男女の心 浮気不倫 人の性(さが)
ひと時楽しむ 別世界
「一線は越えていない 」 橋本健
その気になっている女性 欲求不満で終わり
本当なら
浮気不倫の資格がありません
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■浮気不倫史 / 2017(今井絵理子・中川俊直・斉藤由貴)・2016(ベッキー・宮崎謙介・桂文枝・川本真琴・乙武洋匡・石井竜也・とにかく明るい安村 ・ファンキー加藤・三遊亭円楽・小倉優子の夫・森且行・中村橋之助・浦沢直樹・田中萌)・2015(井上貴博・菅原一秀・上西小百合・中川郁子・谷亮子)・2014(橋本聖子)・2013(林久美子)・2012(田中美絵子)・2011(西村正美・後藤田正純・矢島悠子)・2010(三原じゅん子)・2006(細野豪志・佐藤ゆかり)・2003(徳永有美・古瀬絵理)・2000(有働由美子)・1998(丸川珠代・畑恵)・1996(近藤サト)・1988(小宮悦子)・1982(田丸美寿々)・・・ 近代(翠川秋子)・近世(永井荷風・太宰治の妻・斎藤茂吉・下田歌子・勝民子)・江戸以前(絵島と生島・蓮如・日野富子・小野小町)・・・ |
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●浮気 一時の気分転換 元の鞘に収まります ●不倫 別世界への旅立ちが待ってます |
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●愛人・情人・情婦・情夫・色・良い人・好い人・恋人・不倫相手
●色(いろ) 正式の婚姻でなく通じている男女の関係、情事の相手 / いろで逢ひしははや昔、けふはしんみの女夫合ひ (「冥途の飛脚」) ●言い寄る 異性に話しかけたり手紙をやったりして近づく ●口説く 男女間で相手を自分の意に従わせようとして説得や懇願をする ●逢引 相愛の男女が人目を避けて会う (江戸後期から使われ始めた) ●逢瀬 愛し合う男女がひそかに会う ●密会 男女が密かに会う (その際の性行為を含み用いられる) ●情事 夫婦以外の男女間の肉体関係 ●お妾 男の甲斐性 (妾婦・めかけ・通女・そばめ・腰元・妾女) ●好色 異性に対してみだらな気持ちを抱くこと ●遊女 万葉集・遊行女婦(うかれめ) / 平安・遊女(あそび) / 中世・傀儡女(くぐつめ)・白拍子(しらびょうし)・傾城(けいせい)・上臈(じょうろう) / 近世・女郎(じょろう)・遊君(ゆうくん)・娼妓(しょうぎ)・太夫(最高位の遊女) / 江戸・花魁(おいらん・高級遊女)・湯女(ゆな・大衆的な遊女)・飯盛女(めしもりおんな)・辻君(つじぎみ)・惣嫁・総嫁(そうか)・夜鷹(よたか) / 娼婦・倡婦・酌婦・枕芸者・不見転芸者・売春婦 ●駆落 結婚を許されない相思の男女が、互いにしめし合わせて、ひそかに他所へ逃げ隠れること / 紙屋治兵衛と遊女小春 (「心中天網島」1720年) / 遊女梅川と亀屋忠兵衛 (「冥途の飛脚」1711年) |
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2017 | |
●今井絵理子と橋本健
●自民・今井絵理子参院議員 週刊誌の不倫報道受け陳謝 7/27 ダンスグループ「SPEED」のメンバーで自民党の今井絵理子参院議員(比例)は27日、今井氏と神戸市議会の橋本健市議が不倫関係にあると同日発売の週刊新潮が報じたことを受け、党本部で記者団の取材に応じた。「ご支援していただいた方々への信頼を裏切ってしまったことを本当に心から深く反省している。お騒がせして本当に申し訳ない」と陳謝した。 今後の対応については同日夕、改めてコメントを出す予定。 報道を受け、今井氏は同日昼、所属する麻生派(志公会)顧問の高村正彦副総裁や林幹雄幹事長代理などと面会し事実関係などを説明した。今井氏によると、高村氏から「今後は誤解を招くような行動は控え、頑張ってほしい」と注意されたという。 今井氏は「自民党が大変な中、私事で足を引っ張るような形を取ってしまったことも重ねておわび申し上げたい」とも述べた。 今井氏は、山東昭子元参院副議長の全面支援を受け、平成28年の参院選で当選。聴覚障害を持つ長男と議員活動を両立しているワーキングマザーとして注目されている。 ●不倫発覚の今井絵理子議員の悪評 7/28 元SPEEDの今井絵理子参議院議員(自民比例)が、神戸市議会議員(自民党)の橋本健氏と不倫していると、27日発売の「週刊新潮」(新潮社)が報じた。 この報道を受けて、今井氏はコメント文書を発表。「私も好意を抱いていたのは事実ですが」としつつ、橋本氏へは「一線を越えてはいけないと思い、きちんとけじめをつけてから考えましょう」と伝えたと釈明。さらに「雑誌タイトルにあるような略奪不倫ではありません」と不倫を否定した。 今井氏といえば沖縄出身で知られるが、昨年7月の参院選で当選確実が報じられた直後に出演したテレビ番組内で、ジャーナリストの池上彰氏から「沖縄の問題について、立候補して初めて色々考えるようになったということでしょうか?」と聞かれ、「はい、そうですね」と発言。さらに「これから沖縄の問題を考えていく、ってことですね?」との質問に大きくうなずいたことが批判を浴びた。こうした言動から、当選直後から今井氏の勉強不足を危惧する声も多かったが、ジャーナリストの朝霞唯夫氏は語る。 「今回の不倫報道を受け、自民党のベテラン衆院議員は自嘲気味にこう語っています。 『風で当選してきた“安倍チルドレン”の典型だ。嫌なことはしない、時間をつくっては遊ぶことばかり。政治家が劣化しているとか、調子に乗っているとか言われて批判されるけれど、何も言い返せない。結局、自民党がおごっていたということです』 また、永田町関係者の一部からは『安定した生活を手に入れるために政治家になった能なし議員。票集めにスカウトした自民党も自民党。結局、今井氏も自民党もその程度』という声も聞かれます。もっとも、本意は本人しかわからないもの。こうした見方を否定する気があるなら、態度で示すべきだと改めて思います」 また、国会議員秘書は語る。 「今井氏はシングルマザーとして障害のある子どもを育てていることを選挙戦で強調し、当選しましたが、こうして今井氏の不倫が大きく報じられることがお子さんにどのような影響を与えるのかに考えが及ばなかったとしたら、母親として失格でしょう。記事を読む限り、今井氏は自宅として使う都心のマンションから電車ですぐに会いにいける距離にある母親宅にお子さんを預けたまま、2日間連続でそのマンションやホテルに橋本氏と泊まっています。さらにそのホテルではパジャマ姿、しかも髪が濡れたままの姿で部屋の外に出て廊下を闊歩する写真が掲載されていますが、常識もモラルないこんなバカ政治家に、国民の税金が払われていると考えると腹立たしいですよね」 そんな今井氏の今後について、政治記者は語る。 「今井氏が次回の選挙で当選する可能性はゼロですが、参院議員の任期は6年で解散もないので、何もしなくてもあと5年は議員として国から給料をもらえる。また、今年1月に公表された参議院議員の『資産等報告書』で、今井氏の保有する総資産額は約1億円に上り、沖縄の所有する軍用地から収入を得ていることも明らかになりました。任期が終了する頃には今回の不倫に対する世間の記憶も薄れているでしょうから、多額の蓄えに加え、タレント活動や軍用地からの収入で十分に余裕のある生活を送っていけるのではないでしょうか」 今井氏には、せいぜい給料に見合うくらいは、男だけでなく政務にも精を出してほしいものだ。 ●今井議員と不倫疑惑が報じられた橋本市議が会見 7/28 自民党の今井絵理子参議院議員(33)と不倫疑惑が報じられた、橋本健神戸市議(37)が、会見を行った。今井議員は、27日に「信頼を裏切ってしまったことに関して、本当に心から、深く反省しています。お騒がせして、本当に申し訳ございません」と陳謝する一方で、「一線は越えていない」などとするコメントを発表した。 ●記事に書かれている事はおおむね事実と一致 神戸市会議員の橋本健でございます。この度は本日発売されました週刊新潮さんに掲載されました一連の記事に関して、多くの方々にご迷惑とご心配とご負担をお掛けしたことに、まず最初にお詫びをさせていただきたいと思います。申し訳ございませんでした。 私の方から経緯を説明させていただきたいと思っております。記事に書かれている客観的な事象、写真や私がいつ、どこにいた、歩いていたなどはおおむね事実と一致しています。小さな部分で違いはあれど、おおむね一致しています。 強調させていただきたいのは、タイトルが過激で「不倫」と断定されていることと、「略奪」とされていることについては、私自身も困惑をしています。これはなかなか世間のみなさまには、ご理解、ご納得をいただけないと重々承知していますが、自身の脇の甘さだとか、認識の甘さだと非常に反省をしています。 記事中にもありましたように、お恥ずかしい話でございますが、私自身、家庭の問題も抱えていて、ここ4〜5年にわたり、事実上、婚姻関係は破たんしている状態で、1年前からは離婚の申し出と、裁判外での離婚の協議が、私自身も別居を始めているところでございます。 3月には調停の申し立てを行い、現在3回の調停が行われているところでございます。 婚姻関係が破たんしている場合、仮にですが、一般的に不貞行為といわれるものがあっても、該当しないと知識はあったものですから、このたびは不貞行為はないと一貫して主張させていただいておりますが、そういったことは問題にならないという認識の下で、今回の軽率な行動をとってしまったことを深く反省しています。今井議員との関係につきましては、お配りした資料に書いておりますが、1年前の参議院選挙、その前に私どもが行った勉強会を通じて知り合いまして、議員に当選されて以降、情報共有や勉強会などで、次第に仲が良くなったという現状でございます。 このたび、こういう事態になり、正直、自分でも考えていなかったのですから、大変困惑しておりまして、どこまでお話していいものなのか。質問あれば、お答えさせていただきたいと思います。 ●一線は越えていない ――いつごろ、どちらから交際を申し込んだ? 政治家の立場でどこまで話していいのかわかりませんが、この間、6月の末だと認識しております。私の方から「交際を考えていただけないか」というお話をさせていただきました。今井議員からは、まだ私の離婚問題が解決していないことから、「解決するまでは今のままでいようね」と言葉を頂いております。 ――不倫の自覚は? なかなかご理解いただけないかもしれませんが、婚姻関係が破たんしていることにおいて、恋愛を認めてもらえると認識していたものですから、みなさんにお知らせるなどと到底考えていなかったわけで、お恥ずかしい話です。 ――今井議員が文書の中で「一線は越えていない」と言い切っているが…。 それは超えておりません。 ――ホテルに一晩、宿泊したりしているが、本当に一線を越えていない? はい。たわいない談話は当然させていただいておりますが、もともと我々の関係は、委員会質疑の内容を思慮したり、議論をしたりとか、わからないことをレクチャーすることも。私からは障害者福祉などについて彼女は非常に詳しいですから、私も学ばせていただいております。翌日、掲載されていた記事に乗っていましたが、講演会があれば原稿の作成などもしていました。 ――政治家としてどうありたいか。支持者の方に対してはどんな言葉をかけていきますか? 本当に私にとっては自身が若手として活躍している意味は、若い方たちに政治を志してもらったり、興味を持ってもらったりという意味では、政治家は手本になる存在だと思う。今回このように報道されたことについては、痛恨の極みだと考えて追います。大変申し訳なかった。 ――2児の父として、教育について熱心に政策提言をされていて、これまでの活動や家庭が破たんしていると言っていましたが、父親としては変わらないと思います。自分の子供、今井さんの子供についてどういう気持ちでいますか? これについては双方の子供たちに対して、報道が出たことによる影響は非常に危惧しています。当然、良い影響を与えるわけではないので、ただ私の認識の浅さがどこにあったかというと、私どもの取った行動が決して不法行為には該当しないという認識のもとだったことですから、あたかも不法行為のように報道されることは抗議まではいきません、若干不本意であると認識しておりますが、これが世間の反応だということを改めて認識して、先ほども申し上げました通り、自分の思慮のなさを反省しているところでございます。今井さんのお子さんにつきましては、私からすると当然、聴覚障害者としての生き方、母親を通じて聞いていますが、ご本人からも聞いてみたいと思うし、私自身の子供たちに対しての話は大変恥ずかしいですが、1年以上合わせてもらうことができていないものですから、この時点で子どもとの関係を、報道を除けば変わるということではない。むしろ、私が抱えている離婚問題が解決すれば面会権等通じて会えるのかなと、早期自信が抱えている問題解決を進めていきたい。 ――今井議員の選挙の応援や一緒に活動していた場面で、政務活動費を含めて税金は使っていないか。 一円も使っていない ――今井さんとのお付き合いは続けていく? 私自身は不法行為ではないという認識のもとでやっていましたが、このような大きな反響と私の立場で言うと大きな誤解を与えてしまったというものがありますから、明らかになるまで誤解を与えることのないような関係を続けていきたいと思います。誤解を与える行動は慎んでいきたいと思います ――週刊誌の写真では今井議員がパジャマ姿。パジャマ姿で勉強会? 恥ずかしい話ですけど、しました。今井議員から電話があり、廊下の前を、今、思えば新潮社さんのカメラマンだったのだろうな。「男性2名が常に行ったり来たりしていて、怖い」という話を伺い、私も伺うと何回も行ったり来たりしていて、問い合わせた方がいいのでは、という話をしていて、その時の姿が今回、写真に撮られたようです。日常的にあったわけではございません。 ――手をつないでいる写真が…。 すみません。私が握ってしまいました。私が新幹線の中で、と認識しています。 ――あれは意識があったんですか? 私は意識がありました。 ――今井議員が寝ていた時に思わず? 思わずというか、私は意識をもって握っているわけで、大変お恥ずかしい話でございます。 ●痛恨の極みです ――今後の議員活動について。自民党市議団の議員として、活動するのか。 自分はそう願っております。当然、万が一処分等々ある場合は甘んじて受けたいと思いますが、私の一存で決定できるものではないので、議員団の仲間と話し合って決めていきたいと思います。 ――今井議員が党本部から処分を受けた場合、それに順ずることは? 今回の騒動で、今井議員に多大なご迷惑をお掛けしてしまったと大変反省しております。私自身は彼女を応援したいと思っていましたが、彼女の信頼を大きく損ねる結果になってしまった。今朝、私の方にも彼女の支援者もしくはファンの方だと思いますが、「あなたが今井議員の人生をめちゃくちゃにした」とのメールを頂いたときには、どう反応したらいいかわからない思いではありました。党本部に対しては、処分等々は行ってほしくないと思っておりますが、万が一処分があった場合は、私自身も順じて処分を受けることが適当だと考えております。 ――今井議員とはどんな話をしましたか。 申し訳なかったと、もしも彼女に処分等は行われた場合に、私自身がどう責任を摂ったらいいのか、困惑するような状況だと伝えました。 ――交際を申し込んだ時の今井議員の反応は? 先ほども話したように、あなたの問題が解決するまではこのままの関係でいようとお答えしてもらっています。 ーー“政治家・今井さん”から恋愛対象へ変わったのはいつ頃? 好意は抱いておりました。テレビの向こうにいたトップ歌手が目の前にいるわけですから、憧れの存在から政治の話をするようになり、どちらかといえば私の方が政治の先輩のような関係もありましたし、年も近かったので、友人のような関係に。その中で抱いた好意。 ――もともとファンだった? 私自身は大ファンであったわけではないのですが、みんなファンだったと思います。追っかけとかするわけでも、必ずCDを買うわけでもないです。2月の出馬表明の時に、HPに出た際に議員仲間とタイにいて、母親としての生活なども知っていて、ぜひ応援したいと。そこから4月の勉強会に来ていただいたこと、選挙活動を応援していただいたことにつながりました。ファンという位置づけではない。よく知る国民の一人でした。 ――書面を出すタイミングは二人で? 彼女が出すタイミングを見て、私も出しました。私はインターネットを通じて彼女の内容を確認しましたので、打ち合わせはしていません。 ――お互い「一線を越えていない」主張しているが、「一線を越えていない」とは? みなさんのご理解にお任せします。 ーー手をつないだは一線を越えていない? そういうことだと思います。 ――何回手をつなぎましたか? 覚えていません。5回を何回も、100回を何回もというのか…。そんなに多くはありません。 ――向こうが意識があるときも手をつないでいる? 意識の有無は分かりませんが、あったと思います。先方がないと言われれば、そうかもしれませんが。 ――自民党が逆風の中ですが…。 痛恨の極みです。総裁はじめとして、議員、支援者、党員の方に対してどう申し開きをしていいのか悩んでいます。本当に申し訳ないと思っています。プライベートのことで、刑法違反をしているわけではないですし、直接、政治活動に影響がないものだと。どうかこのことで支持率が左右することはないようにお願いをしたいです。 ――今まで国会議員は何人も頭を下げたり、辞めたりしていますが、ご存じではなかった? 存じ上げております。私の認識の浅さと思慮のなさ。私自身の行動が、前例の過去の議員たちが起こしたものとは異なるものと認識していたため、ここまでの大きな反響が出ると思っていませんでした。 ● ビートたけしが29日、レギュラーを務めるTBS系「新・情報7DAYS ニュースキャスター」に出演。不倫疑惑の渦中にある今井絵理子参院議員に対し、「『一線』ってどういうことなのか」と疑問を投げ掛けた。 今井議員は、橋本健神戸市議との不倫疑惑が報じられた27日に報道各社にあてたFAXで「“一線を越えてはいけない”と思い…」などとつづり、会見した橋本市議も「一線を越えていない」と説明。ネット上などでは、「一線」の定義に注目が集まった。 不倫疑惑を報じた週刊誌には、同宿したとされるホテルでの今井議員のパジャマ(ガウン)姿の写真や、2人が新幹線で“恋人つなぎ”で手を絡めて眠っている写真などが掲載されていた。 ネット上で「一線」という言葉が急上昇ワードになるなど、注目を集めたが、たけしも「(会見で)『一線を越えた、ってどういうことですか?』って言ってくれりゃ、それも“解禁”なんだけどね。豊田(真由子)議員の『このハゲ〜ッ!』みたいに。『一線』ってどういうことなのか、大きな言語で言ってほしかった」と、決定的な写真が公になったにもかかわらず、「一線を越えてない」と主張した発言に苦笑していた。 ●今井絵理子・自民党参院議員が約1カ月ぶりに公務復帰 無言貫く 8/25 自民党の今井絵理子参院議員(33)が25日、自民党の文部科学部会に出席し、約1カ月ぶりに公務に復帰した。今井参院議員は部会終了後、不倫相手とされる神戸市の橋本健市議(37)の政務活動費の架空発注疑惑が取りざたされており、記者団から質問が出たが無言を貫いた。 ●橋本健市議、もうすぐ辞職か!? 8/27 共倒れだ。「SPEED」今井絵理子参院議員の人生設計が完全に狂ってしまった。略奪不倫疑惑のお相手、橋本健市議に720万円にのぼる市政報告チラシの架空発注疑惑が浮上。「週刊新潮」などによれば、橋本氏は2010年から5年間、議会報告用のチラシ製作を市内の印刷会社に8回発注。1回当たり5〜8万部を刷り、およそ720万円を政務活動費として計上した。 ただし、実際にはサンプル版を一部に配ったのみで、大半は印刷していなかった疑いが強まっている。これに橋本氏は23日に緊急会見を行い、印刷会社と下請け会社の名前を出した上で「架空発注はしていない」と否定。他党の市議や地域住民にチラシの実物を見た者が皆無な点については「友人とマンションに配布したが、多い時は半数以上を余らせ廃棄した」と釈明した。 ところが翌24日、名指しされた神戸市内の印刷業者A社が代理人弁護士を通じて「実際には印刷の仕事をしていないのに、橋本市議に頼まれて領収書を発行した」と暴露。橋本氏から商品名や数量、金額などを指示されたと明かしたものだから、当人は万事休すだ。 政界関係者は「議員辞職どころから、立件される可能性が極めて高い。彼の“裏金作り”は自民党の諸先輩方から踏襲したもの。疑惑が他の議員に飛び火してはまずいため、党はトカゲの尻尾切りに走るだろう」と話す。 政務活動費の問題では、“号泣県議”野々村竜太郎氏が、政活費約913万円を私的に流用。2015年8月に詐欺および虚偽公文書作成・同行使容疑で在宅起訴され、翌年7月に懲役3年、執行猶予4年の有罪判決を受けた。“一線を超えた”橋本氏も野々村氏と同じ命運をたどることになりそうだ。 計算が狂ったのは交際中の今井氏も同じだ。週刊誌に略奪不倫疑惑を報じられても、2人は交際を続行。橋本氏は妻と離婚調停中だが、今井氏はお構いなしに周囲に再婚願望を語っていたという。「シングルマザーの今井氏は子供のためにも、スペックの高い父親を欲していた。議員以外に病院も経営する橋本氏はまさにうってつけ。周囲に何を言われようが、再婚に向けて猪突猛進だった。その矢先の今回のスキャンダル。立件されれば橋本氏の政治生命は終わりだし、病院経営に影響を及ぼす可能性がある。彼女も頭を抱えているだろう」とはスポーツ紙記者。 今井氏も一連の不倫疑惑でこれまでのクリーンなイメージは失墜。今井氏を知る人物いわく「彼女の性格を考えると、橋本氏に見切りをつけて次のターゲットに移る」というが、打算的な男選びがバレてしまった以上、“次の相手”は警戒しまくるだろう。「天網恢恢疎にして漏らさず(悪いことをした者は必ず罰せられるの意)」。 2人にはまさにこの言葉がふさわしい。 |
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●中川俊直
●中川俊直議員の不倫問題、がん闘病中の妻が謝罪 4/21 週刊新潮などの不倫報道を受けて経済産業政務官を辞任した、中川俊直衆院議員の妻が取材に応じ、「連帯責任」と謝罪する姿が4月21日、フジテレビ系「直撃LIVEグッディ!」などの各番組で放送された。がんで闘病中の痛々しい姿で謝る妻の姿にネット上では、「気の毒すぎる」という声や、中川議員や、放送したフジテレビに対する怒りの声が挙がっている。 20日に発売された週刊新潮は、中川議員が2013年、ハワイで元愛人との間で結婚証明書にサインをし「重婚ウェディング」を挙げたと報じた。また、3月にも写真週刊誌「フライデー」が、中川議員が自民党の女性国会議員と“密会”していたと報じていた。 朝日新聞デジタルによると、中川議員は報道を受けて21日、自民党に離党届を提出した。 フジテレビ系「グッディ!」は同日、中川議員の自宅を取材した様子を放映した。インタビューは20日夜に行われ、「妻の悦子さんが自宅に取材陣を招き入れた」としていた。 がんで闘病中の悦子さんは、帽子・マスク姿で自宅の玄関に正座し、「本当にこのたびは主人によって大変ご迷惑をおかけしたことを、主人ともども私もお詫びします」と、テレビカメラを前に深々と頭を下げた。 また「主人がしてしまったことに対しては連帯責任と言ったらおかしいですけれど、少なくとも私が主人の仕事の手伝いをさせていただいていることもありますので、私にできるのは本当におわびすることだけなので」とも話した。 一方で中川議員は不倫報道後、公の場に姿を現すことはなく、Facebookで釈明しただけ。離党届提出も代理人が行ったという。このことから、中川議員の不誠実さに対して怒りを表明する人々の声がネット上に挙がっている。 ●中川議員 涙の丸刈り不倫釈明会見、辞職せず「生き恥さらす」 7/30 今年4月に女性問題で経済産業政務官を辞任し、自民党を離党した中川俊直衆院議員(47)=広島4区=が29日、地元・東広島市内で騒動後初めて会見を開いた。不倫行為と公の場での説明が遅れたことを謝罪したものの「次の総選挙に向けてスタートしていきたい」と述べ、議員辞職を否定した。 黒いスーツにネクタイ姿の中川氏は「一連の報道を通じ、ご迷惑をおかけした全ての皆さまに、おわびを申し上げたいと思います」と短く刈った頭を10秒間下げ謝罪した。今年4月、週刊誌に「重婚挙式」「ストーカー」疑惑が報じられて以降、フェイスブックなどで釈明していたが、自身の口で直接謝罪するのは初めて。時折、声を震わせながら「生き恥をさらしてでも国民、郷土のためにお役に立たせていただきたい」と述べ、議員辞職を否定した。 とはいえ自民党で次々と不祥事が発覚する“魔の2回生”の中川氏の会見は、問題発覚から3カ月後。しかも、安倍内閣の支持率が急落する中での最悪のタイミングとなった。 会見では、不倫女性と米ハワイで挙式写真を撮った経緯を「相手の女性が“ウエディングドレスを着たい”と話したので、夢をかなえてあげようと思った」と説明。撮影時の気持ちを聞かれ「相手の要望がかなって良かったなと思っていました」と話すと、報道陣から失笑が漏れた。妻の闘病中に不倫していたとの指摘には「(女性と関係が)終わった年の夏に、家内と検査に行き病気が分かった」と話し、時期が重なっていないことを強調するなど、苦しい回答に終始。また、写真週刊誌に報じられた自民党の前川恵衆院議員との不倫も否定した。 会見を行ったのは、主に結婚式で利用される施設。関係者は「この場所しかなかった」としたが、愛を誓い合う神聖な場所で、不倫を謝罪するとは何とも皮肉な光景だった。 父の秀直氏も女性問題で要職を辞任しており地元有権者は「親子2代で女性問題を起こし、あきれている。(俊直氏に)投票する気はない」と冷ややか。再出発はいばらの道となりそうだ。 |
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●中川俊直 2 ●スキャンダル 中川俊直と元愛人は2011年に交際をスタートしたという。元々、古い知人であったが、東日本大震災を切欠にFacebookで連絡を取り合うようになり、再会し男女の関係になったという。中川俊直は嫁の悦子さんがいるにも関わらずに、独占欲が強く元愛人の家に1年の中で300日はいたという。中川俊直は2012年に議員になったが、元愛人と交際した期間でディファニーやブルガリの指輪、ネックレスをプレゼント。カードだとバレるから現金で購入していたという。2013年9月にはハワイにいった中川俊直と元愛人は結婚式を挙げる。この時も中川俊直は元愛人にティファニーの指輪を与え、入籍は出来ないが結婚証明書に署名したという。 ●とんでもない嫉妬・・・ 中川俊直と元愛人との関係にヒビが入りだした理由は、中川の異常な嫉妬と妄想癖によるものだ。 ・元愛人が旧友の男友達にFacebook上でいいねをすると、中川俊直が起こりだして別れるの一点張り。 ・元愛人が中川俊直に別れるといわれたから連絡しないと、『何で連絡してこないんだ!』と怒る。 ・元愛人が自宅をリフォームした際、その様子をFacebookに投稿。 画像にうつっている工具をみた中川俊直はそれを別の玩具と勘繰り彼女をなじる。 そういった下らない中川俊直の妄想と嫉妬により別れ話になり、2015年3月に破局した。が、2016年11月にふとした切欠でよりを戻してしまったが・・・。 ●中川俊直と前川恵 中川俊直とよりを戻してしまった元愛人。その頃には中川俊直は週刊誌に追われているとか、前カノのことを元愛人に話していたという。前カノとはやはり前川恵であり、中川俊直は『顔とかはかわいくないんだけど』と、答えていたという。前川恵とは2015年12月に仲良くなり、2016年始めから10月頃に別れたということだ。交際中は前川恵の事務所の内装改良費に中川俊直は100万円ものお金を渡したということまで漏らしている。だが、別れている筈の前川恵から2016年12月25日に連絡が欲しいと、中川俊直の元にメッセージが入る。中川俊直は電話を入れたが、元愛人は電話からもれる声などから前川恵とまだ付き合っていると思ったという。そして、中川俊直は口を滑らせて、元愛人を怒らせたのだという。要約すると、中川俊直は二股を実はかけ続けていたということとなる。 ●ストーカースキャンダル 元愛人のこれまでの怒りが頂点に達して、週刊誌の知り合いに全部話すというと『そんなことされたら僕は死んじゃう。 死んで償うからそれだけは。』と、言ったという。その日の正午過ぎに中川俊直は元愛人の自宅にやってきて、自宅の電話や携帯にコールし、メールも送りつけてきたが、元愛人は無視。立ち去ったと思いきや、夕方ごろに再びやってきて自宅の扉を乱暴にたたき続けたという。インターフォンごしに元愛人は中川俊直にこういったという。『あなたを卑劣な男だと思っているので。 議員止めますとか死にますとかいっているけど、その言葉通りにしてください。』すると中川俊直は外で叫びながら号泣し、土下座までしていたのだという。近所のことも考えて、110番して、警官の勧めで元愛人は中川俊直をストーカー登録したという。 |
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●斉藤由貴 2017/8/2
今クールのドラマに出演中の女優・斉藤由貴(50)に、まさかの「不倫疑惑」が報じられてしまった。突然の「文春砲」に、ネットも騒然となっている。 ●50代開業医との不倫交際疑惑 斉藤の不倫疑惑を報じた文春オンラインによれば、斉藤は横浜市在住の50代の開業医の男性A氏と、平日の日中A氏のクリニックの昼休み時間に、それぞれの自宅とは異なる賃貸マンションの一室にて密会を重ねていたという。斉藤は、自身が信仰しているモルモン教の教徒である2歳年上の一般男性と結婚しており、3人の子を持つ母でもある。また、同誌によると、相手男性であるA氏も、妻子を持つ人物であるとのこと。 ●所属事務所は「不倫疑惑を否定」 斉藤への「文春砲」に対し、斉藤の所属事務所は、密会に使用されていたマンションについて「斉藤が借りている個人の事務所」としており、不倫疑惑を否定しているという。また、A氏も同誌の直撃取材に対して「往診です」と、同じく不倫疑惑を否定しているとのこと。 ●尾崎豊さんとの騒動が思い出される? かつて斉藤は独身時代に、歌手の尾崎豊さん(享年26)とも「不倫疑惑」を騒がれた過去が。尾崎さんが亡くなった直後、「尾崎さんとの不倫が噂された人物」として、取材陣からインタビューを受けると「彼と私は同志みたいな感じ」とコメントしていた。 |
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2016 | |
●ベッキーと川谷絵音
1月7日発売の「週刊文春」にてタレントのベッキーとバンド「ゲスの極み乙女。」のボーカル川谷絵音がクリスマスイブを2人で過ごしたことや、正月に川谷の実家を2人で訪れたことなどが報じられた。ベッキーは発売前日の6日に会見を行い謝罪。ベッキーの会見後、川谷も報道各社にFAXで騒動についてコメントするとともに、既婚者であったことも報告した。 謝罪会見後もレギュラー番組には出演していたベッキーだったが、1月21日発売の「週刊文春」で6日の会見直前にベッキーと川谷が交わしたLINE画像を公開されると、ベッキーを起用していたCMは次々に打ち切りとなり、ついには芸能活動を休止することとなった。 ベッキーは5月13日に「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」に出演すると、その後、少しずつではあるがメディアへの露出を拡大。2017年1月15日に始まる北海道文化放送の番組「北海道からはじ○TV」へのレギュラー出演が決まるなど、完全復帰に向けて着々と進んでいる。 一方、川谷はタレントのほのかりんとの交際や、川谷同席のもと未成年であるほのかりんが飲酒していたことも報じられた。ほのかりんは舞台やテレビ番組を降板。10月3日に「ゲスの極み乙女。」の所属事務所もこの事実を認め、「ゲスの極み乙女。」の活動自粛が発表された。 ● 今年はベッキーと川谷の不倫騒動で年が明けたといってもいいほど。もはやあらためて説明の必要もないでしょう。「ゲス不倫」「センテンススプリング」といった流行語も生まれた芸能暗黒史に残る不倫劇。ベッキーは長い活動自粛期間を経てようやく復活の兆しを見せていますが、一方の川谷は新たな未成年の恋人との飲酒報道でバンドが音楽活動休止となる始末。この1年を通して何かと話題を振りまいた川谷は、報じた文春にとっては表彰したいくらい有り難い存在だったことでしょう。 |
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●宮崎謙介
もともと、かなりチャラ男だった宮崎謙介さん。小学校のときから下ネタを用語を友達に教えたり、エロ本を拾って友達の家で見たりしていました。早稲田大学では、188cmと高身長のチャラ男として、常に大学の講義の後ろの席で、ガールフレンドとイチャついていました。 議員になっても、その本質は変わらず女性記者を口説いたり、自民党本部の受付嬢と合コンしたと散々でした。そういった意味では、今回起きた宮崎謙介さんの浮気は、遅かれ早かれ発覚はしてたと思います。 ●エピソード 2006年に加藤鮎子と結婚したが、2009年に離婚した。 離婚原因は宮崎の女性問題であったと報じられた。また、結婚にともない、宮崎は姓を宮崎から加藤に変更し、岳父である加藤紘一の引退後に自身が出馬できるよう準備を整えていたと報じられたが、これに対し宮崎は「当時は政界に興味は全くなかったです」と否定した。前述の原因もあり、宮崎は引き継ぐ予定だった加藤家の地盤である山形3区を継げず、京都3区から公募で出馬することとなった。 2015年5月19日、同じ自民党・二階派所属議員である衆議院議員・金子恵美との再婚を発表した。再婚に先立ち、すでに妊娠している(いわゆる「できちゃった結婚」)と報じられた。金子との再婚を発表する一方で、宮崎は自身の支援者の娘とも交際していたことが報じられた。交際期間が金子と重複しているとも報じられたが、宮崎は取材に対し「全然全然。マジ勘弁してって感じですよ。妻と始まったのは二月中旬から下旬だから、時系列的には全然かぶってない。俺、かぶせることしないから」と答えた。2016年2月18日、後述の不倫報道の続報として、週刊文春(2016年2月25日号)は、宮崎が金子とは別に他の女性とも婚約していたと報じた。 2015年12月23日、日枝神社で挙式し、都内のホテルで結婚披露宴を行った。政治家の挙式・披露宴としては珍しくマスコミフルオープン(カメラ取材など全て自由)で行われた。2016年2月5日、第一子となる長男が誕生した。 ●育児休暇取得 金子議員の出産を控えた2015年12月、宮崎は男性の育児休暇について、「休暇を取ることによって職場で冷遇されるのではないかということが障壁になっている中、国会議員が先例となって率先して育児に参加したい」として、国会開会中に一か月程度の育児休暇を取得する意向を示した。これに対し、女性活躍を担当する加藤勝信一億総活躍担当大臣は、「男性の育児休暇を促していきたい中で、議員が率先してやっていくのは大事」と述べるとともに、現状、衆議院の規則では育児休暇の規定はないため、「民間の就業規則などとは違うので、どのように国会の制度に入れていくのか、国会で議論してほしい」、「国民から負託を受けた一票は大変重たいが、それをどう行使していくのかバランスの問題だ」との考えを示した。また、宮崎は有志とともに個人事業主など育休の取得が困難な労働者に対する法整備などを議論する勉強会を立ち上げた。 一方で、谷垣禎一自民党幹事長は「自営業者には育休の制度はなく、育児休業しようと思ったら、いくらでも本人の判断でできる。基本は国会議員も同じだ」と述べるにとどまった。また、育児休暇取得に先立ち、2016年1月、宮崎は大島理森衆院議長に対し、衆院規則へ「育児休暇」を追加するよう申し入れた。しかし、宮崎の一連の行動は自民党国会対策委員会への事前連絡を一切行わずになされたものであったため、佐藤勉自民党国対委員長は「政党の所属議員が議員全体の規範に関わる改正を、党の了解なしに申し入れようとするのは前代未聞だ」として、不快感を示した。これを受けて宮崎の申し入れは撤回された。 ●妻の出産入院中に不倫を批判され議員辞職 2016年2月、金子が出産(切迫早産)のため緊急入院していた1月30日から31日にかけて、宮崎が自身の選挙区にある京都市伏見区内の自宅マンションに女性タレントを招き入れ、ともに宿泊したと週刊文春(2016年2月18日号)に報じられた。問題の日、宮崎は京都市長選挙の応援のために京都市内を訪れており、女性タレントも伏見稲荷大社など京都市を訪れていた。女性タレントは一泊した後に帰京した。女性タレントは1月4日にも衆議院第一議員会館を訪れており、同日行われた自由民主党の新年会において和装で登場した宮崎の着付けを担当した。新年会には妻の金子も出席していた。 同年2月5日、週刊文春デジタルの取材に対し宮崎は「いやいやいや。勘弁してくださいよ。どういう時期か分かってるでしょ」と答え、タクシーに乗りいずれかの方向へ立ち去った。 同年2月9日、衆院本会議に出席後、国会内で記者団に不倫疑惑について問われた宮崎は、無言のまま駆け足で車に乗り込みその場から立ち去った。その後、議員事務所も宮崎と連絡が取れなくなるなど、一時行方がわからなくなっていたが、金子の入院している病院に滞在していることが10日までに明らかになった。二階派幹部が宮崎のいた病院まで訪れ、聞き取り調査を行った。 同年2月10日、宮崎は所属している二階派の代表である二階俊博自民党総務会長に謝罪した。二階は、「皆で力をあわせて問題の解決に努力しよう」との考えを明かした。一方、同日の衆院予算委員会で安倍晋三内閣総理大臣は「政治家は自らの行動を律していく必要がある」と一連の報道に言及した。公明党の山口那津男代表は「公人としての心得や緊張感を持たなければならない」と指摘した。佐藤自民党国対委員長は「政治家として今まで言ってきたことへの責任はあり、きちんとケジメをつけるべきだ」と同日の記者会見で強調した。民主党の安住淳国対委員長代理は一連の報道に対し「(宮崎に)育児休暇を与える国会議員は1人もいないのではないか」「(育児休暇取得は)売名行為だったのではないか」と報道陣に答えた。不倫疑惑の相手とされる女性タレントは、グラビアタレントの宮沢磨由であると日刊スポーツに報じられた。同日までに宮沢は宮崎との関係を示唆する1月4日、30日、31日および2月2日に投稿したブログを削除した。 同年2月11日、谷垣自民党幹事長は新潟市で行われた講演のなかで一連の報道に対し陳謝した。 同年2月12日10時45分から、国会内にて記者会見を行うことが11日までに報じられたが、自らの進退については「一からやり直し。やれるだけやっていきたいと思います」として議員辞職については明確に否定した。同年2月12日、宮崎は議員会館内で記者会見を行い、事実関係を認めた上で、議員辞職する意向を表明した。不倫による議員辞職は憲政史上初めてのことであった。 会見では「相手からSNSでメッセージをもらった」として、自身の積極的な関与については最後まで否定した。これに先立ち、宮崎が党関係者に「ハニートラップに遭った」などと弁明していたことが報じられた。 また、会見のなかで、結婚後、他にも複数の女性と性的関係があった点を認め、謝罪した。さらに、結婚記念日にも不倫行為があったのではないかとの問いについては、回答を拒んだ。これについて、同年2月18日、週刊文春(2016年2月25日号)は、宮崎が金子とは別に他の女性とも婚約していたと報じた。一方で、宮崎の一連の辞任表明は所属する自民党京都府連への事前連絡を一切行わずになされたものであったため、西田昌司同京都府連会長は「まずは京都で支援者やわれわれと意見交換してから決めるべき。(再出馬の)資格はない。党も離れてもらうべき」として、不快感を示した。 同年2月15日、女性タレントがTBSの取材に応じ、宮崎と初めて出会ったとされる1月4日の状況について証言した。証言によると、宮崎は「着付けってどうやるのか教えて」と声をかけた上、女性タレントの手を握るなどし、その後、宮崎は女性タレントに対しLineで「好き」「会いたくてたまらない病」「私のど真ん中は“ソナタ”」「京都に来ない?」といったメッセージを一日に400回以上も送りつけ、何度も繰り返し自らの写真をLineで送るよう要求したという。また、同日の衆院予算委員会で安倍首相は「党総裁として申し訳ない」と自由民主党総裁としての責任を認め、陳謝した。 同年2月16日、衆院本会議で宮崎の議員辞職が全会一致で認められた。また同日付で自由民主党本部に離党届を提出し、受理された。 |
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●宮崎謙介 2 2月10日発売の「週刊文春」にて、1月30日に自宅に女性タレントを招き入れて一夜をともにしたと報じられた。妻の金子恵美衆院議員が第一子を出産した2月5日の約1週間前のことだった。宮崎議員は2月12日、議員会館にて会見を開き、事実関係を認めたうえで議員辞職を表明。 国会議員で初めて育児休暇を申請、イクメンぶりをアピールしていただけに、世間を失望させる一件となった。 |
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●宮崎謙介 3 衆議院議員である妻・金子恵美さんの出産と時期に、育休取得を一方的に宣言しておきながら、身重の妻を顧みずに巨乳タレントを家に連れ込んだ。なお2006年に加藤紘一元内閣官房長官の娘、加藤鮎子議員と結婚したが3年で離婚している。 ●育休不倫の宮崎謙介(元衆院議員)のその後 2017/3/16 もしこの一件が発覚しなければ、「男性議員の育休第一号」となった彼は、わが子を抱いて国民の前に現れていたかもしれない。過ちを犯し、夢破れた今、本当に反省しているのか。その後を追った。 不倫相手の女性の言い分 「彼(宮崎氏)は議員を辞めて、一般の方になりました。私も一般人です。もう終わったことですから」 3月初旬、本誌の取材に対してこう語ったのは、宮崎謙介元衆院議員との不倫疑惑が報じられた、タレントの宮沢磨由(34歳)だ。 宮沢はこの事件について、「もう終わったこと」だと語った。彼女が言うように、議員辞職した宮崎氏のほうも、「もう自分は一般人で、けじめはついた」と思っているかもしれない。 しかし、不倫が発覚したときには、宮崎氏はまだ、有権者の信頼と巨額の税金を背負う国会議員だったのだ。 しかも、「男性議員にも育児休暇を」と叫んで一躍有名になった宮崎氏が、妻の妊娠中に不倫していたという不祥事は、まじめに「男の育休取得推進」に向けて活動していた一般の人々の思いも踏みにじった。この一件で、どれほど「男の育休」の普及にブレーキがかかったか、その負の波及効果は計りしれない。 宮崎氏は2月12日に謝罪・辞職表明会見を開き、「全ては私の不徳の致すところ」「全ての皆様に、そして妻と子に対し、深く、深く、お詫びを申し上げます」と陳謝。地元の有権者・支持者に対しても、一応の謝罪は口にした。 しかし、地元の京都3区では、宮崎氏が「お詫び行脚」をしている、という話はまったく聞こえてこない。彼が借りていたマンションは、すでに無人状態だ。近隣住民たちが言う。 「大騒ぎになった直後、引っ越し業者ではなく普段着姿の男が数人やってきて、白昼堂々、車にボストンバッグを積み込み去っていきました。 以前、女性と宮崎さんが一緒に歩いているのを見たことならあります。女性は宮崎さんから少し離れて歩いていた。(宮崎氏は)大きいから目立つんですよね」(60代男性) 「事件の後も、あの人の姿は全然見ないですよ。そもそも、あの報道で初めて顔と名前が一致したくらいですから。ちゃんと選挙活動してたのかどうかさえ覚えてないくらいです」(40代女性) |
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●桂文枝と紫艶
2月19日発売の「フライデー」で桂文枝と演歌歌手の紫艶が20年間不倫関係にあったと報じらた。文枝は21日に会見を開き「最後に会ったのは2年前に東京の落語会に来てもらった時」「それ以前も10〜12年ほど会っていない」と不倫について否定。一方、紫艶は報道直前の16日まで連絡を取っていた証拠となるLINEのスクリーンショットを披露し、最低でも2カ月に1度の頻度で会っていたと発言するなど、2人の発言には食い違いがあった。その後、紫艶が自身のFacebookページに文枝の全裸写真を投稿。本人は意図的ではなかったと主張しているものの、一部では“リベンジポルノ”の可能性を指摘する声も。 |
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●川本真琴と狩野英孝と加藤紗里
1月25日、歌手の川本真琴がTwitterに「私の彼氏をとらないでください」とツイート。2月2日には、「彼氏」が狩野英孝であると報じられ、それを受けてタレントの加藤紗里も狩野と交際していることをInstagramで明かし、狩野の2股疑惑が浮上した。狩野は川本とは終わったことと、加藤との交際を認めるも、騒動時に交際中と名乗った6人の女性に関しては「否定してないですけど認めてもいない。何人かで飯を食べただけの人もいたし、過去の人もいた」と真相を語った。 |
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●乙武洋匡
自民党から参院選出馬と噂されていた矢先に、過去に5人の女性と不倫関係にあったことを3月24日発売の「週刊新潮」で報じられた。乙武氏は公式サイトで謝罪のコメントを発表。妻のコメントまで掲載されたことが物議を醸した。その後、噂されていた参院選出馬を断念。9月14日には自身のホームページで妻との離婚が成立したことを発表した。 ● 乙武氏は、11月27日の「ワイドナショー」で約9カ月ぶりに地上波テレビ出演。自宅にダウンタウンの松本人志らを招き、不倫騒動やその後の離婚などについて思いを語りました。世間からさんざんバッシングを浴び、さらに子どもたちとも離れて暮らしているせいか、さすがに以前のような元気はない様子でしたが、最後に「本格的に復帰させていただける際は、『ゲスの極み乙武』として頑張っていきたい」と自虐して笑いを誘うあたりはやっぱり乙武氏。その後は再開したツイッターで、別の不倫報道に「『プライベートなことですので』って、どの口が言ってんだよ。さんざん人のプライベートをいじくり回しておいて、いまさら何を言ってるんだか」と噛み付くなど“無双ぶり”を見せはじめています。 |
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●石井竜也
3月11日、大震災追悼法要に出席後、仙台市のホテルで20代の女性ファンと密会したことを3月17日発売の「女性セブン」で報じられた。不倫報道がされると分かった16日の夜、石井は公式サイトで謝罪のコメントを発表。17日にマリーザ夫人と手をつないでメディアの前に登場して報道陣にも謝罪。迅速な対応で騒動を沈静化させた。 |
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●とにかく明るい安村
3月26日の夜に一般女性と朝までビジネスホテルで過ごしたことを3月31日発売の「週刊文春」で報じられた。安村の所属事務所である吉本興業は「一緒にいた女性は古い友達で、ホテルに行ってからも朝までお酒を飲んで過ごしていた」と答えている。この不倫報道によりテレビの仕事は激減。しかし「単純に旬が過ぎた」との見解も。 |
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●ファンキー加藤&アンタッチャブル柴田の元妻
元「ファンキーモンキーベイビーズ」のボーカル・ファンキー加藤がお笑いコンビ「アンタッチャブル」の柴田英嗣の元妻Aさんとダブル不倫し、妊娠させていたことが6月7日発売の「週刊女性」にて報じられた。柴田とAさんはこの不倫がきっかけで2015年5月に離婚。同年9月にはAさんが加藤の子供を妊娠していたことも明らかになった。現在の妻との間に2人の子供がいる加藤は離婚はせず、Aさんとの子供を認知していることを発表。純粋なラブソングを歌い続けてきた加藤に対し、ファンの失望と批判の声が高まる一件となった。 ● 加藤は柴田と友人関係でありながら、その元妻とは知らなかったとはいえ妊娠させてしまうという昼ドラのような、なかなかのゲスぶりで話題となりました。なおその後に生まれた子どもは柴田が育てているそうで、12月8日放送の「にけつッ!!」で柴田は、加藤がまだ子どもに会っていないことを明かして「一度くらいは顔を見て、『俺がお父さんだよ』ってどこかのタイミングで言ってほしい」と呼び掛けていました。 |
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●三遊亭円楽
40代一般女性と都内のラブホテルに入る姿を「フライデー」に激写された。円楽は「フライデー」発売当日の6月10日に会見を開き、「男ですから、口説いた。浮気といえば浮気」と認め謝罪した。自身の妻から許しを得たことを語ると、謝罪会見も終始和やかなムードに。取材陣に謎解きを求められ「今回の騒動とかけまして今、東京湾を出て行った船と解く」「航海(後悔)の真っ最中です」と笑いを誘った。 ● 三遊亭円楽と40代女性のラブホテル不倫がありましたが、これはかなり特殊な例で、謝罪会見では噺家ならではの話術で記者たちの心を掴み、笑いや拍手が起きたほど。これまで不倫を報じられた芸能人たちが軒並み世間からバッシングされたのとは対照的に、ワイドショーのコメンテーターたちも「さすが円楽」といったトーンでコメントしていたのが印象的でした。 |
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●小倉優子の夫
小倉優子の夫でカリスマ美容師の菊池勲氏が、小倉の所属事務所の後輩アイドル馬越幸子と不倫関係にあったと8月3日発売の「週刊文春」が報じた。菊池氏は肉体関係を否定するも、事務所は馬越を解雇。第二子を妊娠中だった小倉は出産のために一時自宅を出て別居生活をしていたとの報道もあったが、離婚については完全否定した。 ● 小倉優子の夫で美容師の菊地勲氏と、小倉の事務所の後輩タレントである馬越幸子との不倫が報じられました。当時、小倉は第2子妊娠中という最悪なタイミング。離婚もささやかれましたが、小倉はブログで「凄くショックでしたし、主人に腹立たしい気持ちでいっぱい」と怒りをにじませながらも、「今後の結婚生活を見つめ直すいいきっかけにしたい」と離婚は避ける考えを示しました。一方の馬越は即刻、事務所を解雇。所属していたアイドルグループも解散となりました。 |
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●森且行
8月23日発売の「女性自身」で、元SMAPでオートレーサーの森且行の不倫・同棲が報じられた。同誌は夫人の母親に取材、夫人と息子は森の女性関係が原因で数年前からアメリカに渡り、森とは別居していることが明かされた。折しもSMAPの解散報道が出たタイミングで、森のInstagramにはSMAPファンからのコメントが殺到、ノーコメントの森を非難する内容もあり、荒れていた。結局森はInstagramのアカウントを削除。不倫報道の出る前日のことだった。 |
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●中村橋之助(現在は中村芝翫)
9月15日発売の「週刊文春」で京都在住の芸妓と不倫関係にあることを報じられた。橋之助は14日夜、急遽会見を開き謝罪。芸妓との関係については「私の不徳の致すところ」と具体的な明言は避けた。2日後の16日、妻の三田寛子は報道陣に対し、離婚は「ないで〜す!」と明るく否定した。 ● 歌舞伎俳優・中村橋之助の不倫が報じられましたが、この騒動で名を挙げたのが謝罪会見を行った妻でタレントの三田寛子。雨の中で傘を差し、記者たちへの気遣いも見せながらも笑顔は絶やさず、夫と家族を支えていく思いを語り、円楽の謝罪会見と同様に「名会見」と称されました。 |
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●浦沢直樹
「YAWARA!」「20世紀少年」などの作品で知られる人気漫画家・浦沢直樹氏が50代の大手出版社勤務の女性と8月からたびたびホテルに出入りしていたと「週刊女性」が報じた。相手の女性は元編集者で、かつては「週刊文春」で連載班のデスクをしていたことも。同じ会社に夫もいてダブル不倫の可能性もあるが、浦沢氏と相手の女性は密会を「打ち合わせ」と否定している。 |
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●田中萌 2016年は不倫イヤーでした。2016年新語・流行語大賞では「ゲス不倫」がTOP10に入りました。週刊文春の記者が流行語大賞の授賞式で「次の文春砲は12月上旬」とコメントしていた様子を、爽やかな笑顔で紹介していた女子アナがまさか現在進行形で不倫していたのは衝撃でした。朝の情報番組の「グッド!モーニング」で活躍していた「田中萌」アナと「加藤泰平」アナが同じ番組内で働く間柄だったにも関わらず不倫していたのです。加藤泰平さんは既婚者ですから、田中萌さんは倫理的にやってはいけないことをやってしまいました。 ● テレビ朝日の情報番組「グッド!モーニング」で共演する田中萌アナと加藤泰平アナの不倫が、12月8日発売の「週刊文春」で報じられた。3年前に結婚している加藤アナが、入社2年目の田中アナの自宅マンションに「お泊り」の模様が写真つきで報じられている。2人は同日の番組を欠席した。この不倫が報じられる直前の2日に、同番組で週刊文春の記者に取材している模様を「再現」しており、田中アナが「次の文春砲はいつですか?」と尋ね、記者役のアナが「来週号あたりに大きなのが」と答えている。その「大きなの」が当の田中アナ本人の不倫だったわけで、その皮肉な内容がネットで話題となった。 |
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2015 | |
●井上貴博
自民党の井上貴博衆議院議員も愛人を持っていました。それが発覚したのは、なんと愛人からの告発でした。1994年から愛人関係をもっておりDVもひどかったとのことです。 もともと、井上貴博議員は祖父、父から政治家の家系で地元では名家として知られる御曹司でした。実は浮気が妻に発覚した時には、愛人を平手で殴ったりしました。その後は、愛人が井上議員の実家に電話して、井上議員の父にこっぴどく叱られた井上貴博議員。愛人には、小切手と契約書を書いてもらって手打ちをしたそうです。 ●元愛人が暴行を告発 2015/7 「マスコミを懲らしめろ」「スポンサーにならないのが一番」「経団連に働きかけをしてほしい」 自民党の勉強会「文化芸術懇話会」で飛び出した言論弾圧発言は、いま、読み返しても、愕然とさせられるものだが、その発言者のひとりが福岡一区選出の井上貴博衆議院議員。安倍首相の強い推薦で2012年の総選挙に初出馬した典型的な安倍チルドレンだ。井上議員は同会で大西英男議員の「マスコミを懲らしめる」「経団連に働きかけをしてほしい」発言を受けて、意気揚々とこう語っている。 「福岡の青年会議所理事長のとき、マスコミをたたいたことがある。日本全体でやらなきゃいけないことだが、スポンサーにならないことがマスコミはいちばんこたえる」 さすが、こんな発言を平気でするだけあって、ここにきてその井上議員に次々とスキャンダルが浮上している。 まずは、政治資金問題。井上議員が衆議院議員として初当選した12年、寄付金1300万円を収支報告書に記載していなかったことが判明し政治資金オンブズマンのグループから、公選挙法違反容疑で福岡地裁に告訴状を提出された。 さらに、追い打ちをかけたのが、元愛人の告発だった。 「確かに私は貴博さんの愛人でした」 こんな衝撃の告白したのは井上議員の元愛人の「真央さん」だ。真央さんは現在、福岡市でホステスをつとめる現在40代前半の女性だが、言論弾圧事件を受けるかたちで「週刊新潮」(新潮社)7月16日号の取材に応じ、15年前の井上議員との愛人関係を赤裸々に語っている。しかもそれはDVも伴う壮絶なものだった。 1994年、博多で芸妓をしていた真央さんは、とあるパーティで井上議員(出馬以前で、当時は福岡青年会議所理事)と出会ったという。妻子がいた井上議員だが、真央さんと何度かデートを重ねた後「俺と付き合っちゃらん?」と言われ愛人関係になった。 「逢瀬の場所は博多湾に面した高級ホテル。多い時は週に4、5回は泊まっていたと言う」(週刊新潮) 井上議員は祖父、父ともに政治家であり、地元では名家として知られる一族の御曹司。当時から羽振りの良さが窺えるが、しかし2人の関係はほどなく妻の知るところとなり、修羅場となったという。 「ある日の朝、ホテルの部屋の電話が鳴りました。貴博さんが出たら、何と奥様」(同前) 井上議員がホテル使用の際、カードを使用していたが、その明細で妻バレしてしまったのだ。そのことで喧嘩も頻繁になり、井上議員に平手で殴られた真央さんは井上の実家に電話、2人は実家に呼び出され、井上議員は父親から殴る蹴る制裁を加えられ、真央さんは800万円の小切手と誓約書を書かされたという。 妻に関係がバレると愛人に暴力を振るう。そのことで実家に呼び出され父親に叱責される――。当時、井上議員は30歳過ぎだったが、呆れるほどのドラ息子ぶりだ。しかも2人はその後も別れず、こっそりと市内のマンションを借りて不倫関係を続けたが、関係は悪化の一途を辿ったようだ。 「だんだん家賃の支払いが遅くなり、そのことを言うと"なんで金のことばっかり言うとか!"とまた暴力。あるときなんかは、殴られたあと顔を踏みつけられもしました。顔に大きな痣が出来て、しばらくは買い物にも行けなかった」(同前) その後の 2000年4月に井上議員は福岡県議会選挙に出馬することを理由に真央さんに別れ話を切り出し、真央さんはそれを了承したという。 なんという身勝手で横暴で下劣な男なのだろう。おまけにDVとは......。マスコミの批判を封じ込めたいと言ったのは、自分自身がこうした「すねにある傷」をつつかれたくなかったからといわれもしようがないだろう。 しかも、これはけっして井上議員だけの問題ではない。"安倍チルドレン"と呼ばれている若手議員の中には、同じような下劣な体質をもっている政治家が決して少なくない。自分の恵まれた立場になんの疑問も持たず、他人を平気でモノ扱いし、知性も教養もなく、民主主義のことなど何もわかっていない。そんな連中が世襲特権に乗っかって、我が物顔で永田町をのし歩き、民主主義の根幹である言論の自由や日本が戦後、守ってきた平和憲法を潰しにかかっているのだ。日本はほんとうにとんでもない国になったと言うしかない。 |
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●菅原一秀
自民党の菅原一秀衆院議員も最近愛人が発覚したとのことです。現在は、菅原一秀議員は離婚をして独身ですが、当時奥さんがいた際に浮気をしたそうです。2013年に、「政治経済事情視察」と言って嘘の届けをだして、ハワイ旅行で浮気を行っていました。愛人のA子さんとは、バレないようにハワイで合流して4泊6日の旅行を楽しみました。 「バレないように飛行機は別々で、現地で落ち合いました。連日ゴルフ三昧で、4泊6日で四ラウンドもしていた。副大臣なのに、自由に旅行して大丈夫なのかと心配する女性に、『嘘を申請したから大丈夫』と語っていたそうです」(A子さんの知人) そのA子さんが言うには、菅原一秀議員は何かと怒りっぽく、「俺は25歳以下がいい。25歳以上は女じゃない」「子どもを産んだら女じゃない」と度々、議員らしからぬ発言もしていたそうです。A子さんも、そういったモラハラ発言をしている菅原一秀議員に愛想が尽きて別れたそうです。 ●菅原議員が国会休んで愛人とハワイ旅行 2016/4 「保育園落ちた」ブログ問題の国会質疑で「匿名だよ、匿名」とヤジを飛ばした自民党の菅原一秀衆院議員(54)が、経済産業副大臣時代に、「政治経済事情視察」として国会を休み、当時の愛人とハワイ旅行に出かけていたことが「週刊文春」の取材でわかった。 菅原氏は経産副大臣だった2013年4月27日から5月1日にかけて、「政治経済事情視察」として衆院議院運営委員会に請暇願を提出し、ハワイに旅行していた。バツイチで独身の菅原氏は、結婚を前提としない形で男女関係にあった27歳(当時)のA子さんと、ハワイで合流していたという。「バレないように飛行機は別々で、現地で落ち合いました。・・・ 菅原氏は小誌の取材に対し、ハワイに行ったことは認めたが、「オフの時間もありましたが、現地の実業家などと日本とハワイ間における経済交流や観光などについて意見交換しております」として、A子さんとゴルフ三昧だったことは否定。A子さんとの交際やハワイ旅行については明確な回答は避け、「本人が公衆の前に出てくれば冷静に判明できます。(略)出てきて下さい。そのA子さん」と回答した。 A子さんは、小誌の取材に次のように回答した。「ハワイでは連日早朝からゴルフをして、寝る前までほとんど一緒でした。ハワイにいることがバレたくないからと、ゴルフが終わって晩ごはんに出かけるまで、人に会わないよう部屋にこもっていて、意見交換の時間なんてありませんでした」 さらに、菅原氏はA子さんに対して、モラハラ発言を連発していたとの証言もあり、自民党待機児童問題等緊急対策特命チームの筆頭幹事を務める菅原氏の資質を問う声が上がりそうだ。 |
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●上西小百合と家城大心 上西議員は2012年3月に維新政治塾に参加し、2012年12月の衆議院議員総選挙で大阪7区から日本維新の会公認で出馬。選挙区では敗れたが、比例近畿ブロックで復活当選。2015年4月4日に大阪維新の会、維新の党より除名が決定。現在は無所属の議員として活動している。 ●秘書と温泉不倫旅行 旅行疑惑が報じられたのは「週刊文春」4月9日号。上西議員は3月13日の衆院本会議を体調不良のため欠席。その翌日の14日から15日にかけて京都の高級温泉旅館にデートに出かけたという。デートのお相手と噂された男性秘書は家城大心氏。「不倫か?」とも騒がれたが、家城氏はバツイチ。不倫ではないが体調不良を理由に国会を休んで翌日から京都へ旅行とは、遊んでいたと思われても仕方がない。さらに騒動が拡大した理由は、家城氏の取材陣への対応だった。関西弁で「おい!人の車当てたらどうするんや、こら!」と恫喝した家城氏の対応によって、騒動はさらに燃え上がった。その後4月3日の記者会見で上西議員は報道を否定。家城氏も取材陣への対応を謝罪している。 ●結婚疑惑 上西議員のもう1つのスキャンダルは「結婚疑惑」。彼女の経歴には“結婚歴がある”と上西議員の元恋人が告白している。元恋人の証言は上西議員は25歳の時に医師と挙式をするも、旦那さんの「稼ぎ」が原因で別れたという。入籍はしておらず、旦那さんは20代で大学病院に勤める駆け出しの医師。結婚の理由を『お金目当てにきまってるでしょ』と笑いながら話し、結局1か月で婚約破棄という形で別れたそうだ。 |
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●中川郁子 安部総理の盟友にして「将来の総理候補」の一人と目されていた故・中川昭一氏の未亡人。同じ派閥「二階派」の門博文衆議院議員との濃厚な「路上キス」を週刊誌にスクープされた。なお夫の中川氏は財務・金融担当大臣などを務めたが、2009年8月の総選挙で落選。失意のうちに、同年10月に世田谷区の自宅で不審死を遂げている。 ●2015/3 西川公也農相が辞任した2月23日の夜、農水政務官でありながら同僚議員と不倫「路上キス」をしていた場面を「週刊新潮」に撮られた中川郁子代議士(56)。なにしろ、手をつないで六本木の街を歩き、立ち止まって見つめ合い、お互いを強く抱き寄せた後、濃厚なディープキスをかわしているのだから、言い訳は利かない。 自民党の門博文代議士(49)との不倫がバレた中川郁子は、6日国会に呼ばれていたが、体調不良を理由にトンズラ。2週間入院し、ほとぼりが冷めるのを待つつもりらしい。 しかし、政務官辞任は時間の問題だ。なんと、政務官室で“密会”を繰り返していた疑いが新たに浮上しているからだ。民主党も、門代議士が政務官室を訪ねたことがあるかどうか、農水省に記録の提出を要求している。 「用もないのに門博文議員が政務官室を訪れ、中川郁子さんと2人きりで部屋に閉じこもり、1時間以上、出てこないことが頻繁にあった、という話が一斉に広がっているのです。一説には、昨年9月に中川さんが政務官に就任して以来、門議員が訪れた回数は20回以上との話もあります。農水省のなかには『まさか役所をラブホテル代わりに使っていたんじゃないだろうな』と不信感を強めている官僚もいる。発情した野良猫のように路上でイチャつき、キスをしているのだから、なにを言われても仕方ないでしょう」 実際、門代議士は政務官室を頻繁に訪れていたのか。「回数」を農水省に質問したところ、「回数は把握していません」とのことだった。門代議士の事務所も「正確な回数と滞在時間は把握していません」との回答だった。把握できないほど、政務官室で頻繁に逢瀬を重ねていた、ということなのか。 しかし、国会議員は税金で養われている身である。公務も果たさず、真っ昼間から役所で乳繰り合っていたとしたら、とんでもない話だ。 中川政務官は「酒席の後とはいえ軽率な行動だった」と、不倫を酒のせいにしているが、夫だった故・中川昭一氏は酒の失敗で財務大臣を辞任しているだけに、これでは夫婦揃って酒で身を崩したとレッテルを貼られるだけだ。それにしても、なぜ“ソープ通い”を自慢するような男との不倫に走ったのか。中川昭一氏は泣いているのではないか。 |
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●谷亮子 元柔道選手の「ヤワラちゃん」。最初の不倫相手は小沢一郎氏のもとから派遣されたレンタル秘書。夫でプロ野球選手・谷佳知と別居状態にあり、都内の豪邸を出入りする30代のイケメンが存在すると週刊現代が報じた。 ●2012/8 ロンドン五輪柔道女子48キロ級で福見友子がメダルを逃した翌日、谷氏は「皆さんが望むなら、またあの舞台に立ちたいと思います」と、議員の任期が満了する4年後のリオデジャネイロ大会での復帰に含みを持たせたのだった。だが、そんなノンキなことを言っている場合ではないのだ。 「永田町では『ヤワラちゃんと私設秘書のM氏がただならぬ関係に陥っている』との情報が流れている。発信元は、民主党の反小沢陣営です」 何やら民主党と小沢新党の対立を象徴するような、政治抗争のネタ的ニオイが漂うが、俎上に載った私設秘書・M氏とは、いかなる人物なのか。政治部デスクが続けて解説する。 「M氏の父親が小沢一郎氏(70)と親しく、そのツテで小沢事務所に預けられた、政治家予備軍です。それが谷事務所に私設秘書として“派遣”されたわけですが、議員志望者を親しい議員の秘書にして修業させるのは永田町ではよくあること」 この「レンタル秘書」について民主党議員が言う。 「泊まりがある地方出張には必ずと言っていいほど、M氏が同行するそうです。実は今年1月末、谷氏の当選当時からサポートしてきた大ベテランの女性政策秘書が事務所を辞めています。谷氏の父親が事務所運営に口出ししたり、党本部に『もっと娘を表に出せ』などと電話してきたりするのに嫌気がさした、というのが表向きの理由でした」 谷氏の事務所関係者があとを引き取る。 「ところが別の事情があった。M氏と親密な関係になってから、谷氏は政策秘書の言うことを聞かなくなったんです。2人は事務所の中でもイチャイチャした雰囲気を出していたため、この女性秘書が『いいかげんやめましょうよ』と、関係を改めるようたしなめたところ、谷氏は忠告に従うどころか、逆ギレしたと‥‥」 どこか小沢氏の秘書とのホテル密会がバレた青木愛氏の不倫愛を彷彿させるが、「最近、彼女は結婚指輪を外しています。政治活動上、外したほうが都合がいい、ということはありませんし‥‥」 次期衆院選では、野田佳彦総理(55)=千葉4区=への「刺客」として鞍替え出馬も検討されているだけに、“性”治活動にうつつを抜かしている場合ではなかろう。 ●2016/6 生活の党と山本太郎となかまたちからの不出馬を表明した参議院議員の“ヤワラちゃん”こと谷亮子氏。予想通り、先週発売の「週刊文春」(文藝春秋)6月23日号で、自民党からの鞍替え出馬が報じられた。 小沢ガールズの筆頭として2010年の参院選で民主党から出馬した谷氏だが、蜜月関係から一転、その後は小沢一郎氏との確執が伝えられてきた。その不仲から今回の参院選も不出馬が取り沙汰されていたのだが、しかし谷氏は「週刊文春」の取材に自民党からの出馬を思わせぶりながら“事実上”認めた上で、小沢氏との確執についてもこんなコメントをしている。 「山本太郎さんと合流する際に、私は副代表だったのですが、小沢先生から一切相談がなくて。山本さんが好き嫌いということではなく、一言だけでも筋を通して欲しかったんです」「年明けから『統一名簿を実現する』と言って下さいましたが、具体的な動きがないまま国会も閉会してしまって。私が決断しなかったら今も参院選への態度は曖昧だったと思います」 さらに、小沢氏から学んだ点はと聞かれ、「政党の作り方ですね(笑)。これだけ何回も間近で見てきましたので」と皮肉まじりに揶揄したのだ。 まるで訣別宣言だが、谷氏は今月9日に国会内で記者たちの質問に答え、生活の党と山本太郎となかまたちからは出馬しないことを表明、加えて与野党含めて他党から出馬の要請があれば「柔軟に対応する」と与党自民党からの出馬に含みをもたせた回答をしていた。 小沢氏と確執があったからといって、今度は自民党から出馬とは、なんとも節操がない。とはいえ、これまでの谷氏の“権力大好き”志向を見れば、自民党鞍替えも当然なのかもしれない。 そもそも10年の参院選にしても、当初は自民党からの出馬が取り沙汰されていたものの、当時の自民党は野党だったため、政権与党で勢いを増す民主党から出馬。その後、小沢ガールズとして小沢氏べったりだったにも関わらず、小沢氏が「陸山会」事件で失脚すると徐々に距離を置き、2年前から恒例の小沢一郎新年会にも出席していない。また、13年に発覚した女性柔道界の暴力・パワハラ問題でも、女子選手の側ではなく協会側に立ち、告発された園田隆二監督(当時)を「礼儀正しく裏表のない真面目な人。暴力を振るう場面は一度も見たことがない」と擁護すらしている。 しかし、権力にすりよって自民党から参院選に出るのはいいとして、このご時世、心配になってしまうのは、谷氏の“例の噂”だろう。 そう、いまから1年ちょっと前、ヤワラちゃんは男性秘書とW不倫関係にあることを取り沙汰されたのだ。 当時、夫である谷佳知氏は大阪に単身赴任しており、谷議員は都内の2億円豪邸で2人の子どもと暮らしていた。ところが、その家にイケメン秘書A氏が頻繁に出入りしているのが目撃され、永田町でも「2人が“不倫関係”にある」といった噂が流れ始めた。 そんななか、「週刊現代」15年3月21日号が、ふたり仲良く次男の幼稚園へお迎えに行く姿をキャッチ。その写真を掲載したのだ。たしかに、その姿はまるで仲睦まじい夫婦のようだった。しかも、この噂は、同年3月26日号の「週刊新潮」(新潮社)や「女性セブン」(小学館)でも報じられ、永田町では大きな話題になった。 「当時、谷議員には3人の男性秘書がいたんですが、谷議員はダルビッシュ似のイケメンであるこのA秘書を、はたから見ても露骨に特別扱いしていて、どこにいくのも一緒に連れていっていました」 谷議員はもちろん、この報道を完全否定したが、しかし、ヤワラちゃんの秘書との不倫疑惑はこれがはじめてではなかった。実はその2年前にも別の秘書との関係が報じられたこともあった。それが「アサヒ芸能」(徳間書店)12年8月23日号が報じた「灼熱スクープ 谷亮子 小沢系レンタル秘書との『ただならぬ関係』」だ。 記事によれば、ヤワラちゃんは小沢氏から派遣されたこれまたイケメン私設秘書と地方出張も含め四六時中行動を共にして、特別扱いし始めたのだという。そして、事務所のなかでも公然といちゃつくようになり、ヤワラちゃんは結婚指輪も外すようにもなった。事務所内では、2人の関係は公然の秘密となって、ヤワラちゃんを新人時代からサポートしてきたベテラン女性秘書がこの空気に嫌気がさし、事務所を去ってしまったという話もあった。 その後、このイケメン秘書は別の女性と結婚し、事務所を辞めたが、その代わりに秘書となったのが15年に報じられたイケメン秘書だったという。 そのイメージからは信じられない噂だが、もともと、ヤワラちゃんは独身時代から“肉食”で知られていて、身近な男性と次から次へと噂になっている。 1996年アトランタ五輪で銀メダルに終わった谷氏は、その翌日、同地のショッピングセンターで同じくアトランタ五輪で銅メダルをとった競輪選手・十文字貴信氏との手つなぎデートを「フライデー」(講談社)にスクープされた。 また、同時期、写真週刊誌が彼女と柔道86キロ級の吉田秀彦氏との交際をキャッチし、それを五輪前ということで帝京大学側が抑えた、という噂も流れた。他にも、古賀稔彦氏や小川直也氏、篠原信一氏といった柔道界の大物選手との噂から、若手選手とのラブラブ居酒屋デートなど、挙げればきりがないほどだ。 「谷さんはとにかく、身近にいる人間をすぐ好きになる傾向がある。そして、一旦、気にいると自分から猛アタックして、べったりになるんだよ。おそらく男性秘書との関係もそういう感じで始まったんじゃないか」 今度の参院選で自民党から出馬→当選となれば、これまで以上に多くの秘書やスタッフが周りに集まってくる。こうなったら、ヤワラちゃんがもっと大暴れして、自民党が不倫スキャンダルの巣窟になってしまうことを期待しよう。 |
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2014 | |
●橋本聖子 元スピードスケート選手。「フィギュアスケート界の貴公子」高橋大輔に対する「無理矢理キス」騒動で大臣の座を棒に振った。 ●橋本聖子議員、高橋大輔「キス写真流出」 2014/8 9月の内閣改造で初の閣僚入りが取りざたされている自民党の橋本聖子参院議員(49)に、思わぬ“ブチュー・スキャンダル”が持ち上がった。橋本氏が日本選手団団長を務めた2月のソチ五輪で、フィギュアスケートの高橋大輔(28)に無理やりキスをしたという赤面写真が20日発売の「週刊文春」に掲載され、物議を醸しているのだ。改造を直前に控えたタイミングでの報道は、橋本氏の追い落としを狙ったものなのか。キナ臭さも漂うブチュー騒動の舞台裏を追跡した――。 「貴公子の受難」と見出しが打たれた2人のキス写真は衝撃の一言だ。橋本氏は右手を肩越しに高橋の背中へ回し、左手は高橋の右手の指に絡め、完全にホールド。その唇が高橋の口元をとらえた決定的瞬間が写された。顔をそらす高橋を橋本氏が強引に“捕獲”しようとするカットもある。 文春によれば、キス事件は2月23日のソチ五輪閉会式後に行われた打ち上げで起きた。酒が入ったとみられる橋本氏は選手一人ひとりを抱擁し、ねぎらったが、高橋にはキスを迫り、強引なキスは数回に及んだという。 橋本氏はスピードスケートと自転車で夏冬両五輪に7度出場し、1992年のアルベールビル冬季五輪で銅メダルを獲得した五輪の申し子。引退後に参院議員に転身し、当選4回、勤続19年のベテランになる。夫は警察官で、子供も6人(実子3人)いる。スポーツ界では日本スケート連盟と日本自転車競技連盟の両会長、日本オリンピック委員会(JOC)の常務理事兼選手強化本部長、20年東京五輪組織委員会の理事なども務める。 そんな要職にある橋本氏が、高橋にキスを迫ったとなれば、セクハラやパワハラに当たる可能性も出てくる。いずれも女性側の被害が問題視されがちだが、男側が被害者のケースも最近では珍しくない。“被害者”側の受け止め方にもよるが、今回の件では、観念した高橋が目を閉じ、すべてを受け入れた様子が写真からうかがい知れる。 だが、橋本氏を知る関係者はセクハラやパワハラ説を一笑に付す。 「橋本氏はスポーツ外交の顔で、東京五輪招致でも奔走した。会合では、海外の関係者から『セイコ』と親しまれ、ハグはもちろん熱いキスやお姫様ダッコされるのもしばしば。本人も慣れているから、日本人から見ればオーバーともいえるスキンシップを取るのも珍しくない。キス魔という話は聞いたことがありませんけど(笑い)、酒が入って悪ノリしたんでしょう」 とはいえ、そんな“聖子事情”は、熱狂的なことで知られる高橋ファンの女性からすれば知ったことではない。19日には都内の地下鉄に文春の広告が張りだされ、その写真がツイッターに投稿された。情報は広がり、「女のセクハラ」「大ちゃんに気安く触るな」「おばさん、ふざけるな!」「橋本は辞職しろ」「大ちゃんがかわいそう過ぎる」などとネット上では、高橋ファンらが卒倒&激怒する事態となっている。 安倍晋三首相(59)は9月3日の内閣改造で、過去最多と並ぶ5人かそれ以上の女性閣僚の起用を示唆し、橋本氏は少子化担当相兼五輪担当相での入閣が噂されていた。「内閣改造前は候補のスキャンダルがなにかと出るもの。橋本氏は父親の借金問題を蒸し返されるのがネックでしたが、それでも支障をきたすものではなかった。今回もスキャンダルというほどの類いではないが、パワハラやセクハラとの批判は避けられないかもしれない」 永田町では写真の出どころも注目されている。 現場はマスコミがシャットアウトされた選手村内の一室だったため、撮影者は限定される。永田町の関心は、誰から漏れたのか、意図的に流したのかという点だ。 「橋本氏は長老キラーで、党重鎮陣からもかわいがられ、党内での敵は少ない。JOCやスキー連盟の方がお家事情は複雑で、橋本氏をよく思わない勢力からのリークが疑われています」(橋本氏の地元関係者) 橋本氏は19日、本紙の取材に事務所を通じて「キスを強制した事実はない。高橋選手へ敬意と感謝の念は持っていましたが、それ以上になにか特別な感情があるわけではありません」としたうえで「(セクハラ行為との)認識はありません。選手や役員は外国の選手らとの交流が多く、打ち上げなどではごく自然にハグやキスすることがあります。ただし一般の方の誤解を招くようなことがあったとすれば、気を付けなければならないと反省しています」などと話している。 ●同議員は「打ち上げは選手たちの健闘をたたえ、慰労するために設けたものでしたが、私の行動は甚だ軽率であったと深く反省しております」 ●メディアは加害者が女性で被害者が男性ということから、今回の事態を軽視しているのかもしれないが、セクハラやパワハラの本質は同じであり、男女は関係ない。 ●参議院議員でもある橋本氏といえば、「五輪の申し子」と呼ばれるだけに、次期JOC会長候補であり、安倍内閣の女性大臣候補や来年新設が予定されるスポーツ庁の初代長官としても名前があがっている。 ●男子の選手をクン付けで呼ぶ橋本会長が、甘いマスクの高橋だけは『大ちゃん』と呼び、多忙でも高橋の出場する大会には足を運んで、追っかけファンのようでした。 |
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2013 | |
●林久美子 「夜の大連立」とか「民主党のハニートラップ要員」などとからかわれながら安倍内閣の世耕弘成官房副長官と結婚。世耕氏が前妻と離婚したのは2012年1月で、林氏との交際はその前からなので不倫関係にあったことになる。以前には前原誠司議員との不倫の噂もあった。 ●永田町騒然!安倍首相側近と民主女性議員が再婚 2013/9 世耕弘成氏と林久美子氏 安倍政権で副官房長官を務める世耕弘成氏と民主党の参院議員・林久美子氏が、9月2日に入籍していたことが明らかになった。ともに参院議員会館10階に事務所を持ち、世耕氏が1017号室、林氏が1020号室というご近所さん。昨年夏から親密な交際を始めたというが、2人の関係を知る人はほとんどいなかった。 結婚報道は瞬く間に永田町を駆け巡った。11日午後2時半から自民党本部9階で開かれた「政調、税調調査会小委員会」に出席した自民党議員の間ではその話題でもちきりだった。彼らは口ぐちにこう述べて、溜息をついたという。「副官房長官といえば首相の側近で、官邸の中枢にいる職務。重要な国家機密も知ることができる。まさか林氏を介して、民主党につつぬけになってはいないだろうな・・・」 実際、世耕氏は安倍晋三首相の側近として知られ、9月4日と5日にペテルブルグで開かれたG20首脳会議にも同行している。安倍首相が熱心に取り組む拉致問題にも、深くコミットしている。 そんな世耕氏に対する永田町の評価は以下の通りだ。「世耕氏は常に安倍首相にくっついている。今年1月に日本人10名が殺されたアルジェリア人質事件で首相が記者団の取材に応じた時、その背後にカメラを意識した世耕氏の顔が見えた。NTTの広報出身なだけあって、自分をアピールする能力だけはずば抜けて長けている」 一方で林氏の評判はどうか。民主党関係者はこう述べる。「林氏は党の上層部や労組幹部に喰い込むのが極めてうまい。要するに"ヒラメ"(目が下ではなく上についている)だ。特に酒宴では、お酌をしながらさりげなく男性の身体に触れる。あのテクニックはすごい。たいていの男性なら、あれでイチコロにされてしまう。民主党では『蓮舫ママ、林チーママ』と言われていた」 議員というよりまるで辣腕の水商売経営者のようだが、さらにすごい話がある。林氏と元民主党代表の前原誠司氏との関係だ。林氏が参院選で初当選した翌年の2005年、某情報誌に「民主党プリンスの不倫疑惑『ポスト小泉政局』に波紋も」という記事が掲載された。内容は1993年の衆院選で、早稲田大学生だった林氏が前原氏の選挙を手伝い、それが縁となって2人の関係が深まったというものだ。同記事には大学を卒業して地元メディアに就職した林氏が有力な地方議員に喰い込んだため、参院選で自民党公認候補に大差をつけて当選したとも書いてあった。この記事のコピーは議員会館の民主党所属全議員の事務所に配布された。その印象は極めて強かったようで、いまだに林氏を見ると前原氏を連想する民主党関係者は少なくない。 そのような事情を配慮してか、結婚が明らかになった11日、世耕氏は記者団に囲まれて「近く部屋を見つけて一緒に住む。パーティーや披露宴はしない」と答えている。この時、世耕氏は結婚指輪も指にはめず、財布のなかに入れていた。派手にしないのはともに再婚同志の照れなのか。それとも夫婦で所属政党が異なるからなのか。この件については官邸も直前まで知らされず、慌てて調査したといわれている。「10日に新聞社が2人の結婚をかぎつけ、『林氏が民主党を離党し、自民党へ移るのか?』と囁かれた。それで林氏が急いで民主党滋賀県連会長である三日月大造氏に『自民党に行くことはない』と報告したようだ」 しかしこれでおさまりそうにもない。林氏には朝日新聞の記者だった前夫との間に小学生の男の子がいる。永田町でははやばやと「お家騒動」にまで話題が進んでいる。「世耕氏は近畿大学のオーナー一族で、副官房長官に就任するまで理事長を務めた。幼稚園から大学院まで擁しており、同窓生は45万人にのぼる。いわば世耕家は近畿地方の有数の名家だ。林氏はいわば"玉の輿"に乗ったわけだが、世耕氏は創業者である弘一氏の長子系ではない。参院議員になったのも急死した伯父の政隆氏の跡を継いだわけだが、それを政隆氏は望んでいなかったとも言われている」 世耕氏と同じく学校法人を経営し、国会議員だった畑恵氏と結婚した船田元氏の場合、妻の畑氏が学校運営に積極的に関与している。畑氏と同じく早稲田大学第一文学部を卒業し、テレビ局でキャスターを務めた林氏がおとなしく家庭におさまるとはとても思えないというのが周囲の一致する見解だ。「林氏は3年後に改選だが、その時は民主党が存在しているとは限らない。そうなれば当選は難しいだろう。畑氏と同じく、夫の仕事に口を出していくのではないか」 またこのタイミングでの結婚発表に、いぶかる声もある。「実は内閣改造で、世耕氏も副官房長官の職を解かれる可能性があった。だが安倍首相は4日に来年の通常国会まで改造しないことを言明した。世耕氏はいちおう"首が繋がった"わけだから、安心して入籍したのではないか」 いずれにしても国会議員である間は、その職責を忘れないでいただきたい。 |
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2012 | |
●田中美絵子
6月14日発売の「週刊新潮」に、小沢ガールズの民主党・田中美絵子衆院議員(36=比例・北陸信越)が、東京都品川区のJR大崎駅構内で、国土交通省中部地方整備局副局長を務める妻子持ちの55歳のキャリア官僚と熱いキスを交わしたとして、写真入りで報じられた。 お相手とされる中部整備局の高橋浩二副局長は、「今後、適正な業務遂行ができるか疑問が生じた」として、速攻で同省から更迭されてしまった。決定は13日付で、官房付となった。高橋氏は同省からの聞き取りに、当初は否定したものの、「週刊誌に掲載されている写真は私で間違いない」と認めたという。 一方、田中氏は報道後、口を開かず、ブログも削除したが、26日の衆院本会議での消費増税法案の採決後、スキャンダルについて初めてコメント。田中氏は「今まで入院しておりましたので、ご説明が遅くなったことをお詫びいたします」と謝罪。問題の報道については、「誤解を与えてしまう報道がありましたが、不適切な関係ではありません」と、あいまいな回答。 掲載された写真が田中氏本人であったかどうかにはふれず。写真が本人でないならば、「写真は私ではない」とキッパリ否定すればいいのであって、「路チューはしたが、“不適切な関係”ではない」と言いたかったのだろうか…。それも極めて厳しい言い訳だ。駅構内という公衆の面前で、路チューするのは、“不適切な関係”以外のなにものでもないと思われるが…。 スキャンダルに関しては、うやむやな発言をした田中氏だが、採決はグループの親分、小沢一郎氏に造反し、消費増税法案に賛成票を投じた。「重要な法案なので、最後は自分の判断で決めました」と話した田中氏。田中氏は小選挙区で敗れながら、比例で復活当選した背景があるだけに、今回の騒動で、小沢氏について行っても、次の選挙で不利になると判断したのか、恩師への裏切り行為に打って出た。 |
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2011 | |
●西村正美と山本剛正 9歳年下の山下剛正衆議院議員と赤坂の議員宿舎で同棲、夫や娘を捨てて結婚した。 山本剛正・衆議院議員 / 2009年の第45回衆議院議員総選挙で、歴史的ともいうべき政権交代がありました。戦後初めて自民党が他政党である民主党へ政権を譲ったのです。その選挙で比例代表ながら衆議院議員に当選したのが山本剛正なのです。1972年1月生まれなので、当選当時は37歳の若さで、離婚歴がある独身でした。 西村正美・参議院議員 / 2010年7月の第22回参議院議員通常選挙で比例区から出馬し、当選しました。1963年10月生まれですので、当選当時は46歳で、旦那と娘がいる既婚者でした。 2011年冬に発売された週刊文春で、2人が半同棲不倫をしていると報じられました。同棲も不倫もおおいに結構なのですが、半同棲している場所が議員宿舎と聞いては見逃すわけにはいきません。どうやら山本剛正が住む赤坂の議員宿舎で半同棲していたらしいのです。そして何と西村正美の娘さんも一緒に住んでいた事があるのです。さらに公務をほっぽりだして親子3人でデートしていた事も発覚しました。西村まさみは2011年7月12日に、自身が委員を務める厚生労働委員会を欠席しました。しかし同日西村親子と山本剛正がデートしていたのが目撃されています 。 |
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●後藤田正純 政界のサラブレッドと呼ばれる一方で『政界の種馬』の異名を持つ。妻は女優の水野真紀、2009年から別居。六本木のバーで北川景子似の美女ホステスと痴態にふける様子が写真誌『フライデー』に激写された。過去には小渕優子衆院議員との噂もあった。 ●後藤田が不倫したホステス 源氏名と顔を変え再出発 『フライデー』が自民党の後藤田正純衆議院議員の浮気現場写真を掲載したが、そのお相手だった銀座クラブホステスこそ、Aさんなのである。 後藤田氏は六本木のバー内でAさんの肩に手を回してキスをするわ胸を揉みしだくわのご乱行。そのうえ彼女を赤坂の衆院議員宿舎にお持ち帰りしてしまった。その一部始終を撮られてしまったのだから、当然、銀座も永田町も大騒ぎになったのは記憶に新しい。 「Aちゃんは騒動の後、表情も暗くて、どこか思い詰めたような感じだった。体調を崩して週に1〜2回しか出勤しないことが多く、同伴もめっきり減った。あれから4か月あまり経って、最近ではようやく表情が明るく、吹っ切れた印象になってきたんだけどね」 店の関係者が嘆息しながら語る。「お客さんの中には、まだ『お前だろ、あの写真は』とからかう人がいるんです。彼女は笑ってやり過ごしてましたが、やっぱり辛かったんでしょうね。でも、本人としては、ホステスとして悪いことはしていないという思いもあるし、常連客がいるから、周囲に何をいわれようと店を辞めるつもりはない。そこで騒ぎの当事者Aは辞めたことにして、よく似てはいるが顔も名前も違うA花として、心機一転出直すことにした、ということのようです(苦笑)」 これぞ銀座ホステスのド根性というべきか。そこまでするとはアッパレ、拍手したくなってくる。 ある店の関係者の話。「彼女は親しいホステスに『鼻筋を高くして、目をパッチリさせた』と話していたようだね。『(整形は)そんなに高くも危なくもないよ』なんて笑っていたみたいだけど、どこかからまとまったお金が入って、それを使って整形したなんて噂している子もいるよ」 |
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●矢島悠子 報道ステーションSUNDAYにレポーターとして活躍している矢島悠子アナに不倫疑惑が報じられています。不倫疑惑が報じられたのは2016年10月のことです。2011年に16歳年上の男性と結婚したにも関わらず、番組制作会社社長の自宅に入り浸る姿が週刊文春に報じられました。矢島アナは既に夫とは別居しているそうですから、不貞行為を理由に離婚を請求するのは難しいと思います。きっと、離婚条件でもめているか夫が離婚したくないと粘っているのだと推測します。 ●誰が本命なんだ…… 2016/10 テレビ朝日系『報道ステーションSUNDAY』に出演中の矢島悠子アナウンサーが、番組制作会社の社長と交際していると週刊誌に報じられた。社長はバツイチ独身だが、矢島アナは既婚者。局内の人間からは「矢島さんは昔から肉食系だった」という話が聞かれる。 「かなり前のことですが、入社直後の彼女は大学時代からの恋人がいたというのに、クレジットカードの最上級ランク、ブラックカードを持っていることが知られ、カラオケで歌う曲は1970年代のものばかりだったので、お金持ちの恋人がいるんじゃないかとたびたびウワサになっていたんですよ。そのうち、本当にパパみたいな年上の男性とのデートも、よく目撃されるようになったんです。ただ、女子アナによくいる、セレブにしか目を向けないという感じではなく、年上の男性が好きらしくて、独身時代から10歳以上も上の上司と社内恋愛をしているというウワサがたびたびあって、周囲を気にせずベタベタする肉食系な感じでした」 オジサマキラーと呼ばれることもあった矢島アナは2011年、同局『ちい散歩』の番組プロデューサーで、16歳年上のAさんと結婚。直前には当時レギュラー出演していた『やじうまテレビ!』で、婚約したことを大々的に報告。同期の久保田直子アナウンサーが「私もうらやむほどのベストカップルです」と伝えていた。 しかし、その夫とは現在別居中で、「局内でも、夫婦仲があまりよくないらしいというウワサはあった」という。 「正直に言うと、今回の不倫疑惑も、彼女と働く人間の間ではささやかれていたことだったんです。相手が業界内の人だから、どこまでそういう関係かわからないというのはありました。というのも、別の男性とのウワサもあって『いったい、誰が本命なんだ?』と言われていたんですよ」 今回の不倫疑惑は、相手男性の家に泊まった様子が週刊誌で伝えられており、腕を組んで歩く写真も掲載された。2人は関係を否定している様子だというが、「仕事上で制作会社のトップと親しくなっても、家に泊まりに行くことは考えられない。これで関係がハッキリした感じ。でも、このタイミングが最悪。ちょうど局で毎年販売している女子アナカレンダーを発売したところなんですから」と局員。 同カレンダーの発売をPRするため、10月8日には矢島アナが後輩アナたちとPRイベントを行ったばかりだった。 「それも、制作担当がほかでもない矢島アナなんですよ。セールス向上のために周囲にハッパをかけておいて、その自分がこんなゴシップで足を引っ張っているんですから、バツが悪いでしょうね。局も対外的には『プライベートのこと』と言うでしょうが、ニュース番組をやっているので当然、問題になりますよ。そこはテレ朝も厳しいので、最悪、事務職になることだってありえます」 テレ朝では10年以上前、局内の男性と結婚していた当時の女子アナ、徳永有美が、お笑いコンビのウッチャンナンチャンの内村光良と不倫の末、離婚。当時出演していた『スーパーモーニング』などを降板した。その後、内村と再婚したが、局内では前夫への同情論が充満し、徳永は時を同じくして会社を去った。 夫と別居中の矢島アナにとって、この不倫が再婚を目論んでの行動かどうかはわからないが、いずれにせよ、夫が同じビルの中で働く人間となれば居心地が悪くなるのは必至。前出局員も「僕らだって、こういうことがあると一緒に仕事しにくい」と困惑顔だ。 |
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2010 | |
●三原じゅん子 元タレント。11歳年下の秘書を内縁の夫にしており、元夫コアラ(41)と離婚原因だとされる。「年下の恋人男性を秘書にしていた」という記事が掲載された。 ●24歳年下の元秘書・中根雄也と結婚 2016/10 元女優で自民党参院議員の三原じゅん子(52)が26日、自らのブログにて、秘書を務めてきた中根雄也(28)と再々婚したことを報告した。 結婚のご報告 / 私、三原じゅん子は、神奈川県藤沢市にて政治家を志し、各級議員秘書として仕事をされてきた中根雄也氏と結婚する運びとなりました事をご報告させていただきます。今後はお互いに、政治の仕事に専念し、今迄以上に神奈川、、、日本の為に「チーム神奈川」の同志として精一杯取り組んでいく所存でございます。まだまだ未熟な二人でありますが、今後ともご指導宜しくお願い致します。 |
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2006 | |
●細野豪志 『筑紫哲也 NEWS23』キャスター、山本モナとのキス写真を写真週刊誌にすっぱ抜かれた。その後、山本モナは元・読売巨人軍の二岡選手との不倫が報道された。 ●山本モナ NEWS23のキャスターに抜擢された直後に、細野豪志議員(既婚者)との「路チュー不倫」がフライデーされてしまいます。そのため、NEWS23をわずか5日で降板しています。謹慎期間を経て再びカムバックするもキャスター復帰した「サキヨミ」の初回放送終了後に、巨人の二岡智宏選手と五反田のラブホテル入りが激写されてしまいます。わずか1日で復帰した番組を降板するという嘘のような本当の話です。もうこれ以上記録を更新できないというレベルです。ちなみに、サキヨミ復帰時のキャッチコピーは「私は、私に、リベンジするの」です。これまた嘘のような本当の話です。周囲の誰もが「何やってんの?」と思ったでしょうね。山本モナさんは2011年に夫の要望により芸能界を引退しましたが、その2年後の2013年に再度復帰しているようですが、二度も壊した信用は簡単に修復されないようです。 |
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●佐藤ゆかり / 2005・2006
大手マスコミ幹部に向けて、「愛しています。毎日一緒にベッドにいたい」など生々しい「不倫メール」を500回も送りつけていたことが週刊文春にスクープされた(2005)。江崎洋一郎衆議院議員と神楽坂のレストランで不倫デートをして江崎氏を離婚に追い込んだ(2006)。 ●大手マスコミ幹部に向けて「不倫メール」 2005/9/1-2 週刊文春が報じた佐藤ゆかり氏の男性遍歴には、3人の男性が登場している。 元夫=彼女がニューヨークでテレビ朝日の現地スタッフだった際に知り合い、現地で結婚した年上のTVプロデューサー / A氏=妻子ある大手マスコミ幹部 / B氏=日興ソロモン・スミス・バーニー証券(現・日興シティ証券)勤務時代の同僚(既婚) 平成10年、ニューヨーク大学大学院で経済学の博士号を取得後、同証券に入社した佐藤氏は、夫を残して単身帰国。職場でB氏と出会い、世田谷のマンションで同棲(どうせい)を始める。元夫と離婚が成立する前のことだった。 12年初め、佐藤氏は知人を通じて、「海外生活が長いので、日本の政治システムについて教えてほしい」とA氏の紹介を受ける。メールのやり取りで終わらず、待ち合わせて会うようになり、肉体関係を持つに至ったという。 その年の秋に佐藤氏からA氏に宛てたメールは、こんなものだった。 「愛しています。Aさんと毎日一緒にベッドにいたい」「この私のすべてをあなたの中に投げ入れて、大きなあなたについて行きたい。いつまでもいつまでも、あなたに抱かれていたい」 そのころ佐藤氏は、A氏に対して「政治家を中心として、経済政策に影響力のある人間をのべつまくなしに紹介してくれと言ってきました」(A氏の誌上証言)。A氏も、佐藤氏をエコノミストとして成功させようと、経済誌編集部や自民党有力議員に紹介するなどの便宜を図ってやるが、B氏との同棲が続いていることを知り、佐藤氏を非難する場面もあった。13年には、A氏との二股不倫は終わった。 だが、A氏が保存していた不倫メール500通をA氏の妻が発見。多くが痴話ゲンカや、セックスに関するえげつない内容で、家庭はめちゃくちゃ。妻は佐藤氏を裁判で訴え、14年末には正式離婚となった。 A氏の元妻は「あの方が国会議員になることは疑問ですし、義憤にかられます」と同誌に語っている。 ●江崎洋一郎衆議院議員と神楽坂のレストランで不倫デート 2006/6/17 同僚の江崎洋一郎衆院議員と神楽坂のフレンチレストランで会食していた模様を週刊新潮に不倫デートと報じられたが、佐藤は全面否定している。記事中の江崎のボディータッチについて、佐藤は「散発的な不規則行為」「不倫ではなくセクハラ」とし、乃木坂のフランス料理店の支払い明細のコピーを示している。一連の報道について、テレビや自身のHPで反論した。江崎も事実を認め謝罪した。 |
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2003 | |
●徳永有美 徳永有美さんといえば、ウッチャンナンチャン内村知良さんの妻として知られています。しかし、徳永さんと内村さんは再婚です。徳永さんは、2001年に同期入社のディレクターと結婚(初婚)しています。しかし、結婚してから2年後の2003年4月に内村さんとの不倫温泉旅行が発覚します。この騒動が原因で、「スーパーモーニング」と「内村プロデュース」を降板しています。そこから徳永さんは夫と泥沼の離婚裁判を経て、最後は協議離婚が成立しています。協議離婚の条件として、「徳永さんが住宅ローンの残債2000万円を支払うことと」、「キャスターに復帰する場合は二度と内村と会わない」などが条件だったといわれています。しかし、「内村光良と二度と会わない」という約束が守られることはなく、2004年8月に復縁をスクープされたことを機に二人は結婚します。 ●徳永有美と内村光良 ●内村光良と妻、徳永有美とは不倫愛だった 番組降板後に離婚 ウッチャンナンチャンのウッチャンこと、内村光良の妻は元テレビ朝日のアナウンサーの徳永有美です。二人の出会いは内村光良の冠番組である『内村プロデュース』。ここまで聞くと、自然なお付き合いから結婚へと繋がったと思いきや、何と当時の徳永アナは既婚者であり、内村光良との付き合いは不倫交際だったのですから話は穏やかではありません。おまけに徳永アナの夫は『内村プロデュース』を手掛けたテレビ朝日のディレクター。二人の不倫問題はテレビ局を巻き込んだ大騒動になってしまいます。徳永アナが内村光良と知り合った時、徳永アナと元夫との夫婦仲は上手くいっていませんでした。相談を持ちかけるうちに、徳永アナは内村光良の誠実な人柄にどんどん魅かれていったのでしょう。二人の仲は急速に深まり、大胆にも御忍びで温泉旅行に。これが徳永の夫にばれ、大激怒!その時に夫側が徳永アナに突き付けた条件は退職と高額の慰謝料でした。とはいえ、相手が人気芸人のウッチャンですから、テレビ朝日側も「どうか穏便に」と徳永アナの夫を説得。けじめとして徳永アナは『内村プロデュース』とキャスターを務めていた『スーパーモーニング』を降板し、離婚を決意します。 ●内村光良、謹慎?不倫略奪愛の果てに結婚 人気衰退の逆境から大復活! 徳永アナの離婚と共に『内村プロデュース』も終了。二年間の謹慎期間を経た二人は2005年結婚を発表。ところが不倫略奪の果てに結婚した内村光良は、世間から激しいバッシングを受けてしまいます。その後ウッチャンナンチャンの番組は相次いで消滅し、ウッチャン単独の番組も全て短命に終わってしまいます。「もう内村は終わった」とまで言われた内村光良でしたが、月曜深夜枠でスタートした『クイズ発見バラエティーイッテQ!』が高評価を生み、何と2007年『世界の果てまでイッテQ!』として日曜8時のゴールデンに進出。この起死回生の一発が相乗効果となり、続くウンナン司会の『ザ・イロモネア笑わせたら100万円』も終了後に単発で定期的に単発特番が組まれるなど、ウンナン人気も徐々に戻り、そして今やレギュラー番組を七本!再び超売れっ子芸人へと大復活を遂げました。 ●内村光良の子供と夫婦関係 ●子供の良きパパ 世間から略奪愛と言われ、厳しいバッシングを乗り越えて結ばれた内村光良と徳永有美。結婚四年目の2009年6月に第一子である女の子が誕生しました。お名前は心音(ここね)ちゃん、何とも響きの綺麗な愛らしい名前ですね。実はこの心音ちゃん、ウッチャンにそっくりだと評判になっています。ネプチューンの名倉潤曰く「そこに内村さんが小さくなって存在しているみたい」なのだとか。お父さんのウッチャンからすると、嬉しい反面ちょっと複雑な気持ちかも知れませんね。四年後の2013年には第二子となる男の子が生まれています。こちらのお子さんの名前は公表されてないようです。内村光良はとても子煩悩なパパのようで、冠番組『内村さまぁ〜ず』でも娘に対する愛情を熱く語るほど。どうやらこの良きパパ振りも、世間のイメージアップに一役かっているようです。 ●夫婦仲は円満 ネット上で一時「内村離婚?」との噂が出ていたようです。もちろん世間から非難されて一緒になった二人ですから、結婚後しばらく内村光良は仕事を干された時期があり、「このままウッチャンナンチャンは消えてしまうのでは」との危機がありました。確かに夫の仕事が無くなれば、当然妻側は不安になります。この間、夫婦仲がぎくしゃくしたのは致し方ないでしょう。そのうえ子供も生まれたわけですから、妻側の徳永有美は「こんなはずじゃなかった」と考えたのかもしれませんね。しかし、内村光良はいつまでも沈んだわけではありませんでした。再び上り始めた今のウッチャン人気はかつて「ダウンタウン」「とんねるず」と並んで三大芸人と言われた時期を超える勢いです。それでも謙虚な姿勢を崩さないウッチャン。日本テレビ系『おしゃれイズム』に出演した折には妻、徳永有美への感謝の気持ちを語り、愛妻家としての一面も見せました。紆余曲折を乗り越えてきた二人。だからこそ「今」があるのかもしれませんね。 ●内村光良が逆境を乗り越え、コント牽引筆頭者へ 内村光良が妻、徳永有美と知り合ったのは自身の冠番組『内村プロデュース』でした。結果的に二人の愛は不倫となり、世間を騒がせて番組も終了。その後も仕事を干されるなど、芸人として崖っぷちに立たされてしまった内村光良。しかしながら、彼を再び表ステージに引き寄せたのも『内村プロデュース』だったのです。この番組の中で内村光良は数多くの若手芸人を育て、世に送り出していきました。番組をきっかけに大ブレイクした芸人はさま〜ぁずや有吉、土田晃之、バナナマン、TKOと数えきれません。それまでも後輩芸人の面倒見は半端なかった内村光良。後輩たちは今こそ恩義に報いる時だと思ったに違いありません。ウッチャンが新番組を起こせば共演オファーを断る若手芸人などいない、みんな番組を盛り上げようと必死に頑張るはずです。その上、内村光良の温厚な人柄は番組スタッフにも評判がよく、現場の団結力はますます強まります。この相乗効果が高視聴率へと繋がっていったのは間違いありません。芸人として最大の危機にあった内村光良でしたが、それを救ったのも紛れもなく「彼自身」だったのです。まさに神は「自らを助ける者」に手を差し伸べたと言えるでしょう。 内村光良と徳永有美は、確かに人としての道を踏み外しました。しかし、過ちを犯さない人間などいません。大切なのはその過ちを自らがいかに償い、その後の人生に生かしていくことなのです。内村光良にとってこの痛い経験は必ず彼の糧となり、これからの芸人人生を全うする大きな希望にかわるはずです。 ●徳永有美元アナ 「いちばんの勝ち組」と囁かれる理由 2016/12 不倫が大きな社会問題となった2016年。タレントだけでなく、女子アナも“禁断の恋”に走っていた。 たとえばフジテレビ・生田竜聖アナ(28)との別居が報じられた秋元優里アナ(33)。別居を報じた写真週刊誌『FLASH』(11月29日・12月6日合併号)では、理由について、秋元アナが同局のプロデューサーと不倫していたことが生田アナにバレたからだと言及されている。 『報道ステーションSUNDAY』のレポーターとして活躍するテレビ朝日・矢島悠子アナ(34)も同様だ。 2011年に16歳年上の同局プロデューサーと結婚した矢島アナは5年足らずで別居。今年10月、『報ステSUNDAY』の制作を請け負う番組制作会社社長の自宅に入り浸る姿が『週刊文春』(10月20日号)にスッパ抜かれた。2人とも不倫については否定したが、同誌に掲載された腕を組んで歩く仲睦まじい写真は、“ただならぬ関係”を感じさせた。 そうした不倫女子アナで「いちばんの勝ち組」と囁かれるのがウッチャンナンチャン・内村光良の妻となった元テレビ朝日・徳永有美(41)である。 徳永は2001年8月に同期入社のディレクターA氏と結婚。しかし、2003年4月に内村との不倫温泉旅行が発覚すると『スーパーモーニング』や内村と出会った『内村プロデュース』の降板を余儀なくされた。徳永とA氏とは裁判の末、2003年9月に協議離婚が成立。 「当初、A氏の怒りは凄まじく、“テレ朝を辞めなければ訴訟をおこす”と迫っていた。最終的には夫婦のマンションから徳永が出ていき、ローンの残り2000万円を徳永が支払うことで合意した」(テレ朝関係者) 徳永は「二度と内村と会わない」ことを条件にキャスターに復帰したが、やがて2人の恋は再燃。2004年8月、再び写真誌に“復縁”をスクープされると内村もケジメをつけた。現在、2人の子宝にも恵まれ幸せな生活を送る徳永。 「内村は視聴率20%を超える『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ系)をはじめとして、レギュラー番組を7本持つほか、今年は映画監督として『金メダル男』を世に送り出すなど、いま絶頂期を迎え、その年収は6億円超えともいわれています。徳永がもたらしたポジティブ状況は業界内でも話題になっています」(放送作家) 不倫の後始末は人それぞれだが、幸せを手に入れられるのはほんの一握りのようだ。 |
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●古瀬絵理 NHK山形の契約キャスターだった山瀬絵理さんは、スイカップの相性で大人気でした。しかし、2003年7月にJリーグ・モンテディオ山形の監督をしていた柱谷幸一さんとの不倫疑惑が報じられてしまいます。(元ヴェルディ川崎の柱谷哲司さんは、幸一さんの弟です)不倫騒動から8ヶ月後の2004年3月に、NHKは「契約期間満了」として山瀬さんとの契約を延長しませんでした。一方で妻子がありながら独身女性と交際した柱谷幸一さんは、監督を実施的に解任(騒動後休養を発表し退任)されています。子供に夢を与えなければいけない職業についている自覚が全くなかったようです。 ●不倫浮上説の真相 2003年の夏、古瀬絵理さん(当時25)は当時サッカーJ2「モンテディオ山形」の柱谷幸一監督(当時42)との「不倫」疑惑が写真週刊誌に報道されました。不倫疑惑を書きたてられた内容というのが、山形市内のイタリア料理店などで堂々と食事をする、監督の部屋に泊まる。といった内容だったという。この不倫疑惑は全くの事実無根のことで、古瀬さん自身、大変苦しい思いをしたという。一方、監督も「不倫の事実はまったくない」と主張するも、世間を騒がせたということで、チームから離され処罰を受けたそうです。これらの報道等を黒か白かは個々の思いによりますよね。不倫はなかっと思いたいですが真相ははたして・・。 ●古瀬絵理アナ J2監督との不倫否定 2015/12 NHK山形放送局出身のフリーアナウンサー古瀬絵理(37)が5日、TBS系のバラエティー番組「ジョブチューン・女子アナSP・フリーだから女子アナのヒミツぶっちゃけます!」に出演し、過去の不倫報道を完全否定した。番組では、「写真週刊誌に腹の立つこと」というテーマで、出演したフリーの女子アナにトークを迫った。古瀬アナは「J2の監督と不倫をしているという根も葉もないことを書かれて大変迷惑しました」と堂々と否定。「ただ友達だっただけで。飲んでて『楽しいね』と。本当にそんな感じだったんです」と重ねて否定した。当時、NHK山形支局の首脳陣が集まったそうで、古瀬アナは「4人偉い人がいるんですけど。古瀬のFと、Fって頭文字のつく雑誌をかけて『F問題』というファイルができたんです」と明かした。 |
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2000 | |
●有働由美子 生放送中の発言で度々物議を醸す有働由美子アナには、不倫疑惑が報じられた過去があります。2000年9月に横浜ベイスターズの人気選手だった石井琢朗選手の自宅に変装(サングラスにかつら)して訪問する姿が報じられました。有働由美子アナが不倫疑惑について発言することはありませんでしたが、石井琢朗選手は「いい付き合いをしています」と堂々と交際宣言をしています。これだけなら特に問題はなかったのですが、この騒動が明らかになったタイミングは石井琢朗さんが元妻と離婚したわずか2か月後でした。「私も娘も”略奪愛”だと思っています」と元妻の父が語ったことで騒動に火が付きました。騒動の影響がどの程度あったかわかりませんが、有働由美子アナの恋が身を結ぶことはなく今でも独身です。 ●有働由美子アナに熱愛彼氏は? 有働由美子アナは2017年4月現在結婚されていません。これまでに結婚歴・離婚歴もないです。 ●元野球選手・石井琢朗 2000年頃に、元横浜ベイスターズの石井琢朗さんとの熱愛報道がありました。当時の有働アナは、サングラス+巻き髪のロングカツラをするなど、バッチリ変装で石井さん宅を訪れたそう。しかし熱愛関係は否定し、借りた本を返しに行っただけと釈明しました。石井さんは私生活で1996年に元CoCoメンバーの瀬能あずさんと結婚しましたが、2000年に離婚。その後、2001年にフジテレビアナだった荒瀬詩織さんと再婚しています。つまり、有働由美子アナとの熱愛が報じられた2000年頃は、離婚から再婚までのわずかな期間における出来事だったようですね。 ●何人もの男性と浮名を流す 有働由美子アナは、その後も何人もの男性と噂になりましたが、いずれもゴールインまでいきませんでした。「03年には慶応大卒の広告代理店マン、05年には東大卒の公認会計士などそうそうたる肩書きだが、どれもゴールインには至らなかった。07年のアメリカ転勤後は現地在住の日本人男性と恋に落ちたが、帰国後に破局。」 ●5歳年下の一般男性 有働由美子アナは、2013年12月頃より5歳年下の一般男性との熱愛が報じられていました。熱愛報道当時に、直撃インタビューされた有働アナと交際男性。有働アナに、この“お泊まり男性”について聞くと、彼女はこう答えた。「お泊まりはしていません。(彼は)その夜、帰りましたから」 だが、本誌が翌朝ひとりで出てくる男性を目撃していると告げると、「あの日は……。ああ、なるほど……」 と言葉を濁した。その後、彼女は合鍵や同棲、結婚について否定し、こう語った。「この年齢になると、“彼氏だから”という縛りはないんですよ。大人の男性と女性ですから普通に食事をしたり親しくすることもあるんじゃないでしょうか。ひとつ言えるのは、44歳のおばちゃんなんで、自由にさせてくださいってこと。結婚とか形にこだわるような年齢ではないので」 コメントからも親しいことは間違いなさそうな有働由美子アナと交際男性。その後も、何度か週刊誌に報じられるなど、交際自体は順調そうに見えました。 静岡の空調設備会社の役員で御曹司と言われています。お相手のAさん(40)は、静岡県の設備関係会社の役員で、「実年齢より10歳は若く見える」(Aさんを知る静岡在住の人物)というサラサラヘアのイケメンだ。「Aさんは東海地方に拠点をかまえる老舗の空調設備会社の御曹司。有働さんより5歳年下ながら、将来の社長候補との声が上がるほど優秀なビジネスマンです。熱愛報道後も2人は“週末同棲”を続けていて、交際は順調でした。有働さん自身も、『彼と50歳までに結婚するのが目標』とよくのろけていましたよ」 二人がすぐに結婚しなかった理由は、交際相手側の事情です。 結婚の話題を振ると、一転、表情を曇らせ、「それはないです…。今のところは…。私の年になると、世間が思っているように、つきあって、すぐに結婚してハッピーハッピーというわけにはいかないんです」となぜか、結婚については極めて否定的なのだ。彼女がこんな苦渋の表情を浮かべるのには理由があった。有働にゾッコンなAさんだが、結婚ともなると、彼は深刻な事情を抱えていたのだ。「実は、Aさんはバツイチなんです。しかも、前の奥さんとの間には、3人の娘さんもいるんですよ…」(Aさんの知人)この知人によれば、Aさんは2年ほど前に前妻と離婚したばかり。3人の子供たちは前妻が引き取ったが、いちばん上の長女でさえ、まだ小学校低学年という幼い姉妹で、養育費などはすべてAさんが工面しているのだという。「離婚したとはいえ、娘さんたちの存在が気になっているみたいですよ。パパが大好きな娘さんたちでしたから…。もし有働さんと再婚すれば、まだ幼い娘たちが複雑な思いを抱いてしまうんじゃないか…って、彼はすごく悩んでいるそうです」(前出知人) 大人同士の恋愛ということで、やはり年を経た分だけ事情も多くなるということでしょうか。有働由美子アナの彼氏は、バツイチで子供も3人いたということで、結婚を踏みとどまっているのではないかという見方をされていました。しかし、彼らの交際順調な様子には結婚も近いのではないか?という報道も少なくありませんでした。 ただ、だんだんと破局説が濃厚に…。最初に疑われたのは、2016年10月のイベント登場時の有働アナのコメントです。有働アナがその場で書いた2020年までの夢や目標は、「人を愛する」という意味深な言葉。 真意を聞かれると「最近、犬を飼い始めまして。一緒に寝起きしているんですが、40歳を過ぎると犬のほうがかわいくて。ただ、同い年代の片岡愛之助さん(44)と藤原紀香さん(45)が結婚されたのを見て、私も人も愛してみたいな、と素直に思ったので。2020年までならどうにかなるんじゃないかと」と自虐混じりに語り、笑いを誘った。 この発言はさすがに「恋人がいる」場合にしづらいように感じますし、破局したのでは?という憶測が流れます。また一部では、出世のために結婚やフリー転身を諦めたという見方も。そして2017年3月の女性自身による直撃取材時に、有働由美子アナは交際・結婚の可能性について、視聴者からもらった「100個以上の縁結びのお守りのご利益」と絡め語っています。 ――じゃあ、Aさんとの関係でも“ご利益”はナシ? 「(以前の記事は)たまたま(Aさんが)うちに出入りされたのを撮られただけで……。その後の進展は全然ないんですよ」ハッキリしない微妙な返答。だが、有働アナの表情には何とも言えない陰が……。 ――お付き合いはもう終わられたということ? 「(お守りの)ご利益はナシですね」 ――うーん、残念。 「よい報告ができなくてごめんなさい。もう、そんな大きな夢は持ってないんですよ。本当に、この子(愛犬)と2人で幸せに暮らしていければ、それでいいんです。小さな幸せをね。健康で長生きできれば」 ――でも、いつかは結婚したいという思いは? 「いやもうそれもなくなりましたねえ。なんかもうねえ」 かなり丁寧に週刊誌に対応をしている有働由美子アナ、ただそれによると、2013年頃から交際が報じられていた5歳年下の一般男性との恋愛は終わってしまっていたようです。 |
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1998 | |
●丸川珠代 五輪担当大臣として政治家らしい嘘くさい笑顔も板についてきた丸川珠代さんも元テレビ朝日のアナウンサーです。政治家になるや「当事者でもないのに批判してばかりのテレビは正直嫌だった」と悪びれるようすもなく語る丸川珠代さんの変わり身の早さには感服します。さて、丸川珠代さんも不倫経験者です。1998年にテレビ朝日のプロデューサーと社内不倫が発覚します。プロデューサーの男性は丸川珠代さんとの交際を認め、妻と離婚します。しかし、丸川珠代さんがプロデューサーの男性と結婚することはありませんでした。騒動後まもなく破局したそうです。破局してアナウンサーを続けるものの、プロデューサーと不倫していたわけですから仕事はしずらいでしょう。そんな彼女への温情が女子アナとしては異例のニューヨーク勤務だったといわれています。そして、このニューヨーク勤務の経験が政治家を志したキッカケだとも囁かれているのです。不倫がキッカケで政界に転身することになるのですから、人生何が起こるかわかりません。現在では、大塚拓議員と結婚しています。 ●スキャンダル テレビ朝日を退社し、政界に進出することが発覚すると彼女にまつわる様々な過去のスキャンダル疑惑について『週刊現代』(2007年6月9日号)が報じています。記事によると、1998年頃には、丸川さんとテレビ朝日ゴルフ番組担当のFプロデューサーと不倫関係であったとされ、丸川さん自身が「(F氏の離婚問題が)落ち着き次第、入籍する予定」と 同僚に話したと報じる週刊誌もあり丸川さんの”不倫略奪婚”疑惑が浮上していたといいます。また、Fと不倫する前には、H専務と親密な仲だと噂され、更にそれ以前には、元テレ朝報道局政治部長とも親密な仲だったと囁かれていたようです。交際相手として噂されていたのは、5歳年上の一部上場の化学製品会社社長だったといいます。また、一部週刊誌、スポーツ紙では、丸川さんらしき女性が、大学時代に強姦されたAVビデオが存在していると報じられて当時世間を賑わせた事があります。当時は、退社方法がまずかった為か、マスコミを敵に回した感が強く、彼女について批判的な意見が多く挙がっていました。 ●失言問題の柳田前法務相 丸川珠代氏に「お前はクズ」と連呼 2010/12/22 12月のとある昼下がり。参院議員会館の議員専用エレベーターに犬猿の男女が鉢合わせ、“密室”の中では、こんな修羅場が繰り広げられたという。 女:「あの時はどうも……」 / 男:「あんなことをいうなんて、お前はクズだッ!」 / 女:「えッ……(と絶句)」 / 男:「人間のクズ! クズだっ!!」 えらい剣幕で男は怒鳴り散らし、女が9階で下りるまで「クズッ」の怒声が響き渡った―。といっても、色恋沙汰のもつれ……なんて艶のある話ではない。怒った男は失言問題で法相を辞任した柳田稔氏(56)、女は自民党の丸川珠代氏(39)である。丸川氏は、先の臨時国会の参院予算委員会で質問に立ち、「仕事をなめきっている」「このど素人大臣」などと、舌鋒鋭く柳田氏をバッサリ。全国中継で徹底的にやり込められた挙げ句、大臣の椅子を失った柳田氏が恨み骨髄のあまりエレベーターで激高したようだが、2人には深い因縁がある。 2010年3月25日の参院厚労委員会でのこと。「子ども手当法案」の審議を委員長が途中で打ち切り、採決に踏み切ったことに抗議した丸川氏、大声で「この愚か者めが〜ッ!」と委員長席に向かってヤジを飛ばしたことが話題となった。その時の委員長が他ならぬ柳田氏だったのだ。このヤジで名をあげた丸川氏は、いまや参院自民党の“質問隊長”に出世し、自民党本部では「愚か者めTシャツ」まで売られている。決してセンスのあるヤジではないし、それに便乗する自民党もみっともないのだが、議員歴19年の柳田氏にしてみれば「女子アナ上がりの小娘に、二度もコケにされた」というところ。「クズッ!」を連呼するほど怒ったワケをご本人に聞いたが、「お答えできない」(柳田事務所)とのことだった。 一方の丸川氏。「本人は“柳田さんの剣幕に驚いて、エレベーターの中では言い返せなかった”といっている」(丸川氏の政策秘書)が、心の中ではきっとこう叫んでいたに違いない。「この愚か者めがッ」―。(週刊ポスト2011年1月7日号) |
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●畑恵と船田元 元女子アナ。39歳で宮沢改造内閣の経済企画庁長官に抜擢され「政界のプリンス」と呼ばれた船田元衆議院議員を虜にして「政界失楽園」を演じた。船田氏は2000年の総選挙で落選。 ●船田元・畑恵スクープ 「FRIDAY」では、張り込みをして取った仕事もあるのですが、偶然スクープを取れてしまったという経験も結構多くあります。その中で、政界失楽園騒動で有名になった、船田元氏と畑恵さんのスクープも偶然撮ったものです。ある日曜日の昼下がり、私が外国人の友人と、NHKの前にあるお洒落なお店にいた時に、畑恵さんのお顔を見かけました。私も好奇心が旺盛ですから、どんな男性と一緒にいるのか興味を持ち、見に行きましたら船田元氏でした。 ビックリして二人を観察していたのですが、どうも打ち合わせをしている雰囲気ではなく、これは不倫をしているのではないか、 と私の心の中で推測しました。当時はカメラを常時持ち歩いていましたので「これは絶対撮らなければいけない」と職業意識が働き、 どうこう考えているうちに、相手が席を立ってしまいました。後姿で分りにくかったし、 それにピントもチョッとズレているのでこの写真では掲載は難しいと思ったのですが、体の特徴で分かる、 と編集者に言われ掲載になりました。船田元氏は気が付いたようでした。 失楽園騒動の火付け役になりました(「FRIDAY」1996年8月2日号)。 その後、すぐに「週刊文春」で否定会見をされましたが、やはり私が思った通り最終的には前の奥様と離婚し、再婚していますから、見る目があったのかと自画自賛しています。 ●官邸激怒 大臣の目がなくなった船田元・憲法改正推進本部長 2015/6 「誰が選んだんだ!」――。4日の衆院憲法審査会で自民党推薦の長谷部恭男・早大教授までもが「集団的自衛権の行使は違憲」と明言し、安倍官邸はその人選にカンカンだ。 長谷部教授は立憲主義の破壊に反対する「国民安保法制懇」のメンバーで、集団的自衛権の行使に批判的なのは、ちょっと調べれば分かる。自民党は当初、別の学者に頼もうとしたが調整がつかなかったとか、参考人の人選を衆院事務局に任せていたとされるが、最終的にゴーサインを出した責任者の船田元・憲法審査会筆頭理事(61)の評判はガタガタである。 「自民党の憲法改正推進本部長でもある船田さんは、憲法前文に『積極的平和主義』を書くことに意欲を示すなど、ロコツに安倍首相にスリ寄っていました。安保法案が成立し、次は改憲となれば、法務大臣なり担当大臣なり、閣僚ポストを狙っていたでしょう。まだ60代前半だから後々には議長もあると思っていたんじゃないか。でも、これですべてパーですね」(永田町関係者) 船田氏はすでに当選11回。大島理森衆院議長、甘利明経済再生担当相、二階俊博総務会長と当選回数は同じだ。祖父が自民党副総裁や衆院議長を務めた名門一家の世襲。25歳で初当選し、39歳で戦後最年少閣僚として経企庁長官に就いた頃は、「政界のプリンス」「将来の首相候補」と呼ばれたが、入閣は20年以上も前のその1回こっきり。 NHKキャスターだった畑恵氏との“政界失楽園”の末、糟糠の妻と離婚。畑氏と入籍し、世間のひんしゅくを買った結果、直後の00年選挙で落選の憂き目に遭った。その後、返り咲くも、鳴かず飛ばず。09年にも再び落選し、12年に議席を取り返した。「もう一度、大臣」が悲願なのは間違いない。 「自民党内では『なぜ安保法制の審議の真っ最中に憲法審査会なんか開いたのか』という怒りの声が渦巻いています。船田さんは『テーマは立憲主義。安保法制の議論になるのは予想外だった』と言い訳していましたが、政治センスなさすぎです」(自民党中堅議員) ま、解釈改憲反対派からすれば「よくやった!」と拍手喝采だけど。 |
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1996 | |
●近藤サト 近藤サトさんは、人気歌舞伎俳優の坂東三津五郎さんとの不倫が報じられた過去があります。三津五郎さんは元宝塚の男役だった寿ひずるさんと結婚していた既婚者だったため、問題視されました。しかも、寿ひずるさんとの間には3人の子供もいました。現在では、3人の子供の一人のうち、「坂東巳之助」が2代目当主として活躍しています。歌舞伎役者の不倫は芸の肥やしとして寛大に見られていた時代ですから、将来の跡継ぎの母である奥さんとは離婚しないと思われていました。しかし、大方の予想を裏切り三津五郎さんは妻と協議離婚しています。そして、近藤サトさんは1998年に梨園入りを果たします。(この時、現在家元の息子さんは9歳だったので辛かったでしょう)しかし、梨園入りした近藤サトさんを快く迎えてくれる人は少なかったといわれています。再婚後三津五郎さんの両親が相次いで亡くなったこともあり、「縁起の悪い女」と陰口を叩かれることもあったと報じられています。結局、入籍から1年7ヶ月しか経過していない2000年6月に離婚が成立しました。離婚会見では、近藤サトさんの恨み節がとまりませんでした。「私は子供ができることを望んでいたのに誰かの意思により阻まれた」とコメントしています。「誰か」とは三津五郎さん、一族の方達だったといわれています。近藤サトさんに子供が生まれると跡目争いが起きるのは確実ですから、それを避けたい大人の事情があったと推測します。三津五郎さんは2015年にお亡くなりになりましたが、近藤サトさんは葬儀に参加していません。(ちなみに、前妻も参加しなかったと報じられています。) ●近藤サト、夫の不倫で因果応報離婚か 2017/2 元フジテレビアナウンサーの近藤は’98年に同社を退社し、歌舞伎役者の故・坂東三津五郎と不倫の末に略奪婚。だが’00年にはスピード離婚している。そして‘03年に『神戸ルミナリエ』のプロデューサーを務めたI氏とできちゃった婚をし、翌年には長男を出産。現在、テレビ番組のナレーションを務めるかたわら、’11年以降は母校『日本大学藝術学部放送学科』の特任教授(非常勤)として、アナウンス実習や朗読、卒業研究指導を担当している。同誌によれば、夫婦関係に亀裂が生じたのは今から約3年前のこと。現在夫妻は別居中で、近藤は長男とともに暮らし、I氏はホラン千秋似の20代美女と半同棲状態だという。記事にはI氏と美女の生々しいキス写真も掲載されている。一連の報道を受けた近藤は離婚を完全否定。編集部宛てに「夫婦として未だに未熟であり、お恥ずかしい限りです」とのコメントを送り、この件に関して、夫が深く反省している旨も明かした。夫妻は別居状態にあるものの、I氏は長男の子育てに参加し、つねにサポートする状態にあるというが、はたして今、近藤の身には何が起きているのか? もし、I氏の不倫が本気に変わり、離婚になったとしたら…。「因果応報」と言われてしまう事態は起こってしまうのか。(週刊文春) |
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1988 | |
●小宮悦子 小宮悦子さんも不倫が報じられた過去があります。小宮悦子さんが28歳だった1988年3月のことでした。当時のニュースステーションは、今までと全く違う形の報道番組を目指すというコンセプトの元、久米宏さんと小宮悦子さんが番組の顔となって頑張っていた頃です。しかし、ニュースステーションのスタッフのマンションから朝帰りする姿をキャッチされてしまいます。問題視されたのは、小宮悦子さんが既婚者だったことです。1984年にコピーライターの男性と結婚していたのに、まさかの裏切りでした。この不倫報道がキッカケなのかわかりませんが、報道の翌年の1989年に夫から離婚を切り出されたといわれています。さて、小宮悦子さんの不倫騒動はこれで終わることはありませんでした。小宮悦子さんは、1度目の離婚騒動から6年後(1994年)の36歳の時に、テレビ番組制作ディレクターの河島正三郎さんから求婚されたため、極秘で再婚しました。河島さんが小宮さんよりも10歳年下だったことも注目されていました。小宮悦子さんは再婚時の気分を問われて「一生添い遂げたい」と語っていましたが、それが叶うことはありませんでした。再婚から7年後の2001年に、夫が人妻とW不倫していることが明らかになったのです。慰謝料を求める争いの末、離婚に発展しました。 |
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●小宮悦子 2
●1度目の結婚と離婚 1983年(25歳?)に、広告代理店社員の方と結婚。お相手の男性は、高校時代からの知り合いだったそうです。しかし1989年1月7日をもって離婚となりました。昭和最後の日が離婚日となったわけです。 離婚理由は不倫でした。こう言うと男性側が浮気をしたと思われがちですが、そうではありません。不倫をしたのは小宮さんなのです。番組スタッフの男性宅から朝帰りした様子を週刊誌で報じられた事が原因です。旦那さんにしてみれば全国番組のキャスターになった途端、浮気されたとショックだったことでしょう。 ●2度目の結婚と離婚 1度目の離婚から6年近く経った1994年末、36歳の時に、テレビ番組制作ディレクターの河島正三郎さんと極秘に再婚しました。10歳も年下、かつ社会的地位も高い河島正三郎さんに求婚されて嬉しかったのでしょう。「一生添い遂げたいです」とコメントしていました。でも一生は続きませんでした。2007年3月に、12年少々に及ぶ結婚生活にピリオドが打たれたのです。 離婚理由は河島正三郎さんの不倫騒動等です。2001年に、河島氏がタイムキーパーの女性と不倫していたのが週刊誌で報じられたのです。タイムキーパーの女性は人妻で、お互い不倫というわけです。慰謝料をめぐる法廷問題にまで発展しましたが、結局夫婦中は回復せず、離婚となったのです。 ●現在 1997年に購入した、東京都目黒区の2億円もの豪邸で独身生活を送っています。1997年というと、ニュースステーションで人気絶頂、かつ2人目の旦那の河島さんとの仲も良かった時期です。 河島さんとの関係が冷え切っている時は、その豪邸で母親と2人で暮らしていましたが、現在はどうでしょうか?母親は高齢のはずですので、亡くなっていてもおかしくはありません。2015年現在レギュラーはありませんが「今はのんびりと選んで仕事をやらせていただいている」とのことです。若い頃頑張ったからこそ、早期セミリタイヤできたのです。 ●地位を持つと浮気する この2度の離婚から垣間見える事があります。1度目の離婚は、有名になった小宮さんが不倫をした。2度目の離婚は、年齢とともに地位・収入が上がっていった旦那の河島さんが不倫をした。つまり経済力を手にすると、どうしても浮気をしてしまうものなのでしょう。小宮さんと結婚した当時は株式会社メディア・バスターズのプロデューサーだった河島正三郎さんは、2015年春には代表取締役にまで出世なさいました。 |
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●小宮悦子 3
●小宮悦子アナの2度の結婚、離婚 最初の結婚は、テレビ朝日入社3年目の1983年に、高校時代のバンド仲間(浦和高校出身)の同じ年齢のコピーライター・佐藤達郎氏と結婚しています。 佐藤氏は大手広告会社のADKの戦略本部長、カンヌ国際広告祭で受賞歴、審査委員なども務め、多摩美術大学教授に就任。広告のクリエイターとして著名な人物です。 佐藤氏が標榜するDINKs(ダブルインカム・ノーキッズ=子供を持たない共稼ぎ)式結婚の理想カップルとして雑誌の取材にもよく登場しましたが、1988年3月?に小宮アナが番組スタッフ男性と「腕を組んで朝帰り」したところをフライデーされたことが原因で、1989年1月7日に離婚届けを提出しています。 2度目の結婚は、1994年12月31日に10歳年下の当時『ニュースステーション』のディレクターで株式会社メディア・バスターズ所属の河島正三郎氏と再婚しています。 しかし、2001年6月に河島氏が部下のタイムキーパーの既婚女性とW不倫の現場を週刊誌に報じられ、その女性の夫に慰謝料3000万円の支払いを求めた民事訴訟を起こされています。河島氏とその女性は「ラブホテルには入ったが不倫交渉はなかった」と完全否定しましたが、300万円を支払うことなどが条件で和解したと報じられています。(ZAKZAK 2002/07/19) 不倫発覚直後から、2人は別居生活に入り、冷え切った夫婦関係が戻らなかったようで騒動から6年後の2007年3月に離婚が成立したと『女性セブン』(2007年4月5日発売号)が報じています。 ●山路徹の不倫騒動で飛び火 2010年12月19日、タレントの大桃美代子が前夫であるAPF通信社代表・山路徹氏とタレント・麻木久仁子の不倫関係をツイッターで暴露。さらに以前より山路氏を批判していたジャーナリスト・日垣隆氏がツイッターで「山路徹は明日、小宮悦子さんとの不倫も話すのか」と、山路氏と小宮アナは不倫関係であったと暴露しています。(先述のフライデーされた相手が山路氏だと推測されている) さらに『日刊ゲンダイ』(12月26日号)で山路徹氏は、過去に共演した小宮アナ、小谷真生子、長野智子らと次々と不倫関係となったと報じ、1993年当時には、山路氏との交際を記した怪文書がばらまかれた事があったと伝えています。(その後、山路氏はテレビ朝日を出入り禁止となった) 2011年1月8日には、小宮アナはこの騒動に対し「(山路氏は)番組のスタッフで仲間でしたが、その件に関して答える立場にありません」と答えています。 以降、結婚せずに子供もおらず、現在は独身生活を満喫中だと言われています。 |
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1982 | |
●田丸美寿々 元フジテレビの田丸美寿々さんは、才色兼備のキャスターとして人気でした。しかし、人気絶頂の1982年にフリージャーナリスト男性との不倫が発覚してしまいます。この男性は、結婚しており奥さんは妊娠中でした。しかし、不倫報道をキッカケにフリージャーナリストは奥さんと離婚します。奥さんとしても妊娠中に夫が人気アナウンサーと不倫していることがわかり、さぞかし恨んだと思います。そして不倫が発覚した翌年の1983年2月には、田丸美寿々さんはこの男性と入籍しました。客観的にみればどこからみても略奪愛だったのですが、田丸美寿々さんの認識は「奪ったのではなく、譲ってもらった」でした。この田丸美寿々の発言に「それはないだろ」と納得しない世間から大バッシングをうけます。そのため、入籍から1ヶ月後の1983年3月に田丸美寿々さんはフジテレビを退社にまで追い込まれました。田丸美寿々さんとフリージャーナリストの男性との結末ですが、1991年2月に離婚しています。わずか8年の結婚生活でした。 ● 1982年、ジャーナリスト・美里泰伸との交際を報じられ、田丸と美里は翌年2月に結婚した。その後、1991年2月に離婚。活動名は結婚中は「美里美寿々」としたが、離婚後は「田丸美寿々」に戻した。 |
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●田丸美寿々 2008/9
先日、「ニュースキャスター田丸美寿々」という本を見つけ読んでみた。 TBS「報道特集」は、ここロスでも流れてくる。 土曜日午後6時半という時間帯で、色々なトピックスに美人キャスター田丸美寿々が鋭く又女性らしい感性で問題を分析している。 彼女については、以前週刊誌で、彼女をただの美人アナで終わらせるのではなく、ジャーナリストとしての教養を身につけさせるために献身したある男との関係について書いてあった記事を読んだことがあった。この本の中でも、「少年剣士」として登場する。 「少年剣士というのはただやみくもに剣をふりまわし、強そうに虚勢をはっているだけで、本物の剣豪が出てきたらひとたまりもないのに、一人前の顔をしている青くさいやつという意味です。」 この言葉は田丸が言ったのか、著者板倉久子の解説なのかよくわからないが、かつて交友があった男への言葉としてはきつい感じがする。確かに私も思った。週刊誌の写真から受ける感じでは、この男、田丸には弱すぎると感じた。優秀な女性は男を踏み台にして成長していくものなのか。彼女はこの男との触れ合いからジャーナリストとして男と対等に振舞えるスタートを切れたのではないか。 「テレビの世界で女性キャスターとして多少名が売れたからといって、いい気になってはいけない。きみの本音インタビューやストレートすぎるレポートなど、本当のジャーナリズムから見れば茶番にすぎない」。「でもジャーナリストに必要な真面目さと度胸は抜群である。」 当時、雑誌や週刊誌など活字の世界で活躍していたフリージャーナリストであった彼であったのだから、少年剣士とはちょっと酷な書き方のようだ。 フジテレビ入局7年目、田丸は少年剣士を卒業した。 報道という男社会で何とか男に追いつき追い越せと必死だった田丸にとって、主婦層は未知の視聴者であった。結婚して家庭を持って生活してみなければ、視聴者の目線にあった番組を作れないのではないかと思った。そのような時現れた男性のプロポーズに田丸の心は動き、結婚した。妻ある男であるが、ここでは詳細なことについて言及しない。 主婦になった田丸は、初歩的な家事のことがわからない。しかし、「仕事ができても家事が出来なければ一人前じゃない。よし、今は主婦業に専念しよう」と、仕事は週2回ほど気楽な番組に出演する程度におさえ、家庭第一の生活に切り替えた。 その後、アメリカ留学を決断した。留学先は名門プリンストン大学の大学院で、行政学と国際問題専門を勉強した。この大学院のプログラムには、アメリカ政府関係者や大学教授、将来を嘱望されているビジネスマンなどの超エリートの人々が集まっていた。田丸は1年間の留学の間に、およそ250冊の英語の専門書を読んだというから、相当な猛勉強をしたことになる。 今テレビで見る、彼女の落ち着きは、この1年間の勉学によって、ジャーナリストとしての基礎的な教養が身についたためであろう。 田丸は帰国子女である。田丸の父親は田丸が生まれたとき、高校の英語の教師をしていた。ところが田丸が8ヶ月の時、突然、仕事をやめ、アメリカに渡ってしまった。田丸の父は元々アメリカ生まれで、祖父が病死し、父は4歳の時、日本に帰国している。父はサンノゼ州立大学での勉学のために一人でアメリカに旅立った。田丸5歳の時、ようやくサンフランシスコに母親と一緒に渡り、父親と暮らすことになった。田丸は小学4年生まで、アメリカ生活を送っている。田丸は根っからアメリカの雰囲気があっていると見えて、無邪気に楽しいアメリカ生活を送っている。ところが日本帰国後、帰国子女として同級生がらいじめられている。当時のことを振り返り田丸は次のように言っている。 「アメリカの子どもたちにとけこむには、何の苦労もいやな思いもしなかったのに、同じ日本人の中に入ろうとしたとき、なぜか不当につらい思いをしなければならなかった。このときの経験が、子どもなりにも、私の中に日本人の排他性といういやな面があることを刻みつけたように思う。日本や日本人というものを、いつも一歩はなれて客観的に見ようとする私のクセは、このころの経験が素地になっているようです。」 帰国子女後遺症のため、中学、高校時代は冬眠状態だったという。田丸が田丸らしさを出せるようになるのは、東京外国語大学英米語学科に入学してからといってよい。といっても、アメリカに行く前の幼児時代、広島の田舎でおてんばな子であったし、アメリカではローラースケートをするような活発な少女であったのだが。 ひとめぼれした男子学生に、「だれか僕たちと一緒に芝居をやりませんか。ふたり芝居なんだけど、女役を捜しているんだ」という誘いで、相手役が彼だと思い込んで、劇団に入ってしまった。実は彼は演出の役であったのだ。 大声を出したり逆立ちしたり、相手役の男と抱き合ったりしながら、いつのまにか、田丸は大胆になっていった。 フジテレビの面接試験を冷やかし気分で受けたが、いつしか2千人中の3名に選ばれてしまった。光るものがあったのだろう。試験官は田丸の美しさに合格点を与えたのだろう。入局当初から報道をやりたいと思った田丸は、生意気な新人アナとして周囲から冷たく見られていた。同期の人間が、もう画面に出ているのに、彼女だけが取り残されていた。遂に彼女の出番が回ってきた。それはお天気予報を担当することだった。実質90秒が彼女に与えられた枠であった。 田丸はただのお天気お姉さんで終わりたくなかった。当時の政治スキャンダル、ロッキード事件を種にした天気予報前のコメントを、上司の許可なく、本番で投げかけている。 「皆さん木守りということばをごぞんじですか。ところでけさ私はぽつんと残った真っ赤な熟柿を見て、福田カラスや大平カラスにいじめられながら枝にしがみついている老練な三木熟柿と、それを必死でささえる三木守りの政治風景を連想してしまったのですが、テレビをごらんのみなさまはいかがお思いでしょう。えー。ではまず。お天気概況からお伝えしましょう」 スタッフの反応は賛否両論であった。田丸もしたたかである。 「悪口は耳を傾けず、もっぱら応援の声だけを聞こう。批判や文句だって、考えてみれば反応じゃない。無視されるよりずっといい」 この楽観主義が、今の田丸を作り上げたのであろう。 当時大蔵大臣へのインタビューというと男性に決まっていた。ところが男性スタフが出払ってしまっていて、急遽田丸がインタビューを任されることになった。大蔵省の奥の大臣室に通された田丸やカメラマンは大臣椅子にライトを当てるようにして待っていた。ところが、大臣はなかなか現れない。そこで、茶目っ気のある田丸は大臣の椅子に腰掛けてみた。その時、渡辺美智雄大蔵大臣が入ってきた。田丸は慌てて席を立とうとしたが、「 まっ、そこ座って、私はここに座るから」と田丸が座る予定だった折たたみいすに座ってしまった。突然のインタビューだったので、普段から思っていたことを質問した。「お札に描かれているのはなぜみんな男性なのでしょう。ひとりぐらい女性が入っても、たとえば樋口一葉とか・・・」「そえはだね。お嬢ちゃん。今回の新札は、にせ札防止が一つの目的でね。偽造しにくいように高度な技術で細かく印刷するのよ。だからややこしい顔の方がいいの。樋口一葉は若くして死んでしまったから、顔に皺もないし髪も真っ黒。それじゃ簡単に偽造できてしまうんだな」 独特の栃木弁で説明する大臣のコメントを聞いて、田丸は思わず笑ってしまった。5千円札の新渡戸稲造(岩手県出身)が決定されたことも、当時の総理大臣鈴木善幸(岩手県出身)への渡辺のおべっかいであったことまで喋らせてしまった。これを見ていたプロジューサーは「これは男にはできないインタビューだ。田丸の電撃インタビュー。よしこれで行こう」ということになった。 これ以外にまだ多くの面白い逸話があるが、興味があれば、実際に本を読んでもらうとしよう。田丸は失敗をおそれず、大胆なところが彼女の良さであろう。 もう一つ、田丸のジャーナリストとして好感がもてる話を紹介する。1982年(昭和57年)、日本航空が羽田沖に着陸直前に墜落した事故があった。その時K機長は精神鑑定が必要になった。ところが、マスコミにとって、24名を死亡させ、150名もの重軽傷者を出した当事者の顔をせめて少しでもよいから見せて、視聴率を上げたいという思惑があった。当時人権についてそれほどうるさくなかった時代である。その熱意というか圧力に対して警察が折れ、病院の玄関から車に乗るまでの数メートルの間だけ撮影を許可した。田丸は他局より良い映像を撮る作戦をたてた。「よし、ロープをこえて、機長が歩くように歩きながらレポートしよう」。「あ、だれだ、フジの田丸だ。チクショウ!引っ込め、協定破りだ」。ところが、田丸は平然と「K機長はまもなくここを歩きます。警察病院で精神鑑定を受ける予定です」。ところが一瞬田丸は、k機長の立場になったような気になった。「k機長も、これほどの報道陣を予想していないと思うんですが・・・こうやって実際に彼の立場にたってみますと、さらし者にされているような感じがするんですよね。機長はこれから精神鑑定を受ける身です。警察も、何もここまで歩かせる必要はないんじゃないかと・・・私自身は今そんな気がしています」とやってしまった。 そのあと警視庁からフジテレビに処罰が言い渡された。本当は警察批判に対する報復をしたいところであっただろうが、そうだと言論の自由を警察が干渉したことになるので、次のような罰則になった。「貴社のキャスターが報道規制のロープをこえた。その『報道規制違反』の罰として、フジテレビ記者は5日間の記者クラブ登院停止』というものであった。視聴者や週刊誌で行き過ぎという批判の声があったり、彼女に同情的な見方もあった。ただ、社内での温かい目で見てくれている人がいたことが、田丸にとって救いであった。確かに田丸のわき目もみない猪突猛進が災いしたのであるが、逆に彼女のこのような性格が好感を持たれるようになるのも興味のあることである。いつも優等生のコメントだけするようなキャスターなら、NHKで仕事すればよい。少なくとも民放という在野勢力であるなら、これぐらいのことのはみ出しはどんどんやってもらいたいぐらいである。 田丸の率直な態度は好感がもてる。テレビという映像文化の中で、外形的に、貴女は視聴者から好感を持たれているのだろう。しかし、ジャーナリズムの観点から言うと、合格点を挙げるわけにはいかない。彼女だけでなく、日本のジャーナリズムが真実を伝え、国民に日本や世界で起きている事件に対して、正しい情報を与えているかといえば大いに疑問とするところだ。 |
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近代 | |
●翠川秋子
翠川秋子(みどりかわあきこ 1889-1935) 日本で最初の女性アナウンサー。本名荻野千代。東京出身。女子美術学校(現在の女子美術大学)を卒業して後、銀行員と結婚。1男2女をもうけるが1922年に夫と死別、折りしも開局に向けて準備を進めていた東京中央放送局(JOAK)総裁だった後藤新平の目に止まり、後藤の推薦によって1925年に東京中央放送局入り。日本初の女性アナウンサーとなり、毎朝の家庭講座を担当した。 だが局内での風当たりは強く、翠川は「男社会の犠牲になった」との思いを抱き、1年足らずで退職。その後は高等女学校の美術教師・白木屋での広報雑誌編集などを勤めたものの長続きせず、新宿2丁目に屋台のおでん屋「みどり」を開いた。 1935年8月6日、翠川の子女3人が7月25日に母が和服で家を出たきり帰って来ないと警察に届出た。翠川は、子女に「子供も大きくなって責任を果たした」「母の命日は7月25日」「兄弟仲良く」「海中に身を沈み果てる」と遺書を残しており、直ちに捜索が行われた。だが8月20日午前8時30分安房郡西岬村(現千葉県館山市)坂田海岸で翠川の遺体が発見され、その後の捜査でおでん屋の客だった年下の東京都・蒲田区役所職員と心中したことが判明した。 ●日本初の女子アナ 1年で退社し9年後年下男性と心中した 一流大学を卒業した上に芸能人にも引けを取らない美しさ。女性にとって女子アナが、女性の憧れの職業といわれて久しい。しかしその女子アナが採用されるのは何千人もの応募の中から民放キー局で2〜3人という超のつく狭き門だ。 日本に初めて女性のアナウンサーが登場したのは、ラジオ放送が誕生した1925年(大正14年)にまで遡る。 初代と呼ばれる翠川秋子さん(享年45)は料理番組などを担当し、リスナーに顔は見えなかったものの、その美貌と当時としては珍しかった洋装で注目された。しかし、局内での風当たりは強く、「男社会の犠牲になった」という思いを抱いて1年たらずで退社。その9年後の1935年、年下の男性と心中してしまった。 1953年にテレビ放送が始まり今年で60周年になるが、テレビ黎明期にあって女子アナは、「男性アナウンサーのサポート」の役割しか与えられなかった。それはテレビが大衆化する1960年代以降も変わらなかった。1968年にTBSに入社した見城美恵子さん(66才)が当時をこう振り返る。 「報道やスポーツは男性アナウンサーの聖域で、女性アナウンサーは近づくこともできませんでした。今のように総タレント時代ではなく、タレントさんには芸人としての矜持があって、プロデューサーには“アナウンサーは社員なんだから領域が違うんだ”と言われましたね。 とはいえ私たちは“局のアナウンサー”ということで大事にされ、局員でも食事に誘うのもいけないというのが暗黙の雰囲気。自由がない代わりに、大事に守ってもらえる時代でした」 1970年代に入ると、テレビの世界に華やかさが求められるようになり、ようやく女子アナも「ニュース」「朗読」「ナレーション」などへの参加が許された。 「衣装やアクセサリーも派手になり、フリーの人たちが活躍する時代になっていきました。バブルに向かって、テレビ局もタレントなどをどんどん起用する。アナウンサーを採用する際にも、テレビ向きの華やかさのある人を選ぶようになっていきました」(見城さん) その象徴的存在が、民放でいえば1975年にフジテレビに入社した田丸美寿々(60才)、NHKでは1979年に入局した頼近美津子さん(享年53)だった。 当初、天気予報などを読んでいた田丸だったが、1979年に逸見政孝さん(享年48)とともに『FNNニュースレポート6:30』のメインキャスターに抜擢される。これが「女性キャスター」第1号となった。 頼近さんは、ゴールデンタイムの『ばらえてぃ テレビファソラシド』で「朗読の名人」と呼ばれたベテランの加賀美幸子さん(72才)とともにメイン司会を担当。タモリに「キャサリン」のミドルネームで呼ばれ、一躍人気者に。1980年には『NHKニュースワイド』のキャスターに抜擢された。1981年、フジテレビに電撃的に移籍した時には、1200万円とも噂された高額年俸が話題を呼んだ。(女性セブン2013年2月7日号) |
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近世 | |
●永井荷風
「あめりか物語」「糧東締諦」などを著した耽美派の作家・永井荷風(1879-1959)は、下町や花柳界の情緒を愛した人である。こういうと聞こえはいいが、かなりの女好きで、同時に複数の愛人を持つ節操のなきであった。それぞれの愛人とうまくつき合うならともかく、自分の浮気を隠そうともしなかったので、たまりかねた愛人が愛想を尽かして離れていくことが多かった。すると、荷風は未練たっぷりの恋文を送つては復縁を願うのだが、きっぱりと拒絶されてばかりである。 荷風の困った癖は、色恋沙汰だけではない。他人の情事を「見ること」が大好きだったのである。関係のあった芸者二人が互いに愛し合っていると知ると、二人を呼び寄せて、女同士で愛し合う姿をじっくりと観察した。愛人の女性とその恋人を招いて、二人の秘め事を写真に収めたりもしている。そのうち、愛人の一人だった関根歌という女性に伺合茶屋を附かせ、そこへ来たお客の色事を隣の部屋からのぞくようになる。 人の性交を観察しては、「今のはお粗末だった」「あれは、なかなかよかった」などと批評し、気に入ると歌に「席料はまけておあげなさい」ということもあった。 その後、自宅が戦火で焼失した荷風は、住居を転々としたあと、フランス文学者の小四茂也宅に移り住む。すると、ここでも悲癖を抑え切れなかったようで、小四夫斐の寝室をのぞき見趣味の餌食としている。それに気づいた夫人がのぞき穴をふさいでも、悪びれる様子もなくまた聞ける。そんなことが続くものだから、とうとう小西家から追い出されてしまった。 荷風は二度結婚しているが、いずれも長くは続かずに離婚している。その後は、自由な独身生活を楽しんだ。荷風の愛人の数は、一説には二〇人はくだらないという。しかし、芸術至上主義者だった荷風は、それほどの女好きにもかかわらず、子どもがいなかった。芸術の邪・肱になるといって、子どもをつくることを断固拒否したのだ。避妊には人一倍気を使っていたようである。 |
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●太宰治の妻
1936年(27歳)、太宰は“遺書のつもりで書いた”という作品集『晩年』を刊行、芥川賞の選考前に川端へ本を郵送する。次の手紙をつけて--『何卒(芥川賞を)私に与へて下さい。一点の駈け引きございませぬ。深き敬意と秘めに秘めたる血族感とが、右の懇願の言葉を発っせしむる様でございます。(中略)私に希望を与へて下さい。私に名誉を与へて下さい。(中略)「晩年」一冊のみは恥かしからぬものと存じます。早く、早く、私を見殺しにしないで下さい。きっとよい仕事できます』。 ド真ん中直球ストレートの、泣きつくような懇願文だ。上京以後、心中事件で相手を死なせてしまったり、芸伎と結婚したり、非合法活動に係わったり、大学も卒業出来ず就職に失敗するなど、故郷の生家に数々の迷惑をかけたことから、芥川賞の受賞で名誉挽回を果たそうとしたのだ。それに薬物中毒でかさんだ薬屋の借金を払う為にも賞金が必要だった。だが、選考の過程で「すでに新人に非ず」と最終候補から外され深く打ちのめされる。 同年秋、太宰の薬物依存があまりに深刻な為、心配した井伏ら周囲の者は太宰に“結核を療養しよう”と半ば騙すような形で、武蔵野病院の精神病病棟に入院させた。一カ月後、完治して退院したものの、太宰は「自分は人間とは思われていないのだ、自分は人間を失格してしまっているのだ」と深く傷つく(この体験は8年後『人間失格』に結実する)。太宰が退院すると、妻初代は入院中に他の男と間違いを犯したことを告白した。 1937年(28歳)、浮気にショックを受けた太宰は、初代と谷川岳山麓の水上温泉でカルモチン自殺を図ったが今回も未遂となり離婚する(4回目の未遂)。一年ほど杉並のアパートで下宿生活し、10ヶ月近く筆を絶つ。井伏は太宰のすさんだ生活を変える為に、自分が滞在していた富士のよく見える山梨県御坂峠に招待する。こうした気分転換が功を奏し、徐々に太宰の精神は安定していく。翌年、井伏が紹介した高校教師・石原美知子と見合い、婚約。1939年(30歳)、井伏家で結婚式をあげ、東京・三鷹に転居、以後死ぬまでここに住む。 太宰の作品は明るく健康的な作風となり名作『女生徒』『富嶽百景』を生み、川端から「“女生徒”のやうな作品に出会へることは、時評家の偶然の幸運」と激賞される。31歳、『駈込み訴え』『走れメロス』を執筆。1941年(32歳)、太平洋戦争開戦。翌年発表した『花火』(後に「日の出前」と改題)が、当局の検閲によって“時局に添わない”と全文削除を命ぜられる。 |
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●斎藤茂吉
近代を代表する歌人・斎藤茂吉(1882-1953)は、短歌同人誌「アララギ」を主宰し、「赤光」「あらたま」などの歌集を世に送り出したことで知られる。彼はまた、歌人として有名な一方、青山脳病院の院長でもあった。歌の道でも医学の世界でも地位の高かった茂吉だが、晩年の女性関係を見ると、どこか変質者めいている。 茂吉は、五一歳のころまでは平穏な家庭のまじめな夫だったが、1933(昭和八)年、彼の人生を一変させる事件が起こる。事の発端は、妻の不倫騒動であった。 若い男性のダンス教師が上流の女性たちを誘惑し、不倫の関係を結んでは金銭的援助を受けていたことが発覚したのである。捕まったダンス教師の自白から、数々の有閑マダムたちの不貞が明らかになった。そして、彼が関係した相手として挙げたなかに、茂吉の妻・輝子がいたのである。 輝子はこれを否定したが、茂吉は妻を信じられず、ショックで不整脈などの症状を起こすほどだった。そして、怒りのあまり妻を別居させはしたが、離婚はしていない。婿養子という立場や世間体を考えたのか、もしくは妻への未練もあったのかもしれない。 その翌年、茂吉は正岡子規の三三回忌歌会で、「アララギ」の会員だった二四歳の永井ふさ子と出会い、その美貌に夢中になってしまう。妻と別居中の孤独な暮らしだったこともあってか、茂吉はふさ子を自宅に招いて歌の添削指導をするようになり、やがて男と女の仲となった。 茂吉はふさ子にあてて、何と一五〇通以上の恋文を送っている。そのなかには、「ふさ子さん!ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか」「あなたの電話のこゑは実になっかしい。かぶりつきたいやうなこゑです」など、驚くほどあからさまな文面が見える。 しかも、ふさ子に対する独占欲は異常なほど強く、彼女がほかの男と会っただけで責め立てたり、アパートの前で待ち伏せしたりした。 さらに、不倫関係や茂吉の嫉妬深さに疲れたふさ子が、郷里で見合いをして婚約すると、茂吉は相手とのキスや愛撫の場面を手紙で知らせるようにと、変態的な要求をしているのだ。このため、ふさ子は精神的にまいって寝込み、結局、破談になってしまったという。 しかし茂吉は、それほど熱烈にふさ子を愛しながら、妻と離婚してふさ子と結婚しようとはしなかった。できる限りふさ子との関係を隠し、日記にさえ書き記していない徹底ぶりだったのである。 |
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●下田歌子
(1854〜1936) 活躍した岐阜県出身の歌人です。18才(1872)の時に上京して、女官として宮中に仕出しました。小さい頃から和歌のお勉強をしていて、その才能を皇后に認められ宮中で和歌を教えるようになりました。25才(1879)の時に宮中を寿退社で辞めて、剣客『下田猛雄』と結婚しました。しかし、結婚で知った女の喜びに目覚めると、狂ったように毎晩、夫に求めたそうです。 夫はこの激しい営みが原因で身体が衰弱して、ついには死んでしまいます。歌子は女官時代に閨房の技術を学んだと言われ、床上手だったそうですが、それが仇となってしまったのでした。 未亡人になっても、男には不自由しなかったみたいです。歌子は当時としては美人だったので男好きの顔立ち、若さから、沢山の男の子から誘われていたようです。それに、それだけの床上手の子が一人の夜は寂しかったのではと思います。 当時、明治政府は、女性の教育に力を入れていて歌子も29才(1883)の時に、私塾を開いて士族の娘たちに礼儀作法や古典の講義を教えていたそうです。政府の推薦で『華族女学校』の教授を命じられたのは、それからしばらくしてのことです。またこの年、女子教育の視察のために、2年間欧米に留学もしました。帰国後『帝国婦人協会』を組織し、その初代会長にも就任しました。 こうした華々しい活躍は、伊藤博文との不倫な関係があったからと言われています。伊藤は明治天皇にもほどほどにと注意されたくらいの艶福家で、毎晩のように芸者遊びをしていたそうです。お妾さんもたくさんいました。 地方に出張すれば、地元の実力者の娘や権力者と関係ある芸者とよく遊んだそうですから、歌子もその一人だったと考えられます。 30年前くらいに発刊された『花の嵐』によれば、歌子は従来の日本の女の子と違う考えを持っていた人で『社会を変えるのは女性である。そのためには女性が変わらなくてはならない』を信念に、積極的に行動した人だったようです。 今で言う割り切った男女関係も平気な人でした。野心家の歌子が伊藤総理に色々お願いしたのではないでしょうか。学校の設立も、留学も、協会設立も伊藤総理の力なくしては実現しなかったのではと考えます。それに、伊藤博文は気前がよい人で『よろしい御前』ともあだ名されるくらい、寝物語の女たちの願いごとを叶えてあげる人だったそうです。 |
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●勝民子と勝海舟
幕末に幕臣として活躍した勝海舟の妻は、名を民子という。民子は砥目屋という炭屋の娘で、深川の芸者をしていたが、徴禄とはいえ御家人である勝家の正妻とするため、旗本・岡野孫一郎の養女という形をとって結婚した。結婚して三年ほどは、畳や天井板を薪の代わりにしなければならないほどの赤貧生活が続いたが、民子の本当の苦労は、海舟が幕府に才能を認められるようになってから始まった。 結婚して一〇年後の1855(安政二)年、三三歳になった海舟は、幕府海軍の伝習生として長崎に単身赴任し、そこで梶久子という現地妻をつくったのである。海舟の浮気は、五年後に長崎から帰ってきてからもやむことはなかった。海舟は、屋敷の若い女中たち全員に手をつけたのだ。女たちも最初からそのつもりで屋敷に来たらしい。表向きは海舟の身のまわりの世話や台所方を担当する女中だが、内実は妾。そんな女たちが何人も屋敷に住み、妻妾同居の暮らしをしていたのである。 海舟の妾の数は、彼が出世の階段を駆けのぼっていくにつれて増えていった。名前が残っているだけでも、久子のほかに、増田いと、小西かね、森田米子、おふさ、おなか、おたけの六人もいる。しかも、いずれも子どもをもうけているのである。さらに、このほかにも記録に残されていない妾がいたと思われるし、家の外にも愛人をつくっていた。 民子はこの妻妾同居の生活にも文句をいわず、嫉妬も表に出さず、家のなかをそつなく切り盛りした。妾たちは尊敬を込めて民子を「おたみさま」と呼んだという。さらには居候の門下生たちにもやさしく接し、門下生たちは、「先生があまりやかましいので幾度も出ょうかと思ったが、夫人がやさしくいたわってくれるので、その手前逃げ出すことができなかった」と語っている。 こんな民子に海舟は感謝し、訪問客によく妻の自慢をしていた。やがて海舟が没し、その六年後に民子が死んだ。彼女はこの世を去るとき、たった一言、「勝のそばにだけは埋葬しないでください。私は小鹿のそばがよい」という遺言を残している。小鹿とは、四〇歳で先立った長男の名である。明治時代の婦女道徳に沿ってじっと耐えていた民子だが、無類の女好きの夫に対して、内心で怒りを募らせていたようだ。 民子の墓は遺言通り、海舟の墓のある洗足池畔ではなく、青山墓地につくられた。それでも、やはり二人はどこまでも離れられない運命にあるのだろうか。皮肉なことに第二次世界大戦が終わると、民子の墓は海舟の墓の隣に移設されたのである。民子は並んで立つ墓の下で、生前口にすることのなかった愚痴を、海舟にこぼしているのかもしれない。 |
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江戸以前 | |
●絵島と生島
大奥の女中「絵島」と人気役者であった「生島新五郎」との悲恋物語。当時、大奥女中と役者との恋愛は御法度でした。絵島は宝永元年、江戸時代六代将軍家宣の愛妾である、七代将軍家綱の生母「月光院」に大奥女中として仕えることになりました。絵島は容貌が美しく、同僚にも慕われ月光院の信頼も厚く、出世して大年寄となりました。その後、絵島は正徳4年(1714)芝居見物で知り合った人気役者 ・生島新五郎と馴染を重ねるようになりました。そして、大奥の権力争いから増上寺、墓参りの芝居見物がとがめられ、このことで絵島は公務をおろそかにしたということで裁きを受ける身となりました。そして生島新五郎との関係も暴露されることになりました。 絵島と浮名を流した生島新五郎は見宅島に遠流され、絵島は高遠に遠流の身となりました。絵島は、火打ち平らの囲み屋敷に幽閉されたのです。絵島は最初、死罪の判決を受けたのですが、月光院の口添えがあったため死罪は免れ、高遠に遠流(おんる・死ぬまで流される)ということになりました。 |
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●蓮如
室町時代中期、戦乱が続き疫病や飢謹が起こると、仏の教え(仏法)が滅びるという末法思想が広がり、人々を不安に陥れた。そんな世に庶民の間で流行したのが、親鷲が広め、蓮如(1415-1499)が確立した浄土真宗であった。浄土真宗は、難しい修行をしなくても「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで救われると説き、「悪人」といわれる身分の低い者こそ救われるとしたので、庶民の心のよりどころとなったのだ。 また仏教では、女性は、男性よりもこの世に執着しやすいなどの五つの罪を背負っており、そのため成仏できない存在とされている。しかし、浄土真宗では、「悪人」と同じように、徳が薄い女性こそ、もっとも救われるべき存在だとしている。こうした教えのせいか、浄土真宗を広めた親鷲も、その後継者である本願寺八世の蓮加も妻帯している。 通常の仏教では女犯は罪であり、僧は妻帯を許されなかったにもかかわらず、である。当時、親鷲と蓮如は、かなり異端の存在であったといえるだろう。 蓮如は、五人の妻をめとり、二七人の子どもをつくった性豪であった。 こう書くと好色家のようだが、蓮加の場合はすべて正式な妻であり、愛人や妾はいなかった。妻が五人いたのも、蓮如の浮気心のせいではなく、次々と死別したためである。しかも、蓮如は妻を亡くすと、その妻を悼み、しばらく再婚することはなかった。このことからも、蓮如が連れ添った妻を大事に思っていたことがわかる。 それでは、妻が生きているときは愛人もつくらず、妻一筋だったにもかかわらず、なぜ蓮如は次々と新しい妻をめとったのだろうか。己の性欲を絶つことができなかったこともあるだろうが、前述したように、仏教では罪と見なされている女性の存在を、自らが妻帯することで肯定するためでもあったのだろう。 しかし一説には、浄土真宗布教のための戦略だったともいわれている。蓮加は多くの子どもを各地へ赴かせ、息子を有力な寺の後継者として、娘はわざわざ敵対しそうな寺に嫁がせた。自分の血統を引いた子孫を門徒勢力の中心に据えることで、浄土真宗を急速に各地へ布教することに成功し、さらには宗門の結束を強固にすることができたといわれているのである。 もし、それが真実であるとすれば、蓮加は、庶民を救いたい一心の宗教家の顔とは別に、宗教を通して絶大な力を持とうとした野心家の顔も、持ち合わせていたのだろうか。 |
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●日野富子
室町幕府八代将軍・足利義政の正室であった日野富子(1440-1496)は、よく悪女の代表として名を挙げられる。高利貸しで財を蓄えたり、政治に口出ししたりしたあげく、次の将軍に決められていた義視を廃して、息子の義尚を将軍にしようとし、全国の守護大名を巻き込んだ応仁の乱を招いたとされているからだ。その一方で、政務をかえりみようとしなかった義政の無能ぶりや幕府財政の困窮から、蓄財するのも政治に口を出すのも無理はなかったと考え、同情する人も多い。 富子が悪女かどうかはともかくとして、同時代の人々がささやいていた富子の陰口には、高利貸しの件などのほかにもう一つ、息子の義尚に関するうわさがあった。義尚の父は義政ではなく、後土御門天皇だというのである。1464(寛正五)年、義政は、僧籍に入っていた弟の義視を還俗させて後継ぎにすると決定した。富子になかなか懐妊の兆しがないとはいえ、義政も富子もまだ若いのだから、子どもを授かる可能性は十分にある。当然、富子は激しく憤った。 富子は憤慨のあまり、室町御所を出て、宮中に仕える「焼母御前」なる女官の元に転がり込んだ。そしてこの間に後土御門天皇と関係を持ち、身ごもったのが、翌年に誕生した義尚だというのである。ただし、これが史実かどうかは明らかになっておらず、「嬢母御前」がどういう女性なのかもわかっていない。 さらに富子と後土御門天皇とのうわさは、1471(文明一二)年にも起こった。応仁の乱の戦火で内裏が焼けたため、後土御門天皇は室町御所に移って義政・富子夫婦と同居した。そのとき、天皇が渡り廊下でつながれた富子のいる棟を、夜更けにしばしば訪れていたというのである。 このうわさは、義政と富子の夫婦喧嘩を招き、一時は義政の別居騒ぎとなった。 富子と後土御門天皇との聞に男女関係があったかどうかは定かではないが、二人は旧知の仲で年も近かったというから、少なくとも不倫疑惑が起こるほど仲がよかったとはいえるのだろう。 |
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●小野小町と深草少将の百夜通い (ももよがよい) 伝承によると、小町は大同4年(809年)、小野の桐木田(きりきだ)で生まれたとされており、小町の誕生に関するふたつの史跡があります。 桐木田の井戸は、小野地域へ派遣された郡司(律令時代の地方行政官)小野良実(おのよしざね)が屋敷を構えた場所とされており、福富の荘(ふくとみのしょう)と呼ばれていました。また、当時は珍しい桐の木があったことから桐の木田と言われるようになりました。桐木田の井戸は、真上から見ると五角形に石が組まれた構造となっています。この地方のものではなく、小町の生きていた年代、つまり平安初期の都周辺で見られる様式と言われています。 小町の母は、当時の村長(むらおさ)の娘とされ、小野良実と結婚して、小町を産みますが、小町が幼い時に病気で亡くなったとも伝えられます。その母の墓とされるのが姥子石で、梵字が刻まれた一抱えほどの自然石が立っています。周辺は綺麗に整備され、今も大切にされていることが伺えます。 この後、小町13歳の時、父良実と共に都へと向かうことになります……。 小町は都に上ったのち、それは美しい女性に成長したと伝えられています。和歌の名手としても知られ、彼女の残した歌は「古今和歌集」「小倉百人一首」などに撰ばれ、『古今和歌集仮名序』では「近き世にその名きこえたる人」として六歌仙に、また藤原公任の『三十六人撰』では三十六歌仙の中のひとりとして数えられています。小町は、都では男たちに言い寄られても契りを結ぶことはありませんでした。そのつれない態度に、男たちのみならず女性からもいじめを受けたと言います。 そんな宮中の生活に嫌気がさし、36歳の頃小町は故郷である小野の地に戻ってきます。しかし、京の都では小町が居なくなったことで嘆き悲しむ者たちがおりました。深草少将(ふかくさのしょうしょう)もその一人で、小町に思いを寄せ、遂に小町を追って身分を捨て、郡司代職として小野へ向かい、小町に想いを伝えます。このとき返事を待ったのが「御返事(おっぺじ)」と言われています。小町の返事は、百夜続けて自分の元に通い、亡き母の好きだった芍薬(しゃくやく)を植えてほしいという内容でした。ここに少将の百夜通いがはじまるのです。 このとき、小町が少将に逢えなかったのは、疱瘡が癒えなかったためと言われています。そのため、小町は磯前神社に毎晩お参りし、百夜のうちに病気が治るように祈願しました。今は水が枯れてしまってありませんが、かつてこの神社には泉がわき、この水で小町が顔を洗ったと言われています。 少将は「長鮮寺」に宿を借り、一晩ごとに梨の木の姥に芍薬を取らせ、それを持って九十九夜通い続けますが、百夜目に、橋と共に森子川に流されて亡くなってしまいます。 小町が心配している時に、少将の訃報が届き、小町はその亡骸を二ツ森に葬ったと言います。そして、自分もまた死んだならば隣に葬ってほしいと言い残したとのこと。深草少将と小町の恋の物語は、いにしえの王朝文化を代表する悲恋譚として、また絶世の美女小町の伝承を彩る逸話として、数々の文学作品に題材を提供してきました。 ●百夜通い 世阿弥などの能作者たちが創作した小野小町の伝説。小野小町に熱心に求愛する深草少将。小町は彼の愛を鬱陶しく思っていたため、自分の事をあきらめさせようと「私のもとへ百夜通ったなら、あなたの意のままになろう」と彼に告げる。それを真に受けた少将はそれから小町の邸宅へ毎晩通うが、思いを遂げられないまま最後の夜に息絶えた。中世以降、百夜通いは小野小町の恋愛遍歴を象徴するエピソードとして民間にまで広く流布した。ただしそれは「衰老落魄説話」という後日談とともにである。能作者たちは老いて乞食(こつじき。被差別民・非人の呼称の一つ)となった小野小町を描く事で、彼女を伝説的な美女から、人生の栄枯盛衰を経た一人の女性に変えた。 |
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