よき友は 心の花の 添え木かな 

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ある時、お釈迦さまに、弟子のアーナンダ(阿難尊者)が尋ねました。「私たちが善き友、善き仲間とともにあることは、この聖なる道のなかばにあると思いますが、いかがでしょうか?」 当時、お釈迦さまのお弟子たちは集団で修行をして暮らしていました。修行者同士で切磋琢磨しているからこその質問だと思います。
お釈迦さまは答えました。「アーナンダよ、そうではない。そのような考えをしてはならぬ。善き友、善き仲間とともにあることは、聖なる道のなかばではなく、そのすべてである。」「善き友をもち、善き仲間の中にある者は、聖なる道を修め、成就することは、もはや約束されているからだ。」
お釈迦さまはさらに答えました。「アーナンダよ、もし人々が私を善き友とすれば、老いねばならぬ身にして老いの苦しみから解脱する。病まねばならぬ身にして病の苦しみから解脱する。死なねばならぬ人間にして死の苦しみから解脱することができる。このことによっても、善き友をもち、善き仲間にとともにあることは、この聖なる道のすべてなのである。」 修行者は師匠に似るものです。長くなればなるほど似てきます。
これは「雑阿含経」の一節で、「阿含経典による仏教の根本聖典」に紹介されています。私たち、何か素晴らしいものに出会ったり、かけがえのない体験をするとき、誰かにそれを伝えたいと思いますね。一緒に感激してくれる人がいることは大きな喜びです。それは家族かも知れないし、友かも知れない。
たった一人でも「善き友」があることは素晴らしいことです。善いことをするときに一緒にいる友が「善友」です。悪いことをするときに一緒にいる友は「悪友」です。自分は日々何をしているか、そこに誰がいるか、とても重要なことです。  
 
 
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●高田好胤 
[1924 - 1998] 法相宗の僧。薬師寺元管主。法相宗管長。分かりやすい法話により「話の面白いお坊さん」、「究極の語りのエンタテイナー」とも呼ばれ、そこから百万巻写経勧進の道を切り開いて金堂、西塔など薬師寺の伽藍の復興に道筋をつけるなど、薬師寺の再生に生涯をささげた。
大阪市出身。本名、高田好一。裕福な家庭に生まれたが、11歳のとき証券会社勤務の父を肺結核で失い困窮した。母方の実家は東大寺龍蔵院で、知人だった薬師寺の管主橋本凝胤が弟子として好胤を引き取った。凝胤の教育は厳しかった。幼少期、友人宅に呼ばれて遊びに行ったとき、レコードで浪曲の「清水港は鬼より怖い、大政・小政の声がする」というくだりを耳にして、薬師寺にはもっと怖い鬼(橋本凝胤)がいると思ったという。夕食後の読経の練習のとき居眠りするとよく火箸でたたかれた。しかし、一方で遠足、運動会のときに弁当を作ってくれるような愛情も持っていたという。奈良県立郡山中学校を経て龍谷大学(旧制)に進学し、1946年に龍谷大学仏教学科を卒業。大学での一期先輩に融通念仏宗管長の倍巌良舜がいる。また、深浦正文に師事して唯識思想を分かりやすく説明する手法を身につけた。
1949年、好胤は副住職に就任。当時の薬師寺は、老朽化が進んで荒れるに任せる状態であった。好胤は「仏法の種をまくことが自分の使命」であると考え、修学旅行の生徒達への法話に力を入れた。18年もの間の長きにわたり、そのユーモアたっぷりで分かりやすい法話は「青空法話」とも呼ばれて人気を呼び、高田の法話を聞いた生徒は、一説には600万人以上にものぼるという。法話は薬師寺境内のみならず、東京の三越劇場などでも行われた。その話術は、のちの人間国宝である落語家の三代目桂米朝も参考にしたほどであった。
1967年、好胤が管主に就任すると金堂の再建を志し、ついで西塔、中門、回廊などを次々と再建した。特に西塔の再建については強い世論の反対があったが小説家でフランス文化相だったアンドレ・マルローの賛意を背景に実現した。その是非については現在も議論が分かれている。再建費用は大きな課題であった。金堂の再建だけでも約10億円が必要だったが檀家組織を持たない薬師寺にはその負担をするのは困難であった。そこで高田は全国の篤志の人々から一人1000円の写経納経の供養料を集める勧進を行い、これを賄おうと考えた(写経勧進)。一人1000円では100万人の写経が必要であった。当初は一年に一万巻しか集まらなかった。好胤は全国、800以上の市町村で8000回におよぶ講演をして周った。好胤の書籍出版が好調だったこと、三越百貨店での月光菩薩展示も追い風となった。これによって復興事業は一挙に進んだ。1976年には念願の100万巻が達成され、同年、金堂が再建された。その後も写経勧進は進み、1997年には600万巻にのぼった。写経勧進は現在も薬師寺の大きな柱の一つとなっている。好胤の没後、大講堂が落成している。建物の再建には法隆寺の宮大工として知られる西岡常一が当り、千年先のことまで考えて建てたという。金堂にコンクリートを使うべきかどうかで行政当局と論争になった。西岡はコンクリートは300年しか持たないが、木は1000年持つと主張したが、結局一部コンクリートを使うことになった。
太平洋戦争における戦没者慰霊にも熱心で各地の戦跡で法要して回った。また、日本を守る国民会議代表委員も務めた。1996年11月に薬師寺で法話中に脳梗塞の症状が現れて一線を離れ、胆石の悪化を併発させて1998年6月22日に胆嚢癌のため遷化。死後、母校の龍谷大学から龍谷賞が贈られた。
米朝に一本取られる​
好胤の話術について米朝は「人を自分の畑に引き込む力、その要領を教わった」と評価し、前述のように大いに参考にして自分の芸に取り入れていった。その米朝が「師」の好胤をうまくやり込めたことがある。
米朝が薬師寺を訪問した時のこと、床の間にあった、凝胤の書による「本来無一物」の掛け軸が目に留まった。米朝はしきりに無心したが、好胤は相手が誰であろうと譲れないとかたくなに断った。ところが、米朝がここで「本来無一物。これが僧のあるべき姿では」とたたみかけたところ、さしもの好胤も一本取られたのか返答に詰まり、掛け軸は米朝に譲渡された。 
 
 
親が苦労して、子供を楽にさせてやりたいとすると、子供はのちのち無慈悲に堕ちていく。親は苦労し、子は楽をし、孫は乞食する。
懺悔には、人を新しく生まれ変わらせる働きがある。
神様仏様が見えないところから「見てござる」。誰が見ていなくとも誰かが見ている。
食事をとるときは、良薬を飲むように、分量と時間を間違えないように心がけなければならない。人間というものは、ものを食べ過ぎると、怠け心が出てくる。
物を作ることも大事。けれども、人の心を作ることは、もっと大事なこと。
人間は称賛をかち得ているときが、一番危険なとき。
鉄の錆は、鉄より出でて、鉄を滅ぼす。欲は人の身から出て、その人を滅ぼす。それをほどほどに調節するのが、人生の修練。
教えるにはムチがいる。物としてのムチでなく、心のムチは少なくと持ってほしい。それができないというのは、教育に熱意のない証拠。
訓練のない所に個性はない。個性は訓練によって磨き出されてくるもの。
「もったいない」の言葉には、感謝する気持ちがある。だから、「もったいない」と「無駄だ」の二つの言葉の間には、天と地ほどの懸隔がある。
人間の目は外を向いてついているから、外はよく見える。それだけに、よほど気をつけないと、自分自身の内を見ることがなかなかできない。
縁は努力で作るもの。
自利はトレーニング(修練)、利他はサービス(奉仕)。すなわち、トレーニングによって身につけたものを世のため人のためサービスすることを菩薩道ということ。
自分の邪悪な欲望にうち勝つということが「克己」。それこそが、千人の他人に勝つよりも真の勇気を必要とする。
教えられたいという心があれば、どこにも教えはある。
人はみな罪のかたまりみたいなもの。それに気付かないで、自分は善人だと思い込んでいるだけ。つまり、自覚が足りない間は、善人でいられる。
暇そのものが堕落をもたらすのではない。暇を有効に生かすことができず、暇をもてあました結果、堕落が始まる。
結局のところ 悟るとは 決心することだよ。
人々の心の中に「見上げる心」をはぐくみ、精神を昂揚するために必要な高さが「塔の高さ」であり、精神的に必要な大きさが「お堂の大きさ」。
科学は人間の偉大なる智慧が生んだものだから、人間はそれを享受すべき。だが、物質的な豊かさが、精神的貧困の上に成り立っているのだとしたら無意味。
苦労と仲良くすれば、いつかきっと苦労が味方になって助けてくれる。
「負けるが勝ち」とは、敗北主義を賛美するのではなく、人間の心の余裕、心の温かさを賛美しているのであり、それこそ人生の真の意味での勝利への道。
やたらと忙しいのは どんなものでしょう。「忙」という字は 「心が亡びる」と書きます。
子供は親のする事を 真似て学ぶものです。親が身をもって 親にお仕えする親孝行、亡くなられたご先祖に対しては まつりごとをする そんな親の後ろ姿を子供はじっと見ていて、いつとはなしに縦の人倫の道を学んで 身につけていくのです。
かたよらない、こだわらない、とらわれない心。ひろく、ひろく、もっとひろく …これが般若心経、空のこころなり。  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
2016/3