梅雨明け

梅雨入りして1ヶ月以上
ほぼ毎日の雨

関東甲信  長雨 6/11 - 8/1
やっと梅雨が明ける
 


現代俳句「梅雨明け」 / 梅雨1-100梅雨101-200梅雨201-300梅雨301-400梅雨401-500梅雨501-600梅雨601-700梅雨701-・・・「梅雨」の俳句・・・
芭蕉の「五月雨」芭蕉の発句「奥の細道」底本芭蕉の紀行奥の細道1奥の細道2松尾芭蕉芭蕉の風雅・・・
一茶/夏の発句小林一茶の句小林一茶・・・
与謝蕪村与謝蕪村の俳句1俳句2俳句3俳句4・・・
俳諧(発句) 俳句 / 俳諧発句発句と俳句発句の花愛宕百韻秘話俳句と発句と連句の違い俳句連句三井寺・・・
 
梅雨入り  蕪村攷
 
 

 

●東海と関東甲信で梅雨明け  8/1 
1日は西日本や東日本で晴れ間が広がり、東海と関東甲信で梅雨明けが発表されました。午前中から西日本を中心に気温が上がっていて、日中の最高気温は35度以上の猛暑日になるところもある見込みです。こまめに水分を取るなど熱中症に十分注意が必要です。
1日は高気圧に覆われて西日本や東日本では晴れ間が広がっていて、気象庁は午前11時、「東海と関東甲信で梅雨明けしたと見られる」と発表しました。
梅雨明けの発表は、いずれの地域も去年より8日遅く、平年と比べても11日遅くなっています。
西日本を中心に午前中から気温が上がっていて、午前11時半までの最高気温は高知市で33.8度、鹿児島県肝付町前田で33.7度、岡山県高梁市と和歌山県田辺市の栗栖川で33.3度、岐阜市で33.1度、茨城県大子町で32.2度などと各地で真夏日となっています。
このあとも気温は上がり、日中の最高気温は岐阜市で36度、名古屋市や京都市、岡山市、高知市、熊本県人吉市などで35度と西日本と東海では猛暑日になると予想されているほか、大阪市で33度、東京の都心で32度、金沢市で31度、札幌市と福島市で30度などと広い範囲で真夏日が予想されています。
気象庁は、こまめな水分補給に加えて屋外ではできるだけ日ざしを避け、室内では冷房を適切に使うなどして熱中症に十分注意するよう呼びかけています。
豪雨の被災地でも厳しい暑さで熱中症の危険性が高まります。環境の変化で疲れもたまっていることから、復旧作業にあたる際にはこまめに休憩を取るなどの十分な対策が必要です。
東京・世田谷区の多摩川沿いでは強い日ざしが照りつけるなか家族連れがマスクをつけ、ほかの人との間隔をとったうえで水遊びを楽しんでいました。
都内に住む40代の男性は「やっと梅雨明けしたので、川で遊ぼうと思って来ました。待ち遠しかったです。暑いですが、マスクなどできる範囲で感染対策をしながら楽しみたいです」と話していました。  
関東甲信 平年の梅雨 6/8 - 7/21

 

●北陸と東北南部 梅雨明け 3日も西日本中心に暑さ続く見込み  8/2 
2日は北陸と東北南部で梅雨明けが発表されました。北日本から西日本にかけて広い範囲で真夏日となり、35度以上の猛暑日になったところもありました。3日も西日本を中心に暑さが続く見込みで、熱中症に十分注意が必要です。
2日は、高気圧に覆われて沖縄を除く広い範囲で晴れ間が広がり、気象庁は「北陸と東北南部で梅雨明けしたと見られる」と発表しました。
梅雨明けの発表は、北陸が、去年と平年よりいずれも9日遅く、東北南部が、去年と平年よりいずれも8日遅くなっています。
日中の最高気温は、大分県竹田市で36.1度、愛媛県大洲市で36度、福岡県太宰府市で35.7度、熊本県人吉市で35度などと、全国10以上の地点で最高気温が35度以上の猛暑日となりました。
また、大阪市で33.9度、広島市で33.1度、名古屋市で32.5度、東京の都心で31.5度などと広い範囲で真夏日となりました。
3日も西日本を中心に気温が上がり、日中の最高気温は、大分県日田市で36度、熊本県人吉市や山口市、それに大阪市などで35度の猛暑日が予想されているほか、松山市や岡山市などで34度、名古屋市で33度、東京でも30度と、広い範囲で真夏日が予想されています。
気象庁は、こまめな水分補給に加えて、屋外ではできるだけ日ざしを避け、室内では冷房を適切に使うなどして熱中症に十分注意するよう呼びかけています。
豪雨の被災地でも厳しい暑さで熱中症の危険性が高まります。環境の変化で疲れもたまっていることから、復旧作業にあたる際にはこまめに休憩を取るなどの十分な対策が必要です。  
 
 
 
 1-50

 

●梅雨明け
川底の魚の反転梅雨明ける
千年の杉の下より梅雨あがる
地鎮祭迎へ芦屋の梅雨明くる
梅雨明の雲の明るき地鎮祭
桑畑に降りつつ梅雨の明けむとす
   梅雨明けだカラスかうくうバーゲンだ
   梅雨明けまで橋の上から紐たらす
   梅雨明の近き雨足抜けて旅
   自転車に乗れし息子に梅雨明くる
   起工式終へし安堵に梅雨明くる  
梅雨明けて心開きし女かな
一列に乾く海女桶梅雨の明
梅雨明けを待てどぐづぐづ明けざりき
わだかまり解けない儘に梅雨明けぬ
梅雨明やなにはの橋のいづれにも
   長病みの母みまかるも梅雨明けず
   梅雨明けの海を眩しみ越の旅
   梅雨明くることにも希望托したく
   梅雨明ののち降る小雨稿つづる
   梅雨明けて土用十日の田を回る  
梅雨明けをメトロのレール柔らかく
梅雨明の間近きことを告げて降る
梅雨明と聞きたる後の雨つづく
原色も中間色も梅雨明けり
鳥声に覚むる幸せ梅雨あがる
   雀来て鳩来て庭の梅雨明くる
   聞かせたき敬語の話梅雨明ける
   梅雨明の雷讃ふべし冷奴
   梅雨明けて烏と亀の物語
   梅雨明けのタイヤを舐める犬あり  

 

梅雨明や満水のダム輝ける
梅雨明けや野川を走る水の音
梅雨明を告げて雷鳴いさぎよく
梅雨明ける雲のひかりも我のもの
梅雨の明け指切りげんまん友送る
   沖めざす船数珠つなぎ梅雨明くる
   遠き嶺近き山梅雨明けにけり
   梅雨明けや天窓思ひきり開き
   梅雨明けて来る日来る日よ草を取る
   梅雨明けて思はれ面皰出でにけり  
梅雨明けの星大粒でありにけり
梅雨明けのぴくりともせぬ風見鶏
ものの影きのふとちがひ梅雨明くる
梅雨明けの石のまはりの木賊かな
波消しに鵜の一列や梅雨明くる
   梅雨明けの夕風に抜く白ワイン
   空梅雨の明けの雷遠くあり
   梅雨明の庭にいつしか揚羽蝶
   梅雨明の杉の香こもる修験谷
   真つ白きパン屋のトレー梅雨明くる  
 51-100

 

梅雨明くる朱の鳥居を塗り替えて
梅雨明けの白雲迅し岬鼻
廊の試歩杖にすがらず梅雨明くる
梅雨明けの近し諸肺真つ黒け
洗面器の大波小波梅雨の明く
   梅雨明けをなほ降る最中告げてをり
   梅雨明けと忌明け近まり麦粒腫
   梅雨明けて塞ぎの虫の消えにけり
   梅雨明や富士あをあをと聳えたる
   初産の預かりし娘に梅雨明くる  
樹々騒ぐ音に確かや梅雨明けし
梅雨明やものみな影の濃くなりぬ
梅雨明の甲斐の空なる葡萄棚
梅雨あがる兎走りの波がしら
病床の母に添ひ寝し梅雨明ける
   梅雨明のごとき日差と眩しめり
   梅雨明けし日の空の青雲の白
   竹林の梅雨明け近き風の音
   梅雨明や遠くの木々に日の差して
   梅雨明やはや蝉の鳴く有為の山  
梅雨明と共に去りゆくわが病魔
梅雨明けて妻の声とぶ朝厨
梅雨明けや海から海の風吹いて
梅雨あがる芦群分けて風つのり
あかときの鳥声豊か梅雨明けぬ
   二度咲きの藤房垂れて梅雨明けず
   梅雨明けず講座に集ひ来る人に
   梅雨明けの近き明るさ暗さかな
   水上バス梅雨明近き隅田川
   梅雨明けを待つアイガーをまなぶたに  

 

梅雨明けの待たるる膝の痛みかな
梅雨明けて水輪にまとふ日の光
梅雨明の庭に茗荷の子を探す
梅雨明を近く湯の沸く地獄谷
梅雨明や天空赤き月浮ぶ
   梅雨明やケナフ緑を深めつつ
   座禅石梅雨明の雷ひびきけり
   運勢の上昇月よ梅雨明けて
   高千穂の彫際やかに梅雨あがる
   梅雨明くる大樹はぐぐと枝ひろげ  
夫婦箸おろす清しさ梅雨あがる
香煙も鳩も梅雨明浅草寺
梅雨明けや真白き皿のフランスパン
梅雨明けて父の元気な電話声
梅雨明けを宣言するや太き雷
   太陽に双手さし挙ぐ梅雨明けて
   諸鳥の声飛び交ひて梅雨明くる
   Tシャツに解らぬ英語梅雨明ける
   梅雨明を心気燃やして待つ農夫
   梅雨明の宣言いまだ原爆忌  
 
 
 101-150

 

修験者の懸腕直筆梅雨の明く
百幹の杉の雫や梅雨明ける
日本の梅雨明待たる留学子
梅雨明けや雲は光の玉を抱き
掛軸をすとんと吊し梅雨明くる
   湯の宿の番傘梅雨の明けにけり
   伸び速き嬰の爪透く梅雨の明け
   水車小屋廻らぬ臼に梅雨明け
   梅雨明は何時かと木賊活けながら
   梅雨明けてマリンブルーの瀬戸の海 
しばらくは晴れる予報や梅雨明けし
梅雨明の待たるる旅の旬日に
梅雨明けし紙の破れる音がして
梅雨明けや虫歯検査の河馬の口
梅雨明けや癒えて眩しきことばかり
   梅雨明のざわわと揺るるきび畑
   寺の塀より梅雨明けの豪雨来る
   梅雨明けてコピー用紙が滑り出す
   犬どちのはやも戯れ梅雨あがる
   梅雨明けて縞麗な風に吹かれけり  
巫女の鈴しやらんと梅雨の明けにけり
梅雨明の父のぬぐひし籐枕
梅雨明のきらめく魚群大水槽
梅雨明けと思ふべーコンかりつと焼け
梅雨明けや折り皺つきし時刻表
   新しい駅にも慣れて梅雨明ける
   神馬の眼みどりいろなり梅雨の明
   白南風といふ名の町や梅雨明けて
   梅雨明のどこにも行かず反古を焚く
   豪雨跡爪痕無愧梅雨明くる  

 

梅雨明けの砂場に砂を足す教師
梅雨明の気配まだなく雷はげし
梅雨明けや全治望めぬこの恙
梅雨明けや虫歯検査の河馬の口
捗らぬままの梅雨明け砂時計
   梅雨明や権現太鼓鳴り響く
   手花火の子らそちこちに梅雨明けぬ
   翼ある裸婦の油絵梅雨明ける
   梅雨明ける花嫁となるまでの日々
   梅雨明けのわけのわからぬ訪問者  
梅雨明けの商店街にハワイアン
梅雨明けの漁港眩しくがらんどう
鬱ぎ虫しけ虫も去れ梅雨明くよ
梅雨明けや少し歪みし閨ねやの月
園児らの朝のあいさつ梅雨あがる
   病床の母の目覚めや梅雨あがる
   梅雨あがる雲七色の乾かな
   老鶯の気嫌に梅雨の明けにけり
   一人住み梅雨明けてよし明けでよし
   梅雨明の間近な月の黄色かな  
 151-200

 

水鳥の羽のましろや梅雨の明け
少年に木馬に梅雨の明けにけり
梅雨明の大暑の日々のこれ程に
帽子屋の大きな鏡梅雨明くる
梅雨明けのゴム長ぐつのかかと減り
   梅雨明を待ちてワインを開けもして
   梅雨明の待たるる旅の近づきぬ
   梅雨明といふ約束のやうなもの
   星を見しよべの変幻梅雨明くる
   余所行きの月が昇りて梅雨明くる  
梅雨明の雷に柱の匂ひ立つ
昼顔のほのかに咲ける梅雨明り
逢ひたきは見返り阿弥陀梅雨明くる
今生を「四葩」ひとすじ梅雨明ける
姫神の優美線形梅雨明くる
   梅雨明けて二峰繋ぎの村にをり
   梅雨あがる引き潮の描く等高線
   青銅色に海の展けて梅雨明けぬ
   托鉢の僧の錫杖梅雨明くる
   梅雨明けの雷と思ひて句座にゐる  
梅雨明けぬに冬虫夏草出でにけり
河童忌の気配のあれど梅雨明けず
梅雨明けて肩の重荷の降りしごと
梅雨明も近し根菜白く煮て
梅雨明の空をつんざく銅鐸の音
   梅雨明を窓明け放ち確むる
   梅雨明けや介護かさねる老夫婦
   三枚におろす魚や梅雨明くる
   梅雨明の空8分ぶんの6ビート
   梅雨明の近づく橡の葉擦れとも 

 

建礼門の正面に来て梅雨明くる
梅雨明けや昭和の遠景多摩丘陵
梅雨明けて犀は一本角をもつ
梅雨明けてゐるかゐないか祈りあり
梅雨明けて仕事に弾みつきにけり
   富士見えて梅雨明けしこと疑はず
   梅雨明けといふ踏切を影と越す
   梅雨明けは近し秋元不死男の書
   梅雨明けか葉先の露のうすみどり
   百円の海釣公園梅雨あがる  
灯台や梅雨明く入るの国長し
美男葛の花散りて梅雨明けにけり
絹傘茸梅雨明け宣言の備前より
梅雨明けを告ぐる夕映え砂色に
梅雨明けのあまりに長き竿二本
   梅雨明けの佃めぐりて船に乗る
   梅雨明くる牛のにほひの角突場
   梅雨明や色とりどりのランドセル
   梅雨明け蟻の右往左往をまたぎ越す
   電柱の尿に尿かけ梅雨明け犬  
 
 
 201-250

 

ユーカリの木の瘤に梅雨明けてをり
市に並ぶ鮪百本梅雨明けぬ
梅雨明けぬ摩耶山頂に鉄塔五
梅雨明や佐保の堤の羽の音
梅雨明けにゆったり廻る大水車
   龍馬の間行灯一つ梅雨明り
   梅雨明けや鳴門の渦に青き芯
   梅雨明やこの夜の星の降るごとく
   梅雨あがるしっかり結ぶゴミ袋
   梅雨明けぬ盛砂白き地鎮祭  
梅雨明けしとも明けぬとも空仰ぐ
梅雨明の待たるる旅でありしかな
梅雨明をせかして山の風荒るる
梅雨明の待たるる晴でありにけり
梅雨明や倒木の青崖の赭
   梅雨明けの近し病者の身だしなみ
   梅雨明けて瑞穂の国の風の唄
   頭に風足にも風や梅雨あがる
   再版の「蟹工船」や梅雨明ける
   日の昇る湖面のあかね梅雨明ける  
梅雨明の星や田の上山の上
梅雨明けやどつと浜辺に人の群
梅雨明けや福島沖を震源地
梅雨明や天王寺てんのじさんの亀の甲
いまの吾祈りあるのみ梅雨明くる
   何もかもリセットとなり梅雨明くる
   梅雨明の風心にも招き入れ
   梅雨明や垂水一条光りけり
   水の香をまとひ梅雨明け待つてをり
   梅雨明の島より友の便りかな  

 

小犬曳く女性の多し梅雨明ける
梅雨明や髪梳る手のかろし
梅雨明けや隣人犬に青リボン
梅雨明や長常口の草の丈
予報士の声晴れやかに梅雨明くる
   鳥一羽水にたはむれ梅雨明くる
   梅雨明けし生垣のいと匂やかに
   梅雨明けや富士の山容すつきりと
   梅雨明の中華街へと朱雀門
   ツインビルの反照荒し梅雨明くる  
水もなき瓢箪池や梅雨明り
こんなにも晴れ梅雨明けの槻の空
梅雨明も近しと思ふ旅にあり
梅雨明と思へば思へさうな晴
梅雨明の待たるる旅でありしこと
   もう都心梅雨明けしとも明けぬかと
   売切れの日蝕メガネ梅雨あがる
   翠陰を深め梅雨明く椎大樹
   島巡る青の一文字梅雨明くる
   梅雨明けや少年剣士の面一本  
 251-300

 

梅雨明けるサッカーボール玄関に
梅雨明けの半熟卵こつと割り
梅雨あがる絵本の頁開くごと
梅雨あがる白太に釘の跡ふたつ
大都消ゆ梅雨明け前の大豪雨
   梅雨明くる目高の甕に空映り
   梅雨明くる万年筆の青き文字
   クラインの壺中の天に梅雨明くる
   梅雨明けの雲のほぐるる月の際
   梅雨明の磯笛ひびく無人島  
梅雨明の燦とかがやく星の数
梅雨明けの敷布に糊を効かせけり
軒低き鋳物の町や梅雨明くる
梅雨明けを促す日差し昨日今日
葉の先に雫のひとつ梅雨あがる
   庭帥来て梅雨明けの空広がりぬ
   梅雨明けの雷や安土へ飛ぶ一矢
   梅雨明けの近き雨音激しくて
   放流のダムの勢ひ梅雨明くる
   梅雨明けの富士うす雲を腹に巻き  
梅雨明けず写経の筆を替へてみる
梅雨明へもう一荒れの免れず
この雨も梅雨明誘ふものとして
梅雨明けの空ひろびろとひろびろと
錠剤のころりころげて梅雨明ける
   梅雨明の報に立ちたる雲の峰
   梅雨明けや妻には妻の旅支度
   梅雨明けてベランダを占むキティとプー
   梅雨明や笛吹ケトル高く鳴き
   きはやかに出でし繊月梅雨明くる  

 

梅雨明けの近き湖北に雲の乱
潮くさき砂丘の風や梅雨明ける
梅雨明けや風の捲れる旅の本
梅雨明や赤信号の真下にて
砂浜に流れ藻ありて梅雨あがる
   梅雨明の風這はせつつ畳拭く
   茅屋の空広くなり梅雨明けて
   梅雨明けの影長々と黒を増す
   梅雨明けて白衣のままで道を掃く
   梅雨明の雷雨と豪雨地震までも  
だしぬけに目の眩む天梅雨明くる
梅雨明や夕焼雲の茜濃き
梅雨明けて乾盃すべき雅友なし
梅雨明けてギラギラ坊主とび出しぬ
梅雨明や花瓶グラスに白桔梗
   天帝のまばゆき光梅雨明けし
   梅雨明けしこと喜んでゐるうちに
   梅雨明の太陽占めし都心かな
   梅雨明を誘ふ山風強きこと
   梅雨明や引越してゆくメロンちやん 
 
 
 301-350

 

梅雨明や風より高く蝶のとび
梅雨明の風いら草を裏返す
武蔵野の陵うかぶ梅雨明り
梅雨明けを知るや知らずや蝉の鳴く
梅雨明けぬたまむし色のこころかな
   梅雨明けのあつけらかんと雲のあり
   嶺嶺に雲を退け梅雨明くる
   梅雨明けを暇な雀がふれ廻る
   恋に紆余風に量感梅雨あがる
   渦巻くも杖も永良部鰻いらぶう梅雨明くる  
梅雨明けるミニスカートの短かさよ
梅雨明けのついでに職を退くべきか
梅雨明けの川魚捕る小舟かな
梅雨明けや岸の叢濃く深し
殊のほか月はればれと梅雨明けし
   梅雨明けの神戸ドックに異国船
   梅雨明やパン屋朝より香ばしく
   梅雨明けや風の厚みの増してをり
   目の手術梅雨明したる日と決むる
   梅雨明くる机上の名著借りしまゝ  
偲ぶ会涙を流し梅雨明ける
象嵌の禹の香炉より梅雨明くる
迫りくる眉山の緑梅雨明けし
神のみぞ知る梅雨明と吾の寿命
梅雨明けてをりたることも旅帰り
   梅雨明けぬ猫がまづ木に駈け上がる  
   梅雨明けの海の垢浮く船溜
   つくばひの杓真っ新や梅雨明ける
   非常食の入換へ時や梅雨明けて
   伊豆半島水平線に梅雨明けむ  

 

新調の鎌で一薙ぎ梅雨明けり
大文字山近々と梅雨あがる
がんに負けじと癌詠む君へ梅雨明くる
梅雨明の夫婦二人に部屋余る
奄美では梅雨明け京はざんざ降り
   梅雨明けて絵日記の景一面に
   梅雨明にヘリコプターをトンビ追ふ
   梅雨明けの雲を抜けたる吉井川
   旧校舎洋館に梅雨明けにけり
   梅雨明ける象はホースの水を浴ぶ  
梅雨明や雲もくもくと沸き上る
赤玉は常備丸薬梅雨明ける
退院の日も梅雨明も待たれけり
梅雨明や半跏踏み下げ地蔵尊
亡き妻といふ言葉出し梅雨明けし
   梅雨明くる檸檬のやうな月が出て
   里の池満水にして梅雨明くる
   町なかの高きものみな梅雨明けて
   ついさつき梅雨明宣言出たといふ
   青色が空を制して梅雨明ける  
 351-400

 

梅雨明や注連を張りたる那智の滝
梅雨明の駅の出口に迷ひけり
喘ぎつつ生きてゐるなり梅雨明くる
梅雨明けて一きは白き百合の花
梅雨明くる運動場に声はづむ
   梅雨明くる天保山の登山証
   梅雨明けて赤屋根目立つ村の丘
   梅雨明けの風より軽い帽子買ふ
   梅雨明の風より軽い帽子買ふ
   梅雨明けの町にマッチを買ひに出で  
食卓に消しゴムのかす梅雨明ける
梅雨明けてひときは山の雲白し
梅雨明けや波止に大敷網おおしき拡げたる
つぎつぎに楽しき雲や梅雨明けぬ
梅雨明けを思はす今朝の青い空
   梅雨明けしことに加はる旅心
   梅雨明けし今日も昨日も変らずに
   梅雨明けしばかりの雨も大切に
   空碧く一刷毛塗りて梅雨あがる
   夫に留守頼みての旅梅雨あがる  
病む人に残して淡き梅雨明り
梅雨明けや猫が音たて水を飲む
亀の眼の底まで澄めり梅雨明くる
親戚の訃報二つや梅雨明ける
あと五年生きて百歳梅雨明くる
   梅雨明けや待合室に腰おろし
   梅雨明けの朝日差し来る青畳
   梅雨明けの宣言太陽頷きぬ
   梅雨明けの空を一巡鳩の群れ
   梅雨明けにセルビアからの友来る  

 

一つ葉の一斉に揺れ梅雨明くる
悪天をともあれ奮闘梅雨明ける
梅雨明の夕ベまぶしき別れかな
梅雨明けの潮照り返す鵜捕崖
妻恋うて梅雨明待たず逝かれしや
   梅雨明か雲の百態流れゆく
   梅雨明の空や近江を過ぎてより
   梅雨明けや信貴をとよもす僧の声
   梅雨明くる鉄の匂ひの道具箱
   梅雨明の匂ひまつはる竹箒  
梅雨明けぬ金沢駅の朝雀
梅雨明けぬ歳時記買ひ換へようと思ふ
梅雨明や田毎に雲の影動き
梅雨明の胡椒固まる壜の底
梅雨明の待たるる夜の月の色
   梅雨明や兜太書のビラ高く上ぐ
   なぜ今年梅雨明け遅し旅仕度
   梅雨明けや木々の大きく揺れてをり
   梅雨明けの銀座通りへ自動ドア
   繊月の皓と梅雨明印すかな 
  
 
 401-450

 

梅雨明の空にによきつと金剛山(こごせ)かな
梅雨明や水神様の棟上る
梅雨明の待たるる旅路ありしこと
梅雨明をはつきり告ぐることのなき
梅雨明ともう言へさうに空仰ぐ
   一本の竿だけ残す梅雨明けり
   梅雨明けを特たずに蝉の落ちてゐし
   マイセンの髭そりカップ梅雨明けぬ
   仕込み蔵天窓に洩る梅雨明り
   梅雨明くる音清らかに皿割れて  
梅雨明やのんど連鼓の山の鳩
人の世と猫と音楽梅雨明くる
梅雨明やむかしは世話の焼けし道
梅雨明ける周期律表ニホニウム
病床も病衣にも馴れ梅雨明くか
   国政が認めなくとも梅雨明くる
   安曇野よりおやき届きて梅雨明くる
   梅雨明の光と風をねやにかな
   梅雨明や綿菓子に似る白き雲
   山越えの眼下薩摩路梅雨明くる  
梅雨明は遅くなるとの報せ聞く
青空に筋雲ひとつ梅雨明ける
キヤラメルの紙の折鶴梅雨明ける
追伸のごとく降り梅雨明けやらず
梅雨明くる東京臨海摩天楼
   航跡のいつまでも白梅雨明くる
   梅雨明ける糊の利きたる綿シーツ
   梅雨明けてせせらぎの音増しにけり
   梅雨明けの妻のバリカン鬢走る
   星ひとつ添ひ梅雨明けの幼月  

 

梅雨明けの一喝が欲し何するも
やつと梅雨明けて夕べの月細き
梅雨明けて右足だけが伸びている
梅雨明けて百万石の賀の旅へ
梅雨明ともう言へさうな旅の晴
   梅雨明といはれ納得したる晴
   梅雨明の雲の走つてをりにけり
   梅雨明や朝の大気の甦る
   旅多きことも梅雨明有難く
   梅雨明けて一変したる旅心  
梅雨明けし東京の空新しく
梅雨明の月青々と石にあり
梅雨明けと云へど沖縄慰霊の日
梅雨明けてふはり神くる杉木立
梅雨明けや軽くなりたる靴の音
   梅雨明の煮汁に躍る落し蓋
   何はともミニマリストや梅雨明けぬ
   雨とんと降らぬ浪速の梅雨あがる
   軽くなる杖の響きや梅雨明くる
   梅雨明けとテレビが報じ空を見る  
 451-500

 

バスケットゴール立つ庭梅雨明くる
梅雨明けか釈迦釈迦釈迦と蝉のこゑ
水琴窟三拍置いて梅雨明ける
梅雨明を告ぐ予報士のワンピース
梅雨明や陰を求むる己が影
   梅雨明の青き摩文仁や慰霊の日
   梅雨明や鬱の字ぱつとぱらり散り
   梅雨明の中空憩ふアドバルーン
   定年があるかのやうに梅雨明けぬ
   梅雨明けや雲の狭間の夕茜  
梅雨明けの雲の迷ひや認め印
梅雨明となるか雷鳴轟きぬ
し残して死ぬっていいな梅雨明ける
病む人にせめて梅雨明け待たるる日
消息の如く梅雨明け待たれたる
   稜線に梅雨明の声聞く三瓶
   梅雨明の待たるる旅路なりしかな
   梅雨明けしこと誰彼に告げてをり
   梅雨明けしことに心を許したる
   純白の雲を遊ばせ梅雨明くる  
梅雨明の空つつ抜けの青さかな
ひかり風整はぬまま梅雨明くる
梅雨明の光廻して蹴轆轤(けりろくろ)
そこしれぬ恐怖まざまざ梅雨明くる
梅雨明けて靄立ちつづく山の襞
   梅雨明を待たず漢の杖を曳く
   梅雨明けて吹くハーモニカ鳥も鳴き
   梅雨明けを一気に映す床みどり
   梅雨明や悲惨な被害いつ癒る
   虹の色あり梅雨明の水溜り  

 

梅雨明けの陽明門に遊びけり
野球場の歓声著く梅雨あがる
梅雨明けて梅雨の時候を早忘る
純白の制服まぶし梅雨明くる
梅雨明や小振りに替へる旅鞄
   そば清はけふ定休日梅雨明ける
   統計上最も早き梅雨明と
   梅雨明の水ひかりたる魚梯かな
   梅雨明の犬に引かるる散歩かな
   梅雨明くる富士の雲脱ぐ青さかな 
ばさばさと庭師の鋏梅雨明くる
俎板をはみだす青菜梅雨明くる
炒り胡麻の八方に跳ね梅雨あがる
踏ん張って仁王のにらみ梅雨明ける
昼のビユッフェ喋りまくって梅雨明ける
   梅雨明けや空の上には天のあり
   梅雨明けて何も解決してをらず
   飛行機雲一筆走り梅雨明くる
   奈良は今梅雨明といふべかりけり
   漸くの梅雨入早くも明けを待つ
 
 
 501-550

 

梅雨明けて線路の光尖りをり
梅雨明くるか雲行きを見る考譲り
早暁の雷雨梅雨明け近しとぞ
早暁の嵐の後の梅雨明くる
梅雨明けと聞けども今朝の雨強し
   梅雨きのこ大木の洞明るくて
   点滴の管カラフルや梅雨明ける
   檜の匂ふ靖国拝殿梅雨あがる
   梅雨明も本社移転の日も近し
   築山を見詰むる庭師梅雨の明  
梅雨明や叫びたくなる海の碧
梅雨明や潦また潦 (潦:にわたずみ)
梅雨明や舌に弾くる発泡酒
梅雨明やどんと三竿の濯ぎ物
たたなづく青垣や梅雨明けにけり
   梅雨明けの雲なき空に白き月
   強き音のパイプオルガン梅雨の明け
   梅雨明けて別の心となりにけり
   鶏小屋に真白き抜け羽梅雨あがる
   リネン庫にリネン高々梅雨明ける  
梅雨籠めの明治の木橋大井川
梅雨明の待たるる旅となりにけり
梅雨明の近しと今日も降つてをり
梅雨明けぬ三瓶の旅となりしこと
梅雨明を間近にしたる酒の味
   移転てふ梅雨明を待つ心かな
   ビル街と別れ梅雨明待つ移転
   梅雨明けぬ江戸の快晴発ちて来し
   梅雨明くる次はあなたの快癒かな
   骨壺をすゑて故山の梅雨明り  

 

梅雨の後牛ほす里の堤かな
入梅の明遠かみなりを暦かな
ばりばりと干傘たゝみ梅雨の果
梅雨あけの鎌倉くらき旋風かな
梅雨明の大神鳴や山の中
   梅雨明けし各々の顔をもたらしぬ 
   耳鳴か梅雨明蝉かとも訊す   
   山の上に梅雨あけの月出でにけり
   梅雨明けや深き木の香も日の匂 
   殷々と出梅の鐘撞かざるか   
梅雨明けのただちに蟻の影の土 
庭石に梅雨明けの雷ひびきけり 
梅雨明けをよろこぶ蝶の後をゆく
梅雨明けのもの音の湧立てるかな
火星にも洪水の痕梅雨明ける  
   あきらめの腫れしまぶたに梅雨明けし
   あるきたる足拭いて梅雨上りけり
   うしろより忽然と日や梅雨あがる
   丹の残るインカの仮面梅雨上る
   予報官えいと梅雨明宣言す  
 551-600

 

光る手のごとき貝がら走梅雨
北上川大濁りして梅雨明けぬ
半端な月あがりて梅雨の中休み
喜寿といひ梅雨明けと聴くけぢめかな
地震二タ夜梅雨あがる月の澄みやうや
   大手術克服したる梅雨明けぬ
   妹と東京に逢ふ梅雨明るし
   富士かけて梅雨明け雲の深さかな
   小雷病床に梅雨あがりけり
   庭石に梅雨明けの雷ひびきけり 
手花火の子らそちこちに梅雨明けぬ
早蝉の絶え入るばかり梅雨上る
木の匂ひ畳のにほひ梅雨明けぬ
本当は梅雨明けてゐる我が岬
梅雨あがるすぐに揃ひしごとき蝶
   梅雨あがる同じ顔して鶏百羽
   梅雨上るらし夕風の太藺うつ
   梅雨上る潮騒陸にたかぶりて
   梅雨明くる例えばダンボールの色も
   梅雨明くる旅の奈良なる鴟尾のもと 
梅雨明くる雲の饗宴賑かに
梅雨明くる黒潮の黒引き締まり
梅雨明けが間違ひなしの風なりき
梅雨明けしならん木々照り草そよぎ
梅雨明けし今もわびしき夢を見る
   梅雨明けし各々の顔をもたらしぬ
   梅雨明けず雨夜の煙草ふかしても
   梅雨明けて帰化植物に洽き日
   梅雨明けて雀の羽音やはらかし
   梅雨明けぬつくづく見れば皆疲る 

 

梅雨明けぬ市営プールの一帯も
梅雨明けぬ猫がまづ木に駈け上る
梅雨明けのいの一番の朝雀
梅雨明けのただちに蟻の影の土
梅雨明けのもの音の湧立てるかな
   梅雨明けの一狂者にも人いきれ
   梅雨明けの伐るべき枝の荒日射
   梅雨明けの地図を広げてカーエリア
   梅雨明けの夕ベの雑草から牛が顔出す
   梅雨明けの夕空に腹ひかる鳥  
梅雨明けの屑屋と蝶とちらちらす
梅雨明けの川を越えたるブーメラン
梅雨明けの帽新らしき集金婦
梅雨明けの水に揺れをり竹の影
梅雨明けの河口に海の水平線
   梅雨明けの翼自在に尾長鳥どち
   梅雨明けの裏富士のこの男貌
   梅雨明けの診察券そわそわ機械から
   梅雨明けの順序の一つ蟇出づる
   梅雨明けの鶏を追ふ歩幅かな  
 
 
 601-650

 

梅雨明けは木立の風を滝のごとく
梅雨明けや影脱ぎ捨てて蝶昇る
梅雨明けや林の奥のことごとく
梅雨明けや深き木の香も日の匂
梅雨明けや篠懸黄葉の三五枚
   梅雨明けや網積む手順子に指図
   梅雨明けや胸先過ぐるものの影
   梅雨明けや麒麟の首は柵をぬき
   梅雨明の天の川見えそめにけり
   梅雨明の気色なるべし海の色  
梅雨明の畳上げたる一夜庵
梅雨明の近き山雨に叩かれて
沖遠き漁火に梅雨上りけり
海より梅雨明けてはためく安全旗
海亀が頭を上げて見る走り梅雨
湖に残りし濁り梅雨明くる
   火星にも洪水の痕梅雨明ける
   無患子の花の空より梅雨明けむ
   百姓の大きな声に梅雨明くる
   砂浜に棒ひとつ立て梅雨明けぬ
   穴あかりうごくものゐて梅雨あがり  
窯変のごとく火の島梅雨明けぬ
笑ひゐてうべなはずをり菜種梅雨
紫蘇匂ひ多賀城村に梅雨明くる
緋鯉一つ池ににじみ出て梅雨明けの夕ベの
罌粟坊主鳴る風に梅雨上りけり
   耳鳴か梅雨明蝉かとも訊す
   腰据ゑて梅雨明けの山夕日さす
   葛少し芒にからみ梅雨あがる
   起工式終へし安堵に梅雨明くる
   辛子黄に梅雨上りけり心太  

 

造り溜む桶の杉の香梅雨上る
遠く鳴きかはす鳥のゐて梅雨あがりし窓の木
降って湧きし銭苔長屋に梅雨明けて
雲を負ふ屋久島見えて梅雨明けぬ
鯱の天疑ひもなく梅雨明けし
   子の目にも梅雨終りたる青嶺立つ
   牡蠣筏しづかに梅雨の終りけり
   目の色も変ふべし梅雨の明けにけり
   老斑のうするる梅雨の明けにけり
   蒲の花うすうす見えて梅雨終る  
蛙音のなか〜梅雨の明けきらず
つれづれの日々の暗梅雨明梅雨
ひぐらしにつづく朝禽梅雨明けむ
もち古りし目鼻にも梅雨明けにけり
ゴーギヤンに佇ち哭むまで梅雨明り
   一弾や長梅雨明けの金亀子
   丈草の葉の立つて梅雨明けにけり
   五七忌や梅雨明けやらぬ空のさま
   人に更け人に明け梅雨長きかな
   仏花すてゝまさご尊し梅雨明り  
 651-700

 

僧房の障子あけあり梅雨月夜
北上川大濁りして梅雨明けぬ
子の家族来て去りしより梅雨明けぬ
山の湖の一筋の水尾梅雨明けたり
岳麓の梅雨明といふ蝶とんで
   川に炊く漁夫の火明り梅雨ふたたび
   庭石に梅雨明けの雷ひゞきけり
   梅雨あけて奥の山より一つ蝉
   梅雨あけの日を感じつゝ籐椅子に
   梅雨あけの鎌倉くらき旋風かな  
梅雨あけの雷ぞときけり喪の妻は
梅雨明くる例へばダンボールの色も
梅雨明けしならん木々照り草そよぎ
梅雨明けし今もわびしき夢を見る
梅雨明けし各々の顔をもたらしぬ
   梅雨明けず壁にポスター重ね貼り
   梅雨明けず蝉も困じてをるならむ
   梅雨明けず鳥海山雲にありどころ
   梅雨明けだムクムク太郎の次郎の雲
   梅雨明けてはや日盛りといふ感じ 
梅雨明けてゴキブリ憎むこと一途
梅雨明けて八雲旧居に瑠璃柳
梅雨明けといふ日や揚羽蝶もつれ
梅雨明けぬ市営プールの一帯も
梅雨明けぬ猫がまづ木に駈け上る
   梅雨明けのごとくに見せし星の数
   梅雨明けのためらひゐるや病また
   梅雨明けのなほ旅阻むこといくつ
   梅雨明けの一山葉裏返しけり
   梅雨明けの一狂者にも人いきれ  

 

梅雨明けの夕日丹沢山に落つ
梅雨明けの夕空に腹ひかる鳥
梅雨明けの太陽連れて帰朝せり
梅雨明けの河口に海の水平線
梅雨明けの滅法あをみわたりけり
   梅雨明けの独蘇たたかふ雲たたかふ
   梅雨明けの空に一抹青のぼり
   梅雨明けの雲まばゆきに棘を抜く
   梅雨明けは木立の風を滝のごとく
   梅雨明けや影脱ぎ捨てて蝶昇る  
梅雨明けや森をこぼるる尾長鳥
梅雨明けや深き木の香も日の匂
梅雨明けるソネットを読む森の家
梅雨明けをみな信じをり山毛欅林
梅雨明けを待ちきれぬ音揚花火
   梅雨明けを待ち望むにも非ざりき
   梅雨明の大神鳴や山の中
   梅雨明の豪雨となりぬ松の庭
   梅雨明りしてこの壷の辰砂紅
   梅雨明り車輛の走音「従いてこい従いてこい」 
 
 
 701-

 

梅雨明り黒く重たき鴉来る
梅雨明を言ふシャッターをくぐり出て
満天に星ぎつしりと梅雨あける
火曜サスペンス劇場梅雨明けぬ
男の自炊梅雨あけのパン花輪型
   町鴉たまたま近く梅雨明けぬ
   白扇を十本買はぼ梅雨明けむ
   百姓の大きな声に梅雨明くる
   砂浜に棒ひとつ立て梅雨明けぬ
   秋邨葬る梅雨明くるとも明けぬとも  
簾外のぬれ青梅や梅雨明り
肌寒き日和続きて梅雨明けず
腰据ゑて梅雨明けの山夕日さす
薔薇うつる水底終ひの梅雨明り
那須岳の梅雨明けたりと思はずよ
   降って湧きし銭苔長屋に梅雨明けて
   陣馬山人蕎麦打ちくれぬ梅雨明けぬ
   障子裏這ふ虫まざと梅雨明り窓
   雲はうて梅雨あけの嶺遠からぬ  
   いろいろと押し付けられて梅雨明ける  
梅雨明けの街真つ白になりにけり
亡き母のスリッパの音梅雨明けて 
無機質なスリッパの音梅雨明けぬ
スッポンの唐揚喰って梅雨明ける   
 

 

 
 
 
 

 

●「梅雨」の俳句 
   現代句
梅雨明けの鶏を追ふ歩幅かな
放し飼いの鶏。といっても、夜は鶏舎に収容する。外敵から守るためと、卵を所定の場所で産ませるためだ。夕暮れ近くになって、あちこちにいる鶏たちを鶏舎に追い込むことを「鶏(とり)を追ふ」という。スケールは違うが、牛を集めてまわるカウボーイの仕事と同じだ。忙しい農家で「鶏を追ふ」のは、たいていが子供の仕事であった。小学生の私も毎夕追っていたが、なかには言うことを聞かないヤツもいて、暗くなっても探しまわったこともある。なにせ卵は農家の現金収入では大きな位置を占めていたので、一羽くらいいなくなってもいいやとはならないのである。梅雨が明ければ、ぬかるみに足を取られることもなく、この仕事は快適になる。地面は「梅雨明けのただちに蟻の影の道」(井沢正江)となるからだ。作者はその快適さを「鶏を追ふ」人の歩幅に象徴させている。一読して、私には納得できた句だ。作者は十代からセンスのよい俳句を書き、現在はシナリオ・ライターでもあって、映画『エイジアンブルー』(残念ながら、私は未見)の脚本などで知られている。
アカンサス凛然として梅雨去りぬ
かなか明けてくれませんね。長梅雨です。早く明けてくれとの願いを込めての今日の句の作者は、たぶん『偽れる盛装』『夜の河』などで知られる映画監督だろう。季語は「アカンサス」で夏だが、葉が春に咲く薊(あざみ)のそれに似ているので、和名を「葉薊」という。写真で見られるように、葉は薊よりも大きくて猛々しい感じがし、花は真っすぐな穂に咲き登る。そこが「凛然として」の措辞にぴたりと通じている。また、この「凛然として」は、アカンサスの姿の形容であると同時に、梅雨の去り際の潔さにも掛けられているのだと思う。今年のように、いつまでもうじうじととどまっていない梅雨だ。降るだけ降ったら(といっても、今回の九州豪雨のように過剰に降るわけじゃない)さっと引いて、あとにはまったき青空だけを残していく。そんなダンディズムすら感じさせる梅雨も、たしかに何年かに一度はある。ところで、アカンサスの元祖は南ヨーロッパだ。花よりも葉の形状が愛されていたようで、古代ギリシアやローマのコリント式やコンポジット式建築の柱冠の装飾に、アカンサス葉飾りとして図案化されている。そして、この葉飾りを、実は現代日本の私たちも日常的にしばしば目にしていることを知る人は、案外と少ない。手元に一万円札があったら、開いて表裏をよく見てください。上下の縁のところに細長くプリントされている文様が、他ならぬアカンサスなのです。あとは、賞状などの縁飾りにも、よくアカンサスが使われています。
梅雨明けや胸先過ぐるものの影
昨日までに、東海北陸地方以西で梅雨が明けた。関東甲信地方も昨日の空の様子からして、やっと今日あたりには明けてくれそうである。今年はあまり梅雨の晴れ間もみられず、長い雨期だったというのが実感だ。九州では、大出水による被害が甚大だった。これからは一気に暑さが高まるのだろうが、鬱陶しい梅雨の明ける解放感は心地よい。梅雨明けの喜びを何に感じるかは人さまざまだろうけれど、私は作者と同様に、まずは日の光りに感じる。強い日の光りは濃い影を生む。「胸先」を過ぎてゆくあれやこれやの「ものの影」は、つい昨日までのぼんやりとした影とも言えないような影とは違って、鮮明である。その鮮明さが楽しく、作者は胸をしゃんと張って歩いている。というわけで、掲句は喜びを視覚的に捉えた句だが、聴覚的、臭覚的に詠んだ句も多い。一つずつ例をあげておこう。本宮銑太郎の「梅雨明けのもの音の湧立てるかな」は、掲句の視覚的な素材をそっくり聴覚的に置き換えたような作品だ。朝の時間だろう。久しぶりに開け放った窓から入ってくる「もの音」は、世の中にはこんなにいろいろとあったのかと驚くほどに、次から次へと湧き立ってくるのであった。臭覚的に捉えた作品のなかでは、林翔の「梅雨明けや深き木の香も日の匂」が好きだ。ひとり、山中にある情景か。上掲の二句が胸弾むように詠んでいるのに比べて、この句は静かに染み入るような感情を醸し出している。
梅雨明けや井戸に広がる空の青
梅雨は色がどんよりとしていて水面も波打ちますが、空の青が移るすっきりとした晴れであることが分かります。真っ青な色がほの暗い井戸に移っている様子が爽やかさを演出しています。
   有名句
梅雨晴れの夕茜してすぐ消えし
梅雨の合間の晴れたところに夕焼けが見えたのだけれどすぐ消えてしまった。
梅雨の珍しい晴れ間に夕焼けが見えて嬉しい気持ちが伝わってきます。しかし、すぐ消えてしまったところに残念がる気持ちがにじみ出ていますね。
紫陽花や昨日の誠今日の嘘
アジサイが美しく咲いていることだ。昨日の姿が本当で今日の姿が嘘であるかのように色を移ろわせている。
アジサイの色が移ろいやすいことを、人の心や世間の無常さになぞらえています。梅雨は雨で外に出られないこともあり、考え事をしたくなる季節でもありますね。
五月雨をあつめて早し最上川
梅雨の雨が最上川に集まって流れが速くなっている。
五月雨は梅雨を指し、最上川は山形県を流れる川でです。川の流れが激しくなっている様子を力強く詠みあげています。
梅雨雲のうぐひす鳴けりこゑひそか
梅雨の雲が立ち込めているなか、ウグイスがひっそりと鳴いている。
梅雨の重苦しい天気とウグイスの爽やかな鳴き声が対比されて、美しい景色が思い浮かびます。ウグイスの声がどこからか聞こえてくる表現が句に奥行きを与えています。
大梅雨に茫々(ぼうぼう)と沼らしきもの
雨がザアザアとふる中でぼんやりと沼らしきものが見える。
梅雨の激しい雨の様子が詠まれています。何もかもがぼんやりと見えるほど激しい様子であることが分かります。茫々や沼という言葉が雨のもったりとした音を感じさせます。
物指をもつて遊ぶ子梅雨の宿
梅雨の時期で宿にいるが、旅館の子が物差しを持って遊んでいる。
雨で外に出られず、おもちゃでなく物差しで遊んでいる様子が雨のつまらなさを表現し面白くしています。見ている側は物差しもおもちゃになる点が雨のうっとおしさを忘れてしまいます。
梅雨荒し泰山木もゆさゆさと
梅雨で悪天候だ。タイザンボクもゆさゆさと揺れている。
泰山木は大きな木で、ゆさゆさと揺れるほどの大雨であることを示しています。激しい雨ですが、ゆさゆさという言葉が落ち着きを与えています。激しい中に安定感が感じられます。
梅雨の傘たためば水の抜け落つる
梅雨のなかで使った傘をたたむと滴が流れ落ちていく。
しっかりと濡れた傘の滴がゆっくりと落ちる様子が趣深さを感じさせます。梅雨空のどんよりとした様子に対して、美しい余韻が感じられます。
さみだれや青柴積める軒の下
梅雨で軒下にある青芝まで濡れている。
軒下の青柴(薪)に雨がかかって濡れている様子です。青柴は切りたての木で葉がついている状態です。つまり燃えにくい薪木が濡れるので、さらに燃えにくくなるという面白い表現です。
吊皮にごとりとうごく梅雨の街
電車の吊革を持って立っていると、梅雨空の車窓の景色が動いているようだ。
本来は景色ではなく電車が動いています。しかし、雨の降る街の景色は灰色で一つに見えるため、街自体が動いているように見えると作者は言っています。梅雨の街が絵画のように感じられる句です。
梅雨はげし右も左も寝てしまふ
梅雨が激しくなってきて、右を見ても左を見ても寝ている。
雨が激しくなると、灰色一色でつまらない景色になります。その様子が周りが寝てしまっていることから伝わります。梅雨のうっとおしさが周囲の様子から感じられます。
なかなかに足もと冷ゆる梅雨かな
結構足元が冷たくなる梅雨ですね。
雨が長続きする様子を足元が冷えで表現しています。雨で濡れ続けることを冷えという角度で表現しているところが面白いです。
大鯉の押し泳ぎけり梅雨の水
大きな鯉が梅雨の雨が降る中を押し泳いでいるよ。
雨で水面が波打つ様子と、大きな鯉がもろともせず泳いでいる様子が重なり、力強い句になっています。雨のなか優雅に押し泳ぐ鯉は非常に大きくて勇ましいことが伝わります。
梅雨の地にはずまぬ球は投げあげる
雨の地面で弾まないボールは投げ上げる。
「引いてもだめなら押してみろ」という言葉が思い浮かぶ句です。梅雨の重苦しさに対して、投げ上げるという言葉が爽快感を与えます。率直な表現が読み手に印象付けます。
梅雨の海平らならんとうねりをり
梅雨の海は穏やかでないぞとうねっている。
雨でしけている海の様子を代弁するかのような句です。平らにならないぞと言っているような表現が面白い点です。そう見えるほど波が何度も寄せている様子が伝わります。
   練習句
Yシャツ眩し 白南風の 丸の内
梅雨が明けて夏の風が感じられて上着を脱いだサラリーマンのYシャツの白が眩しい様子を詠んだ。
上五ではYシャツを着ているのが誰かわからないが、最後に「丸の内」でオフィス街と情景が分かる語順がいい。大したもんだ。七五五。初めてではすごい。驚きました。私でもできない。
矢印の 向かう先には 夏の匂い
梅雨はジメジメしていいイメージがない。梅雨明けの時に(道路の)矢印の先には楽しい夏が待っているとシンプルに詠んだ。
いいが、この俳句を見ただけでは「矢印」が何の矢印かわからない。写真を見ている人には道路の矢印と思うけど。下五が一音多い。「夏匂い」でいい、この程度の句ならそれでいい。「矢印」はフジモン先生の言うとおり。映像が見えてない。「矢印の 先に夏空 匂い立つ」
梅雨晴れの 水たまりのビル 跳び越えて
長い梅雨が明けてワクワクしながら道を歩いていたら、水たまりにビルが映っていて飛び越えたくなるようなウキウキした気持ちを詠んだ。
写真そのまま。そのまま字に起こした感じが否めない。写真見て書いたなら素晴らしい。俳句とはそういうもの。「水たまりの ビル跳び越えて 梅雨の晴れ」
たまり水 漣走って 夏が来(き)ぬ
風が吹いて水たまりにさざなみが立って、夏の風景が映し出されてもう梅雨が明けたんだなという心情。
たまり水って汚い。水たまりの方がいい。ファンから頂いた俳句なんか読んでるからロクなことがない。「水たまりの 小さき漣 夏来たる」
空梅雨や てるてる坊主 寂しげに
発想を飛ばして写真ではなく、てるてる坊主を主役に考え、てるてる坊主の気持ちを詠んだ。空梅雨では自分の仕事がなくて寂しいのかなという気持ち。
師匠を間違ってる。こんなのを参考にしてるとロクな俳人にならない。梅雨にてるてる坊主は当たり前。凡人の発想でどこにも飛ばしてない。こんなの目標にしているから。「空梅雨や てるてる坊主の 白まぶし」
歩行量調査 戻り梅雨の 無言
歩行量調査の係員に発想を飛ばした。季語は梅雨が明けた後の雨。雨の中、カウントするアルバイトの青年が無言でカチカチしているのが寂しげな情景なのを詠んだ。
素晴らしいですね。「歩行量調査」なんて早口言葉みたいなものを俳句にするとはすばらしい。この句の評価のポイントは「句またがりという型」を選んだ是非です。
道ばたの 花束ひとつ 虹立てり
写真の外側にありそうな花束に発想を膨らませた。道端によく花束置いてありますよね、事件か事故か。そういうことがあったと思います。そしてふっと空を見たら虹が出ているという気持ちを詠んだ。
悲しすぎません?  
 
 
 

 

芭蕉
●芭蕉が詠んだ「五月雨」は「梅雨」のことだった 
六月は雨の多い季節。歳時記の「夏」の天文には「夏の雨、卯(う)の花腐(くた)し、迎え梅雨、梅雨、五月雨(さみだれ)、送り梅雨、薬降る、虎が雨、夕立、喜雨」と夏の雨の名が並ぶ。
「同じように降る雨にこれほどの多くの名があり、その名がどれも情趣に富んでいることを知るだけで、この国がことばの豊かな国であることがわかります」と話すのは「草樹」会員代表の宇田喜代子さんだ。宇田さんが夏の雨を詠んだ句を紹介する。

家一つ沈むばかりや梅雨の沼   田村木国
大梅雨の茫々(ぼうぼう)と沼らしきもの   高野素十
牛小屋に出水の跡のまざまざと   棚山波朗
雨が長く降るだけでなく雨量が多く、雨脚もつよく沼の水嵩(みずかさ)が増えた様子の伝わる句です。昼となく夜となく雨が「シトシト」と降り、三和土(たたき)や畳や敷物などが「ジメジメ」と湿り、食べ物に黴(かび)が生じたり饐(す)えたりするのが梅雨なのですが、ときに掲句のようにはげしく降る年があります。そんな梅雨を「荒梅雨」と呼び、梅雨の豪雨による河川の氾濫(はんらん)を「出水(でみず)」または「梅雨出水」といいます。ところが年によって、本来であれば梅雨どきでありながら雨が降らず、梅雨の水をたよりにしていた田畑に被害がおよぶことがあります。「空梅雨」です。
本格的な梅雨を前にして長く降る雨を「卯の花腐し」といいますが、このころに咲く卯の花(空木/うつぎ )が腐ってしまうほどの雨というところからそう呼ばれることになった雨の名です。「卯の花腐し」につづいて「走り梅雨」「迎え梅雨」「梅雨入」とつづきます。「梅雨入」は「ついり」と読みます。このように梅雨の前後には「梅雨ナニナニ」と呼ばれることばが多くあり、そのほとんどが季語として歳時記に登載されていますので、「梅雨」の周辺季語、または傍題季語にも目を通しておくことです。
「梅雨晴間」もそんな季語のひとつです。読んで字の通りで、長い雨の期間にたまさか晴れる日のことをいいます。梅雨が上がって晴れることだという説もありますが、作句に際しては、多くが梅雨の晴れ間でよしとしています。加えて「梅雨晴れ間」とは表記せず「梅雨晴間」と書くほうが句が引き締まるように感じられますが如何でしょうか。
梅雨晴れの月高くなり浴(ゆあ)みしぬ   石橋秀野
病者睡(ね)て足裏くろし梅雨晴間   石田波郷
さて「梅雨」ですが、六月から七月にかけて北海道を除く日本列島を北上しながら約一か月居すわる「梅雨(ばいう)前線」のもたらす季節的な雨です。年によって北海道にもおよぶと聞きますが、きわめて稀(まれ)だとのことです。長い列島で最初に「梅雨入」が報じられるのが沖縄の五月。九州、本州を這(は)うようにして東北に至ります。東北の「梅雨明け」が七月下旬、というのが平均的な「梅雨前線」の動きです。かつては「梅雨入り」「梅雨明け」を何月何日と宣言していましたが、当今では各地域で「いよいよ梅雨ですね」「明けましたね」などと確認し合っています。
中国の揚子江以南で梅の実が熟すころに降るところから「梅雨」と呼ばれる雨ですが、これが「梅雨」と書かれて句に採用されるようになったのは明治以降のことで、江戸期の俳諧では「梅の雨」と書いていたようです。たとえば、
降音や耳もすふ成梅の雨   芭蕉
と、梅の実の酸っぱさにかけた句があります。江戸期には、この雨が旧暦五月(現在の六月)に降ることから、「五月雨」と呼ばれており、句作にも「五月雨」で残っています。
五月雨の降り残してや光堂   芭蕉 
五月雨をあつめて早し最上川   芭蕉
などが『奥の細道』の名吟として今も愛誦されています。
「五月雨」は「梅雨」のこと、さらにはいま「五月晴」と呼んでいる五月の晴天のそもそもは「梅雨晴間」だったのです。 
 

 

●芭蕉の発句について 
この書は芭蕉の全発句の評解である。では発句とは何かを説明する必要があろう。すでに平安時代から盛んであった連歌の、二句唱和でなく長く続ける鎖連歌くさりれんがの第一句目が発句である。連歌を継承して江戸時代に広く行われた俳諧の連句でも発端の第一句目を発句と言った。もっとも、連歌時代から発句は平句とは違うものと扱われてはいたが、俳諧になって発句を独立して鑑賞することも始り、独立して鑑賞されることを期待する発句も生れてきた。江戸時代後期になると、連句の発端の句としての発句を立句たてくと呼び、それ以外の発句を地発句じほつくと呼ぶ言い方も出てくる。本書では、芭蕉のいわゆる立句と地発句を網羅して評解の対象としたが、二種類の発句は性格の違うところもあるし、全体として多少の整理をして、本書を読む上での参考に資したい。
芭蕉が二十九歳で江戸に出府したとして、数年のうちに機知滑稽こつけいを主とした談林俳諧の宗匠となり、新進の宗匠として江戸俳壇に注目されるようになったことは、解説で述べられているからここでは深入りしないが、当時の談林俳諧は「折ふしの興にまかせて、ひやうふつと云いひ出いだす言葉の、みづからも腹をかヽへ、人の耳目をよろこばしめて、衆と共に楽たのしむを俳諧の骨子こつしとす」(脩竹堂著『俳諧或問わくもん』延宝六年刊)というようなものだった。そういう宗匠だった芭蕉が、延宝八年(一六八〇)の冬、宗匠稼業をやめて深川に退隠し、それ以後の作風に大きな転換があることは、これも解説に譲るが、それは当然、発句にも及ぶところである。
それまでの発句は、機知滑稽に類するものが多かった。ところが深川隠棲いんせい以後、単純な機知滑稽の遊びの発句はほとんど影を潜めるようになり、作者の感懐を吐露する、作者の主体性のある発句が詠まれるようになる。すなわち「茅舎ばうしやノ感/芭蕉野分のわきして盥たらひに雨を聞きく夜哉よかな」であり、「深川冬夜ノ感/櫓ろの声波ヲうつて腸はらわた氷ル夜やなみだ」である。こういう作者の感懐を端的に吐露するような発句はこれまでになかったところである。もっとも右に挙げた漢詩調のスタイルには中国の唐代の文人にみずからを擬し、俳諧隠者として敢あえて乏しきに堪えている自負と気取りが交錯していて、やがてこのような漢詩調は穏やかな表現に変ってゆくが、大観するとこれらの漢詩調が詠まれる頃から作者の主体性を持った発句が作られるようになると言えよう。そうしてこれらの作者の主体性の顕著な発句は、一句だけで独立して鑑賞されることを期待するようになる。
芭蕉は、連句の第一句目としての発句(立句)には軽い句を好んだ。土芳どほうの『三冊子さんぞうし』に「先師は懐紙のほ(発)句(連句の発句)はかろきを好まれし也」とある。この「かろき」は芭蕉が俳論として主張する「かるみ」とは異なる。この「かろき」は作者の主体性が強く出ない、さらりとした句のことで、連句の発句に作者の強い思い入れや、作者の胸中の深刻な感懐が述べられては、脇句わきく以下の展開が発句に縛られることを嫌ったのであろう。作者の人生観や重い激情を第一句目から吐露されては、一座の連衆がそれに引きずられて一座の興が自由闊達かつたつに盛り上がらない。連句は一座の連衆の共同制作であり、享受と創作が一体化して初めて一座の興が盛り上がる文芸である。余りに主体的な、重い第一句目では、以下の連句の自由な展開が制約されてしまう。芭蕉が「懐紙の発句(連句の第一句目の句)」には「かろき句を」好んだのは、連句の性質から考えて当然のことであり、事実芭蕉が作った連句の第一句目の発句には重い句はほとんどない。逆にいえば、重い句は連句の発句としては避けられている。
例えば、『おくのほそ道』に載っている「夏草や兵つはもの共どもがゆめの跡」は、元禄二年(一六八九)の旅中に平泉での感動によるものであるが、曾良の『旅日記』の「書留」には記載がない。しかし、元禄四年五月頃に成った『猿蓑さるみの』に収録され、その前、元禄三、四年頃、芭蕉に親しんだ洒堂しやどう・正秀共編の『白馬』に載り、芭蕉の真蹟の墨がまだ乾かないような染筆直後のものに拠ったとあるから、多分、元禄三・四年頃の作であろう。しかし、この句を発句にした連句はない。連句の発句とするには主情的だと考えられたのであろう。
荒海あらうみや佐渡さどによこたふ天河あまのがわ
文月ふみづきや六日むいかも常つねの夜よにハ似にず
この二句は共に越後路の今町、現在の直江津で土地の俳人たちに披露した句であるが、その俳人たちとの連句の発句に使われたのは「文月や」の句である。「荒海や」は重厚で深みがあるから、連句の発句には適しないと芭蕉は判断したのであろう。その日、七月六日は七夕の前夜であったから、「文月や」の句には土地の人びとに対する挨拶あいさつがあり、作者の主情的感懐が抑えられているので、連句の発句には「荒海や」の句より適していると芭蕉は判断したのであろう。
閑しづかさや岩いはにしみ入いる蝉せみの声こゑ
塚つかもうごけ我泣わがなく声こゑは秋あきの風かぜ
は連句の発句に採用されず、
涼すずしさを我わが宿やどにしてねまる也なり
さみだれをあつめてすヾしもがみ川
が連句の発句に使われている。前者の「涼しさを」は尾花沢の豪商で芭蕉を歓待した清風への挨拶の句であり、後者「さみだれを」は大石田で芭蕉をもてなした高野一栄への挨拶の句である。
こう見てくると芭蕉の発句に二種類あることが解るであろう。一つは連句の発句を中心に、広い意味での挨拶性を持った「かろき」句である。その場合、挨拶として詠みかける相手はたいてい連句会の主催者の亭主である。連句の第一句目でない挨拶の発句では、詠みかける相手は、例えば自分を温かく世話してくれた若妻に対し、「月さびよ明智あけちが妻の咄はなしせん」というようになる。たまたま訪ねた寺を称美しては、「守栄院/門もんに入いればそてつに蘭らんのにほひ哉かな」と詠む。膳所ぜぜ義仲ぎちゆう寺の芭蕉の草庵そうあんに人びとが訪い寄れば、「あられせば網代あじろの氷魚ひをを煮て出さん」と対応する。路通ろつうが奥羽におもむくと聞けば、「くさまくらまことの華見はなみしても来こよ」と贐はなむけする。「行春ゆくはるやあふみの人とお(を)しみける」は「志賀辛崎に舟をうかべて、ひとびとはるをお(を)しみけるに」と前書があり、船中の人びとに呼びかけた句であろう。「我宿わがやどは蚊かのちい(ひ)さきを馳走ちそうかな」は幻住庵を訪ねて来た秋之坊あきのぼうに示した句だと言う。いずれも特定の人や特定の物に呼び掛けた挨拶あいさつの句である。
これに対して右のような立句や挨拶性の強い発句と違って、作者としての主体性のある句が一方で作られるようになることは前にも触れた。その初めは前述した深川退隠後の「芭蕉野分して」や「櫓の声波ヲうつて」の類の一連の句である。これらの句は、作者の胸中の鬱屈うつくつした思いを端的に吐露している。特定の誰かに呼びかけているのではなく、不特定の読者に自分の思いを訴えている。この二句のような字余りの激情的な表現は、前述のとおりやがて抑制されるが、次のような発句は、この種の系列に属するであろう。
猿さるを聞人きくひと捨子すてごに秋の風いかに(貞享元年、四十一歳)
荒海あらうみや佐渡さどによこたふ天河あまのがは(元禄二年、四十六歳)
病鳫やむかりの夜さむに落おちて旅ね哉かな(元禄三年、四十七歳)
秋深き隣は何をする人ぞ(元禄七年、五十一歳)
これらは自分のまわりの特定の人や物に呼び掛けた句ではなく、未知・既知を含めて不特定な人びとに向って自分の心中の或ある感慨を訴えている。「荒海や」の句は叙景句で、一見、作者の感懐を露骨に述べてはいないようだが、地上には押し寄せる激浪、空には無窮の彼方かなたに大きく流れる銀河と、天と地の自然の大観をざくっと掴つかみ、そのことによって自然に対比させられた人間の哀れを読む者に訴えている。「病鳫の」の句にしても、病気らしい雁かりが、秋の夜寒の折柄、近くに降りて旅寝をする気配だと、雁の様子を詠んだ句だが、それはまた定まった住居もなく、病勝ちで漂泊を続けている自分の旅寝の訴えでもある。近代詩で言えば、例えば「げにわれは/うらぶれて/こヽかしこ/さだめなく/とび散らふ/落葉かな。」(ヴェルレーヌ「落葉らくえふ」上田敏訳)なのである。
このような発句は芭蕉をまって初めて出現したと言えよう。それまでの連句の第一句目の発句や挨拶としての発句は、作者の主情的なものを強く訴えるところがなく、主体性に欠けていた。連句の第一句目の句であるためには作者の主体性は反って無用だし、特定の人に挨拶をするのに自己の感慨を押しつけることは挨拶にならないから、深川隠棲いんせい前の、すなわち蕉風俳諧前の芭蕉の発句に、作者の主体性を盛りこむことが弱かったのは当然かもしれない。だから蕉風俳諧の樹立に伴って、作者の主体的な、作者の人間の居る発句が出現し、文学としての俳句の道が切り開かれたと言えようか。
蕪村の俳諧は唯美的で芭蕉の俳諧とは大きく異なっていたが、しかも蕪村が芭蕉を尊敬してやまず、「芭蕉去さつてそのヽちいまだ年くれず」と詠むのは、芭蕉が文学としての発句を切り開いた先達だと信じていたからであろう。安永九年(一七八〇)六十五歳の蕪村は、訪れた門人の几董きとうに向って、「我むかし東武に在ありてひとり蕉翁の幽懐を探り、句を吐事瀟洒はくことせうしや、もはら『みなし栗』『冬の日』の高邁かうまいをしたふ。しかれども世人其その佳興をしらず。時に蕪村二十有七歳(下略)」(几董が蕪村との両吟歌仙草稿を春坡しゆんぱに与えた時の譲状)と語ったというが、『虚栗』『冬の日』時代は芭蕉が深川に退隠して以後三、四年間の時期で、前述のような主体的な発句に目覚めた頃である。芭蕉が自己の蕉風の確立に邁進まいしんした頃の作風に若い蕪村は感動したのである。
もっとも、断っておかなければならないが、主体的な句といっても、胸中の感慨を露骨に述べる句ばかりというのではない。作者が面白いと感じ、風情があると思った自然や事物の形状を訴えるのも作者の主体性のある句である。「辛崎からさきの松は花より朧おぼろにて」の句について、門人の其角や去来がそれぞれ意見を述べたところ、芭蕉は「我はたヾ花より松の朧にて、おもしろかりしのみ」と言ったことが『去来抄』などにあるが、作者が風景に感動したこころを形象化した発句を、私は作者の主体性のある句だというのである。「秋風や藪やぶも畠はたけも不破の関」「古池や蛙飛かはづとびこむ水のおと」「郭公ほととぎす声こゑ横たふや水の上」などもそうである。
なおまた、いわゆる立句たてくの中にも芭蕉をまって初めて詠めるような興趣の深い、文学的な句もある。例えば「梅若菜まりこの宿しゆくのとろヽ汁」「此道このみちや行人ゆくひとなしに秋の暮」のごときである。「水鶏くひな啼なくと人のいへばや佐屋さや泊どまり」はいわゆる立句であり、挨拶の句であるが、風流に身心を委ねている作者の安息感が伝わってくる。
さらにまた、挨拶的な発句と非挨拶的な発句と明確に一線が引けるというのでもないが、しかし、大観すると芭蕉の発句には右に述べたような二つの性向があると言えるのではあるまいか。そうして、立句や挨拶句以外の発句の中に、芭蕉らしい主体性のある文学的な句が多く、明治以後の近代文学の勃興の中で、詩人や小説家たちが心惹こころひかれたのは概してそういう句である。
島崎藤村にとって芭蕉の諸作は終生の伴侶はんりよであった。『飯倉だより』(大正十一年〈一九二三〉九月刊)の中の「芭蕉」に「酒のめばいとヾ寐ねられね夜の雪」を引いているが、いかにも藤村好みの句と言えよう。蒲原有明が「海くれて鴨の声ほのかに白し」を『春鳥集』(明治三十八年〈一九〇五〉七月刊)に引くのは、象徴詩を志した当時の有明らしい選択であろう。三木露風は『白き手の猟人』(大正二年九月刊)に「芭蕉」を収録して、子規の芭蕉批判に反論している。室生犀星や芥川龍之介を省略して、近代俳句作者として最も深く芭蕉に沈潜したのは加藤楸邨しゆうそんであり、中村草田男であろう。楸邨には『芭蕉全句』(上巻・昭和四十四年三月刊、下巻・昭和五十年三月刊)というすぐれた評釈書があり、同書に第二次世界大戦の米空軍の爆撃下「『閑しづかさや岩にしみ入る蝉の声』が、どのくらい切実に私の心に泌みこんだことか。物音もしない空屋ばかりの中にいて、『秋深き隣は何をする人ぞ』がどれほど私を惹きつけたか」と書いている。中村草田男は「能なしのねむたし我を行々子」を「芭蕉の作品中でも無類に好きなものである」と言い、「行く春や鳥啼き魚の目は泪なみだ」「閑さや岩にしみ入る蝉の声」「この秋は何なんで年よる雲に鳥」などを挙げる(「芭蕉の五句」『現代俳句講座』昭和三十一年六月)。
芭蕉が作者の主体性のある発句の道を切り開き、不特定の読者に思うところを訴えたことが、ここにまで及んでいるのである。そうして明治の子規による俳句革新の根幹は、いわゆる座の文学である連句を切り捨てて、不特定多数の人びとを読者対象にしたことであろう。連句はその一座の中にのみ創作と享受がある。これに対して子規は一座の人びとだけでなく、新聞や雑誌のマス・メディアによって不特定多数の読者を想定して俳句を作る道を考えた。不特定多数の読者に対し、作者からの一方通行、つまり独り合点に陥らないために「写生」のような方法も考案されたのではあるまいか。そこに俳句そのものの性格の変化も始ったに相違ない。子規は写生にこだわって、芭蕉を批判し、蕪村に肩入れしているが、芭蕉が発句において試みた、立句や挨拶でない新しい発句の道が、俳句の近代化につながっていることをもう一度考えてみたい。  
 

 

●『奥の細道』の底本 
――芭蕉自筆本の出現にふれて 平成八年十一月末『奥の細道』の芭蕉自筆本が出現したことが櫻井武次郎、上野洋三両氏によって報ぜられ、世間の注目を浴びた。
そこで本書収載の奥の細道には、新しく出現した自筆本と従来知られている曾良本との異同を詳細に記した一覧表(久富哲雄編)を補説として添えたが、その対照表の意義を考え、これを十分に利用する上で参考になるように、奥の細道の成立や同書の主な諸本について略述することから始めたい。
芭蕉の紀行については、解説でそれぞれ述べてあるからここでは繰り返さないが、芭蕉は旅に出ると道中で人々に乞こわれて発句を入れた俳文をしばしば書いている。発句を欠くものもあり、旅中でなく旅のあとの執筆のものもある。もちろんそれらは紀行を書く準備として書かれたものではないが、結果として紀行を書く材料になったことであろう。中には紀行中にほとんどそのまま使われているものもある。それは芭蕉の紀行の『野ざらし紀行』『笈の小文』(未完成紀行であるから他の紀行と同列には論ぜられないが)、『更科紀行』『奥の細道』もみな同様である。例えば『奥の細道』の旅前・旅中・旅後に書かれた俳文には、まず「草の戸も住すみかはる世や雛の家」の句入り俳文があり、奥の細道本文中には直接出ないが「秣まぐさ負ふ人を枝折しをりの夏野哉」の句文、「山も庭にうごきいるヽや夏ざしき」の句文があり、ついで「木啄きつつきも庵いほは破らず夏木立」の句文、白河の関の句文、那須野が原の句文、高久たかくの宿しゆくのほととぎすの句文、「風流のはじめや奥の田植歌」の句文、「隠れ家や目だヽぬ花を軒の栗」の句文、石河の滝の句文、「早苗つかむ手もとやむかししのぶ摺ずり」の句文、「かさしまやいづこ五月のぬかり道」の句文、松島の文、羽黒山天宥てんゆう法印追悼の句文、象潟きさがたの句文、「あら海や佐渡によこたふ天河あまのがは」と「文月ふみづきや六日も常の夜には似ず」の句文、高田棟雪とうせつ亭での句文、「あかあかと日はつれなくも秋の風」の句文、「むざんやな甲かぶとの下のきりぎりす」の句文、「やまなかや菊はたおらじ湯のにほひ」の句文、曾良と離別の句文、浅水の橋の句文、敦賀・色の浜の句文、等々がある。つまり芭蕉は紀行執筆前に句を含む俳文(短文)をいくつも書き、これらを材料の一つにして紀行執筆を計っていたのではあるまいか。
今度出現した『自筆本奥の細道』を書く前にも、芭蕉は旅中・旅後に認めた句や俳文を材料にして草稿奥の細道を書いたかと推察される。いかに芭蕉が天才であっても、草稿のようなものなしに『自筆本奥の細道』を書き出したとは考えられない。草稿にも第一次草稿、第二次草稿があったかもしれない。第一次草稿の前には前記発句俳文等が材料になったであろう。そうして草稿を元に清書のつもりで書いたのが、今回出現した自筆本であろう。しかし清書したのち読み直すと(清書完了前にもそういう気付きはあったかもしれないが)、推敲すいこうしたいところが出て来て、始めのうちは小補訂にとどめようとしたかもしれないが、だんだん大補訂を施したくなり、一旦「芦野の条(清水流るるの柳)」のような大補訂をしたのちは、清書本としての完成を諦あきらめて、貼紙はりがみをして書き直したり、貼紙の上に更に貼紙をして訂誤するなど縦横に推敲を重ねるようになったかと推測される。
芭蕉という作者は自作の推敲に執心する作者である。例えば「さむき田や馬上にすくむ影法師」(真蹟詠草)を「冬の田の馬上にすくむ影法師」(如行子)と直し、更に「すくみ行ゆくや馬上に氷る影法師」(笈日記)と直し、更に「冬の日や馬上に氷る影法師」(笈の小文)と推敲するごときである。「芭蕉野分のわきして盥たらひに雨を聞く夜哉」(武蔵曲むさしぶり)は天和元年(一六八一)の作であるが、ずっと後年(多分元禄期)になってから「芭蕉野分盥に雨を聞く夜哉」(蕉翁句集)と直している。こういう推敲は芭蕉の全発句の一割を上回るのではあるまいか。
作者によっては一度世に発表した作品には手を加えない人がある。近代作家で言えば、夏目漱石は改作をしない側であり、その弟子の鈴木三重吉は改作をしないと気のすまない側であろう。最近で言えば、井伏鱒二氏は改作をする側であろう。作家としての芸術的良心が推敲や改作を迫って、旧作に手を入れずにはいられないのだと思われる。芭蕉は発句にも連句にも、紀行や俳文にもこの傾向が顕著である。
今回出現した自筆本奥の細道も、芭蕉は当初は清書本にするつもりだったであろうが、書き終えて読み返すうちに芸術的衝迫に突き上げられて推敲を重ねるようになり、折角清書本を意図して書かれたものを草稿本にしてしまった。
奥の細道に限らず、芭蕉の作品は、発句・連句・散文とも推敲によって格段とよくなる。多少の例外はあるが九分どおりは飛躍的に輝きを増すのが芭蕉の推敲である。奥の細道についても同様で、芭蕉は折角自筆で清書したものを、読み返すうちに縦横に推敲して清書本を草稿本にしてしまったが、しかしこの推敲改作によって奥の細道が一段とすぐれた作品になったことは疑いない。
これまで奥の細道の拠よるべき本文としては、曾良本・西村本(素龍本)・柿衛かきもり本が知られていた。曾良本は、今回出現した自筆本を芭蕉が門人(上野洋三氏は蕉門の野坡やばの仲間で同じく蕉門の利牛と推定する)に依頼して清書させた本(のちに曾良に与えられて伝来)で、自筆本と較くらべてみても非常に忠実な書写であることが解る。芭蕉の書体・書風についてまでもかなりよく模写している。芭蕉はこれを自分用の清書本(定稿)にするつもりだったと思われるが、読み返しているうちにまた推敲を加えたくなったらしい。それは前述のような芭蕉の生来の性向であって、芭蕉にとって止むに止まれぬ内心の衝迫だったのではあるまいか。
まず芭蕉自身による第一次清書本(自筆本)に大きな推敲が施されたことは前述のとおりであるが、その推敲の成果を丁寧に写した第二次清書本(利牛筆写かと推定)に対し、芭蕉は重ねて推敲を施したことになる。それによって奥の細道は一層磨きがかけられたが、結果として第二次清書本(曾良本)も一種の草稿本となった。そこで芭蕉は第三次清書本を作ろうと、蕉門の能書家である素龍に書写を依頼した。素龍は書家として美麗な書写を意図し、必ずしも原本に忠実な書写にこだわらず、例えば原本の漢字を仮名書きに改め、逆に仮名を漢字に改め、送り仮名を補ったり省いたり、その他書家としてある程度自由に裁量して書写した。今日解っている素龍筆写本の二本のうち最初に素龍が写した本は仮名書きを多くした本で、これが柿衛かきもり本である。多分芭蕉に注意され再度の書写を要請されたのであろう、のちに漢字を多くした本を別に書いた。芭蕉はこの写本に自分で書名を書いた題簽だいせんを貼って自家用とした。これが素龍筆芭蕉所持本(素龍本)とか西村本とか呼ばれる本である。この写本に付した素龍の跋文ばつぶんのあとに「元禄七年初夏」とあり、素龍は四月に泊りがけで芭蕉庵を訪れているから、多分その折持参したものであろう。その時芭蕉が詠んだ「卯うの花やくらき柳の及およびごし」やその頃の素龍の動静から、前記「元禄七年初夏」は、初夏といっても四月下旬かと推定される(全発句四六三ページ参照)。ついでに言えば元禄七年の立夏は四月十四日であるが、芭蕉は暦の上の四季区分に必ずしも従わず、四・五・六月を夏季としている(拙著『芭蕉と俳諧史の研究』所収「芭蕉の四季区分」参照)。
その頃四月から五月初旬まで芭蕉はずっと持病に悩んでいた(四月七日付乙州宛書簡・五月二日付推定杉風宛書簡)。そうして五月十一日に江戸を立って帰京の途につくのである。当然出立前は雑用が多かったであろう。例えば、旅に同行させた次郎兵衛の母寿貞じゆていの身の振り方も考えねばならなかったであろうし、餞別せんべつ句会もあった(子珊亭しさんてい句会・山店さんてん両吟歌仙)。そこで私が思うには、芭蕉は出立前に素龍本を丁寧に読み返す暇はなかったのではないか。丁寧に読めば素龍の明らかな誤写などはきっと訂正したくなったはずである。芭蕉は素龍本に手を入れることなく、そのまま旅に携帯し、同書は郷里伊賀上野の兄半左衛門の閲覧に供されて同家に遺のこり、芭蕉は十月十二日大坂に客死する。遺言によって同書は去来に贈られた。
もし芭蕉が自筆本を書写した曾良本に推敲を加えたように、素龍本に対しても多少でも推敲を加えたならばそれを奥の細道の定稿としたいのであるが、素龍本は前述のとおり原本に忠実な書写とは言えず、芭蕉の推敲の跡は全く見られない。そこで翻刻の底本としては、自筆本の忠実な写しである曾良本に芭蕉が更に丁寧な推敲を施した芭蕉推敲曾良本を当てることにし、同書と自筆本との異同の対照一覧表を付載したのである。
とは言え自筆本の出現によって奥の細道研究が今後飛躍的に進展することは疑いがない。今までの通説が覆くつがえされることは枚挙に暇いとまがないであろう。私自身も過去に述べたことを自筆本の出現で正さなければならないことが多い。例えば、「蚤虱馬の尿する枕もと」の「尿」を曾かつてはシトと読むのが通説であった。もっとも芭蕉の発句を集めた最初の句集である『泊船集』には「馬のはりこく」とあり、支考の『俳諧古今抄』には「馬の尿ハリつく」と読み仮名があり、曾良本にも「ハリ」と読み仮名がある。バリは馬や獣の小便で、バリコクまたはバリツクと言うことを前田金五郎氏は詳説された(「連歌俳諧研究」第二十号、昭和三十五年十月)。それでも私は馬など獣にはバリコク、バリツクといってバリスルとは使わないし、バリといっては穢きたないばかりだから、ここは言わば「馬がおしっこをする」とでもいうような言い方であろうとし、シト説に加担した。
しかし新出の自筆本には「尿シト前の関」にシト、「尿バリする」にバリと読み仮名がつけてある。シト説の誤りは明らかである。ただ芭蕉が「尿バリこく」とか「尿バリつく」とかしなかったのは、卑穢ひえ化を多少はばかったためとすれば、私の説も多少生かされていると言えるかもしれないが。その外にも私の旧説の正すべきことは多いが紙白が尽きたので、次の機会に詳説して訂正したい。 
 
 
 

 

●芭蕉の紀行 
野ざらし紀行 
貞享元年(1684)8月〜貞享2年4月末 芭蕉41歳
貞享元年(1684)8月、芭蕉は門人千里を伴い、初めての文学的な旅に出る。東海道を上り、伊勢山田・伊賀上野へ。千里と別れて大和・美濃大垣・名古屋・伊賀上野へ帰郷し越年。奈良・京都・大津・名古屋を訪ね、江戸へ帰るまでの9か月にも及ぶ旅。「野ざらし」を心に決意しての旅であっただけに収穫も多く、尾張連衆と巻いた『冬の日』は風狂精神を基調として、新風の萌芽がみられる。
紀行文の名称は、『草枕』『芭蕉翁道の記』『甲子吟行』など多数みられるが、今日では『野ざらし紀行』が広く用いられている。「漢詩文調」からの脱却と蕉風樹立の第一歩となる。芭蕉自筆の画巻や元禄11年(1689)刊の『泊船集』などの刊本の形で伝わっている。
   野ざらしを心に風のしむ身哉
   秋十ととせ却かえって江戸を指さす古郷
   霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白おもしろき
   猿を聞人きくひと捨子に秋の風いかに
   道のべの木槿むくげは馬にくはれけり
馬に寝て残夢ざんむ月遠し茶のけぶり
三十日みそか月なし千年ちとせの杉を抱だくあらし
芋いも洗ふ女西行おんなさいぎやうならば歌よまむ
蘭らんの香かやてふの翅つばさにたき物す
蔦植つたうゑて竹四五本のあらし哉
   手にとらば消きえん涙ぞあつき秋の霜
   わた弓や琵琶びはになぐさむ竹のおく
   僧朝顔幾死いくしにかへる法のりの松
   碪打きぬたうちて我にきかせよや坊が妻
   露とくとく試みに浮世すゝがばや
御廟ごべう年経て忍しのぶは何をしのぶ草ぐさ
義朝よしともの心に似たり秋の風
秋風や藪やぶも畠はたけも不破ふはの関
死にもせぬ旅寝たびねの果はてよ秋の暮
冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす
   明けぼのや白魚白きこと一寸
   しのぶさへ枯かれて餅買ふやどり哉
   狂句木枯こがらしの身は竹斎ちくさいに似たる哉
   草枕犬も時雨しぐるるかよるのこゑ
   市人いちびとよ此この笠うらう雪の傘
馬をさへながむる雪の朝あした哉
海暮れて鴨の声ほのかに白し
年暮くれぬ笠きて草鞋わらぢはきながら
誰たが聟むこぞ歯朶しだに餅おふうしの年
春なれや名もなき山の薄霞
   水とりや氷の僧の沓くつの音
   梅白し昨日きのや鶴を盗ぬすまれし
   樫かしの木の花にかまはぬ姿かな
   我がきぬに伏見の桃の雫しづくせよ
   山路来て何やらゆかしすみれ草
辛崎からさきの松は花より朧おぼろにて
命二つの中に生たる桜哉
いざともに穂麦ほむぎ喰くらはん草枕
梅恋ひて卯花うのはな拝む涙哉
白しろげしにはねもぐ蝶てふの形見哉
   牡丹ぼたん蘂しべふかく分出わけいづる蜂の名残哉
   行駒ゆくこまの麦に慰むやどり哉
   夏衣いまだ虱しらみをとりつくさず 
鹿島紀行 
貞享4年(1687)8月 芭蕉44歳
貞享4年(1687)8月14日、芭蕉が名月を見るため、門人曾良・宗波を伴い鹿島、潮来方面へでかけた旅。深川芭蕉庵から舟で行徳へ。陸路で八幡・釜ヶ井(谷)・布佐。夜舟で鹿島根本寺に至る。翌日、鹿島神宮に参詣し、芭蕉参禅の師といわれる仏頂和尚を訪ねて1泊し、雨間の月見をする。
紀行文『鹿島詣』は、短編であるが風月の趣に溢れている。前半は〈月見の記〉でありながら、紀行文に重きを置く。後半は発句を一括し、月見の句と旅の句を分離する。芭蕉が本格的な紀行文を執筆するための出発となった重要な作品である。芭蕉の真蹟を元にして出版された二系統の刊本がある。
   月はやし梢は雨を持ながら
   寺に寝てまこと顔がほなる月見哉
   この松の実生みばえせし代や神の秋
   刈りかけし田面たづらの鶴や里の秋
   賤しづの子や稲摺すりかけて月を見る
萩原や一夜はやどせ山の犬
芋の葉や月待まつ里の焼畑 
笈の小文 (おいのこぶみ) 
貞享4年(1687)10月25日〜貞享5年(1688)4月23日 芭蕉44歳〜45歳
貞享4年(1687)10月25日、芭蕉は江戸を発ち、東海道を上り尾張の鳴海・熱田へ。門人越人を伴い、伊良湖岬で杜国を見舞う。再び鳴海・熱田・名古屋で当地の俳人たちから歓迎を受けて連日句会に出席。歳末に伊賀上野へ帰郷して越年。伊勢で杜国に会い、再度伊賀上野へ帰郷し父の33回忌を営む。春、杜国と連れ立ち、花の吉野へと向かう。和歌の浦・奈良・大坂・須磨に至り、4月23日に京都に入るまでの6か月の旅。
芭蕉は旅から数年を経た頃に、この紀行文の成立に向け力を注いだが、未定稿のまま門人乙州に預けて江戸に戻る。芭蕉没後15年を経た宝永6年(1709)に乙州が刊行する。『笈の小文』や、卯年(貞享4年)から辰年(同5年)に至るので『卯辰紀行』とも称する。序文で、芭蕉の「道すがらの小記を集め」たものと述べているように、風雅論、紀行論、旅論等が収載されており、必ずしもまとまった紀行文ではないが、長編よりも短編紀行文的な発想や、発句を一まとめにして作品に発表されたことが注目される。
   旅人と我名呼ばれん初しぐれ
   星崎の闇を見よとや啼(なく)千鳥
   京まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲
   寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき
   冬の日や馬上に氷る影法師
鷹一つ見付てうれしいらご崎(ざき)
磨(とぎ)直す鏡も清し雪の花
箱根越す人も有(ある)らし今朝の雪
ためつけて雪見にまかる紙衣(かみこ)哉
いざ行(ゆか)む雪見にころぶ所まで
   香を探る梅に蔵見る軒端(のきば)哉
   旅寝して見しやうき世の煤(すす)払ひ
   歩行(かち)ならば杖突(つゑつき)坂を落馬哉
   旧里(ふるさと)や臍(へそ)の緒(を)に泣(なく)年の暮
   二日にもぬかりはせじな花の春
春立(たち)てまだ九日の野山哉
枯芝ややゝ陽炎(かげろふ)の一二寸
丈六(じやうろく)にかげろふ高し石の上
さまざまの事思ひ出す桜哉
何の木の花とは知らず匂(にほひ)哉
   裸にはまだ衣更着(きさらぎ)の嵐哉
   此(この)山のかなしさ告(つげ)よ野老掘(ところほり)
   物の名を先(まづ)問ふ芦(あし)の若葉哉
   梅の木に猶(なほ)やどり木や梅の花
   芋植(うゑ)て門(かど)は葎(むぐら)の若葉哉
御子良子(おこらご)の一本(ひともと)ゆかし梅の花
神垣(かみがき)や思ひもかけず涅槃像(ねはんざう)
吉野にて桜見せうぞ檜(ひ)の木笠(きがさ)
草臥(くたびれ)て宿借(か)る比(ころ)や藤の花
春の夜や籠(こも)り人(ど)どゆかし堂の隅(すみ)
   猶見たし花に明行(あけゆく)神の顔
   雲雀(ひばり)より空にやすらふ峠哉
   龍門の花や上戸(じやうご)の土産(つと)にせん
   酒飲みに語らんかゝる滝の花
   ほろほろと山吹散るか滝の音
桜狩(が)り奇特(きどく)や日々に五里六里
日は花に暮てさびしや翌檜(あすならう)
扇にて酒汲(く)む影や散る桜
春雨の木下(こした)につたふ清水哉
父母(ちちはは)のしきりに恋ひし雉の声
   行春(ゆくはる)に和歌の浦にて追付(おひつき)たり
   一つ脱(ぬ)いで後(うしろ)に負(おひ)ぬ衣がへ
   灌仏(くわんぶつ)の日に生(うま)れあふ鹿(か)の子哉
   若葉して御目(おんめ)の雫拭(ぬぐ)はゞや
   鹿の角先一節(まづひとふし)の別れかな
杜若(かきつばた)語るも旅のひとつ哉
月はあれど留守のやう也須磨の夏
月見ても物たらはずや須磨の夏
海士(あま)の顔先(まづ)見らるゝや芥子(けし)の花
須磨の海士の矢先に鳴(なく)か郭公(ほととぎす)
   ほとゝぎす消行方(きえゆくかた)や島一つ
   須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇(こしたやみ)
   蛸壺(たこつぼ)やはかなき夢を夏の月 
更科紀行 
貞享5年(1688)8月11日〜8月下旬 芭蕉45歳
貞享5年(1688)8月11日、芭蕉は門人越人を伴い岐阜を発ち、信州更科へ名月を見る旅に出る。木曾街道を寝覚の床・木曾の棧橋(かけはし)・立峠(たちとうげ)・猿が馬場を経て、8月15日夜、更科に到着。姨捨山の名月を見て、善光寺より碓氷峠を経て8月下旬、江戸へ帰る。それまでの旅とは違い、門人知己を頼らない旅で、それだけに旅情も深いものがあった。
紀行文『更科紀行』は作者の人生観や、旅中の僧の挿話を織り交ぜ興趣があり、また発句より散文を優位にした短編で整った作品である。芭蕉自筆の『更科紀行』(沖森文庫本)は、伊賀市所蔵の重要文化財になっている。
   あの中に蒔絵まきゑ書かきたし宿の月
   桟かけはしや命をからむ蔦つたかづら
   桟や先まづ思ひ出づ馬迎へ
   俤おもかげや姥うばひとり泣く月の友
   十六夜いざよひもまだ更科の郡こほり哉
ひよろひよろと尚なほ露けしや女郎花をみなへし
身にしみて大根からし秋の風
木曾の橡とち浮世の人のみやげ哉
送られつ別わかれつ果はては木曾の秋
月影や四門しもん四宗ししゆうも只一ただひとつ
   吹ふき飛ばす石は浅間の野分のわき哉 
おくのほそ道 
元禄2年(1689)3月27日〜9月6日 芭蕉46歳
元禄2年(1689)3月27日、芭蕉は門人曾良を伴い江戸を発ち、奥羽・北陸の各地をめぐり、8月20日過ぎに大垣へ着くまでの、距離約六百里(約2,400キロ)、日数約150日にも及ぶ長旅である。旅の目的は、歌人能因や西行の足跡を訪ね、歌枕や名所旧跡を探り、古人の詩心に触れようとした。芭蕉は各地を旅するなかで、永遠に変化しないものごとの本質「不易」と、ひと時も停滞せず変化し続ける「流行」があることを体験し、この両面から俳諧の本質をとらえようとする「不易流行」説を形成していく。また旅をした土地の俳人たちとの交流は、その後の蕉門形成や、紀行文『おくのほそ道』に大きな影響をもたらす。
『おくのほそ道』は随行の曾良が旅の事実を書き留めた『曾良旅日記』と相違があり、芭蕉は文芸作品として執筆している。和漢混交文の格調高い文章でまとめられ、芭蕉の紀行文としては最も長編で、かつ質的にも生涯の総決算的な意義をもつ。書名は文中の「おくの細道の山際(やまきは)に十符(とふ)の菅(すげ)有(あり)」の地名による。芭蕉自筆本、素龍清書本、曾良や去来へ伝えられた本があり、去来の本を元に刊行された版本がある。
   草の戸も住替すみかはる代ぞ雛ひなの家
   行ゆく春や鳥啼なき魚の目は泪
   あらたふと青葉若葉の日の光
   暫時しばらくは滝に籠るや夏げの初はじめ
   夏山に足駄あしだを拝む首途かどで哉
木啄きつつきも庵いほは破らず夏木立なつこだち
野を横に馬牽向ひきむけよほとゝぎす
田一枚植うゑて立たち去る柳かな
風流の初はじめや奥の田植歌
世の人の見付つけぬ花や軒の栗
   早苗とる手もとや昔しのぶ摺ずり
   笈おひも太刀も五月さつきにかざれ帋幟かみのぼり
   笠島はいづこ五月のぬかり道
   桜より松は二木ふたきを三月越みつきごし
   あやめ草ぐさ足に結むすばん草鞋わらぢの緒
夏草や兵つはものどもが夢の跡
五月雨さみだれの降ふり残してや光堂
蚤虱のみしらみ馬の尿ばりする枕もと
涼しさを我わが宿にしてねまる也
這出はひいでよ飼かひ屋が下の蟾ひきの声
   眉掃まゆはきを俤おもかげにして紅粉べにの花
   閑しづかさや岩にしみ入いる蝉の声
   五月雨を集めて早し最上川
   有難ありがたや雪をかをらす南谷
   涼しさやほの三日月の羽黒山
雲の峰幾つ崩くづれて月の山
語られぬ湯殿ゆどのにぬらす袂たもとかな
あつみ山や吹浦ふくうらかけて夕涼み
暑き日を海に入れたり最上川
象潟きさがたや雨に西施せいしが合歓ねぶの花
   汐越しほごしや鶴脛はぎぬれて海涼し
   文月ふみづきや六日も常の夜には似ず
   荒海や佐渡さどに横たふ天河あまのがは
   一家ひとつやに遊女も寝たり萩はぎと月
   早稲わせの香や分入わけいる右は有磯海ありそうみ
塚も動け我泣声わがなくこゑは秋の風
秋涼し手毎てごとにむけや瓜茄子うりなすび
あかあかと日は難面つれなくも秋の風
しをらしき名や小松こまつ吹ふく萩はぎすゝき
むざんやな甲かぶとの下のきりぎりす
   石山の石より白し秋の風
   山中やまなかや菊はたをらぬ湯の匂にほひ
   今日よりや書付かきつけ消さん笠の露
   庭掃はきて出いでばや寺に散ちる柳
   物書かきて扇引ひきさく余波なごり哉
月清し遊行ゆぎやうの持てる砂の上
名月や北国日和びより定さだめなき
寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋
浪なみの間まや小貝こがひにまじる萩はぎの塵ちり
蛤はまぐりのふたみに別れ行ゆく秋ぞ 
 
 
 

 

●奥の細道 1 /  元禄2年3月27日〜9月6日(46歳) 

月日は二度と還らぬ旅人であり、行きかう年もまた同じ。船頭として舟の上で人生を過ごす人、馬子として愛馬と共に老いていく人、かれらは毎日が旅であり、旅が住いなのだ。かの西行法師や宗祇、杜甫や李白など、古の文人・墨客も、その多くは旅において死んだ。私もいつの頃からか、一片のちぎれ雲が風に流れていくのを見るにつけても、旅への想いが募るようになってきた。『笈の小文』の旅では海辺を歩き、ひきつづき『更科紀行』では信濃路を旅し、江戸深川の古い庵に戻ってきたのはたった去年の秋のこと。いま、新しい年を迎え、春霞の空の下、白河の関を越えよとそそる神に誘われて心は乱れ、道祖神にも取り付かれて手舞い足踊る始末。股引の破れをつづり、旅笠の紐を付け替えて、三里に灸をすえてみれば、旅の準備は整って、松島の月が脳裡に浮かぶ。長旅となることを思って草庵も人に譲り、杉風の別宅に身を寄せて、
   草の戸も住替る代ぞひなの家
これを発句として、初折の八句を庵の柱に掛けて置いた。
千住旅立ち:元禄2年3月27日
今日、陰暦三月二十七日。あけぼのの空は春霞にかすみ、有明の月はすでに光を失って、富士の峰がうっすらと見えてきた。上野や谷中の桜の花には、また再び相まみえることができるのだろうかと、ふと不安が心をよぎる。親しい人々はみな前夜からやってきて、共に舟に乗って見送ってくれる。千住というところで舟をあがると、前途三千里の遥かな旅路が胸に迫って、夢まぼろしの世とはいいながら、別離の悲しみに、涙が止まらない。
   行春や鳥啼魚の目は泪
この句を、この旅の最初の吟とはしたものの、後ろ髪を引かれて足が前に進まない。見送りの人々は道の真ん中に立って、後ろ姿がみえなくなるまで、見送ってくれた。
草加
今年は元禄二年だとか。このみちのくへの長旅も、ただなんとなく思いついたまでのことだった。が、たとえ旅の苦しみにこの髪が白髪に変じようとも、話に聞くだけで未だこの目で見たことのない土地をぜひ訪ねてみたい。その上、生きて帰れるのであればこれ以上の望みはないと、あてにはならない期待をもって、この最初の日、ようやく草加の宿に到着した。痩せた肩には旅の荷物は堪える。身一つでと思いながらも、紙子は防寒のための夜着であってみれば持たざるを得ない。浴衣・雨具・墨や筆等々、あるいはまた断りきれない餞別などは、簡単に捨てるというわけにもいかず、足手まといとなるのは如何ともし難い。
室の八島  元禄2年3月29日
室の八島に参詣した。同行の曾良は、「ここの本尊は、木之花開耶媛 (コノハナサクヤヒメ)といって、富士浅間神社と同一神です。瓊瓊杵命(ニニギノミコト)との一夜の交わりで姫が懐妊したため、その貞操を疑われ、これに怒った姫は無戸室という出口を塞いだ産室に入って、もし不義があったのなら胎児もろとも焼け死ぬが、そうでなければ母子共に生きて還るであろうと言い残して、そこに火を放ち、猛火の中で火々出見尊 (ホホデミノミコト)を出産し、生きてその疑いをはらしたといいます。だから、ここを室の八島というのです。また、このような謂れがあったからこそ、ここが煙を主題とする歌枕となったのです」と言う。さらにまた、焼くと死臭がするというので、このしろという魚を食べることが禁じられている。ただし、このにおいを利用して、娘が死んだと、娘の提供を強要する国の守敵をあざむき、子の命を救った「子の代(このしろ)」という縁起伝説もあるという。
元禄2年4月1日
三十日、日光山の麓に泊まった。この旅籠の主人は、「世間の人はわしのことを仏の五左衛門と言うんだ。わしが万事正直を旨としてっから、人はこう言うんだんべぇ。だから安心して今夜一晩、ゆっくりと旅の疲れを取ってくんなんしょ」と言う。どんな仏がこの俗悪世間にやってきて、私たちのような乞食巡礼坊主などを助けてくれることやらと、主のやることを注視していると、ただただ愚直なまでの正直一点張り。論語に言う「剛毅木訥」の仁というやつで、その生まれつきの清らかな性質こそが何とも言えずすばらしい。
日光 元禄2年4月1日
四月の一日、日光山東照宮にお参りする。その昔、この御山は「二荒山」と書かれていたのを、弘法大師がこの御山を開いたときに音を合わせて「日光」と改めたという。大師は、千年の後のこの繁栄を予見されたのであろうか。東照宮大権現様以来の徳川家のご威光は、日の光のように天空に輝き、その恩沢は八方にあふれ、士農工商すべての人々はみな安堵した生活をおくっている。なお、書くべきことは沢山あるが、おそれ多いので筆を擱く。
   あらたふと青葉若葉の日の光
黒髪山・曾良
黒髪山は霞がかかって、真っ白な雪が残っていた。
   剃捨て黒髪山に衣更  曾良
曾良は、本名河合惣五郎という。深川芭蕉庵のそばに居を構え、私の朝夕の飲食を助けてくれる。このたび、松島や象潟を一緒に旅することを喜び、また、旅の苦労を助けようと、墨染めの衣に着替えて、その名も惣吾を改め宗悟としたのである。よって、このような黒髪山の句を詠んだのだが、特に「衣更」の二文字に言葉の力を感ずる良い句だ。
裏見の瀧 元禄2年4月2日
東照宮からおよそ二・五キロほど上がったところに滝がある。水は、岩壁の頂上から飛び散って三十メートル。ごつごつした岩でできた真っ青な滝壺に落下する。岩窟に身体をよじって入ると、裏側から滝を見られるので「裏見の滝」と言い伝えられている。
   暫時は滝に籠るや夏の初
那須の黒羽へ  元禄2年4月2・3日
那須の黒羽というところに知人がいるので、ここから「道多きなすの御狩の矢さけびにのがれぬ鹿のこゑぞ聞ゆる」の歌で知られた那須野を横切って、近道を行こうとした。遥か前方の一村を目ざして行くに、雨が降ってきて、日も暮れてきた。農夫の家に一晩泊めてもらい、朝になってまた野中を行く。
そこに馬が一頭草を食んでいた。草刈の農夫に事情を話すと、田舎者だが情け知らずではない。「どうすっぺぇか? この野原は道があっちこっちに分かれてて、他所者には迷うだんべ。わしも心配だから、この馬に乗ってって、この馬が止まるとこでこれを返してくんなんしょ」と言って馬を貸してくれた。
子供たちが二人、馬の後を追ってきた。一人は少女で、その名を「かさね」という。聞きなれないものの、かわいい名前なので、
   かさねとは八重撫子の名成べし  曾良
まもなく人里に着いたので、謝礼を鞍壺に結わえて馬を返した。
那須八幡 元禄2年4月4日
黒羽藩の城代家老浄坊寺某の館を訪ねた。この突然の再会を予期していなかった館の主は大喜び。うれしくて毎日毎夜語り続けた。彼の弟の桃翠などは朝夕ここへ通いつめ、また自分の家にも招いてくれたりした。一族の方々にも招待されるなど日数を重ねていたある日、郊外を散策し、犬追物の跡を見た足で、実朝の歌「ものゝふの矢なみつくろふ小手の上にあられたばしるなすのしのはら」で有名な那須の篠原を通って、玉藻の前の墓にお参りした。そこから那須八幡宮に参詣した。屋島の合戦で、あの扇の的を打ち落としたとき、那須与一は「南無八幡大菩薩、別して我が氏神正八幡」と祈ったと語り継がれているが、その正八幡こそこの神社だと聞けば、感激はひとしおである。一日が終わって桃翠宅に帰った。
佛頂和尚山居跡 元禄2年4月5日
下野国雲巌寺の奥に、わが参禅の師である仏頂和尚の座禅修行の跡があるという。
   竪横の五尺に満たぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭で岩に書いておいた、といつか師から聞いたことがあった。そこで、その山居の跡を見ようと雲巌寺に向けて出発した。人々も誘い合ってやってきた。若い人たちが多く、道々にぎやかに騒ぎながら行ったので、麓までは思いがけず早く到着した。雲巌寺の山内は森々として、谷道はどこまでも続き、松や杉は苔むして濡れ、四月だというのに冷え冷えとする。雲巌寺十景の終わるところに橋があり、それを渡って山門に入った。
さて、山居の跡は何処かと探しながら、後ろの山を登っていくと、小庵が巌にもたれるようにして造ってあった。南宋の高僧妙禅師の死関、法雲法師の石室を見ているような気がしてきた。
木啄も庵はやぶらず夏木立
と即興の句を庵の柱に残してきた。
修験光明寺 元禄2年4月9日
修験光明寺という寺がある。そこに招待されたので、行者堂を拝観してきた。 
   夏山に足駄を拝む首途哉 (なつやまに あしだをおがむ かどでかな)
殺生石 元禄2年4月19日
黒羽から殺生石に行った。黒羽の城代に馬で送られたのだ。その馬方が、「短冊に一句したためて下せえ」などと思いがけないことを言う。そこで、
   野を横に馬牽むけよほとゝぎす
殺生石は温泉神社のすぐ後ろにあった。石の毒気が未だに残っていて、蜂や蝶などが、土が見えないほど沢山折り重なって死んでいた。
遊行柳 元禄2年4月20日
また、西行法師の歌「道のべにしみづ流るゝ柳かげしばしとてこそ立どまりつれ」と詠まれた柳の木は、芦野の里にあって、田んぼの畔道に残っていた。ここの領主である戸守某が「この柳をぜひお見せしたい」と折にふれて語っていたので、ぜひ一度見たいものだと思っていたのだが、ついに今日こうして柳の下に立ち寄ることができた。
   田一枚植て立去る柳かな
白川の関 元禄2年4月21日
ここまでは、なんとなく不安な気分が続いていたのだが、白河の関にかかった頃からようやく旅の心も定まってきた。「便あらばいかで都へ告やらんけふ白川のせきはこゆると」の平兼盛の歌(『類字名所和歌集』)のように、親しい人に伝えたくなる気持ちがよく分かる。
この関所は、勿来・鼠の関と共に三関の一つで、古来、多くの歌人の心を魅了してきた。能因法師の歌「都をば霞とゝもに出しかど秋風ぞふくしら河のせき」からは秋風が聞こえるようだ。左大弁親宗の「もみぢ葉の皆くれなゐに散しけば名のみ成けり白川の関」からは秋の紅葉を連想し、源三位頼政は「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしくしらかはのせき」と詠んだが、眼前の青葉の梢もまたすばらしい。藤原季通朝臣の歌「見て過る人しなければうの花の咲る垣根やしら河の関」に出てくる卯の花だけでなく、茨の花も咲き加わって、久我通光の歌「しらかはのせきの秋とはきゝしかどはつ雪わくる山のべの道」に出てくる雪よりも白く見える。竹田大夫国行は能因法師の歌に敬意を表し、この関を越えるにあたって衣服を改めたと、藤原清輔の『袋草紙』に書いてあるという。 
   卯の花をかざしに関の晴着かな  曾良
須賀川 元禄2年4月22日〜29日
このようにして白河の関を越え、やがて阿武隈川を渡った。左の方角には会津磐梯山が高くそびえ、右手には磐城・相馬・三春などの地方が続く。常陸・下野などとは山々によって隔てられている。影沼というところを通って行ったのだが、今日は空が曇っていて物影は映らなかった。
須賀川では等躬を訪ねて、四、五日逗留した。顔を見るや否や等躬は、「白河の関を越えるときどんな句さできたべか?」と尋ねる。私は「長旅に心身ともに疲れ、しかも景色にすっかり心を奪われ、白河での数々の歌人たちの想いに腸も千切れるほどで、はかばかしい句もできずに終わってしまいましたよ。それでも、何も残さずに関を越えるのはどうかとも思ったので、
   風流の初やおくの田植うた
と詠みました」と言うと、これを発句として脇・第三と続けてついに三巻の連句を巻いた。
この須賀川の宿場のすぐ傍に、多きな栗の木の下に庵をあんで、隠遁生活をしている僧がいるという。西行法師の歌「山深み岩にせかるゝ水ためんかつかつ落るとちひろふほど」の深山の閑寂さとは、さぞやこんな具合なのだろうと思えたので、懐紙につぎのような言葉を書きとめた。
栗という文字は西の木と書いて、西方浄土に縁があるというので、行基菩薩は一生涯、杖にも家の柱にも栗の木を用いられたという。
   世の人の見付ぬ花や軒の栗
安積山・信夫もじ摺り 元禄2年4月29日・5月1日・2日
等躬の家を辞して二十キロほど、日和田の宿駅を少し行ったところに安積山がある。街道筋からはすぐの場所。この付近は沼が多い。今が「かつみ」を刈る季節に近いと思われたので、どの草を「かつみ」と言うのかと土地の人々に尋ねてみたが、これを知る人は皆無。「かつみかつみ」と聞き歩いて、ついに日は山の端にかかってしまった。二本松より右に曲がって黒塚の岩屋を見て、福島に投宿した。
翌日は、「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆへにみだれんとおもふ我ならなくに」なる源融の歌で名高いもじ摺の石を訪ねて、忍ぶの里に行った。市街から遥かはなれた山かげの集落に半分土に埋もれたもじ摺石がある。村の子供たちがきて言うには、「昔、この石さ、山の上にあったんだけっども、もじ摺を試そうという人だちさぁやってきてぇ、麦を踏んづけっからあ、この谷底に落っこどしたら、石っこさひっくりけえって、面さ下になったんだでば」と言う。そんなことがあるのかとあきれかえって、
   早苗とる手もとや昔しのぶ摺 (さなえとる てもとやむかし しのぶずり)
佐藤庄司旧跡 元禄2年5月2日
月の輪の渡しを越えて瀬上という宿駅に出た。佐藤庄司の旧跡は、ここの左手十キロほど離れた山際、飯塚の鯖野にあると聞いたので道々尋ねながら行くと、丸山城というのに尋ね当たった。これが庄司の旧館である。麓に大手門の跡などが残っている。土地の人が語るこの城の悲話を聞いて涙を落とした。また、近くの古寺には佐藤一族の石碑が残っている。中でも、佐藤継信・忠信兄弟二人の妻の墓標は悲しい。彼女らは、二人の夫の戦死の後、甲冑に身を包んで亡き夫らの姿を装い、兄弟の母を慰めたなど、そのかいがいしい話が伝えられているにつけても涙を誘われる。まさに堕涙の「石碑は遠くにあらず」だ。
茶をいただこうと寺に入ってみれば、この寺の什宝は義経の太刀と弁慶の笈だ。
   笈も太刀も五月にかざれ帋幟 (おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり)
五月一日のことだった。
飯塚 元禄2年5月2日・3日
その夜は飯塚に泊まった。温泉があるので入浴してから宿を探したのだが、見つかった宿は、土間に筵を敷いただけの薄汚い貧乏家。灯火もないので、囲炉裏のそばに寝床を取って寝る。夜になって雷雨がひどく、寝ているところに雨が漏れてくる。しかも、蚤や蚊にくわれて眠られない。持病さえおこって、その心細さといったらない。
短い夜もようやく明けたので再び旅立った。しかし、前夜の不眠がたたって気分は晴れない。馬を借りて桑折の駅まで出た。
前途に遥かな旅路をひかえて、このような病気は覚束ない。だが、辺境の地に一身を捨てた旅であり、すべては諸行無常、路上に死んでもそれは天命なのだと、気力いささかふりしぼって、縦横に曲がった細道を踏みしめ踏みしめ、伊達の大木戸を越えた。
笠島 元禄2年5月4日
鎌倉に馳せ参ずる義経一行が馬の鐙を擦ったと言い伝えられる「鐙摺」の細道、白石の城下を過ぎて、笠島に入ってきた。藤中将実方の塚は何処かと人に尋ねると、「こっから遥か右の方さ見える山際の里だら、箕輪・笠島と言ってぇ、道祖神も藤中将形見の薄なども残っているんだでば」と言う。このところの五月雨で道はぬかるみ、身体も疲れていたので、遠くから眺めるだけで通り過ぎることにしたのだが、箕輪の「蓑」といい、笠島の「笠」といい五月雨に縁があるので、
   笠島はいづこさ月のぬかり道
と詠んだ。この日は、岩沼投宿。
武隈 元禄2年5月4日
武隈の松は、実に新鮮な印象を与えるものだ。その根は、土際から二本に分かれていて、「たけくまの松はふた木を都人いかにとゝはゞみきと答ん」と古歌に詠まれているが、この時代そのままの姿をとどめているようにさえ見える。
真っ先に能因法師のことが思い出された。その昔、陸奥守として赴任した藤原孝義は名取川を渡るために、この松を伐って橋杭にしてしまったというのだが、そんことをふまえて能因は、「武隈の松はこのたび跡もなし千とせをへてや我は来つらん」と詠んでいる。代々、この松を、ある者は伐り、またある者は植え継ぎなどしてきたと聞くにつけても、今また千年の昔の姿に復活して、実にめでたい松の姿ではないか。「武隈の松見せ申せ遅桜」と、門人挙白が餞別をくれたので、
   桜より松は二木を三月越シ (さくらより まつはふたきを みつきごし)
仙台 元禄2年5月4日〜8日
名取川を渡って仙台に入った。五月四日。今日はちょうど、あやめを葺く日だ。旅宿を見つけて四、五日逗留することにする。ここ仙台には、加右衛門という画工がいた。風雅の道を解する人なので親しくなった。彼は、年来、場所の確定が困難になってしまった歌枕を調査してきたというので、ある日それらを案内してくれた。
今は夏だが、萩の名所宮城野には萩が群生していて、秋の風情が偲ばれる。俊成の歌、「取つなげ玉田よこのゝはなれ駒つゝじが岡にあせみ花さく」の古歌に沿って玉田・横野から榴ヶ岡に行ったが、まさに馬酔木の花咲く季節であった。昼でも陽の入らないほど繁茂した松林に入ったが、ここを木の下というとか。昔から露深く、古歌にも「みさぶらひみかさと申せみゆきのゝ木の下露は雨にまされり」と詠まれてきたところだ。薬師堂、榴ヶ岡天満宮などを参詣して、一日は終わった。
画工加右衛門は松島や塩竈の名所旧跡を絵に描いてプレゼントしてくれた。しかも、紺の鼻緒をつけた草鞋を二足、旅の餞にといって贈ってくれた。さすがに、風流の達人、こうしてその本領を発揮したのである。
   あやめ草足に結ん草鞋の緒
多賀城 元禄2年5月8日
加右衛門が描いた名所絵図に従って旅していくと、おくの細道の山際に、「見し人もとふの浦かぜ音せぬにつれなく消る秋の夜の月」の古歌で有名な「十符の菅」があった。いまでも、年々十符の菅菰を作って、伊達家に献上しているという。
壺碑 市川村多賀城に有。
壺の碑は、高さ百八十センチあまり、横九十センチほど。まるで苔に文字を刻んだというほどに苔むしていて、はっきりとは読めないのだが、ここから四方にある国境までの距離が書いてある。「此城、神亀元年、按察使鎮守符(府)将軍大野朝臣東人之所里(置)也。天平宝字六年、参議東海東山節度使、同将軍藤原恵美朝臣修造而。十二月朔日」とある。神亀元年とは聖武天皇の即位の年にあたる。
ここには昔から数多くの歌枕が語りつがれてきたが、山は崩れ、川は流され、道は改まり、石は埋もれて、時は移り、世は変じ、その跡の不明なものばかりだ。それなのに、こうして紛れもない千年の歴史遺産を前にして、古人の心を感得した思いがする。旅すればこその果報、生きてある喜び、旅の苦しみも忘れて涙を流すばかりであった。
末の松山 元禄2年5月8日
それより、能因法師の歌「夕されば汐風こえてみちのくの野田の玉川鵆なく也」で有名な野田の玉川、二条院讃岐の「我恋はしほひに見えぬ沖の石の人こそしらねかはく間もなし」と詠まれた沖の石を訪ねた。
古今集の歌「君をゝきてあだし心をわがもたば末のまつ山波もこえなむ」や、藤原元輔の歌「ちぎりきなかたみに袖をしぼりつゝすゑの松山波こさじとは」などで有名な末の松山だが、今では寺をつくってこれを末松山という。松林の中はいたるところ墓場で、この歌のように比翼連理の契りを結んだとはいえ、終のすみかはここなのかと、悲しい想いをしながら、「みちのくのいづくはあれど塩がまの浦こぐ舟の網手かなしも」と詠まれた塩がまの浦の入相の鐘を聞いた。
五月雨の空もうっすらと晴れて、夕月夜のうすくらがりの中に、「我せこをみやこにやりて塩がまの笆の島にまつぞわびしき」と歌に詠まれた籬が島もほど近い。蜑たちが小舟を連ねて港に戻ってきて、魚を分ける声に「世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の網手かなしも」と読んだ源実朝の心も偲ばれてもののあわれを感じることひとしお。
その夜、盲目の琵琶法師たちの演ずる奥浄瑠璃というものを聴いた。平家琵琶でもなく、幸若舞でもない。ひなびた調子を寝ている枕近くで語るのでうるさくもあるのだが、こんな辺境に、忘れずに古来の伝統を残していることは殊勝なことだと感じ入った。
塩竈・元禄2年5月9日
早朝、塩竈神社に参詣した。これは伊達政宗公が再興したもので、宮柱は太く、彩色の垂木は荘厳で、石段は高く、旭が朱の玉垣を照らしている。このような片田舎まで神仏の霊験があらたかであることこそ、この国の文化の高貴さである。神前に古い灯籠が立っていた。鉄の扉の表面には、「文治三年和泉三郎寄進」と書いてある。これを寄進した人の五百年前の姿がしのばれて、追慕の心やみがたい。和泉の三郎こと藤原忠衡は、勇義に篤く、忠孝の武士であった。その名は今に伝わって、人々は彼を敬慕する。文字通り「人能道を勤め、義を守るべし。名もまた是にしたがふ」とはこういうことなのだ。
日はすでに昼近くになった。船を借りて松島に渡った。塩竈から松島まで、八キロあまり、雄島の磯に到着した。
松島・元禄2年5月9日・10日
そもそも言い古されたことだが、松島は日本第一の風光にして、およそ中国の洞庭湖・西湖にも劣らない。東南の方角から海が入り込んでいて、入り江の長さは十二キロ。そこに浙江の潮を満たす。ありとあらゆる形をした島々をここに集め、そびえ立つものは天に向かって指をさし、臥すものは波にはらばう。あるものは二重に、またあるものは三重に重なって、左に分岐するもの、右に連続するもの。背に負うものがあるかと思えば、膝に抱いた姿のものがある。まるで幼子をいとおしんでいるようだ。松の葉の緑は濃く、枝は海風に吹かれてたわみ、その枝ぶりは人が整枝したようにさえ見える。その幽遠な美は、そのまま美しい女がよそおった姿に同じ。ちはやぶる神代の昔、大山神の一大事業だったのである。この天地創造の天工の業を、人間誰が筆に描き、言葉に尽くせるであろうか。雄島が磯は地続きで海に突き出た島。そこに雲居禅師の禅堂跡があり、座禅石などがある。また、松の木の下には、今も浮世を逃れて隠れ住む人などもまれに見えて、松葉や松笠などを燃やす煙が立ち上って、静かな草庵の佇まいがある。どんな人が住んでいるのだろうと、なつかしいような気持ちで近寄って見ると、月は水面に映り、昼の眺めとはまた違った風景が現出する。入り江に近いところに宿を取り、二階建ての開けた窓から見る眺めは、まさに白雲の中に旅寝するに等しいさまであり、これ以上の絶妙の気分はまたとない。
   松島や鶴に身をかれほとゝぎす  曾良
私は句作を断念して、眠ろうとするが眠られない。江戸の旧庵を出るとき、友人素堂は「松島の詩」をくれた。原安適は「松がうらしま」の和歌を贈ってくれた。これらを袋から取り出して、今夜の友とする。また、門弟の杉風や濁子の発句もあった。
五月十一日、瑞巌寺に参詣。この寺の三十二世、真壁平四郎は出家して宋に留学し、帰国の後にこの寺を臨済宗寺院として再興した。その後、雲居禅師の教化によって、七堂伽藍も改築され、寺内は荘厳に輝き、文字通り西方浄土を具現した大伽藍となったのである。かの見仏聖の寺は何処にあったのだろうかと偲ばれる。
石巻 元禄2年5月10日・11日
五月十二日、平泉へとこころざして、「くりはらのあねはのまつの人ならば都のつとにいざといはましを」と詠まれたあねはの松、定家の歌「白玉のおだえの橋の名もつらしくだけて落る袖のなみだに」の緒だえの橋などを見ようと、人づてに聞いて旅を続けた。ところが、滅多に人の通らない道に迷い込んで、ついに道を外れて石巻の湊に出てしまった。
大友家持の歌「すべらぎの御代にさかえんとあづまなるみちのく山にこがねはなさく」と詠み奉られた金華山は海上に見え、数百の廻船が入り江に集まり、人家は軒を連ね、街は大いに栄えていた。思いがけないところに来てしまったことだと思いつつ、今宵の宿を借りようとしたが、誰も泊めてくれようとはしない。仕方なく、貧しい小さな家に泊まって、朝になったのでまた知らない道を彷徨いさまよい進んで行った。
相模の歌「みちのくの袖のわたりのなみだ川心のうちに流れてぞすむ」と詠まれた「袖のわたり」、「みちのくのをぶちの駒も野がふにはあれこそまされなつく物かは」の「尾ぶちの牧」、「陸奥のまのゝ萱はら遠ければおもかげにしも見ゆといふものを」の「まのゝの萱はら」などの歌枕を遠くに眺めながら、長い土手に沿って進んで行く。心細い長沼に沿って戸伊摩というところに一泊して、ついに平泉に到着した。この間、実に八十キロの旅程であった。
平泉 元禄2年5月13日
奥州藤原三代の繁栄も邯鄲の夢と同じ、一炊の間に消え去った。南大門の跡は(伽羅の御所などからは)四キロほど手前にあった。秀衡の館跡は今は田畑になって、金鶏山だけが昔の形をとどめている。
まず、義経の居館であった高館に上って、見れば北上川は南部から流れてくる大河である。衣川は和泉三郎の城を取り巻いて、高館の下で北上川と合流する。泰衡等の居城は、衣が関を楯として、南部からの侵入を防ぐ目的であったことが分かる。
弁慶や兼房など選りすぐりの義臣、この城に立てこもって戦ったものの、その功名も一時の夢と消え、すべては夏草の中に埋もれて果てた。まさに、「国破れて山河あり、城春にして草木深し」。旅笠を脇に置いて、草むらに腰を下ろし、長いこと涙を落としていたことだった。
   夏草や兵どもが夢の跡
   卯の花に兼房みゆる白毛かな  曾良
かねてその美しさについて聞き、驚いてもいた中尊寺の光堂と経堂を拝観することができた。経堂には清衡・基衡・秀衡の三人の像を納め、光堂にはこの三人の棺と共に阿弥陀三尊像が安置されている。金・瑠璃・珊瑚等々の七宝は消え失せ、珠玉を散りばめた扉は風に破れ、金の柱は朽ち果てて、すべてが退廃し空虚となるはずだったが、四方を新しく囲み、屋根を覆って雨風を凌いだので、これによって、ようやく千年は残る記念物とはなったのである。
   五月雨の降のこしてや光堂

芭蕉の『奥の細道』は、芭蕉自身の気持ちとしてはここ平泉が終点だったのであろう。ここが奥州藤原三代の 栄耀栄華・北方文化の中心地であったという以上に、彼にとっては西行の愛した藤原文化とその悲劇性にこそ関心があったのであろうから 、ここを旅の終点として、ここから大垣までは、途中村上で曾良の想いを遂げさせてやるとしても、気楽な帰路ということだったであろう。 ただし、翌年書いた『幻住庵の記』初稿では、「猶、善知鳥<うとう=千鳥の一種>啼く外の濱邊より、ゑぞが千しまを見やらんまでと、しきりにおもひ立侍るを、同行曾良何某といふもの、多病心もとなしなど袖ひかゆるに心よはりて・・・・」とあるので、北海道・樺太・千島まで「細道」は続いていたと言うのだが、これは「そうも考えた」という程度のものであったのだろう。体力的にも限界だったろうが、これより北にはサポーターが不在なのだから経済的に旅の続行は不可能だった。
尿前の関 元禄2年5月17日
平泉から更に北へ向かいたい気持ちを抑え、南部道を後に見やりながら、左京太夫顕輔の歌に「思へども岩手の山にとしをへて朽やはてなん苔のむもれ木」と詠まれた岩出山の里に泊まる。ここから、「小ぐろの崎みづの小じまの人ならば都のつとにいざといわましを」と詠まれた小黒ヶ崎や美豆の小島を過ぎ、鳴子温泉から尿前の関を越え、出羽の国へ行こうというのである。ところが、この道は滅多に旅人の通らない道であるため、関守に怪しまれてなかなか通してくれない。ようやく通行許可が下りて、中山峠を越えたころにはもうすっかり日が暮れてしまった。国境の番人の家を見つけたのでそこに泊めてもらうことにした。ところが、三日の間雨風荒れて、余儀なくこの山中に逗留することになってしまった。
   蚤虱馬の尿する枕もと
この家の主の言うには、ここから出羽の国へは、大山を越えていかなければならないが、そのためには誰か道案内をつけなければ無理だという。そこで人を頼むことにしたところ、屈強な若者が来てくれた。見れば、反り脇差しを腰につけ、樫の杖を持って、我々の前を歩いて行く。この、物々しい出で立ちを見て、今日こそは間違いなく辛い目にも遭うのであろうと、内心びくびくしながらついて行く。有路家の主の言ったように、高山は深々として、鳥の声一つしない。木々が生い茂って、その下はまるで夜のように真っ暗だ。強風も吹いてきて、砂つぶてが空から降ってくる感じ。篠の藪を踏み分けふみわけ、沢をまたぎ、岩につまづき、肌に冷たい汗を流しながら、ようように最上の庄に着く。
かの案内の若者、「この道さ、何時もだら、山賊など出てくるだっども、今日は無事に送ることがでけて、運さ良かっただっちゃ」と言いながら、喜んで帰っていった。終わってから聞いてさえ、どきどきする話である。
尾花沢  元禄2年5月17日〜27日
尾花沢では清風を訪ねた。清風は、金持ちだが、その心持ちの美しい男である。都にもしばしば行き、それゆえに旅の情をもよく心得ている。数日間泊めて長旅の疲れを労ってくれ、またさまざまにもてなしてくれた。
   涼しさを我宿にしてねまる也
   這出よかひやが下のひきの声
   まゆはきを俤にして紅粉の花
   蚕飼する人は古代のすがた哉  曾良
立石寺  元禄2年5月27日
山形領に立石寺という山寺がある。慈覚大師の開基で、俗世間から隔たった、静かな寺である。一見するように人々が勧めるので、尾花沢から取って返してここを訪れた。その間、約三十キロほど。到着後、まだ陽が残っていたので、麓の坊に宿を借りておいて、山上の御堂に上った。
岩に巌を重ねて山となしたというほどの岩山で、松柏は年輪を重ね、土石も古く苔は滑らか。岩上の観明院・性相院など十二院は扉を閉じて、物音一つしない。崖をめぐり、岩を這って、仏閣を拝む。その景は静寂にして、心の澄みわたるのをおぼえる。
   閑さや岩にしみ入蝉の声

『奥の細道』集中もっとも優れた句の一つ。初案は、「山寺や石にしみつく蝉の聲」(『俳諧書留』曾良)であり、後には「さびしさや岩にしみ込む蝉の聲」(『初蝉・泊船集』)となり、現在のかたちに納まったのはよほど後のことらしい。
この句に関しては古来議論が絶えない。蝉は<春蝉>か?、<にーにー蝉>か?、はたまた<油蝉>か?。また、それは単数なのか、複数なのか、が議論の中心であった。岩の成分や形状にまでは話が及ばなかったのがこの議論の特徴だが、それは「静けさ」を言いながら、「蝉の声」が出てくる日本語の持つ曖昧さに関わっているのかもしれない。(初案にはこの種の矛盾は無いことをみれば、心の中で熟成されていく中にコード中心からコンテキスト中心へと深まっていく文学的特徴があるのかもしれない) 議論の中でも、蝉は<油蝉>だとする斎藤茂吉と、<にーにー蝉>の小宮豊隆との間の議論は白熱したものとして有名。
この句が太陽暦では7月13日の作であり、その頃にはまだ山形では油蝉は出現していないことから、この句の蝉は<にーにー蝉>であったことで両者の間では決着したが、油蝉がこの時期に現れることもあるという報告もあって議論再燃の機会は十分にある。単数か複数かも、つまるところこの句の鑑賞者のテキスト理解の問題だが、そういう物議をかもすのも、この句の偉大さであり、言葉のプロとしての芭蕉の偉大さの故かもしれない。
大石田・最上川 5月28日・29日
最上川を舟で下ろうと大石田というところで日和を待った。
「こごには古ぐっから俳諧が伝えられでて、いまも俳諧隆盛の昔を慕っで、文字通り『芦角一声』の、田舎の風流でよ、みんなはこいづによって、心ば和ませでいんのよ。今日まで、この俳諧の道を手探りすながら歩んで来たけんど、新旧二づの道のどっつば歩んだらいいんだべが、教えてける先達もいねぇがら」と言うので、やむなく俳諧一巻を巻いた。この度の風流はこういうところにまで至ったのである。
最上川は、同国米沢を源流とし、山形を上流とする川である。碁点や隼などという恐ろしい難所のある川だ。「みちのくにちかきいではの板じきの山に年へて住ぞわびしき」の歌枕で有名な板敷山の北を流れて、最後は酒田の海に入る。川の左右が山に覆われているので、まるで茂みの中を舟下りするようなことになる。この舟に稲を積んだのを稲舟といい、「もがみ川のぼればくだるいな舟のいなにはあらず此月ばかり」と詠われたりしている。白糸の滝は青葉の木々の間に落ち、源義経の下臣常陸坊海尊をまつる仙人堂は河岸に隣接して立っている。水を満々とたたえて舟は危うい。
   五月雨をあつめて早し最上川
出羽三山 元禄2年6月3日〜10日
陰暦六月三日、羽黒山に登る。図司左吉を訪ね、彼を通じて羽黒山別当代会覚阿闍梨に会うことができた。南谷別院を宿舎として与えられるなど、別当代の好意、その情こまやかに温かくもてなしてくれた。
四日、別当代の本坊において俳諧興行。
   有難や雪をかほらす南谷
五日、羽黒神社に参詣した。この神社を開いた能除大師については、何時の時代の人かさえ分からない。延喜式には「羽州里山の神社」という記述がある。書き写すときに、「黒」という字を「里山」と書き誤ったのではないか。羽黒山というのは、羽州の黒山の「州」の字を省略して羽黒山と言うのではないだろうか。出羽というのは、「鳥の毛羽を此国の貢物に献る」と風土記に書いてあるというから、そこから名付けられたものであろう。
羽黒山に月山と湯殿山を加えて出羽三山と言う。この寺は、江戸の東叡山寛永寺に属し、天台宗の摩訶止観の教義は月明かりのように暗闇を照らし、円満にして偏らず、速やかに成仏するという「円頓融通」の法灯を掲げて発展し、僧坊は軒を並べて林立。修行が盛んで、霊場としての霊験はあらたか。よって人々の畏れと尊崇を集めている。その繁栄は永遠で、実にめでたい御山というべきである。
八日、月山に登った。木綿しめと呼ばれる修験袈裟を襟にかけ、宝冠という白布で頭を包み、強力に案内してもらって、雲霧が流れ、山気に満ちた山道を、氷雪を踏んで登ること三十二キロ。さらに、日月の運行する天の関門に入るかと思うほどに恐れながら、息も絶え絶え寒さに凍えた体で頂に登れば、日は沈み、代わって月があかるんできた。笹を寝床に、篠を枕にして、横になって朝を待つ。朝日が出て、雲が消えたので、湯殿山へと下った。谷の傍らに、鍛冶小屋というものがある。出羽の国の鍛治は、霊水を探し、身を清めて剣を打ち、とうとう「月山」という銘を入れて、世の高い評価を得たのである。史記にある干将と莫耶の夫婦が竜泉の霊水で剣に焼きを入れた故事が偲ばれる。一つの道に勝れるための努力の、なんと浅からぬことかがよく分かる。
岩に腰を下ろして、しばらく休んでいる間に、つぼみが半ば開きかけた全高一メートルほどの桜を見つけた。降り積もる雪に埋もれて、それでもなお春を忘れない遅咲きの桜の、花の心がいじらしい。滅多にないものとされる「炎天の梅花」がここにこうして生きて香っていると言わんばかりである。「もろともにあはれと思へ山ざくら花より外にしる人もなし」という行尊僧正の歌のあわれも思い出されて、一層想いを深くした。
なお、山中の仔細は、行者の法として語ってはならないとされているので、これ以上のことは記さない。坊に帰って、阿闍梨の求めに応じて出羽三山順礼の句など短冊に書きとめた。 
   涼しさやほの三か月の羽黒山
   雲の峰幾つ崩て月の山
   語られぬ湯殿にぬらす袂かな
   湯殿山銭ふむ道の泪かな  曾良
鶴岡・酒田 6月10日〜15日/18日〜25日
羽黒を発って、鶴岡の城下、長山重行という武士の家に迎えられて、俳諧一巻を興行する。図司左吉がここまで送ってくれた。
川舟に乗って、酒田の港に下る。酒田では、淵庵不玉という医者の家に泊めてもらった。
   あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
   暑き日を海にいれたり最上川
象潟  元禄2年6月15日〜18日
ここまでにも、海山水陸の美を数限りなく見てきたというのに、今、また象潟へと心が急かれる。酒田の港から東北の方角、山を越え、磯を伝い、砂浜を踏んで、その間四十キロ。日が西に傾く頃、潮風は砂を巻き上げ、鳥海山も見えなくなるような雨が来た。象潟の美しさを暗中模索する面白みは、蘇東坡の言う「雨も又奇也」ではある。とは言え、雨後の晴天の下に見る景観はさぞやと、能因法師の歌「世の中はかくてもへけりきさがたのあまの苫やをわが宿にして」のように蜑の苫屋に雨宿りして、雨の上がるのを待つ。
その朝、天気晴朗。朝日が華やかに海に差し込む頃、象潟に舟を浮かべる。まず、能因島に舟を寄せ、能因法師の三年幽居の跡を訪ねた。岸に上ってみれば、「きさがたの桜は波にうづもれてはなの上こぐあまのつり舟」と詠われた桜の老木が西行法師の記念となって残っている。岸辺に御陵がある。神功皇后の墓だという。寺の名を干満珠寺という、ここに神功皇后が行幸したという話は聞いたことがない。どういうことか。
この寺の方丈に座って簾を上げると、風景は一望の中に見える。南に鳥海山、天を支えて屹立し、その影は象潟の海に映る。西はむやむやの関が道を塞き止め、東には堤を作って秋田へ向かう道が遥かに続く。海は北に構え、その波の入ってくる辺りを汐越と言う。入り江の縦横は四キロほど。その俤は松島に似て、松島とは違う。松島は笑うが如く、象潟は、寂しさに悲しみを加えてうらむが如く。その地形は愁いに沈む女の姿だ。
   象潟や雨に西施がねぶの花
   汐越や鶴はぎぬれて海涼し
祭礼
   象潟や料理何くふ神祭  曾良
   蜑の家や戸板を敷て夕涼  低耳(みのゝ国の商人)
岩上に雎鳩(みさご)の巣をみる
   波こえぬ契ありてやみさごの巣  曾良
越後路 元禄2年6月25日〜7月12日
酒田では、名残を惜しんでつい長居をしてしまったが、ようやく北陸道の旅路についた。
加賀の府金沢まで五百二十キロと聞けば、その旅路のはるけきこと、万感胸に迫る。鼠の関を越えて、越後に入り、そこを過ぎれば越中の国市振の関へと至る。この間九日。暑さと雨の難に精神は疲労し、加えて体調を崩す。ために、記すべき記録を持たない。
   文月や六日も常の夜には似ず
   荒海や佐渡によこたふ天河
市振の宿 元禄2年7月12日
今日は、親不知・子不知・犬戻・駒返など北陸街道の難所を越え、疲れ果てたので早々床に就いた。
ふすまを隔てた南側の部屋で、若い女二人ほどの話す声が聞こえる。年老いた男の声も混じって、彼らが話すのを聞けば、女たちは越後の国新潟の遊女らしい。伊勢神宮に参詣するために、この関所まで男が送ってきて、それが明日新潟へ戻るので、持たせてやる手紙を認めたり、とりとめもない言伝などをしているところらしい。「白なみのよする汀に世をすぐすあまの子なれば宿もさだめず」と詠まれた定めなき契り、前世の業因、そのなんと拙いものかと嘆き悲しんでいるのを、聞くともなく聞きながらいつしか眠りについた。
翌朝出立する段になって、「行方の分からぬ旅路の辛さ。あまりに心もとなく寂しいので、見え隠れにでもよろしゅうございます、お供させていただけないものでしょうか。大慈大悲のお坊様と見込んで、その袈裟衣にかけても慈悲の恵みと仏の結縁を垂れ給え」と涙ながらに哀願する。
不憫とは思ったが、「私たちは諸所方々に滞在することが多いのです。だから、あなた方は誰彼となく先を行く人々の後をついて行きなされ。神仏の加護は必ずありますから」とつれなく言って別れた。哀しみがいつまでも何時までも去らなかった。
   一家に遊女もねたり萩と月 (ひとつやに ゆうじょもねたり はぎとつき)
曾良に話したら、これを記録した。
那古の浦 元禄2年7月13〜14日
黒部四十八ヶ瀬と言うぐらい、沢山の川を渡って、那古の浦に来た。「多胡のうらの底さへ匂ふ藤なみをかざして行ん見ぬ人のため」と詠われた担籠の藤波も今はもう秋、さすがに藤に花は無いだろうが、それでも秋の風情を訪ねてみたいと、人に道を尋ねると、「担籠の藤波はここから二十キロ。磯伝いに行って、向こうの山陰にあるがだけど、漁師の家さえまばらなところなんで、一夜の宿すら貸す者ちゃおらんでないがか」とおどされれば、あきらめて加賀の国へ直行することにした。
   わせの香や分入右は有磯海 (わせのかや わけいるみぎは ありそうみ)
金沢 7月15日〜23日
卯の花山、倶利伽羅峠を越えて、金沢に着いたのは陰暦七月十五日。ここに大坂から商いに来ていた何処という薬売りがいたので、旅宿を共にした。
一笑は俳諧に優れた才能を持っているという評判がうすうす江戸まで聞こえていて、世間でも期待の人だったのだが、昨年の冬に早逝したという。その兄が追善供養をするというので、
   塚も動け我泣声は秋の風
ある草庵に招かれて
   秋涼し手毎にむけや瓜茄子
   小松へ向かう途中での吟
   あかあかと日は難面もあきの風
小松 元禄2年7月24日〜26日
小松というところで、
   しほらしき名や小松吹萩すゝき
当地、多太八幡神社に参詣した。神社には、斎藤別当実盛の兜と錦のひたたれの切れ端があった。これらは、その昔、実盛が源氏に仕えていた時分、源義朝公から拝領したものだという。このうち兜は、どう見ても下級武士の使うものではない。目庇から吹返しまで菊唐草模様に金をちりばめ、竜頭には鍬形が打ってある。実盛が討ち死にした後、木曾義仲はこの神社へ願状を添えてこれらを奉納したという。その折、樋口次郎兼光が使者となったことなども神社の縁起には書いてある。
   むざんやな甲の下のきりぎりす
那谷寺・山中温泉 元禄2年7月27日〜8月5日
山中温泉に行く道々は、白山を後ろに見ながら行く。左の山際に観音堂がある。花山法皇は西国三十三ヶ所めぐりを完遂されて後、千手観音菩薩像をここに安置され、那谷と名付けられたという。那智と谷汲の二字を分けて組み合わせたとのことだ。
さまざまな奇石があり、松の古木が並べ植えられており、岩の上にかやぶきの小堂が作ってあるなど、まことに霊験の豊かな有り難い地である。
   石山の石より白し秋の風
山中温泉につかる。この温泉の効能は、有馬温泉に次ぐといわれている。
   山中や菊はたおらぬ湯の匂
この宿の主人は、久米之助といって未だ少年だ。久米之助の父は俳諧好きの人だった。京の安原貞室が若かりし頃、ここに来て、俳諧のことで、この父から無知を指摘されたことがあったという。都に戻った彼は、発奮し、松永貞徳の門に入って学び、後に名人貞室として知られるようになった。名をなして後、貞室はこの村の人々からは判詞の点料を取らなかったという。そんな話もいまは昔語りである。
曾良との別れ 元禄2年8月5日・6日
曾良は、腹の具合が悪く、伊勢の国長島に親族がいるので、先に発つことにした。
   行行てたふれ伏とも萩の原  曾良
と書き残して去って行った。行く者の悲しみ、残る者の無念、まさに李陵と蘇武の二人の別れにも似て、隻鳧が別れて雲に迷うとはこのことだ。私もまた一句、
   今日よりや書付消さん笠の露
大聖寺の郊外に全昌寺という寺があり、ここに宿泊する。まだ、ここは加賀の国内である。曾良も前夜はここに泊まっており、
   終宵秋風聞やうらの山
と一句残していた。まことに蘇東坡の詩「咫尺相見ざれば、実に千里に同じ」にあるように、一夜の隔たりは千里の距離だ。私も秋風を聞きながら、寺の宿寮に泊まる。
夜明けちかく澄んだ読経の声を聞く。やがて鐘板が鳴ったので食堂に入る。
今日は越前の国へ行くのだとあわただしく食堂を出ると、若い僧たちが紙や硯をもって、階段の下まで追ってきた。丁度そのとき庭の柳の葉の落ちるのが見えたので、
   庭掃て出ばや寺に散柳
とっさの即興吟として、草鞋を履いたまま走り書きした。
汐越の松
越前と加賀との国境、吉崎の入り江に舟を出して、汐越しの松を見に行った。
   終宵嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松  西行
この一首ですべては言い尽くされた。もしこれに、何かを加えようと言うのであれば、それは五本の指にもう一本指を加えるに等しく無駄以外の何物でもない。
天龍寺
丸岡天龍寺の長老・大夢和尚は古くからの知り合いゆえに彼を訪ねた。
金沢の北枝は、ちょっとそこまでと言いながら、金沢からついにここまで送ってきてくれた。処々方々の風景も見逃さずに句を案じ続け、時々は素晴らしい作をも聞かせてくれた。いま、別れに当たって、
   物書て扇引さく余波哉
永平寺・福井 元禄2年8月12?〜14日
寺領の入り口から五キロ半もある山内を通って、永平寺を拝観した。ここは道元禅師開基の寺。俗塵にまみえ(れ)ることをさけて、禅師はこのような山陰に道場を遺したのだが、貴い理由が有ってのことだったという。
福井の町はここから十二キロばかりなので、夕食をとってから出かけたのだが、黄昏時のこととて道がよく分からない。
この町に等栽という古い隠者がいるはずだ。いつだったか、彼は江戸に来て私を訪ねたことがあった。もう十年も前のことだ。さぞや老いさらばえていることであろう。はたまた死んでいるかもしれない、などと思いながら、人に尋ねると、今も存命で、何処其処に住んでいると教えてくれた。市中に、ひっそりと隠れ忍んだように、夕顔・へちまが生い繁り、鶏頭・箒木が入り口を隠したみすぼらしい小家があった。さては、ここが等栽の家に違いないと門をたたくと、わびし気な女が出てきて、「何処から来た仏道修行のお坊さまやら。家人はどこそこの何某さまの処に行っていて今は留守じゃ。もし用あらばそちらへ行きなされ」とそっけない。昔の何かの物語にもこんな情景があったなどと思いながら、やがて彼を尋ね当てる。
等栽の家に二日泊まって、名月は敦賀の港で見ようと、旅立った。等栽も街道の枝折をつとめようと、着物の裾をひょうきんにからげて、浮かれながら旅立った。
敦賀市  元禄2年8月14・15日
ようやく白山の峰は見えなくなって、代わりに越前富士日野山が見えてきた。「朝むづの橋はしのびてわたれどもとどろとどろとなるぞわびしき」と詠われたあさむずの橋を渡り、「夏かりの玉江の蘆をふみしだきむれ居る鳥のたつ空ぞなき」と詠まれた玉江の芦にはもうすっかり穂が出ていた。「鶯の啼つる声にしきられて行もやられぬ関の原哉」の鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越えれば、燧が城、「たちわたる霞へだてゝ帰る山来てもとまらぬ春のかりがね」と詠われたかえる山に初雁の渡る声を聞きながら、十四日の夕暮れ、敦賀の港に宿を求めた。
その夜、月は殊の外晴れ渡った。「これなら明日はよい月見の晩になるのでは」と言えば、この家の主人「ほやけど、北陸路のことやさけん、まさに十五夜の天気ははかり難しやでのぉ」という。主のすすめるままにお酒をいただき、その後で気比明神に夜参りした。
気比神社は仲哀天皇の御廟。社頭は神さびて、松の木の間越しに月がこぼれ入る。社頭の前の白砂はまるで霜を置いたように白い。その昔、遊行二世上人、大願を発起して、自ら草を刈り、土石を運び、ぬかるみを乾燥させて、参詣者の往来の便を図った。この古い言伝えは今も守られていて、その後、代々の遊行上人も神前に真砂を運び入れているという。「これを遊行の砂持と言うんやでぇ」とは亭主の説明だ。
   月清し遊行のもてる砂の上
十五日、亭主の言ったとおり雨になった。
   名月や北国日和定なき
種の浜 元禄2年8月16日
十六日、空は晴れたので、「汐そむるますうの小貝ひろふとて色の浜とはいふにや有らん」と西行法師によって詠まれたますほの小貝を拾おうと、種の浜に舟を出す。そこまで海上を二十八キロ。天屋何某という人、わりご・ささえなどこまごまと用意して、下僕を大勢舟に乗せてきてくれた。追い風に押されてあっという間に種の浜に着いた。浜は海人の家などもわずかにあるばかりで、侘しい法華寺が一軒あるのみ。ここで茶を飲み、酒を温めて、秋の夕暮れの浜の寂しさを心行くまで堪能した。
   寂しさや須磨にかちたる浜の秋
   波の間や小貝にまじる萩の塵
その日のあらましは、等栽に記録させて寺に残しておいた。
大垣大団円
露通が敦賀の港まで出迎えに来てくれて、美濃の国へと同行する。馬の背に乗せられて、大垣の庄に入れば、曾良は伊勢より来、越人も馬を飛ばせて、如行の家に集まっている。前川、荊口父子、その他親しい人々が日夜見舞ってくれて、まるで生き返った人に再会するかのように、喜んだり、労わってくれたり。旅の疲れはまだ残っているものの、九月六日、伊勢神宮遷宮に参ろうと、ふたたび舟に乗って、
   蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

8月21日(またはそれ以前)、芭蕉は、敦賀まで出迎えに来た路通を同道して大垣に入った。ただし、敦賀から大垣までどういうコースを辿ったかは今もって分かっていない 。 
 

 

 

●奥の細道 2
「朝を思ひ、また夕を思ふべし」
さあ、芭蕉である。どう書こうかとは何も想定しないで、いま書きはじめた。できれば、「漢」の表現文化に習熟していた露伴(983)が、晩年には「和」の芭蕉七部集に傾注していったように、いつかはそういうことをしたいと思うけれど、なかなかその機縁に没しきれないで数十年がすぎた。朝にも夕べにも芭蕉が出入りするような日々があれば、いつかまたそういうことも試みたい。それができれば、ぼくにも多少の逆旅(げきりょ)がおこるということになる。そのかわりといってはなんだが、ここでは『おくのほそ道』をまたぐ芭蕉の推敲編集の草叢に少しく分け入って、その相違を僅かに浮かび上がらせ、蕉門の俳風が到達しきった元禄4年(1691)7月の『猿蓑』で話を終えたいとおもう。露伴の『評釈猿蓑』に敬意を表してのことだ。『猿蓑』は、蕉門の総力を結集した乾坤一擲の作品集ともいうべきもので、芭蕉は一句一句の入集についての選択はむろん、句中の一語一語にまで気を配った。許六は「猿蓑は俳諧の古今集なり」とさえ言った。露伴のものは、芭蕉その人が「漢と和」をしばらくリバース・モードにしたことに露伴が気づいて書きこんだ、俳諧評釈をめぐる文芸史上屈指の里程標だった。
ところで最初に言っておいたほうがいいだろうから言っておくが、芭蕉は天才ではない。名人である。そういう比較をしていいのなら、其角のほうが天才だった。才気も走っていた。芭蕉は才気の人ではない。編集文化の超名人なのである。其角はそういう名人には一度もなりえなかった。このことは芭蕉の推敲のプロセスにすべてあらわれている。芭蕉はつねに句を動かしていた。一語千転させていた。それも何日にも何カ月にもおよぶことがあった。そういう芭蕉の推敲の妙についてはおいおい了解してもらえるはずのことだろう。
「予が方寸の上に分別なし」
芭蕉についてどう語るかということは、百通りがある。ぼくが読み継いだものを拾っただけでも、おそらく数十を超えている。父の書棚からひっぱりだした懐かしい山本健吉(483)の『芭蕉』(新潮社の「一時間文庫」で3冊)を拙(つたな)い嚆矢にして、それからいったいどのくらいを読んだのだろうか。大学時代は安東次男の評釈が鮮烈にテビューしていて、それを貪り読んだし、その後は唐木順三(085)を知ってちょっと落ち着き(大きく芭蕉を見るようになり)、その後に保田與重郎(203)から露伴に及んで、居ずまいをただしたものだ。そのころだったか、内田魯庵のぞくぞくするような『芭蕉桃青傳』や芥川龍之介(931)の皮肉な『芭蕉雑記』にも遊んだ。芭蕉のどの句が好きなのかなどということになっては、これは数年ごとにわらわらと変貌しつづけた。しかしいま、あらためてふりかえってみると、芭蕉が成し遂げたことは、やっぱり貫之(512)、定家(017)、世阿弥(118)、宗祇、契沖に続く日本語計画の大きな大きな切り出しだったというふうに、見えている。この切り出しには、発句の自立といった様式的なことも、いわゆる「さび」「しをり」「ほそみ」「かろみ」の発見ということも、高悟帰俗や高低自在といった編集哲学も、みんな含まれる。
では、なぜ芭蕉がそれをできたのかといえば、あの、時代の裂け目を象(かたど)る江戸の俳諧群という団子レースから、芭蕉が透体脱落したからである。さっと抜け出たからである。それは貫之が六歌仙から抜け出し、世阿弥が大和四座から抜け出したのに似て、その表意の意識はまことに高速で、その達意の覚悟はすこぶる周到だった。けれども、なぜ芭蕉にそれができたのかが存分に納得できるには、芭蕉の俳諧人生がその切り出しまでにどのようなスレッシュホールドに達していたかを知る必要もある。芭蕉翁という「翁」の呼び名がふさわしいにもかかわらず、意外にも芭蕉は51歳の短い生涯だった。しかも本格的に俳諧にとりくんだのはやっと30歳をこえてからのこと、宗匠として立机(りっき)したときは、もう34歳になっていた。それなのに芭蕉は計画したことをほぼ成し遂げた。そして日本語に革命をもたらした。
「虚に居て実を行ふべし」
芭蕉は寛永21年に伊賀上野に生まれている。藤堂藩の無足人(土着郷士)の次男だった。寛永文化がどういうもので、つづく寛文文化がどうなっていて、かつ伊賀上野や藤堂藩がどういうところかも重要なのであるが、そのことを書いているとキリがない。ともかくも最初は貞門の北村季吟に惹かれ、そして29歳で江戸に出た。ここで貞門から談林を覗き、模索を始めた。とりあえずはこれが前提である。だから、この前提までに俳諧前史というものがどのように芭蕉に見えていたかが、芭蕉を語るときの出発点になる。
ごくごくはしょって言うが、京都に発した貞門は、連歌に習熟した松永貞徳によっておこされたものであるだけに、俳言(はいごん)を打ち出した。漢語や俗語や俚諺をつかうことをいう。俳言は連歌にはなかった言葉をつかったから俳言なのである。だから、ここから俳諧が和歌や連歌から少しずつ自立の準備を始めた。貞門はその俳言を交ぜながら和歌の縁語や掛詞を駆使した。たとえば、「山の腰にはく夕だちや雲の帯」(貞徳)。夕立と太刀が掛詞になり、「はく」(佩く・穿く)「腰」「帯」が縁語になって、まだ和歌の風情を残している。
この貞門俳諧の流行が寛永文化に重なっていた。そのなかで『犬子集』を刊行した。これは松江重頼の編集によるもので、俳諧史の最初の活気にあたる。たしか早稲田の暉峻康隆だったとおもうのだが、「日本の三代詩歌集を選べというなら、迷わず『万葉集』『古今集』『犬子集』を選ぶ」と言っていた。かなり大胆な見解だろうけれど、よくわかるところもある。それぞれ時代を切り拓いた最初の詩歌集であったからだ。貞徳がこうした俗っぽい俳諧を奨励したのには、それなりの算段があった。そのころの武士や町人の識字率が低かったからである。貞徳自身は高尚なボキャブラリーをもちながらも、それをひけらかすことをあえて避け、武士や町人がひとまず俳諧(連俳)をものすることができるように、ハードルを下げたのである。そのことによって多くの者がどうにか言葉を操れるようになったなら、伊勢や源氏や八代集を読むように勧めた。が、それはそうだとしても、貞門はあまりに言語遊戯に耽った。耽りすぎた。表意を研鑽するものがなくなっていった。そこで大坂の西山宗因がこれに反発した。天満天神社連歌所の宗匠である。
「実に居て虚にあそぶことはかたし」
宗因の挙動は、第974夜の近松浄瑠璃誕生をめぐる顛末にも書いておいたことだが、京都に対するに大坂の反発を根にもっていた。竹本義太夫が大坂に出て、近松が京都から大坂に移った前史には、この宗因の先行的登場があったのである。宗因にはもうひとつ、生活や身の回りの俳諧を詠みたいという主張があった。これが談林で、ここからが寛文文化になる。「白露や無分別なるおきどころ」(宗因)。ここに西鶴(618)が顔を出す。西鶴はもとは鶴永と号していたのだが、宗因門下に入って西山の西をもらって西鶴と改めたことでわかるように、談林を先導する役割をはたした。そのうえ、自分は一人でも荒木田守武(ここが連俳の原点である)に戻って「面白み」に徹するという気概をもっていた。「何とて世の風俗を放れたる俳諧を好まざるや、世こぞって濁れり、我ひとり清めり」という自負もあった。「大晦日定めなき世のさだめかな」(西鶴)。
京・大坂のこうした反目は江戸の社会文化を議論するに、つねに起爆点になっていると思っておくとよい。この反目が低迷しているうちに江戸がおいしいところを攫って(浮世絵や江戸歌舞伎がそのひとつ)、そこにまったく新しい文化様式を経済文化として確立していったというのが、徳川社会文化の前半の大きな流れだった。京の貞門、大坂の談林はこうして互いに詰(なじ)りあううちに、しだいに新鮮な勢いを衰退させていく。これで、飽きられた。厭きられた。連歌も俳諧もむろん面白くて連打されるものではあるけれど、そこにスタイルやテイストが発芽しているうちはいいのだが、そこに文言を当て嵌めていじっているのが続きすぎると、「あき」がくる。スタイルやテイストは費い尽くしては失策なのである 。
「俳諧は吟呻の間のたのしみなり」
貞門・談林の風波が重なるなか、ここに19歳の芭蕉が藤堂藩の侍大将である藤堂新七郎の台所御用人として出仕して、その嫡子良忠の御伽衆になった。良忠は北村季吟の門下に入って俳諧を習っていた。芭蕉も主人に倣ってついつい俳諧を遊びはじめたにちがいない。ただし、21歳のときの俳号「宗房」時代の句が残っているのだが、そうとうにヘタクソだった。「姥桜咲くや老後の思ひ出で」(宗房)。おそらくこのまま良忠とともに遊んでいたら、芭蕉はとうてい芭蕉にならなかったであろう。ところが芭蕉23歳のとき、良忠が25歳で急没した。これで芭蕉は藩内での出世を諦める。早々に辞職した。そして、とくに勝算があるでもなく京に出て、季吟に古典・漢詩文・俳諧を習いだしたのだ。もっとも、この道に進むもうかどうかをまだまだ迷っている。当時、俳諧師という職能は、黒衣円頂の装いにあらわれているように、士農工商の枠の外の者なのである。生活の資はすべて門人の点料か旦那衆の眷顧に頼らなくてはならなかった。へたをすれば連衆の御機嫌を伺う“おもらい坊主”と蔑まれたほどなのだ。この時期の芭蕉が迷っていたとしても無理はない。それに芭蕉自身が、のちに「俳諧は吟呻の間のたのしみなり」と言っている。
そうしたおりに、さきほどの貞門と談林の渋滞が目立ってきた。そこで伊藤信徳・山口素堂・池西言水・上島鬼貫らが俳諧刷新の動きを見せはじめた。この機運に芭蕉も乗ったのである。これはただの相乗りだった。この連中には、ある共通の特徴があった。ことごとく江戸に下ったのだ。とくに京都の信徳が延宝5年(1677)に下向したのが大きかった。光琳もそうだったけれど、この時期前後、上方や京の文化が行き詰まっているときにさっさと江戸に出た者が時代を変えている。江戸に来るということは、そこから自在に意識の頭(こうべ)を動かせるということだったのである(いまでもそうかもしれない)。芭蕉も京を捨てて江戸に行く。発句合せ『貝おほひ』を自選自費でつくり、これをポートフォリオ代わり、名刺代わりにした。藤堂藩か季吟のルートを頼ったのであろうが、江戸では日本橋の魚問屋の鯉屋杉風のもとに草鞋を脱いだ。この杉風は芭蕉の最初の弟子となり、その後も最後の最後まで芭蕉の面倒をみたパトロンにもなっている。のちにいたるまで、芭蕉にはこういうコネがうまくはたらいた。
「俳諧は気にのせてすべし」
真っ先に江戸下向した信徳は、延宝6年(1678)に素堂・芭蕉を巻きこんで百韻連句『江戸三吟』を世に問うた。そのころから芭蕉は桃青を俳号とした。35歳になっている。
   富士に傍(そ)うて三月七日八日かな(信徳)
   目には青葉山ほととぎすはつ松魚(素堂)
   貧山の釜霜に啼く声寒し(桃青)
桃青のものはとうてい褒められた句ではない。ただ、『貝おほひ』がほとんど戯れ句が多かったのにくらべると、ここには気迫のようなものがある。気のスピードのようなものがある。また、「貧」「霜」「啼く」「寒し」といった、のちに芭蕉の好んだ語彙が顔を出していて、ハッとさせるものがある。こういうところは、すでに桃青は芭蕉の萌芽を見せていた。ちなみに桃青という俳号は母方の伊予宇和島の桃地姓から採ったようで、この桃地が忍びの者を統括した百地一族との血縁もあるらしいところから、いっとき芭蕉忍者説が躍り出たことがあったのだが、この説はおもしろすぎて、加担はできない。ついでながら、芭蕉がいっとき禅林に入っていたのではないかという説もあるけれど、これもそうだとしても、そうでないとしても、とくに芭蕉の評価を変えるまい。
「乾坤の変は風雅の種なり」
初期の芭蕉のことで言っておかなければならないのは、最初は漢詩文の調子を取り戻すことが重要だと見ていたということである。さかのぼれば、漢詩文には日本の詩歌を刺激した鐘が鳴っている。源氏だって白楽天なのである。それを貞門や談林は忘れた。日本文化というものは、大きくはやっぱり「和」をどのように創発させていったかということが眼目になるのだが、それはときどき「漢」との熾烈な交差を含んでいないと、ものにならなかったのである。芭蕉はそこが見えていた。そういう判断のもと、しばらく芭蕉は次のような句ばかりを詠んでいた。
   夜ル寨(ひそか)ニ虫は月下の栗を穿ツ
   櫓の声波ヲうつて腸(はらわた)氷ル夜やなみだ
言葉の並びだけからいったら、これはまるで笠置シヅ子やシャ乱Qだろう。けれども、こういう着想をするところが桃青の桃青らしいところだった。「櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ」は、櫓がきしる音を聞いていると体の奥まで寒さがしみわたるというほどの句意で、そう思えば、「腸氷」や「氷夜」といった造語はどこか心敬をさえ思わせる。芭蕉がそういう凍てついた句を詠んでいたにしても、しかし大方は漢詩に滑稽を加えて俳諧としていた。これではやはり佶屈晦渋を免れないものになっていく。これでは漢から和へのトランジットもままならない。たしかに俳諧とは、そもそもは滑稽という意味をもっている。けれども「俳諧が滑稽である」のでは、「ロックはビートである」と言っているのと同じようなもので、必ず行き詰まる。漢詩の気分を交ぜたのは、その打開策だった。ロックに和太鼓が入ってきたようなものだ。しかしこのやりかたは、漢詩調や和太鼓調というものがあまりに際立つ性質をもっているので、かえって十全にこなせない。そこをどうするか。それを早くも芭蕉は考えた。
延宝8年、芭蕉は江戸市中を離れて隅田川対岸の新開地・深川に移り住んだ。泊船堂である。これが最初の芭蕉庵になった。杉風が世話をした。このときから、芭蕉に画期的な転機が連打されたのである。それは俳諧全史を眺めわたしても、まさに乾坤一擲の転機だったろう。
この転機は、結論からいえば、芭蕉が西行を学んだことで発揮した。漢詩文の調子に西行の『山家集』を交ぜたのだ。「侘び」に気が付いたのだ。そのことについては門弟の其角は『虚栗』(みなしぐり)に、「侘と風雅のその生にあらぬは、西行の山家をたづねて、人の拾はぬ蝕(むしく)い栗なり」と書いた。許六は『韻塞』(いんふさがり)に、「旅は風雅の花、風雅は過客の魂、西行・宗祇の見残しはみな俳諧の情(こころ)なり」と書いた。ここに芭蕉の俳諧は「滑稽」から「風雅」のほうに転出していくことになる。「俳諧といへども風雅の一筋なれば、姿かたちいやしく作りなすべからず」(去来)なのである。「いやしく」しない。つまり、卑俗を離れたいと、芭蕉は決断したのだった。のちに芭蕉は服部土芳に、こう言ったものだった。「乾坤の変は風雅の種なり」(三冊子)と。そして『笈の小文』に、こう書いたものだ。「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通するもの一なり」と。まったく同じ延宝8年のこと、西鶴は大坂生玉神社で昼夜独吟四千句を興行してみせた。なんと上方の西鶴と江戸の芭蕉とは対照的だったことか。
「その物に位をとる」
こうして貞享元年(1684)8月、芭蕉は初めての旅に出る。「野ざらしを心に風のしむ身かな」と詠んで、能因・西行を胸に秘め、東海道の西の歌枕をたずねた。この「野ざらしを」の句は最初の芭蕉秀句であろう。これも、いよいよ「和」の位をとった。『野ざらし紀行』(甲子吟行)では「貞享甲子秋八月、江上の破屋を立ちいづるほど、風の声そぞろ寒げ也」と綴って、この句を添えている。どこか思いつめたものがある。「野ざらし」とは骸骨である。骸(むくろ)である。「しむ身」は季語「身にしむ」を入れ替えて動かしたもので、それを「心に風のしむ身かな」と詠んで、心敬の「冷え寂び」に一歩近づく風情とした。のちに加藤楸邨が「かなしび」をめがけたことがあったものだが、そういう感覚に近い。この句はよほどの自信作であったろう。「野ざらしを心に」「心に風の」「風のしむ身かな」というふうに、句意と言葉と律動がぴったりとつながっている。しかも、そこに「野ざらし」というマイナスのオブジェがはたらいた。マイナスがはたらいたということは、定家や西行の方法を俳諧にできそうになってきたということである。この句において、芭蕉は自分がはっきりと位をとったことが見えたにちがいない。けっして奢ることのない人ではあったけれど、おそらくこの「負の自信」ともいうべきは、芭蕉をいよいよ駆動させたはずである。
「発句の事は行きて帰る心の味はひなり」
野ざらし紀行は9カ月にわたった。伊勢参宮ののちいったん伊賀上野に寄って、それから大和・当麻寺・吉野をまわり、さらに京都・近江路から美濃大垣・桑名・熱田と来て、また伊賀上野で越年し、そこから奈良・大津・木曽路をへて江戸に戻っている。ここで芭蕉はついに「風雅の技法」を身につけた。まるで魔法のように身につけた。たとえば――。
   道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり
   秋風や薮も畠も不破の関
   明ぼのやしら魚しろきこと一寸
   春なれや名もなき山の薄霞
   水とりや氷の僧の沓(くつ)の音
   山路来てなにやらゆかしすみれ草
   辛崎の松は花より朧にて
   海くれて鴨のこゑほのかに白し
これらの句には、突然に芭蕉が凛然と屹立しているといってよい。その変貌は驚くばかりだ。とくに「道のべの木槿は馬にくはれけり」「明ぼのやしら魚しろきこと一寸」「辛崎の松は花より朧にて」「海くれて鴨のこゑほのかに白し」の句は、これまでの芭蕉秀句選抜では、つねに上位にあげられる名作だ。そういう句が9カ月の旅のなかで、一気に噴き出たのである。「野ざらしを」の句のリーディング・フレーズはみごとに役割をはたしたのだ。しかし、ここで注目しなければならないことがある。それは、これらの句は、それぞれ存分な推敲の果てに得た句であったということだ。いよいよ今夜の本題に入ることになるが、芭蕉はこの旅で推敲編集の佳境に一気に入っていったのだ。
どういう推敲だったかというと、たとえば「道のべの木槿は馬にくはれけり」は、最初は「道野辺の木槿は馬の喰ひけり」や「道野辺の木槿は馬に喰れたり」だった。また、「明ぼのやしら魚しろきこと一寸」は「雪薄し白魚しろき事一寸」だったのである。「雪薄し白魚しろき」では、重畳になる。つまらない。そこで、白魚から薄雪を去らせて、白さを冴えさせる。芭蕉は推敲のなかで、こうした編集技法を次々に発見していったのだった。もっと劇的な例がある。有名な「山路来てなにやらゆかしすみれ草」。これを初案・後案・成案の順に見てもらいたい。
   (初)何とはなしに なにやら床し すみれ草
   (後)何となく 何やら床し すみれ草
   (成)山路来てなにやらゆかしすみれ草<
初案と後案の句は、どうしようもないほどの体たらくになっている。「何とはなしになにやら床し」では、俳諧にさえなってはいない。これなら今日ですら俳句を齧った者なら、ごく初歩のころに作る句であろう。むろん芭蕉としては、道端の菫があまりに可憐でゆかしいことを、ただそれだけをなんとかしたかったのである。『野ざらし紀行』によると、伏見から大津に至った道すがらのことだった。けれどもその場では言葉を探しきれなかった。それでともかくは書き留めておいたのだろう。そこでのちに訂正を入れた。それが「山路来て」という上五の導入である。これで「なにやらゆかし」が山路にふわっと溶けた。芭蕉の歩く姿がふわっと浮上した。そして、そのぶん、路傍の一点の菫色(きんしょく)があっというまに深まったのだ。こうした推敲編集のこと、このあとでも紹介したい。
「品川を踏み出したらば、大津まで滞りなく歩め」
ところで、なぜ芭蕉は9カ月ものあいだを旅の途上においたのか。やっと江戸に出てきて、漢詩を離れたばかりなのである。いくら西行の風雅に気がついたとはいえ、この9カ月は長い。しかし、ぼくはしばしば思ってきたのだが、この時間の採り方がつねに芭蕉をつくっているのではないかということである。このあとの「笈の小文」の旅が約半年、更科紀行が足掛け3カ月、奥の細道が半年を超えた。芭蕉はそのたびに充実していった。いや、頂点にのぼりつめていく。どうも、ここには決断的算定ともいうべきものがある。自身に課す習練のパフォーマンスが星座が形をなしていくように、勘定できている。俳諧をめぐるエディトリアル・エクササイズというものが見えている。そのパフォーマンスがどうしたら自分の目に、耳に、口に、手について、その後に化学反応のような「俳句という言葉」に昇華していくかが、見えている。
いささか口はばったいことを言うようだけれど、何かが熟するにはつねに「時熟」というものが必要なのである。ここでぼくの例など持ち出してはおかしいが、ぼくの編集作業でさえ『全宇宙誌』で5年、『情報の歴史』で3年、「千夜千冊」でも4年をかけている。べつだん期間はどのくらいでもいいが、その事に仕えるうちに自分がかかわるものの一部始終が見えてきて、それをまあまあ使い切ったかと感じるには、やはり時熟が必要なのだ。芭蕉にはそれが忽然と了解できていた。『去来抄』に「この句、いま聞く人あるまじ。一両年を待つべし」というくだりがある。去来が先師の評言として引いたものである。一句の時熟に一両岸を待ちなさいというアドバイスだった。また、土芳の『三冊子』には芭蕉の言葉として、「思ふに余念なき俳諧の事なるべし」がある。余念をつかいきらないで、どうして俳諧などつくれるのかという叱正だ。いずれも時熟を示していよう。その「時の幅」を芭蕉はよくよく見据えていた。
「舌頭に千転せよ」
さて、『野ざらし紀行』執筆の1年後、芭蕉はあの「古池や蛙飛こむ水の音」を詠んだ。貞享3年、芭蕉43歳の春である。この句については、当初から議論を呼んでいた。すでに各務支考が『葛の松原』に、この句ができたときの事情を記していて、その日は芭蕉庵で翁が一日焉として憂いていたというのだ。そして、「風雅の世に行はれたる、たとへば片雲の風に臨めるごとし。一回は隹狗となり、一回は白衣となつて、共にとどまれる處をしらず、かならず中間の一理あるべし」と言って、「春を武江のきたにとざし給へば、雨静にして鳩の声ふかく、風やはらかにして花の落る事おそし」というところへ、ポチャンと蛙が水に入った音がしたというのである。まるで一休のカラスのカーである。蛙のポチャンがまさに“中間の一理”になっている。それですかさず、「古池や蛙飛こむ水の音」という一句ができたのかというと、そうではなかった。最初はできの悪い句から始まっていた。
では、ふたたび芭蕉の推敲編集のプロセスを明かし交ぜながら話を進めることにするが、この人口に膾炙した「古池や」の一句にして、以下のように変わっていったのだ。同じ貞享3年の数句もついでに比較する。やはり初案・後案・成案の順である。以下の句、いずれも芭蕉は初案で幼稚を惧れず、「発句は屏風の下絵と思ふべし」のつもりで、すばやくドローイングしていることが見えてくる。
   (初)古池や 蛙飛ンだる 水の音
   (後)山吹や 蛙飛込む 水の音
   (成)古池や蛙飛こむ水のをと
   (初)西東 あはれさおなじ 秋の風
   (後)西東あはれもおなじ 秋のかぜ
   (成)東にしあはれさひとつ秋の風
   (初)名月や 池をめぐつて 夜もすがら
   (成)名月や池をめぐりて夜もすがら
古池にするか、山吹にするか。芭蕉は迷いを隠さない。「西東」がいいか、「東にし」がいいか。芭蕉はいろいろ置き換えをする。乗り換えて、着替えて、持ち変える。そのうえで「あはれさ・おなじ」は「あはれさ・ひとつ」になっている。これが43歳のときの編集力である。『葛の松原』によると、「古池」の句の上五を「山吹や」としてはどうかと言ったのは、そこに居合わせた其角だった。才気煥発の其角は、きっと古今集の「蛙なく井手の山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを」あたりを思い出したのであろう。その「山吹や」によって、芭蕉の「飛ンだる」は、まず「飛びこむ」になった。しかし芭蕉は、それを含んでまた、上五を「古池や」に戻している。推敲とは「推すか」「敲くか」ということであるが、芭蕉は実に、この「押して組まねば、引いて含んでみよ」を頻繁に試みたのだった。
「花に問へば花かたることあり。姿はそれにしたがふべし」
芭蕉は初案を率直に出す。卒然といったほうがいいかもしれないが、ともかく巧まない。『三冊子』には、「物の見えたる光、いまだに心に消へざるうちに言ひとむべし」と言っている。ドローイングは速いのだ。が、問題はその次だ。もう少し、推敲のプロセスをあかしたい。次のものは貞享4年の句になるが、さらに決定的な比較推敲が見えている。
   (初)誰やらが姿に似たりけさの春
   (成)誰やらが形に似たりけさの春
初案は、朝起きて外の空気を感じていると、それが誰かの気配の姿のように思えた、あるいは表に出て朝の空気を感じていると、そこに誰か親しい人の姿が通りすぎたというような句意に読める。それを推敲ののち、「誰やらが形に似たりけさの春」というふうに、した。「姿」と書いたところを「形」にしたわけである。たった一字の変換である。けれども、これは決定的なイメージ・トランスフォーメーションだった。こう作ってみると、今朝の春という気配そのものが姿をもっているように見えてくる。「姿」という字をやめて「誰やらが・形・に・似たり」とするほうが、かえって春の姿が見えるのだ。「姿」の字が消えて、姿が見えてくる。不思議なことである。
では、いったい芭蕉はこのような推敲をしつづけることによって、何に近づきたかったのか。発句を自立させ、俳諧を一句の俳句として高みに達するようにすることとは、何だったのか。それを感じること、また、それを感じさせることが、まさに芭蕉が追求したことだった。これは高悟帰俗というものだ。「高く悟りて俗に帰るべし」。このことはまた、まさに芭蕉を読む日本人が総じて感得すべきことでもあろう。ぼくははっきりとそう言いたい。しかしながらそれをさて、「わび」「さび」というか、「ほそみ」「かろみ」というかどうかは、まだ芭蕉も自覚していない。けれども芭蕉は、もはや「姿」は「形」がつくるもので、「形」は「誰やら」がつくるものであり、「誰やら」は「今朝」が育むものであることであって、それが「春の姿」という面影であるということを、アルベルト・ジャコメッティとまったく同様の確信をもって、その心の中央に楔のごとく打ちこんだのであった。
「格に入り、格に出てはじめて、自在を得べし」
貞享の句は芭蕉の前期と後期を分けた。その貞享5年は元禄元年にあたっている。芭蕉は45歳になっていた。笈の小文の旅をそのまま更科紀行にのばした芭蕉が、岐阜・鳴海・熱田をへて8月に更科の月見をしたのちに、江戸の芭蕉庵(この芭蕉庵は火災ののちに2度目に組んだもの)に戻ってきて、後の月見を開いたのは9月のことである。それから半年もたたぬうちに、芭蕉は奥の細道の旅に出る。これはそうとうの速断である。速いだけでなく、何かを十全に覚悟もしている。あらかじめ芭蕉庵を平右衛門なる人物に譲っているし、「菰かぶるべき心がけにて御座候」と言って、乞食(こつじき)行脚を心に期していたふしもある。そうなのだ。ぼくはこの紀行はまさに乞食行だと思っているのである。なぜそう思ったのか、ずいぶん以前に『笈の小文』を読んだときのことになるのだが、芭蕉が伊勢に参宮したおりに「増賀の信をかなしむ」と前書きして、「裸にはまだきさらぎの嵐かな」と詠んだことが、心に響いたのだ。
増賀とは、「かくて名聞こそ苦しかりけれ。乞食の身こそ頼もしけれ」と言い放ったと『発心集』が伝える聖僧のことをいう。それ以前は、師の慈慧が僧正になったときに鮭の太刀を侃き雌牛に乗って前駆してみせ、その異風異様に喝采が送られた人物である。けれども増賀はこうした喝采を嫌って、ぷいっと乞食修行の旅に出てしまった。その増賀について、芭蕉は故郷伊賀上野の俳友に、「一鉢の境涯、乞食の身こそ尊けれど、謡に侘びし貴僧の跡もなつかしく云々」という手紙を送っている。それが奥の細道に旅立つ2カ月ほど前のことなのだ。増賀は伊勢神宮に詣でたときに、「道心をおこさんと思はば、この身を身とな思ひそ」という託宣を聞いた。そこで「名利を捨てよとこそ」と、着ていた小袖や僧衣をその場にいた者に与え、赤裸のままに下向した。この故事を知った芭蕉は、そこで、「裸にはまだきさらぎの嵐かな」と詠んだのだ。こうなると、芭蕉は風狂をこそ覚悟したというべきなのである。実際にも、2月末の記録には旅立ちの用意として「短冊百枚、筆箱、雨用茣蓙、柱杖」などと書いたあと、「これ二色、乞食の支度」と記していた。かくして元禄2年(1689)、「弥生も末の七日」の3月27日に、芭蕉は曽良をともなって奥州に旅立った。しかし、そこにはけっこう意外なことがおこっていた。
「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」
半年にわたった奥の細道でどんな句が詠まれたかは、いまさら案内するまでもない。それよりも、ここでは、三つのことを強調しておきたい。ひとつは、芭蕉の旅は乞食の旅ではなかったということだ。たったいま、乞食行を覚悟しての旅だったと書いたばかりなのに、これではまったく反対のことを言うようだが、実は半分はそうなのである。いわゆる托鉢乞食行とはいいがたかった。曾良の『随行日記』を読めば、芭蕉が地方の富商・上級藩士・名望家ばかりをたずねていたことは歴然とする。しかし、このことをもって芭蕉に乞食行の覚悟がなかったかといえば、そういうことではない。むしろ芭蕉はずうっと遊行乞食の意識と観念を磨ききったはずだった。すでに書いておいたように、芭蕉はコネの活用にはいたって強く、人脈をつくるのにもたけていた。そんなことは、『おくのほそ道』を読めばわかることなのだ。研究者たちのなかには、この芭蕉の“偽装”とでもいうものを問題にしていることが少なくないのだが、こういう阿呆な研究者たちには、紀貫之が『土佐日記』(512)で、漢文であるべき日記を仮名日記という前代未聞のフォーマットに託し、男が書くべきところを女に仮託して男が書いたという二重の偽装をしたことが、ついに日本語計画の発端をひらいたことを言っておけば充分であるだろう。芭蕉にあっても、『おくのほそ道』とは、誰もまだ見たことのない俳諧紀行文の出奔の企てであったのだ。それゆえ、『おくのほそ道』がそれを綴りきった芭蕉とそれを読んだ者たちにとって、「ひとしくこのような俳諧遊行というものがあるのだ」と感じるようになっていればよかったのであって、そのことが、唯一、芭蕉が乞食行を覚悟したことの意表であったのである。
次のひとつは、いま言ったことが理解できれば至極当然のことになるのだが、この紀行文はあとでいろいろ編集構成されたものであって、いくつも事実とは異なっていたということだ。これらも曾良の日記であきらかになったことである。そういう詮索の大半をぼくも一応は読んではきたが、いまさら面倒でそれを紹介する気にもならないでいる。むしろぼくならば、編集構成の手を加えない『おくのほそ道』など、芭蕉すら読む気がしなかったろうと言いたい。それで、もうひとつとは、むろん芭蕉が徹底して提示した句を推敲していたということである。その推敲も、その場での推敲ではなくて、後日の文脈にあわせての、そして超然たる俳句確立のための、そういう推敲だった。
「造化にしたがひ、造化にかへれ」
これで、やっと『おくのほそ道』の句の驚くべき変遷を案内できることになった。それぞれ説明を入れたいけれども、それも蛇足のようにも思えるので、ただ列挙することにする。わかりやすくするために、一字をあけたり、多少の順番を変えている。ゆっくりと目で追われたい。
   (初)たふとさや 青葉若葉の 日のひかり
   (後A)あらたふと 若葉青葉の 日の光
   (後B)あなたふと 木の下暗(やみ)も 日の光
   (後C)あらたふと 木の下闇も 日の光
   (成)あらたふと青葉若葉の日の光
   (初)弁慶が笈をもかざれ紙幟(かみのぼり)
   (成)笈も太刀も五月にかざれ紙幟
   (初)五月雨や年々降るも五百たび
   (成)五月雨の降りのこしてや光堂
   (初)山寺や 石(いわ)にしみつく 蝉の聲
   (後A)さびしさや 岩にしみ込む 蝉のこゑ
   (後B)淋しさの 岩にしみ込む せみの聲
   (成)閑さや岩にしみ入る蝉の聲
   (初)五月雨を 集て涼し 最上川
   (成)五月雨をあつめて早し最上川
   (初)涼しさや 海に入れたる 最上川
   (後)涼しさを 海に入れたり 最上川
   (成)暑き日を海に入れたり最上川
   (初)象潟の 雨や西施が ねぶの花
   (成)象潟や雨に西施がねぶの花
どれを例にしても驚くばかりの「有為転変」である。とくに立石寺で詠んだことになっている「閑さや岩にしみ入る蝉の聲」は、初案の「山寺や石にしみつく蝉の聲」とは雲泥の差になっている。なかんずく「しみつく」「しみこむ」「しみいる」の3段に変えたギアチェンジは絶妙だった。「しみつく」では色彩の付着が残る。「しみこむ」は蝉に意志が出て困る。それが「しみいる」になって、ついに「閑かさ」との対比が無限に浸透していくことになった。こんな推敲は、芭蕉一人が可能にしたものだ。とうてい誰も手が出まい。
われわれにとって多少とも手が出そうな芭蕉編集術の真骨頂は、おそらく、「涼しさや海に入れたる最上川」が、「暑き日を海に入れたり最上川」となった例だろう。なにしろ「涼しさ」が、一転して反対のイメージをもつ「夏の日」になったのだ。そして、そのほうが音が立ち、しかも涼しくなったのである。享保に出た支考の『俳諧十論』に、芭蕉の「耳もて俳諧を聞くべからず」という戒めをめぐった文章がある。連句の付合(つけあい)の心得をのべているくだりだが、実はこの言葉は「閑さや岩にしみ入る蝉の聲」にも、あてはまる。蝉の声は耳で聞いているのだが、それを捨てていく。そうすると、「目をもて俳諧を見るべし」というところへふいに出ていける。これは「涼しさ」が涼しい音をもっているにもかかわらず、あえて「夏の日」という目による暑さが加わって、それが最上川にどっと涼しく落ちていくことにあらわれた。
「物によりて思ふ心をあかす」
奥の細道の旅は、大垣から船に乗って伊勢遷宮を拝みに向かったところで終わっている。が、実際は、芭蕉はそのまま旅を続けていた。体もそうであったが、心もそうだった。紀行文としては、大垣が終点だった。また紀行文としては、前半が能因・西行の歌枕を辿っている意図があらわれていて、それが一応は松島と象潟で願いを達したあとは、日本海側に出て、その風土のせいだろうか、芭蕉独自の感想に深まっている。そう、読める。これは、そこから後世の良寛の詩魂に風情をつなげたいぼくにとっては、おおいにたのしむところであって、とりわけ那谷寺で「石山の石より白し秋の風」と詠んだところは、ここが頂点かとおもわせた。那谷寺に行きましょうかと誘ったのは曾良で、その誘いに従って詠んだのが「石より白し秋の風」なのである。これは「物によりて思ふ心をあかす」という芭蕉の、まことに達意に富んだ名人芸だった。
さて、それはそれとして、芭蕉は実は奥の細道の旅をどこで終えるかなどということを意識せず、大垣から伊勢へ赴き、伊勢遷宮に立ち会えることを寿いだ。その伊勢参拝の予告をもって『おくのほそ道』の記述を終えたのは、それゆえ、終焉間近までこの紀行文に手を入れつづけた結果なのである(芭蕉がつねに伊勢を意識していたことは、もっともっと議論されてもいいことだ)。すなわち、芭蕉は伊勢からそのまま奈良・京都にまわり、伊賀上野に帰ったところで、長きにわたった旅に終止符を打ったのだ。それが元禄3年(1690)の正月である。47歳になっている。『おくのほそ道』の最終編集にかかっていくのは、おそらくここである。このとき、伊勢参拝予告をもってこの作品を切断しようと決めたのだ。そう決めて、芭蕉は大津の幻住庵に入っていった。この年は大津で越年をした。
「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」
一方、このころから芭蕉の体には一挙に衰えが忍びよっていた。芭蕉はいよいよフラジャイルなラストゾーンに入っていったのだ。その時期が京都落柿舎に入っている時期になる(嵯峨日記)。そして、そこから去来の家に移り、渾身のフラジリティをこめて最後の編集にかかったのが『猿蓑』になる。もはや紙幅がずいぶん過ぎてきているので、そろそろ今夜の芭蕉を閉じることにするが、最後に付け加えておきたいのは、これまでもっぱら芭蕉の発句ばかりを扱ってきたが、芭蕉の捌きの名人芸は実は歌仙のほうにこそ、より絶妙な、より痛快な、「ほそみ」も「かろみ」を見せていたということだ。なかでも芭蕉七部集は『冬の日』『ひさご』『猿蓑』『炭俵』から抜いた7巻の歌仙をさしていて、かつてぼくが幸田露伴と安東次男の評釈に唸ったのは、それだった。
さて、ここまできて読み返したら、「さび」や「しをり」についての説明をまったくしていなかったことに気がついた。が、まあ、いいだろう。「さび」については第728夜にたっぷり綴っておいたので、それを読んでもらうことにする。芭蕉は「さび」とは句の色であって、ただ閑寂だからいいというものじゃないと言ったのだ。「しをり」や「ほそみ」についても話しておきたいけれど、今夜は『去来抄』の次の言葉を紹介して終えることにする。「しをりは憐れなる句にあらず。細みは頼りなき句にあらず。しをりは句の姿にあり、細みは句意にあり」。
もうひとつ書き残したことがあった。それは『三冊子』に出てくる芭蕉の「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」という言葉である。これは何度出会っても、すばらしい教えだとおもう。芭蕉は「習へ」とは、物に入ることだと言ったのである。習いながら私から出ることだと言ったのだ。それが松には松を、竹には竹をということである。『三冊子』には「私意をはなれよといふ事なり」というふうにある。しかし、芭蕉はそのあとにもっとドキッとすることを言っていた。それは、「習へといふは、物に入りて、その微に顕れて情感ずるや、句と成るところなり」という表明である。「微」にあらわれるところに「情」を感じて、そのまま「句」になっていけ、そう言ったのだ。  なんと蜻蛉の翅のように透明な微妙であろう! 畢竟、芭蕉五十年の生涯とは、「微」に入って「微」に出る一句のことだったのである!  
 
 
 

 

●松尾芭蕉 
( 寛永21年(正保元年) - 元禄7年 1644-1694 ) 江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)出身。幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のち宗房(むねふさ)。俳号としては初め宗房(そうぼう)を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。
芭蕉は和歌の余興の言捨ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。但し芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ。
芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『おくのほそ道』が特に有名。
●生涯​
伊賀国の宗房​
出生の詳しい月日は伝わっていない。伊賀国阿拝郡の生まれだが、上野城下の赤坂町(現在の伊賀市上野赤坂町)説 と上柘植村(現在の伊賀市柘植町)説の2説がある。これは芭蕉の出生前後に松尾家が上柘植村から上野城下の赤坂町へ引っ越しをしていて、引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。 阿拝郡柘植郷の土豪一族出身の父・松尾与左衛門と、百地(桃地)氏出身とも言われる母の間に次男として生まれる。兄・命清の他に姉一人と妹三人がいた。 松尾家は平氏の末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は武士ではなく農民だった。 明暦2年(1656年)、13歳の時に父が死去。 兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。そのためであろうか、 異説も多いが寛文2年(1662年)に若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕えたが、その仕事は厨房役か料理人だったらしい。2歳年上の良忠とともに京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入り、寛文2年の年末に詠んだ句
   春や来し年や行けん小晦日 (はるやこし としやゆきけん こつごもり)
が作成年次の判っている中では最も古いものであり、19歳の立春の日に詠んだという。寛文4年(1664年)には松江重頼撰『佐夜中山集』に、貞門派風の2句が「松尾宗房」の名で初入集した。
寛文6年(1666年)には上野の俳壇が集い貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が催され、宗房作の現存する最古の連句がつくられた。この百韻は発句こそ蝉吟だが、脇は季吟が詠んでおり、この点から上野連衆が季吟から指導を受けていた傍証と考えられている。
しかし寛文6年に良忠が歿する。宗房は遺髪を高野山報恩院に納める一団に加わって菩提を弔い、仕官を退いた。後の動向にはよく分からない部分もあるが、寛文7年(1667年)刊の『続山井』(湖春編)など貞門派の選集に入集された際には「伊賀上野の人」と紹介されており、修行で京都に行く事があっても、上野に止まっていたと考えられる。その後、萩野安静撰『如意宝珠』(寛永9年)に6句、岡村正辰撰『大和巡礼』(寛永10年)に2句、吉田友次撰『俳諧藪香物』(寛永11年)に1句がそれぞれ入集した。
寛文12年(1672年)、29歳の宗房は処女句集『貝おほひ』を上野天神宮(三重県伊賀市)に奉納した。これは30番の発句合で、談林派の先駆けのようなテンポ良い音律と奔放さを持ち、自ら記した判詞でも小唄や六方詞など流行の言葉を縦横に使った若々しい才気に満ちた作品となった。また延宝2年(1674年)、季吟から卒業の意味を持つ俳諧作法書『俳諧埋木』の伝授が行われた。そしてこれらを機に、宗房は江戸へ向かった。
江戸日本橋の桃青​
延宝3年(1675年)初頭(諸説あり)に江戸へ下った宗房が最初に住んだ場所には諸説あり、日本橋の小沢卜尺の貸家、久居藩士の向日八太夫が下向に同行し、後に終生の援助者となった魚問屋・杉山杉風の日本橋小田原町の宅に入ったともいう。江戸では、在住の俳人たちと交流を持ち、やがて江戸俳壇の後見とも言える磐城平藩主・内藤義概のサロンにも出入りするようになった。延宝3年5月には江戸へ下った西山宗因を迎え開催された興行の九吟百韻に加わり、この時初めて号「桃青」を用いた。ここで触れた宗因の談林派俳諧に、桃青は大きな影響をうけた。
延宝5年(1677年)、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わった事が知られる。卜尺の紹介によるものと思われるが、労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事だった。これは、点取俳諧に手を出さないため経済的に貧窮していた事や、当局から無職だと眼をつけられる事を嫌ったものと考えられる。この期間、桃青は現在の文京区に住み、そこは関口芭蕉庵として芭蕉堂や瓢箪池が整備されている。この年もしくは翌年の延宝6年(1678年)に、桃青は宗匠となって文机を持ち、職業的な俳諧師となった。ただし宗匠披露の通例だった万句俳諧が行なわれた確かな証拠は無いが、例えば『玉手箱』(神田蝶々子編、延宝7年9月)にある「桃青万句の内千句巻頭」や、『富士石』(調和編、延宝7年4月)にある「桃青万句」といった句の前書きから、万句俳諧は何らかの形で行われたと考えられる。『桃青伝』(梅人編)には「延宝六牛年歳旦帳」という、宗匠の証である歳旦帳を桃青が持っていた事を示す文も残っている。
宗匠となった桃青は江戸や時に京都の俳壇と交流を持ちながら、多くの作品を発表する。京の信徳が江戸に来た際に山口素堂らと会し、『桃青三百韻』が刊行された。この時期には談林派の影響が強く現れていた。また批評を依頼される事もあり、『俳諧関相撲』(未達編、天和2年刊)の評価を依頼された18人の傑出した俳人のひとりに選ばれた。ただし桃青の評は散逸し伝わっていない。
しかし延宝8年(1680年)、桃青は突然深川に居を移す。この理由については諸説あり、新進気鋭の宗匠として愛好家らと面会する点者生活に飽いたという意見、火事で日本橋の家を焼け出された説、また談林諧謔に限界を見たという意見もある。いずれにしろ彼は、俳諧の純粋性を求め、世間に背を向けて老荘思想のように天(自然)に倣う中で安らぎを得ようとした考えがあった。
江戸深川の芭蕉​
深川に移ってから作られた句には、談林諧謔から離れや点者生活と別れを、静寂で孤独な生活を通して克服しようという意志が込められたものがある。また、『むさしぶり』(望月千春編、天和3年刊)に収められた
   侘びてすめ月侘斎が奈良茶哥
は、侘びへの共感が詠まれている。この『むさしぶり』では、新たな号「芭蕉」が初めて使われた。これは門人の李下から芭蕉の株を贈られた事にちなみ、これが大いに茂ったので当初は杜甫の詩から採り「泊船堂」と読んでいた深川の居を「芭蕉庵」へ変えた。その入庵の翌秋、字余り調で「芭蕉」の句を詠んだ。
   芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
しかし天和2年(1682年)12月28日、天和の大火(いわゆる八百屋お七の火事)で庵を焼失し、甲斐谷村藩(山梨県都留市)の国家老高山繁文(通称・伝右衝門)に招かれ流寓した。翌年5月には江戸に戻り、冬には芭蕉庵は再建されたが、この出来事は芭蕉に、隠棲しながら棲家を持つ事の儚さを知らしめた。
一方で、芭蕉が谷村に滞在したのは、天和3年の夏のしばらくの間とする説もある。
その間『みなしぐり』(其角編)に収録された芭蕉句は、漢詩調や破調を用いるなど独自の吟調を拓き始めるもので、作風は「虚栗調(みなしぐりちょう)」と呼ばれる。その一方で「笠」を題材とする句も目立ち、実際に自ら竹を裂いて笠を自作し「笠作りの翁」と名乗ることもあった。芭蕉は「笠」を最小の「庵」と考え、風雨から身を守るに侘び住まいの芭蕉庵も旅の笠も同じという思想を抱き、旅の中に身を置く思考の強まりがこのように現れ始めたと考えられる。
深川の芭蕉庵の跡地やその周辺には、江東区芭蕉記念館、その分館の芭蕉庵史跡展望庭園、芭蕉翁像、芭蕉稲荷神社などの施設や史跡がある。
蕉風の高まりと紀行​
貞享元年(1684年)8月、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅に出る。東海道を西へ向かい、伊賀・大和・吉野・山城・美濃・尾張・甲斐を廻った。再び伊賀に入って越年すると、木曽・甲斐を経て江戸に戻ったのは貞享2年(1685年)4月になった。これは元々美濃国大垣の木因に招かれて出発したものだが、前年に他界した母親の墓参をするため伊賀にも向かった。この旅には、門人の千里(粕谷甚四郎)が同行した。
紀行の名は、出発の際に詠まれた
   野ざらしを心に風のしむ身哉
に由来する。これ程悲壮とも言える覚悟で臨んだ旅だったが、後半には穏やかな心情になり、これは句に反映している。前半では漢詩文調のものが多いが、後半になると見聞きしたものを素直に述べながら、侘びの心境を反映した表現に変化する。途中の名古屋で、芭蕉は尾張の俳人らと座を同じくし、詠んだ歌仙5巻と追加6句が纏められ『冬の日』として刊行された。これは「芭蕉七部集」の第一とされる。この中で芭蕉は、日本や中国の架空の人物を含む古人を登場させ、その風狂さを題材にしながらも、従来の形式から脱皮した句を詠んだ。これゆえ、『冬の日』は「芭蕉開眼の書」とも呼ばれる。
野ざらし紀行から戻った芭蕉は、貞享3年(1686年)の春に芭蕉庵で催した蛙の発句会で有名な
   古池や蛙飛びこむ水の音 (ふるいけや かはづとびこむ みずのおと) 『蛙合』
を詠んだ。和歌や連歌の世界では「鳴く」ところに注意が及ぶ蛙の「飛ぶ」点に着目し、それを「動き」ではなく「静寂」を引き立てるために用いる詩情性は過去にない画期的なもので、芭蕉風(蕉風)俳諧を象徴する作品となった。
貞享4年(1687年)8月14日から、芭蕉は弟子の河合曾良と宗波を伴い『鹿島詣』に行った。そこで旧知の根本寺前住職・仏頂禅師と月見の約束をしたが、あいにくの雨で約束を果たせず、句を作った。
   月はやし梢は雨を持ちながら
同年10月25日からは、伊勢へ向かう『笈の小文』の旅に出発した。東海道を下り、鳴海・熱田・伊良湖崎・名古屋などを経て、同年末には伊賀上野に入った。貞享4年(1687年)2月に伊勢神宮を参拝し、一度父の33回忌のため伊賀に戻るが3月にはまた伊勢に入った。その後吉野・大和・紀伊と巡り、さらに大坂・須磨・明石を旅して京都に入った。
京都から江戸への復路は、『更科紀行』として纏められた。5月に草鞋を履いた芭蕉は大津・岐阜・名古屋・鳴海を経由し、信州更科の姨捨山で月を展望し、善光寺へ参拝を果たした後、8月下旬に江戸へ戻った。
おくのほそ道​
西行500回忌に当たる元禄2年(1689年)の3月27日、弟子の曾良を伴い芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出た。下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前など、彼にとって未知の国々を巡る旅は、西行や能因らの歌枕や名所旧跡を辿る目的を持っており、多くの名句が詠まれた。
   夏草や兵どもが夢の跡 岩手県平泉町
   閑さや岩にしみ入る蝉の声 山形県・立石寺
   五月雨をあつめて早し最上川 山形県大石田町
   荒海や佐渡によこたふ天河 新潟県出雲崎町
この旅で、芭蕉は各地に多くの門人を獲得した。特に金沢で門人となった者たちは、後の加賀蕉門発展の基礎となった。また、歌枕の地に実際に触れ、変わらない本質と流れ行く変化の両面を実感する事から「不易流行」に繋がる思考の基礎を我が物とした。
芭蕉は8月下旬に大垣に着き、約5ヶ月600里(約2,400km)の旅を終えた。その後9月6日に伊勢神宮に向かって船出し、参拝を済ますと伊賀上野へ向かった。12月には京都に入り、年末は近江 義仲寺の無名庵で過ごした。
『猿蓑』と『おくのほそ道』の完成​
元禄3年(1690年)正月に一度伊賀上野に戻るが、3月中旬には膳所へ行き、4月6日からは近江の弟子・膳所藩士菅沼曲翠の勧めにしたがって、静養のため滋賀郡国分の幻住庵に7月23日まで滞在した。この頃芭蕉は風邪に持病の痔に悩まされていたが、京都や膳所にも出かけ俳諧を詠む席に出た。
元禄4年(1691年)4月から京都・嵯峨野に入り向井去来の別荘である落柿舎に滞在し、5月4日には京都の野沢凡兆宅に移った。ここで芭蕉は去来や凡兆らと『猿蓑』の編纂に取り組み始めた。「猿蓑」とは、元禄2年9月に伊勢から伊賀へ向かう道中で詠み、巻頭を飾った
   初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 (はつしぐれ さるもこみのを ほしげなり)
に由来する。7月3日に刊行された『猿蓑』には、幻住庵滞在時の記録『幻住庵記』が収録されている。9月下旬、芭蕉は京都を発って江戸に向かった。
芭蕉は10月29日に江戸に戻った。元禄5年(1692年)5月中旬には新築された芭蕉庵へ移り住んだ。しかし元禄6年(1693年)夏には暑さで体調を崩し、盆を過ぎたあたりから約1ヶ月の間庵に篭った。同年冬には三井越後屋の手代である志太野坡、小泉孤屋、池田利牛らが門人となり、彼らと『すみだはら』を編集した。これは元禄7年(1694年)6月に刊行されたが、それに先立つ4月、何度も推敲を重ねてきた『おくのほそ道』を仕上げて清書へ廻した。完成すると紫色の糸で綴じ、表紙には自筆で題名を記して私蔵した。
死去​
元禄7年(1694年)5月、芭蕉は寿貞尼の息子である次郎兵衛を連れて江戸を発ち、伊賀上野へ向かった。途中大井川の増水で島田に足止めを食らったが、5月28日には到着した。その後湖南や京都へ行き、7月には伊賀上野へ戻った。
9月に奈良そして生駒暗峠を経て大坂へ赴いた。大坂行きの目的は、門人の之道と珍碩の二人が不仲となり、その間を取り持つためだった。当初は若い珍碩の家に留まり諭したが、彼は受け入れず失踪してしまった。この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉は之道の家に移ったものの10日夜に発熱と頭痛を訴えた。20日には回復して俳席にも現れたが、29日夜に下痢が酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿った。10月5日に南御堂の門前、南久太郎町6丁目の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受けた。8日、「病中吟」と称して
   旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
を詠んだ。この句が事実上最後の俳諧となるが、病の床で芭蕉は推敲し「なほかけ廻る夢心」や「枯野を廻るゆめ心」とすべきかと思案した。10日には遺書を書いた。そして12日申の刻(午後4時頃)、松尾芭蕉は息を引き取った。
13日、遺骸は陸路で近江(滋賀県)の義仲寺に運ばれ、翌日には遺言に従って木曾義仲の墓の隣に葬られた。焼香に駆けつけた門人は80名、300余名が会葬に来たという。
●蕉門​
門人に蕉門十哲と呼ばれる宝井其角・服部嵐雪・森川許六・向井去来・各務支考・内藤丈草・杉山杉風・立花北枝・志太野坡・越智越人や杉風・北枝・野坡・越人の代わりに蕉門十哲に数えられる河合曾良・広瀬惟然・服部土芳・天野桃隣、それ以外の弟子として万乎・野沢凡兆・蘆野資俊などがいる。
この他にも地方でも門人らがあり、尾張・近江・伊賀・加賀などではそれぞれの蕉門派が活躍した。特に芭蕉が「旧里」と呼ぶほど好んだ近江からは近江蕉門が輩出した。門人36俳仙といわれるなか近江の門人は計12名にも及んでいる。
●芭蕉の風​
貞門・談林風​
宗房の名乗りで俳諧を始めた頃、その作風は貞門派の典型であった。つまり、先人の文学作品から要素を得ながら、掛詞・見立て・頓知といった発想を複合的に加えて仕立てる様である。初入集された『佐夜中山集』の1句
   月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿 (つきぞしるべ こなたへいらせ たびのやど)
は、謡曲『鞍馬天狗』の一節から題材を得ている。2年後の作品
   霰まじる帷子雪はこもんかな (あられまじる かたびらゆきは こもんかな)『続山井』
では、「帷子雪」(薄積もりの雪)と「帷子」(薄い着物)を掛詞とし、雪景色に降る霰の風景を、小紋(細かな模様)がある着物に見立てている。また、「−−は××である」という形式もひとつの特徴である。江戸で桃青号を名乗る時期の作は談林調になったと言われるが、この頃の作品にも貞門的な謡曲から得た要素をユニークさで彩る特徴が見られる。
天和期の特徴​
天和年間、俳諧の世界では漢文調や字余りが流行し、芭蕉もその影響を受けた。また、芭蕉庵について歌った句を例にあげると、字余りの上五で外の情景を、中七と下五で庵の中にいる自分の様を描いている。これは和歌における上句「五・七・五」と下句「七・七」で別々の事柄を述べながら2つが繋がり、大きな内容へと展開させる形式と同じ手段を使っている。さらに中七・下五で自らを俳諧の題材に用いている点も特徴で、貞門・談林風時代の特徴「−−は××である」と違いが見られる。
天和期は芭蕉にとって貞門・談林風の末期とみなす評価もあるが、芭蕉にとってこの時期は表現や句の構造に様々な試みを導入し、意識して俳諧に変化を生み出そうと模索する転換期と考えられる。
芭蕉発句​
貞享年間に入ると、芭蕉の俳諧は主に2つの句型を取りつつ、その中に多彩な表現を盛り込んだ作品が主流となる。2つの句型とは、「−−哉(省略される場合あり)」と「−−や/−−(体言止め)」である。前者の例は、
   馬をさへながむる雪の朝哉 (うまをさへ ながむるゆきの あしたかな) 『野ざらし紀行』
が挙げられる。一夜にして積もった雪景色の朝の風景がいかに新鮮なものかを、平凡な馬にさえ眼がいってしまう事で強調し、具象を示しながら一句が畳み掛けるように「雪の朝」へ繋げる事で気分を表現し、感動を末尾の「哉」で集約させている。後者では、
   菊の香やならには古き仏達 (きくのかや ならにはふるき ほとけたち) 『笈日記』
があり、字余りを使わずに「や」で区切った上五と中七・下五で述べられる別々の事柄が連結し、広がりをもって融和している。
さらに『三冊子』にて芭蕉は、「詩歌連俳はいずれも風雅だが、俳は上の三つが及ばないところに及ぶ」と言う。及ばないところとは「俗」を意味し、詩歌連が「俗」を切り捨てて「雅」の文芸として大成したのに対し、俳諧は「俗」さえ取り入れつつ他の3つに並ぶ独自性が高い文芸にあると述べている。この例では、
   蛸壺やはかなき夢を夏の月 (たこつぼや はかなきゆめを なつのつき) 『猿蓑』
を見ると、「蛸壺」という俗な素材を用いながら、やがて捕食される事など思いもよらず夏の夜に眠る蛸を詠い、命の儚さや哀しさを表現している。
かるみの境地​
元禄3年の『ひさご』前後頃から、芭蕉は「かるみ」の域に到達したと考えられる。これは『三冊子』にて『ひさご』の発句
   木のもとに汁も鱠も桜かな (このもとに しるもなますも さくらかな)
の解説で「花見の句のかかりを心得て、軽みをしたり」と述べている事から考えられている。「かるみ」の明確な定義を芭蕉は残しておらず、わずかに「高く心を悟りて俗に帰す」(『三冊子』)という言が残されている。試された解釈では、身近な日常の題材を、趣向作意を加えずに素直かつ平明に表すこと、和歌の伝統である「風雅」を平易なものへ変換し、日常の事柄を自由な領域で表すこととも言う。
この「かるみ」を句にすると、表現は作意が顔を出さないよう平明でさりげなくならざるを得ない。しかし一つ間違えると俳諧を平俗的・通俗的そして低俗なものへ堕落させる恐れがある。芭蕉は、高い志を抱きつつ「俗」を用い、俳諧に詩美を作り出そうと創意工夫を重ね、その結実を理念の「かるみ」を掲げ、実践した人物である。
俳評​
芭蕉は俳諧に対する論評(俳評)を著さなかった。芭蕉は実践を重視し、また門人が別の考えを持っても矯正する事は無く、「かるみ」の不理解や其角・嵐雪のように別な方向性を好む者も容認していた。下手に俳評を残せばそれを盲目的に信じ、俳風が形骸化することを恐れたとも考えられる。ただし、門人が書き留める事は禁止せず、土芳の『三冊子』や去来の『去来抄』を通じて知る事ができる。
「かるみ」にあるように「俗」を取り込みつつ、芭蕉は「俗談平話」すなわちあくまで日常的な言葉を使いながらも、それを文芸性に富む詩語化を施して、俳諧を高みに導こうとしていた。これを成すために重視した純粋な詩精神を「風雅の誠」と呼んだ。これは、宋学の世界観が言う万物の根源「誠」が意識されており、風雅の本質を掴む(『三冊子』では「誠を責むる」と言う)ことで自ずと俳諧が詠め、そこに作意を凝らす必要が無くなると説く。この本質は固定的ではなく、おくのほそ道で得た「不易流行」の通り不易=「誠によく立ちたる姿」と流行=「誠の変化を知(る)」という2つの概念があり、これらを統括した観念を「誠」と定めている。
風雅の本質とは、詩歌では伝統的に「本意」と呼ばれ尊重すべきものとされたが、実態は形骸化しつつあった。芭蕉はこれに代わり「本情/本性」という概念を示し、俳諧に詠う対象固有の性情を捉える事に重点を置いた。これを直接的に述べた芭蕉の言葉が「松の事は松に習へ」(『三冊子』赤)である。これは私的な観念をいかに捨てて、対象の本情へ入り込む「物我一如」「主客合一」が重要かを端的に説明している。
●家系​
芭蕉の家系は、伊賀の有力国人だった福地氏流松尾氏とされる。福地氏は柘植三方の一氏で、平宗清の子孫を称していた。
天正伊賀の乱の時、福地氏当主・福地伊予守宗隆は織田方に寝返った。この功で宗隆は所領経営の継続を許された。しかし、のちに諸豪族の恨みを買って屋敷を襲われ、駿河へ出奔したという。
●その他​
忌日である10月12日(現在は新暦で実施される)は、桃青忌・時雨忌・翁忌などと呼ばれる。時雨は旧暦十月の異称であり、芭蕉が好んで詠んだ句材でもあった。例えば、猿蓑の発句「初時雨猿も小蓑を欲しげ也」などがある。
「松島やああ松島や松島や」は、かつては芭蕉の作とされてきたが記録には残されておらず、近年この句は江戸時代後期の狂歌師・田原坊の作ではないかと考えられている。
芭蕉の終焉地は、御堂筋の拡幅工事のあおりで取り壊された。現在は石碑が大阪市中央区久太郎町3丁目5付近の御堂筋の本線と側道間のグリーンベルトに建てられている。またすぐ近くの真宗大谷派難波別院(南御堂)の境内にも辞世の句碑がある。
隠密説​
45歳の芭蕉による『おくのほそ道』の旅程は六百里(2400キロ)にのぼり、一日十数里もの山谷跋渉もある。これは当時のこの年齢としては大変な健脚でありスピードである。これに18歳の時に服部半蔵の従兄弟にあたる保田采女(藤堂采女)の一族である藤堂新七郎の息子に仕えたということが合わさって「芭蕉忍者説」が生まれた。 また、この日程も非常に異様である。黒羽で13泊、須賀川では7泊して仙台藩に入ったが、出発の前に「松島の月まづ心にかかりて」と絶賛した松島では1句も詠まずに1泊して通過している。この異様な行程は、仙台藩の内部を調べる機会をうかがっていたためだとされている。『曾良旅日記』には、仙台藩の軍事要塞といわれる瑞巌寺、藩の商業港・石巻港を執拗に見物したことが記されている。(曾良は幕府の任務を課せられ、そのカモフラージュとして芭蕉の旅に同行したともいわれている)。『奥の細道』にて往訪した仙台藩、庄内藩、加賀藩は古土法よる煙硝(火薬)の産地で有ることなどから隠密説が生じたとされる。 
 

 

●芭蕉のたどり着いた苦しみ 
長谷川櫂「芭蕉の風雅 あるいは虚と実について」
   古池や蛙飛こむ水の音
この句を「古池に蛙が飛び込む水の音がした」と、読んではいけない。「蛙の水に飛び込む音を聞いたら古池の茫漠とした姿が心に浮かんだ」と読む。
それまでの言葉遊びにすぎなかった、貞門俳諧や談林俳諧の停滞を脱して、心の世界を打ち開いた句であった。それまでだったら、蛙は鳴くものであり、取り合わせは古池ではなく山吹だった。現に芭蕉が「蛙飛こむ水の音」という中七下五を得たとき、傍らにいた其角は「山吹をかぶせたらどうか」と意見を言って芭蕉に却下される。山吹といふ五文字は風流にしてはなやかなれど、古池といふ五文字は質素にして実(じつ)也。実は古今の貫道なれば、と。「虚に居て実にあそぶ」が芭蕉の風雅だ。俳諧が古代から心の文学であった和歌に肩を並べた、俳句という文学にとっての大事件だったと、長谷川は書いている。
深川の草庵でこの句を得ていわゆる蕉風を開眼した芭蕉は「おくのほそ道」の旅に出る。蕉風とは何か、芭蕉が求めた風雅とはなにか。芭蕉(とその門弟たち)の遺した、「冬の日」「はるの日」「あら野」「ひさご」「猿蓑」「炭俵」「続猿蓑」の七つの俳諧集の評釈を軸に蕉風の発展展開を明らかにする。
七部集という大河の流れに写しだされるのは芭蕉の風雅の変遷である。芭蕉はみちのくの歌枕をめぐることによって、時の流れによって破壊され、または辛くも耐えている歌枕の姿を目にし、時間の猛威とこの世の無常に打ちひしがれる。
   五月雨の降のこしてや光堂
そして、山寺、月山、日本海、佐渡などで、宇宙・月・太陽・天の川などを観ることで不易流行、「太陽や月や星がめぐるようにすべては変化(流行)するが、何も変わらない(不易)」という宇宙観を得る。
   閑さや岩にしみ入蝉の声
   雲の峰幾つ崩て月の山
宇宙めぐりから人間界に、浮世帰りをした芭蕉は、さまざまな別れと遭遇する。ここで「かるみ」という人生観にたどりつく。「人間界がいかに別れに満ちていようと、人生がいかに悲惨であろうと、一喜一憂するのではなく、宇宙のような大きな目で眺めたい」
   蛤のふたみにわかれゆく秋ぞ
芭蕉の真髄は単独の俳句(発句)ではなく連衆と巻く俳諧にある。俳諧は句と句の「間・ま」の詩情を味わう。句と句の間に横たわる言葉の空白と沈黙、そこで一瞬のうちに主体や場面の転換が行われたり、深淵がのぞき永遠が宿る。
芭蕉の生きた江戸時代は応仁の乱以後の長い内乱によって破壊され失われた古典復興の時代だった。古典文学の詳細かつ膨大な注釈書を著した北村季吟に芭蕉は薫陶を受けて育った。古典を自由自在に使いこなすことができた芭蕉の古典とのつきあい方は変化する。当初は先人の遺した古典をそのまま取り入れた。やがてそっくりそのままでなく、失われたよきものに似ている「面影」を詠む(「猿蓑」)。さらに、どこを探しても古典が見当たらない「炭俵」にいきつく。ここでは越後屋の手代など、古典の知識のない連衆を集めた。
長谷川は慨嘆する。
人類に書物、都市に図書館という記憶装置があるように、ひとつひとつの言葉もまた記憶の集積である。言葉が記憶しているもの、それこそ言葉が使われてきた来歴つまり古典なのである。言葉を失った人間が虚ろであるように、記憶を失った人類も都市もまた虚ろである。同様に記憶を失った言葉、いいかえればものを指示するだけの記号と化した言葉などまっとうな言葉とはいえない。
芭蕉は性急に古典離れ・古典封じをせずに、「かるみ」のもとに古典をどう生かすか、「面影」という手法をさらに進めた古典との新しい関係を築くべきだったという。その兆しが見えたのが芭蕉最後の旅の病の床の句だ。
   秋深き隣りは何をする人ぞ
   旅に病で夢は枯野をかけ廻る
どちらも杜甫の詩を踏まえているが、杜甫の詩を知らなくても通じる。もう少し長生きをしていれば!と惜しみ嘆く長谷川。
「炭俵」の古典離れは芭蕉の死後、支考によって「美濃派」として全国にゆきわたる。その土壌に一茶が現れたのだ。芭蕉の古典離れが現在の俳句の大衆化をもたらしたともいえる。
俳句の大衆化、誰でも俳句が詠めるということは「実に居て虚にあそぶ」人々が大量に出現することにほかならない。この圧倒的な数の現象が「虚に居て実をおこなふ」べき俳句の質を変えていくことになる。
俳句にとって困難な時代になった現代、芭蕉の体現した風雅の世界はどのような姿をとるのか、と問題提起で本書が終わる。
母が生きていたらなんというか。「そんなこといわれても」と笑ったろうな。  
 
 
 

 

一茶
●一茶 夏の発句
夏めく
鶯にすこし夏めく軒の露
卯月(四月)
神祭卯月の花に逢ふ日哉
四五月やかすみ盛りのつくば山
六月(水無月、青水無月)
六月の空さへ廿九日哉
六月や草も時めくわらじ茶屋
六月は丸にあつくもなかりけり
我上[も]青みな月の月よ哉
水無月の空色傘や東山
   夜はなを青みな月の流哉
   六月にろくな夜もなく終りけり
   六月にろくな月夜もなき庵哉
   六月や月幸に煤はらひ
   六月や月夜見かけて煤はらい
六月もそゞろに寒し時の声
六月や天窓輪かけて肴うり
六月はよりとし達の月よ哉
夏の暁(夏の寝覚め)
夏の暁や牛に寝てゆく秣刈
夏の寝覚月見に堤へ出たりけり
日盛り
日盛りや葭雀に川の音もなき
日盛の上下にかゝるひとり哉
炎天
炎天にてり殺されん[天]窓哉
むら雨や六月村の炎天寺
炎天のとつぱづれ也炭を焼
夏の夜(夏の夜明け)
夏の夜に風呂敷かぶる旅寝哉
夏の夜や河辺の月も今三日
段々に夏の夜明や人の顔
夏の夜やあなどる門の草の花
夏の夜や人も目かける草[の]花
   夏の夜は小とり廻しの草家哉
   夏の夜やいく原越る水戸肴
   夏の夜やうらから見ても亦打山
   夏のよや焼飯程の不二の山
   夏の夜や明てくやしき小重箱
夏の夜や二軒して見る草の花
夏の夜や背合せの惣後架
夏の夜や枕にしたる筑波山
短夜(明け易し、夜が詰まる)
大淀や砂り摺舟の明安き
捨人や明安い夜を里歩き
明安き榎持けりうしろ窓
明安き鳥の来て鳴榎哉
短夜の門にうれしき榎哉
   短夜の鹿の顔出す垣ね哉
   草植て夜は短くぞ成にける
   短夜やけさは枕も草の露
   巣立鳥夜の短かいが目に見ゆる
   短夜を継たしてなく蛙哉
短夜に竹の風癖直りけり
明安き闇の小すみの柳哉
五[六]本草のつい 〜 夜はへりぬ
明安き夜のはづれの柳哉
江戸の[夜は]別にみかじく思ふ也
   短て夜はおもしろやなつかしや
   短夜や草葉の陰の七ヶ村
   短夜やまりのやうなる花の咲
   短夜やよやといふこそ人も花
   露ちりて急にみじかくなるよ哉
花の夜はみじかく成ぬ夜はなりぬ
短夜の真中にさくつゝじ哉
短夜や妹が蚕の喰盛
短よや蚕の口のさはがしき
短よや髪ゆひどのゝ草の花
   短夜や傘程の花のさく
   短夜やくねり盛の女郎花
   短夜やにくまれ口をなく蛙
   明安き天窓はづれや東山
   明安き夜を触歩く雀哉
遊ぶ夜はでのなく成ぬなく成ぬ
短よや十七年も一寝入
行雲やだら 〜 急に夜がつまる
今に知れ夜が短といふ男
短夜を公家で埋たる御山哉
   短夜のなんのと叱る榎哉
   短夜や鬮にあたりし御金番
   短夜や樹下石上の御僧達
   わるびれな野に伏とても短夜ぞ
   遊ぶ夜は短くてこそ目出度けれ
田も見へて大事の 〜 短夜ぞ
月さして遊でのない夜也けり
短夜をさつさと露の草ば哉
短夜やゆうぜんとして桜花
短夜やよしおくるゝも草の露
   手の込んだ草の花ぞよ短夜に
   短夜にさて手の込んだ草の花
   短夜や河原芝居のぬり顔に
   短夜や草はつい 〜 〜 と咲
   短夜をよろこぶとしと成にけり
短夜や赤へ花咲蔓の先
短夜や草へ弘げる芝肴
短夜を嬉しがりけり隠居村
短夜を橋で揃ふや京参り
短夜を古間の人のたくみ哉
   短夜や草もばか花利口花
   短夜に木銭がはりのはなし哉
   短夜の畠に亀のあそび哉
   短夜も寝余りにけりあまりけり
   短夜や寝あまる間土の咄哉
夜のつまる峠の家の寝よさ哉
夜のつまる峠も下り月夜哉
短夜をさつさと開く桜かな
短夜や吉原駕のちうをとぶ
暑し(暑き日、暑き夜)
砂原やあつさにぬかる九十九里
山うらを夕日に巡るあつさ哉
暑き日や籠はめられし馬の口
暑き夜に大事 〜 の葎哉
あつき夜や江戸の小隅のへらず口
   大空の見事に暮る暑哉
   蓬生の命かけたる暑哉
   暑日に何やら埋る烏哉
   暑き日の宝と申小藪哉
   暑き日のめでたや臼[に]腰かけて
暑き夜をはやしに行や小塩山
あら暑しなごや本町あらあつき
粟の穂がよい元気ぞよ暑いぞよ
鶯の草にかくるゝあつさ哉
むさしのや暑に馴れし茶の煙
   風鈴のやうな花さく暑哉
   暑日や一つ並の御用松
   あつき夜をありがたがりて寝ざりけり
   蓑虫の暑くるしさよくるしさよ
   暑き夜[を]にらみ合たり鬼瓦
稲の葉に願ひ通の暑哉
竹縁の鳩に踏るゝあつさ哉
蕗の葉にぽんと穴明く暑哉
暑夜を唄で参るや善光寺
暑夜の咄の見へぬ夕月夜
   あら暑し 〜 何して暮すべき
   大家の大雨だれの暑哉
   喰ぶとり寝ぶとり暑 〜 哉
   寝草臥て喰くたびれて暑哉
   砂山のほてりにむせる小舟哉
遊女めが見てけつかるぞ暑い舟
青蔓の窓へ顔出す暑哉
暑き日や爰にもごろりごろ 〜 寝
暑き日や野らの仕事の目に見ゆる
暑き日やひやと算盤枕哉
   暑き日や胸につかへる臼井山
   暑き夜や子に踏せたる足のうら
   あらあつし 〜 と寝るを仕事哉
   馬になる人やよそ目もあつくるし
   栗の木の白髪太夫の暑哉
しなの路の山が荷になる暑哉
べら坊に日の長い哉暑い哉
蝮住草と聞より暑哉
あゝ暑し何に口明くばか烏
暑き日に面は手習した子かな
   暑日や青草見るも銭次第
   暑き日や庇をほじるばか烏
   暑き日よ忘るゝ草を植てさい
   暑き夜をとう 〜 善光寺詣り哉
   暑き夜の上なき住居かな
暑夜の荷と荷の間に寝たりけり
暑夜や蝋燭かける川ばたこ
稲の葉に忝さのあつさ哉
米国の上々吉の暑さかな
大帳を枕としたる暑かな
   なを暑し今来た山を寝て見れば
   南無あみだ仏の方より暑かな
   白山の雪きら 〜 と暑かな
   暑ぞよけふも一日遊び雲
   暑き日や馬の沓塚わらじ塚
暑日や見るもいんきな裏長屋
猪になる人どの程に暑からん
猪役はおか目で見ても暑かな
手に足におきどころなき暑哉
梨柿のむだ実こぼるゝ暑哉
   乗かけの暑見て寝る野馬哉
   身一つをひたと苦になる暑哉
   草葉より暑い風吹く座敷哉
   洪水の川から帰るあつさ哉
   あつき日や終り初ものほとゝぎす
暑き日や棚の蚕の食休
暑き日やにらみくらする鬼瓦
暑き日や火の見櫓の人の顔
大菊の立やあつさの真中に
来た峠寝て見れば又あつし
   立じまの草履詠る暑哉
   日蝕の盥にりんと暑哉
   満月に暑さのさめぬ畳哉
   箕の米を蝶の〓て〓る暑哉
   わる赤い花の一藪暑哉
あつき日も子につかはるゝ乙鳥哉
乙鳥に家かさぬ家の暑哉
何もせぬ身の暑い哉暑哉
野ら仕事考へて見るも暑哉
穀値段どか 〜 下るあつさ哉
   暑き夜や藪にも馴てひぢ枕
   けふも 〜 翌[も]あついか藪の家
   じつとして白い飯くふ暑かな
   白峯の雪の目につく暑哉
   何のその小家もあつしやかましき
稗の葉の門より高き暑哉
涼し(朝涼、夕涼、涼風、月涼し)
涼しさや只一夢に十三里
涼しさや見るほどの物清見がた
涼しさや欠釜一つひとりずみ
涼しさや半月うごく溜り水
涼しさや雨をよこぎる稲光り
   萱庇やはり涼しき鳥の声
   涼風を真向に居へる湖水
   涼しさは三月も過る鳥[の]声
   麻〓す池小さゝよ涼しさよ
   涼しさは黒節だけの小川哉
舟板に涼風吹けどひだるさよ
はななりと涼しくすべしきれい好
夕涼や凡一里の片小山
夕涼や薬師の見ゆる片小藪
涼風に吹かれぢからもなかりけり
   涼風に立ちふさがりし茨哉
   とく 〜 と水の涼しや蜂の留主
   朝涼に菊も一般通りけり
   朝涼や瘧のおつる山の松
   門の夜や涼しい空も今少
涼風や力一ぱいきり 〜 す
涼風はあなた任せぞ墓の松
涼しさに忝さの夜露哉
涼しさに前巾着をとられけり
涼しさや今出て行青簾
   涼しさや山から見へる大座敷
   涼しさや闇の隅なる角田川
   月涼しす[ゞ]しき松のたゝりけり
   涼風も仏任せの此身かな
   涼風や鼠のしらぬ小隅迄
涼し[さ]に一本草もたのみ哉
涼しさにぶら 〜 地獄巡り哉
涼しさや門も夜さりは仏在世
涼しさや松見ておはす神の蛇
涼しさは雲の作りし仏哉
   蝉の世も我世も涼し今少
   鷺並べどつこも同じ涼風ぞ
   涼風に月をも添て五文哉
   涼しさも刃の上の住居哉
   涼しさやうしろから来る卅日哉
涼しさよ手まり程なる雲の峰
銭出[し]た程は涼しくなかりけり
夜に入れば江戸の柳も涼しいぞ
よるとしや涼しい月も直あきる
おゝ涼し 〜 夜も卅日哉
   下 〜 も下 〜 下々の下国の涼しさよ
   涼風[も]月も〆出す丸屋哉
   涼風も今は身になる我家哉
   涼しさに雪も氷も二文哉
   涼しきに我と火に入きり 〜 す
涼しさや今拵へし夜の山
涼しさや八兵衛どのゝ祈り雨
涼しきや枕程なる門の山
涼しさや又西からも夕小雨
涼しさや貰て植し稲の花
   涼しさは天王様の月よ哉
   大の字に寝て涼しさよ淋しさよ
   何もないが心安さよ涼しさよ
   一本の草も涼風やどりけり
   草雫今拵へし涼風ぞ
涼風の第一番は後架也
涼風の横すじかひに入る家哉
涼しさの江戸もけふ翌ばかり哉
涼しさや畠掘ても湯のけぶり
古藪も夜は涼風の出所哉
   夕涼や水投つける馬の尻
   涼風に欠序の湯治哉
   涼風の曲りくねつて来たりけり
   涼風も隣の松のあまり哉
   涼風やあひに相生の蝉の声
涼風ややれ西方山極楽寺
涼風は雲のはづれの小村かな
涼しいといふ夜も今少哉
涼しさやお汁の中も不二の山
涼しさや笠へ月代そり落し
   涼しさや大大名を御門番
   涼しさや湯けぶりそよぐ田がそよぐ
   涼しやな弥陀成仏の此かたは
   夕涼や草臥に出る上野山
   あら涼し 〜 といふもひとり哉
涼風の吹く木へ縛る我子哉
涼しさに転ぶも上手とはやしけり
涼しさに夜はゑた村でなかりけり
涼しさは仏の方より降る雨か
涼涼や汁の実を釣るせどの海
   我宿といふばかりでも涼しさよ
   涼しさにみだ同体のあぐら哉
   涼しさや朝草刈の腰の笛
   涼しさや外村迄も祈り雨
   涼しさや飯を掘[出]すいづな山
涼しさはき妙む量な家尻哉
涼しさは喰ず貧楽世界哉
草臥や涼しい木陰見て過る
涼風の出口もいくつ松かしは
涼しさにしやんと髪結御馬哉
   涼しさに大福帳を枕かな
   涼しさや笠を帆にして煮うり舟
   涼しさや<爰>極楽浄土の這入口
   涼しさやしなのゝ雪も銭になる
   すずし[さ]や沈香もたかず屁もひらず
橋涼し張良たのむ此沓を
水に湯にどう流ても夕涼し
桟を知らずに来たり涼しさに
拵へた露も涼しや門の月
柴垣や涼しき陰に方違
   涼風も一升入のふくべ哉
   涼しさの家や浄土の西の門
   涼しさや四門を一つ潜ては
   涼しさや土橋の上のたばこ盆
   涼しさや糊のかはかぬ小行灯
極楽も涼風のみは[ほ]しからん
涼風の浄土則我家哉
涼風の窓が極楽浄土哉
涼しさや一畳敷もおれが家
涼しさやきせる加へて火打坂
   涼しさや手を引あふて迷子札
   涼しさや我永楽の銅盥
   涼しさは[小]銭をすくふ杓子哉
   涼しさは鳥も直さず神代哉
   夕涼に笠忘れけり迹の宿
涼風に連をや松の釣し笠
涼風や何喰はせても二人前
涼しさや里はへぬきの夫婦松
銭出さぬ人の涼しや橋の月
つき合の涼しや木は木金は金
   涼風に正札つきの茶店哉
   涼風に手ふりあみがさ同士哉
   涼風も身に添ぬ也鳴烏
   涼風や仏のかたより吹給ふ
   涼しさを自慢じやないがと夕木陰
涼しさに一番木戸を通りけり
涼しさや藍より[も]こき門の空
涼しさや縁の際なる川手水
涼しさやどこに住でもふじの山
涼しさや義経どの[の]休み松
   涼しさや夜水のかゝる井戸の音
   立札の一何 〜 皆涼し
   火宅でも持てば涼しき寝起哉
   涼しさの下駄いたゞくやずいがん寺
   涼しさは直に神代の木立哉
涼しさは手比あみ笠の出立哉
人[の]屑よりのけられてあら涼し
涼しさや青いつりがね赤い花
涼しさや切紙の雪はら 〜 と
釣鐘の青いばかりも涼しさよ
   菜の花の涼風起りけり
   涼しさに大鼾にて寝起□哉
   涼しからん這入口から加茂の水
   涼しさは蚊を追ふ妹が杓子哉
   涼しさや扇でまねく千両雨
すゞしさや二文花火も夜の体
人は人我は我が家の涼しさよ
土用(土用入り、土用東風、土用休み、土用見舞い、土用芝居)
水切の本通り也土用なり
木末から土用に入し月よ哉
寝心や膝の上なる土用雲
町 〜 や土用の夜水行とゞく
鬼と成り仏となるや土用雲
   笠の下吹てくれけり土用東風
   初日から一際立や土用空
   白菊のつんと立たる土用哉
   畠中や土用芝居の人に人
   人声や夜も両国の土用照り
満月[も]さらに無きずの土用哉
安役者土用休みもなかりけり
朝顔の花から土用入りにけり
雨迄も土用休や芝居小屋
いく日迄土用休ぞ夜の雨
   鶯に土用休はなかりけり
   此雨は天から土用見廻かな
   吹風も土用休みか草の原
   降る雨もけふより土用休哉
   ふん切て出ればさもなき土用かな
湯も浴て土用しらずの座敷哉
長かれと祈らぬものを土用雨
うつくしや雲一つなき土用空
雲一つなし存分の土用哉
〓かけん坊主頭の土用照
   庭破土用ぞと知る庵哉
   二つなき笠盗れし土用哉
   痩がまんし放也土用晴
   横立の庭の割目や土用入
   両国や土用の夜の人[の]体
なか 〜 に出れば吹也土用東風  
 
 

 

卯の花腐し
塀合に卯の花降し流けり
入梅(入梅雷)
入梅や蟹かけ歩大座敷
寝ぼけたか入梅の[雨]けふも又
正直に入梅雷の一つかな
今の世や入梅雪のだまし雨
入梅晴れ
入梅晴や佐渡の御金が通るとて
入梅の晴損ひや箱根山
下手晴の入梅の山雲又出[た]ぞ
入梅晴や二軒並んで煤はらひ
五月雨
五月雨や雪はいづこのしなの山
五月雨や夜もかくれぬ山の穴
五月雨や借傘五千五百ばん
五月雨夜の山田の人の声
家一つ蔦と成りけり五月雨
   一日にはや降あがる五月雨
   かい曲り柱によるや五月雨
   五月雨の竹に隠るゝ在所哉
   五月雨や二階住居の草の花
   十軒は皆はしか也五月雨
二階から見る木末迄五月雨
ほつ 〜 と二階仕事や五月雨
けふも暮 〜 けり五月雨
五月雨の里やいつ迄笛法度
五月雨や子のない家は古りたれど
   五月雨や弥陀の日延もきのふ迄
   鳴烏けふ五月雨の降りあくか
   二人とは行かれぬ厨子や五月雨
   五月雨におつぴしげたる住居哉
   五月雨もよそ一倍や草[の]家
五月雨や烏あなどる草の家
五月雨や二軒して見る草の花
寝所も五月雨風の吹にけり
五月雨や胸につかへるちゝぶ山
朝鳶がだまして行や五月雨
   芦の葉を蟹がはさんで五月雨
   坂本や草家 〜 の五月雨
   五月雨つゝじをもたぬ石もなし
   五月雨や花を始る小萩原
   乙鳥や子につかはるゝ五月雨
蟾どのゝはつ五月雨よ 〜
蓑虫の運の強さよ五月雨
草刈のざくり 〜 や五月雨
五月雨ざく 〜 歩く烏かな
五月雨や鳥の巣鴨の小藪守
   一舟は皆草花ぞ五月雨
   藪に翌なる藪や五月雨
   さみだれや明石の浦八島へて
   蓮[の]葉の飯にたかるゝ五月雨
   蕣の竹ほしげ也五月雨
今に切る菜のせわしなや五月雨
さしつゝじ花 〜 しさや五月雨
五月雨の初日をふれる烏哉
五月雨も仕廻のはらり 〜 哉
ちよんぼりと鷺も五月雨じたく哉
   どうなりと五月雨なりよ草の家
   砥袋の竹にかゝりて五月雨
   吹芒はつ五月雨ぞ 〜
   藪陰やひとり鎌とぐ五月雨
   ざぶ 〜 と五月雨る也法花原
手始はおれが草家か五月雨
うら住や三尺口の五月雨
五月雨や穴の明く程見る柱
五月雨や石に座を組引がへる
五月雨や線香立したばこ盆
   五月雨や天水桶のかきつばた
   掃溜とうしろ合や五月雨
   ひきどのゝ仏頂面や五月雨
   ひき殿は石法花かよ五月雨
   丸竈や穴から見たる五月雨
面壁の三介どのや五月雨
藪村や闇きが上の五月雨
此闇に鼻つまゝれな五月雨
五月雨も中休みぞよ今日は
ざぶ 〜 とばか念入て五月雨
   夕立のそれから直に五月雨
   湯のたきも同おと也五月雨
   蕣の運の強さよ五月雨
   五月雨又迹からも越後女盲
   五月雨に金魚銀魚のきげん哉
五月雨や肩など打く火吹竹
五月雨や沈香も焚かず屁もひらず
五月雨やたばこの度に火打箱
次の間に毛抜借す也五月雨
天皇のた[て]しけぶりや五月雨
   なぐさみに風呂に入也五月雨
   何の其蛙の面や五月雨
   蕗の葉をたばこに吹や五月雨
   二所に昼風呂立ぬ五月雨
   五月雨や火入代りの小行灯
朝顔に翌なる蔓や五月雨
五月雨や馬の沓塚わらじ塚
さみだれや鳥もとまらぬ澪標
ちさい子が草背負けり五月雨
五月晴れ
虻出よせうじの破の五月晴
草花の仕廻は五月晴にけり
草笛のひやりと五月晴にけり
五月闇
我門は闇もちいさき五月かな
虎が雨(虎が涙)
石と成雲のなりてや虎が雨
女郎花つんと立けり虎が雨
とし寄の袖としらでや虎が雨
とらが雨など軽じてぬれにけり
我庵は虎が涙もぬれにけり
   気に入らぬ里[も]あらんをとらが雨
   誠<と>なき里は降ぬか虎が雨
   末世とてかたづけがたし虎が雨
   恋しらぬ里のぞく也[虎が雨]
   五粒でも三つでもいふや[虎が雨]
正直の国や来世も虎が雨
としよりのおれが袖へも虎が雨
なでしこ[に]ぽちりと虎が涙哉
人鬼の里ももらさず虎が雨
日の本や天長地久虎が雨
   末世でも神の国ぞよ虎[が]雨
   八兵衛や泣ざなるまい虎が雨
夕立(白雨、夕立雲)
逃込で白雨ほめるおのこ哉
白雨や三日正月触る声
竹原や余処の白雨に風騒ぐ
棒突がごもくを流す白雨哉
うつくしき寝蓙も見へて夕立哉
   夕立や竹一本[の]小菜畠
   夕立や舟から見たる京の山
   夕立に次の祭りの通りけり
   夕立の祈らぬ里にかゝる也
   夕立や草花ひらく枕元
夕立やそも 〜 萩の乱れ口
夕立にとんじやくもなし舞の袖
今来るは木曽夕立か浅間山
夕立にすくりと森の灯哉
夕立になでしこ持たぬ門もなし
   夕立の枕元より芒哉
   夕 〜 夕立雲の目利哉
   宵祭大夕立の過にけり
   いかめしき夕立かゝる柳哉
   小祭や人木隠て夕立す
夕市や夕立かゝる見せ草履
夕立に大の蕣咲にけり
夕立や下がゝりたる男坂
夕立に打任せ[た]りせどの不二
夕立や芒刈萱女郎花
   夕立や辻の乞食が鉢の松
   三粒でもそりや夕立よ 〜
   夕立が始る海のはづれ哉
   夕立に鶴亀松竹のそぶり哉
   夕立の天窓にさはる芒哉
夕立のとんだ所の野茶屋哉
夕立の日光さまや夜の空
夕立やかみつくやうな鬼瓦
夕立やけろりと立し女郎花
夕立や天王さまが御好とて
   夕立や貧乏徳利のころげぶり
   迹からも又ござるぞよ小夕立
   草二本我夕立をはやす也
   ござるぞよ戸隠山の御夕立
   是でこそ夕立さまよ夕立よ
小むしろやはした夕立それもよい
真丸に一夕立が始りぬ
身にならぬ夕立ほろり 〜 哉
夕立に椀をさし出る庵哉
夕立やかゆき所へ手のとゞく
   夕立や名主組頭五人組
   夕立や弁慶どのゝ唐がらし
   須磨村の貰ひ夕立かゝりけり
   竹垣の大夕立や素湯の味
   とかくしてはした夕立ばかり哉
西からと北と夕立並びけり
夕暮の一夕立が身に成りぬ
夕立や三文花もそれそよぐ
夕立や一人醒たる小松島
夕立は是功とぱらり 〜 哉
   足ばやの逃夕立よ 〜
   お汁桶一夕立は過にけり
   夕立を鐘の下から見たりけり
   白雨がせんだくしたる古屋哉
   夕立と加賀もぱつぱと飛にけり
夕立の迹引にける今の世は
夕立もむかひの山の贔屓哉
夕立や臼に二粒箕に三粒
我[恋]のつくば夕立 〜 よ
浅間から別て来るや小夕立
   あつさりと朝夕立のお茶屋哉
   てん 〜 に遠夕立の目利哉
   一つ家や一夕立の真中に
   やめ給へ御夕立といふうちに
   夕立を逃さじと行乙鳥哉
夕立に大行灯の後光哉
夕立のよしにして行在所哉
夕立やおそれ入たり蟾の顔
夕立の月代絞る木陰哉
夕立や祈らぬむらは三度迄
   さればこそ本ん夕立ぞ松の月
   夕立を三日待たせて三粒哉
   夕立に拍子を付る乙鳥哉
   夕立や今二三盃のめ 〜 と
   夕立や大肌ぬいで小盃
夕立や上手に走るむら乙鳥
夕立の拍子に伸て葎哉
夕立や行灯直す小縁先
夕立や樹下石上の小役人
夕立やはらりと酒の肴程
   夕立はあらうかどうだかへる殿
   言訳に一夕立の通りけり
   今の間に二夕立やあちら村
   風許りでも夕立の夕かな
   夕立に昼寝の尻を打れけり
夕立やあんば大杉大明神
今の間にいく夕立ぞ迹の山
かくれ[家]の眠かげんの小夕立
門掃て夕立をまつ夕かな
葎にも夕立配り給ふ哉
   夕立を見せびらかすや山の神
   夕立がどつと腹立まぎれかな
   夕立に足敲かせて寝たりけり
   夕立に迄にくまれし門田哉
   夕立のうらに鳴なり家根の鶏
夕立のつけ勿体やそこら迄
夕立の取て帰すやひいき村
夕立のひいきめさるゝ外山かな
夕立の真中に立頭座かな
夕立や赤い寝蓙に赤い花
   夕立や大いさかいの天窓から
   夕立や髪結所の鉢の松
   夕立や芝から芝へ小盃
   夕立や塚にもて立そばの膳
   夕立や寝蓙の上の草の花
夕立のとりおとしたる小村哉
夕立の裸湯うめて通りけり
夕立の二度は人のそしる也
夕立や追かけ 〜 又も又
夕立や両国橋の夜の体
   夕立や〓て諷ふ貧乏樽
   夕立や登城の名主組がしら
   夕立や枕にしたる貧乏樽
   夕立や蓑きてごろり大鼾
   門掃除させて夕立来ざりけり
青がへる迄も夕立さはぎ哉
図に乗て夕立来るやけふも又
始るやつくば夕立不二に又
降りどしや夕立も図に乗来た[る]
夕立にこねかへされし畠哉
   夕立のおし流したる畠哉
   夕立のすんでにぎはふ野町哉
   夕立のて[き]ぱきやめもせざりけり
   夕立や象潟畠甘満寺
   夕立や十所ばかりも海の上
夕立やしやんと立てる菊の花
夕立や裸で乗しはだか馬
夕立や藪の社の十二灯
門畠やあつらへむきの一夕立
縁なりに寝て夕立よ 〜 よ
   夕立の又来るふりで走りけり
   夕立や二文花火も夜の体
夏の雨
着ながらにせんだくしたり夏の雨
門川に足を浸して夏の雨
辛崎は昼も一入夏の雨
鍬枕かまをまくらや夏の雨
雲の峰
しづかさや湖水の底の雲のみね
雲の峰外山は雨に黒む哉
雲のみね見越 〜 て安蘇煙
青柳や雲のみねより日のとゞく
いかな事翌も降まじ雲のみね
   おもふ図に雲立ひらの夕べ哉
   雲のみね翌も降らざる入日哉
   川縁[は]はや月夜也雲の峰
   雲の峰いさゝか松が退くか
   雲の峰下から出たる小舟哉
しばらくは枕の上や雲の峰
雲の峰小窓一つが命也
雲の峰立や野中の握飯
どの人も空腹顔也雲の峰
ひだるしといふ也雲の峰
   湖に手をさし入て雲の峰
   葎家は人種尽ん雲の峰
   虫のなる腹をさぐれば雲の峰
   すき腹に風の吹けり雲の峰
   峰となる雲が行ぞよ笠の先
片里や米つく先の雲の峰
切雲の峰となる迄寝たりけり
寝返ればはや峰作る小雲哉
心から鬼とも見ゆる雲の峰
ちさいのは門にほしさよ雲の峰
   ちさいのは皆正面ぞ雲の峰
   よい風や中でもちいさい雲の峰
   雲の峰草一本にかくれけり
   雲の峰草にかくれてしまひけり
   祭せよ小雲も山を拵る
三ヶ月に逃ずもあらなん雲のみね
むさしのや蚤の行衛も雲の峰
いかさまにきのふのか也雲の峰
たのもしや西紅の雲の峰
伝馬貝吹なくすなよ雲の峰
   投出した足の先也雲の峰
   昼ごろや枕程でも雲の峰
   水およぐ蚤の思ひや雲の峰
   むだ雲やむだ山作る又作る
   稲葉から出現したか雲の峰
順 〜 にうごき出しけり雲の峰
涼しさは雲の大峰小みね哉
富士に似た雲よ雲とや鳴烏
青垣や蛙がはやす雲の峰
けふも亦見せびらかすや雲の峰
   雲の峰行よ大鼓のなる方へ
   ちよぼ 〜 と小峰並べる小雲哉
   目通りへ並べ立たよ雲の峰
   赤 〜 と出来揃けり雲の峰
   大雲や峰と成てもずり歩く
先操におつ崩しけり雲の峰
相応な山作る[也]根なし雲
山と成り雲と成る雲のなりや
大の字に寝て見たりけり雲の峰
うき雲の苦もなく峰を作りけり
   寝むしろや足でかぞへる雲の峰
   夕鐘や雲もつくねる法の山
   よい程に塔の見へけり雲の峰
   蟻の道雲の峰よりつゞきけり
   風有をもつて尊し雲の峰
小さいのもけふ御祝義や雲の峯
山人の枕の際や雲の峯
湖へずり出しけり雲の峯
雨雲やまご 〜 しては峰と成
おとらじと峰拵る小雲哉
   大将の腰かけ芝や雲の峰
   旅人のこぐり入けり雲の峰
   小さいのも数に並ぶや雲の峯
   始るや明六つからの雲の峰
   走り舟雲の峰へものぼる哉
山国やある[が]上にも雲の峰
あの中に鬼やこもらん雲のみね
雲切や何[の]苦もなく峰作る
暮日やでき損ひの雲の峰
米国や夜もつゝ立雲の峰
   造作なく作り直すや雲の峰
   手ばしこく畳み仕廻ふや雲のみね
   松の木で穴をふさぐや雲のみね
   湖水から出現したり雲の峯
   そば屋には箸の山有雲のみね
田の人の日除になるや雲のみね
羽団扇で招き出したか雲の峰
夕なぎにやくやもしほの雲の峰
うき雲や峰ともならでふらしやらと
海見ゆる程穴ありて雲の峰
   てつぺんに炭をやく也雲のみね
   走り帆の追ひ 〜 出るや雲の峰
   目出度さはぞろりと並ぶ雲の峰
   炭竈の細くけぶるや雲の峰
   田よ畠よ寸馬豆人雲の峰
雲に山作らせて鳴蛙かな
野畠や芥を焚く火の雲の峯
人のなす罪より低し雲の峯
峯をなす分別もなし走り雲
夕飯過に揃ひけり雲の峯

雲の峰の中にかみなり起る哉
雷をしらぬ寝坊の寝徳哉
夏の月
最う一里翌を歩行ん夏の月
寝せ付て外へは出たり夏の月
夏の月明地にさはぐ人の声
翌ははや只の河原か夏の月
夏の月翌[は]糺へ人の引ける
   夏の月河原の人も翌引る
   家陰行人の白さや夏の月
   あれ程の中洲跡なし夏の月
   乞食せば都の外よ夏の月
   夏の月と申も一夜二夜哉
夏の月中洲ありしも此比や
夏の月二階住居は二階にて
なりどしの隣の梨や夏の月
痩松も奢がましや夏の月
うら町は夜水かゝりぬ夏の月
   汁なべも厠も夏の月よ哉
   夏の月柱なでゝも夜の明る
   一人見る草の花かも夏の月
   水切の騒ぎいつ迄夏の月
   目の砂をゑひし吹入夏の月
あさぢふや夏の月夜の遠砧
象がたや能因どのゝ夏の月
さほ姫の御子も出給へ夏の月
小便に川を越けり夏の月
蝶と成て髪さげ虫も夏の月
   戸口から難波がた也夏の月
   夏の月無きずの夜もなかりけり
   萩の葉のおもはせぶりや夏の月
   穴蔵に一風入て夏の月
   大川や盃そゝぐ夏の月
小むしろや茶釜の中の夏の月
芝でした休み所や夏の月
二番火の酒の騒ぎや夏の月
寝むしろや尻を枕に夏の月
子は鼾親はわらうつ夏の月
   寝せつけし子のせんだくや夏の月
   小乞食の唄三絃や夏の月
   山門の大雨だれや夏の月
   捨ておいても田に成にけり夏の月
   どの門もめで田 〜 や夏の月
本堂の長雨だれを夏の月
夏の雲
夏の雲朝からだるう見えにけり
青嵐
青あらしかいだるき雲のかゝる也
青あらし我家見に出る旭哉
青あらしかいだるげなる人の顔
草刈の馬に寝て来る青あらし
青嵐吹やずらりと植木売
   行灯を虫の巡るや青あらし  
 
 

 

富士の雪解け
打解る稀の一夜や不二の雪
夏山
夏山に洗ふたやうな日の出哉
夏山のゝしかかつたる入江哉
夏山や片足かけては母のため
暮れぬ間に飯も過して夏[の]山
たま 〜 に晴れば闇よ夏の山
   夏山の膏ぎつたる月よ哉
   夏山や一足づゝに海見ゆる
   親の家見へなくなりぬ夏[の]山
   夏山や京を見る時雨かゝる
   夏山やつや 〜 したる小順礼
柱拭く人も見へけり夏の山
夏山や目にもろ 〜 の草の露
夏山や一人きげんの女郎花
雲見てもつい眠る也夏の山
夏山に花なし蔓の世也けり
   夏山や仏のきらひさうな花
   夏山やばかていねいに赤い花
   夏山やどこを目当に呼子鳥
   夏山や鶯雉ほとゝぎす
夏野(夏野原)
空腹に雷ひゞく夏野哉
弓[と]弦なら弓を引け夏の原
清水(苔清水、山清水、磯清水)
飛ぶことなかれ汲ことなかれ山清水
牛車の迹ゆく関の清水哉
櫛水に髪撫上る清水哉
賤やしづ 〜 はた焼に汲め清水
磯清水旅だんすほしき木陰哉
   姨捨のくらき中より清水かな
   浅ぢふも月さへさせば清水哉
   かくれ家や月さゝずとも湧清水
   清水湧翌の山見て寝たりけり
   茨ありと仰おかれし清水哉
二筋はな[く]てもがもな清水湧
二森も清水も跡になりにけり
松迄は月もさしけり湧清水
湧清水浅間のけぶり又見ゆる
鶯も鳴さふらふぞ苔清水
   芒から菩薩の清水流れけり
   なでしこの折ふせらるゝ清水哉
   蜂の巣のてく 〜 下る清水哉
   山清水木陰にさへも別けり
   山清水守らせ玉ふ仏哉
唐がらし詠られけり門清水
昔 〜 〜 の釜が清水哉
観音の番してござる清水哉
苔清水さあ鳩も来よ雀来よ
さゝら売三八どのゝ清水哉
   なむ大悲 〜 [ 〜 ]の清水哉
   古郷や厠の尻もわく清水
   放下師が鼓打込清水哉
   夜に入ればせい出してわく清水哉
   鶯が果報過たる清水哉
かい曲寝聳るたしのし水哉
居風呂も天窓を頼る清水哉
つゝじから出てつゝじの清水哉
ほの 〜 と蕣がさくし水哉
三ヶ月[の]清水守りておはしけり
   やこらさと清水飛こす美人哉
   山里は馬の浴るも清水哉
   わる赤い花の咲けり苔清水
   我宿はしなのゝ月と清水哉
   売わらじ松につるして苔清水
有も 〜 皆赤渋の清水哉
大の字にふんばたがりて清水哉
挑灯を木につゝかけて清水哉
毒草の花の陰より清水哉
人の世の銭にされけり苔清水
   古郷や杖の穴からわく清水
   小むしろや清水が下のわらぢ売
   常留主の門にだぶ 〜 清水哉
   山本や清水の月の座敷迄
   我庵や左<り>は清水右は月
倦く段になればいくらか山清水
くはう 〜 と穢太が家尻の清水哉
此入は西行庵か苔清水
笹つたふ音ばかりでも清水哉
清水見へてから大門の長さ哉
   水風呂へ流し込だる清水哉
   母馬が番して呑す清水哉
   松の木に御礼申て清水哉
   山守の爺< 〜 >が祈りし清水哉
   観音の足の下より清水哉
てつぺんの雪や降らん山清水
人里へ出れば清水でなかりけり
山清水人のゆきゝに濁りけり
寝ぐらし[や]清水に米をつかせつゝ
山里は米をつかする清水かな
   夕陰や清水を馬に投つける
   戸隠の家根から落る清水哉
   一里程迹になりけり山清水
   人立を馬のまつてる清水哉
   姫ゆりの心ありげの清水哉
義家の涙の清水汲まれけり
わらぢ売木陰の爺が清水哉
青田(青田原、田青む、稲青む)
憎るゝ稗は穂に出て青田原
遠かたや青田のうへの三の山
青田原箸とりながら見たりけり
箸持てぢつと見渡る青田哉
父ありて明ぼの見たし青田原
   木がくれに母のほまちの青田哉
   柴門も青田祝ひのけぶり哉
   手枕におのが青田と思ふ哉
   隠坊がけぶりも御代の青田哉
   見直せば 〜 人の青田哉
けいこ笛田はこと 〜 く青みけり
朝 〜 のかすみはづれの青田哉
柴門や天道任せの田の青む
灯ろうの折ふしとぼる青田哉
夕飯の菜に詠る青田哉
   しんとして青田も見ゆる簾哉
   朝 〜 の心におがむ青田哉
   行灯にかぶさるばかり青田哉
   門先や掌程の田も青む
   ちぐはぐにつゝさす稲も青みけり
一人前田も青ませて夕木魚
ほまち田も先青むぞよ 〜
惜るゝ人の青田が一番ぞ
三人が枕にしたる青田哉
四五本の青田の主の我家哉
   たのもしや青田の主の這出しぬ
   君が田も我田も同じ青み哉
   青田からのつぺらぼうの在所哉
   柴の戸の田やひとりでに青くなる
   そよ吹や田も青ませて旅浴衣
田が青む 〜 とやけいこ笛
茶仲間や田も青ませて京参
露の世をさつさと青む田づら哉
人真似に庵の門田も青みけり
よい風や青田はづれの北の院
   りん 〜 と凧上りけり青田原
   我植た稲も四五本青みけり
   青田中さまさせて又入る湯哉
   起 〜 の慾目引ぱる青田哉
   其次の稈もそよ 〜 青田哉
そんぢよそこ爰と青田のひいき哉
寝並びておのが青田をそしる也
けふからは乾さるゝ番ぞ青田原
番日とて蜘手に割し青田哉
見す 〜 も乾れて居たる青田哉
   見たばかも腹のふくるゝ青田哉
   夕風や病けもなく田の青む
   青い田の露を肴やひとり酒
   草稲も一つくねりの青田哉
   灯の際より青む田づら哉
稗の穂に勝をとられし青田哉
白妙の土蔵ぽつちり青田哉
刀禰の帆が寝ても見ゆるぞ青田原
軒下も人のもの也青田原
焼つりの一夜に直る青田哉
   夕飯の膳の際より青田哉
   下手植の稲もそろ 〜 青みけり  
 
 
 

 

●小林一茶の句  
御免なり将棋の駒も箱の内
加賀百万石前田候の本陣に招かれた席での句。将棋の駒も箱に入ってしまえば、玉将も桂馬も歩兵もみな一緒。つまり、人間に上下の差異はないことを、目の前の大名に暗示している。前田候に句の意味がわからなかったはずはないが、そこは天下の大名だ。「面白いことをいう奴だ」と、引き出物として絹の小袖を与えている。一茶は帰宅してから、それを裏の空き地のゴミ捨て場にポイと捨ててしまった。まるで講談の世界。このエピソードは、どうやら後世の人の創作らしいが、その意味ではこの句自体もあやしい。でも、いいでしょう。私は、句も挿話も丸ごと受け取っておきたい。無季。
木枯や二十四文の遊女小屋
高井蒼風著『俳諧寺一茶の芸術』に、こうある。「江戸時代、もっとも下等な遊女小屋である。一茶もまた貧苦。孤情の鴉で、木枯の夜、二十四文の遊女小屋に、冬の夜の哀れを味わったのかも知れない。木枯、二十四文の語が、とくに侘びしい場末の淪落の女を感じさせて、一人に哀れである」。荒涼たる性。その果てのさらなる荒涼たる心象風景。文政十年(1827)十一月十九日、小林一茶没。この人は農家に生まれながら、ついに生産的な農耕の仕事とは無縁であった。享年六十五歳。翌年四月、後妻やを女の娘やた誕生。
手をかけて人の顔見て梅の花
若い男が高い柵の上にのぼって、連れの女のために梅の枝を折ろうとしている。そんな浮世絵を見たことがある。この句も、同じように微苦笑を誘われる情景だ。が、一茶の研究者のなかには深読みをする人もいる。一茶には少し年上の花嬌という女弟子がいてひそかに思慕しつづけた美女であった。彼女は未亡人だったけれど、名家の嫁であり子供もある身だ。どうすることもできない。片思い。すなわち、世の中には手折ってはならぬ花があるということか……。そうした煩悶が、この句に託されているというのである。どんなものでしょうか。
根分して菊に拙き木札かな
ガーデニング流行の折りから、ひところは死んでいたにも等しい「根分け」という言葉も、徐々に具体的に復活してきた。菊や花菖蒲などの多年草を増やすには、春先、古株の間から萌え出た芽を一本ずつ親根から離して植えかえる必要がある。これを「根分け」という(菊の場合は「菊根分」と、俳句季語では特別扱いだ)。一茶は四国旅行の途次、根分けされた菊に備忘的につけられた木札を見かけて、にっこりとしている。あまりにも拙劣な文字を判読しかねたのかもしれないが、その拙劣さに、逆に根分けした人の朴訥さと几帳面さとを読み取って、とても暖かい気分にさせられている……。現代のように、誰もが文字を書けた時代ではない。読み書きができるというだけで一目も二目も置かれた時代だから、たとえ小さな木札の文字でも、注目を集めるのが自然の成り行きであった。そのことを念頭に置いて、あらためてこの句を読み返してみると、一茶の目のつけどころの自然さと、その自然さを無理なく作品化できる才能とが納得されるだろう。
かゝる代に生れた上に櫻かな
前書に「大平楽」とある。こんなに良い世の中に生まれてきて、そのことだけでも幸せなのに、さらにその上に、桜の花まで楽しむことができるとは……。という、まさに大平楽の境地を詠んだ句で、なんともはや羨ましいかぎりである。花見はかくありたい。が、この平成の代に、はたしてこんな心境の人は存在しうるだろうか。などと、すぐにこんなふうな物言いをしてしまう私などは、文虎の時代に生きたとしても、たぶん大平楽にはなれなかっただろう。大平楽を真っ直ぐに表現できるのも、立派な気質であり才能である。作者の文虎は、父親との二代にわたる一茶の愛弟子として有名な人だ。まことに、よき師、よき弟子であったという。一茶は文虎の妻の死去に際して「織かけの縞目にかゝる初袷」と詠み、一茶の終焉に、文虎は「月花のぬしなき門の寒かな」の一句を手向けている。
菜の花の中を浅間のけぶり哉
春風駘蕩。ストレス・ゼロの句。現代人も、こんなふうに風景を見られたら素晴らしいでしょうね。そして、こんなふうにうたうことができたとしたら……。浅間は、大昔から歌や物語に登場する名山です。が、広田二郎さんという国文学者の調べたところでは、『新古今集』の在原業平以来、例外なく信濃の住人以外の人が、この山をうたってきたのだそうです。つまり、地元の人としてうたったのは一茶がはじめてということで、文学史的にも価値のある一句ということになります。浅間の煙も地元の人にとっては、日常的にすぎてうたう気になどなれなかったのでしょうか。それにしても、最近は菜の花畑が見られなくなりました。信州にしても、もうこんなに広大な畑はないでしょう。どこかに残っていないかと思っていた矢先、昨日届いた「フォトやまぐち」(山口県広報連絡協議会)に、見渡すかぎり菜の花ばかりという秋穂町の風景写真が載っていました。山口県はわが故郷。トウダイモトクラシ。
夕顔の男結の垣に咲く
句集をめくっていて、ときどきハッと吸い込まれるような文字に出会うときがある。この場合は「男結(おとこむすび)」だ。最近はガムテープやら何やらのおかげで、日常的に紐を結ぶ機会が少なくなった。したがって「男結」(対して「女結」がある)という言葉も、すっかり忘れ去られてしまっている。が、たまに荷造りをするときなどには、誰もが男結びで結ぶことになる。ほどけにくい結び方だからだ。つい四半世紀前くらいまでは、言葉としての「男結」「女結」は生きていたのだから、それを思うと、私たちの生活様式の変わりようには凄まじいものがあって愕然とする。さて、肝腎の句意であるが、前書に「源氏の題にて」とあるので、こちらはおのずからほどけてくる。「夕顔」は源氏物語のヒロインのひとりで、十九歳の若さで急死した女性だ。彼女の人生のはかなさと夕顔の花のそれとがかけられているわけで、光源氏を「男結」の男に連想したところが、なんとも憎らしいほどに巧みなテクニックではないか。考えてみれば、一茶が見ているのは、単に垣根に夕顔が咲いている情景にすぎない。そんな平凡な様子が、名手の手にかかると、かくのごとくに大化けするである。俳諧、おそるべし。
魚どもや桶とも知らで門涼み
魚が桶に入れられて、門口に置かれている。捕われの身とは知らない魚どもは、のんびりと夕涼み気分で泳いでいる。「哀れだなあ」と、一茶が眺めている。教室でも習う有名な随想集『おらが春』に収められた句だ。が、この句の前に置かれた文章は教室では教えてもらえない。「信濃の國墨坂といふ所に、中村何某といふ醫師ありけり」。あるとき、この人が交尾中の蛇を打ち殺したところ、その晩のうちに「かくれ所のもの」が腐り、ぽろりと落ちて死んでしまった。で、その子が親の業をついで医者になった。「松茸のやうな」巨根の持ち主だったというが、「然るに妻を迎へて始て交はりせんとする時、棒を立てたるやうなるもの、直ちにめそめそと小さく、燈心に等しくふはふはとして、今更にふつと用立たぬものから、恥かしく、もどかしく、いまいましく、婦人を替へたらましかば、叉幸あらんと百人ばかりも取替へ引替へ、妾を抱えぬれど、皆々前の通りなれば、狂気の如く、唯だ苛ちに苛ちて、今は獨身にて暮しけり。……」。物語ではなく、現実にもこんな話があるのだと感じ入った一茶の結語。「蚤虱(のみ・しらみ)に至るまで、命惜しきは人に同じからん。ましてつるみたるを殺すは罪深きわざなるべし」。
あくせくと起さば殻や栗のいが
栗拾い。落ちている毬(いが)をひっくり返してみたら、中が殻(からっぽ)だったという滑稽句。そんなに滑稽じゃないと思う読者もいるかもしれないが、毎秋の栗拾いが生活習慣に根付いていたころには、めったに作者のように実の入った毬を外す者はいなかったはずだ。あくせくと、心が急いでいるからこうなるわけで、一茶はそのことを自覚して自嘲気味に笑っているのである。自分の失敗を笑ってくださいと、読者に差し出している。当時の読者なら、みんな笑えただろう。昔から、だいたいこういうことは子供のほうが上手いことになっていて、私の農村時代もそうだった。子供は、この場合の一茶のように、あくせくしないで集中するからだ。「急がば回れ」の例えは知らないにしても、じっくりと舌舐りをするようにして獲物に対していく。我等洟垂れ小僧は、まず、からっぽの毬をひっくり返すような愚かなことはしなかった。いい加減にやっていては収穫量の少ないことが、長年とも形容できるほどの短期間での豊富な体験からわかっていたからだ。むろん一茶はそんなことは百も承知の男だったが、でも、失敗しちゃったのである。栗で、もう一句。「今の世や山の栗にも夜番小屋」と、「今の世」とはいつの世にもせちがらいものではある。
玉霰夜鷹は月に帰るめり
月は天心にある。さながら玉霰(たまあられ)のように降り注ぐ月光。夜鷹は淋しくも孤独に空をのぼって、あの美しい月に帰っていくのだろうな……。と、実はここまでは隠し味である。「夜鷹」といえば、江戸期にはこの夜行性の鳥の連想から下等な娼婦を指した。芝の愛宕下や両国橋などに、毎夜ゴザ一枚を持って商売に出たという。一茶には、そうした女と接触を持った体験もある。そんな女たちが、月の光りを霰と浴びて、今夜は月に帰っていくのだ。娼婦を天使に見立てる発想は西洋にもあるが、一茶の発想もかぐや姫などの「天女」に近いイメージになぞらえているわけで、興味深い。もとより作者に軽蔑の思いは微塵もなく、淪落した女の運命に満腔の同情と涙を寄せている。このあたりの世俗へのまなざしを見ると、芭蕉などとはまったく志を異にした詩人であったことがよくわかる。一茶句のなかでは、あまり知られていない句だと思うが、名月の季節に読むととりわけて心にしみる。月の光りが鮮やかなだけに、当時の闇の深さも読者の身に迫ってくる。
うつくしや年暮れきりし夜の空
今年1998年は、一茶に締めくくってもらおう。ここまでくれば、ジタバタしてもはじまらない。一茶とともに、夜空でも眺めることにしたい。ただ、ミもフタもないことを言っておけば、一茶の時代は陰暦の大晦日だから、二カ月ほど先の空を詠んでいる。そろそろ梅も咲いているかもしれぬ早春の夜空だ。だから、相当に今夜とは雰囲気は異なるが、押し詰まった気持ちには変わりはないのである。古句で締めたついでに、鎌倉末期から南北朝に生きた兼好法師の『徒然草』より大晦日の件りを引用して、今年度の『増殖する歳時記』の本締めとしたい。ご愛読、ありがとうございました。「晦日(つごもり)の夜、いたう闇(くら)きに、松どもともして、夜半(よなか)すぐるまで、人の門たゝき走りありきて、何事にかあらん、ことごとしくのゝしりて、足を空にまどふが、暁がたより、さすがに音なく成りぬるこそ、年の名残も心ぼそけれ。亡き人のくる夜とて玉まつるわざは、この比(ころ)都にはなきを、東(あずま)のかたには、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか」。
元日や手を洗ひをる夕ごころ 芥川龍之介
元日に晴朗の気を感ぜずに、むしろ人生的な淋しさを感じている。近代的憂愁とでも言うべき境地を詠んでおり、名句の誉れ高い作品だ。世間から身をずらした個としての自己の、いわば西洋的な感覚を「夕ごころ」に巧みに溶かし込んでいて、日本的なそれと融和させたところが最高の手柄である。芭蕉や一茶などには、思いも及ばなかったであろう世界だ。ただし、芥川の手柄は手柄として素晴らしいが、この句の後に続々と詠まれてきた「夕ごころ」的ワールドの氾濫には、いささか辟易させられる。はっきり言えば、この句以降、元日の句にはひねくれたものが相当に増えてきたと言ってもよさそうだ。たとえば、よく知られた西東三鬼の「元日を白く寒しと昼寝たり」などが典型だろう。芥川の作品にこれでもかと十倍ほど塩だの胡椒だのを振りかけたような味で、三鬼の大向こう受けねらいは、なんともしつこすぎて困ったものである。「勝手に寝れば……」と思ってしまう。そこへいくと、もとより近代の憂いの味など知らなかったにせよ、一茶の「家なしも江戸の元日したりけり」のさらりと哀楽を詠みこんだ骨太い句のほうが数段優れている。つまり、一茶のほうがよほど大人だったということ。
雪の朝二の字二の字の下駄のあと 田捨女
雪の朝。表に出てみると、誰が歩いていったのか、下駄の跡が「二の字二の字」の形にくっきりと残っている……。清新で鮮やかなスケッチだ。特別な俳句の愛好者でなくとも、誰もが知っている有名な句である。しかし、作者はと問われて答えられる人は、失礼ながらそんなに多くはないと思う。作者名はご覧のとおりだが、古来この句が有名なのは、句の中身もさることながら、作者六歳の作句だというところにあった。幼童にして、この観察眼と作句力。小さい子が大人顔負けのふるまいをすると、さても神童よともてはやすのは今の世も同じである。そして確かに、捨女は才気かんぱつの女性であったようだ。代表句に「梅がえはおもふきさまのかほり哉」などがある。六歳の句といえば、すぐに一茶の「われと来て遊べや親のない雀」を思い出すが、こちらは一茶が後年になって六歳の自分を追慕した句という説が有力だ。捨女(本名・ステ)は寛永十年(1633)に、現在の兵庫県柏原町で生まれた。芭蕉より十一年の年上であるが、ともに京都の北村季吟門で学んでいるので出会った可能性はある。彼らが話をしたとすれば、中身はどんなものだったろうか。その後、彼女は四十代で夫と死別し、七回忌を経て剃髪、出家し、俳句とは絶縁した。
実ざくろや妻とはべつの昔あり 池内友次郎
石榴(ざくろ)の表記は「柘榴」とも。夫婦して、さて季節物の何かを食べようというときに、必ずと言ってよいほど話題になる食物があるはずだ。「子供のときは家族そろって大好物だった」とか、逆に「こんなもの、食べられるとは思ってなかった」とか。そういうときに、私も作者のような感慨を覚える(ことがある)。石榴の場合は、おそらくは味をめぐっての思い出話だろう。一方が「酸っぱくて……」と言えば、片方が「はじめのうちだけ、あとは甘いんだよ」と言う。石榴を前にすると、いつも同じ話になるというわけだ。ま、それが夫婦という間柄の宿命(?)だろうか。私は「酸っぱくて……」派だけれど、子供のころに野生に近い石榴しか知らなかったせいだと思う。この季節の梨にしても、小さくて固くて、ほとんどカリンのようなものしか食べたことがなかった。たしかに「妻とはべつの昔」に生きていたのだ。石榴といえば、とても恐い句があるのをご存じだろうか。「我が味の柘榴に這はす虱かな」という一茶の句。虱は「しらみ」。江戸時代、柘榴は人肉の味に似ていると言われていたそうだ。
鰯めせめせとや泣子負ひながら
山国信州信濃に鰯(いわし)を売りに来るのは、山を越えた越後の女。赤ん坊を背負っての行商姿が、実にたくましい。しかも昔から「越後女に上州男」といって、越後女性の女っぷりの評判は高かった。相馬御風『一茶素描』(1941)のなかに、こんなことが書いてある。「どんなにみだりがはしい話をもこちらが顔負けするほどに露骨にやるのが常の越後の濱女の喜ばれることの一つ」。となると、例の「あずま男に京女」のニュアンスとは、かなり懸け離れている。嫋々とした女ではなく、明朗にして開放的な性格の女性と言うべきか。句から浮かび上がるのは、とにかく元気な行商女のふるまいだが、しかし、一茶が見ているのは実は背中の赤ん坊だった。このとき、一茶は愛児サトを亡くしてから日が浅かったからである。「おつむてんてん」とやり「あばばば」とやり、一茶の子煩悩ぶりは大変なもののようだったが、サトはわずか四百日の寿命しかなかった。『おらが春』の慟哭の句「露の世は露の世ながらさりながら」は、あまりにも痛々しい。威勢のよい鰯売りの女と軽口を叩きあうこともなく、泣いている赤ん坊をじいっと眺めている一茶。おそらく彼は、女の言い値で鰯を買ったことであろう。
そもそものいちぢく若葉こそばゆく  小沢信男
そもそも私たちが若葉や青葉というときに、たいがいは樹木についた新葉をひっくるめてイメージするはずである。ほとんど「新緑」と同義語に解している。いちいち、この若葉は何という名前の木の葉っぱで……などと区別はしないものだ。なかに「柿若葉」や「朴若葉」と特別視されるものもあるけれど、それはそれなりの特徴があるからなのであって、まさか「いちぢく」の葉を他の若葉と景観的に切り分けて観賞する人はいないだろう。そこらへんの事情を百も承知で、あえて切り分けて見せたところに句の妙味がある。誰もが見る上方遠方の若葉を見ずに、視線を下方身近に落として、そこから一挙に「そもそも」のアダムとイヴの太古にまで時間を駆けのぼった技は痛快ですらある。「そもそも」人類の着衣のはじまりは、かくのごとくにさぞや「こそばゆ」かったことだろう。思わずも、日頃関心のなかったいちぢくの葉っぱを眺めてみたくなってしまう。ただし、この諧謔は俳句だから面白いのであって、例えばコント仕立てなどでは興ざめになってしまうだろう。俳句はいいなア。素朴にそう感じられる一句だ。ついでだけれど、同様に青葉の景観を切り分けた私の好きな一茶の句を紹介しておきたい。「梅の木の心しづかに青葉かな」。梅の青葉です。言われてみると、たしかに「しづか」な心持ちになることができます。
夕立の祈らぬ里にかかるなり
すっと読んで、意味のとれる句ではない。「祈らぬ里」がわからないからだ。しかし、夕立が移っていった里に、何か作者が祈るべき対象があることはうかがえる。まだ祈ってはいないけれど、まるで作者のはやる気持ちが乗り移ったかのように、夕立が大粒の涙を流しに行ってくれたのだという感慨はわかる。悲痛な味わいが漂う句だ。『文化句帖』に載っている句で、このとき一茶が祈ろうとしていたのは、その里にある一基の墓であった。墓碑銘は「香誉夏月明寿信女」。眠っている女性は、一茶の初恋の人として知られている。一茶若き日の俳友の身内かと推察されるが、生前の名前なども不明だ。彼女が亡くなったのは十七歳、一茶はわずかに二十歳だった。そして、この「夕立」句のときが四十四歳。つまり、二十五回忌追善のための旅の途中だったというわけだ。いかに一茶が、この女性を愛していたか、忘れることができなかったかが、強く印象づけられる句だ。男の純情は、かくありたし。しかも、実はこの句を詠んだ日は、彼女の命日にあたり、縁者による法要が営まれているはずの日であった。だが一茶は、故意に一日だけ「祈る」日をずらしている。人目をはばかる恋だったのだろう。
夢で首相を叱り桔梗に覚めており 原子公平
日頃から、よほど首相の言動に腹を立てていたのだろう。堪忍袋の緒が切れて、ついに首相をこっぴどく叱責した。その剣幕に、首相はひたすら低頭するのみ。と、ここまでは夢で、目覚めると「きりきりしやんと」(小林一茶)咲く桔梗(ききょう)が目に写った。夢のなかの毅然としたおのれの姿も、かくやとばかり……。このときに、寝覚めの作者はほとんど桔梗なのである。しかしそのうちに、だんだんと現実の虚しさも蘇ってくる。それが「覚めており」と止められている所以だ。苦い味。無告の民の心の味がする。昨日の話を蒸し返せば、掲句の主体も共同社会にオーバーラップしている。ちなみに、一茶の句は「きりきりしやんとしてさく桔梗かな」だ。その通り、見事な描写。文句なし。いずれも花の盛りを詠んでいるが、盛りがあれば衰えもある。高野素十に「桔梗の紫さめし思ひかな」があり、こちらは夢で首相を叱る元気もない。盛りを過ぎた桔梗(この場合は「きちこう」と読むのだろう)に色褪せた我が心よと、作者は物思いに沈みこんでいる。花の盛りが短いように、人の盛りも短い。花の盛りは見ればわかるが、人の盛りは我が事ながら捉えがたい。私の人生で、いちばん「きりきりしやん」としていたのは、いったい、いつのことだったのだろう。「桔梗」は秋の七草。
何もないとこでつまずく猫じゃらし 中原幸子
こういうことが、私にもたまに起きる。どうしてなのか。甲子園で行進する球児のように、極度の緊張感があるのならばわかる。足並みを揃えなければと思うだけで、歩き方がわからなくなるのだ。だから、チームによっては極度に膝を高く上げて歩いたりする。普段と違う歩き方を意識することで、これは存外うまくいくものだ。しかし、一人でなんとなく歩いていてつまずくとは、どういう身体的な制約から来るのだろうか。やはり、突然歩き方がわからなくなったという意識はある。そう意識すると、今度は意識しているから、余計につまずくことになる。道端で「猫じゃらし」が風にゆれている。くくっと笑っているのだ。コンチクショウめが……。そこで、またつまずく。「猫じゃらし」の名前は一般的だが、昔は仔犬の尻尾やに似ていることから、どちらかというと「狗尾草(えのころぐさ)」のほうがポピュラーだったようだ。たいていの歳時記の主項目には「狗尾草」とある。「良い秋や犬ころ草もころころと」(一茶)。この句は、仔犬の可愛らしさに擬している。
業の鳥罠を巡るや村時雨
そこここに「罠」が仕掛けられていることは、十二分に承知している。しかし、わかりつつも、吸い寄せられるように「罠を巡る」のが「業」というもの。巡っているうちに、いつか必ず罠にかかるのだ。大昔のインド宗教の言った「因果」のなせるところで、なまじの小賢しい知恵などでは、どうにもならない。なるようにしかならぬ。折りからの「時雨」が、侘びしくも「業」の果てを告げているようではないか。前書に「盗人おのが古郷に隠れ縛られしに」とある。したがって、この「鳥」は悪事を重ねた盗人に重ねられている。逃亡先に事欠いて、顔見知りのいる「古郷に隠れ」るなどは愚の骨頂だが、それが「業」なのだ。現代でも、郷里にたちまわって「縛られ」る者は、いくらでもいる。作句のときの一茶は「古郷」に舞い戻っており、わずか四百日の命で逝った娘のサトをあきらめきれずに、悲嘆のどん底にあった。だから、掲句では盗人が「鳥」というよりも、本当はおのれが「業の鳥」なのだ。おのれの「業」の深さが可愛いサトの命を奪い、因果で自分も「業」に沈むことになった。そういうことを、言っている。だが、このような後段の事情を知らなくても、掲句は十分に理解できるだろう。また「業」という考え方に共鳴できなくても、句が発するただならぬ気配に、ひとりでに吸い寄せられてしまう読者も多いだろう。一茶にも、このような句があった。
天才に少し離れて花見かな 柿本多映
傑作です。笑えます。何の「天才」かは知らねども、天才だって花見くらいはするだろう。ただ「秀才」ならばまだしも、なにしろ敵は天才なのだからして、花を見て何を思っているのか、わかったものじゃない。近くにいると、とんでもない感想を吐かれたりするかもしれない。いやその前に、彼が何を思っているのかが気になって、せっかくの呑気な花見の雰囲気が壊れてしまいそうだ。ここは一番、危うきに近寄らずで行こう。「少し離れて」、いわば敬遠しながらの花見の図である。でもやはり気になって、ときどき盗み見をすると、かの天才は面白くも何ともないような顔をしながら、しきりに顎をなでている。そんなところまで、想像させられてしまう。掲句を読んで突然思い出したが、一茶に「花の陰あかの他人はなかりけり」という句があった。花見の場では、知らない人同士でも、なんとなく親しみを覚えあう。誰かの句に、花幕越しに三味線を貸し借りするというのがあったけれど、みな上機嫌なので、「あかの他人」との交流もうまくいくのだ。そんな人情の機微を正面から捉えた句だが、このときに一茶は迂闊にも「あかの他人」ではない「天才」の存在を忘れていた。ついでに、花見客の財布をねらっている巾着切りのことも(笑)。掲句は「俳句研究」(2001年4月号)に載っていた松浦敬親の小文で知った。松浦さんは「取合わせと空間構成の妙。桜の花も天才も爆発的な存在で、出会えば日常性が破られる。『少し離れて』で、気品が漂う」と書いている。となると、この天才は岡本太郎みたいな人なのかしらん(笑)。
江戸住や二階の窓の初のぼり
江戸住は「えどすみ」。「二階」が江戸を象徴している。草深い一茶の故郷には、おそらく二階家などなかったにちがいない。元禄期頃の絵を見ると、家の前に鯉のぼりではなく、定紋付きの幟(のぼり)を立ててある。これが小さくなって、家の中に飾る紙製の座敷幟となったようだ。鯉のぼりを立てる風習は、江戸も中期以降からはじまったと資料にある。その座敷幟が、二階の窓から突き出ている。「初のぼり」だから、その家の初節句だ。ただそれだけのほほ笑ましい光景ながら、これを粋な小唄のような句と読み捨てるわけにはいかない。流浪の俳諧師であった一茶には、さぞやその幟がまぶしく写ったことだろう。「初のぼり」の家には、堅実な生活というものがある。引き比べて、我が身のいい加減さはどうだ。ちっぽけな「初のぼり」が、「どうだ、どうだ」と我が身に突きつけられているのだ。ここには、芭蕉の「笈も太刀も五月にかざれ紙幟」の明るさはない。「江戸住や」の「や」には、そんな孤独の心がにじみ出ている。現代でも、マンションのベランダから突き出た鯉のぼりを見て、一茶と同じような思いになる人も少なくないだろう。かつての私がそうだった。最初の失職がこの季節で、アパートに暮らす金もなく、友人宅や曖昧宿を転々としていた身には、たとえ小さな鯉のぼりでも、ひどくこたえた。
淋しさに飯を食ふ也秋の風
二番目の妻を離別した後の文政八年(1825年)の句。男やもめの「淋しさ」だ。昔の男は自分で飯を炊いたりはしないから(炊けないから)、飯屋に行って食うのである。いまどきの定食屋みたいな店だろう。そこにあるのは、何か。もちろん飯なのだが、飯以上に期待して出かけるのは、ごく普通の人々とのさりげない交感の存在だろう。いつもの時間にいつもの人たちが寄ってきて、ただ飯を食うだけの束の間の時間が、世間並みの暮らしから外れてしまった男には安らぎのそれとなる。ホッとできる時間なのだ。晩婚だった一茶は、ごく当たり前の家庭に憧れていたろうから、やっと掴んだように思えた普通の暮らしが思うようにいかなかったことは、相当にこたえていたはずだ。だったら飯ではなくて、「酒を飲む也(なり)」が自然だろうと思うのは、まだ生活の素人である。普通の生活をしている人恋しさで出かける先が酒場だとすれば、その人はまだ若年か、よほど仕事などへの意欲があふれている人にちがいない。酒場にあるのは、どんなに静かな店であろうとも、客たちが非日常を楽しむ時空間なのだから、普通の生活のにおいなどは希薄だ。そんなことは百も承知の一茶としては、したがって飯を食いに行くしかないことになる。「秋の風」が身にしみる。男性読者諸兄よ、明日は我が身かもしれませんぞ。
有明や浅間の霧が膳をはふ
早朝の旅立ち。「有明(ありあけ)」は、月がまだ天にありながら夜の明けかけること。また、そのころを言う。すっかり旅支度をととのえて、あとは飯を食うだけ。窓を開け放つと空には月がかかっており、浅間(山)から流れ出た「霧」が煙のように舞い込んできて「膳(ぜん)」の上を這うようである。「はふ」が、霧の濃さをうかがわせて巧みだ。膳の上には飯と味噌汁と、あとは何だろう。かたわらには、振り分け荷物と笠くらいか。寒くて暗い部屋で、味噌汁をすする一茶の姿を想像すると、昔の旅は大変だったろうと思う。これから、朝一番の新幹線に乗るわけじゃないのだから……。したがって一茶は、私たちが今この句になんとなく感じてしまうような旅の情趣を詠んだのではないだろう。情趣は情趣であっても、早起きの清々しさとは相容れない、いささか不機嫌な気分……。「膳」を這う「霧」が醸し出すねばねばとした感じ……。宿の場所は軽井沢のようだが、もとより往時は大田舎である。句の書かれた『七番日記』には、こんな句もある。「しなのぢやそばの白さもぞつとする」。一面の蕎麦(そば)の花の白さで、よけいに冷気が身にしみたのだ。昔の人は、私たちの想像をはるかに超えて、自然風物に「ぞつと」しながら歩くことが多かったにちがいない。
草の露かがやくものは若さなり 津田清子
秋に結ぶことが多いので、単に「露」と言えば秋季になる。風のない晴れた夜に発生する。「露」はすぐに消えてしまうので、昔からはかない事象や物事の象徴とされ、俳句でもそのように詠み継がれてきた。「露の世は露の世ながらさりながら」(小林一茶)など。ところが作者は、そのはかない「露」に「若さ」を認めて感に入っている。「かがやくものは若さなり」と、「草の露」を世の物象全体にまで敷衍して言い切っている。言われてみると、その通りだ。この断定こそが、俳句の気持ちよさである。作者にこの断定をもたらしたのは、おそらく作者の年輪だろう。なにも俳句の常識をひっくり返してやろうと、企んでいるわけではない。若いうちは、かえって「はかなさ」に過剰に捉えられる。拘泥する。おのれの、それこそ過剰な若さが、「はかない」滅びへの意識を敏感にさせるからだろう。私自身に照らして、覚えがある。若いときに書いた詩やら文章やらは、ことごとく「はかなさ」に向いていたと言っても過言ではない。このような断定は、初手から我がポエジーの埒外にあった。不思議なもので、それがいまや、この種の断言に出会うとホッとする。「かがやくものは若さなり」。いいなア。老いてからわかることは、まだまだ他にもたくさんあるに違いない。
心からしなのの雪に降られけり
現代の帰省子にも通じる句だろう。ひさしぶりに故郷に戻った実感は、家族の顔を見ることからも得られるが、もう一つ。幼いころから慣れ親しんだ自然に接したときに、いやがうえにも「ああ、帰ってきたんだ」という感慨がわいてくる。物理的には同じ雪でも、地方によって降り方は微妙に、あるときは大いに異なる。これは江戸の雪じゃない。「しなの(信濃)の雪」なのだと「心から」降られている一茶の感は無量である。「心から」に一片の嘘もなく、だからこそ見事に美しい言葉として印象深い。ときに一茶、四十五歳。父の遺産について異母弟の仙六と交渉すべく、文化四年(1807年)の初冬に帰郷したときの句だ。「雪の日やふるさと人のぶあしらい」。家族や村人は冷たかったが、冷たい雪だけが暖かく迎えてくれたのだった。このときの交渉はうまくいかず、一茶は寂しく江戸に戻っている。遺産争いが決着するまでには、なお五年の歳月を要している。さて、この週末から、ひところほど過密ではないにしても、東京あたりでは帰省ラッシュがはじまる。故郷に戻られる読者諸兄姉には、どうか懐かしい自然を「心から」満喫してきてください。楽しいお正月となりますように。
瞼閉じ荒き息する雀の子 宮田祥子
季語は「雀の子」で春。雀の卵は春から夏にかけて孵化するので、夏季としても差し支えあるまい。卵から独立して飛べるようになるまでに、二ヶ月弱はかかるというから、一茶の「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」などの姿は、むしろ夏の子雀のものである。少し大きくなってくると、子雀はよく跳ねて巣から落下する。句は、そんな子雀を拾っててのひらに乗せている図だと思う。私にも覚えがあるが、眺めていると可愛いというよりも、生命そのものの不思議を感じさせられてしまう。消え入りそうにちっぽけな体なのに、瞼をしっかりと閉じ、想像以上に荒い呼吸をしている。ちょうど、人の赤ん坊が高熱を発したときのような感じだ。生命の力強さが、ちっぽけな体いっぱいにふつふつと涌いている様子は不思議であると同時に、よくわからない何か尊いものに触れているような感じすら受ける。作者は見たままをそのままに詠んでいるだけだが、「瞼閉じ荒き息する」のそのままの描写は、生々しいがゆえに、読者の連想を単なるその場の情景から遠くに連れていく力を持っている。私はたまたま子雀を拾ったことがあるので、上記のように感じたわけだが、拾ったことのない読者の心のうちには、また別の生命への感慨が去来することだろう。そのまんま俳句、おそるべし。
かはほりの天地反転くれなゐに 小川双々子
季語は「かはほり(蝙蝠・こうもり)」で夏。夜行性で、昼間は洞窟や屋根裏などの暗いところに後肢でぶら下がって眠っている。なかには「かはほりや仁王の腕にぶら下り」(一茶)なんて奴もいる。したがって、句の「天地反転」とは蝙蝠が目覚めて飛び立つときの様子だろう。「くれなゐ」は「くれなゐ(の時)」で、夕焼け空が連想される。紅色に染まった夕暮れの空に、蝙蝠たちが飛びだしてきた。「天地反転」という漢語の持つ力強いニュアンスが、いっせいに飛び立った風情をくっきりと伝えてくる。そして、この言葉はまた、昼夜「反転」の時も告げているのだ。現実の情景ではあるのだが、幻想的なそれに通じるひとときの夕景の美しさ。最近の東京ではとんと見かけないけれど、私が子供だったころには、東京の住宅地(中野区)あたりでも、彼らはこんな感じで上空を乱舞していた。竹竿を振り回して、追っかけているお兄ちゃんたちも何人かいたような……。何の話からだったか、編集者時代に武者小路実篤氏にこの話をしたところ、「ぼくの子供の頃には丸ノ内で飛んでましたよ」と言われてしまい、つくづく年齢の差を感じさせられた思い出もある。
名月を取てくれろとなく子哉
有名な『をらが春』に記された一句。泣いて駄々をこねているのは、一茶が「衣のうらの玉」とも可愛がった「さと女」だろう。その子煩悩ぶりは、たとえば次のようだった。「障子のうす紙をめりめりむしるに、よくしたよくしたとほむれば誠と思ひ、きやらきやらと笑ひて、ひたむしりにむしりぬ。心のうち一點の塵もなく、名月のきらきらしく清く見ゆれば、迹(あと)なき俳優(わざをぎ)を見るやうに、なかなか心の皺を伸しぬ」。この子の願いならば、何でも聞き届けてやりたい。が、天上の月を取ってほしいとは、いかにも難題だ。ほとほと困惑した一茶の表情が、目に浮かぶ。何と言って、なだめすかしたのだろうか。同時に掲句は、小さな子供までが欲しがるほどの名月の素晴らしさを、間接的に愛でた句と読める。自分の主情を直接詠みこむのではなく、子供の目に託した手法がユニークだ。そこで以下少々下世話話めくが、月をこのように誉める手法は、実は一茶のオリジナルな発想から来たものではない。一茶句の出現するずっと以前に、既に織本花嬌という女性俳人が「名月は乳房くはえて指さして」と詠んでいるからだ。そして、一茶がこの句を知らなかったはずはないのである。人妻だった花嬌は、一茶のいわば「永遠の恋人」ともいうべき存在で、生涯忘れ得ぬ女性であった。花嬌は若くして亡くなってしまうのだが、一茶が何度も墓参に出かけていることからしても、そのことが知れる。掲句を書きつけたときに、花嬌の面影が年老いた一茶の脳裏に浮かんだのかと思うと、とても切ない。「月」は「罪」。
つはぶきや二階の窓に鉄格子 森慎一
季語は「つはぶき(石蕗の花)」で冬。学名を「Farfugium japonicum」と言うそうだから、原日本的な植物なのかもしれない。しかし、いつ見ても寂しい花だと思う。蕗の葉に似た暗緑色と花の黄色との取り合わせが、いかにも陰気なのである。一茶が「ちまちまとした海もちぬ石蕗の花」と詠んでいるように、元来が海辺の野草だ。昨冬、静岡の海岸で見かけたけれど、寒い海辺に点々と黄が散らばっている様子は、なんとも侘しい風情であった。そんな暗い感じの石蕗を庭に植えるようになったのは、花の少ない冬季に咲く花だからだろう。よく、旅館の庭の片隅などで咲いている。これは四季を通じて花を絶やさぬサービス精神の発露とはわかるが、だが、何でも咲いていればよいというものでもあるまい。仕事での一人旅だったりすると、かえって気が滅入ってしまう。掲句は、そんな「つはぶき」の舞台にぴったりの情景を伝えている。「二階の窓に鉄格子」とはただならないが、かつての座敷牢の名残りでもあろうか。だとすれば、この家にはどんな暗い歴史があったのだろう。などと、通りすがりの作者は空想している。それもこれも、陰気な「つはぶき」が空想させているのである。写真は青木繁伸氏のHP「Botanical Garden」より縮小して借用した。この花の雰囲気が、よく出ている。
大寒の堆肥よく寝てゐることよ 松井松花
今日は「大寒(だいかん)」。一年中で、最も寒い日と言われる。大寒の句でよく知られているのは、虚子の「大寒の埃の如く人死ぬる」や三鬼の「大寒や転びて諸手つく悲しさ」あたりだろう。いずれも厳しい寒さを、心の寒さに転化している。引き比べて、掲句は心の暖かさにつなげているところがユニークだ。「堆肥(たいひ)」は、わら、落葉、塵芥、草などを積み、自然発酵させて作る肥料のこと。寒さのなかで、じわりじわりとみずからの熱の力で発酵している様子は、まさに「よく寝ていることよ」の措辞がふさわしく、作者の微笑が伝わってくる。一部の歳時記には「大寒」の異称に「寒がはり」があげられているが、これは寒さの状態が変化するということで、すなわち暖かい春へ向けて季節が動きはじめる頃という意味だろう。実際、この頃から、梅や椿、沈丁花なども咲きはじめる。寒さに強い花から咲いていき、春がそれこそじわりじわりと近づいてくる。そういうことを思うと、大寒の季語に託して心の寒さが多く詠みこまれるようになったのは、近代以降のことなのかもしれない。昔の人は、大寒に、まず「春遠からじ」を感じたのではないだろうか。一茶の『七番日記』に「大寒の大々とした月よかな」がある。情景としては寒いのだが、「大々(だいだい)とした月」に、掲句の作者に共通する心の暖かさが現れている。
雪とけて村一ぱいの子ども哉
暦の上では、今日から春。といっても、急に雪が解けるわけではなし、まだまだ寒い日がつづきます。故郷の雪国で詠まれた掲句は、まだ二ヵ月ほど先のものでしょう。春の訪れた喜びを胸「一(いっ)ぱい」に吸い込んでいるような、心地よさがあります。「雪とけて」植物の芽吹きなどに春を感じたという句はヤマほどありますが、「子ども」の出現にそれを象徴させたところが、いかにも一茶らしいではありませんか。冬の間は戸外に遊び場もないので、子どもらは家の中でひたすら春を待ちつづけています。それが、ひとたび雪が解けるや、どこにこんなにたくさんの子どもがいたのかと思うくらいに、いっせいに表に飛びだしてきた。子だくさんは昔の農村の常でしたが、それにしても大勢いたものだなあと、目を丸くして、いや目をほそめている一茶翁。木の芽よりも花よりも、子どもにこそ元気を分けてもらった気分だったのだと思います。かつて私が暮らした山陰の村にもかなりの降雪があり、そしてかなりの数の子どもがいました。人口三千人のうち、二割ほどは子ども(小学生)でした。が、だんだん過疎化が進み、いまではその十分の一くらいに減ったそうで、雪が解けて子どもらが出てきても、もう「一ぱい」という形容はできません。淋しい話です。
長閑さや鼠のなめる角田川
季語は「長閑(のどか)」で春。「角田川」は隅田川のことで、「すみだがわ」の命名は「澄んだ川」の意からという。川端を散策していると、ちっぽけな鼠が一心に水を飲む姿が、ふと目にとまった。いかにも一茶らしい着眼で、「ほお」と立ち止まり、しばらく見守っていたのだろう。警戒心を解いて水を飲む鼠の様子は、それだけでも心をなごませるものがある。ましてや、眼前は春風駘蕩の大川だ。小さな営みに夢中の鼠の視座から、視界を一挙に大きく広げて、ゆったりと陽炎をあげて流れる水面を見やれば、長閑の気分も大いにわきあがってこようというものである。小さなものから大きなものへの展開。無技巧に見えて、技巧的な句と読める。角田川と言えば、正岡子規に「白魚や椀の中にも角田川」があり、こちらは大きなものを小さなものへと入れてみせていて、もとより技巧的。比べると、企みの度合いは子規のほうがはるかに高く、この抒情はやはり近代人ならではのものだと思われた。同じ「角田川」でも、一茶と子規の時代では景観もずいぶんと違っていたろうから、そのことが両者の視座の差となってあらわれているとも考えられる。図版は、国立歴史民俗博物館所蔵の江戸屏風絵の部分。うわあ、当時の川は、こんなふうだったんだ。とイメージして一茶の句に戻ると、私の拙い読みなどはどこかに吹っ飛んでしまい、まこと大川端の長閑さが身体のなかに沁み入ってくるようだ。「一枚の絵は一万語に勝る」(だったと思う)とは、黄金期「少年マガジン」のキャッチフレーズであった。
年の市何しに出たと人のいふ
季語は「年の市」で冬。本来は毎月立つ市であるが、正月用品を扱う年末の市は格別に繁盛した。その賑わいの渦の中にいると、いやが上にも押し詰まってきた感じを受けたことだろう。年の市では、どんなものが売られていたのか。平井照敏の『新歳時記』(河出文庫)によれば、『日次紀事』に次のようにあるという。「この月、市中、神仏に供ふるの器皿、同じく神折敷台、ならびに片木・袴・肩衣・頭巾・綿帽子・裙帯・扇子・踏皮、同じく襪線・雪踏・草履・寒臙脂皿・櫛・髪結紙、および常器椀・木皿・塗折敷・飯櫃・太箸・茶碗・鉢・皿・真那板・膳組・若水桶・柄杓・加伊計・浴桶・盥盤、ならびに毬および毬杖・部里部里・羽古義板、そのほか鰤魚・鯛魚・鱈魚・章魚・海鰕・煎海鼠・串石決明・数子・田作の類、蜜柑・柑子・橙・柚・榧・搗栗・串柿・海藻・野老・梅干・山椒粉・胡椒・糊・牛蒡・大根・昆布・熨斗・諸般の物ことごとくこれを売る。これみな、来年春初に用ふるところなり」。ふうっ、漢字を打ち込むのがしんどいくらいに品数豊富だ。さぞや目移りしたことだろう。ただこれらの多くは所帯には必要でも、一茶のような一所不在の流れ者には必要がない。のこのこ出かけていったら、怪訝そうに「何しに出た」と言われたのも当然だ。しかし、何も買わないでも、行きたくなる気持ちはわかる。普通の人並みに、彼もまた年末気分を味わいたかったのである。したがって、「何しに出た」とは無風流な。苦笑いしつつも、一茶は大いに賑わいを楽しんだことだろう。虚子に「うつくしき羽子板市や買はで過ぐ」がある。冷やかして、通りすぎただけ。一茶と同じような気分なのだ。
山やくや舟の片帆の片あかり 久芳水颯
季語は「山やく(山焼く)」で春。野山の枯草や枯木を焼き払うこと。かつて焼畑農業が行われていたころ、山岳では山を焼き、その跡地にソバ、ヒエなどを蒔いた。害虫駆除の意味合いもあったようだ。たまには、こんな句もよいものである。まるで良く出来た小唄か民謡の一節のように小粋な味がする。河か湖か、あるいは海の近くなのかもしれない。いずれにしても、山焼きの火の明りが水辺にまで届いてきて、行く舟の片帆に映っている。それを「片あかり」と叙したところが、小憎らしいほどに巧みだ。山焼きと舟との取り合わせも珍しく、しかしべつだん手柄顔もせずにさらりと言い捨てているあたりが粋なのだ。この句は、元禄期の無名俳人ばかりのアンソロジーである柴田宵曲の『古句を観る』(岩波文庫)に出ている。宵曲は句の景を指して「西洋画にでもありそうな景色」と評しているが、そんなモダンな彩りを持つ粋加減でもある。ところで山焼きと舟の取りあわせといえば、後の世の一茶にもわりに有名な句がある。「山焼の明りに下る夜舟の火」が、それだ。が、掲句と比べてしまうと、いかにも野暮ったい感は拭えない。理由を、宵曲が次のように書いているので紹介しておく。「『七番日記』には「夜舟かな」となっているが、その方がかえっていいかも知れない。山焼の明りが火である上に、更に火を点ずるのは、句として働きがないからである。片帆に片明りするの遥(はるか)に印象的なるに如かぬ。山焼と舟というやや変った配合も、元禄の作家が早く先鞭を著けていたことになる」。
けろりくわんとして柳と烏かな
季語は「柳」で春。「梅にウグイス」や「枯れ枝にカラス」ならば絵になるけれど、「柳にカラス」ではなんともサマにならない。しかし、現実には柳にカラスがとまることもあるわけで、絵になるもならぬも、彼らの知ったことではないのである。ただ人間の目からすると、この取り合わせはどことなく滑稽に映るし、両者ともに互いのミスマッチに気がつかないままキョトンとしているふうに見えてしまう。その様子を指して「けろりくわん」とは言い得て妙だ。眉間に皴を寄せて作句するような俳人には絶対に詠めない句で、こういうところに一茶の愛される所以があるのだろう。柳といえば、こんな句もある。「柳からももんがあと出る子かな」。垂れている柳の葉を髪の毛のように見せかけ、誰かを驚かそうと「ももんがあ」のように肘をはりながら「子」が突然に姿を現わしたというのである。「お化けだぞおっ」というわけだが、むろん怖くも何ともない。しかし一茶は、しなだれている柳の葉を頭髪に見立てた子供の知恵に感心しつつ微笑している。このあたりにもまた、芭蕉や蕪村などとは違って、常に庶民の生活に目を向けつづけた彼の真骨頂がよく出ていると言えよう。一茶という俳人は、最後までごく普通の生活者として生きようとした人であり、芭蕉的な隠者風エリート志向を嫌った人だった。どちらが良いというものでもなかろうが、俳句三百年余の流れを見ていると、この二様のあり方は現代においても継承されていることがわかる。そして、とかく真面目好みの日本人には芭蕉的なる世界をありがたがる性向が強く、一茶的なるそれをどこかで軽んじていることもよくわかってくる。が、それでよいのだろうか。それこそ真面目に、この問題は考えられなければならないと思う。
鉢植に売るや都のたうがらし
季語は「たうがらし(唐辛子)」で秋。真紅に色づいた唐辛子は、蕪村の「うつくしや野分の後のたうがらし」でも彷佛とするように、鮮やかに美しい。だが、蕪村にせよ一茶にせよ、唐辛子を飾って楽しむなどという発想はこれっぽっちも無かっただろう。ふうむ、「都」では唐辛子までを花と同格に扱って「鉢植」で売るものなのか。こんなものが売れるとはと、いささか心外でもあり、呆れ加減でもあり、しかしどこかで都会特有の斬新なセンスに触れた思いも込められている。むろん現在ほどではないにしても、江戸期の都会もまた、野や畑といった自然環境からどんどん遠ざかってゆく過程にあった。したがって、かつての野や畑への郷愁を覚える人は多かったにちがいない。そこで自然を飾り物に細工する商売が登場してくるというわけで、「虫売り」などもその典型的な類だ。戦後の田舎に育った私ですら、本来がタダの虫を売る発想には当然のように馴染めず、柿や栗が売られていることにもびっくりしたし、ましてやススキの穂に値段がつくなどは嘘ではないかと思ったほどだった。でも一方では、野や畑から隔絶されてみると、田舎ではそこらへんにあった何でもない物が、一種独特な光彩を帯びはじめたように感じられたのも事実で、掲句の一茶もそうしたあたりから詠んでいると思われた。
南天よ巨燵やぐらよ淋しさよ
季語は「南天(の実)」と「巨燵(こたつ・炬燵)」。前者は秋で後者は冬の季語だが、もう「巨燵」を出しているのだから、後者を優先して冬期に分類しておく。なにしろわび住まいゆえ、部屋の中の調度といえば「巨燵」くらいのものだし、戸障子を開ければ赤い「南天」の実が目に入ってくるだけなのだから……。たぶん父に死なれた後の弟との遺産争いの渦中にあったころの作だろうが、いかにも「淋しさ」が何度もこみあげてくるような情景である。信州だから、おそらくは雪もかなりあっただろう。その白い世界の南天の実は、ことのほか鮮やかで目にしみる。けれども心中鬱々としておだやかではない作者には、自然の美しさを愛でる余裕などはなかったろうから、鮮烈な赤い実もかえって落ち込む要因になったに違いない。つい弱音を吐いて「淋しさよ」と詠んでしまった。そうせざるを得なかった。でも、妙な言い方になるけれど、これほど吠えるように「淋しさよ」と言い放つたところは、やはり一茶ならではと言うべきか。文は人なり。そんな言い古された言葉が、ひとりでに浮かんできた。
ご破算で願ひましては春立てり 森ゆみ子
季語は「春立つ(立春)」。今日は旧暦の十二月二十六日だから、いわゆる年内立春ということになる。さして珍しいことではないが、『古今集』巻頭の一首は有名だ。「年の内に春は来にけり一年(ひととせ)を去年(こぞ)とやいはむ今年とやいはむ」。在原元方の歌であり、子規が「呆れ返った無趣味」ぶりと酷評したことでも知られる。たしかに年内に春が来てしまい、では今日のこの日を去年と言うのか今年と呼んだらよいのかなどの疑問は、自分で勝手に悩んだら……と冷笑したくなる。大問題でもないし、洒落にもならない。しかしながらこの歌でわかるのは、昔の人が如何に立春を重んじていたかということだ。暦の日付がどうであれ、立春こそが一年の生活の起点だったからである。すなわち、国の生計を支えていた農作業は、立春から数えて何日目になるかを目処にして行われていた。貴族だったとはいえ、だからこその元方の歌なのであり、貫之が巻頭に据えた意図もそこにあったと思われる。回り道をしてしまったが、掲句はその意味で、伝統的な立春の考え方に、淡いけれどもつながっている。今日が立春。となれば、昨日までのことは「ご破算」にして、今日から新規蒔き直しと願いたい。多くの昔の人もそう願い、格別の思いで立春を迎えたことだろう。一茶の「春立つや愚の上に叉愚を重ね」にしても、立春を重要視したことにおいては変わりがない。
夜のぶらんこ都がひとつ足の下 土肥あき子
季語は「ぶらんこ」で春、「鞦韆(しゅうせん)」に分類。平安期から長い間大人の遊具だったのが、江戸期あたりからは完全に子供たちに乗っ取られてしまった。春を待ちかねた子供たちが遊んだことから、早春の季語としたのだろう。一茶に「ぶらんこや桜の花を待ちながら」がある。掲句は「夜のぶらんこ」だから、大人としての作者が漕いでいる。小高い丘の上の公園が想像される。気まぐれに乗ったのだったが、ゆったりと漕いでいるうちに、だんだんとその気になってきて、思い切りスゥイングすることになった。ぶらんこには、人のそんな本気を誘い出すようなところがある。「足」を高く上げて漕いでいると、遠くに見える街の灯が束の間「足」に隠れてしまう。その様子を「都がひとつ足の下」と言い止めたところが、スケールが大きくて面白い。女性がひとり夜のぶらんこに乗るといえば、なんとなく曰くありげにも受け取られがちだが、そのような感傷のかけらがないのもユニークだ。だから読者もまた、春の宵の暖かさのなかにのびのびと解放された気持ちになれるのである。ぶらんこを漕ぐといえば、思い出すのはアニメ『アルプスの少女ハイジ』のオープニングだ。彼女は、異様に長いぶらんこに乗っていた。で、あるヒマ人が計算してみたところ、ハイジは上空100メートルくらいを時速68キロで振り子振動をしていたことになるのだそうだ。シートベルトもせずによくも平気な顔をしていられたものだと驚嘆させられるが、それでも彼女には遠い「都」はちらりとも見えなかった。それほどアルプスは雄大なのである 。
今朝秋のよべを惜みし灯かな 大須賀乙字
今日は、早くも立秋である。季語は「今朝(の)秋」。立秋の朝を言う。作者は、早暁に目覚めた。「灯(ともし)」は街灯だろうか、それともどこかの家の窓の灯火だろうか。いずれにしても、「よべ」(昨夜)から点いていたものだ。そして今日が立秋となれば、その灯は今年最後の夏の夜を見届けたことになり,「今朝秋」のいまもなお、去って行った夏を惜しむかのように点灯していると見えるのである。昨夜までで消えた夏を言い、立秋に一抹の哀感を漂わせた詠みぶりが斬新だ。「そもそも詩歌製作後の吾等感情は一種解脱的の味ひである。然るに俳句は製作に取り掛る時は既に解脱的寂滅的調和の感情に到達して居る」と乙字の俳論にあるが、みずからの論を体現し得た佳句と言えよう。ところで掲句は掲句として,例年のことながら,立秋は猛暑の真っ只中に訪れる。毎年立秋を迎えると,どこに秋なり秋の気配があるのかと、ぼやくばかりだ。一茶に「けさ秋や瘧の落ちたやうな空」(「瘧」は「おこり」)があるけれど、なかなかそううまい具合には、自然は動いてくれない。それでも人間とは面白いもので、そう言えば朝夕はかなり涼しくなってきたような……などと、懸命に秋を探してまわったりするのである。「立秋と聞けば心も添ふ如く」(稲畑汀子)。このあたりに、私たちの本音があるのだろう。
秋風や壁のヘマムシヨ入道
ご存知でしたか、「ヘマムシヨ入道」。由緒正しいというのも変だけれど,これは江戸期の由緒正しい落書きの一つだ。現代人なら誰でも「へのへのもへじ(へへののもへじ)」の「文字絵」を知っているように,江戸時代の人にはおなじみの「絵」だったようである。「へのへのもへじ」が顔の正面をあらわしているのに対して、「ヘマムシヨ入道」は身体のついた横顔を表現している(図版参照)。そんな絵が壁に落書きされていても、べつに珍しいことではないはずなのだが、このときの作者はしばらく見入ってしまったのだろう。「秋風」に吹かれて、いささか感傷的になっていたのかもしれない。見つめているうちに、ちょっと気難しげな顔つきが気になってきて,この「入道」はいったいどんな人物なのだろうかなどと、いろいろと想像しているのではなかろうか。いずれにしても、何でもない落書きに目をとめたりするのは、四季のうちでも秋がもっとも似つかわしい。「秋思」という季語まであるくらいだ。文字絵に戻れば,「ヘマムシヨ入道」の発想はパソコン時代の顔文字やアスキー・アートに似ている。それらの元祖と言っても差し支えないだろう。だが、いつも不思議に思うのは、こういうことに西欧人はあまり関心がないらしい点だ。あちらのサイトをめぐっていても、顔文字などにはめったにお目にかかれない。何故なのだろうか。
冬の雨火箸をもして遊びけり
季語は「冬の雨」。時雨とはちがって、いつまでも降り続く冬の雨は侘しい。降り方によっては、雪よりも寒さが身に沁みる。芭蕉に「面白し雪にやならん冬の雨」があるように、いっそのこと雪になってくれればまだしも、掲句の雨はそんな気配もないじめじめとした降りようだ。こんな日は、当然表になど出たくはない。かといって、鬱陶しさに何かする気も起こらず、囲炉裏端で「火箸をも(燃)して」遊んでしまったと言うのである。飽きもせずに火箸をもして、真っ赤に灼けたそれを見ながら、けっこう真剣な顔をしている一茶の姿が目に浮かぶ。したがって、句はそんな自分に苦笑しているのではない。むしろ、そんなふうに時間を過ごしたことに、侘しさを感じると同時に、他方ではその孤独な遊びにほのかな満足感も覚えている。侘しいけれど、寂しいけれど、そのことが心の充足感につながったというわけだ。そしてこの侘しさや寂しさをささやかに楽しむという感覚は、昔の人にしては珍しい。この種のセンチメンタリズムが一般的に受け入れられるようになったのは、近代以降のことだからである。子供の歌だが、北原白秋に「雨」がある。遊びに行きたくても、傘はないし下駄の鼻緒も切れている。仕方がないので、家でひとり遊びの女の子。「♪雨が降ります 雨が降る/お人形寝かせど まだやまぬ/おせんこ花火も みなたいた」。上掲の一茶の句には、まぎれもなく白秋の抒情につながる近代的な感覚がある。孤独を噛みしめて生きた人ならではの、時代から一歩抜きん出た抒情性が、この句には滲み出ている。
蛍より麺麭を呉れろと泣く子かな 渡辺白泉
季語は「蛍」で夏。敗戦直後の句だ。掲句から誰もが思い出すのは、一茶の「名月を取てくれろとなく子哉」だろう。むろん、作者はこの句を意識して作句している。とかく子どもは聞き分けがなく、無理を言って親や大人を困らせるものだ。それでも一茶の場合は苦笑していればそれですむのだが、作者にとっては苦笑どころではない。食糧難の時代、むろん親も飢えていたから、子供が空腹に耐えかねて泣く気持ちは、痛いほどにわかったからだ。こんなとき、いかに蛍の灯が美しかろうと、そんなものは腹の足しになんぞなりはしない。それよりも、子が泣いて要求するように、いま必要なのは一片の麺麭(パン)なのだ。しかし、その麺麭は「名月」と同じくらいに遠く、手の届かないところにしかない。真に泣きたいのは、親のほうである。パロディ句といえば、元句よりもおかしみを出したりするのが普通だが、この句は反対だ。まことにもって、哀しくも切ないパロディ句である。あの時代に「麺麭を呉れろ」と泣いて親を困らせた子が、実は私たちの世代だった。腹の皮と背中のそれとがくっつきそうになるほど飢えていた子らは、その後なんとか生きのびて大人になり、我が子には決してあのときのようなひもじい思いをさせまいと、懸命に働いたのだった。そして、気がついてみたら「飽食の時代」とやらを生み出していて、今度は麺麭の「捨て場所」づくりに追われることにもなってしまった。なんという歴史の皮肉だろうか。そしてさらに、かつて麺麭を欲しがって泣いた子らの高齢化につれ、現在の公権力が冷たくあたりはじめたのは周知の通りだ。いったい、私たちが何をしたというのか。私たちに罪があるとすれば、それはどんな罪なのか。
四匹飼えば千句与えよ春の猫 寺井谷子
近所の雑司が谷墓地に恋する猫たちが闊歩する季節となった。「恋猫」「孕み猫」「子猫」と、春の歳時記にあふれる猫の句を前に、飼い猫たちを「一体どうなのよ」と眺めている作者の視線が愉快な掲句である。もちろん、猫の方は我関せずの態を崩さず、顔など洗っているのだろう。愛玩動物として飼われる猫が大半になった現在、俳句にペットを持ち込むことは、吾子俳句、孫俳句同様、舐めるような愛着を見せられては敬遠されることは必定で、例句がふんだんにあるわりに、新しい猫の句を誕生させることは難しい。そこへいくと掲句には、意表をつく「千句与えよ」という大上段に構えた表現と、そこに込められた明らかな諦観がユーモラスな笑いにつながってゆく。また、猫を飼っている読者も「一匹につき250句かあ」などと詮無い割り算ののち、やはりそれぞれの飼い猫を眺め、その「まるっきり関係ありません」的な態度に肩をすくめていることだろう。漫画「サザエさん」には、縁側で猫をからかいながら「よごれ猫それでも妻は持ちにけり」とくちづさむ波平に、カツオとマスオが「おとうさん、それは犬のほうが…」などといいように添削され、「一茶の句だ」と一喝する場面がある。俳句を趣味とする波平にも250句与えてくれたとは思えないサザエさん家のタマであった。
老の身は日の永いにも泪かな
いつまでも色あせることのない感性、というものがまれにあります。また、文芸にさほどの興味を持たない人にも、たやすく理解され受け入れられる感性、というものがあります。一茶というのは、読めば読むほどに、そのような才を持って生まれた人なのかと思います。遠く、江戸期に生きていたとしても、呟きは直接に、現代を生活しているわたしたちに響いてきます。むろん、創作に没頭していた一茶本人にとっては、そんなことはどうでもよかったのでしょう。自分の句が、将来にわたってみずみずしさを失わないだろうなどとは、少しも思っていなかったに違いありません。それは結果として、たまたまそうであったということなのです。たまたま一茶の発想の根が、人間の時を越えた普遍の部分に結びついていたからなのです。さて掲句、内容を説明する必要はありません。明解な句です。季語は「日永し」、日が永くなるのを実感する春です。まさか、老齢化が進む現代の日本を予想したわけでもないでしょうが、この切実感は、今でこそ読むものに深く入り込んできます。「日が永く」なり、ものみな明るい方向へ進む、そんな時でさえ、わが身を振り返ると泪(なみだ)が流れるのだと言っています。外が明るければ明るいほどに、自分の命という無常の闇は、その濃度を増すようです。特別な題材を扱っているわけではない、変わった表現を駆使しているのでもない、それでも一茶はやはり、特別なのです。
うつくしや雲一つなき土用空
初心者だった頃は俳句に形容詞を使わないようにと指導される。悲しい、うれしい、楽しい、美しい。言いたいけれども、言ってはいけない。固く心に決めてこれらの語には封印をする。嫌うからには徹底的に嫌って、悪役扱いまでする。これが、どうにかベテランと言われる年代に来ると、この河豚の肝が食べてみたくなる。心情を自ら説明する修飾語を使うというハンデを乗り越えて、否、その欠点を逆手にとって、満塁ホームランを打ってみたくなる。一茶には「うつくしや障子の穴の天の川」もある。二句とも平明、素朴な庶民感覚に溢れていて良い句だ。「雁や残るものみな美しき」これは石田波郷。去るものと残るものを対比させ、去るものの立場から見ている。複雑な心情だ。雲一つない空の美しさは現代人が忘れてしまったもの。都市部はむろんのこと、農村部だって、アスファルトも電柱もなく軒も低い昔の空の美しさとは比較にならない。今住んでいる横浜から、定期的に浜松に行っているが、行くたびに霧が晴れたように風景がよく見える。最初気のせいかと思ったが、毎回実感するので、実際そうなのだろう。いかに都市の空気が汚染されているかがわかる。失われた空の高さ、青さを思わせてくれる「うつくしや」だ。
桔梗の咲く時ぽんといひさうな 千代尼
本当にそうだ、と読んだ瞬間思ったのだった、確かに、ぽん、な気がする。ききょう(きちこう)の五弁の花びらは正しく、きりりとした印象であり、蕾は、初めは丸くそのうちふくらみかけた紙風船ようになり、開花する。一茶に〈きりきりしやんとしてさく桔梗かな〉の一句があるが、やはり桔梗の花の鋭角なたたずまいをとらえている。千代尼は、加賀千代女。尼となったのは、五十二歳の時であるから、この句はそれ以降詠まれたものと思われる。そう思うと、ふと口をついて出た言葉をそのまま一句にしたようなこの句に、才色兼備といわれ、巧い句も多く遺している千代女の、朗らかで無邪気な一面を見るようである。時々吟行する都内の庭園に、一群の桔梗が毎年咲くが、紫の中に数本混ざる白が、いっそう涼しさを感じさせる。秋の七草のひとつである桔梗だけれど、どうも毎年七月頃に咲いているように思い、調べてみると、花の時期はおおむね、七月から八月初めのようで、秋草としては早い。そういえば、さみだれ桔梗といったりもする。今年のようにいつまでも残暑が続くと、今日あたり、どこかでまだ、ぽんと咲く桔梗があるかもしれない。
どこを風が吹くかと寝たり大三十日
このときの一茶が、どういう生活状態にあったのかは知らない。世間の人々が何か神妙な顔つきで除夜を過ごしているのが、たまらなく嫌に思えたのだろう。なにが大三十日(大晦日)だ、さっさと寝ちまうにかぎると、世をすねている。この態度にはたぶんに一茶の気質から来ているものもあるだろうが、実際、金もなければ家族もいないという情況に置かれれば、大晦日や新年ほど味気ないものはない。索漠鬱々たる気分になる。布団を引っかぶって寝てしまうほうが、まだマシなのである。私にも、そんな大晦日と正月があった。世間が冷たく感じられ、ひとり除け者になったような気分だった。また、世をすねているわけではないが、蕪村にも「いざや寝ん元日はまた翌のこと」がある。「翌」は「あす」と読む。伝統的な風習を重んじた昔でも、こんなふうにさばさばとした人もいたということだ。今夜の私も、すねるでもなく気張るでもなく、蕪村みたいに早寝してしまうだろう。そういえば、ここ三十年くらいは、一度も除夜の鐘を聞いたことがない。それでは早寝の方も夜更かしする方も、みなさまにとって来る年が佳い年でありますようにお祈りしております。
パスポートにパリーの匂ひ春逝けり マブソン青眼
乏しい海外旅行の経験しかないけど、パスポートを失くす恐ろしさは実感させられた。これがないと飛行機にも乗れないしホテルにも泊まれない。何か事が起きたとき異国で自分を証明してくれるのはこの赤い表紙の手帳でしかない。肌身離さず携帯していないと落ち着かなかった。母国から遠く離れれば離れるほどパスポートは重みを増すに違いない。『渡り鳥日記』と題された句集の前文には「渡り鳥はふるさとをふたつ持つといふ渡り鳥の目に地球はひとつなり」と、記されている。その言葉通り作者の故郷はフランスだが、現在は長野に住み、一茶を研究している。だが、時にはしみじみと母国の匂いが懐かしくなるのかもしれない。それは古里を離れて江戸に住み「椋鳥と人に呼ばるる寒さ哉」と詠んだ一茶の憂愁とも重なる。年毎に春は過ぎ去ってゆくけれど、今年の春も終わってしまう。「逝く」の表記に過ぎ去ってしまう時間と故郷への距離の遥かさを重ねているのだろうか。「パスポート」「パリ」と軽い響きの頭韻が「春」へと繋がり、思い入れの強い言葉の意味を和らげている。句集は全句作者の手書きによるもので、付属のCDでは四季の映像と音楽に彩られた俳句が次々と展開してゆく。手作りの素朴さと最先端の技術、対極の組み合わせが魅力的だ。
大の字に寝て涼しさよ淋しさよ
一茶の句はなぜこれほどわかりやすいのかと、あらためて思います。変な言い方ですが、どうもこれは普通のわかりやすさではなくて、異常なわかりやすさなのです。わかりやすさも極めれば、感動につながるようなのです。ずるいわかりやすさなのかもしれません。「淋しさよ」と、直接詠っています。いったい一茶はどれだけ淋しいといえば気がすむのかと、文句を付けたくなりますが、なぜか納得させられてしまうのです。体の部位や姿勢が、悲しみや淋しさに結びつくことは、だれでもが知っています。なぜなら悲しみや淋しさを感じるのは、ほかでもない自分の体だから。この句では姿勢(大の字)を涼しさに結び付けて、さらに付け加えるようにして淋しさに付けています。淋しいとき人はどうするだろう。むしろ身をかがめて膝を抱えるものではないのか、といったんは思いはするものの、いえそれほどに単純なものではなく、身を広げても、広がりの分だけの淋しさを、ちゃんと与えられてしまうようです。
一二三四五六七八桜貝 角田竹冷
こんな句もありなんですなあ。どう読めばいいの? 慌てるなかれ、「ひぃふぅみ/よいつむななや/さくらがい」と読めば、れっきとした有季定形である。本人はどんなふうに詠んだのだろうか? 竹冷は安政四年生まれ、大正八年に六十二歳で亡くなった。政界で活躍した人だが、かたわら尾崎紅葉らと「秋声会」という句会で活躍したという。こういう遊びごころの句を、最近あまり見かけないのはちょっと淋しい。遊びごころのなかにもちゃんと春がとらえられている。春の遠浅の渚あたりで遊んでいて、薄紅色の小さくてきれいな桜貝を一つ二つ三つ……と見つけたのだろう。いかにも春らしい陽気のなかで、気持ちも軽快にはずんでいるように思われる。ここで、「時そば」という落語を思い出した。屋台でそばを食べ終わった男が勘定の段になって、「銭ぁ、こまけぇんだ。手ぇ出してくんな」と言って、「ひぃふぅみぃよいつむななや、今何どきだ?」と途中で時を聞き一文ごまかすお笑い。一茶には「初雪や一二三四五六人」という句があり、万太郎には「一句二句三句四句五句枯野の句」があるという。なあるほどねえ。それぞれ「初雪」「枯野」がきちんと決まっている。たまたま最新の「船団」八十四号を読んでいたら、こんな句に出くわした。「十二月三四五六七八日」(雅彦)。
雪とけてくりくりしたる月夜かな
まだまだ寒い日が続いています。と、私がこれを書いているのは、寒気が上空を覆っている3月30日(火)ですが、はてさて4月4日には陽気はどうなっているのでしょうか。この句のように「雪とけて」、穏やかな春の大気に包まれているでしょうか。本日の句、ポイントはなんといっても「くりくり」です。なんだかふざけているような、でも馬鹿らしくは感じさせないすれすれのところの擬音を、さりげなく置いています。心憎い才能です。「くりくり」から思いつくのは、今なら子供の大きな丸い目ですが、当時はどうだったのでしょう。凡人には、いくら頭をひねっても、あるいは幾通りの擬音をためしてみても、こんなふうには出来上がらないものです。結局は持って生まれた才能のあるなしで、文学のセンスは決まってしまうのかと、凡庸な才で日々苦労しているものにとっては、つらい気持ちにさせられます。とはいうものの、今更どうなるものでもなく、たまたま見事な言葉遣いの才が、この人に与えられてしまったのだと気をとりなおし、目をくりくりして、ただ素直に感動することにしましょう。
けさ秋やおこりの落ちたやうな空
おこりはマラリア熱の類。間欠的に高熱が襲う。けさ秋は「今朝の秋」、秋の確かな気配をいう。暦の上の立秋なぞものかわ今年のように暑いとまさにおこりを思わせる。横浜に住んでいて9月7日に到りひさしぶりに雨が降ったが秋の雨というような季語の本意には遠く、むしろ喜雨という言葉さえ浮んだのだった。観測史上の記録を塗りかえるほどの暑さを思うとおそらく一茶の時代よりも4、5度は現在の方が高温なのではないか。おこりよりももっと激しい痙攣のような残暑がまだまだ続くらしい。
不思議なり生れた家で今日の月
漂泊四十年と前書あり。木と紙で出来た建物でも数百年は持つ。神社仏閣のみならず民家でもそのくらいの歴史ある建物は日本でも珍しくないのだろうが、映像でヨーロッパの街などで千年以上前の建物があらわれてそこにまだ人が住んでいるのを見ると時間というものの不思議さが思われる。僕自身も子供のころから各地を転々としたので、ときにはかつて住んでいた場所を訪ねてみたりするのだが、生家はもとよりおおかたはまったく痕跡すらないくらいに変化している。その中で小学生の頃住んだ鳥取市の家に行ってみたとき、そこがほぼそのまま残って人が住んでいたのには驚いた。家の前に立って間取りや階段の位置などを思い起してみた。二階から見えた大きな月の記憶なども。まだ妹は生まれてなくて三人暮し。その父も母ももうこの世にいない。
ともかくもあなた任せのとしの暮
クリスマスが終われば毎年、私の勤める会社の玄関先では、早々にツリーが取り払われ、翌日には新しい年を迎える飾り付けに変わっています。毎年の事ながら、作業をする人たちの忙しさが想像されます。私事ながら、長い間お世話になった会社を今年末で終える私にとっては、いつもの年末ではなく、健康保険だ、年金だ、雇用保険だで、手続きに忙しい日々が続いています。しかしこちらのほうは、あなた任せにするわけにもいかず、慣れない用紙に頭をひねっているわけです。さて、本日の句です。あいかわらずとぼけていて、わかったようでどうもよくわからない句です。「あなた」をどのように解釈するかによって、家庭の中のことを詠んだ句なのか、あるいは世の中すべてを見渡している句なのかが決まるのでしょう。どちらにしても、「ともかくも」この句を読んでいると、なぜか安心してしまいます。年末だからといって、そうあくせくする必要はない。どうせなるようにしかならないのだからと、だれかに肩をたたかれているような、ほっとした気持ちになってきます。
紅梅に干しておくなり洗ひ猫
どうやって干したんだろう。枝に縛ったりしたとは思えない。木の上に上らせて置いたということの比喩だとしたら、猫が意味もなく木の上に長く留まるとは考えにくい。だいいち昔も猫を洗ったということが僕には新鮮。僕の子供の頃は人間様でも毎日は銭湯に行かなかったし、髪なんか週一くらいしか洗わなかった。一茶の時代ならもっと間隔が空いていただろうに、そんな時代に猫を洗うとは。野壺にでも落ちたか。今の俳句ならヨミの許容範囲が広がっているので、「紅梅に」で軽い切れを入れて読む読み方もあるかもしれぬ。猫は別の場所に干してあるという鑑賞だ。それから、馬や牛を洗うのが夏の季題だから、猫を洗うのもやっぱり夏がふさわしくて、紅梅とは季節感がずれる、なんて言いそうだな、現代は。僕は、猫は絶対に紅梅の木の上にいると思う。この句の魅力はこのユーモアが現代にも通じること。河豚を食べたがなんともなかったとか、落花が枝に帰るかと思ったら蝶だったとか、古句の中のユーモアはあまり面白くないことが多いが、この句、今でも十分面白い。 
 
 
 

 

●小林一茶 
( 宝暦13年 - 文政10年 1763-1828 ) 日本の俳人。本名は小林弥太郎、一茶とは俳号である。別号は圯橋、菊明、新羅坊、亜堂。庵号は二六庵、俳諧寺。
信濃国柏原で中農の子として生まれた。15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて俳諧と出会い、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の一人となった。
文中の年代については、明治6年以前は何日の出来事であったか明記したものについて和暦(西暦)の形で日まで表記し、日まで表記しなかったものは和暦の年号をもとに和暦(西暦)で標示した。また明治6年の明治改暦以降についても、明治6年以前の表記と統一性を持たせるために和暦(西暦)の表記とした。また、文中の年齢は数え年で表記した。
小林一茶は宝暦13年5月5日(1763年6月15日)に北信濃の北国街道の宿場町、柏原に生まれた。小林家は柏原では有力な農民の家系であり、一茶の家族も柏原では中位クラスの自作農であった。幼い頃に母を失った一茶は、父が再婚した継母との関係が悪く、不幸な少年時代を過ごす。一茶を可愛がっていた祖母の死後、継母との仲は極度に悪化し、父は一茶と継母を引き離すことを目的として15歳の一茶を江戸に奉公に出す。この継母との確執は一茶の性格、そして句作に大きな影響を与えた。
15歳で江戸に奉公へ出たあと、俳諧師としての記録が現れ始める25歳の時まで一茶の音信は約10年間途絶える。奉公時代の10年間について、後に一茶は非常に苦しい生活をしていたと回顧している。25歳の時、一茶は江戸の東部や房総方面に基盤があった葛飾派の俳諧師として再び記録に現れるようになる。葛飾派の俳諧師として頭角を現しだした一茶は、当時の俳諧師の修業過程に従い、東北地方や西国に俳諧行脚を行った。また自らも俳諧や古典、そして当時の風俗や文化を貪欲に学び、俳諧師としての実力を磨いていった。39歳の時に一茶は父を失い、その後足かけ13年間、継母と弟との間で父の遺産を巡って激しく争うことになる。
40台に入る頃には、一茶は主に房総方面への俳諧行脚で生計を維持するようになった。また夏目成美ら、葛飾派の枠を超えて当時の実力ある俳諧師との交流を深めていった。その中で大衆化の反面、俗化著しかった当時の俳壇の中にあって独自の「一茶調」と呼ばれる作風を確立していく。やがて一茶の名は当時の俳句界で広く知られるようになった。しかし俳諧行脚で生活する一茶の生活は不安定であった。生活の安定を求めた一茶は、遺産相続問題で継母と弟と交渉を続けるとともに、故郷の北信濃で俳諧師匠として生活していくために一茶社中を作っていく。
51歳の時になってようやく遺産相続問題が解決し、一茶は故郷柏原に定住することになる。俳諧師として全国的に名が知られるようになった一茶は、北信濃に多くの門人を抱えた俳諧師匠となり、父の遺産も相続して待望の生活の安定を得ることが出来た。52歳にして結婚を果たしたが、初婚の妻との間の4人の子どもは全て夭折し、妻にも先立たれた。再婚相手との結婚生活は早々に破綻し、身体的には中風の発作を繰り返し、64歳の時に3度目の結婚をするものの、65歳で亡くなる数カ月前には火事で自宅を焼失するなど、後半生も不幸続きの人生であった。また一茶は弟との遺産相続問題などが尾を引いて、故郷柏原では必ずしも受け入れられず、一茶自身も故郷に対して被害意識を最後まで持ち続けた。
一茶の死後も俳句界ではその名声は落ちなかった。しかし門人たちの中から一茶の後継者は現れず、一茶調を引き継ぐものもなく、俳句界における一茶の影響力は小さいものに留まった。明治時代中期以降、正岡子規らに注目されるようになり、その後、自然主義文学の隆盛にともなって一茶の俳句は大きな注目を集めるようになり、松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人としての評価が固まっていく。
一茶の俳句は「生」をテーマとしていると言われている。句作の特徴としてはまず2万句以上という多作であったこと、内容的には苦労続きの人生を反映した、生活苦や人生の矛盾を鋭く捉えた句、童謡を思わせる子どもや小動物を詠んだ句などが代表的なものとされ、表現方法では擬声語、擬態語、擬音語といったオノマトペの多用が特徴として挙げられる。作風の俗っぽさなどに対する根強い批判もあるが、「生」をテーマとする句は多くの人々に受け入れられ、小説や音楽のテーマとされ、故郷の柏原(長野県信濃町)などでは一茶にちなんだ行事が行われており、一茶をテーマとした記念館も建設されている。
●生涯​
故郷柏原​
小林一茶の故郷である北信濃の柏原は、長野市中心部から北へ約25キロメートルの標高700メートル近い地である。周囲にある黒姫山、飯縄山、妙高山が望め、野尻湖も近いところにある。柏原は北国街道の宿場町であった。北国街道の宿場は慶長16年(1611年)に指定されており、柏原は北陸方面と信濃、そして江戸とを結ぶ交通の要衝として発展して、物資の中継地として地域の中心となっていた。交通の要衝の柏原には江戸からの文化も流入してきた。江戸時代、庶民の文化として発展をしてきた俳諧も、18世紀半ばの宝暦年間には柏原で行われていたことが確認されており、柏原の諏訪神社では例年歌舞伎や相撲の興行が催されていた。
柏原は日本でも有数の豪雪地帯であり、冬になると大人の体がすっぽりと埋もれてしまうほどになる。一茶が柏原の雪について詠んだ句の一つである
   これがまあつひの栖(すみか)か雪五尺
は、決して誇張ではない。また火山に囲まれた柏原の土壌は火山灰質で土地は痩せており、しかも標高が比較的高い高原地帯であるため、江戸期は水田よりも畑が多かった。このような厳しい風土は、一茶の作品に大きな影響を与えている。
一方、夏季の柏原は、晴れた日には高原地帯らしいさわやかな気候に恵まれる。冬の厳しさばかりではなく夏のさわやかな気候も、一茶の俳句世界を育む要素となった。
   蟻の道雲の峰よりつづきけん
アリが延々と行列を作っている情景を見て、あの雲の峰からアリの行列が伸びているのだろうかと詠んだこの句は、夏、一茶の故郷の澄んだ高原の大気が生み出した句でもある。
北信濃は戦国時代後期、川中島の戦いに代表されるように武田信玄と上杉謙信が激しい勢力争いを繰り広げるなど、戦乱が続いた影響で農地も荒廃した。やがて北信濃の戦乱が終息すると農村の復興が始まり、江戸時代に入ると復興は本格化し、新田開発も盛んになっていった。一茶の先祖はこのような北信濃の柏原に移住してきた一農民であった。
一茶が生きていた時代の柏原は戸数約150戸、人口約700名であった。一茶が生まれ育った柏原の特徴のひとつとして、当時、柏原に住んでいた人々のほとんどが浄土真宗の信者であったことが挙げられる。一茶の一族も全て浄土真宗の信者であり、父、弥五兵衛は臨終の床にあって最期まで念仏を唱え続けた敬虔な浄土真宗信者で、一茶自身も熱心な信者であった。浄土真宗の教えもまた、一茶の作品に大きな影響を与えている。
前述のように一茶が生まれ育ち、そして生涯を終えることになる柏原は北国街道の宿場町であった。宿場は人馬を常備して公の業務に備える義務を負っていた。公の業務には佐渡金山で産出された金銀の輸送業務、朱印状などの公文書の輸送業務、そして加賀藩の前田家に代表される北陸方面の大名の参勤交代時、円滑に北国街道を通行するように人馬を手配するといったものがあった。これらの業務負担は決して軽いものではなく、見返りとして地子の免除という特典が与えられた。柏原宿ではこの地子免除の特典を受けられる北国街道沿いの約878メートルの地域を伝馬屋敷と呼んだ。伝馬屋敷の境界線には土手が設けられており、宿場の発展によって伝馬屋敷の外にも家々が立ち並ぶようになっても、地子免除の特典は土手の内側の伝馬屋敷住民にしか許されなかった。後述のように勤勉であった一茶の父、弥五兵衛はこの伝馬屋敷内の家を購入した。
宿場町の義務として課せられた公の業務負担は重かったが、一方では民間の物資輸送、通行者も北国街道を盛んに利用するようになる。柏原宿は街道沿いに所狭しと家々が立ち並び、活況を呈していた。宿場沿いの家々の多くは馬を飼っており、一茶の父も農業の傍ら、持ち馬を使用して北国街道を通る物資の輸送業を営んでいた。
江戸時代の柏原で一番の名家は、名主を世襲した中村嘉左衛門家と本陣を世襲した中村六左衛門家であった。両中村家は江戸時代初期の中村利茂(肝煎清蔵)を共通の先祖を持つ親戚同士であった。中村六左衛門家は慶安2年(1649年)に仁之倉新田、寛文5年(1665年)には熊倉新田、中村嘉左衛門家は明暦2年(1656年)に大久保新田、寛文2年(1662年)には赤渋新田の開墾を主導した。新田開発の成功に伴い柏原は発展していった。なお、本陣の中村六左衛門家は与右衛門家、徳左衛門家、兵左衛門家といった柏原で有力な家柄となる分家を輩出した。なお、中村徳左衛門家は一茶の最晩年、思いもかけぬ形で一茶に影響を与えることになる。
幼少期​
   誕生と家系​
小林一茶は宝暦13年5月5日(1763年6月15日)、現在の長野県信濃町柏原に生まれた。本名は弥太郎。一茶が5月5日生まれであることは、自著である寛政三年紀行の中に明記されており定説となっている。しかし一茶が所有していた年代記の宝暦13年の部分には、9月4日(1793年10月10日)に一茶が生まれたとの書き込みがなされている。この年代記には一茶以外の人物による書き込みもあり、問題の9月4日生まれとの記述が一茶本人のものであるかはっきりとしないため、定説とされていない。平成16年(2004年)には、一茶が生年月日を「宝暦13年5月5日」と自書した新資料が発見されており、一茶が宝暦13年5月5日に生まれたことはほぼ確実視されている。
一茶の誕生時、父親の弥五兵衛は31歳、母のくには生年を示す資料が無く、一茶誕生時の年齢は不明である。一茶は両親の第一子で長男、家族としては他に父方の祖母のかながいた。一茶の家族の暮らし向きは、誕生当時、柏原では中の上クラスであったと考えられている。
一茶の先祖については、柏原村の名主を務めた中村権左衛門家に伝えられた文禄元年(1592年)に近隣の芋川(現・長野県飯綱町)から柏原に移住してきたという系図と、やはり柏原村の本陣であった中村六左衛門家に伝えられた元和2年(1616年)に越後の長森村(現・新潟県南魚沼市)から移住してきたとの系図の2つの伝承があるが、いずれにしても安土桃山時代ないし江戸時代初頭に柏原の地へ移住してきた農民であったと考えられている。一茶の一族である小林家は、戦国時代の混乱期が終わった直後に柏原へやってきた柏原でも有数の旧家であり、名主を務めた中村権左衛門家、本陣であった中村六左衛門家に代表される中村一族に次ぐクラスの家柄と目されていた。事実、一茶と同時代に小林家の本家筋の家長であった小林弥市は、要職は中村一族にほぼ独占されていた柏原において組頭を務めていた。なお、一茶の一族は小林という姓を名乗っているが、近世、多くの庶民は苗字を持っていたのが実態であり、特に小林姓を名乗っていたことと身分との関連性は無い。
先祖についての確実な記録は、明和8年(1771年)に一茶の大叔父にあたる弥五右衛門が建立した、小林家一族の墓に刻まれた延宝9年(1681年)没の善右衛門まで遡れる。善右衛門は一茶の高祖父にあたる。一茶の曾祖父、弥兵衛は分家であったと考えられ、また祖父である弥五兵衛も享保18年(1733年)に、兄であり小林一族の墓を建立した弥五右衛門から分家したことが伝えられている。当時、北信濃の山間部は兄弟同士で遺産を均分して相続する均分相続の習慣があり、一茶の祖父である弥五兵衛は兄の弥五右衛門と耕地をほぼ均等に分割している。
祖父の弥五兵衛は分家後数年で亡くなり、一茶の父である弥五兵衛が幼くして家を継いだ。まだ幼かった一茶の父、弥五兵衛は、当初本家にあたる叔父の弥五右衛門の後見を受けていたと考えられるが、母のかなとともに努力を重ね、宝暦10年(1760年)には伝馬屋敷内の一軒家を購入し、同じ頃に柏原の新田である仁之倉で村役人を務めた有力者である宮沢氏の娘、くにと結婚する。小林家が柏原では有力な家系であるとはいえ、一茶の父の弥五兵衛は分家筋にすぎず、そこに有力者の娘が嫁いできたのは弥五兵衛の人物を見込んでのこととも考えられる。なお、一茶の曾祖父にあたる弥兵衛はもともと分家であったと考えられるが、本家であった兄の家系が絶家となったため、弥兵衛の長男である弥五右衛門の家系が本家となった。前述のように一茶の時代、小林家の本家は弥市が家長であり、弥市は一茶と腹違いの弟との遺産相続問題の解決などに関与することになる。
また、一茶の母の出身地である仁之倉は柏原の新田であったが、新田の開墾を主導した中村六左衛門家は仁之倉の人々を家来のように扱っていたこともあって、柏原との関係はぎくしゃくとしていた。このことは一茶の後半生に少なからぬ影響を及ぼすことになる。
   小林家家系図​
善右衛門
  ┣―――┐
善右衛門 弥兵衛
      ┣――――――┐
     弥五右衛門  弥五兵衛――――┳――――かな
      │             │
     久左衛門   くに――┳――弥五兵衛――┳――はつ
      │         │        │
     弥二兵衛      一茶(弥太郎)   仙六(弥兵衛)
      │
     弥市

   母の死と継母​
明和2年8月17日(1765年10月1日)、一茶がわずか3歳の時に母、くにが亡くなった。母の死後、一茶の養育は健在であった祖母かなが主に担った。後年、母を亡くした一茶が孤独であった少年時代のことを追憶して作った俳句が
   我と来て遊べや親のない雀
である。
くにの死後、父弥五兵衛はしばらくやもめ暮らしをしていたが、明和7年(1770年)、一茶8歳の年に近隣の倉井村(長野県飯綱町)から、後妻のはつが嫁いで きた。はつは弥五兵衛との婚姻時は27歳で、勝ち気で働き者の女性であった。明和9年(1772年)には一茶の腹違いの弟となる仙六が生まれた。祖母にはかわいがられた一茶であったが、継母のはつとの関係は険悪であった。一茶の回想によればはつは性格がきつく、事あるごとに一茶に厳しく当たったという。それでも祖母のかなが健在であるうちは間に立ってくれたものの、一茶が14歳の安永5年8月14日(1776年9月26日)、かなは亡くなった。一茶を継母から守ってくれていた祖母の死は、一茶と継母との関係をますます悪化させた。また祖母の死にショックを受けた一茶は重い病気にかかり、一時は重体となった。一茶と継母との関係の極度の悪化を見た父弥五兵衛は、やむを得ず一茶を江戸へ奉公に出すことにした。
一茶が江戸へ奉公に出る前、柏原でどのくらいの教養を身に付けていたのかはかっきりとしない。一茶自身の回想によれば、少年時代の一茶は農繁期の昼は終日農作業や馬の世話などに追われ、夜は夜で藁打ちや草鞋作りをせねばならず、とても学ぶ余裕など無かったとしている。しかし一茶の故郷は雪深い北信濃であり、雪に降り込められる冬季には各地で寺子屋が開設されていた。子どもたちは主に冬季、寺子屋で読み書きを学んでいたのである。一茶が少年時代を過ごした18世紀後半になると、農村での生活の中でも読み書き能力の必要性が高まっていた。実際、一茶の父の弥五兵衛も異母弟の仙六も、きちんとした文章を書ける能力を身に付けていた。一茶も江戸奉公に出るまでには基礎的な読み書き能力は身に付けていたものと推察されている。
俳諧との出会い​
   15歳で江戸奉公へ​
一茶の故郷である柏原では、農家の子弟が江戸に奉公に出ること自体は珍しいことではなかった。しかしその多くは経済的に貧しい家庭の子弟であり、一茶のような中の上クラスの農民の、しかも長男が江戸に奉公に出ることは異例なことであった。もちろんその原因は継母との不仲であり、結果として一茶は継母のことを憎むようになった。江戸に奉公へ出ざるを得なくなった経緯は一茶の性格、そして句作に影響をもたらすことになる。
一茶は安永6年(1777年)の春に故郷柏原を離れ、江戸へ奉公へ出た。一茶を奉公に出すことを決めた父、弥五兵衛とすれば、一茶と継母もいったん距離を置くことによって関係が改善するのではないかとの思いがあった。一茶は江戸へ向かう柏原の村人に連れられて江戸へ出発した。父、弥五兵衛は一茶を隣の牟礼宿まで見送った。後に一茶は父から「毒なものは食うなよ、人に悪く思われるな、早く帰って元気な顔を見せておくれよ」。と言われて別れたと追想している。まだ15歳で長男でもある一茶を江戸に奉公に出したことは、父にとっては負い目となった。
江戸へ奉公に出た一茶の消息は、10年後の天明7年(1787年)までぷっつりと途絶える。奉公先についてはいくつかの言い伝えはあるものの、どれも確証はない。晩年の回想によれば江戸奉公は厳しい日々が続き、奉公先は一か所ではなく転々としており、住まいも安定しなかった。当時、信濃から江戸へは多くの労働者が働きに出ていた。労働者たちの多くはきつい肉体労働に従事し、ひとたび不況となると職を失い、住居のない無宿人同様の境遇になる者も少なくなかった。一茶もまた江戸奉公時代、住居が安定しないということは無宿人に近い境遇になった可能性もある。そして江戸の住民たちの多くは信濃からの労働者たちを蔑み、ムクドリと揶揄した。
   椋鳥と人に呼ばるる寒さかな
後年一茶は、信濃者である一茶が江戸でムクドリと揶揄され、なおさら寒さが身に沁みると、江戸での労働者生活の辛さを句にした。
一茶の江戸奉公時代の確たる消息は皆無に近い。ただ文化3年(1806年)、一茶は房総半島行脚の帰途、浦賀の専福寺に立ち寄って香誉夏月寿信女という女性の墓参りに訪れている。一茶は香誉夏月寿信女が亡くなったのは天明2年6月2日(1782年7月11日)と記している。天明2年は一茶20歳の時であり、一茶とどのような関係にあったのかは不明であるが、一茶の江戸奉公の時期、この香誉夏月寿信女と何らかの縁があったことは確かである。
   俳諧の道に入る​
江戸に奉公に出た一茶は、やがて俳諧に出会う。一茶は芭蕉の友人、山口素堂を始祖とする俳諧グループ、葛飾派に所属することになる。葛飾派は芭蕉の句とは異なり通俗的な作句が特徴的であったが、芭蕉の作風を引き継いでいると自任しており、江戸の俳壇において名門意識を持っていた。
一茶の俳句で最も古いものは、天明7年(1787年)春に編纂された、信州佐久郡上海瀬(現・長野県南佐久郡佐久穂町)在住の新海米翁の米寿記念賀集、真砂古に渭浜庵執筆一茶として入集している
   是からも未だ幾かへりまつの花
という、松にことよせて新海米翁の更なる長寿を願った句であるという説が有力である。
渭浜庵執筆一茶の意味であるが、渭浜庵は俳句の葛飾派宗匠であった溝口素丸の庵号である。素丸は本職は書院番を務めた旗本であり、本職の傍ら葛飾派の俳句を学び、やがて葛飾派の3代目宗匠となり、自派を「葛飾蕉門」と称し江戸俳壇でその勢力を伸ばした。執筆とは俳諧を行う際の書記のことであり、俳諧のルールや運営方法を理解していなければならず、俳諧の実力が高い人物が務める役割であった。また執筆は師匠の庵に同居して内弟子兼雑用を務めるのが通例であった。そのため俳諧師を目指す弟子の中でもその能力が認められた人物が選ばれており、25歳の一茶は葛飾派のリーダー素丸からその能力が認められていたことと、少なくとも天明7年の2〜3年前には素丸に入門していたことが推測される。
真砂古が刊行された天明7年(1787年)春、葛飾派の重鎮、二六庵竹阿が約20年の大坂暮らしを終えて江戸へ戻ってきた。竹阿はしばしば西日本各地を巡っており、その中で関西との縁が深まって約20年間、大坂暮らしをするようになった。しかし竹阿と同じく関東の出身で親友であった石漱が関東に帰ることになり、その上、竹阿を大坂に誘った門人が死去したこともあって、江戸へ戻ることになった。竹阿は西日本各地に多くの門人がおり、後に一茶が俳諧修行のために西日本各地を行脚した際、竹阿の門人を尋ねて廻ることになる。一茶は天明7年(1787年)11月、二六庵で竹阿所蔵の「白砂人集」を書写している。なおこの時の名乗りは小林圯橋であり、一茶ではなかった。当時竹阿は78歳、一茶は素丸からの推薦もあって二六庵に住み込んで竹阿の内弟子となるとともに、高齢の竹阿の世話をするようになったと考えられる。後述のように竹阿の教えは一茶に大きな影響を与えており、一茶は寛政2年(1790年)3月13日、81歳で亡くなった竹阿の最期を看取ったと見られている。
素丸、竹阿の他に、駆け出し期の一茶はやはり葛飾派の重鎮、森田元夢に師事していた。天明期から寛政の初年にかけて、一茶は菊明という俳号も名乗っていたが、寛政元年(1789年)に発行された「はいかい柳の友」に、元夢の今日庵の執筆として今日庵菊明の句が掲載されている。しかし「はいかい柳の友」の別版では今日庵菊明の句は削除され、今日庵執筆として他の4名の句が掲載されており、何か問題が起きたと考えられている。一茶は元夢にその後も師事し続けるが、文化11年(1814年)、江戸から郷里、信濃の柏原へ帰る一茶が江戸の俳壇を引退することを記念して発行した「三韓人」において、素丸、竹阿は師として厚遇しているものの、元夢の作品は掲載していない。
また「三韓人」において一茶は、葛飾派重鎮の素丸、竹阿、元夢以外に、俳壇の重鎮であった白雄、蓼太に師事していたことを示唆している。白雄、蓼太ともに一茶よりも年齢が相当上で高名な俳人であったが、ともに一茶と同じ信濃の出身で、同郷の縁故があったためか、俳諧の道を歩み始めたばかりの一茶と何らかの関係があったものと推測されている。
俳諧で身を立てることを願った一茶は、万葉集、古今和歌集、後撰和歌集といった古典和歌や歌論などを猛勉強していた。中でも本歌取の技法を熱心に学び、例えば
清原元輔の
   ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは
を本歌として
   ちぎりきな藪入り茶屋を知らせ文
と、いわば古歌をパロディ化したような句をしばしば作っていた。
駆け出しのまだ無名時代の句の中では、寛政2年(1790年)、一茶28歳の時の作
   三文が霞見にけり遠眼鏡
が、比較的よく知られている。三文払って遠眼鏡を借りてみたところが、霞しか見えなかったという句であり、一茶は後年まで金銭を句の中に読み込んだ作品が見られる。これは一茶の恵まれているとは言い難い境遇や、全てを金勘定するような都市での生活の中から生まれたとともに、現実をしっかりと見据えた上で句に生かしていくという一茶の句の特徴の一つが早くも現れていると評価できる。
なお、一茶という俳号であるが、一茶自身は自らの著作、「寛政三年紀行」の冒頭において
   立つ淡の消えやすき物から、名を一茶坊といふ。
としており、また「三韓人」において一茶の親友ともいうべき夏目成美は、
   しなのの国にひとりの隠士あり。はやくその心ざしありて、森羅万象を一椀の茶に放下し、みづから一茶と名乗り
と、一茶のことを紹介している。このことから一茶とは、一椀の茶や泡沫のごとき人生を表す無常観に基づく命名であると考えられる。
俳諧修行の旅​
   東北地方への行脚​
江戸時代の俳諧師は、師匠の許しを得て修行の旅に出る習慣があった。師匠からは各地の俳人への紹介状を渡され、各地を行脚する中でそういう俳人を尋ねて廻るのである。しかし師匠からの紹介があるとはいっても簡単に世話になることは出来なかった。紹介状とともにお互いの句を披露しあうと、さっそく付句の試験がある。そこで主人が納得するほどの腕前であれば客人として遇されるものの、上手くいかなければこれこれの宿があるから明日おいでくださいと言われてしまう。連日このような環境下で、俳諧師はその腕を磨いていった。
一茶も寛政元年(1789年)、27歳の時に東北地方への長旅に出たことが明らかになっている。一茶が確実に訪れた記録が残っているのは象潟で、当地の肝煎で俳人でもあった金又左衛門の家に宿泊した。金が自邸に宿泊する文人たちに揮毫を依頼して編纂された「旅客集」に、一茶の文と俳句が遺されている。象潟の他に一茶が訪ねた場所ははっきりとしないものの、後年一茶は松島、恐山、外が浜の句を作っているため、この時の旅で訪れた可能性が指摘されている。なお一茶は寛政元年(1789年)の旅について「奥羽紀行」という紀行文を執筆したと伝えられているが、現存しない。
   14年ぶりの帰郷​
寛政2年(1791年)の竹阿の没後、一茶は再び素丸の渭浜庵に執筆として住み込むようになった。寛政3年(1792年)春、一茶は師匠の素丸に父の病気を理由に、帰郷を申し出た。この帰郷については「寛政三年紀行」という紀行文が残されている。ただし筆跡から見て寛政3年の帰郷時に書かれたものそのものではなく、文化3年(1806年)から文化5年(1808年)頃に改作されたものであると考えられている。内容的には方丈記、奥の細道、野ざらし紀行など、古典や芭蕉の著作などの影響が見られる。
なおこの寛政3年の帰郷は、一茶にとって15歳で故郷を離れて江戸に奉公に出てから14年ぶりとなる帰郷であったと考えられている。これは寛政3年紀行に描かれている浅間山の情景からも裏付けられる。安永6年(1777年)に一茶が故郷を離れた後、天明3年(1783年)に浅間山は大噴火を起こしており、かつて見た浅間山周辺の様子から一変した荒涼たる光景に驚いている。このことからも一茶が安永6年以降、帰郷したことがなかったと推定されている。
一茶の14年ぶりの帰郷は寛政3年3月26日(1791年4月28日)に江戸を出発した。しかし北信濃の実家に直接向かうことはなく、まずは下総方面を目指した。下総で一茶は同門の葛飾派の知己を巡り、餞別を集めて旅費の工面を図った。下総の旅の中で、一茶は現在の茨城県北相馬郡利根町布川で、葛飾派の俳人、馬泉と考えられる仁左衛門の新居を祝った新家記という文章を書いている、その中で「このような山水に恵まれ、風情のある場所はめったにない、風情を知るものがこのようなところに住めばどんなにか心豊かに過ごせるであろうか、翻って私は、目はあっても犬同然、耳はあっても馬同然なので、せっかくの美しい風景、風情もいっこうに心に響かない、まさに『景色の罪人』です」。という内容の文を記した上で
   蓮の花虱(しらみ)を捨るばかり也
と詠んだ。新家記の文章の構成自体は芭蕉の俳文を参考にしているが、句は美しい蓮の花を前にして虱を捨てるばかりの自分の姿を詠んでいる。当時29歳の一茶は、早くも一茶の俳句の特徴ともいうべき、風雅な蓮の花よりも虱、つまり実生活や生活に結びついた感情を題材とする点、そして伝統的な花鳥風月を愛でる感覚に反発を見せる一面を見せていた。
4月8日(1791年5月10日)には江戸に戻り、2日後、故郷へ向けて改めて江戸を出立した。一茶は基本的に中山道を進み、碓氷峠を越え、軽井沢周辺では前述のようにかつて見た光景と一変した、天明の大噴火後の浅間山周辺の荒涼とした光景を描写している。追分宿からは中山道を離れて北国街道に入り、善光寺を参詣して4月18日(1791年5月20日)に柏原の実家に14年ぶりの帰郷を果たした。寛政三年紀行では、「父母の健やかなる顔を見ることのうれしく、めでたく、ありがたく」と記録しており、実父ばかりではなく、関係が悪かったおかげで江戸へ奉公に出なければならなかった継母に対しても、14年ぶりの再会を喜んでいる。しかし一茶はその後、継母、腹違いの弟との激しい確執が続くことになり、継母との再会を喜ぶような記述はこれが最後のこととなった。
一茶は寛政3年の帰郷時に、父に対して西日本各地を巡る計画があることを打ち明けた。これはもちろん俳諧修行が第一の目的とした旅であるが、計画を聞かされた父から、京都の西本願寺の代参を依頼された。前述のように父を始め一茶の一家、一族は浄土真宗の信者であり、父、そして一茶自身も熱心な浄土真宗の信者であった。
   西国俳諧行脚​
寛政4年3月25日(1792年5月15日)、30歳になった一茶は西国への俳諧修行の旅に出た。一茶は旅の出発に当たり頭を丸め僧形になった。なお、一茶は西国に旅立った寛政4年の秋から、2年前に没した俳諧の師のひとり、竹阿の二六庵を継いで二六庵一茶と名乗っていることが確認されている。しかし葛飾派で刊行された書籍の中で一茶が二六庵の庵号を名乗っていることが確認されるのは寛政12年(1800年)が初出であり、葛飾派として正式に一茶が二六庵を継承したのは前年の寛政11年(1799年)のことであると考えられている。この西国俳諧修行時に一茶が二六庵を名乗ったことが、葛飾派公認のものか一茶が勝手に名乗ったものであるかはっきりとしない。もし公認のものであれば、一茶が竹阿の後継者として認められて俳諧師として一本立ちしたことになる。しかし一人前の俳諧師として西国へ旅立ったとしても当時の一茶はまだまだ無名であり、旅は苦難の連続となった。
前述のように竹阿は大坂暮らしが長く、西国に知己が多い上に四国や九州はかつて竹阿の地盤でもあった。かねてから一茶は竹阿の所蔵していた文章類を書写していた。師の遺した文献「其日ぐさ」は、地方行脚の中で入手した情報やノウハウがまとめられており、西国行脚のガイドブック的な役割を果たした。また一茶は西国行きの行程で多くの竹阿の知人、門人を尋ね歩くことになる。また一茶は江戸ばかりではなく全国各地の俳人約250名の住所を記した、いわば住所録である「知友録」を作成し、西国行きに備えていた。
寛政4年の3月に江戸を出発したものの、一茶はまっすぐに関西方面へと向かったわけではない。前年の帰省と同じくまずは下総方面の知人を巡った。6月になって一茶は浦賀、伊東そして遠江の知己を尋ねた後、京都へと向かった。京都では前年に父に依頼された西本願寺の代参を果たしたと考えられている。
京都を発った後は、大坂、河内、淡路島を巡って四国に渡った。四国では讃岐観音寺の専念寺に師、竹阿の弟子であった梅五を尋ねた。西国俳諧修行の旅の中で一茶は、専念寺を拠点として四国、九州を巡ることになる。その後、伊予の入野(四国中央市)に山中時風を尋ねたことが明らかとなっている。寛政4年の一茶の四国での足取りは専念寺と山中時風を尋ねたことしか明らかになっていないが、四国の後に九州に渡っており、年末には肥後の八代(八代市)にある正教寺に向かい、そこで年を越した。
寛政5年(1793年)は、肥後や肥前など九州各地を回ったと考えられている。この年の暮れには長崎へ向かい、そこで年を越した。翌寛政6年(1794年)の夏季には再び肥後へ足を延ばす。その後山口を経て年末には再び観音寺の専念寺に向かった。専念寺で年を越した後、寛政7年(1795年)に入ると一茶は伊予へ向かった。1月13日(1795年3月3日)には上難波(松山市)の最明寺へ向かった。最明寺の住職は一茶の師、竹阿の弟子であったため、一夜の宿を願ったのである。しかし肝心の住職はすでに亡くなっており、別人が住職となっていた。頼りにしていた最明寺での宿泊を断られた一茶は本当に困り果ててしまったが、幸いこのときは近隣に住む俳句愛好家の庄屋が快く泊めてくれた。このように俳諧修行の旅は苦労の絶えないものであった。
1月15日(1795年3月5日)には松山の栗田樗堂を尋ねた。樗堂は本業として酒造業を営んでいる松山有数の富豪であり、その一方で当時全国的に名が知られた俳人でもあった。片や松山有数の豪商、片や北信濃生まれの無一文に近い俳人であったが、樗堂は一茶と親友となり、長く親しい交際を続けることになる。前述の専念寺の梅五、そして馬橋の大川立砂や後に最も親しく交際していく夏目成美など、一茶は先輩の有力俳人たちに可愛がられた。これは如才のなさ、世渡り上手という一面があるのは否めないが、才能ある先輩俳人たちに可愛がられたということは、やはり一茶には確かな実力に加えて誠実さがあったものと考えられる。
伊予の各地を回った一茶は、2月末には観音寺の専念寺に戻るが、その後大坂に向かった。丸亀から船に乗って下津井(倉敷市)で下船し、その後徒歩で大坂を目指した。途中、夜間大坂への道を急ぐ中で眠気に耐えられず、民家の軒先を借りて野宿する一幕もあった。大坂に到着した一茶はその後、大坂を始め京都や大津、そして摂津、河内、大和、播磨といった近畿地方各地を回って、広く俳人との交流を深めた。交流した俳人は一茶が所属していた葛飾派の俳人ばかりではなく、他派の人たちも多かった。これは一茶の西国行脚中の寛政5年(1793年)が芭蕉百回忌に当たっていて、俳句界全体で芭蕉へ帰れという運動が巻き起こっていたことが幸いした。そのような俳句界の機運は流派同士の垣根を下げ、もともと比較的自由な気風があった関西の俳壇に身を置く形となった一茶は、流派を超えて広く俳人たちとの交流を行うことが可能な境遇に恵まれたのである。
寛政7年、一茶は寛政4年からの西国俳諧修行の旅の成果を「たびしうゐ(旅拾遺)」という本にまとめ、出版する。当時、句集を出版する場合には句の作者は一句ごとにお金を支払う、いわば出句料を拠出する習慣があった。つまりたびしうゐで紹介された句の作者は応分の出句料を一茶に支払ったものであると考えられるが、実際問題として一茶自身も相当額の自己資金を拠出したと考えられている。西国俳諧修行中、一茶は各地の俳人を巡る中でいわば俳諧の先生として受け入れられ、報酬を得ながら旅を続けてきた。一茶は多くの俳人からその実力を認められ、相当額の報酬を手に入れることが出来たため、たびしうゐの出版に漕ぎつけられたものと考えられている。
この頃の一茶の作品は、天明期の俳諧の影響を受けて与謝蕪村らの影響が見られる。しかし
   秋の夜や旅の男の針仕事
のように、花鳥風月を詠まず、孤独な一人旅の中にある己の境遇を直視した、一茶らしい句も見られるようになる。
一茶は長い西国への旅の中にあっても、江戸を始め各地の俳人との連絡を欠かさなかった。中でも後に最も親しく交際する夏目成美とは、西国旅行の期間に文通が始まっている。一茶は当時文音所と呼ばれた一種の私書箱などを活用して、様々な情報を集めながら旅を続けていた。そして旅の中にあっても一茶は諸学を学ぶことを怠らなかった。前述の万葉集、古今和歌集といった古典ばかりではなく、易経といった中国の古典、そして芭蕉、宝井其角といった先覚の作品を学んでいた。また一茶は生涯書き続けた「方言雑集」というメモ集がある。これは一茶が訪れた各地の方言、風土をメモしたもので、方言雑集の始まりは西国俳諧修行の旅であったと考えられている。そして一茶の日記の中にも各地で体験した出来事のメモ書きが多く残されている。一茶の俳句の中には俗語や方言を大胆に取り入れた作品があるが、西国俳諧修行の中で、一茶は日々貪欲に様々な事物を吸収し、己の句作へと生かしていくことになる。
寛政8年(1796年)、一茶は松山の栗田樗堂宅を拠点として伊予の各地を訪れた記録が残っている。寛政9年(1797年)の正月を樗堂宅で迎えた一茶は、春には備後の福山、その後讃岐の高松、小豆島、そして近江の大津、大坂を回り、結局大和の長谷寺で年を越した。一茶としては寛政9年中に江戸へ戻る心つもりであったが、結局寛政10年(1798年)前半は近畿の各地を回ることになった。そして寛政10年には西国俳諧修行の旅の総決算ともいうべき2冊目の著作、「さらば笠」を出版する。同年6月末になってようやく江戸への帰途につき、いったん信濃の故郷に戻った後、8月下旬、6年あまりぶりに江戸へと戻った。
   江戸に戻って​
足かけ7年に及ぶ西国俳諧修行の旅によって、一茶に実力がついたのは確かであった。寛政12年(1800年)頃に大坂、京都の俳人が世話人となって出版された全国俳人番付で、一茶は葛飾派の中で唯一、番付に名が載せられた。番付内の位置はまだまだ下位ではあったが、関西の発行元であったこともあり、この番付自体に江戸の俳人は17名しか掲載されておらず、一茶を江戸在住の俳人の中の有力者、中でも葛飾派の代表者として見る向きもあったことがわかる。一茶は寛政11年(1799年)には正式に二六庵を継いだと考えられている。しかしまだ30代の一茶が急速に葛飾派内で頭角を現してきたことに、派内に妬みや不満、反発を買うことになった。実際、二六庵の名乗りはわずか2年余り、享和元年(1801年)を最後に消えてしまう。つまり一茶はわずか2年あまりで二六庵を名乗ることが許されなくなったのである。これは享和2年(1802年)に葛飾派の宗匠となった白芹が一茶を敬遠し、二六庵の称号を名乗ることを禁じたのではないかとの説がある。
一方、6年余りの西国俳諧修行の旅を終え、大坂を中心とした関西の比較的自由な俳壇を体験した一茶にとっても、閉鎖的な葛飾派のあり方に飽き足らなくなっていった。ほどなく一茶は葛飾派の枠をはみ出して夏目成美らとの親交を深め、一茶独自の俳句世界を作り上げていくことになる。
寛政11年(1799年)11月、長年一茶の親友であり、下総方面に行く際に最も多く立ち寄り、俳句で身を立てようと志した一茶を当初から庇護してくれてきた馬橋の大川立砂が急死する。一茶は立砂を看取り、
   炉のはたやよべの笑ひが暇ごひ
と詠んだ。長年一茶に目をかけてくれた立砂への深い敬慕の思いを表現したこの句は、一茶の特徴のひとつでもある、素朴かつ素直な感情をストレートに表現したものであると評価されている。
父の死と継母、弟との確執​
ところで安永6年(1777年)の春に一茶が故郷、柏原から江戸に奉公に出た後、一茶の父弥五兵衛ばかりではなく、継母のはつと腹違いの弟である仙六は懸命に働き、一家を盛り立てていた。実際、一茶が故郷を出た時分には3.71石であった持高が、約9〜10石にまで増加し、柏原の中でも有力な農民となった。これは働き者であった継母のはつと、仙六の貢献が大きかったと見られている。寛政末期から享和にかけて持高はやや減少し、享和元年(1801年)には7.09石となっている。これは父弥五兵衛の病気により近隣でも名医を呼ぶなどしたためであると考えられるが、それでも一茶が故郷を離れた時よりも大幅に財産を増やしていた。このような経過から、継母のはつと腹違いの弟、仙六は小林家の財産は自らが増やしたものとの自負を持っていた。
一茶は安永6年に江戸へ奉公に出た後も、柏原の宗門改め時に作成される宗門帳にその名を残し続けていた。これは一茶が江戸奉公に、そして俳諧修行の旅に出るなどして、故郷柏原に居住の実態が無いにも関わらず、住民の一員としての地位を維持していたことを意味している。
一茶は享和元年(1801年)3月頃、一茶は故郷柏原に帰省した。帰省の経緯ははっきりとしていないが、父、弥五兵衛の病気の知らせを受けてのことであったとの説がある。ただし一茶が父の死去の経緯について書いた「父の終焉日記」では、一茶が帰省中の4月23日(1801年6月4日)、父が農作業中に突然倒れたとしている。享和元年の帰郷は父の病気との関係は無く、本来の目的は帰郷しての後の生活維持のために一茶を師匠とした俳諧結社、いわゆる一茶社中の結成を開始するためであったとの説もある。
父、弥五兵衛は高熱を発し、食欲も無かった。倒れた翌日もしきりと体のだるさを訴え、体調が回復する様子もない。近医に診てもらったところ病名は陰性の傷寒で、回復の見込みは極めて少ないとの診断であった。4月29日(1801年6月10日)、死期を悟った弥五兵衛は一茶と仙六を枕元に呼び、財産を一茶と仙六とで二分するよう言い渡した。すると仙六は病床の父と言い争いになってしまった。仙六にとってみれば、一茶不在の間に母、はつと共に努力して一家の財産を増やしてきたとの自負があった。父からその家産を二分せよと言われたところで簡単に納得できるものではなかった。これが文化11年(1814年)まで約13年間続く、継母と弟との遺産相続の争いの発端であった。
前述のように一茶は父の死去とそれに伴う遺産を巡る継母、弟との骨肉の争いを「父の終焉日記」にまとめている。親族間の遺産相続における争いごとは比較的ありふれた出来事ではあるが、江戸期以前の日本では文学の題材として取り上げられることが無かった題材であった。赤裸々に描かれた遺産を巡る親族間の骨肉の争いは読者にやるせない思いを抱かせるものである一面、極めて人間的なテーマを私小説風にまとめ上げており、「父の終焉日記」は日本の自然主義文学の草分けであるとの評価がなされるようになった。もちろん「父の終焉日記」は一茶の視点によって書かれたものであり、内容的にも創作が見られ、遺産相続問題において、一茶が善人、継母と弟が欲にまみれた悪人であるように描かれた記述は慎重に読まねばならない。
現実問題として父が倒れた時期は農繁期に当たっていて、継母と弟は日々の農作業に追われ、勢い、父の看病は一茶に任される形となった。これは継母、弟にとって終始父の看病に当たっている一茶が重態の父を篭絡するのではないかとの疑心暗鬼を深めることにも繋がった。しかし遺産を兄弟で二分せよと意思を示した父、弥五兵衛にはしっかりとした考えがあった。父としてはわずか15歳で一茶を江戸奉公に出し、これまで苦労をさせてしまったとの負い目があった。そして北信濃の遺産分割の習慣は基本的に均分相続であり、事実、一茶の一族、小林家は祖父の代も財産を均分に分割して相続している。父の遺産相続における判断は、北信濃で一般的であった遺産相続方法、そしてこれまで小林家で行われてきた相続方法から見ても妥当なものとも言えた。
父、弥五兵衛は一茶に対してかねがね妻を娶って柏原に落ち着くように勧めていた。一茶自身も父に対して「病気が治ったら、元の弥太郎に戻って農業に精を出し、父上を安心させたい」。と語り、帰郷の意思があることを表明した。そして家を離れ、俳諧師として浮草のような生活を続けていることについて反省を述べている。農民の子として生まれながら、汗して田畑を耕すことなく生きていくことに対する罪悪感は、一茶の脳裏を一生離れることが無かった。このような一茶の姿を見た父は、一茶と弟、仙六とで財産を均分するよう指示した遺言状をしたため、一茶に手渡したと考えられている。
父の病状は次第に重くなり、5月20日(1801年6月30日)には危篤状態となった。危篤状態の父の姿を一茶は
   寝すがたの蠅追ふもけふが限りかな
と、父の寝ている姿を前に、蠅を追うのも今日限りだろうと詠んだ。
父は5月21日(1801年7月1日)の明け方に亡くなった。父の葬儀を終え、初七日に一茶は継母、弟に対して遺産問題について談判した。一茶の手には父、直筆の遺言状があった。小林家の本家である弥市の仲介もあって、口約束ではあったが遺産を均分して相続することについて継母と弟に承諾させることに成功した。しかし一茶はこの時、具体的な遺産の分割についてまでは踏み込まなかった。俳諧師として江戸で成功したいとの野心にあふれていた一茶は、遺産の分割を行って土地持ちとなり、故郷柏原に落ち着く気持ちにはまだなれなかった。
   父ありてあけぼの見たし青田原
と、父の終焉日記を締めくくった一茶は、江戸へと戻っていった。
享和元年の父の死によって一茶は最も信頼できる身内を失った。父の死後継母、弟の仙六と、足かけ13年にも及ぶ骨肉の遺産争いを続けることになる。また父の死という精神面、生活面での大きな変化が一種の引き金となって、一茶は享和年間以降自らの個性を伸ばしていき、「一茶調」と呼ばれるようになる独自の俳風を歩みだすようになった。
江戸暮らしの日々​
   下町での生活​
安永6年(1777年)春、15歳の時に江戸に奉公に出て以降、俳諧修行の旅以外は一茶は江戸住まいを続けていた。享和3年(1803年)以降、一茶が江戸のどこに住んでいたか、ある程度判明している。享和3年、一茶は本所五ッ目大島愛宕山(江東区大島5丁目)に住んでいた。愛宕山とは真言宗の愛宕山勝智院のことで、住職が葛飾派の俳人であった関係で、一茶は勝智院に間借りしていたと考えられる。なお、その後勝智院は千葉県佐倉市に移っており、勝智院のあった場所は大島稲荷神社となっている。
しかし愛宕山での生活は長くは続かなかった。文化元年(1804年)4月、葛飾派の俳人であった住職が亡くなった。後任の住職の下で一茶は間借りを続けることは出来なくなり、両国の近くの本所相生町5丁目(墨田区緑町1丁目)に引っ越した。この相生町5丁目の家は間借りではなく、小さいながらも一軒家であり、庭には梅や竹が植えられていて、垣根には季節になると朝顔が育った。家財道具一式を親交深い流山の秋元双樹がプレゼントしてくれており、これまでよりも暮しに落ち着きが出来た一茶のもとには、俳人の来訪者が増えた。この相生町5丁目の家は、一茶が遺産相続問題に本腰になって取り組んだ文化5年(1808年)、200日以上という長期間、留守にしていたために他人に貸し出されてしまうまでの約4年間、生活した。
この頃、一茶が詠んだ俳句の中には江戸の下町暮らしを髣髴とさせるものがある。
文化元年(1804年)の作である、梅の季節、誰が訪ねて来ても欠けた茶碗でもてなすしかないと、貧乏で孤独なわび住まいを詠んだ
   梅が香やどなたが来ても欠茶碗
や、文化3年(1807年)の作で、今年もまた役立たずの邪魔者(娑婆塞)なのだと、己と草ぼうぼうの自らの家を自嘲した
   又ことし娑婆塞(しゃばふさぎ)ぞよ草の家
などが挙げられる。
文化時代前半期、父の死による精神面、生活面での変化に加え、江戸下町での暮らし、そして後述する一茶が所属していた葛飾派の枠を超えた有能な俳人たちとの交流などによって、一茶の俳句は磨かれていった。この時期は一茶独自の俳風である「一茶調」がはっきりとし始める時期であると評価されている。
猛勉強​
一茶の俳諧に対する姿勢のひとつとして、猛勉強が挙げられる。前述のように一茶はまだ駆け出しの頃から、万葉集、古今和歌集といった日本の古典和歌の研鑽に努めていた。その他には源氏物語、土佐日記、梁塵秘抄などといった古典文学そのものと、それらの注釈本。そして古事記、続日本紀、日本三代実録といった六国史、吾妻鑑などといった歴史書を学んだ。文化4年(1804年)、当時、親交を深めつつあった夏目成美は、歴史書から学んだ知識を句にする一茶のことを
   日本記(紀)をひねくり廻す癖ありて
と、皮肉るほどであった。
また一茶は中国の古典も学んだ。一茶が特に関心を持ったのが詩経と易経であった。享和3年(1803年)、一茶は詩経の講義を聴き、その後、詩経を一茶流に翻案した句作に没頭する。一茶は詩経305編中123編を題材として句作を行ったとされている。また詩経は中国最古の詩歌集でありその内容は素朴なものが多い。中国最古の素朴な詩歌集を学ぶ姿勢は、人々の生活の中から生み出される素朴な声に耳を傾けていくことに繋がっていく。
この時期に作った句には、詩経の世界に孤独な己の境遇を投影した
   梅さけど鶯なけどひとりかな
などがある。
易経については西国俳諧修行の旅の最中である寛政7年(1795年)には、すでに学び始めていたことが明らかになっているが、本格的に学んだのはやはり享和年間のことであった。実際に一茶は、故郷柏原出身の唯一の門人とされる二竹の縁談話について、卜占を行った記録が残っている。一茶の卜占は当時市販されていた易についての解説本に頼ること無く、易経の原典そのものから自らが学んだ知識に基づいて行っていたものと考えられている。また一茶は易経についても卦を翻案した句を作っていた。
俳句そのものについても芭蕉や蕪村といった先人以外に、同時代の俳諧師についても全国から夏目成美のところへと寄せられる句をまとめた記録簿を成美から借り受け、一茶の目で優れた句を集めた「随斎筆紀抜書」を作成する。一茶はその後、自らのもとに寄せられた全国からの秀句を追記し続け、最終的には1150名の俳諧師からの4672句を収録するに至った。俳諧以外には井原西鶴の日本永代蔵なども読んでいた。
和歌や俳句、中国の古典、井原西鶴の浮世草子以外にも、一茶は世間で話題になった出来事について実にこまめに日記に残していた。芝居好きの一茶は、しばしば市村座、中村座といった芝居小屋で歌舞伎を楽しんでいた。前述のように一茶が旅をした日本各地の方言を蒐集した「方言雑集」は継続的に書き加えられており、各地の名所、旧跡の訪問記録のメモ書きも丹念に残し続けた。後に一茶は還暦を迎えた文政5年(1822年)に、自らの作風について「夷ぶりの俳諧」、つまり田舎風の俳諧であると宣言している。このように一茶は文芸作品に限定することなく、当時の風俗、地方の風俗文化に至るまで多岐の分野にわたって貪欲に吸収して、句作に生かしていった。
なお一茶の旺盛な学習意欲は最晩年に至るまで衰えることが無かった。61歳の文政6年(1823年)から死の直前に至るまで、一茶は「俳諧寺抄録」名付けた「万葉集」、「古事記」といった古典や漢籍、国学の書物などの抜き書きを作成している。晩年の一茶は比較的体調が良いときに、こつこつと抜き書き作業を行っていたものと考えられている。
国学への傾倒と現実社会の直視​
一茶が生きた18世紀から19世紀にかけての日本は、ロシアのアダム・ラクスマンやニコライ・レザノフが修交を求めて来日するなど、あまり意識されてこなかった対外関係がクローズアップされるようになった。時事問題に耳ざとい一茶は、ラクスマンやレザノフの来日を題材とした俳句を詠んでいる。また、豊富な勉学の中で一茶は本居宣長の玉勝間、古事記伝などを読み、当時広まってきた国学思想に傾倒していく。折からの対外的な緊張の高まりは、一茶に日本びいきの思いを高め、文化4年(1807年)には、
   花おのおの日本魂いさましや
という日本賛美の句を作っている。
このような句は一茶の晩年までしばしばみられ、また晩年の文政7年(1824年)には、仏教や儒教が堕落する中で神道のみ澄んでいると、神道を称える文を書いており、一茶の国学への傾倒、そして日本びいきは生涯変わることはなかった。
しかし一茶は単なる盲目的な愛国者ではなかった。当時の日本は百姓一揆や打ちこわしが多発する社会的不安に満ちた時代であり、客観的に見て手放しで素晴らしさを賛美できるような状況ではなかった。一茶はこのような社会情勢、そして日々の生活に追われ苦しむ人々の姿も直視していた。
   木枯らしや地びたに暮るる辻諷(つじうた)ひ
文化元年(1804年)に詠まれたこの句には、「世路山川ヨリ嶮シ」、世間で生きていく道は山川よりもけわしいとの前書きがつけられている。夕暮れ、木枯らしが吹きすさぶ中、路地で謡いながら日銭を稼ぐ辻諷いの姿を、一茶は低い目線から描き出している。
文化2年(1805年)、一茶は
   霞む日や夕山かげの飴の笛
という俳句を詠む。恵まれない己の境遇や日々の生活に苦しむ人々の姿ばかりではなく、春霞の夕暮れ、山影から飴売りの笛の音が聞こえる情景を詠んだ、まさに童謡の世界を現したかのような句もまた、一茶が描いた世界のひとつである。
俳諧行脚生活​
   房総への俳諧行脚​
江戸住まいの一茶は、俳諧師として行脚することによって生計を立てていた。一茶の巡回俳諧師としての地盤は主として上総、下総、安房といった房総半島方面であった。現存する資料から見ると、一茶の房総行脚は享和3年(1803年)頃から本格化している。房総半島の行脚ルートは、水戸街道、利根川周辺の馬橋、小金、流山、守谷、布川そして佐原や銚子方面まで足を伸ばすコースと、木更津を根拠地として富津、金谷、保田、勝山、そして千倉付近まで足を伸ばす2コースがあった。江戸後期の房総半島は大消費地である江戸に近いという地の利を生かし、商品経済が浸透する中で地場産業が発展し、富農、豪商らが力をつけるようになっていた。中でも木更津や佐原のような地域の中核地は賑わいを見せており、文化に関心を持つ富農、豪商らの手によって文化も発達する。すると江戸近郊の房総には文人墨客が集まるようになっていた。一茶も俳諧を嗜む房総方面の富裕層をターゲットとして、定期的に房総方面を巡回するようになった。
一茶と房総方面の俳人との交流は、一茶が俳諧の道に進むようになった20代の頃に遡る。これは一茶が所属した葛飾派の地盤が、隅田川東岸の葛飾、そして房総方面にあったことに起因している。房総方面には一茶と長い付き合いとなる俳人たちが多かった。その上、前述のように産業が発展し、富裕層を中心として俳諧などの文化が発達した房総では、各地に連、連中、社中と呼ばれた俳諧を嗜むサークルが形成されていた。それらサークルの多くは葛飾派や葛飾派に近い系列に属していたが、他派のサークルもあった。一茶は房総各地の俳諧愛好サークルを葛飾派の枠を超えて巡回するようになった。
本所や両国近くといった江戸の下町住まいであった一茶にとって、房総は比較的近い場所にあった。短い場合では日帰り、長期では2か月程度の期間、房総方面を巡回した。当時、一茶に限らず俳諧師が地方を行脚することはよく行われていた。俳諧師として地方行脚を続ける中で一茶は、かつて東北や西国に俳諧修行の旅に出たように俳諧の腕を磨き、多くの俳人たちにその実力を認めてもらう機会となった。そして定期的な房総方面への俳諧行脚はもうひとつの大きな目的があった。それは生活のためであった。プロの俳諧師として房総各地で俳諧指導、そして俳諧に関する知識、情報を伝授する中で謝礼を貰い、それが一茶の生活の糧となっていたのである。もちろん一茶以外の地方行脚を行う俳諧師にとっても事情は同じであり、生活のための行脚の旅の最中に、いずことも知れずに亡くなる俳諧師も少なくなかった。当時独身であった一茶は生来の旅好きでもあり、歓迎してくれる知己が多かった房総は第二の故郷のような場所であった。しかし一茶にとって、いわば根無し草のような俳諧行脚に頼る生活をいつまでも続けていくことは本意ではなかった。
   夕燕我には翌(あす)のあてはなき
春の夕暮れ、巣へと急ぐ燕たちを見ながら、明日どうなるかの当てがないわが身を振り返るこの句は、一茶が房総方面への俳諧行脚に勤しんでいた頃の文化4年(1807年)の作である。
   一茶園月並の挫折​
当時、プロの俳諧師として収入を得る方法は、地方を行脚して稼ぐ方法と月並句会を行う方法があった。月並句会とは一種の通信教育で、毎月お題を決めて一般から投句を募り、優秀者には景品を授与し、投句者には入選作品を印刷して配布し、投句を添削して返却するという方式で行われていた。月並句会の運営は投句する際に拠出する「入花料」といういわば通信教育料によって賄われていた。一茶は文化元年(1804年)4月から文化2年(1805年)6月までの1年あまりの期間、一茶園月並という月並句会を行っていたことが確認されている。
一茶園月並の参加者の多くは一茶が房総方面で巡回していた俳人たちであった。月並句会の実施には各種の事務作業が伴う。一茶園月並の場合、友人であった祇兵という俳人が手伝っていたものの、一茶自身の事務量も多かったと思われる。一茶にとって一茶園月並の事務は負担であったと思われ、また思うように投稿者が集まらなかったともみられており、結局、運営は上手くいかなかったと考えられている。月並句会の挫折は一茶の生活を経済的に厳しい状況に置き続けることとなり、更に房総方面への俳諧行脚に依存することに繋がった。
   一茶を支えた房総の俳人たち​
房総方面で一茶がしばしば訪れた俳人としては、水戸街道、利根川周辺コースでは馬橋の大川斗囿(おおかわとゆう)、流山の秋元双樹、布川の古田月船、守谷の鶴老などがいた。なお馬橋の大川斗囿は一茶が俳諧の道を志した頃から援助を惜しまなかった大川立砂の子であり、親子二代にわたって一茶と親交を深めていた。斗囿は一茶が江戸を離れ、故郷柏原で生活するようになった後も句の添削指導を仰いでおり、一茶に師事し続けた。流山の秋元双樹は、前述のように一茶の本所相生町5丁目への転居時に家財道具一式をプレゼントしており、下総方面へ一茶が俳諧行脚に出るたびに双樹宅に立ち寄るばかりではなく、双樹もまた江戸へ出るときには一茶を尋ねるのが常であった。
水戸街道、利根川周辺での俳諧行脚時の代表作として、文化元年(1804年)作の
   夕月や流れ残りのきりぎりす
がある。洪水後の利根川、夕暮れになって洪水をしぶとく生き延びたコオロギが、夕暮れの月のもと鳴き始めているという、弱小な生き物でありながらたくましく生き抜く姿を描き出している。これは後年に至るまで一茶の主要テーマの一つとなる題材である。またこの句は、洪水をしぶとく生き残るコオロギに自らを重ね合わせた句でもある。
一方、木更津を拠点とした上総、安房方面では木更津の石川雨十、富津の徳阿、織本花嬌、子盛、金谷の砂明、勝山の醍醐宜明らがいた。中でも注目されるのが女流俳人の富津の織本花嬌である。花嬌は酒造業と金融業を営む豪商、織本嘉右衛門永祥の妻であり、夫婦そろって俳諧を趣味としていた。織本夫婦と一茶との付き合いは寛政年間からあったが、寛政6年(1794年)に夫を亡くした後も一茶との関係は続き、木更津方面へ一茶が俳諧行脚する際にはしばしば花嬌宅に立ち寄り、また花嬌は一茶園月並の投稿常連者でもあった。
花嬌は一茶の俳諧師としての才能を評価して師事していたと考えられる。花嬌本人も俳句の才能があり、一茶園月並でも高い評価がなされていることが確認されていて、一茶らと詠んだ連句からも才能の高さが感じられる。一茶と花嬌との間には恋愛関係があったのではとの説もあるが、花嬌は一茶よりもかなり年長であったと推定され、また夫を亡くした後の花嬌は出家していることが確認されていることもあり、一茶との恋愛関係は成立しがたいとの説が有力である。
文化7年(1810年)4月、花嬌は亡くなった。一茶は花嬌没後の百カ日法要に駆け付け、文化9年(1812年)4月の花嬌の命日に行われた三回忌にも遺族の要請もあって出席している。三回忌出席のために富津へ向かう途上、一茶は
   亡き母や海見る度に見る度に
という句を詠んだ。このことから一茶が花嬌に対して抱いたのは、幼い日に亡くした母の面影であったとの説もある。
夏目成美、鈴木道彦らとの交流​
享和年間から文化年間にかけて一茶はこれまで所属してきた葛飾派よりも、当時著名な俳人であった夏目成美、鈴木道彦、建部巣兆、閑斎らとの交流が深まっていった。中でも夏目成美との関係は深く、事実上成美グループに所属するようになった。夏目成美は蔵前で札差を営む井筒屋の主人であったが、寛政12年(1800年)に家業を息子に譲って隠居した後は、趣味である俳諧に没頭していた。もともとが札差の主人であったため成美は裕福で、俳句の作風も清新かつ都会的であった。貧しい生活で句風も田舎風であった一茶とは対照的であったが、成美は境遇も俳句の作風も全く異なる一茶に目をかけるようになり、享和年間末期から親交が深まり、経済的にも俳壇においても一茶を支援していった。
一茶は成美宅にしばしば長逗留し、家事の手伝いなどをしている。また一茶は毎月七のつく日(七日、十七日、二十七日)に開催していた成美主催の句会の常連出席者であった。一茶は成美グループの中で単に句会に出席するばかりではなく、様々な情報交換、そして成美が主宰する狂言などの芸能鑑賞や花見に参加した。また成美グループの一瓢らとも一茶は交流を深めていった。一瓢は日蓮宗の僧侶で日暮里の本行寺の住職を務めており、作風が似ていたこともあって一茶と大変に気が合い、長く交際を続けることになった。一瓢は一茶の死後に故人を偲び、自ら木像を刻み供養したほどであった。
またこの頃の一茶と親密で、一茶を庇護した俳人に其翠楼松井がいた。松井は葛飾派の俳人であり一茶の兄弟子格であった。本職は商人であり、一茶とは文化年間から急速に親密になっていた。一茶は松井の家に半ば入りびたるようになり、最も多い文化8年(1811年)には年間127日、約3分の1は松井宅に滞在している。一茶は夏目成美ら他の俳人以上に其翠楼松井と親密であったと考えられるが、文化10年(1813年)5月、松井は没する。しかしその後も一茶と松井の遺族との交流は続いた。
其翠楼松井という例外もあったが、成美グループに深入りし、また鈴木道彦、閑斎ら、当時の有力俳人との交流の中でめきめきと実力をつけてきた一茶は、ますます葛飾派とは疎遠になっていった。葛飾派の書物である「葛飾蕉門分脈系図」によれば、「文化年中一派の規矩を過つによって、白芹翁永く風交を絶す」と、一茶は文化年間に葛飾派総帥の白芹によって葛飾派を破門となったとされているが、現存している資料から見ると文化2年(1805年)を最後に一茶は葛飾派の句会に出席しなくなったが、一茶と葛飾派との関係は続いており、問題の白芹ともお互いが編集した句集に句を採用していることからも、葛飾派からの破門という事態は想像しがたいとされている。ただし前述のように一茶と葛飾派との関係は徐々に疎遠となっていくことは認められる。これは一茶にとって葛飾派の作風が物足りなくなり、また閉鎖的な葛飾派の体制に飽き足らなくなっていったためと考えられている。こうして一茶は葛飾派から離れていき、やがて自らの俳風を確立していく。
一茶には俳人以外の友人もいた。特に親しかったのは柳沢耕舜であった。耕舜はもと武士であったが、故あって浪人となり、一茶の近所の江戸の下町に住み、寺子屋を開いて生活をしていた。一茶との付き合いは10年以上に及び、ちょくちょくお互いの家を行き来しては様々な話をして過ごした。しかし耕舜は文化4年(1807年)4月に亡くなった。親友の死に一茶は大層落胆し、耕舜先生挽歌を作り親友を弔った。
帰郷への執念​
享和元年(1801年)、一茶の父、弥五兵衛は死を前に遺産を一茶と弟で均分相続するよう遺言した。父の死後、一茶は継母と弟に口約束ではあるが、遺産の均分相続を認めさせて江戸へと戻った。一茶は父の死後、柏原宿の伝馬屋敷内の家に課されていた伝馬役金一分を毎年柏原宿問屋に納めており、父の財産相続の権利を確保していた。つまり一茶としては父の死の直後から、機を見て具体的な遺産分割について継母と弟相手に交渉する意志を持ち続けていたことは間違いない。
文化4年(1807年)以降、一茶は父の遺産相続問題に本腰を入れて取り組むようになった。父の死後約6年間手つかずであった遺産相続問題であったが、なぜこの時期になって一茶が本腰を入れるようになったかについては、いくつかの理由が考えられている。まず考えられるのが自身の老いへの自覚である。一茶は文化年間には40代となり、これまで頑健であった体に老いが忍び寄ってきたことを感じるようになってきた。一茶の場合、特に歯が悪かった。40代後半までにはほとんどの歯を失い、文化8年(1811年)、49歳にしてすべての歯を失ってしまった。一茶は歯槽膿漏であったと考えられており、それが比較的早期に歯を失った原因と考えられている。また、一茶は北信濃から江戸に出てきた人物であり、本心から江戸での生活に馴染むことが出来なかったとも見られている。40代を迎えた一茶は、次第に忍び寄ってくる老いの影の中、故郷への思いを募らせていった。
また一茶にとって、父の遺産を相続をすることは生活をしていくために切実な問題であった。当時著名な俳人は多くは、きちんとした定職や財産を持ち、俳諧は趣味で行っていた。例えば一茶と最も親しく交際していた夏目成美は札差、井筒屋の隠居で富裕であったし、鈴木道彦は仙台藩の藩医を務めたこともある医師で、俳諧をしながら医師業も続けていたと考えられている。文字通り俳諧一本で生活しなければならなかった一茶とは経済状態に格段の差があった。しかも一茶園月並の挫折によって、俳諧師として一大結社のリーダーとなる道も閉ざされていた。
そもそも一茶駆け出し時代の俳諧の師であった二六庵竹阿は、俳諧に没頭するあまり家族や故郷を捨て、諸国を放浪しながら生活していくことを厳しく戒めていた。竹阿は
   人恒の産なき者は恒の心なし
つまり、人というものは真っ当な生活の上に真っ当な心が宿るものであると教えたのである。実際、竹阿に従って俳諧の旅を続けようとした若者に対し、俳諧の基本はあくまで世法に基づくものであり、俳諧修行の旅を続けるよりも、まずはきちんとした職に就き、父母への孝養を怠らず、その上で俳諧に取り組むように諭している。また諸国を放浪しながら俳諧修行を行う俳諧師は真の俳諧師ではなく、そのような俳諧師は真の風雅ではなく、ただ風雅を切り売りしているにすぎず、竹阿自身もそのような過ちを犯してきたと告白している。一茶は師、竹阿の教えに大きな影響を受けた。一茶は
おのれ、人には常の産となすべきことも知らず、人の情にて永らふるは、物言はぬ畜類に恥づかしき境界なりけり
と、真っ当な生活を送らずに人の情けでようやく生きている現状を厳しく反省していた。一茶にとってみれば遺産の獲得は、師、竹阿の教えにもある、真っ当な生活を行うための戦いでもあった。
   難航する遺産分割交渉​
一茶は文化4年(1807年)7月、亡父の七回忌の法要に参列するために帰郷した。その際、弟との遺産分割交渉を行ったものの不調に終わった。口約束であるとはいえ遺産の均分相続に合意済みではあったものの、実際問題として長年故郷を離れた一茶と、継母と弟の努力もあって増やした財産を二分する話においそれと応じることは出来なかった。故郷では実家で過ごしたものの、遺産問題で対立する継母や弟と顔を突き合わせる生活が居心地が良いはずもない。
   寝にくくても生まれ在所の草の花
ぎすぎすした実家の雰囲気ではあるが、やはり生まれ故郷以外に寄るべき場所がない一茶の辛さ、やるせなさとともに、故郷への思いを現した句である。
一茶は10月初旬に江戸の自宅へ戻ったが、自宅にはわずか数日居ただけで例によって下総方面に俳諧行脚の旅に出て、月末にはそのまま再び故郷へと向かい、11月初旬に弟との遺産分割の話し合いに臨んだ。しかしこの時の交渉もまた不調に終わった。不調に終わった交渉終了後、一茶は帰途、旧知の毛野(現・長野県飯綱町赤塩)の滝沢可候宅にて
   心からしなの(信濃)の雪に降られけり
と、降り続ける雪に己の憂鬱な思いを投影した句を詠んだ。
   柏原の有力者との関係作り​
一茶が継母、弟との遺産相続問題に取り組むようになった頃、故郷の柏原は宿場としての死活問題に直面していた。柏原は北国街道の宿場町であったが、北国街道の東隣には川東道という街道があった。当時、荷物は基本的に正規の街道を使用して輸送するというルールがあったが、北国街道を使った荷物輸送は宿場ごとの荷の引継ぎが必要で、時間をロスしてしまい何よりも手数料が嵩んでしまう。そこで川東道を使った荷物輸送が多くなってきたのであるが、荷扱いの減少に見舞われた北国街道の宿場町にとっては死活問題となる。結局、文化2年(1805年)閏8月、柏原宿など北国街道の3つの宿場町は江戸道中奉行に川東道を用いた荷物輸送を禁じるように訴えた。一方、川東道を通る荷物輸送で受益者となる17村が3宿の訴えに受けて立つことになり、訴訟は評定所吟味扱いとなって文化10年(1813年)までかかる長期訴訟が始まった。
評定所での裁判は、訴訟期間中、柏原宿の関係者は頻繁に江戸と柏原の往復を余儀なくされ、また裁判のために責任者は江戸詰めにならざるを得なくなる。訴訟関係文書の作成などの訴訟費用や関係者が宿泊する公事宿への宿泊費など多額の費用が必要であったが、宿場としては負けられない訴訟であった。江戸住まいの一茶は江戸詰めの柏原宿関係者のサポートを行い、故郷の大事のために一肌脱ぐことになる。現実問題として江戸で訴訟対応を行う柏原宿の関係者は、柏原の有力者たちであった。一茶は宿場町の存亡がかかる訴訟という機会を捉え、柏原の有力者とのコネクションを構築し、遺産相続問題を自らの有利に運ぶようにもくろんだのである。
文化5年(1808年)2月、一茶の弟の仙六は、菓子を土産に一茶宅を訪ねた。訪問の用件は一茶を祖母の33回忌に招待することであったと見られるが、江戸へ来たのは裁判の手伝いのためだったと考えられる。このように弟仙六まで江戸に駆り出される裁判であったが、3月には事実上の3宿敗訴の判決が下された。しかし文字通り宿場としての存亡がかかっていた柏原宿など3宿は、まもなく追訴を行うことになる。
   一茶社中の結成​
一茶は弟との遺産分割の交渉の傍ら、一茶は着々と帰郷に向けての足掛かりを作りだしていた。首尾よく弟との遺産分割交渉が妥結して、父の遺産の半分を入手したところで、そのままでは単に父や弟と同じく柏原で農民として生活していくより他ない。俳諧師としてやっていくためには一茶の故郷の北信濃で俳諧結社、一茶社中を結成しなければならない。ある程度の規模の一茶社中があれば経済的な生活基盤にもなる。帰郷に向けての遺産分割交渉と並行して、一茶は北信濃での俳諧師としての活動と経済的基盤の確保を考え、用意周到に自らの俳諧結社を作り上げていく。
   信濃での俳諧の隆盛​
一茶は帰郷を見据えて北信濃の俳諧結社の師匠となるために努力をしていった。それにはまず北信濃の地に俳諧結社が成り立つだけの俳諧愛好者がいることが不可欠である。信濃では18世紀に入ると俳諧が盛んになってきた。享保年間以降、有力商人や僧侶などと関西方面の文人との間に俳諧を通じた交流が始まり、次第に農村地帯の豪農、商人層にまで広がっていった。
18世紀末、信濃の農村に大きな変化が訪れていた。これまでの米作り中心の農業から養蚕、綿、タバコなどといった換金作物栽培の急速な発展である。中でも養蚕業の発展は目覚ましかった。養蚕の発展は必然的に製糸業の発展を伴い、養蚕や製糸業に投資して巨利を得た豪農層は、零細農民の土地を次々と取得して大地主化し、一方、土地を失った農民たちは小作や発展してきた養蚕・製糸業などに雇われて生計を維持するようになった。信濃での養蚕・製糸業の発展は地域経済の活性化を伴ったので、時流に乗った豊かな農民、商人が増える一方で、土地を失った貧農層も増大し、社会格差が拡大していた。豊かな農民、商人たちの中には学芸への関心が高まっており、俳諧の社中も信濃の各地で結成されるようになっていた。一茶が故郷信濃で結成した俳諧結社、一茶社中の門弟の主力は、時流に乗ったいわば勝ち組の農民、商人たちであった。
一茶以前に北信濃の地に充実した俳諧結社を組織していた人物に、戸谷猿左(えんざ)、宮本虎杖の名が挙げられる。猿左は一茶よりも40歳近く年長であり、善光寺を中心とした長野市、須坂市付近を中核として、一茶の故郷の信濃町付近、そして上田市から佐久市付近まで門人を広げ、没する享和元年(1801年)まで、つまり一茶が郷里信濃で活躍するようになる以前に一大俳諧結社を組織していた。一方、宮本虎杖は旧更級郡、埴科郡から佐久方面に広がる俳諧結社を組織していた。虎杖は天明4年(1784年)に独立した俳諧師として北信濃で活躍を始め、長野市以北の地を主な地盤とした猿左のライバルとして、充実した俳諧結社を組織した。虎杖は自派の勢力拡張に熱心であった。享和元年(1801年)に猿左が亡くなると弟子の宮沢武曰を長野市内を拠点に俳諧師匠として活動させ、文化9年(1812年)には、自らの後継者としてかつての門人であり、大磯の鴫立庵にいた倉田葛三を呼び戻した。
文化9年(1812年)、大磯の鴫立庵から倉田葛三が、そして一茶が江戸から戻り、ともに俳諧師匠として北信濃の地で活躍を始める背景には、当時の北信濃は一種の俳諧ブームのような状況下にあったことが挙げられる。俳諧ブームの中、北信濃では本格的な俳諧を学びたいという人たちが増えていた。鴫立庵にて俳諧の研鑽を深めていた倉田葛三、そして江戸を始め各地で本格的に俳諧を学んできた一茶は、ともに北信濃の俳諧愛好者たちに嘱望された人材であった。
   北信濃の俳人との交際​
一茶は俳諧師として活動を始めた比較的初期から、故郷、北信濃の俳人との交流を始めていた。享和元年(1801年)の父の死去以前、一茶は寛政3年(1791年)、寛政10年(1798年)の帰郷が確認されている。この時期に交際している俳人は、故郷柏原の中村平湖とその子の二竹、野尻の石田湖光、そして飯綱町赤塩毛野の滝沢可候らの名前が挙げられる。ともに柏原やその周辺に住み、また石田湖光・滝沢可候とも中村平湖の親族であり、平湖が一茶に紹介したものと考えられている。
中でも石田湖光、滝沢可候は、後に結成されていく一茶社中でも活躍していく。つまり北信濃における一茶の門弟の草分けとなる人たちであるが、まだこの時期に故郷に本格的な俳諧結社を組織するためのしっかりとした計画があったとは考えにくい。享和元年の帰郷は一茶社中結成に向けて動き始めるためであったとの説もあるが、北信濃に俳諧結社を組織するために本腰を入れ始めるのは、父の死後のことであった。
   社中結成の開始​
一茶は弟との遺産分割交渉に本腰を入れだした文化4年(1807年)7月時の帰郷以降、遺産相続問題交渉と並行して北信濃に自らの社中を作り上げるべく奔走し始めた。この時の帰郷では、旧知の毛野の滝沢可候、野尻の石田湖光をしばしば訪れ、浅野(長野市豊野地区)や六川(小布施町)の俳諧愛好者たちとの関係を作った。浅野、六川ともに後に一茶社中の拠点となっていく。
文化4年11月の第二回遺産相続交渉の帰郷時には、柏原にはわずか4日しか滞在せず、その一方で毛野の滝沢可候宅にも4泊している。このように一茶は実家に住む継母、弟とは遺産相続問題を巡って厳しい交渉を重ねつつも、一方では着々と北信濃の俳諧愛好者との関係を深め、自らの社中を結成して帰郷へ向けての足掛かりを作っていった。
遺産分割交渉妥結と更に続く対立​
   取極一札之事の取り交わし​
文化5年6月25日(1808年7月18日)、一茶は江戸を発って帰郷への途についた。文化5年の帰郷の目的は表向き祖母の33回忌参列であったが、実際は弟との遺産相続問題の解決、そして帰郷に向けてのコネクション作りであった。この時の帰郷時、一茶はまっすぐに柏原に向かわず榛名山、草津温泉に立ち寄った。草津温泉では旧知の俳人と再会して約約1か月滞在し、故郷柏原に到着したのは7月初めになった。
7月9日(1808年8月30日)に祖母の33回忌法要が執り行われ、その後、一茶は弟との間で遺産分割交渉に本格的に取り組んだ。結局、11月になって弟弥兵衛(仙六)、弥太郎(一茶)そして本家の弥七の連名による「取極一札之事」が、村役人に提出された。遺産相続問題にようやくひとつの解決がついたのである。
「取極一札之事」では、親(弥五兵衛)の遺言に基づき、一茶に約3.64石の田畑、あとは山林3か所、家屋敷半分、世帯道具一式、夜具一式の相続が認められた。そして村役人、親類一同が確認の上、紛失したものが無いことを確認済みであること、更に今後、新たに「遺書」が出てきても当取り決めによる決定内容の変更は無いことが明記されていた。この証文の本文は、筆跡から柏原の名主、中村嘉左衛門の筆によるものと考えられている。このことから一茶と弟、仙六との遺産分割交渉に名主、中村嘉左衛門の介入があったことが明らかとなる。
なお、瀕死の父から貰い、遺産相続に際して絶大な威力を発揮した父の遺書は、示談成立後に名主、中村嘉左衛門が預かることになった。どうやら遺産相続問題の再燃を恐れての措置であったと考えられているが、後年まで一茶はこのことを根に持ち続ける。
実際、一茶と弟仙六との間で、田畑についてどのような分割が行われたかについては、「辰御年貢皆済庭帳」という書類から確認が可能である。これは文化6年(1809年)に作成された、前年である文化5年(1808年)の年貢関連の文書である。これによると一茶との財産分割に合意する以前、弟仙六は9.21石あまりの田畑を所有していたことが判明する。9.21石のうち、まず約0.56石を四郎次という人物に引き渡し、残りの約8.65石について、一茶約3.40石、仙六約5.25石という分割を行っている。「取極一札之事」よりも一茶の取り分が約0.24石少なくなっており、また財産分与も均等ではなく、おおよそ一茶4:仙六6という配分である。実際問題として父が亡くなった直後の享和元年(1801年)の資産は7.09石であり、また一茶が故郷を離れた安永6年(1777年)は3.71石であった。7.09石の半分、そして3.71石は実際に一茶が手に入れた資産に近く、遺産分割の考え方として、父の死去時を起点とした遺産の均等配分であるとともに、また一茶が故郷を離れた時、弟の仙六はまだ幼かったことを考慮してみても、一茶離郷時の資産にあたる部分を一茶に渡すのが合理的という判断がされたと考えられる。
文化6年(1809年)より、一茶はこれまで弟、仙六の家族の一員とされていたものが、柏原の宗門帳に戸主として名を連ねるようになり、また年貢関連の書類にも本百姓として名が載るようになった。弟から分割を受けた田畑については、正確なことはは解らないものの少なくとも一部については母方のいとこである仁之倉の徳左衛門に管理を委託し、収穫から徳左衛門が一茶分の年貢を納めていたと考えられている。徳左衛門は一茶の財産問題に関して後見人的な役割を果たすようになる。一茶が手に入れた田畑は柏原では中の上ランクの自作農の所有地にあたり、一茶としても遺産の分割内容について特段の不満があった様子はない。しかし継母や弟にとってみれば、一茶が故郷に居ない間、自分たちこそがずっと小林家の資産を守り続けてきたのに、一茶が少なからぬ資産を手に入れたことは実情に合わない、不利な内容で和解を強いられたとの思いを抱いたものと考えられている。
一茶と弟、仙六との間の父の遺産を巡る対立は、文化5年(1808年)11月の「取極一札之事」では解決しなかった。最終的な決着は文化10年(1813年)1月の「熟談書附之事」の取り交わしまでもつれ込むことになる。
   社中結成へ向けての奔走​
文化5年(1808年)の帰省時、一茶は弟との遺産分割交渉の傍ら、精力的に北信濃の各地を回り、一茶社中の結成に向けて努力した。一茶はこの時の帰省で、新町(長野市)、長沼(長野市)そして古間(信濃町)に社中を作っていった。新町の上原文路は薬種商であり、文路宅は長野市方面での一茶の定宿となり、また全国各地との書簡のやり取り等も文路のところを通じてやりとりすることが多くなった。また長沼は後に30名近い門人を擁する一茶社中最大の拠点となっていく。
そして文化5年の帰省時、一茶も選者の一人となった俳額が大俣(中野市)の大富神社に掲げられた。この俳額は残っている一茶撰の俳額の中で最古のもので、北信濃の俳句愛好者の中で一茶の名前が知られるようになってきたことを示している。しかし文化5年の段階では一茶社中が結成中途であるため、俳額に掲載された句の作者の中に、一茶の知人、門人はまだ少数にとどまっていた。
俳諧師としての成功と帰郷​
   難航する遺産相続問題​
一茶は文化5年(1808年)12月、200日あまりもの間留守にしていた相生町5丁目の家に戻ってみたところ、留守中に大家は他人に家を貸してしまい、一茶が戻るはずであった家が無くなってしまった。困り果てた一茶はやむを得ず夏目成美を頼り、成美宅で年を越した。翌文化6年(1809年)成美宅で正月を迎えた一茶は、1月8日から立て続けに下総、上総方面に俳諧行脚の旅に出た。3月19日に房総行脚は一段落したものの、今度は4月5日に実家のある柏原へと向かった。この時の帰郷では、一茶はまず柏原へ向かったにも関わらず、前年の遺産分割の結果、居住権を得ていた実家に行こうとはせず、仁之倉のいとこ、徳左衛門の家に泊まった。
その後一茶は精力的に北信濃一帯の俳諧愛好者のところを廻る。もちろん柏原には時々戻ったものの、いとこの徳左衛門宅、実家の隣であった園右衛門の家に泊まり、実家で過ごそうとはしなかった。それどころか5月18日には柏原で借家を借りるほどであった。これは弟との交渉が難航していたからであると考えられる。文化6年の帰郷もかなりの長期間に及んだ、一茶がいつ江戸に戻ったのかははっきりとしないが、9月末まで北信濃にいたことは確認されており、冬には江戸に戻っていた。
   俳諧師としての成功​
一茶はまだ俳諧師として駆け出し時代の寛政年間から、自筆の句帳、句日記を書き続けていた。文化7年(1810年)からは「七番日記」という句日記を付け始め、文政元年(1818年)まで書き続ける。一茶は七番日記から文政2年(1819年)執筆の「おらが春」に至る時期が最も充実した時期であるとされ、一茶独自の境地に達した質、量ともに充実した、「一茶調」と呼ばれる多彩な作品が生み出された。
この時期、ようやく一茶の俳諧師としての名声が上がってきた。文化8年(1811年)に大坂で出された全国の俳諧師の番付では、一茶は番付東方最上段に名前が載っており、江戸俳壇を代表する俳人と目されていた井上成美、鈴木道彦らと肩を並べる高評価であった。同時期に発行されたその他の番付でも一茶の評価はおしなべて高かった。当時、葛飾派と疎遠になりつつあった一茶は、夏目成美らとともに特定の流派には所属せず、いわば独立勢力であった。俳壇の特定流派に属しない一匹狼的な存在ではあったが、一茶の実力は文化中期になって広く知られるようになっていた。
この頃の一茶の俳諧に向かう心構えを現した句に、文化8年(1811年)作の
   月花や四十九年のむだ歩き
がある。芭蕉の劣化コピーとなっていた当時の既成俳句の世界に生きてきたことを、「月花」に囚われ49年間、むだ歩きを続けてきたと自らを振り返った。一茶は俳句というものは一部の隠者がもてあそぶ高尚な言葉遊びの世界であってはならず、誰もが日常の生活の中で生み出される喜怒哀楽を詠まねばならないと主張したのである。またこの句は「四十九年」を「始終苦年」と掛けているという洒落も効かせ、深刻さばかりではなくおかしみを感じさせる作品に仕上げている。
しかしいくら俳諧師としての評価が高まっても、一茶の生活実態は房総方面への俳諧行脚や夏目成美らからの経済的援助が頼りであることに変化は無かった。実際、文化7年(1810年)11月、夏目成美宅に逗留中に金が無くなるという事件が勃発し、一茶は成美の使用人らとともに数日間成美宅からの外出を禁じられ、あれやこれやと調べられた。結局一茶がお金を盗ったという証拠は全く見つからず、無事に解放されたものの、一茶のことを高く評価し、普段は仲が良い俳人であった成美も、いざ金銭問題となると一茶を使用人同様の扱いをする現実に直面し、根無し草のような生活からの脱却を更に強く願うようになったと考えられる。
   最終解決へ向けて​
一茶は文化7年(1810年)、正月早々に家探しをした。結局、柳橋に借家を見つけ、そこにとりあえず落ち着いた。この頃の一茶は北信濃の俳句愛好者のもとの盛んに手紙を出しており、江戸に居ながらにして郷里での俳諧結社の組織化に余念が無かった。3月には夏目成美らとともに一茶が撰者となった俳額が、日滝(須坂市)の蓮生寺に掲げられた。こうして一茶の故郷北信濃での知名度も上がってきた。
文化7年も一茶は5月に帰省している。しかし北信濃では基本的に門人宅を回り、19日に墓参、名主中村嘉左衛門利貞宅への挨拶を済ませた後に実家に行ってみたところが、一茶に白湯一杯すら出そうとしない冷たい態度であったため、そそくさと実家を後にした。結局、
   古郷やよるもさはるも茨(ばら)の花
と、実家近くの旅籠小升屋に泊まらざるを得なかった。これでは遺産問題の交渉など全く進展があろうはずも無く、柏原を後にしてからも北信濃各地の門人宅を回り、6月初めには江戸へと戻った。
一茶は帰郷に向けて難航する実家の継母、弟との交渉、そして北信濃での一茶社中の組織作り以外にも努力を重ねていた。前述のように一茶の故郷、柏原宿は宿場の存亡を賭けた訴訟の真っただ中であった。しかも問題の訴訟は文化5年(1808年)3月にいったん事実上敗訴の判決があり、その後、再審中であった。柏原としてはこれまで以上に訴訟対策に全力投球せざるを得なかった。柏原宿の江戸での訴訟対策の総責任者は、本陣中村六左衛門利賓の兄、四郎兵衛であった。一茶はその四郎兵衛に接近する。
江戸暮らしが長く、また俳諧師として文化面にも精通していた一茶は、訴訟の合間を見て文化8年(1811年)3月、四郎兵衛を植木屋見物に案内する。そして5月にも四郎兵衛と一茶は連れ立って開帳のお参りに出かけている。一方、文化8年には訴訟の関係者と考えられる野尻宿、牟礼宿の関係者も一茶を訪ねている。一茶は江戸在住の北信濃出身者の中でも、名士となりつつあった。
そして遺産問題の経過の中で、一茶の後見人としてサポートするようになったのが、母方のいとこの徳左衛門であった。徳左衛門の宮沢家は仁之倉で一、二を争う有力者であったが、柏原の新田であった仁之倉は本村の柏原と仲が悪かった。仁之倉の有力者、徳左衛門にとってみれば、親族の一茶が柏原で疎外されているのを見て、もともと持っていた柏原に対する反感を刺激させ、遺産問題では一茶に肩入れして後見人の役割を果たすようになったと考えられている。
文化9年(1812年)、一茶は6月と12月の二度、故郷の柏原に向かった。6月の帰省では北信濃でやはり門人宅を精力的に回るとともに、柏原でも主に本陣の中村六左衛門家に宿をとり、本陣が業務多忙の際には旅籠の小升屋、そして仁之倉の徳左衛門宅に宿をとった。この頃には北信濃における一茶社中の体制も整ってきた。そして一茶社中の組織作りとともに、柏原の本陣、小升屋に宿泊しながら、遺産問題の最終解決に向けて奔走したと考えられる。
一方で一茶は柏原の有力者への働きかけを更に進めた。文化9年6月の帰省時、一茶は本陣に8泊している。前述のように本陣の主、中村六左衛門利賓の兄、四郎兵衛は柏原宿にとって極めて大切な訴訟の、江戸における最高責任者である。本陣に泊まった一茶は、中村六左衛門利賓に江戸の訴訟についての情報などを報告している。8月には一茶は江戸に戻るが、江戸では四郎兵衛が公事宿で病に倒れていた。一茶は早速四郎兵衛の看病に当たり、柏原にも四郎兵衛の病気について連絡したものと考えられる。すると8月末には兄の病状を心配した中村六左衛門利賓が、柏原の有力者の一人であった顔役の銀蔵とともに四郎兵衛の見舞いに駆け付けた。幸い四郎兵衛は回復し、大詰めを迎えていた訴訟の陣頭指揮に復帰した。このように一茶は柏原の有力者たち相手に着々と得点を稼いでいた。
一茶社中の体制が整い、柏原の有力者たちのコネクションも出来た、更には仁之倉のいとこ徳左衛門のサポートも期待できる。文化9年11月17日(1812年12月20日)、一茶は今度こそ帰郷するとの固い決意を胸に秘め、満を持して江戸を発ち、故郷柏原へと向かった。
北信濃の宗匠​
   遺産問題の最終解決​
一茶は文化9年11月24日(1812年12月27日)、柏原に戻った。柏原は既に冬、ふるさとは雪に埋もれていた。一茶は永住する覚悟を決めた雪に埋もれた故郷を
   これがまあつひの栖(すみか)か雪五尺
と詠んだ。
一茶は柏原に落ち着くことは無く、北信濃の門人宅を精力的に回り、結局12月24日(1813年1月26日)になって柏原の岡右衛門所有の借家を借りた。なお、一茶の帰郷の決意を見た北信濃の門人からは、布団などの生活用具が贈られた。借家で正月を迎えた一茶は、新年も門人宅巡りを行っていたが、1月19日(1813年2月19日)には父、弥五兵衛の十三回忌の法事に参列した。そして一茶は弟との間の遺産問題について、最終決着を図るべく交渉に臨んだ。
文化5年(1808年)11月の「取極一札之事」を取り交わした後、遺産問題で最大の争点となったのが、享和元年(1801年)の父の死去後、一茶が取得すべき利益を弟、仙六が手に入れていたとする一茶側のクレームであった。一茶側の言い分としては、享和元年(1801年)から「取極一札之事」が取り交わされる前年の文化4年(1807年)までの7年間、本来ならば一茶に引き渡されなければならなかったはずの田畑から仙六は収穫を挙げていたわけで、まずはその分の利益を引き渡すべきと主張した。更に享和元年(1801年)から文化10年(1813年)に至る間、均等に分割することになっていた居宅も、弟、仙六が専有したままであるとして、その間の家賃分の支払いも要求したのである。一茶側の要求金額は合計30両であった。
一茶がいつこの要求を弟の仙六側に伝えたかについてははっきりしていない。まず文化5年(1808年)11月の「取極一札之事」取り交わしの直後から要求していたという説がある。この説によれば「取極一札之事」取り交わし後もなかなか遺産問題が決着せず、最終解決まで時間がかかってしまった事実を説明しやすい。しかしこの一茶側の遺失分利益の引き渡し要求が記録に現れるのは文化10年(1813年)1月の交渉時であり、そのため記録通り文化10年(1813年)1月の交渉時に一茶側が持ち出した条件であるとの説もある。
また、一茶側でこのような要求を持ち出すに至ったのには、一茶のいとこである仁之倉の徳左衛門の差し金があったと考えられている。徳左衛門はこの問題では一茶側に立って動いていた上に、この問題が決着した後、仙六から支払われた11両2分は徳左衛門が預かり、必要に応じて引き出すようになったことからも、やはり黒幕は徳左衛門であると見られている。
1月26日(1813年2月26日)、一茶は問題が解決しなければ翌日には江戸へ向かい、訴えるとの最後通牒を出した。結局、一茶と仙六の菩提寺である明専寺の住職が調停に乗り出した。最終的に一茶の言い分はもっともと認めた上で、30両の支払いでは仙六の家計が成り立たなくなってしまうため、立会人となった柏原の顔役である銀蔵らが詫びを入れる形で、一茶の要求額の半値以下の11両2分支払いで決着することとなり、26日中に「熟談書附之事」が取り交わされた。署名捺印は弥太郎(一茶)、一茶側の徳左衛門、弟弥兵衛(仙六)、弟側の小林本家の弥市、そして立会人の銀蔵の5名が行った。なお、この決着には一茶と親しくなった本陣の中村六左衛門利賓、四郎兵衛兄弟の意向も関与していると考えられる。
一茶が遺失分利益の引き渡しを要求し、減額されたとはいえ11両2分の金を弟から得たことについては、いわばごね得で11両2分を弟からむしり取ったとして、一茶の強欲さ、底意地の悪さを示し、弟は犠牲者であるとの評価が一般的である。一方、享和元年(1801年)の父の死去後、一茶と弟仙六は口約束であるとはいえ遺産の均分相続で合意しており、実際問題、一茶に引き渡されるべき田畑で弟は収穫を挙げ続け、また家屋敷も占有していたわけで、その分の金銭的要求を行うこと自体、不合理なことではなく、また、弟が一茶の不在時に一茶分の田畑や家屋の管理を担い続けてきたことを考慮すると、30両の一茶の要求金額を大幅に減額して和解した「熟談書附之事」の決定内容は、比較的妥当な結論と言えるのではないかとの意見もある。
一茶が弟から得た11両2分は、前述のように後見人に当たるいとこの徳左衛門が全額預かった。徳左衛門は一茶から預かったお金を年利1割2分5厘で貸し付けるという資産運用を行い、一茶は必要に応じて引き出している。そして文化11年2月21日(1814年4月11日)、待望の家屋分割が徳左衛門と銀蔵立ち合いのもと実施された。家屋敷を弟と二分して、半分を一茶が手に入れたのである。なお家屋分割時、一茶は弟仙六に3分の金を支払った上で、土蔵と仏壇を入手した。後に一茶がその生涯を閉じることになる土蔵は、この時一茶所有となった。
北信濃一帯に広がる一茶社中​
   信濃の一茶​
前述のように、一茶は帰郷を見据えて文化4年(1807年)7月時の帰郷以降、北信濃に一茶社中を結成するために奔走していた。文化9年(1812年)末の帰郷を前に、一茶社中はかなりの規模に成長していたが、一茶自身は不安を感じていた面もあった。帰郷直後に江戸の夏目成美には、田舎に引っ込んでしまっては流行に遅れてしまうのではないかと、心配する手紙を送っていた。しかし一茶は江戸帰りの宗匠として北信濃一帯の俳諧愛好者たちから敬意を持って迎えられ、その結果として帰郷後も社中は順調に成長し、やがて一茶の不安も消えていく。
一茶は帰郷後もしばらくの間、江戸や房総方面に出かけていた。文化11年(1814年)8月、一茶は江戸に向かい、その足で下総方面、内房方面まで足を伸ばした。この時の江戸行きの主要目的は、一茶の江戸の俳壇からの引退と故郷、信濃への定住を記念した俳文集、「三韓人」の出版であった。三韓人の序文は夏目成美が執筆し、東国を中心とした一茶の師匠、友人、知己ら242名の句が掲載された。この年、一茶が柏原に戻ったのは年も押しつまった12月25日(1815年2月3日)のことであった。
文化12年(1815年)も一茶は8月末に江戸へ向かった。一茶はやはり江戸の他に上総、下総方面の知己を巡り、やはり年も押しつまった12月28日(1816年1月26日)になって柏原に戻った。翌文化13年(1816年)もまた一茶は江戸に向かう。9月に柏原を出発した一茶は、10月には江戸へ出て、その後下総方面に向かった。ところが11月になって悪性の皮膚病にかかり、下総守谷の西林寺でしばらく療養しなければならなくなった。その後、江戸や上総、下総方面を回り、翌文化14年(1817年)7月になってようやく柏原に戻る。なおこの時の江戸、房総方面行きと時を同じくして、文化13年11月に夏目成美が亡くなり、文化14年2月には一茶と親しかった日暮里の本行寺住職の一瓢が伊豆、三島の妙法華寺に移ってしまい、一茶と特に仲が良かった俳人が江戸から居なくなってしまった。このこともあってか、その後一茶は亡くなるまで江戸、房総方面に行くことは無く、一茶は名実ともに信濃の一茶となった。
   一茶社中の完成​
帰郷、そして文化14年以降は江戸に行くことも無くなり、江戸の一茶から文字通り信濃の一茶となったものの、俳句界の中での一茶の存在感は増すばかりであった。一茶帰郷後の文化年間後期から文政期にかけて、俳人番付での一茶の評価はおしなべて全国トップクラスであり、当時の日本を代表する俳人の一人と評価されていた。一茶の高評価は最晩年に至るまで変わることが無く、信濃の一茶の名は当時の全国俳句愛好者の間では良く知られていた。
一茶の知名度が上がるにつれて、多くの俳句愛好者たちが一茶に会いにやって来るようになった。遠くは東北地方、中国地方からの来訪者がいたことが確認されている。また一茶のもとには各地から揮毫の依頼や俳書の序文の執筆依頼なども送られてきた。
前述のように一茶の帰郷前から北信濃は一種の俳諧ブームといえる状況であった。江戸帰りの宗匠であり、しかも全国的に名声が轟いていた一茶のところには、特に積極的な勧誘を行わなくとも門人が集まるようになっていった。文政年間に入ると、国境を超えて越後の関川(妙高市)にまで門人の輪が広がっていく。なお、越後まで一茶社中が広がった背景には、一茶の初婚の相手である菊が、関川から川を挟んで反対側の信濃の赤川(信濃町)出身であったことも影響している。
一茶社中は地域的に見ると長野市以北の旧水内郡、高井郡と一部越後にかかる地域が勢力範囲で、水内郡北東部の飯山方面や更級郡、埴科郡には勢力が及ばなかった。これはかつて北信濃一帯に広く社中を形成していた戸谷猿左の勢力範囲とほぼ重複しており、一茶はいわば猿左の地盤を引き継いだ形となった。これは更級郡、埴科郡は宮本虎杖系の強固な地盤であったためである。宮本虎杖系と一茶社中とは重複する地域や門人が見られるものの、基本的には両派の勢力範囲は分かれており、特に目立った衝突は無かった。
   社中の地域性と構成​
地域的に見た一茶社中の大きな特徴として、まず一茶が住む柏原には門人がほとんどいなかったことが挙げられる。これは柏原では実弟との財産問題を巡るいざこざ等の影響で、一茶に対する反感があったためと考えられる。また柏原で暮らすようになっても、俳諧師匠として出かけることが多かった一茶は、地元柏原の人たちとの縁が薄かった。一茶自身も地元柏原で門人を得ることに消極的であったと考えられる。
一茶社中の主な拠点としては長沼(長野市)、六川(小布施町)、高山、湯田中などがあった。中でも長沼は元来俳諧が盛んな地であり、一茶社中も20名を超え、優れた門人とされた10名は「長沼十哲」と呼ばれるようになった。
また後述のように一茶社中は北信濃の素封家の集まりで、地域に密着して文化活動を行うといった組織とは異なっていた。他の北信濃の宗匠の中には、親族、隣人を門人として地域密着型の社中を形成していた人物もいたが、一茶社中は北信濃各地に点在する素封家同士を結ぶ、いわば点と線の組織であった。これは地域で生まれ育っていった俳諧組織と江戸帰りで組織を作っていった一茶との違いであると考えられる。
一茶社中の構成員のうち約60名についての身元が判明している。その職業を見ると、豪農、豪商、医師、旅館の経営者、武士といったいわゆる素封家や地域の有力者たちであった。なお、俳号のみが知られ、身元が判明しない門人の多くも豪農であると推測されている。つまり北信濃における一茶の俳諧師匠としての姿は、一面では地域の有力者の家々を羽織を着こなして回る、いわゆる「羽織貴族」の一員であった。
しかし一茶の門人たちである素封家の富は、その他大勢の零細農民の犠牲の上に成り立っていた。当時から一人の成功者の影には20名、30名といった困窮した百姓が生み出されていると、その矛盾を鋭く指摘する声があった。一茶も勝ち組の素封家たちのところを俳諧師匠として巡回しながらも、その陰で零落していった農民たちのことを忘れることはなかった。
   白壁のそしられつつも霞みけり
文政2年(1819年)作のこの句は、勝ち組である素封家の富を象徴する白壁造りの建物を、零落した農民たちが恨み、そしっていることを知ってか知らずか、春霞の中に佇んでいると詠んだ。
   社中の特徴​
一茶は自らの庵号を「俳諧寺」と名乗った。しかし他の宗匠とは異なり、庵中に自らも駆け出し時代に務めた執筆を置くことはなかった。その代わり、宗匠の一茶自身が門人のところへ巡回し、俳諧を教えるというスタイルを取った。これは江戸在住時代に房総方面で行っていた俳諧行脚のいわば延長のようなものであった。一茶にとって庵に門人を集めるよりも門人のところを巡回する方が楽であったと考えられ、また門人たちにとっても気さくで楽天的、そして謙虚な一面もあった一茶を自宅に迎える方が良かった。その結果、一茶が郷里柏原に落ち着いた文化10年(1813年)から文政8年(1825年)までを見ると、文政2年(1819年)を除き、在宅している日よりも外泊の方が多い。前述のように文化14年(1817年)まではしばしば江戸や房総方面まで出かけていたことも考慮に入れなければならないが、一年の多くを北信濃各地の門人巡りに費やしている状況が見て取れる。
一茶社中に入門する際の手続きにも特徴があった。他の俳諧結社は格式を重んじ、入門時の持参品が細かく定められているようなところもあったが、一茶社中の場合、「扇代」の名目で少額の入門料が徴収される程度で、厳しい入門規定は特に無かった。
一茶社中の宗匠である一茶の、門人たちに対する態度にも大きな特徴があった。一茶は前述のように浄土真宗の熱心な信者であった。一茶は自らが信仰する浄土真宗においては、師や弟子という言葉は用いず、阿弥陀如来の本願をともに信じる「御同朋」とか、「御同行」という言葉を用いているという例を引いた上で、俳諧も全く同じで、宗匠の一茶と門人は、俳諧の道をともに歩む者という位置づけをした。つまり一茶社中は上下関係が見られず、よく言えば自由闊達な雰囲気であったと考えられる。その反面、一茶社中は組織化がなされず、門人の間ではしばしば内輪もめが見られるなど、結束力が弱かったという大きな弱点を抱えることになった、このことは一茶の作風が個人的資質に大きく頼ったものであったこととともに、門人たちの中から目立った活躍をした俳人が生まれなかった一因となった。
   一茶の俳諧指導​
一茶の宗匠としての俳諧指導は、まず定例の句会における対面による指導を重んじた。そしてなかなか句会に参加できない門人は、一茶に詠んだ句を送るなどして添削指導を受けた。また集団で詠んだ句を採点する、点取句合という方法を取ったことがあるのも確認されている。なお点取句合の一種として、広く投句を募りその中から優秀作を撰ぶ懸賞句合というシステムがあった。この懸賞句合の撰者は俳諧師としては良い収入になったが、一茶は懸賞句合の仕事には消極的であった。しかしいくつか一茶が撰者となった懸賞句合の掲額が残っていて、その中で文政3年(1820年)、善光寺に掲額された中には、一茶自撰の
   春風や牛にひかれて善光寺
の句がある。
句会による対面指導、添削による指導の他に、当時、多くの俳諧社中では、社中の門人たちが出句料とともに出句を行い、その中から撰ばれた句を紹介する刊行物を定期的に発行していた。これは門人たちの意欲向上と俳諧結社の結束力強化に有効であったが、一茶社中では定期刊行物が出された形跡がない。これは門人数が少なかったこと、一茶には内弟子に当たる執筆がおらず、定期刊行物の編集、出版に携わる人材がいなかったこと、一茶自身が社中の定期刊行物の出版に消極的であったと考えられること、そして門人たちの俳書の制作に傾注していたことが原因として考えられる。
一茶社中では定期刊行物の発行は行われなかった。その代わり、一茶が熱心に取り組んだのが、門人たちの俳書の出版であった。門人たちの中には自力で俳書を出版していた者もいたが、文字通り北信濃の地方出版で素朴なものであった。一茶は門人の俳書出版を強力に後押しし、編集、校正、そして出版の手続きを一手に引き受けた。江戸での俳壇生活が長く、高名な俳人との深い交際を続けていた一茶は、俳書の出版についてのノウハウを持っていた。しかも江戸とのコネクションもあるので、北信濃ではなく技術的にも高い江戸の出版業者からの刊行が可能であった。もちろん相応の手数料は受け取っていたものと考えられるが、本の体裁、校正の内容からも単なる出版の請負いではなく、一茶が門人たちの出版を真剣にサポートしていたことがわかる。これは出句料を一人ひとり徴取する必要がある定期刊行物よりも、諸費用を全部門人が持つ俳書の発行の方が楽な一面があり、また内容が充実した門人の俳書を江戸で出版することは、一茶にとって自ら、そして一茶社中を全国の俳壇にアピールすることにも繋がったためと考えられる。
なお、出版を計画しながらも諸事情で実現しなかった門人の俳書が4つあることが知られている。そして一茶自身の俳書にも生前に出版が叶わなかったものが3つある。生前出版されなかった一茶の俳書の中に俳文集「おらが春」があり、生前、版下までほぼ完成していたことが知られている。なお「おらが春」は没後25年を経た嘉永5年(1852年)にようやく刊行され、その後版を重ね、やがて一茶の代表作として知られるようになった。
また、一茶は門人たちと積極的に「土佐日記」、「方丈記」といった古典籍などの書物の貸し借りを行っており、そして名所見物、書画会などの催しを行っていた。このような俳諧の枠にとどまらない学習交流も一茶の俳諧指導の特徴に挙げられる。
一茶は門人たちに俳諧を詠む心得として、技術論や高尚な芸術論に寄り掛かることなく、あるがままの「心の誠」を詠むように教えた。これは旺盛な経済活動の中、文化が一部の好事家のものばかりでなく、広く大衆のものになりつつあった化政文化の時代、庶民文化の一翼を担う俳諧の役割を重んじた一茶の姿勢によるものであるとともに、何よりも日常生活における喜怒哀楽を詠む一茶の句作に通じるものであった。
一茶の門人たちに対する具体的な指導内容としては、まずは反復練習を勧め、その上で先人たちの句作の模倣を戒め、自らの言葉で詠むように指導した。その一方で無季の句や季重ねの句を注意し、奇異な言語表現を戒めるなど、俳句の決まりごとを忠実に指導するという、極めて常識的な俳諧指導を行っている。一茶自身は自由闊達ともいえる言葉遣い、表現をいわば自家薬籠中のものにして「一茶調」と呼ばれていたが、門人たちには一茶の作風そのものを指導、伝授しようとはせず、むしろ「一茶調」を模倣しようとする門人を制止している。これは事実ではない伝承の話ではあるが、一茶は臨終の床で門人たちに「私の句風を真似るな」と、言い残したと伝えられているほどである。
一茶が自らの作風については門人たちに伝授しようとしなかったのは、まず門人たちの中に一茶の作風をきちんと消化して、自らのものとし得る力量を持った人物が見当たらなかったこと、そして一茶自身の強烈な個性、高い才能、様々な苦闘に満ちた人生と深く結びついた一茶調は、真似しようにも真似ができないものであると判断していたためと考えられる。
帰郷後の一茶​
   結婚​
一茶は文化10年(1813年)1月の遺産問題最終決着後、北信濃各地の門人たちのところを精力的に回っていた。ところが6月初旬から尻にできものが出来てしまった。6月半ば過ぎには悪化して痛みがひどくなって高熱も出て、善光寺町の門人宅で床に臥してしまった。医者に見せ、薬を飲んだり灸をしたりしたものの、なかなか病状は改善しない。一茶が病気で倒れたとの知らせを聞きつけた門人たちが大勢一茶の見舞いに駆け付け、不仲であった弟、仙六も蕎麦を持参して一茶を見舞った。結局一茶は75日間も床に臥した後、ようやく動ける体に戻ったのか、その後も門人宅を回って9月半ばに柏原に戻った。この頃から一茶はしばしば皮膚疾患に悩まされるようになる。一茶は梅毒に罹っており、それが皮膚疾患の原因ではないかとの説もある。一茶自身も自らが梅毒に罹っているのではないかと疑っており、梅毒の医学書を入手しようとした記録が残っている。
前述のように文化11年(1814年)2月、一茶は弟、仙六と家の分割を行った。前年の1月に遺産問題は解決したものの、1年余り家屋の分割を実行していなかった。この時期に分割を行ったのは、一茶の結婚が本決まりになり、自宅が必要になったからと考えられている。
   雪とけて村いっぱいの子どもかな
雪解けの喜び、開放感をストレートに詠んだこの句は、一茶52歳にして結婚を目前に控えた、文化11年早春の作である。
文化11年4月11日(1814年5月30日)、一茶は結婚した。結婚相手は野尻宿の新田赤川(信濃町)の常田久右衛門の娘、菊。菊は28歳であり、一茶とは親子ほど年が離れた夫婦であった。仲人は仁之倉の宮沢徳左衛門、一茶に菊を紹介したのも徳左衛門であったと見られている。常田家は宮沢家の親戚筋に当たり、米の取引も行う新田赤川では有力な農家であった。結婚後、一茶と菊は仲人宮沢徳左衛門への挨拶、新婚後の里帰り、村役人への挨拶、そしてご近所への挨拶回りをきちんとこなした。
一茶と妻の菊との仲は、時には夫婦喧嘩をしたこともあったが良好であった。また菊は、柏原の住人たちに不義理にしがちな夫、一茶と違って近所付き合いもきちんとこなした。そして田畑を耕そうとしない一茶と違って農作業に精を出し、何よりもこれまで確執があった隣の弟、仙六のところや、仲人の徳左衛門のところにも農繁期は手伝いに出た。一茶と犬猿の仲であった継母にもきちんと仕えている。
   わが菊や形(なり)にもふりにもかまはずに
は、一茶が妻、菊のことを詠んだ句であると言われている。
弟との遺産問題は無事解決し、妻も迎えた一茶は、これまでは節制していた酒も時々深酒をするようになり、飲酒をする機会も増えた。文化12年(1815年)12月、江戸に出ていた一茶は友人宅で大酒し、夜中に板の間に放尿してしまった。一茶自身も生まれて初めての失敗としており、この頃から生活に緊張感が見られなくなってきた。しかし一茶は安定した生活に安住することは叶わなかった。
   相次ぐ子どもの夭折と妻の死​
文化13年4月14日(1815年5月10日)、妻、菊は長男千太郎を出産する。しかし千太郎は生後わずか28日で亡くなってしまった。あっという間に亡くなってしまったこともあってか、一茶は千太郎の死に関しては大きなショックを受けた形跡はない。しかし菊は3男1女を儲けるも、皆、満2歳を迎えることなく夭折する。遺産問題の解決、結婚によって一茶の生活にかつてのような緊張感が無くなり、一茶の俳句もやや弛緩しかけていたが、この相次ぐ子どもの夭折に代表される家庭的不幸は、結果として一茶の作品に最後まで張りを持たせ続けることに繋がった。
一茶は長男、千太郎を失った後の8月には、七番日記に妻、菊との性交渉の数をしばしば記録している。これは若い妻と結婚した一茶のあせりのようなものの現れではないかとの意見や、子ども欲しさによるものではないかとの説もあるが、あるがままの表現を重んじた一茶らしいエピソードとも言える。いずれにしても日記に記された赤裸々な性生活の記事の内容からは、一茶は精力絶倫であったと考えられている。
文政元年5月4日(1818年6月7日)、妻、菊は女の子を生む。女の子は「賢くなれ」との願いを込め、さとと名付けられた。愛児さとの生と死を主題とした俳文「おらが春」は、一茶渾身の作といってよい内容であり、文字通り代表作とされている。
さとは最初のうちはすくすくと成長する。おらが春ではあどけないさとの姿と、目に入れても痛くない父、一茶自らの親馬鹿ぶり、そして母の菊がおっぱいをあげる姿を丹念に描写し、
   蚤(のみ)の跡かぞへながらも添乳かな
愛児さとが蚤に食われた跡を数えつつお乳をあげている、子をいつくしむ母の姿を詠んだ。
ところがまもなく運命は暗転する。文政2年(1819年)5月末、さとは天然痘に感染する。天然痘自体は6月に入ってかさぶたが落ち、小康状態になったかに見えたが、体調は一向に回復せず、治療を尽くしたにも関わらず6月21日(1819年8月11日)に亡くなってしまった。一茶はおらが春に愛しいわが子を失った親としての嘆きを綴った上で、
   露の世は露の世ながらさりながら
と、愛児さとを失った無念、あきらめきれない悲しみを詠んだ。そしてこの年の夏、
   せみなくやつくづく赤い風車
と、蝉しぐれの中、主を失い、むなしく回り続ける赤い風車を詠んだ。
文政3年10月5日(1820年11月10日)、妻の菊は次男石太郎を生む。石太郎という名は石のように強く長生きして欲しいとの願いを込めて付けた名であった。ところが次男誕生の喜びに浸る間も無く、一茶の身に不幸が襲う。10月16日(1820年11月21日)、外出中に雪道で転倒した一茶は中風を起こし、駕籠で自宅に担ぎ込まれた。一時は言語障害と運動障害を併発し、生まれたばかりのわが子とともに自宅で臥床する状態に陥った。幸いこのときの中風は比較的軽く、症状もある程度改善して認知的な問題は起こらなかった。しかし歩行の不自由さは残ってしまった。
文政4年1月11日(1821年2月13日)、一茶に再び不幸が襲う。生まれて100日経っていない石太郎が、母、菊の背中で窒息死してしまうという事故が起きた。愛児の事故死を受けて一茶は妻のことを激しく罵る文章を残している。確かに石太郎の事故死は菊の過失ではあるが、実は石太郎は生まれながらの虚弱体質だったのではとの推測もされている
   陽炎や目につきまとふわらひ顔
は、一茶が石太郎の死を悼み、詠んだ句である。
文政4年もおしつまった12月29日(1822年1月21日)、一茶は一通の嘆願書を本陣の中村六左衛門利賓に提出した。嘆願の内容は、柏原宿の伝馬屋敷の住民たちの義務とされた伝馬役金に関するものであった。伝馬屋敷に住む者は、前述のように地子免除の特典を受けられる代わりに伝馬役の務めが課せられていた。一茶の時代になると一般的には伝馬役の役儀ではなく伝馬役金を納める形になっていた。一茶も享和元年(1801年)の父の死後、きちんと伝馬役金を納め続けていた。
一茶の嘆願は、自らに課せられた伝馬役金の免除を願い出て、その分を小林家本家の弥市に払わせて欲しいという内容であった。弥市は伝馬役金を納めていないのにも関わらず、祭りの際には桟敷席に座り散財をしているとして、桟敷に座ることが出来ない自分が役金を納め続けているのは不合理であると申し立て、更に中風で体も不自由となり、外出時には駕籠代が嵩み、その上子どもの誕生、死去が重なったこともあって生活に困っていると訴えた。
実際問題として弥市が伝馬役金を納めていなかったとは考えにくく、一茶は遺産問題で弟、仙六側についた本家の弥市のことを根に持っていたことがこの嘆願書が出された原因のひとつと考えられている。また嘆願書の中に記されているように、柏原では鎮守の諏訪社の祭礼時に桟敷が設けられたが、有力者は桟敷に上がって祭礼を見物し、その他一般の見物客は立ち見であった。弥市は桟敷席であり、また遺産分割後も新たな資産獲得に努めていた弟、仙六も桟敷に座るようになっていた。一茶は弥市、仙六が桟敷席であるのにも関わらず、自分が立ち見であることに劣等感を募らせていた。嘆願書には本家や弟の後塵を拝し、不遇な己を嘆く卑屈な心象も垣間見える。
過失があったのは事実であるとしても、妻を激しく罵倒する文章を書いたり、自らの困窮を理由に伝馬役金の免除を願い出る嘆願書に、本家の弥市を引き合いに出して中傷するような内容を記すなど、一茶には利己主義的な面が強く、また激情に駆られると抑えが効かなくなることがあるのは否めない。前述のように柏原宿の存亡を賭けた訴訟時に一茶は本陣の中村六左衛門利賓らに協力をしており、仲も良かった。そのためある意味気軽に書いてしまったという一面もあるものの、やはり弥市を貶めんとし、卑屈さが感じられる内容の嘆願書は評判が悪く、一茶の人物評価にマイナスとなった。
弟との遺産問題を解決し、妻も迎え、俳諧結社の師匠として北信濃各地に門人を持ち、故郷に安住したかに見えた一茶であったが、故郷に受け入れられたという思いを抱くことは無かった。
   故郷は蠅まで人を刺しにけり
ふるさとでは蠅までも人のことを刺すと、被害者意識丸出して故郷の冷たさを憎む句を詠んでいる。
この頃の一茶の生活実態はどうだったのかというと、裕福とは言えないまでも多少は余裕があった生活だったと考えられる。一茶は自分の田畑から挙げられる収穫の他に、俳諧師匠として北信濃一帯を巡回して得る収入があった。当時、俳諧師匠として得られる収入は多額ではなく、一財産作るほどにはならなかったものの、文政5年(1822年)正月には一日平均5合あまりと酒をかなり消費した記録が残っている。これは一茶宅に来客が多かったことも関係していると見られている。更に文政3年(1820年)から8年(1825年)にかけて6口の無尽に加入したことが確認されており、一茶が没する文政10年(1827年)までに約14両の支出を行っている。14両は少額とは言えない。また一茶の所有している田畑は亡くなるまでほとんど増減が無い。これは少なくとも土地を手放さなければならないほどの困窮状態には陥らなかったことを示している。
文政5年、一茶は60歳となった。60歳を超えた一茶の作品には、旧作と同工異曲なものや、安易な作が目立つようになってきた。しかしこの年の暮に執筆した俳文、「田中河原の記」は、軽妙な文体の中にも北信濃の風情、そして貧しい人々に対する暖かい眼差しが感じられるすぐれた文章で、一茶の文学的な実力自体はまだまだ健在であった。
文政5年3月10日(1822年5月1日)、妻、菊は三男を生んだ。次男石太郎を亡くした父、一茶は生まれた子に石よりも硬くて丈夫であるとして、金を名に冠した金三郎(こんざぶろう)と名付けた。出産後、妻の菊が体調を崩した、産後の肥立ちが良くなかったのである。その後も菊の体調は本調子にはならず、病気がちな日々が続いた。
文政6年(1823年)正月、還暦を迎えた一茶は
   春立や愚の上に又愚に帰る
と、これまでの自らの人生を愚に生きてきたとし、そしてまた愚に帰っていくのだと詠んだ。この句は一茶が深く信仰していた浄土真宗の教えに密接な関わり合いがある。一茶は様々な欲にまみれ、利己主義的で激情の抑えが効かないといった大きな欠点を抱えた人物ではあったが、自らの深い罪業を直視する目も持っていた。愚に生きることの告白ともいえる句は、自らを愚禿と称した宗祖親鸞が唱えた、「悲しいときは泣き、嬉しいときは喜び、そして苦しいときは苦しんで生きられる、絶対安心の境地」である「自然法爾」を表現したと言われている。
2月19日(1823年3月31日)、妻の菊が病に倒れた。病名は痛風であったと伝えられている。病状は一時改善するものの、3月に入ると悪化し、医師の診察を受けたり様々な薬を飲んでみたにも関わらず、病状は悪化していった。菊の病状が悪化すると、俳諧師として門人宅回りを欠かすことが出来ない一茶では子どもの世話を行うことがままならないため、やむを得ず知人宅に預けることにした。そして妻の菊も実家に帰って療養することになった。一茶は夫としてしばしば妻の見舞いに行ったが、病状は悪化するばかりで結局5月12日(1823年6月20日)、37歳で亡くなった。
妻を失った後、一茶は、
   小言いふ相手もあらばけふの月
と、小言を言う相手が居なくなってしまったと嘆く句を作った。
ところで菊の没後、葬儀の際に息子、金三郎が知人宅から戻ってきた。しかし金三郎はすっかりやせこけ、骨と皮ばかりで息も絶え絶えの様子である。一茶は知人が乳が出ないのにも関わらず保育料欲しさに金三郎を預かったとして、例によって知人のことを人面獣心と断罪するなど口を極めて罵った俳文を書く。これもさすがに乳を飲ませなかったとは考えにくく、金三郎自身が虚弱であったのではと考えられる。
結局知人宅から息子金三郎を取り返した一茶は、改めて別の乳母に預けることにした。金三郎は一時容体を取り戻したものの、結局12月21日(1824年1月21日)に亡くなってしまった。文政6年、一茶は妻と息子の2回、葬儀を出すことになってしまった。
菊との間に生まれた一茶の子どもたちが皆、2歳を迎えることなく夭折したのは、一茶が持つ病気の影響があったのではとの説がある。妻の若死についてもあるいは一茶の病気に原因があるのではと言われている。
妻と子を亡くし、一茶は文政7年(1824年)の正月をたった一人で迎えた。
   もともとの一人前(いちにんまえ)ぞ雑煮膳
正月、一人前の雑煮を前に、妻と子を亡くした淋しさの中で、思い返せば江戸生活はずっと一人であったわけで、もともとの独り者に戻ったにすぎないというあきらめの境地を詠んだ。
   再婚の失敗と中風の再発​
9年間連れ添った妻の菊とその間にできた4人の子どもたちを全て亡くし、文政7年の正月を一人で迎え、「もともと自分は独り者であった」との思いを俳句にした一茶であったが、正月早々後添い探しを始めた。一茶は再婚したいとの希望をあちこちに語っていたというが、1月6日(1824年2月5日)には知人である関川(新潟県妙高市)の浄善寺の住職に、急ぎお返事くださいと後妻の紹介を依頼する手紙を送っている。
結果として浄善寺の住職に依頼した再婚相手の紹介話は実らなかったが、意外なところから再婚話が持ち上がってくる。これまで弟との遺産相続問題で弟側に立ったり、伝馬役金の免除問題などがあり、一茶との関係が良くなかったと推測されている本家の弥市が一茶の再婚を支援したのである。4月28日(1824年5月26日)、弥市は自らの娘が重い病の床に就いていたのにも関わらず、一茶の縁談の話をまとめるために飯山に行っている。なお弥市の娘はその後まもなく5月2日(1824年5月29日)に亡くなった。
弥市の娘の葬儀は5月3日(1824年5月30日)に行われた。そのようなあわただしい中、5月12日(1824年6月8日)、再婚相手が飯山からやって来て、待望の再婚を果たした。一茶の日記によると再婚相手は雪という名で、飯山藩士田中氏の娘であり、年齢は38歳と記録している。つまり雪は武士の娘であった。一茶の研究家である小林計一郎、矢羽勝幸の研究によって、雪は飯山藩士田中義条の娘であったと推定されている。
一茶との結婚時、雪が38歳というのは当時の結婚適齢期から見て大きく外れたものであり、それまでの雪の人生が必ずしも恵まれたものではなかったことが推測される。雪は最初父、田中義条と同じ飯山藩士の安田新助という人物と結婚したと考えられるが、離婚して実家に戻っていた。安田との離婚理由は飯山藩士を召し放たれたため、つまり何らかの理由で夫が藩士を首になり、浪人となってしまったからであるとの推測もある。いずれにしても一茶と雪はともに再婚であった。
雪との再婚後、菊との初婚時とは異なり、近所や親戚回り、そして村役人への挨拶が行われた形跡は無い。それどころか新婚の一茶宅には各地から俳人がひっきりなしに訪ねてきた。全国にその名が轟いていた俳諧師一茶のもとには俳人の来訪が絶えなかった。新婚直後の一茶宅にも普段と変わらず客人がやって来たのである。そして5月30日(1824年6月26日)からは一茶は本業ともいうべき北信濃の門人巡りに出る。一茶は6月中は一回も自宅に戻らず、家を出て39日後の7月9日(1824年8月3日)、ようやく家に戻ってきた。結婚後近所、親戚、村役人への挨拶も無く、新婚直後からひっきりなしの来客、そして一月以上の夫、一茶の留守という状況は、新婚直後の妻としては厳しいものがあった。ましてや菊とは異なり武士の娘であった雪にとって、農業の経験もなく、これまでの生活習慣との違い等も大きかった。雪は一茶が自宅に戻った直後、飯山の実家に戻り、結局8月3日(1824年8月26日)に離婚となり、8日(1824年8月31日)には使いが雪の荷物を引き取っていった。こうして一茶の再婚は失敗に終わった。
再婚の失敗直後、一茶に更なる不幸が襲った。離婚から1カ月も経たない閏8月1日(1824年9月23日)、善光寺町の門人宅で中風が再発したのである。一茶は一命はとりとめたものの、はっきりとした言語障害が残ってしまった。中風の再発後、療養を兼ねて北信濃各地の門人宅を回り、12月4日(1825年1月22日)に自宅に戻った。
   衰えない創作力​
初婚の妻、菊との死別、子どもたちの夭折、再婚相手の雪との離婚、2度の中風と、一茶は様々な家庭的、身体的不幸の中で晩年を迎えていた。しかし2度の中風で身体的に不自由となり言語障害にも見舞われたものの、幸いにも知的能力は障害を受けなかった。文政8年(1825年)、63歳の一茶は不自由な体ながら竹駕籠に乗り、204日と年の半分以上、本業である俳諧師匠としての北信濃の門人巡りをこなした。
文政8年に一茶が詠んだ句の代表作として
   けし(芥子)提げてけん嘩(喧嘩)の中を通りけり
   淋しさに飯をくふ也秋の風
などが挙げられる、けし提げての句は金子兜太、淋しさにの句は鷹羽狩行が激賞している。
金子はけし提げての句を、本当の意味での俳諧、一茶の代表作であると評価している。また蕪村の
   葱買て枯木の中を帰りけり
を念頭に作られた句と考え、蕪村の洗練された心象風景に対して、一茶は荒っぽく生臭い心理を演出したとしている。その一方でけし、喧嘩といったカ行の硬質な言葉の繰り返し、喧嘩というぶっきらぼうな言葉使いに一茶らしさが見られるとした。その上で金子はこの句には一茶の若さが感じられると評価する。また阿部完市はこの句に粋な、伊達な姿を見るとともに、芥子を提げて喧嘩の中を、一人でもあり、大衆の一員でもある一茶という人間がふいと通り抜けていく姿を見ている。
一方、鷹羽は淋しさの句には、感傷的な安っぽいものではない、本当の「淋しさ」があると評価している。またこの句には身に染みる凄絶な淋しさとともに、生臭さを感じるという評価もある。一茶の生と性への執念はいまだ涸れ果てていなかった。
ところで一茶家の家事や留守時の管理については仁之倉のいとこ、徳左衛門が支援していたと考えられているが、どうやら手が回りかねるようになったらしく、文政8年12月に一茶は家政婦を雇った。そして翌文政9年(1826年)、64歳の一茶に再再婚の話が持ち上がることになった。
   三度目の結婚と死​
文政8年(1825年)、一茶の近所ではちょっとしたスキャンダルが発生していた。かつて一茶もよく利用していた旅籠の小升屋に奉公をしていた、やをという女性が私生児を生んだのである。やをは越後の二股(妙高市)の裕福な農民、宮下家の娘であったが、柏原の小升屋に奉公に出ていた。そこで近所の柏原有数の名家、中村徳左衛門家の三男の倉次郎と親しくなり、倉吉という男の子を生んだ。出産時、やをは31歳、一方、倉次郎はまだ10代であった。中村徳左衛門家は柏原の本陣、中村六左衛門家の分家であり、当時、柏原一の地主である上に富裕な商人でもあった。その中村徳左衛門家のまだ10代の三男坊と、近くの旅籠に奉公に出ていた30過ぎの女性との間に私生児が出来たわけなので、まさにスキャンダルであった。
周囲はこのスキャンダルをどのように処理すればよいのか、頭を悩ませた。その中で浮上してきたのが一茶の存在であった。64歳の一茶は独り身でありこのままでは絶家になってしまう。しかし一茶はれっきとした自作農で、後継ぎがいれば家の存続は十分可能である。2度の中風を起こしている一茶は体が不自由で、介護が必要である。そのうえ、倉吉は私生児であるとはいえ父は柏原有数の名家、中村徳左衛門家の三男の倉次郎であり、母のやをも越後二股の富裕な農民、宮下家の娘である。前述のように小林家は柏原でも有力な家系であったが、倉吉は一茶の家を継ぐに当たって家系的に問題が無い。このような思惑から一茶とやをの結婚話が進められることになり、文政9年(1826年)8月、仲人役となったいとこの徳左衛門が結納金2朱200文を、やをの実家、越後二股の宮下家に届けた。その後まもなく一茶はやをと3度目の結婚をした。一茶64歳、やを32歳、そして連れ子の倉吉は2歳であった。しかし一茶3回目の結婚生活もわずか1年3カ月しか続かなかった。
文政10年(1827年)、65歳を迎えた一茶は、再再婚を果たし、連れ子であるとはいえ後継ぎの目途も立った。一茶にようやく平穏な晩年が訪れるかに思えた。しかし不幸は最後まで一茶の身に襲いかかる。文政10年閏6月1日(1827年7月24日)、柏原で大火が発生した。出火元は善五郎という人が住む借家であった。火は折からの南風にあおられて燃え広がり、結局柏原宿の8割以上の世帯が焼け出されるという大惨事となった。一茶の家も隣の弟、仙六の家も全焼したが、不幸中の幸いにも一茶所有の土蔵は焼失を免れた。
やむなく一茶の家族は土蔵を仮住まいとする。土蔵は高いところに窓が一つ空いているだけの、昼も薄暗い住居であった。一茶は不自由な体と言語障害を抱え、手先も震えて書字も不自由になっていた。しかし火災後もそれまでと変わらず俳諧師匠としての門人巡りを続けていた。柏原の大火後、ある門人は、一茶の話している言葉が聞き取りにくく、怒りっぽくなっていて困っていると記録している。他の記録からも晩年の一茶は短気で怒りっぽかったと記されている。
火災に焼け出された後の最晩年の一茶の作では
   やけ土のほかりほかりや蚤さはぐ(騒ぐ)
   花の影寝まじ未来が恐ろしき
が良く知られている。焼け土の句は、火事で焼け出された後の焼け土のぬくもりの中、蚤が飛び跳ねる姿を詠んだものであり、加藤楸邨はこの句の「ほかりほかり」という表現は、一茶得意の擬態語を駆使した表現の中でも特に完成度が高いものであるとした上で、この句は一茶が現世における様々な苦闘の末にたどり着いた、現状をありのまま受け止めるほのかな明るさを持つ世界であると評価している。
一方、花の影の句は、詞書に「耕さずして喰ひ、織らずして着るていたらく、今までばちの当たらぬも不思議なり」とあり、花の影では寝ないようにしよう、死後の世界が恐ろしいからと、忍び寄る死の影を感じながら、農民の子として生まれながらも、耕すことなく生涯を終える罪悪感を詠んでいる。
しかし死の影をどこかに感じながらも、一茶は精力的に門人宅を巡回し続け、越後の小千谷の片貝にある観音寺に奉納する俳額の撰を行い、約1万5千句の中から丁寧に選句を行うなど、衰えを感じさせない活動ぶりを見せていた。また9月には徳左衛門に預けていた金から2両1分2朱を引き出して、土蔵の屋根を垂木まで全て取り換える修理を行った。一茶としてはまだまだ死ぬつもりなどなかった。
11月8日(1827年12月25日)、俳諧師匠としての巡回指導を終え、一茶は久しぶりに柏原の土蔵に戻った。11月19日(1828年1月5日)、気分が悪くなって横になった一茶は、その日の夕刻亡くなった。享年65歳であった。一茶の死は急死に近く、辞世は伝わっていない。一茶の遺体は荼毘に付され、遺骨は菩提寺の明専寺裏手にある先祖代々の墓地に合葬された。そして一茶の死去時、妻のやをは一茶の子を身籠っていた。
死後に果たされた家の存続​
一茶が亡くなった翌年の文政11年(1828年)4月、やをは女児を出産した。一茶の死後に生まれた次女はやたと名付けられ、夭折した初婚の菊との間の4人の子どもとは異なり、やたはすくすくと成長していく。小林家では一茶を亡くし、やたが生まれた後、未亡人のやを、実父が中村徳左衛門家の三男倉次郎である倉吉、一茶の娘であるやたの3人で暮らしていた。しかし中村徳左衛門家で倉次郎の2人の兄が相次いで亡くなったため、家を継ぐことになった倉次郎は、天保6年(1835年)には実子の倉吉を引き取った上で善吉と改名させた。その後、善吉は分家して新たに一家を創立する。
結局、小林家は未亡人のやをと、一茶の子のやたの二人となった。無事に成長したやたは嘉永元年(1848年)頃、越後の高田(上越市)で農業を営んでいた丸山仙次郎の8男であった宇吉を婿に取った。小林姓となった宇吉は弥五兵衛と改名し、妻のやたとの間に3男1女の子宝に恵まれた。生前、一茶の念願でもあった家の存続は、一茶の死後に生まれたやたによって、ようやく果たされた形となった。
●風貌、身体的特徴について​
一茶の風貌については、明治32年(1899年)頃から一茶研究を始めた束松露香が、一茶のことを知っているという柏原の古老から聞いたというインタビューが残っている。一茶は文政10年(1827年)に亡くなっているので死後70年以上経過しての情報となり、信憑性に疑問が無いわけではないが、身長はさほど高くなく、体格はやや横太り。顔つきは目が落ちくぼんでいて目じりは切れ長、額が広くて皺が深く刻まれ、頬はふっくらとして頬骨が張っている。鼻は小鼻が大きく、口は大きく唇も厚い。頭や手足は大きく、中でも手の指は太くて節くれだって見えたとしている。
このインタビューの内容は、残されている一茶の肖像画、そして木像と比較的よく一致している。また足が大きかったことは書簡からも明らかになっている。足が大きかった一茶は、雪道で履く藁ぐつが既製品では間に合わず、特注品を使わねばならなかった。一茶は預けておいた雪ぐつが心配になって「私の雪ぐつは特注品の大きなもので、失くしてしまったら作るのに時間がかかってしまうので、きちんと預かっておいて欲しい」と、頼んだ書簡が残っている。
一茶は若い頃は健康に恵まれていた。例えば6年余りに及んだ西国俳諧行脚時、厳しい旅となったことも再三あったにもかかわらず一度も風邪を引かなかったという。また一茶は極めて健脚であった。江戸から故郷柏原まで5泊6日で歩くことが多く、これは一日に10里あまりを踏破する計算となり相当な強行軍である。一茶を含め5人で江戸から柏原へ向かったこともあったが、一茶のみ足が速くて先に行ってしまい、途中であとの4人を待っていたこともあったという。
ただ一茶は歯が悪く、50歳前には全ての歯を失ってしまった。また50歳を過ぎると皮膚病、そして瘧(マラリア)にしばしば罹ったとの記録が残っている。58歳の時に中風に罹る以前、一茶の病気というのは歯、皮膚病、瘧くらいであり、中風に罹る以前の一茶はおおむね健康を保ってきたといえる。
●研究、顕彰史​
小林一茶の研究史については、昭和31年(1956年)に、尾澤喜雄が提唱した時代区分が概ね研究者の間で引き継がれてきている。尾澤が提唱した時代区分を基に、研究史の時期として定着しているのは
一茶没後から明治20年代頃まで
明治20年代頃から大正初期
大正初期から昭和初期
昭和10年代
戦後以降
の5期に区分する見解である。
一茶没後から明治20年代頃まで​
   句碑の建立​
一茶の死後まもなく、故人を顕彰する二つの動きが始まった。句碑の建立と一茶の句集の編纂である。句碑の建立は一茶の門人たちが大きな役割を果たしたのはもちろんであるが、経済面については弟、仙六が一茶の門人、旧友たちに広く費用の寄付を募るなど、大いに尽力した。生前の一茶とは父の遺産問題で激しく対立し、上手くいかなかった間柄であったが、亡兄一茶の句碑建立に向けて地元柏原で先頭に立ったのは仙六だった。
膨大な一茶の俳句の中から、どの句を撰んで碑に刻むかについては、門人たちの中で様々な議論が交わされた、結局撰ばれた句は
   松影に寝てくふ六十よ州かな
であった。この句の松影とは松平氏、すなはち徳川家を暗喩している。つまり松の影、徳川氏のお陰をもって日本全国六十余州は寝て暮らしている、天下泰平を謳歌していると、徳川の平和を称えた句である。この句は一茶にとっての自信作であり、そのことを知っていた門人たちが撰んだと見られている。また句碑に刻む句の決定には、文政10年(1827年)の大火の後、復興に向けて歩みだしていた柏原の事情も関わっていたと考えられる。句碑は北国街道沿いの柏原宿の入口に当たる場所に立てられることになった。大火からの復興の象徴として、徳川家の支配を寿ぐ一茶の句を句碑に刻むことになったのである。
碑の裏面には句の作者である一茶の紹介が漢文で刻まれた。碑文は中野代官大原四郎左衛門の代官付きの役人であった大塚庚作の作であり、表の句と碑文の揮毫も大塚が行った。大塚が深い教養を持ち、人望もあったため、碑文の起草を依頼されたものと考えられている。作成から200年近くが経過し、碑文の一部が摩耗して読めなくなっているが、天保3年(1833年)の紀行文の中で全文が紹介されている。
一茶の句碑は三回忌に当たる文政12年(1829年)、柏原宿の入口に建立されたと考えられている。そして明治9年(1876年)、道路拡張工事に伴い句碑は諏訪社境内に移された。なお、かつては明治11年(1878年)に行われた明治天皇の北陸巡幸に際し、徳川家の支配を寿ぐ碑が街道沿いにあることが問題視され、諏訪社に移されたとの説が唱えられていたが、それは誤りである。
   一茶発句集の刊行​
一茶の没後、遺稿はあまり散逸することなく遺族や門人たちの手に残ったと考えられている。そして14名の有力門人たちは共同で一茶の句集を編纂、出版することになった。句集は「一茶発句集」と名付けられ、文政12年(1829年)、一茶の三回忌に出版された。14名の有力門人たちの中には、かつて激しく対立した門人も含まれていたが、師の追善句集の出版にはかつての行きがかりを捨て、協力した。なお、「一茶発句集」は信濃の地方出版ではあったが、相当部数が出版されたものと考えられている。
しかし一茶晩年の愛弟子であった山岸梅塵は、一茶発句集の編纂、出版に加われなかった。このことを嘆いた梅塵は、独自に「一茶発句集」に撰ばれなかった句から「一茶発句集続編」を完成させる。この「一茶発句集続編」は「一茶発句集」の追補に当たる内容であったが、完成したものの出版はされなかった。
また門人の西原文虎は、一茶が亡くなった文化10年(1827年)に「一茶翁終焉記」を執筆する。門人たちの手による「一茶発句集」、「一茶発句集続編」、「一茶翁終焉記」は、作品や一茶自身についての研究、いわゆる一茶研究の始まりとなった。
   江戸時代における一茶の著作の出版​
「一茶発句集」の出版は、門人たちによる亡き師匠に対する顕彰、追善の意味合いが強かったが、嘉永元年(1848年)、一茶のことを私淑していた今井墨芳の手によって、長野の書肆向栄堂から嘉永版の「一茶発句集」が出版された。当時、没後20年以上も経ってから句集が発行されるのは異例なことであり、一茶に根強い人気があったことがわかる。この嘉永版「一茶発句集」は、その体裁から江戸の版元に依頼して印刷、製本したものと考えられている。また文政12年(1829年)刊行の「一茶発句集」との大きな違いは、今度は営利目的の出版でもあった。嘉永版「一茶発句集」は信濃ばかりではなく江戸でも販売を行い、数種類の版が確認されていることからかなり売れたものと考えられる。
そして嘉永5年(1852年)には「おらが春」が出版される。出版したのは中野の白井一之。白井は一茶の門人、山岸梅塵が所有していた一茶筆の「おらが春」を譲り受け、出版に踏み切った。ところで一茶筆の原本には題名が付いていなかったが、白井が出版する際に、巻頭文に続く句である
   目出度さもちう位也おらが春
から、「おらが春」と命名した。
この白井一芳の「おらが春」の出版は、あくまで私家版であって長野で少部数が流通したに留まったが、初版の「おらが春」には体裁が違うものが確認されており、これは売れ行きが良かったために増刷されたものと考えられている。
「おらが春」初版本の跋文は、俳人の惺庵西馬が執筆した。西馬は
「(一茶の)発句のをかしみは、人々の口碑に残りて世の語り草となるといへどもただに俳諧の皮肉にして、此坊(一茶)の本旨にはあらざるべし。……ざれ言に淋しみを含み、可笑(おかしま)にあはれを尽くして、人情、世態、無常、観想残すところ無し。」と、一茶の作品の本質を的確に表現した。
嘉永7年(1854年)、初版本の版木をそのまま用い、江戸の神田新石町の書肆、須原屋源助が「おらが春」を再刊する。ただし当時は「おらが春」の知名度がほぼ皆無であったため、俳句界では名が通っていた一茶の名を用い、「一茶翁俳諧文集」と題して売り出した。須原屋源助は俳書の専門出版業者では無かったが、売れ行きを見込んで出版に踏み切ったものと考えられている。なお、須原屋源助に「おらが春」を紹介したのは嘉永版「一茶発句集」を出版を手掛けた今井墨芳であったと見られている。
明治中期までの一茶像や評価は、江戸時代に出版された文政版、嘉永版の「一茶発句集」、「おらが春」によって形作られた。中でも一茶の俳文の代表作である「おらが春」は、一茶の名を全国に広める上で大きな役割を果たした。なお、白井一之による「おらが春」の版木は、大正12年(1923年)、関東大震災による火災で焼失するまで発行者、出版社を変えつつ使用され続けた。
なお、没後も一茶の評価は俳句愛好者の中では高いものがあった。それは一茶の書が高値で取引されていたことからも明らかである。没後、一茶は決して埋もれてしまったわけではなく、化政期を代表する俳人としての不動の評価があった。この一茶の高い評価の背景には、江戸期に刊行された文政版、嘉永版の「一茶発句集」、「おらが春」が影響していた。
   弱かった俳句界への影響力​
前述のように一茶自身の知名度は没後も落ちることはなかった。しかし一茶の影響は門人までに止まり、その後は続かなかった。一茶の庵号である「俳諧寺」も跡を継ぐ者は無く、一茶の門人の中から俳諧師となった者もいない。そして一茶の作風を継ぐ門人も居なかった。これは同時期に信濃で活躍した他の俳諧師匠と比較してみても、同時代、そして次以降の世代に及ぼした影響は小さかった。
一茶は当時のマンネリ化した俳壇に反発し、人間の生の声を反映させた句を詠もうとあくなき挑戦を続けた。一茶の挑戦は成功し、読む人に強いインパクトを与える個性的な句を次々と生み出した。しかし一茶の句はその人生や性格に基づく極めて個人的なものであり、当時の俳壇に一茶の句作の手法が広まることはなかった。
一茶と親交が厚かった夏目成美は、「君が句は皆一作あり。予がごときが不才はその所に心至らず。いはば活句といふべし」。と、個性豊かな一茶の句を高く評価していた。また前述の惺庵西馬の「おらが春」跋文のような例もあるが、一般的にはいわゆる奇人、滑稽な句を詠む俳人という評価が中心であり、江戸期においては一茶の作品が正当に評価されていたとは言い難かった。
   明治前期の評価​
一茶の評価については、明治になってからも江戸期と大きく変わらない状態がしばらく続いた。嘉永7年(1854年)に江戸の神田新石町の書肆、須原屋源助によって2刷本が発行された「おらが春」は、版木が再び初版を出した白井一芳の手に戻った。白井は刊記に年号の記載がないため発行時期は明らかではないが、題名を「おらが春」に戻して3刷を発行、発売している。そして明治11年(1878年)、白井一芳が出版、販売は長野の書店主であった西沢喜太郎により4刷本が刊行された。4刷本は基本的にこれまでと同様、嘉永5年(1852年)の初版時の版木をそのまま使用している。4刷本の中には木版の破損によると思われる印刷状態の変化が確認されており、このことから4刷本はかなりの部数、印刷されたと考えられている。このように「おらが春」は、初版の版木を用いて幕末から明治にかけて刷を重ねており、当時の一茶に対する根強い人気が想定される。
「おらが春」ばかりではなく文政版「一茶発句集」も、文政の版木を用いて明治初年から明治36年(1903年)に至るまで、複数回発行された。また、明治中期に至るまで、俳人の短冊の市価においても一茶はやはり高評価を保ち続けていた。明治に入っても一茶は決して忘れ去られた訳ではなかった。
明治前半にはまた、江戸時代の俳人の系譜を継ぐ、いわゆる旧派の俳人たちが一茶を評価、紹介していた。明治16年(1883年)、惺庵西馬の弟子にあたる三森幹雄は、自らが主宰する俳句誌上で一茶を高く評価する。幹雄は更に明治26年(1893年)、自著の中で一茶の評伝を紹介し、その俳風を高く評価した。幹雄の一茶観は師であり、「おらが春」初版本の跋文を執筆した惺庵西馬の影響が大きかったと考えられている。またやはり旧派の俳人であったと考えられている井原亭も、明治19年(1886年)頃に一茶句集の発行を計画し、幕末から明治時代にかけて活躍した俳人である師匠の内海良大に序文を依頼している。実際に一茶句集が発行されたかどうかは不明であり、良大の序文のみが伝えられているが、序文では「一世の秀吟また多し」と、一茶の句に秀作が多いことを指摘していた。このように一茶は近代に入り、まず旧派の俳人たちによって評価が始められていた。
明治20年代頃から大正初期にかけて​
   正岡子規の評価、紹介​
明治25年(1892年)頃から、俳句改革の旗手であった正岡子規が一茶のことを注目し始めたと考えられている。子規が新聞日本紙上で連載していた「獺祭書屋俳話」の中で、一茶について紹介していたことが確認できる。更に子規は明治30年(1897年)刊行の「俳人一茶」の中で、一茶の句の特徴は滑稽、風刺、慈愛の3要素にあるとして、中でも滑稽は一茶の独壇場であり、その軽妙な作風は俳句数百年の歴史の中で肩を並べる者が見当たらないと賞賛した。また子規の門人であった佐藤紅緑は、世間一般では一茶の知名度は低く、たとえ知っていても川柳作者に近い俳人といったイメージしかなかったが、師匠の子規は一茶の価値を認めており、その魅力について教えられ、おかげですっかり一茶に傾倒するようになったと回想している。
なお、正岡子規が一茶についての評論を載せた「俳人一茶」は、宮沢義喜と宮沢岩太郎が編集し、正岡子規の校閲、批評を加えて東京の三松堂から出版された。この「俳人一茶」は、内容的に不備や不正確さを抱えながらも、まとまった形で一茶の伝記、作品が全国レベルで書籍化された初のケースであった。「俳人一茶」は世間での一茶の評価を高め、これまで俳句界における知名度は決して低くなかったものの、基本的に地方の一俳人に過ぎなかった一茶が、芭蕉、蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人であるとの評価を生み出すきっかけとなった。
   俳諧寺一茶の刊行​
正岡子規の一茶評価と期を同じくして、一茶の故郷である長野県でも再評価の動きが始まっていた。明治26年(1893年)、一茶の故郷の柏原を訪れた俳人小平雪人が再評価の糸口を作った。その結果、一茶ゆかりの旧本陣中村六左衛門家の末裔である中村六郎らの手によって一茶の資料発掘が進められるようになった。明治35年(1902年)には一茶の顕彰を目的とする「玉声会」が発足し、更に中村六郎は明治41年(1908年)、「一茶同好会」を結成した。明治末期、一茶の著作として新たに「七番日記」、「父の終焉日記」が出版された。
明治40年(1907年)には一茶の菩提寺、明専寺で一茶翁追悼八十年法要が営まれ、これが「一茶忌」行事の先駆けとなり、明治43年(1910年)には当時の柏原駅長の呼びかけにより、故郷、柏原の人たちの手によって明専寺裏手の小丸山公園に一茶のことを偲ぶ、「一茶俤堂」という茅葺の小さなお堂が建てられた。一茶俤堂はいつしか一茶の庵号であった「俳諧寺」と呼ばれるようになり、地元の人たちの句会などに使用されるようになった。
明治33年(1900年)4月から9月にかけて、信濃毎日新聞紙上で「俳諧寺一茶」が連載された。著者は信濃毎日新聞の記者であり俳人でもあった束松露香であった。明治43年(1910年)には一茶同好会の手によって、新聞に連載された内容をもとに単行本「俳諧寺一茶」が刊行された。刊行には一茶同好会の代表者であった中村六郎の尽力が大きかった。
「俳諧寺一茶」は、内容的にやはり不正確な部分が多いとの批判もあるが、初の本格的な一茶研究の成果であり、世間に広く一茶の全貌を紹介したと一茶研究者の多くがその意義を高く評価している。露香が描いた一茶像は「笑いの中に涙を湛える飄逸なる詩人」であった。この人間像は一茶評価のひとつの典型として受け入れられていく。
「俳諧寺一茶」で紹介された一茶像の中で「笑いの中に涙を湛える飄逸なる詩人」以外で注目されるのが、国家主義者としての一茶である。一茶は日本びいきの俳人であり、日本賛美の句を作っていたが、束松露香はその部分に着目したのである。この国家主義者としての一茶像は明治後期の社会、政治情勢の影響を受けたものであると考えられ、明治末期、一茶が学校教育の中で初めて取り上げられるに際し、この国家主義者としての一茶像が大きく扱われることになった。
大正初期から昭和初期にかけて​
明治末期以降、自然主義文学が流行する中での「父の終焉日記」、「七番日記」の出版は、一茶を日本における自然主義文学の草分けの地位に押し上げた。自然主義を標榜する文芸評論家であった相馬御風は、大正時代に一茶を煩悩人として評価する論説を発表している。また大正時代から昭和初期にかけて、一茶研究に大きく貢献した人物に荻原井泉水がいる。自由律俳句の俳人であった井泉水は、自らの主張と一茶の句との共通点を見出し、一茶を高く評価して多くの評論を執筆するとともに、一茶研究に努めて多くの作品を紹介した。
一茶の地元、長野県の一茶顕彰、紹介の活動もまた活発であった。信濃教育会は大正末期から昭和初期にかけて、一茶研究の基礎的資料として重んじられた「一茶叢書」を刊行する。大正15年(1926年)は一茶の百回忌に当たり、各地で様々な催し、出版が行われたが、中でも地元長野では善光寺と柏原で盛大な追悼行事が挙行され、記念出版が行われた。
またこの時期、俳句を専門とする文学者の勝峯晋風の活躍も見逃せない。晋風は大正時代から一茶の紹介に努めていたが、昭和2年(1927年)には、「日本俳書大系」シリーズにおいて文化文政期を「一茶時代」と名付け、一茶を芭蕉、蕪村と並称し、「芭蕉一代集」、「蕪村一代集」とともに「一茶一代集」を刊行する。その後、一茶は芭蕉、蕪村と並ぶ存在として広く認知されるようになった。そして津田左右吉が江戸時代の平民文学の中で一茶を高く評価したことも見逃せない。
そしてこの時期、一茶の知名度アップに大きな影響を与えたのが大正7年(1918年)から昭和7年(1932年)まで使用された第三期国定教科書に、一茶の句が採用されたことであった。大正時代、これまでよりは自由主義的な社会情勢となって、教育現場では児童の個性の尊重が唱えられ、芸術作品が教材に多く取り上げられるようになった。その中で極めて平易で親しみやすい一茶の俳句は教材として格好の材料であった、
この時、教科書に載った一茶の句には
   雀の子そこのけそこのけお馬が通る
   やれ打つな蠅が手をすり足をする
   やせ蛙負けるな一茶是にあり
があった。これらの句の知名度は極めて高くなり、教科書への掲載は一茶の句の大衆化に極めて大きな原動力となった。
昭和10年代​
昭和初期から終戦にかけて、大正初期から盛り上がりを見せた一種の一茶ブームが一段落し、これまでの一茶の研究成果に改めて見直しが進められた。この時期は唯物史観や精神分析学の知見を援用した一茶像構築の試みや、一茶の低俗な面に焦点を当てた研究が見られた。また文献研究もこれまでよりも厳密なものが発表され、一茶研究は質的にも深化していった。
昭和戦前期、一茶の故郷である柏原では一茶の顕彰事業が進められた。まず柏原村の村長が発起人となって昭和3年(1928年)、「一茶翁遺物保存会」が結成された。昭和4年(1929年)には一茶の曽孫である小林弥太郎から、一茶が亡くなった土蔵が柏原村に寄贈され、昭和8年(1933年)、一茶終焉の土蔵が長野県の史跡に指定された。そして小林弥太郎は昭和11年(1936年)、一茶の百十回忌を記念して終焉の土蔵の隣に一茶位牌堂を建て、「釈一茶不退位」と書かれた一茶の位牌を納めた。
そして昭和17年(1942年)、これまでの一茶研究の集大成ともいうべき、伊藤正雄の「小林一茶」が刊行される。同書では一茶以前には存在しなかった農民詩人として定義されており、そのことは日本の文学史上特筆すべきことであるとした。綿密な調査、分析に基づいて執筆された「小林一茶」は、一茶の農民詩人像の確立をもたらした。同書は学問的に見ても高度な充実した内容から、多くの一茶研究家から一茶研究におけるエポックメーキングであると評価されている。
また伊藤正雄の「小林一茶」など昭和10年代の一茶研究の特徴として、農民詩人としての一茶と明治末期の「俳諧寺一茶」で示された国家主義者としての一茶像のリンクが見られたことが挙げられる。つまり土を愛し、国体を賛美する土着の国家主義者としての一茶像が描かれているのである。これはもちろん昭和10年代の社会情勢に密接に関わったものであった。
戦後の一茶研究​
戦後の一茶研究については、まず後述する一茶地元の柏原の「俳諧寺一茶保存会」、俳人栗生純夫主催の俳句誌「科野」、信濃教育会の活動が牽引した。昭和21年(1946年)創刊の「科野」では、毎年のように一茶特集号を組み、全国各地の一茶研究家の論文を掲載するなどの一茶研究を進めるとともに、「まん六の春」、「一茶翁終焉記」といった新資料の発掘を行った。信濃教育会は昭和27年(1952年)、雑誌「信濃教育」2月号を一茶特集とし、翌昭和28年(1953年)には全国の一茶研究者を集めて一茶研究の講座を開催した。そして信濃教育会は昭和53年(1978年)に全9巻の「一茶全集」の刊行に漕ぎつける。
戦後はまた、これまで注目されていなかった連句の研究や、北信濃、房総などといった一茶と各地域との関係性の研究、そして文学方面ばかりではなく、歴史学からの一茶研究など、様々な形の一茶研究が進んだ。そして藤沢周平、井上ひさし、田辺聖子といった作家が、それぞれの見方から一茶を描いた小説を発表している。
一方、一茶像については、戦後になると昭和10年代に見られた国家主義的なものは影をひそめ、変わって例えば俗人、煩悩人一茶としての一茶像が提唱されるようになった。これらの一茶像は大正デモクラシーの影響を受けて比較的自由主義的な風潮があり、自然主義文学が盛んであった大正期に唱えられた一茶像へ戻ったともいえる。その他にも、野人一茶、農民気質を持った俳人などといった一茶像が描かれたが、それらもまた基本的に戦前までに唱えられてきたものの延長線上にあり、一茶の研究史から見てとりたてて新たな一茶像が見出されたわけではない。ただしバラエティに富む一茶像の中で、時代や社会背景の変化に伴って注目される点が異なってきていることは明らかである。
今後の一茶研究の課題としては、まず蕪村などよりも進んでいるとされる伝記面の研究に対して、作品研究が立ち遅れているとの指摘がある。中でも個々の作品、著作についての研究の深化とともに、遅れが目立つとされている連句の研究を進めていくこと、一茶が俳壇に身を投じた天明期から亡くなる文政期までの俳壇における位置づけの確認などといった課題が挙げられている。また一茶の資料的なものはほぼ出揃った感がある中で、学際的な研究を進めていって、文学的方面ばかりではなく、より広い視野から一茶の実像を見直していくことが求められているとされている。
●句の特徴​
句作スタイルについて​
一茶の句の特徴として挙げられるのがまずその作品数の多さである。作品数は21200句近くとされ、芭蕉の約1000句、蕪村の約3000句と比較して圧倒的な多さである。しかも一茶の書や門人が編纂した書籍などから、新たな句が発見され続けている。
これだけ膨大な作品の中には、互いに類似する作品が数多くみられる。例えば
   雪とけて村いっぱいの子どもかな
には、
   雪とけて町いっぱいの子どもかな
があり、
   名月を取ってくれろと泣く子かな
には、
   あの月を取ってくれろと泣く子かな
がある。
そして21000句を超える作品の全てが傑作というわけでは無く、駄作の数も多いとされている。荻原井泉水は「生涯に2万近い句を書き残して、その大部分がつまらない作で……砂漠の砂の中に宝石が見出されるような句のある」。と評した。
一茶の多作は、その句作のやり方に起因しているとの見方がある。加藤楸邨は一茶の句作スタイルを「反射型」に分類している。これは明日のことまでを見据えて現実社会との感覚的な統合を目指す芭蕉や、濁った世間からの高踏的な離脱をした上での美の世界を構築した蕪村とは異なり、一茶は大きく分裂した己の魂のあるがままに、反射的にその場その場で句を作っていったとする。一茶がいわば即興的に、悪く言うと粗製乱造といった形での句作を重ねたとの評価は他にも見られ、繊細な詩的センスを持ち合わせていながらも、十分に練り上げることなく性急に作品として固定化してしまう傾向があるとの指摘もあるが、一茶の遺した書簡などから判断すると、一茶は決していい加減な形で作句をしていたわけでは無く、古典などからしっかりと事物を吸収し、広く先達、同時代の俳人の作品を学んだ上で句を詠んでおり、きちんとした句作スタイルを取っているとの反論がある。
表現方法について​
一茶は独特な表現方法、題材の選び方から在世中から「一茶調」と呼ばれるほど、独自の俳風を押し進めたという印象が強いが、若い時期は様々な試行錯誤を繰り返しながらも主として伝統的な、芭蕉の影響が濃い句を詠んでいた。伝統的な手法においても一茶の力量は決して低いものではなく、当時の俳人の中では有数の実力を持っていたと考えられる。享和年間以降、一茶はその独特な表現方法を意欲的に開拓していき、「七番日記」の執筆が始まった文化年間後期以降、「一茶調」は確立した。なお、一茶調が確立されたと考えられる文化年間後期以降も、伝統的な手法で詠まれた高水準の叙景句が見られる。
   涼しさや糊のかわかぬ小行燈(こあんどん)
文政2年(1819年)、一茶57歳の作であるこの句には「新家賀」との詞書が付けられており、いわゆる新築祝いの句である。新築間もない家にまだ糊も乾かない真新しい小行燈が置かれている情景を詠んでおり、優れた叙景句であるとともに、新築の家の気持ちよさが伝わってくる句でもある。
一茶の句の表現方法で目立つ特徴として挙げられるのが、擬声語、擬態語、擬音語、いわゆるオノマトペの多用である。一茶は享和年間という比較的早い時期からオノマトペを句に用いている。文化年間以降、しばしば用いるようになり、文化7年(1810年)の七番日記開始以降、自由自在に使っていくようになった。
   雪とけてくりくりしたる月夜かな
くりくりという擬態語からうるおいが感じられ、また雪解けの春の月夜の喜びを伝えるのに大きな役目を果たしている句である。
俗語や、糞尿などといった尾籠な題材も一茶はしばしば用いた。
   屁くらべがまた始まるぞ冬籠り
冬、どか雪に閉じこめられるようになり、また室内で屁くらべが始まってしまうという情景を詠んだ句である。
擬人法は、一茶の句の中で最もしばしば見られる表現である。一茶の擬人法は小動物、植物、はては雲や星といった無生物まで対象としている。やはり文化年間からその使用が目立つようになり、やはり七番日記以降、盛んに用いるようになった。
一茶の句の中には金銭を詠んだ句が多いのも特徴のひとつに挙げられている。一茶が生きていた江戸時代後期、基本的に俳諧は金銭を詠まないしきたりであった。花鳥風月ではなく、人生のありのままの姿を表現することを重んじる一茶はそのようなしきたりに拘ることなく、自らが関心を持つ金銭を積極的に句に詠み込んだ。
   木がらしや二十四文の遊女小屋
吹きさらしの木枯らしの中に建つ、二十四文で体を売る最下等の遊女たちの粗末な小屋掛けの光景を詠んだこの句は、二十四文という金額が過酷な現実をより切実に表している。
オノマトペや俗語、擬人法の多用、当時俳句には用いないしきたりであった金銭を詠むなど、当時の俳句では大胆といえる表現方法を積極的に用いた一茶であったが、季語を欠く無季の句や、五・七・五を大きく崩した破調の句の数は少ない。このように俳句の伝統的な決まりごとに忠実な一面もあった。
しかし一茶は当時の俳壇の主流であった季題に基づいて句を詠む、いわゆる季題趣味に従うことは無かった。むしろ安易な季題趣味に反発するような句をしばしば詠んでいた。
   おらが世やそこらの草も餅になる
一茶がこの句の前書きとして「花をめで月にかなしむは雲の上人のことにして」と、記している色紙が残されている。生活苦に代表される様々な人生の苦闘を体験してきた一茶にとって、花鳥風月を愛でて句に詠むような風雅など無縁のものであった。この句のテーマは食べていくこと、そして生きていくことである。一茶も花鳥風月の美しさを句に詠み込むことは皆無ではなかった。しかし一茶の詠みぶりはあくまで人間生活の一こまとしてのものであって、花鳥風月の美しさを主題とする伝統的な手法からはかけ離れたものであった。
   小動物、植物などの句​
一茶の句には小動物、植物を詠んだものも多い。後述するように一茶の句の主要テーマは「生」であると考えられており、小動物や植物、そして蚤や蚊、蠅などといったいわゆる害虫までもしばしば句としている。また一茶が信仰篤かった浄土真宗の教えや、生来の動物好きも影響していると考えられる。また蚤や蚊、蠅という人に嫌われる題材をあえて多用する点などは、一茶自身の姿の投影であると見られている。
   菜の塵や流れながらに花の咲く
人にごみとして分別されて川に捨てられた菜が、しぶとく根付いて花を咲かせる様を賞賛したこの句は、逆境にめげずに生き抜く小さな命を詠むという、一茶の主要テーマの「生」を描きだしている。
ありのままの姿で生き抜くことを賞賛する一茶は、また動植物の姿を通じて、行き過ぎた人為に鋭い批判の目を向ける。
   かすむ日や目の縫われたる雁が鳴く
春霞のうららかな日に、太らせるために狭く暗い場所に閉じ込められた上に、動き回らないように目を潰され、縫われた雁が鳴いている姿を詠んだ句である。雁はやがては富裕層の酒食に供される運命にあり、一茶は凄惨な雁の運命に深く同情するとともに、人間の身勝手さ、業の深さまでも描き出している。
また一茶は猫好きであった。故郷柏原に永住して結婚した後には猫を飼っていた。当然数多くの猫の句を詠んでおり、生涯300句を超えるとされている。
   猫の子がちょいと押さえる落葉かな
風に舞う落ち葉を押さえようとする子猫のかわいらしい仕草をそのまま詠んだ句であり、猫に限らず愛情を持って小動物を詠んだ句の存在は、一茶が多くの人々に親しまれる大きな要因となった。
その一方で、一茶は
   慈悲すれば糞をするなり雀の子
のような句も詠んでいる。この句では雀の子を可愛がっていたら、糞をされてしまった。気持ちが仇になってしまったと詠んでおり、一茶が小動物に対する愛情とともに、その行動に文句をつける感覚も持ちあわせていたことがわかる。また小さいとはいえこのような矛盾を見逃せないのも一茶の特徴のひとつであった。
   子どもの句​
   あこが餅あこが餅とて並べけり
   鳴く猫に赤ん目をして手まりかな
あどけない小さな女の子が「これあたいの、これもあたいの」。と言いながら搗き立ての餅を並べている最初の句。そしてやはり手まりをついている小さな女の子に、猫がすり寄ってきたところが、女の子が猫にあっかんべーして手まりを続ける光景を詠んだ2句目。一茶は数多くの子どもの句を詠んでいるが、童謡の世界を描いたかのようなこれらの句は多くの人々に受け入れられ、明治中期以降、一茶の名声を高める大きな要因となった。
   境涯句​
一茶は早い時期から自らの生活苦、孤独、各地を旅する姿、つまり己の境涯を句にしていた。50歳を過ぎ、故郷に定住して遅ればせながらも妻を迎え、家庭を持った後は、境涯句にもくつろいだ印象が加わるようになった。しかしその後相次ぐ子どもの死、妻の死別、再婚の失敗、2度の中風と、立て続けに一茶の身に不幸が襲った。結果として一茶を襲った様々な不幸は、一茶の句に最後まで緊張感をもたらすことになった。
荻原井泉水は、妻を亡くした後に詠んだ一茶の句を評して、芭蕉以来の伝統的風雅とは全く異質なもので、人情をぶっつけに書いたものであるとして、自然の趣ばかりではなく人間の心そのものも立派に俳句となりうることを実証した最初の俳人であると評価している。
また一茶の句の欠点として、恋の句が不得手であることが挙げられる。金子兜太は一茶に恋愛を詠んだ佳句が見られない理由として、独身時代、本気で恋愛感情を抱いた女性がいなかった上に、女性にもてなかったのではとの説を唱えている。
   生活句​
一茶は北信濃の農民の出で、江戸での奉公生活、安定しない俳諧行脚による生活と、生活の苦労を肌身に感じながら生きてきた。また華やかな大御所時代の影で都市や農村で生活苦にあえぐ人々の姿も身近に感じていて、そのような人々の姿を句に詠んだ。一茶が詠んだような厳しい生活苦、人生の矛盾を詠んだ俳人はそれまで皆無であった。
   麦秋や子を負ひながらいわし売り
この句には「越後女旅かけて商いする哀れさを」との詞書があり、麦が実る夏、越後から子どもを背負いながら鰯の行商に来る女性の姿を詠んでいる。夏、子どもを背負いながら越後から信濃まで鰯の行商に向かうという厳しさ、いたましさとともに、母親の逞しさまでも描き出した句である。
その一方で
   とうふ屋が来る昼顔が咲きにけり
のような句も詠んでいる。昼時になってとうふ屋がやってきた、昼顔の花が咲いているなあと、庶民の日常生活の一こまを表現している。このようなありのままの庶民生活を詠んだ句も、一茶が新たに開拓した生活句であった。
   社会的なテーマの句​
一茶は若いころから国学に傾倒しており、日本びいきであった。一茶の日本びいきは一面では古典学習に見せた情熱へと繋がったが、その一方でロシア人が修交を求めて来航し、対外関係の緊張が感じられるようになると日本びいきはより強化され、日本を神国と称え、ロシアを貶める句を詠むようになった。
   けふからは日本の雁ぞ楽に寝よ
北のシベリア、つまりロシアから渡って来た雁に対して、「今日からは日本の雁だぞ、(安全な日本で)楽な気持ちで寝なさいな」。と、ある意味、自国意識丸出して雁に呼び掛けた。
また、一茶は
   桜さく大日本ぞ日本ぞ
のような、日本を称える句を晩年まで詠み続ける。
日本びいきの一茶にとって、日本は平和で繁栄し続けなければならなかった。平和で繁栄した社会を詠む句は、文政年間中期まで比較的多く見られる。しかし当時の日本は、実際には社会の矛盾が深まり、多くの農民、都市生活者たちはその日の生活に苦しみ、一揆や打ちこわしが頻発する社会不安が増大した時代であった。文化10年(1813年)、善光寺門前で打ちこわしが起きた年には
   とく暮れよことしのやうな悪どしは
と、早く打ちこわしが起きたような悪い年が終わってくれないかと詠んだ。
また一茶はしばしば「世直し」を句に詠み込むようになった。
   世が直るなほるとどでかい蛍かな
世が直る、直るといって大きな蛍が飛んでいくという句であるが、世直しが成就して、大きな蛍が闇夜を照らすように明るい世の中になって欲しいとの一茶の願望が込められていると考えられる。またこの句は連句の中の句であり、連句の参加者から続けて、「下手のはなしの夜はすずしい」との句が付けられている。一茶は「世直しが起きるぞ!世の中が変わるぞ!!」と、下手な政治談議のようなことをよく話していた可能性がある。
一茶はまた、当時、幕藩体制における支配者であった大名などを批判する句を詠んでいる。
   づぶ濡れの大名を見る炬燵かな
北国街道は加賀藩などの参勤交代のルートであった。この句は折からの雨で濡れ鼠になった大名行列をぬくぬくと炬燵に入りながら眺めている情景であり、一茶は冷たい雨の中でも隊列を組み、参勤交代の務めを果たさねばならない大名のことを皮肉っている。
しかし一茶は基本的には平均的な庶民感覚の持ち主であり、権力や権威への反感を思想化したり行動化することは無かった。一茶は閉塞感が強まりつつある社会の中で、なによりも己自身に執着してもっぱら自らの周りの世界に関心を深め、様々な句を詠んでいった。
句の背景​
   時代的背景​
一茶が俳人として活躍した時代は、その駆け出し時代は田沼時代から寛政の改革が行われた頃になるが、主に活躍した時代は文化、文政年間、つまり化政文化の時代であった。厳しい引き締めが行われた寛政の改革期から徐々に綱紀は緩み、その中で都市ばかりではなく、地方にまで文化が広がっていった。また化政文化の時代になると、これまで文化を享受していた上流階層ばかりではなく、庶民にまで文化が広まっていった。俳諧もその例外ではなく、様々な形で大衆化が進んでいった。
一茶自身も文政3年(1820年)には
   虫鳴くやわしらも口を持た(もった)とて
と詠み、俳諧の大衆化によって多くの人々がその恩恵を被ったとしている。句の中で虫とは一般大衆のたとえであり、一般大衆も口、つまり俳諧という自らの心を表現する手段を持ったと喜び、鳴いているという意味である。
文化の大衆化が進み、都市ばかりではなく地方にまで文化が広がり、化政文化が花開く一方で、幕藩体制の行き詰まりも明らかになりつつあった。文化の爛熟期とも言われる文化文政期はまた、都市や農村で貧困に苦しむ人々が増え、外国船の来航で対外的な緊張も徐々に高まるなどといった社会不安が増大し、閉塞感が高まりつつあった時代でもあった。閉塞感が高まりつつあった文化文政期と、江戸時代前期の闊達とした雰囲気が社会にあった時代に生きた芭蕉とでは、社会環境に極めて大きな違いがあった。この点からも一茶が芭蕉のような俳句を詠むことには大きな無理があった。
   芭蕉や当時の俳壇との関係​
一茶が俳人として活躍していた時代、俳句界では芭蕉のことを尊崇し、神格化が進められていた。例えば寛政3年(1791年)、白川伯王家から「桃青霊神」の神号が芭蕉に授与され、文化3年(1806年)には朝廷から「飛音明神」の神号を賜った。その一方で俳句の大衆化は俳壇の俗化をもたらしていた。芭蕉の名を借りた怪しげな由来書などが幅を利かせ、よく言えば平明、悪く言えば低俗な句作が横行するようになった。
芭蕉の神格化と俳壇の俗化は、互いにリンクして更なる問題を引き起こした。風雅趣味の固定である。平均した季題による均質化した句が大量生産され、ほとんどの俳人はその流れに飲み込まれていった。閉塞感が高まりつつある社会の中で、ほとんどの俳人たちは重苦しい時代に対峙しようとはせず、かといって己の姿や生き様を見つめなおして句を詠もうともせず、芭蕉の劣化コピーともいうべき句作に明け暮れた。一茶と同時代の名が通った俳人である夏目成美、鈴木道彦、建部巣兆らの作は、高い教養に基づく技巧的には完成度が高く、よくまとまった句を詠んだ。しかしそれぞれ生命感に乏しく、名前を入れ替えてみても通ってしまいそうな作品しか残せなかった。
一茶はこのような俳壇の中にあって一生涯芭蕉のことは敬っていた。俳諧に身を投じて以降、一茶は芭蕉の句作を学んだ。特に30代までの一茶の作品には芭蕉の影響が色濃い。しかし芭蕉と一茶とでは個性が大きく異なり、また時代背景も全く違う。やがて一茶は、一茶調と呼ばれるようになる独自の句作を押し進めていくことになる。芭蕉の存在は尊重しながらも、ある意味芭蕉離れ、芭蕉との訣別を経て、一茶は自らの俳句を詠むようになったと考えられている。当時進んでいた芭蕉の神格化についても追随していたとは考えにくい。
独自の俳風を確立していく中で、当時の俗に流れる俳壇の風潮が影響を与えた点も大きい。例えば俗語や口語、方言の多用は当時流行していた田舎風の俳諧との関連性が指摘できるし、また諷刺的な内容の句が見られることや季題を重要視しない点などは雑俳、そして川柳との類似性も認められる。また一茶の俳風に大きな影響を与えたと考えられるのが芭蕉以前の俳句であった。俳句のルーツともいうべき山崎宗鑑、そして貞門派、談林派について学び、技術的には季の扱い方などを参考にし、そして俳諧が本来有していた滑稽の精神を蘇らせた。一茶の句作における挑戦は、当時の大衆化した俳壇のエネルギーを取り込むとともに、また一面では俳句の原点回帰でもあった。
また一茶の場合、当時の俳壇主流とは決定的に異なるのが、一茶は人間の肉声を句に詠んでいったことである。このような挑戦を可能としたのは、野性味溢れる一茶の個性と、人間生活全般に対する強い関心であった。一茶の挑戦は成功し、大衆化の反面、通俗化、マンネリ化が著しかった当時の俳壇にあって、真の生命感を持つ、独自の世界を句に詠むことに成功した。
   浄土真宗の影響​
一茶は浄土真宗の熱心な信者であり、一茶の俳句には浄土真宗の教えが大きな影響を与えていると考えられている。一茶の庵号である「俳諧寺」は、俳諧と浄土真宗の教えの両立を示していると見られている。浄土真宗の教えの中で、一茶の俳句に最も大きな影響を与えたのは「自然法爾」の思想である。「自然法爾」は浄土真宗の根幹をなす思想のひとつで、あるがままをそのまま受け入れる生き方、思想である。一茶の俳諧には、仕組まれ、図られたものよりもあるがままを、技巧よりも自然を良しとし、そして無為を重んじる姿勢が見られるが。これは「自然法爾」の教えの影響が大きいと考えられる。
また一茶を師匠とした一茶社中の運営方式も、浄土真宗の教えが大きく影響していた。一茶は当時の俗化著しい俳壇にある意味殴り込みをかけるような句作を行っていたが、反面、俳諧の大衆化に代表される庶民文化の隆盛が大きな意味を持っていることも理解していた。庶民の文化である俳諧に余計な権威付けは不要である。一茶は浄土真宗の教えにある、師も弟子も真理を追求する同志であるという、「御同朋」、「御同行」といった考え方に基づき、上下関係を否定して自由闊達な雰囲気で社中を運営していた。
浄土真宗の熱心な信者であった一茶ではあるが、僧侶の堕落した姿には手厳しい批判を加えた句を詠んでいる。また最晩年の句である
   花の影寝まじ未来が恐ろしき
から、未来(あの世)が恐ろしきとは、一茶は浄土真宗に対する深い信仰にもかかわらず、阿弥陀如来の姿を見て極楽往生を確信することは叶わなかったことを意味するのではとの意見もあるが、一方、一茶は浄土真宗の教えを会得しており、この句は過去、現世そして未来に至るまで自力を否定することを唱えたものであるとの説もある。
●影響、評価​
影響​
前述のように在世中の一茶は俳句界でその名が広く知られ、死後も知名度や人気は落ちなかった。一茶は化政期を代表する俳人としての評価を確立していた。しかし一茶の作風は当時の俳句界に広まることは無く、一茶社中の影響力も門人までに止まり、他の北信濃の有力俳諧結社ほどの影響力も残せなかった。このように江戸期における一茶の俳句界における影響力は限定的なものにとどまったと言える。
明治後期以降、一茶の句は俳句界の枠を超え、多くの人々に親しまれるようになった。そして芭蕉、蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人であるとの評価も固まっていく。しかし近代俳句の主流が客観写生から精密かつ静的な花鳥諷詠へと移行していく中で、俳句界からは一茶の句は異端視され、一部を除いてその影響力は小さかった。近代俳句の中で一茶の影響を指摘できるのは村上鬼城である。鬼城は生活苦と身体的な障害に苦しみながら、俳壇の主流とは大きく異なる優れた境涯句を詠み続けた。一茶の句と鬼城の句には類似点が多く指摘され、一茶の作風が鬼城に大きな影響を及ぼしたものとみられている。
いずれにしても一茶には高い知名度があり、更には芭蕉、蕪村と並ぶ傑出した個性、独自の俳風が認められているのにも関わらず、芭蕉、蕪村と比較して俳壇、文学史に与えた影響力は小さかった。
批判的な意見​
一茶の句については、特にプロの俳人たちから多くの批判を集めてきた。加藤楸邨は一茶ほど専門の俳人から反発を受けた例は少ないとしている。一茶が世に持て囃されるのは俗情に訴えかけるからにすぎす、詩人としては低級であるという見方をされるのである。山本健吉も一茶の句にはあまりにも多くの私的な感情が含まれていて、これは一茶の句の汚点と感じられるとしている。
2万句を超える一茶の句の中には、上記のような批判を甘んじて受けざるを得ない句が相当数含まれている。加藤楸邨は一茶の句には詩的な共感ではなく、素材が持つ共感に振り回されてしまう句が見られると指摘している。また一茶の句が下手をすると単なる洒落に陥ってしまい、芸術の枠を飛び出しかねない危惧は、早くも師であり同志でもあった夏目成美が鋭く指摘していた。一茶は擬態語や擬声語、擬音語、いわゆるオノマトペを多用している。しかしオノマトペを句に上手に生かすというよりも、句の中心に置いてしまう傾向がある。その結果、オノマトペに句全体が引きずられてしまい、余韻や余情に乏しい、詩的内容に欠ける作品が多く見られる。もちろん一茶にとってオノマトペの多用に代表される俳句の表現方法における様々な挑戦は、型に嵌り切って窮屈なものになってしまっていた既成俳句の世界から脱出するための大きな武器になったが、反面、定型との厳しい葛藤を経ながら自らの作品を完成させていくという俳句本来の性質から遠ざかってしまうものでもあった。
栗山理一は、一茶は繊細な詩的センスを持ち合わせていながら、そのセンスを生かしてひとつの句を完成させるよりも、性急に句として完成させてしまう傾向を指摘している。様々な俳句の素材を貪欲に発掘し続けた一茶は、それら豊富な素材をパッチワークのように当てはめて、句を大量生産したと見ている。そのため一茶の作品における感性の出来不出来がはっきりと出てしまう結果となったとしている。
また一茶は高い次元での統一性を成立させることが無かったという指摘も見られる。栗山理一は一茶の句作は自然を純粋に見る目、諧謔をもてあそぶ姿勢、繊細な詩的センス、現実を見据えた情念など、様々な要素が混在したまま自己統一を図ることなく、もっぱら己の発想を強引に押し進め続けたとしている。加藤楸邨もまた、一茶は歪んだ我執が強い感情と無垢な童心に分裂したまま、事物をその都度反射的に受け入れ、バラバラな形で自己を封じ込めた作品を作り続けたとしている。
生の俳人​
江戸時代を代表する俳人として、「芭蕉、蕪村、一茶」の三名の名前を挙げる習慣がある。この記述は多くの文学書などに見られ、一茶が芭蕉、蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人のひとりであるという評価は定着している。もちろん他にも優れた俳人は存在したが、この三名には他の俳人と比較して傑出した個性、独創的な作風があることは疑いようはない。
山下一海は、いわば江戸時代の俳人の三巨頭である芭蕉、蕪村、一茶の句の特徴をそれぞれ一字で表すと、芭蕉は「道」、蕪村は「芸」、そして一茶は「生」であるとしている。津田左右吉、加藤楸邨、金子兜太ら、これまで多くの一茶についての論者は、生活、生命、生命感などといった一茶の句に見られる「生」に関わる事柄に着目してきた。一茶に対して批判的な山本健吉も、一茶の句の生命的な強さは比類がないと評価している。
また一茶にとって俳句は人生そのものであったという指摘も見られる。荻原井泉水は一茶のことを寝ても起きても俳句を作らなくてはいられない「骨の髄まで俳人」であると評価し、丸山一彦もまた、一茶は死に至るまで意識、感覚をよぎる全てを手あたり次第に句に詠み続け、俳諧一筋に生き抜いたとしている。一茶の作品と「生」とは分かち難く結びついている。また夏目漱石は「芭蕉は自然に行き、一茶は人に行く」と評している。
一茶の句の生命力の源として多くの論者が指摘するのが、農民気質、土への意識、生来の野生である。実際一茶が手に汗して田畑を耕したのは江戸に奉公へ出る以前の15歳以前のことであったが、最後まで農民気質、土への意識を失うことは無かった。栗山理一は一茶を貫く宿命的な土への愛着を指摘し、閉塞感が強まる社会の中で著しいマンネリ化に陥っていた俳壇に生来の野生、土着の性根でぶつかっていったと評価している。加藤楸邨は一茶の中に息づいていた農民気質こそが一茶の句の生命力の源泉であると評価し、丸山一彦もまた、一茶は大衆化の反面、低俗化や堕落が顕著となっていた俳壇のあり方に反発し、生来のたくましい野生、飽くこと無き人間生活全般に関する関心を原動力として強烈な自我、人間の生々しい肉声を句に反映させようと試み、成功したとしている。そして水上勉は、一茶の生きざまは故郷の土と深く繋がっており、土俗の魂を抱きつつ、うめき続けた現世追求の修羅の人として句を詠み続けたとしている。
金子兜太は、一茶が詠む糞尿、放屁といった主題の句に嫌みが感じられず自然である点からも、やはり土や生き物を相手にしていく生業である農民魂を見いだしながら、それに加えて生きとし生けるものと共存、共感し、一体化していくアニミズム的なものを見ている。一茶の句には万物の精霊に呼び掛けていく性格があるとの指摘は他にも見られ、渡邊弘は一茶の句の世界における、生きとし生けるもの全てに対する共生的な世界観に注目している。
一茶の俳句が生きることを主題としているといっても、もっともらしい理屈や人生論などに拠ったものでは無く、市井に生きる人々が日常感じているありのままの喜怒哀楽を句に詠んでいった。いわば一茶は生活の中から文学を生み出していったのであり、加藤楸邨は一茶の作には生身の人間から放射されるような体臭があり、それは鍛え抜かれたものから漂ってくる生命感ではなく、町で軒を並べて生活している人間同士で嗅ぎ合うような生の感触があるとしている。丸山一彦は不幸続きであった生涯の影響を受けて一茶の作品には特異な歪みがあるが、これは生きる悲しみに深く根差した歪みであって、人の世の深さに触れる何かがあると評価している。
そして矢代静一は、一茶の句について孤高な文学者の作品などではなく、すぐそこに住む世俗的な一般庶民と同じく、地を這う人のものであるとした上で
「一茶は、人生をてくてく歩みながら、肉声で句をものした凡庸にして非凡の人である。」
と評価した。
●連句について​
一茶がメンバーの一員となっている連句の数は270巻以上確認されている。芭蕉は340巻、蕪村は112巻確認されているとされ、一茶が参加した連句の数は、芭蕉よりも少ないが蕪村よりは多い。しかし芭蕉、蕪村の連句に較べて一茶の連句に関する研究は遅れており、2013年の時点でいまだに全連句の評価、解釈が終わっていない。また一茶の参加した連句においても、内容的に出来不出来がはっきりしているとされている。
連句とは五・七・五の長句と七・七の短句を交互に、参加者が一定の決まりに従って繋いでいく一種の共同作品である。江戸時代の俳諧師にとって連句は俳諧の王道とされており、中でも芭蕉は優れた力量を見せた。しかし俳句が庶民にまで広まった文化、文政期になると、他の参加メンバーとの共同作業、時には駆け引きや、煩瑣なルールの熟知が必要など力量、熟練を要する連句は徐々に敬遠されるようになり、発句、いわゆる五・七・五を詠む発句の会が中心となりだしていた。
270巻余りの一茶が参加メンバーとなった連句は、若い時期は先輩俳人のグループに参加させてもらった形のものが多く、江戸住まい後期の俳諧師としてある程度名が通るようになった時期は、夏目成美主催のグループの一員としてのものがほとんどである。そして一茶が郷里信濃で参加した連句は、宗匠である一茶がリーダーとなって連句を詠む形となっている。中でも郷里信濃で一茶がリーダーとなって詠んだ連句の数が最も多い。上記のように連句は煩瑣なルールがあるなどリーダーの場の捌きが重要となる性格があり、一茶が活躍した時期には下火となりつつあったが、俳諧の王道とされていた連句に最後まで積極的に取り組み続けた。
一茶が郷里、信濃で指導した連句では決まりごとを厳格に守るような詠み方はせず、内容的には郷土色豊かなものが見られる。この信濃で一茶が指導した連句は、内容的には芭蕉や蕪村のものと比較して文学的には見劣りするのは否めず。江戸で連句に熟達した夏目成美らと詠んだものと比較しても劣っているとの評価が一般的である。しかし終始孤独感が付きまとった一茶の人生において、郷土の気心が知れた門人たちと詠む連句はその孤独を癒すとともに、民衆のしたたかな活力、エネルギッシュな姿を生き生きと描き出しているとの意見もある。  
 
 
 

 

蕪村 
●与謝蕪村 
(享保元年-天明3年 1716-1784) 江戸時代中期の日本の俳人、画家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩『帰去来辞』に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」「謝寅(しゃいん)」など複数ある。
●経歴​
摂津国東成郡毛馬村(けまむら)(現:大阪府大阪市都島区毛馬町)に生まれた。京都府与謝野町(旧丹後国)の谷口家には、げんという女性が大坂に奉公に出て主人との間にできた子供が蕪村とする伝承と、げんの墓が残る。同町にある施薬寺には、幼少の蕪村を一時預かり、後年、丹後に戻った蕪村が例として屏風絵を贈ったと口伝されている。
20歳の頃、江戸に下り、早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事して俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このときは宰鳥と号していた。俳諧の祖・松永貞徳から始まり、俳句を作ることへの強い憧れを見る。しかし江戸の俳壇は低俗化していた。
寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(現:茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて東北地方を周遊した。絵を宿代の代わりに置いて旅をする。それは、40歳を超えて花開く蕪村の修行時代だった。その際の手記で寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。
その後、丹後に滞在した。天橋立に近い宮津にある見性寺の住職・触誉芳雲(俳号:竹渓)に招かれたもので、同地の俳人(真照寺住職の鷺十、無縁寺住職の両巴ら)と交流。『はしだてや』という草稿を残した。宮津市と、母の郷里で幼少期を過ごしたと目される与謝野町には蕪村が描いた絵が複数残る(徐福を画題とした施薬寺所蔵『方士求不老父子薬図屏風』、江西寺所蔵『風竹図屏風』)。一方で、与謝野町の里人にせがまれて描いた絵の出来に後悔して、施薬寺に集めて燃やしてしまったとの伝承もある。
42歳の頃に京都に居を構え、与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。45歳頃に結婚して一人娘くのを儲けた。51歳には妻子を京都に残して讃岐に赴き、多くの作品を手掛ける。再び京都に戻った後、島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には夜半亭二世に推戴されている。
現在の京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明、68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされている。辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)。
●作家論​
松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。また、俳画の創始者でもある。写実的で絵画的な発句を得意とした。独創性を失った当時の俳諧を憂い「蕉風回帰」を唱え、絵画用語である「離俗論」を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。絵は独学であったと推測されている。
後世からの評価​
俳人としての蕪村の評価が確立するのは、明治期の正岡子規『俳人蕪村』、子規・内藤鳴雪たちの『蕪村句集講義』、昭和前期の萩原朔太郎『郷愁の詩人・与謝蕪村』まで待たなければならなかった。
旧暦12月25日は「蕪村忌」。関連の俳句を多く詠んだ。
   蕪村忌に呉春が画きし蕪かな 正岡子規
   蕪村忌の心游ぶや京丹後 青木月斗
2015年10月14日、天理大学附属天理図書館が『夜半亭蕪村句集』の発見を発表した。1903句のうち未知の俳句212句を収録。
与謝野町は「蕪村顕彰全国俳句大会」を2012年から開いている。
俳諧の主な編著​
蕪村七部集 (其雪影、明烏、一夜四歌仙、続明烏、桃李、五車反古、花鳥篇、続一夜四歌仙)
明烏
夜半楽
新花摘(俳文集)など。
●俳句​
春の海 終日のたりのたり哉
柳散り清水涸れ石処々
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな
花いばら故郷の路に似たるかな
不二ひとつうづみのこして若葉かな
   牡丹散りて打かさなりぬ二三片
   夏河を越すうれしさよ手に草履
   ゆく春やおもたき琵琶の抱心
   易水にねぶか流るゝ寒かな
   月天心貧しき町を通りけり
さみだれや大河を前に家二軒
菜の花や月は東に日は西に
笛の音に波もよりくる須磨の秋
涼しさや鐘をはなるゝかねの声
稲妻や波もてゆへる秋津しま
   ところてん逆しまに銀河三千尺
   古庭に茶筌花さく椿かな
   ちりて後おもかげにたつぼたん哉
   あま酒の地獄もちかし箱根山
鰒汁の宿赤々と燈しけり
二村に質屋一軒冬こだち
御火焚や霜うつくしき京の町
寒月や門なき寺の天高し
さくら散苗代水や星月夜
   住吉に天満神のむめ咲ぬ
   秋の夜や古き書読む南良法師
   朝霧や村千軒の市の音
   休み日や鶏なく村の夏木立
   帰る雁田ごとの月の曇る夜に
うつつなきつまみ心の胡蝶かな
雪月花つゐに三世の契かな
朝顔や一輪深き淵の色  
 
 
 

 

●与謝蕪村の俳句 1 
春の俳句
   白梅や墨芳しき鴻鸕館
季語 白梅(初春) 「白梅や」はそのまま「白梅だなぁ」という感動をあらわします。さらに「墨芳しき鴻鸕館」とつづきます。鴻臚館は、来日した外国人のための外交施設です。「墨芳しき」というのは応接での筆談か、歓待の詩歌でしょうか。とにかく墨で字を書く場面、または書かれた文字が連想されます。白梅の白と紙の白、そこに瑞々しい墨筆による文字が踊っています。
   公達に狐化たり宵の春
季語 宵の春(三春) 季語「春の宵」は、暮れて間もない春の夜をさしています。日がのびてゆく春ですから、どこか浮足立つような感覚があります。有名な蘇東坡の詩に「春宵一刻値千金」とあるように、この時間には魅力があったのでしょう。その浮かれ心を読んでか、狐が公達にばけているよ、という句です。あなたも、春の宵には化かされないようご用心くださいね。
   指南車を故地に引去ル霞哉
季語 霞(三春) 「指南」という語は、この「指南車」が語源とされています。指南車とは古代中国の黄帝が異民族を討つために用意した文字通り「南を指す車」です。台車の上の仙人の人形が指さす方角が南です。その指南車をも故地(異民族の領地)に引き去るほどの霞だ、というわけです。霧の中の緊迫した戦いのシーンは、非常にリアルです。
   帰る雁田ごとの月の曇る夜に
季語 帰る雁(仲春) たんに「雁」だと秋の季語ですが、「帰る雁」「雁帰る」だと春の季語に入ります。雁が帰ってゆく姿は、春ながら寂しい情景のひとつです。さらに「田ごとの月の曇る夜に」とつづきます。「田ごと」は信州・姥捨山の棚田に映る月をさすとされています。本当に棚田の田ごとに月が映るのかどうかはともかく、その空を往く雁たちの姿が印象的な俳句です。
   かくれ住て花に真田が謡かな
季語 花(晩春) 「かくれ住て」「真田が謡」からもわかるとおり、この俳句は関ケ原の合戦後、紀州・九度山に幽閉された真田昌幸・幸村親子のことをモチーフとしています。NHKの大河ドラマ「真田丸」を記憶されている方も多いのではないでしょうか。徳川の見張りの目も、花見には緩かったのかもしれません。蕪村は、その後のこの父子の運命をはかない桜に例えたのではないか……とも感じられます。
   菜の花や鯨もよらず海暮れぬ
季語 菜の花(晩春) 蕪村と菜の花、とくれば「菜の花や月は東に日は西に」一択という空気を感じつつ、敢えてこちらの句を選びました。海の見渡せる場所に広がる菜の花畑です。鯨もよらず、というのでこの海には時々現れるのでしょう。鯨をみようと待っていた蕪村ですが、とうとう鯨は姿を見せてはくれませんでした。そしてついには海も暮れてしまいました。蕪村は落胆したかもしれませんが、菜の花はかわらず風に揺れていたのでした。

   春の海 ひねもす のたりのたりかな
のどかな春の海。一日中、のたりのたりと波打っているばかりだよ。
   菜の花や 月は東に 日は西に
夕方近い一面の菜の花畑。月が東の空に登り、振り返ると日は西の空に沈もうとしているよ。
   公達に 狐化たり 宵の春
なまめかしい春の宵。一人歩いていくと、ふと貴族の子息に出会った。あれはキツネが化けたものに違いない。
   釣鐘に とまりてねむる 胡蝶かな
物々しく大きな釣鐘に、小さな蝶々がとまって眠っている。何とも可憐な姿だなあ。
   ゆく春や 逡巡として 遅ざくら
散らずにいつまでもぐずぐずと咲き続けている遅桜。過ぎ行く春を惜しんでいるからなのだろうか。
夏の俳句
   御手討の夫婦なりしを衣替
季語 衣替(初夏) ストーリー性のある俳句ということで有名なこの句は、御手討ちという異様な状況からはじまります。手討とは「主君が不始末のあった家来を自ら惨殺すること」をいいます。夫婦の片方または双方が主君の縁者で、許されざる恋仲だったのかもしれません。そこから「衣替」という局面に転換します。この歌舞伎さながらの場面転換をになうのが「しを」の二文字です。結果として、二人は許され、衣替ができたねというハッピーエンドを迎えました。
   絶頂の城たのもしき若葉かな
季語 若葉(初夏) 城郭というものは、ふしぎなもので、敵兵を阻むための物理的な構造であると同時に、精神的な安堵も与えてくれるものです。身近に城郭を見て育ったという方には、よくわかる実感ではないでしょうか。この句もそんな心持を「たのもしき」といっています。添えられているのは「若葉」。これからぐんぐん成長していく木々の緑が、城郭の漆喰や甍のコントラストに映えています。「絶頂」も効いており、非常に勢いを感じる句です。
   夏河を越すうれしさよ手に草履
季語 夏河(三夏) 蕪村を語る上でどうしても外せず選にいれました。だれにも語ることのない幼少期の記憶をもつ蕪村にとって、たった一つ自身の支えとしたのが母のルーツでした。与謝という姓も母の故郷から名づけたほどです。この句は、その母の故郷・丹後で詠まれたとされています。草履を手にもち、素足となって河を渡る爽快感を、とてもつよく感じることのできる句です。
   さみだれや仏の花を捨に出る
季語 さみだれ(仲夏) さみだれといえば、芭蕉「五月雨をあつめて早し最上川」、蕪村「さみだれや大河を前に家二軒」が両者の比較として用いられます。しかしここも敢えてこちらの句を選びました。降りしきる雨の中を花を捨てる、という寂寥感のつよい句です。「仏の花」とは仏壇に供えていた花でしょう。亡くなったのは誰でしょうか。愛しい想いがつよいほど、長くつづく慟哭……その悲嘆にさえ、雨は降り注ぎつづけています。
   石陣のほとり過けり夏の月
季語 夏の月(三夏) 蕪村俳句の面白さの一つは、古典からの着想や故人とのコラボレーションを盛んにおこなっていることです。この句は、「三国志」において諸葛孔明が小石を積んで陣をつくり、呉軍を窮地に陥れたくだりをモチーフにしています。その石陣のほとりをゆくとき、空には夏の月があった、という句です。暑い日の夜に涼しさを与えてくれる「夏の月」ですが、孔明の石陣近くで見上げる月はいっそう涼しく感じられることでしょう。
   飯盗む狐追うつ麦の秋
季語 麦の秋(初夏) 新見南吉の童話『ごんぎつね』の最後のシーンを彷彿する句です。新見南吉は、童話作家として有名ですが、詩や俳句、短歌についても造詣が深く、半田第二尋常小学校卒業の答辞に「たんぽぽの いく日ふまれて けふの花」という句を詠んでいます。新見南吉が、この蕪村の句から『ごんぎつね』を着想したのかどうか定かではありませんが、その可能性は大いにあったと考えられます。

   夏川を こすうれしさよ 手にぞうり
草履をぬいで手に持って、素足のまま夏の川をわたる。何ともうれしく、気持ちがいいなあ
   涼しさや 鐘をはなるる かねの声
なんども涼しげだなあ。鐘をつくたびに、その鐘の音は遠くへ離れていくようだ。
   山蟻の あからさまなり 白牡丹
大きく真っ白な白牡丹の花びらに、山蟻が這っていく。その黒さが何とも印象的だ。
   絶頂の 城たのもしき 若葉かな
山頂に城がそびえ立っている。若葉に囲まれたその姿は、とても頼もしく感じられる。
   鮎くれて よらで過ぎ行く 夜半(よは)の門
夜半に門をたたく音に出てみると、釣りの帰りの友が鮎を届けてくれ、寄っていけというのに、そのまま立ち去ってしまった。厚い友情を感じながらも、私は門のそばに立ち尽くすのみだった。
秋の俳句
   四五人に月落ちかゝるおどり哉
季語 月(三秋) 四五人が踊っているのは、村の秋祭りでしょうか。そこへ月が落ちかかっている、という情景を詠んでいます。ありえない「落ちかかる」という表現によって、その月の存在感がひときわ浮き上がって見えてきます。踊っているのが四五人だというのも、具体的な情景イメージの助けとなっています。なお、「祭り」はそれ単体で夏の季語に属し、秋の祭りは別途「秋祭り」といいます。前者が主として疫病払いを目的とするのに対し、後者は収穫を祝う目的があります。
   朝がほや一輪深き淵のいろ
季語 朝がほ(初秋) 朝顔は、子どもたちが夏休みに栽培することが多いですよね。そのため夏のイメージがありますが、本来は秋の訪れをつげる花です。たくさんの花が朝にひらき、昼にはしぼんでしまいます。その花の中に一輪、深い色に染まった花がある、ということを詠んでいます。簡単に詠めそうな俳句ですが、実際には相当注意深く朝顔の花の「色くらべ」をしないと詠めない句です。蕪村は、絵師としての習性から、ものの色彩に関心が高かったのでしょう。
   鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉
季語 野分(仲秋) 野分は秋に吹くつよい風、とくに台風によって巻き起こる烈風をさします。厚く垂れこめた雨雲がしだいに広がり、風も次第に強まってゆくようなイメージです。そのはげしい風をついて五六騎の早馬が駆けてゆきます。目的地である「鳥羽殿」とは、白河・鳥羽両上皇の院政時代を中心に栄えた離宮です。いったいどんな火急の用なのでしょうか。馬の蹄の音、着物のばさばさと風にはためく音までも耳に聞こえてくるかのようです。
   落穂拾ひ日あたる方へあゆみ行
季語 落穂(晩秋) 「落穂拾い」といえば、おおくの人が、フランスの画家ミレーの「落穂拾い」を連想されるのではないでしょうか。蕪村(1716年−1784年)とミレー(1814年−1875年)とでは生きた時代が異なることや、ミレーが落穂拾いを完成させたのが1857年とされていることからも、両者の接点は伺えません。この句をみても、ミレーの絵画と匹敵するほどに蕪村の俳句が写生的であることがわかります。むしろ「日あたる方」への動きがある分だけ蕪村に軍配が上がりそうです。
   猿どのゝ夜寒訪ゆく兎かな
季語 夜寒(晩秋) 動物を詠んだ俳句といえば、小林一茶(1763年−1828年)が有名ですね。一茶の場合は、自己投影といっていいほどに動物たちに寄り添っています。対して、蕪村の場合は、距離をおいて動物たちを眺め、活写しているように感じられます。「猿どの」というところから、猿と兎は旧知の仲なのでしょう。秋も暮れようかという寒い夜に、兎はなぜ猿のもとを訪れたのでしょう。答えは、読むものの心に委ねられているかのようです。生き生きとした動物たちの姿を描いた「鳥獣戯画」のような俳句です。
   獺の月になく音や崩れ簗
季語 崩れ簗(晩秋) 簗は鮎をとるための仕掛けで、ぱっと見は竹で組んだ滑り台のような外観をしています。上流に向けて設置し飛び込んできた鮎を捕まえるのです。その簗も風雨にさらされるとそれほど長くはもちません。この句では、月夜に啼く獺(かわうそ)の声が響きわたる情景が描かれます。月下の崩れた簗と相まって、去り行く秋のもの寂しさがつよく感じられる句になっています。

   鳥羽殿へ 五六騎いそぐ 野分(のわき)かな
野分が吹き荒れる中、五、六騎の武者たちが鳥羽殿に向かって一目散に駆けていく。その後を追うように、野分はいっそう激しく吹きつのっている。
   山は暮れて 野は黄昏の 薄(すすき)かな
遠くの山々はすでに暮れてしまったが、近くに見える野はまだ暮れなずんでいてほの明るい。薄が風にゆれているのだなあ。
   月天心(つきてんしん) 貧しき町を 通りけり
夜半の月が中空に輝いている。その月の光を浴びながら、貧しい家の立ち並ぶ町を通ると、どの家からも灯りがなくひっそり寝静まっている。
   秋たつや 素湯香しき 施薬院
施薬院にも秋が来たなあ。薬湯を飲む患者は白湯で薬を飲むが、本来なら味もない白湯にも香ばしい薬の香りが漂う、それは偏に秋の冷涼な空気のせいだろうよ。
   朝顔や 一輪深き 淵のいろ
すがすがしく朝顔が咲いているなあ。その中の一輪は、底知れぬ淵のような深い藍色をしていて、とても美しい。
冬の俳句
   狐火や髑髏に雨のたまる夜に
季語 狐火(三冬) 「狐火」とは、冬の夜に山野や墓地でみられる怪しい火を指しています。たて続けに「髑髏」が登場し、おどろおどろしいことこの上ありません。しかも雨がたまっている髑髏です。とにかく尋常な光景ではありません。冬の夜、しかも雨が降っている中ですから、視界はよいわけがありません。なぜこんなにも恐怖を詰め込んだ句を詠んだのでしょうか。あるいは、蕪村幼少期の記憶と繋がっているのではないか……と勘ぐりたくなるような俳句です。
   古池に草履沈ミてみぞれ哉
季語 みぞれ(三冬) 「古池」の句ということで、芭蕉「古池や蛙飛こむ水のをと」と対比される句です。「古池や」と切った芭蕉に対し、蕪村は「哉」を用いて一気に詠みあげる句法を選びました。みぞれの降る中、池に沈んでいる草履がふと目にとまります。古池ですから、水底までは濁って見えないでしょう。草履は、池の縁のあたりに半没していたのかと思われます。その草履を沈めるかのようにみぞれは降るのです。微かに、その音まで聞こえてくるような句です。
   繋ぎ馬雪一双の鐙かな
季語 雪(晩冬) 雪の日、戸外に繋がれた馬を目にした蕪村です。印象的なのは「雪一双」です。一双とはなんでしょうか。その後に登場する「鎧」です。鐙なのですから「一双」でなければおかしいですね。もちろん単に「鐙」だけでもよかったわけです。しかし、あえて「一双」と書いたことにより、鐙がひときわクローズアップされました。馬は従順な性格なのでしょう、その瞼やまつ毛、はく息の白さまでもが浮かんでくるようです。
   化さうな傘かす寺の時雨かな
季語 時雨(初冬) これもまた、おどろおどろしい俳句ですが「狐火」の句よりは滑稽な雰囲気になっています。寺を訪れた日の帰り際、運悪く時雨に見舞われ、寺の人が「お困りでしょう」と傘をかしてくれた……というシーンです。ただ、その傘が非常に年代物で、ところどころ穴の開いた唐笠でした。落語のような滑稽味が効いていますね。街灯もないこの時代、雨の夜道はまっ暗闇だったことでしょう。傘を手に「化けないでくれよ」とつぶやき歩く姿が浮かんできます。
   真がねはむ鼠の牙の音寒し
季語 寒し(三冬) この句をみても、蕪村は動物と距離を置いている感じがあります。このあたり、絵師としての習性なのか、蕪村個人の性格なのか難しいところです。「真がね」とは鉄のことです。その鉄をかじる鼠ですから、冬場の餌が少ない季節で腹を空かせているのかもしれません。鉄ですから、どれだけかじろうが、ねぶろうが腹がふくれることはないのですが、その音だけが寒々と響いている様子です。
   逢ぬ恋おもひ切ル夜やふくと汁
季語 ふくと汁(三冬) 締めくくりは、ちょっと珍しい恋の句です。しかも悲恋であることが「逢わぬ恋」「おもひ切ル」ににじんでいます。妻子ある身で若い恋人もいた蕪村の諧謔があふれる一句です。「ふくと汁」は、漢字で書くと「河豚汁」です。寒い季節に熱々のふくと汁。それをもって恋を諦めるといっているわけですから、蕪村の好物だったのでしょう。じっさい蕪村には、ふくと汁を詠んだ句がたくさんあります。立ちのぼるゆげや香りまでも漂ってくるような、剽軽な一句です。

   水鳥や 枯木の中に 駕二挺
冷たい水面に、水鳥たちが泳いでいるなあ。対岸の冬木立の中には、かごが二挺乗り捨てられていて、辺りには誰もいない。
   椋鳥と 人に呼ばるる 寒さかな
故郷を出てきたものの、あいつはこの寒い冬に、のこのこと出稼ぎにいく椋鳥のようだだなどと人が陰口をたたく。寒さがますます身にしみる。
   雪散るや おどけもいへぬ 信濃空
雪がちらちら降ってきた。冗談ではない、ここは雪国の信濃だ。大雪を前にしてそれどころではない。
   斧入れて 香におどろくや 冬木立
冬木立の中で、枯木に斧を打ち込んだ。ところが、新鮮な木の香りが匂ってきたので驚いたんだ。
   楠の根を 静かにぬらす 時雨かな
大きな楠の木。その根元を時雨が静かに濡らしている。なんと森閑とした風景なんだ。 
 
 
 

 

●与謝蕪村の句 2  
   菜の花や月は東に日は西に
菜の花が一面に咲いているのでしょう。東の方を眺めると、月が昇ってきた。菜の花が見えているのだからまだ暗くはなっていない、日の入りの前。西を見ると太陽が低い位置に(おそらく)ぼんやりとかすんでいます。
写真として面白い構図ですが、撮影は現実には無理です。東西の地平線付近を一度に写さなければなりません。いわゆる魚眼レンズなら一枚のカットに納められますが、その場合、南北の風景も入ってきてしまいます。足もとの菜の花、東の月、西の太陽の3点セットを切り出した構図にはならないのです。三つのカットが一つの句にまとめて読みこまれています。写真だけでなく、より自由度の高い絵画としても無理でしょうね。絶対的に叙景の句なのにグラフィックとしては表現できない。どうしても、というなら、東の方向に1ショット、西の方向に1ショットとし、どちらにも手前に菜の花を入れる、というところでしょうか。でもこうすると、2枚の写真の同時性が表せないのです。
   春の海ひねもすのたりのたりかな
写真の話をしたのでこれについても。これは実はいろいろに表現できそうです。「春の海」ということをきちんと表現するのは細工がいりますが、いわゆる「水ぬるむ頃」などという感じは表現できます。「のたりのたり」という感じが出せれば、それはゆったりとしたものですから、"ひねもす"つまり"一日中"、とまではいきませんが、"長い時間"という感じは出せます。
そうはいうものの、「のたりのたり」などという擬態語を使って低俗にならない、というところはほんとによくできた句です。
   稲妻や浪もてゆえる秋津島
   ほととぎす平安城を筋かいに
この2句は、スケールの大きさであまりにも有名です。鳥瞰の構図になっています。いや、「稲妻や」の句は鳥瞰では日本列島としては見えませんね。ジェット機でも"秋津島"としてみるのは難しい。宇宙船から見た風景でしょうか。ところが"浪もてゆえる"ではもっと近づいてみています。宇宙船からは"浪"は見えないでしょうから。"浪もてゆえる"ように見えるのは、これは鳥瞰ですね。
"稲妻や浪もてゆえる"までは鳥瞰、"秋津島"では宇宙船と、想像力を駆使します。
"ほととぎす"の句では、視点はどこかと言うと、"ほととぎす"と"平安城"を両方眺めるにはホトトギスの少し上から、ということになるでょう。いうならば、鳥瞰するホトトギスの上から鳥瞰している、ということになりましょうか。そういう視点では平安京の碁盤の目といわれる構造もよく見えるでしょう。
この2句では、視点の自由な画像を楽しむことができます。
   さみだれや大河を前に家二軒
これは高校の時の古文で習った記憶があります。なぜ"二軒"なのか。1軒では頼りなさすぎ、3軒では安定しすぎて面白みがない。2軒が寄り添うように建っていて、かろうじて大河に対抗している、というような解説を古文の授業で習ったように思います。それにしても、二軒、五六騎、四五人などと、具体的な数を読みこんでイメージを確実なものにする、という点で蕪村は本当にうまいなあ、と思います。
   鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな
これも評価の高い句です。どうしてこんなにリアルにイメージがわくのか不思議です。"鳥羽殿"と具体的な地名を出した点で何か故実を考えるべきでしょうか。後白河法皇と平清盛の確執から清盛がクーデターを起こして後白河を鳥羽離宮(鳥羽殿)に幽閉する、という政変が思い起こされます。
また、江戸末期では、鳥羽伏見の戦いがあります。薩摩兵を中心とする新政府軍が徳川幕府打倒を掲げて起したクーデター。鳥羽というところはクーデターに縁がありますね。しかも、どちらのクーデターも成功しています。もっとも、蕪村は鳥羽伏見の戦いは全く知らないことですが。
"野分"はこの場面ではどのようなものか、というと、私は断然"向かい風"をイメージします。向かい風に逆らって鳥羽殿へと馬を繰る。"五六騎"ですから、一家の主とその兄弟・子というところでしょうか。急を聞いて一家をあげて駆けつけるのでしょう。渦を巻く風、とか追い風を利用してますます速度をあげて、とかいうより、向かい風もなんのその、というイメージが一番ぴったりくるような気がします。
   石工(いしきり)の鑿(のみ)冷やしたる清水かな
石工、鑿、清水の3点セット。鑿を清水で冷やす、ということですから、暑い季節でしょう。石工の仕事場のすぐ近くに清水が流れているわけです。視点のあるこちらからは、石工が作業している背中がみえ、その手前に清水が流れているようです。清水は常に流れているのでしょうが、流れがあるところでは水中のものは見えませんから、鑿を突っ込んだ所はその流れとは別のところの流れがないところで、水の中の鑿の刃先が光って見える。刃先の鋭い反射光が涼しさを一層引き立てます。涼しい清水と石工の暑い作業場。そして音としてはさらさらという清水の音と石工のカツカツという石を穿つ音。対比の片方が"石工"と軽く触れられただけでも、その存在が強く意識されます。
   四五人に月落ちかかる踊りかな
蕪村の句で特に高く評価されている訳ではないようで、前記の高橋治著「蕪村春秋」でも、110項目に分類した中の一つの「踊り」の項に4句とられた内の最後の句で、2行だけの簡単なコメントが付けられています。
私は、月または日が西の空に低く傾く、という風情に共感しやすいようです。「菜の花や月は東に日は西に」もそうですし、万葉集で一番気に入っている歌の一つには「ひむがしの野にかぎろいの立つ見えてかえり見すれば月傾きぬ」もあります。
この句では夜通し踊っていて、夕方東の空を上がってきた月が西に傾くころですから、明け方近く、でもおそらく明るくはなっていない。長い間休みなく働いてきて、無事刈り入れとなり、今日は夜通し踊りほうけていい、という日でしょう。もうお囃子も帰ってしまっているころ、酒を飲んで足もとが危うい、という状況で、それでもいつまでも踊っている、という様子が浮かびます。踊りとはいっても、半分は酔って足もとがふらついている、というところでしょう。現代だって、飲み会が二次会、三次会、四次会と続いて朝まで飲み歩いた、という場合があります。長い間の労働からやっと解放された、つかの間の自由な時間。周りからも、今晩はいつまで遊んでいてもいいんだよ、なんて言われたりしたのでしょうね。
   山暮れて紅葉の朱(あけ)を奪いけり
古今集の204番歌「ひぐらしの鳴きつるなへに日は暮れぬと思ふは山の陰にぞありける」を連想しました。いつの間にか暗くなった、という時間経過を歌っています。日が暮れて暗くなると、色彩がなくなり、明暗だけの視界になる、というのは、目のなかの色を感じる受光素子の感度が低く、暗いところでは働きが弱くなるのに比して、明るさを感じる受光素子の感度は高く、暗くても働く、という人間の生理的特性に合った事です。
もっとも、204番歌では日が暮れたので暗くなった、と思ったら、実は山の陰に入ったのであった、というのに対し、蕪村の句では本当に日が暮れています。でもいずれも時間の経過が表現されています。
   斧入れて香に驚くや冬木立
木を割ったときに立ちあがる香り。冬枯れと思っていたのに思いがけない生気。
幹の内部から立ち上がる香りは意外に強いものです。ただしその写真を撮影したのは夏、この薪をいつ用意したものかよくわかりませんが、丸太を割ってからある程度時間がたっていたでしょう。この句のように「斧を入れた瞬間」ではありません。ですから、木の香がそれほど強かったとは思えません。でも、木の香が特にも印象付けられたのは、木が割れた表面の様子から実際以上に強く感じたのでしょう。
"おもて見"には冬枯れでも、内部では滔々と生命力を維持して春を待っている、そのような生命力を感じます。
   こがらしや何に世わたる家五軒
どうやって生活しているのか、とふと思う。こんなところでは生活が成り立たないのでは、と思ってしまう様な所に家が5軒。トップ10の5番目に挙げた「さみだれや大河を前に家二軒」では2軒だった。それでも大河に対峙している事を最初に思う、という事は、ある程度の生活ぶりは想像できたのでしょう。たとえば近くに平地があり、田はないにしても畑がありそうで、大河を前にしているので水の心配もない。
ここでは、すぐ裏まで山が迫っていて、平らな土地がない。他の人家はこの5軒から遠く離れていて、孤立している。"家二軒"から"家五軒"に増えても、生活の安定さは逆に減っている。山道を下ってきて思いがけず出くわした寂しい集落。
私は、「こがらしや」は他に置き換えがいろいろできると思います。「菜の花や」とすると、道端にかろうじて菜の花が咲いているが、そのほかには生活を支える物がまるでない。「菜の花」という春の温かさとは正反対の生活の厳しさがかえって印象づけられる、というように。
   御手打の夫婦なりしを衣更
これは解説を読んで内容に納得がいきました。
本来ならお手打ちになる男女がなんとかそれを許されて、所払いにでもなったのでしょうか、離れたところで夫婦として生活を始めることができ、衣替えの季節を無事に迎えることができた。
"お手打ち"というのですから不義密通の様なことでしょうか。いや、"お手打ち"を免れたのですから、人をあやめた、とか、大金を盗んだ、とかの具体的な大罪ではなく、誰かがとても悲しむようなひどいことをした、でもその被害者が恨みはない、と二人をかばって、それで極刑は免れた、というところでしょうか。
衣替えまでなんとか生きながらえたのだから、これからは、問題を起こさずに生きていけば人生を全うできる、という見通しがついた、という安ど感でしょう。
   稲妻や二折三折剣沢
「稲妻や浪もてゆえる秋津島」とともに稲妻を読んだ句です。「秋津島」と日本列島を持ちこんでのスケールの大きさに圧倒されてあちらをとりましたが、「二折三折剣沢」というこちらもなかなかのもの。イメージが実にリアルです。
「二折三折」、これは稲妻を描くときにはよく出てきます。昔、若いころに南アルプスの北岳に友人と登ったときに、頂上付近でものすごい夕立に遭い、雷に怯えながら山小屋を目指して歩いたのですが、稲光が続くと岩かげに隠れ、それが止むとおそるおそる歩き出す、という経験をしました。友人が「少し離れて歩こう。近くにいて二人同時に雷にやられてはまずい」と言いだし、「確かにそうだ。登山では常識だ」などと思った事を何度か思い出しました。よほど怖い体験だったと見えて、ずっと後になって、山の頂上で雷に打たれる夢を見ました。「ああ、ついにやられた。でもまだ意識はあるな」、と思いながらシャツのボタンをはずすと、心臓のあたりにあの稲妻のギサギサの印が。雷に打たれるとやはりこう言う形で跡が残るんだ、絵などに書いてあったのと同じだ、などと思った夢でした。
「二折三折」とは、注連飾りにぶら下げる紙垂(しで)、これは紙を細長く切り込みを入れて折り曲げてギサギサを作るようですが、この様なイメージが浮かびます。浮世絵で稲妻が表現された有名なものとして葛飾北斎の「冨嶽三十六景 山下白雨」があります。大きく富士山を描き、その右下に稲妻が暗い背景に鋭く描かれます。こちらの形は紙垂の様な々の形ではなく、枝分かれするような形です。実際の稲妻は最近天気予報の番組などで写真が紹介されますが、北斎の方に近く、紙垂の様なギサギサなものではないようです。「二折三折」とはどちらにも取れますね。
「剣沢」というところも気になります。山が好きな人なら先ず北アルプスの剣岳の東側を這う剣沢を思い出すでしょう。蕪村の時代に剣岳や剣沢が知られていたとは思えません。"剣"という言葉で鋭い稲妻が強調されます。よって、これは現実の地名ではなく、イメージからくる仮想の地名であると想像しています。もしかして、蕪村が暮らした、あるいは通りかかったというのでもいいですが、そのような地に剣沢という地名が実際にあったのでしょうか。 
 
 
 

 

●与謝蕪村の句 3
   春の海 終日(ひねもす) のたりのたり哉(かな)
明和五年(一七六八)、『平安人物志』の画家の部に与謝蕪村の名が挙げられる。すでにこの頃には与謝が蕪村の名字あるいは生地であるかのようになっていた。しかし、蕪村が初めて与謝を称するのは宝暦十年(一七六○)、四十五歳の年のようだ。この年、蕪村は還俗し、妻を持ったらしい。やがて一女「くの」が生まれ蕪村は溺愛する。住居は京都、四条烏丸(からすま)東入ルの陋屋。
蕪村と与謝の関係は、丹後国与謝郡(京都府)に滞在した三十九歳から四十二歳の間の三年半ほどのことだけである。それにもかかわらず、与謝蕪村と通称したように、蕪村には与謝への特別の思い入れがあるかのようだ。
蕪村の最も古い確かな記録は元文二年(一七三七)、蕪村、二十二歳。江戸日本橋石町の俳諧師宋阿(そうあ)の弟子としてである。当初の俳名は「宰町(さいちょう)」。寛保二年(一七四二)、蕪村二十七歳の年、宋阿が没するとともに、関東、東北で浪々たる日々を送り、宝暦元年(一七五一)、三十六歳の年、およそ十五年ぶりに江戸・関東を離れ、京都に住みついた。三年後、丹後国与謝郡を訪れ、多くの画業を残して、四十二歳で京都に戻ってからは、六十八歳で世を去るまでほとんど京都を離れることはなかった。
蕪村は生計をもっぱら画業に頼っていたらしい。やがて京都では池大雅に並ぶ画家として高い評価を受けるようになる。蕪村の画業への研鑽は関東、東北の流浪の時代からすでに始まり、富家の援助も得ていたことは間違いない。
二十二歳までの蕪村についてはほとんど資料もなく、確かなことは分からないらしい。出家の年も不明であるが、宋阿の弟子になった頃にはすでに剃髪していた可能性もある。出家の理由も確かではない。当時、賭博師と同列に見られていた俳諧師の立場を拒み、蕉風(芭蕉風)の再興を目指していた師匠との共同生活を支えるためであったかもしれない。師宋阿の没後は俳諧を通じた知人を伝手として流浪の日々を送るのである。
蕪村については生い立ち等、不明な点ばかりであり、諸説ふんぷんとしている。こうした資料の欠落から、たとえば若年、与謝で出家した、あるいは京都の知恩院で出家したなどと設定した「蕪村伝」もある。
「春の海」の句は年代不明ながら須磨(神戸市)の海を詠んだという。しかし、蕪村のイメージには愛着した丹後与謝の海、天橋立が残っていた筈である。
   春風や 堤長うして 家遠し
安永六年(一七七七)、蕪村六十二歳の俳詩『春風馬堤(ばてい)曲』の一節である。馬堤とは毛馬(けま)の堤、すなわち蕪村の生地、摂津国東成(ひがしなり)郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬)の淀川堤のことである。『春風馬堤曲』は「やぶ入や 浪花を出て 長柄(ながら)川」という句で始まる。この俳詩は薮入りに故郷の毛馬に帰る大坂天満(てんま)の商家に奉公する娘の身に成り代わって詠まれている。
長柄川は江戸時代には普通、中津川、時には十三(じゅうそう)川と呼ばれ、毛馬で淀川から分かれる支流であったが、現在は新淀川となっている川である。明治十八年(一八八五)の大水害を契機に淀川の大改修が行われ、それまで毛馬から中の島への水流が本流であった淀川は、中津川を大幅に拡張した新淀川が淀川の本流とされるようになった。毛馬には淀川の水量調整のための閘門(こうもん)が設けられ、毛馬の閘門と呼ばれている。
中津川の長柄の対岸には正徳五年(一七一五)の崇禅寺(そうぜんじ)の馬場の仇討ちで知られた馬場があった。中津川に接した松林に囲まれた広大な馬場であったようだ。
余談になるが、三島由紀夫が日本のギリシア悲劇と呼んだ東映のヤクザ映画『総長賭博』(昭和四十三年)のように、東映のヤクザ映画や時代劇は時折、優れたドラマ性を持つ作品を生み出している。マキノ雅弘監督『仇討崇禅寺馬場』(昭和三十二年、大友柳太朗、千原しのぶ主演)もそうした数少ない作品のひとつだろう。
仇持ちの主人公は長柄の仲仕(なかし:荷運び業)の店の用心棒を勤めながら、自分を仇とする兄弟を待っている。しかし、主人公がむざむざと殺されることを厭った仲仕の頭の娘は主人公の思いとは逆に、手下の仲仕たちを助っ人にたのみ、主人公を仇とする兄弟を返り討ちにする。世間の同情は返り討ちに遭った兄弟に集まる。主人公と娘は世間の批判を浴び店も打ち壊される。仲仕の頭の娘の一途な恋心が主人公を悪者にし、二人を社会の敵として破滅に追い込む。実話からはかなり外れた創作であるが、シェークスピア悲劇にも匹敵する悲劇といえよう。
   几巾(いかのぼり) きのふの空の ありどころ
凧(たこ)を上方では「いかのぼり」あるいは「いか」と呼んだ。普通、「紙鳶」と書かれるが、蕪村は「凧」の字を分けて「几巾」と書いている。(『摂津国名所図会集成』にある千代(加賀の千代女)の俳句(吹け吹けと 花に欲なし 几巾)でも「几巾」と書かれているが、これは蕪村にならったものか?)
新春、大坂では大坂城の周辺でさかんに凧揚げが行われた。小さな子どもは団扇形、少し大きくなると角形、また鳶の形の凧もあり、古くから唸りを付けて揚げられたという。大坂城の東南の杉山(森ノ宮の辺り)という小高い丘は凧揚げの名所だった。
毛馬からは杉山の凧は見えなかったろうが、蕪村も幼い頃、毛馬の堤で凧揚げを楽しんだことだろう。「きのふの空」という言葉からは遥か昔の大坂の空を思い描いているように思われる。
「やぶ入の またいで過ぬ 几巾(いか)の絲(いと)」
薮入に奉公先から故郷にもどる貧家の子(おそらく男の子)が、凧揚げする子らを横目に見ながら、道に垂れた凧の糸を跨いで通り過ぎる。これは現実にあった思い出にちがいない。
蕪村は郷里毛馬を出奔して十数年後、京都まで戻りながら、生家を尋ねた形跡はない。
「むかしむかし しきりにおもふ慈母の恩」(『春風馬堤曲』より)
「父母の しきりに思ふ 秋の暮」
蕪村は故郷や家族をひたすら愛慕しているとしか思えない。それなのに何故、故郷を捨て、しかも一度も帰郷しなかったのか?その事情は推測するしかないが、謎解きのような気持ちを起こさせる。
   菜の花や 月は東に 日は西に
毛馬の辺りは古代より湿地帯が広がり、しばしば水害に見舞われた。第二次大戦後まで蓮根畑が連なっていたという。縦横に水路が走っていたが、水運のためというより、大坂の西横堀川以西の西船場(せんば)の堀と同様に、水はけを良くするというのが大きな目的だったようだ。従って一面に菜の花畑が広がるという風景はもう少し北や東であったろう。しかし、淀川堤を少し歩けば菜の花畑も目に入ったことと思われる。
蕪村の生家を推測するに、水呑百姓ましてや小作人ではなく、相当な地主であったろうと思われる。『春風馬堤曲』は毛馬の娘が天満の商家に奉公に出るという設定になるが、蕪村自身は二十歳近くまで奉公に出ることもなく、おそらく書画に親しんで育ったと思われる。それとともに何故、与謝に愛着を抱いたかを鑑みると、実母の故郷が与謝であったと想定したくなる。すなわち丹後から大坂に働きに来た貧家の娘に、年の離れた雇い主の手が付いて蕪村が生まれたと想像してみる。「替衣 母なん藤原 氏也けり」と着物の紋から母は藤原氏の縁者のように言っているが、子供はたわいのないことを誇ることもある。幼少の頃、着物の整理をしながら言った母の言葉に無意味に誇りを持ったことを思い出したのであろう。
   ゆく春や おもたき琵琶の 抱心(だきごころ)
「両人対酌すれば山花ひらく 一杯一杯また一杯 我酔うて眠らんと欲す、卿(きみ)しばらく去れ 明朝意あらば琴を抱いて来たれ」(『中国名詩選』(岩波文庫))
蕪村が李白のこの七言絶句をイメージしているのは間違いないだろう。しかし、この句にはむしろジョルジュ・サンドとの出会いと別れを歌ったミュッセの「夜」の冒頭の句が連想される。
女詩人よ、リュートをとり、我に口づけせよ
野ばらは蕾をふくらませ、香高く
この夕べ、春は生まれ、風は抱(いだ)き合う
行く春、晩春といっても旧暦の三月末は現在の四月の中頃から終わり頃になろう。ミュッセがジョルジュ・サンドに出会ったのは一八三三年の春ということだが、「五月の夜」から連作「夜」は始まる。春の盛り、日一日と暖かくなり、花の蕾が次々と膨らんでくる、そうした夕べの生暖かい気だるさが、恋慕の甘さをいっそう匂いたたせている。
蕪村の時代、琵琶を抱く者は琵琶法師以外はほとんどいなかったであろう。しかし、琵琶の重さは行く春という季節にあっては、貧しい琵琶法師のうらぶれた感じよりも、暖かい快さと混じり合い、艶かしい抱き心地となっているように思われる。
大阪の造幣局では毎年四月中頃、桜の通り抜けが行われている。散り始めもあるが、まだ満開の桜もいくらもある。江戸時代、淀川(現、大川)の造幣局の対岸付近にあった東町奉行所では桜の季節、やはり庶民が奉行所の庭の桜見物のため通り抜けるのを許していたようだ。
享保九年(一七二四)、妙知(みょうち)焼け(南堀江の女性、妙知方より出火)と呼ばれる大火で大坂の町は大半が焼け、東町奉行所も類焼した。この時まで東町奉行所の西隣にあった西町奉行所はその後、東横堀川の東岸に移転する。享保元年(一七一六)生まれの蕪村、数え九歳の年になる。大火はもちろん蕪村の生地、毛馬には及んでいない。
蕪村の幼時、母に抱かれて東町奉行所の花見に行ったことはないであろうが、琵琶の重さは母の抱く幼児の方がふさわしいように感じられる。
   さみだれや 大河を前に 家二軒
この句は「五月雨を あつめて早し 最上川」という芭蕉の句としばしば対比される。芭蕉の動に対して蕪村の静、芭蕉の音楽性に対して蕪村の絵画性。蕪村が絵師であったことからも、この句を絵画的に見ることには何らの矛盾もないだろう。五月雨、現在の六月の梅雨時の雨、あるいはもう少し後の梅雨明けの豪雨か。濁流を前に二軒の百姓家が少し離れて建っている。あるいは降りしきる五月雨に煙るように霞んで見えている。そうした風景をこの句に見るのは自然なことだ。
しかし、ここで家二軒を大河の同じ岸辺でなく、対岸に向かい合って建っていると見たらどうなるだろう。
近松半二は蕪村より十歳ほど年下の大坂の浄瑠璃作家である。日本の「ロミオとジュリエット」とも呼ばれる彼の『妹背山婦女庭訓(いもせやま おんな ていきん)』は明和八年(一七七一)大坂道頓堀の竹本座で初演された。『妹背山』の山の段では吉野川をはさんで対立する二軒の家の息子と娘が恋仲になる。川をはさんだ二人の嘆きの場は舞台美の傑作とされている。「さみだれや」の句は安永六年(一七七七)とされる。近松半二と蕪村とは何の関係もないだろうが、蕪村の句からそうした物語を作り出すことも可能であろう。
「梅咲ぬ どれがむめやら うめじややら」
これは本居宣長と上田秋成との「梅」表記論争を揶揄したもので、親交を結んでいた秋成から蕪村が直接聞いた話らしい。同じ頃、京都四条で芝居見物の日々を送っていた本居宣長がもっぱら人形浄瑠璃を贔屓にしていたのに対し、蕪村は歌舞伎一辺倒であったようだ。「顔見世や 夜着を離るる 妹がもと」(明和五年(一七六八))この頃には蕪村は四条の歌舞伎の常連客だったかもしれない。「宝舟 慶子(けいし)が筆の すさび哉」この慶子というのは初代中村富十郎の俳号で絵、書など諸芸にも秀でた役者であり、蕪村の贔屓するところだった。
絵画的と一般に評される蕪村ではあるが、一面、歌舞伎好きであり、その句もまた絵画的というより演劇的に捉えられる句が多数ある。
江戸時代、淀川の淀大橋と天満橋の間には橋はなく、すべて渡し舟で両岸を往還していた。
   月天心 貧しき町を 通りけり
蕪村が五十歳を過ぎた頃、池田(大阪府)に弟子、田福(でんふく)を訪ねた。その時、池田に住む桃田伊信(これのぶ)という絵師に四十年ぶりに再会した。「童遊を互に語りて」(田福「蕪村三回忌の追福摺物(ついふくすりもの)」)とあるが、かつて二人が出会ったのは蕪村が十歳前後、伊信はおそらく三十歳くらいだったと思われる。伊信が蕪村の最初の絵の師匠といえるのかどうか分からない。蕪村が幼児期、あるいは少年期に池田まで絵を習いに行ったとも思えない。
毛馬から池田に行くには、毛馬の渡し、長柄の渡し、そこからは落語『池田の猪(しし)買い』の行程になるが、三国の渡しと三箇所も渡しを渡り、さらに数里の道を行かなければならい。片道およそ三、四時間もかけて、絵を習いに行ったとは思えない。(そもそも、当時、伊信は池田ではなく京都に住んでいたようだ。)
おそらく桃田伊信が絵の修行かたがた援者を求めて大坂近郊の村々を巡っていた時、毛馬の庄屋、蕪村の屋敷にも立ち寄ったのだろう。すでに絵心のあった蕪村は描いた絵を見せ、手直しも受けたかもしれない。それはほんのしばらくの期間のことであったに違いない。しかし、十数年後、蕪村自身が関東、東北の村々を巡った時、伊信の姿が思い出されていたかもしれない。時にはひもじさに堪え、寒さに震えながら浪々の旅を続けていた二十歳代の蕪村には、現実には貧しくなくとも、貧しいと目に写った町を通り過ぎたこともあるだろう。
「宿かさぬ 村あわれなる 野分哉」
「宿かさぬ 火影や雪の 家つづき」
四十数年ぶりに再会した二人はこうした旅のことも話したに違いない。
ここでは母とともに夜遅く買い物に出かけ、通り過ぎた町として描いてみた。江戸時代、灘の台頭以前、池田の銘酒は下り酒として伊丹と並んで人気があり、池田は決して貧しい町ではなく、むしろ豊かな町だった。蕪村の弟子、松村月渓は池田に住んでから呉春と改名した。現在も残る池田の銘酒「呉春」は月渓にちなんで江戸末期、名付けられたいう。
池田は古くは呉羽(くれは)の里と呼ばれた。俳名呉春はこの池田の古い地名からつけられている。明治の初め頃、池田の呉服神社の傍に出来た芝居小屋、呉服座が、今は愛知県犬山市の明治村に移築されて残っている。この神社、芝居小屋ともに「くれは」と読まれている。また、池田には畑(はた)という地名や畑野小学校があるが、これらも本来は「畑」でなく、「服(織)部」(はたおりべ→はとりべ→はっとり)の「はた(服)」であろう。
   愁ひつつ 岡にのぼれば 花いばら
淀川の堤には今も茨が点在している。夏には茨の白い花があちこちに見える。「花いばら 故郷の路に 似たるかな」という句の路は淀川堤の路であったかもしれない。淀川の堤は今市(現、大阪市旭区)の渡しの辺りから大坂城の京橋を起点とする京街道と合流する。
この句は安永三年(一七七四)、関東時代の友人の父の死の知らせを受けて詠んだとされる。しかし、ここでは「愁ひ」を別離として絵にしてみた。母に縁談が持ち上がり、帰郷前、断腸の思いを抱いて子と散策する。まだ幼い息子はそれが母との別れとも知らず、歩き疲れて母の膝を枕にうたた寝をしている。夏の日の照りつける堤には草いきれとともに茨の花の香りが漂っている。
夜半亭(蕪村)作の『春風馬堤曲』にならって狂言風に空想してみたが、実のところはどうなのか?蕪村は出奔以来、一度も毛馬に戻ったことがなかったとしても、郷愁の思いは関東に出た若年からすでに色濃くあったようだ。二十歳代、関東、東北を流浪していた時には浪花四明、淀水など、大坂を示す画号を用いている。また東成蕪村、東成謝長庚(しゃちょうこう)、東成謝寅(しゃえん)などと東成の地名を冠した俳号や画号を晩年まで好んで用いた。最晩年の画号謝寅の寅は蕪村の本名あるいは幼名の一部である可能性も高い。しかし、与謝蕪村を通称として通したことから鑑みると実家に対しては少なからざる恨み、あるいは気後れのようなものがあったのかもしれない。
しかし、こうした空想とは別の空想で蕪村伝を描いた方がより事実に近いかもしれない。弟は存在せず、実家は没落し、もはや毛馬には親類家族の類はなく、幼友達が数人、残っていたに過ぎない。(享保の大飢饉で実家は没落したという説もある。当時、蕪村、十七歳)もしかすると他家に嫁いだ姉がおり、存命だったかもしれない。(蕪村の臨終間近に二人の姉が呼び寄せられたという証言もある)しかし、村人の蕪村を見る目は冷たく・・・それにしても蕪村の出家の時期は何時であり、理由は何だったのか?出家といっても芭蕉と同じようにただ、僧形をしていただけなのかもしれない。今は幼時に別れた母と故郷への郷愁だけを主題としておこう。
   山暮れて 野は黄昏の 薄哉
国木田独歩の「武蔵野」に引用され、この薄の原はかつての武蔵野に合うのかもしれないし、蕪村ももしかすれば武蔵野の原を知っていたのかもしれない。この類句に「狐火の 燃えつく斗 枯尾花」という句もある。ともに安永二、三年(一七七三、四)頃の作とされている。蕪村、五十八、九歳、もちろん京都に定住してからの時代である。
「狐火」の句は「これは塩辛き様なれども、いたさねばならねばならぬ事なり」と蕪村自身が断っているらしい。(大魯宛て書簡)「塩辛き」とは「情に流される」という意味(玉木司訳註・角川ソフィア文庫)だそうだが、この「情」には死者への思いが込められているように感じられる。安永年間初めには蕪村は「紫狐庵」という別号も用いており、「狐火」の句は単に大袈裟な幻想的見立て(玉木)というより自分自身の心情を表しているように思える。この頃には「門を出れば 我も行人(ゆくひと) 秋のくれ」「門を出て 故人に逢ぬ 秋のくれ」という句もある。この故人が誰を指すのか不明だが、数年後の安永六年、蕪村は夏行(げぎょう:僧が一定期間、篭って修行すること、安居(あぐい)ともいう)と称して百二十八句を詠んだ。そこで一旦中断してさらに七句を加え、計百三十五句を詠んだ。これは母の五十回忌のためとも言われ、まもなく死後、五十年になる母への思いが強くなっていたとも考えられる。  
 
 
 

 

●与謝蕪村の句 4
薄曇る水動かずよ芹の中 芥川龍之介
いかにも龍之介らしい鋭い着眼。この句は、芹を詠んでいるようでいて、詠んではいない。芹という清澄な植物に囲まれた水のよどみを詠むことによって、おのが心の屈折した水模様を描き出している。ただし「上手な句」ではあるけれども、芹(自然)とともに生きている感覚はない。同じ「芹の中」を詠んだ作品でも、蕪村の「これきりに径尽きたり芹の中」の圧倒的な自然感からは、遠く隔たっている。まったくもって「うめえもんだ」けれど、どこかで読者を拒んでいる雰囲気を感じるのは、私だけであろうか。
菜の花や月は東に日は西に
今から二百年以上も前の俳句の一つがいつ詠まれたか日付までよくわかっているものだと半信半疑であるが、これが本当なら「菜の花や…」は蕪村四十八歳の作だ。天文学的考証をすれば、旧暦の十四日か十五日の情景を詠んでいることになる。それはともかく、蕪村は画家だけあって、この句も非常に絵画的である。放浪生活ののち俳句にのめりこみ、「芭蕉に復(かえ)れ」の主張の下、俳諧復興の指導者となった。絵も俳句もやり始めるととことん極める人で、才能だけに甘えず勉強を怠らなかった。その結果が非常に単純明快な言葉に落ち着いているのがニクイ。単純明快はたやすいようで、むずかしいのだ。わが故郷、神戸の須磨浦海岸へ行くと、蕪村のこれまた有名な句「春の海ひねもすのたりのたりかな」の碑が建っている。春の瀬戸内海はまさに、この句を絵にかいたようなものだった。この有名な句は、安永三年(1774)の今日(旧暦・2月15日)詠まれたと伝えられている。
鮒鮓や彦根の城に雲かかる
旧版の角川歳時記でこの句を知ったとき、まだ鮒鮓(ふなずし)を知らなかった。いかにも美味そうであり、品のある味がしそうだ。憧れた。城に似合う食べ物なんぞ、めったにあるものじゃない。とりあえず彦根東高校出身の友人に「うまいだろうなあ」と尋ねたら、「オレは嫌いだね」とニベもなかった。なんという無風流者……。そう思ったが、後に食べてみて大いに納得。私の舌には品格も何もあったものではなくて、あの臭いには閉口させられた。もともと寿司は魚の保存法の一種として開発された食物だから、鮒鮓のあり方は正しいのだ。と、頭ではわかっているけれど、いまだに駄目である。たぶん納豆嫌いの人の心理に共通したところがあるのだろう。でも、句は素敵だ。単なる叙景句を越えている。
甲賀衆のしのびの賭や夜半の秋
甲賀衆は、ご存じ「忍びの者」。江戸幕府に同心(下級役人)として仕えた。秋の夜長に退屈した忍びの者たちが、ひそかに術くらべの賭をしてヒマをつぶしているという図。忍びの専門家も、サボるときにもやはり忍びながらというのが可笑しいですね。ところで、このように忍者をちゃんと詠んだ句は珍しい。もちろんフィクションだろうが、なんとなくありそうなシーンでもある。蕪村はけっこう茶目っ気のあった人で、たとえば「嵐雪とふとん引き合ふ侘寝かな」などというちょいと切ない剽軽句もある。嵐雪(らんせつ・姓は服部)は芭蕉門の俳人で、蕪村のこの句は彼の有名な「蒲団着てねたるすがたやひがし山」という一句に引っ掛けたものだ。嵐雪が死んだときに蕪村はまだたったの九歳だったから、こんなことは実際に起きたはずもないのだけれど……。
沖に降る小雨に入るや春の雁 黒柳召波
井本農一・尾形仂編『近世四季の秀句』(角川書店)の「春雨」の項で、国文学者の日野龍夫がいきなり「春雨は、すっかり情趣が固定してしまって、陳腐とはいうもおろかな季語である」と書いている。「月様、雨が。春雨じゃ、濡れてゆこう。駕篭でゆくのはお吉じゃないか、下田みなとの春の雨」では、なるほど現代的情趣の入り込む余地はない。そこへいくと近世の俳人たちは「いとも素直に春雨の風情を享受した」ので、情緒纏綿(てんめん)たる名句を数多く残したと日野は書き、この句が召波の先生であった蕪村の「春雨や小磯の小貝ぬるるほど」などとともに、例証としてあげられている。蕪村の句も見事なものだが、召波句も絵のように美しい。同時代の人ならばうっとりと、この情景に心をゆだねることができただろう。しかし、こののびやかさはやはり日野の言うように、残念ながら現代のものではない。だから、この句を私たちが味わうためには、どこかで無理に自分の感性を殺してかからねばならぬ、とも言える。これはいつの時代にも付帯する後世の人間の悪条件ではあるが、その「悪」の比重が極端に加重されてきたのが「現代」である。
看護婦にころがされつゝ更衣 小山耕一路
元来が無精者だから、意識して更衣(ころもがえ)などはしたことがない。東京あたりでは、今日から子供たちの制服がかわって、そんな様子を眺めるのはとても好きだ。勝手なものである。ところで、入院患者にも衣更があるとは、この句を読むまでは知らなかった。想像の外であった。あまり身体の自由が利かない患者は、みなこのようにころがされて夏用の衣服に着がえるのだろう。笑っては申し訳ないが、つい、クスクスとなってしまった。看護婦も大変なら、患者も大変だ。やがて夏物にあらたまったときに、作者はとてもいい気持ちになっただろう。昔から衣更には佳句が多い。なかでも蕪村の「御手打の夫婦なりしを更衣」は有名だが、私は採らない。フィクションかもしれないけれど、あまりに芝居がかっていて陰惨だからである。
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
天明三年(1783)十二月二十五日未明、蕪村臨終吟三句のうち最後の作。枕頭で門人の松村月渓が書きとめた。享年六十八歳。毎年梅の季節になると、新聞のコラムが有名な句として紹介するが、そんなに有名なのだろうか。しかも不思議なのは、句の解釈を試みるコラム子が皆無に近いことだ。「有名」だから「自明」という論法である。だが、本当はこの句は難しいと思う。単純に字面を追えば「今日よりは白梅に明ける早春の日々となった」(暉峻康隆・岩波日本古典文學大系)と取れるが、安直に過ぎる。いかに芸達者な蕪村とはいえ、死に瀕した瀬戸際で、そんなに呑気なことを思うはずはない。暉峻解釈は「ばかり」を誤読している。「ばかり」を「……だけ」ないしは「……のみ」と読むからであって、この場合は「明る(夜)ばかり」と「夜」を抜く気分で読むべきだろう。すなわち「間もなく白梅の美しい夜明けなのに……」という口惜しい感慨こそが、句の命なのだ。事実、月渓は後に追悼句の前書に「白梅の一章を吟じ終へて、両眼を閉、今ぞ世を辞すべき時なり夜はまだし深きや」と記している。月渓のその追悼句。「明六つと吼えて氷るや鐘の声」。悲嘆かぎりなし。
さしぬきを足でぬぐ夜や朧月
高橋治『蕪村春秋』によれば、この句は「蕪村信奉者がわけてもしびれる王朝ものの一句である」という。「さしぬきは指貫、元来公家の衣服の一種で、裾をひもでくくるようにした袴(はかま)である。公服や略装に広く用いられた。その性格から、この句は若き貴公子を詠んだ、と通常考えられている」と説明があり、「つかみどころがないのがこの句の長所なのだ」とある。たしかに、つかみどころがない。どう読んでも空想の産物だからというのではなくて、情景があまりにも漠としているからだ。句の人物は酔って帰ったのか、それとも情事のさなかなのか、などといろいろに考えられる。現に、昔から解釈には何通りもあって、どれも当たっているし当たっていないしと、歯痒いかぎりだ。なかには『源氏物語』を引っ張りだすムキもある。そんなことを思い合わせて、私はいつしか情景を詮索してもはじまらない句だと思うようになった。観賞すべきは、生臭さだけだと。朧月だけの照明効果しかない暗い室内で、いわばスーツのズボンを足で脱ぐような行為そのものの自堕落さ。その生臭い感じだけを、作者は訴えたかったのではあるまいか。王朝も虚構なら、朧月もフィクションだ。人の呼吸が間近にあるような生臭さを演出するために、蕪村はこの舞台装置を選択したのだと。
日輪を送りて月の牡丹かな 渡辺水巴
花の王者と呼ばれる豊麗な牡丹の花は、蕪村の有名な「牡丹散りて打かさなりぬ二三片」をはじめ、多くの俳人が好んで題材にしてきた。巧拙を問わなければ、俳句ではもう何万句(いや、何十万句かもしれない)も詠まれているだろう。いまやどんな牡丹の句を作っても、類句がどこかにあるというほどのものである。すなわち、作者にとって、なかなかオリジナリティを発揮できないのが、牡丹の句だ。この花を詠んで他句に抜きん出るのは至難の業だろう。原石鼎のように「牡丹の句百句作れば死ぬもよし」とまで言った人がいる。とても、百句など作れそうもないからだ。だから、誰もが抜きんでるための苦心の工夫をほどこしてきた。で、水巴の句は見事に抜きん出ている一例ではあるが、しかも名句と言うにもやぶさかではないけれど、なんだかあまりにも技巧的で、逆に落ち着かない感じもする。「月の牡丹」とはたしかに意表を突いており、日本画を見るような趣きもあり、テクニック的には抜群の巧みさだ。しかし、悲しいかな、巧いだけが俳句じゃない。「日」と「月」と大きく張って、しかし、この句のスケールのなんという小ささだろうか。言葉をあやつることの難しさ。もって小詩人の自戒ともしたいところだが、しかし、やはり図抜けた名句ではありますぞ。
満月や泥酔という父の華 佐川啓子
満月というと、俳句では仲秋の名月を指す。陰暦八月十五日の月(すなわち、今宵の月だ)。蕪村に「盗人の首領歌よむけふの月」があり、大泥棒までが風流心にとらわれてしまうほどに美しいとされてきた。「けふ(今日)の月」も名月を言う。したがって、名月を賞でる歌は数限りないが、この句は異色だ。名月やら何やらにかこつけては飲み、いつも泥酔していた父。生前はやりきれなく思っていたけれど、今となっては、あれが「父の華(はな)」だったのだと思うようになった。今宵は満月。酔っぱらった父が、なんだか隣の部屋にでもいるようである……。泥酔に華を見るとは、一見奇異にも感じられるが、そうでもあるまい。死者を思い出すというとき、私たちもまた、その人の美点だけをよすがとするわけではないからだ。本音ではむしろ、欠点のほうを微笑しつつ思い返すことのほうが多いのではなかろうか。その意味からして、心あたたまる句だ。ところで、季語の名月には他にも「明月」など様々な言い換えがあり、なかに「三五(さんご)の月」もある。十五は三掛ける五だからという判じ物だが、掛け算を知っていることが洒落に通じる時代もあったということですね。
河豚汁のわれ生きている寝ざめ哉
河豚汁(ふぐじる)は、河豚の身を入れた味噌汁。江戸期の河豚料理は、ほとんどこれだったという。ただし、中毒を起こして死ぬ者が多かったので禁制(解禁は明治期)。肝臓、卵巣、胃、腸などに毒あり。それでも美味の誘惑には抗しきれず、ひそかに食べ続けられた。どれだけの人が、命を落としたことか。蕪村も、かくのごとくにヒヤリとしている。もっとも蕪村はフィクションの名人だったので、実際に食したのかどうかはわからない。でも、当時河豚を食べた人の気持ちは、みなこのようであったろう。現代でも、ときどき新聞に河豚中毒の記事が載る。戦後になって河豚で死んだ最大の有名人は、歌舞伎俳優の坂東三津五郎(八代目)だろう(1975年1月16日)。口がしびれるような部分が好きだったという記事を、なんとなく覚えている。ところで、河豚の王様はトラフグ。天然物は市場で1キロ当たり二万五千円から三万円もしているようだ。とても、庶民の口には入らない。本場の下関の友人が「このごろは高うていけん」と、こぼしていた。「大衆向け料理屋で使われるのは、ショウサイフグ、マフグ、シマフグ」だと、新聞で読んだ。
年の内に春立つといふ古歌のまま 富安風生
立春。ところが、陰暦では今日が大晦日。暦の上では冬である年内に春が来たことになり、これを「年内立春」と言った。蕪村に「年の内の春ゆゆしきよ古暦」があり、暦にこだわれば、なるほど「ゆゆしき」事態ではある。陰暦の一年は、ふつう三五四日だから、立春は暦のずれにより十二月十五日から一月十五日の間を移動する。そのあたりのことを昔の人は面白いと思い、芭蕉も一茶も「年内立春」を詠んでいる。したがって、陽暦時代に入ってから(1872)の俳句にはほとんど見られない季題だ。風生はふと思い当たって、掲句をつぶやいてみたのだろう。「古歌」とは、言うまでもなく『古今集』巻頭を飾る在原元方の「年の内に春は来にけりひととせを去年とやいはん今年とやいはん」だ。昨日までの一年を「去年(こぞ)」と言えばよいのか、いややはり暦通りに「今年」と呼べばよいのか。困っちゃったなアというわけで、子規が実にくだらない歌だと罵倒(『歌よみに与ふる書』)したことでも有名な一首である。事情は異るが、カレンダーに浮かれての当今の「ミレニアム」句を子規が読んだとしたら、何と言っただろう。少なくとも、肩を持つような物言いはしないはずである。
五月雨や大河を前に家二軒
画家でもあった蕪村のの目が、よく生きている。絵そのものと言っても、差し支えないだろう。濁流に押し流されそうな小さな家は、一軒でも三軒でもなく、二軒でないと視覚的に座りが悪い。一軒ではあまりにも頼りなく、すぐにでも流されてしまいそうで、かえってリアリティに欠ける。濁流の激しさのみが強調されて、句が(絵が)拵え物のように見えるからだ。逆に三軒(あるいはそれ以上)だと、にぎやかすぎて流されそうな不安定感が薄れ、これまたリアリティを欠く。このことから、蕪村にはどうしても「二軒」でなければならなかった。考えてみれば、「二」は物のばらける最小単位だ。したがって、不安定。夫婦などの二人組は、「二」を盤石の「一」にする(つまり「不二」にしたい)願望に発しているので、ばらける確率も高いわけである。ついでに書いておけば、手紙の結語の「不一」。あれは、「一」ではないという意味で、「以上、いろいろ書きましたが、「一」のように盤石の中身ではありませんよ」と謙遜しているのである。これが一方で、「三」となると「鼎」のように安定するのだから面白い。ところで「大河」の読みだが、専門家は「たいが」と読むようだ。でも、この句をまず言葉として読む私は、「おおかわ」に固執したい。「たいが」だなんて、日本の河じゃないみたいだからだ。もっとも、蕪村自身は「たいが」派でしょうね。そのほうが、墨絵風な味がぐっと濃くなるので……。
夏河を越すうれしさよ手に草履
季語は「夏の川」。夏の川は、梅雨時から盛夏、晩夏と季のうつろいにしたがって、さまざまな表情を見せる。蕪村は「河」と書いているが、句のそれは丹後(現在の京都府)は与謝地方の小川だったことが知れている。川底の小石までがくっきりと見える清らかな真夏の小川だ。深さは、せいぜいが膝頭くらいまでか。草履(ぞうり)を手に持ち、裾をからげてわたっていく「うれしさ」が、ストレートに伝わってくる。作者はこのとき、すっかり子供時代にかえって、うきうきしているようだ。べつに、わたる先に用事があったわけじゃない。思いついて「たわむれ」に川に入ったということ。そのことは「手に草履」が示していて、「たわむれ」ではなかったら、あらかじめ草履ではなく、はいたままでわたれる草鞋(わらじ)を用意していたはずだからだ。わざわざ「手に草履」と書いたのは、あくまでも私の行為は「たわむれ」なのですよと、同時代の読者にことわっているのである。同時に「ウラヤマシイデショ」というメッセージも、ちょっぴり含んでいるような……。「企む俳人」蕪村にしては、珍しくも稚気そのままを述べた句だと「うれしく」なった。
川半ばまで立秋の山の影 桂信子
立秋。ちなみに、今日の東京地方の日の出時刻は4時53分だ。だんだん、日の出が遅くなってきた。掲句では、昼間の太陽の高度が低くなってきたところに、秋を感じている。立秋と聞き、そう言えばいつの間にか山影が伸びてきたなと納得している。視覚的な秋の確認だ。対して、聴覚的な秋の確認(とはいっても気配程度だが)で有名なのは、藤原敏行の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる」だろう。『古今集』の「秋歌」巻頭に据えられたこの一首は、今日にいたるまで、日本人の季節感覚に影響を与えつづけている。俳句作品だけに限っても、それこそおどろくほどに、この歌の影響下にある句が多い。「秋立つや何におどろく陰陽師」(蕪村)等々。したがって、掲句の桂信子はあえて聴覚的な気配を外し、目にも「さやかに」見える立秋を詠んでみせたということか。いつまでも「おどろく」でもあるまいにという作者の気概を、私は感じる。ところで、秋で必ず思い出すのはランボーの『地獄の季節』の最後に収められた「ADIEU」という詩。「もう秋か! それにしても俺達は、なにゆえに永遠の太陽を惜しむのか」(正確なな翻訳ではありません。私なりの翻案です)ではじまる作品だ。ここには、いわば反俳句的な詩人の考えが展開されている。日の出が早いの遅いのなどという叙情的季節感を超越し、ひたすらに「聖なる光明をを希求する」(宇佐美斉)若者の気合いが込められている。
送り火の法も消えたり妙も消ゆ 森澄雄
陰暦7月16日(現在は8月16日)の夜8時、まず京都如意ヶ岳の山腹に「大」の字のかがり火が焚かれ、つづいて「妙法」「船形」「左大文字」「鳥居形」が次々と点火される。荘厳にして壮大な精霊送火だ。荘厳で壮大であるがゆえに、消えていくときの寂寥感も一入。しばしこの世に戻っていた縁者の霊とも、これでお別れである。「妙法」は「妙法蓮華経」の略だから、五山のかがり火のなかでは、唯一明確に仏教的な意味合いを持つ。その意味合いを含めて、作者は一文字ずつ消えてゆく火に寂しさを覚えている。大学時代の私の下宿は、京都市北区小山初音町にあった。窓からは如意ヶ岳がよく見え、「大文字」の夜は特等席みたいなものだった。点火の時刻が近くなると、なんとなく町がざわめきはじめ、私も部屋の灯りを消して待ったものだ。「大」の文字が浮かび上がるに連れて、あちこちで賛嘆の声があがりはじめる。クライマックスには、町中がウワーンという声ともつかぬ独特の音の響きで占められる。実際に声が聞こえてくるというよりも、そんな気になってしまうのかもしれない。あの、いわば低音のどよめきが押し寄せてくる感じは忘れられない。蕪村に「大文字やあふみの空もたゞならぬ」があるが、その「たゞならぬ」気配は町中にも満ちるのである。
朝顔にうすきゆかりの木槿かな
木槿(むくげ)の花盛りの様子は、江戸期蕉門の俳人が的確に描いているとおりに「塀際へつめかけて咲く木槿かな」(荻人)という風情。盛りには、たしかに塀のあたりを圧倒するかの趣がある。とくに紅色の花は、実にはなやかにして、あざやかだ。残暑が厳しいと、暑苦しさを覚えるほどである。ところで、掲句。なんだかうら寂しい調子で、およそ荻人句の勢いには通じていない。それは蕪村が、木槿に命のはかなさを見ているからだ。たいていの木槿は早朝に咲き、一日でしぼんで落ちてしまう。そこが朝顔との「うすきゆかり」なのである。花の命は短くて「槿花一日の栄」と言ったりもする。しかし私には、どうもピンとこない。たとえ盛りを過ぎても、木槿の花にこの種の寂しさを感じたことはない。理屈としては理解できるが、次から次へと咲きつづけるし花期も長いので、むしろ逞しささえ感じてきた。桜花の短命とは、まったく異なる。『白氏文集』では、松の長寿に比してのはかなさが言われているから、掲句は実感を詠んだというよりも、教養を前面に押し立てた句ではないだろうか。句の底に、得意の鼻がピクッと動いてはいないか。そんな気がしてならない。一概に教養を踏まえた句を否定はしないけれど、これでは「朝顔」が迷惑だろう。失敗した(!?)理屈句の見本として、我が歳時記に場所を与えておく。
やはらかに人わけゆくや勝角力 高井几菫
角力(相撲)は、元来が秋の季語。勝ち力士の所作が「やはらかに」浮き上がってくる。六尺豊かな巨漢の充実した喜びの心が、よく伝わってくる。目に見えるようだ。相撲取りとは限るまい。人の所作は、充実感を得たときに、おのずから「やはらか」くなるものだろうから……。だから、私たちにも、この句がとてもよくわかるのである。もう一句。角力で有名なのは、蕪村の「負まじき角力を寝物がたり哉」だ。負け角力の口惜しさか、それとも明日の大一番を控えての興奮か。角力を「寝床」のなかにまで持ち込んでいる。蕪村は「角力」を「すまひ」と読ませていて、取り口を指す。さて、解釈。蕪村の芝居っ気を考えれば、負け相撲の口惜しさを、女房に訴えていると解釈したいところだ。が、この「寝物がたり」のシチュエーションについては、昔から三説がある。力士の女房との寝物語だという説。そうではなくて、相撲部屋での兄弟弟子同士の会話だとする説。もう一つは、力士ではなく熱狂的なファンが妻に語っているとする説。どれが正解だとは言えないが、そこが俳句の面白さ。読者は、好みのままに読めばよい。ファン説は虚子の解釈で、これを野球ファンに置き換えると、私にも思い当たることはあった。すなわち「一句で三倍楽しめる」句ということにもなる。
化けさうな傘かす寺のしぐれかな
知り合いの寺を訪ねたのだろう。辞去しようとすると、折りからの「しぐれ」である。で、傘を借りて帰ることになったが、これがなんとも時代物で、夜中ともなれば「化けさうな」破れ傘だった。この傘一本から、読者は小さな荒れ寺を想起し、蕪村の苦笑を感得するのだ。相手が寺だから、なるほど「化けさうな」の比喩も利いている。「化けさうな傘」を仕方なくさして「しぐれ」のなかを戻る蕪村の姿には、滑稽味もある。言われてみると、たしかに傘には表情がありますね。私の場合、新品以外では、自分の傘に意識することはないけれど、たまに借りると、表情とか雰囲気の違いを意識させられる。女物は無論だが、男物でも、他人の傘にはちょっと緊張感が生まれる。さして歩いている間中、自分のどこかが普段の自分とは違っているような……。「不倶戴天」と言ったりする。傘も一つの立派な「天」なので、他人の天を安直に戴(いただ)いているように感じるからなのかもしれない。ところで「しぐれ(時雨)」の定義。初冬の長雨と誤用する人が案外多いので書いておくと、元来はさっと降ってさっと上がる雨を言った。夏の夕立のように、移動する雨のことだ。曽良が芭蕉の郷里・伊賀で詠んだ句に「なつかしや奈良の隣の一時雨」とあるが、この「一時雨(ひとしぐれ)」という感覚の雨が本意である。蕪村もきっと戻る途中で雨が止み、「化けさうな」傘をたたんでほっとしたにちがいない。
佶倔な梅を画くや謝春星 夏目漱石
我が意を得たり。その通りだ。と、私などは思うけれども、作者に反対する人も多いだろうなとは思う。「謝春星」は、俳人にして画家だった与謝蕪村の別号だ。あえて誰も知らない「謝春星」と漱石が書いたのは、「梅の春」にひっかけた洒落っ気からだろう。漱石は、蕪村の画く梅が佶倔(きつくつ)だと批評している。はっきり言えば、一見のびやかな感じの絵に窮屈を感じているのだ。「佶倔」は窮屈、ぎくしゃくしているという意味である。句の裏には、むろん商売で絵を画く蕪村への同情も含まれている。ひとたび蕪村の世界にとらわれた人は、生涯そこから抜け出せない。逆に、最初に入れなかった人は、ついに蕪村を評価できないで終わってしまう。これは、蕪村の俳句についてよく言われることだ。このページでも何度か書いたはずだが、蕪村は徹底的に自己の表現世界を演出した人だった。俳句でも絵画でも、常に油断のない設計が隅から隅まで仕組まれている。神経がピリピリと行き渡っている。だからこそ惚れる人もいるのだし、そこがイヤだなと感じる人も出てくる。漱石は、イヤだなと思った一人ということになる。実際、蕪村の絵を前にすると、あるいは俳句でも同じことだが、18世紀の日本人だとは思えない。つい最近まで、生きて活動していた人のような気がする。暢気(のんき)そうな俳画にしても、よく見ると、ちっとも暢気じゃない。暢気に見えるのは図柄の主題が暢気なせいなのであって、構図そのものは「佶倔」だ。演出が過剰だから、どうしてもそうなる。そのへんが下手な(失礼、漱石さん)水墨画を画いた作者には、たまらなかったのだろう。だから、あえて下手な句で皮肉った。この場合は上手な句だと、皮肉にも皮肉にならないからである。蕪村の辞世の句は「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」だ。百も承知で、漱石は揚句を書いたはずだ。
水温む鯨が海を選んだ日 土肥あき子
古来「水温む」は、「水ぬるむ頃や女のわたし守」(蕪村)のように、河川や湖沼の水が少しあたたまってきた状態を言った。それを「海」の水に感じているところが異色。しかし、海もむろん「温む」のである。実は、この句は坪内稔典さんの愛唱句だそうで、最近の新聞や雑誌で何度か触れている。「『あっ、そうだ。今は水温む季節なんだ』と気づいた作者は『そうなんだわ。こんな日だったのだわ。昔々、鯨が陸ではなく海で暮す選択をしたのは』と思った。つまり、水に触れたときの感覚が、哺乳類としての動物的感覚を呼び覚まし、同族の鯨へ連想が及んだのである。/私たちのはるかな祖先は水中から陸上へと上がってきた。鯨の化石によると、初期の鯨には小さな後ろ脚の跡があるという。鯨もまた、私たちの祖先と同じように、陸上生活をしていたのか。……」(「日本経済新聞」2001年2月10日付夕刊)。つづけてこの句を知って「『水温む』という季語が私のうちで大きく変わった。鮒から鯨になったという感じ」と書いているが、同感だ。掲句は「水温む」の季語を、空間的にも時間的にも途方もないスケールで拡大したと言える。それも、ささやかな日常感覚から出発させているので、自然で無理がない。「コロンブスの卵」は、このように、まだまだ私たちの身辺で、誰かに発見されるのを待っているのだろう。そう思うと、句作がより楽しみになる。さて、蛇足。スケールで思い出したが、その昔の家庭にはたいてい「鯨尺」という物差しがあった。和裁に使ったものだ。調べてみたら、元々は鯨のヒゲで作った物差しなので、この名前がついたのだという。その1尺は、曲尺(かねじゃく)の1尺2寸5分(約37.9センチ)で、メートル法に慣れた私たちにはややこしい。最近はさっぱり見かけないが、もはや「鯨尺」を扱える女性もいなくなってしまったのだろう。
春昼の指とどまれば琴も止む 野沢節子
つとに知られた句。あったりまえじゃん。若年のころは、この句の良さがわからなかった。琴はおろか、何の楽器も弾けないせいもあって、楽曲を演奏する楽しさや充実感がわからなかったからだ。句は、演奏を終えた直後の気持ちを詠んでいる。まだ弾き終えた曲の余韻が身体や周辺に漂っており、その余韻が暖かい春の午後のなかに溶け出していくような気持ち……。琴の音は血をざわめかすようなところがあり、終わると、そのざわめきが静かに波が引くようにおさまっていく。弾いているときとは別に、弾き終えた後の血のおさまりにも、演奏者にはまた新しい充実感が涌くのだろう。まことに「春昼」のおぼろな雰囲気にフィットする句だ。ちなみに、このとき作者が弾いたのは「千鳥の曲」後段だった。三十代のころに住んでいたマンションの近所に、琴を教える家があった。坂の途中に石垣を組んで建てられたその家は、うっそうたる樹木に覆われていて、見上げてもほとんど家のかたちも見えないほどであった。日曜日などに通りかかると、よく音色が聞こえてきたものだ。どういう人が教えていて、どういう人が習っているのか。一度も、出入りする人を見たことはない。そのあたりも神秘的で、私は勝手に弾いている人を想像しては楽しんでいた。上手いか下手かは、問題じゃない。ピアノ全盛時代にあって、琴の音が流れてくるだけで新鮮な感じがした。「深窓の令嬢」なんて言葉を思い出したりもした。掲句から誰もが容易に連想するのは、これまたつとに知られた蕪村の「ゆく春やおもたき琵琶の抱ごゝろ」だろう。こちらは、これから弾くところだろうか。なんとなくだが、蕪村は琵琶を弾けない人だったような気がする。演奏云々よりも、気持ちが楽器の質感に傾き過ぎている。それはよいとしても、演奏者なら楽器を取り上げたとき、こんな気持ちにならないのではないだろうか。つまり、想像句だということ。
酒十駄ゆりもて行や夏こだち
いかにも画家の句らしい。絵になっている。「行」は「ゆく」。四斗(三斗五升とも)樽二つを「一駄」と数え、馬一頭の荷とした。したがって夏木立を行く馬の数は十頭になるが、これは構図をぴしりと決めるための言葉の綾だろう。二つの樽を振り分けにして、馬たちが尻を振り振り夏の木立を行く。木立の緑が夏の日に照り映え、馬の身体も木漏れ日に輝いている。歩みに連れて「こも被り」がだくんだくんと揺れ、揺れるたびに酒に樽の木の香がしみこんでいく(ようである)。さながら周囲の万緑の木立の香も、共にしみこんでいくようではないか。酒飲みの人ならば、思わず喉が鳴りそうな情景だ。さて「駄足」、じゃなくて蛇足。「十駄」の「駄」のように、物を数えるときの「助数詞」はややこしい。子供のころに兎は「一羽」と数えるのだよと教えられ、びっくりした記憶もある。鏡は「面」で硯(すずり)も「面」、封筒は「袋(たい)」で封書は「通」。さらには人力車は「挺(ちょう)」と数え、アドバルーンは「本」であり、トンネルも「本」なのだそうな。にぎり寿司は「カン」と言うが、どんな漢字を当てるのか。とても覚えきれないでいるけれど、と言って、最近のように何でもかでも「個」ですませるのには抵抗がある。「ラーメン一個」じゃ茹でが足りなさそうだし、「三個目の駅」じゃ小さすぎて降りられそうもない。
君見よや拾遺の茸の露五本
蕪村にしては、珍しくはしゃいでいる。「茸」は「たけ」。門人に招かれて、宇治の山に松茸狩りに行ったときの句である。ときに蕪村、六十七歳。このときの様子は、こんなふうだった。「わかきどちはえものを貪り先を争ひ、余ははるかに後れて、こころ静にくまぐまさがしもとめけるに、菅の小笠ばかりなる松たけ五本を得たり。あなめざまし、いかに宇治大納言隆國の卿は、ひらたけのあやしきさまはかいとめ給ひて、など松茸のめでたきことはもらし給ひけるにや」。宇治大納言隆國は『宇治拾遺物語』の作者と伝えられている人物。読んだことがないので私は知らないが、物語には「ひらたけ(平茸)」の不思議な話が書いてあるそうだ。「菅の小笠」ほどの松茸を五本も獲た嬉しさから、大昔の人に「なんで、松茸の素晴らしさを書き漏らしたのか」と文句をつけたはしゃぎぶりがほほ笑ましい。でも、そこは蕪村のことだ、はしゃぎっぱなしには終わらない。句作に当たって、「拾遺」に「採り残された」の意味と物語に「書き漏らされた」との意味をかけ、「露五本」と、採り立ての新鮮さを表す「露」の衣裳をまとわせている。蕪村は、この年天明三年(1783年)の師走に没することになるのだが、そのことを思うと、名句ではないがいつまでも心に残りそうである。
春の夜や盥を捨る町はずれ
ここを書いてアップした後で「しまった」と思うことがある。何故あんなにトンチンカンな解釈をしてしまったのだろう、などと。でも、多くの場合は訂正しないことにしている。書いているときには確かにそう思ったのだから、それはそれで仕方がない。トンチンカンもまた私の内実だし、トンチンカンがあるからこそ、表現者としての私もかろうじて成立しているのだから……と。言いわけするのではないが、掲句についての萩原朔太郎の鑑賞文があって、実にトンチンカンな解釈をしている。何故、こんなふうに思ったのだろうか。不可思議かつ面白いと思うので、全行を引用しておく。「生暖かく、朧に曇った春の宵。とある裏町に濁った溝川が流れている。そこへどこかの貧しい女が来て、盥を捨てて行ったというのである。裏町によく見る風物で、何の奇もない市中風景の一角だが、そこを捉えて春夜の生ぬるく霞んだ空気を、市中の空一体に感触させる技巧は、さすがに妙手と言うべきである。蕪村の句には、こうした裏町の風物を叙したものが特に多く、かつ概ね秀れている。それは多分、蕪村自身が窮乏しており、終年裏町の侘住いをしていたためであろう」(岩波文庫版『郷愁の詩人 与謝蕪村』)。はてな。たしかに「盥を捨る」とはあるけれど、誰が読んでも「盥(の水)を捨る」と思うのではないだろうか。だったら「裏町によく見る風物」としてよいが、そうではなくて盥そのものを捨てたと信じた詩人の直感は、どういうところから生まれてきたのだろう。この間違いの根っこには、何があるのか。トンチンカンだと言い捨てるのではなく、そこのところに猛烈な好奇心がわく。
河童の恋する宿や夏の月
際に蕪村の前にある情景は、黒々とした沼の上に月がのぼっているだけである。その沼を「河童(かわたろ)」の宿(住み処)と見立てたところから、蕪村独特の世界が広がった。河童が恋しているのは同類の異性とも読めるが、それでは面白くない。彼の思慕する相手が人間と読んでこそ、不思議な気配が漂ってくる。そう読むと、この月も花札に描かれているような幻想的なそれであり、やや赤みを帯びているようにすら思われる。こともあろうに人間を恋してしまった河童の苦しみが、辺り一面に妖気となって立ち上っている……。さて、これから河童はどんな行動に出るのだろうかと、さながら夏の夜の怪談噺のまくらのような句だ。このように読者をすっと手元に引き寄せる巧みな詠みぶりは、蕪村の他の句にもたくさん見られる。ときにあまりにも芝居がかっていて鼻白んでしまうこともあるけれど、掲句ではそのあたりの抑制は効いていると思った。河童の存在については、諸説あってややこしい。いずれにしても、掲句は人々がまだ身近に河童を感じていた時代ならではの作品だ。蕪村のころの読者ならば、ただちに河童の恋の相手が人間だとわかっただろう。絵は小川芋銭の「河童百図」のうち「葭のズヰから(天井のぞく)」。
易水に根深流るる寒さ哉
亡くなった友人の飯田貴司が、酔っぱらうとよく口にしたのが「風蕭蕭(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し、壮士一たび去ってまた還らず」という詩句だった。忘年会の予定を手帖に書き込んでいて、ふっと思い出した。「易水」は、中国河北省西部の川の名前だ。燕(えん)のために秦の始皇帝を刺そうとした壮士・荊軻(けいか)が、ここで燕の太子丹と別れ、この詩を詠んだという。このことを知らないと、掲句の解釈はできない。蕪村の句には、こうした中国古典からの引用が頻出するので厄介だ。さて、飯田君は後段の壮士の決然たる態度に惚れていたのだろうが、蕪村は前段の寒々とした光景に注目している。同じ詩句に接しても、感応するところは人さまざまだ。当たり前のようでいて、このことはなかなかに興味深い。作者の荊軻にしてみれば、むろん飯田君的に格好良く読んでほしかった。だが、蕪村は後段のいわば「大言壮語」を気に入ってはいなかったようである。だから、庶民の生活臭ふんぷんたる「根深(ねぶか)」を、わざと流している。壮士に葱は似合わない。せっかく見栄を切っているのに、舞台に葱が流れてきたのではサマにならない。この句については、古来その「白く寒々とした感じ(萩原朔太郎)」のみが高く評価されてきたが、そうだろうか。それだけのことなのだろうか。むしろ荊軻の生き方批判に力点の置かれた句ではないのかと、これまたふっと思ったことである。
江戸留守の枕刀やおぼろ月 朱拙
作者は江戸期地方在住の人。「江戸留守」とは聞きなれない言葉だが、自分が江戸を留守にするのではなく、主人が江戸に出かけて留守になっている状態を指す。現代風に言えば、さしずめ夫が東京に長期出張に出かけたというところだ。その心細さから、枕元に護身用の刀を置いて寝ている。今とは違って、電話もメールもない時代だから、江戸での主人の消息はまったくわからない。無事到着の手紙くらいは寄越しても、毎日の様子などをいちいち伝えてくるわけじゃなし、そのわからなさが、留守居の心細さをいっそう募らせたことだろう。句の眼目は、しかしこの情景にあるのではなく、下五の「おぼろ月」との取りあわせにある。この句を江戸期無名俳人の膨大な句のなかから拾ってきた柴田宵曲は、次のように書く。「蕪村の『枕上秋の夜を守る刀かな』という句は、長き夜の或場合を捉えたものである。この句も或朧月夜を詠んだに相違ないが、江戸留守という事実を背景としているために、もっと味が複雑になっている。朧月というものは必ず艶な趣に調和するとは限らない。こういう留守居人の寂しい心持にもまた調和するのである」。同じ朧月でも、見る人の心の状態によって、いろいろに見えるというわけだ。当たり前のことを言っているようだが、古来朧月の句がほとんど艶な趣に傾いているなかにあって、この指摘は貴重である。
うぐひすや家内揃うて飯時分
昼食時だろう。家族がみんな揃った食事時に「うぐひす(鶯)」が鳴いた。と、ただそれだけの句であるが、現代人の感覚で捉えると趣を読み間違えてしまう。「家内揃うて」は、現代の日曜日などのように、一週間ぶりくらいにみんなが顔を合わせているということではないからだ。昔は家族「揃うて」食事をするほうが、むしろ当たり前だった。だから、句の情景には現代的な家族団欒などという意味合いはない。一年中春夏秋冬、いつだって家族は揃って食事をとるのが普通だったのだ。では蕪村は、何故わざわざ「家内揃うて」などと、ことさらに当たり前のことを強調したのだろうか。それは「うぐひす」が鳴いたからである。何の変哲もないいつもの「飯時分(めしじぶん)」に、春を告げる鳥の声が聞こえてきた。途端に、作者の心は待ちかねていた春の到来を想って、ぽっと明るくなった。気持ちが明るくなると、日頃何とも思っていない状態にも心が動いたりする。そこで、あらためて家族がみな揃ってつつがなく、今年も春を迎えられたことのありがたさを噛みしめたというわけだ。蕪村の心の内をこう単純化してしまうとミもフタもないし、句の味わいも薄れるけれど、大筋としてはそういうことだと考える。現代詩人である吉野弘に、虹の中にいる人には虹は見えないといった詩があるが、掲句では虹の中の人が虹を見ていると言えるのではあるまいか。今日で二月もおしまいだ。現代の読者諸兄姉は、どんな春を迎えようとしているのだろうか。掲句のようにゆったりと、それぞれの虹を見つめられますように。
五月雨や御豆の小家の寝覚がち
季語は「五月雨(さみだれ)」で夏。陰暦五月に降る雨だから、現代の「梅雨」と同義だ。ただ同じ季節の同じ長雨といっても、昔のそれについては頭を少し切り替える必要がある。昔は、単に鬱陶しいだけではすまなかったからだ。「御豆(みず)」は、淀川水系の低湿地帯の地名であり、今の地図に「(淀)美豆」「水垂」と見える京都郊外のあたりだろう。周辺には淀川、木津川、宇治川、桂川が巨大な白蛇のようにうねっている。長雨で川が氾濫したら、付近の「小家(こいえ)」などはひとたまりもない。たとえ家は流されなくても、秋の収穫がどうなるか。掲句は、いまに洪水になりはしないかと心配で「寝覚がち」である人たちのことを思いやっている。蕪村にしては珍しく絵画的ではない句であるが、それほどに五月雨はまた恐ろしい自然現象であったことがうかがわれる。風流なんてものじゃなかったわけだ。似たような句が、もう一句ある。「さみだれや田ごとの闇と成にけり」。「田ごとの」で思い出すのは「田毎の月」だ。山腹に小さく区切った水田の一つ一つに写る仲秋の月。それこそ絵画的で風流で美しい月だが、いま蕪村の眼前にあるのは、長雨のせいで何も写していない田圃のつらなりであり、月ならぬ「闇」が覆っているばかりなのである。こちらは少しく絵画的な句と言えようが、深読みするならば、これは蕪村の暗澹たる胸の内を詠んだ境涯句ととれなくもない。いずれにせよ、昔の梅雨は自然の脅威だった。だから梅雨の晴れ間である「五月晴」の空が広がったときの喜びには、格別のものがあったのである。
鮒ずしや食はず嫌ひの季語いくつ 鷹羽狩行
季語は「すし(鮓・鮨)」で、暑い時期の保存食として工夫されたことから夏とする。「寿司」とも表記するが、縁起の良い当て字だ。句は「彦根十五句」のうち。蕪村に「鮒鮓や彦根の城に雲かかる」があるように、昔から「鮒ずし」は滋賀の郷土料理として有名である。作者は鮒ずしを「食はず嫌ひ」で通してきたのだが、彦根への旅ではじめて口にしてみて、意外な美味を感じたのだろう。誰にも、こういうことはたまに起きることがある。納豆の食わず嫌いが、ひとたび口にするや、たちまち納豆好きになった人を知っている。そこで作者は、ふと連想したのだ。季語についても、一般的に同じことが言えるのではあるまいか。少なくとも自分には「食はず嫌ひ」の季語があって、それも数えてみたわけではないけれど、けっこうありそうだ、と。「季語いくつ」は自分への問いかけであると同時に、読者へのそれでもある。言われてみれば、誰にもそんな季語のいくつかはあるに違いない。私どもの句会(余白句会)で、谷川俊太郎が「『風光る』って恥ずかしくなるような季語だよね」と言ったのを覚えているが、これなども食わず嫌いに入りそうだ。いや他人事ではなくて、私にもそんな季語がある。これからの季節で言うと、たとえば「秋の声」だなんてそれこそ気恥ずかしくて使えない。若い頃に物の本で「心で感じ取る自然の声」などという解説を読んだ途端に、とても自分の柄じゃないと思ったからだ。ところで、読者諸兄姉の場合は如何でしょうか。
鉢植に売るや都のたうがらし 小林一茶
季語は「たうがらし(唐辛子)」で秋。真紅に色づいた唐辛子は、蕪村の「うつくしや野分の後のたうがらし」でも彷佛とするように、鮮やかに美しい。だが、蕪村にせよ一茶にせよ、唐辛子を飾って楽しむなどという発想はこれっぽっちも無かっただろう。ふうむ、「都」では唐辛子までを花と同格に扱って「鉢植」で売るものなのか。こんなものが売れるとはと、いささか心外でもあり、呆れ加減でもあり、しかしどこかで都会特有の斬新なセンスに触れた思いも込められている。むろん現在ほどではないにしても、江戸期の都会もまた、野や畑といった自然環境からどんどん遠ざかってゆく過程にあった。したがって、かつての野や畑への郷愁を覚える人は多かったにちがいない。そこで自然を飾り物に細工する商売が登場してくるというわけで、「虫売り」などもその典型的な類だ。戦後の田舎に育った私ですら、本来がタダの虫を売る発想には当然のように馴染めず、柿や栗が売られていることにもびっくりしたし、ましてやススキの穂に値段がつくなどは嘘ではないかと思ったほどだった。でも一方では、野や畑から隔絶されてみると、田舎ではそこらへんにあった何でもない物が、一種独特な光彩を帯びはじめたように感じられたのも事実で、掲句の一茶もそうしたあたりから詠んでいると思われた。
百姓に花瓶売りけり今朝の冬
季語は「今朝の冬」で冬。「立冬」の日の朝のことだ。この句には、何らかのエピソードが背景にありそうな気もするのだが、よくわからない。蕪村は物語の発端を思わせる句を多く作っているから、その流れにあるとして解釈してみる。以前から近隣の「百姓」に欲しいとしつこく請われていた愛用の「花瓶」を、熱意にもほだされて、ついにある朝手放してしまった。「売りけり」とあるから売ったわけだが、そのときの蕪村は手元不如意でもあったのだろう。が、いくら生活のためとはいえ、およそその花瓶は無風流な百姓にはそぐわない品と思われ、どうせ手放すのなら、もっとふさわしい人があったろうにと悔やんでいる。花瓶のなくなった床の間は、やけに寒々しい。そういえば、今日は「立冬」である。これから、長くて暗い季節がやってくるのだ。うつろな心でぽっかりと空いた空間を見つめる作者の姿には、既に暗くて寒々しい冬の気配が忍び寄っている。あまり自信はないけれど、大体こんなところでどうだろうか。自然界の動きに立冬を感じるのではなく、花瓶を売るという人為的なそれに感じているところが、面白いといえば面白いし、少なくとも斬新な思いつきだ。ちなみに掲句は、編者が蕪村の佳句のみを選んだという岩波書店版「日本古典文學大系」には載っていない。
石工の鑿冷し置く清水かな
季語は「清水」で夏。「石工」は「いしきり」と読む。汗だくの石工が,近くの冷たい清水で「鑿(のみ)」を冷しながら仕事をしている。炎天下,往時の肉体労働のシーンが彷佛としてくる。石を削ったり割ったりした鑿は,手で触れぬくらいに熱くなったことだろう。ところで、戦後の数年間の我が家はずいぶんと「清水」のおかげを蒙った。移住した村には水道がなく、多くの家は井戸水で暮らしていた。我が家は貧乏だったので,その井戸を掘る金もない。頼るは、数百メートル先にこんこんと湧いていた清水のみで、父が朝晩そこから大きなバケツで何往復もして水を汲んできては生活用水としていた。洗面の水や炊飯の水から風呂の水まで、あの清水がなかったらとうてい生活するのは無理だった。むろん、この水を使っていたのは我が家ばかりではなく、井戸のある家の人でもそこで洗濯をしたり農耕の道具を洗ったりと,つまり生活に密着した水源なのであった。したがって私には、春夏秋冬を通しての命水であった「清水」が「夏」の季語であるという認識は薄い。私などの世代より、昔の人になればなるほどそうだったろう。馬琴の『俳諧歳時記栞草』(岩波文庫)を読むと,文献から引用して、こうある。「清水とばかりを夏季とせしは、例の蕉門の新撰としるべし」。すなわち「清水」を夏の季語にしたのは,芭蕉一統であると……。三百年も前,生活用水として多くの人が利用していた水を,いわば風雅の点景に位置づけた芭蕉を私は好まない。その点,掲句はまだ「清水」をまっとうに詠んでいるほうである。
遅き日のつもりて遠きむかしかな
季語は「遅き日」、日の暮れが遅くなる春をあらわしています。毎年のことながら、この時期になると、午後6時になってもまだ外が明るく、それだけでうれしくなってきます。この「毎年」というところを、この句はじっと見つめます。繰り返される月日を振り返り、春の日がつもってきたその果てで、はるかなむかしを偲んでいます。「日」が「積もる」という発想は、今の時代になっても新鮮に感じられます。蕪村がこの発想を得た地点から、日本の詩歌がどこまでその可能性を伸ばすことができたかと、つくづく考えさせられます。叙情の表現とは、しょせん引き継がれ発展するものではなく、あくまでも個人の感性の深さに頼ってしまうものかと思ってしまいます。「つもる」という語から、微細な埃が、春の日の中をきらめいて落ちる様子を思い浮かべます。間違いなく日々は、わたしたちを単に通過するのではなく、丁寧に溜(た)められてゆくようです。冊子のように重ねられた「遅き日」をめくりながら、蕪村がどのような感慨をもったのかについては、この句には描かれていません。読む人それぞれに、受け取り方は違ってくることでしょう。静かに通り過ぎて行った「日」も、あるいは激しい感情に揺れ動いた「日」も、ともに「むかし」にしまわれた、二度と取り出せない大切な「時」の細片なのです。
ゆく春や水に雨降る信濃川 会津八一
ゆく春、春の終わり、とはいつのこと? もちろん人によって微妙なちがいはあろうけれど、気持ちのいい春がまちがいなく去ってゆく、それを惜しむ心は誰もがもっている。「ゆく春を惜しむ」などという心情は、日本人独特のものであろう。旺洋として越後平野をつらぬいて流れる信濃川に、特に春の水は満々とあふれかえっている。日々ぬくもりつつある大河の水に、なおも雨が降りこむ。もともと雨の多い土地である。穀倉地帯を潤しながら、嵩を増した水は日本海にそそぐ。雨の量と豊かな川の水量がふくらんで、悠々と流れ行く勢いまでもが一緒になって、遠く近く目に見えてくるようだ。信濃川にただ春雨が降っているのではない。八一は敢えて「水に雨降る」と詠って、大河をなす“水”そのものを即物的に意識的にとらえてみせた。温暖だった春も水と一緒に日本海へ押し流されて、越後特有の湿気の多い蒸し暑い夏がやってくる。そうした気候が穀倉地帯を肥沃にしてきた。秋艸道人・八一は信濃川河口の新潟市に生まれた。中学時代から良寛の歌に親しんだが、歌に先がけて俳句を実作し、「ホトトギス」にも投句していた。のちに地域の俳句結社を指導したり、地方紙の俳壇選者もつとめた。俳号は八朔郎。手もとの資料には、18歳(明治32年)の折に詠んだ「児を寺へ頼みて乳母の田植哉」という素朴な句を冒頭にして、七十六句が収められている。「ゆく春」といえば、蕪村の「ゆく春や重たき琵琶の抱心(だきごころ)」も忘れがたい。
どこを風が吹くかと寝たり大三十日 小林一茶
このときの一茶が、どういう生活状態にあったのかは知らない。世間の人々が何か神妙な顔つきで除夜を過ごしているのが、たまらなく嫌に思えたのだろう。なにが大三十日(大晦日)だ、さっさと寝ちまうにかぎると、世をすねている。この態度にはたぶんに一茶の気質から来ているものもあるだろうが、実際、金もなければ家族もいないという情況に置かれれば、大晦日や新年ほど味気ないものはない。索漠鬱々たる気分になる。布団を引っかぶって寝てしまうほうが、まだマシなのである。私にも、そんな大晦日と正月があった。世間が冷たく感じられ、ひとり除け者になったような気分だった。また、世をすねているわけではないが、蕪村にも「いざや寝ん元日はまた翌のこと」がある。「翌」は「あす」と読む。伝統的な風習を重んじた昔でも、こんなふうにさばさばとした人もいたということだ。今夜の私も、すねるでもなく気張るでもなく、蕪村みたいに早寝してしまうだろう。そういえば、ここ三十年くらいは、一度も除夜の鐘を聞いたことがない。それでは早寝の方も夜更かしする方も、みなさまにとって来る年が佳い年でありますようにお祈りしております。
妻よ天井を隣の方へ荒れくるうてゆくあれがうちの鼠か 橋本夢道
あけましておめでとうございます。末永くよろしくの思いとともに、自由律の長〜い一句を掲句とした。子年にちなんで、ねずみが登場する句を選出してみたら、あるわあるわ150以上のねずみ句が見つかった。以前猫の句を探したときにもその数に驚いたが、その需要の元となるねずみはもっと多いのが道理なのだと納得はしたものの、現代の生活ではなかなか想像できない。しかし、〈長き夜や鼠も憎きのみならず 幸田露伴〉、〈新藁やこの頃出来し鼠の巣 正岡子規〉、〈鼠にジヤガ芋をたべられて寝て居た 尾崎放哉〉、〈しぐるるや鼠のわたる琴の上 与謝蕪村〉、〈寒天煮るとろとろ細火鼠の眼 橋本多佳子〉などなど、それはもう書斎にも寝室にも台所にも、家でも外でもそこらじゅうに顔を出す。どこにいても決してありがたくない存在ではあるが、あまりに日常的なため、迷惑というよりも「まいったなあ」という感じだ。掲句の屋根の上を走るねずみの足音にもにくしみの思いは感じられない。荒々しく移動していくねずみに一体なにごとが起きたのか、天井を眺めて苦笑している姿が浮かぶ。おそらく呼びかけられた妻も、また天井裏続きのお隣さんもおんなじ顔をして天井を見上げているのだろう。
椿落ちてきのふの雨をこぼしけり
椿というと、どうしてもその散りかたを連想してしまいます。確かに増俳の季語検索で「椿」をみても、落ちたり、散ったりの句がいくつも見られます。これはむろん、句だけに限ったことではありません。若い頃に流行った歌の歌詞にも、「指が触れたら、ポツンと落ちてしまった。椿の花みたいに、恐らく観念したんだね。」というものがありました。椿の花の鮮やかな赤色と、女心の揺れ動きが、なるほどうまくつながっているものだと、いまさらながら感心します。ところで蕪村の掲句、これも花の落ちることを詠んでいますが、それだけではなく、他のものも一緒に落しています。ありふれたものの見方も、むしろそれをつきつめることによって、別の局面を持つことが出来るようです。目をひくのはもちろん「きのふ」の一語です。椿に降りかかった雨水が、花の上に貯えられたまま、一日は終えてしまいました。翌朝、水の重さに耐えられなくなったか、あるいはもともと花の散る時期だったのか、散って行くその周りに、水がもろともにこぼれて行く様子を詠んでいます。水の表面は朝日に、きらきらと輝いているのでしょうか。そのきらめきの中を、どうどうと落ちて行く椿。「きのふ」の一語が入ってくるだけで、句はひきしまり、全体が見事に整えられてゆきます。
ぼたん切て気のおとろひしゆふべ哉
蕪村には牡丹の佳句が少なからずある。〈牡丹散て打重りぬ二三片〉をはじめとして〈金屏のかくやくとして牡丹かな〉〈閻王の口や牡丹を吐んとす〉など。幻想的な句も多い蕪村だが、牡丹の句の中でも、閻王の句などはまさにその部類だろう。桜の薄紅から新緑のまぶしさへ、淡色から原色へ移ってゆくこの季節、牡丹は初夏を鮮やかに彩る花である。それゆえ牡丹を詠んだ句は数限りなく存在し、また増え続けており、詠むのは容易ではないと思いながら詠む。先日今が見頃という近所の牡丹寺に行った。小さいながら手入れが行き届き、正門から二十メートルほどの石畳の両脇にびっしり、とりどりの牡丹が満開である。そして、朝露に濡れた大輪の牡丹と対峙するうちに、牡丹の放つ魔力のようなものに気圧され始めた。それは美しさを愛でるというのを通りこし、私が悪うございましたといった心持ちで、半ば逃れるように牡丹寺を後にしたのだった。掲出句、丹精こめた牡丹が咲き、その牡丹に、牡丹の放つ妖気に気持ちがとらわれ続けている。そんな一日を過ごして、思い切ってその牡丹を切る。そのとたんに、はりつめていた作者自身の気もゆるんでしまった、というのだろう。牡丹にはそんな力が確かにある。おとろひし、は、蕪村の造語ではないか(正しくは、おとろへし)と言われている。
御手打の夫婦なりしを更衣
武士言葉についての話題を、しばしば聞くことがあります。本も出ているようです。別の世界のようでいて、でもまったく違ったものとも思えない。地続きではあるけれども、不思議な位置にある世界です。いつもの慣れきった日常を新鮮に見つめなおす契機になるようにと、いまさらながら光をあてられてしまった言葉なのでしょう。まさか、「おぬし」とか「せっしゃ」と日々の会話で使うわけにもいかないでしょうが、その志や行いは、江戸しぐさに限らず、日々の行動に取り入れることの出来るものもあります。句の、「御手打(おてうち)」も、今は使われることのなくなった武士社会の言葉です。本当だったら許されることのなかった夫婦、というのですから、自然に思い浮かぶのは密通の罪でしょうか。隠れて情を通じ合っていた男と女が、何らかの理由によって「御手打」を許され、夫婦となって隠れ住んでいるもののようです。それでもかまわないという思いで結ばれた二人の気持ちが、どれほどに烈しいものを含んでいようとも、季節は皆と同じようにめぐってきます。夏になれば更衣(ころもがえ)もするでしょう。句の前半に燃え上がったはげしい情が、更衣一語によって、いっきに鎮められています。
秋風や案山子の骨の十文字 鈴木牧之
秋風と案山子で季重なりだが、案山子にウェイトが置かれているのは明らかゆえ、さほどこだわることはあるまい。「案山子」の語源は、もともと鳥獣の肉を焼き、その臭いを嗅がせて鳥を追い払ったところから「かがし」が正しいという(ところが、私のパソコンでは「かかし」でしか「案山子」に変換できない)。実った稲が刈り取られたあと、だだっ広い刈田に、間抜けな姿でまだ佇んでいる案山子の光景である。稲穂の金波のうねりに揺られるようにして立っている時期の案山子とはまるでちがって、くたびれて今やその一本足の足もとまですっかり見えてしまっている。なるほど案山子には骨のみあって肉はない。竹で組まれた腕と足を、「骨の十文字」とはお見事。寒々しく間抜けているくせに、どこかしら滑稽でさえある。昨今の日本の田園地帯では、もはや案山子の姿は見られなくなったのではないか。数年前に韓国の農村地帯で色どり豊かな案山子をいくつか見つけて驚いたことがある。それは実用というよりも、アート展示の一環だったようにも感じられた。案山子ののどかな役割はもはや終焉したと言っていいだろう。与謝蕪村は「水落ちて細脛高きかがしかな」と詠んでいて、こちらは滑稽味がさらにまさっている。牧之は越後塩沢の人で、縮(ちぢみ)の仲買いをしていて、雪国の名著『北越雪譜』『秋山記行』を著わした文雅の士であった。文政四年(1830)に自撰の『秋月庵発句集』が編まれた。「牧之」は俳号。
七くさや袴の紐の片むすび
一般に元旦から今日までが松の内。例外もあって、十五日までという地方もある。人日とも言う。七草とは、せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ。これら七種を粥にして食べれば万病を除く、とされるこの風習は平安朝に始まったという。蕪村の時代、ふだんは袴などはいたことのない男が、事改まって袴を着用したが、慣れないことと緊張とであわてて片結びにしてしまったらしい。結びなおす余裕もあらばこそ、そのまま七草の膳につかざるを得なかったのであろう。周囲の失笑を買ったとしても、正月のめでたさゆえに赦されたであろう。七草の祝膳・袴姿・片むすび――ほほえましい情景であり、蕪村らしいなごやかさがただよう句である。七草のことは知っていても、雪国の田舎育ちの私などは、きちんとした七草の祝膳はいまだに経験したことがない。ボリュームのある雑煮餅で結構。もともと雪国の正月に七草など入手できるわけがない。三ケ日の朝食に飽きもせず雑煮餅を食べて過ごしたあと、さすがにしばし餅を休み、「七日正月」とか何とか言って、余りものの大根や葱、豆腐、油揚、塩引きなどをぶちこんだ雑煮餅を食べる、そんな〈七草〉だった。江戸時代に七草を詠んだ句は多いと言われるけれど、蕪村が七草を詠んだ句は、この一句しか私は知らない。志太野坡の句に「七草や粧ひかけて切刻み」がある。
酒を煮る家の女房ちよとほれた
季語は「酒を煮る」、夏です。聞きなれない言葉ですが、江戸時代には酒を煮たようです。殺菌のためでしょうか。おそらく蔵出しの日には、女将が道行く人にお酒を振舞ったのでしょう。この句、どう考えても空想で書いたとは思えず、あるいはわざわざ空想で書くほどの内容でもなく、作者自身の体験をそのまま詠んだとしか思われません。みょうに実感があります。深みにはまってしまうのではなく、女性を見て、ああきれいな人だなという程度の、罪のない賛美のこころがよく描かれています。まさに、酒に酔えば美のハードルは若干低くもなっており、軽く酔ったよい気分で、女性に心が向かう姿が素直に伝わってきます。「ちよとほれた」は、すでに酒と恋に酔ってしまった人の、箍(たが)の外れた言い回しになっています。ともかく、こんなふうに浮かれている作者の姿が、なんだかとても身近に感じられ、読者は蕪村の句に、ちょっとならずも惚れなおしてしまいます。
葱に住む水神をこそ断ちませい 天沢退二郎
煮てよし、焼いてよし、またナマでよし――葱は大根とならんで、私たち日本人の食卓に欠かせない野菜である。スーパーから帰る人の買物籠にはたいてい長葱が涼しげに突っ立っている。最近は産地直送の泥のついた元気な葱もならんでいる。買物好きの退二郎には、かつて自転車に買物籠を付けて走りまわっていたことを、克明に楽しげに書いたエッセイがあった。そういう詩人が葱を詠んだ俳句であり、妙にリアリティが感じられる。水をつかさどり、火災から守るという水神さまが、あの細い葱のなかに住んでいらしゃるという発想はおもしろいではないか。葱は水分をたっぷり含んでいて、その澄んだ水に水神さまがおっとり住んでいるようにも想像される。葱をスパッと切ったり、皮をひんむくという発想の句はほかにあるけれど、「断ちませい!」という下五の口調はきっぱりとしていながら、ユーモラスな響きも含んでいる。葱にふさわしい潔さも感じられる。関東には深谷葱や下仁田葱など、おいしい葱が店頭をずらりと白く飾っている。鍋料理がうれしい季節だ。蕪村は「葱買うて枯木の中を帰りけり」という句を詠んでいるが、葱が匂ってくるようでもある。退二郎は葱の句をまとめて十句発表しているが、他に「葱断つは同心円の無常観」「葱断つも葱の凹(へこ)まぬ気合いこそ」などがある。
三つといふほど良き間合帰り花 杉阪大和
帰り花、とただいえば桜であることが多いというが、いまだ出会ったことがない。上野の絵画展の帰りに、桜並木を見上げて探したこともあるが、立ち止まって一生懸命見つけるというのもなんだか違うかなあ、と思ってやめた。枯れ色の庭園を歩いていて、真っ白なつつじの帰り花がちょこんと載っているのに出会うことはよくある。いかにも、忘れ咲、という風情で、個人的にはあまり好きでないつつじの花にふと愛着の湧く瞬間だ。掲出句の帰り花は、桜なのだろう。花をとらえる視線を思いうかべると、一つだと点、二つだと線、三つになると三角形、つまり面になって、木々全体にふりそそぐ小春の日差が感じられる。確かにそれをこえると、あちらにもこちらにも咲いていてまさに、狂い咲き、の感が強くなりそうだ。以前、俳句の中の数、について話題になった時、蕪村の〈五月雨や大河を前に家二軒〉は、調べの問題だけでなく、一軒ではすぐ流されそうだし、三軒だと間が抜ける、という意見になるほどと思ったことがある。そのあたり、ものによっても人によっても微妙に違いそうだ。
炬燵して語れ真田が冬の陣 尾崎士郎
今の時季、北国ではもう炬燵が家族団欒の中心になっている。ストーブが普及しているとはいえ、炬燵にじっくり落着いてテコでも動かないという御仁もいらっしゃるはずである。広い部屋には炬燵とストーブが同居しているなどというケースも少なくない。日本人の文化そのものを表象していると言える。「真田が冬の陣」とは、言うまでもなく真田幸村が大坂城で徳川方を悩ませた「冬の陣」のことをさす。その奮戦ぶりを「語れ」という、いかにも歴史小説家らしい着想である。幸村はその後、「夏の陣」で戦死する。私は小学生の頃、炬燵にもぐり込んで親戚の婆ちゃんから怖い話も含めて、昔話を山ほど聞いた思い出がある。しかし、その九割方はすっかり忘れてしまった。炬燵の熱さだけが鮮明に残っているのは我ながら情けない。大学一年の頃は、アパートのがらんとした三畳間で電気炬燵に足をつっこんで、尾崎士郎の「人生劇場」(これまで十数回映画化されている)をトランジスターラジオにかじりついて毎夜聴いていた。古臭い主題歌に若い胸を波立たせていたっけなあ。物語をじっくり話したり聴いたりするのには炬燵こそ適している、と思うのは私が雪国育ちのせいかもしれない。士郎は俳句を本格的に学んだわけではなかった。他に「うららかや鶏今日も姦通す」がある。蕪村には「腰ぬけの妻うつくしき炬燵かな」。
志ん生を偲ぶふぐちり煮えにけり 戸板康二
ふぐ、あんこう、いのしし、石狩……「鍋」と聞くだけでうれしくなる季節である。寒い夜には、あちこちで鍋奉行たちがご活躍でしょう。志ん生の長女・美津子さんの『志ん生の食卓』(2008)によると、志ん生は納豆と豆腐が大好きだったという。同書にふぐ料理のことは出てこないが、森下の老舗「みの家」へはよく通って桜鍋を食べたらしい。志ん生を贔屓にしていた康二は、おそらく一緒にふぐちりをつついた思い出があったにちがいない。志ん生亡き後、ふぐちりを前にしたおりにそのことを懐かしく思い出したのである。同時に、あの愛すべきぞろっぺえな高座の芸も。赤貧洗う時代を過ごした志ん生も、後年はご贔屓とふぐちりを囲む機会はあったはずである。また、酒を飲んだ後に丼を食べるとき、少し残しておいた酒を丼にかけて食べるという妙な習慣があったらしい。「ふぐ鍋」という落語がある。ふぐをもらった旦那が毒が怖いので、まず出入りの男に持たせた。別状がないようなので安心して自分も食べた。出入りの男は旦那の無事を確認してから、「私も帰って食べましょう」。それにしても、誰と囲むにせよ鍋が煮えてくるまでの間というのは、期待でワクワクする時間である。蕪村の句に「逢はぬ恋おもひ切る夜やふぐと汁」がある。『良夜』など三冊の句集のある康二には「少女には少女の夢のかるたかな」という句もある。
片町にさらさ染むるや春の風
春の風が、今にも吹いてきそうなさわやかな句です。「片町」「さらさ」「染むる」と、どの語をとっても、句のなかにしっくりと当てはまっています。「片町」というのは、道の片側だけに家が並んでいることを言います。なるほど、残りの片方が空き地であったり、野原であったりという風景は、今までにも見たことはあります。しかし、そんな風景にこれほどきれいな名前が付いているのだということを、知りませんでした。片側だけ、という状態の不安定さが、徐々にわたしたちに傾いてきて、言葉の魅力を増しているのかもしれません。「さらさ」は漢字で書けば「更紗」。ことさらひらがなで書いたのは、音の響きを強調したかったのでしょうか。さらさらと、川のように滑らかに町をなでてゆく風を、確かに連想させてくれます。風が町全体を染め上げている。そんなふうにも感じます。
極道に生れて河豚のうまさかな 吉井勇
河豚チリの材料は、今やスーパーでも売っているから家庭でも容易に食べられる。とはいえ、河豚の毒を軽々に考えるのは危険だ。けれども、それほど怖がられないという風潮があるように思う。まかり間違えば毒にズドン!とやられかねない。この場合、河豚は鍋であれ刺身であれ、滅多なことには恐れることなく放蕩や遊侠に明け暮れる極道者が、「こんなにうまいものを!」と見栄を切って舌鼓を打っているのだ。ここで勇は自分を「極道」と決めつけているのである。遊蕩と耽美頽唐の歌風で知られた歌人・勇の自称「極道」はカッコいい。恐る恐る食べるというより、虚勢であるにせよ得意満面といった様子がうかがわれる。極道者はそうでなくてはなるまい。「河豚鍋」という落語がある。旦那は河豚をもらったが怖くて食べられない。出入りの男に毒味をさせようと考えて、少しだけ持たせてやる。二、三日して男に別状がないので、旦那は安心して食べる。男「食べましたか?」旦那「ああ、うまかったよ」男「それなら私も帰って食べよう」。ーーそんな時代もあった。原話は十返舎一九の作。蕪村には「逢はぬ恋おもひ切る夜やふぐと汁」があり、西東三鬼には「河豚鍋や愛憎の憎煮えたぎり」がある。いかにも。
夕顔やろじそれぞれの物がたり 小沢昭一
夕方に花が開いて朝にはしぼむところから、夕顔の名前がある。蝉も鳴きやみ、いくぶん涼しくなり、町内も静かになった頃あいに、夕顔の白い花が路地に咲きはじめる。さりげない路地それぞれに、さりげなく咲きだす夕顔の花。さりげなく咲く花を見過ごすことなく、そこに「物がたり」を読みとろうとしたところに、小沢昭一風のしみじみとしたドラマが仄見えてくるようだ。ありふれた路地にも、生まれては消えて行ったドラマが、いくつかあったにちがいない。「源氏物語」の夕顔を想起する人もあるだろう。夕顔の実は瓢箪。長瓢箪を昔は家族でよく食べた。鯨汁に入れて夏のスタミナ源と言われ、結構おいしかった。母は干瓢も作った。昭一は著作のなかで「横道、裏道、路地、脇道、迷路に入って、あっちに行き、こっちに行き、うろうろしてきたのが僕の道」と述懐しているけれど、掲句の「ろじ」には、じつは「小沢昭一の物がたり」が諸々こめられているのかもしれない。とにかく多才な人。掲句は句碑にも刻まれている。昭一は周知のように「東京やなぎ句会」のメンバーだが、俳句については「焼き鳥にタレを付けるように、仕事で疲れた心にウルオイを与えてくれる」と語る。他に「もう余録どうでもいいぜ法師蝉」という句もある。蕪村の句に「夕顔や早く蚊帳つる京の家」がある。
白梅や墨芳しき鴻臚館
今日から日曜日に担当させていただく小笠原です。よろしくお願い申し上げます。今年の寒さは格別ですね。梅の開花も、もう少し先になるでしょうか。掲句の「鴻臚館(こうろかん)」は、奈良時代に中国や朝鮮の外交使節を接待した社交場で、十数年前に博多でその館跡が発掘されたことを新聞で読んだ覚えがあります。明治時代でいえば鹿鳴館に相当するような鴻臚館を舞台にして、庭には中国由来の白梅が華やいで香り、館の中では墨の香りも芳(かんば)しく漢詩文を揮毫(きごう)する姿があって、新春に異国の人々を歓迎する品のよいにぎわいを感じます。以前、江戸東京博物館で開催された与謝蕪村絵画展を観たとき、さすが池大雅と並び称されたほどの画家であるなあと感心しました。しかし、蕪村の絵は、展示物として足早に観るのではなく、床の間に一季節の間掛け置くことでときに眺め、じんわりなじんでいくものではなかろうかと、今では思っています。そのような心持ちで掲句を読むと、風に揺れる白梅やら、筆を滑らす仕草やら、墨を摺る人、談笑する二人、静止画と思っていた一句が動き始めます。
たらちねの抓までありや雛の鼻
雛の眼差しや口元などの句は見たことがあるが鼻は初めてで、思わず飾ってあるお雛様の鼻をしげしげと見てしまった。三越、と書かれた桐の箱に入ったこのお内裏様は私の初節句の時のものなので、今どきのお雛様より小さめで、顔の長さが2.2センチに対して鼻の長さは0.7センチ、鼻筋はすっと通って高く、私の指でも十分抓(つま)める。小さい頃お母さんが、高くなれ高くなれ、と鼻を抓んでやらなかったんだなあ、と作者に思わせるようなお雛様は、きっともっと愛嬌があって素朴でありながら、どこかさびしい顔立ちだったのだろうか。低い鼻にコンプレックスのある身としては、そのお雛様に親近感を覚えると同時に、そういえば同じDNAを持つ妹も、姪の鼻を抓んでいたなあ、けっこう真剣に、とふと思い出した。
春の雨街濡れSHELLと紅く濡れ 富安風生
車を運転しなくなってからガソリンスタンドにとんと縁がなくなった。昔はガソリンの値段に一喜一憂したものだが、車を手放してからはガソリンスタンドがどこにあるのやら、道沿いの看板を気に留めることもない。この句は昭和18年に出された句集『冬霞』に収録されているが、当時は車を持っていること自体、珍しい時代。しかも日米開戦後、英語が敵国語として禁止されていく状況を思うと挟みこまれた英単語にモダンという以上に意味的なものを探ってしまう。しかしそうした背景を抜きにして読んでも春雨とSHELL石油の紅いロゴの配合はとてもお洒落だ。同じ作者の句に「ガソリンの真赤き天馬春の雨」があるが、こちらはガソリンと補足的な言葉が入るだけに説明的で、掲句の取り合わせの良さにはかなわないように思う。SHELL石油がなくなったとしても蕪村の「春雨や小磯の小貝濡るるほど」が遠く響いてくるこの句は長く残っていくのではないだろうか。
斧入れて香におどろくや冬こだち
木に斧を入れる。現代に生きる私たちには、この当たり前のいとなみがありません。掲句は、「おどろくや」と率直な感情を示しているので、実景実情の句として読みます。冬支度の薪を採るために林の中に入っていったのでしょうか。すでに葉は落ち、木もすっかり冬木立ちになり、生きている気配も醸し出してはいません。しかし、鉄の刃を一点に、二度三度振り下ろしていくうちに、木の香りがたちこめてきた。まったく予想もしていなかった香りの強さに驚きを感じています。そして蕪村は、この一本の木が発する香りから、林全体の冬木立ちをみつめ直したのではないでしょうか。落葉した枯れ枝の木々に生命の兆しはなかったのに、斧を入れることで、生き物の内部のいとなみを嗅覚で感応してしまいました。このとき、あるいは、蕪村も痛みを感じたのかもしれません。画家であった蕪村の手には筆がなじむものとばかり思っていましたが、斧を持ち、振りかざしてじかに木の命に踏み込む姿に、読む者も驚きます。
稲づまや浪もてゆへる秋津しま
今夏は全国的な酷暑でした。それに伴って雷も多く、各地では、花火が中止になる被害もありました。私も落雷のため、小田急線に三時間以上、車内待機の夜がありました。稲妻は、古代より、稲に命を宿すはたらきがあると信じられてきたので、稲の妻と呼び習わされてきましたが、近年の研究では、雷が大気中の窒素の反応を促して、作物の生育に有用な化合物を田畑に落とすという考察があり、古代人の直観力のすぐれていたことに驚きます。掲句の「ゆへる」は、垣を結いめぐらす意で、「秋津しま」は日本の総称です。蕪村は、稲光りが一瞬、日本列島を照らし、四方の浪が垣根を作るように静止した瞬間をとらえています。昨年、NHKスペシャルで、人工衛星から見た雷の映像を見ましたが、蕪村はすでに、想像の中で俯瞰していたんですね。
麦刈りのあとうすうすと二日月 正木ゆう子
西欧は麦の文化で、東洋は米の文化。これは、乾燥した気候と湿潤な気候風土によって形成された食文化の違いでしょう。麦は畑作で、米は水田耕作。田んぼは水を引くので、保水地帯として森を残しておく必要があり、これが生態系に配慮された里山を形作っていました。一方、麦畑はそれほど保水を必要としないので、森を切り開いて畑を拡大していきました。産業革命以降、西欧の農地がすばやく工場に転換できた理由の一つは畑作だったからであるという考え方があり、一理あるかなとも思います。現在、小麦の国内自給率は10%台で、生産地は西欧の気候に似た北海道が中心となっています。さて本題。掲句の舞台はわかりませんが、広大な麦畑を空へと広げて読めそうです。「麦刈りのあと」なので、刈られる前と後の光景を比較できます。刈られる前、麦は子どもの背の高さくらいまで実っていたのに、刈られた後は根元が残っているだけ。しかし、刈られた後には何もない広大な空間が生まれました。空間が広がったぶん、二日月は、より一層研ぎ澄まされて鎌の刃のような鋭い細身を見せています。それは、かつて鎌が麦の刈り取りに使われていたことを暗示していて、麦が刈り取られてできた地上の空間の上に、鎌の刃のような二日月が空に輝く光景は、超現実主義の絵画のようです。暖色系の色合いも含めて「菜の花や月は東に日は西に」(蕪村)に通じる地上から天上にわたる実景ですが、一面の菜の花とは違って、刈り取られた空間と二日月には、欠落した美を創出しようとする作者の意図があると読みました。そう思って読み返すと、「うすうす」が効いています。
霜百里舟中に我月を領す
自筆句帳にある安永四年(1775)、六十歳の作。前書に、「淀の夜船 几董と浪花より帰さ(ママ)」とあり、淀川の夜舟に乗って大阪から京へ帰ってくる途中の句です。実景に身を置きながら、舟中の流れは、そのまま漢詩の世界に辿りつくようなつくりになっています。淀川の両岸は霜が降りて白く、舟は月光が反射する川の流れをゆっくりと遡上しています。見上げれば岸辺の樹木の葉は落ち、枯れ枝ゆえ空は広く、我(われ)と月とを遮る物は何もありません。今、我は月を独り占めしている。いい酒に酔って、詩想を得たのかもしれません。李白の『静夜思』に、「床前月光をみる。疑うらくはこれ地上の霜かと」があり、また、『つとに白帝城を発す』に、「軽舟すでに 過ぐ万重の山」があります。蕪村は、これらに類する漢詩文を踏まえて、掛軸のような一句を創作したのかもしれません。
うぐいす張り刀引き寄す夜寒かな 西川悦見
高円寺北口2分の所に、居酒屋「赤ちゃん」があります。現在の店主、赤川徹氏の尊父が歌人だった縁で、周辺に住む文人墨客が集った酒場で、店名は、井伏鱒二の命名です。映画・演劇・文学を好む客が多く、その流れで最近は、店で定期的に句会を開いていて、誰もが自由気ままに参加しています。また、店主が将棋好きとあって、腕自慢の酔客とカウンター越しに指すこともしばしばで、時折プロ棋士も立ち寄ります。先夜、久しぶりに将棋を指しに行ったところ、「第十八回赤ちゃん句会」の作品一覧三十余句を見せられて、「これは訳がわかんない」と断言したのが掲句です。他に「秘めごとの牛車を止める良夜かな」があって、これは蕪村の平安調の作りみたいだね、なんてしたり顔で喋っていたところ、掲句の作者が店に現れ私の横に座り、焼酎割りを呑み始めました。「西川さん、秘めごとの句は蕪村調で面白いけれど、うぐいす張りはチンプンカンプンだよ」。すると、「うぐいす張り」は、廊下を歩くと音が出る仕掛けのことで、武家屋敷の忍者除けであることを教えてくれました。そういえばそうだった、なるほど!これで俄然、寒夜の緊迫感が伝わってきました。「張る・引く・寄す」は、緊張つながりの縁語と言ってもよいのでしょう。西川氏は、蕪村の「宿かせと刀投げ出す吹雪哉」の歌舞伎的な作りが好きで、換骨奪胎の句を作ってみたかったといいます。蕪村の句は大音声の荒事で、西川氏の句は「引き寄す」動作が機敏で静かな侍のリアリズムです。これは、蕪村もほめてくれるでしょう。他に、「原発も紅葉もつぶしゴジラ征く」。この夜、西川氏の俳号が不損(ふそん)と決まりました。
古家のゆがみを直す小春かな
小春は小六月とともに、陰暦十月の異名です。現在なら、十一月中旬から十二月上旬あたりの期間を意味しますが、近現代の例句をみると、小春日や小春凪といったおだやかな日和の情景として詠んだ句がほとんどです。その点蕪村の句は、小春を本来の意味で使っています。この時期、田畑の収穫を終えた農家は、ようやく傾いた家の建て直しに手が回ります。一家総出で、隣人を助っ人に、余裕があれば大工の棟梁も招くことでしょう。この作業は、無事に冬を越すためでもあり、晴れやかに新春を迎えるためでもあります。家の中を大掃除する前に、まずは普請を万全にしようという季節のいとなみです。そう思うと、「小春かな」で切れるのも納得できます。なお、小春の初 出を調べて みたら六世紀半ばに中国の年中行事を記した『荊楚(けいそ)歳時記』に「小春」(ショウシュン)の項がありました。鎌倉末期の『徒然草』155段には「十月は小春の天気、草も青くなり、梅もつぼみぬ」があり、江戸初期の『毛吹草』に冬の季語として定着しています。芭蕉は「月の鏡小春にみるや目正月」(続山井)の一句だけを残していて、これも陰暦十月として使っています。
玉人の座右にひらくつばき哉
蕪村らしい絵画的な配置の句です。玉人(たますり)は、古代の朝廷に仕えた玉作部(たますりべ)に由来します。縄文時代から作られていた勾玉(まがたま)の素材であるメノウや水晶を細工する職人が玉人です。ところで、掲句は蕪村の王朝趣味というよりも、写実と思われます。江戸時代、蕪村が住んでいた京都では御幸町通・四条坊門に玉人たちが住んでいて、画家であった蕪村は、この立体造形のアーティストたちと交友があり、その仕事ぶりを見学させてもらった時にできた即興の挨拶句なのかもし れません。玉人が硬質な玉を手にして細工している傍らで、椿の花びらが開いています。それは、玉とは対照的なやわらかな質感であり、また、色彩も鮮やかです。玉人の座右にこれを配置したところに、玉人に対する敬意が表れています。椿の美を座右の銘として仕事を続けている姿を表敬しています。 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 


 
2020/8
 

 

●俳諧 
主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のこと。誹諧とも表記する。正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸であり、発句や連句といった形式の総称である。
松尾芭蕉の登場により冒頭の発句の独立性が高まり、発句のみを鑑賞する事も多く行われるようになり、明治時代に成立した俳句の源流となる。時に作者個人の創作たる発句を完全に独立させた近代文芸の俳句と同一視される。専門的に俳諧に携わるひとを「俳諧師」と呼ぶ。江戸期においては専業のいわゆる「業俳」が俳諧師と呼ばれていた。本業があって趣味として俳諧を楽しむ人は「遊俳」と呼ばれ、遊俳は俳諧師とは呼ばれない。
歴史​
「俳諧」とは本来、滑稽と同意の戯れをさす漢語であった。佐藤勝明によれば、和歌は「(5・7)×N+7」(Nは任意の数)の公式で説明でき、N=1が片歌、N=2が短歌、N≧3が長歌となる。やがて、5・7を組み合わせる短歌が主流になると、575/77の上句と下句の対応に関心が寄せられ、上句と下句を2人で分担して詠む連歌が流行する。初期の連歌は、対話的で機知的な笑いを伴うもので、「俳諧之連歌」と呼称された。連歌が流行するにつれて、2句だけの短連歌だったのが、次第に長句(5・7・5)と短句(7・7)をつなげて一定数を続ける長連歌へと変化する。その後、幽玄・さび・ひえを重視する和歌的連歌(有心連歌)と連歌本来の機知的滑稽を残す俳諧連歌(無心連歌)に二分される。
山崎宗鑑が俳諧連歌集の祖となる『犬筑波集(俳諧之連歌抄)』を編纂し、また、宗鑑と並び俳諧の祖と評される荒木田守武が『俳諧独吟百韻』等の俳諧集を編んだ頃から、俳諧連歌への関心が高まった。
江戸時代になると、識字率の向上や学習意欲の高まりに伴って、庶民が文化の担い手となり、俳諧連歌は人気を博す。松永貞徳の貞門派や西山宗因の談林派、俳諧の新たな表現を模索する天和調といった流行が生じた後、松尾芭蕉の蕉風と呼ばれる作風が生まれた。和歌や連歌が日常的な世界(俗)ではなく、貴族的・古典的な世界(雅)の文芸として大成したのに対して、芭蕉は俗な世界を扱いながら和歌や連歌に匹敵する作品を占めそうと試みたのである。
芭蕉没後、俳壇は宝井其角・水間沾徳らの都市型俳諧と、各務支考・志太野坡らの地方農村型俳諧に分化する一方、雑俳の流行が顕著に見られる。洒落風・化鳥風・蕉風再興といった動きの中で、与謝蕪村や小林一茶といった俳諧師が活躍した。だが、俳諧を嗜む人口が増えるにつれて、俳諧は徐々に趣味化していき、表現や内容が平淡になっていく。
明治時代になると、正岡子規によって、俳諧は月並俳諧として攻撃の対象となり、「発句は文学なり。連俳は文学に非ず」と断じられる。これ以降、俳諧の発句が俳句と呼称され、伝統的な俳諧は連句と呼ばれるようになった。
形式​
俳諧を文芸ジャンルとして用いる場合、発句や連句はもちろん、前句付などの雑俳や俳文、漢詩の形式を模した和詩や仮名詩が含まれる。俳諧は座の文芸とされ、宗匠・執筆(しゅひつ)・連衆で構成される一座の共同体、連衆の作句活動、宗匠の捌きによって、作品の成否とできばえが決定する。  
 

 

●発句 
和歌、漢詩の第1句。たとえば和歌の5・7・5・7・7の最初の5の句。/ 連歌や連句の巻頭の第1句で5・7・5・の 17音から成る。主客一座の席では客が詠み、その他一般の席では高位、長老が詠む。発句には切れ字と季語が必要とされる。連歌では長 (たけ) 高く幽玄に、連句では本意確かに曲節があり余情があることを理想とする。江戸時代後期の連句では立句 (たてく) とも呼ばれた。/ 連歌や連句の発句が、独立して一つの詩としてつくられたもの。明治以後は俳句と呼ばれる。
連歌、連句の第1句。挙句(あげく)の対で、5・7・5の3句17音からなる。芭蕉のころから独立して詩の一体となり、広く庶民の間に親しまれた。季語、切字(きれじ)をそなえることを要件とする。明治になり正岡子規の俳句革新運動以後、一般に俳句と呼ばれるようになった。
連歌、俳諧用語。連句の発端である5・7・5の17音節句。結果として独詠に終わることはあっても、つねに7・7の付句を期待し、連句の発端となる可能性を内包する点で、近代俳句とは異なる。また、付句を期待しながらも和歌の上句と異なるのは、独立して一つの判断を示さなければならない点で、言い切ることが大切である。その点では付句もかわりないが、付句の鑑賞はつねに前句とともになされ、2句の間隙(かんげき)を推論によって埋める。
連歌(れんが)・俳諧(はいかい)用語。最初は短歌の初五文字、のちに同じく上の句(五・七・五)をさしていったが、十七音節(五・七・五)の長句と十四音節(七・七)の短句を交互に付け連ねる連歌・連句が成立すると、その巻頭の長句を、第二句(脇句(わきく))以下の付句(つけく)と区別して、発句とよぶに至った。短歌の上の句と違い、完結した思想を表現しなければならず、季(き)の詞(ことば)(季語)を詠み込み、切字(きれじ)を用いることが要請された。その点、今日の俳句と異なるところはないが、脇句以下の付句を予想して制作され、百韻(ひゃくいん)なり歌仙(かせん)(三六句)なりの一巻をリードするだけの格調の高さが重んじられた点で、一線を画する。やがて独立の詩形として自覚的に制作されるようになると、連句の第一句はとくに立句(たてく)ともよばれ、発句は俳句とも称されるに至った。しかし俳句の名称が本質的な詩性の変革を伴って用いられるようになったのは、正岡子規(しき)による俳句革新運動以後である。
(漢詩・和歌で第一句または第二句をいう「はっく(発句)」から) 連歌や俳諧の連句で、最初の五・七・五の一七音からなる句。切字・季語を含み、格調の上で付句とは違った完結性を必要とした。後に俳句としてこれが独立して詠まれるようになってからは、連句ではそれと区別して立句(たてく)ともいう。挙句(あげく)。/ 発句が独立して詠まれるようになったもの。俳句。
…連歌、俳諧や近代俳句で、句に詠みこむ季節感をもつ特定の語を、古くは〈四季の詞〉〈季の詞〉などといったが、明治末年以後、俳句に用いる四季の詞について、季題という語が用いられて一般化した。季語が広く連歌、俳諧の付句に用いる四季の詞までを含んで用いられるのに対して、俳句(発句)の季語を意味することが多い。早く和歌では勅撰集などで四季の部立が行われ、題詠の風も一般化し、季節の景物を詠むことが行われて、季節の詞が諷詠の題となった。…
…上下両階層に拡大した作者層を一つにまとめるため、貞徳は俳諧を〈俳言(はいごん)〉を賦物(ふしもの)とする連歌にたとえたが、これは俗語に文学的市民権を与えた最初の発言として革命的であったといえる。しかし、発句(ほつく)は縁語や懸詞などによる〈見立て〉が中心をなし、滑稽感に乏しい。また連句(れんく)は、ことばからことばへの連想をたどる〈親句(しんく)〉が主で、句境の転化・飛躍は多く〈取成付(とりなしづけ)〉によったため、句意の断絶するきらいがあった。…
…しかし、江戸時代には一般化せず、この語が5・7・5音の組合せを基本にした定型詩を指すようになったのは、明治時代、すなわち正岡子規による俳句革新が行われた過程においてである。それまでは発句(ほつく)という言い方が普通であった。発句とはもともとは連句における最初の句だが、江戸中期以降、発句のみが単独に作られることが多くなっていた。…
…[形式と約束事]連歌の形式は百韻が基本であるが、36句の〈歌仙〉、44句の〈世吉(よよし)〉(〈四十四(よよし)〉とも)と称するものも存する。各作品の最初の句を〈発句(ほつく)〉、次の句を〈脇(わき)句〉、第3の句を〈第三〉と呼び、まとめて〈三物(みつもの)〉と称する。発句は季を詠み込みその場に即して作るのが原則で、脇の句以下が、前の句によって提示された世界を展開・転換・変容させて、いわば虚構性を持つのと異質である。… 
 

 

●発句と俳句  
発句と俳句 1
桃李歌壇では、この度、新しく発句の部屋を開設しました。連歌の発句は、俳句の原点です。今日芭蕉や蕪村の「俳句」として知られている名句は、どれも連歌の「発句」として詠まれたものです。発句とは、一巻の連歌を巻くときの冒頭の句で、季語と切れ字を持ち、余情に富む、丈の高い長句でしたので、連歌から独立しても鑑賞にたえる作品が多くありました。そこで、既に芭蕉の時代から、連衆が発句だけを詠みあったり、俳諧七部集のように、新古今集の部立てを模して発句集を編纂することが行われるようになりました。
蕪村になると、現在の句会のように発句だけを詠む会を主宰し、数々の名句が生まれました。これが近代の俳句の原点です。ただ、「俳句」という呼び名は明治以降のもので、それまでは、「俳諧の連歌」というように、格調の高い「純正の」連歌と区別した創作上の態度ないし気分を表すものだったのです。俳諧とは、現代風に言えば、滑稽味、機知、ユーモアと言ったところでしょうか。
俳諧の連歌には新興の庶民階級のエネルギーがあり、やがて純正の連歌に代わって隆盛を極めましたが、参加している連衆は面白くとも、作品として後に残るようなものはまれでした。
芭蕉は、俳諧の連歌に新しい詩情を盛ることに成功した人です。日常の卑俗な言葉に詩味を盛り、伝統的な和歌世界の詩情を俳諧の活力と統合したいわゆる「蕉風」が後の俳諧連歌のありかたに大きく影響するようになりました。
明治以後は、「俳諧の連歌」と「純正の連歌」を区別する必要がなくなったので、従来「連俳」と呼んでいたものを、高浜虚子にならって「連句」と呼ぶことが多くなりました。(桃李歌壇では、連句ではなくて連歌という名称を使っています)
俳句の原点が連歌の発句であると言っても、今日詠まれている俳句が、どれも連歌の発句として使えるかというと、そうはいきません。
発句は、連衆の座を予想して詠まれますので、必ず、座に招待された客人の挨拶の意味が込められます。また、あまりにも完成されて、他の人が後を続けにくくなるような作品よりも、脇を付ける亭主が言葉を付け加えることのできる場所を残しておくほうが望ましいとされます。
芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の、連歌の発句として脇を予想したもとの形は「古池や蛙飛んだる水の音」でした。
明らかに、「蛙飛んだる水の音」のほうが勢いがあり、連衆から脇句を引き出す挨拶の意味も込められていましたが、単独の文学作品としては、「蛙飛び込む水の音」のほうが遙かに余情があるでしょう。 
明治以後、近代化された俳句が盛んになると共に、連歌は廃れてしまいました。しかし、近年連歌を巻く人が急激に増加しつつあるようです。
発句には、何よりも連歌全体がそこから始まるという、共同製作の原点という面白さがあります。これまで、俳句だけを作ってこられた方に、是非とも、発句の面白さを経験して戴くために、発句の部屋を開設した次第です。
発句と俳句 2
二条良基の「僻連抄」について
前回、連歌の発句が俳句のルーツだともうしました。「俳句」という用語が「発句」にとって代わったのは、明治以後で 「連俳は文学に非ず」として、発句を連歌から切り離して「俳句」 として独立させた正岡子規とその後継者達の影響によるものです。
私は、子規の連歌に関する見方は狭量で間違っていると思っていますが、過去の権威に囚われずに思ったことをずばずばと言った歌の世界の「革命家」としての気概に満ちた青年子規の文章には今でも惹かれます。
子規は、実作者としてよりも、理論家として、新しい時代の短歌や俳句のあり方を方向付けました。大事なのは、彼が自分の理論に基づいて俳句の結社や句会のありかたを決めたことでしょう。
たとえば、無署名で投句された句を選句し、点数を入れた後で披講するという現在普通に行われている句会の形式は、子規とその後継者達が始めたことで江戸時代の連歌俳諧の「座」にかわる俳句の「座」だったのです。
ところで、今日は、室町時代の連歌の世界に颯爽と登場した若き論客、二条良基 (1320-1388) を紹介したいと思います。遙か後世に 正岡子規が明治以後の短歌や俳句の世界を方向付けたのとおなじように、その後の連歌のあり方を定める理論を明快に提示した良基もなかなか魅力的な人物です。
「僻連抄」は良基26歳のときの著作で、連歌に手を染めてから十年くらいしかたっていない青年の手になるものですが、実に堂々たる気概に満ちた文章で、彼が後に師の救済の校閲を経て著した「連理秘抄」の草案とみられています。
連歌を共同で製作するひとは何を心得ておかなければならないか、連衆の従うべきルールを定めたものが、「式目」ですが、良基以前の連歌では宗匠格の人がそれぞれの座で勝手に定めた規則に従っていたわけで、全国共通のルールというものは無かったのです。いわば、それぞれの地方で、「方言」を語っていた連歌の世界に「標準語」を導入するということを良基はやったわけです。
「式目」の制定者としての良基については、またあとで語るとして、今日は「僻連抄」のもうひとつの大事な側面と私が考えているもの---彼の発句論についてお話ししたいと思います。
良基は、まず発句は表現効果のはっきりとしたものが望ましいといいます。彼が、発句の良き実例として挙げている句は
   霜消えて日影にぬるる落葉かな
です。(室町時代が始まったばかりの頃のこの句、もう俳句といっても通用しますね。)
日影にぬれる落葉によって「霜の消えた」様を表現したこの句を良基は「発句の体」であるとのべています。
ところで、時代は遙かに下りますが、「切字なくしては発句の姿にあらず」とは芭蕉の言葉です。ところが、その芭蕉が、別のところで、、「切字をもちふるときは、四十八字みな切字なり」とも言っています。
つまり「かな」とか「や」とか「けり」というような言葉をつかわなくても句の「切れ」は表現されるわけですから、句に「切れ」があるかないかはどうやって見分けるのか、という問題が当然生まれます。
さて、良基は、連歌論の嚆矢とも言うべき「僻連抄」の中で、「所詮、発句には、まず切るべきなり。切れぬは用ゆべからず」と切れの重要性を強調した後で、句に「切れ」があるかないかを見分けるじつに明快な方法を教えています。
具体的には「梢より上には降らず花の雪」という句には切れがあるが「梢より上には降らぬ花の雪」には切れがない。
その理由は、「上には降らぬ花の雪かな」とは言えても「上には降らず花の雪かな」とは言えないからだと言っています。これなどは、実に分かりやすい説明ですね。
俳句に季語は必要不可欠ですが、そのルーツを辿っていくと連歌の発句に「折節の景物」を詠むべきであるという良基の主張に出逢います。
発句の成否は連歌の出来を左右するということを述べた後で、良基は、「発句に折節の景物背きたるは返す返す口惜しきことなり」と述べていますが、これは、その当時の連歌師に発句に季題を詠まぬものがいたことを示しています。
連歌の「折節の景物」は、和歌の世界の伝統を受けたもので、後世の俳諧の季題のように多彩ではありませんが、良基は次のものを挙げています。
正月には 余寒 残雪 梅 鶯
二月には 梅 待つ花より次第に
三月までは ただ花をのみすべし。落花まで毎度、大切なり。
四月には 郭公 卯花  新樹 深草
五月には 時鳥 五月雨 五日の菖蒲
六月には 夕立 扇 夏草 蝉 蛍 納涼
七月には 初秋の体 萩 七夕 月
八月には 月 草花色々 雁
九月には 月 紅葉 暮秋
十月には 霜(十二月まで) 時雨 落葉 待雪 寒草(十一月まで)寒風(十二月まで)
十一月には 雪 霰
十二月には 雪 歳暮 早梅
これらの景物を詠むべきであるとは、発句が嘱目の句でなければならないことを意味していました。従って、都にいて野山の句を詠んだり、昼の席で夜の句を詠むこと、「ゆめゆめすべからず」と注意しています。
「発句の良きともうすは、深き心のこもり、詞やさしく、気高く、新しく当座の儀にかなひたるを上品とは申すなり」とは、後に「筑波問答」のなかで述べた良基の言葉です。
補足
「発句と俳句」1で、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の、連歌の発句として脇を予想したもとの形は「古池や蛙飛んだる水の音」でした。明らかに、「蛙飛んだる水の音」のほうが勢いがあり、連衆から脇句を引き出す挨拶の意味も込められていましたが、単独の文学作品としては、「蛙飛び込む水の音」のほうが遙かに余情があるでしょう。 
と書き、芭蕉の 「古池や蛙飛んだる水の音」と「古池や蛙飛び込む水の音」の句姿の違いについて説明しましたが、その出典について補足しておきましょう。
人口に膾炙した「蛙飛び込む」の句は、貞享三年三月に出た「蛙合」が初出で、そのほか泊船集、千塚集に出ました。「蛙飛んだる」のほうは同じく貞享三年に出た西吟の「庵桜」に出ている句形です。両者の関係について、諸説がありますが、私は、潁原退蔵氏と同じく、「蛙飛んだる」のほうを「談林調」の残っていた時代の初案とし、それが難波に伝わって西吟の「庵桜」に編入されたが、芭蕉は天和元年、または二年あたりいわゆる「蕉風」開眼の決定的経験をしたあとで改められたという、志田義秀氏の文献学的考証をもっとも説得力があると思っています。
問題は、芭蕉の門人、支考が「俳諧十論」のなかで述べている「天和の初めならん、武江の深川に隠棲して 古池や蛙飛び込む水の音といへる一句に自己の眼を開きて、これより俳諧の一道はひろまりけるとぞ」と言っている、芭蕉の「開眼」経験とはどんな物であったかと言うことでしょう。
「この句は、俳諧の歴史上最必要なるものに相違なけれども、文学上にはそれほどの必要をみざるものなり」といったのは正岡子規ですが、彼はどうもこの句の良さがどこにあるのか分からなかったようです。
俳句の専門家がどういうかは別にして、(専門家もあてにならないかもしれません)皆さんは、どのようにこの句を読まれているでしょうか。
「古池や」の句は、誰でもよく知っている句ですが、実は、誰にも分かっていない句であるのかもしれません。 
 

 

●発句の「花」 
昨年の春、桃李歌壇で歌仙を巻いているときに、ある方が発句に「花」を詠まれて投稿されました。
「枝ふるふ花のすきまのそらの青」 という発句で、下のリンクにその歌仙が掲載されています。
そのときに連衆の間で、「発句に花が出てきたとき、連歌はどのように巻くのが良いか」ということが話題になりました。いろいろな考え方が出てきましたが、二つだけ紹介しましょう。
意見A:初折裏の花を「引き上げた」ものと考えればよい。発句で月を詠んだ場合と同じこと。
意見B:月はかなり自由にひきあげたり、こぼしたりするが、花は、定座をまもる方がよい。月は毎夜天空に出て、満ち欠けがあり 四季を通じて趣を変える「動」の印象を与えるが、花は春にのみ出逢われ、大地に根ざす「静」の印象を与える。花が詠まれるべき定座に花がないのは寂しい。
意見Aに従えば、歌仙の二花三月は守られますが、定座の花を大幅に引き上げたために、あるべき場所に花がないという寂しさが残ります。意見Bに従うと、せっかく「花」を詠んでくれた客人に礼を失する事になりますし、かといって、普通に巻くと三花三月の「花盛り」となります。
「ワイワイガヤガヤ」と掲示板でこんなお喋りをしておりますと、発句を投ぜられた方が、「自分は連歌は初めてで、式目のことなど、何も知らない。今は春で 満開の桜が詠みたかったので詠んだだけだ。ひょっとして、発句に「花」を詠むのはルール違反だったのでは」と投稿してきました。
私が捌きをしていたのですが、先ほど掲示板のログを見ましたら、「発句を投じられた客人が「花」を詠みたかったというのなら、連衆はそれに合わせて連歌を巻くのが礼儀で、余計な心配はご無用」という主旨の答えをしていました。
そこで、初折裏の「定座」は、競作にして、連衆の創意工夫にまかせることにしました。(つまり、捌きは余計な指図はしないという楽な道を選んだ訳です)
その結果、発句に満開の花がでているので、「定座」では登代子さんの「人の花(花形スター)」を詠まれた句がとても面白かったので、それを定座の句として頂戴しました。
ところで、歌仙を巻き終えた後で、一体、我々の先達は、こんな場合にどういう風に連歌を巻いたのだろうかという興味がでてきました。
まず、室町時代の連歌では、心敬に花の発句があります。(寛政七年二月四日、賦何人連歌)
   発句  ころやとき花にあづまの種も哉     心敬
   脇    春にまかする風の長閑さ       行助
   第三  雲遅く行く月の夜は朧にて       選順
心敬の発句は、関東に下向する行助へ贈られたもので、「ころやとき」の「とき」は「疾き」で、桜の花が咲くにはまだ早すぎるの意味。「待つ花」を詠んだ句ですが、第三に春の月も出て、実に華麗な印象を与えます。
百韻の連歌では、月花の定座は、 それぞれの懐紙の表の最後から二番目に「月」、裏の最後から二番目に「花」 そして、裏の「花」の三句くらい前が「月」の出所と決められています。(江戸時代に盛んになった三六韻の歌仙も、二折と三折を省略して、初折と名残の折を残しただけで、定座については百韻と同じ考えに従っています)
しかし、実際に巻かれたものを見ると、芸術的に優れた印象を与える連歌は月花の「定座」に拘泥していないことが分かりました。
たとえば、連歌の式目を定めた良基は、冬の月を発句に詠んでいます。(至徳2年(1385年)10月18日 賦何船連歌)
   発句   月は山風ぞしぐれににほの海    良基
   脇     さざ波さむき夜こそふけぬれ   石山座主房
   第三   松一木あらぬ落葉に色かへで    周阿
この良基の発句は、心敬によって「比類なき」ものと絶賛された句です。「にほの海」は「鳰の海」で琵琶湖の事。
いろいろと調べてみると、月花の「定座」というのは、厳密に守られるべき規則というよりは、むしろ初心者向けの標準に過ぎないという気がしてきました。連歌を巻き始めた人が、無粋なことをしないように、一応の目安としておいたもののように見えます。
連歌は懐紙に記されますが、「定座」を各折の最後から二番目に置くというのは、後で眺めたときのバランスを考えてのことで、実際は、「定座」よりも、去嫌の規則の方が優先する例は非常に多いのです。これは、俳諧も連歌も変わりありません。
俳諧七部集を調べてみると、「ひさご」には発句に「桜」を詠んだ例があります。
   木のもとに汁も鱠も桜かな  翁
   西日のどかによき天気なり 珍磧
   旅人の虱かき行春暮れて   曲水
「桜」は連歌では正花ではないので、この歌仙は初折裏で、定座の「花」が出てきます。「汁も鱠も」とか「虱かき行」という表現が、俳諧的といわれる所以ですが、私などは、歌の「道は虱にもあり」 と荘子風に言ってみたくなります。
只、俳諧七部集で、芭蕉が参加している歌仙には、残念ながら発句に「花」を詠んだ例は見つかりませんでした。誰かに呼び出されたときは別にして、自分から「花」を詠むのは気がひけたということなのかもしれません。
芭蕉が加わっていない歌仙では、「炭俵」に三吟の嵐雪の発句がありました。
   兼好も筵織りけり花さかり    嵐雪
   薊や苣に雀鮓もる       利牛
   片道は春の小阪のかたまりて   野坡 
この発句は、従然草一三七段「花は盛りの月は隈なきをのみ見るものかは」を踏まえたもので、世をすねたへそ曲がりの兼好ですらこの見事な花さかりの情景を前にしたら、筵を織るだろうと洒落た句で元禄の花見の情景を彷彿とさせます。雀鮓など酒の肴としていたことも分かり、なかなか味のある歌仙です。
補足 
俳諧七部集には入っていませんが、芭蕉に「花」を詠んだ発句が全くないわけではありません。客人として芭蕉が招かれた場合は、発句で「花」を詠んだ例があります。
たとえば、
   種芋や花の盛りに売り歩く    芭蕉
   こたつふさげば風かはるなり  半残
という句が、大阪の車庸が編んだ「己が光」に収録の四吟歌仙に出ています。この発句と脇の付合い、やや難解ですが、安東次男氏は、新風旗揚げの壮行会の席で詠まれたものと解して、「花の盛りに伊賀を出て膳所で新風を起こせば、実入りは仲秋(芋名月)、その種芋は伊賀から持参する」という挨拶の発句と解釈しています。
それから、「ひさご」の
   木のもとに汁も鱠も桜かな  翁
の翁というのは芭蕉のことですが、この発句は、上で引用した「種芋や」の句と同じ頃に、伊賀上野の会で発句として一度披露されたものなのですが、連衆の付けが不満であったのか、元禄三年三月末の 珍磧 の立机興行(宗匠として独立するのを記念するもの)で巻かれた歌仙で、もう一度詠まれています。
芭蕉四七歳、猿蓑を編纂する少し前で、俳諧に新風を巻き起こす意図があったと思われます。三冊子に「此句の時、師のいはく、花見の句のかかりを少し心得て軽みをしたり」とあります。 
 

 

●愛宕百韻秘話 
芭蕉以前の連歌について語る場合、戦国の武将、特に細川幽齋と明智光秀の名前を欠かすことはできません。いずれも、歴史小説やドラマでよく取りあげられるのでご存じのかたも多いと思います。
光秀の場合、特に、天正十年五月二十四日、連歌師紹巴を宗匠として巻いた「愛宕百韻」の発句が最も有名です。同年六月二日が本能寺の変ですから、まさに主君信長に代わって天下人たらんとした光秀その人の心中を伺うことが出来ます。
我々は後世の歴史家の描く光秀像を離れて、光秀その人を捉えることが難しくなっています。歴史は勝者によって書かれますから、逆賊光秀、あるいは怜悧で有能な官僚ではあっても、所詮は政治的センスにかけた小心者としての光秀像はなかなか根強い物があります。
一切の先入観を括弧に入れて、愛宕百韻の投句だけから光秀の性格を推量してみるのも面白いかも知れません。
   発句 ときは今天が下しる五月哉  光秀
は特に有名で、「土岐一族の流れを汲む光秀が天下を治める五月になった」 という意味にとれますので、謀反を起こす直前の光秀の心境を詠んだものと解されています。後世の注釈書によりますと、連歌師紹巴は、本能寺の変の前に光秀の決意を知らされていたのではないかという嫌疑で取り調べを承けたときに、この発句の原型は
   ときは今天が下なる五月哉  光秀
と五月雨の情景を詠んだものであったものを、あとで光秀が書き換えたと弁明したそうです。
脇は   水上まさる庭の夏山 行祐
ですので、実際の連歌の席では、五月雨の句であったものと思われます。
おそらく、毛利征伐の戦勝祈願の為の百韻連歌の興行を、ひそかに本能寺の信長を謀殺するための決意表明の場に変えることは、光秀その人の意図であったのでしょう。戦国の武将は、我々が考える以上に芝居がかったことが好きだったようです。歴史のその後の進行を知っている我々には、「天が下しる」の句は哀れにも滑稽に響きますが、この句を詠んだ光秀自身にとっては、自分の名を千載青史に連ねるための苦吟の結果であったに違いありません。
初折裏では光秀は月の定座を勤めています。
   第七 しばし只嵐の音もしづまりて    兼如
   第八  ただよふ雲はいづちなるらん   行祐
   第九 月は秋秋はもなかの夜はの月    光秀
「もなか」は最中で十五夜の月。拾遺集、源順の「水の面にてる月なみを数ふれば今宵ぞ秋のも中なりける」を踏まえた句です。これなぞは、句の巧拙を云う以前に、大事を前にした光秀の漲る気迫が感じられます。
愛宕百韻から伺える光秀像は、細川幽齋と同じく、王朝の雅を受け継ぎ、古き伝統の守護者たらんとした教養人です。彼の悲劇は、新しい時代の偶像破壊者であった信長に仕えねばならなかったことでしょう。  
句会遊浦で昨年巻いていた歌仙「机下の秋」で、私も光秀を偲んで敬一さんの長句に続けて短句を投稿したことがあります。
   月影にきらめく地獄の釜の蓋      敬一
   明智の古刹桔梗花開く      東鶴 
ここで、「明智の古刹」とは、明智光秀の首塚のある谷性寺、桔梗(光秀の家紋)で有名な寺です。明智の月影に呼応させてみました。
補足
上で、明智光秀の愛宕百韻についてお話ししました。本能寺の変の直前に興行された連歌の発句「ときは今天の下しる五月哉」に、光秀の秘められた天下取りの決意を偲びました。
その続きとして、戦国の武将で、歌の道にかけては光秀以上に造詣の深かった細川幽斎(藤孝)のお話をしましょう。
細川幽斎は光秀とは昵懇の間柄でしたので、多くの武将は、本能寺の変に対して幽斎がどのように対応するかを見守っていたようです。幽斎は髪を下ろして僧形となり、信長公の追善供養をする意志を表明し、旗幟鮮明に、反逆には一切荷担しないと宣言しました。この幽斎の対応を知らされて光秀は非常に動揺したらしく、卑屈とも言える協力要請の書状を再度幽斎に送り、それが今も細川家に残っています。
信長の追善供養の為に、細川幽斎は本能寺の焼け跡に仮屋を作り、百韻連歌の興行をしました。幽斎の発句に、聖護院門跡の道澄が脇を付け、連歌師の里村紹巴が第三を付けました。紹巴は光秀の愛宕百韻にも一座していましたから、感慨もひとしおであったかも知れません。
   墨染めの夕べや名残り袖の露  幽斎
   玉まつる野の月の秋風    道澄
   分け帰る道の松虫音になきて  紹巴
細川幽斎は、信長、秀吉、家康の三代に仕え、政権交代の嵐の中を泳ぎ抜く処世術を心得た老獪な政治家という顔も持っていましたが、武将には珍しく、古今伝授の秘伝をうけた歌人で、王朝の歌の伝統を後世に伝えました。
   冬枯れの野島が崎に雪ふれば尾花吹きこす浦の夕かぜ
のような雅やかな歌と共に
   西にうつり東の国にさすらふもひまゆく駒の足柄の山
と武人として東奔西走した生活も詠んでいます。
江戸時代の俳諧師のあいだでの、細川幽斎の人気も相当なもので、幽斎と秀吉を登場人物とした逸話が後世たくさん伝えられています。(真偽のほどは分かりませんが、幽斎のひととなりは良く伝えているようです)
遊浦では、敬一さんが前句付けを興行されていますので、細川幽斎の俳諧・狂歌の前句付けの例をいくつか紹介しましょう。
   立つも立たれず居るもおられず   秀吉
秀吉が、一座の余興に、この句を出して、まず連歌師紹巴に前句付けを求めると
   足の裏尻のとがりにものできて   紹巴
と応じました。当時は純正連歌を巻いている人も、他方では、こういう落語家の大切りのような句も作っていました。聞書は、このあとで幽斎の前句付けとして
   羽抜け鳥弦なき弓に驚きて  幽斎
を記して居ます。興に乗った秀吉は、さらに次の句を出します。
   丸う四角に長う短かう  秀吉
これに対しても、紹巴と幽斎が、次のように応じました。
   丸盆に豆腐をいれて行くちんば   紹巴
   筒井づつ月くり上がる箱釣瓶    幽斎
頓知問答に終始した紹巴の句が、いかにも即物的なのに対して、古今伝授を受けた歌人幽斎の句と伝えられる俳諧には、なにか詩情が漂い風雅なものを感じます。 
 

 

●俳句と発句と連句の違い 
そもそも俳句の「俳」って、なに?
突然ですが、「俳」の付く二字熟語、あなたはいくつ思いつきますか。俳句、俳画、俳写、俳号‥‥などなど、いろいろあります。ざっと調べたところでは、全部で25ありました。「俳〇」と頭に付くものだけで25。「〇俳」と後ろに付く熟語はないようです、たぶんない。
そこでクイズです。俳句に関連する言葉を除外すると、「俳」の付く二字熟語は一体いくつ残るでしょうか?
正解は、「俳優」の1つだけです。ちょっと驚きでしょう? そうでもありませんか?
「俳」という言葉には、1おどけ・こっけい、2人前で芸をする人、3あちこち歩きまわる、という3つの意味があります。つまり、俳句の「俳」は上記1の『おどけ・こっけい』という意味。
ちなみに、うろうろと動き回る「徘徊(はいかい)」は「俳徊」とも書くそうですが、今はまず使わないので除外。「俳倡(はいしょう)」という言葉もありますが、意味は俳優と同じです。これも日常的にまず使わない言葉ですし、一般的な国語辞典にも掲載されていないので、勘定には入れませんでした。辞書も見ずにこの2つのことに気付くとしたら、すごい、まさに漢字博士です。
ちょっと脱線してしまいましたが、では「俳句」とは以上を踏まえて、どういう意味の言葉なのでしょうか。
「俳句」は江戸時代に盛り上がった「俳諧(はいかい)の発句(ほっく)」の前後を取って略した言葉だと、考えられています。明治時代になり正岡子規の起こした「俳句革新運動」によって広く知られるようになりました。
「俳諧の発句」は、たんに「発句」とも呼ばれます。乱暴に言ってしまえば、江戸時代に活躍した松尾芭蕉や与謝蕪村、小林一茶の作品がそれです。
その関係性をざっくりとまとめてみました。
「連歌」は、「俳句」のもとのもと
「れんか」ではなく、「れんが」と読みます。「俳諧の発句」の説明の前に、まずは俳句のもとのもと、となった連歌の説明からさせてください。その方が混乱しないかと思います。
「連歌」とは、和歌を五七五(上の句)と七七(下の句)の2つに分けて、2人以上で完成させる言葉遊びです。通常は10人くらいで、五七五・七七、五七五・七七と繰り返しながら全体で百句になるまでつくり続けます。連歌は五七五と七七をそれぞれ一句と数えるため、和歌として換算した場合は五十首となります(俳句の数え方は、一句、二句‥‥。和歌や短歌の数え方は、一首、二首‥‥です)。
一句目となる発句は、あいさつ句とも呼ばれ、連歌会が行われる場所や季節感を上手に歌の中に盛り込む必要があります。それを受けて別の人が七七の二句目を続けます。さらに次の人が三句目以降を五七五、七七、五七五、七七とどんどんつなげて行きます。だから、連歌、連なる歌といいます。
言葉遊びといってもルールが複雑で、さらに雅言葉が基本のため、かなり高尚なものです。戦国時代には武将が戦勝祈願のために数日間こもって連歌会を開き、完成した百句(「百韻連歌(ひゃくいんれんが)」)をわざわざ神社に奉納したほどです。かの大逆賊(?)、明智光秀も「本能寺の変」に出陣する際に連歌会を開催したとか。そういえば、2020年のNHK大河ドラマでは明智光秀が主人公なんですってね。どんな物語になるのか、いまから楽しみです。
「俳諧連歌」が、俳句の祖・芭蕉を生んだ!
高尚な連歌から派生したのが、こっけい味を旨とした「俳諧連歌」です。基本のルールは連歌と同じです。ただし、連歌とは異なり、もっとラフな言葉遊び(ダジャレなど)や品のない言葉も盛んに取り込みました。結果、武士や庶民を問わず、江戸時代になって大いに盛り上がります。この「俳諧連歌」から発句(一句目)のみを取り出し、自立した作品として磨きをかけたのが「俳諧の発句」です。
※俳諧連歌がはじまった当初は連歌と同じ百句が主流でしたが、芭蕉のころからは三六歌仙にちなんだ三六句の歌仙形式が多くなります。この歌仙形式を現在では連句と呼んでいます。
※発句を単独作品として創作・鑑賞する傾向は、室町時代からありました。
で、ここがちょっとややこしいのですが、一度は雅な世界から離れた「俳諧連歌」に、芭蕉は再び雅な世界観を取り込みました。でもそれは日常からかけ離れたものではなく、古典の美と自分の日常とを重ね合わせる、いわば詩的表現の追求といえるもの。芭蕉が「俳句の祖」と呼ばれる所以です。その影響を強く受け、蕪村、一茶がのちに続きます。といっても、江戸時代はずいぶんと長いので、一茶からみれば芭蕉は、現代人からみる明治時代の正岡子規のような存在だったのかもしれませんね。もうずっと遥か昔の偉人的存在。蕪村は蕪村であり、一茶はあくまでも一茶です。
松尾芭蕉(1644〜1694)の名句
   古池や蛙飛こむ水のおと 
   閑さや岩にしみ入蝉の声
   旅に病で夢は枯野をかけ廻る
与謝蕪村(1716〜1784)の名句
   春の海終日のたりのたりかな
   菜の花や月は東に日は西に
   さみだれや大河を前に家二軒
小林一茶(1763〜1828)の名句
   我と来て遊べや親のない雀
   やれ打な蠅が手をすり足をする
   痩蛙まけるな一茶是に有
正岡子規、登場!
江戸時代の3人の俳諧スターのあとに、彗星のごとく登場したのが、明治時代の正岡子規です。ここから「俳諧の発句」は「俳句」と呼び名を変えることになります。
子規は「俳諧連歌」など明治のうちに廃れてしまうだろうと考えていました。事実、「俳諧連歌」は明治の人々には人気がなく、すでに下火でした。文明開化の時代です。若い子規の目には風前の灯火のようにも見えたのかもしれませんね。ゆえに新聞記者だった子規は、めちゃくちゃに当時の「俳諧連歌」をコケ落し、思い切った『俳句革新運動』を新聞紙上で展開します。これにより「俳諧の発句」は「俳諧連歌」から完全に切り離され、「俳句」という独立したひとつの文芸として生まれ変わることとなりました。そして、芭蕉や蕪村などの過去の「俳諧の発句」が「俳句」として再び注目されるようになったのです。
ネーミングは大切です。現代でも名前を変えたことで、大ヒット・大ブレークした例はたくさんありますよね。ちょっと古いけれど、レナウンの「通勤快足」とか、伊藤園の「お〜いお茶」とか。お笑いコンビの「くりぃむしちゅー」や「さまぁ〜ず」、くまモンに代表される「ゆるキャラ」もそうだし、最近では日清食品の「カレーメシ」なんかが話題になりましたよね。あとなんだろう? いろいろあります。
正岡子規(1867〜1902)の名句
   柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
   いくたびも雪の深さを尋ねけり
   糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
芭蕉、蕪村、一茶、子規という希代の天才たちを経て、現代の「俳句」があります。
子規研究の第一人者として知られる俳人・坪内稔典(つぼうち・ねんてん)先生によると
   古池や蛙飛こむ水のおと 芭蕉
   菜の花や月は東に日は西に 蕪村
   柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 子規
の三句は、俳句の代表選手のような作品なのだとか。いずれの句にも、古き良き日本の「静けさ」と「懐かしさ」があります。理想的な日本の原風景でしょうか。
いろいろな観賞、感想、考え方はあるかとは思います。しかし名句の最大の条件は、たったひとつ(最大だからひとつなんだけど‥‥)。それは時代の風化に耐え、時代を超えること。ただ、それだけ、だと思う。
俳句は日本語さえ理解できれば、誰にでもつくれるものです。季語を入れて、五七五と整えるだけなら、さほどむずかしいことはありません。ある意味それでいいのでしょう。
でも、つくり手によっては、それは「詩」となり、趣味の範ちゅうを超えて「文芸」の域にまで達します。俳句って、じつに奥深いものなんです。 
 

 

●俳句 
季語(有季)及び五・七・五(十七音)を主とした定型を基本とする定型詩である。江戸時代には十七文字と呼称され、現代では十七音とも表記される。和歌や連句(俳諧連歌)の発句と同様に、俳句は発生の時点で無季(雑)の作品も存在しており、無季俳句といわれる。有季定型性を捨象する形で派生した自由律俳句もある。また、多くの外国語でも俳句は作られているが、外国語では季節感のある言葉でも季語の本意・本情が成立しがたく、しかも五・七・五では切れや季語が活きる短さにならない言語が多いため、日本で言うところの無季自由律俳句が多い。世界最短の定型詩のうちの一つとされる。俳句を詠む(作る)人を俳人と呼ぶ。
俳句は近世に発展した文芸である俳諧連歌、略して俳諧から生まれた近代文芸である。室町時代に流行した連歌の遊戯性、庶民性を高めた文芸が俳諧で、17世紀に松尾芭蕉が出てその芸術性を高めた。なかでも単独でも鑑賞に堪える自立性の高い発句、すなわち地発句を数多く詠んだ事が後世の俳句の源流となる。
明治時代に入り、正岡子規が幕末から明治初期のありふれた作風を「月並俳句(月並俳諧)」と呼んで批判し、1893年(明治26年)に『芭蕉雑談』「連俳非文学論」を発表、「発句は文学なり、連俳は文学に非ず」と述べ、俳諧から発句を独立させた。これ以降「俳句」の語が一般に用いられるようになった。
季語や季感を持たない無季俳句や、定型からの自由を目指す自由律俳句も、詩感の追求という点で共通するため俳句に含むのが一般的であるが、それらを俳句と認めない立場も存在する。
また、英語などの非日本語による3行詩も「Haiku」と称される。日本語以外の俳句では五・七・五のシラブルの制約がなく、季語もない場合が多い。
現在では日本語を母語としない者が日本語で俳句を作っている。そうした俳人には現在マブソン青眼、ドゥーグル・J.リンズィー、アーサー・ビナードなどがいる。
日本の詩歌の伝統をひきついで成立した俳句は、五・七・五の拍(モーラ)による言葉の調べ(韻律)と「季語」と「切れ」によって、短い詩でありながら心のなかの場景(心象)を大きく広げることができる特徴を持っている。
歴史​
明治​
明治中期、正岡子規は、近世以来の月並俳諧を排して、写生を作句の根本に置き、自己の実感から生ずる新しい詩美を見いだそうとして、俳誌『ホトトギス』を刊行主宰した(1897年)。子規のもとに集まった人々は「日本派」と呼ばれ、俳壇の主流となった。これらの子規の活動は、俳句革新運動と呼ばれている。
しかし子規の死後、日本派は高浜虚子と河東碧梧桐の二派に分かれた。虚子は『ホトトギス』を主宰し、伝統的な季題や定型を守る立場をとった。一方の碧梧桐は写生主義をさらに徹底させ、自然観照における個性的な実感を重んじる立場をとった。虚子の俳風は、碧梧桐の勢力に圧倒され気味で、虚子自身も『ホトトギス』も一時は俳句を退き、写生文や小説に力を注いだ。
碧梧桐の門には、大須賀乙字、荻原井泉水、中塚一碧楼らがあった。乙字は写実を象徴に深めよと説き、「新傾向俳句」の呼び名を生んだ。碧梧桐は、無中心論を唱え、主観的な心理描写を重んじた。この傾向をさらに進めた井泉水は、季語無用論を唱え、さらに非定型の自由律俳句を主張した。放浪の俳人尾崎放哉や、種田山頭火、プロレタリア派の栗林一石路は、井泉水の門である。彼らは新傾向派と呼ばれ、機関誌『層雲』を創刊したが(1911年)、その後、慌ただしく離合集散を繰り返した。
大正​
大正の初め、一方の虚子は再び俳壇に戻り、新傾向派と対立して季題・定型を提唱した。虚子は初め主情的傾向が強かったが、次第に客観写生の傾向となった。さらに「花鳥諷詠」を説くなどその句風が変遷したが、常に俳壇の主流を占めた。この派には、村上鬼城、飯田蛇笏、原石鼎、前田普羅らをはじめ、昭和に入っても、高野素十、松本たかし、山口青邨、富安風生、川端茅舎らのすぐれた俳人を輩出した。
昭和​
ホトトギス派の保守的な作風に対して、同派の水原秋桜子は、主観的叙情を重んじる立場から、新たに『馬酔木』を創刊した(1928年)。同じく山口誓子も新時代感覚による主知的構成を唱えてこれに同調した。こういう新興俳句運動に呼応して、吉岡禅寺洞の無季俳句や、日野草城のモダニズム俳句などの俳句革新の動きが起こった。
昭和十年代に入ると、新興俳句の主張は素材論にすぎないとし、俳句は「我はいかに生きるか」という意識を深めるべきものとする「人間探求派」というべき主張が起こった。中村草田男、加藤楸邨、石田波郷らである。
また大正から昭和にかけて、女性俳人の進出が目立った。杉田久女、三橋鷹女、中村汀女、星野立子、橋本多佳子、石橋秀野らがいる。
敗戦後は桑原武夫の『第二芸術−現代俳句について』(1946年)によって、短詩型である俳句の限界が指摘された。それを契機に、伝統俳句と新興俳句とが積極的に交流し、新しい俳句についての省察が深まった。総合誌『俳句』が創刊(1952年)されたことも、流派を越えた活動のために役立った。
1947年(昭和22年)には吉岡禅寺洞らを中心に口語俳句運動が起こった。翌48年には、山口誓子の『天狼』が、新鮮酷烈な俳句精神の発揮を目標として「根源俳句」説を提唱した。西東三鬼、平畑静塔、秋元不死男らがこれに参加した。また1953年(昭和28年)には、俳句の中に社会的人間を発表しようとする「社会性俳句」論が起こった。これらの論争は、その後長く続いた。
安保闘争の前後は前衛俳句が盛んになった。金子兜太の「造型俳句論」「意識の造型」などが話題とされた。これに対して、「叙情の回復」を叫ぶ「リアリズム俳句」「季題論」も起こった。前衛俳句は、全共闘運動が鎮静した1970年代には急速に沈潜していった。
現代​
俳句という最短詩型の孕む可能性が、様々な立場や切り口から探られている。伝統と前衛、個と社会、諷詠と造形、詩と生活など、俳壇の動向は一言で尽くし難い。流派・傾向にかかわりなく、二十一世紀初頭の俳壇で活躍していた俳人には、森澄雄、石原八束、三橋敏雄、藤田湘子、鷹羽狩行、上田五千石、和田悟郎、川崎展宏、夏石番矢、佐藤鬼房、飯田龍太、田島和生、石寒太、長谷川櫂らがある。
なお、女性の進出は目覚ましい。第二次世界大戦後すぐに、細見綾子、野沢節子、桂信子らが登場して以来、津田清子、稲畑汀子、中村苑子、鷲谷七菜子、岡本眸、熊谷愛子、黒田杏子などがいる。
また、現代の俳人は結社に所属している者が多い(結社に関しては俳句結社・結社誌の一覧を参照)。現在では、黒田杏子主宰の藍生あおい、石寒太主宰の炎環えんかん、金子兜太主宰の海程かいてい、田島和生主宰の雉きじ、中原道夫主宰の銀化ぎんか、長谷川櫂主宰(2011年からは大谷至弘主宰)の古志こし、小澤實主宰の澤さわ、小川軽舟主宰の鷹たか、有馬朗人主宰の天為てんいなどの活動がある。
1989年(平成元年)、伊藤園が「伊藤園お〜いお茶新俳句大賞」開始。1998年には松山市で全国高校俳句選手権大会(俳句甲子園)が始まった。俳句甲子園に初回から参画している夏井いつきは、「プレバト!!」(毎日放送)の中で2013年11月に開始した芸能人の「俳句の才能査定ランキング」で俳句を査定しており、俳句ブームをけん引している。2012年4月からNHK俳句の中に初心者向け俳句講座「俳句さく咲く!」(Eテレ)を開始、同月「俳句王国」の後継で始まった「俳句王国がゆく」(Eテレ)がすべて地方での公開収録となるなどの影響もあり、老齢化し減少が続いた俳句人口にも変化がみられる。
俳句とは何か​
「俳句とは何か」という、本質的問いに対する答えは多数存在する。
山本健吉 / 俳句評論家の山本健吉はエッセイ『挨拶と滑稽』のなかで、俳句の本質として3ヶ条をあげている。これが有名な「俳句は滑稽なり。俳句は挨拶なり。俳句は即興なり」である。
松根東洋城 / 松根東洋城は俳句について大正天皇から問われた1914年、「渋柿のごときものにては候へど」の句を奉答したという。松根は、この句にちなんで主宰誌を「渋柿」と命名した。
他、著名な俳人 / (高浜虚子)俳句とは「客観写生」、「花鳥諷詠」である。(日野草城)「俳句は東洋の眞珠である」。「俳句は諸人旦暮の詩である」。(古沢太穂)俳句とは「人間だよ」。など。
「寄物陳思」 / 俳句は「寄物陳思」の詩とも言われる。『万葉集』にある「物に寄せて思いを陳(の)べる」の意である。
桑原武夫 / フランス文学研究者・桑原武夫はエッセイの『第二芸術』にて(雑誌『世界』1946年)「俳句というものは同好者だけが特殊世界を作りその中で楽しむ芸事。大家と素人の区別もつかぬ第二芸術に過ぎない」と糾弾している。
特徴​
俳句には次の特徴がある。
五・七・五の「韻律」で詠まれる定型詩である。
基本として「季語」を入れる。
一句の中に「切れ」が入っている方が俳諧味が感じられやすい。
余韻を残す。
韻律​
俳句は定型詩であり、五・七・五の韻律が重要な要素となっている。この韻律は開音節という日本語の特質から必然的に成立したリズムであって、俳句の制約とか、規則と考えるべきではない。五の部分が6音以上に、または七の部分が8音以上になることを字余りという。
例えば
   芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな 芭蕉
は8・7・5で、上5が8の字余りである。その他、字足らず、句またがりなど5・7・5定型に収まらない作品もある。さらに、俳句は定型詩ではないとして一句一律を唱える自由律俳句も存在する。
和歌の時代からの伝統であろうが、字余りが許されるのは母音ないし撥音が含まれる場合が多い。それは、母音および撥音が音の一単位としては少々短いためと思われる。例えば本位を「ほい」と表記する伝統は撥音が一音としては不足していることを表すだろうし、ア行で活用する動詞が「得う」一語なのも母音だけでは語として何某かの不足感をその当時の人々が感じていたからではなかろうか。
季語​
俳句にとって、季語は大きな役割がある。季語を必ず入れなければならないとする有季(季語絶対)派から、季語よりも季感が大切とする「季感」派、無季でもよいとする無季容認、無季俳句が旧来の俳句的情趣を打破するという「無季」派まで、様々な考え方がある。
松田ひろむは、「俳句に季語はあってもなくてもいいのでしょうか。そうではありません。はっきりいって季語はあったほうがいいのです。俳句にとって『季語』は大きな役割を果たします。季語は象徴となるイメージを与えてくれるのです。これを連想力といってもいいでしょう。また時間と空間を大きく広げる役割があるのです」(『入門詠んで楽しむ俳句16週間』新星出版社)という。
また橋本直は2006年3月の現代俳句協会青年部勉強会で『季語の現在─本意の変遷と生成、その未来』の基調報告を行ない、そこで「本来の季語、季題の役割は、通時的/共時的な詩的機能を引き出すためのものであって、あたかも軛のごとく自由を束縛するものではない」と問題を提起している。このように総じて有季定型派よりも無季、自由律に眼を向けた俳人のほうがより深く季語の役割について考えをすすめている。
有季絶対派は「季語・季題があればいい」として、かえって緊張感を欠いているともいえよう。また「俳諧の発句はその場に対する挨拶の意味を濃厚に含んでいたからである」とするが、現代の俳句は「俳諧の発句」とは異なるものとして発展してきているので、俳諧の発句という説は説得力を持っていない。
季語が季節の情感を表現していたかといえば談林の俳諧などではかえって季語を季感と切り離すことで、笑いを生みだすものとしていた部分もあった。
また、季語といい季題というが、それぞれの用語にはそれぞれの拘りがある。NHKのBS放送でも、「季語」という金子兜太と「季題」という稲畑汀子とがしばしば激論を交している。もともと季語・季題という言葉は江戸時代にはなかった。芭蕉の言葉にも「季節の一つも探り出したらんは 後世によき賜と也」(『去来抄』)とあり、この「季節」とは季語・季題のこと。その他芭蕉はすべて「季」(季の詞)といっている。大胆に要約すれば季の題を詠むとする立場が「季題」、それでは季題趣味に陥るとするのが「季語」派である。
切れ​
俳諧では、最初に詠まれる発句は後に続ける脇句や平句の動機となる必要がある。そのため発句には、脇句に依存しない完結性が求められた。そこで編み出されたテクニックが「切れ」である。上手く切れた発句は「切れがある」と評価され、重視された。
たとえば有名な芭蕉の句
   古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉
では、「古池や」の後で一呼吸、句の流れが切れている。これは、切れ字の「や」による効果である。読者はその一瞬の休符の合間に、作者を取り巻く環境や作者の思想・感情・情念・背景などを勝手に想像してしまう仕掛けになっている。このテクニックが「切れ」と呼ばれ、十七文字という限定された語数で、言葉に形と質感を与える効果を持つ。さらに、季語とあいまって句に余韻をかもしだす。
このような「切れ」は、現代の俳句でも重要なテクニックの一つである。
切れ字は、強制的に句を切るために使われる助詞のことである。現代の俳句でも使われている切れ字には「かな」「や」「けり」などがある。俳句以前の連歌・俳諧の時代には「もがな」「し」「ぞ」「か」「よ」「せ」「れ」「つ」「ぬ」「へ」「ず」「いかに」「じ」「け」「らん」など、先の3個と合わせ、計18種類の助詞、助動詞が使われていた。助詞の他には、名詞で切れることが多い。
しかし、切れ字がなくても「切れ」が成立することもある。例えば、芭蕉の弟子・去来は『去来抄』「故実」の中で、こんな芭蕉の言葉を紹介している。
『「切字を入る句は句を切ため也。きれたる句は字を以て切るに不及。いまだ句の切レる不レ切を不知作者の為に、先達而切字の數を定らる。此定の字を入ては十に七八はおのづから句切る也。残り二三は入 レて不切句又入れずして切る句有り」(切れ字を入れるのは句を切るためである。しかし切れている句というのは切れ字によって切る必要はない。いまだに句が切れている、いないが、わからない作者のために、あらかじめ切れ字の数を定めているのである。この定め字を入れれば十のうち七八の句は自然に切れる。しかし残りの二三は切れ字を入れても切れない句である。また入れなくても切れる句もある。)「きれ字に用時は四十八字皆切レ字也。不用時は一字もきれじなしと也」(切れ字を用いるときはいろは四十八字みな切れ字となるし、用いないときは一字も切れ字にならない。)』
つまり、芭蕉によれば、「切れ」は句の内容の問題で切れ字がある/なしの問題ではないということである。
現代俳句では切字の使用率が低下しており、「切れ」が不明瞭になっている。復本一郎は俳句の構造を「切字」「切れ」ではなく、「五七/五」「五/七五」という「首部」「飛躍切部」というブロックで考える「飛躍切部」論を唱えた。復本によれば、首部と飛躍切部が一縷のイメージで繋がっていれば、両者の距離が離れていればいるほど面白い俳句であると言う。
客観写生​
この言葉自体は高浜虚子のものであるが、その起源は芭蕉の句までたどることのできる俳句の特徴の1つである。芭蕉の門人・土芳は『三冊子』の中でこれを「見るにつけ、聞くにつけ、作者の感じるままを句に作るところは、すなわち俳諧の誠である」と表現している。江戸時代には客観や写生という言葉こそないが俳諧の誠というのは私意や虚偽を排し、対象をよく観察し、傾聴して、そのありさまを十七文字で表現することに全力を傾けるという意味である。
例としては
   吹き飛ばす石は 浅間の野分かな 芭蕉
が挙げられる。ここには浅間山に登る芭蕉の感想などは、一切述べられていない。しかし、浅間山に吹く野分の凄さを「石まで吹き飛ばす」と表現することで読者は、荒涼とした風景とともに、こういう表現を選ぶ芭蕉という人物の面白さをもかえって十分に感じることができるのである。
川柳との違い​
川柳も俳句と同じく俳諧に起源を持つ五・七・五の定形詩だが俳諧連歌の冒頭の発句が独立した俳句と違い、川柳は付け句(平句)を前句から独立的に鑑賞するようになったもので発句の性格を継承しておらず、そこから俳句と対照的な特徴を有する。
「季語」がない。
「切れ」がない。(一句一姿)
自分の思いをストレートに言い切り、「余韻」を残さない。(穿ち)
技法​
水原秋桜子が『俳句の作り方』で「注意六条 禁忌八条」を提唱した。
まず、「俳句を詠むとき、意を注ぐべき六条」は以下のようなものである。
1.詩因を捉える
2.分量をわきまえる
3.省略を巧みにする
4.配合を工夫する
5.わかる用語を使って
6.丁寧に詠む
省略については、俳句では17文字という限られた音で表現をしなければならないため、不用な言葉の省略が重要視される。体言止めにより動詞や助詞を省略したり、助詞で止めて後に来る動詞を省略したりすることが多い。また、予測可能な言葉を省くことにより、余韻を残したり時間的な「間」を表現することにもなる。
次に、俳句を詠むときで避けるべき八ヶ条は以下のようなものである。
1.無季の句を詠まない
2.重季の句を詠まない
3.空想の句を詠まない
4.や・かなを併用した句を詠まない
5.字あまりの句を詠まない
6.感動を露出した句を詠まない
7.感動を誇張した句を詠まない
8.模倣の句を詠まない
これらはもちろん、水原秋桜子の見解であり、特に無季の句に関しては様々な議論がされている。
その他の技法として、本歌取りを挙げる。これは有名な既存の俳句や短歌などから言葉を流用し、言外に本歌の内容を表現する技法である。例えば「見わたせば山もと霞む水無瀬川」から「山もと霞む」を流用し、言外に「水無瀬川」を示すなど。
また、句またがりという技法もある。これは、意味的な切れ目を五・七・五の音の切れ目とは異なる場所に持ってくることで、リズムに変化を与える。
著名な俳人​
江戸時代​
(厳密には俳句ではなく俳諧を詠んだが、優れた地発句ゆえに俳句と同一視される)
松尾芭蕉(1644 - 1694) / 向井去来(1651 - 1704) / 服部嵐雪(1654 - 1707) / 森川許六(1656 - 1715) / 宝井其角(1661 - 1707) / 蓑笠庵梨一(1714‐1783) / 与謝蕪村(1716 - 1783) / 小林一茶(1763 - 1827)
近現代​
正岡子規(1867 - 1902) / 河東碧梧桐(1873 - 1937) / 高浜虚子(1874 - 1959) / 臼田亞浪(1879 - 1951) / 種田山頭火(1882 - 1940) / 荻原井泉水(1884 - 1976) / 尾崎放哉(1885 - 1926) / 飯田蛇笏(1886 - 1962) / 原石鼎(1886 - 1951) / 中塚一碧楼(1887 - 1946) / 水原秋桜子(1892 - 1981) / 山口青邨(1892 - 1988) / 高野素十(1893 - 1976) / 栗林一石路(1894 - 1961) / 川端茅舎(1897 - 1941) / 阿波野青畝(1899 - 1992) / 永田耕衣(1900 - 1997) / 西東三鬼(1900 - 1962) / 日野草城(1901 - 1956) / 山口誓子(1901 - 1994) / 中村草田男(1901 - 1983) / 芝不器男(1903 - 1930) / 星野立子(1903 - 1984) / 橋本夢道(1903 - 1974) / 大野林火(1904 - 1982) / 加藤楸邨(1905 - 1993) / 松本たかし(1906 - 1956) / 篠原鳳作(1906 - 1936) / 京極杞陽(1908 - 1981) / 石川桂郎(1909 - 1975) / 古沢太穂(1913 - 2000) / 石田波郷(1913 - 1963) / 野見山朱鳥(1917 - 1970) / 森澄雄(1919 - 2010) / 飯田龍太(1920 - 2007) / 有働亨(1920 - 2010) / 赤尾兜子(1925 - 1981) / 上田五千石(1933 - 1997)  
 

 

●連句 
座の仕組みと連句のすすめかた
座の仕組み
文音(ぶんいん)といって、WebやFAX、ハガキなどですすめる方法もありますが、連句は、人と人とが集って行なうのが「基本」です。人数は、何人でも構いませんが、最低、3〜4人は欲しいところです。
麻雀(マージャン)をやる時、最低4人の面子(めんつ)を集めるのと同じです。ジャン卓を囲む時、一人ではやる気がまったく起きないし、二人ではシラケるし、三人ではいまいちフィットしませんよね。(麻雀経験のない人は、野外バーベキューの雰囲気をイメージしてみてください。一人や二人ではドッチラケですよね)
連句では、集った人たちを「連衆」と言い、その場を「座」と言います。そして、連衆が座で連句をつくっていくのを「巻く」と言います。
「巻く」にあたっては、一人、進行役となる人を置きます。その人を「捌き(さばき)手」と呼びます。「捌き手」とは、鍋を囲んで美味しい鍋料理を堪能する時に存在する「鍋奉行」のようなものです。
鍋奉行が、鍋料理を一応、仕切るのと同じで、捌き手が、座を一応、仕切ります。
100人、200人が集ると一人の捌き手では、間に合いませんので、5人1グループにするなどして分けて、個々に捌き手を置きます。
連句のすすめかた
連句は、最初に五・七・五(長句)をつくり、次は、七・七(短句)をつくり、その次は五・七・五の句をつくり、そのまた次は七・七の句をつくり、と、これを連々と続けていきます。とはいえ、一度、連句を始めたら、「エンドレス状態で際限なく続けていく」というわけにはいきません。何事をするにしても区切りが必要です。
一応、最も基本になるのが「歌仙」と称され、三十六句で区切りをつけます。これを「歌仙を巻く」と言います。
連衆が座で歌仙を巻くとなると長時間を要しますので、現在はケースバイケースで、十八の句で区切りをつけたり、二十の句で区切りをつけたりと、様々です。
最初に五・七・五の句をつくり、次は、七・七の句をつくり、その次は五・七・五の句をつくり、そのまた次は七・七の句をつくり、と、やっていくのを「句をつける」と言います。
どのように句をつけるのかというと、人と人との「会話」と同じです。相手の言葉を受けて返事をしたり、イメージを膨らませて話をはずませる、あるいは深化させる、はたまた気分を変えるために違う話題に転じる、などなどを、五・七・五の句をつくり、次は、七・七の句をつくり、その次は五・七・五の句をつくり、そのまた次は七・七の句をつくり、と、やっていくのです。
会話だと声を出してやりますが、句づくりは、基本的に短冊(たんざく)に書いてすすめるのが一般的です。
連衆が座で句を付けすすめていく方法としては、「出勝(でがち)」と「膝送り」があります。
出勝とは、連衆の間で句を付ける順番を決めずに、良い句を出した者が何句でも採用されながら付けすすめていく方法です。とはいえ、最初は、発句以下順に、連衆全員が一巡する=それぞれ一句ずつ付けていくように配慮する=ことが必要です。
膝送りとは、連衆の間で句を付ける順番を決めてすすめていく方法です。
連衆の人数や、その場の情況ですすめていく方法を決めますが、捌き手を置く場合は、出勝が一般的になっています。
連衆が自分の句を短冊に書いて、それを座の中央に置きます。連衆から出された短冊すべてに捌き手が目を通し、その中から捌き手が一句選び、連衆の前で決めます。それを「治定(じじょう)する」と言います。
治定するにあたっては、その句を手直しする場合もあり、これを「一直(いっちょく)する」と言います。
その治定された句を受けて、連衆がイメージを膨らませて次の句を付けていきます。
捌き手を置かないで連衆みんなで治定していく方法もあります。これを「衆議判」と称します。
最初は、五・七・五からです。基本的には、その最初の句を「発句」と言い、それを受けて付ける句を「脇句」と称します。
発句と脇(連句・歌仙の巻きかた)
発句と脇
最初は、五・七・五の長句からです。基本的には、その最初の発句を「挨拶句」と言い、それを受けて付ける短句七・七を「脇句」と称します。
挨拶句=発句は、捌き手がつくるケースが多いのですが、鍋奉行のような捌き手が、連衆に「みなさん、まず発句(挨拶句)を出してください」と、言う場合もあります。
挨拶句=発句は、読んで字の如しで、挨拶の句です。人に会うと「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」などと言うのと同じです。
これを「時と所」を盛り込んでつくります。時は「季語」、所は「その場所に関連するものや事柄」などです。新年であれば新年を、春であれば春を、夏であれば夏を、秋であれば秋を、冬であれば冬をと、季語を入れ、その場所に関連するものや事柄を盛り込んで詠みます。
どんな挨拶句があるのか、例を松尾芭蕉に見てみます。
   さみだれをあつめてすずしもがみ川
これは『奥の細道』に出てくる句で知られる「五月雨をあつめて早し最上川」の原形です。芭蕉は、弟子の曾良と共に俳諧の旅に出て、最上川のほとりの「一栄・高野平右衛門」宅で連句を巻き、その「発句=挨拶句」で「さみだれをあつめてすずしもがみ川」と詠んだのです。元禄二年仲夏末のことでした。
人に会って「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」などと挨拶すると、相手も「どうも〜」とか「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」とか言って、お互いに挨拶を交しますが、誰かのお宅にお邪魔した時はどうでしょうか? それも、「おっす!」と「おぅ!」の関係ではなく、ある程度、緊張感が伴なう場合や、初対面に近い状態でお邪魔する時などは、あなたならどう挨拶しますか?
連句の挨拶句は、それと同じで、質的にも堂々と独立してしっかりとした個性や思想が醸し出されるものでなくてはなりません。「脇句」もこれと同じで、そうした挨拶を受けての返事のようなものです。この「挨拶句=発句」と「脇句」で、その座の挨拶が済み、連句の座における「一期一会」の風格も決まります。
発句をつくる際は、「時と所」を盛り込んでつくり、脇句をつくる際は、発句の句柄に密着した「同じ季節、同じ時刻、同じ場所」を補完するような感じにしてつくります。
芭蕉の時代には、発句を招かれた客が詠み、その句を受けて招いた側の主人が「脇句」を付けるのが一般的でした。芭蕉の挨拶句に一栄・高野平右衛門は、どう返事をしたかというと「岸にほたるを繋ぐ舟杭(ふなぐい)」と付けています。
   発句  さみだれをあつめてすずしもがみ川(芭蕉)
   脇   岸にほたるを繋ぐ舟杭(一栄)
芭蕉が、「時と所」を盛り込んでつくった句に、一栄が、「同じ季節、同じ時刻、同じ場所」を補完するように句を付けたのですが、勿論、そんな基本だけで詠まれたのではないのが名人の名人たる由縁。これを私たちが、さらに読み込んで、どう解釈するかで、連句の深さや質が変わっていきます。
芭蕉はただ単に、最上川の情景を詠んだだけではなく、一栄も、その情景を補完するためだけに詠んだのではありませんが、この連句解釈は、まだ先のテーマとして置いておくことにします。
名人の句はうますぎるので、素人の句を例にあげると、次のようになります。これは、トップページの勉強会の案内にもある定例の座での句です。
時は冬、場所は山口県内、捌き手は、講師の八木紫暁さんです。
   発句  ひれ酒に馬関の夜は更けゆくや(圭子)
   脇   どっと崩れて燻る囲炉裏火(七水)
最近は、発句には「切れ字」を使うのがよろしい、という風潮があり、基本的に「や」とか「けり」とか「かな」などを用いますが、それにこだわる必要もありません。脇句の下七は「体言留め(名詞)」にするのが一般的だ、とされています。
挨拶が済むと、これから歌仙の本番です。
連句・歌仙の巻きかた
「発句」と「脇句」が出ると、歌仙一巻の始まりです。「発句」と「脇句」を一対のものとして捉えつつ、目線を転じ、五・七・五で付けます。「発句」と「脇句」に対して、次の句は「第三」と称します。
『さみだれを』の歌仙にみると、第三は、芭蕉の弟子・曾良が「瓜ばたけいさよふ空に影まちて」と付けています。
   発句  さみだれをあつめてすずしもがみ川(芭蕉)
   脇   岸にほたるを繋ぐ舟杭(一栄)
   第三  瓜ばたけいさよふ空に影まちて(曾良)
『ひれ酒に』を例にあげると、次のようになります。一応、「発句」と「脇句」の「情景」から転じています。「題」は発句からとるのが一般的です。
   発句  ひれ酒に馬関の夜は更けゆくや(圭子)
   脇   どっと崩れて燻る囲炉裏火(七水)
   第三  威勢良き目覚ましの音とび起きて(靖士)
第三は「て」「に」「らん」「もなし」の留め字を用いるのが普通だとされています。
第三の句を受けて、次は、テンポをつけるように軽くサラリと七・七の句を付けます。第三の次の表(おもて)の「四」は「四句目=しくめ」とも称します。
   第三  威勢良き目覚ましの音とび起きて(靖士)
   四   素振り百回少年剣士(俊正)
次は表の「五」です。そこでは、月の句を詠むのが一般的です。発句が春、夏、冬の場合は、秋の月を、発句が新年の時は春の月を、五・七・五で詠みます。発句が秋の月の時は「雑(ぞう=無季)の句」を詠みます。主に月を詠む場合が多いので「月の座」とも称されます。
   四   素振り百回少年剣士(俊正)
   五  開け放つ裏戸に月の顔覗き(育子)
「月の座」の次は表の「六」です。秋の月には、秋の句を七・七で付けます。
   五  開け放つ裏戸に月の顔覗き(育子)
   六   軒に吊られし小さき虫籠(歌寿)
発句からここまでを「表(おもて)六句」と称します。
   発句  ひれ酒に馬関の夜は更けゆくや(圭子)
   脇   どっと崩れて燻る囲炉裏火(七水)
   第三  威勢良き目覚ましの音とび起きて(靖士)
   四   素振り百回少年剣士(俊正)
   五  開け放つ裏戸に月の顔覗き(育子)
   六   軒に吊られし小さき虫籠(歌寿)
上記のように「表六句」に至るまでは「決まりごと」が一句一句にあるので、進行のスピードもなかなか上がりません。「決まりごと」を「式目」と称しますが、これに振り回されると「面倒くさいなぁ」と感じることもあります。でも、長距離ドライブに行くのと同じで、助走の暖気運転のようなものです。言い替えれば、気分が乗るまでの、欠くことの出来ない手順でもあります。これが過ぎれば、自然と気分が乗ってきて、「式目」についても「決まりごと」があるから起承転結あるいは「序・破・急」のメリハリも出るのかな、ということにほんの少し気付きます。
ちなみに名人たちの句はどうかというと、『さみだれを』の歌仙に例を戻して「表六句」を。
   発句  さみだれをあつめてすずしもがみ川(芭蕉)
   脇   岸にほたるを繋ぐ舟杭(一栄)
   第三  瓜ばたけいさよふ空に影まちて(曾良)
   四   里をむかひに桑のほそみち(川水)
   五  うしのこにこころなぐさむゆふまぐれ(一栄)
   六   水雲重しふところの吟(芭蕉)
俳諧名人の巻く連句は、「決まりごと」の「式目」に振り回されることもなく、むしろ、それを超えたところで連々と続いていくようです。
座を囲むと、「表六句」が終わるまでは一服もおあずけが原則です。「表六句」に至って、しばしくつろぎのティータイムを迎えます。そして、コーヒーや紅茶、はたまた緑茶や番茶をのみ、菓子などをパクつきながら次の句へとすすんでいきます。いくら「パクつきながら」といっても、礼節は必要です。句座作法には「飲食出すも受くるも適量のこと」とあります。
基本的な式目
歌仙を巻く際の決まりごと
「決まりごと」を「式目」と称しますが、これに振り回されると「面倒くさいなぁ」と感じることもあります。やり始めは「式目ばかりに左右されるのは面白くない」とも思います。決まりごとばかりで進んでいくと、自由さが奪われていると実感します。でも、座で句づくりをすすめていくうちに、「式目」があるから起承転結あるいは「序・破・急」のメリハリも出るのかな、ということにほんの少し気付きます。それは、人間の暮らしと同じです。
ある程度すすめていくと、この決まりごとのなかには案外、蘊蓄のあるものもあるなぁ、と思えてきます。
「歌仙は三十六歩なり。一歩も後に帰る心なし」。
これが連句一巻を巻く際の「基本精神」と言われています。要は、これが決まりごとで、大きな柱です。
これに基づくがゆえに、句を付けていく時には、発句と脇句以外では、重複、粘着、停滞、同種・同趣・同景などは「許されない」ものとなります。
いま今いま、なのです。そして、すべて前へ前へとすすめ、同じ場所に停滞したり後に戻ったり、以前のものに固執したり、無効な使いまわしをすることは御法度なのです。(※これは、古いものや過去の体験などを詠むな、という意味ではありません。連句一巻が始まったら、その一巻の進行に於て、前の句のイメージをず〜っと引きずったり、何句か置いてまた同じようなニュアンスの句を付けるのはやめるように心掛ける、という意味です。くれぐれも誤解されませぬように!)
これは、言うまでもなく仕事を含む社会生活をするうえでの基本と同じです。しかし、怠慢さやエゴ、保身、創造力の欠如、我田引水などなどで、御法度なことばかりを繰り返すのが、考え違いをしている人間のあさましいところでもあります。
連句をしていくと、そうした「我」や「とりつかれた亡霊」のようなつまらない自分が鮮明に見えてくるから不思議といえば不思議で、やがては、これが潜在する魅力や可能性の宇宙なのであろうか、と実感するに至ります。
連句は「座の文芸」であると同時に「究極の文化」とトップページで書ききった由縁でもあります。
式目あれこれ
【最低限の決まりごと】
発句以外では「や」「かな」「けり」などの切れ字はなるべく使用しないようにする。
「表六句」では、神祗、釈教、恋、無常、述懐、病体、戦争、妖怪、人名、地名を詠まない。発句はこの限りではなく、何を入れて表現してもよい。
「第三」の下五の句は、留字「て」「に」「にて」「らん」「もなし」で留める。
句を付ける時、前々の句に対し「類似」「類想」「単なる言い替えに過ぎない」と思われる句は詠まない。(「打越」と称す)
句を付ける時、前々の句と「同種」「同趣」「同景」になってはいけない。(「観音」と称す)
同じような事柄や意味のことを、何句か置いてまた繰り返すのはやめる。(「輪廻」と称す)
前後の句、あるいは離れている句の材料=文字、かな使い、テンポ=を再度使うのは避ける。(「差合」と称す)
神祗、釈教が詠まれているにもかかわらず、やむなく再度、詠む場合は、3句以上離れて後に詠む。また、名所が詠まれているにもかかわらず、やむなく他の名所を詠む場合は、2句以上離れて後に詠む。(「去嫌(さりぎらい)」と称す)
恋の字は、なるべく歌仙一巻に1回使用すると良いが、こだわる必要もない。また、恋句が詠まれた場合は続けて恋句を付ける。
春・秋の句は3句続けて詠む。夏・冬の句は続けても2句までとする。
歌仙一巻には「二花三月(にかさんげつ)」といって花を2回詠み月を3回詠む「花の句」と「月の句」の「定座」と呼ばれる場所があるので、そこで必ず詠む。花の定座は、十七句目(裏十一句目)と三十五句目(名残裏五句目)で、これを動かすことについては極力避けるのが望ましいが、月の座は、句の流れによって移動させても不都合はない。
これ以外にも細かい「式目」がありますが、連句をはじめるにあたっては、さほど気に留める必要はないでしょう。むしろ、これだけでも十分です。連句をはじめると、捌き手が懇切丁寧に、その都度、分かりやすく説明してくれるのです。
その他のいろいろ
座に持参するもの
連句の座に初めて参加する時に必要な物(グッズ)は、特別には何もありません。「百聞は一見に如かず」で生身の本人があればいいのです。だから持参するものは「好奇心」や「疑心暗鬼心」などで十分です。
でも何か?と考える準備周到な方は「鉛筆と消しゴム」を持参するといいでしょう。そして、句づくりをする時にあると便利なのが、適切な季語を句に盛り込む時に必要な『歳時記』とか『季語辞典』です。(やまぐち連句会では、簡単なものですが一応、季語のプリントを用意しておりますので、当会での座に初参加される時には敢えて必要はありません)
初参加を終えて、連句というものに興味が湧きそうだと感じたら、季語辞典を1冊、書店で買い求めるといいでしょう。連句用には連句・俳句季語辞典『十七季』東明雅・丹下博之・佛渕健悟編/三省堂刊/2300円などがあります。(ある程度のめりこむようになって、自分好みの歳時記なども買い揃えるといいでしょう)
座に準備するもの
参加する人が準備するものはありません。連句の座には、つくった句を書く「短冊」が準備されてます。そして治定(じじょう)された句を書いていく連句記入用紙も一人ひとりに準備されています。
正式には「一巻三十六の歌仙では、懐紙二枚を用い、それぞれ表・裏あわせて四つの面に句を記す。これを懐紙式という」とされていますが、これは「一応の参考」としておくだけでいいでしょう。
座には、お茶、コーヒー、紅茶、煎餅、お菓子も用意されています。敢えて、お茶受けのお品をお持ちくださる方については、誰ひとり、これを拒む者はおりません(特に当会では心より大歓迎いたします)ので、どうぞよしなに。
「句づくり」の心構え
参加する人は、「連句は三十六歩なり。一歩も後に帰る心なし」の「基本精神」で句づくりをすすめる心構えが必要です。
式目のページでも説明しましたが、連句のミソ、醍醐味はここから生まれます。
句を付けていく時には、発句と脇句以外では、重複、粘着、停滞、同種・同趣・同景などは「許されない」ものとなります。いま今いま、なのです。そして、すべて前へ前へとすすめ、同じ場所に停滞したり後に戻ったり、以前のものに固執したり、無効な使いまわしをすることは御法度です。
これは、言うまでもなく仕事を含む社会生活をするうえでの基本精神と同じです。しかし、怠慢さやエゴ、保身、創造力の欠如、我田引水などなどで、重複、粘着、停滞、同種・同趣、以前のものに固執、無効な使いまわしを繰り返すのが、私たちのあさましいところでもあります。
連句をしていくと、そうした「我」や「とりつかれた亡霊」のようなつまらない自分が鮮明に見えてくるから不思議といえば不思議で、やがては、これが潜在する魅力や可能性の宇宙なのであろうか、と実感するに至ります。
技術(スキル)や経験(キャリア)の有無も不要です。芭蕉が明言した「三十六歩なり。一歩も後に帰る心なし」。この心構えさえあればOKです。
「連句」の構成
その心構えの基本に準じて、連句一巻を巻く際、個々の句にはその順に名称や構成上の決まりごとがあります。最も基本になる一巻三十六の歌仙では次のように構成されています。
一見するだけで「ぎょ!」、見続けていくと「ぅえっ!!」、吟味していくと「面倒くせ〜!」が、絶対的大多数の初印象です。よって、最初はさらりとスクロールする程度でいいと思います。連句を実際に始めると、ある時期から、これが道路標識や案内板のように思えてきて、やや参考になります。
句づくりの構成は、表六句が「序」、裏〜名残の表が「破」、名残の裏が「急」。この感覚で進めます。言い替えると、表六句が「起」、裏が「承」、名残の表が「転」、名残の裏が「結」となるのだろうと思います。
三十六の句を「歌仙」と言いますが、やまぐち連句会での講座では毎回、1回の講座で十八句(半歌仙)を巻き終えることにしています。約二時間程度を要します。
「座の仕組みと連句のすすめかた」「発句と脇(連句・歌仙のまきかた)」「基本的な式目」「その他のいろいろ」で「連句入門編」はおわりです(正確さを期すために加筆・修正・項目追加は随時行ないます)。
この「連句入門編」を読み進めて、ここまで来た方は、連句の世界の入口に立つことが十分に可能です。もう貴方は、連句人になり始めています。そして、空いた時間の二〜三時間で、あなたは、連句づくりの醍醐味を味わいながら新たな世界・宇宙で遊ぶことが可能になります。
上記の暗示に乗せられて、どうぞお気軽に、おいでませ、「連句しませんか。」が合言葉のやまぐち連句会の座に。 
 
 2006

 

●三井寺 
●1 紫式部「源氏物語」と三井寺 

 

逢坂の関
源氏物語が世に出て千年……。紫式部にゆかりのある京都・大津などで、「源氏物語千年紀」というイベントが行われている。大津市では、特に式部が源氏物語を書き記したという石山寺を中心に、多くの源氏物語ファンが訪れ賑わっている。特に口語訳「源氏物語」全十巻を完成された瀬戸内寂聴さんの講演会は、多くの聴衆者を魅了した。
源氏物語千年紀、この機会に紫式部が歩いた場所を、逢坂の関を基点に歩いてみる。東山、東海、北陸の三道が通る近江国の周辺には「三関」と呼ばれる三つの関所が設けられていた。美濃の「不破の関」、伊勢鈴鹿の「鈴鹿の関」、越前敦賀の「愛発の関」で、これらは古代からの関所であった。九世紀初頭に、愛発の関が近江国「逢坂の関」に代えられている。紫式部が活躍していたのは十世紀から十一世紀にかけてだから、すでに逢坂の関は存在していた。
紫式部はこの逢坂の関を、源氏物語の名場面の舞台として書いている。「関屋」の巻に登場する空蝉と、光源氏の再会の場面である。その日、源氏が石山寺に詣でるため、華々しく行列を連ねて逢坂の関へさしかかった時、任期を終えた常陸介の一行も、たまたまその辺りまで帰ってきていた。すでに常陸介の妻となり、任地から同行していた空蝉は、車を降り、木蔭に座って源氏の一行を見送ろうとしていた。
それよりさかのぼること十二年ほど前。色恋に絶対の自信を持っていた源氏は、あらゆる女は自由になると思いこんでいた。空蝉とも無理やり契りを交わしたが、その後二度と空蝉との逢瀬の機会はなかった。空蝉に逃げられ、源氏の自尊心は傷つき拒まれて、いっそう空蝉への恋情がつのるのだった。
源氏はその一行が空蝉たちと知って、十二年ぶりに会う顔見知り、空蝉の弟に伝言をたのむ。「今日はあなたの為に、関まで迎えにきたが、この志を、あなたもおろそかに思われますまい」と、偶然の出逢いをわざとそう言った源氏。利発で聡明な空蝉は、いまだ未練のある源氏の誘いに乗らず、二人が言葉を交わす事はなかった。これがきっかけで、また折々の便りをひそかに交わす仲になる。しかし、空蝉はそれ以上ゆるさず、老いた夫が死亡した後、出家する。
源氏一行は逢坂の関を越え、今の打出浜あたりから舟をしつらえ、瀬田川を下り石山寺へ参る。
石山寺
石山寺のすぐ前に、千年紀期間中運行されるレトロな観光船、一番丸に乗って多くの観光客がお参りに訪れる。  お土産店がならぶ広場を通りすぎると、三間一戸八脚門の山門がそびえる。その左右に運慶・湛慶の作といわれる仁王像が大きな目を見開いて、睨みをきかせている。
石山寺は聖武天皇の勅願によって良弁僧正(六八九〜七七三)が創建した寺である。そして、天皇はじめ皇族貴族の厚い信仰を受けて栄えていく。平安時代になると時の権力者藤原氏の庇護の元、石山詣は一大ブームを引き起こすのである。
式部の日記や歌集にも石山詣をしたという記述は残っていない。しかし、源氏物語宇治十帖「浮舟」の巻に、石山詣を効果的に使っている。ただし、これは実際に行った描写ではなく、石山詣をする予定がダメになる話である。
浮舟が源氏の子、薫の愛人になり宇治に囲われる。薫は公務が忙しくてめったに浮舟の所にあらわれない。そこへ薫の親友匂宮(源氏の孫)が現れ浮舟に惹かれていく。匂宮は、薫になりすまし、夜おそく宇治にしのんで行き、闇のなかで浮舟とちぎってしまう…。悲劇の発端となるこの事件は、母と乳母に誘われて石山詣を予定していた浮舟の予定を、大きく狂わせる。
石山寺は紫式部が源氏物語を書きはじめたという伝説の残る有名な寺である。本堂の隣には「紫式部源氏の間」がある。王朝貴族の女装束をつけた人形が机を前に座っている。机の上には紙が広げられ、硯があり、人形は筆を持っている。あたかも紫式部がすぐにでも、物語を書き出しそうな雰囲気を呈している。
この事は「石山寺縁起絵巻」にも記されている。また、十四世紀後半に成立した「源氏物語」の注釈書「河海抄」にも………宇津保・竹取やうの古物語は目馴れたれば、新しく作り出して奉るべきよし式部に仰せられければ、石山寺に通夜してこのことを祈り申すに、折りしも八月十五夜の月、湖水にうつりて心の澄みたるままに、物語の風情空に浮かびたるをわすれぬさきとて、仏前にありける大般若の料紙を本尊に申しつけて、まず須磨明石の両巻を書きとどめけり、とある。
紫式部が瀬田川に映る十五夜の月をめで、どんな思いで「須磨・明石」の構想を練ったのか、今では知る由もない。石山寺界隈で繰り広げられている源氏物語千年紀。千年もの時を越え、様々なイベントを通じ、源氏物語が身近なものになったに違いない。境内の奥にある豊浄殿では「紫式部特別展」が開催されている。展示品は紫式部観月図(江戸時代・土佐光起筆)などがあり、訪れる人は後を絶たない。
三井寺
式部の没年についても諸説あるが、長和三(一○一四)年という説が有力である。式部四十二歳の時である。その二年後、式部の父、藤原為時は七十歳を過ぎて三井寺に出家する。
三井寺は為時・紫式部一家には縁の深い寺で、式部の母の兄弟が三井寺の僧侶になっていた。康延といい、宮中の仏事や天皇の看病に従事する内供奉十禅師に選ばれていた。また、式部の異母兄弟で、為時の息子定暹も三井寺の阿闍梨であった。一条天皇の母、藤原詮子の追善法要や一条天皇の大葬に御前僧として加わるなど著名な僧侶であった。
三井寺に残る「伝法灌頂血脈譜」には長吏、教静の弟子として定暹の名は記されているが、為時の名は見つからない。為時はかって天皇の宴に招かれたこともある歌人で、式部に文学的な素養を見つけ漢文や詩歌などを教え、式部に多大な影響を与えた。しかし、その娘式部も今はなく、三井寺で失意の日々を過ごす。
金堂、唐院、勧学院などが建つ静かなたたずまいの境内に、為時の痕跡を訪ねるが、無常にも晩秋の冷たい風が吹きぬけるだけであった。
最後に式部が眠る墓所、京都市北区紫野を訪ねる。「堀川北大路」のバス停のすぐそばにある。土塀に囲まれた狭い一画に、平安時代に活躍した歌人小野篁の墓所と並ぶように建っている。
   いにしえの秋の夕の悲しきに 今はと見えしあけぐれの夢
墓碑に寄りそうように咲く紫式部の花が、儚げであった。 
「源氏物語」と 僧侶
主要な僧籍の人物をあげてみましょう。
(1) 阿闍梨(夕顔) 惟光の兄。源氏が大弐の乳母(惟光母)を見舞った折初対面。その後叡山へ帰る。夕顔の四十九日の供養を比叡法華堂で行なう。
(2) 北山の僧都(若紫・紅葉賀・須磨・若菜下) 紫の上の祖母(北山の尼君)の兄。北山に三年籠り中。源氏が北山の聖の所に来ているとき対面。紫の上の素姓を語る。のちに紫の上が源氏に引き取られたことを喜び、尼君の法事を行なう。源氏須磨退居の折には、源氏・紫の上のために祈祷。紫の上重厄の年にはすでに故人となっていた。
(3) 北山の聖(若紫) 北山の岩屋に住み、訪れた源氏のわらわ病みの加持祈祷を行なった。
(4) 雲林院の律師(賢木) 桐壺の更衣の兄。源氏がその坊に参籠した。
(5) 醍醐の阿闍梨(蓬生・初音) 末摘花の兄弟の禅師。京に出たとき末摘花邸を訪うが、彼女の生活の世話など思いもかけない。彼女の唯一の豪華な防寒着の黒貂(ふるき)の皮衣までもらい去る。
(6) 明石の入道(若紫・須磨・明石・澪標・松風・薄雲・少女・若菜上、下) 明石の御方の父。大臣の子で、源氏の母桐壺の更衣とは従兄妹。その娘の出生前に瑞夢を見て、その将来に望みをかけ、近衛中将を捨てて、経済的な地盤を得るため播磨守となった。だが現地の人々にも少し侮られて、面目を失い、そのまま土着。源氏の須磨退居を、住吉の神の導きと喜び、霊夢によって、源氏を明石に迎えた。娘の婿に源氏を迎え、姫君が誕生。やがて母娘と入道室の母尼は上京。その後姫君が入内し、皇子誕生の知らせを受けて、深山に入って消息を絶った。
(7) 夜居の僧都(薄雲) 藤壺中宮の母后(先帝后)のときからの祈祷僧。藤壺中宮の薨去後、冷泉帝に実父が源氏であることを告げた。
(8) 小野の律師(夕霧) 一条御息所の祈祷僧。夕霧が落葉の宮の許に泊まったのを目撃して、御息所に忠告した。
(9) 宇治の阿闍梨(橋姫・椎本・総角・早蕨・宿木・蜻蛉・手習) 宇治の山寺に籠居、八の宮の仏道精進やその姫君(大い君・中の君)のことを、冷泉院へ参上して語った。これを聞いた薫は以後宇治の八の宮邸へ通うことになる。八の宮が阿闍梨の寺で参籠中病にかかるも下山をいましめ、八の宮はそのまま逝去。大い君・中の君が父宮の遺骸に会いたいと願うのも許さなかった。大い君の重態の折には修法を施す。八の宮邸の寝殿を寺に改修して寄進をうける。浮舟の四十九日や一周忌の法要も依頼された。
(10) 横川の僧都1(賢木) 藤壺の中宮の伯父。藤壺出家のとき、その髪を削る。
(11) 横川の僧都2(手習・夢浮橋) 比叡山横川の六十余歳の高僧。実在の名僧(源信僧都)の面影がみとめられる。母の小野の大尼君が妹尼君と初瀬詣での帰りに宇治で病気になったので、下山、宇治院で母の介護をしている折に、失神していた浮舟を助け、尼君たちとともに小野に住まわせた。快方に向かわぬ浮舟のたのめに、弟子たちの反対を押し切って下山。加持祈祷によって浮舟の物の怪も退散。秋、女一の宮の物の怪祈祷のための下山の途中、小野に立ち寄り、浮舟の懇願により授戒。僧都が明石中宮に浮舟のことを語ったのを、薫が伝え聞いて、彼女の身の上を説明。尼にしたことを後悔。その後薫が小野への案内を乞うため、叡山に僧都を訪ねた。
以上を通じて言えることは、いうまでもなく臨終や病気・物の怪退散のときの僧侶の活躍はいうまでもありません。その他、秘密や人の素姓などを明らかにする役回りがあり、また明石の入道のような頑固でユーモラスで、それでいて信仰心のあつい僧侶や、おおらかで人間味のあふれる横川の僧都らがいる一方、小野の律師や宇治の阿闍梨のような、厳しい言動の目立つ僧侶も登場しています。
紫式部には定暹(じょうしん)という異腹で、三井寺の阿闍梨になった兄がおります。父の為時は式部の亡くなったあと、越後守を任期途中でやめて、長和五年(1016)に三井寺で出家しています(「小右記 」)。おそらく定暹の手引きがあったものと思いますが、末摘花の兄の醍醐の阿闍梨などに、その面影が反映しているかも知れません。なお、登場の僧侶たちの大半は叡山系の僧侶で、末摘花の兄だけが高野山系(真言宗)の僧侶です。
いずれにしても、これらの僧侶の登場が、「源氏物語」の内容を濃密に、かつ面白くしていることは確かなのです。  
●2 「平家物語」と三井寺 

 

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・。平家物語、有名な書き出しの部分である。平家物語は、古くから琵琶法師によって詠み継がれた軍記物語、作者や時代背景、どのような経過で今に伝わったか定かでないが、平家一門の栄華とその没落、滅亡を仏教の因果観・無常観を基調として描かれた一大叙事詩である。今回は、平家物語と湖国、そして三井寺との関係を訪ね歩く。
以仁王
平清盛は保元の乱(一一五六年)、 平治の乱(一一五九年)などで武勲を たて、後白河法皇の厚い庇護のもと、正三位、中納言、ついには太政大臣にまで上り詰める。「平家の一門でないものは人にあらず」とまで言われ、一 門は栄華を極めた。
清盛は天下を掌握すると、世間にはばかる事なく傍若無人な振る舞いをし、人心は離れ、世は乱れた。その平家政権に対して最初に反旗を翻したのが、もちひと後白河法皇の第二王子、以仁王(高倉宮)と源頼政であった。
治承四年(一一八〇)以仁王は平家打倒の令旨(皇太子や皇族から出される命令)を発する。令旨は密かに全国に伝えられるが、平家方に漏れ、鳥羽 離宮に幽閉されていた以仁王は三井寺に逃れる。
謀議が平家方に漏れるや否や、三井寺方は南都(興福寺)に以仁王をかくまおうと僧兵千余騎を出す。源頼政の兵五百余騎を加えた軍勢は、宇治川下 り平等院へと向かう。当時平等院は三井寺の末寺で、以仁王を休ませようと したからである。それを聞いた清盛は 「以仁王を捕らえ土佐へ流せ」と激怒。平家方は知盛を大将に、二万八千余騎を従えて宇治橋まで攻め寄せた。頼政は宇治橋の橋板三間分をはずさせ、平家軍を渡れぬようにした。両軍は宇治川をはさみ、しばし睨みあい。やがて、矢合わせ(宣戦布告。互いに矢を 撃ち交わす)する。
三井寺の怪僧浄妙坊は橋の上へ進み、 “日頃は音にもききつらむ、今は目にも見給へ。三井寺にはそのかくれなし。堂衆のなかに、筒井の浄妙明秀といふ、一人当千の兵者ぞや。われと思はむ人は、寄りあへや、見参せむ”
宇治橋合戦図(源平盛衰記図会)塗籠藤の弓二十四本で十二人射抜き、十一人に負傷させ、毛皮の沓脱いで裸足になり、橋の行桁を、さらさらと走り渡った。長刀で向かってくる敵を五人なぎ倒し、六人目の敵に会って、長刀は真中から折れてしまった。それから先は太刀を抜いて、四方八方すかさず斬りつけた。その場で八人斬り倒し、九人目の敵の兜に、強く打ちつけて、ちょうと折れ、刀はざぶんと川の中・・・。
多勢に無勢。戦局は圧倒的多数の平家方に傾く。以仁王はわずかな家臣を引きつれ、奈良、興福寺へと向かう。途中敵の流れ矢に会い死亡。源頼政は平等院で自害する。
木曽義仲
平家物語は滅びの美学、幾つもの死が描かれている。中でも壮絶な死をとげたのは木曽義仲とその家臣、今井兼平であろう。JR膳所駅から琵琶湖方面に歩いて十分の所にある義仲寺を訪ねる。松尾芭蕉の墓所としても有名な義仲寺には、その義仲のいさぎよい死 と、自分の人生をかさねて詠んだ“木曽殿と背中あわせの寒さかな”という芭蕉の句碑がある。
木曽義仲は、木曽次郎源義仲とも呼ばれ、木曽地方の素朴な山育ちであっ たという。武勲に優れた義仲は、平家打倒の命を源頼朝の弟、範頼に受け、治承四年(一一八〇)挙兵する。
倶利伽羅峠の戦い(富山県と石川県 境)で平家の大軍を破って上洛する。長年の飢餓と平家の狼藉によって、荒廃した都の治安回復を期待されたが、大軍が都に居座ったことによる食料事情の悪化などにより、治安回復は失敗する。また、皇位継承への介入により、後白河法皇との関係も悪化。法住寺合戦に及んで後鳥羽天皇を幽閉し、征東大将軍(旭将軍)を名乗った。
この事が後白河法王の逆鱗にふれ、 同じ源氏一門の範頼・義経以下、傘下の東国諸将に義仲討伐を命じた。宇治川の戦いなどで敗れた義仲は、京都を脱出しようと図る。ところが近江国粟津に着いたところ、一条忠頼率いる甲斐源氏軍と遭遇、最早戦力として成り 立たなくなっていた義仲軍は潰滅する。辛うじて逃げ切った義仲に従うのは今井兼平のみであった。義仲と兼平は、乳母が同じという、切っても切れぬ昔からの主従。
義仲は「日頃は何とも思わない鎧が今日は重く感じる」「御身体もまだ疲 れてはおりません。馬も弱っておりま せん。弱気になってるからこそ、そんな風に感じるのです。兼平たった一騎でありますが、世の武者千騎と思ってください。まだ矢が七、八本あります。それで暫く防ぎ矢を致しますので、あそこに見える粟津の松原でどうぞ、ご自害くださいませ」
そこで義仲は覚悟決めて、粟津の松原に踏み込んだところ、馬の脚が深田に取られて動けなくなり、顔面に矢を射られて討ち死にした。
これを見た兼平も「これが日本一の強者の自害する手本だ」と言って、太刀の先を口に含み、馬上から飛び降り自害した。JR石山駅の北西二〇〇メートル、盛越(もろこし)川のほとりに、末裔が建立した今井兼平の墓がある。
那須与一
東近江市五個荘町、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている金堂地区に、那須与一ゆかりの寺、弘誓寺がある。
あたりは古い商人屋敷が並び、川堀には錦鯉が泳ぐ落ち着いた雰囲気の町である。五個荘は近江商人発祥の地であり、また「花筏」など近江商人を題材とした小説で知られる外村繁の生家がある郷として知られる。
弘誓寺は真宗のお寺で、那須与一の孫「愚咄坊」が開いたといわれている。本堂は宝暦十四年(一七六四)に完成、 国の重要文化財に指定されている。表門の瓦には、那須与一ゆかりの扇の紋が入っている。そして、歴代の住職は那須姓を名のり、与一の子孫といわれている。また、この東近江には弘誓寺というお寺が七つもあり、「与一ゆかりの七弘誓寺」と呼ばれている。
那須与一が扇の的を射抜く話は有名 で、絵本などにもなっている。福原の都を棄てた平家は西へ西へと落ち延びる。そして、義経の容赦ない追討が始まり、讃岐の国、屋島で陣を張ることになる。時は元暦二年(一一八五)夕刻。義経、曰く「今日は日が暮れた、勝負を決することは出来ぬ」と、すると沖の方から立派に飾った小船が一艘、漕ぎ寄せきた。七、八段(八十メートル前後)に近寄ってくると、船の中に は十八、九歳ぐらいの美しい女房が、「この扇を撃ってみよ」と、手招きをしているのが見える。
“与一鏑をとってつがひ、よっぴいてひやうどはなつ・・・鏑は海へ入りければ、扇は空へぞあがりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっとぞ散りにける・・・”
夕日が輝いているなか、金の日輪を描いた扇がゆらゆら揺れて、波間に沈んでいく。それを見た両軍はやんや、やんやと喝采を送る。
しかし、大手柄を立てた与一もその後の活躍など分かっていませんが、信濃など各地に逃亡していた兄たちを赦免し、領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされる。没年は建久元年(一一九〇)、山城国伏見において死去したといわれている。
そんな謎多い与一の墓が、京都・東山三十六峰月輪山麓、総本山泉湧寺の山内、即成院にある。その供養塔は、高さ三メートルもある堂々とした石造りの塔である。寺伝では与一が見事扇の要を射ることが出来たのは、阿弥陀さまに祈願し、体調を万全にして精神を集中したからであると伝えられる。
即成院は毎年十月に行われる、二十五菩薩お練り供養が行われるお寺で、京都の風物詩として取り上げられる有名な法要である。金色に輝く二十五体のお面をかぶって、地蔵堂から、本堂へ練り歩くもので、極楽浄土へと導かれる様子を表したものである。近年、 そのお面をかぶって歩く人材が少なく、 苦慮しているという住職の奥様の話が印象的であった。
平家物語の足跡をたどって歩くと、思わぬ偶然や予期せぬ事、新しい出来事に出会う。与一の墓にお参りし、極楽浄土への旅立ちを願う人で、即成院は今も賑わう。 
平重衡
清盛の五男平重衡は天性のユーモリスト、色好みであった。維盛が容姿の美しさで女房達の人気を独占してきたとすれば、重衡はその人柄の明るさとめでたさで人望があった。しかしながら将として三井寺炎上や奈良炎上では法敵の汚名を受け、義経の鵯越えの奇襲で盛俊、忠度、敦盛は討たれたが、重衡だけは生け捕りにされるという情ない目に会った。頼朝の前では毅然たる態度で論破し、結局奈良の宗徒によって打ち首となった。その途中、重衡はあちこちの女性の情けをうけたことを物語りは語るのである。この条は伊勢物語や源氏物語にも通じる色好み文学の系譜につながる。色好みといってもけっして不実の人ではない。愛情豊かな、深く広い愛情を物語は描くのである。平重盛を死への希求タナトスの権化とすれば、平重衡は生への希求すなわちエロスの使徒であった。  
山門滅亡堂衆合戦 (さんもんめつばうだうしゆかつせん) 
さる程(ほど)に、法皇(ほふわう・ほうわう)は三井寺(みゐでら)の公顕僧正(こうけんそうじやう)を御師範(ごしはん)として、真言(しんごん)の秘法(ひほふ・ひほう)を伝受(でんじゆ)せさせましましけるが、大日経(だいにちきやう)・金剛頂経(こんがうちやうきやう)・蘇悉地経(そしつぢきやう)、此(この)三部(さんぶ)の秘法(ひほふ・ひほう)をうけさせ給(たま)ひて、九月(くぐわつ)四日(しにち)三井寺(みゐでら)にて御潅頂(ごくわんぢやう・ごくはんぢやう)あるべしとぞ聞(きこ)えける。山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)憤(いきどほり・いきどをり)申(まうし)、「むかしより御潅頂(ごくわんぢやう・ごくはんぢやう)御受戒(ごじゆかい)、みな当山(たうざん)にしてとげさせまします事(こと)先規(せんぎ)也(なり)。就中(なかんづく)に山王(さんわう)の化導(けだう)は受戒(じゆかい)潅頂(くわんぢやう・くはんぢやう)のためなり。しかるを今(いま)三井寺(みゐでら)にてとげ〔させましまさば、寺(てら)を一向(いつかう)焼払(やきはら)ふべし」とぞ〕申(まうし)ける。「是(これ)無益(むやく)なり」とて、御加行(ごかぎやう)を結願(けつぐわん)して、おぼしめしとどまらせ給(たま)ひぬ。さりながらも猶(なほ・なを)御本意(ごほんい)なればとて、三井寺(みゐでら)の公顕僧正(こうけんそうじやう)をめし具(ぐ)して、天王寺(てんわうじ)へ御幸(ごかう)な(ッ)て、五智光院(ごちくわうゐん・ごちくはうゐん)をたて、亀井(かめゐ)の水(みづ)を五瓶(ごへい)の智水(ちすい)として、仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)最初(さいしよ)の霊地(れいち)にてぞ、伝法(でんぼふ・でんぼう)潅頂(くわんぢやう・くはんぢやう)はとげさせましましける。
山門(さんもん)の騒動(さうどう)をしづめられんがために、三井寺(みゐでら)にて御潅頂(ごくわんぢやう・ごくはんぢやう)はなかりしか共(ども)、山上(さんじやう)には、堂衆(だうじゆ)学生(がくしやう)不快(ふくわい)の事(こと)いできて、かつせん(合戦)度々(どど)に及(およぶ・をよぶ)。毎度(まいど)に学侶(がくりよ・かくりよ)うちおとされて、山門(さんもん)の滅亡(めつばう)、朝家(てうか)の御大事(おんだいじ)とぞ見(み)えし。堂衆(だうじゆ)と申(まうす)は、学生(がくしやう)の所従(しよじゆう・しよじう)也(なり)ける童部(わらはべ)が法師(ほふし・ほうし)にな(ッ)たるや、若(もし)は中間法師原(ちゆうげんほふしばら・ちうげんほうしばら)にてありけるが、金剛寿院(こんがうじゆゐん)の座主(ざす)覚尋権僧正(がくしんごんのそうじやう)治山(ぢさん)の時(とき)より、三塔(さんたふ・さんたう)に結番(けつばん)して、夏衆(げしゆ)と号(かう)して、仏(ほとけ)に花(はな)まいらせ(まゐらせ)し者共(ものども)也(なり)。近年(きんねん)行人(ぎやうにん)とて、大衆(だいしゆ)をも事(こと)共(とも)せざりしが、かく度々(どど)の戦(たたかひ)にうちかちぬ。堂衆等(だうじゆら)師主(ししゆ)の命(めい)をそむいて合戦(かつせん)を企(くはたて)、すみやかに誅罰(ちゆうばつ・ちうばつ)せらるべきよし、大衆(だいしゆ)公家(くげ)に奏聞(そうもん)し、武家(ぶけ)に触(ふれ)う(ッ)たう(うつたふ)。これによ(ッ)て太政入道(だいじやうにふだう・だいじやうにうだう)院宣(ゐんぜん)を承(うけたまは)り、紀伊国(きいのくに)の住人(ぢゆうにん・ぢうにん)湯浅権守(ゆあさのごんのかみ)宗重(むねしげ)以下(いげ)、畿内(きない)の兵(つはもの)二千余騎(にせんよき)、大衆(だいしゆ)にさしそへて堂衆(だうじゆ)を攻(せめ)らる。
堂衆(だうじゆ)日(ひ)ごろは東陽坊(とうやうばう)にありしが、近江国(あふみのくに)三ケ(さんが)の庄(しやう)に下向(げかう)して、数多(すた)の勢(せい)を率(そつ)し、又(また)登山(とうざん)して、さう井坂(ゐざか)に城(じやう)をしてたてごもり。同(おなじき)九月(くぐわつ)廿日(はつかのひ)辰(たつ)の一点(いつてん)に、大衆(だいしゆ)三千人(さんぜんにん)、官軍(くわんぐん・くはんぐん)二千余騎(にせんよき)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)五千余(ごせんよ)人(にん)、さう井坂(ゐざか)におしよせたり。今度(こんど)はさり共(とも)とおもひけるに、大衆(だいしゆ)は官軍(くわんぐん・くはんぐん)をさきだてむとし、官軍(くわんぐん・くはんぐん)は又(また)大衆(だいしゆ)をさきだてんとあらそふ程(ほど)に、心々(こころごころ)にてはかばかしうもたたかはず。城(じやう)の内(うち)より石弓(いしゆみ)はづしかけたりければ、大衆(だいしゆ)官軍(くわんぐん・くはんぐん)かずをつくいてうたれにけり。堂衆(だうじゆ)に語(かた)らふ悪党(あくたう)と云(いふ)は、諸国(しよこく)の窃盜(せつたう)・強盜(がうだう)・山賊(さんぞく)・海賊等(かいぞくとう)也(なり)。欲心熾盛(よくしんしじやう)にして、死生不知(ししやうふち)の奴原(やつばら)なれば、我(われ)一人(いちにん)と思(おもひ)き(ッ)てたたかふ程(ほど)に、今度(こんど)も又(また)学生(がくしやう)いくさにまけにけり。   
頼豪 (らいがう) 
白河院(しらかはのゐん)御在位(ございゐ)の御時(おんとき)、京極大殿(きやうごくのおほとの)の御(おん)むすめ后(きさき)にたたせ給(たまひ)て、兼子(けんし)の中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)とて、御最愛(ごさいあい・ごさいあひ)有(あり)けり。主上(しゆしやう)此(この)御腹(おんぱら)に皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)あらまほしうおぼしめし、其(その)比(ころ)有験(うげん)の僧(そう)と聞(きこ)えし三井寺(みゐでら)の頼豪阿闍梨(らいがうあじやり)をめして、「汝(なんぢ)此(この)后(きさき)の腹(はら)に、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)祈(いのり)申(まう)せ。御願(ごぐわん)成就(じやうじゆ)せば、勧賞(けんじやう)はこふによるべし」とぞ仰(おほせ)ける。
「やすう候(さうらふ)」とて三井寺(みゐでら)にかへり、百日(ひやくにち)肝胆(かんたん)を摧(くだい)て祈(いのり)申(まうし)ければ、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)やがて百日(ひやくにち)のうちに御懐姙(ごくわいにん)あ(ッ)て、承保(しようほう・せうほう)元年(ぐわんねん)十二月(じふにぐわつ・じふに(ン)ぐわつ)十六日(じふろくにち)、御産(ごさん)平安(ぺいあん)、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)有(あり)けり。君(きみ)なのめならず御感(ぎよかん)あ(ッ)て、三井寺(みゐでら)の頼豪阿闍梨(らいがうあじやり)をめして、「汝(なんぢ)が所望(しよまう)の事(こと)はいかに」と仰下(おほせくだ)されければ、三井寺(みゐでら)に戒壇(かいだん)建立(こんりふ・こんりう)の事(こと)を奏(そう)す。主上(しゆしやう)「これこそ存(ぞん)の外(ほか)の所望(しよまう)なれ。一階僧正(いつかいそうじやう)な(ン)ど(など)をも申(まうす)べきかとこそおぼしめしつれ。凡(およそ・をよそ)は皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)あ(ッ)て、祚(そ)をつがしめん事(こと)も、海内(かいだい)無為(ぶい)を思(おも)ふため也(なり)。
今(いま)汝(なんぢ)が所望(しよまう)達(たつ)せば、山門(さんもん)いきどほ(ッ)て世上(せじやう)しづかなるべからず。両門(りやうもん)合戦(かつせん)して、天台(てんだい)の仏法(ぶつぽふ・ぶつぽう)ほろびなんず」とて、御(おん)ゆるされもなかりけり。頼豪(らいがう)口(くち)おしい(をしい)事(こと)也(なり)とて、三井寺(みゐでら)にかへ(ッ・かへつ)て、ひ死(じに)にせんとす。主上(しゆしやう)大(おほき)におどろかせ給(たまひ)て、江帥(がうぞつ・ごうぞつ)匡房卿(きやうばうのきやう)、其(その)比(ころ)は未(いまだ)美作守(みまさかのかみ)と聞(きこ)えしを召(めし)て、「汝(なんぢ)は頼豪(らいがう)と師壇(しだん)の契(ちぎり)あんなり。ゆいてこしらへて見(み)よ」と仰(おほせ)ければ、美作守(みまさかのかみ)綸言(りんげん)を蒙(かうぶり)て頼豪(らいがう)が宿坊(しゆくばう)に行(ゆき)むかひ、勅定(ちよくぢやう)の趣(おもむき)を仰含(おほせふく)めんとするに、以外(もつてのほか・も(ツ)てのほか)にふすぼ(ッ)たる持仏堂(ぢぶつだう)にたてごもり、おそろしげなるこゑして、「天子(てんし)には戯(たはぶれ)の詞(ことば)なし、綸言(りんげん)汗(あせ)の如(ごと)しとこそ承(うけたまは)れ。是(これ)程(ほど)の所望(しよまう)かなはざらむにをいて(おいて)〔は〕、わが祈(いの)りだしたる皇子(わうじ)なれば、取(とり)奉(たてまつり)て魔道(まだう)へこそゆかんずらめ」とて、遂(つひ・つゐ)に対面(たいめん)もせざりけり。
美作守(みまさかのかみ)帰(かへ)りまい(ッ・まゐつ)て、此(この)由(よし)を奏聞(そうもん)す。頼豪(らいがう)はやがてひ死(じに)に死(しに)にけり。君(きみ)いかがせんずると、叡慮(えいりよ・ゑいりよ)をおどろからせおはします。皇子(わうじ)やがて御悩(ごなう)つかせ給(たまひ)て、さまざまの御祈共(おんいのりども)有(あり)しか共(ども)、かなう(かなふ)べしともみえさせ給(たま)はず。白髪(はくはつ)なりける老僧(らうそう)の、錫杖(しやくぢやう)も(ッ)て皇子(わうじ)の御枕(おんまくら)にたたずみ、人々(ひとびと)の夢(ゆめ)にもみえ、まぼろしにも立(たち)けり。おそろしな(ン)ど(など)もおろかなり。去程(さるほど)に、承暦(しようりやく・せうりやく)元年(ぐわんねん・ぐはんねん)八月(はちぐわつ)六日(むゆかのひ)、皇子(わうじ)御年(おんとし)四歳(しさい)にて遂(つひ・つゐ)にかくれさせ給(たまひ)ぬ。敦文(あつふん)の親王(しんわう)是(これ)なり。主上(しゆしやう)なのめならず御歎(おんなげき)ありけり。
山門(さんもん)に又(また)西京(さいきやう)の座主(ざす)、良信(りやうしん)大僧都(だいそうじやう)、其(その)比(ころ)は円融房(ゑんゆうばう)の僧都(そうづ)とて、有験(うげん)の僧(そう)と聞(きこ)えしを、内裏(だいり)へめして、「こはいかがせんずる」と仰(おほせ)ければ、「いつも我(わが)山(やま)の力(ちから)にてこそか様(やう)の御願(ごぐわん)は成就(じやうじゆ)する事(こと)候(ざうら)へ。九条(くでうの)右丞相(うしようじやう・うせうじやう)、慈恵大僧正(じゑだいそうじやう)に契(ちぎり)申(まう)させ給(たまひ)しによ(ッ)てこそ、冷泉院(れんぜいのゐん)の皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)は候(さうらひ)しか。やすい程(ほど)の御事(おんこと)候(ざうらふ)」とて、比叡山(ひえいさん・ひゑいさん)にかへりのぼり、山王大師(さんわうだいし)に百日(ひやくにち)肝胆(かんたん)を摧(くだい・くだひ)て祈(いのり)申(まうし)ければ、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)やがて百日(ひやくにち)の内(うち)に御懐姙(ごくわいにん)あ(ッ)て、承暦(しようりやく・せうりやく)三年(さんねん)七月(しちぐわつ)九日(ここのかのひ)、御産(ごさん)平安(ぺいあん)、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)有(あり)けり。堀河天皇(ほりかはのてんわう)是(これ)也(なり)。怨霊(をんりやう)は昔(むかし)もおそろしき事(こと)也(なり)。今度(こんど)さしも目出(めで)たき御産(ごさん)に、大赦(だいしや)はをこなは(おこなは)れたりといへ共(ども)、俊寛(しゆんくわん)僧都(そうづ)一人(いちにん)、赦免(しやめん)なかりけるこそうたてけれ。同(おなじき)十二月(じふにぐわつ)八日(やうかのひ)、皇子(わうじ)東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。傅(ふ)には、小松内大臣(こまつのないだいじん)、大夫(だいぶ)には池(いけ)の中納言(ちゆうなごん・ちうなごん)頼盛卿(よりもりのきやう)とぞ聞(きこ)えし。   
競 (きほふ) 
宮(みや)は高倉(たかくら)を北(きた)へ、近衛(こんゑ)を東(ひがし)へ、賀茂河(かもがは)をわたらせ給(たまひ)て、如意山(によいやま)へいらせおはします。昔(むかし)清見原(きよみばら)の天皇(てんわう)のいまだ東宮(とうぐう)の御時(おんとき)、賊徒(ぞくと)におそはれさせ給(たま)ひて、吉野山(よしのやま)へいらせ給(たま)ひけるにこそ、をとめのすがたをばからせ給(たま)ひけるなれ。いま此(この)君(きみ)の御(おん)ありさまも、それにはたがはせ給(たま)はず。しらぬ山路(さんろ)を夜(よ)もすがらわけいらせ給(たま)ふに、いつならはしの御事(おんこと)なれば、御(おん)あしよりいづる血(ち)は、いさごをそめて紅(くれなゐ)の如(ごと)し。夏草(なつくさ)のしげみがなかの露(つゆ)けさも、さこそはところせうおぼしめされけめ。
かくして暁方(あかつきがた)に三井寺(みゐでら)へいらせおはします。「かひなき命(いのち)のおしさ(をしさ)よ、衆徒(しゆと)をたのんで入御(じゆぎよ)あり」と仰(おほせ)ければ、大衆(だいしゆ)畏悦(かしこまりよろこび)て、法輪院(ほふりんゐん・ほうりんゐん)に御所(ごしよ)をしつらい(しつらひ)、それにいれたてま(ッ)て、供御(ぐご)したててまいらせ(まゐらせ)けり。
あくれば十六日(じふろくにち)、高倉(たかくら)の宮(みや)の御謀叛(ごむほん)おこさせ給(たまひ)て、うせさせ給(たまひ)ぬと申(まうす)ほどこそありけれ、京中(きやうぢゆう・きやうぢう)の騒動(さうどう)なのめならず。法皇(ほふわう・ほうわう)これをきこしめて、「鳥羽殿(とばどの)を御(おん)いであるは御悦(おんよろこび)なり。ならびに御歎(おんなげき)と泰親(やすちか)が勘状(かんじやう)をまいらせ(まゐらせ)たるは、これを申(まうし)けり」とぞ仰(おほせ)ける。
抑(そもそも)源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう・にうだう)、年(とし)ごろ日比(ひごろ)もあればこそありけめ、ことしいかなる心(こころ)にて謀叛(むほん)をばおこしけるぞといふに、平家(へいけ)の次男(じなん)前ノ(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)、すまじき事(こと)をし給(たま)へり。されば、人(ひと)の世(よ)にあればとて、すぞろにすまじき事(こと)をもし、いふまじき事(こと)をもいふは、よくよく思慮(しりよ)あるべき物(もの)也(なり)。たとへば、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう・にうだう)の嫡子(ちやくし)仲綱(なかつな)のもとに、九重(ここのへ・ここのえ)にきこえたる名馬(めいば)あり。鹿毛(かげ)なる馬(むま)のならびなき逸物(いちもつ)、のりはしり、心(こころ)むき、又(また)あるべしとも覚(おぼ)えず。名(な)をば木(こ)のしたとぞいはれける。前(さきの)右大将(うだいしやう)これをつたへきき、仲綱(なかつな)のもとへ使者(ししや)たて、「きこえ候(さうらふ)名馬(めいば)をみ候(さうらは)ばや」との給(たま)ひつかはされたりければ、伊豆守(いづのかみ)の返事(へんじ)には、「さる馬(むま)はも(ッ)て候(さうらひ)つれども、此(この)ほどあまりにのり損(そん)じて候(さうらひ)つるあひだ、しばらくいたはらせ候(さうら)はんとて、田舎(ゐなか・いなか)へつかはして候(さうらふ)」。
「さらんには、ちからなし」とて、其(その)後(のち)沙汰(さた)もなかりしを、おほくなみなみい(ゐ)たりける平家(へいけ)の侍共(さぶらひども)、「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)、其(その)馬(むま)はおととひ(をととひ)までは候(さうらひ)し物(もの)を。昨日(きのふ)も候(さうらひ)し、けさも庭(には)のりし候(さうらひ)つる」な(ン)ど(など)申(まうし)ければ、「さてはおしむ(をしむ)ごさんなれ。にくし。こへ」とて、侍(さぶらひ)してはせさせ、ふみな(ン)ど(など)しても、一日(いちにち)がうちに五六度(ごろくど)七八度(しちはちど)な(ン)ど(など)こはれければ、三位(さんみ)入道(にふだう)これをきき、伊豆守(いづのかみ)よびよせ、「たとひこがねをまろめたる馬(むま)なり共(とも)、それほどに人(ひと)のこわ(こは)う物をおしむ(をしむ)べき様(やう)やある。すみやかにその馬(むま)六波羅(ろくはら)へつかはせ」とこその給(たま)ひけれ。伊豆守(いづのかみ)力(ちから)およばで、一首(いつしゆ)の歌(うた)をかきそへて六波羅(ろくはら)へつかはす。
   恋(こひ)しくはきてもみよかし身(み)にそへるかげをばいかがはなちやるべき
宗盛卿(むねもりのきやう)歌(うた)の返事(へんじ)をばし給(たま)はで、「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)馬(むま)や。馬(むま)はまことによい馬(むま)でありけり。されどもあまりに主(ぬし)がおしみ(をしみ)つるがにくきに、やがて主(ぬし)が名(な)のりをかなやきにせよ」とて、仲綱(なかつな)といふかなやきをして、むまやにたてられけり。客人(まらうと・まろうと)来(きたり)て、「きこえ候(さうらふ)名馬(めいば)をみ候(さうらは)ばや」と申(まうし)ければ、「その仲綱(なかつな)めに鞍(くら)おいてひきだせ、仲綱(なかつな)めのれ、仲綱(なかつな)めうて、はれ」な(ン)ど(など)の給(たま)ひければ、伊豆守(いづのかみ)これをつたへきき、「身(み)にかへておもふ馬(むま)なれども、権威(けんゐ)につゐ(つい)てとらるるだにもあるに、馬(むま)ゆへ(ゆゑ)仲綱(なかつな)が天下(てんが)のわらはれぐさとならんずるこそやすからね」とて、大(おほき)にいきどをら(いきどほら)れければ、三位(さんみ)入道(にふだう・にうだう)これをきき、伊豆守(いづのかみ)にむか(ッ)て、「何事(なにごと)のあるべきとおもひあなづ(ッ)て、平家(へいけ)の人(ひと)共(ども)が、さやうのしれ事(ごと)をいふにこそあんなれ。其(その)儀(ぎ)ならば、いのちいきてもなにかせん。便宜(びんぎ)をうかがふ(うかがう)てこそあらめ」とて、わたくしにはおもひもたたず、宮(みや)をすすめ申(まうし)たりけるとぞ、後(のち)にはきこえし。
これにつけても、天下(てんが)の人(ひと)、小松(こまつ)のおとどの御事(おんこと)をぞしのび申(まうし)ける。或(ある)時(とき)、小松殿(こまつどの)参内(さんだい)の次(ついで・つゐで)に、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)の御方(おかた)へまいら(まゐら)せ給(たま)ひたりけるに、八尺(はつしやく)ばかりありけるくちなはが、おとどのさしぬきの左(ひだり)のりんをはひまはりけるを、重盛(しげもり)さはが(さわが)ば、女房達(にようばうたち)もさはぎ(さわぎ)、中宮(ちゆうぐう・ちうぐう)もおどろかせ給(たまひ)なんずとおぼしめし、左(ひだり)の手(て)でくちなはのををさへ(おさへ)、右(みぎ)の手(て)でかしらをとり、直衣(なほし・なをし)の袖(そで)のうちにひきいれ、ち(ッ)ともさはが(さわが)ず、つゐ(つい)立(た・ッ)て、「六位(ろくゐ)や候(さうらふ)六位(ろくゐ)や候(さうらふ)」とめされければ、伊豆守(いづのかみ)、其(その)比(ころ)はいまだ衛府蔵人(ゑふのくらんど)でをはし(おはし)けるが、「仲綱(なかつな)」となの(ッ)てまいら(まゐら)れたりけるに、此(この)くちなはをたぶ。
給(たまはつ)て弓場殿(ゆばどの)をへて、殿上(てんじやう)の小庭(こには)にいでつつ、御倉(みくら)の小舎人(こどねり)をめして、「これ給(たま)はれ」といはれければ、大(おほき)にかしらをふ(ッ)てにげさりぬ。ちからをよば(およば)で、わが郎等(らうどう)競(きほふ・きをほ)の滝口(たきぐち)をめして、これをたぶ。給(たま)は(ッ)てすてて(ン)げり。そのあした小松殿(こまつどの)よい馬(むま)に鞍(くら)おいて、伊豆守(いづのかみ)のもとへつかはすとて、「さても昨日(きのふ)のふるまい(ふるまひ)こそ、ゆう(いう)に候(さうらひ)しか。是(これ)はのり一(いち)の馬(むま)で候(さうらふ)。夜陰(やいん・やゐん)に及(およん・をよん)で、陣外(ぢんぐわい)より傾城(けいせい)のもとへかよはれん時(とき)、もちゐらるべし」とてつかはさる。
伊豆守(いづのかみ)、大臣(おとど)の御返事(おんペんじ)なれば、「御馬(おんむま)かしこま(ッ)て給(たま)はり候(さうらひ)ぬ。昨日(きのふ)のふるまい(ふるまひ)は、還城楽(げんじやうらく)にこそにて候(さうらひ)しか」とぞ申(まう)されける。いかなれば、小松(こまつ)おとどはかうこそゆゆしうおはせしに、宗盛卿(むねもりのきやう)はさこそなからめ、あま(ッ)さへ(あまつさへ)人(ひと)のおしむ(をしむ)馬(むま)こひと(ッ)て、天下(てんが)の大事(だいじ)に及(および・をよび)ぬるこそうたてけれ。同(おなじき)十六日(じふろくにち)の夜(よ)に入(い・ッ)て、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう・にうだう)頼政(よりまさ)、嫡子(ちやくし)伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)、次男(じなん)源(げん)大夫判官(だいふのはんぐわん)兼綱(かねつな)、六条ノ蔵人(ろくでうのくらんど)仲家(なかいへ)、其(その)子(こ)蔵人(くらんど)太郎(たらう)仲光(なかみつ)以下(いげ)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)三百余騎(さんびやくよき)館(たち)に火(ひ)かけやきあげて、三井寺(みゐでら)へこそまいら(まゐら)れけれ。
三位(さんみ)入道(にふだう・にうだう)の侍(さぶらひ)に、源三(げんざう)滝口(たきぐちの)競(きほふ・きをほ)といふ物(もの)あり。はせおくれてとどま(ッ)たりけるを、前(さきの)右大将(うだいしやう)、競(きほふ・きをほ)をめして、「いかになんぢは三位(さんみ)入道(にふだう・にうだう)のともをばせでとどま(ッ)たるぞ」との給(たまひ)ければ、競(きほふ・きをほ)畏(かしこまり)て申(まうし)ける、「自然(しぜん)の事(こと)候(さうら)はば、ま(ッ)さきかけて命(いのち)をたてまつらんとこそ、日来(ひごろ)は存(ぞんじ)て、候(さうらひ)つれども、何(なに)とおもはれ候(さうらひ)けるやらん、かうともおほせられ候(さうら)はず」。「抑(そもそも)朝敵(てうてき)頼政(よりまさ)法師(ぼふし・ぼうし)に同心(どうしん)せむとやおもふ。又(また)これにも兼参(けんざん)の物(もの)ぞかし。先途(せんど)後栄(こうえい・こうゑい)を存(ぞん)じて、当家(たうけ)に奉公(ほうこう)いたさんとやおもふ。ありのままに申(まう)せ」とこその給(たま)ひければ、競(きほふ・きをほ)涙(なみだ)をはらはらとながいて、「相伝(さうでん)のよしみはさる事(こと)にて候(さうら)へども、いかが朝敵(てうてき)となれる人(ひと)に同心(どうしん)をばし候(さうらふ)べき。
殿中(てんちゆう・てんちう)に奉公(ほうこう)仕(つかまつら)うずる候(ざうらふ)」と申(まうし)ければ、「さらば奉公(ほうこう)せよ。頼政(よりまさ)法師(ぼふし・ぼうし)がしけん恩(おん・をん)には、ち(ッ)ともおとるまじきぞ」とて、入(いり)給(たま)ひぬ。さぶらひには、「競(きほふ・きをほ)はあるか」。「候(さうらふ)」。「競(きほふ)はあるか」。「候(さうらふ)」とて、あしたより夕(ゆふべ)に及(およぶ・をよぶ)まで祗候(しこう・しかう)す。やうやう日(ひ)もくれければ、大将(だいしやう)いでられたり。競(きほふ)かしこま(ッ)て申(まうし)けるは、「三位(さんみ)入道殿(にふだうどの・にうだうどの)三井寺(みゐでら)にときこえ候(さうらふ)。さだめて打手(うつて)むけられ候(さうら)はんずらん。心(こころ)にくうも候(さうら)はず。
三井寺(みゐでら・みいでら)法師(ぼふし・ぼうし)、さては渡辺(わたなべ)のしたしいやつ原(ばら)こそ候(さうらふ)らめ。ゑりうち(えりうち)な(ン)ど(など)もし候(さうらふ)べきに、の(ッ)て事(こと)にあふべき馬(むま)の候(さうらひ)つる〔を〕、したしいやつめにぬすまれて候(さうらふ)。御馬(おんむま)一疋(いつぴき)くだしあづかるべうや候(さうらふ)らん」と申(まうし)ければ、大将(だいしやう)「も(ッ)ともさるべし」とて、白葦毛(しらあしげ)なる馬(むま)の煖廷(なんれう)とて秘蔵(ひさう)せられたりけるに、よい鞍(くら)おいてぞたうだりける。競(きほふ)やかたにかへ(ッ・かへつ)て、「はや日(ひ)のくれよかし。此(この)馬(むま)に打乗(うちのり)て三井寺(みゐでら)へはせまいり(まゐり)、三位(さんみ)入道(にふだう・にうだう)殿(どの)のま(ッ)さきかけて打死(うちじに)せん」とぞ申(まうし)ける。
日(ひ)もやうやうくれければ、妻子共(さいしども)かしこここへたちしのばせて、三井寺(みゐでら)へ出立(いでたち)ける心(こころ)のうちこそむざんなれ。ひやうもんの狩衣(かりぎぬ)の菊(きく)とぢおほきらかにしたるに、重代(ぢゆうだい・ぢうだい)のきせなが、ひおどし(ひをどし)のよろひに星(ほし)じろの甲(かぶと)の緒(を・お)をしめ、いか物(もの)づくりの大太刀(おほだち)はき、廿四(にじふし)さいたる大(おほ)なかぐろの矢(や)おひ、滝口(たきぐち)の骨法(こつぽふ・こつぽう)わすれじとや、鷹(たか)の羽(は)にてはいだりける的矢(まとや)一手(ひとて)ぞさしそへたる。しげどうの弓(ゆみ)も(ッ)て、煖廷(なんれう)にうちのり、のりかへ一騎(いつき)うちぐし、とねり男(をとこ・おとこ)にもたてわきばさませ、屋形(やかた)に火(ひ)かけやきあげて、三井寺(みゐでら)へこそ馳(はせ)たりけれ。
六波羅(ろくはら)には、競(きほふ・きをほ)が宿所(しゆくしよ)より火(ひ)いできたりとて、ひしめきけり。大将(だいしやう)いそぎいでて、「競(きほふ)はあるか」とたづね給(たま)ふに、「候(さうら)はず」と申(まう)す。「すわ、きやつを手(て)のべにして、たばかられぬるは。お(ッ)かけてうて」との給(たま)へども、競(きほふ)はもとよりすぐれたるつよ弓(ゆみ)せい兵(びやう)、矢(や)つぎばやの手(て)きき、大(だい)ぢからの甲(かう)の物(もの)、「廿四(にじふし)さいたる矢(や)でまづ廿四人(にじふしにん)は射(い・ゐ)ころされなんず。おとなせそ」とて、むかふ物(もの)こそなかりけれ。三井寺(みゐでら)にはおりふし(をりふし)競(きほふ)が沙汰(さた)ありけり。渡辺党(わたなべたう)「競(きほふ・きをほ)をばめしぐすべう候(さうらひ)つる物(もの)を。六波羅(ろくはら)にのこりとどま(ッ)て、いかなるうき目(め)にかあひ候(さうらふ)らん」と申(まうし)ければ、三位(さんみ)入道(にふだう・にうだう)心(こころ)をし(ッ)て、「よもその物(もの)、無台(むたい)にとらへからめられはせじ。入道(にふだう)に心(こころ)ざしふかい物(もの)也(なり)。いまみよ、只今(ただいま)まいら(まゐら)(ン)ずるぞ」との給(たま)ひもはてねば、競(きほふ)つ(ッ)といできたり。
「さればこそ」とぞの給(たま)ひける。競(きほふ)かしこま(ッ)て申(まうし)けるは、「伊豆守殿(いづのかみどの)の木(こ)のしたがかはりに、六波羅(ろくはら)の煖廷(なんれう)こそと(ッ)てまい(ッ・まゐつ)て候(さうら)へ。まいらせ(まゐらせ)候(さうら)はん」とて、伊豆守(いづのかみ)にたてまつる。伊豆守(いづのかみ)なのめならず悦(よろこび)て、やがて尾髪(をかみ・おかみ)をきり、かなやきして、次(つぎ)の夜(よ)六波羅(ろくはら)へつかはし、夜半(やはん)ばかり門(もん)のうちへぞおひいれたる。馬(むま)やにい(ッ)て馬(むま)どもにくひあひければ、とねりおどろきあひ、「煖廷(なんれう)がまい(ッ・まゐつ)て候(さうらふ)」と申(まう)す。大将(だいしやう)いそぎいでて見(み)給(たま)へば、「昔(むかし)は煖廷(なんれう)、今(いま)は平(たひら・たいら)の宗盛(むねもり)入道(にふだう・にうだう)」といふかなやきをぞしたりける。大将(だいしやう)「やすからぬ競(きほふ)めを、手(て)のびにしてたばかられぬる事(こと)こそ遺恨(ゐこん・いこん)なれ。今度(こんど)三井寺(みゐでら)へよせたらんには、いかにもしてまづ競(きほふ)めをいけどりにせよ。のこぎりで頸(くび)きらん」とて、おどり(をどり)あがりおどり(をどり)あがりいかられけれども、南丁(なんちやう)が尾(を)かみもおい(おひ)ず、かなやきも又(また)うせざりけり。   
三井寺炎上 (みゐでらえんしよう) 
日(ひ)ごろは山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)こそ、みだりがはしきう(ッ)たへ(うつたへ)つかまるに、今度(こんど)は穏便(をんびん)を存(ぞん)じてをと(おと)もせず。「南都(なんと)・三井寺(みゐでら)、或(あるい・あるひ)は宮(みや)うけとり奉(たてまつ)り、或(あるい・あるひ)は宮(みや)の御(おん)むかへにまいる(まゐる)、これも(ッ)て朝敵(てうてき)なり。
されば三井寺(みゐでら)をも南都(なんと)をもせめらるべし」とて、同(おなじき)五月(ごぐわつ)廿七日(にじふしちにち)、大将軍(たいしやうぐん)には入道(にふだう・にうだう)〔の〕四男(しなん)頭(とうの)中将(ちゆうじやう・ちうじやう)重衡(しげひら)、副将軍(ふくしやうぐん)には薩摩守(さつまのかみ)忠教(ただのり)、都合(つがふ・つがう)其(その)勢(せい)一万余騎(いちまんよき)で、園城寺(をんじやうじ)へ発向(はつかう)す。寺(てら)にも堀(ほり)ほり、かいだてかき、さかも木(ぎ)ひいてまちかけたり。
卯剋(うのこく)に矢合(やあはせ)して、一日(いちにち)たたかひくらす。ふせくところ大衆(だいしゆ)以下(いげ)の法師原(ほつしばら)、三百余人(さんびやくよにん)までうたれにけり。夜(よ)いくさにな(ッ)て、くらさはくらし、官軍(くわんぐん)寺(てら)にせめ入(いり)て、火(ひ)をはなつ。やくるところ、本覚院(ほんがくゐん)、成喜院(じやうきゐん)・真如院(しんによゐん)・花園院(くわをんゐん)、普賢堂(ふげんだう)・大宝院(だいほうゐん)・清滝院(りやうりうゐん)、教大和尚ノ(けうだいくわしやうの)本坊(ほんばう)ならびに本尊等(ほんぞんとう)、八間(はちけん)四面(しめん)の大講堂(だいかうだう)、鐘楼(しゆろう)・経蔵(きやうざう)・潅頂堂(くわんぢやうだう)、護法善神(ごほうぜんじん)の社壇(しやだん)、新熊野(いまぐまの)の御宝殿(ごほうでん)、惣(すべ)て堂舎(たうじや)塔廟(たふべう・たうべう)六百三十七宇(ろつぴやくさんじふしちう)、大津(おほつ)の在家(ざいけ)一千八百五十三宇(いつせんはつぴやくごじふさんう)、智証(ちしやう)のわたし給(たま)へる一切経(いつさいきやう)七千余巻(しちせんよくわん)、仏像(ぶつざう)二千余体(にせんよたい)、忽(たちまち)に煙(けぶり)となるこそかなしけれ。
諸天五妙(しよてんごめう)のたのしみも此(この)時(とき)ながくつき、竜神(りゆうじん・りうじん)三熱(さんねつ)のくるしみもいよいよさかんなるらんとぞみえし。それ三井寺(みゐでら)は、近江(あふみ)の義大領(ぎだいりよう)が私(わたくし)の寺(てら)たりしを、天武天皇(てんむてんわう)によせ奉(たてまつり)て、御願(ごぐわん)となす。本仏(ほんぶつ)もかの御門(みかど)の御本尊(ごほんぞん)、しかるを生身弥勒(しやうじんみろく)ときこえ給(たま)ひし教大和尚(けうだいくわしやう)百六十(ひやくろくじふ)年(ねん)おこなふ(おこなう)て、大師(だいし)に附属(ふぞく)し給(たま)へり。都士多天上摩尼宝殿(としたてんじやうまにほうでん)よりあまくだり、はるかに竜花下生(りゆうげげしやう・りうげげしやう)の暁(あかつき)をまたせ給(たま)ふとこそききつるに、こはいかにしつる事共(ことども)ぞや。大師(だいし)このところを伝法(でんぼふ・でんぽう)潅頂(くわんぢやう)の霊跡(れいせき)として、ゐけすいの三(みつ)をむすび給(たまひ)しゆへ(ゆゑ)にこそ、三井寺(みゐでら)とは名(な)づけたれ。
かかるめでたき聖跡(せいぜき)なれ共(ども)、今(いま)はなにならず。顕密(けんみつ)須臾(しゆゆ)にほろびて、伽藍(がらん)さらに跡(あと)もなし。三密(さんみつ)道場(だうぢやう)もなければ、鈴(れい)の声(こゑ)もきこえず。一夏(いちげ)の花(はな)もなければ、阿伽(あか)のをと(おと)もせざりけり。宿老(しゆくらう)磧徳(せきとく)の名師(めいし)は行学(ぎやうがく)におこたり、受法(じゆほふ・じゆほう)相承(さうじよう・さうぜう)の弟子(でし)は又(また)経教(きやうげう)にわかれんだり。寺(てら)の長吏(ちやうり)円慶(ゑんけい)法親王(ほふしんわう・ほうしんわう)、天王寺(てんわうじの)別当(べつたう)をとどめらる。其(その)外(ほか)僧綱(そうがう)十三人(じふさんにん)闕官(けつくわん)ぜられて、みな検非違使(けんびゐし・けんびいし)にあづけらる。
悪僧(あくそう)はつつ井(ゐ)の浄妙明秀(じやうめうめいしう)にいたるまで三十(さんじふ)余人(よにん)ながされけり。「かかる天下(てんが)のみだれ、国土(こくど)のさはぎ(さわぎ)、ただ事(こと)ともおぼえず。平家(へいけ)の世(よ)の末(すゑ)になりぬる先表(ぜんべう)やらん」とぞ、人(ひと)申(まうし)ける。   
●3 「雨月物語」と三井寺 

 

上田秋成の墓所を探して、京都南禅寺近くにある西福寺を訪ねる。南禅寺を散策する観光客の喧騒が嘘のように、 ひっそりと佇む西福寺の奥庭に「上田無腸翁之墓」という墓碑があった。
それにしても墓に刻まれている「無腸」という言葉、なんとも不思議な耳慣れない言葉である。腸が無い蟹を象徴する、秋成の号である。そして墓標 をささえる土台石も蟹型をしている。無腸の号は、この世を蟹のごとく、横ばいに歩んだ秋成の生き様そのものであった。
三井寺の僧が鯉になった。
上田秋成の代表作「雨月物語」、全九話の中の一編、夢応の鯉魚は魚になった僧侶の話である。雨月物語は怪奇小説として知られ、そのほとんどが恐怖や怨念などが含まれた物語であるが、夢応(むおう)の鯉魚(りぎょ)は別格で、画僧が魚に変身 して遊ぶ楽しいファンタジー小説でもあった。
物語は、平安時代の中頃、三井寺に興義という絵の巧みな僧がいた。実在の人物と伝えられ、「寺門血脈譜」や「諸家体系図」によれば、興義は文章博士・藤原実範の第六子で、寛治五年に阿遮梨となった三井寺の碩学であった。
興義は、寺務の暇をみては琵琶湖に船を浮かべ、漁師から買い取った魚を放し、その魚の泳ぎ回るさまを見てはそれを絵に描いた。時には絵のことばかり考え、疲れて眠りに落ち、夢の中で水に入り、魚と遊びたわむれた。目が覚めるとすぐにそれを絵にして、夢応の鯉魚と名づけた。絵を欲しがる者が先を争ってやってきたが、花鳥山水の絵だけを求めに応じて与えるが、鯉 の絵だけは誰にも与えなかった。
ある年、興義は病気にかかり、七日目に呼吸が止まり死んでしまった。弟子や友人が集まり、嘆き悲しんだが、胸のあたりにまだ暖かみが残っているので、生き返るのではないかと見守っていると、三日目に深い眠りから醒めた。興義は檀家の平の助の殿が、いま 新鮮な魚をさばいて、宴会をしているはずだから、ここに呼びなさい、と命 じて使いをやると、果たして平の助の 殿は宴会の最中であった。そして宴会の様子を事細かくいい、そしてなぜその訳が分かったのか話し始めた。
「私は死んだことに気がつかず、湖神から金色の鯉の着物を授かり身に付 けて、近江八景の名所をめぐりました。水中から眺める近江八景は絶景でした。 しかし、私は空腹をおぼえ、餌に飛びつき、漁師に釣り上げられました。」
「私を釣った漁師は文四といい、日頃から魚を買い取っている漁師でした。釣り上げられた私は、大きな声を出して、「文四、鯉になったのは私だ」と 叫んでいるのに、文四は大きな包丁を出して、私を料理しようとするのです。 そしてその側には、平の助の殿が舌なめずりして宴会の用意をしているではありませんか。文四、私だ、興義だと 叫んでいる時に目が覚めたのです。」
平の助の殿は「そう言われてみれば、確かに鯉の口がパクパクと動くのを見たが、声は聞こえなかった。それにつけても不思議なことだ」と語った。
興義はその後、病も癒えて天寿を全 う。臨終のおりに、鯉の絵を琵琶湖に散らしたところ、鯉は紙を抜け出し、泳ぎ始めたという。そういう訳で彼の絵は世に残っていない。
雨月物語は霊界と非現実世界を描く。
数多くある秋成の著作中、もっとも 有名な作品は雨月物語であろう。泉鏡花や佐藤春夫が心酔し、そして著作も 残している。また映画「雨月物語」は 溝口健二監督、田中絹代主演で昭和二十八年封切された。
秋成の読本は伝奇小説に属し、「幽霊物語」と自らも言うとおり、霊界と現実とを往還する、死してなお現世に 未練を残す霊や妖怪を描いている。雨月物語は秋成三十五歳の時から想を練 り、推敲を重ね、ついに安永五年、秋成四十三歳の時刊行する。
雨月物語に収録される九編は、いずれも現実と非現実の境界を舞台とした怪談である。その九編を紹介してみると「白峰」では、崇徳院の怨念を…。「菊花の約」では義兄弟再会の約束を 果たす魂。「浅茅が宿」では夫一筋の 妻の霊を、そして今回の特集、三井寺 の僧侶の鯉への身代わり描く「夢応の鯉魚」。「仏法僧」では関白秀次の修羅 を、「吉備津の釜」では妻磯良の怨念 を、「蛇性の婬」では女児の恋慕を、「青頭巾」では行脚僧の食人鬼を、「貧富論」では黄金の精霊が活躍するなど、霊・怨霊・妖怪など登場し、読者を異世界にいざないつつ、人間の本質をとらえた珠玉の短編集である。
鬼才、放浪子、上田秋成とは。
上田秋成は、享保十九年(一七三四)大阪曽根崎に生まれる。その秋成を語 るには二点の重要なキーワードがある。第一に私生児として生まれたことである。四歳で実母から離され、商家嶋屋へ養子と出される。秋成は「我は捨てられたる…」と後年語っている。
もう 一つは、子供のころ疱瘡をわずらい、命はとりとめたものの、手指が畸形となったことである。
出生の秘密と、両手指の畸形。秋成が背負わなければならない内面的な苦のらもの悩を、自らを「放浪子」と称した。家業の嶋屋(油屋、商いはずいぶん多かった)の商売には背を向け、町人学校懐徳堂へ通い、国文学などの教養を身につけ、俳諧の世界へとのめり込む。
宝暦十年(一七六〇)二十七歳になった秋成は植山たまと結婚。後に秋成の文学に大きな影響を与えた瑚l尼である。翌年、養父上田茂助が亡くなり、文字通り嶋屋の当主となるが、あいかわらず商売には身が入らず、俳諧に遊 ぶ日々を過ごす。そして、明和三年処女作、浮世草子 「諸道聞耳世間猿」を刊行する。その後、賀茂真淵一門の国学者、加藤宇万伎に師事、「世間妾形気」を上梓する。
しかし、文芸の世界に没頭する裕福な商家の主人としての生活は、明和八年(一七七二)の大火で終止符を打つ。嶋屋焼失、破産した秋成は「三十八といふ齢より泊然としてありか定めぬ」暮らしを強いられる。秋成は嶋屋再興も果たせぬまま、加島村に居を定め、医術を学んで再出発することになる。 その師は儒医都賀庭鐘であった。
秋成は医業に誠心誠意打ち込み、医はこころ、仁術であると心得「合点のゆかぬ症」にも徹底して患者に尽くし、病人、家族とも受けがよかったと自伝 に記す。医者として成功を収め、また 近隣の文化人を集め、 「竹取物語」や 「伊勢物語」を講義する。
安永五年、四十三歳にして居を尼崎町(大阪市中央区高麗橋付近)に移し、医療活動を続けながら「雨月物語」を、 また源氏物語「ぬば玉の巻」の注釈を 著す。与謝野蕪村、高井几薫らと親しく交わりながらも、文人として、また 国学者としての独自の世界観を構築していく。
そして有名な話として残る、国学の巨匠本居宣長との論争へと続く。後に 「呵刈叚」にまとめられた両者の論点 は、伊勢の片田舎で多くの弟子を抱え、昔風の国学を講ずる宣長を「…弟子ほしさの古事記伝兵衛という」と酷評し、地方人宣長の皇国至上主義と、都会人、秋成の感情的ないさかいであった。
また、俳聖と崇められていた松尾芭蕉に対し「学ぶまじき人の有様」と、権威に対する痛烈な批判を行っている。 また、その批判精神は千利休が極めた茶道にも及ぶ。権威的、形式的になった侘茶(抹茶)道に対し、秋成は自由で、手軽に楽しめる煎茶の世界に没頭。秋成は煎茶の歴史、性質、煎法など、煎茶万般にいたる書 「清風瑣言」を著す。そして自ら生涯の友となる茶器や 急須を作るなど、煎茶道への貢献は顕著であった。
天明七年(一七八七)、五十四歳の 秋成は医業を廃して、淡路庄村に引きこもる。長年にわたる医者生活のため健康を害したとも、誤診があったとも言われている。また、宣長との論争 よる精神的な疲れ、市中の喧騒に対する嫌気などが考えられる。
寛政五年(一七九三)子供のいない 秋成夫妻がたいそう可愛がっていた、隣家の幼児が死ぬ。夫妻の悲しみは深 く、ついに安住の場と定めた淡路庄村 を去って、京都知恩院の門前、袋町に移住する。京都は若いころから何度も訪れた秋成ではあったが、いざ住んでみると、軒向かいの村瀬栲亭のいう通 り、決して住みやすい所ではなかった。後に京都での生活をふりかえり「十六年すんで、又一語くわへて、不義国の貧乏国じゃと思ふ」と述べている。
寛政九年(一七九七)その年も暮れようとするころ、四十年近く秋成の支えとなってきた妻、瑚l尼が急死する。年老いた秋成にとって、これは打撃 あった。妻の野辺送りに際し、柩の内に「つらかりし此と月のむくいしていかにせよとか我をすてくむ」と書き付けている。最晩年になって 「胆大小心録」「自伝」「春雨物語」などを書き上げた。そして文化六年六月、わずかの門人にみとられて、羽倉信美の屋敷にて永眠する。
奇想の画家、伊藤若冲が彫った蟹の台座に「上田無腸翁之墓」銘の墓石が建っている。今年は、上田秋成没後二百年を迎える。来年の秋には京都国立博物館で記念の展覧会が、開催される予定である。  
雨月物語

水滸伝を書いた羅漢中は三代に渡って口のきけない子供が生まれ、源氏物語を書いた紫式部は地獄に落ちた。それは思うに架空の物語を書いて人々を惑わせた報いであろう。
さて、その文章を見るとそれぞれ普通とは違う珍しい趣向を凝らし、文の勢いは真に迫り、調子は低くあるいは高くなめらかで、読者の心を共鳴させる。
描かれている事実をはるか後の世の現在にも、鏡に映るようにありありと見せてくれるのである。私にも泰平の世のむだ話があって、口をついて出るままに吐き出してみれば、雉が鳴き、竜が戦うような奇怪な話である。自分でもでたらめなものだと思う。これを拾い読みする者も、当然これを信用するはずもない。
だから私の場合は人々を惑わせる罪もなく、唇や鼻が欠ける報いを受けることもない。明和五年晩春、雨が上がり月が朧にかすむ夜、書斎の窓のもとに編成して書肆に渡す。題して「雨月物語」という。
剪枝畸人記す。(剪枝畸人は上田秋成のこと)
白峯
歌人の西行が、旧主である崇徳院の菩提を弔おうと白峯を訪れ、読経し歌を詠みました。
「松山の浪のけしきはかはらじを かたなく君はなりまさりけり」(松山の潟の波は古歌のとおりに今も寄せては返しているのに、我が君は跡形もなく、もはや取り返しようもない)
すると、西行のことを呼ぶ声が聞こえます。見てみると、人影がこちらを向いて立っていて、「松山の浪にながれてこし船の やがてむなしくなりにけるかな」と返歌してきました。
その歌から西行は、声の主が成仏せずに怨霊となった崇徳院であることに気づきます。西行は崇徳院と対話をし、一首の歌を詠みました。
「よしや君昔の玉の床とても かからんのちは何にかはせん」(以前は玉座にあって位人臣を極めたとはいえ、こうなってしまったあとでそれが一体なにになりましょう)
すると崇徳院の顔が穏やかになり、そのまま消えていきました。崇徳院の墓は整えられて、御霊として崇め奉られるようになりました。
菊花の約
母と二人で暮らす儒学者の左門は、ある日行きずりの武士が病気で伏せているのを見つけ、看病してあげます。話を聞くとこの武士は宗右衛門という軍学者で、故郷で主が討たれた事を聞いて急いで帰る途中との事でした。
看病の間に二人は仲良くなって兄弟の契りを結びます。病気が回復した宗右衛門は、左門に「九月九日にまた戻ってくる」と言って故郷に帰ります。
しかし、約束の日になっても宗右衛門は中々現れません。左門はそれでも待ち続け、夜が更けた頃に宗右衛門が現れました。
でも、どこか宗右衛門の様子がおかしい。訳を聞いてみると、宗右衛門は故郷で軽薄な丹治という男の謀略によって監禁されてしまい、約束を果たすためには幽霊になって行くしかないと自死したとの事でした。そして左門に別れを告げ、消えてしまいます。
左門は宗右衛門の仇を取る為に出雲へ旅立ちます。見事丹治を斬り殺した左門。兄弟の信義の厚さに打たれ、家来たちも左門を追いませんでした。
やはり軽薄な人間と関わるのはやめたほうが良いのです。
浅茅が宿
戦国時代の下総国に、働くのが嫌いな勝四郎と妻が暮らしていました。元は裕福な家でしたが、勝四郎が働かない為にどんどん貧しくなっていきます。
そこで勝四郎は発奮。家の財産を全て絹にかえて、妻に「秋には帰る」と言い残し商人と京に上ります。
妻は美しかったので言い寄ってくる男も居ましたが、これを断って夫の帰りを待ち続けます。しかし夫は秋になっても帰ってきません。
勝四郎は京で絹を売って儲けたものの、帰る途中に山賊に襲われて財産を全て奪われてしまいます。そして関東で戦乱が起き、途中の関所も人が通れない状態になっていると聞きます。「きっと妻も生き残っていないだろう」と、勝四郎は京に7年程住みつきます。
京でも戦乱が起きるなどして、一度地元へ帰る事にした勝四郎。ようやく辿り着くと、そこに待っていたのはひどくやつれた姿の妻でした。妻は夫との再開を喜び、お互いに涙を流します。
お互いの事を語り、そのまま二人は眠りにつきました。翌朝勝四郎が目覚めると、そこは廃屋でした。横にいたはずの妻もおらず、やはり妻は死んでいたのだと気づきます。
周りを見てみると塚があり、そこに貼ってある一枚の紙に歌が書いてありました。
「さりともと思ふ心にはかられて 世にもけふまでいける命か」(それでもいつかはお帰りになるだろうと騙し騙しに今日まで生きてきたものの)
妻の死について知っている人を探し、一人の老人にたどり着きます。老人にこの地での戦乱のこと、妻がそれでも待ち続けていた事などを聞いて、勝四郎はまた涙を流します。そして老人にこの土地に伝わる真間の手児女の伝説を聞き、勝四郎は歌を詠みます。
「いにしへの真間の手児女をかくばかり 恋てしあらん真間のてごなを」(昔の人々も真間の手児女を、このように思い返していたのだろうか、この葛飾の真間の女を)
下総の国にたびたび出かける商人の語った話です。
夢応の鯉魚
近江国三井寺に、興義という有名な画僧がいました。鯉の絵が好きで、夢の世界でも鯉と遊ぶほど。そこで見た様子を描いた絵を「夢応の鯉魚」と名付けました。
しばらくして、興義は病を患って亡くなってしまいます。しかしまだ体の胸のあたりが温かかったので、弟子たちは念の為そのまま置いておきました。すると三日後、興義は生き返ります。
興義は起きるなり、「檀家の平の助の殿がいま宴会をしているはずだから、呼んできなさい」と言いつけます。使をやると、まさに平の助は宴会の最中。
興義はなんでわかったのか訳を話し始めます。自分が死んだ事にも気づかずに琵琶湖まで行って泳いでいた興義は、「魚になって自由に泳ぎたい」と願うと体が鯉になりました。興義が泳いでいると、釣り針で釣られて平の助の屋敷まで連れて行かれます。声をあげて助けを求めるも聞こえず、刀で切られる寸前に目が覚めたとのこと。
平の助はこの不思議な話を聞いて、残りの魚も全部逃します。興義もその後、天寿を全うしました。その際に興義の鯉の絵を湖に放すと紙から出て泳ぎ出したということです。興義の弟子の成光も、鶏が本物と見間違える程の素晴しい鶏の絵を描くことで有名だったという話です。
仏法僧
伊勢国の拝志夢然という人が、末子の作之治と旅に出ました。高野山に着くのが遅くなり、夜になってしまいます。泊まる所が見つからず、仕方なく霊廟の前の灯籠堂で念仏を唱えて朝を待つことにしました。
するとどこからともなく「仏法仏法」と仏法僧という鳥の鳴き声が聞こえ、これを題材に夢然は「鳥の音も秘密の山の茂みかな」と一句詠みます。もう一度声が聞きたいと待っていると、やってきたのはなんと豊臣秀次とその家臣の霊。
家臣は夢然の先程の歌を詠ませたり、一同は盛り上がります。
しかし家臣の一人が修羅の時が近づいている事を知らせると、急に殺気立ちます。秀次は「部外者の二人も修羅の世界に連れていけ」と命じて二人は肝を冷やしますが、家臣がたしなめます。
気がつくと一同の姿は消えていました。
後に夢然が「瑞泉寺にある秀次の悪逆塚の横を通った時に、何か凄いものを感じた」と人へ語ったのをここにそのまま書きました。
吉備津の釜
あるところに正太郎という色欲の強い男がいました。父の言うことも聞かずに遊び歩いていたので、嫁を迎えれば落ち着くだろうと縁談がまとめられます。
婚姻の前に吉凶を占う神事、御釜祓いをすると凶という結果が出てしまいます。しかしもう縁談は進んでいた為、そのまま婚姻する事に。
嫁に来た磯良はよく出来た女性で、非の打ち所がありませんでした。しかし時が経つにつれて正太郎はまた愛人をつくり、家に帰らなくなります。
挙句の果てには磯良を騙して金を奪い、愛人の袖と駆け落ちする始末。磯良は心労で体調を崩してしまいます。
駆け落ちした正太郎でしたが、袖は何かに取り憑かれたように体調もおかしくなり、数日後に死んでしまいました。正太郎はひどく悲しみ、毎日墓参りします。
そんなある日、墓に女が居ました。話を聞くと仕える家の主人が死んでしまって、伏せてしまった奥方の代わりに来ているとのこと。その女が美人だったこともあり、家まで行って奥方と悲しみを分かち合いに行くことになります。家に行ってみると、屏風の奥から現れたのはなんと磯良でした。
血の気もなく恐ろしい姿をしていたので、正太郎は気絶してしまいます。
ふと気づくと、正太郎は三昧堂に居ました。その出来事を知人に話すと、陰陽師を紹介されます。陰陽師は「災いがすぐそこまで迫っている。こやつは袖という女の命も奪っているが、まだ恨みは晴れていない。四十九日が終わるまでの間、戸締まりをして一歩も外に出るな」と言います。
正太郎もこの言いつけを守り、その最後の日。夜が明けたので外に出てみると、実は妖術でまだ夜だったのです。
声がしたので知人が見に行くとあたりは血だらけで、そこには正太郎の引きちぎられた男髷があるだけという恐ろしい光景でした。
陰陽師の占いの的中したこと、御釜祓いの示した凶兆もまさにそのとおりになったのは恐るべきことだと語り伝えられています。
蛇性の婬
紀伊国に、大宅の竹助という漁業経営者が居ました。長男はしっかり者でしたが、三男の豊雄は家業を好まない厄介者でした。
ある日豊雄が外出から帰る時に大雨になり、小屋で雨宿りをします。すると少女を連れた二十歳程の美しい女も雨宿りにきました。
豊雄は女に傘を貸し、後日女の屋敷に取りに行きます。屋敷はとても立派で、豊雄は女と楽しい時を過ごしました。
すると女は、自分が夫を亡くした境遇である事を明かし、豊雄に求婚します。豊雄も自分の立場を考えて迷うものの、ついには承諾して宝物の太刀まで貰って帰ります。
太刀が家族に見つかって責められる豊雄は真相を打ち明けますが、中々信じてもらえません。家族は、この太刀は最近宝物庫から盗まれたという宝物の一つではないかと疑います。
そこで長男は大宮司の館へ行って事情を話します。すると大宮司は「これは盗まれたものに違いない。その男を捕らえよ。」と言って、豊雄を捕まえます。
そして調査の為に女の屋敷に行ってみると廃墟になっていて、近所の人に聞いても三年前から人は住んでいないといいます。
勇気ある武士が先頭で屋敷に入ってみると、一人の美しい女が居ました。女を捕まえようとしたその時、雷が鳴り響いて女の姿も消えてしまいます。
そしてそこには盗まれていた宝物の山が現れました。これによって多少豊雄の罪は軽くなりましたが、釈放されたのは百日後でした。
豊雄は世間に顔向けが出来ないと、大和国に住む姉のもとへ向かいます。翌年の春、近くの長谷寺に行くとあの女が現れました。
豊雄は恐れますが、女は「あれは身を守る為の謀略だった。宝も前の夫が盗んだものだ。」と弁解します。豊雄は同情の気持ちと姉の説得もあり、女と結婚することにします。
しばらく仲良く暮らしていましたが、夫婦と少女で吉野に旅をした時、突然やって来た翁が「この邪神ども、なぜ人間をたぶらかす。わしの目を誤魔化せると思うな」と言うと、女と少女は突然滝に飛び込んで逃げてしまいました。
豊雄は驚き、大和神社に仕えているという翁に話を聞くと「この邪神は大蛇である。そなたの容姿に目をつけてつきまとっているが、気をつけないと命を落とす。あなたも男らしさを取り戻せば邪神を追い払う事が出来る」と忠告されます。
豊雄も改心し、姉のところに世話になるのはやめて実家で親孝行をしようと決意します。実家に戻ると、両親が「いつまでも独り身だからこんな事になった。早く良い嫁を貰おう」と富子という女性と結婚します。
結婚二日目の夜、富子は突然女に取り憑かれ、豊雄を罵り始めます。「こんな女と結婚するなんて。そんな事をするなら峰から谷まで旦那様の血で染め上げてみせましょう」富雄が恐怖にふるえていると、突然あの少女が現れます。それを見て豊雄は気絶。
翌朝目を覚まし、名のある法師に助けを求めますが、その法師も呪いで殺されてしまいます。
そこで別の和尚に頼むと、「この芥子の香が染み込んだ袈裟を女にかぶせなさい。」と袈裟を渡されます。隙をついてなんとかこれをかぶせ、和尚もそこに何かを念じながら現れ、女と少女は蛇の姿になりました。これを捕まえて鉄の鉢に入れ、地中深くに埋めてしまいます。
今もまだこの蛇塚があるとのこと。富子は病気で亡くなってしまいましたが、豊雄は寿命を全うしたと伝えられています。
青頭巾
改庵禅師が旅に出ました。下野国富田へさしかかって里に入ると、下人たちは「鬼が来た」と隠れてしまいます。
鬼ではない事がわかり出てきた下人たちに事情を聞くと、近くの山の上にある寺に、人肉を食らう鬼がいるとのこと。禅師はこれを聞いて鬼を正道に戻そうと山に向かいます。
寺には僧がいて、禅師は一夜の宿を頼みました。
真夜中、食人鬼になった僧が現れて禅師を探しますが、見つかりません。そのまま疲れ果てて倒れた僧が翌朝正気に戻ると、禅師は昨夜座った場所から一切動かずにいました。
「飢えているのなら自分の肉を差し出しても良い」という禅師に、僧は自分の浅ましさを恥じて救いを求めます。そして、「江月照松風吹 永夜清宵何所為(つきはてらしてまつかぜふく よがながいのはどうしてなのか)」という句を授け、「この句の真意が解ければ仏心に出会えるだろう」と言い残し、旅に出ていきました。
一年後、また富田へやってきた禅師が下人に様子を聞くと、あの後鬼は出てこなくなったと喜んでいます。禅師が様子を確かめようと寺に行くと、荒れ果てた庭の石の上であの句をつぶやく僧の姿があります。禅師は「作麼生(そもさん)、何の所為ぞ」と僧の頭を叩くと、たちまち僧の体は消えて後には人骨と青頭巾だけが残りました。
禅師はこの山寺を真言密宗から曹洞宗に改め、住職に就任します。今もこの大平山大中寺は栄えているとのことです。
( 七不思議が伝わる曹洞宗の寺 / 太平山南麓の山懐につつまれた名刹大中寺は、はじめ真言宗の寺として久寿年間(1154〜1155)に建てられたが、その後、衰退していたのを快庵妙慶禅師(かいあんみょうけいぜんし)が延徳元年(1489)に曹洞宗の寺として再興したという。戦国時代、越後の上杉謙信は関東管領職を受けて、北関東に進出すると大中寺の6世住職快叟(かいそう)が叔父であったことから、この寺を厚く保護し、永禄4年(1561)、当時、焼失していた伽藍の修復を行っている。永禄11年(1568)、謙信が北条氏康と和議を結んだのもこの寺である。 その後、火災にあって焼けているが、天正3年(1575)、七世天嶺呑補(てんれいどんぽ)のときに再建、九世柏堂(はくどう)の天正19年(1591)には、関東曹洞宗の僧録職を命ぜられ寺領100石を与えられた。徳川家の信任厚く曹洞宗の徒弟修業の道場として栄え、大正初期まで参集する雲水でにぎわったという。 山門は、皆川城の裏門(搦手門(からめてもん))を元和2年(1616)に移築したものといわれており、古建築物の一つとして貴重なものである。 上田秋成の「雨月物語」にある青頭巾はこの寺を舞台として書かれたものであり、また、この寺に伝わる七不思議の伝説も有名である。大中寺は久寿年間(1154)開創された歴史ある寺であり、江戸時代に徳川家の信仰の厚かった寺で、雨月物語の中に登場します。境内には、「不断のかまど」「油坂」「根なしの藤」「馬首の井戸」「不開の雪隠」「東山一口拍子木」「枕返しの間」などの七不思議の話が伝わっています。その後、延徳元年(1489)、快庵妙禅師が曹洞宗の寺として再興し、今日に至っています。 上杉謙信がこの寺に縁故のあった関係から、当時消失していた七堂伽藍(寺のいろいろな建物)を寄進したほか、上杉・北条の両氏がこの寺で和を結んだ史実も残されています。江戸時代、9世柏堂和尚は寺領百石の御朱印を賜るなど徳川家康の信任を受け、以後、江戸末期に至るまで、天下の曹洞宗寺院の管理にあたる三寺院(これを関三刹という)の筆頭の寺として、天下に号令する地位にありました。また、11世紀宗演和尚のころには、幕府から曹洞宗天下大僧録に任ぜられ太平山大中官寺と号して、江戸品川に天暁院という宿所を置いて事務をとり、宮中に参内して禅師号を賜っていました。 周辺に観光ぶどう園があります。栃木県栃木市大平町 )
貧福論
左内という男は日々倹約に励んでいて、暇があれば金貨を部屋に敷き詰めて楽しむような人物でした。しかしケチという訳ではなく、下男が小判一枚を蓄えている事を知るとお金の大事さを説きながら十両の金をあげるような男だった為、庶民には人気がありました。
ある日、左内が寝ていると枕元に小さな翁が現れます。黄金の精霊を名乗る翁は、色々語りたい為にやってきたといい、世の人々がお金を卑しいものとする風潮を嘆きます。
左内が「なぜ素晴らしい働きをする者でも貧しいものがいるのか」と質問すると、「お金は自然の道理で動くので、善悪の論理は関係がない」と答えます。最後に翁は「堯蓂日杲 百姓帰家(へいわのしるしがあらわれて みながいえにかえるひがくる)」という句を残して、姿が見えなくなりました。 
●4 「太平記」に描かれた三井寺 

 

"不死鳥の寺と呼ばれている三井寺。今回の特集「太平記」が書かれた時代にも、壊滅的な焼き討ちにあっている。三井寺にとって、太平記の舞台である南北朝時代が、いかに苦難に満ちた時代であったか、 「太平記」をひも解きながら検証してみる。
複雑な南北朝時代
「太平記」は、「平家物語」と並ぶ軍記物語の名作として知られている。南北朝時代の戦乱の様子を描いたものであるが、戦乱が複雑な経過をたどったため、足利尊氏、新田義貞、楠正成など表舞台に登場する武将の名前は覚えているが、わが国の歴史にどのような影響を与えたか、いま一つ理解出来ない時代ではないだろうか。
すこし、復習してみると……。正慶二年(一三三三)、鎌倉幕府が滅亡したあと、ただちに京都に戻った後醍醐天皇は新しい政治を始めた。新たな幕府を置かず、院政、摂政・関白もない天皇の親政の実現を目指した。「建武の新政」である。
しかし、天皇中心の新政策は公家を重視し、それまでの武士の社会につくられていた習慣を無視したものであった。この形勢を見た足利尊氏は、鎌倉で起きた中先代の乱を鎮めた後、武家政治の再興を目指して後醍醐天皇に反旗をひるがえした。いったん敗北した尊氏だったが、九州に逃げのび態勢を立て直し、湊川の戦いで楠正成を打ち破ると、ついに京都を奪回。建武の新政は、わずか三年たらずで崩壊した。
その後、尊氏は後醍醐天皇との和解を計り、三種の神器を手に入れて持明院統の光明天皇(北朝)を擁立した。一方、後醍醐天皇は京都を脱出して、奈良吉野へ逃れ、光明天皇は正統ではないと主張、吉野に南朝を開く。正統を主張する二つの朝廷が対立し、以後六十年にわたる南北朝の動乱が始まる。
長大な軍記物語、「太平記」
この様な社会背景の中で「太平記」は記された。「太平記」は全四十巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、二代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで、文保二年から貞治六年(一三一八〜一三六八)を書く軍記物語である。
作者・成立時期は不詳であるが、今川家本、古活字本、西源院本など諸種があり「太平」とは平和を祈願する意味で付けられたと考えられる。その内容は三部構成で、後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡を描いた第一部(巻一〜十一)、建武の新政の失敗と南北朝分裂から後醍醐天皇の崩御までを第二部(巻十二〜二十一)足利幕府内部の混乱を描いた第三部(巻二十三〜四十)からなる。
太平記は中世から謡曲や浄瑠璃などによって語り継がれ、室町時代には太平記に影響され、多くの軍記物語が書かれている。また、江戸時代になると「太平記読み」による講釈で語られるようになり、庶民に大きな影響を与えた。
太平記全体の構想にあるのが儒教的な大義名分論と、君臣論、また仏教的因果応報論が基調にあり、宋学の影響を受けたとされる。後醍醐天皇は作中で徳を欠いた天皇として描かれているが、のちに水戸光圀は修史事業として編纂した 「大日本史」には天皇親政をめざした後醍醐天皇こそ正統な天皇であると主張した。
これにより足利尊氏は逆賊であり、南朝側の楠正成や新田義貞などは忠臣として美化され、これがのちに水戸学として幕末の尊皇攘夷運動、さらに太平洋戦争の皇国史観へと至る。
太平記巻十五 三井寺の運命
太平記の時代からさかのぼること、およそ三百年。天台宗では、延暦寺(山門)と三井寺(寺門)が対立する。三井寺が、長暦二(一○三八)年、独自の戒壇(戒律を授ける儀式を行う道場)設立を朝廷に奏請して以来、両寺の対立が激化。南北朝時代になっても両派のいさかいは続き、建武三(一三三六)年正月に新田義貞と比叡山の僧兵によって、三井寺は炎上する。
太平記巻十五「三井寺合戦の事」に
新田の三万余騎の勢、城の中へ懸けはいって、まづ合図の火をぞ揚げたりける、これを見て山門の大衆二万余人、如意越えより落ち合ひて、すなはち院々・谷々へ乱れり、堂舎・仏閣に火を懸けて、をめき叫んでぞ攻めたりける、猛火東西より吹き懸けて、敵南北に充ち満ちたれば、今は叶はじと思いけん、三井寺の衆徒ども、あるいは金堂に走り入って、猛火の中に腹を切つて伏し、あるいは聖教を抱いて幽谷に倒れまろぶ…… されば半日ばかりの合戦に、大津、松本、三井寺の中に討ち倒れたる敵を数ふるに、七千三百余人なり……
この合戦で、三井寺は炎上し、金堂本尊の弥勒菩薩も首を切られ、山(比叡山)法師の落書きが添えられ、藪に放置されていたとある。また焦土と化した境内には、空しく焼け残った梵鐘があった。この鐘は、むかで退治で有名な俵藤太の逸話で知られ、後段「弁慶の引き摺り鐘」の伝説として残る鐘である。山門、寺門何度目かの争いのとき、山門側が持ち帰った鐘で、当時の幕府の働きによって三井寺に返された。 「太平記」にも「昔竜宮城より伝わりたる鐘なり。その故は、承平の頃俵藤太秀郷という者ありけり。ある時この秀郷ただ一人勢田の橋を渡りけるに、長二十丈ばかりなる大蛇、橋の上に横たわって伏したり。両のまなこ輝いて、天に二つの日にかけたるが如し」とある。
三井寺は、源頼義(新羅三郎)が前九年の役に出陣するにあたり三井寺に詣で、新羅明神に戦勝を祈願したことから「源氏数代崇重の寺」といわれている。この時代にも、源氏の足利尊氏に味方した三井寺は、天皇家や公家、豪族や武士たちの権力争いに翻弄される。
その後、室町幕府を開いた尊氏は、貞和年間(一三四五〜一三四九)、「三井寺合戦」で焼失した三井寺の諸堂社を再興している。尊氏が再建した三井寺の新羅善神堂(国宝)
現在、三井寺境内の北側、大津市役所の裏手に、尊氏が再建した新羅善神堂は建っている。現存する建築物では一番古く、六百六十余年風雪に耐え、今も人々の篤い信仰に守られている。
三井寺が不死鳥の寺と呼ばれている所以である。 
園城寺(をんじやうじ)戒壇(かいだんの)事(こと)
山門二心(ふたごころ)なく君を擁護(おうご)し奉て、北国・奥州の勢を相待(まつ)由聞(きこ)へければ、義貞に勢の著(つか)ぬ前(さき)に、東坂本(ひがしさかもと)を急(いそぎ)可被責とて、細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)・同刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)・並(ならびに)陸奥(むつの)守(かみ)を大将として、六万(ろくまん)余騎(よき)を三井寺(みゐでら)へ被差遣。是(これ)は何(いつ)も山門に敵する寺なれば、衆徒(しゆと)の所存よも二心非じと被憑ける故(ゆゑ)也(なり)。
随(したがつて)而衆徒被致忠節者、戒壇(かいだん)造営の事(こと)、武家殊に加力可成其功之(の)由(よし)、被成御教書。抑(そもそも)園城寺(をんじやうじ)の三摩耶戒壇(さまやかいだん)の事は、前々(せんぜん)已(すで)に公家(くげ)尊崇(そんそう)の儀を以て、勅裁を被成、又関東(くわんとう)贔負(ひいき)の威を添(そへ)て取立(とりたて)しか共(ども)、山門嗷訴(がうそ)を恣(ほしいまま)にして猛威を振(ふる)ふ間、干戈(かんくわ)是(これ)より動き、回禄(くわいろく)度々(どど)に及べり。其(その)故を如何(いかに)と尋(たづぬ)るに、彼(かの)寺の開山高祖(かいさんかうそ)智証(ちしよう)大師(だいし)と申(まうし)奉るは、最初(そのかみ)叡山(えいさん)伝教(でんげう)大師(だいし)の御弟子(おんでし)にて、顕密両宗(けんみつりやうしゆう)の碩徳(せきとく)、智行兼備の権者(ごんじや)にてぞ御坐(おはしま)しける。
而るに伝教(でんげう)大師(だいし)御入滅(ごにふめつ)の後、智証(ちしよう)大師(だいし)の御弟子(おんでし)と、慈覚(じかく)大師(だいし)の御弟子(おんでし)と、聊(いささか)法論の事有(あつ)て、忽(たちまち)に確執(かくしつ)に及(および)ける間、智証(ちしよう)大師(だいし)の門徒修禅(もんとしゆぜん)三百房(さんびやくばう)引(ひい)て、三井寺(みゐでら)に移る。于時教待和尚(けうたいくわしやう)百六十年(ひやくろくじふねん)行(おこなう)て祈出(いのりいだ)し給(たまひ)し生身(しやうじん)の弥勒菩薩(みろくぼさつ)を智証(ちしよう)大師(だいし)に付属(ふぞく)し給へり。大師(だいし)是(これ)を受て、三密瑜伽(さんみつゆか)の道場を構へ、一代説教の法席(ほつせき)を展給(のべたまひ)けり。其(その)後仁寿(にんじゆ)三年に、智証(ちしよう)大師(だいし)求法(ぐほふ)の為に御渡唐有(ごとたうあり)けるに、悪風俄に吹来(ふききたつ)て、海上の御船(おんふね)忽(たちまち)にくつがへらんとせし時、大師(だいし)舷(ふなばた)に立出(たちいで)て、十方を一礼(いちらい)して誠礼を致させ給ひしかば、仏法護持(ごぢ)の不動明王(ふどうみやうわう)、金色(こんじき)の身相(しんさう)を現(げん)じて、船の舳(へ)に立(たち)給ふ。
又新羅(しんら)大明神(だいみやうじん)親(まのあた)りに船の艫(とも)に化現(けげん)して、自(みづから)橈(かぢ)を取(とり)給ふ。依之(これによつて)御舟(おんふね)無恙明州津(みやうじうのつ)に著(つき)にけり。角(かく)て御在唐(ございたう)七箇年(しちかねん)の間、寝食(しんしよく)を忘(わすれ)て顕密(けんみつ)の奥義(あうぎ)を究(きは)め給ひて、天安三年に御帰朝あり。其後(そののち)法流弥(いよいよ)盛(さかん)にして、一朝の綱領(かうれい)、四海(しかい)の倚頼(いらい)たりしかば、此(この)寺四箇の大寺(だいじ)の其(その)一つとして、論場(ろんぢやう)の公請(くしやう)に随ひ、宝祚(はうそ)の護持を致(いたす)事(こと)諸寺に卓犖(たくらく)せり。抑(そもそも)山門已(すで)に菩薩(ぼさつ)の大乗戒(だいじようかい)を建(たて)、南都(なんと)は又声聞(しやうもん)の小乗戒(せうじようかい)を立つ。園城寺(をんじやうじ)何ぞ真言(しんごん)の三摩耶戒(さまやかい)を建(たて)ざらんやとて、後朱雀(ごしゆじやく)院(ゐん)の御宇(ぎよう)長暦(ちようりやく)年中に、三井寺(みゐでら)の明尊(みやうそん)僧正(そうじやう)、頻(しき)りに勅許を蒙(かうむ)らんと奏聞しけるを、山門堅く支申(ささへまうし)ければ、彼(かの)寺の本主太政(だいじやう)大臣(だいじん)大友(おほともの)皇子(わうじ)の後胤、大友(おほともの)夜須磨呂(やすまろ)の氏族連署して、官府(くわんふ)を申す。
貞観(ぢやうぐわん)六年十二月五日の状に曰(いはく)、「望請長為延暦寺(えんりやくじ)別院(べちゐん)、以件円珍作主持之人、早垂恩恤、以園城寺、如解状可為延暦寺(えんりやくじ)別院(べちゐん)之(の)由(よし)、被下寺牒。将俾慰夜須磨呂(やすまろ)並氏人愁吟。弥為天台(てんだいの)別院(べちゐん)専祈天長地久之御願、可致四海(しかい)八(はちえん)之泰平云云。仍貞観八年五月十四日、官符被成下曰、以園城寺可為天台(てんだいの)別院(べちゐん)云云。如之貞観九年(くねん)十月三日智証(ちしよう)大師(だいし)記文云、円珍之門弟不可受南都小乗劣戒、必於大乗戒壇院、可受菩薩別解脱戒云云。然(しかれ)ば本末(ほんまつ)の号歴然(れきぜん)たり。師弟の義何ぞ同(おなじ)からん。」証(しよう)を引き理(り)を立(たて)て支申(ささへまうし)ける間、君(きみ)思食煩(おぼしめしわづらは)せ給(たまひ)て、「許否(きよひ)共に凡慮(ぼんりよ)の及(およぶ)処に非(あらざ)れば、只可任冥慮。」とて、自(みづから)告文(かうぶん)を被遊て叡山(えいさんの)根本中堂(こんぼんちゆうだう)に被篭けり。
其詞(そのことばに)云(く)、「戒壇立、而可無国家之危者、悟其旨帰、戒壇立而可有王者之懼者、施其示現云云。」此告文(このかうぶん)を被篭て、七日に当りける夜、主上(しゆしやう)不思議(ふしぎ)の御夢想(ごむさう)ありけり。無動寺(むどうじ)の慶命(きやうみやう)僧正(そうじやう)、一紙(いつし)の消息(せうそく)を進(まゐらせ)て云(いはく)、「自胎内之昔、至治天之今、忝(かたじけなくも)雖奉祈請宝祚長久、三井寺(みゐでらの)戒壇院若(もし)被宣下者、可失本懐云云。」又其翌夜(そのつぎのよ)の御夢(おんゆめ)に彼(かの)慶命(きやうみやう)僧正(そうじやう)参内(さんだい)して紫宸殿(ししんでん)に被立たりけるが、大きに忿(いか)れる気色(けしき)にて、「昨日一紙(いつし)の状を雖進覧、叡慮(えいりよ)更に不驚給、所詮(しよせん)三井寺(みゐでら)の戒壇有勅許者、変年来之御祈、忽(たちまち)に可成怨心。」と宣(のたま)ふ。
又其翌(そのつぎ)の夜(よ)の御夢(おんゆめ)に、一人の老翁弓箭(きゆうせん)を帯(たい)して殿上(てんしやう)に候(こう)す。主上(しゆしやう)、「汝(なんぢ)は何者ぞ。」と御尋(おんたづね)有(あり)ければ、「円宗(ゑんしゆう)擁護(おうご)の赤山(せきさん)大明神(だいみやうじん)にて候。三井寺(みゐでら)の戒壇院執奏(しつそう)の人に向(むかつ)て、矢一つ仕(つかまつら)ん為に参内(さんだい)して候也(なり)。」とぞ申(まうさ)れける。夜々の御夢想に、君も臣も恐(おそれ)て被成ければ、遂(つひ)に寺門の所望被黙止、山門に道理をぞ被付ける。角(かく)て遥(はるか)に程(ほど)経(へ)て、白河院の御宇(ぎよう)に、江帥匡房(えのそつのきやうばう)の兄に、三井寺(みゐでら)の頼豪(らいがう)僧都(そうづ)とて、貴(たつと)き人有(あり)けるを被召、皇子御誕生の御祈(おんいのり)をぞ被仰付ける。
頼豪(らいがう)勅を奉(うけたまはつ)て肝胆(かんたん)を砕(くだい)て祈請(きしやう)しけるに、陰徳忽(たちまち)に顕(あらは)れて承保(しようほう)元年十二月十六日に皇子御誕生有(あり)てけり。帝(みかど)叡感の余(あまり)に、「御祷(おんいのり)の観賞(けんじやう)宜依請。」と被宣下。頼豪(らいがう)年来(としごろ)の所望(しよまう)也(なり)ければ、他の官禄一向是(これ)を閣(さしおい)て、園城寺(をんじやうじ)の三摩耶戒壇(さまやかいだん)造立(ざうりつ)の勅許をぞ申賜(まうしたまはり)ける。山門又是(これ)を聴(きき)て款状(くわじやう)を捧(ささげ)て禁庭(きんてい)に訴へ、先例を引(ひい)て停廃(ちやうはい)せられんと奏(そう)しけれども、「綸言(りんげん)再び不複」とて勅許無(なか)りしかば、三塔(さんたふ)嗷儀(がうぎ)を以て谷々(たにだに)の講演(かうえん)を打止(うちや)め、社々(やしろやしろ)の門戸(もんこ)を閉(とぢ)て御願(ごぐわん)を止(やめ)ける間、朝儀(てうぎ)難黙止して無力三摩耶戒壇造立の勅裁(ちよくさい)をぞ被召返ける。
頼豪(らいがう)是(これ)を忿(いかつ)て、百日(ひやくにち)の間髪(かみ)をも不剃爪をも不切、炉壇(ろだん)の烟にふすぼり、嗔恚(しんい)の炎(ほのほ)に骨を焦(こがし)て、我(われ)願(ねがはく)は即身(そくしん)に大魔縁(だいまえん)と成(なつ)て、玉体を悩(なやま)し奉り、山門の仏法を滅ぼさんと云ふ悪念(あくねん)を発(おこ)して、遂(つひ)に三七日(さんしちにち)が中に壇上(だんじやう)にして死にけり。其怨霊(そのをんりやう)果(はた)して邪毒を成(なし)ければ、頼豪(らいがう)が祈出(いのりいだ)し奉りし皇子、未(いまだ)母后(ぼこう)の御膝(ひざ)の上を離(はなれ)させ給はで、忽(たちまち)に御隠(おんかくれ)有(あり)けり。
叡襟(えいきん)是(これ)に依(よつ)て不堪、山門の嗷訴(がうそ)、園城(をんじやう)の効験(かうげん)、得失(とくしつ)甚(はなはだし)き事隠無(かくれなか)りければ、且(かつう)は山門の恥を洗(すす)ぎ、又は継体(けいたい)の儲(ひつぎ)を全(まつたう)せん為に、延暦寺(えんりやくじの)座主(ざす)良信(りやうしん)大僧正(だいそうじやう)を申請(まうししやうじ)て、皇子御誕生の御祈(おんいのり)をぞ被致ける。先(まづ)御修法(みしほ)の間種々の奇瑞(きずゐ)有(あり)て、承暦(しやうりやく)三年七月九日皇子御誕生あり。山門の護持(ごぢ)隙(ひま)無(なか)りければ、頼豪(らいがう)が怨霊(をんりやう)も近付(ちかづき)奉らざりけるにや、此(この)宮(みや)遂(つひ)に玉体無恙して、天子の位を践(ふま)せ給ふ。御在位(ございゐ)の後院号(ゐんがう)有(あつ)て、堀河(ほりかはの)院(ゐん)と申(まうし)しは、則(すなはち)此(この)第二(だいに)の宮(みや)の御事(おんこと)也(なり)。
其後(そののち)頼豪(らいがう)が亡霊(ばうれい)忽(たちまち)に鉄(くろがね)の牙(きば)、石の身なる八万四千(はちまんしせん)の鼠と成(なつ)て、比叡山(ひえいさん)に登り、仏像・経巻を噛破(くひやぶり)ける間、是(これ)を防(ふせぐ)に無術して、頼豪(らいがう)を一社(いつしや)の神に崇(あが)めて其怨念(そのをんねん)を鎮(しづ)む。鼠の禿倉(ほこら)是(これ)也(なり)。懸(かかり)し後は、三井寺(みゐでら)も弥(いよいよ)意趣(いしゆ)深(ふかう)して、動(ややもすれ)ば戒壇の事を申達(まうしたつ)せんとし、山門も又以前の嗷儀(がうぎ)を例(れい)として、理不尽に是(これ)を欲徹却と。去(され)ば始(はじめ)天歴年中より、去文保(さんぬるぶんほう)元年に至(いたる)迄、此(この)戒壇故(ゆゑ)に園城寺(をんじやうじ)の焼(やく)る事已(すで)に七箇度(しちかど)也(なり)。近年は是(これ)に依(よつ)て、其企(そのくはたて)も無(なか)りつれば、中々(なかなか)寺門繁昌して三宝の住持(ぢゆうぢ)も全(まつた)かりつるに、今将軍妄(みだり)に衆徒の心を取(とら)ん為に、山門の忿(いかり)をも不顧、楚忽(そこつ)に被成御教書ければ、却(かへつ)て天魔(てんま)の所行(しよぎやう)、法滅の因縁(いんえん)哉(かな)と、聞(きく)人毎(ごと)に脣(くちびる)を翻(ひるがへ)しけり。   
三井寺(みゐでら)合戦並(ならびに)当寺撞鐘(つきがねの)事(こと)付(つけたり)俵藤太(たはらとうだが)事(こと)
東国の勢既(すで)[に]坂本に著(つき)ければ、顕家(あきいへの)卿(きやう)・義貞朝臣、其外(そのほか)宗(むね)との人々、聖女(しやうによ)の彼岸所(ひかんじよ)に会合して、合戦の評定(ひやうぢやう)あり。「何様(いかさま)一両日(いちりやうにち)は馬の足を休(やすめ)てこそ、京都へは寄(よせ)候はめ。」と、顕家(あきいへの)卿(きやう)宣(のたまひ)けるを、大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)被申けるは、「長途(ちやうど)に疲れたる馬を一日も休(やすめ)候はゞ中々(なかなか)血下(さがつ)て四五日は物(もの)の用に不可立。其(その)上(うへ)此(この)勢(せい)坂本へ著(つき)たりと、敵縦(たとひ)聞及共(ききおよぶとも)、頓(やが)て可寄とはよも思寄(おもひより)候はじ。軍(いくさ)は起不意必(かならず)敵を拉(とりひしぐ)習(ならひ)也(なり)。只今夜(こんや)の中(うち)に志賀(しが)・唐崎(からさき)の辺(へん)迄打寄(うちよせ)て、未明(びめい)に三井寺(みゐでら)へ押寄せ、四方(しはう)より時(とき)を作(つくつ)て責入(せめいる)程ならば、御方(みかた)治定(ぢぢやう)の勝軍(かちいくさ)とこそ存(ぞんじ)候へ。」と被申ければ、義貞朝臣も楠(くすのき)判官(はうぐわん)正成(まさしげ)も、「此義(このぎ)誠(まこと)に可然候。」と被同て、頓(やが)て諸大将(しよだいしやう)へぞ被触ける。
今上(いまのぼ)りの千葉勢是(これ)を聞(きい)て、まだ宵(よひ)より千(せん)余騎(よき)にて志賀の里に陣取る。大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)・額田(ぬかだ)・羽(はね)川六千(ろくせん)余騎(よき)にて、夜半(やはん)に坂本を立(たつ)て、唐崎の浜に陣を取る。戸津(とつ)・比叡辻(へいつじ)・和爾(わに)・堅田(かたた)の者共(ものども)は、小船七百(しちひやく)余艘(よさう)に取乗(とりのつ)て、澳(おき)に浮(うかめ)て明(あく)るを待(まつ)。山門の大衆(だいしゆ)は、二万(にまん)余人(よにん)、大略(たいりやく)徒立(かちだち)なりければ、如意越(によいごえ)を搦手(からめて)に廻(まは)り、時の声を揚(あ)げば同時に落(おと)し合(あはせ)んと、鳴(なり)を静めて待明(まちあか)す。
去(さる)程(ほど)に坂本に大勢(おほぜい)の著(つき)たる形勢(ありさま)、船の往反(わうへん)に見へて震(おびたた)しかりければ、三井寺(みゐでら)の大将細川(ほそかはの)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)、高(かうの)大和(やまとの)守(かみ)が方より、京都へ使を馳(はせ)て、「東国の大勢坂本に著(つき)て、明日可寄由其聞(そのきこ)へ候。急(いそぎ)御勢(おんせい)を被添候へ。」と、三度(さんど)迄被申たりけれ共(ども)、「関東(くわんとう)より何(なに)勢(せい)が其(それ)程迄多(おほく)は上(のぼ)るべきぞ。勢(せい)は大略(たいりやく)宇都宮(うつのみや)紀清(きせい)の両党の者とこそ聞(きこ)ゆれ。其(その)勢(せい)縦(たとひ)誤(あやまつ)て坂本へ著(つき)たりとも、宇都宮(うつのみや)京に在(あり)と聞(きこ)へなば、頓(やが)て主の許(もと)へこそ馳来(はせきたら)んずらん。」とて、将軍事ともし給はざりければ、三井寺(みゐでら)へは勢の一騎をも不被添。
夜既(すで)に明方(あけがた)に成(なり)しかば源(げん)中納言(ぢゆうなごん)顕家(あきいへの)卿(きやう)二万(にまん)余騎(よき)、新田(につた)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞三万(さんまん)余騎(よき)、脇屋(わきや)・堀口・額田(ぬかだ)・鳥山(とりやま)の勢一万五千(いちまんごせん)余騎(よき)、志賀(しが)・唐崎の浜路(はまぢ)に駒を進(すすめ)て押寄(おしよせ)て、後陣(ごぢん)遅(おそ)しとぞ待(まち)ける。前陣の勢先(まづ)大津(おほつ)の西の浦、松本の宿(しゆく)に火をかけて時の声を揚(あ)ぐ。三井寺(みゐでら)の勢共(せいども)、兼(かね)てより用意(ようい)したる事なれば、南院(なんゐん)の坂口に下(お)り合(あつ)て、散々(さんざん)に射る。一番に千葉介(ちばのすけ)千(せん)余騎(よき)にて推(おし)寄せ、一二の木戸(きど)打破(うちやぶ)り、城の中へ切(きつ)て入り、三方(さんぱう)に敵を受(うけ)て、半時許(はんじばかり)闘(たたか)ふたり。
細川(ほそかはの)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)が横合(よこあひ)に懸(かか)りける四国の勢六千(ろくせん)余騎(よき)に被取篭て、千葉(ちばの)新介(しんすけ)矢庭(やには)に被打にければ、其(その)手(て)の兵(つはもの)百(ひやく)余騎(よき)に、当(たう)の敵を討(うた)んと懸入(かけいり)々々(かけいり)戦(たたかう)て、百五十騎(ひやくごじつき)被討にければ、後陣に譲(ゆづつ)て引退(ひきしりぞ)く。二番に顕家(あきいへの)卿(きやう)二万(にまん)余騎(よき)にて、入替(いれか)へ乱合(みだれあつ)て責(せめ)戦ふ。其(その)勢(せい)一軍(ひといくさ)して馬の足を休(やすむ)れば、三番に結城(ゆふき)上野入道・伊達(だて)・信夫(しのぶ)の者共(ものども)五千(ごせん)余騎(よき)入替(いれかはつ)て面(おもて)も不振責(せめ)戦ふ。其(その)勢(せい)三百(さんびやく)余騎(よき)被討て引退(ひきしりぞき)ければ、敵勝(かつ)に乗(のつ)て、六万(ろくまん)余騎(よき)を二手(ふたて)に分(わけ)て、浜面(はまおもて)へぞ打(うつ)て出(いで)たりける。新田左衛門(さゑもんの)督(かみ)是(これ)を見て、三万(さんまん)余騎(よき)を一手(ひとて)に合(あは)せて、利兵(りへい)堅(かたき)を破(やぶつ)て被進たり。細川雖大勢と、北は大津の在家(ざいけ)まで焼(やく)る最中(さいちゆう)なれば通(とほ)り不得。
東は湖海(こかい)なれば、水深(ふかう)して廻(まはら)んとするに便(たよ)りなし。僅(わづか)に半町にもたらぬ細道を只一順(じゆん)に前(すす)まんとすれば、和爾(わに)・堅田(かたた)の者共(ものども)が渚(なぎさ)に舟を漕並(こぎならべ)て射ける横矢(よこや)に被防て、懸引自在(かけひきじざい)にも無(なか)りけり。官軍(くわんぐん)是(これ)に力を得て、透間(すきま)もなく懸(かか)りける間、細川が六万(ろくまん)余騎(よき)の勢五百(ごひやく)余騎(よき)被打て、三井寺(みゐでら)へぞ引返(ひつかへ)しける。額田(ぬかだ)・堀口・江田・大館(おほたち)七百(しちひやく)余騎(よき)にて、逃(にぐ)る敵に追(おつ)すがふて、城の中へ入(いら)んとしける処を、三井寺(みゐでらの)衆徒五百(ごひやく)余人(よにん)関(きど)の口に下(お)り塞(ふさがつ)て、命を捨(すて)闘(たたかひ)ける間、寄手(よせて)の勢百(ひやく)余人(よにん)堀の際(きは)にて被討ければ、後陣(ごぢん)を待(まつ)て不進得。其(その)間に城中より木戸を下(おろ)して堀の橋を引(ひき)けり。
義助是(これ)を見て、「無云甲斐者共(ものども)の作法(さほう)哉(かな)。僅(わづか)の木戸(きど)一(ひとつ)に被支て是(これ)程の小城(こしろ)を責(せめ)落さずと云(いふ)事(こと)やある。栗生(くりふ)・篠塚(しのづか)はなきか。あの木戸取(とつ)て引破(やぶ)れ。畑(はた)・亘理(わたり)はなきか。切(きつ)て入れ。」とぞ被下知ける。栗生・篠塚是(これ)を聞(きい)て馬より飛(とん)で下(お)り、木戸を引破(やぶ)らんと走寄(はしりよつ)て見れば、屏(へい)の前に深さ二丈余(あま)りの堀をほりて、両方の岸屏風(びやうぶ)を立(たて)たるが如くなるに、橋の板をば皆刎迦(はねはづ)して、橋桁許(はしげたばかり)ぞ立(たち)たりける。二人(ににん)の者共(ものども)如何(いかに)して可渡と左右をきつと見(みる)処に、傍(そば)なる塚の上(うへ)に、面(おもて)三丈許(ばかり)有(あつ)て、長さ五六丈もあるらんと覚へたりける大率都婆(おほそとば)二本あり。爰(ここ)にこそ究竟(くきやう)の橋板(はしいた)は有(あり)けれ。
率都婆(そとば)を立(たつ)るも、橋を渡すも、功徳(くどく)は同じ事なるべし。いざや是(これ)を取(とつ)て渡さんと云侭(いふまま)に、二人(ににん)の者共(ものども)走寄(はしりよつ)て、小脇(こわき)に挟(はさみ)てゑいやつと抜く。土の底五六尺掘入(ほりいれ)たる大木なれば、傍(あた)りの土一二尺(いちにしやく)が程くわつと崩(くづれ)て、率都婆(そとば)は無念抜(ぬけ)にけり。彼等(かれら)二人(ににん)、二本の率都婆(そとば)を軽々(かるかる)と打(うち)かたげ、堀のはたに突立(つきたて)て、先(まづ)自歎(じたん)をこそしたりけれ。「異国には烏獲(をうくわく)・樊(はんくわい)、吾朝(わがてう)には和泉(いづみの)小次郎・浅井那(あさゐな)三郎、是(これ)皆世に双(なら)びなき大力(だいぢから)と聞ゆれども、我等が力に幾程(いくほど)かまさるべき。云(いふ)所傍若無人(ばうじやくぶじん)也(なり)と思(おもは)ん人は、寄合(よせあつ)て力根(ちからね)の程を御覧(ごらん)ぜよ。」と云侭(いふまま)に、二本の率都婆(そとば)を同じ様(やう)に、向(むかひ)の岸へぞ倒し懸(かけ)たりける。
率都婆(そとば)の面(おもて)平(たひらか)にして、二本相並(あひならべ)たれば宛(あたか)四条(しでう)・五条の橋の如し。爰(ここ)に畑(はた)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・亘理(わたり)新左衛門(しんざゑもん)二人(ににん)橋の爪(つめ)に有(あり)けるが、「御辺達(ごへんたち)は橋渡(わた)しの判官に成り給へ。我等(われら)は合戦をせん。」と戯(たはむ)れて、二人(ににん)共橋の上をさら/゛\と走(はしり)渡り、堀の上なる逆木(さかもぎ)共(ども)取(とつ)て引除(ひきのけ)、各(おのおの)木戸(きど)の脇にぞ著(つい)たりける。是(これ)を防ぎける兵共(つはものども)、三方(さんぱう)の土矢間(つちさま)より鑓(やり)・長刀を差出(さしいだ)して散々(さんざん)に突(つき)けるを、亘理新左衛門(しんざゑもん)、十六(じふろく)迄奪(うばう)てぞ捨(すて)たりける。
畑六郎左衛門(ろくらうざゑもん)是(これ)を見て、「のけや亘理殿、其屏(そのへい)引破(やぶつ)て心安く人々に合戦せさせん。」と云侭(いふまま)に、走懸(はしりかか)り、右の足を揚(あげ)て、木戸(きど)の関(くわん)の木の辺(へん)を、二蹈三蹈(ふたふみみふみ)ぞ蹈(ふん)だりける。余(あまり)に強く被蹈て、二筋(ふたすぢ)渡せる八九寸の貫(くわん)の木、中より折(をれ)て、木戸の扉も屏柱(へいはしら)も、同(おなじ)くどうど倒れければ、防がんとする兵五百(ごひやく)余人(よにん)、四方(しはう)に散(ちつ)て颯(さつ)とひく。一の木戸已(すで)に破(やぶれ)ければ、新田(につた)の三万(さんまん)余騎(よき)の勢、城の中へ懸入(かけいつ)て、先(まづ)合図(あひず)の火をぞ揚(あげ)たりける。是(これ)を見て山門の大衆(だいしゆ)二万(にまん)余人(よにん)、如意越(によいごえ)より落合(おちあつ)て、則(すなはち)院々(ゐんゐん)谷々(たにだに)へ乱(みだれ)入り、堂舎・仏閣に火を懸(かけ)て呼(をめ)き叫(さけん)でぞ責(せめ)たりける。
猛火(みやうくわ)東西より吹懸(ふきかけ)て、敵南北に充満(みちみち)たれば、今は叶(かなは)じとや思(おもひ)けん、三井寺(みゐでら)の衆徒共(しゆとども)、或(あるひ)は金堂(こんだう)に走入(はしりいつ)て猛火(みやうくわ)の中に腹を切(きつ)て臥(ふし)、或(あるひ)は聖教(しやうげう)を抱(いだい)て幽谷(いうこく)に倒れ転(まろ)ぶ。多年止住(しぢゆう)の案内者(あんないしや)だにも、時に取(とつ)ては行方(ゆきかた)を失ふ。況乎(いはんや)四国・西国の兵共(つはものども)、方角もしらぬ烟(けぶり)の中に、目をも不見上迷ひければ、只此彼(ここかし)この木の下岩(いは)の陰(かげ)に疲れて、自害をするより外(ほか)の事は無(なか)りけり。されば半日許(ばかり)の合戦に、大津・松本・三井寺(みゐでらの)内に被討たる敵を数(かぞふ)るに七千三百(しちせんさんびやく)余人(よにん)也(なり)。抑(そもそも)金堂(こんだう)の本尊(ほんぞん)は、生身(しやうしん)の弥勒(みろく)にて渡(わたら)せ給へば、角(かく)ては如何(いかが)とて或(ある)衆徒御首許(みくしばかり)を取(とつ)て、薮(やぶ)の中に隠(かく)し置(おき)たりけるが、多(おほく)被討たる兵(つはもの)の首共(くびども)の中に交(まじは)りて、切目(きりめ)に血の付(つき)たりけるを見て、山法師(やまほふし)や仕(し)たりけん、大札(おほふだ)を立(たて)て、一首(いつしゆ)の歌に事書(ことがき)を書副(かきそへ)たりける。
「建武二年の春(はる)の比(ころ)、何(なん)とやらん、事の騒(さわが)しき様に聞へ侍りしかば、早(はや)三会(さんゑ)の暁(あかつき)に成(なり)ぬるやらん。いでさらば八相成道(はつしやうじやうだう)して、説法利生(せつほふりしやう)せんと思ひて、金堂(こんだう)の方(かた)へ立出(たちいで)たれば、業火(ごふくわ)盛(さかん)に燃(もえ)て修羅(しゆら)の闘諍(とうじやう)四方(しはう)に聞ゆ。こは何事(なにこと)かと思ひ分(わ)く方も無(なく)て居たるに、仏地坊(ぶつちばう)の某(それがし)とやらん、堂内(だうのうち)に走(はしり)入り、所以(ゆゑ)もなく、鋸(のこぎり)を以て我が首(くび)を切(きり)し間、阿逸多(あいつた)といへ共(ども)不叶、堪兼(たへかね)たりし悲みの中(うち)に思ひつゞけて侍(はんべ)りし。山を我(わが)敵(てき)とはいかで思ひけん寺法師(てらほふし)にぞ頚(くび)を切(きら)るゝ。」前々(せんぜん)炎上の時は、寺門の衆徒是(これ)を一大事(いちだいじ)にして隠しける九乳(きうにゆう)の鳧鐘(ふしよう)も取(とる)人なければ、空(むなし)く焼(やけ)て地に落(おち)たり。
此鐘(このかね)と申(まうす)は、昔竜宮城(りゆうぐうじやう)より伝りたる鐘也(なり)。其(その)故は承平(しようへい)の比(ころ)俵藤太秀郷(たはらとうだひでさと)と云(いふ)者有(あり)けり。或(ある)時此秀郷(このひでさと)只一人勢多(せた)の橋を渡(わたり)けるに、長(たけ)二十丈(にじふぢやう)許(ばかり)なる大蛇(だいじや)、橋の上に横(よこたはつ)て伏(ふし)たり。両の眼(まなこ)は耀(かかやい)て、天に二(ふたつ)の日を卦(かけ)たるが如(ごとし)、双(なら)べる角(つの)尖(するど)にして、冬枯(ふゆかれ)の森の梢に不異。鉄(くろがね)の牙(きば)上下に生(おひ)ちがふて、紅(くれなゐ)の舌炎(ほのほ)を吐(はく)かと怪(あやし)まる。若(もし)尋常(よのつね)の人是(これ)を見ば、目もくれ魂(たましひ)消(きえ)て則(すなはち)地にも倒(たふれ)つべし。されども秀郷天下第一(だいいち)の大剛(だいかう)の者也(なり)ければ更に一念も不動ぜして、彼大蛇(かのだいじや)の背(せなか)の上を荒(あらら)かに蹈(ふん)で閑(しづか)に上をぞ越(こえ)たりける。
然(しか)れ共(ども)大蛇も敢(あへ)て不驚、秀郷も後(うし)ろを不顧して遥(はるか)に行隔(ゆきへだ)たりける処に、怪(あやし)げなる小男(こをとこ)一人忽然(こつぜん)として秀郷が前に来(きたつ)て云(いひ)けるは、「我(われ)此(この)橋の下に住(すむ)事(こと)已(すで)に二千(にせん)余年(よねん)也(なり)。貴賎往来(きせんわうらい)の人を量(はか)り見るに、今御辺(ごへん)程(ほど)に剛(かう)なる人を未(いまだ)見ず。我(われ)に年来(としごろ)地を争ふ敵有(あつ)て、動(ややもすれ)ば彼(かれ)が為に被悩。可然は御辺(ごへん)我(わが)敵を討(うつ)てたび候へ。」と、懇(ねんごろ)にこそ語(かたら)ひけれ。秀郷一義(いちぎ)も不謂、「子細有(ある)まじ。」と領状(りやうじやう)して、則(すなはち)此(この)男を前(さき)に立てゝ又勢多(せた)の方(かた)へぞ帰(かへり)ける。
二人(ににん)共(とも)に湖水(こすゐ)の波を分(わけ)て、水中に入(いる)事(こと)五十(ごじふ)余町(よちやう)有(あつ)て一(ひとつ)の楼門(ろうもん)あり。開(ひらい)て内へ入るに、瑠璃(るり)の沙(いさご)厚く玉の甃(いしだたみ)暖(あたたか)にして、落花自(おのづから)繽紛(ひんふん)たり。朱楼紫殿玉欄干(たまのらんかん)、金(こがね)を鐺(こじり)にし銀(しろかね)を柱とせり。其(その)壮観奇麗、未曾(いまだかつ)て目にも不見耳にも聞(きか)ざりし所也(なり)。此(この)怪しげなりつる男、先(まづ)内へ入(いつ)て、須臾(しゆゆ)の間に衣冠(いくわん)を正(ただ)しくして、秀郷を客位(きやくゐ)に請(しやう)ず。左右侍衛官(しゑのくわん)前後花の装(よそほひ)善(ぜん)尽(つく)し美(び)尽(つく)せり。酒宴数刻(すごく)に及(およん)で夜既(すで)に深(ふけ)ければ、敵の可寄程(ほど)に成(なり)ぬと周章(あわて)騒ぐ。秀郷は一生涯が間身を放(はな)たで持(もち)たりける五人(ごにん)張(ばり)にせき弦(つる)懸(かけ)て噛(く)ひ湿(しめ)し、三年竹(さんねんだけ)の節近(ふしぢか)なるを十五束(じふごそく)二伏(ふたつぶせ)に拵(こしら)へて、鏃(やじり)の中子(なかご)を筈本(はずもと)迄打(うち)どほしにしたる矢、只三筋(さんすぢ)を手挟(たばさみ)て、今や/\とぞ待(まち)たりける。夜半(やはん)過(すぐ)る程(ほど)に雨風一通(ひととほ)り過(すぎ)て、電火の激(げき)する事隙(ひま)なし。
暫有(しばらくあつ)て比良(ひら)の高峯(たかね)の方より、焼松(たいまつ)二三千(にさんぜん)がほど二行に燃(もえ)て、中に嶋の如(ごとく)なる物、此龍宮城(このりゆうぐうじやう)を指(さし)てぞ近付(ちかづき)ける。事の体(てい)を能々(よくよく)見(みる)に、二行にとぼせる焼松(たいまつ)は皆己(おのれ)が左右の手にともしたりと見へたり。あはれ是(これ)は百足蜈蚣(むかで)の化(ばけ)たるよと心得て、矢比(ころ)近く成(なり)ければ、件(くだん)の五人(ごにん)張(ばり)に十五束(じふごそく)三伏(みつぶせ)忘るゝ許(ばかり)引(ひき)しぼりて、眉間(みけん)の真中(まんなか)をぞ射たりける。其手答(そのてごたへ)鉄(くろがね)を射る様(やう)に聞へて、筈(はず)を返してぞ不立ける。秀郷一(いち)の矢を射損(そんじ)て、不安思ひければ、二の矢を番(つがう)て、一分も不違態(わざと)前の矢所(やつぼ)をぞ射たりける。此(この)矢も又前の如くに躍(をど)り返(かへり)て、是(これ)も身に不立けり。
秀郷二(ふた)つの矢をば皆射損(そん)じつ、憑(たのむ)所は矢一筋(ひとすぢ)也(なり)。如何せんと思(おもひ)けるが、屹(きつ)と案じ出(いだ)したる事有(あつ)て、此度(このたび)射んとしける矢さきに、唾(つばき)を吐懸(はきかけ)て、又同矢所(おなじやつぼ)をぞ射たりける。此(この)矢に毒を塗(ぬり)たる故(ゆゑ)にや依(より)けん、又同(おなじ)矢坪(つぼ)を三度(さんど)迄射たる故(ゆゑ)にや依(より)けん、此(この)矢眉間(みけん)のたゞ中を徹(とほ)りて喉(のんど)の下迄羽(は)ぶくら責(せめ)てぞ立(たち)たりける。二三千(にさんぜん)見へつる焼松(たいまつ)も、光忽(たちまち)に消(きえ)て、島の如(ごとく)に有(あり)つる物、倒るゝ音(おと)大地を響(ひび)かせり。立寄(より)て是(これ)を見るに、果して百足の蜈蚣(むかで)也(なり)。竜神(りゆうじん)は是(これ)を悦(よろこび)て、秀郷(ひでさと)を様々(さまざま)にもてなしけるに、太刀一振(ひとふり)・巻絹(まきぎぬ)一(ひとつ)・鎧一領(いちりやう)・頚結(ゆう)たる俵(たはら)一(ひとつ)・赤銅(しやくどう)の撞鐘(つきがね)一口(いつく)を与(あたへ)て、「御辺(ごへん)の門葉(もんえふ)に、必(かならず)将軍になる人多かるべし。」とぞ示しける。
秀郷(ひでさと)都に帰(かへつ)て後此(この)絹を切(きつ)てつかふに、更に尽(つくる)事(こと)なし。俵は中なる納物(いれもの)を、取(とれ)ども/\尽(つき)ざりける間、財宝倉(くら)に満(みち)て衣裳(いしやう)身に余れり。故(ゆゑ)に其(その)名を俵藤太(たはらとうだ)とは云(いひ)ける也(なり)。是(これ)は産業(さんげふ)の財(たか)らなればとて是(これ)を倉廩(さうりん)に収む。鐘は梵砌(ぼんぜい)の物なればとて三井寺(みゐでら)へ是(これ)をたてまつる。文保(ぶんほう)二年三井寺(みゐでら)炎上の時、此(この)鐘を山門へ取寄(とりよせ)て、朝夕是(これ)を撞(つき)けるに、敢(あへ)てすこしも鳴(なら)ざりける間、山法師(やまほふし)共(ども)、「悪(にく)し、其義(そのぎ)ならば鳴様(なるやう)に撞(つけ)。」とて、鐘木(しもく)を大きに拵(こしら)へて、二三十人(にさんじふにん)立懸(たちかか)りて、破(われ)よとぞ撞(つき)たりける。
其(その)時此(この)鐘海鯨(くぢら)の吼(ほゆ)る声を出(いだ)して、「三井寺(みゐでら)へゆかふ。」とぞ鳴(ない)たりける。山徒(さんと)弥(いよいよ)是(これ)を悪(にく)みて、無動寺(むどうじ)の上よりして数千丈(すせんぢやう)高き岩の上をころばかしたりける間、此(この)鐘微塵(みぢん)に砕(くだけ)にけり。今は何の用にか可立とて、其(その)われを取集(とりあつめ)て本寺へぞ送りける。或時(あるとき)一尺(いつしやく)許(ばかり)なる小蛇(こへび)来(きたつ)て、此(この)鐘を尾を以[て]扣(たた)きたりけるが、一夜(いちや)の内に又本(もと)の鐘に成(なつ)て、疵(きず)つける所一(ひとつ)も無(なか)りけり。されば今に至るまで、三井寺(みゐでら)に有(あつ)て此(この)鐘の声を聞(きく)人、無明長夜(むみやうぢやうや)の夢を驚かして慈尊(じそん)出世の暁(あかつき)を待(まつ)。末代(まつだい)の不思議(ふしぎ)、奇特(きどく)の事共(ことども)也(なり)。   
建武二年正月十六日合戦(かつせんの)事(こと)
三井寺(みゐでら)の敵無事故責落(せめおとし)たりければ、長途(ちやうど)に疲(つかれ)たる人馬、一両日(いちりやうにち)機(き)を扶(たすけ)てこそ又合戦をも致さめとて、顕家(あきいへの)卿(きやう)坂本(さかもと)へ被引返ければ、其(その)勢(せい)二万(にまん)余騎(よき)は、彼趣(かのおもむき)に相順ふ。
新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)も、同(おなじく)坂本へ帰らんとし給ひけるを、舟田(ふなた)長門(ながとの)守(かみ)経政(つねまさ)、馬を叩(ひかへ)て申(まうし)けるは、「軍(いくさ)の利(り)、勝(かつ)に乗る時、北(にぐ)るを追(おふ)より外(ほか)の質(てだて)は非じと存(ぞんじ)候。此(この)合戦に被打漏て、馬を棄(すて)物具(もののぐ)を脱(ぬい)で、命許(ばかり)を助からんと落行(おちゆき)候敵を追懸(おつかけ)て、京中(きやうぢゆう)へ押寄(おしよす)る程ならば、臆病神(おくびやうがみ)の付(つき)たる大勢に被引立、自余(じよ)の敵も定(さだめ)て機(き)を失はん歟(か)。さる程ならば、官軍(くわんぐん)敵の中へ紛れ入(いり)て、勢の分際(ぶんざい)を敵に不見せしとて、此(ここ)に火をかけ、彼(かしこ)に時を作り、縦横無碍(じゆうわうむげ)に懸立(かけたつ)る者ならば、などか足利殿(あしかがどの)御兄弟(ごきやうだい)の間に近付奉(ちかづきたてまつ)て、勝負(しようぶ)を仕らでは候べき。落候(おちさふらひ)つる敵、よも幾程(いくほど)も阻(へだた)り候はじ。何様一追(ひとおひ)々懸(おつかけ)て見候はゞや。」と申(まうし)ければ、義貞、「我(われ)も此(この)義を思ひつる処に、いしくも申(まうし)たり。
さらば頓(やが)て追懸(おつかけ)よ。」とて、又旗の手を下(おろ)して馬を進め給へば、新田の一族(いちぞく)五千(ごせん)余人(よにん)、其(その)勢(せい)三万(さんまん)余騎(よき)、走る馬に鞭(むち)を進めて、落行(おちゆく)敵をぞ追懸(おつかけ)たる。敵今は遥(はるか)に阻(へだ)たりぬらんと覚(おぼゆ)る程なれば、逃(にぐ)るは大勢にて遅く、追(おふ)は小勢(こぜい)にて早かりければ、山階辺(やましなへん)にて漸(やうやく)敵にぞ追付(おひつき)ける。由良(ゆら)・長浜・吉江(よしえ)・高橋、真前(まつさき)に進(すすん)で追(おひ)けるが、大敵をば不可欺とて、広みにて敵の返(かへ)し合(あひ)つべき所迄はさまで不追、遠矢(とほや)射懸(いかけ)々々(いかけ)、時を作る許(ばかり)にて、静(しづ)々と是(これ)を追ひ、道迫(せま)りて、而も敵の行前(ゆくさき)難所(なんじよ)なる山路(やまぢ)にては、かさより落し懸(かけ)て、透間(すきま)もなく射落し切(きり)臥せける間、敵一度(いちど)も返し不得、只我先(われさき)にとぞ落行(おちゆき)ける。
されば手を負(おう)たる者は其侭(そのまま)馬人に被蹈殺、馬離(はなれ)たる者は引(ひき)かねて無力腹を切(きり)けり。其(その)死骸谷をうめ溝を埋(うづ)みければ、追手(おふて)の為には道平(たひらか)に成(なつ)て、弥(いよいよ)輪宝(りんはう)の山谷(さんこく)を平らぐるに不異、将軍三井寺(みゐでら)に軍(いくさ)始(はじまり)たりと聞へて後、黒烟(くろけむり)天に覆(おほう)を見へければ、「御方(みかた)如何様(いかさま)負軍(まけいくさ)したりと覚(おぼゆ)るぞ。急ぎ勢を遣(つかは)せ。」とて、三条河原(さんでうがはら)に打出(うちいで)、先(まづ)勢揃(せいぞろへ)をぞし給ひける。斯(かかる)処に粟田口(あはたぐち)より馬烟(むまけむり)を立(たて)て、其(その)勢(せい)四五万騎(しごまんぎ)が程引(ひい)て出来(いでき)たり。
誰やらんと見給へば、三井寺(みゐでら)へ向(むかひ)し四国・西国の勢共(せいども)也(なり)。誠(まこと)に皆軍(いくさ)手痛(ていた)くしたりと見へて、薄手(うすで)少々(せうせう)負(お)はぬ者もなく、鎧の袖冑(かぶと)の吹返(ふきかへし)に、矢三筋(さんすぢ)四筋折懸(をりかけ)ぬ人も無(なか)りけり。さる程(ほど)に新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)、二万三千(にまんさんぜん)余騎(よき)を三手に分(わけ)て、一手(ひとて)をば将軍塚(しやうぐんづか)の上へ挙(あげ)、一手(ひとて)をば真如堂(しんによだう)の前より出し、一手(ひとて)をば法勝寺(ほつしようじ)を後(うしろ)に当(あて)て、二条河原(にでうがはら)へ出(いだ)して、則(すなはち)相図(あひづ)の烟(けむり)をぞ被挙ける。自(みづか)らは花頂山(くわちやうざん)に打上(うちあがつ)て、敵の陣を見渡し給へば、上(かみ)は河合(ただすの)森より、下(しも)は七条河原(しちでうがはら)まで、馬の三頭(さんづ)に馬を打懸け、鎧の袖に袖を重(かさね)て、東西南北四十(しじふ)余町(よちやう)が間、錐(きり)を立(たつ)る許(ばかり)の地も不見、身を峙(そばだて)て打囲(うちかこみ)たり。
義貞朝臣弓杖(ゆんづゑ)にすがり被下知けるは、「敵の勢に御方(みかた)を合(あはす)れば、大海の一滴(いつてき)、九牛が一毛(いちまう)也(なり)。只尋常(よのつね)の如くに軍(いくさ)をせば、勝(かつ)事(こと)を得難し。相互(あひたがひ)に面(おもて)をしり被知たらんずる侍共(さぶらひども)、五十騎づゝ手を分(わけ)て、笠符(かさじるし)を取捨(とりすて)、幡(はた)を巻(まい)て、敵の中に紛(まぎ)れ入り、此彼(ここかしこ)に叩々(ひかへひかへ)、暫(しばらく)可相待。将軍塚(しやうぐんづか)へ上(のぼ)せつる勢、既(すで)に軍(いくさ)を始むと見ば、此(この)陣より兵(つはもの)を進めて可令闘。其(その)時に至(いたつ)て、御辺達(ごへんたち)敵の前後左右に旗を差挙(さしあげ)て、馬の足を不静め、前に在(ある)歟(か)とせば後(うしろ)へぬけ、左に在(ある)かとせば右へ廻(まはつ)て、七縦(しちじゆう)八横(はちわう)に乱(みだれ)て敵に見する程ならば、敵の大勢は、還(かへつ)て御方(みかた)の勢に見へて、同士打(どしうち)をする歟(か)、引(ひい)て退(しりぞ)く歟(か)、尊氏此(この)二(ふた)つの中を不可出。」韓信が謀(はかりこと)を被出しかば、諸大将(しよだいしやう)の中より、逞兵(ていへい)五十騎づゝ勝(すぐ)り出して、二千(にせん)余騎(よき)各(おのおの)一様(いちやう)に、中黒(なかぐろ)の旗を巻(まい)て、文(もん)を隠し、笠符(かさじるし)を取(とつ)て袖の下に収(をさ)め、三井寺(みゐでら)より引(ひき)をくれたる勢の真似をして、京勢(きやうぜい)の中へぞ馳加(はせくはは)りける。
敵斯(かか)る謀(はかりこと)ありとは、将軍不思寄給、宗(むね)との侍共(さぶらひども)に向ふて被下知けるは、「新田はいつも平場(ひらば)の懸(かけ)をこそ好(このむ)と聞しに、山を後(うし)ろに当てゝ、頓(やが)ても懸出(かけいで)ぬは、如何様(いかさま)小勢の程を敵に見せじと思へる者也(なり)。将軍塚(しやうぐんづか)の上に取(とり)あがりたる敵を置(おい)てはいつまでか可守挙。師泰(もろやす)彼(かしこ)に馳向(はせむかつ)て追散(おひちら)せ。」と宣(のたまひ)ければ、越後(ゑちごの)守(かみ)畏(かしこまつ)て、「承(うけたまはり)候。」と申(まうし)て、武蔵(むさし)・相摸(さがみ)の勢二万(にまん)余騎(よき)を率(そつ)して、双林寺(さうりんじ)と中霊山(なかりやうぜん)とより、二手(ふたて)に成(なつ)てぞ挙(あがつ)たりける。
此(ここ)には脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)・堀口美濃(みのの)守(かみ)・大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)・結城(ゆふき)上野入道以下(いげ)三千(さんぜん)余騎(よき)にて向(むかひ)たりけるが、其(その)中より逸物(いちもつ)の射手(いて)六百(ろつぴやく)余人(よにん)を勝(すぐつ)て、馬より下(おろ)し、小松の陰(かげ)を木楯(こだて)に取(とつ)て、指攻(さしつめ)引攻(ひきつめ)散々(さんざん)にぞ射させたりける。嶮(けはし)き山を挙(あがり)かねたりける武蔵・相摸の勢共(せいども)、物具(もののぐ)を被徹て矢場(やには)に伏(ふし)、馬を被射てはね落されける間、少(すこし)猶予(ゆよ)して見へける処を、「得たり賢(かしこ)し。」と、三千(さんぜん)余騎(よき)の兵共(つはものども)抜連(ぬきつれ)て、大山の崩(くづる)るが如く、真倒(まつさかさま)に落し懸(かけ)たりける間、師泰(もろやす)が兵二万(にまん)余騎(よき)、一足(ひとあし)をもためず、五条河原(かはら)へ颯(さつ)と引退(ひきしりぞく)。
此(ここ)にて、杉本(すぎもとの)判官(はうぐわん)・曾我(そがの)二郎左衛門(じらうざゑもん)も被討にけり。官軍(くわんぐん)態(わざと)長追(ながおひ)をばせで、猶(なほ)東山(ひがしやま)を後(うしろ)に当(あて)て勢の程をぞ見せざりける。搦手(からめて)より軍(いくさ)始まりければ、大手(おほて)音(こゑ)を受(うけ)て時を作る。官軍(くわんぐん)の二万(にまん)余騎(よき)と将軍の八十万騎(はちじふまんぎ)と、入替入替(いれかへいれかへ)天地を響(ひびか)して戦(たたかひ)たる。漢楚(かんそ)八箇年(はちかねん)の戦(たたかひ)を一時に集め、呉越(ごゑつ)三十度の軍(いくさ)を百倍(ひやくばい)になす共(とも)、猶(なほ)是(これ)には不可過。寄手(よせて)は小勢(こぜい)なれども皆心を一(ひとつ)にして、懸(かかる)時は一度(いちど)に颯(さつ)と懸(かかつ)て敵を追(おひ)まくり、引(ひく)時は手負(ておひ)を中に立(たて)て静(しづか)に引く。
京勢(きやうぜい)は大勢なりけれ共(ども)人の心不調して、懸(かかる)時も不揃、引(ひく)時も助けず、思々(おもひおもひ)心々に闘(たたかひ)ける間、午(うま)の剋(こく)より酉(とり)の終(をはり)まで六十(ろくじふ)余度(よど)の懸合(かけあひ)に、寄手(よせて)の官軍(くわんぐん)度毎(たびごと)に勝(かつ)に不乗と云(いふ)事(こと)なし。されども将軍方(しやうぐんがた)大勢(おほぜい)なれば、被討共(ども)勢(せい)もすかず、逃(にぐ)れども遠引(とほびき)せず、只一所にのみこらへ居たりける処に、最初に紛れて敵に交(まじは)りたる一揆(いつき)の勢共(せいども)、将軍の前後左右に中黒(なかぐろ)の旗を差揚(さしあげ)て、乱合(みだれあつ)てぞ戦(たたかひ)ける。
何(いづ)れを敵何(いづれ)を御方共(みかたとも)弁(わきま)へ難(がた)ければ、東西南北呼叫(をめきさけん)で、只同士打(どしうち)をするより外(ほか)の事ぞ無(なか)りける。将軍を始(はじめ)奉りて、吉良(きら)・石堂(いしだう)・高(かう)・上杉の人々是(これ)を見て、御方(みかた)の者共(ものども)が敵と作合(なりあひ)て後矢(うしろや)を射(いる)よと被思ければ、心を置合(おきあひ)て、高・上杉の人々は、山崎を指(さ)して引退(ひきしりぞ)き、将軍・吉良・石堂・仁木(につき)・細川の人々は、丹波路(たんばぢ)へ向(むかつ)て落(おち)給ふ。官軍(くわんぐん)弥(いよいよ)勝(かつ)に乗(のつ)て短兵(たんへい)急に拉(とりひしぐ)。
将軍今は遁(のがる)る所なしと思食(おぼしめし)けるにや、梅津(むめづ)、桂河辺(かつらがはへん)にては、鎧の草摺(くさずり)畳(たた)み揚(あげ)て腰の刀を抜(ぬか)んとし給ふ事(こと)、三箇度(さんがど)に及(および)けり。されども将軍の御運(ごうん)や強かりけん、日既(すで)に暮(くれ)けるを見て、追手(おひて)桂河より引返(ひきかへし)ければ、将軍も且(しばら)く松尾(まつのを)・葉室(はむろ)の間に引(ひか)へて、梅酸(ばいさん)の渇(かつ)をぞ休(やす)められける。
爰(ここ)に細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)、四国の勢共(せいども)に向(むかつ)て宣(のたまひ)けるは、「軍(いくさ)の勝負(しようぶ)は時の運(うん)に依(よる)事(こと)なれば、強(あながち)に恥ならねども、今日の負(まけ)は三井寺(みゐでら)の合戦より事始りつる間、我等が瑕瑾(かきん)、人の嘲(あざけり)を不遁。されば態(わざと)他の勢を不交して、花やかなる軍(いくさ)一軍(ひといくさ)して、天下の人口を塞(ふさ)がばやと思(おもふ)也(なり)。推量するに、新田が勢(せい)は、終日(ひねもす)の合戦に草伏(くたびれ)て、敵に当り変に応ずる事自在(じざい)なるまじ。其外(そのほか)の敵共(てきども)は、京白河の財宝に目をかけて一所に不可在。其(その)上(うへ)赤松筑前(ちくぜんの)守(かみ)僅(わづか)の勢にて下松(さがりまつ)に引(ひか)へて有(あり)つるを、無代(むたい)に討(うた)せたらんも可口惜。いざや殿原(とのばら)、蓮台野(れんだいの)より北白河へ打廻(うちまはつ)て、赤松が勢と成合(なりあひ)、新田が勢を一あて/\て見ん。」と宣(のたま)へば、藤(とう)・橘(きつ)・伴(ばん)の者共(ものども)、「子細候まじ。」とぞ同(どう)じける。
定禅(ぢやうぜん)不斜(なのめならず)喜(よろこん)で、態(わざと)将軍にも知らせ不奉、伊予・讚岐の勢の中より三百(さんびやく)余騎(よき)を勝(すぐつ)て、北野の後(うし)ろより上賀茂(かみかも)を経て、潛(ひそか)に北白河へぞ廻(まは)りける。糾(ただす)の前にて三百(さんびやく)余騎(よき)の勢十方に分(わけ)て、下松(さがりまつ)・薮里(やぶさと)・静原(しづはら)・松崎(まつがさき)・中(なか)賀茂、三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)に火をかけて、此(ここ)をば打捨(うちすて)て、一条・二条(にでう)の間にて、三所に鬨(ときのこゑ)をぞ挙(あげ)たりける。げにも定禅(ぢやうぜん)律師(りつし)推量の如く、敵京白河に分散(ぶんさん)して、一所へ寄る勢少なかりければ、義貞・義助一戦(いつせん)に利(り)を失(うしなう)て、坂本を指(さ)して引返しけり。
所々(しよしよ)に打散(うちちり)たる兵共(つはものども)、俄に周章(あわて)て引(ひき)ける間、北白河・粟田口(あはたぐち)の辺(へん)にて、舟田入道・大館(おほたち)左近(さこんの)蔵人・由良(ゆら)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)・高田七郎左衛門(しちらうざゑもん)以下(いげ)宗(むね)との官軍(くわんぐん)数百騎(すひやくき)被討けり。卿律師(きやうりつし)、頓(やが)て早馬を立(たて)て、此(この)由を将軍へ被申たりければ、山陽(せんやう)・山陰(せんおん)両道へ落行(おちゆき)ける兵共(つはものども)、皆又京へぞ立帰る。義貞朝臣は、僅(わづか)に二万騎(にまんぎの)勢(せい)を以て将軍の八十万騎(はちじふまんぎ)を懸散(かけちら)し、定禅(ぢやうぜん)律師(りつし)は、亦(また)三百(さんびやく)余騎(よき)の勢を以て、官軍(くわんぐん)の二万(にまん)余騎(よき)を追落(おひおと)す。彼(かれ)は項王(かうわう)が勇(いさみ)を心とし、是(これ)は張良が謀(はかりこと)を宗(むね)とす。智謀勇力いづれも取々(とりどり)なりし人傑(じんけつ)也(なり)。   
●5 芭蕉臨終を描く「花屋日記」と三井寺 

 

芭蕉臨終記「花屋日記」の著者については、肥後の国の僧侶文暁の創作であるというのが一般的である。病に伏す前、元禄七年九月二十一日から発病・弟子たちの介護、終焉、葬儀の次第を十一月四日までを日記風に記されている。
病状の悪化に伴い、老師をしたう弟子たちの戸惑いや見舞客にたいするもてなしの準備、いよいよ臨終。そして遺骸を伏見から舟に乗せ、多くの門人たちが待つ義仲寺での葬儀、埋葬などの場面が克明に描かれている。
俳聖と呼ばれた芭蕉の死と、彼の愛した大津、三井寺との関わりなど辿る。
三井寺の 門敲かばや けふの月
芭蕉と同じ伊賀上野出身の書家、榊莫山さん揮毫の句碑が、三井寺本堂(金堂)の西側、水蓮の似合う小さな池のほとりに佇む。芭蕉没後三百年を記念して建てられたものである。
元禄四年、新築の木曽塚(義仲寺)無名庵で催された月見句会で興に乗った面々と共に、湖上に繰り出した芭蕉が、月光の中に浮かぶが如き三井寺の様を詠んだものである。 「おくのほそ道」の長旅後、湖南の地に逗留した芭蕉が世を去るのはこの後五年。当地との縁も踏まえて、その生涯を振り返ることとしよう。
正保元(一六四四)年、伊賀国上野の準武士待遇の農家に六人兄妹の次男として誕生した彼は、十八歳で藤堂藩侍大将の嫡子・良忠に、料理人として仕えたとのこと。
当時は文芸を重んじる藩風で、良忠からの手ほどきにより歌を詠み始めたのが俳句との出会いといえよう。そんな彼が二十二歳のとき師と仰ぐ良忠が没し、追慕の念からますます歌の世界へと傾注していき、二十八歳の折、初の撰集 「貝おほひ」が伊賀天満宮に奉納され地元俳壇で若手代表格の地位を築いたことで、江戸に出て俳人としての修行専念へと旅立つ事となる。
そして舞台は江戸へ…、三十一歳で「桃青(とうせい)」を名乗った彼は二年後めでたく俳諧師免許皆伝。宗匠(師匠)となり意気揚々、江戸俳壇の中心地は日本橋に居を構えるまでになった。
ところが、当時の俳諧は機知に富んだ滑稽さや華やかさがもてはやされることを良しとしていたため、目指すところを静寂の中の自然美や、李白・杜甫等漢詩人の孤高そして魂の救済を盛り込んだ世界に据えていた彼の思いとは、様々な部分でくい違いが生じる訳である。俳諧を深化させ、精神と向き合う文学として自らの手での昇華を志していたため、そうした兼ね合いから三十六歳のとき隅田川東岸の深川への隠棲を決意するに至る。
   芭蕉野分して 盥に雨を 聞く夜かな
その地に弟子たちが協力して建てた草庵の庭へ贈られた芭蕉のひと株に見事な葉がつき、界隈の評判となり「芭蕉庵」と呼ばれるようになった事から、自らも「ばせを」の号を名乗るに至った。
月日は百代の過客にして
そしてまた二年の歳月が流れ、翁の転機ともいうべき芭蕉庵が天和三(一六八四)年の江戸の大火、いわゆる「八百屋お七の事件」により全焼となり、すべて消失してしまった翁の心境は如何ばかりであったものか。
その後、母の死去の翌年、墓参目的後に奈良・京都・名古屋から木曽と回ったときの旅行記「野ざらし紀行」を四十歳で、続いて四十四歳の折に高野山から吉野・奈良と神戸方面への紀行文 「笈の小文」、同年秋に長野方面への出来事を綴った「更級紀行」と精力的に著す日々が続く。
こうして、旅に出て風雅に興じる日々に明け暮れるが如きの翁ではあったものの、行く先々ではスポンサーや弟子の歓待を受け、自身が憧れとする古人が辿った「旅」とはかけ離れている事に悩んだ翁は、遂に芭蕉庵を売り払い資金を捻出するや、 「万葉集」」や「古今集」に詠まれた歌枕(名所)巡礼を目的に、五歳下の弟子・曾良と共に東北から北陸の地へと旅立つ事となる。
   草の戸も 住替る代ぞ ひなの家
「もっと自然と向き合い、魂を晒す本当の旅がしたい!」という思いを胸に秘め、約2400キロ・七ヶ月の大行程がいよいよスタート。
今なら物見遊山と浮かれ気分になるものの、当時は足を運ぶだけでも覚悟を誓うほどの一大事。途中で曾良が体調を崩しやむなく同行を離れたことからも、さぞや心身共に困憊したことが窺えるであろう。この様な苦しい旅を経て、数々の名句と翁独自が確立した俳諧論「不易流行」の誕生へと繋がる訳である。
   夏草や 兵どもが 夢の跡
   閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
   五月雨を あつめて早し 最上川
   荒海や 佐渡によこたふ 天河
我宿は 蚊のちいさきを 馳走かな
この長旅後、元禄二年(一六八九年)十二月から約二年間を、この大津の地で過ごす事となる。その間、弟子・去来の別荘である嵯峨野「落柿舎」と義仲寺は無名庵を交互に住まいとし、湖南の門人に俳句の指導をしていた。
また四ヶ月ほどは国分の「幻住庵」で日々を送り、「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ…」で始まる「幻住庵記」が、この侘び住まいの山腹から生まれた。…が何を以って、これほど翁をこの地に引き留めたのか。
好意的に物心両面で尽くした当地の門人たちに心打たれたか、はたまた歌枕として古歌に詠われた多くの歌人と共通した思いの深さか、案外伊賀の地に育った翁の琴線にこのロケーションが触れたかは定かでない。
そんな思いの交々が、「老後を過ごしたい。」とまで言わしめたのであろうか。
事実、翁が生涯詠んだとされるものが九八〇句確認されており、なんと一割近くの八九句が湖南エリアで詠まれているということからも、その占める思いの大きさが窺われるものである。そうして年が明けた春の名残に詠んだこれもまた有名な句に、心情を汲み取る事ができよう。
   行春を 近江の人と おしみける
この後、元禄四年、中秋の名月に詠んだ冒頭の句へと繋がり四十九歳の年には一旦江戸に戻る事となる。そうしている間も、練りに練った内容をまとめ遂に五十歳の折に 「おくのほそ道」は完成。翁の生涯でのエポックメーキングといえる出来事であった。
しかし衰えを知らぬ旅心に突き動かされる如く、五月にはまた新たな昂ぶる気持ちを胸に、西国に向けての新たなスタートを切ったものの、そんなとき花を散らすかの様な無常の風が吹くことになる。四ヶ月の後病に伏した翁は、御堂筋の旅宿「花屋仁左衛門」方で永久の眠りに就く。
病中から終焉・葬送に至っては「花屋日記」に詳しい。門弟や縁者たちの手記・物語及び書簡を収めた体をなしているが、冒頭記したように肥後の国の僧侶、文暁のオリジナル作品である。其角の 「芭蕉翁終焉記」、支考の「前後日記」や路通の「行状記」が出所であると言われている。しかし、確実な資料によって翁臨終の様子を見事に描ききっている。その事は芥川龍之介がこの 「花屋日記」を土台にし「枯野抄」を執筆したことでも明らかである。
もともと翁は腸が弱く、臨終にさいしては下痢がとまらず、枕元にいた弟子たちは狼狽する。そして下着を何度も洗濯したり、用意した食物も摂らず、薬も喉を通らず、日増しに弱っていく翁の描写は、胸に迫るものがある。
「義仲寺眞愚上人(正しくは直愚上人)、住職なれば導師なり。三井寺常住院より弟子三人まゐられ、讀経念佛あり。御入棺は其夜酉の刻なり。諸門人通夜して、伊賀の一左右をまつ。夜に入ても左右なし。去來・其角・乙州等評議して、葬式いよいよ十四日の酉上刻と相究む。昼のうちより集れる人は雲霞のごとく、帳にひかへたる人数凡そ三百人余。……」(花屋日記)三井寺常住院から僧侶三人がお参りし、厳かに葬儀が執り行われる。
こうして生涯を閉じた翁は、多くの門人や凡百の衆生に惜しまれつつその亡骸は「木曾義仲公の側に葬って欲しい。」という遺言通り、義仲寺の境内に眠る事となる。
前述にある路通の「芭蕉翁行状記」によれば、「ここは東西のちまたさざ波きよき渚なれば生前の契り深かりし所也」と言い残したとされる。また遺髪は旧友の手により、伊賀は松尾家菩提寺・愛染院につくられた「故郷塚」に納められた。
持ち合わせた精神やその稀なる表現力が、多くの俳人を虜にし、いつしか「俳聖」と言わしめた翁に敬意を表しつつ、近々「義仲寺」に花を手向けに足を運ぶのもまた春が誘う一興かと。翁が永遠の旅路につく四日前の作といわれるあの句を、胸中に抱きつつ。
   旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る  
・・・
即刻不淨をCめ、白木の長櫃に納まゐらせ、其夜直に川舟にて伏見まで御供し奉る。其人々には、其角・去來・丈草・乙州・正秀・木節・惟然・支考・之道・呑舟・次郎兵衞・以上十一人。花屋仁左衞門が京へ荷物を送る體にて、長櫃の前後左右をとりまき、念佛誦經おもひおもひに供養し奉る。八幡を過る頃、夜もしらしらと明はなれけるに、僧李由の下りたまへる舟に行逢ければ、いざとて乘移り、相ともにはかなき物がたりして、程なく京橋につく。夫より狼だに通りにかゝり[やぶちゃん字注:国会図書館版では「狼谷」と漢字表記。 ]、急ぎにいそぎしほどに、十三日巳の時過には、大津の乙州が宅に入れたてまつりけり。乙州は伏見より先立ていそぎて歸り、座敷を掃除しきよめ、沐浴の用意す。御沐浴は之道・呑舟・次郎兵衞也。御髮の延びさせたまへば、月代には丈草法師まゐられけり。御法衣・淨衣等は、智月と乙州が妻縫奉る。淨衣、白衣にて召させ參らすべき筈なるを、翁はいかなる事にや、兼て茶色の衣裝こそよけれと、すべて茶色を召れければ、智月尼のはからひとして、淨衣も茶色の服にこそせられける。さて送葬は十四日と定り、彼是日沒になりにけり。
大坂花屋より支考・惟然が二日に仕出の狀、羅漢寺の僧伊勢に急用有て參るよしを、花屋よりしらせければ、是幸ひとョつかはしけるに、此僧奈良に著たる日より、痢疾にて歩行かなはず、やむことを得ず奈良に滯る。夫故十一日朝、伊賀上野に行人あるを聞つけゝれば、右の狀を仕出しけり。此狀、十二日の暮ごろに上野に屆きけり。土芳・卓袋ひらき見るより大に驚き、とる物もとりあへず松尾氏に參りたれば、是も同時に書狀著せりと云。夫より兩人は、したためそこそこにして、子の刻過より、兼て案内しりたる近道にかゝり、大和の帶解までたゞいそぎに急ぎけれど、月入ての事なれば、くらさはくらし、小路の事ゆゑ、挑灯も消ぬれば、其夜の明がたに帶解に著く。相知れる方に暫らく休らひて、したゝめなどし、是よりくらがり峠を越れば、大坂までは八九里には過ず。さらばとて、足にまかせてくらがり峠を越え、俊コ海道をたゞ急にいそぎ【今の地方を以て見れば、くらがりの峠をこして俊コ街道に出ず。十三峠とくらがり峠をおもひ誤れるなるべし[やぶちゃん字注:国会図書館版では「地方」は「地圖」となっており、 「くらがりの峠をこして俊コ街道に出ず」の箇所は「くらがり峠をこしはて俊コ街道に出ず」となっている。後者は「越しては」の誤植かとも思われる。 ] 。 】、平野口より御城の南をかけぬけ、直に久太助町花屋にかけつけたるは、十三日の暮頃なり。何がなしに、翁の御病氣いかにと問ければ、仁左衞門しかじかと答ふ。爾人ともに殘念まうすばかりなく、さらば葬送なりとも逢ひたてまつらんとて、又ひきかへし、八軒屋にかけ行。幸ひ出船ありければ、其まゝ飛乘り、伏見京橋に著しは夜明也。直に飛下り狼谷にかゝり、義仲寺に著しは、未入棺し給はざるまへなりければ、諸子に斷りて、死顏のうるはしきを拜しまゐらせ、悲歎かぎりなく、一夜も病床に咫尺せざる事をかきくどきけれど、まづ因緣の深きことを身にあまり有がたく、嬉しく燒香につらなりけり。 ( 〔土芳・卓袋〕物語)
十二日暮に伏見を出舟したる臥高・昌房・探芝・牝玄・曲翠等は、其夜何處にて行違ひたるやらん、夜明て大坂に著。直に花屋にはせたるに、諸子御骸を守り奉りて、のぼり給ひぬと聞より、直に又十三日の晝船に大坂より引かへし、其夜酉の刻にふしみにつく。夜半頃に大津に歸る。 (昌房物語)
義仲寺眞愚上人、住職なれば導師なり。三井寺常住院より弟子三人まゐられ、讀經念佛あり。御入棺は其夜酉の刻なり。諸門人通夜して、伊賀の一左右をまつ。夜に入ても左右なし。去來・其角・乙州等評議して、葬式いよいよ十四日の酉上刻と相究む。晝のうちより集れる人は雲霞のごとく、帳にひかへたる人數凡そ三百人餘。しるしらぬ近郷より集る老若男女までをしみ悲しむ。時しも小春の半にて、しづかに天氣リたわり、月C朗として湖水の面にかゞやき渡り、名にし粟津のまつに吹起るは、無常の嵐かとおもはれて、月はおもしろきもの、露は哀なるものといへれど、折にふれては何かあはれ成ものならざらむ。矢橋の漣のよするひゞきも、愁人のためには胸にせまり泪を添ふ。 (支考記)
・・・ 
●6 「今昔物語集」と三井寺 

 

「今ハ昔」という書き出しで始まることに由来する「今昔物語集」は、説話文学の宝庫として知られている。
三井寺関係の説話も多く収録されているが、なかでも地蔵菩薩にまつわる霊験譚が、実睿という三井寺の僧が書いた著作に由来していることはあまり知られていない。
多彩な仏教説話を通して、日本仏教の根源にせまる「今昔物語集」を紐解く。
芥川の生死感を決定付けた羅生門
「ある日の暮方の事である。一人の下人が羅生門の下で雨やみを待っていた」で始まる芥川龍之介の小説「羅生門」は、大正四年に発表された。
題材を「今昔物語集」からとった物語小説の粗筋は、時は平安の頃、飢饉などの天変地異が続き、都は疲弊していた。そんな時、羅生門の下で、一人の下人が途方に暮れていた。数日前に、主人から解雇され、いっそのこと盗賊にでもなろうか、と思いつめるも踏ん切れがつかない。
荒廃した楼閣には、身寄りのない遺体が多数打ち捨てられていたが、その中に灯りがポツン。老婆が松明を灯して、若い女性の遺体から髪を引き抜いていた。これに怒りを覚えた下人は、刀を抜き老婆に躍りかかる。
この老婆は、抜いた髪で鬘(かづら)を作り売ろうとしていたのであった。それは、生きていく為に仕方のない行為。遺体となった女も生前には蛇の干物を干魚と偽り売り歩いていたのである。共に生きる為の所業、遺体となった女も許すであろう、と老婆は言う。
これを聞いた下人は、老婆を組み伏せて着物をはぎ取り、「己もそうしなければ、餓死する体なのだ!」と言い残し、漆黒の闇の中に消えていった。
昭和二十五年、黒澤明監督・三船敏郎主演によって映画化され、ヴェネチア映画祭のグランプリ、アカデミー賞の外国語映画賞などを受賞。内外から異色作として高い評価を得た。
スケールはアジア世界に広がる
「今昔物語集」は、平安末期(十二世紀前半)に成立した説話集である。
収められた話しの数は千を越えており、天竺(インド)・震旦(中国)・本朝(日本)の地域別に、それぞれの主題に沿って三十一巻にまとめられた日本最大の物語集で、漢字片仮名まじりの文体による、人間の生死に関わるあらゆる姿を描き出している。  
ところが、そもそも何時・誰が・何のために・どのように作ったものか、その多くは定かでない。
しかし、当時の全世界である「三国観」は、今でいえばアジア世界そのものであり、当時にあっては例のないスケールの大きな作品であったことは事実であろう。
物語は「天竺」から始まり、釈迦の生涯を問い直し、仏教が如何にして広まり、わが国へ定着していったかが語られ、後半部分では多彩な世界が繰り広げられている。
そんな「今昔物語集」の、著名な説話をひもといてみる事にしよう。
巻一から巻三までが仏伝で、巻四では釈迦涅槃後に仏教が如何に広まったか、巻五では釈迦出生以前の天竺世界がどうであったかを語っている。
震旦部は巻六から巻九までが仏法譚、巻十で中国の歴史をたどる。巻十一から巻二十までが「本朝仏法部」で、わが国における仏法にまつわる説話が集成されている。聖徳太子による四天王寺縁起や、飛行中に女性のふくらはぎに欲情し神通力を失った久米仙人の久米寺縁起に、安珍・清姫の話など、地蔵菩薩を中心とした霊験譚ほか怪異話が集成されている。
巻二十一から巻三十一は、仏教色の薄い作品群で、「本朝世俗部」と称されている。陰陽師として有名な安倍清明の超人的呪力の話や芥川龍之介の「芋粥」、「鼻」、「羅生門 」に「藪の中」もこの世俗部の中に材を求めている。
そこで三井寺と「今昔物語集」との関わりを探れば、「本朝仏法部」のなかに見ることが出来る。
「地蔵菩薩霊験記」と地蔵信仰
平安時代、貴族社会で発達した天台浄土教のもとで発生した地蔵信仰は、やがて民間にまで広く浸透し、新しい地蔵信仰が生まれてくる。諸行往生すべなき民衆の間に「ただ地蔵の名号を念じて、さらに他の所作なし」という地蔵専修が成立した。
「今昔物語集」が成立する前の十一世紀中ごろ、三井寺の実睿という僧が民間地蔵説話を集成して「地蔵菩薩霊験記」という書物を編纂した。この漢文体の原本は散逸したものの 「今昔物語集」の巻十七に大部分の説話が和文体に改められ再録されている。
そこで、その内容を紹介してみよう。巻十七の第十二「改めて地蔵を綵色せる人、夢の告げを得たる語」と第十九「三井寺の浄照、地蔵の助けによりてよみがへるを得たる語」である。
まず、「改めて地蔵を綵色せる人、夢の告げを得たる語」は、或る人が阿弥陀仏を造る折、古い地蔵菩薩を綵色し直し正法寺に安置した。その後、正法寺でこの地蔵菩薩を見つけた人が補修すると、夢に十四、五歳のこどもが現れて「わたしは、三井寺の前の上座の僧であった、その妻である尼さんが作ったものである」と説明した。
その際、後ろに立っている人がいたため「その方は誰ですか?」と問うたところ、「わたしを作った方で、自分の保護の下においてお守りしているのです」と返したそうである。それからふと北東方向を見ると、二十余体のお地蔵さんがすべて南方向を向いていたというところで、夢が醒めてしまった。
その有難さに涙を流し、ずっとそのお地蔵さんを信心したそうである。この事からいえるのは、真心込めてお地蔵さんを作った者はもとより、ちゃんと信心すればご加護はあるものだと語り伝えられたという。
同じく第十九「三井寺の浄照、地蔵の助けによりてよみがへるを得たる語」は、三井寺の浄照という僧が十一、二歳時分の話で、まだ出家前に同じ年頃のこどもたちと遊んでいた時、遊び半分にお坊さんの姿を模して木を刻み、それを地蔵菩薩と名付け、季節の野の花も添えて古寺の仏壇辺りに置きっぱなしで遊んでいた。
その後、浄照は、師に随って一所懸命に学び、高僧と呼ばれる様になった。しかし、三十歳の時、重い病気のため命を落としてしまう。その際、突然に荒々しい二人の者に抱え取られ、山の麓に連れていかれてしまった。そこには暗く大きな穴がひとつ…、そこへ浄照は落とされてしまう。
そんな時に心の支えとなったのは、生前に法華経を唱え、観音さまやお地蔵さまを敬っていたので、どうかご加護をと念じ続けた。落ちる間、あまりにも風が強すぎて目が開けていられないため、手で目を覆っていた。
そして、堕ちた先はなんと閻魔の廟。そこで四方を見回したところ、多くの罪人が泣き叫ぶ声が雷鳴の様に響いていた。そんな時一人の小僧さんが現れ、
「覚えていますか。わたしは、あなたが子供の頃遊び半分で作ってくれた地蔵です。それが縁となり、日夜あなたを護ってきました。しかし、わたしが他行に励む間にあなたがここに堕ちてしまったのです。」と話した。
これを聞いて地にひざまづき涙を流す浄照を閻魔の前に連れて行き、許しを乞うたところ忽ち蘇ったという。その後、浄照は、諸々の場所で永く仏道の修行を続けたという事である。
子供でも遊び心で地蔵菩薩を刻んだだけでも、これだけの功徳があるのだから、ましてや心を込めて供養したならば如何程のものであろうか、と語り伝えられている。
そして、様々なる災いを除き、五穀豊穣、子孫繁栄を願う人々の生活に根ざした地蔵菩薩への信仰は、やがて毎月二十四日の縁日には人々が集まり、ことに旧暦七月二十四日の前日の宵縁日を中心とした三日間は、地蔵盆として今の世にも脈々と受け継がれることになった。来る地蔵盆の頃には、子どもたちの喚声を背景に涼風よぎる木陰で、 「今昔物語集」をひもとくという夏の一日も、また一興であろうか…。 
左衞門尉平致經、明尊僧正を導きし語 (今昔者物語集巻二三)
今は昔、宇治殿の盛に御しましける時、三井寺の明尊僧正は御祈の夜居に候ひけるを、御燈油參らざり。暫く許有りて何事すとて遣すとは人知らざりけり。俄かに此の僧正を遣して夜の内に返り參るべき事の有りければ、御厩に、物驚き爲ずして、早り爲ずて慥かならむ御馬に移置きて將て參じて、召して、侍に、「此の道に行くべき者は誰か有る」と尋ねさせ給ひければ、其の時に左衞門尉平致經が候ひけるを、「致經なむ候ふ」と申しければ、殿「糸吉し」と仰せられて、其の時は此の僧正は僧都にて有りければ、仰せ事、「此の僧都、今夜三井寺に行きて、軈て立ち返り、夜の内に此こに返り來たらむずるが樣、其こに慥かに供すべきなり」と仰せ給ひければ、致經其の由を承はりて、常に宿直處に弓・胡録を立て、藁沓と云ふ物を一足畳の下に隠して、賤しの下衆男一人を置きたりければ、此れを見る人、「か細くても有る者かな」と思ひけるに、この由を承はるままに、袴の括高く上げて、喬捜りて、置きたる物なれば、藁沓を取り出だして履きて、胡録掻負ひて、御馬引きたる所に出合ひて立ちたりければ、僧都出でて、「彼れは誰そ」と問ふに、「致經」と答へける。
僧都、「三井寺へ行かむと爲るには、何でか歩より行かむずる樣にては立ちたるぞ、乘る物の無きか」と問ひければ、致經、「歩より參り候ふとも、よもおくれ奉らじ。只疾く御しませ」と云ひければ、僧都、「糸恠しき事かな」と思ひながら、火を前に燈させて、七八町許行く程に、黒ばみたる物の弓箭を帯せる、向樣に歩み來たれば、僧都此れを見て恐れて思ふ程に、此の者共致經を見て突居たり。「御馬候ふ」とて引き出でたれば、夜なれば何毛とも見えず。履かむずる沓提けて有れば、藁沓履きながら沓を履きて馬に乘りぬ。胡録負ひて馬に乘りける者二人打具しぬれば、憑しく思ひて行く程に、亦二町計行きて、傍より、有りつる樣に黒ばみたる者の弓箭帯したる、二人出で來たりて居ぬ。其の度は、致經此も彼も云はぬに、馬を引きて乘りて打副ひぬるを、「此れも其の郎等なりけり」と、「希有に爲る者かな」と見る程に、亦二町計行きて、只同じ樣にて出で來たりて打副ひぬ。此く爲るを致經何とも云ふ事なし。亦此の打副ふ郎等、共に云ふ事なくて、一町餘二町計行きて二人づつ打副ひければ、川原出で畢つるに三十人に成りにけり。僧都此れを見るに、「奇異しきしわざかな」と思ひて、三井寺に行き着きにけり。
仰せ給ひたる事共沙汰して、未だ夜中に成らぬ□參りけるに、後前に此の郎等共打裏みたる樣にて行きければ、糸憑しくて、川原までは行き散る事無かりけり。京に入りて後、致經は此も彼も云はざりけれども、此の郎等共出で來たりし所々に二人づつ留まりければ、殿今一町計に成りにければ、初め出で來たりし郎等二人の限に成りにけり。馬に乘りし所にて馬より下りて、履きたる沓脱ぎて殿より出でし樣に成りて、棄てて歩み去れば、沓を取りて馬を引かせて、此の二人の者も歩み隠れぬ。其の後、只本の賤しの男の限、共に立ちて、藁沓履きながら御門に歩み入りぬ。
僧都此れを見て、馬をも郎等共をも、兼て習はし契りたらむ樣に出で來たる樣の奇異しく思えければ、「何しか此の事を殿に申さむ」と思ひて御前に參りたるに、殿はまたせ給ふとて御寢らざりければ、僧都、仰せ給ひたる事共申し畢てて後、「致經は奇異しく候ひける者かな」と、有りつる事を落さず申して、「極じき者の郎等随へて候ひける樣かな」と申しければ、殿此れを聞食して、委しく問はせ給はむずらむかしと思ふに、何に思食しけるにか、問はせ給ふ事も無くして止みにければ、僧都支度違ひて止みにけり。
此の致經は、平致頼と云ひける兵の子なり。心猛くして、世の人にも似ず殊に大なる箭射ければ、世の人此れを大箭の左衞門尉と云ひけるなりとなむ、語り傳へたるとや。  
●7 謡曲「三井寺」 

 

能は日本人が世界に誇りうる古典芸能である。2001年、ユネスコの世界無形文化財に登録された。能は謡曲と舞、囃子からなり、謡曲は能の物語にあたる部分の台本に相当し、セリフとしての語りの部分と、歌の部分に分けられる。いずれも一定のリズムや節回しに乗せて謡われる。
謡曲はそれ自体が鑑賞の対象になり、徳川時代から風流人士の趣味の中でも高雅なものとされた。
舞台は清水寺から始まる。
能「三井寺」は、中秋の名月の三井寺を舞台に親子の再会を描いた名曲として知られている。わが子をさらわれた母が、狂乱状態となって、清水の観音さまのお告げに従い、三井寺を訪れ、鐘を撞くことが機縁になって子どもとめぐり会う、というストーリーである。
舞台には、千満の母が笠をかぶって登場。
南無や大慈大悲の観世音さしも草、さしもかしこき誓ひの末、一称一念なほ頼みあり。ましてやこの程日を送り、夜を重ねたる頼みの末、などかそのかひならんと、思ふ心ぞあはれなる。 
母は、清水の観音さまに子を失った悲しみを訴え、わが子に会わせ給えと一心に祈る。枯れた木にさえも花を咲かせるのが観音さまのお力、それなら、まだ若木のようなわが幼子にお慈悲によって会えるはず、どうして会えないという事がありましょうか、と。
やがて眠りに落ちた母は、わが子に会おうと思うならば、急いで三井寺に参るのがよいとの霊夢を得る。
あらうれしと御合せ候せふものかな。告に任せて三井寺とやらんへ参り候ふべし。
場面は三井寺。舞台には木で組んだ鐘楼があり、上部には小さな鐘が飾られている。時まさに中秋の名月。三井寺の住僧が弟子・千満を連れて講堂の庭での月見に出かける。そこへ子を失った母が、竜宮から持ち帰ったと伝える三井の名鐘を、龍女成仏にあやかって、自分も撞きたいと近付く。住僧は制止するが、母は中国の古詩を持ち出して、詩聖でさえ、名月に心狂わせて、高楼に登り鐘を撞くというのに、ましてや狂女の私がと、鐘を撞いて舞う。
憂き寝ぞ変わるこの海は、浪風も静かにて秋の夜すがら月澄む。三井寺の鐘ぞさやけき
やがて、弟子の千満は住僧に女の郷里を尋ねるよう頼むと、女は駿河の国清見ケ関の者であると答え、女は千満がわが子であることを知る。
親子の為の契りには、鐘故に会う世なり、嬉しき鐘の声かな
かくて母子は、三井の名鐘の縁によって再び巡り会うことがかなう。離ればなれになった親子の心情を描くに琵琶湖上に輝く名月と湖面に響く鐘の音を配した「三井寺」の舞台は、まことにふさわしいものとなっている。
かくて伴ひ立ち帰り、かくて伴ひ帰り 親子の契り尽きせずも、富貴の家となりにけり。げにありがたき孝行の威徳ぞめでたかりける。威徳ぞめでたかりける。
琵琶湖畔名所づくし
近江八景「三井の晩鐘」で有名な三井寺であるが、能「三井寺」でも、母親が三井寺へ詣る道すがら、様々な名所旧跡を巡る見せ場、聞かせ場が盛り込まれている。
志賀の山越えを過ぎると、はるかかなたに鳰の湖。高くそびえる比叡の山。さあ、早く古里へ帰ろう、そして志賀の辛崎の一本松を訪ねてみよう。
月は山の上にあるのに、時雨のような音をたてて、吹き過ぎるこの湖。粟津の森も見え、湖をへだてて彼方に澄んだ月の光のもとに鏡山が見える。山田や矢橋の渡し舟は、月が誘うとおのずから、舟も誘われて出て行くことだろうと。一切変化のない能舞台に、地謡が語る道行に、切々と情景が目に浮かぶ。いわば物語に関係のない部分での情景描写がなされている。能という芸能の奥深さとサービス精神を垣間見ることができる。
近江は能楽の舞台としても、数多く取り上げられている。「竹生島」「蝉丸」などが有名である。そんな歴史と文化をもつ大津市でも、伝統芸能を継承し、脈々として現代に引き継ぐ「おおつこども能楽教室」などの新しい動きがはじまっている。 
謡曲「三井寺」 
あらすじ
秋の頃、京都・清水寺にて、駿河国(今の静岡県あたり)の清見が関から来た女が、観音様に向かい熱心に祈りを捧げていました。彼女は、わが子の千満(せんみつ)が行方不明になったため、再び逢いたい一心で、都までお参りに来ていたのです。祈りの間にしばしまどろんだ女は、霊夢を見ます。そこに、清水寺門前の者が来て夢を占い、わが子に会いたいなら近江国(今の滋賀県あたり)の三井寺へ急いでいきなさいというお告げだと判定します。女は喜び、早速三井寺へ向かいます。
三井寺では、ちょうど八月十五日(旧暦)を迎え、僧たちが月見をしようと待ち構えています。そこには、三井寺の住僧に弟子入りした千満の姿もありました。人々が、中秋の名月を鑑賞しているところに、物狂いとなった千満の母が現われます。興味を持った能力(のうりき:寺の下働きの男)の手引きで、女は女人禁制の寺に入り込みます。女は鐘の音を聞いて面白がり、三井寺の鐘の来歴を語り、鐘楼に上がり込んで鐘を撞き始めます。さらに女は鐘にまつわる諸々の故事を引き、古歌や古詩を詠じ、鐘と月とを縁として仏法を説きます。
女を見て何かを感じた千満は、師僧を通じて女の出身地を聞き、声をかけます。女と千満は互いに母子だと認め合い、涙の対面を果たします。そしてふたりは故郷へ連れ立って帰り、豊かに暮らします。

1 前シテが登場し、清水寺の観音に祈りを捧げます。
京都 清水寺。この寺の本尊・観音菩薩の宝前には、参籠の人々が集まり、静かに祈りを捧げていた。彼らは、何日ものあいだ夜通し祈りつつ、観音の夢託を待っているのだった。今夜も、参籠の女性(前シテ)が、静かに本尊と向きあっていた。「慈悲深い観音様。これほど日夜に祈りを捧げた私の願い、どうかお聞き届け下さいませ。生き別れになったあの子は、今頃どこにいるのでしょうか…」。
2 アドアイが登場して前シテと言葉を交わし、二人は退場します(中入)。
夢見心地の彼女であったが、はっと目を覚ます。どうやら、夢託があった様子である。そこへ、参籠中の世話をしていた宿の者(アドアイ)が、彼女を迎えにやって来た。夢告の内容を明かす女。それによれば、わが子の居場所は近江国の三井寺であるという。彼女はわが子に逢いたい一心で、近江国へと急ぐのであった。
3 子方を伴ってワキ・ワキツレ・オモアイが登場します。
その三井寺では――。この寺に仕える、一人の稚児(子方)がいた。先日どこからともなく現れ、入門を希望した彼は、ひとまず稚児として、寺に仕える身となったのであった。今日は仲秋の名月。住職(ワキ)はこの稚児や僧たち(ワキツレ)を伴い、庭で月見をしようと思い立つ。誉れ高き今日の月。その月の出を、僧たちは心待ちにするのであった。
4 オモアイは座興として〔小舞(こまい)〕を舞います。
やがて日は暮れ、満月が天に昇りはじめる。それは、近年になく美しい、澄んだ月の姿。 住職は下働きの小僧(オモアイ)を呼び出し、ひとさし舞うよう命じる。それは、この新入りの稚児の心を慰めようとの、住職の心づかいであった。小僧が面白おかしく舞っていると、そこへ、門前に女物狂が来たという騒ぎが聞こえてくる。女人禁制の寺ではあったが、小僧は余興として、かの物狂を招き入れようと思い立つ。
5 後シテが登場し、狂乱の態を見せます(〔カケリ〕)。
やって来たのは、あの清水寺にいた女(後シテ)。「都の月を待たずに下ってきた私を、無風流と人は嗤(わら)うだろう。ええ、花も紅葉も月も雪も、何も無い田舎だって構わない。あの子と一緒にいられるのなら…」 わが子を恋い慕うあまり、物狂いとなった彼女。志賀の山をこえ、琵琶湖のほとりへ来てみれば、赤い夕陽が水面を照らし、比叡の霊山を映し出す時刻。そんな旅路の末、彼女はついに、月夜の三井寺に辿り着いたのだった。
6 後シテは月の風情をめで、オモアイの撞く鐘の音に感じ入って自らも撞こうとします。
十五夜の月は清く澄んで、湖面に影を落としている。その透き通るような、月の光。そうする内、夜は早くも更けてゆき、後夜(ごや)の勤行の時刻。小僧の撞(つ)く鐘の音が、湖のほとりに響きわたる。すると狂女は、自分も鐘を撞きたいと言い出す。「天下に名高い、三井寺の鐘。聞けば、その昔、龍宮からもたらされた鐘なのだとか。私も罪深き女人の身、龍女成仏の功徳にあずかりたいものよ…」。
7 後シテは、ワキの制止を振り切って鐘を撞き、法悦にひたります(〔鐘之段〕)。
あわてて制止する住職。しかし彼女は鐘にまつわる故事を引いて反論する。「むかし中国の詩人は月下の鐘の音に惹かれて楼に登ったといい、また名月を詠んだ詩の出来ばえに喜ぶあまり、物狂いとなって鐘を撞いた者もあったとか。詩聖ですら月に惹かれては浮き立つもの。ましてやこの物狂いのわざ、どうかお許しください…」。月光の下、鐘を撞く女。無明の眠りを覚ますような、澄んだ鐘の響き。諸行無常を体現する、幽妙なその音色。深遠な仏の教えを呼び起こす、三井寺の鐘の音なのであった。
8 後シテは、鐘の風情に興じて謡い舞います(〔クセ〕)。
――多くの詩歌に詠まれ、愛されてきた鐘の音。春の夕べの鐘とともに、夢のように散ってゆく桜花。暁の鐘が響く頃、契りを交わした男は去ってゆく。ある時は宵の鐘に恋人の来訪を知り、またある時は寝られぬ夜に昔を偲ぶ。今夜はこの湖の波も静かに、澄んだ月が影を落としている。そんな夜の風情に添えられた、三井寺の鐘の清らかな響きよ…。
9 子方は後シテが自分の母だと気づき、二人は再会を果たします。(終)
そのとき、稚児は住職に、狂女の出身地を尋ねてくれと頼む。彼女が駿河国清見関の者と知るや、彼は思わず声を上げる。実はこの子こそ、狂女の息子だったのだ。人身売買人の手に渡り、この地まで流れついた彼だったが、今こうして、再び巡り逢えたのであった。わが子に会えた嬉しさと、衰えた身の恥ずかしさ。彼女は涙をこぼしつつ、息子を連れて帰ってゆく。思えば、二人が巡り逢えたのも、三井寺の鐘の功徳なのであった――。
みどころ
鐘と月とを背景に据えた、子別れの狂女物の名曲です。前半は、清水寺を舞台に、夢の告げを受けて三井寺に向かう母の姿が描かれます。身元のしっかりした上流の女性であることがうかがわれ、この時点ではまだ物狂いにはなっていない様子で、静かな立ち上がりです。
後半、舞台上にかわいらしい小さな鐘の吊られた、鐘楼の作り物が据えられると、場面は一転します。陰暦八月十五日、中秋の名月その日を迎えた三井寺を描き、月見の華やいだ雰囲気のなか、詩的で劇的な物語が進んでいきます。
月見に興じる僧たちの前に、狂い笹を持って物狂いと化した女が登場。女は月下の景色を愛で、鐘楼にまであがりこんで鐘をつき、鐘につきまとう幾多の物語を語ります。風情豊かな情景が、作り物の存在感をバックに、流麗な謡の言葉と、物狂いの女の緩急のある独特な動きに乗って、見る人の心の眼の前に差し出されるのです(その裏には鐘を撞いて目立ち、子どもの手がかりを得たいという母心も垣間見えます)。
言うまでもなく、「鐘」はつくもの、「月」とは掛詞で結ばれています。さやかに響く鐘の声、さえざえと澄める月の輝き……。鐘と月が彩る詩情が、言いがたい気配となって伝わってきます。 
●8 「古今著聞集」と三井寺 

 

「古今著聞集」は、鎌倉時代の建長六(一二五四)年に橘成季(たちばなのなりすえ)によって編纂された「今昔物語集」に次ぐ説話集である。日本の説話を中心に幅広い題材を文学、和歌や武勇、遊覧など三十項目に分類した七百余編の説話が収められている。それでは三井寺にまつわる説話の世界に時空を遡ってみよう。
古今著聞集の世界
「古今著聞集」が成立した鎌倉時代は、武士の時代である。京都を中心とする王朝貴族社会に変わって武士が台頭し、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた。本格的な武家政権の誕生である。新しい社会情勢を背景に商品経済が拡がりをみせ各地に定期的な市も立つようになった。政治や経済が一応の安定をみると文化芸術の分野でも貴族文化とは異なった質実剛健を旨とする武士の価値観をもとに新風が巻き起こり、庶民にも分かりやすい新しいモノが好まれるようになった。
そんな時代に生きた橘成季は、摂政関白・九条道家の近習として活躍した下級貴族であったが、詩歌や管絃を好む多能な人物でもあった。退官後の閑暇を使い、五十歳のころにはこの一大説話集を書き上げたという。
成季は、多くの話題を先行する書物から引用するだけでなく、家々の日記を調べたり、事実に基づき収集し、花鳥風月や下級官人の失敗談、機知に富んだ人生の話に今も昔も変わらぬ猥談等で構成されている。なかには作者の見聞による説話も収録されており、当時の社会のありさま、人々の生活などを知る絶好の資料ともなっている。
そのネタ元となった多くの貴族たちは、貴族社会にやみ難い追慕の情を抱えていた。承久の乱の敗北以降、完全に政治から切り離され、京都という狭い世界に閉じ込められた貴族たちは、新しい生活を生み出す気力にも欠け、ひたすら過去の栄光にすがるほかなかった。そのような「いにしえ」を追い求め、凝縮したものが、 「古今著聞集」といえよう。
三井寺と新羅明神
「古今著聞集」の中に出てくる「三井寺」との関わりをみてみると…。
まず注目されるのが、神祇編に分類された巻第一の四「新羅明神、三井寺に垂迹して和歌を託宣のこと」、釈教編の巻第二の四〇「智証大師の帰朝を新羅明神が擁護すること、ならびに園城寺創建のこと」である。
いずれも三井寺の草創縁起と智証大師円珍(八一四〜八九一年)にまつわるもので、ことに三井寺の鎮守・新羅明神(しんらみょうじん)の説話が語られている。
新羅明神は、智証大師が仁寿元(八五〇)年に日吉山王権現の託宣により新しい仏法を求めて唐国に渡ったとき、彼の地で大師の前に姿を現し、大師の仏法を守護することを誓い、後に三井寺の北院に鎮座した異国の神様(蕃神)である。
さて、「智証大師の帰朝を新羅明神が擁護すること、ならびに園城寺創建のこと」によると、智証大師が唐国から持ち帰った一千巻に及ぶ経典類を朝廷に運んだところ、再び新羅明神が現れて、次のように語ったという。
「伽藍建立に優れた条件を備えた勝地があるので、この地を調べてみよう。寺院を建立し、貴重な仏典類をしかるべく安置すれば、わたしが守護神となって鎮護加持しよう。仏法とは国家を護持するものであり、もし仏法が滅することがあれば国家もまた滅亡するであろう」と。
また大師が比叡山に運ぼうとしたところ、またまた新羅明神が現れ、「この地には末代必ずやかまびすしい事が起きるであろう。栄えるであろう期間は二百年間もつづくであろうか。かの地ならば、後世まで人々が拠り所とするに足る場所である。仏法興隆、国家護持をしようとするならば、かの地に定めるべきであろう」と。
かくして新羅明神が勝地として勧めた場所が、三井寺の地であったのである。大師は、新羅明神とともに三井寺の地にやってくると、教待和尚と称する齢百六十二歳になるという老僧が待っており、天智天皇の子孫である大友都堵牟麿(おおとものつとむまろ)という人物を呼び出し、三井寺建立の由来を話して聞かされた。それによると三井寺の地は、天智天皇の子・大友皇子の家地にその子の大友与多王が天武天皇のために建立したもので、長年、寺を管領する人物を待っていた。今ようやく待ち望んでいた人物に出会うことができたと大師に寺を寄進することを申し出た。
これを聞いた大師が、あらためて周囲の地形を眺めてみると、大師が伝法を受けた唐の都・長安の青龍寺に似ていることに気づき、申し出を受けることにした。かくして新羅明神は、寺の北野に住することになったという。この新羅明神をまつるのが現在の三井寺北院にある新羅善神堂である。
現在の北院と新羅善神堂
現在の新羅善神堂は、大津市役所の西側の山手に位置している。かつて北院には新羅善神堂を中心に多くの堂塔、僧房が建ち並んでいたが、明治維新に際し政府に接収された。その際、新羅善神堂とフェノロサの墓のある法明院のみを残し、すべての堂塔や僧房が廃絶となった。戦後、米軍の進駐軍キャンプ地を経て、現在の大津市役所や県立大津商業高校、皇子ヶ丘公園の一帯がかつての三井寺北院の敷地であった。
現在、新羅善神堂に参るには三井寺の山伝いに走る東海自然歩道を歩くか、山上町を通る道のいずれかである。弘文天皇(大友皇子)陵に隣接して立派な石鳥居が立ち、聖域へと向かう参道が続いている。その奥に向かうと新羅善神堂が姿をあらわす。この社殿は、足利尊氏によって再興されたもので、流造りの代表的な神社建築として国宝に指定されている。桧皮葺の流れるような優美な屋根をもち、緻密な透かし彫りのある欄間のほかには目立った装飾もなく、神の住まいにふさわしい整った上品さをもった建築である。
「古今著聞集」の「新羅明神、三井寺に垂迹して和歌を託宣のこと」には、「三蹟」の一人として高名な小野道風の孫で、三井寺の高僧であった明尊(九七一〜一〇六三年)が、はじめて新羅明神の祭礼をおこない、そのとき明神が託宣した和歌を伝えている。
   からふねに法まもりにとこしかひは ありけるものをここのとまりに
この和歌は、別の伝承では、智証大師が三井寺の地を受領したことに安堵した明神が、北院の地にあった「三亞(みつまた)杉」と呼ばれる杉の大樹に降り立ったときに歌われたものと伝えている。
また、堂内に安置される神像も国宝に指定され、神像彫刻のなかでもひときわ異彩を放っている。秘仏として一般に開帳されることはないが、去る二〇〇八年から九年にかけて智証大師入唐求法一一五〇年を記念して開催された「国宝三井寺展」ではじめて拝観された方も多いであろう。
ことに新羅明神は、源氏一門の守護神として尊崇されてきた。河内源氏の嫡流で、八幡太郎義家の弟に当たる義光(一〇四五〜一一二七年)が、新羅明神の社前で元服し、新羅三郎義光と称したことよる。以後、中世を通じて、三井寺が「源氏崇重の寺」として大いに繁栄する由縁となった。現在、源義光の墓所も新羅善神堂にほど近い山中に残されている。
教待和尚の説話
さて、「古今著聞集」に話しを戻すと、智証大師の来訪を待っていた教待和尚という老僧が登場する。この老僧は大師の三井寺入山の決意を知るや、やがて姿を消してしまう。不思議に思った大師が尋ねたところ、教待和尚は、弥勒如来の化身として仏法を護持するために三井寺に住んできたが、琵琶湖で亀や魚をとっては食していたという。老僧の庵を訪ねたところ、それまで亀の甲羅や魚の骨が山のようになっていたのが、すべて清らかな蓮華の花に変わっていたという。
現在、金堂の北側に小さなお堂が建っている。教待堂といい、堂内には教待和尚像が安置されている。お像を安置する須弥壇の下には、井戸のような石窟があり、当寺の僧が出家の際に剃髪した髪を納める伝統がある。
そして説話は、智証大師が天智・天武・持統の三天皇がお生まれになったときに御産湯に用いられたという「三井の霊泉」があることから「御井寺」で呼ばれていたのを「三井寺」に改め、唐から持ち帰った経典類を納める唐院を建立し、天台密教の根本道場として仏法を護持する寺として中興されたと伝えている。
以上が「古今著聞集」が伝える三井寺の縁起である。そこには三井寺が天智天皇ゆかりの寺として草創され、その後、智証大師によって天台宗の寺として中興された経緯が、新羅明神や教待和尚といった説話ならではの神仏によるエピソードをまじえて語られている。この説話は後世まで長く語りつがれ、現在も三井寺の境内のあちらこちらにその遺跡をとどめている。
「古今著聞集」の舞台となった三井寺の北院は、いまでは訪れる人も少ないが、春のひととき、三井の山桜を愛でつつ説話の跡を訪ね、神や仏が人々の身近な存在であった時代に心をはせてみてはいかがであろう。 
第391段 成光、閑院の障子に鶏の絵を描く事
近江国三井寺の興義という僧に、成光という名の弟子がいた。
興義の絵の上手は広く知られていて、彼が描いた魚の絵を琵琶湖に散らすと、絵の中の魚が紙から離れ水の中で戯れるほどだったという。興義の死後、弟子成光が彼の秘技を受け継いだ。
閑院の障子に描いた鶏の絵を見て、興奮した本物の鶏がそれを蹴ったとか。
第531段 僧泰覚、南都僧6人六首をまとめて一首で返歌の事
同じく後鳥羽帝が、南都(奈良)の僧6人に飾り棚を作らせたことがあった。僧たちはそれぞれ趣向を凝らした美しい棚を制作して院に奉った。各々の飾り棚には、制作した僧の和歌が付けてあった。
帝は献上されたそれらをご覧になり、「この歌の返しは、歌詠み上手の泰覚に任せるがよかろう」と三井寺の僧泰覚を召した。帝は、参上した泰覚に、「かくかくしかじかのことで、これら飾り棚を制作した南都の僧ら6人に返歌をいたせ。ただし、六首つくるのではなく一首で返すのだ」と注文をつけた。泰覚は即座に、
   奈良坂のさかしき道をいかにして腰折れどものこえてきつらん
(奈良坂の険しい坂道を、腰の曲がった(下手くそな歌を持った)老僧たちはどんな苦労をして越えてきたのだろう)
と詠んだ。帝はこの当意即妙な返しに大変感心されたという。
620段 左京大夫藤原顕輔が証尊法印と連歌の事
正三位左京大夫藤原顕輔の屋敷に夜食が届けられた。その夜屋敷に詰めていた三井寺の僧のためのものだったと思われる。ところが、食べ物の上にきれいに飾られていた桜の花まで僧たちが面白がって食べてしまった。
それを見た顕輔卿が下の句を、
   春の花えだして見せよかし
   (桜の花枝を見せたまえ)
それを聞いた僧の証尊法印が一言、
   さくらはむにはなにかたふべき
(とうに食べてしまったのに、今さら何を言ってるんですか)  
●9 馬琴「頼豪阿闍梨恠鼠伝」と三井寺 

 

三井寺には数々の伝説や寓話が語り継がれている。今回特集の「頼豪阿闍梨恠鼠伝」も様々なジャンルに影響を及ぼした作品である。江戸時代、多くの庶民に支持を得た読本、歌舞伎。そして、今なお推理小説や、アニメーションの世界にも登場する妖怪頼豪鼠。
曲亭馬琴の筆致がさえ渡る「頼豪阿闍梨恠鼠伝(らいごうあじゃりかいそでん)」を紐解いてみよう。
江戸一番の流行作家馬琴
曲亭馬琴。「南総里見八犬伝」の作者として名高い。馬琴は江戸時代後期、明和四(一七六七)年、江戸深川(現江東区)の旗本御家人、滝沢運兵衛の五男として生まれる。代表作 「南総里見八犬伝」は戦国時代、安房の地を拠点に活躍した里見氏の歴史をもとに「勧善懲悪・因果応報」をテーマにした痛快歴史小説である。
文化十一(一八一四)年、最初の五冊を出版してから、全百六冊を出し終えるのに二十八年もの月日を費やした大作である。詳しくはあまりに長大な物語ゆえ、触れる事はできないが、同時期活躍した上田秋成の 「雨月物語」などと並んで江戸時代の戯作文芸の代表作であり、日本の長編伝奇小説の古典の一つである。
また、馬琴はほとんど原稿料のみで生計を営むことができた最初の著述家であった。一般的には滝沢馬琴と呼ばれることが多いが、これは明治以降に流布した表記であり、現在確認できる限り本人は滝沢馬琴という筆名は用いていない。
その馬琴が書き記した「頼豪阿闍梨恠鼠伝」の背景を探ってみよう。
鉄鼠の怨念はかけめぐる
馬琴が活躍する七百五十年ほど前、平安時代の中頃、三井寺に頼豪(一〇〇二〜一〇八四年)という高僧がいた。この頃の天台宗は比叡山延暦寺を中心とする山門派と、三井寺を中心とする寺門派の二つに分裂し激しく争っていた。
その主な原因は、三井寺には正式に得度させる施設(戒壇という)がなく、また、戒壇には朝廷の許可が必要とされていた。朝廷に信の篤い三井寺にとって、それらを手に入れる事は長年の悲願であった。しかし、延暦寺は何度も強訴という非常手段により、朝廷に圧力をかけ戒壇設立を拒んでいた。この戒壇設立問題で、記録に残っているものだけでも三井寺は、七度も延暦寺に火をかけられている。
この物語の主人公頼豪は、「平家物語」にも有験の僧と評されているほど、祈祷にも優れた実在の僧侶で時の長吏行円から受法、実相房頼豪と称した。その評判は都にも聞こえ、時の天皇であった白河天皇から皇子誕生の祈祷を命じられる。そのとき「無事皇子が生まれたら、お前の望みは何でも叶えてやる」との約束のもと、皇子誕生の祈祷をしつづけ、承保元(一〇七四)年、皇子敦文親王の誕生をみた。頼豪は褒美として三井寺の戒壇建立の願いを申し出たが、またも延暦寺の横槍がはいり、この約束は反故にされる。
このことを怨んだ頼豪は、自分の祈祷で誕生した敦文親王を、今度は祈祷で魔道に落とそうと断食に入った。やがて百日後、頼豪は悪鬼のような姿に成り果て憤死する。 「太平記」にはその様子を、「……百日の間、髪をも剃らず、爪をも切らず、祈祷の壇から出る煙の煤(すす)で真っ黒になり、怒りと恨みの炎に骨を焦がしてこのまま大魔縁となり、白河天皇を悩ませ、比叡山延暦寺の仏法を滅ぼしてやる」と、迫力満点の記述で残されている。
その頃から敦文親王の枕元に、妖しい白髪の老僧が現れるようになった。白河天皇は頼豪の呪詛を恐れて祈祷にすがったが効果はなく、敦文親王はわずか四歳でこの世を去った。
そして頼豪は石の体と鉄の牙をもつ大きな鼠に化生。この鼠のことを頼豪鼠、または鉄鼠と呼ばれようになった。
鉄鼠と化した頼豪は生前の恨みを晴らすため、八万四千匹もの鼠の大群を率いて比叡山を駆けのぼり、延暦寺の仏像や経典を食い破った。頼豪の怨念の恐れをなした延暦寺は、日吉大社の東本宮前に 「鼠の秀倉(ほくら)」という社を築いてその怨念を鎮めた。
また、三井寺境内、観音堂へ上がる石段の右手に十八明神がある。一般的に「ねずみの宮」と呼ばれ、延暦寺に押しかけた鼠の霊を祀っているため、北の比叡山延暦寺の方向を向いて建っている。
頼豪阿闍梨恠鼠伝を読む
馬琴は文化五(一八〇八)年、そんな頼豪の様々な逸話をもとに、読本八巻九冊にまとめた「頼豪阿闍梨恠鼠伝」を出版する。出版元は鶴屋喜右衛門、初版本は葛飾北斎が挿画を描いている。
木曽義仲が従兄弟、源頼朝に討たれた事件を「源平盛衰記」や「吾妻鏡」、「太平記」などを元にして書かれた仇討ち物語で、馬琴一流の脚色がなされた波乱万丈、一大スペクタクルである。
木曽義仲の遺児、美妙水冠者(しみづのかんじゃ)・義高は源頼朝への復讐のため、修行者の姿に身をやつして諸国遍歴をしていた。途中、近江国粟津にある父の墳墓に詣でる。雨宿りに入った庵でうたた寝をする。そして、不思議な夢を見る。夢の中で走るネズミを追いかけ、そのネズミが岩の下にもぐっていくと、大きな石が砕け、中から老僧が現れる。これは頼豪阿闍梨の神霊であった。
頼豪は白河帝に対する恨みを述べ、かつて義仲が、頼豪の祠に征夷大将軍となるために願書を寄進した話を語り、その縁から義高を助力する旨を述べ、鼠を使役する術を与える。
雄牛ほどの鼠が現れ義高を救う場面や、鼠の顔を持つ怪人を呼び出す場面など奇想天外の場面が展開する。
頼豪阿闍梨恠鼠伝、巻一には「……そもそも木曽義仲と聞えしは、清和天皇の後胤、六條判官為義には孫、帯刀先生義賢のみなしごにて、頼朝とは正しき従弟どちなりけり。然るに兵衛佐頼朝は思量餘りあって嫌忌ふかく、一族たりともすぐれたる人をば、終にわが仇となりもやせんとて、妬く思ひたまふなれば、今義仲の武威盛んなるをもて、心の中のどやかならず」
木曽義仲は「……数度の合戦に平家の大軍を打ちなびかし、砥波玖梨伽羅谷(となみくりからだに)に十萬騎をみなごろしにせしより、その威勢破竹の如く……」と平教盛率いる平家軍を破った。いわゆる治承の乱である。その戦いに勝利し都に凱旋する前、日枝に陣を構える。
義仲、日吉八箇の末社の内にある小さな祠を見つけ、これは如何なる神を祀るのかと問えば「……覚明答へて三井の長吏、実相房の頼豪が神になりたるにて候。こは鼠の秀倉といふならん……むかし白河院の御時に、三井寺の頼豪阿闍梨とて、有験の権者ありき。この時后腹の皇子わたらせ給はざりしかば、主上(みかど)心もとなく思召すのあまり、かの頼豪をめして 「汝皇子を祈り出してんや。もし効権あらば勤賞は乞ふによるべし」と仰せ含められし……」とある。さきに述べたように、頼豪が鉄鼠と呼ばれる由来が記されている。
妖怪と化した鼠の霊力を武器に、艱難辛苦を乗り越えて仇討ちを成就する。馬琴は「平家物語」など、ありとあらゆる古典からの知識を基に、江戸の庶民に勧善懲悪・因果応報を興味深く、そして分かり易く説いたエンターティナーであった。出版後、すぐに歌舞伎 「軍法富士見西行」という演目で上演、また山東京伝が「稲妻形怪鼠標子」などを出版し、江戸庶民から喝采を受ける。
この夏、妖怪伝説の世界で、ひととき涼を感じるのも一興か。 
頼豪の物語
白河院の御在位の時、京極大殿の御娘が后に立てられ賢子の中宮と申し、たいそうの御寵愛を受けられた。主上は、この方の御原に皇子の誕生を望まれ、当時霊験あらたかと聞こえた三井寺の頼豪阿闍梨を召して「この后の腹に、皇子ご誕生あるよう祈り申せ。ご願成就の暁には、勧賞(褒美)は乞うままに取らす」と仰られた。頼豪は「やすきことにござりまする」と承引して三井寺に帰り、百日の間、肝胆をくだいて祈り申しましたところ、間もなく中宮は御懐妊、承保元年(一〇七四年)十二月十六日、御産平安にして皇子が誕生あそばされた。主上も一方ならず感服なされ、頼豪阿闍梨を召して、「所望のほどはいかに」とお尋ねになった。頼豪は三井寺に戒壇を建立したき旨を奏上したが、主上は「一階僧正などを願うてくるかと思うたが、これはまた存外の所望じゃ。そもそも皇子を儲けて皇位を継がしめんと致すは、海内の無位を願うためなるぞ。今、汝の所望を聞き届けなば、山門の憤りをまねき世上の騒擾は必須じゃ。両門合戦におよび天台の仏法も滅ぶであろう」と仰られて許されなかった。頼豪は「口おしきことなり」と申して三井寺に帰り、干死せんとした。主上は大いに驚き給うて、そのころはは未だ美作守であった江帥匡房卿を召して「汝は頼豪と師壇の契りありと聞く。行きて説得せよ」と御下命になった。綸言をもった美作守が頼豪の宿坊に出向き、勅定の趣を仰せ含めんとしたところ、護摩の煙で酷くふすぼった持仏堂に立てこもり、恐ろしげなる声にて「天子には戯れの詞なし、綸言汗のごとしと申すではないか。所望の叶わぬ時は、それがしが祈り出したる皇子なれば、取り返し奉り、魔道にお連れ申す」というばかりで、遂に対面もしなかった。頼豪は、その言に違わず程なく干死を遂げ、主上の叡慮を煩わせる事となった。やがて皇子は御病を発せられた。様々の御祈祷が執り行われたが、ご回復の様子はみられなかった。錫杖を持った白髪の老僧が皇子の枕もとに佇む姿が、人々の夢にもあらわれ、幻にもたち、それは、恐ろしいなどと申すものではなかった。然る程に、承歴元年八月六日、皇子は御年四歳にて遂におかくれになった。

寛広元年(一〇〇四)生、応徳元年(一〇八四)没。平安時代後期の天台僧。実相房阿闍梨。藤原宇合の子孫で、伊賀守藤原有家の息子。「寺門伝記補録」に三井寺権僧正心誉の弟子とある。顕密の学に優れ、効験あらたかな僧としてその名を馳せた。
敦文親王は、承保四年(一〇七七)九月六日、この年流行した疱瘡で亡くなっており、頼豪はその七年後の応徳元年(一〇八四)五月四日に亡くなっていることから、頼豪呪詛説話は史実とは言いがたい。ただし、頼豪が戒壇建立に関与したことについては「寺門伝記補録」の巻二に、後三条のとき、三井寺が戒壇建立を朝廷に奏上したが 
●10 与謝蕪村と三井寺 

 

与謝蕪村。「俳諧では芭蕉と比せられ、絵画では池大雅と併称されているが、俳諧において芭蕉に及ばず、絵画でも大雅に及ばない」これが一般的な蕪村の評価であろう。しかし、蕪村にとって芭蕉と併称されるとは夢にも思わず、まして大雅と並び称されるとも思っていなかったに違いない。
俳諧は趣味で絵画は仕事。酒を愛し歌舞伎や芸妓にうつつを抜かす。楽しむことに貪欲で弟子や後援者に愛された蕪村は、決して名声を求めなかった。「三井寺や日は午にせまる若楓」の句を残した彼の生き様を追ってみよう。
俳諧師蕪村の足跡
蕪村は日本文化の歴史のなかでも、まれにみる多面的な才能を発揮した人物として広く知られる。俳人としては、松尾芭蕉・小林一茶とともに近世俳諧史を語るとき必ず名をあげられ、画人としては、国宝 「十便十宜図」を合作した池大雅や、同時代の円山応挙と並び称される巨匠である。また、この俳諧と絵画の両道を橋渡しする重要文化財「奥の細道図屏風」に代表される、俳画と呼ばれるジャンルを開拓したことも忘れてはならない業績である。
蕪村は享保元(一七一六)年、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区)に生まれたが、生前自らの出自についてはほとんど語っていない。記録に残るものとして、安永六年、門人の母子柳女・賀瑞に宛てた手紙に「馬堤は毛馬塘也。則故園也」と記している。
毛馬村は大川と新淀川の分岐点にあり、その中州の土手で友達と遊んだという手紙も残っているが、両親や家族構成、どんな幼年期を送ったのか、詳しい事は分かっていない。そして蕪村六十八年の生涯で、故郷の毛馬に帰ったという記録もない。
蕪村は十七、八歳の頃に毛馬を出て江戸に下り、早野巴人(はじん)に俳諧を学んだ。寛保二(一七四二)年二十七歳の年に師宋阿(そうあ)(巴人)の死にあい、その後江戸を去る。宋阿門の親友、砂岡雁宕(がんとう)に伴われてその郷里下総の結城に足を留め、やはり同門の中村風篁(ふうこう)を訪ねて下館に逗留もする。
さらに芭蕉の足跡をたどって東北、松島あたりにも旅をする。いわゆる関東、東北地方巡歴の旅の時代である。俳諧師としての修行時代と言える時期であった。
画人蕪村が化ける
宝暦元(一七五一)年、蕪村三十六歳の年の秋、十年近い放浪生活を切り上げて京都に上り、しばらく都に居を構える。京に上った蕪村にとって見るもの全てが興味深く、京巡りをこのうえなく楽しんだ。 
しかし同時に画人蕪村にとってこの時期は非常に重要な学習期であったと思われる。京の古社寺にはさまざまな障壁画が所有され、又、中国や日本の古典絵画が豊富に保存されている。京の各寺院ではこうした宝物を公開する機会も多く、本格的な絵画作品に触れ、作品から直に学習する機会を得た時期でもあった。
宝暦四(一七五四)年、蕪村は丹後へ赴き、同七年まで滞在する。母親の出身地が丹後与謝地方であったためとも言われるが、「夏河を越すうれしさよ手に草履」の句とともに、このころの蕪村の俳句・絵画制作活動は彼の芸術全体を考える上でも大変重要な時期に当たり、大作 「方士求不死薬図屏風」(施薬寺)を描くようになった。
宝暦七(一七五七)年、四十二歳の九月、蕪村は丹後を去って京に帰る。四十五歳の頃に結婚、そして娘くのの誕生を経て京都に留まるが、請われて何度か四国讃岐・丸亀など訪れている。現在、丸亀市の妙法寺に蕪村画 「蘇鉄図」屏風が所蔵されている。
蕪村は創作活動の中心を京に定め、俳諧においては宗匠夜半亭二世を襲名し、多くの弟子を育てる。また、絵画においては、池大雅、応挙、呉春、若冲そして異端の画家、曾我蕭白など交友をあたため、互いに切磋琢磨した。
蕪村は俳諧師であると同時に画家であり、芭蕉のように俳諧のみに生きようとした人ではなかった。蕪村にとって、俳諧と画は等価的な二つの価値であり、それは蕪村にのみ特有の事ではなかった。蕪村の時代は多方面の分野に第一級であった人が続出した時代でもあった。池大雅は屈指の書家であり、画家であった。また上田秋成、平賀源内など多能多才な人物が輩出されている。そこには芭蕉のような一つの道を深く極める厳しい生き方はない。蕪村は「俳諧は趣味、絵は生活の糧」と割り切った生き方をしている。
そんな蕪村を支えたのが、弟子で島原の妓楼を営む桔梗屋呑獅(どんし)や、置屋、角屋のあるじ徳野たちである。俳諧を通じて得た多彩な人脈を通じ、裕福な町人、商人達が蕪村の絵を求めた。夜半亭という俳諧集団も、蕪村の絵の売りさばきにも大きな役割を果たしていた。また地方の素封家も単なる門人ではなく絵の顧客であり、仲介業者でもあった。
師を持たない蕪村の画風は、正統な南画から離れていく。やわらかな味のある香り高い線は、新たな日本画の世界を切り開き、蕪村独特の俳画へと昇華した。
三井寺で蕪村が詠んだ
蕪村は安永八(一七七九)年九月、三井寺を訪れている。俳聖芭蕉の墓がある義仲寺へ参ったあと、名古屋の俳人である暁台とその弟子たちと共に三井寺へ繰り出すことになった。中秋の名月をめで、発句を楽しもうというものであった。
月見といえば、旧歴八月十五日の十五夜、中秋の名月であるが、旧暦九月十三日も十三夜の月見が行われていた。この十三夜、十五夜のひと月後なので「後の月」とも呼ばれている。蕪村たちは十三夜の月見をその前日、つまり十二日の夜半、十三夜を待たずに一日早く行っている。 
この日はよほど秋晴れの良い天気だったのであろう。蕪村はその夜半過ぎまで月見を楽しみ、
   三井寺や 月の詩つくる 踏落し
という句を作っている。作中にある「踏落し」という言葉は、漢詩などで韻を踏むべきところを押韻しないこと。(押韻、漢詩において一定のリズムを作って響きの心地よさや美しさを作り出す言葉)月見の日が決まっている十三日を外し、前日に月見をするのは、踏み落としの漢詩を作るようなものだ、といった句である。
この夜、蕪村たちは、夜中過ぎまで月見を楽しみ、その後は明け方まで柴屋町(長等二丁目)の妓楼に遊んでいる。時に蕪村六十四歳、老いて益々盛んな蕪村翁であった。
その句会に参加したかどうか記録には無いが、大津には蕪村直系の弟子で俳人、南画家の紀楳亭(きのばいてい)がいた。楳亭は京で生まれ育ったが、晩年大津に移住し、大津町の札の辻附近の賑わいを描いた 「米浜初午・大津八丁往来図」など、蕪村の画風を忠実に継承したため、近江蕪村と呼ばれた。その楳亭が住んでいた借家は、蕪村たちが月見のあと、一夜を興じた柴屋町のすぐ近く、鍵屋町(長等三丁目)にあった。
その三年後、体調を崩し禁酒していた蕪村は、かつての踏み落としの口直しをするかのようにもう一句残している。
   三井寺に 緞子の夜着や 後の月
蕪村は翌年には帰らぬ人となるが、すでに体力の衰えを感じたのか、いちだんと身にしみる秋の夜寒の三井寺で、後の月を眺めている。そこに僧侶が綿入れの温かい夜着を持ってきてくれた、そんな句であった。
蕪村は天明三(一七八四)年三月、暁台主催の芭蕉百回忌の取越追善興行に出席、その後病に臥す。十二月二十五日未明帰らぬ人となる。享年六十八歳であった。臨終には弟子の月渓、蕪村の実の姉、そして大津の楳亭も立ち会ったと記されている。遺骨は京都洛東一乗寺、金福寺境内に葬られる。
名声や多くの対価を求めず、市井の人々に愛され続けた蕪村。その生涯は謎に満ちているが、今も下界を眺め、我関せずと杯を片手に月見を楽しんでいるに違いない。 
三井寺に 緞子(ドンス)の夜着や 後の月

 

後の月(9月13日夜の月)を賞しに訪れる客に緞子の夜着をだす。さすがは三井寺。  
夜着
こも〜と亥の子の晩の夜着に寝る 廣江八重櫻
さればこそ夜着重ねしが今朝の雪 信徳
しっとりと雪もつもるや木綿夜着 許六
ぬぎ捨てて夜着も畳まず閏の雪 巴流
はつ秋やたたみながらの蚊屋の夜着  芭蕉
   はるさめやぬけ出たまゝの夜着の穴 内藤丈草
   ひとり寝や幾度夜着の襟をかむ 来山
   ほとゝぎすきくや汗とる夜着の中 炭太祇
   わたぬきやはじめて夜着のおそろしき 千代尼
   エリザベス一世の夜着秋のほこり 川崎展宏
三井寺に緞子の夜着や後の月 蕪村
冬籠夜着の袖より窓の月 正岡子規
初秋や畳みながらの蚊屋の夜着 芭蕉
初空を夜着の袖から見たりけり 一茶
十三夜夜着一枚を重ねたり 田中冬二
   千鳥鳴けばいつもの夜着を掛けるなり 河東碧梧桐
   古夜着も今朝畳なすしめ飾 曾良
   夜着うすくして淋しらや春浅き 富田木歩
   夜着かけてつらき袖あり置火燵 立花北枝
   夜着かけて容いぶせきこたつ哉 高井几董
夜着に寝てかりがね寒し旅の宿 芭蕉
夜着ぬくぬく人手借りずに生きるべう 後藤綾子
夜着は重し呉天に雪を見るあらん 芭蕉
夜着ひとつ祈り出して旅寝かな 芭蕉
夜着を着て障子明たりけさの雪 黒柳召波
   客人の夜着押しつくる夜寒かな 程己
   寒に入るこころにかるし夜着の裾 卓袋
   春眠や覚むれば夜着の濃紫 松浜
   春雨やぬけ出たままの夜着の穴 内藤丈草
   極月の法師をつつむ緋夜着かな 飯田蛇笏
歌よまず詩作らず自然夜着に雪を聴ク 秋風
湯婆入れて錦の夜着のふくれかな 岡本松浜
父と呼び亡母をつぶやき夜着かぶる 松原文子
物干や夜着かかへ出て花の雲 岱水
皃見せや夜着をはなるゝ妹が許 蕪村
   眠り欲る小鳥のごとく夜着かむり 岡本眸
   破れ夜着板の如しや杣の宿 松浦真青
   菊月の夜着のつめたさまとひけり 藺草慶子
   行く秋を身にしたがふや夜着ふとん 浪化
   足の出る夜着の裾より初嵐 寺田寅彦  
足袋はいて夜着ふみ通る夜ぞ更けし 飯田蛇笏
足袋脱いて居るといふ也夜着の中 尾崎紅葉
郷の夜着派手にあらねば身に添へり 三宅一鳴
霙降る宿のしまりや蓑の夜着 内藤丈草
霰降る宿のしまりや蓑の夜着 内藤丈草
   風引てて物思はせん夜着の外 内藤丈草
   侘しさは夜著をかけたる火燵かな 桃先
   夜著かたくからだにそはぬ寒さ哉 正岡子規
   夜著に寝てかりがね寒し旅の宿 芭蕉
   掻巻もまくらも秋の風の中 久保田万太郎
掻巻やざぶんざぶんと湖の波 川崎展宏
潮さゐのたかまり来る夜著かぶる 上村占魚
足の出る夜著の裾より初嵐 寺田寅彦
顔見世や夜著をはなるゝ妹が許 蕪村 
後の月

 

あさがほの花照りそめつ後の月 渡辺水巴
うかれ女や言葉のはしに後の月 炭太祇
うすらげる靄の中より後の月 鈴木花蓑
かくし持つ念珠一連後の月 角川照子
かんばせのたゞに白しや後の月 関浩青
   きりぎりす行燈にあり後の月 二柳
   この旅の終りし頃の後の月 高濱年尾
   さや豆を手向て悲し後の月 去来
   しかられた畑も踏みよし後の月 千代尼
   そくばくの粟束ねあり後の月 松本たかし
そら鞘の闇残りけり後の月 横井也有
とり残す梨のやもめや後の月 千代尼
なぎの花こんにやくの花後の月 乙二
へだたりし人も訪ひけり後の月 白雄
みだ(弥陀)頼むこよひになりぬ後の月 之道
   もう一度見てから寝ねん後の月 高澤良一
   もる軒に時雨もちかし後の月 横井也有
   わけて寒ぶ覚ゆる己(おれ)が後の月 広瀬惟然
   ガラス戸の青みどろなり後の月 西山泊雲
   一葉に十三夜あり後の月 富安風生
三井寺に緞子の夜着や後の月 蕪村
三人は淋し過ぎたり後の月 高浜虚子
下山して堅田泊りや後の月 三沢久子
下戸同士団子はどうぢや後の月 尾崎紅葉
不破のあれ芭蕉に見るや後の月 横井也有
   両隣既に鎖して後の月 伊沢三太楼
   串魚のすがたの寂びや後の月 秋櫻子
   予の国も東のはての後の月 つる女
   今年はも父の化身の後の月 大橋敦子
   仲秋の韻を畳むや後の月 正岡子規
先まではなかりし雲と後の月 高浜年尾
入つてくるなり後の月うつくしと 辻桃子
円空仏生家に並ぶ後の月 柿本多映
冬雲雀西日少し上りけり後の月 酒井黙禪
勧進能果てたる町に後の月 伊藤いと子
   十人の広間泊りに後の月 亀井糸游
   十六夜や闇より後の月の雲 高井几董
   十月の今宵ハしぐれ後の月 蕪村
   四方の嶺にひくき菩薩嶺後の月 飯田蛇笏
   壁に笑ふギリシヤの仮面後の月 石田京子
売れ残る八百屋の芒後の月 高橋淡路女
大川に子供流るゝ後の月 攝津幸彦
天皇の御船路なる後の月 長谷川かな女
姨捨や田毎の稲架に後の月 林翔
家こぼつ木立も寒し後の月 榎本其角
   家人よりけふよと云はれ後の月 高澤良一
   寒病みの火燵もほしや後の月 斜嶺
   山さらに深めて後の月のぼる 佐野美智
   山茶花の木間見せけり後の月 蕪村
   山陰の終りの句会後の月 高木晴子
峡深し後の月とていづくより 稲畑汀子
川音の町へ出づるや後の月 千代女
張りかへし障子に今日は後の月 高橋淡路女
後の月かしこき人を訪ふ夜哉 蕪村
後の月きのふの如く虚子語り 山田弘子
   後の月さしてそゞろに苔広し 長谷川零餘子
   後の月そだつや瑞児玉抱きに 赤松ケイ子
   後の月そと戸を明けて句を案ず 鈴木花蓑
   後の月つくねんとして庵にあり 子規
   後の月に明るうなりぬ八重むぐら 鬼城
後の月に来ッて石榻の主かな 村上鬼城
後の月に逢ふも揚羽のゆかりなる 沼尻巳津子
後の月のぼれば汐の早くなる 山本洋子
後の月ふところ紙に身のぬくみ 下田稔
後の月を市に泊りし山の人 石井露月
   後の月ニコライ堂に通夜の弥撒 原田しずえ
   後の月二夜あふぎて一夜欠け 井沢正江
   後の月五臓六腑をおし照らす 鷹女
   後の月人待顔をてらしけり 尾崎紅葉
   後の月今宵風なき戦野かな 相馬遷子
後の月仰ぎ生涯一学徒 大久保橙青
後の月何か肴に湯気のもの 黒柳召波
後の月入りて顔よし星の空 上島鬼貫
後の月冷えは白樺林より 原田青児
後の月句を売りに行く人に逢ふ 尾崎紅葉
   後の月君姨捨て泣いて行け 会津八一
   後の月唐箕の市に五六人 村上鬼城
   後の月天動説の捨て難し 江隅順子
   後の月庭に化物作りけり 炭太祇
   後の月庭の山より上りけり 松本たかし
後の月愧色如きを帯びをれり 相生垣瓜人
後の月映るに間あり高野川 高木晴子
後の月東寺くろぐろ浮かびけり 今井圭子
後の月松風さそふ光りかな 井上井月
後の月機関車一両だけ走る 田中啓介
   後の月水せきとめて沈み居る 村上鬼城
   後の月清光今夜としたり顔なる 尾崎紅葉
   後の月湯槽に倚れる人形師 朱卓
   後の月満ち了りたる夜も見たり 相生垣瓜人
   後の月潮の満ちくる鏡の間 加藤三七子
後の月祀るや多摩の薄もて 水原春郎
後の月稲垣低き宿とりぬ 加舎白雄
後の月稲架を離れて蒼さかな 西山泊雲
後の月翌は秋なき思ひあり 白居
後の月葡萄に核のくもりかな 成美
   後の月蕎麦に時雨の間もあらね 松岡青蘿
   後の月蕪村ふどしを落し去る 佐藤惣之助
   後の月虧けきて余命思ひけり 牧野春駒
   後の月虧けそめ商家灸の香す 朱卓
   後の月虫はと惜む人もなし 尾崎紅葉    100
後の月蛾がゐる草をあたためて 松村蒼石
後の月誰が鹿小屋の廻り番 水田正秀
後の月雨に終るや足まくら(絶句) 角川源義
後の月雲限りなく湧く夜かな 高橋淡路女
後の月須磨から連れに後れけり 井上井月
   後の月須磨より人の帰り来る 士朗
   後の月養鶏千羽めつむるも 上田五千石
   後の月饂飩もてなす貧おかし 尾崎紅葉
   後の月高々ありし旅の町 上原はる
   後の月高くなりたる巷かな 楠目橙黄子
後の月鴫たつあとの水の中 蕪村
後の月鼬に鯉をとられけり 龍岡晋
御需車焼く煙の見ゆれ後の月 長谷川零餘子
復興に遅速ありけり後の月 五十嵐哲也
思はざる山より出でし後の月 福田甲子雄
   掃ききりし庭の匂ひや後の月 金尾梅の門
   旅果つる今宵は輪島後の月 阿部忠夫
   暁はまことの霜や後の月 松岡青蘿
   暫は車窓に添いぬ後の月 丸田美年
   曼珠沙華忘れし頃に後の月 百合山羽公
木の香立つ部屋ぬちにあり後の月 守屋房子
木曽の痩もまだなをらぬに後の月 芭蕉
楼台や人家もありて後の月 楠目橙黄子
水涸れて池のひづみや後の月 蕪村
江の島のせばき渚や後の月 松本たかし
   泣虫山闇に沈めて後の月 八牧美喜子
   淀むことしらぬ流れや後の月 柏崎要次
   淋し寒し出羽の清水後の月 河東碧梧桐
   清水によき人こもる後の月 松瀬青々
   清風や匂ひ初めたる柚の花後の月 酒井黙禪
火をひとつ残しておきぬ後の月 鈴木誠一郎
灯を消せば炉に火色あり後の月 小杉余子
煮つめゆくたれ糸を引き後の月 熊谷愛子
球場の森閑とあり後の月 澤田緑生
療養の須磨の雲間の後の月 田畑美穂女
   白樺の冴きりにけり後の月 幸田露伴
   百菊の香をあつめてや後の月 浜田酒堂
   目つむれば蔵王権現後の月 青畝
   磐梯の晴るる夜まれに後の月 碧梧桐
   穂のうへに高低もあり後の月 游刀
箕にもりて供ふるものや後の月 瀧春一
糊暗きまでに四山や後の月 東洋城千句
脇ざしの鞘に露うく後の月 水田正秀
芭蕉まだ破れずにあり後の月 播水
花にまた早き京都や蜆汁後の月 酒井黙禪
   菊畑にのこる星あり後の月 横井也有
   菊痩せて雁が音ふとる後の月 許六
   薬研ではこがしおろすか後の月 榎本其角
   藤棚をはづれて雲や後の月 長谷川かな女
   藪が根を流るゝ溝や後の月 西山泊雲
裏妙義屏風のごとし後の月 上村占魚
補陀落の海まつくらや後の月 鷲谷七菜子
踏みて知る地の寂けさや後の月 角川春樹
身にあたる風に気の付く後の月 井月
迎へ酒して暮れにけり後の月 小澤碧童
   送り出て主客賑はし後の月 楠目橙黄子
   野となりし国衙を照らす後の月 橋田憲明
   門くゞる家の上なり後の月 長谷川かな女
   門出れば後の月ある別れかな 赤星水竹居
   隠栖は成りしかど短命や後の月 河東碧梧桐
雪後の月繊し言はずともすむほどに 加倉井秋を
雪後の月髪を洗うてさびしくなる 川口重美
雲の来てまた一すすみ後の月 泉声
雲を出し三田界隈の後の月 深見けん二
霧に寝て夢に漂ふ後の月 堀口星眠
   靴音をビルより落とし後の月 富川三枝子
   顔白くこつち向き居り後の月 高木晴子
   鰯煮る宿にとまりつ後の月 蕪村
   鶏頭のしをれし影や後の月 野村泊月
   鶏頭ののっぺらぼうに後の月 高澤良一
鶴眠る川面を照らす後の月 高岡秀行
あげ底の酒の徳利や後の月 鈴木真砂女
あさがほの花照りそめつ後の月 渡邊水巴
こたび下ればまた上らぬや後の月 河東碧梧桐
ふるさとや衾のすその後の月 角川源義
   もともとのひかり押さへて後の月 鷹羽狩行
   わがひとり見る後の月照りにけり 日野草城
   わが机貸す後の月祀るにも 安住敦
   わが淹れてわがすゝる茶や後の月 日野草城
   一*ちゅうの物焚く煙後の月 清崎敏郎
主振り茶も設けゝり後の月 河東碧梧桐
仕事すんで庭掃いてをり後の月 星野立子
任地去る人の妻子や後の月 河東碧梧桐
偕に老い俄に後の月祀る 佐藤鬼房
出でゝ伏水船まだある後の月 河東碧梧桐
   后の月足柄山で明けにけり 正岡子規
   四方の嶺にひくき菩薩嶺後の月 飯田蛇笏
   多摩川の遠く曲れる後の月 清崎敏郎
   奪衣婆の足投げ出して後の月 有馬朗人
   姨捨や田毎の稲架に後の月 林翔
客去りて洗ふ小鉢や後の月 鈴木真砂女
寝巻には筒袖ありて後の月 能村登四郎
山の端を夜鷹の飛べり後の月 水原秋櫻子
山陰の旅も終りや後の月 星野立子
峡深し後の月とていづくより 稲畑汀子
   川の香といふは藻の香や後の月 中村汀女
   庭山の朴の木立や後の月 松本たかし
   後の月ごろの月夜街の灯とび〜にともり 中川一碧樓
   後の月その満ちたるを見そびれき 相生垣瓜人
   後の月つくねんとして庵にあり 正岡子規    200
後の月なほ舊態を存しけり 相生垣瓜人
後の月ならんと仰ぎゐたりけり 清崎敏郎
後の月に破れて芋の広葉かな 村上鬼城
後の月ほろほろ鳥といふ食べて 能村登四郎
後の月を寒がる馬に戸ざしけり 村上鬼城
   後の月五臓六腑をおし照らす 三橋鷹女
   後の月今宵風なき戦野かな 相馬遷子
   後の月右に有磯の海寒し 内藤鳴雪
   後の月唐箕の市に五六人 村上鬼城
   後の月子の足遠くなりにけり 安住敦
後の月宗祇の越えし山一つ 有馬朗人
後の月寝てから腹が立つてくる 飯島晴子
後の月寺領は黍の不作かな 日野草城
後の月庭の山より上りけり 松本たかし
後の月愧色如きを帯びをれり 相生垣瓜人
   後の月暁方の霧上る 右城暮石
   後の月暦に繰りてすでに過ぐ 安住敦
   後の月更けて疲労の色のあり 相生垣瓜人
   後の月水を照して高くなる 日野草城
   後の月沼にうつりて更けにけり 日野草城
後の月満ち了りたる夜も見たり 相生垣瓜人
後の月焼火(たくひ)の山を照らしけり 金子兜太
後の月爪マ先冷えをおぼえけり 日野草城
後の月目鼻ついたる面てかな 岡井省二
後の月萎びし物に亦似たり 相生垣瓜人
   後の月薄の白髪けづりあへず 正岡子規
   後の月蛾がゐる草をあたためて 松村蒼石
   後の月金覆輪の雲に乗り 阿波野青畝
   後の月養鶏千羽めつむるも 上田五千石
   後の月高く上れば顧みず 日野草城
急ぎ足に草履の人や後の月 尾崎放哉
懸くるべき庭木もなくて後の月 鷹羽狩行
戸漏灯にたちまさりつゝ後の月 日野草城
曼珠沙華忘れし頃に後の月 百合山羽公
枕覆ひの木綿ざはりや後の月 能村登四郎
   柚子の香も夜晴れに冷えて後の月 村山故郷
   楠の根を踏みわたりつつ後の月 石田勝彦
   橋の上に猫ゐて淋し後の月 村上鬼城
   水ならぬ水にしたしむ後の月 上田五千石
   水の音さぶしかりけり後の月 日野草城
水甕の肌いきいきと後の月 星野麥丘人
沙山の香も潮ざれし後の月 村山故郷
注ぐ茶のはげしき湯気や後の月 日野草城
淋し寒し出羽の清水後の月 河東碧梧桐
湯ざめして君のくさめや後の月 日野草城
   物の怪に吠え立つ犬や後の月 日野草城
   白樺の幹ほの暗し後の月 清崎敏郎
   百穂の月塊となる後の月 山口青邨
   目つむれば蔵王権現後の月 阿波野青畝
   眼に支障ある後の月祀りけり 安住敦
積み藁の見えそめし野や後の月 村山故郷
籐椅子のつめたかりけり後の月 日野草城
紅梅に蝕前の月蝕後の月 安住敦
絹漉しの噂もあらん後の月 橋關ホ虚
草茫茫の家に移りぬ後の月 村山故郷
   菊は未だ青葉に立てり後の月 右城暮石
   街の樹の枯るゝけはひや後の月 日野草城
   裏妙義屏風のごとし後の月 上村占魚
   補陀落の海まつくらや後の月 鷲谷七菜子
   闇の女かひかがみ急ぎ後の月 中村草田男
隠栖は成りしかど短命や後の月 河東碧梧桐
雲を出し三田界隈の後の月 大野林火
うかれ女や言葉のはしに後の月 炭太祇
かくれては飽人多し後の月 百里
かたびらに越の日数や後の月 岩田涼菟
   かの法師落着方や後の月 呂丸
   から口の酒となりけり後の月 旦藁
   くま〜にかくるゝ秋や後の月 完来
   くりかへし芋の塩烹や後の月 傘下
   しかられた畑も踏よし後の月 千代尼
そうざいの鰍あらふや後の月 寥松
つゝなるやもの陰くらき後の月 荷兮
とり残す梨のやもめや後の月 千代尼
どれからと萩の隣や後の月 建部巣兆
なぎの花こんにやくの花後の月 松窓乙二
   にくまれてわきから見るや後の月 りん女
   ぬさをふるかこつけ草や後の月 りん女
   はらゝ子を千々にくだくや後の月 其角
   みだ頼むこよひになりぬ後の月 諷竹
   みの虫の家のしまりや後の月 早野巴人
むかしからはれてありしよ後の月 完来
もう木曽の望も寒し後の月 凉菟
ものごとにゆき過る人や後の月 鼠弾
もろこしに不二あらば後の月見せよ 素堂
もろこしの書かた寄よ後の月 加舎白雄
   わか竹や盗人迯て後の月 乙訓
   わけて寒ぶ覚ゆる己が後の月 惟然
   一色に千種のはなや後の月 野坡
   三尺の松風寒し後の月 野坡
   不二筑波二夜の月を一夜かな 素堂
傾城を紅葉と照や後の月 吾仲
冬瓜の毛ぶかくなるや後の月 曲翠
冬肌になすや嵐も後の月 千川
冴るので猶さら悲し後の月 卓池
十五夜の客はあるじよ後の月 此筋
   十六夜や闇より後の月の雲 高井几董
   又さけるいばら薔薇も後の月 荊口
   名とげては入際早し後の月 亀世
   名月の座敷はひろし後の月 嵐青
   吝むしは人情もなし後の月 馬場存義    300
夏菊のゆづらぬ皃や後の月 寂芝
大火焼寐ながらおがむ後の月 素覧
嫂石を暖め申せ後の月 孤屋
家こぼつ木立も寒し後の月 其角
寒やみの火燵もほしや後の月 斜嶺
   寝静る小鳥の上や後の月 木導
   山ひとへ二夜の月や甲斐武蔵 加舎白雄
   川水や減めの付て後の月 呂風
   座敷なりに物云ふ人や後の月 傘下
   影法師の影と成けり後の月 露川
後の月あれよとおもふ人はなし 夏目成美
後の月おもひきつたるこよひ哉 杉風
後の月くらがり山は猶くらし 桜井梅室
後の月たとへば宇治の巻ならん 越人
後の月どこへ参るも此袴 傘下
   後の月のちの夜になる晴間哉 土芳
   後の月はか〜しくも更ぬかな 寥松
   後の月ひそかに喰ぬ菊の虫 野坡
   後の月わきて古人をおもふ事 加舎白雄
   後の月上の太子の雨夜哉 其角
後の月何か肴に湯気のもの 黒柳召波
後の月入りて顔よし星の空 鬼貫
後の月名にあふ菊の花盛 杉風
後の月名にも我名は似ざりけり 路通
後の月宇陀のむかしはいく昔 加舎白雄
   後の月山里ちかくなるこゝろ 鈴木道彦
   後の月庭に化物作りけり 炭太祇
   後の月弥彦に寐しもはや昔 松窓乙二
   後の月心細さに見明しぬ 鳳朗
   後の月星も宿かるきく畠 杉風
後の月松やさながら江戸の庭 其角
後の月柚味噌を山のちさうとて 風国
後の月水よりも青き雲井かな 樗良
後の月水を束ねしごときかな 高桑闌更
後の月浅草川に残しけり 泥足
   後の月片母持しこゝろ哉 鈴木道彦
   後の月蕎麦に時雨の間もあらね 松岡青蘿
   後の月見た事もないひかり哉 北枝
   後の月誰が鹿小屋の廻り番 正秀
   後の月躍かけたり日傘 其角
後の月遠ひ碪のまじるあめ 岱水
後の月酒あたらしく菊白し 亀世
後の月雨が咄の頭とるや 子珊
後の月鴈大聲にとぶ夜かな 夏目成美
念仏も誠になりぬ後の月 亀世
   我衣に洩る思ひ有り後の月 高桑闌更
   所望なら時雨さう也後の月 蘆本
   打つけに片面寒し後の月 三宅嘯山
   捨人も看経遅し後の月 望月宋屋
   日あたりもよい田のうへや後の月 桜井梅室
暁はまことの霜や後の月 松岡青蘿
暮かゝる村のわめきや後の月 野坡
曇るほどなをたのもしや後の月 舎羅
更る夜のたまご一つや後の月 越人
木隠れて暮ねば見せず後の月 桜井梅室
   末綿もふくや白きを後の月 来山
   村雨を相手に後の月見哉 浪化
   松に藤見あぐれば高し後の月 支考
   松の山の影尋ばや後の月 凉菟
   松茸の市のさかりや後の月 風国
染つくす百日紅や後の月 諷竹
柴の間誰もしらぬや後の月 鳳朗
椎の木の陰や狂ふて後の月 怒風
此稲が酒になるらん後の月 泥足
残多し後其後の月十四日 杉風
   沙汰なしに柿の霜夜や後の月 馬場存義
   河面はうるかで見るや後の月 野坡
   流さるゝ東坡が八処後の月 許六
   浪人はいまだお寺に後の月 蘆本
   浮雲のおりかさなるや後の月 十丈
海山を覚えて後の月見哉 去来
火の端もそろ〜恋し後の月 林紅
灯台のもとをてらすや後の月 桜井梅室
生海鼠などうり来る後の月見哉 鈴木道彦
白鷺や簑脱やうに後の月 其角
   百生リにおもふ形なし後の月 野坡
   百菊の香をあつめてや後の月 洒堂
   皃蝠に戸をほそめけり後の月 紫貞女
   盗ませる葱も作りて後の月 香以
   目と心はなれて後の月見哉 壺中
真鶴の命よろこべ後の月 鈴木道彦
私はあとにふせらん後の月 亀洞
秋風に何ンベんされて後の月 露川
穂のうへに高低もあり後の月 游刀
竃馬よなれも無事にて後の月 破笠
   等閑におもふな月の後の月 鳳朗
   筑波根の御枕高し後の月 嵐蘭
   老きはる人は誰々後の月 加舎白雄
   脇ざしの鞘に露うく後の月 正秀
   菊痩て鴈ケ音ふとる後の月 許六
菊紅葉かざり立てや後の月 半残
落着の黒椀さむし後の月 桜井梅室
薬研ではこがしおろすか後の月 其角
藁一杷他の蒲団や後の月 中川乙由
談合の饂飩にしまる後の月 曲翠
   踏込んで足駄とらるゝ後の月 曽良
   野も山も狂言替て後の月 中川乙由
   鉢の木を後にするや後の月 仙化
   鎌倉へゆかぬが手也後の月 桃隣
   降ずとも尾花につゝめ後の月 小春    400
雨風を力に後の月見哉 浪化
雪までは目に寒からぬ後の月 知足
霧霞さてもしのばじ後の月 宗波
露風もあらけて後の月見哉 四睡
青空の押へて居るや後の月 鳳朗
   面痩を誰があはれまむ後の月 支考
   音やめば雨見に出るや後の月 杉風
   願有る身のせはしさよ後の月 史邦
   鴛の住池はどこ〜後の月 りん女
   鶫の羽子にとまりつめすや後の月 りん女  
 
 2006