次は何するの

何もしない
ぼーとしている
頭の中 空っぽにする

日光浴 散歩 昼寝
 


六道輪廻転生二河白道・・・
極楽浄土1極楽浄土2極楽浄土3死後の世界輪廻と浄土教・・・
死後の世界輪廻転生日本人の死後の世界来世への生き方死後の祭られ方死後の世界探求霊魂のゆくえあとがき・・・
 

 

コロナ Stay Home ストレス
テレビ 全局 
毎日 感染者・死人報道

 

自宅 引きこもり状態
このHP しばらくお休み
できるものなら ・・・

 

TV報道番組 話題は毎日コロナ
いつものコメンテーター 各々の映るモニター 番組画面に並ぶ
枠 額 檻に閉じ込められる

 

気分が乗らない時 人の性
無精 ・ 不精 ・ 横着 ・ 骨惜しみ ・ 手抜き
投げ遣り ・ ほったらかし ・ 遣りっぱなし ・ ぐうたら ・ 物ぐさ ・ 怠惰 ・ 怠慢 ・ 怠け癖

 

絵は描けても 仕事は組織 人任せ
世の中の常識
自分ではどうにもならない

 

口をはさむだけ  やり遂げられない 無力 無理
成果は手足 アイデアは認められない 無駄
余分なことは考えなくなった 無視

 

記憶のかなた 縦横斜め 裏返し
神仏の世界 調べる
      
    仏教   
    僧侶の言葉   
    極楽浄土と天国   
    霊と幽霊   
    六道の辻   
    往生   
    弔(仏事)
    時宗・時衆
    諸説・二河白道
    冥途 / 内田百間・倶生神・冥途の飛脚
 
 

 

●六道
釈尊誕生伝説 
釈尊の誕生について様々な伝説があります。伝説は歴史的事実ではありません。しかし、単なる作り話ではなく、真実を伝えようとしたものです。 
釈尊は誕生するとすぐに、七歩あるいて、右手で天を指し、左手で地を指して、「天上天下 唯我独尊(天にも地にもただ我独り尊し)」と宣言されたと伝えられています。そしてその時、天は感動し、甘露の雨を降らせたと言います。 
釈尊の誕生について、様々な伝説が伝わっています。伝説ですから、歴史的事実ではありません。しかし、単なる作り話ではありません。伝説は、事実を伝えようとしているのではなく、真実を伝えようとしているのです。ですから、その伝説が何を伝えようとしているのかを受け取っていくことが大切なのです。 
「七歩あるいた」ということば、迷いの世界である六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を超えたということを表します。誕生と同時に迷いを超えて悟りを開いたわけではありませんが、後に悟りを開いて仏陀(目覚めた者)と成ったと言うことを、誕生の所に引き寄せて表現しているのです。 
「天上天下 唯我独尊」という宣言は、決して「他人と比べて、この世の中で自分が一番尊い」という倣慢な意味ではありません。「私のいのちは、天にも地にも、この世の中にたった一つしかない、かけがえのないいのちである。しかも、このいのちは無限の意味内容を持っている。だからこそ私のいのちは尊い」という意味なのです。そして、これは、私のいのちにのみ言えることではなく、「すべてのいのちは、かけがえのない尊いものである」ということにつながるのです。 
六道について 
衆生(生きもの)がそれぞれの行為によって趣き往く迷いの世界のことで、六趣とも言います。 
   地獄−苦しみの極まった世界。 
   餓鬼−飢え渇きに苦しんでいる世界。 
   畜生−恥をしらない世界。 
   修羅(阿修羅)−争いの世界。 
   人間(人)。 
   天上(天)−喜びの世界。
         (煩悩を離れていないので、やがて崩れる。これも迷いの世界)。 
六道については、未来のこととしてではなく、今現在、そのような世界に趣くような心を満ち、行為をしているということを考えてみることが大切です。

 

十界 
私達の心には十の世界があるといわれていますが、仏様の教えを聞くまでは六道と言って六つの世界を行ったり来たりしています。 
六道 
   地獄界 / 怒りの心 
   餓鬼界 / 貪欲な心 
   畜生界 / 愚かな心 
   修羅界 / 争いの心 
   人界 / 穏やかな心 
   天上界 / 喜びで満たされている心 
四聖 
   声聞界 / 仏様の教えを受けて世のわずらいを離れた者 
   縁覚界 / 仏様の教えを受けて更に自分の日々出合うところの出来事と思い
          合わせてその縁に因って覚るように修行する人 
   菩薩界 / 自らも仏を目指して修行しながらも他者を慈悲の心で先に救おうとする人 
   仏界 / 絶対平安の境地にあり衆生を大慈大悲で救済する境界  
人間は通常、人界に住しますので怒りや貪欲などを出さないように良識があり、平穏な心でいるのが本当ですが、仏様の教えを聞かなければ縁によって人を憎んだり怨みをもったり、愚痴をいったりと、悪い心を使ってしまいます。 
天上界は神々の世界ですが、天上界も六道の中に入っているのは、何か嬉しいことがあり、天にも昇る思いをするかと思えば、次の瞬間に自分に不利なことが生じると、又縁によって怒りを出したりと、地獄界と天界を行ったり来たりするからです。  
貪欲・瞋り・愚痴の三毒が、地獄・餓鬼・畜生の境界に相当しますが、お釈迦様はこれが苦しみのもとであると説かれました。 
「多欲の人は利をもとむること多きが故に、苦悩もまた多し。少欲の人は求むることなく、欲するところなければ、すなわちこの患いなし。直ちに少欲すら尚まさに修習べし。いかに況や、少欲のよく諸々の功徳を生ずるをや、少欲の人はすなわち諂曲(へつら)って人の意を求むることなく、また諸根のために牽(ひ)かれず、少欲を行う者は、心すなわち坦然(たんねん)として、憂い畏れるところなく、ことに触れて餘りあり。常に足らざることなし。少欲なる者にはすなわち涅槃あり。」(遺教経)  
「多欲は苦なり、生死の疲労は貪欲よりおこる。少欲にして無為なれば身心自在なりと覚知せよ。」(八大人覚経)  
「もし人、心足ることなければ、ただ多く求めて罪悪を増長す。菩薩はしからず、常に知足を念じ、貧に安んじ道を守り、ただ慧のみ是れ業なりと覚知す。」(八大人覚経) 
「貪人多く集め得て、足れるおもいを生ぜず、無明の闇、心を顛倒して、常に侵して他を損せんことを念ず、現在は怨憎多く、身を捨てては悪道に堕つ、この故に智者はまさに知足を念ずべし。」(尼乾子経) 
「瞋りをよく自ら制すること、走れる車を止めるが如くす、これを善きこととなす。迷いをすてて悟りにはいる。」(法句経)  
「若し瞋恚をなくせば安穏に眠ることを得ん。瞋恚をなくせば人をして歓喜を得せしめん。瞋恚は毒の本なり。これをなくす者は我が褒めるところなり。」(雑阿含経)  
「五欲に貪着して自ら放逸なる衆生は、為に不浄の境界を示現す。」(華厳経)  
私達は身・口・意(しん・く・い)の三業で善業も悪業も積むことになりますが、悪業には身で三、口で四、意で三の十悪を説かれています。  
十悪とは 
身には三つ / 「殺生」「偸盗(ちゅうとう)」「邪淫」 
口には四つ / 「悪口(あっく)」「妄語(嘘)」「両舌(二枚舌)」「綺語」 
意には三つ / 「貪欲(とんよく)」「瞋恚(しんに)」「愚痴」 
しかし、お釈迦様は、衆生がこのような悪業を積んでしまうのも無明によるとされ、釈尊の教えによって小さな我を捨て、本来の自己が「仏」であるこに気づくと、この世は仏性で満ち満ちていることがわかります。自然と周りの方々にも仏様に接するように感謝して仏性を拝みあって合掌礼拝していくようになれば、この世がそのまま浄土となるのです(娑婆即寂光土)。  
 
 

 

●輪廻転生  
六道輪廻
六道輪廻(ろくどう-りんね)は聞いたことがあると思います。実は六道輪廻はお釈迦さまが発見したことです。厳密にいえば、五道輪廻を発見され、後に阿修羅界が組み込まれて六道輪廻になっています。
お釈迦さま以前のインドでは、もちろん輪廻思想はありましたが、もっとシンプルな輪廻転生の思想です。天界と人間界と地獄の3つの世界を行き来する素朴な輪廻思想でした。
しかしお釈迦さまは「五(六)道輪廻」を言います。五(六)道輪廻とは、地獄、畜生、餓鬼、人間、天界の5つです。これに阿修羅を加えて六道です。
生命は、この6つの境界をグルグルと移り変わっていくといいます。
お釈迦さまは、宿命通と天眼通という超能力を持っておられました。現代でも「前世を知る」とかありますが、お釈迦さまの前世を見通す能力は、そんなレベルではありません。自分の過去世を何億回もさかのぼり、しかも自分自身の前世だけでなく、天眼通という能力であらゆる生命の前世をも数多くさかのぼり見通していかれました。このことは仏伝ほか、パーリ経典にはいくつも記録として残っています。
お釈迦さまものすごく数の多い生まれ変わりの様を見ていましたので、輪廻転生のパターンも読み切っていたのでしょう。ですので、お釈迦さまの言葉とは、こういう生命の輪廻の様を踏まえて言われた金言と受け止めた方が無難ではないかと思います。私は仏教をもっとも信頼するのも、お釈迦さまの透徹した洞察力があるからです。
ところで生命が輪廻する数は一体どれくらいなのでしょうか?よく輪廻転生の話しが出ますよね。過去世の記憶にさかのぼるワークとかセミナーもありますし、そういう療法もあります。大抵、「前世のあなたはどこどこで○○をしていましたあ」、といった感じですね。
相応部経典の中に、輪廻に関して言及したお経がいくつかあります。それを読みますと、お釈迦さまはこう言っておられます。
「人が死んで生まれ変わる間に流した涙の量は、海の量よりも多い」「指先につまんだ土を現世とするならば、人の輪廻は、この地上にある全ての土よりも多い」

途方もない数の生まれ変わりです。まさに無限に近い輪廻を、生命は続けていることをお釈迦さまは言っておられます。
さらに、宇宙が生じて崩壊した後、最初の生命が誕生する話しも述べておられます。この辺りは、旧約聖書の創世記よりも詳細な描写になっています。
生命は、宇宙の生成崩壊も数え切れないほど体験していて、お釈迦さまは、宿命通と天眼通という神通力で見通されていました。
仏教(原始仏教)での教えとは、お釈迦さまのこういった非凡な能力を踏まえておっしゃっているところがあります。
仏教が説く輪廻はおそろしい
六道輪廻はお釈迦さまが最初に言われた輪廻の様ですが、お釈迦さまが説かれる輪廻は、世間一般に信じれらているのとは違うところがあります。
まず、生命は、何か目的を持って転生しているのではないということです。これを聞いただけでもショックを受ける方もいらっしゃるかもしれません。ですが仏教では、このように説きます。魂の成長をはかるため、とか、何か使命を帯びているため、というのは原則的にありません。
生命は、ただ「執着と無明の煩悩によって輪廻しているだけ」と喝破します。はっきりいって夢も希望もありません。メルヘンちっくな話しは、お釈迦さまの輪廻転生にはほとんどありません。
もっとも輪廻の中にも、変易生死(へんにゃく-しょうじ)というのがあります。変易生死とは、悟りの門に入った預流果以上の生命(聖者)が、悟りを得るために輪廻を続けることをいいます。変易生死は特殊なケースです。
一般的には分断生死(ぶんだん-しょうじ)といいます。ほぼすべての生命は執着や無明に基づいて、オートに輪廻転生を繰り返しています。分断生死の輪廻がほとんどすべてです。
この部分を書いただけでも、読んだ方は、暗い気持ちになるのではないかと思います。すので、この仏教的な輪廻の思想を生理的に拒絶すか方が多くなります。また言及されない方もいらっしゃいます。
ですが仏教は、一面、まずこの真実を受け止めた上で、修行しましょうと説きます。とはいいましても、輪廻の思想に耐えられない場合も出てくると思います。もしも不安や恐怖を感じる場合は、スルーしてください。前にも書きましたが、自分で確かめられないことは鵜呑みしない、という姿勢です。
真実とは鋭い刃のようであり、時として人を恐怖と不安に叩き落とします。仏教で説く輪廻転生には、実に、ブログでは書けないほどの恐ろしい話しもあります。書けば、ショックを受けてトラウマを抱える方も出てくると思います。ですので輪廻転生については慎重に書かざるをえなくなります。
しかし、お釈迦さまは、良き処に生まれ変わり続けるための、アドバイスを説かれています。しかもその気になれば、誰にでもできる人生上の注意点と処世術です。
お釈迦さまは、仏教徒以外でも誰でも幸せになれる方法を説かれています。ただ単に不安をかき立てるだけでなく、良き生命であるようにと、そのための生き方・処世術をしっかりとおっしゃっているのですね。
五戒・布施〜誰でもできる幸せになれる方法
仏教が説く輪廻転生は大変峻厳で、恐怖すら感じるときがあります。ですが、お釈迦さまは救われる方法もしっかりと説いておられます。しかも仏教を信じない人でも、誰でもできる幸せになれる方法です。
それが戒(五戒あるいは十善戒)と施(ほどこし)です。
そして、この「戒(五戒・十善戒)」と「施」に「修」というう瞑想修行を加えたものが「在家の仏教」になります。
戒(五戒・十善戒)
まず戒(五戒・十善戒)です。
お釈迦さまは、在家には五戒、十善戒という戒律を守ること、人への施しをして心を清らかにすることを基本的な実践行として説かれています。
五戒とは、
1.むやみに生き物を殺さない
2.他人の物や心・与えられていない物・心を取らない
3.不倫をしない
4.嘘をつかない
5.酒を飲まない。
べからず集ではなく、肯定的な表現をすれば以下のような言い方もできると思います。
1.命を大切にする (生き物を殺さない)
2.必要なものだけで満足する (盗まない)
3.TPOを踏まえて本当のことを言う (嘘を言わない)
4.倫理道徳に根ざした恋愛をする (不倫をしない)
5.正常な判断力を保つようにする (酒を飲まない)
十善戒とは、
1.むやみに生き物を殺さない
2.他人の物や心・与えられていない物・心を取らない
3.不倫をしない
4.嘘をつかない
5.つまらない話しや、調子の良いことやお世辞が過ぎることを言わない
6.粗野であったり乱暴な言葉を使わない
7.仲違いさせることを言わない
8.異常な欲を持たない
9.異常な怒りを持たない
10.因果を否定したり道徳を否定する、妄想的な誤った見解を持たない。
になります。十善戒は五戒のうち四戒を含んでいます。
施(せ)
「施」は文字通り、施しを行うことです。布施(ふせ)といいます。施しには、
1.財物をほどこす
2.精神的・心をほどこす
3.法施
この3種類があります。財物とは文字通り、物質になります。お金であったり、物であったりします。
精神や心も施すことができます。これは「無財の七施」といったのが有名です。無財の七施とは、
1.眼施(がんせ)・・・やさしいまなざし。ガンを付けたり睨むような目つきをしない。
2.和顔施(わげんせ)・・・にこやかな顔。微笑んだやさしい顔つき。上目使いの三白眼はナンセンスです。
3.愛語施(あいごせ)・・・やさしく、思いやりのある言葉使い。
4.身施(しんせ)・・・自分の体を使って他人のために動くこと。奉仕。
5.心施(しんせ)・・・他人のために気配りをしたり、喜びを共有する(随喜)こと。
6.床座施(しょうざせ)・・・席を譲ること。または自分の地位ですら後進や相手に譲ってしまう心。
7.房舎施(ぼうしゃせ)・・・雨風をしのげる施しをすること。
※房舎施は、昔は現代のように立派な建物は雨具は無かったため、列挙されているものと思います。現代のニュアンスで解釈しますと、「他人の苦痛を和らげるための配慮」ということになると思います。
これら7つは、昔から言われているお金のかからない心や体を使った施しとされています。そしてよく見ると、五戒や十善戒と似ているところがありますね。
最後の法施(ほうせ)とは、実はこれは仏教特有の施しになります。正しい仏法を施す行為をいいます。
生天の教え
ところで五戒にしても十善戒にしても現代では、なかなか守ることができない所もあります。そこで頑張り過ぎて守ってしまおうとすることもでてくるかもしれません。
しかし教条主義的になったり、頑張り過ぎるのはよろしくないようです。戒律は、リラックスする心を養うことと、悪に対する恐れの心(「慚愧」といいます)を培うことで、自然にできるようになります。
これらのことは念頭に置いて、できるだけ犯さないように注意したいですね。五戒と十善戒については、いずれの機会で説明もしたいと思います。
五戒と施(ほどこし)は、お釈迦さまが在家に説く、基本中の基本の教えです。「生天の教え」とも言われます。これらを守れば、仏教を信じていない者でも誰でも、死後、必ず善処(良い所)へ生まれ変わると、お釈迦さまは断言されています。
大変シンプルですが、この教えは、無限に続く輪廻の様を鋭く見抜いた上でのアドバイスなのでしょう。
在家の仏道とは
そうして、これらの五戒・十善戒と施に加えて仏教の瞑想を行えば、「仏道」になります。
在家の仏道とは、
・戒(かい)・・・五戒・十善戒を行うこと
・施(せ)・・・布施の行為。仏教寺院や社会や人々にあまねく施しをすること。
・修(しゅう)・・・瞑想を行うこと
この3つを行うことになります。このうち、戒と施は、仏教でなくても言われていますし、誰でもできます。そして幸福になれます。仏教では、「仏教の瞑想」を行うことで悟りに至り、究極の幸せになれると説きます。
しかしそうはいっても、最初の「戒律」が「堅苦しい」「強制される・・・と思われて、毛嫌いされることがあります。
しかし、今の言葉で言えば、大霊能者といってもよいお釈迦さまが言われたことです。一応は耳を傾けたほうが良いように思います。
ご自分の前世を何億回もさかのぼって見通され、他の生命の無限の輪廻転生も見通された方です。お釈迦さまは輪廻転生のパターンを完全に読み切られています。ですので、そのアドバイスには耳を傾けるほうが賢明だと思います。
気が遠くなるような生まれ変わりをしているなら、できるだけ良い生命であり続けたいものですしね。
とはいいましても原始仏教では、近世の宗教団体のように教祖を絶対視することはしませんので、耳を傾ける傾けないは、各人の自由になります。ですが、無限に続く輪廻の旅の仕組みと、ここからの脱出方法を残されたお釈迦さまは、やはり偉大であり、その言葉には耳を傾ける価値があると思います。
「五戒・十善戒」と「施」は、宗教や宗派に関係なく、誰でも幸福になれる実践行です。
両親・親孝行を大切にする理由
家族とは人間関係の最小単位であって、誰もが最初に体験する人間関係のひな形ですね。
両親が仲良く、喧嘩の少ない関係であるなら、その子供も同じようなバランス感覚を培っていき、そして大人になって結婚し、両親と同じように喧嘩の少ない関係になりやすいものです。絶対にそうなるわけではありませんが、なりやすいですね。数多くの親子を長年にわたってみていきますと、上記のことは該当します。
親子とは大変、絆が深い関係です。良くも悪くも、子供は両親の影響を受けます。
両親について原始仏教では、どう説いているのでしょうか。今回は人間関係のひな形ともなる両親について説明したいと思います。
1.両親は梵天のように接せよ
原始仏教では、両親を非常に大切にする教えが数多くあります。両親に対しては、梵天に接するが如く敬いなさい、両親は大切に、親孝行はせよ、といった両親を大事にする教えが数多くなります。
その理由は明快です。親は子供を育てるために、自分の身を削ってまでも必死となって尽くすからだ、といいます。明快ですね。今の私たちがこうして生きていられるのも親の「お陰」である。だから大切にしないといけないのです。と明快にお釈迦さまは説かれます。
2.もしも両親を粗末にすると・・・
反対に、両親を粗末にする場合、特に親を殺害した場合、大変な罪になるようです。その罪は極めて大きく、死後、最悪の地獄(無間地獄)へ行くとあります。これは相当怖いです。
「五逆罪」という罪があります。五逆罪とは、
1.母親を殺害する
2.父親を殺害する
3.ブッダを殺害する
4.ブッダに怪我を負わせる
5.正しい仏教教団を破壊(分裂)させる
という罪です。これらを犯すと、悟りを得ることができなくなり、死後、必ず無間地獄へ行くと経典には書いてあります。両親、殊に、母親を殺害することは大変な罪のようです。ブッダを殺害するよりも罪が重たいともいいます。
ちなみに無間地獄(むけんじごく)は、1劫(ごう)という時間の間、存在しつづけるようです。1劫とは43億2000万年 といいます。43億2000万年の間、地獄にいることになるそうです。
・・・・悪いことはしたくないですね。
3.両親との絆
怖い話しになりましたので、ちょっとここでファンタジーのようなお話を。
両親とは絆が強いわけですが、パーリ経典にとてもジーンと来る両親に関するお経があります。それは、あなたが今の両親の元に子供として生まれてくる回数はどれくらいでしょうか?という問いかけです。
今の両親の元に生まれてくる回数です。
この問いを聞くと、「え?」と思いませんか?今の両親の元に生まれてくる回数です。
そもそも、今の両親と同じ両親の前世ってあるの?と思いますよね。
ところがお釈迦さまは腰を抜かすようなことをおっしゃいます。
今の両親と同じ両親の元に生まれてきた回数は、大地の土の数よりも多い、というのです。
茫然自失・・・
開いた口がふさがらなくなります。
なんという膨大な数なのでしょうか。確率からいっても、同じ両親の元に生まれてくるのは極めて少ないはずです。その少ない確率ですら、膨大な回数だと言うのです。
一体、人間の輪廻転生の数はどれくらいなのでしょうか。無限に近い回数ということはなんとなく分かるでしょう。
仏教の輪廻転生とは、このようにスケールが途方も無く大きなものです。
そうして、同じ両親の元に生まれてくる回数、この話し、どこかで聞いたことがありますよね。輪廻する回数の例えです。
輪廻の数もさることながら、「同じ両親の元に生まれてくる回数」も膨大だというこの教え。本当に、人の輪廻の回数は、気が遠くなるほど膨大なことが分かりますよね。なぜなら、同じ両親の元に生まれてくる回数すら、膨大なのですから。
ですが、このお釈迦さまのお話から、両親との絆はいかに深いかが分かると思います。両親との縁とは、信じられないくらい深く、いわば自分の一部のような存在なのでしょう。
ですので両親を殺害する罪が重たくもなるのかもしれません。
今のあなたの両親、過去世でも数え切れないくらい「両親」だったわけです。今と同じ職業や性格でなかったでしょうが、この絆は、来世においても再び結晶化していきます。いつかどこかで、再び、同じ両親の元に生まれてきます。
そう考えますと、両親とは「多生の縁」ではなく、「自分の一部」のような存在だと思います。
先祖や親が霊障になっている?
世間には、先祖が霊障を起こして子孫を苦しめている、運を悪くしている、問題の原因とといった教えを説くところもあります。しかし、お釈迦さまの言葉を鑑みますと、こういう考え方はいただけません。両親のそのまた両親である先祖が祟っているとか、霊障になっているというのがはちょっと酷い考え方です。先祖や両親を粗末(悪者扱い)しかねない考え方です。
確かに霊障といわれる似たケースが起きることもあるようです。しかしそれは稀です。本当が霊障ではなく餓鬼の関与です。
先祖や親はありがたい存在です。自分と絆の深い存在です。大事にしましょう。大切にしましょう。
いつか再び、また親子として巡り会います。またお世話になる方です。今度巡りあったとき、今生以上に大切に育てていただき、健全に育っていきたいものです。両親は本当に大切にする必要がありますね。大切にしましょう。
原始仏教で説かれる両親についてを知ったとき、感謝する気持ちで一杯になりました。この教えをもっと早くから知りたかったとも思いましたが、気付くに遅すぎることはないですね。精一杯の親孝行はしたいものです。
あなたの前世は何?
よく「あなたの前世は、どこどこで○○をしていた」と聞きますよね。そして大抵は「人間」の生活を述べます。
しかし本当の前世には、必ず「六道輪廻」の生命形態が出てくるものです。
生命は六道を輪廻しています。六道輪廻とは、
神、人間、阿修羅、餓鬼、動物、地獄
この6つをいいます。六道輪廻とは、「生命の形態」でもあります。実は全て、リアルに存在する生命なのです。
心の状態とか、境涯とかではなく、実在している生命なのです。本当に存在しているのですね。
ですので六道輪廻とは、この6つの生命の形態をグルグルと輪廻しているわけです。
人間は死後、人間に生まれ変わるという保証はなく、生前の行い(業)によって、六道のいずれかに必ず行きます。ノンストップです。死後、すぐに別の生命に転生します。
幽霊のようにさまよっていることはありません。すぐに別の生命に転生していきます。輪廻とは決して止まることの無い生命の循環になります。
ですから、あなたの前世は、神、人間、阿修羅、餓鬼、動物、地獄のいずれかの可能性があるのですね。決して「人間」だけではないのです。
したがって前世を透視する話しを聞いた場合、必ず六道輪廻の形態が出てくるのが本当です。もしも人間の時代の話ししか出ていない場合は不正確です。あるいは妄想や空想の可能性があります。
仏教の修行には「宿命通」と言って、前世を見通せるようになる修行があります。これを実際に体得した方の話しを聞きますと、前世は人間の時代だけでなく、動物(虫)、地獄、餓鬼、神、人間、といった生命であった時代をも見ることがあるようです。
前世が、海岸にうごめくフナムシだったという方もいます。これは妄想ではなく、実際に修行をして前世を見ている僧侶の話です。地獄に墜ちて40億年以上もただ「熱い熱い」と苦しみ続けた前世を見た方もいます。
リアルな前世とは、こういうものです。必ず六道輪廻を回っていることを発見し気付くようです。
仏教は体験主義であり、お釈迦さまだけでなく、その弟子達も追体験したものであることは、すでに述べています。
前世もそうです。
そうして本当に前世を見れば、過去世において人間だけでなく、動物や虫であったり、餓鬼であったり、時には梵天という神であったり、様々な生命の形態であったことが分かるようです。
ですから、よく「前世を見た」という話しなどもありますが、この体験が全て人間であるなら、眉唾の可能性が高くなります。
また先述の通り「霊」と言われる存在はありません。霊とは、六道輪廻にある生命を通俗的にとらえた表現になります。
生命はゴールの無い輪廻転生RPG(ロールプレイングゲーム)
このように生命が輪廻する六道輪廻の世界を垣間見てきました。地獄から餓鬼、畜生、阿修羅そして人間、天界(六欲界・色界・無色界)。
この六道をグルグルと回り続けているのが生命です。生命はゴールの無い輪廻転生RPG(ロールプレイングゲーム)のようです。
ゲームのRPGでは、主人公の勇者ロトは、モンスターを倒して経験値やMPをアップさせて、最後にはラスボスを倒してハッピーエンドで終わります。最後にファンファーレが流れてゲーム終了。主人公のHPを999までマックスに高めたりしてラスボスを倒して万感の思いにふけったりもします。
しかし人生は、終わりの無い、ゴールの無い輪廻転生です。善行を重ねて天界へと人間界を往復し、色界梵天や、無色界梵天の最高位に達しても、善業パワー(HP)はだんだんと減っていって、やがて人間以下に再び転生していきます。
善業(HP)は減っていますので、再び主人公は善業(HP)の経験値を積んでレベルアップしていきます。仮にレベル99のHP999になって、再び梵天になっても、善業が無くなればエネルギー切れで、また人間以下に戻って経験値を積んで・・・
この繰り返しです。隠し部屋的な「浄居天(じょうこてん)」に行けば、死後、涅槃に入れます。しかし浄居天に入る方法は仏法によるしかありません。普通に輪廻をしていれば、浄居天を発見しても、その部屋に入るカギが無いため入れません。
天界の幸運、幸福は人間の何千倍という大幸福感なわけですが、いつか天界での寿命も尽きて、善業も減って人間へ逆戻り。人間となって苦楽を味わいながら善行ができればいいのですが、実際は、悪心を起こして天界どころが地獄へ行ってしまうことも出てくるでしょう。
不確実性な輪廻。予想外、想定外の出来事に遭遇して輪廻を続けます。しかも厄介なことに、業(カルマ)は七分割されて、七世にわたって影響も及ぼします。
どこにトラップがあって、どんなカルマの結果を受けるか分からない人生。こうした輪廻をグルグルと無限に近い数、続けていると、ブッダを指摘します。
ため息の出そうな輪廻の旅です。
ですから仏教では、輪廻の鎖を断ち切り、涅槃へ赴くことを提唱します。輪廻の話しは、仏教圏でも説かないところもあります。また説かない比丘・僧侶もいます。タイは国家的に仏教が定められている影響もあって、生まれ変わり(輪廻転生)を説かないところもあります。輪廻を別の意味に置き換えて説明することもあります(転生を遠回しに否定もします)。一方、ミャンマーでは輪廻転生が前提です。生まれ変わりは当たり前として説いていく傾向です。
このように国のよっても輪廻転生の扱いは違ってきます。
しかし生まれ変わりは実在していると思います。転生が無いとするなら、この人間、生命の個性や違いをどう説明するのでしょうか。人間に生まれて、自己に気付いたとき、「自分はどこから来たのだろうか」という素朴な感慨を抱く人は多いでしょう。
生命は連続し続ける存在であり、死後もまた別の生命に瞬時に転生し、存続しつづけていきます。輪廻は存在します。転生は存在します。
そして不確実性過ぎる輪廻転生から脱出するために仏教があると言っても過言ではないでしょう。   
 
 

 

●二河白道
 
 
極楽浄土に往生したいと願う人の、入信から往生に至る道筋をたとえたもの。「二河」は南の火の川と、北の水の川。火の川は怒り、水の川はむさぼる心の象徴。その間に一筋の白い道が通っているが、両側から水火が迫って危険である。しかし、後ろからも追っ手が迫っていて退けず、一心に白道を進むと、ついに浄土にたどりついたという話。
煩悩にまみれた人でも、念仏一筋に努めれば、悟りの彼岸に至ることができることを説いている。 
みづから一念発心せんよりほかには 三世諸仏の慈悲も済ふこと能はざるものなり 
地獄 1 
仏教における世界観の1つで最下層に位置する世界。欲界・冥界・六道、また十界の最下層である。一般的に、大いなる罪悪を犯した者が、死後に生まれる世界とされる。奈落迦、那落迦、捺落迦、那羅柯などと音写される。奈落迦が転訛して奈落(ならく)とも音写されるが、これが後に、演劇の舞台の下の空間である「奈落」を指して言うようになった。 サンスクリットのNiraya(ニラヤ)も地獄を指す同義語であり、こちらは泥犂、泥黎耶と音写される。
六道の下位である三悪趣(三悪道とも、地獄・餓鬼・畜生)の1つに数えられる。あるいは三悪趣に修羅を加えた四悪趣の1つ、また六道から修羅を除く五悪趣(五趣)の1つである。いずれもその最下層に位置する。
日本の仏教で信じられている処に拠れば、死後、人間は三途の川を渡り、7日ごとに閻魔をはじめとする十王の7回の裁きを受け、最終的に最も罪の重いものは地獄に落とされる。地獄にはその罪の重さによって服役すべき場所が決まっており、焦熱地獄、極寒地獄、賽の河原、阿鼻地獄、叫喚地獄などがあるという。そして服役期間を終えたものは輪廻転生によって、再びこの世界に生まれ変わるとされる。
こうした地獄の構造は、イタリアのダンテの『神曲』地獄篇に記された九圏からなる地獄界とも共通することがたびたび指摘される。たとえば、ダンテの地獄には、三途の川に相当するアケローン川が流れ、この川を渡ることで地獄に行き着くのである。
『古事記』には地獄に似ている黄泉国が登場する。ただし、『日本書紀』の中に反映されている日本神話の世界では、地獄は登場しない。代わりに小野篁が地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説や、日蔵が蔵王菩薩の導きで、地獄へ行き罰をうける醍醐天皇とその臣下に逢う説話などが残されている。
地獄の色
東アジアの仏教では、地獄の色は道教的に、あるいはその影響を受けた陰陽道的に「黒」で表す。餓鬼は赤、畜生は黄、修羅は青、この三色を混ぜると地獄の黒になると言われる。また、節分で追われる赤鬼、黄鬼、青鬼はここから来ている。
種別
衆生が住む閻浮提の下、4万由旬を過ぎて、最下層に無間地獄(むけんじごく)があり、その縦・広さ・深さは各2万由旬ある。 この無間地獄は阿鼻地獄と同意で、阿鼻はサンスクリットaviciを音写したものとされ、意味は共に「絶え間なく続く(地獄)」である。阿鼻地獄は一番下層にあり、父母殺害など最も罪の重い者が落ちる。そこへの落下に二千年も要し、四方八方火炎に包まれた、一番苦痛の激しい地獄である。
その上の1万9千由旬の中に、大焦熱・焦熱・大叫喚・叫喚・衆合・黒縄・等活の7つの地獄が重層しているという。これを総称して八大(八熱)地獄という。これらの地獄にはそれぞれ性質があり、そこにいる衆生の寿命もまた異なるとされる。
また、この八熱地獄の4面に4門があり、門外に各4つの小地獄があり、これを合して十六遊増地獄という(四門地獄、十六小地獄ともいう)。八熱地獄と合せば百三十六地獄となる。また八熱地獄の横に八寒地獄または十地獄があるともいわれる。
また、山間廣野などに散在する地獄を孤独地獄という。
地獄思想の成立
元々は閻魔大王、牛頭、馬頭などの古代インドの民間信仰である死後の世界の思想が、中国に伝播して道教などと混交して、仏教伝来の際に日本に伝えられた。
そのため元来インド仏教には無かった閻魔大王を頂点とする官僚制度などが付け加えられた。その後、浄土思想の隆盛とともに地獄思想は広まり、民間信仰として定着した。
地獄は、日本の文化史の中では比較的新しいもので、これが特に強調されるようになったのは、平安時代の末法思想の流行からのことと思われる。この流行の中で恵心僧都源信がまとめたのが『往生要集』である。
地獄思想の目的は、一つには宗教の因果応報性であり、この世界で実現されない正義を形而上世界で実現させるという機能を持つ。
神道では、江戸後期に平田篤胤が禁書であったキリスト教関係の書物を参考にして、幽明審判思想を考案した。すなわちイエスの最後の審判のように、大国主命(おおくにぬしのみこと)が、死者を「祟り神」などに格付けしてゆくという発想である。 
地獄 2 
僧こたへていはく、六道を知らぬ人や候ふべき。今の世には五つ六つの幼きもの、いやしき下臈などもみな知りたるなり。しかれども、仏の御前にて、知りながら、よも問ひ給はじ、と思へば、かつがつ申すべし。六道と申すは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上これらを申すなり。無始生死よりもろもろの仏の利益にもれて、鳥の林をはなれず、車の庭にめぐるがごとくにして、六道に沈淪するは、仏法の宝をまうけざりしゆゑなり。法華経に、  
   墜堕三悪道 輪廻六趣中  
とのべ給へり。この心は、三悪道におちて、六趣に輪廻す、とのたまへるなり、とかたりければ、この女、地獄・餓鬼・畜生のありさまこそ聞かまほしく候へ、といひければ、六道の事は、恵心僧都の一代聖教をひらいてえらび給ひつる、往生要集と申すものにこまかに記されたり。いまだ見給はずや。をろをろ申すべし。

第一に地獄といふは、この閻浮提の下、一千由旬にあり。等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・阿鼻大城なり。これを八大地獄といふなり。これにまたおのおの十六の別所を具したり。総じて一百三十六地獄なり。この山中海辺にも地獄あり、とぞ倶舎と申す文には見えたり。まことにさるやらん。越中国立山の地獄より、近江国愛智の大領と申すもののむすめが、山臥にことづけて親のもとへもの申しけるは、おほかた地獄の苦しみは、たとへを取るとも、百千万億の中に一も申しのべがたし、とぞいひおこせける。されば、仏も地獄の苦しみをくはしくとるは、聞かんものみな血をはきて死ぬべし、とぞのたまひける。  
まづ、地獄のありさまをいふに、天には七重の網をはり、地には鉄城かたくとぢたり。熱鉄さかんにして、四面に刀林のやきば鋭くして、阿防羅刹のいかれるすがた見るに心まどひ、牛頭・馬頭のはげしきこゑ聞くにきもをうしなふ。天にあふげば、つるぎの林の葉ふりくだりて、まなこをさしやぶる。地にうつぶせば、猛火燃え出でて口に入る。なかむとすれば涙おちず。さけばんとすれども、こゑ出でず。須臾刹那の程も、くるしみならぬ隙なし。されば無隙とは、ひまなしとかけり。一日ならず、二日ならず、無量無数劫の間、くるしみを受く。一種ならず、二種ならず、百千万のかなしみしのびがたし。阿鼻大城のくるしみ、なかなか申すにをよばず。さかさまにおつる事、二千年なり。地獄のふかき事はこれにて知るべし。このくるしみを受くる間は、一中劫なり。一劫と申すは、たかさ四十里、ひろさ四十里の石を、三朱の天衣とて、きはめてかろき天の羽衣にて三年に一たびづつなづるに、紙一枚のあつさほどつぶるなり。これをみななでつくしてある時を、一劫といふなり。この間苦患をうけん事、申すもなかなかおろかなり。  
されば、金峯山の日蔵上人、無言断食しておこなひけるあひだに、秘密瑜伽の鈴をにぎりながら、死に入りたりけるに、地獄にて延喜の帝にあひたてまつりければ、御門のたまひけるは、地獄に来たるものはかへる事はなけれども、なんぢはよみがへるべきものなり。我、父の寛平法皇の命をそむきたてまつる。無実によつて菅原右大臣を流したりし罪のむくひに、地獄におちて、苦患をうく。このよしを我が皇子にかたりて、このくるしみをすくふべし、とおほせければ、かしこまりてうけたまはりけるを、御門のたまひけるは、地獄にては罪なきものをもつて、あるじとす。上人われをうやまふことなかれ、とおほせありけるこそ、いとかなしくはおぼえ侍りけり。
されば、高岳の親王、かくぞよみ給へる、
    いふならく奈落のそこにおちぬれば刹利も首陀もかはらざりけり  
この歌おもひあはせられて、あはれなり。
地獄のゑ、かきたる屏風を見て、和泉式部がよめる、  
   あさましやつるぎの枝のたはむまでこはなにのみのなれるなるらん
和泉式部 「金葉和歌集」
和泉式部石山に参りけるに、大津に泊まりて夜ふけて聞きければ、人のけはひあまたしてのゝしりけるを尋ねければ、下人の米白げ侍るなりと申しければよめる
   鷺のゐる松原いかに騒ぐらんしらげはうたて里響(さとゝよ)むなり
(夜中、あまりに騒がしいから、起きて質すと、下層の女たちが、精米作業をしているというので。白鷺が琵琶湖岸の松原で寝ているだろうに、起きてしまうのではないかしら、心配だわ。以前の炭焼きを取り込んだ歌といい、この農婦に対する詞書といい、貴族階級の一般庶民に対する意識が、ここにもよく出ている。なお、江戸時代を迎えるまでは、職業分化は緩慢であった。しら(白)げば=一説に、夜が「白げ」に鷺の「白毛」をかける。さと=「里」に擬声語「さと」(わっと)をかける。とよ(響)みけり=『古語辞典』見出し語「とよむ」に、「響む、動む」が当てられる。「鳴り響く。響きわたる。大声をあげて騒ぐ。騒ぎたてる。」 派生形の「どよめく」「どよもす」は、現代語に残る。新潮版頭注によると、平安末期から濁音化した。)
小式部内侍亡せて後、上東門院より年ごろ賜はりける衣を亡きあとにもつかはしたりけるに、小式部と書き付けられて侍けるを見てよめる
   もろともに苔の下にも朽ちもせで埋(うづ)まれぬ名を見るぞ悲しき
(一緒に苔の下に朽ちることなく、私ばかりが生き残ってしまって、埋もれることのない娘の名を見ることが悲しいのです。小式部内侍は生前上東門院(藤原彰子)に仕え、毎年衣を賜わっていたが、死んだ後も例年通り下賜された。その衣に小式部内侍の名が書き付けられていたのを見て詠んだ歌。亡骸は埋れて目に見えなくなっても、死者の名は埋れることなく目に触れ、悲しい追想を誘う。)
地獄絵に剣の枝に人の貫かれたるを見てよめる
   あさましや剣(つるぎ)の枝のたはむまでこは何の身のなれるなるらん
(なんてひどい。剣の枝がたわむ程に身を貫かれて、これは一体どんな罪を犯した人がこうなったのであろう。「つるぎの枝」とは、地獄に生えているという剣の樹の枝。「つるぎ」に木を、「身」に実の意を掛け、「枝がたわむほど何の実がなったのか」の意を兼ねている。)  

 


 
2020/5
 

 

●極楽浄土 1 
極楽浄土
極楽とは浄土宗でいう死後の世界で、「幸福のあるところ」という意味があります。浄土は仏国土といい仏の国です。清浄な世界を指す言葉です。極楽浄土には、阿弥陀仏が住んでいるとされています。それに対してこの世は六道輪廻の苦しい世界とされています。浄土宗では、誰でも南無阿弥陀仏をとなえれば、死後には極楽浄土へ行くことができる考え方をとります。西方十万億土(さいほうじゅうまんおくど)の彼方にあるとされる極楽浄土では、苦しみや悩みから解放され、阿弥陀仏が法を説いている場所とされています。
浄土宗では、誰でも行けるとされる極楽浄土も、聖道門系にとっては自力によって行けるものと考えられており、宗派によって解釈に違いがみられます。天国のようなところと抽象的にとらえられがちな極楽浄土ですが、浄土宗における極楽浄土とは違い、極楽浄土は自分の心の持ちよう、心の中にあるべきものとするのが、禅宗などの解釈になります。この世は六道で地獄なら、あの世は極楽浄土とする考え方と、どこにいても心が清浄であれば、それが浄土という考え方の違いは、他力本願と自力の相違にも通じます。
輪廻転生
輪廻転生とは、人が何度も生死を繰り返しながら生まれ変わることです。輪廻は車輪が回る様子で、転生は生まれ変わることを意味しています。インドのバラモン教の考えから来て、仏教へと伝わったものです。すべての生命は、死ぬと別の人間や生き物に生まれ変わるという思想です。輪廻転生では、天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の6つの世界をぐるぐると生まれ変わりながら生きていくとされています。この6つの世界は、苦しみに満ちた世界であるとも考えられています。そのため、釈迦は六道輪廻にいる以上、永遠に苦しみから逃れることはできないとし、輪廻を超越した浄土という場所が、極楽世界だと考えました。
西洋にも、輪廻転生の考え方はあります。ギリシャの哲学者ピタゴラスの学団にも、同様の思想が見られます。リインカーネーションのコンセプトは、ニューエイジの教義にもよく登場します。肉体が滅びてもスピリットが別の肉体に宿って再生するという考え方です。スピリティズム、心霊主義と言われるもので、古代エジプトでは、人の霊魂は死後「バー」という鳥になって、肉体からあの世へ飛び立っていくと考えられていました。
六道
六道とは、人が死んだら生まれ変わるという6つの世界のことです。人は良い行いをしていれば極楽へ行けるが、悪いことをしていると地獄へおちるといわれます。天道を頂点に、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道からなる六道は、人間界での生前の行い次第で、次の行先が決まるといわれています。インド神話を起源に持つ考え方です。輪廻転生は、人は死んだら六道のどこかに生まれ変わるというもので、それは因果応報で、自分の行い次第で決定されるといいます。
六道においては、たとて天道にいても、さらに輪廻転生が起こるので、苦しみから脱却できたとは言えません。また人間道は、行い次第では仏になることができるとされています。六道の他には、極楽という仏が住む世界があるといわれています。仏は六道から解脱して、別のランクの場所にいるという考えです。また、魔という世界があるとも言われています。魔は仏とは反対の世界ですが、仏に近い存在で、表裏一体だといわれています。観音菩薩を信仰することで六道から救われるとしたのが、観音信仰です。  

 

●極楽浄土 2 
極楽浄土は「阿弥陀如来が住む、幸福に満ち溢れた煩悩や穢れのない世界」
極楽浄土という言葉は、「極楽」と「浄土」それぞれの言葉の意味から考えると、「阿弥陀如来が住む、幸福に満ち溢れた煩悩や穢れのない世界」という意味になります。
極楽とは幸福で満ち溢れている所の事
極楽は、サンスクリット語の「スカーヴァティー」が語源となっています。そのまま訳すと「幸福で満ち溢れた場所」という意味になり、私達がイメージしている極楽に近い事が分かります。仏教の経典などでは、サンスクリット語のスカーヴァティーに当て字をして須呵摩提(しゅかまだい)、蘇珂嚩帝(そかばってい)、須摩提(しゅまだい)と表現される事もあります。極楽に関しては様々な解釈がありますが、一般的に仏教における極楽とは、悟りを開いた仏様が住む場所であり、修行をする所です。一般の人間が死を迎えて天国に行く場合は、阿弥陀如来がいる極楽ではないと考えられています。
浄土とは悟りを開いた仏様が住む為の清浄な国土の事
浄土というのは、「清浄国土」の略で「清浄なる国土の事」というのが辞書的な意味です。浄土の特徴は、地球にあるような煩悩やけがれが一切ないという事です。また、地球を含めて、一般の煩悩がある人が住んでいる国土の事を穢土(えど)と言います。穢土は、大便という意味もある言葉なので、全く異なる世界だと考えられている事が分かります。なお、浄土は1つしかないわけではありません。薬師如来が住む浄瑠璃浄土や大日如来の密厳浄土、お釈迦様がいる霊山浄土、観世音菩薩が住む補陀落浄土というものもあります。
阿弥陀如来の西方極楽浄土は果てしなく遠い所に位置する
阿弥陀如来が住む極楽浄土の場所を理解するには、「仏土(ぶつど)」という言葉を知る必要があります。仏土というのは、「仏様が治めている国土(浄土)」の事です。どの位の距離や面積なのかというと、ある数学者は、1仏土を「1万光年」と仮定した事があります。阿弥陀如来の極楽浄土は、「西方十億万仏土」と言われているので、1億年の10億倍の年数がかかる距離にあるようです。極楽浄土の方角については、「西方(さいほう)」にあると言われています。西を向いて拝む位置にお墓や仏壇を設置したり、人が無くなった時に「西枕」にしてご遺体を寝かせるなどの習慣があるのは、西に阿弥陀如来の極楽浄土があるからです。
幸福に満ち溢れた極楽の世界
極楽は、幸福で満ち溢れている所だと言われていますが、より極楽をイメージしていただくためにその世界をご紹介していきたいと思います。
極楽の世界は豪華で快適!
極楽の世界の様子は、『仏説阿弥陀経』というお経に詳しく説明がされています。まず、極楽は、非常に広々とした世界でどの方角に行っても限界というものがありません。気候は、暑くも寒くもなく、住み心地の良さを感じるそうです。そして、地上や地下という概念があり、数多くの豪華に装飾された仏像などが置かれています。また、そこに住む人の着る物や食べる物は、念じたものが好きなだけ手に入ります。水や鳥、樹木の音が地球と同じように聞こえますが、まるで優れたお経を聞くかのような心地良さを感じるそうです。極楽には、一切の苦しみがありません。楽しい事や快適な事しかない世界です。
極楽には女性がおらず子供の命は蓮華に宿る
「浄土三部経」や「仏説阿弥陀経」に極楽の解説がありますが、これによると極楽には、天女(アプサラス)はいますが、女性が生まれる事はないそうです。また、女性がいないため極楽浄土で性交が行われる事はなく、子供が生まれる時は蓮華に命が宿ると言われています。あくまでもこれは、紀元前1000年〜紀元前500年頃に編纂されたインドの宗教文書が起源になります。昔の人が想像して書き残したものに過ぎないため、実際に真偽の程は分かりませんが、少なくとも恋愛絡みのドロドロとした感情とは無縁の平和なイメージが伝わるでしょう。
極楽には金が敷き詰められた七宝の池が複数存在する
阿弥陀経というお経には、極楽には「七宝(しっぽう)の池」が存在すると記載されています。七宝の池の特徴は、以下のような8つの性質を持つ優れた水「八功徳水(はっくどくすい)」を有する事です。
甘い / 冷たい / 軟らかい / 軽い / 臭いがしない / 喉を傷める事がない / お腹が痛くならない / 池の底に金が敷き詰められている
極楽には、このような特徴がある七宝の池がいくつも存在していると言われます。
計り知れない光と寿命を持つ阿弥陀如来が住んでいる
阿弥陀如来は、サンスクリット語で「アミターバ」あるいは「アミターユス」と名付けられています。アミターバは、計り知れない光を持つ者という意味で、アミターユスは計り知れない寿命がある者という意味になります。浄土教では「仏説無量寿経」で「諸仏の光明及ぶこと能わざるところなり」とあり、阿弥陀如来は仏様の中でも最も優れた存在とされています。阿弥陀如来は、「仏様の中の仏様」といった存在である事が分かります。なお、お経を読み上げる時に「なんまんだー」とか「なんまいだー」と言う事がありますが、これは「南無阿弥陀仏」が訛ったものです。南無は、「信じます」とか「帰依します」という意味なので、「阿弥陀如来を信じますよ」と言っている事になります。
清浄な心が作る仏様の国土・浄土の概念
次に浄土の概念を紐解いていきましょう。
浄土は住む人の心が作っている
「維摩経(ゆいまぎょう)」というお経には、浄土について「その心浄きに随って、すなわち仏土浄し」と書かれています。これは、浄土が清浄であるのは、そこの住人の心が清浄であるからという意味です。つまり、地球のような清浄ではない場所は、そこに住む人の中に心が不浄である人がいるからという事です。すでに清浄な仏土があって、そこに阿弥陀如来などがいるのではなく、心が清浄な阿弥陀如来などしかいないから仏土が浄土になるという説明です。この考えによると、浄土は絶対的なものとして存在していたのではなく、仏様などの心が生み出したものという事になります。
浄土は3種類存在する
浄土と言っても、必ずしも私達が死後に行くかもしれない場所だけではありません。三浄土説という考えがあり、浄土は「来世浄土」、「浄仏国土(じょうぶっこくど)」、「常寂光土(じょうじゃっこうど)」の3つに分ける事ができます。
来世浄土 / 一般的にイメージされるような、死んだ後に赴く浄土の事です。
浄仏国土 / 現実世界の中で浄土化された特定の場所を指します。仏や菩薩の本願を建てる事で行われます。
常寂光土 / 仏陀の悟りの真理がそのまま具現化した夢のような世界の事を指します。阿弥陀如来の極楽浄土もこれに含まれます。
浄土に行けるかどうかについては宗派により考え方が異なる
これまでの解説を見て、浄土に行ってみたいと思った人もいるかもしれませんが、仏教の宗派によってどんな人が浄土に行けるのかの考え方は異なっています。
浄土宗 / 浄土は誰でも行けるという教えを説いています。
真言宗・天台宗 / 修行によって努力した人が行けると考えています。
禅宗 / 浄土は「自分の心の中にある」「心の持ちよう」だとしています。
浄土については、あるとか無いとか考えるべきものではなく、精神の世界(死後の世界)を考える為の概念だという見方もできるでしょう。
仏教における死後の世界の捉え方
極楽浄土について説明してきましたが、仏教では、死後の世界や人間の生まれ変わりについても教えてくれています。ここでは仏教における死後の世界の捉え方全般をご紹介します。
お釈迦様の死後の世界についての考えは「縁起」で表現されている
今から約2600年前にお釈迦様が菩提樹の下で悟りを開き、仏教というものが生まれます。お釈迦様は、悟りを開いた後、10人のお弟子さんと共に悟りを伝えていました。そんな中、あるお弟子さんがお釈迦さまに「死後の世界はどうなってますか?」と尋ねたという記述が残っていて、回答が「無記」となっています。無記というのは、答えなかったという意味です。今の言葉で言うと「さあ?知らない」といった感じです。つまり、お釈迦様は、死後の世界については、考える必要はないと説明したという事です。死後に関してお釈迦様が悟った内容は、「縁起」という言葉で表現されています。絶対的な仏様は、存在しないか、あるいは、存在するなら全ての存在が仏さまであるというのが縁起の思想です。
上座部仏教における死後の世界観は「僅かな人だけ成仏できる」
お釈迦様が亡くなってから間もなくの初期の仏教の事を「上座部仏教」と言います。上座部仏教の事を「小乗仏教」と表現される事もありますが、「小さな乗り物」の仏教という意味です。上座部仏教における死後の考えを分かり易く言うと、「仏教の信者のうちごく僅かの人だけが成仏できる」です。残りの大半の人は、「輪廻の世界を彷徨う」と表現されるように生まれ変わりを繰り返す事になります。生まれ変わりを繰り返している事は、90年代の欧米の実験(退行催眠の実験)で過去世の記憶を人が持っている事の確認で証明されています。輪廻の世界を彷徨っているのかは分かりませんが、何度も生まれ変わっているのは事実のようです。死後の世界については、お釈迦さまと同じように「分からない」と説明されている事が多くなります。
大乗仏教における死後の世界観は「信仰心のある人なら誰でも成仏できる」
大乗仏教というのは、初期の仏教から後の仏教の事です。大乗(大きな乗り物)とあるように、「信仰心のある人なら、もれなく成仏できますよ」というのが基本的な教えです。ただし、「お経(マントラ)を唱えたら」とか「何もしなくても」など、成仏できる条件については、若干の違いがあります。例えば、悪人正機説で有名な親鸞聖人は、「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」と歎異抄で説明するように、善人(自分は良い人だと思っている人)でも悪人(自分はまだまだ至らない人間だと思っている人)でも往生できると言っています。ここで言う往生というのは「仏になる」という意味であり、人は死んだらもれなく極楽に行けるという教えを指します。ただし、死んだ後に極楽浄土に行ったかどうかは確認しようがありませんので、衆人の心を落ち着かせる為の教えなのかもしれません。
主な大乗仏教とその経典
日本における仏教の宗派はほとんどが大乗仏教に分類されます。そのうちの主な宗派と経典は以下の通りです。
天台宗 / 法華経
浄土宗 / 浄土三部経(仏説無量寿経 / 仏説観無量寿経 / 仏説阿弥陀経)
浄土真宗 / 浄土三部経(仏説無量寿経 / 仏説観無量寿経 / 仏説阿弥陀経)
融通念仏宗 / 華厳経 / 法華経
時宗 / 阿弥陀経
日蓮宗 / 妙法蓮華経 / 法華経
お経と聞くと、故人を成仏させるものと捉えがちですが、それだけでなく、今生きている人が、道に迷わず進む方法、さらには極楽浄土へ向かうため方法も説いています。
極楽浄土に行く為には現世で仏の教えに触れる必要がある
極楽浄土に行けるのは、仏の教えを守る事です。仏教では、私達が住む世界の他に、以下の5つの世界があると説かれています。
・ 天道
・ 阿修羅道
・ 畜生道
・ 餓鬼道
・ 地獄道
人が生きるこの世界は、人間道として、天道と阿修羅道の間に位置します。人間道を含む6つの世界を六道と呼びますが、そのうち仏の教えを聞けるのは人間道だけと言われています。
自分なりに死後の世界を考える事は人生をより楽しむ事に繋がる
死後の世界に天国があるのかは、現在でも分かっていません。しかし、死後の世界について考える事は、精神だけになった自分、心だけが残った自分について考える事でもあるので、自分なりの考えを持つ事は良い事です。死後の世界を否定して、今の人生を自分の事しか考えずに生きるよりも、死後の世界も生まれ変わりも肯定して、より魅力的な自分に成長していく事を考える方が楽しくてワクワクすると思います。皆さんも一度、「自分が死んだらどうなるのか?」と考えてみるのがおすすめです。
まとめ
極楽浄土は、私達がイメージする天国とは違います。一般的には、阿弥陀如来が住む世界、修行の為の世界だと考えられています。しかし、死後私達が成仏してから行ける世界については、自由にイメージできます。毎日をできるだけ楽しく過ごすようにして、できるだけ多くの親切を人に与え続ける事が重要でしょう。 

 

●極楽浄土 3 
「極楽浄土」とは、大宇宙にはたくさんの仏がおられ、それぞれの浄土がある中でも、最高の仏である阿弥陀仏の浄土を極楽浄土といいます。一体、極楽浄土とは、どんな世界なのでしょうか。そして、どうすれば極楽浄土に往けるのでしょうか。
極楽浄土の別名
極楽浄土には、極楽だけでなく、色々な別名があります。例えば、阿弥陀仏の誓願に報いて建立された世界、ということで、「報土(ほうど)」ともいわれます。また、阿弥陀仏のことを安養仏ともいわれますので、「安養界(あんにょうかい)」ともいわれます。阿弥陀仏の極楽浄土でのみ開くことができるさとりを「大涅槃」とか「大般涅槃」といいますので、極楽浄土のことを「大涅槃」とか「大般涅槃」といわれることもあります。他にも「無量光明土」「蓮華蔵世界」「寂静無為楽」「楽邦」「浄邦」「実報土」など、色々あります。ただし、極楽浄土は「天国」ではありません。
天国と極楽との違い
極楽浄土は、六道輪廻を離れた世界です。神の国である天国は、仏教では「天上界」といいますが、迷いの世界である六道の一つですから、やはり寿命があり、次に地獄に堕ちることもあります。ところが、極楽浄土は、輪廻を離れていますから、二度と地獄に堕ちることはありません。極楽浄土に生まれた人の寿命も無限です。ちなみに「輪廻」は迷いの世界だけに使われる言葉ですから、極楽浄土に転生するとは言いますが、極楽浄土に輪廻するとか、輪廻転生するとは言いません。また、キリスト教で、この世の終わりに最後の審判があり、もし神の国に生まれることができると神のしもべとして生きることになります。創造主である神と、被造物である人間には、絶対に越えることのできない区別があるのです。ところが仏教では、極楽浄土に生まれたならば、誰でも阿弥陀仏と同じ仏のさとりを開くことができます。そして仏として永遠の幸せに生きることができるのです。
極楽浄土はどんな世界?
極楽浄土はどんな世界なのかということについて、集中的に説かれているのは、浄土三部経といわれる『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の3つのお経です。これら浄土三部経をもとに、極楽浄土とはどんな世界なのか、見ていきましょう。まず極楽浄土がどこにあるのかということについて、お釈迦さまが『阿弥陀経』に、「ここより西のほう、十万億の仏土を超えて世界あり、名づけて極楽という」と説かれています。この世のことを「穢土」といい、穢れた苦しみの世界ですが、極楽浄土には、苦しみは存在せず、ただ楽しみだけが存在するので「極楽」といいます。極楽浄土は、本来言葉に言い表せないのですが、「余方因順(よほういんじゅん)」といって、お釈迦さまが説かれているのは、私たちに合わせて、私たちに分かりやすいもので説かれています。ですから、もし聞いているのが猫であれば、極楽浄土は宮殿も楼閣もみなカツオでできていると説かれるかもしれませんが、人間はカツオより宝石のほうが好きなので、そういう人間の好きそうなものがたくさん説かれています。
極楽浄土の様子
極楽浄土はどんな世界かといいますと、まず土地は「七宝」といって、金、銀、瑠璃(青い宝石)、水晶、白いつやのある貝、赤い真珠、めのうなどでできています。そして宝の池があります。池の四方には水の中から岸に向かって、金、銀、瑠璃、水晶でできた階段があって、岸の上には、七宝でできた御殿が建っています。仏教を聞く道場や講堂もあり、やはり七宝でできています。そして宝の樹木がたくさん生えています。
極楽浄土の宝の樹木
極楽浄土の宝の樹木は、やはり七宝でできていて、金の樹木や、銀の樹木、瑠璃の樹木、水晶の樹木、つややかな白い貝の樹木、赤い真珠の樹木、めのうの樹木や、それらの組み合わせでできている樹木もあります。それらにはやはり七宝の葉がしげり、宝の実がなります。それらの宝の樹が並木となって、至るところに「羅網」という宝石であまれたきれいな網がかかっています。それらが極楽の至るところをめぐったり囲まれたりしています。
極楽浄土の美しい音楽
極楽浄土では、どこからともなくすぐれた音楽が聞こえます。そよそよと風が吹いていて、宝石で編まれた網や宝の並木を動かすと、妙なる音が聞こえます。それは、百千の音楽を同時に聞いたようなすばらしさです。その音を聞くと、みな仏と法と僧の三宝のご恩を念ぜずにおれないのです。
極楽浄土の宝の池
極楽浄土にある宝の池を「七宝の池」といいます。池の底には砂金や、その他の宝の砂が敷かれ、「八功徳水」という、八つの功徳のある水が満ちています。「八つの功徳」とは、『観無量寿経』の解説書である『定善義』によれば、きよらかでつやがあり、塩素などの匂いがなく、軽くて、冷たくて、軟らかく、美味しく、後味のよい究極の水です。池の水面には、車輪くらい大きな蓮華の花が咲いています。青い花は青く輝き、黄色の花は黄色く輝き、赤い花は赤く輝き、白い花は白く輝き、美しく、香り高く咲き誇っています。
極楽浄土の蓮華の秘密
極楽浄土には至るところに宝の蓮華の花が咲いています。一つ一つの蓮華の花には、百千億の花びらがあり、白や黒はもちろん、黄色や朱色、紫など、限りない色の輝きを放っています。その一つ一つの宝の蓮華の花は、三十六百千億の光を放っています。その一つ一つの光から、三十六百千億の紫金の仏さまが現れます。その一仏一仏が、それぞれ百千の光明を放って、大宇宙の限りない人々のために、妙なる法を説きに行かれます。それが、大日如来や薬師如来、地球の私たちのもとに来られたのは、お釈迦さまです。
極楽浄土ではどんな生活をするの?
極楽に生まれた人も極楽浄土のありさまと同じく、言葉で言い表せない人間の想像を超えた姿で「自然虚無(じねんきょむ)の身」を受けていると説かれていますが、お釈迦さまは、少しでも私たちに分かるように教えられています。それによれば、極楽浄土に生まれた人は、みなまったく差別なく競争もなく、姿形も違いはありません。清らかな身体で、智慧が高く明らかで、神通力もえられます。端正な顔立ちは、人間界最高の美男美女どころか、その何億倍も美しい天人や天女さえもはるかに超え、さらにその百千万億倍の美しさです。そして美しい服を来て宮殿に住み、美味しい食べ物を食べています。
極楽浄土の朝
朝が来ると、極楽にいつも花吹雪のように空から降っている白蓮華の花びらを入れ物に入れて大宇宙の十万億の仏方にお供えしに行きます。(他にも好きなものを何でもお供えできます)そして、どこからともなく流れる美しい音楽に合わせて仏の徳をほめたたえたり、仏の教えを聞いて、限りない喜びを感じます。
極楽浄土の食事
食事の時間には戻ってきて、食事をしようと思うと、面倒な食事準備はしなくても、自然に目の前に七宝の食器が現れて、「百味の飲食(ひゃくみのおんじき)」が満たされます。ところが実際に食べる人はなく、それを見たり、かぐわしい香りを味わったりすると食べる前にすっかりお腹いっぱいになります。すると食事は、手間のかかる食事片付けはしなくても、ひとりでに消えてしまい、極楽浄土を散歩しにいきます。
極楽浄土で仏教を聞ける
阿弥陀仏が極楽浄土の講堂で、妙なる法を説法なされるときには、みんな集まって聴聞し、心に喜びとさとりを生じない人はありません。どこからともなく風が吹いて、宝の樹木がそよいで、ファンファーレのように美しい音楽をかなで、美しい花吹雪が限りなく散り乱れます。そうでなくても極楽浄土には、鶴やクジャク、オウム、かりょうびんがなどの鳥がいて、いつも仏法を説いています。もちろん極楽浄土には、地獄、餓鬼、畜生はないので、これらの鳥は、過去世の悪業の報いで畜生界に生まれたものではなく、法を説くために生まれたものです。極楽浄土に生まれた人は、これらの鳥の声によっても仏法を聞くことができ、仏法僧の三宝のご恩を念ぜずにおれないのです。
苦しむ人を助けることができる
そして「恩を知るは大悲の本なり」と説かれるように、極楽浄土に生まれた人は、大慈悲の心がありますから、まだ苦しみ悩む人がいるのに、「自分だけ助かったからもういいや」とは思えません。いつでも好きなときに、苦しみ悩みの穢土に戻ってきて、仏教を説いて、縁のある人から救うことができます。それがまた、極楽に往って仏に生まれた人の喜びなのです。このような極楽浄土や、浄土に生まれた人の様子は、あまりに素晴らしすぎて、お釈迦さまの大雄弁をもってしても、「百千万劫かけても説き尽くすことはできない」と言われています。では、この極楽浄土にどうすれば生まれられるのでしょうか?お釈迦さまは、「極楽浄土は非常に往き易いが、往っている人が少ない」と説かれています。
どうしたら極楽に行けるのか
お釈迦さまが往っている人が少ないと説かれるように、極楽浄土へは、死にさえすれば誰でも往けるのではありません。修行や学問で行ける世界でもありません。極楽浄土への行き方は2通りあります。1つは、以下の3つの条件を満たすことです。
1.一日数万回念仏を称える
2.臨終に心を乱さない
3.臨終に阿弥陀仏にお迎えに来て頂く
しかしながらこの3つの条件は、毎日数万回念仏を称えることは実際には非常に難しいことですし、臨終に心が乱れたり、阿弥陀仏にお迎えに来て頂けなければ、因果の道理にしたがって火車来現して次の世界に沈むので、死ぬまで極楽に往けるかどうか分からず、死ぬまで不安はなくなりません。もう一つは、仏教を聞いて、生きている元気なときに六道輪廻の根本原因を絶ちきられることです。それは煩悩ではないので、それさえ絶ちきられれば、煩悩あるがままで、いつ死んでも極楽往き間違いなしの身になります。ですから生きているときに仏教を聞くだけで極楽浄土には簡単に往けるのに、みんなそれをしないので、お釈迦さまは、「極楽浄土には往き易くして人なし」と説かれているのです。 

 

●死後の世界 宗派により他界派と転生派に分かれる 
人の死後について、世界に宗教は無数あるが、大きく分けて他界派と転生派に分けられるとしても間違ってはいない筈だ。他界派はキリスト教、イスラム教が代表だが、神道では「根の国」「黄泉の国」といった他界を説き、輪廻転生を説く仏教にも浄土教などひとまずは他界派に属するとしてよい宗派がある。一方で転生派は原始仏教や禅宗、ヒンドゥー教などのインド思想。また神智学、前世療法など近代のスピリチュアリズムは東洋思想への傾倒から転生思想を採用しているものが多い。もちろん我々は死んだことがない以上、死後のことは知る由もない。寧ろ現実社会にこうした宗教観が人生観、人生そのものにどのような影響を与えるかについて考えてみたい。
他界派〜人生は一度きり〜
他界は霊・魂が死後に向かうとされるいわゆる「あの世」の世界である。天国・極楽などの光の世界と、地獄・冥界などの闇の世界に分けられ、生前の行いによって行き先が決められるというのがおおよその伝統的な教えである。天国・極楽はユートピアであり、現世で徳を積めば死後苦しみのない世界で生きることができるされる。現実逃避ともいえる思想であるが、念仏を唱えるだけで極楽往生間違いなしと説く浄土教は貧困にあえぐ民衆に生きる活力を与えた。この世を超越する価値観は生きていく上での支えになるのだ。浄土真宗の清沢満之(1863〜1901)はこれを「倫理以上に大安心の立脚地」と呼び、他界の存在に寄りそうことで現世を不安なく生きていく道を説いている。
他界派は輪廻転生を否定しているが度が過ぎると…
当然ながら他界派は輪廻転生を否定する。転生を否定することは、「人生は一度きり」という覚悟を決めることであり、過ぎ去りつつある瞬間は取り戻せないことを自覚することである。一度きりの人生はかけがえのないものであり、神から与えられた大切な命である。他界観は現実を否定するのではなく、この命を全うすること、生きることの尊さを教えてくれるのである。しかし、一歩間違うと現実を軽んじやすくなり、恐るべき弊害も生まれる。「ヘヴンズ・ゲート事件」(注)は典型的な例で、汚れた現世から天国への脱出を謳ったものであった。自爆テロなども天国で素晴らしい報いを得られると信じるが故に、死の恐怖を克服してしまうことで実行を可能にさせてしまう他界観の負の原理が働いている。(注)1997年 アメリカの宗教団体「ヘヴンズ・ゲート」は、地球に接近したへールボップ彗星を天国から来たUFOであるとみなし、魂となってこれに搭乗するとして教祖以下38人が集団自殺した。
転生派〜人生は一度きりではない〜
転生派には人間以外の、動物や昆虫に生まれ変わることもあるとするタイプ1と、人間は人間以外に生まれ変わらないとするタイプ2に分けることができる。仏教、ヒンドゥー教などの伝統的な転生派宗教はタイプ1。ヘレナ・ブラバッキー(1831〜1891)の神智学、ルドルフ・シュタイナー(1861〜1925)の人智学といった近代オカルティズム、スピリチュアリズムにはタイプ2に属するものが多い。タイプ1は、生きとし生けるもの全てが等しく、生命の輪でつながっている・・・というと今時の環境問題にも通じるようだが、人外に生まれるのはあまり想像したくない光景である。だからこそインド人は輪廻を恐れ、輪廻の輪を抜けて「解脱」することを目指した。タイプ2は転生する度に魂が高いレベルに進化していくとする、一種の「霊的進化論」である。タイプ1は円環・循環型、タイプ2は螺旋上昇型といえる。どちらも現世における所業によって輪廻の行方が決定することには変わらず、善く生きる倫理的な生き方が要請される。
転生派の弊害はというと…
今生と来世という思想は他界観とは対称的に、「人生は一度きりではない」という認識により、現在の自身の環境に折り合いをつけることができる。また、前世の業(カルマ)による意味付けで恵まれない境遇を受け入れ、来世に向けての希望・努力を持つことで現世を生きていく活力を見いだす効果も期待できるだろう。その点については、魂の進化を説くタイプ2でより顕著である。転生派の弱点としては我々自身がそうであるように、前世の記憶がないことだろう。個の記憶が保ちえないなら全くの無と変わらないのではないか。また、他界派の弊害と同様の弊害が転生派にもある。「慈悲の精神」による殺人は代表的な例で、救われない命を来世に生まれ変わらせるために殺すという論理である。オウム真理教が「ポア」と呼ぶ殺人行為を犯したことは有名だが「ポア」とは本来、魂を肉体から抜くとされるチベット密教の身体操作のことを指す。この「魂を抜く」作業を殺人行為として歪曲して魂を救うと称したのがオウム事件であった。しかし、オウム事件は特別なものではない。宗教がこの世の倫理を超えるものである以上、こうした毒は常に内包されている。
もしも我が子に先立たれたら…
筆者の個人的な見解だが、子に先立たれた人に新たな命が芽生えた時「この子はあの子の生まれ変わりだ」と思うことがよくあるようだ。親としては当然の感情だろう。実際に前世の記憶を持つとされる症例も報告されている。しかし、もし仮に他界が存在するとしたらどうだろうか。他界にいる子供の霊は「僕はここにいるよ」と言いたくなるのではないだろうか。他界観を採用すれば転生派が「真実」であっても、転生した魂は基本的に記憶はないのだから、先立った子供の霊が他界にいると考えても問題ない。科学的無神論からすれば馬鹿馬鹿しい話かもしれないが、墓参りに行き死者に語りかけている自分を想像してもらいたい。概念はともかく、死者の霊・魂に対する態度は真摯に考えるべきだと思うがいかかだろうか。
宗教観の活用の仕方
他界派にも転生派にも様々なタイプが混在しており、キリスト教にあって転生を説いたカタリ派などの異端思想もある。本来はここで書いたような単純なものではないが、宗教観を現実に生きる上でどう活用するか、生きていく根拠、死の恐怖、死者とどう向き合うかなどを考える入口としては有効だと思われる。また、命に関わる弊害を内包している事実も知っておくべきだろう。  

 

●輪廻と浄土教 
評判の悪い輪廻説
迷えるかぎり「生あるものは生死を繰り返す」という仏教の輪廻説は近年、評判が悪い。そのせいか、「輪廻説はバラモン教から混入したものであって釈尊は輪廻を説かなかった」とか「輪廻説は人間の身分的差別を助長する邪説であって、仏教には本来ないもの」とか「輪廻説はこの世での苦楽の転変をたとえたもの」とか、あるいはそれに関連して「釈尊は死後に関しては沈黙され、説かれなかった」などと言われてきた。はたして釈尊は輪廻を説かれなかったのであろうか、あるいは死後については沈黙されたのであろうか。
釈尊は輪廻を説いた  
この点について、文献学的に歴史の釈尊の説法がもっともよく残されているといわれている『ダンマパダ』や『スッタニパータ』などの経典を読むと、そこには何度も輪廻や死後に関して説かれている。勿論それ以外の経典にも多く説かれている。この問題で、桜部建氏は『輪廻について』の論考で、初期仏教について「迷える者には輪廻があり、迷いを離れた者には輪廻はない、というのがその立場である」と論述されている。そして、釈尊が輪廻を否定されたというような説は、日本では和辻哲郎の『原始仏教の実践哲学』以来、ことに取り上げられるようになったと言われている。またスマナサーラ比丘は、このような釈尊の輪廻否定説はもともと近代の合理主義的考えに基づく西洋の仏教学者が主張しだしたのだと言われている。
注意すべき輪廻説
次ぎに、「輪廻説は人間差別を肯定する邪説である」との見解であるが、確かに、輪廻説は十分注意して了解しないと、受け取り方によっては、輪廻説は業報説とあいまって、人間に対する差別の縁を与えかねないからである。ただ、どんな教説も受け取り方によって、本来の意図から離れる可能性がある。たとえば悪人正機の説は凡夫の悪を肯定する論理になりかねないし、如来蔵思想は凡夫と娑婆を無批判に肯定する論理になりかねない。それと同様、輪廻転生説はそれを聞く人に、人の社会的階層的な差異はすべて個人の過去世の業報の結果であると、実体的に受け取るおそれがある。確かにそういう懸念があろう。しかし人間的な差別を根拠づける縁になりかねないからといって、輪廻説そのものを全面的に否定し、洗い流してしまうのは早計ではなかろうか。仏教の輪廻説が本来何を言おうとする教説であるか、その真意をよく伺うべきである。
現世だけに収まらぬ輪廻説
また「輪廻説は、現世の苦楽の状態を説明するために説かれたもので、死後にまた苦楽の境界に生まれ変るという話ではない」とする考えであるが、そう考え易いのは、現代における自然科学的乃至は合理主義的な物の見方や現世主義的な考えからの影響が強いように思われる。古代インドに起こり長い年月を経てきた仏教を、現代の科学的な合理主義や現世主義的な考えの範囲にすべて収めようとするのはとうてい無理である。
輪廻説の意味するもの
たしかに輪廻説は、一見荒唐無稽な話のように聞こえる。しかし、輪廻の原語である〈サムサーラ〉とは「流れ行くこと」という意味で、それは、妄執された五薀(我)が、知る働きと知られる世界として一体的に変転していくということであって、現在の私たちの生存全体も、過去からの五薀が変転してきた結果であり、現在、身をもっているということは、過去世から変転してきた五薀が取った一つの形であると教えられている。そうすると現在の〈人間の生〉が何らかの原因による結果と感受され、その主たる因は、誕生以前からの業因によると教えられるなら、現在の人間の生はすでに過去の輪廻の結果の感受であるという道理もうなずけなくはない。そうすればそれを未来に推し進めると、また次ぎに何らかの生の形を取り得るということも想念し得ることであろう。ただその場合、仏教ではそのつどの存在は、自らの業が感受した内容としての業感的存在であって、衆生の知る心を離れた客観的な実体として存在するのではないと説かれているし、輪廻は「人間の無知とか明知に関係なく実体的に存在するものではないのであって、無明の心によって作り出されるもの」(小川一乗氏)であれば、輪廻転生を客体的な実体として捉えるのは間違いであろう。 
輪廻説の必然性
その上で、輪廻説が説かれる必然性はどこにあるのかといえば、仏教学者の上野順暎氏は「輪廻説の本質は、人間の本質を精神となし、人生の目的を精神の本質自覚――即ち解脱とする点にある」と述べているが、人生の目的を解脱にあるとすれば、この世の生だけでの修道で解脱を成就するとばかりはいえないから、どうしても次の世での修道が説かれることになる。また輪廻説は因果応報説(業報)とも密接に関係し、その業報説では、この世の生の終わりに業報がすべて精算されるとはいえないから、当然来世が説かれねばならなくなるであろう。
死後どうなるかは不透明  
今日の私たちが輪廻説を聞いて、「そんなことはありえない」と否定することは簡単である。しかし、「死後どうなるか」という点において、それに替わるどういう代案があるのかとなると、私たちに納得のできるような見解は見当たらない。実際たとえば「あなたは死んだらどうなると考えるのか」と問うてみても、クリアーで誰にも納得できるような説明は聞けない。
代表的な死後の説明  
仏教においては法を得た者は涅槃に至るということは別として、「死んだらどうなるか」について、世界には大きく分けて三つの考えぐらいしかなかろう。一つ目は「死後はいっさい無に帰する」という。その代表的なのが唯物論である。二つ目は、キリスト教、イスラム教などで、霊魂は不滅であって、死後は不活性の状態で存続し、世の終わりに神の裁きを受けて、終末に天国乃至は地獄あるいは煉獄に入る、と説く。ただ今日のキリスト教では死後、信仰のある人はすぐに天国に昇天すると説く場合があるようである。 しかし、無信仰、あるいは不信仰の者はこの限りではあるまい。三つ目は輪廻説である。仏教、ヒンズー教、プラトン哲学などである。これ以外は、「わからない」とか「あるのは現在のみで死後は問題にしない」というような思想的な決着など、いわば死後を問題にしない態度であるのが一般であろう。どれかを選ぶとすれば、私たちが仏教徒であればやはり仏教の輪廻説をもう少し前向きに受け取ってみてはどうであろうか。実際、現代、世界でもっとも影響力のある仏教はチベット仏教であり、テーラーワーダ仏教であるが、彼らは当然輪廻説に立っているのである。
死後の闇に当惑する凡夫
私たちは存在の真実を悟っていない無知(無明)の凡夫であり、それゆえ死と死後とに大いなる不安を感じて生きているものである。ことになんら専門的に仏道修行をしていない在俗の身ではそれが現実の苦しみである。そういう者に、『般若心経』のように直接に「五蘊皆空なり、空相にして、生ぜず、滅せず、老も死もない」という、いわば〈本来、生もなく死もない〉と説くとか、あるいは、「人はいつでも現在にしか存在していない。死後を問題にするより現在ただ今の事実に立て」とか「死というものは本来存在しない。今今の連続だけだ。現在そのものに生きよ」と言っても、多くの凡夫には及びがたいのではなかろうか。それは知者や賢者の道であろう。私たちの生活感情の現実はやがて必ず来る死におびえ、死後の闇に当惑しているのが実際である。ティリッヒも「現代人は虚無へ転落することを怖れている」と言っている。
死後への釈尊の説法
では、釈尊は死におびえ死後に当惑している凡夫にどういう説法をされたのであろうか。『サンニュッタ・ニカーヤ』には、ある時、在家仏教徒のナハーナーマンが「私は死んだらどうなるのでしょうか」という怖れを釈尊にうったえた時に、釈尊は次のように答えられたという。「恐れることなかれ、汝の死は悪からず、汝の臨終は悪くはないであろう。マハーナーマンよ、ある人の心が、長い間信仰を修し、戒めを修し、学問を修し、捨離を修し、知恵を修したのであるならば、実にその人のこの肉身は、四元素(地・水・火・風)よりなり、父母より生まれ、飯・粥に養われたものであり、無常でついえ、摩滅し、破れ、壊れるものである。しかし長い間信仰し、戒め・学問・捨離を修したその人の心は上方におもむき、すぐれたところへおもむく」と。すなわち、「私は死んだらどうなるのですか」と怖れている在俗の信者に対して釈尊は、「死後というも現在の怖れだから、死後を問題にするより、今生きていることを問題にせよ」と言って、その素朴な問いを突き放されたのではなく、死と死後におびえている者に、「仏法を信じて生活しているから死後にはよいところに行く」と慈悲をもって彼を安心させるように説いておられる。
凡夫の立場に立つ浄土教
多くの者はやがて必ずくる死を恐れ、死んでどうなるかを怖れるものである。近現代でも、パスカル、それにベルクソンが「多くの者は、われわれはどこから来て、われわれは何であり、われわれはどこへいくのかという問題に困っている」と言っているが、私たちは「私は結局どこへいくのか」という生の行く末の問題に困っているのである。こういう凡夫の立場に立って説かれた釈尊の教説は、やがて浄土経典が説かれるようになったことを示唆しているのではなかろうか。しかるに、浄土教徒である私たちに、死後に至るべき浄土を説かず、そういう問いを起こしている者に対して、「死後よりも今生きているいのちの事実に目覚めよ」とばかり説くのは、「私は結局どうなっていくのか」と怖れおののいている凡夫にふさわしい教えではなくなっていく可能性がある。 
方便を通して真実へ
確かに死後の浄土往生を説くのは、方便であるといえよう、しかしその方便を受け入れることが、おのずと真実そのものに現在ただ今摂取されるという救いにあずかる。そこに真宗における真実方便の意義がある。
往生浄土と輪廻は離れぬ経説  
ただ先述したように、仏教における輪廻説をどう考え、どう受け取るかは勿論十分に考慮しなくてはならない。けれども、輪廻説を否定し、死後は信心における大涅槃への帰入(往生浄土)だけを説くのは、真宗教義としては一方に偏しているのではなかろうか。いわんや「全ての人は死んだら大いなる仏のいのちに帰る」などと安易に言ってのけると、死んだら大自然のいのちのはたらきの中に帰るという唯物論的あるいは自然科学的生命観と同列に受け取られかねない。だから往生浄土を説く真宗の教相は、生死輪廻を説く教相と離すことなく説かれてきた。『仏説無量寿経』の説法もそういうスタイルになっている。
釈尊の沈黙の真意
なお「釈尊は死後の存在の有無については説かれなかった」としばしばいわれる点についてである。その根拠は「釈尊の十四無記」説であろう。釈尊のこの無記は、外道からの十四の問いに対して釈尊は沈黙されたといわれる事であるが、十四の問いの中で、「如来は死後に有であるか。如来は死後に無であるか」との問いに対して釈尊は沈黙された。そのことが根拠になって「死後については説かないのが仏教(あるいは真宗)である」かのように時折断定されるが、それは問題である。なぜならこの場合注意すべきは「如来は死後に有であるか無であるか」の「如来は」という点である。〈本来無我なり〉と悟った如来に対して「悟った如来は死後に有るか無いか」と問うならば、その問い自体が意味をなさない。なぜなら、〈我〉が本来無いもの、空であると悟った人(如来)に、〈我〉が死後に存続するかどうかという問いそのものがナンセンスだからである。だから釈尊は沈黙されたのであろう。そして、そのような形而上学的な問題に関わることは解脱への修道にさまたげになると考えられたからであろう。  釈尊は、民衆に説法をされる時は、死後に対して沈黙されたのではなくて、輪廻や死後にふれる説法をされたと伺うのである。 

 

 

●死後の世界 

 

●1.輪廻転生 
 
(1)六道輪廻 −仏教における死後の世界
仏教における世界は、無色界、色界、欲界の「三界」で構成されており、その最下層の欲界は六段階で構成されている。その六つの段階は、天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄からなり、これを「六道」という。そして人間の魂は、この六道の中を輪廻転生(りんねてんしょう)すると考える。したがって死とは、魂が次の世界へ転生することであった。この思想は、インドにおいて古来行われてきたものであるが、仏教思想を通して伝来する中で、中国、日本においては人の生を無限の過去から未来へと開く、新しい思想として受容された。
すでに、古く万葉集の中でも、
この世には人言しげし来む世にも 逢はむわがせこ今ならずとも (高田女王)
この世にし楽しくあらば来む世には 虫に鳥にも我はなりなむ (大伴旅人)
などと、輪廻転生の思想がうたわれている例を見る。
藤原道長などの平安京の貴族では、当時極楽を模した寺院の建立などによる「生ける浄土」の実現を通して、輪廻の思想は常識として行われていたと思われる。人間の魂の転生の最高位は、神となって天上界へ転生することであり、第2が再び人間となって人間界へ再生することである。この世での権力者は、当然死後にもこの世のそれを越えた地位を得て、天上界に転生したいと考えたことであろう。
 
(2)古代貴族の死に方

 

   念仏三昧による極楽往生 −藤原道長
今から約1000年の昔、後一条天皇の万寿4(1027)年12月、一段と冷え込む平安の都、富小路の東に広大な地域を占める土御門京極殿の東寄りに、極楽浄土を模して建立された法成寺阿弥陀堂で、一人の貴人が死を迎えようとしていた。その貴人は、「藤原時代」とよばれる時代をつくり、「この世をば、わが世」と読んだ「御堂関白 従一位太政大臣 藤原道長」(966-1027)である。この「望月の欠けることなき」貴人にも、老いと病いは自分の思いのままにはならなかった。
すでに50歳を越えて出家したころから「風病」(今の風邪ではなく、広義の成人病であり、貴族の多くがかかっていた)に「胸病」(「小右記」)が加わり、足も弱り、眼も見えない状態になってきていた。(岸元史明「王朝史の証言」)11月24日には、背中の腫れ物が胸まで広がり、12月1日にはその腫れ物を針でつぶした(「小右記」)。さらに、消化器系の病気が致命的になってきていたようである。
さてこのような状態になった段階での道長の言動は、「栄花物語」に次のように記されている。まず長子の頼道に対して、祈祷や読経、さらにそばへ来ることまで断り、念仏だけを要求していた。彼は、自分の終焉を阿弥陀堂の念誦の室で迎えたいというのが年来の希望であり、その部屋には高い屏風を引き回し、そこには人を近づけないようにした。
道長の長女彰子は一条天皇の后、同じく次女妍子(9月に死去)は三条天皇の后、三女威子は後一条天皇の后である。つまり三代にわたる皇后の父親が道長である。病気を心配した後一条天皇の行幸と東宮の行啓だけは、かろうじて受けたが、女院や中宮とも顔を合わさず、念仏三昧に過ごしたと言われる。
この阿弥陀堂では、朝夕日中の3回の念仏は平生からもおこなわれていたが、めぐらせてあった屏風の西の方だけをあけ、阿弥陀仏の御手から我が手に5色の糸を引いて、北枕に寝て、最後まで念仏を唱えながら、62歳の生涯を閉じた。12月4日の午前10時ごろのことであった。死んだあとにも口が動いて、念仏を唱えていたといわれる。
阿弥陀堂には、極楽に往生するための段階、九品往生に沿って9体の阿弥陀仏が安置されていたと思われる。9体の阿弥陀仏の安置は、藤原中期以降の阿弥陀信仰の特徴であり、東京の世田谷に今も残る「九品仏」の名もここに由来している。(岩本祐「極楽と地獄」 三一新書)道長は、この世に極楽世界さながらといわれた法成寺をつくっただけでなく、真の極楽世界への再生をかけて、念仏三昧の中で死んでいった。
道長の葬送は、12月7日の夜、雪が降り続く鳥辺野で行われた。阿弥陀堂の南大門の脇の門から出た葬列は20町も続いた。念仏僧は、奈良、三井寺、比叡、岩倉、仁和寺、横河、法性寺の僧や尼僧が参加した。葬場では、院源座主が導師をつとめた。火葬がすみ、骨上げが行われた頃は夜明けとなっていた。甕に入れられた骨は、左少弁章信が首にかけて、定基僧都といっしょに藤原家の墓所がある木幡へ埋葬にいった。そこまでついていった人々も少なくなかったという。
   源信の「臨終の行儀」
藤原道長の死から200年の後、嘉禎元年(1235)4月頃から、三条家の右大臣・藤原実親の妻の容体が急に悪くなった。彼女は死期が迫ったことを知り、出家をして、6月15日夜に亡くなった。
この状況を藤原定家の「明月記」が詳しく書いている。それによると、当日彼女は沐浴のあと浄衣をまとい、清い畳を敷いて端座し、五色の糸を阿弥陀如来像の手から引いて定印を結び、死期を待った。午後2時頃からは、無言で観想を行い、夜半にいたって遷化した。
この女性には、未婚の妹がいて8年前の安貞元年(1227)に亡くなっているが、最後に大病でやせ細った妹は、前日の朝に出家し、死去の日には念仏を数百回も唱え、五色の糸を引いて定印を結び、午後4時頃に亡くなった。これらは源信(942-1017)の「往生要集」(985)の「臨終の行儀」に記された方法に従ったものであり、姉妹ともに絶賛に値する往生であった。(角田文衛「平安の春」)
往生要集は、寛和元年(985)に天台沙門源信により書かれた、念仏信仰の書である。これにより、地獄・極楽のイメージが日本人の心に定着したといわれる。前記の道長の死も明月記に書かれた姉妹の死も、この源信の「臨終の行儀」に従ったものであると思われる。そしてこの行儀に従い臨終を迎えた貴紳衆庶は、おびただしい数にのぼるといわれ、それは「日本往生極楽記」(985-986成立)をはじめとする往生伝に、多数記録されている。
この行儀は、臨終に臨み阿弥陀如来の来迎をお迎えするためのものである。高野山の「聖衆来迎図」を見ると、彩雲に乗った25人の聖衆が、音楽を奏したり舞踏をしながら、金色燦然と輝く阿弥陀仏を囲ぎょうして、しずしずと湖水の面に天下っている光景を描いている。
ご来迎の様子は、身近な人の夢の中などにでてくる。例えば、叡山西塔の沙門仁慶は、死の病の中で、自ら法華経を読み、結縁の衆僧を請じて、読経・念仏を唱えて入滅した。そのとき傍らの人の夢に、大宮大路に五色の雲が空より降りて、音楽と妙なる香りが空に満ち溢れた。仁慶は頭を剃って大きな袈裟を着て、威儀具足して手に香炉を持って、西に向かって立っていた。そこへ雲の中から蓮華台が下りてきた。仁慶はこの蓮台に座して、雲の中を西方遙に去っていった。時の人は、これは仁慶が極楽に迎えられたしるしであるといった。(「大日本国法華経験記」第52)
 
(3)死後浄土への転生 −浄土とは何か?

 

   ナムアミダブツ −念仏往生による浄土への転生
道長は、ひたすら念仏を唱えることにより、極楽浄土への転生を祈願した。いま我々もお仏壇に向かい、鐘を鳴らして「ナムアミダブツ」と唱えるが、道長もたぶん「ナムアミダブツ」と唱えたと思われる。道長の念仏は、極楽往生のためとはいえ半端ではない。56歳の寛仁5年(1021)の「御堂関白記」9月の条によると、1日11万遍、2日15万遍、3日14万遍、4日13万遍、5日17万遍唱えたと記録されている。
称名念仏の「ナム」(南無)とは、仏教語で「絶対的な信仰を表すために唱える語」(岩波書店 国語辞典)であり、「ナム」の後に信仰対象としての仏の名前が続く。これが「称名」である。つまり、「ナム−アミダブツ」とは、私の身命を投げ出して阿弥陀仏の教えに従います(帰命する)という意味である。したがって当然のことであるが、信仰する仏様により「ナム」に続く「称名」が変わることになる。たとえば禅宗では、釈迦如来をご本尊にしていることが多く、そこでは「ナム−シャカニブツ」となる。また観音菩薩に向かっては「ナム−カンゼオンボサツ」、日蓮宗では「法華経」に帰依していることから「ナム−ミョウホウレンゲキョウ」となる。
奈良の大仏様の前では、「ナム−アミダブツ」ではない。大仏は華厳経に基づく盧舎那(ビルシャナ)仏の場合が多い。当然「ナム−ビルシャナブツ」ということになるし、四国のお遍路さんは「ナム・タイシ−ヘンジョウコンゴウ」となる。
念仏往生において念ずる仏の浄土は、「極楽浄土」だけではない。「極楽」はアミダブツの浄土であって、信仰する仏によりいろいろな浄土がある。「浄土」つまり「清浄な仏国土」を意味する述語は梵語にはなく、中国で発達し展開したといわれるが(岩本祐 「極楽と地獄」)、仏の支配する仏浄土は210億もあるといわれ、「極楽」はそのひとつにすぎない。(同書)つまり念仏称名とは、自分の信仰する仏の名を呼び、その仏国土に再生することを、その仏に念願する呪文である。
民芸の研究家である柳宗悦という人が、昭和になって「南無阿弥陀仏」という書物を書いた(岩波文庫)。これは彼の最高傑作といわれている。この中で彼は、「南無阿弥陀仏」という6字でいかに多くの霊が安らかにされたかを語り、この念仏思想を最後に仕上げた一遍上人の歴史的位置を語った。また他力と自力信仰が、山の上ではいっしょになるとする見解を示している。
   聖徳太子の「天寿国」
日本で初めて正式に仏法の摂政を行ったのは、聖徳太子(574-622)といわれるが、太子自体の実像は極めて不明確である。その伝説の集大成でもある「聖徳太子伝歴」(917)によると、畝達天皇4年2月15日、2歳の太子は「掌を合わせ、東に向かって南無仏と唱えて再拝したもう」と記されている。この東方礼拝は、「古今著聞集」(1254)にもでてくる。
阿弥陀仏の極楽浄土は西の浄土であるから、西向きの拝礼になる。東の浄土は華厳経の華厳浄土であり、仏は太陽の化身としての盧舎那仏による蓮華蔵世界である。このほかにも阿弥陀信仰に先立つ地方仏信仰で、阿しゅく仏の妙喜国も東方千世界のかなたにある。
家永三郎「上代仏教思想史」には、「聖徳太子の浄土」に対する詳細な研究が記されている。そこでは中国における仏像の造像銘が多数あげられており、弥勒、釈迦、観音、その他の諸仏の浄土は、すべて西方に設定されていることがみられる。
「天寿国」の方位が明確に記された唯一の傍証として、三井家所蔵の華厳経巻46 開皇3年(583)の奥書がある。そこには、「願亡父母託生西方天寿国」(亡き父母に願い、西方の天寿国へ生を託す)と記されており、天寿国も西方にあるようである。したがって、西方浄土の思想が支配的になった頃に書かれた聖徳太子伝が、東方礼拝と記しているのは不思議である。
   阿弥陀仏の「極楽浄土」
西方十万億土にあるといわれる「極楽浄土」は、阿弥陀仏の仏国土である。阿弥陀仏とその浄土である極楽世界の状況は、浄土教の基本的な経典である「浄土三部経」(大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)に詳しく述べられている。ここでは、その中から「仏説阿弥陀経」に記されている極楽浄土の姿を見てみよう。
「仏説阿弥陀経」は、釈迦が晩年になりその涅槃が近づいた頃、弟子の中でも最も知恵が優れ徳の高い舎利弗を呼び、遺言のように語られたものといわれる。その中で、釈迦は極楽世界について次のように述べる。(暁烏敏「仏説阿弥陀経講和」)
是より西方十万億仏土をすぎたところに、阿弥陀仏の国土があり、これを極楽という。この国では終生、衆の苦はなく、いろいろな楽が受けられることから、極楽という。十国土には、それぞれ七重の欄干のある建物があり、宝珠をつないだ網で飾られ、七重の木々に囲まれ、金・銀・瑠璃・玻璃の四宝がめぐらされている。
また七宝の池があり、八功徳の水があふれている。池の底は、金の砂が敷かれている。池の周りには廊下があり、そこは金・銀・瑠璃をはじめとする宝石で飾られている。上には楼閣があり、これも金銀その他の宝石で飾られている。池の中には大きな車輪のような蓮華の花が咲き、青、黄、赤、白などの色は、それぞれの光を出し、よい香りに満ちている。極楽国土では、このような功徳荘厳が成就されている。
また常に荘厳な音楽が流れて、地面は黄金で造られており、夜昼6時に曼荼羅華の雨が降る。その国の人々は朝早く自分の着物に花をもり、十万億の仏を供養して、自分たちも食事をいただく。またこの国には、いろいろな綺麗な鳥がいて、昼夜6時に優しく雅やかな声で鳴く。その音は仏法にかなったものであり、浄土の人々はこの鳥の声を聞いて、仏を念じ、法を念じ、僧を念じる。またこの国には、そよ風が吹き、木々や飾りが微妙な音を奏でている。その音は、百千種の楽を同時に聞くようであり、自然に仏、法、僧を念じる心がおこる。このような功徳荘厳ができあがっている。
阿弥陀経では、このような極楽世界の美しい描写に続いて、この国土を成仏以来、十劫という長い時間をかけて築いてきた、阿弥陀仏とその声聞の多くの弟子があることを述べる。このような話を聞けば、衆生はこの国に生まれたいと思うであろう。しかし小さな善根や福徳で、この世に来ることはできない。この国に生まれるためには、阿弥陀仏を念じて、1日でも、2日でも、3日でも、・・・・、7日でも、一心不乱に念仏称名を唱えると、阿弥陀仏がお迎えに来てくださると記す。
 
(4)極楽往生を目指す思想 −源信、法然

 

道長の死は、極楽往生を現世の栄華世界の延長線上に求める耽美的なものであった。しかし道長の死から30年後の後冷泉天皇の永承7年(1052)をもって、末法の時代に入ったとする説が普及するにつれて、悲観的、厭世的な暗い念仏信仰に変わっていった。後冷泉天皇(1025-1068)の頃から、この末法思想を裏付けるかのように、平安京では放火が昼夜を問わずに起こり、盗賊は横行し、その上大火、地震、疱瘡、大旱魃、飢饉などの天災地変が相次いだ。
仏教では、釈迦の入滅後の時代を正法、像法、末法の3期に分け、正法千年、像法千年、末法一万年として、永承7年からこの最後の時代に入ったとしていた。人々はこの暗い末法の世の中で、厭離浄土、欣求浄土の厭世的な思想の拠り所を、念仏思想の中に求めた。
   源信の「往生要集」 −厭離穢土・欣求浄土のすすめ
念仏思想は、天台沙門源信(942-1017)の「往生要集」(985)により幕開いた。この書で源信は、浄土往生に関する従来の経論を抜粋、編集し、過去の160数部の文献から950余の文章を引用して、極楽浄土に往生するための思想と方法を説いた。
第1章の「厭離穢土(おんりえど)」では、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の六道の、世界の内容を述べた。特に地獄における等活地獄から阿鼻地獄にいたる8段階の恐ろしい世界の描写は、鬼気迫る迫力を持つ。
第2章「欣求浄土(ごんぐじょうど)」では、念仏をつんだ人が死に臨んだ時、阿弥陀仏が多くの菩薩や比丘達をつれて迎えに来る「聖衆来迎図」を初めとする10の楽をあげて、極楽浄土への転生を勧誘する。
第3章「極楽の証拠」で、十方浄土や兜率浄土に対して極楽浄土が優れている証拠をあげ、第4章から極楽往生のための念仏修行の方法を具体的に述べる。
「往生要集」は、従来の難解な仏教理論に対して、念仏往生のための明解な理論と方法を提起することにより、浄土宗を起こす契機を作り出した。
   法然上人の「選択集」(せんちゃくしょう) −浄土教の確立
日本の浄土教の思想は、源信から約百年後の法然上人(1133-1212)により、さらに発展した。日蓮の言葉を借りると、源信の「往生要集」により日本の1/3が阿弥陀念仏者になり、法然の「選択集」により、日本の2/3が念仏者になった。(日蓮「撰時抄」)
この書は上人の代表作であるのみでなく、日本に浄土教を確立した名著であると言われる。表題の「選択」とは、諸行を捨てて念仏を選び取るという意味である。この専修念仏の選択は、単に法然の選択ではなく、阿弥陀仏の選択であり、また釈迦仏の選択であり、さらに十方常沙(無数)の仏の選択であることを、本書により示そうとした。
法然は、大・小乗の「自力聖道門」は難行道であり、普通の人は選択できない門であると考える。そこで普通の人、たとえば愚鈍下智の者、貧賎の者、少聞少見の者、破戒の者は、易行道としての「他力浄土門」を選択すべきであり、浄土門のほうが聖道門より優れたものとする。その理由は、阿弥陀仏の称号の中に、万徳が帰するものとしている。つまり法然は、選択の根本を専修念仏とし、易行、易修、易往としての念仏こそが、一般大衆に開かれたものと考えた。
平安期の仏教は、基本的には社会の頂点に立つ貴族を対象にしたものであり、その思想も修行も、一般大衆から離れた遠いところで行われていた。つまり道長の極楽往生の方法は、一般大衆はまったく真似ることのできないものであり、そのことは、普通の大衆には極楽往生は不可能であることを示すものであった。源信、法然の浄土宗の思想は、さらに親鸞をへて、一般大衆の極楽往生への道を開くものとなった。しかし「選択集」では専修念仏を強調するあまり、法然は専修念仏以外の人を「破法の人」として切り捨てた。このことが、内に「破法の人」をつくり、外にいる多くの求道の士を敵にまわすことになった。
 
(5)もう一つの仏浄土 −弥勒の浄土

 

   弥勒菩薩の天上の浄土 −兜率天
日本では、阿弥陀信仰による極楽浄土よりも古くから信仰された浄土が、弥勒菩薩の弥勒浄土=兜率天(とそつてん)である。弥勒菩薩は、天上と地上に2つの浄土をもつ仏である。その天上の浄土が「兜率天」である。この浄土は、「仏説観弥勒菩薩上生兜率天経」(略して上生経)に示されている。そこには五百万億の天人がいて、補処の弥勒菩薩を供養するために、五百億の宝宮がある。それぞれの宝宮には、七重の垣があり、その垣は七宝でできている。その宝は光明を、光明は蓮花を、蓮花は七宝の樹を出し、五百億の天女は、樹下に立って妙なる音楽を奏でる。五百億の竜王は、垣のまわりをめぐって雨を降らせる。
ときに、この宮に、牢度抜提という神があって、弥勒菩薩のために善法堂を造ろうと発願すると、額から、自然に五百億の宝珠を出し、摩尼の光は宮中をめぐり、化して四十九重の宝宮となった。九億の天子、五百億の天女が生れ、天楽おのずからなり、天女は歌舞し、その歌を聞くものは、無上の道心を発する。兜率天に往生するものは、みなこの天女にかしずかれる。(速水佑、弥勒信仰 −もう一つの浄土信仰)
この天上浄土は、阿弥陀仏の極楽浄土に比べると、天上では低いレベルにあるといわれるが、そこに描かれるイメージは、極楽に比べてどのように違うか?といっても、ほとんど分からない。
説話では、急死した加賀前司藤原兼隆の娘が、のちに蘇生して冥途の有様を人々に語っている。その中で「これは極楽世界か、さもなければ兜率天上か」と思ったという。あるいは、一条天皇(980−1011)が、子嶋寺真輿に、「極楽のありさまをみたい」と願ったところ、真輿は、極楽ではなく兜率天の内院を現わしたが、その美しさは筆舌につくしがたく、天皇は真輿の法験に感じたという(「子嶋山観覚寺縁起」)。(速見佑「弥勒信仰」から)
このように見ると、浄土往生の先として、極楽と兜率天に大きく差をつけていたようには見えない。その差はどこにあるかというと、極楽に往生できれば、魂はそこでの無限の生を保証されるが、兜率天での生は四千歳(その1日は、人間界の400年)である。そのため悪心があると、兜率天から地獄へ落ちることもある。(道綽「安楽集」)
   明恵上人は兜率天への往生を目指した
明恵上人(1173−1232)は、山城高山寺の開祖であり、華厳宗の中興の祖といわれる。上人は、釈迦の思想とその風土にあこがれ、三蔵法師のようにインドまで旅に出ようと考えたほどであった。また修行に夢を取り入れて、その記録である「夢記」を書いたりした。いろいろとエピソードが多い有名な上人であり、それらの話は、徒然草、古今著聞集、謡曲など、いろいろなものに残されている。
「徒然草」では「栂尾の上人」として登場する。ある日、上人が川で馬を洗う男を見た。この男は、馬に「足、足(あし、あし)」といい、足を引かせながら洗っていた。仏教で梵語の「あ」の字は12母音の最初のもので、宇宙一切の本源・種子の意味をもつものである。上人は馬引く男までが、「阿字、阿字」と尊い言葉を唱えながら仕事をするものと、感心する話が出てくる。しかもその馬は、皇居の警備を司る役所のものとわかり、「うれしき結縁をもしつるかな」といって、上人は感涙をぬぐわれた。落語の「豆腐問答」に似た話である。
また「古今著聞集」では、上人が釈迦の遺跡拝礼のため弟子千人以上をつれて、インドへ渡ろうと考えたが、春日明神の御託宣により中止になる話がある。この話は能の「春日竜神」にもなっている有名なエピソードである。
春日大社は、藤原氏の祖神・天児屋根命を氏神として祀る神社である。平安末期には、同じ藤原氏の氏寺である興福寺の管理下にある神社であった。摂関貴族が神託を得るために利用されており、僧侶が神社の神託によるのも面白い。
春日明神のご託宣は、釈迦在世中ならばインドへ渡るのもよいが、春日明神も仏法守護のためにこの国にいるほどであり、上人も国内にいて衆生を済度すべきであるというものであった。春日明神は、このご託宣の正しさを証明するために、いろいろな不思議を見せる。そこで上人も納得し「涕泣随喜して、渡海の事も思い留り給ひけり」と記されている。
明恵上人の臨終にあたっての儀の沙汰は、弟子により記録された「最後御所労以後事」と、「最後臨終行事事」に詳細に述べられている。その内容は道長の比ではなく、プロフェッショナルの臨終儀式ともいえるものである。ここではその要点のみを記す。
まず、兜率天を選択する理由は、そこで弥勒書薩の教えを聞くことにある。弥勒は釈迦の弟子として実在したとされる仏であり、釈迦の入滅後に未来仏として、再度この世に下り、竜華菩提樹の下で釈迦の教えを説く。それまでは天上の兜率天において、釈迦の教えを説き続けるといわれる。明恵上人は、釈迦の教えを弥勒菩薩から直接聞きたいために、兜率天への往生を選択したといえる。臨終の儀には弥勒仏が安置された。それは弥勒仏を釈迦と同体とし、兜率天への往生を願ってのことであろう。
寛喜3年(1231)は大飢饉の年で、春から京都の町は餓死者が道にあふれるほどであった。5月には飢餓民の暴動がおこり、7月にはさらに餓死者が増える状態であった。この年の秋から上人の病は悪化し、自分が5色の糸になって閻浮台をまわり、人々をみな縫い取る夢とか、虚空を呑んでしまい、すべての衆生草木河海が我が虚空の中にあるといった夢を見る。
翌寛喜4年(1232)1月19日、上人は亡くなった。既に前年の10月から弥勒仏が安置されて、その前に端座して宝号を唱える臨終の儀が開始された。1月10日から病状が悪化した。上人は手を洗い、浄衣を着て袈裟をかけて、結跏趺座して行法座禅に入った。その間、弥勒菩薩のとばりの前の土砂が、紺青色になり、焔を発して部屋中に散った。この行法座禅は、1月の始めから1日に2〜3度繰り返していた。
1月11日には、「置文」つまり「遺言状」を書いた。1月12日から人々を集めて、昼夜不断に文殊の五字真言を唱えさせた。この陀羅尼は、1遍唱えると8万4千の陀羅尼蔵を誦する効果があるといわれる。この間も座禅し法を説いた。この間、何度も呼吸が止まった。弟子たちは、ひたすら宝号を唱え真言を誦した。
16日の座禅では左脇に不動尊が現れた。この日、弥勒の像を学問所に移し、五聖(毘廬舎、文殊、普賢、観音、弥勒)の曼荼羅を東に掛け、南を枕として右脇臥の儀別にならった18日には、諸衆のダラニをやめ、一人しずかに座禅念誦を行った。
19日午前7時頃、手を洗い、袈裟を付け、念珠をとり、看病者に寄りかかり安座して、臨終の時であることを告げ、高声で心地観経と華厳経の一節を唱えた。そして人々には、慈救呪、五字真言と宝号を唱えるように頼み、右脇に臥した。「南無弥勒菩薩」と数変唱え、目を閉じて、静かになった。最後の言葉は、「我戒ヲ護ル中ヨリ来ル」(弥勒が善財につげた言葉)であった。既に、1月の始めから多くの人の夢に明恵上人の往生が現れていたが、19日には、信然阿闍梨の叔母が、西方からたなびく紫雲の中に明恵の立つ夢を見た。
   弥勒下生 −この世を浄土に!
仏教では、その思想が釈迦の入滅後、一定期間の間は正法が保たれるが、その後、像法の時代を通して衰退し、最後に末法の時代を迎えるとしている。それぞれの年数は教団により異なるが、藤原時代以降は、正法千年、像法千年としており、日本では永保元年(1081)頃から末法の時代に入ったとされている。(「扶桑略記」)
さて弥勒菩薩は、釈迦の教えが絶える末法の世までは、天上界の兜率天に住み、そこが弥勒浄土である。 しかし末法の世に入り、五十六億七千万年の後に弥勒仏はこの世に下生(げしょう)する。この時、閻浮台は化して金色になり、この世に弥勒の浄土が実現されるとしている。
一念弥勒を礼拝すると、死後に兜率天に生まれなくても、未来世において、竜華菩提樹の下で、弥勒に値遇することができる。つまり弥勒は地上に下生することにより、地上の閻浮台(=人間世界)は化して金色となり、この地上そのものが仏国土になる。
このような現世の弥勒浄土の思想により、死後の浄土往生のねがいから、長生きする生き物に姿を変えて、この世で修行しながら弥勒の世を待つとか、輪廻転生を繰り返しながらも、弥勒下生のときにこの世に生まれることを切望するという、多様な修行・生き方の道を開いた。
道長は、死後に極楽浄土への往生を目指して、涙ぐましい努力をした。毎日十万回を超える念仏を行い、死に際しては阿弥陀如来と五色の糸で手を結び、死んでからも、口が動いて念仏を唱えているようにみえたといわれる。これほどにも極楽往生を祈求した道長が、同時に弥勒菩薩の下生の暁には、極楽浄土から再びこの世の弥勒浄土に転生したいと考えていた。
道長の弥勒信仰は、吉野の金峰山での埋経のかたちをとっている。平安の中期以来、吉野の金峰山は、弥勒浄土の地とされていた(道賢「冥途記」)。このことから「金の御嶽は(兜率の)四十九院の地なり」(「梁塵秘抄」二六四)などと歌われていた。寛弘4年(1007)8月、道長はこの地を参詣し、法華経や阿弥陀経などに加えて「弥勒上生経」、「弥勒下生経」、「弥勒成仏経」などを金箔の筒に納め、金銅の燈篭を建ててその下に埋めて、「金峰山経典願文」を捧げた。
その願文によると、「法華経」は釈迦の恩に報い、弥勒に値遇し、金峰山の蔵王権現(本地垂迹説では、その本地は、釈迦=弥勒とされる)に親近するため、また「阿弥陀経」は、臨終のときに心身乱れず極楽世界に往生するためである。そして「弥勒経」は弥勒仏が下生してこの世が浄土になったとき、弥勒の法華会を聴聞いて成仏の記をうける際に、この庭に埋めた経典が自然に湧出して、会衆を随喜させるためであった。(「大日本史料」ニノ五)
このような埋経は、道長の娘である上東門院彰子も、長元4年(1031)に行っており、「私は、のちの世に三界を出てかならず極楽浄土に生れ、菩提の道を修し、・・・弥勒の世にも逢って、この経で人々を済度しよう」と記されている。(「平安遺文目録」五、六八号)このような弥勒下生信仰は、貴族社会ではあまり発達しなかったが、院政期に民間で全国的に流行したといわれる。(速水 侑「弥勒信仰 −もう一つの浄土信仰」)
つまり道長の段階では、阿弥陀と弥勒の浄土はあまり深刻な矛盾は示していない。しかし、浄土を死後に求めるか、生前に求めるかは、実は深刻な問題をはらんでいる。通常、「欣求浄土」と、「厭離壌土」は一対の言葉として結合されているが、必ずしも一対の言葉とはいえないわけである。
平安末期から鎌倉初期にかけて、浄土教家の中にも極楽・兜率天への往生に絶望した人々の中から、弥勒下生に活路を見つけようとする人々がでてきた。「古事談」には、後三条天皇(1034−1073)の護持僧の勝範は、「極楽・兜率に往生するのぞみはともにとげがたい。そこで私は幼年から「法華経」を読誦し、この善因によって長寿鬼となり、慈尊(弥勒仏)の下生に会いたいと願っている」と語る。また覚空という僧も、「十八の年から両界供養の法(密教の修法)を勤め長寿鬼となって、慈尊の下生に会おうと願っている、と語る。
叡山西塔の性救という僧は、極楽・兜率往生の望みはとげがたいので、死後、天皇の眷属(けんぞく 家来)となれば救われる日は早いかと思う。また、後に法然門下に入る出雲路の上人覚愉は、はじめ、毘沙門の眷属となり、弥勒の出世を待とうといった。
あげくのはてに、入水・焼身などにより蛇身・長寿鬼になって、弥勒の出世を待とうという行為まで見られるようになった。法然の師であった肥後阿闍梨は、宏才博覧で智恵深遠な僧であったが、おのれの劣機を覚り、浄土往生は難しいと考え、蛇に身を変え長命の果報を得て、弥勒下生に値遇し得道しようとした。そこで叡山を去り、遠江国笠原荘の桜他に入水して、大蛇となって弥勒下生を待つことにした、という「桜池伝説」が、法然上人の伝記に残されている。(「源空上人私日記」)
   便同弥勒 −親鸞聖人の浄土
親鸞(1173−1262)は、阿弥陀信仰において死後に極楽往生を求める思想と、弥勒の世の実現を通して現世に回帰する思想の、矛盾した2つの道を統一的に把握するという、困難な仕事を行った。親鸞が清廉した鎌倉期には、日蓮(1222−1282)による日蓮宗、栄西(1141-1215),道元(1200−1253)による曹洞宗などが登場し、貴族を中心にした宗教から、武士や民衆までが参加する新しい宗教に変わりつつあった。
この中で、親鸞は南宋の王日休の『竜舒浄土文』のなかの、「一念往生・便同弥勒」という言葉を重視した。この意味は、晩年の「御消息集」の中で、「まことの信心あるひとは、等正覚の弥勒と、ひとしければ、如来とひとしとも、諸仏のほめさせたまひたりとこそきこえてさふらえ」と記されており、臨終を待たずとも、阿弥陀の本願を信じたときには、往生が決定するという意味である。このことにより、死後の極楽往生とこの世における弥勒浄土の実現は、統一的に理解されることになった。この意味は、「正像末和讃」の中で、やさしく解説されている。
(原文)
五十六億七千万 弥勒菩薩はとしをへむ まことの信心うるひとは このたびさとりをひらくべし / 念仏往生の願により 等正覚にいたるひと すなはち弥勒に同じくて 大般涅槃をさとるべし / 真実信心うるゆえに すなはち定聚にいりぬれば 捕處の弥勒におなじくて 無上覚をさとるなり
(意訳)
ミロク菩薩は56億7千万年という長い先に人間界へ如来として降臨されるがまことの信心をうる人はこのたびさとりを開くことができるであろう / 念仏往生を願って等正覚のくらいに達した人はそのくらいは弥勒と同じであり臨終の夕には仏果にいたるであろう / 真実、信心がえられるために正定聚の位に入ることができるので捕處の弥勒大士とおなじく無上覚を悟り仏になることができるであろう
 
(6)異相往生 −難行・苦行の浄土行

 

「僧尼令」において、僧の焼身捨身は禁止されていたが、実際には、唱名念仏による極楽浄土を欣求する信仰の他に、焼身、入水という過激な方法で往生を願った僧侶達もいた。
   焼身
焼身は、「法華経」の薬王菩薩普門品の中に出てくる喜見菩薩が、仏の供養のために身を焼く故事を真似たものである。「大日本国法華経験記」(第9)に日本最初の焼身として記されているのは、紀伊熊野那智山の僧応照の焼身である。
この僧は、法華経の「薬王品」を転誦するたびに、喜見菩薩が身を焼き肘を焼いたことに「恋慕随喜」した。そこで念願を起こして、自分も薬王菩薩のように、我が身を焼いて仏に供養しようと思い、穀と塩を断ち、甘い物をやめ、松葉を食べ雨水を飲み、内外の不浄を清めた。焼身に臨んでは、新しい紙の法服を着て、手に香炉をとり、薪の上に結跏趺坐して、西方に向かい、諸仏を勧請して発願の言葉をのべた。定印を結び、妙法を誦し、心の三宝を信じた。体は灰になっても、経の声は絶えなかった。乱れた様子もなく、煙りも臭くなく、沈檀の香の香りがし、数百羽の鳥が鳴いて飛んだ。
この焼身が何時行われたかは明確ではないが、その後、同じような焼身供養が続出した。たとえば、長徳元年(995)9月、六波羅蜜寺の僧が、菩提寺の北辺で焼身供養し、花山天皇や貴族たちが見物した。(「日本紀略」長徳元年9月15日条)その翌日には、近くの阿弥陀ケ峰でも焼身自殺があった。(「百錬抄」同年9月16日条)また万寿3年(1026)(「左経記」7月15日)、治暦2年(1066)(「扶桑略記」5月15日)、には、僧尼が鳥辺野、船岡で焼身自殺し、人々が見ている。
焼身供養の場合は、焼身者の極楽往生のみでなく、見る人々も共に極楽浄土を目のあたりに体験し、浄土往生を期待させるという性格をもっていたといわれる。入水往生は、平安時代の後期、つまり12世紀の中頃以降に実行する人が現れ始める。これについては別項で述べる。
   入水、縊死
その他の異相往生の例としては、桂川への身投げ往生(「宇治拾遺物語」)、首吊り往生(「沙石集」)などが記録されている。
   難行・苦行
往生のための苦行も、いくつか肉体を酷使するかたちで行われた。その第1が断食であり、穀物や塩を断つことである。これについては別に述べているので省略する。
第2は、自分の体の一部を仏に捧げることにより、その代償として極楽往生を獲得する方法をとった人がいた。たとえば、丹波国の仙命という僧は、四天王寺に詣でた時、聖霊堂の前において、手の中指を燈して尊像を供養したら、紅燭の光の前に青竜が現れた。このことから、処々の道場で指に燈して仏に供養した。(「拾遺往生伝」上9)指を焼くことも、焼身の一種として禁止されていた筈であるが、行われた例である。
さらに酷い例で、自分の手の皮膚をはがして仏に供養した人もいた。伊勢国飯高郡上平郷のある尼僧は、長年、手の皮をはいで極楽浄土をそこに写したいと考えていた。しかし自分で剥ぐことができなかったところ、一人の僧が来て尼僧の手の皮をはがして見えなくなり、極楽浄土を写して持ってきて、尼僧はそれを片時も離さなかった。臨終の時、天に音楽が聞こえて、尼僧は極楽へ往生した。(「日本往生極楽記」32)「今昔物語」巻15第51にも、伊勢国飯高郡の老嫗の極楽往生潭があるが、手の皮の話はない。 

 

●2.日本人の死後の世界 
 
(1)仏教の死後世界と臨死体験
   冥途への旅路 死後世界の体験記
本当の極楽浄土とそこへの道程はどのようなものであろうか? といっても実際に本物を見てくることはできない。しかし、慶滋保胤の「日本往生極楽記」や鎮源の「大日本国法華経験記」を始めとする、多数の「往生伝」の中には、夢に極楽世界を見た話や、臨死体験により見てきた話が、数多く登場する。実際に死後世界を見てきた例を見てみよう。
源尊法師という僧は幼児の頃から仏門にあり、日々、法華経の数部を読誦していた。盛年になり、重病を数日病んで亡くなった。死後、恐ろしい閻魔の庁へ行った。その僧は、閻魔王の前で、法華経の第1巻から第8巻までを声高く読んだところ、閻魔をはじめとする地獄の役人は、合掌してこれを聞いた。そこへ貴僧の姿をした観世音菩薩が現れて、汝は元の国にかえり、この経を読めといい、さらに菩薩の力で暗誦できるようにしてあげようといわれた。僧は、一晩たって蘇生し、その後、法華経を毎日3部、自分のため衆生のために読んだといわれる。(「大日本国法華経験記」第28)
また摂津の国豊島郡多々院のある僧は、数十年の間、法華経を読み、三業修行(身・口・意の所行)を行ってきたが、はやり病で亡くなり、死後5日たって蘇った。死後、閻魔王の前に行くと、汝は罪業が深く地獄に残すべきであるが、長年、志しをもって法華経を読誦してきた功徳により、特にこの世にもどしてあげよう、といわれた。
この話にはさらに続きがあり、この世への帰路に僧が見た「あの世」の有様が語られている。そこでは、山野の間に数十の七宝の塔があり、荘厳微妙で僧や聖人が宝塔に向かってすわっていた。口から火をだして七宝の塔が焼けた。このとき虚空に声があり、この塔は僧や聖人が法華経を誦するときに出現するものである。怒りの心を止めて法華経を誦すれば、微妙な宝塔は世界に満ちあふれるであろう。汝はこのことを聖人につげるべきである、といわれた。僧は、この世に蘇生した後に、聖人にこのことを語り、聖人は慙愧の心をおこして、法華経を読誦するようになったという。(大日本国法華経験記」第32)
醍醐寺の僧蓮秀は、この世とあの世の境を見た。蓮秀は、重病により冥途への道をたどり、人間世界の境を越えた。深く幽ある山、険難の高い峰を越えて、その道は遠かった。鳥の声は聞こえず、鬼神暴悪の類がいた。深い山を越えると、大きな河があった。広く深くこわかった。この河の北岸に老女の鬼がいた。その形は醜く卑しくて、大きな樹の下に住んでいた。その樹には、多くの衣が懸けられていた。この鬼が僧に言うには、「この河が三途の河であり、我は三途の河の渡し守である。おまえの衣服をぬいで、我に渡して渡れ!」といった。そこへ4人の天童がきて、この僧は法華の持者で観音に加護されている人です!と言うと、老女は合掌して敬った。天童が僧に言うには、ここは冥途であり、悪業の人のくる所です。はやく元の国へ帰り、よく妙法を持し、観音を称念し、生死を捨て離れて、後に浄土に生れて下さい、と言った。帰途、2人の天童に迎えられて、1晩後に蘇生した。(「大日本法華経験記」、第70)
   阿弥陀来迎
臨終に当たっては、「聖衆来迎図」に見られるように、阿弥陀如来のご来迎を得て極楽往生できれば最高の喜びであろう。しかし実際のご来迎の状況の記述は、多くの往生伝を見ても、関係者の夢の中に現れる場合が多く、詳細な記述は少ない。
しかし「往生要集」の著者・源信については、「臨終の行儀」を現した、いわば「臨終」の作法のプロであり、ご来迎についても正式に行われる必要があった。
「大日本国法華経験記」(第83)の叙述を見よう。寛仁元年(1017)、僧都は重い病の床にあったが、念仏読経を続け、観念行法を怠らなかった。臨終が近付いたとき、兜率天の弥勒菩薩からの使者がお迎えにきた。しかし僧都は、極楽へ往生して、阿弥陀仏の妙法をお聞きしたく、極楽界で弥勒の礼拝をしたいので、弥勒菩薩に極楽往生できるように力を貸してほしいとたのんだ。
源信は、6月10日の午前4時頃、76歳で亡くなった。この時、天に微妙な音楽が流れた。ある人は、楽の音が西から東を指してくるといい、ある人は、東から西を指していくという。また香しい風が吹いて、奇妙な香気が、虚空に満ちあふれた。草木の枝葉は、萎へ衰へた形になり、涕涙鳴咽の声は山林に満ちた。
極楽世界を主宰する仏である阿弥陀には、2つの意味があるといわれる。その1は、時間にかかわるもので、永劫、無限を意味する「無量寿」、その2は、空間にかかわるもので、「碍りなき光」、一切の光を意味する「無量光」がそれである。つまり無限にあふれる光といったものである。
観無量寿経は、どのような人にも、極楽浄土を手にとるように見えるようにするための、訓練マニュアルともいえるお経であるが、その第1ステップは、毎日、落日を見て、次に、目を閉じて落日を心に想い浮かべる訓練を行う。これを「日想観」という。つまり、阿弥陀仏は、沈む太陽を象徴した仏といえるように思われる。
   臨死体験
最近、臨死体験が詳しく研究され始めた。それらは、たとえば立花隆「臨死体験」上・下に詳しく実例をあげ、分析されている。この中で、臨死にあたり、光・香り・音などが共通して現れてくることが報告されている。その一つに、臨死の際における「まばゆい光」の体験がある。それは「太陽の何倍もの白光」であり、一つの解釈として、「呼吸を止めて仮死状態に入ったときに、瞳孔が拡大するので無限光を感ずるのだ」という言葉が紹介されている。
この無限光は、低酸素状態に入ったとき、脳内につくりだされるエンドルフィンという麻薬の作用でおこる恍惚状態と複合してくる。この状態になると、人間にとって「死」はまったく怖くなく、逆に至福の状態になるといわれる。
このような状態に、音や香りが加わる。また場合によっては、体がどんどん上昇する体験も報告されている。無量光は、まさに阿弥陀仏=無量光如来のご来迎であり、そのとき、美しい音楽と香りに満ち、体が浮いて上昇し始めたら、これはまさに仏教的な極楽往生そのものではないかといえる。
現代の人々が、念仏三昧にあけくれて極楽往生するとは考えにくい。むしろ古来の人間の臨死体験に、仏教思想がそれなりの解釈を加えてきたものが「極楽往生」かもしれない。
   「日本霊異記」に見る蘇生と転生
生物学的な「死」とは、呼吸が止まり、心臓が停止した時をもって「生」が終わることをいうのであろう。「あろう」というのは、一時的に停止しても、人工呼吸や電気ショックによって、それらの活動が再開すれば、意識がなくてもまだ死んではいないことになる。つまり死の時点を決めることは、意外に難しいといえる。
仏教的な「死」は、人間界における肉体から、魂が分離して次の世界へ「転生」することを意味する。つまり、魂は多くの場合、欲界の六合世界の中で「輪廻転生」を繰り返すと考えられてきた。ここで肉体から分離した「魂」又は「霊魂」というものが独立して存在するものかどうか? また、それが「輪廻転生」するものかどうか? これらの問題を日本人がどう考えてきたか? これらは、大変面白い問題である。
死んだと思った人が生き返って、その間の体験談を語る。これは最近「臨死体験」として研究の進んできた分野であるが、その古い事例が最も豊富に記載されている「日本霊異記」のケースを見てみよう。
推古天皇の33年(625)12月、紀伊国名草郡の大部屋栖野古の連の公が浪速で亡くなったが、死後3日で蘇った。その間、聖徳太子に会い、共に山頂に登った。太子に、「早く家に帰って、仏を造る所を掃除せよ、私が仏前で懺悔し終わったら、宮へ帰り仏をつくろう」といわれて蘇った。(上巻第5)
膳臣広国は、慶雲2年(705)秋に亡くなった。死後3日で蘇り、地獄へ行った話をした。 (上巻第30)
聖武太上天皇の御代(750-)、摂津の国の金持ちが、漢神の祟りから逃がれようと、毎年1頭の牛を殺して神を祭り、合計7頭を殺した年に亡くなった。死ぬとき、死後9日は火葬にするな、といいつけたが、9日をへて蘇り、地獄の有様を語った。(中巻第5)
天平勝宝元年(749)12月、武蔵国多摩郡の役人であった大伴赤麻呂という人が死んだ。 翌2年5月に、黒牛に生れかわった。その理由は、自分が造った寺の物を借り用いて、そのままにしていた報いであった。(中巻第9)
聖武天皇の御代(724-749)、讃岐国香川郡に一人の金持ちがいた。この男が使用人と薪取りに山へ入り、枯れた松から足を踏み外して死んだ。卜者に伺いをたてると、「7日間は、火葬にするな。」といわれたが、約束の7日目に蘇った。贖った貝を放った功徳により、死後に行くべき宮を見た話をした。(中巻第16)
聖武天皇の御代、讃岐国山田郡の布敷臣の衣女が、急な病で閻魔王の使いの鬼に連れていかれた。このとき、衣女が鬼に門の左右に祭ってあった食べ物をご馳走したところ、そのお礼に同姓同名の人がいたら替え玉にしてやるといわれた。そこで鵜垂郡の衣女が替え玉として鬼に連れていかれてしまった。しかしその替え玉の女は、閻魔王に見破られて無事この世に帰ってきたが、3日たっていたため、既に、体が火葬に付されていた。困った鵜垂郡の衣女が、閻魔王に苦情を申したてたところ、山田郡の衣女のからだがあるならば、そちらへ蘇るよういわれて、そちらで蘇った。しかし山田郡の両親は蘇った娘が、我が家は鵜垂郡にあるといっても納得できない。そこで強引に鵜垂郡へ行って、わたしはここの娘です、というと、そこの両親は娘は既に火葬にしましたという。そこで衣女は、閻魔王の話を両家の両親に詳しく説明した結果、両家の娘となり、「二つの家の宝を得」ることになった。(中巻第25)
聖武天皇の御代、奈良の山寺の僧が亡くなった。死に際し、「自分の死後、3年間は、部屋の扉をひらくな」と弟子に遺言した。死後、49日に部屋の扉の所に、大きな毒蛇がいた。部屋の中には銭30貢が隠してあり、大蛇に生れかわりその銭を守っていたことが分かった。(中巻第38)
神護景雲2年(768)2月、藤原朝臣広足が大和国の山寺において病気で亡くなった。3日目に行くと蘇生していて、死後、閻魔の庁へ行った話をした。(下巻第9)
宝亀4年(773)4月、信濃国小県郡の他田舎人蝦夷が急死した。死後7日日に蘇生して、死後に閻魔の庁へ行った話をした。(下巻第22)
宝亀5年(774)3月、信濃国小県郡の大伴連忍勝という僧が、信徒の暴行を受けて死んだ。5日目に蘇って、地獄から帰ってきたことを話した。(下巻第23)
宝亀7年(776)7月、讃岐国美貴郡の田中真人広虫女が病死した。7日目に蘇ったが、腰から上が牛になり、額には角が生えていた。(下巻第26)
奈良時代に、佐伯宿禰伊太知という人が筑前に下り、病死した。その後蘇って、死後49日の閻魔の庁における苦役の話をした。(下巻第37)
大和国山辺郡の善珠禅師は、下顎に大きな黒子(ほくろ)があった。延暦17年(798)に死去する際、日本国王の夫人丹治比の胎に宿り、王子に生れ変わると予言した。翌延暦18年に丹治比の夫人に一人の王子が誕生し、下顎の右の方に禅師と同じ黒子があり、大徳親王といった。この親王は、3年後に亡くなったが、その霊が卜者に自分が善珠法師であるといった。(下巻第39)
孝謙天皇の御代(750-758)、愛媛県の石槌山に寂仙菩薩という浄行の禅師がいた。臨終に際して、死後28年の後に国王の子として誕生し、名を神野といい寂仙の生まれ変わりであると予言した。それから28年後、桓武天皇の御代の延暦5年(786)の翌年、神野親王が生まれた。この親王が、嵯峨天皇(在位809-823)である。(下巻第39)
「日本霊異記」は116話から構成されているが、そのなかで蘇りと再生に関する話が、上記の12話である。 一割以上を占めているわけで、その後の「往生伝」に比べて、非常に多い。霊異記の成立の時期は、822年頃と見られているが、最後の神野親王の話は、昔話ではなく、在世中の天皇に関する重大な挿話であることに驚かされる。
この日本最古の説話集のなかに、その後に出た夥しい説話や伝承などの原型が、ほとんど網羅されている。古来、日本では死後の霊は、何日かの間、あの世とこの世の間をさ迷っていると思われた。仏教的には、その期間が49日となる。上記の12話からも、死後の蘇りの日数は、3日が4件、5日1件、7日2件、9日1件、49日1件となる。
死後、蘇りまでの日数は、7日以内が7/9件であり、1週間以内で殆どが蘇る。また生れ変わりは、人から人が2件、人から牛が2件、人から蛇が1件となり、その期間は、7日から28年と大きなばらつきがある。
   蘇生と魂呼び
仏教において人の魂が死後に肉体からはなれて、次の世界へ転生するまでの期間は、49日であった。その間、魂は肉体を離れて、あの世とこの世の間をさ迷っていることになる。前記の「日本霊異記」においても、蘇りの期間は、3日から49日であり、3日が最も多かった。
この蘇りの日数は、一般的な死霊に対する取扱いと対応している。つまり、死後3〜49日は、魂が他界へ向かいつつある時なので、死霊の向かう方向、つまり、井戸の底、海の方、山の方、霊山の方、西の方、墓地の方に向かって、タマヨビの儀礼が行われることが多い。遺体は、北枕、西向きにする例が多く、西、北の方角も、タマヨビの方角となる。
「日本書紀」巻11の「仁徳紀」に、3日日に「髪を解き屍に跨りて、三たび呼びて日はく、「我が弟の皇子」とのたまふ。乃ち応時にして活てたまひぬ。自ら起きて居します」として、魂呼びとそれによる蘇生譚が記されている。
平安期にも魂呼びの記録がある。藤原道長の第4女嬉子(後冷泉天皇の母)は、万寿2年(1025)8月5日午後4時、赤斑瘡のため19歳の若さで亡くなった。その夜、雨降る中で、魂呼びが行なわれた。魂呼びは、嬉子の御衣を打ち振り、文言を唱えるやり方で行われた。「小右記」8月7日条には「尚侍殿の御衣を以て、魂喚を修す」とある。「栄花物語」巻26、「楚王の夢」には、男達が「たゆむな、たゆむな」と魂呼びの効果を期待し、僧達は、「観音、観音」と蘇生を祈った。「女房どよめき泣きたる声、制すべき方なく、いみじくゆゆしとは、これをだにいはでは何事をかはと見えたり」と栄花物語は記している。嬉子の遺体は、法典院北僧房に安置され、8月15日夜、蓮台野で火葬にされた。死後、10日目のことであった。
 
(2)神道の死の世界 −清浄な生者の世界と穢れた死者の世界

 

仏教における人間は糞尿のかたまりであり、その人間達のつくる人間世界は、8世紀に最澄が「願文」に記すように、「三災(刀兵災・疾疫災・飢餓災、ないしは火災・水災・風災)の危(あやうき)に近づき五濁(劫・煩悩・衆生・見・命の汚辱)の深きに没(しづ)む」五濁悪生の末世の世、つまり「穢土」であるとしている。そのため、この穢れた人間世界から、念仏修行により極楽浄土に転生したいとする思想が「厭離穢土・欣求浄土」という考え方になって出てきた。これはインド、中国から朝鮮半島を経由して伝来した仏教の考え方であるが、それ以前からある日本的人間世界の考え方とは、逆のものであった。
日本の古代思想は、むしろ死後の世界を穢れたものとし、生者の世界を清浄なものと考えた。日本神話において、国生みを行ったイザナギ・イザナミの2神は、次々に神生みを行った。岩石、土砂、家屋、風雨、海、山などの神を生み、最後に火の神カグツチを生んだ時、イザナミは局部のやけどにより死んでしまう。この病臥中のイザナミが苦しんで吐いた嘔吐物や糞尿からも、鉱山、粘土、漕漑用水、食物の神が生み出される。つまり、汚れた人間の排出物から、人間の食べる食物が出てくるわけで、この世は汚れたものという思想は全く感じられない。
しかし、イザナギが死後のイザナミの所を訪れたとき、そこで見たイザナミの体には、気味の悪い姐虫がわき、腐れ爛れた頭、胸、腹、手足、陰部には、恐ろしい雷神がうずくまっていた。
この恐ろしい死の世界から逃げ出したイザナギは、追い掛けるイザナミをふりきり、大きな岩で黄泉比良坂を塞いだために、生の国である高天が原と死の国である黄泉の国の2つに分れたとする。この黄泉の国は穢れた国であるために、そこから出たイザナギは、お清めのための「ミソギ」を行う。今でも、日本人が葬儀の後、自宅へ入る時に、清め塩によるミソギを行う。これは仏教儀式とは無縁のものである。
日本神話における高天が原は、神々のふるさとであり浄土であるが、極楽浄土のように死者の世界ではなく、清らかな生者の国である。
   高天が原 −天空にある神々の浄土
「日本書紀」の注釈書である「釈日本紀」には、「高天原は、私記に言う。師説は、上天を請うなり。案ずるに虚空を言うべきなり。」と注記している。「日本書紀聞書」にも、「虚空をさす」とあり、「神代紀抄」には、「神道ニハ雲中ヲサス也」とある。つまり、上代には単に、「上天・虚空・雲中」にすぎなかった「高天が原」は、中世神道において、陰陽五行や仏教思想と習合して、心身論的な解釈が加えられていく。
たとえば、八剣勝重の「中臣祓句投」には、「謹て按ずるに、高天原は上天の謂なり。人ありて一物なく、之胸中なり」とあり、忌部正通の「日本紀神代口訣」には「高天原は、空虚清浄の名なり。人ありて一念なく、胸中なり」という。つまり高天原は、天空にある神々の浄土ではあるが、極楽浄土などとは全く異なり、死者が死後に行く場所ではなく、生きている神々の浄土であった。(鎌田東二「異界のフォノロジー」)
   黄泉の国と常世の世界 −死者の国々
死者の行く世界は、黄泉の国である。そこは穢れた邪霊や悪神、死霊の国であり、根の国、底の国、また古事記では根の堅洲の国と呼ばれた。上代の日本人は、単純に人間の生活する現世は太陽の満ちあふれた光明の国であり、善神が主宰する楽土であると考えた。これに対して死者の居所は黄泉の国であり、そこは永遠に光のない暗黒世界であり、悪神が支配する汚辱の国であると考えた。疾病、罪悪、災厄のごとき、あらゆる厭うべき、忌むべき物は、すべてこの世界に属するものと考えた。
「底」の国は、必ずしも地下に限定されず、現世を遠くへだてた国とも解釈されている。古事記には、太陽神アマテラスの弟のスサノオが、黄泉の国を慕って泣き叫び、そのためイザナギは怒って、スサノオを黄泉の国へ追放する話が出てくる。そこでスサノオが赴く先は、出雲の国であり、このことから古代の出雲の国が、「根の国」に対比されることになる。
そしてスサノオの信と愛を受けて、出雲の国を支配したオオクニヌシは、黄泉の国=根の国の王となった。このオオクニヌシと一緒になって、この出雲の国をつくり固めたのがスクナヒコナの神である。この神は、オオクニヌシが出雲の美保の岬にいたとき、船に乗って海外から渡来した神である。このスクナヒコナの神は、出雲の国造りが成功した後に、「常世国」へ旅立った。スクナヒコナは、記紀にはわずかに登場するのみであるが、各地の風土記や万葉集に歌われていて、古代の日本人にとってかなり身近な神であった。しかもこの神の行く先が、今一つの死者の故郷の「常世国」である。
この国は光明のない死者の地である黄泉の国ではなく、仏教の極楽世界のようなユートピアのようである。この常世の国は、アマテラスの有名な岩戸がくれの段にも登場する。
アマテラスは、弟スサノオの乱暴に困り果てて、天の岩戸を閉ざして籠ってしまった。太陽神アマテラスが、岩戸を閉ざしたために、高天原も日本列島もすべてが真っ暗になり、一斉に災いが起こり始めた。そこで神々が天安の河原に集まり、一計を考えた。岩戸の前で鶏を鳴かせて暁を告げさせ、賑やかなお祭りを始める。自分がいないのに、なぜ朝がきてお祭りが始まるのかと、不審に思ってアマテラスが少し、岩戸を開けたところで、鏡を差し出す。それにアマテラスの光があたると、さらに不審に思って、いま少し岩戸を開けようとする。そこを、力自慢のタジカラオの神が、一挙に岩戸を開いてアマテラスをお迎えしようという計画である。このときに登場した鶏こそが、「常世国」から集めた長鳴鳥であった。
さて「常世国」は、江戸末期の国学者鈴木重胤(1812-1863)の「日本書紀伝」では、3種の意味があるとする。(1)常世長鳴鳥の棲息する日の出の国の意味、(2)万葉集巻一に、「わが国は常夜にならむ」とあるごとく、永久不変の意味、(3)遥かに隔たって容易に交通できない海外の国の意味、である。重胤は、スクナヒコナの常世国は、この(3)の意味であるとしている。
「常世国」は、朝鮮半島とする説がある。また、書紀一書の第六では、スクナヒコナは、「熊野の御碕にいたり、ついに常世郷にいでましぬ。」またの説では、「淡路島に至りて、粟茎により、弾かれ渡りて常世郷にいたる」とある。つまり根の国は、地下の国ではあるが、現世では、出雲とか熊野がそれに当てられてきた。それらは、邪霊の支配する暗黒の世界ではない。特に熊野は、神仏習合の思想ともあいまって、死者の霊が集まる聖地として位置づけられるようになった。
 
(3)儒教における死後世界

 

日本の神道は、現世利益を中心につくられているため、死後世界は仏教のそれに比べると、非常に単純な形で考えられていることが分かる。そして、中国の儒教はさらに現世を中心につくられているように見える。
「論語」には、弟子が孔子に死の祭礼について尋ねる話が出てくる。(先進第11)「子路が、孔子に鬼神に仕える方法について尋ねた。すると、孔子は、生きている人にもまだ十分仕えることができないのに、どうして鬼神に仕えることができようか、と答えた。さらに、子路が死についてたずねると、生きている人間のことが分からないで、死後の問題などわかるものか、といった。」
儒教で「鬼神」とは、死者の魂のことをいう。この鬼という言葉は、論語で次の2か所にでてくる。
(1)子日く、その鬼に非ずして之を祭るは、諂いなり。(後略)(為政第二)孔子がいうには、祭るべき鬼でないものを祭るのは、これはほかに求める心のある諂い である。この場合の鬼は、祖先の霊魂のことであるが、一般的に神のことを鬼という場合もある。つまり、祭るべき祖先の霊魂を祭らず、いい加減な祭りを行うことは、諂いである、と孔子はいましめている。
(2)樊遅、知を問う。子日く、民の義を努め、鬼神を敬して之を遠ざくるは、知をいうべし。(後略)(雍也第六)樊遅が知者の態度を質問した。これに対して孔子は、人として行うべき道を努力して努め、鬼神に対しては崇敬の念をいたすが、これを汚す事の内容、近づきなれることをしない。これが知者の態度であると答えた。
さらに、魯の大夫の孟懿子が、孔子に親孝行について聞いたときに、次のように答えている。親の存命中は、身分を越えない礼を以てこれに仕え、親がなくなった時は、礼を以て葬り、礼をもって年忌の祭りをいとなむ。かくのごとく、生けるにも死せるにも、身分を越えない礼をもってこたえるのが、孝道である、と孔子は説明する。
孔子にとっての死者は、それを祭るという観点からのみ関心があることが分かる。儒教には、祖先崇拝の信仰があり、子孫は死んだ祖先に敬虔と愛を捧げることにより、死者からこの世での幸福を得る事ができ、死者は、子孫の規則的な奉仕により幽界での安寧を得ることができると信じられている。
そのため、死者を生きているように思慕し、祭祀を行うことが子孫の義務とされている。祭祀されない人鬼は、生者に災いをなすと考えられた。人は死ぬと幽界へ行き、幽界での生活をしており、鬼神は人間に類似した形態と機能を持つと思われていた。しかしこれらの死者の世界が、どこにあるかは不明確である。津田左右吉の「上代支那人の宗教思想」(全集第28巻所収)によると、「幽都」という言葉があるものの、単なる地中世界、また陰陽思想から陰の方角として、北方の地といった程度の漠然としたもののようである。
韓国では儒教の影響は非常に強いものの、他宗教の影響も多く、儒教のみで語ることはできないが、死後の世界は津田左右吉の言うように西ではなく、北の方角に設定されている。
韓国では、死後世界のことを、チョスン(あの世)と呼び、日本と同じ「黄泉」(ファンチョン)という言葉も使われている。そして日本と同様に、人の死後、死者の上着を持って庭に立ち、あるいは屋根に上がって死者の氏名を大声で呼ぶ「魂呼ばい」の儀式も広く行われている。ただこの場合に、通常は、家の裏で北に向かって行う。
この北の方角での死後世界の設定は、陰陽五行説において北を陰の極地とすることからきており、「あの世」は、北の空の彼方、山を越え、川を越えたはるかに遠い所にあると思われている。それは平地三千里、険路三千里を越え、さまざまな地獄を越え、さらに雁の羽も沈むといわれる弱水三千里の彼方にあるといわれる。「あの世」が、このように遠いので、葬送に当たっては、十分に旅装を調え、食料や旅費を持たせてやる習慣がある。(竹田旦「韓国における他界観について」−環中国海の民俗と文化3「祖先祭祇」凱風社、所収)
 
(4)日本仏教の死後世界

 

日本人の死後世界は古来、神道、仏教、儒教、道教、景教などが、いろいろな時代を通じて渡来してきたため、それらが混在、習合した複雑なものである。すでにそのうちから、死後の世界観に最も大きな影響を及ぼした仏教における浄土をみてきた。そこで次に、極楽浄土の対局にある地獄とそこへの道程について眺めてみる。
822年につくられた「日本霊異記」には、死後、閻魔王の前で地獄の審判を受ける話が多数記載されている。しかし日本で死後世界の道筋や、閻魔王庁の詳細が民間信仰としてまとめられたのは、平安末期に日本でできた偽経といわれる「地蔵菩薩発心因縁十王経」のあたりからであろう。そこには俗説の死後の旅が詳しく記されている。
   死出の山路
まず、閻魔王の国境に、死天山の南門がある。非常に険しい山で、死後にまず遭遇する難所とされる。「千載和歌集」(1188)に、鳥羽院(1103-1156)の御製として「死出の山路」が歌われている。
常よりも睦まじきかなほととぎす 死出の山路の友と思えば
また、南北朝の動乱で、足利高氏が京都に攻め込んだ時、六波羅の北の探題であった北条仲時は、落ち延びて近江番場で自決した。元弘3年(1333)5月のことである。それは432人が切腹し自決する凄惨な戦いであった。仲時の父は、わが子の死をきき、
まてしばし死出の山路のたびの道 同じく越えて浮世語らむ
とよみ、あとを追って自決した。ここで歌われている死天山の発所である「死出の山路」が、冥途の旅の第1歩となる。
「日本霊異記」に登場する閻魔庁では、閻魔王に8人の宮人(つかさびと)が奉仕している程度であった(上第30)。しかし「十王経」の段階になると、閻魔王が支配する冥府は、10人の王の役所が並び、死者はそこで裁断をうけて行き先が決まる組織的なものになっていた。しかもこの冥府での手続きは、即、死者に対する葬送の儀式に対応するものとなっていた。
   秦広王=不動尊
まず、死出の山を越えて死後の初7日に、第1王廳である秦広王の所につく。秦広王の本地は、不動尊である。すべての死者は、ここで一息切断、つまり一息ついて、来世への第一歩を踏み出す。地獄へ落ちる人は、ここで早くも行き先が決まる。この第1王廳から第2王廳の初江王の所へ行く途中で、三途の川を渡ることになる。
   三途の川
「三途の川」は、別名を渡り川、三つ瀬川、葬頭河など、いろいろの名で呼ばれる。「蜻蛉日記」(972-976成立)には、「みつせ川、浅さのほども知られじと、・・」とあり、また「源平盛衰記」巻十に、「冥途の三途川こそ思ひやらるれとて、思ひやれ、くらき暗路のみつせ川、瀬ぜの白波・・・」。「古今和歌集」(908-913)には、小野篁(802-852)が妹を亡くしたときの歌に、次のものがある。
なく涙、雨と降りなむ渡り川 水まさりなば返へり来るがに
日蓮(1222-1282)は、「十王讃嘆鈔」で「三途の川」について詳しく説明している。それによると、この川には3つの渡しがある事から、「三途」と呼ぶわけで、浅い所は罪の浅い人が渡り、善人は金銀七宝でできた橋を渡る。悪人は、強深瀬という流れが早く、波の高い所を渡る。悪人は地獄へ入る前にこの川渡りで大苦をうけ、7日7夜をへてやっと向う岸につくことになる。
「十王経」も大体において同じであり、その後で、死者の衣服を剥ぐという懸衣翁と奪衣婆について記している。「十王経」は、平安末から鎌倉期にかけて成立したもので、「三途の川」の信仰も鎌倉期から普及してきたようである。
太平記にも、「さては誰がために暫しの命をも惜しみ候べき。死出の山、三途の大河とかやをも、共に渡らせばやと存じ候へば、ただ急ぎ首を召され候へ。」(下29)「師直以下誅せらる」)といったように、冥途の対句として使われている。
中国では、既に六朝時代に冥府に川があることが知られており、冥府遊行のいくつかの説話がある。しかし、日本では「蜻蛉日記」(10世紀後半)が初出といわれる。
また「日本霊異記」(822成立)には、「三途の川」という名前はないが、冥府の川は2か所で登場する。慶雲2年(705)9月、一度死んで蘇った膳臣広国という人が、冥界へ行く途中の「路の中に大河あり、橋を度い、金を以て巌れり」という。また、別の話で、神護景雲2年(768)2月、同じく死んで蘇った藤原朝臣広足が、冥府へ「往く前の道、中断して深き河有り、水の色黒黛くして流れ不、沖く寂びたり」と述べている。つまり日本でも、冥府に川があることは、かなり古くから知られていたようである。
   初江の王=釈迦如来 さて三途の川を渡ると、閻魔の国の官庁が連なるのが見えて、まず、最初の初江の王のところへ行く。「十王経」は、「葬頭河の曲、初江の辺において官庁相連なり、渡さるるを承く。」と記している。この王は、本地釈迦如来といわれ、死後27日(ふたなぬか)、つまり2×7=14日にここを通る。餓鬼道へ落ちる人が決まる。
   宗帝王=文殊菩薩 本地は文殊菩薩であり、37日(みなぬか)、3×7=21日にここを通る。聡明智略で冥官に尊敬されている王であり、畜生道へおちる人が決まる。
   五官王=普賢菩薩 本地は普賢菩薩であり、4×7日(28日)でここを通る。五官は五刑であり、刑罰を司る。修羅道へ落ちる人が決まる。
   閻魔大王=地蔵菩薩 地獄の総主であり、本地は地蔵菩薩である。5×7日(35日)でここを通る。悪行の人を断じて仏果に至らしめる。人間に生まれ変わる人が決まる。
   変成王=弥勒菩薩 本地は弥勒菩薩であり、6×7日(42日)で通る。煩悩を断盡し、心法を植え付ける。天道へ行く人がきまる
   太山王または太山府君=薬師如来 本地は薬師如来であり7×7日(49日)で通る。この王は、閻魔大王の太子であり、常に大王の傍らにあって、人の善悪を記する役割を行う。最終、次に生まれる世界が決まらなかった人もここで決まり、中有が終わる。
   平等王=観音菩薩 本地は観音菩薩であり、100ケ日を司る。この王は、よく世の音を観じて、平等に解脱させることから、この名がある。善人、悪人にかかわらず、我が子のように慈悲をたれ、平等に解脱させる。
   都市王=勢至菩薩 本地は、勢至菩薩であり、1周忌を司る。遍く一切を照らして三途を離脱せしめ、涅槃の果を得せしめることを本誓とする。
   五道転輪王=阿弥陀如来 本地は阿弥陀如来であり、3年忌を司る。五道の巷に住して妙法輪を転じて、衆生の悪業を催破することからこの名がある。このように死者が、死後に10王の官庁をめぐる手順は、残された家族にとっての仏事とかかわっている。しかしその後に、10王に更に3王が加わり、7年忌を蓮生王=阿しゅく如来、13年忌を抜苦王=大日如来、33年忌を慈恩王=虚空蔵菩薩が司ることになった。
   中陰=死後転生までの服喪期間(7〜49日)
仏教には「中陰」という言葉がある。中陰は中有ともいい、次の生をうけない期間である。この期間は、早い死者は秦広王のところで初7日で決まる。遅い死者は太山王のところで49日で決まるとされる。そこで49日を「満中陰」といい、ここで喪が明ける。
江戸時代の中期に、伊勢貞丈が表した「貞丈雑記」には、「中陰というは、人死して七七、四十九日の間をいう。中有ともいう。四十九日の間は、死したる人、極楽へも行かず、地獄へも行かずして、迷いありくによりて、法事をして、極楽へ赴くようにすることなりとぞ。これは出家がたの説なり。」とある。そこでこの中有の間は、7日ごとに仏事を行い、死者に回向して、その冥福を祈るわけである。49日を越える百日忌、一周忌、三年忌は、中国的な祭祀習俗が付加されたものと考えられる。
 
(5)八大地獄

 

極楽世界については既に詳しく述べたので、地獄について述べる。地獄は、大地の下の4万由旬の所にあるといわれる。1由旬は、20〜30kmといわれるので、地表から100万kmの地下にあるということになる。しかしこの距離は、極楽が十万億土という遠い先にあることを考えると、非常に近い距離にあることになる。
地獄は、八大地獄で構成されている。最下層の阿鼻地獄から、順に大焦熱地獄、焦熱地獄、大叫喚地獄、叫喚地獄、衆合地獄、黒縄地獄、等活地獄の8つがそれである。さらに、この八大地獄の近辺には、おのおの16の地獄があり、その数は128になる。これに八大地獄を加えて、総数は136ある。
これらの地獄の場所は、人それぞれの罪の軽重にしたがって落ちて行くとしたので、餓鬼はその字のごとく飢餓に苦しむ境涯であることから、須弥山の外輪をなす鉄囲山の間の、日月の光がささない所にあるといわれる。また、修羅は、闘争を繰り返す境涯であるため、須弥山の東西1千由旬の外にあるとか、大海の下、2万1千由旬のところにあるとか、仏教的宇宙のいろいろなところに造られているようである。この地獄の複雑さや壮大さは、極楽世界の単純さに比べて、驚くべきものである。「往生要集」(985)に詳述されており、以下、簡単に述べる。
等活地獄 「等活地獄」は、地獄の最上層部にある。ここの罪人は互いにいつも敵愾心をいだいており、互いに傷つけあう。獄卒の鉄棒などで粉々にされるが、風がふくとすぐ元の形にもどる。生き物を殺した人が落ちる地獄である。この地獄の4つの門の外にはさらに、糞尿でどろどろになり、中に虫が充満した「屎泥処」、また周囲を鉄の壁に囲まれ、中には猛火が燃え盛り、刀の林が人を傷つける「刀輪処」、罪人を鉄の甕に入れて煮る「瓮熱処」など、16の地獄が付属している。
黒縄地獄 「黒縄地獄」は、等活地獄の下にあり、罪人は熱した鉄の地面に臥せさせられ、熱い鉄の墨縄で縦横にからだに墨がうたれ、墨に合わせて熱い鉄斧、鋸、刀で切り刻まれる。体はばらばらの断片になり撒き散らされ、風がふくと体に縄がからまり、肉を焼き骨を焦がす。左右の鉄の山の上には、縄を張り、その下に煮えたぎった釜を置き、罪人は鉄の束を背負って釜の上の縄を渡る。この地獄の苦しみは、等活地獄とその付属地獄の十倍も重いという。
衆合地獄 「衆合地獄」は、黒縄地獄の更に下にある。多数の鉄の山が向い合ってあり、罪人は、牛、馬の頭をした獄卒にここへ追い込まれる。すると山が両方から迫ってきて、罪人は潰され、体は砕け、血は地上に溢れる。鉄の山は空から落ちて罪人をくだき、あるいは、罪人を石の上に置いて潰す。残忍な獣、鳥、鷲が罪人のはらわたを、先をあらそって食い荒らす。火の川があって熱い赤銅がとけて流れている。地獄の鬼は、罪人を捕らえてこの中に投げ落とす。罪人は、手をあげて泣き叫び、助けを求めるが、だれも助けてくれない。
叫喚地獄 「叫喚地獄」は、衆合地獄のさらに下にある。金色の頭の地獄の鬼が、目の中から火をだし、赤い着物をきて、恐ろしい声をだし、鉄の棒で罪人の頭を打って、鉄の地面を走らせ、熱い炒り鍋や熱い釜に罪人を入れてあぶり、煮たりする。また金鋏で罪人の口を開け、煮えた銅を流し込むと、内臓から肛門まで流れ出てくる。
大叫喚地獄 「大叫喚地獄」は叫喚地獄の下にあり、生き物を殺したり、盗みをしたり、よこしまな淫にふけったり、酒を飲んだり、嘘をついたものが落ちる。ここでは、前の4つの地獄と16の特別な地獄で受ける苦しみを、10倍した苦しみを受ける。この地獄へ落ちる理由をみると、現代に生きる人間は、すべてこの大叫喚地獄より下に行くしかないように見える。この恐ろしい地獄の表現は難しく、「往生要集」も内容を書いていない。ただ付属する特別地獄の「受鋒苦処」において、罪人は熱い鉄の針で唇と舌を刺し通されて、もはや泣き叫ぶことさえできない。また受無辺苦処という特別の地獄もある。地獄の鬼が熱い鉄の金鋏で罪人の舌を抜くが、抜くとすぐ生える。生えるとすぐ抜く。目をくり抜くと、これも同様になる。大叫喚といいながら、叫ぶこともできないという、恐ろしい地獄である。
焦熱地獄 「焦熱地獄」は、大叫喚地獄の下にある。地獄の鬼が罪人を熱い鉄の地面に横たえ、頭の先から足の先まで熱い鉄の棒で打ったり、突いたりして肉団子のようにしてしまう。あるいは鉄鍋のなかで罪人を煮たり、焼いたりする。鉄串で尻から頭まで突き通し、繰り返し炙る。この地獄の豆粒ほどの火でも、地上世界では大火になるほどのものである。この地獄に付随した分茶離迦処という地獄では、罪人の体中けし粒ほどの余地もないほど火炎につつまれる。また闇火風処という地獄では、罪人が悪風によって吹き上げられ、掴まる所もなく、車輪のようにくるくる回っている。
大焦熱地獄 「大焦熱地獄」は、焦熱地獄の下にあり、前の6つの地獄の10倍くらい苦しい。ここに来る罪人は、死後、地獄に落ちるまでに、大地獄の苦しみや恐ろしい状況を見せられたうえでやってくる。この状況に恐れおののく罪人を、地獄の鬼は火炎の塊の中に突き落とす。この地獄に付属する地獄も、大空までことごとく燃え盛るところで、何億年ものあいだ、たえず焼かれる。また普受一切苦悩処という地獄では、炎をあげる刀で、体の皮膚をすべてはがされ、熱い地面の上で焼かれ、更にどろどろに溶けた鉄が体に注がれる。
阿鼻地獄 「阿鼻地獄」は、大焦熱地獄の下にあり、欲界の最下底の地獄である。罪人はここへ落ちていくとき、その間も泣き叫ぶという。二千年もかけて逆さになって落ちつづける地獄である。地獄の城のまわりは、刀の林に囲まれ、四隅には銅製の恐ろしい犬と18人の恐ろしい鬼がいる。その牙からは火を吹き出していて、頭は羅刹、口は夜叉、64の目をもち、鉄の塊を吹上げ、撒き散らす。前の7つの大地獄とそれに付属する特別の地獄でうける苦しみを全部合わせたものの、千倍を越える苦しみを味わうことになる。
以上の8大地獄に、それぞれ16ずつの特別地獄がついており、総数136の地獄の壮大さは想像を絶するものである。「往生要集」は、その主要な部分を非常な迫力をもって描写しており、そのいくつかの部分は「地獄図絵」に措かれて今に残る。記述の中で、極楽と地獄について詳しく述べたが、それを含めて、仏教世界の概要をまとめてみる。
 
(6)三界 −欲界・色界・無色界

 

欲界 「欲界」は、食欲、性欲をもつものの住む世界であり、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の6つの世界からなる。これを「六道」といい、人間の魂は、死後にこの六道を輪廻転生する。「道」は、世界とか境界を意味する。
色界 「色界」は、欲界の2欲を離れたものの住む世界であり、清浄なすぐれた物質からなる世界である。4つの禅を修めたものが生まれる天といわれる。
無色界「無色界」は、物質を越えた世界であり、4つの禅 四無色定 を修めたものが生まれる世界であり、この無色界の最高が「有頂天」となる。
 
(7)六合 −欲界の内容

 

地獄 欲望にまみれた者の住む世界であり、欲界の最下層をなす。八熱地獄とそれに付属した16の小地獄、および八寒地獄、弧地獄などがある。
餓鬼 常に飢えと渇きに苦しめられている、鬼たちの住む世界である。鬼には、9鬼、36鬼などがある。これらの餓鬼には、人の住む所を住居にするものと、餓鬼の世界にすむものがいる。餓鬼の世界は、閻魔大王の国と、今一つは人間と天の世界の中間にあるという。「正法念(処)経」では、「物おしみをし・貪り、嫉み・妬んだものが、餓鬼の世界に墜ちる」という。
畜生 鳥・獣・虫など、すべての動物の住む世界である。愚痴で、恥知らずの人がこの世界に生れ変わる。地獄、餓鬼、畜生の3つを三悪道、三悪趣といい、三塗にあてる。
阿修羅 阿修羅の城は、須弥山の四方の海中にあり四王がいる。いつもさまざまな天によって侵害され、身体をそこない、若くして命を落とす。毎日、昼夜を問わず苦しみがせまり、憂苦が絶えない世界という。
人 人間世界は、不浄、苦しみ、無常の3つの相でみられる。
天 欲界に六欲天、色界に四禅天、無色界に四無色天がある。欲界の天を地上に近い方からあげると、(1)四天王天、(2)三十三天、(3)夜摩天、(4)兜率天−都史多縁天、(5)化楽天−楽変化天、(6)他化自在天の6つである。
極楽浄土 そこで極楽浄土は、三界のどこにあるのか?というと、それが必ずしも明解ではない。通常は、天にあると思いがちであるが、とすれば、欲界の天なのか?それとも無色界の有頂天なのか?「大無量寿経」をみると、阿弥陀浄土を欲界の第6天である「他化自在天」に比較する箇所が、いくつか登場する。
たとえば「大無量寿経」のなかに、極楽浄土の宝は「一切世界衆宝の中の精なり。其宝猶し第六天宝のごとし」と記しており、極楽浄土の宝は、第六天に存在する宝と同じくらい美しく立派であると述べている。また、別の箇所では、「処する所の宮殿・衣服・飲食・衆の妙華香・荘厳の具、猶し第六天の自然の物のごとし」と記しており、極楽浄土の物は、第六天に備えられているものと同じだ」とも言っている。
ここで極楽浄土の文物が、常に第六天のものと比較されていることに注意する必要がある。つまり、極楽浄土は第六天と比較されるものの、天上にはなく、どこか遠い地の果てに設定された浄土なのである。この点、天上の「兜率天」とは全く異なる浄土といえる。 

 

●3.来世への生き方 
人間として生まれた以上、最後に死ぬことはやむをえない。しかし、その死を迎えるにあたり受け身で仏のご来迎を待つよりも、修行によって自分自身が仏と一体化し、さらに、十万億土という遠い極楽世界へ行くよりも、遠い未来であってもこの世の浄土に転生したいという願いが、平安末期頃から現われ始めた。このような願いは、真言密教、修験道、弥勒信仰と結び付いて、新しい死に方と生き方を作り出した。
 
(1)弥勒下生
弥勒菩薩は、天上と地上に2つの浄土をもつ仏であり、弥勒の天上の浄土を「兜率天」という。釈迦の滅後、56億7千万年をへると、弥勒仏は兜率天から地上に下生(げしょう)し、華林園の中の竜華樹のもとで三会の説法を行い、万人を兜率天に済度する。そのときからこの地上が弥勒の浄土となる。このことから、弥勒下生にともなって、地上の浄土に生まれて、弥勒三会に値遇する(下生)とする信仰がひろまった。
56億7千万年という未来は、実感できないはどの先のことである。しかし、「いまこそ弥勒下生のとき」とか、「**は、弥勒の化身である」とすれば、いますぐこの世に「弥勒浄土」が実現できるわけであり、阿弥陀信仰が死後の世界に信仰の対象を置いたのに対して、現世における未来志向の性格を持つ信仰となった。
   空海入定
弘法大師空海は、承和2年(835)3月21日、高野山で入定した。「弘法大師・・・五輪の即体を緑苔の洞にとどめ給へり。凡願力によりて依身をとどむること、天竺には迦葉尊者はるかに鶏足附受の暁を期し、日域には弘法大師まさに竜華下生の春をまち給ふ。」(聖戒「詞書」)とある。難しい言葉であるが、弘法大師は生きたままのお姿を、緑の苔が生えた洞窟の中にとどめられた。未来世の弥勒下生を期し、天竺では迦葉尊者が生きたままで待っておられるが、日本では弘法大師が竜華樹のもとでの下生を待っておられる、という意味であろう。
「五輪の即体」とは、地水火風空の五輪よりなる我が身を観じて金剛輪を成じた生き身のことであり、迦葉尊者は、仏の十大弟子の弟子で、弥勒の出生まで生きつづけている伝説の人である。「依身」は、肉体を保って生き続けること。また、「入定」という言葉は、悟りの境地に入ることであり、そこには、生死はない。
「今昔物語集」巻11には、空海の入定の伝説が詳しく記載されている。それによると、空海大師は、承和2年3月21日の午前4時頃、結跏趺坐して、大日如来の定印を結んで、入定された。御歳62才、弟子たちは、遺言に従い弥勒宝号を唱えた。
その後、さらに長い間をへて、この入定の洞を開いて、御髪を剃り、御衣を着せ替え奉った。その後、さらに久しくして、大師の曾孫弟子に当たる般若寺の観賢僧正という人が、この山にお参りして入定の廟を開いて見た。霧が立って闇夜のようであったが、それが治まってから見ると、大師の御髪は1尺ばかり生えていた。そこで僧正は、水浴し清き衣を着て入り、水精の御念珠を掛け直し、御衣を清浄に整えて出た。その後は恐れて室を開く人はなかったが、人が詣でる時は、堂の戸が少し開き、山鳴りがした。またある時は、鐘を打つ音がするなど、不思議なことがあった。
この空海入定の説は、平安中期、天台宗では既に、最澄(伝教大師)、円仁(慈覚大師)、円珍(智証大師)の3人に大師号が出されていた。これに対して真言宗では、京都東寺から観賢が、はじめて開祖空海の大師号の申請を出したわけで、空海聖者化の権威づけの一つが生身入定説であったといわれる。(村山修一「修験の世界」)
   即身成仏 −ミイラになった上人たち
極楽・兜率の往生に絶望した、平安末期から鎌倉初期の浄土教の人々の中には、弥勒下生信仰に活路を見付けようという人々が少なくなかったようである。
前述の観賢による空海の生身入定説が、弥勒下生と大日如来の信仰とむすびつき、真言密教の「聖達」による即身成仏(ミイラ)になるための木食行と自己埋葬という苦行を生み出した。その最も多い湯殿山(出羽三山の一つ、古来、修験道の道場)では、24体の苦行者のミイラが発見された。
即身仏(ミイラ)を志す聖(ひじり)は、ほとんど一生の間、五穀を断ち、十穀を断ち、野生の木の実しか口にせず、徐々に生きながら脂肪をなくする木食行を行った。1千日を単位として半年は雪に閉ざされる仙人沢で行う山籠修行、晩年には多くの一世行人がリューマチで苦しむことになった寒中水垢離、そして最後の土中の断食死が、修行の実態であった。
自ら遺言してミイラとなった最古の記録は、貞治2年(1363)、新潟県三島郡野積村西生寺の僧弘智法印といわれる。その後、湯殿山で天和3年(1683)に入定した本明海上人、酒田市海向寺の忠海上人(宝暦5年・1755)、朝日村大綱大日坊の真如海上人(天明3年・1783)、酒田市海向寺の円明海上人(文政5年・1822)、朝日村大綱注連寺の鉄門海上人(文政12年・1829)、鶴岡市南岳寺の鉄竜海上人(明治10年・1877)などがある。これらの上人の法名に「海」とあるのは、空海の法脈をつぐことからきている。(村山修一「修験の世界」)
これら湯殿山の一世上人の経歴は、初期の本明海上人と忠海上人は、下級武士の出身であったが、その後の真如海上人、円明海上人は百姓の出身となり、鉄竜海上人は乞食というように、段々下層化していく。彼等は僧侶のように仏教の教理に通じているわけではなく、せいぜい般若心経や湯殿山法楽などのほか、少々の真言(呪文)がいえる程度であり、寺でも最下層の存在であった。この一世上人達に許された唯一の名誉と特権が、ミイラになることであり、そのため彼等は、はじめから死を予定された人間であった。
真言密教の根本教義は、修行により解脱して自身が即本尊、大日如来にまで昇化する「即身成仏」にある。このための行法は、手に本尊の印をむすび、口に本尊の真言をとなえて、行者と本尊が融合一致を観ずる(入我我人)ことにあった。苦行はそのための手段である。
真如海上人 真如海上人は、湯殿山麓の越中村の百姓仁左衛門の末子に生れた。ある日、野良仕事に行く途中に、担いでいた肥が武士にかかり、口論となり武士を殺害し、大日坊に逃げ込み出家したという人物である。真如海上人の一生は、地獄のような過酷な飢饉が続く時代であった。生れる前年の貞享4年(1687)は、郷里の庄内地方にウンカが発生し飢饉に見舞われたのをはじめに、彼が95才で入定する天明3年(1783)までの生涯に、享保17年(1732)、宝暦5年(1755)の大飢饉をはじめ、20回近い凶作、飢饉を経験している。その中でも最もひどかったのが、彼が入定した天明3年の大飢饉であった。天明3年から4年にかけての津軽地方の被害は、餓死者が10万2千人、病死者が3万人を越え、南部藩でも餓死者4万人、病死者2万3千人を越えたといわれる。この飢饉では、人が死者の肉を食べるのみか、生きた人間を殺して食べるほどの地獄図絵が日常化していた。(「飢餓凌鑑」、「天明卯辰簗」)
「誰とは知れぬ髪乱たる女の死たる上に座し、2、3歳の子ともの真白なる小腕を右の手に持喰ふ。・・」(「飢餓凌鑑」)「夫を騙し打殺して是を喰 我子をも鎌にて一打にてうちころし 頭より足迄食し 夫より倒死の死骸を見付 是を食し 又々墓々を掘返し 死骸を掘出 夜よ里に出て人之子供を追候・・」(「天明卯辰簗」)大日坊の近くに、「化けもの塔婆」と呼ばれる石碑がある。これは天明大飢饉のときに、秋田方面から落ちてきて、ここで行き倒れた多数の餓死者の葬られたものといわれる。
このような中で、真如海上人は、ミイラになるための木食行と山籠修行に入った。天明3年は、異常な寒さではじまり、5月になっても寒さは去らず、6月土用には長雨が続き、7月にも長雨、台風で、刈り取る前に雪が降るという状況で、典型的な冷害型の大凶作となった。この年に真如海上人は、大飢饉の救済を祈願するために大日坊近くの大日山で土中入定したといわれる。(稲垣足穂、梅原正紀「終末期の密教」)
鉄門海上人 湯殿山ミイラ史に、最も大きな足跡を残したのは、文政12年に入定した鉄門海上人である。上人は、大宝寺村の川人足・砂田の金七のせがれで、無類の荒くれ男であったと伝えられる。25歳のとき、職務怠慢の武士をなじり、そのことから2人の武士を殺害し、注連寺に逃げ込んだ。上人には左目がなく、その理由は、文政4年に江戸に出たとき、流行性の眼病の人々を見て、自分の左眼をくりぬき、湯殿山大権現に供えて、悪疫退散の祈願をしたためといわれる。また修行の邪魔になるとして、色欲の元となる睾丸をえぐりとったという伝説もある。上人は、加茂坂工事などの社会事業をはじめ、人助けのため捨身で活躍したり、魚具を考案したりして、生活に密着した布教を行った。ただし海向寺の「記録帖」では、上人は文政12年12月8日に風邪がもとで自然死をとげ、13日に「二重棺にして新山権現堂の後のかたに葬りけるとなり」と記録されており、土中入定ではなかったようである。しかしミイラの血液検査などから、まちがいなくミイラは上人のものと証明されており、土葬後にミイラづくりされたとみられる。(稲垣・梅原「終末期の密教」)
鉄竜海上人 明治になってから入定した鉄竜海上人は、16歳の時、故郷の秋田で友人をケンカで殺した。そのまま家出して放浪(乞食)生活をして鶴岡にきて、南岳寺に物乞いにきたところを天竜寺の住職にたすけられた。また、一説には、川へ身を投げようとしたところを、天竜寺の住職に助けられたともいう。鉄竜海上人は、すぐれた呪力を示す行者であったようである。明治11年頃、62歳で自然死をとげた。死後、発掘してミイラにするよう遺言していたが、明治13年に墳墓発掘と遺体損壊を禁止する法律ができたため、そのままになっていた。その後、信者達の夢枕に上人がたびたび現れるので、有志達が極秘裡にあつまり、ミイラつくりをしたと伝えられる。これらのミイラつくりの技術は、文政期頃からの仙台医学館などからもたらされたものであり、蘭方医学の影響があったと思われる。
本明海上人 彼等の土中断食死を決意させたものは、道長などの浄土往生の思想とは、大きく異なるものであったと思われる。道長で代表される多くの権力者達の極楽往生は、彼等自身の彼岸での地位を願うものであった。しかし、即身成仏した上人達の願いは、自分自身の浄土往生よりは、末世の人々を仏となって救済しようとするものであった。たとえば、本明海上人の場合、最初は藩主の病気祈願が出家の発端であったが、布教活動の中で、重税にあえぐ農民の姿を見て、土中入定を決めたといわれる。彼の遺言には、「我いま仏とならん、末世の諸人、善心の信を頼む心願は如何なることにても成就さしめん」と言い残したといわれる。(稲垣・梅原「終末期の密教」)
 
(2)高野聖とその浄土

 

高野山は、空海がここを真言密教の聖地とする以前から、死者の納骨の霊場であり、近世には、「日本総菩提所」の名で、宗派にかかわらぬ納骨が行われていた。
今でも高野山を年々訪れる数十万の参詣者の大部分は、納骨か塔婆供養を目的にしているといわれる。奥之院墓原の墓石群は、この納骨の成果であり、唱導により納骨参詣を誘引し、諸国を回って野辺の白骨や、委託された遺骨を笈にいれて高野山へ運んだのが「高野聖」である。また納骨や供養のために高野詣をする人に、高野山の宿坊を提供したのも高野聖であった。高野山の独特の宿坊建築や精進料理も、高野聖の遺産である。
古代末期から中世にかけて栄えた高野聖は、その後に全く消滅する。その理由の第一は、高野聖の世俗性が、宿借聖や呉服聖とよばれるように、商行為や隠密まで働くように俗悪化していったこと、また第二に、真言密教が、高野山に来世信仰の聖や念仏にかかわる高声念仏・金叩・負頭陀(笈を負って托鉢すること)・念仏踊りを禁止し、さらに念仏信仰を異門邪義として圧迫するようになったことによる。
慶長11年(1606)に全高野聖は、時宗をあらためて真言に帰入することが命令され、高野聖の歴史は滅びた。高野聖は、その発祥の頃は、道心ある隠遁者が多かったが、その後、遊行回国と社会事業の勧進、宿坊と納骨を職能として活動するうちに、世俗化していったと思われる。
高野聖の念仏信仰については、いまなお各地で歌われる六斎念仏の曲に「高野ひじり」があり、歌念仏の中には「高野のぼり」があって、その詞はつぎのようなものである。
いざや 高野へのぼれよ  かるくのぼれよ 不動坂の道をも  九品の浄土へ まいる身なれば  ナムアイダンボ ナムアイダンボ ナムアイダンプツ  高野へのぼりて 奥之院まいれば  右や左の高卒都婆  みな国々のなみだなるらん  ナムアイダンボ ナムアイダンボ ナムアイダンブツ
「高野山往生伝」所収の高野聖清原正国に対する入唐上人日延の夢告に、「汝、極楽に往生せんと欲せば、高野山に住すべし」とある。また「金剛峯寺建立修行縁起」には、「金剛峯寺は前仏(釈迦以前の仏)の浄土、後仏(釈迦以後の仏)の法場なり」と記されており、高野山は本来、仏浄土として信仰されてきたことが分かる。さらに、高野山荒廃の再興勧進にかかわった仁海僧正が、藤原道長に説いた「野山仏土の因由」には、「高野山は十方賢聖常住の地、三世の諸仏遊居の砌、善神番々之を守り、星宿夜々に之に宿る。釈迦転法輪のところ、慈尊(弥勒菩薩)説教の会場なり。」とあり、弥勒の下生の浄土でもあったことが分かる。(五釆重「高野聖」) 高野聖の生き方の一つを「高野山往生伝」に見る。
散位清原正国は、大和の国葛下郡の武士で造悪無頼であったといわれる。61歳で入道し、日課10万遍の念仏を27年間も修して往生を願った。この時に、上記の日延の夢告で高野山に登り、87歳で往生した。ただ極楽往生のために、高野山に登った例である
沙門蓮待は土佐の出身。幼くして生家を離れ、長く仁和寺に住まい叡山阿闍梨に師事した。壮年になってからは、道心堅固で草庵に住み、蓮待と名を改め、人は石蔵上人といった。日夜苦行して休まず、金峯山に籠って塩を断ち穀のみを食べ、そのため体は骨が顕になり枯れ木のようになった。僧たちは、上人が死んで聖地を汚すことを心配したので、高野山に移った。数年後に内心発願して、貧しい人々に奉仕するため山を離れ、苦行を重ねて土佐国金剛定寺までいったが、承徳2年(1098)5月19日に、高野山に戻ってきた。ある僧が、極楽と都率のどちらに往生したいか?と聞くと、どちらでもよいといって、ただ往生のためとして、法華経一万部以上を読んだ。往生にあたって、上人は自ら頭を剃り衣を整え、山門を出て、土佐に赴いた。臨終にあたっては、樹下に服を整え、西方に向かい、手に定印を結び、「南無三身即一阿弥陀如来、南無弘法大師遍照金剛菩薩」と露地に座って声をあげて称名を唱えた。人々が見守る中、両眼の涙を拭った。このとき、西天に雲が聳え、前の林には風が激しく吹き、雲の上には雷鳴が轟いた。その翌日、門弟子の夢に、空中に金剛界マンダラが現れ、その中に西方菩薩位の月の輪の中に、上人が端座し、「我ら菩提を発し、四つの無量心を修めた。今、西方に往き詣でて、金剛の位に登る」といった。この記述は、今日、真言の宗徒がとなえる「南無大師遍照金剛」というお題目の最も古い事例といわれる。この僧の場合、高野山信仰と弘法大師信仰が両立しており、修行により見事に仏となって往生した例である。さらにこの僧で面白いのは、自分の死後、葬儀を行わず、野原に捨てて鳥獣に施せといっていることである。これは親鸞が、死後鴨川に捨てて、魚鱗に施せ、といっているのに似ている。
 
(3)生者の浄土と霊場巡礼

 

平安末期から鎌倉期にかけて仏教思想は庶民にまで普及し、さらに、仏教思想が神道や儒教の思想と習合して、生者と死者、そして浄土信仰の関係が、大きく変わっていった。たとえば「六合」は、死後の人間の魂が転生を繰り返していく世界であった。しかし、考えてみると、死後に設定したこれらの世界は、この現実世界や自分の心の中の世界に存在するものであり、その多くは生きているうちに経験するものでもある。
また、死者の世界である仏浄土は、人間世界とは全く異なり遠く切り離されて設定されていたが、少なくとも「仏」という共通の媒体を通して、死者と生者が交わる浄土があってもよいではないか、という願望がある。これが現世利益とかかわる観音信仰とからんで、この世の浄土としての霊場信仰となっていった。
   六合を生きた建礼門院 −「平家物語」の世界
「六合(道)」とは、欲界を構成する天、人から地獄にいたる6つの段階である。人間の魂は何度も生死を繰り返しながら、この中を輪廻転生するというのが、仏教の考え方である。いま、我々は六合の一つである「人」の世界に生きている。この世界で死んだ後、より高い世界である「天」に生まれ変わりたいという願望と努力をいろいろ見てきた。しかし考えてみると、この六合は人間世界ですべて体験されるものであり、同時に、すべて人の心の中に存在するものでもある。このことが「平家物語」の「潅頂巻」にでてくる。
鎌倉期の軍記物語の最高傑作といわれる「平家物語」は、13世紀の中頃に12巻本で成立したものである。さらに、その50年後に、出家後の建礼門院に関する「潅頂巻」1巻が加えられて完成した。「潅頂巻」は、平清盛の娘で高倉天皇の皇后になった建礼門院(1157−1213)の、一生の物語である。建礼門院は、壇の浦の戦いで平家一門の人々と共に入水したが、不幸にも源氏の兵に助けられた。彼女は、平家の滅亡後、京都大原の寂光院に身を隠すが、この隠れ家を、後白河法王が訪れた。これが有名な「大原御幸」である。このとき、女院が法王に語った彼女の一生が「六道之沙汰」と題される章であり、潅頂の巻の中心をなす物語である。
女院は、その中で、この世において生きて六道の世界を見たと語る。しかし、考えてみると、われわれ庶民が生きて経験する世界は、実はそのほとんど大部分は、地獄やそれに近い餓鬼、畜生、阿修羅の世界である。それは、東北地方の即身成仏の歴史などを見たら分かる。この世で、あまりに酷い世界を見たために、せめて死後は安らかな極楽世界に転生したいという願いが、念仏往生の思想になり、さらに一世行人達は、この世の人々を仏となって救済し、将来、この世の浄土に行きたいという願いを込めて、土中入定したわけである。
これら庶民とは異なり、建礼門院は、位人身を極めた平清盛の娘であり、さらに、皇后となって、この世で庶民が一生経験できない「極楽世界」を経験した。しかし、このことが、その後に地獄まで落ちていく六道の世界と対比して、普通の庶民より更に激しい有為転変を経験することになった。
彼女は、権力者・平清盛の娘として生れ、高倉天皇の皇后になり、さらに、安徳天皇の母となった。すべての人は、彼女に従いまつり、「一天四海はなたなごころのまま」であり、 春夏秋冬、あけてもくれても遊興の連続で、「天上の果報も是には過ぎじとこそ」思われるほどの、まさに「天国」の生活であった。しかし寿永2年(1183)の秋、木曽義仲に追われて、平家の一門は都を離れ、女院は一門とともに西海に漂う。「人間の事は愛別離苦、怨憎会苦、共に我身にしられて侍らふ。四苦八苦一として残る所さぶらはず」。これは、まさに「人間界」の苦しみであった。
九州へ逃げた平家は、九州からも追い出されて、船の中で人々は、飢餓に苦しめられた。「是又餓鬼道の苦とこそおぼえさぶらひしか」。これはまさに「餓鬼」の世界である。室山、水島の戦いに勝って、多少、前途に希望がみえてきたのに、一の谷の合戦にて一門の多くが滅びた後は、「修羅」の闘諍、帝釈の諍いもかくやという世界になった。
壇ノ浦では、もはや戦の前途も見えたため、安徳帝を二位の尼がいだいて入水し、「叫喚大叫喚のほのおの底の罪人も、これには過ぎじとこそおぼえさぶらひしか」という「地獄」を体験した。しかし建礼門院は、心ならずも源氏の武士にとらえられてしまう。明石の浦についてまどろんだ夢の中で、昔の内裏に勝る美しい所に、先帝をはじめとする一門の人々が居並ぶのを見て、ここはどこかと尋ねたら、二位の尼らしき人が竜宮城と答えた。ここに苦はありませんか?とたずねると、「竜宮の苦は、竜宮経にかかれており、よくよく後世を弔って下さい。」といわれて目が覚めた(「畜生」)。
このように建礼門院は、涙ながらに自分の人生を六道になぞらえて語った。この六道の中で、畜生道のみは、妙に空々しい。しかし実際には、助けられた後に、源氏の兵達に身をもてあそばれたという俗説の方が、畜生道として現実的であるが、恐れ多いのでぼかしてこのような話にしたのが本当であろう。(梅原猛「阿修羅の世界(平家物語)」、「地獄の思想」所収)
天台の「十界互具」の思想は、人間の世界の中に六道があることを教える。実際、われわれ庶民は、生前、この六道のすべては経験しないものの、その中の多くを経験するといえる。むしろ、最も経験しない世界は「極楽」であり、せめて死後に求めようというのが、「欣求浄土」という思想を作り出したといえるほどである。
平家物語は、全体として人間世界の中の六道を描いたといわれる作品である。たとえば、有名な安徳天皇が壇ノ浦に入水するところでも、8歳の天皇をだいた二位の局は、「極楽浄土というめでたい所にお連れいたします」といって天皇に念仏を唱えさせる。しかし実際に入水する時には、「浪のしたにも都のさぶろうぞ」といって慰めて、千尋の海に沈む。このところが「屋代本」では、「都のさぶろうぞ」がない。「是ハ西方浄土へトテ海ニゾ沈ミ給ケル」となっているそうであるが(岩波版、注)、まさに、人間世界の六道がここに現れている。つまり、平家一門の本当に行きたい先は、西方の極楽浄土よりも、一門が揃って以前と同じ生活ができる霊界の都なのである。そして、このことは建礼門院の竜宮城の夢にもでてきたものである。
そこはもはや仏教的な悟りをひらいた極楽浄土ではなく、人間世界での都の再現であり、耳なし芳一における亡霊伝説になって語られるものである。
 
(4)観音信仰 −六道の衆生をたすける

 

極楽浄土の阿弥陀如来は、死後世界を支配する仏である。その浄土は十万億土という遠いところであり、しかも阿弥陀如来は、地獄では輪廻転生の先が決まるまでの王としても登場しない。3年忌を司るというのでは、庶民の日常世界にとっては、非常に縁遠い仏といわざるを得ない。人間世界で、生きているうちに六道を経験せざるを得ない庶民を、救済していただける身近な仏の第一は観世音菩薩である。
   観世音菩薩 −六観音から霊場信仰へ
観世音菩薩は、六道の衆生を助ける仏である。極楽浄土を主宰する阿弥陀如来に対して、勢至菩薩(知恵を象徴する仏)とならび、現世利益をふくむ除災招福の仏として、阿弥陀如来の脇持仏をつとめる。この仏は、極楽から、人間界、畜生界、地獄にいたるすべてにおいて、人間の苦しみを救済する使命をもった、我々に最も関わりの深い仏である。既に奈良時代において、仏教信仰では、現世利益と浄土往生が並存していた。そこでは、阿弥陀・弥勒信仰は、追善的な浄土信仰が中心となっていた。そして観世音信仰は、同様の補陀落浄土への信仰のみでなく、薬師信仰とならんで除災招福を願った現世利益の信仰であった。(速水侑「観音信仰」)
摂関期の貴族社会においては、さらに、六道抜苦の観音信仰に展開した。それが「六観音」であった。それが最もはなやかに登場するのが、藤原道長が建立した法成寺薬師堂における六観音の造像である。万寿元年(1024)6月26日、「扶桑略記」には「十方之浄土を移した」とされる薬師堂の供養が行われ、「六道衆生の抜苦のために、六観音を造る」と記されている。
「六観音」とは、必ずしも統一されたものではないが、たとえば、聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准胝観音、如意輪観音であり、六道抜苦に対応する。つまり、聖−餓鬼、千手−地獄、馬頭−畜生、十一面−阿修羅、准胝−人道、如意輪−天となる。
道長が生きた院政期には、死後の極楽往生のみならず、現世利益を含む六道のすべてにわたる除災延命を、仏に祈念していた。
   初期の観音霊場信仰
観音信仰は、後世よりも現世の利益を得たいという気持とあいまって発展した。観音信仰の初期においては、特定の寺院や観音像に特殊な霊験があるとして参詣する例は、あまりなかった。
9世紀頃から、特に大和の長谷寺、壷坂寺、香山寺などが霊験ある寺として律令国家の庇護を受けるようになり、10世紀になると、天台宗の六観音信仰が貴族社会の中で高まり、京幾周辺に新しい観音寺院が次々に建立された。これらの新しい寺院はほとんど参詣の対象にはならず、摂関期の貴族の参詣した観音寺院は、京周辺では、石山・清水・鞍馬・長谷・粉河などに、ほぼ限定されていたといわれる。(速水侑「観音信仰」)
たとえば石山寺は、滋賀県大津市石山にある真言宗の寺院である。東大寺盧舎那大仏の建立にあたり、良弁がこの地に現在の本尊である如意輪観音を奉安して、真言の秘法を行ったところ、陸奥に金山が発見されたという。そこで聖武天皇は、この寺院を建立して、良弁を開祖としたという。(「石山寺縁起」)この経過から皇室の尊崇も厚く、古くから貴賎の参拝も多く、その様子は「源氏物語」、「栄花物語」をはじめ、多くの日記や文学作品に登場している。特に、貴族子女の参詣が多く、紫式部が「源氏物語」を執筆した間もある。
石山寺の場合、その参詣には夕刻に京を発して、翌朝には帰郷できたが、長谷寺の場合は、前後5日を要する困難な参詣であった。全国に「長谷寺」という寺院は110余あるといわれるが、ここでいうのは、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派の総本山である「長谷寺」である。「泊瀬寺」ともいい、「ちょうこくじ」ともいう。現在の長谷寺は、聖武天皇の時に、徳道上人が建立したものといわれる。京都の清水寺のように舞台づくりであり、昔からぼたん、さくらの名所として知られる。
遠隔地で参詣が困難なため、僧による代理参詣もあったと思われるが、10世紀末から、貴族、民衆の参詣が盛んになった。参詣の道筋は冥路のように気味悪く、貴族の女人はおそれおののいてお参りしたという。たとえば「蜻蛉日記」の夜参りの状況に、「火ともしたれどふきけして、いみじくくらければ、夢のみちのここちして、いとゆゆしく、いかなることかとまで、おもいまどふ」とある。そのあげくは、「御堂にものするほどに心ちわりなし、おぼろげにおもふことおおかれど、かくわりなきに、物おぼえずなりにたるべし。」という参詣の始末が、生なましく記されている。
長谷寺のご本尊は、十一の面をもって人につくす十一面観音であり、「霊験所第一也」(「三宝絵詞」)という霊験もあらたかな寺院であった。
また「粉河寺」は、宝亀3年(772)創建で自然出現の千手観音を本尊とし、「霊験掲焉」の道場と伝えられる。当初から律令国家の信奉を得て、「紀州之中霊験之地」として、「一切衆生渇仰之道場」として名声をはくした。高野、熊野などとの組み合わせで参詣されることが多かったと思われる。
   聖(ヒジリ)と新霊場の成立・発展
11世紀後半から12世紀末葉にかけて、浄土信仰の形が大きく変わっていった。その一つが、「高野聖」のように山岳修行を行い、あるいは村里に出て布教する非官寺的僧侶の活動にあった。かれらの活動により、貴族中心の仏教から民衆中心の仏教へ大きく変化していった。これらのヒジリ達は、「山寺行う聖こそ、あはれに尊きものはあれ」と「梁塵秘抄」に歌われたごとく、無名の山寺にこもり、帰依する人に奇瑞を示した。
これらの「聖の住所」がもとになって、観音霊場が成立した。その1つが、「西国三十三所観音霊場」である。成立の時期は、13世紀の始め頃と思われる。そしてこの霊場の巡礼が行われるようになった。
観音菩薩は、変幻自在の仏であり、33身に形を変えて、観音を念じるあらゆる所で衆生を救い給うと教えている。この33という数字は無限を意味するものといわれ、観音信仰では多様な現世利益を生み出す観音の霊力が期待された。わが国の33か所の観音霊場の巡礼によって、仏教の信仰は、死後往生から現世における魂の救済に大きくウエイトを移していった。そしてさらに一寺一度の参詣よりは、多寺多度の参詣を過度に尊重するようになった。その最初が、西国三十三所観音霊場巡礼であり、畿内およびその周辺の大寺が、札所として名を連ねた。
西国三十三所巡礼の始原と思われている記述は、1225〜1233年の問に成立したという「寺門高僧記」巻4所収の「観音霊場三十三所巡礼記」である。そこでは第1番札所が大和の長谷寺、第2番が大和の竜蓋寺で、最後の第33番は御室戸山の千手堂で終わる。地域的には、大和−紀伊−和泉−河内−摂津−播磨−丹後−近江−美濃−近江−山城となる。
その後、西国三十三所観音霊場の内容は、かなり変わっていったようである。たとえば「寺門高僧記」巻6所収の「三十三所巡礼記」では、第1番は紀伊国那智山からはじまり、2番は名草郡金剛宝寺、33番は御室戸山で終わる。地域的には、紀伊−大和−和泉−河内−摂津−播磨−丹後−近江−美濃−近江−山城−丹波−山城となっている(速水侑「観音信仰」)。南北朝頃の状況は、「拾芥抄」に列記されている。
現在の西国三十三所観音霊場巡礼は、第1番は那智山の青岸渡寺から始まり、和歌山県を北上して大阪府に入り、さらに奈良の古寺から琵琶湖の南端を経て京都の市中に至る。さらに、京都から西に進み、兵庫県に入り、そこから北上して日本海の沿岸に出て、再び滋賀県をへて、岐阜県の谷汲に至る。ここに、十一面観音を祭る天台宗の華厳寺があり、ここで結番となる。
この観音霊場の巡礼は、15世紀までは修験山伏達の修行や貴族の遣使祈祷を中心に行われてきた。三十三か所の巡礼の実践は、十余国、行程数百里に及ぶ難行的性格をもつものであり、僧侶にとってはある種の資格の獲得を意味し、誇るべき経歴となった。
しかし15世紀を境に「巡礼の民衆化」とでもいう現象が現れて、巡礼と民衆生活が密着したものとなっていったといわれる。巡礼は、三十三所の他にも、七観音詣、百観音詣などもあり、多様な形で行われていたようである。これらの巡礼に参加した民衆は、修行僧のほかに、京都の絹商人や東国の武士、僧侶、庶民など、雑多な階層を占めていたといわれる。(速水侑「観音信仰」)
西国巡礼は、単一の社寺参詣とは異なり、いろいろな風俗を作り出した。その第1は一定の衣服の着用であり、第2は巡礼歌、第3は納札であった。一定の衣服は、「笈摺」(おひずる)といい、「近世風俗志」によると、「其扮、男女ともに平服の表に木綿の無袖、半身の単を着す、号をおひずると云、父母あるものは左右茜染、父母ともに亡きものは全く白也」とある。(新城常三「社寺参詣の社会経済史的研究」)
 
(5)熊野信仰

 

熊野という土地は、イザナミを葬った場所が「花の岩屋」として現在も残っており、出雲と並ぶ古代からの「黄泉の国」、「根の国」である。さらに、スクナヒコナが「常世国」へ旅立った「熊野の御碕」の場所でもあった。観音信仰の霊地に限定して考えることのできない複雑な土地である。
和歌山県新宮市の熊野速玉神社、東牟婁郡の本宮熊野坐神社、那智勝浦町の熊野那智神社の三社を総称して、熊野三山または熊野三所権現という。各社ともに草創は古代にさかのぼるが、社格はそれほど高くなかった。三山のうち最も早く仏教化がすすんだのは那智であり、那智の主神牟須美神の本地仏は千手観音である。那智の滝を神体とする那智結神が本地観音とされ、観音信仰の興隆と共に那智は発展した。那智が観音の聖地として確立すると、本宮、新宮の本地も相対的に決まってくるわけである。那智の北西に位置する本宮(主神 家津御子神)の本地は阿弥陀如来、那智の北東に位置する新宮(主神 速玉神)の本地は薬師如来ということになる。
院の熊野詣は、宇多上皇に始まり、花山上皇も行われたが、それが年中行事となったのは、白河院以降のことである。白河上皇は、寛治4年(1090)正月22日、熊野に行幸、三山検校を置いた。院の熊野詣は、白河院から後鳥羽院までの約100年で97回に及んだ。このように三山一体化の体制が確立し、11世紀末には白河上皇の御幸をえて、霊地として確立していった。
熊野信仰の特徴は、神道と仏教が習合しているだけでなく、金剛童子をはじめとする王子眷属神など、護法神の巫道を取り入れた信仰になっていることにある。熊野巫道のご託宣は、死や滅亡にかかわる不吉なものが少なくない。「保元物語」によると、鳥羽法皇は、久寿2年(1155)冬、本宮証誠殿の前で現在、未来2世のことについてお祈りしていた。神殿内から童子が手を出してまねいたので、何かの瑞相と思い巫女にご託宣を求めると、「明年秋のころには、かならず崩御されよう。その後、世の中は手の裏をかえした大騒動になるだろう。」とお告げがあった。鳥羽上皇は、お告げの通り、翌年の保元元年(1156)7月に54才で崩御し、皇室を巻き込んだ保元の乱がおこった。このように権力者から庶民にいたるまで、自分の行く末や運命についての厳正な神意をきくことが、熊野参詣の目的の一つであった。
同じような話は、「平家物語」や「源平盛衰記」にもある。治承3年(1179)5月、平重盛は、清盛処刑の悪夢を見て平家の前途を悲観し、熊野本宮に詣でる。「平家物語」で、重盛は自らの「運命をつづめて、来世の苦輪を助け給へ」と祈る。その時、灯籠の火のようなものが、重盛の体から出て消えた。また、帰途に岩田川を渡ったとき、公達たちの浄衣が水に濡れて喪服のように見えた。不吉なので着替えをすすめたが、そのままよろこびの奉幣をした。帰京の後、しばらくして病の床につき、亡くなった。(「平家物語」−医師問答)
   死者の熊野詣と補陀落浄土
死者の住む仏浄土は、十万億土の彼方にある極楽を始め、すべて人間世界からは非常に離れた所に設定されていた。しかし観音菩薩は、あらゆる苦難から人間を救う仏であり、その浄土も人間世界に対して分かりやすい場所に設定する必要があったと思われる。この観音菩薩が住む浄土を「補陀落浄土」といい、インドでは南海(インドの南海岸)の補陀落山にあるとした。また中国では、舟山列島を補陀落山とする。チベットでは、チベットそのものが観音の浄土であり、ダライ・ラマは、その化身であると信じられている。
さて日本では、補陀落山はいろいろなところにあり、インドでそれが南海に設定されていることから、大体は日本の南海の彼方にあると思われた。その第一が紀伊半島の南端にある熊野の海の彼方である。その他にも、四国の足摺岬、館山市那古をはじめ、日本の太平洋に面した海岸の多くが、補陀落浄土への入り口に擬せられたのであろう。
変わったところでは、日光の二荒山(フタラサン)がある。「日光山沿革略記」によれば、日光山は天平神護2年(766)に勝道上人が、二荒山内に四本龍寺を創建したのに始まる。さらに上人は二荒山の山腹湖北の地に立木観音を手刻し、中禅寺を創建した。「二荒山」は補陀落山の当て字であり、古来の観音の浄土であった。そして中禅寺湖が「南海」ということになる。これら補陀落浄土への多くの入り口の中で、最も浄土に近いのが熊野といわれた。
熊野という霊地は、まず、イザナミの死霊の地、スクナヒコナが「いでました地」というように、古代から死者の霊地であった。822年に成立した「日本霊異記」の中には、熊野の永興禅師が山中で、修行僧の白骨死体に会う話がある。この白骨死体は、麻縄で2つの足を繋ぎ、巌に掛って身投げして亡くなっていた。しかし3年の間、死後も法華経を誦していたため、その舌だけが生きて読経を続けていた。
同様な話は、1254年に成立した「古今著聞集」(巻15)にもでてくる。一叡という僧が紀伊国の宍背山に泊まった夜、人の姿はないのに、法華経を読む声が聞こえた。翌朝になって見ると、年をへた白骨があり、バラバラでなく一体化していた。髑髏の中に赤い舌があったので、一叡が髑髏にその訳をきくと、舌が答えて言うには、白骨の主は叡山の僧であり、修行中にこの山で亡くなった。死ぬ前に法華経6万部読む願をおこして死後も読みつづけ、今年ようやく読み終わり、兜率天の内院に生れ変わる、といった。
熊野詣は、中世から近世にかけて極めて多く行われ、それは「蟻の熊野詣で」といわれるほどで、さらには、死者も熊野詣でをするといわれた。そして、生きている人も熊野詣での途中で、死者に会えるとまでいわれるようになった。
近松門左衛門(1653-1724)の浄瑠璃「傾城反魂香」では、自分の死を隠し、7日と限って同棲した傾城遠山(土佐光信の娘)が、夫で画家である狩野元信に襖に熊野三山の絵をかいてもらい、その絵の上をたどって夫婦で熊野詣でに出る。絵の中で熊野詣でをするという話もすさまじいが、そこで元信がふと見ると、先を行く妻がさかさま、後ろ向きになって歩いているのを見る。近松の浄瑠璃は続く。「はつとおどろき是なう浅ましの姿やな。誠や人の物語、死したる人の熊野詣では、あるひはさかさま後向き生きたる人には変わると聞く。」として、はじめて夫は妻の死を知り、必死になって消えてゆく妻をさがす。
熊野詣でにおける陸上の逆立ちは、さらに、海の彼方の補陀落浄土を目指した船出につながっていく。
   浄土渡海
極楽浄土からの阿弥陀如来のご来迎は、念仏を唱え、仏の手と5色の糸で結ばれて祈り続けて待つものであった。しかし阿弥陀浄土へも、積極的にこちらから行ってしまおうという試みが始まっていた。
浪速の四天王寺(=荒陵寺:あらはかでら)では、創建伝説である「荒陵寺御手印縁起」が世に出た11世紀頃から、四天王寺の西門が「極楽浄土の東門にあたる」という新しい浄土信仰の霊場となった。当時の四天王寺の西門は、浪速の海に面して建っていた。藤原頼長の「台記」によると、極楽浄土の東門に面するといわれた四天王寺の西門付近には念仏所ができて、当時、都にも名のきこえた出雲上人という僧が、念仏集団を組織し、百万遍念仏を高声に唱えて、共に往生を期したという。
「拾遺往生伝」には、金峰山の僧永快が、治暦の年中(1065-1068)の8月彼岸の頃に、天王寺に詣で一心の念仏して百万遍に及んだ。その後、私物を弟子に分け与えて、夜中に房をでて独り高声念仏を唱えながら西へ向かい、入水往生した話が記録されている。(「拾遺往生伝」巻下4)。また別書には、叡山の僧 行範上人が、大治年中(1126-1130)に四天王寺で7日の断食の後、衣の袖に砂をいれ、一心に念仏入水した記事がある。そのとき「調具音楽、方舟合奏、正修念仏」して亡くなった。そして同行者には、都率天の内院に生まれたという夢告があった。(「本朝新修往生伝」11)
熊野の補陀落浄土への渡海は、舟に乗って行われた。しかもその舟は外から釘づけされ、扉もなく、内部には30日分の食料と灯と油が用意された。それは出羽三山の木食行、土中入定の海上版ともいえるものであった。この船出は、現代人から見れば自殺行の旅であるが、「吾妻鏡」、「仮名東鑑」、「北条九代記」、「冥応集」などの記述は、必ずしもそうではない。
貞永2年(1233)頃、上記の四天王寺の入水往生よりは百年後の話になる。源頼朝の那須野の狩りで鹿を射損ねて、出家した智定房という僧がいた。しばらく那智山にこもり修行していたが、やがて熊野の那智の浦から、舟で南海・補陀落山へ渡海した。この時の智定房の屋形舟は外から戸が釘付けされ、四方に窓はないため真っ暗で、灯火を微かにし、食物としては栗栢を少しずつ食べて命をつなぎ、一心に法華経を読誦した。補陀落山へは30余日でついた、という報告が北条泰時に届けられている。(「北条九代記」7)
この後日談が、別書にある。補陀落浄土についた智定房は、上陸して岩の上から山をみると、山道は危なくて険しく、岩容は幽遠であった。山頂に池があり、大河が山を巡って海に入っていた。池のほとりに石造の天宮があり、観音菩薩が遊行される場所であった。智定房は、この山に50余日いて、また舟に乗って熊野へ帰ってきた。(「冥応集」)
熊野における補陀落渡海は、貞観10年(868)11月3日慶竜上人、延喜19年(919)2月佑真上人と奥州の人13人、天承元年(1131)11月高巌上人、寿永3年(1184)平維盛、貞永2年(1233)智定房など、記録に残されているだけでもかなりある。
 
(6)霊地巡礼の拡大

 

   各地の観音霊場の形成
15世紀中葉を境として、巡礼が従来の山伏やヒジリ達を中心にしたものから、民衆を中心にしたものに拡大していった。この中で観音霊場も、西国33か所につくられたのに続いて、全国に展開していった。
鎌倉幕府が開かれると、西国の仏教文化が広く関東に展開し、坂東33か所観音巡礼のコースが関東一円につくられた。この霊場の最古の記録は、福島県東白河郡八槻村の都々古別神社にある十一面観音の銘文といわれ、文暦2年(1235)7月19日と記されており、それ以前に「坂東33か所観音霊場」は成立していたと思われる。これらの関東における観音信仰の盛況は、源頼朝(1147-1199)の庇護によるといわれる。しかし関東の民衆による巡礼は、14〜15世紀になってからのことである。
坂東33か所の観音巡礼の関東1番の札所、鎌倉の杉本寺(鎌倉市二階堂)は十一面観音をまつり、開山は行基菩薩と伝えられる。杉本寺から出発し海沿いに西進し、小田原の飯泉観音(勝福寺)から山沿いに北上し、埼玉県に入る。埼玉県比企郡都幾川村には、千手観音をまつる慈光寺(8番)があり、ここから南下して東京にはいる。浅草寺(13番)から西南にすすみ、横浜の弘明寺(14番)から北上し、群馬県榛名町の白岩観音(15番)から山沿いに東進し日光中禅寺をへて、茨城県を南下する。筑波山の大御堂(25番)をへて房総半島をめぐり、館山市那古の那古寺(33番)で壮大な観音巡礼は終わる。最後の那古寺は山号を補陀落山といい、千手観音を本尊とし行基上人の創建という。名前から明らかなように、この地を補陀落浄土とみる信仰が、江戸時代にかなり一般化していたようである。
関東地方の観音霊場として今一つ「秩父34か所霊場」がある。この成立年代はわからないが、この巡礼路の最古の記録が、32番の法性寺につたわる1488年(長享2)の番付表であることから、大体15世紀の末葉に成立したと思われる。霊場は、1番が定林寺から始まり、最初は33番水込であったが、その後、江戸から最も近い妙音寺が1番に入り、34か所となった。15-16世紀には、江戸からの道程が最も近い四万部寺が一番となり、34か所の霊場が確立し、さらに秩父、坂東、西国の観音霊場とともに、「日本百観音」という全国規模の巡礼コースに組み込まれることになった。この全国規模の観音信仰の巡礼路が完成したのは、1488(長享2)から1536(天文5)の間といわれる。(中尾尭「寺院の歴史と伝統」)
一生に一度のお陰参りの途中、この巡礼を共に回ることもよく行われた。「百か所参り」がこれであり、巡礼を無事に成就した人々により、「百番供養」の石碑が村や町の道ばたに建てられた。このような全国規模の大規模な巡礼に出ることはなかなか難しいが、一国単位の地方霊場が全国で作られていった。たとえば、下野国33か所(栃木県)、備中国33か所(岡山県)、筑後国33か所(福岡県)などがそれである。
   四国八十八か所霊場の巡礼
この他、弘法大師など仏教僧侶が修行をした霊場を参詣する巡礼も行われるようになった。その代表的なものが、弘法大師の四国八十八か所霊場の巡礼である。
四国八十八か所霊場は、弘法大師(774-835)が42才の厄年に、四国の修行地を一巡して決めたと伝えられるが、一般の人が巡礼に出始めるのは、15世紀頃とみられる。その始まりは、弘法大師の遺徳を慕う真言の僧侶達が、山岳修行の1つの形として四国各地の霊場を歩いていたのが、88か所の霊場としてまとまっていったと思われる。
四国の遍路は、木綿の白衣をまとい、白か浅黄の手甲・脚絆をつけ、胸には小さな札ばさみを下げて数珠を持つ。背には笈摺(おいずる)をはおり、身の周りの物を入れた笈を背負う。腰には尻敷をつけ、草鞋か白い地下足袋をはく。右手に「南無遍照金剛」とか「南無観世音菩薩」と書いた白木の金剛杖を持ち、左手には緒のついた鈴を携えて、鳴らしながら歩く。頭につけた笠には「迷故三界城、悟故十方空、本来無東西、何所有南北」と書き、住所氏名と「同行二人」と記す。
寺へ着くと、本尊の前で「般若心経」や「観音経」を読み、御詠歌を歌い納札を納める。この納札は本来は木札で、壁や柱に打ち付けた。巡礼の寺院を「札所」というのは、ここからくる。また、霊場を巡ることを「打つ」というのも、これに由来する。参詣を終えたお遍路は、寺の納経所に写経を納め、納経帳にご本尊の仏名と納経印を押してもらう。
四国の霊場巡りの1番は、徳島県鳴門市の霊山寺で、本尊は釈迦如来で真言宗の寺院であり、行基上人の開基といわれる。弘仁年間(810−824)に弘法大師が四国巡錫の途中、この寺で修行し、四国霊場第一番の寺としたという。本尊の釈迦如来は、弘法大師自身の彫刻したものと伝えられる。
1番から始まった遍路の道は、吉野川をさかのぼって山中にはいり、小松島から南下して、県内の23番薬師寺で阿波国(徳島県)を終わる。土佐へ入って最初の霊場は、室戸岬にある第24番長御岬寺(ほつみさき)で、虚空蔵菩薩を本尊とする。807年以来の天皇の勅願所である。室戸岬から土佐湾の海岸に沿って西進すると、足摺岬の38番金剛福寺へつく。ここは南の海上にある観音の補陀落浄土の地として、三面千手観音を本尊とした。のちに、勅願所として嵯峨天皇から「補陀落東門」の額を与えられた。やがてここは熊野とならんで、補陀落渡海の霊地として有名になった。
ついで宿毛市の39番延光寺で土佐国と分かれ、40番の観自在寺から伊予国(愛媛県)に入る。松山の道後の地には、51番石手寺がある。728年創建という古寺で、本尊の薬師如来は行基菩薩の作という。
四国の最高峰である石槌山は、四国きっての山岳信仰の霊場で、ここには60番の横峰寺があり、四国霊場の中で最も険しい難所といわれる。651年に役小角が修行中に蔵王権現が現れるのを見て、その姿を彫ったといわれる。天平年間に、行基上人が大日如来を刻み、その胸中に蔵王権現を納めた。桓武天皇の代に勅願所となった。その後に弘法大師により堂宇が再興された。
65番三角寺を最後に伊予国を離れて、山深い阿波国の雲辺寺を経て、弘法大師の故郷である讃岐国(香川県)に入る。67番大興寺、75番善通寺をへて、88番大窪寺で全行程1400キロの旅が終わる。歩くと60日以上が必要になる。
   法然上人25霊場
法然上人(1133−1212)の生涯に所縁のある25霊場がつくられた。巡礼は法然上人の生誕の地である岡山県の誕生寺から始まり、香川・兵庫・大阪・和歌山・奈良をへて、1212年に亡くなった京都の知恩院で終わる、広域なコースである。この諸寺は、第1は専修念仏を唱えて奇瑞を表し、民衆を教化したと伝えられる寺であり、第2は、法然上人が折りに触れて立寄ったと伝えられる、所縁の寺の2種類で構成されている。
第25番の知恩院は、京都市東山にある浄土宗の総本山である。法然上人は、心づかいの安心と、それを行として日常生活の中で実現させることによる浄土往生の道をといた。法然上人は1212年(建暦2)1月、東山大谷禅房で亡くなった。この大谷の禅房は、その後、叡山の衆徒に焼き討ちされたが、大谷の故地として復興し、念仏の根本道場となった。
   親鸞上人24霊場
親鸞(1173-1262)は、「弟子一人ももたずさふらう」(「歎異抄」)といわれたが、その弟子達は、念仏の大教団をつくりあげた。その本願寺三世の覚如が、関東の有力門徒(二十四輩)を本願寺派の正当な門徒として認めたのがこの霊場である。したがって、これらの寺々は変動が激しい。
   日蓮上人の霊場
日蓮上人(1222−1282)の所縁の寺院を参詣する順拝は、室町時代から盛んになったが、霊跡が広域なため一つの順拝コースを形成するにいたらなかった。日蓮宗の順拝コースは、霊跡を離れてまず京都でつくられた。京都での日蓮宗は、孫弟子の日像上人(1269−1342)により、商工業者の支援をうけて発展した。京都での日蓮宗の発展は1530年代がピークで、「京都二十一か本山」といわれる大寺院が勢力を持ったが、叡山と戦国大名が組んだ「天文法華の乱」(1536)によりすべて灰燼に帰し、さらに幕府が日蓮宗の僧、信者の京都居住を禁じたため、京都での日蓮宗は衰退した。その後に、寺院の復興が行われ16か寺に減少したが、昔日の繁栄の回復を祈って「二十一か本山詣り」という言葉はのこされた。現在は、本山の数は15か寺になり、参詣する本山も毎年異なるが、行列参詣は現在もつづいている。
このほか、日蓮宗でも日蓮上人の木像をお詣りするコースがいくつかある。日蓮宗の信仰が民衆の中に広まった江戸の下町では、「江戸十大祖師詣り」ができた。ここでは格式や順路の別はなく、自分の住まいにより便利なように順拝したようである。十か寺は、浄心寺(深川)、報恩寺(本所)、本覚寺(浅草)、長遠寺(浅草)、妙音寺(浅草)、瑞輪寺(谷中)、宗延寺(杉並)、宗林寺(谷中)、幸国寺(新宿)、幸竜寺(浅草−世田谷)である。さらに、少し時間をかけて順拝する、「八大祖師詣り」のコースもあり、これは千葉、東京、神奈川という広域なものになっている。
日蓮宗では、西の高野詣でに対応した「身延山詣」がある。身延山は「この山をもととして参るべし」という日蓮上人の遺言に従って、信者が参詣する山である。山内には、日蓮上人の遺骨を納めた「御遺骨堂」、木像を安置する「祖師堂」、墓塔を拝する「御廟所」の3つの堂がある。この3つの堂に詣でて、「法華経」の信仰を広めた日蓮の霊性にふれるのが、身延山詣の目的であり、日蓮宗の僧侶や信者は勿論、立正佼正会、霊友会をはじめとする、新興宗教系の信者も参拝する。信者が亡くなると、分骨して仏殿の中の納拝堂に安置され、供養される。その意味で、身延山参詣は、「法華経」への結縁、日蓮への面拝、先祖供養の3つが重要な要素となっている。 

 

●4.死後の祭られ方 
 
(1)遺体と霊魂
儒教の思想は、極めて現実的かつ即物的である。人間は精神と肉体に分けられ、精神の主宰者を「魂」(こん)、肉体の主宰者を「魄」(はく)といった。怪談などに、「魂魄この世に止まりて、・・」などといって、恨みを述べる言葉に使われている。
儒教では、生きていることは魂魄が一致していることであり、魂魄が分離することが死である。死後、魂は天上へ登り、魄は地下へ行く。そして天上では、地上と同じように家族で生活が営まれている。地上の子孫達が、先祖供養をすれば天上の祖先達は幸せになり、そのお礼に地上の子孫達が幸せになるように努力してくれる。 魄でこの世に残るものは、白骨である。頭蓋骨は、特に重要視された。そこで、子孫が祖先の頭蓋骨を頭上にのせて、香を炊いて天上の魂を呼ぶ招魂儀礼も行われていた。
仏教の場合は、霊魂は死後49日で次の世界に生れかわる。死後の肉体自体は、骨を含めてただの「物体」に過ぎない。先祖はすべて他の世界へ生れ変わっているため、「先祖供養」や49日を越えた死者の供養は、仏教ではあまり意味を持たない筈である。つまり遺骨は、仏教ではただの「もの」でしかない。
しかし日本では、古来、儒教と仏教が習合し、複雑な思想や風習が形成されてきた。たとえば民衆の中では、先祖の霊は儒教のように高い山に住居を定めて、時をきめて子孫の家や田圃に降りて来ると思われていた。また葬送儀礼でも、仏教の49日で終わることはなく、100か日、1周忌、3回忌、7回忌、13回忌、17回忌、23回忌、27回忌、33回忌、50年忌、100年忌まであり、資産家の中には、そのすべてを行う場合もある。
このような法事の方式は、儒教でも仏教でもなくおそらく日本的な方式であり、葬送儀礼を商売にする人々により作られたものであろう。特に葬送儀礼については、日本では奇妙な風習が多く、その中には新しく明治以降につくられたものも少なくないようである。
   仏舎利崇拝
仏教では、一般的には遺体・遺骨に対する執着はない。それは仏教発祥の地であるインドでの遺体・遺骨の取扱いを見ると分かる。インドでは死者は火葬にされ、灰はガンジス川に流される。また火葬にしない人骨が、輸出されて全世界の大学医学部の骨格標本に提供されている。そこでは人間の肉体はすべて自然に帰るか、人間を含めて他の生物の生存に役だつものとして提供する精神が徹底している。現在のインドの思想は、仏教ではないが、それらの考え方は仏教以前からの風土的なものであろう。
仏教でも例外的に始祖である釈迦と仏弟子の遺骨だけは、「仏舎利」として信仰の対象になっている。日本にも仏舎利は、いくつかの寺院に到来している。 はじめて日本に仏舎利が到来したのは、敏達天皇(538-585)の13年で、司馬達止が蘇我馬子に献じた。その大きさは胡麻くらいで、紅い色のものが紫色に光った。その数は増えたり減ったりして、夕方になると光った。
弘法大師空海が唐から請来したという仏舎利が、京都の東寺の五重塔に納められている。 その仏舎利は、甲乙の2壷に収められており、天下繁栄の時には増え、衰退の時には減るといわれる。後醍醐天皇(1288-1339)の正中元年(1324)12月14日に、国家安泰、弘法利益のために、37粒奏請されて、祈念された。その後、みだりにこれを請い奉ることを禁じた。奏請があっても甲壷は禁じ、乙壷のみ奏請に応えることとした。
舎利の粒数は、しばしば数えられて「舎利勘計記」ができ、舎利をはかるスプーンも用意された。舎利は、赤、白、黒の美しい粒からなるといわれる。
「釈氏要覧」によると、梵経の設利羅(せつりら)を略して舎利という。骨身には全身、砕身の2種類があり、砕身は白色の骨舎利、紅色の肉舎利、黒色の髪舎利からなる、とされているという。(李家正文「仏舎利の秘密」、「怪奇伝承集」所収)
   日本の遺骨信仰 −忌むべきものとしての遺体・遺骨
日本では、戦地の遺骨収集や事故の犠牲者にたいする遺体・遺骨の回収が、非常なこだわりをもって行われる場合が多い。しかし歴史的に見ると、わが国では、遺体や遺骨が必ずしも大切に扱われてきてはいない。ただし仏教や儒教の場合と違って、遺体や遺骨には死後も霊魂が残っているという原始的な遺骨信仰は、現代にいたるまで長く続いてきている。両墓制という日本的葬送の方式もそれと関係しているように思われる。
遺体・遺骨に対するこだわりと、遺体の火葬は、矛盾する面を持っている。しかし仏教思想の影響で、遺体・遺骨をなくする火葬の採用も、かなり古い時代にさかのぼる。既に、8〜9世紀にかけて天皇にも火葬が採用されるようになった。
日本における火葬の始まりは、「続日本紀」によると文武4年(700)の僧道昭といわれる。道昭は火葬後、「暴風たちまち来り、骨灰共に失う」(「元享釈書」巻1)といわれる。つまり道昭の遺骨は、火葬によってすっかりなくなってしまった。天皇では、持統天皇が、大宝3年(703)12月に飛鳥岡において、天皇としては始めての火葬になった。それまで遺体は、嬪宮におかれるため、白骨は完全な形を保つことができたが、火葬の導入以降は全く形をとどめなくなった。 元明天皇(661-721)は、死後は山に簡単なかまどを作って火葬とし、そのまま喪処として常葉の樹を植え刻字の碑を建てるよういい、養老5年(721)12月に、遺詔通りに葬られた。淳和天皇(786-840)は、死後に遺骨を散骨せよという詔を出した。「予聞く、人没して精魂天に皈る。而るに空しく冢墓を存し、鬼物これに憑きて終に乃ち崇をなし、長く後累を胎すと、今宜しく骨を砕き粉と為し凝れ之を山中に散らせ」という衝撃的な内容である。(「続日本後紀」承和7年(840)5月6日条)。そして5月13日、天皇の遺体は山城国乙訓郡物集村で火葬にし、遺骨は詔に従って粉砕されて、大原野の西山の峯に散骨された。嵯峨天皇(786−842)の場合の遺詔も徹底しており、薄葬の遺詔が詳細に出されて実施された。そしてこの薄葬の儀礼は、その後の天皇に引き継がれ定着した。
ここから見られるように、遺体も遺骨も単に穢れたもの以上に、鬼物がついて崇をなす恐ろしいものであった。そめため遺体や遺骨は、焼却されればなくなってしまうが、そのままの形で埋葬する場合は、住居からできる限り遠い所に埋葬した。
延暦11年(792)は、長岡京の第2年目の年であるが、この年の8月に山城国紀伊郡深草山の西斜面に、遺骸の「葬埋」の禁令がでた(「類衆国史」巻79)。それは、京都市伏見区深草の地は、長岡京の真東に直線で7キロの地点にあるが、それでも都に近いという理由からであった。平安遷都から3年後の延暦16年(797)1月25日、朝廷は都城の周辺域の農民達に、遺体を自宅の周辺に葬る事を禁じ、違反者は畿外に追放または移住させることを命じた。(「日本後紀」)上記の深草の地は平安京の東南にあり、古来からの葬地であった。平安京の左京に中心が移ると、葬地も東の宇治に移り、その中心は御蔵山西麓の木幡地区になった。そしてそこには、藤原氏一族の墓所が造られた。
これらのことから感じられることは、古代の貴族にとって死者の遺体や遺骨は、忌むべきものであり、できる限り自分の生活範囲から遠ざけたいという考え方である。これは近親者に対しても同じであり、このことは儒教的な先祖崇拝や招魂儀礼などとは、極めて異なる思想である。
たとえば「栄花物語」において、長徳2年(996)叔父道長によって大宰権師に左遷されることになった伊周が、夜、宇治の木幡の墓所を訪れ、前年に亡くなった父道隆の墓標を探して恨みを述べる話がでてくる。この時、わずか1年前の墓標をあちこち探し回らなければ分からなかった。これは、藤原氏のような貴族であっても、陵墓祭祉が行われていなかったことを示している。
このことは日本の墓制の特徴である「両墓制」とも関わると思われる。「両墓制」とは、死者の葬地を、遺体または遺骨を埋葬する土地(ウメバカ、ミバカ、ステバカなど)と、遺体・遺骨とは別に死者の霊の祭地(マイリバカ、ラントウなど)を分離して祭る制度であり、日本では中世の末期から近世にかけて、かなり広範な地域で行われてきた。この場合、霊の祭地は寺院の敷地や隣接地に造られているのに対して、遺体・遺骨の埋葬地は、霊を祭る寺院とは離れて設置されている場合が普通である。ここでは遺体・遺骨は、仏教のようにただの「もの」とは認識できないし、儒教のように先祖の霊達の死後の生活の場という認識も持ち得ず、遺俸・遺骨を忌むべきものとして遠ざける、神道的であいまいな日本的思想が見え隠れしている。
   庶民の遺体・遺骨
空也上人(903−972)は、平安中期の僧である。阿弥陀念仏を唱えながら諸国を遍歴し、橋を架け井戸を掘るなど、社会的な奉仕を通じて浄土教の伝道教化を行い、市聖とか阿弥陀聖と呼ばれた人である。空也上人は、諸国遍歴の際、野原に遺棄されている屍骸を見付けると、一か所に集めて火葬にし、念仏供養したといわれる。つまり貧しい人々の行き倒れた死体は、その頃は山野、河原などに、多くはそのまま放置されていたと思われる。「続日本後記」承和9年(842)10月14日の条には、左右京職に命じて、「嶋田、及び鴨河原の髑髏を焼きおさめしむ、すべて五千五百余頭なり」とある。同月23日条にも、「鴨川の髑髏を聚め葬らしむ」とあり、鴨の河原は平素から平安京の人たちの遺体の葬送の地であったようである。当時は遺体を埋葬せず、そのまま放置した形で葬送している場合が多く、「三代実録」貞観13年(871)8月28日条には、従来、百姓が葬送、放牧の地にしてきたものを、耕地にすることを制限する布告が出されている。
京都においても、阿弥陀ケ峰・船岡山・鳥辺野・西院・竹田とか、千本・最勝・河原・中山・鳥辺野などを五三昧とよんで、古くから葬送の地としてきたことは確かであるが、これらが葬地として固定する前には、遺体は河原に投げ捨てられていたと思われる。空也上人などの活動により、鳥辺野、化野、蓮台野などが遺体の放置された葬地から、三昧の名で呼ばれる葬地に格上げされたのが本当であろう。(「京都の歴史」1)
これらの葬地は、埋葬されるようになってからも、埋葬直後はともかく、暫くすれば、だれの墓かを識別することは難しいものであったと思われる。そのことは藤原氏の木幡の墓地でさえそうであったことが、伊周の例でわかるわけである。このように遺体・遺骸を放置したり、遠ざけたりしているのに、それらが霊魂の「依り代」になっているとする畏怖の気持が、別に抱かれてきたようである。
   なぜ遺体・遺骨は忌むべきものか?
日本では遺体・遺骨に対する考え方は、仏教や儒教のそれのように明解ではない。日本人は、遺体や遺骨が死後も霊魂の「依り代」として長く残ると考えていたようである。つまり遺体や遺骨には、死後も霊魂がついていて、特に生前の思いが残っている場合には、生きている人間にかかわってきたり、恨みが残っている場合には、災いをもたらすものと考えられてきた。特に恨みをもった遺骸や霊魂に対しては、「御霊信仰」という特別な信仰の形態を作り出した。
古代の日本人は、遺体や遺骨を放置したにもかかわらず、一方では、それらに対していろいろなこだわりや恐れを持っていた。それらを特に「遺骨」に絞って見てみる。「日本霊異記」(以下、「霊異記」という)には、いろいろな挿話が記載されている。
大化2年(646)は「墳墓の制」が決められた年である。この年、京都の宇治川にかかる宇治橋の架橋工事が行われていた。この工事のために奈良山の道の人通りが増えたが、その道で一つの髑髏が人や獣に踏み付けられていた。これを見た元興寺の僧が、その髑髏を従者の万呂に命じて木の上に置かせた。その年の暮れに、その髑髏の霊が万呂を訪れ、ご馳走して、自分が兄に殺され、金を奪われたことを語った。(後略)(「霊異記」上巻第12)
天平元年(729)2月、元興寺の大法会で、長屋王は僧侶に食事を捧げる役を命じられた。このとき長屋王が、僧の頭を傷つけたことがあった。その後に、長屋王は聖武天皇に讒言されて、王の一族はすべて自害して果てた。天皇は、長屋王の一族の屍骸を城外に捨て、焼き砕いて河・海にすてよ、と命じた。長屋王の骨は土佐国へ流された。その後、土佐では死者が多く出たため、長屋王の祟りで皆が死んでしまうと訴え出た。そこで天皇は、長屋王の骨を紀伊国海部郡沖島へ移した。(「霊異記」中巻第1)
称徳天皇(718-770)の御代、紀伊国牟ろ郡熊野村に永興禅師という僧がいた。熊野の河上の山中で一つの屍骨を見た。この骨は、麻の縄を2つの足に繋ぎ、厳に懸かり身を投げて死んでいた。骨の側には水瓶があり、以前に自分を訪ねてきた僧であること知った。その後3年経っても読経の声がしているという山人の話をきき、もう一度行ってその骨を取ろうとして髑髏を見ると、3年たってもその舌が腐らず、そっくりそのままの状態であった。このことは吉野の金蜂山にもあったことで、そこでも一つの髑髏が、長い間、日に晒されながら、舌だけは腐らずついていた。禅師が法華経を読むと、髑髏も一緒に読むために、舌が震えていた。(「霊異記」下巻第1)
宝亀9年(778)12月、備後国葦田郡大山の品知牧人という人が、竹原に宿をとった。すると夜、「目が痛い」と呻く声が聞こえた。一晩中、寝もやらず、翌朝になって見ると、一つの髑髏があり、目の穴を竹が生えて突き通していた。そこで目の竹を抜き、干し飯を供えて「吾に福を得しめよ」と祈った。市の帰りに、また竹原に泊まった。すると髑髏が生きた形になって現れた。(以下略)(「霊異記」下巻第27)
「日本霊異記」には、9世紀頃の日本人の、遺骨に対する考え方が現れている。ここでは、髑髏に生きているときの執念がそのまま残されている。しかしそれは焼いて粉々にするとかなり消えると思われるが、それでも強烈な恨みや怨念は消えないことがわかる。
「平家物語」では、都を福原に移した頃から平家に対する怨念は「物怪」(もののけ)となり、骸骨の形で現れ始める。ある夜、平清盛が寝所から出て中庭を見ると、「死人の骸骨(しやれかうべ)どもが、いくらといふ数(かず)もしらず、庭に満ち満ちて」いるのを見た。彼等は「上になり下になり、転びあひ転びのき、端なるは中へ転び入り、中なるは端へいず。夥しう絡めきあひ」、さらに、「多くの髑髏どもが一つに絡まりあひ、坪の内にははばかる程になって、高さは十四五丈もあらんと覚ゆる山のごとく」になった。その大きな骸骨の山に、「生き足る人のまなこの様に大のまなこどもが千万いできて」(「物怪之沙汰」)入道相国をにらんだ。つまり平家に対する怨念は、無数の髑髏になったり、また、大きな一つの髑髏になったりして、平清盛の前に現れたわけである。そこでは、人間の怨念の象徴が、死者の髑髏の形をとって現れた。過去の自分自身の執念が、屍骸の形になって現れてきた話もある。
浄蔵法師という、えらい行者がいた。この僧が蔦城山で修行をしていた頃、金剛山の谷に大きな白骨死体があり、それは五体そろって横たわっていた。死体には青い苔が生え、石を枕にし、手には独鈷を握っていた。誰の遺骸か分からないので、本尊に祈請をすると、第5日に夢告があった。実は、この死体は浄蔵法師の昔の骨であり、速やかに加持して、独鈷を受けとれというお告げであった。日覚めて死骸に向かい、声をあげて加持すると、死骸は起き上がって独鈷を浄蔵に与えた。その後、この遺骸を火葬にし、石の卒塔婆を立てた。今もこの谷にあるという。(「古今著聞集」第2)
ここでは、昔修行していた自分が遺骸の形で存在していたわけで、言わば自分のドッペルゲンガーに会った話である。しかもドッペルゲンガーの方は、白骨死体であった。
中国の道教の古典である「抱朴子」によると、狐が人間の「髑髏を(頭に)載せて、北斗を拝す。落ちざれば、すなわち人に変化す」とあり、日本でも江戸初期に書かれた浅井了意の「伽婢子」にその話がでてくる。
江州(滋賀県)武佐の宿に割竹小弥太という男がいた。ある夕暮れ時、1人所用で篠原堤を歩いていると、道の傍らに狐が出てきて、人間の髑髏を頭にのせて、北に向かい礼拝したら、髑髏が落ちてしまった。7、8度落して載くことを繰り返していたが、やがて落ちなくなってから、百度ほど北を拝んだ。するとたちまちに17、8才の絶世の美女になった。(以下略)(「狐の妖恠」)
白骨も五体揃っていると、さらに蘇りやすいようである。同じ「伽婢子」に次の話がある。
文亀の頃(1501−1503)、長間佐太という男が京都北山で柴を買い受け、これを都で売って少々の利益を得ていた。ある日、北山へ行き帰りが遅くなり、蓮台野に差し掛かった時は夜中になっていた。道のかたわらに古塚があり、急に両方に開いた。見ると、内部から光がでて、松明を灯したようにまわりが明るくなった。塚の中には一体の白骨があり、骨は頭から足まで揃っていた。この白骨が、急に起き上がつて佐太に抱きついてきた。佐太はしたたかな者なので、力まかせについたら、白骨は、あおむけに倒れて、ばらばらになり、動かなくなった。次の日に行ったら、白骨はくだけ、塚もくずれていた。佐太がその後どうなったかは、分からない。蓮台野は、京都における遺体の埋葬地である。古い白骨も、五体揃っていると、場合によって霊がついて蘇ってくることを語っている。
   小町伝説
小野小町は、「小倉百人一首」の歌でも知られた平安初期(840年頃)の女流歌人である。美貌でしかも「六歌仙」の一人という才媛であるにもかかわらず、生没年も不明であり、その生涯は謎に包まれている。そのくせ、不思議なことに伝説だけは多く、しかもその内容はかなり悲惨なものが多い。
鎌倉期に書かれた「古今著聞集」は、小町が生きた時代から3百年以上後になるが、小町についてはあまり良くは書いていない。そこには小野小町が若く色好みの頃は、中国の王妃も及ばないほどの奢った生活をしていた、と記している。「衣には錦繍のたぐひを重ね、食には海陸の珍をととのえ、身には蘭麝を薫じ、口には和歌を詠じて、よろずの男をばいやしくのみ思いくたし」(巻5)た、と書かれている。そしてその後に、17才で母、19才で父、21才で兄、23才で弟を亡くして、たった一人になった。頼る人もなく美貌も日々に衰え、家は破れ庭も荒れ落魄れて、はては野山をさまよった、と記している。
読んでいると、小町は大変気の毒な境遇であり、むしろ同情されるべきなのに、なぜこのようなひどいことを書かれなければならないのか?と思う。しかし、他の伝記はもっとひどい事になっていく。
鎌倉期に成立した「古事談」には、在原業平が東下りの旅の果てにおける話がある。奥州八十島で宿をとった夜、野原の中から和歌の上の句を詠む声が聞こえてきた。その言葉は、「秋風の吹くたびごとに、穴目穴目」と聞こえた。声の方へ行って見ても、人の姿はなかった。明るくなってから見ると、そこには1つの髑髏があり、目からはススキが出ていた。風が吹くたびに、ススキの靡く音がこのように聞えていた。不思議に思っていると、ある人が、小野小町がこの国にきて、ここで亡くなり、あの髑髏は小町のものであるといった。そこで業平は、かわいそうに思い、下の句を、「小野とはいはじ、薄生いたり」とつけた。また「童蒙抄」には、この歌は「小野小町集」にあるものという。昔ある人が野中を歩いていて、この歌を詠ずる声を聞いた。立ち寄って声の主を探している間、詠じていた。そのススキを取って、髑髏をきれいな所へ安置して帰った。その夜の夢に小野小町がお礼に現れた。
鎌倉期には、さらにこの「古事談」をもとにしたと思われる「小野小町盛衰絵巻」という絵がかかれた。そこでは死亡直後の絵から、腐敗し、犬やカラスに食い荒らされていく小町の姿を、冷酷なまでに写実的に10コマに描かれている 「古今目録」では、小野小町は出羽国の郡司の娘で、数十年の間、京にいて好色であった。そして本国へ帰って亡くなったので、そのため屍は八十島にある。小野は姓であり、住所である、と記されているが、小野小町の祖父は有名な参議小野篁であり、その息子が地方官である「郡司」になることはない。つまり小野小町は京生れである。
小野小町については、江戸時代の本居内遠の「小野小町の考」という詳細な考証があり、これらの伝説は、「玉造小町壮衰書」という書物から作られたもので、実際の小野小町とは無関係な仮託であると述べている。同書の原題は、正確には「玉造小町子壮衰書 一首並序」という長いもので、著者は空海とされて空海全集にも収録されている。平安・鎌倉期の人々は、当然この書により小町を考えてきた。
しかし実際には、2人の小町が別人であることを、最近の著作では、岸元史明「二人の小町」(「王朝史の証言」所収)が明らかにしている。つまり芸人の娘であった玉造小町が年老いて零落し亡くなった話と、謎めいた美貌の歌人小野小町の話が組み合わされて作られたのが、「小町伝説」のようである。
どちらにしても、ここで登場する髑髏は、小町の怨念の象徴というよりは、美女の代表としての「小町」にふられた、多くの男共の怨念が生み出した産物のように思われる。
 
(2)怨霊の鎮魂 −荒魂、聖霊、御霊

 

生きている人々に災いをもたらす特殊な霊は、怨霊と呼ばれて恐れられてきた。わが国における怨霊は、その萌芽はかなり古くまで遡ると思われるが、一般化してくるのは平安時代以降のことである。古代の怨霊は、江戸時代の幽霊のようなものではなく、自然災害をもたらす巨大で恐ろしい霊であった。しかも個人の私怨というよりは、滅ぼされた権力者の恨みによるものであった。またそれほどの恨みでなければ、歴史に記録されなかったであろう。これらの権力者の怨霊は、従来は「御霊」などで知られていたが、最近は、梅原猛の「神々の流竄(るざん)」(1970)、「隠された十字架−法隆寺論」(1972)、「水底の歌」(1974)等における大国主命、聖徳太子、柿本人麻呂などの霊に対する新しい視点として有名になった。
   大国主命 −滅ぼされた国王の怨霊
日本書記によると、崇神天皇の5年、国内に疫病が発生して人口の半分以上が死亡した。さらに翌6年には百姓の流亡、反乱などがおこり、その勢いは、もはや徳をもって治めることが出来ないほどになってしまった。その原因は、天照大神と大国魂神を宮廷内に共に祭っていることであることが分かった。そこで天照大神にはトヨスキイリヒメの命をつけて倭の笠縫邑に祭り、大国魂神にはヌナキノイリヒメの命をつけて祭った。しかしヌナキノイリヒメの命は、髪が抜け落ち、体がやせ細って大国魂神を祭ることができなくなってしまった。
翌7年、この災害をなくして国を治めるには、倭の大物主大神の子である大田田根子に自分を祭らせるとよい、という夢告が天皇にあった。そこで11月に大田田根子を神主として大物主大神を祭り、市磯長足市を神主として倭大国魂神を祭ったら、国内がようやく平穏になった、という記述がある。
この崇神天皇紀で祟った怨霊の名を見ると、天照大神と併祭されていた神は倭大国魂神、ヌナキノイリヒメの命に祭らせた神は日本(やまと)大国魂神、天皇の夢に現れた神は大物主神、その後に3人の夢に出て大田田根子が神主として祭った神は大物主大神、市磯長尾市を神主として祭った神は倭大国魂神である。この2神の関係は、大物主大神は和魂、倭大国魂神は荒魂といわれる。
大物主神、大国魂神という名は、出雲の大国主命と同じ名前であり、この出雲の大国主命との関係が極めて分かり難い。その関係について日本書記の一書第六によると、大国主神の国造りが終わった時、神々しい光が海を照らし、そこから1人の神が現れた。その神は、大国主神の幸魂奇魂(瑞祥と神霊の魂)であるといい、さらに大和の三諸山に住みたいといったので、大国主神が神宮を作って住まわせたのが大三輪の神であると述べている。ところが実際の三輪山の神は、山自体をご神体とした神社以前の古い神であり、そこには鳥居があるだけで社殿はない。
ここで詳細を述べることは控えるが、古代において大和国家にならぶ国づくりを進めていて滅ぼされた出雲の王である大国主神が、実際にはこの段階で祭られた神のように私には思われる。「大国主神」というのは、アマテラス大神をいただく天尊族に滅ぼされた部族の地主神の普通名詞であり、全国的に存在していた。たとえば東京には武蔵府中の大国魂神社があり、出雲の大国主命が祭神である。つまり全国の国津神の代表が、出雲の大国主命であったと考えられる。
この大国主神を祭る出雲大社は、古代における最大規模の建築であった。時代は下るが平安初期の源為憲の「口遊」には「大屋を誦する」として、「雲太、和二、京三」と書いている。当時の大建築を数えあげた言葉であり、その第一位が出雲の大社、第二が東大寺大仏殿、第三が京都の大極殿であった。平安期でさえ驚く大建築が、奈良時代より前に存在したわけである。しかしその神社の社殿のプランが、さらに驚くべきものであった。社殿はごく普通に南向きに建てられたが、神殿は東北隅(=鬼門位)に西向きに設置されている。これは「西の三合」といって、新しい生命が生まれないことを意味しているといわれる(長原芳郎「陰陽道」)。さらに32丈という高さは、雲に分け入って雲・水・風が輪廻しない建築になっている。また建築に使用される数体系は、伊勢神宮が奇数(陽数)であるのに、すべて偶数(陰数)が使われていて、日没の幽宮であることを示している。(拙著「建築と都市のフォークロア」) つまり出雲大社は、非常に念入りに大国主神の霊を封じ込めるために作られている神社であることが分かる。
   聖徳太子と法隆寺 −滅ぼされた一族の鎮魂
梅原猛「隠された十字架 −法隆寺論」(1972)は、古来、建築的にもいろいろ不可解な点が多かった法隆寺と、有名なわりにその実像がはっきりしなかった聖徳太子に、全く新しい視点を与えた。同書により、古来、謎の多かった法隆寺は、聖徳太子と、蘇我入鹿に滅ぼされた上宮王家の子孫25人の怨霊に対する鎮魂の寺であることが立証された。
同書ではそのことを、法隆寺の中門の真ん中に柱があること、この中門がいまなお聖霊会の時以外は開かずの門であること、金堂に太子とその父母の像と称する俗人の服装をした仏像を3体並べて本尊としていること、東院の夢殿には太子等身の像と称する救世観音が秘仏として祭られており、その顔が不気味であること、公式文書である日本書記がなぜか太子の叙述では冷静さを失っていること、太子の霊が聖霊会という儀式であまりにも丁重に祭られていることなど、従来と異なる新しい視点から解釈し、古代史の世界に大きな衝撃を与えた。
聖徳太子の怨霊鎮魂説は、現在まだ通説となっているわけではないが、太子の死後4年目に蘇我馬子が亡くなった後、日本書記はいくつかの天変地異を記述しており、それらは状況証拠とも考えられる。例えば、蘇我馬子が亡くなった推古34年には、3月から7月まで長雨が降り、夏の6月には雪が降った。飢餓は深刻化し、老人は草の根を食べ、餓死者は溢れ、犯罪が横行した。翌35年の春2月には陸奥国でむじなが人に化けて歌をうたい、夏5月には蝿が集まって10丈にもなり、空一杯になって信濃坂を越え、雷のような羽音を出して東の上野国まで飛んでいって消えた。これらの天変地異に関する日本書記の叙述は、怨霊説を裏づけるおどろおどろした状況である。そして聖徳太子の怨霊は、法隆寺では「聖霊会」という名で、長い間、密かに鎮魂されてきており、その後の「御霊信仰」の原点のようにも見えるのである。
   御霊信仰
奈良時代から平安時代にかけて、都が平安京に移っただけではなく、そこでの権力者の構造が大きく変わった。その際、不当な罪を受けて死んだ人は少なくない。これらの死者は、怨霊となって新しい都に災いをもたらした。このような政治的陰謀などにより、無念の死を遂げた犠牲者の霊は、死後、怨霊となって国に災いや疫病をもたらすと恐れられ、「御霊」と呼ばれた。その最初となったのが、長岡京の藤原種継の暗殺事件に連座して死んだ早良親王の怨霊の祟りであった。廃太子早良親王の祟りといわれる怪異は、早くから宮中に現れていた。そこで親王の葬られた淡路島まで僧侶が派遣され奉幣が行われていたが、それでも祟りは治まらず、延歴19年(800)には親王に崇道天皇の尊号を追贈し、山陵への格上げが行われていた。これは最初の「御霊会」の63年も前のことである。
平安京を開いた桓武天皇(737-806)は、天智系の天皇である。奈良時代における天皇は、持統天皇以来すべて天武系で占められてきたが、この流れが称徳天皇(718-770)を最後に終り、光仁天皇(709-781)の即位によって、新しく天智系に変わった。しかもこの権力の交替が、藤原・橘という古代貴族の政権争いとからみ、そこに始まる多くの政争の犠牲者の怨霊が「御霊」であり、その鎮魂が「御霊信仰」となった。
最初、御霊社に祭られたのは早良太子と井上内親王の霊であったが、貞観5年(863)5月20日に、平安京の神泉苑で行われた最初の「御霊会」で祭られた怨霊は「六所御霊」といい、崇道天皇(早良親王)、伊予親王(桓武皇子)、藤原夫人(吉子)、橘逸勢、文屋宮田麻呂、藤原広継の六人の霊になっていた。ところが御霊会による鎮魂にも関わらず、なお災害は続いた。貞観7〜8年には疫病が流行して死者は3千人にのぼり、6年5月には富士山が噴火し、11年5月には陸奥地方に大地震、大津波があり死者は千人にのぼった。そのためさらに、御霊に吉備真備、菅原道真が加わって、御霊は八所となって現在にいたっている。その御霊とは、どのような人かを次に説明する。
 
(3)「御霊」−平安京の怨霊

 

「御霊」は3つの種類で構成されているように見える。まず第1の御霊は、桓武天皇による平安京への遷都とそこでの権力闘争の犠牲者の怨霊である。その犠牲者とは早良親王、井上内親王、他戸親王、伊予親王、藤原吉子である。これらの御霊は、すべて桓武天皇に関わる人々の怨霊である。この内、井上内親王と他戸親王については、「御霊会」が正式に開始された863年には、天智系の皇統が確立して桓武天皇も崩御されており、「六所御霊」からはずされている。
第2の御霊は、桓武天皇以降の天皇の代になって作られた怨霊である。橘逸勢、文屋宮田麻呂、そしてなぜか「御霊会」の段階になって登場した藤原広継がある。
第3の御霊は、「御霊会」の発足後に登場した菅原道真公の怨霊と、古く遡って祭ることになった吉備真備の怨霊である。この順に沿って、以下に述べる。
   第1の御霊
平安京を開いた桓武天皇(737-806)は、母を渡来人系の高野新笠、父を天智天皇の皇孫白壁王(光仁天皇)とする天智系の天皇である。奈良時代における天皇家は、天武天皇の皇后であった持統天皇以来、文武−元明−元正−聖武−孝謙−淳仁−称徳と、すべて天武系で占められてきた。この流れが称徳天皇(718-770)を最後に終り、光仁天皇(709-781)の即位によって新しく天智系に変わった。しかもこの権力の交替が藤原・橘という古代貴族の政権とからみ、血なまぐさい政争に発展した。この権力交替に始まる多くの政争の犠牲者の怨霊が、最初の「御霊」である。その鎮魂が 「御霊信仰」であり、863年の「御霊会」よりかなり遡って行われている。
崇道天皇(廃太子早良親王) 早良親王(さわらしんのう)(?-785)は、光仁天皇の第2皇子で母は高野新笠である。桓武天皇即位で東宮となったが、藤原種継の暗殺事件に連座し、淡路へ流される途中、絶食して死去。安殿親王に祟りをなすと思われ、崇道天皇と追号され、京都御霊神社に祭られた。いわば第一の「御霊」の中心的人物である。事件は、新都長岡京の造営にからんで起こった。従来の天武系の都であった奈良の地を離れて、桓武天皇は、新しい権力基盤として新都長岡京の造営をすすめていた。この指揮者が藤原種継(737-785)であった。彼は、藤原百川に続く式家藤原氏を代表する実力政治家として活躍していた。この種継が、延暦4年(785)9月24日、突然、暗殺される事件が起こった。暗殺計画は、佐伯・大伴氏が中心になり、北家藤原氏や春宮の宮人を含む、かなり大がかりなことが分かった。桓武天皇は反逆の罪で、斬罪、流罪を執行したが、その範囲は非常に広範に及んだ。事件に関係したといわれる大伴家持は直前に死んでいて処刑は逃れたが、葬式も出せない状態になった。事件には北家藤原氏や春宮関係の宮人が加わっていたことから、嫌疑が早良親王にも及び、親王は10月8日に皇太子を廃されて乙訓寺に幽閉された。親王はこれに対して、十余日間飲食を断って抗議し、淡路島へ移送の途中に高瀬橋頭で死去した。遺体はそのまま淡路島に送られ葬られた。11月25日、天皇は、早良親王に代り、安殿(あて)親王を皇太子にした。
早良親王は、桓武天皇とは母を高野新笠とする同腹の兄弟である。この事件は、早良親王の下に結集した大伴・佐伯など古代の名族と、反式家藤原氏勢力の蹉跌であった。廃太子の後、桓武天皇の近親者には災害が頻発した。延暦5年(786)藤原古川の夫人旅子の母諸姉死去、延暦7年旅子が死去、延暦8年母高野新笠が死去、延暦9年皇后乙牟漏が死去、延暦11年皇太子が重病。占いにより、早良親王の祟りと分かった。天皇が畿内の神社に奉幣したが、長岡京は洪水に襲われたり、雷雨で南門が倒壊したり、自然災害まで相次いだ。このようなことから、延暦12年(793)1月に平安京への遷都の検討が始まり、翌年、平安京への遷都が実施された。つまり平安遷都も、早良親王の祟りからの逃避が一つの動機になっていたといえる。しかし遷都後も親王の祟りと思われる病気や災害がつづいた。そこで天皇は、延暦16年5月、禁中や東宮で怪異があるので転読悔過を勤仕して親王の霊に謝った。それでも怨霊の祟りが続いたため、延暦18年2月には、役人と僧を淡路島にやり親王の墓前に奉幣し、さらに翌19年(800)7月に親王に崇道天皇の号を送り、墓を崇道天皇山稜として陳謝の儀式が行われた。
井上内親王 井上(いがみ)内親王(717-775)は「六所御霊」にはないが、早良親王とともに恐れられ鎮魂された人である。内親王は、聖武天皇の皇女であり、光仁天皇の正妃である。伊勢の斎王として20年にわたる巫女の生活をした上で、30才を過ぎてから白壁王(のちの光仁天皇)と結婚し、他戸(おさべ)親王を生んでいる。宝亀元年(770)10月、光仁天皇の即位とともに皇后になった。その翌年、他戸親王は皇太子になった。宝亀3年(772)3月、井上皇后が光仁天皇を呪詛したとして、「巫蠱(ふこ)罪」により廃后になる事件が起こった。他戸皇太子も翌年廃皇太子となった。前皇后と前皇太子は、大和宇智郡没官宅に隔離幽閉されて、宝亀6年(775)4月に共に亡くなり、天武系皇統は終蔦を迎えた。呪詛事件の翌年、式家・藤原百川の推薦により皇太子になった山部親王が、後の桓武天皇である。この井上内親王・他戸親王の事件は、天武系の権力を取り除くためのものであることは明らかであり、しかも早良親王と同様に、桓武天皇に最も近いところで起こったものである。それだけ怨念も強いわけであり、桓武天皇はこの3人の霊の鎮魂のために、奈良県五條市に御霊大明神社を建てた。
伊予親王(桓武皇子)、藤原吉子  伊予親王(?-807)は、桓武天皇第3皇子であり、母は藤原是公の娘吉子(?-807)である。平城天皇は元来虚弱な体質であり、即位後も怨霊の祟りで神経質な性格であったが、藤原種継の娘の薬子を信任していた。大同2年(807)、薬子の兄藤原仲成が皇弟伊予親王の反逆を讒奏したため、平成天皇は伊予親王と生母吉子を川原寺に幽閉し、食を断たせた。そのため親王母子は毒をあおいで自殺した。これは式家藤原仲成と妹薬子が、南家藤原氏の勢力を排除しようとした陰謀といわれ、このことにより御霊は、もはや桓武天皇だけではすまなくなった。平城天皇はその後も健康がすぐれず、在位3年で嵯峨天皇に譲位した。譲位後も不調が続いたため、これらの御霊に対する鎮祭が始められた。弘仁元年(810)7月17日に、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人を祭った記事がある。
   第2の御霊
仁明天皇の御世(833-850)の承和9年(842)に承和の変がおこり、橘逸勢と文屋宮田麻呂が犠牲者となり、御霊に加えられた。さらに既に百年も前に亡くなり、その上、冤罪者ではないと思われる藤原広継が御霊に加えられた。そして井上内親王と他戸親王は、天武系の皇統が絶えて天智系のそれが確立した段階で、「御霊」から外された。以上の6柱が、貞観5年(863)5月2日の「御霊会」で御霊として祭られ、鎮魂の儀式が毎年行われることになった。
橘逸勢  橘逸勢(たちばな の はやなり)(?-842)は、橘奈良麻呂の孫で、804年に遭唐史として入唐。書道の名人で「3筆」の1人である。仁明天皇の承和9年(842)7月、北家藤原良房らの策謀で皇太子恒貞親王が廃せられ、仁明皇子の道康親王(後の文徳天皇)がこれに代わった。(「承和の変」)橘逸勢は、このとき恒貞を擁し、仁明廃立をはかった首謀者として流罪にされた。逸勢は拷問に屈せず、伊豆に流される途中に遠江で死去した。
文屋宮田麻呂(生没年不詳)  平安初期の貴族。840年(承和7)筑前守として九州へ赴任。新羅と交易。841年に解任後も現地にとどまり、西国地方を舞台に貿易、商業を行った。新羅商人と結び反乱を企てたとして、843年12月謀反人として伊豆へ流された。これも恒貞廃太子事件に関係があると見られるが、証拠となる隠匿の兵器類は少量であり、密告者が宮田麻呂の従者であることから、多分に冤罪の疑いがある。
藤原広継  藤原広継(?-740)は奈良時代中期の公卿。738年に大養徳(やまと)国守兼式部小輔となったが、翌年、大宰少弐に左遷。玄ム・吉備真備らの専横を非難し、北九州で乱を起こしたが、1か月ほどで破れ殺された。
   第3の御霊
最初の「御霊会」が行われてから、雷神となって祟りを恐れられた菅原道真の霊と、かなり古く遡って御霊に加えられた吉備真備の霊である。
吉備真備  吉備真備(693-775)は、奈良時代の貴族であり、右大臣を勤めた。吉備地方の豪族の出身であり、717-735年の間、留学生として入唐。儒学・天文・兵学など各種の学問に通じ、玄ムと共に橘諸兄の下で活躍。藤原仲麻呂の政権下で筑前守に左遷され、ついで肥前守となる。その後、遣唐副使として再び入唐した。帰朝後、大宰大弐となり、怡土城を築く。天平宝字4年(760)の恵美押勝の乱には、機敏な処置で軍事に参画して押勝を倒した。その功績により称徳天皇の天平神護2年(766)に従二位右大臣となった。ちなみに同時に左大臣になったのが、藤原永手である。永手は、天智系の光仁天皇を擁立した功績により、宝亀元年(770)正一位を授けられている。真備は光仁帝ではなく、天武系の長親王の子である文室大市を皇位に押したといわれ、職を辞し、宝亀6年に83才で亡くなった。国際的な知識人であり、優れた政治家であったが、晩年になって大きな権力の交替期の犠牲になった人である。「長生の弊、還りてこの此の恥にあう」(長生きして、恥をかいた)といったという説が残されている。
菅原道真 −別項で述べる。
   「御霊」とはどのような神か?
「御霊」は、神として神社に祭られた特定の怨霊をいう。その祭られた「御霊神」とは、どのような「神」なのであろうか? 実は、神泉苑で行われた「御霊会」に関する「三代実録」の注解も妙である。そこでは、御霊会において「仏を祭り経を説き、御霊を慰撫してその祟りを鎮めるために、歌舞・演劇・相撲・騎射・競馬などの歓を尽くす」、と書かれている。とすれば、それは仏教的な鎮魂の儀式である。日本には、八百万(やほよろず)の神があるといっても、そこで神として祭られる「御霊神」とは、どのような神なのか?
桜井徳太郎「民間信仰辞典」をみると、「御霊」とは、「人霊の総称らしいが、とりわけ荒々しい怨念をこめた人霊のみに限定して用いられる事例が多い」。また、「御霊は災厄をもたらす根源だとする古代心意は、人々の間で潜在的に伝承されて今日に至っている。行疫神・厄病神などは御霊の発現形態の一つで民間に定着した。しかし御霊も祭神として祀られ、怨霊が鎮まると、守護神として働くようになる。」として、近世の事例を記している。
また柳田国男「民俗学辞典」には、「御霊」という神名はなく、信仰の形態として「御霊信仰」という項目をあげている。そして、この祭祀は従来の氏神のそれとは、非常に異なり、規模において行列と芸能が大きな役割をなし、大きな飾り物、地方色を出した民衆芸術であり、激しい神輿渡御などに特徴があるという。
つまり「御霊」は、あまりに怨念がつよい霊魂なので、通常の仏教的な鎮魂の儀式では成仏できないと考えた場合に、その怨霊そのものを「神」に祭って鎮魂し、できれば守護神になってもらおうという、日本的・便宜的な「神」のようである。「御霊」の場合は、幾柱かの複数の怨霊をまとめて鎮魂できたが、さらに怨念が強い霊魂に対しては、その都度、個別の「神」として祭る必要がでてくる。そのように、個別の神になった怨霊が日本には幾柱もある。その第1が、御霊としても祭られている菅原道真の霊である。
 
(4)菅原道真 −「天神」となった怨霊

 

いまなお学問の神「天神様」として、全国各地で信仰を集める菅原道真(845-903)は、平安朝初期のすぐれた文人政治家である。醍醐天皇(885-930)が即位した寛平9年(897)の翌年、藤原時平が左大臣、菅原道真が右大臣に任命された。
醍醐天皇の親政による積極的な政治は、後に「延喜の治」として公家の理想とされる一時代となり、道真はその基礎をつくった。天皇の即位時、天皇の御歳は12才、時平26才、道真52才である。道真は宇田法皇の信頼が厚く、文人政治家としての実績は十分にある。野心的な青年政治家である時平にとって、宇田法皇と結び付いた上に、年長で実力のある道真の存在は、非常に邪魔なものであったと思われる。しかも天皇はまだ非常に若いわけで、道真が落とし入れられる状況は揃い過ぎている。
延喜元年(901)正月25日、道真が宇田法皇の第3皇子である齊世親王を立てて天皇を廃せんとしたとの密奏があり、宇田法皇の強い抗議にもかかわらず、道真は筑紫に、4人の子は皆4処に分けて流された。時平は、道真門下の諸司にあるものまで一掃しようと計ったが、三善清行の諌言でやめた。
東風(こち)吹かば にほいおこせよ 梅の花 主人(あるじ)なしとて 春な忘れそ
道真が住みなれた紅梅殿を出て、配処へ向かう時のあまりにも有名な歌である。筑紫では、ほとんど廃寺に近く壁落ち雨漏る浄妙院という寺に蟄居し、外へ出なかった。日用品も不足し、読書も月の光によるほどで、時には米穀さえ欠乏するほどであった。
道真は、2年にわたる筑紫の生活での栄養不良に加えて、脚気と皮膚病に悩まされ、延喜3年(903)正月から次第に衰弱し、最後の詩文集である「菅家後草」を紀長谷雄に送り、延喜3年2月25日に亡くなった。最後の詠は次のものである。
城に満ち、郭に溢れる幾梅花猶、是の風光は、歳華を早くす雁の足にも、将に帛を繋ぐかと疑い烏頭の點着にも、家に帰るを憶う
異郷の地に一人の幼女を残し、遠く家郷の天を望んで薨じた菅公の気持ちが伝わる。「北野縁起」には、筑前国・四堂のほとりに御墓所をつくり、遺体を納めようとしたが、お車が途中で止まって動かなくなってしまった。やむなくそこを墓所とし、それが今の安楽寺であると記されている。
   雷神となった菅丞相
道真公の怨念は、死後、天変・災異となって現れ始めた。道真公の亡くなった延喜3年の夏と翌年の夏には、引き続き大雷雨があり、4年の4月7日には、紫宸殿を始めとする所々に落雷した。7月、8月はほとんど毎日のように雷雨があった。この頃から、雷雨は道真の祟りといわれ始めたようである。「大鏡」には、道真が雷となって清涼殿に落ちかかったため、時平が太刀を抜いて天をにらんだ、と書いている。
6年4月にも雷雨、暴風が数日続き、大きな梅実のような雹が降って人畜に死傷がでた。8年10月7日にも雷雨があり、参議の藤原菅根が死んだ。世人は道真に蹴殺されたといった。翌9年4月には時平が39才で死去し、13年3月には右大臣源光が狩猟にでて死去。延長元年3月には皇太子保明親王が、21才で死去した。世人は、これらの災害は菅公の祟りであるとし、妖怪が現れるという流言も乱れ飛んでいた。これらのことから延長元年4月20日には、道真の本官右大臣を復し、正二位を贈り、昌泰左遷の詔書が焼却された。しかし菅公の祟りは、さらに続いた。4月に立てた皇太子慶頼王が、6月に死去。つづいて時平の娘褒子が死去。その弟の中納言も死去した。
朝廷では、時平の弟忠平が左大臣になり、祟りの恐怖と悔悟により、道真の子息をことごとく赦免し、本位本官に復して、ひたすら祟りを鎮めようとした。ところが延長8年(930)6月には大地震が発生、26日には、公卿達が殿中で雨乞いの事を議しているところへ落雷して、清涼殿の柱を焼き、道長謀反を報告した藤原清貫は衣焼け胸裂けて即死したほか、多くの死傷者が出た。この頃から、醍醐天皇も病気になり、9月に崩御された。
天慶3年(940)7月、右京七条の文子というものが、菅公神の託宣を受けたとして朝日寺の僧最珍とはかり、北野に祠をたてて祀ったところ、一夜で千本の松が生えたとする奇瑞が現れた。このことから朝廷から、正暦4年5月に道真公に正一位左大臣、十月に太政大臣がおくられ、天満天神の宮号を許された。(「国史大観」第2巻)
   天神信仰
「北野縁起」によると、菅丞相(=菅原道真)は死後、兜率天にのぼり、天満大自在天神になったといわれる。同縁起によると、金峰山の日蔵上人は、金剛蔵王の行導により三界六道をすべて見てまわったといわれる人であるが、承平3年(933)8月に一度死んで蘇った。その死んでいる間に、冥界で天満大自在天神に会った。そこでは天満天神は太政威徳天とよばれていた。天神のよそほひは、国王にも勝るもので、無数の侍従・眷属・異類・異形のものが付き従っていた。それらは雷神、鬼王、羅刹のようであった。住所は極楽国土のように荘厳であった。そこで天神は、16万8千の眷属悪神を率いてこの国に祟る理由を述べる。しかし逆に天神の名号を唱えて信心すれば、人々を加護すると語る。さらに、日蔵が地獄へ行くと、延喜の帝と三人の臣下がいて、苦しんでいたと語った。延喜の帝とは醍醐天皇、臣下とは時平達のことである。つまり菅原道真の霊魂は、死後に天上に昇り、天神となった。彼をおとしいれたものへの怨念は雷神となって祟り、彼等の多くが死んだわけである。
そこで道真の死後39年の天慶5年(942)と天暦9年(955)に神託があり、神殿を建立して道真を祭った。そのことにより、以来、祟りは鎮まった。
天神社は、京都北野と九州太宰府の天満宮から始まり、全国へ広まっていった。主なものをあげると、京都−五條天神、長岡天満宮、河内−道明寺天神、大阪−天満宮、周防−松崎天神、鎌倉−荏柄天神、東京−湯島天神、亀戸天神があり、全国に五千余の分祀が行われた。信仰の対象としての天満天神は、鎌倉期には正直者を守り邪悪をこらす神であったが、室町期には文学・諸芸の守護神となり、江戸時代には学問・書道の神になった。
北野とは、平安京大内裏の北にある野という意味であり、紫野、平野などとならび、京都七野の一つに数えられている。「続日本後記」承和3年(836)2月1日条に、遣唐使の出発に当たり、海路の平安を祈り、天神地祇を北野に祇る、という記事がある。また「西宮記」巻七の裏書には、延喜4年(904)12月19日に、左衛門督を北野に派遣して、雷公を祇らせた記事がある。つまり北野は、道真を祭る以前から、天神・雷神を祇る神聖な祭場であったようである。「菅家御伝記」に引用されている「外記日記」永延元年(987)8月5日条には、朝廷の手ではじめて北野聖廟を祇る、とある。また、北野天満宮の創始者の一人である僧景鎮(珍)の「景鎮記文」には、北野寺(貞元2年/977)という記述があり、北野の社は、聖廟とか寺と呼ばれていたといわれる。
道真公の怨念は、「御霊」のレベルを越えて「天神・雷神」のレベルに達したわけで、この御霊に対する天皇家と藤原氏の恐怖が、雷神・天神を祇る北野の地に、北野天満宮を建立させることになった。そこで「本朝世紀」長保元年(999)6月14日条には、「祇園御霊会」とは書かないで、「祇園天神会」という言葉で書かれている。
 
(5)平将門と「天慶の乱」

 

現在、東京駅の近く大手町のビルの谷間に「将門首塚」があり、日夜、供養が行われている。太平洋戦争後、何度か整地や建設の計画があったようであるが、その都度、事故や関係者の死亡など、将門の祟りと思われる怪異があり、現在も将門の御霊は「神」として祭られている。平将門(?-940)は、平安朝の中期に、下総を中心にして勢力をふるった武将である。父の遺領をめぐる一族の紛争を起こしたが、その後にこの紛争が「将門の乱」と呼ばれる内乱にまで発展し、西に起こった「藤原純友の乱」とともに、古代国家を揺るがす事件となった。
古代、東北地方(蝦夷)を鎮圧するために、陸奥に「鎮守府」が設置されていた。この鎮守府長官である平良将(正)の3男が将門である(「尊卑分脈」)。北畠親房の「神皇正統記」(1339)によると、将門は若い頃京都で藤原忠平に仕え、その推薦で検非違使になろうとしたが、顧みられなかったので憤って国へ帰った、とされている。もともと、中央の権力への志向が強かったと思われる。
将門の乱は、2つの段階に分けられる。第1の段階は、東国における地方豪族間の権力争いである。将門は、前常陸大掾源護とそれを助けた叔父国香、叔父良兼、良正などと、承平5年(935)から6年にかけて、何度も戦っている。「今昔物語」巻25では、将門のことを、「多ノ猛キ兵ヲ集テ伴トシテ、合戦ヲ以テ業トス」と書いている。このことで双方が朝廷に訴えたり、訴えられたりしている。
第2の段階は、将門の行動が国家に対する反乱の性格を持つようになったところから始まる。最初は、将門の本拠である下総国の隣国である常陸国で、国司に反抗していた藤原玄明という人物が、常陸国司藤原維幾に追われて、将門に援を求めてきた。将門は、玄明を保護し、天慶2年(939)11月に千余の兵を率いて常陸に赴き、これ維幾と交渉して、玄明の常陸国への居住を許して追捕しないことをせまった。しかし維幾は、既に3千の精兵を集めて将門に備えていたため、戦争になった。結果は、将門が維幾の軍を破り、府中を焼き、維幾を捕らえ、印鍮を奪って帰った。さらに武蔵国でも、国司と対立していた武蔵権守興世王が、将門を頼ってきた。期せずして国の地方政策に反対の立場をとる人々が、将門のもとに結集したわけである。
1国をとるも関東八州をとるも罪は同じという興世王の言葉をうけて、将門は近隣の諸国へ兵をすすめた。12月に下野国では国司が将門を迎え、上野国も占領した。この時、八幡大菩薩の使いという一人の巫女が現れて、朕が位を将門に授け奉る、というお告げを語った。その位記は菅原道真の霊魂が表し、八幡大菩薩が八万の軍を起こして、朕の位を授けるであろう。今、すべからく三十二相の音楽を奏して、これを迎え奉るべし、というご託宣であった。将門は再拝しこれを受け、一軍挙って相慶した。将門は、桓武天皇−高望王−良持という5世の末孫をほこる家系である。そこで将門自ら「新皇」と称し、「下野国亭南」を平安京にみたてて王城とした。律令制度を模して、板東諸国の国司を任命し、さらに左右大臣をはじめとする官職を任命した。ついで将門は、武蔵、相模等の国々を巡検し、国府の印鑑を収めた。
将門は、天慶2年12月15日付けをもって、摂政藤原忠平に上申書を提出し、従来の顛末を報告して了解を求めた。そこには既に「新皇」を称しているのに、「将門、傾国の謀(はかりごと)を萌すといえども、いずくんぞ旧主を忘れんや。貴閣、これを察し賜れば甚幸なり。」と低姿勢な言葉で書かれている。朝廷は、将門の「西上入京」を信じて恐れたが、彼の野心は関東八州によって、日本の半分を統治することにあったことが、上申書の内容から分かる。しかし一方、西では「純友の乱」が起こっているわけで、古代の律令制国家は最大の危機を迎えていた。
   将門誅滅と将門伝説
この時、京都の貴族が講じた乱への対策は、神仏にすがることであった。特に伊勢神宮には頻繁に奉幣が行われた。天慶3年正月19日、藤原忠文が征夷大将軍に任じられ、2月には東国へ出発した。一方、藤原秀郷と平貞盛は共に挙兵し、2月14日に4千の兵で将門の兵と激しく戦った。「扶桑略記」によれば、その日、将門は平貞盛の矢が左目に当たり、落馬したところへ、秀郷が駆け付けて首をとったといわれる。その後、将門の一統はすべて斬られて、滅んだ。3月5日、朝廷は将門誅滅の詳報をうけ、秀郷は従五位下、また後に、下野、武蔵守に任ぜられ、貞盛は従五位下に叙せられた。征夷大将軍の藤原忠文が、東国へ到着したときには、事件はすでに終わっていた。事件後、将門の首は4月25日に都に送られて、京の東市にさらされた。
「史籍集覧」(第12冊)所収の「将門純友東西軍記」によると、将門の眼は暫く枯れず、その上、首が夜な夜な笑って、遺骸(むくろ)があれば今一度合戦すべきもの、と叫んだ。その時、ある男が、「将門の、こめかみよりぞ射られけり、俵藤太がはかりごとにて」と詠んだら、眼がたちまち枯れてしまった。また、将門の遺骸は、首を追って武州まできて、豊島郡で倒れた。これが後の神田明神である、という話をのせている。
伝説では、都で木に吊された将門の首は、故郷を目指して空を飛んだ。力つきて落ちた場所が、大手町の将門首塚であるという。そしてその後、神田明神に神として祭られた。東京には、他に「鎧神社」(新宿)がある。将門の鎧が埋められ、祭られたという説があり、神田明神と同様に、オオナムチの神と一緒に祭られている。
将門の怨霊は、道真の場合と違い、天皇家や藤原氏に祟りをもたらした記事はない。そのため御霊として祭られた形跡もない。しかし将門は「明神」になった。
想像するに、ある日、晒されている将門の首が消えた。これが空を飛んだという伝説になった。将門の首は、将門を支持する一派か、または祟りを恐れる一派の手によって、盗まれたわけである。そして飛んだ首は故郷の下総ではなく、首を盗んだ一派の地である武州に「力つきて落ちた」。そして、その一派が祟りのないように、その地に将門を神として祭った、というのが多分、筋書きであろう。
関東には、もともとオオナムチの神を祭る神社が非常に多い。神田明神も祭神は、オオナムチと将門の2柱である。オオナムチ神は、天皇家の祖神アマテラス神にたいして、黄泉国の王である大国主命である。つまり関東地方は、宗教的には京都を支配するアマテラス神に対抗するオオナムチ神の地であり、将門はそこのオオナムチ神とともに「明神」として祭られたわけである。その勢力は、武州の「郡司」もしくは同等の勢力をもつ一派であったと思われる。首を盗んできて祭ったというと、中央から追及されるため、首が空を飛んできて、力つきてここで落ちたので、やむをえず祭った、というのが中央政権への弁解として分かりやすい筋道であったといえる。
将門の乱が終結した翌年の天慶4年(941)に、西国の藤原純友の乱も終結して、古代の反乱は終わった。純友の最後は首を斬られたとも、獄中で死んだとも諸説がある。いずれにしても純友は神には祭られず、伝説にもなっていない。その違いは、彼等を支持していた地方勢力の違いなのであろうか?
乱の終結後、御霊鎮魂の儀式は一応行われた。朱雀天皇は譲位後の天暦元年(947)3月、延暦寺で法会をいとなみ、この乱で命を落としたものに対して、「官軍」、「賊軍」の区別なく、すべて王臣としてその冥福を祈った。このように不慮の死をとげた者に対しては、敵・味方を問わず祭る思想は、多分、御霊信仰と共通するものであろう。つまり自分達に危害や災害を与える怨霊達も、これを手厚く鎮魂すれば、逆にわれわれを守ってくれる神に転化するというのが、そこでの考え方である。
 
(6)神道における霊魂 −魂の顕界と幽界

 

   神道における死後世界
古来、わが国では神も仏も、もとは同じものとして厳密な区分を行ってこなかった。たとえば和歌森太郎の著書「神と仏の間」が、その冒頭に引く謡曲の言葉のように、「神といひ仏といひ、只是れ水波の隔てなり」(謡曲「誓願寺」)といわれるほどの、区別のつきがたい関係にあった。したがって神道における死後の世界を問われれば、仏教における死後世界をそのまま流用しても、なんらの説明に困ることはなかった。たとえば、「三途川」は神道では「三瀬川」、「奪衣婆」は「瀬織津姫」ということになる。「大祓詞」(おおはらえことば)には、「高山の末、短山の末よりさくなだりに落ちたぎつ速川の瀬にます瀬織津姫という神」とある。この「速川」が三途の川であり、瀬織津姫という禊の介添えをする神が、奪衣婆という解釈になる。(西田長男、三橋健「神々の原影」)閻魔大王は、悪事を指摘してただす禍津日神や人の善事をほめる直毘神となる。つまり日本の神々には八百万(やおよろず)の神々がおられて、仏教の死後世界に登場する仏様に対応させようとすれば、おおかたは間に合うわけである。
神道においては、古代の記紀の世界におけるこの世、つまり顕界を支配する神としてのアマテラス、幽界を支配する神としてのオオクニヌシと支配領域を分けたものの、汚らわしい死後世界については、近世にいたるまでほとんど探求されて来なかった。たとえば本居宣長においても、死後の世界については、一種の不可知論の立場をとっている。「人死ぬれば、善人も悪人も黄泉国へゆく外なし。」とし、善人は天上浄土・悪人は地獄と分けることは「方便の作事」であるとする(「答問録」)。人の死後については、「安心なきが安心」と断じており、国学において幽界が積極的にとりあげられるようになったのは、おおかたは平田篤胤以降のことといえる。
もともと日本紀における「幽事」は、死後世界というよりはさらに広い解釈がなされていた。その第1は、顕事とは国家を治める政務、幽事とは神に奉仕する祭祀をさすとし、第2は、一条兼良などの説で、顕事とは人道、幽事とは神道をさすとするものであり、共に幽事を極めて広くとらえている。
平田篤胤以降、国学においても死後の霊魂の世界としての幽界が、ようやく取り上げられるようになった。しかし、篤胤の場合にも、死後霊魂が黄泉の国という汚い国へ行くという捉え方はなかった。死後、肉体は土に帰っても霊魂は消えることなく、幽明に赴き大国主命につかえ、その命令を受けて、子孫や眷属を守ると考えた。そして死後の世界としての来世が国学の世界でも、この頃からようやく明瞭に形づくられるようになった。
篤胤の思想は、平田の門下門流により発展させられた。死後、霊魂のゆく幽界については佐藤信淵が、天地間に存する無形無容無臭の「雰囲気」の世界であると説いている(天地鎔造化育論)。この観点からすると、死後の霊魂の世界としての幽界の主宰者を、大国主命の専属とする見解にも異論がでてきた。(鈴木雅之「撞賢木」) これらの見解の展開については、村岡典嗣「復古神道に於ける幽冥観の変遷」(「日本思想史研究」所収)に詳述されている。
しかしこれらのことから見ても古来の神道は、それを宗教としてみた場合、記紀以来、死後の世界を明確に追及してこなかったことが、神道の思想の敦命的な弱点となっている。そしてそのことは、明治政府が神道を「国家神道」として復興しようとした際に、重大な問題となって現れてきた。
   神道において、死後世界を主宰する神は誰か?
明治維新により成立した新政府は、成立直後の慶應4(1868)年3月15日から、祭政一致・神祇官の再興を布告。28日には神仏判然令を発して、神仏分離・廃仏毀釈による神道の国教化という大宗教改革に乗り出した。これは江戸時代を通じて、仏教が事実上の国教となり、精神的支配を行ってきたことに対して、明治政府は古代国家の神祇官を復活させ、復古神道による宗教的権威の確立を目指すという大きな精神革命であった。明治3(1870)年には、「大教」の名で天皇の古代宗教的権威の復活をはかるために、大教宣布の詔が出され、神道の国教政策はその翌4年には頂点に達した。5月には神社はすべて国家の宗祇であるとする太政官達が出されて、伊勢神宮を頂点とした日本中の神社の社格を制定するという大変な制度化が行われた。
明治3年5月の社格制定により、日本中の神社のうちから97社が官幣社(大・中・小)、国幣社(大・申・小)に指定されて神祇官の所管となり、その他の諸社のうち府社・県社・郷社は地方官の所管となった。さらに7月には、府県社・郷社・村社の社格が公的に決められて、以上の社格が付与されない神社は無格社と呼ばれることとなった。つまり日本の古来の八百万の神々は、皇祖神であるアマテラス大神を頂点にして格付けされ、再編成されたわけである。
明治8(1875)年3月、神道の準公的な中央機関として神道事務局が設立され、5月には局内に仮神殿を造営して、神道布教の大道場である神道大数院をつくることになった。そして、この大教院の神殿には、旧大教院の祭神である4柱の神(天之御中主大神・高御産巣日大神・神産巣日大神、そして皇祖神である天照大神)と八百万神が祭られることになった。この祭神の最初の3神は、造化3神といわれ神代史の冒頭に現れるものの、その実態はなく、津田左右吉からは、記紀編纂時に権威づけのために、あとから挿入された神として指摘されていた神々である。つまり天地開闢のときの形式的な神々に、天皇の祖先神としての天照大神を加えた4神が、国教としての神道の最高神として祭られたわけである。この4神を祭神とする神道大数院の神殿は、明治11年6月に着工し13年3月に落成し、4月には盛大な祭典が行われた。
事件は、この4柱の祭神に異論が出たことからはじまった。既にこの4柱の祭神については、出雲大社の大宮司兼大教正である千家尊福が、明治6(1873)年6月に、4柱大神に大国主命を加え鎮祭すべきことを建議していたのであるが、11年5月の神殿建築を機に、改めて建議書を事務局に正式に提出した。そこで千家尊福は、天界を統治する天照大神に対して、幽冥界の統治者としての大国主命の役割と事跡を明確にすべきとして、全国の神道教導職の大会議での審議を求めた。このことは宗教としての神道の弱点をついたものであり、その事により、賛否両論こもごも起こって、神道界は未曾有の大混乱に陥ってしまった。
この時の賛否両論の詳しい資料は、西田長男「日本神道史研究」第1巻に収録されている。5月20日審議の結果は、千家大教正の発議に賛成するもの8名、国津神を祭るとすれば、イザナギ、イザナミ、スサノオ、オオクニヌシまでを祭祇すべきとする平田大教正の見解に同意するもの11名、従来のままでよしとするもの5名、その他が2名という結果になった。つまり、おおかたの教正は大国主命で代表される幽界の神を祭祇すべきことには賛成したわけであるが、問題はこの幽界がかならずしも死後世界を意味するわけではないことにあった。
さらに、千家尊福の建議に反対した伊勢神宮大宮司兼大教正 田中頼庸が、天照大神の支配がただ顕界のみに限定されて、その支配が幽冥界に及ばなくなることをおそれたことがある。もしそのようなことを許せば、「皇祖天神トイヘトモ、地球鎮座ノ分ハ、悉ク大国主神ノ部属卜言ワザルヲ得」なくなる可能性があるわけであり、明治6年7月、神宮教院では「教会要旨」を発行して、「天照大御神は此顕幽二界を主宰め給ふ御事なれば、尊き事又類なしとしるべし」と述べており、天照大神は神道における顕幽界すべての主宰神であるとする見解を、すでにとっていた。しかしこのことは神道界を通じての定説とはいえず、神道界は伊勢派と出雲派にわかれて、さらに4分5裂して大変な事になってしまった。そのとき、事務局や内務省に意見を上申したものの数は、なんと13万3千87人に及んだといわれる。
この大混乱の中で明らかになったことは、神道においては死後世界について明解な思想が欠如していたということであり、そのため神道を宗教として取り扱う場合、仏教やキリスト教に比べて決定的な弱点を持つということであった。この事件の結果、勅裁により神道事務局の神殿は宮中祭神の遥拝殿とし、そこでの祭神は天神地祇、賢所、歴代皇霊とすることにより一件は落着した。しかし、この結果、宗教としての教派神道は、国家道徳としての「御国のカンナガラの道」とは2つに分離して進むこととなった。
   出雲神道における幽界
では出雲神道においては、幽界についての見解が明解になっていたかとなると、それが必ずしも明解ではない。祭神論で大国主命を幽界の主宰者として、顕界の主宰者としての天照大神との併祭を主張した千家尊福は、神道教会・大社教を明治6年1月に出雲で起こしている。大社教は、大国主命を主神とし、造化3神、天照大神、産土神の6神を祭る神道教会であった。
この大社教の教義をみても、死後の魂の行き先としての黄泉国の実態は、明確には見えてこない。たとえば、そこでは、人の死後に「霊魂の帰着するの地は、天にあるか地にあるか、或は又黄泉国なりやといふに、善悪邪正の別に従ひて、其所在一ならずといへども、霊魂は一切悉天上に帰するにあらず、又昔此の地に留まるにあらず、況ん黄泉国をや、然れば霊魂の帰着は、偏に幽政、栄誉、実に之に過るは無く、・・・・、修身誠意は生きて人たるの法にして、死して神たるの道といふべし。」(千家尊福「出雲大神」大正2,p518-519)といった頼りないことが書いてある。また、「三柱大神(イザナギ・イザナミ・オオクニヌシ)の如此に留り給ふ所異なるは、(天界・黄泉国・この世)各主宰し給ふ所あるに因れば、人の霊魂もまた斯顕世を去るの後、幽冥に於て従事すべき事ありて、其留る所の如きは一方に偏する者にあらざること明かなり、然れども霊魂は神賦にして、則幽より出たる者なれば、其本に帰すべきは始祖伊邪那岐大神の上天を以て知るべく、又幽政の如何に困て斯土に留るは大国主大神の此土に座するもって知るべく、・・」(以下、略)(千家、「同上書」p519)などとある。つまり、死後の霊魂は、イザナギの天界、イザナミの黄泉国、そしてこの世にとどまる霊魂に分かれ、最後の霊魂がオオクニヌシの支配下に入るということになるのであろうか?
本書で既に述べてきたような、仏教における死後世界への取組みの歴史をみるとき、神道における死後世界への取組の素朴さと不明確さには驚かされる。そのため、幽政の本府たる出雲大社において行われる代表的儀式は、死者の葬儀ではなく、生者のためのめでたい結婚式になり、大国主神は死者の霊魂を支配する神ではなく、生者の縁結びの神になる。
日本書記では、大国主神(=大己貴命)の国造りの大業など「顕露之事」のご事跡に加えて、天日隅宮における「幽事」を司るというご神徳を明らかにしているが、「神事」、「幽事」の詳細は記していない。一体、幽事が黄泉国とどのような関係にあるのか?それが来世を意味するものかどうか?
神道において死後世界を積極的に取り上げるようになったのは、既に述べたように平田篤胤以降になるが、ここでは大国主神との関連でみると、その思想的系譜は久保田収「出雲大神と神道思想」(「神道指令の超克」所収)によくまとめられている。それによると本居以前にも、中世の神道家であった慈遍が「旧事本紀玄義」の中で、幽界を死後の世界と考え、スサノオ、オオクニヌシを冥界を司どる神と考えており、これが幽界を明解に死後世界と考えた最初としている。本居宣長は、人が死ねば貴賎善悪を問わず、すべての人が行く先が夜見国であり、そこでの幽事を司どる神が、イザナギ、スサノオとオオクニヌシであるとした。この考えかたは、基本的に慈遍と同じとされている。
平田篤胤は、「霊能真柱」の中で宣長の説を批判し、死者の霊魂は黄泉国へゆくのではなく、この国土にあり、墓の上にとどまるとした。つまり冥府はこの国土のほかにあるのではなく、この国土の上で霊魂を主宰する神を大国主命とした。平田にあっては、黄泉国と幽冥界とは別のもので、黄泉国はもともとは地の底にあったもので、それがやがて月となったとする。つまり月夜見国と黄泉国は同じであり、スサノオとツキヨミの神を同一として黄泉国の神と考えた。これに対して幽冥界は目にみえぬ霊魂の世界であり、そこの世界を司る神が大国主命と考えた。
さらに詳しく幽界を論じたのは篤胤の弟子である矢野玄道で、幽界の政治はキズキノオオカミ(=大国主神?)のもと、諸国の国魂神、一宮神、氏神、産土神が分掌するとした。霊界は、神界、仏界、妖鬼界からなり、神界は高天原、仏界、妖鬼界は夜見国に属するとした。
   神道における葬祭式
わが国では奈良朝以降、死者の葬祭式はほとんど仏教によって行われてきた。特に、近世において神道が葬祭式から離れていた理由は、一つには死者を忌むものとして排除してきたこともあるが、今一つは、江戸幕府がキリスト教の布教をおそれて、すべての人々を生前、旦那寺に登録させて、死ねばこの寺に報告の上、仏式で葬儀を行わなければならないとする「寺請制度」が存在したことにあった。この寺請制度により、江戸時代においては仏教以外の宗教による葬祭を行うことはきわめて困難であった。
復古神道の台頭にともない、神道による葬祭式が貞享頃から行われるようになったが、それでもその件数は、貞享から天保までに75件を数えるに過ぎない。(「神道要語集祭祇編2」)そのため神社でも、家族の葬儀を僧侶に頼んで行う状況になっていた。この中で石見国津和野藩では、国学者岡熊臣が中心になり、一藩の神職のすべてが神葬祭に改宗した。この運動は、幕末の福羽美静による津和野藩本学運動につながり、さらに明治初頭における津和野方式による神社行政にも影響を与えたものであるので、すこし詳しく見てみよう。
幕府への神葬祭の請願は、まず津和野の隣藩の浜田藩において、天保10年に始まった。同藩における国学重視は、藩主松平康福と彼が招いた国学者の小篠紀をはじめとする本居門下生によるものといわれる。隣の津和野藩でも、藩主亀井之茲監(これみ)は施政の第一を学問の奨励におき、養老館を通じて国学を藩黌の教育方針の第一とした。そこで、国学者で神官であった岡熊臣を教師として、神道思想の普及に着手した。
弘化2年、浜田藩は条件つきではあったが、神葬祭が幕府から認めらるや、すぐに弘化3年に津和野藩でも神葬祭の願いを幕府に提出し、翌年11月に許可になった。ここでの浜田藩における神葬祭願いの理由を見ると、神職が葬儀に際して寺から剃髪を強制されたとか、神職の子女が「田孝不忠信女」などといういやがらせを受けていたことが書かれている。
さてこの岡熊臣の霊魂観は、神道における死後の霊魂観をさらに進めたものと評価される。彼の場合、人間の霊には、死んでこの世に残る霊と残らない霊の2つがあるとする。1つの霊魂は産霊神により与えられたものであり、この本元の霊は死ぬと月夜見国へゆき、この世へはとどまらない。この世に残る魂は、本元の霊が月夜見国へ去った後も死骸の辺りに沿って残り、祭れば時として顕れ、祭らなければ、墓所の周りにながく寂然として隠れ居るものとする。この霊は、死人の幸魂、奇魂で、この霊の上をわが国では、幽事、幽府、唐土では、幽冥、幽魂といい、この神霊の主宰者を大国主神とする。
津和野では、藩主の意向で藩全域にわたって神葬祭を行うべく、喪儀要録・喪儀式などを作って祭儀を行ったものの、いろいろ難しい問題があったようである。はじめは神葬・仏葬の併用方式がとられ、位牌などは寺にのこされた。つまり神葬祭を完全にするには、寺に代わるべきものが必要で、祖霊社の建設が必要になり、さらには霊祭の専従者、忌日の設定、祭文や儀式のやりかた、などいろいろなことが必要になった。霊祭の祭主はその家の主人がつとめ、親族集まって式を勤めたものの、寺院の僧侶のようなプロが行うようなわけにはいかず、結局は自治会組織のようなものができて、それによって行ったようである。津和野藩でも神社の氏子制度ができ、全村あげて神葬祭にふみきったものの、大部分の村では葬儀だけは、その後に仏葬に戻ったといわれる。(加藤隆久「津和野藩の神葬祭復興運動」ほか、同氏「神社の史的研究」所収)
明治15年10月24日、内務省通達により、神官の葬祭関与が府県社以下の神官を除き禁止された。そしてわが国では、江戸時代と同じように、生きている間は神社、死ぬと寺院という宗教の凄み分けが大まかにできて、今にいたる。
   神道における霊魂 −古代と現代の招魂・鎮魂
神道思想において現れる霊魂は、幸魂・奇魂・和魂・荒魂・国魂・産霊・天皇霊・精霊・死霊・族霊など、いろいろ登場するが、その多くは死霊ではなく生霊である点に特徴がある。古く大宝令や延喜式に定められていた宮中儀式で、途中300年にわたり絶えていたが、明治になって復活した「鎮魂祭」(オホミタマフリノマツリ・オホミタマシズメノマツリ)という儀式がある。その儀式は、宮中最高の儀式である新嘗祭の前日、11月21日に行われる。この祭りの初見は非常に古く、天武14年紀(685)11月24日条、「此日、天皇ノ為二招魂シキ」という記事にある。ここでの「招魂」は、タマフリと読む。つまり招魂とは、鎮魂祭を行うために天皇霊を招くための儀式であったと思われる。「招魂」とか「鎮魂」といえば、通常の常識では死者の魂を招き、鎮めることである。また宮中での鎮魂祭という言葉からすると、皇室の先祖霊や無念の死をとげた人々の霊の鎮魂の儀式かと思うが、実はそうではない。
つまり鎮魂祭とは、新嘗祭という重要な儀式の前段にあたり、生きている天皇の御霊を振動して中府に鎮めまつり、新嘗の祭を無事に奉仕されるように、天皇の御身のご安泰をお祈りする神秘的な祭儀なのである。鈴木重胤「延喜式祝詞講義十二之巻」には、天皇の即位にあたっての大祭である「大嘗祭」に続き、「鎮魂祭」が詳しく解説されている。それによると職員令神祇官の条に、鎮魂とは「言う、鎮安なり。人の陽気を魂という。魂運なり。言は離遊の運魂を招きて、身体の中府を鎮める。故に鎮魂という」とされている。つまり生きている天皇の魂が、身体の中府(臍下丹田の辺り)に、天神の御霊を招き鎮めて、天神と霊合する祭が鎮魂祭の儀式のようである。そこでの考え方は、儒教における先祖霊の招魂や常識でいう死者の鎮魂の儀式とは、非常に異なるものといえる。最も異なる点は、仏教・儒教などでは死者の霊魂を念頭においているのに対して、神道思想における霊魂は生者の魂に大きなウエイトをおいている事からきているといえる。鎮魂祭は、天皇を対象にした祭儀であるが天皇自身は出御されず、天皇の御衣が鎮物となる。そしてそこで祭られる霊魂は、生きている天皇霊である。(倉林正次「天皇の祭りと民のまつり −大嘗祭新論」)
神道における霊魂は、基本的には和魂(にぎたま)、荒魂(あらたま)、幸魂(さきたま)、奇魂(くしみたま)の4魂に要約される。日本書紀神功皇后条に、「和魂は玉身に服ひて寿命を守り、荒魂は先鋒となりて師船を導かむ」とある。つまり和魂は生命の持続や智徳といった霊魂の静的なはたらきをいい、荒魂は勇気、進取といった霊魂の動的はたらきをいう。また幸魂は、人の生命をまもり、幸福をあたえるはたらきをし、奇魂は、智的はたらきをする霊魂と考えられた。
たとえば大国主神は、海のかなたから寄りくる自分の幸魂・奇魂に遭って、その援助を得て国作りの大業を成し遂げることができたとされている。つまり生きている自分の魂が、自分を助けてくれるという話である。儒教では、子孫が先祖霊を祭ると、それに感謝した先祖霊が子孫を助けてくれるとしているが、神道における魂は生きている自分自身の霊魂である。その自分の霊を招き鎮めることにより、自分の働きを助けてもらおうというわけである。現世を中心にした神道の思想の面目が躍如とした考え方である。
しかし、この古代からの神道における招魂・鎮魂に対して、明治以降の神道では死者の霊魂に対する招魂・鎮魂が非常に重要になってきてしまった。それは日清戦争、日露戦争、そして今度の太平洋戦争など、多くの戦争において200万人を越える戦没者を出してしまい、その夥しい死者の霊魂に対して、国家としての対応に迫られるようになったことにある。つまり古来の「神道」は、明治以降になって「国家神道」という新しい段階を迎えたことにより、現代の神道は死者の霊魂に対する「鎮魂」を迫られることになった。
   招魂社から靖国神社へ −「国家神道」による死後世界の処遇
文久2(1862)年8月、孝明天皇は長州藩の内請をうけて、幕府に対して幕府の手により処刑されたり獄死した尊王攘夷派の志士達の招魂、及び現存者の赦免を命じる勅文を下した。その前年には皇女和宮のご婚儀があり、公武合体が進むかにみえた。しかし、実際には文久2年に入って尊攘派による報復的テロ行為としての「天誅」は激しくなり、一方、幕府の側では新撰組の活躍も激化し、明治維新への流れは急速に加速していた。
幕府は11月に安政の大獄以来の尊攘派の囚人を赦免し、刑死者、病死者の罪名を除いて墓をつくることを許すとともに、天領と各藩領における尊攘派の犠牲者の姓名の調査を開始した。そして12月には、京都霊山にある神葬祭施設である霊明舎で、最初の「報国忠士」の招魂祭が行われた。当日は、尊皇の志士ら66名が参集して、神祇伯白川家の執事であった古川躬行が祭主をつとめ、神道式の私祭として祭儀が行われた。
既に倒幕運動の中心となった長州藩では、1853年以来、藩の手で忠死者、戦没者の招魂祭を行ってきており、1865年には、背後に共同墓地をもつ桜山招魂場(のちの桜山神社)がつくられていた。
明治元(1869)年6月、明治政府は、江戸城内で大総督府主宰による東征軍戦没者の招魂祭を行い、7月には京都河東操練場で、鳥羽伏見の戦以降の戦没者の招魂祭を行なった。これらの祭りにおいては、官軍は「皇御軍(すめらみいくさ)」、旧幕府軍は「道不知醜の奴(みちしらぬしこのやっこ)」とされて、賊軍の戦没者は「朝敵」としてその霊魂は一顧だにされなかった。江戸の上野戦争でも、彰義隊の若い戦死者の遺体は上野の山に累々として放置されており、折りからの雨と暑さに腐敗して悲惨をきわめていた。それを見かねた神田旅籠町の三河屋幸三郎という侠客は、「死んだら仏だ、敵も味方もねえ」といって引取り、円通寺という小さな寺へ埋葬した。その寺は、江戸っ子が密かにお参りしたため、四十七士の泉岳寺のように有名になったという。(東京日々新聞社会部編「戊辰物語」)
「御霊信仰」においては、死後の敵方の霊の鎮魂を行っている。御霊にはならなかったが、将門・純友の乱においても、そのような敵方の死後の霊をまつり、その荒魂を鎮め和魂とする鎮魂の祭りが行われていた。この流れを受けて、幕末期の孝明天皇は犠牲者に対して、幕府軍、尊皇派を問わず共に祭ることを幕府に指示していた。しかし明治政府の「国家神道」における招魂社の思想では、それらの配慮が全くなくなっていた。
明治2(1869)年、王政復古後の東京奠都を機に、長州の大村益次郎(日本陸軍の創設者)が中心となって、東京に全国規模の招魂社をつくる計画がすすんだ。最初は上野の寛永寺、東照宮の一帯をあてる予定であったが、そこは上野戦争の「亡魂の地」であるとして、九段の田安台の地が選ばれ、東京招魂社がつくられた。そしてこの神社は、明治5(1872)年から、普通の神社のように内務省の所管ではなく、陸・海軍省の共同所管による特別の神社として、大祭には天皇が礼拝されるという破格の処遇をうけるようになった。
明治12(1879)年6月、東京招魂社は靖国神社と改称され、別格官幣社の社格を与えられた。そして靖国神社の祭神は、現人神であり、陸・海軍の大元帥である天皇の参拝を受けるという大変な名誉を受けることとなった。祭典においては、祭主を陸・海軍の将官がつとめ、陸・海軍省が任命した宮司が祭主の代理をつとめ、憲兵が警備にあたるという特殊な神社となった。
明治12年の創立当初は、1万5千柱程度であった御祭神は、日清・日露の戦役をへて、明治の末年にはおよそ12万柱となった。昭和に入って「満州・支那事変」により、一挙に20万柱が加わり、今度の太平洋戦争により、さらに213万柱という大変な戦没者が加わった。そして昭和62年7月現在では、246万柱が神として祭られている。靖国神社はこのような性格をもった神社のため、戦後、昭和20年12月に連合国軍による「神道指令」により政府からの保証、支援を禁止され、さらに、象徴天皇制と平和憲法下での戦没者慰霊をどのようにしたらよいか?明確にならないままで現在に至っている。
靖国神社の問題点のいくつかをまとめてみると、まずその名前がある。神社名称である「靖国」は、古代中国の史書「春秋左氏伝」を出典とし、「国を安んずる」という意味であるが、ここでの「国」とは、天皇が統治する日本国の意味である。主権在民となった現在の憲法と靖国は、どうなじむのであろうか? 第2に祭神の問題がある。祭神は、同神社規則第3条にいうように、明治天皇の言葉である「安国」の聖旨に基づくものであり、尊皇の立場にたって、そのために国事に殉じられた人々を奉祭している。その祭神は、昭和44年6月に提出された「靖国神社法案」(以下、「法案」という)では、「戦没者及び国事に殉じた人々の英霊」となっている。しかし実は日本国のために殉じた人々のすべての霊魂が、ここに祭られているわけではない。たとえば、明治の「戊辰戦争」では、多くの有為の人材が賊軍の汚名を着せられて亡くなっている。さらにそれには女性や子供まで道づれになった。彼等は、新しい日本をつくるために殉じた人々であるのに、靖国神社には祭られていない。また、2・26事件など、軍部の内部対立によって処刑された人々も、ここには祭られていない。
見方によっては、本当に国事のために殉じた多くの霊の名誉復活がなされていないまま、一方的な価値観によって合祀されるしくみになっている。それに対して2百万人を越す戦没者を出すに至った戦争の責任者として、国際的には犯罪者と見倣されて処刑されたA級戦犯は、靖国神社に合祀されている。また戦前には日本人として戦争に参加させられ、戦死していった台湾、朝鮮などの人々の霊にたいする処遇なども明確ではない。さらに、太平洋戦争では、沖縄や日本本土も戦場になったわけで、そこでの市民の犠牲者の鎮魂も、問題を残している。
つまり幕末に長州藩が作った招魂社と、その後の陸・海軍の戦死者に対する「鎮魂」が、その時の価値基準を残したまま、その後の靖国神社の宗教的行事の運営がなされていることに最大の問題がある。日本は国民主権となり、しかも2度と戦争を起こさないために、戦力まで放棄した現状では、靖国神社は全く新しい観点から考え直すしかない。沖縄戦の最後の激戦地となった南部の摩布仁の丘には、沖縄戦で亡くなった敵味方、すべての人々の名前を刻んだ碑がたてられ、そこを訪れた人々のすべてに、戦争の悲惨さとむなしさをうったえている。これが本当の鎮魂碑といえるのではないか?
靖国神社問題の悲劇は、旧陸・海軍省を始め、戦後も選挙や利権にからむ政治家達を、世俗的な形で日本国民の「鎮魂」に関わらせてしまったことにあるといえる。  

 

●5.死後の世界の探求 
人間は生まれてきた以上、いつかは必ず死ぬであろうことは誰でも知っている。しかし、実際に死後どうなるかを知っている人はだれもいない。今まで、死後世界について本書でいろいろ書いていながら、それらの内容の信憑性は全く実証されているわけではない。では、それらの話は、全くでたらめな作り話であるかというと、そのことを実証することもできない。
特に、我々は近親者の死を体験したとき、物理的・生物的な死は理解できても、昨日まで話をしていた親しい人の魂まで死んでしまったとは、なかなか考えにくい。いわんや、自分自身が死んだときには、自分の心や魂も一緒に死んで無くなってしまうということは、もっと納得しにくい。そこで人は死ぬ時、肉体は滅びても、精神とか霊魂は滅びず生き続けるという思想が登場してきた。哲学や宗教の世界では、さらに進んで、この精神世界、霊的世界こそが本当の世界であり、肉体で関わり合う世界は仮のものであるとする思想すら、存在するほどである。
しかしこの霊的世界は、実証が難しく実験も不可能な世界であるために、従来、科学の世界では死後世界、霊的世界を意識的に避けてきた。そのため、その世界に間違って踏み込んだ科学者は、洋の東西を問わず、ほとんどそのすべてが不遇な取扱いを受けてきた。そして、その状況は現在なお続いているものの、一方では1970年代以降のニュー・サイエンスの登場により、かなり状況が変わってきてもいる。そこで、ここでは実験・実証に少し踏み込んだ、死後世界の問題を取り上げる。
 
(1)平安時代における死後世界の探求 −源信の二十五三昧会と往生極楽記
横川の僧源信は、寛和元年(985)に極楽往生のためのマニュアルともいうべき「往生要集」を世に出したが、その翌年、「日本往生極楽記」(985?)の編者である慶滋保胤などと共に、25人が発起人となって「二十五三昧会」という活動を始めた。
同会の内容は、永延2(988)年6月15日の日付をもつ「横川首楞巌院二十五三昧式」という起請文に述べられている。それによると、この会は毎月15日に横川の首楞巌院(しゅりょうごんいん)で開かれる。未時(午後3時頃)に会員一同が集まり、申時(午後5時頃)から法華経の購読を行い、廻向の後に起請文を読む。そして、酉終(午後8時頃)から翌朝の辰初(午前8時頃)に至るまで夜を徹して、念仏と阿弥陀経の読涌を行う。この結集は会の時だけでなく、会員の関係は党とよばれ、おたがいに「父母兄弟の恩」をなし、たがいに離れ離れの生活をおくりながらも、決定往生のための契りをかわしていた。したがって起請に従わないものは、一同の協議のもと除名されるべきものとしていた。
また決定往生の団体であるために、党の構成員の命が危なくなると、全員で対応する。まず番をつくって看護に精進し、病人を阿弥陀仏を安置した草庵にうつす。会員の臨終に当たっては一同こぞってその一念を助け、友の極楽往生をたすけた。臨死の会員に、この世とあの世との境界で見えてくるものを聞きとったといわれる。
会員が死ぬと、共同墓地である安養廟に葬られ、党人は全員でその冥福を祈った。しかも党人は死んでも会員の資格を失うわけではなく、死後世界から会に通信をおくる資格と義務をもつという大変な会であった。(井上光貞「日本浄土教成立史の研究」) そしてこの趣旨にそって、生者と死者を総合した会員名簿が「二十五三昧過去帳」として作られたのであろう。
二十五三昧会が発足する20年前から、慶滋保胤と叡山の僧侶との間では、3月と9月の15日に法華経の購読と念仏を夜を徹して行う、「勧学会」というのが行われてきていた。これも会合は、年2回ではあるが、日常生活における精神的団結を図ったもので、「党」とよばれてきていた。二十五三昧会は、勧学会の発展したものであり、「往生要集」はこれらの同信同行の念仏団体の、指南の書としての性格を持っていたと思われる。
また慶滋保胤は、巨万の費用を投じて「豊屋峻宇」を興す権門勢家の人々が幅をきかす「近代人世」の世相をえがいた、「池亭記」の著者として知られる人物であるが、保胤自身は、朝は新邸の西堂に参じて阿弥陀仏を念じ、昼は朝廷の王事に従い、夜はその東閣にこもって古賢の書に親しむという人物であった(井上光貞、大曽根章介編「往生伝 法華験記」日本思想体系−文献解題)。そのために彼によって編集された日本最初の往生伝である「日本往生極楽記」は、編者自身が勧学会などを通じての、なまなましい見聞をおさめていると見られる。
そのような観点から「日本往生極楽記」(以下、極楽記という)を見ると、最近のニュー・サイエンスにおける臨死体験と共通した記述が、極楽往生にあたってもいくつか登場してくる。たとえば臨死体験においては、「非常に明るい光」が現れる。極楽記では、延暦寺座主僧正増命(6)が亡くなる時、「金光忽ちに照らし」、紫雲がたなびき、音楽が空にきこえ、香気が室にあふれた。また河内国河内郡の僧、沙弥尋祐(29)は、和泉国松尾の山寺で亡くなった。その夜、戌の刻から亥の刻にかけて大光明があり、山中はまるで昼のようになったが、亡くなると同時にこの光明も消えた。この夜、里人は火事と間違うほどの「大光」を山寺に見た。また延暦寺楞巌院の十禅師尋静(14)は、亡くなる前、夢の中で大いなる光の中に、数十人の禅僧が宝輿をもって音楽を唱えながら、虚空の中にいるのを見た。
また臨死体験では、様々な「聞き慣れない音」が、聞こえる事が報告されている。極楽記では、天に音楽が聞こえることが、数多く記載されている。聞き慣れない不快な音という記述はないが、音楽の外にも「櫓の音」が聞こえたという記述もある。摂津国豊島郡の箕面の滝の松の木の下で修行していた僧(23)に、天からお迎えが来た時、生死の大海をわたる筏の櫓の音が聞えた。衆生を極楽浄土へおくる筏の音であった。
臨死体験では、多くの人々が「心のやすらぎと静けさ」を感じるという。極楽記によると、梵釈寺の十禅師兼算(13)という僧は、病に臥して大変苦しんでいた。ところが7日の後に急に起き上がって「心神明了」になり、自分の命はまもなく終わるであろうと語った。また、伊予国越智郡の役人であった越智益躬(36)という人は、池亭記の著者と同様に、朝は法華を読み、昼は国務に従い、夜は阿弥陀仏を念じる暮らしをしていた。臨終に当たっては、身に苦痛もなく、心に迷いや乱れもなかった。
臨死体験では、多くの人が「美しい花園や野原」を見ている。極楽記には、花園や野原は出てこないが、「異香室に満てり」など、芳い香りがしたという表現は多数出てくる。おそらく花や香の香りであろう。蓮の香りと特定したものもある。近江国の国守彦真の妻であった伴氏(36)は、少女の頃から常に阿弥陀仏を念じてきた。臨終の日、座を胎蔵界曼荼羅の前に移した。この女性が病気で息も絶え絶えの間、蓮の香りが室に満ち溢れ、雲気が簾に入った。身に苦しみはなく、西に向かって亡くなった。極楽記では、極楽世界からお迎えの人がもってきた花を持って亡くなった人の話も出てくる。伊勢国飯高郡の一老婆(41)は、常に仏事に勤め、勤修に当たっては、香を買って郡中の寺々に供し、春秋には花に塩、米、木の実、野菜などをつけて僧に届け、長い間、極楽往生を求めていた。この女性が病になり、数日たって、子孫が重湯を食べさせようと起こしたとき、身につけていた衣服が自然にとれて、現れた左手に一茎の蓮花をもっていた。その蓮は花びらの直径が20cm以上もあり、とてもこの世の花とは思えなかった。色あざやかで、香りがあふれていた。看病の人がこの花の由縁をきいたら、私を迎えにきた人がもってきてくれたものだと語った。そのあとすぐにこの老女は亡くなった。
臨死体験では、多くの人が亡くなった近親者が現れるという。それらの人の中には全く見知らぬ人の場合もある。極楽記においては、極楽からのお迎えがくる記事が多い。岡山の僧普照(12)は、ある夏を楞巌院に過ごしていた。その夏の夜、麦の粥を寺中に施そうと湯屋にいた時、良い香りが山中にひろがり、妙なる音楽が空に聞えた。この時、普照がうたたねの中で、一つの宝輿が山から西を目指して飛び去るのを見た。その輿には、僧侶と楽人が左右についていた。そして輿の中には楞巌院の僧が乗っており、夢からさめた後、その僧が亡くなったことを知った。前述の楞巌院の十禅師尋静(14)の場合も、数十人の禅僧に守られた宝輿がお迎えにきた。このように禅僧が迎えにくるケースが、他にも多く記載されている。延暦寺の沙門真覚(27)の場合は、すこし変わっていて鳥が迎えにきた。尾長く白い鳥がきて、去来去来(いざいなむ)といった。孔雀がくることもある。源憩(35)の場合は、一羽の毛羽光麗な孔雀がきて、前を飛び舞った。前述の伊勢国の老婦人の場合は、美しい極楽の蓮花をもった人が迎えにきた。しかし亡くなった近親者が迎えにきた例はあげられていない。
このように見てくると、20世紀末のニュー・サイエンスにおける臨死体験の報告例は、すこし異なるとはいえ、千年以上前の極楽記にも類似の事例がいくつかあることが分かる。このようにその生涯をかけて極楽往生を目指した人々の記録は、もともと中国でつくられたものであるが、わが国では本稿でのべた「日本往生極楽記」を手始めに、多数の往生記がつくられた。首楞巌院の僧鎮源によってつくられた往生伝「大日本国法華経験記」には、源信も慶滋保胤もともに異相往生の人として記録される側にまわっている。
 
(2)肉体を離れた心霊は存在するのか

 

日本のニュー・サイエンスの先駆者福来友吉
   「天眼通」の女 −御船千鶴子
明治43(1910)年4月25日の東京朝日新聞は、熊本の御船千鶴子という女性が、普通の人には見ることが出来ないものを透視する「天眼通」の女性であること、そして、その透視能力を東京帝国大学助教授の福来友吉が実験し、その結果を発表することを伝えている。
日本では、透視能力とか心霊現象などというものは、いかがわしい祈祷師、宗教家などが扱う領域であり、まともな学問や科学の対象になるものでないとする考えが、今なお根強くはびこっている。それが百年も前に、しかも東京帝国大学の先生が問題にするということだけでも、当時のマスコミを騒がせるには、十分なテーマであったと思われる。しかもその内容は、見えないものを透視するという、奇術や魔術で行われていて、そのほとんどがインチキな能力を売り物にしたものである。それをあろうことか、帝大助教授という立場の人物が科学の実験対象として扱おうとしたわけである。そのため、福来友吉は本当に真面目にこの実験を行ったにもかかわらず、後に大学を追われ、被験者となった御船千鶴子は自殺するという、悲劇的な結末を迎えてしまう。しかし彼女には実際にその能力があったようであり、妹も同じ能力をもっていたが、姉の死をみて、終生、自分の能力を人に見せなかったといわれる。今ではこのような能力の存在が認められ、米国・ロシアなどでは国家的に優遇されているが、日本では今なおそれらの偏見から抜け出しているとはいえない。
さて福来博士は、すでにその年の2月に、千鶴子に対してカードに書いた名前、住所などを透視させるという実験を行なっており、そのほとんどすべてが正解であるという結果を得ていた。そして、4月には京都大学の今村博士と共同で、立会人には有名人が名を連ねた公開実験で行われた。それが東京朝日新聞に報道されたわけである。
さらに同様な透視実験が、丸亀市の長尾郁子夫人にも行われた。彼女の場合は、千鶴子の実験に興味をもって始めてみたら、自分でもできたところから始まった。千鶴子は、実験物に手をふれて透視する方法をとったため、いろいろ疑われたが、夫人の場合は全く手を触れずに透視する方法をとった。実験は、半紙に三文字を書き、箱にいれて外から読み取るものであり、そこでも立派に透視能力の存在が立証された。透視能力は、さらにその後、北海道の森竹鐵子、岡山の御船常代、神戸の三田光一という被検者でも行なわれて、透視能力をもつ人々が実在することが立証された。
   透視から念写へ −長尾婦人の念写能力
明治43年11月18日、熊本で福来博士は、既に撮影されているが未現像の写真乾版の透視実験を、御船千鶴子に対して試みた。千鶴子は、未現像の乾版の文字を読むことは出来ないことが分かった。その帰り道、福来博士は同様の実験を、菊池学士に依頼して長尾夫人に対して試みてみた。その実験の内容は、「高」の字を書いたカードを撮影し、未現像の乾版を長尾夫人が読みとるというものであった。
12月4日に、菊池学士が長尾夫人に対して「高」の字を写した末現像の乾版を読む実験を試みてみると、彼女は見事にその透視に成功した。更に12月7日には、「哉天兆」という3文字を乾版に写したもので、同様に透視実験に成功した。このことにより、未現像の乾版であっても、そこに写っている文字の透視が可能であることがわかった。
そしてこの未現像の乾版の透視実験から、「念写」という能力が存在することが分かってきた。それは、福来博士が菊池学士に依頼した上記の実験結果である写真乾版を現像してみると、「高」の字と「哉天兆」の乾版が、2枚とも膜全面が著しく感光していることから分かった。このことは長尾夫人の精神の働きによって感光したとしか考えられないわけで、ここから「念写」という次の能力の実験が始まった。
明治43年12月26日、福来博士は1枚の種板を黒紙で幾重にも包み、ボール箱に入れて長尾家へもっていき、さらにそれを白いボール箱に入れて、その上に「心」の字を書いた紙を張った。結果は、種板に字は現れていなかったが、局部的に感光していた。これが念写実験の始まりになった。翌日、同様な方法で黒丸を種板に念写する実験を行い、丸い形の念写に成功した。さらに、方形、十字形にも成功した。
これらの実験結果により念写の可能性が分かり、その後、天照、黒丸、神、仁、一、川などの、形や文字の念写に成功した。さらに、念写は、北海道の森竹鐵子、高橋夫人、武内天真、渡部偉哉、三田光一など、多くの人々により実験が行われて、その能力の存在が明らかになった。
   三田光一における念写と霊能力
さらに神戸の三田光一によって、遠距離間の透視から文字以外の念写実験に領域がひろがった。三田光一は宮城県気仙沼の出身であり、インド、中国などを放浪し、既に20年も前から関西地方を中心に超能力を売り物にしていた、プロの霊能者であったようである。
実験は、大正6年2月18日に通信実験として行われた。実験の内容は、木製の箱に2枚の写真乾版を厳封して書留小包で郵送し、その内容を透視すること。それとは別に書面にて、浅草観音堂の裏にかかげてある山岡鐵舟の額面の文字を神戸で透視し、その文字を小包の中の箱に入った写真乾版に念写することであった。実験は岐阜県大垣町において、小包の内容の透視と念写を、立会人が参加して公開で行われた。その結果、実験物の中身は包装を解くことなく、正確に透視された。さらにその上、鐵舟の額面の「南無観世音」という文字が透視されたのみならず、開封されないままの小包の中の乾版に、山岡鐵舟の書が字体もそのままに写し出されていた。これらの事実は、通常の常識では全く考えられないことであり、世人が三田光一の能力には、なにか種があると考えたのも止む得ないことであった。このあたりから福来友吉の研究は、従来、科学の世界が禁断の領域としてきた霊の実験に入る。
   三田光一による念写の実験と生霊の出現
福来友吉による三田光一のさらなる念写実験は、大正5年10月16日の夜9時に岐阜県大垣町の日吉座において、有識者立会いのもと2000人の観客を集めて行なわれた。そこで三田光一は、まだ自分では行ったことのない大垣城を、写真乾版に写し出す実験を行った。つまり大垣城へ実際に行ったことがない三田は、念写を行うに当たって会場から生霊となって大垣城を見にいき、そこで見た大垣城の姿を乾版に写し出そうという驚くべき実験であった。
その実験の結果は、2枚の乾版に見事に大垣城が念写され、実験は成功裡に終わった。その夜、三田光一の「生霊」が、大垣城への道をたずねたという瀬戸物屋の布袋廬三という老人は、三田光一と年齢、服装、容貌がそっくりな人に、ちょうど同時刻に大垣城への道を聞かれたことを証言している。しかし残念ながらその道を聞いた人物が、三田光一の生霊である決定的な証拠は示されていない。そのため道をきいた人物は、偶然似た人物であったか、それとも別に手配されていた人物であったかと疑う人々がいても不思議はない。この種の霊現象では、かなり良い状況証拠が示されていても、今一つ決定的証拠がないために、結局は信じる人は本当と思い、信じない人はウソと思う場合が非常に多い。
立花隆「臨死体験」では、霊現象におけるこのような傾向を、有名な心理学者の名をとって「ジェームスの法則」として紹介しているが、この三田の生霊の大垣城見学も、その一例のようにみえる。
   三田光一と死霊の予言
昭和5年3月、福来友吉は後援者であった不動銀行頭取牧野元次郎の次男二郎の心霊治療を、三田光一に依頼した。当時、牧野二郎は24才の青年であったが、虚弱な上に肺をおかされて既に絶望的な状態にあり、3月29日夜9時40分に東京の牧野邸で死去した。その同じ29日夜9時45分頃、神戸市須磨の三田光一が帰宅したところ、すでに牧野二郎は頭髪をきれいに調え、羽織袴の改まった姿で、床を後にして端坐していたが、5、6秒で消えた。三田が精神統一して招霊すると、再び現れて次のことを伝えてくれるよう依頼した。
(1)2月に三田が二郎に、今度生まれてくる自分の子供は女であると予言したが、実は男の子であること。  
(2)その子は自分の身代わりであり、相続者であること。
(3)妻は、再婚しないで、子供を自分と思って養育し、社会的に活動できるように育ててほしいこと。
(4)霊魂は不滅で、自分は朝夕、妻と子供のそばにいること。
これらの伝言は、4月4日の初7日に頭取、未亡人、主治医に伝えられた。未亡人の出産は、産科医が鑑定した6月中旬ではなく、三田が予言した100ケ日の御逮夜である7月5日夕で、読経僧のならす鐘の響きとともに、霊の予言通り男子が出生した。
   三田光一と心霊写真
三田光一の念写は、その後、さらに肖像の念写、つまり心霊写真へと領域を広げた。昭和5年10月2日、三田は上京のついでに麻布区飯倉の牧野二郎の未亡人を訪問した際、未亡人の懇請に応じて牧野二郎の肖像の念写を行った。未亡人及び牧野頭取の話によると、実験用の乾版は、出入りの写真材料屋から電話で取り寄せたもので、1ダース原封されたままのもので、仏壇に供えられていた。
三田は乾版から約5尺5寸(1.6m)の所に座り、夫人はその後ろに座った。実験は、午前10時25分から始まり、1分5秒で終わった。その後、乾版は現像するまで仏壇の中に置かれ、現像は仏間を暗室として、夫人立会いの下、浜豊彦という人が行った。現像の結果は、1、2、12枚目の乾版に、陰陽2種で同一の肖像が現れ、頭取、夫人共に、牧野二郎の肖像であることを確認した。(その肖像の念写写真は、福来友吉「心霊と神秘世界」に掲載されている)
さらに不思議な念写が三田光一により行われている。京都市外上嵯峨に通称「舟形屋敷」という400坪の広大な邸宅があった。三田は持ち主の染工業者花村満寿の依頼をうけて、昭和5年1月21日、その邸宅に起こる怪現象の透視を行った。その結果は、驚くべきものであった。 その地は、僧空海が嵯峨天皇の御悩平癒を祈るために、高野山の地主神である丹生都比賣の御霊をここに移し、100ケ日の祈願を行った聖地であり、さらに詳しい歴史的事実が三田光一によって透視された。三田は、弘法大師の信者でもなく、その伝記についても何の知識も持たぬ人であり、しかも透視を行った日は1月21日の初大師の日であることを、知らずに透視を行っていた。
3月16日には、嵯峨町長などの主催で、嵯峨公会堂で透視念写の公開実験が行われ、念写の題は大覚寺心経殿と決まった。しかし実際に念写実験で出てきたのは、弘法大師の弘仁13年7月15日から百ケ日御修行の時のお姿と思われるものであり、それが1枚の乾版に写し出されていた。その姿は弘法大師の憑依霊のものと思われるが、弘法大師である決定的証拠はない。ここでも「ジェームスの法則」が作用している。
昭和7年12月1日、福来友吉の研究は、西欧での研究事例の紹介から、仏教や心理学、生理学、物理学などの理論を含めて、573ページの大著「心霊と神秘世界」として発表された。上記で紹介したものは、すべてこの著書によるものである。そこには福来博士自身が日本で行った実験の詳細や、外国のさらに驚くべき実験例、そしてそれらの思想的背景がのべられている。  

 

●6.霊魂のゆくえ 
死後の霊魂はどこへゆくのか?仏教では、死後49日間はこの世にとどまるものの、その後は6道を輪廻転生すると考えた。つまり死者の魂は、49日間だけは自分の家の仏壇や埋葬された墓のまわりにいるが、それが過ぎればすべて次の世界へ生れかわるということになっている。しかし日本では、49日の喪が明けてからも、死者の魂を供養する行事が多く行われている。例えば、百ケ日、1周忌、3回忌、7回忌などといったものがそれである。さらにその他にも、先祖の霊魂は7月14、15日と12月31日の大晦日には、自分の家にもどってきて、その都度、生者と死者の交流が「先祖供養」という形式で行われている。
これらの先祖供養の仏事は、仏教的な念仏供養とは本質的に相容れない要素をもつように私には思われる。たとえば親鸞は「歎異妙」の中で、「親鸞は、父母の孝養のためとて、一遍にても念仏まふしたること、いまださふらはず」と述べているように、仏教において念仏は自分自身のためのものであり、先祖のために念仏供養を行うなどということは、仏教思想とは違う、日本的な家族共同体的な思想からでているように思われる。極楽往生記を見ても、そこに登場する人々はすべて個人である。一族でとか、先祖代々とか、夫婦で仲良く極楽往生をめざすといった共同体的な思想はない。
 
(1)国学から民俗学へ
   本居宣長、平田篤胤、柳田国男
平安朝以来、極楽浄土を目指した人々の記録は、極楽往生記のかたちで明治にいたるまで、1000年にわたって書きつがれてきたことを前に記した。ここに登場する人々が求めた極楽浄土は、この世から西へ十万億土(土は国の数)という想像を絶する遠隔の地にあるといわれる。一方、地獄の方は、極楽よりはかなりこの世に近いようであるが、そこへの道も既に述べたように大変な難路である。この遠い道を年2回、また年忌ごとにこの世へ呼びもどされたのでは、いくら供養とはいえ、死者の魂も容易なことではない。
この小さな日本列島の中の、またその内の狭い地域に定住してきた多くの日本人達は、仏教思想はともあれ、自分や親、兄弟・姉妹の死後の魂が、そんなに遠いところへ行ってしまうという思想には、馴染まなかったようである。そこで、身内の死者の霊魂は、死後は近くの山の中などに行き、そのような霊山へいけば、死後にも容易に会う事ができると考えた。そのような霊山は、古代の神南備山、三輪山から、中世の吉野、熊野、高野山など、いろいろ存在してきたし、そのように有名でなくとも、住む村や町の近くの山は、ほとんどすべてがかつては霊山であった。
このような考え方は、国学の中に流れている。本居宣長は、仏道では死後に善人は天上浄土、悪人は地獄へ、生まれるというが、これらは漢国の人々によるつくりごとであり、「人死ぬれば、善人も悪人も黄泉国へゆく外なし」(「答問録」)と簡単に言っており、死者はなべて地中へ行くといった。この本居宣長も、自分の死に際しては、山中他界を自宅から4キロほどしか離れていない山室山の妙楽寺に求めて、そこの墓所について詳細に指示する遺書を書いた。宣長は、吉野水分けの山系につづく山室山の墓所を、死後の霊魂の安息の地と定めたわけである。
山むろに千年の春のいやしめて 風にしられぬ花をこそ見め  今よりははかなき身とはなけかしな 千代の住かをもとめ待つれば
本居宣長のあとを受けた国学者である平田篤胤は、死者そのものをけがれたものとせず、神魂(たま)と亡骸(なきがら)に分け、骸は地中の黄泉国へ行くが、霊魂はこの国土にとどまると考えた。万葉集の歌にいうように、
ももたらず やそのくまじにたむけせば 過去し人にけだしあはむかも
平田は、死者の霊魂はこの国土に永久にとどまっており、この世から冥界を見ることは難しいが、この世と冥界は密着して存在しているものと考えた。「冥府というは、此顕国におきて別に一処あるにもあらず。直にこの顕国の内いずこにも有なれども、幽冥にして、現世とは隔りみえず。故もろこしの人も、幽冥また冥府とはいえるなり。」(「霊の真はしら」下)
   柳田国男の「先祖の話」
本居、平田の国学の路線の上に、柳田国男の民俗学がある。柳田国男は、日本の敗戦がほとんど不可避になった昭和20年4月から5月にかけて、民俗学の名著「先祖の話」を書いた。
太平洋戦争では、すでに2百万人を越える戦没者をだしていた。かつて、わが国では、人々が口にすることをはばかってきた死後世界、霊魂があるかどうかという問題を、どうしても取り上げなければならない、という切迫した気持ちが柳田にはあった。この書の中で柳田は、祖霊信仰を日本人の固有信仰と位置付け、家の神祭の基本的性格を明らかにした。そしてさらに、有為の若者がお国のために外地で空しく死んでいく現実に対して、先祖へのまつりを通じて、家の伝承をうったえる警世の書でもあった。
この書で柳田は、日本的な死後世界の考え方について4つの特徴をあげている。
第1は、日本人は、死んでも霊魂はこの国にとどまって、遠くへは行かぬと考えていることである。これは、上記の平田の考え方に似ている。
第2は、この世とあの世との交通が繁しく、春秋の定期の祭りだけではなく、どちらか一方の気持ち次第で、招き招かれることが容易であると考えていること。
第3は、生人の今はの念願は、死後には必ず達成すると考えていること。これによって子孫のために、いろいろな計画をたてた。
第4は、三度生まれ変わって、同じ事業を続けられると思っていたものが多いこと。
これらの考え方は、常に他国からの侵略に晒され、場合によっては、自分の生まれた地を追われて、生きていかざるを得ない大陸の人々には考えられない、日本的特徴であろう。このように考えてみると、中国や朝鮮における儒教的なものとは違う、日本的な先祖霊とのかかわりが見えてくるし、またそれとの関連から、今まで本書で述べてきた仏教的死後世界とは大きく異なる、日本的な死後世界をえがきだした。
   ご先祖様とは
墓石の表面には「○○家代々之墓」と書かれていたり、墓石の裏面や墓誌または過去帳には、そこに葬られた人々の戒名が書かれている。この場合、そこへ行っておまいりすると、一度にご先祖様すべてにおまいりできて、きわめて便利なしくみである。これが「○○之墓」とか、「○○及び妻△△之墓」というように個人ごとに墓をつくっていったら、おそらく近い将来、日本中が墓地で一杯になるであろうし、おまいりする方もいろいろな所へ足を運ばなくてはならなくなる。その意味から「○○家代々之墓」というのは、大変便利で良いしくみであると私は思う。本来、仏教的にいえば、49日がすめば霊魂は次の世界へ生まれ変わっているわけであり、せいぜいこの世に生きたしるしとして、小さい位牌を自分の家の仏壇においておけばよいはずである。
しかしこの○○家代々之墓という場合も、実はそこに葬られるための条件というか、ご先祖様になる条件が、なかなか難しいのである。柳田は、先祖には2つの考え方があるとする。その第1は、家の始祖である。しかし天皇家のように、第1代は神武天皇というように系図があれば分かるが、通常の家では3代くらいまでは遡れても、それ以前は全く分からないのが普通である。第2には、その家でまつるべき霊を先祖とする考え方である。この場合は、祭る側が祖先の範囲を若干ファジィーではあるが決めることができる。
例えば、藤原氏の場合、始祖は藤原鎌足である。ところが鎌足の孫の代になって男の子が4人あったのに、どれを本家と決めなかった。そこで藤原武智麻呂を始祖とする南家、藤原房前を始祖とする北家、藤原宇合を始祖とする式家、藤原麻呂を始祖とする京家の4家に分れた。この内、まず南家は藤原吉子、伊予親王が配流され、平安の初めに藤原雄友を大納言にしたのを最後に滅びる。式家は藤原薬子、仲成の変などを起こし、藤原緒嗣を最後に滅びる。これらの人々の怨霊は、残る藤原一族や天皇家に祟ったことから、御霊として祭られたことは既に述べた。京家は、麻呂の後、藤原濱成が右大臣になるが、桓武天皇に退けられてからは振るわなくなった。残る北家がその後の藤原氏の主流になるが、この北家は藤原冬嗣から後、さらに多くの流れに分かれる。そこでこの分立した始祖を御先祖として祭ったわけである。
しかし分立した後も、この系列を維持することは容易なことではない。なぜならば、始祖から子が5人生まれたとする。さらに、その子がそれぞれ5人生まれるとする。この状況がつづくと、その子孫の系列は、5×5×5×5×・・・、つまり5のn乗で増えていくことになる。3代で子孫の数は125人、5代で3,125人となる。このくらいまでは、まだ良い。ここから先、数は急速に増える。6代で一挙に15,625人、7代で78,125人、10代になるとなんと約1千万人になる。
仮に、1代を30年とすると、300年たつと子孫の数は1千万人になってしまう。藤原氏はすでに1千年以上つづく名門である。すると日本中の人のほとんどすべてが、いまでは藤原氏の縁戚であることになる。事実、伊藤、加藤、佐藤などという藤のつく姓は、藤原氏となんらかのかかわりがあるとする説がある。それどころか私、荒木の紋章は横木瓜であり、これは藤原氏の紋章である。しかも藤原氏は天皇家の縁戚である。とすると、おそれ多いことには、日本人のほとんどすべてが天皇家の一族ということになってしまう。
つまり家の初代を定めて、代々の御先祖様を正しく維持していくことは、意外に難しいことなのである。そこで柳田国男は、「御先祖になる」という言い方を紹介している。優れた子供を「跡取り」として、家の存続を図ろうという考え方である。また次男、三男で、跡取りにはなれないが優れた能力を持つものは、分家して自分が初代の「御先祖様」になれるしくみでもあった。藤原氏の歴史は、そのことを物語っている。
   氏神と先祖崇拝
古代においては祖先を同じくする血縁集団は、氏族とよばれた。物部、阿部、尾張、中臣、大三輪、大伴などというのがそれである。それらには、氏神という守護神がいて、氏の上が、氏人を率いてこれを奉祇していた。
氏神は、基本的には次の4種類がある。(1)祖神をまつるもの。たとえば、中臣氏の天兒屋命、斎部氏の太玉命 (2)居住地の神。たとえば、信濃国造家がまつる諏訪下社、伊予越智氏がまつる大山積神社、秦氏の松尾、稲荷の神、また後世の土地の鎮守神を氏神とする場合 (3)縁故ある神。たとえば藤原氏の鹿島、香取の神、尾張氏の熱田神宮など (4)朝命などでまつる神、たとえば、出雲氏のまつる出雲大社、穴門直の長門・住吉神社、津守氏の摂津・住吉神社など、である。
柳田国男は、氏神は当初は1氏族の神であったものが、その後に異姓の氏族の人々が合同してまつるようになった集合神と考えた。後世の鎮守神などはその典型である。その理由は、氏子達にとってわが神を「大きく力強く荘厳にすること」にあったといえる。つまり、柳田における氏神は、家ごとの祖先崇拝を拡大したものと考えられる。
祖先崇拝をなんらかの共通姓で包括した信仰対象が、氏神であるのに対して、祖先は家におけるまつりの対象として、いくつでも分割が可能である。そのため、一方では、長子相続により連綿とつづく相続制と、分家によりどの子も幸せにしたいという2つの相続制が相い闘い、また妥協してつづいてきた。
   先祖祭り
さてこのようにして誕生した「家」にとって、最も大きな年中行事は、正月と盆であるが、この2つの祭りは、実は共に家に戻ってくる先祖霊をまつる祭りであった。
春ごとに来る年の神を、商家では福の神、農家では田の神と思っているが、家ごとに幸せを与える歳徳神は、実は先祖霊であったとするのが柳田の考え方であった。日本では、人は亡くなってある年数たつと、その後は御先祖様、またはみたま様という霊体に融け込んでしまう。その年数は、33年または50年としていた。その先祖祭の祭日が、春分、秋分の両日、暮れから正月、そして盆であった。その他に4月に先祖祭を行っている所もあり、苗代の支度にかかる時を選んだと考えられる。
盆と正月のみたま祭りは、同じ先祖霊でも、正月は「みたま」、盆は「精霊さん」などと区別されるようになった。めでたい正月にかえる先祖霊は、人に災いをなすおそれのある「御霊」とは区別して、「みたま」としか書きようがなくなった。清輔の「奥儀抄」には、年の終りの魂祭りを解説して、「下人はみたま祭とぞ申す。公家には荷前(のざき)の祭という」として、死者の霊を表現する言葉まで避けるようになった。その結果として、新年のたままつりは、暮れの行事となり、さらには暮れのたままつりもすたれて、先祖祭りは盆を中心にするようになった。(柳田国男「先祖の話」)
さてその盆にお迎えする精霊は、3つのものからなる。その第1は、ここ1年の間に亡くなった荒忌みのみたまであり、このみたまのために精霊棚を設ける地方もある。第2は、関東以西の広い地域で「外精霊」(ほかじょうろう)と呼んでいるもので、無縁様とか餓鬼とかいう場合もある。先祖霊として必ず祭らねばならないみたまではない霊である。そして第3が御先祖の霊である。その意味での本来的な先祖霊は、33回忌または50回忌が終った霊であり、もはや生者であった故人を知る人が、ほとんどいなくなった霊のことといえる。
この3種の精霊を家に招いてお祭りすることは、個人が死後に極楽往生を願うのとは、非常に異なる思想であり、きわめて東洋的、儒教的なものと思われる。本居、平田、柳田という国学思想は、これらの先祖供養と家を軸として見た死後世界を、純粋に日本的なものとして考えた。もちろん、そこには日本的な特徴はあるものの、基本的にはアジア的、儒教的な思想が基盤になっている。それは日本への儒教の伝来が仏教より遥かに古く、しかも渡来系の氏族を通じてそれらの考え方や生活がそのまま伝来しているので、その意味では儒教思想を日本人から分離することは、仏教思想よりはるかに難しいであろう。
死者の霊魂は、儒教思想においては先祖供養という行事を通じて、過去、現在そして未来につながることになった。そしてその「先祖様」には、本当の先祖様だけではなく、あらみたまも、かわいそうな無縁仏も、一緒にまつることにより、一家の繁栄が図られると考えた。この考え方は、個人の霊魂が輪廻転生によって過去から未来へつながっていくとする仏教思想とは、大きく異なる。しかし日本においては、その両者が一緒になって、死後世界との生者との関係を形成してきたように見える。
 
(2)現代民話の死後世界

 

「現代民話考」として「民話の手帳」により1978年に集められた「あの世」の話が、松谷みよ子によりまとめられている。(「あの世へ行った話・死の話・生まれかわり」−現代民話考 5所収、「夢の知らせ・火の玉・ぬけ出した魂」同4所収、立風書店、1986) これは明治以降に発表された日本人の死、魂、死後世界に関する膨大なデータであり、心霊学や宗教とかかわりなく民話としてまとめられている。
この中には、ニュー・サイエンスのさきがけとなったムーディ博士の「かいまみた死後の世界」や、立花隆「臨死体験」と非常に共通する体験談が数多く登場している。詳細は同書を読んでいただくことにして、ここではムーディ博士の臨死体験の死後世界に登場するデータとの、共通点と相違点を中心に紹介する。
ムーディ博士の著書では、臨死体験により「死後世界?」をみてきた人々が、まず「言葉で表現できない」異質の世界を体験したとする。また担当医などによる、自分の「死の宣告」を聞くとか、死に当たって「心のやすらぎと静けさ」を感じたとする臨死体験者の話がまずでてくる。これと似た話は、現代民話考でも語られている。例えば、4次元世界を体験した話(中村国男 −滋賀県)、医者が自分の死亡を宣告する声を聞いた話(藤岡琢也 −場所不明)、飯豊の菊池松之丞という人が、傷寒で息をひきつめた時、なんともいわれぬ心地よくなった話(「遠野物語」山形県)などあるが、ここでは聴覚、視覚などにかかわる類似点をあげてみよう。
   耳障りな音(心地よい音)が聞える
医者が死亡を宣告する声のあと、耳障りな「ブーンブーン・ザーザー・ガーガー」という音が聞こえ始めた。(俳優 藤岡琢也の入院中の話) 苦しみが消えて真っ暗な中、ひどい耳なりがした。(高橋敏弘 −東京都) 風がひゅうひゅう吹いて、みんなの呼ぶ声がうるさく、ふりきるように行った。(多田ちとせ −長野県) 崖の上でどこからともなく赤ん坊の泣き声が聞こえ、4人の裸の赤ん坊が足にしがみついていた。(女性セブン、昭和57年8月26日号)
極楽記では、ムーディの場合とは逆に、良い音楽などの心地よい音が聞こえた例が多いが、現代民話考にもその例は多い。
空は曇っていたが、行くてのあたりは白く明るく、音もかすかな音楽のような中を歩いて行った。(金沢タネ子 −千葉県) 弁天さんのような天女?が、たくさん音楽を奏で、いらっしゃいいらっしゃいと呼んだ。(五十嵐秀男 −東京都) 美しい蓮の生えている橋を渡りかけていると、美しい音楽が聞こえた。(田口満寿子 −鳥取県) 野原の彼方にたくさんの寺があり、その寺からのゴーン、ゴーンとならす鐘の音がなんともいえぬ良い気持ちであった。(平松昇 −東京都) きれいでなんともいえない音楽がきこえた。(岡玄栄 −東京都)
   暗いトンネルへ入る
音のつぎに、暗い空間を引っ張られていく体験がムーディには多く報告されているが、現代民話考にもその例は多い。
耳障りな音が聞こえ、同時に自分が長い暗いトンネルのような所を急速に移動していくのを感じる。そこから急に明るい所ヘファッと出る。部屋の天上あたりの所から自分の死骸をみている。(藤岡琢也 −場所不明) 体が空に浮いたようになり、しばらくするとまあるく暗い中をくぐりぬけたら、きれいな花の咲いている所へ出た。(西福江 −福岡県) 「あの世」へ行くべく、自動エスカレータのようなものに乗り、針の穴のような灯火目指して進んだ。(玉井義明 −兵庫県) 苦しみが消えて真っ暗な中、ひどい耳なりがして、押し上げるように細いチューブの中を登っていった。(高橋義明 −東京都) いつしか暗い奈落の底に自分自身がずるずるーと吸い込まれていく。あ、駄目だ、だめだ、俺は死ぬ、と叫びたかった。(大沼惇 −山形県) ベッドの白いシーツの真ん中に、ぼっかり穴があいて、奈落の底に吸い込まれるようにどんどん吸い込まれていったら、暗い夜の河原に出た。(増田庸子 −東京都) 始めに大きな気体のようなものが、丸い輪をえがきつつ遠くからだんだん静かに自分の方に進んでくる。そうしてそれが再び小さくなっていって、しまいに消える。すると綺麗な道が現れる。(俵田某 −岩手県) ほいて、どんどん下の穴へ、暗いとこ下ってさ、ほいたら広い野原へ出たって。(杉本キクエ −新潟県) 4人の赤ん坊が泣き出し、私は崖から突き落とされた。不思議なことに高いところから下にスーと吸い込まれる感じで、特に怖さを感じなかった。(女性セブン、昭57.8.26 −東京都) 谷間を下へ下へくだり、足が地についたと思った道を1町いくと、目の前に真っ黒な洞穴があった。そこへ入ろうとして気が付いた。(丸山先生 −新潟県) 暗か道ばズーッと行きよったりばユーユ(大変)寒したまらん丁度トンネルのごたるところに行たと。(尾崎正治 −長崎県) 真っ逆様に落ちていく空間は無限の暗黒の世界で、上があの世へ行く途中なのだということが分かる。(依岡慶樹 −東京都) 暗い穴のようなところを歩いていた。風がひゅーひゅー吹いていた。(多田ちとせ −東京都)
   物理的肉体から離れる
自分の肉体から魂が抜け出し、自分の肉体を第3者として眺めるといった経験である。このケースは、現代民話考にもいくつも報告されている。
個室のベッドに寝ている自分を、もう一つの自分が頭の先の斜め上から見下ろしており、その私は下の自分の額から出たくもの糸のような細い糸でつながっていた。(浜田晶子 −神奈川県) 鴨居のあたりに浮かんで死んだ自分の姿を見ていたが、退屈して外へふわふわ飛んでいった。(回答者・松谷みよ子 −東京都) 宇宙の奥へ引き込まれ、地球が遠のいていき、人工衛星などが浮いていた。(堀内由美子−福岡県) シャガールの絵のように、横になって赤黄緑の花園の上空を足も動かさずに飛んでいた。(伊東忠夫 −ビルマ) なんだか知らないけれど、ふあふあってどこかを飛んでいく感じ(井手そう −神奈川県) ファッと体が空に浮いたようになり、しばらくするとまあるい、くらあい中をくぐり抜けた。(西福江 −福岡県)
   他の生命体と出会う
ムーディは、死後の世界へ移行するある段階で、他の生命体に会った話を記録しており、民話考の中でも、いろいろな話が出てくる。あまりに多いので、整理して述べる。
近親者や知人に会う  堀内由美子 −佐賀県、菊池松之丞 −山形県、井出そう −神奈川県、小林ミネヨ −福島県、ほか多数。
神様などに会う 天女:福田三郎 −大阪府  地蔵様:田中五郎 −新潟県、坂牧銀作 −新潟県、森義正 −大阪府  お大師さま:森ひさ −兵庫県  ショウヅカの婆さん:森谷周野 −新潟県  エンマ様:神田弥生 −長野県、市原麟一郎 −高知県、木村純一 −宮城県、宇野まつ−群馬県、吉田加奈江 −東京都、中村種雄 −埼玉県、風間友一 −新潟県、太田憲治 −奈良県  弁天さん:五十嵐英男 −群馬県  七福神:奥村寛純 −大阪府  キリストかお釈迦さま:波岡龍平 −埼玉県  阿弥陀如来:秋谷節子 −千葉県  大勢の金色の仏さん:梅谷繁樹 −京都府  お釈迦さま :植松要作 −山形県  白い不動さん:五十嵐福一 −新潟県  3観音:本間芳男 −新潟県  死神:俵岡慶樹 −静岡県、黒柳徹子 −場所不明
妖怪、亡者など  人間であるが人間でない者:田中五郎 −新潟県  忍者のような黒い人:大島有加 −奈良県  小さな子供達:斉藤里義 −島根県、吉川寿洋 −和歌山県、遠野物語 −岩手県  老若男女、知らない夫人:堀内由美子 −福岡県  白い着物を着た人:岩崎としえ −宮城県、富永由紀子 −長崎県、山本久 −埼玉県、菊池隆子 −北海道、高橋宏幸 −場所不明、沢村政子 −宮城県、橋本武 −福島県、和田英子 −愛知県、伊東万理子 −東京都、清水達也 −静岡県、坂下宗弘 −和歌山県  おっかねい顔した船頭:前田治郎助 −千葉県  上半身の人影:地引知代 −東京都  きれいな女の人:下平美奈子 −長野県、原和美 −神奈川県、多田ちとせ −長野県、安達雅夫 −福島県、木村純一 −宮城県  きれいに着飾った人:神田坂茂 −高知県  車掌さんのような人:中本友子 −奈良県  お坊さん:山崎裕子 −宮城県、寄島町の老人 −岡山県、小林高寿 −東京都、石畝弘之−新潟県  鬼:尾崎正治 −長崎県、小林チヨ −秋田県、奥井玲子 −大阪府  おそろしい顔の男と裸の女:北沢得太郎 −青森県
   光の生命に包み込まれる
ムーディの事例では、臨死休験において光の生命に包みこまれ、やすらかにくつろぎ、この生命の存在を受け入れる話がでてくる。日本の場合にも、極楽往生伝にはそれに近い話が多数見られるが、現代民話考にはその記録が少ない。美しい花園に遊ぶ話は、多数あるので、むしろ光よりは周囲の風景に気をとられて、光の話が出て釆ないのであろうか? その少数例を下にあげる。
宇宙を飛んでいたら突然、弟の声がした。その時、急にまわりが光でみちあふれ、私は車椅子でゆるやかに坂を下っていく自分に気がついた(堀内由美子 −福岡県)暗い道を歩いていくと、4次元世界のような明るく輝く所へ出た(中村国男 −滋賀県)急に目もくらむばかりの、明るい光がさしこんできて、はっと気がついた(市原麟一郎 −高知県)
   全生涯が回顧される
ムーディの事例では、光の生命により、自分の全生涯が凝縮された一瞬のパノラマのように写し出される体験が報告されている。この光が現れないままに、この全生涯の回顧が行われる場合もままある。現代民話考では、全生涯が一瞬の内に回顧された話はあまり多くない。また「光の生命」との関係も、意識されていないのが特徴的のようである。
美しい花園の上を飛んでいるとき、幼児から成人するまでの歴史、事件が回り灯龍のように思い出された。(伊東忠夫 −ビルマ)
   ある種の境界を見る
ムーディの場合にも、死の体験の過程で、ある種の境界のようなものを体験した記録がいくつかある。たとえば美しい野原、川、灰色の霧、冊、線などがそれであり、現代民話考にも類似の体験が多数記録されている。
美しい野原や花園  臨死体験者のほとんどすべてが、それを見ているといえるほど例が多い。むしろ、全く見なかった人や不快な場所を体験した例が希少であり、記録に値するかもしれない。花の色や種類をあげる意味もないので、ここでは個別例を省略する。
川、橋、渡し船、海  「三途の川」が、あの世との境界に流れている話はだれでも知っている。そしてこれに関わる体験も非常に多いので、ここでは一々例をあげることはやめる。
その他  おしあげるように細いチューブの中を登っていき、止まった所に門があった(高橋敏弘−東京都) 岩の割れ目のような断崖があった(立石巌 −東京都、大高興 −青森県) 竜宮のような門があった(遠野物語拾遺 −岩手県、月光義弘 −山形県、酒井信枝 −大阪府) 寺院やお堂があった(多数あり)
 
(3)生まれ変わり

 

臨死体験において見る死後世界は、古代から現代、また外国も日本も、時空を越えて極めて共通している。臨死体験者達が見たのは、本当の死後世界かも知れないと思われるほどである。ところが、問題は、これらの臨死体験者は、すべて一度は死んでも、その後に生還した人々の証言である。つまりこれらの体験は、すべて臨死の際のエンドルフィンなどによる脳内現象であり、本当は生きている人間の魂も肉体の死とともに無くなるとする説を否定することは出来ない。しかしある人間が、他の人問に生まれ変わるという事実が、本当にあるとすれば、今度は、魂が転生するという事実を認めないと説明がつかないことになる。その生まれ変わりという事例が、日本にもいくつか記録されている。
   古代の事例
古代の事例としては、既に述べた「日本霊異記」に見られる。
大和国山辺郡の善珠禅師が、延暦17年(798)に亡くなり、その時の予言通り、翌年、王子として生まれ変わった。下顎の右に禅師と同じほくろがあった(下39)。
愛媛県の石槌山の寂仙菩薩という禅師が、死後28年たった延暦6年(787)、生前の予言通り神野親王(後の嵯峨天皇)として生まれ変わった(下39)。日本霊異記が成立したのが822年頃といわれる。とすれば、この話はそのとき在位中の天皇(嵯峨天皇:在位809−823)にかかわる挿話であり、当時としては、かなり有名な事件であったことが想像される。
桜井秀「平安朝史下」(総合日本史体系)は、大正末期に出版されたものであるが、平安朝後期の生まれ変わりの事例がいくつか記載されている。以下、それに従う。仏教思想が普及していた平安時代には、人々はすべて前世をもつと考えられていた。当時は、3才までの子供は、皆、前世の記憶を持つと思われており、その間に前世を聞けば、必ず答えるといわれていた。この信仰はかなり後まであり、「元亨釈書」(1322)巻八順空の伝に、「(順)空は、舟中に生まる、天福元年(1233)正月1日なり。国の俗に児生まれて、三朞(き)にして試みに先身を問えば、多く言あるなり」と記されている。姓名や容貌が前世にかかわっている場合も多い。藤原有国は応天門事件(866)の伴納言の後身とされ、容貌もきわめて似ていたといわれる。(「古事談」巻6、帝宅諸道) 筆跡が似ていた例もある。昔、河内国の古寺に公泰という僧がいた。自分は将来、再び人間に生まれ変わり、この国の大守となって、この寺の修復を行うべく願文を書いた。その後、この僧は、公経という人に生まれ変わり、河内守になった。そこでまずこの寺を訪れ、仏壇の中を見ると公泰の願文があり、その筆跡は、公経の筆跡と全く同じであった。(「本朝世紀」康和元年7月23日条) また死去するときも、前世と所縁の地に葬られたいと考えた。崇徳上皇(1119−1164)は保元の乱に破れて讃岐に流され、その地に葬られた。かつてこの地に流された「白峰の聖」という阿閣梨があり、上皇はこの僧の生まれ変わりであるという夢をある人が見た。上皇の御陵は、この僧の墓の横に作られている。(「今鏡」やへのしおじ条) 同姓、同名の生まれ変わりの事例がある。昔、尾張国に俊綱という僧がいた。熱田神宮の宮司に馬鹿にされたことがあった。生まれ変わって国守になり、大宮司を苛めてしまった。 それが関白の子、橘俊綱であるという。(「伏見のゆきのあした」の条)
   勝五郎再生譚 −江戸期の事例
再生譚として有名なものには、平田篤胤が文政6年(1823)に記録した「勝五郎再生記聞」がある。勝五郎は、武州多摩郡中野村(いまの多摩動物公園のあたり)の百姓源蔵と妻せいの息子として、文化12年(1815)10月10日に生まれた。勝五郎が8才になった時、自分は多摩郡程窪村(いまの八王子)百姓藤五郎と妻しづの子の藤蔵の生まれ変わりであることを姉に告白した。藤蔵は、文化2年(1805)に生まれたが、同7年(1810)2月に5才で疱瘡になって死んだ。勝五郎が藤蔵の生まれ変わりであることを告白したのは、丁度、13回忌の年に当たる。平田篤胤は、勝五郎に直接会って詳細にその記録を残している。
勝五郎の前世藤蔵は、文化7年2月4日に疱瘡で死んだ。病名は後で人から聞いて知った。死ぬ程の病気ではなかったが、薬がもらえず死んだ。死後に納棺の時に魂となって飛び出し、山へ葬りに行く時は龕(ひつぎ)の上に乗っていった。棺を穴に入れた時の音の響きは今も覚えている。その後、家に帰って机の上にいたが、人に物をいいかけても聞こえなかった。その時、長い白髪に黒い着物を着た老人に連れられて、高い所へゆき綺麗な芝原で遊んだ。一杯に咲いている花の枝を折ろうとして、小さい烏に大変脅されて怖かった。遊び歩いて、我が家にくると、親の話し声や読経が聞こえた。7月に庭火をたくとき家に帰ったら、団子が供えてあった。
ある時、かの老人と一緒に、源蔵の家の前を通りかかった時、あの家に生まれよ、と指示された。老人と別れて、庭の柿の木の下に3日いて、窓の穴から屋内に入り、竃のそばにまた3日いた。ここで父源蔵の話を聞いた。源蔵によると、これは文化12年正月の夜の夫婦の話のようである。その後、母の胎内に入ったと思われるが、よく覚えていない。生まれる時は何の苦しみもなかった。4〜5才までは、いろいろなことを覚えていたが、忘れてしまった。
ここで不思議なことは、藤蔵の実父藤五郎は、若い時の名を久兵衛といった。ところが、その頃の程窪では久兵衛という名を知る人がいなかったのに、そのことをはじめ、他人の知らない人間関係を、勝五郎はよく知っていた。 そこで実際に祖母は、勝五郎を連れて、山をへだてて6キロ離れた程窪村へ行ってみた。すると初めて行くのに、勝五郎は、自分の家のようによく知っていた。その後、両家はその縁で親類関係になった。平田篤胤は、異常なほどの関心を以て、勝五郎から聞き書きした詳細を残している。
平田は、仏教的な解釈を排して、この話に登場する白髪黒衣の老人を「産土紳」(うぶすなかみ)とする。民学的でいう「産土神」は、「生まれた土地の神、本来は氏神・鎮守神とは異なるものであったのが、近世以後は大抵共通してしまう」(柳田国男「民俗学辞典」)神である。勝五郎の場合、村は異なり6キロも離れているが、同じ多摩郡であることから、地縁による神と考えたのであろう。一方、「産土神」と似た神に「産神」がある。これは「出産にかかわる神」であり、「生児の肉体を育み、霊魂を肉体に固定する役目を負っている」(桜井徳太郎「民間信仰辞典」)神である。勝五郎の場合には、「産神」との関わりも強く感じられる。いずれにしても、平田の場合、仏教における六道輪廻の思想には批判的であるものの、肉体と霊魂の分離、転生の思想については、仏教と共通していることが感じられる。
勝五郎の転生は、当時、有名な事件となったようであり、「甲子夜話」、「巷街贅説」、「武蔵名勝図会」などにも記載されている。
   現代の事例
民間伝承として、生まれ変わりの例がいまでも民俗学の分野で数多く記録されている。その例を「日本人物語5 −秘められたる世界」(毎日新聞社、昭和37)から、いくつかあげる。
大正4年に平瀬麦雨氏の実見報告で、死児の手足に墨でしるしをつけて葬ると、どこかに生まれる児に、そのままのしるしが同じ部分に現れる。それを落とすには、死児の墓土で洗う。某家の生児にそれがあり、墓土をとりにいったことがある。
桜田勝徳氏の昭和8年の伝聞では、長門通浦の子守オセキが、掌にオシャリオセキの文字を握り締めて豪家に生まれ変わった。桜田氏宅の女中さんは、長崎県北松浦田平出身であるが、彼女の生家で昔、死んだ子の腕にしるしをつけて葬ったら、そのしるしをつけた子が、1代おいて彼女の姉の子に生まれ変わった。同地方では、1代おいてその家に生まれ変わると信じられているという。
昭和8年、村田鈴城氏の話では、勝五郎再生の場所に近い東京・八王子市でも、死者の掌にしるしをつけて葬る話が伝えられており、同氏の祖母の知る実例を聞いた。同じ目的で東京・大田区の羽田の米屋が、北糀谷の物持ちを訪ねて親類になった話が、明治以降にも語られていたという。松谷みよ子の「現代民話考」には、明治以降の日本における生まれ変わりの伝承が、いくつか報告されている。これらの中から、場所、名前、時間などが明確なものを以下にあげる。
明治の末に、長野県の山形村に’おくめ’という女乞食がいた。おくめが死んだ時、村のKという素封家がお弔いをし、お墓も作ってやった。お弔いの時、成仏を願って、足の裏に経文を書いてやった。その後にその家に生まれた女の子の足の裏に、その経文が書かれており、お墓の土を産湯に入れて洗ったら消えた。その女の子は、美しく成長して幸せな結婚をした。(塩原恒子 −長野県)
昭和7年頃、青森県の岩美ハナは、生まれた時、ニシタと手のひらに書かれていたという人に会った。その人の親は、ニシタ家をたずねていったと話した。(北彰介編「青森県の怪談」)
千葉県松戸市の長尾悦子の夫の弟の子が、9才で水死した。祖父が悲しみ、左の足の裏に墨をつけて葬ったら、昭和50年に足の裏の同じ場所にホクロのある男の子が生まれた。(長尾悦子 −千葉県)
昭和14年に、東京足立区在住の大工梅島作爾の友人山崎竹二が、突然、心臓麻痺で死に、梅島が葬式を出し、谷中の寺に葬った。その年の秋、大阪の呉服屋幸田哲夫夫妻に男の子が生れ、その子の内股に「東京千住の梅島、故人の霊を弔う」と読める青あざがあった。(鈴木淳也「日本の奇談」−梅島、幸田の関係は記録では不明)
東京都西多摩郡多摩町に、明治30年頃、トメという男性がいて、知恵遅れのため一生結婚せず、ホウキをつくり方々の掃除をしたりして生活し、50才を越えて急に亡くなった。親が次に生まれる時には、普通の子になれよといって、手のひらにトメゾウとかトメキチとかいう名を書いて葬った。それから幾らもたたない内に、近くの村に生まれた子供の手に、その字が書いてあった。その子は普通の子で、字はまもなく消えた。(清水利 −東京都)
東京の蒲田区羽田の米屋に生まれた子供の手に、同区北糀谷の物持ちの家で亡くなった子供の住所、氏名が書いてあった。そのことが縁で親類付き合いをするようになった。(佐久間昇「生まれ変わり小記」 −東京都)
石川県珠洲郡のある村に、いつも子供が早く死ぬ家があった。次に生まれてくる時には長生きするようにといって、背中に長い線を書いて入棺した。すると次に生まれた女子の背中に墨の紋があり、息災に育ち、大正4年頃65才で亡くなった。また近くの内浦町の西本願寺派の松岡寺で、生後間もない嬰児が死亡したので、右の手のひらに「南無阿弥陀仏」と書いて入棺した。13日後に町内で生まれた子の手のひらに「南無阿弥陀仏」と判読できる文字があり、シキビの葉を煎じた汁で洗ったら消えた。(滝口篤男 −石川県)
福井県大野郡猪野瀬村の片瀬に、明治初年にいた三治郎という男が、下庄村アヒツキ(大月?)の酒屋に生まれ変わった。背中に墨で大きく「三治郎」と書いてあり、片瀬の土で洗ったら消えた。(石原弘之「生と死にイゲ」 −福井県)
池田弥三郎の叔母さんが生まれた時、祖母が守りをしながら、前のお婆さんの時はどこにいたの?と聞いたら、「あざぶ」と答えた。その叔母さんは、大人になって麻布へ嫁いだ。(池田弥三郎「日本の幽霊」)
岡山県西大寺市東宝伝に住む事業家折原啓太郎の3女淳子は、昭和29年頃、東京深大寺の小野家の娘で菊子といい、肺結核で亡くなったことが、催眠術で分かった。淳子は体の3ケ所のホクロに、斧、琴、菊の字が浮かんでおり、右足の真に「三みゃく三ぼだいの仏たち冥加あらせ給え。北多摩神代。小野義信しるす。」と読めた。小野菊子が死んだ時、父は娘があわれで、足の裏に斧(小野)、菊(菊子)、琴(よきことをきく)と書いたという。(松岡原夫「日本の怪奇 −日本列島四次元地帯−」  

 

●7.あとがき 
このテーマをなぜ取り上げたか? それを最後に書く必要があるであろう。
私の世代は、子供の頃、既に現在のアフガンやパレスチナの人々と同じように、毎日が死に向き合う時代を生きてきた。敗戦の年の1945年、私は旧制中学の1年生であった。当時、太平洋戦争はもはや最終の「本土決戦」の段階を迎えており、4月から始まった沖縄戦では、同年代の学生が対戦車戦やひめゆり部隊に参加して、多数戦死していた。また、8月には広島で疎開家屋の取り壊し作業を行っていて原爆の直撃を受けたのも、同年代の中学1年生であった。
その頃、都会の小学生は空襲を避けて田舎に集団疎開をしていた。私がまだ空襲をうけていない名古屋の町へ疎開から帰ってきたのは、B29による本格的な日本本土への空襲が始まる直前の3月9日であった。その翌日、歴史に残る東京大空襲が行われ、名古屋が最初の爆撃を受けたのは3月12日のことであった。12日の夜の空襲では名古屋の南部が被害を受け、幸いにして私のいた市の中心部は被害を免れた。その翌日、町内の寺へ行ったら、前夜の空襲で亡くなったお婆さんの遺体が、野天に寝かされ、むしろが掛けられていた。たった1人、付き添っていた人も、見も知らぬ私に代わりをたのんで、どこかへ行ってしまった。だれもいない寺の境内で、私は、空襲で亡くなったお婆さんと2人だけであった。むしろからは真っ黒に炭化した手足が外にでていて、着物のため焼けなった白い皮膚との境が紫と白で、ナスビのへたのように生々しかった。
翌週の3月19日、B29による大空襲で市の中心部はすべて焼けた。その夜、火炎は名古屋の空を覆つて幅100mの広い道路をかけぬけ、折からの強風に乗って火がついた紙や衣類は、猛烈な勢いで空を舞っていった。それは文字通り火焔地獄の中であり、私は家族ともはぐれて、濡れた布団を被ってさまよっていた。私の家の家号であった「立田屋漆器店」という看板が炎の中に浮き出し、濡れた地面の上には合羽を着た横丁のすしやのおじさんが仰向いて亡くなっていた。私は、何の感動もなく、その境を歩いていた。朝、大きな太陽は煙りの中で輝きを失って東の空に昇り、すべて燃えつくした名古屋の中心地の北には、燃えなかった名古屋城、西には名古屋駅、南には名古屋港の煙突がすべて見渡せた。その夜、横丁の喫茶店「リットル・コーヒー」の河村君が、防空壕の中で亡くなっていた。1週間前に疎開から一緒に帰った同級の友である。小学校の校舎は死体安置所になり、20日の卒業式は取り止めになった。
翌週の3月25日には、焼夷弾ではなく250キロ爆弾による無差別攻撃が行われた。これが落ちると地面には直径5m、深さ3mくらいの穴があき、50m四方の住宅は破壊された。中学校の隣の建中寺の裏に避難していた人々のすぐ横にこの爆弾が落ち、多数の市民が死んだ。寺の境内の木々には、死体がばらばらになってぶら下がり、私が中学へいった時には、まだ木々にはぼろ切れが一杯引っかかっていた。この空襲で、同級の中野君が250キロの直撃弾を受けて亡くなった。2週間前に一緒に疎開から帰ってきた友人は、すでに2人亡くなっていた。名古屋の中心部は、すべて焼けて破壊され、小学校の卒業式もなくなり、中学校の入学試験もなく、全員そのまま希望の中学へ入った。
私の入った私立中学では、戦争の真っただ中というのに英語、数学、国語、地理、歴史といった授業が続けられていたが、その他の多くの時間が軍事教練にさかれていた。本土決戦は、もはや目前にせまっており、連日、米軍のM4戦車を標的とした「戦車肉攻」と称する特攻攻撃の練習を行っていた。1人だけ入るタコツボを掘り、戦車が目前に迫るまでその中に隠れている。そして巨大な戦車が、ほとんど頭上にきた時、タコツボから飛びだし、戦車に爆雷を投げて自分も爆死する。現在のパレスチナの自爆テロの原形である。当時の日本では、人生25才といわれていたが、私はその時、12才であった。あと13年も生き延びることは、ほとんど不可能であろうと思っていた。
8月15日には、朝、本土決戦に備えて返納することになった38式歩兵銃の油掃除をして、ピカピカに磨き上げた銃をかついで師団指令部まで行った。昼に天皇の放送があり、全員並んで聞いたが、雑音が激しくてほとんど何も理解出来なかった。帰り道、どうやら戦争に負けたらしいということがわかってきた。いまTVでは泣きながら聞いているシーンがでてくるが、自分たちの周辺で泣いた奴は、だれ一人いなかった。みんな口には出さないが、これで命が助かったと思っていた。考えて見ると、我々日本人は明治以降、10年ごとに起こる戦争を通じて、常に死と隣あわせで生きてきた。そして個々人は、外から強制される死に対して、いつも心の中で対決せざるをえなかった。
戦後の50年、日本は幸い平和に推移している。しかしそれに代わる激しい経済戦争が戦われた。私が大学を出た1955年は、「高度成長」の出発の年である。それから30年、敗戦で焦土と化した日本は、奇跡の復興を遂げて、80年代には「世界一の経済大国」になっていた。日本は新しい経済戦争を戦ったわけで、その中で企業では多くの同僚が戦死していった。TQC(全社的品質管理)運動では、社長は“血の小便をして戦え!”といっていた。私の会社では2人の戦死者が出た。1人は朝の出勤のとき本社ビルから投身、1人は支店で自分を刺して亡くなった。私はこの時、定年になったらまず四国遍路に出ようと真剣に思っていた。自分はTQC推進の責任者の一人であったから!私がその責任を果たさないでいるうちに、同期入社の渡辺さんが1人で四国の歩きお遍路さんに出た。四国遍路へ出る人は多いが、歩きお遍路は今では少ない。私は渡辺さんに先を越されて気にしているうちに、残念ながら2度と歩けない体になってしまった。
2001年10月20日は土曜日であった。翌週は年に一度、大阪で全国から集まる社長さんを相手に3日間のセミナーが予定されていた。夜、10時半ごろ、本書のコピーを読み終わったら、すこし眩暈がしたので、そのまま寝てしまった。夜中の3時半頃トイレへ起きたら、また眩暈がしたので、家族を起こして救急車で入院した。その時はまだ2階から自分で階段を降りられるほどであったが、病院へ着いた時には狂牛病にかかった牛のような状態になっていた。CTスキャンをとっても何も出ないので、単なる高血圧による眩暈として、翌日の午後3時頃まで処置室に放置されていた。その時には、もう立つことも歩くこともできなかった。再度、CTスキャンをとってもなにも出ず、MRIで調べた時にはすでに日は暮れていた。
その夜、家族は主治医から病名は脳梗塞で、これからの3日間が生死を分ける峠になると説明を受けた。たしかにその間、私の右半身は麻痺して行動の自由を失い、自律神経は失調して半身が夥しい汗にまみれて、生死のはざまで呻吟していた。しかし頭は冴えて、意識はずっと目覚めており、その間のすべての時間の経過は、べッドの横の時計で見て知っていた。夜がふけて、やがてすこし白み始め、明るくなって朝になり、さらに明るく暖かくなって昼になる。午後になると日が陰り、やがて暮れていき再び夜になる。この地球の自転を、病院のベッドの上で肌で感じていた。それは生涯の内で、何度も経験しない長い3日間であった。この間、自分の意識は目覚めていたが、頭は時々眠っていた。そして健康であった時とは全く異質の夢を見ていた。
第1夜は、脳卒中は初めての経験であるのに、夢の中ではまた脳卒中にかかってしまったと私は思っていた。実際にはパジャマを着てベッドに寝ているのに、夢の中の自分は、片腕を白布で吊り、温湿布がなされていた。侍屋敷のような家の広い台所では、何人かの着物を着た女性がかまどの大きな釜に湯を沸かしていた。そして中年の白い面長のしっかりした奥方風の女性が、テキパキと指示を与えて働いていた。どうやら私の病気の看病に当たっているようであるが、かなり古い時代のようで、皆知らない人々であった。
第2夜は、旧満州の地名や人名がいくつか出てきた。私の知らない地名であり、字の読み方も良く分からなかったが、ひとつ吉林省だけは読めたので記憶している。あとの細かい地名は、全くその漢字が読めなかった。人名は、金日成将軍という名前がでてきた。北朝鮮の首席であった金日成ではなく、日本軍と戦った伝説上の人物であり、その人と日本浪人との裏ばなしがいろいろ出てきたが、それらは残念ながら私の全く知らない話なので、はとんど理解できなかった。
第3夜は、竣工前の巨大なレジャー・ランドへ招待された。それはいくつもの山にまたがって作られていた。時刻は夜明けなのか日暮れなのか分からないが、薄明の山の頂上近くに、私は1人で立っていた。はるか地平線のところだけが、白く明るく輝いていた。その山の頂きを縫うように、青く長大な魚の乗り物が、本物のような迫力をもってゆっくりうねりながら動いていた。そのこの世ならぬ風景に、私はただ圧倒されて眺めていた。この3日の間、幸いにして次の脳梗塞も脳出血も起こらず、私は無事生還した。夢も普通に戻ったが、そこから4ケ月に及ぶ長い入院生活の始まりになった。
入院中に年が改まって、春3月に退院した。リハビリの歩行訓練を重ねながら、一方、頭のリハビリのために旧稿を読んだ。そして病気の前に考えていた「さまよえる霊魂」といったものは、日本の国学、民俗学、源信や福来博士の死後探求、そしていろいろな実証的な事例に置き換えた。人間の生きている時間は、本当に短い。我々が生まれてくる前には、人類の発祥以来の長い時間があり、そして死後には、また無限に長い時間がある。人生は、その無限に長い時間に挟まれたほんの一瞬のようなものである。「死の世界」は、その無限に長い時間にかかわるものであり、日本人が過去に考えてきたその一端を、ここで紹介してみたいと考えた。(おわり)