法」とされていた。もっとも、実際の運用では、内閣総辞職の場合であっても、一人の国務大臣が一時留任し、新任の内閣総理大臣の官記に副署した後に辞任することを慣例としていた。
宮内官の官記には宮内大臣が副署した。
宮内大臣の官記には内大臣が副署した。
爵記(授爵辞令書)は、御名御璽の後、宮内大臣が副署した。これは公式令制定前からの慣例であった。
位記(叙位辞令書)のうち一位の位記には、御名御璽の後、宮内大臣が副署した。これは一位が天皇から親授されるものであるからとされた。
勲記(叙勲辞令書)のうち、親授の勲章の勲記は、御名国璽(御璽ではない)の後、内閣総理大臣が奉じて賞勲局総裁に署名させた。大臣みずから副署せず、賞勲局総裁に署名させたのは、フランスのレジオンドヌール勲章の制度に倣ったもので、公式令制定前からの慣例であった。1904年の公式令草案は、叙勲は大権の施行なのでこの慣例は妥当でないが、いま急に変えると叙勲の実務に支障をきたすので当面は慣例のままにとどめ、いつか修正すべきであると主張していた。詔勅たる親授の勲記の範囲については、1907年公式令制定時は勳一等功三級以上、1921年公式令改正後は勳二等功三級以上、1940年公式令改正後は勳一等功二級以上、というように範囲が狭くなっていった。
   勅語​
口頭による詔勅を勅語といった。文書によらない勅旨が勅語とされた。
通例として帝国議会開院式や閉会式で勅語が下された。開院式の勅語は、国務大臣の輔弼により文書に記して議会に渡されるが、本来は勅語の筆写であるから、公式令でその形式を示すものではないとされた。
皇室の大事にかかわる儀式において勅語が下された。具体的には、践祚後朝見の儀、即位礼当日紫宸殿の儀、即位礼及大嘗祭後大饗、立太子礼当日賢所御前の儀、大喪後恵恤の儀において勅語が下された。
天皇が内帑金(御手許金)を下賜するときに勅語を下すことがあった。たとえば、明治天皇の済生勅語、大正天皇の在郷軍人会への勅語、昭和天皇の軍人援護の勅語、戦災者援護の勅語などは賜金の際に下された。
大正天皇は皇位を継いで半月後の8月に、山県有朋、大山巌、松方正義、井上馨、桂太郎を召して、それぞれに対し次のような勅語を与えた。卿は多年にわたり先帝に仕え直接その聖旨を承けていた、朕はいま先帝の遺業を継ぐにあたって卿の助力を必要とすることが多い、卿は宜しく朕の意を体し朕の業を助ける所あるべし、と。このとき内閣総理大臣であった西園寺公望も、同年12月に内閣総理大臣を辞める際に同様の勅語を与えられた。
第一次世界大戦やシベリア出兵の際には軍への勅語が官報に掲載された。たとえば、青島陥落、ドイツとの講和、シベリア撤兵などに関して軍へ勅語を下した。
教育関連ではたびたび勅語が下された。学制50年記念式典での勅語、教育担任者への勅語、小学校教員代表者への勅語、青少年学徒への勅語、教育勅語渙発50年記念式典での勅語。いずれの勅語についてもその趣旨を補足するため文部省が訓令を発した。
また、何かの何周年かを記念して勅語が下されることがあった。上記の教育関連のもの以外でいうと、鉄道50年祝典、徴兵制60年、支那事変1年、帝国憲法発布50年祝賀式典、自治制50周年記念式、裁判所構成法50年、紀元2600年式典において勅語が下された。
国務大臣の副署を要しない詔勅​
帝国憲法第55条第2項により「国務ニ関ル詔勅」には国務大臣の副署を要するとされた。国務ニ関ル詔勅とは国務大臣の天皇輔弼責任に関する詔勅であって、それ以外の詔勅は国務大臣の副署を必ずしも要しなかった。国務大臣の副署を要しない詔勅としては次のものがあった。
純粋に皇室内部の事務に関する詔勅。たとえば皇室の事務に関する勅書、国務に関わらない皇室令、親任の宮内官の官記には国務大臣は副署しなかった。
軍の統帥に関する詔勅。軍令のうち公示の要するものには陸軍大臣や海軍大臣が副署するが、軍令は統帥に関する規定であり、国務に関する詔勅でないと見なされるので、陸軍大臣・海軍大臣は国務大臣として副署するのではなく軍の統帥に関与する当局者としての資格において副署すると解された。
栄典に関する詔勅。たとえば爵記、位記、勲記は天皇が親署するものであっても国務大臣は副署しなかった。
神霊につげる告文。告文については何も規定がない。
勅語には実例として国務大臣の副署がなかった。副署はその性質上文書による詔勅に限られるので当然ながら口頭による詔勅に副署することはできないが、天皇が口頭で発した詔勅を書面に書いて渡す場合でも、その書面を勅語の写しであると見做して、それに国務大臣が副署しないのを慣例とした。帝国議会開院式の勅語や、元老優遇の御沙汰書などは勅語の写しという扱いであり、大臣の副署はなかった。
詔勅に準じる文書​
天皇親署と大臣副署が行われる詔勅は特に重要なものに限られた。それ以外は天皇の勅裁による事案であっても、天皇の勅旨を大臣が奉じてこれを伝えたり、天皇の勅裁を経て大臣がこれを表示したりした。天皇の大権が外部に表示される形式は次の3種に区分された。
1.最も重要な勅旨は詔勅であった。
2.詔勅の次に重要なのは、大臣等が天皇の勅旨を奉じてこれを表示する場合であった。詔勅と同じく天皇の勅旨の表示であるが、大臣等に表示させるものであって、親署がなく大臣等の署名しかなかった。ただし御璽か国璽を押印した。
3.比較的に軽い事案は大臣らが天皇の勅裁を得てこれを表示する場合があった。この場合、勅裁は内部の手続きでしかなく、外部に対しては大臣等の意思表示としての形式であった。
以上の3種の区別は様々な場合に見られた。官吏の任命について親任・勅任・奏任を区別し、位階の授与について親授・勅授・奏授を区別するのがその例であった。たとえば官記についていうと、天皇親署があるのは親任官の官記に限られ、勅任官と奏任官の官記には天皇親署がなく内閣総理大臣の署名があるだけで、勅任官の官記には内閣総理大臣「之ヲ奉ス」といい、奏任官の官記には内閣総理大臣「之ヲ宣ス」といった。
1879年(明治12年)の公文上奏式では詔勅と奏事を区別し、奏事を更に三類に分けていた。1923年(大正12年)時点で公文上奏式は次のようになっていた。
詔勅は、天皇の意思を受けて内閣書記官に案を作らせ、これを大臣が考査し天皇に覆奏し裁可を請い、天皇自ら可印を押し、大臣に付して例によって施行させた。これを勅旨ヲ奉シ謹ミテ奏スといった。
第一類奏事は閣議決定を経るものを上奏して裁可を仰いだ。天皇はこれを裁可する場合、その文書に可印を押した。これを裁可とも呼んだ。裁可の例は次のとおり。
勅任官の任免、貴族院・衆議院の議長・副議長の命免、貴族院議員の命免、日本銀行総裁の命免、二位・三位・四位の贈位伺い、授勲、準備金支出の件、臨時軍事費支出の件、臨時事件予備費支出の件、法律や予算の帝国議会への提出の件、条約批准の件、恩赦、 など。
第二類奏事は恒例の事や閣議決定を要しない小事を大臣より直に天皇に奏聞した。天皇は、奏聞を認めた場合、その文書に聞印を押した。これを奏聞とも呼んだ。奏聞の例は次のとおり。
奏任官の任免、特殊銀行・特殊会社・各種委員会の職員命免、日本赤十字社の社長・副社長の命免、五位以下の贈位伺い、勅諭の下付・還納・転載、 ほか多数。
第三類奏事は奏請のほか報告の類を天皇に供覧するにとどめた。天皇はこれを見た場合、その文書に覧印を押した。これを御覧ニ供スルといった。以上。
1923年(大正12年)には裁可(第一類奏事)と奏聞(第二類奏事)に実質的相違がないという理由で、両者の区分をやめ、裁可に統一した。勅旨ヲ奉シ謹ミテ奏ス形式(詔勅)と御覧ニ供スルモノ(第三類奏事)は従前のままとした。
詔勅のあり方を巡る論説​
   伝・聖徳太子​
聖徳太子(厩戸皇子)がみずから執筆したと伝えられる十七条憲法は第三条で承詔必謹(詔をうけたら必ずしたがうこと)を命じた。この条文は例えば次のように読む。
「三に曰いわく。詔みことのりを承うけては必かならず謹つつしめ。君きみをば即すなわち天てんとす、臣しんをば即すなわち地ちとす。天てん覆おおい、地ち載のせて、四時しじ順行じゅんこうし、万気ばんき通つうずることを得う。地ち、天てんを覆おおわんと欲ほっせば、即すなわち壊やぶるることを致いたさんのみ。是これを以もって、君きみ言のたまうとき臣しん承うけけたまわり、上かみ行おこなうときは下しも靡なびく。故ゆえに詔みことのりを承うけけては必かならず慎つつしめ。謹つつしまざれば自おのずからに敗やぶれなん。」
   尾崎行雄​
1912年(大正元年)12月、西園寺公望が内閣総理大臣を辞め、桂太郎が内大臣兼侍従長から内閣総理大臣に転じることになった。その際、桂は大正天皇から「卿をして輔国の重任に就かしめん」との勅語を受け、さらに組閣に当たって大正天皇の勅語をもって斎藤実を海軍大臣に留任させた。衆議院では尾崎行雄が演説に立ち、桂を次のように弾劾した。
「〔前略〕内大臣兼侍従長の職をかたじけのうしておりながら総理大臣となるにあたっても、優詔を拝し、またその後も海軍大臣の留任等についても、しきりに優詔をわずらわしたてまつったということは、宮中府中の区別をみだるというのが、非難の第一点であります。・・・ ただいま桂公爵の答弁によりますれば、自分の拝したてまつったのは勅語にして詔勅ではないがごとき意味を述べられましたが、勅語もまた詔勅の一つである(「ヒヤヒヤ」)。しかして我が帝国憲法は、すべての詔勅 ― 国務に関するところの詔勅は必ず国務大臣の副署を要せざるべからざることを特筆大書してあって、勅語といおうとも、勅諭といおうとも、何といおうとも、その間において区別はないのであります(「ノウノウ」「誤解誤解」と呼ぶ者あり)。もし、しからずというならば、国務に関するところの勅語に、もし過ちあったならば、その責任は何人がこれを負うのか(「ヒヤヒヤ」拍手起る)。畏れ多くも 天皇陛下直接の御責任にあたらせられなければならぬことになるではないか。〔略〕  勅語であっても、何であっても、およそ人間のするところのものに過ちのないということは言えないのである(拍手起る)。ここにおいて憲法はこの過ちなきことを保障するがために(「勅語に過ちとは何のことだ、取消せ」と呼ぶ者あり、議場騒然)…我が憲法の精神は 天皇を神聖 侵してはならない地位に置かれるために総ての詔勅に対しては国務大臣をしてその責任を負わせるのである・・・(「天皇は神聖なり」「退場を命ずべし」と呼ぶ者あり)〔略〕  殊に、ただいまの弁明によれば勅語は総て責任なしという。勅語と詔勅とは違うというがごときは、彼ら一輩の曲学阿世の徒の、憲法論において、このごときことがあるかも知れないが、天下通有の大義において、そのようなことは許さぬのである。〔略〕  彼らは玉座をもって胸壁となし、詔勅をもって弾丸に代えて政敵を倒さんとするものではないか。〔後略〕 」
   美濃部達吉​
美濃部達吉は1927年(昭和2年)に発行した『逐条憲法精義』の中で、詔勅は決して神聖不可侵ではなく、詔勅を非難しても天皇への不敬にあたらず、詔勅への批評や論議は国民の自由であると主張した。すなわち帝国憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」について次のように説いた。
「憲法以前に於いては責任政治の原則が未だ認められず、天皇の御一身のみならず、天皇の詔勅をも神聖侵さざるべきものと為し、詔勅を非議論難する行為は総て天皇に対する不敬の行為であるとせられて居た。憲法は之に反して大臣責任の制度を定め、総て国務に関する詔勅に付いては国務大臣がその責に任ずるものとした為に、詔勅を非難することは即ち国務大臣の責任を論議する所以であつて毫も天皇に対する不敬を意味しないものとなつた。それが立憲政治の責任政治たる所以であつて、此の意味に於いて、天皇の詔勅は決して神聖不可侵の性質を有するものではない。『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』といふ規定は、専ら天皇の御一身にのみ関する規定であつて、詔勅に関する規定ではない。天皇の大権の行使に付き、詔勅に付き、批評し論議することは、立憲政治に於いては国民の当然の自由に属するものである。」
この詔勅批判自由説は1935年(昭和10年)の天皇機関説事件で特に問題視された。
衆議院議員江藤源九郎は、美濃部の詔勅批判自由説と天皇機関説が天皇に対する不敬罪を構成するとして、美濃部を不敬罪で告発した。検事局の取り調べにおいて、美濃部は天皇に対する不敬行為を敢えてする意思をもたないため不敬罪を構成しないと主張した。
美濃部は取り調べにおいて、天皇機関説の誤りを認めなかったが、詔勅批判自由説については解説に不十分な点があったことを認めた。すなわち美濃部は、国務に関する詔勅を政治上のものと道徳上のものとに区別し、法律・勅令・条約はもちろん、道徳上の詔勅を含め、国務に関する詔勅は全て議論・非難できると主張した。美濃部によると法律・勅令・条約の本文と上諭は一体として詔勅を構成するのであって、一般国民は詔勅といえば教育勅語の類いを想起するかもかもしれないが、美濃部は法律・勅令・条約を詔勅の代表として『逐条憲法精義』第3条解説(上記引用)を記述した。美濃部はこれを記述した際に、主として法律・勅令・条約を念頭におき、その他の詔勅を考慮しなかった。美濃部はこの点に限り、解説が不十分であったことを認めた。
教育勅語については、美濃部はこれを国務に関する詔勅であると考えて『逐条憲法精義』第55条解説でもそう書いていたため、教育勅語も法律上だけでなく道徳上も批判してよいという趣旨に読まれる恐れがあることを認めた。明治天皇紀の編修官長であった三上参次から美濃部が聞いた話によると、教育勅語は批判されるのを避けるために故意に副署を省いたいうことであった。美濃部はこの話を聞いて考えを改め、教育勅語は明治天皇自身の教えということになるため道徳上でけでなく法律上も非難を加えることは許されないと考えるようになった。
昭和天皇は美濃部の学説を内々で擁護していたが、ただ美濃部の説の穏当でない点も指摘しており、その一つが詔勅批判自由説であった。司法大臣から昭和天皇への奏上の原稿には次のように書かれていた。詔勅批判自由説に関する『逐条憲法精義』の記述について、その行文が不用意・不正確にして、その叙説が妥当を欠き、その読者に対して国務に関するものであれば詔勅自体を批判するのは国民の当然の自由であるとの感を抱かせるおそれがある。これは出版法第26条の皇室の尊厳を冒涜する罪を構成すると認めることができる。ただし同書が出版されたときは罰則が規定されていなかったこと等から、美濃部の処分を起訴猶予処分にとどめた、と。
憲法改正に関わる詔勅​
1946年(昭和21年)、帝国憲法の改正案は、GHQ草案に基づき、GHQとの交渉を経て、3月6日に「憲法改正草案要綱」として発表された。それと同時に勅語も出された。この勅語は、憲法に抜本的改正を加え国家再建の礎を定めることを希求し、政府当局に「朕ノ意ヲ体シ必ズ此ノ目的ヲ達成セムコトヲ期セヨ」と命じるものであった。同年6月20日、「帝国憲法改正案」は勅書の形式をもって帝国議会に提出された。「帝国憲法改正案」は、衆議院、貴族院、枢密院の可決と天皇の裁可を経て、同年11月3日に「日本国憲法」として公布された。日本国憲法には上諭が付され、その上諭には御名御璽のあと国務各大臣が副署した。この日の記念式典では勅語が下され「朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用」したいという思いを述べた。
日本国憲法下の詔勅​
1947年施行の日本国憲法は、国政は国民の信託によるものであり、その権威が国民に由来し、その権力を国民の代表者が行使し、その福利を国民が享受することを人類普遍の原理とみなし、その原理に反する詔勅を排除するとしている。また、憲法の条規に反する詔勅は効力を有しないともしている。
御名御璽のある文書​
日本国憲法下において天皇の御名御璽のある文書としては以下のものがある。
   詔書​
国会召集・衆議院解散・衆議院議員総選挙施行公示・参議院議員通常選挙施行公示は詔書を以って行われる。
   公布書​
天皇は憲法改正・法律・政令・条約を公布する。法律・政令・条約の公布文には御璽を押印する。たとえば法律を公布するときは、原則として「何々をここに公布する」旨の公布文、御名御璽、年月日、内閣総理大臣の副署が記された公布書を法律本体の前に置く。政令や条約についても同様の例である。
   外交文書​
条約批准書、全権委任状、大使・公使の信任状は、天皇の認証を要するとともに、これに御璽を押印することになっている。2018年新任駐米大使への信任状に御名御璽のあることが確認できる。
   辞令書​
内閣総理大臣と最高裁判所長官は、その親任式において天皇から任命する旨の言葉を受けた後、内閣総理大臣にはその前任者から、最高裁判所長官には内閣総理大臣から官記が伝達される。
天皇の認証を要する認証官は、その任命式において、内閣総理大臣から官記(任命書とも辞令ともいう)を受け、その際に慣例として天皇から言葉をもらう。認証官の官記には天皇が親署し、御璽を押印する。認証官の官記の実例をみると内閣総理大臣の署名の後に御名御璽のあることが確認できる。認証官は国務大臣のほか、副大臣、内閣官房副長官、人事官、検査官、公正取引委員会委員長、原子力規制委員会委員長、宮内庁長官、侍従長、特命全権大使、特命全権公使、最高裁判所判事、高等裁判所長官、検事総長、次長検事、検事長である。
   叙勲​
文化勲章や、大勲位菊花大綬章、桐花大綬章、旭日大綬章、瑞宝大綬章は、親授式において天皇から授章者に手渡され、その勲記は内閣総理大臣を経由して授賞者に渡される。勲記には国璽が押印される。実例をみると文化勲章の勲記に御名と国璽のあることが確認できる。
公表される天皇の言葉​
公表される天皇の言葉として以下のものがある。
   おことば​
「おことば」は、即位後朝見の儀、天皇臨席の式典、天皇の外国訪問、退位礼正殿の儀などの際に、天皇の口頭により発せられる。
国会開会式での「おことば」については、1947年の新憲法施行当初は従来どおり「勅語」と表記されていたが、1953年の第16回国会から「御言葉」に改められ、1955年の第36回国会以降は平仮名で「おことば」と表記されている。
平成時代には特別な場合にビデオ・メッセージの形で「おことば」が発表されたことがある。2011年の東日本大震災に際してのメッセージと、2016年に生前退位の意向を示したメッセージである。
   記者会見​
平成時代には即位・天皇誕生日・外国訪問等に際して宮殿などに設けた会見場で記者会見を開き、記者からの代表質問に対して天皇みずから答えていた。令和時代の天皇は、皇太子であった頃は記者会見を行っていたが、2019年(令和元年)5月に天皇に即位してから同年7月現在に至るまで記者会見を行った記録が見当たらない。
   年頭所感​
年頭所感は天皇が前年を振り返り人々の幸せを祈る言葉であるといわれる。宮内庁では天皇の年頭所感を「天皇陛下のご感想(新年に当たり)」と呼称している。
平成の天皇は55歳で即位し、83歳になるまで毎年正月元日に公務として年頭所感を公表しつづけた。2017年(平成29年)、高齢になった天皇の負担を軽減する目的で、その翌年から年頭所感の公表を取りやめることになった。2019年5月1日、時代は平成から令和にかわり、59歳の皇太子徳仁親王が新天皇に即位した。2020年(令和2年)正月に年頭所感を公表した。