骨皮筋右衛門 

「骨皮筋右衛門」
何がきっかけか ふと思い出す

わが身か 気がつけば骨皮筋・・・
 


 

俗語発掘記
 
 
 
 
骨皮筋右衛門
1 骨と皮と筋しかないぐらい非常にやせていることを、人名めかしてからかっていう語。
2 非常にやせている人をからかっていう語。
3 痩せてること。 
 
擬人名
 ●骨皮筋右衛門 / ほねかわすじえもん
 ●吝太郎 / しわたろう
 ●可内 / べくない
 ●石部金吉 / いしべきんきち
 ●小言幸兵衛 / こごとこうべえ
「擬人名」。このテーマはいつかやりたいと以前から思っていたのですが、きっかけがなかなかありませんでした。そのきっかけを与えてくれたのが、毎日新聞夕刊「特集ワイド」の、今年の新語・流行語大賞ノミネートを受けた記事です。
ノミネート50語のうちコラムニストの小田嶋隆さんは、かなり怒っている状態を示す女子高生言葉「激おこぷんぷん丸」に注目しました。「これは『がってん承知の助』(『心得た』との意味の江戸っ子言葉)の子孫だと思うんですよ。こんなふうに言葉を人名風に変形させるのは江戸時代の頃から続いている伝統的な言葉遊びです。これは楽しいですね」
このコメントを読んだ瞬間、「擬人名キタ―!」と思いました。そして、流行語大賞は無理としても、トップ10入りを願っていましたが、大賞が四つも選ばれるほどの激戦の中ではじき飛ばされた結果となってしまいました。
さて、正解率が最も低かったのが「吝太郎」でした。吝嗇のリンと思って「りんたろう」を選んだ人が多かったようです。「吝ん坊の柿の種」ということわざを知っていれば分かったかもしれませんが、上方系のいろはかるたに用いられたこの言葉も、今は聞くことがまれになりました。(写真は時田昌瑞著、世界文化社「ことわざで遊ぶいろはかるた」と奥野かるた店の京のいろはかるたより)
「可内」は現在、京都・南座でかかっている「仮名手本忠臣蔵」の「道行旅路の嫁入」に「奴(やっこ)可内」という役名で出ています。
5語のうちの正解率が高めだった「骨皮筋右衛門」「石部金吉」「小言幸兵衛」はいずれも毎日新聞「週刊漢字」に掲載された語です。読者の方がブログで「消えゆく言葉」として紹介しています。
《「石部金吉」のような真面目すぎて融通の利かない人はいなくなり、不真面目で物分かりのいい人が多くなった。綱紀は緩みっぱなし、社会の混乱に拍車をかけている》
《「小言幸兵衛」のように口うるさくお節介な人もいなくなった。「小さな親切大きなお節介」の言葉が大手を振って通るようになっては、「小言幸兵衛」の出番はない。うっかり小言でも言おうものならナイフで刺されてしまう。怖い世の中になったものだ》
《「骨皮筋右衛門」だから寒さが骨にしみるのだが、肉布団をまとった現代人「骨肉とろ右衛門」では寒さが骨までとどかず肉で止まってしまうのだ。肉布団にはたくさんの病原菌が潜んでいるというのにだ》
これらの語は、辞書では「あざけっていう」などと書かれているのですが、ここに記されているのはむしろ、現代人とは対極の今時奇特な人という、むしろ褒め言葉です。
池田弥三郎「日本故事物語」(角川文庫、1973年)によると、江戸時代には武士が幅をきかしたため、江戸の文芸作品では、田舎侍を極度に軽蔑したことから、武士風の擬人名で嘲笑したそうです。「現代の擬人的造語はどうだろう」「スカートの下からシュミーズがチラリと出ている女性を『清水みえ子さん』などというのが、せいぜいのところではなかろうか」
池田さん自身も述べていますが下品ですね。それに比べて21世紀に突如出現した擬人名「激おこぷんぷん丸」ははるかに洗練されています。女子高生言葉おそるべし。 
 
骨川筋右衛門 (ほねかわすじえもん)
この言葉は、死語になりつつある。いや、殆ど死語かもしれない。
私の幼いころは、よく使った言葉だ。おいおい、あの男を見てよ!骨川筋右衛門じゃないかーーどこが、カッコいいんだろう。
女の子、女子に、あまりに人気がある。だから〜うらやましい。妬(ねた)み、僻(ひが)み根性も有ったのかも!?
しかしおもしろい言葉だ。
テレビで見ても、そんな人を見るとよく使っていた。あああ〜〜っ、骨川筋右衛門だっ!!道を歩いていても、そんな人を見かけると小声で、あの人見てよ!骨川筋右衛門だ!
ホントだホントだ、骨川筋右衛門だ。何も食べて無いのか???
餓鬼のくせに、要らぬお世話をしていた。本当によく使っていた。
ある本で見るまでは、殆ど忘れてしまっていた。が、懐かしい言葉に出会った気がする。
まあーー年代的なもの平成生まれの人には、聞き覚えもない言葉だろう。
もしかしたら〜お祖父さんやお婆さんから、聞いた覚えがあるかも!?それとも両親から、あるかもしれない。
しかし今では殆ど死語。だが、先人のユーモアのセンスがうかがえる、言葉の一つだろう。骨川筋右衛門、あなたは笑えませんか!?
(骨川筋右衛門)・・・とは?
身体が痩せて骨と皮ばかりに見える人を、形容した言葉です。骨と皮と筋を使って、あたかも人名のように組み立てたものだ。
そう言えば、私の記事にもあります。同じような言葉、知らぬ顔の半兵衛。この言葉は、あなたも想像つくでしょう。気になれば、検索して見て下さい。
ユーモアのある言葉と言うのは余裕、よゆうが無くては出て来ない。それにそんな言葉には、相手を明るくし・・・自分の心も、明るくする力がある。
そうそう、忘れる所でした〜骨川筋右衛門、あなたにも分かるでしょう。どう聞いても、男性名。だから一般的には、男にしか使わない。その辺りを勘違いしないで下さいネ!
〜言霊〜言葉には魂が宿ると言う。だからその人が何を言っているかで、魂が分かる。人の悪口を言う人。言い訳責任のがれを言う人。
みんな自分で自分の首をしめている。否定的な言葉を使う人で・・・幸せな人生を送った人はいない。 
 
骨皮道賢
(ほねかわどうけん、生年不詳-1468) 室町時代の傭兵、足軽大将。
元は目付の頭目で、侍所所司代多賀高忠に仕え、盗賊の追捕を行っていた。
応仁元年(1467年)の応仁の乱で足軽大将として活躍、細川勝元に金品によって勧誘され、東軍に属して戦った。伏見の稲荷山(京都市伏見区)に拠点を置き放火や後方攪乱を担当したが、翌応仁2年(1468年)、山名宗全、斯波義廉、朝倉孝景、畠山義就、大内政弘らの大軍に布陣していた稲荷社を包囲されると、女装して包囲網を脱出しようとしたが露顕し朝倉孝景に討ち取られた。道賢の記録が載る禅僧の日記での名前の初見は、3月15日条からであり、21日までの6日間の活躍しか記述されていない[1]。その最期を「昨日まで稲荷廻し道賢を今日骨皮と成すぞかはゆき」と歌で皮肉られた。
なお、苗字の骨皮から皮革業を営んでいたという説もあるが、骨と皮ばかりの痩せた者という外観からきているかもしれず、どちらともいえないとされている。 
 
○○衛門の名前の由来
昔の人の名前の「衛門」。もともと平安時代の役所の名前で「衛門府」というのがありました。衛門府はその名の通り朝廷の門を守衛していて、「右衛門府」と「左衛門府」がありました。衛門府を退官した人が証として自分の名前に「右衛門」や「左衛門」を入れて通称として名乗りだし、さらに子供の名前に入れるのが流行しました。その後、時代が経つにつれて先祖が「衛門府」出身であるかにかかわらず人名として使われるようになったそうです。悪名高い大盗賊の石川五右衛門ももとをたどると由緒正しい名前だったわけです。
右衛門(うえもん)
日本語の男性名。いわゆる百官名の一つで、右衛門府の四等官を除いたもの。明治時代以前に日本人男性の通称名として広く用いられた。
起源は律令時代に兵役に就いた者が兵役終了後、その証として配属先の右衛門府の名を名乗ったことであるとされる。時代が下がると武士階級、平民階級問わず広く用いられるようになり、頭に親族・兄弟関係を表す文字などを付けた「弥右衛門」「彦右衛門」「四郎右衛門」などとして多用された。廣枝音右衛門、富阪弥右衛門など明治時代以降にも実名として名乗った例がある。頭に文字を付けた場合「右衛門」の部分は「〜うえもん」ではなく「〜えもん」と読む場合が多い。
左衛門(さえもん)
日本語の男性名。いわゆる百官名の一つで、左衛門府の四等官を除いたもの。明治時代以前に日本人男性の通称名として広く用いられた。
起源は律令時代に兵役に就いた者が、兵役終了の証として中央での配属先の左衛門府の名を名乗ったことであるとされる。時代が下がり室町時代以降になると、武士階級においては仮名・官名として、平民階級では名として広く用いられるようになり、頭に親族・兄弟関係を表す文字を付けた「新左衛門」、「彦左衛門」等、衛門府の官等である「尉」「佐」をつけた「左衛門尉」「左衛門佐」などとして多用された。左衛門尉酒井家のように家名にした例もある。 頭に文字を付けた場合「左衛門」の部分は「〜さえもん」ではなく「〜ざえもん」と読む場合が多い。 
紀伊国屋文左衛門
近松門左衛門
日本左衛門 
(1719-1747) 江戸時代中期の浪人の異名。本名は濱島庄兵衛と言い、諸国を荒らした盗賊(強盗団)の一味で、後に自首して獄門となった。歌舞伎の白波五人男の一人である日本駄右衛門のモデル。
尾張藩の七里役の子として生まれる。若い頃から放蕩を繰り返し、やがて200名ほどの盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道沿いの諸国を荒らしまわったとされる。
延享3年(1746年)年9月、被害にあった駿河の庄屋が江戸北町奉行能勢頼一に訴訟し、老中堀田正亮の命により幕府から火付盗賊改方頭の徳山秀栄が派遣される。これにより盗賊団の幹部数名が捕縛されたが、日本左衛門は逃亡した。日本左衛門は伊勢国古市などで自分の手配書が出回っているという噂を聞き遠国への逃亡を図るも、安芸国宮島で自分の手配書を目にし逃げ切れないと観念。
延享4年(1747年)1月7日に京都にて京都町奉行永井丹波守尚方(あるいは大坂にて大坂町奉行牧野信貞)に自首し、江戸に送られ、北町奉行能勢頼一によって小伝馬町の牢に繋がれた。刑罰は市中引き回しの上、獄門であり、同牢獄にて3月11日(14日とも)に徒党の中村左膳ら6名と共に処刑され、首は遠江国見附に晒された。なお、処刑の場所は遠州鈴ヶ森(三本松)刑場とも江戸伝馬町刑場とも言われる。享年29。
徒党を組んで美濃・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・近江・伊勢の八カ国で犯行(主に押し込み強盗)を重ね、諸説あるが、確認されている被害は14件・2622両、あるいは14件・2627両余りと記す史料もある。
その容貌については、175cmほどの当時としては長身の精悍な美丈夫で、鼻筋が通って色白で、顔に5cmほどもある切り傷があり、常に首を右に傾ける癖があったと伝わっている。肥前平戸藩主松浦静山の随筆「甲子夜話」にも、日本左衛門の話が収録されている。後に歌舞伎・青砥稿花紅彩画で義賊「日本駄右衛門」として脚色されたほか、白浪物などで様々に取り上げられたため、その人物像、評価については輪郭が定かではない。
現在に残る日本左衛門の史跡として、東京都墨田区・徳之山稲荷神社に日本左衛門首洗い井戸の碑があり、ほかにも遠州見附・見性寺に墓があり、遠州金谷宿・宅円庵には首塚がある。 首塚には斬首の後に晒された首を日本左衛門の愛人が盗み出し、宅円庵で弔ったと言う言い伝えがある。首塚の脇にはその旨が記された看板がある。 
太左衛門橋
橋の名は橋の東南角で歌舞伎の小屋を開いた興行師大坂太左衛門に由来するという。寛永3年(1626)に道頓堀の南側に芝居と遊郭が公許され、大坂太左衛門ら6名が京都から進出した。
太左衛門橋がいつ架けられたかは明確ではないが、芝居小屋などへの通路として早くから架けられていたに違いない。
以降道頓堀の芝居町を中心にして周辺の町々の負担で維持されてきた。織田作之助の作品に『女の橋』『船場の娘』『大阪の女』という三部作があるが、ストーリーの節目に太左衛門橋が、一場を構成する重要な役割を与えられている。
太左衛門橋は昭和になっても狭い木橋のままであったが、大阪大空襲の際に焼失し、地元の人々によって復旧された。
昭和33年に架け替えられた橋は、規模は江戸時代のものとほとんどかわらないが、3径間連続の合成桁という最新の技術が試された実験的な橋である。
近年は、道頓堀川の水辺整備に合わせて、本橋の西側と東側に側道橋を整備したが、整備にあたっては、有識者から成る道頓堀川遊歩道・橋梁デザイン検討委員会において、橋のデザイン検討を行った。今回改修した橋は、その名前が、かつてこの地で歌舞伎の興行を行っていた興行師に由来することや、多くの芝居小屋があったことから、木を基調とする歴史的な意匠を取り入れた橋となった。 
大槻太郎左衛門政通
時は戦国、織田信長などが活躍していた乱世の時代。
会津の西、今の西会津町野沢の地に、大槻太郎左衛門政通という戦国武将が住んでいました。
太郎左衛門の主君は、当時の会津地方を中心とした福島県の大半と新潟県の一部まで勢力下に置いた芦名家の16代・芦名盛氏でした。大槻家は代々芦名家に仕えてきましたが、大槻家と芦名家の先祖をさかのぼると、もとは血を分けた兄弟だったのです。
しかし、大槻が力を持つことを恐れた芦名は、何かと大槻に因縁をつけるようになりました。太郎左衛門は、先祖の代で領地の4分の1を芦名に取り上げられてしまいます。
そしてまたある日、大槻の家臣が芦名の悪口を言っていることを理由に、領地を元の10分の1にまで減らされ、会津盆地の西の端、野沢の地で謹慎するよう命じられました。
大槻は、このまま黙っていてもいずれは芦名に滅ぼされると思い、太郎左衛門政通の時に、下野尻の薄や小島の成田、さらには越後の上杉謙信といった周辺の武将たちの力を借りて、芦名に逆らう計画を立てたのです。
その最初の戦場となったのが、只見川を挟んだ今で言う会津坂下町の舟渡・片門でした。この舟渡・片門の戦いで、大槻の軍勢約200、芦名の軍勢約400が、只見川を挟んで2日間にも及ぶ弓矢合戦を繰り広げたのです。
・・・
会津風土記
巻之八十 大沼郡瀧谷組
瀧谷村 館迹 巖谷城
巖谷壁立し西の方瀧谷川に臨めり、高一町計巖谷城と稱す、東西四二間南北三一間、永正中横田の城主山内秀俊二男攝津守長俊一名俊正と云者、住せりと云。
檜原村 館迹
丸山と云山の頂にあり、頂まで三町、天正の頃、山内の支族豊前守俊範と云者住せりと云。
西方村 館迹 
本丸東西七間、南北十五間、二丸東西九間南北十七間、天文十四年大石組沼澤村の地頭山内彦次郎俊與二男左馬丞氏信と云者始て居住す、氏信が四代の孫右近重勝天正六年大槻太郎左衛門に語らはれ、上杉謙信に内応し、葦名盛氏に叛んとす、事就ずして自殺す。
巻之八十三 大沼郡大石郡
河口村 玉縄城
野尻川の西山上にあり、東西十八間南北二町、玉縄城と稱ふ、山内氏の支族河口左衛門佐某と云者住せり、天正六年葦名盛氏の為に大槻太郎左衛門を討ち天正十八年正宗に降り、伊達の将大波玄蕃に従て大鹽組横田の城主山内氏勝が討手に加はりしと云。
中井村 柵跡 
村東五町山上にあり、東西二十五間南北二十一間、東は深谷に臨み、三方に空隍の形あり天正中山内氏の支族中井山城秀詮と云者住せりと云。
沼澤村 館迹 
村十八町山上にあり、東西一町十間南北二十間、横田の城主山内氏の支族沼澤出雲實通と云者住せり、天正十三年、關柴備中伊達正宗に内応し葦名氏に叛し時、出雲も追手に加はりけるが、黒川を発するとて葦名亀王丸の母儀に謁し、逆賊備中が首斬て厚恩に報んと云て起しが、果して備中を討取しかば伊達の兵も敗績せしとぞ、同十七年磨上の役散して葦名義廣佐竹に奔りし時、出雲渋川助右衛門等と共に義廣に従て常陸国に赴きしと云、出雲が子孫当家に仕て今に存す。
宮崎村 柵跡
東西三十五間南北四十間、天正中山内氏の支族宮崎右近某と云者居りしぞ。
会津の山ノ内氏(会津下向)
山内一族が、いつ会津に下向したかはっきりしていない。しかし、山内最後の惣領が刑部大輔氏勝で横田城に住したことは間違ないが、鎌倉以降の史料に乏しく奥会津での活動は戦国時代まではっきりしない。会津下向後、各所に一族を配し領地の拡大をはかり、城を築き支配を強めた。「山内七騎党」といわれるのは、おそらく中世末、出来上った同族組織でその時代は葦名氏の勢力下に入った天文期以降とみられる、これらの山内一族の系図関係は明らかでないものが多く、また七党の居所築城の時代も異なるものがあって、確定的なことはいえない。
・・・
天正六年(1578)山内重勝(西方鴫城主)が義父大槻政通(野沢村大槻城主)と謀り、葦名盛氏に叛く。
天正四年、大槻太郎左衛門、西方山内右近叛す(旧事雑考)
沼沢氏信三男右近大夫重勝若名右馬介、天正六年二月十五日自害妻大槻太郎左衛門政道女。(合全)
葦名家臣大槻太郎左衛政通盛氏に反旗、婿西方鴫城主山内右近大夫重勝を頼り、山内葦名を戦う、大槻敗れ川口に討れる(異本)
大登の館には布沢城主渡部長門が移る。(新編) 
江川太郎左衛門
伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山町)を本拠とした江戸幕府の世襲代官である。太郎左衛門とは江川家の代々の当主の通称である。中でも36代の江川英龍が著名である。
江川家は中世以来の名家であり、始祖が清和源氏源経基の孫・源頼親であることもはっきりしている。この頼親の血統は大和源氏と呼ばれ、初め宇野氏を名乗った。伊豆には平安末期に移住し、宇野治長が源頼朝の挙兵を助けた功で江川荘を安堵されたことにより、領域支配が確定した。その後鎌倉幕府・後北条氏など、その時代の支配者に仕えた。江川家と改めたのは室町時代のようである。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、江川家28代英長は寝返って徳川家康に従い、代官に任ぜられた。以降江川家は、享保8年(1723年)- 宝暦8年(1758年)の間を除き、明治維新まで相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領5万4千石分(後26万石に膨れ上がる)の代官として、民政に当たった。
著名な「江川太郎左衛門」
上記の通り、江川家は平安時代以来明治維新にいたるまで38代続いた家であり、代々が太郎左衛門を名乗った。このうち、歴史上著名な人物を特に列挙する。
江川英毅 / 35代当主、農地の改良・商品作物の栽培など天領の増収に尽くす。文化人としても名を残す。
江川英龍 / 36代当主、1801 - 1855。号は坦庵。英毅の子。一般には江川太郎左衛門といえば彼を指すことが多い。洋学の導入に貢献し、民政・海防の整備に実績を挙げる。品川台場(お台場)を造り、鉄製の大砲を鋳造するための反射炉も造り始めた。日本で初めてパンを焼いた人物としても知られる。
江川英敏 / 37代当主、1839 - 1862。英龍の三男。父の事業を継いで反射炉の完成、農兵隊の編成など行うが若くして病死。
江川英武 / 38代当主、1853 - 1933。号は春緑。英龍の五男。明治維新のときの当主。廃藩置県後は韮山県令となるが、まもなく岩倉使節団に随行、そのまま留学。その後は地域教育に尽くす。
江川英文 / 1898 - 1966。英武の子。東京大学教授で、法律学者。専門は国際私法。財団法人江川文庫を設立、江川家代々の資料を研究者に公開する。
屋敷
『江戸切絵図芝口西久保愛宕下之図』で「江川太郎左衛門鉄砲調練所」と示される位置は、新銭座の慶應義塾の目と鼻の先であり、1870年(明治3年)に屋敷の長屋三十間ほどの総二階を慶應義塾に貸し出したことがある。これは「分塾」または「外塾」と呼ばれており、翌年には三田の島原藩中屋敷に移転している。福澤諭吉の夫人の実弟土岐謙之助が江川太郎左衛門の門弟であったことなども挙げられるが、実は江川家の江戸屋敷が幕府瓦解後、柏木忠俊の配慮で福沢諭吉に払い下げられて慶應義塾舎となり、正門は韮山に運んで今の表門となっている。 
 
 
 

 
2017/9
 
 
俗語発掘記 消えたことば辞典
 あなたの年齢がモロバレする「死語の世界」
俗語、それも使われなくなった俗語が五十音順に百個あまり並べられている。トップはアイス。アイスクリーム? なわけはない。高利貸しのことらしい。わっかるかな? わかんねぇだろうなぁ〜(©松鶴家千とせ)、これもほとんど死語ですけど。アイスクリーム⇒氷菓子(こおりがし)⇒高利貸し(こうりがし)とのこと。なるほどね。あれ?、どこかで聞いたことがあるなぁと思ったら、金色夜叉の間貫一やんか。次はアッシー君。これはわかる。バブルのころに、送迎の足に使われていた便利な男たちのことだ。それからアナウンサー。使ったことはないが聞いたことはある。おしゃべりな人、噂話をばらまく人である。1925年にラジオ放送が始まって、翌年には隠語として使われていたというから迅速だ。
アベックという言葉はなんとなく語感がいい
そして、アベック、アミ、と続く。アベックは、そこはかとなくなつかしい。物心というか色心というかがついたころ、しょっちゅう目に耳にしていた言葉である。アベックで歩いとるぅ〜とかいうように使う、男女の二人連れのことである。最近はめったに目にしないと思っていたら、アベックホームランという形で細々と生き残っているだけで、ほぼ死語状態らしい。そういえば、ONアベックホーマーとかしょっちゅうありましたよね。なんやその「オン」いうのは、と訊く若者がおるかもしれんけど、ちゃいます。王・長嶋の略です。
アベックという言葉はなんとなく語感がいい。そう思うのは私だけではないようで、復活させたい死語の上位にランキングされている。アミもいい感じで、さすがフレンチ。使ったことはないけれど、アミは女友達とか恋人のことだ。アベック、アミ、と来たら、ランデブーやろ、と思って後の方をめくったら、やっぱりあった。かゆいところに手が届くような心地よさだ。
ランデブーの意味は「男女の密会」とある。もうひとつ、スプートニクが打ち上げられた1957年に生まれたスペースエージのおっさんとしては、宇宙飛行船がドッキングする前に近接して飛行する意味としてのランデブーもあげてほしい、と思ったら、ちゃんと本文にあった。
“「ランデブー」と聞いて「逢い引き」と思った人はかなりの老人。宇宙飛行機のドッキングと思った人は中年。なんのことかわからない人は若者だ。”
おみごと! 老人と中年の間のおっさんには、逢い引きとドッキングの2つが同時に頭に浮かぶのである。
フランス語よりも多いのはドイツ語に由来する俗語で、その多くは、旧制高校出身者から編み出された言葉だとされている。「エッセン」は食べる、「ゲバ」はゲバルト=暴力、「シャン」は、schön=美しい、から転じて美人、「ゲル」がゲルトからでお金。どれもけっこうインテリっぽくてしゃれている。「ドッぺる」は、doppeln=二重にする、からきていて、留年すること、「メッチェン」はそのままMädchenで若い女、とかがあるのも、旧制高校らしくていい。
似非外国語みたいな俗語
笑えるのは似非外国語みたいな俗語である。聞いたことがなくとも「インハラベビー」は意味がわかる。in 腹 baby で妊娠だ。「ラージポンポン」とも言ったらしい。同義語の「はらぼて」もほとんど使われなくなっているそうだが、なんとなく語感がよろしくないので、少子化の時代にはふさわしくないためだろうか。「オストアンデル」は、子どもじみた感じがするから使わないが、意味は知っている。押すと餡が出るので饅頭である。この系譜の言葉は歴史が古くて、江戸時代すでに、あの平賀源内が和蘭語風に記憶の悪い人を「スポントワースル」とか言っていたらしい。明治時代によく使われた「スワルトバートル」の意味を知る人は相当な俗語フリークに違いない。「座ると場とる」から、袴だそうだ。現代人にはわからんわなぁ、これは。
かつては、わかりやすい翻訳語もあった。たとえばブラジャーは、昭和初期にフランスからはいってきた時に、「乳押さえ」とか「乳バンド」とネーミングされた。下着といえば「シミチョロ」もある。これは知らない人にとっては難易度が高いだろう「シミーズがスカートの裾からはみ出ていること」、シミーズがチョロチョロ見えるからシミチョロだ。だいたい、若者にはシミーズがわからんのではないか。「今、使うのは八十歳以上の人だろう」って、今でも使う人おるんですか……。念のために言っておくと、女性用の長いキャミソールみたいなもので、正しくはシュミーズ。これもフランス語。
外来語や外来語もどきに比べると、漢語系の俗語は格調が高い。痩せさらばえた人でも「骨川筋右衛門(ほねかわすじえもん)」といえば恰幅よく聞こえる。「薩摩守(さつまのかみ)」も相当なものだ。薩摩守であった平忠度(たいらのただのり)から来た言葉で、タダ乗りだから無賃乗車のこと。犯罪者でも立派な感じがしてしまう。寮雨(りょうう)という言葉も載っていて、なんやらロマンチックな雰囲気やなぁと思ったが、あにはからんや「学校の寮の窓からする小便」とのこと。どっひゃ〜、どこの世の中にそんな言葉があるんですか。ドイツ語系の俗語といい、旧制高校恐るべし。
一方、出歯亀(でばがめ)となると、意味を知らなくとも、なんやらいかがわしい感じがする。「助平、女をいじめる男」とある。記憶では、のぞき犯のことも言うはずだ。その元となったのは、女性をのぞき見して暴行した犯罪者である池田亀太郎、あだ名が出歯亀である。固有名詞が一般名詞になったのは出歯亀だけでなく、八百長もそうらしい。八百屋の長吉(あるいは長次郎)が八百長をしたために、八百長が八百長と呼ばれるようになったとか。この文章、ぼ〜っと読んだらら意味がわからないくらいに、八百長という言葉は普通名詞化している。
「ちゃりんこ」は、もう死語?
もう死語なんか、と寂しくなる単語もいくつかある。自転車の「ちゃりんこ」はまだ使うと思うけどなぁ。特に原動機付き自転車を「原チャ」とか。「ハイカラ」なんかは早晩通じなくなるとは思うが、適切なタイミングで使うとけっこううける。アイスコーヒーの「冷コー」は、もともと関西の言葉だが、夏になると今でも手書きのポスターなんかを見かけることがある。廃れさせないために、今度スタバで、冷コーの大、とかいうてみよっと。
“小さなこどもが転んだりぶつかったりして、どこか体を痛めたとき、その痛みを取るために、また泣き止ませるために別の人(多くは母親)がその痛い所をなでながらなだめるまじないの言葉”
何のことかわかるだろうか? 答えは「ちちんぷいぷい」。確かに、今頃の子どもはこんなまじない言葉では騙されないような気がする。しかし、今も関西人にはなじみのある言葉だ。というのも、大阪のおばちゃんたちに大人気の、毎日放送が放送している午後のワイドショーのタイトルに使われているのだ。出歯亀とは逆に、ちちんぷいぷいは、普通名詞から固有名詞化してきているのかもしれんなぁ、などと考えるのも面白い。番組が終わると完全に死語になるかもしれんので、毎日放送には末永くがんばっていただきたい。
リストアップされた百あまりの言葉だけでなく、それと同じような意味を持つ言葉や、同じような発想による言葉なども豊富に紹介されていて、索引にはざっと800もの消えた俗語あるいは消えゆく俗語が収録されている。紹介するときりがないが、思わず笑ってしまうような豆知識も満載だ。俗語として使われたことばの面白さを十分に味わえるとともに、それぞれのことばが使われた時代の風俗までよくわかる。老いたる人には懐かしく若者たちには新鮮な、じつに愉快でためになる一冊になっている。 
 
ブスの本懐
 強烈なタブー、いったい「ブス」とは何なのか
美人について書かれた書物は、数多く存在する。一方ブスに焦点を当てた本は、実に少ない。皆が触れてはいけないと思っているからだ。ブス――それは響きだけで人を殺すパワーをもった言葉。人道的な理由から、禁止令が出されてもおかしくないほどだ。
「ブス」の威力とは?
私もタイトルを見たとき、強く惹きつけられるのと同時に、目を背けたくなるような感情に襲われた。レジへ持っていくまでに要したのは、実に1カ月の期間と4度の挑戦。 ブスが『ブスの本懐』を買う、これ以上の屈辱があるだろうか。しかし本書を読み始めてみたら、そんな瑣末なことで悩んでいた自分が馬鹿らしくなった。
本書は、日頃タブー視されがちな「ブス」という言葉を、これでもかというほど盛り込んでいる。ブスという言葉を避けるのではなく必要以上に用いることによって、最終的にブスとは何なのかを分からなくしてしまおうというのが、著者の狙いなのだ。いまだかつて、こんな画期的な解決策があっただろうか。 
「ブスであっても可愛くなろうと努力する限り可愛い」という軟弱な綺麗事に苦しめられてきた21歳のブスは、目からウロコが落ちる思いであった。当方、サラサラの黒髪と美肌、類まれなる大きな胸をもち、小中高を名門女子高で過ごし、現在は慶應義塾大学に通いながら本の執筆もしているブスである。
最後がブスで締められるだけで、美味しそうなご馳走は一気に毒物へと代わる。そうなるくらいなら、何も持たずに生まれてきた方がよほど諦めもつくというもの。 大トロを泥水の中にぶちまけてしまったような悲哀がそこにある。 大トロである事実は一切変わっていないのに、決して食べることはできない、それがブスの威力だ。
本書『ブスの本懐』は、そんなブスの威力を示す具体的なエピソードからブスの種類、ブスの生態、ブスがもつべきマインドに至るまでブスの全てが網羅されている。
著者自身がブスであることを隠さないどころか、臆面もなく繰り出すブストークは自虐のような卑屈さを一切感じさせず、むしろ心地良いほどの破壊力がある。
“諦めていないブスにとって、4月はまたとないビッグチャンス”
“ブスはブスであること以外、何も続かない”
“腹にダイナマイトだけ巻いて突っ込んでくるブスに勝てると思ったら大間違いだ”
“珍妙な格好の個性派ブスは、服の方がドブス様の顔の個性に負けている”
“「金と労力をかけた結果ブス」という発射失敗ロケットみたいなブス”
“「自撮りブスしぐさ」を極めて、そんじょそこらのブスどもに差をつける”
ブス同士でマウンティング・・・
目次だけで怖い、しかし読んでみたいという好奇心が抑えられない。
そこそこの女を飛び越えて、めちゃモテ超絶美人を目指してしまうが故に失敗するブス。
奇跡的な確率を超えて、異性に好かれても疑心暗鬼に陥るブス。
4月に新しい自分になるため奇抜な服を着たエレクトリカルブスになるものの、5月には失敗に気づき普通のブスに戻るブス。
ブス同士でマウンティングする、ファイティングブス。
どこかで見た懐かしいブスたちの姿が生き生きと描かれている。読み進めるごとに笑ったり、胸が痛くなったり、思わず紙面上のブスたちに感情移入してしまう。 改善策なんて生ぬるいものは提示しない。「本当に生まれ変わりたかったら、1回死んで、福山雅治と吹石一恵の子供として転生するなど、入念な準備が必要だ。」と身も蓋もないことを平然と言う。
その代わりとして送られるエールは、論理的な説得力もあり、実に温かい。
“つまり、あなたが何かで成功した時「ブスじゃん」の一言で切って捨てようとしてくるやつが現れたとしたら、逆に「ブス以外、非の打ち所がない」と言われているのだと思って気にしないようにすればいいのだ。”
なんて励みになる言葉だろうか。 すぐ後ろに
“と言いたいが、それは「心臓が止まっている以外、元気」と言っているような気がしなくもない。”
とさえ繋げなければ…。
皆が美人を目指す必要なんてない
ブスの悩みの種となる「ブスなんだから、せめて愛想くらいよくしろ」という余計な御世話についても、「なぜ、自分を虐げるものにこちらが愛想よくしなければいけないのか。ブスにとって真に必要な女子力とは、そういう輩を一瞬で消し炭にする能力である。」と心強いアンサーを出してくれる。
ブスに生まれたからといって皆が美人を目指す必要なんてないし、ブスであることを必要以上に悔やみ、卑屈になることもない。ブスはブスという生き物である。それ以上でもそれ以下でもないただの現実だ。
ブスという言葉に縁のないファビュラスな美女、ブスを親の仇くらい憎んでいるお兄さん、そしてなにより自分がブスだと思い悩んでいる女性たちに読んで欲しい。
図鑑であり、雑誌であり、自己啓発本にもなる一冊だ。本書『ブスの本懐』を読めば、ブスという単語の破壊力が半減し、今までとは違う世界が見えてくるに違いない。 早く皆が本書を読んで、ブスのゲシュタルト崩壊を起こし、ブスとは何なのか分からなくなってしまう世界が来て欲しいと願ってやまない。