メッキが剝がれました

水道蛇口のメッキが剝がれるなど 見たことがありません
8年もたたないのに メッキが剝がれました

相談窓口 メールでの問合せができました
信用を守るため 担当者の応対は大変立派でした
反面 違和感を感じました

「あなたが傷をつけました」
クレーム応対 最初の応対の大事さを再確認  
年寄りの暇つぶし 楽しみました
 


パナソニック社史
 
混合水栓の蛇口のメッキが剝がれました
システムキッチンの流し メーカはパナソニック(株)

 

間接的で丁寧な表現でも 内容は
「あなたが何か傷つけたのが原因です」
こんなこと 最初に言われて納得する人はいません
年寄りも 燃えました
例えば 「永年のご使用での、原因は判りかねますが劣化と思われます」
そんなものかと諦めて 交換を考えます
意地になりました
しつこくなりました
 

 

水道蛇口のメッキが層状に剥離しました。   3/16 16:31
2004年秋、三井リフォームより、御社のシステムキッチンを設置したものです。
水道蛇口の型番は、サラサラシャワー混合水栓「○○○」です。
昨日、シャワーに切り替えようとスイッチを押したとき、指先に何かが刺さり痛みを感じました。1-2mmほどの曲がった薄膜が見え、あぶないと思い、それを取除こうと引張りました。ところが、メッキが層状に 2-3cm 剥離してしまいました。
機器に耐用年数があることは承知していますが、本来の使用目的である水回りの蛇口のメッキが剥離することは、製造上の何らかの欠陥ではないでしょうか。私の永い経験でも、水道蛇口のメッキの剥離など見たことがありません。ちなみに、蛇口の上面に多数の小さな凹凸のあることが判りました、多分内部で剥離が進行しているのでしょう。
素人判断では、欠陥製品と思いますが、御社のご判断をお聞かせ下さい。また、混合水栓本体は、将来的に同じ様なメッキの剥離はおきないのでしょうか、御社のご判断をお聞かせ下さい。
交換の場合の、費用を教えて下さい。剥離したメッキ層片は保管しています。
ご回答、よろしくお願いします。 
  
パナソニック株式会社 エコソリューションズ社
 SK・洗面品質サーヒ SK・洗面品質サービス部 ■■ さんからのご回答   
水道蛇口のメッキが剥離しましたの件   3/18 11:35
日頃は弊社商品をご愛顧賜り、厚く御礼申し上げます。
この度は弊社販売システムキッチンの水栓金具におきまして、大変ご心配をお掛けしておりますこと、誠に申し訳ございません。
早速でございますが、お問い合わせいただきました件につきまして、ご返事申し上げます。
本体表面にキズ等が付き、その部分から水・洗剤等が浸透してメッキ剥がれに至ったものと推定します。
修理等に関しましては、パナソニックES テクノサービス鰍ナご対応させて頂いておりますので恐れ入りますが下記窓口までお問い合わせ頂きますよう、よろしくお願い申し上げます。
設置されている水栓金具も販売終了から10年以上経過しておりますので補修部品の供給が出来ない部品も出てくると思いますので一度、買い替えのご検討もしていただければと思います。
【修理相談・受付窓口】パナソニック エコソリューションズ テクノサービス株式会社  
水道蛇口のメッキが剥離しました件   3/18 17:16
具体的なご回答をお願いします。
1 製品の欠陥とお認めにならないのでしょうか。
  「本体表面にキズ等が付き・・・と推定します。」私がキズを付けたのでしょうか。
  蛇口上面の多数の小さな凹凸は、どう推定するのでしょうか。上面にキズはありません。
2 混合水栓本体は、将来的に同じ様なメッキの剥離はおきないのでしょうか。
3 交換の場合の、予想される概算費用を教えて下さい。
以上 
 
お世話になっております。ご連絡ありがとうございます。   3/19 9:50
早速でございますが、お問い合わせいただきました件につきまして、ご返事申し上げます。
1 製品の欠陥とお認めにならないのでしょうか。
「本体表面にキズ等が付き・・・と推定します。」私がキズを付けたのでしょうか。蛇口上面の多数の小さな凹凸は、どう推定するのでしょうか。上面にキズはありません。
 ⇒大変申し訳ございませんが、ご使用14年以上経過しておりますので商品の問題ではないと考えております。
2 混合水栓本体は、将来的に同じ様なメッキの剥離はおきないのでしょうか。
 ⇒メッキ処理されている水栓金具でしたら、ご使用状況によって剥がれる可能性はございます。(中性洗剤以外でのお手入れ等)
3 交換の場合の、予想される概算費用を教えて下さい。
 ⇒こちらではわかりかねますので、工務店様等にご相談頂きたく存じます。
以上簡単ではございますが、お問い合わせのご返事とさせていただきます。 
ご回答ありがとうございます。   3/19 11:01
ただ納得できませんので、再度ご回答を求めます。
1 論点をすり替えないでください。
 「蛇口上面の多数の小さな凹凸は、どう推定するのでしょうか。上面にキズはありません。」にご回答ください。
 また、現物を見ていない■■様の、「商品の問題ではないと考え・・・」との推測に従わねばならないのでしょうか。
2 中性洗剤で手入れをしています。
3 通知済の型番、または同等品本体の、御社の希望小売価格を教えてください。
以上 
お世話になっております。ご連絡ありがとうございます。   3/19 13:11
早速でございますが、お問い合わせいただきました件につきまして、ご返事申し上げます。
詳細状況はわかりかねますが、長年ご使用されておりますので経年劣化等も考えられます。
ご使用14年経過しておりますので、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。
現在弊社が販売している水栓金具のカタログを抜粋したものを添付させていただきますので、ご参考にして頂きたく存じます。
以上簡単ではございますが、お問い合わせのご返事とさせていただきます。 
ご回答ありがとうございます。   3/19 15:29
理解できませんので、再度ご回答を求めます。
1-1 「蛇口上面の多数の小さな凹凸は、どう推定するのでしょうか。上面にキズはありません。」にご回答ください。
  私も永年物づくりに関わってきました。普段、空気にも水にも触れず、表面に凹凸が出来たら、内部で何か変質がおきていると考えるのが常識です。
1-2 「詳細状況はわかりかねますが、長年ご使用されておりますので経年劣化等・・・」
  詳細も判らずに経年劣化と決めつけるのが、パナソニック(株)のメーカー姿勢なのですか。
  我が家へ、御社の技術担当者が見に来ていただいて結構です。
1-3 購入時の御社の取扱説明書を保管しています。
  「14年経過したら経年劣化等がおこる」こと、どこに明記されているのかお教えください。
  ちなみに同時期に設置した、TOTO混合水栓の洗面、風呂場の蛇口のメッキに異常はありません。
3 添付カタログのどの型番が、同等品なのか教えてください。
以上 
お世話になっております。ご連絡ありがとうございます。   3/19 16:22
早速でございますが、お問い合わせいただきました件につきまして、ご返事申し上げます。
大変申し訳ございませんが、ご使用短期間でのメッキ剥がれではございませんので、ご使用による経年劣化であると考えます。
現在設置されております水栓金具の価格は44,000円です。そうしますと同等の品番としては「○○○」あたりになるかと思います。
以上簡単ではございますが、お問い合わせのご返事とさせていただきます。 
ご回答ありがとうございます。   3/19 21:10
理解できない回答なので、改めて回答を求めます。
1-2 御社の技術担当者による現地確認はしていただけないのでしょうか。
1-4 これまでの色々の回答が、全て「経年劣化」との説明に変わりました。
  私は水栓金具交換に44,000円何がしかのお金が必要となります。、
  御社の製品保証期間は何年でしょうか。その記載は、取扱説明書等どこにあるのでしょうか。
1-5 消費者保護のためにPL法があります。
  1-4 の製品保証期間は、法律に適合しているのでしょうか。
  1-4 の製品保証期間の記載方法は、法律に適合しているのでしょうか。
以上 
お世話になっております。ご連絡ありがとうございます。   3/25 15:44
ご返事が遅くなり申し訳ございません。
早速でございますが、お問い合わせいただきました件につきまして、ご返事申し上げます。
1-2 御社の技術担当者による現地確認はしていただけないのでしょうか。
 ⇒ 大変申し訳ございませんが保証期間を経過しておりますので、下記テクノサービスが調査に伺うにも費用は発生致します。※補修部品の保有年数は販売終了6年としておりますので在庫が無くなり次第、供給不可となります。販売終了から10年以上経過しておりますので、供給出来ない補修部品も多くなってきておりますので、買い替えのご検討をすすめさせていただきました。修理可能かは下記テクノサービスにお問合わせ願います。 
1-4 これまでの色々の回答が、全て「経年劣化」との説明に変わりました。
 私は水栓金具交換に44,000円何がしかのお金が必要となります。
 御社の製品保証期間は何年でしょうか。その記載は、取扱説明書等どこにあるのでしょうか。
 ⇒ 水栓金具の保証期間は2年となっております。総合取説に記載しております本体2年間になります。(平均的な耐用期間は10年程度)総合取説(抜粋)を添付させていただきます。
1-5 消費者保護のためにPL法があります。
 1-4 の製品保証期間は、法律に適合しているのでしょうか。
 1-4 の製品保証期間の記載方法は、法律に適合しているのでしょうか。
 ⇒ 製造物責任法(PL法)に基づく賠償請求権は製造物の引渡時を起算点とする10年の法定責任期間が規定されております。 
ご回答ありがとうございます。   3/26 10:39
先ず■■様にお詫びします。今回の蛇口部分だけを、2011年以降に御社に依頼し、交換工事をして頂いたことを思い出しました(保管領収書で確認)。交換理由は忘れました。
余談ですが、作業者は大変親切な方で、作業後、システムキッチンの天井よりの扉を開閉し、「東日本地震のときは大丈夫でしたか」と、地震時の扉ロックの動作を確認してくれました。
以上より、「経年劣化」は14年でなく、8年未満の時期から始まっていたことになります。

迷惑な問合せに、ご丁寧な応対をいただき、ありがとうございました。
 

 

同時期に設置したTOTO混合水栓
14年経っても メッキ部に異常はありません
パナソニック 8年未満で経年劣化がおこりました
36年経つ 住まい共用部の水道蛇口
メッキの剝がれはありません
「蛇口上面の多数の小さな凹凸は、どう推定するのでしょうか ・・・ 」
ついに最後まで具体的な推定回答なし
製造上の不具合 認めたくないのでしょう 「経年劣化」に化けました
大企業と一個人 屁理屈では勝てません
昔風なら 最初から負け戦 多勢に無勢
時間 頭のムダ遣い
問合せを止めることにしました
松下の文化
やはり 昭和で終わったのでしょうか
多数あるキッチン機器メーカー
全て 「水洗金具の保証期間 2年」 業界団体の取り決めか ?
長寿命を売りにするメーカー 一社もありません




 






 

 



2019/3-
 
 
 
 
 

 

パナソニック社史
 
 

 

1894‐1918年(明治27-大正7年)
創業まで
パナソニックの創業者・松下幸之助は、1894年(明治27年)11月27日、和歌山県海草郡和佐村(現、和歌山市禰宜)に、8人兄弟の3男、末子として生まれた。幸之助が4歳のとき、父が米相場に手を出して失敗したため一家は困窮に陥った。小学校もあとわずかで卒業という9歳のとき、大阪の八幡筋にあった宮田火鉢店に丁稚奉公に出ることになった。その3ヵ月後、今度は船場の五代自転車店に奉公した。彼は利発で商売にも熱心だったので、主人にかわいがられた。丁稚奉公の間、実業について多くのことを学んだ。店番をしながら講談本を読んだことも、後に役立った。大阪ではすでに市電が走っていたが、彼はそれを見て電気の将来性を予感し、電気関連の仕事をしてみたいと思った。その思いが高まり、15歳のとき大阪電灯に転職。20歳のとき縁あって19歳の井植むめのと結婚した。大阪電灯での活躍はめざましく、22歳で工事人のせん望の的であった検査員に昇進した。その当時、ソケットの改良に熱心に取り組み、試作品を作っていた。ある日、上司に見せたが使い物にならないと酷評された。もともと体が弱く、以前から早く将来の方針を立てなければと考えていたこともあり、この出来事をきっかけに独立を決意し、1917年6月、東成郡(現、大阪市東成区)猪飼野の借家でソケットの製造販売を始めた。その時、むめのの弟・井植歳男(後に三洋電機を創業)を呼び寄せて手伝わせた。しかし、苦心のソケットは売れず、むめのが質屋に通うほどの窮状に陥った。そんななかでも彼は前途に希望を抱き、考案に熱中していた。年の瀬も迫ったある日、扇風機の碍盤を練り物で作ってくれないかとの注文があり、その出来がよかったことから続いて注文が入るようになった。辛抱の甲斐があって、意外な方向から運が開けた。そして彼は改めて配線器具の製作に本格的に取り組む決心をした。
1918年(大正7年) 松下電気器具製作所を創立
3人からの小さなスタート
1918年3月7日、幸之助は「松下電気器具製作所」を創設した。この日、幸之助は猪飼野の家では手狭なので、大阪市北区西野田大開町(現、福島区大開2丁目)の2階建の借家に移った。23歳の所主・松下幸之助、22歳の妻・むめの、15歳の義弟・井植歳男、若い3人だけの小さなスタートであった。2階建の階下3室を工場に改造し、小型プレス機2台を置いて作業をした。扇風機の碍盤を製造するかたわら、所主は便利で品質のよい配線器具を作れば、一般の家庭にはいくらでも需要があると確信し、夜遅くまで配線器具の考案に没頭した。そしてついに最初の製品「アタッチメントプラグ」、続いて「2灯用差し込みプラグ」を製作、発売した。これらは一般製品より品質がよく、価格も3〜5割安かったので、評判になり、よく売れた。同年末、従業員は20人を数えるまでに成長した。販売については当初、総代理店にまかせ、生産に専念することにしていたが、翌年、激しい値下げ競争に巻き込まれ、売上が急減した。そこで、所主は思い切って問屋と直接取り引きをすることにし、自ら販路の拡張に努めた。その結果、それまで以上に商品が売れ始め、ようやく危機を脱することができた。

 

1920年(大正9年) 「歩一会」を結成
全員が心と歩みを一つにして
当時、第1次世界大戦後の復興需要による好景気で、どの工場も活況を呈していた。そのために人を採用するのが大変な苦労で、所主は従業員の大切さを身をもって知らされた。そして知らず知らずのうちに毎朝、工場の前に立ち「彼は今日も来てくれるかな」と従業員を迎えるのが習慣となった。そのうち、従業員が増えるに従い、自ずと人の育成ということに心をくだくようになった。当時、配線器具に使われていた練り物の調合法については、どの業者も秘密にして、従業員には教えないのが普通だった。ところが所主は「そんなことにとらわれていては事業は伸びないし、人も育たない」と言い、適任となれば、新しく入った従業員にもそれを教えて仕事をさせた。そうした折、突如、戦後恐慌が起こり、好況ムードは一瞬にして暗転した。企業倒産が全国的に波及し、街には失業者があふれ、労働運動は激化した。こうした社会不安が広がるなかで所主は、全員が心を一つにしなければならないことを痛感し、1920年3月に、自分も含めた全従業員28名からなる「歩一会」を結成した。歩一会はその後、従業員のレクリエーション活動、運動会、文化活動などの実行組織として、従業員の心のつながりを強めていく上で大きな役割を果たしていくことになる。
1922年(大正11年) 第1次本店・工場を建設
家内工業から小企業へ
1920年2月、所主は京都・石清水八幡宮の「破魔矢」と松下の頭文字「M」を組み合わせ、初めての商標「M矢のマーク」を作った。これには障害を突破し、目標に向かって突き進む意味が込められていた。同年3月には、東京方面の販売を伸ばすために、東京駐在を設置した。そして弱冠17才の義弟を駐在員として派遣した。同年6月、かねてから申し込んでいた電話の抽選に当たり、初めて電話を架設した。一般の景気はますます深刻化していたが、わが社の経営は順調に推移し、配線器具の販売も増え続けた。そこで隣家を借りて作業場を増設し、増産に努めたが追いつかず、ついに新しく工場を建設する決心をした。230平方メートルほどの近所の空地を借りることにし、所主自ら工場と事務所を設計した。本店と工場は1922年7月に完成した。不況下にありながら、この積極経営により販売はさらに増加し、年末には従業員50人を数えるまでになった。創業以来4年間で家内工業の域を脱し、小さいながらも工場らしい工場を持つ小企業へと発展したのである。
1923年(大正12年) 砲弾型ランプを考案、発売
実物宣伝で苦境を打開
所主の製品考案に対する熱意は大変なもので、夜寝るときも枕許に紙と鉛筆を置き、思いつくことがあるとメモした。当時の自転車用の灯火はローソクか石油ランプがほとんどだった。電池式のものもあったが、2、3時間しかもたず、故障も多かった。所主は以前に自転車店に勤めていたこともあり、また夜間、自転車の灯火が消えて困った経験もあったので、電池式ランプの考案を思いついた。約半年間、数10個の試作品を作って研究・開発を重ねた末、1923年3月、従来のものより約10倍、30〜40時間も長くもつ画期的な「砲弾型電池式ランプ」を完成させた。さっそく、問屋への売り込みを開始した。ところが、電池式は使い物にならないという先入観からか、いくら説明しても問屋では取り扱ってくれない。見通しは絶望的とも思えたが、所主は「いいものは必ず売れる」との信念から、小売店に無償で置いて回り、実際に点灯試験をした上で、結果がよければ買ってもらうという方法を採用した。これでだめなら会社はつぶれるというほどの思い切った売り出しであった。この実物宣伝が功を奏し、小売店から次々と注文が入り始めた。同年9月、関東大震災が起こった。幸い二人の駐在員は無事に帰ってきたが、東京方面の販売網は全滅状態になった。しかし翌年早々、出張所として再開、販路を拡大していく。 

 

1927年(昭和2年) 角型ランプを考案、発売
初めて「ナショナル」の商標を使う
砲弾型ランプは「エキセル」の商標で山本商店に販売を3年間一任し、わが社は生産に専念することにしていたが、そのうちに両者の意見が衝突するようになった。山本商店の店主・山本武信氏は「このランプは一時的な流行品だから契約期間内に売り切ればよい」と考えていた。一方、所主は「永続的な実用品だから販売についても工夫し、販売量を増やしてはどうか」と提案した。両者の意見は一致しなかった。当時、所主は角型の電池式ランプの考案に熱中し、試作を続けていた。そしてこのランプは自分なりの方針で売ってみたいと思い交渉したが、了解を得られなかった。山本氏は契約を盾に、「どうしても販売するなら代償として1万円を支払え」と要求してきた。所主は思い切ってこの申し出を受け入れることにし、1926年10月、1万円を支払い、角型ランプの販売権を買い戻した。山本氏とはこの他にも意見の対立することが多かったが、公明正大な態度、強い信念など、何かと教えられることが多かった。所主は角型ランプの名称についても考えていた。ある日、新聞で「インターナショナル」という文字が目につき、辞書を引くと「国際的な」とあった。「ナショナル」には「国民の」との意味があった。思いにぴったりの字義である。所主は「『ナショナル』の商標をつけ、国民の必需品にしよう」と決心した。1927年4月、角型ランプは完成した。発売に際して、販売店に1万個の見本品を無料提供する積極売り出しを実施した。「ナショナルランプ」の販売は大成功を収め、1年もしないうちに月3万個を出荷するまでになった。
スーパーアイロンを発売
電化製品を一般の人々の手に
1927年には電熱器分野へ進出した。当時、電熱器はラジオとともに文化生活の先端をいく製品であったが、一般家庭にとっては値段が高く、手の届きにくい商品だった。所主はかねてから、一般の家庭でも買いやすい価格の、しかも品質がよい電熱器を作りたいと考えていた。同年1月、電熱部を設置し、ちょうど入所してきた中尾哲二郎に、最初の電熱製品としてアイロンの開発を命じた。開発に当たっては、従来のものより品質的に劣らず、しかも3割は安い価格のものを作るように要求した。3ヵ月後、ヒーターを鉄板に挟んだ新機軸のアイロンが完成した。当時の小学校教員の初任給が50円程度であったのに対し、アイロンは4〜5円で売られていた。そこで所主はこの新製品を月1万台生産し、3円20銭で発売するよう指示した。量産すればより多くの人々の手に入る価格で販売できると考えたのである。しかしその数量はそれまで業界全体で販売されていた数量である。それを1社で生産販売しようというのである。はたして市場にそれだけの需要があるかどうかが問題だった。だが所主は、手頃な値段で品質のよいものであれば、一般の人々に喜んで受け入れられるとの信念があった。予想は当たり、このアイロンは好調な売れ行きを示した。技術的にも評価され、後に商工省より国産優良品に指定された。続いて、同じ方針で電気コタツの開発に取り組み、新開発のサーモスタットを使用した電気コタツを開発した。これも従来のものの半値程度で発売したので好評を博した。同年11月に研究部が設置されたが、中尾哲二郎はこれ以後、技術の総帥として、戦前戦後を通じて数々の新技術・新製品の創出に携った。1981年9月、79歳で逝去。
社内外向け機関誌を創刊
衆知を集めた全員経営
関東大震災の復興もままならない1927年3月に金融恐慌が発生、資金難で倒産する企業が続出した。こうした混乱のなかで所主は、販売店や従業員との精神的なつながりを重視し、機関誌を発行することにした。まず同年11月、販売店向け機関誌として「松下電器月報」を創刊した。所主は創刊号の中で「弊所はどんな営業ぶりであるか等をよく理解していただくと同時に、こんなふうにやれとか、こう改良しろとか、つまり皆様のご希望や要求を聞かせていただきたい」と述べている。この月報発刊の思想は、その後「松下電器連盟店経営資料」、戦後の「ナショナルショップ」誌へと引き継がれていく。同年12月には従業員の相互理解を図るため「歩一会々誌」を創刊した。さらに1934年に「業容の推移、政策、方針などは、我々の最も大なる関心事であり、それを明確に知ることは企業人にとっては安心立命の源である」として「松下電器所内時報」を創刊した。戦後になりその意図は「松下電器時報」、「松風」に引き継がれる。創業して間もない個人企業の会社が、早くもこの時期に社内外向けのコミュニケーション誌を発刊していたのである。
1929年(昭和4年) 綱領・信条を制定
経済恐慌の中で企業の社会性を念慮
不況はますます深刻化していたが、わが社は順調に発展し、配線器具、電熱器とその取扱商品も増え、それにともなって全国の代理店数も増加した。1928年には、月商は10万円を超え、従業員も300人に増えた。代理店の中には将来を見越してわが社の商品を主力に販売していこうとするところも出てきた。こうなるとわが社の責任もまた重大である。従来は個人の仕事と考えていたが、社会とのつながりを考慮して事業経営をしていかなければならなくなった。そこで所主は社会と企業のあり方についていろいろと思いを巡らせたすえ、「企業は社会からの預かりものである。従ってその事業を正しく経営して、社会の発展と人々の生活の向上に貢献するのが当然の務めである。事業の利益は、社会に貢献した報酬として与えられるものである」と思い至った。1929年3月、所主は松下電気器具製作所を「松下電器製作所」と改称し、同時にわが社の進むべき道を明示した「綱領・信条」を制定した。この綱領は、その後修正が加えられ現在の文言となったが、その精神は、パナソニックの「経営基本方針」として受け継がれてきている。また、1933年7月には「遵奉すべき5精神」を制定した。その後2精神が加わり、「綱領・信条」とともに全従業員の行動の指針となった。

 

1931年(昭和6年) 盛大に初荷を実施
積極経営で不況を克服
1929年5月、かねてから建設中だった第2次本店・工場が完成した。新しい経営方針である綱領も制定し、いざ積極的な経営を始めようとしたとき、明治以来最悪の経済恐慌が起こる。日本では浜口内閣が不況打開のためにデフレ政策を始めたところへ、ニューヨーク株式市場の大暴落を契機に勃発した世界恐慌が波及してきたのである。このため物価の暴落、企業の倒産が相次ぎ、工場閉鎖や解雇が行われ、社会不安が一挙に広がった。わが社も売上が半減し、倉庫は在庫であふれた。病気療養中であった所主は、幹部から「この窮状を打開するためには従業員を半減するしかない」との進言があった時、思い悩んだ末、「生産は半減する。しかし従業員は解雇してはならない。給与も全額支給する。工場は半日勤務にし、店員は休日を返上して在庫の販売に全力を注いでほしい」と指示した。この方針が伝えられると、自ずから一致団結の姿が生まれた。そして全員無休で販売に当たったところ、およそ2ヵ月で在庫を一掃し、逆にフル生産するほどになった。不況の暗い空気を吹き飛ばそうと1931年の正月、「初荷」を実施した。これは前年に名古屋支店が実施して好評だったので、この年から全社的行事として行ったもの。交通事情悪化のため、1965年以降は中止になった。
ラジオの自社生産を開始
故障のないラジオを適正な価格で
1925年に東京放送局が始めたラジオ放送は急速に普及し、1930年には聴取契約者数が70万を超えた。しかし当時のラジオは機能的に不十分で、聴取者はよく故障に悩まされた。所主もたまたま聞きたい放送がラジオの故障で聞けなかったことに憤慨し、「故障の起こらないラジオ」を作ろうと決心した。1930年8月、あるラジオメーカーと提携して国道電機を設立し、ラジオの生産販売に着手した。ところが故障・返品の続出である。調査してみると、ラジオ技術のある専門店では自店で検査・調整をした上でお客に販売していたが、一般の電器店では鳴らなければすぐに代理店に返品していたのである。所主は「やる以上は、一般の電器店でも扱えるラジオを作ってこそ意味がある」との信念から、翌年3月に国道電機を直営にし、研究部の中尾哲二郎にラジオの開発を指示した。それから3ヵ月後、苦心の末、三球式ラジオが完成した。ちょうど募集中の東京放送局のラジオセットコンクールに応募したところ1等に当選した。このラジオを45円で発売した。当時、ラジオの価格競争が激化し、25〜30円が一般的な価格であった。しかし所主は、競争にとらわれず適正な利潤を確保するのが事業の正しいあり方であり、業界の正しい発展に寄与するとの信念から、この価格を決定した。そのころ、ある商社がダンピングで競争メーカーを倒し、市場を独占して不当な利益を収めたやり方に対し、所主は激しい公憤を感じていたからである。また当時、ある発明家がラジオの重要部分の特許を所有し、設計上大きな障害になっていた。所主はこの事態を憂慮し、1932年10月にこの特許を買収し、同業メーカーに無償で公開した。これは業界全体の発展に大きな貢献をする快挙と、各方面から称賛を受けた。
1932年(昭和7年) 第1回創業記念式を挙行
真の使命を明示する
ある日、所主は知人の案内で某宗教本部を訪れ、喜々として働く信者の奉仕の姿を見て感銘を受けた。そして事業経営について深く考えさせられた。「人間には精神的安心と物質的豊かさが必要である。宗教は人々の悩みを救い、人生に幸福をもたらす聖なる仕事である。対して事業経営も人間生活に必要な物資を生産提供する聖なる仕事ではないか。そこに事業経営の真の使命があるはずだ。今後はこの真の使命に従って経営をしていかなければならない」と思い至った。1932年5月5日、所主は全店員を大阪の中央電気倶楽部に集め、わが社の真の使命を明示した。「産業人の使命は貧乏の克服である。そのためには、物資の生産に次ぐ生産をもって富を増大させなければならない。水道の水は加工され価あるものであるが、通行人がこれを飲んでもとがめられない。それは量が多く、価格があまりにも安いからである。産業人の使命も、水道の水のごとく物資を豊富にかつ廉価に生産提供することである。それによってこの世から貧乏を克服し、人々に幸福をもたらし、楽土を建設することができる。わが社の真の使命もまたそこにある」そしてこの使命を達成するために、建設時代10年、活動時代10年、社会への貢献時代5年、合わせて25年を1節とし、これを10節繰り返すという250年計画を発表した。その使命の崇高さ、計画の壮大さに全員が胸を打たれ、会場は興奮のるつぼと化した。
1933年(昭和8年) 門真に本店・工場を建設
本格的な新鋭工場群の登場
1932年当時の従業員は1,200人余り、製造品目200余種の事業体に成長し、なお拡大の途上にあった。一部の工場を増設して増産に努めたが、注文に応じ切れなくなった。所主は将来の発展を考えて、本格的な本店・工場を大阪の東北郊外、門真地区に建設することにした。当時は、昭和初期の恐慌の記憶がまだ生々しく残っており、7万平方メートルを超える敷地への大規模な工場建設は業界から驚きの目で見られ、放漫経営ではないかとする声も多かった。また門真地区は大阪から見て東北方向の「鬼門」に当たり、その点でも危惧の念を持たれた。「鬼門」については所主も気になったが、「東北方向が鬼門なら日本の地形はどこも鬼門ばかりだ」と思い、建設に着手した。そして1933年7月の移転に際して、所主は「組織の膨脹はやがて崩壊への道程であることが多い。今わが社は躍進か崩壊かの分岐点に立っている。本所将来の発展、衰亡は、かかって諸君の双肩にある」と奮起を促した。
事業部制を実施
自主責任経営と経営者の育成
1933年5月、所主は独自の発想による「事業部制」を実施した。工場群を、ラジオ部門を第1事業部、ランプ・乾電池部門を第2事業部、配線器具・合成樹脂・電熱部門を第3事業部とする3つの「事業部」に分け、製品分野別の自主責任経営体制をしいたのである。これにより、各事業部はそれぞれの傘下に工場と出張所を持ち、製品の開発から生産、販売、収支に至るまで、一貫して責任をもつ独立採算制の事業体となった。所主は体が弱かったこともあり、自分だけで会社経営の全部を見ることの限界を自覚して、早くから人に任せることを心がけてきた。任せると人は存分に創意と能力を発揮し、大きな成果を生んだ。そうした体験から、1927年に電熱部を設置する際にも、生産販売に関する一切を責任者に一任する方式を採っていた。事業部制のねらいについて「自主責任経営の徹底」と「経営者の育成」の2つがあると所主は述べている。当時こうした組織を持つ会社は他に例がなく、画期的な機構改革であった。パナソニックは「事業部制」を戦前から早くも採用し、経営の根幹をなす一大特色として定着させ、今日まで引き継いできたのである。
モートルの開発、生産を開始
将来の需要を予見する
1933年7月に電動機部を設置し、モートルの開発に着手した。当時、モートル業界は重電メーカーが支配していた。そこへ家電製品を主体とする当社が、小型モートル分野に進出したのである。小型モートルを使っているものといえば、扇風機がある程度だった。当然のこととしてその成否が危惧された。モートル分野進出の新聞発表の際に、所主は記者の質問に次のように答えた。「将来、一般家庭の文化生活が進めば、一家に平均10台以上のモートルが使われる日が必ず来ます。モートルの需要は無限ですよ」翌年11月に第1号機が完成。1938年に「松下電動機」を設立し、積極的に事業を推進してきたが、戦後の家庭電化時代の到来で、所主の予見は的中することになる。1935年にはナショナル蓄電池を設立して蓄電池分野に進出。続いて1936年にはナショナル電球を設立して電球の生産に着手した。
1934年(昭和9年) 店員養成所を開所
ものをつくる前に人をつくる
所主は「事業は人である。ものをつくることも大切であるが、その前に人をつくることが肝要である」との信念に立ち、人材の育成にはとくに意を注いできた。また「物の生産と教育が同時に行える工場学校」を建設したいという夢を持っていた。そこで、門真地区に進出した際、本店・工場とあわせて「店員養成所」を建設し、1934年4月に開所した。なお1936年には「工員養成所」もあわせて開所した。これらの養成所は、太平洋戦争中の学制改革のために閉鎖されたが、戦後、「松下電器工学院」として再発足した。会社の発展に伴い、所主の「人を大切にしなければならない」との思いはますます強くなり、次々と独自の人事制度を生み出した。1933年に松心寮を建設し、従来の店内居住制度を寮制度に切り替えた。1937年には、見習店員が3年間の修業を終え一人前の店員になることを祝う「元服式」を始めた。また、従業員との懇談を常に心がけ、1935年から「松下所主を囲む座談会」を始めた。これは現在の職場懇談会の端緒となった。1936年には、従来の月2回休日制に替え、「週休制」を採用した。その際、所主は月4回の休日のうち、2回は休養、2回は修養に当てるように要望した。従業員の健康管理にも強い関心を払い、1937年に「松下電器健康保険組合」を設立、その3年後には「松下病院」を建設した。1938年には、高野山に物故従業員の慰霊塔を建立し、法要を営んだ。

 

1935年(昭和10年) 共存共栄の理念に基づいて
適正利益についての考え方
パナソニックは早くから、一般家庭が入手しやすい価格で品質の良い製品を普及させることに力を注いできた。価格については「不当に高い利益も、少なすぎる利益も、ともに商売の正道からはずれている」との観点から、取引先が適正利潤を確保できるように努力してきた。しかし当時は、一部の有力メーカーの商品を除いて「定価」はついていず、販売店が自由に値段をつけて販売するという状況だった。そのため、販売店によっては不当に高く売ってお客の不信感を買ったり、逆に極端な値引きで採算を割ったりと、混乱を招いていた。これは卸業者と販売店の間でも似たものであった。所主はこの状況を憂慮し、適正利潤に基づく価格で販売することは、メーカー、販売業者の経営安定のためだけでなく、需要者にとっても買いやすく、しかも安心して買えることになると確信した。そこで1935年7月から共存共栄の理念に基づいて正価販売運動を展開した。「正価」とは「適正価格」という意味で、一般の「定価」と区別するための当社独自の呼称である。続いて同年11月に、共存共栄の理念を推し進めるために「連盟店制度」を実施した。これと並行して、わが社は一層のコストダウンに努めるとともに、積極的な販売助成活動、宣伝活動を展開した。大阪・心斎橋筋に最初のショウルーム「ナショナル電気ハウス」を開設。ラジオの月賦販売についての研究を進め京都の一部地区で実施。修理サービスの万全を期してサービス・ステーションを各地に設置、などがその例である。
松下電器貿易を設立
自前の貿易会社で理念のある輸出
わが社は、1931年にすでに英文の商品説明書を発行、翌年には貿易部を設置し、輸出事業に着手していた。当時の電機業界の貿易は、主として総合商社または外人商社(商館)を通しての貿易、いわゆる商社貿易に依存していた。そうしたなかで、海外市場に対しても国内と同様に一貫した理念に基づいて積極的に輸出を推進するため、1935年8月に「松下電器貿易」を設立した。当時、業界で傘下に貿易会社をもつ企業は少なかったが、この積極的な取り組みにより販路は東南アジア全域に広がった。これと並行して海外の販売拠点の建設も進めた。また1938年には同社に輸入部を設置、当社および電機業界で必要とする資材を主体に原材料の輸入を開始した。
基本内規を制定
拡大による慢心を戒める
1935年当時、わが社の業容は従業員約3,500人、年間販売高約1,200万円に達し、製造品目も約600種と増え、販売網も海外まで伸ばし、電気器具の有力メーカーとして注目されるにようになっていた。同年12月、所主は「会社は社会からの預かり物」との考え方に立って松下電器製作所を改組し、「松下電器産業株式会社」を設立した。同時にこれまでの事業部制を発展させた「分社制」を採用し、事業部門別に9社の子会社を設立、ほかに4友社をおいた。新しく社主となった松下幸之助は改組の理由について、「今日のわが社は業容も相当大きくなり、人員も増加し、社会的な一大生産機関としての実体をなしている。従ってこれを拡充する責務が痛感される。同時に経営の実情を公開して世間に発表することが公明正大の精神に合致する」と述べ、全従業員に自覚を促した。このとき社主は「基本内規」を制定した。これは、本社および分社が事業経営を進める上での基本原則を明確にしたものである。とくに、この基本内規の第15条に明示された「松下電器ガ将来如何ニ大ヲナストモ、常ニ一商人ナリトノ観念ヲ忘レズ、……」は、全従業員の心の戒めとして継承されてきた。
1939年(昭和14年) テレビの公開実験に成功
技術開発へ先行投資
1925年にイギリスのベアードが初めて有線によるテレビジョンの伝送に成功してから、欧米でテレビの研究が活発化した。日本でも1935年に浜松高等工業学校の高柳教授らによるアイコノスコ−プの試作成功で、実用化に大きく進展した。社主の先端技術への関心は強く、高柳教授の指導を得て、同年末からテレビの研究を開始、1938年には松下無線・東京研究所で12インチブラウン管使用の試作品を完成した。1939年5月には日本放送協会の技術研究所と東京放送会館との間の無線伝送試験に成功。同年7月には特許局陳列館で開催された電気発明展覧会に受像機を出展、初めて一般に公開した。当時の社内新聞はこの展覧会を「日本で初めてのテレビジョン共演の豪華版」とし、「当社出品のテレビジョン受像機は、放送協会高柳式による実験放送の波を完全にキャッチして大成功を収めた」と報じている。日本のテレビ開発は、1940年に開催予定の東京オリンピックに向け業界あげて取り組まれたが、1938年に戦争のために東京オリンピックが中止となり、テレビ放送も実現せず、テレビが一般家庭に入るまでには戦後なお数年の経過を必要とした。

 

1941年(昭和16年) 戦時中も優良品生産に努力
資材不足の中で
1937年の蘆構橋事件を端緒とする日中戦争を契機に、日本は急速に戦時色を濃くしていった。翌年には国家総動員法が公布され、諸資材の配給統制と使用制限が始まった。こうしたなかで、社主は本来の民需生産に努力すると同時に、戦時下の企業の生きる道として軍需生産にも分に応じて協力する方針を固め、初めて兵器の部品を受注した。しかしこの大きな変動期に当たり、事業本来のあり方を見失うことを恐れ、1939年に「経営といい商売といい、これ皆公事にして私事にあらず」に始まる「経営の心得、経済の心得、社員指導および各自の心得」を通達した。さらに翌年1月には、初めての「経営方針発表会」を開催し、「国策遂行も急務であるが、わが社伝統の平和産業も重大である」と訴えた。8月には「優良品製作総動員運動」を実施した。1941年12月8日、太平洋戦争が勃発した。戦争の激化につれ、資材不足による製品の劣悪化が憂慮された。翌年、社主は「時局下の統制強化により、代用品の使用、仕様の変更等があっても、そのために製品自体を劣化させるようなことがあってはいけない」と「品質劣化に関する注意」を通達した。すべての産業が軍需生産に動員されるなかで、木製の船と木製の飛行機の製造という分野外の事業に携わることになった。そのために1943年4月に「松下造船」、続いて同年10月には「松下飛行機」を設立した。いずれも独自の「流れ作業方式」を導入し、終戦までに船は56隻、飛行機は4機を完成させた。国の要請とはいえ、分野外の事業に進出したことが、戦後、わが社が苦難の道を歩む原因となった。

 

1945年(昭和20年) 民需生産の再開を決意
終戦の翌日に緊急経営方針発表
1945年8月15日、太平洋戦争は日本の無条件降伏で幕を閉じた。この戦争で日本は300 万の人命と、国土の半分、国家資産の4分の1を失った。空襲で都市は形を失うまでに破壊され、産業は壊滅的な打撃を受けた。わが社も、大阪、東京地区を中心に、32ヵ所の工場、出張所などが被災した。また終戦とともに海外の工場や営業拠点はいずれも相手国に接収された。しかし、幸い本社と主力の工場は残った。終戦の翌日、社主は幹部社員を本社講堂に集め、直ちに民需産業に復帰するとの方針を明示した。続いて8月20日には「全従業員に告ぐ」との通達を出し、「生産こそ復興の基盤である。わが社の伝統精神を振起し、国家再建と文化宣揚に尽くそう」と訴えた。虚脱感の中で茫然自失の観があった従業員は社主のこの気迫に不安、動揺を静められ、生産準備に取りかかった。徴用工や挺身隊、学徒などは戦後、動員を解除されて会社を去り、この転換期に退職する社員も出て、戦時中の最高時には26,000人にも達した社員が、年末には15,000人までに減っていた。持株会社の指定を受けて、分離独立を余儀なくされた子会社が32社あった。それらの子会社はそれまでに制限会社の指定で資産を凍結され、軍需補償の打ち切りで多額の代金を棚上げされ、また数社は賠償工場の指定を受けたうえで分離され、苦難の中で独立の道を歩まなければならなかった。松下造船では木材加工の経験を生かして、大八車や簡易住宅の生産を始めたが、未経験な仕事で成果は上がらなかった。
1946年(昭和21年) 戦後の苦難期を迎える
会社解体の危機に直面
戦後直ちに民需生産の再開に取りかかったが、1946年にはGHQ(連合国軍総指令部)の方針が厳しくなり、3月に制限会社の指定を受けてすべての会社資産が凍結されたのを始め、財閥家族の指定、賠償工場の指定、軍需補償の打ち切りなど、7つの制限を受け、会社解体の危機に直面した。これらの制限の多くは、GHQの「財閥は解体する」との基本方針に基づいて指定された。それだけに、一代で築きあげた社主には納得できるものではなかった。4年間、50数回にわたって財閥でないとの抗議をくり返した。その結果、社主の生い立ちと当社のありのままの姿が理解され、同時に占領政策が徐々に緩和されてきたこともあって、ほとんどの制限が解除されるが、それは1950年の後半になってのことである。この間、旧軍需会社の役員として受けた公職追放については、社主は抗弁の余地がないと一時は退任を覚悟した。しかしこのニュースは、1946年に結成された松下産業労働組合の組合員や代理店その他の関係先に大きなショックを与えた。「この時期に会社再建の支柱である社主を失うことは会社の崩壊を意味する。社主の追放解除をGHQに嘆願しよう」との声が期せずして起こった。当時は経営者の戦争責任を追及して追放運動を起こす労働組合が多かっただけに、この運動は当局に強い感銘を与えた。そして翌年、異例の処置として追放指定は解除された。また1948年後半から、インフレを抑制するために取られた金融引締め政策によって、深刻な資金難が発生した。当社も多額の借入金、支払手形を抱えて、給与の分割払いをするに至った。1949年にはドッジ・ライン(超均衡緊縮予算)が勧告され、デフレ恐慌へ突入、中小企業の倒産が相次いだ。組織の統合、販売部門の強化、人員整理などを行い、経営の立て直しを図ったが、7月には工場の半日操業に追い込まれ、年末には物品税の滞納王として社長の名が報道される事態となった。そして1950年には当時の従業員4,438人のなかから567人の待命休職者を出すまでになった。この時期の日本は、悪性インフレの急進に加え、凶作による食糧不足に見舞われ、道徳の乱れ、人心の荒廃は目に余るものがあった。1946年11月、社主は「これが人間本来の姿なのか」と強い疑問を抱き「この世に物心一如の繁栄をもたらすことによって、真の平和と幸福を実現する道を探求しよう」とPHPの研究を始めた。

 

1951年(昭和26年) 社長、初のアメリカ視察に出発
世界的な観点からの経営をめざす
1950年6月に起こった朝鮮戦争による特需景気と、世界的な景気回復の流れの中で、深刻な不況下にあった日本の産業界は急速に活況を取り戻す。そのなかで社長は、同年7月、臨時経営方針発表会を開催し、わが社の「再建」を宣言した。翌年1月の経営方針発表会では、今後の事業展開のために、専門細分化を積極的に進めることを強調した。同時に「これまで狭い視野のもとに働いていたわれわれは、いまや世界の経済人として、日本民族のよさを生かしつつ、世界的な観点から経営活動をしなければならない。『わが社は今日から再び開業する』という心構えで経営に当たりたい」と述べ、自ら海外事情を見聞し、視野を広げるために、3ヵ月間のアメリカ旅行に旅立った。日米の格差はあまりに大きかった。とくにエレクトロニクス技術については海外に学ぶべき点が多いことを痛感した。そこでこの年10月、再び渡米し、ヨーロッパを回って12月に帰国した。これは具体的な技術提携先を求めての旅であった。
1952年(昭和27年) フィリップス社と技術提携
「経営指導料」を主張
技術力を強化するための提携先としてはいくつかの候補があったが、最終的には戦前から取引があり、戦後も先方から取引再開を申し込まれていたオランダのフィリップス社と交渉を進めることになった。これはフィリップス社がすぐれた技術を持ち、経営内容が良いこととともに、日本より国土が狭く資源が乏しい中で、電球の製造からスタートして、世界有数の電子機器メーカーに成長した60年の歴史に学ぶべき点が多いと思われたからであった。しかし交渉は難航した。先方は技術援助の条件として共同出資の子会社を設立することを提案してきたが、当時の資本金5億円に対し、その子会社の資本金は6億6000万円。フィリップス社は30%を出資するものの、それは同社が受け取る予定の技術指導料で充当する、というものであった。加えて、技術指導料として売上の7%を要求してきた。アメリカのメーカーなら3%ですむ。ところが先方は「高くてもそれだけの価値はある。責任をもって技術指導する」と譲らない。そこで社長は「技術に価値があるなら、わが社の経営にも価値がある」と経営指導料を要求した。そうした交渉の末、両社の「結婚」によって、1952年12月、松下電子工業が誕生した。
1951-54年(昭和26-29年) 販売会社、月販会社を設立
販売体制の再構築に着手
1950年の再建声明以前から、将来の積極的な事業展開を目指して販売力、技術力、製造力の強化に着手していた。販売については、1950年に販売会社制度を一部の地区で発足させる一方、翌年には本社の営業スタッフ部門の整備と営業出先機関の増設を進めた。販売会社の設立は1959年ごろまで、全国各地で積極的に推進された。これと並行して、1951年から月販会社の設立も開始された。この月販会社は当初はラジオだけを対象として発足したが、その後ラジオ以外の大型商品も取り扱うようになる。また販売店組織の復興も始まった。1949年には連盟店制度が復活、一部地区では有力連盟店による親睦組織「ナショナル会」が結成され始め、のちの「ナショナル店会」へ発展していく。1951年9月、サンフランシスコで講和条約が調印され、日本の国際社会への復帰と日本経済の自立が指向された。その9月にラジオの民間放送が開始され、翌年8月にはラジオの受信契約が1000万を突破している。また1953年2月にはNHK東京が、8月には民間テレビ局が、テレビの本放送を開始している。そのなかにあって、1952年10月、東京上野の松坂屋百貨店で、12月に発売するテレビの発表と実演に合わせて「家庭電気器具展」を開催。また翌年1月からは、家庭電化の啓蒙活動として、特製のテレビジョンカーを先頭に、全国移動展示会を開催して大変な人気を博した。1950年後半から持続していた好況も1953年末から後退、翌年は深刻な不況で需要が停滞。加えて重電メーカーの家電市場参入もあって、販売競争は激化した。
1953年(昭和28年) 中央研究所を建設
技術革新に本格的に取り組む
技術部門の本格的な充実強化と生産設備の新鋭化にも積極的に取り組んだ。テレビの研究は1950年から再開。また乾電池については、アメリカの有力な乾電池メーカーと技術提携を行うことも検討したが、独自技術で開発することを決意して、1954年4月に高性能のハイパー乾電池の開発に成功した。1953年には新しく中央研究所を建設した。この研究所は基礎研究と各事業部の製品開発を指導援助するだけでなく、オートメーション時代に対応して、新しい機械設備、治工具の研究開発、また製品デザインの研究指導も包含した総合的な研究施設として、その後の家庭電化時代の推進力となった。それまで、デフレ下の苦しい経営状況の中で生産設備の更新、自動化を実施してきたが、1953年の経営方針発表会で社長は「優良品を生産するために資金の許す限り生産設備を新鋭化する」との方針を発表し、本格的な生産体制の整備を始めた。翌年には戦後の混乱で中断していた「総合技術委員会」と「製品審査制度」を復活させた。

 

1956年(昭和31年) 「5ヵ年計画」を発表
「大衆との見えざる契約」を訴える
1954年の不況をその後の世界的好況と輸出の急増などによって克服した日本経済は、1955年に入って急速に回復していく。生活が向上するにつれて、豊かな文化生活を楽しみたいという人々の欲求は強まり、家庭電化製品に対する需要が増加してきた。社長は日本経済が復興期から活動期に入ったことを察知し、1956年の経営方針発表会で「5ヵ年計画」を発表した。その内容は1955年の年商220億円を1960年には800億円に、従業員を11,000人から18,000人に、資本金を30億円から100億円にするというものだった。出席者は全員その計画の壮大さに驚いた。また、当時の民間企業でこうした長期計画を発表する会社はなく、社外でも大きな反響を呼んだ。しかし社長は「この計画は多少の波乱、多少の不景気があっても必ず実現できる。なぜなら、これは単にわれわれの名誉や利欲のために行うのではない。われわれは大衆と見えざる契約を結んでいるのであり、これは大衆の要望を数字に表したものである。だからわれわれの働きに怠りがなければ、必ず実現できると思う」と全員に奮起を促した。この計画は4年目でほぼ達成する。1954年末から日本経済は神武景気といわれる好況期を迎えた。ちなみに1956年版の「経済白書」は「もはや戦後でない」と宣言している。
家庭電化時代が開幕
時代のニーズを先取りした商品づくり
神武景気の好況を一つの契機に、爆発的な家庭電化ブームが起こり、新しい電化製品が次々と登場してきた。1956年ごろには白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫は、「三種の神器」と呼ばれて人々のあこがれの的であった。家庭電化時代の到来をいち早く予測したパナソニックは、ラジオ、蛍光灯に続く本格的な電化製品として、1951年、洗濯機の生産販売を開始。発売当初は価格も高く、台数も出なかったが、量産によって価格を下げ、1955年には月産5000台を越えた。洗濯機の登場は、女性の家事労働からの解放、地位の向上を象徴するものとして、世の中に明るい話題を提供した。テレビは、1953年のテレビ本放送開始に先立ち、前年に発売した。その強力な情報伝達力によって、テレビは国民の生活と文化に大きな影響を与えることになった。とくに1959年の皇太子殿下と美智子さまのご成婚はテレビブームに拍車をかけた。1953年には冷蔵庫を発売した。これは前年に資本提携した中川電機(旧 松下冷機)が生産を担当した。当初は相当高価で、まだ一般家庭の需要に応じられるものでなかった。しかしその後、新工場の建設や市場の成熟があって、1960年には年産23万台を達成した。一方、営業体制については、1957年から販売会社制度を全国的に展開するのと相前後して、各地で「ナショナル店会」の結成を開始した。また「ナショナル・ショップ制度」も発足させた。需要家向け季刊誌「くらしの泉」の創刊、盲点地区対策、農村開発と団地対策、ショウルームの設置などを始めたのもこの時期である。
新鋭工場を次々と建設
限りなく優良品を世の中に
1956年に事業分野の拡大に伴い、11事業部を15事業部に細分化。新鋭工場を次々と建設、本格的な量産を始めた。なかでも松下電子工業の高槻工場は、エレクトロニクス時代の象徴として各方面の注目を集め、1956年に天皇、皇后両陛下をお迎えする光栄に浴し、1958年には品質管理の最高の栄誉といわれる「デミング賞」を受賞した。テレビは当初、門真工場で量産を始めたが、1958年7月に茨木市に新工場が完成。おりからのテレビブームの波に乗り、前年の月産1万台から急増して、その年の年末には早くも月産3万台を突破した。トランジスタラジオを中心に拡大を続けてきたラジオ事業部から、1959年5月、部品事業部が独立してその後の業容拡大に備えた。社長は1959年1月、「どの工場も世界的水準の工場にする」と発表。新鋭工場の建設を積極的に推進した。ラジオ、部品、乾電池、蓄電池、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、電機、配電器、松下通信工業などの工場が次々と新設された。ただ「工場の建設や設備の拡張は必ずしも製品コストの切り下げにつながらない」との考えから、新工場を事業部の独立採算制のもとにおいた。これにより、過度の膨脹を規制しながら、一方で一つの製品分野に限られた人間の創意と能力を集中することができた。そして新しい設備をフルに生かし、事業を飛躍的に伸ばしていった。
1959年(昭和34年) アメリカ松下電器を設立
世界を視野に仕事を進める
戦後の再建と発展の中で、多くの新製品を開発し、人々の豊かな家庭電化生活に貢献してきたパナソニックの次の目標は、世界的な企業に成長し、海外の人々の生活向上に貢献することであった。輸出は、1954年の5億円が1958年には32億円にまで伸びていた。しかし社長はこの程度では不十分だとして、1959年に、「松下電器貿易の人たちはわが社にどんどん提案して、海外にふさわしい商品を作らす、松下電器貿易の熱心さには困る、という状態までにわが社の幹部を追い詰めてもらいたい」と奮起を促した。そして独自の販売網として、1959年9月、従来のニューヨーク出張所を強化し、現地法人の販売会社「アメリカ松下電器」を設立。11月には製品だけでなく、技術、資本の輸出を含む海外活動を本格化するため、統括部門として国際本部を設置した。こうした輸出体制の強化と松下電器貿易の努力に加えて、トランジスタラジオを筆頭に製品の優秀性が認められ、輸出は急速に伸び、1961年には130億円を突破した。輸出についても国内販売と同じように適正利潤を確保して行うことが基本方針であり、出血輸出であってはならないと強く戒められていた。1964年にはこうした活動が認められて、輸出貢献企業として政府の認定を受け、1966年には輸出振興の功績で総理大臣表彰を受けた。

 

1961年(昭和36年) 海外生産を積極的に推進
その国の人々に歓迎される工場を
「世界的な視野に立って考え、全世界を対象に仕事を進める」方針により、輸出活動とともに、1961年から海外諸国への技術援助、海外工場の建設を積極的に始めた。この年、パキスタン、南ベトナム(当時)、ウルグァイの現地企業にラジオ組み立ての技術援助を行った。また戦後初の海外生産会社として、タイに「ナショナル・タイ」を設立、技術援助を行って、乾電池の現地生産を開始した。翌年には台湾でラジオその他の電化製品の現地生産を行うため、「台湾松下電器」を設立。その後、1967年までにメキシコ、プエルトリコ、コスタリカ、ペルー、タンザニア、マラヤ連邦(当時)、フィリピン、オーストラリアなどにも現地会社を設立し、乾電池その他の電化製品の生産を開始した。これらの会社はすべてパナソニックの経営理念に基づき、その国の繁栄に貢献することを基本方針に運営され、注目を集めた。
松下幸之助会長、松下正治社長体制
新しい飛躍の時代へ
1961年1月、恒例の経営方針を発表したのち、松下幸之助社長は「昨年は皆さんのご協力をえて、5ヵ年計画も無事達成することができました。また私も満65歳になりました。いろいろ考えましたが、この際、社長を退き、会長として後方から経営を見守っていきたいと思います。これを機に皆さんは新たな構想のもとに活動していってください」と述べた。あまりにも突然の発表だったので、出席者は大きな驚きと深い感銘を受けた。そしてこれを一つの転機として、わが社は松下正治社長のもと、全員が心を新たにして使命達成を誓い、次の飛躍の時代に入っていくのである。高度成長をとげた日本への関心が高まるなかで、1958年ごろから、タイム、ライフ、ニューヨークタイムズなど、世界的な新聞・雑誌に紹介される機会が多くなった。1962年にはタイム誌で、表紙と5ページにわたって松下会長の経歴、思想および松下電器の飛躍的な発展の姿とその経営理念が詳しく紹介された。
1960-65年(昭和35-40年) 特機営業、機器営業を強化
新分野へ業容が拡大
日本経済の高度成長が続くなかで、産業界の設備投資が活発化し、企業や官公庁への産業用機器や業務用機器の納入が目立ち始めた。こうした新しい情勢に対応して、1960年8月に営業本部から特販部門を分離し、特機営業本部を設置。同時に、東京・大阪・名古屋・九州に特機営業所を設置し、特機部門の全国的な組織整備に着手した。これにより会社・官公庁への設備納入やセットメ−カ−への材料・部品の納入など、特機営業は大きな伸びを示した。住宅設備機器営業にも積極的な取り組みがなされた。1950年代の後半からガスコンロ、石油スト−ブ、ル−ムク−ラ−、ウォ−タ−ク−ラ−、パッケ−ジエアコン、流し台・調理台などを次々と発売した。これらの製品には、専門知識や工事能力を持った専門業者への働きかけが必要であった。そのため1962年4月に営業本部に開発部を設置。1964年10月に機器営業本部として独立させた。その翌年に各営業所の開発営業部門を分離し、機器営業所を設置した。なお1968年に機器営業は住宅設備機器営業と改称された。創業50周年を迎えた1968年度の特機、機器の全社売上に占める比率は、それぞれ17%、12%になっている。これらにより営業分野は従来の家電分野に、新しく特機・住宅設備機器の分野が加わり、事業領域が拡大していく。
1963年(昭和38年) サービス本部を設置
品質管理体制も充実強化
1960年代に入って、テレビ、洗濯機、冷蔵庫などが一般家庭の必需品になるに従い、製品のサ−ビス体制・品質管理体制の強化が重要な課題になってきた。こうした時代の大勢に即して、サービスについては、1962年に営業本部にサ−ビス部を設置、全社的なサービス体制の整備に着手した。まず「東京ナショナルサービス」をはじめとして、全国各地にサービス会社を設立し、修理部品の円滑な供給体制を確立した。翌年には、ナショナル店会店を対象に「総合技術講習会」を開催するとともに、自店サービスを積極的に推進していただくための「指定サービス店制度」を発足させた。また、1961年に「販売研修所」を、翌年には「ナショナル学園」を設立、販売会社、販売店の従業員、経営者に訓練と研修の場を提供し、「お客様第一」の販売・サ−ビス網づくりを積極的に推進した。品質については、1960年に「品質連絡員制度」をつくった。これは製品発売後の問題点や故障を早期に発見し、関係事業部門に連絡する制度で、新製品の発売前に試験審査する従来からの「製品審査制度」と連動し、製品の改良と品質向上に大きな役割を果たした。1963年には、製品の設計段階から需要家に渡った後までの品質・サ−ビスの総合的な施策を展開するため、サ−ビス部と製品検査所・包装検査所を統合し、サ−ビス本部を設置した。 
1964年(昭和39年) 熱海会談を開催
景気後退の中で市場競争が激化
高度成長を続けてきた日本経済は、1964年の東京オリンピックブームのなかで深刻な反省期を迎える。高度成長の行き過ぎで金融が引き締められ、景気は急速に後退した。年率30%もの成長を続けてきた電機業界も、主要商品の普及一巡で伸び率が鈍化したところへ、金融の引締めが重なり、需要が停滞し、設備過剰が表面化して深刻な影響を受ける。そのなかでわが社は、総力を結集して経営体質の改善に取り組んだが、市況は一層悪化し、1964年11月期の半期売上は1950年以来、初めて減収減益となった。販売不振により市場競争は激化し、販売会社、代理店も赤字経営に陥るところが激増した。この深刻な事態を打開するため、1964年7月、全国の販売会社、代理店の社長との懇談会を熱海で開催した。世にいう熱海会談である。会議は白熱した。販売会社、代理店からは苦しい経営実態の訴えとともに、製品や販売施策に関して多くの苦情、要望が出された。わが社側も販売会社に自主的な経営努力を求め、その責任を問うた。会議は3日目に入った。議論は続いていたが、松下幸之助会長が立って「このような事態を招いた原因の半分は、日本経済と業界の混乱にあるが、われわれが好況に慣れて安易感をもったことにも原因がある。販売会社の依存を責める前に、まずわが社自身が改めるべき点は改め、その上で販売会社にも求める点があれば率直に改善を求めて、危機を打開していくしか方法はない。売上の減少などはこの際、問題でない」と反省の念を表明した。松下会長の目に涙が光っていた。会場はそれまでのとげとげしい雰囲気から一転して粛然となり、お互いの努力と協力を誓い合って、会談は幕を閉じた。

 

1965年(昭和40年) 新販売制度を実施
社運を賭けた大改革
熱海会談のあと、松下幸之助会長は病気療養中であった営業本部長の職務を代行し、問題の解決にあたった。その核となったのが「新販売制度」であった。新販売制度は「これまで、事業部も営業所も販売会社も好況に慣れ、お互いに相手に依存する傾向になり、自主的な努力、意欲が失われてきていた」との反省の上に立って検討され、1965年2月から地域ごとに実施された。
新販売制度の骨子は――
(1)全国的な販売会社網の整備と充実
(2)営業所を経由しない「事業部直販制」
(3)新月販制度
――であった。
一方、わが社としても、事業部の自主責任経営を徹底し、販売に直結した製品開発体制を強化するとともに、全面的に営業体制を革新し、販売会社、販売店を支援する体制を整えた。「この制度を軌道に乗せるためには、3年間はわが社の利益を犠牲にしてもよい」との決意で臨んだ、それはまさに社運を賭けた一大改革だった。最初はこの新販売制度に反対の販売会社や販売店が多かった。そのため松下幸之助会長、松下正治社長をはじめ、会社幹部が手分けして説得に当たらなければならなかった。しかし新制度の真意が理解されるにつれ、販売店の間からこれの実践を通じて経営の改善に努め、ともに業界の健全な発展をめざそう、との気運がみなぎってきた。そして各地でナショナル店会の決起大会や記念キャンペーンが展開されるまでに盛り上がった。
週5日制を実施
高賃金、高能率の経営をめざす
1965年4月、他社に先駆けて完全週5日制を実施した。これは5年前に、当時の松下幸之助社長が「今後、世界のメ−カ−と互角に競争していくには、能率を飛躍的に向上させなければならない。それには休日を週2日にし、十分な休養をとる一方で、文化生活を楽しむことが必要になる」と発表し、世間の注目を集めていた計画であった。ところが、この年は前年来の深刻な不況下で、わが社は新販売制度の推進に懸命の努力を続けていた時期であった。週5日制の実施に際し、松下幸之助会長は「経済国難に直面しているときに、週5日制を実施することは容易ならないことである。このことをよくわきまえ、先進国アメリカ以上に高能率を生み出す決意で臨んでほしい。日本を一挙にアメリカに近づける、その先達を担うという意気込みでやってほしい」と訴えた。週5日制は、その後「一日教養、一日休養」のスロ−ガンのもと、順調に軌道に乗り、従業員の勤労意欲と能率の向上に大きな役割を果たした。1960年代は従業員の福利厚生の充実に積極的に取り組んだ。1960年に保養・スポ−ツ・娯楽施設、結婚式場、宿泊施設などを完備した「千里丘保健センタ−」を開設。保養所も北海道、神奈川県などに新たに4ヵ所を増設した。また従業員の研修、スポ−ツ施設の充実を図り、1964年に「社員研修所」を、翌年には「松下電器体育館」を開設した。1959年、松下健康保険組合に健康管理部を設置、1963年には、それをさらに発展させた「健康管理センタ−」を開設し、家族を含めた健康管理体制を充実させた。1967年には松下幸之助会長が「5年後に欧州を抜いてアメリカに近づく賃金にしたい」と表明。1972年には賞与を含めた年収比較で西ドイツ(当時)を抜き、アメリカに近づいた。戦後すぐに掲げた欧米並みの「高賃金・高能率」の理想は、こうして大きな前進を見た。なお、1966年に「仕事別賃金制度」を実施した。これは、旧来の年功序列型から脱却して、従業員の能力を伸ばしながら、その人の能力に応じた仕事に就け、仕事に応じた賃金を支給する賃金体系であった。
1966年(昭和41年) 高度成長期を迎える
ヒット商品を相次いで発表
新販売制度の実施に際し、松下幸之助会長は、販売会社、代理店に「もっといろいろ要求してください。よりよい製品をメーカーに作らせ、需要家に満足を与えるのは、みなさんの使命です」と訴える一方、社内にヒット商品の開発を強く要望した。これに呼応して、1965年後半から、家具調ステレオ「飛鳥」「宴」、スピーカ「テクニクス1」、完全自動洗濯機「フルオート」、家具調テレビ「嵯峨」など多くの魅力商品が集中的に発売され始めた。1965年は減収減益で終わったが、新販売制度の成果が次第に市場に定着しつつあり、次の発展への強固な基盤を築くことができた。1966年から、日本経済は実質成長率10%強の高度成長期に入り、国民の生活と意識は大きく変わっていった。「いざなぎ景気」の始まりである。この年には「3C」(カー、カラーテレビ、クーラー)が流行語となり、人々は生活水準の向上を強く望んでいた。わが社ではこの時期、技術革新を重ね、カラーテレビやクーラーはもちろん、家庭用電子レンジやカセット式テープレコーダ、家庭用VTRなどの新規商品を次々と発売した。一方、ファンの組織「くらしの泉会」制度の本格的展開、ショウルームの全国的展開など、需要家のニーズを汲み取り満たしながら、年々、前年比30%前後の飛躍的な販売増を達成していく。1968年には日本のGNPが自由主義世界の第2位になり、経済大国への道を歩み始める。
1968年(昭和43年) 創業50周年を祝う
生産性倍増を達成して各種謝恩行事
1967年の経営方針発表会で、松下正治社長は初めて下記の経営スローガンを掲げた。
創業50周年を目指して
「全員経営で世界の優良会社に!」
「創意工夫で生産性の倍増を!」
「技術力で独創的新製品の開発を!」
これらの方針のもと、各部門で意欲的な取り組みがなされた。1966年上期の1人当たり販売高を1968年下期までに倍にしようという「生産性倍増」のために、各事業場で抜本的な経営の見直しや業務改善がなされた。また「独創的新製品の開発」も活発に進められた。明けて1968年、創業50周年を迎え、各種の記念行事を盛大に開催した。5月5日の創業記念中央式典をはじめとして、販売店、販売会社・代理店、共栄会社、一般恩顧者への謝恩会などを相次いで開催した。なかでも「店会謝恩会」は全国14会場で11月まで繰り広げられた。また社会のご恩顧に感謝するため「児童の交通等災害防止対策資金」として総額50億円を寄贈すると発表した。さらに都会への人口流出に悩む過疎地へ工場を展開すると発表したのもこの年である。「いざなぎ景気」という好環境にも恵まれたが、全従業員の熱心な努力により、数々の「創業50周年記念号」を生み出し、また「生産性倍増」をも達成して、販売高が前年比34.5%増を記録。1968年は創業50周年を祝うにふさわしい年となった。
1969年(昭和44年) 「松下電器技術展」を開催
率直な評価や要望を求めて技術を公開
1960年代後半から、日本経済は新たな発展期に入った。パナソニックも経営各面にわたり、大きな飛躍を見たが、とくに技術開発面での伸展は著しく、創業50周年を契機に新技術、新製品の開発を意欲的に進め、次つぎと世界的な成果を生み出していた。これらをさらに応用化、システム化して、現実の家庭生活、社会生活に役立てるために、パナソニックの技術を広く一般に公開し、率直な評価や要望を求めることになった。そこで1969年4月に「松下電器技術館」を中央研究所西館に開設したのに続き、9月に「第1回松下電器技術展」を東京で5日間開催した。「技術展」には、エレクトロニクスを中心に、部品・材料から機器・システムにいたる世界的な開発成果を56ブースで展示・実演し、学界、官公庁、企業の研究機関、報道関係者、文化人など各界の権威者に披露した。入場者は15,000人を超えた。人気を集めたのは、ホーム・ファクシミリ、未来のテレビといわれた壁掛けテレビEL映像表示装置、PCM圧電素子、MPSダイオードなどであった。その後「技術展」は数回に渡って開催され、「技術のパナソニック」の声価を高めた。また1981年にシカゴで開催した「米国・松下電器展」はエレクトロニクスによる日米友好のきずなをさらに強める催しとして好評を博した。

 

1970年(昭和45年) 万博に松下館を出展
5000年後の人々にメッセージ
日本万国博覧会が「人類の進歩と調和」の統一テーマのもとに、1970年3月から半年間、大阪の千里丘陵で開催された。「伝統と開発・5000年後の人びとに」をテーマに「松下館」を出展した。天平時代の建築様式をとりいれた建物の前棟にタイム・カプセルEXPO’70を展示し、後棟にはお茶室を設けて、訪れる人びとに日本の伝統のよさを味わってもらった。会期中、松下館の来館者は760万人にも及んだ。タイム・カプセルは、1970年時点の文化を、2,098点に厳選した物品や記録で5000年後の人類に残そうというもの。毎日新聞社との共同事業で、技術委員会、選定委員会が組織され、各分野の最高の知恵が結集された。これらは、最先端の保存技術によってカプセルに収納され、大阪城公園に埋設された。「昭和元禄」と呼ばれた、浮かれた風潮も憂慮される中で57ヵ月続いた「いざなぎ景気」がこの年7月で終わり、後半から景気は後退する。
消費者問題に直面
「お客様第一」の心に徹して対応
1960年代後半から、日本経済は高度成長期に入ったが、一方では、消費者運動や公害問題などが表面化してきた。同時に、国際的には貿易摩擦や通貨変動などが発生して、厳しい対応が迫られるようになった。1967年7月、公正取引委員会が再販問題で当社に勧告を行ったが、これを拒否。9月から審判が開始された。1968年ごろから、日米経済関係の緊張とともに、カラーテレビの対米輸出価格が問題となっていたが、1970年、国内では消費者団体が、家電製品についてメーカーの表示価格と市場の実売価格との差が著しいとして、問題を投げかけた。二重価格問題の発生である。これが、現行商品の値下げ要求、カラーテレビ買い控え運動、さらにトップメーカーに対する牽制としての、当社全製品のボイコット運動へと展開していった。これに対し、誠心誠意、意のあるところを説明し、消費者の理解を得ようと努めた。そして1970年末に「現金正価」の表示を「¥」表示(のちに「標準価格」)に改めるとともに、翌年の年初にカラーテレビ、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫の各新製品の価格を大幅に引き下げる「新流通体制」を断行した。これにより表示価格と実売価格との差は一挙に圧縮され、消費者の価格に対する不信感はぬぐい去られた。その後、4製品以外についても、全面的に新流通体制に移行し、買い控え運動はようやく終息した。1971年3月、かねて公取委で取り上げられていた審判も同意審決により解決をみた。わが社はこれら一連の出来事の反省を踏まえて、消費者からの製品に関する相談や、電気器具の安全知識、正しい使用法の普及、苦情対応など、さまざまな要望に対処するため、1971年、サービス本部に「消費者相談室」を設置した。また全国のショウルームに「消費者ご相談センター」を設置、全国の営業所に「走る消費者相談室・いずみ号」を配車するなど、消費者へのサービスや情報提供をおこなった。あわせて消費者の意識、意向、要求など市場の情報収集にも努めた。翌年には受付後24時間以内の修理完了をめざす意欲的なサービス向上運動を展開した。消費者の立場に立って各種の厳しいテストをより多角的に実施するため、製品検査本部は、1976年、従来の2倍の広さを持つ新社屋に移転し、業務を開始した。その一つとして、家庭の主婦(パナモニター)によって常時、家電製品の性能や使い勝手など、厳重なテストと評価を行うことも始めた。
1971年(昭和46年) NY証券取引所に株式を上場
名実ともに世界企業の仲間入り
1968年に創業50周年を迎えたパナソニックはこれをひとつの契機にして、「世界を視野にいれた」経営姿勢をより鮮明にさせた。その翌年、松下正治社長は「世界の繁栄に貢献」「世界的な研究開発」を強く要請した。松下幸之助会長は「世界に貢献できる絶好機」として、「今日までは日本国内を対象にものを考え、あわせて輸出を伸ばしていきたいと考えていたが、これからは世界を対象にものを考え、その中で日本を考えていく」と発想の転換を促した。また1970年の初頭には「70年代こそ、日本は世界のリーダーとしての一役を負わされていると思う。そのことを自覚し、それにふさわしい力を蓄えるべきだ」と訴えた。以降、海外事業の新展開、世界に通用する人材の育成など、国際企業としての経営体質づくりが進められた。その一環として、1971年、ニューヨーク証券取引所に当社の株式が上場された。パナソニックは名実ともに国際企業の仲間入りを果たしたのである。
1973年(昭和48年) 松下幸之助会長が相談役に
高橋会長、松下正治社長の新体制に
1973年7月、松下幸之助会長は、創業55周年を機に会長の職を退任、相談役に就任するとともに、高橋荒太郎会長、松下正治社長の新体制を明らかにした。そして、創業55周年と会長職引退を記念して、社会の人々のご支援に感謝するため、各都道府県に総額50億円の社会福祉対策資金を寄贈することを発表した。松下相談役は、会長職退任に際して「やるべきことはやり尽くした。われながら『よくやった』と頭をなでてやりたい気持ちである」と感慨を語った。高橋荒太郎会長が入社したのは、当社が株式会社組織に変わって間もない1936年であった。制度的な近代化が急務であった当時の経理責任者として、独特の創意工夫を加えた「経営経理制度」を確立。またフィリップス社との技術提携交渉、九州松下電器の経営基盤の確立、人事・総務の管理体制づくり、海外経営局の責任者として海外事業の推進などとともに、パナソニックの伝統精神の伝達者として、大きな功績があった。
石油ショックの中で
安定成長期の経営を模索
1971年8月、ニクソン米大統領によるドル防衛緊急対策が発表され、世界を揺るがさせた。世界各国が様々な対応を模索するなかで、日本は変動相場制に移行。同年12月、10ヵ国蔵相会議で合意が成立、1ドル=308円の固定相場制に復帰するが、その後も日本の貿易黒字は増え続け、1973年2月、再び変動相場制へ突入していく。そのなかでわが社は、生産の合理化や新製品開発など経営体質の強化に努力したが、急速な円高による影響はまぬがれず、1971年は微増収、減益に終わった。1973年10月の第4次中東戦争勃発を契機に、突如、世界を襲ったオイルショックは世界経済を再び激変させた。石油の不足と価格の高騰は先行き不安を強め、物価は暴騰し、その異常な混乱の中で各国は総需要の抑制にとりかかった。そして一挙に経済を減速させたため、世界的なトリレンマ(インフレ、不況、国際収支の悪化)が到来した。日本ではいわゆる石油パニックが発生、物価は狂乱し、日用品の買いだめ騒動が起きた。原材料コストの暴騰は、生産の合理化など経営努力でカバーし得るものではなく、多くの企業が製品値上げ実施のやむなきに至った。家電業界ではその後も需要が容易に回復せず、一時帰休や操業短縮がみられ、日本の貿易収支の赤字、戦後初のGNPマイナス成長と激変するなか、当社は1974年は増収減益、1975年は減収減益に終わった。長い間、高度成長のもとで繁栄をおう歌してきた日本経済はこれ以降、安定成長下での経営のあり方を模索していくことになる。

 

1977年(昭和52年) 松下正治会長、山下社長体制へ
「人材交流」で組織を活性化
世界的な経済情勢の一大転換期にあって、以後さらに激動が予想されるなか、全社あげて業容の伸展をめざしていた1977年の2月、経営首脳陣が新しくなった。高橋荒太郎の会長退任に伴い、新たに松下正治が会長に、山下俊彦が社長に就任した。これは低迷する産業界にあって異例の若返り人事として注目され、広く世間の話題となった。なおも激動を続ける情勢に対応するため、山下社長は就任後時をおかず、最重要課題として「収益力の回復」と「基準利益の確保」を指示した。事業部制の原点に立ち返り、事業部の利益確保をはかるという考え方である。また翌年の年頭には、「タテにもヨコにも、打てば響くような積極的な組織の体質づくり」が肝要であるとして、そのための「人材交流」の推進を強く要望した。
VHS方式のビデオを発売
経営の大きな柱に成長
1953年ごろからビデオの基礎研究を進めてきたが、1964年、工業用と家庭用を相次いで商品化。1976年にはホームビデオVX2000を発売した。一方、日本ビクターからの提案に基づいて共同開発してきた新しい録画方式・VHS方式は、国内の同業各社から高い技術的評価を受けた。そこでVHS方式を採用する各社とは、その後に本格化するビデオ需要にそなえて協力体制を固めていくことになった。1977年にVHS方式のホームビデオ「マックロード」を発売した。これは長時間録画と鮮明な画面という優れた特長を持っていた。これと並行して、海外に対してもVHS方式のビデオの供給について積極的な働きかけを行った。同年2月、松下正治社長(当時)はアメリカの有力電機メーカーを巡訪して、直接交渉に当たった。その結果、3月にはRCA社から申し入れがあり、同社に対し長期にわたりVHS方式のビデオを供給していくことが決定した。続いて、GE社など有力メーカーもVHSグループに参入することになった。その後、1983年に早くも生産累計1,000万台を達成したように、ビデオ事業は急速にわが社の大きな柱に育っていった。

 

1983年(昭和58年) 「ACTION-61」を推進
統合エレクトロニクスメーカーへ
山下社長が就任した翌1978年は、低成長期に入って円高、貿易摩擦も起こりつつあり、きわめて見通しのつきにくい不透明な時期だった。そこで短期的な見方をして目先の変化に振り回されることのないよう、従来の一年単位の事業計画に加えて、1978年後半から3ヵ年の中期計画を導入した。次いで1981年には長期ビジョンを策定した。10年先を目標にして、その時、わが社はいかなる企業になっていなければならないか、そのために今なすべきことは何かを明確にすることが狙いであった。長期ビジョンを描くことによって、二つの方向が明らかになってきた。一つはわが社が家電事業をベースにして、総合エレクトロニクスメーカーへの道を歩み始めていることであり、もう一つは将来性の高い部品、半導体、産業分野への展開を通じて、企業発展の道を見いだしうることであった。この路線に沿って技術開発の方向も明らかになり、技術開発プロジェクトをスタートさせた。総合エレクトロニクスメーカーへの道をより具体的に実現していくため、1983年からの3ヵ年計画「ACTION-61」がスタートした。このねらいは、事業構造の改革と経営体質の強化、そして海外事業の強化であった。海外事業の推進に際しては、(1)その国に歓迎される事業を行うこと。(2)その国の政府の方針にそって事業を推進していくこと。(3)品質、性能、コストにおいて、国際的な競争力のある製品を生産していくこと。(4)海外に対する技術移転を積極的に推進すること。(5)利益の上がる経営体質を確立し、事業拡大のための資金は自ら生み出していくこと。(6)現地従業員の育成に努力すること。以上の6項目が基本的な考え方とされた。

 

1986年(昭和61年) 谷井副社長が社長に就任
「ヒューマン・エレクトロニクス」を旗印に
1985年9月、先進5カ国(G5)が為替の協調介入で合意。円相場は急騰し、日本経済は円高による不況期に入る。そうした情勢下、1986年2月に山下俊彦が社長を退任して相談役に、谷井昭雄が社長に就任した。 「ACTION-61」を先頭に立って指揮してきた谷井社長は、就任後ただちに「事業構造の改革」への取り組みを強く要望した。そのため5月には、OA、ニューAV、FA、半導体を4重点事業に指定、推進担当の委嘱を行った。1987年には、「ヒューマン・エレクトロニクス」の観点から、その具現化を目指して人間性と先端技術を融合させ、新しい商品文化を創造する「強い商品づくり」を推進した。 また同年、グループの決算期を統一し、翌年には人事方針を改定するなどの改革に取り組んだ。 さらに激変する市場の変化に迅速に対応するため、1987年11月、営業体制を従来の商品別から顧客別・地域別に再編し、リビング、システム、インダストリーの3営業本部を設置した。
1987年(昭和62年) 北京・松下彩色顕象管有限公司(BMCC)を設立
1987年9月、わが社は中国に、初めての合弁会社としてカラーブラウン管の製造会社、北京・松下彩色顕象管有限公司(BMCC)を設立した。出資比率は、日本側と中国側が50%ずつで、海外生産事業場として最大級の投資を行って設立された。わが社における中国での事業展開は、1978年10月、トウ小平副首相(当時)(※)ご一行がテレビ事業部を訪問され、「技術・経営面での援助をお願いしたい」と要請、それに対して松下幸之助相談役が「できる限りのお手伝いをします」と快く承諾したことに始まる。翌1979年には、松下相談役が中国を訪問し、トウ副首相、谷牧副首相ら政府要人と懇談した折、中国の近代化を促進させるために、電子工業の分野で協力することを約束した。そして、1979年には、白黒テレビのブラウン管のプラント輸出を初めて行った。 それ以降、中国との相互協力は広い分野にわたり積極的に推進されている。 1990年代には、急成長する中国市場において、活発な事業展開が進み、2001年4月までに44社の現地会社が設立されている。中でもBMCCは、1995年には国家経済貿易委員会等が制定した製造業最優良企業に選ばれ、現地では「日中友好合作の模範企業」と呼ばれている。
1988年(昭和63年) 松下電器貿易と合併
真のグローバル企業の実現を願って
海外事業のウエイトが増大し、よりグローバルな視点からの事業推進が要請されるなか、名実ともに製・販一体のグローバル企業を目指して、1988年4月、松下電器貿易と対等合併することになった。これは前年に発表され、準備が進められていたもの。同年の経営方針発表会で、谷井社長は「海外事業基盤の確立」「内なる国際化の推進」「世界との調和と共存」に重点的に取り組み、「新しい国際化に向けてスタートしたい」とその決意を述べた。そして同年10月、海外事業の現地化をより徹底するため、米州、欧州アフリカ、アジア中近東の3地域本部を設置、国際商事本部とともに、社長直轄下におくことにした。輸入については、日本をめぐる経済摩擦が激しさを増していた1989年7月に「国際協調アクション計画」を発表。9月には「国際協調推進室」を設置して、「輸入の拡大」「海外生産の拡大」「内需の拡大」の三つを柱に、さらにバランスの取れた国際化を目指し、積極的な活動を展開していくことになった。
1989年(平成元年) 松下幸之助創業者が逝去
21世紀へ、個人の求めたるを求めて
1989年4 月27日、松下幸之助創業者が生涯の幕を閉じた。94歳であった。9歳で故郷・和歌山をあとにし、一代でパナソニックを世界有数の総合エレクトロニクスメーカーに育て上げたその業績に対し、人々から尊敬と親愛の念を込めて「経営の神様」と呼ばれることもあった。また独創的な経営思想とともに、世に問うたその人間観、教育観、社会観は世界各階層の人々に大きな影響を与え、世界的な経営者であり、思想家であるといわれた。その死去は直ちに国内外に報じられ、日本の総理大臣やアメリカの大統領をはじめ、世界各国の多くの方々から心のこもった弔意が寄せられた。全社にとってこの痛恨極まりない出来事に、谷井社長は、悲しみを超え「古人の後を求めず、古人の求めたるを求めよ」と、創業者の示した「事業を通じて世界の人々の生活文化の向上に貢献する」という不滅の理念を、さらに高いレベルで達成しようと訴えた。1993年9月5日、苦難の創業期から病弱であった夫を陰で支え、従業員にも細かい気配りで接し、母親のごとく慕われてきた松下むめの創業者夫人が逝去した。97歳であった。 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

社史を見て思い出しました
大昔 ものづくりに関わり 松下幸之助に興味を持ち
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