聞くは一時の恥

言葉の通り 
判らなかったら聞きなさい 
知らないままが恐い 
「知らないままが恐い」と思わなくなったらオバンオジンの仲間入り 
 
「知りたい」と思ったとき 
知っている人を 探しなさい聞きなさい 
 
ご注意 知ったかぶりをする人もいます 


  
ルーベンス 
昔 モートセルで 
そのベルギー人は教会の壁画を丁寧に説明してくれた 
自慢げだった 
ルーベンスの名前だけは聞き取れた 
薄暗い教会の中 
絵も暗かった 
感動はなかった 
「すばらしい」の一言が云えなかった
  
知識のないことは恐い 
今も思い出すと冷や汗をかく思いだ 
日本に帰り忘れていた 
私の図書館三省堂で暇つぶし 
絵は好きなのでふと泰西名画の解説書を手にした
 
「ルーベンス」だ 
そのベルギー人にとっての「ルーベンス」の意味 
芸術作品としての「ルーベンス」の価値を 知った 
礼儀を失したことも知った
  
もう一度ベルギーに行きたい 
年はとったが感性は少しは磨かれた 
もう一度じっくり見てみたい
 
(Peter Paul Rubens ペーテル=パウル―)フランドルの画家。イタリア絵画とフランドル絵画の伝統を基礎に、大胆な明暗表現と生命感にあふれ躍動する人体表現によって、北方バロック絵画の一頂点を築いた(1577-1640) 。
   
三度(みたび)聞く 
同じことを三度聞くとバカの仲間入り 
気づかずに間違うよりまし 
迷って間違うよりまし 
知ったかぶりして間違うよりまし 
バカになろう
   
菓子 
小学生だったか 
母に言われて  
茶会の菓子を買いに行く
  
新杵の菓子 
棚に並ぶ花の数々 
十個十種類花園になる 
きれい
 
 
包み開け  
亭主の母怒る 
困り果てながら盆に盛る 
客一人一人に無作法を詫びる 
きれい菓子盆 
桜色ひとつは僕のもの
  
丁寧語 
社会人  初めて営業に出る 
ですでございます連発 
面と向かって言葉をつなぐ難しさを知る
  
アポイント / お時間が頂ければ 
ご挨拶 / 時候 空模様 近況 景気 政治 業界事情 
本題 / 新商品 新技術 評判 評価 効果 使ってください 
念押し / 実績 他社での効果 サンプルテスト 見学の用意あり 
余った時間 / 先方の趣味に合わせる
 
帰りがけ / いつ頃のご計画か聞く 
注意 / 茶菓子の手のつけ方 喫煙 
いつの間にか身についた手順
  
随筆 
営業するにも小説片手に行った ( 出張以外ではカバンも手にしなかった ) 
カタログなど初手に持っていかなかった 
言葉で相手に興味を持たせることに 
プライドをかけた
  
年とともに小説は読まなくなった 
最後は新田次郎か 
随筆・エッセーが増えた
 
最初は山口瞳あたりか
  
石川淳「夷斎筆談」 
随筆の骨法は博く書をさがしてその抄をつくることにある 
室鳩巣「駿台雑話」松浦静山「甲子夜話」 
久世光彦「死のある風景」

 
2000/  
 
  
石川淳1 

 

(いしかわじゅん、明治32年-昭和62年 1899-1987) 日本の小説家・作家。東京府浅草生まれ。本名淳(きよし)。  
東京市浅草区福吉町1番地にて銀行家の斯波厚の次男として生まれる。祖父は漢学者の省斎石川介。厚は幕臣だった石川家から札差を営んでいた斯波家へ養子に入った人である。次男の淳は石川家を継ぐため15歳のころ養子に入った。旧制新堀小学校(現在の台東区立台東中学校)から旧制京華中学校(現在の京華高等学校)を経て、慶應義塾大学予科に入学するも中退し、1920年(大正9年)に東京外国語学校仏語科を卒業。中学時代、通学途上の電車中で、出勤する森鴎外の顔を見たという逸話がある。  
1921年(大正10年)7月から10月まで横須賀海軍砲術学校講師。1922年(大正11年)7月から1923年(大正12年)3月まで海軍軍令部に勤務。1923年9月から1924年(大正13年)3月まで慶應義塾にて仏語講師。この頃、いくつかの習作がある。1924年4月、旧制福岡高等学校(新制九州大学教養部の前身)の仏語講師として福岡に赴任。年俸は1600円(2006年の貨幣価値で800万円ほど)であった。  
教師時代の入学試験の作文の問題に「新聞紙」というタイトルがあり、その答案が文系の志願者はすべてがジャーナリズムとしての新聞について、理系の志願者はすべて用紙としての新聞の紙についての答案だったことに困惑したというものがある。このことをエッセイとして発表すると、作家花田清輝が、自分はそのときの受験生だったということを文章に書いている。  
1925年(大正14年)11月21日、文部省から派遣された法学博士・蜷川新の講演会がきっかけで学生運動が発生。石川は、この事件に関連して左翼学生に加担したとの理由で辞職を勧告され休職、1926年(大正15年)3月に正式に依願退職した。東京に戻った後は、アンドレ・ジッドの『背徳者』(L'Immoraliste)などの翻訳をおこなう。  
小説家としての再出発は、1935年(昭和10年)の『佳人』発表からである。1937年(昭和12年)、『普賢』で第4回芥川賞を受賞。その直後、1938年(昭和13年)の『文学界』1月号に発表した「マルスの歌」が発禁処分を受けたこともあって、戦時中は創作に制約を受け、森鴎外における史伝の意味を明らかにした『森鴎外』などの評論や、江戸文学の研究に没頭する。1945年5月、空爆により被災、千葉県船橋市に転居(のち1947年、世田谷区北沢一丁目に、1948年、世田谷区北沢二丁目に、1949年、港区芝高輪南町に、1953年、杉並区清水町に、1963年、渋谷区代々木上原に、1964年、渋谷区初台に、転居)。夏から秋にかけて北陸、近畿、四国を旅行。  
終戦後は旺盛な活動を始め、『焼跡のイエス』『処女懐胎』などの作品を発表。太宰治、織田作之助らとともに「無頼派」と呼ばれた。その後、安部公房に師事されるようになり、安部の作品集『壁』に序文を寄せている。その他にはエッセーも多く残した。1967年(昭和42年)、中国の文化大革命の際には三島由紀夫・川端康成・安部公房とともに共同声明「文化大革命に関し、学問芸術の自律性を擁護するアピール」を発表し、中国を批判した。大岡信・丸谷才一らとともに歌仙連句の興行をはじめ、現代文学における共同制作の追求もおこなった。  
石川の作品には、和漢洋にわたる学識を背景にした現代社会への批判精神があふれている。そこに、若いころにかかわったアナキズムの考え方がくわわり、一見奇想天外とも思える設定のなかに、「精神の運動」と評価されるダイナミズムをみることができる。1970年代に石川のブームが起き、以降は文庫本も次々に再刊されたのは、当時のラテンアメリカ文学のマジック・リアリズムとよばれた雰囲気と、石川の作品との間に流れる共通性が読者に感得されたことが、大きく貢献している。  
代表作に『紫苑物語』『至福千年』『狂風記』などがあり、中でも『狂風記』は多くの若者に支持され、ベストセラーとなった。晩年まで旺盛な活動を続け、『蛇の歌』連載中に死去した。  
全集は、筑摩書房で1961年からなど数度出され、1989年(平成元年)-1993年(平成4年)にかけ翻訳も入れ、最終版全19巻が刊行された。  
妻・石川活による回想録『晴のち曇、所により大雨回想の石川淳』(筑摩書房、1993年)がある。  
孫は探検家・写真家の石川直樹。  
1962年、芥川賞選考委員となり、10年間その任に留まり、1964年、太宰治賞選考委員、1973年、大佛次郎賞審査委員となった。  
1964年8月、ソビエト作家同盟の招待に訪ソし、ついで東ドイツ、チェコ、フランスに遊び、10月、帰国した。1975年3月から4月、訪中学術文化使節団に加わり、中国各地を歴訪した。1978年5月から6月、フランス、イタリア、オランダを旅行した。  
1963年、芸術院会員となった。 
  
石川淳2 

 

1899年3月7日、東京府浅草に、銀行家斯波厚の次男として生まれる。本名は淳きよし。厚は代々の幕臣だった石川家から札差をいとなんでいた斯波家へ養子にはいった人で、次男の淳は石川家をつぐために、近くに住む祖父母のもとで育てられた。祖父省斎石川釻太郎は昌平黌から和学講談所に移り、法制史を研究した儒学者で、幼い淳に論語の素読を授けた。  
1914年、15歳になった淳は正式に石川家の養子となる。朱子学的にいえば、本姓に復したわけである。  
1916年、慶応義塾文科に入学するが、半年で退学。1917年、東京外国語学校(現在の東京外語大)仏語部に入学。卒業後、日本銀行に勤めるが、すぐに退職。おそらく、親のコネではいったものの、帝大出が幅をきかせる役所のような雰囲気に嫌気がさしたのではないか。以後、語学力をいかして海軍省の嘱託などをつづける。今でいうフリーター暮らしであろう。1923年には、高等遊民のたまり場である本郷菊富士ホテルにうつり、山内義雄のほか、アナーキストらとも交友をふかめる。アナトール・フランスの『赤い百合』の翻訳を刊行。  
1924年、福岡高等学校に仏語講師として赴任するが、翌年、学生の政治活動を煽動したとして退職を勧告され、東京にもどる。この後、木賃宿や友人宅を転々としながら、アンドレ・ジッドの『法王庁の抜穴』、『背徳者』、モリエールの『ドン・ジュアン』、『人間ぎらい』、『タルチュフ』などを訳出。  
1935年、処女作「佳人」を発表。1937年、「普賢」で芥川賞をうける。37歳という、当時としては遅い受賞だった。同年、短編集『普賢』と『山桜』を刊行するが、翌年、「マルスの歌」で発禁処分をうける。  
1940年、最初の長編『白描』を刊行。この作品にはすでにスターリニズムに対する批判が見られる。翌年、鷗外批評に画期的な転換をもたらした『森鷗外』を刊行するが、言論統制がつよまり、「江戸への留学」を余儀なくされ、古典の現代語訳や子供向けの伝記を書く。1944年、代々の墓所が爆撃禍に遭うと、「せいせいした」と語ったと伝えられる。  
1945年の日本の敗戦とともに創作を再開する。「黄金伝説」が占領軍の検閲にあい、同作を表題とした短編集に収録できなくなるものの、「焼跡のイエス」、「処女懐胎」など、焼け跡闇市の風俗に朱子学の形而上学をかさねた短編を次々と発表。このころから安部公房が師事するようになり、1951年には安部の『壁』に序をあたえる。  
1957年、「紫苑物語」で芸術選奨文部大臣賞。『新釈古事記』を連載する一方、「修羅」、「八幡縁起」を書いて、日本国家の起源に迫る。また、アナーキストと交遊した青年時代を回顧した長編『白頭吟』を刊行。  
1961年、筑摩書房から『石川淳全集』の刊行がはじまり、芸術院賞をうける。  
1964年、中期を代表する傑作『荒魂』を刊行後、安部公房らとソ連、ヨーロッパを旅行。この時の旅日記は後に『西游日録』としてまとめられる。このころから、丸谷才一が師事するようになる。  
1967年、川端康成、三島由紀夫、安部公房と連名で、「中国文化大革命に関し、学問芸術の自律性を擁護するアピール」を発表。幕末の江戸にアナーキズムの夢をくりひろげた長編『至福千年』を刊行。  
1969年12月から1971年11月まで、朝日新聞で文芸時評を連載。従来の時評は小説に枠を限定し、その中でできるだけ多くの作品に言及するスタイルだったが、石川の時評はこれと思った一篇を深く論じ、さらに批評や学問研究にまで枠をひろげるという画期的なものだった。  
1975年、丸谷才一の求めにより「四畳半襖の下張」裁判に弁護側証人として出廷。言論弾圧の不当を訴える。1978年には岩波版『鷗外選集』(全21巻)を編集。翌年から岩波版『石川淳選集』(全17巻)の刊行がはじまる。  
1980年、『江戸文学掌記』と、10年をかけた巨編『狂風記』を刊行。『狂風記』はSF的趣向をとりいれた波乱万丈の長編で、石川の作品としては異例のベストセラーとなり、若い読者を獲得する。『江戸文学掌記』は翌年、讀売文学賞を受賞。1986年には、87歳にして典雅な恋愛小説『天門』を刊行。  
1987年12月、最後の長編『蛇の歌』を連載中に、肺癌のために88歳で死去。  
註  
本姓に復する / 江戸期の武士社会では、家門を維持するために、母系の縁者だろうと、異姓でまったく血縁関係のない者だろうと、養子にして家督相続させるということを普通におこなっていたが、本来の儒教、特に朱子学の見地からいえば、異姓養子は人倫にもとる所行だった。実際、一部の朱子学者は、養子にはいって姓のかわった入門希望者には、本姓に復することをもとめたほどである。石川淳が祖父から朱子学を授けられていたとすれば、両親のもとから離され、祖父の家を継がせられる(本姓にもどされる)ということに、なにがしかの重さを感じていたと見た方がいい。  
日本国家の起源 / 笠井潔は1980年代の伝奇小説は縄文人の末裔である山人と、弥生人の末裔である平地農耕民の対決という図式で書かれたが、その大本となったのは五木寛之の『日ノ影村の一族』だとしている(栗本慎一郎編『「狂気」はここにはじまる』所載「「輸入」された天皇制・国民国家」)。卓見であるが、五木寛之の四半世紀まえに、石川淳の「八幡縁起」があることを見落している。 
 
『夷斎筆談』『夷斎俚諺』解説 

 

「精神の運動」という言葉は、石川淳を論じようとする者にとって、躓きの石である。  
「精神の運動」は「精神の努力」、「精神のエネルギー」、「人間エネルギーの運動」等々と言い換えられるが、石川がエッセイで持ちだすお決まりの文句である。自作に言及する場合も例外ではない。心理ではなく、「精神の運動」を描くこと。あるいは、みずから「精神の運動」を遂行すること。石川の自作自解はこれに尽きる。  
従来の石川淳論は「精神の運動」にぶつかると、思考停止におちいるのが常だった。革命哲学だ、フランス象徴派だ、老荘思想だといったところで、「精神の運動」という語が出てくれば、そこでおしまいである。御本人がそういっているのだから、そうだろうというわけだ。  
「精神の運動」のなんたるかについても、これまでの論者は石川の自註の口真似をするだけだ。石川は「精神の運動」を語る際、物理学の用語を借りる。すべての属性を捨象した純粋空間を、純粋質点が、純粋運動するかのような書き方をする。障害物があったとしても、物理的障害にすぎないのだから、たたき破って運動をつづければよい。後には単純な曲線に還元された軌跡が墨痕黒々と残る、というように。  
革命哲学やフランス象徴派、老荘思想等々を持ちだす者も、なぜか「精神の運動」とのかかわりを問うたためしはない。「精神の運動」が遂行されるのは力学的な抽象空間なのだから、革命がどうの、ヴァレリーがこうのという話は引っかかりのつけようがないのだろう。かくて批評とは名ばかりの読書感想文が累々とつづく。  
 
わたしはここで、躓きの石と承知した上で、「精神の運動」を考えてみたい。  
『夷斎筆談』に「恋愛について」という章がある。和洋の色好みを例に引きながら、物理学の用語ではなく、モラリストの用語で精神と肉体と心理・心情の関係を語った珍しい文章である。  
石川の用語では、心理、心情、こころは同じものをさす。心理・心情・こころは「肉体に密着」しており、「「こころのうつろいというものは肉体エネルギーの微妙なる作用」」である。これに対して、精神は「「心理とまぎらわしくあつかわれた歴史」」をもっているが、「「すべての体内的なるものを、生理をも心情をも切断したところに顕現」」するといわれ、肉体に密着した心理・心情・こころと対立関係にあるとされる。精神が「「ひとたび天下を匡したとすれば、肉体はケジメを食わされ」」るが、「「肉体と心情の結託」」は恋愛という「「発明」」を使って、「「精神にたたかいを挑」」む。「「精神の支配」」からいえば、恋愛は「「肉体の叛逆」」であり、無視することはできない。というのも、「「生活の場に於て精神の運動に具体的意味をあたえる」」のは、「「肉体の力」」だからである。  
一見、キリスト教的な霊肉二元論に似ているが、エネルギーの視点から見ると、異なることがわかる。石川は『世説新語』から愛する女を看病して死んだ荀奉倩の挿話を引く。  
熱を病む女に身をちかづけたのはおろかであったとしても、心情はつねにかくのごとくおろかなものであり、それが惚れたということである。ここではエネルギーがみな熱になってしまったのだから、精神の運動はどこにもない。当人の身になれば、生活の意味をうしなったところに人生の真実をつかんだつもりでいたのかも知れない。この錯覚はけだし惑溺の骨頂である。……中略……惑溺の中に、いのちのはてに、肉体が死に於いてたおれた場所は揣らずも精神の領域の閾ぎわである。(「恋愛について」)  
キリスト教的な霊肉二元論では、霊魂と肉体とは永遠に相容れず、敵対するだけだが、石川における精神と肉体は、エネルギーという水準において接触し、交流している。荀奉倩は女に惑溺して、肉体エネルギーを心情的に燃焼し尽くしてしまった。つまり、熱にしてしまった。しかし、その熱は、惑溺に陥らなければ、「精神の運動」として実現されたかもしれないのである。  
「「精神のはたらきは元来肉体エネルギーを完全に生かしきるはずのもの」」とか、「「精神はエネルギーのつよいものなら何でも好物なのだから、恋愛とともに情痴をも併せ呑むことができる」」といわれることからも明らかなように、エネルギーとして統御される限りにおいて、肉体=心情は肯定されている。石川における精神は、肉体=心情のエネルギー乱流にわりつけられるもの、その方向を定めるものであって、「精神の運動」とは精神によって統御される運動の謂にほかならない。  
エネルギーという語を「気」に置き換えれば、これは朱子学の理気二元論そのままである。精神とは「性」であり、心情=肉体とは「人欲」である。石川は「性」による「人欲」の統御という朱子学の図式をなぞっているのだ。  
『夷斎筆談』から、さらに二例を引く。  
むかし、巖穴の士というものがあった。政治の場から離れて巖穴にこもる精神のエネルギーのことをいう。しかし、巖穴は必ずしも逃避の謂ではない。理想上、巖穴の士はその位置に於いてつねに権力を拒否し、その運動に於いてときに政治に干渉するものと解されている。たとえば、商山の四皓が漢の太子を援けたという伝説は運動に於ける巖穴のエネルギーの象徴であった。(「権力について」)  
精神の運動をおこすべき極の配置はつねに欲せられたもの、すなわち強制されたものである。この強制は精神のみずから課したもの、それを課することをみずから撰んだものにほかならない。すでに極に於いてこの仕掛があって、そこから努力がはじまる。精神の運動にとって、「自然」とは努力の持続のことをいう。持続の無いところに、仕事ができあがるということはない。(「仕事について」)  
第一例は仏教的な遁世を否定して知識人の責任をいい、第二例は老荘の視点からいえば、不自然の極みというしかない不断の刻苦勉励をいう。いずれも士大夫のあるべき姿であって、天からわりつけられた士大夫の「性」である。「性」を実現すべく、「気」(エネルギー)を統御することが、石川のいう「精神の運動」の初発のあり方なのである。  
 
石川は戯作者をもって任じ、経儒先生をからかい、老荘の徒であるかのようなことをしきりに書いているが、昌平黌の儒官だった祖父省斎に幼い頃から『論語』の素読を授けられ、後年の吉川幸次郎との対談でも縦横に章句を引いている。石川はあくまで儒で育った人であって、老荘の影など片鱗すらない。「精神の運動」概念の核にあるのは、治者としての責任を自覚し、刻苦勉励をかさねる士大夫の意識である。道家由来の「気」の宇宙論ははいっているが、あくまで朱子学の理気二元論の一部としてであって、「気」は「理」の統制下におかれている。  
朱子学は士大夫の日々の営みとして、「居敬」と「窮理」をいう。「居敬」とは精神を一点に集中させること、「窮理」とは書を読み、理を学んで、精神を高めていくことである。萩原延壽との対談で、石川は鷗外こそ朱子学的な士大夫像を体現していたと語っている。  
石川鷗外さんは信仰はありませんね。信仰にあたるようなものはぜんぜんないといっていいでしょう。  
萩原ところが、あの刻苦精励というものをみていると、どうも……  
石川たいへんな刻苦精励でね。あれが、つまり朱子学的刻苦精励ですよ。(「歴史・人間・藝術」)  
鷗外は死にいたるまで、読書人として、日々新たに生きつづけたが、荷風はそうではなかった。石川は荷風を敬愛していたが、その死にあたって、「敗荷落日」というはなはだ苛烈な追悼文を草した。晩年の荷風は読書を廃し、石川が嫌う惑溺に陥っていた。「面貌について」で、士大夫三日書を読まなければ面貌がにごると書いているが、偏奇館を焼けだされた後の荷風は、書を新たにもとめることをせず、大金を収めた鞄をかかえ、にごった面つきでストリップの楽屋に日参した。読書人としてあるまじき醜態である。石川の容赦ない弾劾は、読書人でありつづけられなかった荷風の老醜にむけられている。  
石川の見る孔子は、当然のことながら、老いてなお「精神の運動」をつづける理想の人格である。石川は理想をありがたそうに書くような野暮天ではないので、下世話にくずしているが、言わんとするところは明瞭である。  
論語憲問篇に、微生畝、孔子にむかっていう、おまえさん、なぜそうあたふたかけまわっているんだ、弁口ちゃらちゃら妄というやつじゃないかねと。孔子いう、佞とはちがうよ、固定をにくむからさと。(「仕事について」)  
「固」を「一つのことに固執する」ととる解釈もあるが、石川は「固定」、「停滞」の意にとっている。吉川幸次郎との対談(「中国古典と小説」)では、同じ章句を引き、「あれはぼくは『論語』の精神、孔子という人がよく出てると思う」と感想を述べている。停滞を嫌い、不断に新しいことに挑みつづける孔子を、石川は敬慕しているのである。  
この孔子像は、朱子学の教える孔子像そのものである。朱子はペシミスティックに解されてきた「逝く者はかくの如き夫、昼夜を舎てず」に、斬新な新解釈をくわえた。  
天地の化として、往く者は過ぎ、来る者はつ続ぎ、一息としてや停むことが無い。乃ち道の體の本然なのである。然しながら其のことの指し示すことができて見え易いかたちは、川の流れに如くものは莫い。故に此のことで発し、以て人に示してゐるのである。孔子は、学ぶ者をして何時も省察して毫髪の間断も無からしめようと欲しているのである。(『論語集註』小澤正明訳)  
伝統的な解釈の描いた孔子は、川のほとりで世の無常を嘆いていたが、朱子はそれを百八十度ひっくり返してみせた。ここに描かれた孔子は、生々流転する天地を肯定し、新しいものの出現に胸おどらせている。徂徠が罵倒したように、朱子の解釈はこじつけであるかもしれない。しかし、このオプティミズムが朱子の身上であり、石川はその思想圏で人となったのである。(注)  
 
従来の石川淳論が論の体をなさなかったのは、革命だ、老荘だ、象徴主義だという韜晦に目をくらまされ、骨の髄にまで撤していた朱子学を見逃したからである。馬琴のような付け焼き刃の朱子学ではない。石川は朱子学に骨がらみになっていたのだ。石川が朱子学に悪態の限りをつくすのは、拠るところがそれだけ深いからと考えた方がいい。  
私見によれば、石川の文学の課題は、骨がらみに埋めこまれた朱子学からいかにして自由になるかにあった。老荘に逃げるのではなく、朱子学を内側から食い破ること、ちょっと前の流行り言葉でいえば、朱子学を脱構築することである。石川の作品から朱子学をとりさってしまえば、後には抽象的な純粋空間が残り、格闘の跡が見えなくなる。  
小説において、石川がどこまでその課題を果たしたか、果たせなかったかは、別の本に示した(『石川淳コスモスの知慧』)。本稿ではエッセイについて見ている。  
先に引いた「恋愛について」で、石川は「肉体の内部にもまた分裂はある」と書いている。分裂とは心情と陽根の分裂である。「「恋愛生活にあっては、肉体が精神の支配にしたがわないように、陽根は心情の干渉をしりぞける」」というのだ。陽根が心情と敵対する場面があるのであれば、精神は陽根に加担することで、心情を打ちまかせることになる。ここから、朱子が目をまわすような論理が引きだされる。  
心情が一箇の女人にぞっこん打ちこむという仕打をして見せても、陽根エネルギーは必ずしも心情のおもむくところに集中しては行かない。情熱をみちびくものは精神である。精神の運動は波なのだから、蓋然的にしか一点にとどまらない。情熱もまた一物にのみ執著はしないだろう。情熱は過度でなくてはならぬとは、このことをいう。恋愛生活では、それが精神に依ってつらぬかれるかぎり、そして肉体がそこでくたばらないかぎり、情熱の過度はどうしても女人遍歴という形式をとらざることをえず、したがって有為の男子はどうしてもドン・ファンたらざることをえない。ドン・ファンのエネルギーは女人遍歴に於て集中するがゆえに、箇箇の女人については散乱することがないのだろう。(「恋愛について」)  
「性」によって「気」を方向づけ、統御するという理気二元論は、陽根にひっかかりをつけることで、修身というリゴリズムに向かうどころか、放縦の肯定へとずらされている。ここでは行為への集中が「居敬」であり、猟色を重ねることが「窮理」となる。ドン・ファンは士大夫なのである。  
さらに言えば、漢文をべらんめえ調にくずした文体自体、朱子学の脱構築といえないことはない。石川は夷斎ものにおいて、身に撤した朱子学を追い抜く瞬間をもちえたのである。  
注  
吉川幸次郎との対談において、石川は「「あの『逝』という字の本来の意味は、どっちです?」」と尋ね、吉川が物が「「失われていく、と同時に一刻一刻なにかを生んでいく、その両方に分類すればしうるものを、ただ逝く者は斯くの如しという、包括的なことばを投げつけたにすぎない」」という自説を披瀝すると、「「時間的に解釈すれば、それはもうなんでもないですね」」とあいづちを打っている。石川は新注・古注の双方に距離を置こうとしている。 
 
石川淳について 

 

石川淳という作家  
僕が今回発表対象として選んだ石川淳という人は、一八九九年に生まれ、一九八七年に亡くなった人です。つまり明治の世に生まれて、つい十四年ほど前までは、生きて、しかも現役で活躍していた作家ですが、いま現在、彼の著作はほとんど書店に並んでおりませんし、全く読まれていません。どうもはやくも文学史という檻の中にとじこめられちゃった感じです。よく彼の文学の特徴を言う時に、「高踏」、「韜晦」、「晦渋」などといった言葉が用いられ、「三拍子そろった文学である」などと言われます。また、仮に日本全国の近現代文学を専攻してらっしゃる研究者の方に「石川淳をどう思われますか」といった形で質問したとしても、おそらく困惑される方が多いと思うんですね。「あまり読んだ経験がない」とか「昔は読んだがもう忘れてしまった」とかいった返事がかえってくる事が多いと思われます。それは別に勉強不足という事ではなくて、この作家の特徴をあらわしていると思うんですね。「敬して遠ざく」なんて言葉がありますが、石川淳はたいへんな博識家で数多くの小説的実験をおこなった立派な作家である、といった認識は割と多くの人が持っていると思いますが、その裏でほとんど読まれないという現実がある訳です。それほど”難解”というイメージが定着してしまっている作家なんですね。じじつ、僕も彼の作品を読んでいて、難しいという印象を持つ事が多い訳ですが、それでも、難解ゆえに幾度も読み返すはりあいがあり、また、色んな読み方が可能でもあり、そこに正解がないという愉しさもある訳です。その他、石川淳という作家については、「無頼文学辞典」(東京堂出版)による紹介を資料の最後にのせておきましたので、参考にして下さい。  
石川淳の考え方  
石川淳の作品を読む時にあらかじめ注意しなくてはならない点がありまして、それは逆説的な言説がしばしば見られるという事なんですが、ここではこの点についていくつか例示しながら説明しようと思います。  
まず、「焼跡のイエス」(昭和二十一年)という作品があるんですが、この中で、(石川淳とおぼしき)「私」という人物が、戦争直後の時期に、江戸の儒学者太宰春台の墓におとずれるという件りがあります。「私」の目的は春台の墓にきざまれた服部南郭による墓碣銘の拓本(石碑などにきざまれた文字を墨で紙にうつし取る事。釣り人が魚拓を取るようなもの)を取りにゆく事です。ここで読者は江戸の漢学者の文章を拓本に取ってありがたがるという趣味人の姿を連想する訳ですが、こんな風に書いてあります。  
「拓本がとれたときには、それは亡びた世の、詩文の歴史の残欠となるだらう。仮寓の壁の破れをつくろうにはちょうどよい」  
わざわざ墓まで拓本を取りに行っておいて「仮寓の壁の破れをつくろうにはちょうどよい」とつけ足すところが石川淳らしい訳です。この人にはこういったとぼけた所があり逆説的表現になっている訳です。また、この「焼跡のイエス」の最後の所で、「私」が件の拓本を持って帰ろうとすると、ゴロツキの少年におそわれるという場面があります。そして「私」はやっつけられて、財布をとられてしまう訳です。こういった風に、石川淳の小説では「知性と野生」、「文化人と野人」といった対決の構図があった時に、必ず後者の方が勝つという法則がありまして、これは石川淳自体が最高の文化人であるにもかかわらず、そういう事になる、という逆説です。  
例えば、「知性対野生」という事を申しますと、「修羅」(昭和三十三年)という作品のさいごに、野盗の一味が関白のやしきに討ち入ってその書庫を燃やしてしまうという場面があり、非常に象徴的な訳です。そしてそのとき野盗の女親分はこう叫ぶのです。  
「げに、文反故の山にこそ悪鬼は棲む。今この悪鬼を討て。旧記秘巻、みなほろぼすべし。いうところの史書はことごとく投げ捨てよ。史を書kば、まさに今より書け。」  
こうして万巻の書物が炎上した後に物語は終わるのです。その他に、逆説的な表現という事を申しますと、「歌仙」(昭和二十七年)という作品がありまして、これは石川淳が一人で俳諧連歌をつくってゆくという物ですが、その中にこういう件りがあります。  
(前略)俳諧のことばは雅言ではない。市民のことばである。すなはち、俳諧の世界を支へてゐるものは市民の生活である。連歌形式に於てことばが堂上派のことばから市民のことばにまで發展して來たといふ結果は、社會構造の歴史に於て市民社會が不完全ながらも成立したといふ原因に對鷹してゐる。その江戸の社會とはあきらかに構造に於てちがふ今日の社曾では、ことばの存在条件もまたしたがって變化してゐるはずだらう。そのとき、俳諧のことばはどうなるか。なに、どうにもならない。今日のことばは容赦なく俳諧の連歌といふ形式を放棄して、詩一般に於て表現形式をもとめればよい。すると、わたしがここにおぼつかない手つきでみづから歌仙なんぞを作りこころみてゐるのは、どういふことになるのか。  
わざわざ俳諧の連歌という形式はすでに亡びたと論じておいて、自分は歌仙を巻いている訳です。このように敢えて自分で否定しておいた事を行うとか、矛盾する言葉を同時に使って容易に真意をあかさない姿勢が、「韜晦趣味」と言われるゆえんなのです。  
その他に逆説的な件りを挙げますとーこういう事をやっていてもほとんど枚挙にいとまがないんですがー「敗荷落日」という永井荷風に対する追悼文の中で、晩年の荷風がまったく本を読まなくなった事に言及してけしからんとやっつけている件りがあるんですが、突然次のような言葉が出てきます。  
「念のためにことわっておくが、わたしはひとが本を読まないことをいけないなんぞといってゐるのではない。反対に荷風が書を廃したけはいを遠望したとき、わたしはひいき目の買いかぶりに、これは一段と役者があがったかと錯覚しかけた。古書にも新刊にも、本がどうした。そんなものが何だ。くそを食らえ。こういふ見識には、わたしも賛成しないことはない。」  
こんな事を書かれると、一体本を読めと言っているのか、読むなと言っているのか、分かんなくなる訳です。  
いつもこういった形で逆説の上に立っているような作家なので、この人の書いている事を必ずしもまともに受け取っていては駄目でして、ちょっと疑ってみなくてはならないんですね。でも、論文などを読んでいますと、どう考えても逆説的な文脈なのにまともに受けとって「石川淳がここでこう書いているからこうなのである」などと書いている人もいます。おそらくそういう人はあまり通読するという事をしないで、拾い読みしてるからそんな問題が起こるのではないかと思うんですが、この作家の場合、特に気をつけないといけません。そしてそれが石川淳のスタイルであると理解していただきたい訳です。  
石川淳の文章  
これから幾つかの作品を例にとりながら、石川淳の文章の特徴、また、そのバリエーションの豊富さについて説明してゆきたいと思うのですが、その前に彼が文章をつくる時の”こころえ”のような物を一つ紹介しておきます。『狂歌百鬼夜狂』(昭和二十七年)という天明狂歌について語ったエッセイからですが・・・  
「ことばの操作についていへば、表現上の規定の中に流行を導入するために、雅言に俚言をまじへることは苦しからず。ただ技術的に重要なことは、昨日のことばに生命をあたへるやうに、また今日のことばに我儘をゆるさないやうに、雅言と俚言との緊張関係の上にあたらしい表現法を発見するといふことである」雅言と俚言。つまり雅語と俗語という事ですが(「俚言」は本来、「いなかことば」といった位の意味ですがここでは広く「俗語」を指すものと思われます)、彼の文章は雅俗が「緊張関係の上」で非常にうまくとけあってできているんですね。それで、まあ、実際に幾つかの作品を少し読んでみて、解説を加えてみます。  
ー「夷斎筆談・序」(昭和二十五年)−夷斎筆談、おのづから起こり、おのづから巳み、前後首尾をわかたず、春蠶腹中の絲、その巳むところよりまた起って盡くるところを知らざらんとす。しかれども、もとこれ稗官者流の饒舌にて、かの豊干饒舌のかりそめに天機を洩らせるには似ず、測の見、あるひは長安と日といづれが遠きかに拘わらざるがごときものあるべく、みづから揣らずして博雅の家に笑はれなん。鶴林玉露、解經不為煩辞のくだりに、六經の古註もまたみな簡潔にして煩辞をなさずといへり。余もとより煩辞を惡む。あに簡潔を好まざらんや。ただ世界は古來すでに六經の外にあり、文章は今日もはや三兩字をもつてよく意義燦然たらしむべき術なきをいかにせん。余のごときは戦戦兢兢つねに煩に處して簡を失はざらんことに努むるのみ。昭和辛卯十一月、夷斎學人敍  
石川淳の祖父は石川省斎という昌平コウの漢学者でして、つまり彼は漢学の家に生まれている訳です。ですから幼い頃から漢文の素毒、彼の言葉を使って言いますと”シツケ”を受けている訳です。だから彼自身”夷斎”と号して、小説家である前に漢学者なんですね。だからこういった江戸時代までの和漢の文芸伝統としての「表・論・記・序・跋」といった形式における短文、書き下し文ですね、これを沢山作っておりまして、僕のような無学な人間はこんな物読めないですから、辞書を幾度もひっくり返したりして、困る、わけです。  
それではいったいいま読んだこの言葉を何語と言うか、という問題がありまして、僕達は日常においてもうすでにこんな文章は書きませんから、日本語とは呼べない訳です。かといって当然中国語とは違いますから、古の日本語、「過去において日本語だった」というのが正しい訳です。こういう文章の特徴として極度に短いという面が挙げられる訳ですが、漢詩などでは四文字とか五文字とかいった中に相当な情報量がつめこめる訳でして、中国語における書きことば、そこから派生した日本語としての漢文訓読体、この二つは世界でもっとも緊密に洗練された表現形態であると言える訳です(まあ、あまり世界中の言葉に通暁している訳でもないので滅多な事は言えませんが)。いま説明したのが「簡潔にして煩辞をなさず」という件りです。  
あるいは、この文章のまん中あたりにポツンと「鶴林玉露」という言葉がでてきます。「鶴林玉露、解経ー不為煩辞のくだりに」とある訳ですが、この「鶴林玉露」が何をあらわすか、という事ですね。実はこれは宋の羅大経という人の随筆集のタイトルなんですが、ここで「鶴林玉露」という単語を使ってみたああところで昭和二十五年の読者が果たしてそんな物を読んでいるかという問題がある訳です。ポンと出てきても書名である事すら分からない読者の方が多いのではないか、と思うんですね。例えば石川淳の好きだった蜀山人大田南畝あたりならばこれを読んで「ああ、そんなのあったね、常識だよ」と言うかも知れませんが、昭和の読者、あるいは、いまの読者がこれを読んでもぴんとこないと思う訳です。つまり石川淳は昭和にあって、江戸時代の架空の読者にむかってこの文章を書いている事になります。  
だからこういった”漢文くずし”の短文はもはや誰も書けなくなり、読めなくなった、つまり「世界は古来すでに六経の外にあり、文章は今日もはや三両字をもってよく意義燦然たらしむべき術なきをいかにせん」という事になるんですが、石川淳という人はもう文学者としては時代遅れになっちゃった訳で、さてどうするべきか、となるんですね。そうなると、お家芸の書き下し文を離れて新しい文章を模索してゆくしか方法は無い訳でして、「つまり煩に処して簡を失はざらんことに努むるのみ」という部分を指している訳です。ここで注意したいのは、石川淳の作家としての出発点を示す作品に「佳人」や「普賢」といった物がある訳ですが、これらがすべて”饒舌体”と呼ばれる特殊な文体によって書かれているという事実なんですね。「煩」の文章をためしてゆくとき、まずはじめに饒舌体の文章にとりかかったと考える事ができる訳です。そしてそこから様々なバリエーションの文体を構築していった訳です。 
 
『コスモスの知慧』 

 

──どの花がお好きですか?  
──たとえば、コスモス。 
1  
石川淳の小説には「気」が氾濫している。「けはひ」「けしき」「氣合」といった漠然とした情趣をあらわす言葉はもとより、「いぶき」「ふぜい」「かをり」「いきほひ」「血氣」「殺氣」「元氣」「妖氣」「陰氣」「粛殺の氣」と「気」にかかわる語彙は枚挙にいとまがない。しかも、ただ頻用されるだけではなく、叙述のここぞという決め所は「……けはひであつた」、「……けしきであつた」のように、「気」にかかわる表現で押えられている。この偏愛は、もはや趣味の問題で片づけるわけにはいかない。ことは石川的叙述の本質にかかわる。  
しばらくして、もののうごきがしづまつて、蠟燭がまたともされたとき、二箇のはだかは下半身を毛布にうづめたままあふむけにならんで寢てゐた。ヒメはたばこのけむりを吐きあげて、げんになにほどのことがおこつたとも氣にとめないけはひであつた。(『狂風記』)  
そのひとの背はアディユともいはずにわたしのはうに向けられて、それはもう永劫に決してこちらへはふり返らないであらうけしきであつた。(「黃金傳說」)  
キューロットに長靴をはいたその脚のかたちはきりつとして男の子のやうであつたが、まつしろなレースの襟から拔けだした顔はゆたかに花の色をたたへた。さういつても、あらあらしい氣合である。(「鷹」)  
いずれの女主人公ものほほんと描写されるのを待っているような手合いではない。きつい香気をはなつ花々のように、生命力の発露そのものである「けはひ」「けしき」「氣合」を全身から発散させ、いまにも紙の中から飛びだしてきそうな力感にあふれている。彼女たちはなによりもまず、「けはひ」「けしき」「氣合」といった「気」を発出する主体としてあらわれる。石川の叙述では彼女たちがどんな顔をしているか、どんな服装をしているか、いや、どんな心理状態にあるかよりも、どんな「気」を発しているかの方に重点がおかれる。まるで、叙述の焦点は対象そのものではなく、そのやや手前、彼女たちの身体から放散してただよう「けはひ」「けしき」「氣合」に合わされているかのように。  
「気」を通して描かれるのは、個々の人物だけではない。人物と人物の関係もまた、「気」系の語彙によって叙述されるのだ。  
佐太は屋根のはうに氣をとられてゐたが、ひとのけはひにふつと風見の鳥から目をうつして、そこに照子を見た。ぢつと見たまま、ものもいはない。照子はまともに見かへして、無言でせせら笑つて、このあらくれ男のつらを草履で踏んづけるといふきあいであつた。(『荒魂』)  
「ぼくはあなたを愛してゐます」  
息のあへぎがそつくりでて、いつそあらあらしい聲であつた。貞子は垣根のそばに押しつけられたかたちで、足をとめたまま、何とも答へようとしなかつた。コ雄は狂ほしく光つた眼のいろではあつたが、指ひとつうごかさうとはしないで、ただうごくことを知らず、そこへ突つ立つてゐて、いつまでも立ちつくすけはひが强く迫つた。(「處女懷胎」)  
照子の意志、コ雄の欲望は抽象的なもの、内面的なものとしては書かれていない。それは「けはひ」「氣合」という具体的な力として佐太に、貞子に襲いかかる。彼らは獲物に手をのばすように、「気」を差しのばすのである。「氣合」「けはひ」という表現のほとんど触覚的な具体性は、彼らの意志、欲望に生理的な次元の存在性を獲得させているといってもいい。石川の叙述には、このように心理的であると同時に生理的でもある「気」が充満しているのだ。そして、先回りしていっておけば、そのような「気」を発する主体としての石川的人物は、意識の水準だけではなく、身体性の水準でも照明を受けることになる。  
もちろん、「気」にかかわる表現は石川の発明ではないし、「気」の心身両面性も石川の叙述だけに見られる特徴ではない。「気勢を上げる」「気が進む」「気落ちがする」「気がくさる」「気が重い」「気がねする」等々、日常語には「気」をめぐるおびただしい言いまわしがあり、そのどれもが心身両面にわたる意味の広がりを有している。  
日常語の「気」系の言いまわしについて先駆的な解明をおこなった木村敏は、次のように述べている。  
気はもちろん身体を離れては考えられず、精神や心のように身体と対立的に考えられたものではなくて、あくまで身体の状態と一体になって変化するものである。身体の調子のよい時には、周囲の様子とはあまり関係なく気が軽く、気が浮き浮きして、何事につけても気が進み、気乗りがするものであるのに反して、身体の不調なときは賑やかな集まりの中でも気が重く、気が沈み勝ちとなり、気が引きたたない。(中略)このような意味での気は、もちろん各人に固有な個別的現象であるけれども、こういった場合でも、気の浮き浮きしている人のそばにいると自分まで気が軽くなり、気の沈んだ人の前では自分の気までくさってくるというように、気はいつの場合にも、自分と他人とを一つの共通の場所で気持ちを通じさせる媒体としての働きをもっている。(『自覚の精神病理』)  
実際、「気まずい思いをする」という時、表情にこそあらわさなくともわたしの身体は「気まずい」構えをとっているわけだし、また「気まずい」のは一人わたしだけではなく、その場のみなが「気まずい」思いを共有し、さらに言えば、その場の雰囲気自体が「気まずい」色に染められているわけであろう。「気」にかかわる言いまわしは、心身相関的な広がりだけでなく、個人心理をこえた外部的・普遍的な広がりをもそなえているのである。  
木村はこのような両方向への広がりの起源を、「気」が本来もっていた太古的な宇宙論的性格に求めている。知られるとおり、「気」は道家学派を中心に育まれた哲学概念であり、中国の伝統的な宇宙論では森羅万象の根源と考えられていた。後に朱熹の体系に多大の影響をあたえる『淮南子』は、宇宙の生成をこう記述している。  
道の元始たるや、虛霩が生まれた。その虛霩に宇宙が生まれ、その宇宙に元気が生じ、その元気に重層のさかい目がたった。  
澄みかがやけるものは、高くたなびいて天空となり、濁りしずもるものは、凝滞って大地となった。C妙たるものの集合するは、たやすく、重濁するものの凝固するは、困難。さてこそ天がまず完成し、地はおくれて成った。  
天と地との焔Cは重合して陰陽をつくり、陰と陽との二焔Cは団集して四時をつくり、四時それぞれの焔Cが散布して万物をつくった。(『淮南子』天文訓戸川芳郎訳)  
万物には、もちろん、人間も含まれる。人間は天地の「気」を受けて化生し(「「天の気が魂となり、地の気が魄となる」」(『淮南子』精神訓)、行住座臥天地に瀰漫する「気」を呼吸によってとりいれながら、「気」の海である天地の間を生きる。「気」は森羅万象を形成もすれば、賦活もする生命的実体として考えられていたのである。  
論旨の関係上木村はそこまで言っていないが、日常語における「気」系の表現は、こうした宇宙論的性格を非個人性・偏在性として受けつぐ反面、生命的実体としての性格をほとんど失ってしまったのではないだろうか。なるほど、「気が重い」「気がとがめる」「気がたつ」など、「気」を主格にたてた表現では、わたし自身の意識が重くなったり、疚しくなったり、波だったりするというよりも、その場の「気」が重くなったり、疚しくなったり、波だったりする影響をこちらの意識がこうむるという意味あいが強い。その限りでは、「気」は木村の指摘するとおり、非人称主語に相当すべき超個人的な主体であるだろう(木村は暗に西田哲学の用語を用いて「気の場所」といっている)。だが、それは逆にいえば、「気」が対象として措定できる存在ではなくなったことを意味する。日常語における「気」は、もはや実質的な存在性をうしなって、「こと」や「もの」と同列の形式名詞になったのである。「気がめいる」時の「気」も、「気がはやる」「気が晴れる」時の「気」も等しく「気」とだけいわれること、つまりは前後の語にまったく依存するところまで無内容化していることは、その証左といえるはずだ。現代日本語の「気」は、ドイツ語のEsや英語のitほどではないにしろ、相関物の存在を問題にされない程度には形骸化しているのである。  
石川における「気」系の表現は、こうした日常語的な「気」の言いまわしの地層を突きぬけて、中国的宇宙論の「気」概念に直接汲んでいる。「明月珠」の主人公である老書生は、早朝の空き地でおこなう深呼吸の功徳を、どうかの語彙をそのまま借りてこう報告している。  
そのとき、明けはなれようするかなたの空から、風ともつかず光ともつかず、、白、赤、三絛の氣がもつれながら宙を飛び走つて來て、あたかもたれかが狙ひすまして虹の絲を投げてよこしたやうに口中にすいすいと流れこみ、つめたく舌にしみ咽喉に徹るとともに、體內にはかに涼しく、そこに潛んでゐたもやもやが足の裏から洩れ散つて行く。すなはち、仙術に謂ふところの太素內景の法である。(「明月珠」)  
「もやもやが足の裏から洩れ散つて行く」というくだりは『荘子』の「「眞人の息は踵を以ってす」」(「大宗師篇」)を踏まえるが、もちろん、この一致だけで石川の「気」が中国的宇宙論における「気」に直結すると断定することは出来ない。第一、この「明月珠」という短編は仙人譚のパロディとして仕立てられており、にわか仙人を気取る主人公は雲ならぬ自転車をあやつることさえおぼつかず、『荘子』の引用は誇張法とも受けとれるからだ。  
しかし、「気」を「、白、赤、三絛の氣」と名ざした箇所は、単なる誇張法として読みすごすわけにはいかない。ここには、日常語の「気」とは別次元の「気」が片鱗を見せているからだ。すなわち、それと特定することができる実質的な存在性をそなえた実名詞としての「気」である。  
そもそも、「けはひ」「けしき」「氣合」等々と千変万化すること自体、石川の叙述における「気」が形式名詞ではありえず、実名詞であることを示すものだ。「處女懐胎」とのクライマックスでは、「気」の諸相は次のように区別されている。  
貞子は突然いそぎ足に門の中に驅け入らうとした。もう葉のいろから拔け出して、あからさまな日の下に、まつしろな裳をひらひらさせて、風ににほふほどに、つと驅け出して行くのが、さすがに若い娘の、いろつぽいふぜいでもあり、しかしまた永遠の旅人なんぞの、かりにくぐつた門の內、家の中にはとどまらないで、そこを突きぬけて、もつとさきの、遠いはるかな道のはうに走りつづけてゆくといふけはひでもあつた。とたんにコ雄は猛烈ないきほひでほとど血相かへて、あとから走りかけた。(「處女懷胎」)  
間近に見る肉的な貞子のうしろ姿は「いろつぽいふぜい」と言われ、彼方をさらに彼方へ駈けさろうとする霊的な彼女は「遠いはるかな道のはうに走りつづけてゆくといふけはひ」、必死に追いすがろうとするコ雄の地上的な執念は「猛烈ないきほひ」と言われている。「ふぜい」「けはひ」「いきほひ」──さわれば手ごたえがありそうなこの三態の「気」の形姿を書きわけることによって、世俗的なもの、天上的なもの、肉欲的なものという女性の音域があますところなく照明されている。そして、このように「気」の様態を描きわける文体が、「處女懐胎」という霊的なものと肉的なものの相互浸透を暗示する題名を冠された作品の主題と密接な関係にあることは見やすい。  
孟軻はこういっている。  
君子の性とする所は、仁義禮智にして心に根ざす。其の色かおいろに生ずるや、卒然として面に見あらわれ、背に盎あふれ、四體に施ながれ、言ものいはざるも喩さとる。(『孟子』盡心章句上)  
近代的解釈をとる岩波文庫版『孟子』は、「盎於背」を「背にあらわれ」と読むが、ここでは「盎、豐厚盁溢之意」と注する朱熹にしたがって、「あふれる」と読んでおきたい。「卒然」は、やはり朱注にしたがえば、「清和潤澤之貌」、清々しく和やかでうるおいのある顔立ち。君子は仁義礼智をその本分とするが、この四徳を十分涵養すれば、生命力は充実しておのずから面ざしにあらわれ、背に汪溢し、四肢にみなぎって、何も言わずともこの人こそまことの君子と誰にでもわかる、というわけである。  
ここには孟軻独特の生命論的形而上学の一端が見やすい形で語られている。四徳の涵養という倫理上の目標は、近代的な思考が考えがちなように純精神的な問題に局限されることなく、「気」という地平において身体的領域へ、さらには宇宙論的領域へとおしひろげられていくのである。いわゆる「浩然の氣」の説も、この延長線上にある。  
我善く吾が浩然の氣を養ふ。敢えて問ふ。何をか浩然の氣と謂ふ。曰く、言ひ難し。その氣たるや、至大至剛。直を以て養ひ害そこのふことなければ、則ち天地の間に塞みつ。その氣たるや、義と道とに配す、是れ義に集あひて生ずる所の者にして、襲ひて取れるに非ざるなり。行ひ心に慊こころよからざることあれば、則ち餒うふ。(『孟子』公孫丑章句上)  
朱熹は「氣、即所謂體之充者」と注し、「餒ふ」についても、「餒、飢乏而氣不充體也」と、徹底徹尾、身体性の次元で釈義している。しかも、浩然の気は「至大至剛」であるがゆえに、そのまま「天地の正氣」だと言われる。倫理的理想の実現に邁進することによって充実した生命力は浩然の気として全身からあふれだし、天地に充満し、宇宙に遍在する根源的な生命力と貫通する。だが、心に疚しいところがあれば生命力はとどこおり、気は萎縮して自分一個の肉体をさえ満たすことができない。「蓋天地之正氣而人得以生者」とするところに、人間的秩序と宇宙的秩序を一つかみに把握する朱熹の面目は躍如としている。倫理性の基礎づけを目指す点、あくまで儒家であるが、このような思弁自体はすぐれて道家的だと言わなければならない。事実、朱熹の体系は邵康節を代表とする宋代道家の圧倒的影響下で形成されたが、近年の研究によれば、孟軻の思想自体、彼が斉で接した陰陽家に影響されるところが大であったという。  
石川の叙述における「気」系の表現が、このような伝統に竿さすことは明らかだろう。たとえば、「気」につらなる名詞こそ用いられていないが、以下で語られているのは、まぎれもなく主体の生命の発露としての「気」にほかならない。  
ふりあふぐと、しかし、ハンモックは半月なりに中空にかかつて、そこに宙釣になつて足をぶらぶらさせてゐる少女の、キューロットにぴつたり合つた長靴が蒼ずむまでにあやしく光つた。長靴の艶は內側からみがき拔かれたふぜいで、そこに少女の皮膚がにほひ出てゐるやうであつた。(「鷹」)  
久しぶりに見る夫人の顔は見ちがへるほどKく、田園の日ざしの烈しさが頬にほてつてゐる。その頬には肉が硬く張りきつて、畑のほこりがうすく燒きつけられてゐるが、しかし磨き拔かれた生地の肌の色艶は、うはべの日燒けを透かして一そうごまかしなく、光り出したかのやうである。(「雪のはて」)  
「光る」「みがき拔く」「光り出す」という視覚にかかわる動詞と、「にほふ」という嗅覚にかかわる動詞が交錯して使われている。五官の交錯は日本の近代作家の文体にあってめずらしい技法ではないが、石川的叙述の場合、「気」という座標軸が一本とおっているために、単なる譬喩表現をこえた厚み、広がりを生みだしている。  
岩波古語辞典の「にほひ」の項は、次のような目ざましい語源説をしるしている。  
にほひ《ニは丹で赤色の土、転じて、赤色。ホ(秀)はぬきんでてあらわれているところ。赤く色が浮き出るのが原義。転じて、ものの香りがほのぼのと立つ意。》  
同書の四段活用動詞「にほひ」の項では、語義として六項目を立てるが、嗅覚的な「匂ふ」はようやく第五項として掲げられているにすぎない。すなわち、「にほふ」の原義は視覚的に浮きでる事態をさし、嗅覚にかかわる用法の方が実は隠喩法だったのである。「気」にかかわる表現同様、石川の叙述における「にほふ」もまた転義の歴史を遡行することによって、語の歴史的な厚みをそっくりかかえこんでいるのである。  
さらに言えば、「みがき拔く」「光り出す」が単なる「みがく」でも「光る」でもなく、「みがき(拔く)」「光り(出す)」のように、持続の相、生成の相をふくんだ複合動詞で用いられている点も見すごせない。「にほふ」(「「丹秀ふ」」)は、「にほひ出す」とするまでもなく、そもそもから発出、発現する動勢をはらんでいたが、「みがく」「光る」の場合、「拔く」「出す」と複合することで、生命力の不断の湧出、発散という「気」の様相を点出するにふさわしい表現にきたえあげられたのである。まことに石川淳の文章は実体としての「気」を中心軸に展開されていると言わなければならない。 
2  
では、実体としての「気」を叙述の中心とすることによって、何が可能になったのだろうか?どんな地平が開かれたのだろうか?この問題について、おおよそ三つの視角から見ていきたい。  
第一は身体の析出という視角である。  
形式名詞としての「気」、「気に病む」「気がかり」「気がせく」等と言われる時の「気」の表現は、焦点を意識と身体の相関面にあわせている。気が病んだり、気がかりだったり、気がせいたりするのは、後で立ちいって見るように、身体から働きかけられた意識にほかならない。身体は自分の身体でありながら、漠然とした主客分明ならぬ「気」と連続することによって、他者や環界からの諸々の力の作用を意識に一方的におよぼすのである。「気」は確かに力として作用するが、しかし、それは不透明な身体というベールの向こう側に隠された何ものかなのである。  
だが、実名詞としての「気」の場合は、大きく事情が異なる。具体的な力として特定できる「気」、そのつど「けはひ」「けしき」「氣合」と千変万化する「気」は、発するのも感受するのも具体的な身体でなければならない。意識の底に沈澱していた暗い身体はここにはっきりと浮上し、主題化される。表現の焦点は心身相関面から身体そのものへと移され、能動・受動の両面で他者や環界と連動する主体としての身体が前面に踊り出る。そこから、次のような魅惑的な光景が出現する。  
軒にはためいて、近くに雷が落ちた。一しきり雨の音が强くなり、やがてそれが次第にゆるやかになり、立ち消えて行くと、たちまち雲からはじけ出た空に赫と湧きひろがる日の光が硝子戶いちめんに照りつけて來て、もう廊下はまばゆい正午であつた。光は烈しく室內に突き入り、殘酷に薄墨の影を切り裂き、牡丹圖も櫻の板も彫刀も、可憐な意志も、小さい身がまへも、すべてが明るい波になぶられ、きらめく塵の中に浮きたつて、くらくらとした少年の體はつい廊下に泳ぎ出てゐた。金吾は硝子戶をあけ放つて、大きく胸を張つて呼吸し、ちょつと籘椅子に腰かけたが、すぐ立つて歩きはじめた。今は何をするよりもかうしてゐる自分がいらだたしいほど愉しかつた。(『白描』)  
「明るい波」「きらめく塵」は金吾を、そしてわれわれを酔わせる。たっぷりとした「気」の浮きたつような律動は「可憐な意志」「小さい身がまへ」と呼ばれる身体のつかえをときほぐし、とろかしていく。金吾の身体が大きくゆらぐとき、われわれの身体も素描的に大きくゆらいで、何か大きなもの、明暗の鼓動にかよう輝かしい「気」の動きを感得する。そして、「浮きたつ」「泳ぎ出る」という諷喩的な所作は、「明るい波」という主導的なイメージを装飾音のように横切り、身体に水の量感を甦らせる。「気」の手ごたえは水の抵抗感との類比で感受されるのである。  
「身体は、心臓が生体に栄養をおくり賦活するように、世界を生気づけている」という意味のことをいった人があるが、実にこの光景の瑞々しさは金吾の身体感覚の新鮮さから発している。対象を実体的な「気」としてとらえるとは、皮膚感覚、運動感覚、筋肉感覚、内臓感覚といった広義の触覚を全開した身体で、つまりは全身でとらえることに外ならない。  
敬子はテラスの端に出て、背を向けて立つた。今、やうやくおとろへかけた日ざしは茂みにしづもり、雲の低い沖から吹きつける風に追はれて、鳶色の影が乾いた芝生に這ひのぼつて來た。そして、今まで吸ひこんだ晝の光線をほのかに吐き出してゐる衣裳の白さに、その短い裾のはためきに、肌とおなじ色にぴつたり貼りついた靴下のなめらかさに、もう少女ではなく、みごとな成熟にはじけ出ようとするところの、女の肉體が切實に息づいてゐた。(『白描』)  
敬子は、そして敬子の衣装は、ようやくほてりのさめかけた黄昏の気を呼吸している。しだいに濃くなっていく暮色の中で彼女の身体は白くほのかに浮きたち、場にみなぎる「気」の律動はこの情景を不思議になまめかしく、肉感的なものにしている。実体としての「気」の主題化は身体の主題化と表裏の関係にある。「気」の現存がくっきりと夢見られるとすれば、それはまた、その「気」を呼吸し享楽する身体がくっきりと夢見られるということでもある。  
第二はアニミスティックな空間の発見という視角である。  
先に見たように、中国的な宇宙論における「気」は森羅万象を生成するとともに、不断に万物を賦活し、生気づけるような生命的実体であった。石川における「気」系の表現は、このような反近代的・太古的な「気」の相貌を全面的に継承している。石川の叙述では「気」を呼吸することによって、あらゆる物体が生気を受け、躍動しはじめるのだ。右に引いたくだりでも、「今まで吸ひこんだ晝の光線をほのかに吐き出」すことで、敬子の白い衣装はそれ自体の生命を帯びはじめていたが、『白頭吟』冒頭に語られる白い障子は、やはり暮れなずむ「気」の中で呼吸することによって、今にも笑いはじけそうな稚気を放っている。  
あたらしい障子の、太い棧いつぱいにぴんと張つた紙が、一日ぢゆうたつぷり吸ひこんだ晩秋の日の火照りをたたへて、夕ぐれにも白く光つた。庭から見ると、綠をめぐつて締めきつた障子の內部には、ほどなく夜のあかるい燈を待つまでのあひだ、ひとが笑をこらへてかくれてゐるやうであつた。(『白頭吟』)  
石川の叙述に照明されると、ただの障子さえ人肌のぬくみを帯びる。もちろん、世の中にはこうした措辞を単なる擬人法と分類して事おわれりとする人もいるかもしれない。しかし、「紫苑物語」に登場する矢は生物/無生物のどちらなのだろうか。  
この日の唯一の獲物であつた小狐も、二人の雜色も、むくろは地に置き捨てさせて來たが、すべてそのけしきは目にのこらない。谷川のせせらぎもここまではきこえない。ただ煮にあるかぎりの矢が突然ことごとく血を欲して、ひそかにうなりをたて、あるじの手を待ちかねてゐるやうであつた。まさに必殺の矢の氣合とききなされた。(「紫苑物語」)  
すでに気合を発し、持ち主をせきたてる矢であれば、この矢が獲物を追って稲妻のかたちに飛んだとしても奇異に思うはずもない。「気」の充溢する石川的空間では、「気」にあづかる限りのものはすべて生き物なのである。矢だけではなく、弓も。そして、自らの用を知って「おのづから流れ出る」と云われる「八幡縁起」の器、『荒魂』の百発百中のガン、「片しぐれ」の持ち主の指を追いかける指輪や金を吸いこむ高利貸しの金庫等々、枚挙にいとまがない(この点については後でさらにふれよう)。しかし、生命を帯びた道具の活躍となれば、『狂風記』にとどめをさす。ここには自動車、猟銃をはじめとして、傘、マント、ペン、シャベル、車椅子と、おびただしい道具=生物が登場し、人間にまじっててんやわんやの大騒動をくりひろげる。ヒメも言っているではないか。「使ひこんだ道具なら、よく主人の氣を知つて、そのくらゐのはたらきは見せもするでせうよ」と。  
けれども、アニミスティックな空間がその全貌を明らかにするのは、道具のような人工物ではなく自然物、それも大地が人間の言葉を受けて動きだす時である。王位を纂奪した巫祝、荒玉の祀りにこたえて、地形は盛りあがり、丘となって生長をはじめる。  
七日めに、丘はすでに小山と見えた。成長は日ごと夜ごとにやまない。若竹のやうにぐんぐん伸びあがつて、そのいきほひは次第に揩キばかり。すさまじいまでのけしきを空に切りひらいて行つた。三七二十一日めには、それはまさに山であつた。(「八幡綠起」)  
「丘」は「小山」「山」と単純に伸びあがっていくのではない。「丘」から「小山」、「小山」から「山」と、有形名詞から有形名詞へ移行するのに、「いきほひ」「けしき」という「気」系の語彙を経由している。「小山」は「いきほひ」となることによって、「山」となるのだ。これら無定形な力動を指さす語をくぐることによって、山の生長は見えない次元にまでその奥行きを拡大する。ぐんぐん伸びていくのはただの土くれではなく、「山」という言葉に導かれた大地のエネルギーだという印象は決定的なものとなる。  
こうしてまさに意志あり生命ある神山が誕生するが、忘れてならないのは、この山は荒玉という人間の言葉に感応して盛りあがったということだ。  
「山を討つには山、~をおさへるには~ぢや。われらの~、今あらたにこの國土に立つて、山のいただきは天にもそびえたぞ。」(「八幡綠起」)  
道具とその持ち主との「気」の結びつきは先に見たとおりだが、無生物は勝手に生動するのではなく、意志的なものの呼びかけ、語りによって、はじめて生きはじめ、動きだすのである。つまり、アニミスティックとは言い条、石川の叙述は決して怪力乱神を語っているわけではない。遍満する「気」の海に浮遊しながら、人は物に感じ物は人に感ずる。どのような不思議が現じられようとも、そもは明晰な言葉の所産であって、自然の勝手にゆだねられているわけでもなければ、超自然的なもの、超人間的なものが介入しているわけでもない。宗ョの弓、ハンタや安樹のガンが百発百中なのは、彼らの意志がタマや矢にまっすぐ伝わったからにすぎない。「気」への遡行という一事を別にすれば、どこにも非合理なもの、人間的秩序を超えたもののつけいる隙はないのだ。  
この国の文学の伝統に照らすなら、これは異例のことである。石川の小説の超現実性はしばしば「雨月物語」や泉鏡花の一連の怪談を引きあいに語られるが、「雨月物語」の怪異も鏡花の幻想も、ともに非合理なものの形象化であり、情や執着、妄執といった人間性の暗黒面に根ざしている。宮木は、なるほど貞女の鑑ではあるが、勝四郎の前に亡霊としてあらわれたのは狂おしい愛執に衝きうごかされたからである。勝四郎の側にも後ろめたさがあって、われわれは彼の後ろめたさを共有するからこそ、宮木の幻を受けいれ、陶酔の瞬間を持つのだ。「雨月物語」の妖異の花は、捨てられたものの怨念と、捨てたものの罪責感に深々と根をおろしていたのである。また、詳しく立ちいることはしないが、鏡花の奇想にリァリティをあたえているのも、知らぬうちに禁忌を犯したのではないかという不安の感覚であって、「高野聖」の禽獣に変えられた男たちの姿にリァリティがあるのは、そうした禁じられた衝動への訴えかけがあるからにほかならない。  
これは「雨月物語」や鏡花に限らない。この国の文学の伝統に流れつづけてきた幻想の水脈は、「源氏物語」から「遠野物語」にいたるまで、禁圧されたもの、意志の力ではどうにもならぬものを水源に、禁忌侵犯のあやうさと魅惑とを二つながら滾々と湧出させてきたのである。  
石川の場合は対蹠的である。邪しまな情慾をいだいたために、あさましい姿に落された「高野聖」の男たちを笑いのめすように、石川的叙述に登場する凶暴な少女たちは鷹に、蝶に、カラスに、いとも身軽に、喜々として変身する。変えられたのでも、変わってしまったのでもない。かくなりたいと望んだからかく変じただけの話だ。小狐が乙女に化け、弓に変身するのと、大地が丘となって山と伸びあがるのとどこに違いがあるだろう。  
われわれはここで、第三の視角、生命力の肯定から石川の小説を語らなければならない。  
生命的実体としての「気」を叙述の中心軸にすえることは、同時に生命力を全面的に肯定することを意味する。「気」の遍満するアニミスティックな空間を、「気」を不断に呼吸する身体的存在として動きまわる石川淳的人物は、一挙手一投足に、生命は善である、欲望は正しいと宣言しているのである。「気」を主題化するとは、生命力を主題化することにほかならない。「気」を描くとは、変貌しようとする意志、変貌しつつある意志を描くことなのである。石川の叙述にあっては、意志=生命力の強度が第一の問題であって、一般的な小説で重視される世態、人情、思想にかかわる価値判断はすべてひとまず白紙にもどされる。この切断によって別天地が切りひらかれているからこそ、強大な生命力を体現すれば醜よく美に変ずるのである。たとえば、「紫苑物語」のうつろ姫はこう描かれている。  
燃えるばかりの燭の光の中に、宗ョはこの一年のあひだ見ることをおこたつた姬のはだか身を一目で隈なくそこに見た。これが姬か。たしかに姬ではあつた。みにくい顔はあくまでもみにくく、赤Kい肌はあくまでも赤Kく、みだらの性はあくまでもみだらのままに、しかしこの煮にあるかぎりのほとんどすべての男の燕ェを三百六十五夜手あたりにむさぼり食らひ、存分に食らひふとり、搨キの絕頂、みがきぬかれ、照り出されて、みごとにうつくしい全體がそこにあつた。(「紫苑物語」)  
善悪もまたそうだ。宗ョの支配する時空では、通常の意味での善悪の秩序は遮断されている。彼は乱心悪行のかぎりをつくし、ゆえなく屍の山をきづいて領国中をおそれおののかせるが、「守は朝ごとに陽根をふるひおこして、さはやかに打つて出られます」と感嘆される意志=生命力の前では、「ひとびと、これを荒ぶる神の憤怒とあふいで、ただ畏れ、をののき、この世をば死の世と觀念するばかり」なのである。  
興味深いのは、滑稽な副旋律をかなでる藤内という脇役である。彼は目代として、宗ョの下で諸事一切をとりしきるが、ひそかに国守の地位をねらい、権門の娘であるうつろ姫の夫の座にすわろうと画策してる。ところが、この男、野心だけは一人前だが、男として用をなさず(「「このちび筆をもつて、ほかならぬ姫のお相手に、戀の手習がかなひませうか」」)、練りに練ったはずの謀事を実行にうつすことができない。ここに変事がおこる。宗ョの出奔とともに、役に立つはずのないものが役に立ったのだ。姫と契をむすんだ藤内は勇躍一味の者を呼びあつめ、檄をとばす。「威令おもおもしく、貫禄おづからあらはれて、つねの藤内とは見えなかつた。意外な閨の上首尾よりも、このはうが不思議のやうであつた」云々。  
見られる通り、藤内に主人としての権威をあたえたのは身体的な充実である。生命力を全面的に肯定するとは、身体の存在を全面的に引き受けることを意味する。もはや身体は精神とは別のものではなく、否定されることも、ことさら称揚されることもない。否定されたり、称揚されたりする身体は精神と対立的に立てられた身体だからである(「肉体」派や、三島由紀夫における身体がそうである)。「気」の海においては、身体はそのまま精神であり、意志は「気」の動勢として現実化される。孟軻もいう通り、精神の様態は「卒然として面に見われ、背に溢れ、四体に流れ、物言はざるも人自ずから喩る」ということになる。石川の小説でおなじみの巨根の系譜はここに淵源する。巨大な力=意志を持つ者は巨大な器官をそなえているというわけである。この系譜につらなる一人である『荒魂』の潮弘方は一度は無力感に崩れかけるが、クーデタにかけた思いを梃子に、次のように甦る。  
耳に鳴る歌聲にさからひ、鈴の音を振りはらつて、腰をのばし、胸をそらし、肩を張つて、老人……いや、老人どころか、一瞬に跳ねおきて、顔の皺はすでに消え、色艶にくいほどわかやいで、白髮きらきらと太く、つねよりも一きわ血氣に燃える潮弘方がそこに立ちはだかつた。ぶるつと一ふるひすれば、著たものはおのづから脱げ落ちて、新聞週刊誌の寫眞のごとき見てくれのポーズではなく、あからさまの筋骨は壯者をしのぎ、肉づきあくまでもたくましく、踏ん張つた兩足のあひだに、陽根は鬪志にふくらんで空ざまにうそぶいた。(『荒魂』)  
まことに潮弘方は「潮」のように引いては満ちる生命の振幅を体現する人物であった。石川はどこかで、心理描写を「心理的大福帳の帳尻合はせ」と斥け、人物を「一箇の物體」として記述すべしと語っていたが、潮のみならず、石川的人物はすべて「気」の水準で生命力の進退消長を観測され、記録されているのである。 
3  
おそらく、石川のこのような「気」の経験の対蹠点に、志賀直哉の「気分」の経験がある。  
「気分」の経験とは、次のようなものだ。  
濕氣の烈しい、うつたうしい氣候から來る不機嫌には私は中々打ち克てなかつた。そして其不機嫌は多くの場合他人に對する不快と一獅ノなつて私を苦しめるのが常であつた。私は其頃祖母に對して何となく不快でならなかつた。私に對して或警戒でもしてゐるやうなのも私の氣分を苛々させた。私は其時の氣分で二日も三日も此方からは一切口をきかない事などもあつた。(「大津順吉」)  
順吉は漠然とした不快の「気分」にひたされている。天候にいらだっているのか、祖母にいらだっているのか、当の順吉自身釈然としない。むしろ不快なのは天候、祖母といった特定の対象ではなく、そうした個々の対象すべてとのかかわりからなる彼の生活自体であり、われわれの文脈でいえば、彼の心身に浸透する「気」そのものが不快一色に染められているのである。このように不明瞭でありながら、のがれようもなく人を閉じこめる経験を指して、柄谷行人は「自我も他者も欠いた「気分」が主体の世界」と呼び、山崎正和は「公的なものを喪つて陥つた感情の自然主義」と呼んでいる。  
「感情の自然主義」という言葉は説明を要するだろう。山崎の説くところによれば、順吉は日露戦争後の虚脱感のもたらしたアイデンティティの危機に直面した最初の世代に属し、もはや近代国家の建設という切迫した国家目標によって自己の役割を自覚する途も、かつての江戸の文明において可能だったように、重層的な封建的規範によって自己を安定させる途も断たれていた。なるほど、近代国家という「公」的な理念はあったが、それはリァリティのない抽象的存在に遠のき、個人の感情生活からは切断されていた。  
ところで、本来ならばここで国家の吸引力が弱まつたのであるから、知識人たちはこれを好機に、それぞれの「私」の世界に帰つて行けばよいはずであつた。だが実際には、弱まつたのは国家の煽情的な魔力だけであつて、それがすでに社会の中に敷いてしまつた軌道の方向は微動だにしたわけではなかつた。興奮は残らず醒めはてながら、現実の生活の場所としては、やはり明治国家が一元化した「公」の世界のなかに生きて行くほかはなかつた。「私」の世界へ帰らうにも、もはや彼らの身辺には「私」的であつてしかも「世界」でありうるやうな、多元的で安定した人間関係といふものは残されてゐなかつた。人間関係はすでにはつきりと二種類に分断され、抽象的に「公」的な世界か、さうでなければ、もはや「世界」とは呼べない「私」的な密着状態だけが残されてゐた。(『不機嫌の時代』)  
このような「私」的密着状態、あるいは「感情の自然主義が支配するアモルフな共棲状態」に転落した彼らの眼前には、「感情」の働きの下にひろがるもう一つの「感情」の世界、もはや「感情」とは呼ぶことのできない「気分」の世界がひろがっていた。山崎氏は「感情」と「気分」の相違について、オットー・ボルノーの説を引いている。  
本来の意味での感情は、つねに特定の対象に「志向的」に関連する。それらは「具体的感情」、「方向づけられた感情」である。あらゆる喜びは、なにかについての喜びであり、あらゆる希望は何かへの希望であり、また、あらゆる愛は何かに対する愛であり、あらゆる嫌悪は何かに対する嫌悪である等々。これに対して、気分は決して一定の対象を持たない。気分は人間存在全体の状態のようなものであり、また色調である。その状態や色調において、自我が一定の仕方で直接自我自身を知るのであるが、しかし、それらは決してて何かそれらの外にあるものを指示するようなことはしない。(『気分の本質』藤縄千艸訳)  
ボルノーはこのように「気分」の次元を「感情」の次元から区別した上で、「気分」を「高まった気分」と「沈んだ気分」に大別するが、山崎氏はこの分類を「感情を促進する気分」と「感情をはばむ気分」としてとらえなおし、大津順吉の陥った心理状態を後者に含めている。  
なるほど、順吉の心身を侵食する「不機嫌」は、山崎氏の指摘通り、「感情をはばむもの」であり、このような「不機嫌」が意識の基調であっては、いかなる明確な感情の所有も、したがって自己把握も不可能にちがいない。その限りで、志賀的な「気分」の経験は「感情そのものの無力感」、「感情と自己のあひだに一枚のヴェールがかかったやうな疎遠感」を生むものだろう。  
しかし、ボルノー流のStimmungの分析を導きとした山崎氏の考察には、二つの点で大きな疑問がある。それはどちらもドイツ語のStimmumgと日本語の「気分」の相違にかかわる。  
第一はStimmungと「気分」の傾斜の相違にかかわる。Stimmungは「気分」「調子」「印象」をあらわすが、快い調子、不快な調子の両方をふくみ、語義に特定の方向づけはない。しかし、「気分」の方はそうではない。EristinguterStimmung.(彼は快調だ)といえば、いかにも快調そのものだが、「彼は気分がいい」の方は、病み上がりとはいわないまでも、快調でないわけではない程度のニュアンスで、快調そのものの状態からは微妙にずれるからだ。  
これは語の来歴に照らせば、当然のことだろう。Stimmungは元来は音楽の用語で、モーツアルトの天上性からシューベルトの悲痛、マーラーの官能性まで、さまざまの調子があるが、そのすべての音域を指してStimmungといわれるのである。それに対して、「気分」が意識されるのはどんな場合だろうか。本当に快適な時、万事がとどこおりなく運び、楽しくてならない時は、誰も「気分」など意識しはしない。「気分」がいいとか悪いとか意識すること自体、すで身体感覚が変調をきたしているのである。山崎氏は「気分」を「感情を促進させるもの」と「感情をはばむもの」とに大別したが、このような分類はStimmungの考察としては妥当であっても、日本語の「気分」の分析としては難がある。志賀直哉的「気分」がどのようなものか、どこから由来するかを問う前に、志賀的経験がなぜ「気分」としてあらわれるのかが問われなければならない。  
第二の問題点はStimmungと「気分」の射程にかかわる。Stimmungは元々が音楽用語だということからも明らかなように、いわば心理の通奏低音であって、その射程は心理の領域にかぎられている。他方、「気分」の方は、「気」の分有、分け前ということであって、その射程は個人意識にとどまらず、「気」の外部的性格、遍在的性格につらなる広がりを有している。  
ボイテンディクは、テレンバッハの『味と雰囲気』に寄せた序文の中で、次のように述べている。  
気分(Stimmung)と雰囲気(Atomosphäre)がいかに類似の意味内容をそなえているかは、私見によるとシュトラッサーのつぎの言葉から明らかになる。「夕暮時の気分(Abendestimmung)、朝方の気分(MorgenStimmung)、情趣溢れる風景(StimmungsvolleLandschaft)、宗教的気分、革命的気分、インフレ気分、パニック気分といった言いまわしがある。ここに示されているのは、ボルノーが述べるように、人間と世界との合一である。」しかし、まさにこのような例が、われわれに気分(Stimmung)と雰囲気(Atomosphare)の違い(ヽヽ)を教えてくれる。つまり、後者は一つの非人格的(ヽヽヽヽ)(非人称的)な現実であって、人間が呼吸したり食べてみたり(味わってみたり)せざるをえない(ヽヽヽヽヽヽヽ)ゆえに、それに関与するところの古代の自然(Physis)に似ている。(「雰囲気的なものという生きられる現実について」宮本忠雄・上田宣子訳)  
ボイテンディクにしたがうなら、日本語の「気分」はStimmungにとどまらず、Atomosphäreをも射程にふくむのである。  
実際、木村敏やテレンバッハが指摘するように、「人間と世界からなる宇宙を包括する一つの実体」「人と人との関係がそこから生じてくるような根源的な基盤」は、東洋では「気」「アートマン」、西洋では「プネウマ」「アニマ」「アトモスフェール」と、いずれも「気息」「空気」をあらわす語によって示されてきた。Stimmungが心理の範囲にとどまる語であるのに対して、「気分」はこのような非人格的な領域を射程におさめているのである。志賀の「気分」をStimmungと同一視するとは、日本語の「気分」がもつ太古的な性格を切り捨てる結果なりかねない。  
山崎の考察は「気分」の露呈と制度の関係(われわれは後にこの問題に立ち返るはずである)へ注目するという視点を持つが、反面、志賀の「気分」の経験を、実存主義心理学の視界に切りつづめてしまう傾きが否めない。そして、実際、『暗夜行路』の結末で語られる有名な自然との合一感に陶然となるくだりは、氏の考察からはずされることになる。もっとも、時代精神の病理診断という氏の批評の性格からすれば、いっこうに差し支えないわけであるが。  
『不機嫌の時代』に先だって書かれた「私小説の両義性」において、柄谷行人は「気分」の存在論的局面にまっすく切り込んでいる。柄谷によれば、志賀の世界は、自我も他者も欠いた、「気分」が主体の世界である。  
最初に、私は志賀は他者を欠いているだけでなく、私を欠いているのだ、と述べた。たとえば、憎悪は他者意識である。志賀の「不快」には他者がいない。「不快」がつきのぼってくるのだ。志賀の快・不快の表出は、恣意的な判断ではなく、いつもどこからかやってくるものである。彼はあとからその理由を考えるかもしれないが、それは他者(対象)にも彼自身にも転嫁しえないものなのである。「不快」と感じたとき、事実、彼は「不快」の理由をなにも書いていない。そのかわり、「不快」という一語に、彼の全存在的な判断がこめられていたのだ。彼が一見自己絶対的でありながら、その内実において「無私」であったという逆説は、まさにここにある。(「私小説の両義性」)  
柄谷は前コギト的領域、自己や他者、客観が構成される以前の領域に働く主体として「気分」を規定している。「気分」が主体であるとは、順吉の知覚も判断も行為も、すべて「気分」に強いられて出来するということを意味する。ここには真の意味で行動も葛藤もない。あるのは「不快」から「調和的な気分」への移行という、「気分」の自己運動だけである。「気分」はそのような「絶対性」をおびたものとして現前している。  
このような領域の経験を形象化しようとするなら、叙述は必然的に不透明にならざるをえない。「気分」以外のものに目を転じたり、「気分」を「気分」外のものに解消したりすること自体、「気分」の直接性からはなれることであり、リァリティの喪失を意味するからだ。柄谷はこの自己完結的な「気分」の領域への徹底的な固執と「気分」外のものの拒絶に志賀の限界と可能性を認め、後に「日本近代文学の起源」では、近代国家の成立という認識論的付置の変動の裏面として志賀の経験を位置づけている。きわめて正確な指摘にちがいない。  
しかし、われわれがここで問題にしたいのは、志賀的な「気分」の経験がおかれている構図である。先に、「気分」が意識されること自体、身体感覚が変調をきたしはじめている徴だと書いたが、志賀の「気分」の経験の場合、身体感覚の変調は環界との関係の変調と表裏の関係にあるからだ。たとえば、「和解」の「自分」は銀行で番を待たされながら、あきらかに特有の身がまえをおこなっている。  
その日自分は起きぬけに食事もせず、一番で出かけた。橋場のはうの友だちに用があつて南千住で降りてそこに寄り、一時間ほどゐてから日本橋の三井銀行に行つた。十五分ぐらゐで済むつもりだつたが二時間たつてもらちがあかなかつた。番號を言ふのを、もうかもうかに引かされてゐる不愉快にはかなはなかつた。讀むものでも持つてゐればまだよかつた。しかしふだん呼吸してゐる空氣とはあまりに違つたさういふ空氣の中にただぢつとしてゐるうちに不安と不快で自分はいらいらして來た。どれも、これも赤の他人ばかりだ。自分だけが水に滴らされた油のやうな氣がした。(「和解」)  
彼は自分のおかれた情況を、「空氣」の異常として感受している。「ふだん呼吸してゐる空氣とはあまりに違つたさういふ空氣」の中に閉じこめられ、その「空氣」に対して身がまえているのである。「空氣」にいらだつという身体感覚の鋭敏化の背後には自分からはなにも働きかけることが出来ないという孤立した構図、環界との相互的なかかわりの余地を失ってしまった受苦の構図がある。だから、この「空氣」からのがれるには、唐突に待合室を飛びだすしかないのである。  
ここには「気分」の経験の受け身的な性格、あるいは受苦的な性格が端的にあらわれている。「各個人が宇宙的、遍在的な気を分有(ヽヽ)し、各自の分けまえとして持っている気の個別的様相は、「気分(ヽヽ)」あるいは「気持(ヽヽ)」の言葉で表される」と木村敏は書いているが、外部的な「気」を分有するとは、必然的に、その「気」を介して、環界の影響を一方的にこうむることを意味する。それは、世界と主体の関係という構図で見るなら、インタラクティヴな循環が失われ、受動一方の関係を強いられるということである。「気分」を経験するとは、「気」の流動にさらされた身体、受苦的な身体を経験するということなのだ。それは「不機嫌」という「気分」に限らない。『暗夜行路』末尾の大山のくだりで記述される至福感においてもそうである。  
彼は自分の拐~も肉體も、今、此大きな自然の中に溶込んで行くのを感じた。その自然といふのは芥子粒程の小さい彼を無限の大きさで包んでゐる氣體のやうな眼に感ぜられないものであるが、その中で溶けて行く──それに還元される感じが言葉にも表現できない快さであつた。(『暗夜行路』)  
この環界との融合感は謙作の能動的な活動の結果、持たらされたものではまったくない。逆である。謙作は登攀を断念し、明けゆく空の下でただうずくまっている。自己の「気分」と自然の「気」の合一という清洌な経験は、いかなる主体的身がまえも放下し、ひたすら自分の身体を受動的に環界にさらすという態勢において、はじめて到来したものなのである。  
志賀的な「気分」の経験とは、徹頭徹尾、身体の受動性、受苦性の経験である。「気分」にかかわる「気」は、環界から身体への一方通行路であって、自己の表現経路として意識されることはない。山崎氏のいう「公」的規範の喪失も、この観点から把えなおすことができるはずである。しかし、いま、その問題に立ちいっている余裕はない。  
意外なことに、あるいは当然なことに、石川の叙述はあれほど「気」系の語彙にとみながら、「気分」という語はほとんど見ることがない。ざっと調べただけなので、見落としがあるかもしれないが、わたしが採取できたのは次の一例だけである。  
事がをはつたあとで、だらだら女とべたつくといふむだな時間は生活に無い。氣分といふものは潮の好まぬものである。(『荒魂』)  
潮は『狂風記』の鶴巻大吉、『至福千年』の内記とならぶ権力意志の権化のような男であって、なるほど、このような野望家には「気分」という状態は似つかわしくないだろう。いや、彼らだけでなく、石川的人物はつねに能動的に環界にかかわり、つねに大騒動のまっただなかにいる。「気分」という漫然とした仕方で時間をすごすなど、考えられないことだ。  
「気分」の経験とは、身体が環界の変調を一方的にこうむることだと書いたが、石川にあっては、環界の影響も「気分」とは異なった位相で受容される。たとえば、右に引いたくだりの直後に、潮は何かが侵入した「けはひ」を直覚している。  
ライターの火をたよりにあるき出して行くと、ぱつとあかるくなつた。ほんのわづかの間の停電と知れた。しかし、そのわづかの間に、廊のたたずまひはがらりとスウィッチが切りかへられたやうであつた。さういつても、すでにさだまつた裝置が一瞬に變化するわけもない。見たところ元のままである。ただしづかな水面に小石が一つ落ちこんだやうに、遠くから陰陰とひびき寄せて來るものがあつて、その波紋が潮の身にせまつたとき、息づまる壓迫感がそこにのしかかつた。何だらう。それは廊の構造の中からどれかの物質が缺けおちたといふうのではなくて、なにか異質のものがしのびこんで來たといふけはひであつた。ひびき寄せる波紋のみなもとには、そいつがゐる。そいつは壁のどこかにひそんでゐるのかも知れない。さう。そいつとは動物性のものに違ひないことを、潮は動物の感覺をもつてさとつた。(『荒魂』)  
ここには潮の意識の流れにかさなって、二重の運動が現前している。「ただしづかな水面に……」から「息づまる壓迫感がそこにのしかかつた」までは、侵入した何ものかから発せられた「けはひ」が潮の位置まで達する運動、すなわち環界から身体へという求心性の運動である。だが、つづく「何だらう」から「潮は動物の感覺をもつてさとつた」にいたるのは、潮の身体感覚が身体から環界へ向かって同心円状に拡大し、「ひびき寄せる波紋のみなもと」へおよんでいくという遠心性の運動である。「気分」としての環界の知覚が受動的一方の、まさに身体の受苦性にもとづいていたのにたいし、「けはひ」としての環界の直覚は、このような皮膚の限界をこえて広がっていく身体感覚の拡張、身体の能動性にもとづいているのである。何かの「けはひ」を察知するとは、その何かを可能的な行動の射程に包含することを意味する。「気分」の身がまえが防御一辺倒であったのにたいし、「けはひ」をうかがう身がまえは、いつでも反撃へ移行する可能性を含んでいる。  
しかし、このような察知された「けはひ」は、つねに何ものかの「けはひ」である。「気分」としてあらわれた「気」は何ものに属するとも判然としなかったが(だから「気分」なのである)、「けはひ」として現じた「気」は、それを発出する主体(他者)が必ず想定されるはずだ。では、このことは、「けはひ」の経験が、「気分」の前コギト的領野を脱し、三人称的領野で成立するということだろうか。  
ここで参考になるのは、「前客観的視界」というメルロ=ポンティの概念である。メルロ=ポンティは機械論的心理学・生理学の、個々の刺激が感官に作用して知覚が成立し、主体の行動をうながすという前提を斥けて、次のように書いている。  
或る動物が実存する(ヽヽヽヽ)、その動物が一つの世界をもつ(ヽヽ)、あるいは彼が一つの世界にぞく(ヽヽ)している、と言うとき、それは何もその動物が世界についての客観的な知覚または意識をもっているなぞということを意味するものではない。(略)状況が動物に提供するところは、ただ実践的な意味だけであり、状況が促すものは、ただ動物の身体的な認知作用だけである。(略)状況の包括的な現前こそが、部分的な諸刺激に一つの意味を付与しているのであり、それらの諸刺激をわれわれにたいして何ものかであらしめ、価値あるものたらしめ、あるいは存在せしめているのである。反射は客観的な諸刺激から帰結したものではなく、逆にそれらの諸刺激の方へとふり向き、それらの諸刺激にたいして、それらが一つ一つとしては、また物的要因としてはもたなかったような意味を、それらがただ状況としてのみもつことができるような意味を付与するのである。(略)状況の意味にまで己を開いてるかぎりでの反射と、まだはじめには認識対象を措定しないでわれわれの全体的存在の指向性にとどまっているかぎりでの知覚とは、一つの前客観的視界(ヽヽヽヽヽヽ)の様相であって、この視界こそ、世界内存在と呼んでいるところのものである。(『知覚の現象学』竹内芳郎・小木貞孝訳)  
メルロ=ポンティは、さらに、他者や諸対象が客体化される以前の領域を「一種の内的隔膜」と呼び、他者や諸対象それ自体よりも、われわれの持つ知覚世界を決定していると述べている。  
自己と他者、諸対象がばらばらなものとして区別された客観的世界の基底には、環界が身体の身がまえを呼びおこし、身体の身がまえが環界を一つの生きられた状況として照らしだすという、このような相互規定の過程がはたらいているのである。石川の「けはひ」「けしき」が交響する風景は、「気」を媒介にした受動性・能動性のたえまない相互性という生成の相においてとらえられるかぎりで、メルロ=ポンティ的な「前客観的視界」を照準しているといって差し支えない。身体論の水準でいうなら、「けはひ」「けしき」として現象する石川的な「気」は、特定の感官に働きかける刺激ではなく、むしろそうした部分的諸刺激を包括する全体的状況(ヽヽ)の相関者であり、中村雄二郎の表現を借りるなら「共通感覚」の対象と呼んでもいいだろう。右の引用で、潮はどこかがおかしいと異変を特定することができないにもかかわらず、全体的状況の変調として「けはひ」を直覚しているのは、そのゆえである。そして、いうまでもなく、こうした状況としての「気」は、一つの実体としてあらわれるとはいえ、身体の能動的な身がまえ(可能的な行動)に反照され、意味づけられているのである。  
それが最も如実にあらわれているのは、自然との合一を歌いあげたくだりである。幻の鳥、金鶏をもとめて山深くわけいった呂生は、謙作がただひたすら山腹にうずくまったのとは対照的に、持てる力のすべてをふりしぼって自然にたちむかい、闊然貫通の境地に達している。  
たちまち世界が闊然とひらけた。すでにして、祕密の林のまんなかである。まづ息のとまるまでに、名狀すべからざる芳香が鼻を打つた。香氣はいかなる美酒にもまさつて、骨髓にしみとほつて、うつとり醉つたやうであつた。花の香。あたりを見わたすと、花はいちめんに咲きみだれてゐる。(畧)竹の花に相違なかつた。またその竹といふのが、これはいかなる竹だらう。幹はあくまで太く、たくましく、みごとな琅玕の塔を成して、これを打てば內より刎ねかへす力あふれて、樂の音は泉のやうにながれ、四隣ことごとく鳴りひびいた。枝も葉も寶玉をあざむき、莊嚴は形容を絕して竹林方十里、このところはまさに竹の宮殿であつた。このとき、竹林の靈氣はかへつて呂生の身に徹して、不思議にも~力おのづから發して、すなはち腰にさした斧をとつて立ちむかふ。自然の力かくのごとしとあれば、人間の力もまたかくのごとし。斧は竹を拔ち、拔つこと數本、花は散り、幹はたふれ、斧もまた折れた。呂生は最後の力をふりしぼつて、たふれた竹をあつめ、これを祕密の林の外にはこび出した。(「金鶏」)  
呂生はあやういほど無防備に「身」を竹林にさらしている。香気は皮膚につきいり、体内深く、骨髄まで浸透する。呂生は酔う。酔うことによって我をわすれ、我をわすれることによって「靈氣」の不思議をうける。どうしたら「靈氣」の不思議をうけられるというのだろうか?それには、虚心な活動に「身」をゆだねきればよい。斧をふるっているのはすでに呂生ではなく、斧にあらがうのもすでに竹ではない。それにしても、「靈氣」が「身に徹する」という体感の瑞々しさは魅力的である。なぜ、こんな表現が可能なのか?  
呂生の実現する竹林との交感は、謙作が大山で味わった主客未分の境とは、似て非なるものだ。志賀的な「自分」は環界の影響を一方的に引き受けるだけの存在であり、世界と相互的で安定した関係をむすぶことができず、累積した不満は発作的な行為の激発によって欝散するしか方途がなかった。志賀的な「自分」に唯一可能な、世界との和解の形式は、自他の区別が溶解してしまうこと、「気分」が「気」の中に解消していくことだけであった。志賀にあっては、「自分」があるということそれ自体が、世界との異和なのであって、この溝を埋めようともがけばもがくほど、自他の対立はいよいよ深まるばかりであった。不快の解決がまったく他動的に、いわば恩寵のようにもたらされなければならない必然性はここにある。  
ところが、石川の場合、虚心になったからといって、呂生の存在は「竹林」に呑みこまれてしまうわけでもなければ、「靈氣」の中に溶解してしてしまうわけでもない。逆である。「竹林」の魅惑が切実であればあるほど、「靈氣」が体内に浸透すればするほど、「身」の現存はいよいよあざやかに感得され、「竹林」もまた、「身」の照明をうけ、不思議の美をかがやかす。呂生の斧が躍るとき、「竹林」は「竹林」以上のものとなるのだ。まさしく、「自然の力かくのごとしとあれば、人間の力もまたかくのごとし」、この対句くずしの弾んだ文は、「身」と環界の交響を伝えてあやまたないが、活動において宇宙に連累していきながら、あくまで活動の一方の極として、能動性を保持しつづける「身」がここには確かに躍動しているのである。 
4  
しかし、「気」系の語彙は、石川にあって、なぜ実名詞なのだろうか?  
日常の語法と経験では形式名詞の水準に埋没している「気」に照準をあわせることによって、石川が他者・諸対象・世界にの身体的な認知、いわばエロス的なコミュニケーションの領域を照明していることはすでに見た。「けはひ」「けしき」等に導かれた石川の叙述は、「気分」に主導権をゆだねた志賀の文体と同様、日常性の根柢によこたわる前コギト的、前客観的経験を形象化しているのである。石川は志賀と正反対の方向から、沈黙のままに放置されているこの領野に光をあてたのだ。  
しかし、こういっただけでは、まだ事の反面でしかない。「気」系の語彙によって何が可能になったかはあきらかになっても、なぜ「気」系の語彙が叙述を支配するようになったかという問題にはまだ手がつけられていないからだ。石川が書きしるす「けはひ」「けしき」という語は、作家の意図のあらわれというよりは、作家の意識の基盤を形成しているからだ。つまり、目的でなく、必然性が問われなくてはならない。  
志賀の場合もまた、「気分」という語は必然的なものとしてあらわれている。志賀は人間関係に瀰漫する「気」を、「気分」「気持」「不快」「不安」「不機嫌」等々と主題化しているが、これもまた、主体的な表現意図の産物ではなく、意識の地平にほかならないからだ。  
そのころの私はいつか(ヽヽヽ)自身の不愉快な氣分に中毒してしまつてゐた。私はソーファに腰かけたまま、不愉快な凝結體にでもなつたやうな氣持ちがしてゐた。(「大津順吉」)  
自分の調和的な氣分は父との關係にも少しづづ働きかけて行つた。然し或時、例へば妻と一獅ノ上京して電話で祖母を見舞ふと、丁度父が留守だから直ぐ來て吳れと母が云ふ。自分達は電車で直ぐ麻布へ向ふ。そして門を入らうとすると其所に立つて待つてゐた骼qが駈けよつて來て、小聲で「お父さんがお歸りになつたのよ」と云ふ。自分達は門を入つただけで誰にも逢はず、直ぐ引つ返して來る。かう云ふ場合、流石に自分の調和的な氣持ちも一時調子が變る。然し又或る時、人の口から、父が自分の妹達などの事でジリ々々と苛立つて氣六ケしい事を云ふ噂などを聽くと、父のさういふ氣分の根が猶且つ自分との不快にある事を考へずにゐられない點で、そうして今の自分が自分だけで調和的な氣分になりかけてゐるのにといふ氣のする點で、段々年寄つて行く父の不幸な其氣分に心から同情を持つこともあつた。(「和解」)  
「私」が自身の「不機嫌な氣分」や父の「不幸な其氣分」を意識するのは、家族との「気」の交流がさまたげられているからである。一体感の挫折、家族との原本的な一体性からの疎隔が、「私」に「気」を異和なもの、「気分」として意識させ、孤立感に追いこみ、ついには「不愉快な凝結體にでもなつたやうな氣持ち」へと追いつめるのだ。「私」はとどこおりのない「気」の交流、「心からの同情」、母子関係に根ざす「甘え」の境位に立ちもどるろうとしているのであり、家族に対していらだつのも、一体感を願っているからこそである。つまり、志賀にあっては、「気分」を意識することそれ自体が自然過程からの乖離であって、逆にいえば、人物が「気」の原本的な一体性の中にくるみこまれ、エロス的なコミュニケーションがとどこおりなくもたれている場合は、「気」は「気分」「気持」として表面化することはないのだ。志賀の「気分」に支配された小説は、「気」の異和の所産であり、母子の対象関係に代表される原本的な一体性を回復しようという衝迫が言葉を突き動かしていたのだといっていい。  
石川の場合、このような議論は成立しない。石川の叙述にあっては、「気」の流通は停滞するどころか、迅速すぎるくらいすみやかにおこなわれているからだ。これでは、異和も停滞も生ずる余地はないだろう。では、なぜ、「気」は「けはひ」「けしき」として、ことさら実名詞化されなければならないのか?  
結論をいうなら、石川的人物は「気」の原本的な一体性から、そもそものはじめから切断されているのである。逆説的に聞こえるかもしれないが、石川の小説においては、人物と人物、人物と人物、人物と環界の間に「気」がかよいあい、エロス的なコミュニケーションがおこなわれるということ自体が自明ならざること、ことさらに主題化しなければならないことなのである。  
「気」の原本的な一体性とは、母子の対象関係に基礎をおく、「甘え」の関係にほかならない。日本的な文化、特に人間関係のあらゆる局面に瀰漫する「甘え」が、母子関係の延長上にあることは、すでに多くの論者の指摘するところだが、「けはひ」で察しあう日常的なエロス的コミュニケーションとは、母親と赤ん坊の言語以前のつながりの発展形なのである。右にその一端を見た「和解」のこじれた父子関係や、「大津順吉」における祖母とのなれあいも、本質は母子関係であって、切っても切れない「気」のつながり、山崎氏の「アモルフな「私」的密着状態」が生ずるのも、互いに母子の関係を暗黙のうちに期待しているからにほかならない。  
石川の小説は日本的対象関係を根本的に特徴づけるこの母子関係──「甘え」の関係──から切れているのである。これは単に「男性的な作風」で片づけられる問題ではない。「男性的」と形容される小説ほど、肉親の情愛に依存しており、往々それを濃厚にたたえているからである。  
石川の一種抽象的な叙述空間には、肉親の情愛のまぎれこむ余地はない。石川的人物は例外なく家族関係から切断された孤絶した生活者であり、しばしば捨て子、身なし子、貰い子であって、『荒魂』の佐太にいたっては、「佐太がうまれたときはすなはち殺されたときであつた」と語りだされる。佐太は間引きされた赤ん坊なのである。  
石川のかなりの分量になる小説群の中で、ただ一ヶ所、親子の情愛が描かれている部分がある。それを引こう。寄宿先に訪ねてきた父親に、金吾はこうあびせかける。  
「何だつて、やつて來たんです。ほつておいて下さい。ぼくにかまはないで下さい。」もうその場にゐたたまれないていで、足をはやめて歩き出した息子の背中に、うろたへた父親は追ひすがつて、「おい、金坊、どうしたんだよ。え、何をおこつてるんだよ……」と七八間引きずられて來たところで、「いいよ、わかつたよ。何も仕事の邪魔をしに來たわけぢゃないんだ。おまへがちゃんとしてゐるところを見れば、それでいいんだから……いいよ、おれはもう歸るよ、歸るよ。」さういひながら、ふところを探つて取り出した小さい包みを、さげてゐた曲物といつしよに息子に手に押しつけて、「これを持つてつてくれ、これを……ぢや、いいかい。おれは歸るよ。」(『白描』)  
父親が帰りしなに金吾の手に押しつけていった曲物は汁のしみだした佃煮で、包みの方には五銭十銭といった小銭のつまった財布が入っている。ただ一ヶ所とはいえ、このようなくだりのあることに、われわれはある種の感慨を持たざるをえない。だが、この情景を目撃した敬子を描いたくだりは、ふたたび、まぎれもない石川淳の叙述である。  
……ばたんとしめた硝子窓の內部で、その音があまりに高くひびいたのに、敬子は自分でびつくりした。そんなに手荒く、いつたい何を遮斷したのか。ただ窓の下に、一人の少年と、ことばの端ではその肉親と察せられる老人を見ただけではないか。だが、わが身の上にしろ、他人のことにしろ、肉親の愛情がもつれあつた風態ほど、敬子をぞつとさせるものはなかつた。(『白描』)  
生まれ落ちたばかりの佐太に打ちおろされた斧の一撃と、敬子が音高く閉め切った窓と──「甘え」の関係はこの二つの所作によって、石川の小説から完全にしめだされているのである。  
日本的な日常場面における「気」のあり方は「甘え」の原理と不可分だが、「甘え」を切断した石川の小説では「気」はまったく別の原理、血縁のような心情的な原理ではなく、真の意味で普遍的な原理によって統轄されている。陰陽論の原理である。  
われわれは先に、根元一気から陰陽二気がわかれ、五行を生じ、万物を化生するという「淮南子」の宇宙生成論を見たが、森羅万象を陰と陽とにわける陰陽論の原理は、「気」に内在する理法として、石川の叙述を深く方向づけている。たとえば、『狂風記』末尾の忍歯組と鶴巻軍団の戦いである。そもそもこの長大な小説は、現界と幽界、都市とゴミ捨て場、表の権力者と黒幕、正統な後継者と纂奪者、破滅型のどら息子と家に戻るどら息子、感じすぎの女と不感症の女というように、すべての水準にわたって二項対立の原理がつらぬかれており、いわば樹枝状に分岐して行く系統図を物語の背景にひそめているが、その対立が一挙に表舞台に引きだされるのが最後の戦いの場面である。すなわち、鶴巻側が太陽、陽気、陽根、熱、日光、天空であるなら、忍歯組(カーの安樹、ヒメ、二羽の蝶のさち子とマヤ)は月、陰気、女陰、冷、月光、地底であり、両者の戦いは陰と陽との相克なのである。  
生ける銅棍の荒れくるふところ、殺氣を發してさからふものを打つ。ときに、カーはといへば、これもひるむけはひはなく、ふりしきる日光の矢のはげしさに、銀白の胴體は燒けきれるまでに映えて、驅けめぐる速さは影もとどめず、立ちはだかる銅棍にむかつて、上から攻め、下から拂ひ、雙方おとらぬ虛實のぶちあひは一進一退、霞をさそひ、虹を散らし、螺旋きらめく龍卷を吹きあげた。そのあひだにも太陽は猛つてぐんぐん昇る。逃げまどふ二窒フ蝶はきりきり舞して、今はあるかなきか、かげろふのすがたの、つひに消えようとしたP戶ぎはに、  
「よわければこそ、いのちがある。死ねばこそ、生きかへる。太陽におびえるな。もぐりこめ、闇の中に。生きのびよ、喜劇のはうに。」  
聲はどこからともなくきこえた。舞臺の床を這つて、下からひえびえと白いけむりがもれて出て、水のにじむやうに湧きひろがつたと見るまに、いきほひつのつて色さらに濃く、濛濛と立ちこめれば、あたりは太陽にさからつて灰色の影につつまれた。(『狂風記』)  
このような荒唐無稽の大盤振るまいだけではない。陰陽論の原理は、次のような場面にも密かにつらぬかれている。  
晉一は笙子を抱きあげてベッドにはこび、そのあたまを枕におちつかせたとき、いつしよに寢たかたちになつて、ついそのまま寢た。さういふ姿勢をとつたことは、はじめてであつた。やはらかい肉のふくらみの上に、透明なうすい板が張りつめたやうであつた。晉一はそれを肩から揉みほごして、手を乳房にあてた。氷がとけるやうに、笙子の目がうるんだ。(『白頭吟』)  
病に臥す笙子の姿態は貫之の「袖ひぢて……」の歌にも似た幻の水の変幻のうちに夢見られている。春情がきざすとき、身体を閉ざしていた見えない氷がとけ、彼女は快方に向かうのである。実際、『白頭吟』という長編小説は十一月三日、二十四節季でいう「蟄虫感俯」(虫類が地下にかくれる)にはじまり、三月啓蟄節に終るが、右の一節は、分量的にも、物語の時間の上でも、ちょうど真中の立冬の位置にあたっている。貫之の立春を祝ぐ歌とは前後するが、陰陽論は太陽黄経零度、冬至点に太陽がいたった時をもって、自然の気は陰から陽に転ずるとする(一陽来復)。アナーキストの地下運動をあつかったこの小説は、虫類が地下に隠れてから再び地上にあらわれるまでの三ヶ月間を描くが、小説を流れる「気」も、この一場をもって陽に転じたわけである。笙子のうるんだ目は自然の甦りの予兆でもあるのだが、注意したいのは、これは単なる自然と人事と照応ではなくて(そういう叙述は日本ではめずらしくない)、陰陽論の秩序の厳密な表現なのだ。石川が「気」を描く時、その「気」は「天地自然の道」(『六道遊行』)ともいうべき普遍的な秩序にのっとっているのである。繰りかえしになるが、これは日本の近代小説の歴史において異例のことだ。  
吉田秀和は次のように書いている。  
私は太和殿の前面に立ち、南天の太陽と直面する中国の皇帝は、自分の立っている地点こそ、正に世界の中心であり、それ以外に世界の中心はないと考えても不思議ではなかったろうと書いたが、そう考える機会を常に与えられていた人が、同時に、そこから、世界全体についてのある一つのまとまったイメージを得、世界の全体を、自分を中軸として、そのまわりに整然と配置された万象からなるものと考え、描くようになるのは、ごく自然だろう。いや、そういう具合にして、一つの「世界像」を形成していなかったら、その方がよほど不思議だろう。逆にいえば、そういう機会を持たないところでは、およそ、自他についての意識はあっても、それが自分のまわりを越えた世界の一切についての全体像にまで及んでゆくことがあったとは考えにくいといえるのではないか。(『調和の幻想』)  
石川は漢学の素養をそなえた最後の文学者と評されるが、その素養とは史書や詩、経書の字句に通じているという体のものではなく、一つの「世界像」の受容までをもふくんだ素養であり、それは当然、実感の世界の抑圧を結果せざるをえない。それゆえ、ささやかな場面にも普遍の秩序を透かし見ずにはおかない石川の叙述は、私的なものに跼蹐する志賀の記述の対蹠にあるといえよう。それはまた「公的」なものを喪った日本近代文学の対蹠点でもある。石川の「気」の流動する叙述空間は、日本的な疑似血縁空間から切れることによって、はじめて成立しえたのである。 
 
『父親の名』 

 

1  
われわれは先に石川淳の小説を文体の水準で検討し、それが「気」の充満し流動する領域で、「天地自然の道」ともいうべき陰陽論の秩序につらぬかれていることを見た。石川の小説では、この別天地を舞台に、人も物も等しく「気」の主体として放恣な運動をくりひろげているのである。  
ここで眼を物語の水準に転じよう。すると、人・物の運動を方向づける秩序は、陰陽論の二元的な原理、すくなくとも道家的な陰陽論の二元的な原理だけではないことがわかる。  
たとえば「善財」である。主人公の宗吉は娼婦に身を落した初恋の女、伊那子を追い求めるが、彼女をわがものにしようとする刹那、木戸の幻が立ちはだかり、「自分で自分の胸をついたやう」にはね飛ばされてしまう。娼婦である婆須蜜多女は善財童子を離欲の境涯にみちびいたが(「離欲無著境界三昧」)、伊那子は宗吉にとって禁じられた女、触れてはならない女なのである。  
この禁止は道家的な陰陽論や作中でたびたび言及される『華厳経』に由来するものではない。道家の「天地自然の道」の観点からいえば陰陽はおおいにまじわるべきだし、『華厳経』の観点からいっても「婬慾もまた道なり」だからだ。なぜ宗吉の運動は伊那子の手前ではじき飛ばされなければならないのか?なぜ彼は伊那子に手をふれることができないのか?ここにはあきらかに仏老の教説とは別の秩序、別の条理が介在している。  
人によってはそれはカトリシズムの秩序だというかもしれない。なるほど、一時期の石川の小説は「焼け跡のイエス」「処女懐胎」「雅歌」等々というように聖書の章句を題名に冠し、「聖書伝説の世界」(野口武彦)へのあからさまな接近を見せていた。「最後の晩餐」の主人公の一太などははっきりカトリック教徒とされ、やはりカトリックだった祖父から受けついだ十字架を時計のように引きだしては、自己の位置を確かめることを日課としているほどだ。  
ただし、祖父はあたかもそこに一太のいはゆる「すぐれた人間」の方向にのぼつて行かうとするところの、おのれの善根の目盛を讀みとるやうなふぜいであつたのに反して、孫は次第に「いやしい人間」のはうに成りさがつて行くところの、おのれの惡行のかずかずをそこにみとめ、みづから責めようとする態度にちかかつた。(「最後の晩餐」)  
将校として中国戦線での日本軍の残虐行為の一端をになった一太にとって、十字架は「罪の觀念上の目方」を確かめる計器であり、その「目盛」はまぎれもない現実として彼に迫っている(「犯すべき罪の目方は際限なく伸びつづける鎖と見え、罪は手にふれうる悲しみとおもはれた。」)。だが、この罪の重さの自覚にもかかわらず、あるいはそのゆえに、彼は自暴自棄になって強盗殺人を犯した夜、あろうことかあっさり自裁してしまう。しかも、驚くべきことに、自分で自分を裁くことが傲漫だという認識は彼の脳裏にはまったく浮かんでいない。「最後の晩餐」とは言い条、これはカトリシズムとはまったく無縁の世界である。十字架は一太にとって自己を律する「目盛」ではあっても、畢竟、神の愛の象徴ではなかったのだし、その罪観念にも自分で自分を裁く傲漫の罪はふくまれていなかったのだから。  
老荘の言が引かれる場合も同様である。『六道遊行』の小楯は、時の壁を超えて二十世紀に玉丸という子供をもうけるや、その子の成長をきづかって奈良朝と現代の間をしきりに往復する。なるほど、「無用の手を加へて玉をそこなふな。おぬしは玉丸の光を見つけて、名馬を相した伯樂のつもりではあらうが、伯樂こそ馬にはいらぬものと知れ」というように、『荘子』の章句を借りて玉丸の教育に意見をするが、「甘やかされる」、「駄目にされる」は、社会の価値基準を前提にしてはじめて言えることで、道家はそのような価値基準そのものを超脱する立場を選んだはずである。真に老荘の徒であるならば、甘やかされるも駄目にされるもないはずなのだ。いや、そもそも真に老荘の徒であるならば、「民を愛するは民を害するの始めなり」(『荘子』徐无鬼篇)であって、わが子を愛するということ自体がありうべからざることなのである。  
仏典や聖書、老荘の衣装こそまとってはいるが、宗吉や一太、小楯の運動を方向づけているのは、まったく別の秩序、別の条理であって、彼らはそれにしたがって自らを律し、自らの血につらなる者を愛しているのだ。しかも、その秩序、条理は木戸や十字架、木の根という具体的な物の形をとって、まさに物質の手ごたえをもって、宗吉や一太、小楯の前にあらわれている。それは条理、秩序とは言い条、抽象的な無形の理法にとどまってはいないのだから。  
この条理はもっと別の形をとってあらわれることもある。物の運動が条理そのものを描きだすという形で、つまり物の運動を介することで石川的空間に姿をあらわすのだ。すでに見たように、石川の小説では道具は石川的人物の意志にこたえて、しばしば超現実的な働きをしめす。『狂風記』の安樹は何よりも愛する「カー」について、こう言っている。  
「車に乗れば車はひとりで勝手に飛ぶ。ぼくはどうもしない。またそれがどうならうと知つちやゐない。誇張していへば、ハンドルに手をふれない。いや、誇張でなくて、手をふれないことがげんにある。そこにゐるぼくは座席にわすれられた人形にひとしい。人形がなにを知つてるものですか。結果として、車が人でも物でも引きつぶすといふことはありうる。ぼくが首の骨を折るとか崖から落ちるとかといふこともまたありうる。すべての考へられる危險をふくめて、ぼくは車まかせですよ。」(『狂風記』)  
道具まかせなのは『荒魂』のガンの名人、ハンタも同じだ。「タマがひきおこす事件については、想像力はガンに一任してある」というように、彼のガンは人為をすててすべてを託せば、持ち主の意を察して超現実的な働きを見せるのである。だが、いくら超現実的だからといって、この働きは決して勝手気ままなものではない。石川の小説ではカーはあくまで「カー」としての定義の限りで、ガンもあくまで「ガン」としての定義の限りで、驚異的な性能を発揮するからである。それは人の作った道具に限らない。山のような自然物であっても、山は地より高いという「山」の定義にしたがって、その不思議な風景を切りひらいていくのである。つまり、石川の奔放な奇想と見えるものは、カーにはカーの、ガンにはガンの、そして山には山の役割を、いささか過度に発揮させることにもとづいている。石川的超現実を生みだすのは役割性の過剰な実現であり、もしこういってよければ意味作用の一人歩きなのである。決して自然による言語秩序のアナーキーな混乱ではなく。  
おそらく、この間の事情を端的に示すのが、石川の頻用する「わりつける」という動詞である。石川の物語で活躍する人・物には、いつもあらかじめ「用」「役」「分」「形式」「仕掛」が「わりつけ」られている。いささか現実離れした話が語られるからといって、登場人物・事物を現実を超越した純粋なエネルギーの化身だとか、作者の主張を仮託された寓意的な存在だとか勘違いしないようにしよう。石川が登場させる人・物は「気」の生命力をはらみながらも、しかるべくわりつけられた「用」「役」「分」「形式」「仕掛」によって、あらかじめ運動の方向が設定されているのだ。もしそこに意味が賦されているとしても、その意味は作者の思想や個人的思いいれなどといったものではなく、語の意味にもひとしい中立的、社会的な意味なのである。  
結婚には一般にさうあるべき生活形式があたへられてゐる。解放式にしろ、閉鎖式にしろ、どうも氣をゆるしては飛びこめない、そのお定まりの形式に生活を割りつけるといふ約束は、いつたいだれがきめたことだらう。……~でもなく惡魔でもなく人間でもないやうな、穢れし靈かなにかが、蜘蛛などの網をかけて獲物を待つやうに、かういふ仕掛を編み出したにちがひない。(「處女懷胎」)  
安見子がのぼりかへして行くとたんに、この坂の下にはそれを追ふことを禁ずるやうな透明な格子が立ちふさがり、また安見子のはうから十一郎の側に格子をくぐり抜けてきたためしは無かつた。おそらく空間の構造は至るところこのやうに格子の網目仕掛になつてゐるのだらう。そして、人間も馬も自轉車もつねにそれを見ることなく、格子の網目のあひだに出入し、あちこち驅けめぐつて自由らしくまた柔軟らしく振舞つてゐるつもりなのだらう。……これが人間の運動のかならず突きあたるところだとすれば、十一郎と安見子との交渉の土壇場はこの網目にからまつてゐるのだらう。(「さらば垣」)  
器の用は器みづから知る。すでにその用あれば、器は山にうづもれることなく、谷の水の里にながれ海に出るやうに、またおのづからながれ出る。……われらが大~につかへるすべはただ一つ、山の材をもつて手づから器をつくり、器の用をあらはすことぢや。(「八幡綠起」)  
「形式」「用」「格子」「網目仕掛」──「気」の主体に「わりつけ」られたこうした人間的条理の網目は、「気」のエネルギーの背後に、その「運動のかならず突きあたるところ」として存在し、実在の事物と同じ資格、同じ存在性をもって主人公の眼前に出現する。その意味で、石川の小説にでは条理は一つの実体といわはなければならない。  
なぜ、抽象的な条理が一つの実体としてあらわれるのか。朱熹は「中庸」首章の「天命之謂性」を註して、こう言っている。  
命とは命令のようなものである。性とは理である。天は陰陽五行をもって万物を化生する。気は形をとり、理もまたこれに賦する。ちょうど命令がくだされるようなものである。ここにおいて人と物との生は、各々その賦されたところの理を得ることによって、健順五常のコをなす。これがいはゆる性である。……人と物とが各々その性の自然に循うならば、その日用事物の間に各々行うべき路がある。(「中庸章句」)  
道家の宇宙生成論に対抗する形で形成された朱熹の体系では、道家の説を踏襲し、万物は「気」というガス状の物質が離合集散して誕生したと考られえている。もちろん、「気」の離合集散がまったく自発的に行われるのだとすれば、気一元論となり、道家の宇宙論と異なるところがなくなるだろう。それでは、先聖の道という礼楽の秩序を奉ずる儒家の本旨とも反することになる。  
朱熹の朱熹たるゆえんは、道家的な「気」の造化の背後に、その存在理由、そのあるべき姿を定めた「令」(命令)として、「理」という先験的な秩序を想定したところにもとめられる。朱熹によれば、「気」が凝って人・物となるとき、そこには必ず「理」がわりつけられる(賦される)のであって、天の命令としての「理」なくしては「気」は造化の働きをおこなうことができず、人・物も生ずることがない。そうであれば、人・物には棚田に月が映ずるように、必ず「理」が宿っているが、人・物に宿った「理」を特に「性」と呼ぶのである。「性即理也」とあるように、「性」は「理」と一致する。  
宋学の「理」が道家の「道」と最も異なるのは、あくまで背後の存在だということだ。「中庸」に引く「鳶飛戻天。魚躍于淵。言其上下察也」という詩について、朱熹はこう註している。  
子思はこの詩を引き、化育が流行し、上下がはっきりしているのは、すべてこの理のあらわれであることを明らかにしたのである。いはゆる「費」ということである。しかし、それがそうである根拠(所以然)は見聞のおよぶところでなく、いはゆる「隱」である。(「中庸章句」)  
鳥が空を飛び、魚が淵に遊ぶという自然の秩序だった姿は、「理」のあらわれ(「用」)ではあっても、「理」そのもの、「理」の本体ではない。「理」は秩序だった自然の背後に隠れていて、自然はなぜかく秩序だっているのか、その根拠、その所以を問うことによってはじめて見いだされるというのである。  
朱熹はさらに社会秩序(先聖の道)は、聖人が天理にしたがって制定したものであって、自然の秩序と一致すると考える。社会秩序と自然秩序の一致という主張は、すでに「論語」に「為政以徳。譬如北辰居其所。而衆星共之。」とあるように、儒教の伝統の一部と言っていいが、朱熹は「気」の哲学を援用することで、この比喩を単なる比喩以上のものとする。それは個体差の概念にかかわる。もし、すべての人間が天理の反映である「性」を賦されているのだとすれば、個体差などということがありうるだろうか?棚田に月が映ずるように、ひとしく「理」を宿しているのに、人はなぜ聖人もいれば、愚者もいるのか?朱熹の答は明解である。  
性と道とは同じであるが、稟けた気は異なることがある。だから過不及の差がないわけにはいかない。聖人が人・物の行うべき所のものによって、これを品節して法を天下に行うことを「教」といふ。禮樂形政の類のようなものがこれである。(「中庸章句」)  
朱熹は個体差の原因を「気」の不純に求める。天理の反映である「性」といえども、「気」に賦されることなしにはあらわれようがないが、聖人のように純な「気」を稟けた者は「性」をまったき形で輝かすことができるのに対し、不純な「気」を稟けた者は内なる「性」を人欲に蔽われており、天理にそった生き方をすることができない。そこで、聖人は氣稟の程度に応じた法(礼楽刑政)を天下に定めて、「気」の混濁した者にも本来の純なる状態に復帰することができようにしたというのである。もし天理と自己の本性(「性」)とが一致しないように見えるとすれば、それは稟けた「気」が不純だからであって、聖人の定めた教えを学び、不断の修養によって「気」を純化すべきだと考える。気質の蔽が除かれれば、必ず天理そのものである「性」が輝きでるからである。  
朱熹はまたこうもいっている。  
明コなるものは人が天から得た光明燦然たるもの(虛霊不昧)で、万物の理法を具え万事に応ずるところのものである。ただ、稟けた気によって拘束されたり、人欲によって蔽われた場合は、時によって暗くなることがある。しかし、その本体の明はいまだかつて息んだことがない。(「大学章句」)  
「虚霊不昧」という語は、『華厳経』や『大智度論』に見える如来蔵説からとられた言葉だという(島田虔次)。如来蔵説では一切の衆生は胎内に嬰児を宿すように、如来となる種を宿していると考えられているが、朱熹はこの仏教の神秘主義を天理におきかえ、ともすれば厳格な教条主義と誤解されがちな宋学に空につきぬけるような楽天性と生命の躍動をあたえた。「處女懷胎」の貞子が宿したイエスも、キリスト教的な愛の象徴表現と見るより、如来蔵説を受けた朱熹の幻視の流れで見るべきである。  
IHSそれは貞子の生理の中からではなくて、どこから光り出たのだらう。たしかに、それは貞子の內にはらむものにちがひなかつた。今や貞子の胎內のこどもであつた。あはや吹き去つて行く風のうちに、一瞬にしてさつと消えた三箇の、横文字の、くろぐろと打つた刻印に於て、たま消えるまでにせつなく、瞳にしみて、貞子の懐胎をそこに見た。(「處女懷胎」)  
貞子の肉体から超越的なものの光が輝きでたように、「無盡燈」の弓子の肉体からも、「權威」「モラル」が光りだしている。弓子の夫である小説家は、彼女をこう評している。  
「ぼくはのつけから、弓子については、堕落といふことがかんがへられない。弓子の生理の中には、堕落といふ觀念がぜんぜんはひつて來ないやうなぐあひだね。あの肉體がモラルを生きてゐるやうなものだね。」(「無盡燈」)  
実際の彼女は若い男友達と夜ごと遊び歩き、二人目の夫である小説家の元をも去ろうとしているが、小説家は彼女は「肉體がモラルを生きてゐる」と断定する。そのモラルとはどんなモラルなのか?彼は「わたしが惚れたのは、弓子の肉體の抵抗である」と書く。物質に抵抗する彼女の肉体の強烈なすがたがこの上なく美しいというのだ。  
この衣裝にかぎらず、今やなにを著てもかならず美しくしか見えないだらう弓子のすがたが、窓硝子ごしに、まのあたりに迫つて來た。……すがりつかうとする衣裝を刎ねかへして、いはば決してそのやうな親和を受附けまいとするために、弓子の肉體は猛烈ないきほひで、ほとんど胸がはだけ裾がひるがへらうとするほど、すさまじく格鬪してゐる。著てゐるものが突き放され、すべり落ちて、弓子が白晝の街頭であやふく裸身にならずにすんだのは、わづかに一本の帶がそれをきゆつと食ひとめてゐたからだらう。わたしは弓子の裸身のみごとなことをつとに知つてゐた。しかし、ここに見る弓子の、衣裝に抵抗する肉體の、たたかひのすがたは、裸身よりも一段と立派であつた。(「無盡燈」)  
彼女の肉体の発する「猛烈ないきほひ」、衣装との間で切り結ぶ「格鬪」は、「気」の解放であり、「気」の自然の肯定であるが、しかしその力のほとばしりは、ただちに「モラル」という秩序に回収される。その肉体の格闘、その気迫のよってきたる所以として、「モラル」という精神の姿勢が読みこまれ、また「純潔」という価値が立てられるのだ。衣装と必死の気合で格闘する弓子の肉体は、そのような「モラル」が輝きでるくらい純粋だというわけである。  
道家の気哲学は人間概念を解体して、身体を「気」という自然へ解き放ったが、朱熹が完成した道学の体系は一度は解き放たれたこの自然を、天理という宇宙秩序と礼楽形政という社会秩序の二つの秩序によって挟撃し、名教の道という通路に引き入れたといっていい。朱熹は人間の自然化をはかった道家の気哲学を換骨奪胎したのである。 
2  
朱熹は「気」の陰陽論的な運動法則を、社会的な秩序と類比関係にある限りでの宇宙法則と同一視したが、石川はこの点において朱熹を踏襲しているといって差し支えない。「気」の主体にわりつけられた石川的な「形式」「用」「格子」「網目仕掛」は、なによりもまず社会的な秩序に属すものだからである。  
「八幡縁起」の木地師一統の祖である石別は、手ずから造った細工物に生命の息吹(気)を吹きこみ、器みづからに器の「用」を発揮させる。器が器の「用」を発揮するとは、山から里へと移動していき、器として万人に使われることをいう。なるほど、器に里へと移動する力をあたえたのは石別の氣合であって、その限りで「気」の支配は貫徹されているといえよう。しかし、器の「用」に目を向けるなら、自然とは別の他者の存在に行きあたらざるをえない。いくら石別が細工物に渾身の気合をこめようと、他者に「器」として認められなければ、それは器ではないからだ。逆にまったく手を加えない自然物であろうと、人に「器」として認められ使われるなら、それは器なのである。つまり、器はどこまでも社会的な存在であり、器の「用」とは自然における規定ではなく、社会における規定なのだ。そこには自然ではなく、他者が介在している。  
中村雄二郎はこう述べている。  
ここに瀬戸物の器があって、一目見るなり私はそれを灰皿だと思う(ヽヽヽヽヽヽ)。この瀬戸物の器をつくったのは私(ヽ)ではない。……そういうかたちにつくったのは焼物師であろう。だが、そういうかたちを灰皿のかたちとしたのはその焼物師ではなく、また多くの焼物師たちでもなく、灰皿を使う者たちから成る(人々)である。それを灰皿の形ときめたのは私(ヽ)ではないから、その限りでその人々(ヽヽ)は他者である。……たしかにそれを灰皿の形ときめたのは私(われ)ではないが、それを一目見るなり(私)が灰皿だと思ったのは、実は私(ヽ)が、それを灰皿のかたちと見る人々(ヽヽ)の目(まなざし)のなかで生まれ、育ったからである。私(ヽ)の目がそれを灰皿のかたちと見る人々(ヽヽ)の目と同化し、そういう(人々)の目に参与していたからである。したがって、その人々(ヽヽ)とは私(われ)を含んだわれわれ(ヽヽヽヽ)の目(共同主観)なのである。(『哲学の現在』)  
「私」が物をどう見ようと、感じようと、考えようと、「われわれ」の物の見方、感じ方、考え方──すなわち共同体のエートス、掟──と無関係でいることはできない。無関係どころか、前者は後者によって根拠づけられ、基礎をあたえられているのである。中村もいうように、斬新で独自で自由な創造といえども、「共同主観が形成した規範的・惰性的な意味の層」を土台とすることではじめて可能になるのだ。いや、そもそも「私(われ)」は「われわれ」に支えられ、拘束されることで、はじめて「私(われ)」なのである。生まれた瞬間から物心ついている者などいはしないのだから。  
条理の裡に生きるのは、石別の一族だけではない。石川の登場人物たちは、ひとしなみ条理、「掟」にしたがって生きており、しばしば桎梏となってさえもいる。だが、「掟」、条理が桎梏であるといっても、それは同時に石川的人物の自信を保持するものであって、生存の保証をあたえるものでもあるのだ。  
『六道遊行』の小楯のようにことさら老荘の章句をもてあそぶ者も、条理によって拘束・保持されていることでは他の石川的人物と異なるところがない。彼は二つの時代を行き来して、わが子であり、「わがこころの白玉」と呼ぶ玉丸の成長を見守るが、そこには歴然たる境界がある。  
「おれはわがこころの白玉を遠い世界の生死の海に投げこんで、その浮きつ沈みつ、行方も知れずながれてゆくのを、岸に立つてぢつと見てゐる。岸は絕壁だ。かなかとこなたとを分かつ境はきびしい。絕壁を越えて、かなたの海へと、おれのからだがざんぶり飛びこむことは許されない。境をやぶれば、おれといふものは木つ葉みぢんに砕け散るだけだらう。わづかに、おれは境の岸とすれすれに立つ。それからさきには一足も踏み出せない。」(『六道遊行』)  
小楯は時の壁に隔てられているがゆえに、玉丸が大観園ともまごう環境の中で甘やかされ、スポイルされていくのを拱手傍観するしかない。時間移動という荒唐無稽な設定にはじまる小説であれば、作中の約束事は作家の任意にまかされているはずだが、小楯を二十世紀の現実から隔てる境界をあえて設けるのでなくては、石川的小説は成立しないのである。  
侵犯した結果が「木つ葉みぢんに砕け散る」惨事に終るのは、小楯をさえぎる時の境界だけではない。「さらば垣」の十一郎は「透明な格子」を突き破ったことによって、「結晶が破裂するいきほひ」で血しぶきをあげ、死体として地べたに倒れふすし、「マルスの歌」の歌の「わたし」は、もう少し分別があって、「いざ起て、マルス、勇ましく……」という殺気だった歌声のあふれる軍国の世相を脱出するにあたり、天明狂詩というもう一つの条理に身を託して事なきをえたにしても、彼の妻はより本能的でより無防備であったために、架空の自分を演じて場あたり的に自他の目をくらましたあげく、自殺の演技が真に迫りすぎて本当に生命を断ってしまうことになる。「掟」、条理からはなれるとは、石川的人物にとって自己の生存を危険にさらす致命的な行為なのである。  
「掟」、条理にからのがれられないとすれば、そこに囚われた存在に徹することで、逆に「掟」、条理を内側から突破するという選択肢もありうる。「紫苑物語」の宗ョの場合である。  
彼は都の歌の名門に生まれ、幼くして抜群の歌才をあらわしながら、腑でをたたき捨てて武の道に進んだ。歌の家にあって歌を捨てるとは父に対する裏切りであり、家門への反逆である。勅選集撰者の地位をうかがう父はこの反逆児を見限り、取引きの道具に使う。宗ョは権門のやっかい者の姫をあてがわれて、遠国へ国司として下される。彼が家を捨てたなら、家もまた彼を捨てたのである。  
都を離れ、任国へ下ることで、彼は生まれ育った家から解放されたのだろうか?彼は毎日憑かれたように狩りに明け暮れるが、いくら必殺の矢を放っても、その矢は獲物を射通したと見えた瞬間、獲物もろとも「白日の宙に消え」てしまうのだ。だが、ある日、ふとしたことから彼の矢は獲物の血に染まる。彼はようやく悟る。歌道の家の「掟」が、弓矢の道に励む彼をなお歌の幻の裡に閉じこめていたことを。  
なぞは歌にあつた。おもへば、キから遠くあらあらしい天地の中に突きはなされて來て、はしるけもの飛ぶ鳥を追つて驅けめぐりながら、この一年のあひだ、いつたいなにを追ひなにをもとめてゐたのか。あらたに見つけた自然の豐饒と荒涼とのさかひに身を置いて、手の中の弓はじつはわすれられたにひとしく、このときおのづから發したものは矢ではなくて歌、ただしすでに禁じてゐた長歌短歌のたぐひとはちがふもの、まだいかなる方式も定形も知らないやうな歌が體內に湧き廣がり音にたたぬ聲となつて宙にあふれ、そのききとりがたい聲は野に山に水に空に舞ひくるつた。狩りに憑かれたといふことは、すなわち歌に醉つたといふことにほかならなかつた。わすれられた弓から、こころなき矢が飛んで、獲物もろとも、歌聲のただよふかなたに消え去つたとしても、不思議とはいへまい。(「紫苑物語」)  
「殺の矢」を体得するまでの宗ョにとって、鳥もけものも畢竟詠嘆の対象でしかなく、弓矢といえども歌と異なるところはなかった。彼は世襲歌人というわりつけを激しく拒絶しながら、自分がすべてを歌作の材料に切りつづめてしまう歌人の眼──歌道という条理、共同主観性──に囚われつづけていた気づかなかった。彼にとっては才能さえが拘束である。「うまれぬさきの世からうまくつくれるにきまつた歌を、どうしてこの世のかぎりつくりつづけなくてはならぬのか」。近代の詩人なら、その天分は「天才」という個人に属したが、宗ョの歌才は家に属するのだ。歌を捨てたあとも、父の体現する歌の家の「掟」は依然として宗ョを保持し、拘束しつづける。「歌は抑えやうとしてもあひかはらずしぜんにくちびるにうかびがち」なのである。  
「紫苑物語」は従来象徴主義の詩学との関係で論じられ、現実社会ともこの国の近代文学ともなんらかかわりをもたぬ孤高の達成と言われてきた。しかし、見られる通り、この中編小説の主題は父との、あるいは「掟」との相克にあり、詩的言語との格闘にあるのではない。宗ョと比較すべきなのはランボーやマラルメ、ヴァレリーではなく、「大津順吉」や「和解」の主人公であろう。もちろん、父を「敵」と呼ぶ宗ョの父子対立は、志賀的なそれとは位相を異にするが。  
「和解」の小説家は父との不和をこう語っている。  
自分は父に對してずいぶん不愉快を持つてゐた。それは親子といふ事から來るのがれられないいろいろ縺れまじつた複雜な感情を含んでゐたにしろ、その基調はなほ不和から來る憎しみであると自分は思つてゐた。自分は口でそれを話す時は比較的簡單な氣持ちで露骨に父を惡く言つた。しかし書く場合なぜかそれができなかつた。自分は自分の仕事の上で父に私怨をリらすやうな事はしたくないと考えへてゐた。それは父にも氣の毒だし、なほそれ以上に自分の仕事がそれで汚されるのが恐ろしかつた。(「和解」)  
父の影に支配されていた宗ョ同様、「和解」の「自分」もまた父の存在につきまとわれている。しかし、前者が「掟」、条理という位相で父とかかわり、対立していたのに対し、後者が父と葛藤するのは「情」、気分という位相においてである。石川的な家が「掟」の場であるとするなら、志賀的な家は「情」の場、気分の場なのだ。この相違がもっとも明瞭となるのは、両者が夫々つきとめる父の正体においてである。  
宗ョにとって父は歌の一門の長という権威のもとに朱筆をふるう、「おのれを迷はせにかかつて來るもの、たたかひを挑んで來るもの」であった。父は条理の体現者としての限りで「敵」なのである。歌道の条理をぬけたなら、伯父の弓麻呂が新たな武の「掟」の権威者として彼の眼前に立ちはだかり、彼の技量を嘲笑うだろう。そして、弓麻呂を倒した先には平太というもう一人の「掟」を負ったものがいる。平太は「ぢぢいも彫つた。おやぢも彫つた。そして、今ではおれの番ぢや」と、里(共同体)の人々の安寧のために崖に仏を彫りつづける。彼は世襲の仏師として「掟」そのものに同化しているのである。一門という共同体を捨て、世襲歌人というせせこましいわりつけを拒否することから、おのれの生を切り開きはじめた宗ョ(「とたんに、あやしい鏡に照らし出されたやうに、宗ョは何倍かにふくれあがつた未来のおのれの顔をそこに見たとおもつた。おちつきはらつた道化。宗ョは声をはなって泣いた」)にとって、このような男の存在が許せるはずがない。彼にとって平太は、たたき捨てたはずのかつての自分なのである。平太の生存を認めることは、自分自身の存在に朱筆を入れられるに等しい。これ以上の屈辱があるだろうか。平太こそ「おのれを迷はせにかかつて來るもの、たたかひを挑んで來るもの」の最たるものなのである。  
「敵」といわれる石川的な父の正体は、たとえ戯画化したような筆致で描かれるとしても、「掟」を負った権威者であった。では、ものものしげに描かれる志賀的な父とは、何ものなのだろうか?「和解」の小説家は父との対立を主題にした長編小説の構想を、次のように語っている。  
自棄に近いその年が腹立ちから父に不愉快な交渉をつけて行く。父は絕對にこの年を自家の門から入れまいとする。その他いろいろさういふ場合父と自分との間に實際起こりうる不愉快な事を書いて、自分はそれを露骨に書くことによつて、實際にその起こる事を防ぎたいと思つた。……そしてその最後に來るクライマツクスで祖母の臨終の場に起こる最も不愉快な悲劇を書かうと思つた。どんな防止もかまはずはいつて行く興奮しきつたその年と父との間に起こる鬪爭、たぶん腕力ざた以上の亂暴な爭鬪、自分はコンポジションノ上でその場を想像しながら、父がその年を殺すか、その年が父を殺すか、どつちかを書かうと思つた。ところが不意に自分にはその爭鬪の絕頂へ來て、急に二人が抱き合つてはげしく泣き出す場面が浮んで來た。この不意に飛び出して來た場面は自分でも全く思ひがけなかつた。自分は涙ぐんだ。(「和解」)  
あの重苦しい存在だった父という人は、祖母の臨終にのぞむや、「自分」と「抱き合つてはげしく泣き出す」はずだというのである。父と言い、家父長と言い条、彼もまた、祖母の子供にすぎない(「或る朝」では、「自分」は家族たちから「お祖母さんの子供」と呼ばれている)。このような認識をもたらしたのは我が子の死である。死別の悲しみは「父」である「自分」の寄るべなさを呼びおこすが、同時に、あの父という男の寄るべなさも明るみにださずにはおかない。「和解」は父という男を自分と同じ位置に引き下ろすことによってはじめて可能となったのである。  
一言でいうなら、石川的な父が制度としての父、形而上的なあるべき父であるなら、志賀的な父は生身の父、形而下的な現にある父である。「紫苑物語」は父子関係という現実に対して、「和解」や「大津順吉」とは正反対の方向から、しかし同じ切実さにおいて、切りこんでいたのである。両者は無関係どころか、表裏の関係にあると言わなければならない。  
石川にこの特異な位置を可能にしたのは、言うまでもなく、朱熹の理気二元論の思考である。朱熹のドグマを適用するなら、父子関係といえども情緒性を剥奪されて、圧倒するかされるかという「気」の力関係と、父の代表する「理」に対して主体の質点をどうとるかという運動系の問題に還元されずにはいないからだ。すなわち、「きもちといふ不潔なもの」をはらいおとしたところの「觀測ノート」(「無盡燈」)である。  
だが、このような力業にはある種の無理がつきまとわざるをえないだろう。たとえば朱熹は『孟子』の「人乍(ニワカ)に孺子(幼児)の将に井に入(墜)ちんとするを見れば、皆述易惻隠の心有り。……惻隠の心は仁の端なり」(公孫丑章句)を解議して、「惻隠情也。仁性也」と言っている。井戸に落ちようとしている子供を見て、可哀そうだ、助けてやろうと気持ちが動くのはあくまで現象面の出来事(「情」)で、天が人にわりつけた「仁」という本性(「性」)のあらわれであっても、「仁」そのものではないというのだ。体用の別でいえば「仁」が体で「惻隠」が用、未発已発の別でいうなら、原因である「仁」が未発、そのあらわれである「惻隠」の心が已発ということになる。しかし、なぜ、「惻隠」の心とは別に、「仁」の存在を想定してなければならないのか?宋学の最初の本格的な批判者となった伊藤仁斎が「道は行う所を以て言う。活字也。理は存する所を以て言う。死字也」(『語孟字義』)としたのも、ゆえないことではない。仁斎をついた東涯は、戯画的な筆致をもって、こう書いている。  
譬へばすなはち炎々の光いまだ著はれずして、炎々の理、いまだ燒かざる薪に具はる。殷々の理、いまだ撞かざるの鐘に涵む。故に朮易惻隱の心いまだ萌えずして、朮易惻隱の體、いまだ孺子を見ざるの先に存す。(『古今學變』)  
堀川の儒者ならずとも、日本人の素朴な生活実感からすれば、朱熹の理気の説は言語遊戯以外の何ものでもないだろう。昭和の批評家なら「美しい「花」がある。「花」の美しさといふ様なものはない」と言うところだ。小林秀雄もまた「悪の華」という「比類なく精巧に仕上げられた球体」から実感に回帰した常識家である。  
だが、素朴な実感に安住する限り、自己を自己たらしめている条理、「掟」は見えてこない。燃えあがる以前の炎を見、鳴りだす以前の鐘の音を聞き、「美しさ」そのものをもとめるのでなければ、そして宗ョのように「まだいかなる方式も定形も知らないやうな歌」と格闘するのでなければ、実感ということ自体、「理」、「掟」が原本的な所与からつくりだした一つの抽象だということに、気がつきもしないだろう。石川は実感をたたきすてて、「理」そのものを追いつめようとするのだ。  
「理」という実体の導入は、現にあるものとあるべきものとの対立を生みだすが、石川の小説はまさにこの対立を軸に展開される。たとえば、女性についていうなら、「普賢」の綱対ユカリから『天門』の組子対房子にいたる「色の女」対「恋の女」の対立であるが、この対立は自己そのものをも分割せずにはおかない。現にある自己とあるべき自己、「用」としての自己と「体」としての自己、已発の自己と未発の自己の分割である。ここに、石川の「半身」のテーマが生まれる。石川的人物は、いたるところで自己の半身さがしをおこなっている。完結した最後の小説、『天門』の東吉はこういっている。  
「おれは半端な人間だ。うまれたときからかうなんだ。おれの半分は今ここにゐる。あとの半分はどこにゐるのか。いつどこで、そいつにめぐり逢へるか。まつたく見當がつかない。おれが生きてゐるのは、そいつをさがすために旅をしてゐるやうなものだよ。」(『天門』)  
だが、自己の「あとの半分」をさがすといっても、それは瞑想的な内奥の探求という方向をとらないし、見出される半身も想像的な満足をあたえるような充実したイメージではない。東吉は、宗ョが「敵」をもとめてひたすら外へ突きすすんだように、街を歩きまわり、人とあい、俗塵紛々たる陋巷にわけいっていく。そして、小説の最後には「逃げる。逃げてゆく道に果樹園の夢の花も見えない。逆に夢から自分を追ひたてるほかなかつた」と書かれるように、恍惚に誘う「果樹園の夢」はくずれさり、彼は不断の運動、自己を超えでていく運動そのものへとなげかえされる。  
自己の本性(「性」)をもとめて、不断に外へ向かうこと──これは朱熹の実践論でもある。  
朱熹の実践論は古来論議を呼んだ「大学経」の一句、「致知在格物」にくわえた独創的な解釈にしめされている。彼の註にしたがえば「格、至(イタル)也」で、「知を致(イタ)すは物に格(イタ)るに在り」、すなわち天理を窮めるには広く具体的な事物を考究し、そこにあらわれた「性」を一つ一つたんねんに窮めていく必要がある、というのである。朱熹の学問が理学と呼ばれるのはこの点においてである。  
だが、博捜の末に窮められる「理」とは、また、あらかじめ自己にそなわり、自己を自己たらしめている「理」でもある。すでにそなわっているものを、なぜ外にもとめる必要があるのだろうか?外物を仲立ちとすることなく、吾心の裡なる「理」を直接に見いだし、現実の心をあるべき心たらしめていことする立場もまたありうる。この立場に即するなら、外界の事物を媒介に天理にいたるという朱熹の格物致知の方法は無意味なばかりか、注意を内なる真理からそらし人を迷わせる謬説といわざるをえない。ここから、朱熹の格物説を「支離」と非難する学説が引きだされる。心学と呼ばれる陸九淵、王守仁らの学説がこれである。  
王守仁は「心は虚霊不昧にして衆理具(そな)はり万事出づ、心外理なく心外事なし」と主張し、「格物」の「格」は「正す」、「物」は外界の事々物々ではなく、心の裡なる意念の動きだと釈義する。すなわち、「致知在格物」とは「知を致(きわ)めるには物(こと)を格(ただ)すにあり」であり、意念の動くごとにこれを正していけば、天理は吾心に実現されるというのである。このような何よりも主体の自律性を重んじる立場からすれば、朱熹の実践論は他律を根本としており、外物にふりまわされる危険性を内包していると言わざるをえないだろう(註1)。  
形のない秩序(「理」)を幻の鳥獣や木戸、格子構造の空間といった外物として提示する石川の小説が、「支離」を物語上の動因としていることは見やすい。石川の主人公は幻の鳥獣や、イエスに変ずる乞食少年にきりきりまいさせられ、文字どおり支離滅裂な行動をとるからである。  
だが、「支離」だからといって、ただちに自己を外物の裡に見うしなうと決めつけるわけにはいかないはずだ。実は朱熹はこのような批判を予想し、「大学或問」において、あらかじめ答えているのである。すなわち、彼は「心に求めず迹に求め、内に求めず外に求める。これは聖賢の学を浅近支離に陥しいれることではないか」と自問し、こう切りかえしている。  
人が学問を爲す理由(所以)は心と理だけである。心は一身をつかさどるが、その本体は虛靈であって、天下の理を管するに足りる。理は万物に散在するが、その用は微妙であって実は一人の心を外れることがない。內外苑eをもって論じるべきではない。(「大學或問」)  
心と理とは別々のものではなく表裏一体の関係にあり、心の探求は、即、理の探求であって、理の探求もただちに心の探求である。とすれば、内か外か、形があるかないかとこだわるのはおかしなことだ、というのである。朱熹はさらに「格物致知の学と、世にいう博物洽聞の学の相違はどこにあるか」と問いを立て、こう答えている。  
これは自分自身に反って理を窮める(反身窮理)ことをもって主とする。彼は外にしたがって多を誇ることをもって務めとなす。必ずその極を究めるにあたっては、ますます博く知ることをもってますます明るく、その実を覆えさないにあたっては、ますます多くを識ることをもって心はふさがる。(「大學或問」)  
自己探求の緊張を維持する限り、事々物々はすべて自己の本性をかえりみる契機となり、知識のための知識に陥ることも博学に埋没することもない、というのだ。注目すべきは「身に反りて」(反身)という表現である。それは、朱熹における自己が、他との関係において存立しているということであり、それゆえ他を鏡とし、他からの照らし返しを受けるのでなければ、自己は際限なく肥大していき「偏狭固陋」に陥らざるをえないということでもある。朱熹は、聖人という特異点は別にするなら、自己の実践的な他律性を認めているのであって、彼の立場からするなら、自己の自律性を強調するあまり自己の絶対視にかたむく陸九淵、王守仁らの主張は、仏老の教説に淫するに等しい。  
だが、外物(他者)を鏡とするという以上、自己の裡なる秩序はつねに他を媒介としなければ見いだすことができず、それゆえ、他の裡に自己を見うしなう危険は依然として内包されている。「支離」への傾斜は朱熹の実践論における構造的な弱みなのである。  
註  
この朱子学と陽明学の対立は、『狂風記』第三十節に、クーデタをたくらむ鶴巻軍団の二人のイデオローグ、鶴巻小吉と森山石城の議論として、作中に中心紋のように埋めこまれている。鶴巻軍団のクーデタ計画は旧来の体制の復活をめざすものだが、その際、小吉は「天地自然の理を人文の場に移して考へ」るべきことを説く。  
「日月の運行には宇宙を構成する物理法則がはたらいてゐるわけだから、人間の國には基本として人間の法則がなくてはならない。過去はかう、現在はかうと、ここまでは尋常の講義ですね。しかし、人間の國は現在のままでいいかどうか。これは義理にもいいとは申しあげられない。」(『狂風記』)  
小吉が主張する復古とは、天地自然の理を人間社会に実現し、がたぴしした社会を本来の姿に戻すことである。そのためにはまず、法則を探求すべきだというのだ。これが朱熹の祖述であることはいうまでもない。一方、「顯幽道」の提唱者、石城は自分の提唱する「道」とは世界観というほどの意味だが、「みなさんのうちにひそんでゐる(もしくはねむつてゐる)本然のたましひが目をさま」すことで納得いくだろうと説く。何のことはない、法則探求などは余計ごとで、体験学習一本にしぼれということだ。当然、石城の主張はこう締めくくられる。  
理論なんぞといふあさはかな後世の作り物をあてにはしない。教をぶつつけに身心にたたきこむ。劍です。劍をもって直接に教へます。(『狂風記』)  
石城の「顯幽道」は、内容については平田神学を戯画化しているが、方法においては陽明学である。 
3  
この本源的な受動性を知っているがゆえに、「無盡燈」の小説家は自分の元を去ろうとする弓子を責めることができない。  
「ぼくはのつけから、弓子については、堕落といふことがかんがへられない。弓子の生理の中には、堕落といふ觀念がぜんぜんはひつて來ないやうなぐあひだね。あの肉體がモラルを生きてゐるやうなものだね。どうして大した權威なのだよ。そして、當人は自分の權威には氣がつかないで、なにか他の權威をもとめさがしてゐる。そして、それがなかなか見つからないので、迷つてゐる。貪婪だよ。何でも食つてしまふのだ。ぼくもそろそろ食はれかけて來たらしい。さういふ弓子に惚れてゐるのだから、ぼくの惚れ方は抜きさしならないのだよ。」(「無盡燈」)  
最初、彼女の「權威」は前夫の弁護士だった。彼が「權威」でなくなった時、小説家が新たな「權威」となったが、今、彼女は別の「權威」を探そうとして、老作曲家に恋文を書いたり、あろうことか「必勝」という文字を紙いっぱいに書きつけてさえいた。「必勝」とは巷を跋扈する国家主義を「權威」として立てるに等しい。日本という国土が国家主義に蹂躙されたように、惚れた女も国家主義という「權威」に自分をささげようとしているのである。これこそ朱熹が警告した昏昧雑擾ということだろう。小説家ははじめて彼女に手をあげる。  
それにしても、この女人の倒れてゐるところはあまりに暗かつた。その手に燈を挑げもたせなくてはならない。そこに一燈がともれば、火は女人から女人へと、つぎつぎに移されて行き、傳へられて盡きず、いつか女人といふもののすがたを分明に照らし出すかも知れない。維摩が女人にむかつて無盡燈の法門を說いたのは、けだしゆゑあるのだらう。しかし、わたしにはとても維摩の器量は無い。そして、わたしの火はたつた一本の、燃えのこりの、痩せた蠟燭でしかない。その蠟燭も心ぼそくゆらぎながら、あはや盡きやうとしてゐる……(「無盡燈」)  
小説家が弓子の姿に、国家主義に蹂躙された当時の日本を重ねて見ていることは明らかだ(「世の中の狂ひかけて來たのにしたがつて、どうも女房の調子がをかしくなつてゆくやうであつた。」)。彼は「抜きさしならない」惚れ方をしている弓子に責任と無力とを感じるのと同じように、日本という国にも責任と無力とを感じているのである。彼は韜晦の姿勢をとっているとは言い条、あくまで「理」を奉ずる士大夫であり、士大夫としての責任がふしだらと見えかねない弓子の肉体にも「權威」を見いださせ、さらにはその語り口にユーモアを生みだしているのだ。「無盡燈」という短編の眼目は、このユーモアにあるだろう。  
ここで石川の最初の小説、「佳人」を思いだしてもよい。東京近郊に仮寓する主人公の青年は、周囲から「キチガイ」呼ばわりされながらも、臍(世界の中心)探しに明け暮れている。  
武藏野では一點に立つて隈なく見はるかす高みとてはないにしても諸君の立つ任意の地點がをりをりの展望の中心になりうるであらう。しかしこの土地ではそのやうな地點をさへどこに見出さう。どの點に立つて見てもひとはいつも片隅にしかゐない。この行儀の惡い腹の上に臍――たはむれにさう呼んだのだが――を探すことは容易なわざではない。第一そんなものがあるかどうかも判らないながら、わたしはぜひそれを探し出して見ようと夢中になつて……だがいつたいどうしてかかるばかばかしいことを思ひ立つたものだらう。元來山川草木には無綠のわたしなのだから、もしそれが退屈しのぎの氣まぐれであつたとしたらばやがてますます退屈になるほかはなかつたはずであるのに、この探索のあひだわたしは憑かれたもののやうに變化もない土地の上を馳せめぐり、いかなる崖のふち杜のはづれでもまだ見殘してゐた場所があるといちいちそこに行つてみづから展望をたしかめ、そしてすぐ失望して立ち戻つて、やはりいたづらなる跋蹤をつづけたといふのはどうしたことであつたか。(「佳人」)  
中心を欠いた風景のとりとめのなさが、「わたし」という主体のあやふやさと表裏することは見やすい。「わたし」は田野をかけめぐりながら、世界の臍だけでなく自己の臍をもさがしもとめているのである。だが、「わたし」は外にばかり眼を向けて、すこしもそれに気がつかない。朱熹は自己探求をわすれたいたずらな理の探求を「昏昧雑擾」と斥けたが、「わたし」が迷いこんだ迷路もまたそれにあたるだろう。  
やがて、思いがけないきっかけから「わたし」は自己の内部に目を転ずる。「わたし」が自己の内部に見いだしたのは空虚──がらんどう、まったくの無であった。無であれば、死ぬほかはない。「わたし」はこの観念に憑かれ、今度は「死を意識しつつ死ぬ」ことをもとめて狂奔する。自己の本体が死だというのはあまりにも危険な観念である。だが、死の内包という事実、自己が無をかかえこんで存在しているという事実に、「わたし」の生命力はかえって異様に昂ぶり、入水したものの、蚊・虻・蚋の大群に遭遇して思わず知らず岸辺にかけあがってしまう。この一途さは偏狭固陋というほかないが、そのあげく、「歩く一夜芙蓉の花に白みけり」の句が口をついて飛びだす。生命を賭した自己探求の試みを、「わたし」は自ら一場の詠嘆として詠み流してしまったのである。  
何といはう、わたしはただくち惜しかつた。この叛逆、この輕薄。わたしの生命を隙間もなく打ちこんでゐたはずのこの一夜をつい鼻の先に節をつけて唄ひ散らしてしまはうとは。今こそ燕ェが盡きはてて、またばつたり倒れた。(「佳人」)  
しかし、いくら地団太ふもうと、「わたし」という主体の本性をずばり指さすのはこの句であり、この句を思わず発したという事実なのである。もちろん、「わたし」もそれに気づいていて、だからこそ、鏡の中の自分の間の抜けた顔にあいそをつかすように、句に映りでた自分の生命力の旺盛さかげんにうんざりするのだ。この物語は「わたしはわたしはと、ペンの尖が堰の口でもあるかのやうにわたしといふ溜り水が際限もなくあふれ出さうな気がする」と書きだされているが、その「わたし」とは「歩く一夜……」という凡句が照らしだした「わたし」にほかならない。「わたし」という主体は「臍」でも「空虚」でもなく、この句の中に姿を映していたのである。  
「佳人」は格物致知、あるいは反身窮理の方法を小説において実現した最初の達成である。小説家石川淳はこの「叙述」(石川はなぜか「佳人」を小説と呼ぶことを避けている)の実践の中から誕生したといって差し支えない。分身、鏡、夢、言いちがえのテーマは石川が好んでたちかえるところであるが、それらはいずれも主体の裡なる秩序を映しだす半身のテーマの変奏であって、わが身にたちかえるための手妻なのだ。主体と理とはそれら半身を仲立ちにして照らしあい、自己として認識されるのである。自己は自己として独立して存在するわけではない。自己はいかなる意味でも実体ではなく、つねに他との関係においてしか存立しないのだから。石川はそのような自己の他律性を、朱熹とともに思考しているのである。  
「理」と半身にともなわれた自己を考察するには、ラカンの鏡像段階の理論が手がかりになる。  
ラカンは生後六ヶ月に達した幼児が鏡に映った自分の姿を「自己」と認めてびっくりし、大喜びしてこの像に固着する事実に注目し、鏡像段階の理論を提唱した。知られるように、生後間もない幼児には自己という観念はおろか、自他の区別もなく、自分の身体はもとより、呑みこんだ乳、排出した糞便、乳房に代表される母親の身体といった身の回りのあれこれがぐるぐると渦巻く混乱のただ中にいる。メラニー=クラインが示したように、幼児は寸断され四分五裂した身体感覚の中に投げこまれているのであり、それはちょうど「衣装」の主人公の不安に通ずるものがある。  
わたしのやうな不器用者が著るものとしては、洋服が一番よいと云ふのは、和服で外を歩くと蛇のごとくうねり始めるにつれてくるくると胴がよぢれ、自然足がこちらを踏んで亡靈に後髮を引き廻される人のやうにきりきり舞をさせられた揚句、つひ街頭で裸になり首も手も足もばらばらに宙に飛び失せる惧れがあるからで、かうしてネクタイでぎゅつと頭を撃止め、革紐で腰の蝶番を緊めつけ、跳ね出さうとする足の指を靴の中に押しこんでおけばどうやら娑婆の人間らしい形を保つてゐられようと云ふもの、現に今、死の十二時過ぎのこの築地の渡し場の冷たい腰掛の上で河面を掠めて來る寒風に吹きさらしになつてゐるのは或る女を待ち合はせるためにほかならない。(「衣装」)  
「わたし」は飛び散りそうな自己の統一を「衣装」によってかろうじて維持しているが、ラカンによれば、この服の原型は鏡に映じた自己像だという。生後六ヶ月から十八ヶ月の間の幼児は、鏡に映った自分の姿を見て大喜びするようになるというが、それはこの段階にまで発達した赤ん坊は、鏡像を自己の像と認める能力を獲得したからである。赤ん坊は自己が一つのまとまりをもった存在だとはじめて気づき、鏡の中の自己像に固着することで、自他未分の混沌を収給する端緒をつかむのである。鏡の中の自己像を核にして構成された原初的な自我は、鏡像が名前に、名前が「わたし」という一人称に交替するにつれ、ラカンが「大文字の他者」と呼んだ言語・「掟」・象徴的秩序の中に深くはまりこんでいき、恒常的な自我として構成されていくのである。ラカンはこの共同主観的な自我形成の運動を「図式L」と呼ぶ図によって示している。  
この理論が決定的な重要性をもつのは、想像的関係と呼ばれる自我aと「小文字の他者a'」の関係(両者の同一性は主体の空想の中でしか保証されない)が、鏡の中の自分を発見して大喜びする幼児期の一段階をすぎたあとも、自我の基層に、終生存在しつづけるからである。自我は確固たる実体などではなく、「大文字の他者」(言語・「掟」・共同主観・象徴的秩序)が、非人称的な主体(エス)に疑似餌としてあたえた「小文字の他者a'」を仲立ちとして、いわば「小文字の他者a'」を半身とすることによって、その照り返しで浮かびあがってくるにすぎない。鏡像段階の発見とは、自我の幻想性とその根本的な不安定性の発見なのである。  
「衣装」の「わたし」は服を奪われることで惑乱の極におちいるが、代わりにあたえられた菜葉服をまとうことで、鏡の前の赤ん坊そのままの喜びをあらわす。  
全く黃昏の部屋の中に菜葉服を取り上げたいまのわたしは遊山に行く子供のやうに胸のときめきを抑へがたく、しかもその服から誂へたやうにぴつたりからだに合つたのみならず、ばらばらになりがちの首手足をもまづ繋ぎ止めてゐるョもしさに「ああ」と叫びを發したのであるが、もはやわたしの「ああ」には沈欝の色の影もささず、これは歡喜に滿ちた金色の樂器の音であらうか、全身がぴかぴか光る喇叭になつたやうな浮かれごこちで、忽ちわたしは天井の低い室內からはちきれ、窮屈に露地の奥から迸しつて、かすかに潮の香の漂ふ街中へ飄々と飛び出してしまつたのだ。(「衣装」)  
ラカンは図式Lを説明して、こう言っている。  
人間がたまたま象徴的秩序について考えることになると、彼はまず自分の存在のなかに捉われてしまう。彼が自分の意識によって自分の存在を作りあげたという錯覚は、彼が主体としてこの秩序に入ることができたのは彼の同類(この場合、自己の鏡像)との想像的関係に特有の裂目を通してであるという事実に由来するのである。しかし、彼は言葉という根源的な通路をとおる以外にこのなかに入ることはできない。これはつまり、われわれがこれによって幼児の遊戯のなかに発生論的な契機を認め、しかも完全な形式では主体が絶対者としての「大文字の他者」に話しかけるたびに、言いかえるなら、それが主体を料理するのと同じ仕方によって、主体自身を無力にするような「大文字の他者」としての「大文字の他者」に呼びかけるたびにいつも新しく生まれてくるものと同じである(「「盗まれた手紙」のゼミナール」)  
ラカンの図式Lは自我が幻想だということを語っているだけではない。自我の図の四隅の中の一隅にすぎないが、人間は「図の四隅に引っぱられているもの」であって、他の三項もまた自我同様、人間を構成する本質的な契機だということを示しているのである。わけても重要なのは「大文字の他者」と呼ばれる言語・「掟」・共同主観・象徴的秩序の機能である。幼児や分裂症患者の混沌たる身体感覚におびやかされた人称化以前の主体は、「大文字の他者」から自己同一化の対象をあたえられることによって、はじめて人称的な自己として構成されるからだ。佐々木孝次氏はラカンの原図を書きかえて、主体の位置に「気」を、「大文字の他者」の位置に父ならぬ「世間」をあてている。日本的情況にあっては、父の機能(禁止・去勢)をはたしているのは「世間」の眼だというのである。いずれも佐々木氏の創見である。われわれもまた佐々木氏にならって、ラカンの図式Lを書きかえてみることにしよう。図2は石川における「気」と「理」の関係を示したものである。この図は非人称的な「気」の主体が、「理」から「理」を象徴する半身をあたえられることによって、しかるべき「用」、「役」、「分」をわりつけられた自己として構成される経路を一挙に示している。さらに図3は「紫苑物語」を、図4は「普賢」を示したものである。  
図自体の説明は必要あるまい。なぜこんな言わずもがなの図を作ったかといえば、半身というシニフィアンの運動をあぶりだすためである。宗ョの半身は歌から知の矢、殺の矢、魔の矢、千草、平太と移っていき、「普賢」の主人公ではクリスティヌ・ド・ピザン、ジャンヌ・ダルク、ユカリ、綱と転じていく。  
重要なのは、この半身の運動には二つの段階があるということだ。すなわち、半身のみが交代して自己が変化しない段階と、半身の交代とともに自己が変化する段階である。宗ョでいえば、歌から知の矢への交代が前者にあたり、知の矢から殺の矢、殺の矢から魔の矢への交代が後者にあたる。また、「普賢」の「わたし」でいえば、クリスティヌ・ド・ピザン、ジャンヌ・ダルク、ユカリの間を右往左往している間は前者で、小説の最後で綱を救いだそうと心を決める段にいたって、ようやく自己があらためられる。  
この二つの段階のちがいはなにに由来するのだろうか?宗ョは歌の道を捨てて弓矢の道(知の矢)を選んだが、その動機は父の加えた朱筆にあった。二通り可能な言いまわしのうち、宗ョが迷いに迷った末これだと決めた言葉を、歌道を奉ずる家の長である父は彼が捨てたことばに直してしまった。直されてみると、捨てた表現の方がまさって見えなくもない。熟考に熟考を重ね、命がけで下した選択が、こうも簡単に迷いに引きもどされるとは、歌道はなんと曖昧な道だろう。そのようなものに生涯をかける値打ちがあるのか。そうだとしたら、歌の家の長とは畢竟「おちつきはらつた道化」ではないのか。それが自分にわりつけられた未来の顔なのか。  
だが、自分が納得したどうかにかかわらず、先達の批評を受けいれる──古典主義とはそういうものだ。また、そうしてこそ、対象との自己満足的な一体感(ラカンが「想像的関係」と呼んだもの)を克服して、「掟」を内面化することができるのである。もし父の朱筆が気にいらないというのなら、朱筆を受けいれた上で、父以上の歌詠みになるべく精進すればよかっただろう。ちょうど、弓やの道において弓麻呂をしのごうとしたように。しかし、宗ョは歌を捨てた。実は捨てたのではない。逃げたのである。逃げたからこそ、彼は遠国の山野まで歌道の幻を引きずっていき、歌というシニフィアンに支配されつづけたのである。  
「普賢」の「わたし」にも同じことがいえる。「わたし」は世のため人のための菩薩行と称してクリスティヌ・ド・ピザン伝の筆をすすめているが、なにやかやと思いは乱れて、原稿はさっぱりはかどらない。  
……垂井茂市の身柄は喜劇役者の世話でともかく淺草の小屋へ、その間例のお組の病にからまる紛糾をのぞいてまづすらすら事がはこんだのは今こんな世間ばなしにあきあきしてゐるわたしにとつて何よりといふべく、これでやつと書きかけのオルレアン軍記について考へるひまができたわけであるが、早くも眼のまへに浮ぶのはジャンヌ・ダルクの顔、ユカリの顔、(ここで白狀しておくが、私の夢みるジャンヌ・ダルクの顔はいつもユカリの顔なのだ。)ああ、ユカリ。ユカリといへば……だが、何をいはう、タクシイはもう虎の門に著いて、あるビルディングの前にとまつてゐた。(「普賢」)  
歌を清算せずに弓矢の道にはいった宗ョが歌の亡霊につきまとわれたように、ユカリへの思いにふんぎりをつけぬまま、海彼の巾幗詩人よ、聖女よといったところで筆は宙におどり、ユカリそっくりのジャンヌの顔を虚空になぞるほかはない。「わたし」はやがて要望の無惨にかわりはてたユカリと再会し、ようやくこう告白する。  
今こそはつきり底を割つてしまへばそもそもわたしが心にもなく歷史の反故の中からクリスティヌ・ド・ピザンのやうな皺深き老女の殘骸をペン先にからげてみたのはジャンヌ・ダルクに引懸かりをつけよう魂膽であり、そのジャンヌ・ダルクとの結綠といふのがじつは噓のかたまりで、十年以來夢うつつに心を惱ませる姿を前に綿綿とかきくどかうとした癡情の沙汰にほかならず、それとてもつまりは肝腎のユカリの正體がもやもやと雲に包まれてゐたためであらうか、此の如き事情ではわたしの文章は初めから出來上る日のないことにきまつてゐたやうなもので、そえゆゑにこそ書かずにはゐられぬ猪レに落ちたのだといふたぐひの辯解は……(「普賢」)  
「わたし」にとって書くとは自己愛的な循環の中で、半身の間のどうどうめぐりを繰りかえすことでしかなかった。結局、「わたし」はユカリに固着しつづけ、ユカリという半身に支配されつづけたのだ。同様に、「知の矢」の段階の宗ョも、歌の道を本当の意味では断念してはおらず、弓矢の道に入ってなお、歌という元のシニフィアンに支配されつづけていた。だが、「殺の矢」の段階にはいった宗ョは異なる。「知の矢」(「歌」)は「殺の矢」という新たな半身に完全に置き代わってしまい、宗ョはこの新たなシニフィアンが支配する世界に足を踏みこむことになるからだ。  
支配的なシニフィアンの交代が起こるかどうか──ラカンはこの二通りの運動を、夫々「換喩」、「隠喩」として定式化している。たとえば、辞書で「巾幗」という語が「閨秀」という語を指さし、「閨秀」という語が「閨房」という語を指さすというような際限のないシニフィアンのたらいまわしを、ラカンは「換喩」の運動と呼ぶ。これに対し、「弓矢」という語が完全に「歌」に置き代わってしまい、「歌」ではなく「弓矢」という語が対象の意味を支配するようになることを、「隠喩」の運動と呼ぶ。この分割は、宗ョと「普賢」の「わたし」の場合にも適用可能だ。図で示せば、こうなる(図5)。  
図中「母の欲望」とは、主体が根源的にかかえている欠如をあらわす。それが「母(ヽ)の欲望」と呼ばれるのは、人間は生理学的な事実として無力な、一人では給餌も排泄も思うにまかせない欠陥生物として誕生し、長期にわたって母(ないし母の位置にあらわれる他者)に依存せざるをえないからだ。母は誰にとっても最初の半身なのである。その意味で、母への固着は性別、文化の別をとわず、普遍的に見られる事実にちがいない。しかし、その度合は異なる。もし母なのものへの固着が強すぎるなら、「掟」を受けいれることのないまま、半身との想像的癒着は一度も切断されず、ただ水平的に交代していくだけだろう(上に示した「換喩」の運動)。いわゆる「甘え」の関係である。しかし、母なるものへの固着より、その一体感を断ちきる父なるもの(「大文字の他者」)の機能が強いならば、すでにある半身は断念され、あらたな半身があらわれるだろう(下に示した「隠喩」の運動)。そして、それが、象徴的秩序の中に一層深く参入するということなのである。  
ここで対照として、「大津順吉」の場合を見よう。順吉は早く母を亡くし、祖母の手で育てられ、当然、祖母に強く固着している。その彼が教会で教えられた「妻にする決心のつかない女を決して戀するな」という格率にしたがって、二度、すこぶる不熱心な恋をする。第一部で登場する混血の少女と、第二部の主題となる下女の千代との恋である。不熱心だというのは、ともかくも駈けおちするとまで思いつめているはずの千代に対してすら、こういう煮えきらない態度でしか向かえないからである。  
私はいつか、段々に千代を愛するやうになつて行つた。不機嫌な時に千代と話をすると、それが直ぐに直る事がよくあつたのである。(「大津順吉」)  
結局、彼は千代を母代わり、祖母代わりにしていたにすぎない。千代のために責任をとる、家を出ると息まきながら、祖母に看護される時の「自分」と、千代を求める時の「自分」、さらに混血少女の前で気おくれする時の「自分」は、いずれも去勢を回避した「自分」であって、本質的に異なるところがないのだ。もし、母=祖母を断念した上で千代なり混血の少女なりに向かっていたなら、順吉は夫々しかるべき「自分」の形を得ていたかもしれない。だが、彼は彼女たちに対しては妙に醒めていて、そういうありうべき「自分」を「痴情に狂った猪武者」と感じたり、ハイカラすぎると感じてしまうのである。彼は畢竟、子供としての「自分」にしかリァリティを感じないである。裏返せば、母=祖母への固着はそれほど強固なのであって、「世間」の代表者ともいうべき友人の手紙に「だうしてもいちばん不幸なのはおばあさんだ……」とあるのに涙ぐみ、出奔を簡単にあきらめてしまうのも当然と言わなければならない。  
順吉の後身が「和解」の小説家だとすれば、祖母の子供としての父を発見した時、「調和的気分」の端緒がえられたのも道理である。順吉を翻意させたのが父の家長としての権威ではなく(家長としての父に対しては、彼は意地になるだけだ)、祖母を引きあいにだした友人の手紙だったように、小説家と父との和解もまた祖母の前でなされるほかはないのだから。志賀はいかなる「掟」も、象徴的秩序も、すべて嘘としか見えないほど徹底して自己愛的な世界を描いたのだ。私小説は父との相克を追及するとしながら、その実、父性を徹底的に無視していたのである。 
4  
すでに見たように、石川の小説は宋学の思考をその根幹とするが、では、石川は「南総里見八犬傳」ばりの道学の絵解きを書いたのだろうか?  
もちろん、「八犬傳」を単なる道学の絵解きと断ずることはできない。近年再評価が著しいように、馬琴は道学のあからさまなプロパガンダと見える結構を自他への口実にして、その実、倒錯した幻想を喜々としてくりひろげているからだ。馬琴の小説は、内容においては道学そのものだが、叙述の表層においては道学へのあからさまな離反を志向しているのである。  
石川の小説は「八犬傳」のような意味で道学的ではないし、また反道学的でもない。馬琴は結果としてはどうであれ、執筆の動機としては仁義八行の徳目の宣揚を念願して八犬士を構想したはずである。「八犬傳」は儒教道徳を内容としようとした点において道学的であったが、結果的には、物類相関のグロテスクな空想を跳梁させた点において反道学的となった。  
石川の小説はこの二点において異なる。石川的な小説が朱熹の体系に負っているのはその形式であって、仁がどうの義がどうのという内容においてではない。いや、むしろ、仁義道徳という徳目については拒否的ですらあって、登場人物にはことさら道家の言を語らせ、道学者流の道徳を批判していもいる。石川の小説は内容的には反道学的なのである。多くの評者が石川を道家の徒と早とちりするゆえんだが、そのことは石川的小説が形式においても反道学的であること、まして道家的であることを意味しない(註2)。  
ここで注目したいのは、盛大介が展開する二つの道徳という説である。大介は生活を捨てても追及すべき目的とはなにかと訊かれて、「それは道徳です」と答えている。  
「しかし、じつはいひやうがなかつたのでした。ぼくがまだそれを探りあてるに至らぬことはもちろん、第一はたしてそれは道コ(ヽヽ)と呼ばれるべきものかどうか不明なのです。まだ名のない法則、人間がこれからわからうとする法則……今、ぼくは道コ(ヽヽ)といひました。あなたがそれを實名として理解してゐるものの呼稱を、ぼくはかの遠い法則の假名としてここに借用しました。あるひは、われわれの無名の法則とわれわれの有名の道コとは、紙一重の差かもしれません」(『白描』)  
彼はさらに語をついで、「無名の法則」とはラプラスの「魔が秘蔵すると傳へられる玄妙の宇宙式」だと言っている。  
一見すると、彼が批判する「有名の道徳」が既成の儒教道徳で、「無名の法則」が道徳を否定した道家流の天衣無縫の生き方と見えるかもしれない。だが、「われわれの無名の法則とわれわれの有名の道徳とは、紙一重の差かもしれません」とあるように、両者は決して対極のものとして対比されているわけではない。「無名の法則」もまた人間がしたがうべき法則であり、「道徳」であることに変わりはないからである。大介は「道徳」そのものを批判しているのではなく、「玄妙の宇宙式」を根底とする新たな「道徳」を立てるべきだと主張しているのである。  
この主張の背景にあるのは、またしても朱熹の思考である。そもそも「法則」を「道徳」と同一視すること自体、きわめて道学的な発想と言わねばならないが、「玄妙の宇宙式」を「道徳」の根底にすべきだという定式はさらに道学的である。  
先にふれたように、朱熹の体系にあっては「理」は、道家の説く「道」のような宇宙の法則であると同時に、礼楽にその最高の表現を見る人間社会の秩序であるとされた(「礼楽者天理之節文」「論語集注」)。「理」は自然的側面と社会的側面という二つの顔をもつ、二面的な存在なのだ。朱熹はこの「理」の二重性を統一するために、「所当然之則」、「所以然之故」という階層構造を提唱した。  
天下の物にいたっては、すなわち、必ず各々そうである所以の原因(所以然之故)と、そのまさにそうであるべき所の規則(所當然之則)とがある。いわゆる理である。(「大學或問」)  
朱熹の体系では、礼楽として確立された漢民族の伝統的な社会規範(「先聖之道」)と、森羅万象をつらぬく宇宙の法則とが「天理」の名のもとに統合されたが、この時用いられたのがまたしても「所以」の論理である。「気」の離合集散する根拠、「所以」として「理」という実体が想定されたように、現実の倫理規範(所当然之則)を規範たらしめる根拠、「所以」として、宇宙法則(所以然之故)が立てられたのだ。現象の根拠、未発の本体である「理」が、それ自体、已発の層(所当然)と未発の層(所以然)とを持つことになったのである。巧緻な思弁と言うほかはない。  
大介の「有名の道徳」「無名の法則」という二重構造が、朱熹のいう「所当然之則」、「所以然之故」という「理」の二重性を踏まえることは見やすい。さらに「虹」では対照的な二人の主人公──小助と久太──を登場させて、久太に「有名の道徳」「無名の法則」の別を言わせている。  
小助は三代つづいた絨毯問屋の当主で、人間の「生活の場」である絨毯を世界中すみずみにまで敷きひろげたいと念願している。彼が既成道徳、大介のいう「有名の道徳」を体現していることは明白だろう。これに対して、久太はいかにも石川ごのみの無頼漢である。彼は父を殺し、母を犯し、サギ、強盗、脅喝、誘拐とあらゆる悪徳をくりひろげ、浪費はしほうだい、念願するところは一夜の歓をつくす夜会で地上をくまなく覆うことだ。しかも、あると見えた莫大な財産も燃え残りの朽葉だけ、その住むところも、つかの間、空にゆらぎ立つ虹である。水平と垂直と──およそ共通点のない二人だが、久太は小助の妻の組子を奪い、夜会の出席者の前で公然と犯してしまう。  
妻を犯された小助は、「生活の場」を暴力で踏みにじられたと憤るが、久太は組子は暴力で奪ったわけではない、不倫と見えるこの関係は、宇宙の法則に則ったものだと答える。  
「かういふ關係は宇宙的な性質のものといへるでせう。したがつて、そこには必然に太陽のエネルギーがはたらいて來るでせう。」(「虹」)  
それは大介のいう二つの道徳でも同じである。大介自身、はじめは「薄紙一枚」の差のつもりだったが、画家として表現をつきつめるにおよび、両者は危機的な分裂を露呈する。  
かつて、ぼくは足の裏にふれてゐる薄紙の感觸と、地べたのそれとを、同時に具體的にかんじてゐました。薄紙に立ちつつ足はまだ地べたと綠がありました。ところが、突然その間の差が數億里になつたのです。ああ、何が紙一重であるか……ぼくは薄紙の上に道コ(ヽヽ)とともに遥かに飛び去らうとしつつ、もう一人のぼくは無道コきはまる痴者として地べたに取り殘されました。(『白描』)  
宇宙の法則(「無名の法則」)というものはある。だが、その法則は人間などには洟もひっかけず、まして、「有名の道徳」に代わる条理を人にあたえてくれるわけでもないのだ。「有名の道徳」を捨てて、宇宙の法則につこうという者は、寄るべない「無道徳きはまる痴者」として、不条理のうちに生きるほかはない。だが、大介はこの「無道徳きはまる痴者」として振るまいつづけることに耐えられず、死を選んだ。久太も自ら選んだ虹を「人間のゐない土地」、「鑛物」と呼び、それが人間的秩序を超えた次元であることを強調する。石川にあっては「所当然の則」と「所以然の故」は一致しないのだ。なぜか?  
この問いは、朱熹では、なぜ一致したのかと逆に考えた方が早い。朱熹が現にある人倫の秩序(「所当然の則」)の根底を、宇宙の法則(「所以然の故」)が支えていると考えることができたのは、歴史的な変革の時間を切り捨て、時間を永遠のくりかえしと見なしたからだ。朱熹の精緻をきわめた体系では、王朝の交代はあっても易姓革命にすぎず、現にある社会の秩序は宇宙の秩序に裏打ちされて、永遠につづくことになる。ちょうど水銀の川が循環し、宝玉の日月星辰が燃えるという始皇帝の地下宮殿のように。あるいは、観覧車の上からながめた巷のけしきのように。  
ふたりを乗せて、觀覽車ははまはりはじめた。おもちやのやうな仕掛でも、それはともかく宙をまはつた。目の下に池が見え、町が見え、そこにむれつどふひとのKいあたまが見えた。そのKいあたまの一つに荒貝がゐて、いつ破裂するか判らないダイナマイトをふところに、ここか、そこか、港のどこかに、機をねらつてひそんでゐるやうであつた。いづれ平板もこのおなじ巷の中にもどるといふ。またいつかはブラ半も出獄して來るだらう。いや、その出獄を待つまでもなく、ブラ半の代りはぢきにあらはれるだらう。リャク傳の代りならば、げんにくさるほどある。ばか丁寧にも、ゲタ哲の代りにさへ事は缺くまい。役者はいつも無數の代りをそろへて、何のことはない、いつも世は元のままではないか。ダイナマイトが破裂しないかぎり、その破裂がたつた一つだけで消えてしまふかぎり、世は元の杢阿弥だらう。巷のけしきはさしあたり太平樂をきはめてゐた。(『白頭吟』)  
ダイナマイトが破裂しない限り、そしてそれがただの一発で終ってしまう限り「世は元のまま」で、歴史的な変革の時間は動きだしはしない。石川は真理の表徴を朱子学的な永遠の秩序──天理──の中にではなく、偶然と死にさらされた歴史的時間の中に見ているのである。  
なぜそんなことになるのか?朱熹は「所以」の論理によって、物事の根底まで考えた。現にある秩序の根底に、宇宙の永遠不変の秩序を見いだしさえした。しかし、それは根底までしか考えなかったということでもある。朱熹の思考は象徴的秩序、人間を人間たらしめる秩序の根底を見いだしたところで停止してしまったのである。では、朱熹が根底だとする「所以然の故」に「所以」の論理をつきつけたらどうなるか?根底以前のもの──無底が黒々と口を開くにちがいない。  
無底とは、たとえば、『荒魂』の佐太の出てきた穴である。「秩序に反して、鬼子は穴の底から這ひあがつて來た」といわれる佐太には、人倫秩序も言語も道徳ももとより一切およばない。外から見ればその姿は千変万化し、内から気を発すれば「やる」も「よこせ」もただ一種の気合ですむという。間引きされた嬰児である佐太は、鏡像段階もなにもなく、いわばむきだしで根源的な欠如状態をさらしているのである。象徴的秩序の側からいえば、佐太とは歩く特異点であり、生の連続にうがたれた底無しの穴なのである。  
だが、『狂風記』のヒメも言うように、「死があればこそ生がある」。永遠不変の「理」にわりつけられた「気」、時間性も死への可能性もふくまない「気」は、生命的実体とは言い条、決して本源の生命ではありえない。まして、佐太のような「バケモノ」の発する気合とは別物である。佐太の気合を気合たらしめているものは、何か別物なのだ。  
「缺陷。缺陷があればどうしたといふんだ。ひとはそこから花を咲かせるほか缺陷を處理するすべはないんだ。シモンズだかだれだか、だれでもいい、紙にぱつと花が咲くやうに書けといふ。豚になめられたやうに萬遍なく出來上がつてゐる人間にそんなみごとな藝當ができると思ふのか。抜目のない人間なんかこはくも何ともない。花の咲き出るやうなあなが眞Kにあいてゐる人間がこはいんだ。」(「普賢」)  
「缺陷」、人間に「眞黒にあいたあな」からこそ、花は咲き出るのだという。もちろん、ひとたび咲き出た花は散って、枯れるほかはない。花とは有終的時間であり、死へと向かう時間なのだ。ここに語られているのは生命にはちがいないが、ただし死をかかえこんだ生命である。「気」と「理」という二つの実体で整序される以前の、死の可能性の中で反り身になって耐えている生命、死へ向かう時間そのものであるような生命が指さされているのである。それはまた、佐太や久太の「バケモノ」のような生命でもある。  
このような本源的な生命からするなら、日常的な条理をわりつけられた生命は、明るく見えても見かけの明るさにすぎず、その正しさも見かけの正しさにすぎない。久太は小助の妻の組子を犯して歓喜の太陽の叫びをあげさせるが、小助がつめよると、こういなしている。  
「罪。もし罪をさがすとしたら、それは暗いところに、不便なところにあるでせう。すなはちあなたの側の、見かけのあかるさの中にありさうですね。あなたが組子を抱いたといふことは、あるひは組子が罪を抱かされたといふことになるかも知れません。ぼくたちの結合に依つて、組子はあなたの力の閉鎖から脱け出して、一足とびにあかるいところに翔けあがつて來ました。さつき、あなたもさだめしお聞きになつたでせうが、組子はじつにみごとな歡喜のさけびをあげましたね。あれは太陽を讃へるうつくしい歌ですよ」(「虹」)  
「力の閉鎖」とは単に小助の絨毯世界を評した言葉ではなく、朱熹の精緻な体系を評した言葉であるかもしれない。石川は朱熹の体系に、朱熹自身の「所以」の論理をつきつけることによって、「理」と「気」の秩序に亀裂を入れた。その亀裂は剥き出しになった死の可能性であるが、しかし、花という有終的な時間を咲き出させてもいる。「気」、あるいは「理」は、この有終的な時間にもとづけられて、はじめて「気」であり「理」でありうるのだ。  
石川は朱熹がついに体系にふくめることのできなかった、生まれて死ぬという有終的な時間を、花の形で小説に導きいれた。虹に乗って去っていく久太を、石川は花とともに描いている。  
「もしだれかがぼくの行方をきいたとしたら、ぼくといふ人間はそもそもこの地上に存在しなかつたのだと考へて下さい。」  
とたんに、久太は虹に乗りうつつた。小助はそこに、ちらりと、額に角のあるこどもの顔を見た。コスモスの花がゆれた。太陽が照り海が照りかへすはげしい光の中に、コスモスの花は空いちめんにひろがつた。小助はくらくらとして目をつぶつた。そして、すぐ目をあけたときには、久太のすがたは見えず、虹は消えてゐた。(「虹」)  
石川の小説が高度の思弁性にもかかわらず観念の絵解きで終らないのは、生まれて死ぬという具体的な時間を押えているからである。花の知慧とは咲いて散ることだ。語るべき思想をかかえて右往左往することは文字のけがれでしかない。問題は言葉をもって花の知慧を生ききることだ。石川の小説がつねに新たな生へのうながしであるのは、この知慧を身をもって生きているからなのである。  
註2  
石川において、内容面で反道学であるのは小説に限っていえることで、エッセイにでは、内容においても明らかに道学的である。たとえば、「敗荷落日」で石川は荷風に対して激烈な弾劾を加えたが、その第一の理由は晩年の荷風が読書の習慣を廃したことであって、その背景には士大夫たるもの読書によって日々収容につとめるべきだとする道学の観念があるといっていいだろう。 
 
『鷹』 

 

昨年の冬から今年の夏にかけて、一時代を画する学者、文学者、演劇人があいついで世を去った。雑誌はほとんど毎月のように追悼特集を組んだが、宇野重吉や尾上松禄のように最後まで現役をつづけた大家が多かっただけに、ひとしお時代の節目を感じさせた。後世の出版研究者は、1988年を追悼号の年と呼ぶかもしれない。  
文学の世界でいえば、最も多く追悼の文字が手向けられたのは石川淳だったろう。年頭の文芸誌はこぞって石川追悼をかかげ、夏には「昴」の追悼特別号と「ユリイカ」の特集号が刊行された。絶筆となった長編小説『蛇の歌』と、未刊の随筆集『夷斎風雅』も日ならずして書店の店頭を飾った。  
『狂風記』の後の『六道遊行』はお世辞にもおもしろい小説ではなかったが、『蛇の歌』は力の滾々と湧きでる不思議に典雅な恋愛小説である。ある意味でこれは「白鳥の歌」なのだが、彼岸を象徴する「白鳥」ではなく、あくまで現世における脱皮・新生の象徴、「蛇」を選んだところに、石川淳の生命力の秘密があった。多くの論者が惜しむように、わたしもこの作品が未完で終ったことを残念に思う。  
だが、この作家がなぜあれほどまでに敬慕されるのか、大多数の読者にはわかりにくかったのではないだろうか。「偉い人たちが偉いといっているんだから、きっとすごく偉い人だったのだろう」それが一般的な感想だったのではないか。  
石川は名声ほどには読まれている作家ではない。『狂風記』や『森鷗外』、「紫苑物語」は一応は文庫に入っているものの、大書店にいかなければ見つけることはできないし、肝心の「虹」や『白頭吟』、「八幡縁起」のような50年代の代表作となると、岩波版選集でなければ読むことができない。石川の全貌を知るためには、50年代の作品が絶対に必要なのだが。  
今回、短編集『鷹』が講談社文芸文庫の一冊として上梓されたが、これを期に石川の仕事を振り返ってみたい。  
石川淳はいつの頃からか、「弧高の作家」と相場が決ったらしい。高雅で反俗的な姿勢。和漢洋にわたる学植にささえられた神技の名文。現実を超越した完璧な言語芸術を作り上げた前衛的な作風、等々。石川にはこうした賛辞が捧げられてきたし、追悼にも同じような言葉が連ねられている。  
その反面、江藤淳氏のように「長槍で戦車にたちむかう時代錯誤の小言幸兵衛」(『作家は行動する』)と評する人もいる。  
対照的な評価のようだが、賞賛するにせよ、諷するにせよ、どちらも同じことを言っているにすぎない。石川を「弧高」の作家という特別席に祭り上げ、「なんだかわからないが凄い人」で片づけている点では変りがないからだ。  
それは文学史的な位置づけにおいても同様である。  
荷風の後継にしてはいささか俗事にうとく、無頼派にしてはあまりにも堅実であり、埴谷雄高のように形而上学的と持ち上げるには明解でありすぎ、異端のレッテルを貼りつけるにはあまりにも正統的であるこの作家は、「弧高」の作家として特別席をあてがっておくしか、遇しようがなかったにちがいない。  
作品が日本的現実から遊離しているという見方と、文学史的に孤立しているという見方は表裏をなす。  
現実に対する切り込み方が確定できれば、それぞれの仕方で現実とかかわってきた他の作家との比較が可能になり、自ずと文学史的な位置づけも定まるからだ。石川が批評的にも、文学史的にも「弧高」の作家として棚上げされているのは、石川の日本的現実に対する切り込みがまだ本当には問われていないということを意味している。  
たとえば、今回文庫化された『鷹』だが、この小説を野口武彦氏のように「革命伝説」と呼ぶのは、現実の左翼運動と関係づけているようでいて、その実、運動にかかわろうとする反権力的な気概を歌いあげたというように、「弧高」の位置を再確認するものでしかない。  
それはそうだろう。ここに描かれているのは、どう考えても現実の政治運動ではなく、タバコの煙が物質化したり、新聞の活字が勝手に歩きだしたり、キュロットをはいた少女が鷹に変身したりする幻想世界の革命なのだから。  
他の論者のように、民衆の無政府主義的なエネルギーとか、反対に、現実とは係わりを持たぬ言葉の純粋エネルギーとかいっても、それは野口氏的な気概の論を言いかえたものにすぎぬ以上、江藤淳氏の「小言幸兵衛」批判をまぬがれはしない。  
では、石川は正真正銘浮世離れした気概の作家なのだろうか。  
そうではない。それは『鷹』という小説の眩いを誘うような異様な迫力が何より証明している。そして、何とは名指せないにせよ、その迫力を知っているからこそ、多くの人が石川に一目も二目もおいているのだ。  
その迫力については、わたしは以前、文体論的な角度から考えたことがある。くわしくふれている余裕はないが、わたしがそこに見いだしたのは「気」という言葉に結晶した伝統的な身体観であり、また「気」の世界を思考する朱子学の強靱な論理だった。  
この数年、漢方医学の見直しや、東洋的な身体観の再発見を通じて、「気」という言葉が注目を集めているが、そうした探求の多くは、「気」一元論的な方向に直進し、ともすれば山川草木悉有仏性的なアニミズムに溶解し、曖昧な一体感の確認で終りやすい。行き着く先は日本的な、あまりにも日本的な人類皆兄弟式の神秘主義である。  
確かに生きとし生けるものが等しく根源的な生命のあらわれであり、すべて一体であるという思想は妙に魅力的だし、われわれは高度資本主義社会に生活しながら、そうした原初的な感性をまだ濃厚に残して生きている。それは強みでもあるが、ともすれば一体感至上主義やうやむや主義に陥る危険性をはらんでいる。神秘主義アレルギーが生まれるのも、むべなるかなである。  
だが、神秘主義に踏み込みながらも、そこに分別知の光をさしいれ、蒙々たる「気」の運動の中に、微細な構造化やミクロ的な力学を見ていこうとする研究も現れてきた。『悪党的思考』をはじめとする中沢新一の最近の仕事がそうである。  
中沢はすべての対立をうやむやにしてしまう山川草木悉有仏性的なアニミズムを「日本的マンダラ」と呼び、その成立過程を精密に検証することで、天皇制の秘密にこれまでにない解明を加えたが、日本的感性の解剖と、そうした感性によってささえられた天皇制の解読において、石川の小説には中沢の論を先取りするものがある。  
それは日本の王権の秘密を主題にした「八幡縁起」のような小説や、幕末を舞台に隠れキリシタンが革命を起こすという奇抜な筋立ての長編「至福千年」においてはっきり主題化されているが、しかし、単に主題のレベルだけでなく、文体のレベルにおいても「日本的マンダラ」の威力への身を持っての認識と離脱は遂げられているのである。  
石川の小説の解明は、今、ようやくはじまろうとしている。 
 
『紫苑物語』

 

リグナイト葬儀社を経営するヒメと「裾野」で骨を探しているマゴが、あるとき出会う。ヒメは井伊直弼に仕えて悪名を流した長野主膳の末裔らしいのだが、やがてマゴもヒメもイチノベノオシハノミコの血統だということが判明する。  
忍歯別(オシハワケ)の伝説である。それを下敷きに持ち出して何度か捻り上げ、1000年の時空をまたぐ乱脈の物語地図を書こうというのだが、さあ、そのへんまで読んできて、これはひょっとして半村良にも及ばない大失策かと見て取れた。  
大作『狂風記』のことである。石川淳にして、ついに衰えたのかとか、御乱心めされたかとか、そう、見えた。さすがにギョッとした。鳴り物入りでこの大作が発表された昭和55年のこと、すぐ上下2巻を買って読み始めたときのことである。  
ついついそう思えたのだが、しばらく読みすすむうちに、別の感慨が動き始めた。「此世というやつは顛倒させることなしには報土と化さない」という言葉がふと思い出されたのがきっかけだった。往年の傑作『普賢』のなかの一節だ。  
そう思うとたちまちにして、なんだこれは『虹』や『荒魂』が膨大に換骨奪胎されていたのだということにピンときた。  
いや、それだけではない。『狂風記』に入れ替わり立ち代わり登場してくる破天荒な人物たちは、『修羅』の足軽、『至福千年』の非人、『紫苑物語』の弓取り宗頼といったアウトローの主人公たちと、まったく同じ象形文字で書かれていたわけなのである。  
そうだったのか、『狂風記』は石川淳の短編の集大成なのか(長編はこれが初めてに近かった)。これは石川ファンとしては、さすがにホッした。  
しかし、なぜこんな勘違いをしてしまったのか。ここに、石川淳を読む難しさがあったわけである。  
われわれは石川淳が“江戸に留学した”ことを、あまりに重視しすぎてきた。江戸戯作のアルチザンとして、石川淳を貴重に畏怖しすぎたために、その自在な方法意識がいったい奈辺にあるかをつい見失っていた。  
そもそも石川は骨法の達人だった。書の骨法ではなく、文の骨法である。その骨法は、次のような文章で見えるようになっている。「随筆の骨法は博く書をさがしてその抄をつくることにあった。美容術の秘訣、けだしここにきわまる。三日も本を読まなければ、なるほど士大夫失格だろう。人相もまた変わらざるをえない」。  
洒脱で聞こえた『夷斎筆談』にある一節を引いてみたのだが、何を言っているかというと、日本の士大夫とはどういうものかを宣言している。いや、日本の士大夫なんているわけはなくて、ただ石川淳が子供のころから四書五経を叩きこまれてきた宿命的な自身をそう呼んでいるだけなのである。わかりにくければ、これを文士と見てもいい。ただし高見順ではなくて、石川淳。  
その文士ふうの“幻の士大夫”は、無学を嫌い、無知を嗤うことを徹底した信条とする。まず、そこまでが前段である。  
しかし後段、石川は無学に切りこんだ刀を自分に返して、ありうべきはずもない士大夫の自分自身の身上を、その返す刀の言葉と文脈の中で別所に向かわせていくべきだというのである。それが石川の言う美容術の秘訣なのだ。  
別所に向かわせるとはどういうことかといえば、自分の身上をでっちあげるために固めた言葉を言葉によって逆襲し、自分の行く道を言葉の中で逸らしていくことをいう。あるいは自分で自分を攫(さら)うことをいう。  
これは、自分の言葉による信条から他者に属する言葉のほうへ外れていくということだ。まあ、孔子の「正名」を荘子「狂言」で逆襲していると言ってもいいだろう。  
もともと江戸の戯作とはそういうものだった。若くしてフランス文学に嵌まり、それが鼻についてからは江戸文芸にやたらに傾倒していった石川淳としては、このような「逸らし」など、いつだってお手のものである。とくに俳諧とはそういうものだ。  
そこで、こんなふうになる。「俳諧化とは、一般に固定した形式を柔軟にほぐすことをいう。これをほぐすためには、精神の位置から運動のほうに乗り出さなければならない」(『夷斎清言』)。  
石川は、精神を「位置」から「運動」のほうに乗り出すと言っている。これは石川がよく「精神の運動」と言ってきたもので、どうしてこんなつまらない言葉を使うのかと石川ファンをがっかりさせてきた言い回しでもあるのだが、いまはそれはさておき、石川があえて「位置」から「運動」へと言ったのは、もっとただならない覚悟なのだと思いたい。  
石川自身の言葉でさらに説明することにする。すでに処女作『佳人』のなかに、その覚悟を綴った一文がある。  
ところで、わたしの樽のなかには此世の醜悪に満ちた毒々しいはなしがだぶだぶしているのだが、もしへたな自然主義の小説まがいに人生の醜悪の上に薄い紙を敷いて、それを絵筆でなぞって、あとは涼しい顔の昼寝でもしていようというだけでならば、わたしはいっそペンなど叩き折って市井の無頼に伍(くみ)してどぶろくでも飲むほうがましであろう。  
わたしの努力はこの醜悪を奇異までに高めることだ。  
これで充分だろう。「醜悪を奇異までに高めること」が精神の運動なのである。それを処女作であきらかに宣言していた。しかも醜悪を奇異までに高めるにあたっては、「薄い紙」ではなくて「何重もの紙」によって、というふうに。  
よろしいか。これなのである。石川淳はこれをしつづけてきたわけなのだ。  
石川淳の「精神の運動」は、きっと明治32年に浅草で末っ子に生まれ育った当初のころから始まっていた。けれどもその「位置」を「運動」にし、「醜悪」を「奇異」に変えるためには、叙述してみることが必要だった。『普賢』や『焼跡のイエス』はその確認である。  
では、時空をずらせば、どうなのか。それでも「精神の運動」は叙述の中に入ってきてくれるのか。こうして石川が取り組んだのが名作『紫苑物語』(昭和31年)である。  
『紫苑物語』が名作であることは、石川ファンならばこれをたいていベスト5には入れるにちがいないから説明するまでもない。ただし、その『紫苑物語』をどのように評価するかというと、ぼくの見方と一致できる批評は、これまで知るかぎりは澁澤龍彦くらいのものだった。  
主人公は宗頼という国の守である。和歌の才能をもっていたにもかかわらず、弓矢の道に耽って遠国に赴き、「知の矢」「殺の矢」にとどまれず、ついに「魔の矢」の習熟にまで及んでしまった。  
石川はこの物語で初めて王朝を舞台にした。満を持したのであったろう。そして本来の歌道を捨てて、無頼の武芸に生きた男を主人公にもってきた。  
宗頼は自身の行く手を塞ぐすべての邪魔者を抹殺し、背に悪霊を負うほどになっていく。殺した邪魔者の死骸のあとには紫苑を植えればいいと言い放つような、そんな男である。石川はこのデスペレートな男を形象して、ついで、その行く先で一人の宿敵と出会わせることにした。  
その男は岩山の頂上近くに小屋を組み、岩肌に仏像を彫りつづける平太という男で、どんな武芸もできず、歌の才能も宗頼に劣っている。それなのに宗頼は平太の裡に宿敵を見る。  
ところが出会った瞬間に、平太は「おぬし、あやかしに憑かれたな」と見抜いた。野にいる仏師としての慧眼である。けれども宗頼も怯まず、「おまえはどこの崖に仏を彫ったのか」と聞く。「告げたらば、何とする」という平太に対し、宗頼は傲然と一言、「それを射る」。  
ここからが石川淳の「位置」から「運動」への努力になっていく。ここからが「醜悪」が「奇異」に切り替わる。  
平太は磨崖仏の位置を教える。三段に切り立った崖の一番上の美しい岩に仏がいる。今宵は月が昇っているから、よく見えるだろうが、そんなもの射抜けるかと挑む。  
宗頼はたやすいことと一言のこして、駆け上がる。足下は底知れぬ深い谷である。しばらく攀じ登ると、向こうに小さな鋼の半島の如く空中に浮き出す岩がある。その周囲は闇になっていて、崖だけが一際あかるくなっている。月はまさにその頭上にあった。  
宗頼は弓を絞り、矢を放つ。一の矢は外れ、二の矢は闇に落ちていく。しかし三の矢はその崖の仏の頭部とおぼしきを射て、そのまま空中に飛んでいった。そのとたん宗頼は真っ逆さまに谷底に転落していった。  
のちに人々が語るところによると、崖の仏の頭だけが欠けてなくなっていた。さすがに「宗頼の弓」とも、さすがに「平太の仏」とも言われたが、その谷からはときどき鬼の歌が聞こえてくるという噂が立った。  
平太は宗頼のまったくの分身なのである。読んでいくとすぐにわかるが、宗頼自身が平太は自分の一対の片割れであることをはやくに察知する。  
この片割れは、宗頼の悪魔性に対するに慈悲の象徴を秘めているが、この悪魔が慈悲に勝つというのではなく、慈悲が悪魔に克つというのでもない。仏の頭部は削られて落ちたのである。しかし宗頼もまた落ちていったのだ。  
どっこいどっこいなのだろうか。そうではない。両者にマイナスがあったのである。そのマイナスがあらわれた。しかも宗頼は自身のマイナスを最初から知っていた。最初から知っているマイナスは「負」というものである。宗頼はそれを和歌を詠んでいるころからうすうす知っていた。一方、平太のほうは正直なぶん、「負」には気づいていなかった。  
石川淳はそのような「負」の側からの宿命の配当を耿らかにするために、二人の対比を描き、それらを片割れにした。  
これは鏡像関係なのではない。負荷と負荷の関係である。どちらもどちらかがいなければ、その先はないという関係なのだ。そのうえもっと重要なことは、さっさと常識を蹴破った宗頼のほうがずっと早くに「負」を抱え持っていた。  
石川淳が日本の現代文学を代表する方法意識の持ち主であったことは、どんな凡庸な批評家も口にしてきたことである。だから、そのことを強調する必要はない。  
ところが、その「方法」が何であるかということは、意外にもはっきり指摘されてはこなかった。江戸戯作精神の継承などという評価だけですまされてきた。しかし、そんなことは明白なのである。石川淳の「方法」とは、人間が背負う「負」によって事態を叙述をするということなのだ。  
石川はそのために、「負」がもたらす精神と行動が事態を分断させることを好んで描いてきた。作品ごとに、その「分断の様式」を選択してくることが、石川の仕事だったのだし、分断されるべき事態をどこかから探してくることが、石川文学だったのだ。  
これを「分断の負による文芸」とでもいえば文学史っぽいが、もっと端的には「言割りの文学」の貫徹と言ったらいいだろう。言割りとは言葉を割って、その中にコトワリを見ることをいう。  
こうして、「分断の負」あるいは「言割り」がもたらす作用だけが作品を覆っていくという方針は、『普賢』『焼跡のイエス』から『紫苑物語』『狂風記』まで、徹底して貫かれてきたということになる。  
ついでにもうひとつ、『八幡縁起』(昭和33年)という作品を老婆心ながら紹介しておきたい。  
前半、山に棲む木地屋の石別(いしわけ)の一類と、その一類の名なしの神を奪って国づくりをしようとする里の荒玉(あらたま)の一族とのあいだの対立と抗争が描かれる。やがて数百年がすぎ、名なしの神は源氏の氏神としての八幡大菩薩になった。さらに時がすぎ、足利尊氏と後醍醐以降の南朝が争う時代のなかで、高師直の軍勢により木地屋の一党が斬殺される。このとき同時に火を付けられたのが八幡宮である。  
武士の象徴の八幡宮も、なんらの身分保障もない木地屋も、結局は時代変化のなかで浮上し、厚遇され、あしらわれ、焼尽してしまう。いったい、何が「あらわれ」で、何が「はかなさ」というものか。  
石川淳は、これらの浮沈を時をまたいで叙述して、そのどこを事態として切り取っても、結局は「負」の同時交換がおこっていることを告げたのだった。つねに何かがおこっているかといえば、「負の互酬性」なのである。  
これは「日本」というものである。どういう「日本」を石川淳が見ていたかということは、面倒になったからここでは証かさないことにするが、それを石川淳の日頃の常套句でいうなら「躾」(しつけ)というものだろう。作品名でいうのなら、日本とは、『おまへの敵はおまへだ』ということになる。 
 
椿實と石川淳 

 

石川淳に『仕事について』という文章があって(『夷斎筆談』に収録されている)、その一節に(原文は旧字体)、  
物理的には、仕事の量とは、物体にはたらいた力とその物体のうごいた距離との積だといふ。なにものもうごかないやうなところに、仕事は無い。人間が力いつぱいに岩を押しても、岩が微動だにしなかつたとすれば、仕事は現前せず、そこにはたらいた、いや、はたらくはずであつた力は熱となつて、押した人間が骨折損の、ただくたびれたといふだけのことである。当人は大汗かいて、いつぱし仕事をしたつもりでゐるかも知れない。  
とある。  
あるいは、おなじく石川淳の『文学大概』に『虚構について』という文章があって、そのなかにこんなくだりがある(原文は旧字体)。  
画にしろ、小説にしろ、すぐれた作品がひとを打つとはどういふことか。まさしく、その作品に於て集中されてゐるエネルギイが、それにふれるひとびとに、かつそれと因縁あるひとびとに直接に感応するものと見られる。さうして自分に於て吸収しえただけのエネルギイの量を、ひとはめいめいの流儀で、今度は自分の仕事として打出するに至るであらう。たとへば、慰問のレコードでショパンを聴いた後、兵士が勃然と銃を取つて前線に駆け出して行つたり、ヴァレリイを読んだ後、学生が夢中で数学の勉強をはじめたり、光悦の茶碗に感心したとたん、書けないでゐた小説家が急になにか書きたくなつたり、その他よい芝居を見た晩にふと汽車に乗つて山登りに行きたくなる会社員も、ドン・キホオテを読んでどうしても飛行家になると決心する中学生も、それらはすべて大小深浅にかかはらず、芸術作品が享受者に及ぼすところのうつくしい感動の発現に相違ない。一般に、立派な芸術作品はかならず惰夫を起たしめる底の力をはらんでゐるものだ。もつとも、それでも起ちえないやうな人間のことを、惰夫といふのかも知れぬ。  
さて、椿實が昭和二十二年に『メーゾン・ベルビウ地帯』と題して放った精神のエネルギーは、中井英夫にどう作用したか。第十四次『新思潮』の二号というから、昭和二十二年は九月のこと、その編集後記に、  
ところでメーゾン・ベルビウの素晴しさはどうだ。きらきらした色硝子のかけらをいちめんにまきちらし、その中でくねくねのたうつ肉体は満身傷だらけだが、その代りどんなかすり傷にも金砂子の様な光彩がきらめいてゐる。読んでゐるこちらの膚にべたべた花粉がついてくる様な、じよろでヰスキーをふりまいてゐる様な香ひ高さ。しなしな柔い草の中にねころんで三角のプリズムをぎゆつと目に押しつけたらこんな風に世界が輝き出すだらう。青春は何処へ行つたと、その叫びさへ出ないでゐる僕たちのうしろから、もうこんな風になまめかしく白粉をぬりたて陽気な道化服をきこんで、日の当るまつぴるまの街にろまんの旗をふる若者たち。己らはかうして生きぬいて来たと、何の飾り気もなくズバリと云つてのける大胆さ。今更道端に落ちてゐる吸殻さへ、いちいちふみ消さずにはゐられない育ちの僕らが、この上もなくみじめに見えてくるのだ。  
とまで書いてしまったそうだ(『椿實全作品』の解説は中井英夫が書いていて、いまの文章はそこに引用してあった)。  
椿實の作家活動は昭和二十二年から二十七年まで、大正十四年生れだから二十代の五年間、短篇ばかり十九作書いて、筆を折った。だから、全作品あつめても一冊にしかならない(解説によれば「三編は本人の意に充たぬものとして相談の上これを省いた」ということで、厳密にいうとこの本は「全作品」ではない)。もちろん、作品の多寡と作家の値うちに関係はない。  
戦後の混乱した世相をきらびやかな文章でえがいて、現実ばなれしたうつくしい世界をつくりあげた。戦後の荒廃ぶりといっても、わたしが知っているのは「知識としての戦後」である。だから、実際に戦後すぐを知る人や、あるいはリアルタイムで読んでいた人にとって、ここにあらわれた光景は、想像もつかないほどの衝撃だったにちがいない。中井英夫だけではない。附録につけられた柴田錬三郎や窪田般彌や澁澤龍彦(「彦」はほんとうは旧字体だが、パソコンに字がないので、新字体で表記した)の文章を見ても、高揚感に充ちていて、かれらのあいだで椿實がどんな存在だったのか、よくわかる。  
椿實は天才だったのだ。