険しい富士山を知っていますか

富士山は美しい 
でもそれは一面です 
外目だけでも一周すると 
色々の富士山を知ることができます 
 
まして人は・・・


 
お台場 西行湾岸の延長上に富士山 すがすがしい冬の朝 
ベイブリッジ ランドマーク丹沢の先に富士山 絵葉書 
函南 丘の農家の背に富士山 のどか 
新幹線 広い裾野を見せる富士山 がんばりたくなる大阪への日帰り出張 
身延山 尖った富士山を知る 別の山かと思う 
河口湖 逆さ富士 ゆっくりと時間が過ぎる 
東北道 王子くらいか秩父の先に遠く見える 関東平野
  
我が家から見る富士  
小名木川西方に見る 
近所のマンションで1/2 遠くの新築マンションで1/4になる 
ほんの僅かに残る頂上
 
22年楽しんだ富士山も ついに僅かな裾野だけになりました 
Moritowerの隙間 2004/02 
ついに裾野もビルに隠れました 2012/05
  
春 早朝なんとか見える 
夏 ほとんど見えない
 
秋 見える朝が続くときがある 
冬 毎朝見る 木枯らしで日中見えることがある 
正月GWお盆に見る 車か人間社会の休みを知る
  
大発見 
靖国神社横断陸橋から ビルを押し分ける富士の頂上 
ちょつと得した朝のスタート 
(事故にあい警察病院で診断を受ける回り道) 
2005/02
  
晴海大橋/新富士見橋 
芝浦カネボウわきに頭を覗かせる 
2006/10
  
異常事態に本性が現われます 
冷静沈着 
結果のシュミレーション 
善後策 
解決策
 
陣頭指揮 
拙速 
完全主義
 
時を逸する 
タイミング 
同時進行
  
瞬間湯沸し 
唖然呆然 
動転
 
意気消沈 
落胆 
放り投げる 
逃げ出す
  
責任転嫁 
犯人探し 
お客様後回し
 
他人事 
無視 
認識なし 
人の噂75日
  
自分の目で見る観察する  
身延からの富士山は富士山ではない 
富士山の絵は頂上が平らと決まっている 
八の字を書いて 
三筋の雪の流れを書き加えれば誰もが富士山と理解する
  
なくて七癖 
陰日なた 
八方美人 
夜目遠目笠の内 
良いところを探す 
悪いところを探す(自動的に察知できる探すまでもないかも)

 
2001/2004/2006/2012  
 
 
  
安田門・ 靖国神社横断陸橋から ビルを押し分ける富士の頂上を証明 
一直線地図を拡大して追跡
 
 
 
  
 
 
 
 
富士見坂  
都内23区において名付けられた「富士見坂」は、平成18年どのようになっているのか?  
都心から見える「富士見坂」は消滅の危機にあると言われて久しい。唯一まともに見える坂として挙げられる荒川区日暮里の「富士見坂」は、その姿は片翼ながら、眺望を保全しようという熱い運動により現在に至っているが、度々持ち上がる高層建築の計画は、その風景遺産を脅かすことになっている。都心にあった富士見坂はこのようにして次々とその面影を失い、名を掲げた坂の標は墓標と化していきつつある。こうした中、2005年、国土交通省関東地方整備局において「関東の富士見百景」のひとつとして「東京富士見坂」が選定された。これを機会に平成の今の「富士見坂」事情を下記にまとめてみた。  
現在「富士見坂」として富士山を望むことができるのはこの3坂となっている。しかし、文京区の「富士見坂」においては坂のごく一部の地点で見えるのであって、普通に歩いて気付くほどではない。また、足立区の「ふじみ坂」は大規模開発によってできた集合住宅内の道に付けられたもので、自然発生的に呼び習わされ、継承されて現在に至っているという「富士見坂」とは一線を画していると思われる。となると、名実ともに「富士見坂」と呼ぶにふさわしい坂は「日暮里の富士見坂」のみとなり、まさに都心においては奇跡的に残った風景遺産と言えよう。 
日暮里 
大塚 
富士見坂考 
日暮里の富士見坂(荒川区)と大塚の富士見坂(文京区)。  
今も東京から富士山を見ることができる二つの富士見坂考。  
富士山を眺められる場所も東京ではすっかり少なくなってしまった。林立するビル群に視界をさえぎられ、高速道路や電線に空を裂かれて富士の見える風景は今や瀕死の景観となっている。それでも富士山を見つけたときは、思わず立ち止まってその美しい姿を眺めてしまう。夕焼け空に映える姿も美しいが、冬晴れの凛とした空気の中に立つその姿には心洗われものがある。一時は大気汚染のために富士の姿を見ることが稀になった。ようやく大気汚染が改善され少しは眺望が戻ってくるかと思われたとき、今度はビルがその眺めを奪い取ったのだ。空を奪ったそのビルの高みに上らないと富士山を眺められなくなった都会の景観にはなにか心に引っかかるものがあってしっくりこないのだが、これが現代の富士の眺めと割り切るしかあるまい。  
[注] 東京から富士山が見えた日数は、公害問題がとりざたされた昭和40〜50年代には年間平均40日ほどであった。昭和62年は特に少なく20日しか観察できていない。しかし平成17年は74回、平成18年は79回、平成19年は84回で、富士山は格段によく見えるようになっている。11月から1月にかけてもっともよく見えるのはいうまでもない。  
数ある東京の富士見坂からの富士の眺めはさらに悲劇的な状況だ。「富士見坂」、あるいは、昔「富士見坂」と呼ばれたことがある坂、すでに消滅した「富士見坂」まで数えれば区内に二十以上の「富士見坂」がある。どの坂も富士山が見えることから富士見坂と名づけられたものだが、今ではビルに隠れてほとんどの坂から富士山の姿を眺めることはできなくなってしまった。  
今もきれいに富士山を見ることができるのは日暮里の富士見坂である。といっても稜線の左半分はビルに隠れて見ることができない。それでも多くの人がこの坂からの富士山の眺望を楽しみに訪れてくる。特に富士山の山頂に太陽が沈むダイヤモンド富士がみられる11月中旬と1月末には富士見坂が人で埋まるほどだ。  
大塚の富士見坂からも以前はきれいな富士山の姿を見ることができたが、今ではビルにさえぎられて山頂も、左側の稜線もまったく見ることができない。富士山の右稜線の一部がわずかに見られるだけだ。山頂が見えない富士、それも稜線の一部しか見えない富士見坂は、もはや富士が見える坂とはいえないかも知れない。ビルが一つ建てばそれで完全に富士山は見えなくなる。  
日暮里の富士見坂でさえ富士山を望む視線上にビルが一つ二つ建てば大塚の富士見坂と同様の運命をたどることは目に見えている。危ういものだ。高いビルに住めばすばらしい眺望を得られるが、眺望をふさがれた者には、なすすべもない。都市の眺望・景観は結局ぎりぎりのところで成り立っているといわざるを得ない。  
「富士見坂」という同じ名前がついた日暮里の富士見坂と大塚の富士見坂、共に江戸時代から今に続く坂であり、西南西に下っているところからほぼ正面に富士山を望む坂だが、富士見坂と呼ばれるようになった時代も、坂の周辺環境にも大きな違いがある。  
日暮里の富士見坂 は、JR山手・京浜東北線の日暮里駅と西日暮里駅の中間、西日暮里三丁目周辺の寺町と住宅が混在する地域にある。乗用車が一台通れるだけの幅しかない。幹線道路から奥まっているせいか、この坂を通り抜ける車は少なくゆったりと散策できる坂となっている。  
このあたりは江戸時代「ひぐらしの里」といわれた場所で、江戸っ子たちの絶好の行楽地であった。春は花、夏は納涼、秋は月見、冬は雪見。四季折々の風物をめでながら寺参りや名所めぐりを楽しむ人々で賑わった。『江戸名所図会』(天保七年・1836 刊)は、「この辺寺院の庭中、奇石を畳んで仮山を設け、四時草木の花絶へず、常に遊観に供う。就中二月の半ばよりは酒亭茶店のしょうぎ所せく、貴賎袖をつどへて春の日の永きを覚へぬも、この里の名にしおへるものならん」とその挿絵とともに紹介している。本行寺は月見寺、浄光寺は雪見寺と呼ばれた。諏訪神社の眺望や夕涼み、道灌山の虫聴き、なかでも青雲寺、修性院、妙隆寺と三つの寺がなだらかな斜面を利用して、それぞれ趣向を凝らした庭をつくり大変な賑わいだったという。  
坂の名は、花見寺の一つ妙隆寺にちなんで妙隆寺坂、あるいは花見坂とよばれた。『荒川史談』掲載の平塚春造氏の諏訪台山人懐古録によると、この坂は、もともとは妙隆寺の庭の中を山の上へ通じていたものだが、諏方神社の方へ行くのに便利なため、いつしか村人の通路となったものだということだ。明治になって廃仏毀釈運動が起ると多くの寺は経営が難しくなる。妙隆寺も、学校経営や境内の岡を切り崩し土を売ってしのいだが、やがて境内を通っていた坂も土採取のために通行不能となり、明治18年に妙隆寺坂は20メートルほど東によった現在の富士見坂の場所に付け替えられた。今も富士見坂の脇に建つマンションは、坂よりかなり低い場所に建っているがこれは土採取の名残である。この坂が富士見坂と呼ばれるようになったのは昭和5年頃のことで、坂上から富士山がよく見えるところからから富士見坂と呼ばれるようになったという。日暮里の富士見坂は昭和の命名なのだ。  
大塚の富士見坂は、大塚3丁目交差点から文京区大塚2丁目と5丁目の間、不忍通りを護国寺門前へと下る坂である。一日中自動車がひっきりなしに往来する幹線道路上の坂でもある。  
『御府内備考』(文政十二年・1829 刊)は、「坂 長四拾間程、巾四間程、右は里俗富士見坂と相唱申候、唱の儀富士見へ候間右様相唱申候哉と存候」と述べ、さらに『改選江戸志』を引用して「富士見坂は大塚町より護国寺門前青柳町通りをいへり、この所より富士の眺望よければとてかく名付しなるべし」と書いている。江戸時代からこの坂から富士山がよく見えることから富士見坂と呼ばれていたことがわかる。今とちがって、視界をさえぎるものの少ない江戸の町からは、富士山が美しく眺められたことであろう。  
この頃の富士見坂は 長四拾間程(約72メートル)、巾四間程(約7メートル)というから、現在の坂と比べると長さも幅も三分の一ほどであった。  
坂下の護国寺は元和元年(1681)、五代将軍徳川綱吉が生母桂昌院の祈願寺として、もと高田御薬園の地に建立したもの。江戸の姿の多くは失われたものの、本堂、仁王門、大師堂、薬師堂などに今も江戸の姿をしのぶことができる。富士見坂の別名「不動坂」については疑問な点が多い。『新撰東京名所図会』(明治40年・1907刊)は富士見坂が不動坂と呼ばれたことに否定的で、「不動坂。音羽町一丁目より大塚へ上る所、此所に坂ありて不動坂と呼びきと。続江戸砂子に云、不動坂、音羽一丁目より大塚へ上る坂也、石仏の不動あり。後年、此道杜絶したる歟、方今一丁目より大塚に上る坂無し、嘉永新鐫の雑司ヶ谷音羽絵図にも此坂路あらず、更に護国寺に沿ふて東青柳町を経、大塚波切不動堂前に上る坂あれど、富士見坂と載せて、既に其坂名を有せり、且つ砂子に石仏の不動といへば、波切不動とも思はれず、全く後年、坂路を失ひしなるべし、江戸志並に府内備考所載の不動坂は、目白坂の謂なり。」と記している。『新撰東京名所図会』は、『続江戸砂子』(享保20年・1735)が云う不動坂が富士見坂の別名でないとして以下の理由をあげている。(繰り返しになるがあえて整理してみた)  
1 音羽一丁目から大塚へ上る坂はない。後年この道はなくなったかもしれない。  
2 切絵図『雑司ヶ谷音羽絵図』にも、この坂道は見当たらない。同図に、護国寺に沿って東青柳町を経て大塚波切不動堂前に上る坂があるが、この坂は富士見坂と記載されているから不動坂ではない。  
3 『続江戸砂子』は、石仏の不動と述べているので坂上の波切不動のことではない。  
(江戸時代、富士見坂の坂上に波切不動堂があり不動尊が祀られていた。)  
4 江戸志や御府内備考に、不動坂が載っているが、江戸志や御府内備考のいう不動坂は目白坂のことであって富士見坂ではない。  
『新撰東京名所図会』のいう理由は、必ずしも納得できるものではない。  
1、2についていえば、音羽一丁目から大塚へ上る坂というのは、富士見坂のことであろう。切絵図に富士見坂と書かれているから不動坂ではないというのは理由にならない。一つの坂がいくつかの別の名前でよばれることはよくあることで、富士見坂と呼ばれているから不動坂でないとはいえない。  
3の石仏の不動が不動坂にあったことを証明する資料も、否定する資料もない。  
4の不動坂は、目白坂(文京区関口二丁目2と3の間の坂)の別名のことで、坂上の新長谷寺の本尊、目白不動尊に由来する名前である。目白坂すなわち不動坂は、旧音羽九丁目から目白不動へ上がる坂であったので富士見坂の別名が不動坂だとすると同じ名前の坂が近くにあり、確かに間違えやすいとの印象はある。とはいえ、『続江戸砂子』は「不動坂。音羽町一丁目より大塚へ上る所、此所に坂ありて不動坂と呼びきと。」と音羽町から大塚へ上がる坂と明確に述べている。また『続江戸砂子』は別項で「目白坂、音羽町九丁目より上る坂、前集(江戸砂子)に不動坂と記す」とあることから大塚と目白の不動坂を明確に区別して記しており、二つの不動坂をとり違えたとは考えにくい。  
いずれにしても富士見坂の別名「不動坂」と記した資料は、『続江戸砂子』の他にみあたらない以上、富士見坂は不動坂と呼ばれたことがあったようだとごくひかえめに述べておくことにする。  
富士見坂が、波切不動堂が坂上にあることから不動坂と呼ばれるとか、或いは坂下の護国寺にちなんで護国寺坂と呼ばれてもよさそうだが、そう呼ばれたことはないようだ。この坂はずっと「富士見坂」と呼ばれてきた坂なのだと思う。
 
切支丹(きりしたん)坂考
切支丹坂と呼ばれる坂がある。正保3年(1646)小日向の地(現・東京都文京区小日向1丁目)につくられ、寛政四年(1792)に廃止されるまでこの地にあった切支丹屋敷に由来している。切支丹屋敷の脇の坂、あるいは切支丹屋敷へと通ずる坂であることから切支丹坂と呼ばれた坂である。切支丹坂の名前は、『江戸砂子』(享保17年・1732)や『御府内備考』(文政9年〜12年・1826〜1829)などにも記されており、まさしく江戸の坂といえる。  
切支丹坂の所在場所については異論がある。切支丹屋敷周辺のいくつかの坂あるいは場所が切支丹坂といわれ、あるいは否定されてきた。これらの坂は、現在は別の名で呼ばれている坂、廃道となり坂そのものが消滅したもの、明らかに間違いと思われる記録なども含まれている。複数の坂が切支丹坂といわれた理由は、江戸時代に著された書籍の記述や地図の表記があいまいで不確かなことにあった。もっとも、江戸の坂は同じ名前の坂がいくつもある。また、一つの坂が別の名前で呼ばれることもあったことから、切支丹坂も複数存在したと見ることもできる。こうなると切支丹屋敷の近くの坂、あるいは切支丹屋敷へ通ずる坂のいずれの坂が切支丹坂であってもいいようでもある。  
現在、切支丹坂と呼ばれている坂は、庚申坂を西に下り、東京メトロ丸ノ内線のガードをくぐった先、文京区小日向1丁目14と24の間をまっすぐ西へ上る坂である。この坂は切支丹屋敷の跡地を通る坂であることから切支丹坂の名にふさわしい坂だが、江戸時代にこの道は開かれていなかった。となると江戸の切支丹坂は他に存在したことになる。  
真山青果(1)は「切支丹坂の研究」で、過去に切支丹坂に擬せられた坂を七つに整理して論じている。真山青果の説はいまではすっかり忘れさられたようで話題にのぼることはほとんどないが、江戸の切支丹坂を知る上で欠くことのできない重要な研究である。真山説を再評価するとともに現在、切支丹坂と呼ばれている坂と江戸の文献に切支丹坂との記録が残るいくつかの坂の検証をしてみたい。  
(1)真山青果(まやませいか) 明治11年(1878)〜昭和23年(1948)  
劇作家・小説家。代表作に『元禄忠臣蔵』『将軍江戸を去る』等。地誌・古地図の研究でも知られる。「切支丹坂の研究」は『切支丹屋敷研究』の一部として発表されたもの。  
切支丹坂と周辺の坂  
永井荷風は『日和下駄』で「私の生れた小石川には崖が沢山あった。第一に思い出すのは茗荷谷の小径から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さへ気味の悪い切支丹坂が斜めに開けそれと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い道が小日向台町の裏へと攀登っている。今はこの左右の崖も大方は趣のない積み方をした当世風の石垣となり、竹薮も樹木も伐払われて、全く以前の薄暗い物凄さを失ってしまった。」と述べている。今では周辺は住宅地となり、荷風が「茗荷谷の小径」とよんだ場所を地下鉄(この辺りで地下鉄は土地の高低差を象徴するように高架となって頭上を走っている)が、「左右の崖」すなわち小石川台地と小日向台地の間を通り抜けている。線路をはさんで東側が小石川台地で春日通りから茗荷谷へと斜面をなしている。線路の西側は小日向台地で、切支丹屋敷もここにあった。台地から谷へ、谷から台地へといくつかの道が通り、坂となっている。まさしく茗荷谷周辺は坂の町でもある。  
小石川台地側には釈迦坂、藤坂、庚申坂、新坂が連なり、小日向台地側には蛙坂、切支丹坂、浅利坂(消滅)、荒木坂などがある。切支丹坂として以下の6ヶ所の坂が文献に認められる。  
1 現在の切支丹坂  
2 新道(七軒屋敷新道)の坂(消滅)  
3 庚申坂  
4 新坂  
5 近江屋板江戸切絵図に掲載された切支丹坂  
6 尾張屋板江戸切絵図に掲載された切支丹坂 
 
切支丹屋敷  
寛永20年(1643)、宣教師ジョゼフ・カウロ他4人のバテレン、6人のイルマン・同宿が筑前国大島(現在の福岡県宗像市)で捕えられ、長崎から江戸に送られてきた。いったん伝馬町の牢獄に収容されたが、正保3年(1646)に造営した小日向の御用屋敷に移された。敷地は宗門奉行であり大目付であった井上政重(2)の下屋敷を改めたものであった。御用屋敷は切支丹屋敷、切支丹牢屋敷、山屋敷ともよばれた。以後、キリシタンをここに拘禁することとなる。島原の乱(寛永14年・1637〜寛永15年・1638)が鎮圧されて8年後のことであった。  
(2)井上政重(いのうえまさしげ) 天正13年(1585)〜万治4年(1661)  
家康の家臣・井上清秀の4男。寛永九年大目付、寛永15年島原の乱のとき上使として九州に赴く、寛永17年下総高岡藩一万石で大名となる。宗門奉行。幕府の切支丹禁教政策の中心人物であった。  
切支丹屋敷は、多くのキリシタンが幽閉され苦難を強いられた場所であったが、ここに収容された人物として以下の二人の名をあげておきたい。  
ジョゼフ・カウロ (1601〜1685)イタリア人でイエズス会の宣教師。寛永20年(1643)、筑前国大島で捕えられ、長崎から江戸へと送られて、切支丹屋敷最初の入牢者となった。拷問によって転宗、岡本三右衛門の名と妻を与えられ貞享2年、84歳で没するまで切支丹屋敷に監禁された。遠藤周作『沈黙』の主人公、司祭ロドリゴのモデルとなった人物でもある。  
ジョバンニ・バチスタ・シドッチ(1668〜1715) イエズス会宣教師。パレルモ出身のイタリア人。宝永5年(1708)屋久島で捕えられた後、江戸に送られ切支丹屋敷に幽閉された。正徳5年(1715)47歳で牢死。当時シドッチの訊問をした新井白石は、シドッチから得た知識をもとに『西洋紀聞』『采覧異言』を著した。  
後に収容者が少なくなると敷地は徐々に縮小されていった。「はじめ当所の開けし比、その坪数はしるべからず。(注:真山青果は著書『切支丹屋敷研究』で切支丹屋敷の敷地を7700坪、25,400平米と計算している)元禄十四年十二月廿五日北の方若干の地を減ぜられて御家人の宅地となる。今の七軒屋敷是なり。この時東の方二間通り往還のためにせばまれり。宝永の初に至りて南の方を減ぜられて、是も宅地に賜はれり。今の浅利坂の辺なり。此後の坪数もたしかには聞ざれ・・・云々」と『小日向志』にあるように、元禄14年(1701)、切支丹屋敷の北側の敷地を割いて七軒の御家人の宅地とした。この時にひらかれた道が、新道あるいは七軒屋敷新道とよばれた道である。(2 新道(七軒屋敷新道)の坂で詳述。)享保10年(1725) (享保9年ともいわれる)大火で切支丹屋敷が焼失すると、再建されることなく寛政4年(1792)に廃止された。跡地は武家屋敷として分割され約150年続いた切支丹屋敷は消滅した。切支丹屋敷には官庫・牢獄・番所・吟味所などがあったと伝わる。(『小日向志』掲載の切支丹屋敷図参照)  
 
切支丹坂の検証  
1 切支丹坂 (現在の切支丹坂)  
現在、切支丹坂と呼ばれている坂は、文京区小日向1丁目14と24の間を東から西へ上がる坂で、東京メトロ丸ノ内線を間にはさんで庚申坂の急坂と向かい合っている。この坂が切支丹屋敷の跡地を通っていることから、江戸時代から存在した切支丹坂であるかのように思われている。しかし、江戸期を通じてこの道は地図に見当たらない。さらに明治初期に刊行された地図にも描かれていない。明治11年(1878)発行の『実測東京全図』(内務省地理局地誌課作成)や、明治19〜20年にかけて刊行された参謀本部陸軍部測量局作成による『五千分の一東京図』(下図参照)は、近代的測量技術による詳細な地図であるが、ここにも現在切支丹坂と呼ばれている坂はみあたらない。庚申坂(地図には切支丹坂と書かれている)を西に下った道はいったん南へ直角に曲りアサリ坂を通って坂上の南北に伸びる道に通じている。つまり、切支丹坂はこの頃、まだひらかれていなかった。現在、切支丹坂と呼ばれているこの坂は江戸の文献にあらわされた切支丹坂ではないことになる。  
現・切支丹坂が開かれた年代は特定できない。『東京十五区集・本郷及小石川区之部』(明治36年・1903刊)は、現在の切支丹坂(旧・小石川茗荷谷町1と9の間)とアサリ坂(旧・小石川茗荷谷町1と小石川第六天町の間)の両坂を描いていることから(ただし坂名は書かれていない)明治36年にはこの道が開かれていたことがわかる。ただし、『東京十五区集』でも庚申坂を切支丹坂と記していることは記憶にとどめるべきである。(3庚申坂=切支丹坂説に添付した地図『東京十五区集・本郷及小石川区之部』を参照されたい)  
(注:真山青果は「切支丹坂の研究」で、明治24年発行の『東京地所図・小石川の部』や明治28年改正・再版の東京市区改正委員会図などにこの坂が認められることから、坂が開かれた年代を明治20年頃としている。)  
この坂を切支丹坂であるとする説を決定的にしたのは『新撰東京名所図会』(第45編 小石川区之部其三 明治39年・1906 刊)が、庚申坂は切支丹坂ではないと述べた上で「庚申坂の西、小溝に架したる橋を渡りて、両側薮の間を茗荷谷町男爵津軽邸前へ上る坂あり、無名坂の如く称すれど、是れ真の切支丹坂なり。坂の上に往時切支丹牢屋敷ありたり、故に此名に呼ぶなり」と述べていることにある。以来、多くの人が『新撰東京名所図会』を引用して、この坂を真の切支丹坂であるとしてきた。  
しかしながら江戸・明治初期の多くの文献が庚申坂を切支丹坂と呼んでいた事実を無視して、『新撰東京名所図会』が明治20年代にあらたに開かれた道の坂を切支丹坂と断じた点は理解しがたい。明治20年代にあらたに開かれた道が切支丹屋敷の跡地を通っていることから、『新撰東京名所図会』が、この道こそ切支丹坂の名にふさわしい坂であると考えたのであろうか。あるいは新道(七軒屋敷新道)が明治初年に廃道となった後、切支丹屋敷表門跡から庚申橋にかけてわずかに残っていた坂の北側にあらたな道(現・切支丹坂)がひらかれ、現在の切支丹坂に見られるような姿となった時、切支丹坂の呼称を復活させたのであろうか。いずれにしても想像にすぎない。  
『新撰東京名所図会』が切支丹坂は「無名坂の如く称すれど ・・・」と述べているのは、この頃、一般的にこの坂を切支丹坂と呼んでいなかったことをうかがわせる一文である。やはり謎は残る。しかしこれ以降は徐々にこの坂を切支丹坂と呼ぶようになっていったとみられる。いずれにしても現在、切支丹坂と呼ばれているこの坂は明治になって新たにひらかれた道の坂であって、江戸の切支丹坂でありえないのは明白である。  
2 新道(別名 七軒屋敷新道)の坂=切支丹坂説  
新道(別名 七軒屋敷新道)は、切支丹屋敷の裏門の前から屋敷に沿って屈曲して表門前まで下る坂道であったが、明治の初め頃に廃道となり今は残っていない。現在の住所表示で言えば文京区小日向1丁目24にあたる。  
間宮士信(3)が著した『小日向志』(4)は、この道について「新道 七軒屋敷の往還より切支丹表門前跡の辺までをいふ。道幅三間(5.5m)あり。これも七軒屋敷と同じくひらかれたり」「切支丹坂。今は切支丹御用屋敷あと新道の坂をいふ。」と記している。(真山青果『切支丹屋敷研究』より)  
『御府内備考』は『改撰江戸志』を引用して、「切支丹坂は御用屋敷のわき新道の坂をいへり、わずかの坂なり、世に庚申坂をあやまりて切支丹坂と唱ふ」と記している。  
一方で『御府内備考』は、『改撰江戸志』を引用して「庚申坂は切支丹坂の東の方のけはしき坂なり、(以下略)」と書いている。「庚申坂は切支丹坂の東の方」ということは、即ち庚申坂の西に切支丹坂があるということだが、先に1切支丹坂(現在の切支丹坂)で述べたように、現在の切支丹坂は明治20年代にひらかれた道であって江戸時代にはなかった。『改撰江戸志』がいう切支丹坂は、新道(別名 七軒屋敷新道)の坂をさしていると考えられる。  
七軒屋敷は切支丹屋敷の北側敷地の一部を割いて七軒の旗本の屋敷としたもので、新道(七軒屋敷新道)が開かれたことによって、庚申坂を西に下り庚申橋を渡った道は切支丹屋敷表門前から同屋敷裏門、七軒屋敷を通り抜けて蛙坂へ貫通する道となった。   
江戸時代に道が開かれた年代は不明な場合や不確かなことがほとんどだが、新道は開かれた年月がはっきりしている。『小日向志』が「元禄十四年十二月廿五日北の方若干の地を減セられて御家人の宅地となる。今の七軒屋敷是なり」と記していることから、七軒屋敷と同年に開かれた新道もまた元禄14年(1701)に開かれたものと考えられる。『御府内沿革図書』小日向周辺・元禄十四年之形を見ると、切支丹屋敷の敷地の一部が減ぜられ、七軒屋敷と新道が描かれていることからも新道(七軒屋敷新道)の坂が元禄14年に開かれたことを裏付けている。  
この道は明治初年に廃道となったことから今ではすっかり忘れ去られた道(坂)となったが、新道(七軒屋敷新道)の坂は江戸のある時期切支丹坂と呼ばれた坂であった。  
(3) 間宮士信(まみやことのぶ) 安永6年(1777)〜天保12年(1841) 御書院番、地理学者  
寛政10年(1798)家督相続。父の名である庄五郎を名乗る。文化7年(1810)昌平坂学問所内に設置された地誌取調所に出仕、『新編武蔵風土記稿』の編纂に参加。頭取を経て文政2年(1819)総裁となる。七軒屋敷の住人であった。  
(4) 小日向志(こひなたし)  
間宮士信著。文化8年(1811)頃の著作といわれている。切支丹屋敷の研究資料として重要な著作。 
3 庚申坂=切支丹坂説  
庚申坂は文京区小日向4丁目と春日2丁目の間を西に下る坂で、東京メトロ丸ノ内線をはさんで切支丹坂と向かい合っている。坂の途中でくの字型に折れ曲がった石段の急な坂である。庚申坂の名前や由来が文献に認められるのは『新編江戸志』(寛政年間 1789〜1801)が初期の記録であろう。坂名の由来は「享保頃までは庚申の石碑(5)ありし故の名なり」によっている。坂のひらかれた年代は不明だが『御府内沿革図書』切支丹屋敷・延宝年中之形(1673〜1681)に「坂」とあることから、坂そのものは延宝年間(1673〜1681)にひらかれていたことは確かだ。また、正保絵図(正保元年・1644)に井上筑後下ヤシキと屋敷への道が描かれていることから切支丹屋敷が開かれた正保3年(1646)にすでに坂があった可能性もある。  
下記の文は、切支丹坂と庚申坂を説明した江戸の文献である。少々わかりづらい文章となっているが、比較して読んでみたい。  
イ) 『新編江戸志』(寛政年間 1789〜1801)は、切支丹坂について  
「切支丹坂、新坂の西なり、一名庚申坂又今井坂、丹下坂とも、切支丹屋しきへゆく坂ゆゑに俗に切支丹坂といふ、丹下坂と云は昔本多丹下といふ人の屋しきありしといふ、本名庚申坂なり、坂の右の下り口に古木の榎二株有て、享保頃までは庚申の石碑ありし故の名なり、今は此碑なければ、庚申坂の名をしる人まれなり、然れども松平大学頭殿の家にては庚申坂と今もいふなり。」と記している。  
切支丹屋敷へ行く坂なので一般に切支丹坂と言った。もとの名は庚申坂だが今やその名を知る人は少ないとして『新編江戸志』は庚申坂=切支丹坂説をとなえている。  
ロ)『御府内備考』(文政9年〜文政12年・1826〜1829)は、切支丹坂について『改撰江戸志』を引用して  
「切支丹坂は御用屋敷のわき新道の坂をいへり、わずかの坂なり、世に庚申坂をあやまりて切支丹坂と唱ふ」と記している。  
『改撰江戸志』は新道の坂=切支丹坂説をとなえて、『新編江戸志』とくいちがいをみせている。しかし、「世に庚申坂をあやまりて切支丹坂と唱ふ」との表現は庚申坂が切支丹坂と呼ばれていたことをうかがわせる文章でもある。切支丹坂は新道の坂といいつつ、世間では庚申坂をまちがって切支丹坂と呼んでいると指摘している。  
ハ)『御府内備考』は、庚申坂について『改撰江戸志』を引用して下記のように記している。  
「庚申坂は切支丹坂の東の方のけはしき坂なり、江戸志云、今井坂又丹下坂ともいへり、切支丹屋敷へゆく坂なれば俗に切支丹坂といふ、云々・・(筆者注:云々・・以下、『新編江戸志』と同文)」  
上記『改撰江戸志』は、一部の表現の違いをのぞけば、『新編江戸志』と表現をいつにしており、庚申坂=切支丹坂説である。 すなわち、庚申坂は切支丹坂(この場合の切支丹坂は新道の坂のこと)の東側の坂であるが、庚申坂も切支丹屋敷へ行く坂なので世間では切支丹坂と言っていると書いている。  
上記イ、ロ、ハの説は、庚申坂=切支丹坂、あるいは新道(七軒屋敷新道)の坂=切支丹坂とそれぞれ別の見方をしているにもかかわらず、両坂ともに俗に切支丹坂と呼ばれていたことを認めている。庚申坂、新道(七軒屋敷新道)の坂がともに切支丹坂といわれていたと考えるべきであろう。  
『新撰東京名所図会』は、「小日向第六天町の北、小石川同心町との境を東より西へ下る坂あり、切支丹坂といふ、今此坂を切支丹坂と云ふは誤れり、本名庚申坂、昔坂下に庚申の碑あり。又庚申坂の西、小溝に架したる橋を渡りて、両側薮の間を茗荷谷町男爵津軽邸前へ上る坂あり、無名坂の如く称すれど、是れ真の切支丹坂なり。坂の上に往時切支丹牢屋敷ありたり、故に此名に呼ぶなり」と述べて、本当の切支丹坂は「無名坂の如く称すれど(筆者注:現在切支丹坂と呼んでいる坂が)真の切支丹坂なり」と記して、庚申坂は切支丹坂ではないと述べている。しかしこれはむしろ『新撰東京名所図会』の表記が誤っていると言うべきである。  
庚申坂が切支丹坂と呼ばれていた証拠はいくつかの地図にもみることができる。例えば1切支丹坂(現在の切支丹坂)の項で例示した尾張屋板『東都小石川絵図』(嘉永7年刊・安政4年/1857 改定図)や『五千分の一東京図』(明治19〜20年/刊)は、この坂を庚申坂ではなく切支丹坂と記している。近江屋板『上水北小日向小石川辺絵図』は庚申坂をキリシタンサカ、明治36年(1903)刊の『東京十五区集』(下図参照)も庚申坂を切支丹坂と記している。  
江戸から明治初期にかけてこの坂が庚申坂ではなく、切支丹坂と呼ばれていたことは地図を見ても明らかである。  
次に、庚申坂が切支丹坂と呼ばれていた例を文学作品からさがしてみよう。  
『竹早町を横ぎって切支丹坂へかかる。なぜ切支丹坂と云うのか分らないが、この坂も名前に劣らぬ怪しい坂である。坂の上へ来た時、ふとせんだってここを通って「日本一急な坂、命の欲しい者は用心じゃ用心じゃ」と書いた張札が土手の横からはすに往来へ差し出て居るのを滑稽だと笑った事を思ひ出す。今夜は笑ふ所ではない。命の欲しい者は用心じゃと云ふ文句が聖書にでもある格言の様に胸に浮ぶ。坂道は暗い。滅多に下りると滑って尻餅を搗く。剣呑だと八合目あたりから下を見て覘をつける。暗くて何もよく見えぬ。左の土手から古榎が無遠慮に枝を突き出して日の目の通はぬ程に坂を蔽ふて居るから、昼でも此坂を下りる時は谷の底へ落ちると同様あまり善い心持ではない。榎は見えるかなと顔を上げて見ると、有ると思へばあり、無いと思へば無い程な黒いものに雨の注ぐ音が頻りにする。此暗闇な坂を下りて、細い谷道を伝って、茗荷谷を向へ上って七八丁行けば小日向台町の余が家へ帰られるのだが、向へ上る迄がちと気味悪い。』  
上記は、夏目漱石の小説『琴のそら音』の一部、切支丹坂を通って小日向台町の家へ帰る場面である。当時の切支丹坂の様子がよくわかるだけでなく、切支丹坂から小日向台町への道筋をたどると、漱石が切支丹坂と書いた坂は、庚申坂をさしていると考えられる。  
切支丹坂と周辺の坂で引用した、永井荷風『日和下駄』に描かれた切支丹坂の場合はどうであろう。荷風は「第一に思い出すのは茗荷谷の小径から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さへ気味の悪い切支丹坂が斜めに開けそれと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い道が小日向台町の裏へと攀登っている。」と書いている。荷風は、茗荷谷の小径に立って左右の崖、坂を見上げている。片側に切支丹坂があるが、これだけでは切支丹坂が現・切支丹坂をさしているか、庚申坂をさしているかはっきりしない。しかし「それと向かい合って山道のような細い道が小日向台町の裏へと攀登っている。」まで読み進めば小日向台町の裏へと攀登っている坂の反対側の坂、すなわち切支丹坂は庚申坂のことであることがわかる。  
『琴のそら音』は明治38年(1905)、『日和下駄』は大正3年(1914)から大正4年(1915)にかけて発表されている。この頃すでに現・切支丹坂はひらかれており、『新撰東京名所図会』が庚申坂は切支丹坂ではないと主張しているものの、当時一般的には庚申坂を切支丹坂と呼んでいたようである。  
この坂は庚申坂であって切支丹坂ではないとの説もみうけられるが、庚申坂とも切支丹坂とも呼ばれていたと考えるべきである。 
4 新坂=切支丹坂説  
新坂は、文京区春日二丁目7と8の間を春日通りから金富小学校前の信号へと下る坂で今井坂とも呼ばれた。新坂の名を冠しているが、道がひらかれたのは正徳3年(1713)でれっきとした江戸の坂である。  
真山青果は「切支丹坂の研究」でこの坂を切支丹坂の可能性があると述べている。青山説の根拠は、次の二点にある。  
イ) 正徳三年(1713)、若狭小浜藩酒井家の下屋敷が召上げられて屋敷の中央部を通る新坂がひらかれた。(『御府内沿革図書』元禄年中の図を見ると新坂のあたりに酒井靱負佐(さかいゆきえのすけ)との表記がある。)新坂がひらかれた当時は現在の道筋のように春日通りへ直接抜けておらず、春日通りの手前を北に折れて庚申坂上へ出ていた。(下図、『御府内沿革図書』新坂周辺図参照)真山青果は『新坂開通のために、牛込江戸川方面から切支丹屋敷辺に通ずる経路が開かれて、そのため官民ともに非常な便利を感ずることとなった。この道路は上水端より切支丹屋敷に通ずる盲管状の唯一の道路であったので、当時の人には、この坂を「切支丹屋敷へ行く坂」とも「切支丹屋敷への坂」とも称えられたことは、地名発生の最も自然なる過程であろうと思ふ。』として新坂=切支丹坂の根拠の一つにあげている。  
ロ)『江戸砂子』は新坂について「新坂、又切したん坂と云。小日向上水のうえ」と書いていることを新坂=切支丹坂説のもう一つの根拠としている。  
(筆者注:新坂下の金富小学校の前を東西に走る道は、水道通りあるいは巻石通りと呼ばれる道で、明治初期まで神田上水(もとの小日向上水)が流れていた。)  
真山青果の言うように新坂は、小日向上水から春日通りへと上る途中で北へ折れて庚申坂上に抜ける道であった。しかし新坂がひらかれた正徳3年(1713)には神田上水から切支丹屋敷へ向う道は、『御府内沿革図書』切支丹屋敷周辺図・宝永6年之形(1709)にみるように新坂の西に荒木坂があり、真山がいう「(新坂が)上水端より切支丹屋敷に通ずる唯一の道路であった」とは言えない。上水端から切支丹屋敷へ向う場合、すでに荒木坂を通るルートが存在しており、新坂から庚申坂を経由して行くルートは、荒木坂経由より遠回りであるばかりでなく新坂を上り、庚申坂の急坂を下らなければならない。「切支丹屋敷へ行く坂」「切支丹屋敷への坂」として使用した「唯一の道路であった」とは考えにくい。また、江戸の坂は、坂の名のもとになる屋敷・寺社の近くになければならない。新坂は、切支丹屋敷へ通ずる坂にしては切支丹屋敷と離れており、江戸の坂の名付け方にそぐわないように思われる。  
『江戸砂子』が「新坂、又切したん坂と云。小日向上水のうえ」と述べていることが新坂=切支丹坂説の根拠としているが、『江戸砂子』の三年後に再版された『続江戸砂子』は、「新坂、又今井坂と云。」と書きかえているところから、新坂=切支丹坂説は根拠が弱いようだ。  
新坂=切支丹坂説と離れるが、真山青果は『新坂といえば徳川公爵邸前の部分だけを限って云っているが、同新道の開通より幕末までに称された新坂とは、その部分のみに限らず、庚申坂上まで迂曲して行く道の全部を含んでいた。(中略)即ち水道端より庚申坂上に至る全部が新坂と呼ばれていたのである。これによりて『江戸志』または『江戸砂子』に「庚申坂は新坂の西にあり」とあるのが初めて解釈せられる』と書いている。  
現在の地図で見る限り庚申坂は新坂の北に位置しており、『江戸志』や『江戸砂子』が云う「庚申坂は新坂の西にあり」との表現は以前から不可思議で読み解けない文章であったが、真山青果の解釈で庚申坂と新坂の位置関係が納得できるものとなった。  
5 近江屋板江戸切絵図に記された坂=切支丹坂説  
近江屋板『小日向・小石川・牛込辺絵図』嘉永二年(1849)の地図には、荒木坂とシンサカの間の道にキリシタンサカと記している。このあたりは小石川台地と小日向台地の間の谷を通る平坦な道で坂ではない。この道を切支丹坂とする文献は他にみあたらないところから、まちがって記したものであろう。  
6 尾張屋板江戸切絵図に記された坂=切支丹坂説  
尾張屋板『礫川牛込小日向絵図』万延元年(1860)改正図 をみると、服部坂の東、御持組屋敷の間を北に上る場所に切支丹坂と記している。明治4年改正の吉田屋『東京大絵図』も、この場所をキリシタンサカと記入している。真山青果は『切支丹屋敷研究』で「作図者の錯記らしくも思われるが、この場合は必ずしもそうとばかりも断言しがたきてんがある」と述べ、この付近の古老には、この坂を切支丹坂と呼ぶ人があるので一考を要すると記している。しかし上記地図以外にこの道を切支丹坂とする文献はないところから地図の誤記と考えられる。  
 
あとがき  
江戸・東京の坂名は、一つの坂に一つの名前とは限らない。庚申坂の例でいえば、切支丹坂、今井坂、丹下坂の別名がある。他方、異なる場所の坂が同じ名前で呼ばれることも多い。富士見坂、新坂、稲荷坂などは東京都区内にそれぞれ10ヶ所以上ある。しかし切支丹坂は、切支丹屋敷のごく近くに同名の坂が複数存在したという点で異色の坂名といえる。  
ここまで検証してきた坂のなかで、新道(別名 七軒屋敷新道)の坂、庚申坂、現・切支丹坂が切支丹坂と呼ばれた坂であったことはすでに述べたとおりである。しかしひとつ疑問が残った。「山の手の坂、下町の橋」と言われるように江戸・東京では坂や橋は場所を特定し、往来の目標にされてきた。そうしてみると同時代に同名の坂がごく近い場所に存在することは都合が悪い。切支丹坂と呼ばれた三ヶ所の坂は、そう呼ばれた時代がそれぞれの坂で異なっていたようにも思える。  
現・切支丹坂は、明治20年代に新たにひらかれた道で、この坂が切支丹坂と呼ばれるようになったのは、『新撰東京名所図会』が現・切支丹坂を真の切支丹坂だと唱えた明治39年以降のことであった。それまで切支丹坂と呼ばれた坂が庚申坂であったこともすでに述べたとおりである。  
問題は、庚申坂と新道(別名 七軒屋敷新道)の坂の関係である。両坂のいずれが切支丹坂であったかについて江戸時代すでに混乱をきたしていた。(『新編江戸志』(寛政年間 1729〜1801)は庚申坂を切支丹坂とし、『御府内備考』(文政9年〜12年・1826〜1829)は『改撰江戸志』を引用して新道の坂を切支丹坂としている)。混乱は、切支丹坂は一つであるとの思い込みからおきたとも考えられ、両坂が切支丹坂であったという発想はなかったようだ。(庚申坂は切支丹坂ではないと否定した『新撰東京名所図会』も同様である。)  
庚申坂と新坂の両坂が切支丹坂と呼ばれた年代について考えてみたい。庚申坂は現在も利用されている坂だが、坂のひらかれた年代は明確ではない。しかし『御府内沿革図書』切支丹屋敷・延宝年中之形(1673〜1681)に「坂」と記されており、遅くとも延宝年間に(庚申)坂があったことが確認できる。一方、新道の坂は、元禄14年(1701)にひらかれ明治初年に廃道となったことがわかっている。すなわち庚申坂は新道の坂より古くにひらかれた坂であったといえる。(ただし以下のことは文献で証明できないことなのであくまでも推測にすぎない。)年代は不明だが、まず庚申坂が切支丹坂とよばれるようになり、元禄14年(1701)に新道がひらかれると、切支丹屋敷に沿った坂であることからいつのまにか新道が切支丹坂と呼ばれようになっていった。(思えば、現・切支丹坂もいつの間にか庚申坂にかわって切支丹坂と呼ばれるようになり現在に至っている。)やがて、切支丹屋敷が火事で焼失し、再建されないまま寛政4年(1792)に屋敷が廃止され、跡地が武家屋敷に変って切支丹屋敷の記憶が薄れていくと、新道の坂にかわって再び庚申坂が切支丹坂と呼ばれるようになったと考えることはできないだろうか。切支丹坂は時代によっていくつかの坂でその名を受け継いで言ったようにも思えるのだが、このことは推測にすぎない。  
真山青果が「切支丹坂の研究」でとりあげた坂のうち「切支丹屋敷表門と庚申橋の間」は、本稿でとりあげなかった。詳細は、真山青果著『切支丹屋敷研究』をお読みいただきたい。  
 
神楽坂の坂 
文豪が通った神楽坂 
神楽坂は坂下が海抜5メートル、赤城神社のあたりが24メートルである。700mで海抜が19メートル高くなる。最初は一気にのぼり、やがて緩傾斜になり、再びのぼる。変化に富んだ坂道である。 永井荷風はこの坂を何度も上がった。  
坂上の矢来町三番地には、師と仰ぐ硯友社の同 人広津柳浪が住んでいた。柳浪は、尾崎紅葉の硯友社の時代が過ぎると、次第に貧窮 し、一家を引き連れて転居を繰返していったが、荷風があこがれたころは、矢来にいた。  
荷風文学の出発点がこの神楽坂であることは、あまりり知られていない。大正6年に荷風が発表した「書かでもの記」には「そもわが文士としての生涯は明治 三十一年わが二十歳の秋、「簾(すだれ)の月」と題せし未完の草稿一篇を携え、牛込矢来町なる広瀬柳浪先生の門を叩きし日より始まりしものというべし」と述べさらに「先生が寓居は矢来町何番地なりしや今記憶せざれど神楽坂を上がりて、寺町通りをまっすぐにいく事数町にして、左へ曲がりたる細き横丁の右側、格子戸造りの平屋 にしてたしか門構はなかりしと覚えたり」と書く。  
荷風はこの直後の明治三十四年、九段の暁星にフランス語を学ぶために入学している。アメリカ渡航の数年前の青春時代である。とうぜん足繁く神楽坂をおとなったに違いない。  
文学史上「硯友社時代」を画した尾崎紅葉は、広津の師であった。明治二十二年東大 在学中に読売新聞社に入社、同紙につぎつぎと作品を発表して一世を風靡していた。  
明治二十四年、二十五歳で横寺町の朝日坂に新婚所帯をもった。そこに泉鏡花、田 山花袋、小栗風葉らがつぎつぎに弟子入りを志願して殺到し、坂を上ってくる。二十代前半にして著名な大作家の人気が垣間見られる。  
夏目漱石も神楽坂を頻繁に利用した。大正4年になる「硝子戸の中」ではこんな回顧をしている。  
「買物らしい買物は、大抵神楽坂まで出る例になっていたので、そうした必要に馴らされていた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来の坂を上がって酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようという、あの五、六町の一筋道などになると、昼でも森が陰森として、大空が曇ったように終始薄暗かった。」  
「それから」 でも、漱石は主人公の代助を袋町に住ませ、神楽坂や地蔵坂を行き来させている。このあたりの土地鑑も確かである。  
「生まれ出る悩み」の有島武郎はその著「骨」で「神楽坂の往来はびしょびしょにぬかるんで夜風が寒かった。而して人通りが杜絶えてゐた。私達は下駄の上に泥の乗るのも忘れて、冗談口をたたきながら、毘紗門の裏通りへと折れ曲がった。」と描写した。  
荷風、鏡花、花袋、そして漱石や武郎などの文豪たちが若き日に、知らぬ間に神楽坂ですれ違っていたことを想像するのは、なかなか悪くない。ここに一葉がいれば申し分ないのだが、そうは問屋が卸すまい。  
ところで、江戸切り絵図には必ず神楽坂下の入り口西よりの角に、牡丹屋敷なる典雅な名前の武家屋敷が記されている。牡丹屋敷の謎に迫ると、こんな事実が分かってきた。  
八代将軍吉宗の世に、紀州から岡本彦右衛門という家臣がお供してきた。彼は武家に お取りたてのところを、町屋を望んで当地を拝領した。「熱湯散」という薬を広めたりしていたらしいが、この屋敷内に牡丹を栽培して献上していたことから、牡丹屋敷 の名前が流布し、牡丹屋敷彦右衛門と称した。しかし不幸が牡丹屋敷を襲った。当主はお咎めをうけ、家財を召し上げられて、三つ割長屋に変わってしまたという。美しい屋敷名に隠された悲劇である。  
 
軽子坂  
まだ郷土についてなにもしらなかったころ、「神楽坂に河岸がありました」と郷土史家に説明されたときは、ほんとうにおどろいたものだった。たしかに私が少年のころは、飯田橋の駅ビル(ラムラ)建設のため消滅してしまった飯田掘に舟がもやっていた。船上には洗濯ものがひるがえり、こどもの姿も垣間見られた。  
郷土史家がのべたように、江戸時代には神楽坂に平行する軽子坂に、舟でつく荷物を坂上にかつぎ上げる人足がいた。それを軽子といった。江戸は舟運にめぐまれていて、遠く千葉方面からの穀類、酒、魚介、米、野菜がこの神楽河岸についた。  
江戸時代の地図でみるとこのあたりの様子は、岸も入りくんで複雑だったが、ひとびとはここに階段をつくって河岸を築き、蔵も建設し物資を集積した。  
そのころ神楽坂は、いまよりもずっと急坂で、坂の途中には、九段坂同様に階段がしつらえられていたから、軽籠(かるこ)にかついで荷を運ぶには、この坂が多いに利用された。  
当時の風景は、軽子坂にある「あずさ監査法人(旧朝日監査法人)の一階に巨大な陶器製の壁画として描写されている。蔵も階段河岸も描かれている(ただし、会社の施設内なので見学は出来ない)。  
神楽河岸は江戸切り絵図にも登場する。  
余談だが、江戸の切り絵図は、いまは複製ものが簡単に手に入るが、おすすめは、江戸東京博物館のホール前の床に作られた安政3年のそれである。何畳敷かの大きなもので、神楽坂界わいもよく分かるし、大江戸全体が手に取るように理解できて大変おもしろい。  
それをみると、神楽河岸のある川は、となりの牛込堀よりもずっと幅がせまい。幕末ころの川の形状がこうだったのかとはっきりする。軽子坂の入口は土岐藤兵ヱと平岩七之助の大きな屋敷である。また両側も武家屋敷である。  
明治のころ、この辺は柿の老木が目印になっていたので「柿の木横町」とよばれていた。漱石の一族は浅草猿楽町に芝居を見物にいくのに、神楽河岸から屋根つきの船にのり、神田川(当時は江戸川)を柳橋に出て隅田川(大川)をさかのぼっている(夏目漱石「硝子戸の中」大正4年)。  
荷風も、舟からの光景をこんな風に表現している。  
「市中の生活に興味を持つものには物揚場の光景も亦しばし杖を留めるに足りる。夏の炎天神田の鎌倉河岸、牛込揚場の河岸などを通れば、荷車の馬は馬方と共につかれて、河添の大きな柳の木の下に居眠りをしている(永井荷風「日和下駄」6 大正3年)。  
荷風がみた光景は、私に、神楽坂を版画で描いた吉田博の作品を連想させた。日露戦争がおわり、日中事変が始まる前の、大正という時代のおおらかな時代風景である。  
さて歴史は下って戦後に入る。戦争で、神楽坂は丸焼けになる。そのころ、このあたりは、野っ原であった。ギンレイホールのビルもその先のビル群も当然になく、代りに池があったのである。それは、こどもらのかっこうの遊び場だった。私はこの池でカエルをとり、やごをつかまえ、みずかまきり、げんごろう、たいこうちなどの水生昆虫に夢中になった。ぎんやんまもおにやんまも、この池をかすめとんでいた。神楽小路だけは、はやくから飲食街になってきていた。大人のけんかが絶えない場末であった。いまもそのあたりは、戦後の面影を色濃くのこしている。とくに路地内路地の「みちくさ横丁」は、新宿ゴールデン街のミニュチュアのようで、いまでは大変貴重である。  
軽子坂は、中村雅夫氏の調査によると、傾斜角度は5度、幅8,5メートルだが、私が悪童連中と遊んでいたころは、もっと道幅がせまかったようにおもえる。  
坂をあがって仲通をわたった東角は、大久保彦左衛門の屋敷あと。左側は、北は三年坂の本多横丁まで、西は神楽坂通りまで、本多家の屋敷であった、その一角、軽子坂に面しては、「うを徳」という料亭がいまものこる。それこそ明治文学の名作「金色夜叉」を書いた文豪尾崎紅葉先生がその最盛期、この料亭に泉鏡花をひきつれて遊んだのだが、鏡花は、紅葉の反対をおしきって、うを徳の芸者桃太郎と所帯をもつという恋愛もあったのである。大久保彦左衛門から芸者桃太郎まで、多彩な坂はいまもひとびとの恋を運んでいるのではないだろうか。 
 
地蔵坂  
「わらだな」といわれて地蔵坂を想起したら神楽坂通の有段者といえる。坂は、神楽坂5丁目を6丁目に向かって左折する。S字の坂である。  
私も5年前まで講談社という出版社で編集の仕事をしていたが、ここは出版人にはなじみの坂なのだ。  
坂を右にカーブしていった丘の上に「日本出版クラブ会館」があるからで、出版祝の会場によく使われる。そのくせみな地蔵坂の名前を知らない。むしろ「わらだな」といった方がぴんとくるひとがいそうである。出版人には夏目漱石ファンや歴史愛好者が多いからだ。  
「落語はすきで、よく牛込の肴町の和良店(わらだな)へ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといへば小供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席は大抵聞きに廻った」(夏目漱石「僕の昔」明治40年)。  
地蔵坂は袋町にある。そこは豊嶋郡野方領牛込村だったが、のちに町屋となり、肴町の横丁でなおかつ坂上は御徒組の門で袋小路だったため、袋町となった。旧牛込区は、このあたりが武蔵野の牧だったのでこの名を冠した。つまり牛がたくさんいたの である。駒込、馬込もこのたぐい。  
わらだなとは藁店である。「改撰江戸誌」には「子安地蔵堂あり。藁を商うもの古くよりおれば藁店ともよへりて藁坂という」ということである。  
漱石が遊んだ席亭は、 本誌「家族の肖像」の永楽家さんの祖先が経営したようにもきくが、のちに洋画劇場に変身していった。それは「牛込館」という。  
東京中にある席亭よりも最先端の洋画を選んで商売変えしたところは、進取の気性を感じる。江戸っ子気質に流行への敏感 さがあるが、神楽坂人にはそうした気風があったのだろうか。  
漱石の落語好きに触れたが、朝日新聞夕刊社会面が6日間特集を組んだ「神楽坂」の2004年2月5日のコラム「東京」は、「文化を発信」というタイトルで、神楽坂と落語 をとりあげた。私は神楽坂が落語のにあうまちだとT記者に提案したが、その根拠はこうしたことだった。  
そのころ神楽坂には演芸場が5つもあり、6丁目の安養寺うら の「牛込亭」もまた落語と講談の専門館であった。いまの神楽坂組合(料亭組合)のある検番には神楽坂演舞場もあり、柳家金語楼が出演していた。  
ところで現在坂の途中には、居酒屋のもんとまぁるがある。  
昭和30年代の古家をそのまま使っている。住居を店に改築したので、通し柱が店内いたるところにある。もんの2階のまぁるは、天井をとり外しているので、黒く塗装した屋根の内側がむき出しになり、変化があって、空間の広がりを感じて気持ちがよいのだが、空が高いうちに来てみると(ふだんは17:30開店)、屋根のあちこちがほころび、空の光が極細 状に店内にさし込み、まことに愉快である。何でそんなことにくわしいかというと、両店とも私が経営しているからだ。  
昨今デザイナーっぽいこじゃれた店が多くてつまらない。私はこうしたなにげない古家に愛着があるのである。 もし寄られることがあれば、神楽坂まちの手帖編集部まで連絡してくれたら、藁店時代のまちの写真でももって参上しよう。  
さて地蔵坂におとしてはならないもの。坂上の光照寺。浄土宗で芝増上寺の末寺である。 見ものは、なんといっても林立する出羽国(山形)松山藩酒井家の巨大な墓石群だ。 奇妙なしかも圧倒的な存在感を示している。いまの酒井家はキリスト教に改宗していて、墓守問題では大変興味のある、奇想天外な話もあるが、ここではふれない。  
光照寺は牛込城跡であり、第70回芥川賞作家森敦、便便館湖鯉鮒(狂歌師)の墓、海ほうずきの供養塔、キリシタン遺物碑など独特のものがある。観光下手な寺なので、ひっそりとしてかえってよい。  
ここを観光したら、まっすぐあるいて牛込中央通りの商店街にでてみよう。地下鉄大江戸線開通を機に、いろいろ新しい店が進出しておもしろくなった。  
最後に、江戸写し絵というのをご存知だろうか。そのはじめての公演が、江戸時代この藁店で行われたときいた。ご存知のかたはお教え願いたい。  
 
弁天坂 
神楽坂上を左に折れて大久保通りを牛込中央通りの方に向うと、左手に寺がある。 「御府内八十八箇所之内・阿波国・平等寺模・第弐二番・弘法大師・天谷山・南蔵院」と石に刻んだ朱の文字が見える。  
第二次大戦で焼ける前の南蔵院には、弁天堂、聖天堂、阿弥陀堂、稲荷社、寺薬王院、書院と本堂と庫裏、絵馬堂、門番所などの建物があったという。残念なことに、坂名の由来となった、弁天堂は再建されていない。  
明治の初期に神仏を分けた際、稲荷は赤城神社に移され、弁天堂や聖天堂の前に あった鳥居も取り払われた。 弁天堂にはご存知、あの天女の姿をした音楽、弁舌あるいは現世利益をつかさどる弁天様がおいでになるから、多くの人の信仰をあつめたであろう。  
明治のころの南蔵院前の弁天坂を描いたモノをみると、門の入り口には「あずきや」や「おでんや」の ような店も描いてあって、女子供の行交う姿も多く、さんざめく物音が聞こえてきそうである。  
わたしは終戦の頃には埋められていたらしい、現在は境内の駐車場のあたりにあったという「弁天池」が気にかかった。 御住職に捜していただいたモノに、埋めたてる前の弁天池の形が判明した。男性が二の腕の力拳自慢しているような輪郭が、読めた。腕の一番太いところに橋らしきも のもかかっている。御住職の記憶も、鯉などの跳ねる小ぶりの美しい池であったようだ。「ひょっとしたら、小堀遠州の作かもしれないという人もいるのですよ」と御住職は付け加えた。なるほど、調べて見ると、正保四年(一六四七)に六九歳で没した小堀遠州の墓は、南蔵院の西方、新宿区原町の法身寺にあるという。地理的な条件は合い そうだが、時間的な条件は検証の必要がある。でも、誰の作だって、庶民の目を癒したにちがいないだろうかまわない。  
総じて弁天坂は、ゆったりとそして許容力のある、まるで弁天様の腕のような坂で ある。  
ついでに、南蔵院の左横、大江戸線牛込神楽坂の駅の脇からS字にクネって上がる元気の良い坂がある。何枚かの絵図を見ると大正十一年のモノには、細い道筋ができているし大久保通りには線路の印もあるから、その頃から、東京の一大改造がはじ まったのだろうか。それにしても、名の無いこの坂は、まだ人格を与えられていないようでもったいない。名付け親は、やっぱりご町内がいい。  
 
逢坂  
「美男坂」の別名を持つこの坂は、名前の面白さから坂に親しみはじめた私にとってはことのほか興味をそそる坂であった。「美男に逢える」のではないかという期待ももちろんだが、実際に行って坂下に佇むと誰しもが古代のロマンに夢をはせる。  
この坂には悲話がある。昔武蔵守として都より赴任した小野美佐吉が「さねかずら」という美女とここで出逢い恋に落ちた。が、やがて帰還の命令を受けて別れ別れになってしまった。募る想いに病となり亡くなってしまったのだが、ある夜彼女の夢枕に立ち、この坂で再会を果たしたというものである。  
「さねかずら」が別名美男かずらとも呼ばれることから美男坂の名が生まれたということらしい。  
坂の裾にはまるで置き忘れられたように小さな祠があり、大きな柳がかぶさるように枝を垂れている。そのむこうに緩く弧を描きながら坂が上っていく様はなかなか日本的風情がある。  
が、しばらく上り日仏学院が視界に入ると、広い中庭の空間が開け一瞬別世界に入り込んだような気分になる。  
「坂の下からだと、どこに建物があるのか分からないらしく、ゲストでやってくるフランス人や、学校に初めてやってくる日本人は、坂をちょっと上ってぱっと現れる学校をみて驚くそうです。」と日仏学院のシリルさんがお話してくださった。  
坂はかなり急で、上から見ていると、ゆらゆら、ひょこひょことひとの頭が見えてきて、全体の姿が現れる。先日訪れた時は上ってくる人の頭が左右に大きく動いて不思議に思っていたら、フランス人の青年と父親らしき二人が自転車で現れた。青年の方は坂の最後を踏ん張って上り切ったが、父親の方はあとちょっとという所で自転車を降りて、照れくさそうに私の前を通り過ぎて行った。無言ながら目を交わし、ふと心が温まった。  
坂下の古川自転車のご主人のお話によると、小学校の頃は仲間とこの坂を自転車で上る競争をしたとか。歳を重ねて上りきった時には晴れがましく思えたとのことだ。  
坂上には最高裁判所長官公邸があり、重厚な石垣塀が続いて、ここが閑静な武家屋敷地跡であったことを忍ばせている。このあたりの瀟洒なマンションにはフランスの方達が多く住んでいるようだ。古のたたずまいを残しながらも現代ではすてきなフランス人と出逢える「逢坂」である。 
 
三年坂  
毘沙門様の前から本多横丁を抜け軽子坂も突っ切って、築土八幡神社の石段の始まる大久保通りまでの百メートル強の緩やかな坂である。古いモノに「巾一間四尺より二間二尺」とあるが、車のすれ違いは難しそうなところをみると、現在の道幅とおよその変化はないようだ。  
坂上の半分を占める本多横丁は、両側に寿司屋、鰻や、居酒屋等が並び、脇に「芸者新道」「かくれんぼ横丁」の路地を抱えて、なにやら賑やかな物音が聞こえてきそうな商店の坂なのである。以前は「ロクハチ」ともなると、御座敷に出る姐さんの艶姿が多かったと、斎藤商店街会長はおっしゃる。ロクハチって?「六時から八時」のことですワ・・。その姐さん達が一刻をあらそってショウトカットしたのが「芸者新道」だ。そういえば敷き石もまろやかで吸殻の一つもない清潔さは、艶っぽい。  
ところで、その名の由来、横丁の東側はかつての「本多対馬守」様のお屋敷である。それなのにあろうことか、一時、「すずらん通り」と改名した。斎藤会長は寿司屋を営んでいて、馴染みの客に再三、何故通りの名前を変えたのかと責められた。それで「本多」を復活させたのが昭和五十年ごろだという。  
「昔の名前で出ています」ほうがすてきだと、わたしも思う。なんたって、本多様の目の前にはあの天下のご意見番の「大久保彦左衛門」も住んでいた頃からのもだから。  
斎藤会長の想像は、あだ討ちで有名な堀部安兵衛が決闘の助っ人に走ったコースにおよぶ。叔母の知らせを受けた安兵衛が、八丁堀から鍛冶橋、竹橋、飯田橋、改代町(新宿区)、馬場下、高田馬場を走る。飯田橋通過の際に、この三年坂、つまり本多横丁を走ったかもしれないでしょう・・と目を輝かす。ないとは言えぬ、とわたしも思う。  
そもそも各地にある三年坂の名の由来は、必ず寺や墓地にとりかこまれた静寂な場所で、ソコで躓くと三年の内に死ぬ。死なないためには三度土を舐めよという俗信による。不吉な俗信のせいで、地蔵坂、三念坂の別名も多い。とにかく、これは危険な俗信である。鳥の糞も含んだ破傷風菌にまみれた土を、三度もなめたらどうなることか。  
堀部安兵衛も先を急ぐあまり、転んだかもしれない。しかし土は舐めなかっただろう。ソレでも村上三兄弟をバッタバッタとやっつけるほど元気だったのである。そのことを尋ね様にも坂名に起因した、当時はあった西照院も成願院も今は無い。 
 
赤城坂  
神楽坂通りを西へ歩き、東西線神楽坂駅手前の道を右にそれると、赤城神社がある。そう広くない境内へ分け入れば、左手西わきに急な階段がある。それを下ると四叉路、うち北へと下る坂が赤城坂だ。道幅四.二メートル、傾斜角九.五度の坂上に立つ標柱に、「赤城神社のそばにあるのでこの名がある。  
『東京名所圖絵』によれば、「……峻悪にして車通ずべからず……」とあり、かなりきつい坂だった当時の様子がしのばれる。」とある。  
赤城神社宮司夫人であり、境内にある赤城幼稚園の園長先生でもある人にお話を伺った。  
「もとは群馬県の赤城にあった社殿がまず早稲田に、それからここへ移されました。戦災でこのあたりも焼け野原、今の社殿は戦後再建されたものですし、落雷で大きな穴のあいた大銀杏があったんですが、やはり戦火にやられました。巨大なやけぼっくいになった大銀杏のずっとむこうに富士山が見えて、それはきれいでした。戦前のことはよく知りませんが、今幼稚園があるあのあたりに清風亭という料亭があって、坪内逍遥が新劇運動の場に利用したとか。のち下宿屋になって、近松秋江や片上昇が寄宿したそうです」  
さぞかし幽趣があったであろうもはや幻の大銀杏わきの急な階段を下って赤城坂上に立てば、不足のないほど急坂だ。右へ左へ小さくカーブし、低きへと一心に流れ落ちる。南へ行く小径の両角に居酒屋と食べ物屋。西へ行く小径は民家が建てこむ。「戦前は風呂屋や商店がたくさんあったそうです」。これも赤城神社宮司夫人から伺っているが、文献によれば、江戸時代この坂上辺には岡場所があったらしい。牛に引かれて……、というあの善光寺の裏手にも岡場所があり、殿方はお参りのおりに遊んで帰ったとか聞いたことがあるけれど、いったいどのあたりだったろう。その場に佇んでいると、南側の小径から高齢のご夫婦が現われ、やおらゆるりと赤城坂を下りはじめた。滑り止めのためのぼこぼこにかえって足を取られやしないだろうかと心配しながら見守っていると、こんどは補助つき自転車に乗った幼い男の子とまだ若い母親がやってきた。男の子はきゃっきゃとはしゃぎ、母親はサドルのあたりをギュッと握ってスピードを制御しつつ、あっというまに老夫婦を追い抜き、こつ然と右へ吸われていった。まもなく老夫婦が左へ消えた。  
赤城神社の裏手は崖だ。切り通しのような崖下を縫い、赤城坂は神田川南岸の水道町で流れ止まる。 
 
朝日坂  
神楽坂通りを東西線神楽坂駅に向かって上り、六丁目スーパーキムラヤの角を左に入るとそこが「朝日坂」。緩やかに上る坂の両側を埋める家々の間に龍門寺、円福寺、宝国寺、長源寺…と寺院が点在し、表通りの賑わいが嘘のような静けさにほっと息をつく。  
このあたりの町名は横寺町、その名の通りお寺の横町である。朝日坂という名は坂の入り口近くにあった里俗朝日天神(北野神社)の名をとったもので、明治二年までは町名も牛込朝日町と呼ばれていた。  
寺の横町・朝日坂は、かつて尾崎紅葉、泉鏡花、正宗白鳥らの近代作家が通った歴史をいまにとどめる坂でもある。  
尾崎紅葉は明治24年から36歳で死去するまでの12年間を、坂上の左側、大信寺に隣接する鳥居家の母屋を借りて住んだ。紅葉はここを「十千万堂(とちまんどう)」と称して、2階の書斎で代表作「金色夜叉」をはじめ多くの作品を執筆したが、多士済々な文士がここに出入りしていたという。1階には玄関番として泉鏡花が19歳から3年間ほど寄宿している。  
学生時代の正宗白鳥もこの横寺町に下宿し、朝日坂を通って早稲田に通学していた。当時はまだ文学者を目指していなかった白鳥だが、『尾崎紅葉』(筑摩版・現代日本文学全集)の解説の中で当時を想起して、散歩の途中、銭湯通いの途中に町内の古ぼけた共同門に「尾崎徳太郎」という表札を見つけたことを記している。尾崎紅葉が暮らしたこの家は戦災で消失したが、鳥居家はいまも当時の場所にある。  
「尾崎紅葉旧居跡」の看板が立つ路地を一歩入った板塀越しの庭は紅葉が書斎から眺めたのと同じ庭である。  
もうひとり、朝日坂を終焉の地とした文学者に島村抱月がいる。坪内逍遙と共に文芸協会を起こした抱月創立の芸術倶楽部が、坂の中ほど横寺町十番地にあり、その木造二階の建物は日本の演劇近代化の母体となった。大正7年、この建物の一室で48歳の抱月は病死したが、それを悲しんだ松井須磨子は翌年同じ場所で後追い自殺している。  
近代文学・演劇を育んだ朝日坂はいま、「劇団ふきだまり」の拠点として伝統を残す一方、ここを往き来し暮らす人々の「誕生から死まで」をそっと包み込む坂でもある。坂道の家々の間に点在するのは、ママチャリが並ぶ小児科、小さな子供服の店に小中学生の学習塾、ひとり暮らしの若者が仕上がりを待つコインランドリー。中高年に人気の健康風呂に、介護サービス事務所もある。そして、きょうも「墓所販売」の幟が風にはためくお寺さん。この坂はたった2,3百メートルの間で「ゆりかごから墓場まで」ちゃんと面倒見てくれる。  
坂を入ってすぐ右、打ち水が清々しい「割烹 とよ田」の店先の小さな飾り窓は、お正月の飾りからいつの間にか節分の鬼の置物に変わっていた。この季節の小窓に迎えられて始まる坂は、緩やかに蛇行しながら牛込中央通りに抜ける。 
 
理科大の坂  
東京理科大と英国文化発信地ブリティッシュカウンシルの間の坂道に入ると、明治風の洋風建築が現れる。大学の前身、漱石の「坊ちゃん」が通った東京物理学校の木造校舎を復元した近代科学資料館である。和算の素晴らしい資料も多く、博物館のなかでは独特の地位を獲得している。地味だが一見の価値があるから、坂散歩のついでに覗いてみたい。  
館長は数学者の山田俊彦教授である。教授によると「フランス人の方が小さいお子さん連れで随分通りますよ。」とおっしゃる。神楽坂は、日本でフランス人の人口密度が一番多いのではないだろうか。坂上で暮らすフランス人にとっては、乳母車や自転車で行き来するのに、この辺では一番緩やかな坂に違いない。フランス人に限らない。若宮町から下ってくる住人にとって、大切な坂道である。  
坂の左側の若宮公園は、武家屋敷風の低い塀を巡らせている。むかし武家地だった記念だろう。地下は、新宿区の防災緊急品のストックヤードとなっている。この坂は、幅がゆったりしていて車はあまり通らないので、一見広場のように思える。理科大の学生も憩う坂道で、近所の人には「理科大の坂」で通っている。  
坂上には上ってくる人を迎えるようにパルスギャラリーがある。こじんまりした清潔なギャラリーである。オーナーの話では、父君がいろいろ探し回って、この高台に景色の良い場所を見つけ家を建てたそうだ。当時は、きっと坂上のこの家から、外堀やおとなり千代田区の土手の樹木がよく見えたに違いない。いまは高い建物で遮られて景色を楽しむことも出来なくなってしまった。風景は財産なのにと残念がる。  
坂上を左に折れると、都会の隠れ家的ホテルとして知る人ぞ知るアグネスホテルがある。さらに進むと、鎌倉時代に源頼朝が奥州征伐の途上に寄ったという歴史の長い若宮神社が現われる。長い間仮神殿だった社も新しくなった。コンクリートの社殿に、黄色い帽子の学校帰りの女の子が立ち止まった。ピョコンとお辞儀をして拍手を叩き、またくるっと踵を返して走って行った。手袋のままのポンポンという温もりのある響きが優しかった。気持ちが和む名前が欲しい無名坂である。 
 
江戸の幽霊坂 
都心に点在する「幽霊坂」。江戸の頃はこの名が示すとおり寺院・墓地、あるいは昼なお暗く鬱蒼と樹木が覆い茂っていた場所であったのでしょう。当時は坂はランドマークとしての機能を持っていましたから、この名を付ける他に、さして目立ったものがなかったわけで、それだけに江戸の市街がどのように広がっていたかが想像できるでしょう。  
江戸時代に既に名づけられていた「幽霊坂」は千代田区では駿河台・富士見台、また新宿区では牛込台で、このあたりは武家屋敷が立ち並んではいたものの、人馬の往来も未だ少ない寂しい場所であったと推察されます。その他は鎌倉時代からある旧道や三田の寛永12年(1635)幕府によって開かれた寺町にありました。他は未だ武家屋敷や寺院の中に取り込まれており、交通路としての機能は持っていませんでした。  
市街化が進み、辺りの景観が変わるにつれてそれぞれの「幽霊坂」は出世するようにその名前を変え定着していきます。宝龍寺の脇の坂なので宝龍寺坂、紅梅町の名から紅梅坂、湯立坂は「氷川の明神へ参るのに、ここで湯花(湯が沸騰したときにたつ泡。巫女や神官がこの泡を笹の葉につけて参詣人にかけ清めたり、神託を仰いだりする)を奉った坂」という謂れからきています。庾嶺坂は将軍秀忠が中国の梅の名所、"大庾嶺"にちなんで命名したというもので、6つの別名を有しており、かなり古くからあった道であることが伺えます。(「幽霊坂」は庾嶺坂が転訛したものとの説もある。)  
とりわけ乃木坂の名前は乃木大将の殉死を悼み、大正9年に区議会の決議によって改名されたという特筆すべき背景を持っています。以上のように名前を変えずに今もって幽霊坂の名を有している坂は現在もその名のとおりの雰囲気を保っているからなのでしょう。  
しかし、そこに住む人々にとってはイメージが悪いので変えてほしいということもあり、勇励坂、有礼坂(明治時代 文部大臣の森有礼の屋敷があったとのこと)などの別名を後から付けられたものの、浸透はしていないようです。変わった別名、ニコニコ坂というのは怖い坂なので、せめて顔だけでもにこにこして通り過ぎようということでしょうか。 いずれの坂も今は都心にあって、闇とは無縁の場所となっています。今回は代表的な3つの地区の幽霊坂を実際に夜に歩いて、灯りの無い、舗装もしていない道であったことを想像しながら平成の今の姿を検証してみることにしました。 
幽霊坂一覧  
  区名   坂名(別名)    [<]江戸時代から開けていた坂道 
        所在地 / 江戸切絵図(1850頃) 
 1 北   区 幽霊坂        
        田端11-25と30の間を北東に上る坂下与楽寺 / 明治与楽寺内  
 2 新宿 区 宝龍寺坂<(幽霊坂)  
        市谷柳町と弁天町の間を東に上る    
 3 新宿 区 庾嶺坂<(幽霊坂/行人坂/庾嶺坂/若宮坂/祐玄坂/唯念坂) 
        外堀通りの家の会館脇を北西に若宮八幡神社に上る    
 4 千代田区 紅梅坂<(幽霊坂/光感寺坂)  
        神田駿河台4丁目ニコライ堂の北を西に上る 名は大正時代  
 5 千代田区 幽霊坂<(甲賀坂/芥坂/塵坂)  
        神田淡路町2−9と11の間を西に上る / 名は大正時代  
 6 千代田区 幽霊坂        
        早稲田通りから富士見町1-11と12の間を西南に上る / 明治20年以後に  
 7 千代田区 幽霊坂<(勇励坂)   
        早稲田通りから富士見1-8と2-11の間を西南に上る    
 8 千代田区 幽霊坂        
        富士見2-13と14の間を東南に上る  
 9 文京 区 湯立坂<(幽霊坂/湯坂/暗闇坂)  
        小石川5丁目と大塚3丁目の境    
10 文京 区 幽霊坂        
        目白台1丁目,新江戸川公園西側を北に上る / 細川家屋敷内  
11 文京 区 幽霊坂<(遊霊坂)   
        目白台2丁目、日本女子大西側を東に上る    
12 港   区 乃木坂<(幽霊坂/行合坂/なだれ坂/膝折坂)  
        赤坂8丁目と9丁目の間 赤坂通り / 名は大正時代  
13 港   区 幽霊坂<(有礼坂)   
        三田4−11と12の間を南東に上る    
14 品川 区 幽霊坂(ニコニコ坂)  
        南品川5−10と11の間を西に上る / 明治畑地内  
神田・駿河台の幽霊坂  
幽霊坂と紅梅坂(ニコライ堂北側)はもともとひとつに繋がっていた坂道であった。大正13年(1924)の区画整理で本郷通りができたため分断され、このあたりを紅梅町と称していたので紅梅坂と名付けられた。別名としての幽霊坂は分断前の名前がそうであったからである。  
切絵図(1850頃)では坂上に定火消役屋敷があって、当時は坂上に火の見櫓がそびえていたという。維新後は官収されて空き地になっていた所に、後にニコライ堂が建てられた。  
幽霊坂は「新撰東京名所図会」によると『往時樹木陰鬱にして昼尚ほ凄寂たりしを以って俗に幽霊坂を唱へたりしを・・・』とある。別名の 芥坂 塵坂は崖上から芥を棄てていたからであろう。  
現在は病院 学校などが立ち並ぶ文教地域である。神田駿河台4の元・日立ビルのあった石垣で囲まれた場所は以前は三菱財閥岩崎家の屋敷があったところで 軍艦山とも称されていたとか。坂下は電飾の不夜城「アキバ」のITビル群が光を放っている。「幽霊坂」とはなんとも対照的な光景である。  
僅かに石垣上の深い大樹の陰影が往時を偲ばせている。風格のあるニコライ堂が異国情緒を漂わせていて、今や「幽霊」よりも「ゴースト」が似合いそうな一画である。 
三田の幽霊坂  
この辺りは寛永12年(1635)に江戸城の拡張により八丁堀にあった寺院群20余りが一挙に移されたという いわゆる寺町で、今もその多くが現存している地域である。墓地の横を通る坂なのでこの名が付いたのも当然であろう。  
忍願寺と南台寺の間の魚籃坂に抜ける道は 片側の崖下に墓地があり、墓石が整然と並んでいるのが見下ろせ、夜はひとりで通るには足が竦むが、その向こうはビル群が重なるように立ち並び 六本木ヒルズもその間からその姿を灯りの塔のように見せている。ライトアップされた東京タワーも巨大な蝋燭のようで、この寺町全体を見守っているようだ。  
しかし、ここは「幽霊坂」と標柱も立てられていてその背後に続く坂上は街灯も寂しげで、ひょっとして・・・・と思わせ、今もって名前にふさわしい一画と言えよう。それでもここに住む人々には普通の生活通りとなっていて、夜でも臆することなく行き来している坂である。 
富士見台の幽霊坂  
富士見台の幽霊坂については、文献によっていろいろの記述がなされている。今回は一番多く記載のある「今昔 東京の坂」(岡崎清記・日本交通公社)を元にその3ヶ所を検証してみた。  
この辺りは寺町ではなく武家地であった。富士見町の名が示すとおり高台となっているため、ほぼ平行してある三本の道がみな幽霊坂と称されている。広い武家屋敷の淋しい鬱蒼とした道であることからそう名付けたのであろう。切絵図や明治時代の地図を見てみると、時代によってかなり変遷が見られる。  
絵図で分かるように江戸時代に称されたであろう坂は おそらく富士見町1丁目8と9の間の一ヶ所のみで、あとは屋敷内に取り込まれていたものであり、明治以後に道が開けて幽霊坂と呼ぶに至ったようだ。また宅地化が進むにつれ、近隣の住民から「幽霊坂」ではイメージが悪いということで「勇励坂」とするようになった坂(1丁目12と2丁目13の間)もある。  
尚現在「幽霊坂」と呼ぶにふさわしい崖下の道(1丁目11と12)は私道となっているので、この名の消滅もそう遠くないことになろう。坂上は宿舎、寮、会館といった大きな施設が建ち、角川書店の瀟洒な建物が眼を引く。三本の幽霊坂の坂下の通りは早稲田通りで、今や赤提灯のともる店や飲食店が飯田橋駅まで建ち並んで庶民の町の様相を呈している。およそ幽霊とは全く縁のなさそうな世界となっている。