宮本武蔵

何故か 宮本武蔵を思い出す
暇な 年寄りの拘り

気になっていた 月岡芳年の錦絵
塚原卜伝と宮本武蔵の対決
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フィクションでした
 


塚原卜伝の生きた時代   1489 - 1571 頃
宮本武蔵の生きた時代   1584 - 1643 頃 
若い頃の宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、卜伝がとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして武蔵の刀を受け止めたとする逸話があるが(月岡芳年の錦絵などで知られる)、実際には武蔵が生まれるよりも前に卜伝は死んでいるため、卜伝と武蔵が直接出会うことは有り得ず、この逸話は全くの作り話である。  
    剣豪
 
 
 
 
 
 
佐々木小次郎の生きた時代  ? - 1612 頃
生年は永禄(1558-1570)もしくは天正(1573-1593)年間とされる。
( ? 1555年 越前宇坂庄浄教寺村にて出生  )
巖流島の決闘      1612
宮本武蔵        28才 くらい
佐々木小次郎  40 ? 〜 54才 くらい
「沼田家記」 に、宮本武蔵玄信が豊前国に来て二刀兵法の師になった。この頃、すでに小次郎という者が岩流兵法の師をしていた。門人同士の諍いによって武蔵と小次郎が試合をする事になり ・・・とあり、門人をとるくらいなら若かったとしても、40才代と考えられるのでは。私見として、生年は1572年以前、永禄年間ではないだろうか。
「巖流島の決闘」
武蔵と決闘した「舟島」は「巖流島」と名を変えられ、この勝負はのちに「巖流島の決闘」と呼ばれるようになった。吉川英治の小説『宮本武蔵』では、「武蔵が決闘にわざと遅れた」となっているが、これは『武公伝』に材を採った吉川の創作である。
武蔵の養子である宮本伊織が、武蔵の死後9年目に建立した小倉の顕彰碑「小倉碑文」(1654年)によると、「岩流」は「三尺の白刃」を手にして決闘に挑み、武蔵は「木刃の一撃」でこれを倒したとある。このときの武蔵の必殺の一撃は「電光猶ほ遅きが如し」と表現されている。また碑文には「両雄同時に相会し」とあり、武蔵は遅刻していない。
ただし、豊前国の細川家小倉藩家老、門司城代の沼田延元の家人が記した沼田延元の生誕から死去までを記した一代記である『沼田家記』(1672年完成)によると、武蔵は「小次郎」なる岩流の使い手との決闘の際、一対一の約束に反して弟子四人を引き連れ巌流島に渡り、決闘では武蔵は小次郎を仕留めることができず、小次郎はしばらく後に息を吹き返し、その後武蔵の弟子らに撲殺されたとある。小次郎の弟子らは決闘の真相を知り、反感を抱いて武蔵を襲撃するが、武蔵は門司城に逃げ込み、城代沼田の助けにより武蔵は無事落ち延びたとあり、武蔵をかくまったという沼田延元の美談の一つとして武蔵のエピソードが紹介されている。決闘に至った理由も、弟子らが互いの師の優劣で揉めたことが発端と記されており、門人らの争いが一連の騒動を引き起こしたとされている。
関係者がすべて死去した後に書かれた武蔵の伝記『二天記』(1776年)の本文では「岩流小次郎」、注釈では「佐々木小次郎」という名になっており、この決闘で刃長3尺余(約1メートル)の野太刀「備前長光(びぜんながみつ)」を使用、武蔵は滞在先の問屋で貰った艫を削った大きめの木刀を使い、これを破ったとある。
熊沢淡庵の『武将感状記』では、武蔵は細川忠利に仕えて京から小倉に赴く途中で「岸流」もしくは「岩流」(併記)から挑戦を受け、下関での決闘を約したとなっている。こちらでは、武蔵は乗っていた船の棹師からもらった櫂を二つに割り、手許を削って二尺五寸の長い木刀と、一尺八寸の短い木刀を拵えたとある。
古川古松軒の『西遊雑記』(1783年)では、一対一の約束を「宮本武蔵の介」が破って門人数人を連れて舟島に渡ったのを見た浦人たちが「佐々木岩龍」もしくは「岸龍」をとどめたが、「武士が約束を破るは恥辱」とこれに一人で挑む。しかし武蔵には4人の門人が加勢していて、ついに岩龍は討たれてしまう。浦人たちは岩龍の義心に感じてこの舟島に墓を作り冥福を祈り、それ以来ここを「岩龍島」と呼ぶようになった、とある。
なお、決闘で使用した剣は、『江海風帆草』(1704年)では「青江」、『本朝武芸小伝』(1714年)では「物干ざほ(ざお)」(自ら名付けたものと書かれる)とされ、大抵は「三尺」「三尺余」と説明される。  
 
 
 
 
 
 
 
 
巖流島
武蔵が行った試合の中で最も広く知られているものは、俗に「巖流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に当時豊前小倉藩領であった舟島で、岩流なる兵法者と戦ったとされるものである。
試合の行われた時期については諸説あり、定かではない。
○享保12年(1727年)に丹治峯均によって記された、黒田藩の二天一流に伝わる伝記『丹治峯均筆記』では「辨之助十九歳」と記述しており、ここから計算すると慶長7年(1602年)となる。
○天明2年(1782年)に丹羽信英によって記された、同じく二天一流に伝わる伝記『兵法先師伝記』では「慶長六年、先師十八歳」と記述しており、慶長6年(1601年)となる。
これらの説では武蔵が京に上り吉岡道場と試合をする前の十代の頃に巖流島の試合が行われたこととなる。
一方、熊本藩の二天一流に伝わる武蔵伝記、『武公伝』では試合は慶長17年(1612年)とされる。同様に熊本藩の二天一流に伝わる武蔵伝記、『二天記』では慶長17年(1612年)4月とされる。これらの説では武蔵が京に上った後、巖流島の試合が行われたことになる。また『二天記』内に試合前日に記された武蔵の書状とされる文章に4月12日と記されており、ここから一般に認知され記念日ともなっている慶長17年4月13日説となったが、他説に比して信頼性が高いという根拠はない。
この試合を記した最も古い史料である『小倉碑文』の内容を要約すると、
「岩流と名乗る兵術の達人が武蔵に真剣勝負を申し込んだ。武蔵は、貴方は真剣を使用して構わないが自分は木刀を使用すると言い、堅く勝負の約束を交わした。長門と豊前の国境の海上に舟嶋という島があり、両者が対峙した。岩流は三尺の真剣を使い生命を賭け技術を尽くしたが、武蔵は電光より早い木刀の一撃で相手を殺した。以降俗に舟嶋を岩流嶋と称するようになった。」とある。
『小倉碑文』の次に古い記録は試合当時に門司城代であった沼田延元(寛永元年(1624年)没)の子孫が寛文12年(1672年)に編集し、近年再発見された『沼田家記』がある。内容を現代語で要約すると以下の通り。
「宮本武蔵玄信が豊前国に来て二刀兵法の師になった。この頃、すでに小次郎という者が岩流兵法の師をしていた。門人同士の諍いによって武蔵と小次郎が試合をする事になり、双方弟子を連れてこないと定めた。試合の結果、小次郎が敗れた。小次郎の弟子は約束を守り一人も来ていなかったが、武蔵の弟子は島に来ていて隠れていた。勝負に敗れ気絶した後、蘇生した小次郎を武蔵の弟子達が皆で打ち殺した。それを伝え聞いた小次郎の弟子達が島に渡り武蔵に復讐しようとした。武蔵は門司まで遁走、城代の沼田延元を頼った。延元は武蔵を門司城に保護し、その後鉄砲隊により警護し豊後国に住む武蔵の親である無二の所まで無事に送り届けた。」
武蔵が送り届けられたのが豊後国のどこであったのかには以下の説が挙げられる。
○豊後国杵築は細川家の領地で慶長年間は杵築城代に松井康之・松井興長が任じられていた。宮本無二助藤原一真(原文は宮本无二助藤原一真)が慶長12年(1607年)、細川家家臣・友岡勘十郎に授けた当理流の免許状が現存する。これを沼田家記の「武蔵親無二と申者」とするならば、武蔵は杵築に住む無二の許へ送られたことになる。
○当時、日出藩主であり、細川忠興の義弟であった木下延俊の慶長18年(1613年)の日記に延俊に仕えていた無二なる人物のことが記されている。これを沼田家記の「武蔵親無二と申者」とするならば、試合当時も豊後日出に在住していた無二の下へ武蔵は送られたことになる。
様々な武芸者の逸話を収集した『本朝武芸小伝』(1716年)にも巖流島決闘の伝説が記されており、松平忠栄の家臣・中村守和(十郎右衛門)曰くと称して、『沼田家記』の記述と同様、単独渡島の巖流に対し武蔵側が多くの仲間と共に舟島に渡っている様子が語られている。
『武将感状記』(1716年、熊沢淡庵著)では、武蔵は細川忠利に仕え京から小倉へ赴く途中、佐々木岸流から挑戦を受けたので、舟島での試合を約し、武蔵は櫂を削った二尺五寸と一尺八寸の二本の木刀で、岸流は三尺余りの太刀で戦って武蔵が勝ったとしている。
江戸時代の地理学者・古川古松軒が『二天記』とほぼ同時代の天明3年(1783年)に『西遊雑記』という九州の紀行文を記した。ここに当時の下関で聞いたという巖流島決闘に関する民間伝承が記録されている。あくまでも試合から100年以上経った時代の民間伝承の記録であり、史料としての信頼性は低いが、近年再発見された『沼田家記』の記述に類似している。内容を現代語訳すると以下の通りである。
「岩龍島は昔舟島と呼ばれていたが、宮本武蔵という刀術者と佐々木岩龍が武芸論争をし、この島で刀術の試合をし、岩龍は宮本に打ち殺された。縁のある者が、岩龍の墓を作り、地元の人間が岩龍島と呼ぶようになったという。赤間ヶ関(下関)で地元の伝承を聞いたが、多くの書物の記述とは違った内容であった。岩龍が武蔵と約束をし、伊崎より舟島へ渡ろうとしたところ、浦の者が「武蔵は弟子を大勢引き連れて先ほど舟島へ渡りました、多勢に無勢、一人ではとても敵いません、お帰りください」と岩龍を止めた。しかし岩龍は「武士に二言はない、堅く約束した以上、今日渡らないのは武士の恥、もし多勢にて私を討つなら恥じるべきは武蔵」と言って強引に舟島に渡った。浦人の言った通り、武蔵の弟子四人が加勢をして、ついに岩龍は討たれた。しかし岩龍を止めた浦人たちが岩龍の義心に感じ入り墓を築いて、今のように岩龍島と呼ぶようになった。真偽の程はわからないが、地元の伝承をそのまま記し、後世の参考とする。ある者は宮本の子孫が今も小倉の家中にあり、武蔵の墓は岩龍島の方向を向いているという。」
『武公伝』には、巖流島での勝負が詳述されている。これによると
「巖流小次郎は富田勢源の家人で、常に勢源の打太刀を勤め三尺の太刀を扱えるようになり、18歳で自流を立て巖流と号した。その後、小倉城主の細川忠興に気に入られ小倉に留まった。
慶長17年に京より武蔵が父・無二の縁で細川家の家老・松井興長を訪ね小次郎との勝負を願い出た。興長は武蔵を屋敷に留め、御家老中寄合で忠興公に伝わり、向島(舟島)で勝負をすることになった。勝負の日、島に近づくことは固く禁じられた。勝負の前日、興長から武蔵に、勝負の許可と、明日は小次郎は細川家の船、武蔵は松井家の船で島に渡るように伝えられた。武蔵は喜んだが、すぐに小倉を去った。皆は滞在中に巖流の凄さを知った武蔵が逃げたのだと噂した。武蔵は下関の問屋・小林太郎右衛門の許に移っていた。興長には、興長への迷惑を理由に小倉を去ったと伝えた。試合当日、勝負の時刻を知らせる飛脚が小倉から度々訪れても武蔵は遅くまで寝ていた。やっと起きて、朝食を喰った後、武蔵は、太郎右衛門から艫を貰い削り木刀を作った。その後、太郎右衛門の家奴(村屋勘八郎)を漕ぎ手として舟で島に向かった。待たされた小次郎は武蔵の姿を見ると憤然として「汝後レタリ(来るのが遅い!)」と言った。木刀を持って武蔵が汀より来ると小次郎は三尺の刀を抜き鞘を水中に投げ捨てた。武蔵は「小次郎負タリ勝ハ何ゾ其鞘ヲ捨ント(小次郎、敗れたり。勝つつもりならば大事な鞘を捨てはしないはずだ。)」と語った。小次郎は怒って武蔵の眉間を打ち、武蔵の鉢巻が切れた。同時に武蔵も木刀を小次郎の頭にぶつけた。倒れた小次郎に近づいた武蔵に小次郎が切りかかり、武蔵の膝上の袷衣の裾を切った。武蔵の木刀が小次郎の脇下を打ち骨が折れた小次郎は気絶した。武蔵は手で小次郎の口鼻を蓋って死活を窺った後、検使に一礼し、舟に乗って帰路に着き半弓で射かけられたが捕まらなかった。」
この話は、武蔵の養子・伊織の出自が泥鰌捕りの童であったという話と共に、戦いの時に武蔵が島に渡るときの船の漕ぎ手であったとする小倉商人の村屋勘八郎なる人物が、正徳2年(1712年)に語ったものと記されている。『武公伝』で慶長17年(1612年)に行なわれたとされる巌流との戦いで漕ぎ手だった者が100年後に正脩の祖父の豊田正剛に語った話とされている。仮に、この勝負の内容が、事実であれば、細川家でこれだけの事件が起こったにもかかわらず、それについての記述が『武公伝』の編集当時に、細川家中や正剛・正脩の仕える松井家中になく、藩外の怪しげな人物からの伝聞しかなかったことになる。また、前述の『沼田家記』の内容とも大きく異なっている。
『武公伝』では武蔵の弟子たちが語ったとされる晩年の武蔵の逸話が多く記載されているが、岩流との勝負については、村屋勘八郎の話以外、弟子からの逸話はなく、松井家家臣の田中左太夫が幼少の頃の記憶として、松井興長に小次郎との試合を願い出た武蔵が、御家老中寄合での決定を知らず下関に渡り、勝負の後に興長に書を奉ったという短い話のみ記載されているのみである。これは、晩年の武蔵が度々吉岡との勝負を語っていたという逸話と対照的であり、『五輪書』に岩流との勝負についての記述が全くない事実を考えると晩年の武蔵は舟島での岩流との勝負について自ら語ることが殆どなかったと推測することができる。
『本朝武芸小伝』(1716年)、『兵法大祖武州玄信公伝来』(1727年)、『武公伝』(1755年に完成)等によって成長していった岩流の出自や試合の内容は、『武公伝』を再編集した『二天記』(1776年)によって、岩流の詳しい出自や氏名を佐々木小次郎としたこと、武蔵の手紙、慶長17年4月13日に試合が行われたこと、御前試合としての詳細な試合内容など、多くの史的価値が疑わしい内容によって詳述された。『二天記』が詳述した岩流との試合内容は、明治42年(1909年)熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂による『宮本武蔵』で原資料の一つとなりそのまま史実とされ、さらに吉川英治が小説『宮本武蔵』でその内容を用いたことから広く知られるようになった。
また、様々な文書で岩流を指し佐々木と呼称するようになるのは、元文2年(1737年)巖流島決闘伝説をベースとした藤川文三郎作の歌舞伎『敵討巖流島』が大阪で上演されて以降である。この作品ではそれぞれに「月本武蔵之助」「佐々木巖流」という役名がつけられ、親を殺された武蔵之助が巖流に復讐するという筋立てがつけられている。
 
 
 
 
 
 
「沼田家記」
( 細川藩家老の沼田延元の事歴を主に、子孫が寛文12年(1672年)にまとめたもの。  )
読み下し文
延元様門司に御座成され候時或年宮本武蔵玄信豊前へ罷越二刀兵法之師を仕候 其比小次郎と申者岩流の兵法を仕是も師を仕候 双方の弟子ども兵法の勝劣を申立 武蔵小次郎兵法之仕相仕候に相究 豊前と長門之間ひく島後に巌流島と云ふに出合 双方共に弟子一人も不参筈に相定 試合を仕候処 小次郎被打殺候
小次郎は如兼弟子一人も不参候 武蔵弟子共参り隠れ居申候
其後に小次郎蘇生致候得共 彼弟子共参合 後にて打殺申候
此段小倉へ相聞へ 小次郎弟子ども致一味 是非とも武蔵を打果と大勢彼島へ参申候 依之武蔵難遁門司に遁来 延元様を偏に奉願候に付御請合被成 則城中へ被召置候に付 武蔵無恙運を開申候 其後武蔵を豊後へ被送遣候 石井三之丞と申馬乗に 鉄砲之共ども御附被成 道を致警護無別条豊後へ送届武蔵無二斎と申者に相渡申候由に御座候
要約
延元様が門司におられる時、ある年、宮本武蔵玄信が豊前へ来て、二刀兵法の師範となった。その頃、小次郎と申す者が岩流の兵法をつかい、これも師範をしていた。双方の弟子達が兵法の優劣を申し立て、武蔵小次郎が兵法の試合することに決まり、豊前と長門の間のひく島 後に巌流島と言う で出合った。双方共に弟子は一人も連れてこないことに決まり、試合をしたところ、小次郎は打ち殺されてしまった。
小次郎は約束どおり、弟子は一人もこなかったが、武蔵の弟子達は来て隠れていた。 その後、小次郎は蘇生したが、武蔵の弟子達が集まって後で打ち殺してしまった。
このことが小倉へ伝えられ、小次郎の弟子達は一団となって、是非とも武蔵を討ち果たそうと大勢で島へ押し渡った。このため、武蔵は難を逃れるため門司へ逃げて来て、延元様にひたすらお願いするので、引き受け、城中へ召しかかえ置いたので武蔵は無事に運を開くことができた。
その後、武蔵を豊後へ送りつかわし、石井三之丞と申す馬乗りに鉄砲の者どもを付けて道を警護し無事に豊後へ送り届け、武蔵を無二斎というものに渡したということであった。

このように、沼田家記では、小次郎は武蔵との決闘で絶命したのではなく、蘇生した後に、武蔵の弟子達によって殺されたという驚くべき内容が書かれています。
そしてもう一つ問題となるのは、延元が武蔵に鉄砲の護衛までつけて豊後まで送ったという記述です。延元の武蔵に対する取扱いは、明らかに不自然で、当時の細川藩に何らかの事情があったのではないかと推測することができます。
ここで、当時の細川藩の状況を考えてみますと、藩主の細川忠興は、関ケ原の戦いで、家康側につき、その功績により、豊前国の所領を与えられました。
しかし、忠興が慶長7年(1602年)に小倉城へ入る前、天正15年(1587年)に豊前国一揆が起こっています。これは、豊前の宇都宮鎮房が首謀となって起こしたものですが、この一揆に呼応した者の中に、添田の岩石城に一族七百余人とともに立てこもった佐々木雅樂頭種次がいました。
この一揆は、すぐに鎮圧されましたが、元々、佐々木一族は、副田庄(添田)の土豪であり、鎮圧されたとは言え、細川藩も、簡単に支配できる状況ではなかったと考えられます。
私は、沼田家記での小次郎が藩内で剣術の師をしていたとの記述は、細川藩が佐々木一族を懐柔するための策として、初めは小次郎を容認していましたが、藩の支配体制を磐石にするためには、小次郎を排除する必要があり、厳流島の決闘において延元が護衛をつけてまで武蔵を保護したのは、武蔵の勝利を確定させ、佐々木一族への支配強化を図ることが目的であったのではないかと考えています。
また、小次郎の「岩流」については、佐々木一族は、元々、彦山と深い関わりがあり、小次郎は彦山の山伏から兵法を学び、自分の一族が支配していた岩石城から「岩流」と命名したと言われており、天明2年(1782年)の佐々木巌流兵法伝書(英彦山高田家文書)などで伺い知ることができます
こうした史料から、私は、小次郎が、豊前添田の佐々木一族の出身であり、巌流島の決闘において武蔵に敗れはしましたが、彦山・岩石城で修行した優れた剣の求道者であったと考えています。  
 
 
 
 
 
 
佐々木小次郎 1
( ? - 慶長17年(1612)) 安土桃山時代から江戸時代初期の剣客。剣号として岩流(巖流、岸流、岸柳、岩龍とも)を名乗ったと言われる。ただし、名前については不明な点が多い。宮本武蔵との巌流島での決闘で知られる。
出身については、豊前国田川郡副田庄(現福岡県田川郡添田町)の有力豪族佐々木氏のもとに生まれたという説がある他、1776年(安永5年)に熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』では越前国宇坂庄浄教寺村(現福井県福井市浄教寺町)と記されており、秘剣「燕返し」は福井にある一乗滝で身につけたとされている。生年は天正もしくは永禄年間とされる。
中条流富田勢源、あるいは富田勢源門下の鐘捲流の鐘捲自斎の弟子とされている。初め、安芸国の毛利氏に仕える。武者修業のため諸国を遍歴し、「燕返し」の剣法を案出、「岩流」と呼ばれる流派を創始。小倉藩の剣術師範となる。
1612年(慶長17年)、宮本武蔵と九州小倉の「舟島」で決闘に敗れ死んだ。当時の年齢は、武蔵は29歳。小次郎は出生年が不明のため定かではないが、武蔵よりも40歳程年上だったといわれている。
姓名
「小倉碑文」には、小次郎の名は「岩流(巖流)」としか書かれておらず、前述の『沼田家記』には「小次郎」(初出)とのみ書かれるなど、文献によって姓名にばらつきがある。「佐々木小次郎」が揃うのは、武蔵の死後130年経った1776年に書かれた『二天記』の注釈(本文では「岩流小次郎」で、名乗りなのか剣号なのか不明)である。より古い史料には佐々木姓は見られず、『二天記』が準拠した『武公伝』(1755年)では「巌流小次良」「巌流小次郎」となっている。
魚住孝至は『宮本武蔵』で、佐々木姓は『二天記』の40年前、1737年に上演された狂言の『敵討巖流島』に登場する「佐々木巖流」から名を採ったものであろうと推察している。なお、1746年上演の浄瑠璃『花筏巌流島』には「佐々木巌流」、1774年の浄瑠璃『花襷会稽褐布染』には「佐崎巌流」が登場するなど、『二天記』が書かれる頃には「ささき」姓が広まっていた。
姓は佐々木の他に『丹治峯均筆記』(1727年)では「津田」と記され、黒田藩の重臣である小河家の文書には「渡辺」と記されている。また、『江海風帆草』の「上田宗入」、『岩流剣術秘書』の「多田市郎」など、「佐々木」でも「小次郎」でもない姓名も知られている。
没年齢
死没日を慶長17年4月13日とする通説は、『二天記』における決闘の日付に基づいている。『二天記』には巖流島での決闘時の年齢は18歳であったと記されているが、このような記述は『二天記』の元になった『武公伝』にはなく、巖流が18歳で流派を立てたという記述を書き改めたものらしい。また生前の勢源と出会うには、決闘時に最低でも50歳以上、直弟子であれば相当の老人と考えられ、「七」の誤記ではないかとも言われている。鐘捲自斎の弟子であったとすればそれほどの老齢ではないにせよ、宮本武蔵よりは年長であった可能性が高い。70歳をすでに越えていたという説もある。
山口県阿武町大字福田には小次郎のものと伝承される墓がある。  
 
 
 
 
佐々木小次郎 2
1555年〜1612年
中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅
佐々木小次郎は、中条流の富田勢源の練習台から長大剣を極めた奇形剣士、師の富田景政に勝って越前一条谷を出奔し「物干し竿」と秘剣「燕返し」で西国一円に名を馳せ豊前小倉藩の剣術師範となるが「巖流島の決闘」で宮本武蔵に撲殺され「巖流」は消滅した。佐々木小次郎の名は忘れ去られ細川家(肥後熊本藩へ移封)の後釜には武蔵が座ったが、没後150年を経て武蔵の伝記物語『二天記』が現れ好敵手役で復活した。富田家(越前朝倉氏の家臣)が住した越前宇坂庄浄教寺村に生れ富田勢源に入門、「無刀」を追求する勢源は小太刀の精妙を得べく佐々木小次郎に長大剣を持たせ練習台にしたが、小次郎は勢源が打ち込めないほどに上達し柳の枝が飛燕に触れる様に着想を得て切先を反転切上げる秘剣「燕返し」(虎切りとも)を会得、18歳のとき新春恒例の大稽古で富田景政(勢源の弟で中条流相伝者)と立合うとまさかの勝利を収め、門弟達の恨みを恐れ直ちに越前一条谷を去り廻国修行の旅へ出た。そのご朝倉義景が織田信長に滅ぼされ富田景政は4千石で前田利家に出仕、婿養子の富田重政は(景政の一子景勝は賤ヶ岳合戦で戦死)佐々成政を撃退した「末森城の後巻」で一番槍の武功を挙げ大名並みの1万3千石の知行を得たが、後嗣富田重康の没後富田家と中条流(富田流)は衰退した。さて「物干し竿」と称された1m近い愛刀備前長光を背に西国一円を渡歩いた佐々木小次郎は、「燕返し」で次々と兵法者を倒して伝説的剣豪となり、豊前小倉藩39万9千石の細川忠興の招きで城下に巌流兵法道場を開き30余年の放浪生活を終えたが、老いて名高い小次郎は野心に燃える宮本武蔵の的にされた(この前に毛利家に仕えたともいわれ、吉川藩の周防岩国城下・錦帯橋そばの吉香公園には佐々木小次郎像がある)。宮本武蔵は手段を選ばず「窮鼠猫を噛む」流儀で兵法者60余を倒した我流剣士で脂の乗った29歳、小倉藩家老の長岡佐渡(武蔵の父または主君とされる新免無二の門人とも)を動かして佐々木小次郎を「巖流島の決闘」に引張り出し、二時間遅れて到着すると出会い頭の一撃で小次郎を撲殺、約を違え帯同した弟子と共に打殺したともいわれる。
 
 
 
 
 
 
 
 
燕返し
今から四百年もむかし、越前の国(えちぜんのくに→福井県)の一乗谷(いちじょうだに)に城をかまえる、朝倉義景(あさくらよしかげ)という殿さまの家臣に、富田勢源(とみたせいげん)という、飛び抜けた剣術を持つ侍がいました。
勢源(せいげん)は、『中条流(なかじょうりゅう)』という剣法をあみ出して、その強さは北陸中(ほくりくじゅう)に知れ渡っていました。
その勢源が最も得意としていたのは、『小太刀』という短い剣を使う剣法です。
ある日の事、勢源の元に、小次郎と名乗る子どもが弟子入りにやってきました。
「強くなりたいです。弟子にしてください」
一見すると小次郎はひ弱そうな子どもだったので、勢源は弟子入りを断りました。
ですが、「お願いです。強くなりたいのです。弟子にしてください」と、断っても断っても弟子入りをお願いするので、ついに根負けした勢源は、小次郎を道場の小間使いとして使うことにしました。
小間使いとして働くようになった小次郎は、少しでも時間を見つけると、とても熱心に修業をして、十六才になる頃には道場一の剣術使いになっていたのです。
それからは名も佐々木小次郎と改め、勢源がいない時は、勢源の代わりとして道場を任されるようにもなりました。こうして願い通りに強くなった小次郎ですが、師匠の勢源には、まだまだ勝つ事が出来ません。
「一体どうすれば、師匠を抜く事が出来るのだ?」
悩んだ小次郎は、ふと、洗濯物を干す物干し竿を見て思いつきました。
「師匠には小太刀を教えてもらったが、同じ小太刀では師匠に一日の長があるため、抜く事は出来ない。しかし、刀を長くすれば」
こうして小次郎は小太刀を捨てて、長い刀を持つようになったのですが、簡単に使いこなせる物ではありません。
師匠の勢源からも、「剣でもっとも重要な物は早さだ。その様に長い刀では、早く振る事は出来まい」と、言われましたが、小次郎はあきらめません。
毎日毎日、長い刀で練習を重ね、ついには腰に差せないほどの長い刀を使いこなせるようになったのです。ですが、まだ師匠には勝てません。
ある時、小次郎は近くの一乗滝で流れる水を見ていました。
するとそこへツバメが飛んできて、空を切って一回転すると空へと舞い上がりました。
「飛んでいるツバメは、どんな剣の達人でも斬る事が出来ないと言うが、もしツバメを斬る事が出来れば、わたしは師匠を抜く事が出来るかもしれん」
こうして小次郎は、毎日滝へ出かけては、ツバメにいどみ続け、ついにツバメを斬りおとすと技をあみ出したのです。
そして、その技で師匠に勝つ事が出来た小次郎は、長い剣を使う剣法を『厳流(がんりゅう)』、ツバメを斬りおとした奥義を『ツバメ返し』と名付け、さらに剣術を磨く為に、諸国へ武者修業に出かけたのです。
これは、宮本武蔵と戦う数年前の事です。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 


2019/8