平成天皇

平成天皇

長い道のり ご苦労様でした
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天皇陛下の会見 2018/12/20
この1年を振り返るとき、例年にも増して多かった災害のことは忘れられません。集中豪雨、地震、そして台風などによって多くの人の命が落とされ、また、それまでの生活の基盤を失いました。新聞やテレビを通して災害の様子を知り、また、後日幾つかの被災地を訪れて災害の状況を実際に見ましたが、自然の力は想像を絶するものでした。命を失った人々に追悼の意を表するとともに、被害を受けた人々が一日も早く元の生活を取り戻せるよう願っています。
ちなみに私が初めて被災地を訪問したのは、昭和34年、昭和天皇の名代として、伊勢湾台風の被害を受けた地域を訪れた時のことでした。
今年も暮れようとしており、来年春の私の譲位の日も近づいてきています。
私は即位以来、日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたいと思います。
第2次世界大戦後の国際社会は、東西の冷戦構造の下にありましたが、平成元年の秋にベルリンの壁が崩れ、冷戦は終焉(しゅうえん)を迎え、これからの国際社会は平和な時を迎えるのではないかと希望を持ちました。
しかしその後の世界の動きは、必ずしも望んだ方向には進みませんでした。世界各地で民族紛争や宗教による対立が発生し、また、テロにより多くの犠牲者が生まれ、さらには、多数の難民が苦難の日々を送っていることに、心が痛みます。
以上のような世界情勢の中で日本は戦後の道のりを歩んできました。終戦を11歳で迎え、昭和27年、18歳の時に成年式、次いで立太子礼を挙げました。その年にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本は国際社会への復帰を遂げ、次々と我が国に着任する各国大公使を迎えたことを覚えています。そしてその翌年、英国のエリザベス二世女王陛下の戴冠(たいかん)式に参列し、その前後、半年余りにわたり諸外国を訪問しました。
それから65年の歳月が流れ、国民皆の努力によって、我が国は国際社会の中で一歩一歩と歩みを進め、平和と繁栄を築いてきました。昭和28年に奄美群島の復帰が、昭和43年に小笠原諸島の復帰が、そして昭和47年に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません。
そうした中で平成の時代に入り、戦後50年、60年、70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)しています。
そして、戦後60年にサイパン島を、戦後70年にパラオのペリリュー島を、更にその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません。皇后と私の訪問を温かく受け入れてくれた各国に感謝します。
次に心に残るのは災害のことです。平成3年の雲仙・普賢岳の噴火、平成5年の北海道南西沖地震と奥尻島の津波被害に始まり、平成7年の阪神・淡路大震災、平成23年の東日本大震災など数多くの災害が起こり、多くの人命が失われ、数知れぬ人々が被害を受けたことに言葉に尽くせぬ悲しみを覚えます。ただ、その中で、人々の間にボランティア活動を始め様々な助け合いの気持ちが育まれ、防災に対する意識と対応が高まってきたことには勇気付けられます。また、災害が発生した時に規律正しく対応する人々の姿には、いつも心を打たれています。
障害者を始め困難を抱えている人に心を寄せていくことも、私どもの大切な務めと思い、過ごしてきました。障害者のスポーツは、ヨーロッパでリハビリテーションのために始まったものでしたが、それを越えて、障害者自身がスポーツを楽しみ、さらに、それを見る人も楽しむスポーツとなることを私どもは願ってきました。パラリンピックを始め、国内で毎年行われる全国障害者スポーツ大会を、皆が楽しんでいることを感慨深く思います。
今年、我が国から海外への移住が始まって150年を迎えました。この間、多くの日本人は、赴いた地の人々の助けを受けながら努力を重ね、その社会の一員として活躍するようになりました。こうした日系の人たちの努力を思いながら、各国を訪れた際には、できる限り会う機会を持ってきました。
そして近年、多くの外国人が我が国で働くようになりました。私どもがフィリピンやベトナムを訪問した際も、将来日本で職業に就くことを目指してその準備に励んでいる人たちと会いました。日系の人たちが各国で助けを受けながら、それぞれの社会の一員として活躍していることに思いを致しつつ、各国から我が国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています。また、外国からの訪問者も年々増えています。この訪問者が我が国を自らの目で見て理解を深め、各国との親善友好関係が進むことを願っています。
明年4月に結婚60年を迎えます。結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました。また、昭和天皇を始め私とつながる人々を大切にし、愛情深く3人の子供を育てました。振り返れば、私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく、現在の皇后と出会い、深い信頼の下、同伴を求め、爾来(じらい)この伴侶と共に、これまでの旅を続けてきました。
天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労(ねぎら)いたく思います。
そして、来年春に私は譲位し、新しい時代が始まります。多くの関係者がこのための準備に当たってくれていることに感謝しています。新しい時代において、天皇となる皇太子とそれを支える秋篠宮は共に多くの経験を積み重ねてきており、皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います。
今年もあと僅(わず)かとなりました。国民の皆が良い年となるよう願っています。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天皇陛下、平成最後の誕生日 涙声で「国民に感謝する」 12/23
天皇陛下は23日、85歳の誕生日を迎えた。事前の記者会見では、来年4月末の退位を見据え「天皇としての旅を終えようとしている」「支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する」と涙声で語った。象徴としての歩みを振り返り、「譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたい」と述べた。
誕生日前の会見は即位翌年の1990年からほぼ毎年行われてきたが、今回が最後となった。在位中の会見としても最後となる見通しで、陛下は約16分間、何度も感極まり、言葉を詰まらせながら思いを語った。
戦争を経験した天皇として、平和への思いに時間をかけた。戦後の平和や繁栄が多くの犠牲で築かれたことを忘れず「戦後生まれの人々にも正しく伝えていくことが大切」とし、「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)しています」と語った。
また、皇太子時代を含めて11回にわたり訪れた沖縄について「実に長い苦難の歴史」をたどってきたと言及。皇后さまと歴史や文化を理解するよう努めてきたといい、「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と述べた。
心に残ることとして、平成の時代に多発した自然災害を挙げた。多くの死者や被害があったことに「言葉に尽くせぬ悲しみを覚えます」。ボランティア活動など、人々の間に助け合いの気持ちや防災の意識が高まってきたことに勇気付けられると述べた。
来年4月に結婚60年を迎える皇后さまとの歩みも振り返った。「深い信頼」のもとで伴侶との旅を続けてきたと述べ、「長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労(ねぎら)いたく思います」と感謝の気持ちを明かした。
最後に、代替わり後の新時代に言及。新天皇となる皇太子さま、皇嗣(こうし)となる秋篠宮さまについて「皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います」と語った。 
天皇が最後の記者会見 12/23
天皇は20日、85歳の誕生日を前に皇居内で、在任中最後となる記者会見をしました。この中で天皇は沖縄戦を含めた長い沖縄の苦難の歴史にふれ、「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていく」などとのべました。
会見で天皇は、「即位以来、日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてきました」と表明。「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)しています」とのべました。
沖縄について天皇は、「先の大戦を含め、実に長い苦難の歴史をたどってきました」と言及。皇后と11回沖縄訪問したことをあげ、「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と声を震わせながら語りました。
第2次世界大戦についても、「多くの人命が失われ、我が国の戦後の平和と繁栄が多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にも正しく伝えていくことが大切」とのべました。
また、雲仙・普賢岳の噴火(1991年)はじめ数々の災害に触れ、「数知れぬ人々が被害を受けたことに言葉に尽くせぬ悲しみを覚えます」と語りました。
会見では退任が近いことにふれ、皇后への感謝、皇太子や秋篠宮への期待ものべました。 
天皇としての旅、支えられ感謝 陛下85歳 最後の会見 12/23
天皇陛下は23日、85歳の誕生日を迎えられた。これに先立ち、皇居・宮殿で記者会見に臨み、来年4月30日の譲位を前に「天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する」と謝意を伝えられた。また、象徴天皇として「譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたい」と決意を示された。
今後、陛下が記者会見を行う予定はなく、今回が最後の機会となった。
陛下はこの中で、先の大戦以降の日本の復興の歩みをご回想。苦難の道をたどった沖縄県の歴史を踏まえながら、今後も「耐え続けた犠牲に心を寄せていく」ことを誓われた。陛下は即位した平成元年当時、国際社会が平和へ向かう希望を持っていたとしたが、その後は「必ずしも望んだ方向には進みませんでした」との認識を示された。こうした中、日本の平和と繁栄について「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)しています」との心情を明かされた。
続いて平成の時代で「心に残る」こととして、阪神大震災や東日本大震災など多くの犠牲者を出した自然災害を挙げ「言葉に尽くせぬ悲しみ」を覚えると述べられた。また、普及に尽力してきた障害者スポーツの広がりを喜んだほか、外国訪問で面会を重ねてきた日系人や、増加する訪日外国人を例に「各国との親善友好関係が進むこと」を改めて願われた。
会見の最後では、家族への思いを吐露された。来年4月にご結婚から60年を迎える皇后さまに対しては、公私にわたる献身的な働きに「心から労(ねぎら)いたく思います」と涙声で感謝を伝えられた。来年5月に即位される皇太子さまと、皇嗣(こうし)となられる秋篠宮さまについては、多くの経験を積み重ねてきているとし「皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います」と厚い信頼を寄せられた。 
天皇誕生日 平成最後の会見 元長官「お言葉一つ一つに魂」 12/23
天皇陛下の在位中最後の誕生日会見は、多くの国民と、身近で支えた皇后さまへの感謝の気持ちであふれていた。陛下は歴代天皇で初めて定例的に記者会見に臨まれ、ときにはビデオメッセージで直接、国民に語りかけた。その姿勢に、元側近らは、象徴天皇として「常に国民と共に」と発言してきた陛下の強い思いを感じている。
「よく『陛下の本音は』と聞かれるけど、会見やお言葉を注意深く読むと、言いたいことは相当程度、言っておられる」。一九九六年から二〇〇七年まで侍従長を務めた渡辺允(まこと)さん(82)が振り返る。
宮内記者会から事前に届く質問は多岐にわたった。渡辺さんは「おっしゃりたいことだけをおっしゃればよく、全部にお答えになる必要はありません」と何回も助言したが、陛下は絶対にそうしなかった。「一つ一つ、これについてはこうとお答えになる。本当に律義なご性格だ」
渡辺さんは「陛下にとって国民とは、日本をつくり上げている一人一人で、本気になってその一人一人と正面から向き合う」と話す。こうした陛下の真摯(しんし)な姿勢は、記者会見でも変わらなかったという。
元宮内庁長官の羽毛田(はけた)信吾さん(76)は「会見は陛下のご活動や、お考えを国民に知ってもらう大切な機会だった」と語る。陛下は時事問題などを事務方に問い合わせたことはあるが、回答は自分で用意した。「精魂を込めて回答を書かれるので、相当なご負担だったのは間違いない。だが、陛下がそれを口にされたことは一度もなかった」
記者会の質問数は、陛下が年齢を重ねるにつれ、負担軽減を目的に絞り込み、一五年から一問だけになった。それでも「一つ一つのお言葉に魂がこもっていて、問いの多少にかかわらず、陛下のお考えは伝わったのでは」と羽毛田さんは述懐する。
学習院初等科から高等科にかけての学友、栄木(さかき)和男さん(85)は、退位の意向をにじませた一六年八月のビデオメッセージに、陛下らしい「合理的な考え方」を感じたという。
陛下は、全身全霊で象徴天皇の務めを果たすことが難しくなったと語り、また、天皇自らが国民に、象徴の立場への理解を求めることの大切さにも言及していた。
退位まで四カ月余り。「われわれが仕事を辞めるくらいの年齢で、陛下は天皇になった。三十年間、健康を保ち、よくおやりになった」
誕生日の会見は、陛下が自らの心象風景をありのままに語り、人間性が表れていた。新しい天皇像をつくろうとした覚悟をあらためて感じた。その覚悟を披歴した時に自身の思い出が重なり、万感胸に迫るものがあったのではないか。
「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)」という発言は、天皇としての誇りと喜ばしい感情なのだろう。昭和の教訓を生かし、戦争の傷痕を克服して、戦争に縁遠い時代の天皇だったという自負を感じた。歴史に自分の思いを刻んだとも言える。
また、増加する外国人労働者を社会の一員として温かく迎えるよう願ったことは、日本が国際的に開かれていかざるを得ない状況にある中で、天皇のナショナリズムと、インターナショナリズムの双方を踏まえて、融合、調和点をつくる考えがあるのだと思う。
終身在位だった大正天皇や昭和天皇は、身を引くに際して、このような形で国民に直接語り掛ける機会はなかった。その意味でも、こうした記者会見を可能にした退位の実現は、意義があった。 
天皇陛下、最後の記者会見「国民に衷心より感謝」 12/23
天皇陛下は23日、85歳の誕生日を迎えられた。これに先立ち、皇居・宮殿で記者会見し「天皇としての旅を終えようとしている今、象徴としての私の立場を受け入れ、支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する」と述べた。約4カ月後の退位の日まで「憲法で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたい」と決意も語った。
宮内庁によると、来年4月30日に退位する陛下が今後、記者会見に臨む予定はなく今回が最後の機会。約20分の会見中、陛下は感極まった様子で何度も声を震わせ、国民や共に歩んできた皇后さまに感謝やねぎらいの言葉を掛けて、半生を振り返った。
1989年に即位し戦後50、60、70年の節目を天皇として迎えた。会見で「わが国の戦後の平和と繁栄が多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきた」と強調。「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)している」と打ち明けた。
11歳で終戦を迎え、サンフランシスコ平和条約が発効した1952年に18歳で立太子の礼を挙げたと自らの歩みを回顧。皇后さまと共に11回も足を運んだ沖縄県に対し「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていく私どもの思いは、これからも変わることはない」と語った。戦没者の慰霊のため米自治領サイパンやパラオ、フィリピンを訪れたことも「忘れられない」と振り返った。
東日本大震災などで多くの犠牲が出たことは「言葉に尽くせぬ悲しみを覚える」とし、ボランティアや防災への意識が高まってきている現状は「勇気づけられる」とした。「障害者をはじめ困難を抱えている人に心を寄せていくことも大切な務めと思い、過ごしてきた」とも明かした。
会見の最後は家族に言及。来年4月で結婚60年を迎える皇后さまとは「深い信頼のもと、共に旅を続けてきた」とし「考えを理解し、立場と務めを支えてくれた」「皇室と国民の双方への献身を真心を持って果たしてきたことを心からねぎらいたい」と涙声で語った。
新天皇となる皇太子さまと皇位継承順1位の「皇嗣(こうし)」になる秋篠宮さまには「皇室の伝統を引き継ぎながら変わりゆく社会に応じて歩んでいく」と信頼を寄せていた。
会見は20日に行われた。 
 
 
 
 
 
 
 
天皇陛下、在位最後の誕生日会見 思いのこもった声で 12/24
日本の天皇陛下が23日、85歳の誕生日を迎えた。来年4月末の退位を前に在位中最後の誕生日を祝おうと、8万人以上が一般参賀にかけつけた。
誕生日に先立ち行われた記者会見で陛下は、平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、「心から安堵」していると語った。
自分を支えてくれたと、日本国民と美智子皇后陛下に感謝する際には、声に気持ちがこもった。
日本の天皇が存命中に譲位するのは、約200年ぶりとなる。
天皇陛下は、2003年に前立腺がん、2012年に心臓手術を受けている。来年4月30日に退位し、長男の徳仁皇太子さまが翌日即位する予定だ。
30年にわたる今上天皇の元号「平成」には、「平和の達成」という意味がある。
記者会見に続き、一般参賀の挨拶でも天皇陛下は、今年日本各地で起きた災害で家族を失ったり被害に遭ったりした国民を深く案じていると述べた。この1年、日本では地震や台風、熱波が相次いだ。
天皇の立場は儀礼的なもので、政治的な権力はない。しかし、父・昭和天皇の時代にあった第2次世界大戦中の日本の行為について、認識を広めるために今の明仁天皇は在位中の多くの時間を費やしてきた。
陛下はこれまで、中国と朝鮮半島での日本軍の行為について、哀悼の意を表明してきた。また、戦死者を慰霊するため、太平洋の戦地もたびたび訪問している。こうした行動に、日本の右翼団体が反発することもあった。
誕生日前の記者会見では、「先の大戦で多くの人命が失われ(略)たことを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました」と述べた。
10月には靖国神社の宮司が、明仁天皇が靖国神社を訪れず同神社をつぶそうとしていると発言し、波紋が広がったことを受け、退任した。靖国神社は、戦没者250万人のほか、第2次世界大戦の戦争犯罪者として有罪判決を受けた戦犯も合祀(ごうし)されており、議論も多い。
安倍晋三首相を含む一部の政府高官が同神社を参拝し、その都度、中国などからの怒りを買っている。
天皇陛下はこのほか記者会見で、外国から日本に仕事をしに来る人々を社会の一員として温かく迎えられるよう願うと述べた。高齢化による労働力不足を緩和するために、外国からの単純労働者をより多く受け入れられるよう制定された新法を受けたもの。日本はこれまで、厳しい移民法により他国からの労働者を制限し、ほとんど受け入れていなかった。 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
天皇陛下の「旅」  12/25
天皇陛下の85歳の誕生日を、国民のひとりとして心からお祝い申し上げたいと思います。
来年はいよいよ御代替わりの年。平成の30年間の陛下の歩みを感謝の気持ちとともに心に刻みます。
天皇陛下は、昨日の記者会見において「旅」という言葉を何回かにわたってお使いになりました。その上で「天皇としての旅を終えようとしている今」との感慨も述べられました。
「旅」という言葉を聞いて、私自身が思ったことは、陛下が戦後憲法のもとでの「象徴天皇」とは、いかにあるべきかということを、ご自身が悩み、模索しながら今日までこられたのではないかということでした。
「常に国民とともにある」というお気持ちでずっといて下さっていることが、私たち国民にもひしと感じられました。陛下ご自身そのような思いのもとで「国民統合の象徴」とはどうあるべきか、時には身を削るような思いで、この「旅」を続けてこられたのではないかと思います。
そのような天皇陛下、そしてその旅をともしてこられた皇后陛下のお姿には、感謝の念で一杯です。  
 
 
 
 
 
 
 
天皇陛下在位30年記念式典 / 天皇陛下おことば 2019/2/24
在位三十年に当たり、政府並びに国の内外から寄せられた祝意に対し、深く感謝いたします。
即位から三十年、こと多く過ぎた日々を振り返り、今日こうして国の内外の祝意に包まれ、このような日を迎えることを誠に感慨深く思います。
平成の三十年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました。島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。
天皇として即位して以来今日まで、日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。
天皇としてのこれまでの務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした。これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。災害の相次いだこの三十年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿は、私の在位中の忘れ難い記憶の一つです。
今日この機会に、日本が苦しみと悲しみのさ中にあった時、少なからぬ関心を寄せられた諸外国の方々にも、お礼の気持ちを述べたく思います。数知れぬ多くの国や国際機関、また地域が、心のこもった援助を与えてくださいました。心より深く感謝いたします。
平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。
   ともどもに平らけき代を築かむと諸人のことば国うちに充つ
平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。
しかしこの頃、全国各地より寄せられた 「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」 という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。
在位三十年に当たり、今日このような式典を催してくださった皆様に厚く感謝の意を表し、ここに改めて、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。 
 
 
 
 


2018/12-